屍鬼(上)
小野不由美
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)言給《いひたま》ひけるは
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)エホバ|言給《いひたま》ひけるは
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、Unicodeによる文字コード番号)
(例)掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]
本文中、室井静信作として挿入される作中作の小説は底本では太字書体で表記されています。青空文庫形式テキストでは書体の差異表現はできないため、該当作中作部分、およびその他の太字表記部分は四文字の字下げとしてあります。
(例)[#ここから4字下げ]村は死によって包囲されている。[#ここで字下げ終わり]
-------------------------------------------------------
[#ここから3字下げ]
屍鬼(上)
[#ここで字下げ終わり]
――To 'Salem's Lot
[#改ページ]
[#ここから5字下げ]
エホバ|言給《いひたま》ひけるは|汝《なんぢ》何をなしたるや
汝の弟の地の|聲《こえ》地より我に叫べり
されば汝は|詛《のろ》はれて|此地《このち》を離るべし
此地|其口《そのくち》を|啓《ひら》きて汝の弟の血を
汝の手より受けたればなり
汝地を地を|耕《たがへ》すとも地は|再《ふたた》び其力を汝に|效《いた》さじ
汝は地に|吟行《さまよ》ふ|流離子《さすらひびと》となるべしと
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]――創世記 第四章
[#改ページ]
[#ここから3字下げ]
序章
[#ここで字下げ終わり]
村は死によって包囲されている。渓流に沿って拓けた村を、銛の穂先の三角形に封じ込めているのは樅の林だ。
樅の樹形は杉に似て端正、しかしながら幾分、ずんぐりとしている。杉が鋭利な刃物の先なら、樅は火影だ。灯心の先にふっくらとともった炎の輪郭。
直進の幹、心持ち斜め上方に向かってまっすぐに伸ばされた枝と樹冠が作る円錐形、葉は単純な針葉で、それが規則正しく並ぶのではなく|螺生《らせい》するところだけがわずかに複雑だ。――総じて淡々とした樹だと思う。
しかしながらこの樅の純林は、村を「死」として包囲している。それは村の境界線であり、こちらとあちらを隔てる稜線、林の中はすでに此岸ではなく彼岸だ。
彼岸から村を見下ろす者たちは、四十メートルにも達して巨躯[#《「躯」は旧字体。Unicode:U+8EC0]を表すくせに、その寿命は百五十年から二百年と短い。これは滅びる樹だ。植生が遷移する途中に現れ、|斃《たお》れることによって次の覇者に位を勧める。
その滅び行く樹は死者のために育てられ、村を取り巻く山肌にとどまっている。村は営々とこの樅材を利用して|卒塔婆《そとば》を作り、のちには棺を作った。村は生まれた当初から、死者のために祭具を作って成り立ってきた。
そして樅の林の中は、まさしく死者の国であり、樅はその墓標なのだった。村では今も死者を土葬にする。村人はそれぞれが山の一郭に墓所を持ち、そこに亡骸を埋葬する。墓石はない。そこが死者の住居であることを示す卒塔婆が立つきりだ。死者の|回向《えこう》の三十三回忌、それを過ぎると卒塔婆を倒して樅を植える。植えて忘れる。死者はすでに山の一部に還り、もはや人と接点を持たない。
死者のための滅びゆく樹、その純林は、まぎれもなく死者の国だ。三方を樅に囲まれて、村は死の中に孤絶している。
実際のところ、村は開かれた当初から、付近の山村の中で孤立している。そもそもが樅に目をつけた木地師の集団が移り住んで切り開いた村、血縁的にも地縁的にも村は周囲と脈絡を持たない。
そのせいだろう、すべては村の内部で完結しており、村は生きるに部外者の助けを借りない。外の力は、ちょうど村の南を貫いたバイパスのように、村を通り抜けていくだけだ。その道が村よりも大きな町へ、町よりもさらに大きな都市へと繋がっていても、それを降りて樅に包囲された山村に立ち寄る者もない以上、やはり村は隔絶されている。
しかしながら、不思議にこの山村は近年になっても過疎化とは比較的、無縁なままだった。人口は増えもしないかわりに、さして減ることもない。確かに村の外れ、最も辺鄙なあたりから少しずつ人家が減ってきてはいるのだが、そのぶん村の南に家が増える。老人が多いのは山村の常だが、老人たちが樅の林の中に歩み去っていくと、どこからともなく若者が戻ってくる。
この細く、しかしながら決して途絶えることのない営みを見ると、村はまるで|祠《ほこら》のようにも思える。どれほど荒れ果てても、何かの折、ふと思い出して立ち寄る種類の信仰のように、村の命脈は途切れることがない。
だとしたら、閑散とした山村のこの静けさは、指導に通じるものかもしれない。此岸から彼岸へと掛け渡された橋、その対岸、三方を死によって包囲されながら厳然として此岸で、世俗からは孤絶している。
そこで人は死に仕え、死者のために祈る。
――実際、村は生まれたときから、そのために存在した。
[#ここから5字下げ]
***
[#ここで字下げ終わり]
|溝辺《みぞべ》町北西の山間部に火災のものだと思われる不審な明かりが見える、と消防署に第一報が入ったのは、十一月八日、午前三時を少し過ぎた頃だった。
気温、摂氏9・6度、実効湿度六二・三パーセント、風速毎秒十二・八メートル、折からの異常乾燥注意報は、いつ火災警報に切り替わってもおかしくなかった。
無線を耳にし、とっさに|好野《よしの》は雑誌を投げ出して出張所の前に飛び出した。
出張所の北には黒々とした山並みが横たわっている。昼間ならば、晩秋の冴えた空を背景に緑の山が連なるのが見えただろう。常緑樹に覆われ、なだらかに折り重なる稜線、そこに転々と混じる鮮やかな紅葉、その光景がはっきりと想起できるほど、好野にとっては見慣れた山だった。
それは今、無数の光点を撒いた星空を切り取り、漆黒の影として横たわっている。満天の星がいくつか散り落ちたように、あちこちに小さな明かりが見えていたが、それが常にそこにあるものかどうかまでは判然としなかった。
「徳さん、見えるか」
背後から緊張した同輩の声がして、好野は振り返った。
「いや」
身を軋ませるほどの寒風が真正面から押し寄せてきていた。それは山から市街に向かって吹き下ろしている。制服の首周りから入り込んでくる乾いた風は刺さるようで、好野は山に目をやったまま思わず襟を掻き合わせた。
溝辺町北部に広がる山間部は、町面積のほぼ三分の二を占める。人口のほとんどは残る三分の一である溝辺町市街地に集中しているが、山の中にもいくつかの集落が点在していた。問題は「火災のものと思われる明かり」が、その集落の中にあるのか、そうでないのか、ということだった。
正直なところ、集落の中なら問題はない。各集落は山に分断される形で孤立しており、ほとんどは狭い谷間に拓け、人家は得てして古く、密集する。それでも各集落にはそれぞれ消防団が組織されていたし、折からの異常な乾燥で警戒態勢を布いている。水利も確保されている、人手もある。消火は可能だ。真に恐ろしいのは、層でない場合――山に火が入った場合だった。
好野は風に身を竦めながら黒い山並みを注視する。|抽《ぬき》んでて高い山はない。起伏に乏しい平坦な山が連なっているだけだ。ハイキング気分で登れるような山ばかりだが、尾根が複雑に入り組んでいて交通の便は意外に悪い。山間部に植樹されているのは、ほとんどが杉や檜、樅などの常緑樹だが、その下生えはすでに枯れ、触れれば音を立てて折れるほど乾いていた。いったん山に火が入れば、大規模な火災になる可能性が高い。この夏、岡山、広島で続いた大規模な山林火災のことが思い出された。
(頼むから、単なる住宅火災であってくれ)
心の中で祈る好野の声が聞こえたように、同輩が声を落とした。
「山火事でなきゃ、いいんだがな」
好野は頷いた。火は乾ききった下生えを舐めて恐るべき速度で広がっていくだろう。広大な斜面が炎に包まれ、それは秒速十三メートル近い強風に煽られて、いくつもの尾根を駆け上がり駆け下りして、北部の山々とそこに孤立する集落を呑み込んでいく。しかも風は、狙い澄ましたように溝辺町市街部に向かって吹き下ろしてきていた。
好野は縋るような気分で山を見上げたまま、襟をさらに掻き合わせ、身震いした。
山間部の南を貫いて自動車道が開通した。平野部の外れにインターチェンジが置かれたせいで、かつては水田ばかりだったこのあたりも急速に開発されつつあった。田畑をつぶして造成された住宅地は、平地を埋め尽くして北へと溢れ、今や山の斜面をも切り開きつつある。山と市街は入り混じって完全な地続きになっていた。
頼む、と祈る宛はないまま声に出さずに呟いたとき、突然、けたたましい出場ベルが鳴り響いた。好野は弾かれたように出張所を振り返る。同時に若い隊員が出張所を飛び出してきた。
「上から明かりが見えました! |外場《そとば》方面!」
消防車は町内を縦断する|尾見《おみ》川に沿って北上し、溝辺町北部に広がる山間部へと入っていった。少なくとも今はまだ、山には何の異常も発見できなかった。黒々とした稜線が続いているのが、かろうじて見て取れるだけだった。
藍色を帯びた夜空の下、のったりとした起伏が黒く連なっている。夜明け前の国道は閑散として、いったん市街部を離れると、思い出したように突風とすれ違うほかは、行き会う車の影もなかった。
平穏に見える夜、平板に見える山、今はそれがもどかしかった。道は川や尾根の屈曲に沿って紆余曲折を繰り返す。なまじ険しい山がないだけに、思い切ってトンネルを掘り、山を切り開こうという意欲を削いだ。その結果、北の集落に向かうのに、いったん南に向かわねばならない。そういうことも頻繁だった。しかしながら、火勢はそんなものに頓着しない。風向きの促すまま、単刀直入に突き進んでいく。
それを考えると、カーブのたびに胃の腑が痛んだ。山なりに唯々諾々と進み、やがて前方、遠くに自動車道の明かりが見えた。煌々とした照明が一文字に連なって光の帯のように前方の谷を横切っている。
その自動車道の向こうにあって谷を堰き止めているように見える尾根、その北側が外場――旧・外場村のはずだった。渓流沿いの谷間に四百戸ほどの人家が集まっている。人口はおよそ千三百人あまり、山間部に点在する集落の中でも最大の集落だった。
「何も見えませんね」
若い隊員の声に好野は頷く。
「せめて夜が明るければ、煙くらいは見えるのかもしれんが」
答えながら、好野は奇妙な符号に驚いていた。無線が入る前、ちょうど一冊の雑誌を読んでいるところだった。それは先月死亡した隊員の前田が残していったものだ。前田は外場に住んでいた。近所に作家がいるのだと自慢そうに言って、雑誌を持ち込んできたのを覚えている。もう一年半も前になるはずだ。外場について書いた随筆が載っている、と御丁寧に付箋まで貼った頁を前田は嬉しげに開いてみせた。その雑誌がひょっこり棚の奥から出てきたのだった。
前田は病死したのだったか。好野よりまだ一まわりは年下だったはずだ。家族が遺品を整理に来て、私物を全部ひきとっていった。休憩室の棚の奥に雑誌だけが残されていた。
思い出すともなく思い出しながら、好野は無線に耳を傾ける。本部でも詳細は判っていないらしい。現場の様子がわからないだけでなく、具体的に火災現場がどこなのか、特定すらできていない。
好野は助手席の隊員に声をかけた。
「外場の消防団とは、まだ連絡がつかないのか」
それが、と無線機に向かっていた隊員は振り返る。
「詰所に誰もいないようなんです」
「馬鹿な」
異常乾燥注意報が出ている。それもいつ火災警報に切り替わってもおかしくない状態だ。各消防団には厳重に警戒するように勧告が出ているし、ならば詰所には必ず誰かがいるはずだった。
「団長は」
「出張所から家に電話しているんですが、やっぱり誰も出ないそうです」
「外場の団長はつい最近、替わったばかりだろう。新団長の家に連絡しているのか」
「当然、そうだと思いますが」
好野は軽く舌打ちをする。消防署と消防団は厳密に言えば別組織で、互いに並列する関係にある。指導するのは消防署だが、一枚岩の組織ではないから手足のように神経がゆきとどく、というわけにはいかなかった。
「まさか詰所も団長の家も、もう焼けてるんじゃないだろうな」
危惧とも冗談ともつかない口調で若い隊員が言って、好野は顔を|顰《しか》めた。それほどの事態なら、そこに至る前に外場から報告があったはずだ。しかしながら、不穏な想像が脳裏を過ぎるのは止められなかった。連絡をする余裕もないほど現場は混乱を極めているのだとしたら。
車がさらにカーブを曲がった。またひとつ尾根を迂回し、北西に向かって視野が開けた。前方に国道を跨ぐ自動車道の橋脚が見える。真昼のように照明された自動車道の向こうは、漆黒の山肌だ。その向こうに異常なものが見えた。行く手を塞ぐ暗闇のあちこちに、光の粉をまぶしたように赤い明かりが点っている。
好野だけでなく、同乗した隊員の誰もが声を上げた。最悪の事態が起こったのだと分かった。単なる住宅火災ではない。まぎれもなく山火事だ。それも、手前に自動車道の照明があってさえ、あれほどの光点が見えるのだから、すでに尋常の規模ではない。
「嘘だろ……」
誰かが呟いた。助手席の隊員が咳き込むようにむせんで現状を報告する。応援が必要になる。あの規模、この強風、とても出張所だけでは対応できない。
いったい鎮火までにどれだけの時間がかかるのか(それは、何日かかるのか、と言ったほうが正しいのに違いない)、それまでにどれだけの山林が焼失し、どれだけの犠牲が出るのか。
好野が思わず膝の上に置いた拳に力を込めたとき、前方に車のヘッドライトが見えた。好野は運転手に徐行を命じる。窓から身を乗り出し、近づいてくる車に向かって大きく手を振った。
なんの変哲もないワゴン車だった。相手方の車と消防車とが、センターラインの付近で接近して停まる。好野はドアを開け、半身を乗り出した。ワゴン車の運転手が窓を開けた。
「あんた、外場のほうから来たのかい」
好野の声は吹き下ろす風に攫われそうだった。強風に吹きちぎられたのか煙のようなものは見えなかったが、風の中には明らかに火事場の臭気が混じっていた。
好野の問いに運転手は淡々と頷いた。歳の頃は二十代半ばから三十代半ばのあたりだろうか。明かりが乏しいこともあって表情までは仔細に見て取れないものの、格別、取り乱した様子ではなかった。ただ、その顔も着衣も、泥の中を転げ回ったように汚れている。好野はほんの一瞬、その汚れを血糊だと思った。もちろん泥が光線の加減で血のように見えただけだろう。――そうに決まっている。
「外場はどうなってる? 何か知らないか」
運転手の声は感情を見失ったように(あるいは虚脱したように)静かだったが、風の中をよく通った。
「山火事です。北の山に火が入って、村に向かって下っています」
好野は呻いた。
「規模は」
「酷いです。火の粉が雪のように降っています」
――正真正銘、最悪の事態だ。
外場分団は何をしていたんだ、と誰かが毒づくのが聞こえた。助手席の隊員は、本部に報告を入れている。好野は軽く手を挙げ、ワゴン車の運転手に礼を言った。運転手は車を出す。同様に走り始めた消防車のドアを閉めながら、見るともなくワゴン車を見送って、好野はぎょっと息を呑んだ。
車の後部座席、そこに棺が積まれていた。一瞬のことだが、それは異様なまでに鮮明に好野の目に飛び込んできた。確かに白木の棺桶だった。後部シートをすべて倒し、何かの布に半ばくるまれるようにして納められた大きな木箱の、一方に小さな窓があり、観音開きの扉に房がついているのまでが、はっきりと目に焼き付いていた。
好野は口を開けて車を見送る。一瞬、追いかけて呼び止めたい気がしたが、すぐに肩の力を抜いた。――そう、棺だ。それで問題はない。
外場はもともと卒塔婆や棺を作って成り立ってきた村だ。運転手の風体からして、現場は本当に混乱を極めているのだろう。取るものもとりあえず、手元にあった商売用の棺に貴重品を詰め込んで逃げ出してきた、そういうことなのかもしれなかったし、あるいは納品する予定の棺が積んだままになっていたのかもしれない。
どこか違和感を感じたが、深く拘っている場合ではなかった。棺を積んだワゴン車に出会ったことよりも、卒塔婆には木工所や製材所が多い、そのことのほうが好野にとっては重大だった。
消防車はさらに国道を北上する。自動車道の高架をくぐり抜け、渓流に沿ってカーブを一つ曲がると、国道の前方、先細りに高くなりながら拓けた外場の集落を見通すことができた。
正面に見える北の山にはすでに一面、火が入っている。植樹された樹木の下を赤い火が完全に制圧しているのが見て取れた。山の稜線がくっきりと黒いのは、北山の向こう側が明るんでいるからだ。おそらくは火元は外場のさらに北で、山の向こう側は火に覆われているのだろう。
消防車の中には火事場の臭気どころか、煙そのものが入ってきた。慄然と見守る目の前で、山の一郭に火の手が上がった。樅が火勢に負けたのだ。北の斜面に近い建物のいくつかはすでに炎に包まれ、その周辺では逃げまどう車のヘッドライトが鬼火のように揺れている。
火の粉が降っていた。いや、降っているなどという生やさしい状態ではない。強い風に煽られて吹雪のような有様だった。
想像以上の惨状に、同乗した隊員がそれぞれ呻くように声を上げるのが聞こえた。ポンプ車一台が駆けつけたところでいったい何ができるというのか。
――もちろん、彼らにできることなど何もなかったのだった。
この惨状は何かの始まりではなく、一つの終焉だった。この夏以来、密かに進行してきた事態の、これが集結点だった。
いや、人によれば、その始まりをもっと以前――一年、あるいはそれよりも前に求めたかもしれない。いずれにしても、それが避けがたく進行し始めたのは夏のことだった。七月二十四日、未明。
すでにその日、外場と呼ばれるその集落が、近隣一千ヘクタールにもおよぶ山林を巻き込んで消滅することは、半ば決定していたのだった。
[#改丁]
[#ここから5字下げ]
第一部 鴉たち
[#ここで字下げ終わり]
[#改丁]
[#ここから3字下げ]
一章
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから4字下げ]
荒涼たる大地は堅く凍って幾重にも|迂曲《うね》る。
空は暗澹と垂れ込め、雲と大地とで世界は見事に二分されていた。
駆けるのは刃物のような風ばかり、光は空のどこにもなく、ましてや地にあるはずもない。にもかかわらず、彼の背後からは清らかな光輝が押し寄せ、風を避けて深く|顔伏《おもぶ》せ、前のめりに歩く彼の視線の先に、長く赤黒い影を投げかけていた。
彼にはその影の色が赤茶けた大地によるものか、それとも自らに課せられた呪いによるものなのか分からなかった。分かるのはそれが永遠に彼の|踝《くるぶし》に結びつけられ、彼が斃れ、朽ち果てて塵になってしまうまで、決して離れることがないだろうということだ。いや、塵になってもまだ、微細な赤黒い影を作るのかもしれなかった。
この不毛の地に動くのは、彼と悪霊だけだった。彼の額には印があったが亡霊たちは契約を知らなかったので、彼に向かって冷気を吹きつけ、あるいは毒を吐きかけ、あるいは半透明の手に|礫《つぶて》を拾って投げた。
――呪われてあれ。
悪霊たちは彼につかず離れず、半ば透けながらつきまとった。どんなに鈍くとも真昼の光は彼らの姿を|朧《おぼろ》にする。影すら持たない彼らの、声はしかし風の中に明瞭だった。
――呪われてあれ。
――追放者。
揶揄を含んだ声とともに足の下に転がり込んできた石を踏んで、彼は何度目か、巌のように硬く凍った地に倒れた。
凍え軋む両手を突いて起きあがる前に、腕の間から背後の光輝が見えた。それは小高い丘に射しかかり、丘の緑をあまねく照らしていた。二度と戻ること叶わぬ彼の故郷、そこに満ちた遠い光だ。
丘の頂上に点った光は、その丘に慈愛を降り注ぎ、緑を暖かな色に輝かせていたが、この地にはただ影のみを与えた。
ここ|流離《りゅうり》の地において、この光によって育つ植物はなかった。空気でさえ凍結するような寒気を貫きながら、寸毫のぬくもりも寄越さない。その光はただ大地のざらざらとした手触りを目に見える形に浮き彫りにし、そして影を――濃い、罪の色の影をありとあらゆるものに分かちがたく添えた。
――追放者。
また、石礫が飛んできた。彼は目を閉じて一息に立ち上がったが、瞳の奥に焼き付いた光は瞼の下に忘れ難く、それを怖れて目を開けば、今度は雲に光輝の残滓となって映って見えた。
陽が薄れ、亡霊たちがまとった衣の端々が明らかになっても、背後の光輝だけは薄れることがなかった。彼はひたすらにもう何日も荒野を歩き続けていたが、光輝が弱まることはなく、しかも故郷の丘が大地の起伏の下に没することもなかった。彼はひたすらに歩いた。丘と光輝の見えないところへ、一刻も早く辿り着きたかった。
やがて前方に、白く淡く人影が見えた。それは先で、明らかに彼を待ち受けていた。青白く鬼火が揺れてその影の足下に集まっている。
彼はその人影の特徴を読み取って喘いだ。また夜がやってきたのだ。
それが荒野にやってくる刻限。
それは彼につきまとい、亡霊どもが|喧《かまびす》しい明け方まで彼の傍らを離れないだろう。それから逃げることはできず、また、それを追いやることもできないと彼はとうに知っていた。やむを得ず歩いた。立ち止まっても歩む方角を変えても、彼は必ずそれの側に辿り着くことになる。
彼自身も意識しないまま一歩ずつ狭まる歩みが、やがて影の輪郭を明らかにした。彼は足を止め、顔を覆った。
それは彼がすでに屠った彼の同胞だ。彼の後に生まれ、彼には得られなかったものを難なく手にした弟。
弟の地は大地に撒かれ、一昼夜のうちにそこにある緑を根絶した。その|骸《なきがら》は哀惜とともに丘の一隅に葬られたはずだった。光輝は悲しみに翳った光を墓に投げかけ、近辺の樹木の花は夕刻にしか咲かず、枝に留まる鳥は同じ調子の音でしか啼かない。
それがまた、今夜も墓から甦ってきたのだ。
――屍鬼だ。
[#ここで字下げ終わり]
そこまでを書きつけて|静信《せいしん》は軽く息をつく。同時に緊張が緩み、凍てついた荒野から夏の夜の中に放り出されていた。
気温が一気に上昇したようだった。静信は鉛筆を手放す。古風な塗りの六角形は、荒野の夜を封じ込めた原稿用紙の升目の上を転がり、スタンドの明かりに滑った光沢を放った。原稿用紙を広げた無機的な事務机、それを照らす黄味を帯びたスタンドの明かり、机の脇の窓からは、夏の夜気とともに虫の音が流れ込んでいる。
七月二十四日、日曜日。日付は変わったばかりで、室井静信は三十三を目前に控えていた。彼は僧侶で同時に作家だった。寺の事務所で自分の机に向かい、目の前には取りかかってから五時間ほどが経過した原稿が広げられている。
静信はもう一度息を吐き、自分が埋めたばかりの原稿用紙を揃えて手に取った。升目を埋めた文字を冒頭から目で追う。
事務所の窓からは、旺盛な虫の音が流れ込んできていた。かなりの音量のはずだったが、それでも不思議に部屋の中には静寂が淀む。古びた部屋の片隅、かろうじて机の周辺を照らした明かりと、そこで俯き自閉するように原稿と向き合った自分。背後に並んで沈黙しているスチール製の机と事務機器。寝静まった庫裡。それらを懐に抱き込んだ伽藍は人の気配の残滓すら絶えた虚空に満たされている。伽藍の周囲は樅の林だ。寺は樅に覆われた山の斜面にあって、隣接する人家はない。山寺から見下ろす村は広大な山の中に孤立し、樅の中に封じ込められている。そうやって幾重にも取り巻いた孤絶が、静寂となって寺務所のそこここに淀んでいた。
(弟は、彼を哀れむ……)
静信は原稿用紙を机の上に戻し、もういちど軽く息を吐いた。事務机の|抽斗《ひきだし》からカッターナイフを取り出し、放り出した鉛筆を拾い上げて刃を当てた。埋めたばかりの原稿用紙の上で鉛筆を削る。
[#ここから4字下げ]
弟は屍鬼となり果てたが、怨霊になったわけではなく、ましてや魔物になったわけでもなかった。弟はただ墓から起きあがった、それだけだ。ゆえに弟は、生前の性行のまま彼に慈悲を垂れるのだ。だが、加害者を哀れむ被害者ほど罪人を苦しめるものはない。彼は弟の慈悲に苦悶し
[#ここで字下げ終わり]
――そしてどうするのだろう?
静信はわずかに考え込み、漠然と見える物語を辿って、やがて曖昧模糊とした混沌の中に行く末を見失ってしまった。
何とか手探りを繰り返しながら、鉛筆を長めに削って先を丁寧に尖らせる。芯は硬質の2H、硬い鉛筆で彫り込むようにして文字を書く癖があった。なので鉛筆を使っても消しゴムは使えない。使ったところで文字は消えないから、文字を消すときには原稿用紙のほうを消してしまうことにしている。
(殺された弟は、夜毎に墓から甦る)
[#ここから4字下げ]
その慈悲深い弟は、彼が凶器を手にしたとき、兄が殺人者になることを悟った。弟は殺される自分よりも、殺す兄を哀れんだ。
[#ここで字下げ終わり]
それで屍鬼となって兄を追う。罪人となって荒野をさまよう兄の行く末を追わないではいられないのだ。
[#ここから4字下げ]
それは慈愛であって呪いではない。
[#ここで字下げ終わり]
それが兄を苦しめることは、屍鬼となった弟には分からない。兄はそれを読み解く。そして――どこに帰着するのだろう。
考えながら鉛筆の先を丁寧に仕上げ、今夜使った他の鉛筆も削っていく。先が鈍いのは嫌いだけれども、そうそう鉛筆を削ってばかりもいられないので、切手盆に必ず一ダースの鉛筆を用意しておき、先が丸くなるたびに換えていく。
すでに梅雨が明けたが、部屋の中に浸み入るようにして流れ込んでくる夜気は熱気とは無縁だった。むしろ半袖シャツに肌寒くさえ感じられる。そもそも渓流に沿って拓けた山村は熱帯夜には縁がない。大学に行っていた頃に住んでいた街とは大層な差だった。クーラーのない寮の部屋では、机に向かっているだけでも汗が滴り落ちた。今と同じように原稿用紙に屈み込んで深夜を過ごし、落ちた汗に滲むインクに辟易して万年筆を使うのをやめた。以来十年、硬い薄い鉛筆を使っている。
まだ原稿用紙を使っているんですか、と驚いたように言ったのは、どこの編集者だったろう。静信はそれに、機械は性に合わないので、と答えた。ワープロを買ってはみたものの、ヶっきょく父親に譲ってしまった。きちんと打ち出される文字は嫌いではなかったが、いくらでもたやすくやり直せるのが、なんとなく気に入らなかった。
原稿用紙の升目を埋めていくのは、引き返せない道を進むのに似ている。袋小路に迷い込むと、枝道まで戻る。そうしてひとつずつ、迷路を踏破するようにして書いていくのが自分にあったやり方らしかった。時間はかかるが、そもそも静信は僧侶だし、小説を書くのは副業に過ぎない。出版社に脱稿を急かされるほどの売れっ子だったことは一度もないし、これからもないだろう。十年これでやってきたのだから、これからもこれで構わないのに違いない。
最後の鉛筆を削りあげて、削り屑を原稿用紙の中央に集め、包むようにして紙を折る。中のものが零れないよう、紙の端をきっちりと折り込み、屑籠の中に捨てた。どんなものもそんなふうにして始末をする癖があったから、母親などは捨てているのかしまっているのか分からない、と言って笑う。
新しい原稿用紙を広げ、静信は立ち上がった。軽く鳥肌が立っている。窓を閉めようと歩み寄ると、静信の影に驚いたのか、唐突に虫たちが口を|噤《つぐ》んだ。そのせいで|儚《はかな》いばかりに頼りなく、当たり鉦の音が聞こえてきた。浮き足立つようでもあり、どこかもの悲しいようでもあるその音は、虫送りの鉦の音だ。
鉦の音に耳を澄まし、ごく微かに静信は笑った。村の夜は早い。常には寝静まる頃合いに、大勢の人が出て喧噪が続く祭りの夜。昔、夜の中には秘密が隠されているような気がしていた。面をつけて練り歩く男たちを追っていけば、そこに辿り着けるような気がしたものだ。
あいにく静信は三十を越え、夜の中に隠されているものの正体を知ってしまった。けれども今も多くの子供が、眠い目をこすりながら行列の後をついて探し物をしているのだろう。それが、きっと何かがあるはずだと信じて鐘の音に胸を揺さぶられていた昨年の、あるいはその前の年の自分なのだとは気づかないままに。
窓辺から何気なく見渡した村は、闇に沈んでいた。点在する人家の明かりや街灯、それらは闇を払拭できてはいなかった。むしろ心細いほどまばらに点った明かりのせいで、村はいっそう暗かった。包み込むように屹立した暗黒は、樅に覆われた山の稜線だった。その情報に広がる天蓋には鮮やかに満天の星、夏の夜空は山村の夜景より遙かに明るい。
[#ここから4字下げ]
村は死によって包囲されている。
[#ここで字下げ終わり]
樅は死だ。村人はそこに今も死者を土葬にする。心残りや恨みを残した死人は墓から甦って徘徊し、村に災いをもたらす。村ではそれを「鬼」と呼んだ。鬼の触れたものは死に感染する。人や家畜は死に、作物は枯れる。泣く子のところには鬼が来るぞ、とは今も昔も変わらない親の言い分だ。
起き上がり、死を振りまきながら徘徊する屍者。それは樅の中で目覚め、暗黒の斜面を下り、乏しい明かりに群がって安逸の夢に縋る人々を訪う。
(この暗黒……)
[#ここから4字下げ]
この暗黒を見よ。
[#ここで字下げ終わり]
稜線の上の星
[#ここから4字下げ]
星の光輝にくらべ、この暗さはどうだ。丘の上から賢者は荒野を指さした。
これは無明の闇、この昏きは汚れであり、呪いである。
そう言って示して、賢者は彼の背中を押す。たたらを踏んだ彼は荒野によろめき出、その背後で黄金の狭い門は閉じた。
[#ここで字下げ終わり]
静信は首を振って窓に手をかけた。
物語の帰着点が見えないと、自分が何のために物語を書き始めたのか、その始まりでさえ疑問に思える。断片ばかりが降り積もり、それでいっそう、物語の核となる小骨を覆い隠してしまうのだ。
静信は自分に苦笑して窓を閉めようとし、その彼方、わずかに拓け、明るんだあたりに点った光。この位置に見えるのは国道から分岐する川沿いの道であることを、静信は長年の経験で知っている。明かりは移動していた。おそらくは車だろう。
わずかに眉を寄せて腕時計に目をやった。いつの間にか午前三時になろうとしていた。村の明かりもまばらで当然、鉦の音が寂しくて当然、祭りはすでに佳境を過ぎて、終焉へと向かっている。終焉に村人は参加することができない。村から害虫や疫病を追い出すための儀式だから、人々は送るだけ、その終焉に立ち会ってはならないのだ。立ち会って良いのは、面をつけて「人でない者」になった者だけ。
(こんな時間に……)
明かりは国道のほうから真っ直ぐに村の内懐に入ってきていた。遠目にもそれが三台分の車両のヘッドライトだと分かった。
ことさらのように注視してしまったのは、こんな時間に村に出入りする車を見かけることが、滅多にないせいかもしれなかった。
三台分の車の明かりは
[#ここから4字下げ]
暗闇の中、弧を描き、漂うようにして地を這っていた。それは招く手、墓穴から甦った死者が鬼火を遣わして彼を呼ぶ。
[#ここで字下げ終わり]
ふと浮かんだフレーズを、静信は頭を振って払い落とした。
何気なく窓を閉めるわずかの間に、明かりが停まったのを見たような気がした。
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
山村の夜は漆黒に塗りつぶされ、アスファルトの路面にも闇が凝っている。道路際には街灯が立っていたが、明かりは暗く、かろうじて夜露の降りた街灯それ自身の周囲を照らしているにすぎなかった。頼りない光はアスファルトの表面を這い、路側帯を示す白い線を朧に浮かび上がらせている。
闇の中に吸い込まれていくように見えるその白いラインの、先にも暗い光があった。道の先、橋の袂には小さな祠が建っている。そこに納められた石の地蔵の周囲に無数の蝋燭が立って、あるかないかの風に炎を揺らめかせているのだった。その翳った明かりが、半眼に目を開いた石地蔵の無表情と、その脇に立つ異常なものを照らしている。
それは子供の背丈ほどもある卒塔婆だった。
卒塔婆の表面には、白い紙を切って作った人形がびっしりと貼り付けられている。蝋燭の光が紙人形に陰影をつけ、明かりが揺らめいては、まるで人形が|蠢《うごめ》いているかのように影を踊らせた。――遠く鉦の音がする。
卒塔婆は待っている。灯明に照らされ、虫の音、蛙の声に洗われながら、その合間に細く混じる鉦の音を待ちわびて、そこにひっそりと立っていた。
夜の中を、鉦の音が近づいてきた。早くリズミカルな音の合間に、息継ぎのように張りつめた太鼓の音が入る。何かを叩き合わせる乾いた音と大勢の足音。
風が吹いて灯明が揺れる。陰影が踊って地蔵が表情を変える。やがて祠の間近に|松明《たいまつ》の明かりが現れた。
畦からアスファルトの路面へと、黒い影が躍り上がってきた。いくつもの炎が闇に円を描き、打ち合わされ、そのたびに音を立てて赤く火の粉が散る。散った明かりが異形の者たちを照らし出した。
鬼面に丈の短い白装束。墨染めの衣。古風にも手拭いで頬被りした鬼たちは、多くが大きな板卒塔婆を背負っている。鬼が跳ねると子供の背丈ほどもある卒塔婆にびっしりと貼り付けられた紙人形も揺れた。
怖じ気づいたように虫の音が絶えた。鉦の音、太鼓の音、松明を打ち合わせる音に渓流の水音が混じる。虫の音よりも涼やかに、河鹿の鳴く声がする。
鬼たちは松明を振り、あるいは|苞《つと》を振る。卒塔婆の重みに前屈みになりながら大股に足を運び、あるいは小さく跳ね、行きつ戻りつを繰り返しながら鉦太鼓を鳴らして夜道を闊歩する。行列の先頭を行く鬼が担いだのは、子供の背丈ほどもある藁人形、それが短い竿の先に刺さって、高々と|磔《はりつけ》にされていた。
先頭を行く赤鬼が、藁人形を毛槍のように振りながら|祠《ほこら》の前で足を止めた。後に続いて祠の周囲にやってきた鬼たちは二十ていど、それが松明を打ち鳴らし、跳ねるようにして祠の前を通り過ぎる。てんでに地蔵の前の供物を攫って、祠の脇にある石段から谷川のほうへと下りていった。藁人形を掲げた赤鬼も祠の脇から板卒塔婆を抱え上げ、その後に続く。水量が減って広く現れた渓流の河原では、火を焚いて待ちかまえた三人ほどの人影があった。
キリをつけるように鉦と太鼓が打ち鳴らされて沈黙し、そしてくぐもった完成が安堵の息のように流れた。
「ご苦労さんでした」
待ちかまえた老人が、ひときわはっきりと声を上げた。男の一人が鬼面を外し、大きく息をつく。
「やれやれ」
それを潮に、二十ほどの全てが面を外し、背中の荷を下ろした。藁人形が、あるいは卒塔婆が細い焚き火を覆うように積み上げられて小山を作った。そこに用を果たした灯明が投げ込まれる。炎は絡み合い、人形を包み込み、やがてひとつの火の手となって、渓流沿いの河原と炎を取り囲んだ人々の顔を明々と照らした。
面を外して男たちは笑う。声高に談笑しながら、衣に付け首に下げた包みを炎の中に放り込んだ。鉦も太鼓も放り出して、河原のあちこちに腰を下ろし、足を投げ出す。
彼らの姿を見て、結城もまた、ようやく鬼面を外した。どうやら苦行が終わったらしい安堵に大きく息を吐いて、手近の石に腰を下ろす。頬被りした手拭いを解いて汗を拭い、首を振って夜風で顔を洗った。
「いやあ、お疲れさん」
弾んだ声とともに、顔の脇に缶ビールが差し出され、結城はそれを受け取りながら振り返った。黒の衣に頬被りという、奇妙な出で立ちの男が破顔していて、その扮装の特異さに、いまさらながら笑いがこみ上げた。
結城の笑いを察したのか、武藤は「ああ」と呟いて照れたように手拭いを取る。自分も缶ビールを片手に汗を拭いながら、結城の脇に腰を下ろした。武藤の顔は赤い。常には謹厳実直を絵に描いたような男が、珍しく上機嫌で、すっかりできあがっているのが分かる。村を練り歩く間に振舞酒を相当に飲んだのだろう。渡された缶は火照った手に冷たく濡れていた。渓流に沈めておいたものらしかった。
「どう、疲れたろう」
武藤が言うのに、結城は頷いた。
「足が棒のよう、とはこのことだね。虫送りがこんなに大変なことだとは思わなかった」
「ユゲ衆は重労働だからねえ。わたしも最初にユゲ衆になったときには、途中で何度も家に逃げ帰ろうかと思ったよ」言って、武藤は笑う。「でもまあ、これも男衆の定めだから。祭りに参加しないうちは、お客さんだからね」
結城は頷いた。
結城はこの村――外場に、一年ほど前に越してきた。別に縁故があったわけではない。単に田舎に引っ込みたいと考えていたところに、たまたま外場の家を斡旋してくれた知り合いがいたというだけのことだった。だが、そういう移住者は外場では少ない。少なくとも結城の知る限りでは、この武藤が唯一だった。武藤は村にたった一つある病院で医療事務をやっている。いちばん上の子供が小学校に入る際、近隣から外場に家を求めて移り住んできたらしい。他にも近隣から越してくるものがいないではないようだが、それらの人々はほとんどが外場に血縁を持っている。その意味で武藤と結城は異分子だった。
「そうか、結城さんは今年が初めてですか」
柔らかな声がした。すぐ間近の石に座った男が結城のほうを見ていた。
「そりゃあ、お疲れになったでしょう」
たしか、広沢という中学教師だったか、と結城は思い出しながら軽く笑んでみせた。
「けれども、なん゛かこれで、やっとわたしも村の一員になったような気がします」
結城が言うと、広沢もまたビールを片手に、側へとやってきた。
「もう一年ほどになりますかね、結城さんが越していらして。たしか、創作工房をやっておられるとか」
「そう呼んでもらうほど、たいしたものじゃないんです。|梓《あずさ》――いや、女房と木を削って家具を作ったり、糸を染めて布を織ったり――まあ、そういうことをやってます」
広沢は微笑んだが、武藤は渋面を作って缶を結城に突きつけた。
「それだよ。あんたが夫婦別姓などというややこしいことをするから、神事に入るのに一年もかかる。村の連中にはそういう進歩的なことは分からないんだ」
結城は苦笑した。家がたまたま近いこともあり、武藤は越してきた当時から世話になっているが、酒が入ると必ずその話になった。
同居人の梓とは入籍していない。梓が改姓を拒んだからだ。梓の心情は理解できたし、結城自身、結婚という制度に疑問を感じていたので、あえて入籍はしなかった。妻とは呼ばない。同居人と呼ぶ。息子が一人いるが、息子は梓の戸籍に入っており、結城が認知している、という形になっている。外場の人々にはこれが全く理解できなかったらしい。越してきたばかりの頃は、さまざまな憶測が乱れ飛んだようだった。
「まあ、村の者も慣れたようだし、よろしいじゃないですか」広沢は温厚に笑う。「たしか、息子さんがおいででしたよね。ずいぶん大きくらして――今年、高校に入られたんじゃなかったですか」
「ええ。大学の間にできた子なんで。中学で息子がお世話になりましたか」
「いいえ、わたしは御縁がありませんでした。しかし、もう十六か。だったらご両親を理解できる年頃ですね」
そうですね、と結城は笑った。小さい頃は誤解もあって、いじめもあったようだし、ちゃんと結婚して欲しいと訴えたりもしたが、中学に入った頃からそういうことも言わなくなった。ようやく父母の意図するところを理解できるようになったようだ、と結城は受け止めている。
「そういうライフスタイルをお持ちだと、田舎の暮らしは釈然としないことが多いんじゃないですか。たとえば、神事には女性が参加できないこととか」
広沢の問いに、結城は軽く首を振った。
「そうでもないです。梓もわたしも別に、古いものなら何でも刃向かってやろうなんて、思ってるわけじゃないですし。むしろ二人とも都会生まれの都会育ちで、祭りなんかには縁がなくて来ましたから、神事だ、しきたりだと言われると、かえって感動してしまいますね」
「感動ですか」
「ええ、そう――粛然とする、というんですか。こういうものがちゃんと受け継がれて残っていたんだ、と思って感激するんですよ。それを求めて越してきたようなものですから。まあ、梓は不満たらたらでしたがね。せっかくの祭りなのに、ユゲ衆でないと最後まで見届けられないのはずるいと言って」
結城が答えると、広沢は静かに声を上げて笑った。
「なるほど」
「どうして女はユゲ衆になれないんだとぶつぶつ言っていましたが、しかし、こればっかりは男でないと無理でしょう。何よりこりゃあ、体力がいる」
そうですね、と広沢は微笑んだ。
「暑い盛りにこの衣装ですからね。おまけに面をつけて村の端から端まで踊り歩くわけですから」
「まったくです。――このお坊さんみたいな衣装には意味があるんですか」
「ユゲ衆というのは、遊行上人から来ているんでしょう。それで墨染めの衣なんでしょうね」
「遊行上人?」
「あの大きな藁人形」と、広沢は大きく火の手を上げている焚き火に目をやった。「あれをベットと言うんですよ。別当が詰まったものらしいです。――わたしもあまり詳しくない、若御院の受け売りですが」
若御院、と結城は焚き火に照らされた河原から、山のほうを振り返った。三つの尾根に三角形に囲まれたこの外場の、奥の斜面にある旦那寺、そこの跡取り息子は副業で小説も書く。結城はまだ著書を手に取ったことがなかったが、村人の評判は苦笑混じりだった。大きな声では言えないけれども、なんだか小難しくて、と誰もが言う。それでも口調が暖かいのは、村に作家がいることが誇らしく思えるせいでもあり、旦那寺の若さんへの敬愛のせいでもあるのだろう。
「もともと農村には、害虫や疫病は悪霊のせいだという信仰があるんです。保元・平治の乱の頃に、斎藤実盛という武将がいまして」
「平安時代の、保元・平治ですか」
「ええ。この斎藤実盛を、長井斎藤別当とも言うんですね。もともとは源氏方の武将だったのが、後に平家方に移ったんだそうです。この実盛が木曾義仲討伐のために北陸に下って、加賀篠原で討たれたんですが、それが稲の株につまずいて倒れたせいだというんですよ。その恨みから害虫になって稲を食い荒らすという伝承が割合に日本には広くあって、虫送りの時に実盛の霊を供養するという風習があるらしいです」
「へえ。斎藤別当――それでベットですか」
「その実盛の霊が加賀篠原に現れて、時宗の遊行上人が十念を授けて弔ったという記事が古い文書にあるそうですね。謡曲に『実盛』という曲があるんですが、これもそれを題材にしたものらしいです。当時そういう伝説が流布していたんでしょう。それで別当に従っていく男衆を遊行衆――ユゲ衆と言うんじゃないか、と若御院はそう言うんですけど」
「けれども、なぜ、鬼の面なんです?」
ああ、それは、と広沢は笑んだ。
「外場では『起き上がり』のことを鬼と呼ぶんです」
「起き上がり?」
「ええ。ここは土葬でしょう。そのせいか、死人が墓から起き上がり、村へ降りてきて祟りをなすという言い伝えがあるんです。それを鬼というんですよ。別当を弔う遊行衆が鬼では理屈に合いませんが、もともとは僧形の遊行衆とは別に、鬼の面を被った男衆がいたようですね。ベットを担いだ遊行衆が別当の霊を弔いながら村を練り歩くと、村の|穢《けが》れや鬼がその後をついてくる。それをここまで連れてきて祀り捨てる。それが虫送りなんです」
「祀り捨て――」結城は焚き火に目をやった。「それで焼いてしまうんですね」
ユゲ衆はベットを担ぐ。ベット自体は大きく、藁で作ったものとはいえ、かなり重い。それは村の耕地や山林の端々で振り回された。そうやって辺りを撫で、穢れを移すのだと聞いた。他の者は外場を担いでウッポする。ウッポとはユゲ衆の足捌きのことで、そうやって踊るようにして村の隅から隅まで練り歩くことによって踏み清めていくのだという。子供の背丈ほどもある板卒塔婆を背負って祠から祠へとウッポしていくのは、実際のところかなりの重労働だった。
「卒塔婆を使うのは、ここが外場だからですか」
外場という村名は、卒塔婆から来ているのだと聞いた。結城がそう問うと、広沢は静かに頷く。
「樅を育てて、卒塔婆を作って生きてきた村ですから」
その大きな卒塔婆は、ここ一週間ほど村のあちこちにある祠の内外に立てられる。人々は神社から貰ってきた紙人形に名前を書いて神棚に祀り、罪穢れを移してから卒塔婆に貼って酒や食物を供え、塚を供養する。遊行衆はその供物や卒塔婆を拾い集めて村を一周した。紙人形がびっしりと貼り付けられた卒塔婆は、正直言ってあまり気持ちの良いものではなかった。少なくとも結城は初めてそれを見たとき、見てはならないものを見たように思った。
「慣れない方には、気味が悪いでしょう」
内心を読んだように広沢が言って、結城は苦笑した。
「最初は驚きましたが。おまけに衣を着た鬼が松明を点して練り歩く――まるで祭りというより、何かの|呪《のろ》いのようですね」
「呪いとまじないは、結局のところ同じものですから。神事はそういうものですよ。虫送りも正式には御霊会と言うんです。悪霊が祟らないよう、祀って遠ざける。人と神の仲というのは、意外に冷たいものです」
「土着の祭礼というのは、そういうものかもしれないですね」
広沢は頷いた。いつの間にか武藤は、缶ビールを握ったまま、うとうとしている。
「祀って捨てたものだから、帰りには面を被ってはいけないんです。鬼は村の外に追い出したんですから。昔は川で沐浴して衣を換えて戻ったそうですけどね。さえがに酒も入っていて危ないので、絶えましたが」
「なるほど。――そういう変化はあるんですね」
残念そうに聞こえたのかもしれない、広沢は詫びるような顔をした。
「もともと虫送りというと土用だったんだですが、今ではそのあたりの土曜日の夜、と決まっています。そうでないと勤め人が参加できませんから。そういう種類の変化はね、これはもう起こらないわけにはいかないので」
「いや、現状に合わせながら、受け継がれているんだな、と言いたかったんですよ。古いものを古いまま保存してるだけじゃ、生きた祭りとは言えないでしょう」
結城があわてて補うと、広沢は笑む。
「それはどうだかは分かりませんが。――まあ、これでも近隣の集落に比べたらよく残っているほうでしょう。外場は少し特異です。ここはこの辺りの集落の中でも、異物ですから」
「そうなんですか?」
「外、場、というくらいで、もともと余所から入ってきた木地屋の拓いた村ですからね。実をいえば合併されてもう村なんかじゃないんですが、外場の人間も村と言うし、外の人間も村と言う。一緒くたにはなれないことをお互いに分かっているんでしょう。滅多に人も入ってこないし、出て行かない。そういうところです、ここは」
「では、わたしは異物の中の異物ですね」
結城が言うと、広沢は笑う。
「なに、ユゲ衆を経験したら、もう村の者ですよ。これから大変ですよ、村にはいろいろとね、割り当てられた役割というものがあって、男衆と若衆は力仕事を一手に引き受けないといけないから」
「ユゲ衆は変わらないんですか」
「今年参加なさったから、たぶん来年も誘いがあるでしょう。絶対にやらないといけないというものでもありませんが、わりに誰がやるか決まってしまいますね。鉦太鼓にもウッポにも、|形《かた》ってものがありますから」
「なるほど」
結城は苦笑する。四十も近い年齢になって踊りの稽古というのは、我ながら照れくさいものがあった。
「|上中門前《かみなかもんぜん》、|下外水口《したそとみずぐち》と言いまして」
「なんですか、それは」
「外場村というのは、合計六集落でできているんです。上外場、中外場、門前、下外場、外場、水口。そこに本当はもうひとつ、山の中に少し離れて|山入《やまいり》という集落があって」
「もうほとんど人がいないと効きましたが」
「ええ。残ったのは二軒だけです。まあ、その山入を含む上集落と、下集落があって、神事には割り当てがあるんですよ。氏子が作る組織を|宮座《みやざ》というんですが、村を挙げての行事でも、宮座の采配でなければ上下のどちらかが分担することになります。旧、新とも言いますけれども。最近じゃ国道のほうに家が増えて下のほうが大きくなりましたが、昔はあそこは田圃ばかりでね。――旧正月にやる祈年祭と、虫送りの直前にやる神幸祭は下の担当です。あれも結構な重労働なんですが、我々は正月の歳神祭と虫送りを担当するんで、見るだけです」
「へえ」
「こんな小さな村でも、意外に広いですからね。神事に限らず、村を挙げての行事はだいたい上下で分担があるんです。もっと小さい行事は各集落ごとにやる。祝儀とか不祝儀なんかはさらに小さい班ごとですね。そうやって細分化していくから、役割はだいたい決まってくるんですよ、どうしても。あの行事の時に鉦を持つのはあのひと、この行事の時に御輿のお先棒を持つのはあのひと、というふうに」
「なるほど。じゃあ、来年の虫送りに備えて、少し体力をつけることを考えておかないといけないな」
結城が笑うと、広沢も静かな声で笑った。
「広沢さんは、お住まいはどちらです」
「結城さんと同じです。中外場」
「そうだったんですか。――これを機会に、ひとつよろしく」
こちらこそ、と広沢が笑んだところに武藤が顔を上げた。うたた寝から目覚めたらしい。
「……車だ」
結城も広沢も、言った武藤の顔を一瞬見て、そうして河原の土手を見上げた。
村の入口のほう、つまりは南にヘッドライトの明かりが見えた。
「こんな時間に」
広沢が呟いたのも道理、腕時計を見ると、もう午前三時が近い。
ヘッドライトは三台分、それが南から近づいてきて停まった。
「ははあ、道を間違えたな」
武藤が呂律の怪しい声で言う。そうなのかもしれなかった。車はしばらくそこで困惑したように留まり、やがて小刻みに動き出して道を引き返し始めた。
武藤が怪訝そうに目を|眇《すが》め、広沢もまた眉を|顰《ひそ》めた。おそらくは結城自身も同じような表情をしていたことだろう。――それはトラックに見えた。アルミのコンテナは、かなり大きい。その背後に続いた車は、トラックの陰になっていてよく見えない。
焚き火を囲んだユゲ衆は、誰しも驚いたようにバックしていくそれを見送った。
「引っ越しかい……? この時間に」
武藤の声は呆れた調子が半分、訝しむ調子が半分だった。結城はとりあえず頷き、何となく背後を振り返った。左右に迫った山の稜線は真砂を撒いたような星空を背景に、ただ黒い。それは村を左右から挟み込み、渓流の上流で閉じ合わされる。合流した稜線をずっしりと押さえ込むように、最奥にはひときわ大きな山塊が聳えていた。その北山のすぐ左、村の北西、西の山と北山が合するあたり。結城はこの村の誰とも同様に、そこに一軒の家があって、住人を待っていることを知っていた。
トラックは引き返していったのだから、あの家とは無関係だろう。――けれど。
同じことを思ったのか、気づいてみれば、武藤や広沢はもちろん、焚き火の周囲に佇むユゲ衆の多くが同じようにして北西の山を見上げていた。
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
空気は徐々に藍の色を薄め、黒いばかりの山肌からは樅の緑が浮かび上がってくる。朝露にくるまれた沈黙の底では山鳩が鳴き始めた。
静信が箒を抱えて庫裡を出ると、境内は蒼いような白いような光で満たされていた。朝露にけぶって空は見えない。薄墨を流したように石畳が延び、その先に聳える山門の黒々とした色も滲んでいる。
山鳩のくぐもった、そのくせ妙に歯切れのよい声に耳を澄ましながら、静謐そのものの境内を横切り、静信は山門へと向かった。箒を立てかけた山門の支柱も濡れている。ずっしりと湿り気を含んだ閂を抜き、山門を内側から左右に開いたところで、ちょうど山門脇の潜り戸が開いた。潜り戸から身を屈めて入ってきて、おや、とさも愉快なことに出会ったように目を細めたのは、光男だった。
「おはようございます」
光男がすっかり禿げ上がった頭を下げるのと同時に静信も挨拶をした。声が重なる。それがまたおかしかったのか、光男は声を上げて笑った。
田所光男は寺で雑務をしている。僧侶ではないから読経はしないが、様々な雑用を一手に引き受けていた。毎日、寺の麓にある家から朝一番にやってきて、細々とした雑用をこなして一日を過ごす。庫裡を手伝いにやってくる母親の克江ともども、すでに寺の一員のようなもので、静信の記憶にある限り、光男の姿を見ない日がなかった。
「今日も暑くなりそうですね」
光男はそういいながら、門の片扉を鉤にかけた。そうして首を傾げ、静信の顔を覗き込む。
「若御院、目が赤いですよ。さては、また夜更かしでしょう」
光男に指摘され、静信は恥じ入って頷いた。昨年、脳卒中で倒れた父親に代わって静信が今では寺を取り仕切っているのだが、副業のせいでどうしても夜更かしが多かった。寺の朝は五時には始まるから、寝そびれたまま徹夜ということも多い。
「大丈夫なんですか。今日は法事が多いでしょう」
土曜から日曜未明にかけての虫送り、それに先立つ神幸祭で、村には夏の神事が集中していた。この間は誰もが法事を避けるし、そうこうしているうちに盆が来る。虫送りと|盂蘭盆《うらぼん》に挟まれた半月ほどの間には、法事の予定がどうしても立て込む。この日もかなりの予定が入っていた。寺には役僧が二人いるし、立て込むときには近隣の寺からも役僧が来るから交代できるとはいえ、仮にも副住職がおおっぴらに昼寝しているわけにもいかない。
「何だったら、勤行は鶴見さんに頼んで、少し寝てきたらどうです」
鶴見とは村内から通ってくる役僧だった。静信は慌てて首を振る。
「いえ、平気ですから」
「これから忙しい時期だし、体は大事にして貰わないと。休んでくださいよ。わたしが鶴見さんにそういっておきますから」
「本当に大丈夫です」
そうですか、と呟きながら、光男が竹箒を手に取ったとき、正面の石段を登ってくる人影が朝露に霞んで見えた。石段下の雑貨屋の千代だ。老女は箒を杖代わりに、一段一段を踏み清めるようにして石段を登りきり、静信と光男に向かって無言で丁寧に頭を下げた。
「おはようございます」
「いつもお早いですね」
静信と光男が声をかけると、千代は無言で再び会釈をした。
もう幾つになったのだろうか、寡黙で表情に乏しい老女だった。静信が子供の時分から毎朝のように千代を見るが、会話をしたことは数えるほどしかなった。いだったか、これはお礼奉公だから、と|含羞《はにか》んだように言ったのが今も印象に深かった。戦争に行った夫を無事に帰してくれたら、掃除をすると仏様に約束したのだという。その夫はとうに他界したが、千代のほうは今も元気で毎朝、山門前から石段下までを掃除して朝の勤行に参加してから帰って行く。
村では信仰が生きている。近辺の老人の中には、毎朝欠かさず勤行に来て、そのついでに寺の雑用を片づけてくれる者が多かった。村の住人の大多数を檀家に持つ寺は、静かな佇まいのその実、比較的大きな部類にはいる。役僧三人に光男とその母親の克江、静信と母親の美和子、それでも人手は足りてない。何かといっては集まってくれる檀家の人々の手がなければ、寺は到底、立ちゆかなかった。
無言で箒を使い始めた千代に軽く会釈して、静信もまた箒を取った。
寺は村の北端、樅に覆われた北山の山腹にあって南面している。山門からは朝露の中に沈んだ村が一望できた。
外場は、複雑に入り組んだ尾根によって三角形に囲い込まれている。
[#ここから4字下げ]
渓流に沿って拓けた村を、銛の穂先の三角形に封じ込めているのは樅の林だ。
[#ここで字下げ終わり]
静信は外場の地形をそう喩えたことがあった。銛の穂先は地図に描かれた矢印のように北を示す。その頂点に位置するのが北山であり、寺はその斜面から村を見下ろしていた。北山から延びた尾根は村の西側を堰き止め、鉤の手に曲がって南を蓋する。矢印の軸にあたるのは東の尾根、その麓に沿っては谷川が流れている。寺を頂点とする三角形、対峙する南の尾根の向こうには国道が通り、そのさらに南を自動車道が貫く。これが村の南限だった。
静信のいる山門からは、それらの様子が一望できる。寺を起点に左右の尾根は末広がりに稜線を開き、その間を田畑や家が埋めていた。人家は時に点在し、時に密集して集落を作り、それらは次第に低くなりながら、村の南に横たわる尾根をめがけて拓けていく。見渡せば、手のひらの上に載せられるような、たったこれだけの土地。
静信が目を細めていると、悲鳴のような音を立ててスクーターが登ってくるのが聞こえた。麓から続く私道を登って、鐘楼脇から境内に入ってきたのは役僧の鶴見だ。鶴見は衣姿、ヘルメットのまま静信に頭を下げ、境内を横切る。それに会釈を返して静信は目を石畳に落とした。竹箒を握り、掃除に専念する。
朝の勤行が終わる頃には、予定が立て込んでいるときにだけ近隣の寺から来てくれる|角《すみ》が到着し、光男の母親である克江が庫裡を手伝うためにやってきた。昼前には、時季はずれの夏休みを取っていた役僧の池辺が寺に戻ってきた。
あわただしい一日が過ぎ、静信は庫裡の一郭にある道場に向かう。ちょうど道場の入口で、厨房から湯飲みと茶菓子を揃えた盆を運んできた母親と行き会った。美和子の背後からは、光男が大きな薬缶を提げてやってくる。襖を開け放した道場の中では、十五人ばかりの檀家衆が休んでいた。
「今日はどうもありがとうございました」
静信が道場に入り、軽く頭を下げると、美和子も膝をついて礼を言う。
「本当にお疲れ様でした。みなさん、どうぞ一服なさってください」
美和子は言って、座卓を囲んだ人々に頭を下げた。歓談を途切らせて、どうも、と破顔した人々は未だにタオルを首に引っかけ、あるいはエプロンがけのままだった。
法事の多くは自宅で営まれるものだが、檀家の中には遠方に転出した者もおり、あるいは事情によっては寺を使う。そうなると、ろくな仕出屋もない村では、お|斎《とき》の用意も寺でしなければならない。広大な境内や建物も維持せねばならず、人手は慢性的に足りなかった。行事のあるときには世話方が取りまとめて、前もって手伝いを采配してくれるが、一般の法事ではそうもいかない。平素には無言の心配りで寺は支えられている。
「若御院もお疲れになったでしょう。虫送りの後は大変ですねえ」笑ったのは安藤節子だった。「奥さんもお疲れさまです」
いえ、と美和子は首を振った。
「こうしてみなさんが手伝ってくださるので、本当に助かります」
「お邪魔になってるんでなきゃ、いいけどねえ」
節子は明るい声をあげて笑った。節子は檀家総代の一人である安藤徳次郎の後添いだった。まだ信仰に傾倒するほどの歳ではないが、檀家の女衆をまとめて、こまめに寺の面倒を見てくれる。今日も一日、女手を集め、庫裡を采配してお斎の準備から配膳、片づけに至るまでをやってくれた。
「これからお盆までは、ずっとこの調子ですもんねえ。明日も法事が立て込んでるんじゃないですか」
そうなんです、と答える美和子に節子は微笑む。
「それじゃあ、明日も集まらせてもらおうかしらねえ」
節子の言葉に九人ほどの女衆が頷いた。
老人たちは老人たちで、麦茶を湯飲みに注いで回る光男に声をかけている。
「光男さん、明日は何かすることがあるかねえ」
「墓場の参道がだいぶ草に埋もれてたけど、刈っておこうか」
光男も嬉しげに笑みを浮かべた。
「そうですねえ。お盆も近いし、そろそろ墓場の草を刈っとかないと、と思ってるんですよ。参道の周囲だけでもきれいにしとかないとねえ」
村では死者を土葬にし、特に墓は建てないが、檀家の中には死者を埋葬する墓所を持たない者もいるし、その他にも事情があって納骨して墓を建てる者もいる。それらの人々のため寺の西斜面に墓地があったが、これの整備は公共の部分だけを考えても、光男一人の手には余った。
「そんじゃあ、明日は草刈りでもするかな」
「まあ、ぼちぼちやれば、盆には間に合うだろ」
軽い笑い声が起こる。美和子はそれらの人々に頭を下げた。
美和子自身は近隣の寺から見合いで嫁いできた。そもそも寺族だから、庫裡を預かる苦労を知らなかったわけではない。それでも檀家数二百ていどで、かろうじて専業で食べていた実家とは訳が違う。田舎の寺だが大きいと聞いて覚悟はしていたものの、実際に中に入ってみると、その内実は想像を超えていた。歳の離れた夫自身が晩婚で、美和子は子供を一人しか持てなかった。わずかに三人きりの家族だ。寺の人手の要になるのは寺族だが、その寺族自体がそもそも少ない。檀家数は多くても田舎のこと、お布施の相場はたかがしれているから、人を雇って集めるにしても限界があった。笑って手を貸してくれる檀家衆の好意がなければ、寺は本当に立ちゆかない。理屈抜きにありがたかった。
そういえば、と誰にともなく声をあげたのは、竹村吾平という老人だった。
「昨日――いや、今日か。トラックが来たという話を聞いたかい」
トラック、と何人かが復唱する。
「引っ越し屋のトラックさ。さっき、松尾の親父さんが、ちらっと草を|毟《むし》りに来て言ってたんだがね」
「あら、|兼正《かねまさ》の家?」
節子が驚いたように言った。寺のある北山と西山の合するあたりに、兼正と屋号で呼び慣わされる竹村家の屋敷があった。それが取り壊され、あとには奇妙な家が建った。梅雨の頃に建ったきり、未だに住人は越してきていない。
「いや、それが。ユゲ衆がトラックを見たんだと。虫送りのベットを焚いているところにトラックが入ってきて、引き返していったんだとさ」
「ああ、あそこの長男はユゲ衆だから。――でも、ベットを焚くって、真夜中の話じゃないんですか」
「そうなんだよ」
静信はわずかに眉を顰めた。夜明け前、窓から村に入ってくる車の明かりを見た。あれは時刻からいって、その頃合いではなかったろうか。
「普通は夜中に引っ越しなんてしないわよねえ」
「道を間違えたんじゃないですか」
光男が口を挟んだが、節子は釈然としないふうだった。
「間違えるものかしら」
静信も軽く首を傾げた。渓流に沿った村道は国道に突き当たり三叉路を作っているが、国道と村道では確かに道の間違えようもない。
吾平老人も頷いた。
「まあ、引き返したってんだから、間違えたとしか思えんが。しかし、それが後ろに二台、車を従えててな、なんか妙な案配だったって話さ」
節子が言って、光男も頷いた。
「越してきませんな、そう言えば。もう建ってずいぶん経つのに。――なんていう人でしたっけ」
「それが誰も知らないのよ。表札も出てないし。ほら、家の普請をしたのも、外の大きな会社で、ぜんぜん外場とは関係がなかったじゃない。それで、誰も詳しいことが分からないのよ。どうも東京とか、その辺りの人らしいって話なんだけど」
節子の家は工務店と通称され、建築・土木業を営んでいる。村での普請はたいがい安森工業が請け負うが、そういえば、あの家は安森工業とは関係なかったのだと静信は思い出した。
節子は静信のほうを見て、複雑な表情で笑った。
「あんまり妙な人でないといいんですけどね。まあ――なんて言いましたっけ、あの余所から来た、なんとか工房の一家、あそこだって慣れてみれば、そんなに妙な人でもなかったようだし」
「結城、と言ったんじゃなかったですか」
「そういう名字だったかしら」言って、節子は大仰に顔を顰めて笑ってみせる。「姓が二つあるんで、ややこしくて」
静信が苦笑混じりに微笑むと、吾平老人が口を挟んだ。
「工房の旦那なら、今年、ユゲ衆に入ったらしいな」
へえ、と節子は呟く。
「あの一家も、最初は妙な噂もあったものねえ。夫婦は名字が違うし、えらく大きな息子がいるしで」
集まった人々が軽く笑った。静信も思わず笑む。乱れ飛んだ憶測なら、小耳に挟んだから知らないでもない。結局のところ村は狭い。だから、少しでも常とは違うことがあれば、あっという間に広まってしまう。ろくな娯楽もないから、誰もが噂話に熱心で、そのせいか尾ひれだって盛大につく。――この場がその良い例だ。
自覚があるのか、節子もどこか照れた風に笑っていた。
「まあ、せっかく越してくるんだから、良い人だといいですねえ」
同意するように笑った人々を見渡し、静信は道場の窓に目を向けた。夏の陽射しは傾いていこうとしている。南西を望む窓からは、寺の西斜面に広がる墓地と、その麓に広がる製材所の材木置き場を見下ろすことができた。材木置き場の脇に立つコンクリート製の建物が村に唯一の病院である尾崎医院、その向こうの斜面に兼正の屋敷はある。ここからは斜面を覆った樅の林がじゃまして建物を見て取ることはできない。かろうじて梢の上に黒いスレート葺きの屋根と破風の一部がのぞいていた。
兼正と通称される竹村家は、かつては代々村長を務め、その地所にある旧家然とした屋敷から村を見下ろしていた。外場が近隣の溝辺町に合併されたのを機に溝辺町市街部へと移り住み、町政へと乗り出していったが、べつだん外場と縁が切れたわけではない。親子二代にわたって町長を経験し、議会にもそれなりの勢力を持っていたが、それも外場という結束の固い地盤があればこそで、兼正は未だに外場の利害の代弁者であり、村の重鎮であり続けている。その兼正の先代が急死したのが昨年の七月、八月に入って兼正の屋敷は取り壊された。先代が死亡する前に地所を手放していたらしい。あとには奇妙な家が建った。
住人がどんな人物なのか、知るものは誰もいない。兼正は未だに寺の檀家総代で、静信とも付き合いが深いが、跡取りは相続するまで地所が売られていたことすら知らなかった、と言っていた。先代が全くの独断で、密かに売却したらしい。なぜそんなことをしたのか、その理由は誰にも分からなかった。屋敷を手放すことは、外場との地縁の切断を意味する。地盤の要を外場に置いている兼正にとって、それは愚行以外の何者でもなかったし、実際、跡取りも頭を抱えていた。
なぜ住人はこんな田舎に越してくる気になったのか、どういう人物がどんな事情で地所を購入したのか、兼正の先代は何を思って地所を売却したのか、その家の周囲には、家そのものを含めて、釈然としないものが立ち込めている。
深夜に現れた引っ越しのトラック。それはある意味で、あの家にふさわしい。だが、引き返したのなら、兼正の住人ではないはずだ。静信は暮れなずむ山を見やった。
たぶん――おそらく。
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
熱気を逃がす夜は短く、陽は早々に昇って強い光で山の稜線を炙り始める。国広律子は急な坂を足早に登る。北山に突き当たる村の北の方は坂ばかりだ。背後から来た子供たちが数人、傾斜を苦にした様子もなく抜きつ抜かれつを繰り返しながら律子を追い越していった。
「おねえさん、おはよう」
声をかけてくれた子供に、律子もおはよう、と声を返す。子供たちはそのまま縺れ合うようにして坂を越え、製材所のほうへと折れてさらに坂を登っていった。これからラジオ体操に行くのだろう。
軽く微笑んで曲がり角を通り過ぎ、律子は白い建物の前に出た。尾崎医院と看板の上がったそこが律子の職場だった。
間近に迫った山からの風が翳りを残した林の中から、樅の匂いと一緒に|蜩《ひぐらし》の声を運んできていた。この声のせいで夏の早朝はどこか物憂い。東の山に目を移せば、昇ったばかりの陽射しが強くて、今日も一日暑くなるだろうと想像がついた。
素っ気ないアスファルトの駐車場を横切り、律子は病院の裏手に回る。通用口から建物の中に入り、まっすぐ更衣室に向かった。
「おはようございます」
声をかけながらドアを開いたが、更衣室は無人だった。看護婦はまだ誰も来ていないのだろう、窓もブラインドも閉じたまま、部屋の中に淀んだままの空気も、週末の倦怠をそのまま残している。
尾崎医院は「医院」と看板を上げていても、基本的に入院患者は受け付けていない。検査や経過観察のために一晩、二晩、特別に入院の措置を取ることはあっても、あるていど以上の入院が必要な患者は、全て溝辺町の病院に回すことになっていた。おかげで夜勤もなければ日曜の勤務もなかったし、看護婦同士で調整して、週に二日、きっちり休める。村に唯一の病院だから日曜といえども急患はあるが、代替わりした院長は理解があって、三週間に一度、自宅待機があるだけで、特に出勤しなければならないわけでもなかったし、待機しているだけでも少々とはいえ手当がついた。――総じて恵まれた職場だと思う。
好きで選んだ仕事だし、やりがいも感じている。職場が辛いわけでもない。なのに、休み明けの朝に特有の、また一週間、という物憂さ。
律子はバッグをロッカーの中に放り込み、紙袋の中から選択したばかりの白衣を引っ張り出した。白いユニフォームに着替え、髪をまとめて白いナース・キャップを着ける。たったそれだけの装備で背筋が伸びてくる気がするから不思議だ。
個人としての自分から、看護婦としての自分へ。そこには奇妙な段差がある。休み明けが物憂いのは、休日の分増したその段差を越えるのが単に億劫なだけなのかもしれない。
鏡で姿をチェックして、よし、と自分に声をかける。ブラインドを上げて窓を開けると、涼しい風と蝉の声が吹き込んできた。そして、溌剌とした子供の声。
病院の裏手には、狭い田圃を挟んで丸安製材の材木置き場が広がっている。この近辺ではラジオ体操は丸安製材でやると決まっていた。そこに集まった子供たちの歓声が材木置き場のすぐ間近まで迫った山に響いて、蝉の声よりも力強く部屋の中に流れ込んできた。
間近の山は毅然とした緑だった。右手の山の高いところに寺の本堂が見える。強い朝日がまともに当たって、大屋根が鈍銀に輝いている。境内から製材所まで続く斜面の一郭は、歯が抜けたように樹木がまばらだ。あれは寺の墓地。特に墓石を立てない外場の墓地は、そうと知って見なければ分からない。
そこから山は馬蹄形に窪んで、材木置き場と|幾許《いくばく》かの棚田を大きく抱え込む。植樹された樅の梢が朝日を浴びて綺麗な小波を描いていた。左手の斜面も樅の緑。その上に黒い屋根の尖った先端がのぞいている。
律子は、なんとなくその家――その屋根――を見上げた。
つい先頃まで兼正の屋敷がそこにはあった。古い石垣と幾棟ぶんもの瓦屋根、庭木は鬱蒼として屋敷はいかにも物物しかった。しかも肝心の住人はずっと以前に――律子が物心つく以前に――転居して、屋敷は無人のことが多く、かろうじて手入れはされていたものの、それも万全とは言えなかったので、子供たちの間では「兼正のお化け屋敷」で通っていた。
律子自身も小学生の頃、肝試しと称して庭に忍び込んだことがある。無人のつもりで入り込んだら、管理人と思しき年寄りがいて、見つかって叱られた覚えがあった。
そのお化け屋敷が取り壊されたのは昨年のことだ。後には変わった家が建った。「変わった」と言っても、建物自体には変わったところなどどこにもない。そう、ここが外場ではなく、別荘地か何かなら、あるいは外国の小さな村なら、本当に何の違和感もないはずだ。小さいけれど、映画にでも出てきそうな――洋館。
その建物は、村の風景の中にあって、明らかに異質だった。さらに異様に思えるのは、その佇まいだつた。その家はまるで、百年もそこにあったような顔をしている。古い石壁、風雨にさらされた色の煙突や窓。古い建物を移築したらしい。
どうしてそんなことを、と村の者は戸惑っている。新旧入り混じる民家の並ぶ、どこにでもありそうな小さな村、それを見下ろす洋館は、村の光景に馴染まないにもかかわらず、村の民家のどれよりも歴史と年代を感じさせた。古色蒼然としているだけに、割り切れない違和感があった。
(本当に、変わった家……)
心の中で呟いたとき、更衣室のドアが開いた。
「あら、律ちゃん」
看護婦の永田清美だった。
「おはようございます」
「早いわね」清美は笑って、ロッカーを開ける。「どうしたの。物思い?」
律子は首を振った。
「いい天気だな、と思って。暑くなりそう」
まったくだわ、と清美は溜息交じりに笑って、さばさばと服を脱いでいく。律子は慌ててブラインドを下ろそうと手を伸ばした。
「いいわよ。上げといた方が風が通るから。律ちゃんみたいな娘さんならともかく、どうせこんな小母さんの下着姿なんて、覗く人もいやしないんだから」
「熟女、って言うんでしょう? 女四十は」
清美は白衣を着ながら声を上げて笑う。
「古いわねえ。――その四十も越えちゃったわよ。若い女がいるとかいって、喜んで来るのは、お寺の仏さんくらいだわね」
律子は斜面の墓地に目をやって笑った。
「なァに、歳の話?」
更衣室に入ってくるなり、声を上げたのは橋口やすよだった。
「おはようございます」
「おはよう。――あらま。窓もブラインドも開けっぱなしで」
だから、と清美は笑う。
「もう覗かれても惜しくない歳になった、って話」
「なに言ってんの。あんた、あたしより十も若いんじゃないの」
「十キロ少なかったら隠すんだけど」
「お恥ずかしいもんだから隠すのが、慎みってもんよ。律ちゃんくらい若けりゃ、見せびらかすけどさ」
「慎み、ねえ」
「女はそれがなくなっちゃァ、おしまいだわよ。――あたしやあんただって、まだトドの群に入りゃ、捨てたもんじゃないんだから」
敏夫は|啣《くわ》え煙草のまま洗面所を出て、ダイニングの食卓に着いた。南に向かって大きく窓を取ったダイニングには明るい朝の光が満ちている。食卓の上には二人分の朝食が並べられ、敏夫の席には新聞がおいてある。それを見ながら、そうか恭子は溝辺に戻ったのか、と思った。
尾崎敏夫は三十二で、外場に唯一の病院である尾崎医院の院長だった。とはいえ、医師は敏夫一人しかいない。三年前、父親が膵臓癌で倒れ、大学病院を辞めて村に戻ってきた。妻の恭子は三十、子供はいない。恭子は山村での生活を嫌って溝辺町の市街部にアンティーク・ショップを持ち、店の近くのマンションで暮らしている。外場に戻ってくるのは、月に二、三度のことだ。
敏夫にはそれを、その程度しか戻ってこない、と言うべきなのか、それともその程度には戻ってくる、と言うべきなのか、良く分からなかった。ここでの生活を嫌って出ていったことを思えば冷めた夫婦なのかもしれなかったが、にもかかわらず、自発的に戻ってくるのだからそれなりに良好な関係なのかもしれない。
「おはよう」
窓の外を眺めていると、母親の孝江が味噌汁を運んできた。それに生返事をする。新聞の天気予報を見ると、今日も快晴、雨の降る確率は〇パーセント。日中の最高気温は例年より高く、三十六度を越えるだろう。今年は春からずっとこの調子だ。雨が少なく、異常に暑い。東海地方では酷暑による被害や、大規模な渇水が起こっている。
孝江はテーブルの向かいに座りながら、Tシャツとジーンズ姿の敏夫を責めるような目で見た。艶やかな樫の天板のテーブル、凝った細工の椅子は六脚、飾り棚を背にした上座の席は空いている。かつては父親が座っていた席で、孝江に言わせると、それは家長の席であり、敏夫にはそこに座るだけの威厳がまだ欠如しているらしい。敏夫は別に、座る場所には頓着しない。一番下座でも構わないのだが、母親はそれを理解していない。家長の席を敏夫に与えないのは、懲罰のつもりらしかった。やれやれ、と息を吐いて、敏夫は窓の外に目をやる。広い裏庭に面したリビングの窓からは、西の山が一望できる。夏らしく艶やかな緑の山肌、その一郭には黒いスレートの屋根が見えた。
高く破風を突き上げる構造。小さな子供が絵に描いたような尖った屋根の三角形が物珍しい。およそ外場には似つかわしくない家だったが、周囲が樅の林なだけに、そこだけを取り出してみると、それなりに様になっている。冬になって雪でも降れば景色としては面白いのかもしれなかった。
(妙な家だ……)
心の中で呟いたとき、敏夫の視線に気づいたのか、孝江が低い声を漏らした。
「ゆっくりしてていいの?」
これにも生返事を返すと、孝江は窓の外に一瞬だけ目をやる。
「越してこないわね。住む気があるのかしら」
「別荘ということはないだろう。あれだけの家をわざわざ運んでおいて」
「仰々しいこと」
孝江の言葉には明らかに棘があって、敏夫は微かに苦笑した。もともと孝江は兼正と折り合いが良くない。兼正に見下ろされるのが気に入らなかったのだ。兼正が転出してやっと尾崎を見下ろすのは寺だけになったというのに、見ず知らずの他人がやってきて孝江を見下ろす。敏夫にとっては、どうしてそれが不満なのか理解できない種類のことだったが、それを理解できない限り、家長の席には座らせてもらえないのだろう。
「いろいろ事情があるんだろう。――ごちそうさん」
武藤が病院の敷地に入ると、すでに表玄関は開いていて、ガラスのドア越し、待合室に幾人かの患者が入っているのが確認できた。玄関前をパートの関口ミキが掃いている。それに声をかけ、武藤は慌てて通用口のほうへと向かった。
通用口を入ると|三和土《たたき》の脇の水場では、同じくパートの高野藤代がモップを洗っていた。藤代と挨拶を交わし、更衣室に入ってロッカーから白衣を引っ張り出す。足を引きずりながら間仕切りのドアを抜け、受付に急ぐと、十和田がカウンターの拭き掃除をしていた。
「おはようさん」
「おはようございます」十和田は若々しく笑って手を動かす。「もう終わりますから、藤代さんは先に一服しててください。ぼくがやってしまいますから」
「済まないね」
いえ、と笑う十和田を軽く拝み、ついでに待合室の患者に会釈をする。ほとんどが長く物療に通っている患者で、顔見知りが多かった。
十和田の言葉に甘えて休憩室に向かおうとしたとき、待合室の向こう、自宅のほうから院長が入ってきた。Tシャツにジーンズ姿のままだ。
「よう、おはよう」敏夫は誰にともなく言って、白衣の袖に手を通しながら待合室を見渡す。「おいおい。もうこんなにいるのか。年寄りは朝が早くてかなわんな」
敏夫の言葉に、老女の一人が軽口を返す。
「若先生が遅いんでしょう。遅刻ですよ」
「そんなことがあるもんか。あんたたちに合わせるから、どんどん開業時間が前倒しになるんだ。ちゃんと朝飯を食ってきてるんだろうな」
「しっかりとね」
「そいつは結構。老い先短いんだから、悔いが残らないように精々、旨いものを食っとかないと」
待合室にまばらに笑いが起こる。武藤は十和田と顔を見合わせ苦笑を交わした。院長である尾崎敏夫は、一事が万事、この調子だ。
「またそういう不用意な憎まれ口を……」
休憩室に向かう敏夫を追いかけながら、武藤は小さく溜息をつく。
「ほんの事実さ。――どうした。足を引きずってるな」
「単なる筋肉痛ですよ。虫送りだったんで」
「そうか。武藤さんはユゲ衆か」
「そうですけどね」武藤は敏夫を軽くねめつける。「口に気をつけないから、尾崎医院の若先生は不良医師だとか言われるんですよ」
「不良医師には違いないだろう。おれが真面目な医者だったらこんな田舎に帰ってくるもんか。あっちに残って、今頃は白い巨塔だ」
やれやれ、と武藤は苦笑した。先代は非常に気位の高い人物で、病院に来る老人の中には先代の威厳を慕って、倅は不謹慎だ、と言う者もいるが、武藤自身は先代より息子のほうに好感が持てた。憎まれ口をきいては好んで周囲の誤解を買う、不謹慎な軽口を叩く。Tシャツにジーンズの上から白衣を引っかけていたりして、医者としての威厳もなにもあったものではないが、時間外の診察も厭わないし、求められれば時間を問わず自分で鞄を提げて気軽に往診にも行く。昨年には大枚の借金をして病院の一部を増築改装しCTを入れた。そのために取りつぶされたのが、代々の院長が愛用してきた、広々としていかにも立派だった院長室、それに付属する応接室と二つの部屋に面していた贅沢な庭だというあたり、敏夫の気性を見事に物語っている。
敏夫は休憩室のドアを開ける。中には、十和田を覗くスタッフの全員がすでに揃っていた。
看護婦が四人。最年長の橋口やすよを筆頭に、永田清美、国広律子と村内者が続き、これに村外から通勤してくる|汐見《しおみ》雪が加わる。もうひとり、同じく村外から通ってくる井崎聡子がいるのだが、今日は姿が見えなかった。この時間に来ていないということは、今日は休みなのだろう。レントゲン技師の下山、事務の武藤と十和田、これに清掃や雑務を担当するパートのミキと藤代の二人がスタッフの全てで、これだけの人間で外場内外の患者を一手に引き受けている。
「おはようございます」
敏夫と武藤の姿を見て、清美が真っ先に立ち上がった。敏夫はそれにコーヒー、と告げ、広いテーブルを囲んだ椅子のひとつに腰を下ろす。隣の椅子に向かおうとした武藤の足に、部屋を出ようとした清美が目を留めた。
「武藤さん、どうしたんです。その足」
「筋肉痛だと、たった今、先生にも言ったところです」
「ああ。武藤さん、ユゲ衆だから。それは、運動不足だわねえ」
「多少の運動じゃ、追いつきませんよ」
敏夫がくつくつと笑う。
「もともと、山を天狗のように飛びまわっていた連中が始めた祭だからな」
「まったくだ」
顔を顰めてそろそろと椅子に座る。昨日一日、湿布だらけにしていたのにまだ痛む。しばらくは立ち坐りのたびに呻く羽目になりそうだった。
窓際に近いテーブルの一郭で、看護婦たちはせっせとガーゼを折っている。下山は付箋だらけのマニュアルを開いていた。開業の前には休憩室に集まってミーティングが持たれることになっているが、ようは診察開始までのいっとき、全員で集まって一服しながら、連絡事項があれば伝えておこうという、それだけのことだった。
開け放した窓からは朝の陽射しと、ひんやりとした風が吹き込んできている。今はまだクーラーなしでもしのぎやすいが、今年の夏は暑い。陽が昇るにつれ、例によって鰻登りに気温も上がっていくのだろう。
「うんざりするくらい、上天気だな」
敏夫は窓の外に目をやり、煙草に火を点けた。敏夫はかなりのヘビー・スモーカーの部類に入る。医者の不養生の典型だ。
「ホントにねェ」やすよも手を休めて窓の外を見た。すでに丸い鼻の頭に、うっすらと汗をかいている。「毎日毎日、こんなに暑いんじゃたまりませんよ。太ると暑さが堪えちゃって」
「夏は暑いものに決まってる。とはいえ、今年は暑いな。暑気あたりで年寄りがバタバタ片づくぞ」
武藤は敏夫をねめつけた。
「頼みますから、そういう不謹慎なことを人前で言わないでくださいよ」
「――おれの得意先が減って、静信だけが大儲けだ」
処置なし、と武藤は息を吐いた。山寺の跡取りである室井静信と敏夫は同級生だった。
「……そう言えば、田島予研の人が、こないだ先生がお坊さんと話をしているのを見たって不思議そうにしてましたっけ」
やすよが言うと、敏夫は低く笑う。
「陰謀の匂いがするだろう。おれと静信がつるんで、何かたくらんでいるのかもしれないぞ」
「やめてくださいよ。先生が言うと、冗談に聞こえないんだから」
樅に覆われた山の斜面を隔ててとはいえ、家も一応、地図の上では丸安製材の材木置き場を隔てて隣にあたり、医師と僧侶は小さい頃から仲が良い。村の者には周知の事実だが、知らない者には奇異に思えるものらしかった。
「そうそう、虫送りなんですけどね」武藤は足をさすりながら口にした。「妙なことがあったんですよ」
「妙なこと?」
「ええ。ベットを焚いていたら、引っ越しのトラックが入ってきたんですよ」
「おいおい。そりゃ、真夜中の話じゃないのか」
「そう、真夜中に。トラックと乗用車らしい車が二台」
ふうん、と敏夫は煙を吐いて窓のほうを見た。
「どうもよほどの変人らしいな。兼正の住人は」
「と、思うでしょう? 引っ越しのトラックと来たら、普通は兼正がとうとう越してきたと思うじゃないですか。なにしろ六月に家が建って以来、肝心の住人は越してこないままなんですから。ところが、そのトラック、途中まで入ってきておいて、引き返しちゃったんですよ」
「へえ?」
口を挟んだのは、やすよだった。
「おっちょこちょいの運転手が、道を間違えただけなんじゃないの」
まさか、と言ったのは雪だ。雪は近隣の集落から車で通ってきている。
「間違えるような道じゃないですよ。道幅が違いますもん。――この辺り、外場に入る道より他に枝道らしい枝道もないし」
「だからさ、道を間違えたから方向転換に」
「だったら交差点の角にドライブインがあるじゃないですか。わざわざ村道に入ってきてバックして方向を変えなくても、あの駐車場なら、ゆっくりトラックを切り回せるし」
「そう?」
「そもそも普通、夜中に引っ越しなんてしませんよね」
「遠方からの引っ越しでさ、夜中に着く案配になったんじゃない」やすよは言って武藤を見る。「それ、どこのナンバーだったの」
「さあ。ナンバーが見えるような距離じゃなかったですからね」
「そういう場合、昼間に着くように出発しません? 変ですよ、それ」
雪が妙に力説するのに、やすよは呆れた目を向ける。
「単に渋滞か何かのせいで、遅れただけかもしれないでしょ」
「それじゃ、つまんないじゃないですかぁ」
駄々をこねるような雪の言いぐさに、武藤たちは笑った。
「やれやれ。すぐこれだよ、この子は」
「刺激がほしいんです、まだ若いから」言って雪は律子のほうに体を傾け、顔を上目遣いに覗き込む。「日曜日に溝辺町の本局の、三軒先のイタリアン・レストランでお昼を食べるような相手もいないし」
え、と律子は目を見開いて、それからぱっと赤くなった。
「雪ちゃん」
やすよが声を上げて笑う。
「えらく具体的な話だわねェ」
「乙女の夢難ですもの。彼は緑のポロシャツで、あたしはミント・グリーンのワンピースでコーディネイトするの」
「もう、雪ちゃんてば」
軽く雪を小突く律子に、敏夫は笑う。
「雪ちゃんは別に誰とも言ってないぞ」
「そうそう」
やだ、とむくれたように雪をねめつける律子の顔が赤かった。そういえば律子も二十八だか、それくらいにはなるはずだ、と武藤は思い出す。いつ結婚してもおかしくはない歳だし、今でも外場の常識では遅いくらいだろう。だが、正看の律子がやめるのは痛い。それでなくても看護婦不足の折りに、こんな田舎の医院では簡単に代わりが見つかるとも思えなかった。
「結婚するなら、看護婦も続けさせてくれる相手にしろよ。でないと祝儀は出さないからな」
敏夫の揶揄に、律子は赤くなったままそっぽを向く。
「そんなんじゃありません」
尾崎医院は看板によれば内科が専門だが、求められれば何でも診る。一応医院なので入院施設はあるものの、ベッド数は個室も含めて十九床、それも敏夫が戻ってきて以来、基本的に空いたままになっている。設備はあっても、入院患者を受け止められるほどの人手がない。
「律ちゃんの妹には期待してたんだがな。保母になるとは誤算だった」
敏夫が憎まれ口を叩くのに、律子は澄まして笑ってみせた。
「それは、わたしが苦労してるのを見てるからじゃないですか」
「となると、武藤さんとこのお嬢さんに期待するしかないか」
ご冗談を、と武藤は返す。今時の子供が、父親と同じ職場に通いたがるはずがないし、十八になる娘は近隣の高校の商業科に通っている。
「つれない話だな。後は――」敏夫が言ったところで、隣室の厨房からトレイを持った清美が戻ってきた。「ああ、永田さんちのお嬢ちゃんがいる」
武藤と律子が笑ったので、清美は困惑したように武藤らを見渡した。
「なんです。さてはわたしの悪口ですね」
いや、と敏夫は笑う。
「いま、満場一致で、永田さんのところのお嬢ちゃんに看護婦になって貰うことに決まったんだ」
清美は呆れたように息を吐く。
「うちの子はまだ六年生ですよ。――はい、お熱いのをどうぞ」
清美がカップを敏夫と武藤の前に置いたときだった。
「先生、済みません」十和田がドアを開けて、顔を出した。
「江畑のお爺ちゃんが、自転車で転んだって」
「おいでなすった」
敏夫は立ち上がる。雪と律子がてきぱきとガーゼ類を始末にかかった。
「来てるのか」
「家の人が運んできてます。頭を切ったらしくて、顔中、血だらけで」
敏夫とやすよが小走りに出ていった後には、運ばれてきたばかりのコーヒーが残された。受付時間までには、まだ十分ほどある。
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
昼食を終えて、二人の子供は外に飛び出していく。前田元子はそれを見送って、二人が流しまで運んでいった茶碗を洗った。夏休みが始まったばかりの頃、茶碗を運んで洗い、拭いて片づけるという誓いを立てた子供たちは、学校のない休暇に慣れて奔放な時間の使い方を思い出すにつれ、ひとつずつ仕事を省略するようになった。きっと盆が過ぎる頃には茶碗もテーブルの上に置いたまま、遊びに出るようになるのだろう。
――子供ってそういうものだわ。
元子は笑みを含んで片づけをする。
元子自身、休みのたびに小学校で家の手伝いをしましょう、と教師に約束させられたものだが、結局なしくずしになって新学期を迎えるのが常だった。
学校は休みでも、大人の社会は休みにはならない。夫はJAに勤めに出ているし、義父母は山に入っている。テーブルの上に、戻ってきた義父母が一服できるよう、茶器と菓子箱を揃えておく。布巾を被せてから、家を出た。
元子の家は村の南端にある。村の南は田圃ばかりだ。北から細長く末広がりに拓ける村は、南の山に突き当たって閉じる。その南の尾根の突端が、遮る物もなく水田を隔てて間近に見えていた。一面に広がる水田の明るく柔らかな緑。おちこちでは水が不足して深刻な被害を与えているようだが、とりあえず村には影響がないようだった。伸びた稲のせいで、水田の間を縦横に走る畦道は今、溝のようだった。山を覆う樅の緑はさらに濃く、力強く陽射しを照り返す緑の濃淡が、いかにも夏の色だ。
南の尾根の突端に接するようにして変電所が建っている。そこから延びた電線は、南の尾根から山へと向かい、尾根伝いに建った鉄塔をリレーしながら、南の尾根から西の尾根へと折れ曲がって延びていく。雲一つ無い夏空を背景に屹立した鉄塔の銀が眩しい。
元子は目を細め、家の前の路を横切る。アスファルトの細い路の周囲には人家が途切れ途切れに点在するばかり、ろくに日陰を作るものもなく、路面は熱した金属のように灼けて|陽炎《かげろう》が立ち昇っていた。その熱気から逃れて畦道に下り、稲の葉先に足下をくすぐられながら田圃の間を歩いて国道に出た。村の南から北上してきた国道は、南と東、二つの尾根の間で大きく迂曲する。そのカーブに沿って歩くと、すぐに前方に短い橋が現れる。橋の欄干には「外場橋」と刻印されているが、そんな名前を記憶しているものも少ないだろう。村の外部の人間には意味のない名前だし、村の人間には「国道の橋」で通じる。――この「国道の橋」の周辺は、事故の多いところだった。
二つの尾根に挟まれた平地はそれなりの広さがあって、カーブは見通しがよく利く。それがかえって運転手の油断を招くのだろう、スピードの出し過ぎによる事故が後を絶たなかった。特に南――溝辺町方面から北上してきた車は、見晴らしが良いせいでカーブのアールを誤認するらしい。見かけよりずっとアールがきついのだ。それを誤解したままスピードを上げた車が、曲がりきれずに突っこむ。それが必ず国道の橋の辺りだった。突っこんだ車が欄干にぶつかり、その痕が補修されることが毎年のように繰り返されている。
そればかりでなく、同様にして人身事故も多い場所だ。
橋の手前で国道は村に入る村道と交わる。夜間には点滅信号になるとはいえ、まがりなりにも信号が立っており、歩行者信号も横断歩道も設置されていたが、子供や老人が道を渡ろうとして車に撥ねられることが後を絶たない。
村の者のが運転する車は良いのだ。村の者はその信号か、あるいは近辺の農道を曲がるのだし、カーブの性質も分かっている。余所の者は外場の信号を見落としやすく、しかも村の者は得てして――元子がたった今、そうしたように――畦道から国道に上がってそこから道を渡ろうとする。運転手は思いもよらない場所から人間が現れて驚き、慌ててブレーキを踏むが、そもそもスピードの出し過ぎによる事故の多い場所だから間に合わないことが多いし、事故になれば重大事故になる可能性が高い。
橋を見るたびに、そういうことが気に掛かって仕様がないのは、元子自身、やんちゃ盛りの子供を持っているせいだ。元子はもちろん村の母親たちは、子供たちに向かって国道の向こうへ行ってはいけない、と強く言い聞かせるのだが、思い出したように事故は起こった。加害者はほぼ間近いなく村を通過する余所の者だから、元子のイメージの中でそれは、「余所者が子供を轢き殺していくむという救いようのない図式として定着している。
ある日突然、見ず知らずの余所者が元子の子供を殺傷し、奪い去ってしまう。――元子はどうしてもその不安を忘れることができなかったし、特にこうして橋を見ると、そのたびにそれは念頭に浮かび上がってきて、元子をいたたまれない気分にさせた。幼なじみの加奈美はそんな元子を、神経症じみている、と言って心配する。
(どうしても忘れられないんだもの……)
元子は不安な気分で橋に目をやり、スピードを上げて国道を通り過ぎていく車を見送った。ひとつ息を吐いて国道を歩き、信号の手前にあるドライブインに向かう。「ちぐさ」の広い駐車場には車の影がなかった。
容赦のない陽射しに、駐車場のアスファルトはとろりとした光沢をしていた。今にも溶けてしまいそうで、心ない靴底が粘るような気がする。頭や|項《うなじ》がちりちりするのはもちろん、アスファルトからの照り返しでスカートの下の素足までが焦がされる。
「こんにちは」
声をかけてドアを開けると、カウンターの中から矢野加奈美が手を挙げた。クーラーの冷気に、元子は息をつく。近所の主婦と子供が三人カウンターに座っていて、元子を振り返り、笑顔を見せた。
「二分の遅刻」
加奈美は微笑んだ。ごめんなさい、と元子は言いながら、カウンターの中に入って持参したエプロンを広げる。加奈美は元子の頭を軽く小突いた。
「国道にぼーっと立ってたわよ。二分間の遅刻ぶん」
ああ、と元子は窓の外を見た。店は敷地の角にL字型に建っており、カウンターからは窓越しに溝辺町へ向かう国道が見渡せた。
「あんまり深く考えないのよ。元子んちは、志保梨ちゃんも茂樹くんも聞き分けがいい物。国道の向こうには行かないわよ。大丈夫だから」
うん、と元子は頷く。自分で言い聞かせても不安な気分がするばかりだが、加奈美にそういって貰うと一旦のこととはいえ、不思議に安心できた。
元子の幼なじみは都会に縁付いていたが、五年前に離婚して村に戻ってきた。国道を往き来するトラックを目当てに田圃をつぶし、ドライブインを開いたのだが、始めて二年で自動車道が開通した。店を開いた当初は長距離トラックを当て込んで早朝に開け、モーニングを出したりもしていたが、これは二年も前にやめた。以来、村の住人を相手に細々と営業を続けている。夜に飲みに来る男たちのおかけで、かろうじて商売が成り立っていた。
元子はカウンターの隅のホワイトボードに目をやった。今日の定食のメニューが出ている。加奈美は開業前の午前中に、ランチのぶんだけを用意する。夜の定食の下拵えをするのは、元子の仕事だ。これで小遣い程度の賃金を貰っている。元子にしてみれば収入を得ることより、幼なじみと会うことの方が主だから、賃金はなくてもいいのだが、加奈美は頑としてパートとして扱おうとした。
「ところで、――聞いた?」
いきなり言われて、元子は瞬く。
「聞いたって、何を?」
「虫送りの日にね、引っ越しのトラックが入ってきたんだって。ゆうべ、誰かがそんなことを言ってたわよ」
ゆうべ、ということは、夜に食事にきた者たちか、さもなければその後、酒を飲みに来た者たちだろう。
「兼正のお屋敷? 越してきたの?」
「さあ。小耳に挟んだだけだから」
加奈美が言うと、カウンターで雑誌を読んでいた清水寛子が顔を上げた。
「わたしも聞いたわ、それ。ベットを焚いているところにトラックが入ってきたんですって。でも、引き返したっていう話よ。道を間違えたんじゃない」
なんだ、と元子は呟く。
「引き返したんなら、兼正じゃないわよね。――越してこないわね、あそこ」
そうね、と寛子は雑誌を閉じる。
「別荘のつもりなのかしらね、そもそも、ここに住むわけじゃないのかも」
「あんな立派なお家を別荘にするの? それもわざわざ移築して?」
「そういう人もいるかもしれないでしょ」
まさか、と言ったのは田中佐知子だった。
「別荘にそこまでするわけないでしょ。第一、別荘ならもっとそれらしい場所に立てるわよ。夏に涼しいとか、冬に暖かいとか、リゾート地だとか」
ひょっとして、と寛子は身を乗り出した。
「ペンションかなんかだったりて」
「ありえないわね」
「でも、そういう話もあったじゃない。ほら、去年の今ぐらい――もっと前だったかしら、リゾート施設がどうとか言って、調査の人が来てたとかいう」
ああ、と元子も端で会話を聞きながら頷いた。そういうこともあった。夏に入る前だったのではないだろうか。バイパスが通り、溝辺町との間にインターチェンジができた、そのせいだろうと思う。自動車道に乗れば、近郊の大都市まで三時間だ。
佐知子の隣でおとなしくソーダを飲んでいた田中かおりが母親を見た。もう中学の三年生だったか。そのわりにすれたところのないぼうっとした少女だ。
「リゾートなんてできるの?」
「できるわけないでしょ」佐知子は顔を顰める。「こんな田舎に。どうせ話だけに決まってるわよ。なに、あんた、できて欲しかったの?」
「ううん。……単に本当なのかなって思っただけ」
「かおりちゃんだって年頃の女の子だもの、もうちょっと村が拓けたらいいと思うわよねえ」
寛子が口を挟むと、かおりはちいさく首を横に振った。
「……あんまり。できてみないと分からないけど、なんか、知らない人がいっぱい来て、うるさそうだし」
「そうお? そうなれば、わざわざ買い物に行くのにバスに乗って出かける必要もないのよ? バスの本数だって増えるだろうから、こんなに待たされることもないし」寛子は溜息をつく。「でも、どう考えても無茶な話よねえ。第一、年寄りがうんと言わないだろうし」
元子はこれにも、ひとり頷いた。そもそもは外場の下にインターチェンジを持ってこようという話もあったらしい。無茶を絵に描いたような提案だと思われるのだが、兼正の先代は外場のためだと言ってかなり強い運動を行っていた。それにノーと言ったのは、他ならぬ外場だ。元子の舅などは烈火のように怒っていた。そんなものは必要ない、あればかえって害悪が流れ込んでくるだけだ、と年寄りを集めて何度も兼正に話し合いに行った。それが功を奏したのかどうかはともかくも、結局インターチェンジは、もっと妥当な溝辺町市街部の外れにでき、以来、溝辺町は急速に開発されている。
「便利になったらなったで、変な連中も入ってくるのよ。そういう余所者に頭を下げて、落として貰うお金で食べるのなんて願い下げだわ」
佐知子の言葉に、そうねえ、と寛子は頬杖を着く。
「するとペンションはないかしら。でも、別荘にするには、もったいない建物だし、やっぱり住む気なのかしらね。洋館っていうのかしら。あんな建物を間近で見たの、初めてだわ」
同意を求めるように、寛子は元子を見た。元子は困惑ぎみに頷く。
「本当に。先祖代々住んでいた家なんでしょうね。越してくるのは老夫婦かしら。住み慣れた家を離れたくないんだと思うわ」
寛子はちゃかすように笑った。
「だったら、引っ越すことなんてないじゃない」
「だから、お年を召したから、空気のいい田舎に住みたいんじゃないかしら。わざわざ移築するなんて、とても家に愛着があったんだと思うわ」
「単に、家を見せびらかしたかっただけかもよ?」寛子は茶目っ気を含ませて笑う。「自分たちは田舎者とはちょっと違うんだってことを強調したかったのかも」
佐知子は脇から軽く笑った。
「見せびらかすほどの家じゃないでしょ。単に古い洋風の家ってだけで、年代からいったら、うちといい勝負だわ。同じお金をかけるなら、立て直せばいいのに」
「まあ、あたしたち庶民とは、違う次元で生きているってことは確実だわ」寛子は息を吐く。なにしろこっちは、台所ひとつ改築できないでいるんだから。不便で嫌になっちゃう」
「寛子の家はまだマシよ。結婚したときに造作したんじゃない。うちの台所なんてお祖母ちゃんの代からそのまんまなんだから」
佐知子と寛子の会話を聞きながら、元子は定食用の野菜を洗う。胸のどこかが重い気がするのは、余所者が村に入ってくる、というイメージがどうしても浮かんでくるからだ。
(余所者が……来る)
元子の中で「余所者」というイメージは、「自分の子供を奪っていく者」というイメージと縺れ合って解けない。
あら、と佐知子が声を上げた。元子は顔を上げ、国道の向こうにその「余所者」を見る。とたんに喉元が締め付けられた気がした。
元子の心中を知らず、佐知子の声は無遠慮なほど大きい。
「なんとか工房の息子じゃない、あれ」
「おい、|夏野《なつの》」
武藤徹は、軽くクラクションを鳴らした。車の窓を開け、国道の端を歩いている制服姿に声をかける。振り返った夏野は徹に気づいて足を止め、大仰に顔を顰めた。
「制服着て、どこに行ってたんだ?」
「高校生には登校日ってもんがあるの。――名前で呼ぶなって言ってんだろ」
徹は声を上げて笑って、乗っていけ、と助手席を示した。夏野はシャツの袖で顔を拭って、助手席に乗り込んでくる。
「あちー」
「なんでこの暑い最中に、わざわざ歩くんだよ」
「バスがなかなか来なかったんだよ」
げんなりしたふうの答えに、車を出しながら徹は笑う。小学校、中学校はいつ閉鎖されてもおかしくないような代物が村にあるが、高校になるとバスに乗って近隣の学校まで通わなくてはならない。そのバスも昼間は本数が少ないから、間が悪いと一時間以上も待たなくてはならない。待っている間に、手持ちぶさたで次のバス停まで歩こうと思う。いくつか先のバス停でちゃんとバスを拾えることもあるが、得てしてバス停とバス停の間でバスに追い抜かれて、結局村まで三時間ほどの距離を歩く羽目になる。――二年前までは徹にもよくあったことだ。
「やっぱチャリにすればよかった。――そういう徹ちゃんこそ、なんでこんなところを走ってるわけ。会社は」
「今日は研修。研修先から直帰だ。儲けた」
「それで給料が出るんだからいいよな」
「悔しかったらさっさと卒業するんだな。免許があると歩くこともなくなるし」
「急いだって一年じゃ出してくれないよ。第一、卒業したらこんなとこ、二度と帰ってくるかよ」言って夏野は再びシャツの袖で顔を拭う。「電車もねえんだもん。よくみんな住んでるよな」
徹は苦笑した。夏野は数少ない転入者だった。変わり者の両親が、わざわざ都会から移り住んで、一年前、近所に越してきた。近隣から越してくるものもたまにはいるが、都会からやってくる者は少ない。ましてや近隣から越してくる場合にも、必ず外場の者と血縁があるものだ。実のところ徹自身も転入者で、子供のころに外場に越してきたくちだ。武藤家もまた村に血縁を持たなかったが、父親は村の病院に勤めていたから、全く外場と無縁だったわけではない。それでもずいぶん珍しいと言われたらしい。何の縁もなしに村に入ってくるような物好きは、夏野の一家が唯一と言ってもよかった。
「そんなこと言ってると、父ちゃん母ちゃんが嘆くぞ。せっかくわざわざ越してきた自然に包まれた山村、純朴で心の通った近所付き合い、ってやつなんだから」
徹が言うと、夏野は嫌な顔をする。
夏野の両親は、都会から自然とやらを求めて越してきた。無人になった家を買い取り、畑を作り、樅材で家具などを作って都会に出荷している。徹の家も転入組だが、徹自身は外場で育ったのでこの村が居場所だという感覚が強い。不便ではあるが、さして不満は感じていなかった。かといって、特別満足しているわけでもない。こんなものだ、というところだ。なのでわざわざ越してくる人間の気持ちは理解しがたかった。
自然と言っても、山と川があるだけで、その山だって樅を植樹した人工林で覆われている。どこが自然なのかよく分からなかったし、ましてや単なる田舎町のありがちな気風を純朴だなどといわれても困る。そう思うので夏野が不満を言うのも無理はない気がする都会で生まれ育った夏野には、村の生活は不便で我慢がならないらしい。「親の勝手でいい迷惑だ」と零すが、それも当然だろうと思う。
「早く卒業にならないかな」
夏野が小声で呟くのを聞き流して、徹は信号を外場へと曲がる。川沿いの村道を入ってすぐ、小学校に向かう道の角にある文房具店の店先に老人たちがたむろしているのが目に入った。
「あいつら、いつも溜まってるなあ」
夏野の声に、徹は笑った。タケムラ文具店は子供を相手の商売だ。子供たちの登下校時でなければ、近所の者が時たま切手や葉書を買いに来る程度で、閑古鳥が鳴いている。店先の|床几《しょうぎ》はだから、暇な老人たちの格好の溜まり場になっていた。
「日がな一日、つまんない噂話ばっかしてんのな。――あ、こっち見た」
徹がミラーに目をやると、老人たちのうちの一人がわざわざ腰を上げて車を覗き込むように見送っているのが見えた。夏野が息を吐く。
「わざわざ見送るし。誰が乗ってるか、チェックしてんだよな、あれ」
「まさか」
「絶対、そうだって。あいつら、おれが前を通ると、じーっと見てるんだ。あれって余所者を監視するって感じだよな」
徹は苦笑した。
「単に物珍しいんだろ。することもないし、娯楽もないし」
「暇ならゲートボールでもしてりゃいいじゃないか」
確かにその方が建設的ではあるような気がしたので、徹は笑うにとどめた。実際、移住者は珍しいので、村の連中は常に興味を持つ。その視線に悪意はないのだが、見られる当の本人にすれば、鬱陶しくてたまらないだろう。
思いながら、川沿いの道を走る。いくらも走らないうちに制服姿の少年が二人、ぶらぶらと歩いているのが目に入って、徹は軽くクラクションを鳴らした。
「おおい、保」
徹の弟だ。隣で肩を並べているのは、保と同級の|村迫《むらさこ》正雄だった。
あれ、と保は破顔する。
「儲けた。おい、正雄、乗っていこうぜ」
保が振り返って声をかけたが、正雄は止まった車の助手席に目をやってから首を横に振った。
「いいよ」
「なんで? 車のほうが涼しいだろ」
「いいんだ。おれ、歩くから。乗たきゃ保だけ乗って帰れよ」
突き放すような物言いに、保は正雄と徹を見比べ、苦笑して行け、と手を振った。正雄と歩くことにしたらしい。徹も特には勧めず、手を振って車を出した。
「奇特な奴ら」
呆れたような夏野の声にも答えない。正雄は村迫米穀店の三男だ。何が気に入らないのか、夏野を毛嫌いしている様子があった。根底にあるのは、都会からやってきた異物に対する違和感なのかもしれない。
狭い村、狭い社会だが、住んでみればいろんなことがある。夏野の父親が言うような別天地だとは思えない。どこにでもある、単なる村だ。――そう思いながら、渓流沿いに村道を走り、橋の袂を西へ曲がった。人家の密集した一帯を抜けると、緑の田圃越し、西の山肌に一風変わった建物が見えた。まったく村にそぐわない、奇妙な家。
「そう言や、いつになったら越してくるんだろうな。あの家」
徹が言うと、夏野は興味なさそうに視線を西の山に向けた。
「さあ」
新しい転居者が入ってくれば、夏野の一家に対する興味も薄れるのに違いない。しょせんはその程度のものだ。野次馬は移り気なものだと相場が決まっている。
「夏野んちみたいな、エコロジストってやつかな」
「うちの親がそんな立派なもんかよ。――名前で呼ぶなってば」
徹は苦笑する。父親がつけた平安貴族の名前は本人の気に入らないらしい。女みたいで嫌だと言って、呆れるぐらい根気よく抵抗する。
「だって、お前んちってややこしいんだからしょうがないだろ」
夫婦別姓だという。それで夏野の両親はあえて入籍していない。夏野は母親である小出梓の戸籍に入っているが、学校などのかねあいから常には父親の結城姓を名乗っている。「……迷惑な話」呟いて、夏野はその屋敷のほうを見上げた。「こんなとこに越してくるなんて、絶対、どうしようもない変人一家だと思うな。――さもなきゃ、お尋ね者だ」
「やっぱり工房の息子だったよ」
重大な発見をしたように、満面に笑みを浮かべて店に戻ってきた佐藤|笈太郎《おいたろう》を、竹村タツは団扇を使いながら苦笑ぎみに見た。
「だから言ったでしょ」どこか得意そうなのは、大塚|弥栄子《やえこ》だ。「あれは事務長の息子の車だもの」
事務長とは、病院の医療事務の主任、武藤のことだ。武藤は土地の者ではないから屋号を持たない。老人の多くはだから「事務長」だのと呼ぶ。それは昨年、転入してきた結城家(小出家というべきか)も同様で、こちらのほうはいつの間にか「工房」という屋号が定着しつつあった。
「後ろの格好がこうなってて」と弥栄子は手でそれを示したつもりらしかった。「白のクーペっていうの? ドアが二つしかないやつで、ナンバーが三桁なんだよね。ちゃんと覚えてるんだから」
あら、と不服そうに声を上げたのは、広沢武子だ。
「そんなことくらい、わたしだって覚えてるわよ」
「あんた、あれは誰だろうって言ったじゃない」
「助手席に乗っているのは誰だろうって意味よ。まぁ、女の子じゃないようだとは思ったけどさ」
「工房の息子だよ。」笈太郎は床几の端に腰を下ろして、にんまりと笑う。「頭の形で一目で分かった。やっぱりそうだったろ」
「制服だったわね」
「効率は登校日なのよ。清水の娘も制服着て学校に行くのを見たもの」
他愛もない世間話を、床几の隅で押し黙ったまま伊藤郁美が面白くもなさそうに聞いている。痩せた顔には「他愛もなさすぎる」と、大書してあるようだった。
タツは軽く失笑しながら、団扇を諦めて扇風機のスイッチを入れた。弱い風が吹き付けてきたが、温いばかりでいっかな涼しくなった気はしなかった。
もちろん、扇風機の風は床几までは届かない。村道の路面からはまともに熱気が流れてきて、クーラーのない店先は茹だるような暑さだ。それを不平に思っている風もなく、のほほんと世間話をしていられるのは、年寄りだからこそ、といえるかもしれない。
タケムラは国道から村道へと入ってすぐ、小学校に入る道の角にある。タケムラの|下《しも》には学校のグラウンドとドライブインがあるだけで、特に脇道もないし、だから村へと入ってくる車のほとんどは、必ずタケムラの前を通ることになる。村に出入りする車の流れを把握するのには絶好の場所だ(国道から農道へと入る車ばかりはそうはいかないが、これはあまり多くない)。――別段、笈太郎たちも単に暇を持てあまして雑談のために集まっているだけで、車を監視するために集まっているわけではないのだが。
実際、とタツは目の前の村道に目をやる。店の間口は村道に面している。もともとは農家だったのを、茶の間の掃き出し窓を取り払い、そこに商品を並べる台を置いて番台のような造作にした。玄関の戸も取り払って土間を開放し、床几を置いて商売を始めた。戦後すぐのことだ。
他は村外に嫁いでいたが、夫は戦地で死亡した。それで戦後、身一つで村に戻ってきてこの商売を始めたのだった。ノートや絵の具、三角定規やコンパス。体操帽やゼッケン、学校に行く子供が登校の途中によって足りない物を買っていく。下校時にはちょっとした駄菓子やアイスクリーム、ジュースを買っていった。なにしろ小学校にはクラスが六クラスしかない。一学年一クラス、それも学年によっては生徒数は十数名ということもあったから、大した商売にはならないのだが、年寄りがひとり、生きていくのには事足りる。
戦後ずっと、この番台のような場所に座って、子供と村道を見てきた。特に昼間は近所の者が時折やってくる程度で、道を眺めている以外、特にすることもなかったし、覚えるつもりなどなくても、どの車がどの家のものなのか覚えてしまう。車だけではない。国道のバス停に向かう者も、その多くがタケムラの前を通る。そうやって通る者たちのほとんどはかつては小学校に通っていたのだし、顔も名前も覚えている。だからタツは結果として村の者の出入りを把握することになるのだった。
――いや、そうではない。
夜になれば、表の雨戸を閉め、タツは家に引き籠もる。その後から朝にかけて、どんな車や人が出入りしているかは把握できない。深夜に入ってきて引き返したというトラックがその例だ。
「……トラックねえ」
タツは何となく呟いた。特に大声を出したつもりもなかったのだが、笈太郎は耳ざとくそれを聞きつける。
「なんだい、あのトラックがどうかしたのかい」
いや、とタツは答える。
「どうもしやしないけどさ。何だったんだろうと思ってね」
「なあに、それ」
聞いたのは弥栄子だ。
「なんだ、弥栄子さんにはまだ言ってなかったかい。――トラックが来たんだよ。虫送りの日に」
「兼正の家?」
「そうじゃなくてさ。おれは家からベットを焚いてるのを見てたんだけどね」笈太郎はどこか意気揚々としていた。「ほら、おれんちは三之橋を渡ってすぐのところだから。ベットを焚くのって、川のすぐ向こう岸じゃないか。それで見てたんだけどね、そしたら車が入ってきたんだよ。コンテナのトラックと乗用車が二台」
「へえ」
「それが橋の近くまで来て、引き返していったんだ。トラックのコンテナには、松のマークがあったな。ほら、高砂松ってやつだ。高砂運送って書いてあったよ。カメラで確認したから間近いない」
タツは密かに失笑する。笈太郎は年に似合わず、良いカメラを持っている。都会に行った息子のお古を貰ったもので、倍率の高い望遠レンズがついている。笈太郎は何かというとカメラを持ち出してくるのだが、そのくせフィルムを買い求めたり、写真を現像に出したなどという話は聞いたことがなかった。もちろん、撮った写真を見せられたこともない。
押し黙っていた郁美が、ぽつりと口を開いた。
「どうせ、ろくなもんじゃないわよ」
笈太郎は身を乗り出す。
「ろくなもんじゃないって」
「厄介払いの儀式に追い立てられたんだから、厄を背負ってたんでしょ。そんなもんが入ってきたらおおごとよ」
老人たちは何も言わず、黙って首を振った。郁美は集まった老人たちより一まわりは年下になる。年寄りというほどの歳ではないが、少しばかり奇矯なところがあって同じ年頃の女たちの中に入れずにいる。
「……でも、妙な話ねえ」
ひとりごちるような弥栄子の声に、タツは内心で頷いた。真夜中にトラックが村に入ってくる。しかもそれが引き返す。――タツの記憶にある限り、そういうことはこれまでになかった。
村には変化が起こらない。住人はそれぞれが多彩なようでも、一言で言いくるめてしまえば田舎の住人で片がつく。珍事も突発事も予想の範囲内、「そういうこともあるだろう」と納得できる範囲内、そういうものだ。にもかかわらず、真夜中に引き返したトラックはその範囲内を越える。――いや、トラックだけではない。
タツは路面の陽炎に目をやった。
兼正のあの家。村外からの転居者は範囲内だが、あの建物は範囲内を越える。転居してくるのはいい、しかしながら、あんな奇妙な建物をわざわざ余所から移すことは尋常のことだとは思えない。何のためにそんなことをしたのだろう。よほど家に愛着があったのだろうか、それとも田舎者の鼻を明かしたかったのだろうか。――それとも。
何かのために必要だったのだろうか。あの古風な、石造りの建物が。
広沢は車を家の前の駐車スペースに入れ、運転席から降りた。街で買い集めてきた古書の袋を抱えおろすと同時に、カーテンが開いて小さな娘が顔を出し、手を振った。|黄昏《たそがれ》の中、明かりの点いた家からは焼き魚の匂いが漂ってきている。
娘に頷いて家に入る前、広沢は西の山のほうを見上げた。まだ夜にはほど遠い色の空を背に、山の稜線とそこに佇む建物が見えた。虫送りで引き返すトラックを見て以来、何という理由もないが気にかかる。そこに建物があって、なのにまだ住人がいないことの不自然に、改めて思い至ったせいなのかもしれなかった。
古風な家だ。家が建つのはいくつも見たが、移築などを見ることは初めてだったし、日本の木造建築とは全然別の工法で建てられていく建物は興味深かった。昨年の八月に古い屋敷を取り壊し、そこから始まった工事もひと月ほど前に塀の造作をしたのを最後に終わっている。地所の中に建てられていたプレハブの飯場は取り壊された。資材が運び出され、門は閉ざされた。そのままひっそりと村人の注目を受けたまま沈黙している、その家。
住人が何というのかでさえ、広沢は聞いていない。東京近郊から越してくるらしい、という噂だけを小耳に挟んでいた。村で何か造作があると、必ず安森工業がそれを請け負う。そこからなにがしかの情報が漏れてくるものだが、今回、安森工業は仕事をもらえなかったらしい。フェンスには大手建築会社の名前が書かれ、他県のナンバープレートをつけたトラックが出入りしていた。実際、田舎の建築業者にできる造作でもないだろう。
家は一見して二階建て。複雑な形に凹凸を繰り返している。急勾配の屋根には窓があるから、屋根裏部屋があるのだろう。かなり大きな地下室があるであろうことも、基礎工事を見ていたから知っている。石造りの重厚な外壁には石の凹凸で、まるで木骨でも通っているような飾りが施されている。飾りはあっても簡素な印象、建てられたのはいつ頃だろうか。見事に古色がついているが、そう見えるほど古いものではあるまい。本当に古い洋館建築なら、そうそう簡単に移築などできないだろう。
窓は少なく、ポーチ部分の他にベランダなどはないようだった。工事を見ていた記憶からすると、ベイウインドウ風の張り出し窓がいくつか、一階部にあったと思う。窓は簡素な四角、特にアーチ飾りなどはない。鎧戸がついていて、それはぴったり閉ざされている。いや、スリットのない単なる一枚板だから、雨戸と呼ぶべきなのだろうか。採光も通気性も悪そうだが、壁の厚い天井の高い建物は夏に涼しいかもしれない。
それは重々しく、しかも端正だったが、広沢にはどこか城塞のように堅苦しく感じられた。村をわずかに見下ろす斜面の上、そこで家が見守っている、あるいは――監視している。その家が城塞なら、それは外場の城塞ではなく、外部から監視のために築かれた橋頭堡だ。では、どこから?
――樅の山から、外場に向かって突き出している。
[#ここから4字下げ]
(村は死によって包囲されている)
[#ここで字下げ終わり]
「おとうさーん」玄関のドアが開いて、娘が顔を出した。「ごはんだよ」
「おかえりなさい、は?」
妻の履物を足首で引きずって出てきた幼い娘の頭を、広沢は撫でる。
「さっき、まどから言ったもん。おとうさんこそ、ただいまって言ってない」
「ただいま」
広沢は娘の背中を軽く押して、玄関ポーチに歩み寄る。玄関に入る前、もう一度暗い山肌に破風を突き上げている家を振り返った。
[#ここから4字下げ]
(……樅は死だ)
[#ここで字下げ終わり]
旦那寺の作家なら、そこから村に突出してきた建物を、何に喩えてみせるだろうか。
[#改段]
[#ここから3字下げ]
二章
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから4字下げ]
暗闇の中、弧を描き、漂うようにして明かりは地を這う。それは招く手、墓穴から甦った死者が鬼火を遣わして彼を呼ぶ。
死者は彼を追いかけては来ない。彼の行く先々でただ待ち受けている。凍った大地の上に佇み、虚ろな目を開いて、彼がその側に辿り着くのを見守っている。生気の失われた白臘の顔、屍衣もまた白かった。それが鬼火の明かりで陰鬱に蒼い。
彼は時間を引き延ばすように踵を引きずり、あえて遅々とその前に進んだ。
彼がようやく傍らに至っても、弟は何を言うでもなかった。ただの一声も発さず、恨み言もなく呪詛の言葉もなく、そして当然のことながら吐息さえ零さなかった。もちろん、手を振り上げて彼を打つでもなかったし、|石礫《いしつぶて》を投じるわけでもなかった。
弟はただ、彼を待ち受けている。その容貌は生前のまま、それでも死相に翳っていた。文字通り生気のない目は瞬きもなく、空洞によく似た色合いをして、彼にひたと注がれている。力なく佇んだ肢体を覆った屍衣は、墓場の泥にまみれ悄然と垂れていた。
[#ここで字下げ終わり]
静信は鉛筆を止めてわずかに考え込んだ。
弟に復習の意図はなくても、兄のほうは当然のように弟が復讐のために現れたのだと思うだろう。
[#ここから4字下げ]
弟は彼を、自分と同じ煉獄へと引き込もうとするに違いない。
[#ここで字下げ終わり]
彼は最初に墓から甦ってきた弟を見るなりそう確信し、恐怖に駆られて弟から逃げ出す。――たぶん、そうする。
だが、屍鬼から逃げ出すことはできなかった。彼が逃げ出した先々に、弟はいつの間にか回り込んで彼を待ち受けている。彼はそれを繰り返したあげくに逃げることはできないと悟った。だからこそ弟の姿を目にして、唯々諾々とその側へと歩み寄るのだが(弟の傍らに進むことになることを承知で歩みを進めるのだが)、彼は常に、今度こそ弟が復讐のために危害を加えるのではないかと怖れている。
(復讐……)
静信は原稿用紙の見つめながら思案した。彼が想像していた「復讐」とはどういうものだろう? それは日本の幽霊談によくあるような、取り殺す、という行為だろうか。あるいはもっと直截に、彼がそうしたと同じく、凶器を持って彼を襲うことなのだろうか。あるいは、この舞台となる土地には、復讐のための行為が定められているのだろうか。
静信はしばらくの間文字面を見つめ、復讐にはそれなりの様式が欲しい、と思った。何か抽象的な――暗示的な行為。記憶を探って古今東西の復讐の手段について思いめぐらせてみたが、これといったものは思い出せない。ついでさらに記憶を探り、参考になるような資料を持っていないだろうかと考えてみたが、これまた思い当たるものがなかった。
静信は軽く息を吐いて、寺務所の黒板を見上げた。意識が原稿から(凍った荒野から)離れ、唐突に寺務所に満ちた午後の陽射しと、クーラーの作為的な冷気、窓越しに聞こえる蝉の声に気が付いた。
七月二十七日。水曜の午後、予定がふたつ入っていたが、これは鶴見と池辺が行くことになっている。静信は原稿用紙を揃え、抽斗の中に戻した。裏返して入れた原稿用紙の上に文鎮を置いて抽斗を閉じ、立ち上がる。ちょうど寺務所を出たところに、大きな薬缶を持った美和子が通りがかった。
「あら、出かけるの?」
「ちょっと図書館に行ってきます。――お母さん、持ちましょうか」
静信が言うと、美和子は笑う。
「結構よ。行ってらっしゃい」
頷いて、静信は玄関に向かう。広い土間を横切り表に出ると、真夏の陽射しで境内は目映いほど明るかった。蝉の声が降ってくる。植え込みは旺盛な緑、山門から本堂へ、寺務所脇の輿寄せへ、あるいは庫裡の玄関へと続く参道の石畳は灼けたように白い。静信が表に出てきたのを認めたのか、境内のあちこちに散った老人うちの何人かが丁寧な会釈をしてきた。
「あら、若御院」
声がしたのは、植え込みの間だ。玄関脇の|柘植《つげ》の間で立ち上がった老女は、麦藁帽子を取って頭を下げる。
「お出かけですか」
久々に見る顔だった。盆前だからと、わざわざ来てくれたのだろう。静信は会釈を返す。
「お久しぶりです。お暑い中をありがとうございます」
「とんでもない。今年はうちのおじいさんが十三回忌なんで、またよろしくお願いしますねえ」
「はい。こちらこそ」
「御院のお加減はいかがですか」
一年半前、父親の信明は脳卒中で倒れた。以来、寝たきりの生活をしている。
「おかげさまで。近頃はずいぶん、声も出るようになりました」
「そりゃあ、良かったですね」言って、老女は首にかけたタオルで顔を拭う。「そういえば、つい最近、何かの雑誌で若御院が書いているのを見ましたよ。エッセイって言うんですか、短いやつが乗ってるのが、病院の待合室にあって」
ああ、と静信は苦笑した。尾崎医院の院長は静信が嫌がるのを分かっていて、わざわざ原稿の載った雑誌を買ってきては待合室におく。そうですか、とだけ答え、コメントは避けた。
「あらお引き留めして済みませんね。お気をつけて」
老女は言って、深々と頭を下げた。それに会釈を返して、静信は輿寄せの脇にあるガレージに向かい、車に乗り込んだ。図書館まではあえて車を使うほどの距離ではなく、むしろ気分を変えるための散歩にはちょうど良いくらいだったが、なにしろ照りつける陽射しが降り注いでいる。しかも日中、村を歩くと、先々で檀家の人々に捕まって一向に前に進めない。今は先を急ぎたい気分だったので、車を使うことにした。
窓を開け、エアコンをつけて車の中に籠もった熱気を追い払いながら車を出した。老人たちが見送ってくれる。副業で文章は書いても静信の本文は僧侶だ。村にひとつの旦那寺、父親が倒れて以来、静信が檀家を背負っている。
老人たちの丁寧な会釈を受けながら境内を徐行して横切り、鐘楼脇の私道に乗り入れた。山門から下るのはさほど長くはない石段で、これはもちろん、車では通行はできない。それで鐘楼の脇のほうに私道を設けてあった。これを下ると、隣り合わせた丸安製材の材木置き場の脇に出る。私道のコンクリートも白く灼け、枝を差しかけた樹木から降る蝉の声が炙られている。文字通り、茹だるような夏の景色だった。
例年になく雨が少なく、暑さが厳しい。車を東へと向け、川沿いの村道に出ると、渓流の水位が下がり、河原が面積を増していた。ろくな雨に恵まれないまま梅雨が明けた。国道の橋をさらに下った辺りには堰があって、この時期には水門を閉じているが、それでも川の水位が平素より低かった。渇水というほどではないものの、そもそも溝辺町には川らしい川が、この渓流に端を発する尾見川しかない。下流では水が不足しており、外場でも取水を絞り込んでいた。酷暑による被害も出ている。きつい夏になりそうだった。
渓流に沿って南へと向かい、神社に向かう一之橋の袂を過ぎる。川の対岸に見える鎮守の森は目に痛いような緑だ。さらに村道を下ると二之橋、外場の中心となる市街は、二之橋から三之橋にかけての一帯にある。この三之橋が、かつては外場の果てだったらしい。
外場はそもそも、寺院所領に木地師が住み着いて拓いた村で、寺院所領の解体が行われるまで、付近一帯にある村落はこの外場が唯一だった。三方を山に囲まれた谷間に集まった六集落、これに北の山間にある飛び地のような一集落を加えて、都合七つの集落を総称して「外場村」と言った。近年になって溝辺町に併合され、一括して「外場」という地名の中に押し込められたけれども、村人も近隣の者も外場を村と呼ぶし、郵便上の記述としては今も「村」の文字とともに、七集落の名前が生き残っている。
総計四百戸足らず、人口にして千三百人あまりの小さな村だが、かつて村制が布かれていたころの財産で、とりあえず村としての面目が保てるだけの設備があった。静信が向かっている公民館もそれだ。
二之橋の袂、村道の脇に古風な木造、瓦葺きの建物が見えた。古い校舎のようなこの建物が、かつての村役場、現在の公民館だった。村が溝辺町の併合され、村役場は公民館として今も使用されており、一部は図書館になっている。田舎の図書館の蔵書などというものは貧弱なものと相場が決まっているが、外場のそれは破格だった。寺や尾崎、兼正が代々申し合わせてかなりの量の書物を寄贈しており、兼正が村を離れる際には、大量の蔵書や古文書を寄贈したこともあって静信などは使い出がある。もっとも、軽い読み物などは少なかったので、村人にはあまり評判が良くなかった。
大川酒店の手前で村道を折れて公民館の駐車場に車を入れ、建物の中にはいる。古色蒼然とした建物の中には、小さなホールや寄り合いのための会議場、各組合の事務所などが寄り集まっている。開け放された窓からは子供の歓声が聞こえてきていた。公民館に隣接して、保育園を兼ねた児童館があり、その事務所も公民館の中にある。これらの維持費の多くは、寺――室井と尾崎、兼正が負担している。室井と尾崎、兼正の三家はそのようにして、ずっと村を支え続けてきた。
顔見知りの人々に会釈をし、静信は一郭を占める図書館へと向かう。前世紀の遺物然としたカウンターには、司書の|柚木《ゆずき》が座っていた。
「おや。若御院、こんちには。調べものですか」
「済みませんが、入れてください」
図書館の蔵書の多くは、建物に続く二つの蔵の中に納められている。ほとんどが村人の興味と関係なさそうな書物であり、古文書も多いことから図書館は一部が閉架式になっていた。書庫には入れないのが規則だが、とりあえず静信は大目に見てもらえることになっている。
柚木は白髪交じりの頭を頷かせ、書庫の鍵を机の抽斗から引っ張り出した。ちょうどそれを受け取ったとき、児童室から子供が二人、本を抱えてカウンターに駆け寄ってきた。柚木は破顔して子供たちが差し出した本を貸し出す手続きをする。柚木は温厚な男で、内向的な性格の割に子供好きなので有名だった。子供の興味に気を配り、よく面倒を見て話し相手にもなるので、「図書館のおじさん」を慕っている子供も多い。
「さすがに夏休みになると、賑やかですね」
静信が声をかけると、柚木は嬉しそうに笑った。
「いつもこうだといいんですけどね。今の子供たちには、本より楽しいものがたくさんありますから」柚木は言って、児童室と、開架式の閲覧室のほうを見比べる。それでも子供は、まだしもです。あっちのほうは、常に閑古鳥が鳴いてます」
大人向けの本を棚に並べた閲覧室は、今も無人だった。静信は頻繁に図書館に来るが、閲覧室で本を読んでいる村人の姿を見かけることはほとんどない。本好きな者がやってきて、本を借りていく程度、あとはノートを開いている中・高生のグループを見かけることが時折ある程度だった。
「若御院のほうこそ、執筆の具合はいかがです。新刊はいつ頃?」
さあ、と静信は笑って言葉を濁した。
「やっと取りかかったところです」
そうですか、と笑う柚木に促されて、静信は事務室の中に入り、書庫へと向かった。
書庫に独特の、古びた書物の気配が、静信は好きだった。蔵に入って戸口近くに置かれた机のスタンドを点け、棚を物色する。書物は柚木の手で分類法に従ってきちんと収納されていた。
兄の手にかかって非業の死を遂げた弟、その弟が殺人者に対して復讐するとしたら、どういう手段を採るだろう。弟は決して復讐など望んではいないのだが、兄はそれを怖れているはずだった。
しかしながら、弟は彼に対して復讐をしない。呪うでなく責めるでなく、ただ彼の傍らに付き従う。最初の一夜以来、夜毎に現れながら、ずっとそのように振る舞い続ける。
彼は当初、恐怖し、そして弟がいかなる危害も加えようとはしないのを知って落胆する。
[#ここから4字下げ]
弟が復讐のためにやってきたのだったら、どんなに良かっただろう。
[#ここで字下げ終わり]
それはもちろん、恐怖でありはするのだが、
[#ここから4字下げ]
そうやって危害を加え、彼の命を奪おうとすることによって、弟もまた彼と同じく殺戮者として振る舞ってくれたなら、彼は確実にある種の救いを感じることはできただろう。
[#ここで字下げ終わり]
だが、彼の弟はそうしなかった。
[#ここから4字下げ]
決して危害を加えようとしない被害者は、彼の罪を逃れようもなく明らかにした。弟は殺戮者ではない。罪人ではない。殺戮者であり破戒者であるのは、彼だけなのだ。
[#ここで字下げ終わり]
(彼は……)静信はほんのページを繰りながら思う。(おそらく、失望する)
弟がおぞましい生き物になってまで復讐を企むことで、自分と同種の殺戮者になって欲しかった。だが、弟は彼の期待に応えない。応える気がないことを、彼は弟の空疎な視線から悟る。たまりかねて弟を罵る。――おそらくそうする。
復讐することもできないふがいなさを侮辱し嘲笑し、責めさえする。それでも彼の
[#ここから4字下げ]
弟は彼を打つことも罵ることもしないのだった。ひっそりと傍らに立ち、空洞の目を彼に向けている。
[#ここで字下げ終わり]
彼の挑発は成功しない。彼はそれによっていっそう打ちひしがれ、ついに弟の前に膝を折る。
[#ここから4字下げ]
大地に|慴伏《しょうふく》して謝罪し、屍衣に縋って許しを乞うた。
[#ここで字下げ終わり]
――しかしながら、それをも弟は空洞の目でただ見つめている。
[#ここから4字下げ]
彼は弟を見返し、そしていつものように目を逸らした。弟の空疎な視線から逃れるために俯き、弟が埋葬されたはずの丘から遠ざかるべく、さらに足を踏み出した。弟は引き留めもせず、進路を阻むこともせず、無言のままほんの少し遅れて彼の傍らを滑るように歩き始めた。この屍鬼はそのようにして、明け方まで彼にただ付き従うのだった。
[#ここで字下げ終わり]
もはや彼にはできることがなかった。逃げることも、追い払うこともできず、許してくれと独白しながら弟を従えて荒野を歩くしかなかった。
[#ここから4字下げ]
深く俯き、決して弟を振り返らず、それでいながら視野の端に弟の存在を否応なく意識しつつ、歩き続ける。
鬼火は凍った地を這い、乾いた風に揺れて円弧を描きながら彼と屍の道行きを照らした。彼は大地の起伏を視線と足裏の感触で拾いながら、黙々と歩いた。視線の片隅には弟の姿が常にちらつき、微かな死臭がつきまとう。それは彼の罪と罪にまつわる全てのものを忘れ去ることを許さず、摩耗させることすら許さなかった。
ひょっとしたら、それこそが弟の復讐なのかもしれなかった。
いや、それは弟の復讐ですらなく、決して遠ざかることのない丘とその頂上に点った光輝と同様、彼に課せられた呪いの一部なのかもしれなかった。
――されば汝は|詛《のろ》われ、此の地を離れ、|永遠《とわ》の|流離子《さすらいびと》となるべし。
[#ここで字下げ終わり]
書庫で本を漁り、知識の断片や思いついたことをメモに取り、静信が書庫を出ると、すでに二時間あまりが経過していた。夏の陽射しは黄昏へと向けてゆるゆると傾き始めている。
「済みません、長々と」
静信が声をかけると、子供の相手をしていた柚木が振り返った。いえいえ、と笑う柚木の手元には昆虫図鑑が広げられ、子供が甲虫を入れた紙包みを差し出している。なんという虫なのか、訊きにきたのだろう。
それが微笑ましく、静信は笑って柚木に書庫の鍵を返した。三冊ほどの本を貸し出して貰う。また、いつでもどうぞ、という柚木の声に会釈を返したところで、表からけたたましい音がした。車のブレーキ音、そして何かが横転する音だった。
柚木が血相を変え、窓辺に駆け寄った。後に続いて静信も駆け寄ると、ちょうど公民館の脇、傾斜の関係で窓と同じ高さに見える村道に黒塗りの車が止まっていた。フェンダーの脇には子供用の自転車が横転している。
「大丈夫か!」
柚木は滅多に出さない大声を上げ、血相を変えて図書館を駆けだした。静信もそれに続き、公民館から村道へと出る。静信と柚木が駆けつけたとき、ちょうど車の運転手が自転車を抱えて道の脇へと放り出そうとしているところだった。
「――怪我は」
柚木の声に、道ばたにしゃがみ込んだ三人ほどの子供が顔を上げる。柚木の姿を見るなり、わっと泣き出した。運転手はそれを振り返りもせず、自転車を路側帯に投げ出すと車の前を回って運転席に乗り込もうとした。それは全く、車の通行の邪魔になる障害物を取り除いた、という態度だった。
「おい、お前」
近所の酒屋から駆けつけてきたのは、店主の大川富雄だ。大川は怒声を上げて車に駆け寄り、閉じようとしていた運転席のドアを[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]む。黒いメルセデスは村ではついぞ見かけたことのない代物だった。運転手の顔も見かけない。村の者ではない。果たして自分の置かれた状況を理解しているのか、どんよりと無感動な表情をして前方を見つめていた。
「とにかく、降りてこい」
大川の声にも、男は反応しなかった。五十代の初頭だろうか、車にふさわしく羽振りよさげな身なりをした恰幅の良い男だったが、それにしては生気のない濁った目をしている。静信一瞬、男が泥酔しているように思った。
「降りてきて子供を介抱しようってきはないのか。お前、どこの者だ」
静信が見たところ、子供たちに大事はない様子だった。それでも一人は足を抱えて蹲り、柚木に縋って泣きじゃくっている。痛むのか驚いたのか、泣けるようなら最悪のことはないだろう。
「どうした? ぶつかったのかい?」
静信が声をかけると、子供たちは頷く。小学校の低学年だろう。道ばたに放り出された自転車は小さな子供用のもので、後輪が歪んでいる。
それらのものを静信が見て取っている間に、変速機がリリースする音がした。車が動き始め、大川が怒声を上げる。
「おい! あんた!」
静信はぎょっとした。運転席のドアを開けたまま車が動き出していた。ドアに手をかけた大川の、巨漢と言っていい体躯[#《「躯」は旧字体。Unicode:U+8EC0]がほんのわずか引きずられて横転する。黒い車はそのまま村道を川上に向かって走り出し、ドアを閉めるとスピードを上げて遠ざかっていった。
「大川さん、大丈夫ですか」
道端の草叢に放り出された大川は、顔を歪めて身を起こす。怒気を露わにした表情で去っていく車のほうを睨みすえた。
「何者だ、あいつは!」
吐き捨てるように言って、静信を振り返る。
「若御院、ナンバーを見ましたか」
静信は首を横に振る。とっさのことで、そこまでは気が回らなかった。
「村の者じゃなさそうだったな。見たことのねえ車だ。まったく、近頃はろくな連中が出入りしない」
大川は車が去った方を忌々しげに見やった。
「とにかく駐在の高見さんに――」大川は言いかけ、泣いている子供たちを思い出したように振り返った。「いや、その子らが先か。怪我は」
「大事はないようです。とにかく病院に連れて行きます。ぼくが車で来ていますから」
大川は息を吐いて、子供たちの側に屈み込む。
「さあ、泣くんじゃねえ。いま、若御院が病院に連れて行ってくれるからな」
大川のその声に同意するように、柚木が慰めの言葉をかけながら子供たちを順番に撫でた。
「まったく、なんて奴だ」大川は吐き捨て、静信を振り返る。「この子をお願いしますよ。高見さんへは俺が連絡しとくんで」
静信は頷いた。騒ぎを聞きつけたのか、村人が集まってきていた。
怪我をしたのは下外場の子供で前田茂樹といった。
「打ち身と擦り傷だな。車にぶつかったわけじゃなく、自転車を引っかけられて転んだだけだろう」
敏夫はレントゲンを見ながら、そう言った。
「車のほうも、そんなに飛ばしていたわけじゃないんだろうな。特に頭を打っている様子もないし、まあ、この程度済んで良かったよ」
静信は軽く息を吐く。静信の背後からレントゲンに見入っていた駐在の高見も同様にして息を吐いた。
「そりゃあ、良かった。一安心だ」
診察室には、敏夫と静信、高見だけ。家族はまだ来ていない。怪我をした子供の顔に、静信は見覚えがなかった。本人が住所と名前を名乗ったものの、家に電話しても誰も出ない。おそらくは、田圃に出るか山に入るかしているのだろう。近所の者に連絡をして、家族を捜してもらっているところだった。
「にしても」と敏夫は肩を竦める。「解せない話だな。見覚えのない車だったって?」
静信は頷いた。
「村の者じゃないと思う。見覚えのない顔だったし」
「そんな安請け合いをしていいのか? お前、茂樹くんの顔だって知らなかったんだろう」
「どうやら檀家ではないようだし、檀家でも子供の顔までは覚えてないいけれど。けれどもあの車は違うと思う。黒のベンツだったから」
ははあ、と敏夫は頷いた。高見も意を得たように頷く。
「なるほど、ベンツは見かけたことがないですねえ。この村で外車っていうと、若先生の奥さんのBMWぐらいしか思いつきませんからな」
敏夫は笑った。
「うちの十和田君はゴルフに乗ってるし、看護婦の汐見くんはミニだよ」
や、と高見は額を叩いた。
「――だがまあ、ベンツはさすがにないだろうな。そんな車に乗ってる奴がいたら、噂が耳に届くだろう。しかし高見さん、いちおう調べといたほうがいいぜ」
高見は頷いた。
「もちろんです。当て逃げですからな。しかもドアを[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んだ大川の大将を引きずって逃げ出したってんだから悪質です。ですが先生、村の者にそういうことをしでかす者がいますかね」
「間の悪いことや、魔が差すことはあるさ」
けれど、と静信は口を挟む。
「運転手の様子がおかしかったんだ。うまく言えないのだけど……そう、酩酊しているような感じ。それも酒に酔っているというふうじゃなくて、麻薬にでも酔ってるような感じだった」
静信は、運転手の疲れたような目つきを思い出した。
「そりゃあ、村の者じゃないですねえ」
「そう即断しないほうがいいぜ、高見さん。静信、お前、麻薬中毒患者に会ったことがあるのか?」
「なけれど。酩酊しているふうだったんだ。けれども酒に酔ってる顔つきじゃなかった。大川さんも酒の匂いはしなかったといっていたし」
「|滝《たき》の親父さんも似たようなことを言ってましたよ」高見はボールペンの頭で額を掻く。「ちょうど水利組合の窓から車を見かけたらしいんですがね。車種は分からないけど黒い大きな車が、妙にフラフラしながら村道を走っているのを見たそうで。よっぱらってんじゃないのか、と思ったらあの騒ぎでしょう。現場に駆けつけてきて、やっぱり事故ったかって憤慨してましたから」
「ふうん」
「村にせめて警察の分署がありゃあねえ」高見は息を吐いた。「北のほうに走ってったってえ話なんで、ぱっと村の出入り口に検問を布きゃあ、目立つ車ですから一発なんですけど。いちおう署には連絡しときましたが、あそこからパトカーが駆けつけたって間に合いませんや。今頃は村の中を迂回して逃げ出しちまってるでしょう」
「だろうな。おまけに肝心の被害者が打ち身と擦り傷じゃあな」
「そうですねえ」呟いて、高見はふと気づいたように視線を落としていた手帳から顔を上げた。「ねえ、若御院。それ、兼正の家の車ってことはないですかね」
静信は瞬く。
「兼正――あの?」
「あれだけの家を建てた御仁ですよ、いかにもベンツなんか乗り回していそうじゃないですか」
「しかし、あの家は、まだ越してきていないでしょう」
「でもほら、虫送りの日にトラックが来たって」
「やってきて、引き返したって話だろう」敏夫が口を挟む。「あれきり、引越があったって話も聞かないし、住人が越してきた様子もないじゃないか」
「そうっと越してきたのかもしれないじゃないですか」
敏夫は呆れたように笑った。
「この村で、そんなことができるもんか。それでなくてもあの家は注目されてるんだから、住人が越してきた気配がチラとでもあれば、翌日には村中に広まってる」
「それはそうなんですけど。……じゃあ、家の者が、様子を見に来たとか」
「それなら、なくはないだろうが」敏夫は言って、静信を見る。「でも、お前は顔を見たんだよな? もしもこの先、住人が越してきたとき、顔を見れば分かるだろう」
「そればっかりは会ってみないと」
静信はそう答えた。なにしろとっさのことで、ナンバープレートを読み取ることも思いつかなかったぐらいだから、いささか心許ない。あのどこか異常な目の色は覚えているが、顔の造作を覚えているかと問われると自信がなかった。
敏夫は大仰に息を吐く。
「あとは、タケムラの婆さんたちに訊いてみるんだな。村道を来たっていうんだから、あの連中が村に入ってきたところを見ているだろう。上手くすれば、ナンバーを覚えているかもしれないぜ」
静信と高見は顔を見合わせて失笑した。タケムラ文具店の店先には、常に付近の老人たちがたむろしている。まさか監視しているわけでもないだろうが、村に出入りする者の同行に呆れるぐらい詳しかった。
高見は苦笑しながら刈り上げた頭を掻く。
「とにかく、車を見かけた者がいないか、訊いてみますけどね。こりゃあ、下手をすると犯人は捕まえようがないかもなあ」
高見が溜息交じりに呟いたときだった。待合室のほうからけたたましい音がして、女の甲高い声が聞こえた。すぐに診察室の戸口に看護婦の律子が顔を出す。
「あの、先生。前田茂樹くんのお母さんだと思うんですけど」
「とにかく処置室に入れて、茂樹くんに会ってもらってくれ。そのほうが安心するだろう。いま行くから」
はい、と律子が頷き、慌ただしい足音が診察室の前を通り過ぎていく。パーティションひとつで区切られた処置室のほうに駆け込む物音と、堰を切ったように泣き崩れる女の声がした。
茂樹、と悲鳴交じりに呼ぶ声を聞きながら、敏夫は処置室に向かう。静信と高見もそれに続いた。ベッドに寝ころんだ少年を、中年の女が掻き抱き、同年配の女が見守っている。こちらのほうには静信も見覚えがあった。ドライブイン「ちぐさ」の矢野加奈美だ。
加奈美が先に敏夫らに気づいた。軽く茂樹の母親らしい女をつつき、それで女も顔を上げる。敏夫ら三人を見比べて、ぱっと子供を放し、立ち上がった。
「その人が、茂樹を撥ねたんですか!」
女の視線が真っ直ぐに静信に向かっていて、静信は|狼狽《うろた》えた。必死で駆けつけてきたのだろう、汗にまみれた顔は頭から水を被ったようで、蒼白の顔に縺れた髪が貼り付いている様子には鬼気迫るものがあった。言葉にならない声を上げて駆け寄ろうとした女を加奈美が止め、慌てたように高見もそれに駆け寄る。
「ああ、違う。違いますよ、奥さん。こちらは息子さんを運んできてくれただけなんで」
「じゃあ、犯人はどこなの!」
女の金切り声に、放り出された当の子供が怯えたような顔をした。
「いや、それが、逃げ出してしまいまして」
「嘘よ、そいつが轢いたんだわ!」
「元子」叫ぶ女に声をかけたのは、矢野加奈美だった。「この人は違うわよ。ほら、お寺の若御院だから。あんたんちは檀家じゃないから知らないでしょうけど、あたしはよく知ってる人だから」
元子はその言葉に、弾かれたように加奈美を見上げた。加奈美は気まずげに微笑む。
「だからね、落ち着いて」
「じゃあ――」元子は静信と加奈美を見比べるようにした。「誰が茂樹を撥ねたの」
それがねえ、と高見は元子の側に歩み寄り、とりあえず事情を伝える。犯人は村外の者らしい、と高見が言ったところで、元子はまた声にならない悲鳴を上げた。今にも倒れそうな表情で、敏夫を見る。
「茂樹は――茂樹は大丈夫なんですか」
「御覧の通り、大丈夫だよ」敏夫は快活に答える。明らかに元子に興味を感じている様子だった。「打ち身と擦り傷だけ。念のためにレントゲンを撮ってみたけれど、特に異常はないから。明日もラジオ体操に行って、大暴れできる」
元子はぽかんと瞬き、ようやく自体が腑に落ちたように再び泣き崩れた。敏夫は苦笑して、困惑したように立ちすくんでいた律子に目をやる。
「どっちかというと、お母さんのほうが重態だな。律ちゃん、落ち着かせてあげて、怪我の様子を説明して」
はい、と律子は頷く。敏夫は矢野加奈美に手招きをして、診察室のほうに促した。
「あんたは『ちぐさ』の加奈美さんだったよね」
「そうです。元子、ちょうどうちにパートで入っているときだったもので」
「ああ、そう。前田の奥さんは取り乱しているようなんで、一応、加奈美さんに説明しとくから。もしも後で奥さんが事情を分かってないようなら説明してあげてくれるかな」
「ええ――はい」言って、加奈美は静信に向かって微笑んだ。「若御院、済みません。元子は昔から、子供のことになると神経質で」
いえ、と首を振る静信に加奈美は頭を下げる。
「茂樹くんを運んでくださったんですね。ありがとうございます。元子はあんな調子なんで、あたしかお礼とお詫びを」
「いえ、お気になさらず。元子さんも動転なさっているんでしょう」
本当に、と加奈美は困ったように微笑む。
「元子の家、国道に近いものですから。ほら、国道は事故が多いでしょう。それで、自分の子供が国道を走る余所者に轢かれてどうにかなってしまうんじゃないかって、ちょっと思い詰めているところがあるんです。本当に、申し訳ありません」
ああ、と静信は呟いた。加奈美は「思い詰める」という言葉を使っているが、元子にとってそれは、一種の脅迫観念になっているのだろう。子供が事故にあったと聞いて、一足飛びに最悪の事態を想像したのに違いない。
「それは――元子さん、さぞ御心配だったでしょう」
ええ、加奈美はさらに微笑む。とにかく、と敏夫が声を上げた。
「少しも心配するような怪我じゃないから。担ぎ込まれた当初は、ショックで呆然としてるふうだったけど、すぐに落ち着いて自分の名前も住所も電話番号もちゃんと言えたし。レントゲンの結果も異常はないし、目に見える打ち身と擦り傷以外に、特に怪我はない。とにかく本人も驚いただろうし、子供のことだから二、三日落ち着かないかもしれないけど、すぐにいつも通りになる」
「じゃあ、本当に大事ではないんですね」
「車に撥ねられたというより、自転車の後輪を引っかけられて転んだ、というだけのことだな。子供によっては精神的なショックで、熱を出したりすることもあると思うけど、心配はいらない。もしも心配なようなら安定剤を処方するなり、処置をするんで連れてくるようにいってくれるかな」
はい、と加奈美は安堵したように笑った。
「安心しました。元子も安心するだろうと思います」
そういえば、と高見が口を挟んだ。
「あんたのとこは、ちょうど村の入口だよねえ」
「ええ。そうですけど、それが何か」
「いやね、茂樹くんを引っかけて逃げたのが黒いベンツなんだけどね、あんた、まさか見かけてないよねえ」
加奈美は瞬いた。
「黒のベンツ――ですか?」
「そう」
「見ました。じゃあ、あの車が茂樹くんを」
「見た。――まさか、ナンバーなんかは」
「いえ、それは。溝辺町のほうに向かった黒い外車が、駐車場に入ってきたんです」
「溝辺町のほう?」
高見が声を上げ、静信も内心で首を傾げた。ドライブイン「ちぐさ」はちょうど、国道と村道が交わる交差点の溝辺町側にある。溝辺町へ向かう車が「ちぐさ」の駐車場に入ったのなら、いったん村道を通り過ぎたことになる。
ええ、と加奈美は神妙に頷いた。
「クラクションの音が聞こえたんですよ。そしたら、国道の橋のほうから黒い外車がうちの駐車場に入ってきて、それをかすめるようにトラックが通り過ぎるところだったんですよ。危ない運転をするものだわ、って元子とも話していたんですよ。それが、駐車場の中で切り返して、村道のほうに入っていったんです。なんだか、フラフラした運転で……」
「運転手の顔は見ましたか」
「ええ。見かけない顔でした。村の人じゃないと思うんです。それで村道を見落として、通り過ぎたんだな、と思ってたんですけど。とにかくすごく危なっかしい運転で、運転をしている男の人も、妙にフラフラしているというか――」加奈美は口ごもる。「切り返すのにハンドルを切るたび、こう、頭がのめったり傾いだりするんですよ。それで、大丈夫なのかしら、と思ったんです」
加奈美は言って、不安そうに付け加えた。
「立派な車だったし、元子とも言っていたんです。ひょっとしたら、あれが兼正の人なのかしら、って」
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
まったく雨の気配すらないまま、七月も終わりに近づいた。三十日、土曜日の午後、最後の患者を見送り、律子がカーテンを引こうと玄関に向かったときにも、一点の曇りもない青空が広がっていた。強い陽射しが風景を白々と灼いている。そここに落ちた影は小さく、しかも塗りつぶしたように濃かった。
律子は戸外の明るさに目を細め、陽に褪せたカーテンを引こうとした。ちょうどそこに|喘鳴《ぜんめい》のような音を立ててスクーターがやってきた。すっかり古びたスクーターは、熱気に揺らぐ駐車場に入ってくると、玄関脇の小さな軒が作る日陰の下に停まった。
律子はそれを見て苦笑し、閉めかけた玄関のカーテンを半分ほど開けておく。背後から井崎聡子の声が聞こえた。
「律子さん、急患?」
聡子はすでに私服に着替えて、バッグを提げている。
「|村迫《むらさこ》のお婆ちゃん」
「あら」
「いいわよ、今日はもう終わりなんだし。みんなでお昼を食べに行くんでしょ? 気にせずに帰って」
「そうですか? ごめんなさい」
聡子が軽く拝むようにして、裏口のほうへ消えるのと同時に、玄関のドアが開いた。
「あのう……いいかねえ」
塗りの剥げたヘルメットを片手に、おずおずと入ってきたのは、山入の村迫三重子だ。もはやスクーターに跨っているのを見るのが怖いような年齢だが、住まいが山入りでは、せめてスクーターでもなければ生活ができない。
「どうぞ」
律子は三和土に立ったまま、三重子を促す。ぺこりと頭を下げた三重子を通して、改めてカーテンを引いた。
「土曜は昼までなのにねえ。家を出るのが遅れちゃって。ごめんなさいねえ」
「いいんですよ。義五郎お爺ちゃんのお薬ですか?」
律子は言って、受付の中に回り込む。途中、休憩室から武藤が顔を出した。
「律ちゃん、急患かい?」
「三重子お婆ちゃん。――いいですよ、お昼、食べててください」
律子は言って受付に入ったが、後を追ってすぐに武藤が入ってくる。
「済みませんねえ」
カウンター越しに拝むようにして、三重子が申し訳なげに汗を拭っていた。
武藤は笑って、軽く手を振る。
「いいや、気にせんでください。お暑いですな」
「本当に」
「義五郎さんのお薬ですか。――律ちゃん、カルテはわたしが出しておくから」
武藤が言うと、律子は頷いて事務室の奥にある薬局のほうに曲がっていく。
「どうですか、義五郎さんのお加減は」
「それが、ここ何日かあまり良くないみたいで……」
「おや」
北の外れの集落、山入ではわずかに三人の老人が残って肩を寄せ合うようにして生活している。そのうちの一人、大川義五郎は長く高血圧で薬を処方されていた。義五郎本人が薬を取りに来ることもあるが、ついでがあれば近所の村迫|秀正《ひでまさ》か三重子がやってくる。
「そりゃあ、いかんな。若先生に診てもらったほうがいいんじゃないですか」
「夏風邪じゃないかとは思うんですけどねえ。――実はうちのお爺さんも夏風邪でね」
「あら、大丈夫なんですか」
口を挟んだのは、やすよだった。麦茶のグラスを持って受付に入ってきたやすよは、それをカウンターの上に置いた。
「暑かったでしょう。こんなもんでもおあがって」
「あら、済みませんねえ。閉まった後に来たうえに」
「いいんですよ。暑いとこに出るのが嫌で、だらだら居残ってたんですから」言ってやすよは、「義五郎さん、大丈夫なんですか。熱は?」
三重子は手を振った。
「熱はないみたいでしたけどね。風邪でなきゃ、夏負けってやつかしらねえ」
「村迫のお爺ちゃんも風邪だって」
武藤が口を挟むと、三重子は申し訳なげに再び手を振る。
「そんな大層なもんじゃないと思うんですよ。うちのお爺さんも熱なんてありゃしないんですから。でも、なんだかぼーっとしちゃって。|怠《だる》そうなんで、寝かしつけてきたんですけどね」
あらまあ、とやすよは呟く。
「先生に訊いて、薬だけでも出してもらったほうがいいんじゃないかしらねえ」
「そんな、とんでもない。若先生のお昼を邪魔するようなことじゃないんですよ。悪いようなら、来させますから」
武藤は再度口を挟んだ。
「やすよさん、ちょっと先生に声だけでもかけてるくるから」
「あら、まあ、そんな」
「なに、ちょっと訊いてくるだけですから」
気安げに言って武藤は受付を出る。住居のほうへ小走りに行く武藤を見送り、やすよは三重子に座るよう勧めた。
「ちょっと待っててくださいねえ。――義五郎さん、食事が喉を通らなかったんじゃないですか、この暑さだから。そうでなきゃ、仕事に精を出しすぎたとか」
「そんなに上等な人だといいんですけどねえ。いえね、本人は出かけたんで疲れただけだって言ってたんですけどね」
「あら、いいわねェ。ご旅行?」
「そんな大層なもんじゃないんですよ。何日か前に、お客さんがあったんですよ、義五郎さんとこに。なんだか立派な車が来てねえ。あたしは車の名前なんか分かりゃしないんですけど。えらく立派な車が来てたわねえ、って言ったら、ちょっと人に会う用があるんで出かけてくる、って。どこに何の用があるのかは言ってなかったですけどね」
「へええ」
「いい話でもあったふうでしたけどね。機嫌良く出ていったと思ったら、夜になっても帰ってこないでしょう。泊まるんなら泊まるって言って出ていけばいいのにねえ」
やすよは笑う。一人暮らしの義五郎は、夕飯を村迫家で摂るらしい。住む家は違っても、もはやそれだけ家族も同然なのだろう。
「無断外泊。義五郎さんもやるもんだわね」
やすよが言うと、三重子も声を上げて笑う。
「ぴんしゃんして帰ってくればねえ。それが翌日、戻ってきたら、気が抜けたみたいにぼうっとしちゃってて。自分でも疲れたんでなきゃ夏風邪だろう、って言ってはいたんですけどね。なんだかもう、怠くてたまらないみたいでねえ。それっきりべたべた寝てばっかりで」
「あらま。それは心配だこと」
「熱はないんですよ。手を当ててみてもひんやりしてるくらいで。顔色は悪いんでけど、別に血圧が上がったふうじゃなかったし」
「三重子さんとこのお爺ちゃんも、そんなふうなんですか?」
「そうねえ、義五郎さんと同じふうだわねえ。それで義五郎さんの夏風邪をもらったのかしら、と思ったんだけど。お爺さんがあんなふうじゃなかったら、車に乗せて連れてきてもらったんですけどね」
「それは先生に診てもらったほうがいいんじゃないかしらね」
「とんでもない。寝てれば治りますよ」
「――困るな。素人に勝手な診断をされちゃあ」
笑い交じりに声をかけたのは、敏夫だった。
「あら、先生。どうも済みません」
三重子は心底、恐縮したように深々と頭を下げる。
「それで? 義五郎さんがどうしたって?」
敏夫が三重子を診察室に招いたのを診て、やすよは薬剤室に向かう。律子は、ちょうど薬をまとめて輪ゴムをかけているところだった。
「先生、出てきたんですか?」
「うん。なんのかんの言いながら、あの人もマメな医者だね」
律子は笑う。
「本当に。――あれで口さえ悪くなきゃ、いいんでけどね」
「駄目、駄目。あたしはあの人が子供の頃からここに勤めてるから、よーく知ってるけどね、昔っからひねくれ者でねえ。周りが口に気をつけろって、言えば言うほど、ろくでもないことを言いたがるのよ」
律子は笑って、コメントは避けた。
その敏夫と三重子が出てくるまで、いくらもかからなかった。
「律ちゃん、薬、出しとくから」
敏夫は言って、カルテを受付に差し出し、三重子を振り返る。
「とにかく、悪いようなら、診察に来させなさい。足がないんだったら、診に行くから電話して」
「本当に済みません」
「風邪だ、夏バテだって、軽く見ないように。年寄りは、くたばるときは呆気ないんだから」
また余計なことを、とやすよが顔を顰めると、律子も軽く笑いを零した。それでも三重子は母屋のほうへ戻る敏夫を、丁寧に頭を下げて見送っていた。
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
「かおり、いつまで寝てるの?」
母親の佐知子が小花模様のカーテンを開けた。白い陽射しがまともに顔を照らして、かおりは布団の上で寝返りを打つ。
「暑い……」
「こんな時間まで寝てるからよ。もう十時なんだから。起きて朝ご飯を食べなさい。片づかないでしょ」
険のある声に、かおりは息を吐いた。汗が体にまとわりついて重い。食欲はなかったが、欲しくないなどと言うと「作っている者の身になれ」と叱られることは確実なので、仕方なく起き上がる。タオルケットが貼り付いたようなのが気持ち悪かった。
まとまった雨がないまま八月に入った。梅雨とは名ばかりの梅雨が明けて以来、うんざりするような晴天が続いている。連日の猛暑が大気を暖め、籠もった熱気は夜にも完全に吐き出されることがないまま、また翌日の陽が昇る。そうやって熱気が少しずつ大気中に蓄積しているような気がする。
「クーラー、欲しい」
かおりは汗でまとわりつく髪を掻き上げた。かおりの部屋は風通しがいい。朝晩には涼しくて、これまでクーラーの必要性を感じたことがなかったが、今年の夏は特別だ。なにしろ夜は深夜まで寝苦しく、陽が昇ると暑くて目が覚める。眠くて寝床にしがみつくのだが、満足に寝られた試しがなかった。
「贅沢なことを言ってないで、涼しいうちに起きたらどう?」
はあい、と呟いて、かおりは部屋を出て行く佐知子を見送った。のろのろと着替えて階下に降りると、ほんの少しだけひんやりして感じられる。顔を洗って茶の間に行くと、かおりのぶんだけ朝食が残っていた。げんなりしながら食べ始めたところに、ばたばたと賑やかな足音がして弟の|昭《あきら》が入ってきた。
「なんだ。かおり、いまごろ朝飯かあ?」
昭はかおりの二つ下、今年、中学に入ったばかりで生意気盛りだ。かおりのことも呼び捨てにする。
「あんた、元気ね。暑いのに」
「おれ、かおりほど脂肪がないからな」
はいはい、とかおりは呟いた。昭の体温で茶の間の温度が上がったがする。口喧嘩をする気にもなれなかった。
「なあ、涼しくしてやろっか?」
昭は悪戯でも企んでいるような顔をする。
「いらない。どうせろくなこと考えてないんだから」
「そうじゃなくて」昭は口を尖らせた。「兼正のあの家、出るって話」
まさか、とかおりは昭の顔を見る。
「出るもなにも、あそこ人が住んでないじゃない」
「そう。誰も住んでないのに人影を見た奴がいるんだって。窓からさ、外を見てたって」
「越してきたの?」
昭は脱力したように肩を落とした。
「そういう話をしてるんじゃないだろ。だから、きっとあの家でさ、何かあったんだよ。そんで幽霊が取り憑いてて、時々、窓から外を見てるって話」
かおりは橋の先っぽを噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]んで首を傾げた。
「……なんか、変なの」
「なんで」
「だって、あの家って確かに古そうな建物だけど、建ったのってつい最近じゃない。まだ誰も住んでないわけでしょ? あの家で死んだ人だっていないはずだし」
「そりゃあ、兼正の土地に建ってからの話だろ。移築っていうの? もともとどっかに建っててたわけじゃない。その頃の話だろ」
そうか、と思いながらかおりは釈然としない。家で不幸なことがあって、死者の霊がそこに取り憑くというのは良くある話だ。恐れをなした住人が建物を取り壊して、立て直したのにやっぱり出る、という怪談話なら聞いたことがある。だけど。
「家を動かしたら、幽霊も一緒に動いちゃうの? なんか変な感じ」
昭は気勢を殺がれたように頬杖をついた。
「かおりって妙なとこで理屈っぽいのな。とにかく出るんだって。見た奴がいるんだから、そういうことなんだろ」
「見間違いじゃないの?」
「絶対に本当だっていってたぜ。他にもさ、塀の中からうめき声がするのを聞いた奴がいるんだって。塀を内側からガリガリ引っ掻くみたいな音がして、誰かが唸ってたんだってさ」
かおりは顔を顰めた。こういう話は、あまり好きじゃない。
「そんなの、単なる噂話だよ、きっと」
「そうかもしんないけど。――だからさ、確かめに行こうぜ」
「やだよ。気味が悪いもん」かおりは朝食を、半分がた手つかずで残したまま茶碗を片づけにかかった。「あたし、あの家、好きじゃない。なんか古くて暗いし、変な感じだし」
茶碗を流しに下げようとすると、昭も後をついてくる。
「そこが凄いんだろ。曰くありげでさ。――大丈夫だって。まだ午前中なんだし、そんなにおっかないことなんて起こんないって」
「だったら行っても仕方ないじゃない。行きたいなら、夜に昭ひとりで行けば?」
「単なる噂だって、かおりが言ったんじゃないか。ちょっと様子を見て、それっぽい感じかどうか確かめるだけだよ。もしかしたら、ついでに本当に家の奴が見られるかもしれないし」
「まだ越してきてないんでしょ」
「トラックが来たとかいう話もあったじゃないか。なあ、ちょっとだけ行ってみようぜ」
かおりは溜息をついた。昭は言い出したら聞かないのだ。うんと言うまで暑苦しくつきまとわれることになるのは目に見えている。
「散歩のついでに家の前を通るだけだよ」
昭はにっと笑う。
「おっけー」
表に出ると、四方から立ち上る熱気で炙られるようだった。勝手口の脇にある犬小屋に行くと、、ラブは小屋の下に掘った穴の中に半身を突っこんで、バテたように横になっている。かおりが引き綱を出しても、そっぽを向いた。雑種のラブは長毛種の血が混じっているらしく、むくむくしている。それだけ暑さが堪えるらしい。
「ほら、ラブも嫌だって」
かおりは言ってみたが、昭はお構いなしに引き綱を首輪に繋いでいる。引っ張られて、仕方ない、と言いたげにラブが腰を上げた。げんなりしながら、かおりもあとに続く。
路面は白く灼けて陽炎が立っている。昭は逃げ水を追いかけるようにして意気揚々と歩き始めた。田圃は緑、降るような蝉の声が耳にも暑苦しい。アスファルトが熱いのか、ラブは路肩の草叢を選んで昭を追った。
かおりの家は下外場にあって、兼正まではかなりの距離がある。少しでも木陰のあるところを、といったん南に横たわる末の山の麓に出たので、余計に遠回りする案配になった。山の端まで出ると、さすがに樅の中を吹き下ろしてくる風がひんやりとしていたが、そのぶん蝉の声が増したので気分的には余計に熱くなったような気がする。昭に引っ張り出されたことを後悔し始めたとき、ちょうど末の山と西山の交わる辺りに出た。西山に沿って曲がっていく道の脇には小さな祠が建っている。
「あれ?」
先頭に立っていた昭が足を止めた。どうしたの、と聞くと困惑したように祠を示した。
「かおり、あれ」
昭が指さして、かおりもラブも祠の中を覗き込む。アスファルトからの照り返しで目を灼かれていたせいで、祠の中は最初、薄暗く見えた。
その小さな祠は、大人なら三人も入ればいっぱいになってしまう。板囲いをした奥に古い石の柱や、摩耗してなんだか分からなくなった石や小さな賽銭箱が並んでいる。――いや、そのはずだった。
「やだ……どうしたの、これ」
きちんと並んでいるはずの石が、コンクリートの床の上に投げ出されている。割れているものや大きく欠けているものもあった。中央に建っていたはずの石の柱は中程から折れて倒れ、その下で賽銭箱がひしゃげて小銭が床に散乱していた。
「これ、庚申さまだよね」
うん、と昭は頷く。少ないとはいえ、小銭が散らばっているら賽銭泥棒というわけではないだろう。第一、賽銭箱を壊すために塚を倒したというより、塚の中を手当たり次第に荒らした、というふうだった。
「ひでえなあ。全部、壊されてる」
かおりはちょっと身を竦めた。小さい頃から、祠や塚には悪戯をしてはいけない、と躾けられている。悪さをすると罰が当たる、と言われてきたものだ。だから、こんな有様を見ると、起こってはいけないことが起こったという気がしてならなかった。
「ねえ……昭、戻ろう」
なんで、と昭は呆れたように振り返った。
「誰かに知らせたほうがいいよ、これ」
なんとなく、このまま放置しておけない。熱い最中に遠くまで散歩しようという気は完全に殺がれていた。
昭は未練がましく西山の北のほうを見たが、それでもやっぱり気にかかるのだろう、神妙に頷いて引き綱を引っ張った。
「戻るぞ、ラブ。偵察はまた今度だ」
「ちょっと、タツさん」
竹村タツが気怠い中で店番をしていると、小走りに弥栄子と武子がやってきた。盛んに手招きをしている。
タツは団扇を使ったまま、気のない目を向けた。弥栄子と武子は、灼けた村道を横切って店の中に駆け込んでくる。
「あんた、見た?」
「見たって、何を?」
「そこのお地蔵さん」弥栄子は三之橋の袂を指した。「首が落ちてるのよ、首が」
タツは眉を寄せ、陽射しに目を細めながら橋のほうを見やる。小さな祠の前に笈太郎が屈み込んで、中を覗いているのが見えた。
「橋の向こうで笈太郎さんに会ってね。なんでも水口の塚も壊れてたんだってさ。かち割られてね。験の悪い話だって言いながら橋を渡ったら驚くじゃないの。地蔵の首が落ちてんだもの」
そう、とタツは呟く。今朝の騒ぎはそれだったのか、と思った。朝、起きて表を覗いたときに、橋の袂に数人の老人が集まっているのが見えた。タツ自身は、朝いちばんに祠に参るような殊勝な習慣は持ち合わせがないが、近所の老人の中には、起きたらまず祠に手を合わせて掃除をする、という連中がいる。そのうちの誰かが見つけて人を呼んだのだろう。
「どうも、ゆうべのうちに壊されたみたいね。首から肩にかけて、滅茶苦茶になってるのよ。いったい誰があんな罰当たりなことを」
本当にねえ、と武子は大仰に渋面を作った。
「とんでもない話だわ。おおかた、大川の息子とか、あのへんの若い悪たれがやらかしたんだろうけどさ」
そうだろうか、とタツは思う。あんな古くさい地蔵を壊してなんになるというのだろう。もちろん破壊のための破壊なのだろうが、あんなものを壊して下がるような種類の溜飲があるとも思えない。
思っていると、郁美が店先に顔を出した。弥栄子は弾かれたように床几から腰を上げ、声を張る。
「ちょっと郁美さん、あんた、見た?」
郁美は薄く笑った。
「見たわよ。そこの地蔵さんでしょう」
「そうそう」と、頷きながら、弥栄子はどこか気勢を挫かれた顔をしていた。「酷い話よねえ」
「あれだけじゃないわよ」
「知ってるわよ。水口もでしょう?」
「そう。水口も。それも、上と下、両方よ」
え、と武子が声を上げた。
「両方って。二之橋の袂のと、いちばん下のと、どちらも?」
「そう。あたしが今朝、下のを見つけてね。ほら、うちの近所だから。それで気になって近所を一巡りしたの。二之橋の袂の塚もやられてたし、一之橋の向こう岸の弘法さまもやられてたわ。上外場のいちばん上の塚もね」
弥栄子も武子も、あんぐりと口を開けた。
「なに……じゃあ、水口と村道に沿って全部?」
「みたいね。ひょっとしたら他のもやられてるんじゃないかしら」
どこか得意げに言って、郁美は床几に腰を下ろした。
「あれは村の守りだからね。悪いことが起こるわよ、これから」郁美は言って、薄く笑う。「賭けてもいいわ。今年の夏は、ろくなことになりゃしないから」
清水恵は、陽射しの傾き始めた道を歩いた。
家並みや田圃の間を縫って北へと向かう。小川にかかった橋を過ぎるとき、ちょうど顔見知りの老婆とすれ違った。あらあ、恵ちゃん、お洒落して。お出かけ?」
まあ、と恵は言葉を濁した。年寄りの話し相手なんかしたくもなかった。
「大きくなったわねえ。もう高校生? すっかり娘さんらしくなって」
その台詞は、前にあったときにも聞いた、と恵みは辟易した気分で思ったが、口にはしなかった。話し相手になるといつまでも放してくれない。そういうものだと悟っている。
『そうそう』と老婆が口にしたので、恵みは急ぐから、と言ってその場を立ち去った。どうせ庚申塚がどうのこうのという話だろう。家を出てからもう二人も、その話を持ちかけてきた年寄りがいる。
村のあちこちにある塚や石碑が、夕べのうちに壊されたらしい。迷信深い年寄りはまるで犯罪でも起こったように騒いでいたが、恵にはたかが石のことじゃないの、と思えてならなかった。いまだにあんなものがあって、掃除をしたりお供えをしたりする人間がいることのほうが不思議だ。
(馬鹿みたい……)
恵は口の中で呟いて先を急いだ。道から道へと北を目指して歩いていくと、徐々に西山が迫ってくる。門前の集落に入ったところで西山の縁に出た。
恵は曲がり角まで来て西山に登る坂を見上げた。外国映画にでも出てきそうな洋館。道は恵の佇んだ角から緩い傾斜で上がり、小高い尾根を一周して門前の製材所の裏手に出るのだが、恵の位置からは家に続く私道に見えた。緩く上がった道に対し、少しはすかいに閉ざされた門。門扉は古い木でできていて、黒い金具がついている。門柱は煉瓦だろうか。赤い色が新しく、周囲を取り巻く白い塀もまた眩しいほど新しい。高い塀の上には尖った鉄棒が植えられていた。
恵の立った位置からは、塀と植樹されたばかりでひ弱な感じのする気の先端と建物の屋根だけが見える。それでも恵は、家の外形が現れた頃からずっと工事を見守っていたので、塀を透かして建物の全部を見取ることができた。黒ずんだ灰色の石でできた壁、やはり黒ずんだ窓枠とそこに嵌った板戸。玄関は建物の右手、少し奥まっていて、左手には複雑な形に張り出した出窓がある。
けれども、知っているのはそれだけだ。工事の最中から高いフェンスに囲まれ、かろうじて外壁は覗き見ることができたものの、内部がどうなっているのか、知る術が恵にはなかった。どんな部屋があって、どういう内装になっているのか、それをとても知りたいと思う。
六月に完成したきり今日までまだ、住人が越してきたという話は聞いていなかった。いったい、いつになったら住人は姿を現すのだろう。ずっとこんなに、それを待っているのに。
(お家の中を見てみたい)
どんな部屋だろう。家具はどんなで、カーテンや絨毯はどんな風なのだろう。やはり壁に絵をかけてあったりするのだろうか。花瓶に花が生けてあったりするのだろうか。
(どんな人が住むのかしら)
恵と同じ年頃の娘がいるだろうか。いるとしたら、親しくなりたい。彼女の部屋はどんなだろう。少なくとも形ばかりの洋間に、大型のスーパーの家具コーナーで買ったベッドや三段ボックスを並べている恵の部屋とはぜんぜん違っているはずだ。ちゃんとした家具と模様の入った厚い絨毯、大人のものみたいな机と箪笥、クローゼットの中を覗かせてもらうのは、すばらしく楽しいことに違いない。
(男の子がいたりするのかな)
少し年上の息子でもいいのに、――そう考えて、恵は恥じ入った。小学校の頃から使っている勉強机の抽斗の奥に隠した写真。別にまだ告白をしたわけでもされたわけでもないけれど、あんなふうに写真を隠していて屋敷に住まう男の子のことを考えるのは、写真の彼に対して後ろめたい気がする。
でもそう、優しいお兄さんという感じなら。一人っ子の恵はいつも兄弟が欲しかった。特に欲しいのは鷹揚な兄だ。聡明で、何でもできて、誰にも自慢ができて、同級生の女の子が羨むような兄。親しくあの家の彼の部屋を訪ねることができて、妹みたいになれたら。――でもきっと、彼を恵の家に招いたりはしない。どこもかしこも、煮物の匂いが染みついているような、そんな家には。
(高校生ぐらいの子供がいますように)
工事が始まった昨年以来、何度目か、恵は祈った。もしも子供がいないとしたら、おっとりした老人が住むのだろうか。孫みたいに可愛がってもらえたら、あるいは上品な中年の夫婦で、娘みたいに扱ってもらうのでもいい。
(あの家に入りたい)
親しく出入りして、まるで自分の家のように隅の隅まで熟知していられたら。
(どうしてあたしは、あの家の子供じゃないんだろう)
そうだったら、本当に良かったのに。堅苦しい父親の子供でもなく、口うるさい母親の子供でもなく、始終がみがみ言う年寄りの孫でもなく。
(あそこに行きたい……)
恵は引き寄せられるように坂に向かって足を踏み出した。ほんの五メートルほど登って足が止まる。これ以上は惨めになるだけのようで、近づくことができなかった。たまらず家を見上げると、そこには恵を拒むかのようにぴったりと閉ざされた門が立ち塞がっている。
「見てくれよ、これ」大川富雄は両手をカウンターの客に示した。
大川酒店の中には、短いカウンターがある。レジの脇に客が試飲できるよう、椅子をいくつか置いているのだが、そこが飲んべえの溜まり場になっていた。夕飯前から酒を求めて集まった連中に、大川は|瘡蓋《かさぶた》のできた両手を見せた。先日、余所者の車に引きずられて横転したときにできた怪我の痕だ。
「まったく、とんだ野郎がいたもんさ」
客のひとりが、同情するように頷いた。
「豪勢な車を乗りました余所者だってんなら、ろくな奴じゃないのは分かりきってるさ。そいつ、まさか兼正の新入りじゃねえだろうな」
「さあな。高見さんは違うだろうと言ってたが。何にしても、そのまんまずらかったんだ。こっちはナンバーも覚えてねえし、今頃は雲隠れしちまってんだろう」
「ひょっとしたら、そいつかもな」顔を赤く酒灼けさせた老爺が言う。「ほら、ゆんべ一之橋の弘法さまが壊されだろう」
なに、と大川は目を剥く。
「なんてえ罰当たりな。そういうことをすんのは余所者だよ。余所の連中は、ああいうのをちっとも大事にしねえからな」
違いない、と声を上げる客がいる一方で、どうだかな、と言う客がいる。その老爺は、黙って脇で棚の整理をしていた大川の息子に目をやった。
「あっちゃんじゃねえだろうな」
客のダミ声に、大川篤は顔を上げた。
「かーっとなってぶち壊したんじゃねえのかい」
「賽銭をくすねようとしたんだろう」と、別の客が篤を笑った。「あっちゃんは昔っから、手癖が悪いからな」
篤はまだニキビの痕が残る顔に、露骨にふてくされた表情を浮かべた。客をねめつけて、そっぽを向く。
「その態度はなんだ」言ったのは大川だった。「生意気な真似をするんじゃねえ。図体がでかくなったからって、いい気になるんじゃねえぞ」
篤は無言で棚に目をやった。つまみの缶詰をざっと棚に突っこんで、空いた段ボール箱を手に立ち上がる。
「おい、篤。もうちょっと丁寧にやれ」
「やった」と、篤は短く答え、箱を下げて店を出る。背後で、二十歳を過ぎても棚の整理ひとつ満足にできない、と大川が客に零しているのが聞こえた。
「高校も、お情けで出してもらったようなもんだ。勤めに出ても続かねえ。いい年して、粋がるしか脳がねえんだからな。何だってあんなろくでもねえ餓鬼が生まれたんだか」
篤は店の裏手に回り、空き箱を放り出す。思い切りそれを踏みつぶして箱の山に叩きつけた。
ふざけるな、と篤は胸の中で吐き捨てて店を後にした。古ぼけた石像なんて知るものか。子供の頃、賽銭箱の小銭をくすねていたのは事実だが、今時、五円十円が入った賽銭箱などありがたくもなんともない。いつまでも子供の頃の話を持ち出して、何かというと篤のせいにするのも気に入らなかった。
店の脇の路地を出て、商店街に出たものの、行く当てはなかった。こんなとき、車かバイクで飛ばしてやったらさぞかしすっきりするだろうという気がしたが、篤は車もバイクも持たない。高校の頃には貸してくれる友人もいたが、卒業して村に引っ込んでしまうと縁が続かなかった。店の車やバイクは鍵を親が管理している。何かにつけて締まり屋の母親は、篤がガソリンを無駄遣いすることを警戒して、配達の時でなければ鍵を渡してくれない。自分の稼ぎがあればいいが、篤は一日、店を手伝わされているにもかかわらず給料を貰ったことがなかった。飯を食わせて小遣いまでやっているのだから店を手伝うのは当然だ、というのが親の言い分だ。
篤はそう言う何もかもが気に入らなかった。腐った気分を変えたくて、遊びに行こうにも遊び場がなく足がない。いい歳をして車ひとつ持てないでいる自分、それが惨めだから友達にも会えない。バスに乗っていくのも迎えに来てくれと頼むのも、自分の不甲斐なさを露呈するようで気が進まなかった。するともう、この山の中に閉じこめられて身動きができない。何かというと小さい頃の悪戯を持ち出して監視するような目を注ぐ年寄りたち、自分とは違うと一線を引く同年配の連中。親や弟妹ですからが、篤を爪弾きにし、見下げた目で見る。
気に入らない、面白くない、何もかもに腹が立つ。憤怒を足裏に込めて篤は路面を踏みしだく。無目的に足を叩きつけて、気がつくと夕暮れの迫る中、西山の麓まで来ていた。
蒸すような熱気と、意味もなくたそがれた|蜩《ひぐらし》の声。村人の誰もが家へと急ぎ、篤を振り返る者すらいない。
――構うものか。どうせ篤に声をかけてくるのは、お為ごかしの年寄りばかりだ。いつまでもぶらぶらしてるんじゃない、親に心配をかけるな、|臑《すね》を|囓《かじ》っているんじゃない、もう少ししっかりしろ、弟や誰それを見習えと、言われることなど想像がついた。そうでなければ非難がましい詮索か、あからさまな揶揄だ。
(馬鹿にしやがって)
篤は時折、疾風のような速度に乗って村を捨て去ってしまいたいという欲求にかられる。だが、どうして篤がそんな逃げ出すような真似をしなければならないのだろう。消えて無くなるのなら自分ではなく村のほうであるべきだ。篤は路肩に唾を吐いて、苦いものを吐き出そうとしたが、それはべっとりと胸から口腔に貼り付いたまま取れなかった。
ほんの少し前方に西へと上がる坂道があった。兼正に向かう坂だ。それを登ったのには格別の意味があるわけではなかったが、中腹まで行って屋敷の偉容が見えてくると、篤の胸にひとつの創案が降って湧いた。
夏前に建ったきり、住人の現れない無人の屋敷。越してきたという噂もあったし、人影を見たとか声を聞いたという話もあったが、まだ誰もいない、というのが実情のようだった。余所者の建てた家。村とは厳然として違う何か。それが村の中に割り込んで、傲慢にも村を――篤らを見下ろしている。
篤はぴったりと閉ざされた門の前に立った。茜色の空を背景に暗く佇む屋敷には、やはり人の気配がない。篤は何気なく周囲を見渡す。やはり誰の姿もなかった。
誰もいない。――見ていない。
ここで、と篤は気取った門柱を見上げた。
(忍び込んでも分からない)
身の丈ほどの木製の門扉に、辺りを窺いながらそろりと手をかける。
忍び込み、屋敷の中に入り込んでも。窓を叩き割り、家の中に泥をぶちまけてやっても誰も見ていないのだから篤の仕業だと分かるはずがない。それどころか、住人がいないのだから、そんなことがここで行われたということさえ誰にも知られないままだ。住人がいつ越してくるのかは知らないが、越してきて初めて、家の中が荒らされているのに気づく。
(悪くない)
篤は口元を歪めて笑った。越してきた奴らは、さそがし驚くだろう。こんな大層な屋敷を建てて、村の者を見下げたつもりだろうが、その生意気な鼻面に、文字通り泥を塗ってやるのだ、と思うと、鬱積した何かが晴れる気がした。
よし、と軽く声を上げて、篤は門扉をよじ登る。塗られたばかりの茶色い門扉や、そこに打たれた真新しい黒い金具に足跡がつくのが楽しかった。故意に門扉を蹴りたてるようにして登って越える。広い前庭には黄昏が落ち、いかにも無人のそれらしく、どこか荒涼とした感じが漂っている。そこをめがけて飛び下りた。誰に対してかは分からない、ざまを見ろ、という気分がした。
どこから入り込んでやろう――と篤は家を見上げた。物物しい石組みの外壁、どっしりと威圧感のある建物の正面、右手に大きな窓が見える。庭に向かって張り出しているそれには雨戸がない。ぴったりとカーテンが引かれていて、ほんの少しの隙間からは家の中に|蟠《わだかま》った暗闇がのぞいていた。
あそこからガラスを割って入ってやろうか、と思う。窓には細かく桟が入って幾何学模様を描いていたからガラスを割っても入れそうにはなかったし、第一、それではつまらない、と思い直した。
そんな派手なことはしたくない。もっとこっそりと中に侵入するのだ。そうすれば越してきた連中は、中に入って初めて、立派な家が見る影もなく荒らされているのに気づく、というわけだ。
薄く笑いながら、篤は建物の外壁に沿って裏手へと向かった。篤にはよく分からないが、大層な建物であることは確かだった。壁はいかにも重々しく、しかも屋根までが高い。古びた石壁が大きな空間をぴったり閉ざして抱え込んでいる。中にはきっと、さっきカーテンの隙間から見た暗闇が|蹲《うずくま》っているのだろう。
正面を過ぎて脇へ曲がると、建物の影が落ちている。すぐ脇には細い路地を挟んでガレージらしき建物が建っていた。白っぽく塗装された真新しいシャッターが下りている。
篤は何となく周囲を見回し、自分が完全に塀と建物に囲まれて外から切り離されていることを確認した。真新しいシャッターを二、三度蹴る。金属が悲鳴を上げる音はガレージ内部に反響し、至近の距離に聳える外壁に|谺《こだま》して、ぎょっとするほど派手に響いた。思わず身を|竦《すく》める。あまりの音に不安になった。
(誰もいない……)
いないはずだ。建物は西山に孤立していて隣家もない。いくら物音を立てても、誰の耳にはいるはずがない。そう分かっていても、周囲を窺わずにいられなかった。今にも誰かに|誰何《すいか》されそうな気がして、篤は少し怯む。シャッターがへこむくらい蹴ってやりたかったが、傷がついたことで良しとした。――そう、目的は建物の中に侵入することだ。
ガレージと建物の間には、ごく狭い路地が延びている。そこにはもう薄闇が舞い降りていて見通しは利かなかった。行き止まりのようだが、路地に面してドアか窓でもあるんだろうか。周囲を窺いながら、篤は薄暗い路地に足を踏み入れ、さらに裏手へと進入路を探して歩いた。
思ったよりも開口部が少なかった。路地に面して窓が一つあったものの、それは篤の背丈ほどの位置にあり、しかも板戸が閉まっている。足場もないし、そこから出入りはできそうになかった。路地の奥には壁が立ち塞がっているだけだった。ガレージと建物を繋ぐ通路があるのだろう。篤は舌打ちをする。踵を返そうとして、わずかに身を固くした。
唐突に、背後に誰かいる、という気がした。なぜそんな気分になったのかは、自分でも分からない。暗い石壁とガレージの間の細い路地、その奥にいる自分。背後に誰かいて、自分の背中を見ている。路地の入口との間に立ち塞がっているという予感。
(馬鹿な……)
そんなはずはない。住人はまだいないのだから。篤はそろそろと背後を振り返った。暗い路地の先に残照を浴びた庭が見えた。もちろん、入口と篤の間には誰の姿もない。
気のせいか、と自分の思い違いを恥じながら路地を戻りかけ、半分ほど歩いたところで篤は再度、足を止めた。今度は路地の奥の方から視線を感じた。たった今自分が歩いてきたところ、背後、その――上のほう。
はっと篤は背後を振り仰ぐ。陰鬱な色の外壁の上のほう、二回に窓がひとつ見えた。板戸はなく、ガラス窓の外に鉄格子が嵌っている。
まずい、という気がした。誰もいるはずがない、なのに誰かから見られている気がする。あの窓だ。あそこに誰かがいて篤を見下ろしている。
引っ越してきた、という噂もあった。ひょっとしたら誰も知らないうちに、住人は越してきていたのかもしれない。
いや――と篤は思う。もっと奇妙な噂も聞いた。ここには、いるはずのない住人がいる、という。子供だましの怪談話。
(まさか)
思いながらも、足が速まる。路地から庭に出たものの、やはりどこからか見られている、という気がしてならなかった。篤は家を見上げる。妙に威圧感のある、暗い家。
嫌な感じだ、と思ったとき、たった今、自分が出てきた路地の奥から小さな音がしたような気がした。路地に敷かれた砂利を誰かが踏みしめるような音。
そんなはずはない、路地にはドアがなかった。誰もいなかったのは確かだ。なのに、足音を忍ばせ、誰かが近づいてくるような気がしてならない。
篤は門へと駆け戻った。ガレージに傷をつけてやった、それで今日のところは良しとしよう。背後を何度も窺いながら、門扉を乗り越えた。見渡した付近の山は樅の林、樹影が濃くて林の中には一足早く夜が訪れている。
門を飛び降り、篤は坂を駆けだした。坂の脇、夕闇の下りた下生えの中から、がさりと音がしたのは、その時だった。篤は音のしたほうを一別し、足を急がせる。それは明らかに篤の後を|蹤《つ》けてきた。篤が小走りになればスピードを上げて下生えを掻き分け、林の中を付き従ってくる。
篤は|形振《なりふ》り構わず坂を駆け下った。角まで下ると下生えを掻き分ける音がやむ。振り返るとそれは、逡巡するような間のあと、音を立てて坂の上のほうへと戻っていった。下生えの間に、ちらりと白茶けた毛並みを見たような気がした。
「犬かよ……」
篤は吐き出す。そう言えば、最近、野犬が多いという話を聞く。それか、と思って安堵し、すぐさまそうやって安堵する自分に腹が立った。誰も見ていなかったようなのが幸いだ。野犬に怯えて血相を変えて逃げてくるなんて。せっかく敷地に忍び込んでいながら、シャッターを蹴っただけで逃げ出してきた。
そういう自分が苛立たしくてならなかった。自分にそんな無様な真似をさせた物が憎い。何もかもが気に入らない。――この坂も、あの家も、本当に何もかも全てが。
子供の遊び場は限られている。それは、渓流の河原であり、橋を渡った向こう側にある神社であり、御旅所であり、ほんの少し山を登った樅の木陰だった。
|裕介《ゆうすけ》は家の前の橋を渡って、神社に向かった。日の暮れた神社の境内は無人だった。誰もいないことなら知っている。家の角にいて、橋を渡って神社から戻ってくる子供たちを見たのだから。しゃがみこんで、買って貰ったばかりのミニカーを走らせていたけれども、裕介に目を留め、声をかけてくれる者はいなかった。
加藤裕介は近所でたった一人の一年生だった。自分より下の子供は三歳のマコトがいちばん上だし、上は三年生の三人組がいちばん下だ。ぽっかり子供のいないところに生まれてしまった。それで裕介は一人だ。裕介より下の子供たちはそれぞれ遊び仲間を持っている。ボールやバットを持って楽しげに橋を行き来するのを見ていたので、すごく楽しいことがありそうな気がしていたのだけど、やはり神社は神社でしかなかった。
裕介はミニカーを握ったまま、鳥居の下に立ちつくした。ぽっかりと開いた空間、本殿は閉じた家だし、神楽殿は開いた家だ。ぎっしり何かを抱え込んで戸をぴったり閉じた建物と、それとは反対に壁すらなくて空っぽのままポカンと口を開けている建物。片隅にうずくまる小さな稲荷としおれた旗、境内の木は故意や身を落としている。
神社にはよく来る。祖母のゆきえが毎朝、掃除をするのについてくるからだ。朝の神社は裕介にとって、他人の家の座敷みたいな場所だ。何もなくて、でも何かありそうで、つんとしている。昼間の神社は余所の茶の間か台所みたいだ。裕介には入れない、入れないのがちょっとがっかりきてしまう種類の場所。
「留守番だ」
裕介は陽の落ちた神社を見渡して、そう結論づけた。日暮れの神社は留守番をしている家みたいだ。がらんとして隙間だらけで、よく知っているのに、知らない場所のようだ。こないだまでは祭りで人が多かったから、いっそうそういう気分がした。
裕介は鳥居の下にミニカーを置いて、代わりに石を拾った。年長の子供たちの真似をして鳥居の上に投げ上げてみたけれども、少しも楽しくなかった。なぜあの子たちは、あんなにはしゃいでいたのだろう。石よりもミニカーのほうが良いと気づいて、裕介はそれを握りしめた。けれども別に、ミニカーを握っているから楽しいということもない。
ちぇっと石を蹴ると、それは藪の闇の中に転がり込んでいった。ふいに風が吹いて、枝が鳴った。何かに驚いて飛び起きたように蝉が短く鳴くのが聞こえた。
楽しくなんかない。気味の悪い場所だ。
裕介は後退る。だからといってこのまま家に戻ると、いちばん楽しいところを見逃してしまいそうな木がした。もう誰もいないのだから、楽しいことなんてありはしないのだけど。
しばらく思い悩み、裕介は目に見えて濃くなる木陰の闇と背後の橋を見比べた。橋の正面には明かりのついた店がある。あの電気屋が裕介の家だった。父親は「ハイタツ」と「コウジ」にしょっちゅう車に乗って出かけ、祖母は店番をしている。裕介は学校に行って帰ってひとりで遊ぶ。裕介には母親がいない。お母さんという名前の写真や位牌や墓は見たことがあったけれども、実際にあったことは一度もない。裕介が小さい頃に死んだのだ、と父親が教えてくれた。死ぬというのがどういうことか、裕介にはよく分からない。たぶんそれは、山から這い下りてきた鬼に捕まる種類のことなのだと思う。
鬼、と自分で思ってぎくりとした。日が暮れてからで歩いてはいけないのだ。たとえ父親がシュウリで遅くなって、しばらくご飯の時間にならず、祖母が台所に行って裕介はぽつんとテレビを見ていなければならないにしても、暗くなったら家にいないといけない。鬼が来るから。
裕介はミニカーを握りしめて、鬼が来たらすぐさまそれを投げつける準備をしながらそろそろと退った。鳥居をくぐったところでくるりと背を向け、橋に向かって駆け出す。橋の中程に来て、ガラス越しに明るい店の中が見通せるようになってから足を止めた。正面、明かりの点った自分の家の上を見る。西の山は黒い影になって横たわっていた。
(ほんとは知ってる)裕介はとぼとぼと橋の残りを渡った。(鬼はあそこにいるんだ)
おばあちゃんは墓から出てくるというけれども、鬼だって土の中なんか嫌に決まってる。だからあの、気味の悪い家にいるのだ。あの中に隠れて夜を待っている。そうして、みんなをあそこに連れて行くのだ。そうに決まっている。
そう息を呑んだところだったので、まさしく自分が見上げている山の斜面に、小さな明かりがひとつ点ったのを、裕介は見逃さなかった。山寺よりもずっと西、尾崎医院や門前の家並みが点す明かりよりも高い位置にそれはある。
(あそこ……)
じっと見つめる裕介の目の前で、二、三度瞬き、その明かりは唐突に消えた。
裕介にはそれが、何か怖いことの前兆のように思えた。おずおずと川端の道を横切り、そうして店へと駆け戻っていった。
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
「あら、いらっしゃい」
静信が書店の中に入ると、田代留美がレジに立っていた。表に面して大きく取られた窓からは眩しい陽射しが降り注いでいたが、店内にはクーラーが利いていた。静信は、ほっと汗を拭う。
「こんにちは。お願いしていた本が来たと、マサさんから電話をもらったんですけど」
静信が言うと、留美はちょっとまっくださいね、と言い置いてレジの奥の棚を探った。棚には医学関係の表題をつけた大判の本が何冊か見える。あれは敏夫の注文だろう。
村にある書店は、田代夫妻の経営するこの田代書店が唯一だった。店舗の片隅に雑誌や新聞を置く店こそ珍しくなくても、専門の書店は他にない。もともとは門前の文字通り山門前にあって経本や図画を扱っていたのが、先代の頃に商店街の外れに移転して書店として店を開けた。ごく小さな住宅兼用の店舗だったものを、住居を潰して拡大し、棚を増やしたのは十年ほど前、息子の正紀の代になってからだ。田代正紀は静信の二級上、小学校から高校まで同じ学校に通った。
「これかしら。すみませんね、パパはいま喫茶店に油を売りに行ってて」
留美はゴムバンドでひと括りにした数冊の本を棚から引っ張り出した。留めつけてあるメモに目をやり、ひとり頷く。
「これだわ。――まだ二冊、届いてない本があるみたい。取次にないので版元に問い合わせてるって」
「いつも済みません」
留美は微笑んで本を紙袋に収めていく。それを待ってレジの近くの棚を見るともなく物色していたときドアの開く音がして、熱気と一緒に「どうも」という陽気な声が入ってきた。
「やあ、お暑いですな」
駐在の高見だった。駐在所は田代書店の斜め向かいにある。
「若御院が入るのが見えたもんでね」
「本当にお暑いですね」
留美は高見に頭を下げた。高見はそれに会釈してから、
「若御院、聞きましたか」
「何をです?」
「いや、例のベンツなんですがね」
あら、と留美は手を止めた。
「前田さんとこの茂樹くんを引っかけたっていう、あれですか? そう言えば、若御院がちょうど居合わせたんですよね」
田代夫妻の自宅は、現在は前田家と同じく下外場の集落にある。
「ええ」
「前田さんの所の奥さん、神経質だから。あれですっかりピリピリしちゃって。ラジオ体操にもついてくるんですよ」
「おやまあ」
高見が呆れたような声を上げた。留美は溜息交じりに微笑む。
「気持ちは分かるんですけどね。国道が近いから。うちの子にも国道の向こうには行かないよう言ってるんでけど、子供は行くなって言うと行きたがるから。それに、国道の向こうは堀江自動車の廃車置き場があるでしょう。あそこも危ないからって言ってあるんですけど、何度か子供の姿を見かけたことがあるもの」
堀江自動車は、自動車の修理工場だ。ガレージ裏にはかなりの面積の廃車置き場がある。これは付近の親たちの頭痛の種だった。子供たちにとっては、これ以上の遊び場はない。しかしその遊び場は危険だし、そこに行くためには国道を横断しなければならなかった。
「横断歩道も信号もあるんだけどねえ。どうして余所の連中は、あれを見落とすんだろうねえ」
「本当に。この間もね、父兄会の集まりで歩道橋を設置したらどうか、って話も出てたんですけどね。歩道橋なんてあっても使うかしら」
「まったくです。しかも、歩道橋は年寄りには辛いしなぁ」
国道で災難に遭うのは、概ね子供か老人だった。高見は嘆息し、それから思い出したように静信を見る。
「そう、で、あの車なんですけど、大失敗ですわ」
「どうしたんです?」
「いやね、あの日の夜に見たって言うんですよ。大塚製材の息子が」
「夜ですか」
「ええ。かなり遅い時間にね、黒塗りのベンツが村道を下って村を出て行くのに行き会ったそうで。例によって危なっかしい運転だったそうですよ。それが夜の十一時くらいだったって言うんです。あいつ、それまで村のどこかにいたんですわ」
高見は言って、大仰な溜息をついた。
「こっちは、てっきり子供を引っかけて逃げたんだから、さっさと村を出て行方をくらましたに違いないと思っていたでしょう。そしたら、夜までどっかに隠れてて、ぬけぬけと村道を通って出ていったんですよ。あの後、村道の入口を見張るなり、もうちょっとあちこちを探すなりしときゃ良かったと思ってねえ」
「しかし、隠れるといっても、あんな車が止まっていたら目立つでしょう」
子供を引っかけた車がいる、という噂はあっという間に村中に広まったはずだ。とはいえ、一口に村といっても実際にはそれなりに広い。だから住民の全部というわけにはいかないだろうが、かなりの数の村人がそれを知っていたのは確かだし、見慣れない車には注意を払ったはずだ。
「そうなんですよ」高見は言って、声を低める。「それでねえ、やっぱり兼正の車なんじゃないかって話なんです」
「まさか」
「いや、他にね、考えられんでしょう。村を出るまで、見た者がおらんのですわ。電気店の加藤さん――あそこの、ゆきえさんが、村道を上に逃げていくのを見てるんですが、それから先はさっぱり。けれども電気店は、ちょうど一之橋の袂ですからね」
ああ、と静信は頷いた。一之橋をさらに上に向かったというのなら、問題の車は上外場の集落か、さもなければ門前の集落に向かったのだ。――ただし一旦、北上し、回り込んでどこかへ行ったのならその限りではないけれども。
(いや)と静信は思う。(上外場か門前――さもなければ山入)
村の北、北山の向こうにある飛び地のような集落。
「兼正は門前でしょう。それで兼正の屋敷に入ったんじゃないかって、ね。塀の中に入れちまって門を閉めれば村の連中の目につかないじゃないですか。それで|人気《ひとけ》が絶えるまで中に隠れてたんじゃないかって」
「山入というこてとはないですか」
まさか、と高見は手を振った。
「あそこは老人ばかり三人っきゃいないんですから。あんなところに入り込んだらかえって目立つでしょう」
「しかし、兼正は門前でも西の外れです。兼正に言ったのなら、門前を横切ったことになりますけど、それこそ誰かが見ていて当然なんじゃないでしょうか」
「ああ、そうか。それもそうですねえ」高見は首を傾けた。「一応、山入のご老体に訊いてみたほうがいいですかね」
兼正じゃないかしら、と口を挟んだのは留美だった。
「なんだか気味が悪いわ、あの家。得体が知れないっていうか」
そう、と高見は頷く。
「いやね、加藤さんとこの倅が――裕介くんでしたか、あの子もね、婆さんと店番をしてて車を見てるんですけど、車は兼正に行った、って言うんですよ。いや、別に兼正に行くのを見たわけじゃない、きっとそうに違いないって話なんですけどね」
高見は言って苦笑した。
「どうも裕介くんは、兼正のあの家をお化け屋敷か悪党の住処みたいに思ってるみたいなんですわ。それで、悪い奴の乗った車なら、兼正に言ったに違いないってえ、子供じみた発想なんですけどね」
なるほど、と静信も留美も笑った。
「ただ、子供らの間でね、妙な話があるらしいんですよ。兼正の近くで見慣れない人間を見たとか、妙な声を聞いたとか」
ああ、と留美は声を上げる。
「そうなの。うちの子も言ってますよ、それ。兼正の坂を夜に登っていく人影を見たとか、誰もいないはずなのに人がいるのが窓越しに見えたとか」
そう、と高見も頷く。
「子供の噂話を真に受けるのもどうかとは思うんですけどね。ただ、大人でもいるんですよ、こう――雨戸の間から光が漏れてるのを見たとか、塀の中で物音がしたのを聞いたとか言う人がねえ」
「気のせいか、勘違いではないんですか」
静信が問うと、高見は首を傾げる。
「どうでしょうねえ」
「何しろ建って長いのに無人のままだし、それにああいう変わった風情の建物ですから、怪談話の種になってしまったんじゃないかな。本当に誰かが出入りしているなら、そんな曖昧な話じゃなく、もっとはっきりした話として広まるでしょう」
高見は首を傾げて考え込む。静信は言葉を重ねた。
「ひょっとしたら、外観こそは完成している風ですけど、内装で何かやり残した工事があって、人が出入りしているのかもしれません。もしも住人だったら、そんなにこそこそ出入りはしないでしょう」
「それは、ああやって子供を引っかけたから、こそこそせざるを得ないのかもしれないじゃないですか」
「だったら、ほとぼりが冷めるまで近寄らないんじゃないかな。単なる怪談話だと思いますけど」
「そうですねえ」
高見は言ったが、やはり釈然としたふうではなかった。
留美は息を吐く。
「なんにせよ、さっさと越してくるなりしてくれれば、すっきりするんですけどね」
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
「ふきさん、こんばんは」
矢野|妙《たえ》は煌々と明かりの点いた茶の間の人影に向かって、軽く鉢を掲げてみせた。茶の間にいた後藤田ふきが、驚いたように振り返る。
「あらあ、妙ちゃん」
いいながら、ふきは立って縁側へと出てくる。少し足を引きずるのは、ふきが関節炎を患っているからだ。網戸を開け、軽く眉を顰めるようにして膝をついた。
「おかずを余計にしちゃったから。ふきさん、いらないかと思って」
「悪いわねえ、いつも」
「娘は店で夕飯を食べるから、あたし一人でしょ。でも、一人分だけ作るのって難しいのよねえ。だからって、店に行って油っ濃いものを食べる気にもならないし」
「歳を取ると、洋食はねえ」
ふきは言って、手渡された鉢を軽く拝むようにする。膝に手を当て、叩き伸ばすようにしながら立ち上がった。
「まあ、お坐んなさいよ」
言って奥へ足を引きずっていくふきを見送り、妙は縁側に腰を下ろす。茶の間は、しんと静まり返っていた。珍しくテレビが点いてない。ふきの息子の秀司も姿が見えなかった。
どこかに出かけているのだろうか、珍しいことだ。秀司は三十八、いや三十九になったのだったか。ふきの末子だ。一人だけ結婚しそびれて、今も家に残っている。よく夜遅くに娘がやっているドライブインに来るようだが、誘い合って飲みに来るような友人はない。加奈美はカウンターが暗くなると言って、秀司の来店をあまり歓迎していないふうだった。
妙は縁側に座って、秀司の行方について考えた。さほど強く興味があったわけではない。ただ、茶の間を外から覗き込んだとき、白々と明かりの点いた茶の間にふき一人だった。その姿を見たときの気分が喉元に引っかかっているだけだ。老人がぽつんと座っているのは見ているだけで寂しい。きっと娘が店に行って独りで食事をする自分も、ああいうふふうに見えるのだろうと思うから、一層うら寂しいものがある。
「ちょうど切らしてて、何にもないんだけど」
盆を持ったふきが戻ってきた。
「お構いなく」言って、妙は言葉を継いだ。「ところでねえ、ふきさん、兼正の家に人が越してきたかどうか知らない?」
湯飲みを差し出して、ふきは首を傾げる。
「何も聞いてないけど。越してきたの?」
「そのはずなのよ。今朝お手水に起きたときに、明かりが点いているのを見たんだもの」
「見間違えじゃないの?」
「違うわよ。前にも明かりを見たの。その時には見間違いかしらと思ったんで、よくよく気をつけて見たんだから。あの位置に見えるのは絶対に兼正よ。兼正でなきゃ、街灯もないようなところだし、夜に行き来する人だっているわけもないんだし」
「そうかしらねえ」
「なんだかあの家、気味が悪いのよねえ。本当に間違いなく明かりが点いてたの。でも、誰もいるはずがないのに明かりが点いてるなんて、どういうことだと思う?」
縁側に座り込んだ妙に、さあ、とふきは返す。我ながら素っ気ない声だ。話に気が乗らないのを察してくれればいいが、と思う。そして気を悪くしないでくれればいいのだが。
「こんなところに縁もないのに越してくること自体、何か曰くありげじゃない。変な人じゃなけりゃいいんだけど」
「そうねえ……」
この声はいよいよ素っ気なかった。妙はようやくそれに気づいたように、わずかに困惑した顔をした。
「なんだか邪魔しちゃったみたいね」
そういうわけじゃ、とふきは言い淀む。
「ちょっと今、秀司が寝付いてて」
「あら、夏風邪?」
「そうじゃないかと思うんだけど、ほら、病気ひとつしない子が寝付くと、どうもねえ」
「そうなの。御免なさいね、取り込んでる時に座り込んじゃって」
「あら、そんなことじゃないのよ」
「いいのよ、気にしないでちょうだい。夏風邪ひとつでも、気を抜くと怖いから、お大事にねえ」
ふきが頷くと、妙は立ち上がる。また、といって黄昏の落ちた道を歩いていった。
悪いことをした、とふきは思う。滝はドライブインをやっている娘の加奈美と二人暮らし、その加奈美が夜は遅くまで店に出てしまうから、妙は一人の家が寂しいのだ。何かれとなく理由を見つけては、はるばる村を横切って訪ねてくる。
「……御免ね、妙ちゃん」
呟いて詫びて、ふきは兼正の家の方向を見た。そこに家のあるはずの斜面はただ暗い。一別で興味をなくし、ふきは茶の間の奥、開け放した襖から廊下へ出た。
「ねえ、秀司。妙ちゃんが煮物をくれたんだけど、食べない?」
ふきは声をかけながら、廊下を奥へと歩く。息子の部屋を覗き込んだ。襖は開けたまま、部屋の中に明かりはない。ふきが燃した蚊取り線香の匂いが薄く淀んでいた。
「秀司?」
ふきの息子は、布団に仰臥したまま天井を見つめていた。ぽっかりと開いた目は、この世ではない別の世界を覗き込んでいるように見えた。
ふきは溜息をつく。一人だけ歳の離れた末っ子は、結局ふきの手元に残った。じきに四十になろうかというのに、妻もなく子もない。妙が娘と二人きりなら、ふきは息子と二人きりだ。その息子の様子が村の北にある山入の集落から戻って以来、おかしい。
「大丈夫なの? お前、今日は何も食べてないのよ」
ふきは息子の額に手を当てたが、手の下の肌はむしろひんやりして思えるくらいだ。そうやっても息子の反応はない。思い出したように瞬きしながら、天井を見つめている。
村の北、ちょうど北山の裏側にあたる位置に、山入の集落は孤立している。もともとは山に入る拠点となった集落だが林業が廃れるに連れ住人も減って、現在、残っているのは老人ばかり三人に過ぎない。その老人の一人が、ふきの実兄だった。秀司が伯父――秀正を訪ねて山入に向かったのは五日前、仕事を終えていつものように飲みに出た息子は、寝ようかという頃に電話してきて山入に行ってくる、と言った。
酒が入っているからと、ふきは最初とめたのだが、秀司は「ちぐさ」で秀正の具合が悪いと聞いた、という。買い物のため村に下りてきた兄嫁の三重子かが、そう言っていたらしい。気になるから見舞いに行くというものを、ふき自信、強くとめる気にはなれなくて、気をつけるように言って電話を切った。戻ってきたのはその夜更け、以来ずっとこの調子だ。翌日にはただ気怠そうに見えたが、次の日には寝込んだ。熱があるわけでも咳をするわけでもない。まるで魂をどこかに置いてきたように青ざめた顔で横たわってまま、今日は一日、声をかけてもふきの顔さえ見ようとしない。
「秀司、ねえ」
やはり返答はなかった。視線は天井に注がれたまま、どんよりと濁っている。
医者を呼ぼうかとも思う。尾崎医院の跡取りは、先代と違って往診を嫌がらない。だが、本当に呼んでもいいのだろうか。
ふきが眠っているうちに山入から戻ってきて、以来、様子のおかしい息子。翌日、起こしに来たふきは、秀司の夏布団が汚れているのを見つけた。それは血に見えた。驚いて布団をめくると、眠った秀司は服のまま、しかもその手も服も乾いた血で褐色に染まって異臭を放っていた。慌てて眠る息子の体を検めたが、別に怪我をしている様子もない。
いったい何があったのか、と聞いても息子は返答をしなかった。兄が何か知ってはいないかと電話してみたが、応答がない。ひどく嫌な感じがした。なぜか電話に出ない兄夫婦、秀司の様子。ふきが車なりバイクなりの運転ができるなら、是が非でも兄夫婦の様子を見に行くのだが――そう思いながら、ふきはそれが言い訳に過ぎないことを分かっていた。言ってみるのが、なぜだか怖い。
「ねえ、秀司、……なにがあったの」
ふきが問いかけると、ごろごろと声がした。秀司が喉の奥で唸った声だった。何かを答えたのは確かだが、なんと言ったのかは聞き取れなかった。
「――秀司?」
だが、それきり返答はない。秀司は億劫そうに目を閉じ、そしてやがて浅い寝息が聞こえてきた。ふきは途方に暮れた思いで立ち上がる。もしも明日もこの調子なら、明日こそは若先生に来てもらおう、と考えた。そう、血のことは少し黙っていてもいいだろう。きっと診察には関係ないはずだ。
息子に何があったのだろう、と廊下を茶の間に戻ると、ひたひたと足音が「何かがあったのだ」とつきまとう。何か――秀司が血で汚れるようなこと、そして兄夫婦が電話に出られないようなこと。
(まさか。何を考えてるの)
自分自身を叱ってはみたものの、やはり不安は立ち去らなかった。内向的な息子。この息子が意外に激高しやすい性格であることをふきは熟知している。さらに息子と秀正が仕事のことで大喧嘩したのは、つい先日のことだ。穏和しい息子だが、酒が入ってカッとくるといけない。特に身内に対しては。
(何を考えてるの。こんなことを思い出す必要なんか、ないじゃない)
ふきは頭を振り、再び人気のない茶の間に戻ると、そこで長く考え込んでいた。
――その翌朝、ふきは布団の中で息子が死んでいるのを見つけた。
[#改段]
[#ここから3字下げ]
三章
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
静信がその知らせを受け取ったのは八月六日、土曜の早朝のことだった。朝の勤行を終え、池辺と鶴見を本堂に残して一足先に庫裡へ戻ると、ちょうど事務所から光男が出てきたところだった。
「ああ、若御院」声を上げ、小走りに廊下をやってくる光男の様子は、いかにも火急の用がある、というふうだった。「いま、電話があって。後藤田の秀司さんが亡くなったそうです」
静信は瞬いた。
「秀司さんって、まさか」
狭い村とは家、住人の全てと知り合いなわけではないが、静信は少なくとも、秀司が健康な男であることも急死するような年齢でないことも了解していた。
「事故ですか」
「夏風邪をこじらせたとか、おっ母さんは言ってましたが。小池の昌治さんが世話役代表で、手が空き次第、打ち合わせに来るそうです」
「分かりました。ありがとうございます」
光男は頷いて庫裡の廊下を本堂のほうへと歩いていく。入れ替わりに静信は事務所に入った。黒板を見ると、光男のおおらかな文字で「後藤田、打ち合わせ、小池」と書いてある。
村には|弔組《とむらいぐみ》と呼ばれる制度があった。村には葬儀社がない。これに代わるものが弔組だった。いったん集落のどこかで不幸があると、近所の者は総出で行ってこれを助ける。弔問客の供応のための女ではもちろん、死者を埋葬するために、男手は不可欠だった。村では未だに死者を土葬にする。墓所は家ごとに村を取り巻く山の中に設けられていて、そこに墓穴を掘るのも、そこまで棺を担ぎ上げて埋め戻すのも、男手なしには成り立たない重労働だ。その弔組の代表である世話役は、葬儀に際しては世話役代表を務め、葬儀社に代わって一切を采配する。棺の手配から必要なものの斡旋まで、およそ葬儀に関わることの全てを代行した。小池老人はもう長いこと中外場の弔組世話役を務めている。
(夏風邪……)
秀司は確か、静信よりも六つか七つ上ではなかっただろうか。法事で出入りするから顔はよく知っているが、取り立てて親しいというほどでもない。確か母親と二人暮らしだ。さぞかし母親の後藤田ふきは落胆しているだろう。
(なんて、あっけない)
鬱々と考えながら、奥に向かう。茶の間を覗いたが、母親の姿は見えなかった。そのまま離れ――といっても実際には母屋から少し突き出しているだけで、離れているわけではない――に行くと、父親の枕許で食事の介助をしていた。「おはようございます」と、これは今朝初めて会う父親に向ける。
この離れと呼ばれる棟が、寺で唯一、洋間のある建物だった。父親の信明は痩せた体をベッドに横たえ、電動のそれの枕辺を上げて半身を起こしている。昨年の初めに脳卒中で倒れ、以来、四肢に麻痺が残っている。歳のせいもあって、寝付いて以来、徐々に容態は悪化しつつある。かろうじてフォークやスプーンを持つことはできたが、立つことも歩くこともできなかった。
「お父さん、後藤田の秀司さんが亡くなったそうです。戒名はどうしましょう」
父親も母親も驚いたように静信を見る。
「そんな、まだお若いのに」
絶句する美和子の横で、信明は投げ出すような動作でスプーンを置いた。
「秀司……ふきさんの、末の、息子さんだったか」
信明は病を得て以来、言葉を句切るようにして喋る。うまく呂律が回らないのを、意志の力で賢明に御している印象があった。
美和子は眉根を寄せて、信明に頷く。
「指物の卸をやってる秀司さんよねえ? 何でなくなったんですって?」
「なんでも夏風邪をこじらせたとか。じきに小池の昌治さんがいらっしゃいますが」
「うん。戒名は、考えて、おこう」
静信は軽く頭を下げる。未だ、寺のことは万事、信明に諮ることにしている。寺の住職はあくまでも信明であって、静信は副住職、信明の代理でしかない。旦那寺の住持であることは、能力には関係がない。それは檀家との信頼関係に置いて築かれる地位だ。
「敏夫くんに、連絡」
「はい。行って様子を訊いておきます」
「それから、墓地の、整理を」
信明が短く言って、静信は頷く。人ひとりを埋葬するには相当の大きさの土地が必要になる。ひとり死ねば、墓地を整理してひとり分の広さを確保しなくてはならなかった。かつての塚の上に育った樅を切り、根を掘り上げる。あらかじめ墓所の整理をしてあるといいのだが。
「世話役にお願いしておきます」
静信が行ったところで、光男が離れに顔を出した。
「小池さんがおいでです」
小池老は高齢にもかかわらず、痩身[#「身」の字は「身」+「はこがまえ」+「品」 Unicode:U+8EC0]ながら頑健な体つきで、血色も良く、歳よりかなり若く見える。文字通り|矍鑠《かくしゃく》とした老人だった。
「とんだことになってねえ」
「お疲れさまです」
小池は勝手知ったる、の伝で事務所の椅子に座り込んでいた。ふきさんが気落ちして、慰める言葉もなくてなあ。逆縁の不孝とは、よく言ったもんだよ」
扇子で顔を扇ぎながら、光男の出した麦茶を飲み干す。
幾度も父親が――そして何度か静信がそうしたように、簡単に葬儀の手順を打ち合わせる。通夜は本日、密葬は明日、土葬にするので夏場は葬儀を急ぐ。
「とにかく急いで枕経を頼みますな。戒名は相応でいいということだから」言って小池は襟足を扇いだ。「急なことだし、大変だ」
「父が墓所の整理を気にしていましたが」
ああ、と小池は頷く。
「ふきさんが、ちょっと前に自分用に整理しておいたらしいな。夏場のことだし、葬式を遅らすわけにはいかんし、整理してなかったら、工務店に頼んで大急ぎで整理をせんといかんところだった。助かった、と言いたいところだが、ふきさんの気持ちを考えるとなあ。なにしろ自分が収まるつもりの墓に、息子が入るんだからねえ」
そうですね、と静信は呟く。ときに、と小池老は声の調子を変えた。
「若御院はこのところ、山入の秀正さんにあったかね」
「山入の――村迫秀正さんですか? いえ、彼岸にお会いしたきりですが」
「まさかその時に、旅行に行くとか、出かけるとかいう話は出なかっただろうなあ――いや、出ても仕方ないか。彼岸の話じゃあ」
「いらっしゃらないんですか?」
「うん。連絡が取れんのだわ。ほら、秀正さんはふきさんの兄貴だから。朝から電話しとるんだが、家に誰もおらんようで。そんなこととは夢にも思わず、山に入っとるんだろう」言って小池は立ち上がる。「とにかく、よろしくお願いしますな」
「できるだけ急ぎますので」
「済みませんな。――どれ、失礼する前に、御院を見舞っていこう」
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
静信は、留守居をよろしく、と草むしりをしている光男に声をかけて境内を横切る。墓地から山に入り、林の中の小道を突っ切って山を下りた。製材所の地所を抜け、溝を渡って土手に出る。土手の上の踏み分け道のような小径を辿ると、殺風景なコンクリート造りの建物の脇に出た。生け垣の間にしつらえた枝折り戸を抜けた向こうが尾崎医院の裏庭だった。小さい頃から幾度となく通った順路だ。田舎には道路以外にも道が無数にある。
勝手に裏庭を通って、目指すドアを開ける。職員が出入りする通用口は裏階段のある小さなホールにあり、ホールは間仕切りのガラス戸で表からは区切られている。勝手に上がり込み、草履を揃えたところで、ちょうど間仕切りの向こうを看護婦の律子が通りがかった。
あら、という顔をした律子は、すぐに廊下をやってきてドアを開ける。
「おはようございます。先生ですか?」
「ええ。診療時間中に悪いんですが」
「大丈夫ですよ。どうぞ」
律子は診察室のほうを示したが、静信はそれを断る。
「いや、衣ですから、ここでいいです」
「そうですか? じゃあ、ちょっとお待ちになっててくださいね」
律子は廊下を診察室へと小走りに向かい、すぐに戻ってきて背後を示した。
「院長室――じゃない、控え室にどうぞ、だそうです」律子はくすくす笑う。先生、助かったって顔をしてましたよ」
なんとなく想像がついて、静信は微笑んだ。秀司が死んだ噂はすでにあちこちに届いているだろう。患者たちは診察を受けている時間よりも、無駄話をしている時間のほうが長い――。
軽く頭を下げて控え室に向かう。かつての院長室は改修の際に潰されてもうない。代わりに診察室の隣に小部屋を設けて、敏夫は自分の控え室にしていた。かつての院長室とは違い、特にこれといった装飾もない機能一本槍の殺風景な部屋だ。応接用ソファは先代からのものだが、そこには仮眠用の毛布や枕がつねに出ているし、壁にはカタログや資料が所狭しと貼られている。形ばかりノックをして勝手に部屋に入ると、ちょうど診察室のほうから敏夫が入ってきたところだった。
「文字通り、地獄に仏だな」
「悪いな」
「今は後光が差して見えるぜ。なにしろ朝から苦行を重ねてきたからな」言って敏夫は毛布を押しのけてソファに坐り、テーブルに足を投げ出した。「いつもは勝手に薬局に入って薬を[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んで帰りかねない連中が、今日に限って問診を受けたがる。結局、何を話すかと言えば後藤田の話だ」
静信は苦笑した。患者のほとんどは老人で、さらに大部分が一進一退の病であることが多い。関節炎や腰痛、皮膚病、高血圧、患うと言うほど酷くはないが、健康とは言いかねる、そんな患者が大多数を占めていた。長く通っている患者の中には、看護婦に声だけかけて勝手に物療室に入っていく者もいるし、電話であの薬を出してくれと要求して家族に受け取りに来させる者もいる。三年前、病院を継いだ敏夫はこういった無秩序を廃絶しようとやっきになっていたようだが、じきに降伏して両手を上げた。老人が圧倒的に多い村では、患者の自発的な協力なしには病院が動かないことを悟ったらしい。
敏夫はソファに体を投げ出して静信を見上げた。
「それで? どうせお前も秀司さんのことできたんだろう。おれはまた同じ話を繰り返すってわけだ。――これから枕経か?」
「うん。その前に様子を訊いておこうと思って」
敏夫は頷く。父親から受け継いだ静信の流儀を敏夫は承知している。何のために何を訊きたいのだ、とは言わなかった。
「おれが婆さんに呼ばれて駆けつけた時には、秀司さんはこれ以上ないくらい死んでた。もう死斑も現れてたし、硬直も起こってた。おそらく、夜のうちに死んだんだろう。俺が行ったのは午前七時前だったかな。少なくとも明け方に死んだわけじゃない。たぶん深夜の話だ」
「何が原因だったんだ?」
敏夫はさも驚くべきことを訊かれたかのように目を丸くする。
「おれが看取ったわけじゃないぞ。それ以前、寝込んだ時点で診察だってしてないんだから、死因が分かるはずがないだろう。おれが最後に診察した秀司さんは、きわめて健康そうに見えた。――荷物を落として足の親指の生爪を剥いでいたのを除けば。それだってもう半年やそこら前の話だ」
静信が苦笑したところにノックの音がした。看護婦の律子がトレイを持って入ってくる。
「ひょっとして愚痴ってるんですか」苦笑ぎみに笑って、律子は敏夫をねめつける。「先生、お行儀」
「このテーブルは、今日から足台になったんだ」
「じゃあ、その足台から足を除けて、お茶を置かせてください」
律子は言って、敏夫の足を軽く叩き、ローテーブルの上からどかせて湯飲みを置く。
やれやれ、と口にして敏夫は足を下ろした。
「先生ったら、ご機嫌斜めなんですよ、患者さんが放してくれないもんだから」
「斜めにもなろうってもんだ。みたってどうしようもない年寄りばかりがやってくる。それも、朝早くから玄関の前に並んでやがる。それでこっちは天手古舞いだ。本当に診る必要のある患者に限って、手の施しようがなくなるまで、来ようとしない」
だいたいだな、と敏夫は湯飲みを静信に突きつけた。
「滅多に寝込まない人間ってのは、滅多に病気をしないんじゃなくて、多少具合が悪くても踏ん張りが利くんだ。自己管理能力が高いから、風邪ていどなら働きながら治す。苦痛に対して辛抱強い。そういう人間が寝込むなんてのは、よほどのことなんだ。それを周囲は滅多に寝込まない人間なんだから、そのうちに治るだろうと舐めてかかって、常にあそこが痛いだの、ここが悪いだの言ってる甘ちゃんばかりを看病する」
極端を言う、と静信は苦笑した。
「後藤田の秀司さんにしてもそうだ。本人は三日も前から寝付いてるっていうのに、母親は医者を呼びもしなけりゃ、病院に行かせもしない。あげくの果てに、起きてみたら死んでただと。さほど熱もなかったし、軽い夏風邪か暑気あたりだろうと思ったとさ」
「そうか……」
「話を聞いただけじゃ、一帯どこが悪くて寝込んでいたのかさっぱり分からん。咳はない、あったというほどの熱もない、特に痛い所があるというふうでもない。とにかく顔色が悪かった、ひどく疲れている感じだった、食事が喉を通らないふうだったという」
それで医者に診せる踏ん切りがつかなかったというわけだ、と静信は目を伏せた。誰も家族が大病をすることなど考えたくない。だから目を逸らし「まさか」という言葉で括って、そんな可能性など存在しないふりをする。そうしているうちに、もはや念頭にも浮かばなくなってしまうのだ。
敏夫は、げんなりしたように息を吐いた。
「いわゆる突然死ってやつだ。解剖でもしてみない限り原因が分かるはずもないし、解剖したって、いわゆるポックリ病なら理由は出てこんだろう。しかも当の後藤田の婆さんが、解剖は嫌だという」
「勧めたのか、そんなことを」
「必要な手続きってやつさ。だが、遺族が嫌がるものを、無理に持って行くわけにもいかん。行政解剖や司法解剖ってわけでもないんだからな。こうなったらもう仕方がない。伝家の宝刀、急性心不全と書いて死亡診断書を出したさ」
結局のところ、敏夫はそれが不服なのだろう、と静信は推測した。村人が病院に求めていることは、突き詰めれば大きな病院にかかるべきかどうか判断してくれることでしかない。家で養生していればいいのか、それともきちんと医者にかかるべきなのか、それをふるいわけてくれる人間が欲しいのだ。そうでない患者は害にならない薬を出してもらえ、愚痴を聞いてもらえればそれでいい。敏夫はずっとそういう立場に抵抗しようとしていたが、抵抗し通せるものでもないだろうと思う。
「残された婆さんのほうが、病人みたいな有様だ。まあ、せいぜい泣き言を聞いてやるんだな」
静信は頷き、腕時計に目をやる。もう行かなくてはならない。とにかく遺族にとっては突然の――おそらくは理不尽な死であろうことは分かった。悲嘆に暮れる遺族の前で詳しい事情は訊きにくい。けれどもその死の状況を理解していなければ、どんな不調法な言葉をかけてしまうとも限らない。だから、前もって尾崎医院に訊けることは訊いておく。どうせ村には病院はひとつしかない。ほとんどの死者は敏夫の手を経なければ、埋葬されることができないのだ。
[#ここから4字下げ]
村は死によって包囲されている。
[#ここで字下げ終わり]
――包囲されているのは、僧侶である静信であり、医師である敏夫なのかもしれなかった。
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
後藤田の家は上外場にある。上外場は川端の村道に沿って長く北に延び、寺の南一帯に広がる門前の集落と複雑に入り混じっていた。後藤田の家はその上外場の集落の中でも、もっとも北のほうにあり、寺のある北山に接する。東側の斜面を削り取ったようにして立っていた。
「なんだか、怠そうにしててねえ」言って、ふきは目頭を押さえた。「最初は暑気中りかしらね、と言ってたんですよ。まずそうにご飯を食べるわね、と思っていたら寝込むでしょう。もともと病気をしない子なんで、こっちも油断しているし、本人も寝ていれば治るって言うし、……それが」
ふきは弔問客の膝先に泣き崩れ、静信は座敷の一隅に控えてそれをやるせない気分で見ていた。親を亡くした子供も哀れだが、子供を亡くした親は、何かが一本、折れたように見えて、いっそう哀れに思う。
「お医者に診せたらよかった」ふきは声を上げて泣く。
「秀司が嫌だっていっても、若先生に来てもらったらよかった」
ふきのせを小池老が撫でる。手伝いのために集まった者のうち、ふきの近くに集まった老女たちは、もらい泣きしているようだった。座敷の、別の一郭では、不憫そうな目をふきに向ける者たちがいる。
「しかし秀司くんも元気そうだったのになあ」
「元気な人ほど逝くときは呆気ないって言うしねえ」
「周りも本人も、どうしても甘く考えるからな」
そして、別の一群の声が聞こえて、静信はわずかに眉を顰めた。
「……驚いたわよ、立派な屋根の乗った門のある塀なんだもの」
「それを建てるって? 誰が」
「ほら、前原のお婆ちゃん」
「だってあの人は係累がなかったろうに」
「そうよ。年金で生活してるっていうのに、そんな大金、どうしたのかしら」
「あら、あの人は山持ちでしょう」
「山ったって、山入の林道のほうじゃない。二束三文にしたって買い手なんか、いやしないわよ」
静信は軽く息を吐く。村は狭い。親戚関係、寄り合い、青年団、様々な組織で網の目のように人間関係が入り組んでいる。だからといって、必ずしも付き合いが深いとは限らなかった。葬儀に駆けつけるほどの縁はあっても、死者を惜しんで泣くほどの付き合いはない、そういう関係が村には無数にある。
「済みませんねえ」
小声で言われて、静信は振り返る。手伝いに来ていた老婆が静信の前に置かれた湯飲みを換えた。
「もう少し待っててくださいねえ、お客さんが途切れなくて」
頷いて、静信は軽く息を吐く。自分がこの場で、渋い顔をしてはいけない――。
村に死は珍しいことではない。老人の多い村ではむしろ死が多い。村人にとって、老人の死は悲劇ではない。それは避けられない人の営み、老人は生という巡礼を終えて山へ帰る。村で生まれた者は、村で人としての営みを全うし、やがて山へと還っていくのだ。
だが、秀司はまだ営みを終えてない。村では時折、こういう惨いことが起こった。逝った者にとっても残された者にとっても、それは悲劇でしかないが、死は時折、人の帰還を待ちきれずに、樅の中から現れ村人を攫っていく。秀司は鬼に引かれたのだ。
[#ここから4字下げ]
――屍鬼だ。
[#ここで字下げ終わり]
黙って考えを巡らせていると、世話役の小池老にどうぞ、と声をかけられた。静信は読経のために秀司の枕辺に寄った。
静信が読経を終えると、秀司の体は納棺される。ふきの側からとりあえず人が途切れたのを見て、静信は側に寄った。
「これで一旦、失礼します。どうぞ、お気落としなく。さぞお寂しいかと思いますが」
ふきは頷いた。隠居した先の住職も穏やかな男だったが、息子のほうは一層穏やかに語る。一瞬、何もかも吐き出してしまいたいという衝動に駆られた。
(油断してたわけじゃないんですよ)
寝付いた息子が心配でなかったわけじゃない。医者に診せようと思った、何度も思った。医者を呼ぶことは呼ばないことよりも悪い結果になりはしないかと、怖かっただけだ。息子のことが心配だったから。
(布団の血……)
ふきは静信を見上げ、首ひとつ振って膝の上の数珠に目を戻した。
(もう終わったことだ)
秀司に今さら、何があったのかと問うわけにもいかない。
「どうも、ありがとうございました。……また、今夜もよろしくお願いしますねえ」
ふきはそれだけを言った。静信は頷く。
「大変なときですが、ご無理はなさらないでください。秀司さんを亡くされておつらいでしょうが、ふきさんが倒れれば同じように辛い人がたくさんいるんですから」
ふきは頷く。
(でも、あの子の布団には血がついていたんです……)
集まった人々に挨拶をして小池老の姿を探し、静信は茶の間で電話をかけているのを見つけた。
「小池さん、わたしは失礼します」
静信が声をかけると、無言で受話器を耳に当てていた小池老は、ああ、と声を上げて頷いた。
「お疲れさまでした。また通夜にはよろしくお願いしますな」静信に言って、受話器を置き、渋面を作って独りごちた。「……どこに行っとるのかな」
「村迫の秀正さんですか?」
静信が訊くと、小池老は困り果てたように頷く。
「田圃に出るか山に入ってるかしてるんだと思うんだが。――そうだ、若御院は秀正さんとこの山がどのへんだか分かるかね」
「分かると思います。墓所のある辺りですから。なんでしたら、ぼくが行ってきましょうか? どうせ今日はしばらく特に用がありませんから」
小池老は安堵したように中途半端な笑みを浮かべた。
「お願いしても構わんかね。なんとも申し訳ない話だが。何しろ秀正さんとこの山を知ってる者がいなくてね。探せば誰かが知ってるはずなんだけども、わしらはこれから墓掘りに行かなきゃならんし」
「ぼくが行ってきます。山に入ってみて見あたらないようなら、家にメモを残しておきますから」
静信は後藤田家を辞去し、いったん寺に戻ってから事情を光男に伝えた。山に入ることができるよう衣を洋服に着替え、寺を出る。
鐘楼脇から私道を抜け、山門前の石段下に出る。石段下からの短いが急峻な坂道は、昔ながらの石畳で、それがほとんの二百メートルほど続いて、つづまやかながらも門前町らしき光景を作っていた。蝋燭や線香を扱う千代の雑貨屋、小さな石屋に花屋、こまごまとした仏具などとともに、村内で使う卒塔婆や棺を取り扱う三宝堂。このごく短い門前町の出口に神社の御旅所があるのは、そもそも神社が寺と一体だった頃の名残だ。
徐行しながら車を進めると、店番をしていた人々がわざわざ表へと出てくる。車を見送るようにして頭を下げるのがバックミラー越しに見えた。
御旅所の角を曲がってアスファルト道に出ると、後藤田の家に向かうのだろう、常より人通りが多かった。ほとんどが道を川端の村道へと向かって歩いていく。それらの人人を追い越していくと、その多くが接近する車に気づいて振り返り、ハンドルを握った静信に目を留めて頭を下げた。
――これが、静信の背負ったものだった。
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
「ああ、若御院だ」
武藤は追い越していった白のセダンを見送った。
「衣は脱いでたな。もう枕経は終わったんだ」
呟く武藤を、結城は困惑した気分で見守った。
弔いがあるから、と武藤が声をかけてきたのは今朝のことだ。村の者は葬儀に際して助け合う。相互扶助のために近隣所で作る組織が弔組というものらしかった。そういう組織があるらしいことは知っていたが、結城はこれまでその弔組に組み込まれていなかった。行かないか、と誘われたのはこれが初めてのことで、ようやく自分も村の地縁社会の中に入りつつあるのだ、という感慨を持って出かけてきたのだ。
しかしながら、誘いに来た武藤に連れられて家を出ると、近所のどこにも葬式らしい様子はなく、武藤もまた中外場の集落を出て|上《かみ》へと向かう。てっきり寺で葬儀があるのだと思って黙ってついて行くと、寺のほうへは行かずに上外場の集落へと向かった。要は隣組のような制度ではないのだろうか。なのにどうして、はるばる上外場に出かけなければならないのか、結城には釈然としない。
「武藤さん」結城は足を止めた武藤に呼びかける。「なんだって上外場に来るんです。お寺に行くわけじゃないんですか」
「後藤田の家に行くんだよ。弔組だから」
「だから――」
その弔組というのはどうなっているんだ、と聞こうとして、結城はすぐ脇の畦道から上がってきた男に目を留めた。
「広沢さん」
「ああ、どうも」広沢は例によって温厚な笑みを浮かべる。「そうか、武藤さんも結城さんも弔組ですか」
「というと、広沢さんもですか?」
結城は瞬いた。これまた一層、釈然としない。結城も武藤も中外場三班の人間だし、広沢が何班かは知らないが、少なくとも三班でないことは確実だった。それがどうして上外場の葬儀で出会うのだろう。
不思議そうにしている結城に気づいたのだろう、広沢は肩を並べながら微笑む。
「わたしも同じ弔組なんです。中外場三組」
「でも」
「住まいは六班なんですけどね。弔組と班は別物なので」
はあ、とと結城は曖昧に頷いた。
「結城さんは中外場三班ですよね。私は六班。これは行政上の区分けなんです。外場は行政上、外場校区というんですが、この外場校区は六地区でできている。各集落が地区です。これがさらに班に細分されていて、これは純粋に家の所在による区分けなんです」
「弔組はそうじゃないんですか?」
「ええ。村には本家・分家というものがありますから。弔組は基本的に班を母体にしてるんですが、分家は本家のある場所の弔組の所属するんです。祝儀・不祝儀は結局のところ、そういう血縁を抜きにはあり得ないわけですから」
「ああ、そうか。祝儀にしろ不祝儀にしろ、結局、血縁は集まるわけですからね」
「そういうことですね。昔は――わたしの父親の頃までは、|祝組《いわいぐみ》と言って、祝儀で集まることもあったようですが、いまどき本家の座敷で結婚式をする者もいないですから」
「祝組と弔組は同じものですか?」
「微妙に違いますね。弔組は寺の領分ですが、祝組は神社の領分なんです。弔組のほうは世話方といって寺の檀家組織との関係が深いし、祝組では村方という氏子組織との関係が深い。ですから、同じ家でも弔組と祝組では若干、顔ぶれが違ったりします」
「なるほど」と口を挟んだのは武藤だった。「それが釈然としなくて、あんた、さっきから首をひねってたんだな」
結城は苦笑した。
「そう。なんだって上外場に行くんだろうと思って。そうか、血縁か」
「そういうことです。私は六班に住んでますが、本家は三班にあるので、弔組は中外場三組の所属になるんです。後藤田も同じです。家は上外場にあるんですが、弔組は中外場の三組」
「なるほど。広沢というと、うちの隣かな。あそこが広沢さんのところの本家になるんですね」
広沢は笑んだ。
「結城さんの家の隣じゃなくて、三班のいちばん下の家です。あそこも広沢で、あちらが本家です。お隣の広沢さんも、遠く遡れば縁続きなのかもしれないですけど、今はいちおう、関係がありません」
「ああ、あそこもそういえば広沢か――。考えてみると、広沢という家は多いですね」
ええ、広沢は頷く。
「村には四家というのがあるんです。竹村、|田茂《たも》、安森、村迫の四家。これがどうも、村を拓いた家らしいんですけど。これに広沢を入れて五家と数えることもあります。それくらい多いんです。近頃は、田茂も村迫もずいぶん減りましたから、数の上では広沢のほうが多いくらいじゃないかな」
結城は目を見開いた。
「村が拓かれたのは――」
「江戸の初期ぐらいの頃の話だそうですね」
「その頃からあるんですか? 四家も? それが今まで続いているんですか」
これは都会生まれ、都会育ちの結城にしてみると、ちょっと驚くべきことだった。結城自身は都会で生まれたが、父親は東北の出身で、母親は東海地方の出身だった。それも土地に根付いた家、というわけでなく、祖父母の親の代にもなると、もうどこの者なのか分からない。
「そのようですね。寺ができたのが、それから百年ぐらい後のことなんだそうですが、寺ができた頃には、四家も広沢もすでにあったようですね。もっとも、その頃には名字はなかったわけですけど」
「すごいですね」結城は半ば感嘆して息を吐いた。「それが、土地に根付く、ということなんだなあ」
広沢は微笑んだ。それは結城からすると、根付く土地を持ち、確固としたものに所属する者の余裕から来る笑みのように思われた。
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
静信は川端の村道を北上する。ついさっき出てきたばかりの上外場の集落を過ぎ、山入へと向かう切り通しへと車を進める。上外場を過ぎると、村道からは路側帯が消え、その分道幅が狭くなる。寺のある北山の麓に沿って迂回するように北へと回り込む。ゆるやかな上り道になっていた。
道の片側は鬱蒼とした樅の林、それが斜面を削り取った段差の間際まで迫っている。土止めのための擁壁は川原石を積んだ古いもので、苔と|羊歯《しだ》に覆われていた。それとは反対の片側も樅の並木で、その向こうには渓流が流れている。とはいえ、この辺りではかなりの高さの渓谷になっているから水面は見えない。その渓流は徐々に細くなり、やがて道を離れていった。そうなるともう、かろうじて車が離合できる幅の道路は、両側を樅に挟まれて見るべきものもなかった。ガードレールのようなものもなく、路側帯もセンターラインもない。
樅に視野を閉ざされ、単調に幹が続く中を走り抜ける。カーブを曲がると同時に林が途切れて小さな谷間――谷間というより山間の窪地に拓けた集落が現れた。北山を迂回して山の北側に出たのだ。これが、山入だった。
道は林道と交わり、さらに細くなって集落へと上がっていく。細い坂道の両側にはもうわけ程度の棚田と家が点在していた。かつては山に入る拠点となった集落だが、林業が寂れるに連れて人口も減り、今では二世帯、三人だけが生活をしていた。
山入は眠っているように静かだった。開けた車の窓から蝉の声だけが微かな風音とともに吹き込んでくる。常に静かなところだが、まるで無人の廃屋に迷い込んだような気が静信にはした。やがて本当に無人になる日も遠くないだろう。村迫秀正、三重子の夫婦も大川義五郎もすでに高齢で、もういつ何が起こってもおかしくはない。
おとどれくらい山入に来ることがあるだろう、と静信は集落を見渡した。坂道は斜面と斜面の間を縫うようにして細く曲がりながら続いている。十数戸あまりの家が見えるが、そのほとんどが廃屋で、人の暮らしている建物は二軒しかない。ずいぶんと前に廃屋になった家の中には、屋根が歪んで軒が落ちているものもある。家は住人を亡くすと急速に荒廃する。下の六集落なら、そういった家を買い取って越してくる物好きもいるが、山入ではそれもないだろう。――集落は樅の中に呑まれようとしている。
そう考えたところだったので、一軒の廃屋に目が留まった。閉め切った雨戸に真新しい板が打ち付けられている。一瞬だけ怪訝に思いながら、静信はそれを通り過ぎ、少し上手にある家に車を向ける。電話に出ないのなら山に入っているのだろうが、念のためにと村迫家の地所に入った。
山入の家はどれも道よりかなり高い。山肌を削り、石垣を積んで家を建ててある。必ず坂の上の方に出入り口があって道と接する構造になっていた。そのスロープに車を止め、とりあえず玄関に向かう。どんなふうに訃報を伝えたものか考えながら、声をかけつつ玄関を開けた。前庭に面した雨戸が半分引かれていたこと、この夏の暑い盛りに玄関の戸が閉まっていたことに不審を覚えたのは、玄関の内部に異臭を嗅いでからだった。それは何かが腐った種類の匂いだ。ふと嫌な予感がした。
「村迫さん」
静信はもう一度声をかけたが、返答はない。困惑して表に出、家の周囲を見渡した。
「村迫さん、いらっしゃいませんか」
静信は幾分、縋る気持ちで家に向かって声を上げた。少しずつ嫌な気分が募ったせいだが、これに対する応答はどこからもなかった。裏から誰かが顔を覗かせることも、納屋から人が出てくることもない。庭に面した窓は全て閉ざされ、ぴったりとカーテンが引かれている。村では山に入ったり田圃に出るのに戸締まりなどはしない。夏のことならなおさらだった。熱気が家に籠もらないよう、風邪を通すためにあちこち開け放っていく。
大川義五郎なら何か知っているだろうか、そう思いながら静信は念のために裏手に回った。台所脇の戸口を見つけて開けてみる。
「村迫さ――」
言いかけて、静信はとっさに後退った。戸を開けたとたん流れ出てきた異臭が顔を打つようだった。
コンクリートを布いた土間には履物が散乱し、所々に赤黒い染みが広がっている。染みの上に蠅が|集《たか》り、風邪に驚いたように舞い上がっては螺旋を描いて染みに戻る。
(……血?)
それは血痕に見えた。静信は軽く息を詰めて、おそるおそる中を覗き込んだ。
戸口の中にはかなり大きな踏込があって、一段上がって台所になっている。小さなテーブルが置かれ、一応ダイニングキッチンの体裁になっているが、椅子のひとつは倒れ、テーブルも誰かが押しやったように斜めになっていた。ビニール製のテーブルクロスは半ば落ちかけ、卓上の小物は倒れて転がっている。床は投げ出された物と至るところについた汚れで、ひどく散らかっている印象を受けた。子供が遊んだ後のようだ、と静信は思ったが、散乱しているのは玩具などではなかった。
それは、犬か何かの毛皮に見えた。片づいた床の至るところにはそれらが投げ出され、随所に赤黒い染みができていた。そして、猛烈な腐臭。
「これは」
言いさして、静信は鼻から口を思わず袖で覆う。腐臭が喉の奥に流れ込んできて、咳き込みそうになった。腐臭と相まって吐き気がする。比較的大きな毛皮は、犬か何かの胴体に見え、あるいは足に見えた。小さく茶色の兎のものらしい足が、戸口の側に転がっている。どれもこれも虫が湧き、びっしりと蠅が集っていた。
「村迫さん、あの!」
大声を上げたが、蠅が一斉に飛び立っただけだった。静信は後退る。血の気が引いているのが自分でも分かった。
何かがあったのだ。そうでなければ、あんなものを放置しておかないだろう。幾頭ぶんのものなのか、一瞥しただけでは分からなかった。原形をとどめているものがなかったからだ。たぶん数頭の、ひょっとしたらそれ以上の動物が五体をバラバラにされて放置され、腐敗している。
思いついたのは、野犬だった。外場周辺に熊が出たなどという話は老人の眉唾物の昔話でしか聞かない。山に迷い込んで集団を作っている野犬がいる、という噂なら信憑性をもって語られたし、それが集団と呼べるほどのものであるかどうかはともかく、山の中で犬を見た者は多く、声を聞いた者はさらに多い。
静信は通り過ぎた廃屋を思い出した。それで雨戸に板が打ち付けてあったのだろう。野犬が廃屋を巣にしているのではないだろうか。そしてその野犬たちは、人の住んでいる家にまで侵入して――。
(侵入して、それから?)足下から震えが立ち上がってきた。(犬は家の中を若者で荒らしている。……それを止める者がいないから)
「――まさか」
自分に言って、静信は辺りを見渡す。戸口の側に庭箒が倒れていたのを見つけて拾った。それを携えて裏庭に向かう。飛び出してくる獣がいないか、十分に注意をして、何度も箒を手の中で持ち替えた。
村迫さん、と幾度も声を上げながら、不要品の積まれた裏庭に出た。すぐ家の背後に迫った崖と建物に挟まれた細い庭には、ほとんど陽が差していない。その庭に面した縁側の掃き出し窓が、細く開いているのを認めた。
静信は半分開いた窓から中を覗き込んだ。縁側の内側にある障子は、静信が覗き込んだ場所からほんの少し右手で半分ほど開いている。中を見通せる位置まで窓を開け、静信はこちらを見上げてくる一対の目を真っ向から覗き込んだ。
部屋に横たわった者は、障子の間から外を覗くようにして虚ろな目を見開いている。その目が白濁しているのを、静信は認めた。瞬きもなく、青黒く変色した顔の筋肉には、ほんの微かな動きもない。そして――腐臭。
村迫さん、と声を上げながら、静信は障子の間から顔を覗かせているのが三重子であることを悟った。横たわった三重子の背後、奥には仏壇が見え、その手前には二組、布団が敷かれていた。そのうちの一方は空で、夏布団が足許に丸まっている。もう一方には人が横たわっているのが見えたが、その枕辺には蚊柱のように蠅が集まって渦を巻いていた。
人が横たわった方の布団からは茶色い粘りけのありそうな液体が漏れて、畳の上に流れ出ている。誰かが横たわっていることは分かったが、それが誰なのかは分からなかった。夏布団がいびつな形に盛り上がり、おぞましい色に変色したそれと融け合っているように見えた。畳のあちこちには擦りつけたような染みが点在し、その染みの上にも無数の蠅が止まっては飛び立っている。
呆然と見つめている目の前で、開かれたままの三重子の眼球に蠅が止まった。
静信は飛び退る。悲鳴はおろか、声も出ない。とうてい中に踏み込む気にはなれず、静信は腑抜けたように頼りない足を励まして表に飛び出した。
家の表側には何かの皮肉のように、眩しい陽射しが降り注いでいた。
陽射しは強く、スロープに敷かれたコンクリートは、ひび割れを黒々と残して白く陽光を反射する。地所の土もコンクリートも目を射るほどに白い。
(なんてことだ)
静信は地所を足早に出て、さらに少し上にある、大川義五郎の家に向かった。車に乗り込み、キーを差して動かす、そういった一切のことがあまりにももどかしく感じられて、車を使う気にはなれなかった。
集落には何の物音も気配もない。押し迫るような蝉の声が虚ろに響いていた。細い道の先々を揺らめく逃げ水、アスファルトも石垣も陽光に晒され、錯綜する照り返しで空気自体が発光して見えた。
乾いた地所に駆け込み、そう叫んで縁側に走り寄り、静信はそこでも強い腐臭を嗅いだ。義五郎の家は、村迫の家とは違って雨戸も開け放してあったし、障子も取り払われ、真通しに見える無人の茶の間を、冷ややかな風が通っていた。にもかかわらず、家の中には外の物音が微かな残響となって残るように、酷い腐臭が溜まっている。
「大川さん、義五郎さん」
静信は声を張り上げたが、返答はなかった。緊張に上擦ってはいても、僧侶の声はよく通る。にもかかわらず、何度声をかけても返答もちろん、人の動く気配すらない。わずか、逡巡して、静信は茶の間に上がり込む。上がってすぐの所に電話台があった。
(二人、ひょっとしたら三人)
そして、山入には人間は三人しかいない。――そう、もしも義五郎が無事なら、人が姿を現さなくなった村迫の家を覗いたはずだ。そうすればあの惨状を見なかったはずがなく、だとしたら誰かのところに連絡がなかったはずがない。
静信は受話器を握った。自分の手はそれと分かるほど激しく震えていた。
呼吸を整えるために上げた視線は、戸外の風景を薙いだ。陽光に灼かれる集落。ほとんどが廃屋だが、じきに全てが廃屋になるだろう。石垣も庭も道もここにある全てのものが意味を失う。死にかけた集落は本当に死に絶えた。――山入は樅に呑まれたのだ。
山では蝉の声が|喧《かまびす》しい。鳥の声が混じった。軒の外では夏の陽光が降り注ぎ、樅は緑、山の上に横たわった空の色は冴える。
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
「ただいま」
声を聞きつけて、律子は雑誌から顔を上げた。休憩室のドアを開けてみると、ちょうど裏口から敏夫が診察鞄を提げて戻ってきたところだった。土曜の午後、すでに残っているのは留守番を買って出た律子だけだった。
「お帰りなさい」律子は言って、敏夫の前に立って控え室に入った。「翔くん、どうでした?」
「日射病の軽いやつだ」
「あら」
敏夫は往診を嫌がらない。呼ばれれば鞄を提げて気軽に出ていく。別に呼ばれたというわけでなくても、今日のように子供の様子が変なのだが、病院に連れて行ったほうがいいだろうか、と相談を受ければ、ちょっと用を足すような調子で出かけていく。遠方なら車を出すが、近所なら歩いて、あるいは看護婦の自転車を拝借していくから、なまじ近いと夏場は辛い。今も汗だくになっている。
「ひどい暑さですもんねえ、今年は」律子はエアコンの送風を強くした。「何か、冷たいものでも飲みます?」
「ビール」
げんなりしたように言いながら敏夫は鞄を放り出す。
「はいはい。色が濃くて、泡のないやつですね」
「ビールと言ったら、ビールだ」
言い張る敏夫を笑って、律子は控え室を出ていった。給湯室に行って冷えた麦茶をグラスに注ぐ。ついでに冷凍庫からシャーベットの小さなカップを取り出してスプーンを添えた。それを持って控え室に戻ると、敏夫はクーラーの通風口の前に立って襟の中に風を入れている。
「おつまみ付です」
「そりゃ、サービスだな」
律子はグラスとカップをテーブルの上に乗せ、敏夫が腰を下ろすのを見ながらトレイを胸に抱いた。
「さっき、前原のお婆ちゃんが来たんですよ。前原セツさん。薬がなくなったから、くれって言うんです」
敏夫はシャーベットの蓋を剥いでスプーンを突き立てた。
「前原のセツさん――橋本病でチラジンをだしてるんだっけか」
「ええ。それが、調子が良くないらしいんです。効かないからって勝手に増やして薬を飲んだらしいんですよ」
「馬鹿な。セツさんは狭心症の傾向があるんだ。とんでもない話だぞ、それは」
「そう説明したんですけど、とにかく薬が切れたから、くれって」
「年寄りはすぐそれだ。薬なんてのは量を増やせば効果が上がるもんだと思ってる」
「先生の指示がないと薬は出せないから、帰ってくるのを待ってくださいって言ったんですけど、聞いてくれなくって。仕方ないんで、前回の処方箋通りにきっちり二日分だけ渡しました。それ以上の薬は出せないから、月曜に必ず来るように行っておきましたけど」
「あの婆さんは、注射が嫌なもんだから、おれのいないときを狙ってくるんだ。診察を受けると血液検査をされるのが分かってるもんだから」
「ちゃんと守ってくれるといいんですけど。それでもダメだったら、どうしましょう」
「メルカゾールでも混ぜてやれ」
「先生」
律子は溜息をついた。
「なんでだ? 抗ホルモン剤とホルモン剤で、帳尻は合うじゃないか」
「そういう問題じゃありません」
律子は、処置なし、と天井を見上げた。電話が鳴ったのはその時だ。律子が取ろうとすると、敏夫はスプーンを啣えたまま手を挙げる。
「ああ、いい。おれが出るから。帰っていいぞ」
言って受話器を取るのを見て、律子は軽く頭を下げて退出の意を伝える。敏夫はそれに頷いて答える様子を見せ、そして突然、なに、と声を上げた。律子は思わず足を止め、険しくなった敏夫の表情を見守る。
「全員? 本当に? ――警察は」
警察という言葉にぎょっとして、律子はトレイを抱いたまま敏夫の顔をまじまじと見る。無意識のうちに耳を澄ましたが、相手の声が聞こえるはずもない。
「通報するんだ。いや、いい、こちらから連絡しておく。――ああ、駄目だ、絶対に動かすんじゃない。何も触るな、表で待ってろ、いいな?」
誰かが倒れでもしたのだろうか。律子は軽く緊張する。
「で、義五郎爺さんの死体は確認してないんだな?」
律子は眉を顰めた。義五郎――山入の大川義五郎のことだろうか。
「確認しろ。坊主が死体に怖じ気づいてどうする。もしも息があるなら医者がいる。村迫さんのほうは確実なんだな? ――いや、いい。とにかく行くから、そこで待ってろ。とりあえず義五郎爺さんの様子を見て、息があるなら救急車を呼べ。すぐに出る」
口早に言った敏夫は受話器を置いて、立ちすくんだ律子を見る。短く言った。
「山入、壊滅」
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
「良かったわねえ、茂樹くん。何でもなくて」
矢野加奈美の声に、前田元子は窓際のテーブルへと向かいながら笑みを浮かべた。
「知らせが来たときには肝が冷えたけど。とうとう熱を出すことも、夜にうなされることもなかったし、本当になんでもなかったみたい。恥ずかしいわ、取り乱して」
加奈美はカウンターから笑う。
「子供のことになると、母親ってのはそんなもんよ」
そういう加奈美は、離婚に際して子供を相手方に残してきた。多くを言わないが、元子は相手方の家に取り上げられたのじゃないかと思っている。
「若御院にも申し訳なくて。お詫びに行ったほうがいいかしら」
「大丈夫じゃない。お礼に行くのは止めないけど、そんなに難しい人じゃないから。気だての優しい人だからね、若御院は。あんたが喰ってかかったのだって、別に気を悪くしてるようじゃなかったもの」
よかった、と呟き、テーブルの上の食器を片づけにかかったときパトカーのサイレンを聞いた。元子はハッと顔を上げ、広い窓越し、国道に目をやった。
加奈美もカウンターの中で耳をそばだてる。加奈美のドライブインは村への入口に面し、カウンターからは溝辺町方面へ向かう国道が見える。遠目に、自動車道の高架下をくぐって接近してくるパトカーの姿が見えた。窓際で元子が身を固くするのが分かった。
「大丈夫よ、元子」
きっと外場とは関係ない、そう意図を含ませて元子に微笑む。元子もぎこちなく笑みを返し、食器を集めたトレイをカウンターまで下げてきたところで、窓の外を疾走していったそれが、村道へと川端を曲がっていって驚いた。
(何かあった? ――でも、何が?)
元子が小さく悲鳴を上げた。加奈美はその手を叩く。
「茂樹くんじゃないわよ。心配することないわ。――でも、何があったのかしらね」
(事故かしら)
万が一にも元子の子供などということがなければよいのだけれども。友達の腕をことさらのように軽く叩きながら、加奈美はそう思った。どこか不安な気分で三台のパトカーと護送車のような灰色のバンを見送った。
ちょうどその頃、ドライブインの少し北に位置するタケムラ文具店の店先には老人たちがたむろしていた。例よって店先に出た床几に集まって無駄話をしていた老人たちは、突然のサイレント疾走してくるパトカーの姿に、いっせいに腰を浮かせた。
「なんだい、事故か?」
笈太郎は立ち上がり、通り過ぎたパトカーを見送る。行く先を見守って、それがまっすぐに川端の村道を北上していったのを確認した。
「上に行くぞ。上外場か、それとも門前で何かあっのかな」
「事故だわね、きっと」
そう言った弥栄子の声に、武子は鼻を鳴らした。
「たぶん大川の倅だわ」大川酒店の息子は鼻つまみ者だ。昔から気の荒い乱暴者で、配達のバイクを運転するのまで荒い。「おおかたどっかに突っこんだんでしょうよ。いつかそうなると思ってたわ」
竹村タツは、特に言葉を挟まなかった。たかだか事故であんなにパトカーがやってきたりするものか、とは思ったが、教えてやるほどのことでもない。じきに誰かが、何が起こったのか知らせにくるだろう。
後藤田ふきは、矢野妙に支えられるようにして家を出、警察の車に乗り込んだ。電話があった。それを受けたのは世話役だった。受話器を置いた世話役は真っ青になってふきに実兄の死亡を伝えた。
それをきいたときからふきの腕には鳥肌が立ったまま、それは真夏日の気温を持ってしても治まらなかった。傍らの者たちが励ますようにふきの手を叩いてくれたが、一向に温もらなかった。兄がどうして死んだのか、世話役は言ってくれなかったので分からない。ふきにはそれを世話役が隠しているように思えてならなかった。パトカーが走っていくのが聞こえた。警察が呼ばれるくらいだから、きっと尋常な死ではないのに違いない。それがふきの背筋を粟立たせる。
矢野妙が車に縋るようにする。
「ふきさん、誰かに任せた方がいいわよ。年寄りには酷よ」
はや涙ぐんでいる長年の友人の顔を見上げ、ふきはシートに座ったまま硬く手で膝を[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んだ。隣に乗り込んだ世話役が、その手を握ってくれたけれども、その感触は現実感を欠いていた。
「大丈夫……、兄さんの、ことだから」
声に出すと、自分がふるえているのが良く分かった。ふきの視線は妙を見ていたが、全身の神経が前と脇に乗った警官の方を向いているのが自分でも分かった。
(落ち着かないと)
固く手に力を込めれば込めるほど、手首を軸にしたように震えは酷くなった。
(こんなことじゃ、変に思われる……)
「でも、ふきさん」
「……大丈夫」
警察官は無言で座っている。聞き耳を立てているように思えてならない。ふきは耐えられずに、深く頭を下げた。同時に、ドアが閉まって車が動き出す。ふきには顔を上げることができなかった。
「ご不幸があったとか。息子さんですか」
前から声をかけられたときには、シートの上で飛び上がりそうだった。こわごわ顔を上げると、助手席に座った中年の警官が振り返っていて、その目がじっとふきに注がれていた。
「ええ、……はい。末の息子で」
(血が……)
「そりゃあご愁傷様です。残念でしたねえ。――お幾つだったんです?」
「ではねお嫁さんとお孫さんが」
「いえ、まだ、独り者で」
(血が……服に……)
ふきは頭を振った。警官は、そうですか、と言った切り口を噤んだ。それから永劫の時間が流れた。ふきには全ての物音が、気配が恐ろしかった。警官が息を吐くたび、いよいよ訊かれる、という気がした。
(息子さんは最近、山入に行きませんでしたか)
(戻ってきた息子さんの様子に、変なところはありませんでしか)
(衣服に血がついていたようなことは――)
だが、警官はそれきり何も言わなかったし、車は特にふきを尋問するためにどこかへ連れて行くようなこともなく、山入の実家についた。警官が車を降り、世話役に支えられたふきが同じく車を降りて途方に暮れていると、目つきの鋭い男が二人やってきた。今度こそ訊かれるのだ、とふきは覚悟を決めた。なのに、兄の家族について訊かれて、かえって驚いてしまった。
「あの、家族ですか……?」
「秀正さんと三重子さんにお子さんは? 連絡先は分かりますか」
「ええ……二人おります。どちらも遠方に出てますけど。連絡先なら家に帰れば……」
刑事らしいその男たちが頷いてメモを取る。他にも様々なことを質問されたが、別段、血糊の話は出なかった。安堵のあまりしゃがみ込みそうだった。茶の間と座敷に連れて行かれ、なくなっているものはないかと訊かれたが、やはり血糊の話は出なかった。三重子と対面したが、誰も秀正を訪ねて山入から戻ってきた秀司の服に血がついていたことは持ち出さなかった。
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
静信は樅の木陰から陽射しに炙られる集落を見上げた。
蝉の声が響いて山の斜面に谺していた。村迫家の家の付近の路上にはツートーン・カラーの車があちこちに止まっている。まるでテレビか映画だ、と静信は思った。それらのものや捜査員の姿は、恐ろしく現実感を欠いていた。
真っ先に駆けつけてきたのは駐在の高見で、高見に事情を説明し、あちこちの惨状を示している間に県警が到着した。静信は彼らを相手に再度、前後の事情を説明し、自分が辿った順路を実際に示しながら経過を説明させられたが、それが終わるともうすることがなかった。見慣れない――異質な人々で溢れかえった場所が気詰まりで、特に宛があったわけでもないが、山入の道を歩いた。ひょっとしたら、これでもう本当に最後なのだと、そういう気があったのかもしれない。
村迫家付近の廃屋にも、軒下や家の中を覗き込む捜査員の姿があった。それで山入の入口までとぼとぼと道を下り、三叉路の脇に坐って集落の死に様を見ていた。山入は死んだのだ、という認識と、いま目の前にある喧噪の落差が、今日の朝、目の当たりにしたばかりの秀司の弔いに酷似していた。――まさしく、これはひとつの集落の、弔いの風景だった。
村から上がってきた村道は、ちょうど今、静信が腰を下ろしている場所から左に折れて山入の集落に入る。その右手にはかなりの広さの空き地があって、空き地の奥から右に向けてさらに北へと林道が延びていた。ぎりぎりトラックの車幅ぶんの山道だったが、左右に二筋、土の色に|轍《わだち》跡が続いて林道がまだかろうじて生きていることを示している。
くっきりと残った轍跡の、炎天に白茶けた土と夏草の対比が、いかにも夏の色だった。空き地の隅には湧き水があるのだろう、小さな祠の前、縦横に残された轍跡がぬかるんでいて、そこに色鮮やかな蝶が水を求めて集まっていた。かろうじて囲いと屋根があるだけの祠には石柱と地蔵尊が納められていたが、それらは倒れ、折れた地蔵の首がぬかるみの側に転がっていた。赤い前垂れは昨年の(そしておそらくは三重子の手による)ものなのだろう。寂しげな色に退色している。傷口をさらした地蔵の首に、ガラスのような羽をきらめかせて、|蜻蛉《とんぼ》が留まった。
死に絶えた集落と、生者の喧噪、蝉の声と鳥の声、鮮やかな夏の色とその生気、そこに入り混じった荒廃と死。山入はいま、どこもかしこもそんな断裂に埋めつくされているように思われた。
何となく見るに堪えなくて、息を吐いて腰を上げる。陽射しと照り返しに炙られながら坂を登り、所在なく今度は義五郎の家に向かって道を歩いた。――我ながら、度を失っている、と思う。
大川家の地所の下にある石段に腰を下ろすと、村迫の家が真向かいで、村迫家の下に止まったパトカーと、その側に立ったふきが二人ほどの捜査員と話をしているのが目に入った。
「――よう」
背後から声をかけられ、振り返ると敏夫が地所から石段を下りてくるところだった。村迫家のほうを見やって眩しげに目を細め、石段に枝を差しかけている|無花果《いちじく》の影に入って煙草に火を点ける。
「とんだ災難だったな」
敏夫に言われて、静信は思わず口元を押さえる。義五郎の家から、真っ先に敏夫に連絡をした。その指示に従って義五郎を捜したものの、老人の有様は思わず敏夫を恨みたくなるような状態だった。
「ふきさんの姿が見えた。……大丈夫なのか」
「何が」
「遺体の……確認だろう?」
言いさして、喉の奥が鳴る。あいにく、もう吐くものは残っていない。
敏夫は肩を竦めた。
「それは、おれがやっておいた。村迫の婆さんはともかく、二人の爺さんはとてもじゃないがご老体には見せられよ。ありゃあ歯形でも照合しないと身元の判別つかんだろう」
静信は頷いた。
「この陽気だからな」敏夫は言って、眩しく晴れ上がった空を見上げる。「死んで何日なのか知らないが、この猛暑の中を放置されてたんだ。まあ、大した見物だったさ。おかげでまだ鼻が利かん」
静信はこれにも頷いた。部屋の戸口から覗き込んだだけでも、同様の有様だ。検屍に立ち会った敏夫は静信の比ではないだろう。
「どうして……あんな」
「死因を訊くなよ。連中が持って行って解剖するだろ」言って敏夫は煙草を|啣《くわ》えたまま苦笑する。「もっとも、あれだけ欠損があったんじゃ、本当に分かるかな」
「欠損」
静信が訊くと、敏夫は素っ気なく言う。
「部品を数えてみたんだが、数が足りん」
脳裏に甦ったのは、部屋に散乱した義五郎の残骸だった。寝室は村迫家の台所のような有様で、一瞬、静信は、それもまた動物の死骸だと思った。
「それは……」
「野犬狩りをしてとっ捕まえた犬を解剖したところで、とっくに消火されてるだろうな」
「じゃあ、義五郎さんをあんなふうにしたのは」
「野犬だろう。少なくとも刃物で切断したわけじゃない。村迫の婆さんには、外傷がなかった。おそらく自然死だろうって話だ」
よかった、と静信は思わず呟いた。敏夫が静信を振り返る。
「よかった? 事件じゃなくて?」
「ああ、まあ。……不謹慎だったな。悪い」
「おれにそれを言うかね。少しも良かあないさ」
「自然死なんだろう? 少なくとも三重子さんは」
だからさ、と言って敏夫は煙草を投げ捨てる。
「爺さん二人のほうは、死後何日かが経ってる。少なくとも昨日今日死んだって話じゃない。三重子婆さんのほうは、おそらく昨日かそのあたりだ」
それが、と言いかけて静信は口を噤んだ。
「昨日……?」
「そう」と敏夫は皮肉げに笑う。「面白いだろう。三重子婆さんは、ここ何日か、死人と暮らしてたことになるんだ」
[#改段]
[#ここから3字下げ]
四章
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
彼は朝露の流れるアスファルトを見つめていた。
しんと冷えた国道は、西から村に接近し、大きく迂曲して村に入る。渓流を跨いだ橋を越えて南へと向かい、自動車道の高架下をくぐって村を出て行く。
彼は夜、唐突に焦ることがあった。何かに急き立てられるような気がする夜、眠れないままラジオの音に耳を澄ませば、いっそう電波に追い立てられるような気がする。寝床の中で反転して過ごし、明け方たまりかねて家を出る。そういったときには、散歩気分で歩いていることなどとてもできなくて、自然、歩調は小走りになり、引かれるようにして国道へと出た。
訳もない苛立ち、何に対してか自分でも分からない焦燥感。国道は冷えて横たわり、無言で南に延びる。彼はその行く末を思う。山野を貫き、町を集落を置き去りにし、都市へと向かうその道。この小さな山村の、彼の足下に横たわるアスファルトが、賑やかな町に通じているのだと、知識としては了解していたものの、それは周囲の大人が語る彼の「未来」のようにひどく現実感を欠いている。
今日がひとつ過ぎて、明日が降り積もる。明日の堆積がおよそ大人たちの言う「未来」とは何の関係もなく思えるように、この道は無限に向かって吸い込まれていくように思えた。本当に、この道を歩いていけば都市に出るのだろうか。想像してみても、朝露に呑み込まれて消えていく自分の後ろ姿だけが見える。
時折、静寂を震わせてトラックが駆け抜け、彼を置いて南へと去るのを、どこか自重するような気分で見送る。いたたまれない朝。じりじりと身の置き所のない気分で、それでもその場を立ち去り難くて、東の山の端から陽が昇るのを無為に待った。やがて他にすることもなくて|蜩《ひぐらし》の物憂い声に踏ん切りをつけ、いつものように後ろ髪を引かれる思いで踵を返すと、背後に連なる西の山には強い朝日が鮮やかな陰影をつけている。
眩しくて俯き、家へと引き返す。ほんの少し、打ちのめされたような気分がして、同時に安堵もする、自分の不可思議。
今朝もまた、心中の割り切れないものを見つめながら、田圃の中の道を引き返した。彼が国道にいるわずかの間に、村は目覚めようとしている。日曜であっても村の朝が早いことには変わりがなかった。狭い道路脇に並ぶ家々の窓は開き、そこここで人の気配がしていた。朝露は霧散し、東の山の影はかき消え、北を目指して歩く横顔には強い朝日が当たる。――今日も暑くなるのだろう。
眩しくて目を細め、掌をかざした彼の足下に、茶色の毛玉が飛び込んできた。同時に歯切れの良い声がする。
「たろ!」
声の下方向を振り返ると、引き綱を握った女が駆けつけてくるところだった。彼の足にじゃれかかる柴犬には首輪がついてない。それもそのはず、彼女が握った引き綱の元にそれは輪を作ったままぶら下がっていた。
「ごめんなさい。――太郎、おいで」
律子は慌てて駆けつけ、ちぎれるようにしっぽを振ってじゃれかかる犬を捕まえた。ようやく子犬とは呼べないほどの大きさになった柴犬は、興奮しているのか、元気が有り余っているのか、取り押さえて改めて首輪をしようとしても、少しも腕の中に収まっていない。じゃれかかられた当の相手が手を貸してくれて、それでようやく首輪に繋ぐことができた。
「首輪を大きいのに変えたばかりなんで、緩いのかしら。すぐに抜けちゃうの。ごめんね、ありがとう。――夏野くん、だっけ?」
律子が言うと、彼は眉を顰める。ふいと顔を逸らして無言で小さく会釈する様子がいかにも不快そうだった。自分を覚えていないのだろうか、と律子は思う。病院で何度か会ったことがある。とはいえ、相手にとって自分は看護婦の一人にしか過ぎず、一人一人の識別などついていないのかもしれない。
「ジョギング? 足はもういいの?」
そう重ねて訊いたのは、相手がTシャツにジャージ姿だったせい、このまま会釈して別れるのが何となくきまりが悪かったせいだ。
確かずいぶん前に脛骨結節を腫らして来ていた患者だったと思う。成長期の少年にはよくある病気だ。伸び盛りの時期を過ぎれば自然に治まるし、実際、彼の場合も何度か痛み止めを処方されただけでその後は来なくなったから、痛まなくなったのだろう。
「……足はもういいです。なんか、膝の下に出っ張りができたけど」
「軟骨が固まったんだ。じゃあ、もう痛まないね」
律子が言うと、夏野は仏頂面で頷く。とりつく島がないように思われて、じゃあ、と声をかけようとしたときに、当の夏野のほうから話しかけてきた。
「あの、看護婦さん」
「うん?」
「出っ張りの骨ができたら、もう背ぇ伸びないって聞いたんですけど、本当ですか」
重大なことのように訊くのが微笑ましかった。先を急ぎたがる太郎に引きずられて二、三歩歩くと、答えを待つようにして夏野もついてくる。
「そうねえ……そう決まったものでもないけど」
犬の太郎に引かれるまま歩けば、特に行く宛もないのか夏野も脇に並ぶ。
「そうね。軟骨が骨化したってことで、成長期は過ぎた、っていう証拠ではあるんだけど。でも、もう中学生の頃みたいにずんずん伸びる時期は過ぎたってことだけで、完全に伸びるのが止まったってことじゃないから」
そうか、複雑そうに言うのがおかしい。同時に少し安堵した。
病院であったのは二、三度のことだったが、律子はそれ以外にも早朝の散歩道で何度か夏野を見かけたことがあった。夏野は国道を見つめていた。自動車道のほうを望んで佇む少年の姿は、まるで南にあこがれているようで、いまにも村を歩み去ってしまいそうに見えた。声をかけて引き留めなければという思いに駆られたが、同時に声をかければ、それが彼の背中を南に向けて押し出してしまいそうで、できなかった。――そんなイメージが強かったから、彼がごく普通の少年のように身長が伸びるか伸びないか、そういう些末なことを気にしているのだと分かると、なぜだかほっとする。
「夏野くんは今年、高校に入ったんだっけ」
「はい。……それ、やめてください」
少年の声はぶっきらぼうで不快な調子が露わだ。
「ん?」
「下の名前で呼ぶの」
ああ、と律子は頷いた。姓は結城と言ったか、小出と言ったか。父親の姓は結城で母親の姓は小出だ。夫婦は入籍していなくて、彼は母親の籍に入っている。だから保険証の姓は小出になっていたと思う。病院では夏野、と下の名前で通っていた。姓が二つあってどちらで呼べばいいのか誰もが困った姓もあるだろうし、父親の結城と親交のある事務の武藤が、そう呼んでいたからかもしれない。
「嫌いなんだ? 名前」
夏野は仏頂面で頷く。
「いい名前だと思うけどな。清々しくて。お母さんがつけたんでしょ」
「親父。なんか、貴族の名前らしいけど」
「そうか。お父さん、ロマンチストなんだ」
夏野は顔を顰めた。
「でなきゃ、越してこないよ、こんなとこ」
「なんにもない単なる田舎だもんねえ」
律子が笑うと、夏野は恥じ入ったように俯く。
「べつに……そういう意味じゃないけど」
「そういう意味でも構わないじゃない。本当のことだもの」
――典型的な田舎、って感じだよな。
そう、言われた。その通りだ。
――余命いくばくもない、って感じ。若い者がいるところじゃないだろ。
(その通りだわ)
律子は村を見渡した。V字型に開いた尾根は刃を開いた巨大な鋏のように見えることがある。いつかじりじりと閉じて、家も人も押しつぶしてしまいそうだ。
「そうね……本当に単なる田舎町。ずっと都会で暮らしていたお父さんたちにしたら、物珍しくて良く思えるのかもしれないけど……」
「看護婦さんって、足りないんでしょ、今」
「うん? まあね」
「だったら、どこでも就職には困らないじゃないですか。ここ出て都会に行こうとか、思わないの」
「そうねえ……」
早起きの老人たちが律子らを認めて声をかけてきた。庭に水を撒く者、道路を掃除する者、すれ違う子供たちは明るい声を上げながら道を急いでいる。日曜はラジオ体操も休みだから、これから遊びに行くのだろう。
「ここで生まれちゃったからなあ」
おはよう、と背後から自転車で追い抜いていったのは、外場に住む広沢麻由美だった。彼女は律子たち手を振り、子供たちの後を追うようにして北へと走っていく。これから仕事なのに違いない。
広沢麻由美は下外場の大川家から広沢家――通称、小広――に嫁いだ。以前は溝辺町の信用金庫に勤めていてたが、結婚してからは、商店街の一番上にあるスーパー「たも」でレジ係をしている。三世代の同居、子供はまだいない。――律子はそんなふうに、村のいろんなことを熟知していた。
季節季節に恒例の行事、その行事で誰が何をするのか、どこの家は誰のものか、その姻戚関係はどうなっているのか。特に興味を持ってはいなくても、自然に耳に入るし、覚えるともなく覚えた。最近では仕事がそれに拍車をかける。村で唯一の病院で看護婦をしていれば、本当に細かいことまで分かってしまうし、気安さも増す。道を歩いていれば、ひっきりなしに声をかけられた。
「やっぱり、縁ってものがあるし……」
律子は穏和しく脇をついてくる夏野を振り返る。
「知り合いとか、親しい人とか、そういう人間関係みたいなものがあるから、田舎だとか都会だとかで住む場所を決める気になれないんじゃないかな」
「彼氏がいたり?」
茶目っ気を含ませた夏野の問いに、律子は軽く相手をねめつける。
「そういうことじゃないの」
「不便なとこなのになあ」
「ここより便利なところを知らないから、不便だと思わないのよ」
笑いながら、彼は村を出たいのかもしれない、と律子は思う。夏野が外場に越してきたのは中学のとき、都会で育った彼が住み慣れた場所に戻りたいと願うのは、むしろ当然のことかもしれなかった。
「わかんないな。住めば都ってやつ? 取り柄っていうと、自慢にもならないようなもんだけなのに。樅とか、外場とか」
そうね、と律子は頷いた。
――何か、縁起悪いよな。薄気味悪いだろ。
外場の村と言えば、それは実際、不吉な響きを持って聞こえるのだろう。外の学校に通う子供は、誰もがそれで一度は|揶揄《からか》われたものだ。だが、その木工所も減った。一時は外場だけでは立ちゆかずに棺なども作っていたが、今では老人が手作業で卒塔婆を作っているだけだ。その数ももう多くない。木工が寂れたあとはお定まりの農業と林業、それも専業の家は徐々に数が減って、大半が兼業だ。
律子の家もそんな典型的な外場の家庭で、寡婦の母親が狭い田を耕し、律子と妹が働いて家計を助けている。――いや、正確に言うなら、今や家計は律子が支えていた。母親の作る田畑からの収穫は、一家の食い|扶持《ぶち》ぶんだけ、足りないぶんは妹が収入を入れて補ってくれる。
律子は訳もなく息を落とし、目を西の山に向けた。樅に覆われた斜面、麓に小さく開かれた棚田。樅林の間にきらりと光ったのは、兼正の屋敷の雨樋か何かだ。
「……あの家、けっきょく越してこなかったわね」
律子が呟くと、夏野が怪訝そうに振り返った。
「あの家?」|鸚鵡《おうむ》返しに呟いて律子の視線を追い、ああ、と声を上げる。「――兼正の家」
その建物に何らかの触発を受けたのか、母親が最近、家を建て直したいとしきりに言う。律子の家は古い農家だ。無駄な部屋も多いし、設備も古くて不便でならない。建て直すのは歓迎するところだが、実際に改築するとしたら、それは律子がすることになってしまう。
(分かってるはずなのに)
早くに父親を亡くし、手に余る山林は放置したまま、もともと広くもなかった田畑でさえ耕作が追いつかない。蓄えと呼べるほどの蓄えも、一家にはない。母親がそれを分かっていないはずはなかった。――母親は律子に家をねだっているのだ。
――あんな辛気くさい村、出たら清々するだろ。
だから結婚しよう、と言われた。嫌いな相手ではないし、結婚したくないわけではない。自分でもこのチャンスを逃せば、もう結婚なんてできないのじゃないかと思う。
(でも……)
踏ん切りがつかないのはなぜだろう。母親は律子が村に残り、家を建て替えて先々まで面倒を見てくれることを望んでいる。ひょっとしたら自分もそれを望んでいるのかもしれなかった。ただ、母親のあからさまな期待は心に重い。それを思うと逃げ出したくなるが、自分が逃げ出せば今度は妹が縛り付けられる。それを思うと同じく心に重かった。あんな村、と悪し様に言う相手と逃げ出すことになるのならば、なおのこと。
「そう言えば、親父が引越のトラックを見たとか言ってたな。虫送りの日に」
「そっか。結城くんのお父さんも、ユゲ衆をやったんだよね」
うん、と夏野は頷く。
「虫送りの夜に、ベットを焚いてて、引っ越し屋のトラックを見たって言ってたけど。でも、引き返したんでしょ。道を間違えたんじゃないのかな」
うん、と律子は頷いた。太郎に引かれるまま、いつの間にか川端の道を国道へと出ている。ひょっとしたら夏野はこの国道から戻ってきたのじゃなかったかと思ったけれども、それには触れてはいけないような気がして、律子はあえて問わなかった。西から延びてきた国道はここで川端の道と交わり、大きくカーブを描いてさらに南へ延びていく。村の南限へと向かって。
「結城くん、喉、乾かない?」
「おれ、財布持ってこなかった」
「奢ってあげるわよ。妹と散歩に来ても、いつも奢らされちゃうの」
律子は笑って、ちょうど曲がり角にある「ちぐさ」の駐車場にある自販機に歩み寄る。「ちぐさ」とありがちな名前がついたドライブインは、矢野加奈美が女手一つで切り盛りしている。加奈美がいくつで、どういう人物か――そういうことまで律子は把握していた。加奈美とは十も歳が違い、加奈美自身はほとんど病院の厄介にならないにもかかわらず。
ドライブインの駐車場、道路に面した自販機に硬貨を落とし込み、律子は冷えた缶を取り出した。夏野のために硬貨を放り込んで、缶を開けながら村をかすめ去っていく国道を見渡した。国道の向こう側、ほど近いところにバス停が見える。誰もいないバス停は、置き去りにされているように見えた。
進歩が、崩壊が――変化が、村の外ではひっきりなしに続いている。村だけが外界から取り残され、外の世界との距離が増していく。律子にはそんなふうに思えた。遠く離れた外界、置き去りにされた村。その村も、確固としてそこにあり続けるわけではない。若者は出ていく。老人は死んでいく。徐々に小さく頼りない存在になりながら、寂しく置き去りにされている。
「村迫のお婆ちゃん……なくなったわね」
「村迫――山入の? 昨日、山入の三人の死体が見つかったって聞いたけど」
夏野がリングプルを引きながら訊く。
「うん。でも、ついこの間、病院であったの。大川のお爺ちゃんの薬を取りに来て。とても元気そうで、なのにもう、みんないないなんて不思議ね」
昔――まだ村を挙げて|卒塔婆《そとば》を作っていた頃、村人は山入から樅を切り出し、川沿いの道を馬に引かせて門前に下ろした。門前で材木の形に加工された樅は、卒塔婆でさらに加工されて卒塔婆になる。律子が子供の頃には、村のあちこちに木工所がたくさんあった。その木工所がひとつずつ姿を消し、山入に入るものも減った。わずかに残った三人の老人が死んで、山入という集落は消滅した。そんなふうに、外場もやがて消えていくのだろうか、と思う。人が減り、バス停も取り除かれ、数人の住人だけが暮らすようになって、ある日、誰かが訪れてみると、全員が死んでいる。――外場の終わり。そんな日が来るのだろうか。
看護婦さん、と夏野が声を上げた。
「山入の三人、殺されたって本当?」
律子は物思いから冷めて瞬いた。
「やだ。殺されたって話になってるの?」
「おれはそう聞いたけど」
「先生は病死だって言っていたわ。検屍っていうの? 死体の検案に立ち会ってきたの。病気か何かで、別に事件じゃないって」
「なんだ」夏野は苦笑した。「だろうと思ったんだ」
「だろうと思った?」
夏野は肩を竦める。
「変質者が入り込んだ、なんて言ってる奴もいるらしいけど。でも、そんなはずないと思ったんだ。だって、こんな田舎のさらに奥に人が住んでるなんて思わないよな、普通」
律子は瞬いた。
「そうかしら」
「林道の先にまだ人が住んでるところがあるって聞いたとき、嘘だろって思ったもんな。信じらんないよ。この村でさえ、電車もないところによく住むよな、とか思ってたけど、山入ってバスですら通ってないんだもん」
「そっか……そうねえ。わたしたちは山入のこと知ってるけど、外の人はそう思うかもなあ」
「村に関係のない奴がさ、むしゃくしゃして村に入り込んでくること自体、妙だし、入ってきたって村道を上まで走っていったら、この道は行き止まりかなと思うんじゃないかな。まさか人家が途切れたさらに先に、人が住んでるなんて思わないだろうし」
「それは……そうかも」
「だとしたら、犯人って村の人間だとしか思えないじゃない。でも、そういう危ない奴がいりゃ、みんな知ってるだろ。こういう所なんだしさ」
「そうねえ」
「お互いに監視し合って、ひとつに纏まってるようなところだもんな」
ひとりごちるような夏野の声に、軽く苦笑して律子は視線を落とす。
そう――そう見えるのかもしれない。外部の人間にしたら。
(辛気くさい村)
出たら清々するだろ、だから結婚しよう。
(……けれども)
よく知った人々、幼い頃からあまりにも馴染んだ小さな村。この村を出て、誰一人知らない町に移る。その寂しさを理解してくれない人を頼りにして。――律子には、とてもできそうもない。
目を上げると、夏野は缶を握ったまま南を見ている。おそらくは、律子もそうなる。外場を懐かしんで夜明け前の国道に立つ、そういう人生を選びたくはなかった。
「最近、外場を作る家が減ったなあ。……あの匂い、好きなのに」
夏野は振り返って瞬いた。
「匂い、って、樅の?」
律子は頷く。
「樅の匂いって好きなのよ。どういうわけか厳粛な気分にならない?」
「卒塔婆を作ってる匂いだと思うからじゃないの」
「たぶんね。……そう、死んだ人のことを懐かしく思い出してる気分の匂い」言って律子は、どこか晴れ晴れとした気分で空を仰いだ。「――よし、新しい家は樅材を使おう」
「新しい家?」
夏野は困惑したように律子を見上げてきたし、太郎もきょとんと顔を上げた。
「うん。改築するの。今の家って、もう古いから」
律子は笑って太郎を振り返る。
「太郎、帰ろう。――あたんも新しい小屋が欲しい?」
「すげえ」
茶の間で小声を上げた息子を、田中佐知子は台所から振り返った。
台所は四畳半の茶の間に面して一段下がっている。かろうじて床は板張りになっていたが、かつての土間の名残だ。勝手口の|三和土《たたき》は広く、隅には洗濯機が据えられている。以前はそこに風呂の焚き口があった。洗濯機の隣に見えるのは風呂場に通じるドアで、これらは全て古い造作の名残だった。佐知子の家は古い農家の作りを、そのまま残している。改築したいとずっと思っているが、夫の両親がともに長患いをしたせいで、それほどの余裕がなかった。
「ねえ、山入、載ってるよ」
息子は茶の間から佐知子のほうに身を乗り出し、新聞を示している。へえ、と佐知子は洗い物をする手を止めて、茶の間に段差に腰を下ろした。
「昨日のパトカーはこれだったんだ」
「へえ……」
佐知子は小さな――ほとんど埋め草レベルの――記事に目を通し、昨日の騒動の原因を知る。山入で人が死んだらしい、という噂は昨日のうちに耳に届いてはいたが、さすがに詳細は分からなかった。
「あら、別に事件ってわけじゃないのね」
「まだ分かんないよ」
息子の昭は、何かを期待する口調で言う。そうね、と答えた佐知子の口調にも同様の色調が滲んだ。
「どうしたの」
茶の間に姿を現した娘が首を傾げた。昭は嬉しそうに新聞を示す。
「かおり、山入が載ってるぞ」
「お姉ちゃん、でしょ」佐知子は言って、新聞を畳んだ。「かおり、出かけるの?」
「うん。ラブを水浴びに連れて行こうと思って」
「それより、山入に行こうぜ」昭が腰を浮かせた。「おれ、長いこと山入に行ってないんだよな」
「よしなさい」
佐知子は息子をねめつける。中学に入ったばかりの昭は、まだ少しも落ち着いたふうがない。子供じみたことばかり言う。
「人が三人も死んだばっかりなのに、縁起でもない。鬼に引かれるわよ」
「馬鹿みてえ。――な、かおり、行こうぜ」
佐知子は昭を軽く小突く。
「そんな暇があったら、宿題しなさい。あんた、まだ手つかずでしょ。――かおり、足許に気をつけなさいよ。水が減って河原が滑るから」
「うん」
「犬に水浴びをさせるのはいいけど、その辺を転げまわらせないでね。水を浴びると前より汚れて帰ってくるんだから」
静信は炙るような陽射しを受けながら、上外場の集落に向かう。後藤田秀司の葬儀は予定通りに行われる。喪主のふきは山入で死んだ村迫秀正の妹だが、後藤田家に嫁いで家を出ている。村迫の不祝儀はあくまでも村迫家のもの、後藤田家とは別物だし、何しろ夏場なので秀司も埋葬を急ぐ。村迫夫妻の遺体は解剖に持っていかれ、戻ってくるのもいつになるか分からない。それでとりあえず予定通りの埋葬になったのだが、弔問客の興味は秀司ではなく、山入のほうに集中していた。
「いくら歳とはいえ、三人、いっぺんになんてねえ」
「溝辺町の辺りから頭のおかしい若いのでも入り込んできたんじゃないの。物騒な世の中になったもんだわ」
「本当にねえ。あたしなんて、生まれてから一度も戸締まりなんてしたこと、なかったけど。もうそんな時代じゃないってことなのかしらねえ」
「ほら、ちょっと前にも余所者が子供を轢いていったっていう話じゃない」
静信は別室に控えていたが、夏場のことなので襖も障子も取り払ってある。集まった人々の会話は筒抜けだった。
なにしろ状況が状況だったので、憶測が乱れ飛んでいる。村人のほとんどは、それを事件だと思っているようだった。物盗り、あるいは異常者の犯行。ならばきっと村の者ではなく、外部からやってきた何者かが犯人に違いない。――それが村の「常識」というものだった。
山犬に襲われたのではないか、というやや穏当な説は、今も山に入って林業に携わっている老人の間で盛んだった。
「このところ、本当に増えたからな。溝辺町の端に新しく住宅地ができたろう。あそこの連中が山に犬を捨てるんだよ」
「家に戻ってこないよう、わざわざこの辺りまで車に乗せて捨てに来るんだからなあ。それも、子犬や年寄り犬ってわけじゃないんだ。要は飼うのに飽きたとか言って、持て余して捨てに来るんだよ」
「猪田の|元三郎《もとさぶろう》さんだったか、春先に酷い目にあったんだろう。山入でさ」
「そうそう。あの人の山は山入の東の方だからね。そこで山犬に襲われて、酷い案配だったんだよ。襲った犬ってのがさ、なんとかいう立派な洋犬だったって言うからね。店で飼ってくるような毛の長い大きなやつだよ。犬にも流行り廃りがあってさ、都会から越してきた連中は流行らなくなると捨てるんだ」
静信は喧噪の中に漏れ聞こえる人々の声に、じっと耳を傾けていた。野犬のせいだといいながら、その野犬を作った原因は、やはり村の中ではなく外にあるのだった。中年の女たちは心中じゃないのか、と囁き合っている。山奥の寂しい暮らし、頼るべき縁者はいない。山の中に取り残され、病と老いに蝕まれ、それで耐えかねて自殺した、あるいは村迫三重子が進退窮まって無理心中をしかけたのではないか、という説もあった。そしてこれだって行政の不備、福祉の不備が原因であり、あるいは村を出てしまった子供たちの酷い仕打ちのせいであって、村の内部に原因があるわけではないのだった。
村は外界から隔絶されている。村自身が外界を拒絶している、と言っても良かった。そうやって様々な角度から「外界から侵入してきた死」というものをあげつらい、不思議なことに、方々で静信や敏夫が言明しているにもかかわらず、事件でも事故でもない、自然死だという意見は最初から存在しないかのようにおくびにも上がらない。
そう――「それ」は常に村の外からやってくるのだ。実際にやっくるのは、溝辺町からでも近隣の集落からでも、もっと遠い――バイパスの彼方にある都市からでもない。それは村の外部、村を取り巻く樅の中からやってくるのだった。樅の林は村の外部であって内部ではない。「それ」は樅の中、村の外からやってきて村人を捕らえていく。村は境界線の外にある混沌とした生死の境の向こうへと、村人を引いていくのだ。
(……屍鬼だ)
大川富雄は酒屋の片隅にあるカウンターで酒を飲んでいる連中に憤然と語った。
「突然、電話があって伯父貴が死んだって言うだろう。あわてて駆けつけたら、見られた状態じゃねえ。確かに伯父貴かと訊かれたけどよ、訊かれたって分かるはずがねえだろう。何しろ腐った上にバラバラになってるんでだから」
カウンターの酒灼けした老人たちは、いっせいに顔を顰めた。
「暑くて腐ってただけじゃねえ。|蛆《うじ》がびっしり集っててさ、ぱっと爺さんの顔を見たら、骨になってるのかと思ったぐらいだ。そのわりにゃあ、なんだか動いてるなと思ったら、それが顔中に集った蛆さ」
大いに誇張してまくしたて、その場にいた者たちに悪夢の種を植え付けた。
「おまけに、あちこちの廃屋やら伯父貴の家から、兎や犬のずたずたになったのが見つかったらしくてよ。あっちもこっちも血の海さ。ありゃあ、きっとどっかから気の違った奴でも紛れ込んできたんだぜ。義五郎のおやっさんと村迫の夫婦を殺して、ずらかったに違いない。警察の連中は野犬だろうなんて言ってたが、あてになるもんか」
大川篤は、階段を伝い昇ってくる父親のダミ声を聞きながら、複雑な気分を抱えていた。畳の上に据えたベッドに体を投げ出し、天井を睨みつける。
(誰かが山入を)死人と引き裂かれた動物、血染めの家。(……襲った)
篤は天井に、なんとかその惨状を思い描いてみようとした。血、臓腑、死体。背筋がちりちりし、同時に何か血が沸くものがある。殺人者、凶器、暴力。死体と血。腹の底に何かが溜まり、むずむずと揺れている気がした。なぜかしら、居ても立ってもいられない感じ。
「くそ……なんか、ぱーっとしたことがねえかな……」
無人になった山入を滅茶苦茶に破壊してやったら、この得体の知れない気分も吹き飛ぶかもしれない。けれども、と篤は思う。同じことを思って兼正に忍び込んでいながら、いざという段になって篤は怖じ気づき、逃げ出してきた。それを思い出すと腹の底から苦いものが迫り上がってくる。また、あんな無様な真似をする羽目になったら。
父親のダミ声が一瞬途切れ、続いて怒鳴り声が二階へと飛んできた。
「おい、篤、配達だ」
村の至るところで人が移動していた。人々は耳から情報を注ぎ込まれると、それが零れ出ないように小走りに歩き、辿り着いた先で内圧でもって弾けるようにして口から吐き出した。にもかかわらず、駐在の高見が足を止めて何かを訪ねようとすると、ぴたりと口を閉ざしてしまう。積極的に口を開いたのは、加藤裕介がただひとりだった。
「山入でいっぱい人が死んだんでしょ。誰がやったか知ってるよ」
子供の声に高見が身を乗り出すと、裕介はきっぱりと西の山を示した。
「あの家だよ。あそこに鬼がいっぱいいて、そいつらがやったんだよ」
祖母のゆきえは、あわてて孫の口を押さえた。
「そういうことを言うんじゃないの。――済みませんね。物珍しい家が建ったものだから、すつかりお化け屋敷だと思いこんでるんですよ」
違うよ、と裕介は身を捩ったが、祖母は手を放してくれなかった。どうして信じてくれないのだろう、裕介にはこんなに明らかなことなのに。
「本当だよ……」
裕介は小声で言い添えたが、大人たちは聞いてなどいないようだった。本当、ともう一度小さく繰り返して、裕介は口を閉じた。
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
「あら、若先生」
駐車場の傍らから声をかけられて敏夫が振り返ると、三人ほどの女が立ち話をしていた。陽射しを避けるように、門の脇の木陰に入ってハンカチで顔を扇ぎながら噂話に花を咲かせていたらしい。ご苦労なことだ、と思いながら、敏夫はそそくさと車に歩み寄った。どうせ連中の話題など決まっている。
山からは鐘の音がしていた。埋葬式で鳴らす鐘の音だった。立ち話をする女たちを避けて車の中に逃げ込んだものの、シートが灼けていて敏夫を心から辟易させた。
山入の騒動は、村の連中をすっかり舞い上がらせている。あちこちで寄り集まっては、推測を逞しくしているようだった。敏夫が検屍に立ち会ったことをどこからか聞きつけたようで、おかげで今日は休診日だというのに、急患がやたらに多かった。当たり前の顔をして診察を求める患者が引きも切らず、おまけに往診の求めも多い。そこで何を聞くかと言えば、本人の容態の話ではなく、山入の事件に関する論評なのだった。無駄話をしたがる患者の言葉を、断ち切るように塞いでこなしてていっても、患者の切れ間がない。正直言ってうんざりしている。
その記憶と、車の中に籠もった熱気に辟易しながら、敏夫は水口へと向かった。村道を下った南のほうでは、渓流の対岸に細長く集落が延びている。橋を渡ったそこが水口だった。
水口のいちばん下、狭い田圃と林とも呼べないほどの竹の茂みを隔ててぽつんと一軒建っている|荒ら家《あばらや》、伊藤郁美の家だった。荒ら家という言い方は決して不当ではないはずだ。古い建物は歳月に洗われ、一見して廃屋かと思うほど荒んでいる。瓦の割れた屋根は歪んで傾いているし、雨の漏る箇所に載せたトタン板は錆びて穴が開いている。果たしてきちんと開くのか、昔ながらの木枠の窓に入ったガラスは、ガラスとしての用をなさないほどに汚れていた。玄関のガラス戸は傾いて開いたまま、その上方に下がった古風な電灯は笠が割れ、電球が黒ずんだままになっている。
「こんにちは」
敏夫はガラス戸の中に踏み込み、声をかけた。中は薄暗い土間で、熱気が籠もった中にむせかえるほど強く安い線香の匂いが漂っている。玄関の正面には、えぐれた土間が真っ直ぐに裏まで続いていて、その奥から顔を出したのは、郁美の娘、|玉恵《たまえ》だった。歳は敏夫よりも三つほど上のはずだが、疲れ果てたような顔は、すでに一まわりも年上であるかのように老け込んでいる。
わざわざどうも、と往診の礼を言った玉恵の目は、どこかしら虚ろだった。でっぷりと太り、無気力を絵に描いたような玉恵の様子は、敏夫の記憶にある限り昔からのものだ。玉恵が頭を上げると同時に、奥の方から声が響いた。
「若先生ですか? どうぞ」
敏夫は玉恵に会釈をして、土間を奥に向かう。台所の手前にある部屋の、土間に面したガラス戸が開いており、穴蔵のような六畳の隅に薄い布団が敷いてあった。その上には女が坐っている。これが玉恵の母親、郁美だった。
「どうぞ、上がってくださいな」
伊藤郁美は、娘とは逆に瘠せた顔に満面の笑みを浮かべた。敏夫は内心の溜息を隠して六畳に上がる。身を縮めてかろうじて空いた畳の上に坐った。畳の上のスペースが異様に狭いのは、ぎっしりと家財道具が置かれているからだ。部屋の半分を占めるのではないかと思われるような、仏壇とも神棚ともつかないもの、その前に据えられた台の上には、火鉢と見まがうようなサイズの香炉が置かれており、そこで焚かれた線香が部屋を燻していた油煙で黒ずんだような、妙な光沢のある棚が二つ置かれていて、そこには意味不明の小物が埃にまみれて並んでいる。
敏夫はそれらのものから目を逸らし、事務的に診察鞄を引き寄せた。
「どうしました」
「昨日から、どうも熱っぽくて」
郁美は言ったが、顔には生気が|漲《みなぎ》っていた。少なくとも今日会った誰よりも健康そうに見える。
「体温は」
敏夫は訊きながら、体温計を渡した。この家には体温計がない、それは重々承知している。郁美は頻繁に往診を依頼するが、座布団を出されたこともなければ、茶の一杯が出たこともない。客用の座布団などというものは、そもそもこの家には存在しないのだと思う。客用の湯飲みがあるかどうかも怪しかった。
郁美はいそいそと体温計を手に取り、脇に挟む。敏夫が脈を取り、血圧を測る間、山入の騒動について語り始めた。パトカーがタケムラの前を通って驚いたこと、山入でとんでもない事件が起こったと聞いて驚いたこと、村迫夫妻の、義五郎老人の人物評、そんなものについてまくし立てた。郁美を無口で暗い女だとする向きもあるが、少なくとも敏夫に対しては洪水のように言葉を吐き出すのが常だった。機械的に聴診器を当てる。
郁美は有名な吝嗇家だ。いまどき、山から薪を切ってきて|竈《かまど》を使い、風呂は近所の湯をもらい湯する。一円の出費でさえ惜しむくせに、頻繁に敏夫を往診に呼ぶ。これには、医者を――あるいは「尾崎」を家に呼びつけるのが、郁美なりの奇妙なこだわりなのだろうという説と、病院に診察を受けに来ると、いらぬ検査をされて検査料がかかると信じているからだろうという説があった。いずれにしても、往診に来て、実際に郁美の具合が悪かったことはない。郁美は村で何事かがあったときに、敏夫を呼びつけるのだし、ごくたまに、本当に具合が悪いときにも治療や投薬は拒んだ。もちろん、保険には入っていない。親子で細々と田圃と畑を作り、あとは他人の善意をあてにして食っている。
敏夫は通り一遍の診察をして、特に異常はない、とだけ答えた。
「そう? 変ねえ、とても怠いんだけど」
郁美は言って、ところで、と身を乗り出す。
「後藤田さんの秀司さんが亡くなったそうじゃない。あれって山入と関係ないのかしら」
「関係?」
「だって、変じゃないですか、立て続けに死人が出るなんて。しかも、秀司さんは、村迫の秀忠さんの甥でしょう? 何かあるんじゃないかしらね。村迫の家も、残っているのは秀正さんだけでしょう。秀正さんと、ふきさんと、二人しか残らなかったけど、もともとは五人兄弟なのよ、あそこは。けども、三人は若いうちに亡くなったの。おまけに三重子さんは、最後の子供を死産してるしねえ」
敏夫は聴診器を片づけながら溜息をついた。
「また祟りだの何だの言い出すんじゃないだろうな」
あら、と郁美は心外そうだった。
「だって、おかしいじゃないですか。同じ血筋で立て続けに三人も死んだんだもの」
「義五郎さんも亡くなってるよ」
「義五郎さんは、村迫の家と家族同然だったじゃない。とばっちりを食ったってことも、あるんじゃないかしらねえ」
「なんのとばっちりだい。あんまり馬鹿なことを言うもんじゃない」
「若先生はすぐにそう言うけど、実を言うと、わたしは見たのよ」
「見たって何を」
「実はね、十日ほど前だったかしら。妙な夢を見たの。山入の上に真っ黒な雲が浮いているのよ。それだけの夢だったんだけど、わたしはピンと来たわ。きっと山入で良くないことがある、って」
「単なる夢だ。――じゃあ」
言って立ち上がりかけた敏夫の膝を郁美は[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]んだ。しっかりと体重をかけて縋りつくようにしたまま放さない。
「伊藤さん」
「わたしには分かったのよ。絶対、山入で不幸があると思ったんだから。そしたら、秀司さんに続いて、あの騒ぎでしょう。やっぱり村迫の家には、何かあったのよ。わたしは若い自分に、三重子さんにそう言ったことがあるんだから。あの家は良くないわよ、あんた、あそこに入ったままでいるとろくな死に方しないわよ、って。けども、三重子さんも人の話には耳を貸さない人だから。そしたらあの夢でしょう。わたしにはピンと来たけど、また妙な顔をされるのも嫌だから。それで黙ってたんだけど、分かってて何もしないのも気分が悪いじゃない。だからね、特別にお祈りをしたのよ、村迫の家で嫌なことが起こりませんように、って。そしたら、ご祈祷[#「祷」の字は旧字。Unicode:U+79B1]の最中にヤモリが出てきたの、それも二度も」
そう、とそっけなく言って、敏夫は郁美の手を引き剥がそうとしたが、右手を剥がせば左手が伸びてくる。
「これは駄目だ、と思ったのよ。それだけじゃないの。ほら、わたしは前々から言ってるじゃない、今年はおかしいって。お正月に占ったとき、良くない予感がしたのよねえ。そしたらこの暑さで渇水でしょう。おまけにね、今年に入ってからずっと、兼正の家のほうから良くない気を感じるの。悪いものが淀んでる感じがするのよ。こないだからそれが、山入のほうに流れていってるなって思ってたの。ほら、水が流れるみたいにね、ちょろちょろ山入のほうに流れてる感じがしたのよ。そしたらあの予知夢でしょう。兼正の土地を売ったのは良くなかったと思うのよ。あれで村の気が、ぐっと悪い方に傾いたのね。もともと兼正は曰く因縁のある場所だし」
「伊藤さん、おれはあんたのご託を聞いてられるほど暇じゃないんだがね」
「まあ、お聞きなさいって、悪いことは言わないから。兼正のあの家ね、あれは良くないのよ。あの家、方角も良くないの。門の位置が変わったでしょう、兼正の前の家とるあれは良くなかったのよ。せめて前のままにしておかないといけなかったの。それを教えてあげようと思って、訪ねたんだけど、誰もいないでしょう。きっとね、不幸があったのよ。賭けてもいいわ。越してくる予定だったのに、身内で不幸があって、それで越してこれなくなったの。無理もないわ、あんな家、建てるんだもの」
「伊藤さん」
「これだけじゃ終わらないわよ。もしもあの家に、本当に人が越してきてごらんなさい。もっと酷いことになるから。若先生、知ってます? うちの近くにね、三猿の石碑があるじゃないですか。あれが割れたんですよ、先日。ちようど山入で三人が死んだ頃なのよ、それが。それで気になって見に行ったら、三之橋の袂のお地蔵さんも、神社の手前の弘法さまも壊れてたんですよ。首が落ちてバラバラに割れてたの。聞けば、義五郎三さんの死体はバラバラになってたって言うじゃないですか。これが無関係だなんてこと、あると思います?」
「おれには、無関係としか思えないがね」敏夫は邪険に郁美の手を引き剥がした。「とにかく、特に具合の悪いところはないから。できればおれを呼ぶ前に、もう少し冷静に様子を見て欲しいもんだな」
あら、と郁美は敏夫をねめつける。
「わたしは冷静ですとも。わたしのいうことを信じてないんでしょう。けども、妙な予知夢を見て以来なんだから、調子が悪いのも。きっと毒気に当てられたんだと思うわ。ずっとなんだから、本当に」
そう、と言い捨てて、敏夫は土間に下りる。二度と郁美の往診だけはしたくないものだと切実に思うが、きっとまた呼ばれることになるのだろう。直接、郁美から電話があって呼ばれるのなら、断りようもあるし、電話で様子を訊いて済ますこともできる。けれども必ず電話してくるのは娘の玉恵で、往診を断ろうとすればヒステリックに泣く。後で郁美に叱られると言って泣き縋ったあげく、泡を吹いて倒れ、玉恵のほうが救急車で運ばれたこともあった。敏夫の父親は、この母子を毛嫌いし、往診に呼ばれるたび青筋を立てて起こっていたが、それでも根負けする形で、結局、かんかんになりながらも足を運んでいた。おそらくは敏夫も同様に、また引っ張り出されることになるのだろう。
まだ何かを言いつのっている郁美を置いて、さっさと土間を玄関に向かう。玄関脇の部屋から玉恵が出てきて頭を下げた。差し出した封筒は使用済みのダイレクトメールのもので、その中には、最低限の規定額が入っていると、敏夫は長年の付き合いで知っている。
「どうも……」
玉恵は沈んだ声で言う。敏夫は溜息交じりに封筒を受け取った。
「玉恵さんの苦労は分かるけどね、こういうことで呼ばないでくれないか。こうしている間にも、本当に診る必要のある急病人が、病院に駆け込んでいないとも限らないんでね」
済みません、と玉恵はたっぷりした体を縮めた。
「お母さんが、どうしてもって……」
「それは分かっているよ。だが、おれだって、世間話のために呼び出されたんじゃ困るんだよ。せめてお母さんのほうが病院に来るよう説得するなり、少しは玉恵さんが水際で止めてくれないと」
「……はい」
玉恵は、うっそりと頭を下げた。敏夫は再度、溜息をついて玄関を出る。道には|陽炎《かげろう》が立ち、灼かれたアスファルトは熱波を上げている。|気怠《けだる》いほど淀んだ空気にうんざりせざるを得なかった。
あの母親を抱え、二人きりで生活している玉恵の苦労は分かっているが、こうして忙しい中、しかも暑い中を引っ張り出されれば玉恵に対して苛立ちを感じないではいられなかった。せめて二人に意見してくれる親戚なりともいればいいのだが、郁美は村外から嫁に入った女で実家とは疎遠だし、あの奇妙な言動のせいで村内の親戚筋とはものの見事に縁が切れている。近隣の者も、敬して遠ざける、というふうで、相手をするのは暇を持て余したタケムラの老人たちぐらいなものだ。要求されれば面倒は見るし、それなりの手助けもするが、関わり合いになることを決して歓迎するわけではない。親子は村の外れ、二人きりで孤立していた。
「やれやれ……」
まだ線香の胸が悪くなるような残り香が、白衣に染み付いている気がする。静信との友誼のせいで、線香の匂いには慣れているが、寺で嗅ぐ線香の匂いは嫌だと思ったことがかなった。むしろそれなりに風情のある匂いだと思っているぐらいだが、これは自分の気分の問題なのだろうか。それとも線香自体の問題なのだろうか。
病院に戻ったら白衣を換えよう、そう思いながら病院の脇の土手道にさしかかったところで、ちょうど駐在の高見が姿を現した。制服姿のまま、首に引っかけたタオルで首筋を拭っている。車を寄せて停めると、高見は親しげに笑った。
「ああ、若先生」
高見の木訥とした笑みに、敏夫は少しく救われた気がした。
「お疲れさん。見巡りかい」
「そちらこそお疲れさまです。往診ですか」
「伊藤の郁美さんのとこにな」
敏夫が言うと、高見は大仰に息を吐いた。
「そりゃあ、本当にお疲れさまでしたねえ」
「まったくだ。高見さんも茹だってるふうだな。冷たいものでも飲んで涼んでいくかい」
「そりゃあ、ありがたい」
高見は破顔する。敏夫は助手席を示したが、手を振って病院を示す。病院の敷地まで十メートルかそこらだ。意を察して車を走らせ、駐車スペースに入れていると、高見が後を追って敷地に入ってきた。
「いやね、念のために聞き込みのまねごとをしてみたんですけどね」
敏夫は車を降り、高見の照れくさそうな顔を振り返った。
「聞き込みって、何を」
「もちろん、山入のあれが自然死だってのは承知なんですが。いちおう、不審な人物を見なかったか確かめておくのも悪いことじゃないだろうと思いましてね」
「ははあ」
「単に、そんなことでもしてないと、どうも役目を果たした気がしないという、それだけのことだと言えば、そうなんですけどねえ」
高見は笑って顔を拭った。敏夫も、通用口に向かいながら笑う。
「それが人情ってものかもしれないな」
「それで思い立って、あちこち聞いてまわったのはいいですが、結局、聞いたのは加藤さんちの坊やの話ぐらいなもんですわ。なんでも、何日か前に怖い小父さんが村道を上に向かって歩いていったとか」
「怖い?」
敏夫は通用口から上がりながら問う。
「子供のことなんでね、何がどう怖かったんだ、と聞いても要領を得なくて。どうも、夕暮れ時に男を見かけて、それがバットだか金槌だかを持ってて、怖かったというだけのことらしいんですけど。裕介くんによると、兼正の家は鬼の巣なんだそうです」
敏夫は笑った。
「子供らしいっていうのかね。おれも餓鬼の頃はそんなだったのかな」
「覚えてないんですか?」
「忘れちまったよ。どうも周囲の人間の話を総合するだに、そういう可愛気とは縁遠かったようだが」
高見が声を上げて笑って、休憩室から清美が顔を出した。清美ももちろん休みだが、患者があまりに多くて埒が明かないので出勤してもらった。せっかくの休日に清美も迷惑な話だが、給料を出すわけだから敏夫にとっても迷惑な話だ。
高見は制帽を脱いで清美に挨拶する。敏夫は高見を連れて控え室に戻り、白衣を脱いで放り出すとクーラーの通風口の前に立った。それでようやく人心地がついた。
「クーラーってのは、人類にとって最大の発明だって気がするな」
「クーラーと冷蔵庫じゃないですか」
「かもしれん」
「暑い中を歩き回って、やっと聞けたのが、その怖い小父さんの話と、車の話だけですわ。ほら、七月の終わりに下外場の子供が車に引っかけられたことがあったじゃないですか」
ああ、と敏夫は頷いた。
「あれきり別に見慣れない人間を見かけたこともないってんですから、村は平和です」
「それだけ世間が閉じてるんだろう」
高見は帽子で顔を扇ぎながら笑う。
「いちおう、気になるんで兼正にも行ってみたんですけどね」
「それであんなところを歩いてたのか。しかし、気になるって何が」
「いや、あの車――黒の大きな外車だったって話でしょう。それで兼正の車なんじゃないかという噂がありましてね」
「なるほどな。きわめて分かりやすい連想だ」
「だもんで念のために兼正の様子も見てみたんですよ。本当に無人なのかどうか、確かめておくのも悪くない気がしましてね」
「ふうん?」
「門には内側から閂がかかってるようで、押しても引いても開きません。通用口も同じですわ。それで、ちょっと中を覗いてみたんですけどね」
敏夫は口を開けた。
「なんだい、塀を乗り越えたのかい」
ええ、まあ、と高見はいっそう照れたふうだった。
「気になったもんでねえ。中は可哀想なことでしたわ」
「まさか、荒らされてたとか?」
「いや、そういうわけじゃ。前庭に、ずーっと芝を植えてあるんですよ。ところが、住人がいなくて水をやってない、その上この日照りでしょう。それで、せっかくの芝がすっかり枯れててね。ありゃあ、もういちど植え込まないと、芝生になりませんや」
なるほど、と敏夫は笑った。
「でも、おかけで車が入ったり人が出入りしたんなら、土が荒れて分かったんじゃないですかね。とりあえず踏み荒らされた形跡はなかったんで、やっぱり住人はいないんでしょうねえ。少なくとも、出入りしてる者はいないふうでした。窓から中を窺っても見たんですが、どうも人がいる様子じゃない。ついでに裏口に廻って、メーターも見たんですけどね」
「へえ?」
「水道もプロパンも、元栓から閉まってましたわ。電気のメーターもぴくりとも動いてない。プロパンも使った様子がなかったしねえ。ありゃあ、無人でしょう。ああも締め切ってたら、それこそクーラーと冷蔵庫の恩恵なしにゃ、生活できない」
「そうだろうな。クーラーはたまたま切ってるとしても、冷蔵庫が動いてりゃ、メーターは動くだろうしな」
「そうなんですよ。いや、とんだ骨折り損でした」
高見は陽に焼けた顔を赤らめて笑う。敏夫もこれに苦笑を返した。誰もが話題に飢えている。――いや、変化に飢えているのだ。十年一日のように、何の変化もない暮らし。山入の事件は、そこに投げ込まれた石だった。彼らはその波紋を、できるだけ長く保ちたいのかもしれない。単なる不幸な偶然では片づけてしまいたくないのかも。その気持ちは敏夫にも分からないでもなかった。
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
「どうです、厄落としをしていきませんか」
広沢が言うと、武藤も頷く。結城にも否やはなかったので、二人の後に付いていった。
後藤田の葬儀の後だった。結城は初めて埋葬式に参加し、土の下に埋められる棺を見た。村の内で使われる棺には蓋に小窓がない。葬儀の終わりに釘を打たれたまま、火葬場でそうするような最後の対面もなかった。そのせいか、棺が穴の中に埋められてしまっても死者が葬られたという感触に乏しく、火葬場で遺骨が上がってくるときのように永遠に死者と切り離された、という感じはしない。火葬とは違う奇妙な別離がそこにはあった。
広沢と武藤は村の中心部――外場と呼ばれる――に向かい、商店街の外れにある店に入っていった。
結城は興味を惹かれた。村に越してきて一年になるし、商店街には生活の必要もあって頻繁に出入りする。外れにあるこの建物には気づいていた。白っぽいテラコッタ仕上げの壁、アルコーヴのように窪んだところに黒い木製のドアがあり、磨りガラスが入っている。どうやら店舗らしいのだが、磨りガラスからは店の中が見通せず、表に面した小さい窓もステンドグラスが入っていて、やはり中は覗き込めない。店の名前は「creole」なのだと思う。磨りガラスに金文字で入っているが、結城はそれをなんと読むのか分からなかったし、ましてや何の店なのかも分からない。店を見るたびに気になってはいたが、さほどに重要なことでもないので、いつか武藤なりに聞いてみようと思いつつ忘れていた。
広沢がドアを開けると、クーラーの冷気と一緒に静かなピアノの音が流れてきた。カウンターと小さなテーブル、コーヒーの匂い、喫茶店だったのか、と結城は瞬いた。
「いらっしゃい」
カウンターの中には、四十半ばの瘠せた男が入っている。白いシャツに黒ズボン。バーテンダーを思わせる風貌だった。広沢は迷わずカウンターに坐る。結城も武藤とそれにならんだ。
「お揃いで。不祝儀ですか?」
親しげな声に、広沢が頷く。アイスコーヒー、と声をかけるので、結城もそれに倣った。
「弔組でね。――こちらは」と言って、広沢は結城を振り返る。「結城さん。こちらはマスターの長谷川さん」
よろしく、と長谷川は会釈して笑う。
「工房の結城さんですよね。初めまして」
「こちらこそ。……喫茶店だったんですね、ここは」
結城が言うと、長谷川は声を上げて笑う。
「食事も出しますし、夜には酒も出しますけどね」
「この人は」と、武藤は渋い顔をする。「わざと看板を出さないんですよ」
「何か理由があるんですか? いや、私もお店には気づいていたんですが、何のお店だか分からないので遠慮していたんです。居心地のいい喫茶店を探していたのに」
「それは失礼しました。これを機会に御贔屓に」長谷川は言って、含み笑う。「いいんですよ、これくらいで。出ないと近所の小父さん小母さんの溜まり場にされちゃいますからね。優先で流行歌を流せだの、ランチに納豆を付けろだの言われるのは真っ平御免ですから。まあ、不遜ながらこうやって客を選んでるわけで」
「だから敷居が高い」
武藤が恨めしげに言った。「喫茶店の看板も上げないし、わざと店の名前も横文字にして、読めないようにしてるんですからね、この人は」
「なんと読むんですか、あれは?」
「クレオールですよ」広沢が言った。「結城さんはジャズは?」
「嫌いじゃありません。そうか、そのクレオールか。でも、だったらディキシーなんじゃないですか?」結城は笑った。「チック・コリアじゃなく?」
「やりますね」長谷川は破顔する。「当店はお客様のような方をお待ちしておりました」
くすくすと結城は笑った。
「長谷川さんも、転入組なんですよ」広沢も笑っている。「もっとも、奥さんが外場の方なんですけどね」
「ああ――そうなんですか」
「もう三年になりますかね」
広沢の問いに、長谷川は頷いた。
「三年半ですね。何とか商売になってるからありがたい。越してきた当時は、女房に畑を作ってもらわないといけないかと思ってましたが、それなりに御贔屓にしてくれる人に恵まれたんで」
「わたしがこれを言うのは何ですが、どうしてまた外場に?」
長谷川は苦笑した。
「商社マンだったんでけどね。四年前に一人息子を亡くしましてね」
結城は言葉に詰まった。
「いや、気にせんでください。バイクの事故で呆気なく。それで気抜けしちゃいましてね。都会で踏ん張る気力がメゲたっていうか。女房の父親が一人で残ってたんですけど、息子の後を追うみたいに死んで。それで越してきたんです。喫茶店でもやって、夫婦二人で隠居するか、と思って」
「そうなんですか。奥さんはお店には?」
「いまは外に出てます。夕飯時にはちょっと早いんで。昼時と夕飯時、それ以降なんです、書き入れ時は」
「ランチも出るんですか?」
「簡単なものと日替わりしかありませんけれどね。夕飯も似たようなものです。基本はコーヒーと酒なんで」
「それは助かるな。外場はいいところなんだけど、ひとりで飲む場所がなくてね」
「そうでしょう」と長谷川は笑う。外場に越してこようと思ってね、一番気になったのがそれだったんですよ。でも、外場じゃ酒を飲む場所も喫茶店もないし、と思って。それで自分で始めることにしたんです。もともと興味もあったんで。半分は道楽みたいなもんですね」
なるほど、と頷く結城に笑って、長谷川は広沢を見る。
「今日は学校は――ああ、今は夏休みか」
「本当は、ここしばらく出ないといけないんだけどね。今日は勘弁してもらいました」
「お疲れさまです。暑かったから大変だったでしょう」
「そうでもなかったかな。もう整理してあったんで」
「整理?」
結城が訊くと、広沢は頷く。
「墓所のね。墓穴を掘るところが更地になっていたでしょう」
「ああ……」
「土葬ですから死人が一人出ると、棺ひとつ分の土地がいる。けれども、こちらじゃ樅を植えますからね。弔い上げになると墓――角卒塔婆を倒して樅を植えるんです。新仏が出て土地が必要になると、一番古い樅を倒して整地する。それを整理というんですが、整理が済んでないと本当に大変なんですよ。夏場のことだから整理がつくまで埋葬を待つわけにも行きませんからね」
「樅を倒すんですか? ぼくらが?」
「することもありますよ。ほとんどは安森工務店に頼みますけどね。夏場はあそこに頼まないと、間に合いません」
「安森工務店――ああ、門前の。あそこはそういうこともやるんですか」
「村の中では普請が少ないですからね。あそこが村の中でやる仕事は、ほとんどが墓所の整理です。後藤田のお婆ちゃんが、ついこの春、工務店に頼んでやってもらったばかりらしいですね。まだ土も軟らかかったし、おかげで我々は大助かりですが、自分のための場所に息子が入るんじゃあ可哀想な話です」
「外場では、死ぬ前に整理をして置くんですか」
「そういうことをする人もいます。年老いた親が自分の死期を見て、残されたものが慌てずに済むよう、自らの墓所を整える。少なくはないことですが、誰もがそうするわけでもありません。後藤田のお婆ちゃんは心がけの良い母親だ」
「……そうですね」
「本当に可哀想な話ですよ。どうも、かける言葉がなくてね。長患いの年寄りが死んだのなら、遺族に対しても慰めようがありますし、遺族自身にしても心の準備のしようもあれば、諦めようもあるんでしょう。けれど、子供に急死された親を慰める言葉なんか、この世に存在するんでしょうかね」
広沢が言うと、感慨深げに長谷川が頷いた。武藤もなにやらしみじみとした顔をする。広沢はグラスを覗き込んだ。
「わたしにも四つになる娘がいますが、あの子が死んだときのことを想像すると、慰めようと考えること自体、無意味な気がします」
結城はひとり息子の顔を思い浮かべた。
「……確かに、そうですね」
自分が老境にさしかかり、息子だけが残され、そうして自分が死を覚悟した頃になって、息子に先立たれてしまったら。残された親の苦しみは想像に余りある。結城は、ふきの痛ましいほど頼りなげな姿を思い出した。葬儀の喧噪の中でただひとり、寄る辺を失ったかのように身を縮め、じっと悲嘆に耐えていた姿。誰もが、かける言葉を見つけられなかったのだろう。老母は衆人の中でぽつんと座っていた。――いや。
結城は微かに眉根を寄せる。周囲の人間はむしろ、ふきのことなど念頭にないように見えた。誰も息子を亡くした老婆を顧みていなかった。その場にいた人々の興味は山入の方に向いていたのだ。
「……あんなものなんですかね」
結城が呟くと、広沢が首を傾げる。いや、と結城は苦笑して見せた。
「秀司くんの葬儀が、どうも別のことで賑やかだったから。何となくこういう小さな地域社会では、ああいう場合、親身になって遺族を支えようとするものだという思い込みがあったんで」
長谷川と武藤が顔を見合わせた。広沢は困ったように微笑む。
「確かに――今日の葬儀じゃ、秀司くんも、ふきさんもそっちのけで山入の話ばかりでしたが」
それは、何かの祝祭のようだった。村人が話題に飢えているのは分かる。こういう事件が得てして周辺の者を喜ばせるものであることも。だが、何も葬儀の席でああまで|燥《はしゃ》がなくても、という気がしたのも確かだった。
「しかも、起こったことは惨事でしょう。同じ村の老人が三人、非業の死を遂げたわけじゃないですか。それが大事件だということは分かるし、だから葬儀の席上でも口の端に上がらざるを得ないことは分かるのですけど、何もあんな燥ぐような口ぶりでなくても、という気がするんです。同じ共同体の人間のうえに悲劇が起こったのだという――そういう扱いにはならないものなのか、と」
「結城さんは虫送りを覚えていらっしゃいますかね」広沢は静かに言う。「別当を担いで祠から祠へ練り歩いたでしょう」
「ああ――ええ」
結城は首を傾げた。広沢が唐突に何を言い出したのか、一瞬、意を掴[#「掴」の字は旧字体。Unicode:U+6451]みかねる。
「道祖神……というと、道の神様ですよね」
「境の神、と呼んだ方がいいんだと思いますが。外場では道祖神がよく残ってます。地蔵や庚申塚の形をしていても、必ず石でできていて、性質としては明らかに道祖神の役割を果たしているんだそうです。村のウチとソト、その間にある境の神なんですよ」
結城は瞬いた。
「すみません。わたしはそのへんは疎いもので……」
失礼、と広沢は笑む。
「道祖神というのは、本来的にはウチとソトの境の神なんです。我々は自分のことを『ウチ』というふうに称しますよね。これは自宅の建物そのものを示すだけではなく、もっと観念的なものを含んでいるものです。自分や自分の空間、家族やそれらにまつわる記憶、様々なものを包含するイメージとしての『ウチ』というものがあるんですね」
「ああ、確かに」
「建物としての『ウチ』は境界線が明瞭です。家の壁、あるいは敷地の境界線。だいたいは建物の壁や塀で囲まれた空間を差すのだと思うのですが、いずれにしても、ここからここまでが自分の家だ、という境界線があるものですね。ところがイメージとしての『ウチ』には、明瞭な境界線がないのです。『ウチ』の外側には、必ずウチともソトとも区別のつかないグレイゾーンがあります。それは場合によってウチになり、場合によってソトになることもある」
「はあ……ええ」
「村の場合も同様です。外場は行政上は外場校区といいますが、こちらのほうは境界線がはっきりと決められています。けれどもイメージとしての村の境界線は曖昧です。いわば村自体が『ウチ』なんですね」
「ウチの会社、ウチの学校――」
「そう、それと同様です。我々は村を『ウチ』として認識するのですが、ウチがあればソトもある理屈で、結局のところ、これは世界をウチとソトとに二分することなのですけど、そうすると、その境界線はウチなのかソトなのかという問題になる」
「はあ、それは確かに……」
「観念に線を引くということは、そういうことなのでしょうね。白いものをこちらへ、白でないものを黒としてあちらへ弾いていく。すると最後には白黒どちらとも言えないグレイのものが曖昧なまま残されてしまいます。つまりはグレイゾーンでイメージを区切って二分すると、ということです。このグレイは場合によって――比較するものによって白になったり、黒になったりする」
「ああ、そうなのかもしれないですね」
「我々がイメージする『ウチの村』というものの境界線は、『ウチ』と同様にはっきりとしません。曖昧なグレイゾーンに取り巻かれている。この曖昧なグレイゾーンが『境』で、『境』というのは結局のところ、ウチでもありソトでもあります。道祖神というのは、この境の神なんですね。ウチとソトの間に位置する、『境』そのものの神」
「へえ……」
「ですから道祖神は、ソトから侵入しようとする邪霊や悪鬼からウチを守り、豊穣をもたらしてくれると同時に、道祖神そのものは悪霊だったりするわけです。この両義性が道祖神の特徴で、石というのは古来、生命あるものとないものの境の物質だとされています。ですから道祖神として、石や石碑、石地蔵を村境に祀ってあるんです」
「ああ、その道祖神を供養してまわるわけですね、お供えをして。そうしながら、ベットを振って村の中の穢れや罪、害虫や疫病を移して、境に捨てるわけだ。そういえば、この手合いのお祭りでは、必ず村の外れに捨てるんですね、不思議にソトじゃない」
広沢は破顔した。
「そうです。それこそが境の両義性なんでしょう。村にとって鬼は疫病の暗喩です。ベットに従って鬼も一緒に村境へと出ていく。そうしながら、ウッポして境の内側を踏み清めていくんですね」
「なるほど、鬼はソト、福はウチだ」
結城が笑うと、広沢も笑った。
「いまだにね」と、広沢は温厚に笑みを含んだまま言う。「そういう祭りを後生大事にしているところなんです、この村は。村の者にとって村はウチという意識が強い。かえせばそれだけ、ソトから孤立している」
「ああ……それは分かるような気がします」
広沢は息を吐いて、コーヒーのグラスを見つめた。
「山入は、消滅寸前の集落でした。残っているのは三人だけ、それも地理的に孤立していたために、村の者からすると隔絶感があったのだと思うんです。山入が村のウチかソトかと問われると、過去の歴史や現在の行政上の区分けを考えても、ウチだとしか呼べない。けれども、意識の上では、どこかもうソトだという認識なのだと思うんです」
結城は、ああ、と頷いた。
「ウチとしてイメージから弾き出されて、境のものになっていたんですね、山入は」
「そうなんだと思います。山入で老人が死んだ、これはウチの人間からすると、純然たる悲劇です。三人もの老人が孤立したまま、誰にも看取られることなくひっそりと死んでしまったわけですから。けれども、ウチにとっては悲劇でも、一旦ソトにでれば対岸の出来事にすぎないのです。とはいえ、対岸の出来事であっても、悲劇は悲劇です。我我が外国の災害を目にして、悲惨だ、可哀想だと思うように、対岸の出来事も悲劇として認識される。そこにはリアリティや身に迫った感じが失われているのですけど、これは悲劇として受け止めるべきだ、という思慮が働いて、悲劇として認識されるのです」
「けれど、山入はソトでもなかった?」
「そうですね。山入は境でした。ウチでもなく、ソトでもない。粛然とするほどウチのことではないのです。かといって、無分別に燥いではならないという思慮を働かせることができるほどソトでもない」
「ああ……そうか。なるほど」
「山入に対する扱いがどうしても浮つくのは、そういうことなのでしょうね。そして葬儀というのは、祭祀のひとつであり、祭祀というのは日常に対する非日常という意味で、祝祭の一種なんです。大勢の人が集まってひとつの儀式に参加する、という意味で祭りと何の違いもない。そこにさらなる非日常が飛び込んでくる。 それは全く無関係ではなく、しかも安全なほど離れた非日常です。だから、相乗効果、というのですかね――どうしても賑々しくならざるを得ないのでしょう」
「そうですね……」
結城は頷いた。なるほど、そんなものか、と思う。納得しつつ心のどこかで落胆していることも事実だった。
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
山入の三人の遺体が戻ってくる、という知らせが静信の元にもたらされたのは、八月八日、秀司の葬儀の翌日のことだった。人口の減った山入の世話役を兼ねる安森徳次郎から連絡があって、葬儀の日程を打ち合わせる。
「さほどに急がなくてもいい。何だったら通夜は明日でも」
徳次郎が電話の向こうで言うのに、静信は首を傾げた。
「いいんですか」
「それが、酷い話なんだよ。秀正さんとこの上の婿さんがいろんな手続きをやったんだけどね、よく事情を知らないもんだから、|荼毘《だび》にしちゃってね」
静信は受話器を握ったまま瞬いた。
「それは――たしかに、秀正さんは――」
「遺体を返されたって仕様がないと言やあ、そうなのかもしれないがね。実際、大川の大将も義五郎さんを荼毘にしてもらったくらいだし。とは言え、三重子さんまで焼いちまったのは酷い話さ。婿さんがこっちじゃ土葬にするんだってのを知らなくて、手続きしちまったらしいんだがね。まったく、無神経の極だよ」
静信は沈黙した。手続きをした婿が無神経だというより、未だに土葬にする外場のほうが特殊なのだろう。村の者でもない人物が風習にさして重きを置かず、軽々に対処してしまったのも仕方ないことなのかもしれなかった。
だが、村の者は火葬に対する抵抗が強い。遺体であっても遺骨であっても死者は死者に違いないのだけれども、村の者は遺骨に対して、損なわれた遺体だ、という気分を抑えられなかった。
「そういうわけだから、いそいで埋葬してやっても仕方ないからね。まあ、つい昨日、秀司くんの葬式が済んだところだし、余裕を見て明日の方がいいんじゃないかと思ってね」
「そうですね」
「わたしはとりあえず、警察に同行してお骨を引き取ってくるんで。戻って葬式の算段をしてから、今夜にでもゆっくり行きますわ」
お待ちしています、と静信はいって電話を切った。少し考え、黒板に目をやる。予定はいくつか入っていたが、どれも池辺か鶴耳が行くことになっている。それを見て取って、静信は立ち上がる。黒板の隅にメモを残して事務所を出た。
通い慣れた道を通って山を下り、尾崎医院の裏庭へ向かう。腕時計を見るとすでに休診時間に入っていた。往診がなければ敏夫は控え室か、母屋の自室にいるだろう。庭沿いに歩いて控え室を覗き込むと、デスクに向かって書類を眺めている後ろ姿が見えた。静信が軽く掃き出し窓のガラスを叩くと振り返る。わざとらしく渋面を作ってから中を示したので、ガラス戸を開けて中に入り込んだ。クーラーの冷気が心地よい。
「さっそく死臭を嗅ぎつけてきたな」
「――え?」
控え室に上がり込むなり言われて、静信は敏夫を見た。
「死体が戻ってくる話を聞きつけてきたんだろう。そういう件に関しちゃ、坊主ってのは、ハゲタカ並だな」
静信は苦笑した。
「ハゲタカでもハイエナでもいいけど。解剖の結果は出たのか?」
「SUD」
「なんだ、それは?」
「内因性急死、ってやつだ。とにかく状況が異常だったんで警察も徹底的にやったらしいが、とどのつまりは原因不明。まだ培養検査やなんかの結果が出そろってないんで、本当の結論が出るまでには三週間ほどかかるだろうって話だが、とりあえずそれで決着がつきそうな案配だな」
「そんな」
そんな、と言われてもな、と敏夫は息を吐く。
「村迫の爺さんと義五郎さんは原因が分からないというより、原因を特定できるほど死体の状態が良くなかった、ということだ。そもそも病死の包囲解剖で、明らかな死因が特定できるのは半数以下だ。その上この陽気で遺体は腐敗が進んでいる。臓器は軟化融解して泥状化する。それで死因を特定しろといわれてもな。しかも首都圏や大都市のように監察医制度があるわけじゃなし。この辺じゃ解剖してみるのだって、法医学の専門家じゃなしに一般臨床医だ。これで精一杯というところさ」
敏夫は溜息をつく。
「村迫の秀正さんは、とりあえず生前の外傷はなかったと思われる。腐敗と死後損傷――これは主に昆虫によるものだが――が激しくて、死因の特定はできなかった。義五郎さんのほうも腐敗が進んでいたものの、発見された部位にとりあえず生前の外傷は見あたらない。死後、野犬に襲われて損傷した、というところらしい。ただし、発見できなかった部位もあるわけだが、現場の状況から考えても、ともに内因性急死だろうということで決着がついた」
「三重子さんは」
「三重子婆さんにも、やはり外傷はない。内因死であることは確実だ。開けてみるとあちこちが悪かったらしい。冠動脈の硬貨、心筋炎、肺および腹腔内における血液就下、特に顕著だったのは肝臓組織の壊死だ。急性肝不全か、肝炎から来る劇症肝炎、そのあたりだろうという話だな」
「そう……」
静信は頷く。
「爺さん二人は、おそらく死後五日から六日ってところだろうという話だった。――ところが」敏夫は言葉を切って、マグカップを静信に向かって突きつけた。「三重子婆さんが死後三十時間ていど」
「間違いないのか、やはり」
「間違いない。馬鹿な話だろう? 爺さんが死んで、婆さんは数日、爺さんの死体と同居していたわけだ。誰にも連絡ひとつせずに。座敷には仲良く布団が並べてあった。婆さんのほうは布団から這い出して、裏庭に出ようとして死んだ、という風情だ」
静信は納得する。村では、三重子は夫の後を追ったらしい、という噂が流れていた。この状況では、そう解釈するものがいてもやむを得ない。
「婆さんのほうは、自然死だ。しかも爺さんを看取ったことが確実だから、爺さんは事故や何かで倒れたわけじゃないだろう。事故があれば、いくらなんでも人を呼ぶなり救急車を呼ぶなりしたはずだ。秀正さんも義五郎さんも、布団の中で死んだらしい。三重子婆さんは死ぬ前にうちに来て、二人の具合が悪いと言っていた。義五郎さんの薬を取りに来たんだがね。あの人は高血圧の持病があったから。特にどこがどう悪い、というわけでもなさそうで、夏風邪だろうと言っていたが」
静信は瞬いた。夏風邪だろう――とは、最近、別の場所でも聞いた言葉だ。
「いずれにしても、それで寝かせてあった。おそらくはそのまま死んだ、ということだろう。少なくとも事故でもなければ事件でもない。婆さんは高齢にもかかわらず、病人二人を抱えて看病に追われた。寝食の暇もなかったというところだろう。それが爺さんが死んで、緊張の糸が切れて倒れた」
「つまり、三重子さんは秀正さんの死を看取ったけれども、本人はその心労で秀正さんの死を知らせることもできないほど、もう悪かった……?」
「としか考えようがないだろう? だが、電話くらいしても良さそうなもんだ。横で亭主が死んでる、自分も電話の側に行くのが難儀なほど具合が悪い、そういう場合、人はかえって必死になって電話の側に行くものなんじゃないか? ところが、必死になるまでもない。電話は枕許にあったんだ。寝床から起きて立ち上がって電話台に手を伸ばせば良かった。立ち上がらなくても、身を起こして手を伸ばせば何とか届く。だが、婆さんはなぜか、寝床からちょっと出て手を伸ばすことより、畳を二メートルほど這って外の空気を吸うことのほうを選んだってわけだ」
しかも、夫の死から四日も五日も経って、と静信は心の中で添えた。いったい三重子に何が起こったのだろう。
「義五郎爺さんのほうは高血圧で、ずっとうちから降圧剤を出してた。それで高血圧から来る脳出血または心疾患じゃないかということだ。だが、村迫の爺さんの法はとくにこれといって命にかかわるような持病はなかった。原因が考えられるとしたら、婆さんが言っていた夏風邪だけだ」
「夏風邪で人が死ぬものなのか?」
敏夫は大きく息を吐いた。
「風邪だろうと、死ぬときは死ぬさ。とくに夏風邪を起こすウイルスの中には怖いやつがあるんだ。インフルエンザは肺炎を起こすが、夏風邪は心炎を起こす」
「じゃあ――」
「可能性としてはあり得る」
「にしても、三人が三人」
死ぬものだろうか、と言いかけて、静信は何となく言葉を呑み込んだ。
敏夫は手を振る。
「妙な気がすることは確かだが、確率的にはあり得るさ。可能性だけで言うなら、火星人が舞い降りてきて、三人が恐怖の余り死んだ可能性だってあるわけだからな」
静信は苦笑し、敏夫もまたくつくつと笑う。
「山入の三人は歳が歳だった。秀正さんはこれといった慢性病はなかったものの、気管支が弱くて冬場、風邪を引くたびに気管支炎を起こしていた。今回も気管支炎を併発したのかもしれん。三重子婆さんだけは元気そうだったが、生まれたての体のようにまっさら、とはいかんさ。しかも急性肝不全の場合、肝機能の低下から肝性脳炎を引き起こすことがある。肝性脳炎が起きると意識レベルは低下するし、異常行動を誘発することがあるんだ。おそらくはそれが原因で、亭主の死体と仲良く枕を並べていたんじゃないかという話だな。――もっとも、他に解釈の仕様がない、ということなのかもしれんが」
「そう……」
「だが、警察が重視してるのは三人の人間の死体より、むしろあちこちに残った動物の死体のほうさ。村迫の台所と、義五郎じいさんの台所、何者かが食ったんだ。ふるってるじゃないか。台所でだぜ?」
「やはり野犬?」
敏夫は肩を|竦《すく》める。
「さあね。野犬が台所でお食事あそばすかどうかはさておき、警察は狂犬病を疑ったみたいだったな。とりあえず三重子婆さんから狂犬病ウイルスは発見されなかったようだが、ワクチンとヒトグロブリンは置いてあるか、しつこく訊かれたから。最初は精神異常者でも紛れ込んでと思ったようだが、人間のほうは自然死だとしか考えられないから、この線は完全に捨てたらしい」
「そうか……」
静信は呟く。自然に溜息になった。安堵したせいなのか、あるいは他の理由によるものなのか、自分でも分からなかった。
敏夫もまた盛大な溜息をついてから静信を見た。
「――ところでお前、いつまでそうやって突っ立ってるんだ?」
やすよが休憩室で一服していると、律子と雪がお茶を運んできた。
「お茶でーす」
雪の燥いだような声に、やすよは通信販売のカタログから目を上げ、軽く拝んでみせた。
「ありがと」
「どういたしまして」雪は子供っぽく胸を張って言ってから、背後のドアを振り返った。「先生、どうするって言ってました? 呼べばいいのかなあ。それとも、控え室に持っていったほうがいいですか」
「ああ、構わないでいいわよ。さっき覗いたら、若御院が来てたようだったから」
あら、と律子が声を上げた。
「いつの間に。若御院にお茶を持っていったほうがいいですよね」
「さっき、あたしが行っといたわ」
「変なの」と、雪は椅子に腰を下ろす。「若御院って、いっつもいつの間にか来てるんですよね。あんなふうに裏からこそこそ来ないで、堂々と来ればいいのに」
やすよは苦笑した。
「あの人たちは、昔からああなのさ。奥さんがいい顔をしないからね」
「いい顔をしないって」
「だからさ、なんのかんの言っても若御院は、お寺の若さんなわけでしょう。この村じゃ、寺は偉いのよ。いちばん偉いのがお寺さん、次に偉いのが兼正、三番目が尾崎と昔から決まってるの」
「お医者なのに一番じゃないんですか」
「病気にかからない者はいても、死なない者はいないからね。病気はここじゃなくてもあるけど、みんなあそこの檀家なんだから、寺はあそこでなきゃならない。御院に引導を渡してもらわなきゃ、あの世にも行けないんだから。村にとっちゃ当たり前のことなんだけど、奥さんはそれが気に入らないんでしょ。そういうの、気にする人だからね」
「ふうん」
「小さい頃から、絶対に若先生を寺に遊びには行かせなかったからね。なにしろ寺のほうが偉いから、遊びに行ってお菓子でも貰えば、後で礼のひとつも言わないわけにはいかないでしょう。そうやって|謙《へりくだ》って頭を下げるのが我慢ならないんでしょ。だからって、寺の若さんが相手のことだから、遊ぶなとも言えないし」
雪は目を丸くする。
「そんなもんなんですか」
「まあね。――かといって、若さんのほうに表だって遊びに来られると、それなりにもてなさなきゃならないし、何かあったときには、やっぱり頭を下げないといけない。だから、本音じゃ来て欲しくないのよ。でも、相手が相手だから来るなとも言えない。それで若先生の部屋に勝手に来て帰っていくぶんには構わないってことになってるんだわね。そうすれば、来たのが分かってても気がつかないふりしてりゃいいんだし、何かあっても知らなかったで済むわけだから」
「複雑なんですねえ……」
雪がしみじみというのには、やすよは笑った。
「奥さんはね。寺のほうはは、若御院はあんなふうだし、御院にしても奥さんにしても偉ぶらないからね。うちの奥さんが勝手に気にしてるだけなんだけどねえ」
やすよは苦笑した。気位が高い、と言えばいいのだろうか。敏夫の母親、尾崎孝江はそういう人物だった。実家はどこだかの羽振りの良い病院だったらしく、寺や村長を医者の上におく村の流儀は、はなはだ自尊心を傷つけるらしかった。自分は病院の「奥さん」で――村では「奥さん」と呼ばれるのは、つい最近まで寺と兼正、尾崎の妻だけだった――村の者とは違うのだ、という態度を頑として崩そうとしない。
先代にもそういう面があったから、敏夫が戻ってきて院長に納まるまでは、やすよたちも苦労が絶えなかった。何しろ、自宅のほうの食事の支度や掃除まで手伝わされることがあったから、体の良い使用人扱いだったのだ。休日に家で寛いでいても、いきなり電話がかかってきて、模様替えをするから手伝ってくれ、などと要求される。
「休みの日にお茶会の手伝いをさせられたりね」やすよは笑う。「そんなふうだったからねえ。まあ、大変だったわ」
「なんですか、それェ。あたしねそんなことさせられたら辞めちゃう」
「雪ちゃんは、若先生の代しか知らないからね。大先生の頃は、とてもじゃないけど村の者じゃなきゃ勤まらなかったわねえ。本当に代替わりして、がらっと病院の雰囲気が変わったからね。つい三年前までは、こんな休憩室みたいなものも満足になかったんだから。お昼なんて、裏口の水場の脇で食べててさ、お茶も備品じゃなくて、自分たちでお茶代持ち寄って買った葉っぱよ」
「……あたし、もうちょっと先生のことを尊敬することにします」
妙に力を込める雪に、やすよは声を上げて笑った。
病院のスタッフは体の良い使用人扱い。けれども病院には一切、関わりを持たない、それが孝江の流儀だった。どんなに忙しくても手伝うわけでもなし(手伝おうにも何の資格も持っていないのだが)、急患や往診を求める電話の対応さえしない。「尾崎の奥さん」と呼ばれ、求められて寄り合いに出るのでなければ、村の者とも付き合わない、お茶だ仕舞いだと言って出ていく以外は、自宅に閉じこもったまま。
そんな孝江の息子、敏夫は孝江とも先代とも似つかない気性の持ち主だが、妻に選んだ恭子はやっぱり孝江のような女だというあたり、息子はかくも母親という存在から逃れられないものなのかもしれない。
尾崎恭子は同居してない。村に戻ってきた最初の頃こそ家にいて、習い事だ何だと出かけていたのは孝江と同様だが、そのうちに家にいるのにうんざりしたらしく、溝辺町にアンティーク・ショップを開くと、マンションを借りて生活をしている。気が向けば帰ってくるが、それも徐々に間遠になっている。孝江はそういう嫁が腹に据えかねるらしく、戻ってくれば小競り合いが絶えないが(そして、それによって恭子の足はまた遠のく)、よく似た嫁姑だと、やすよなどは思う。
(……ま、若先生も大変だわ)
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
クラクションの音を聞いたような気がして、矢野妙は目を覚ました。歳のせいか、眠りが浅い。些細なことでも目を覚ます。国道でブレーキ音がしてても、トラックのエア・フォーンの音がしても目覚めることがあるが、今夜の場合は、もっとあからさまに誰かに起こされた、という気がした。
枕許の畳に置いた時計を見ると、深夜の二時だった。また、クラクションの音がする。家の前――ドライブインの駐車場のほうからだ、という気がして、妙は起き上がった。
妙の寝室は家の裏手にある。国道ではなく、裏の田圃に接する庭に面していた。その寝室を出て廊下を抜け、仏間を兼ねた座敷にはいる。入って妙は目を覆った。表の駐車場に車がいて、ヘッドライトが家を照らしいている。ハイビームになったままなのか、夏場のこととて開け放した雨戸の間から強い照明がまともに射し込んでいて、思わず妙を狼狽させた。
「……なにごと?」
たたらを踏んだ妙の後ろから、娘の加奈美の声がした。振り返ると、片手で目廂[#入力者注「目廂」の読み不明。「めひさし」?]を作った加奈美が、白々と照らされている。
「……さあ」
妙が答えるのと同時に、またクラクションの音がした。加奈美が座敷を通り抜け、縁側へと出る。真っ黒な長い影が座敷に落ちた。
「何の騒ぎなんです」
加奈美が雨戸の間から外に呼びかける。何やら人の声がしたが、妙にはその内容は聞き取れなかった。トラックでもいるらしく、声をかき消すほどのアイドリング音がしていた。
「ちょっと。ライトを消してください」
加奈美は駐車場に向けて声を張り上げた。「ちぐさ」の広い駐車場には、大型のトレーラーが一台、他にも乗用車らしき車が停まっている。細かいことは分からない。なにしろ目を灼かれるほどのライトが注いできている。
加奈美の抗議が聞こえたのか、ライトが消えた。途端に視力を奪われる。真っ暗なところにヘッドライトの残像が斑紋を描くのだけが見えた。軽い目眩を感じて瞬いている間に、傍迷惑なアイドリング音もやむ。どうやらエンジンを切ることを、やっと思いついたらしい。
目が暗がりに慣れ、静寂になれると、駐車場に三台の車が停まっているのが街灯に照らされて見えた。一台は大型のトレーラー、二台は乗用車でそのうちの一方はセダン、もう一台はワンボックス車だった。
「どうも、すいません」
恐縮したような若い声がした。ワンボックス車の側にいる、若い男が声の主のようだった。
「いったい何の騒ぎなんです。何時だと思ってるの?」
「おそれいります。道に迷ってしまって」
加奈美は目を|眇《すがめ》、首を傾げた。若い男は加奈美のほうに近づいてくる。二十代の半ばだろうか、怪しげな風体には見えなかった。
「何度もこの辺りを走り回っているんですが、道が分からなくて。すっかり進退窮まってしまったもので」
「どちらへいらっしゃるの?」
若い男は、心底、申し訳なさそうに頭を下げた。
「外場、という集落なんですけど」
加奈美は溜息をついた。
「ここが外場よ」
え、と若者は周囲を見渡す。
「うちの左にある道を入るの。入ったところが外場の集落。点滅信号があって、その下に外場って書いてあるでしょ?」
若者はあたふたと後退り、国道のほうを見やった。小声を上げて、小さくなって戻ってくる。
「済みません。見落としてました」
「見落としやすいみたいなんだけどね。まあ、お役に立てて良かったわ」
「本当に申し訳ありませんでした」
若者は深々と頭を下げる。
「外場にご用なの? こんな時間に?」
ええ、と若者は微笑んだ。
「本当は、もっと早く着くはずだったんですが。ぼくが迂闊で、とんでもないことになってしまいました。本当に失礼しました」
加奈美は素っ気なく頷き、そしてトレーラーに目をやった。街灯の光で「高砂運送」と読みとれる。
「ひょっとして引越? 兼正の人かしら」
「兼正?」
「ああ、地名みたいなもの。外場の集落の北西にある高台のお屋敷じゃない? 古い洋館の」
そうです、と若者はまた頭を下げた。
「|桐敷《きりしき》と申します。転居早々、とんだご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
まあ、と加奈美は思った。では、本当に兼正が越してきたのだ。――とはいえ、何という引越だろう。
「あの家なら、その道を入ったところよ。川沿いの道を真っ直ぐに上がって、神社に続く橋の袂の交差点を、神社とは反対方向に入るの。左へね」
「神社の前を左ですね」
「そう。それをまっすぐ行くと、山に突き当たるわ。その坂を登ったところだから」
「ありがとうございます」
若者は頭を下げ、改めて起こしたことに詫びを言ってから、トラックのほうへと駆け戻った。運転手に何事かを告げ、改めて加奈美に頭を下げて、ワンボックス車へと駆け戻る。再びエンジン音が響いた。トラックと二台の車が駐車場の中で切り返し、国道へと出て行く。最後に残ったのは白い外車だった。運転席に男の姿が、後部座席には二人分の人影がちらりと見えた。一方は女で、もう一方は子供のようだ。加奈美の前を通過する際、女が会釈したような気もしたが、単に光の加減でそう見えただけかもしれなかった。
「……まあ、驚いた」
加奈美の背後から妙が顔を突き出して、トラックを見送っている。
「まったくね。とんだお引っ越しだわ」
「よほど方向音痴な人たちなのね」
みたいね、と加奈美は苦笑した。村への入口は見落としやすいとはいえ、国道から集落に入る枝道はいくつもない。地図をちゃんと見ていれば、普通は分かりそうなものだが。第一、これから越してくる村を、一度も訪ねてみたことがなかったのだろうか。
加奈美は少し胸の中にわだかまるものを感じた。別に不審なふうではなかったけれども。にしても、今の連中の振る舞いはどこか妙ではないだろうか。まるでわざと、加奈美たちを叩き起こしたように見える。そのために道を訊いたような気が。
(……まさかね)
加奈美は村道のほうに曲がっていく車を見送った。白いセダンはかなりの高級車に見える。若者はいかにもあの屋敷にはそぐわない。主人というふうではなかった。むしろあのセダンに乗っていたのが主人ではないだろうか。だとしたら、主人がとうとう車を降りてこなかったのも気になるが。
「やっぱり、か」
加奈美が呟くと、妙が首を傾げた。
「なあに?」
「かなり変わった人たちみたい、って話」
そうねえ、と妙は未だに村道のほうを見送っている。
[#改段]
[#ここから3字下げ]
五章
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
「それじゃあ、山入の三人はやっぱり病死だったんですか」
控えの部屋で衣に着替えながら、角が言った。角は山入関係者の通夜と葬儀のために一泊の予定で駆けつけてきている。光男は角を手伝いながら、頷いてみせた。
「らしいよ。若御院がそういってた」
角は溝辺町に住んでいる。家は同宗派の寺で、角はその次男だった。檀家数もさほどに多くなく、住職である父親も副住職である長男も教師との兼業で、とりたてて角の手は必要ない。それでこうして非常勤の役僧として通ってきていた。
「まあ、三人が三人とも歳だったからなあ」
「おいくつです?」
「いくつになったんだかねえ。確か、義五郎さんはもうじき八十じゃなかったかな」
「それじゃあ、長寿だ」角は嘆息する。「うちの祖父が死んだのが六十一でしたよ。親父は今年で五十六だけど、もうあちこちが悪いって始終こぼしてますしね」
「そう、じゅうぶん長生きしたんだけどねえ」光男は苦笑する。「八十近くまで生きりゃ、大往生の域なんだけど、なにしろああいう状況だったからさ。なんだか大往生という気がしないね。不慮の死、って感じで差」
「そうですね、どっちかというと非業の急死って印象ですもんね」
「まあ、三人が三人、ばたばたと片づいたってのは珍しいが、そういうこともあるからね」
そうですね、と角は袈裟をかけながら頷く。
「うちの檀家でも、ひと月の間に、ぱたぱたと一家のうち四人が片づいたことがありましたよ」
「四人。そりゃ珍しい」
「そのうちひとりは、もう九十過ぎで、病院に入ったきりの爺さんだったんですけどね、四十過ぎの息子さんが心筋梗塞で倒れたのを皮切りに、ぱたぱたと親父さん、爺さん、お袋さんと四人。そういえば、あれも夏だったなあ」
「やだねえ」光男は頭を振る。「死人ってのは、どうも続くからね。こっちも秀司さんに続いて三人だろう。このまま勢いづいて続かなきゃいいんだけどね」
「後藤田秀司さんのほうが後なんじゃないですか」
角の指摘に、光男は瞬いた。
「そうか。実際になくなったのは、山入の三人のほうが先か。秀司さんが甥を引いていったのかね」
「引く、ねえ」
角が言ったとき、池辺が顔を出した。
「鶴見さん、法事から戻ってきましたよ」
よかった、と光男は笑う。
「なんとか間に合ったな。きっと引き留められてたんだろう。和田の爺さんは話好きだからね」
「そうらしいです」池辺は笑って、衣桁にかけておいた自分の袈裟を取る。「――とうとう越してきたんだそうですよ」
「越して?」
光男が瞬くと、池辺は何やら得意げに笑う。
「兼正。昨日の――ああ、今朝か。とにかく夜中にトラックが入ったそうです」
「おやまあ」
夜中にですか、と角は目を丸くした。
「ずいぶん変わった人たちなんですね」
光男もまた呆れ半分に頷いた。
「まったくだ。――それで結局、どういう人たちなんだって?」
「住人はまだ誰も見てないようですよ。下外場の誰かが、使用人だかアルバイトらしい若いのに会ったそうですけどね。夜に叩き起こされたんですって。道を訊くのに」
「へえ」
「なんでも、大きなトラックと、車が二台だったそうで。グレイの四駆と白のビーエムだそうです」
光男は息を吐いて頭を振った。未だに村人の間では、前田茂樹を引っかけて逃げたのは、兼正の住人だという説が濃厚だった。
「なんだ。じゃあ、やっぱり礼の外車は兼正とは関係ないんじゃないか」
「分かりませんよ、光男さん。あの後、車を替えたのかもしれませんからね」
「そういうことを気軽に言うもんじゃない」
光男は池辺をねめつける。
「にしても」角は笑った。「今日の通夜は、その噂でお経どころじゃないでしょうね」
「まったくです。なんか、すごい勢いで弔問客が増えてますよ」
やれやれ、と角と光男は顔を見合わせた。これでもう、村人は山入どころではないだろう。これから執り行われる通夜と明日の葬儀と、それらが厳粛に進むはずはないことは確定したと言えるだろう。
ふたりの心中を読んだように、池辺が笑う。
「まあ、いいんじゃないですか。ほら、兼正の屋敷についちゃあ、妙な噂が流れてましたもんね。近辺で人の気配がしたとか、塀の中から呻り声がしたとか。これで怪談じみた噂話も立ち消えになるでしょう」
そうだねえ、と光男が苦笑したときに、重い足音を響かせて鶴見がやってきた。
「鶴見さん、お疲れさまです」
光男の声に、鶴見は軽く頭を下げ、部屋の様子を見回して池辺を睨む。
「なんだ池辺、お前もう広めたのかい」
「そりゃあもう。右から左に」
「お前さんは坊主のくせに口が軽くていけない」
「坊主が無口じゃ、商売にならないじゃないですか」
「それもそうか」と、鶴見は声を上げて笑った。「ときに、若御院は」
「ふきさんと話をしてるのを見ましたよ」
池辺が言う。
「ふきさんを慰めてるんでしょう。ふきさんも災難ですよね。息子と兄さんと、立て続けですから」
「まったくなあ。しかし、若御院も寝なくて大丈夫なのかね。寺を出る前に顔を見たときは、目を真っ赤にしてたが」
角が嘆息とも簡単ともつかない息を吐いた。
「また徹夜ですか」
みたいだね、と光男は苦笑した。
「朝、勤行だけでも鶴見さんと池辺くんに頼んで一休みしてきたら、と勧めたんだけどね。今日は法事もあるし通夜もあるしで、大変なのが分かってたんだから」
本当に、と池辺も頷く。
「若御院は真面目だからなあ。せめて勤行ぐらい休めばいいのに」
鶴見は顔を|顰《しか》める。
「ぐらい、ってことがあるかい」
「言葉の綾ってやつですよ。昨日も寝不足みたいだったでしょう。予定が立て込んでいたのに」
「盆を過ぎるまでは忙しいからなあ。せめてこの時期くらい副業を休めばいいんだが。まあ、あの商売も坊主と同じで、暇はあっても休みはない商売のようだから」
「そうですねえ」
鶴見と池辺の会話を聞くともなく聞きながら、光男は鶴見が着替えた衣を衣桁に広げる。鶴見も池辺も、正確には住職である信明の弟子にあたる。池辺は静信が大学四年の頃、本山の斡旋で入門した。鶴見などは光男が出入りを始める前から寺にいる。どちらも副住職である静信よりも僧侶としての経験が長く、鶴見などは静信よりも遙かに年上だ。他寺の噂を聞く限り、そういう場合には色々と軋轢があるものだが、当の静信が万事に控えめで鶴見や池辺をよく立てるし、対する鶴見らも真面目な副住職に一目を置いているから、特に揉め事が起こったことがなかった。
初戦は寺男に過ぎない光男に丁寧に頭を下げ、いちいちに「光男さん」と言って立ててくれるのもいい。静信の書いた小説は、実を言えばどこが面白いのかよく分からなかったが、副業を鼻にかけることもなく、小説を書く間も事務所に詰めて、本分をおろそかにしないところに好感が持てた。
結局のところ、鶴見や池辺の師となり、静信を育てた信明の|為人《ひととなり》のおかげなのかもしれない。――手足に不自由があって寝たきりだとはいえ、未だに檀家の住職に対する尊崇は深かった。光男自身も例外ではない。
「もう少し気を抜いても良さそうなもんなんですけどね、若御院の場合」池辺は溜息めいた息を吐く。「今だって、少しでも休んでおけばいいのに、ふきさんにずーっとついてるんですから」
「ふきさんが心配なんでしよう」角が微笑った。「若御院は優しいから」
鶴見は頷く。
「あの人は、根っからの坊さんだからなあ」
光男は衣を始末しながら、内心で頷いた。
光男は十五の歳から寺に通い、陰から寺を支えてきた。光男自身は宗教法人としての寺にどんな役職を持つわけでもないが、自分は寺の一部だと思っているし、寺に対する愛着も深い。有り体にいうなら、この寺が自分のものであるかのように感じている。その光男の目から見ても、静信は寺を任せるに足る跡継ぎだった。穏やかで、礼儀正しく、きちんとした性格だ。淡々とした物腰は、衣を着ているとぴたりとはまる。尾崎医院の跡取りのように、不謹慎なところはない。家業を馬鹿にしている様子もなかった。根っからの坊さんという言い方は正しいと思う。跡継ぎとしては、何の不足もない。――たったひとつ、古い傷を除いては。
「本当にねえ」言って、池辺は少し口元を歪めた。「なのになんだって、妙なことを言う連中がいるんだか」
光男は池辺の、本気で気分を害しているような声に瞬いた。
「妙なこと?」
池辺は失言に気づいたように声を上げ、光男らの顔を見まわす。
「いや……ええと」
「妙なこと、っていうのは何なんだい」
さっき、誰かが立ち話してるのが聞こえて」池辺は言い淀み、「ほら、ちょっと前の、外車が子供を引っかけた事件。あれで、本当にそんな車がいたのか、って」
「いたも何も」鶴見が目を見開いた。「げんにむ子供が怪我をしたんだろう」
「そうなんですけどね。でも、若御院がその場にいて、子供を病院に運んだじゃないですか。だから……」
言いにくそうに口ごもる池辺の先を察して、光男は頷いた。
「ああ。実は若御院がひっかけたのを、口裏を合わせてどうこう、という話かい」
その噂なら小耳に挟んだことがあった。光男は檀家衆を取りまとめているから、檀家の噂には耳ざとい。
「なんだい、そりゃあ」
鶴見は心外そうに声を上げた。
「そういうことを言う連中もいるんだよ。別に悪意があって言ってるわけじゃない、単に無責任に想像を逞しくしてるだけなんだろうけどね。なにしろほら、肝心の犯人が捕まらないまんまだから。実は兼正の車で、敷地の中に隠れてたんだとか色々と噂が出まわってたろ。あの類だよ」
「それにしても、言うに事欠いて」
「だから、悪意はないんだよ。不慮の事故でそういうことになって、周りが若御院を|庇《かば》ったんじゃないか、って話なんだから」
「それのどこに悪意がないんです」池辺は憤然としたふうだった。「悪意そのまんまじゃないですか。若御院がそういう人でないことぐらい――」
「今じゃもう、村の全部がうちの檀家ってわけじゃないからな」
光男は低く言った。檀家ならたとえ無責任な噂話ででも、そういう言い方はしない。少なくとも、寺の耳にはいるような場所では。実際、この噂を光男の耳に入れた檀家衆も気分を害しているようだった。
「人の噂でしか若御院を知らない連中もいるってことだよ」光男はことさら丁寧に、鶴見の衣の埃を払う。「しかも若御院は、ちょっとばかり繊細すぎるところがあるから。副業も変わってるし、それでいろいろと妙な想像をする連中がいるんだろう」
光男の言わんとしたことを悟ったように、鶴見が微かに唸るような声を上げた。池辺と角はそれに気づかなかったようだった。
「それにしてもね、光男さん」
「昔は、村の全部が檀家だったんだよ。単に檀家だってだけじゃない、大昔にゃ田圃も山も何もかも寺から借りてたんだからね。だからこそ村の連中は寺には一目も二目も置くんだが、後から入ってきた連中にはそんなことは関係ないからね。特に、檀家でないのは、それこそ戦後に入ってきたような新しい家ばっかりだ。そういう連中にしたら、寺が意味もなく偉そうにしてるように見えるんだろう」
光男は言って、顔を上げた。笑みを作って池辺らを促す。
「それより、行かないでいいのかい。通夜が始まるよ」
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
「律子さん、お昼、一緒にどうです?」
上着を羽織った井崎聡子が、処置室に顔を出した。
「今日はわたし、お弁当だから。いってらっしゃい」
じゃあ、お先に、と聡子は汐見雪と手を振った。それに笑い返して、律子は処置ベッドの周囲をざっと片づける。物品の残量を確認していたとき、ふと、今日は水曜日か、と思い出した。
パーティションひとつを隔てた隣の処置室では、やすよが片づけをしている。律子は、やすよに声をかけた。
「やすよさん、前原のお婆ちゃん、見かけました?」
やすよは脱衣籠を所定の位置に戻しながら、「前原セツさん? 見てないわね」
「ですよね」
律子は溜息をついた。
「セツさんがどうかしたの」
「土曜日に薬をもらいに来たんですよ。先生の診察がないと出せないから、必ず月曜には来てくださいね、って言ったのに、月曜も火曜も、とうとう来なかったなと思って」
やすよは、声を上げて笑った。
「あの人は注射嫌いだからねえ。まあ、首に縄つけて連れてくるわけにも行かないからさ」
そうですね、と溜息をつく律子を軽く叩いて、やすよは一足先に処置室を出た。中待合から廊下に出たところで、通用口から静信が顔を覗かせているのが目に入った。
「あら、若御院」
間仕切りのドアを開けると、静信は丁寧に頭を下げる。
「お昼休みのところ申し訳ないんですが、軟膏が切れたのでいただきに来たんです。いいですか」
やすよは笑った。
「かまいませんよ、どうぞ。――御院はいかがです? この暑さで、ずいぶん参ってらっしゃるでしょう」
「暑さのわりに良いようです。特に食欲も落ちずに済んだようですし」
「あら、そりゃあ良かったですねえ。奥さんが本当によくお世話をなさるから」
やすよは控え室のほうに向かう。
「どうぞ。お茶でもお持ちしますんで」
「お構いなく。――ああ、被服剤も残りが少ないんですが」
はいはい、と頷いて、やすよは控え室のドアをノックした。
「先生、若御院ですよ」
おう、と中からぞんざいな声がする。やすよがドアを開けると、敏夫は机に向かって本の山に埋もれていた。
「ちょっとお待ちになってくださいね。ついでに、先生を|宥《なだ》めといてくださいよ。今日はずっと、ご機嫌が斜めでね」
苦笑する静信を残して、やすよが廊下を戻っていく。敏夫が煙草を|銜《くわ》えたまま本から顔を上げた。
「真に受けるなよ。うちの看護婦は、ああやってなにかというとおれをくさすんだ」
静信は笑ってコメントは避けた。
「で? 言っておくが、いよいよ越してきたって話なら間に合ってるぞ」
控え室に入るなり敏夫に言われて、静信は瞬いた。
「何だ、その話じゃないのか。――例の家だよ。引越のトラックが来たらしいじゃないか」
「ああ――らしいな」
「おかげで今日は、無駄話をしに来る連中で千客万来だ。いや、今日も、と言うべきかな」デスクの上、敏夫の前には厚い大判の本が開かれている。「誰かがトラックを見ただの、車がどうだの、雨戸が開いてカーテンが見えただの。きっと今日は朝から、坂の辺りは見物人で鈴なりだったんだろうさ」
静信は、なるほど、と軽く笑う。
「おれが信じられんのは、その見物席を抜け出して、わざわざ知らせにくる奴が少なからずいたってことだ。見物したいなら、そのまま住人が出てきてカーテンコールをやらかすまで見てりゃいいだろうが。何だっていちいちやってきて、御注進に及ぶわけだ? おれがそんなことに興味があるとでも思ってるのかね、連中は」
静信は特に何も言わなかった。敏夫も別段、返答を期待しているわけではないことを、静信は長年の付き合いで知っている。
「家の主はまだ姿を見せんそうだ。住人の詳細も不明。名字は桐敷というそうだが、門柱に表札が上げられる気配はない。車は白の外車と使用人のワゴンっぽい車が一台ずつ。あいにく、それを報告に来た婆さんは車種までは分からなかったらしい。カーテンは二重で、窓際にはスタンドが見えて、それから――ええと?」
「分かったから」
静信は苦笑してやめさせる。こういう場合の村人の物見高さなら十分に知っている。
「止めるってことは、そういう話が聞きたくて来たわけじゃないってことだな。――すると何だ?」
「倒産の軟膏が切れたんだよ。それと、被服剤」
敏夫は大仰に煙草の煙を吐くと、深く椅子にもたれて天井を見上げた。
「素晴らしい。すでに日常に回帰せり、というわけだ」
「何を|拗《す》ねてるんだ?」
「拗ねてなんかいるもんか」
静信は笑って首を振る。
「山入のその後の報告は入ったか?」
先日、訊きに来たときには、まだ結果待ちの部分もあると敏夫は言っていたはずだ。
「実に正常な反応でおれは嬉しいよ」敏夫は笑う。「まだ全部じゃないが、どうやらあれで本当に決着がつきそうな具合だな」
「急性肝不全?」
「三重子婆さんに関してはな。警察も、外因死じゃないようだし、さりとて伝染病だのという話ではなさそうだから適当なところで切り上げたいんだろう」
「そうか……」
「まったく、村の連中はどうかしてる。山入でいきなり三人もの人間が死んだんだぞ? 転居者の生活に首を突っこんでる場合かね。連中があれこれ訊きたがったのも昨日まで、トラックが来たら、そういうことはどうでも良くなったらしい」
「みんな、他人事だと思ってるんだよ」
「その通りだ。だが、人間は誰だって死ぬんだ。他人事の死なんてあるもんか」
言って敏夫は息をつく。
「死体が発見されたと聞けば、祭りか何かのように騒ぐ。こっちがいくら内因死だと説明しても、無理心中だの変質者だのと言うわけだ。伊藤の郁美さんのように祟りだの呪いだのまで引っ張り出す。大事だ大事だと言って、さもこれが自分たちの運命を決する重大事のような顔をするわけだが、その重大事はたった一軒、引越があったら忘れられる程度のものらしい」
静信は苦笑した。
「みんな退屈なんだよ。変化は歓迎するところなんだろう。本人たちも分かっているんだ、別にこれはなんでもないことだって。反対に、分かっているからこそ、退屈しのぎの娯楽にできるわけで」
やれやれ、と敏夫は溜息をつく。もちろん、静信が指摘したようなことは、敏夫だって分かっているのだ。
薬を貰って静信が辞去しようとすると、敏夫もまた診察鞄を提げて病院を出た。怪訝そうに見た静信に、敏夫は裏口を抜けながら咎めるような目を向ける。
「後藤田の婆さんの様子を診にゃならんだろう。何しろあの人は、これからまた葬式だからな。歳のせいもあるだろうし、この暑さのせいもあるだろうし、相当に参った顔をしてたんでね」言って、敏夫は静信に指を突きつける。「だからって、おれがボランティア精神にあふれた医者だなんて誤解をするなよ。おれは治療する余地のあるうちに患者を診ておきたいだけだからな」
静信は苦笑を零した。丸安製材の材木置き場を抜けていこうと足を踏み入れたとき、敏夫は、おや、と声を上げた。その視線を追って振り返ると、病院脇の土手道を歩いてくる人影がある。年の頃は二十代の半ばだろうか、彼は静信らに目を留め、ぱっと笑って頭を下げた。
「やっと人に会った。――済みません、ここ、どこですか」
成年は明るく言う。敏夫が、歩いてくる彼を呆れたように待ち受けた。
「察するに、君は桐敷家の誰かだと思うんだが」
「そうです。初めまして」
「だったら、これをこのまま歩くと通りに出る。右に曲がってさらに角を右に行けば坂の下だ」
ああ、なんだ、と彼は呟いた。
「どうもお手数をかけました。――尾崎さんですよね」
敏夫が眉を上げると、彼は小道脇の建物を見る。
「お二人が、ここから出てくるのが向こうから見えました。ここは尾崎医院でしょう? でもって、一方は白衣に診療鞄を提げてらっしゃる」
敏夫は静信を見る。
「名探偵が越してきたらしいぞ、おい」言って、彼に「ご明察の通り、尾崎です。いちおう医者の端くれなんで、何かあったらどうぞ。できたらおれのする仕事のあるうちに呼んでもらえると、ありがたいな。おれの出る幕がない場合は、こいつが行くことになってるんでね」
彼は首を傾けた。
「――こちらもお医者さまですか?」
静信は軽口を叩く敏夫を睨んだが、敏夫は平然と笑う。
「いや、坊主だ」
ああ、と彼は声を上げて笑った。
「なるほど、あの山の上のお寺の肩ですね。僕は辰巳といいます」
「室井です」
敏夫は辰巳を招いて、たった今出てきたばかりの枝折り戸を開く。
「まあ、お茶ぐらいどうだい? こんなところで藪蚊に刺されながら立ち話でもないだろう」
「でも、往診の途中では?」
「なあに。別に呼ばれたわけじゃない。ここの連中はおれより坊主のほうが好きみたいなんで、坊主の出番の前に割り込んでみようと思っただけだ。まだ時間はある」それに、と敏夫は笑った。
「おれは引越を見物に行くほど物見高くはないが、せっかく会った住人を黙って見送れるほど好奇心がないわけじゃないんだ」
なんだか、坂の下に人が大勢いて気遅れしてしまって、と辰巳は言った。
「別に嫌だってわけじゃないんですが、どうにも対応に困ってしまって」
控え室の掃き出し窓を開け、そこに静信と辰巳は腰を下ろしている。敏夫は床の上に胡座をかき、その前に置いたトレイの上には、さっき看護婦の律子が驚きながら運んできた麦茶のグラスが三つ、並んでいた。
「他に娯楽がないんだよ、この村じゃ。君たちはしばらく珍獣扱いだ。それは覚えておいたほうがいいぜ」
なるほど、と辰巳は笑う。
「ちょっと村に何があって何がないのか調べておこうと思って。それで勝手口のほうから出て細い道を人気のないほうへ歩いて。大まわりして村に出られるんじゃないかと思ったんですけど」
「出られなくはないな。実際、君がこうして出てきたとおりさ」
「ああ、じゃあ、あの道で良かったわけですね」
「君んちの前を通ってる道、ありゃあ、そもそも山を上がる林道だからね。どこに行くってわけでもない、山の中で消えてるんだ。脇道を下りると、製材所の裏手の田圃に出る。ぶちあたるのは畦道だが、道には違いない」
辰巳は笑いを噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]み殺すようにする。
「確かに、そうです」
「田舎の道は林道やら農道やら畦道やらが入り混じっててね。まあ、じきに慣れるさ。尾根を越えない限りは、どこをどう歩いたって村の中だ」
「良いところですね」
辰巳が言うと、敏夫は手を振った。
「そういうお愛想は、なしにしておこう。別に良くも悪くもない、単なる田舎だ。その田舎に何だってわざわざ越してきたんだい、君たちは。――これはこの先、相当あちこちで訊かれることになるから、答えを準備しておいたほうがいいぞ」
辰巳はくつくつと笑う。
「ぼくが決めたわけじゃないので、よくは知りませんというべきなんでしょうね」
「そりゃあ、通らない。君だって桐敷家の一員じゃないのかい」
「家に住んでいる、という意味では。でもぼくは、単なる下働きですから」
へえ、と敏夫は瞬いた。
「君は家族じゃないのかい? おれはてっきり、辰巳が名前だと思ったんだが」
辰巳は軽く笑った。
「桐敷辰巳か――悪くないな。でも、辰巳は名字です。ぼくは単なる住み込みの使用人なんです。力仕事担当の雑用係というか」
「家族構成を聞いてもいいかね」
「旦那さまと奥さんと、娘さんが一人です。旦那さまは隠居中といえばいいのかな。もともとは会社の社長さんだったんですけど、つい昨年、退陣なすって」
「あとは悠々自適かい? 羨ましい話だな。桐敷氏はいくつ?」
さあ、と辰巳は首を傾げる。
「改めて聞いたことはないですけど、四十半ばじゃないかな」
「そりゃあ、若い。その歳で引退とはね」
「そうですねえ。ぼくなんかじゃ深い事情まで窺い知ることはできないですけど、ひょっとしたら、いまどき代々株主だってだけじゃ、会社は動かせないってことなのかもしれないです。ただ、早々に踏ん切りをつけちゃったのは、奥さんとお嬢さんのためだと思いますよ。これは引っ越した理由とも関係あるんですけど、お二人とも体が弱くて」
「病気かね?」
「ええ。それでどこか静かなところに越そうと場所を探してたらしいんです。で、懇意の方が、こちらの土地なら住み手もないので言い値でいいと」
「なるほどな。――これは、好奇心というよりも、医者としての義務感で訊くんだが、奥さんとお嬢さんはどこが悪いんだい?」
「SLEと言ったら分かりますか?」
辰巳が言うと、敏夫は珍しく深刻な顔をした。
「分かる。……そうか、それは大変だな」
静信が内心で首を傾げたのが分かったのか、敏夫は解説する。
「いわゆる難病の一種にそういうのがあるんだ。皮膚疾患、関節痛、あとは腎臓や心臓の機能低下があるんだったか。確か、光線過敏症もあったんじゃなかったかな」
「そうです」と辰巳は頷く。「ですから、たまにお出かけになるときは、帽子やら上着やら手袋やらで重装備です。特にこういう真夏日はね。でも、都会にいてそれって辛いじゃないですか。出かける場所はいくらでもあるのに、思うように出かけられないなんて。それよりいっそ何もないところに引っ込んで、家の中で静かに暮らしたほうがって、これ、失礼ですね」
敏夫は笑う。
「その通りだからな」
「それでずいぶん前から、引っ込みたいという気はおありだったみたいですね。そこにたまたま、いろんな事情が重なって、踏ん切りがついたってことなんじゃないかな。会社を譲って事業を整理して。ただ、家には愛着がおありでしたので」
「それで移築か。なるほど、そういう事情でもなけりゃ、こんな田舎には越して来んだろうな」
でも、と辰巳は言う。
「確かに小さなところですけど、みなさんお気に召したようですよ。奥さんも病院がある、と喜んでいましたから。とはいえ、医者はいるんですけど」
「医者が? 家に?」
「ええ、|江渕《えぶち》さんというお年を召した方が。病院を息子さんに譲られてとっくに引退なさってるんですけど。その方が、奥さんとお嬢さんの面倒を見ているんです。お嬢さんの家庭教師も兼ねてる感じですけどね」
「お嬢さんは幾つだい?」
「十三です。本当なら中学校の一年生ですけど、発病してからは、ほとんど学校には」
そう、と敏夫は呟く。
「でも、医者はいても設備があるわけじゃありませんから。がくっと悪くなると一命に関わる病気なんで、病院がすぐ近くにあるのが心強いみたいです。実際、病院もあると竹村さんから聞いて、引っ越す決心をなさったらしいですし」
「それは責任重大だな」と、敏夫は苦笑する。「心して勉強しておくよ」
「よろしくお願いします」
「じゃあ、家族三人と、使用人の君と医者とで、合計五人?」
「家政婦が一人います。合計で六人」
ふうん、と敏夫が呟いたのを期に、静信は時計を見て立ち上がった。
「じゃあ、ぼくはこれで。仕事があるので」
問うように静信を見上げた辰巳に、敏夫が説明をする。
「村に死人が出てね。それで奴はこれから葬式をやらないといけないんだ。悔やみを言いに行くついでに、おれも残された妹さんの様子を見に行こうと思ってね。何しろ年寄りで、がっくりきてるだろうから」
それは、と辰巳は慌てて立ち上がる。
「済みません。話し込んでしまって」
「いいんだ。こういう粗茶でも良かったら、また飲みに寄ってくれ」
どうも、と辰巳は頭を下げた。気持ちの良い笑顔を見せて言う。
「ぼくも戻らないと。どうも、お邪魔しました」
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
「なあ、タツさん。昨日、尾崎医院に兼正の若いのが現れたって話、聞いたかい」
やってくるなり、佐藤笈太郎が言った。
タツは十年一日のごとく店先に坐って村道を眺めていた。あいかわらずの陽気だ。路面の照り返しで眩しい。
「兼正の若いの。……それは、『ちぐさ』で道を訊いた若いのかしらね」
「じゃないのかね。噂からすると、若い男はそいつひとりみたいだからね」
そう、とタツは素っ気なく答えて、村道に目をやる。転居者に興味がないわけではない。あからさまに興味を示すと、笈太郎のようなタイプは情報を出し惜しむ。むしろ素っ気なくしていれば、勝手に知る限りのことを吐き出すものだと、経験から理解していた。
案の定、笈太郎は床几の、いちばんタツに近いところに陣取り、身を乗り出した。
「どうもね、主人と女房と娘と、三人家族らしいね。女房と娘は体が弱いんだってさ。それで田舎に引っ込むことにしたんだそうだ。若いのと、手伝い女の他に、医者もいるらしいよ。お抱えの医者ってわけだ」
「へえ……」
それは何とも豪勢な話だ。なるほど、あれだけの家を移築するだけのことはある。だが、タツは気に入らなかった。何よりもまず、深夜の引越というのが気になる。それもトラックと乗用車が二台だと聞いた。それは虫送りのときに引き返した、あの連中ではないのだろうか。
(でも、だったらなんで引き返したのかね)
釈然としない。それだけではない。引越てきたきり、住人が現れない、それも気に入らなかった。見かけたという噂は聞くが、タツもここに集まる老人たちも、誰ひとり実際に見かけたわけではない。深夜の転居といい、まるで自分たちの目を避けているようなのが面白くなかった。真っ当に昼間、家移りをすれば、村の入口に陣取るタケムラの前を通らないわけにはいかない。しかも、ごく当たり前に家を出てくれば、暇を持て余した老人たちの誰かと出会っただろう。そうすればその誰かは、真っ先にここにやってきて情報を落としていったに違いないのに。タツはこれまでずっとそうやって、ここに坐ったまま村の全てを熟知してきた。なのに兼正のあの家の住人に関することに限って、自分たちの目の届かないところを掠めていく。
(気に入らないね……)
笈太郎も同じような気分がするのだろう、どことなく面白くなさそうな顔だった。
「なんだって、あの家の連中は、こそこそするのかね」
「別にこそこそしてるわけじゃないんだろうけどさ」
「そうかい? そういう感じじゃないか。声はすれども姿は見えず、って気分がしないかい、タツさん」
その通りだ、とタツは思ったが返答はしなかった。笈太郎はふくれっ面に浮いた汗をハンドタオルで拭う。そうして、人の悪い笑みを浮かべた。
「まあ、これで郁美さんの妙な予言は外れたことが分かったわけだ。あの人は、住人に不幸があって越してこれなくなったんだ、なんて言ってたからね。いまごろは面目をなくして悔しがってるだろうよ」
タツは顔を顰める。
「当てずっぽうで言いたい放題、言ってるだけさ。そもそも口から出任せで、最初から脈絡も何もありゃしないんだから」
「ははあ」
「外れたら外れたで、ばつの悪いのを誤魔化すために、妙な屁理屈を考えつくんだよ、あの人の頭は」
違いない、と笈太郎は笑った。
夏野が冷蔵庫を漁っていると、工房のほうから父親と母親が戻ってきた。一服する時間か、と夏野は台所の時計を見る。
「なあに、おやつ?」
台所に顔を出して、梓が訊く。別に、と夏野は麦茶のボトルを引っ張り出した。
「あたしたちのぶんも」
はいはい、と心の中で呟いて、夏野は呟く。グラスを三つ食器棚から取り出して麦茶を注いだ。
「ついでに葡萄も出してよ。――ねえ、夏野くんは引越があったって話、聞いた?」
「いや。越してきたって?」
「みたいよ。さっき、前を通りかかった近所の人が、そう御注進に来たわ」
ふうん、と呟きながら、葡萄を洗って皿に盛る。ダイニングテーブルの上にそれらを出した。椅子に座って待っていた母親は、氷を入れてくれ、麦茶のグラスを差し戻した。
「自分でやれよな」
「ついででしょ。お願い」
息をひとつ吐いて、氷を出す夏野の脇で父親が手を洗っている。
「村は大騒ぎだな。引越があったってだけなのに、それほど大騒ぎするようなことなのかな」
梓は笑った。
「なんだか可愛らしいじゃない、子供っぽくて。きっとあたしたちが越してきたときも、こんなふうだったんでしょうねえ」
「だろうな」と、結城は溜息をついた。「にしても、ついこの間まで、山入の事件で騒いでいたのに。引越があったってだけで、もうこれだ」
「それだけ無邪気なのよ。微笑ましくていいじゃない。山入の話よりも罪がないわ」
まあな、結城は椅子に腰を下ろした。
「変質者だの無理心中だの、憶測が飛び交って、いったいどんな大事件が起こったのかと思ったよ」
「けっきょく病死だったのよね、山入」
「尾崎の先生はそういっているらしいな。あの人が検屍に立ち会ったんだけどね」
「だったら間違いないわよねえ。いっぺんに三人もの死体が見つかって、みんなが驚くのは分かるけど、あそこまで騒ぐほどのことじゃないわよねえ」
「大事件であるとは思うがね。別に三人の人間が死んだのがどうこうということじゃないが。山入は山の中に孤立していた。住人は三人で、老人ばかりだ。その老人が体調を崩しても誰も気づかなかった。こういうことになるまで死体すら発見されなかったんだ。それも、たまたま縁者に死人が出て訃報を伝えようと村の人が山入に行ってみたからこそ死体が発見されたわけだが、それすらなかったら、いったいいつ発見されたんだろうね」
「そうねえ……」
「これだけ老人の多い村でも、その程度の態勢しか布かれていない。これは問題だと思うね。もっと老人たちを見守るネットワークがあってもいいように思うが。老人ばかりの村の中であっても、老人は孤立しているんだね。不要物と見なされ、周囲の人間関係が次第に希薄になってくると孤立してしまう。社会の中に組み込んでおかないと、社会の庇護も届かないんだ」
「それなりの組織はあるみたいよ。老人会とか、独居老人のネットワークとか」
「不充分だったってことだろう」
そうね、と梓は頷く。
「山入の事件は、いろいろと考えさせられるところのある事件だったと思うがね。まあ、村の人たちにしちゃ、もう済んだことなんだろう。こういう共同体でも、意外にあっさりしたもんだね」
「そうね。もう少し――密というか、親身な人間関係があるのかな、と思ってたんだけどなあ」
「まあ、山入という地理的な条件もあったんだろうが。にしても、転居者が来たぐらいで済んだことになるのはどうだろうな」
「転居者によりけりなんじゃない? なにしろあれだけの家を移築したり、夜中に越してきたり、華やかなんだもの。話題性はあるわよね」
「そのわりに、姿を現したという話は聞かないが」
「見かけた人はいるみたいよ。見た人がいる、って話なら小耳に挟んだわ」
「そういうのもどうだろうな」結城はさらに溜息をついた。「せっかく越してきたんだから、近所の人間に挨拶ぐらいしても良さそうだがね。わざわざこんな小さな共同体の中に越してきたわけだからね。あんなふうに閉じこもって周囲を無視するかのように振る舞うのはどうかと思うね」
「そうねえ……」
梓が呟くのを聞きながら、夏野は使ったグラスを洗って片づけた。黙って台所を出ようとすると、出かけるのか、と父親の声がする。うん、と夏野は振り返らないまま答えた。
「武藤に行ってくる」
外は相変わらず、うんざりするような上天気だった。陽射しを浴びて歩きながら、なんだろうな、と夏野は辟易した気分で思う。
山入の老人たちは孤立していた。ネットワークから外れていたというのも事実だろう。もはや頻繁に連絡を取るものもなく、訪ねる者もいなかった。だからこそ、三人が三人、死んでしまうまで発見されなかった。
だが、老人たちも孤立は承知していたはずだ。自分たちが寂しい境遇に置かれていたことは分かっていたはずだし、そのうえ地理的にも孤立していたことなんて百も承知だったはずだ。自分たちが高齢で、何が起こるか分かったものではないことも了解していたはず。それでもなお、山入に踏みとどまっていた。
孤立を怖れるなら、それなりに孤立せずに済むよう、行動したはずだ。梓が言っていたように、村には老人のための組織もあるし、独居老人たちが互いに互いの生活を見守るためのネットワークもある。孤立が怖いなら、そのどこかに積極的に所属すればよかったのだし、それをしていなかった以上、山入の老人たちは孤立を承知でそうすることを選んだのだ。本人たちが孤立を望んでおらず、なんとか社会と接触しようとしているにもかかわらず、それができないのだったら問題だろう。だが、それは可能だった。あとは山入の老人たちの意志ひとつのことだったのだ。
父親の理想は分かるが、孤立を避ける意志を持たなかった人間を他者が抱え込んで心配してやらねばならない理由が分からない。おおむね、父親の主張というのはそうだった。本人が選んで寂しい生活をしているのだから、その結果、不都合が起こっても承知のうえだろう。承知しているべきなのじゃないかと、夏野には思える。老人たちが孤立を自覚しておらず、あるいは孤立に危機感を持っていたにもかかわらず、それを払拭するための行動を起こしていなかったのだとしたら、――あるいは、万が一の場合を想定していなかったのだとしたら、そんなものは本人たちが愚かだったというだけのことだ。どうして他者が先回して心配してやらねばならないのかが分からない。
「……余計なお世話って言うんだよな」
夏野にはそういう気がする。愚かに生き、愚かに死にたいのならそうさせればいい。それも本人の選択の自由のうちだ。ましてや老人たちは、全てを承知したうえで、あえて孤立していたのかもしれないじゃないか、と思う。三人の孤立した老人が体調を崩し、救済を他者に求めなかったことが不思議がられているようだが、不思議に老人たちがあえて助けを求めなかった――なぜなら、すでに外場という村もそこに住む住人たちも、老人たちにとっては赤の他人だったからだ――という意見は耳にしたことがなかった。
(あの家だって)
夏野は足を止めた。振り返ると、緑の斜面の中程に、兼正の屋敷の偉容が見えた。
挨拶をするもしないも、そんなのは住人の勝手じゃないか、という気がする。田舎に地縁を求めて越してきて、積極的に村人と交わろうとするのも本人の自由なら、閑静な環境だけを求めて越してきて、煩わしい支援を拒絶するのも本人の自由だ。
(なんだかな……)
自分は正義と良識の側にいるのだ、という確信を、夏野は常に父親から感じる。自由と人権と善なるものの庇護者を自認していながら、父親は息子の自由意志には無頓着だ。夏野には、父親が「愚行」だと思うところの行為を選ぶ権利がない。問答無用に夏野の自由を侵害している自分を、父親は果たして理解しているのだろうかと思う。
深い溜息をついて武藤家の地所に入った。縁側から中を覗く前に、上から声が降ってきた。
「よう」
二階の窓から武藤保が手を振っている。頷いて勝手に家に上がり込み、階段を上がった。保の部屋は|茹《う》だるような熱気が立ち込めており、しかも徹と村迫正雄までがいて、人口密度が高い。その誰もが上半身を脱いで汗みずくになっている様子は、いかにも暑苦しかった。
「サウナか、ここは」
夏野の苦情に保は笑う。
「健康的だろ? ありがたいと思えよ、お前。都会じゃ金払ってサウナに行くんだろうが」
「こんな泥臭いサウナに金払う奴、いるかよ。あっちじゃ生存競争、厳しいの」
こいつ、と保は軽く夏野を蹴飛ばした。
「それよか、聞いたか?」
保が勢い込んだので、夏野は呆れて息を吐いた。
「兼正だろ。引越してきたらしいな」
いつの話だよ、と保は笑う。
「そんなの、一昨日の話じゃないか。ニュースとしちゃ鮮度に欠けるぜ。――そうじゃなく、昨日、正雄んちに来たんだってさ」
「来たって?」
正雄はどこか得意げに笑った。
「兼正の若いの。店に顔を出してったんだよ。配達はするのか、とか訊いてった」
夏野は軽く息を吐く。正雄の家は米屋だ。転居者がそういうことを訊きに来てもおかしくない。
「そんなのが、自慢そうに言うほどありがたいのかよ」
正雄はむっとしたように表情を変えた。
「別に自慢なんかしてねえだろ」
「そうか?」と、夏野は窓際に陣取って窓敷居に頬杖をつく。「よっぽど話題に飢えてんだな。山入の騒ぎといい。年寄りがくたばったり、転入者が顔を出したりしたのが、そんなに珍しいのかね」
呆れ果てた、というような夏野の声に、正雄は口元を歪めた。
「悪かったな。田舎者なもんで」
正雄の言葉に夏野は振り返った。
「そういうとこにコンプレックス持つのが、田舎者の証拠」
正雄はさらにむっとしたが、保は違いない、と手を叩いて笑っている。何を笑っているんだ、馬鹿にされているのになぜ起こらないんだ、と正雄は保の太平楽な顔をねめつけた。徹も保も常にこうだ。だから夏野が増長する。こいつはもう外場の人間なのだから、外場の流儀を仕込んでやればいいのに。
「お前って、おれより年上みたいだよな」
年下のくせに生意気だ、と正雄は言外に含ませたつもりだったが、対する夏野は素っ気なかった。
「正雄が餓鬼くさいだけだろ」
正雄は夏野をねめつけた。怒鳴りたい気分を何とか押さえ込む。これだから、こいつは不愉快だ、と密かに拳を握って立ち上がった。保は依然として太平楽に正雄を見上げる。
「なんだ? 便所か?」
「帰るんだよ。空気が悪いから」
正雄は夏野を一瞥した。シャツを取って足音高く保の部屋を出る。その背を夏野が見送った。
「なんなんだろうな、あいつは」
徹は苦笑した。
「お前が正雄の自慢話に乗ってやらないからだよ」
「転入者を見たって話なんか、なんだってありがたく聞いてやらなきゃなんないんだよ」
「それが付き合いってもんなんだよ。興味がなくても、あるふりぐらいはするもんだ。今からそんなだと、お前、社会に出てから苦労するぞ」
「おれの苦労なんだから、ほっとけっての。んで? 自慢話に乗ってもらえないからって、相手を睨みつけて退場する奴は、苦労せずに済むわけか?」
徹は軽く額を押さえて失笑した。
「まあ、あいつも問題あるけどさ。正雄はちょいと我が儘なとこがあるからなあ。面白くないことがあると、いつもああなんだよ」
「……ふうん」
「あいつって兄弟のいちばん下だろ。しかも兄貴とは歳が離れているんだよな。いわゆる恥かきっ子ってやつで」
「|宗貴《むねたか》さん、いくつだったかなあ。もう三十の半ばじゃないか? 二番目の兄貴も大差ないはずだし、十五くらい離れてんだよな」
「十六だよ」と、保が口を挟んだ。「だからあいつ、母親に猫っ可愛がりされててさ。もうお袋さんは死んでんだけど。だから自分の思うようにならないと、気に入らないんだ」
「馬鹿か」
「まあな」徹は苦笑する。「そもそも屈折したところがあるしな。兄貴二人は出来がいいんだよ、あそこの家は。比べられるから卑屈になるんだよな。おまけに正雄は甘やかされて育ってるから、それを正面から受けて立つだけの度量がない」
「そうじゃなく。徹ちゃんたちの言い分が馬鹿くさいってこと」
「おいおい」
「一人っ子だから我が儘だとか、歳の離れたいちばん下だから甘やかされてるとかさ、そういうのって通説だろ。同じ環境に育ったら、必ず同じ人間ができんのかよ。人間には個性ってもんがあるだろうが。それを適当に約めて本人無視して、イメージに振りまわされてるのが馬鹿くさいって言ってんの」
おまえなあ、と保は息を吐く。
「おれたちはお前の肩もってやってんだろ。さりげなく正雄のフォローをしつつ、お前を立ててやってる、と。こういうのを気配りって言うんだよ」
「陰口の間違いだろ。そういうセコい味方なんて、いらねえよ」
「……お前、そういう態度ばっか取ってると、そのうち誰かに刺されるぞ」
「刺すほどの度胸のある奴がいたら受けて立ってやるよ」
まったく、と徹は笑った。夏野の言い分が正しいかどうかはともかくも、こうやってあっさりと言って放つところが夏野の夏野たる所以だ。
夏野は興味なさそうに窓の外に目をやる。視線の先に兼正の屋敷が見えた。
「なんだってこんなとこに越してくるんだかな。……物好き」
ひとりごちる口調でそういう。
「なんか、奥さんと娘が身体、弱いらしいぜ。そんで田舎に引っ込むことにしたって、さっき正雄が言ってた」
なるほどな、と夏野は溜息をついた。
「そんなことでもなけりゃ、越してこねえよなあ」
納得する一方で、一抹の寂しさを感じた。夏野にはそういう理由があったわけではない。地縁もなく血縁もなく、村社会の中に入らなければならない事情は何もなかった。ただ、親がそう決めた、それだけのことだ。ここに夏野がいる理由なんて何ひとつない。なのに外場に捕らえられ、時とともに呪縛は強くなる。どこかでこれを振り切らなければ、永遠に外場を出られないのじゃないかと思う。
「残念だったな、仲間じゃなくて」
見透かしたように徹が言って、夏野は盛大に顔を顰めた。
「別に仲間なんて欲しかねえよ。――徹ちゃんは冷静だな。さすがにオトナって感じ?」
「別にそういうわけじゃねえけど。だって関係ないだろ、あんな家」
「ふうん?」
「あんな家に住むくらいだしさ、変わり者ではあるんだろう。気安く付き合えるお隣さんになるとも思えんし、そもそもこっちだって付き合って欲しいとは思わないしな。年頃の女の子がいるんならともかく、娘は十三かそこらだって話だしなあ」
「それが本音だろ」
徹は笑った。
「向こうだってこっちとは付き合う気がなさそうだし、こっちだって付き合って欲しいわけじゃない。この先、関わり合いになることもないだろ。だったらぜんぜん無関係じゃないか」
夏野も笑う。
「そりゃそうだ」
「ねえ、兼正の人を最初に見たの、加奈美さんなんだって?」
店に入ってきた客が、開口いちばんにそう言って、矢野加奈美は何度目か、溜息をついた。入ってきた田中佐知子は、清水寛子とカウンターに陣取り、期待を込めた目で加奈美を見ている。期待は分かるが、一昨日以来、何度同じ話をさせられただろう。いい加減、加奈美もうんざりしていた。
佐知子と寛子の視線に負けて、加奈美はかいつまんで兼正の住人に道を訊かれた話をした。話をする加奈美の脇で、黙って洗い物をしている元子が硬くなるのが分かる。元子は不安なのだ。余所者がやってきた、という思いに身が|竦《すく》んでいる。
元子が子供に対して、神経症じみた不安を見せるようになったのはいつからだっただろう。最初からこうではなかった、という気がする。少なくとも自分が村を離れていて、町で結婚生活を送っている間は、こんなふうではなかった。たまに電話をするだけで、今ほど始終、顔を合わせていたわけではないから、表に出さなかっただけなのかもしれないけれども。ただ、自分が離婚して村に戻ってきた当初も、こうではなかった、という気がしてならない。それはいつの間にか始まり、そして年々、深刻になっているように思われた。
佐知子と寛子が、さらに詳しい話をねだるのを適当にいなしていると、元子は洗い物を終えて時計を見上げる。そそくさとエプロンを外して畳んだ。
「じゃあ……、あたしは夕飯の支度があるから」
加奈美は笑って頷き、またね、と声をかける。元子はどこかこわばった顔で、ただ頷いて返した。
元子が店を出るのを見送って、加奈美は佐知子と寛子に向き直る。
「あんまり、兼正の話はしないでやってよ。元子、ちょっと気に病んでるから」
あら、と寛子は目を見開く。
「気に病むって――何を」
加奈美は少し言い淀む。元子の不安について説明するのはいかにも骨が折れそうだった。
「だから」加奈美は笑む。「この間、元子の子供が車に当て逃げされちゃってね。大事はなかったんだけど、その車が兼正の車だって噂があったのよ」
「あらまあ」
「もちろん単なる噂で、その頃には兼正は越してきてなかったんだけど。でも、当たり所が悪かったら、おおごとになってたかもしれないじゃない。兼正のはずはないんだけど、そうでもないって保証もないしね。犯人は逃げちゃっただけに、元子は気になってしょうがないみたいなの」
「それは初耳だわ。大変だったわねえ」
まあね、と加奈美は言葉を濁した。
「兼正が良くないわよ」佐知子は言う。「そういう噂があるんなら余計に出てこなくちゃいけないわ」
「そんな噂があるなんて、兼正の人たちは夢にも思ってないでしょ」
「にしてもよ。越してきておいて、挨拶もなしに引っ込んだままだっていうじゃない。それってどうかと思うわよ。誰かが一言、それじゃあ良くない、って言ってやるといいんだわ」
寛子は笑った。
「誰が言うのよ、そんなこと。よしみがあればともかく、面識もないのに家を訪ねて、そう言ってやるわけ?」
「表敬訪問ってことにすればいいのよ。町内会の連絡とか、ちょっとした用を作って。ついでに、よろしくって出向いたんだってことにすれば、角も立たないでしょ」
寛子は好奇心を刺激されたような顔をした。
「悪くないかもね、それ」
そこまでしなくても、と加奈美は思ったが、特に口は挟まなかった。佐知子たちの好奇心は分かる。そもそも妙な家を建てて、煽ったのは本人たちだから、この程度の干渉は我慢して貰うしかないだろう。
「娘さんがいるっていうじゃない。中外場の父兄会の人に声をかけてみたらどうかしらね。村の小学校だか中学校だかに通うことになるわけでしょ?」
「あら、身体か弱くて学校には行けないかも、って聞いたわよ」
へえ、と加奈美は寛子の顔を見た。
「そうなの?」
「うん。村迫米穀店にね、若い使用人みたいな男の人が現れたんだって。その人がそう言ってたみたいよ。ついさっき、買い物にいったら、智寿子さんがそう言ってたわ。なんとかいう病気で、お医者が家にいて面倒を見てるんだって。難病指定されてる病気みたいよ。母親と娘と、両方とも」
「あら……それは大変ね。それでこんな田舎に越してきたんだ」
「そうみたいね」
少し考え込むようにしていた佐知子は、軽く手を打つ。
「それこそ、そういうふうに聞いたけど、いかがですかって、聞けばいいのよね。父兄会で娘さんができるだけ登校できるよう、お手伝いしますけどって」
「ああ、そうね」寛子は頷く。「それ、本当に訊いたほうがいいかもね。登校するのに、誰かの手が必要なのかもしれないし」
「でしょ? あたし、中外場の小池さん辺りに声をかけてみようかしら」
頷く寛子を身ながら、加奈美は心中で溜息をつく。本当に、自ら煽ってしまったこととはいえ、転居者には同情したくなる。さずかし、しばらく暮らしにくい思いをすることだろう。
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
清水恵は蝉時雨の降る小道を急いだ。
西の山際に沿って下外場から中外場を経て門前へと向かう細い道。そちらのほうが顔見知りが少なくて、声をかけられることもないだろうと思ったのに、やっぱり知り合いにあって、もう少しで捕まるところだった。暇を持て余した年寄りの相手なんか御免だ。何を言われるかぐらいは分かっている。いつの間にか引越があったらしい、という話、そうでなければ山入で人が死んだという話を聞かされるだけ、それも最後には訓戒めいたお節介で終わる。
(どうだっていいじゃない)
人間は誰だって死ぬのだ。村には老人だって多い。人が死ぬなんてことは、毎日ひっきりなしに起こっているのだ。――大部分が目の届かないところで起こっているというだけのことで。
大人たちはこれで山入集落はなくなったんだ、とさも重大そうに騒いでいたけれど、山入なんて本当はもう、とっくになくなっていたのだ。誰だって今にも忘れそうになっていた。いまさら騒ぐようなことじゃない、と思う。
恵だって最初は、山入で死人が出たとき、大変なことが起こった、という気がした。新聞やテレビに出て、なにかとてつもない変化が起こりそうな気がしたのだけど、そんなものは起こらなかったし、よく考えれば新聞だってテレビだって地方版やローカル・ニュースで、最初からそんな大層なことではなかったのだった。
(結局、物珍しいことが起こって嬉しいだけじゃない)
さも一大事のように目を輝かせて噂をしながら、口先では可哀想だとか不憫だとか。誰も本当は可哀想だなんて思ってないくせに。なのに恵が興味ないと正直に言えば、見下げ果てたような顔をする。
(くだらない町)
すごく、とてもくだらない。自分に関わりのないことは、無関係だと言わないだろうか。それをまるで自分が、死人の旧来の知り合いだったかのような顔をする。大騒ぎする連中に言ってやりたい。あんたは関係ないじゃないの、と。
(あたしには関係ないわ)
恵には関係ない。自分に関係あるのは、むしろ――。
恵は曲がり角まで来て坂を見上げた。一昨日の夜中、トラックが入ったのを見た者がいる、という噂は、すでに村を駆けめぐっている。しかしながら、住人の姿を見かけた者はいなかった。少なくとも、恵は見た人がいるという噂を聞くばかりで、実際に会ったという者を知らなかった。近所への挨拶はもちろん、とりあえず村の様子を見に下りてくる、そういうこともないらしい。単に引越の後始末で慌ただしく過ごしているのかもしれなかったが、住人があまり積極的に村に溶け込もうという気でいないことは確かなのかもしれない。そんなわけで、恵はまだ住人についての詳しい話を聞いてなかった。
くだらないことばかりの村の中で、この家だけが恵にとって意味のあることだ。結局のところ、恵はこの家にとって無関係なその他大勢に過ぎないことを分かってはいるけれども、そうと決まって落胆するまでは、期待することをやめられない。
落胆はしたくない。およそ恵には興味の持てないような人たちが越してきて、向こうだって恵には何の興味も抱かなくて、閉め出されてしまうことなんて想像もしたくない。
(そんなことは起こらないはず……)
食い入るように坂の上を見ながら、恵は自分に言い聞かせる。こんなにあの家が好きなのだから、その家の住人だって、好きになれるはず。こんな恵を、住人だって決して悪くは思わないはずだ。
(そうだよね?)
思い入れをこめて家を見上げていたので、恵は突然、声をかけられて飛び上がった。
「恵ちゃん」
振り返ると、かおりが犬を連れてやってくるところだった。恵の視線を受けてかおりは大きく手を振る。かおりの連れた犬は間延びした顔の雑種だ。ラブなどというお笑いな名前がついている。
(あの家で飼うなら、きっと洋犬だわ。精悍な感じの)
恵は名残惜しく家を一瞥した。
「今日も暑いね。――散歩?」かおりは言って、恵の目線を追うように坂の上を見上げる。「どうしたの、あの家に何か用事?」
「そんなはずないでしょ」
なんだか気恥ずかしくて、恵は足早に坂を離れた。慌てたようについてくるかおりを、恵は横目で見やる。
(野暮ったいお下げ。せめてゴムだけじゃなく、リボンくらい付ければいいのに。しかもTシャツに突っ掛け履きだなんて)
かおりは恵のひとつ下で、家も近い。母親同士も仲が良かった。去年までは同じ中学に一緒に通っていた。今年になって恵は高校に進み、かおりは中学校の最高学年に残されたが、それでも毎朝、学校へ行こうと誘いに来る。別に恵が一緒に行こうといったわけでもなんでもないのに、それが当たり前のことのような顔で毎朝律儀にやってくるのだ。恵がぐずぐず用意をしていると、「置いて行っちゃうぞ」などと言いながら、待っている。そういう時のかおりの顔は、飼い犬の顔によく似ていた。
恵が一緒に登校したがっていると決めてかかっている。高校まではバスを使っても三十分、村の中学校に通うかおりは、そんなに早く家を出る必要などないはずだ。それを「いいんだよ、気にしなくて。予習ができてちょうどいいから」などと言って恩に着せるのだから呆れ返る。
「引越してきたらしいって噂、聞いた?」
かおりが言うので、恵は頷いた。かおりは歩きながら坂の上を振り返る。二人が歩いている位置からは、もう門は見えなかった。見えるのは二階と屋根だけだ。それでも恵は少し、何かが汚されたような気分がした。
「娘さんがいるんだってね」
かおりが言って、恵は足を止めた。
「娘さん? いるの?」
うん、とかおりは頷く。
「そう聞いたよ。でも、あたしたより年下。小学校の六年生か中学生――そのくらい」
恵は複雑な気分がした。娘がいたのは嬉しいけれども、年下だというのは宛が外れた気がした。それを自分が知らなくて、かおりが知っていたのも面白くなかった。
「……そう」
「旦那さんと、奥さんと、娘さん。三人家族なんだって。近所の小母さんたちが立ち話してたよ」
「ふうん……それで?」
「それで、って?」
「だから、どういう人たちなの?」
知らない、とかおりは首を振った。
「だって、立ち話してるのを、小耳に挟んだだけだもん。別に興味もなかったし、通り過ぎちゃった」
「興味ないの?」
恵が驚いて訊くと、かおりも驚いたようにする。
「恵ちゃんは興味あるの?」
「そりゃあ……当たり前でしょ」
「変な人たちなのになあ」
「変? どうしてよ」
かおりは、恵の詰問口調に驚いて首を傾げた。ひとつ年上の恵は幼稚園の頃からの友達だが、時にとてもよそよそしい。今のように。
「だって……夜中に越してきたんでしょ? 普通はそんな時間に引越なんてしないじゃないかな」
「そんなの、事情があったのかもしれないじゃない」
そうかなあ、と、かおりは呟いた。
「……変な家だし」
「だから、どうして」
「似合わないでしょ、場所に家が」
「単に外場が田舎だからでしょ」
その田舎に、あんな家が建つこと自体そぐわなくて、かおりには変に思えるのだが、恵はそうは思わないのだろうか。
「なんか、重苦しくて暗そうだし……」かおりが言うと、恵はひどく険のある、それでいてどこか軽蔑したような視線を向けてきた。「……ああいう家に住んだら、気が重そう」
「別にあんたの家じゃないんだから、いいじゃない」
恵の声は突き放すようで、踵を返した足取りもつけつけとしている。
「どうしたの? またお母さんと喧嘩?」
かおりの声に、恵は一瞥をくれただけで答えない。さっさと坂のほうへ戻り、かおりをちらりと振り返ってから坂を登っていった。かおりはぽかんとそれを見送る。本当に長い付き合いだけれど、ときどき理解に困ってしまう。
かおりと一緒に足を止めたラブに、かおりは溜息混じりに声をかけた。
「恵、何かあったのかな」
犬は興味なさそうに欠伸をする。
恵は憤然と坂を登った。あんな田舎者に、という言葉が胸の中で渦を巻いている。
くだらない、くだらない、くだらない。
野暮ったい住人、野暮ったい村。それを少しも恥ずかしいと思っていない。それどころか、それでいいと思っているのだ。
この村に、あの家は立派すぎる。それを前にして恥じ入るのじゃなく、あの家のほうが変だという。ちょっと村の中の店にお使いにいく、その時に恵が着替えて出るのを、笑うみたいに。
(あの家が変なんじゃないわ、あんたたちのほうが変なのよ)
犬を連れて普段着のまま突っ掛け履きで散歩に出る。身なりを構わないのは、外も家の延長だからだ。村ぐるみ、庭先のような意識で、親戚のような感覚でいる。当然のことのように他人の家に上がり込み、家族のような顔をして他人の生活に指図する。
(こんな村、大っきらい)
けれども恵は、その村の囚われているのだ。出たくても出られない。このままこの村で就職して、村の誰かと結婚して、村の一部になるのだろうか。――それだけは御免だった。
大学に行きたい、都会で就職したい。けれども家族も、近所の連中も、女の子は家にいるのが一番だと口を揃えて説教する。
(最低)
怒りにまかせて前屈みに坂を登り、恵は顔を上げた。家を見上げようとして、はっと息をつく。
(……門が)
坂道はその家の前で屈曲し、カーブに面した門は、ちょうど道をふさぐようにして立っている。白い塀、煉瓦を積んだ門柱、飴色の板に黒い金具の門扉、道の先に立ち塞がり、視野を遮ってきたそれが少しだけ開いている。
隙間はわずかに五センチほど。そこから細く、夕日に照らされた敷地の中が見えた。門から続いている石畳と枝先だけがのぞいている庭木、その先に建った暗い石組みの壁。
恵は、そろそろと坂を登った。少しだけ胸の鼓動が高鳴っている。門扉の間を覗き込みながら、そっと近づいていった。外界に向かって開かれた間隙は、もどかしくなるくらい細い。石壁に開いた一階の窓の、板戸が開かれ、白いカーテンも開いているのが、かろうじて見て取れた。家の中にはすでに明かりが点っている。内壁か家具か、何か家の中のものが見えているのが分かる。
我知らず、恵は息を潜めた。門のほんの手前まで来たとき、夕風でも吹いたのか、門扉が揺れるように動いた。片方の扉が内側に向かい、ゆらりと開く。それで弾みがついたのか、石畳に穿たれ弧を描くレールに沿い、音もなく滑って開ききった。
恵は息を詰め、開く動きに引かれるように、その門へと近づいていった。
[#改段]
[#ここから3字下げ]
六章
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
かおりの家の電話が鳴ったのは、夕飯も済んで九時のテレビ番組が始まって少しした頃だった。
電話を取った母親は、少しの間電話の相手と話をしてから、茶の間でテレビを見ていたかおりに硬い調子の声をかけてきた。
「かおり、あんた今日、恵ちゃんに会わなかった?」
かおりは頷いた。
「ラブの散歩に行ったとき、会ったよ」
「恵ちゃんがまだ帰ってきてないんだって。あんた、何か聞いてない?」
かおりは瞬いた。
「別に……」
「おしいわね。溝辺町にでも行ったのかしら」
恵はお洒落していたけれども、あれはいつものことだから、出かけるつもりだったかどうかは分からない。いや、どこか村の外に出かけるという様子ではなかった。かおりと話した後、坂を登っていったから……。
かおりは、軽く空気を呑み込んだ。
「門前で会った、けど」
そして坂を登っていった。かおりは先を言い淀む。あの坂には恵の秘密があり、かおりだけがそれを知っていた。坂の途中から林に入って斜面を下ると、中外場の山際にある家の裏手に出られるのだ。恵は今年に入ってから、頻繁に中外場にある一軒の家を訪ねていた。裏手からそっと、ひとつの窓を見守るために。
かおりは言葉を呑み下す。それを母親に言うわけにはいかない。――誰にも。
母親は、そう、とだけ言って、受話器に向かった。茶の間でテレビを見ていた弟が、かおりのほうに身を寄せてきた。
「なに? 恵、行方不明?」
弟の昭は、中学校の一年生のくせに、かおりはおろか、恵まで呼び捨てにする。
「馬鹿なこと言わないで。ちょっと遅くなってるだけでしょ」
「こんな時間まで?」
昭に言われ、改めて茶の間の時計に目をやった。九時十七分。
いつものように結城夏野の家を見に行ったのだとしても遅い。恵にあったのは五時過ぎのこと、それから四時間、夕飯も摂らず、あの草叢の中で藪蚊に刺されながら窓を見上げているとは思えなかった。
「なんかあったんじゃないの」
昭の含みのある口調に、そろりと不安が首を擡げた。山入で悲惨な死体が発見されたのは、つい先日のことだ。あれは年寄りが具合が悪くて死んだだけだ、とは聞いているけれども――。
かおりは声を上げた。
「お母さん、……兼正の下を通る坂を登っていったよ、恵ちゃん」
母親が、ちらりと振り向いて目線で頷き、それを電話の相手に伝えた。
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
電話が鳴って、大川はカウンターで酒を飲んでいる連中の話を遮り、受話器を取った。電話の相手は消防団の団長である安森徳次郎だった。
「ああ――大川さん。あんた下外場の清水さんとこの娘を知ってるかい」
ああ、と大川は頷いた。清水とは特別な付き合いはないが、娘のほうは大川の次男と同い年だから、まんざらしらなくもなかった。
「あの子がまだ戻ってこないっていうんだけどね」
「へえ」と大川は眉根を寄せて店の時計を見上げた。九時半になろうとしている。とっくに看板にする時間だが、飲兵衛たちが居座っていて、ずるずると店を閉めそびれていた。「そりゃあ、変だ。この時間に」
「うん。そうなんだよ。どうも西山に登ったらしいんだがね。何しろ近頃、いろいろと物騒なんで両親が心配してね。ちっと山を探そうかと思うんだが」
大川は顔を顰めた。大川は消防団の一員だが、外場集落の班長だった。下外場の娘のために駆り出されるのは、ありがたいとは思えない。飲兵衛たちのおかげで夕飯も摂りそびれていればなおのこと。
「どっかに遊びに行ってるんじゃないんですかね。デートでもしてて時間を忘れてるとかさ。いや、別に嫌だってわけじゃあないんだが、あの子はそういう浮ついたところのある子だと思うんだがねえ」
「松尾の大将もそう言ってたがね」と、徳次郎は苦笑するふうだった。松尾誠二は下外場の班長だ。「まあ、親御さんの気持ちを考えて、ひとつ頼むよ。ついでに、詰め所にビールを三ケースほど届けといてもらえるかね。わしの奢りってことで」
大川は苦笑した。徳次郎らしい気の使い方だった。
「分かりましたよ。――じゃあ、詰め所で」
電話を切ると、カウンターの客たちは、興味津々という様子で大川を見守っている。
「誰かいなくなったの? 誰?」
勢い込んで聞いてきたのは、伊藤郁美だった。常連と言ってもいいが、他の客の奢りで飲むばかりで金を払ったことはなかった。
「清水さんとこの娘だとさ。恵とかいう子」
あらあ、と郁美は聞きようによっては歓声とも聞こえる声を上げた。大川は軽く鼻を鳴らし、二階に向かって声を張り上げた。
「おい、篤! ちょっと来い」
いらつくほどの時間をかけて、うっそりと息子が下りてきた。
「ぐすぐずすんな。山狩りだ」
「おれも行くのかよ」
つべこべ言うな、と大川は怒鳴る。次男や娘に比べ、出来の悪い息子だが長男には違いない。ゆくゆくは店を継ぎ、たぶん消防団の仕事も継ぐことになる。そう思うから大川は、こういった人手のいる場合には必ず息子も同行させることにしていた。
どうしたの、と娘の瑞穂が茶の間から顔を出した。恵がいなくなったと言うと、複雑そうな顔をした。次男の豊も顔を出して、心配そうにする。
「おれも行こうか?」
その必要はない、と言いかけて、大川は思い直した。山狩りになるとしたら人手は多いほうがいいだろう。
「そうだな。支度してこい。長袖を着て軍手を履いてろよ。山に入ることになるからな」
うん、と豊は二階に駆け上がっていく。ふてくされたように突っ立っている篤を、大川は怒鳴りつけた。
「お前も行くんだ、さっさと支度しろ。ついでにビールを三ケースだ。詰め所まで運ぶからな」
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
長谷川がスイッチをひねると、ドアの上にあるランタンふうの電灯が消えた。もう看板か、と結城はポケットの財布を探る。それに目を留めたのか、「ごゆっくり」と長谷川は言ってCDをリズム・アンド・ブルースに換え、水割りのグラスを抱えてカウンターに坐り込んだ。
「ここからが本番なんです。わたしにとっちゃあね」
グラスを掲げてみせる長谷川を、妻のちよみが笑った。
「あたしは先に帰るわよ。広沢さん、度を過ごさないように見張っててくださいね」
ちよみは広沢に言い、結城たちに笑いかけてエプロンを外す。厨房の脇の小部屋で帰り支度をすると、手を振って店を出ていった。長谷川の家は渓流の対岸、水口にある。
店に残ったのは広沢と結城、そして近所にある田代書店の田代正紀だった。結城はこのクレオールに後藤田秀司の葬儀以来、ひんぱんに足を運んでおり、それなりに顔なじみができつつあった。クレオールを根城にしている常連客の間には、それなりに共通するトーンがある。結城にはそれが、至極、居心地いい。
長谷川がカウンターに落ち着いていくらも経たない頃、ちよみが戻ってきた。
「どうした? 忘れ物か」
長谷川の声に、ちよみは首を振る。
「誰か清水さんとこの恵ちゃんを見た人はいない?」
長谷川は、いや、と言って結城たちを見た。田代も広沢も首を横に振った。結城はそもそも清水恵という人物を知らなかった。結城はちよみを見る。
「清水――というと、よくここに来られる清水さんですか。JAの」
「ええ。恵ちゃんは清水さんとこのお嬢さんなんです。高校の一年で。――ああ、結城さんとこの息子さんと同級生じゃなかったかしら」
そう、と頷いたのは広沢だった。
「同じ学校ですよ。たしかクラスメートじゃなかったかな。――その恵ちゃんがどうしたんです。まさか?」
ちよみは頷く。
「帰ってこないんですって。交番に清水さんと奥さんがいて、人が集まってるわ」
「山狩り?」
田代が硬い口調で言った。
「そうみたいね。なにしろこの時間でしょう。最後に西山に登っていくのを見た人があって、山の中で立ち往生してるんじゃないかって」
結城は広沢たちを見た。
「そんなに危険なんですか、この辺りの山は」
「いや――山自体に危険はありません。山入のほうから北に迷い込むと難儀ですけどね。あとは神社の裏手のほうか。地獄穴に落ち込むと危険ですが」
「地獄穴?」
広沢は東のほうを示した。
「川の対岸に神社があるんでしょう。あの裏手から登った崖に、地獄穴と呼ばれている横穴があるんです」
「へえ……」
「岩というか岩盤というか、その隙間にできた細長い亀裂なんですけどね。奥行きはどのくらいあるのかな。入口に|祠《ほこら》が建っていて入れないんで分からないんですけど、枝道がいくつもあって、かなり長いものらしいです。地の底に下がっていくように見えるから地獄穴と名前がついているんでしょうね」
「入れないんですね?」
「ええ。けれどもその穴の上がね。地獄穴はどうも神社の裏手から東山を斜めに横断しているようなんですけど、それの浅いところで落盤が起きて穴が開くときがあるんですよ。あのへんは鎮守の森になるんで、木を切りに入る者もいません。始終、人が入るわけじゃないから、穴が開いてても分からない」
「でも、それは関係ないわ。西山の――兼正の坂を登っていくのを見かけたのが最後なんですって」
「だったら、迷うようなことはないはずなんだがな。西山は尾根を林道が通っているし、林道を横切って尾根を越えない限りは村の中だ」
田代が言うと、長谷川が首を傾げた。
「勘違いして林道を渡って、尾根を越えてしまうようなことはないんですか」
広沢は首を振った。
「林道に平行して鉄塔の高圧線も通ってますからね。方角を見失っても、尾根道に出ればすぐに分かる。村の者なら、勘違いすることはないでしょう。どこかで怪我でもして立ち往生しているのかな。最近、野犬が出るって話も聞きますからね」
「高見さんたちもそう言ってたわ。それで消防団に招集をかけたんですって」
「そりゃあ、清水さん、生きた心地がしてないだろう」言って、長谷川は立ち上がった。「飲んでる場合じゃないな。行って手伝ってこよう」
「わたしも行きます」と広沢が言い、結城も田代も立ち上がった。清水とは面識がある。その上息子のクラスメイトだと聞くと、他人事の気がしなかった。
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
敏夫が往診から帰ると、駐車場に見慣れた車が停まっていた。診察鞄を控え室に置き、自宅のほうに戻ると、案の定、妻の恭子が戻ってきていた。
「なんだ。戻ってきていたのか」
敏夫の声に、居間でテレビを見ていた恭子は投げ遣りに手を振った。
「明後日からお盆でしょ。戻ってこいって」
敏夫は瞬いた。
「……お袋がか?」
「他に誰がいるの。十三日に戻るって言ったら、準備があるんだから、当日に帰ってくればいいってものじゃない、って怒鳴られちゃったわ。――ところで、お盆の準備ってなに?」
「おれに訊かれても知るもんか。単に近頃、足が遠のいたから、お前の顔が見たかったんだろう」
「それは光栄な話ねえ」と、恭子は嘆息する。「でも、ちっとも嬉しくないわ」
おれもだ、と敏夫は内心で答えた。
「なんだか、いつにもまして機嫌が悪かった感じよ」
「悪いんだよ。兼正が越してきて以来」
あら、と恭子は身を乗り出す。
「やっと越してきたの?」
「ああ。ほんの一昨日な。お袋としちゃ、あのまま越してきて欲しくなかったんだろ。以来、あたこちに当たり散らしてるよ」
やだ、と恭子はソファに身体を投げ出して白い喉を反らした。天井に向かって溜息を零す。
「溝辺に帰りたくなっちゃった」
「帰ってもいいぞ」
「そんなことしたら、電話攻撃だわね」
だろうな、と敏夫は呟く。孝江が恭子を気に入ってないのは、嫌というほど聞いているから分かっている。だったら、溝辺町に出したまま放っておけば良さそうなものなのに、それも気に入らないらしい。冗談交じりに、それじゃあ実家に帰そうか、と敏夫が言うと、そんな外聞が悪いこと、と孝江は顔を歪めた。絶対に離婚なんてみっともない真似はさせないと言う。とどのつまり、何をしても気に入らないのだ。
夫婦で深い溜息をついたとき、当の孝江が居間に入ってきた。湯上がりらしく、寝間着に着替えている。
「あら、おかえり」
ああ、と敏夫は視線を逸らした。しどけなくミニスカートの足を投げ出した恭子を肘で小突く。恭子がうんざりしたように息を吐いて居住まいを正した。
「お風呂、先にもらいましたよ」
うん、と敏夫は生返事をした。孝江は澄ました顔でソファの一郭に陣取る。逃げ出そうか、という気がしていたので、チャイムの音に救われた気がした。
「誰かしら、こんな時間に」
眉を|顰《ひそ》めた孝江を制し、敏夫は立ち上がる。
「いいよ、おれが出る。急患かもしれないから」
言って、そそくさと玄関に逃げ出した。
玄関に出てみると、駐在の高見が深刻な顔をして佇んでいた。敏夫の顔を見るなり、清水恵を見なかったか、と言う。
敏夫は首を傾げた。恵は何かというと大騒ぎをして医者にかかりたがる少女だが、夏休みに入ったせいなのか、ここしばらく顔を見ていなかった。
「どうしたんだ? 恵ちゃんがまさか?」
「姿が見えないんです。昼間に出たきり、まだ戻ってこないそうで」
敏夫は腕時計に目を落とした。十時半。
「……この時間まで? 連絡は」
「ないそうでする夕方に兼正の坂を登っていくのを見たものがいるきりで」
「そりゃあ、心配だな」
都会ならいくらでもあることだろうが、村ではこんな時間まで娘が出歩くことはない。近所に遊びに行くことはあっても、夕飯にも戻らないまま、連絡もなしに、ということはあり得なかった。
「事故じゃなければいいんだがな。消防団に連絡は?」
「しました。近頃は野犬も出るし、いろいろと妙なことも多いんで、清水さんが顔色をなくしちゃいましてね。ちょっと山を探そうかという話になってるんです」
「おれも行こう」
敏夫が言って、玄関に下りたとき、背後から一括する声がした。
「冗談じゃありませんよ」
振り返ると、夏羽織をはおった孝江が険しい目で高見を見ていた。
「あなたがそんなことをする必要はないでしょう。――高見さん、あなたも何を考えてるんですか」
高見は、悪戯を見とがめられた子供のように背筋を伸ばした。
「敏夫は尾崎医院の院長ですよ。気安く病院を空けるわけにはいかないんです。なにしろ、いつ急患が入るか分からないんですからね。みなさんの命を預かってるんですから」
「はあ……、どうも」
高見は腰を低くする。
「敏夫に指示を仰ぎに来るのならともかく、山狩りを手伝えとは何事です。そういうことで尾崎を気安く使ってもらっては困ります」
「いや、そんなつもりではなかったんですが。ちょっとお伺いしただけで。どうも夜分に、失礼しました」
高見は首を|竦《すく》め、慌てて頭を下げた。顔を上げると、敏夫が苦笑している。孝江には見えないように身体の陰で軽く手を挙げ、拝むようにする。高見は心得て、敏夫にちょっと笑ってみせた。
「いや、本当に御無礼を。――では、失礼します」
改めて孝江に頭を下げ、高見はそそくさと尾崎家を辞去した。
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから4字下げ]
神託の通り、彼は丘を追われ、荒野を|漂泊《さまよ》う。
彼の傍らに置かれた屍鬼は、少なくとも彼自身の主観において、呪いに他ならなかった。弟の屍は、彼の罪の最も端的な象徴だった。それと彼は連れだって、この不毛の凍土を放浪せねばならなかった。
悪霊の|跋扈《ばっこ》する濃密な夜を、彼はただ俯き、鬼火を従えてひたすらに歩く。視野の端に屍鬼と化した弟を意識しながら、足下の凍った土と閉塞して過ごした。
やがて、遠巻きに揶揄を盛んにする悪霊の喧噪が消えゆくと、大地は白く光を帯びる。凍った土の微細な粒子が、暁光に輝いて|肌理《きめ》を露わにするころ、彼はようやく傍らにある気配が薄れ、消えたことを察して頭を上げた。
彼は壮大な天地の間に独りだった。
つきまとう悪霊の姿もなく、弟の姿もまたない。
見渡す限りの凍土と曇天、赤黒い頑なな起伏が地平線にまで続き、その上方を泥水を吸った綿羊のような雲が低く垂れ込めて覆っている。曙光はその陰鬱な雲のどんよりとした起伏を赤く照らし、|禍々《まがまが》しい陰影をつける。
無機的に連なる大地の起伏と、有機的に堆積し|蠢《うごめ》く曇雲と、その両者に挟まれたわずかな間隙に残された者は、彼がただ一人だった。振り返れば、一夜を経てなお遙かに緑の丘が見える。風に押し流され、どよもす雲はその丘の上空で渦を描いて途切れ、小さく丸く穿たれたそこから真っ直ぐに光が注いでいた。
その光のせいで、これほどに離れても、緑の緩やかな丘と、その裾野を丸く囲った城壁、丘の頂上に白く聳えた街が明らかだった。それは暗澹たる世界の中で浮き上がり、文字通り輝いて見えた。眩しいほどの緑、目に痛いほどに白い石、街の上空には接するようにして光輝がひとつ、淡く点っている。
あれこそが帰還かなわぬ彼の故郷、屍鬼と化した弟の眠る慈愛の土地、彼は荒野に取り残され、大地の起伏が作る影のように佇んでそれをただ望んでいる。
雲と大地と光と丘と。それは彼に神殿の裁きの間を思い起こさせる。
なぜ、と賢者は訊いた。
灰色の石に封じ込められた広間は、端々に
[#ここで字下げ終わり]
「若御院」
声をかけられて、静信は振り返る。湯上がりらしい池辺が、首にタオルを引っかけたまま、寺務所の中を覗き込んでいた。
「済みません、ちょっといいですか」
池辺は申し訳なさそうに言う。静信は鉛筆を置いた。
「なんですか?」
「若御院、清水さんとこの恵ちゃんを見かけたりしてませんよねえ」
「いや」静信は首を傾げた。清水家は檀家だが、娘の恵に会うことはほとんどないし、最後に顔を会わせたのがいつのことで、どこのことだったかも記憶になかった。「もう長いこと会ってません。――どうしたんです?」
「それが、帰ってこないんだそうです。いま、駐在の高見さんが」
静信は立ち上がって寺務所を出た。廊下を曲がると、庫裡の玄関の土間に高見が懐中電灯を片手に立っており、気遣わしげな顔をした美和子が上がり|框《がまち》に膝をついていた。
「こんばんは。恵ちゃんが、どうかしたんですか?」
「ああ――済みません、若御院。お仕事中じゃなかったですか」
「お気になさらず。恵ちゃんが帰ってこない?」
そうなんです、と高見は事情を説明する。そうしながら盛んに汗で濡れた首筋を掻いていた。藪蚊に刺されたのだろう、陽に灼けた首筋のあちこちが赤くなっていた。
「何しろほら、色々とあったでしょう。だからみんな心配してましてね」
「山入のあれは」
静信が言いかけると、高見は手を振った。
「なに、変質者がどうのこうのという話じゃないですよ。そういうふうに思っている者もいるかもしれないですけど。ただ、そういう噂もあったから不安だってことと、あと、野犬がね。最近、頻繁に山の中で野犬を見たって話を聞くんで」
ああ、静信は呟いた。
「そうですね、確かに」
「やっぱり若御院は恵ちゃんを見ていないですか」
ええ、と静信は頷いた。美和子は眉根を寄せて手を頬に当てる。
「お手伝いに行ったほうがいいんじゃないかしら」
「そうですね。――ちょっと行ってきます」
静信が踵を返そうとしたとき、高見は慌てたように声を上げた。
「いや、そんな。若御院に来ていただくようなことじゃないです。どこかで立ち往生しているかもしれないから、ちょっと様子を見に行こうってだけのことなんで」
高見は意外なほど|狼狽《うろた》えた。
「でも」
「いえ、本当に。若御院の手を煩わせたんじゃ、年寄りに叱られます」
言って、高見は苦笑してみせる。
「実を言うと、ついさっき、尾崎の奥さんに叱られたばっかりで。不用意に若先生に相談をしたもんだから」
なるほど、と静信は苦笑した。
「ですから、気にせんでおいてください」
「じゃあ、ぼくが行ってきます」
池辺が声を上げた。
「いや、池辺くん、しかし」
高見の制する声に、池辺は笑う。
「檀家さんがお困りなのですから。人手は多い方がいいでしょう」
「そうね」美和子は微笑んだ。「池辺くん、そうしてあげてくれるかしら。お風呂も済ませたところなのに、御免なさいね」
「いいえ。若いお嬢さんですからね、清水さんは生きた心地がしないでしょう。どうせぼくは、あとはもう寝るだけだったんだで。若御院は仕事をしててください」
「済みません」
いいえ、と池辺は快活に言う。
「大急ぎで着替えますんで、高見さん、待っててください」
「いやあ、申し訳ないな」高見は、小走りに庫裡の奥にある自室へと引き返す池辺を見送って頭を掻いた。「友達の家にでも行って、時間を忘れてるんならいいんですけどね」
「そうですねえ」美和子は息を吐いた。「でも、時間が時間ですもの。清水さんは、さぞ御心配でしょう」
「そうなんですよ。連絡もなしにこの時間まで帰ってこないとなるとねえ」
美和子は小首を傾げた。
「兼正はどうです?」
は、と高見は瞬いた。静信もまた、美和子の思考を掴[#「掴」は旧字体。Unicode:U+6451]みかねて母親の顔を見た。
「あら、わたし妙なことを言ったかしら」美和子は困惑したように口許を押さえる。「兼正のお家に人が越してきたと聞いたから。ひょっとしたら、同じ年頃のお子さんがいるかもしれないし。恵ちゃん、坂を登っていったんでしょう? 兼正の人と会って、話し込んでいるうちに時間を忘れたってことはないかしら」
「ああ――そうですねえ」
「けれど、お母さん。それだったら、恵ちゃんから家に電話なりがありそうなものじゃないですか? 兼正のお宅だって電話するよう促すでしょう」
「あら、電話するなんてこと、念頭にも浮かばないからこそ、時間を忘れた、って言うんですよ。それに村じゃそういうことは当たり前だけど、あの家の方は都会の人だって噂だもの、特に家に電話をしたほうがいいんじゃないかとか、そういうことは思いつかないかもしれないじゃないですか」
「けれど、いくらなんでも……」
「そうね。それにしても、お夕飯にも連絡なし、っていうのは変だわね」美和子は言って、照れたように笑った。
「ごめんなさい。単に坂を登った、ってそれから思いついただけなんです。忘れてください」
いやいや、と高見は笑いつつ、どこか釈然としない様子だった。
「あるかもしれませんよ、意外にね。――しかし」
高見は首を傾げる。
「越してきたらしい、という噂は聞きましたけど、どういう人たちなんだか……」
「あら、見かけた人ぐらい、いるんでしょう?」
それが、と高見は声を低める。
「誰もおらんのですよ。全く家の外には出てこないみたいで」
「そうなんですか?」
美和子は驚いたように目を丸くした。
「使用人の若いのを見かけたって話はあるんですけどね、肝心の家族は全く。少なくとも、近所付き合いをする気はなさそうですな。そういう案配なんで、恵ちゃんと会ってどうこうというのは、どうも考えにくいなあ」
静信は内心で首を傾げた。桐敷家が越してきたのは、一昨日のことだったか。辰巳に会ったのが昨日の話だ。住人についての噂を聞かないと思っていたが、肝心の住人はまだ村人の前に姿を現していなかったのだ。
越してきてわずかに二日のことだから、引越の後片づけもあるだろう。村を出歩く余裕がないのかもしれないが、全く姿を現さないというのは、どこか意表をつかれる種類の事柄だった。自分たちが越してきた村がどういう場所なのか、興味がないのだろうか。辰巳のように少し歩いて家の周囲の地理を確認したいとは思わないのだろうか――。
静信が首をひねっていると、長袖シャツとジーンズに着替えた池辺が、懐中電灯を片手に戻ってきた。
「どうも、お待たせしました」
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
西山のあちこちに光点が点されていた。おおい、と呼ぶ声が交錯する。
「こりゃあ、道沿いにはいないな」
田代が言って、結城は汗を拭った。山の夜は涼しいが、さすがに斜面を上り下りすると暑い。
ハンドライトの明かりで林の中を見通すには限界がある。林道に沿い、道の周辺に分け入っては戻ることを繰り返していたが、十分に探すことができているのか心許なかった。
おおい、とすぐ間近の斜面から声がして、結城は一瞬、朗報を期待したが、返答に対して帰ってきた声は落胆の色が深かった。
「こりゃあ、本格的に山狩りせんと駄目だ。一回、丸安の材木置き場に集まろうってよ」
広沢が溜息をついて林道に上がり、結城らもそれに倣った。こんなに小さな村を囲む山の一郭、なのにそこで人ひとりを見つけるとなると、山はいかにも広大だった。
疲労もあって、とぼとぼと林道を下っているうち、田代と並んでいた若者が足を止めた。山寺の役僧だ。池辺といったと思う。ちょうど兼正の家の前にさしかかっていた。
「どうしました、池辺くん」
広沢が訊くと、池辺は複雑そうな表情で振り返る。
「こちらのお宅のほうは、恵ちゃんをみてないですかね。声をかけてみたほうがいいんじゃないでしょうか」
広沢は瞬いた。
「この時間にかい」
「いや」と池辺は照れたように笑う。「寺の奥さんが高見さんにそう言ってたらしいんです。ひょっとしたらこの家の人と会って、時間を忘れてるんじゃないかって」
「しかし」
「この時間じゃそれもないでしょうが、恵ちゃんは坂を登ってきたんでしょう? だったら、姿を見てるかもしれないです」
そうだね、と広沢もまた複雑そうな表情で暗い家を見上げた。結城にも広沢の困惑は理解できた。越してきて以来、姿を現すことのない住人。住人は村の者と積極的に交わる気がないように見える。高い塀は内部を窺わせず、閉鎖的な家の佇まいと相まって、新しい住人は村の者との間に一線を引こうとしているように思われた。そういう相手をこの時間に訪問して、少女の行方を尋ねることは、妥当だとは思えても躊躇される。
「行ってみましょう」言ったのは長谷川だった。「確かにそうだ。姿を見てるかもしれないわけだし。ひょっとしたら、どちらの方角へ向かったか、それくらいは分かるかもしれません。もしも恵ちゃんが怪我をして立ち往生してるなら、少しでも早く見つけないと、おおごとになってしまう」
そうですね、と広沢が頷いた。結城たちは固く閉ざされた門に近づく。門柱の脇には潜り戸があって、その脇にインターフォンが見える。――そう、寝入りばなを起こすことになっても、とりあえずインターフォンを通じて話をするだけだし、その程度のことなら緊急時だ、許されてもいいだろう。
広沢が代表してボタンに指をかけた。周囲の顔を見渡してから、おずおずと呼び鈴を押す。二度、三度と押すと、四度目に応答があった。
「はい」
「あの――夜分遅くに済みません。ちょっとお尋ねしたいのですが」
広沢は、高校生の女の子が行方不明になったのだが、姿を見かけていないだろうか、と手短に伝えた。
「ちょっとお待ちください」
インターフォンの向こうから聞こえる声は若い。何人かの村人が二十代半ばの若い男を見かけた、と言っていたが、それだろうか、と広沢は思った。
ややあって、潜り戸が開いて、広沢はたじろいだ。ハンドライトを手に姿を現したのは、噂の人物のようだった。
「お待たせしました」
「どうも済みません。こんな時間に」
「いえいえ。――ただ、家中の者に訊いてみたんですが、誰もそのお嬢さんを見かけてはいないそうです」
そうですか、と広沢は息を吐いた。
「こちらに登ってこられたのは確かなんですか?」
「ええ。最後に姿を見かけたのが、この坂を登るところだったそうで」
そうですか、と言って彼は門の外に出てきて潜り戸を閉めた、瞬く広沢に笑む。
「旦那さまにお手伝いするように言われました。御心配だろうから、って」
「いや――それは」広沢は狼狽する。「そこまでしてもらっては」
「いえ。こういうことは、お互いさまですから。ああ、ぼくは辰巳といいます」
「広沢です。それは恐縮です。ありがとうございます」
辰巳は笑う。
「ぼくでは足手まといになるだけかもしれませんけどね。こういうことにも地理にも不慣れなんで、どうすればいいか指示してください」
人々は幾手にも分かれ、山に分け入っていった。結城はひたすらに広沢たちの後をついていく。いつの間にか辰巳と池辺と並ぶ格好になったのは、明らかに彼らだけ山に不慣れだからだ。
「ああ、あのお寺の方ですか」辰巳はライトで周囲を照らしながら、池辺に言う。「つい先日、室井さんという方にお会いしましたよ。尾崎医院から出てこられたところで」
「若御院ですか? へえ」
「お聞きじゃなかったんですか?」
「ええ。若御院は、そういう噂話ってぜんぜんしない人なんで」
辰巳は笑った。
「いかにも物静かな方でした」
「そうなんです。ぼくなら、すぐさま広めちゃいますけどね。なにしろ八五郎みたいな性分なんで」
「広めるほどのニュース・バリューはないでしょう」
「とんでもない。村の人はみんな、興味津々なんですよ。ほら、お宅の建物も変わっているし、引越して以来、ぜんぜん出ておいでじゃなかったでしょう。それで、どういう人なのか、ってそれはもう」
「ぜんぜん出てないわけじゃないんですが。そうか、そういうことになるかな」
「正直言って、村の者を避けているのかと思ってたんですよ。なんで、こうして辰巳さんが出てこられてびっくりしました」
「避ける? なんでです?」
「いや、引越して以来、出てこられないから。高い塀があって、門もずっとぴったり閉じてて」
辰巳は瞬き、そうか、と呟いた。
「ひょっとしたら、引越のご挨拶をどこかにしないといけなかつたのかな。これまであまり隣近所と付き合いをする習慣がなかったのでぜんぜん意識してませんでした」
「おやまあ」
声を上げる池辺を、結城は笑った。
「都会に住んでるとそんなもんですからね。回覧板を回すときぐらいしか隣の人の顔を見ることもないし、マンションなんかじゃそれさえしない。門だって閉じておくし、昼間だってドアには鍵をかけておく。こっちじゃ夜中だって、全部開け放したままです。最初はちょっと抵抗がありましたね、わたしも」
「結城さんも都会から越してらっしゃったんですか?」
「そうなんです。それで、最初はそんなもんだと分かってても心細くてね。どうも気分的に落ち着かないんで、玄関だけは戸締まりをしてましたよ。もっとも、うちはそもそも裏口に鍵がないんですけどね」
「へえ」
「なんだか――ガスの火を点けたままにしてるような、そんな感じがしてね。半年ぐらいかかりました、慣れるのに」
「なるほどなあ」と辰巳は頷く。「それは帰って報告しないといけないなあ。みんな、そういうこと、ぜんぜん念頭にないんだと思うんで」
池辺が低く笑った。
「べつに無理をなさることはないと思いますけどね。でも、つまらないでしょう。家の中に閉じこもったままじゃあ」
結城も頷く。
「せっかく越していらっしゃったんですからね。鍵をかけなくても家を留守にできる、隣近所とはみんな顔見知りで、気軽に行き来して助け合って。――そういうのが、こういう小さな社会の醍醐味ですからね」
「そうですね」
頷いた辰巳に微笑んで、結城は捜索に専念する。あまり無駄口を叩いているのも気後れがするし、そうしている間に前を行く広沢たちと距離ができていた。足を急がせながら、そんなに難しい転入者でも奇矯な一家でもないじゃないか、と独白していた。――こんなものだろう、世の中というものは。
揃って口を噤み、先を急いでいたせいか、近くを探す別のグループの会話が聞こえてきた。
「こりゃあ、ひょっとしたら時間がかかるんじゃないかなあ」
「見つかればいいがね。仏さんを見つけることになったらかなわんな」
結城は思わず林の向こうを見た。濃い下生えと茂みに遮られ、ハンドライトの明かりしか見えない。二、三人がいるようだが、どういう人物たちなのか分からなかった。
「なら、いいけどな。どっかに遊びに行ってるんじゃないのかい。明日になってしらっとした顔で戻ってきたりしてな」
「あるかもなあ。清水んとこの娘だろう。ちゃらちゃらした娘だったからな。男でも作ってしけこんでるんじゃないのかねえ」
「しけこんでるぐらいのことならいいけどよ。ほら、こないだ山入で年寄りが殺されたって言うじゃないか。妙なのが、うろうろしてるんじゃないといいけどな」
「ありゃあ、病死だろう」
「どうだか分かったもんか。その前にも――前田のとこの息子だったか。轢き逃げにあったことがあっただろう。最近はそう平和でもないからね、この村も」
「大きな声じゃ言えないけどな、おれも山を探すより、大川の息子でも捕まえて行方を訊いたほうが話は早いんじゃない買って気がするよ」
「それより兼正だよ。なんでもあそこに若いのがいるそうじゃないか。そいつにそのへんの草叢に引きずり込まれたんじゃないのかい」
結城はとっさに足を止め、辰巳を振り返った。辰巳は無言で自分を指さし、おどけたように瞬いてみせる。
「そうそう。前田んとこの轢き逃げだって、兼正の車だって噂だかならな」
「ありゃあ、お前、寺の若御院だって話もあるじゃないか」
「いくらなんでも、そりゃあないだろう」
「どうだかな。だいたい村の連中は、いつまでも寺を別格に扱いすぎるんだよ。清水の娘だって、どうだか分からねえぞ。なにせあの若さん、三十過ぎて未だに独り者だからな」
「寺にはなんとかいう若いのもいるだろう。そっちじゃないのかい」
結城はなぜだか、恥じ入る思いで足を止めた。声が遠ざかっていくのを待つ。辰巳と池辺は、結城を待つように足を止めていた。下草を掻き分ける音が遠ざかり、結城は密かに息を吐く。
「……あんな連中ばかりだと思わないでください」
「結城さんがそんな顔をなさることはないです。余所者なんて、そんなものでしょう」辰巳が苦笑するようにいう。「妙に引き籠もっていたからなおさらだ。ちゃんと挨拶回りしてればよかったですね」
「挨拶まわりしても、余所者だってのはついてまわるんですよね……」池辺は溜息をつく。「なにしろ村は、ほとんどが親戚みたいなもんですから」
「そういうものでしょうねえ」
ことさらのように軽い調子で言う二人に対し、頭が下がった。村が異物を排除しようとする性質を本来的な備えていることは、結城自身、身に滲みて知っている。
池辺は笑う。
「恵ちゃんが見つかれば、御両親も安心できるし、ぼくらも身の証が立つってもんです。――行きましょう」
おおい、と怒声が聞こえたのは、午前三時を廻ってからのことだった。いたぞ、という声に、草叢を掻き分けていた結城たちは顔を上げた。声の所在を探して周囲を見渡していると、少し離れた斜面を登りかけていた広沢たちが駆け戻ってくる。
「あっちのほうです」
示されたほうに、結城たちは急いだ。結城自身は、完全に現在地を見失っていたが、広沢によると結城たちがいるのは、西山のかなり北のほうらしい。
「このずっと先に細い沢があって、それを越えると北山です。寺の地所になるんで」
ちょうど北山と西山が交わる辺りだという。斜面を下っていくと、段々畑を隔てて丸安の材木置き場などがある入り江のような場所に出るらしい。
林の中をライトが交錯し、人の声が交錯していた。あちらからもこちらからも下草を掻き分ける音がし、人々が集まってくる。先頭に立つ広沢と田代の後をついて走っていくと、やがてライトが一箇所に集まっているのが見て取れた。斜面の途中に人の背丈ほどの段差があって、その下のえぐれたような場所に人が集まっている。
「見つかりましたか」
広沢が駆けつけると、消防団の法被を着た男が振り返った。
「いた。――ここだ」
「怪我は」という広沢の問いに、男は首を傾げる。
「見たところ怪我はなさそうなんだがね」
駆けつけた結城にも、人垣の間から助け起こされた少女の姿が見えた。怪我はないように見えるが、ぐったりとしている。
「おい、あんた恵ちゃんだな? 大丈夫か」
助け起こした初老の男が、少女を揺する。誰かが「あまり揺すらないほうが」と声をかけた。
「尾崎の先生を呼んだほうがいいんじゃないのかい。頭を打ってるかもしれねえ」
「ああ……そうだな」
初老の男が答えたところで、恵が目を開けた。集まったライトに眩しそうに瞬き、目元を軽く手で覆う。
「気がついたかい。大丈夫か?」
周囲の問いかけに、恵は頷いた。どこか呆然としてるふうではあったが、苦痛がある様子ではなかった。
「気分はどうだ? 立てるかい」
言われると、どこか間延びした動作で頷く。左右から差し出された手に縋って、なんとか立ち上がった。
「よかった」と安堵の声がする。恵は男たちに支えられて、よろめきながら斜面を下り始めた。
「自分で歩けるようなら心配はないか」
これまた安堵したように長谷川が言い、結城も深い息を吐く。何はともあれ、無事で良かった。
「段差から落ちたのかな。見つかって良かったよ、まったく」
田代が破顔し、結城らも頷く。さざめくように安堵の息と笑い声が林の中を流れ、人々は斜面を三々五々下っていった。
池辺が寺に戻ったのは四時過ぎ、庫裡の玄関脇、寺務所の明かりがまだ点いていた。そっと玄関の戸を開け、土間でジーンズについた泥や草の切れ端を払い落としていると、その物音を聞きつけたのか静信が出てくる。
「お帰りなさい。申し訳ありませんでした」
副住職はそう言って、年下の池辺に頭を下げる。池辺は静信のそういうところが嫌いではなかった。いつまで経っても他人行儀な気がして気詰まりに思うこともあるが、居丈高に振る舞われるより、よほどいい。
「いかがでしたか」
静信は心配そうに訊いた。副住職の夜更かしはいつものことだが、今日は池辺を待って起きていたのかもしれない。
「見つかりましたよ」
「ああ、それは良かった。やっぱり山で?」
「ええ。ちょうど丸安の裏手を登った辺りです。斜面を落ちたかどうかしたみたいで、気を失ってるのが見つかったんですよ」
「大丈夫なんですか?」
「みたいでしたよ」池辺は言って、上がり框に腰を下ろした。長靴を脱ぎながら、「呼んだら目を覚ましましたし。なんだかぐったりしてるふうでしたけど、とりあえず怪我というほどの怪我はないみたいだったし、交代で支えたら自分で歩いて山を下りましたから」
「ああ……それは良かった」
良かった、と言えるのだろうか、と池辺は恵の様子を思い出した。恵は放心しているように見えた。まるで視点が定まらず、支えられて歩く足取りも怪しかった。その様子は何か恐ろしいことに遭って、心がその衝撃から醒めてない、そんなふうに見えた。
「何があったんでしょうね」
静信の心底、気遣わしげな声を複雑な思いで聞きながら、池辺は長靴の泥を落として揃えた。
「それが、肝心の恵ちゃんが何も言わないもので、良く分からないんですよ。声をかけても上の空っていうか、ぼうっとしたふうでしたから。家に帰って寝れば落ち着いて、何があったのか聞けるんじゃないですか」
本当に、と池辺は答えるにとどめた。
村は狭い。いずれあの会話も噂となって寺に舞い戻ってくるのだろう。都会から外場に来た池辺は、村の「世間」の狭さを嫌というほど知っていた。
(いい人なのに……)
池辺はそう思う。この副住職に対して、池辺は無条件の好意を抱いていた。なのに妙なことを言う者がいる。以前、子供が撥ねられたときといい、どうして、という気がしてならなかった。
まったく、と思い、ふと池辺は以前、小耳に挟んだ噂話を思い出した。ほんのわずか、静信の横顔を盗み見る。
とても光男や鶴見には聞けない種類の噂。あれは本当なのだろうか。ひょっとしたら、村の者が妙な目で見るのは――あれのせいなのだろうか。
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
清水から敏夫のもとに電話があったのは、恵が発見された翌日――カレンダーの上では当日夜のことだった。
敏夫が受話器を取ると、清水のどこかおずおずとした声が、恵の様子がおかしいので診て欲しい、と告げた。
「おかしい? どういう様子ですか」
それが、と清水は口ごもった。
「どこがどう悪い、というふうではないんですが。どう言えばいいんだろう、とにかく呆然としているふうなんです。家内に訊くと、今朝、山で見つかって以来、一日ずっとその有様だったようで」
敏夫は首を傾げる。
「それだけじゃ、よく分からないな。もう少し具体的に言ってもらわないと」
敏夫は首を傾げる。
「それだけじゃ、よく分からないな。もう少し具体的に言ってもらわないと」
「ですから、ちょっと来て診てもらえませんか」
「往診に行くのを渋っていると思わないでもらいたいんですけどね」敏夫が言うと、居間のソファに坐ってテレビを眺めていた孝江と恭子が振り返った。「とりあえずどんな様子か聞かないと、おれも用意のしように困るんですよ。最低限の処置をするのに、何が必要か見当をつけないと、病院ごと担いでいくわけにはいかないもんでね。――熱は?」
「ないようです」
「食事はどうです」
「全く、朝から何も手をつけてないらしい」
「どこか痛みがあるふうですか」
「いえ。特にそんな様子には見えません。具体的にどう悪い、というふうではないんです。ただ、話しかけても生返事しかしませんし、上の空というか」言って、清水は歯切れの悪い口調で続けた。「こちらから連れて行くなり、一晩様子を見たほうがいいんじゃないかとは思うんですが。その――昨日の今日なんで家内が心配してましてね。申し訳ないんですが、とにかく様子を見てもらえませんか」
敏夫は溜息をついた。
「分かりました。とりあえず、これから準備をして出ますから」
受話器を置くと、孝江は険のある表情でこちらを見て、これ見よがしに壁の時計を見上げた。恭子はそっと肩をすくめて、同情したような視線を敏夫に投げて寄越し、そっぽを向いた。
「往診なの? この時間に」
敏夫も時計に目をやる。すでに十一時を過ぎている。
「まったく、もう少し時間を考えて欲しいものね」
こんな時間であるにもかかわらず、敏夫を呼ぶほど清水は娘が心配なのだろう、と思ったが、敏夫は特に異論は唱えなかった。こういう場合、母親に何を言っても無駄だと承知している。特に返事もせずに居間を出ると、孝江は後をついてきた。
「お前も気安く出ていくから。だから安易に扱き使われるんですよ。――誰なの」
「清水さんとこ」
答えながら病院に向かう。
「清水線そういえば、娘さんを探してたんじゃないの。見つかったの?」
「らしいな」
言って渡り廊下のドアをくぐった。敏夫は密かに、この廊下を緩衝地帯と呼んでいる。待合室に出るドアが国境線だ。孝江は滅多なことでは緩衝地帯に足を踏み入れず、ましてや国境線を越えることはない。だが、今夜の孝江は珍しく、自ら国境を越える気になったらしかった。
「らしいな、って。高見さんはどうしたんです。報告に来てないの」
「来る必要もないだろう」
「必要ないはずがないじゃないの。昨日、わざわざ女の子がいなくなったと言って報告に来たんじゃないの。まるで、一緒に探せっていわんばかりの口調で。そうやって来た以上、その後どうなったか、一言、報告に来るのが筋じゃないんですか。第一、お前は防犯委員なんですからね。何かあったのなら、耳に入れてもらわないと」
「一緒に探したわけじゃないし、別に何かの事件があったわけじゃない」
「何かあったに決まってますよ、あんな時間まで若い女の子が行方知れずだなんて。それとも、親に黙って外泊でもしていたの?」
「母さん」
敏夫は深い息を吐きながら振り返った。孝江が待合室にまで出てくることは希有なことだと言っていい。だが、もちろんそれを喜ぶ気にはなれなかった。
「おれは、恵ちゃんはどうやら山の中で具合を悪くして身動きができなかったようだ、と聞いている。そうして実際に具合が悪いらしい。清水さんが診てくれ、と言ってきているんだ。おれは医者で、患者が待ってる。急いで出かけないといけないんだ。そういう話は帰ってきてからにしてくれ」
孝江は明らかに鼻白んだ様子だった。
「別に興味本位で言ってるわけじゃありませんよ。あなたがそうも気安く扱き使われているのは、どうか、と言っているんです」
「母さん」
「清水さんのところのお嬢さんは、こんな時間にお前が出かけて行かなきゃならないほどの容態なんですか。そうやって気軽に引っ張り出されて、お前が出ている間に、本当に一刻を争う患者さんが来たらどうするの?」
「一刻を争うようなら、おれを呼ぶ前に救急車を呼ぶさ。そのくらいの分別は、みんなあるだろう」
「敏夫」
「とにかく行ってくるから」
敏夫は控え室に入る。さすがの孝江も、控え室にまで追ってくる気にはなれないようだった。孝江は控え室を嫌っている。仮にも尾崎医院の院長室がこんな有様だなんて、と言う。あまりにも情けなくて足を踏み入れるのも嫌らしい。
ドアの向こうに孝江を置き去りにして、敏夫は息を吐いた。
院長と奉られ、一目も二目も置かれることで地位や権勢を確認したいなら、誰がこんな村に帰ってくるものか。本当にそれを望むなら、山奥の小さな病院の院長以上に望む値打ちのあるものが、世間にはいくらでも存在するのだということを、孝江は理解できないらしい。
いや、孝江だけではない、と敏夫は病院を出ながら思う。敏夫の父親もまた、それを理解できない男だった。地位や名誉に価値を置くことは敏夫も否定しない。だが、たかだか外場の、ほとんど診療所に近い小さな病院の院長に納まって、なんの地位だろう。そもそも医者が一名しかいないというのに、「長」を名乗るところから笑わせる。個人商店の親父と同じじゃないか、という気がしてならなかった。院長ではなく、村の商店の主人と同じように「大将」と呼べばいいのだ。――敏夫はずっと、そう思ってきた。
確かに、尾崎医院はかつて、付近一帯に唯一の医者だった。まだ溝辺町にさえ医者がいなかった時代に病院を構え、はるばる旅をしてまで診てもらおうという患者のために、門前には宿屋まであったらしい。だが、そんな時代はとっくに過ぎ去っている。患者は緊急の事態になれば救急車を呼ぶ。溝辺街に出れば、設備の整った総合病院もあれば、国立病院もある。高速に乗れば、都市の大学病院まで三時間もかからない。
外場村という狭い地域の中で、尾崎と祀り上げられ、村政に口を出してお大尽気分に浸っている間に尾崎は取り残されてしまった。本当に権勢を望むなら、さっさと地の利の良い場所に移転して、病院を拡大していけば良かったのだ。村の連中から崇め奉られる生活を捨てられず、狭い村にしがみついた結果がこれだ。
文字通り井の中の蛙だ。敏夫は父親の、こけおどしに満ちた院長室に足を踏み入れるたびにそう思っていた。すでにありもしない権勢を信じ、自分の周囲の人々も自分と同じ種類の信仰を堅持しているものと信じていた男。もはや一介の医者に過ぎなかったにもかかわらず、一介の医者であることを拒み通した男と、未だに拒み続けているその妻。
(不思議な話だ……)
そんな生き方だけはしたくない。――断じて。
清水の家の前に車を寄せると、エンジン音を聞きつけたように玄関のドアが開いた。にもかかわらず門灯は消され、雨戸が引き回され、カーテンもぴったり閉められている。一見して寝静まった家という有様だった。
「先生――どうも」
迎えに出てきた清水寛子は、どこか辺りを|憚《はばか》るふうで、声も押し殺したように低かった。手を引かんばかりにして家の中へと促し、敏夫がやってきたことを近所の者に見られはしなかったかと確認するように周囲を見まわしてから素早く――けれども音を立てずにドアを閉めた。
「こんな時間に済みません」
玄関まで出てきた清水もまた、声を潜めるふうだった。
「恵ちゃんは」
「二階です」
敏夫は玄関に上がり込み、まっすぐ二階に向かおうと、正面にある階段に足を乗せたが、それを清水が止めた。
「あの」
「どうしたました」
実は、と清水は目を逸らす。
「とにかく恵は様子が変で……その昨日何があったのかと訊いても、要領を得んのです。ろくすっぽ返事もしないし、怒鳴っても聞こえているのかいないのか」
清水は二階の様子を窺うようにして声を低める。
「ひょっとしたら、具合が悪いんじゃなく、……なんというか、精神的なものじゃないかと思ったりもするんですが」
敏夫は意を得て頷いた。つまり清水は、孝江と同種の心配をしているわけだ。娘の身に何かがあったのかもしれない。娘の精神に衝撃を与えるような種類のこと。だからこそ、周囲の目を憚り、病院に連れ出す出もなく、あえて夜遅くにひっそりと敏夫を呼んだのに違いない。
「とにかく診てみます」敏夫は頓着なげに笑ってみせた。「診察してみれば、何か分かるかもしれませんしね」
「ええ、……そうですね。どうぞ。二階に上がってすぐの部屋です」
失礼します、と言い置いて、敏夫は二階に上がる。息を殺すようにして清水と寛子が後をついてきた。
恵の部屋には、若い女の子らしい名札が下がっている。「めぐみ」という丸みを帯びた文字を見ながら、敏夫は軽くノックしてドアを開ける。ぬいぐるみや小物が溢れた部屋の中の、窓際のベッドの上に恵は横たわっていた。
「恵ちゃん」敏夫はその恵が目を開いているのを見て取って声をかける。「どうした。具合が悪いんだって?」
枕許のスタンドだけが恵の顔に光を投げかけている。悪いけども明かりを点けるよ、と断って、敏夫は部屋の明かりを点けた。蛍光灯の明かりが満ちてみると、どこか虚ろな恵の表情と、色味を失った顔色が明らかだった。
「顔色が悪いな。――気分はどうだい?」
ベッドの脇に敏夫が膝をつくと、恵は眩しそうに盛んに瞬いている。にもかかわらず、特にそれ以外の反応は見られない。
「食事をしてないんだって? 食欲がないのかい」
敏夫が声をかけても反応がなかった。半ば寝ぼけてでもいるように、敏夫に視線は注いでいるが、なんの感興も誘われていないように見える。
さて、と敏夫は内心で独白した。これは実際に感情が鈍磨しているのだろうか、それとも――演技だろうか。
恵は頻繁に病院に来る患者だった。胸が痛いだの、胃が痛いだのといって騒ぎ立てるが、実際に治療を必要とするほどの不具合が発見されることはほとんどない。客観的には不具合は存在しないのに、患者の主観的には何かしらの不具合があって、それは恵が清水らと喧嘩をしたり、学校で嫌な行事があると、唐突に起こるものらしかった。たまに不具合があっても、治療を必要とするほどのものではなく、にもかかわらず恵はさも重大な病に冒されたかのように振る舞う。まるでそれを望んでいるかのように。そのたびに敏夫は、適当な病名に「ごく軽い」という接頭辞をつけて、ビタミン剤などの無害な薬を処方してきた。果たして今回はどうだろう。
「寒いかい?」
敏夫は恵が、しっかりと夏布団を被っているのを見てそう訊いた。恵は瞬いたが、特に返答を寄越さない。脈を診るために手を取ったが、熱はない。むしろんやりとして感じられる。
「熱はないな。少しクーラーが強いかな」
言いながら脈拍を数える。やや早い。血圧を測ると、かなり低かった。瞼を持ち上げて眼瞼粘膜の色を確認する。顔色と同様にこれも色味を失っていた。
「口を開けてごらん」
軽く顎に手を添えて口を開かせると、とりあえずされるまま口を開いた。特に扁桃腺や口腔に異常は見られないが、やはりこれも健康な赤味を失っている。
「貧血があるようだな。――生理中?」
目を覗き込みながら訊いても返答がない。違います、とこれは寛子が答えた。
「ちょっと前を開いて」
敏夫は聴診器を出していう。恵の反応はやはりなく、寛子が慌てて寄ってきて、恵のパジャマの前に手をかけた。敏夫は聴診器を当てながら、それとなく恵の身体を検分する。虫刺されの痕、細かな傷や|痣《あざ》は山で倒れたときのものだろう。特に暴行の痕跡を示すようなものは見られない。念のために下腹部まで触診してみたが、特にこれといって異常はなく、色味を失って白い肌には傷も痣も見られなかった。
「生理中ではない、と言いましたね。不正出血や、おりものに異常は?」
敏夫は寛子を振り返る。寛子は困惑したように首を振った。
「いえ、……ないと思います」
「そう」敏夫は笑う。「貧血だろうな。念のために血液検査をするから。ちょっと血をもらうよ」
これにはようやく反応があった。いかにも億劫そうに恵は頷く。
「どこか痛いところはあるかい?」
「いえ……」
「眠い?」
「とても、眠いんです……」
そう、と頷きながら敏夫は注射器とスピッツを取り出し、末梢血を採取する。
「ちょっと検査結果を見てみないことには分からないが、たぶん貧血だと思いますよ」
敏夫は清水を振り返った。
「貧血、ですか」
「かなり強い貧血は出ていますね。若い女の子には多くてね。――恵ちゃんはダイエット中かな?」
これには寛子が、苦笑するようにして頷いた。
「この子は、始終ダイエットしていますもので……」
「そんなところだろうね。おまけにこの暑さだ。ジュースやアイスクリームなんかを摂って、肝心の食事が入らない、ということもあるしね。そういうことで貧血が出てるんだろうな。詳しいことは検査結果が出れば分かるけど、とりあえずまあ、さほど心配はないでしょう」
「そうでしょうか……」
「それ以外には、特に異常はないようだからね。まあ、昨日もそれでなくても貧血を起こしているところで、この暑さにやられて脳貧血を起こしたか、そんなところでしょう」言って敏夫は、清水の目を見て言葉に力を込めた。「何も心配はないです」
清水は目に見えてホッとした様子だった。
「そうですか……」
「貧血が酷くなると、どうしても倦怠感が強くなるし、嗜眠の傾向が出ます。眠っても眠ってもまだ眠いという。頭に|瘤《こぶ》はないから、倒れた際に頭を強く打ったというわけでもなさそうだし、ぼうっとしているのも貧血のせいでしょう」
敏夫は笑った。
「とりあえずビタミン剤と鉄剤を出しておきますから、明日にでも取りに来てください。それで一週間、様子を見ましょう。もしも、その間に様子が変わったら、連れてきてください」
清水は、やれやれ、と声を上げて、苦笑じみた笑みを零した。
「まったく、人騒がせな娘で。済みませんね、こんな夜遅くに」
「構いません。なんでもなくて良かったじゃないですか」
「いや、恐縮です」
敏夫は恵を振り返った。
「乙女心は分からないじゃないが、ダイエットをやるんなら、健康を損なわない程度にするように。何でもいいから食べなきゃ瘠せるってものでもないんだから。ちゃんとカロリー計算をしながら計画的にやらないと、身体を壊すだけで効果がないぞ」
恵は眩しそうに瞬いて、小さく頷いた。
「そんなことで身体を壊すようなら、入院させて栄養剤責めにするからな。そうすりゃ、あっという間に十キロ増だ」
恵は、ひどい、と小声で笑いながら呟いた。敏夫も笑って、立ち上がる。明らかに安堵したふうの清水と寛子に頷いた。
「お大事に」
[#改段]
[#ここから3字下げ]
七章
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
「ねえ、なんで火をたくの?」
加藤裕介は家の前の路上に屈み込んだ祖母に訊いてみた。すでに周囲は暮れなずんでいこうとしている。渓流に沿った道のあちこちに黄色い明かりが見えた。焚き火の明かりだ。祖母のゆきえも、近所の人々と同様に道端に屈み込み、アスファルトの上に積んだ木屑に火を点けている。
「こうやって御先祖さまをお迎えするんだよ。今日はお盆だからね。みんなお山にいるんだから、目印になるものがなかったら、戻ってこれないでしょう」
「ごせんぞさまって?」
「ばあちゃんのお父さんやお母さんや、その前のお母さんやお父さんや、そういう人たちのことだよ」
裕介は少し目を丸くした。
「おばあちゃんにも、おとうさんや、おかあさんがいたの?」
ゆきえは軽く声を上げて笑った。
「そりゃあ、いるとも。木の股から生まれる人間なんていやしないんだから」
「きのまた?」
「そこに人間がいるってことは、必ずお父さんとお母さんがいるってことさ。そうやってみんな生まれてくる。ずっと昔のお父さんやお母さんを御先祖さんって言うんだよ」
「その人たち、どこにいるの?」
「お山さ。みーんなもう死んでいるから、山のお墓にいるんだよ」
裕介は身体を起こした。
「死んでいるひと? もどってくるの?」
「そう。お盆には地獄の釜が開くのさ。それで家に帰ってくる」言って、ゆきえは孫に笑った。「裕ちゃんのお母さんも戻ってくるよ」
明るく朗らかだった嫁。ずいぶんとあけすけに物を言って、ゆきえを困惑もさせたが、思い返してみれば良くできた嫁だったと思う。商売を嫌がらず、働くことを厭わなかった。ゆきえの倍の速度で動き、てきぱきと何でもこなし、時にそれで失敗もしたが、どこか憎めないところがあった。元気を絵に描いたような女だったから、まさか先に逝こうとは思わなかった。逞しく、ふっくらした腕をしていた。その腕がいつの間にか細くなって、瘠せたんじゃない、と声をかけると得意そうに笑った。喜んでいる場合じゃない、これでは瘠せすぎだ――そう思ったときには、もう手遅れだった。
ゆきえは、じっと迎え火を見つめている裕介を見守る。裕介は小学校に入った。標準よりは小さいけれど、健康な良い子だ。
(帰ってきて、御覧なさいよ……)
やっと伝い歩きをするようになったばかりだった子供は、こんなに大きくなった。
裕介は迎え火と周囲を見比べた。暗闇に母親を捜しているのかもしれない。それが不憫に思えて切なく微笑んだとき、裕介がいきなりバケツに駆け寄った。
「おばあちゃん、消そうよ」
「――裕介」
何を言い出したのか、と驚いて、バケツを抱えようとする手を止める。
「火を消してよ。ねえ」
「火を消したら、お母さんが家に帰ってこれないじゃないか」
「だって」
裕介は、ゆきえに向かって声を張り上げ、息を呑んだ。小さな焚き火に屈み込んだ祖母の肩越し、闇の中に白い影が見えたからだ。
(火を、消さないと)
それはゆらめいて、少し大きくなった。バケツの柄を握る間もなく、さらに大きくなった。それは道の向こうから、焚き火を目指して近づいてきた。裕介は祖母の背後に隠れ、しがみつく。褪せた色の縞が裕介の手の中で歪んだ。
――死んだ者が現れたら、それは幽霊だ。
裕介は近づいてくる影を凝視する。忍ぶような足音が近づき、やがて上背のあるその姿が足が焚き火の光を受けて浮かび上がった。
(鬼は、山を下りてくる)
裕介は祖母の背中に小さくなり、それでも目を離すことができずに近づいてくる者を背中越しに見守った。
白っぽい服、白っぽいズボン、すらりとした身体の上に白い首が載っている。
「……こんばんは」
それは言って、笑った。裕介には悪魔の笑いのように見えた。祖母の服を掴[#「掴」は旧字体。Unicode:U+6451]んだまま一歩退ったが、当の祖母は逃げる様子もなくそれを見上げて頭を下げた。
「こんばんは」言って、ゆきえは裕介を振り返る。「裕介、こんばんは、は」
裕介は男を見上げたまま頭を振った。
「ちゃんと挨拶をしなさい」ゆきえは軽く|窘《たしな》めて、立ち上がった。裕介を前に引き出しながら、軽く男に会釈をする。
「良いお晩ですねえ」
本当に、と男は笑む。ゆきえはその姿を検分した。四十半ばというところだろうか。すらりと、それでも重みのある男らしい線を描く身体、その線によく合ったスーツ。麻だろうか、良い仕立てだ。見かけない顔だが、それが誰なのかはすぐに分かった。ネクタイこそはないものの、濃淡の生成で色を揃えた麻のスーツ、それに合わせた茶色の革靴。村の夜を歩くのに、こんな姿をして歩く者はいない。――これまでは、いなかった。
「ひょっとして、兼正の」ゆきえは西の山を見上げた。「あそこに越してきたお方ですかね」
「ええ」と男は笑って軽く頷く。
「お散歩ですか」
「あちこちで焚き火が見えると思ったら、お盆だったんですね。すっかり忘れていました」
男は言って、周囲を見渡す。すぐに、ゆきえに視線を戻して頭を下げた。
「桐敷正志郎と申します。今後ともよろしくお願いします」
「あら、こちらこそ」
「お孫さんでらっしゃいますか」
正志郎は、ゆきえの背後に隠れた裕介を、軽く屈み込むようにして見る。裕介が視線から逃げるように、ゆきえの腕と脇腹の間に潜り込んだ。
「裕介、御挨拶は?」
こんばんは、という子供の声は、かろうじて聞き取れる程度、それも、ゆきえの影から出てこようとしない。
「済みませんね。人見知りの激しい子で」
正志郎は微笑んだ。
「いいえ。子供はそういうものでしょう」
「桐敷さんに子供さんは」
「十三になる娘がおります。娘もそれは、人見知りをしますから。――裕介くん? よろしく」
男に見つめられて、裕介はさらに力を込めて、ゆきえの服を握りしめた。白い秀でた顔、その下の濃い眉と、深い眼下の奥の目許は少しも笑わないまま、薄い唇の両端だけが上がる。良くない笑い方だ、裕介にはそう思えた。
(たきびなんてするからだ)
幽霊に家を教えるために、火を焚くなんて。
(山からやってくるのなんて鬼に決まってるのに……)
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
「お母さん、恵ちゃんちに行ってくる」
かおりは台所の母親に声をかけた。
「あら、お見舞い?」
うん、とかおりは頷く。
「借りてた本もあるし」
「そう。冷蔵庫に葡萄があるから、持っていきなさい」
「いいよ」
「手ぶらってわけにはいかないわよ。お供えに買ったのがあるから」
母親に言われ、かおりは冷蔵庫を開ける。箱に入ったマスカットが冷えていた。それを引っ張り出し、本と一緒に抱えて、かおりは勝手口の突っかけを履いて表に出た。涼しい夕風が立ち、迎え火を焚いた後、立ち話をする人たちの姿が、あちこちに見える。
垣根ごし、小屋から顔を出して一緒に行きたいと主張するラブに首を振って、かおりは夜道を歩く。ぺたぺたとサンダルの音が虫の音に混じって後をついてきた。
村の夜は総じて暗いが、かおりの家の近辺はさほどでもない。家を出てすぐ、大塚製材の材木置き場があり、その広い敷地の向こうは国道に面している。国道を挟んだ向かいは楠スタンドだ。ガソリンスタンドの煌々とした光が遮る物もなく周囲を照らしていて、電柱についた街灯の明かりよりもずっと頼もしかった。
気温が下がって夜の空気は、そのぶんさらりと軽やかになった気がする。気分まで軽く、材木置き場の前を通り過ぎようとしたとき、スタンドの明かりに照らされて、その材木を指している大塚康幸の姿が見えた。
康幸はすでに三十過ぎで、かおりよりもずっと年上だったが、近所のお兄さん、という感じがする。弟の昭が小さい頃、頻繁に遊んでもらったせいかもしれない。その康幸が、材木の山を示して、隣にいる人影に何かを話していた。お盆なのに、こんな時間まで仕事かしら、とかおりは歩みを緩め、そして康幸の隣にいるのが見慣れない女であるのを見て取った。
康幸はまだ結婚していない。気だてはよいのだけど、内気だから、と大塚製材の小母さんが言っていたのを聞いていた。良い見合いの口を探しているのだけど、と言っていたが、ではあれが見合いの相手だろうか。年の頃は二十代の終わりか、そういう感じだった。
見合いと結びつけてしまったのは、その話が印象に残っていたせい、そして女が余所行きの格好をしていたからだ。白っぽいサマーニットのワンピース、そこに透けたふうの上着。白いハイヒールと白いバッグ、緩くまとめ上げられた髪。イヤリングが照明に、きらりと光った。
(綺麗なひと……)
かおりは足を止めた。顔立ちが綺麗なのはもちろん、なんというか――とても垢抜けた感じがする。まるでテレビに出てくる女優さんみたい。
思わずまじまじと見守っていると、康幸が気がついたのか、かおりのほうを向いた。|含羞《はにか》んだように笑う。
「やあ、かおりちゃん。お使いかい?」
「恵ちゃんち」
そうか、といって、照れたように横の女を示した。
「こちらはね、桐敷の奥さん。|千鶴《ちづる》さんっていうんだって。ええと、兼正の」
かおりは、へえ、と呟いた。この人が。では、康幸に縁談というわけではなかったのだ。康幸がすっかりどぎまぎしているふうで、なんだか可哀想な――残念な気がした。縁談だったら良かったのに。
こんばんは、と千鶴は会釈をした。どことなく品があって、やっぱりテレビに出てくるタレントのようだった。
「ついさっき、そこで会ってさ。桐敷の奥さん、製材所を見るの、初めてらしいんで」
ふうん、とかおりは口の中で呟く。千鶴の笑みを浮かべた視線を受け、急に自分が突っ掛け履きであることや、子供じみたTシャツにゴムウエストのキュロット姿であることが意識された。なんだか、とても恥ずかしい。
「この子、近所の子で、田中かおりっていうんです。いま、中学で」
千鶴が目を細めていったので、かおりはますます恥ずかしくなった。気後れがしたといってもいい。せめてちゃんと髪ぐらい括ってくるんだった。こんな、洗いっぱなしで櫛を通しただけなんて。
「本当にいい子なんですよ。――奥さんのところは、お子さんは?」
「娘がおります。中学の一年なんですけど、あいにく身体が弱くて学校には……」
「おや。それは大変ですねえ」
「おかげで、とても人見知りしまして。こちらで少しは丈夫になって、お友達ができると良いんですけど」
千鶴は言って、かおりに向かって微笑んだ。
「良かったら、遊んでやってくださいね」
「あ……はい。こちらこそ。どうも」
かおりは口の中で、もごもごと答え、慌てて頭を下げると、逃げ出すようにその場を離れた。
(……驚いた)
ぺたぺたと走りながら、材木置き場を振り返る。康幸は顔を赤くしながら、千鶴と何かを喋っている。
あんな人が本当にいるんだ、という気がした。まるでドラマの中の奥さんみたい。しかも。
(身体が弱い……)
中学一年の女の子。昭と同い年だ。学校に行けないのだろうか。本当にドラマの主人公みたいだ。
どぎまぎしながら、小走りに夜道を歩き、もう少しで恵の家を通り過ぎるところだった。慌て手足を止め、玄関に駆け寄る。いつものように習慣で勝手口に回ろうとして、なんとなく今夜は玄関から訪ねる気になった。ほとんど初めて、玄関ドアの前に立ち、チャイムを押す。
すぐに返事があって、ドアが開いた。恵の母親は、驚いたように目を丸くした。
「あら、かおりちゃん。お客さんかと思ったわ」
かおりは赤くなるのを感じた。いつもは勝手口のドアを開けて、声をかけるのだ。どうかすると声だけかけて、勝手に上がっていくこともある。なのに自分でも、なぜチャイムなんて鳴らしてみる気になったのか、よく分からなかった。
「あの……恵ちゃんの具合、どうですか? これ、お見舞いです。あの、お母さんから」
かおりは葡萄の箱を差し出した。恵の母親はそれを受け取り、あらまあ、と困惑したように呟く。
「ありがとう。……どうしたの、かおりちゃん、すっかり改まって」
「ええと……お見舞いだから」
「まあ。そんな大層なことじゃないのよ。ちょっと貧血だってだけで。とにかく、上がってちょうだい」
「お邪魔します」
言って、かおりは玄関に踏み込んだ。突っかけを脱いで、上よ、と示されたのに頷き、二階へ上がる。階段を上がりながら、こんな家だったっけ、と思っていた。
恵の家は、かおりの家に比べれば、うんと新しい。壁だって塗り壁ではなくて壁紙が貼ってあって、床だってちゃんとした洋間の床になっている。恵の母親は、きれい好きな人で、家の中はきちんと掃除してあるし、玄関には花を生けてあったり、棚の上にはちょっとした小物が飾ってあったりする。ずっと、かおりはそういう恵の家の様子を、お洒落な感じがする、と思ってきたのだった。
なのに、今夜はそれが違うふうに見えた。恵の母親は、かおりの母親みたいに寝間着みたいな部屋着こそ着てないけれども、やっぱり普段偽善とした格好だし、化粧だってしていない。家の中だって、よく見れば、すでにもう古びた色が浮かんでいるし、花屋小物が飾ってあるのも、なんだかゴチャゴチャして見えた。
複雑な感じで階段を上がると恵の部屋で、部屋のドアにはネーム・プレートが下げてあり、プレートに下がったぬいぐるみは、ドライフラワーを一輪抱えているけれども、どれもうっすらと埃がついていて、ひどくうらびれた感じがする。
ノックしてドアを開けた。ちゃんとした洋間で、女の子らしい小物が溢れた恵の部屋に、実を言うと、かおりはずっと憧れてきたのだけれども、今夜は蛍光灯の明かりの下、ひどく色あせて見えた。単なる普通の部屋だ。かおりの部屋が古い殺風景な部屋なのに対して、ちょっと新しくて物がいっぱいあるに過ぎない――。
「恵ちゃん、具合どう?」
部屋に入って枕許による。恵は眠っていなかったらしい、鬱陶しそうに目を開けた。
「顔色、悪いね。大丈夫?」
恵は怠そうに頷いたけれども、単に寝ぼけているようでもあった。
ぬいぐるみが坐った小さな椅子を引き寄せ、かおりはぬいぐるみをどけて腰を下ろす。妙に精彩を欠いた部屋の様子、恵の様子を見ながら、恵がずっと見ていたのはこれだったんだ、と思った。かおりは恵の部屋をステキだと思ってきたけれども、恵にはこんな風に色あせて見えていたのだろう。だから、あんなに頻繁に坂に通い、あの家を見上げていた。たしかに、この家や、かおりの家に比べると、兼正のあの家は全く違う。こんなふうにまがいものめいた「何か」ではない本物の「何か」が、あの家にはあるのに違いない。
虫の音が開いた窓から風に乗って流れてきていた。かおりは恵のどこか茫洋とした横顔を覗き込む。
「あのね、凄いの。さっき、誰にあったと思う?」
恵の返答はない。それでも視線だけは寄越した。
「桐敷っていうんだって。あのお屋敷の人。奥さんに会ったの。千鶴さんっていうの。すごく綺麗な人だったんだよ」
ぴくりと恵の肩が動いた。
「村をちょっと歩くのに、お化粧をしたりイヤリングを付ける人なんて初めて。でも、似合ってた。派手って感じじゃなくて、品がいいって言うのかしら」
「知ってるわ……」
え、とかおりは恵の顔を見る。恵はどこか険のある表情をしている。
「知ってるわよ……そんな、ことぐらい」
かおりが瞬くと、恵は薄く笑む。どこか、かおりを嘲るような表情だった。
「綺麗な人よ……とても、素敵な人……」
かおりは首を傾げて、恵の横顔を見守った。
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
美和子は迎え火の前に|蹲《うずくま》って、じっと火が燃え尽きるのを見守っていた。静信は母親のその姿を同様にして見つめている。
寺であっても、祖霊はある。美和子は毎年それを丁寧に迎えた。外場では麻の代わりに樅を燃やす。樅の木っ端を燃やして樅の中から使者を迎えた。美和子が見守る迎え火の側に、胡瓜で作った馬と、茄子の牛が小さく佇んで、母屋の明かりを見つめている。
毎年、その小さな乗り物を見るたびに、迎えるときには戸外に向けてやればいいのにと思う。背に乗せるために家のほうに向けるというが、それよりは帰りを待ちかねるように墓所のほうを向かせてやれば良かろうに。
美和子は蹲ったまま、言葉もない。毎年何を思って黙り込んでいるのかは知らない。ひょっとしたら実家の死んだ父母のことかもしれなかったし、早世した長兄のことだったかもしれない。信明がまだ一緒に迎え火を焚いていた頃から、美和子はそうして黙り込んでいるのが常だった。炎だけを見て蹲っている姿は閉塞を思わせた。それで何となく、この家は死者ではなく、どこか別の場所の使者を思っているのだろうという気がしている。家に迎える霊ではなく、別の場所に迎えられる死者のことを、この家には招く権利のない死者のことを思っている。――そういうふうに感じるとき、静信は自分が室井美和子をよく知っていても、山村美和子のことは何も知らないのだと、そう思う。
樅が燃え尽きていくのを黙って見ている美和子を見守り、静信は顔を上げる。少し歩くと山門から参道が見えた。暗い参道にもいくつか光が点っていた。
静信は村の盆が気に入っていた。あちこちの家々、角口に点される火、よしず越しに透けて見える夜の仏間、そこに点った蝋燭と走馬燈のような盆提灯の明かり。村では十三迎えの十四回向、十五踊りの十六送り、と言う。迎え、弔い、慰め、送る。――死者は目覚める。仕事に生活に忙殺される日常、この夜、迎え火とともに忘れられた死者は人人の脳裏で息を吹き返し、かつて生者と送った日々はか細い炎の中に、あるいは盆提灯の明かりの中に甦る。
背後で小さく、息を吐く音が聞こえた。振り返ると、美和子が手桶から水を掬って零しているところだった。彼女は小さな牛馬を腕に抱えて立ち上がる。
「先に戻ってますよ」
いつもの母親の顔がそこにあった。母性ではない、ただ「母親」という生き物であるだけの顔。
静信は頷き、母親を見送ってから、参道を見下ろした。明かりはひとつに減っている。夜風に惹かれて、ぶらぶらと歩いて山門をくぐった。石段を中程まで降りて腰を下ろす。遠くに見えていた明かりが、細くなって消えた。
死者は甦って懐かしい家に戻った。あるべき場所に戻ったのだ。後には
[#ここから4字下げ]
空疎な墓穴が残された。それは黒々とした暗黒を抱いて、使者を待ちわびる。
我が|褥《しとね》に戻れ、と土は嘆いた。定められた摂理を裏切り、なぜにその罪深き土地をそれほど慕うか。
[#ここで字下げ終わり]
静信は軽く笑って首を振る。家に戻ろうと立ち上がりかけて、夜道の彼方に白い影を見た。
[#ここから4字下げ]
やがて前方に、白く淡い人影が見えた。
それがまた、今夜も墓から。
[#ここで字下げ終わり]
静信はそれを見守った。すぐにそれは小柄な人影を現した。宛もなげな足取りで近づいてくる人影は、それが少女だと読み取れるほどに近づくと、静信に気づいたように足を止めた。すぐに少女は、はっきりとした宛先を目指して、歩みを進める。石段の下に辿り着いて、静信を見上げた。
小首を傾げた様子が幼かった。|紫陽花《あじさい》色のワンピースはいかにも軽やかな線を描いている。年の頃は十二、三だろうか。長い髪がさらさらと音を立てるように小さな肩を滑って落ちる。
「――室井さん?」
静信は頷いた。見慣れない少女だった。外場にはない匂いがした。それが誰なのかは、すぐに了解できた。
少女は物怖じした様子もなく、石段を身軽に上がってくる。坐ったままの静信と視線が合うところまで登ってきて足を止めた。
「室井静信さんでしょ?」
少女はいう。滅多に陽を浴びることがないせいだろう、蝋のように白い肌をしていた。
「そうだけど」
少女は笑って細い腕を背中に組む。
「あなたの作品がわりと好きだわ」
唐突に言われて、静信は目を見開いた。少しの間、言葉に窮した。
少女は人形のような首を傾ける。
「室井さんよね? 『半牛神』の」
「ああ……そう。だけど」静信は困惑し、少女の顔をまじまじと見た。「君が読むのかい?」
「そう、わたしが読むの。変?」
「いや」静信は苦笑する。「ありがとう。多分、君は最年少の読者だと思うな」
彼女は軽く含み笑いをした。
「そうね、少し難しい言葉もあったけど」と、素っ気なく早口に言ってから、「でも、人間なら誰だって、神様に見放されてるって感じは分かると思うわ」
「君は、本が好きなの?」
「そうね。好きよ。沢山、読むわ」言って少女は付け加える。「手当たり次第に。本当はあなたの本も、お父さんの本棚にあったのを借りたの。長編が六つと、短編集が二つ。それで全部なら、全部読んでるわ」
「それはすごいな」静信は微笑んでみせたが、内心で狼狽していた。「それで全部だよ。全部読んでいるという人に会ったのは初めてだ」
「あとはエッセイやなんかを時々、雑誌で見かけることがあるわ。去年、この村のことを書いたことがあったでしょう?」
静信は頷く。
「この村だと分かったかい?」
「読めば著者の住んでいる村だってことぐらい分かるもの。他の本の略歴を見たら、だいたいどの辺に住んでいるかも分かるでしょ。あとは略歴にあったお寺の名前を頼りに丁寧に地図を見ていけばいいのよ」
「まさかとは思うけど。――そうやって探したんじゃないだろう?」
少女は笑う。
「本当は、たまたまお父さんの知り合いが話題に出したの。村に作家がいる、って。そうしたら室井さんのことだったの。誓って言うけど、たけむらの小父さんから教えてもらう前に、私は作品を読んでたのよ」
「――そうか。ありがとう」
「雑誌を読み返してて、あのエッセイを見つけたの。祠のような村、っていい感じ。住んでみたい気がした」言って少女は付け加える。「きっとお父さんもそう思ったんだと思うわ。わたしがエッセイを見つけて、お父さんに見せてからだもの、本当に引越す話になったのは」
「それは……光栄だな」
言いながら、実際のところ静信は困惑していた。少女はまじまじと静信を見守る。
「困ってる、って顔に書いてあるわ」
「そんなことはないよ。ただ、――こういうことは、本当に滅多にないことなんだ」
「こういうこと?」
静信は苦笑する。
「読者に突然出会うこと」
「そう? わたしがそのいちばん目なら、光栄だわ」
「まぎれもなくいちばん目だね」
くすくすと少女は笑う。
「わたしはとても室井さんに興味があったの。会ってみたかった」
「イメージと違ってがっかりしたろう?」
「そうね」と、少女は微笑んで静信を上から下まで見まわした。「最初は意外に普通の人だと思ったわ、本当はね。だって室井さんって、角か尻尾でもありそうな気がしたんだもの」
「なぜ?」
「そういう人間の話ばかりだからよ。神様から見放された人間の物語、でしょ? ひょっとしたら室井さんにも角があるんじゃないかと思ったわ、ミノタウロスみたいに。だから、角がないのでガッカリしたけど」
静信は、その少女らしい言葉に笑い、そして続く言葉で凍り付いた。
「――でも、角はないけど傷があるのね。それで納得したわ」
静信は少女の顔を見つめる。
「……君は」
「|沙子《すなこ》よ。覚えておいて」
「沙子ちゃん、君……」
「ちゃん付けしないで。わたし、そういう呼び方って大嫌い」
静信は口を閉ざした。少女は本当に、人形のような顔を嫌悪に歪ませていたし、他の呼びかけようも思いつけず、静信も何を言いたいのか分からなかった。無意識のうちに左手を腕時計ごと握る。
「ひとつ教えてあげるわ、室井さん」少女は身を乗り出し、小声で言う。「手首を切ったぐらいじゃ、人は死なないのよ」
静信には返答ができなかった。沙子はふわりと上体を起こし、微笑を浮かべて身を翻した。石段を軽々と駆け下り、夜道にワンピースが揺れ、遠ざかっていった。――通り魔のように。
辻斬りにでも遭ったようだ、と静信は少女の消えた道を見守った。立ち上がる間も、呼び止める間もなかった。
「うん、そうだね」
遅ればせながら、静信は答える。
「……多分、知っていたと思うよ」
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
「へえ、弔い上げ? お婆さんの?」
|奈緒が言ったので、安森淳子は頷いた。丸安製材の材木置き場は広い。フォークリフトやとらっくのは夜陰の隅にに休んでいて、四方に材木の積まれた広場には|轍《わだち》の跡ばかりが残る。それに交じる細い轍跡は子供たちの自転車の跡だ。
製材所の材木置き場は子供たちにとって格好の遊び場だった。この近辺では、夏休みのラジオ体操は丸安製材の材木置き場でやると決まっていて、嫁の淳子はそれを監督しなければならない。早朝のことでもあり、辛くないと言えば嘘になるが、奈緒が付き合ってくれるので幾分、楽だった。
集まった子供たちは、体操が済めば製材所の始業時間まで遊んでいる。何しろ材木が積んであって、あながち危険でないとは言い切れない場所だから、子供がいる間は付き合わなくてはいけない。そうやってしょっちゅう出入りする場所だから、それだけ子供たちには馴染みが深いらしく、休日にも気軽に「貸して」と言ってやってくる。淳子や奈緒にも懐いていて、家の中から引っ張り出されることも再三だったが、そうして懐かれればこちらも情が移るから、さほどの苦でもない。
「なんだかね、大きな法事をするみたいなの」
「あら。それは大変ねえ」奈緒は言って、足許で木屑をいじって遊んでいる子供を見下ろした。「進ちゃん、それは痛イ痛イよ」
奈緒は息子の手から尖った木っ端を取り上げる。
淳子は昨年、この丸安製材に村外から嫁入りした。奈緒もまた村外から入った嫁だった。奈緒が嫁いだ安森工業――工務店と通称される――は製材所の分家で、奈緒の夫と淳子の舅は歳の離れた従兄弟に当たる。夫同士は同年配なので、兄弟のようだった。夫同士の仲が良いだけでなく、本家分家の仲だから、何かに付け行き来があった。盆正月や何事かがあれば、今日のように近辺の親族が丸安に集まる。
奈緒が安全そうな木っ端ばかりを集めて、子供の前に積んでやる。
「弔い上げだったら、うちにも話があるね。手伝いに来ないと」
「ごめんなさい、暑いのに」
「田舎じゃ、お互いさまよ。でも、それは淳ちゃん、大変だわねえ。八月の終わりって言ったら、お盆が終わっていくらもないじゃない。またこれを繰り返すわけね」
そうね、と苦笑して、淳子は明かりの点いた家のほうを振り返った。座敷のほうからは親戚が集まって大いに飲んでいる喧噪が流れてきていた。
「わたしの家はろくに親戚がなかったから、お盆にこれだけの人が集まるってだけで驚きだわ。法事なんてしてるのだって見たことがないし」
「そう? ここは、法事とか御神事とか、丁寧にするからね。お義母さんなんて、毎朝、お寺の勤行に行くのよ。最初にそれを聞いたときには驚いちゃった」
「わたし、お寺にはお葬式の時にだけ行くものだと思ってたわ」
「でしょう?」奈緒は笑う。「いろいろしきたりを覚えるのが大変だけど、慣れれば結構、そういうのもいいなあ、って思うな」
「そうね」
淳子は微笑む。近隣から嫁いできたものの、淳子が生まれたのはそこそこに町中で、親戚も遠いし、付き合いもない。家には仏壇すらなかったし、年中行事などもろくにやったことがなかった。かえってだから、こまごまとした行事があるのは興味深くて面白い。親戚が集まって騒ぐのも、疲れる反面、賑やかで良かった。特に夫と奈緒の夫を見ていると、同世代の親族がみんな兄弟のようなのはいいなと思う。
「弔い上げなら、近所の人も手伝ってくれるし、そんなに当日は大変じゃないわ。むしろ当日の前後がね。親戚が集まって大変だけど、まあ、こんなもんよ」
奈緒は言って、笑い声のしている母屋のほうに目をやった。淳子は笑う。
「だったら何とかなるか。お義母さんが大層なことのように言うから構えちゃった」
「大丈夫よ。淳ちゃん、しっかり者だもの」
「とんでもない」
「そう? 良くできた嫁さんだって。お義父さんが褒めてたぞ」
「ほんと?」
「本当。だって、大変じゃない。淳ちゃんとこ、製材所の世話だってあるし。住み込みの人もいるでしょ。おまけにお爺ちゃんが」
ああ、と淳子は呟く。夫の祖父はもう六年ほど枕が上がらない。家業の手伝いと老人の世話があり、義父母を含めて三世代の同居だから気苦労は多い。
「そんなでもないのよ。製材所の人の世話はお義母さん任せだし。お爺ちゃんは寝たきりで、そこは手がかかるけど、別に我が儘を言うわけでも癇癪を起こすわけでもないし」
「そういえるのが偉いわよね」
「奈緒さんだって似たようなもんでしょ。工務店の若い人だっているわけだし」
「うちは寮があるもの。べつに住み込みってわけじゃないから」
「そうお?」
妙に褒め合う案配になって、淳子は奈緒と顔を見合わせ、小声で笑った。
気苦労は多いが、家族はうまくいっている。近くには奈緒もいて、心強い。そもそも見合いで、同居は納得して嫁入りしたのだし、夫婦の居室は離れで台所は別にあるから、同居自体にはさほどの不満はない。ただ――とね淳子は背後を振り返った。
夜空に黒く、西山の稜線が横たわっている。今は漆黒より他に何も見えなかったが、そこには兼正の新しい家がある。
(あんな家に)
「ああいう洋館って、一回すんでみたいわよね」
心中を読んだような奈緒の声に淳子が振り返ると、奈緒もまた背後を見上げていた。
「――と言うか、自分の気に入った家って持ってみたいじゃない」
淳子はちょっと力を込めて頷いた。
「別に不満があるわけじゃないんだけど。でも、ここをこうしたいと思っても、勝手に家をいじるわけにはいかないし」
「そうなのよ。……いいよねえ、あの家、屋根裏部屋があるのよ。あたし、屋根裏部屋って憧れがあるんだ」
わたしも、と淳子は笑う。奈緒はいたずらっぽく淳子を見た。
「屋根裏部屋のある洋館なんて、映画化何かみたいじゃない。そういう所が嫁ぎ先だったら舞い上がっちゃうわね。絵に描いたような、理想の新婚生活、ってやつ?」
「きっとロッテンマイヤーさんみたいな、お姑さんがいるのよ」
「そんなものね」奈緒は声を上げて笑った。「――越してきたのよね、確か」
「みたいね。どんな人だか知らないけど」
「全然、出てこないんですって。さすがにこんな田舎に引っ越してくるだけあって、変わってるわ」
そうね、と呟いて淳子は黒い山を見上げる。そうしていると、奈緒が肘をつついた。
「――ん?」
「すごい。噂をすれば、ってやつからしら」
奈緒が示しているほうを見ると、ほど近いところ、材木置き場の表に人影が見えた。ちょうど入口の街灯の下、二人の男女が立っている。着ているものを見れば、村の者ではないと一目で分かる。そもそも纏っている雰囲気がまるで違う。淳子には、身なりもさることながら、二人が軽く腕を組んでいるのが印象に残った。そんなことをする者は、夫婦者だろうと村にはいない。淳子たちに気づいたのか、二人は軽く会釈をした。
「こんばんは」
これは深みのあるバリトンだった。
「あの……こんばんは」
奈緒が答えて子供を抱いて立ち上がり、淳子も何となくそれに続いた。
「兼正の方ですか?」
男のほうが言うと、女のほうが男を見上げて微笑む。
「竹村さんよ。ここでは兼正と言うんですって」
「そうです」奈緒が微笑んだ。「わたしたち、お宅の地所のことを、兼正って呼ぶのが習い性になってるんで」
ああ、と男は頷く。四十半ばだろうか。対する女は三十前後というあたりに見えた。淳子は少しどぎまぎする思いがした。洗練されている、というのだろうか。なにか作り物めいた――俗っぽさのない立ち居振る舞い。急に背後から聞こえる酔った歓声が気恥ずかしく感じられた。
「桐敷と申しますの。よろしくお願いしますね」女は言って、奈緒の腕の中に目をやる。小首を傾げて子供の顔を覗き込んだ。「まあ、可愛い。息子さんですか?」
「ええ。進っていうんです。わたしはあの、安森といいます。こっちは……いえ、彼女も安森で、この製材所の人なんですけど」
「御姉妹でいらっしゃるの?」
「いえ。うちは淳ちゃん――彼女の所の親戚筋です。安森工業といって近くの」
奈緒が言ったとき、また背後で笑い崩れる声がした。男は母屋のほうに目をやる。
「お盆なので。親族が集まっているんです」
「ああ、そうか。帰省シーズンなんですね」男は言って、妻のほうを見る。「みんな、こういうところに集まっていたわけだね」
「そうね。帰省する先がないと、置いて行かれるばかりで。実を言うと、あの人たちがどこへ消えているのか、不思議だったの」
「わたしもだ」
笑い合う夫婦を、淳子は気を呑まれる思いで見た。まるで若いカップルを見ているようで、気恥ずかしい。こんなに臆面もなく睦まじい夫婦は村にはいない。結婚すれば、すみやかに家族として組み込まれ、睦まじさは気安さに取って代わられてしまう。
「桐敷さんは、お子さんは?」
「娘がおりますの。もう十三ですわ」
「そんな大きなお子さんがいるようには見えないわ」
「ありがとうございます」
女は艶やかに笑う。淳子には何だか、別種の生き物を見ているような気がした。娘ではない、中年の女でも、どこかのお嫁さんでもない。男のほうもそうだ。四十を過ぎておじさんではなく男で有り続ける男というものを、淳子はこれまで想像できなかった。テレビや映画の中を除いては。
「あの……もし、よろしかったら」奈緒がおずおずと言う。「寄っていきませんか。御覧の通り、宴会の最中で、酔っぱらいばっかりなんですけど」
奈緒に肘で軽く小突かれ、淳子は慌てて言い添えた。
「そうです、どうぞ。うちの者も喜ぶと思うんで」
男は問いかけるように妻を見る。
「申し訳ないわ。せっかくご親族でお集まりのところなんですもの」
「いえ、あの、ぜんぜん」
男は淳子を振り返った。
「日を改めて伺わせていただきます」
「じゃあ、うちにもいらしてください」奈緒が|燥《はしゃ》いだ声を上げる。「工務店って言えば分かります。お嬢さんも一緒に」
男はふっと笑った。淳子は一瞬、どきりとした。その笑みは、どこか恐ろしげに見えた。訳もなく、自分たちが取り返しのつかないことを言ってしまったような気がした。
「ありがとうございます」
男は言って、まるで言質を取った、というように淳子と奈緒を見た。
「必ず、御挨拶に伺わせていただきます。……近いうちに」
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
「――兼正の?」
結城はクレオールのカウンターから、店に入ってきた加藤実の顔を振り返った。加藤は一之橋の袂で電気店を営んでいる。クレオールの常連の一人だが、今日の宵の口、加藤の母親と息子が兼正の住人を見たという。
「桐敷さんとおっしゃるそうです」
加藤は淡々とした口調で言う。その言動や風貌からすると、電気店の主人よりも理系研究者のように見える。
そうか、と結城は呟いた。挨拶まわりというわけではないだろうが、家を出てくることにしたのだな、と思う。
「どんな人だって?」
長谷川は軽く勢い込んだ。
「堂々とした方だったようですよ。役者みたいだった、と母は言ってましたが」
「……へえ。一昨日、兼正の若い人――辰巳くんだったか――に会ったけど、彼も感じのいい青年だったな」
「一昨日といえば、清水さんのところが大変だったそうですね」
「そうなんです。辰巳くんも手伝ってくれてね。無事に見つかって良かったですよ」
加藤は頷く。それきりグラスを手に、サックスの音に耳を傾けている。加藤は三十半ば、もともとそういうごく|穏和《おとな》しい、物静かな男だった。
「これで妙な誤解が解けるといいんですけどね」
結城が言うと、広沢は首を傾げた。
「妙な誤解?」
実は、と結城はあの夜、小耳に挟んだ悪意のある噂について話をした。
「せっかく越してきたのだから出ておいでなさい、と勧めた後だけに身の置き所がなくてね。辰巳くんも池辺くんも笑っていたけれども、内心は愉快ではなかったでしょう」
なるほど、と広沢は溜息をついた。店内には長谷川と加藤、広沢と結城の四人だけ、そもそも静かなところに憂うような沈黙が降りた。
「結束というものは、排他性と表裏一体のものですからね」広沢が自重するような調子で言う。「……けれども、それは申し訳なかったな」
長谷川も頷く。
「そうですねえ。それで村に降りてきたのかな。顔ぐらい見せておかないと、何を言われるものか分かったものじゃないから」
「だとしたら残念な話だ」
結城は首をひねった。
「けれども、わたしには不思議に思えるんですけどね。たとえばわたしや、兼正の住人が|胡乱《うろん》な目で見られるのは分かるんです。悲しいかな余所者というのは、そういうものでしょう。けれども池辺くんや若御院までがそういう目で見られるのはどういう訳なんでしょう。二人は寺を通して、村社会に組み込まれている訳じゃないですか」
広沢は苦笑した。
「普通は寺を悪く言う人はいないんですけどね。その連中は寺の檀家ではないんでしょう。下外場の新しい家の人たちかな。戦後に入ってきたような人たちですね」
「関係あるんですか?」
「それこそ、排他性の問題ですよ。旧外場の地縁社会というのがあって、これは結束が固いです。戦後に入ってきた家もありますが、そういう家は余所者として一旦、区別されてしまいますから、そういう人たちは自分たちを排斥した村社会に対して敵意を持つ。全てが、というわけじゃありませんが、やはり大なり小なり引っかかるものはあるでしょう。そういう人にとって、寺というのは的の首領に見えるんでしょうね。寺と兼正、そして尾崎を三役といいましてね、村の中心ですから」
「へえ」
「そもそも村は、この三役を頂点にして非常に固く結束しているんです。ですから新住民にすれば、これが敵の首領ということになりますね。このうち、兼正は外場に住む以上、自分たちの利益の代弁者ではあるわけだし、村長をやってた頃には恩恵にも浴していたわけで、敵意は割り引かれます。尾崎はもっとですね。みんな必ず世話になりますから。けれども寺は、檀家でなければ接点がない。敵視するには絶好の対象なんでしょう」
「そんなものですかね」
「特に若御院は、小説も書いてらして、そういう特殊な職業に対する偏見もあるでしょうね。気むずかしい変わり者に違いない、という。実際、村で総領息子で、三十を過ぎて独身というのは変わっています。特に若御院は一人っ子ですから、若御院に所帯を持ってもらわないと跡継ぎに困るわけで」
「ああ、そうですね」
「檀家も気にしているのだけど、若御院というのは、ひどく繊細なところがあって、無理強いはできない、というのがあるようですね。御院も結婚は遅かったし、本人も自分の立場は分かっているようだから、もう少し静観しておこうというのが檀家の本音でしょう」
長谷川が身を乗り出して声を低めた。
「あの噂は本当なんですか」
「――噂?」
「ええ。若御院が以前、その……自殺未遂をやったという」
広沢は苦笑した。
「らしいですね。わたしも噂でしか知りませんが。それで周囲もあまり強く縁談を勧められないんでしょう。なにかを無理強いして、またナーバスになられては困る、ということなんでしょうね」
なるほど、と結城は思う。寺の若御院は、村の中枢にいながら、副業とその経歴のために結城らとは別の意味で一種の異物なのだ。
「それでああいう噂になるわけですか」
「何よりも、寺に対する反感のほうが強いんでしょうけどね。寺――三役は村の中心でありながら、村の一部ではないところがあるので」
「よく分からないな」
「ですからね。恵ちゃんを捜索するときにも、尾崎の人間も寺の人間もいなかったでしょう。寺から池辺くんが来ていたけど、若御院や奥さんが来ていたわけじゃない。祭りなんかでもそうです。三役は村で祭りがあっても参加しないんですよ。伝統的に村から嫁取りもしないし、娘を村に嫁に出すこともしない。室井は村に一軒だけ、尾崎もそうです。そういう意味で、村の中心ではあるのだけど、隔絶されているんです。特別、偉いというか」
「偉い、ですか」
広沢は頷いて、北のほうを示した。
「北山の中腹に寺がありますね。そして西山に兼正、その間に尾崎」
「室井、兼正、尾崎と敷地の高さに段差があるでしょう。寺が一番高い場所にあって、病院が一番低い。これがそのまま、村における地位を示しているんです」
へえ、と結城は瞬く。
「医者が三番目、というのは不思議な気がしますね。いわば、村の人たちの生命線を握っているわけでしょう」
「そこが長い間の慣習ってものです。ここはもともと寺院の領地でね、そこに木地屋が入って村を拓いた。定住した木地屋のために、本山が窓口として置いたのがあの寺です。のちに寺院所領の解体があって、このあたりの土地は全部、本山から独立して寺のものになった。いわば村の者は寺から土地を借りている状態ですし、寺請制度のせいで全部が寺の檀家として組み込まれている。寺の坊さんに引導を渡してもらわないことには、死ぬこともできないわけです。昔は寺が役所の戸籍係も兼ねていたようなもんですから、寺は人の生死と土地――生活そのものを握っていたんですよ」
「ああ、なるほど」
「生まれてから死ぬまで、ずっと寺の掌の上です。だから最近はそう煩くも言いませんが、昔はそりゃあ、寺の威光は凄かったらしい。その土地は、兼正が一括して寺から借りて村人に分けていた。どこの家に田圃が何反、山が何町、と分与していくのは兼正の仕事で、兼正が土地に応じて賃貸料も分割し、取り立ても行うわけです」
「なるほど、それで寺が一番、兼正が二番なんですね。寺と兼正の機嫌を損ねたら生きていけないわけだ」
広沢は微笑む。
「そういうことになりますね。――まあ、それだけでもないんですが。外場には、ずいぶん近年まで、外場講という制度があったんです」
「外場講――日本史で習う、あの講ですか」
「そうです。兼正は講の代表者なんですね。土地は寺から講が借りる。それを講の代表者である兼正が村人に分配するわけです。賃貸料も分配、講を代表して年毎に賃貸料の交渉をするのも兼正の仕事です」
「ひょっとして、値切るわけですか」
「そうですね。兼正は体制側ではなく、あくまでも村人の側、講の代表なんです。そうやって取り決めた賃貸料を、兼正は取りまとめて寺に納める。寺は納められた一部を、御支度金として備蓄する」
「御支度金」
「ええ。これは村に災害や飢饉が起こったり、村を挙げての普請――土木工事なんかを行う際に、施徳金として無利子で講に貸し出されていたんです。村人はこれに対して、報恩金というものを納めて、頭割りで長期返済を行った。国道の下に堰がありますよね。水口堰といって農業用水を取り込むための施設なんですが、あれも江戸時代に御支度金で作られたものらしいですね」
「へえ……」
「ですからね、単に畏れられていただけではないんですよ。恩義というんでしょうか。寺と兼正はずっと二人三脚で村を支えてきた。御支度金で病院を建てて医師――を招いたのも寺と兼正です。溝辺町にもまだ病院なんかなかった時代の話です。寺が直接、村の者に土地を貸していてはこうはいかない。寺と村人の間に兼正という家があって、ずっと寺と相対して良好な関係を築いてきた、だからこそできたことだし、村はその良好な関係を基盤にして成立してきたんです。村の者はだから、寺や兼正に対しては未だに尊崇を捨てられないんですね」
「なるほど……」
「今ではもう、そういうこともないわけですけど、未だに公民館は三役の寄付でまかなわれていたり、外場校区の意志決定を区長会と三役で行っていたり、中心であることは変わりない。この場合の三役は、兼正でなく田茂の本家なんですけどね」
「はあ」
「昔は、室井、兼正、尾崎だったんです。村長である兼正が村議会の議決を取りまとめる、という方式ですね。兼正は議会の決定に対して賛成一票を持って三役の談合に臨むわけです。村長が一票、室井と尾崎も一票。室井と尾崎のどちらかが反対しても二対一で可決ですね。けれども室井と尾崎の両方がノーというと、二対一で否決されて議会に差し戻される。――まあ、実情はもっと話し合いというか寄り合いに近いことなんですが、そういうシステムではあったんです。今だと村議会ではなく区長会ですね。名称は変わってもシステムは同じです。やはり三役で最終的な意志決定を行う。兼正は今は村にいませんから、区長会の会長が兼正の代わりに三役に入ります。もともと兼正は村の代表者ですから、それで構わないわけですね」
「あくまでも講の体質を引きずってるんですね」
「そういうことですね。今でも三役会議というのが非公式にあります。多分に儀礼的なもので、実際に区長会の決定に対して、室井と尾崎がノーと言うことは、まずないんですけど、やっぱりお伺いは立てるわけです。村人を代表者が取りまとめて、寺と尾崎が上からこれに関与する。未だにそういう体制ではあって、そういう意味で、寺と尾崎は別格、兼正も単なる村の者とは一線を画す。だから村の中心なんだけれども、村の一部ではない、と言えるわけなんです」
「へえ」
「我々はね――旧外場の住民は、これを理屈じゃなく皮膚感覚のようなもので分かってるわけです。村のそもそもの成り立ち、歴史から培われてきた無条件の刷り込みがあるんですね。三役といえば別格で偉いんだ、という。ところが後から村に入ってきた人はそういう感覚がない。歴史を知らなければなおさら、何だって三役があんなに威張っているのか分からないということでしょう。特に新住民は檀家ではないから寺と接点がない。だから余計に寺が威張っているのが理不尽に思える。村は結束が強固で、ことあるごとに自分たちが区別されている感覚がある。排他性の頂点に寺がいるから、寺に対して、そこはかとなく反感が生まれる」
「なるほどな……」
長谷川が苦笑した。
「けれども不思議なものでね。そういう新住民というか、新しい人のほうが余所者に対する当たりがきついんですよ。もちろんどちらの陣営にも例外はあるんですが、概して古い家のほうが余所者に対して鷹揚ですね。区別はするけど露骨な差別はしない。新しい人のほうが露骨なんですよ」
へえ、と結城は瞬く。加藤が静かに口を挟んだ。
「有機体のようでしょう」
一言だったが、それは結城の村に対する思いを、うまく表現しているように感じた。
「そうですね。……本当にそうです」
村はそれ自体が、ひとつの有機体のように存在している。複雑な成り立ちがあり、その内部では様々なシステムが|蠢《うごめ》いている。変化を繰り返しながら増殖し分裂し貪蝕[#「蝕」の字は旧字体。しょく偏部分が「餡」と同型。Unicodeに該当なし]し代謝し、総体としての存在を維持する。――生命活動のように。
結城はふと、これで良かったのだろうか、と思った。一年以上、外場にいて、余所者として区分されている自分たちに歯がゆい思いもした。それでも外場に越してきたことを後悔したことはかなったが、やっと村に馴染み始めた今になって、初めて村社会の得体の知れなさに触れたような気がした。
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
新しい原稿用紙を机の上に広げて、静信は軽く上体を反らした。祖父の代から使っている椅子は夜の静寂に溜息のような軋みを落とす。ぼんやりと古びた木目の天井を見上げていると、茫洋と視線は過去に向かってさまよい、一つの言葉に突き当たった。
――いったい、何があったんだ?
(何も……)
――理由を訊いてもいいか?
(理由なんか、なにも)
思いながら、鉛筆を手の中で弄ぶ。固い芯の先は切っ先のように尖っている。
小説を書き始めた当初、何となくペンで書くものだという思い込みがあって慣れない万年筆を使っていた。その夏にはインクの滲みに辟易して鉛筆に変えた。寮の部屋は、原稿用紙の上に置いた左手の熱気で紙が波打つほど暑かった。屈み込んでいるだけで際限なく汗が落ちて、黒いインクを茶と青の|暈《ぼ》かしに変えた。
短編を一つ書くごとに鉛筆の芯を薄く固くしていったのは、鉛筆の粉でどうしても原稿用紙が汚れるからだ。芯の固さを変え、鉛筆のメーカーを変えて、今のものに辿り着いた頃、卒業した先輩が寮に遊びに来た。出版社に入っていた|津原《つはら》は、静信の原稿を持ち帰り、改めてやってきて書き直しを命じた。言われるまま、何度直しただろうか。何度目かに津原は原稿を持ち帰り、その夜、電話がかかってきた。出すから、と言われて、何のことだか分からなかったのを覚えている。
――お前、プロになりたくて書いてたわけじゃなかったのか?
あの時の会話を思い出すと、今も苦笑が漏れる。別に作家になろうなどと思っていたわけではなかった。
――だったら、何でいちいち、こっちの言うとおりに直すんだよ。
直したほうがいいと言われたからだし、次に訪ねてきたときに津原が「直したか」と訊くので手を入れた原稿をそのたびに見せていたにすぎなかった。
――呆れた奴だな。
津原の声は、寮監の村松の声に重なる。
――自分のことなんだから、分からないはずがないだろう?
(今もよく分からない)
静信は引かれるように原稿用紙の上に置いた左手を見た。安物の無骨な形の腕時計。それをそもそも身につけるようになったのは、もちろん、そこにある傷痕を隠すためだった。今はもう白い線のようにしか見えない損傷、それでも時計を外せば、自分でも時折、ぎょっとするほどの傷ではあった。
――酔ってたわけじゃないだろう。ほとんど飲んでなかったと聞いているぞ。
(酔っていた覚えは、確かにない)
――口にしにくいなら、手紙でも何でもいいから。
自分の心情を探るつもりで書き始めた文章は、いつの間にか横滑りを繰り返して混沌ととしたものになった。村松に渡すと、村松は心底、呆れたようだった。
――何が言いたいのかさっぱり分からない。これは小説じゃないのか?
言われて読み直してみると、それは確かに小説に似ていた。それで次には、最初から小説を書くつもりで書いてみた。それはあまり趣味というものに縁のなかった静信の、唯一の趣味らしい趣味になった。
[#ここから4字下げ]
なぜだ。なぜ、こんなことを。
何故に自らこのような罪を
[#ここで字下げ終わり]
なぜだ、と様々な人に問われたが、静信には答えられなかった。実を言うと、自分でも理由を知らなかったからだ。無理にも言うなら、そうしてみたかった。それしかない。大学の二年生、年末のコンパの席上だったと思う。突然、そういう気分になった。漠然と、それだけでは死なないと分かっていたが、死ぬ死なないはあまり重大ではなかったと思う。早々に飲み会を辞去し、寮に戻って風呂場に行った。忘年会のシーズンでもあり、帰省のシーズンでもあったので、共同の風呂場は無人だった。そこで淡々と自分を切り裂いた。
実際のところ、どう考えてみても静信には、自分に死に憧れるほどの何かがあったとは思えなかった。特に不満はなく、自己嫌悪があったわけでもない。手首を切ったぐらいのことでは人は死なないことを理解していたのだから、本当に死にたいわけではなかったのだろう。その時の静信にとって意味を持っていたのは行為の結果ではなく、その行為自体だったのだという気がしている。死にたかったのではなく、死のうとしてみたかったのだとしか思えないのだが、その衝動の由来は未だによく分からなかった。
腕時計の下、覆ってもその傷痕は明らかだ。村の者はみんな知っている。だから、これを見て見ぬふりをし、静信もそれにいつしか慣れていた。いつの間にか、それが人には見えないもののように感じていたのだと思う。
(……嫉妬ではない)
静信は鉛筆を握る。
彼もまたなにかに憑かれたのだ。突然、殺意は降って湧いた。
(いや)と、静信は呟く。彼はそうしてみたかっただけだ。殺意すらないまま、弟を殺した。(……そのほうがいい)
[#ここから4字下げ]
灰色の石に封じ込められた広間は、端々に|黄昏《たそがれ》と薄暮が立ち込めるほどに広く、空虚だった。飾り一つなく|鈍色《にびいろ》が堆積するだけの空洞の一郭、よほど高いところに色ガラスの窓があって、そこから斜めに光が射し込んでいた。
陰鬱な色を帯びた光は白い麻布を輝かせていた。冷えた石畳の上に広げられた麻布がゆるやかに起伏を描くのは、その下に彼の弟の亡骸が横たわっているからだった。
賢者と彼は、弟の亡骸を挟んで対峙していた。しかしながら、彼は麻布の幽光から目を逸らすことができず、そこに光が射しているからこそいっそう濃い薄闇に、一人取り残されたような孤絶を感じていた。
――何故、このような罪を。
薄暮の中から賢者は訊いた。しかしながら、彼はそれに答えられなかった。何故なら、彼自身、自分が弟を殺した理由を知らなかったからだ。
何故、と問いたいのは彼のほうだった。
ただ一人の肉親、穏和で慈愛深く、さながら光輝の具現であったかのような彼の同胞。彼は真実、弟を愛していたし、弟との暮らしを好ましく思っていた。彼は弟を屠らねばならない、いかなる理由も持たなかった。にもかかわらず、彼は弟に向かって凶器を振り上げたのだった。
それは衝動のように彼を襲った。誓ってそれは弟に対する殺意ではなかった。けれども彼の振り上げた凶器は、結果として確かに弟を死に至らしめたのだ。
その弟は屍鬼になって荒野に彼を追う。空疎な視線は、常に何故、と問いかけているようだった。彼は殺意の由来を明らかにし、自己を正当化して弟を責めるなり、あるいは自己を弁護して許しを乞うなりしなくてはならなかったが、そのどれをも、彼はできなかった。ただひたすら一瞬の衝動を憎み、弟の死という結果を嘆くしかなかった。 ――そんなつもりではなかった。
決してお前が憎かったわけではない。
お前に死んで欲しかったわけではなかった。思い知らせてやりたい何かがあったわけでもなかった。
赦してくれ、と彼は呻いて曙光の中、凍えた荒野に膝をついた。弟の返答は、もちろん、ない。
風音の合間に幻聴を探しながら、彼はようやく眠りについた。
[#ここで字下げ終わり]
[#改段]
[#ここから3字下げ]
八章
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
敏夫は十五日、月曜の早朝に一本の電話で叩き起こされた。眠い目をこすり、不承不承取った電話の向こうで、|狼狽《うろた》えきった女の声がした。何かを喚いているが、なんと言っているのか、よく分からない。
「誰だか知らないが、落ち着いてくれないかな」敏夫は欠伸を噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]み殺す。やれやれ、という気がした。せっかく盆休みで、早朝の診療から解放されているというのに。「――落ち着いて。こっちの訊くことに答えてくれ。あんたは誰だ?」
清水です、というせっぱ詰まった声が聞こえた。半ば泣きながら悲鳴を上げるようにして訴える声。
「清水――」敏夫は急速に覚醒するのを自分でも感じた。「清水さんの奥さん? 恵ちゃんに何か」
女は電話の向こうで泣き崩れた。悲痛な声で、とぎれとぎれに言葉だけが聞き取れる。恵、息、死、揺すっても。
「今から行きます、十五分以内。いいですね?」
強く言って、返事を待たずに敏夫は受話器を置いた。要領を得ないが、恵の容態が急変したことだけは間違いがない。
取るものも取りあえず自室を出ると、不審そうな顔をして孝江と恭子が顔を出していた。
「なにごとなの?」
「容態が急変したらしい。清水さんとこの恵ちゃん」
まあ、と孝江は絶句した。恭子は面白くもなさそうな顔で欠伸をひとつした。
「行ってくる」
夜着を脱ぎながら廊下を洗面所に向かって小走りに行く敏夫を、孝江は眉を|顰《ひそ》めて見守った。
洗面所からは慌ただしい物音がしていた。恭子はもう一度欠伸をし、階段を昇っていく。その背に、孝江は声をかけた。
「着るものくらい、揃えてやってちょうだいね」
恭子はキャミソールからむき出しの足を止める。階段の途中から孝江を見下ろした。
「ご心配なく」
揶揄する響きを感じ取って、孝江は険を込めて恭子を見上げる。こんなふうに言って、一度だってちゃんと送り出してやったことがないのだ、この女は。
「急患が来ることだってあるんだから、飛び起きたときにも人様にお見せできる格好をしていてもらわないと困りますよ。暑いかもしれないけれど――」
孝江の言葉はぴしゃりと叩き落とされる。
「わたしは別に困りませんから」
言って、片手に腰を当て、もう一方の手を手摺りに突く。すらりと白い足が演技的な仕草で組まれた。孝江は顔に血が上るのを感じる。
「冗談じゃありませんよ、そんな」
「駆け込んできたほうだって、こっちの寝込みを襲ったことぐらい分かってるんだから、大目に見てくれるわ」
「恭子さん――」
言いかけた孝江を、敏夫が押しのけた。
「母さん、どいてくれ」
恭子がくすりと笑みを漏らし、孝江は頬が紅潮するのを感じた。その場の二人の様子には気づかない様子で、敏夫は階段を駆け登っていった。恭子はそれに声をかける。
「ねえ、わたし、すごく眠いの」
敏夫の声は明瞭だった。
「構わなくていい。寝てろ」
恭子は勝ち誇ったように孝江を見下ろし、これ見よがしに伸びをして階段を昇っていく。孝江は少しの間、感情を持て余してその場に立ち竦んでいた。
髭を当たる間も惜しんで敏夫が清水家に駆けつけたのは、受話器を置いてから十分と少しが過ぎてからのことだった。診察鞄を提げて車を降り、玄関に駆けつけると、それを待っていたように玄関のドアが内側から開いた。寝間着姿のままの寛子が泳ぐようにして敏夫に縋りついてきた。
「恵が――恵」
泣きながら頷く寛子の肩を叩き、勝手に上がり込んで二階へと駆け上がる。ぬいぐるみの下がったドアは開いており、中には呆然と立ちつくす清水の姿が見えた。
「清水さん」
敏夫が声をかけると、清水は敏夫を振り返る。さっと顔色が変わるのが見えた。一瞬、清水は憤怒の表情を露わにし、それを恥じるように顔を背けた。敏夫が部屋の中に入ると、ちょうどドアの陰のあたりに、清水の実父、|徳郎《とくろう》が坐り込んで顔を覆っていた。敏夫は静かに深呼吸をする。
――おそらくは、最悪の事態だ。
実際のところ、部屋に踏み込んでベッドのほうに目をやるや、その予想が外れてはいなかったことを悟った。ベッドに横たわった少女は、顔の筋肉が弛緩して相好が変わって見える。これは、死んでいる。それも、ついさっきというわけではあるまい。
寛子が恵を呼びながら階段を昇ってくるのを耳で捕らえつつ、敏夫はベッドの脇に鞄を下ろした。とりあえず、タオルケットの上に投げ出された手を取ってみる。それはいかにもひんやりとして、生物の暖かさ、柔らかみを失っていた。
黙って脈を探る。全く脈は触れない。頸部を探ってみても、拍動なし。薄く閉じた瞼の下、瞳孔も散大している。鞄を開け、聴診器を取り出し、緩い襟ぐりの下に忍ばせてみたが、まったくの無音。呼吸も心拍も、完全に停止している。敏夫は息を吐いて聴診器を外した。
「――やっぱり、死んでいるんですか」
背後からかけられた清水の声は、何かを噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]み砕こうとするようにくぐもって聞こえた。
「死亡しています」
そんな、と寛子の声がした。
「だって先生が、恵は貧血だっていったじゃないですか。単なる貧血だって、そう――」
「やめないか」清水が低く怒鳴った。「若先生を責めるんじゃない。お前はお爺ちゃんを連れて行って面倒を見てやれ」
「でも」
「行くんだ」
敏夫が振り返ると、寛子が嗚咽しながら徳郎の腕に手をかけるところだった。顔を覆った徳郎を引き立たせ部屋の外に促す。抱きかかえるようにして部屋を出ながら、寛子は敏夫に恨みを込めた視線を投げて寄越した。
敏夫は深い息を吐いた。
「おれがこれを言うのもどうかと思うが、お悔やみを言います」
「恵はなぜ死んだんですか」
「それは調べてみないと分からない」
言いながら、敏夫は恵と寝床の周辺に目を向ける。着衣の乱れもなく、夜具にも乱れがない。四肢は穏やかに投げ出されたまま、少なくとも恵は苦しまなかったのに違いない。
「単なる貧血で、人が死ぬものなんですか」
清水の声は、精一杯、恨みがましい声音を押さえ込もうとしていたが、あまり成功はしていなかった。
「貧血が、何らかの不具合から来たものであってた場合、そういうこともあり得ます」
「何らかの不具合――」
敏夫は座ったまま振り返り、仁王だった清水を見上げた。
「貧血というのは症状の名前であって、病気の名前ではないんです。単に貧血だけが起こることもあるが、身体のどこかに不具合があって、そのせいで貧血が起こることもある。普通、そういう場合はそれなりのサインがあるものですけどね」
「恵はそれだったというんですか」
「分かりません。こればっかりは検査してみないことには何とも言えない。せめて先日採取した末梢血を調べれば、何か分かるかもしれませんが、あいにく検査結果がまだ出ていないんです。ちょうど盆休みにかかっていたもので」
「盆休み……」
清水の呻くような声音に、敏夫は息を吐く。
「おれは言葉を飾るのが嫌いです。ましてや清水さんとは知り合いだから、余計に言葉を飾りたくない。先日、伺ったときに恵ちゃんの血液を採取しました。それは検査に出してある。結果はまだ来ていません。ちょうど検査所が盆休みだったもので。もちろん、急いでもらう手がなかったわけじゃないし、最低限の検査だけでも自分でやる方法がなかったわけでもない。しかしながら、急ぐ必要があるとは、少なくともあの時点では思えなかったんです」
「身体の不具合から貧血が起こることがあるんでしょう。その可能性があると分かっていて?」
「可能性があることは承知してしましたが、恵ちゃんの場合はそうとは思えなかった。――単なる貧血だとしか思えなかったんです。そうでない可能性があることは分かっていたから末梢血を検査に出した。しかし、検査を急ぐ必要があるとは思わなかった。急ごうと思うほど恵ちゃんの状態は悪くなかったからです。急死するほど重大な不具合があれば、必ずそれなりの症状が出ます、貧血以外にもね。他にも重篤な症状があれば、検査を急がせるまでもなく、救急車を呼んで国立病院なりに運ぶよう言いましたよ。だが、そんなふうではなかったんです。単なる貧血のように見えたし、もしそれが単なる貧血ではなかったとしても、検査結果を見て再検査をして、そうやって原因を突き止めるぐらいの余裕は十分以上にあるように見えた」
「では、なぜ恵は死んだんですか」
「おれにとっても不足の死なんです。ここで簡単に死因の予測がつくようなら、そもそも単なる貧血だろう、なんてことは言いませんよ。――実際のところ、おれがいちばん驚いている」
先日診察したときには、確かに貧血以外の症状は、これと言って見られなかった。格別の既往症もない。恵は些細な不調でも大騒ぎするタイプの少女で、しかも詐病する傾向があった。あちこちの調子が悪いと言っては何度も診察に来たけれども、実際に病因が見つかったことはない。――それとも、これが予断になったのだろうか。
敏夫は恵の体を検めながら自問自答する。自分に予断があって、そのせいで重大な兆候を見落とした、という可能性は?
(ないとは言えない……)
不本意ながら、それは認めないわけにはいかなかった。実際のところ、敏夫は往診に来て、本当に恵が貧血を起こしているのを見て驚いたぐらいだ。件の失踪騒ぎ以来、恵の調子がおかしいと聞いて、敏夫は真っ先に詐病を考えた。これまでの例から考えても、騒ぎを起こした恵は、清水らに叱責されるのを恐れて具合が悪いふりをしているのだろうと思ったのは確かだ。
恵の外見のどこにも、外傷や不審点はない。体温の下降が始まっており、死後硬直も始まっている。死斑は軽微、角膜の混濁も軽微。だが、死亡しているのは間違いなく、しかも死後数時間が経っている。
「昨夜遅く――というよりも、今朝だと思います。午前一時から三時ぐらい」
敏夫は呟いて清水を振り返った。
「どうしますか」
清水は険しい顔で瞬いた。
「どう――とは」
「おれには確実な死因が分からない。前回の診察から二十四時間以上、経過してもいる。できたら病理解剖を勧めたいところです。せめて末梢血の採取と骨髄液の採取をさせてもらいたいが、清水さんの同意が必要です」
「冗談じゃない!」清水は顔を紅潮させて怒鳴り、そして自分でも自分の怒声に狼狽したように顔を伏せた。「――いや、済みません」
「おれを殴りたい清水さんの気持ちは分かりますよ」
「いや……申し訳ない。そんなつもりはありません。だが、解剖は駄目です。この子は若い女の子なんです。いまさら死因が分かっても、恵は帰ってこない。……もう勘弁してやってください」
なんとか自分を抑えようとする清水の態度は立派だ、と敏夫は思った。本当ならば敏夫の襟首を掴[#「掴」は旧字体。Unicode:U+6451]んで怒鳴りたいところだろう。清水の性格から言って、理を解いて説明すれば、資料の採取には同意してもらえるかもしれない。だが、これ以上、醜態を見せまいとする清水の感情を刺激するのも|躊躇《ためら》われた。
(それとも、おれは逃げたいんだろうか)
単なる貧血だ、と言った。それが過ちであったことは確かだ。それも不可避の過ちではなく、予断によるものである可能性がある。恵の死体は否応なくそれを敏夫に突きつける。
「死亡時間は早朝二時、死因は急性心不全ということでいいですか」
敏夫の問いに、清水は頷いた。
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
「清水、恵ちゃん?」
静信は受話器を置いた光男の顔をまじまじと見た。続く言葉は呑み込んだが、代わりに鶴見がそれを口にした。
「娘のほうなのかい。――爺さんのほうじゃなく?」
光男はどこかきょとんとした様子で頷いた。
「娘のほうだとさ。高校生の」言って、光男はどういう意味でか、溜息をついた。「ほら、盆前に山狩りをしたでしょう。清水さんとこの娘さんが帰ってこないって言って。あれで見つかって以来、寝込んでたらしいんですよ。それが今朝、呆気なく」
死んだんですか、と確認するように声を上げたのは池辺だった。
「また?」
池辺の言葉は、寺務所に集まった人間の気分を代弁していた。後藤田秀司が死に、山入でも三人が死んだばかり、しかも今度は少女だ。ある意味で山入の三人は高齢でもあり、いずれ来るものが思いも寄らない状況で来た、としか思えなかった。秀司も若かったが、秀司くらいの年代の男が急死することは多くないとはいえ、珍しいことでもない。――だが、恵はあまりにも若い。まだ大人にさえなっていない。
「やれやれ……」鶴見は息を吐いて椅子に腰を下ろした。「清水さんとこの家族はショックだろう。顔を合わすのが辛いな。高校生じゃあなあ」
「本人も可哀想ですよ。これからいちばん、いい時期なのにねえ」
池辺はそう、妙に老成したことを言った。
「まったくだ。今年の夏はどうなってるんだかな」
鶴見の弁に静信は頷いた。窓に目を向けると、すでに熱気を伴った陽射しが降り注いでいる。本当に、今年の夏はどうかしている。――酷暑の夏。
恵が死んだ、とかおりは呟いた。声に出してみても、少しも現実感がなかった。
恵は死んだ。今、連絡があった。でも、ラブを連れて散歩に行けば、また坂の下で会えるだろう。どのみち新学期になれば、毎朝、会うのだ。
(もう、会えない)
理性はそれを知っていたが、かおりには恵の欠落が信じられなかった。二度と会うこともなく会話を交わすこともない。そんなことが、どうして起こるはずがあるだろう? かおりくらいの年代の女の子が不幸にして死ぬことがある。でもそれは、ニュースや噂話の中のことで、新聞の中から出てきて、かおりの側に居座ったりするはずのないことだ。そう、漫画やドラマの登場人物が、決してかおりを訪ねてきたりしないように。
母親に促されて出かける準備をする間も、どこか呆然としたままだった。何か大変なことが起こったことは分かる。それが恵に関することだ、ということも。具体的に言うなら、それは「恵の死」で、けれども、かおりにはやはりそれが腑に落ちなかった。
急いで行かなきゃ、という妙に浮ついた気分。まるで何かのイベントに参加するかのような。それでいて、母親がエプロンを引き出して手提げの中に入れているのを見ると、棟のあたりがモヤモヤした。エプロンなんて、――それもあんな、花柄の入ったエプロンを引っ張り出すなんてどうかしてる。
しかしながら、どうかしているのは、かおり自身のほうだった。もちろん母親は、弔いの手伝いに恵の家に行くのだ。恵の母親とは親しかったのだから。これから弔組の女衆と一緒に働かなくてはならない。それで当然のようにエプロンが必要なのだった。
母親に言われるまま、普段着に突っ掛け履きで通い慣れた道を歩いた。アスファルトのうえには、もう|陽炎《かげろう》が立っていた。二日前にも同じようにして歩いた。いま、数珠を下げていることだけが、二日前と違っている。
恵の家の玄関は開いたままになっていた。何人もの人が出入りしていた。かおりと同じく普段着のまま、使い古した手提げをさげた母親は、玄関の|三和土《たたき》で恵の母親に頭を下げた。
コノタビハ、キュウノコトデ。マコトニゴシュウショウサマデス。
かおりはボンヤリと、その不思議な呪文を聞き、母親に促されて、いつものように頭を下げた。清水寛子は、恵に会ってやってください、と言った。もちろん、かおりだってそのつもりだ。いつもの習慣で二階へ向かおうとすると、母親に呼び止められた。寛子と母親が向かったのは一階の座敷で、どうしてだか、恵はそこに横たわってていた。すぐ近くに仏壇があって、縁起が悪いな、とかおりは感じた。
(あたし、変だ……)
かおりは恵が横たわった布団の側に膝をついた。
(恵も変……)
どうしてこの暑いのに、しっかり布団を着ているんだろう。第一、ここは恵の部屋じゃない。部屋に戻ればベッドがあるのに。しかもこの恵は、まるで恵の抜け殻のようだ。
(恵はどこに行ったんだろう)
かおりはそう思いながら、母親と寛子が何やら泣きながら話をする間、恵の抜け殻を見つめた。手の中に握った数珠の感触が奇妙だ。
思っているうちに、母親に促された。あんたは先に帰ってていいから、と言われ、かおりは首を傾げた。自分が何のために、ここに来たのか分からなかった。それでひとり、玄関に向かい、ふと思いついて二階へ向かった。恵の部屋には、誰もいなかった。
部屋はきちんと掃除されている。ベッドも整えられていた。かおりは部屋の中を見まわす。棚の上も、机の上もきちんと整理されていた。教科書、ノート、封を切っていない文房具。かおりはそれらをそっと見渡し、恵がこの部屋でなく座敷にいたことの意味を考えた。
(……恵)
何かか喉元まで出てこようとしている。なのに、どうしてもそれが喉を越さない。呑み下すこともできなくて、苦しい。
かおりはなんとなくデスクマットの下を探った。透明なデスクマットの下に入れたカレンダーの子猫の写真。その下。そこは恵の秘密の場所だ。親には見せたくないメモや手紙の類を、そこにしまっておく。
カレンダーの下に葉書を見つけた。可愛らしいペンギンの絵が入った葉書だった。
[#以下、2字下げした恵の葉書内容部分は丸ゴシック・太字]
[#ここから2字下げ]
残暑お見舞い申し上げます
[#ここで字下げ終わり]
丁寧に書かれた文字には、一文字ずつ細く青い縁取りがしてある。ところどころにツヤが入っていて、氷の中に閉じこめられた文字、という感じだった。下に続く私信も丁寧な文字で書かれていた。何度も書き直したのだろうと想像がつく。
[#ここから2字下げ]
暑くて嫌になっちゃいますね!
おまけに今年はすごく暑い!
学校が始まったらヤレヤレって感じ……
とにかく夏バテしないでね
[#ここで字下げ終わり]
表を向けて、かおりは微笑んだ。同時に涙が溢れてきた。
[#ここから2字下げ]
結城 夏野 様
[#ここで字下げ終わり]
(恵ったら……)
[#ここから2字下げ]
(ホントは暑中見舞いのつもりだったのに
何度も書き直してるうち
残暑見舞いの季節になってしまった
あたしってバカ?)
[#ここで字下げ終わり]
「恵ったら……本当に、ばかだなぁ……」
かおりは葉書をもう一度裏返す。丁寧に書かれた文字と、色とりどりのマーカーで描いた小さなイラスト。
「こんな頑張って書いて……出せなかったら意味、ないのに……」
何度も何度も書き直して。一番綺麗に見えるように。涙が零れて葉書のうえに落ちた。かおりは慌ててそれをTシャツの裾で拭う。ほんの少し、マーカーが滲んだ。
「――恵」
夏休みになってから、ずっと葉書のことを考えていたのに違いない。あちこちの文具店をハシゴして、いちばん気に入った葉書を探して、それをいくつも無駄にして。何を書こうか、悩んでいるうちに日は過ぎていく。やっと書いても投函する勇気が出ないうちに残暑見舞いの季節になって、また書き直して。――結局、投函できないまま。
「言ってくれたら、ポストに入れたのに」
迷っているうちに、具合を悪くして投函できなかったのだろう。そして、とうとう――。
かおりはその葉書をそっと隠し場所に戻した。デスクマットを押さえ、そして泣き崩れた。ようやく、喉の奥から熱く硬い塊が出てきた。
「こんなの、ないよぉ」
広沢が結城とクレオールのドアを開けると、カウンターの向こうから長谷川が咳き込んだように呼んで手招きをした。昼下がり、盆のことである。店内には客の姿がない。カウンターに田代だけが坐っていた。
「こんにちは、閑古鳥ですね」
広沢の言葉が耳に入った様子もなく、長谷川は身を乗り出す。
「広沢さん、亡くなったんですよ、清水さんのとこ」
え、と虚を突かれて広沢は瞬いた。
「亡くなったって、誰が」
「恵ちゃん。夜中に。あれ以来、ずっと寝込んでたらしいんですけどね。それが容態が急変して朝にはもう」
「そんな」
広沢は呟いた。「あれ以来」とは、恵の捜索劇のことを言っているのだろう。実際、見つかった恵は様子がおかしかった。
「いったい、なんで」
「それが、若先生にも良く分からないらしいんだよ。ただ、すごく急だったから、白血病とか、そういう関係の病気じゃないかって話だったな。――いや、さっき病因の若奥さんが来ててね、そう言ってたんだよ。お盆で戻っててさ。若先生がそう言ってたって」
そうか、と呟いて広沢はカウンターに座った。
「そりゃあ、清水さんも気落ちしてるだろうな。……参ったな」
長谷川は、まったくですよ、と頭を振ってサイフォンに火を入れた。
「そういえば、結城さんとこの息子さんは、恵ちゃんと同じ高校でしょう」
ええ、と結城は頷いた。
「どうやら同じクラスみたいですね」
高校一年生。夏野はまだ十六になっていないが、恵はどうだったのだろう。いずれにしても、余りに若い。
「なんともなあ」長谷川はまた首を振った。「嫌なことが続く」
本当に、と広沢と田代が同意した。
「今年はどうしたことだろうな。雨も少ないし、いやに暑い日が続くし」
広沢が頷いて結城を見た。
「結城さん、お弔いはどうします」
「ああ――そうですね。清水さんとは会って間がないとはいえ、面識がないわけじゃないし」
「無理をなさることもないと思いますけどね。わたしは、清水さんの縁もあるし、中学校の時は恵ちゃんの担任もしてたんで、行きますけど」
「いや、わたしも行きます。息子のクラスメイトでもありますしね。この間のいきさつもありますから。――しかし、慰める言葉がないですね」
なに、と長谷川はコーヒーを点てながら言う。
「こういう時はね、自分のことを気にかけてくれる人間がいる、ってだけで嬉しいもんですよ」
タケムラの前には、昼下がりの気怠い空気の中、例によって老人たちがたむろしていた。
「死んだって? 誰が」
笈太郎と武子が訊くと、大塚弥栄子が、答える。
「清水の娘よ。徳郎さんとこの恵ちゃん」
ああ、と広沢武子が頷いた。
「ちゃらちゃらした、あの?」
「そうよ」と弥栄子は声を低めた。「あの子が盆前に行方不明になったじゃない」
笈太郎が何度も首を振る。
「そうそう。十一日だ。夜に西山に光がうんと見えたんでな、何事だろうと思って次の日に訊いたら山狩りをしたって言ってた」
「そう」と、大川酒店の|浪江《なみえ》が声を上げる。「夜になっても帰ってこなかったのよ。それで大騒ぎになってさ。うちの富雄も消防団だからさ、駆り出されて山狩りをしたのよ。そしたら西山で気を失ってるのが見つかったのよね」
弥栄子は大仰に頷く。
「以来、具合が悪かったらしいのよ。それがゆうべ、親が寝てる間に死んだんだって」
「あらまあ」
タツは聞くともなく聞きながら、またか、という気がしていた。
夜に死んだ少女。この間の山狩りだって夜のことで、タツが知ったのは全部が終わってからだった。迎え火の日には転居者が村のあちこちに現れて挨拶をしたというが、それだってタツは見ていない。
(夜にばっかり何事か起こるね)
タツの目の届かない時間帯にだけ。
「だから言ったじゃない」
床几の奥から伊藤郁美が含み笑う。
「今年の夏はろくなことにならないわよ、って。やっぱり死人が出たわ。言わんこっちゃない」
「死んだ、って誰が?」
矢野加奈美は驚いて手を止め、店に駆け込んできた母親の顔を見返した。
「だから、徳郎さんとこのお孫さん。清水さんとこ」
「清水……」加奈美は首を傾げ、声を上げた。「まさか、寛子さんのとこの恵ちゃん?」
思わず大声を出してから、加奈美は慌てて隣で洗い物をしている元子を見た。元子の顔色が変わるのが、はっきりと分かった。
「そうそう、恵ちゃん」
頷いてみせる妙に、加奈美は「なんでまた」と訊いた。お願いですから交通事故で肺ありませんように、と傍らの元子の気配を意識しながら祈った。
「さあ。盆前に姿が見えなくて山狩りしたらしいから、怪我じゃないかしら。ああ……違う、そういえば具合が悪かったって聞いたような気もするわ」
「どっちなの?」
「具合が悪かったのよ、そう。弥栄子さんが、寝込んでたって言ってたわ」
「そう……可哀想に」
言いながら、加奈美はわずかにほっとした。元子も同じように小さく息を吐くのを聞いた。
「あんた、どうする?」
妙に聞かれて、加奈美は頷いた。
「お悔やみに行くわ。困ったわ、寛子さんに何て言って慰めようかしら」
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから4字下げ]
日没が近づくと、またぞろ悪霊たちは|喧《かまびす》しい。荒野を|彷徨《さまよ》い歩き続ける彼の側に寄ってきては罵り、|礫《いしくれ》を投げた。
ここ流離の地においても、やはり彼は罪人であり、破戒者だった。
――追放者。
亡霊たちは嘲笑しながら石を投げる。
たしかに、彼は故郷の丘を追放された。だが、こうして荒野を|漂泊《さすら》う悪霊たちもまた、彼と同じく呪われた存在であり、神の作った秩序の中から追い払われた者どものはずだ。
お前たちもまた、追放者ではないか。
彼の怒声に、悪霊たちは嗤う。
我らは追放者にあらず。
我らは殺人者にあらず。
此の地に至れるは、罪ならず、裁きならず。
ただ心の内の未練が、妄執が、憎悪が、悔恨が、好みを|荒穢《こうわい》に繋ぎ留めしも。
彼は黙した。
彼は故郷を失い、神の加護を失い、そして弟を失った。三重の喪失は、間違いなく彼自身が犯した罪に対する報いだった。
――呪われてあれ。
悪霊たちの呪詛を受けるまでもなく、彼はすでに呪われていた。夜が来れば、その呪いは弟の姿に形を取って彼を訪う。ただ傍らにあるだけ、彼は責めることもせず、ましてや危害を加えることもない異形の者は、懲罰ではなく報いでもなく、呪いとしか呼びようのない存在だった。
弟が荒野に彼を訪うのは、弟自身の意志によるものだろうか、それとも神の意志によるものだろうか。もしも弟自身の意志によるものなら、その真意はどこにあるのか。報復、断崖、怨詛、彼の推測するあらゆる行為を、この屍鬼は行わなかった。空洞の目でただ彼を見守り、無言で彼に付き従う。はたして屍鬼の意図を問うことに意味があるのか、彼にはそもそも分からなかったが、もしも意図があるのだとすればそれが何なのか、彼にはおよそ想像ができなかった。
[#ここで字下げ終わり]
静信は鉛筆を投げ出した。
原稿用紙の升目は着々と埋められていきはしたが、少しも書くべきことを書いたという気がしなかった。無意味な積み木を積み重ねている、という感触。個々の升目は「空」という文字で埋め尽くされているようだった。
いや、と静信は思う。埋められているのは「嘘」という文字かもしれない。
[#ここから4字下げ]
それは慈愛であって呪いではない。
[#ここで字下げ終わり]
――だが、いかに「彼」の弟が慈愛の権化であったとしても、果たして己を屠った犯人を憎まずにいられるだろうか。
彼は衝動によって弟を殺した。弟にとって、兄の凶行は予測不可能だったはずだ。裏切りは唐突に、理不尽に訪れた。それでもなお弟が彼を哀れむとすれば、この弟は慈愛という名の狂信に冒されていたのに違いない。
(いや、そうじゃない)
もちろん、彼の弟は特定の意味を付与された一つの表象でしかないのだ。もとより静信には、現実における人間を仮構の物語の中で再現しようという意志などない。現実と引き比べてみることに意味があるはずがなかった。
それを承知しているにもかかわらず、現実から乖離した姿に違和感を覚えるのは、清水恵のあまりにも早い死が静信を動揺させているからに他ならなかった。
――もちろん、人は死ぬ。それは避けられない。生まれたばかりの乳児が死ぬこともあれば、少女が死ぬこともある。そもそも人の生などというものは、持続するはずだという希望的観測のもとに成り立った幻想でしかない。生死は表裏一体のものだ。生きている、ということは、死ぬかもしれない、ということとまぎれもなく同義だ。
にもかかわらず、恵の死は痛ましく思われた。彼女には年齢に応じただけの「人生」という名の取り分があったのに、それを不当に何者かによって剥奪されたのだ、という印象から逃れることができなかった。彼女が持っていたはずの可能性、彼女が思い描いていた未来と、実際に訪れたであろう悲喜こもごも。それは彼女の権利であり、それを奪い去った死は不当だという気分から抜け出せない。
死は不当な現象だ。――ならば、「彼」が弟に突きつけた死もまた、不当なものだったはずだ。ましてやそれは殺害という行為であり、厳然たる死以上に理不尽で無慈悲な暴力そのものだった。恵は死へと傾斜していく瞬間、それを自覚しただろうか。弟はそれを自覚しただろうか。自覚したとしたら、何を思ったのだろう。
唐突に、自分はそれを知っているはずだ、という気がした。
おそるおそる振り返ってみたが、赤い渦が見えただけだった。風呂を閉めに寮監がやってくるまで、静信は水を見ていた。白いタイルの表面を流れる透明な水と、そこに漂う赤い|靄《もや》。幾許かの粘度を持った赤い液体が、透明な粘度を持たない水に乗って細い紐状に流れていた。それが解れるようにして、端々からさらに微細な糸となって溶け入っていく様子をぼんやりと見ていた。そのとき静信が何も考えないで入られたのは、自らそれを選んだからなのかもしれなかったし、あるいは、そんなことでは死なないだろうということを了解していたからなのかもしれなかった。――そう、少なくともあれは不当ではなかった。とりあえず、自分自身にとっては。
もちろん、静信の周囲の人間にとっては、それは回避されたとはいえ不当な現象だったのだった。タクシーに乗せられ、一夜を過ごした病院から寮に戻ってみると、ちょうど父母が到着したところだった。そのまま家に連れ戻され、光男や鶴見や――あるいは安森徳次郎のような、寺と縁の深い人々に対面した。誰もがなぜ、と聞いた。彼らは何より、あまりにも不当で理不尽なことが、自分たちに突きつけられたことに衝撃を受けているように見えた。
[#ここから4字下げ]
なぜ、と賢者は訊いた。
[#ここで字下げ終わり]
静信は答えられなかった。それは答えを持たなかったからなのだが、彼らは彼らなりに静信の
[#ここから4字下げ]
心情を|斟酌《しんしゃく》し、それを消化し、黙って胸の中に折りたたんだ。隣人たちはもはや何故とは訊かなかった。代わりに不当にも自分たちから愛すべき同胞を奪った殺戮者に対して、哀れみと悲嘆を込めた視線を
[#ここで字下げ終わり]
静信は我に返り、自嘲めいて息を吐いた。窓からは夜気と虫の音が流れ込んできている。静信は原稿用紙を重ねて折りたたみ、屑籠の中に放り込んでから寺務所を出た。
境内から見下ろす村は暗かった。さすがにもう盆踊りの明かりが残る時刻でもない。束の間、戻ってきた死者も、そしてそれを迎えた生者も眠りについている。――いや、眠れない家が少なくとも一軒、あるはずだった。まばらに見える明かりの中には、その不幸な家の窓の明かりが含まれており、その窓の中では少女の遺体を取り囲んで、娘と過ごす最後の夜が持たれているはずだった。彼女のために灯明と線香を絶やすまいとする家族たちの最後の庇護。
清水や寛子、あるいは祖父である徳郎の悲嘆を思うと気分が沈んだ。自分が置いていくはずだった者に、置いていかれてしまう理不尽。鬱々とそれを思いながら墓地に入った。
墓地は静信にとって、異常な場所ではない。それは死者の眠る場所だが、不思議に客人が眠るべき座敷と同じように感じられる。今は誰もいない。――いつも、誰もいない。そういう種類の場所だった。
懐中電灯を点け、墓地の参道を通り抜けて寺の北西の林に出る。削げたような急斜面が丸安製材の材木置き場へと向かって落ち込んでいたが、すでに付が落ちた状態では、ただ暗い穴に向かって滑落する斜面のようにしか見えなかった。斜面の縁には踏み分け道のようにして|杣道《そまみち》が続いている。材木置き場を見下ろしながら迂回して西山へと向かう道だ。
足許を照らしながら歩いた。「彼」の弟の死について考えながら、それでいて常に思考は恵の死に横滑りした。恵が失ったものについて、考えないでいることができなかった。割り切ることができないのは、死因がはっきりしないせいかもしれなかった。恵は失踪の翌日、敏夫の診察を受けた。敏夫は単なる貧血だと診断したが、その三日後に恵は死んだ。それを語った清水寛子は言外に敏夫を責めるふうで、通夜に弔問に来た敏夫に対しても意図的な冷淡さが漂っていた。
もちろん、人は過つ。敏夫が全能でないこと、過ちを犯すことは分かっている。重大な医療過誤こそなくても、些細なミスを数え上げればキリがないだろう。それを分かっていても胸のどこかに何かがわだかまる気がした。敏夫に対して思うところがあるわけではない。静信は少なくとも、敏夫が可能な限り自分の責務に対して誠実であろうとしていることを良く知っていたし、その点に関しては信頼している。――ただ、誰かが何かを過たなければ恵は死を回避できたのではないか、恵の死は修正可能だったのではないか、それほど恵の死は理不尽なもので、起こるべきではないことだったのではないか、という疑念から逃れられないのだった。
しばらく歩くと、ふいに前方の空が明るくなった。樅が切れて、星空が覗いたのだ。時間の感覚は喪失していたが、寺から十五分ほど歩いたことになる。樅の林の中に、唐突に建物が現れた。荒れ果てた廃屋だった。
この辺りの山は寺の一部だ。一帯に植えられた樅はかつての墓標で、切り出されることはない。手入れされることもないので周囲の純林とは趣を異にしている。静信が歩いてきた小道はずっと先で西山の林道と交わるはずだが、この道を辿るものは、今では静信ぐらいしかいないだろう。寺の一部であるこの辺りは、村人にとっては入らずの山だ。昔、それに目を付けた者がいた。兼正の一族であった彼は、寺から個々を賃借し、そこに離れと称して建物を建てた。それがこうして残っている。
夜露の降りた夏草を踏み分け、ポーチまで歩いた。コンクリート製のポーチはひび割れ、亀裂から夏草が伸びている。ポーチにかかる|廂《ひさし》は二本の柱に支えられていたが、一方の柱が傾いているせいで不安定なカーブを描いて歪んでいた。
静信はポーチに近づき、懐中電灯の明かりの先に(やがて前方に、)白いものが浮かび上がって(白く淡く人影が)足を止めた。
「――きみ」
懐中電灯の明かりを向けると、眩しそうに片手を上げて、少女が振り向いた。
「室井さん?」
静信は沙子、と呼びかけようとして、その名前の後に何をつけたらいいのか分からずに言葉を呑み込んだ。
「こんばんは」少女は微笑んだ。「室井さんも散歩?」
「ああ――そうだけど、きみ」
静信の困惑には気づかなかったのか、沙子は建物を見上げた。
「これは廃屋? わたし、どこに出ちゃったのかしら」
静信は少女が立ったポーチまで歩み寄った。
「ここは寺の地所だよ」
「あら、じゃあ、ひょっとしたら、わたしが入ってきちゃいけなかったの?」
「いや。そういうわけじゃないけどね」静信は呟き、なんとなく左手に視線を向けた。無骨な腕時計の文字盤が光った。「こんな時間に山歩きかい?」
「御覧の通りよ。――ねえ、この変な建物はなに?」沙子は、半分開いたまま朽ちようとしているドアの中を示した。「まるで教会のように見えるんだけど、違うみたい」静信はそれには答えなかった。ひどく困惑していた。
「懐中電灯は?」
「持って出なかったの。田舎の夜って暗いのね」
「どいて」静信はポーチに立った少女を促して建物の中に入った。「予備があるから貸してあげよう」
あら、と沙子は入口から中を覗き込んだ。
「ひょっとしたら、室井さんの隠れ家? お邪魔だったかしら、わたし」
「いや」静信は短く言って、入口に近いベンチの上に置いた予備の懐中電灯を取り上げた。スイッチを入れ点灯することを確かめて沙子に差し出す。「――これ」
「ありがとう」
沙子は言いながら、おずおずとしたふうに建物の中に入ってきた。懐中電灯を受け取り、それで建物の内部を照らす。埃にまみれ整然と並んだベンチと、それを取り巻く壁に設けられた細長い窓、正面の祭壇めいたものが浮かび上がっていった。
「教会――じゃないの?」
「教会だよ。個人的な」
静信はベンチに腰を下ろした。ベンチのいくつかは、静信自身が何度も埃を払ったせいで、とりあえず木目が現れている。正面の祭壇の右上には夜空が見えた。一郭の屋根が落ちているのだ。下には夏草の茂った瓦礫が小山を作り、建物の内部にも夜露の匂いと虫の音が満ちていた。
「嘘でしょ? 教会じゃないわ、ここ」
沙子はあちこちを照らしながら、静信の隣に坐った。
「汚れるよ」
「平気。――でも、ステンドグラスがある」
細長い窓には確かにステンドグラスが入っている。しかしながら、そこに描かれているのは、聖書のどんな一場面でもなかった。
「気味の悪い絵」
もともとが粗末な細工であり、しかもあちこちが割れているものの、沙子の照らしたステンドグラスが何を描き出しているのかは分かった。三人の男だ。中の一人は刀を振り上げた侍とおぼしき姿をしていて、その前には合掌し仰向いた農民ふうの男が膝をついている。その脇には首を落とされて倒れた骸が、かろうじて首の断面を見せて納まっている。落とされた首は見当たらない。
静信は腕時計を握るようにして息を吐いた。
「教会なんだ。正式なものじゃないけどね。昔、この村に変わり者がいたんだよ。彼は離れと称して自分のための教会を建てた」
「へえ?」沙子は呟き、別のステンドグラスに光を当てる。「火だるまの人――違うわ、あれ、箕踊りって言うのよね?」
静信は頷いた。
「そう。彼は一時、村を出ていて、そこで頻繁に教会に通っていたけれども、正式に洗礼を受けた信者じゃなかった。彼は神に興味がなかった。たぶん――」
沙子が言葉を引き継いだ。獅子に襲われる犠牲者の絵を照らしながら振り返る。
「殉教者に興味があったのね。でしょ?」
静信は微笑む。
「うん、そうなんだと思う。だからここは教会と言うより、殉教者を祀る祠だと言ったほうがいいんじゃないかな。彼にとっては聖堂だったけど、いわゆる教会とは違うんだ」
「変わった人がいたのねえ」
うん、と頷いて静信は祭壇に光を向けた。祭壇といっても真鍮製の燭台がいくつか置かれただけのものだ。静信が向けた明かりは、半ば崩壊しかけた祭壇奥の壁を照らし、祭壇の左手――内陣に位置するものを照らした。それは燭台と同じく真鍮製のフレームの寝台だった。
「ここに住んでたの?」
「うん、本当に離れだったんだよ」
「ここで信者を集めていたわけじゃなく? ええと、新興宗教みたいなことをやっていたわけじゃないの?」
「違うんだと思うよ。――そう思われて彼はここから引き出されてしまったんだけどね。たぶんそんなつもりはなかったんだと思う。まるで信者を待つみたいにこうしてベンチがあったりするけど、彼はこれを単なる棚だと思っていたみたいだね。ぼくが初めてここを見つけたとき、衣類や生活道具や本なんかが並べてあったから」
「頭のおかしな人だったの?」
「そういうことになるかな。彼は兼正の――きみの家のあるあそこに住んでいたんだ。兼正、というんだけどね。竹村が本当の名字。兼正というのは屋号で」
「竹村の小父さんの先祖だったの?」
「先祖というほど昔の話じゃない。さっきも言った通り、ここは寺の地所なんだ。それを竹村が借りたいと言ってきた。戦前の話だそうだよ。竹村の息子はいっぷう変わった人物で、ここに離れを建てて暮らしたいと言っている、という話だった。もともと奇行の多い人物だったので、きつと家族が離れに押し込めようとしたんだと、ぼくの祖父は思ったらしい」
「ああ」沙子は軽蔑したように顔を顰めた。「体のいい座敷牢ね」
「そうだね。――ところが、そういうことでもなかったんだ。実際に彼が望んだことだったんだね。そしてこれを建てた。村の者は建物を見て驚いた。どこからどう見ても教会だったからだ。もちろん、教会であっていけないという法はないけれども――」
「この村は寺を頂点として存在していた」沙子は微笑む。「なんでしょう?」
静信もまた微笑んだ。
「そう。村人のほとんどが檀家だしね。これはてっきりキリスト教系の新興宗教の一種だろう、ここでそれを始める気だ、と思ったらしいね。だから祖父も、当時の村の人間も血相を変えた。戻れ戻らないの押し問答の末、兼正が引きずるようにして連れ帰った。それでも彼は三年くらい、ここで生活していたらしいんだけどね。そうしてここは、そのまま廃墟になった。それがもう戦中の話だ」
「へえ……」
興味深げに周囲に光を向ける沙子を、静信は見守った。十三かそこらの少女が出歩く時間ではない。
「きみは、いつもこんな時間に出歩くのかい?」
沙子は振り返った。細い肩を軽くすくめると、長い髪が肩から胸へと零れ落ちる。
「いつもというわけじゃないわ。少なくとも前の家にいる時は、外に出してもらえなかったもの。夜に女の子が出歩くものじゃないのよ、そうでしょ?」
「でも、――こんな言い方をすると失礼かしら。こういう田舎だったら、あまり心配をする必要もないと思うの。特に、山の中を散歩するぶんにはね」
「暗いから危険だよ。野犬もいるしね」
「家の中ばかりじゃ窒息しちゃうわ」
静信は辰巳の言を思い出した。
「きみは……まったく昼間には出歩かないのかい?」
「そうね、お天気の日にはまったく。陽射しは駄目なの。紫外線をたくさん浴びると、どっと悪くなっちゃう。だから学校にも行かずに穏和しくしてるのに、このうえ夜にも閉じこめられたら、わたし、ヒスを起こしちゃうわ。ヒスを起こしたわたしのほうが野犬より危険よ」
静信は瞬いた。
「きみは元気そうに見えるよ」
「元気なときはね。――そりゃあ、お医者さまが付きっきりで診てくれているんだもの。家にお医者がいるの。でも、寝てることも多いわ。半々というところかしら」
「そうか……」
昼間に出歩くことのできない少女にとっては、夜は眠る時間ではなく、外の空気を吸える時間帯なのかもしれなかった。沙子が異常に早熟なように見えるのも分かる。きっと家の中で、本当に書物に耽溺するようにして過ごしているのだろう。
沙子はベンチに座ったまま、スカートの裾から出た左右の足を交互にぶらぶらさせている。それがいかにも幼いふうで、にもかかわらず難病と呼ばれる病に冒されているのだと思うと不憫な気がした。それは恵に対して感じる憐憫と同種のものだ。
「けれども、とりあえず半分とはいえ元気そうでよかった。大変だろうけど」
「室井さんが落ち込むことはないわ」
沙子に言われて、静信は苦笑する。
「別にそういうことじゃないよ。――今日、村で若い女の子が死んで」
「……まあ」
「きみより年上だけどね。本当に突然に、呆気なく。そうだね、これはとても無責任な言い方かもしれないけれども、彼女も年の半分、寝込んでいてもいい、生きていたかったろうと思うんだよ」
「室井さん、その人と親しかったの?」
「特に親しかったというわけじゃないけど、檀家だからね」
「変なの」
静信は沙子を見返した。沙子は小首を傾げて静信を見上げる。
「すごく親しかったのなら、室井さんが落ち込むのも分かるけど。それとも室井さんは檀家の人の全部に対してそんなふうなの?」
「いや……どうかな。ただ、彼女はとても若かったから。高校一年だったんだ、まだ」
「ロマンティストなのね。――おセンチというか」沙子は言って立ち上がり、スカートの埃を払った。「まるで、若い人が死ぬことは、特別、酷いことだと思ってるみたい」
静信は軽く口を開けた。
「酷いことだと、思わないのかい?」
沙子は振り返る。勝ち気そうに静信を見た。
「死は誰にとっても酷いことなのよ。――知らなかったの?」
静信は言葉に窮した。
「若くて死のうと歳を取ってから死のうと関係ないわ。善人だろうと悪人だろうと同じよ。死は等価なの。特別に酷い死も、酷くない死もないわ。だからこそ死は恐ろしいの」
死は等価、と静信は呟いた。
「若いとか年老いてるとか、日頃の行いがどうだとか、そういうことはその人が生きている間だけしか意味を持たないのよ。年齢も個人のパーソナリティーも関係がない、来るときは来るんだし、そうやってその人が拠って立つところを全部、無意味なものにしてしまうから、どんな死も酷いことなの。違う?」
静信は頷いた。
「わたし、もう帰らないと。――またここに来ても構わないかしら?」
「それはきみの自由だと思うよ。夜の山道は危険だから、ぼくは勧めないけどね」
「人の半分しか自由でないんだもの、多少の危険ぐらいじゃ諦める気になれないわ。室井さんはここに頻繁に来るの?」
「頻繁というほどでもないけどね」
「そう? じゃあ、今度からは本を持ってくるわ。もしも会えたらサインをしてもらえるかしら」
静信は微笑んだ。
「構わないよ」
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
「ああ、先生」
敏夫が物療室から出て受付の前を通りがかると、カウンターの中から武藤が声をかけてきた。
「清水さんとこのお葬式ですけど、どうしますか」
敏夫はわずかに渋面を作る。
「ああ……何時からだっけ」
十一時ですよ、と答えた武藤もまた敏夫同様、クレオールで何度も顔を合わせているから清水とは知らない仲ではない。
「武藤さんも行くのかい」
「そうさせてもらうつもりですけどね。まんざら知らない仲でもないんで。お通夜は失礼しましたけど、お葬式ぐらいはねえ」
そうだな、と敏夫はひとりごちる。敏夫もいくつもりではいる。ただ、通夜の時のことを思うと、いかにも気が重かった。徳郎の責めるような目、寛子の言外に避難を含ませた物言い、そして清水武雄の自制の透けて見える態度。清水家の人々が敏夫を責めたいのは分かる。無理もないだろうとは思うが、なまじ知らない仲ではないだけに、いたたまれなかった。
敏夫は一つ息を吐いて、じゃあ、もう少ししたら出るか、と武藤に声をかける。武藤が頷いたとき電話が鳴った。事務の十和田が受話器を取り、応対をしてから敏夫を診る。「丸安製材です」と、十和田は受話器を押さえた。「安森の|義一《ぎいち》さんの様子がおかしいって」
「おかしい?」
敏夫は受付に入って受話器を受け取る。丸安の|厚子《あつこ》の声がした。
「義一さんですか? どうしました?」
丸安製材の安森義一は、重症のパーキンソン病で長く寝たきりが続いている。高齢でもあり、いつ何が起こってもおかしくない状態だった。
「意識がはっきりしないようなんです。呼んでも返事をしませんし、呼吸も浅くて速いです。顔色も少しずつ赤黒くなっているように思うんですけど」
厚子は長年の看護のせいか、もの慣れた口調で状況を説明した。ここ二日ほど微熱があったこと、今朝からひどく血圧が下がっていること、胸に耳を当てるとラ音がすること、数日前に|誤嚥《ごえん》を起こして処置したこと。
「すぐに行きます」
酸素マスクを付けさせるよう指示して敏夫は受話器を置いた。敏夫を見守っていた武藤に軽く苦笑してみせる。正直に言って、少し救われた気分がした。
「悪い。義一さんの容態がおかしい。済まないが、おれのぶんも香典を持っていってくれるかい」
「ええ、それはもちろん」
「清水さんによろしく伝えておいてくれ」
敏夫が鞄を抱えて道路を渡り、斜め向かいにある丸安製材の自宅に駆け込むと、厚子と嫁の淳子が待っていた。
「容態はどうです」
「指示通りに酸素を入れてますけど、変わりません」
厚子はいう。義一の患いは長い。丸安の家族はよく勉強もし、こまめに面倒を見て、自宅介護のために理想的な環境を作り上げていたが、義一の状態はじりじりと悪化していた。
「ラ音がする?」
「湿ったラ音がしてます。失禁もしてるみたいで、前に肺炎を起こしたときとよく似てるんですけど」
敏夫は廊下を奥座敷に向かいながら頷く。そもそも義一にはパーキンソン病から来る嚥下障害があった。誤嚥を起こしやすく、家族もそれを理解していて誤嚥の処置も心得ていたが、数日前に誤嚥があったのなら、嚥下性肺炎の疑いがある。
病室になっている奥座敷に入り、義一の姿を見て敏夫は頷いた。チアノーゼの傾向が出ている。酸素吸入に効果がない。肺炎から来る九世呼吸不全だろう。
敏夫は義一をざっと診察し、厚子に救急車を呼ぶように指示した。嫁の淳子が病室の電話に駆け寄る。敏夫は厚子を廊下に手招いた。
「厚子さんの言う通り、肺炎だろうな。病因に運んでレントゲンを撮ればはっきりするが、それよりも早く人工呼吸の処置をしてもらったほうがいい。ひょっとしたら気管切開が必要になるかもしれないよ」
厚子は硬い表情で頷く。何かを問いかけるような表情を汲んで、敏夫は頷いた。
「このところ、病状も下り坂だったし、体力も落ちてる。今回はちょっと覚悟をしておいたほうがいいかもしれないな」
はい、と厚子は頷いた。
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
「かおり、お数珠はあるね?」
「……うん」
かおりは頷きながら、恵のお葬式、と何度も頭の中で考えた。信じられない。お葬式というのは、必ず年寄りのものじゃなかったのだろうか。かおりには関係のないことだ。母親と父親だけが行って、かりは留守番、それが葬式というものだ。なのに、かおりが行かないといけない。母親は一通り世話を焼いて、家を出て行った。弔いの手伝いがあるのだ。
かおりはそれを見送って、弟の昭と一緒にテレビを見た。昭に付き合って居間に坐ってはいたけれど、少しも番組の内容は頭に入ってこなかった。普通の番組をやっている、とひどく奇妙な気がした。なんだかとても、そぐわない気がする。絵も音も、所在なく意識の表面を滑って捕らえどころがなかった。
「なあ、かおり」
昭の声に、うん、とかおりは生返事をした。
「なんか、変だよな」
「何が」
「山入で三人もいっぺんに死んだんじゃないか。それ、ついこの間のことだろ。そんでもって、今度は恵。――恵、こないだまで元気だったじゃないか。それが、こんな急に」
「そうね」
「事故でもないのにさあ、いっぺんに死ぬかなあ、三人も。恵だってそうだろ。事故だとか、ずっと入院してたとかなら分かるけど」
かおりは昭のまじめくさった横顔に視線を向けた。
「……でも、実際に起こったことじゃない」
「そうなんだけど」と、昭はテレビの画面を見やったまま言う。「なんか、変だよ」
かおりは返事をしなかった。そういうこともあるんじゃないの、と受け流すことができなかった。かおりにはずっと、これはあってはいけないことだ、という気がしている。こんなふうに簡単に誰かがいなくなってしまうなんて。ましてや、それにもかかわらず、いつも通りのプログラムが放送されて、こんなふうに自分と弟が茶の間に坐り込んでいて、どこかの誰かと同じようにお通夜があってお葬式があって――まるで何もなかったように、特別なことでも重大なことでもないかのように扱われるなんて、絶対に間違っている。
けれども、かおりにはそれをうまく表現できなかったので、黙って頷くにとどめた。
何かが、おかしい。
思いながら、番組が終わったので立ち上がった。
「……行ってくるから」
かおりは制服のしわを伸ばして、小さなポーチを持って家を出る。きっと自分は、九月に制服を着ると嫌な気分がすると思う。
外に出ると、今日も上天気だった。ぽかんと青い空と、白い光。アスファルトは照り返しで眩しい。それで目を細めて、とぼとぼと歩いた。毎朝、通い慣れた道。恵を誘うために何度も何度も歩いた道のり。なのに、当の家に着くと、知らない家のように見慣れない。花輪と白黒の幕。門柱脇のテント、道に集まった、たくさんの人。その人々もみんな白と黒だ。
なので、少し前にいるグレイがかったズボンはひどく目立った。白と黒の中に立った、白いシャツとグレイのズボンの制服の、ひょろりとした姿。すぐ隣に白と薄青の制服を着た女の子がいたので、いっそう目立った。
(お葬式に来てくれたんだ……)
ほんの少し、嬉しかった。糊の効いた真っ白なシャツと、折り目のすっきりと通ったズボン。同じような制服を着ていても、彼の場合、何となく違う。都会の男の子はみんなあんなふうなのかしら、と思う。彼のすぐ側に、白と黒の制服を着た男の子が立っていた。彼とその男の子と、似たような髪型なのに、どことなく違って見える。かおりには、どこがどう違うのか、分からない。
(よかったね、恵)
心の中で呟いて、近所の主婦に入るよう促されるまで、かおりはその姿を見つめていた。
かおりが残暑見舞いのことを思い出したのは、焼香が済んでからのことだった。読経は続いているが、座敷に詰めかけた弔問客は大半が焼香を済ませると外へと出て行く。かおりは座敷を出る人の波をかいくぐって玄関に向かった。玄関を入ってすぐの階段は、白と黒の幕でふさがれている。その前には机があって会葬御礼が積み上げてあり、とても上に行けるような状態ではない。
(どうしよう)
慌てて玄関を出ると、家の前は出棺を待つ人たちが淀みを作っている。そのはずれに見つけた夏野は、隣の少女と話をしていた。朝に時折、見かける顔だ。夏野と話をしているのも何度か見たことがある。確か、彼の近所の少女じゃなかっただろうか。武藤|葵《あおい》、と言ったと思う。恵が安心したように夏野の二級上だ、と言っていたのを覚えている。
(どうしよう……)
もう一度、かおりは玄関のほうを振り返った。白と黒の幕、そこに列を作る白と黒の人。日を改めて届けようにも、かおりは夏野の家を、おぼろにしか知らない。
かおりは軽く息を吸って、人波をかき分け、夏野のほうに向かった。
「あの……結城さん、ですよね」
おずおずと声をかけると、夏野は軽く眉を顰めた。だけど、と答えた声は素っ気なかった。
「あたし、田中かおりって言います。恵の幼なじみなんです」
「ふうん」
声が上擦るのを、かおりは自分で意識していた。
「あの、済みません。どうしても渡したいものがあるんです。明日、どこかに来てもらえませんか」
側の青年が夏野をつついた。
「夏野、もてるじゃないか」
「なんだよ」青年を睨んで、彼はかおりを見る。「渡したいものって何」
「あの、……それは。あたしじゃないんです、恵が……恵から」
「なんだよ、それ」夏野は険のある表情を作った。「単に親同士が知り合いだから連れてこられただけで、おれ、べつに清水と親しかったってわけじゃねえし。何かもらう謂われ、ないから」
「でも……」
かおりが言いさすのを無視するように、夏野は傍らの青年を振り返った。
「行こうぜ、徹ちゃん。ここ、暑いよ」
「でも――出棺が」
青年は夏野とかおりを見比べるようにしたが、夏野のほうはお構いなしだった。
「別にいいんだろ、無理に見送らなくても。埋葬に立ち会うほどの義理もねえし、日陰もないのにいられねえよ、こんなとこ」
投げ遣りに言って、夏野は青年をつつく。かおりのことなど忘れたように笑った。
「氷、奢ってくれるんだろ?」
「夏野、いいのか?」
背後を振り返りながら保が訊くと、夏野は保を睨む。保は両手を挙げた。
「分かった。結城小出。――あれ、誰」
「知るかよ」
「いいのか、あんなすげなくして。渡したいって、それ遺品の話じゃねえの」
「貰う謂われ、ねえもん」
「お前になくても、向こうにはあるんだろ。だからわざわざ呼び止めたんだろうに」
「おれ、清水、嫌いなんだよ」
葵が呆れたように夏野を見た。
「ナツって、最低」
「ほっとけ。すっげえ絡んで、鬱陶しかったんだよ」
「死んだ子にそこまで言う?」
「そんなこと言ったって、おれ、本当に付き合い、ないんだってば」夏野はふてくされたように葵を見た。「別に葬式だって、来る謂われもねえのに、親父が行け行けって煩いし、お前らも一緒に行こうってやかましく言うから、ついてきただけじゃないか。その程度の付き合いなんだよ、最初から」
「でも、遺品を渡したいって、いわば形見分けでしょ。ありがたく貰っとくのが礼儀ってもんよ」
「お断り。良く知りもしないのに、遺品なんか貰ったって、気味が悪いだけだろ」
保が大仰に肩をすくめた。
「お前って本当に好き勝手に生きてるな」
「んじゃ、保っちゃんなら、受け取るのか」
「受け取るぐらいは受け取るぜ。後で捨てるかもしんないけど」
「どっちが最低なんだか」
徹は溜息をついた。
「お前らって、本当に餓鬼だな」
なんだよ、と凄む二人に、徹は苦笑する。
「まあ、いいから。氷食いに行こう。たしかに暑くてたまんねえ」
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
かおりは唇を噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]みながら、山道を登った。
目を上げると、行列の先のほう、白い布をかけられた棺が粛々と山道を登っていく。樅の梢が落とす陰鬱なほど蒼い影、真夏の熱波からは遮られているかわりに、荒く下生えが刈り払われた間に合わせの山道には、土と草の匂いが濃厚に立ち込めていた。
――恵が樅の中に吸い込まれていく。
(恵……)
かおりは数珠を握りしめた。あまりに早い死。思い残すこともあっただろう、どんなに無念だっただろうかと思う。それを思うと、冷淡に背を向けて去っていった夏野が恨めしい。思いを込めたものだから、渡してやりたかった。きっとどんなにか投函したかっただろう。なのに。
(……酷い)
恵は死んだのに。もう、いないのに。とてもとても可哀想なのに、夏野は少しも恵を哀れだと思っていない。――夏野ばかりではない。
かおりは周囲を登っていく大人たちの小声に耳を向けた。突然の死、あまりに若い、清水さんも可哀想に、そもそも何だってこんな急に、あんなに元気そうだったのに。
それから横滑りしていく会話。どこそこの誰かも子供を亡くして、自分の知っている誰かの家では。恵とは無関係な誰かの噂話、そして山入の話。死とは関係のない単なるゴシップ。そこから唐突に、恵の上に話題は引き戻される。そもそも盆前に行方知れずになって、あの時、何があったのか。そこからもう、聞くに堪えない囁き。何かあったに違いない。もともと浮ついたところのある娘だった、いつかはこんなことが。
(酷いよね……恵)
誰も恵の死を悼んでいない。恵は死んでしまったのに、こんな扱いを受けるなんて。
行列の先頭が止まった。俯いて唇を噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]んでいたので、かおりはそれに気づかず、もう少しで前を行く女の背中にぶつかるところだった。
樅の間に、細長く草の刈り取られている場所があって、そこには土の表面に黒々とした穴が口を開いていた。
かおりは、ぞくりとした。恵を吸い込む穴だ。恵はあそこに入れられて、埋められて、この世からかき消されてしまう。樅の林の中には無数の墓穴があって、これまで死者を呑み込んできたのだし、これからも呑み込んでいくのだろう。そしてやがて、かおり自身の番が巡ってくる。
(……やがて?)
恵だって、「やがて」と思っていたに違いない。けれども、もう恵の番だったのだ。誰もそれを知らなかった。だとしたら、かおりの番だっていつ来るか分からない。どうして明日でないと断言できるだろう?
いつか――ひょっとしたら明日かもしれない、明後日かもしれない、確実に来るいつか、かおりもあの穴の中に吸い込まれて、この世からいなくなってしまう。
(怖いよ……)
それは想像するだに恐ろしく、そして、恵もそれを通って行ってしまったのだと思うと、絶望的な気分になった。それは避けることができない、絶対に。
震えるかおりの目の前で、棺が穴の脇に据えた脚立のような台の上に下ろされた。弔組の世話役が小さな鐘を衝いて、寺の若御院が読経を始めた。
刻一刻と、恵とこの世界が切断される瞬間が迫っていた。
(可哀想な恵。……まだ十五だったのに)
そう、まだ十五。八月生まれの恵は、六月生まれのかおりと束の間、同い年になる。そうか、と思った。恵はかおりと同い年だったのだ。恵が死んでしまうものなら、かおりだって死んでしまっておかしくない。
あと少しで十六だった、思ってかおりは、本当にあと少しだったことを思い出した。恵の誕生日は八月の二十六日だ。村にはお洒落な小物などないし、かおりは滅多に溝辺町には出て行かない。この間、たまたま母親に連れられて買い物に出たとき、だから恵へのプレゼントを買っておいたことを思い出した。ちゃんとラッピングしてしまってある。あれを渡すはずだったのに。
かおりは背後を振り返った。清水家の墓所は、末の山の端、あまり深くないところにある。ここからかおりの家までは遠くない。走れば十五分もかからない。
(どうしよう……)
今から駆け戻って、プレゼントを取ってきて、それで埋葬に間に合うだろうか。せっかく恵のために用意したのだから、せめて墓の中に入れてあげたい。どうしてもっと早く思い出さなかったのだろう。そうすれば棺の中に入れてあげられたのに。
かおりは読経の声を時計の針の音のような気分で聞きながら、何度も墓所と背後を見比べた。戻る踏ん切りが付かないうちに読経が終わり、棺が縄にかけられる。あれを使って穴の中に降ろすのだ。
「あの……小母さん」
寛子は泣きはらした目で、かおりを振り返る。
「あたし、恵ちゃんにプレゼント、用意してあったんです。取りに戻ったら行けませんか。お墓の中に入れてあげたいんです」
寛子は目を見開き、困ったように周囲の人々を見た。縄に手をかけていた男衆が、同じく困ったように目を見交わす。
「そう言われてもなあ」
これ、と小声で言ったのは、かおりの母親だった。
「そんなことを急に。迷惑でしょ」
男衆のひとりが、取りなすように言った。
「いや、お嬢ちゃんのその気持ちだけで、仏さんは嬉しいだろう。なにも、本当に入れるかどうかに拘ることはないよ」
そうだ、と頷く人があって、寛子も悲しげに微笑んだ。
「ありがとうね、かおりちゃん。でも、その気持ちだけで充分よ」
「……はい」
かおりは俯いた。誰も、かおりの気持ちなど分かってくれない。恵は死んでしまったのに。かおりは恵を失ってしまったのに。
「あの……」と、静かな声を上げたのは、若御院だった。「取りに行ってもらったら、いかがでしょう」
かおりは顔を上げる。やんわりとした笑みに出会った。
「土を盛るのにも時間がかかるわけですし、仏さんの枕許だけ残して土を盛っていけばどうでしょう。お友達なのじゃないですか? だとしたら、恵ちゃんもそうして欲しいだろうし、お嬢さんもせっかくのプレゼントが手許に残されては、いつまでも心残りで堪らないでしょう」
はあ、と男衆が言う。
「若御院がそうおっしゃるんでしたら……」
「ありがとうございます」
かおりは、頭を下げた。自分の気持ちを分かってもらえたような気がして、本当に嬉しかった。若い僧侶は穏やかに頷く。
「足許に気をつけて」
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
夏野は部屋に戻るなり、制服を脱いで乱暴に放り出した。部屋の中に籠もった熱気に辟易して窓を開ける。一瞬、いつもの習慣でカーテンを引きそうになったが、すぐにそんな必要はないのだと思い出した。
――そう、もうそんなことをしなくていい。
夏野は窓から裏庭のすぐ際にまで迫った樅の林を見やった。裏庭との境には、かろうじて低い石垣が残っている。いかにも古色蒼然として苔むしたその石垣は、高さにして夏野のふくらはぎの辺りまでしかなかったが、それでも一応、境界線としての用をなしていた。石垣の上下には下生えが濃い茂みを作っていた。ちょうど夏野の部屋の窓から見て、正面にある辺り。夏野の背丈の半分ほどの大きな茂みは、母親によると木苺のものらしい。
(清水は死んだんだ)
あの木苺の影。樅の幹に寄り添うようにして、恵が何度も立ちつくしていたことを夏野は知っていた。気候が緩んだ頃からそれは始まり、春休みには頻繁になり、それから徐々に間遠になっていたものの、最近まで続いていた。木陰からじっと窓を見ている。――それが何を意味するのか、もちろん夏野には分かっていた。
恵はいつもそうだった、と夏野は思う。片思いの相手の家を訪ね、こっそりと隠れて窓を窺う。それはひょっとしたら恵の中では、健気でいじらしい行為だったのかもしれない。おそらくはそうやって恋する乙女とやらを演じることで、恵は切ない片思いを満喫していたのだ、と思う。ひょっとしたら期待だってあったのかもしれない。そうやって立ちつくす自分を見つけてくれた相手が、恵の恋心に感じ入って、恵を受け入れてくれるかもしれない、という。
だが、断固として夏野はそういう役回りは御免だった。恵は分かってない。自分ひとりの世界に耽溺して、相手のことなどもはや念頭にない。そうでなければ、そうやって頻繁に家の中を覗き込まれ、ブライヴァシーを侵されることを、夏野が不快に思って当然だという真実に思い至らないはずがない。
勘弁してくれ、と思う。恵は、夏野に好意を期待していたのだろう。今日のあの少女だって、死者を悼み、ありがたく遺品を受け取ることを期待していた。恵の思いに感じ入って、涙の一滴でも落とせばお気に召したのかもしれない。
(……学芸会だ)
恵が夏野に期待していたのは、学園ものの恋愛ドラマの相手役だ。あの少女が夏野に期待していたのは、不幸にして若くして死んだヒロインの片思いの相手、という役回りだったのかもしれない。そうやって誰もが勝手に夏野に役柄を割り振る。都会から純朴な村に越してきた斜に構えた少年、あるいは、都会の荒廃を空洞として胸の中に抱え込み、それに気づかずにいる息子。そうやって勝手に役を振っておきながら、台本通りに動かないと言って夏野を責める。誰一人――本当に、誰一人、それが自分の中だけにある手前勝手なシナリオだということに気づいていない。
「お笑いだ」
夏野は木苺の茂みに向かって吐き捨てる。
夏野は恵が嫌いだった。恵の期待は分かる。そんなものは恵の勝手だ。だが、恵はそれが自分の独りよがりな期待に過ぎないことに無自覚だった。こう言って欲しい、こう動いて欲しい、それを正面から要求することはせず、夏野が期待通りの台詞を吐くよう、期待通りに動くよう、執拗に絡んで水を向けてきた。
――わたしなんて、都会の女の子に比べたら、野暮ったいでしょ?
――結城くんは、わたしのことなんて嫌いなのよね。
――そのうち、二度と顔を見せるな、とか言われそう。
差し出すつもりもないものを、無理矢理にもぎ取るのは搾取だ。夏野は断じて、勝手に振られた役回りを演じる気などなかったが、この村ではそれが当然のこととしてまかり通っているばかりでなく、誰も演じさせられている自分に気づかず、むしろそうやって相手の期待を演じることが美徳だと思われているのだった。
(村ぐるみの猿芝居だ)
恵は勝手に恋愛物語の相手役を夏野に振った。 けれどもそうしていなが、恵自身、恋愛物語のヒロインを演じていただけで、そこには上滑りな夢想しかありはしないのだった。それは切実な希求ではない。単に恋する少女を演じて、自己満足に浸っていたかっただけだ。恵は、一事が万事そうだった。
だが――と夏野は思う。そんな恵も、たったひとつ、都会の話をねだるときだけは本当の顔をしていた。村は嫌いだといい、都会に出たい、と言った。それに関してだけは恵の本音に見えたし、これだけは夏野にも共感可能だった。
恵は常に、都会の大学に行くんだ、と言っていた。実を言えば、夏野はそれを信じていなかった。必ず行く、と騒ぐわりに、恵はそのために準備をしている様子がなかった。どこそこの大学に行きたい、と挙げるのは、やたら名前の通りが良い大学ばかりで、そのくせ恵は自分の成績には無頓着だった。夏野も村を出たい。そのために、大学は是が非でも都会の大学に行くのだと思っている。だから、そのための準備もしている。とにかく都会に戻れさえすれば、大学も学部も問わない、とさえ思う。そういう夏野から見ると、恵の脱出計画にはおよそ実現性があるとは思えなかったし、なんのかんのと言いながら、結局のところ恵は、高校入試の時そうだったように、土壇場になれば親が許してくれないだのと理由を探して変節したのだろう。いつか必ず、と言いながら村に留まり、村に根付いてしまったのに違いない。
恵はそういう人間だったと思っているが、それでも夏野は、外を希求する恵の心情だけは真実だったような気がしている。そして、恵は――死んだ。
恵は本当に外場を抜け出したのだ、自らが死亡することによって。死によってやっと外場を出た、と言うべきなのだろうか、それとも死をもってしか抜け出すことができなかった、と言うべきなのだろうか。
――あるいは、自分もそうなのだろうか。
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
埋葬を終えると、一行は清水家に戻り、精進落としのために座敷に集まった。静信は、単に儀式を執り行ったに過ぎない自分が上座にいることに、いつものように気後れのようなものを感じながら、一座を見守っていた。
恵の祖父である清水徳郎は、もともと村会議員をやっていた気骨のある人物だった。若い頃は血気も盛んだったらしく、逸話には事欠かない。その息子である清水武雄もまた、非常に気骨のある人物だった。熱血漢で激昂しやすい徳郎と、冷静で理論家の清水と、現れ方は違っていても芯に共通するものがある、と静信は長らく思っていた。だが、その二人が打ちのめされた様子で坐っている。徳郎が感情を表す余裕もないほど虚脱しているのも稀なら、清水が人目も|憚《はばか》らず感情を露わにしているのも稀だった。
寛子はそのどちらでもあり、どちらでもなかった。堰を切ったように泣き叫ぶかと思うと、人形のような無表情で坐っている。周囲の慰めの言葉を、放心したような顔で受け止めているかと思うと、自らの悲嘆について語り始め、そうなるともう感情の|箍《たが》が外れたように声を嗄らして泣き出す。ひとしきり泣くと、曇ったガラス玉のような目を上げて、ネジが切れたように虚脱する。
三人は、未だに自分を取り戻していないようだった。おそらくは山の中に自分の一部を置き去りにしてきた気がしていることだろう。静信もまた、かける言葉が出てこない。(お力落としなく……)この様子を見れば、そんな言葉には意味がないことなど分かりきっている。恵はあまりに若い。力を落とすなというほうが無理だろう。
いつもは歳より十は若く見える徳郎が、今日ばかりは歳よりも老け込んで見えたし、それは寛子も同様だった。前屈みに俯いた背の悄然とした丸みが、不思議に後藤田ふきのそれに重なった。
(……覚悟をしたほうがいい)
唐突に言葉が念頭に浮かんだ。――そう、覚悟をしたほうがいい。恵の死を引き受け、一刻も早くそこから立ち直るための覚悟。力を落としていてはいけない。この悲嘆に呑まれないように。
(だが、そんなことを、どうして今この人々に言えるだろう?)
静信は嗚咽を漏らしている清水に目をやる。時折、思い出したように徳郎の背中をさする清水の手は、老いた父親を庇護しているようでもあり、父親に縋って賢明に自分を支えようとしているようでもあった。それが痛ましく、同時にどこか危うげに見えた。
恵を失った衝撃を、賢明に耐え忍び、やり過ごそうとしている人々。今はそれが精一杯、それ以上のことを求めるのは酷だろう。にもかかわらず、静信は全員の背を叩いて力を落としてはいけない、と言いたくて堪らなかった。だが、静信自身にも、どうして自分がこんな焦燥感を感じるのかが分からない。けれども。
(そんなふうにしていては駄目だ)
泣きやまなくては、早く。
[#ここから4字下げ]
――泣く子のところには鬼が来るぞ。
[#ここで字下げ終わり]
[#改段]
[#ここから3字下げ]
九章
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
安森義一の訃報が寺にもたらされたのは、清水恵の葬儀の翌日、盆が明けた日のことだった。静信は連絡を受けながら、やはり駄目だったかと思った。昨夜、敏夫と丸安製材の双方から、危篤だという連絡は受けていた。それ以前に、そもそも義一は長患いで、誰の目にもそう長くはないことが明らかだった。
そのせいもあってか、訃報を知らせてきた丸安製材の|一成《かずなり》の声も、至極、落ち着いていた。この盆には一族の全員が集まって義一と共に過ごした、それができて良かった、と一成は言う。これを受け取った静信も、義一は満足して旅立てただろう、と慰めるだけの余裕を持ち得た。
「一成さんも立派に製材所を切り回しておいでだし、和也くんにも良いお嫁さんが来られた。こういう言い方をしては失礼ですが、義一さんも思い残すことがないでしょう」
「そうですね」と一成が電話の向こうで微笑んだ気配がする。「曾孫の顔を見せてやれなかったのだけが、不足と言えば不足でしょうか。けれども嫁が良くやってくれるので、親父もそれで満足だったようですから」
「そうでしょうね」
「家内も息子夫婦と仲良くやってくれました。親父も最後まで我が儘一つ言わず、頑張ってくれましたし」
本当に、と静信は拘りなく頷くことができた。一進一退――というより一進二退を続ける病人を抱えているのは、静信も同じだ。丸安家の人々の心情は良く分かった。
「本当にお疲れさまでした。一成さんも、義一さんも」
ありがとうございます、と一成はそれでも声を詰まらせた。
「亡くなったんですか、義一さん」
静信が受話器を置くと、光男が言う。
「ええ。ついさっき、国立病院で。門前の世話役の徳次郎さんは縁続きになりますので、たぶん田茂の定市さんが世話役代表になります」
そうですか、と光男は息を吐いた。
「義一さんが亡くなったということになると、角くんとこの親父さんとお兄さんにも手伝ってもらわないといけないですね」
静信は頷いた。安森義一は、弟の徳次郎に譲るまで檀家総代を務めていた。世話方の代表も務めたことがある、寺にとっては重鎮の一人だ。その葬儀ともなれば、静信と役僧だけということはありえない。脇導師として住職、副住職格の僧侶を複数、付けることになるだろう。戒名も、本山に諮って院号を出すことになる。
「こりゃ、大変だ」と、池辺が息を吐いた。「とはいえ、恵ちゃんと違って気楽だな」
鶴見が顔を|顰《しか》める。
「お前はまた、そういう不謹慎なことを」
そうだねえ、と光男は黒板に向かいながら頭を振った。
「こう言っちゃあなんだけど、気が楽だといえば確かに楽だね。秀司さんやら恵ちゃんら、ああいう逆縁の葬式はこっちも気が張るからねえ」
光男の言に、静信はもちろん、誰もが安堵したような息を吐いた。穏やかな死だ、と静信は思う。もちろん死そのものの意味は変わらないのだが、死とはこうあるべきだという気がした。
順当な死。老人は山に還ったのだ。人として生まれ、村で青年として過ごし、仕事を得て家庭を持ち、その営みを終えた。泰然自若とした足取りで山に分け入っていく背中が見えるような気がした。ようやく病床を離れ、苦痛からも家族への気遣いからも解放された。義一にとっては、おそらく幸いなことだっただろう。この先の悲劇を知らずに済む。
静信は心の中で手を合わせ、ふと自分の思考を訝しんだ。「この先の悲劇」とは何だろう。義一にこの先、どんな悲劇が待っていたというのだろう。義一は病を得た。家族の看護も虚しく、徐々に悪化の一途を辿り、最近では枕が上がらなかったと聞いている。本人の苦痛も大きかっただろう、周囲に対する気兼ねもあっただろう、もちろん、自分の生に対する不安も大きかったに違いない。このまま無為に病床に縛り付けられ、増してゆくだけの苦痛に満ちた残る人生を短く終えた、それは考えようによっては幸福だったのかもしれないと、そういう気がしていたのだが、「この先の悲劇を知らずに済む」は、それとは微妙にずれてはいないか。
静信は自己の思考を見つめ、そして自分の中に不安を見つけた。
秀司の死は悲劇だった。恵の死もまた悲劇だった。そして、一連の悲劇は始まったばかりなのだ。
死は村に蔓延し、この先、幾重にも悲劇をもたらすだろう。その――予感。
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
「先生、田島予研さんが来てるんですけど、何かありますか?」
十和田の声に、敏夫は読んでいた書類から顔を上げた。国立病院の知り合いの医師から送られてきた義一の経過報告書だ。やはり義一は肺炎だった。原因菌はグラム陽性球菌、心不全を合併し不整脈で死亡。
「来たか。済まないが、結果の中から恵ちゃんのぶんだけ抜いてきてくれ。
「恵――清水恵ちゃんですか?」
「そう」
敏夫が言うと、十和田は心得たふうに頷いて踵を返した。すぐに小走りの音がして、十和田ではなく武藤が一枚の紙を持って戻ってきた。
「悪いな、武藤さん」
敏夫は検査結果表を受け取り、主な項目に目を走らせる。全血液中の赤血球数、白血球数、血小板数はともに減少傾向にあり、ヘモグロビン量、ヘマトクリット値も減少している。これに対して網赤血球数は増加、血清鉄、総合鉄結合能、血清フェリチン、正常。
敏夫は眉を|顰《ひそ》めた。――これはあまり嬉しくない結果だ。
「いかがです」
声をかけられて、敏夫は武藤が未だにデスクの前にいて、自分の手許を覗き込んでいることにやっと気づいた。放っておいてくれ、と言いたい気がしたが、武藤は清水と親しい。敏夫が貧血だといったにもかかわらず、恵は急死した。程度はともあれ、清水に対してなにがしかの罪悪感を感じてしまうのは、武藤もまた同様なのかもしれなかった。
「ああ――うん」
「やっぱり貧血ですか」
敏夫は息を吐く。
「貧血は出てるな。だが、いわゆる貧血――鉄欠乏性貧血じゃない。おれの誤診だ」
そんな、と武藤は悲愴な顔をした。
「血清鉄、総合鉄結合能血清フェリチン、どれをとっても正常値の範囲内だ。鉄欠乏性貧血なら値が減っていないとおかしい」
「でも、結果はやっと今日、出たわけで」武藤は狼狽したように言う。「そうですよ、そんな、結果も出ないうちから正確な診断なんてつくはずがないです、易者じゃないんですから。検査結果が遅れたのは、盆休みが入ったせいで――」
「あんたがそんな、|狼狽《うろた》えることはないさ」敏夫は苦笑した。「貧血のほとんどは鉄欠乏性貧血だ。特に若い女の子なら、どんな医者でも、まずそれを疑う。確かに清水さんに対して、だから心配はいらないと安請け合いをしたのはおれの落ち度だが」
口の中が苦かったが、言葉に出して認めてしまえば気は楽になった。
「検査を急がせればよかったのかもしれん。そうすれば少なくとも、最悪の事態は回避できたかも。――そう思っていたんだが、どうやらそういうことでもなさそうだな」
「は?」
敏夫はデスクの|抽斗《ひきだし》から電卓を引っ張り出した。
「平均赤血球容積、平均赤血球ヘモグロビン濃度」赤血球数、ヘモグロビン濃度、ヘマトクリット値からざっと計算をしてみる。「網赤血球数も増えてる。やっぱり正球性正色素性貧血だな」
武藤は瞬いた。
「そりゃあ、いったい」
「貧血には大別して三タイプあるんだよ。鉄欠乏性貧血なら、小球性低色素性貧血だ。これに大球性色素性貧血ってのがあって、三つ。正球性色素性貧血ってのは、急性の出血、あるいは溶血、そうでなければ再生不良性貧血や二次性貧血によって起こる。だが、恵ちゃんの場合、特に外傷もなかったし大きな内出血が起こっているような形跡もなかった。総ビリルビン、直接ビリルビン、LDH、ハプトグロビン――いずれも正常値の範囲内だ。となると、溶血の可能性は低い。網赤血球数が増えているから、再生不良性貧血の可能性も少ない。その他の生化学試験も問題なし」
「はあ」と武藤は瞬き、首を傾げた。「……それで、どういうことになるんですか」
「分からないんだ」敏夫は検査結果表を手の中で弄ぶ。「原因はよく分からない。少なくとも確実なのは、あれはおそらく二次性貧血だった、ということだ。急死した以上、身体のどこかに問題があったんだ。それも、一見して分からないようなところに重大な問題が。そのせいで貧血が現れていただけなんだ」
「そのう……たとえば?」
「知るもんか。たとえこの結果が往診した当日に出たとしても、おれに打てる手は再検査だけだ。どこにどういう不具合があるのか、徹底的に洗ってみるしかなかったわけだが、それをやって結果が出るほどの時間の猶予はもうなかった。――そういうことだ」
ああ、と武藤はわずかに安堵したふうを見せた。
「そうだったんですか」
「これがおれじゃなく、まっすぐに大学病院なり、しかるべき設備のある大病院に連れて行ってそれなりの名医に診せたところで、結果は変わらなかっただろう。なにしろ、決着がつくまでに三日しかなかったんだからな。それこそ、易者の所にでも行かないことには。もっとも、易者じゃあ、原因を当てられても治療できんだろうが」
「そりゃあ」武藤は複雑そうだった。「運がなかったんですねえ」
敏夫はさらに苦笑した。
「ひょっとしたら、貧血以外にも症状があったのかもしれないが。あったとしたら昨日今日の話じゃないだろう。しかしながらあのお嬢さんは、ほんのちょっと具合が悪くても大騒ぎする癖があったからな。それで周囲も、またいつものやつが始まったと軽く考えて忘れていたんじゃないのかな。――何を言っても、もう想像でしかないが」
恵はすでに死亡している。遺体は土の中だ。連日のこの暑さだ、腐敗もかなり進行しているだろう。清水がいまさら病理解剖に同意するとも思えないし、埋葬された死者を文字通り掘り返しても意味がない。
「それこそ寿命ってやつだったんですねえ」武藤は感慨深げに呟いて頭を振った。「どうにも短すぎて、やるせない話ですけど」
敏夫は頷いた。
「――まったくだ」
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
残照の中を、矢野妙は急ぐ。上外場に出て、後藤田家を訪ねた。
縁側から家の中を覗き込むと、屋内には線香の匂いがうっすらと立ち込めていた。息子を亡くしたばかりの後藤田ふきは、白々と明かりが点いた茶の間に寝ころんでいる。テレビが点いて、虚しいばかりに上滑りな歓声を流していた。その図式はいかにも寂しい。ふきの孤立を強調しているだけのことのように思えた。
「ふきさん」
縁側から声をかける。二度、三度と声をかけると、ふきがようやく身を起こした。どうやらうたた寝をしていたらしい。
「……妙ちゃん」
妙は、ふきの気を引き立てようと、ことさらに明るい声を出した。
「また夕飯を作り過ぎちゃったのよ。お弁当にしてきたんだけど、一緒にどう?」
ふきは笑ってぺこりと頷いた。その動作がいかにも老女めいていて、妙は胸を衝かれる気がした。ふきは小さくなった。こんなにも歳を取っていたのか、と改めて思うことが近頃、再三ある。
「いつも悪いわねえ」
ふきに、妙は笑った。
「いいのよ、作りすぎただけなんだから」
妙は茶の間に上がり込み、卓袱台の上で風呂敷包みを開いた。ふきがお茶を淹れに立ったが、ふきが向かった台所はきっちりと片づいたまま、夕飯の用意をしていた形跡がない。
「……熱いお茶でもいいかしらね」
「構わないわよ。麦茶でも持ってくればよかったわね」
ふきが茶の間に戻ってくるのを待つ。ふきは疲れてでもいるように、どこか足取りが頼りなかった。
「夕飯の用意をしてなきゃいいと思ったんだけど、大丈夫だったみたいねえ。ちゃんと食べてる?」
ふきは苦笑するように微笑んだ。
「夏負けかしらね。……億劫で」
「駄目よ、そんなことじゃ」
「そうねえ」と、ふきは呟く。弁当の蓋を開け、「美味しそう」とは言ったが、あまり食欲がある様子でもなかった。ぼそぼそと、妙に相伴する程度に箸を使う。
「……ふきちゃんは、子供と同居したりしないの」
妙は訊いた。秀司は死んだが、他にも二人子供が残っている。
「息子は来いって言うんだけど」
ふきは気乗りがしないようだった。
「そのほうがいいんじゃない。良くないわよ、年寄りが一人なんて」
「……踏ん切りがねえ」
「踏ん切りがつく頃には、足腰が立たなくなってるわよ。同居するんなら、身体がしゃんとしてて、少しでも役に立てる間でなきゃ。世話してもらわないといけないようになったら、誰も同居してくれないわよ」
そうね、とこれまた、いかにも気乗りがしないようだった。
「ふきさん、あんた、顔色が悪いんじゃない?」
「そう?」と、ふきは首を傾げた。
「具合でも悪いんじゃないの。なんか、そんなふうよ」
さっきも寝ていたし、食欲もないようだ。妙は幼なじみの顔を覗き込む。
「疲れてるのかしらね。……葬式が二つもあると、やっぱりねえ」
妙は頷いた。年寄りに葬式は堪える。特に身近な人間や同年配のものが死ぬと、しばらくは虚脱したように力が抜けてしまう。単に煩雑な雑用で疲れるというよりも、自分ももういつ死んでもおかしくない歳なのだということを確認して、気落ちしてしまうのだ。
「大丈夫?」
ふきは頷いた。肩をすぼめ、目を丸め、力なくコトリと首を振る。生気が抜けてしまっている――妙にはそんなふうに思えた。
「やっぱり同居したほうがいいんじゃない。張りが戻るわよ」
ふきはしばらく答えなかった。じっと湯飲みを覗き込み、やがて小さく零す。
「……秀司の夢を見てね」
瞬く妙に、ふきは笑った。
「秀司が戻ってくる夢を見たのよ。秀司が迎えに来てくれたのかしらね」
「ふきさん、駄目よ、そんな」
「……夢なんだけど……でも、村は離れたくないよ。遠くに行っちゃうと、そんな夢も見られなくなるような気がしてねえ」
ふきは微笑んだ。妙は俯く。死んだとはいえ、息子を置いて遠方に行ってしまいたくはない、という気持ちは痛いほど分かった。
「だったら、元気を出さなきゃ」
妙の言葉に、そうね、とふきは呟いた。
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
夏休みも、盆を過ぎるとさすがに暇を持て余す。村迫正雄は、ぶらぶらと店を出た。老齢の父親は、たまには店番ぐらいしろ、と今にも言いだしそうな目をしたが、口を開く契機を与えず、店を出ることに成功した。
とはいえ、特に行く宛があるわけではなかった。この暑い中、わざわざバスに乗って遊びに行くのは億劫だ。正雄は特に習い事もしてないし、塾にも通っていない。何かあって村を出れば、それなりに遊び相手も遊び場も見つかるのだが、村の中で間に合わせるとなると武藤ぐらいしか行き場がなかった。村ではそもそも同年配の者が少ないのだ。そのうちの半数は女の子だし、男の半数もクラブだ塾だと飛びまわっている。そいつらはそいつらで別のグループを作っていて、村に閉じこもって無駄話をするしか能のない正雄たちとはあまり接点がない。
仕方なく武藤に足を向けた。別に武藤保や保の家族が嫌なわけではないが、そこに行くと嫌な奴に会うことになるので気が重い。かといって他に行くところもなく、家にいるのはさらに面白くなかったので致し方ない。
武藤の家に行くと、保の母親が気安げに迎えてくれた。上よ、と言う声に階段を上がると、保の部屋には金曜だというのに徹の姿があって、夏野の姿もあった。
正雄は内心で舌打ちをし、視線を徹に向ける。
「徹ちゃん、休みか?」
「そう。後期盆休み」
「後期ってなんだよ」
「まとめて盆休みが取れなかったんだよ。他の連中が先に長期の休みを取ったから。んで、盆と盆の後に休みが別れたってわけだ」
「要領、悪いなあ」
なんの、と徹は笑う。
「あえて取らなかったんだよ。これが気配りってもんだ。こっちは別に、旅行に行く宛があるわけじゃなし、無理に続けて休みを取らなくてもいいからさ。そこは譲って恩を売る。これが大人の処世術ってもんだな」
なんだかなあ、と笑いながら夏野の様子を窺うと、夏野は興味もなさそうに保のベッドに転がって雑誌を眺めている。
「おい夏野」声をかけると、夏野は正雄をねめつけた。名前を呼ばれたのが気に入らないのだろう。ささやかに溜飲を下げながら、「お前、清水の遺品を断ったんだって?」
「それが?」
「冷たいよな。お前ってさ、どっか情緒に欠陥でもあるんじゃねえの? 普通、若くて死んだ子の遺品をさ、汚いもののように言うかよ。相手の気持ちに対する思いやりってもんが全然ないんだよな」
「若くて死んだからなんだって言うんだよ。おれたちだって明日にも死ぬかもしれないんだぜ」
「だからって、高校一年やそこらで死んだんじゃ可哀想だろ」
「馬鹿みてえ。人間なんて、何で死ぬか分かったもんじゃないんだしさ、いわば確率のもんだろ。確率ってのは私情や個人的な事情に頓着してくれないもんなの」
「そう分かってても、まさか高一で死ぬとは思わないのが人間じゃないか。無念だと思うぜ、清水にしたらさ」
「そこで狼狽するのは、自分だけは、って傲ってた証拠だろ。他人事の死なんてないの。無念を残すような生き方してるほうがどうかしてるよ」
「たがらって思いを残す者を無下に扱っていいのかよ。お前、自分がそういう扱いを受けても平気なのか」
「平気も何も、死んだら分かりゃしないだろ。あとは野となれ山となれ、ってとこだよな」
「清水、いまごろは墓の下で泣いてんぞ」
「死人が泣くかよ」
「お前を恨んで出てくるかもな」
「悪い子のところには鬼が出るってか? いい歳して、|初心《うぶ》だね、こりゃ」
徹は笑った。
「これが純朴な田舎気質ってもんさ。帰って報告してみろ。お前んちの父ちゃん、涙ながして喜ぶぞ」
「……まったくだ」
夏野は溜息をついて雑誌を閉じた。
「ほんじゃ、親父を喜ばせに帰るか」
「おう。じゃあな」
手を振る徹と保に手を挙げて応え、夏野は部屋を出て行く。階段を下りていく軽い足音が聞こえた。
「……生意気な奴」
正雄が呟いたが、徹も保も反応がなかった。聞こえなかったはずはないのに、面白くもなさそうにテレビの画面を見守っている。
「あいつってさ、本当に冷たいよ。なあ、保、そう思わないか?」
保は軽く肩を竦める。
「ま、クールに見えるのは確かだよな」
「見えるだけじゃなくて、あれが本性だろ。信じられないよ、なんだってあんな奴、保も徹ちゃんも我慢できるんだよ」
「夏野が言ってるのは、一面の真理ではあるからなあ」
「保も仲間か」
「そういう問題じゃなく。おれだって清水は可哀想だと思うぜ。あの歳で死んだら、たまんないよなとは思うけど、実を言うと他人事なんだよな。そりゃ、親父同士が付き合い合ったし、小さい頃は一緒に遊んだりしたけどさ。もう一緒に遊ぶような歳でもないし、このところ学校の行き帰りでもなけりゃ会うこともなかったし。驚いたし、可哀想だとは思ったけど、新聞見て可哀想にと思うのと一緒で、おれが辛いわけじゃないんだよな。ああ、これは可哀想なことなんだなって思ってるだけのことで。お前だってそうだろ? お前なんて、清水とはぜんぜん無関係だったわけだし」
「それは、そうだけど」
「それでもさ、家族や友達にしたら辛いことでさ、それに付き合って、辛そうなフリぐらいしてやるのが協調性ってもんだよな。夏野にそれを求めるだけ無駄だけど」
「そこが問題なんだろ」
「べつにいいじゃん。夏野の場合、徹底してるもんな。自分の親や友達が死んでさ、同じようなことを他人にされても、気にしないだろ。それはそれで辻褄が合ってる」
「それってもっと問題じゃないか? 自分の親が死んでさ、形見分けしようってのに相手がそれを拒んで、それで腹が立たなかったら人間じゃねえよ」
徹が苦笑した。
「夏野は冷淡に見えるけど、そのぶん冷静で公平だよ。たとえばさ、お前がああやって突っかかっても、おれたちを味方に付けようとはしない。一緒に怒ってくれとは言わないだろうな」
徹に言われ、正雄はむっと口許を歪めた。それが自分に対する批判だと感じたからだ。
「ここで仮に、おれたちが夏野を庇って、お前の態度のほうを責めても、あいつは嵩にかかったりしないだろ。放っとけって言うのが関の山じゃねえかな。これは自分とお前の問題だから外野は外野で別口でやってくれって言うぜ。そのへん、夏野は徹底してるよ」
「そういう話をしてるわけな」
「たとえばの話だよ。――まあ、そういう奴だから、あれはあれでいいんだろ。お前もさ、夏野そういう態度に苛立つなら、いちいち構うなよ。気に入らないんなら放っておきゃいいんだろうが」
「あんたらが構うから顔合わす破目になるんだろ。おれのせいにするなよな」
正雄は言って立ち上がった。
「――正雄?」
「帰る」
短く言って階段を下りる。これではまるで自分が責められているようだ。正雄は別に夏野に興味などない。付き合いたいとも思ってないが、徹たちが構うから始終顔を合わす破目になるのだ。そもそも間に割り込んできたのは夏野のほうだ。普通、グループの誰かと折り合いが悪かったら、グループにはいるのを敬遠しないか、と夏野の図々しさに腹が立つし、折り合いが悪いのを分かっていて夏野の侵入を黙認している徹たちの態度にも腹が立った。
(余所者のくせに……)
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
バイクの荷台からビールの缶を下ろし、篤は呼び鈴を押す。
「あら、どうもお疲れさま」
現れた主婦に無言で缶ビールのパックを渡し、篤はさっさと踵を返した。夏場はどうしても配達が多い。始終駆り出されて嫌になる。無料奉仕だと思えば、なおさらだった。
メモにチェックを入れ、次の配達先を確認する。残りは二軒、どっちも醤油が一本とか日本酒が二本とかの小口の配達だった。たかだか一升瓶の一本や二本、自分で持って帰れよな、という気がしてならない。メモを荷台のケースに放り込んで、篤はバイクを出す。門前の御旅所の前を通って、村道へ出た。ろくに周囲を見ずに村道に飛び出し、あやうく上外場に向かう車と接触しそうになる。急ブレーキをかけた篤を、運転手が振り返った。何か言ったようだが、車の窓は閉まっているから聞こえなかった。
篤は舌打ちをする。恨みがましく車を見送った。後を追いかけて車に蹴りでも入れてやりたい。一旦停止の表示を無視したのは自分のほうだという事実は、意識の隅っこに追いやった。むしゃくしゃしながらバイクを出そうとすると、エンストした。それがさらに篤を苛立たせる。
(やってられねえ)
世の中の若い連中は、夏を謳歌しているというのに。篤はこんな田舎の村の中でくすぶっている。面白いこともない、胸のすくようなこともない。父親に怒鳴られ、使い走りをさせられている。
篤はエンジンをかけながら、村道の上の方に目をやった。本当に追いかけていって運転手を引きずり出し、一発くらわせてやろうか。思いながら、自分がそんなことをしないだろうことを、分かっていた。
車の影はもう見えない。上外場の集落のどこかへ曲がっていったのだろう。|人気《ひとけ》のない道が夕日を浴びて北へと延びていた。この先には山入がある、と篤は思う。
老人が死んだ。しかも三人もいっぺんに。ひとりは篤の縁者だ。野犬に襲われて死体はさんざんな有様だっらしい。それを見てみたかった、と思う。無茶苦茶になった人間の死体というのは、どういう有様なのだろう。死んだ大川義五郎は、篤にとって、いけ好かない縁者だった。篤に小言を言うしか能のなかった老いぼれ、小遣いの一つもくれたことはなく、繰り言めいた愚痴ばかり言っていた。そうでなければ、何度も同じ小言を言う。うんざりしてそっぽを向けば怒鳴り散らす。父親も義五郎が訪ねてくるたび嫌な顔をしていたが、篤も義五郎は嫌いだった。
その義五郎が、バラバラになって死んだ。死体を見たら、さぞかし溜飲が下がっただろうと思う。この道の先、夕映えに朱を帯びた道の向こう、あの黒々として見える樅の間を辿った先。死んだ義五郎と、死んだ山入。
不思議にその道から目を離せなかった。近頃、篤にはこういうことが良くある。この辺りまで来ると、必ずこうして山入に続く道に見入ってしまう。
(配達に行かねえと)
たらたらしていると、また油を売ったと父親にどやされる。そう思って、にわかに篤は嫌気が差した。なんだってこんなことをさせられなければならない、という思い。そう思いながらも父親を気にして、穏和しく扱き使われている自分。このまま配達に行くのは業腹で、篤は衝動的にバイクを村道の上に向けた。――山入のあるほう。
思い切りアクセルを開けると、上外場の終わりまではすぐだった。飛ばした、という実感が湧く暇もない。目の前には、両側を樅に挟まれて、たそがれた道が続いている。篤はスピードを落とした。
義五郎は死んだ、バラバラになって。いい気味だ、と思いながら、どこか背筋が寒い。店先の自販機でジュースを買っていた子供たちが、馬鹿な噂話をしていた。この道を辿っていくと、血塗れの年寄りに出くわす、という。そいつは全身つぎはぎで、身体の一部が欠けている。通りがかった者に、どこにあるか知らないか、と問う。
(馬鹿馬鹿しい)
義五郎に、化けて出るほどの根性があるものか。出るとしても、その辺に佇んで愚痴を言うのが精々だ。――だが、そんな噂話を聞いたせいか、山入に続く緩い坂道は、どこか陰惨な雰囲気を帯びているように感じられた。荒んだ感じがするのだ。樅の差しかける影で翳った道は、なまじ西陽が中途半端に射しているだけに、いかにも暗く感じられた。
(山入……)
死。死体。終わった集落。無人。
義五郎たちの血の痕はそのままだろうか。死体の痕跡が今も残っているだろうか。
背筋がぞくりとする。自分が怯えているような気がする。そんなはずはない。それを自分に証明したい。山入に行ってみたい。
(早く配達に行かねえと)
思いながら、篤はのろのろと道を遡った。樅の影に飲まれ、周囲が急速に翳る。道はやはりどこか荒んで見えた。カーブを一つ曲がると前方も樅、後方も樅、人の気配はなく通りがかる車もいない。
突然、間近から何かが飛び出してきたのはその時だった。篤の左手、北山の斜面に面する草叢から、何かがぶつかるように飛び出してきて、篤はバイクごと横転した。派手な音がして瓶が割れ、醤油と酒の匂いがする。
「何だよ!」
篤は大声を上げて身を起こした。スピードが出てなかったのが幸いだ。周囲を見渡す間もなく、間近で身を低くしている痩せこけた犬の姿が目に入った。牙を剥き、唸り声を上げている。
「なんだよ、こらァ!」
篤は手を振った。野犬はさらに身を低くする。篤は立ち上がり、バイクに駆け寄って引き起こしたが、その足に犬が飛びかかってきた。ジーンズの裾を|啣《くわ》えて首を振る。足を蹴ってそれを振り解き、なんとかバイクの体勢を立て直してエンジンをかけたところでふくらはぎに激痛が来た。野犬が喰いついている。
野郎、と大声を上げ、遮二無二足を蹴り出す。灼かれたような痛みと共に野犬が離れた。犬はさらに身を低くする。周囲の林の中から、下生えを掻き分ける音と、犬の唸り声が聞こえた。篤は委細構わずバイクを出した。飛びかかってこようとする犬に突っこむようにしてUターンさせる。すぐ近くの草叢から別の犬が飛び出してきたが、これはかろうじて避けることができた。
篤は息を弾ませながらスピードを上げる。口の中で、畜生、と呟きながら、かろうじて村に出、村道を急いで店へと戻った。
脂汗を浮かべて店に戻った篤を迎えたのは、父親の罵声だった。遅い、どこで油を売っていた、と怒鳴られ、足の傷を示した。どうした、と問われたので深く考えずに野犬に襲われた経緯を話したら平手が飛んできた。配達をさぼってふらふらしたあげく、商品を駄目にするとは何事だ、と父親は怒鳴る。
「おまけに犬ころに噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]まれて尻尾を巻いて逃げ帰って来やがったか! まったく、お前みたいな情けねえ奴は見たことがねえ」
父親は吐き捨てるように言って、床に座り込んだ篤を蹴った。
「さっさと病院に行ってこい。バイクが壊れてたら承知しねえぞ。商品の代金はお前の小遣いから差っ引くからな」
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
八月二十一日、朝、敏夫は一本の電話に叩き起こされた。眠りを揺するベルの音、それに対する不快感と、起き出して受話器を取るまでの間に浮上する、休みなのに、という感覚。受話器を取り上げながら、敏夫は既視感を覚えた。
――いつか、これと同じことがあった。きっとこの電話は良くない知らせだ。
「はい、尾崎です」電話の向こうでは女の声がしている。その切迫した声音にも、やはり覚えがあった。「どちらさん?」
「田茂です。上外場の田茂ですけど」
女の声は明瞭だった。
「ああ――どうしました」
敏夫は身を起こし、枕許の煙草に手を伸ばした。村に田茂は多く、上外場の田茂も一軒ではないが、「上外場の田茂」を名乗るのは一軒しかない。上外場のスーパー「たも」だ。声からすると、電話の相手は田茂聡美ではなく、娘の悠子だろう。
「後藤田の、ふきさんが亡くなりました。無くなっていると思うんです」
敏夫は煙草に火を点けようとしていた動きを止めた。
「――ふきさん?」
「朝早く『ちぐさ』の妙さんが来て、ふきさんの様子がおかしいって。それで行ってみたら、冷たいんです。息もしてないみたいだし、胸に耳を当ててみても心臓の音が聞こえないんです。ちょっと来てもらえませんか」
「すぐに行きます」敏夫は火を点けないままの煙草を灰皿に放り出した。「ふきさんの家で待っててください。あまりそのへんのものを弄らないように。――いいですね?」
はい、という悠子の声を聞いて、敏夫は受話器を置く。まただ、と思った。自分は前にも同じことを経験している、という思い。
そう、確かに前にも経験している。後藤田秀司の時が、まったくこれと同様だった。
敏夫が上外場の後藤田家に駆けつけると、家の表に面した縁側で田茂悠子と、悠子の父親の田茂|定次《さだじ》、ドライブイン「ちぐさ」の矢野妙が待っていた。縁側は一枚を残して雨戸が引かれており、妙がわずかに開いた縁側に腰を下ろし、その両脇を悠子と田茂定次が挟むようにして立っていた。
「先生」敏夫が地所に入れた車から降り立つと、定次が駆け寄ってくる。「――済みませんね」
いや、と敏夫は目頭を押さえた妙を見た。
「妙さんが見つけたんですか? ふきさんはどこです」
妙は縁側の中を示した。
「中です。……寝間で」
敏夫は頷き、妙を立たせる。
「案内してください。この雨戸は? 妙さんが開けたんですか」
「いえ、開いてたんですけど。呼んでも返事がないんで、上がってみたら」
敏夫は妙の肩を叩き、さらに頷いてみせる。――夏のことだ、風を通すために雨戸を一枚、開けたままにしておいたのだろう。村では当たり前のように行われていることだった。
妙はおろおろと先に立ち、茶の間を通り抜けて玄関に向かう。玄関を通りすぎたところが表座敷で、そこには仏壇が置かれていた。仏壇の周囲には供物が積み上げられている。つい先だって亡くなった秀司への供物だ。廊下を隔てたその奥がふきの寝間だった。寝間には布団が一組敷かれていて、ふきの身体はそこに横たわっていた。
布団の周囲には特に異常がなく、木綿地の寝間着は裾がわずかにめくれ上がっている者の、特に乱れた様子もなかった。薄い夏布団が折りたたまれるようにしてきちんと腹の上に乗っている。あまりにも寝乱れた様子がなかったので、一瞬、敏夫はこれは覚悟の自殺ではないかと思った。実際のところ、後藤田家に来る道々、それを予想していたのだが、布団の周囲を探しても特にコップや薬品のようなものは見当たらない。
枕許に坐り、診察鞄を開きながら、敏夫は矢野妙に坐るように促した。
「妙さんは、何時頃、来たんですか」
「あのう、一時間くらい前です。家を出たとき、九時半でしたから、そのくらい」
「縁側から声をかけて、まっすぐここに来たんですね? ――それから?」
「具合が悪いのかと思って……あの、木曜から具合が悪そうだったんですよ。怠そうにしてて。それで気になって昨日にも様子を見に来たんですけど、そうしたら寝てて」
「木曜――十八日?」聴診器を出しながら、敏夫は問い返した。「具合が悪いって、どんなふうでした」
妙は困ったように首を振る。
「だから怠そうだったんです。食欲もないみたいでしたし。いかにも気落ちした感じっていうんですか」
「昨日は?」
「寝てました。来て、声をかけても返事がなくて、上がり込んだら寝てたんですよ。ちょうど今日と同じ感じで、あんなふうに雨戸が閉まってて……」
敏夫は頷いて先を促す。ふきの体内からは、あらゆる音が消失していた。
「枕許に行って、何度か声をかけたら目を開けたんです。木曜日よりうんと具合が悪そうだったんで、先生に来てもらおうか、って言ったんですけど。ふきさんが、いい、って言うもんだから。今から思うと譫言みたいなふうでねえ、布団がどうとか、泥がどうとか言うんですけど要領を得なくて。でも、はっきり先生は呼ばないでくれ、って言ったんですよ。そこだけ、本当にはっきり」
「そう」
「土曜の午後だったでしょう。病院も閉まってる時間だし、ふきさんもいい、って言うものを、無理に先生に来てもらうのも申し訳ないと思って、とにかく夜まで様子を見てたんです。熱があって、水は何度も飲んでたんですけどね、おかゆを作っても口をつけないし、寝てばかりいるんで、また今日来るから、って言い置いて帰ったんです。それで今朝来たら、こんな有様で……」
「熱はどれくらいありました」敏夫は微かに苛立ちながら妙に訊いた。
「八度五分くらいでしたかねえ」
「今朝、この周囲のものを何か弄りましたか」
いいえ、と妙は首を振る。
「呼んでも返事がないし、なんだか冷たいし。息もしてないふうなんで、大変なことになったんじゃないかと思って。どうしたらいいか分からなくて。茶の間に行って、救急車を呼ぼうと思ったんですよ。でも、救急車は死んだ人は乗せないって言うじゃないですか。もしも死んでるんだったら電話しても仕方ないし、先生に電話しようかとも思ったんですけど、死んだ気がするだけで、死んでないのかもしれないと思って。誰かに見て欲しかったんですけど、隣の家はまだ寝てるふうだし、わざわざ起こしてきてもらうのもねえ。それで娘に相談しようと思いながら、『たも』の前まで行ったら悠子さんがいたんで」
敏夫は息を吐いた。なぜ昨日のうちに診てくれと言ってこなかったのか、なぜ即座に救急車を呼ばなかったのか、あるいは自分に連絡をしなかったのか。言いたいことは幾つもあるが、そのどれもがいまさら言っても意味のないことだった。
「あのう……ふきさんは」
「亡くなってるね」
やや冷たい物言いになった。――秀司の時もそうだった。どうしてこの年代の年寄りは、勝手な素人判断をするのか、という苛立ちを押さえることができなかった。具合が悪いのなら、どうして医者に診せない。経験則から勝手な憶測をして、医者に申し訳ないだの、周囲に悪いだのと見当外れな気の使い方をして、そうして自体をみすみす悪化させるのだ。そう――村迫美重子もそうだった。
「昨日、咳はありましたか」
「いえ……気がつかなかったですねえ」
「トイレに行きましたか?」
「わたしがいる間は、寝たきりでした」
「特に痛みを訴えたり、苦しいと言ったりしたりは」
とんでもない、と妙は首を横に振る。
「そんなことを言ったら、先生を呼びますよ。熱はありましたけど、寝てるだけっていうふうだったんです。譫言みたいなことは言ってましたけど、熱に浮かされてってほどの熱でもありませんでしたねえ。だから、よほど眠いのねえ、と思って」
そう、と敏夫は呟く。呼吸停止、心停止、血圧はゼロ。瞳孔も散大していて光を入れてみても収縮はない。すでに硬直も全身に及び、非常に強い。
「昨夜のうちになくなってるね。それもあまり遅い時間じゃない」
死後十二時間は経っている。昨夜の十時前後というところか。
「まあ……そんな」
敏夫は、ふきの口許に顔を寄せてみた。特に異臭はしない。検分した限り、露出した顔面と手足には、外傷や|痣《あざ》などは見られなかった。あちこちに老人特有の染みと、虫刺されの痕がいくつか目につく程度、中の幾つかは膿んでいるようだった。ただし若干の浮腫がある。念のために髪の中に手を差し入れて頭部を探ってみたが、外傷や|瘤《こぶ》のようなものは感じられなかった。
角膜の混濁はまだ顕著ではない。胴に巻きつくようにした腕は完全硬直していて解けない。肌布団を剥ぎ、寝間着の裾を捲りあげた。ふきは下に夏用の肌着をつけていたが、これも捲りあげる。肌着の下の陽に灼けてない皮膚は蒼いほど白く、死斑は薄いが指圧によって消退しない。やはり死後十二時間程度か。夜具にも下着にも失禁の形跡はない。
特に異常や不審な点は見られなかった。少なくとも外因死でないことは確実で、ふきを死に至らしめた原因は彼女の内部にある。今となっては推測するしかないが、昨日、妙がいる間にトイレに行っておらず、失禁の跡がないことは意味が大きいと思われた。
妙が最後にあったとき聞いたような状態で、しかも失禁の跡がないとなると、極度の乏尿、あるいは無尿だったのだろう。浮腫があることを考え合わせても、おそらくは腎不全。意識が混濁していたことから察するに、尿毒症――それも高カリウム血症の疑いが強い。
あのう、と田茂悠子が口を挟んだ。
「ふきさんは、どうしたんですか」
「急性腎不全だろうな。……解剖すりゃ、はっきりするんだが」
「そうですか」
悠子は複雑な様子だった。笑えばいいのか渋面を作ればいいのか分からない、というふうに見えた。定次も同様の様子だ。おそらくは誰もが同じことを考えていたのだろう。ふきは息子と実兄を失ったばかりだ。本人も高齢で、立て続けの不幸の後、かなり参っているふうでもあった。あるいは自殺ではないか、と疑わずにはいられない状況だったし、実際、縊死していたほうがよほど違和感がなかっただろう。
「ふきさんも歳だしなあ。とにかく連日、暑かったし。……がっくり来たんだなあ」
提示は自分に言い聞かすように言った。歳も暑さも気落ちも関係ない、急性腎不全ならすぐに医者に診せていれば死なずに死んだかもしれないんだ、と敏夫は思ったが、あえて口にはしなかった。
「弔組の世話役は小池さんだったか。確か中外場だったな。連絡を取ったほうがいい。寺にはおれから電話しとくから」
後藤田家を辞去して、敏夫は陽炎の立つ路面に足を踏み出した。
後藤田秀司、村迫秀正。後藤田ふき。――わずか半月の間に。
敏夫は上外場の集落を後にしながら、軽く汗を拭った。
[#ここから4字下げ]
(村は死によって包囲されている……)
[#ここで字下げ終わり]
「……馬鹿な」
何が起こるというのだろう? 日本のあちこちに無数にあって、徐々に衰え死んでいこうとしている山村と、この村は何ひとつ変わったところなどない。変化の最先端である都会ではない。ここにあるものは全て、無害で無益なものばかりだ。ここで――他ならぬここで、何かが起こらなければならない必然性など、どこにもない。
だが、と敏夫はひとりごちた。
「……連中は、まったく同じものにやられてる」
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
電話を受けたとき、静信はちょうど原稿を広げたところだった。電話を取ろうとする池辺を制して、静信が受話器を取った。受話器の向こうから聞こえてきたのは、どこか硬い調子の敏夫の声だった。
「敏夫か? どうした」
敏夫の返答は短かった。
「ふきさんが死んだ」
静信は一瞬、絶句し、そしてとっさに自殺だろうかと思った。この夏、息子を失い、実兄を失った老女。八月もいよいよ二十一を数え、陽射しも風も、どこか秋めいてきた。未だに残暑は厳しかったが、ひとつの季節が移ろい始めた気配は明らかに漂っている。多くを喪失した老婆が、この夏を精算しようとしても不思議はない。そういう気がした。
静信の思考を読んだように敏夫が続けた。
「ただし自殺じゃない。たぶん急性腎不全だと思う。昨夜のことだ。――いま後藤田の家から帰ってきたところだ。下外場の矢野妙さんが発見した」
静信は言葉を失った。喉のあたりに固くわだかまるものがあった。そうか、と答えた自分の声は、敏夫のそれと同様の調子をしていただろうと思う。池辺が不審そうな顔で静信を振り返った。
「世話役に連絡するよう言っておいたから、じきにそちらからも連絡が行くと思う」
「……分かった。ありがとう」
じゃあな、と言い残して電話を切った敏夫の声は、必要以上に事務的で情感を欠いていた。静信はこの訃報をどう受け止めたらいいのか分からなかった。驚く気にはなれず、かといって平静でもいられない。おそらくは、敏夫もそうなのだろうと思う。
「どうしたんですか?」
受話器を置いた静信に池辺が聞く。
「後藤田の、ふきさんが亡くなられたそうです」
え、と池辺は絶句した。
「それは、ひょっとして」
「急性腎不全だということです。昨夜のうちになくなったのが、今朝、発見されたらしくて」
池辺の顔に浮かんだ表情を見て、池辺も同じ種類の想像をしたのだ、と静信は感じた。ちょうど鶴見と共に寺務所に戻ってきた光男が、その場の妙な空気を感じ取ったのか、何かあったんですか、と訊いた。ふきが死んだことを伝えると、鶴見ははっきりと「まさか、自殺ですか」と問うた。そうではないことを伝えれば、光男と顔を合わせる。
「……またですか?」
寺務所の中に奇妙な沈黙が降りた。静信の喉元にわだかまっていたのも、これだった。「また」だ。この夏、何度目の訃報だろう。わずかに半月の間に。秀司、山入の三人、恵、義一、これで七人目。
こりゃあ、と光男は重い息を吐いた。
「今年の夏は大当たりだ。下手すりゃ、まだ続きますよ。これは」
静信は光男の顔を訝しんでみた。
「そういう年があるんですよ。以前にもあったじゃないですか」言って、光男はふと気づいたように苦笑した。「ああ、若御院はまだ小さかったから、覚えてないか」
「あったなあ」と同意したのは鶴見だった。「二十年以上も前だったかな。梅雨に鉄砲水が出て、河原にいた子供が二人、流されたのを皮切りにねえ。あのときは事故が続いたんですよ。すれも水辺の事故ばっかりでね」
「そうそう。先の御院が亡くなったのも、あの年の秋口でしたっけね」
光男が感慨深げに言うと、鶴見は目を剥いた。
「そんな、縁起でもない。光男さん」
「ああ、いや――これは済みません。そういう意味じゃないですよ」
池辺が控えめに尋ねた。
「あの……先代も何か、水に関係のある事故だったんですか?」
静信は苦笑する。
「いえ。胃癌です」
なんだ、と言いたげな池辺を見やって静信は内心で自嘲した。そう――そういうものだ。不幸にしろなんにしろ、続くことが確かにある。物事は確率に従って起こっても、均一に起こりはしないのだ。だが、人は良くないことを強く印象に残す。人の死、などというものはその最たるものだ。
長い目で見れば確率通りの範囲内のことでも、妙に続くという印象を持つのだし、一旦そういう印象を持ってしまうと、それが先入観となって実情は著しく歪められる。鶴見は「水辺の事故ばかり」と言ったが、実際には静信の祖父は胃癌でなくなっており、他ならぬ鶴見がそれを忘れていたはずはないにもかかわらず、「水辺の事故ばかりが続く」という印象の前に霞んでしまって意識されない。
静信は息を吐いた。死はランダムに起こる。それぞれの事例は得てして独立しており、必ず関係を持つとは限らない。だが、人の意識はその不連続の点の集合に意味を与え、関連づける。意味は「ある」のではなく、付与されるのだ。それは正座が、実際には無関係な星たちにすぎず、人の認識が線を補って正座として意味を与えたものでしかない、そういう現象に似ていた。
死が連続しているのではない、連続しているという印象を与えるような現れ方をしているだけだ。ふきも七十が近かった。そもそも高齢で、本人も自分のために墓所の整理をしていたように、すでに少しずつ生気が抜けつつあるような老人ではあった。しかもこの過酷な夏、単に酷暑というだけでなく、息子を失い、兄を失い、ふきにとっては精神的にも辛い夏になった。それでなくても体力が落ちているのに、大事が続いて疲れたというのもあっただろう。兄と息子を失い、気落ちしていたというのもあるだろう。
特に不審でも何でもない、順当な死というべきだろう――。
そう思いながらも、静信はどこかで、そうやって自分に何かを言い聞かせているような気がしてならなかった。
(しかし、何を?)
静信は自己の思考を見つめ、そして自分の中に不安を見つけた。恵のときに感じたあれだ。何かとても不当な感じ。義一のときに感じた良くない予感。決して順当でも当然のことでもない事態に自分は直面していて、だからこそ懸命に妥当性を言い聞かせないではいられない。
(……そうだったのか)
得心した、とも言える、何かが奇妙に腑に落ちる感じ。ふきだったのか、と静信は思った。――清水でも寛子でもなく、徳郎でもなく。
机に向かいながら、静信は恵の葬儀の日をはっきりと思いだしていた。歳よりも老け込んで見えた(覚悟しておいたほうがいい)徳郎と寛子。後藤田ふきのように丸められた背中。徳郎の背を叩いて(縋るように)じっと俯いていた清水。肩を寄せ合って、理不尽な衝撃に耐えていた彼らに感じた奇妙な危機感。
[#ここから4字下げ]
――泣く子のところには鬼が来るぞ。
[#ここで字下げ終わり]
清水ではなかった、寛子でも徳郎でもなかった。
後藤田ふきだったのだ。
そう、大川義五郎が死んで村迫秀正が死んで、三重子は死んだ。秀司が死んで、ふきが逝った。それは序列に頓着しない。ふきよりも先に秀司が逝ってしまったように、恵が逝ってしまったように。それはただ、――広がっていくのだ。
汚染、という言葉が念頭に浮かんだ。唐突な尋常でない死。その死は得てして近親者を汚染していく。
清水は無事だ。寛子も徳郎も倒れたという話を聞かない。三重子は逝った、ふきは逝った。秀正の妻、秀司の母親。そして義一。
抵抗力のない者、密接な接触。
静信は手を握った。――疫病だ。
閉鎖された土地、内部だけで完結した社会、錯綜する地縁と血縁、土葬の風習。
一旦それが蔓延すれば、間違いなくこの村は、壊滅する。
[#改丁]
[#ここから5字下げ]
第二部 深淵より呼びぬ
[#ここで字下げ終わり]
[#改丁]
[#ここから3字下げ]
一章
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
後藤田ふきの葬儀が終わったその日、静信は夜の墓地を抜け、尾崎医院を訪ねた。控え室の明かりは消えている。かわりに庭の奥に面した窓に明かりが点いていた。母屋の一階、いちばん端にあるそれが敏夫の私室だった。
庭木を迂回し、植え込みを避けて庭を奥に向かう。レースのカーテン越し、通い慣れた敏夫の私室が見えた。かつては応接間だった洋間。敏夫の部屋が二階の一室からそこへ唐突に移されたのは、小学校の何年生の時だったろうか。二階の部屋よりもはるかに広いのだが、敏夫は「二階」に未練があるようだった。――そう、それは敏夫の意思ではなかった。孝江がなぜ突然、敏夫の部屋をそこに移したのか、子供だった静信にもすぐに理解できた。以来ずっと感じ続けてきた一抹の罪悪感をこの夜も感じながら、静信はガラス窓を叩いた。床に座り込んでいた敏夫は顔を上げ、軽く顎をしゃくって中を示す。
「――よう」
部屋は雑然として、敏夫の人生史をそのまま留めている。子供時代から一度も場所を移動しないベッド、勉強机。本棚の中身は参考書から医学書に、ローボードの中身は屈託のない収集品やレコードから洋酒の瓶へと変わったものの、変化は徐々に進行したので違和感はなかった。
「飲むか?」
敏夫は軽くグラスを示し、こればかりは、家を継ぐために戻ってきてから増えた家財である小さな冷蔵庫を開けた。静信の返事も待たず、ひとつ余分に出してあったグラスに氷を入れる。
「――それで? どうした」
酒を注いで水を足す敏夫の声には、どこか何気なさを装っている風情が滲んでいた。静信は言い淀み、しばらくの間、言葉に困ってグラスを見ていた。敏夫はことさらのように平静な顔をして、およそ興味を持っているとも思えないテレビ番組に目をやりながら煙草をふかしていた。
「……なあ、村で何が起こっているんだ?」
「何が、って?」
「秀司さん、山入の三人、恵ちゃん、義一さん、ふきさん。――一夏の話にしては、死人が多すぎるとは思わないか?」
敏夫は素っ気ない声を出した。
「去年の夏には四人、死んでる。多すぎると言ってもたかが三人のことだろう。夏は年寄りも体力が落ちる。持病を抱えた年寄りならなおさらだ。今年は例年より暑さも厳しいしな」
「そういうことを言ってるんじゃない」
昨年の夏、何人が死んだか、一昨年はどうだったか、他ならぬ僧侶の静信が知らないはずがない。
「確かに、義五郎さんのように不調を抱えた老人が村にはいくらでもいる。義一さんのように寝たきりの老人だって少なくない。その老人が死ぬのは、例年のことなのかもしれない。だが、秀司さんのような働き盛りの人間が突然に死ぬことがどれだけある? 事故ならともかく、病死で?」
答える敏夫の声は必要以上に素っ気ない。
「秀司さんは成人病の危険年齢だ。悪性腫瘍、心不全、脳出血、いわゆるポックリ病、突然に死ぬことがないわけじゃない」
「じゃあ、恵ちゃんは? ――もちろん、若い者が急の病気で死ぬことがないわけじゃなかった。これまでだってあったし、これからだってあるだろう。けれどもそれがたかだか半月の間にこれだけの数、続いている。これは尋常のことなのか?
ふきさんだって、いつ何時、何があってもおかしくない年齢だった。本人もそれを自覚していて、墓地の整理を自発的にやっている。そのふきさんが、急病で死んだだけなら、これは本当に良くあることだ。別におかしくも何ともない。――だが、そのほんの半月前には、息子が死んでいるんだ。働き盛りの健康な中年の男で、体力もあったし、特にこれといって持病もなかった。それが突然死んで、その半月後には母親が急死する。どらちも病院にかかる間もなく、本当に突然に。これがよくあることなのか?」
「あり得ないことでもないだろう。息子が死んで、高齢の母親はガックリきたんだ」
「その息子が死ぬ前に、実の兄が死んでいても?」
静信は敏夫を見つめたが、敏夫はことさらのようにテレビを見守っている。
「村迫の秀正さんだって、いつ何があってもおかしくはない歳だった。秀正さんだけが突然死んだのなら、ぼくだって疑問には思わない。義五郎さんだってそうだし、三重子さんだってそうだ。だが三人が、――それも同じ集落に住んでいる三人が、一度に死んだんだぞ? その直後には、働き盛りの甥が急死し、半月後には妹が死んでいる。全員が全員、医者にかかる間もなくて、どこが悪かったのか分からない、治療も療養もしないまま、いきなり結論が出ているんだ。そんなことが尋常の状態であるものなのか?」
敏夫の返答はない。自分の吸う煙草の煙を厭うようにして、ただ眉を|顰《ひそ》めている。
「個別の死は、確かに不審なところなんてない。老人が死ぬのはよくあることだし、若い者が急死するのだってないことじゃない。どれかひとつ、あるいはふたつなら、そういうこともあるかもしれないと思えるんだ。けれども、それがこれだけの数、続いている。続いていることに意味はないのか?」
「どういう意味があるっていうんだ」
「……疫病じゃないのか?」
静信の問いに、敏夫はテレビの画面から視線を外して静信を振り向いた。煙草を灰皿に押しつける。
「古風な言い方をする」
軽く笑って、テレビのボリュームを下げ、ローテーブルの下に積み上げてあった書類の束を持ち上げた。ひれをテーブルの上に乗せる。
「確かに、この夏は死人が多すぎた」
敏夫は書類の上で指を組む。
「老人が多いこと、連日の酷暑を考慮に入れても異常だ。ほぼ半月の間に、おれが知っているだけでも七人の人間が死んでいる。大川義五郎、村迫秀正、村迫美重子、後藤田秀司、清水恵、安森義一、後藤田ふき、――都合、七人だ」
静信は頷いた。
「昨年一年間に村で死人がどれだけ出たと思う? おれが知っている人間だけで八人だ。おれが死亡診断書を書いたのが五人、残る三人は転院させた溝辺町の病院から死亡の報告が上がってきている。その他にもおれの関知しない死者がいるだろうが、せいぜいが十人と少しというところだろう。全国的な平均よりも老人が多いぶん、少しだけ多い――それが去年までの状態だった。にもかかわらずこの八月、たった半月で、すでに一年間に迫る勢いで死者が出ている。数の上だけでも異常だよ。これは尋常のことじゃない」
「……ああ」
「人数だけの問題じゃない。秀司さんの死因は分からない。とりあえず額面は急性心不全ということになっているが、正直に言うなら死因不明だ。義五郎さんもそう、秀正さんもそう。恵ちゃん、ふきさん。五人の人間が唐突に死んで、その死因がよく分からない。三重子婆さんは、警察が持っていって解剖したが、やはり明解に死因を特定できたとは言い難い。疑問の余地がないのは、義一さんだけだといっていい」
敏夫は書類の束を軽く叩いた。
「これはどう考えても異常だ。しかも秀司さんは秀正さんの甥だ。ふきさんは秀司さんの母親だ。山入の三人は、家族同然に生活していた。不透明な死を迎えた六人のうち、他の死人となんの関係も持っていないのは恵ちゃんだけ、あとは全員、何らかの密接な関係で繋がれていた。この不透明な死には近しい人間に飛び火する傾向がある。確かに――伝染しているとしか思えない」
静信は深い息をついた。不安を不安のまま抱え込んでいるのは苦しい。明らかになったほうが安堵できるのは確かだが、そうやって明らかにされたものは村にとって最悪の代物だった。
「もしも伝染病だとしたら、おおごとになる」
村の人間関係は密接で、網の目のように入り組んでいる。下水道は完備されているというにはほど遠い。兼正の後押しもあって町から補助金が出され、合併槽の設置が推進されていたが、生活排水の何割かは未だに川に放出されている。上水道は通っていても、村人の多くは何らかの形で地下水を未だに使っており、いったん山に入れば人は沢から飲料水を汲み上げる。だが、村を取り巻く山のあちこちには墓所が散在しているのだ。そこでは死者を未だに土葬にしている。
静信がこれを指摘すると、敏夫は軽く首を振った。
「伝染病だとすればな。――だが、まだ決まったわけじゃない」
「けれど」
「先走るな」敏夫は低く、ぴしゃりと言う。「予断は良くない。事が事だけに、妙な予断を抱くと、かえって実態の把握が遅れて大事になる可能性がある」
「ああ――そうだな、済まない」
「伝染病のように見えるが、確かなこととは言えない。病名を特定できないんだ。少なくとも今のところ、症状が合致する伝染病は思い浮かばない。正体不明、というのが正直なところだ。伝染するのかもしれないし、しないのかもしれない。するとすればウイルス性のものなのか、細菌性のものなのか、これも五里霧中だ。寄生虫の可能性もあるし、あるいは集団中毒の可能性もある。分かるのは明らかに異常なことが起こっている、ということだけだ」
静信は頷いた。
「問題は何が起こっているのか、ということだ。どうしてこれだけの死者が出ているのか、そこをまず掴[#「掴」は旧字体。Unicode:U+6451]まないといけない」
敏夫は書類の束の中から、カルテを探して抜き出した。
「恵ちゃんを往診したのが八月の十二日のことだ。めぐみちゃんはその前日の十一日に倒れている。山狩りをして倒れているところを発見された、以来ずっと具合が悪かったようだから、十一日に発症したと考えてもいいんだと思う。それ以前には、特に不具合はなかった。少なくとも家族には具合が悪いようには見えなかったし、本人も不調を訴えてはいなかったんだ。これはおかしい、というので家族がおれを呼んだのが十二日の夜、そこからわずか三日で死亡している。発症してから四日だ。ところが恵ちゃんは、おれが見た時点では、どう見ても三日後に死亡するような重症患者には見えなかった」
「そう……」
「恵ちゃんは貧血以外に、これといって悪いところはないように見えた。どうして突然、死ぬようなことになったのか、正直言って、おれには分からない」
敏夫は恵のカルテをテーブルの上に投げ出し、煙草に火を点けて煙を吐いた。
「伝染病の恐れがある。これはおれも否定しない。万が一、伝染病なら、おおごとになる可能性がある。だから調査をして実態を把握する必要があるんだが、これが難問だ」
「難問なのか?」
敏夫は頷いた。
「恵ちゃんを最初に見たとき、ひどく怠そうで、口を利くのも億劫、という様子だったが、本人はあまり不調を意識していないふうだった。実際、そうだろう。貧血以外にはこれといって不具合がないんだからな。痛みや発熱、目に見える異常があれば、患者だっておかしいと思うし不安を抱く。だが、単に怠い、疲れやすいという程度では医者にかかる踏ん切りだってつかないだろう。あれがこの病気の初期症状だとしたら、厄介な話だ」
言わんとするところを了解して、静信は頷いた。
「ああ、そうか。なんとなく怠い、なんてことは良くあることだ。夏場なら特に。熱でもあるのだろうかと思って測ってみても、別段、熱はない、そういうことは本当に良くある」
「そう。それですぐさま病院に駆け込む人間はいないし、こっちだってそれだけで来られちゃあ堪らない」
「それを患者のほうも分かっているからなおさらだ。適当な原因を探す。風邪、前日の疲労、飲み過ぎ、あれのせいだろうか、と思いながら日常をこなそうとするだろう。それがさらに酷くなれば、とりあえず横になっているだろうが、それでも医者にかかろうと思うかどうかは疑問だ」
「そういうことだ。患者はまだ不審を感じない。寝れば治るだろう、ぐらいに思っている。ところがこの病気は勝負が早い。本来なら迷っている時間はないんだ」
迷っているうちに死因不明の死体がひとつ現れる。敏夫が目にするのは、不透明な死体だけだ。経過を観察している暇も、検査をする暇もない。実際、そのようにして事態は進行してきた。もしも清水が恵を敏夫に見せていなければ、静信たちの目の前には「不可解な連続する急死」という現象以外、何ひとつ残らなかったはずだ。
「それはごくさりげなく始まる」敏夫は書類を無目的に掻き回す。「恵ちゃんは貧血で始まった。義五郎さん、秀正さんについては分からないが、三重子婆さんは二人の爺さんが死ぬほんの少し前に病院に来て、二人の具合が良くない、夏風邪だろうと言っていた」
「秀司さんの時にも同じようなことを聞いたな。夏風邪かさもなければ夏負けだろうと思った、とふきさんが言っていた」
「おれも聞いたよ。夏風邪にしては熱がなかったと、ふきさんは言っていたし、三重子婆さんもそう言っていた。要は怠そうだ、食欲もなさそうだし、顔色も良くない。どこがどうとは言えないが、なんとなく調子が悪そうに見えた、ということだろう。ひょっとしたらやはりそれも貧血のせいだったのかもしれないし、あるいは、貧血以外の現れ方をすることもあるのかもしれない。いずれにしても、貧血をはじめとする些細な症状でそれは始まるんだ。そうして、数日のうちに急激に増悪する。劇的に、と言ってもいい」
「三重子さんは肝不全だな?」
「そう。山入の爺さん二人と秀司さん、恵ちゃんは不明。ふきさんはおそらく急性腎不全だ。腎不全から来る尿毒症、これが死因だと、おれは思っている。義一さんは除外できるかもしれないが、とりあえず嚥下性肺炎。おれの手持ちのカードはこれだけだ。七人も死んでいるというのに」
静信は喉の奥で呻いた。敏夫は詳しいデータを得る必要があるが、初期のそれが引き起こす不具合はあまりに些細で、患者自身が危機感を抱かない。来院して貰わなければ、臨床例を集められない。だからと言って、役所なりを通じて危機感を煽れば、始まりがあまりに些細であるだけに、誰も彼もが病院に殺到してパニックになりかねない。
静信の考えを読んだように、敏夫は呟いた。
「馬鹿正直に事態をアナウンスするのは、危険なだけで益がない。怠い、食欲がない、衝かれやすい気がする、それだけで病院に来られちゃあ、病院は麻痺する。そればかりじゃない、もしも本当に伝染病だった場合、病院自体が汚染源になりかねない」
「だが放置はできないだろう? とにかく、不調が起こった時点で病院に来て貰わないことには」
「手に負えんな」敏夫は溜息をついた。「罹患した患者には、たいしたことはないからといって軽く考えず、もっと重大視して来院して欲しい。罹患していない患者には、いたずらに騒がずあまり神経質にならないで欲しい。ところが、罹患しているかどうか、患者自身に分かるはずがない」
静信は頷き、「けれども、とりあえず注意を促す必要はあると思う。体調を崩す者が多いので注意して欲しい、その程度の呼びかけはしておかないと」
「その結果、何が起こるかを考えるとウンザリするが、それしかないか。役所に協力してもらう必要があるな」敏夫は深い溜息をついた。「保健係の石田さんに相談して、役所を通じてそれとなく指導してもらう。とにかく、そこから取りかかるしかない」
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
かつては独立した村であった外場は、現在では溝辺町の中に編成されている。その溝辺町には保険センターが置かれているが、外場における保険業務は役所――外場出張所の保険係が担っていた。各集落に係がいて、これを役所の保健係がまとめる。とはいえ、担当者は石田がたった一人しかない。そもそも石田は溝辺町の指導に従って、各集落の保健係を指導する、上意下達の立場でしかなかったし、専門の知識も何もない完全な事務屋だった。もしも万が一、大規模な伝染病が流行し始めた場合、もちろん石田ひとりの手に負えるものではない。
八月二十三日の夜、静信と敏夫は石田を寺に呼び出し、事態の説明を行った。石田は最初、半信半疑の様子だったが、敏夫の説明を受けるにつれて顔色を変えていった。
「昨年の夏には四人が死んでる。六月に二人、八月と九月に一人ずつ。正確に言うならそれだけの死者をおれが看取っている。八月の死者は心筋梗塞が原因だった。例年まあ、こんなものだな。これに対して、今年は一気に七。まだ八月は終わってないが、とりあえず今のところまでの死者を単純に比較しても昨年の一に対して今年は七、六人が余剰だということになる」
「余剰……」
敏夫は頷いた。
「言葉は悪いが、あって当然の死亡より明らかに数が多すぎるぶん、ということだな。もっとも、こういう場合には生の数字を取り上げて昨年より六人も多い、と騒ぐことには意味がない。統計学的な処理をしなければ確かなことは言えないわけだが、それでも六人となると異常な数であることは確かだろう」
そうですね、と石田は呆然とした様子で頷いた。
「この八月、村で何かが起こっているのは確かだ。それが異常な数の余剰死を招いている。外場というごく狭い場所で、しかもたったこれだけの期間に七。それも、そのうちの多くが突発的な内因死だ。ということになると、何らかの疾病の集団発生を疑うのは、決して不当ではないはずだ」
はい、と頷いて石田はハンカチで汗を拭った。異常に蒸す夜だった。空気は重く淀み、温い湿気が立ち込めている。石田の前に置かれたビールのグラスは、水滴をつけたまますっかり泡が消えていた。
「しかしながら、実際に何が起こっているのかという段になると、皆目、見当がつかない。今の段階で言えることは、それは些細な症状で始まり、たいした自覚症状もないうちに劇的に増悪して死に至る、ということだけだ。そして、それは近縁者に飛び火する傾向がある。少なくとも、拡大しているのは確かだと思う」
石田は縋るような目で敏夫を見た。
「まだ伝染すると決まったもんじゃないわけですね?」
「確定的なことは言えないな。だが、希望的観測に縋って事態を舐めてかかると、万が一本当に伝染病だったときには取り返しがつかない。伝染病を想定して警戒しておいたほうがいいと思う」
「しかし、ですね」と石田はハンカチを額に当てた。「うかつに伝染病だなんて言おうものなら……」
「問題はそれなんだ」
敏夫は息を吐いた。
「なにしろ結果が最悪だ。伝染するなんて噂が村の連中に広まればパニックになる。初期症状があまりにも些細で良くあるだけに、連中が冷静さを失ってしまえば、たちまち病院の業務は麻痺する。伝染病だと限ったものでもないが、もしもそうだった場合、病因も感染ルートも分かっていない状態で患者が病院に押し寄せてくれば、迷惑なだけでなく危険だ。可能な限り伏せておきたいんだよ、できるなら」
石田は頷いた。外場は尾崎医院に依存している。人口わずか千三百十九人の山村に、ちゃんとした医院があること自体、希有のことだ。外場はこれまでずっとその恩恵に浴してきたし、だからこそ尾崎医院への信頼感は大きい。村人の中には確実に、尾崎に紹介されたのでなければ別の病院にはかからない、という一種の仁義が浸透しており、だからこそ疫病の噂が立てば、村人のほとんどが尾崎医院に殺到することは間違いがなかった。
「でも……しかし、どうすれば」
目に見えて|狼狽《うろた》えた石田に、静信は説明する。
「石田さんのほうから、保健係を通じて通達を出すことはできませんか。とにかく、近頃、夏バテが多いので注意して欲しい、というふうに」
「通達を出すのは簡単ですが」
「もしもバテているなと思ったら、素人判断をせずに病院にかかるように、と」
敏夫が頷く。
「そもそも夏場は、水分だけ摂って食が細る連中が多い。まだまだ残暑も厳しいことだし、とりあえず三度の食事はしっかり摂れ、ダイエットは控えるように言ってもらえないか。単に健康に注意しましょう、でもいい。そうやって本当に単なる不調があるていど予防されれば、それだけでも患者の|篩《ふる》い分けにかなり役に立つ」
「はい、ええ――そうですね」石田は陽に灼けた首筋を拭う。「しかし、それだけでいいんですか。感染が拡大するのを防ぐとか、何か具体策を講じないと」
「具体策を講じようにも、現在の段階では講じようがないんだよ。せいぜい、井戸水は飲むな、できれば山や畑に出るときには水筒を持参しろ、手洗いやうがいを敢行しろ、というぐらいしか。あまりに仰々しく騒ぐと、それこそ藪をつついて棒を出すことになる」
「はあ」
「そうやって、とにかくデータを収集するところから始めるしかない。村の連中は死体に手を出させてくれない。病理解剖なんてのはもってのほか、死後の血液採取にさえ難色を示す。死体になる前に病院に来て貰わないことには、いったい村で何が起こっているのか把握することさえできないんだ」
「そう――そうですね」
「そうやってデータを集めて、これを取りまとめ、行政に動いてもらうしかない。実際に伝染病だということになるとあれたちだけの手に余ることは確実だ」
「いまから県の保健所か町の保険センターのほうへ、それとなく報告を上げておいたほうがいいんじゃないですか」
「そうしてみてもいいが。とりあえず、病名が特定できなければ役者は動いちゃくれないよ。なにしろあの連中が言う『伝染病』は、伝染する病のことを指すんじゃない、既存の、法律やマニュアルに伝染病として書かれたもののことなんだ。よほどの事態にならなけりゃ、援助は期待できないだろう。連中だって手が出せないんだ。方便として、たとえば食中毒だの肝炎だのが流行っている、という報告を上げることも可能だが、役所から問い合わせを受ければ、おれだって虚偽の病名は答えられない」
「そ、それは確かに、そうですね」
「とにかくデータを集めることだ。確かに何かが伝染しているという証拠を取り揃えて、あとは兼正に頼んで動いて貰うしかない」
言って、敏夫は顔を顰めた。
「とは言っても、先代ならともかく、あのおっさんにそれほどの期待をしていいものかどうか分からないが」
石田は思わず頷いた。兼正の先代、先々代はともに町長も経験した実力者だ。その先代が昨年死んで、いまは息子が議会に入ってはいるものの、血気盛んだった先代に比べればいかにも頼りない。
「先代が生きていてくれれば良かったんですけどね」石田は呟いて、ふと、「そう言えば、兼正の先代も急死しているんですよね」
敏夫は突然、苦いものでも口に放り込まれたような、複雑な顔をした。
「そうだが――。いくらなんでも、あれは関係ないだろう。去年の七月の話だろう、確か。一年前のことだからな」
「そうですけど。まあ、なんとなく」
「とにかく、データを集めるためにも、まず患者に病院に来てもらわないことには」
「ええ、はい。分かります」
「とりあえず石田さん、夏――そうだな、七月からこちらの死亡者リストが欲しい。おれが看取った以外にも、死人が出ているかもしれない。もしもいれば死亡診断書の写しが欲しいんだが」
石田は頷いた。
「明日には何とか。遅くとも明後日までには用意します。動態調査はわたしの管轄なんですがね、取りまとめて定期的に一気にやることにしてるもんで」
「明後日でいい。ただし、明後日には必ず」
「承知しました」
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
敏夫が石田と会ったその翌日も、異常に蒸した。病院にやってきた患者の誰もが露骨にげんなりとしている。どうやら一雨来そうな気配だった。そんな中、門前の安藤奈緒がやってきた。奈緒が診察室に入ってきた瞬間に、敏夫は一種の予感のようなものを感じた。
どうしました、と敏夫は訊いたが、奈緒の顔色は明らかに悪かったし、いかにも気怠げな様子だった。同じく怠そうにしていても、暑さと湿気に辟易している患者とは確実に何かが違っていた。奈緒は返答するように僅かに唇を動かしたものの、それさえも億劫そうにやめてしまう。
「どうした? 怠そうだな」
再び促しながら、敏夫は奈緒の手を取った。力なく、しかもひんやりして感じられる。脈はやや速いが、頻脈というほどではない。間近から顔を覗き込むと、その眼にはどこか憑かれたような印象がある。結膜が異様に青みを帯びているせいだ。
「とにかく怠くて……義母がどうしても病院に行けと言うので」
「そう。熱はないみたいだな。ということは、風邪ってわけでもなさそうだが。いつぐらいからそんなふうなんだい?」
「昨日……いえ、今朝です」
「どっちだい?」
「今朝、起きるとすごく怠かったんです。ゆうべは暑くて寝苦しかったし……。でも、義母は昨日から何度も大丈夫かって訊いてきました」
敏夫は首を傾けた。妙な言い方だ。
「奈緒さん自身は、昨日の時点じゃ、別に怠いとは思ってなかったのかい?」
「……分かりません。言われてみると怠いような気もしたと思いますけど。……なんだか、頭が重くて。ぼうっとしてるんです」
「そのようだな」敏夫は頷く。「息切れや動悸は?」
訊きながら脈を取る。少し脈が弱いのか、あまりはっきりと触知できない。
「いえ、はい、……よく分かりません」
「食欲は?」
ありません、という声は消え入るようだった。眼瞼を持ち上げて粘膜を見ると、色が薄い。爪の色も白く、念のために口を開けさせて口腔粘膜を確認すると、これも健康な赤味を失っていた。似ている――恵と。
「立ち眩みは」
「ええ、少し」
「生理は順調かな。今、生理中?」
はい、と奈緒は頷いた。
「そりゃ結構。ちょっと貧血が出てるようだな」敏夫は言い、そして言い添える。「念のために詳しく診ておこう。どこか他に辛いところは?」
「いえ……べつに」
そう、と呟きながら、敏夫は奈緒に隣の診察室に行って着ているものを脱ぐように言う。看護婦の清美に身長と体重、脈拍と血圧、体温を測るよう指示した。
別の患者を診ている間に、清美が測定を終えていた。血圧はやや低く、脈拍はやや多い。わずかに微熱があるが、とりあえず異常なし。一見して、肌は健康な色味を失っているが、黄疸や特筆するような紫斑は見られない。爪や舌も正常、毛髪にも異常なし。
「ちょっと両膝を立てて。――特にトイレが近いとか、尿が出にくいとかあるかい」
「いえ……」
頷きながら、肝下縁に触れる。肝臓には異常が感じられない。
「色には異常はない? 茶色がかっているとか、赤味があるとか」
「……ないと思います」
奈緒の返答は、いかにも億劫そうだった。既往歴や生活歴、家族歴を訊きながら触診を行う。特に脾臓が腫れている様子はない、頸部、脇下のリンパ節が若干、腫脹している。聴診器を当ててみても、心雑音や静脈雑音はない。――やはり単なる貧血に見えた。
「貧血だと思うんだけどね」敏夫は奈緒に服を着るよう言い、「ただ、身体の中で内出血が起こっていて貧血が出ることもあるんで、レントゲンを撮っておきたいんだが、いいかな?」
奈緒が頷いたので、清美に指示を出す。
「胸部と腹部のXP。あと、尿を採って血液検査。うちのぶんと検査に出すぶん。それと骨髄穿刺」
「骨髄穿刺ですか。胸骨で?」
清美は瞬く。
「うん。それから、末梢血と穿刺益の塗抹標本を採るから」釈然としない顔つきの清美を目線で抑え、敏夫は奈緒に笑いかける。「ちょっと骨髄液を採らせてもらうよ。少し痛むかもしれないけど、別に怖い検査じゃないから。とりあえず今日のところは検査してビタミン剤だけ出しておくんで、三日後にもう一度来て」
ただし、と敏夫は強く言い添えた。
「明日の朝になって、今日よりも身体がだるいとか、熱があるとか、具合が悪くなっているようだったら、明日も来るんだ。いいね?」
奈緒は頷いたが、その顔は淡々としていた。まるで他人事のような顔をしている。不安を感じていないふうなのが、むしろ気にかかった。清美に促されて処置室のほうへ向かう奈緒を見送り、やすよが小声をかけてくる。
「先生――何か難しいことでも?」
いや、と敏夫は肩を竦めた。
「難しいことなら、国立病院あたりを紹介するさ。ただ、念のためにな」
「でも」
やすよが言いかけたのを、手を振ってやめさせる。
「単なる風邪でも、単なる腎炎でもここまで警戒はしないさ。奈緒さんは貧血を起こしているように見える。それも『単なる貧血』だ。本当なら神経質になるようなことじゃない。――だが、恵ちゃんもそうだったんだ」
やすよは心得た顔で頷く。
「後悔はしたくないからな」
「そうですね」
「田中さん、済まないが頼まれてくれないかね」
田中良和は保険係の石田に拝まれて、瞬いた。石田は突然、七月に入ってからの死亡者が知りたい、と言う。人口動態調査の時期ではないし、今月の人口推計はとっくに終わっている。理由を訊いても言葉を濁すので釈然としないが、とりあえず田中は頷いた。
「死亡者の名簿を出して、死亡届のコピーを取ればいいんだね。内密で?」
「別に怪しげなことじゃない。気になることがあって調べてみたいだけなんで。大騒ぎするようなことじゃないから、こっそりやりたいだけなんだよ」
田中は頷き、昼休み、出張所の人々が出払った頃を見計らって死亡届の控えの綴りを引っ張り出した。
乾いた音を立てて、水滴が役所の窓を叩いた。午前中に蓄積した湿気が、ついに飽和量を超えて水滴となって落ちてきた――田中はそういう印象を受けた。大粒の雨が撒き散らされ、すぐに水桶の底を抜いたような驟雨に変わった。久々のまとまった雨になりそうだった。人の気配が絶えた役所の中は急速に翳っていく。
田中は綴りを抱えて自分の席に戻った。いちばん上に綴り込まれていたのは、清水隆司のものだった。田中はこの男を知らない。四十一歳、死亡診断書を出したのは、溝辺町の総合病院になっている。その前は後藤田ふきという老女のもの。その前は大塚康幸。
田中は思わず顔を顰めた。大塚製材の息子だ。弔組は別だが、すぐ近所の住人なので田中自身も葬儀に行った。
(そう言えば、今年は葬式が続く……)
大塚康幸の前にも、清水恵が死んでいる。大塚康幸の下、門前の老人の次に診断書が綴り込まれていたのが、恵のものだった。娘の幼なじみで、ひとつ上、まだ高校一年生だった。清水一家の落胆ぶりも哀れだったが、友人を失った娘の嘆きようも酷かった。
その前には山入で人が死んだ、と大騒ぎしていた。老人が三人死んで――。
田中は綴りを捲る手を止めた。石田が調べたいことと言うのは、これだ、と思った。そう、明らかに死人が多すぎる。
清水恵の前には中外場の青年、そして山入の老人三人。その前にも上外場の誰かが死んでいる。これも八月に入ってからのことだ。
(……こんなに?)
田中は戸籍や住民票の担当をしているが、実際のところ、手の空いたものが窓口に出て届けを受け取るし、その後の処理もする。外場出張所は小さい。総勢六人の組織だ。担当業務が決まっていても、実情はそんなもの、だから意識していなかった。だが、八月に入ってからの、この数は異常だ。
田中はどこか血の気の引くような気分で綴りを繰った。上外場の死人の前は、外場の老人、これは七月の三日。溝辺町の国立病院で食道癌のために死亡しており、その前になるともう五月の死者になる。
異常なことが起こっている。それも八月に入ってからだ。
田中は資料を取りまとめ、ロッカールームで昼食を摂っていた職員の中から石田を呼んだ。田中の血相に気づいたのか、石田は表情を強張らせて出てくる。
「石田さん、これ」
石田は礼を言ってコピーの束を受け取った。田中は引きつった表情で石田を見る。
「石田さん、何が起こってるんですか」田中は小声で言った。地響きを立てるような雨音の中、遠雷が鳴った。「八月に入ってから、この村はどうかしてる。石田さんが調べたいことというのは、これですか」
「何人いました」
「十です」
石田は田中の硬い表情をまじまじと見返した。想像よりも遙かに多い。
「田中さん、あんたの気持ちは分かります。けれども今の段階では、なんとも言えない。とにかく、しかるべく手を打ってますから」
「しかし……」
石田は怯えた色を浮かべた田中の目を覗き込んだ。
「これはあんたの胸に畳んで置いてください。分かるでしょう? これが外に漏れたら、えらいことになる。そのかわり進展を知らせますから。頼まれついでに、今後、死亡届が出たら、その都度コピーを取ってわたしに廻してもらえませんか」
田中は息を呑み下すようにして頷いた。
「あれ、降ってきたのかい」
長谷川は店に入ってきた若い男の姿を見てそう声を上げた。
結城は窓を振り返る。とはいえ、クレオールの窓はひとつしかなく、そこにはステンドグラスが入っている。窓の外の景色が見える道理もないが、窓の外が暗い。叩きつけるような雨音がBGMの合間に聞こえていた。
「本格的な雨になりそうですよ」と、若い男は笑って、カウンターの脇に抱えてきたケースを置く。「これ、伝票です。他に何かありますか」
ちょっと待って、と長谷川は厨房に行ってメモ用紙を持ってくる。
「これを頼むよ。数は書いてあるから。今日は、|三上《みかみ》くんは?」
「三上さん、辞めちゃったんですよ。急に引越すことになったとかで」
「へえ? 先週、来たときは何も言ってなかったのになあ」
若者は頷いた。
「そうなんです。本当に急で。突然辞められてみんな困ってるんですよ、実は」
「だろうねえ」長谷川は言って、ガムの包みを投げた。「こんなものでも。帰り、運転に気をつけて」
どうも、と若者は白い歯を見せて店を出ていく。ドアを開け閉めする際、さらに強くなった雨音が流れ込んできた。
「えらく降ってますね」
結城が言うと、長谷川はケースに手をかけながら窓に目をやる。
「蒸しましたからねえ。これで少しは涼しくなるかな。やれやれだ」
「本当にそうなるといいんですけどね」広沢が苦笑した。「これまで雨のたびに肩すかしでしたからねえ」
広沢はカウンターで教科書とノートを開いている。八月も二十四日になった。新学期の準備をしているのだろう。その隣では、例によって書店の田代が遅い昼食を摂っている。
「本当に」と、長谷川は大仰に溜息をついた。「今年の夏はどうなってるんでしょうねえ。雨は少ない、暑さはきつい。熱中症っていうんですか? 溝辺町でも死人が出たそうで。JAの倉庫で働いてた人が亡くなったって、新聞に書いてありましたよ」
結城は思わず顔を顰めた。死人、という言葉が妙に身に迫って聞こえた。つい一昨日、弔組で後藤田ふきの葬式に出たばかりだ。思えば、クレオールに最初に来たのも葬式の帰りだった。ふきの息子と葬儀――初めて参加した弔組。あのとき喪主席で身を竦めるようにして坐っていた老婆は半月を経て息子の近くに埋葬された。
結城は軽く溜息をついた。
「何だか……死人が多いんですね」結城が言うと、長谷川も広沢も、そして田代も結城を見た。「こんなもんなんですか」
結城が以前住んでいた街では、これだけの短期間に死亡が続くなどということはなかった。わずか半月の間に、後藤田秀司、ふき、清水恵と三軒の葬式に結城は参加している。しかも山入の事件がある。亡くなったのは山入に住む老人で、結城とも結城の所属する弔組とも関係はなかったが、後藤田ふきの実兄が死んだと聞いている。半月に四件、六人の死者は多すぎはしないだろうか。ましてや人口を考えると、これは尋常のことではないように思われた。
「こんなもの、ということはありませんが」広沢は苦笑した。「ただ、続くこと、というのはありますね、基本的に老人が多いですから。気候の変わり目にバタバタと死人が続くというのは、よくあることです」
おまけに、と長谷川が笑った。
「ここは人口が少なくて、住人の関係が密なぶん、どこかの誰それが死んだって話もあっという間に伝わりますからね。弔組もありますし、隣で葬式が出ているけど誰が死んだんだろうか、なんてことはない。都会じゃ、そういうもんでしたけど」
「ああ、確かに」
「だからまあ、死人が多いような気がするんですけどね。実際、人口に対する割合から言ったら多いんじゃないですか。年寄りばっかりですからね」
広沢も頷いた。
「不思議に、死に事というのは続きますね。一度、弔組ででかけると、しばらく弔組の用で出てばかりいる、ということがありますから。それがやむと、しばらく何もなくて、いずれまた続く。なにかこう――波のようなものがあって」
確かに、と長谷川も田代も同意した。
「偏りがあるんだよね」田代は盛んに頷いている。「ある時期に、弔組の用が続いて、こっちは走り回ってるのに、よその組じゃまったくの平穏無事ってことがあるからね」
「へえ?」
長谷川は笑う。
「現にほら、わたしはこのところ弔組にはご無沙汰です。そもそも、わたしが弔組に参加したのって、まだ一度だけですからね。外場に越してきて以来」
「そうなんですか」
「越してきたばかりのころ、一度あっただけです。越してくる前に女房の親父が死んで、それを含めても二度ですよ。これは別に弔組に参加したわけじゃないですしね。弔組に関しちゃ、結城さんのほうが経験豊富になっちゃいましたね」
そんなものか、と結城は思う。広沢がやんわりと微笑んだ。
「わたしも、弔組は久々です。秀司くんの件で出かけたのが、五年ぶりになりますね。その前は自分の母親の葬儀でしたから。あのときも続いてね。さすがに半月というのは珍しいですけど、ひと月ほどの間に二軒ぐらい続いたんじゃなかったかな。続くな、と思っていたらその次が自分の母親の番でね。これは引かれたな、と思ったもんです」
「引かれた?」
広沢は頷く。
「母親の前に死んだのが、母親と仲の良かった人だったので。これは寂しがって母親を呼んだんだな、というふうに思いました。あの世へ引っ張っていった……」
「ああ、それで『引く』ですか」
「迷信なんですけどね。ただ、本当に不祝儀というのは不思議に続くものですから。馬鹿馬鹿しいようで、それなりに説得力を感じますね。理屈ではない、皮膚感覚として」
長谷川はどこか感じ入ったふうに言う。
「秀司さんが残された母親を憐れんで、引いていったのかねえ」
広沢は苦笑する。
「そんなはずはない、と頭では分かっているんですけどね。村迫の秀正さんが、可愛い甥を引いていって、引かれた秀司さんが残された母親を引く。――そういうふうに表現すると、なんとなく説明がついたような気分になりますね。釈然とする、というか」
実際にそうだったので、結城は無言で頷いた。同時に、不可解なものだ、と思う。
死は普遍的な現象だ。生まれた以上、死なない人間はいない。人の死は当然のことなのに、周辺の人間の死に対して、起こるべきことが起こった、と感じることはほとんどない。むしろ逆だ。起こるべきでないことが起こったという感触を抱く。それが続く。起こるべきでないことがまた起こったという、まるで災厄にでも遭遇したかのような感覚。常には意識することのない何者かが、理不尽な現実を捏造し自分に対して突きつけてきたような、不快感とも恐怖とも不安ともつかない不可解な情動。こんなとが起こりうるのか、という感慨と、また続いたらどうしようという不安、それがじじつになったときの、やはりという原初的な畏怖。そうとはっきり分かるほど明瞭な感情ではないのだけれども、振り返って言葉にすると、そう表現することになるのだろう。
偶然の仕業だと分かっていても、何かの選択が働いているとしか思えない。自分の外部に歴然として存在する「死」というもの。支配することも関与することもかなわない無情の摂理。それに対する曖昧模糊とした不安は、「引く」という言葉に出会って解消される。――不思議にも。
「人間というのは、妙な生き物ですね」
結城は呟いた。怪訝そうに首を傾げる広沢らに、結城は微笑む。
「人間にとっての死というものは、と言ってもいいのですが。死というものに対して人間は奇妙な振る舞いをするものだな、という気がして」
そうですね、と広沢は穏和な笑みを見せた。
夕刻になっても雨はやまない。それどころか次第に強まり、豪雨の様相を呈してきた。厚い雲と雨の幕で五時前だというのに、すでに暗い。高見は腰を上げて電灯を点けた。
戸口から外を窺っても、道の向かい側の家並みでさえ霞んでいた。道の表面を水流が洗っていく。さすがに人通りも絶えて、駐在所は雨の中に孤立しているようだった。
地を揺るがすような雨音が響いている。どこか不安を煽るような音だった。切れかけた蛍光灯が、それに拍車をかけるように短く瞬く。不吉な予兆のように電話が鳴った。
高見は古色蒼然とした黒い受話器を取る。電話してきたのは、安森徳次郎だった。
「ああ――高見さん。ひどい降りだね」
「まったくです。どうしました」
「いや、さっき川を見てきたんだが、かなり増水してるんだよ。水の色も泥の色でなあ。そうとう土が洗い流されてるらしい。それでなくても連日の日照りで草の根も干上がってるんで、あちこち斜面が脆くなってる。このまま雨が続くと万が一ってこともあるから、消防団に招集をかけようかと思うんだが」
高見は頷いた。
「それがいいでしょうね。わたしが詰め所を開けときますから」
消防団の詰め所は駐在所のすぐ隣にある。こういう時のために、高見が合い鍵を預かっていた。
「渓流の土手は滅多なことで切れるようなことはないと思うんだけどね。ただ、下の川や排水路が溢れるってこともあるからな」
「ええ。あとは山際ですな。土砂崩れなんてことがなきゃいいんだが」
「まったくだ。ちょっと区長会から気をつけるように連絡を廻すよう頼んでおこう」
徳次郎は二、三の申し伝えをして、電話を切った。高見は詰め所の合い鍵を持ち、合羽を着込んで表に出る。傘は持つ気にもなれなかった。こりゃあ酷い、とひとりごちながら、高見は詰め所の錠を外す。明かりを点けておいた。おっつけ、手の空いたものから順に団員が集まってくるだろう。駐在所に戻り、妻に炊き出しの手伝いをするように言わねば、と思いながら、高見は詰め所を出る。戻りかけてふと足を止めた。水は長靴の甲を洗おうかという案配だ。徳次郎の心配は杞憂とは言えない。下手をすれば本当に斜面が崩れる恐れがある。
高見は西山のほうを仰いだ。雨の幕に覆われて、もちろん山は見えない。
「……まずいかもなあ」
高見はひとりごちる。兼正の家のことを思った。そもそも高台の家、しかも昨年、建物を普請して土台を|弄《いじ》っている。鬱蒼とした庭木も整理された。つまりは根が掘り上げられ、地面が|均《なら》されたということだ。徳次郎は注意を廻すと言っていたが、あの家に連絡を廻す者がいるだろうか。
高見は少し迷った。本来なら転居者があれば戸別訪問をしなければならない。家族構成や電話番号を聞いて台帳に控えておかねばならないのだが、高見はそれを今日まで怠っていた。家の佇まいが部外者を拒絶しているふうで気後れがしたせいもある。二度ほど尋ねたのに、インターフォンに応答がなかったせいもある。そもそもこの夏、家に転居者がいるかどうかを確かめたくて忍び込んだ、それが後ろめたかったのもあった。機会を逃してそのままずるずると今日に至っている。だが、高見でさえその有様なら、電話で連絡しようにも電話番号を知る者はいないかもしれない。それでなくても増水や土砂崩れが心配されるときに、兼正のことを思い出す者がいるだろうか。この雨の中、わざわざ知らせに行く者がいるだろうか。
「行かにゃならんな、こりゃ」
高見は気を奮い立たせて足を西のほうへ向けた。激しい雨足に肩を背中を叩かれながら、浅瀬と化した道を急ぐ。誰かが連絡をしたほうがいい。たとえ二重になっても、悪いということはないだろう。
高見ができかけた後、詰め所は無人で残された。周囲は墨色に滲んでいる。そこにぽっかりと詰め所の戸口が開いて、黄味を帯びた明かりが漏れていた。
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
その夜、敏夫は石田から、早急に会いたいと切羽詰まった声で連絡を受けた。病院の外は文字通りの土砂降り、診察室に入ってきた古老達は、一様に増水や土砂崩れを心配していた。
診察を終えて夕飯を掻き込んでいると、溝辺町へと法事に出ていた静信が敏夫を迎えに来た。ワイパーを無用の長物にするほどの雨の中を寺に戻ると、石田はすでに到着して応接用の座敷で静信と敏夫を待っていた。
「十です」
「――十? 待ってくれ。そんなに?」
敏夫は愕然とし、書類を引ったくるようにして手に取った。
「秀司さん、義五郎さん、秀正さん、三重子さん。それから八月十一日、広沢高俊、急性心不全――誰だ、これは?」
静信は首を傾げた。少なくとも静信には聞き覚えのない名前だった。葬儀を依頼された覚えもないから檀家ではない。住所は中外場、年齢は二十八歳。石田も知らないのか、首を横に振っていた。
「狭いようで広いな、この村も。八月十五日、清水恵。それから丸安製材の義一さん」
敏夫はひとり頷く。
「八月十八日、大塚康幸――これは大塚製材の息子じゃないのか?」
「そうです。あそこの長男で」
「そうか、あそこは確か、どこかの新興宗教に入ったんだよな」
静信は頷く。大塚製材は、もともと檀家だったが、いまでは縁が切れていると記憶していた。
「三十五歳か。消化管出血による失血死、とあるな。これは国立が看取ってる。急性肝不全から来る消化管出血だ。そして二十一日、後藤田ふき、昨日にも死人が出てるな。清水隆司――これは?」
「まさか、清水園芸の?」
静信が問うと、石田は頷いた。
「そうです。外場の上のほうにある清水園芸、あそこの長男ですよ」
「檀家か?」
敏夫の問いに、静信は首を振った。
「いや、檀家じゃないのだけど、清水園芸は何度か庭木の手入れに入ってもらったことがあるから。大将が雅司さんといって、もう還暦を過ぎてるんじゃないかな。うちに来るのは大将のほうで、息子さんは確か勤め人だけれども、何度か親父さんの手伝いで来たことがあったと思う。その隆司さんだろう」
「四十一歳か。溝辺町の病院で死んでるな。急性心不全だ。心不全で倒れて病院に運び込まれて――蘇生術で一旦、持ちこたえているが、その後に期外収縮で再び心停止、蘇生術を試みるも蘇生しなかった。昨日の早朝、午前四時に死亡」
そう、と静信は呟く。知人が自分の知らない間に死んでいたという、言葉では表すことのできない|寂寞《じゃくまく》感。
「その前は七月三日。これはたぶん関係ないな。始まったのは秀司さん――いや、山入の三人からか」
石田は敏夫に縋るような目を向けた。
「やはり伝染病でしょうか」
さあな、と言って、敏夫はメモ書きをしていく。
大川義五郎――(八月一日?)
[#ここから8字下げ]
七十七歳/山入
死因不明
[#ここで字下げ終わり]
村迫 秀正――(八月一日?)
[#ここから8字下げ]
七十五歳/山入
死因不明
[#ここで字下げ終わり]
村迫美重子――八月五日
[#ここから8字下げ]
六十八歳/山入
急性肝不全?
[#ここで字下げ終わり]
後藤田秀司――八月六日
[#ここから8字下げ]
三十九歳/上外場
急性心不全
死因不明
[#ここで字下げ終わり]
広沢 高俊――八月十一日
[#ここから8字下げ]
二十八歳/中外場
急性心不全
[#ここで字下げ終わり]
清水 恵 ――八月十五日
[#ここから8字下げ]
十五歳/下外場
死因不明
[#ここで字下げ終わり]
安森 義一――八月十七日
[#ここから8字下げ]
七十四歳/門前
肺炎
[#ここで字下げ終わり]
大塚 康幸――八月十八日
[#ここから8字下げ]
三十五歳/下外場
急性肝不全
[#ここで字下げ終わり]
後藤田ふき――八月二十一日
[#ここから8字下げ]
六十七歳/上外場
急性腎不全?
[#ここで字下げ終わり]
清水 隆司――八月二十三日
[#ここから8字下げ]
四十一歳/外場
急性心不全
[#ここで字下げ終わり]
静信はメモを覗き込んだ。
「義一さんを除いては、原因不明かまたは急性不全、ということにならないか?」
「そう言ってもいいだろうな。誰もが突発的な臓器不全にみまわれて急死していると表現できる。唯一、義一さんだけは例外のように見えるが、ただ……」と、敏夫は眉根を寄せてメモに見入った。「臓器不全というのは、要は臓器の機能が著しく損なわれて本来の使命を全うできなくなった、という状態を指す言葉だ。そとつの臓器だけに単発することは滅多にない。得てしてひとつの臓器の機能低下が他の臓器にも影響を与えて、多臓器的に発展する。全身的な症状として表れてくるのがほとんどだ。死亡原因はひとつでも、実際の症状は多臓器的であった可能性が高い。実際、三重子婆さんがそうだった」
ああ、と静信は頷く。解剖された三重子はあちこちに不具合が発見されている。肝不全ということになっているが、これは肝臓の壊死が顕著だったからだ。
「易感染もそのひとつだ。生体の防衛機能が下がって感染症に罹りやすくなる。義一さんの肺炎は、その一環として見ることもできなくもないから、単純に死因だけでこれは別物だと切り分けるわけにはいかないな。疑問符つきとはいえ、一連の死に含めて勘定したほうがいいだろう」
静信は頷いた。
「症状として共通するのは――急性の発症、臓器不全、全身の不具合?」
「経過を観察したわけじゃないからなんとも言えないが、これを見る限り、最終的に多臓器不全に至る、という言い方はできると思う。肝臓を壊しているのでも心臓を壊しているのでもない、何らかの原因があって、それが最終的に多臓器不全を引き起こしている、という印象だな」
石田が首を傾げると、敏夫は息を吐く。
「つまり、こういうことだ。これが感染症かあるいは中毒か、もっと別のものかは分からない。いずれにしても、犯人がいて、十人の人間を殺害した、と考えられる。三重子さんは肝不全で死んでいる。だがこれは、この連続殺人犯が肝臓を攻撃したせいだとは言い切れない。殺人犯はもっと別の部位を攻撃したのかもしれないんだ。
実際のところ、三重子婆さんの解剖結果を見ると、肝臓はもちろん、肺、心臓、腎臓の重要臓器の全てに不具合が見られる。殺人犯が最初に攻撃したのは肺だったのかもしれない。他の臓器は機能低下を起こした肺に引きずられる形で悪くなって、最終的に、肝臓がまず陥落した、という解釈もできるんだ」
「ああ、なるほど」
「何かが十人の人間を攻撃した。それが引き金となって全身の機能が損なわれ、多臓器的に機能不全を起こしたと考えたほうがいいだろうな。問題は、何が多臓器不全を引き起こしたのか、ということになるわけだが――」
「大変なことですよ、これは」石田は頭を抱える。「とんでもないことだ」
「死亡例が十で、そのどれもが本質的には同一のものである可能性がある。まず、必要なのは共通項を探すことだな」
「共通項?」
「そうだ。死んだ十人には何か共通するものがあるはずだ。同じ場所に足を踏み入れたことがある、どこかで接触している、同じものを口にしている、――何かが」
静信はメモ書きを見た。年齢はバラバラ、最初の三件だけは山入に集中しているものの、場所もバラバラだし、特にこれという偏りはないように見える。そう言うと、敏夫もこれに頷いた。
「男が七で女が三、これも偏りと言うにはまだ弱いな。年寄りもいるが高校生もいる。地域的にも外場の全域に及んでいると言っていい。最初の三人の行動範囲は、かなりのところ山入に限定されていただろうが、恵ちゃんが山入に足を踏み入れていたとは思えない。ましてや義一さんは寝たきりだ。むしろ、他の九人が門前に足を踏み入れていたと考えた方が順当だが、門前に何か原因になるものがあるのだとしたら、門前での死亡が一例だけというのは解せない。もっと門前の死亡が多くてしかるべきだ」
石田は唸った。
「これは一軒一軒、当たってみるしかありませんね。わたしが――」
「それはまずい」敏夫は石田を留めた。「石田さんが出ていって根掘り葉掘り訊けば、家族は何事かと思うだろう。もっと穏便にそれとなく調べる方法はないかな」
「とりあえず」と、静信はメモを敏夫から受け取った。「ぼくが訊ける限りのことを聞いてみるよ。どうせほとんどの家には法事で出入りすることになるわけだし。清水園芸と大塚製材も縁がないわけじゃないから、話を聞くぐらいのことはできるだろう。この、広沢高俊という人も、檀家のつてで何とかなるかもしれない」
敏夫は息を吐いた。
「いかにも怪しげだが、それがいちばん穏当だな。じゃあ、そのへんは静信に任す」
静信は頷いた。
「とりあえず、最悪の事態を想定して伝染病を疑う。とすると、ふきさんは秀司さんが汚染源だと思って間違いがない。問題は秀司さんだが、秀正さんから、というのがいちばん疑わしい。おそらくは山入の三人の誰かが最初の一人、指針症例なんだ」
静信は頷き、メモを取る。
「恵ちゃんが倒れたのが八月十一日、死亡したのは十五日だ。十日の様子は分からないが、とりあえず発症が十一日だと考えると死亡までに四日。く」
「ふきさんは、秀司さんの様子が二、三日前からおしかったと言っていた」
「発症日は明らかじゃないが、やはり恵ちゃんと似たり寄ったりだな。村迫の三重子さんは、七月の末――」敏夫は手帳に目を落とす。「七月三十日の土曜、義五郎さんの薬を取りに病院にやってきた。そのときに義五郎さんが夏風邪をひいて、それが秀正さんにも移ったようだ、と言っていた。警察の検屍では義五郎さんと秀正さんの死亡推定日は八月一日前後だ。秀正さんが発症したのが不調が伝えられた三十日の前日、二十九日だと考えると、死亡までに三日」
清水 恵 ――発症・八月十一日(?)
[#ここから8字下げ]
死亡・八月十五日
[#ここで字下げ終わり]
後藤田秀司――発症・八月三日(?)
[#ここから8字下げ]
死亡・八月六日
[#ここで字下げ終わり]
大川義五郎――発症・七月二十八日(?)
[#ここから8字下げ]
死亡・八月一日(?)
[#ここで字下げ終わり]
村迫 秀正――発症・七月二十九日(?)
[#ここから8字下げ]
死亡・八月一日(?)
[#ここで字下げ終わり]
「いずれも、発症から死亡まで数日以内。仮に幅を取って五日以内とすると、ふきさんの死体が発見されたのが二十一日――死亡はたぶん前日の二十日だから、発症したのは十五日以降だ」
静信は頷く。
後藤田ふき――発症・八月十五日(?)
[#ここから8字下げ]
死亡・八月二十日
[#ここで字下げ終わり]
「ふきさんはおそらく、秀司さんから移ったのだと思う。秀司さんの死亡が六日で発症は推定で三日だ。秀司さんが発症してから、ふきさんが発症するまでの間隔は十二日。秀司さんが死亡した時点から起算すると、九日ということになる。幅をとっても一週間から二週間、これが潜伏期間だということになるわけだ。恵ちゃんの発症が十一日、すると恵ちゃんは八月四日から七月二十九日頃に感染している。これはちょうど山入の三人の発症・死亡時期に重なる。直接感染なら恵ちゃんはこの時期に山入の三人に接触したはずなんだが――ないだろうな、普通」
静信も石田も頷いた。下外場に住む高校生が、山入に住む老人と接触した可能性は、どう考えても低いだろう。
「いかにもなさそうなだけに、どこかで接触したことがはっきりすれば、直接感染することが確実になるとも言えるわけだが。三重子婆さんの死亡が八月四日。三十日に病院に来たとき、自分の不調については何も言ってなかったところからしても、発症はそれ以降、三十一日か八月一日あたりで間違いないだろう」
村迫美重子――発症・七月三十一日(?)
[#ここから8字下げ]
死亡・八月五日
[#ここで字下げ終わり]
「すると、感染は七月十七日から二十四日頃で、秀正さんから感染したと考えるには時期的にやや無理がある。むしろ、義五郎さん、秀正さんと相前後して感染したと考えるのが妥当だろう」
「七月の半ば過ぎに何かがあったんだな。それもたぶん、山入で」
「だろう。その時期にどこかに出かけたのでなければ、汚染源は山入にあるんだ。問題は秀司さんだが」
「山入の三人か、あるいは山入そのもの」
「ということだろうな。丸安の義一さんは、同じ病気かどうかはっきりしないが、もしも同じやつだとすれば、感染時期は恵ちゃんと大同小異だ。ただし義一さんは寝たきりで、自分から出かけることはできなかった。今のところ、丸安製材で具合の悪い者はいないようだから、感染したとすれば見舞客が怪しい。義一さんのところに七月の末、誰か見舞客がなかったか――それも、山入関係者で」
「訊いてみる」静信はメモにそれを書き添えた。「――他には?」
「安森工務店だな。今日、工務店の奈緒さんが診察に来た。うちでできる限りの検査をしたが、明らかな貧血だ。それ以外にこれといった不具合はない。似てるんだよ、恵ちゃんと」
静信は手を止めて敏夫の顔を見る。
「まさか――?」
「断言はできないが、可能性としては大だ。今日が二十四日だから、もしも奈緒さんが感染したんだとしたら、八月の十日から十七日だ。義一さんの死亡にちょうど重なる」
安森工務店は丸安製材の分家だ。義一は、安森工業の社長である徳次郎の兄にあたる。仕事の上でも付き合いが深く、家も近いので関係は密だ。
「奈緒さん自身に訊いたところによると、その頃、特にどこかに行ったとか、特に何かがあったということはない。山入に入ってないし、山入の三人にも会っていない。後藤田の秀司さんとは面識がない。名前を聞いたことがある、という程度だ。ただ、製材所に行ったついでに義一さんの様子を見舞って、ということは何度か会ったらしい。もちろん、通夜にも葬儀にも出ている。もしも奈緒さんが例のやつなら、義一さんも例のやつだったと思って間違いないだろう」
石田は深い息を吐いて頭を振る。
「じゃあ、とにかくそのあたりの調査は若御院の御厚意に甘えることにして……あとは具体的には何を?」
敏夫は小さく唸った。
「とにかく、情報が少なすぎるんだ。まず、何が起こっているのか確実なところを掴[#「掴」は旧字体。Unicode:U+6451]むことが急務だろう。具体的に言えば、最優先の課題は死亡原因の特定だ。病名の特定、あるいは病因の特定。何が原因でこれだけの死者が出ているのか、それはどういう性質のもので、本当に伝染するのかどうかを明らかにする必要がある。そのために必要なのは臨床例なんだ。今のように、全てが終わって訃報だけが飛び込んでくるようでは、死因の特定も満足にできない」
静信は呟く。
「けれども、不安に駆られた患者が大挙して病院に押し寄せてくるような事態は避けたい……」
「そう。そのへんがジレンマだ。ネックは初期症状が軽微で見落とされやすいことなんだ。これは石田さんのほうから注意を促して、夏風邪だ、夏バテだと素人判断をせずに病院にかかるように、と呼びかけてもらうしかない。
石田は頷く。
「とにかく、大至急、チラシを作ります。夏風邪の症状や、夏バテの症状を知らせて、その場合の対処の仕方を告知してはどうかと思うんですが、いかがでしょう」
「そうしてくれるとありがたいな。夏風邪や夏バテの見極め方と、家庭内でどう対応すればいいかを告知して、症状が合致しない、あるいは対処したのに効果がない場合は、病院にかかるようにと呼びかける」
「そうします。これは早急に」
「頼む。それから、おれ以外の医者が出した死亡届が役所に届いたら、即座に知らせて欲しい」
「死亡届をコピーしてお届けします。ファックスは避けたほうがいいでしょうね?」
「そうだな。そのほうがいいだろう。ご足労だが、直接頼む」
「承知しました」
「それらの死亡者については、静信に調査を頼む。あとで調査項目を知らせるから。事情を言うわけにはいかないから、それとなく聞ける範囲内でもやむを得ない。どうせ本人がすでに死んでいるわけだから調べようにも限界があるしな。むしろ、あまり事を荒立てたくない」
静信は頷いて敏夫を見た。
「溝辺町や保健所には?」
「問題はそれだ。どうしたもんかな」
「伏せておくわけにもいかないだろう? とりあえず、死亡者数は出張所から役所に上がってるんでしょう、石田さん」
「八月分はまだですが、当然、上げることになります」
敏夫は息を吐いた。
「とりあえず、保健所に報告する義務のあるようなことは起こってないわけだが。死亡が多いことは報告する必要があるだろうな」
石田は頷く。
「何らかの疾病が集団発生している可能性があることを報告します」
「相手が信用してくれるか、問題視して対応に乗り出してくれるかどうかは疑問だがな。とりあえずこれまでの経過を取りまとめて知らせる。あとはこまめに経過を報告することだな」
「一週間ごとでいいですか?」
「いいだろう。後は、それとなく兼正に話を繋いでおいたほうがいいだろう。これはおれから連絡しておく」
「田茂は?」と、静信は訊いた。田茂定市は実質上の村長であると言っていい。本来的なら、三役を招集すべき事態だ。「定市さんにも知らせておく必要があるんじゃないだろうか」
敏夫は考え込む。
「まだ伏せておこう、定市さんには悪いが。なにしろ疑惑だけがあって、何ひとつ確定しているわけじゃないからな。定市さんのほうから問いかけがあれば、実情を報告しないわけにはいかないが、そうでなければ、せめて伝染病かどうかが確定してからのほうがいいだろう。あの人もこれを知れば、区長会に報告しないわけにはいかなくなるからな」
そうですね、と石田が頷いてメモを取っていた手帳を閉じた。
「では、当面はこの線で」
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
敏夫は石田と連れだって庫裡を出た。境内は文字通り滝のような雨に洗われている。たたでさえ乏しい該当が水煙で滲んで、境内はいっそう暗かった。
石田の車で病院まで送ってもらうことにし、敏夫はほとんど用をなさない傘をさしかけて境内を小走りに横切った。足許は水たまりのない場所を探す方が難しい。白いカローラに乗り込んだときには、すでに膝から下がずぶぬれになっていた。
運転席に石田が滑り込み、ドアを閉める。とたんに雨音が少し間遠になって、車の中には密室に特有の静けさが訪れた。
「……石田さん、相談があるんだが」
はい、と石田はエンジンを掛け、敏夫のほうを振り返る。
「この件、しばらく伏せておいてもらえないか」
「ええ、それは、もちろん」
敏夫は湿気で曇ったフロントガラスの向こう、境内の闇と雨を見つめながら言う。
「そういう意味じゃない。しばらく、上には報告しないでもらいたいんだ。おれが良いと言うまで、外場の外には出さないでもらいたい」
石田は瞬いた。でも、と言いかけた石田を制して、敏夫は取りあえず車を出すよう促した。尾崎医院の前までほんの少しの道程、それを無言で通し、着いたところで口を開いた。夜の駐車場、周囲は見通しの利かない雨の幕、車の中は完全に外界から隔絶されている。
「……石田さん。実を言えば、おれはこれを疫病だと思っている。おそらく間違いないだろう。それも尋常のやつじゃない。調べても調べても、症状に合致する伝染病が出てこないんだ」
「まさか、新種の?」
「新種なのか変異種なのか分からない。ひょっとしたら、単にそう見えるだけかもしれないが。いずれにしても確実なのは、こいつはとんでもない代物である可能性がある、ということだ。目に見える被害者だけを見ていると、こいつは恐ろしく致死率が高い。もちろん、不顕性感染ということもある。発症したが誰も気づかないうちに治癒してしまった、ということがね。だがそうでない場合、急激に悪化して対処のしようもないほど即座に死亡する。しかも死亡診断書を見る限り、周囲が発症に気づいた段階では、すでに打つ手がないに等しいんだ」
石田は、こくりと喉を鳴らした。
「感染したら必ず発症するものかどうかは分からない。だが、発症したら手がつけられない、という印象を、おれは抱いている。それが山入から始まって、外場を汚染してている。こうしている間にも広がっている」
「は……はい、ええ」
「これを行政に訴える。すると何が起こると思う?」
「何がって……」
「これが結局のところ、知られている伝染病だっていうなら怖くないんだ。おれにだって報告の義務がある。黙っているわけにはいかない。しかしこれが、さっきも言ったように新種の何かだったら? その場合、行政に何かできるのかい」
石田は喉の奥で呻った。
「……できません。伝染病予防法に定められた伝染病か、食品衛生法に定められた食中毒でない限り、対応の拠り所になるものがないです」
「その通りだ。こいつの場合、食中毒はない。伝染病予防法に定められた伝染病は?」
「ええと……」
「法定伝染病十一種、指定伝染病二種、届け出伝染病十二種、寄生虫病予防法、結核予防法、らい予防法によるもの各一種、性病予防法によるもの四種で計三十二種。さらにサーベイランス事業の対象となる感染症のうち、三十二種と重複しないもの。――この中に含まれていれば問題ないんだ。たとえ変異種であろうとな。しかし、もしそうでなかったら? 行政には手出しのしようがない」
「はい……」
石田は震えた。その通りだ。法的な拠り所がなければ患者を隔離することすらできない。本人の意向を無視して医者と役所の独断で身柄を拘束することはできないのだ。
「そこをゴ押しして救済を求めるには、金政の息子は頼りない。あんたの言う通りだ。先代が生きていてくれりゃ良かったんだがな。これが外に漏れても行政の援助は期待できない。それだけじゃない。もしも、新種の疫病だったとして、しかもそれが直接伝播するということになったら、何が起こると思う?」
「……分かりません」
「エボラを見ても分かるだろう。封じ込めだよ。得体の知れない伝染病が外場で流行っていると漏れる。するととにかくまず、打つ手としては封じ込めしかないんだ。外場を隔離して、患者の流出を防ごうとする。それも法的な根拠がなければ、陰湿な形にならざるを得ない。行政と医師会が結託して、水面下で外場を隔離するように動く。そうなるしかないんだ」
「はい、ええ」
「確かに、それで流行の拡大は防げるかもしれない。特にこいつのように致死率の高い伝染病に封じ込めは有効だ。だが、それでは外場は救われないんだよ、石田さん。火事の時に消防車を出さずに見守って、自然鎮火に任せるに等しい。燃え草がなくなれば自然鎮火するかもしれないが、そうすれば外場はどうなる?」
石田は頷いた。
「おれは事態を揉み消したいわけじゃない。もしも法定伝染病ならおれには報告の義務があるし、もちろんそうと確定した時点で報告をするさ。直接伝播ではないことが確認されて、だから外場を封じ込めても意味がないんだと訴えられるようであれば、行政を突き上げる。だが、本当に汚染源が山入で、これがまだ外場にしかない伝染病で、直接伝播するということになれば、デリケートな取り扱いを要する」
「若先生の言うことは分かります。分かりますが……」
「本当に直接伝播するなら、おれだって対応策は考えるさ。自主的に封じ込める努力だってするし、医師会を通じてそれとなく通告もする。それに関しては、約束するから、しばらく伏せいておいてくれないか」
石田は返答に迷った。逡巡を見透かしたように、敏夫は石田を見る。どこか底冷えのする声で低く囁いた。
「外に飛び火したほうがいいんだよ、石田さん。もしも行政に手出しできない種類のことならね。自分たちの足許に火が点かなきゃ、連中は何もしない。自分たちを守る以外のことは、なにひとつ」
「若先生」
「普賢岳、奥尻島、松本」
敏夫は呪文を唱えるように囁く。
「……あんたが、行政は現場の人間を救うために努力すると信じるのなら、その根拠を聞かせてもらおう」
石田は口を開きかけ、迷った末に噤んだ。石田の沈黙を見て取って、敏夫は助手席のドアを開ける。途端に耳を聾するほどの雨音と水煙が流れ込んできた。
「悪いな、石田さん。よろしく頼む」
「……はい」
車から降りた敏夫は、身を屈めて石田に言う。
「それから、このことは静信にも内密にしといてくれないか。あいつは理想主義者でね、清濁を併せ呑むということができないんだ」
分かりました、とだけ石田は答えた。
[#改段]
[#ここから3字下げ]
二章
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
田島予研に大至急で頼む、と依頼した奈緒の検査結果が敏夫の手元に届いたのは、翌日の昼前のことだった。昨夜の雨は上がっている。またうんざりするような陽射しが降り注いでいた。
コーヒーと一緒に検査表を運んできた律子は、少しの間に本で埋め尽くされた控え室を見て溜息をついた。少し片づけてもいいですか、と言うので律子の好きにさせ、敏夫は検査結果に見入る。昨日、病院で行った簡単な検査の結果と突き合わせてみた。
恵の場合と同じだった。各種血球の減少、ヘモグロビン量、ヘマトクリット値の減少。明らかな貧血傾向。しかも正球性正色素性貧血。ただし、血清ビリルビン、LDHは正常値。その他の値も正常で、肝機能、腎機能には異常が見られない。特に追加したクームス試験の結果も陰性。これが陰性である以上、通常の溶血ではない。恵と同じだ。貧血以外にはこれといって不具合はないように見える。
(本当に単なる貧血なのか、それとも……)
昨夜、末梢血の塗抹標本と骨髄液の標本を顕微鏡にかけた。血液像では網赤血球が増加しており、有核赤血球も見られた。骨髄では赤芽球の過形成が起こっているが、血液学の専門家ではない敏夫では形態異常は発見できなかった。血液造血レベルの以上ではないように思える。むしろ大量に赤血球が消費されているために、造血が促進されて幼若な赤血球が放出されていると考えた方がいいのだと思う。
(だとしたら)
内出血による喪失か、あるいは溶血による破壊亢進か。
(内出血はない……)
触診でもレントゲン像でも、特にない出血は見られなかった。内臓の腫大も、とりあえずないように見える。
(しかし、溶血とも思えない)
クームス試験の結果は陰性。自己免疫性の溶血ではないし、赤血球像からすると、赤血球の形態異常から来る溶血でもない。血清ビリルビンやLDHが正常なところからしても溶血とは思えない。
何度、検討してみても、考えれば考えるほど全ての可能性が否定されるように思われた。起こるはずのないことが起こっている。何かがおかしい。
敏夫は深く考え込んでいたので、本の山を整理していた律子が、何かを話しかけてきているのにしばらく気づかなかった。
「――先生、聞いてます?」
「ん? ああ?」
律子は少し表情は曇らせた。
「そんなに悪いんですか、奈緒さん」
「いや。そういうわけじゃない。ちょっと理に合わない結果が出てるような気がしてるだけだ。――何がどうしたって?」
律子は苦笑する。
「大したことじゃないです。ゆうべ、あちこちで山が崩れたようですねって」
「へえ?」
「さっき、中外場の佐川さんが来てたんです、物療に。佐川のお爺ちゃんのところ、西山の崖に面して建ってるんだけど、ゆうべそれが崩れて泥が家の中に入ってきたんですって。後始末が大変だって嘆いてました」
「そりゃあ――泥を被ったぐらいで済んで良かったな」
「お爺ちゃんもそう言ってましたけどね。座敷が泥田になったけど、そんなもんで済んで良かったって。本格的に崩れたら大事になってたかもしれませんもんね」
「まったくだ」
「北山でも崩れたんじゃないかなあ。ゆうべ音を聞いたんですよ。発破でも使うみたいな音で、どーんって」
「……北山?」
ええ、とり律子は頷く。律子の家は上外場にある。北山の麓に近い。
「北山だと思うんです。音からすると、かなり大きな崖崩れだったんじゃないかしら。でも、北山ってお寺さんの地所だから、人も入りませんしね」
そうだな、と敏夫は呟いた。静信に知らせておいたほうがいいだろうか。思っていると、律子が最後の本をローテーブルの上に積み上げた。
「開いてあったページにメモ用紙を挟んで分かるようにしてありますから、安心してくださいね」
ありがとう、と苦笑して、敏夫は下がろうとする律子を呼び止めた。
「悪いんだがね、律ちゃん。工務店に電話して奈緒さんの様子を訊いてくれ。本人でなければ家族でもいい。とにかく様子を訊いて、再検査のために夕方でもいいから、必ず来るようにと」
律子は眉を顰めた。
「そんなに……?」
「悪いわけじゃない、と言ったろう。検査結果が変なんだ。もう一度調べ直しとこうかと思ってね」
そうですか、と律子は釈然としないふうだった。トレイを抱いて退がろうとする律子を、もういちど呼び止める。
「そうだ、律ちゃん、もうひとつ。昼休みが終わったら、受付開始の前にみんなを集めてくれないか」
「はい?」
「予約制を入れようと思う。全ての患者に、というわけじゃない。おれが指示した患者だけでいい」
「あの……明日から、ですか?」
敏夫は頷く。細かい指示はみんなが集まってからするから、と退がらせたが、律子の表情はどこか不安げだった。
怪しんだろうな、と思い、敏夫はそれでいいのだ、と自分を納得させる。病院のスタッフは最前線にいる。早晩、異常な事態に気づくし、また、最前線で脅威に立ち向かわざるを得ない以上、いつまでも伏せてはおけない。
「どういうことだと思います?」
律子はやすよに訊いた。やすよは清美と目を見交わし合い、重々しく頷く。
「……やっぱりね。何か変だと思ったのよ」
そうね、と清美は溜息をついた。
「安森の若奥さんを明らかに警戒してる感じだったものねえ」
どういうことですか、と聡子も雪も首を傾げた。やすよは逞しい腕を組む。
「だからね、このところ死人が多いじゃない。雪ちゃん達はピンと来ないかもしれないけど、、八月に入ってから、何か変なのよね」
「そうなんですか?」
「そう思うのも無理はないけど。なにしろ、患者が来ないで、死んだって知らせだけが来るんだものね。それも、朝っぱらから。あたし達が出勤する前だもんねえ」
清美も頷く。
「上外場で四十前の人が死んだでしょ。それから山入で三人」
ああ、と雪も聡子も頷く。
「その後で、下外場の高校生。でもって、義一さんと最初に死んだ人のお母さん」
ええ、と雪は折った指を見た。
「七人ですか? 八月に入ってから?」
「そうなのよ。絶対におかしいと思ったのよね。死に事っていうのは不思議に続くもんだけど、どう考えても続きすぎだもの」
「何が起こってるんでしょう」
律子が二人に訊くと、年配の看護婦達は心得たふうに頷く。
「伝染病じゃないかしら。少なくとも若先生はそれを疑ってるんでしょ。これからも患者が来るかもしれないから、そういう患者だけ優先的にきっちり診られるようにしておきたいのよ」
「じゃあ、奈緒さんも……」
「あの警戒ぶりからすると、疑ってるんでしょうね」
雪と聡子は不安そうに目配せをする。
「あの……あたしたち、大丈夫なんでしょうか」
やすよは首を傾げる。
「さあね。でも、危険があれば若先生が言うでしょ。何も言わないってことは、まだ確証がないか、とりあえず病院は大丈夫なんじゃない。あの人は、そういうとこだけは、きっちりした医者だからね」
清美は再び溜息をついた。
「とにかく、消毒と手袋の着用だけはちょっと意識して徹底しといたほうがいいわ。あたしたちもそのくらいは心得とかないと」
やすよは頷く。
「最近は得体の知れない病気があるもんねえ。……妙な病気でなきゃいいんだけど」
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
静信は路肩に車を停めて、敏夫の作ったメモを見つめた。そこには調べなければならない要素が列記してある。
死亡者の性別、年齢、職業。教育歴と生活水準。住居環境、特に井戸の使用状況。家族構成、婚姻状態、両親の年齢、出生順位、家族の健康状態。本人の既往歴、飲酒・喫煙などの嗜好、食生活、習慣。日頃の行動半径、特に七月の行動。メモに従ってノートを作り、埋められる箇所は死亡診断書や戸籍から埋めておいたものの、空欄は多い。
発病の順番から言えば、最初に罹患したのは山入の三人。義五郎から移ったという三重子の言を信じるなら、大川義五郎だと思われる。感染したと推定されるのは、七月の中旬あたり。もしもこの頃、義五郎達がどこかに出かけていれば、そこで感染したことも考えられる。――これは遺族に訊いてみれば、すぐに分かるだろうと静信は最初、楽観していた。ところが、話はそう簡単ではなかったのだった。
村迫秀正は、妻、妹、甥の三人を失っている。ごく親しい血縁はもう村には残っていなかった。だが幸い、山入の三人の葬儀は寺で行われており、村迫家の縁者の連絡先が寺に残っていた。もともと山入に住んでいて、いまは下の集落の親族の許に身を寄せている古老とも連絡がついたが、電話してみた結果は虚しかった。誰も、村迫夫妻の最近の動向を知らない。
村迫家の子供達は、決して両親と縁が切れていたわけではなかったが、結局のところ両親は、外場に置き去りにしてきたものの一部なのだった。忘れているわけではない、疎遠なわけでもない、ましてや情愛を失ったわけではなくても、彼らには彼らの生活がある。ひとむかし前なら盆正月に帰省して、親交を暖めることもあっただろうが、子供が小さければ塾だ習い事だと、住居を離れられない事情があるし、子供が独立する年齢に達すれば、彼らのほうが家に留まって子供の帰省を待ち受けることになる。結果として、田舎に置き去りにされた両親は、顧みられることが減っていくのだった。
「具合でも悪ければねえ」と、秀正の娘は言った。「こっちも心配だから様子を窺うんですけどね。なにしろ二人とも元気だったから。こっちも心配しないでいいんだと思うと、なんていうか――忘れてしまうんです。気にかからなくなっちゃって」
彼女は自分が密に連絡を取っていなかったことを悔いていたが、この場合、何の助けにもならないことは確実だった。
とりあえず取れる限りの連絡を取ってみて、静信は村迫家に関しては――少なくとも親類縁者の線から、何かの情報を得ることは不可能に近い、と悟らざるを得なかった。事情を明かして丹念な質問ができればともかく、ありもしない用を捏造して、ついでを装う限り、訊けることにも限界があった。
残るは大川義五郎だが、と静信は車を村道に向ける。大川義五郎には、村に甥が残されている。大川酒店の大川富雄がそれだった。とりあえず遣い物を買うふりで、静信は大川酒店を訪ねたのだった。
世間話のついで、義五郎の死について触れ、さぞかしお寂しいでしょうね、と静信は大川に話の水を向けてみた。
「いやいや」と、大川富雄は笑い混じりに顔を顰めて手を振る。「もう歳だったからね、あの爺さんも」
「けれども、驚かれたでしょう」
「驚いたと言やあ、驚いたけどね。なにしろ手前の伯父貴がいきなり死んで、警察から連絡があったんだからね。おまけに行ってみりゃあ、相好の区別もつかないほど腐って、バラバラになってるって話だ。まあ、滅多に経験することじゃないのは確かだな」
そうでしょうね、と静信は頷く。
「大将が最後に義五郎さんにお会いになったのは、いつ頃でした?」
いつだったかな、と大川は酒瓶を包みながら首を傾げる。
「そう頻繁に会うわけじゃなかったからな。こう言っちゃあ何だが、可愛気のある爺さんでもなかったから、用がなきゃ会おうって気にもならなかったからね。向こうだってろくすっぽ連絡をしてくるわけでない、たまに電話してきたと思ったら、出かけるから車を出せだの、あれを買ってこい、これを都合してくれって話でね」言って、大川は口許を歪める。「甥なんだから自分の都合を聞いてくれて当然だと思ってたんだろう。ひょっこり店にやってきちゃ、店のものを持っていって代金を置いていったこともない。なにしろ手前の都合ばっかりでね。こっちだって、伯父貴だってだけで偉そうにされちゃあ適わない。いつまでも洟垂れ小僧ってわけじゃないんだから。そう言うと、二言目にはおれを何だと思ってるんだって煩いんで、死に損ないの糞爺だと思ってらあ、って怒鳴り返してやったんだ」
大川は言って、大きな体を揺すって笑った。静信はその大声に眉を顰めながら、では、と問う。
「あの事件の直前には会ってないんですか」
「会ってないねえ。前にも――ありゃあ、春先だったかなあ、いきなりやってきて棚から酒瓶抜いて帰ろうとするんでね、代金ぐらい置いていきやがれって怒鳴ったんだよ。そしたら、親戚の間で細かいことを言うな、なんてぬかしやがる。親戚親戚って、こっちは爺さんに助けてもらった覚えも、役に立ってもらった覚えもないからね、そういうことは親戚らしいことをしてから言えって、酒瓶を取り上げて、店の表に突き出してやったんだ。そうしたら、店の表で、だいたいお前は昔からどうだのと怒鳴り始めてね。あんまり腹が立ったんで水を撒いてやったんだよ。そしたら、二度と来ねえ、縁を切る、なんてことを言ってたけどね」
「……そうですか」
「それから性懲りもなく、車を出してくれだの、JA行ってくれだの電話がかかってましたけどね、電話、叩き切ってやったんで最近はそれもなくてね。そしたら、いきなり警察から電話があって、くたばったって話でさ。いまさら葬式出してやる義理もねえようなもんだけど、身内はもう、おれだけだからね。あとはみんな、おっ死ぬか村を出るかしちまってて。さすがに葬式もないのは哀れなんで、最後の最後に面倒を見てやったけどね。おれもたいがい、人が好いよ」
大川は身体を揺らして笑った。妻のかず子も追従するように笑う。静信は割り切れない思いで代金を払い、店を出た。店の脇では、大川の息子の篤が、まるで敵でも襲うような調子で段ボール箱を壊していた。軽く会釈すると、ぷいとそっぽを向く。膝丈のスウェットから出た素足には包帯が巻かれていた。怪我ですか、と問いかけてみたが、突き放すような調子で、犬に噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]まれた、とだけ答えが返ってきた。篤には静信と会話をする気がなさそうだった。静信もそれ以上、話の接ぎ穂を見つけられず大川酒店を後にする。
溜息が漏れた。大川のあの調子では、義五郎の動向など分からないだろう。義五郎は村外にも、ほとんど付き合いのある縁者がいない。かろうじて義五郎と親しかったのは誰だろう、と大川に問いかけてみたものの、これにはあっさりと「村迫のとっつぁん以外にはおらんだろう」という答えが返ってきた。
山入は孤立していたのだ、と静信はメモを見ながら思う。地理的に下の六集落から孤立していただけでなく、地縁的にも血縁的にも孤立していた。確かに、そうでなければ、いつまでもあんな山奥には残るまい。多くのものから見放された老人が三人、肩を寄せ合って暮らしていたのだ。その三人がいっときに死んでしまって、三人の生命の足跡さえ宙に浮いた――。
無に帰す、とはこういうことか、と静信は思った。人の拠って立つところのものを、全て無意味なものに還元してしまう。
――だから死は酷いことなのよ。
「その通りだ……」
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
安森奈緒は、結局、二十六日の朝、夫の幹康に抱きかかえられるようにして来院した。敏夫は愕然とせざるを得なかった。奈緒は半ば朦朧とし、支えがなければ満足に歩くこともできないように見えた。
「奈緒さん、どんな具合です?」
問いかけたが、奈緒の返答はない。いかにも億劫そうに口を動かしたが、ついに返答は出てて来なかった。とにかく診察台に横になるよう指示する。看護婦に支えられて診察台に昇る奈緒を、付き添った幹康がいかにも心配そうに見守っていた。
「敏夫さん、奈緒はどうしたんですか」
「それが分からないから、再検査しようということだったんだが。一昨日、来てもらったときに、具合が少しでも悪いようなら必ず翌日にも来るようにと言ったんだが、昨日は来なかったな」
幹康は首を振った。
「そう言う話は何もしてなかったな。母さんが結果を聞いたら、貧血だろうと言われた、とは言ってたけど」
「昨日、奈緒さんはどうだった」
「一日中、寝てたと思う。おれは仕事してたんで、一日ついてたわけじゃないけど。熱もあるようだったし、ひどく怠そうで」
敏夫は頷く。奈緒の顔色は相変わらず悪い。ノースリーブのワンピースの襟ぐりや二の腕がいかにも青白い印象を与えた。その腕の内側に顆粒状の紫斑が見える。首筋や腕のあちこちに虫刺されの痕が見えたから、あるいは掻いた痕かもしれない。だが、その虫刺されの痕は膿んでいるふうだ。
呼吸は浅く、診察台に横になる間にも、もう息を切らしている。脈を取ってみるとかなり速い。熱があるようだが手足は冷たく、うっすらと冷や汗をかいている。
「やすよさん」敏夫は指示をメモ書きして、やすよを呼んだ。「血液検査。頻脈があるんで、念のために心電図を取っておいてくれ。あと、下山さんに言ってUSとCTの準備」
「あ――はい」
不安そうな表情をした幹生を、敏夫は控え室に連れて行った。
「敏夫さん、あの……奈緒、どうかしたんですか」
「まあ、坐って」敏夫はソファを示す。
「なんか悪い病気なんですか」
「いや。少なくとも今のところ、特に重大な病気だという証拠はないな」
幹康は細面の顔に、縋るような表情を浮かべている。同じ門前、家も近いし、年齢こそは四つ離れているものの、幼なじみの部類に入る。負けん気の強い敏夫は餓鬼大将だったから、小さい頃は子分のようなものだった、と言ってもいい。小さい頃もこんなふうだった。困ったことがあると、縋るような顔をして敏夫を見る。
「でも……」
「今の段階ではなんとも言えないんだ」言って、敏夫は再度ソファを示して幹生を座らせた。「奈緒さんはいつから悪かったんだ?」
「ええと……二、三日前かな」
「一昨日? その前?」
「その前の日から怠そうだったよ。母さんが何度も大丈夫かって訊いてたから。病院に行け行けって言って」
「さらにその前日は?」
「どうだったろう……。覚えてない。特に悪い感じはしなかったんじゃないかな」
「幹康はどうだ?」
敏夫が訊くと、幹康は瞬いた。
「おれ?」
「お前でも、徳次郎さんでも節子さんでもいい。あるいは工務店の若いのでも。誰か同じように具合が悪そうな人間はいなかったか? もしもいたとすれば、夏風邪かなんかを移されたとも考えられるんだが」
幹康は首を傾けて考え込み、ややあって、いないと思う、と答えた。そうか、と敏夫は息をつく。
「一昨日、来てもらったときに、いろいろと検査をしたんだがね、結果はとりあえず貧血がある、それだけのことだったんだ。整理中でもあるってことだったから、ごく単純な貧血だ、と言いたいところだ。――だが貧血といっても、いろいろあるからな」
幹康は血相を変えた。
「その……おれは詳しくないんだけど、悪性貧血とか、不良貧血とかあるんだよね?」
「少なくとも検査結果から見る限り、悪性貧血や再生不良性貧血はないと思う。たぶん、そういう造血レベルの問題じゃない。疑わしいのは溶血性貧血ってやつなんだが、これは確かなこととは言えない」
「それ、かなりヤバいんですか」
「おいおい」敏夫は無理にも笑ってみせた。「そういうことじゃない。実を言うと、良く分からないんだ。溶血性貧血のように見えるが、少しそれとも違う感じだしな。しばらく様子を見てもいいんだが、この陽気だろう。なんのかんのと言っても工務店の若奥さんだ。気苦労もあるだろうし、出入りの若い衆の面倒も見なきゃならん。手のかかる子供もいる、体力がどっと落ちる時期でもあるんで、ちょっと大事を取っておこう、って話さ」
「なんだ……」幹康は息を吐いた。「脅かさないでくださいよぉ。わざわざ看護婦さんから連絡があって、連れてこいって言うし、いきなり物々しい検査の話をしてるし、おれ、てっきり」
「まあ、だが、病名がはっきりするまで油断はしないほうがいい。かなり具合が悪そうなのは事実だしな。念のために血液を再検査して、CTかけるから、それでもはっきりしないようなら、国立病院に連れて行くんだな。なんなら大学病院に紹介状を書くから」
「ああ……うん。はい」
敏夫はあえて、恵のことには触れなかった。幹康は安堵したようだったが、そうやって慰めた敏夫は安堵できない。奈緒は格段に悪くなっている。この勢いのつきかたが、いかにも不安だった。
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
静信は「ちぐさ」の脇に廻り、自宅のほうの玄関先を覗き込んだ。居間でテレビを見ていた矢野妙は、すぐに静信の姿に気づき、あら、と声を上げて出てくる。
「どうなすったんですか」
「溝辺町に行ってきたもので。お店で一服していこうと思ったんですけど、妙さんはどうしていらっしゃるかと思って」
「お上がりください」言ってから、妙は気づいたように、「ああ、店のほうにいらしてください。若御院は麦茶よりもコーヒーのほうがいいでしょう? あっちならクーラーもありますしね」
突っかけを引っかけて静信の先に立ち、店のほうへと向かう妙は、どことなく瘠せたふうだった。
「ひょっとして、お痩せになったんじゃないですか」
妙は陽射しに灼かれた庭先を横切りながら振り返る。
「夏痩せってやつでしょうかね。最近、どうも食事がまずくって」
「ふきさんのことで、気落ちしてらっしゃるんじゃないですか」
妙は胸を衝かれたように瞬き、悄然と息を吐いた。
「……そんなことはないんでけど。なにしろわたしだって、いつお迎えが来てもおかしくない歳ですもんねえ。ふきちゃんも同い年ですしね。学校の同級生だったんですよ」
「そうですか」
「こういうことは決まったことですからね。そう思いはするんですけど。けども、わたし、ふきちゃんが亡くなったその日に会ってたんですよ。具合が悪くて、何度も若先生に来てもらおうかと思ったけど、ふきちゃんが、いいって言うものだから。でも、あのときに若先生を呼ぶなり救急車を呼ぶなりしてたら、あの人ももう少し長生きしたんじゃないかと思うとねえ……」
「そんなふうに考えては」
妙は首を振った。
「どうしてもね、忘れられないんですよ。どうして電話しなかったんだろう、と思って。やることやって、どうにもならなかったんならともかく、そうじゃないでしょう。いまさら取り返しのつくことじゃないんですけど、気が付くと、あのときこうしてればって、そればっかり考えてるんです」
寂しげに言って、妙は店のドアを開いた。店内に客の姿はない。静信たちが近づいてくるのが見えていたのだろう、カウンターの中の加奈美が頭を下げた。
「いらっしゃい。――やっぱり若御院の車だったんですねえ」
「あたしの様子を見に来てくだすったのよ」
妙が言うと、加奈美は微笑んだ。
「ありがとうございます。……お母さんたら、すっかりしょげちゃって」
「おいおい慣れるわよ」
「そうしてね。友達だからって、ふきさんに引かれてっちゃ嫌よ。急がなくても、ふきさんは待っててくれるわよ、きっと」
はいはい、と笑う妙と加奈美を、静信は微笑ましく見た。
「妙さんのところはいいですね、こうして加奈美さんが一緒におられて」
「そうですかねえ」と言いながら、妙は嬉しそうだった。「戻ってきたのは嬉しいんですけど、出戻ってきたんじゃ心配で」
「そんな憎まれ口を叩けるんじゃ、心配ないわね」
加奈美は笑って、アイスコーヒーのグラスをカウンターに載せて勧めた。
「……山入の村迫さんや、大川さんは寂しいものです。べつだん子供さんと疎遠だったわけではないんでしょうが」
妙は同情するように頷いた。
「あそこは全員、村を出ちゃってますからねえ」
「なにしろ突然のことで、何が起こったのか良く分からないでしょう。それで御遺族に生前の御様子を伺ってみようと思ったんですけど、誰もご存じなくて」
「あらまあ」
「ふきさんも大同小異なんでしょうね。たった一人、手許に残っておられた秀司さんが亡くなってますから。もっとも、ふきさんはお友達がおられたので、まだしもですが」
加奈美は眉を寄せた。
「なんだか、今年は死に事が続きますね。よくお店でも言ってるんですよ、酷い按配だって。とにかく、ふきさんのところがね。お兄さんと息子さん、あげくに本人でしょう。悪い病気でも流行っているのかしら、と思うこともあるんですよ」
静信は密かに息を詰めた。まじまじと見返した加奈美は、しかし、自分でもその言葉を信じているわけではないらしい。微苦笑を浮かべている。
「夏風邪も馬鹿にできませんもんね。義五郎さんの様子が変だと思ったんですよ」
「――大川の?」
「ええ。あれはいつだったかしら。義五郎さんがね、バスから降りてくるのを見かけたんです。それが具合でも悪いふうで、妙にふらふらしてたんですよ。声をかけたんですけど、気づかないふうで。そしたら、あの知らせでしょう。やっぱりあのとき、どうにかしてたんだなと思って」
「それはいつ頃ですか?」
「七月の終わりじゃなかったかしら」加奈美は記憶を探るように宙を見る。「――そうです、七月の終わり。あの後、義五郎さんと秀正さんの具合が悪いらしいって話を聞いたんですよ。なんでも買い物に下りてきた三重子お婆ちゃんがそう言ってたそうで。あんな山奥で具合が悪くなって、大事になったら怖いな、と思ったらその通りになったでしょう。それで気味が悪くって」
「何日ごろだか覚えてませんか」
加奈美は首を傾げた。
「何日だったかしら。二人の具合が悪いらしいって話を聞いたんですよね。その時、そういえば、と思ったんですよ。その何日か前に、義五郎さんを見たなあ、と思って……」
「義五郎さんが出ていった翌日よね」妙が口を挟んだ。「朝っぱらからバスに乗ってどこかに出かけていって。その翌日に帰ってきたっていうから、一泊で出かけるなんて、どこに行ったのかしらと思ったんですよ」
「そう言ってたわよね」加奈美は頷いて微笑む。「お母さんは朝が早くて。たまたま義五郎さんがバス停にいるのを見てるんですよ。溝辺町に向かうバス停にいたって。その翌日に戻ってきて、その――何日後だったかしら。具合が悪いらしいって話を聞いたんですよ。店でそういう話をしてて……」
加奈美は不意に眉を顰めた。
「そうだわ、それを聞いて、秀司さんが見舞いに行くって言い出したんだわ」
静信は何かが琴線に触れるのを感じた。
「秀司さんが?」
「ええ。ちょうどその日の夜、飲みに来てて。ずいぶん飲んでたんで、やめときなさいって言ったんですけど、大丈夫だって。ここから家に電話して、見舞いに行くから遅くなるって。それがもうずいぶん遅い時間で、こんな時間から見舞いに行ったんじゃ、かえって病人は迷惑なんじゃないかしらと思ったんですけど」
加奈美は言って、ひとり頷く。
「そう――そうだったわ。それから六日後ですよ、秀司さんが死んだって聞いたのは。秀司さん、それきり店に来なかったんです。あの人が三日以上こないことって珍しかったんで、どうしたのかしらと思っていたら死んだって」
静信はカウンターの木目を見つめる。秀司が死んだのは八月六日。その六日前なら三十一日の話だ。三十一日に秀司は山入に行った。だが、三十一日――一日早朝と言えば、死亡推定日だ。警察の見解を信じるなら、秀司が山入に行ったとき、義五郎もすでに死亡していた可能性がある。おそらくは秀正も三重子ももう発病していて――。
静信は違和感を感じた。秀司は結局、秀正と三重子に会わなかったのだろうか。家の中に入れば、伯父がただならぬ容態であることを知ったはずだ。ならば当然、誰かに連絡をしただろう。連絡をしなかった以上、秀司は秀正に会わないまま帰ったのだろうが、――だが、三重子もまた誰にも連絡をしていない。側で夫が死んだというのに、連絡さえすることがないまま本人も死亡した。
(何だろう、この相似形は……)
静信が考え込んでいると、加奈美は、そうか、と声を上げた。
「思い出したわ。義五郎さんが出かけた前日、その日に元子の子供が事故に遭ったのよ」
静信は顔を上げた。
「ほら、若御院と病院であったじゃないですか。茂樹くんのお母さん」
「ああ……」
静信は元子の神経症ぎみに取り乱した姿を思い出した。
「あたしの同級生なんです。夕方の仕込みを手伝ってもらってて。元子の子供が車に引っかけられたのが七月の二十七日のことだったでしょう。その翌日、二十八日に義五郎さんが出かけて、帰ってきたのが二十九日です。具合が悪いって話を聞いて、秀司さんが見舞いに行って、それが亡くなる六日前」
七月三十一日だ、と静信は頷く。
「その前に義五郎さんを見たのは?」
「その前は――いつだったかしら、戻ってきたのを見たとき、久しぶりだなと思ったぐらいですから、たぶんずいぶん姿を見てなかったんだと思います」
「義五郎さんは、そうやって頻繁に旅行に出たりしてたんでしょうか」
これには妙が首を振った。
「義五郎さんはないわね。あの人は滅多に村の外に出なかったから。なにしろ、スクーターより他に運転できなかったんですもの。車は秀正さんが持ってましたけど、運転できるのは秀正さんだけだし、だから義五郎さんは外に出るのが億劫だったんじゃないかしら」
「秀正さんは?」
「あの人も腰の重い人だったわねえ。旅行なんてのは、滅多になかったと思いますよ。いつだったか、ふきさんとこで三重子さんに会って、三重子さんがたまには温泉にでも行きたいって言ってましたから。最後に旅行に行ったのは何年前だ、なんてね」
「七月に旅行する気になったとか」
「ないでしょう。田圃や畑があるもの。あの人たちは年金で生活してるようなもんだから、田圃や畑に生ってるのが自分たちの食い扶持ですからね。農閑期ならともかく、この時期に旅行はしないんじゃないかしら。おまけに今年はほら、雨がないから。ポンプで水上げて、撒水しないといけないって、どこの人も畑を離れられないみたいですもんねえ」
そうか、と静信は思った。今年の猛暑と渇水。一昨日にはまとまった雨があったが、川の水位にはほとんど影響がなかった。村ではさほど深刻ではないが、下流では水が不足して、外場でも取水を絞り込んでいる。村の農家は沢や井戸から水を上げて畑まで運んでいる。確かにそれで、旅行になど行けるはずがない。
では、と静信は思った。三人はやはり山入で感染したのだ。あるいは――?
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
敏夫の不安は的中した。翌日、午前の診察時間の最中に安森幹康から電話があった。奈緒が息をしてない、と泣きながら言う。すぐに来てくれと言われ、工務店に駆けつけたときには、奈緒は死亡していた。すでに瞳孔は散大しており、口の中には泡状の喀血が見られた。心不全から来た肺水腫が原因の窒息死。八月十七日、午前十一時二十分のことだった。
静信がその訃報を受け取ったのは、田茂定市からだった。昼下がり、寺務所には静信だけが残って原稿に向かい、上滑りする思考を弄んでいた。
「工務店の奈緒さんが亡くなったんですわ」
受話器から流れてくる定市の声に、静信はやはり、という言葉を呑み込んだ。その沈黙を誤解したのか、定市は続ける。
「幹康くんの奥さんですよ。二十六か、そのくらいじゃなかったですかね。なんとも急なことで。肺を悪くしたらしいんだけどね、そういうわけで、わたしが助番を務めさせてもらいますんで」
「ああ、……はい」
工務店の安森徳次郎は門前の弔組世話役だった。その世話役の家で不幸があった場合には、助番が世話役を代行する。特に助番という役職があるわけではないが、各集落にはそれなりに序列というものがあり、助番となるべき人物は暗黙の了解として決まっていた。
「まだ暑さもきついんで、ちっとせっついて申し訳ないんですが、今夜のうちに通夜をやってしまおうと思いましてね。徳次郎さんとこは、親類縁者、この近辺だから、特に遠方から駆けつけにゃならん人もいないんで」
「ええ」
「そういうわけなんで、枕経だけ、早い目にお願いできますかね」
「分かりました。伺います」
同じ門前の集落にある安森工業は、寺からいくらも離れていない場所にあった。安森工業の社長である安森徳次郎は、そもそもは丸安製材の次男坊だった。徳次郎が独立して安森工務店を興し、建設業から始まって不動産業、土木業まで手を広げてかなりの規模になっていた。現在では、工務店を次男の幹康に譲り、不動産業のほうは市街地に住む徳次郎の弟が、土木業は同じく市街地の外れに事務所を構えて徳次郎の娘婿が采配している。
しょせんは田舎のこと、立志伝中の人物になり得るほど破格に急成長したわけではないが、徳次郎自身は七十を目前にして、なお血気盛んな精力的な人物だった。にもかかわらず、静信が訪ねたとき、その徳次郎は打ちのめされた様子で嫁の枕許に坐っていた。
「徳次郎さん、このたびは……」
静信が声をかけると、言葉もなく頭を下げる。まるで実の娘を失ったかのような悲嘆ぶりだった。喪主の席に座った幹康は幼い子供を抱いて深く俯いている。忍びやかな慟哭が聞こえた。その方を、目を真っ赤に泣きはらした節子が、辛抱強く撫でている。
奈緒は嫁であって徳次郎の娘ではない。節子は後妻で、幹康と節子の間には血のつながりがなかった。にもかかわらず、徳次郎一家は誰が見ても羨むほど仲が良かった。幹康と奈緒と、まるでどちらも血を分けた子供のようだ、と言われていたことを静信は知っている。
「節子さん、幹康くんも」静信は言いかけ、きょとんとしたふうの子供と視線が合って先の言葉を失った。奈緒の産んだ長男は進。たしかまだ三歳にしかならないはずだ。
「――本当にご愁傷様です」
母親の死の意味を理解することができず、自分の周囲で何が起こっているのだろう、と小首を傾げている進の、無邪気な様子を見れば、通り一遍の言葉しか出てこない。この幼い子供は母親を喪失してしまったのだ。
徳次郎も、そして幹康も節子も、嗚咽に塞がれて声が出ないようだった。揃って無言で頭だけを深々と下げた。
静信もまた、それ以上は言葉が出てこなかった。静信は嗚咽を漏らしている幹康に目をやる。しっかりと子供を抱き寄せた腕は、子供を庇護しているようでもあり、子供に縋って懸命に自分を支えようとしているようでもあった。同じような腕を見たことがある。清水の家でもそうだった。それが痛ましく、同時にどこか危うげに見えた。この人々は、自分たちの家の中に危険なものが入り込んだことに気づいてない。
――泣く子のところには鬼が来るぞ。
村に流布する「起き上がり」――鬼の伝承は間違いなく疫病の暗喩だ。鬼は安森家に入り込んだ。鬼の触れたものは死に感染し、死はそこから広がっていく。
気をつけて、と言いたい気がした。気持ちは分かる、死者を悼む心は。だが、死体に取り縋ってはならない。早く、棺の中に納めて蓋をしてしまわなければ。何もかも告白して、充分に気をつけろ、と言いたい気が。
だが、と理性が囁く。もしもこれが疫病なら、それを告げても遅いのだ。奈緒は死んだ。この死が連続するものなら、たぶんもう、鬼は次の|贄《いけにえ》を捕まえている。
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
安森家で通夜を終えたその夜、静信は敏夫を訪ねた。敏夫はその時、ちょうど私室で奈緒の検査結果を見ていた。
「よう」
例によって裏庭から現れた静信に、敏夫は中を示す。
「奈緒さんは――やっぱり?」
静信の問いに、敏夫は頷いた。
「おそらくな。奈緒さんが病院に来たのが二十四日、死亡が今朝で二十七日。二十三日から具合が悪かったようだし、死亡までは四日だ。ほとんど自覚症状はないふうだったが、疲れやすい、頭が重い、ぼうっとしていると言っていた。とりあえず問診した限りでは、貧血だと思われたし、検査の結果でも貧血と出ている。貧血以外に格別の不具合はない」
「それは恵ちゃんと」
「そう、同様にな」敏夫は頷く。「本当にぼうっとしているふうで、何を訊いても打てば響くように答えが返ってくるとはいかなかった。口を利くのも億劫、あるいは注意力が散漫になっていて思考を纏められない、という印象を受けた。これも恵ちゃんと似ている」
「そう……」
「二十四日の血液検査の結果では貧血以外の異常はなかった。正球性色素性貧血で、全般的に血球が減少していて、網赤血球が見られる。腎機能、肝機能の結果は正常値の範囲内、内出血を探したが、これも見つけられなかった。ところが」
敏夫はカルテに貼った検査結果表を示す。
「次に来院した二十六日の結果だ。今日戻ってきた。これを見ると、どこもかしこも悪い。腎機能も肝機能も正常値の範囲を大きく外れている。貧血は若干、改善されているが、反対にそれ以外の部分のどこもかしこも悪い、という風情だ。そして今朝には死亡。死体を見ると、軽微な黄疸、水腫、腹水、失血傾向など、腎不全や肝不全の兆候が見られる。窒息した様子を呈しており、実際、気道内容物を吸飲してみると、泡状の喀血が気道を塞いでいた。心不全から来た肺水腫による呼吸不全だ。だが、こちらも事前に心電図は取ってある。少なくとも最初に来院した時点では、心不全に至るような兆候はまったく見られなかった。貧血以外のいかなる不調もなかったんだ、ほんの三日前までは。そこから彼女は、転がるように全身を蝕[#「蝕」の字は旧字体。しょく偏部分が「餡」の偏と同型。Unicodeに該当なし]まれていった。死因は心不全から来る窒息死だが、これはたまたま心臓がトリガーになったというだけだろう。経過を見ると、腎臓や肝臓、どこがトリガーになってもおかしくなかった。心不全というよりやはりMOF――多臓器不全だ」
「……伝染病の可能性は?」
「ない。少なくとも、検査に出した限りでは陰性だ」
「例のやつか……」
「おそらくな。最初の不具合の状態は、夏バテや夏風邪だと思われても仕方のない状態だ。そこから急激に増悪して死に至るが、経過は不透明。死に至るまでの期間といい、最初に貧血が観察されたことといい、恵ちゃんの例と非常に似ている」
「最初は貧血で始まる?」
「その可能性は高いと思う。石田さんに言って、貧血が多いので注意するよう、チラシを書き換えてもらったほうがいいかもしれない。貧血の自覚・他覚症状を列記して、それが見られたらすぐに病院に来るよう」
静信は頷いた。
「かろうじて本人から聞いた話と、あとで幹康から聞いた話を総合すると、実家の家族にはこれという持病がないようだ。奈緒さんの実の父母は失踪していて、奈緒さんを立てたのは伯父夫婦だが、とりあえず幹康が聞いている限りでは、遺伝的に問題があったとは思えない。特に問題になりそうな生活習慣も思考もない。酒は付き合う程度、煙草は吸わない。生活範囲はほぼ村の中に限られており、山入に行くこともなければ、山の中に入ることもない。溝辺町に買い物に出るのが精々というところだ」
静信はノートの、「安森奈緒」のページに敏夫の言をメモしていった。医者が当人とその家族に訊いたものだから、さすがに遺漏がない。
「工務店には井戸がない。まるきり上水道に頼っているが、事務所のクーラーだけは地下水を使っている。これは丸安製材も同様だ」
静信はメモを取りながら頷いた。山入には上水道が通っていない。義五郎も、
村迫夫妻も井戸水を使っていた。後藤田家は、飲料水は上水道だが、風呂や洗濯には井戸も使っている。恵の住む下外場は、ほとんどの家が上水道のみに頼っているが、農作業には地下水を使うし、恵は死の直前、西山に登るのを目撃されている。そうやって頻繁に山に入る習慣があったとしたら、山の中で沢の水を飲んだこともあったかもしれない。これらを考え合わせると、あるいは水が原因かとも思われたのだが。
「……水のせいじゃない?」
「工務店と丸安のことを考えると、可能性は低いだろうな。何らかの形で水が汚染されていて、中毒を起こした、あるいは感染したという可能性は、ほぼ消えたと言えると思う。そもそもの始まりが水である可能性は依然として残っているが、水が直接の汚染源じゃない」
「たとえば、山入の水が汚染されていて、そこから山入の三人が感染、あとは直接伝播」
敏夫は頷く。
「水に原因があるとすれば、そういうことになるだろうが、ネックになるのは恵ちゃんと義一さんだ。当たり前に考えると、恵ちゃんが山入の三人や秀司さんと接触があったとは思えない。ただ、これは確実なこととは言えないわけだが」
静信は頷いた。恵は住まいこそ下外場だが、失踪した日の例でも分かるように、行動半径は上集落にまで及んでいる。どこかで山入の三人や秀司とたまたま出会わなかったとも限らない。
「さらに問題になるのは義一さんだ。奈緒さんがもしも例のあれなら、汚染源は義一さんとしか思えない。感染したのは八月半ばで、これはちょうど義一さんが死亡した時期に重なる。幹康によれば、奈緒さんはしょっちゅう丸安製材に出入りしていた。義一さんを見舞うために病床を訪ねたことも再三あるし、盆には一族が丸安に集まっている。まさに八月半ばだ。義一さんから移ったとしても全然不思議じゃない。ところが、義一さんがどこからこれを拾ったのかが分からない。義一さんの行動半径はゼロに等しい。まったくの寝たきりだったんだからな。考えられるのは、山入の三人、秀司さんのほうから義一さんに会いに来た可能性だが――」
「それはないようだ」と静信は首を振ってメモに目を落とした。「丸安の厚子さんに訊いてみたけど、秀司さんは義一さんとまったく付き合いがなかった。丸安にも足を踏み入れることはなかったようだ。山入の三人は、丸安と付き合いがなかったわけじゃない。義一さんとも面識があったが、特に親しかったわけでもない。わざわざ義一さんを訪ねてきたことはないそうだよ。丸安に用があって、ついでに義一さんを見舞っていく、ということはあったかもしれないが、義一さんは患って長い。以前には、丸安に来たついでに義一さんを見舞っていく客もあったが、最近ではそれも絶えていた、というのが実情らしい」
「だろうな。あの人が寝付いて、もう六年かそこらになるだろう。おれが戻ってきたときには、もう寝たきりだったからな」
静信は頷く。
「だから、義一さんにあったのも、ほとんどが身内だけだ。特に工務店の人たち。あとは、田茂の本家の人々。特に定市さんは、義一さんと親しいから。後は仲のいい内輪の人人、ということになる」
「接点がないな……。やはり直接伝播はありえないか」敏夫はうんざりしたように溜息をついた。「――他の連中は?」
促されたので、静信はノートを開いて挟んであったメモを差し出す。
「山入の三人、後藤田家については、家族が離散していて詳しいことが分からないんだ。……ただ」
静信は「ちぐさ」で聞いた話を繰り返した。秀司が倒れる前日、山入に向かっていること、義五郎が外場を出て、戻ってきたときには様子がおかしかったこと。
「秀司さんが山入に行ったのが二日か……」敏夫は渋面を作った。「それは確かに気になるな。二日なら、秀正さんは死んでいたはずだ。秀司さんが死体を見てなかったはずはないし、見たなら連絡しなかったはずがない。それをしてないってことは、訪ねたが会えなかった、ということなんだろうが」
「そうだな」
「しかし三重子婆さんがいたんだよな。本人も具合が悪くて、横では亭主が死んでる。肝不全から来る意識障害があったとして、それでも人が訪ねてきたのを無視するかな。単に眠っていて、秀司さんが訪ねてきたのに気づかなかったのかもしれないが……」
「それと義五郎さんだ。――なあ、義五郎さんが、外場の外から何かを持ち込んだってことは考えられないだろうか。そしてそれを、秀司さんは山入で拾った」
「どうだろう」敏夫は首を捻った。「もちろん、ものよっては潜伏期間が数日内、ということもある。インフルエンザなら平均して二日だし、コレラなら一両日中に発症することもあるわけだが。だが、そう考えると、ふきさんがどこで感染したのか分からなくなる」
「そうか。ふきさんは、秀司さんから移ったのか……」
「確実に、とは言えないが。日本脳炎のような例もあるからな」
静信が首を傾げると、
「日本脳炎は、蚊が媒介する。人から人へは伝染しないんだ。ひょっとしたら、そういう可能性もあるかもしれない」
実際、と敏夫はカルテを指先で叩く。
「最終的に、多臓器的に不具合が現れていることから考えると、病原体は血液の流れに乗って全身を蝕[#「蝕」の字は旧字体。しょく偏部分が「餡」の偏と同型。Unicodeに該当なし]んでいるように見える。消化器系、呼吸器系を侵入門戸に、そこから血液中に病原体が侵入することがないわけじゃないが、だとしたら、最初に消化器系や呼吸器系で異物に対する防衛反応が現れそうなもんだ。だが、嘔吐や下痢、咳なんかの症状は見られない。これを考えると、単刀直入に血液を汚染しているとも解釈できる」
「傷口などから?」
「そう。実際、恵ちゃんの身体には山で転んだときについたんだろう、小さな擦り傷なんかがいくらでもあった。奈緒さんには特に怪我はなかったが、虫刺されの痕がいくつもあった。日本脳炎のように動物が媒介している可能性はあると思う。人から人へは移らず、カやノミ、ダニの類が媒介する。そうすれば、山入組と恵ちゃん、義一さんの間に何の接触もなかったことの説明にもなるんだが」
言って、敏夫は静信を指す。
「その可能性も否定できない。お前も気をつけろよ」
「なぜ?」
なぜって、と敏夫は呆れたように目を見開いた。
「山入、だろう。恵ちゃんが発見されたのは丸安の裏手の山の中だ。奈緒さんの家は少し離れているが、丸安製材に頻繁に出入りしてる。丸安製材はお前んちの麓だ」
「そう……だけど」
「北山周辺だよ。媒介動物が山入から北山を抜けて広がっている可能性がある。山入は北山の裏側だし、恵ちゃんが見つかったのは、ちょうど北山と西山がぶつかる辺りだ」
静信は頷いた。たしかあの辺りの谷川に沿って山入に向かう抜け道があったはずだ。静信が小さい頃には、山入から直接、丸安製材に材木を下げて降ろすためのワイヤーが杣道の脇に設置されていた。林業が廃れて、もはや利用する者もいないだろうし、すでに道は下草に埋もれているだろうが、谷川に沿ったあの道を使って動物が移動することは充分、可能だ。――たとえば野犬などの。
静信は山入の惨状を思い出した。
「野犬?」
「考えられるな。死人には生前の咬み傷がなかったから、野犬そのものから移ったということはないだろうが、野犬についたノミやダニのせい、ということはあり得る。ちょっと前に、大川酒店の息子が野犬に噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]まれてやってきたことがあるんだ。その前にも猪田の元三朗さんだったか、やっぱり野犬に襲われてる。周辺の山で野犬が増えてるのは事実だ。山に入る連中は、それで戦々恐々としているらしい。診察に来た連中の噂話を総合すると、山入から増えてだんだん南下してきている、という感じだな。つい最近も神社の上で三頭ほどの野犬を見た、という患者がいたし」
「野犬狩りの必要はないだろうか」
敏夫は考え込んだ。
「野犬が保菌生物である可能性はあるな。調べてみる必要があるが……」言って、敏夫は大きく息を吐き出した。「しかし、いったい何を調べりゃいいんだ? 野犬を捕まえて病原体を保育してないか調べるったって、肝心の病原体が何か分からないんじゃあな」
「そうだな」
「まあ、野犬狩りはしておくに越したことはないんだろうが、なんて理由をつけるかが問題だ。下手をすると、藪をつつくことになりかねないが、野犬が原因とは限らない。かなりリスキーだな」
静信は頷いた。大川篤や猪田元三朗の事例を理由として引っ張り出すには、時機を逸した感が否めない。理由づけとしては取って付けたように見えるだろう。
「それこそ、次に誰かが襲われるかどうかして、チャンスがあれば、というところじゃないか」
「しかし……」
「疫病の存在がバレるってだけじゃない。お前は簡単に野犬狩りと言うが、それを実際にやる連中の安全をどうやって確保するんだ。野犬を捕まえにいく連中は、牙に対する用心はしても、ノミやダニには用心しないだろう。それをさせるには、最初から疫病の存在を言い含めておかないといけない」
「毒餌は?」
「それもリスキーなことには代わりがない。もしも媒介しているのがノミだとする。だが、ノミってのは犬が死ぬと、死体を離れてしまうんだぞ。同時に大がかりな駆除をしながらやるんでなきゃ、かえってノミをばらまくことになりかねない」
そうか、と静信は唇を噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]む。
「まあ……保菌生物は野犬なのかもしれないが、野犬だけではない可能性もあるからな。ネズミやウサギ、あるいは野鳥。それについているノミやダニ」
だとしたら、と敏夫の声は暗い。
「これは手こずる」
[#改段]
[#ここから3字下げ]
三章
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
八月二十九日早朝、呪われた八月もあと三日で終わろうという頃になって、静信の元に訃報が届いた。外場に住む太田健二が亡くなったという。太田は五十三歳、高校教師だった。それが学校で倒れ、そのまま共済病院で息を引き取ったという。
「なんでも、このところ調子が良くなかったらしくて」と、外場の世話役である村迫|宗秀《むねひで》は電話で言う。「本人も身体が辛いんで退職するって言ってたらしいんだわ。でも、学年途中だろう。それで慰留されてる間に、ぽっくり逝っちゃったらしいんだ。肝臓がいけなかったらしいねえ」
そうですか、と答えつつ、静信は思いをめぐらせる。これは果たして例のものだろうか。とりあえず宗秀と葬儀の打ち合わせをし、静信は敏夫に連絡を入れた。
「石田さんから診断書の写しが届くと思うけど、外場の太田健二さんが亡くなった」
そうか、と敏夫の返答は短い。一昨日になくなった奈緒に続いて十二人目の死者になる。静信は受話器を置いて、離れに父親を訪ねた。
事務所を出て行く静信を見送り、池辺は黒板を見上げる。
「ねえ、鶴見さん」池辺の声に、机に向かって帳面を開いていた鶴見が顔を上げた。「この太田さんというのは、どういう人なんですか?」
「どういうって? 確か、高校の先生だったと思うかな。教頭かなんかだと聞いた気がするが」
「ということは、まだ定年前ですよね」
「そりゃそうだろう」
老人ではないのだ、と池辺は思った。いつ何が起こってもおかしくないような老人ではない。つい昨日、安森奈緒の葬儀が終わったばかり、池辺は今月に入って、いったい何軒の葬式に立ち会ったのか、自分でも思い出すことができなかった。
「なんだか変じゃないですか」
うん、と鶴見は生返事をする。
「こんなに人が死ぬものなんでしょうか」
鶴見は屈強な肩を、わずかに揺らした。そういうこともあるんだ、と低く言ったが、声には不審なものが滲んでいる。それきり沈黙するので、池辺もまた話の接ぎ穂を見失って黙り込んだ。寺務所の中に妙な沈黙が立ち込めたところに、朝仕事を終えた光男が麦茶のポットを提げて入ってきた。
「――? なんだい、取り込み中かい?」
いえ、と池辺は答える。
「ついさっき連絡があって、外場でまたお弔いだそうです。太田さん」
光男は瞬いた。
「太田――剛造さんかい?」
「いえ、健司さんというらしいですよ」
「じゃあ、息子さんのほうだな。……なんてこった」
光男は頭を振ってポットを据える。
「今年は多いですね」
池辺が言うと、光男は大きく息を吐いた。
「まったくだ。つい昨日、安森の嫁さんの葬式が終わったばかりだっていうのに、今日はまた通夜で明日は葬式か。そうこうしているうちに、四十九日で彼岸か。この暑さだ、考えただけで目眩がするねえ」
「いつまで続くんでしょうか」
「さてなあ。来月も半ばになりゃあ涼しくなって、ちょっとは楽になるんだろうがね」
「いえ、そういう意味じゃ……」
言いかけた池辺の脇から、鶴見が低い声を上げた。
「死人がいつまで続くんだと言いたいんだ、池辺くんは。――だろう?」
光男が二人を振り返ると、池辺は鶴見を不安げに見てから頷いた。
「八月に入ってから、何か変じゃないかい、光男さん。たしかに池辺くんの言う通りだよ。こんなことがいつまで続くんだろうな」
ああ、と光男は気まずい思いで口を濁した。
「八月の初っ端に後藤田の息子が死んで、それから山入のあの事件だよ。老人とはいえ、三人もいっぺんに。それから清水さんちの嬢ちゃんに丸安の義一さん、後藤田の婆さんに工務店の嫁さん。このうえまだ――」
「確かに多いとは思うけどね。なにしろ八月に入ってから葬式が七軒だ。死人が九人。尋常のことじゃない気もするね」
「気もする? 光男さん、こりゃあ、尋常のことじゃないよ。そうだろう。たったひと月に九人だよ。そりゃあ今年は暑かったさ。だが、暑かった夏、寒かった冬、これまでにだってなかったわけじゃない。けれどもひと月に九人なんてこと、これまでにあった覚えがあるかい」
それは、と光男は言葉に詰まった。実を言えば、光男自身、どこかおかしいという気がしている。死者というのは不思議に続くことがあるが、こうまで続くということは記憶になかった。
「確かに、これだけ続くなんてことは、今までなかったことだけどね」
「だろう? だが、この間から考えててね、これによく似たことがあったのを思い出したよ」
え、と光男は鶴見を振り返る。
「光男さんも覚えてるんじゃないのかい。おれもあんたも親父が役僧で、餓鬼の頃から寺に出入りしてるんだからさ。立て続けに葬式があって、寺が天手古舞いしてたことが大昔にあったよ」
光男は軽く息を詰まらせた。そう、確かに言った。光男がまだ小学校を卒業するかしないかの時分だ。父親が始終お|斎《とき》の折り詰めを持ち帰って、最初は嬉しかったのが、次第に辟易した覚えがある。
「だが、あのときだってこんなに多くはなかった。――いや、思い出すと、ちょうどこのくらい続いたような気がするから、実際にはもっとずっと少なかったんだろう」
「ああ……そうだね。そうだった」
これを聞いていた池辺は、ほっとしたように口許をほころばせた。
「なんだ。珍しいこととはいえ、こういうこともあるんですね」
安堵したように言う池辺に、鶴見は陰鬱な表情で頷いた。
「そう、……アジア風邪のときだよ」
池辺が途端に顔を強張らせる。
「アジア風邪って……インフルエンザの大流行のことですか?」
「ああ。あんときは酷かったんだ。ばたばた人が倒れてさ。そりゃあ、死んだ人間こそ数えるほどだが、あのときの寺が、ちょうどこんな按配だった気がするんだよ、おれは」
光男は頷いた。じゃあ、と池辺は血相を変えた。
「まさか、今度も――伝染病」
鶴見はこれには返答せず、腕を組んで光男を見た。
「このところ、若御院が尾崎の若先生と何やら顔を突き合わせているだろう。小説のほうの仕事もそっちのけで出歩いて、あちこち調べまわっている様子だ。……そういうことじゃないのかい」
「じゃあ、お父さん、お願いします」
病床の父親に一礼して、静信は信明の部屋を出る。朝食を退げにきた母親が、扉を閉めるなり息を吐いた。
「どうしたことかしらねえ。今年はお葬式ばかりで頭が痛いわ」
ええ、と静信は曖昧に言葉を濁す。
「当たり年ってやつなのかしら。あなたも注意してね。あまり無理をしないのよ」
「分かってます」
静信は言って、母屋の台所へと向かう美和子と別れた。廊下を事務所に戻ろうとすると、途中で光男が不安げな表情をして待っていた。
「ああ――光男さん、実は」
聞きました、と光男の表情は硬い。
「太田さんの息子さんでしょう」
「ええ。太田さんはうちの墓地に埋葬ですから、よろしくお願いします。お葬式も寺でということなので」
光男は頷いて、静信の腕を軽く掴[#「掴」は旧字体。Unicode:U+6451]む。
「若御院、どうなっているんですか」
「どう――?」
「鶴見さんが、こんなことはアジア風邪以来のことだって」
静信は返答に詰まった。光男たちがいつまでも異常に気づかないはずがない。当然、いつかは妙だと言い出すだろうとは思っていたが、こんなにも早く核心を突かれるとは思っていなかった。
「そう……アジア風邪……」
「何か悪い病気なんですか。最近、尾崎の若先生と頻繁に話をしているのは」
静信は光男を遮る。
「光男さん、その件はしばらく伏せておいてもらえませんか」
「でも」
「実を言うと、敏夫にも良く分からないんです。伝染しているように見えますが、敏夫に言わせると伝染病とは症状が合わないんだそうです。もちろん、だからといって伝染病でないとは言い切れませんが、それについてはいま調べていますから」
「じゃあ――やっぱり」
「伝染病なのかどうか調べよう、ということで、まだ何ひとつ確定ではないんです。とにかく役所の石田さんと、石田さんを通じて保健所や兼正とも相談をして対処を考えていますから、しばらくその件は檀家さんには」
「それは……若御院がそうおっしゃるのなら、黙っていますが」
「お願いします。もしも本当に伝染病で、いたずらにみんなが騒ぐと、かえって病気を広めてしまいます。わたしのほうからいいと言うまでは、決して広まらないように」
光男は不承不承というように頷き、そして吹っ切ったように顔を上げた。
「承知しました。鶴見さんにも池辺くんにもそのように言っておきます。その点は安心なすってください」
静信は頭を下げた。光男の信任がありがたかった。立ち去っていく光男を見送りながら、しかし、と静信はどこか後ろめたい気分を感じていた。
光男も鶴見らも、死者の実数を知るわけではない。檀家でない死者の訃報は耳に入らないのだから。光男らにとっては、太田は九人目の死者だ。しかしながら、その実数は十二。しかもそのうちのほとんど全てが、突発的な急死を遂げている。数日前には健康そうに見えたものが突然、死亡する。それが十二件、続いている。それを知っても光男はああして笑ってくれただろうか。
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから4字下げ]
いずれにしても彼は弟を屠った罪よって放逐され、荒野を|彷徨《さまよ》うことになった。二度と戻れない光輝、荒れ果てた土地を彷徨ってなお、罪は荒野に彼を追ってきた。罪は屍鬼となって弟の姿で彼を追い、永劫の間、彼を苦しめようとした。
いや、弟の意図が那辺にあったのか、彼は知らない。彼は幾重にも苦しんだ。なぜなら、彼は弟を彼なりに愛しており、一時の衝動を憎んでいたからだ。弟は秩序に寵愛された。慈愛深く、哀れみを知り、余人に対して光輝の具現であるかのようだった弟。人々は弟を愛し、慕った。彼もまた、そうならざるを得なかった。人々はその慈愛深い魂を殺傷せしめた彼を憎んだが、彼もまた同様にして己を憎んだ。
弟の彼を憐れむ目は、彼の増悪と悔恨を際限なく膨らませた。彼は弟の喪失を悲しみ、その死を嘆き、殺した者を憎み、己の罪を憎む故に、己を憎まずにはおれなかった。悲しみと増悪は、凍てついた風よりもなお鋭く、無限に彼を切り裂いた。
[#ここで字下げ終わり]
静信は息をついて、読んでいた原稿用紙を放り出した。少しも気持ちがついてこない。筆は上滑りを繰り返し、意識はメモに舞い戻ろうとして空転する。
諦めて原稿用紙を束ね、抽斗の中にしまった。裏返しにして端を揃え、文鎮を載せ、かわりに別の抽斗からノートを引っ張り出す。後藤田秀司、大川義五郎、村迫秀正、……十人。そして新たに加わった安森奈緒と太田健司。こうしている間にも、それは外場のどこかで進行している。じりじりと断崖に向かって動いているのだが、静信たちにはその動きが察知できない。
(こんなことをしていていいのだろうか)
静信には事態を調査する資格がない。事態について言及することもできなかったから、人に話を聞こうにもできることには限りがあった。やはり一刻も早く、しかるべき筋に事態を預けたほうがいいのではないか、という気がする。敏夫とて医師ではあっても疫学の専門家ではない。門外漢の医師とまったくの素人が右往左往するより、専門家の手にゆだねた方が迅速に確実に対処できることは明らかなように思える。
だが、とその一方で思う。
専門家が事態を|詳《つばひ》らかにして調査にあたれば話は早いだろうが、事態が悪化する可能性は、確かに高かった。疫病だと知れば村人は不安になる。時分は、時分の家族は大丈夫なのか。不安になった村人は、間違いなく尾崎医院に向かう。敏夫に安心を与えてもらおうとして。そうやって人の動きが錯綜すればするほど、事態は拡大する。無用の不安を与えるだけでなく、無用の危険すら呼び込むことになりかねない。
(いや……)
そもそも、まだ疫病と決まったわけですらないのだ。何が起こっているのか、確実に把握できているわけではない。疫病だという感触、まさかという思い、もしもという予想と不安、そしてそれらが何ひとつ確定ではないことに対する苛立ち。
ノートを見つめてじっと考え込んでいると、電話が鳴った。静信は椅子ごと背後を振り返り、事務机の上の電話を引き寄せた。電話の相手は書店の田代だった。
「ああ、マサさん」
お久しぶりです、と言おうとした静信の言葉を、田代は遮った。
「静信、聞いたか? 駐在の高見さんが亡くなったんだって」
え、と静信は目を見開いた。
「――高見さん? まさか」
「それが、本当なんだよ。夕方に救急車が来てさ。なんだろうと思って店の前に出たら、駐在所から高見さんを運び出すところだったんだ」
高見の妻、秀子も救急車に乗り込んでいた。高見のところには子供が二人いるが、子供たちに訊くと、高見が突然、倒れたという。昨日から風邪をひいて寝込んでいたのが、手洗いに行って昏倒したらしい。ともかくも子供だけを放置しておくこともできず、田代留美が駐在所に残って面倒を見ていたが、つい先ほど高見秀子が戻ってきた。様子を訪ねると高見は死んだ、と答えた。
「とにかく奥さんも呆然としてる様子でね、――取り乱してるというか。詳しい様子を訊けるような状態じゃないんだ。なんで、詳しいことは分からないんだけど、静信たちは高見さんとも付き合いが深いから、耳に入れておいたほうがいいと思って」
静信は苦いものを呑み下した。
「風邪をひいて、寝込んでいた?」
「うん。らしいな」と田代の声には何の緊張感も伺えなかった。だが、静信はじわりと汗が浮かぶのを感じる。――嫌な予感。
「あの人はほら、駐在所に住んでいても外場の人じゃないだろう。弔組にも入ってないし、どうするのかと思ってね」
「そう……ですね」
「何なら手伝おうと言ったんですけど、とにかく実家に連絡して、実家になんとかしてもらうって言うんで。たぶん、溝辺町の葬儀会社に頼んで、|荼毘《だび》にして、という話になるんじゃないかな。とにかく、肝心の奥さんが一人にしてくれって言うんで、留美もおれも戻ってきたんだけど」
「ありがとうございます。とにかく、奥さんに連絡をしてみます」
そうしてやってくれ、と田代は言って電話を切った。
静信はすぐさま、駐在所に電話をかけた。だが、呼び出し音を十五まで数えたが、応える者はいない。病院にでも出かけているのだろうか。受話器を置き、改めて敏夫に電話をする。病院のほうに――夜間や休日には自宅のほうに切り替えられる――電話してみたが、敏夫は出ない。一瞬、躊躇して自宅に電話すると、孝江が出て木で鼻を括るように、出かけた、と答えた。
「どこに出かけたか、御存じありませんか」
「さあ。病院のほうに電話があって、それで出かけましたからね、往診じゃないですか」
ひょっとしたら、高見の訃報を伝える電話だったのかもしれない。それで駐在所に出かけたのかも。自分も行ってみようか、躊躇しているうちに当の敏夫から連絡があった。
背後からは人のざわめきと、微かにディキシーが聞こえている。クレオールからの電話のようだった。
やはり敏夫は駐在所に駆けつけたのだった。そして、駐在所には誰もいない、と言う。
「近所の者が、奥さんが子供を連れて車に乗り込むのを見てる。遺体を迎えに行ったか、子供を実家に預けに行ったか、そういうことなのかもしれない」
そう、と静信は答えたが、どこか釈然としなかった。
「とにかく、詳しいことが何も分からない。奥さんが戻ってこないことには」
そうだな、と答え、静信は声を低めた。
「――あれだと思うか」
敏夫の声は、いっそう低かった。
「たぶんな」
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
カレンダーの上では九月に入ったが、残暑はいっかな衰えたとは思えなった。
律子が病院を出ると、真昼の陽射しに灼かれた駐車場には熱気が立ち込めている。久々にお湿りでもあるのかもしれない、|茹《う》だるように蒸した。
「うわー、暑い」
雪は言って、おもちゃのようなフォルムの車に駆け寄った。車の窓は開け放したままだ。どうせ外場では車を盗んでいく者などいない。
「律子さん、暑いけどいい?」
「いいよ」と、律子は答える。商店街で買い物をして帰るという律子に、雪はだったら途中まで乗せていってあげる、と言ってくれた。駐車場で炙られていた車の中は路面よりも暑いくらいだが、この陽射しに焦がされながら歩くよりは、はるかにましだ。
ありがたく車に乗り込み、商店街の外れで降ろしてもらう。とりあえず昼食を摂ろうと、クレオールの扉を開けた。
しずかなピアノの音と、クーラーの冷気にほっと息をつく。たかだか病院からここまで、車で十分もかからない。そのおかけでクーラーの利く間もなくて、それだけの間にもうブラウスの背中が濡れている。
「こんにちは」
「ああ、律ちゃん」
長谷川は、まるで律子を待ち受けていたかのように勢い込んで顔を上げた。カウンターには、書店の田代が坐っている。長谷川はその隣に律子を手招いた。
「いいところに来た。律ちゃん、先生から高見さんのとこがどうなってるのか聞いてないかい」
「高見さん――駐在の? いいえ」
高見が亡くなった、という話は聞いた。看護婦たちはそれでいっそう、不安を感じている。けれどもそれきり、高見がどうした、という話を聞いた覚えがなかった。
「そうか。若先生、防犯委員だからなあ。何か聞いてるんじゃないかと思ったんだけどな。コーヒー?」
「アイスで。それとランチ。――高見さん、どうかしたんですか?」
それが、と長谷川と田代は目を見交わす。口を開いたのは田代のほうだった。
「引越しちゃったんだよ、高見さん」
律子は首を傾げた。
「だからさ、高見さんのところ、あれきり奥さんの姿が見えなくて。高見さんが亡くなったって、病院から戻ってきてそう言ってて。そのまま夜に子供を乗せてどこかに行ったきり、家に戻ってなかったんだよ。こっちはさ、葬式をするなら手伝いぐらいしようと思ってるし、人手が必要ないにしても線香ぐらい挙げにいかなきゃ、と思ってるじゃないか。ところが、それきり戻ってきた様子がない」
「まあ……」
「そしたら、ゆうべ、いきなり家に明かりが点いてさ。――いや、おれは家に帰ってたから、近所の連中に訊いたんだけど。やっと戻ってきたのかと思ったら、派出所の前に高砂松をつけたトラックが横着けになってて、奥さんも子供の姿も見えなくて、顔を見たこともない若いのがいたってんだよ」
「運送屋ですか? まさか引越たの? ゆうべ?」
「そうなんだよ。それも遅い時間だよ。薬局の森さんが見たのって、十二時近くの話だったって言うからさ」
「そんな夜中に、ですか?」
「うん。その若いのが――佐々木とかいうんだけど、どうやら後任らしいんだな。高見さん、けっきょく実家のほうで葬式を出したらしいんだよ。で、後任が決まったから引き払うって。その佐々木ってのが奥さんに頼まれて家移りをしたらしいんだけどね。とはいえ、着るものとか私物を運び出した程度でさ、家具なんかは置いたままなんだよ。佐々木さんが、自分が使うのに譲り受けたとか言ってたらしいんだけどね」
「急な話ですねえ」
「だろう? 周りに挨拶もないんだから、驚くよ。こっちは高見さんには世話になってるから、それなりに見送ろうと思って待ってたのにさ」
しかもね、と長谷川が田代の後を継ぐ。
「後任の佐々木ってのが、妙な感じらしくてさ。なんていうか――目が据わってて、あんまり人相が良くなかったらしいんだよ。それで森さん、一瞬、後任っていうのは出任せなんじゃないかと思ったらしいんだけどね。どうやら独り者みたいだったって」
そうですか、と律子は呟く。
「こんなにすぐ、後任って決まるものなんですね」
そうだねえ、という長谷川の声を聞きながら律子は内心で首を傾げた。何がどう、というわけじゃない。けれどもどこか、とても奇妙だ。突然の転居、それも深夜の。しかも高見の家族はいなくて、他人だけが立ち会って。家具を残して運び出される荷物、積み込まれるトラック――。
漠然と様子を思い浮かべて、律子はひとりごちた。
「高砂松……」
家紋にもあるあの高砂松だろう。――高砂運送。その名前には聞き覚えがある。
「うん?」
田代に促され、律子は口を開いた。
「高砂松って、それ、高砂運送ですよね」
「知ってるのかい? そんなに有名な引越屋だったかな」
「そうじゃなくて……。うちの近所でも最近、引越があったんですよ。一日だから、つい最近」
上外場の篠田母子が引越した。
「それが似たような話なんです。夜中にトラックが横着けになってて、突然、引越しちゃったんですよ。近所に挨拶も何もないまま。あんまり唐突だったんで、夜逃げかしら、なんて言っている人もいるぐらい」
「へえ。本当に似たような話だな」
「それが、やっぱり高砂運送だったんですって。名前はすごくおめでたいのに、夜逃げに使われるなんてね、なんて言ってたから」
「高砂運送?」
ええ、と律子は頷く。
「妙な符号ですよね、それ。ひょっとして、夜にだけやってる運送屋さんなのかしら」言って、律子は自分の言葉に失笑した。「……そんなの、あるわけないか」
長谷川も田代も、顔では笑いながら困惑したように視線を交わらせた。どうもね、と長谷川はサラダを盛りながら言う。
「このところ、どっか妙だよ、この村は。妙な引越といい、妙な余所者といい」
言って、長谷川は自分も余所者であることを思い出したかのように苦笑した。
「そういえば、兼正も夜中に越してきたんですよね。流行ってるのかしら」
「まさか。……おまけに、死人が続くし。清水さんとこの恵ちゃんと高見さん、立て続けだろう? 広沢さんも、弔組の用が続くって言ってたしさ」
律子は思わず、長谷川の顔を見返してしまった。一瞬、長谷川が冗談を言っているかのように感じてしまったのだった。見返した長谷川の顔は大まじめだった。本当に不安を感じているよう。――だが。
律子の顔を見て思い出したのか、長谷川はああ、と手を叩いた。
「そうそう、山入だよ。山入でも年寄りが死んだんだよねえ」
律子は息を呑む。死人はそれだけではない。長谷川は知らないのだ。無理もない、付き合いがなければ訃報など入ってこないだろう。だから後藤田秀司も、その母親ふきの死も知らなくて当然、安森義一や安森奈緒の死も知らなくて当然といえば当然のことなのかもしれない。小耳にぐらいは挟んでいるのかもしれないが、意識に引っかかっていないのだろう。
(それだけじゃない)
律子は思わず、口にしそうになった。後藤田秀司、ふき、安森義一、奈緒、山入の三人と恵、高見で総計九人。この数は異常だ。
――だが、そんな律子でさえ、正確な実数を知っているわけではなかった。
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
敏夫は電話で眠りから叩き起こされた。目覚め、ベッドに起き上がるまでに、覚悟はできていた。早朝の電話は訃報だ。それがこの夏に敏夫が学んだことだった。
「――はい」
答えたとき、敏夫の脳裏にあったのは、何が起こったのだろう、ということではなく、誰が死んだのだろう、ということだった。
二十九日には静信から太田健治の死が伝えられた。翌、三十日には高見の訃報が入った。その後にもつい一昨日の五日、四日に外場の佐伯明が死んだと石田から連絡があったばかりだ。
「安森です、工務店の」
電話の相手は工務店の節子だった。では、奈緒から移った誰かだ、と敏夫は思った。どうしました、と訊いたものの、これは相槌以上の意味を持たなかった。
「進の――孫の様子がおかしいんです。ぐったりして、揺すっても叩いても目を開けなくて。真っ青で……」
「すぐに行きます。とにかく、救急車を呼んで」
はい、と涙混じりの声を出す節子の通話を断ち切り、敏夫は服を着る。家を飛び出し、工務店に車で駆けつけたときには、進はまだ息をしていた。
呼吸は浅く、早い。頻呼吸というより、明らかに過呼吸だった。処置をしているうちにその呼吸が途絶えた。過呼吸から来るアシドーシスだろう。敏夫が心停止を確認したところで、ようやく救急車が到着した。
「心停止。たった今だ、急げ」
救急隊員に伝える。それが聞こえたのか、節子は悲鳴に似た声を上げた。
「進は――死んだんですか」
安森徳次郎が震える手で縋りついてくる。
「まだ蘇生の望みがないわけじゃない」
答えながら、敏夫は眉を顰めた。孫の以上に逆上した徳次郎と節子。肝心の父親である幹康はそれを妙にどんよりとした目で見つめている。|狼狽《うろた》えている様子がなかった。
「幹康、大丈夫か?」
進を救急隊員に任せ、敏夫は幹康の側による。妻と子を一夏の間に失った――失おうとしている男。だが、幹康の表情には変化が見られなかった。放心したように虚ろな視線を息子へと注いでいる。
「幹康、――おい」
何を伝えようというのか、幹康は頷いた。
「おまえ、気分はどうだ?」
幹康は機械的に頷き、それからふと思い出したように、呟いた。
「進、死んだの、敏夫さん」
イエスと言ったものか、ノーと言ったものか迷いながら、敏夫は幹康の顔を覗き込んだ。目に妙な光があるのは、白目が異常に青みを帯びているせいだ。間近で見ると、呼吸が浅い。脈を取ると明らかな頻脈がある。
「幹康」
「敏夫さん、ゆうべさあ……」幹康は虚ろな目をしたまま、わずかに口許を歪めた。「進が寝言を言ったんだよ。ママ、って」
淡々と、抑揚のない声で呟いた。
「それで目が覚めたんだ。あれが……おれが最後に聞いた進の言葉になったなあ……」
敏夫は幹康の手を握った。指先が冷たい。膝の上に投げ出された腕のあちこちには奈緒の時に見たようなセツ[#「セツ」は「やまいだれ」+「節」に似た字。Unicode:U+7664]が見える。
「待ってくれ」敏夫は振り返って、進を運び出そうとする救急隊員を呼び止めた。「こいつもだ。国立に運んでくれ」
徳次郎と節子が進の後を追おうとした止め振り返った。
「若先生――」
「詳しいことは分からないが、再生不良性貧血か急性白血病の疑いがあると、向こうさんに伝えてくれ」
救急隊員は驚いたように目を見開き、担架を取りにいった。その間に、敏夫は注射器を出す。
「幹康、ちょっと手を」
採決しようとして駆血帯を巻いた左腕の、ちょうど静脈の上にセツ[#「セツ」は「やまいだれ」+「節」に似た字。Unicode:U+7664]がふたつ並んでいた。それを避けて針を刺し、駆血帯を解いて末梢血を吸い上げる。
「若先生、幹康は――」
敏夫は徳次郎の狼狽しきった顔を見返した。
「べつに確定じゃない。最悪の場合、そういうこともあり得る、ということだから」
「しかし……」
「用心のためです。――さあ、進くんと幹康についていってやりなさい」
敏夫は末梢血を持ち帰り、その半分を田島予研に検査に出すよう、付箋を付けて保存庫にしまった。半分を入れたスピッツを持って検査室に向かう。ヘマトクリット値減少、ヘモグロビン濃度も減少、明らかな貧血、しかも塗沫標本を見てみると、網赤血球が増えている。
「……あれだ」
「――進くん? 工務店の坊や?」
ナース服に着替えながら、やすよが目を見開いた。律子は頷いた。
「今朝だそうです。幹康さんも具合が悪くて、溝辺町の国立病院に運んだとか」
そう、とやすよは低く、声とも溜息ともつかないものを漏らした。永田清美はナースキャップを髪に留め付けながら、深い息を吐く。
「……可哀想に。けど、これはいよいよ本物だわね」
「そうねえ」やすよは頷いた。「嫁さんと息子と旦那と続いちゃあね。伝染病だわ」
清美も頷く。
「こないだから気になって本をひっくり返してるんだけど、何なのかが分からないのよね。どれ見ても怪しいような気もするし、どれ見ても違うような気がするし」
「あたしらは医者じゃないんだから。……でも、あんまり見かけない症状よねえ」
答えたやすよも、やはり調べるだけは調べてみた、という顔だった。
「大丈夫なんでしょうか」
律子の問いに、やすよはあっけらかんと笑う。
「あたしたちが心配したって始まらないわよ。若先生が心得てるわ。あたしらは若先生の言う通りに動いてればいいのよ。それが仕事なんだから。……でもまあ、酷いことにならなきゃいいんだけどね」
「これで収まればいいんだけど」清美はもう一度、溜息をついた。「下手すると忙しくなるかもね、……これから」
「ありがたくはないけど、仕事なんだからしょうがない。病人がいれば、医者の指示に従って動く、それが務めってもんだからね。医者が何とかする気になってるのに、得体が知れないってだけで逃げ出すわけにはいかないでしょ」
そうね、と清美は笑う。律子も何となく微笑んだ。年長の看護婦たちのたくましさが心強い。自分のやるべきことを心得ている、という自身と自負のようなもの。
「済みません。ちょっと、狼狽しちゃって」
やすよは屈託なく笑う。
「そりゃそうよね。まあ、せいぜい食べるもの食べて、体力をつけないとね。下手をすると、体力勝負になるかもよ」
「瘠せるかしらね」
清美の茶々に、やすよは豪快に笑う。
「そうなりゃ儲けだわ。――もっとも、あたしらがスマートになってる頃には、律ちゃんなんか線みたいになってるかもしれないけどね」
律子は微笑む。
「きっとその頃は、先生、影だけを残してなくなってますよ」
「違いない」
笑いながら、律子は更衣室を出て、休憩室へと向かう。それをパートのミキが呼び止めた。ミキの背後には藤代が不安そうに控えている。
「あのねえ、律ちゃん、工務店の坊やが死んだって聞いたんだけど」
「そうみたいですね」
「大丈夫なのかねえ。……ほら、なんだか死んだのなんのって話が続くでしょう」
藤代がおろおろと口を添える。
「悪い病気でも流行ってるんじゃないかしらねえ。うちには小さい孫がいるもんで……」
律子は微笑んだ。
「先生が心得てらっしゃると思いますよ。どうしても心配なら、一度、先生に相談してみたらどうかしら」
「ああ、……そうねえ」
ミキは呟いて、藤代のほうを振り返った。藤代も頷いたが、釈然としたふうではなかった。
「なんだったらわたしから、ミキさんたちが心配してました、ってそれとなく伝えときます」
「そうしてもらえると」
ミキも藤代も頭を下げる。
「先生はまだ何もおっしゃってないけど、念のためということがあるから、医療ゴミは気を付けて取り扱ってくださいね」
二人は言葉を噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]みしめるようにして頷いた。
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
静信はランプの中に火を入れた。暗い明かりに廃墟と化した教会の内部が浮かび上がった。
古風な石油ランプは、そもそもここに残されていたものだった。ランプに限らず、教会の内部にはかつてここに住んでいた隠遁者の私物が残されたままだった。埃とネズミの糞にまみれた着替え、黴びてぼろぼろになった書籍、彼が自分の周囲において日用の足しにし、心を慰撫してきた全てのものが。
静信がそもそも、ここに通うようになったのは、最初それらのものから、ここで聖堂を営み個人的な信仰のために己を捧げていた人物の、静信の断片を読み取ることが楽しかったからだった。それらはおよそ統一性を欠き、ひとつの人格を垣間見せるにはあまりにも脈絡を失っているのだが、ひとつひとつの品物に意味を探し、他のものが暗示する意味と結び合わせてみるのは興味深い作業だった。
魔術や呪いに関する書籍、あるいは歴史に関する書物、怪しげな宗教の小冊子。それらの間には物理学や生物学の本が混じり、子供向けの他愛ない教訓的な小説が混じっていたりもした。
彼が何を思ってこれらの本を収集したのかは分からない。ただ――と、静信は思う。彼が殉教者に憧れていたのは間違いがない。彼は何かに殉ずることを望んでいたけれども、実をいうと何に殉ずればいいのか、彼自身にも分からなかったのかもしれなかった。ずっとここで、帰依すべき摂理を探していた。そうでなけば、彼は直感として掴[#「掴」は旧字体。Unicode:U+6451]んでいた彼自身の神を、表現する言葉を探していたのかもしれなかった。
彼はここから引き出され、連れ戻されて、そこでそれを見つけることができたのだろうか、と思う。ここを発見したばかりの頃、兼正に住人の消息を訪ねたことがあるけれども、彼は戦後の混乱の中で行方不明になったまま、今日に至るもその後の消息は分からない。もしも彼が仕えるべき摂理を見つけたのだとしたら、それを知りたい、と思う。
そんなことを考えながら染みだらけの本を開いていると、かたん、と小さな音がした。ランプの明かりの中、物音のした出入り口のほうに視線を向けると、沙子が顔を覗かせていた。
「――室井さん?」
静信は驚いて本を閉じる。沙子は軽い足取りで、ベンチの間の通路を歩み寄ってきた。
「明かりが見えたから、そうじゃないかと思ったの。家の窓から見えたのよ」
「ああ、……そう」
「約束を覚えてる? 本を持ってきたの。サインをしてもらえるかしら」
静信は頷き、沙子の差し出した本を手に取った。静信が二冊目に出した本だ。まだ美本に近かったが、この著作はもう流通していないはずだ。丁寧に扱われていたのだろう。表紙を開き、遊び紙に署名をした。一時は物珍しさもあってか、檀家の人間によくサインを求められたが、近頃ではそういうこともない。何となく面映ゆかった。
「ありがとう。大切にするわ」
嬉しそうに笑った少女の顔を、ランプの光が照らしている。
前回に会ったあと、SLEについて調べてみた。全身性エリテマトーデス。日本では膠原病の一種とされているが、正確には結合組織病の一種らしい。とはいえ、静信にはその結合組織というものが具体的にどういうものなのか、イメージできなかった。若い女性に多く、発病者のほとんどを女性患者が占める。家族的に発病する傾向があるらしいが、遺伝との関係は分かっていないらしい。特徴的な紅斑に代表される皮膚症状と関節痛を主とする疾病のようだが、全身症状を伴う。特に問題になるのは腎機能の低下と心肺機能の低下だった。全身の衰弱、易感染のおそれ、脳・神経系にも病変を起こすことがある。紫外線に対して過敏で、紫外線刺激によって発病、重症化することがあり、腎機能の低下や心肺機能の低下から尿毒症、弁膜症、心膜炎を起こせば一命に関わる。免疫異常が原因だと推定されるものの、発病の原因は明らかでなく、治療方法も確定していない。生涯にわたって闘病生活を余儀なくされ、社会や職場に復帰することが困難なことから、難病に指定されている。
その知識のせいか、ランプの不安定な光源のせいなのか、少女の顔には陰鬱な陰影がついていた。
「顔色が悪いように見えるよ」
「そう? ――そうかもね。しばらくちょっと寝込んでいたから」
「大丈夫かい?」
「もう慣れっこだもの」
少女は淡々と肩を竦めた。白い肌は病的なようにも見えたが、特徴的と言われる紅斑は見られない。SLEの治療はステロイド剤の内服が基本らしく、長期にわたる服用がまた重大な副作用をもたらすのだが、とりあえず沙子には副作用として著名な満月様顔貌やバッファロー頸などの外見的な特徴も見えなかった。顔色が悪いことを除けば、ごく健康そうに見える。それが素人目にはそう見えるだけのことにしろ。
だが、と静信は思う。沙子の生命は危うい均衡の上に成り立っている。そう、命は脆いのだ、人間がそうと信じている以上に。安森進は死亡した。おそらくは幹康も生きて戻ってはこないだろう。
(幹康……)
四つ下で、近所に住んでいた。寺と安森家は関係も深い。小さい頃にはよく一緒に遊んだ。幼なじみだと言ってもいい。
この夏、多くの村人が死んだ。知っている者もいたし、知らない者もいた。けれども幹康のように人生のあるいっときを、共有した者が倒れたのは初めてだった。例のあれなら、幹康は助からない。最後にあったのは奈緒の葬儀の時だったか。おそらくもう、生きた幹康に会うことはないだろう。今度会うときは、幹康は抜け殻になっていて、そして自分は幹康の抜け殻に引導を渡すのだ。
「また、誰か死んだの?」
沙子に問われて、静信は我に返った。
「……なぜ?」
「前もそうだったから。誰か女の子が死んだって。室井さんは、あの時と同じように落ち込んでいるように見えるわ」
そうか、と静信は苦笑した。
「檀家の人?」
「そう」静信は頷き、「まだ死んだわけじゃない。けれども……危篤なんだ」
そう言ってもいいだろう。しかも回復の望みは全くない。
「檀家なんだけれども、どちらかというと、幼なじみというべきかな」
「へえ?」
静信は小さく軽く息を吐く。
「小さい頃はよく一緒に遊んだんだよ。というより、遊んでと言ってついてきた、というほうが正解かな。四つも下だったから」
「子分みたいなものね」
沙子は控えめに笑った。
「そうかもしれないな。ぼくは子供の頃から引っ込み思案なほうでね、人見知りも激しくて、敏夫より他にあまり親しい子供がいなかったんだ」
「敏夫さん?」
「尾崎医院の院長だよ。敏夫とは仲が良かったんだけど、敏夫は負けん気が強くて。年長の子供の手下に収まる気性じゃないから、いきおい、ぼくと敏夫と二人で遊ぶ羽目になるんだ。敏夫は年長の子供とは折り合いが悪かったんだけれども、年下の子とは折り合いがよかった。結構、理不尽なことも言うし、その時の気分で邪険にしたりもしたんだけど、それでも慕われた、というか」
「典型的な餓鬼大将だったのね」と、沙子は笑う。「でも、餓鬼大将と一緒に遊んでいる室井さんってなんだか想像がつかないわ。なんだか、子供の頃から一人で本を読んでばかりいたような印象があるもの」
「そうでもなかったよ。よく悪戯もしたし」と、静信は微笑む。「だいたい、言い出すのは敏夫なんだけどね。とんでもない悪戯を考案したり、無謀な遊びを発見するのが得意だったんだ。タブーに挑戦するのが好きでね。ぼくはたいがい反対するんだけど、敏夫は絶対に言うことをきかない。それでいつも一緒についていく羽目になるんだ。敏夫が無茶しすぎないようにブレーキをかけるのが自分の役目だと思っていたのかな」
「……なんだか、らしいわ」
静信はランプの明かりに目を移した。
「村に虫送りという祭りがあってね。その行列の後を蹤けていったことがあるな……」
静信は何となく、今年の虫送りの夜のことを思い出していた。遠いようで、すぐこの間のことのような気もする。
「本当は、そういうことはしちゃいけないんだ。それは神事で、村人がついていってはいけない宗教上の理由がちゃんとある。真夜中のことだし、子供が後を蹤けるなんてとんでもない。けれども毎年、必ず後を蹤けていく子供が出るんだね。子供というのは、そういう生き物なんだろう」
「かもしれないわ」
「いくつの時だったかな。敏夫が蹤けてみようと言い出してね。ぼくはもちろん反対する。幹康は――危篤になっているそいつは、ぼくと敏夫の間に挟まって、おろおろしてね。……幹康は怖がりだったんだ。すごく臆病で気弱な子供だった。だから、行列の後を蹤けるなんてことは、怖いことだったんだろう。大人に見つかったら叱られる。それだけじゃなく、少し怖い雰囲気のある祭りだし。ぼくが反対すると、ほっとしたような顔をして、ぼくに同意するんだけどね、けれども敏夫が、だったらいい、一人で行くというと、一緒に行きたくて我慢できないんだ」
「なんとなく分かるわ」
沙子は微笑んだ。静信も軽く笑う。
「いつもそんなふうだったな。幹康は結局、おっかなびっくり敏夫についていくんだ。ぼくは仕方なく、敏夫が羽目を外しすぎないようについていく。ずっとそんなふうで……」
一緒に遊ぶことがなくなったのは、いつ頃のことだろう。静信らに限らず、子供は思春期に入って大人と子供の狭間に至ると、子供だけのグループを抜けて、同じ狭間の世代でグループを作るようになる。いつの間にか馬鹿げた悪戯や無謀な遊びをすることがなくなって、動き回るより話をする時間が増えた。その頃には敏夫も年上の人間と折り合う術を見つけ、書店の田代や村迫米穀店の兄弟とは、ずいぶん本やレコードの貸し借りをした覚えがある。そうして静信は幹康を見かけなくなった。幹康は幹康で、別の友人を見つけ――そして大人になり、結婚して家業を継ぎ、父親になった。だが、確実にある時期、幹康とは時間を共有していたのだ。
静信は口を噤んで、村の外、どこかの病院の一室で眠っている幹康のことを思った。妻を失い、子供を失い、そして自分自身を失おうとしている――。
ねえ、と唐突に沙子が声を上げた。
「室井さんに大切な誰かがいたとして、その人を自分の望むだけ生かしたいと思ったら、どうすればいいか分かる?」
「医者になる?」
「違うわ」沙子は笑う。「殺すの」
静信は、ぽかんとした。
「自分の望むだけ相手を生かす――相手の死期を支配したいんだったら、自分の意思で相手を殺すの。そうでなければ誰かがその人を殺すのよ。室井さんの手から奪っていく」
沙子は言って、小声で笑った。
「面白いでしょ? 身近な人が死ぬのは辛いことよね。自分がそれを許してないのに、自分の人生から奪われてしまうなんて、とても酷いことのような気がするんだけど、それを避けようと思うと、相手を自分が殺すしかないの。わたしたち、そういう生き物なのよ」
「そう……そうだね」
沙子はベンチから立ち上がって、聖堂の闇を見渡した。
「……可愛いと可哀想って似てない?」
「うん?」
沙子は笑って振り返る。
「たとえば小鳥を飼ってたとするでしょ? とってもよく懐いて、暖かくて愛しくて、すごく可愛い」
静信は曖昧に頷いた。
「でも、どんなに可愛く思っていても、小鳥はいつか死んでしまうの。どんなにどんなに大事にしても死なないようにはしてやれない。誰にも奪われまい、自分の望むだけ生かそうと思ったら自分で殺すしかないくらい、これはどうようもないことなの。だからね、可愛ければ可愛いだけ、可哀想なの。……そういう気、しない?」
「……なるほど」
「死んでしまったら可哀想だって思うことを、可愛いって言うんだわ。失いたくない、失うのが惜しいっていうのを愛おしいって言うんだと思うの。――いと、惜し」
「……うん」
静信は微かに笑った。沙子の理屈っぽいようでいて、理屈を欠いた意見が微笑ましかったせいもあるし、娘ほどの歳の少女に説得されている自分がおかしくもあった。
「きみはいつも、そんなことを考えているのかい?」
静信が問うと、沙子はちらりと静信を見て、視線を逸らすようにステンドグラスを見上げた。
「そうね。生きることや死ぬこと――そういうことはよく考えるわ。考えないでいられないの」
どこか沈痛な声音に、静信は胸を衝かれる。沙子は重大な健康上の問題を抱えているのだ。常に生死の狭間にいると言ってもいい。愚問を発した自分に狼狽え、そしてふと思い至った。SLEのひとつに易感染性がある。免疫系に問題があるのだ。だから感染症に罹りやすく、そもそも随所に問題を抱える身体は抵抗力に欠ける。そして村には危険な疫病が蔓延していこうとしている。
「あの……」
静信はこの夜も、沙子をなんと呼んでいいのか分からずに言葉を濁した。
「ここには、あまり来ないほうがいいんじゃないかな」
沙子は振り返った。
「やっぱり迷惑?」
「そういう意味じゃないんだ。ただ……野犬もいるし」
「いるという話ね。でも、私はまだ姿を見たことがないわ」
「夜は危険だよ、こんな田舎でもやはりね」
沙子はじっと静信を見つめ、不承不承というように溜息混じりに頷いた。
「分かったわ。家で温和しくしてる。室井さんのテリトリーは侵さないようにするわ」
「そういう意味じゃないんだ、本当に」
「はっきり言ってくれていいのよ。物事が思い通りに行かないのには慣れてるわ」
「そうでなく」静信は言い淀み、「これは秘密にしてもらいたいのだけど」
沙子は首を傾げた。
「御両親に言うのはいい。特にお母さんも知っておく必要があると思う。君の家のお医者さんもね。だが、村の人たちには知られたくないんだ。家の外には漏らさないでもらいたいんだよ」
「ひょっとして、それだけ重大な秘密?」
「そうだね。いまはまだ」
「いいわ、約束するわ」
生真面目な顔で頷いた少女に、静信は告げた。
「村ではいま、正体不明の病気が流行っている」
沙子は瞬いた。
「……伝染病?」
「その疑いが濃厚だ。敏夫は山に住む野犬か小動物――それについているノミやダニが媒介している可能性があると考えている」
「それ、危険なの?」
「危険なんだ。少なくとも、これまでに出た患者は全員、最悪の結果を辿っている。――皮肉なことだね。君たちはここに安全な生活を求めてきたのに」
「そうね。町にいるより危険だったかしら。でも、そういうこともあるわ。それ、どういう病気?」
静信は首を振った。
「よく分からないんだ、まだ。敏夫は既存の伝染病には合致しないと言っている」
「新種?」
「分からない。新種や変異種である可能性もある、とは言っているが。なにしろ劇的に悪くなるから、詳しく調べている余裕がないんだ。都会の人と違って、村の人たちは病理解剖なんてことにも消極的だしね。それほどの設備のある病院もないし。それで詳しいことは五里霧中だ」
「そう……」
「だから、あまり不用意に出歩かないほうがいい。特にこの辺りに媒介している生物がうろついている可能性がある」
「分かったわ」沙子は頷き、小首を傾げる。「せっかく室井さんに会えたのに、残念だわ。たまにならいいかしら?」
「さあ……。実を言えば、正体不明だから自衛策も分からないんだけどね。家に閉じこもっていたから安全とはいかないかもしれない。確かなことは何一つ言えないのだけど」
「ルーレットみたいなものね。運が悪いと捕まってしまうんだわ。でも、危険に遭遇する可能性は減らしたほうがいいのは確実よね」
「だと思うよ」
「ありがとう。母にも江渕さんにもそう言うわ。でもって家の外には話を出さない。パニックになったら大変だもの。そういうことでしょ?」
静信は頷いた。
「充分、気をつけるし、ごくたまにするわ。だからまた来てもいい?」
「ぼくに許可を求めるようなことじゃないよ。けれども、本当に気をつけて」
[#改段]
[#ここから3字下げ]
四章
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
敏夫が溝辺町の国立病院から電話を受けたのは、九月十日、午前の診療が始まって、最初の一段落が着こうかという頃だった。
「先生、お電話です。国立の谷口先生から」
律子が電話を廻してくれて、敏夫は患者に断って控え室に戻る。そこで電話を受けた。
国立の谷口は敏夫より年上の内科医だった。同じ大学の七年先輩で、だからもちろん、大学自体には面識はなったものの、先輩・後輩の縁で何かと便宜を図ってくれる。とはいえ、谷口自身は近辺の生まれではないし、溝辺町近辺に住んでいるわけでもない。谷口は国立に週に二度来る傍ら、大学で講師をしている。都会から高速に乗って週に二日、通ってくるのだ。
国立病院は、JAが母体の共済病院と並んで溝辺町では大きな病院だったが、内実はその程度のものだった。常勤の医者は若くキャリアがない。中央から飛ばされてやってきて、そこでキャリアを作って中央に戻るなり実家に帰って開業医になったりする。そうでなければ中央に居場所を失ったロートルだ。経験のあるそれなりの医者は、都会で相応の地位にありつつ、週に何度か診察日を設けてやってくる。
「代わりました」
敏夫は受話器を取る。
「ああ、尾崎くん。先日、きみから廻されてきた患者なんだけどね」
先輩・後輩の仲だから、谷口を宛にして敏夫はしばしば手に負えない内科の患者――それは長期入院が必要な患者を含む――を国立に廻す。外科ならあそこ、脳外科ならあそこと、それなりのルートを持っていた。敏夫のほうには儲けはあまりないが、その代わりに何かあれば知らせてもらえる。経過についても尋ねやすいのが利点だった。
「安森幹康ですか」
「うん、そう。彼なんだけど、腎不全で本日の午前五時十六分に死亡した」
そうですか、と敏夫は呟いた。救急車に運ばれていく幹康を見送ったとき、それが幼なじみを見る最後の機会になるだろうということを、敏夫自身、覚悟していた。
「経過はいかがでした」
「運び込まれたときには、かなり酷い貧血が出ていたようだね。私はいなかったんで分からないが。クレアチニンが上昇してたんで腎不全を警戒したんだが、MODSからDICを併発してMOFに至った。詳しい経過が必要かい?」
「お手数ですが、ぜひお願いします。できれば急いで」
「勉強熱心だね、相変わらず」
敏夫は苦笑した。
「幹康は幼なじみなんです。――狭い村ですから」
ああ、と谷口は気まずげな声を出した。
「そりゃあ、申し訳なかったな。ちょっと妙な経過でね。カルテを見る限り、当初はさほど深刻な腎障害があるとも思えなかったんだが。わたしが最初から見てればよかったんだけど診察日じゃなかったもんだから」
「残念です。――再生不良性貧血や白血球の異常はありましたか」
「それが、なかったんだよ」
「ない? 確かですか」
「うん。きみがそう言っておいたんだろう。いちおう、こっちでもきっちり検査させてもらったんだけどね。再生不良性貧血ではなかったようだな。骨髄には異常がない。好中球は増えてはいるが、白血球、造血細胞の形態異常もなしだ」
「そうですか」敏夫は答えながら、やはり、と思っていた。
「ファックスでいいかい?」
「結構です」
敏夫は谷口に礼を言って電話を切った。
(敏夫さん)
耳の奥に残る幹康の、どこか甘えるような――頼りにするような声は故意に忘れようと努めた。いつまでも心に留めても始まらない。これは特別な悲劇ではない、もはや村にとっては。
幹康の訃報が入る直前、石田から下外場の男が死んだと知らされたばかりだ。昨日には静信が中外場の老女の死を報告してきた。一昨日にはこれも石田から、水口に住む会社員の死亡が伝えられている。ここに至って、事態は急加速していた。
(伝染している)
確証はないが、すでに確信になっていた。第一の感染者が汚染源になって二次感染を起こす。二次感染の患者は一次感染の患者よりも多い。それら二次感染した患者たちが汚染源になってさらに三次感染へ。――事態はそのように、感染の拡大を示している。
(スパンが短い……)
潜伏期間を一週間から二週間と見たにもかかわらず、感染が拡大していくスパンは、それよりもはるかに短かった。やはり人から人へは移らないのかも。ノミやダニが媒介していて、一両日中に発症するのかもしれない。だが、山の中の暮らし、村の住宅ほとんどは気密性が低く古い。媒介動物をどうやって根絶しろというのか。
敏夫は微かな悪寒のようなものを感じる。ひょっとしたらこれは、敏夫らが最初に想定した「最悪の事態」以上の災厄かもしれない。
「幹康さんが亡くなったの?」
律子の言葉に、やすよは目を剥いた。
「ええ。さっき国立から連絡があって」
そう、とやすよは湯飲みを洗っていた手を止めて厨房の流しを見つめる。
厨房はかつて入院患者を受け付けていたころの名残の代物だった。かつてはここで入院患者の食事を用意し、隣の食堂では職員も食事をすることができた。その食堂は今では休憩室になっている。一郭には、今はいない厨房の職員のための洗面所があり、休憩室があったが、休憩室のソファは昼寝のためのスペースになっていた。
この先、厨房が使われることはないのかもしれなかったが、今でも、いつでも使えるように維持はされているし、律子らは時折、ここで弁当を暖めたり、軽い煮炊きをすることもある。お茶を用意するための湯沸室は別にあったが、休憩するときには厨房を使った方が便利だ。しかも湯沸室は手狭なので、後片づけなどの際には、厨房全体を使って複数で一気にやってしまうことのほうが多かった。
やすよは、手を止めたまま考え込んでいたが、吹っ切ったように顔を上げて手を拭いた。
「律ちゃん、悪いけど続きを頼むわね。あたしゃ先生と話をしてくるわ」
「やすよさん」
「ちょっとね、さすがに先生に事情を聞いておかないと。パートの人たちも不安に思ってるみたいだからさ」
言い残して、やすよは厨房を出て行く。しばらくしてから戻ってきた。
「律ちゃん、今日の午後は用がある?」
「いいえ」
「じゃ、終わってから残ってくれるかしら。ちょっとミーティングするんで。お昼は先生がお弁当を取ってくれるそうだから」
はい、と答えながら、律子は「きた」と思っていた。敏夫から説明があるのだろう。それを聞きたいような、聞きたくないような気がした。聞けば確定してしまう、という気がする。律子たちが想像でいっているのと、医師である敏夫が言明するのとでは訳が違う。
緊張して片づけを終え、仕事に戻った。顔を合わせる職員の誰もが、同じように緊張した様子だったけれども、誰も何も言わなかった。妙な緊張感の流れる中、午になったが患者の診察が終わらない。最近、じりじりと昼休みが延びる傾向にあった。患者が多いのだ。特に病気が多いという印象ではない。いつもなら病院に来もしないような、些細な症状の患者がやってきている、という印象。そういう患者に限って、長々と敏夫に話しかけ、診察時間を引き延ばす。
(不安なんだ……)
律子はそう思う。患者が――村人が、以上に増えた死を意識しているにしろ、いないにしろ、何かがおかしいと分かっているのだ健康や生命は、意外に簡単に損なわれるものだということを、漠然と意識している。それが村人の間で蔓延しつつあるのだろう。そしてこれは、きっとこの先、今よりももっと増えていく。
交代で昼食を摂りながら、律子らは患者をこなしていった。最後の患者の診察が終わったのは、二時を過ぎてからだった。後片づけを終え、休憩室に向かうと、すでに全員が揃っている。
「律ちゃんで最後か?」敏夫はテーブルに積んだ書類を前に笑う。「ドアを閉めて、坐って」
いつもの調子の声だった。それに安堵しながら、律子はドアを閉め、空いた椅子に座る。休憩室の中には、クーラーの冷気と、それ以上にひんやりとした緊張が漂っていた。
「もう知っているかもしれないが、今日、工務店の幹康が亡くなった」敏夫はそう切り出して、武藤と十和田のほうを見る。「ちょっと武藤さんたちには分かりづらい話になるかもしれないが、不明なことがあれば質問してくれていい。辛抱してくれ」
武藤と十和田は頷く。
「幹康が亡くなって、これで八月以降の死者は十九人になった」
それは爆弾のようだった。律子は背筋を伸ばした。そんなに、という声は複数のもの、ひょっとしたら律子自身も無意識のうちに声を上げていたかもしれない。
「そんなにいたんだ、実は。中にはうちとは一切関係なく、溝辺町で倒れて病院に運ばれ、息を引き取ったものもいる。とりあえず役所に死亡届が出ている者を勘定すると、幹康で十九人目。――異常事態だ」
律子は軽く息を呑んだ。
「しかも幹康は、工務店では奈緒さん、進くんに続いて三人目の死者だ。ひょっとしたらみんなも薄々気づいていたかもしれないが、伝染病の可能性がある」
「先生、確かなんですか」
武藤が身を乗り出した。
「死人が出ているのは確かだ。それも明らかに超過死亡で、しかも次第に数が増える傾向にある。おそらく伝染病だと思って間違いないと思う」
いって、敏夫はざっとこれまでの経過を説明した。具体的な死者の名前とその死亡原因。
「ちなみに、工務店の奈緒さん、幹康の血液を検査させた結果では、伝染病に対して陰性だ。検査結果からいうなら、二人はいかなる伝染病にも感染していない。培養検査も依頼しているが、こちらの結果は全てが出揃っているわけじゃない。培養するには時間がかかる。結論が出るのは、もう少し先になると思うが、少なくとも現在の時点で分かる限り、二人は急に一命を失うような微生物には感染していない。村迫美重子さんも同様だ。警察から戻ってきた結果では完全にシロだ」
あの、と十和田が声を上げた。
「結果が出てないのに、伝染病じゃないと断言できるんですか? さっき先生は伝染病だ、と言ったと思うんですけど」
「うん、こういうことなんだ。――伝染病の原因になるのは病原微生物だ。これらの病原微生物に生体が冒されることを感染症という。これら感染症の全てに伝染性があるわけだが、このうち、人体に重大な被害を与え、社会にとってもその影響を無視できない者を特に伝染病というんだ。感染症の中から伝染病として切り分けて、特別に警戒している。――ここまではいいか?」
「ああ……はい」
「だから伝染病とは、厳密には感染症のうち『伝染病』として定められたもののことだと言えるわけだ。いま、村で流行っているやつは、この伝染病には該当しない。症状から言っても検査か結果から言っても完全にシロだ。だから伝染病ではないんだが、患者の増加する様子を観察していると、明らかに伝染していると考えられる。しかも結果は重大で、患者の数も多い。既存の伝染病ではないが、社会的に重大な感染症であることは確かなんだ。人や社会に及ぼす影響力を考えると、伝染病だと言ってもいいと思う」
「ああ、分かりました」
敏夫は頷き、
「既存の伝染病ではないし、感染症ではない可能性も僅かだが残っている。ひょっとしたら、何らかの物質に対する中毒やアレルギーと言うことも考えられるからな。とにかく、まだ何が起こっているのか分からない、というのが正確なところだ。病因も分からないし、伝播する方法も分からない」
やすよが手を挙げた。
「新種の伝染病って可能性もあるんじゃないですか」
「新種の可能性は、もちろんある」
「どうするんですか、これから」
武藤が途方に暮れたように言った。
「それが分かればね。とにかく、一連の死の原因を突き止めないことには手も足も出ない。治療や予防ができないだけじゃなく、行政に救済を求めることもできない」
「行政に調べてもらうわけにはいかないんですか?」
「そのつもりだ。とはいえ、そのためには、それなりにデータを取りまとめて資料を揃えないといけない。そうやって、行政に調査の必要があると認めさせなければ。これについては、保健係の石田さんと検討中だ」敏夫は言って苦笑した。「これが既存の伝染病や、その変異種なら話は早いんだがな。今のところそういう結果が出ていないから、説得力のある資料を作るところから始めないといけない。にもかかわらず、確実に伝染するという証拠もない。かなり時間がかると思っておいたほうがいいだろう」
「行政はこういうとき、対応が遅いもんですからねえ。よほど証拠を揃えてせっつかないと……」
武藤は深い溜息をついた。全員が同意するように息を吐いた。
「今のところ分かっているのは、それは貧血で始まるらしいということだ。少なくとも、清水恵ちゃん、安森の奈緒さん、幹康の三人は当初、貧血以外にはこれといった不調はなかった。貧血が起きている、だから顔色が悪い、倦怠感がある、食欲がない。周囲は夏バテだろうか、風邪だろうかと思って見過ごしやすいということのようだ」
「貧血の原因は何なんですか?」
清美の問いに、敏夫は首を振る。
「それが分からないんだ。検査結果からすると、正球性正色素性貧血だ。少なくとも、鉄欠乏性貧血や悪性貧血などではない。造血障害ではなさそうだ。国立では幹康の検査をしているが、再生不良性貧血でもないし、白血病でもないだろうと言ってきている。検査結果からすると、出血か溶血のせいで貧血が出ているんだと思うんだが、貧血の原因になるような内出血は見られない」
下山が頷いた。
「それでCTを使って、あちこち探してたんですね。――そうです、内出血はないです。すくなくとも安森さんの奥さんには、なかった」
敏夫も頷く。
「少量の出血が持続的に続いている場合、X線や超音波では出血箇所を見つけられないこともあるが、この場合、それはないと思う。なにしろ急激に増悪するからな。これまでの事態から考えると、数日以内に決着がついてしまう。それくらい進行が早い」
「じゃあ、溶血ですか?」と、やすよが訊いた。
「消去法で行くと、溶血しか残らないんだが。しかし溶血の場合には、ビリルビンとLDHが上昇するはずだ。なのに初期段階では、それは見られない。クームス試験の結果も陰性で、少なくとも自己免疫性の溶血ではないことは確かだ」
「その――何とかが」武藤は言う。「上昇しない溶血ってのはないんですか」
「なくはない。溶血には血管内溶血と血管外溶血があるが、血管内溶血の場合、血清ビリルビンやLDHは上昇しない。その場合は、血漿中にヘモグロビンが出たりヘモグロビン尿が見られたりするはずなんだが、奈緒さんにも幹康にもこれはなかった。一方、血管外溶血の場合には、ビリルビンやLDHの上昇が起こることが多いが、これは必ずというわけではないらしい」
武藤はひどく困惑したように呻った。
「とにかく、溶血の可能性は高いと思う。それも先天的なものじゃない、後天的なものだ。免疫性のものではなく、補体の感受性が異常を起こしているのか、あるいは何らかの原因で赤血球が破砕されているのか、あるいは、薬剤や毒のせいかもしれない」
「毒ですか」
やすよが言うと、敏夫は頷く。
「蜘蛛毒や蛇毒、蜂毒が原因で溶血が起こることはあるらしいな。蛇や蜂なら、患者にせよ家族にせよ、刺されたのを覚えているだろうが、蜘蛛ということはあり得るし、他の昆虫が何らかの原因で溶血を起こすような毒を得た、ということもあり得る。――あとは薬剤。サルファ剤やサリチル酸、鉛や砒素の影響でも溶血が起こるものらしい。この場合は、土壌や水、あるいは食物が汚染されているということだろうが、患者の出方を見ると、これは非常に可能性が低いと思う」
「既存の伝染病では?」
「マラリアが代表的だが、マラリアではないだろうな。マラリアに特徴的な高熱が見られない。変異種だと考えることもできるが、変異種でもマラリアの検査に関しては、陽性の反応が出るはずだと思うんだが]
「患者さんが亡くなるのって、だいたい夜のうちですよね。朝いちばんに知らせが来るじゃないですか」清美が言う。「PNHってことはないですか」
「限りなく疑わしいと思ってる」
PNH、と武藤が呟いて、やすよがこれに答えた。
「発作性夜間ヘモグロビン尿症だったかしら。ただ、PNHはゆっくり進行するって本には書いてあるんだけどね。それの激しいやつかしら」
清美は頷いた。
「PNHだと、汎血球減少が起こるんですよね。でもって、奈緒さん、全部の血球が減っていたじゃないですか。そのせいで感染症を起こしやすくなるし、出血傾向が出たり血栓ができたりする。奈緒さんって心不全でしたよね。そこから来る肺水腫」
「血栓が原因の心不全かしらね」
「ということはあり得るでしょ。あと、腎不全で死ぬことがあるって本には書いてあったけど。後藤田ふきさん、腎不全ですよね」
敏夫は苦笑した。
「よく宿題をやってるな。恐れ入った」
やすよと清美は声をあげて笑う。お互いがお互いを指さして、自分にはそんな気はなかったのだが、この人が、と相手のせいにする。敏夫も笑って、
「工務店の幹康も腎不全で死亡してる。病院に担ぎ込まれた当初、BUNが上昇してるんだ。クレアチニンは正常値の範囲内だったんで、最初、医者は暑さのせいで脱水症状を起こしてるんだと思ったようだが、のちに血尿が出て、顕著な腎不全の兆候が現れた。医者のほうはこれに手当をしたんだが、結局、腎不全が契機となってDICを併発、容態が急転して死亡している」
DICって何ですか、と十和田は聡子に訊いている。聡子が答えあぐねているうちに、清美が答えた。
「播種性血管内凝固症候群。ようは血液の凝固異常ね」
「うちの看護婦は有能だ」敏夫は笑う。「ただ、結果として死亡原因は尿毒症だが、腎臓だけでなく、肺や肝臓にも障害が出ている。最初に呼吸不全が起こってるな。最後には肺炎も併発して多用だし、肝機能も甚だしく落ちてる。死亡したのが尿毒症のせいだから腎不全が全面に出ているだけで、これで呼吸障害で死亡してれば肺不全と言われてたんだろう」
「多臓器不全――MOFですね。いまは二次性MODSとか言うんでしたっけ」
清美の言に、やすよも頷く。
「とにかく、全身がガタガタになっちゃうってことよね。最初に特徴的な症状は貧血で、どんどん悪くなってMOF。問題はそこまでに、どれだけの猶予があるかってことだわ」
やすよは言って、敏夫を見る。
「三日以内に何とかしないと、手に負えなくなるってことですね。何が起こってるのか調べる暇もなけりゃ、治療法を探してる間もない。……おおごとだわ、こりゃ」
「感染方法は何です?」
清美に問われて、敏夫は首を傾けた。
「それが良く分からない。静信に患者同士の関係を調べてもらってるんだが、どう考えても接点のなさそうな患者がいるんだ」
「直接感染ってことは考えにくそうですね。清水さんとこも、被害に遭ったのは恵ちゃんだけだし。丸安製材は義一さんだけでしょ。丸安なんて、義一さん、寝たきりで下の世話まで家族がやってたんだから、真っ先に家族に移りそうなのに」
「あたしたちも、でしょ」と、やすよは茶々を入れる。「訪問看護に行ってたんだから。あたしたちがこうして雁首並べてられるんだから、直接感染はないでしょ。飛沫感染もないわよね。血液感染ってことはありそうだけど。あたしたちは手袋するけど、家族はしてなさそうだもんね」
「だったら、それこそ丸安の家族に被害が出て当然でしょ。それがないんだから、血液感染ってこともないんじゃないの」
「じゃあ、媒介動物? そりゃ、本当に大変だ」
「媒介動物なら、もっと犠牲者が出た場所が集中するんじゃないの。もう村全体で出てるって感じじゃない。むしろ発症率の問題じゃないの? 感染しても発症率が低いんじゃないかしら。続く家族と続かない家族がいるのは、体質の問題じゃないの?」
「そうねえ……」
「続く家族と続かない家族、か……」敏夫はひとりごちる。「まあ、ここでそういう話をしても始まらない。とにかく、もっと症例が集まらないことにはな」
「そうですねえ」
「いまのところは媒介生物を疑っている。それが最も可能性が高そうだ。ただ、最近の患者の現れ方を見ていると、家族に集中して患者が現れることはまれだ。後藤田さんのところや工務店の場合のほうが例外的だな。どうやら感染率、もしくは発症率はあまり高くない、とは言えそうだ。だからって気を抜くなよ。とにかく手荒いと手袋、これは徹底しとくように」
「それから医療ゴミの取り扱いですね」
清美が言って、敏夫は頷く。
「みんなも心配だと思うが、気をつけていれば予防は可能だと思う。自分の身を守るためでもあるし、病因を汚染源にしないためにも、充分に気をつけて欲しい」
敏夫の言葉に、誰もが頷く。
「それから、このことは広めないように。まだ何ひとつ確かになったわけじゃないんだからな。無用の混乱を引き起こしても益がない。しかるべき処置は、おれと石田さんとでやるから、黙っているように」
これにも、全員が頷いた。
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
安森淳子は、自分がどういう顔をすればいいのか分からなかった。幹康の葬儀がじきに始まる。祭壇の前には徳次郎と節子が憔悴しきった顔を深く面伏せていた。まるで互いしか縋る者がない、というようにしっかりと手を握り合っているのが痛々しかった。
淳子の夫の和也は、仲の良かった親族を亡くして悲嘆に暮れている。いや、むしろ呆然としているようだった。呆然とするのは淳子も同様だったし、もちろん悲しくもあった。だが、工務店の葬儀はこれで三度目だ。最初に奈緒が死に、それから進が、そして幹康が。奈緒が死んだとき、声をあげて泣いた淳子は、三度目の今日、悲しみより深い困惑を持て余している。
それは舅の一成も同様だったようだ。控えの間から遠目に徳次郎と節子を見やり、渋い顔をして首を傾げた。
「どうなってるんだ、いったい」
そうね、と溜息をついたのは、姑の厚子だった。
「立て続けに三人も。あたしはもう、かける言葉がなくって」
「まったくだ。だが、こりゃあ何かおかしくないか」
何がです、と厚子は瞬いた。一成はさらに渋い顔になった。
「続きすぎるとは思わんか。叔父さんのとこだけじゃない。親父も、山入も。まさか、悪い病気でも流行ってるんじゃないだろうな」
淳子は辺りを憚るような一成の低い声に、背筋を強張らせた。やめて、と厚子はさらに低い声を上げる。
「そんなことを口にしないで」
「しかしな、前にも若御院が来て、色々と親父のことを訊いていったろう。見舞客がどうとか。あれは、若御院もそれを考えてのことじゃなかったのかな」
「やめてください、ってば。うちでも葬式を出したことを忘れないで」
「忘れてない。だからこそ言ってるんじゃないか。親父を入れたら四度目だぞ。これで墓地に四本目の真新しい墓が建つんだ」
「お義父さんが変な病気のはず、ないでしょ。人に移るような病気だったら、世話してたあたしたちに、とっくに移ってますよ」
ねえ、と同意を求めるように厚子に見つめられ、淳子は釈然としないながらも頷いた。
「親父は、三人とは事情が違うだろう」
「違いますよ。もう長患いだったんだから。でも、余所の人から見たら違いなんて分からないわ。変に伝染病だなんて話になったら、お義父さんのせいにされちゃうわ。だから軽々しくそんなことを口にしないで」
しかし、と言いかけて一成は呻いた。
淳子は祭壇とその側の徳次郎夫婦を見比べた。そう、義一はもともと具合が悪かったのだし、それも他人に移るような病気ではなかった。だが、何かの伝染病だと考える以外に、立て続けの不幸を説明する方法があるだろうか。
淳子は不思議に、盆の初め、死んだ奈緒と材木置き場で話をしていた夜のことを思い出した。正確には、桐敷正志郎に会ったときの気分を。なぜだか分からない。自分が取り返しのつかないことをした気がして背筋が寒かった。それと同じ気分がする。――そう、取り返しのつかない何かが動き始めてしまった、という気分が。
かおりは昼食時、茶の間のカレンダーを何気なく見ていて、今日が九月十一日であることに改めて気づいた。九月十一日、日曜日。十一という数字。一がふたつ。八月の十一日だった、恵がいなくなったのは。あれから、ひと月が経ったのだ。
とたんに胸のあたりが締め付けられるような気がした。夏休みの間、頻繁にあった気分だ。九月に入って新学期が始まって、それでようやく忘れた気がしていたのに、ささいなことを契機にして、こうしてまた蘇る。
喉許に何かがつかえたような気分で、かおりは口の中のものを呑み下し、箸を置いた。食事が喉を通らない。――というより、恵のことを思い出すと、食事をしたり学校に行ったり台所を手伝ったりする、そういう日常的な行為の何もかもに気後れがした。それは、たとえば学校の朝礼で、笑うべきじゃないところで笑ってしまったときの気分に似ている。とても不謹慎なことをしてしまった感じ。一抹の後ろめたさ。
かおりが箸を置いたのを見とがめて、母親の佐知子が険のある顔をした。
「かおり、ちゃんと食べなさいよ」
促されて頷いたものの、喉に小骨が引っかかっているような気がする。ずっとこうだ。何気なくテレビを見ていても、こんなことをしていていいのだろうか、と思う。クラブに行っても授業を受けていても、恵が死んだのに、という思いから逃れることができなかった。テレビや本や友達の会話が楽しくて、声を上げて笑ったり、心底楽しんだりした自分に気づくと、恵の死を失念していた自分が、とてつもなく薄情で非道な人間のように思えて居場所のなさを感じてしまうのだった。
昼御飯をかきこんでいた昭が、かおりのほうをチラリと見て「元気、出せよな」と言う。
「うん……」
佐知子も軽く溜息をついた。
「昭の言う通りよ。ショックだったのは分かるけど、いい加減に元気を出しなさい」
そうだね、とかおりは呟いた。けれども忘れられない。十一日、恵はいなくなった。十二日の夜のうちに見つかった。十三日、お見舞いに行った。それが恵と会った最後になった。十四日、かおりは何も知らなかった。恵が死ぬほど悪いなんて夢にも思わずに、ありふれた夏の一日を過ごした。そして十五日。突然電話がかかってきた。
「恵ちゃんだって、あんたがそうんなふうなのを見たら悲しむわよ。恵ちゃんのぶんも頑張らなきゃ」
かおりは俯いた。何度、佐知子にそう言われただろう。かおりが悲しんでいては、恵も悲しむ。そんなことでは安心して成仏できない。恵は哀れにも死んでしまったのだから、これからは、かおりが恵のぶんも生きなくてはいけない。恵みがとうとう手に入れられなかった様々な喜びを、かおりが代わりに手に入れるべきなのだ、と」
そうだろうか、と思う。本当に恵はそんなことを望んでいるのだろうか。それはひどく身勝手な言い分に聞こえる。恵だって、かおりが幸せになるのを見るより自分が幸せになりたかったに違いない。自分が死んだのに、友達が悲しんでさえいなかったら、そちらのほうが何倍も辛いのではないだろうか。佐知子の言葉は、まるで「片づけなさい」と言っているように聞こえる。死んでしまった人のことなんて、いつまでも大事にしてないで、片づけて捨ててしまいなさい、と言っているようだ。かおりにはそれが、恵に対する裏切りのように思える。佐知子にそう言われれば言われるほど、自分だけは恵のことを忘れたりしない、「片づける」なんてことはしないのだ、と思わないでいられない。
軽く手を握って顔を上げると、卓袱台の向こうから父親が心配そうにかおりを見ていた。かおりはちょっと笑って箸を取る。食欲がないわけではないけれども、食事を続けることに抵抗があった。それは「片づける」ことの一種だ、という気がする。
「そういえばさ」と、昭が誰にともなく呟いた。「昨日、下外場のどっかで、また人が死んだみたいだな。忌中の|提灯《ちょうちん》が出てた」
佐知子は眉を顰める。
「あらやだ。……また?」
昭は妙に重々しく頷く。父親がそんな昭を見て、まるで苦いものを口に含んでしまったような顔をして目を逸らした。
「なんか変なんだよなあ。恵だろ、それから製材所の康幸兄ちゃん。その前にもさ、山入で三人も死んだじゃないか。なんでこんなにいっぱい、人が死ぬんだ?」
「そういうこともあるのよ」と、佐知子の声は素っ気ない。「死に事ってのは続くもんなの。とはいえ、もういい加減にして欲しいわよね。こう続いたんじゃ験が悪くって」
「そういう問題かなあ。なんさあ、良くないことが起こってるって感じがするんだよなあ、おれ」
「馬鹿なことを言わないで」佐知子は大仰に顔を顰めた。「山入の人たちはお年だったんだし。康幸さんだって恵ちゃんだって病気で死んだんでしょ。べつに殺されたんじゃないんだから」
そうだけど、と呟く昭に目をやって、田中は口の中のものを呑み下した。|中埜《なかの》渡のことだ、と分かった。下外場に住む中埜が死んだ。昨日、死亡届が出されて、田中は石田にそれをコピーして渡した。そうやって夏以来、渡したコピーは十九枚にも及んでいる。しかもこのところ、ペースが速い。素人目にも事態が加速しているのが分かった。
役所でも何かがおかしいという声が上がっている。尾崎医院の敏夫と石田が頻繁に連絡を取っているが、そのせいではないのか、と囁かれていた。誰も声を大にしないのは、所長の視線を|慮《おもんばか》ってのことだ。出張所の所長は外場の人間ではない。町役場から任命されて村外から通ってきている。石田は所長を無視する形で敏夫と行動しており、職員の誰もがそれを分かって口を噤んでいた。外場には外場のルールがあって、それでつつがなく動いている。村外者である所長は、三役を中心に編成された村のシステムの中に居場所がない。完全な部外者だが、所長には所長としての面目もあり立場もある。だから所長を通せば、帰って事態はスムーズに動かなくなることを役所の誰もが心得ていた。
そもそも村だったころの体質を今も引きずっているのだ。溝辺町に合併されていながら、村は未だに独自の存在であろうとし、町の干渉を拒もうとする傾向がある。町のほうでもそれを了解していて、どこか放任しているような気配があった。何事かあっても、所長は通さず、ひいては町にも通さず、とりあえず蚊帳の外に置いておく、そういう暗黙の了解が役所にはある。そうしているうちに兼正を通じて町を経由して所長に話が通る。それで初めて役所の足並みが揃う。
とはいえ、十九枚の死亡届は、田中の胸ひとつに納めておくには重すぎた。特にこうして、自分の妻が事態を軽視しているのを見ると、危機感が高まる。昭のほうが正しい。外場は変だ。そういってやれない自分に焦りを感じる。
重い息を吐いて顔を上げると、かおりと視線が合った。かおりは恥じるように俯く。田中が、気落ちしているのを責めているのだと思ったのかもしれなかった。いかにも不承不承、というふうに箸を使い始める。
無理をする必要はないのだ、と思う。かおりは友人が死んだことが悲しいのだ。悲しいという思いは、かおりの中に自然に湧き上がってくるもので、それを意志の力でどうにかできるものでもないだろう。悲しむな、と周囲が言えば、かおりはそれを隠すしかなくなる。佐知子のように元気を出せ、と命じることは害こそあれ、益はないような気がした。だが食事はしたほうがいい。体力はつけておくに越したことはない。――田中はそう思い、あえて口を挟まなかった。
元子はいつものように家を出て、遠目に葬式の行列を見た。輿のうえに棺が載せられ、大勢の人間に担ぎ上げられて末の山のほうへと向かっている。
なんとなく親指を握り込んで隠した。元子の両親は二人とももう死んでいて、そんなことをする必要もないのだけれど、葬式の行列や霊柩車を見るとそうしないではいられない。隠した親指は今では、子供たちであり、夫や舅姑や――そんな家族の象徴なのかもしれなかった。
国道に出て、例によって感じる不安を堪えながら「ちぐさ」へと向かう。店にはいると、喪服を着た客が数人、見えた。埋葬式に参加しない会葬者が流れてきたのだろう。元子は少し胸を押さえた。きっと彼らは店に入るとき塩を撒いたりはしてないだろう。葬式で拾った何かは店の中にまでついてきているのだ、という気がしてならなかった。
そんな元子を励ますように、カウンターの中から加奈美が笑い、軽く手を振る。元子は頷いてカウンターの中に入り、仕事にかかろうとして瞬いた。調理台の片隅の、客の目からは死角になる位置に、紙ナプキンを敷いてそこに塩が盛られていた。元子は、加奈美でもこんなことをするのか、と思った。
目を丸くして加奈美を見ると、加奈美は会葬者の群を目線で示して、照れたように肩を竦める。
「なんとなくね。気持ちの問題」
「そうね」と、元子は微笑んだ。
「なんだか続いてる感じがして。ちょっと縁起担ぎになっちゃうわね」
そういえば、加奈美の母親と仲の良かった誰かが死んだ、という話を聞いた。山入でも不幸があり、常連客の娘も死んだ。夫が父親の同僚だから悔やみに行っていた。例年にない暑い夏だとはいえ、こうまで続くと、確かに縁起のひとつも担ぎたくなる。
「……きっともう終わるわ」と、元子は小声で言った。「夏の猛暑も終わりがないように見えたけど、さすがに朝晩は涼しくなってきたもの」
そうね、と加奈美は笑った。
「葬式? 中埜の息子? ――あらまあ」
タケムラの店先には十年一日のごとく、老人たちがたむろしている。大塚弥栄子の知らせを聞いて、広沢武子がすっとんきょうな声を上げた。
「あそこは爺さんのほうが酒飲みで、何度も倒れてたのにねえ」
「そうなのよ。中埜で葬式だって聞いたとき、わたしも爺さんがとうとう酒に呑まれたんだと思ったのよ」
武子は頷く。
「肝臓壊して、片足を棺桶に突っこんでるようなもんなのにねえ。そういうのに限って、周囲に迷惑をかけながら長生きすんのよ」
違いない、と笑った年寄りを、タツは冷ややかに見る。まったく、おめでたいことだ。この連中はこのところ葬式が続いていることをどう思っているのだろう。内心でひとりごちているタツの目の前を黒塗りのハイヤーが通っていった。立派な車だったから、おそらくは中埜じゃない。ついさっきも、立派な外車が通りがかって寺への道を訊いていった。工務店の葬式が寺であるという。おそらくはそちらに出る弔問客のものだろう。
思っていると、まだまだ夏めいた陽射しの中、伊藤郁美がやってきた。郁美は通り過ぎるハイヤーを見送り、これ見よがしに顔を顰める。
「また葬式かしらね」
「中埜で葬式なんですって」
「中埜?」
大塚弥栄子が頷いた。
「そう。下外場の外れのほうの家よ。そこの息子が死んだのよ。働き盛りなのにねえ」
郁美は鼻を鳴らし、薄く笑った。
「今年の夏は葬式ばっかりだわ。だからろくなことにならないって言ったのよ」
「あんた、毎年そう言ってるじゃないかい」
佐藤笈太郎が、脂で黄ばんだ歯を見せて笑った。いかにも汚れた前歯は自前のものだ。笈太郎はそれを自慢にしている。
「嘘よ、そんなの。別に毎年、言ってるわけじゃないわ。今年は特別。こんなに葬式が多いじゃない」
「仕方ないわよ。年寄りばっかりなんだからさ」武子が言うと、弥栄子も笑う。郁美はそれを底冷えのする目でねめつけた。
「よく笑ってられるわね。弥栄さんのところだって葬式が出たばっかりじゃないの」
「うちじゃないわよ。製材所の話でしょ。大塚製材とは確かに縁続きだから葬式には行ったけどね。縁続きったって、縁は切れてるもの」
弥栄子は手を振る。武子と笈太郎が心得たように頷いた。
「妙な新興宗教に入れあげちゃって、何かというとうちにまで勧誘に来るんで往生してるのよ。寺なんか宛にしてると、ろくなことにならないなんて言って、それで自分のところの孫が死んでりゃ世話はないわ」
笈太郎が深々と頷いた。
「お寺さんを粗末にしたから罰が当たったんだよ。そうなると思ってたよ、おれは」
まったくだわ、と弥栄子は笑う。
郁美が鼻を鳴らした。
「信心たって、ちゃんとした神様を信心しなきゃ意味がないからね。あたしは寺を崇めてたからって、御利益があるとは思わないけど。まあ、製材所がろくでもないのにたぶらかされているのは確かだわねえ」
はいはい、と武子は言って郁美を遮った。このまま放置しておけば、怪しげなことを言い出すのに決まっている。
「まあ、葬式が多いのは確かよね。こう続くと、次は自分の番のような気がしてびくびくしちゃうわ」
「あんたは大丈夫よ。なんとかは世にはばかるっていうでしょ」
「そうなんだけどさ」と武子は笑ったが、郁美は目をひたと宙に据える。
「兼正が越してきてからよね」
タツは目を見開いた。
「何を言い出したんだろうね、この人は。兼正が越してきたのは、山入で不幸があった後だよ」
「でも、家が建って以来よ。あの場所は良くないのよ。造作しちゃいけなかったの。それに山入は関係ないのよ。あれは村迫の家の問題なんだから。義五郎さんは村迫の不運に巻き込まれたんだもの。その後に葬式が続いたのは、兼正が越してきてからでしょう。下外場で高校生が死んで」
「ああ、清水の徳郎さんとこの孫娘」
「それから立て続けじゃない。葬式があって、なんだか始終、救急車が出入りしてるのを見るわよ。兼正よ、兼正。絶対に何かあるわよ。あの連中が厄を呼び込んだんだわ」
タツは溜息をついて首を振った。また始まった、と辟易とする。
だが、葬式が多いのは事実だ。郁美が思っているより、ここに集まる老人が思っているよりはるかに多いのではないかという感触を、タツは得ている。
(何かが起こっている……?)
そうかもしれない、と胸の中に重いものが淀んでいく気がした。今年の夏はどこかおかしい。――いや、近頃の外場は変だ。それだけは確かだという、直感があった。
夏野は、武藤に行く、とだけ両親に声をかけて家を出た。数学でどうしても解けない問題がある。武藤兄弟は――徹の妹の葵も含め――教師としてはあまり頼りにならなかったが、保は虎の巻の収集家だ。ひょっとしたら一年の時のものがあるかもしれないと思いついた。高校は違うが、幸いなことに使っている数学の教科書は同じだ。
まだまだ残暑が厳しい。うんざりしながら青い空を仰いでいると、さほど遠くないところで鐘の音がした。脇の道を覗き込むと、道路際の家から白い布で覆った棺が運び出されるところだった。
まただ、と夏野は足を止めた。その家が何という家なのかは知らない。ずいぶん近いな、とだけ夏野は思った。山入、恵、そしてその後にも両親が二度ばかり弔組の用で出ている。これで五件目ということになりはしないか。それもひと月程度の間に。
昨年もこうだっただろうか、と思う。夏野は外場に越してきた昨年、葬式を見かけた覚えがなかった。今年の夏まではゼロだったのに、いきなり八月に入って以来、立て続けに葬式を見る。ひと月に五件ということは、均せば一週間に一軒以上の葬式があった勘定になる。これはどう考えても多すぎはしないだろうか。
首を捻りながら、武藤に行った。保の部屋に上がり込んで、葬式があった、と告げたが、保は別に気を惹かれたふうでもなかった。
「なんか、葬式が多いのな」
夏野が言うと、保は「そうか?」と段ボールの箱の中を探りながら気のない返事をした。
「こんなもんなんじゃねえの? 誰かが死んだとか、死にそうだとか、始終聞くぜ。――ああ、あった。物持ちがいいよな、おれも。感謝しろよ」
虎の巻を差し出す保に、夏野は溜息をついてみせる。
「こういうんでなく、教えてもらえるともっと感謝するんだけどな」
「他人を頼りにしちゃ、いかんなあ」保は笑って、「大学に行くつもりなんだったら、塾に行きゃあいいのに」
「こんな田舎の塾が大学入試の役に立つかよ。通信のほうがマシ」
「可愛くねえ」保は、わざとらしく渋面を作って腕を組んだ。「なにかっつーと田舎、田舎って馬鹿にするあたりも可愛くないけど、通信でちゃんと勉強するところが最高に可愛気がない」
「おれ、堅実な性格だから」
よく言うよ、と保は笑う。夏野も笑ってノートを開いた。
勉強が好きなわけじゃない。これは夏野にとって、外場を出るために支払わねばならない代価だ。何が何でも村を出たい。そのために必要だからやる。出たいという思いが切実だから続いているだけのことだ。
(それでも、あと二年……)
まだそんなにもある。たったの二年だ、と自分を慰めのが近頃は難しい。恵が死んで以来のことだ。外場に囚われたまま出られなかった恵――それが背中にぴったりと張り付いて後から夏野を急き立てる。早くしなければ、蜘蛛の糸のように何かが絡みついて解けなくなる。ここでの暮らしも悪くないか、と思うようになって、何もムキになってまで村を出ようとする必要はないじゃないか、という気分になるのだ、という気がした。
――それでなぜいけないのだ、という内心の声がした。村に馴染んで居心地がよくなって、外に出ることを望まなくなるなら、それはそれで幸せな状態なのではないだろうか。なのに夏野は、そういう状態こそが忌まわしくてならない。それは蜘蛛の巣に引っかかった抜け殻を想起させた。安穏としてはいても、空疎になった自分が残る。おそらくは。
頭をひとつ振って、問題に取り組んだ。ついでに武藤でちゃっかり夕飯をごちそうになって、今日のノルマを片づけると十時を過ぎていた。保の両親に礼を言って武藤を後にする。煙草が切れた、と徹が一緒についてきた。
「夜風はさすがに涼しくなったなあ」
徹は西の山を見上げた。虫の音が盛んだ。それに誘われたように暗い山肌から吹き下ろしてくる風は、いくぶん涼やかなように思われた。
「このまま秋になんのかな」
「さあて。彼岸のごろに、また戻ったりするからな。でも、夏は暑かったから、今年の冬は早いかもな」
「なに、そういう法則があるわけ?」
「いや。単なる憶測」
これだよ、と夏野は徹を小突く。徹は快活な笑い声を上げ、そして急に口を噤んだ。
徹は道の先を示す。西の山から外場の中心部に向かって、だらだらと道は下っている。その道の先のほう、一軒の家の塀も何もない地所の中にトラックが止まっていた。コンテナの扉が開いて、荷物が運び込まれている。
「引越だよ。こんな時間に」
徹が呆れたように言った。夏野も頷く。夜間の引越とは御苦労なことだ。コンテナの横腹に松のマークが見えた。――高砂運送。
「夜逃げかもな。文字通り」
徹が笑う。夏野はただ肩を竦めた。そういえば、と徹は荷物を運び出す作業服の連中を見守りながら続けた。
「|三安《さんやす》の嫁さんが逃げたって言ってたなあ」
「うん?」
「中外場にそういう家があってさ。正確には安森だけど。その三安の嫁さんが消えたんだってさ。朝、起きたらいなかったんだと」
「家出?」
「だろ。若い嫁さんなんだけどさ、舅姑と折り合いが悪かったらしいんだよな。旦那とも始終、揉めてて、そんでとうとう愛想を尽かして出ていったって話」
「そういうことが、ここでもあるのか」
徹は苦笑した。
「田舎だって馬鹿にすんなよ。ここだって一応、世間並みのことは一通り起こるんだよ」
「そりゃ、お見それしました」
夏野が言うと、徹は軽く背中を小突いて歩き出した。夏野はほんの少し、トラックを振り返る。夜逃げではないだろう。ああも堂々と大型トラックを横着けにして、夜逃げも何もないんじゃないかと思う。にしては、夜に引越というのも釈然としないが。
夏野はふと、少し前にも、夜に引越、という言葉を聞いたことを思い出した。そう、あれは越してきたのだ。兼正の住人が。夜に越してきて、そして――と、夏野は軽く首を傾げる。越してきた、住人を見かけたという噂は聞くが、夏野は今に至るも住人を見かけたことがなかった。徹の言うように、まったく無関係で終わりそうだ。予定通り夏野があと二年で外場を脱出できたならば。
「どうした?」
徹が振り返った。なんでも、と夏野は呟いて小走りに後を追う。徹が笑った。
「……羨ましいか?」
夏野は顔を顰める。
「そんなんじゃねえよ」
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
月曜日、大川富雄は、電話口から松村の声が聞こえてくるなり、怒鳴り声を上げた。
「松、お前、いま何時だと思ってやがる」
「済みません」と、そもそも気弱な松村の声は、受話器の向こうでさらに蚊の鳴くような案配だった。
「朝から大口の配達が溜まってんだ。それを昼になろうかって時間になっても出てこねえ。月曜は忙しいことぐらい分かってるだろうが。何のために給料を払ってると思ってる。電話してくる暇があったら、さっさと出てこい」
「……あの、それが」
松村の声はさらに弱く、しかも途切れがちだった。この男はいつもこうだ、と大川は内心で舌打ちをする。松村安造は大川より十も年上だが、甲斐性という点では息子の篤といい勝負だと大川は思っている。ただ松村は根っからの小心者で、篤のように後先考えずに無謀な真似をしたり妙に粋がってみせるだけの度胸がない。だから安心して集金を任せられるところだけが違っている。あとはもう、無能なところ、受け答えひとつからしゃっきりとしなくて大川を常に苛立たせるところまで大同小異だ。
「言い訳なら、出てきてから言いな。悠長に電話でお話ししてるような暇はねえんだ」
松村が何かを言いかけたが、大川はそれを制す。店の前に止めたトラックからビールのケースを運び降ろそうとしている若い作業服の男に大声をかけた。
「おい、どこに停めてる。そんなとこに荷を降ろすんじゃねえ!」
配送の若い男は、息子の篤と同年配のようだった。同じように恨みがましい目を大川に向ける。初めて見る顔だった。
「倉庫は裏だ。脇に行け、脇に。店の前に積まれちゃ、商売にならねえ。路地に下ろしてくれっていつも言ってるだろうが。いつもの若いのはどうしたんだ」
これには返事をせず、若い男は大川をひと睨みしてケースを荷台に戻した。
「あの……大将、実はですね」
トラックがバックするのを見守っていて、大川は自分が受話器を握ったままで、電話が依然として松村と繋がっていることを思い出した。
「実はもへったくれもねえ。さっきからぐずぐずと、何なんだ、お前は」
「それが……娘が」
そこでようやく、大川は松村の声が涙混じりであることに気づいた。
「娘――康代ちゃんかい」
二十の半ばになるのだったか。父親に似ず、はきはきした、しっかり者のいい娘だ。
「……それが、亡くなりまして」
「亡くなった? 死んだのか、いつ?」
「今朝方、具合を悪くして、救急車を呼んだんですけど、さっきとうとう。……そんなわけなんで」
レジの番をしていた妻のかず子が、怪訝そうな顔を大川に向けてきた。もの問いたげな視線を受けて、大川は頷いてみせる。
「……わたしゃもう……どうしていいか」
松村の声が嗚咽に途切れた。
「馬鹿野郎。こんなときこそ、おまえさんがしっかりしねえでどうする。いまどこだ? 病院か? どこの病院だ。ああ――とにかく、すぐに行ってやっから。世話役に連絡は済んだのかい」
はいとも、いいえとも、松村の返答は、はっきりしない。大川は再度、とにかく行くから、と伝えて電話を切った。かず子がそれを待ちかねたように口を開く。
「亡くなったって、誰が? まさか松村さんとこの康代ちゃんじゃないわよね」
「そのまさかだ」
まあ、とかず子は声を上げる。棚の整理をしながら聞き耳を立てていたらしい篤が「もったいねえ」と、不謹慎なことを言うので、大川は息子を睨みつけた。
「行って加勢してやらにゃ。なにしろ松はあの通りの奴だからな」言っている間に、荷の積み下ろしが済んだのか、配送の若いのが伝票を持って店に入ってきた。大川はぞんざいにサインして控えを受け取った。「とにかく上外場の世話役にも連絡しといたほうがいいだろうな。松のとこは、女房も頼りにならねえから」
「そうねえ。……あたしも行ったほうがいいかしら」
「行ってやれ。仏さんはまだ病院だから急ぐこたねえ。店を出る前に配達先に電話して、店の者に不幸があったんで配達が遅れると言うんだな。急ぐとこだけ篤に行かせて、あとは後日に廻してもらえ」
かず子は頷いた。夫は短気で粗暴なところもあるが、決して情のない男ではないし、口煩いかわりに面倒見もいい。こういうときは、夫に任せておけば間違いない。
上外場の世話役に連絡するため、大川は店の奥に連絡先を探しに行った。かず子は配達のメモを引き寄せ、カウンターの抽斗から配達先の電話番号を控えた帳面を探し出す。奥の住居から、大川に言われたのだろう、姑の浪江が出てきた。
「康代ちゃんが死んだんだって? 今年は死に事が続くわねえ」
「本当にねえ。つい先だっても」と、言いかけて、かず子はふと手を止めた。清水園芸で葬式があったばかりだ、と言いたかったのだが、それよりも気にかかることがあった。
「……ねえ、お義母さん。薄目を開けて寝るひとっているのかしらね」
「いるんじゃないの。そういう人の話を聞いたことがあるわよ」
そうよね、とかず子はひとりごちる。
「なあに。どうしたの?」
浪江に問われ、かず子は自然、眉を寄せた。
「昨日、大沢さんのとこに行ったのよ、郵便局の。なんでも大沢さんの具合が悪いらしくてね、お見舞いがてら様子を訊こうと思って。別に大したことはない、って奥さんは言ってたんだけどね、茶の間に襖が開いてて、間から大沢さんが寝てるのが見えたの」
窓際に面する寝室は茶の間よりも明るかった。大沢は茶の間の方を向いて伏せっており、だから大沢野顔がよく見えた。薄目を開いて瞬きもなく、身動きもない。顔色は土気色でどことなく弛緩して見え、臘で覆ったような妙な質感があった。
「死んでたみたいに見えたのよ」
まさか、と浪江は顔を顰める。
「そんなはず、ないでしょう」
「そうなんだけど。でも死人の顔みたいだったのよ。まさか奥さんに、死んでるんじゃない、とは言えないから、ずいぶんと悪いんじゃないのって訊いたんだけど、奥さんはたいしてことない、よく寝てるって」
「じゃあ、そうなんじゃないの。奥さんがそう言うんだから」
そうね、とかず子は呟いた。大川がばたばたと出ていくのを送り出し、雑用を片づけ、浪江に店のことを頼んで、かず子も支度をする。篤は留守居としては頼りないが仕方がない。こういうとき頼りになる娘と次男は、学校に行っている。
小走りに店を出て、上外場に向かう。その途中で郵便局の前を通りがかった。かず子はなんとなく足を止め、住居になっている二階の窓を見上げる。
(……あれは死人の顔だ)
どうしても、その印象が拭えない。かず子は、郵便局の中に入ろうとし、シャッターが降りたままなのに気づいた。張り紙ひとつないのに困惑して、かず子は周囲を見渡した。向かいの後藤田衣料品店の久美と目が合う。店を訪ねようとする前に、久美のほうが店先に出てきた。
「ねえ、どうしたの、これ」
かず子が郵便局を示すと久美は首を傾ける。久美の老いた顔にもどこか困惑した色が浮かんでいた。
「それがねえ。引越したのよ、大沢さん」
まさか、とかず子は呟いた。
「そんなはずないわよ。あたしは昨日の夕方、会ったんだもの」
「それが昨日の夜中なのよ。夜中の二時過ぎだったかしらねえ。表にトラックが止まってて、煩いんで目が覚めたのよ。そしたら荷物を運び出してたんだもの、驚くじゃない」
「そんな――あそこは、旦那さんの具合も悪くて」
久美は重々しく頷いた。
「運送会社の人が抱えて車に乗せてたわよ。毛布にくるんでねえ。慌てて表に出て、奥さんを捕まえて何事なのって訊いたんだけど、引っ越すことにしたから、ってそれだけ言って、お世話になりましたでもなくトラックに乗って行っちゃったのよ」
「まあ……そんな」
「|長田《ながた》さんたちにも連絡がなかったみたいよ。朝、いつも通りに出勤してきて、シャッターの前でおろおろしてたから。あたしゃ、大沢さんがこんな突拍子もないことをする人だとは知らなかったわ」
そうね、とかず子は頷いた。目の前に薄目を開けた大沢の寝顔(……死に顔のような)がちらついた。胃の腑のあたりが、ぞわりとした。なんだろう、この得体の知れない気持ちの悪さは。
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
火曜、終業間際の大塚製材では、まだ帯鋸の唸りが響いていた。静信はその光景を感慨深く見た。製材所の建物の天井まで掛け渡されたベルト状の帯鋸、そこから落ちる|大鋸屑《おがくず》を受け止める溜まり、小さい頃、丸安製材に入り込んで、よくあの溜まりに潜り込んで遊んだ。大鋸屑が満ちたプールは子供にとって砂場以上に魅力的だったし、その底のほうではカブト虫やクワガタの幼虫やさなぎが見つかったものだ。
体中を大鋸屑だらけにして母親に叱られたのはもちろん、衣服の下に入り込んだ大鋸屑は得てして子供に途方もない不快感を与えるのだが、それを我慢するだけの価値は充分にあった。
懐かしく製材所の様子を見つめていたので、声をかけられるまで大塚隆之が間近にいるのに気づかなかった。
「若御院じゃないですか」
声をかけられて、ようやく静信は我に返る。作業服に身を包んだ隆之と視線が合って、慌てて頭を下げた。
「お久しぶりです」
顔を上げたとき、鋸を監督していた大塚|吉五郎《きちごろう》と目が合った。吉五郎は不快げな顔をして視線を逸らした。
大塚製材は、丸安製材と並ぶ製材所だった。村に製材所は何軒もあるが、中でもこの二つが群を抜いて大きい。かつては寺の檀家で、檀家総代でもあったと聞いているが、静信が大学を出、本山での修行から戻ってきて寺を手伝うようになる以前に檀家を抜けた。吉五郎の死んだ妻が新興宗教に入信して、吉五郎も同じく入信したせいだ。静信の父、信明は何度も足を運んで説得に努めたらしい。その頃の確執のせいだろう、吉五郎は寺の者に当たりが悪い。
これに対して、息子の隆之は、当時の確執を知らないのか、知っていても拘るほどのことではないと思っているのか、格別に当たりが悪いというわけでもない。村のあちこちで顔を合わせても、特に不快な顔をされたことはなかった。
「お久しぶりですね」
隆之は笑顔を見せた。
「ご無沙汰してます。お仕事中に申し訳ありません」
「どうしました」
「つい先だって、康幸さんが亡くなったという話を小耳に挟んだものですから」
ああ、と隆之は痛いところを突かれたような表情を見せた。
「それでわざわざ。――ありがとうございます」
隆之は軍手を脱いで、作業服のポケットに突っこむ。汗を拭いながら事務所を示した。
「まあ、どうぞ。お茶ぐらいしかないですけど」
「お仕事中ではないのですか。ご焼香だけさせていただいて、と思ったのですけど」
「いいんです。今日はもう、上がろうと思ってたところなんで」
隆之は笑い、近くの者に何事かを告げて、先に立って事務所へと向かった。製材所の脇にある事務所に入ると、隆之の妻の|浩子《ひろこ》が事務机に向かって帳簿を開いていた。静信に気づき、腰を上げて会釈をする。
「あら、お久しぶりです」
「康幸の悔やみに来てくだすったんだ」
隆之が言うと、困ったように笑い、礼を言う。
「突然、済みません。ひょっとしたら出過ぎかとも思ったのですが」
「いいんですよ。ありがとうございます。わざわざ来ていただけるなんて――」
浩子は微笑んだまま、くしゃりと泣きが絵になって、それで静信はひそかに良心が痛むのを感じた。
「とりあえず、お茶でもどうぞ」
隆之は言って、事務所の隅の冷水器から麦茶の冷えたのを注いで差し出す。空いた椅子を勧めた。
「本当に、このたびは突然のことで……」
まったくねえ、と隆之は苦笑する。
「元気だけが取り柄のような奴がね、わたしより先に逝くとは思いませんでした」
そうでしょうね、と静信は低く返す。隆之と浩子の言によれば、やはり康幸は突然に寝込んだらしい。夏風邪だろうか、とここでもお定まりの台詞が聞かれた。甘く見ていた、まさかこんなことになるとは思わなかった。夜中に突然、呻き声を上げたと思ったら痙攣し始めて、と隆之は瞬いた。
「救急車を呼んで、国立に運び込んだら、腹の中が血だらけだって話でね。緊急に手術をすることになったんですが、死んで出てきました。間に合わなかったようで」
「そうですか……」
「肝臓を壊してたらしいんです。黄疸が軽かったんで、私らも気がつかなかったんですけどね。別に深酒をするわけでもない、壊すような理由もないと思ってたもんだから。本当に、寝耳に水とはこういうことを言うんですかね」
「それはさぞ、お辛かったでしょう。……もう落ち着かれましたか?」
そうですね、と隆之は寂しげに笑った。
「あいつが死んだ当初は、夫婦喧嘩ばっかりでね。わたしは母親が何で気づかなかった、とこいつを責める、こいつはこいつで一緒に働いててどうして気づかなかったと責める。おまけに親父は親父で、私らの信心が足りないせいだとか言うし、近所の者の中にゃ、新興宗教なんかにかぶれるからだ、と聞こえよがしに言うのもいて」
そんな、と静信は眉を顰めた。
「そういうことは、何も関係ないでしょう」
「若御院にそう言ってもらえると、正直言って溜飲が下がります」と、隆之は自嘲するように言った。「村の連中は――いや、寺を責めていると取らないでくださいよ――やっぱり檀家を離れることに批判的なんですよ。寺と村と、本当に一枚岩なんでね。実際、あちこちでね、かつかつと引っかかる。まるで村を離れた余所者のようだ、と思うことがありますよ」
浩子が取りなすように微笑む。
「特にね、ほら、お祖父さんが区長を降ろされちゃったでしょう。別にうちがどうこうなんじゃなくて、単にお祖父さんがもういい歳だってことなんですけど、すっかり臍を曲げてしまって、悪し様に言うもんだから余計にこじれちゃって」
「そうですか……」
「一時はそれで、喧嘩ばっかりでしたよ」と、隆之は苦笑する。「家の中が寒々しくてね、私らにしたら、ちゃんと信心だってしてきたつもりです。なのになんでこんな目に遭うんだと思ったら、いっそ寺に頭を下げて檀家に戻ろうか、とか」
「いけません」とっさに静信は口を挟んだ。「そういうふうにお考えになっては駄目です。信仰は自生するもので、他から強要されるものじゃない。人の最も自由な部分の支柱となるものなのですから、不自然な曲げ方をしてはいけません」
隆之は驚いたように瞬いた。静信は我に返り、思わず恥じ入って俯く。
「済みません。……妙なことを」
いえ、と隆之は笑む。
「そう言ってもらえると安心します。――なあ?」
隆之は笑って浩子を振り返る。浩子も頷いた。
「ええ、……本当に」
その口振りで、どれだけの非難があったのか、想像がついた。確かに村は寺を中心に結束している。強固な団結力は、強固な排他主義の上に成り立っているものだ。ましてや大塚製材は、ずっと檀家総代を務めてきた。いわば寺を支える柱だったのが、突然、寺に離反したにも等しいわけだから、檀家の者たちがそれをどう捉えるか、想像がつこうというものだ。
「……最初はそんなふうで、本当に喧嘩ばかりだったんですけどね。跡取りが死んだことだし、もういっそ製材所を畳んで引越そう、なんて話もしてたんですが。そうしたら都会に行っている次男が、自分が次ぐからと言ってくれましてね。ああ、|自棄《やけ》を起こしたらいかんと」
「本当に、そうです」
答えながら、静信は、温厚な父親が何度か見せた不機嫌な顔を思い出していた。滅多に不快な表情を見せない父が、大塚製材のことに話が及ぶと、明らかに不快そうな顔をした。別に非難するわけではないが、周囲の人間にすれば、信明がこればかりは腹に据えかねているのが一目瞭然だった。静信はそのたびに、父親がなぜ怒るのか理解できず、そういう父親に微かな落胆のようなものを感じざるを得なかった。落胆と言うほど深くはないが、あんな顔をしなければいいのに、と思ったことを覚えている。今になってみれば、信明があからさまに不快そうにするからこそ、檀家も住職の意を迎えて、隆之らを非難したのだろう。それを思うと、申し訳ない心地がする。
「最近は落ち着きました。康幸のことは残念だけれども、一家でなんとかこれを乗り切ろうという感じですかね。……寂しいのも確かですが」
「そうでしょうね」
なんだかね、と隆之は窓の外を見る。
「歳のせいなのか、近ごろ寂しくてね。心細い感じがするというか。季節のせいなのかもしれないですけど」
静信は、なんとなく頷いた。
「親父もいい歳だし、いつまでも生きてないな、なんてことを思ったり。盆の頃に近所で若い女の子が亡くなりましてね」
「清水――恵ちゃんですか」
「ああ、そうです。清水さんとこの娘さん。あんなに若いお嬢さんがねえ。自分とこでも葬式を出したせいか、近ごろ村を歩いてると、やたら葬式が目につくような気がしてね。考えてみると、村の人間なんて大半が年寄りですよ。今年は暑さも厳しかったし、がっくりきちゃった年寄りが多かったんでしょうな。製材所の若いのが、突然、家出して勤めを辞めたりね。近所の年寄りがいつの間にかいなくなったり」
隆之の述懐に、静信は眉を顰めた。
「そういえば」と、浩子が口を挟む。「鈴木さんね、いたでしょう。康幸と同級だった。あの家もねえ、越したんですって。最近、そういう話も多いわねえ」
静信は瞬く。浩子は寂しげに微笑んだ。
「みんな外場が嫌になっちゃったのかしら」
そうかもしれない、と静信は思う。
[#ここから4字下げ]
――されば汝は呪われ、此の地を離れ、永遠の|流離子《さすらいびと》となるべし。
[#ここで字下げ終わり]
村は丘のように、異物を排除する。
(……嫌になっても不思議はない)
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
静信は事務所で原稿を広げる。改稿を繰り返した文章をざっと目で追っていった。夜の静寂に、神をめくる音がかそけく響いた。
兄は弟を殺した罪業によって丘を放逐され、荒野をさすらう。弟は屍鬼となってそれを追う。兄にはなぜ、そんなものになってまで自分を追ってくるのかが分からない。生前の弟を振り返ってみても、やはり弟の意図を推測することはできなかった。それどころか彼はもう屍鬼でない弟を明確に思い出すことができなかった。自分が弟を殺した瞬間も、その時の自分の心情も。
そして、と静信は刃物の切っ先のように尖った鉛筆の先を紙の上に下ろす。彼は
[#ここから4字下げ]
弟の真情を忖度することを今日も諦めねばならなかった。弟の意図を量ろうとすると必ず辿り着く自身の混沌には阻まれ、なす術もなくそれを眺めるうち、悔恨が胸に迫り上がってきて、それ以上の思考を拒むのだった。
彼は俯き、自分の足許に延びる罪の色をした影を見つめ、そして振り返り、やはりいっかな遠くなった気のしない丘のほうを見やった。彼と丘の間には薄暮が満ち、悪霊どもの他に人影はない。実際、弟が背後から彼を追ってきたことはなかった。弟は必ず前方で彼を待ち受けている。
丘の上で雲は切れ、黄金の残照が降り注いでいた。その中に白く冴え冴えと光輝がある。街の頂上に鎮座し、彼に向かって容赦ない光を投げかけていた。
彼はずっと、少なくとも丘にあるときには、その園の東には荒野が広がるのだと教えられていたが、実際に荒野に立って丘を振り返ると、丘は四方を荒野に取り巻かれている。この地を東と呼ぶのは、ただ東にのみ、城門があるからなのかもしれなかった。
神の御手から零れ落ちた不毛の地が、ここ流離の地のはずだったが、実際のところ、不毛の地の直中に忽然と存在する緑野こそが丘で、美しく整えられた丘そのものが荒野に落ちた神の奇蹟のように思われた。
今になって彼は不思議に思う。丘の周囲に荒野が存在するのだろうか、それとも荒野に丘が存在するのだろうか。丘の裾野に巡らされた高い城壁は、神の秩序の終端を示すのか、それとも、神の奇蹟の限界を示すのか。
いずれにしても、丘は美しかった。
[#ここで字下げ終わり]
静信は少し手を止め、首を傾げる。彼は丘を追われた。荒野から振り返って見る丘は、やはり美しく見えるものだろうか。ましてや彼は弟に対する殺意がなく、自分の衝動の由来を知らない。
それは彼にとっても、驚愕すべき悲劇だったはずだ。それを裁かれ、呪いを受けて彼は追われた。自分を追った秩序を、閉め出した丘を、彼は虚心に賛美することができるのだろうか。
(もちろん、いいんだ……)
彼は放逐された丘を今も慕っている。もとより、最初からそのつもりだった。
[#ここから4字下げ]
いずれにしても、丘は美しかった。目を閉じれば、彼は今もそれを目の当たりに思い出すことができる。
緩やかな起伏を描く緑の野辺、そこには白く羊たちが群れ、緑の森にさしかかるまでの広大な緑地で安穏と草を食んでいた。点在する家々は、赤い石の小道で綴り合わされ、やがてそれは賢者の住まう街へと上がり、|聚斂《しゅうれん》していく。街の中心に屹立した尖塔、その頂上に神の座はあった。賢者と選ばれたものにしか登ることを許されず、たとえ登ってもそこにはただ光輝が降り注ぐだけ、いかなる姿もなかったが、そこには明らかな意志が存在した。
[#ここで字下げ終わり]
(そして彼は、その意志を崇拝していた)
――彼を放逐したのに?
(彼にとって丘は、愛おしむべき場所だったんだ……)
[#ここから4字下げ]
その光輝を点した尖塔を中心に、同心円を描きつつ、外周へと向かうほど低くなだらかに広がりながら、ひとつの丘が形作られていたのだった。
尖塔を取り巻くのは賢者の住まう神殿、神殿を取り巻くのは石畳の街だった。円弧を描く街の外周の外には森が広がる。美しい枝を連ねた穏やかな森を、さらに碧く抱え込んだのは緑野だった。
緑野は果てしないほどに広がり、やがて緑の合間に白い石と赤い土が混じり始める。柔らかな緑を蘚のように貼りつめた、起伏の多い丘陵地の果てには長大な城壁があった。
[#ここで字下げ終わり]
(長大な壁……頑なな
[#ここから4字下げ]
堅牢そうなその城壁は、さながらその外部を住人の目から覆い隠そうとするかのように
[#ここで字下げ終わり]
さながら荒野に放逐された罪人を永劫の間、拒もうとするように
[#ここから4字下げ]
広がり、そして、その東の一郭には、小さな門が閉じている。
[#ここで字下げ終わり]
二度と入れないために……)
静信は大きく息を吐いて鉛筆を放り出した。駄目だ、と思う。思考が滑る。大塚隆之と浩子の顔が、脳裏のどこかにちらついて離れなかった。
外場は結束が堅い。そしてこれは、頑なな排他性と表裏をなしている。寺の檀家でないものは、村にとって異物だ。ましてや、もともと檀家だった者が寺に離反すれば、異物というより敵と見なされても無理はない。村人を束ねる信仰に疑問を投げかけて、もっと別の信仰を選ぶといって立ち去ったのだ。人の集団というものの性質から考えても、そうやって外れていった者が排斥されることは避けられない。
だが、と静信は思う。なぜ人の群はそういう振る舞いしかできないのだろう。信仰は心の拠り所となるもの、人の心に安寧をもたらすものではないのか。それが人を隔て、人を排斥する大義名分になることに――それを誰も疑問に思いも恥もしないことに、静信はいたたまれない思いがする。
内側に向けては穏やかに笑い、慈愛すら示しながら、外側に向けては冷淡で残酷な振る舞いをする。その二面性に寒々しいものを感じる。それとも、こういうところで躓くのは、自分だけなのだろうか。
やるせなく息を吐いて、静信は原稿を重ねた。原稿を進めたいのに筆がついてこない。まさしく躓いているのだと自覚して、諦めて原稿を抽斗に戻す。かわりに聞き込みのメモを取り出したが、それは開く気にもなれなかった。それすらも諦めて、静信は立ち上がる。事務所を出、玄関の棚に置いた懐中電灯を手に取って表に出た。
樅の間を吹き下ろしてくる風は、秋の気配を忍ばせている。虫の音は、真夏のそれとは音色を変え、どこか寂しげに聞こえた。寝静まった村を一瞥し、境内を横切る。山の中に分け入ると、林や下生えのあちこちに、秋が潜んでそろそろと忍び出てこようとしているのがよく分かった。黙黙と歩き、まっすぐに廃墟へと向かう。村に居場所をなくし、ここで隠栖しようとし、やはり寺を核とする秩序に敵視されて聖堂から引き出された――彼。
隠遁者の苦渋を示すように、聖堂は傾き、荒廃している。中にはいると、|蟋蟀《こおろぎ》の声がただ一匹ぶん、頼りなげに響いていた。物寂しく鳴っては消え、消えては思い出したように鳴く。
静信は自分がいつランプに灯を入れたのか、覚えていなかった。何もせずにぼんやりしているだけなら、灯火は必要ではない。にもかかわらず灯を点けたのは、いつぞや「明かりが見えたから」と言って沙子が現れたことを、自分の無意識が覚えていたからかもしれない、と聖堂の扉が開く音を聞いてから思い至った。
振り返ると沙子が、短い|身廊《しんろう》を歩いてくるところだった。片側に並んだベンチの背もたれを軽く撫でるようにして、軽い足取りでやってくる。
「こんばんは」
やあ、とだけ静信は返した。
「言っておくけれど、ここに来たのはこないだ以来、初めてよ。家で穏和なしくしていたの。だから大目に見てね?」
静信は微かに笑って頷いた。
「いちおう、虫除けのスプレーもしてきたし、ごらんの通り襟の詰まった長袖を着てきたわ。ストッキングは二枚重ねよ。室井さんの忠告を無にする気はないんだって分かってもらえるかしら」
「……分かるよ」
よかった、と呟いて、沙子は静信のすぐ前のベンチに腰を下ろす。幼い子供のようにベンチの上に坐り込んで背もたれに両肘を乗せた。
「江渕とお母さんが、とても感謝していたわ。もちろん、絶対に外に漏らすようなことはしない。――もっとも、漏らしようもないんだけど」
「そう……」
「相変わらずなの? 浮かない顔」
静信は苦笑した。
「そう……相変わらずかな。事態は少しずつ悪くなっているようだね。なのに何の解決策も見えない」
沙子が先を促すように首を傾けたので、静信は手短に、自分が被害者の共通点を探していること、にもかかわらず、何の手がかりも見つからないことを述べた。
「お寺の御用事もあって、小説のお仕事もあるのに、大変ね。なのに成果がないんじゃ、室井さんがそんな顔をするのは当たり前ね」
「そんなに浮かない顔をしてるかい?」
「そうね。この間と同じよ。落ち込んでいるみたい」
言って、沙子は小さく笑った。
「ここで会うと、室井さんは必ず落ち込んでいるのね。ひょっとして、落ち込むと逃げ込んでくるの?」
静信は瞬いた。
「ああ……確かに。そうかもしれない」
「自覚がなかったの?」
「なかったな。そうだな――確かにそういうことのほうが多いね、圧倒的に」
「あまり落胆しないほうがいいわ。室井さんは疫学の専門家じゃないんだもの」
静信は軽く笑って首を振った。
「別に、成果がないからそれで落ち込んでいるわけじゃないよ」
「じゃあ、どうして? また、誰かが亡くなったの?」
「いや――。被害者の足跡を辿っているとね、あまり楽しくないことも知ってしまうことがある、ということかな」
「楽しくないこと?」
うん、と静信は半壊した聖堂の内部を見渡した。
「外場はいいところだよ。住人は気持ちの良い人が多いし、それが和やかな円環を作っている。けれどもそれだけ、異物を撥ね除ける力も強いんだね」
沙子は首を傾け、そして何かを悟ったように頷いた。
「なんとなく分かるわ。身内に暖かいということは、部外者に対して冷たいということなのよね。――そういうこと?」
そう、と静信は頷いた。沙子は背もたれの上に乗せた両手で頬杖をつく。
「……それで、室井さんは村の人が嫌いになっちゃったの?」
「いや。そういうことじゃない」
「村が嫌いになったとか。だから村のために苦労するのに辟易したとか」
「そんなことはないよ。きっと寄り集まる力が同時に異物を排斥する力になるのは、避けられない摂理の一種なんだと思うから。きっと人間はそういう生き物なんだろう。だからそれを責めようとは思わない。けれども、少し残念な気がするだけだよ」
「だったら元気を出さなくちゃ。でもって、ちゃんと調べて、早く事態を解決しなくちゃいけないわ。このまま疫病が蔓延して、村の人が気づいてしまうと、室井さんにとって、もっと辛いことが起こると思うの」
静信は胸を衝かれた。沙子の顔をまじまじと見つめ、それが真理であることを悟る。
確かにそうだ。このまま事態が悪化していけば、早晩、村人は疫病の存在に気づく。そうすれば何が起こるのか。異物を排斥してまで守ってきた結束が切れていくのだ。同じ檀家で、血縁に結ばれ、地縁に結ばれていても、汚染を恐れて排斥が始まる。そうならざるを得ない。
「……その通りだ」
「でしょう? 人は追いつめられると脆いもの。とても弱い生き物だから」
静信は頷いた。――そう、落ち込んでいる場合ではないのだ。そんなことに躓いている余裕はない。
そして、と静信は内心で自分を恥じた。原稿に逃避している場合でもないだろう。一刻も早く、この惨禍を止める方法を見つけなくては。村が内部から瓦解する前に。
[#改段]
[#ここから3字下げ]
五章
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
「大将、お久しぶりです」
静信が声をかけると、家の裏手に広がる農園の中で作業をしていた清水|雅司《まさじ》が振り返った。
「ああ――若御院」
「御精が出ますね」
老人は立ち上がり、帽子を取って胡麻塩の頭を下げる。雅司の足許には畝に沿って、何のものだろう、緑の苗が並んでいた。
清水園芸は造園も行うし、苗木の卸も行う。村の者が請えば、直接売買もしてくれた。静信の母親の美和子も、時折、庭に植える植物の苗を買ってきたりする。
「まだまだお暑いですね。今日はどうなさいました」
「実は、先日、遅まきながら隆司さんが亡くなったと聞いて」
ああ、と雅司は表情を曇らせた。
「そりゃあ、ありがとうございます」雅司は移植鏝を傍らのバケツに放り込んで家を示した。「とにかく、どうぞお上がりになってください」
静信は軽く頭を下げ、先に立つ雅司の後に続いた。
「驚きました。最後にお見かけしたときにはお元気そうだったんで」
まったくですわ、と雅司は縁側に登りながら息を吐く。勧められるまま静信も座敷に上がり、仏壇の前に進む。仏壇には真新しい写真と位牌が飾られていた。息子の隆司は書類によれば四十一、確か溝辺町の会計事務所に勤めていた。線香を上げて手を合わせていると、雅司が麦茶を運んできた。
「こんなもんでも、どうぞ。済みませんね、今日は嫁が出かけてるもんで。どっかに茶菓子があったはずなんだが」
「お構いなく。――大将もお気落としでしょう。もう落ち着かれましたか」
雅司は苦笑する。
「まだピンと来ませんや。本当に元気なもんでしたからね。いつも通りに出ていって、そしたら事務所で倒れたって話でしょう。慌てて病院に駆けつけたら、もう意識がなくてね。そのまま目を覚まさないままでしたから」
「心臓がお悪かったと聞きましたが」
雅司は、とんでもない、と首を振った。
「春の健康診断じゃ、ぴんぴんしてたんですよ。それがいきなり、心不全だってんですからね。――いや、具合は悪そうではあったんですよ、今から思うとね。ただ、その時は何かぼうっとしてるな、って程度でね。夜更かしでもしたのか、二日酔いか、と思ってたらあれでしょう。まったく……」
雅司は言葉尻を濁した。
「それも今だから思うことでね。後から振り返って、そう言えば、って話ですよ。当日はそんなこととは思わねえ、いつも通り、ろくに顔も見ねえで畑に出ちまって」
「じゃあ、特に寝込んでいたとか、そういうことではなかったんですか」
「寝込んではいなかったなあ。……いやね、この年になると、息子の様子なんかしみじみと窺ったりしませんからね。具合が悪かったのかもしれないが、嫁も気がつかなかったぐらいだから、さほどでもないように見えたんでしょう」
そうですか、と静信は呟く。清水隆司が例のあれだったのか、はっきりとしなかった。家族が気づいてから数日以内に死亡するのが通例だが、隆司はそれよりも若干、早い。例外的に早く事態が進行したのかもしれなかったし、例の病気とは無関係なのかもしれない。静信では見極めがつかなかった。
「けれど……それは本当に急のことで、お辛かったでしょう」
「おれより、嫁がね。こう言っちゃあなんだが、こういうこともありますよ。ただ、嫁と孫が不憫でね。特に嫁が。なにしろ、おれも連れあいを亡くして、嫁と孫がいなかったら一人ですからね。その孫も来春には高校を卒業して大学に行くなり就職するなりするわけだし、そうなって家を出ちまったら、血の繋がらねえ年寄りと二人きりですよ。実家に戻ってもいいぞ、とは言ってあるんですけどね。隆司もいねえのに、おれの死に水を取らせるんじゃ哀れだ」
雅司は言って、木訥とした顔に苦笑を浮かべた。
「昔なら、一旦、嫁に来たんだから、って話になるんだろうが、今はそういう時代でもねえし」
そうか、と静信は思う。村では、親子の同居はまだ当たり前のことだ。だが、家族の概念は確実に変化しつつある。中途半端な変容。その、軋み。
「……まあ、おれだけを残すわけにはいかねえとは言ってくれるんですが、やっぱり悩んでいるようですわ。亭主に先立たれただけでも災難なのに、そのうえ後には頭の痛い問題が残ってるんだから不憫な話だ。退職金が出たのが、せめてもってとこで」
静信は首を傾げる。雅司はさらに苦笑した。
「息子が倒れた日ね、あの日、隆司のやつ、何を思ったか、いきなり退職届を出したらしいんですわ。おれも嫁も知らねえ、自分の胸ひとつでやったことでね。事務所は引き留めたんだが、隆司のやつは今日限りで辞める、退職金も給料もいらねえと啖呵を切ったらしいんですけどね。会計士の先生と喧嘩して、それでばったり倒れたらしいんですよ。病院でそれ聞いて、嫁は真っ青になってました。まだまだ孫にも金がかかるしね」
「それは……」
「まあ、先生が恩情で、なかったことにしてくれてね。在職中に死亡して退職って扱いにしてくれたんで、助かりました。本当に――我が息子ながら何を考えていたんだか」
老人は仏壇の遺影を見上げた。
「あのくらいの歳になると、もう他人も同然ですわ。同居はしてても、そりゃあここが田舎だからで、都会なら家を出て一家を構えてる歳なんですからね。手前のことは手前で決める。いつまでも親父にお伺いを立てたりはせんでしょう。だから、当然といえば当然なんだが」
そうですね、と静信は呟いた。
「隆司さんは、もう大将の手伝いはしておられなかったんですか。以前、何度かうちに一緒に見えられたことがあったでしょう」
「いやあ、最近はないね。以前も、よっぽど手の足りないときだけでね。うちも造園ったって、それ専門にやってるわけでもないから、そうそう人手のいることもないしねえ」
「じゃあ、大将の跡を継ぐつもりだったとか、そういうことではないんでしょうか」
「そういうことじゃないでしょう。そんな気はなかったと思いますよ。おれもそんなつもりはなかったからね」
それでは、雅司について村のあちこちに出入りするということはなかったわけだ。思いながら、雅司の仕事の按配について尋ねた。どの家に出入りしているのか、山入に行くことはあるのか、丸安製材はどうか、隆司がそれに同行することはなかったか。それとなく聞いてみたが、雅司自身は山入に行くことも丸安に出入りすることもないようだし、ましてや隆司は何の縁も持っていなかった。山に立ち入ることもない。雅司の家はそもそも山林を持っていなかった。雅司も隆司も、家は外場にあるものの、生活の場はもっぱら溝辺町にあって、近所付き合いの他は、さほどの縁を持たないようだった。
「親戚が門前にあるんだけどね」と、雅司は苦笑いした。「昔だったら、それこそ、何事かあるたびに出入りしたんだろうけど、従兄弟が死んでから、縁が切れちゃってね。死んだ親父の従兄弟だってだけで、親戚面して出入りする時代でもないでしょう」
そうですね、と静信は答えるにとどめた。
雅司の家を辞去し、静信は中外場に向かう。弔組世話役の小池老の家を訪ねた。八月十一日に死亡した広沢高俊は中外場の住人だった。この広沢家とは、静信は何の縁も持たなかったので、とりあえず中外場の顔役とも言える小池老を訪ねてみたのだが、小池老もあまり付き合いはなかったようだった。
網の目のように入り組んだ人間関係、という気が、静信はしていた。村の者は地縁でしっかりと村の中に組み込まれている、という感触。だが、その地縁はいつの間にか、至るところで寸断されている。当人たちもさして自覚のないまま、村は時代の趨勢に従って、徐々に解体されていこうとしていた。
こんなものか、と静信は思った。静信自身は檀家の中心にいる。入り組んだ人間関係の要に位置するから、こういう変化を実感していなかった。だが、端々から村は変容している。――そう思ったのは、静信だけではなかったようだ。小池老も溜息混じりに首を振った。
「昔なら、どこの誰それ、と言われると、どういう人間で、どういう暮らしをしてるのか、自分の親戚か家族のように分かったもんだったけどねえ」
「これが時代ってものなのでしょうね」
「まあ、わしも弔組の世話をして、初めてそういう若いのがいたのか、ってぐらいのことだからね。本人自身、どっちかというと内向的で、親にもよく分からないところがあったそうだが」
「そうなんですか」
「親にしちゃ、分かってたつもりだったんだろうがね。親父さんは嘆いていたよ。なにしろ、突然に溝辺町で倒れてさ。それがパチンコ屋で倒れたって話さ。てっきり仕事に行ってると思ってたら、仕事を辞めてたんだと」
え、と静信は問い返した。
「仕事を、辞めていた?」
「らしいんだよ。親にも何も言わないままさ。二、三日前から具合を悪くしててね、ふらふらしながら、それでも背広着て出ていったから、てっきりいつも通り会社に行ったんだろうと思ってたら、会社は三日前だかに辞めてたんだとさ。それでパチンコ屋で時間を潰していたんだろうな。そこで倒れてそのまんまだよ」
静信は瞬いた。なんだろう、これは。清水隆司とどこか似ている――。
静信の困惑に気づかなかったのか、小池老は苦笑した。
「寂しい話だが、仕方ないんだろうなあ。老いさき短い者には心細い話だよ」言って、小池は首を傾げる。「しかし、何だってこんなに死人が続くのかねえ」
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
九月十八日、日曜日は恵の三十五日の法事だった。
「これで忌明けにするみたいね」と、恵の家に向かう道のり、母親の佐知子が言った。九月も半分以上が過ぎて、茹だるような熱波は遠のいている。
「忌明け?」
かおりが問い返すと、佐知子は頷く。
「四十九日って言うでしょ。四十九日を過ぎると死んだ人の魂が家を離れるのよ。もう忌中じゃなくなるから忌明け。本当は四十九日の法要で忌明けにするんだけど、十月になっちゃうでしょ。忌中が三月にまたがるのはよくなって言うのよ。だから切り上げて三十五日で忌明けにするみたいね」
かおりは俯いた。そんなのは変だ、と思う。恵の魂が家にいようといまいと、恵が死んだという事実は変わらない。なのに四十九日が経ったら、悲しいのも可哀想なのも片づけてしまうというわけだ。
しかも恵の場合は四十九日ない。まだ三十五日で、恵の魂は家に留まっているのに、早々に追い出してしまうのだ、と思った。
(恵……可哀想……)
死んでしまう、ということは可哀想なことだ。こうやってどんどん片づけられてしまう。きっとそのうち「もう済んだこと」になってしまうのだ。確かに恵の生は、あの夏の日に「済んで」しまったのだけど、恵の死は始まったばかり、まだ三十五日しか経っていない。このまま永遠に「済んで」しまうことなんてないというのに。
どこか、さばさばしたふうの佐知子の後に従い、かおりは俯いたまま歩いた。清水家につくと、佐知子と同じようにどこか気が済んだふうのお客が集まっている。恵の両親と祖父だけが、
すこしも肩の荷が下りたようではなかった。ちょうど葬式の時と同じように、とても悲しそうで打ちひしがれて見えた。かおりはほんの少し、それに慰められる気がした。
法事が始まるまでには、まだ時間があった。佐知子はお勝手を手伝いに行く。かおりもそれに従おうとしたのだけれども、弔組の女衆から、休んでいなさい、と言われた。確かに台所はもう近所の女衆でいっぱいだったので、かおりは促されまま二階に向かった。恵の部屋はかつてのまま、ドアには今も名札が下がっている。当然だ――少なくとも今日はまだ、恵はこの家にいるのだろうから。それとももう、いないのだろうか。恵はいつ、家を離れるのだろう。法事が始まると追い出されてしまうのだろうか。
(まるで、お祓いみたい)
お経を上げるのは同じだから、実はそういうことなのかもしれない。お経が上がって、苦しくて、恵の霊は家にいられなくなる。仕方なく家を離れて、それでみんなは、やれやれと言って、恵の死を片づけてしまうのだ。
(この部屋も……)と、かつてのまま、少しも変わってない部屋を見渡し、かおりは思う。(片づけられてしまうのかしら)
かおりは自分の思考に、どきりとした。とっさに家具や持ち物の一切合切が整理され、がらんとした空洞になった部屋を想像してしまったせいだ。
「そんなの……ない」
恵が住んでいた部屋。ここが恵の居場所だった。恵の机、恵のベッド。確かにもう持ち主はいないのだけれども、それは恵のものであって、他の誰のものでもない。恵が大切にしていた物たち。カーテンもベッドカバーも恵が選んだのだ。お小遣いで買った、雑貨やアクセサリー、どれも恵が心を砕いて集めたものだ。かおりがプレゼントしたぬいぐるみ、旅行の記念、みんな恵が大切にしていたもので、それを恵以外の誰に処分する権利があるというのだろう。なのにいずれ、この世から消えてしまう。そうやって恵の生きていた痕跡が拭い去られていく。
こんなのは嫌だ。恵の死が、こんなに簡単に忘れ去られていいはずがない。人が死ぬということは、もっと重大な悲劇のはずだ。一生、忘れられない、心の傷になるような。たった三十五日でキリがついてしまうような、そんな軽々しいことではないはず。
かおりは狼狽して周囲を見まわした。もう今すぐにでも弔組の女衆が上がってきて、部屋を片づけてしまいそうな、そんな気がした。忌明けだから、今日を限りに恵は家を離れるのだから。だから恵の部屋は必要ない、と言って。
頼んでみようか、恵の両親に。恵に断りもなく、勝手に部屋を整理してしまうようなことはしないでください、と。そんなふうに恵を片づけてしまわないで。
――そう頼んで、それで聞き入れてもらえるだろうか。
佐知子の顔が目に浮かんだ。恵の死を片づけなさい、と言う母親。佐知子ならきっと、恵の母親にもそういうのだろう。片づけなさい、そのためにも恵の部屋は整理してしまったほうがいいと。浩子もそれに同意するのかもしれない。
忌中ではなくなったのだから片づけよう、そして恵の分まで人生を楽しむのだと。部屋の中の一切合切を整理し、処分する。――するかもしれない。ここにあるものは、どれも恵にとって大切なものだけれど、大人は子供の「大切なもの」に敬意を払ってくれることなど、ほとんどない。
「だめだよ、そんなの」
せめて何か、とかおりの目は部屋をさまよう。処分されてしまう前に、ここから運び出してかおりが大切に保管しておかなければ。そう――そうすればいい。恵の形見に、何か。かおりは忘れない。片づけたりしない。大切に「恵」を保存しておく。
ぬいぐるみは大きすぎる。とてもこつそり持ち出せない。あまり目立つものも駄目だ。恵の家族が、なくなったことに気づくかもしれない。盗んだなんて思われたくない。小物や雑貨ならポーチに忍ばせて持ち出せるだろうけれど、それらのどれを見ても、「恵」と呼ぶには不足がある気がした。
机のまわりに目をやる。デスクマットの下のカレンダーは八月のまま。恵のカレンダーはそこで止まってしまった。これをここに入れたときには、これが最後の月になるなんて、思ってもみなかっただろう。三分の一しか開かれていない教科書、買ったまま封を開けてない文房具。
(……恵はもういない)
かおりは棚や抽斗の中を検め、「恵」そのものである何かを探した。見つかるのは恵の断片ばかりで、それでいっそう、恵はもういないのだ、という気がした。恵はいない。その存在が消えてしまった。ここに残されているのは、「恵」にはぜんぜん足りない欠片ばかりだ。
泣きそうな気分で辺りを探っていて、かおりは手を止めた。デスクマットの下、カレンダーの下から葉書を見つけた。
恵の文字だ。彼のために書いた残暑見舞い。書いてそれきり、投函できずに恵は死んでしまった。こんなに丁寧に書いたのに。
(恵……これ、出したかっただろうね)
それを思うと、涙が零れた。かおりは泣きながら、それをポーチに忍び込ませた。どれも「恵」には足りない。これだって「恵」じゃない。でも、恵はこれを家族には見られたくないだろう。もしも部屋を整理することになったら見つかってしまうし、そうして出しそびれた残暑見舞いなんて、真っ先に捨てられてしまうだろう。それだけはさせたくなかった。
「大丈夫だよ、恵……」
捨てたりさせない。かおりはポーチを抱き締めた。
「……いっしょに帰ろ」
家に連れて帰ろう。ここには今日限り、いられないから。四十九日まで、かおりの部屋にいればいい。自然に遠い場所へ行ける日までは。
「大丈夫、あたしは片づけたりしないから」
[#ここから3字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
店のドアが開いて、長谷川は顔を上げた。
「おや、お珍しい」
電気店の加藤だった。加藤が店に来るのは珍しくもないことだが、今日は息子の裕介を連れている。カウンターに座った二人に、長谷川はグラスを出した。
「お揃いで。今日は――ああ、日曜か」
曜日をすぐに失念する。クレオールは休みを決めてない。最初は道楽のつもりで開いた店だったから、面倒だったら休めばいい、というぐらいのつもりでいたが、意外に長谷川も店を開けるのが楽しくて、結局、ほとんど年中無休の有様だった。そもそも商店街は日曜定休が当たり前だったらしいが、最近では日曜も開ける店のほうが多く、以前には五時六時で閉店していたものだが、これもじりじりと延びる傾向にある。それが時代の趨勢というものなのかもしれなかった。
「裕介くん、何にする?」
訊くと、裕介は|含羞《はにか》んだように俯いた。昔から人見知りをする子供だった。特に長谷川に懐きはしないのだが、長谷川は息子を亡くしているから、男の子は無条件に可愛く思ってしまう。常に息子と引き比べ、そのたびに様々のことが思い出される、それでなのかもしれない。亡くした当初は何を思いだしても悲しかったが、四年が経つと、懐かしいばかりで胸の内が暖かい。
「うん?」と、促すと、道々決めていたのだろう、アイスクリーム、と小声で答えた。加藤が微笑む。
「裕介が財布を拾ってきましてね」
「おや」
「女性のものらしい、年期の入ったやつなんですけど。それを交番に届けるというので、褒美にアイスを奢ってやろう、と言っていたんです」
「なるほど。そりゃあ、裕介くん、偉いなあ」
「でも、いなかったよ、駐在さん」
裕介が言って、困ったように父親を見上げた。
「そうだな」と、息子に頷いて、加藤は長谷川を見る。「長谷川さんは、後任の駐在さんにお会いになりましたか」
ああ、と長谷川は呟いた。高見が死んで、その後を佐々木という警官が埋めた。
「それがねえ、わたしも見てないんですよ。いつ見ても空ですね、駐在所が」
「ですね。……変だな」
「田代さんは何度か見かけたようですけどね。交番は書店のすぐ斜め向かいだから。なんでも愛想のない人みたいですよ。声をかけてもろくに返事もしたがらない、って田代さん顔を顰めてましたから」
「へえ……」
長谷川は、特別に大盛りにしたアイスクリームの器を裕介の前に差し出した。
「せっかく行ったのに残念だったね」
言うと、やっと裕介は笑う。ありがとう、と小声で言った。それを微笑んで見守ってから、加藤は、
「メモを残して、財布は机の上に置いてきたんですけど。でも、そう始終いなくて大丈夫なんでしょうか」
「そうですねえ。まあ、平和な村なんで、もともと高見さんも暇だ暇だとは言ってましたけど。けども最近はどうもねえ。いつ行っても駐在がいないんじゃ、なんだか心配ですね」
ええ、と加藤は頷く。
「……兼正の桐敷さんといい、最近越してこられる人は、引っ込み思案な方が多いようですね」
「まったくねえ。来たって噂ばかりで姿を見かけない、そんなのばっかりですねえ。妙な感じだな、どうも」
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
静信は読経を終えて、背後を振り返った。大川家の人々に頭を下げる。
「どうも、ありがとうございました」
大川富雄が言って、かず子がお茶を運んでくる。山入で死んだ大川義五郎の四十九日だった。もうそんなに経ったのか、と静信は思う。
「これで肩の荷が下りましたよ。あんな爺さんでも、位牌を預かってると気になってね」
静信は特にコメントをしなかった。黙って出された湯飲みを手に取る。家族だけのひっそりとした忌明けだった。義五郎にも子供がいて、葬儀の時には夫婦連れ、子供連れでやってきていたが、法事にまでは来られないということなのだろう。それぞれが遠方に転出していることを考えると当たり前なのだが、やはり寂しい気がしてならなかった。
外場は結束が堅い。それは強固な身内意識と、同じく強固な排他主義の上に成り立っていた。そのせいなのか、村にいる間は一分の隙もなく村社会に収まっている者が、いったん村を出ると憑き物が落ちたように村を忌避する、そういう傾向があった。転出して村の外に出ると、本人も周囲も余所者になった気がしてしまうのだろうと思う。
「なんにせよ、これで一段落ですよ。今日は清水さんとこも法事だったそうで。若御院もお疲れでしょうな」
「いえ。大将も大変でしたね」
まったくです、と大川は頭を振った。
「ついこの間もね、うちの松んちの娘が死にましてね。まだ若いのに」
ああ、と静信は頷いた。上外場の松村康代のことを言っているのだと分かった。
「本人はすっかり腰が抜けちまって、女房は女房で、泣きわめいたあげくに寝付いちまうし。結局、おれが葬式を出したようなもんですわ。二度あることは三度ってえ言いますが、これだけは三度目は勘弁してもらいたいもんだ」
「そうですね」
「それきり松は仕事に来たり休んだりだしね。それでなくても人手が足りねえっていうのに。おまけに配送の人間の顔ぶれがやたらに変わってね。段取りが悪いったらありゃしねえ。なんだかもう、そういう按配で天手古舞いですよ。まったく」
それは大変ですね、と静信は取りあえず返した。大川の脇で、妻のかず子が釈然としない顔つきをしている。
「それにしてもお葬式が多いですよねえ。なんだか、この村はどうなっちゃったのかしら、と思ったりするんですよ、最近」
これに対しては、静信は答えるべき言葉を持たなかった。疑惑が浮上している。それも次第に強くなっている。そのうちに、堰を切ったように溢れ出すだろう。その時に何が起こるのか――。
かず子は静信の内心など知らず、ただ首をひねっている。
「何かこう……嫌な感じがするんですよ。何が嫌って、はっきり言えないんですけどね。ついこの間も、郵便局が閉まったでしょう」
ああ、と静信は頷いた。光男がそんな話をしていたか。確か引越したのだと聞いた。
「あれもねえ、妙な話なんですよ」
かず子が言うと、大川は嫌そうな顔をした。
「またその話か」
「だって妙だったんだもの。そりゃ、お父さんは見ていなかったから。でも、あたしはこの目で見たんですからね。考えれば考えるほど、あれは死に顔だったと思うのよ」
静信は瞬いた。
「あの……それは?」
ああ、と大川は渋面を作る。
「郵便局のね、大沢さんが死んでたっていうんですよ、こいつは。見舞いに行ったら顔が見えて、それが死に顔だったって。そんなわけがあるわきゃないだろうが」
言葉の最後は、かず子に向けたものだ。かず子は恨めしげに大川を見た。
「だって、本当にそうとしか思えなかったのよ。なのに、その日の夜のうちに引越でしょう。それも夜中に。変だと思うのよ」
「失礼ですが……夜中だったんですか?」
「そうなんですよ」と、かず子は頷く。「具合が悪いっていうから、あたしはお見舞いに行ったんですよ。そりゃ、顔色がうんと悪かっただけで亡くなってたわけじゃないのかもしれませんけど。でも、病人がいるのに家移りなんてします? それも夜中のことですよ。しかもあたしが見舞いに行ったときは、引越すなんて一言も。第一、家の中だっていつもの通りで、荷物ひとつ作っちゃいなかったんですから」
もうよせ、と大川は妻を|窘《たしな》める。かず子は不満そうに大川を見上げた。
「だって気味が悪いじゃない。本当に、この村はどうなってるんだが……」
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
両親を送り出して、清水寛子は気抜けしたような、安堵したような気分に陥った。実家の両親が法事のためやってきて逗留していった。わざわざ三日ものあいだ滞在していたのは、気落ちしている寛子を気遣ってのことだとは分かっている。ただ、娘を亡くして以来、寛子は自分の気力が萎えているのを自覚していた。両親に気を配るのが疎ましく、同時に気を配られるのも疎ましい。
重い荷を下ろした気分で玄関を閉め、家の中に向かうと家の中はがらんとして見えた。電灯の明かりが白々しい。夜の村にはしんとした沈黙、弱々しい虫の音が秋の名残を鳴いている。
恵が欠落して、家の中には恵の分だけの空洞ができた。両親がいる間は二人の気配がそれを糊塗してくれていたが、二人がいなくなると、あまりにも露わだった。義父の徳次郎も夫も恵の死以来、生気が抜けたようだった。家の中では人の気配が絶え、テレビの音だけが虚しく響いていることが多い。その空虚さが自分の気分には似つかわしいように思え、むしろ両親の気配が場違いなものに思えてならなかったが、二人がいなくなってみると家の中はいかにも寂しかった。
寛子は息を吐き、居間に向かう。義父と夫が二人、無言でテレビの画面を見守っていた。そこに自分が参加して三人になっても、人が集まっている、という感触が生じることはないだろう。
寛子は無言でダイニングテーブルに向かって坐り込んだ。誰も寛子には声をかけなかったし、寛子もまた声をかけなかった。テーブルの上に開いた帳面に、法事のためにかかった費用をつけていく。何もしたくはなかったが、何かをしないと時間が経たない。忍従の時間にも似て、とにかく時間を消化することだけを考えていたが、この忍従には終わりがなかった。
無言で徳郎が立ち上がり、居間を出ていく。寛子も清水もそれを見送ったが、どこへ、とも何か、とも聞かなかった。徳郎が抜けたぶん、いや増した沈黙に耐えかね、寛子は口を開いた。
「……若御院と何を話していたの?」
「うん?」
「法事の後、何か話し込んでいたでしょう」
ああ、と清水は呟いた。恵が行方不明になる前、何か変わった様子はなかったか、七月半ばから八月にかけて、どこかに出かけたりはしなかったか。山入に行くことはあっただろうか、後藤田某という男と面識がなかっただろうか、そういうことを訊かれたように思う。
清水が低くそう答えると、寛子が沈黙し、会話はそこでぷつりと途切れる。清水もその沈黙に身の置き所のない思いをしながら、自分が答えたこと、答えなかったことについて考えた。
恵は山入に行ったりしないと思う。後藤田秀司などという男とは面識がなかったと思う。けれども確証はない。後藤田なる男がどういう男なのか、清水も知らないし問いもしなかったが、ひょっとしたら、と思わないでもない。――死んだ恵の部屋には薄く香水の匂いが残っていた。
今も微量に残るその匂いは、清水を苦しめた。芳香剤ではない、あれは香水の匂いだ。寛子には日常、そんなものをつける習慣はない。ちょうど盆休み、清水は家にいて恵の元を訪れた見舞客を把握していたが、恵を訪ねてきたのは尾崎医院の敏夫と、近所の田中かおりだけだった。かおりも香水をつけたりはしないと思う。だとしたら、それは恵のものとしか考えられない。
恵が帰ってこない、と寛子が騒ぎ、近所の者に真っ先に言われた言葉がある。「色気づく年頃だから」と。恵はまだまだ子供だ。そのとき清水はそう思ったが、部屋に残っていた香りが、少なくとも誰かのために香水をつけて装うような歳になっていたのだ、と囁く。山の中に倒れていた恵、恵に何が起こったのか、近所の心ない者の中には、答えはひとつしかない、と言外に匂わせる者がいる。清水自身、疑っている。敏夫から心配ないと言われたものの、単なる貧血だと言ってのける医者の保証が本当に信じられるものだろうか?
恵に何があったのだろう。恵は誰のために香水などつけていたのだろう。いつから、娘は「女」に変貌していたのだろう。清水は娘を亡くし、同時に娘を見失おうとしていた。
「……妙なことを訊くのね」
ぽつりと寛子が言った言葉が、何に対するものなのか――誰に対する言葉なのか、清水は一瞬、分からなかった。ぽかんとして振り返ると、寛子は清水のほうを見ている。
「……ああ……そうだな」
「その後藤田という人は誰?」
「さあ」
「その人が、恵と何かあったのかしら」
「何かって?」
「……嫌な感じね」
寛子は清水の問いには答えず、そう言った。
「何が」
「何だか、嫌なことが続くわ」
「そうかな……」
「大塚製材でも息子さんが死んだじゃない。ついこの間、中埜さんのところでもお葬式があったみたいよ」
「そう」
「山入でも人が死んで。……今年はそんなことばっかり。どうかしてるわ」
「気のせいだろう」
清水は言ったが、これは必要以上に素っ気ない言い方になった。実を言えば、清水もそう思う。今年は妙だ。やたらと葬式を見かける。村では今何かよくないことが起こっている気がしてならない。だが、清水がそう言うと、職場の同僚は考えすぎだという。同じく下外場に住む前田などには、娘を亡くして過敏になっているのだ、とさも心配そうに諭された。そうなのかもしれない、とは清水自身も思う。
「安森のお婆ちゃんが越したらしいの。息子さんと同居するんですって。……少しずつ人が減っていくみたい」
そうか、と清水は答えた。置き去りにされていく、という気がした。
「そう言えば、JAの奈良さんも退職したな」
「奈良さんが? だって、あの人はまだ」
「具合が悪いんだそうだ。早々に隠居を決め込むつもりらしい」
「そう……それも悪くないわね」
「突然、言われてもな。残されたこっちは、かなわない。出てこない事務員もいるし」
「事務員? だれ?」
清水は村外から通ってきていた女事務員の名を挙げた。在職して長いし、寛子とも面識がある。
「彼女が? 出てこないの?」
うん、と清水は顔を顰めた。
「ここだけの話だが、彼女、どうも駆け落ちしたらしいんだ」
まあ、と寛子は声を上げた。
「旦那さんと子供さんは?」
清水は溜息混じりに首を横に振った。寛子は驚き、そして自分が幾許かの羨望を感じているのを自覚した。羨望と言うほど強い感情ではないが、それに似た何か。
――現在を捨てて、未来へと逃げ出してしまえれば、どんなにいいだろう。
沈黙で押しつぶされそうな家、穴の空いた家庭。娘を失った自分自身。そして。
(……呪われたこの村)
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
敏夫が水口に住む大川茂の訃報を受け取ったのは、例によって早朝のことだった。九月十九日、月曜日。電話を受けて駆けつけると、すでに茂は死亡していた。大川茂は敏夫より一級上の三十三歳、三十四を目前にしての急逝だった。
茂は三日ほど前から寝付き、未明の頃に看取る者もないまま、ひっひりと息を引き取った。家族は朝に起きてみて、やっと茂が死んだことに気づいた。
「こんなことになるなんて」
母親は茂の遺体に縋って泣き伏す。それを敏夫は苛立たしい気分で見守った。なぜ具合が悪くなったときに病院に来させなかったのか、連れてこなかったのか。
――もちろん、分かっている。間に土日が挟まったからだ。茂の両親が息子のことを心配しなかったわけではない。健康に無頓着だったわけでも。両親の心配以上に激烈に茂は悪くなったのだ。それは当初、休日の医者を呼び出すほどのことではないと思えた。けれども息子のことが心配だから、週が明けたら一番に医者に診せようと考えていた。そして、間に合わなかった。月曜を待つほどの暇を、病は茂に与えなかった。
休日にも病院を開ければいいのだと敏夫には分かっている。村の者は敏夫と密接な親交がある。だからこそ、敏夫から休日を搾取できない。それをしては申し訳ない、という配慮をするのだ。それは善意で――まったくの善意に他ならないのだが、この病に冒された患者にとって、土日二日は、たかだか二日のこととはいえ致命的な遅滞になる。
患者のことばかりではない。敏夫自身、これでは困る。呼ばれるたびに遺体に対面するのでは――しかも病理解剖さえできないのでは、経過も観察できないし、病因の特定もできない。とにかく死亡診断書を出すのに必要だと言って、茂の病歴、両親の病歴、古今の動向を聞くので精一杯だが、近頃、誰にあったか、どこに行ったか、そこで感染するようなことが何かなかったか、そこまでは本人でなければ分からない。せめて本人にそれを尋ねることができれば。意識が清明なうちに。
このところ、訃報がやんでいた。ごく短い小休止だ。そしてそこに飛び込んできた茂の訃報。おそらくはこれが皮切りになる。小休止が終わって次のピークがやってきたのだ。今度の波は前回の波より高いだろう。
土日にも病院を開けばいいのだ、それは分かっている。しかしながら、病院を開けるということになれば、スタッフの手が要る。それでなくても忙しいスタッフに、これ以上働けとは言えなかったし、新規にスタッフを募集したところで右から左に埋まるはずもない。
敏夫は泣き伏す大川夫妻を、暗澹たる気分で見つめていた。
静信が大川茂の訃報を受け取ったのも、例によって朝の勤行が済んで間もない頃のことだった。事務所に戻って一服していた静信らは、電話の音に一瞬、互いに目を見交わし合った。朝の電話はろくなものではないと、彼らの誰もがこの夏で身に滲みていた。
電話を取ったのは光男で、「また」と小声で呟いたのは鶴見だった。誰もそれ以上のことはいわなかった。
枕経のために水口の大川家を訪ねると、そこではお定まりの愁嘆場が繰り広げられていた。
「こんなことになると知ってたら、土曜に病院に引きずっていったのに」母親の規恵は泣き崩れる。「本人が、大丈夫だって言うものだから」
ふきの――後藤田秀司の死で、繰り返されたことがここでも繰り返された。父親の長太郎も規恵も、一まわりも小さくなったように見える。茂はまだ結婚していない。嫁や孫がいないことを、幸い、と言うべきなのか、不幸にして、と言うべきなのか、静信には分からない。
大川長太郎や規恵にとって、息子の茂の死は、我が身の死に匹敵するほどの重大事だった。夢にも思わなかった突然の死。その衝撃も意味も、彼らにとっては量り知れないほどのものだろうに、静信にとって、これはこの夏、吐き気がするほど繰り返されたお定まりの一場面に過ぎないのだった。
だから、それとなく大川茂の、最近の動向について問うのも、どこか辟易としたままだった。どうせ何の接点も見えない、と心のどこかが端から徒労感を感じている。――そして実際、これまでの死者と茂の間には何の接点も見いだせなかった。
(これが続くのか……いつまで?)
自問自答して暗澹たる気分になったまま、静信はふと、茂が死の直前、会社を退職していなかったかを訊いた。
規恵は、なぜそんなことを訊かれたのか分からない、という顔をした。
「とんでもない」
そうですよね、と静信は内心で苦笑する。そう、意味は存在するのではない、観察者によって付与されるのだ。自嘲じみた沈黙を規恵は不審の表れと受け取ったのか、言葉を重ねた。
「そんなはずはないです。今朝、溝辺町の職場に、茂のことを知らせたときにも、そんな話は出ませんでしたから」
「いや、済みません。少し気になっただけなので。お気に障ったら申し訳ないです」
静信はそう詫びて、通夜にまたと言い置いて大川家を辞去した。再び大川家を訪ねたのは、通夜の始まる少し前、座敷の脇に控えながら、静信は例によって弔問客の死者を悼む声と、雑然と通り過ぎる会話を聞いていた。
じっとそうして控えていると、弔問客の中に大川富雄の顔が見えた。そういえば大川酒店の亭主は、大川茂とは血は濃くないものの、縁続きになるのだと思い出した。
「ああ、これは若御院。お疲れさまですな。昨日の今日でまたお会いすることになろうとはねえ」
「大将もお疲れですね」
「縁続きで二軒目ですよ。まったくねえ」
大川は溜息をつき、頭を下げて親戚のところに戻っていった。喪主であるほうの大川夫妻は、大して悄然と座ったまま、来訪者の弔問を受けていた。
「どうも、このたびは突然のことで」
そう大川夫妻に呼び掛け、手をついたのはダークスーツの壮年の男、その背後には同じく略喪服の数人が控えていた。
「知らせをいただいて、びっくりして。さぞお気落としのことでしょう。明日のご葬儀、わたしどもに手伝えることがありましたら、どうぞおっしゃってください」
長太郎も規恵も、これに深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。……近所の人たちが全部やってくれますので、お気持ちだけ」
そうですか、と男は嘆息した。
「それにしても、本当に急のことで。茂くんは、どこかお悪かったんですか」
いえ、と規恵はハンカチを目許に押し当て、首を振る。
「そうなんですか? ……いや、皆とも」と、男は背後の数人を振り返った。「茂くんが突然、辞めたのは療養のためだったんだなあ、なんて言っていたんですよ」
規恵は顔を上げ、泣きはらした目で瞬いた。長太郎もぎょっとしたように腰を浮かせる。静信もまた、思わずその男の顔を正面から見つめた。
「あの……何のお話しでしょう」
規恵はハンカチを手の中でもみくちゃにする。今度は男のほうが困惑したように瞬いた。
「いえ、あの。先週の金曜に、茂くんが退職なさって、その時には理由を一身上の都合です、というふうに言っておいでだったんですけど、きっと具合が悪くて療養に専念するために辞めるってことだったんだなあ、と」
男は言って、長太郎と規恵のぽかんとした顔を見つめた。
「あの……お聞きではなかったんですか? 辞めたんです、茂くん。それも突然に。どうしても事情があるからということで、本来なら引き継ぎやなんやかやが終わってから辞めてもらうところを、その日限りということで」
男は援護を求めるように背後の数人――同僚たちだろう――を見た。
「茂くんにしては強引なやり方だったので、よほどの事情があるんだろう、と言っていたのですが、訃報をいただいて、それでだったのかと……ええと、あの……」
「そんな――はずは」
規恵は絶句し、そして座敷の隣室に控えていた静信のほうを見た。
「あの子は、そんなことは何も――」
彼らは困惑したように顔を見合わせる。会話を小耳に挟んだのか、周囲にいた人々もまた目配せをし合っていた。
へたり、と腰を浮かせていた長太郎が坐り込んだ。
「わたしはもう……何がなんだか。――どうして、こんな」
それきり絶句して、嗚咽を漏らし始めた。
静信は座ったまま、自分がまるで不条理劇の中に放り込まれたように感じていた。
清水隆司、広沢高俊、そして大川茂。いずれもまだ若い男で、近隣へと勤めに出ていた。それが突然に死んだ。死んだことは奇異なことではない、もはやこの村では。――だが。
[#改段]
[#ここから3字下げ]
六章
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
外場に住む加藤義秀が妻の澄江に支えられて来院したのは、九月も二十日になってからのことだった。急患です、と十和田が声をかけてきた。診察中の敏夫は目線をやすよに向ける。意を受けて、やすよが待合室に出てみると、老人は妻と武藤に両脇を支えられ、やっと椅子に坐り込もうという有様だった。
「大丈夫ですか」
やすよは膝をつき、老人の顔を覗き込む。かろうじてやすよを見て頷いたが、朦朧としているようで顔色も悪く、肩で息をしている。呼吸は浅く弱い。手を取るとひんやりして冷や汗をかいているのが分かる。脈も速い。
やすよは駆けつけてきた律子と聡子を振り返る。
「ストレッチャー。先生に知らせてくるから処置室のほうに運んで。脈と血圧、測っといてね。動脈カテーテルの用意をしといたほうがいいかも」
はい、と返事をして、てきぱきと動き出した二人を残し、やすよは診察室に取って返す。敏夫が、どうだ、というように顔を上げた。
「処置室に運びました」
敏夫の目を見て言う。それで意図は通じたらしい。敏夫は患者に断って立ち上がり、処置室に向かう。
「どんな具合だ?」
「頻脈、頻呼吸です。ちょっとチアノーゼが出てるようで、縮瞳してます」
敏夫は頷き、処置室に入る。
「どうしました」
敏夫が声をかけると、澄江は筋張った両手を握り合わせた。
「二、三日前から、風邪をひいて寝込んでたんです。寝てれば治ると本人も言ってたんですけど、今日になってもこの有様で――若先生、まさか肺炎ですかねえ」
「まだなんとも言えないな」
聡子がメモを差し出した。脈拍が多く、血圧は極端に低い。
「動脈カテーテル」
はい、と律子はカテーテルを差し出す。すでに加藤の手首は固定されている。敏夫は頷き、澄江に声をかけながら動脈血を採取した。
「熱はどうでした」
「八度前後です」
「咳や頭痛は」
「咳はありません。頭痛も別に……。本当に風邪だと思ったんです。本人もそう言ってましたし。それで煎じ薬を飲ませたんですよ。姑が風邪の時に使ってた薬で、どんなに酷くても一晩で治るんです。なのに、少しも良くならなくて……」
「ガス分析」言いながらスピッツを聡子に渡し、敏夫は澄江を振り返った。「……何を考えてるんだ、あんたは」
澄江はきょとんと目を見開く。
「チアノーゼが起こってる。ここまで引っ張ってくる間に、どうして救急車を呼ばないんだ。おまけに風邪だろうと思った、だって? あんたはいつ医者になったんだ。何だって素人が勝手に診断をして、勝手に投薬をするんだ!」
先生、と律子が小声で言う。敏夫はとっさに律子を睨み、
すぐに自分が我を失ったことを悟った。
「……いや、申し訳ない」
澄江は目に見えて狼狽している。
「済みません。とにかく、救急車を呼びます。それまで最低限の処置をしますから」
「あの、お爺さんはそんなに悪いんですか」
「検査してみないとなんとも言えないが、呼吸不全が起こっているのは確かですね」
敏夫は胸の中でARDSだろう、と付け加えた。例のやつだ。それも、病状の後半段階――もうMOFに移行しようとしている。律子に酸素ボンベの準備をさせ、胸部XPの指示を出す。とりあえず澄江に最低限の問診をした。
全ての結果が出揃うまでもなく救急車が到着し、国立病院へと義秀を運んでいった。
「先生」と、やすよは救急車を見送りながら低く言う。「例のやつですかね」
「……だろうな」
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
彼岸に入る前に、と静信は二十日の夜、外場の村迫宗秀を訪ねた。村迫宗秀は外場集落の弔組世話役を務めている。外場で立て続けに出た二人の死者の葬儀に際しても世話役代表をしたはずだった。
商店街の一郭にある村迫米穀店の灯は消され、シャッターもすでに降ろされていたが、事前に連絡をしていたからだろう、一枚だけが半分ほど開けたままになっている。身を屈め、そこからガラス戸を開けて店内に入ると、静信は土間から声をかけた。
すぐに答えがあって、顔を出したのは長男の宗貴だった。宗貴は闊達な笑顔を見せる。
「よう。久しぶりだな。どうしてる」
相変わらずです、と答えた静信に、宗貴は奥を示す。
「親父に用だって? 奥で待ってる。上がってくれ」
促されて、静信は店のほうから住居へと上がり込んだ。宗貴は静信の三級上になる。学校では一緒になったことがなかったが、今は遠方に出ている次男の英輝が一級上だった。高校までは村迫米穀店にもよく遊びに来たし、その時に宗貴にも世話になっている。ずいぶんたくさんの本を借りたし、勉強も見てもらった。合ったのも店を訪ねてきたのも久しぶりのことで、懐かしかった。
奥の座敷へと行く途中、茶の間の脇を通った。ぺこりと頭を下げたのは宗貴の妻、智寿子だ。智寿子の左右には小さな男の子と女の子が座っている。
「博巳くんも智香ちゃんも大きくなりましたね」
だろう、と先に立って廊下を歩きながら、宗貴は笑った。
「お前が会ったのって、智香が幼稚園に入る前だもんな。もう二年生だ。小学校の低学年の子供ってのはすごいよ。目に見えて大きくなるし、人格ができてくる」
でしょうね、と答えたところで、ちょうど二階から降りてきた少年と出会った。三男の正雄だ。宗貴とは十幾つも歳の離れた弟で、静信が出入りしていた頃には、まだ本当に小さな子供だった。
正雄は静信を見て目を逸らす。会釈しているのか首を竦めているのか、どちらともつかない様子で通り過ぎた。
「正雄、挨拶しないか」
宗貴が呼びかけたが、ちらりと振り返っただけで返事もない。ちょうど家族に対しては寡黙になる年頃だ。
「大きくなりましたね。もう高校生?」
「二年だよ」と宗貴は苦笑した。「図体ばかり大きくなって、ちっともしっかりしない。親父とお袋が甘やかしたもんだから、扱い難くて」
もっとも、と宗貴は照れたように笑う。
「自分が親父になってみると分かるもんだが、いちばん下の子供ってのは、可愛いもんなんだよな。別に上の子が可愛くないわけじゃないんだが、どうしても哀願しがちになるというか。ちょうど俺たちが可愛気をなくした頃にできた末の子だからさ、親父たちにしてみりゃ、そりゃあ可愛かっただろうと、今になって思うよ」
「そんなものなんでしょうね」
「うん」と頷きながら、宗貴は突き当たりの襖に手をかける。「――親父、若御院だよ」
「ああ、こいつはどうも」と、宗秀が腰を上げた。どうやら一人で晩酌の最中らしかった。酒器で赤らめた顔をくしゃくしゃにして、まずはビールでも、と勧めるのを、車だから、と断る。それでもなお勧めようとして、宗貴に咎められ、しゅんとしたのがおかしかった。宗秀はもう還暦の前後だったか。人間はあるていど歳を取ると、どこか子供じみてくる。
宗貴に案内の礼を言い、茶菓子を振る舞ってくれた智寿子に礼を言う。宗秀と二人きりになってから、静信はそっと切り出した。
「……佐伯明さんがなくなったと聞いたんですが」
宗秀は上気した顔で頷いた。
「そうそう。亡くなったんだよ。若御院は知り合いでしたか」
「知り合いというほどではないんですけど」と、静信は少し後ろめたい思いで目を逸らした。訃報は石田から聞いた。佐伯明というその男を、静信はまったく知らなかった。「人づてに聞いて驚いてしまって」
「うん。急なことでね。いや、わたしもあまりよくは知らないんだけどね。弔組は上外場になるんで、葬式の世話をしたわけじゃないから」
「もうずっとお悪かったのですか」
「いや。突然のことだったらしいよ。夜中に突然、胃が痛いって言いだして――実は心臓が悪かったしらいんだよ。心臓の痛いのは胃痛と勘違いすることがあるんだってね。家族はそれ知らないもんだから、胃薬飲ませて様子を見てたんだけど、どうもおかしい。それで病院に連れて行ったら心臓に来てて、翌日には亡くなったんだ」
言って、宗秀はちょっと考え込むようにした。
「家族は驚いていたが……ひょっとしたら本人には、ずっと前から自覚症状があったのかもしれないなあ。急に仕事を辞めちゃってね」
静信は、ぎくりとした。
「辞職していたんですか?」
「うん。倒れる三日前かな。家に帰ってきて、会社辞めたから、って突然、言い出したらしいんだな。親や女房は普通、驚くよ。相談もなしに何で、と問いつめたけど、本人が辞表出して来ちゃったもん、あとの祭りさ。しばらくのんびりしたい、休みたいと言ってたらしいんだけどね。だから、身体が辛かったのかもなあ」
静信は困惑した。静信が宗秀を訪ねたのは、佐伯の最近の動向について知りたかったからだ。交友関係はどうか、生活圏はどこか、他の患者と共通するような何かがないか。そしてこれまで、それらの質問は徒労に終わっている。家族や親族の場合を除き、患者同士はほとんど接点を持たない。これという共通項も見つからなかった。にもかかわらず、すでに清水隆司、広沢高俊、大川茂と、佐伯の他にも三人が死の直前、唐突に辞職している。何の共通項も持たない彼らに、唯一共通するのがこれだというのは、どういうことなのだろう。
「あの、他にも最近、亡くなってますよね、外場で」
「ああ」と、宗秀は頷いた。「高島さんな。そう言えば、あれも急だったなあ。突然寝込んでそのまんま」
「その方はまさか、……辞職されてませんよね」
宗秀は瞬き、何か奇妙なものでも口に含んでしまったような、何とも複雑な表情をした。
「そう……高島さんとこも、辞めたって言ってたよ。こっちはもともと仕事の続かない人でね。奥さんとこの実家が苦労して仕事を見つけて、頼み込んで入れてもらったのに、やっぱり嫌だから辞めることにする、って。そんで辞めちゃったらしいんだけどね。――そう、あれも死ぬすぐ前だよ。ほんの数日前だってふうに、弔いの時に言ってたからね」
静信は動揺した。死亡者の共通項――辞職。例外は秀司、幹康、大塚康幸、外場で自営業に携わっていた者たち。
(……村外通勤者)
これはどういうことだろう。犠牲者には村外に通勤している者と、そうでない者の二グループがあって、通勤者のグループのほとんどが死の直前に辞職している。――いや、と静信は思った。唯一の例外は太田健治だが、太田も辞表は出していたのだ。慰留されていたというだけのことで。
「何なんですかね、これは」宗秀は狐につままれたような顔をしていた。「いま気が付いたが、妙な話ですな」
静信は曖昧に頷いた。宗秀はひとりごちる。
「どうも最近、妙な感じがする。葬式が多いし……」
言って、宗秀は静信を見た。
「駐在の高見さんも亡くなった。えらく多いような気がするんだ。若御院はそう思いませんか」
「そう……でしょうか」
「多いですよ。そりゃあ、今年は暑かったけど、にしてもこんなに死ぬもんかね。外場地区だけじゃない、つい最近にも、どこかで葬式があったって聞いたな、客に。――まさか」
宗秀は険しい表情で静信の顔を覗き込むようにする。
「疫病なんてことは」
「まさか」と、静信は苦しく微笑った。「どなたも伝染病で亡くなられたわけじゃないんでしょう?」
「そりゃあ、そうだが」
「伝染病なら病院がそのように言うでしょう。家族に言わないはずがないし、場合によっては家族も隔離されることがあります。よしんば家族が伏せていても、診断書にそうあったら役場は土葬の許可を出せないです」
「ああ」と、宗秀は釈然としないふうながらも頷いた。「まあ、そうですな」
「死人が多いのは事実ですが……」
「妙な感じだ。伝染病が流行ってるわけでもないのに、人がばたばたと死ぬ。その死人が二人、どっちも死ぬ前に職を辞めていたり。えらく暑かったり雨がなかったり。今年は妙だ……というより、村が、と言ったほうがいいのかな。この村は、このごろちょっと妙ですよ。やたらに引越があったり」
言って宗秀は、複雑そうに笑った。
「この近辺だけでも、もう二軒、引越しましてね。なんだか、見捨てられていくみたいですな」
そういえば、静信も最近、門前のどこかの家が越したという噂を聞いた。郵便局の大沢も引越したようだし、駐在所の高見の家族も、転出してもういない。大塚製材所を訪ねたときにもそんな話が――。
静信は首を傾げる。何か釈然としないものが胸に立ち込めて、喉が詰まるような感じがした。それちょうど、恵や後藤田ふきが死んで、漠然と異常を察知したときの気分に似ていた。
とりあえず宗秀に訊けるだけのことを聞いて、静信は村迫家を辞去する。少し迷い、寺の前で車を停めた。静信は車を降りて田茂の奥座敷を覗き込んだ。およそ戸締まりをしていた覚えのない裏門を入り、蔵に沿って庭を横切ったそこが、田茂定市の私室だ。奥庭に面した静かな書院で、定市は隠居を決め込んでいる。
「定市さん」
声をかけると、一人本を開いて碁盤に向かっていた定市が顔を上げた。
「おや、若御院」
田茂家はお定まりの兼業農家だった。定市は小学校の校長を勤め上げて定年退職し、息子は外場の中学校で教師をしている。農地は家族の食い扶持ぶんを、ほとんど道楽のようにして定市と妻のキヨで作っているが、本来、田茂は外場でも一、二を争う豪農だった。余剰の山や田圃を人に貸し出しているばかりでなく、外場の商店街にもかなりの数の貸し店舗や貸家を持っており、溝辺町にも幾つかアパートやビルを持っている。本来ならその賃貸料だけで悠々自適のはずなのだが、本人にも家族にもそんな暮らしをするつもりはなさそうだった。
「夜分、遅くに済みません。ようやく涼しくなりましたね」
静信が言うと、定市は本当に、と笑う。
「まあ、お上がんなさい。どうしました」
ちょっとお尋ねしたいことがあって、と静信が言うと、それ以上は問わずに、奥座敷に付属の小さな台所に立つ。そこで手ずから煎茶を淹れて戻ってきた。
「爺の淹れた茶じゃ、お口に合わないかもしれませんが、母屋から婆さんを呼ぶのも何なんでね。どうせ婆ァの淹れた茶じゃ大差ないでしょうから勘弁してくださいよ」
お気遣いなく、と静信は笑う。
この気安げに笑っている老人が、現在の外場の重鎮だった。外場は現在では行政区分上、外場校区と呼ばれるが、これは六地区――かつては山入地区があったが現在では門前に合併されていた――に分割され、各地区から一名、区長が選ばれて町長の承認を受ける。そうして揃った六区長が区長会を作り、そこで会長が選出されるが、この区長会会長がこの田茂定市だった。寺にあっては檀家総代会の会長を務め、外場JAの理事を務める。同時に神社の氏子総代を務めて宮司を兼ねる。定市はそういう老人だった。
「何だか近頃、ばたばたしちゃってね。若御院と差し向かいで話をすんのも久しぶりかね。どうです、寺のほうは」
「……おかけさまで」言って、静信はときに、と切り出す。「うちの光男さんが、門前のどこかで引越があったと言っていたんですが、定市さん、どこの家だか御存じじゃないですか」
「ああ、松尾ね」定市は即答した。村の重鎮とはいえ、村の端々にまで目が届くわけではない。それでも門前のことなら、およそ定市の耳に入らないことはない。「ほら、|境松《さかいまつ》ですよ」
ああ、と静信は呟いた。境松が松尾の屋号だった。地所がちょうど門前と上外場の境に位置しており、境の松尾、と呼ばれる。
「引越したんですか? 境松が?」
「そうなんですよ。あそこの息子が高志ってんですが、若御院は御存じですか。確か、若御院よりちょい上だと思うんですが」
「ああ――はい。分かります」
「あの高志くんが、単身赴任でどこだったかに飛ばされたって出ていったんですけど、これが嘘っぱちでね」
「……は?」
「だから、本人は単身赴任になったって、そう言って嫁さん子供を置いて出てったんですけど、それきり音沙汰が絶えちゃってね。それで境松の康志さんが心配して、会社に問い合わせたら、単身赴任どころか辞めたって話で」
静信は、思わずどきりとした。
「家族に何も言わずに、辞めちまってたんですよ。こりゃあ失踪だってんで、康志さん、血相を変えてね。うちにも相談に来たんだけど、事が事だけに内緒にしてくれっていうんで、わたしも黙ってたんですけど」
「それは、いつ頃の話です?」
「九月の頭ですよ。――そしたら、高志くんから連絡があったらしいんですわ。何がどうしてそういう話になったんだか知らないが、ともかくも息子のとこに行くって言って家を引き払っちまったんです。それがついこの間、十八日ですわ」
「……妙な話ですね」
「でしょう?」と、定市は急須に湯を足した。「それがもう、ある日、家の前にトラックが停まってて、それで隣の|守広《もりひろ》さんのかみさんが訊いたら、そう答えたって話でね。かみさんが訊かなきゃ挨拶もなしに引越すつもりだったんじゃないですかね。康志さんは律儀な人なんだが、よっぽどの事情があったんでしょう」
定市は湯飲みに茶を注ぎ足して渋面を作る。
「それも夜の話ですよ。それでね、まあ、近所のもんと、こりゃあ夜逃げかもな、って話をしてたんですけど。おおかた高志くんが恐い所から借金でもして、それで逃げ出したんじゃないかって」
そうですか、と言って、静信は定市の好々爺とした顔を見る。
「定市さん、最近、他にも引越した家はないですか」
定市はきょとんとして、はて、と呟いた。
「そういや、八月の末に|上安《かみやす》の婆さんが引越しましたっけね。なんでも息子と同居することになったとかで。上外場でも似たようなことがあったって聞いたな。定次んとこの婿がね、そういう話をしてましたよ、確か」
定市の弟、定次は上外場でスーパーをやっている。
「……こうしてみると、多いですね、最近」
定市は、狐につままれたような顔をする。
「みたいですね。外場でも何軒か、越したという話を聞きました。それも最近になってです。それで定市さん、申し訳ないんですが、何かの寄り合いの折りで結構ですから、近頃になって越した家がどれだけあるか、それとなく訊いてもらえませんか」
「そりゃァ――構いませんが。どうしたんです、それが何か?」
「単に気になるだけなんですけど。何かあるのじゃないかと思って」
「何かって」
いや、と静信は言葉を濁し、とっさに話を捏造する。
「あの――去年の夏でしたか、リサーチ会社の人が外場に頻繁に来ていたでしょう」
ああ、と定市は頷いた。
「そう言えば、そういうことがありましたね。リゾート施設だかなんだかを作るといって。ゴルフ場だのキャンプ場だのと、やくたいもないことを言ってたらしいですが、あの話は立ち消えになったんじゃないんですか」
「――そう、聞いていたんですが」
ふむ、と定市は腕を組む。
「確かにねえ。妙に出ていく者が多いですからねえ。まさかとは思うが、確かに気になるな。分かりました、それとなく聞いておきますよ」
「済みません、お願いします」
頷いて、定市は息を吐いた。
「どうなってるんだかね。……若御院、近頃、妙だとは思いませんか」
静信はひそかに狼狽した。
「転居……ですか?」
「それもですけどね。なんだか、葬式が多いような気がしてねえ。義一のとっつぁんに次いで、工務店の嫁さんでしょう。坊やもなくなって、幹康くんも亡くなって、親子三世代、仲良くやってたってのに、工務店じゃ、もう徳次郎さんと節子さんの二人きりですよ」
「ええ……そうですね」
「駐在の高見さんも亡くなったし――そう言えば、郵便局の大沢さんも引越したんですよねえ。ああ、図書館の柚木さんも辞めたんですよ。御存じでしたか」
静信は瞬いた。
「いえ。お辞めになったんですか?」
「そうなんですよ。これも急な話でね。もうずいぶん前になりますよ。八月の終わりか、九月の頭だったかな。今は保育園の事務をやってる|寿美江《すみえ》さんが、見よう見まねで図書館の世話もしてますけどね」
定市は軽く首を振って、あらぬほうを見る。
「つい先日――二日ほど前だったかな、小学校の校長もね、辞めたんだそうで。もともと腎臓壊してて、透析するのしないのって按配だったらしくてね、それがいよいよ良くないらしくて、とうとう学年半ばで辞職ですわ。なんかこう……年寄りの歯が抜けるみたいにぽろぽろと人が欠けてる気がしてね」
静信は頷きながら、わずかに胸騒ぎを感じた。村は比較的、村の内部で完結しているが、柚木や小学校長のように、村外から働きに来る者がないわけではない。村外に働きに行く者はもっと多かった。
(……通勤)
太田健治、広沢高俊、清水隆司、大川茂、佐伯、高嶋。いずれも村外に通勤しており、死の前に辞職している。柚木、小学校長、やはり辞職した彼らは村外から通勤していた。
(義五郎さん)
大川義五郎は、村の外に出かけ、戻ってきたときには具合が悪かった。
何を考えているんだ、と静信は軽く額を押さえる。どうかしている。まるで――村の外を何かが取り巻いているようだ。
村の内部で疫病が流行っている。そのはずだ。なのに、どうしてだろう、これではまるで村の外部にこそ何かがあるかのようだ。
――鬼。
(……馬鹿なことを)
だが、それは映像のように明瞭だった。銛の穂先の三角形。村を取り巻いた樅の林。村から外を包囲し、林のあちこちから内部を窺っている無数の鬼たち。
[#ここから4字下げ]
村は死によって包囲されている。
[#ここで字下げ終わり]
静信はどこか酩酊したような気分で定市の許を辞去し、寺に戻って役場の石田に電話をかけた。
「石田さん、済みませんが、転出者の名簿が欲しいんです」
は、と石田は困惑したように声を上げた。
「住民基本台帳か何か、当たってみてもらえませんか。――お願いします」
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
金曜日、敏夫は溝辺町の国立病院から連絡を受け運び込まれた加藤義秀が結局、昨夜遅くに死亡したことを聞いた。
昼休み前には、上外場に住む|行田《ぎょうだ》悦子が来院した。これも明らかな貧血。鉄剤とビタミン剤の投与、抗生物質の投与、念のために全血の輸血。文字通りの暗中模索だ。
「何だか先生、すっかりピリピリしちゃってますよね」
昼休み、そう言ったのは汐見雪だ。
「分からないでもないけどねえ」言ったのはやすよだ。「忙しいでしょ、最近。そのわりに報われないからね」
そうね、と清美も頷く。仕出し弁当の蓋を開けながら、息をついた。
「何しろ、肝心の患者が悪くなるまで来ないんだから」
「でも、先生が患者さんを怒鳴ったの、驚いちゃいました」井崎聡子も溜息をつく。「あ、すごくナーバスになってるんだな、とは思ったんですけど」
「加藤義秀さん? ……そうねえ」やすよは頷く。「風邪だから煎じ薬を飲んだって言われちゃあねえ。そりゃあ、こう――がくっとくるわよ」
「そんなもんなんですか?」
訊いたのは十和田だった。やすよは肩を竦める。
「本当のところは、風邪なんて病気はないわけだからね。風邪様症候群とか言うんでしょ、最近は。要は上気道炎よね。気道の上のほうで炎症が起きてるの。冷たい空気の刺激とかアレルギーで炎症が起こることもあるけど、ほとんどがウイルス性の炎症でしょ。だったら、薬なんて何飲んだって効くわきゃないんだから」
「へえ」
「風邪の場合は、とにかく養生するしかないのよね。食べて寝て体力つけるしかないわけ。風邪薬なんてのは、それを助けるもんでしょ。別に風邪をやっつける薬ってわけじゃないんだから、飲ませとけば安心ってもんでもないしね。でも、年寄りなんて特に、薬飲めば治るもんだと思ってるわけじゃない。これを飲めば一発だ、なんてよく言うでしょ。いくら薬飲んだって、養生しなきゃ治るはずもないのにさ」
「そうだなあ」十和田は苦笑する。どこの家にもあるんですよね。我が家秘伝の風邪薬っていうのが」
「そうそう」やすよは声を上げて笑った。「卵酒とかニンニクの焼いたのとか、そういうのはまあ、身体温めて体力つける役には立つんだから理にかなってるけど、中にはとんでもないのもあるからね。我が家秘伝の風邪薬ってのは、得てして万能薬だったりするじゃない。風邪も腹痛も、何もかもそれで治るって思ってたりするのよね。それで蓋を開けてみたら、婦人病の薬だったりするのよ」
看護婦たちは笑い崩れる。
「まあ、無害なものなら気休めも薬の内だからさ、いいようなもんだけど。けど、それもちゃんと養生しての話でしょ。薬飲ませて寝かせておけばいいってもんじゃない、どんな様子か、昨日より悪くなってないか、ちゃんと食べてるか見守ってさ、それで初めて意味があるんだし、そうやって気をつけてりゃ、チアノーゼ起こす前におかしいと気がつくでしょう。結局、薬を飲ませたから大丈夫なはずだってんで油断して、あの始末なんだろうからねえ」
「なるほどなあ」
「だからって患者や家族を怒鳴っても仕方ないんだけどね。でも、気持ちとしちゃ、分からないでもないわ。とにかく近頃、忙しいでしょ。そのうえ、こうも次々に死なれると、虚しくなるじゃない。せめて患者が協力的で、頑張ったのに駄目だったってんなら諦めもつくけどさ」
「本当に最近、増えましたね。死人だけじゃなく、患者さんも」
十和田は武藤を見る。武藤は渋面を作って頷いた。
「結局、みんな不安なんだよ。最近の死人の数は尋常じゃないからな。悪い病気でも流行ってるんじゃないかって、噂にもなってるみたいだし、だから普通なら寝て済ますところを、先生に診てもらわないと安心できない、ってことなんだろう」
「その一方で、煎じ薬を飲ませて目を離しちゃう人もいるわけですね」
「難しいのよね、この病気は」やすよは湯飲みに口をつける。「なにしろ本人がぼうっとしちゃってて大騒ぎしないみたいだから。あそこが痛いの、ここがどうだのと本人が訴えれば、周囲だってそんなもんかと思って心配するわけじゃない。ところが、肝心の本人が自分の具合の悪いことに気づいてないんでしょ。感情が鈍磨しちゃうみたいなのよね。おかけで最近、顔を見ると分かるようになっちゃったわ」
そうね、と清美も頷く。
「他人事みたいな顔をしてるもんね」
「そうそう。だから家族が頼りなんだけどねえ。意外に見てるようで見てないもんなのよね、家族の顔なんて」
「そうねえ」
「行田悦子さんもあれでしょうか」
律子の問いに、やすよは頷く。
「だろうね。そういう顔だったわ」
しんと休憩室の中が静まり返った。彼らにとって「あれ」とは、目下のところ罹ったら助からない絶望的な病を意味している。
「なんか……恐いですね」
雪がぽつりと言って、それでさらに深い沈黙が降りた。揃って溜息をついたところに電話が鳴った。間近にいた律子が受話器を取った。
「あのう、高野ですけど」と、電話の相手の声がする。パートの高野藤代だった。朝いちばんに今日は休むと連絡が来ていた。「先生はおいでですかねえ」
「いま、来客中ですけど。お呼びしましょうか?」
「ああ……じゃあ、いいです」言って、藤代は口ごもった。「あのう……先生に伝えてもらえませんかね。……あたし、今日限りでそちらを辞めさせてもらおうかと」
「藤代さん」
「ごめんなさい、忙しいのに済みませんねえ。でも、あたし、とてもじゃないけど恐くて恐くて」
律子は言葉に詰まった。藤代はずっと不安を訴えていたのだ。そして、事態は拡大こそすれ、いっこうに収束する気配を見せない。
「こんなに次々と死人が出て。次は自分じゃないかと思うと……」
律子はかける言葉を持たなかった。藤代を責めるわけにはいかない。最前線にいるのだ、と言う恐怖感は忘れようと思っても忘れられるものではない。律子ら看護婦ですらそうなのだから、掃除や雑用のために来ている藤代なら、なおさらだろう。
「先生は大丈夫だって言うけど、本当に大丈夫なのか分からないでしょう。ゴミを捨てる時なんか、針がどっかから出てないかと思って心臓がどきどきするんですよ。だから」
「……分かりました」
「済みませんねえ」
「先生にはお伝えしておきますから」
お願いします、と藤代は言って、電話を切った。律子が受話器を置くと、全員が怪訝そうな表情で律子を見守っていた。
「藤代さん。……辞めるそうです。恐いからって」
清美が大きく息を吐いた。
「仕方ないわよねえ。何言ってんの、大丈夫よ――なんて安請け合いはできないし」
誰もが無言で頷いた。――頷くしかなかった。
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
土曜日、敏夫は車を上外場に向かって走らせる。うろ覚えの行田の家を探し、地所に車を乗り入れた。納屋の前で大根を干していた老人が驚いたように腰を浮かせた。悦子の夫、|文吾《ぶんご》だろう。
「若先生」
「悦子さんの具合はどうです」
敏夫は車を降りるなり訊く。行田は腰を屈めて頷いた。
「はあ……」行田は困惑したように答えた。「お陰さんで、今日はいいようで……」
「いい?」敏夫は行田の顔を見る。「今は寝てるのかい」
「さあ……ついさっきまで、昼飯の片づけをしてしましたけど」
「片づけができる程度ではあるわけだ」
言うと、行田はのんびりと頷く。
「今日の朝いちばんに来るよう言っておいたはずなんだが」
行田は言葉の意味を掴[#「掴」は旧字体。Unicode:U+6451]みかねたように瞬いた。
「……あの、ですけど、今日は祭日で」
「そう。全国的に土曜で祭日だ。それでも来るようにと言ってあったんだ。悦子さんから聞いてない?」
「はあ……」
ただひたすら困惑しているふうの行田を残し、敏夫は勝手に玄関に向かう。奥に向かって声をかけると、少ししてから億劫そうに悦子が出てきた。
「あら、若先生……」
「あら、じゃない。予約を入れてあったのに、どうして来ないんです」
「でも」悦子は上がり|框《かまち》に坐って瞬く。「今日は気分がいいんです」
「そういうことでなく。しばらく経過を見ましょうと言ったでしょう。ちゃんと来てもらわなくては困る」
「はい。あの……済みません」
敏夫は苛立つ。行田も悦子も少しも危機感を抱いてないふうなのに神経が尖るのを感じた。いっそのこと、ぶちまけてやりたいほどだ。悦子のそれは例の疫病だ。悦子は間違いなく発症している。そしてこれまで、発症して治癒した例はない。数日以内に全員が死亡しているのだ。
それを吐き出す代わりに、敏夫は大きく息を吐いた。
「――で、気分はいいんですね?」
悦子はどこか間延びした動作で頷く。まだぼうっとしてはいるようだった。敏夫は上がり框に勝手に坐り込み、悦子に手を出させる。脈を取ると確かに昨日よりは減っている。顔色も昨日よりは良かった。
鉄剤、ビタミン剤、抗生物質はこれまでにも投与してきたが効果がなかった。だとすると、全血の輸血が良かったのか。
「確かに、少しいいようだ。採血するよ」
「はあ……」
悦子はいかにも、不承不承、というように腕を出した。有無を言わせず末梢血を採取する。それをしまって、敏夫は悦子に念を押した。
「あんたのそれは油断しないほうがいいんだ。多少、気分が良くなったからと言って、勝手に治ったと思わないように。明日も来るんだ、いいね?」
「でも……明日は」
「いいから。明日の午前中。それが億劫だったら午後でもいい。とにかく、必ず来るように。来なかったら、また押しかけるからな」
はあ、と悦子は頷いた。玄関先に立った行田は、呆気にとられたようにそれを見ていた。
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
「若御院」
言って、田茂定市が寺にやってきたとき、ちょうど静信は、奥の私室で調べものをしていたところだった。寺と付き合いの長い定市は、別段、声をかけることもなく庫裡の奥までやってくる。庭をまわって直接、茶の間に顔を出すことも再三だった。
「ああ、こんにちは。――いえ、こんばんは、ですか」
「いま、よろしいですかな。彼岸でお忙しいでしょうし、早くお休みになりたいのは分かってるんですが、先日の件で」
静信は頷き、座布団を引っ張り出して定市に勧めた。定市は渋面を作って腰を据える。
「いかがでした」
「いかがも何もないです。どうなっとるんですか、この村は。あちこちで聞いてみたら驚くじゃありませんか。たぶんこの夏以来、越した家は二十軒じゃ利かない。びっくりするような勢いで人が減っているんです」
やはり、と静信は内心で呟く。定市はメモを出した。
「とりあえず、わたしが聞いただけのものは控えてきましたが、実際のところは、まだまだあると思いますよ」
静信はメモを受け取り、列記された名前に目を落とした。総計で二十二軒の家が引越している。中には静信に見覚えのない名前もあったが、多くは檀家だ。普通、この村では檀家の人間が転居する際には、寺に一言あるものだ。にもかかわらず、その誰についても、引越すという話を聞いたことがなかった。
「こんなに……」
「いったい、どうなっとるんでしょう。どの家も唐突に引越しているんです。その支倉の婆さんは、若御院も御存じでしょう」
「ええ」
支倉糸子は上外場に住む独居老人で、朝の勤行にもしばしばやってくる。思い返してみると、しばらく顔を見ていなかった。
「なんでも、息子と同居することになった、と言って越したらしいんですがね。しかしあの婆さんは、息子の嫁さんと昔、大喧嘩してますからね。もともと同居してたのが、嫁さんが逃げ出す形で息子共々、出ていったわけでしょう。まあ、嫁さんと仲直りしたのかもしれない、あるいは息子のほうが嫁さんと駄目になったのかもしれないが、だったら帰ってきそうなもんです。それを、同居するって、唐突に」
静信は頷く。支倉糸子と嫁の確執は、あまりにも有名だった。なにしろ問題の大喧嘩の際、逆上した嫁が包丁を持ち出している。とはいえ、別に糸子を襲ったわけではなく、包丁を握って表に駆け出し、死んでやると叫んだ、という話なのだが、それでも村では語りぐさになるような事件ではあった。それきり息子は妻を連れて家を出、それを怒った糸子とは、ほとんど絶縁状態にあると聞いていた。
「本人がそう言うのなら、そうなのでしょうが……でも、変ですね」
「でしょう? 境松の件といい、妙な話ですよ。わたしも聞いて驚いちまってね。そんなことがあるもんなんですかね」
「そうですね……」
そもそも村に残っている独居老人は、本人の意向にせよ事情があるにしろ、子供とは同居できない理由があるからこそ村に一人で残っている。もちろん事情が変わって同居が可能になった、ということもあるわけだが、それがこの数、短期間に続くというのは、少し信じがたいことだった。
「そう言えば、三安の嫁さんも逃げ出したって話、聞きましたか」
「三安――中外場の安森誠一郎さんのところですか」
ええ、と定市は頷く。
「嫁さんが|日向子《ひなこ》ってんですけどね、これが朝起きたら、いなかったって話なんですよ。あの家もね、支倉の婆さんのところと一緒で米子婆さんと嫁さんと折り合いが悪くてね、いつか支倉のようなことになるんじゃないかと中外場の連中は思ってたらしいんですが、嫁さんのほうが亭主を捨てて逃げ出したみたいで」
「事故か何かの可能性はないんですか」
「ないようですよ。とにかく、寝る時までは一緒だったってんですから。隣に寝てたはずなのに、朝起きると布団は|蛻《もぬけ》の殻、家のどこにも嫁さんがいない。夜のうちに荷物まとめて、出ていったらしいんですわ。これも、驚いた話で」
「そうですね……」
夜のうちに、と静信は内心で反芻する。ひどく胸に引っかかる。
「支倉さんは、夜に引越したんですか」
「さあ。息子と同居することになった、と言って荷物を纏めているのを見た者がいるらしいんですが、実際に家移りをしたのがいつなのか、よく分からないらしいんですよ。あの婆さん、ちっとばかり偏屈で、あまり親しい人間もいませんでしたからね。家も上外場の集落から、ちょっと離れているんで。たぶんその翌日か、翌々日だろうという話なんですが」
そうですか、と静信は呟く。なんだろう、この釈然としない妙な気分は。
「まあ、一人暮らしの年寄りが多いですね。上外場の篠田みたいに、親子で転居した家もあるみたいですけど。それよりも、ほら」
定市は身を屈めてメモを示す。
「下の安森の婆さんに、前原のセツさん、でもって猪田の爺さん。中外場の三村」
静信が意図を量りかねて定市の顔を見ると、定市は何に対してか頷いた。
「これで、山入は本当にないも同然ですわ」
「――え?」
「ほら、中外場の三村と言ったら、山入の下の山を持ってるでしょう。北山のちょうど裏あたりですわ。爺さんが頑張って、未だに山に入ってた。それが息子が転職するってんで、一家五人、越したんですよ。安森のみすずさんは、山入一帯の山持ちですよ。もう山は諦めてたみたいですけどね。爺さんが死んだ時に、かなり物納もしちゃったんで。前原のセツさんは、林道辺り一帯の山持ちでしょう。セツさんも山はもう諦めてたみたいですけど、丸安がぽつぽつ木を伐り出してましたからね。その林道の先は猪田爺さんの持ち山です。あの爺さんはまだ山で食ってたんですよ」
静信は眉を顰める。
「これで山入に入る連中は、ほとんどいない勘定になるんで。残ったのはもうずっと放置されてる山か、物納された山か。山入の三人も死んだし、出入りする連中もいなくなったしで、まったく山入って場所はないも同然になっちまった。――まあ、猪田の爺さんなんて、自分が死ぬまでは、なんて言ってましたけど、ああいうことがあったら気味が悪くて山入に行く気になれんでしょう。最近、山の中にゃ野犬も多い。前にも野犬に噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]まれて大怪我したことがありますしね。とうとう見切りをつけたってことなんでしょうが」
定市は言って、深い溜息をついた。
「これもご時世ってもんなんですかね。これまで村じゃ、あまり人が減ってるふうじゃなかったでしょう。過疎だ過疎だと言われるわりに、外場じゃよく人が残ってた。大したもんだと思ってたんですが、時流には逆らえないってことなんですかね。とはいえ、こうもバタバタと人が減ると、何というか複雑な感じがしますねえ」
そうですね、と答えながら、静信は途方に暮れた気分がしていた。うまく言えない。なにか理解不能なものが目の前にあって、|目眩《めまい》を誘うような感じ。増え続ける死者、疫病のおそれ、それと転居者との間には何の関係もないはずだ。にもかかわらず、歩みを合わせるようにして人が村を出ている。死者と転居者と、それは別物でありながら、住人の減少、という事実であることには変わりがない。何か意味がありそうな気がする、けれどもどんな意味が――どんな関連性があるというのだろう? 疫病に気づいて逃げ出したわけではないだろう、にしては行動が早すぎる。
考えながら田茂を送り出し、静信はふと思いついて車を出した。
なにもかもが釈然としない。そもそもの最初に立ち返って考え直してみるのも悪くないだろう。全ては山入から始まった。確かなのはそれだけだ。山入に行ってみれば、何かが見つかるかもしれない、と漠然と思った。
我ながら雲を掴[#「掴」は旧字体。Unicode:U+6451]むような気分で車を山入に向け、静信は改めて愕然とせざるを得なかった。
――道が、ない。
山入に向かう切り通しの途中で土砂崩れが起こり、かなりの範囲に渡って道が途絶していた。たかだか二月にも満たない前、静信が辿った道は消えていた。いつぞやの雨だろう。瞬間的な雨量こそは凄かったが、近辺の貯水量にはさしたる恵みをもたらさなかった雨だ。どこかでも、干上がって割れた斜面が、突然の大雨で崩れた、と言っていた。
これほど山入は孤立していたのか、と粛然とする思いだった。土砂の山の向こうに、小さな明かりが何度か明滅した。反射板のような光は小動物の目だろう。あるいは野犬のものかもしれなかった。
静信はハンドルを抱き、顎を乗せて土砂の山を見つめる。道が消えていることはもちろん、それがこのときまで誰にも知られなかったことに衝撃を受けていた。誰ももう必要がなかった、というのもある、野犬が出没して危険だというのもあっただろう。――それにしても。
本当に山入はあの日を境に死んだのだ。住人を失い、野犬や小動物を除いては、訪ねる者さえ失った。人々の意識のうえから消え、思い出の中にしか存在しなくなった。本当に、消失してしまったに等しい。
(連絡をしないと……)
道が塞がれていることを、役場なりに連絡しておかないと、と思いながら、果たしてそうすることに意味があるのかだろうか、と思った。辿るものを失った道も、また死亡してしまったに等しい。
村は死の中に孤立している。
[#改段]
[#ここから3字下げ]
七章
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
敏夫は控え室に居座って、いらいらと時計を睨んでいた。三時を過ぎて、我慢ならずに受話器を取った。行田の家に電話をする。
あれほど言ったのに行田悦子が来ない。今日は日曜だ。病院は本来、開いてない。悦子も行田もそれを気にしているのだろうが、そんなことを気にしている場合ではないのだ。
呼び出し音は十六を数えた。行ってみようかと電話を切ろうとしたところで、ようやく相手が出た。出たのは行田文吾だった。
「ああ……若先生」
行田は狼狽したような声を上げた。
「悦子さんが来ないんだがね。どうかしたのかい」
「いえ」と行田は口ごもり、それからおずおずとした声を出した。「あの、いくらなんでも日曜じゃ申し訳ないんで。本人も気が咎めるって言うし、月曜に行かせようかと……」
敏夫は溜息をつく。
「行田さん、脅すわけじゃないが、悦子さんのその病気は、目を離さないほうがいいんだ。まだ確かなことは言えないが、ガツンと悪くなる可能性がある。そうなったら、悦子さんも歳だし、最悪の事態になることも考えられる。だからこそ、日曜でもいいから来てくれと言っているんだ」
「はあ……」
「あんたが悦子さんの生き死にに興味がないというのならいい。悦子さんも、それでいいなら勝手にするさ。だが、女房のことが心配だったら、余計な気を廻す暇に連れてきてくれないか」
「しかし……」
「おれは来てくれ、と言ったんだ。朝から病院のほうに詰めて待ってる。あんたはおれに気を遣ってくれたつもりかもしれないし、それには感謝するが、同じ気を遣ってくれるなら、朝いちばんにさっさと来て、早めにおれを解放してくれたほうが、助かるんだがね」
済みません、と行田は言って、これから悦子を連れてくる、と言う。敏夫は息を吐きながら電話を切り、そうして軽い自己嫌悪を感じた。
医者には患者に来いと命令する権利などない。それは患者の自由意思に任されている。敏夫は村人の生命と健康を預かっているが、それを監督する責任を負っているわけでもないし、監督する権限があるわけでもなかった。それを無視して頭ごなしに来いと命じた自分が苛立たしい。それをさせる行田にも腹が立った。なによりも腹立たしいのがそうやって命じた振る舞いが、ひどく父親に似ているように思われたことだった。
村人の生命と健康を預かっているのだと、そう口先では言い、村人のそれが損なわれることを、自分に対する侮辱であるかのように振る舞っていた父親。怪我をした患者には、不注意を責め、病気をした患者には不養生と家族の不注意を責めた。
敏夫は舌打ちをする。自分の振る舞いは、父親のそれとまったく似ている。それが我慢ならないほど不愉快だった。
(冷静になるんだ……)
村人が危機感を抱いてないのは仕方がない。そもそも敏夫自身が、無用な危機意識を抱かせたくなくて事態を伏せているのだ。実情をぶちまければ、行田も危機感を抱くだろう。それをあえて伏せておいて、行田を責めるのでは理に合わない。
自分にそれを言い聞かせているうちに、済みません、と声がした。敏夫は軽く苛立ちながら立ち上がる。インターフォンがあるのに目に入らないのか、とそんなことに苛立っている自分の理不尽に、いっそう苛立った。
出てみると、やはり行田で、そして悦子の具合は悪化していた。明らかに一昨日よりも状態が良くない。それを電話で呼びつけたことに、敏夫の自責の念はいっそう膨らんだ。悦子は足許が怪しい。この状態で出歩くくらいなら、敏夫のほうが行くべきだった。それがまた敏夫を不快にする。やはり悪化しているじゃないか、だったらどうしてそう言わない、と行田に対する怒りに形を変え、神経を尖らせるから手に負えない。――実際、敏夫は自分の勘定の手綱を、自分でも御しきれていない、という自覚があった。
悦子の状態が悪化ししていることに対しては、何とか何も言わずに通した。とにかく採血をし、採尿する。尿は色が濃く、濁っている上に量が少ない。呼吸には微かに喘鳴が交じっている。もう一度、全血を輸血した。他に有効だと思われる治療方法が思い浮かばなかった。
くれぐれも容態が急変ししたら、自分を呼ぶなり救急車を呼ぶなりするように言い渡して返した。だが、そう言った敏夫自身、悦子を救えるなどという甘い想像はしていなかった。
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
かおりが目を覚ますと、もう昼が近かった。カーテンを開け、窓を開くと、どこか秋めいた風が通った。気温こそはまだ涼しいというのにはほど遠かったが、空が少し高くなった。風の肌触りはどこか硬い感じがする。
九月二十五日。九月も終わりに近づいた。そして恵の三十五日の法要から七日。|六七日《ろくしちにち》で四十二日だ。
かおりは着替え、佐知子に小言を言われながら遅い朝食に形ばかり箸をつけた。
「日曜ぐらい家事を手伝おうっていう気はないの?」
佐知子はかおりをねめつける。
「いつまでも、うじうじして。恵ちゃんが死んだのを言い訳にして、だらだらしてるだけじゃないの。いい加減にしなさい」
そういうわけじゃない、と思ったが、かおりは口に出しては言わなかった。結局のところ、佐知子にとって恵の死は、少しも重大なことじゃないのだ。だから早く片づけてしまえと急かし、かおりがいつまでも片づけられないことを責める。
小言を続ける佐知子に生返事をして部屋に戻った。
「……でも、あたしは忘れないよ」
かおりは窓に坐ってひとりごちる。
恵は幼なじみだった。いちばんの親友だった。かおりは恵が好きだったし、だから周囲の大人がなんと言おうと、恵のことを片づけたりはしない。ずっと覚えているし、ずっと悲しい。恵の死を嘆いている。
そう思っているのに、かおりは近頃、そう意識しないと恵の死を忘れそうになる自分に気づいていた。恵が死んだ直後には、何を見ても恵を思い出したし、何かにつけ恵がいれば、と思った。恵のことを思い出しただけで涙が溢れて止まらなくなったのに、今は一生懸命、恵との思い出を辿らないと涙が出てこないのだった。
(……いやだ)
恵を忘れて片づけてしまうなんて嫌だ。そんな自分にはなりたくない。そう思って、恵のために泣ける自分を確認しようとするのだけど、少しずつ、それが難しくなっている。
かおりは唇を噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]んで、そうして机の抽斗から恵の葉書を引っ張り出した。丁寧に書かれた残暑見舞い、懐かしい恵の文字。
(……こんなに丁寧に)
心を込めて、なのに投函できなかった。どんなに無念だっただろう。
恵が死んだと聞いて、家に駆けつけて、でも、少しもピンと来なくて。呆然としていたかおりが、ようやく泣けたのは、この葉書を見つけた時だった。こんなに丁寧に、と思うと、それだけで涙が溢れて止まらなかった。三十五日の時もそうだった。今も悲しい。可哀想だと思う。なのにどうして涙が出てこないのだろう。
心を込めて、ともう一度、心の中で繰り返す。そうやって自分に噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]んで含めるように言い聞かせないと涙が出てこない。――涙が出るほど悲しいという気持ちになれないのだった。
(こんなの、嫌だ)
たった四十二日で、悲しみが摩耗してしまうなんて。そんなことがあっていいはずがない、と懸命に自分に言い聞かせても、以前のような呑まれるような感情の高ぶりはやってこなかった。
それどころか、こうして葉書を見ていると、別の意味で後ろめたい。発作的に恵の部屋から持ち出してしまったけれど、こんなことをして良かったのだろうか。あのときはそうしなければならない、という気がしたのだが、時間が経つに連れ、なぜ自分がこんなことをしたのか分からなくなった。恵の部屋が片づけられてしまうのじゃないか、と焦ったのは覚えている。恵のいた痕跡が拭い取られてしまう。そうなる前にひとつでもいい、痕跡を救い出そうとしたのだけれども、よく考えると本当に恵の部屋が整理されるとは限らない。
自分のしたことが疑問に思えたのは、あの直後、学校で教師と話をしたせいなのかもしれなかった。
たまたま、かおりは当番だった。英語の教師にプリントの印刷を手伝ってくれと頼まれ、もうひとりの当番の子と印刷室に行った。
「田中さんは最近、元気がないね」と、その教師――広沢は言った。「悩み事でもあるふうだね」
友達が死んで、という話をしたのは、もうひとりの当番、小池|董子《とうこ》だった。それで初めて知ったのだけれども、広沢と恵の父親は友達らしい。葬儀で広沢の顔を見かけたようにも思ったが、そんな縁だとは思わなかった。その広沢から、恵の父親がひどく気落ちしてすっかり塞いでしまっている、と聞いた。かおりはそれで、少し救われた気がしたのだった。誰もが恵の死を片づけたわけでも、片づけてしまいたいわけでもないのだと思ったし、そこに至ってようやく、自分よりも恵の両親のほうが辛いのに違いないという、ごく当然のことに気がついたのだった。まるでこの世には、自分以外、恵の死を悲しんでいる者はいないような気がしていたけれども、それがとても不遜なことだったと気づいた。
それでも――と、かおりは思う。だったら忌明けを繰り上げたりせずに、せめて四十九日まで恵を家にいさせてあげればいいのに。広沢が首を傾げたので、かおりは、法要がまるでお祓いのように思われたことを話したのだった。
「ああ……なるほど」と、広沢は複雑な感じで笑った。「それで田中さんは、恵ちゃんが家を追い出されるように感じたんだね」
頷くかおりに、広沢は、けれども、と言う。「それは少し、誤解があるね」
「……誤解?」
「うん。人が死ぬとね、四十九日の間、この世とあの世の境目に留まっているんだよ。まあ、境目と言っても、どこにあるのかよく分からないから、その間は仏壇に留まってるというふうに言うね。これを家にいると言えば、確かに家にいることになるのだろうけど、死んでもうこの世にはいないんだけど、まだあの世にも行けない。というのも、行き先が決まらないからだね」
「行き先?」
「そう。輪廻転生という言葉を聞いたことがないかな。人は、六つの世界を転生しているんだね。死んでは生まれ変わり、ぐるぐる廻っている。死んだ人は生前の行いによって、次の生まれ先を決められるんだよ。七日ごとにそのための裁判が行われるんだね」
言って、広沢はやんわり笑った。
「要は、閻魔様の前に引き出される、というやつだね。七日ごとに呼び出されて取り調べが行われる。生前の行いが悪ければ、いわゆる地獄に堕ちるのだけれど、生前の行いが良ければ極楽に行く。極楽にいけるほど行いが良くない場合には、もういちど人に生まれて修行をやり直すことになるんだ」
「人に……?」
「そう。六つの世界を転生するから、六道輪廻というんだよ。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六つの世界。法要はね、いわばその裁判で、少しでも良い判決をください、早く終わらせて極楽に行かせてやってください、とお願いするために営むんだよ」
かおりは、ぽかんと瞬いた。小池董子のほうを見ると、董子は心得たような顔をしていた。
「董子ちゃん、知ってた?」
「うん。うちのお祖父ちゃん、弔組の世話役だもん。そういう話なら小さい頃からいっぱい聞かされるから」
広沢は微笑んだ。
「四十九日で結論が出ない時は、百箇日、一周忌、三回忌に持ち越されるんだそうだよ。長々と境目――中陰とか中有とか言うんだけども、そこに留まっているのは、むしろ良くないことなんだね。もちろん、早く良い結果が出たほうが死者だっていい。だから遺族は、そのために法要を行って、仏様の加護で早く良い結果が出るように祈るんだし、死んだ人の代わりにお経を上げたり、お布施をしたりして死者の徳を追加しようとするんだね」
そうだったのか、と、かおりのほうが憑き物が落ちた気分だった。誰も――少なくとも恵の両親は――恵を追い出そうなんてしてない。忘れよう、片づけようとしていたのじゃなかった。
そう分かってみると、自分の行為が馬鹿馬鹿しく、軽はずみなものに思われた。どうしてあんな、今にも恵の部屋がなくなるように感じてしまったのだろう。恵が大切にしていたものの全てが、おざなりに処分されてしまうように思ったけれども、
本当に恵の家族はそんなことをしただろうか。
それを思うと、自分のしたことが恥ずかしかった。それでも恵はこの葉書を両親に見られたくはなかったはずだ。それだけが救いだ。かといって、恵はそれを、かおりがこうして所有していることだって望んではいないだろう。もしも自分なら――と考えると、宛先に届けられるか、さもなければ誰の目にも触れないところに処分されて欲しいと思うような気がする。
(どうしよう……)
かおりは、あの日以来、何度もそうしたように、葉書を見つめて考え込んだ。もちろん今さら恵の両親には渡せないし、それはやはりするべきじゃないという気がする。もとの場所に戻してこようか。でも、なんと言って恵の部屋に入れてもらおう。恵の代わりに自分が処分してしまうのがいいのだろうか。それとも――。
かおりは葉書の宛名を見つめた。
彼のために書いた残暑見舞い。書いてそれきり、投函できずに恵は死んでしまった。こんなに丁寧に書いたのに。
(恵……これ、出したかっただろうね)
心の中で、はっきり呟いてみたけれど、やはりもう涙は出てこなかった。
でも、投函したかったのは確かなはずだ。恵はそのために書いたのだから。だからこそ、かおりは葬儀の時、これを宛名の当人に手渡してやろうと思ったのだ。なのに当の本人が、いらいなと言った。
(あんな酷い人のことが好きだったの?)
少しも恵の死を悲しんでるふうじゃなかった。恵がこんなに思いを込めたものなのに、だから渡してやりたかったのに、夏野は喜ぶどころか、とても迷惑そうだった。
(付き合いがあったわけじゃない、って……恵はあんなに好きだったのに)
恵の思いを、恵の死を、あんなにも軽々しく扱った夏野が許せない。
かおりはじっとその葉書を見つめた。
――投函してやろう。彼はこれを受け取る義務がある。
それがいい、とかおりは立ち上がった。自分が持っているより、処分してしまうより。恵だって投函したかったはずだし、夏野だってこれを見れば、恵の気持ちに気づくかもしれない。自分がどんなに酷いことを言ったのか、理解するかも。
かおりは階段を駆け下りた。母親が何か、また小言を言ったようだけれども、構わずに表に出る。何度も通い慣れた道を小走りに走って恵の家の側まで来た。ポストは恵の家のすぐ近くだ。
(たったこれだけの距離だったのに)
それを歩いて投函にいけないほど、恵は具合が悪かった。突然、急に悪くなって、だからとうとう……。
かおりは最後にもう一度、葉書の文面を見つめた。それをポストの中に差し入れ、少し迷う。何だが自分は、こうすることで楽になりたがっているように思えた。
別に、持て余してるわけじゃない。恵がそれを望んでいたから、自分が代わりにそれを行うのだ。そう自分に言い聞かせても迷う。葉書が指を離れたのは、背後から声をかけられたからだ。
「――かおり?」
昭の声がした。驚いて、かおりは葉書を放し、そして葉書はポストの中に落下していった。それを鼻先で追うように、昭がかおりの脇から顔を突き出した。
「あーあ。お前、なんで今ごろ残暑見舞いなんだよ。いま、九月だって分かってるか?」
ぎくりとして、かおりは昭の顔を見つめた。
「やだ。……見たの?」
「見えたんだよ。じーっとポストの前に立ってるんで、何してんのかな、と思って覗き込んだら」言って、昭はわざとらしく溜息をついた。「かおりがここまで常識知らずだとは知らなかったぜ」
「いいじゃない。まだ暑いもの」かおりは苦しく言い訳をして踵を返す。「それに、暑中見舞いならお盆までじゃなきゃ
いけないけど、残暑見舞いにはいつまでって期限はないでしょ」
「こんな物知らずな奴が姉貴だなんて、おれ、涙が出ちゃいそう」
追いかけてきた昭を、かおりは振り返った。
「なによ」
「残暑見舞いにだって期限ぐらいあるだろ。九月も終わろうかってのに、無茶言うよな。しかも、暑中見舞いは盆までじゃないの。おれは立秋までだよ。恥ずかしいなあ、もう」
かおりは瞬いた。
「嘘でしょ?」
「嘘じゃないよ。あれは立秋までなの」
「……立秋っていつ?」
「知らない。でも八月の最初のほう。盆よりは前だよ、確か」
「でも」と、かおりは呟いた。「恵が言ったんだよ。お盆までだって……」
昭はきょとんとした。
「恵ぃ?」
「そう。いつだったか、恵がそう言ったの。だからあたし、ずっとそうなんだと思ってた……」
昭は溜息をついた。
「恵って物知らずなくせに、妙に自信満々なところがあったからなあ」
そうだったのか、とかおりは思った。立秋を過ぎたらもう残暑見舞いで良かったのだ。恵がそれを知っていたら、ちゃんと自分で投函できたろうに。
そう思い、かおりはふと足を止めた。背後のポストを振り返る。たったいま、季節外れの葉書を呑み込んだポスト。赤いポストのある四つ角。あれを曲がってすぐのところに恵の家はある。
恵は投函できなかった。あんなにポストが近くにあるのに。なぜなら、恵はお盆から残暑見舞いだと思っていたから。なのにお盆には具合が悪くて、寝込んでしまっていたから。
(でも、たったあれくらいの距離、歩けないほど具合が悪かったんなら……)
「恵……あれをいつ書いたんだろう……」
ひとりごちた声を聞きとがめたのか、昭が首を傾げた。
「なに? あれって恵が書いたの?」
しまった、と思ったが遅い。かおりは不承不承、頷いた。
「内緒よ。……恵が残したの。だから季節外れだけど、投函してあげようと思って」
「へええ」
「恵は、十三日から残暑見舞いだと思ってたんだと思う。でも、十三日には具合が悪かった。ううん、十一日にはもう悪かったの。山の中で倒れちゃったんだから
「じゃあ、その前に書いたんだろ」
「その前だったら、暑中見舞いでしょ。恵はそう思ってたんだもの」
「そっか。じゃあ、具合の悪いのに無理して書いたんだ」
「そういう……ことだよね?」
恵が葉書を書いたのは、具合が悪くなってからだ。そうとしか思えない。けれども何かが引っかかる。何かおかしい。
足を止め、首を傾げていたかおりは、自分が大塚製材のすぐ脇まで来ているのに気づいた。積み上げられた材木の山を見ていて、ふと思う。
「恵……いつ桐敷の奥さんにあったんだろ」
「はあ?」
「あたし、奥さんを見たの。十三日」
「そう言ってたよな」
「うん。恵のお見舞いに行く途中だった。それで恵にそう言ったの。綺麗な人だったよ、って。そしたら、恵が知ってる、って」
「知ってる? じゃあ、恵も奥さんにあったことがあるんだ」
「だよね? でも、十一日、坂の下で会ったときにはそんなふうじゃなかった。だって恵、家族がどういう人なのかも知らなかったんだもん。奥さんと娘さんがいるって噂をしたら、初耳だって顔してたもん」
昭は首を傾げる。
「ええと? それが十一日なんだよな? それって恵がいなくなった日のことだろ?」
「そう。坂の下で別れたの。恵は坂を登っていった」
「でもって、夜中に見つかったんだよな。具合が悪くて山で倒れたんだろ。それからずっと寝込んでて」
「そうだよ。もしも十二日か十三日に外を歩いてたら、恵、葉書を投函してるよ。十二日に投函したら、着くのは十三日以降だもん」
「てことは、十二日にも十三日にも家から出てないってことだよな? だったら兼正の奥さんにも会うわけないんだから、十一日だよ。そうとしか考えられないじゃん。坂を登っていって、それで奥さんにあったんだ」
「でも」と、かおりは呟く。「あんなに大騒ぎになったんだよ? 山狩りして、兼正の若い人が出てきて手伝ったって。誰も恵がどこに行ったか知らなくて、あたしが坂の下で見かけたのが最後だったの。兼正の人が会ったんなら、そう言うんじゃない?」
昭は首をひねる。
「会ったのに、黙ってた……」
「でも、なんで?」
――何があったのかしらね。
かおりの母親はそう言う。
――女の子があんな時間まで。戻ってきてから、様子がおかしいって言うじゃないの。何かあったのよ、きっと。あんたも気をつけるのよ、かおり。夏には変な人が多いんだからね。
(本当に何かあったのかも……)
かおりは顔を上げて西の山のほうを見た。かおりが今いる位置からは、樅の山しか見えない。
(坂の上で、何か)
何か、恵が具合を悪くするようなこと。他人に知られては困るようなこと。
「なあ……かおり」と、昭が珍しく深刻な声を出した。「最近、えらく死人が多いと思わないか?」
かおりは首を傾げる。
「思う、けど」
「それって、兼正が越してきて以来だよな」
どきりとした。そうだったろうか。自身がないが、前後しているのは確かだ。
「でもって恵、急に具合が悪くなって死んで、その具合が悪くなる直前にさ、兼正に登っていったんだよな。そこでたぶん、奥さんに会ってる」
「う、うん」
「お前さ、十三日に会ったんだろ、桐敷の奥さんと。それ、製材所の康幸兄ちゃんと一緒だった、って言ってなかったか?」
かおりはハッと息を呑んだ。
そうだった。大塚製材の康幸と一緒にいたのだ。そして――。
「康幸兄ちゃんも死んだんだよな」
かおりは立ち竦んだ。そう、ちょうどこの辺りだ。材木置き場の中で、千鶴に何やら説明していた康幸。それから起こしして、康幸は急に身体を壊して死んだ。
「恵は奥さんと会ってるはずだ。でも兼正の誰もそんな話――」
「ねえ……やめよう」
「かおり?」
「なんだか恐いよ。そういう話するの、やめよう」
かおり、と声をあげた昭に、かおりは首を振る。その場を逃げ出して家へと駆け戻った。
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
「あれ、また引越だ」
夏野は足を止めた。
「うん?」と、例によって煙草を会に出てきた徹も足を止める。「ああ、ほんとだ」
ちょうど武藤を出てすぐ、刈り入れの終わった田圃越しに見える家並みにトラックが横着けになっていた。夏野はとっさに腕時計を見る。
学校の帰り、バスで保と一緒になった。そのまま保にくっついて武藤に戻り、夕飯までごちそうになって家に戻るところだった。そろそろ退散しようかと思っていたとき、徹の父親が戻ってきた。このところ病院は忙しいらしく、武藤の帰りが遅い。遅いばかりでなく、家に仕事を持ち帰っているらしい。母親の静子がそれを手伝っているのも見かけたことがあった。こんな時間まで仕事か、と時計を見たが、その時点ですでに夜の十時を廻っていた。案の定、腕時計の針は十一時に近づこうとしている。どう考えても引越には遅い時間だ。
「また高砂運送だ」
夏野がひとりごちると、徹は首を傾げる。
「また?」
「ついこの間も、変な時間に引越してただろ。あれも高砂運送だった」
「そんなこともあったっけか」
「もうボケ始めてるよ、このおっさんは」
聞こえよがしに溜息をついてみせると、徹の拳が飛んできた。それを笑って|躱《かわ》し、徹と別れる。夜道を家へと向かいながら、何か妙だ、と思っていた。
死人の続いた夏。それが終わってみると、今度はやたらと転居を見かける。いや、何も終わってないのかもしれない。武藤の帰宅が日を追うごとに遅くなっているのが、その証拠だ。とにかく忙しい、と武藤は零している。忙しいということは、それだけ患者が多いということ、具合の悪い者が増えているということだろう。実際、葬式を見かけることも多い。それがどんな人間かは知らないが、確実に人が死んでいる証だ。
過疎にさらされている村というのは、こんなものなのだろうか。引越が多い。――だが、その引越がいちいち夜に行われているのは解せない。しかもどれも同じ運送会社というのは、どういうことだろう。
釈然としない気分で家に戻った。玄関に入って靴を脱いでいると、湯上がりらしい母親が渋い顔で出てくる。
「おかえり。また武藤さんとこ?」
「うん」
「いつもいつも、御飯まで御馳走になって。近所なんだから夕飯ぐらい食べに戻ってくればいいじゃない」
うん、とこれには生返事をしておく。
「せめて、一回、家に戻ってからでかければ? まったく、どこの家の子なんだか」
どこの家もないもんだ、と夏野は心で呟いた。ここは「家」じゃない。そもそも夫婦という形態を拒み、家という制度を拒んだのは自分たちじゃないか、と思う。ここは単に二人の男女と子供が一人寄り集まっているだけの場所だ。両親の生き方を云々しようとは思わないが、当たり前を拒みながら同時に当たり前を要求する無頓着さには辟易する。
ぶつぶつ言っていいる母親を無視して部屋に戻ろうとすると呼び止められた。
「ねえ、葉書が来てるわよ」
母親は下駄箱の上を示す。
「おれに?」夏野は葉書を手に取った。「――何だ、これ?」
それは残暑見舞いだ。文面に目を通し、それを裏がえして夏野は眉を顰めた。
「今頃、残暑見舞いなんて、変な話ねえ。誰、その清水さんって」
「人の手紙読むなよな」
「あら、葉書なんだから仕方ないでしょ」
母親を冷たく見やって、夏野は葉書に目を落とす。
――清水恵。
「清水さんちの娘さんじゃないの、それ」
「……だろうな」
「嫌ね。どうして今頃、葉書が来るの。気味が悪い」
「誰かの悪戯だろ」
そう言って、さっさと部屋に向かう。部屋の明かりをつけ、改めて葉書を眺めた。
間違いない、これはあの「清水恵」だと思う。だが、恵は八月の半ばに死んだ。死者から手紙が来る道理はないし、残暑見舞いにはどう考えても遅すぎる。恵が死ぬ前に書いたものか。それが何かの事故で、今頃になって届いたのだろうか。
なんとなく割り切れないものを感じたが、ことさら気味悪く感じる必要があるとも思えなかった。夏野はそれをゴミ箱に放り込もうとし――なぜというわけではないものの、その手を止めた。
後生大事に保存しておく気はない。だが、捨てるのは何も今日でなくてもいいだろう、という気がした。
徹は自販機の下に屈み込んで、煙草のパッケージを取り出した。釣り銭をポケットに戻し踵を返す。夜道を歩きながら、どこか妙な気がする、と思っていた。
葬式が多い、引越が多い。――確かに多いと思う。これまでこんなことはなかった。これまでなかったことが起こったから異常だと短絡する気もないが、どうにも釈然としない。近頃、村はどこか変だ、という気がしてならなかった。調子が狂っている感じ、歯車の噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]み合わせがズレてでもいるような。あるべき状態からひどく逸脱している。
無意識のうちに煙草のパックを投げ上げていて、それを取り落としした。掌の上で跳ねたそれは路面に落下し、不規則にバウンドしながら転がっていく。転がった先に若い男の姿が見えた。男の手がそれを拾い上げる。
「ああ、済みません」
「いえ。どうぞ」
手渡してくれた男の顔には見覚えがない。徹より若干、年上だろう。村の人間の全てを知るわけではないが、同世代の者はさすがに分かる。見覚えがない以上、兼正の誰かだとしか思えなかった。
「ひょっとして、兼正の人?」
そうです、と相手は笑った。
「同じ年頃の人にあったのは初めてだな。ぼくは辰巳といいます。よろしく」
「どうも、こちらこそ。おれは武藤です」
「ぼくぐらいの歳の奴って、村にはいないのかと思いましたよ」
「そんなことはないです。数は少ないんで、遭遇率は低いと思いますけどね」
答えながら、こいつが、と思っていた。こいつが噂の「兼正の若いの」だろう。正雄のところに現れた奴だ。
「――散歩ですか?」
「そういうわけでもないんですけど、ぶらぶらと。家の中は退屈だけど、行くところがなくって。村の若い人は、毎日何をして過ごしてるのかな」
辰巳の言に、徹は笑った。
「村の中じゃ、テレビ見て寝るぐらいしか、することはないな。あとはタベるくらい。もうちょっと有意義に遊ぼうと思うと、村を出ないとどうしようもない」
辰巳は瞬いた。
「じゃあ、やっぱり溝辺町まで行かないといけないんですね。車で?」
「そう」
「でも、車で遊びに出かけると、飲みに行けないでしょう」
「まあ、額面はそう言うことになるけどね」
辰巳は溜息をつく。
「いいところだと思うんですけど、さすがに遊び場がないんで時間を持て余すな」言って、辰巳は笑う。「かといって、昼間に出歩くと、自分が珍獣になった気分がして」
徹は笑った。
「遊び相手がいないと、どうにもならないよ、この村じゃあね。かといって、溝辺町までわざわざ出かけていったところで、一人で楽しく過ごせる場所があるとも思えないけど。特に夜はね。溝辺町まで出ようと、夜が早いのは変わらないから。まあ、都会と違って田舎はそんなもんだよ」
「なるほどなあ」
「そんな大した遊び場はないけど、それでもよければ今度、案内するよ」
「本当に?」
徹は頷く。
「よかったら週末にでも声をかけてもらえれば。おれは中外場に住んでるから。病院で事務をやってる武藤の家、と訊いてもらえればすぐに分かる」
「ああ――尾崎医院に勤めてるんだ」
「親父がね。おれは単なる会社員だけど。やたら賑やかで落ち着かない家だけど、よかったら遊びに来てくれ」
ありがとう、と辰巳は笑う。どこか含みありげに徹を見た。
「そう言ってもらえて嬉しいな。――必ず伺います。どうぞ、よろしく」
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
二十八日、法事で身動きが取れなかった彼岸がようやく明け、静信は中外場の通称、三安――安森家を訪ねた。突然、嫁がいなくなったというのが、気になって仕方なかったからだ。
三安の地所は中外場の一番南、西山から流れる細い川に架かった橋の袂にある。コンクリートで囲まれて、川というより水路と言ったほうが似つかわしい。その向こうは下外場。
静信は三安の地所に入り、まっすぐ玄関に向かったが、その間にも表に面した雨戸が引かれているのに気がついていた。時刻はほぼ二時、家の者が寝ている時間ではないだろう。それで山入の村迫家のことが思い出された。静信はなんとなく、予感のようなものを感じながら玄関のガラス戸の前に立つ。
案の定、ガラス戸は開かなかった。呼び鈴を押してみても応答がない。念のために裏のほうへと廻ってみたが、どの窓もぴったり閉ざされ、雨戸を引かれ、戸締まりがしてあった。
少し用を足しに出かけるなら、誰も戸締まりをしたりしない。ここまでの戸締まりをするのは長期、遠方に出かける時だけだ。
困惑して表に戻り、静信は道を挟んで向かいの家に向かった。周囲は田圃ばかりで、三安に隣家はない。最寄りの家は向かいの田茂だけだった。中外場に二軒ある田茂のうちの一軒だ。こちらのほうも三安と同じく典型的な農家の造作で、表に面した雨戸は全部開いていたし、縁側から奥の方に人がいるのが見て取れた。
「済みません」
縁側まで行って静信が声を上げると、奥でテレビを見ていたのだろう、横顔を見せていた中年の女が振り返った。田茂由起子だ。
「あら、若御院」
由起子は言って立って、縁側に出てくる。
「しのぎやすくなりましたねえ。どうなさいました」
「済みません、お向かいの安森さんなんですけど」
ああ、と由起子は声を上げる。
「三安に御用ですか? あそこ、越したんですよ、つい一昨日」
え、と静信は声を上げた。
「まあ、お上がりになってください。何もないですけど、お茶くらい」
由起子が熱心に勧めるので、静信はありがたくそれを受けた。奥の茶の間ではテレビが点いており、その周辺には幼児用の玩具が散らばっていたが、子供の姿は見えない。お茶を用意して戻ってきた由起子は、それを慌てて集めながら、孫がやんちゃ盛りで、
と笑った。
「やっと歩くようになったら、もう目を離せなくって。そのへんに玩具を散らかすし、始終、大声を上げるしで大変。嫁とお祖母ちゃんが連れて買い物に行ったんで、やっと一息ついてたところなんですよ」
由起子は言って目を細める。
「お祖母さんはお元気ですか」
「お陰さまで。わたしより元気なくらいですよ。お祖父さんが早死にだったぶん、自分は長生きするんだ、なんて言ってますけど、本当にそうなりそうですねえ」
「それは結構なことです」と、静信は微笑み、ところで、と続けた。「安森さんですが」
ああ、と由起子は袋菓子の口を開けながら表のほうを見た。
「引越したんです。一昨日、というよりその夜中なんですけどね」
「夜に越してしまわれたんですか」
ええ、と由起子は頷く。
「若御院のところにも挨拶がなかったんですか? いえ、うちにも何の挨拶もなかったんですよ。とにかく、車の音がして、それももう寝ようかって時分でしたから、何事かしらと思って見たら、向かいにトラックが停まってたんです」
「高砂運送……ですか?」
由起子は瞬き、ああ、と一拍おいて頷いた。
「そう言えば、松のマークが入ってました。そういう何かおめでたい名前の運送屋でしたっけ。よく御存じですね」
まあ、と静信は言葉を濁した。
「その運送屋のトラックが入ってましてね、荷物を運び出してるふうなんで、驚いてお向かいに行ったんですよ。そしたら、引越すことにした、って。――それが妙な話なんですよ」
由起子は声を潜めて身を乗り出す。
「若御院、あそこのお嫁さんがいなくなったの、御存じです?」
「そういう噂は聞きましたが」
「いなくなったんです。八月の末なんですけどね。お向かいの米子さんが見なかったか、って言ってきたのが夕方だったかかしら。話を聞くと、朝からいない、っていうじゃないですか。起きたらもういなくて、出かけてるのかと思っていたら、未だに帰ってこないって言うんですよ。あたし、駐在に届けたら、って言ったんです。最近、村じゃあ何が起こるか分かったもんじゃないですから」
分かるでしょう、と言いたげに由起子は目配せをする。静信は曖昧に頷いた。
「その時は夜になれば帰ってくるだろう、なんて言ってたんですけどね。結局、翌日にも帰ってこなくて。米子さんに様子を聞いたら、日向子さんの旅行鞄がなくなってて、着るものなんかが減ってるんですって。出ていったんだ、って米子さんは、そりゃあ怒ってて。――でも、こう言っちゃあなんですけど、いつかそういうことになりそうな気がしたんですよ。あそこはお嫁さんと折り合いが悪かったから」
はい、と静信は相槌を打つ。
「もともとね、日向ちゃんと|弘二《こうじ》くんが一緒になるのも、すったもんだがあったんです。米子さんは日向ちゃんが気に入らなかったんですよ。いい子だったんですけどね、わりとサバけた――っていうか、今ふうのぱあっとした子だったから。それをまた、弘ちゃんが結婚するって勝手に決めてね。結婚するって話が出た時には、もう式のことも決めてたんですよ。どっか外国に行って二人だけで式を挙げるって。それで米子さんも誠一郎さんも怒っちゃってね。外国でなんてとんでもない、そういうことを勝手に決めるとは何事だって話ですよ。第一、二人が結婚するなんて聞いてない、許したわけじゃないって。まあ、あたしでも自分の息子のことなら大喧嘩ですよ。絶対に結婚なんてさせない、って凄い剣幕だったんですけど、実を言うと日向ちゃん、その時にはもうお腹に子供が入っててねえ。させるもさせないもありませんよ」
「子供さんがおられたんですか?」
「結局、流産しちゃったんですけどね。子供がいるんじゃしょうがない、日向ちゃんの親だって黙っちゃいませんから。それで間に人が立って、なんとか丸く治めて、溝辺町で式を挙げることにして。そしたら今度は日向ちゃんのほうの御両親と揉めてね。ほら、三安の長男は家を出てますでしょう。高校の時から良く出来て、結局、都会のいい大学に行って、都銀かなんかに就職しちゃいましたから。ところが日向ちゃんの親は次男だからっていうんで結婚を許したらしいんですよ。それが同居だってことだから、話が違うって。また弘ちゃんが、調子のいいことを言ってたみたいでねえ。両家で揉めたんですけど、そうしてる間にも日向ちゃんのお腹は大きくなるし、弘ちゃんは弘ちゃんで、米子さんベッタリの子でしょう。小さい頃から米子さんの姿が見えなかったら、泣きながら探して歩くような子でしたからね。同居は嫌だって言うんなら、もういい、って言いだして、結局、日向ちゃんの親が折れる形で決着がついたんですけどね」
はあ、と静信は頷く。
「そんなこんなで一緒になったんですけど、結婚前からそれじゃあ、上手くいくはずがありませんよ。とにかく喧嘩が絶えなくてね。米子さんも誠一郎さんも日向ちゃんには冷たく当たる、弘ちゃんはそういう時、母親の肩を持つ、そのうえ子供を死なせちゃって、それだって米子さんたちは日向ちゃんを責めるんですけど、日向ちゃんや日向ちゃんの親にしたら、それもとんでもない話でしょう。本人だって一時は危ないって状態だったのに、子供亡くして、あげくに責められたんじゃ堪りませんよ。実家に帰るの帰らないのって話でね、さすがにあたしたちも米子さんを諫めたんです。それはないだろうって。それで今度は米子さんたちが頭を下げて、なんとか丸く収まったんですけど、やっぱり喧嘩が絶えなくてねえ」
「ああ……そうですか」
「こういうのってねえ、旦那がちゃんと間に立てば何とかなるものなんでしょうけど、なにしろ弘ちゃんがマザコンって言うんですか、親の肩ばっかり持つんでねえ。それで日向ちゃんとは喧嘩が絶えなかったみたいなんですよ。日向ちゃんも悪い子じゃなかったんですけど、何かあると黙ってない性分だったしねえ。――まあ、それで日向ちゃんがいなくなったって聞いた時も、とうとう実家に帰ったんだな、と思ったんですけど。迎えに行ってあげなさいよ、って弘ちゃんにも言ってたんですけどね、弘ちゃんも米子さんたちも、本人が出ていきたいなら勝手にしろ、でしょう。でも、こういうことっていうのは、そんなもんじゃないですか。別れるなら別れるでちゃんとしなさいよ、って、あたしらもアドバイスしたんです。それでようやく実家のほうに連絡したら、実家には帰ってないって。向こうの親御さんのほうが血相変えちゃって」
静信は瞬いた。
「向こうの親御さんも御存じなかったんですか?」
「そうなんですよ。親が乗り込んできて、今日まで連絡がなかったのはどういうことだ、娘に何かあったらどうしてくれる、って、そりゃあ掴[#「掴」は旧字体。Unicode:U+6451]み合いになりそうな剣幕で。結局、親御さんのほうが失踪届を出すとかいう話だったんですよ。米子さんたちは米子さんたちで、きっと男でもいたんだろう、それで逃げたに違いないって、とんでもないことを言い出すし。いえね、うちの嫁が日向ちゃんとはわりによく口を利いてましてね、それで言うんですけど、日向ちゃんってのは、ぱあっとした外見のわりに、意外に堅い子でねえ。そんなタイプじゃないんですけど、一見すると髪も赤いし、身なりも派手だしで誤解されやすいんですよ、遊んでるんだろうって。そりゃあ、良く溝辺町には出かけてて、夜遅くまでで歩くこともあったみたいですけど、婚家がそんなふうだから、実家に戻って愚痴を言ったり、女友達に会って慰めてもらったりってことだったんです。それを米子さんたちは夜遊びが多かった、てっきり男がいたに違いないってねえ」
「……そうですか」
いったい、どうしてこんな他家の事情を延々と聞く羽目になったのだろう、と静信が内心で困惑したとき、由起子は言った。
「そんな按配だったのに、日向ちゃんに呼ばれたって」
「――え?」
由起子は、だから、と説いて聞かせるように言う。
「日向ちゃんから連絡があって、一緒に住むことにしたって、そう言うんですよ。でも、妙な話でしょう? 日向ちゃんが戻ってくるなら分かるんですよ。でも、一緒に住むって、何も三安が引越すことはないわけじゃないですか。弘ちゃんは勤めだってあるわけだし。それが弘ちゃんも勤め辞めて、山も田圃も放り出して、嫁の所に行くなんてこと、あると思います?」
静信は首を振った。
あり得ない。話半分にしても、それだけの確執があって出て行った――それも境松のように息子だというのならともかく、嫁に呼ばれて、一家が土地を捨てて出て行くことなど、あるとは思えない。
「まさか、って言ってやったんですよ。そんなこと、信じられるはずがないでしょ、って。でもね、米子さん、とにかくそういうことにしたんだ、の一点張りで。こう……目が据わっちゃっててね。取り憑かれたみたい、って言うんですか。どこに行くとも、どうするとも言わないんです。結局、転居先も言わないまま、出て行っちゃって。それも家財道具なんて残したもままですよ。あたし、トラックの荷台を見たんですから。本当に最低限って言うんですか。申し訳ていどに荷物を積んで、夜のうちに出て行って。あたしはもう、呆れるやら気味が悪いやらで」
それは異常だ、と静信は思った。その転居はどう考えもおかしい。日向子と同居するために、という米子の言い分は嘘だとしか思えなかった。しかしながら、なぜそんな嘘をついて村を出て行く必要があったのだろう。土地があり家がある。仕事があり生活があったのだ。それだけのものをかなぐり捨てて、そっと逃げ出すならともかく、見え透いた嘘までついてまで、どうして一家は村を引き払わねばならなかったのだろう。
由起子は溜息をついた。
「またねえ、うちの息子が怖いことを言うもんだから、なんだか気味が悪くって」
「恐いこと?」
ええ、と由起子は声を低める。
「まさか、日向ちゃんが家の裏にでも埋まってるんじゃないだろうな、って」
まさか、と言いかけ、静信はそれもあながち否定できないことに気づいた。――いや、違う。可能性の有無の問題ではない。三安の転居には、不吉な想像を否定できないほどの不可解さがつきまとっているのだ。
静信は帰り道、考え込まざるを得なかった。問題は疫病だったはずだ。夏以来、続いている不可解な死。それについて、静信は調べているはずだった。確かに夏以来の死者の数は尋常ではない。しかしながら、境松や三安のことを考えると、真に異常なのは人が死んでいることではない、というふうに思えた。
何かが村で進行している。疫病はその一部でしかないのではないか、という印象。だが、何が進行しているというのだろう。不審な転居と死者と、その間にどんな意味があるというのだろう――。
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
この日、敏夫は夕方になって行田悦子の死亡を伝える電話を受けた。敏夫が駆けつけたとき、悦子は間違いなく死亡していて、それも死後数時間が経っていた。夫の文吾が山に入っている間に死亡したものらしかった。死に顔は穏やかで、着衣の乱れもなかった。昏睡してそのまま息を引き取ったのだろう。敏夫は機械的に急性腎不全と死亡診断書に書き込んだ。
診断書を手渡し、敏夫は行田に悦子の採血をさせて欲しいと申し出たが、案の定、行田はこれを拒んだ。血液検査ができない以上、推測するしかないが、悦子は年齢のわりに良く保った。早めに来院させ、処置をすれば、とりあえず増悪を軽減することはできるのだ。だが――と、病院に戻り、患者に忙殺されながら敏夫は思う。問題は村の連中が、なんでもない症状なら病院に駆けつけてくるくせに、本当に具合が悪くなると病院を忌避することだ。本人も体調が優れないから出かけることを嫌がる、そうしているうちに身動きができなくなる。
どうすれば、連中を即座に来院させることができるのだろう、思い悩みながら診療時間を終えた。静信がやってきたのは、自室に退ってカルテを睨んでいるときだった。
「――どうだ?」
開口いちばん、静信は言った。敏夫は投げ遣りに、絶望的だ、と答えた。
「やはり、前駆症状になるのは貧血だな。発熱もあるが、あまり高くはない。それから三日ていどで劇的に増悪する。多臓器的な機能低下、それに伴う軽い浮腫や軽微な黄疸、あるいは免疫機序の低下によるセツ[#「セツ」は「やまいだれ」+「節」に似た字。Unicode:U+7664]や炎症。抗生物質は効かないから、細菌性のものじゃない」
「耐性菌は?」
「バンコマイシンでも効果がない。おそらく原因になっているのは細菌じゃないんだろう。とりあえず、貧血が出ている段階で全血の輸血をすると、多少の延命効果がありそうな感じだな。貧血以外に特徴的だと言えるのはセツ[#「セツ」は「やまいだれ」+「節」に似た字。Unicode:U+7664]だ。表出血管に近い部位に、必ず虫さされの膿んだような痕跡が見つかる。媒介生物がいることは確実だと思うが、具体的に何なのかは特定できない。患者同士の共通項はその程度だ。本人の身体的特徴、生活習慣、環境、いっさい関係がない。水や土壌、食物の汚染は考えられない。中毒じゃない、感染症だ。そこまではとりあえず、確実だと言っていいだろう。――それで、そっちは?」
静信はノートを開いた。挟んだコピーを敏夫に寄越す。
「共通項は相変わらず、見つからない。御覧の通りだ。あと、――これが関係あることなのかどうか、分からないんだが……」
静信は口ごもって。敏夫は頬杖をついて、先を促す。
「山入の義五郎さんは、村外に出かけて戻ってきたときには具合が悪かった」
「前にも言ったろう、それは」
言いかけた敏夫を静信は制す。
「太田健治、広沢高俊、佐伯昭、高嶋靖夫、清水園芸の隆司さん、そして大川の茂さん、この六人は村外に通勤しているんだ。そして――死亡の直前、突然、退職している」
敏夫は首を傾げた。
「なんだって?」
「だから、死ぬ前に家族にも無断で辞職してるんだ。それも、ものすごく唐突に、理由もなく辞めている。広沢の高俊さんに至っては、出勤しているふりをして溝辺町のパチンコ屋で時間を潰していて、そこで倒れてる」
「妙な話だな……」
「死んだ人間のうち、村外に通勤していたのは六人。その全員が死の前に辞職しているんだ。……これはどういうことだと思う?」
分かるもんか、と敏夫は答えた。
「ただ、少なくとも疫病とは無関係だろう。そいつは症状じゃない」
笑ってみせたが、敏夫自身、釈然としなかった。偶然の一致なのだろうが、にしても六人が六人、全員とは。
「あと、これも関係ないとは分かっているんだが……。人が減っているんだ。気付いていたか?」
「減ってるのは分かってる」
「そうじゃなく。死亡だけじゃない。転出が多いんだ。引越したのか、いなくなったのか分からない者も多い。それも唐突に村を出ている。近所に何の挨拶もなく、夜中に逃げるように村を出ているんだ」
言って、静信はメモのコピーを差し出した。静信のものではない、枯れた文字で二十二の名前が記され、その末尾に、これは静信の字で「安森(三安)・中外場」と書き添えてある。
「引越の様子も変なんだ」
言って、静信は境松や三安の事例について語る。敏夫は眉を顰めた。確かにその状況は奇妙だった。だが、疫病に気付いて逃げ出したのでない限り、転居は無関係だ。
「石田さんにも住民票をあたってもらった。ところが、八月からこちら、転出の届けはないと言うんだ」
「一軒も?」
「一軒も。高見さんのところでさえ、届け出されていない」
「変な話だな、それも」
敏夫はメモを眺めたが、さほどの感興を誘われたわけではなかった。疫病とは無関係であることは明らかだ。どれだけの転居者がいようと、それは敏夫の領分ではない。
「図書館の柚木さんが辞職したとか、小学校の校長が辞職したという話も聞いている。……何かおかしくはないか?」
「そりゃあ」と、敏夫はメモを放り出した。「妙と言えば妙だが、だが、それはこの際、関係ないだろう」
敏夫は生真面目な様子で頷く。
「とは思うんだ。けれども釈然としないんだよ。村で何かが起こっている気がして。なんだか、疫病もその一環だという気がする」
「気のせいだ」
敏夫は断言した。微かな苛立ちのようなものに襲われた。
「そうかもしれないとは思う。けれども、これは定市さんの指摘なんだが、その転居リストを見てくれ。山入に出入りしていた人間が綺麗さっぱりいなくなっているんだ。山入に住んでいた三人が死んで、山入以外の場所から周辺の山に出入りしていた人々もいなくなった。本当に山入に関係する人間は、いなくなった勘定になる。山入、というところが気にならないか?」
敏夫は溜息をついた。
「何でも結びつけりゃいいってもんじゃないだろう」
「しかし」
「確かにあれも山入、これも山入だ。転居者が多いのも確かだし、その様子が妙なのも認める。――だが、それと疫病とどう関係があるっていうんだ?」
それは、と静信は俯く。
「これだけのことを調べるとは、いかにも御苦労な話だな。だが、これはおれたちには関係ない。いま考えないといけないのは、例の疫病のことなんだ。勢いがついているんだ、分かっているか?」
「それは……」
「お前は完全に、調査の目的を履き違えてる。おれたちは何とか、一連の死が伝染病によるものであることを証明しないといけないんだ。どういう病気なのかを特定して、治療方法を探さないといけない。にもかかわらず、こいつは前駆症状が読みにくく、周囲が不調に気づいたときにはどうにもならないところに至っている」
敏夫は吐き捨てた。言っているうちに、自分が自分の言葉に触発されたように苛立っていくのが分かった。
「症例が必要なんだ。にもかかわらず、村の連中は悪化するまで医者にかかろうとしない。素人判断で民間療法に頼る。いよいよの事態になってから連れてこられたって、助ける方法もなけりゃ、経過を掴[#「掴」は旧字体。Unicode:U+6451]むこともできやしない。――感染症なのは間違いない。たぶん媒介生物がいる。分かるのはそれだけだ。肝心の病気の辻褄さえ合わない。おれは確かに疫学の専門家じゃない。研究者でもない。単なる一介の町医者だ。おれに分かることには限りがある、それは否定しない。だが、これでも最善は尽くしてる。だが、調べても調べても、こんな症状が起こるはずはない、という気がするばかりだ。造血段階の異常じゃない。骨髄細胞の異常でもない。内出血も見られない。残るのは溶血だけのに、溶血反応は出てこない。起こるはずのない貧血が起こってる。それも激烈に悪くなる。ぜんぜん症例が足りないんだ。だから死に至る機序でさえ矛盾だらけで整合しない」
敏夫はカルテの山を叩いた。
「肝心の患者はいよいよの段になるまで病院にやってこようとしない。そのくせ意味もなく不調を訴える患者が増えてる。最近、一日にどれだけの患者が来ていると思う。スタッフだって緊張している。疲れているんだ」
「好きで出て行った連中のことなんか知るもんか。お前は時間を浪費したんだ。そのうえ、定市さんに訊いただって? 定市さんはお前がそうして、あちこちを嗅ぎまわっているのをどう思ったと思う。それでなくても村の連中だって馬鹿じゃない。何かがおかしいと気づき始めてるんだ。そこに寺の若御院があちこちで聞き込みをしてるなんてことが広まってみろ、不安を焚きつけるようなものじゃないか!」
鬱屈した者が噴出した形になった。静信は何かを言いかけたが、結局、口を噤んだ。その顔には敏夫に対する同情の色が見えた。静信はたぶん、敏夫が焦り、疲労から苛立っていると思ったろう。そしてそれは事実なのだが、いまはその|憐愍《れんびん》めいた視線が神経を逆撫でした。
「そんなことをする暇があったら、寺に来る連中の顔色に気をつけてくれ。具合の悪い人間はいないか、家族が風邪気味だという話はないか、耳をそばだててくれたほうが何倍も有益だ」
静信は不服を言わなかった。分かった、とだけ短く答え、何に対してか、軽く頭を下げた。
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
ランプに火を入れながら、静信は自分が落ち込んでいると聖堂に来るのだ、と改めて確認していた。
すでに午前零時を過ぎている。朝の早い寺は寝静まっているし、事務所にいようと私室にいようと、顔を出す他人のことなど考える必要はない。単に一人になりたいだけなら、寺のどこででも好きなだけ一人でいられた。なのにわざわざ、ここまで足を運ぶ以上、自分はこの荒れ果てた聖堂に何か慰めを見いだしているのだろう、と思う。
単なる廃屋なら、これほど頻繁に足を運んだかどうか怪しい。たぶんここが祠であることに何か意味があるのだろう。同様に、ここが真実、教会なら、やはり足を運んだかどうかおぼつかない。静信は祭壇を見上げ、もしもそこに確固とした信仰の対象が掲げられていたら、自分はこれほどこの場所に執着しないだろう、という気がした。明らかに聖堂でありながら祭壇に祀られる神はいない。それが気に入っているのかもしれなかった。
そう――かつてはきっと、そうだったのだろう。今は、そればかりではない自分を自覚していた。その証拠に、ランプに明かりを入れてからずっと、静信は無意識のうちに耳を澄ませている。
いつの間にか、虫の声が絶えている。聖堂を覆っているのは、風の音だけだった。そこに蝶番の軋む音が微かに響く。
「こんばんは」
静信は、傾きかけたドアの間から滑り込んできた少女に軽く手を挙げた。
「涼しくなったね」
「ええ」と、沙子は頷く。「夜の匂いがすっかり変わったわ。秋が来るのね」
「そのようだね」
「少しは進展があった?」
近くのベンチに腰を下ろす沙子に、静信は首を横に振って見せた。
「そう……大変ね。それで室井さんは、落ち込んでるの?」
「どうだろうね」
「分からないの?」
うん、と静信は正直に頷いた。
「何とかしなければ、とは思うんだよ。なのに何もできない自分が悔しいのは事実だ。こうしている間にも、たくさんの人が死んでいこうとしている。なのに自分にできることはいくらもない」
「……虚しい?」
「そうなのかな。――ただ、ぼくより敏夫がね。敏夫は医者で、患者を救う義務を背負ってる。なのに救えない。患者がどんどん死んでいく。焦るのも分かるし、無力感も分かる。どうにもできない自分に苛立っているし、怒っているんだ。とても荒れてる」
「可哀想ね」
「うん、そうなんだよ」
静信は息を吐いた。――そう、自分は充分に敏夫の心情を分かっているつもりだ。敏夫の置かれた立場に同情もしている。友人だから助けてやりたい。なのにそれができないでいる。
「ぼくとしては、何とか敏夫を手助けしてやりたいと思っているのだけどね。けれども実際には何もできないんだ。敏夫はそんなぼくに苛立つ」
「室井さんが役に立たないから? それ、八つ当たりって言うんじゃないから」
「うん、そうなんだよ。あれはぼくに腹を立ててるんじゃなくて、自分に腹を立ててるんだと思う。そして本来、敏夫はそう言う振る舞いを自分に許す奴じゃない。だから見ていて、切なくなるんだよ」
沙子は首を傾ける。静信はそれ以上言わずに、ただ微笑った。
静信は敏夫を助けてやりたい。敏夫の気性は分かっているから、彼がいま、どれだけ自分に腹を立てているかも分かっているつもりだ。だから静信なりに最善を尽くしているつもりなのだけれども、敏夫にはそれが最善とは映らなかったらしい。時間を浪費した、と責める。
責められたこと自体は、格別、気落ちするようなことでもない。悲しいのは、敏夫の苛立ちを静信が理解していることが敏夫に通じていないことだ。敏夫の焦りは分かっている、だからそれを少しでも軽減してやりたいと思っている、その末の行動であることを、敏夫に理解されていないのが悲しい。――いや、敏夫もそれは分かっているのだろう。けれども自分に苛立って、いまは静信に当たらないでいられない。静信を責めたのじゃない、自分を責めたのだ。それすらも分かるから、不当だと怒ることもできないし、後から振り返ればいっそう自己嫌悪にかられるような、そんな行動を取ってしまうと敏夫が不憫だ。
「上手く言葉にできないけど、室井さんの気持ちはなんとなく分かる気がするわ」
「そうかい?」
沙子は頷く。
「気持ちがすれ違ってしまってるのね。ううん、尾崎の若先生は、状況に焦って気持ちが閉じているんだわ。だから室井さんが通信を送っているのに、それを受け取ることができないの。室井さんはそれが切ないのね? 自分の気持ちが通じないというより、相手が心を開いてくれないと、通信を送っても受け取ってもらえないのが切ないんだわ。人間はそんなふうに、孤立してるの。それが堪らない――違う?」
静信は苦笑した。
「君は凄いね」
「あら、わたしは室井さんのファンなんだもの」沙子は笑った。「べつにいま室井さんの気持ちを推測したわけじゃないわ。前に室井さんの本を読んで、そんなふうに思ったことがあるだけよ」
「へえ?」
「人間は孤立してるのね。真の意味で他者と理解し合うことはできないの。分かったようなつもりにはなれても、お互いに言葉で分かってるねって確認し合っても、本当に理解できているのか、真実は分からない。理解や共感を求めて他と接触するくせに、そんなものは全部、幻想でしかないの。それってとても切ないことだわ。……室井さんの本を読んで、そう思ったことがある」
「ふうん?」
「きっと作者も切ないと思ってるんだ、って感じたの。それを思いだしただけ」
そうか、と静信は苦笑した。
「ねえ、聞いてもいい? 室井さんがいま書いているのは、どういう話?」
「……荒野をさまよう男の話」
沙子は首を傾げた。
「弟を殺してしまった兄が、街を放逐されて荒野をさまようんだ。その後を死んだ弟が追ってくる。――そういう話」
「死んだ弟が幽霊になって?」
「少し違う。屍鬼なんだ」
「しき?」
「屍の鬼。起き上がりなんだ。死体が起き上がって、墓穴を抜け出してきてるんだよ。村ではそれを鬼というんだけどね」
「……ああ」と、沙子は少し考え込むようにした。「幽霊とは違うのね? 起き上がりだから、ちゃんと身体があるんだわ。けれどもそれは死体としての身体なの。甦ったわけじゃない」
「うん、そう」
「けれどもゾンビのような単なる死体でもないのね? ちゃんと静信が宿っていて、人間と等価の存在なんだわ。けれども、生者ではない。ぜんぜん異質な存在」
言って沙子は、屍鬼、と口の中で繰り返した。いたくその単語が気に入ったようだった。得心したように笑う。
「いいと思うわ。とてもいい。――弟が屍鬼になって兄を追いかけてくるのね? それ、創世記でしょ? カインとアベル」
「うん……まあ、そう」
沙子は何度も頷いた。
「面白い。室井さんはお坊さんなのに、仏教でない宗教色の強い話が多いのね。今度は聖書でしょ? その前はギリシャ神話だったし、その前はネイティブ・アメリカン」
「ああ、そう言われてみるとそうかな」
「でもって、またカインなのね」
静信は瞬いた。
「また?」
「そう。異端者の話よね。カインって異端者でしょ? なんていうのかしら――理不尽に区別された者」
「聖書のカインには、それなりの含蓄があるんだよ」
「知ってるわ。聖書の話じゃなくて、室井さんの作風の話よ。神様に見放された者の話。カインって、そうじゃない? カインにしたらどうして自分が神様に拒絶されるのか分からなかったと思うわ。自分は理不尽に否定されて、疎外されてると感じたと思うの。だからアベルをねたんで殺したんでしょ?」
「そう読むのが普通だろうね」
「必ずそういう話なのね。神様に見放された誰かの話」
「そうかな」
沙子は頷いて立ち上がる。両手を背中で組んで、半壊した空洞の祭壇を見上げた。
「……角が生えた男の話。突然、角が生えてきて、男は常人と違ってしまった自分に怯えるの。謂われのない差別を受けそうで、懸命に隠してる。でも、男は神として崇められてしまうのね。そして奇蹟を要求される。奇蹟を施す力はないのに、角だけがある」
静信は歩き回る沙子を見守りながら、困惑した気分で頷いた。
「男は差別されないことに安堵したけど、奇蹟を施す力はない。それが他人に知られると、角は神の証ではなく、単なる異端の証明に過ぎないことに気づかれるんじゃないかと怯える。けれども誰も、いっかな奇跡が起こらないことで彼を責めない。――男はやっぱり異端者なの。それを神と呼んで聖別することで排除しているのよ。角は異端者の証だわ。カインにつけられた印のようなもの。それによって理不尽に否定されてしまって社会の中から排除されてしまう。主観的には謂われのない区別よ。でも、そこから逃れることができない。カインと同じ、でしょ?」
静信は頷いた。
「そのようだね」
「自覚してなかったの、室井さん」
「うん。いま、気づいた。確かにそうだ」
異端者という同形反復。
「面白いのね。わたしは室井さんの作品のそこが好きなんだけど。神様に見放された痛み、みたいなもの? ミノタウロスは自分が神でないことを見透かされ、排除されるんじゃないかと怯えて、自ら奇跡を起こすのね。罪人を殺すことで祟りを起こす。村人は彼を畏れ敬って、壁をひとつ築くの。つまり、彼をより遠ざけるのね。そして殺した数だけ壁ができて、彼の周囲には巨大な迷宮が作られていく。迷宮の奥深くに隠されてしまう。そして彼の怒りを静めるために|生贄《いけにえ》を差し出す。彼が望んだのは、神として振る舞うことで社会の中に入れてもらうことだったのだけど、社会は彼を拒み通す――」
沙子は言って足を止め、静信を振り返った。
「でも、不思議だわ。どうしてなの?」
「室井さんのお話は、全部そんなふうじゃない。でも、室井さんは神様に見放されているようには見えないわ。村の中の重要人物でしょ? 村の人はお寺の若御院が好きみたいだわ。みんな褒めるって、辰巳が言ってたもの。敬愛されて、村の中の重要な位置にちゃんと組み込まれてる」
「組み込まれてるのは確かだね」
「でしょ? でもって室井さんも村のことが好きみたい。とても大事にしてる感じを受けるわ。いつかのエッセイもそう。いまだって余暇を割いて、疫病対策のために走り回ってるんでしょ?」
「そうだね。……そう、ぼくは確かに村が好きだよ。大事だと思ってる」
「でも、作品はそんなふうなのね」言って沙子は悪戯っぽく笑い、背を向ける。「そして、傷がある」
静信は無意識のうちに時計を握っていた自分に気づいた。
「……なぜ?」
沙子が振り返って、静信は首を横に振った。
「分からない」
実際、静信は村を愛している。静信は疎外されていない。確かに信仰の要として組み込まれているし、村人は静信に対して敬愛を惜しまないだからこそ、静信もそれに報いたいと思うのだ。それで今も奔走している。
だが、同時に静信が何かから逃げ出そうとしたことも事実なのだった。沙子に指摘されるまで自分でも気づいていなかったが、静信の書くものは「神様に見放された」痛みによって貫かれている。ひょっしたらそれこそが、正体不明の衝動の由来なのかもしれなかった。
自分は心のどこかで「神様に見放された」と感じており、その痛みからかつて自分を殺傷しようとしたのかも。それは確かに、神に拒まれたカインの姿に重なる。だから自分は今回もまた、無意識のうちにカインを主人公に選んだのだろうか。
問題は、静信には「神様に見放された」という自覚がないことだった。なぜ自分がそんなふうに感じるのか理解できない。どう考えても自分はそんなことを思っていそうにないし、思う必要があるとも思えなかった。
「面白いわ。室井さんがあそこまで拘るからには、室井さんにとってそれは重要なことなんでしょう? なのに自覚もなければ、自分でもなぜなのか分からないのね」
「うん。そうなんだ」
「無意識が漏出してるんだわ。作家って不思議ね」
「……まったくだ」
静信は沙子と別れ、山道を辿りながら、一歩ごとに考えた。
静信の書いたミノタウロスは異端者だった。かれは角を得て異端者になるのだが、おそらくはその本質において、そもそも異端者だったのだ。角はそれを顕現してみせたにすぎない。カインが弟の殺傷という罪において、――そして静信が自己の殺傷という罪においてそれを現したように。
(けれども、なぜ?)
確かに静信は村に組み込まれている。それも信仰の要になる重要な位置に。静信の周囲にいる人々はそれを望んでいたし、もっと肝要なことに、静信自身もそれを望んでいた。沙子の指摘通り、静信は村を大切だと思っている。それなりの愚かさ、それなりの至らなさがあることは承知していたが、それを含め、良しとしてきた。
そしてまた、静信自身はカインのように不当な区別を受けたことがない。少なくとも、静信はない、と認識していた。区別はあるがそれを不当だと思ったことはなかった。尊崇や敬愛に対しては、ただひたすら感謝する。檀家の人人が静信に対し、ときに腫れ物に触るようにして接するのは、明らかに静信自身が招いたことだった。村の中にはそれをもって陰口を言う者がいることすらも知っていたが、それらを不当だとは思わない。確かに静信は、村の常識において、「あいつは」と指さされるだけのことをしたのだ。
不当な区別はない。理不尽に否定され、疎外されたと感じたことはなかった。ならばなぜ、今回もカインでなければならなかったのだろう?
静信は事務所に戻り、原稿用紙を広げた。
[#ここから4字下げ]
緑野は果てしないほどに広がり、やがて緑の合間に白い石と赤い土が混じり始める。柔らかな緑を蘚のように貼りつめた、起伏の多い丘陵地の果てには長大な城壁があった。堅牢なその城壁は、さながらその外部を住人の目から覆い隠そうとするかのように広がり、そして、その東の一郭には、小さな門が閉じている。
彼はその門から荒野に追い出されるまで、荒野を見たことがなかった。漠然と、不毛の地が広がっていることを知識として了解していただけだった。彼はおよそ、外界に興味を抱いたことがなかったし、そこに自分が在る風景など思い描いたこともなかった。彼にとって世界とは丘を示し、丘以外の場所は存在しないも同然だったからだ。
確かに、彼はある意味において、その丘で充足していたのだった。
野辺の一郭につましい住居を持ち、野に出てささやかな糧を得た。その頃には、まだ暖かな血の通った身体を持つ弟がいた。弟は緑野で羊を飼い、彼は住居の周囲に穀物を植え、二人の生活に事足りるだけの収穫を得ていた。隣人たちは温厚で心優しく、差し伸べられる手はいつでも温かかった。
振り返ってみれば、彼はそこで満たされていたように思う。そうでなければ何故、これほどまでに丘が恋しく、狂おしいほど慕わしく思えるだろう。
彼は実際、働くことが好きだった。家の周囲のなだらかな土地をそっと耕し、滋味を含んで黒い艶やかな色を見ることが好きだったし、土の匂いを好ましく思っていた。そこに種播き、やがて明るい黄緑の点が小さく芽吹くのを微笑ましく思っていたし、それが伸びてゆくのを見守るのは幸福なことだった。
大地と語らうようにして屈み込み、時に身を起こせば、周囲は一面の緑だった。なだらかな起伏の向こう、森の緑は頼もしく、その彼方に街の建物の突端だけが覗いている。ひときわ高い塔には真昼にも清々しい光輝が点り、それを見るたびに大いなるものに見守られている自分を確信できた。
緑野には野草が群れてささやかな花をつけ、そこに転々と白く綿毛のように羊が散って安穏と草を食んでいる。弟は時に、群を放れた羊を諭すように話しかけながら追い、時には綿羊の間に立って彼と同じように緑の森やその向こうの街の突端を眺めていた。手を休めた彼の視線に気がつけば、振り返って笑い、手を挙げる。
のどかな夕暮れ、厳かな晩鐘、人々はつつがない一日を光輝に感謝する。暖かな火影、満ち足りた夕餉、暖かな寝床と豊かな眠り、黄金の夜明け、鳥の声、風の肌触り、雨の匂い、羊小屋の寝藁の温み。
彼はそこで、本当に満たされていた。にもかかわらず、彼の中には硬い種子のように、ひとつの哀しみが生まれていたのだった。
世界はこれほどにも美しいのに、それは彼のものではない。
なぜなら、彼は異端者だったからだ。
[#ここで字下げ終わり]
[#改段]
[#ここから3字下げ]
七章
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
九月が終わり十月に入った。敏夫は九月のカレンダーを破り取る。
朝には石田から電話があった。昨日、門前の竹村美智夫が死亡したという。昼前には中外場に住む広沢豊子がやってきた。顔色が悪く、口が重い。敏夫はその顔を見て例のやつだ、と気づいた。
患者に丁寧な問診をする。そこで豊子は息子が最近、死んだこと、息子は高俊ということを告げた。
(息子から移ったのか――にしては、えらく間隔が開いている……)
敏夫は豊子の顔を覗き込みながら、ちょっと気になることがあるので、詳しく検査をすること、検査結果を聞くために明日も必ず来て欲しいことを告げた。
「はあ」
豊子は、例によって他人事のような顔で曖昧に頷いた。
「少し、経過を観察したほうがいいと思うんだ。予約を入れて時間を空けておくんで、そんなに手間は取らせない。必ず明日、来てもらえないかな」
「でも……疲れているだけだと思うんですけど。息子が死んで、気が抜けて……」
「だから心配なんだ。あんたの都合に合わせるよ。午前中が都合悪いなら、昼間でも夕方でも夜でもいい。なんだったら往診ということでも構わないから、必ず来てくれないか」
豊子は、ようやく頷いた。
敏夫も頷き、側に控えていた清美に目配せをして指示を出す。バイタルサインの計測、採血と採尿、骨髄穿刺と心電図、腹部と胸部のXP。清美は心得たふうに頷いて、豊子をどうぞ、と促した。
昼休みに入る間際になって、もう一人、水口に住む老人が例の症状でやってきた。患者は多く、午前中の患者がはけていないうちに、往診の依頼が入ってくる。敏夫はもちろん、看護婦たちも休憩を取る暇さえない。
律子がようやく食事にありついたのは、午後三時を廻ってからだった。夕方の診療も延びていて、帰宅時間がじりじりと遅れるようになっている。
「大変なことになってきたわねえ」
例によって、笑いながら、やすよが言った。
本当にねえ、と清美は笑い、弁当の残りを掻き込んで湯飲みに口をつける。もう麦茶よりも熱いお茶のほうが喜ばれる季節になった。
「あたしたちは、これで一休みできるけどね。先生は午後も明日も休みなしだから大変だ」
「あの」律子は湯飲みを見つめながら口にした。「これ、変なふうに取らないで欲しいんですけど……」
不審そうな目を向ける清美とやすよに、律子は弱く笑ってみせた。
「わたし――先生にお願いして、土曜の午後と日曜も出勤できるようにしてもらおうかと思うんです。あの……先生ひとりじゃ、あまりに大変だと思うんで」
清美とやすよは、顔を見合わせた。律子は慌てて言い添える。
「永田さんと、やすよさんが家庭があるのは分かってるんです。土日がないと大変ですよね。でも、わたしは別に世話をしないといけない人間もいないし、それに家も近いし。たがら、せめてわたしだけでもいれば、先生ももう少し休めるんじゃないかと思うんですよ。だから、言ってみようかな、って……」
清美は軽く噴き出した。
「やあね。似たようなことを考えてるわ。――ねえ?」
清美はやすよを見る。
「ホントにねえ。律ちゃん、染まってきたんじゃなァい」
「え?」
「だからね、清美さんと言っていたのよ。日曜にも病院を開けといたほうがいいんじゃないかって。若先生はきっと、あたしらに気を遣って何も言わないんだろうからさ、ここらであたしらのほうから音を売っとくのも悪くないわよね、って」
「……まあ」
清美は微笑む。
「先生はああいう人だから、よほどの状態にならないと、済まないけどやってくれ、なんて言わないでしょ。でもってその頃には、肝心の先生がぼろぼろになってるわよ。本当にこのところ休みなしで、夜中や明け方にまで駆り出されてるんだから」
「ええ……そうですね」
「だから、ここらであたしらも天使の一種だってことを思い出してもらおうかと思ってね。やすよさんと、そう言ってたの。でも、そうなると律ちゃんが気を遣うでしょ。雪ちゃんや聡ちゃんは、遠方だから出てこれないのは当然として、律ちゃんはそうじゃないし。でも、若い娘さんのデートのチャンスを邪魔するのもねえ」
「あの……」
雪が聡子と顔を見合わせる。
「あたしらも言ってたんです。実は」
「あらま」
律子らは、若い二人の看護婦を見た。
「だって、本当に先生、大変そうなんですもん。最近、疲れてるみたいでピリピリしてるでしょ? 患者さんだってこんなに多いし、土日に病院が閉まってるから、先生に遠慮して医者にかかれない人もいるし」
「そう、だから。あたしたち、先生に掛け合ってみようか、って言ってたんです。土日も来ましょうかって。そのかわり、村のどこかに寮を用意してくださいって。十和田さんだって先生にアパートを借りてもらってるんだから、できないことじゃないでしょ? なんだったらとりあえず病室でもいいし。そしたら近くなるし、あたしたちも楽だし……」
「一人暮らしの経験もできるし」と、言って雪はちらりと舌を出す。「親だって、近頃、忙しいの分かってるから、出してくれるでしょ。単に一人暮らししてみたい、じゃ、絶対に許してくれないけど」
「雪ちゃんらしいわ。ちゃっかりしたもんねえ」
「へへへ。それでね、言ってみよう、って話をしてたんです」
もしも、と静かな声を上げたのは下山だった。
「先生がその条件を呑んでくれたら、おれも一口乗せてもらおうかな」
律子はぽかんと口を開けた。
「だって、下山さんは奥さんと子供さんが」
「だからさ。家に妙なもんを持ち帰りたくないからね。どうせ、そう長いことじゃないだろう。先生がデータを取りまとめて、行政に動いてもらうことができるようになれば、うちだけが獅子奮迅することもないわけだし。それまで単身赴任ってのも悪くないね」
相談のうえ、律子らは敏夫を呼んで、その件を伝えた。敏夫は一瞬、目を丸くし、狼狽したように全員の顔を見つめた。
「おいおい。うちを破産させる気か?」敏夫は例によって憎まれ口を叩いた。「それでなくても、規定外の検査が多くて持ち出しなんだ。住居費と手当で破産確定だ」
そう言ったが、表情を見れば、それが本音でないことは明らかだった。
「それもサッパリして、いいかもしれませんよお」
雪の言に、敏夫は破顔する。
「だが、下山さんは困る。おれが奥さんに絞め殺されちまう」
「じゃあ、絞め殺される覚悟ができたらでいいです。手が必要になったら、そう言ってください」
下山が微笑んで、敏夫は笑い、そして軽く頭を下げた。
「――ありがとう」
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
翌日、敏夫は一本の電話に叩き起こされた。下外場に住む前田巌の訃報を伝える電話だった。家族が声をかけても目を覚まさない、という。息をしていないように思われる、もしかしたら死んでいるのかも。すぐに行く、と答えたものの、この日まで敏夫は前田家に往診に行ったことがなかった。あまり医者に縁のない家なのだろう、とにかく電話で道順を聞いた。
出かける準備をしていると、母親の孝江が起き出してきた。
「またなの?」
孝江でさえ、早朝の電話は訃報だと理解していた。理解せざるを得ないほどの死者が続いている。
「そのようだ」と、敏夫は答えた。
「いったい、何がどうなってるの?」
孝江の声は切迫した調子を孕んでいる。敏夫は母親の、怒りとも不安ともつかないものに歪んだ顔を見返した。
「あなたがそうやって出かけていくのは何度目? 村で何が起こってるの。どうしてこんなに次々と」
さあ、と素っ気なく答えて母屋を出ようとした敏夫の腕を、孝江は掴[#「掴」は旧字体。Unicode:U+6451]んだ。
「まさか、伝染病じなゃないでしょうね」
敏夫は驚いて孝江を振り返った。――そう、ここまでくれば、それを疑わないほうがおかしい。
「……分からない」
「分からないって。これだけ人死にが続いているのよ?」
「伝染病のように見えるのは否定しない。だが、検査しても陽性反応が出てこないんだ。検査結果からすると伝染病じゃない。だから分からない、としか言えない」
「でも伝染しているのね?」
「ここだけの話だが、たぶん」
孝江は敏夫の手から白衣を引ったくった。
「行くことはないわ。救急車を呼ぶように言いなさい」
「母さん」
「伝染するんでしょう? しかも正体が分からないってことは、予防できないってことじゃないの。あなた、そうやって人が死ぬたびに駆けつけてる自分が、いちばん危険な場所にいるってことを分かってるの」
敏夫は息をついて、軽く孝江の肩を叩いた。
「じゅうぶん気をつけてるよ。――呼ばれた以上、行かないわけにはいかないんだ」
「あなたでなくてもいいでしょう」
「村の外の連中は、まだこれに気づいてない。うかつに警告もできないし、だから簡単に外の医者に任せるわけには」
「冗談じゃありませんよ! どうしてあなたが、そんな危険なことをしなきゃならないの。万一のことがあったらどうするの」
「しかし」
「あなたはひとり息子なんですよ、分かってるの。あなたが死んだら病院をどうするの。まだ跡継ぎもいないのよ。恭子さんはろくに家に寄りつきもしないし――」
敏夫は息を吐いた。孝江の手からそっと白衣を取り戻す。
「いざとなったら、親戚筋から出来のいいのを容姿にすりゃいいだろう」言って、敏夫は笑う。「そうでなきゃ、母さんが再婚するってのはどうだい」
「敏夫!」
「……行ってくる」
敏夫は踵を返して、小走りに病院に向かった。鞄を提げて車に乗り込む。もう六時になろうとしていたが、周囲はほの暗い。夜が長くなった。
あれが孝江にとって「息子の身を案じるむということなのだ、と車を出しながら思う。別に息子を家を残すための道具だと見なしているわけではない。孝江にとって、自分と家は不可分のものなのだ。孝江は尾崎の一部であり、尾崎は孝江の拠って立つ場所だ。自分を一部として呑み込んだ尾崎を、息子に引き継がせる。孝江にすれば、この世で最も価値あるものを自分ごと息子に託そうとしているのだし、息子だからこそ、譲り渡してもいいと思っている。敏夫を後継者として受容することで、敏夫にも尾崎の存続に参与するという誉れを分け与えているのだし、これは孝江にとって愛情の発露に他ならない。
孝江の不幸は、息子が同じ価値観を共有していない、ということだった。敏夫は尾崎に執着がない。むしろ自分を戒める枷のように感じてきた。尾崎など絶えてしまえばいい、と呪ってみるほど敏夫はもう子供ではないが、絶えるなら絶えても構わないとは思っている。少なくともそれを防ぐために積極的に何かをしようとは思えなかった。
それでも敏夫が村に戻ってきたのは、尾崎のためではなく、尾崎を頼りにしている村人のためだ。彼らを落胆させたくなかった。政治的な思案に汲々としながら大学に残るより、患者に必要とされ感謝される生活を自分のために選んだ。
――ぼくらは家を残すための道具じゃない。
そう、山寺の跡取りは言った。まだ進路に迷う子供だった頃のことだ。
――自由意思のある一人の人間だ。だから、自分の望むように生きる権利がある、と思う。
家族ばかりでなく、村人もまた敏夫にも静信にも家を継ぐよう期待している。けれどもそれを背負う義務を、敏夫も静信も持たない。自分の未来は、自分の自由意思で決めていいはずだ。だが、他者の期待に背くためにあえて別の未来を選択することを、果たして本当に自由意思というのだろうか、と静信は言った。
村の者が敏夫や静信に期待を抱くのは当然のことだ。誰もが医者にいて欲しいのだし、住職にいて欲しいのだ。確かに医者も寺も、あるに越したことはない。不要なものというのならともかく、それは明らかに必要なもので、その存続は自分の意思ひとつに委ねられている。――結果、敏夫は村に医者を残す道を選んだ。
山の中に孤立した村、日本の同じような村々と同様に若者は流出し、年寄りばかりが残っている。彼らには医者が必要だった。だから自分がそれになった。自己犠牲ではない。他者に必要とされ、感謝される人生を選んだのだ。
(なのに、おれは何もできてない……)
敏夫はステアリングを握りしめる。夏以来、勢いをつけて増え続ける死者、これだけの人間が死んで、孝江ですら怪しむほどの異常事態に至っても、未だに解決の方策が見えない。患者は増え続けている。以前として致死率は百パーセント。く、死に至る機序さえ把握できない。
暗澹たる気分で前田家についた。明かりの点いた典型的な農家の玄関には、中年の女が待ちわびるようにして立っていた。家の地所に車を入れると駆け寄ってくる。
「先生、済みません」
「あんたは」
ぺこりと頭を下げたのは、前田元子だった。夏の最中、子供が車に撥ねられて駆けつけてきたあの母親。
「いつぞやは……どうも」
元子は、恥じ入るように言って頭を下げた。
「お久しぶり。茂樹くんは、あの後どうでしたか」
「おかげさまで特に何事もありませんで。本当に、あのせつは失礼しました」
前田茂樹が担ぎ込まれてきたのは、七月のことだったか。もう、はるか以前のことに思えた。もう十月だから、丸ふた月以上が経過したことになる。
「大事なくて良かった」
元子に促されて家の中にはいると、玄関先に中年の男が一人、途方に暮れたように佇んでいた。元子の夫だろう。
「容態がおかしいのはお舅さん?」
はい、と元子は頷いて奥へと案内する。茶の間を通り抜けた六畳に、二組の布団が敷かれ、その一方の枕許に老女が坐り込んでいた。
「ああ――先生、息が……お爺さんの」
両手をついて振り返ったのが元子の姑だろう。敏夫は頷き、枕許に座る。横たわったのは六十過ぎの男だった。すでに死相が現れている。敏夫は取りあえず脈を取る。触知なし、血圧もゼロ、瞳孔も散大。
「……亡くなってます」
わっと妻女が泣き崩れた。それを見つめ、敏夫は顔を覆った元子に目を移す。
「具合が悪かったんですか」
はい、と元子は頷いた。
元子が舅である巌の異変に気づいたのは三日ほど前のことだった。どうも怠そうで、食欲も落ちた。顔色も悪いように思われた。ずっと以前に、班を通してチラシが配られたことがある。元子はその内容を覚えていたし、だから巌も貧血ではないかと思ったのだった。チラシでは医者に行くよう勧めていた。だから元子も、病院に行ってはどうかと巌に勧めた。だが、「嫌だ」と巌は言った。
巌は壮健で、六十を過ぎるこの歳まで病気ひとつしたことがないのが自慢だった。そのせいか、他人が寝付いていても何か不始末でもしでかしたかのように言って責める性癖があった。実際のところ、特に持病もなく、風邪や腹痛で寝付いたこともない。毎日、元気に山や田圃に出て行く。その巌が傍目にも怠そうだったから、元子は気になってたまらなかったのだが、巌はそれが気に入らなかったようだった。医者にかかる必要などない、と言い張る。
「わしは別にどこも悪くない」
これに同意したのは、姑の|登美子《とみこ》だった。
「そうよ。お祖父さんは丈夫な質なんだから。だいたいあんたは心配のしすぎ。すぐに大騒ぎするんだから」
「でも……」
登美子は声を荒げた。
「そりゃ、お祖父さんも人の子だから、ちょっとばかり具合の悪いこともありますよ。でも、そんなのは山に入って汗を流せば治るもんよ。病気をするのはね、不摂生をするからよ。お祖父さんなんて、未だにちゃんと働いてて、朝だって早いし、夜更かしだってしないし。お酒も飲まなきゃ煙草も吸わない。それでどこがどう悪くなって言うの」
「ええ……でも……」
「うるさい」と、巌は露骨に機嫌が悪かった。「今日は早めに寝る。それで治る」
それ以上は強くも勧められず、元子は口を噤んだが、やはり気になって仕方がなかった。巌は健康なだけでなく、意気盛んな老人で、機嫌を悪くすると口やかましい。それが必要最低限、それだけで口を噤んでしまったのがらしくなかったし、機嫌を損ねると元子などは身が竦むほど怖いものなのに、怖いと思わせるほどの覇気がなかった。そして、その翌日も治ったようには見えなかった。依然として巌も登美子も、何でもないの一点張りだったが、元子は不安で堪らず、おろおろと口を挟んでは二人を怒らせた。
そもそも巌も登美子も、元子が小心なのが気に入らないのだ。心配性で怖がりなのは、巌らにとって弱いことと同義で、弱いことは良くないことなのだった。はっきりものを言わない、何というと口ごもる、心配をしすぎる、すぐに胃痛や頭痛を起こす、と舅姑は元子を責める。元子がそんなふうだから、孫まで神経質だ、と元子は叱られてばかりだ。自分は実際、気弱すぎるという自覚があったので、元子も懸命に気に病むまい、くよくよすまいとするのだが、舅や姑の及第点には至らないようだった。
「どんなふうに具合が悪かったんだい?」
敏夫に訊かれ、元子は感じたところを述べた。敏夫は溜息をつく。
「医者には?」
「いえ……お祖父ちゃんが、寝てれば治るって言うものですから……」
弾かれたように登美子が顔を上げた。
「そうよ。本当に、一回だって寝込んだことはなかったんだから。そりゃあ、丈夫な人で、不養生だってしなかったし」
そう、とだけ敏夫は言った。
「急性心不全だろうね。それ以上、詳しいことは病理解剖してみないと分からない」
「解剖……」元子は血の気が引くのを感じた。「あの、お祖父ちゃん、解剖されちゃうんですか?」
「冗談じゃありませんよ」登美子は泣きながら声を荒げる。「お祖父さんを切り刻むなんてとんでもない」
「医者にかかってないからね。本来的には、最後に見てから二十四時間以内に死んだんでないと、死亡診断書は出せないんだよ」
登美子は敏夫をねめつけた。
「分かりました。――で、お幾ら出せば、診断書を書いてくれるんです」
「お義母さん」
元子は声を上げ、敏夫と登美子を見比べた。
「それはどういう意味ですかね」
「そういうことなんでしょ? 出すもの出さないと、診断書も出せないっていう」
「そういうことを言ってるんじゃない」と、|傍目《はため》にも敏夫が気を悪くしたのが分かった。「あんたは旦那が元気な人だったという。元気な人がどうして突然、死ぬんだい。どっか具合が悪かったんだよ。あんたはどこが悪かったのか、知りたいとは思わないのかね」
「そんなこと知ったって、今さら取り返しがつくもんじゃないでしょう」
「まあ、そうだな」敏夫の声には棘が露わだった。「具合が悪いときに医者に診せなきゃ、取り返しのつけようもない」
登美子は敏夫をねめつけ、そして元子を振り返った。
「だいたい、あんたが煩く言うからよ」
元子は思わず後退り、瞬く。
「病院に行け行けって、常日頃から。なんでもないことに大騒ぎするから。だからお祖父さんは――だから」
登美子は言葉を見失ったように突っ伏して声を上げて泣き始めた。夫の|勇《いさみ》が駆け寄って母親の背中を撫でた。身を縮めた元子の肩を敏夫が叩いた。そつと部屋の外に促す。
「……気にしないほうがいい。お祖母ちゃんは気が立っているんだ」
「はい……」
敏夫は溜息をつく。
「おれが責めたせいだな。申し訳ない。まあ、巌さんの健康を過信して医者に見せなかったのが本人にも悔いになってるんだろうな」
そうですね、と元子は呟いた。
「あの、解剖は」
「無理には勧めないよ。本音を言うと勧めたいところだけど、遺族の意向を無視するわけにもいかないんですね。ただ、本当に原因不明じゃ診断書は書けないんだ、本来はね」
「はい……申し訳ありません」
「せめて採血させてもらっていいかね。最低限の資料が欲しいんだ。そうでないと、こっちも問題になることがあるんで」
「はい、でも」と、元子は六畳のほうを見た。果たして登美子がうんというだろうか。
「死後の処置をするんで、ちょっとお義母さんたちに席を外してもらう。そのときに、どうだろうね」
元子は不安に思いながらも頷いた。敏夫は礼を言い、六畳に戻る。登美子に説明をして、席を外させた。新しい着替えを持ってきなさい、と言われ、元子はそれを探しに行く。
「おかあさん、何かあったの?」
二階に上がると、茂樹と志保梨が不安そうに部屋から顔を覗かせた。
「ちょっとね」と、元子は言い、寝ているように言う。「お客さんが来ているから、部屋から出ちゃだめよ」
頷いた二人を見守り、元子は胃のあたりを押さえた。
ちゃんと言うべきだったろうか。お祖父ちゃんが死んだのだ、と。だが、突然の死をどう伝えていいのか分からない。下手な伝え方をして心の傷になるようなことがあったら、と元子は竦む。――心配しすぎる、という義父母の言い様は不当ではない。実際に元子も自分はいろんなことを考えすぎる、と思う。こうやって迷って、とりあえず嘘をついたことが、二人を余計に傷つけるのかもしれない。結局のところ、誰かに相談して、こうしろ、と言ってもらえなければ何をする踏ん切りもつけられないのだった。
重い息を吐いて、元子は納戸に入った。|経帷子《きょうかたびら》を着せて納棺するまで、普通は寝間着か浴衣、でなければ着物を着せておくのが慣わしだった。登美子は浴衣を、と言ってたから、浴衣でいいのだろう。箪笥を探り、できるだけ綺麗なものを探し出す。
(とうとう、うちでもお葬式だわ……)
元子は何気なく、そう思った。山入で老人たちが死んだのは夏のことだった。その前後にも葬式があった。友人の加奈美の知り合い――正確には加奈美の母親と仲の良かった誰かが死んだらしい。加奈美の「ちぐさ」では、夏以来、死に事が続く、葬式が多い、という話題が出ていた。実際、元子も「ちぐさ」で頻繁にどこそこで葬式だという話を聞いたし、実際に葬儀を出している景色を見かけたことがある。今年は変だ、と誰もが言う。そのたびに元子は「そうね」とだけ答えてきた。人死にが多いのは事実だ。――少なくとも、死んだという話が多かったのは事実。
(でも……)
元子は不意に鳥肌が立つのを感じた。話の上だけだったものが、自分の身の回りで事実になった。これが死というものだ。それが続いていた、夏以来。
元子は背後を振り返る。不安そうに頷いた二人の子供たち。
(余所者が来た……)
元子は頭を振る。それと巌の死は何の関係もない。巌は事故で死んだわけではない。
(村に……余所者が……)
関係ない。だから、元子の子供を奪っていく者などいないはずだ。
――国道にさえ行かなければ大丈夫。
元子は自分に強く言い聞かせた。
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
「ちょっと、タツさん、聞いた?」
タケムラの店先に、大塚弥栄子が駆け込んできた。
「前田の巌さんが死んだんだって」
へえ、と声を上げたのは佐藤笈太郎だった。
「あのとっつぁんが。あのくらい元気な人もいないと思ってたのになあ」
タツが訊くと、弥栄子は今朝、と答えた。
「朝、登美子さんが起きたら、隣で冷たくなってたんだってさ。びっくりするじゃない、ねえ?」
「なにかしらねえ」と、大川浪江が渋面を作った。「どうしてこんなに人が死ぬのかしらね、今年は。うちの松村さんとこの娘もさ、こないだ死んだのよ。富雄が葬式、采配してねえ」
「あらまあ」と、弥栄子は頷く。「うちもよ。大塚製材の息子が死んだからさ」
変ね、といったのは広沢武子だった。
「なんだかさ、変じゃない。こんなに人が死ぬなんて。夏以来でしょ。ほら、山入で人が死んでさ、もう五人」
「五人」と、笈太郎が目をぱちくりさせた。「そんなにいるもんかい」
「いるよ」と、武子は憤慨した。「山入で三人だろ、でもって大塚の息子と、村松の娘なんじゃないの。五人じゃない」
弥栄子が手を振った。
「だから、巌さんが死んだんだってば。六人よ、だから」言って、弥栄子は首を傾げた。「あれ? 違うわ、つい最近もこんな話をしたわよねえ」
ああ、と笈太郎が手を叩いた。
「中埜の息子だよ。そういえば死んだんだった」
「あら」と、大川浪江は指を折る。「じゃあ、七人?」
「待ちなよ、まだいるよ。ほら、清水の娘が死んだじゃないか。でもって、大川だよ。浪江さん、あんたんとこは縁続きじゃないのかい。大川の茂くんが死んだんだ」
「そうだわ」と、浪江は狐につままれたような顔をした。「じゃあなに? 九人?」
「そんな馬鹿な」武子は口の中で唱えながら、指を折っていった。「七で、八、九……あら、本当に九人だわ」
タツは息を呑んだ。|鳩尾《みぞおち》のあたりで悪寒がした。
「駐在を忘れてるよ」
あ、と老人たちは声を上げる。それぞれが呆気にとられた顔をした。タツはそれを見やり、さらに心の中で唱える。それだけじゃない、何度も葬式で村を出入りする車を見た。安森工務店でも葬式があったし、たしか丸安の製材所でも死人が出ている。誰とは分からないけれども、それとは別に最低でももう二、三軒。――この数は異常だ。
「こりゃあ、郁美さんじゃないけど、変だよ。絶対にどうかしてる」
笈太郎は猫のように顔を拭った。
「変ったって……」武子は周囲の顔色を窺うようにした。「だって、別に事故ってわけじゃないし。みんな病気で死んでんだろ?」
「まさか、伝染病じゃないだろうね」
笈太郎が言うと、浪江が手を振る。
「そりゃあ、ないわよ。伝染病だったら役所から色々言われるもの。ほら、隔離したりさ。確か、伝染病だと土葬にできないのよ。昔、お父さんから聞いたことがあるわ」
「でも、そうでなくて、どうしてこれだけの人間が死ぬんだい? それも三月――いや、実質、八月と九月、ふた月の間だよ」
「でも、伝染病はないわよ」
おそるおそる、というふうに声を上げたのは弥栄子だった。
「まさか本当に、何かの祟りなんじゃ」
「祟りって、何の」
「何だか分からないけど。……ああ、ほら、あちこちの庚申さまが壊れてたことがあったじゃない。確か、神社の弘法さまも壊されて。あれの祟りとか……」
「馬鹿馬鹿しい」武子は鼻で笑った。「あんた、郁美さんに感化されてんじゃないの? そうでなきゃ、大塚製材の感化よ」
「違うわよ。そりゃ、あたしだって馬鹿馬鹿しいとは思うけど、だって妙じゃない」
「およしよ」と、タツは口を挟んだ。店の前の村道を、郁美がやってくるのが見えた。タツの視線を追って、年寄りたちがいっせいに口を噤む。
「あら、郁美さん、お久しぶり」弥栄子が取ってつけたような明るい声を出した。郁美は笑い、そして店を通り過ぎようとする。「あら、郁美さん、寄ってかないの」
郁美は足を止めた。
「ちょっとね。忙しいのよ、あたしもね」
「どうしたんだい」笈太郎は瞬いて、そうだ、と声を上げる。「あんた聞いたかい。前田の巌さんが死んだってさ」
そう、と郁美は笑った。これ見よがしに溜息をつく。
「こうなることは分かってたけど、可哀想にねえ。じゃあ、ちょっと寄ってみないといけないかしら。大変だわ、本当に忙しくて」
タツは眉を顰めた。
「あんた、葬式の出た家に行って、祟りだなんだと言ってんのかい」
「あら。だって教えてあげないとね。やっぱり。後々続いたら困るでしょう。一人死ぬと、家族を引いていくことがあるから」
「御苦労なことだね」
タツは皮肉を含ませていったが、郁美は機嫌よく笑った。
「感謝されてるのよ。そりゃあ、ものの分からない人もいるけど、世の中、道理の分からない人ばっかりじゃないから。最近、ちょくちょくお祓いしてくれって人が来てさ」
おやまあ、と武子が目を剥いた。
「家の方角はどうだろうとか、相談されちゃってね。これも人助けだから、あたしも気持ちよく相談に乗ってあげるんだけど」
タツは、素っ気なく頷いた。そうか、と思う。それで郁美は上機嫌なわけだ。
「知らない仲じゃないんだから、何かあったらみんなも言ってちょうだい。特に弥栄子さんと浪江さんね。縁続きで人死にがあったでしょう。気をつけなさいよ」
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
田茂定市が事務所に顔を出したとき、静信は法事がひとつ終わって一息ついたところだった。事務所には静信だけだった。光男は例によって雑用で奔走しているし、鶴見らは法事のために駆けまわっている。夏以来の死者のための法事が、積もり積もって寺を忙殺し始めていた。
「若御院、聞きましたか」
何を、と静信が定市に問うと、定市は困り果てたような顔をした。
「中外場の昌治さんなんですがね」
静信は背筋を伸ばした。中外場の世話役、小池老だ。
「昌治さんに何か――?」
「いや、それが。昌治さんがどうしたわけじゃないんですが、あそこの息子一家がね、いなくなったっていうんですよ」
静信は虚を突かれて瞬いた。
「いなくなった?」
「ええ。ゆうべね、氏子の寄り合いがあったんですよ。中外場の三安が越したって話は御存じですか」
「ええ、聞きました」
「三安の誠一郎さんが、中外場の村方世話役でね、その人が突然、引越しちまったもんだから、代わりを立てないといけなくてね。そろそろ霜月神楽のことも考えないとならないんで。それで、とりあえず小池の昌治さんに相談しようってんで来てもらったんですわ。――まあ、寄り合いっていっても、そういう相談だから、雑談と大差なくてね。例によってみんなで夜中まで飲んで、くだ巻いてたんですけど、それで昌治さんが帰ったら、家の者がいなかった、って話なんですよ」
そんな、と静信は呟いた。
「昌治さん、驚いてうちに連絡してきてね。いったいどうしたんだろうって心配してたんですけど、そうしたら今朝になって――ついさっきですわ。近所の者が、昌治さんの留守中に例の高砂運送、あれが来てたって教えてくれたらしいんですよ」
「越したんですか? 昌治さんをおいて? 何の相談もなく?」
そうなんですよ、と定市は頭を抱えた。
「わたしも呆れるというか――どうなってるんですかね、近頃の村は」
定市は顔を上げ、静信の顔を覗き込んだ。
「若御院、何か聞いてないですか、尾崎の若先生から」
静信は定市の縋るような顔を見返した。
「流行り病だって噂があるんですけどね」
「流行り――病」
「夏からね、多いでしょう、死人が。悪い病気でも流行ってるんじゃないか、ってみんな言ってはいたんですけどね、半分は冗談みたいなもんだったんですよ。けれどもね、つい一昨々日も、竹村の美智夫くんが死んだでしょう。こいつはおかしいんじゃないか、本当に伝染病なんじゃないかって」
まさか、と静信は答えようとして答えられなかった。わずかに首を横に振った。
「若御院、どうなんです? なんでも若御院は方々に出向いて、いろいろと話を聞いているって話じゃないですか。それは――」
「定市さん」静信は先を制した。「ぼくには答えられません。どうしても気になるのでしたら、敏夫に直接、訊いてください」
定市は押し黙って、静信の顔をまじまじと見つめた。
「……近々、区長会議を招集させてもらってもよろしいですかね」
「その前に、三役だけで」
静信が言うと、定市は頷いた。黙って頭を抱え、深い溜息を落とした。
静信は定市を見送ると、光男に留守居を頼み、寺を出た。まっすぐに中外場に向かい、小池老を訪ねる。小池老は広い家の中にぽつりと坐り、虚脱したように背を丸めていた。
「小池さん」
縁側から声をかけた静信に気づくと、小池は、ことりと会釈する。なんのために静信が来たのか、分かってる様子だった。
「あの――定市さんから話を聞いて」
「とにかく上がんなさい」
静信は一礼し、茶の間へと上がり込む。小池は座るよう、視線で示しただけで、やはり力が抜けたように身動きしなかった。
「息子さん一家がいなくなったとか」
小池は深く頷く。
「まったく……何を考えてたんだか」
「本当に出て行ってしまったんですか」
「らしいな。近所の者が、荷物をトラックに積み込むところを見ててね」
「保雄さんは何か言い残していかなかったんですか?」
小池は首を横に振った。
「伝言もなけりゃ、書き置きもない。さっき勤め先に連絡したら、三日も前に辞めてやがった」
辞めた、と静信は口の中で復唱した。小池の息子、保雄は確か、溝辺町のNTTに勤めていたはずだ。
「辞める理由は何も言ってなかったらしくてね。呆れた話だよ。息子がねえ、わしに黙って仕事辞めて一家連れて出て行ったってんだから、情けないやら悔しいやら」
言って、小池は掌の付け根で目許を押さえるようにした。
「あの……事前に何か、それらしいことを言ってなかったんですか。失礼ですが、何か諍いがあったとか」
何も、と小池は投げ出すように言う。
「ゆうべ帰ったら、家がまっまくらでね。全員が全員、寝るような時間じゃないし、近頃は孫が宵っ張りでね。それで、何事かあったんだと思ったんだわ。孫が具合でも悪くなったんだろうかって」
小池は自嘲するように口許を歪めた。
「人の子のほうがね、一昨日から具合が悪かったもんで。立ち眩みってのかな、風呂上がりに坐り込んでね。それで寝かせてあったんだ」
静信は、どきりとして小池の震える口許を見つめた。
「保雄もぼーっとしたふうだったし、嫁も何だか気分が優れないふうでさ。おまけに孫はその有様で、上の子も何だか青い顔しててね、それで一家揃って風邪でも引き込んだのかと思ってたんだわ。……そしたら、何のとこはない、あいつら、胸に納めたことがあって、黙り込んでただけなんだ。さすがにわしに後ろめたかったのか、含むところがあったのか」
「……小池さん」
小池は何の意味でか、首を横に振った。
「そんなこととは思わねえで、家の明かりが消えてるのを見て、下の子が具合悪くて病院にでも連れて行ったのかと思ってね。肝を冷やしたら、出て行ったって」
「待ってください。小池さん」
静信は小池に|躙《にじ》り寄った。
「具合が悪かったんですか? 下の子――郁生くんですよね、確か」
「ええ」
「郁生くん、どんな具合だったんですか。熱はありましたか?」
いや、と小池は落ちくぼんだ目を瞬かせる。
「熱があるふうじゃなかったなあ。脳貧血ってやつ、あれだろうって言ってたんで。もともと瘠せた子で、貧血気味で低血圧ってんですか、それでね。顔色は紙みたいに真っ白でしたけど、熱はなかった」
「頭痛とか、吐き気とかは」
「いや。別にそういうことは言ってませんでした」
「それが一昨日ですか?」
「はあ」
「保雄さんはどうです。他の人は? 似たような感じですか」
「上の子は似たような感じだったなあ。ぼうっとしたふうで。――いや、ぼうっとしたのは保雄か。怠そうというか、眠そうというか。妙な目つきで……こいつ酔っぱらってるのかなと」
「ちょっと待ってください。それは誰の話です? 上の――董子ちゃん? それとも保雄さん?」
ええと、と小池は呻いた。
「分からない……わしは」
「ひょっとして、皆さん似たような状態だったんですか?」
静信が言うと、小池はぽかんとしたように静信を見返してから、そうか、と呟いた。
「そうです――そうだ。確かに、みんな似た按配だったんです。どうもぼうっとしたふうでね、なんて言うんですか、なんか目ばっかりぎらぎらしててね。妙に据わってるんですよ、目が。そのくせあらぬところを見てる感じで――」
「憑かれたような……?」
「そうですわ、それ」
「それが一昨日から?」
「一昨日――なのか。その前の日だったのか。けれどもそのくらいです」
「保雄さんが辞めたのと、同じ頃ですよね?」
「ええ、そうです。そういう計算になりますわな」
まさか、と静信は思った。ひょっとしたら、一家は発症していたのではないのか。それはあまりに、例の病気の前駆症状に似ている。そして突然、仕事を辞め、そして転居した。仕事を辞めたところまでは清水隆司らと同様だ。その後が違うだけで――。
「保雄さん一家は、最近どこかに出かけませんでしたか。村の外じゃなくても、村の中でもいい。たとえば山に入ったとか、山入に行ったとか」
「いや、別に……」
「では、誰かを訪ねたとか、訪ねてきた人がいるとか、そういうことは?」
「それも別にないと思うけどね」言ってから、小池は思い出したように、「そう言えば、嫁が兼正の住人に会ったとか言ってました」
静信は眉を顰めた。
「桐敷さん――ですか」
「はあ。夜に、近所に回覧板もって出かけて、その帰り道に桐敷の旦那にあったとかで。それでちょっと立ち話をしたとか言ってましたが。今度、遊びに来てくださいよ、って言ったら、奥さんと娘を連れてくるって。あそこの娘、うちの下の孫と同い年くらいだそうで。そう言ってたらしいですけど、それきり別に来たって話は聞いてねえなあ」
「そうですか……」
何か事件はなかったか、それこそ虫に噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]まれたとか、その程度のことでもいい、そう言ったのだが、小池は特にこれということを思い出せなかったようだった。ともかくも慰め、静信は小池の家を辞去する。帰り道、尾崎医院の前を通ったので車を停めた。
これを敏夫に伝えておくべきかどうか――静信は少し迷った。敏夫は疲れているのだ。重大な事態を前に焦っているし、精神的なプレッシャーに喘いでいる。実際のところ、静信が転居者に時間を割くのは、敏夫にしたら時間の浪費以外のものには見えないだろう。気持ちは分かる。その苛立ちも、無力感も。だから寄って、わざわざ小池老の話を伝えることは躊躇われた。
だが、一家は発症していた可能性がある。静信では見極めがつかないが、敏夫が直接小池老から話を聞けば、見極めがつくかもしれない。どうしようか迷い、結局、静信は車を降りて病院の裏手に向かった。
この日は日曜だったが、玄関は開いていた。開けるようにした、という話を、静信は敏夫から電話で聞いている。それで控え室を覗き込んだが、敏夫の姿はなかった。診察中なのだろう。声をかけようかどうしようか悩み、
とりあえず勝手に控え室に上がり込んでメモを書いて残した。どうするかは――敏夫が決めるだろう。
敏夫は昼休みに控え室に戻ってそのメモを見た。小池老の一家が転居したこと、保雄が無断で辞職していたこと、その頃から一家の具合が悪かったこと。話を聞く限りそれは例の前駆症状に似ていること――。
良かったら、小池老に話を聞いてみてくれ、と静信は結んであったが、敏夫はそのメモを投げ出した。具合が悪かった、という言葉は気になるが、転居者にかまけている暇はない。今日も朝から叩き起こされて、全身が泥のように疲れていた。
気にならないわけではない。だが、それは静信の言い訳に見えた。無理にも疫病と転居を結びつけて、自分の行動を正当化しようとしているように。
今でなくてもいい。――敏夫はそう思い、ソファに身体を投げ出し、目を閉じた。
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
村迫宗貴は精米の機械を止めて倉庫を出た。宗貴の家は村に一軒だけの米穀店だった。そもそもは格別良いということもないが、悪いということもない商売だが、近年になって米の流通が様変わりした。店もそれに合わせて変えていかざるを得ない。溝辺町の同業者の配達区域が拡大したせいもあって、最近では日曜だからといって休んでいられなかった。
とはいえ、父親の宗秀はまだまだ元気だし、妻の智寿子も嫌がらずに店を切り回してくれる。年中無休で店を開ける、と決めたときには不安だったが、やってみるとさほどの困難はなかった。まだ手のかかる子供が二人いて、智寿子は家事をしながらだから大変だろうが、これに関しては不平を言ったことがなかった。そんな智寿子に感謝してか、それとも単に孫が可愛いからか、宗秀も気を遣って、何かというと自分が留守番をするから子供を遊びに連れて行ってやれ、と言ってくれた。
倉庫から店に戻ると、その智寿子が、待ちかねたように奥から転がり出てきた。
「あなた――博巳の様子が変なの」
宗貴は手袋を脱ぎながら、智寿子の顔を見る。
「変って」
「ぐったりとして元気がないの。でも、熱もないし、下痢もしてないようだし」
ふうん、と宗貴は呟いた。そう言えば昼食のとき、いつになく博巳が穏和しかったような気がする。
「博巳はなんて言ってるんだ?」
「何も」智寿子は首を振った。「どこか具合が悪いんじゃないの、って訊いてもきょとんとしてるし」
「風邪かな」
宗貴の言葉に、智寿子は低く呟いた。
「また正雄くんに何かされたんじゃないかしら」
「智寿子」
宗貴は咎める調子だ。智寿子はキッと顔を上げた。
「あなたはいつもそうやって庇うけど、正雄くんが博巳を苛めてるのは確かなのよ。妙な痣をこしらえてるのだって、しょっちゅうなんだから。博巳を脅して口止めしてるの。でも、智香だってそう言ってるし、博巳だって否定しないわ」
宗貴は溜息をついた。
「しかしな……」
「正雄くんは博巳が気に入らないの。智香もよ。お祖父ちゃんが、博巳や智香のほうに興味を示すのが我慢できないのよ」
「親父は充分以上に正雄を可愛がってるよ」
「正雄くんにとっては、それじゃ不充分だってことでしょ。初孫ができるまで、お祖父ちゃんの興味を独占してきたんだもの」
宗貴は半信半疑の様子だ。宗貴はいつも、父親の宗秀は正雄に甘い、と言うが、宗貴だって甘いと思う。もう子供ではないのに、まだまだ庇護を必要としている子供のように正雄を扱う。
そもそも、と智寿子は唇を噛[#「噛」の字は旧字体。Unicode:U+5699]んだ。正直なところ、智寿子と正雄は折り合いが悪い。それは智寿子自身も自覚していることだ。
智寿子は宗貴の明るい屈託のない|為人《ひととなり》に惹かれて結婚した。その智寿子の目から見ると、正雄は暗く、屈折が多すぎる。常に人を上目遣いで見る、そのくせ決して視線を合わせようとしない。隙を窺うような目つきで見て、人を試すような振る舞いをするし、絡む。
――義姉さんは、兄さんのどこがいいの。
結婚することが決まって、何度目かに会ったとき、正雄にそう訊かれた。明るい屈託のないところ、人望のあるところだ、と答えると、正雄は卑屈な笑みを浮かべた。
――じゃあ、おれたみいなのは、嫌いだろうね。同居なんて我慢できないんじゃないかな。
そんなことはないわ、と智寿子が否定するのを待ちかまえている顔だった。好きよ、という言葉を待っている。さりげなく、そう言わなければ同居に差し障りがあるぞと恐喝しながら、正雄は褒め言葉を|強請《ゆす》り取ろうとしているように見えた。
――まだ分からないわ。正雄くんを良く知っているわけじゃないし。
――きっと嫌いになるよ。おれ、兄さんほど出来が良くないし。
そのようね、と答えたいのを我慢して、自分がなんと答えたのか、智寿子は覚えていない。覚えているのは、その時以来、正雄が嫌いになった、ということだけだ。智寿子はそもそも、義弟が気に入らなかった。夏場や風呂上がりに妙な目で智寿子を見ているのも気味が悪い。何度か、しげしげと干した下着を見ている姿を見かけ、以来、自分の下着は正雄が学校に行っている隙に始末するようになった。
「ねえ、病院に連れて行ったほうがいいんじゃないかしら」
「そうだな」と、宗貴は困ったふうに笑った。「様子を見て、本当に具合が悪いようなら、連れて行ったほうがいいかもな」
「そんなんじゃ、だめ。すぐに行かないと。どこか調子が悪いのよ。もしもそれが頭を打つかどうかしたせいだったら?」
おいおい、と宗貴は目を丸くした。
「考えすぎだよ」
智寿子は頭を振る。
「怖いの。このところ、あちこちでお葬式が続いているでしょう? 気のせいかもしれないけど、それですごく不安なのよ」
「まあ、葬式は確かに多いかな」宗貴は表情を曇らせた。「だからって博巳は関係ないだろう? そんなふうには考えられない?」
智寿子が再度、首を振ると、宗貴はよし、と声を上げた。
「じゃあ、明日いちばんに――」
「今からじゃだめ? 尾崎医院、近頃は日曜日にも開けているのよ」
「へえ。――まだ間に合うな。今から連れて行くよ。なんでもなければ、智寿子も安心できるしな」
「ありがとう」
智寿子は智香を隣に預けると、元気のない博巳を急かして着替えさせた。博巳の手を引き、宗貴の車に乗り込もうとしたところに正雄が帰ってきた。
「へえ、出かけるんだ」
「博巳の具合が悪いんだ。ちょっと病院に連れて行ってくる」
宗貴が言うと、正雄は薄笑いを浮かべて博巳を見る。
「兄貴も博巳には甘いなあ。おれが風邪引いても、寝てりゃ治るっていうくせにさ」
宗貴は正雄を無視して車に乗り込んだ。
「大事にされてて良かったなあ、博巳」
正雄が後部座席を覗き込んできて、思わず智寿子は正雄を睨んだ。正雄は何か言いたそうにしたが、車が動き出したので結局、口を噤んだ。
尾崎医院は、平日ほどでもない混み具合だった。たいして待たされることなく診療室に入り、問診を受ける。智寿子は「ひょっとしたら頭でも打ったのじゃないかと思って」と敏夫に懸念を伝えた。
「頭を打った? どういう状況で?」
「いえ、そういうこともあったかもしれないって――。この子、不器用で始終転んだり、階段から落ちたりしてるものですから」
そう、と敏夫は答えただけだったが、どこか気遣わしげな表情だった。検査には時間がかかった。以上に丁寧なように、智寿子には思われた。
「頭部に異常はないな」
敏夫が言ったとき、もう患者は他に残っていなかった。宗貴と智寿子、博巳の三人だけが取り残されていた。
「ただ、貧血が出てる」敏夫はまるで、それが難病の告知でもあるかのような口調で言った。「ひょっとしたら、難しい貧血かもしれないな。ちょっと経過を観察するから」
智寿子は青ざめた。宗貴も同様に顔色を変える。
「それは、たとえば白血病とか――」
「今の段階ではなんとも言えない。とりあえず、予約を入れておくんで明日も来てもらえるかな」
智寿子は救いを求めるように宗貴を見た。宗貴にしてみれば、智寿子の不安を取り除いてやろうという、それだけのために博巳を連れてきたつもりだった。まさか敏夫にこんな顔をされることになるとは思わなかった。
まさか、と思う。……まさか、うちでも葬式を出すことになるのじゃないか。
「……それは、だいぶ悪いのかい」
昔なじみの気安さで、宗貴は敏夫の顔を覗き込む。本当のところが聞きたかった。
「本当に、今の段階ではなんとも言えないんだよ。ただ、貧血にも色々あってさ。種類
によってはガクッと悪くなることもあるから、目を離さないようにしたいんだよ。博巳くんはまだ小さいし」
「ああ……うん」
「トイレの回数と、尿の色には気をつけてやったほうがいいな。もしも血尿があったりしたら、夜中でもいいんで連れてきて。それ以外でも、具合が急に悪くなるようなことが――たとえば、息苦しそうにしているとかがあれば連絡して」
ああ、と答えながら、宗貴は手が震えるのを感じていた。まさか――こんなことになるなんて。
抱き上げるには大きく重くなった息子を抱えて車に戻った。後部座席に座らせると、隣に座った智寿子が、恐ろしいものから守ろうとするように博巳を抱き寄せた。気と、ほんの僅かのドライブを、宗貴も智寿子も無言で通した。
家に戻ると、宗秀が不機嫌な顔で待っていた。
「こんな時間までどこに行ってたんだ」
「すみません」智寿子は詫びた。「博巳の具合が悪くって。それで病院に」
なに、と宗秀は博巳の顔を覗き込む。
「寝かせてきますね」
智寿子はそれだけを言って、博巳の手を引いて二階に上がった。宗秀は不満そうに宗貴を見る。
「それにしても、二人がかりで行くほどのことなのか。今何時だと思ってる。配達から戻っても店番がいない。夕飯の支度をしてる様子もない」
「正雄に行って出たんだけどな」
「あいつは部屋に閉じこもったまま出てこん。あいつだけを残して留守番の役に立つものか。――それで? 博巳は大丈夫なのか」
それが、と宗貴は口を濁した。
「ちょっと難しい病気かもしれないって。貧血らしいんだけど、貧血にも色々あるからって言ってた」
宗秀は目に見えて狼狽した。
「まだ、はっきりしたことは分からないみたいだけどね。とにかく明日も連れてこいって。具合が悪くなったら連絡してくれって、マジな顔で言われちゃってさ」
宗秀は押し黙る。
「なに、博巳、本当に具合が悪いの」
声がして、振り返ると正雄が店を覗いていた。ああ、と宗貴の声は、自然、低くなる。
へえ、と正雄は言う。
「それで義姉さん、顔色が変わってたんだ。最近、死に事も多いしさ」
「正雄、縁起でもないことを言うもんじゃない」
宗秀の叱責に、正雄は薄笑いを浮かべた。
「事実だろ。最近、葬式ばっかりだもん。うちだけは特別だなんて思わないほうがいいんじゃない? 確率ってのは個人的な心情に頓着してくれないもんだからさあ」
「正雄!」宗秀は声を荒げる。「その言い方はなんだ」
正雄は怯んだ様子だったが、すぐにまた薄笑いを浮かべた。
「だって事実だろ」
「正雄」宗貴は口を挟む。「よせ。それ洒落にならねえぞ。博巳は本当に具合が悪いんだ。ひょっとしたら難しい病気かもしれない」
へえ、と正雄は呟く。
「まあ、そういうこともあるよ。死なない人間なんていないんだからさ。そこで血相を変えるのは、自分だけは、って傲ってた証拠だよ」
正雄、と宗貴が怒鳴る前に、宗秀が怒鳴った。
「お前、なんだ、その物言いは! お前には情ってものがないのか!」
「なんだよ……」正雄は一歩退る。「ちょっと言ってみただけだろ」
「軽口のネタにできるようなことか!」
「おれが言ったんじゃない、そういうふうに言う奴もいるってだけの話で……」
「もういい」宗秀は吐き捨てるように言って、宗貴を見た。「――智香は」
「隣。預けて出たんだけど」
「連れに行ってくる」
憤然とした様子で出て行く父親を見送り、そして宗貴は正雄を振り返った。正雄はどこか傷ついた顔で、同じように父親を見送っていた。宗貴の視線に気づくと、顔を歪めて二階へ駆け戻っていった。
[#改段]
[#ここから3字下げ]
九章
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
武藤は目覚ましの音で目を覚ました。――十月三日、月曜日。
大きく寝返りを打って息をひとつ吐くと、家の中の賑やかな物音が耳に流れ込んでくる。慌ただしく家の中を走り回る足音は、おそらく保のものだろう。それに向かって何かを言う葵の声が聞こえていた。静子の用意する朝食の匂いが微かに流れている。
目覚めは悪くなかった。先週から、妻の静子が事務を手伝いに来てくれるので楽だ。溜まっていた書類もこの土日、静子と十和田の手を借りて、とりあえず処理することができた。肩の荷をひとつ降ろしたような気がする。
かえして言えば、自分はそれだけ疲弊していたのだと思う。こうやって手伝ってもらうことのできる自分はいいが、誰も手伝うことのできない敏夫の疲労を今さらながら再確認した。
(若先生は大変だ……)
それを配慮した看護婦たちが、土日にも出勤すると言いだした。昨日には村の外から通ってきていた二人の看護婦が村に越してきて、とりあえず尾崎家の持っている貸家に納まっている。
(いい子たちだ……)
病院はスタッフに恵まれている。これで敏夫も少しは楽になるだろう。それも常日頃、敏夫がスタッフを大事にするからなのだし、そう思うことは気分が良かった。静子がパートで来てくれるから、武藤にも余力ができた。土日に付き合うくらいのことはできる。十和田も手伝うと言っているし――。
布団の中でトロトロと、そんなことを考えていると、静子の足音が寝室の前を通り過ぎていった。手伝ってくれるのはありがたいが妻も大変だな、と思う。パートに出て、その他にいつも通り家の中の用事を片づけるわけだから。そう思うのは、つねづね病院でやすよや清美の愚痴を聞いているからなのかもしれない。
「徹、いい加減にしなさいよ」
二階に向かって声を上げる静子の声が聞こえる。徹はまだ起きていないのか、と思った。二十歳にもなってまだ母親に起こされないと仕事に行けないのか、と思うと、情けないようでもあり微笑ましいようでもある。
「徹ってば。遅刻するわよ」
武藤はようやく身体を起こした。
「あんた、今日も休むの?」
階段を昇っていく静子の声を聞くともなく聞きながら、そういえば、と武藤は思った。徹は一昨日の土曜日、仕事を休んだのだったか。「風邪をひいたから休むんですって」と、静子が呆れたように言っていたのを思いだした。静子は徹がサボったのだと思ったらしい口調だった。
かつん、と小さく何かが胸の中で引っかかる感じがしたが、武藤にはその理由が分からなかった。耳は聞くつもりもないのに家の中の物音を拾い、頭は吟味するつもりもないことを思い出している。
「――徹!」
静子の強い声が真上から遠く聞こえた。武藤は同時に大きく伸びをし、どうしてだか、そういう自分の暢気な振る舞いに違和感を覚えた。自分が何かそぐわないことをしているような感じ。何に対して「そぐわない」と感じるのかは自分にも分からない。
徹、と再び静子の強い声がした。金切り声のように聞こえた。おや、と思い、天井を見上げると同時に、再度、静子の悲鳴じみた声がした。
「お父さん! お父さん!」
武藤は布団を跳ね除けて立ち上がった。急速に、良くない予感のようなものが立ち込めてくるのを感じていた。馬鹿な、と思う。悪いことなど起こるはずがない。そう思いながら部屋を飛び出すと、きょとんと階段のほうを伺っている保に出会った。どうしたの、とこれまた暢気そうに葵が洗面所から顔を出す。
武藤は二階へ駆け上がり、寝室の真上にある徹の部屋に向かった。静子は部屋の入口でへたりこんでいた。
「――お父さん、徹が」
「どうした」
部屋に飛び込もうとしたが、静子がパジャマの膝に縋りついてきたので果たせなかった。徹の六畳間には布団が敷かれ、徹はそこに横たわっている。部屋の中は締め切られたカーテンのせいで暗かったが、窓が細く開いているらしく、吹き込む風がカーテンを揺らし、時折、鮮明な明かりが射し込んだ。
その明かりが、一瞬、徹の寝顔を照らし出した。徹は半ば目を開いて、あらぬ方向を見ていた。
「――徹」
武藤は縋りつく静子を引き剥がし、大股に布団へと歩み寄る。膝をつき、息子の顔を覗き込み、虚ろに半ば開いている目を見て、それが微かに混濁しているのに気づいた。あらぬ方角を見たまま動かない。それどころか、瞬きすらない。もう一度、名前を呼んでこちらを向かせようと息子の顔に手をかけ、指先にひやりとした皮膚の温度を拾った。
体温がない。もう、冷たい。こちらを向かせようとした力以上に、あらぬほうを見たまま動こうとすまいとする徹の身体は頑なだった。
「徹……おい」
まさか、と思う。こんなことがあるはずがない。何かの間違いだ。早くどこが間違っているのか気づかなければ、取り返しがつかないことになる。
「お母さん、どうしたの?」
葵の声が聞こえた。階段を上がってくる足音。来てはいけない、と武藤は振り返った。戸口に坐り込んで同様に背後を振り返っている静子、階段を上がってくる葵、その後を追うように、保が何か下から言っているのが聞こえる。
(来るな)
誰も見るのじゃない。誰も知らなければ、なかったことになる、と馬鹿げた思考が浮かび、同時に危険に近づくのじゃない、という危機感のようなものが浮かんだ。
「どうしたの?」葵は怪訝そうに部屋の中を覗き込む。「お兄ちゃん、どうかしたの?」
何も、と武藤は言いたかった。何でもないから、下に行っていろ。だが、武藤は低い自分の声を聞いた。言ったという自覚はなかった。
「……病院に電話してくれ」
「え?」
「病院に電話して、若先生に来てくれと言うんだ。急いで」
「お兄ちゃん、どうしたの」
武藤は答えられなかった。葵の背後から保が怪訝そうに覗き込む。
「具合、悪いの?」葵の顔が不安に硬直するのが見て取れた。「救急車、呼ぼうか? そのほうが」
「いいんだ。若先生を呼びなさい」
「でも」
「……お兄ちゃんは、死んでる」
静子が座ったまま飛び上がったふうに見えた。血相を変え、そのまま這ってこようとする。葵が、保が部屋に飛び込んでこようとするのが分かった。
「とにかく電話するんだ!」
徹に近寄せてはならない。
「ここはこのままにして、先生に来てもらうんだ。保、お母さんを下に連れて行け」
でも、と保がたたらを踏む。這ってきた静子を抱き留め、叫んで徹に縋り付こうとするのを力ずくで押し戻す。
「降りてなさい。保、連れて行くんだ」
「でも」
「いいから」
畳に爪を立てる静子を、むりやり部屋の外に押し出す。保に押しつけるようにして襖を閉じた。近寄らせてはならない。――隔離しなければ。
思って、武藤はその場にへたりこんだ。
例のあれだ。そうでなくてどうして、こんなにも唐突に息子が逝ってしまうわけがあるだろう。
「なんで……」
気づかなかったのだ、もっと早くに。そう、徹は土曜に仕事を休んだのだ。風邪だと言っていた。それがどれほど恐ろしい言葉だったか。だが、武藤はそれに気づかなかった。なぜだかそれは、武藤たちを避けてくれるような気がしていた。
大丈夫だと思っていたのだ。なぜなら、武藤はそれを分かっていたから。疫病に気づいていないのならともかく、武藤は疫病の存在を知っていた。だから、物陰からそれが襲いかかってくることはないのだと、なんとなくそう思いこんでいた。
「……どうして」
なぜそんな誤解をしたのだろう。なぜ分かってやれなかったのだろう。息子の危険に気づかず、みすみす息子を死なせた。
いや、と武藤の中の理性は思う。敏夫はまだ原因も治療法も分からないといっていた。いったん発症したら、最悪の事態になるしかないのだ。だから武藤がそれに気づこうと気づくまいと、結果が変わったわけではない。
自分にそう言い聞かせるものがあったが、到底、武藤は自分でもそれを信じることはできなかった。自分が気づけば助かったのではないかと思う。どこかの時点で、自分が誤らなければ、修正は可能だったはずだ。今からでも遅くない。何か正しい方法があるはずだ。全てを正常に戻すための方法が何か。
だが、そんな方法など存在しないことは明らかだった。
「……済まん」
武藤は畳に突っ伏した。
「済まなかったなあ、……徹」
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
静信に武藤徹の訃報を伝えたのは、中外場の世話役である小池老だった。
「事務長さんとこの長男さんが亡くなって」
小池牢は、わざわざ寺にやってきてそう言った。
「事務長――武藤さんですか? 徹くん?」
「そうだ。若御院、この村はいったいどうなっとるんだ」
小池に言われて、静信は返答に窮した。
「死に事が多すぎるとは思わんかね。死に事だけじゃない。わしの息子だって――」
言って、小池は口を噤む。
「わしは、この歳まで生きてきて、こんな妙な目に遭ったのは初めてだよ。やたら人が死んで、やたら人がいなくなる。普通じゃ考えられるような妙な案配のことがあまりに続く。こないだまで、村は普段通りだった。それが最近の村はどうかしてる。若御院はそう思わんかね」
「……そうですね」
「伝染病だって噂を、若御院は知っとるかね」
「聞いてます」
「実際のところ、どうなんだね」
「ぼくには分かりません」
「兼正の女房と娘は身体か悪いというじゃないか。それが村の連中に移ったということは考えられんかね」
静信は眉を顰めた。
「それはあり得ません。桐敷さんの奥さんと娘さんはSLEといって膠原病です。膠原病は伝染しませんから」
「じゃあ、兼正が何かしてるという話は」
静信は明らかに怒っているふうな小池老の顔を見返した。
「兼正の住人だよ。あいつらが越してきてから変だ。わしだけじゃない、みんなそう言ってる」
「それは……無関係でしょう。越してきてから、とおっしゃいますが、実際には桐敷さんのところが越してくる以前から死に事は続いています」
「死に事だけのことを言ってるんじゃない。この村は変だ、という話をしとるんだ。そもそも、兼正の土地にあんな家が建ったところから、この村はどうかし始めたんだ」
「小池さん」静信は小池老の目を見る。「どうかしている、とは具体的に何を指しているんですか?」
小池は黙した。
「村が変だということは、わたしも認めます。死に事が多すぎるのは確かで、何か原因があるのかもしれません。けれども桐敷さんのところは無関係でしょう。あの一家が越してこられたのは、村で死に事が続き始めた、その後のことです。転居が多いことも認めます。それもはなはだ、不審な転居が多い。何がどう変だとは言えませんが、尋常の転居じゃない、それが続いているのは確かだと思います。小池さんのところを筆頭に、何かがおかしいのは確かです。兼正の家が変わっていることも認めます。桐敷さんが一風変わった人々だと言うことも認めます。けれども、桐敷さんが変わった家に住んでいることと、死に事や転居の間に何の関係があるというんですか?」
「いや……それは」
「どう関係するというんです? 桐敷さんが何をできるというんです? 亡くなった人たちは別に誰かに殺されたわけではなのですよ。明らかに病死です。桐敷の奥さんと娘さんは病気を抱えていますが、これは他人に移るようなものじゃありません。関係のしようもないでしょう。引越した人たちだって、誰かに拉致されたわけじゃないんです」
「それは、そうだが」
「お願いですから、冷静になってください。小池さんの落胆は分かりますが、小池さんがそんなことをおっしゃると、村の人たちはそれを信じてしまいます」
「わしは……別に」小池は目を逸らす。「息子がどうこう、というわけじゃ」
小池は言ったが、静信の目からすると、息子に捨てられた衝撃を老人が引きずっていることは明らかだった。それを誰かのせいにしたくて、スケープゴートとして余所から入ってきた桐敷家にそれを負わせようとしている。理不尽な排斥に向かって踏み込もうとしているように見えた。
「とにかく今は、武藤さんのところです」
小池は、ああ、と気まずげに呟いた。
「そう、それを相談に来たんだった。武藤さんに聞いたんだが、あちらは寺の檀家に入っているんだって?」
静信は頷いた。
「ええ。武藤さんのお母さんの十三回忌のときに、身近に墓を移したいということで」
寺の斡旋で墓所を求め、墓を移して檀家に入っている。だが、と静信は思った。火葬にするべきではないだろうか。村の者は土葬に対して拘りがある。火葬に対しては抵抗が大きい。だが、武藤家はそもそも村の者ではない。これまで死者を火葬にしてきたのだ。だったら抵抗はないはずだ。火葬にしたほうが安全なのだが、と思う。
「埋葬はどうなさるんでしょう。これまで荼毘にしてこられたのだし、納骨できるお墓もお持ちなわけですし」
「いや、村の慣例通りにということなんだ。尾崎の若先生もこれまで通りにしたほうがいいんじゃないかと勧めたようだがね、奥さんがせっかくだから、と言って」
静信は頷いた。武藤は村に墓所を求めたときから、そもそもそのつもりだったのだ。村の一員として、何事かあれば弔組の手を経て墓所に埋葬され、そうやって完全に村に根付くことを考えていた。武藤は事情を分かっているだろうから、諭せば火葬に同意するだろうが、いまさらそれを強く勧めるのも躊躇われた。
「そういうことなんで万事、慣例通りってことで。戒名は相応でいいということなんで、枕経を頼みますな。通夜は今日、葬儀は明日、いつも通り昼前ってことでいいかね」
「……結構です」
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
律子が休憩室にはいると、すでに敏夫がいて、ぐったりとした様子で椅子のひとつに腰を下ろしていた。おはようございます、と声をかけたが、帰ってくる声は低い。目線を合わせようともしないので、よほど疲れているのだろうと思い、黙ってコーヒーを淹れに立った。
コーヒーを淹れているうちに、やすよが出勤してきて、十和田が出勤してきた。それを配る頃には雪と聡子が到着した。妙にむっつりとした敏夫のほうを気にしながら、引越の首尾を話しているうちに清美がやってきた。
「武藤さん、遅いわね」
清美が時計を見上げたときだった。
「――武藤さんは来ない」敏夫が低い声で口を挟んだ。「忌引きだ」
え、と律子は敏夫の顔を見返した。疲労の色が濃い、いたく気落ちしたふうな――。
「何かあったんですか」
勢い込んだのは、やすよだった。敏夫はむっつりと頷いた。
「徹くんが亡くなった。武藤さんとこのいちばん上の息子さんだ」
そんな、と律子は絶句した。まさか、と問いかけるような声を上げたのは誰だったろうか。これに対して、敏夫は再び、むっつりと頷いた。
あれだ、と思った。律子は目眩を感じた。前方にだけ注意していたから、いきなり背後から足下を掬われたような気がした。
「そんな……」
「手の空いた者は、折を見て悔やみに行って構わない。弔組がいるんで人手は足りてるようだが、みんなも武藤さんの顔を見ないと落ち着かないだろう。通夜が終わるまでに診療が終わるかどうかも怪しいしな。明日は葬式の間だけ、休診にするから」
敏夫は自分でも、脱力しているのか、怒っているのかが分からなかった。いずれにても対象は武藤でも病気でもなく、自分自身であることだけは確実だった。
疫病、深刻な事態。空回りしている間に、スタッフの家から犠牲者が出た。なぜ徹の不具合に気づかなかった、と武藤を責めたかったが、それは不当だということを敏夫自身、分かっていた。武藤は家にも仕事を持ち帰っていた。この休日にも出勤してきている。妻の静子もその手伝いに追われていた。その状態で息子のことにまで目が届くだろうか。それも両親の庇護を必要とする幼い息子というならともかく、徹は立派な大人だ。
だが――この病にかかった者は、自ら不調を訴えない。それどころか本人自身が不調に気づいてないふうですらある。家族が気づかなければ、どうにもならない。
もっと、注意させるべきだった。まずスタッフの安全について考えるべきだった、と思う。ひょっとして、と恐ろしい疑惑が首を擡げる。徹は何からそれに感染したのだろう。人だろうか、媒介生物だろうか。そうであれば構わない。だがもし――病院から持ち出した何かだったら。あるいは武藤が不顕性感染していたとしたら。
(そんなことを考えてる場合じゃない……)
今は診療時間中だ。しっかりしなければ。
思いながら、何をするのも億劫で、敏夫は椅子に深く身体を預けて後悔に浸っている。ようよう机の上に目を戻し、何をすれば良かったのだか、と内心で首をひねって、そもそもどうして自分はぼんやりしてているののだろう、と不審に思った。
ぼんやりしている暇などないはずだ。なのになぜだか、目の前に患者はいないし、側に指示を待っている看護婦がいるわけでもない。これはどういうことだろう、と背後を振り返って首を巡らせると、俯いていた律子が顔を上げた。困ったように微笑む。
「……いらっしゃいませんね」
敏夫はその言葉の意味を取りかねた。律子が言葉を補う。
「広沢の豊子さん」
そうか、と思った。広沢豊子の予約時間なのだ。だから時間を空けてある。敏夫は急速に覚醒した気がした。
「まだ来てないのか?」
「ええ」
またか、と敏夫は内心で悪態をつく。どうして、どいつもこいつも、と癇癪を起こしたい気分がした。ちょうどその時、診察室に顔を出したのは清美だった。
「先生、いちばんにちょっと出てきます」
敏夫は頷き、ついでに、と声をかけた。
「済まないが、武藤さんとこの帰り、広沢豊子さんのところに寄ってくれないか」
清美は瞬いた。
「来てないんですか? ――ええ、分かりました」
頷いた清美が戻ってくるまでには小一時間がかかった。清美は狐につままれたような顔をしていた。
「どうだった」
敏夫が訊くと、口ごもる。
「あの……広沢さんなんですけど」清美は珍しくぼそぼそと、「いません」
「いない? 出かけてるのか?」
「そうじゃなくて……あの、引越したんだそうです、ゆうべ」
敏夫はまじまじと清美の顔を見た。
「なんだって?」
「わたしも、びっくりして。いったら誰もいなくて、戸締まりがしてあったんです。どこか開いてないかと思ってウロウロしてたら、隣の人が出てきて、広沢さんならゆうべ越したって」
「馬鹿な……」
そんなことは言ってなかった。あれだけ豊子に念を押して、豊子だって来る、と頷いたはずだ。
どうなってるんだ、と言いかけ、敏夫は静信の言を思い出した。村では不審な転居が続いている。そう、いつかメモをもらった。どこかの家が転居して、その前に家族の具合がおかしかったらしいと――。
敏夫は立ち上がり、メモを探しに行こうとして、清美が何か言いたげに身体をもぞもぞと揺すっているのに気づいた。
「――なんだ?」
「いえ。……全然、関係ないですけど」口ごもり、口ごもり、清美は言う。「なんだか、その……広沢さんといい、妙な気がして……いえ、別に病気とは関係ないんですけど」
「どうしたんだ」
「武藤さんとこの徹さん、仕事を辞めてたんですって」
敏夫は清美に向き直った。
「辞めた?」
「ええ。武藤さんも知らないうちに、会社に電話して辞めるって――それが、二日前の話だっていうんです。でも……二日前っていうと、これまでの例から考えて、もう具合の悪かった頃ですよね……?」
確かに、と敏夫は思う。今朝死んだのだから、徹は数日前から体調を崩していたはずだ。
「まさか、徹くん、知ってたんでしょうか、この病気のこと。それで……でも、何も言わないで……」
「まさか」敏夫はいい、さらに静信の言葉を思い出していた。「――そういうことじゃないだろう」
「そうですよね」安堵したように、清美はちょっと笑みを零す。「考えすぎですよね」
敏夫は頷いたが、背筋が冷えていくのを感じていた。徹は村外通勤者だ。そして、他にも村外通勤者が、突然に辞職していたと、静信は言ってなかったか。
敏夫は控え室に向かい、デスクの上のフォルダを漁る。静信から預かったメモも何もかも、全部ここに入れてあるはずだ。
少し漁ると、すぐにそれが見つかった。
そう、中外場の小池だ。息子一家が突然、家出した。それ以前に、息子一家は具合が悪かったらしい。そして息子の保雄は、小池老も知らないうちに辞職していた。
二十二プラス一名の姓名が記されたメモ。このところの転居者たち。敏夫はそれを改めて見つめ、そこに「前原セツ」という文字を見つけた。セツは患者だった。ずっと長いこと通院していたのに、そういえばもうずっと顔を見ていない。最後に会ったのはいつだったろう、そう記憶をまさぐって、どこかでセツの名を聞いたような気がした。
いつだったか、律子と話をしなかったか。確かセツが薬を過剰に使っているとか。
敏夫は椅子に腰を下ろす。
(そうだ……山入で事件が起こった日だ)
そんな話を律子とした。セツは橋本病で甲状腺ホルモン剤を投薬されていて、それを勝手に――。
敏夫は|蟀谷《こめかみ》に指を当てる。甲状腺機能低下症の場合、症状はまず全身の倦怠感だ。そして感情の鈍磨。それは貧血の症状に似ている。
「そうか……」
セツは病状が悪化したのじゃない。あの時点で例の疫病に罹っていたのだ。それを病状の悪化だと思って薬を余計に使用した。律子が薬を二日分だけ出して、月曜に必ず来るように言ったが、セツは来なかった。それきり来院していない。いないはずだ。セツはその月曜に村を出てしまっている。
山入|堙滅《いんめつ》は八月六日のことだ。セツの転居が八日。そしてセツは発症していた。セツは心臓に障害がある。もしもあれなら、弱った心臓を直撃しただろう。それでなくても発症してから数日、セツの場合は三日と持たなかったのに違いない。
「ギリギリだ……」
セツは月曜の早朝――深夜と言っていい頃に転居している。だが、その頃のセツは、もはや朦朧としていた時期だろう。体調は悪かったはずだ。本人に自覚があったかどうかはともかくも、身動きに差し障るほど悪化していたはずだし、下手をすれば心不全の症状が出ていてもおかしくない。
にもかかわらず引越した。その理由も行く先もメモには書かれていない。田茂定市がこれを調べたのだったか。定市にも分からなかった、ということだろうか。
「……あり得ない」
これまでの事例から考えて、セツが引越などできるはずかない。最善の場合でも、もはや支える者がなくては、満足に歩くこともできなかったはずだ。そもそも予定していた転居だったにせよ、運送屋が何もかもやったにせよ、セツに采配ができたはずもないし、ましてや本人がそこからの旅に耐えられたはずがない。家族がいればともかく、セツは独居老人だった。
しもし、と敏夫は息を呑んで、静信から委ねられた紙片を見つめた。ここに書かれている一家の全てが発症していたとしたら。敏夫は机の上に放り出したままのグラフを見た。横軸に日を、縦軸に罹患者数を取っている。現在の時点では罹患者数は死亡者数そのものだった。いまのところ、それは横軸に沿って切れ切れに続く点線でしかない。伝染病ならこれは波を描くはずだが、まだはっきりと波形を描くほどの罹患者が出ていない。
敏夫はペンを手に取った。紙片に書かれた名前を辿る。前原セツは一人暮らしだった。猪田元三朗には妻がいた。家族構成を思い出し、仮に転居した一家の全員が発症したものとしてグラフに書き込んでいく。家族構成がはっきりしない家は、看護婦に聞いてみた。それでも分からない家は便宜上、三人として数える。
全てを書き込んで、敏夫はしばらくそのグラフを見つめた。それは八月の初め、切れ切れの点として現れ、一週、二週と日を重ねるうちにごく小さな波を形作り、次第に高くなり、九月に入って明らかな連続する波形を現した。
「……そういうことか」
敏夫はようやく悟った。静信が拘っていたのはこれだったのだ。そして、静信が思っていた以上に、疫病と転居の――あるいは辞職の間には強い関連性がある。
小池老に会わなければ。会って息子一家の様子について問いたださなければ。
そして、静信に会う必要がある。
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
静信はとりあえず支度をして、武藤家に向かう。武藤の落胆は酷かった。武藤は良く知っているだけに、落胆を見るのは辛い。ましてや武藤が自分を責めているふうだったからなおさらだった。
「なんで気付かなかったのか……」武藤は目を真っ赤に泣き腫らしている。「土曜にね、休むって言ったんですよ。会社は休むって布団から出てこないで、……そこでおかしいと思わなきゃいけなかったんだ」
静信は何か慰めの言葉をかけようとしたが、実際のところ、出てくる言葉はなかった。死に至る数日間。武藤はこれを見逃したのだ。武藤が自分を責めずにいられない気持ちは分かった。これを慰撫しようとすれば、事前に気がついても助ける方法はなかったのだと、そう言うしかないが、もちろんそれが武藤の悲劇を軽減するとは思えなかった。
「おまけにあいつ、会社を辞めてましてね」
武藤が顔を拭って、静信は息を詰めた。
「……辞めて」
「ええ。ひょっとしたら、あいつ、分かっていたのかな、と思うんですよ。わたしはことさら徹に何かを言ったことはなかったですけど、徹は気付いてたのかもしれないです。こいつが、罹ったらもうどうしようもない病気なんだってことに。それで……」
それは違う、と静信は思った。
(まただ……)
徹は溝辺町に勤めに出ていた。清水隆司らと同じだ。
静信はそれを言うべきか迷い、武藤にそれを知らせることに意味を見出せずに口を噤んだ。なんと言えばいいのだろう? それはこの疫病の特徴のひとつだ、とでも言えばいいのか。因果関係などあるはずがない。言ったところで武藤に意味があるはずがない。
枕経を上げて武藤家を辞去し、寺に戻って法事の準備に追われながら、静信はひどく困惑していた。
疫病と辞意の間には、関連性があるように見える。不審な転居との間にも、何らかの関係があるように見える。しかしながら、どう考えても、関連などあるはずがなかった。
(単なる疫病だと思っていいのか)
しかしながら、これが疫病でなかったら、何だというのだろう? 小池のように、誰かの謀略だとでも言おうというのか。
分かるのは、これが尋常の事態ではない、ということだった。疫病だ、だから原因を探し、防疫方法を探して治療法を模索する。それは妥当な手段のはずだが、そんな尋常の方法で本当に事態を止められるのか、という気がした。これは敏夫や静信には手に負えない種類のことではないのか。もっと力のある誰かが、事に当たらなければ無為に時間を浪費するだけでないのか。
静信は考え考え、そしてし空き時間を見つけて保健係の石田に電話をした。
「……ああ、若御院」
「あの――例の件なのですが、どうなっていますか?」
静信が問うと、石田は一瞬、何のことか分からない、というような間を作った。
「……どう、とは?」
「ですから、石田さんがデータを取りまとめて、溝辺町のほうへ送っているんですよね? 何か反応はありましたか」
石田は狼狽したように言葉を濁した。
「ええと……ええ……いえ」
「調査をしようとか、なにか指示はないのですか」
「あの……ありません」
静信は溜息をついた。これだけの死者を、行政はどう思っているのか、と暗澹たる気分になる。
「これは出過ぎかもしれないのですが、少しせっつくというか――兼正に話を通して、動いてもらったほうが良いのではないでしょうか。このまま、町がその気になってくれるのを待っていては埒が明かない気がするのですが」
そうですね、と同意する石田の声は、辺りを憚るような調子だった。
「ああ、済みません。隣に誰かおいでですか?」
「あ、いえ……その」
「とにかく、兼正の耳に入れるだけでもしておいたほうがいいと思うんです。事情を説明して、担当の方と少し話をしてもらったほうが」
「はあ……そうですね」
「担当者のお名前が分かりますか? とにかくまず、個人的に話をしてもらって」
静信が言いかけたとき、石田がそれは、と口を挟んだ。
「――何か?」
「いえ……その」
静信は眉を顰める。石田の応答は、いかにも歯切れが悪く、明らかに狼狽している様子だった。
「石田さん、どうかしたのですか?」
「ああ、いえ」
「データは上申されているんですよね?」
「はあ……その」
ふっと直感のようなものが胸をよぎった。
「してないのですか?」
石田は答えない。言葉にならない呻くような声で、自分が的を射たことを静信は悟った。
なぜ、と言いかけ、理由はひとつしかないことに思い至る。
「……敏夫ですか」
再び石田が呻いた。静信にとっては、それで充分だった。敏夫の気性は良く分かっている。敏夫が具体的に何を思い、どう石田を言いくるめ、何を指示したのか――それは分からなくても、それがどういう性質のものだったかは分かる。
「……分かりました。お仕事中、済みません。敏夫と相談してみますから、石田さんは気になさらないでください」
静信が言うと、石田は小声で、済みません、と詫びた。
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
夏野が学校から家に帰ると、一枚のメモがダイニング・テーブルの上で夏野を待っていた。母親の書いたメモだった。
[#ここから2字下げ]
おかえりなさい。
武藤くんのところの
徹くんが亡くなりました。
私達は手伝いに出かけます。
これを読んだらあなたも来てください。
[#ここで字下げ終わり]
夏野はしばらく、その短いメモをじっと見つめた。
[#ここから2字下げ]
武藤くんのところの
徹くんが亡くなりました。
[#ここで字下げ終わり]
どうしても、二行だけ、うまく意味を把握できない文章があった。母親は何を慌てていたのだろう、と思う。こんな書き方をしたら、まるで徹が死んだようじゃないか。
夏野はしばらく、母親がこの一見して徹の訃報を伝えるかのような文章で、本当は何を伝えようとしたのか、想像してみようとした。どんな単語が脱落し、文章上のどんな過ちが起こっているのか。
ダイニング・キッチンに立ちつくしてメモを眺めている間、声をかけてくる者はいなかった。家の中の物音は絶えている。工房のほうからも音が聞こえなかったので、本当に両親は出かけているのだろう。
[#ここから2字下げ]
私達は手伝いに出かけます。
[#ここで字下げ終わり]
夏野はそれをじっと見つめる。次いで、どうしても意図を読み取れない二行に戻った。
[#ここから2字下げ]
武藤くんのところの
徹くんが亡くなりました。
[#ここで字下げ終わり]
じっと文字を眺めたまま、夏野は思う。とにかく武藤家に行ってみよう。行ってみれば両親が本当はどこの家の手伝いに行ったのか、武藤家の誰かが知っているかもしれない。そして、ついでに徹たちにこの話をしてやろう。母親のうっかりしたミスが招いた、ブラック・ジョーク。
(……本当のはずはない)
徹と恵とは違う。夏野とも。だって徹は、村を出ることを望んでなんかいなかった。
村迫正雄もまた、その訃報を学校から帰ってから聞いた。家族に促され、慌てて武藤家に駆けつけると、見慣れた家には鯨幕が張り巡らされ、喪の装いを終えていた。
人混みを掻き分け、いつものように縁側に回ると、やけに暗い着衣の人々が家の中にも溢れている。居間の隅のほうで肩を寄せ合うように据わった葵と保の姿が見えた。声をかけると、二人が顔を上げる。正雄は家の中に上がり込んだ。
「保――あの」
坐ったまま正雄を見上げた保の目は真っ赤になっている。葵は涙に濡れた睫毛を瞬かせた。何か声をかけなければならない、と正雄は思う。こういう場合に、言わなければならないことがある。それが口から出てこない。
「おれ……びっくりして」
保は頷く。頷いただけで言葉はなかったので、やはり正雄は次の台詞に詰まった。自分を持て余していると、葵が正雄の背後に目をやる。振り返ると、正雄同様、制服姿のままの夏野がやってくるところだった。
夏野は居間に上がり込んでくる。まるで怒ってでもいるような顔つきでやってきて、正雄の脇に立った。正雄のほうには視線を寄越すこともなく、坐り込んだ葵と保の前に立ち塞がる。
こいつは何を言うかな、と正雄は思った。見守ったが夏野は何も言わなかった。じっと二人を見下ろし、やがて抑揚のない声を出す。
保が座敷のほうを指さした。夏野は頷き、正雄をその場においてさっさと廊下に出て行った。
「なんだよ、あいつ」
正雄は言ったが、これに対する保らの返答はない。
夏野は座敷に向かい、そこにしつらえられた棺を見て、では、母親のあのメモリは間違いでもジョークでもなかったんだ、と何度目かの確認をした。夜道を歩き、武藤家が見え、そこに鯨幕と忌中の提灯を見たとき、臓腑を鷲掴[#「掴」は旧字体。Unicode:U+6451]みにされた気がした、その気分が舞い戻ってきた。
それは何かに手ひどく裏切られた、という気分に近かった。それだけ自分は、訃報が何かの間違いであって欲しかったのだろう、自分の期待になど、世間は何の頓着もしてくれないことを改めて確認して、子供のように落胆している。何度経験しても慣れることのない、吐き気のするような気分。
ぼんやりと立って棺を睨みつけていると、武藤が顔を向けて赤くなった目を瞬かせた。
「やあ……」
「……顔、見てもいいですか」
夏野が訊くと、武藤は頷く。棺の蓋は開いたまま、白装束の身体の顔面には白い布がかけられている。武藤は壊れ物を扱うような手つきで、その布を捲った。
間違いなく徹だった。瞬間的に吐き気を感じた。この期に及んでもまだ、自分はどこかで全てが間違いであったという期待を捨て切れていなかったのだ、と悟った。
まじまじと徹の死に顔を見つめ、顔を上げると、白い布を手にしたまま、まるで何かを探すような顔で武藤が徹の顔を見ていた。
「……徹ちゃんの抜け殻だ」
夏野が言うと、武藤は瞬き、夏野を振り返ってから頷いた。
「肝心の徹ちゃんは、どこに行ったんだろうな」
「さあ……」
「探す方法があればいいのにね」
「まったくだ」
武藤は深く俯いた。夏野は武藤に頭を下げる。
「お悔やみを言います。おれ、こういう場合の常套句って分からないんだけど」
武藤は頷いた。
「残念です、すごく。小父さんたちはそれ以上だろうけど」
「そうだね……そうなんだよ。とても残念だ。自分が情けなくて悔しくてね」
「……おれもです」
正雄が座敷に向かうのと入れ違いに、夏野が座敷を出てきた。夏野は相変わらず怒ったような顔つきで、特に泣いている様子もなかった。正雄は駄目だった。周囲の様子を見るにつけ、徹は死んだのだという事実が胸に迫ってきて、そのうえ棺の中の徹を見るともう我慢ができなかった。
兄のような存在だったのだと思う。実の兄たちより徹のほうがよほど正雄に優しかった。にもかかわらず、徹は奪われてしまった。母親の良子のように。正雄を残して逝ってしまったのだ。徹の顔を見ていると、失ったのだという思いが否が応でも身に迫ってきた。徹の物言いや、細かな思い出が去来して、正雄は泣きじゃくらずにいられなかった。
武藤に励まされ、静子に慰められた。二人と一緒に泣いた。同じ悲しみを共有している、という思いが、いっそう涙を誘った。声がかれるほど泣いて、ようよう居間に戻ると、夏野はあいかわらず、むっつりと押し黙って坐っている。その平然とした顔を見て、正雄は苛立たずにいられなかった。
「……お前、泣きもしないのな」
正雄が口にしたのは、深夜が近づいてからのことだった。残っていてもすることもないのだが、何かしら後ろ髪を引かれる気がして、武藤家を辞去する気にはなれなかった。それで保らと四人、居間の隅でむっつりと押し黙っていた。沈黙に耐えかね、正雄は時折、口を開く。零れ出てくるのは徹の思いで話ばかりだった。こんなことがあった、あんなことがあった、と小声で辿るうちに涙が溢れてきて、そのたびに保らと泣きじゃくることを繰り返す。そうしているうちに弔問の人波も途切れた。居間に残っていたのは、正雄ら四人だけだった。ついに夏野は、ただの一度も涙を見せなかったし、思い出話にも参加しなかった。
「少しも悲しんでないみたい。仏頂面して押し黙ってるだけでさ」
夏野はちらりと正雄に視線を寄越しただけで、黙っている。
「お前、だいたい冷たいよ。情ってもんがないのかよ」
「……そういうことにしとけば?」
「なたん゛よ、その物言いは」
「絡むな」夏野はぴしゃりと言う。「おれたちが喧嘩していい状況じゃねえことぐらい、分かるだろうが」
「おれがいつ絡んだよ。お前こそ難癖つけてるんじゃねえぞ」
夏野はうんざりしたように溜息をつく。
「喧嘩したいってんなら、またの機会に相手してやるよ。居間ここで保っちゃんたちに喧嘩の仲裁なんかさせんなよな。子供じゃねえんだから、ここにいる間くらい我慢しろ」
「お前……どっちが年上だと思ってんだよ」
「あんただろ。だったら、おれにできることぐらい、できるよな?」
「なんだよ、その言いぐさは!」
「いい加減にして」
口を挟んだのは葵だった。葵は正雄を睨みつける。
「ナツの言う通りよ。喧嘩なら外でやって」
「なんだよ。葵ちゃんは腹、立たないのかよ。徹ちゃんが死んだんだぜ? こいつ、ぜんぜん冷たいよ。そうだろ」
「冷たいのはあんたのほうよ。ここで喧嘩の仲裁なんてさせないでよ」
「おれが冷たい? 冗談じゃねえぞ、どこがだよ。徹ちゃんが死んで、すげえ悲しいよ。さっきからそう言ってるじゃないか。どんだけショックだと思ってるんだよ」
「そんなの、あたしたちはそれ以上よ。うちの兄貴なのよ、分かってる? なによ、さっきからさも自分の不幸みたいに。自分だけが悲しいような顔をしないでよ。あんた、あたしたちを慰めに来たの? それともあたしたちに慰めてもらいに来たの?」
正雄は血の気が引くのを感じた。保のほうを見ると、保も眉根を寄せたままじっと膝先の畳を見ている。少なくとも、正雄を弁護してくれようという気はなさそうだった。
「……分かったよ」
正雄は踵を返した。足音を立てて居間を出る。逃げるように武藤を後にした。胸の中に苛立ちが湧き上がって渦を巻いた。その圧力でいまにも吐きそうだ。
あんな奴ら、二度と知るもんか、と正雄は夜道を足早に戻った。
正雄は徹を失った。それは、保や葵だって徹を失ったことには違いないが、悲しいのは同じだ、と思う。徹が死んでどれだけ悲しいか、それは家族だなんだとか、そういうことで決まるのじゃないはずだ。それは徹に対する思いの丈で決まる。家族だってだけで、正雄の悲しみを偽物のように言う権利はないはずだし、正雄の心情を無視してあんな酷い言葉を投げつける権利だってないはずだ。
これっきり縁なんか切ってやる。二度と顔も見たくない。
背中に張り付いた、いたたまれない気分から逃げるように足を速め、飛ぶ勢いで家に戻った。家が見えて、ようやく足を止め、荒い息をつく。
(どいつもこいつも……)
誰も正雄の気持ちなど分かろうとしない。人の気も知らないで、と理不尽な扱いを受けたことに対する憤懣が胸の中で渦巻いて息苦しかった。
「くそ……!」
吐き捨て、正雄は店のシャッターに手をかける。正雄が出かけているのを分かっていてシャッターを閉めてあるのも腹が立つ。しかも手をかけると、中から戸締まりがしてあった。正雄は思わずシャッターを蹴り、家の裏手へと廻る。
裏口から家に入るためには、ずらりと並んだ人家を迂回して、一ブロックを回り込まねばらならなかった。たかだかそれだけの距離のことではあっても、正雄が出かけているのを分かっていて、と思うと腹立たしい。近しい人間が死んで、悔やみに出て行ったのだ。気落ちしている人間を待っていて慰めてやろうという気もないのか、と憤りで胸が灼けた。
夜道を踏みしめ、角の衣料品店を曲がる。その店の脇から細く暗い路地が延びていた。路地といっても、一方通行とはいえ車がぎりぎり走れる程度の道幅はある。にもかかわらず角口に街灯があるきり、寝静まった家並みに挟まれた道は暗い。それすらも苛立たしい。
路地の左右には、塀だの裏庭だの、あるいは小さな畑だのが続いている。かろうじてコンクリートで舗装されただけの道を、正雄は前のめりに歩いた。ひとつ角を曲がり、そして正雄は行く手に白い人影を見た。
ぎょっとして足を止めた。無意識のうちに息を殺していた。それはひょっとしたら、徹が着ていた白装束とイメージがダブったせいかもしれなかった。
白い背中――男の後ろ姿だった。路地を行き来する人影を見ることは、もちろん珍しいことではない。時間が時間だから近所の誰かが正雄と同様、家に戻るところなのだろう。それだけのことだ、と気を取り直し、正雄は歩みを進めようとした。そしてその人影がまさしく正雄の家の裏庭に入っていくのを見た。
(宗貴兄さん?)
にしては少し、歳がいっているように思える。かといって宗秀と間違うほどの歳でもなさそうだ。背中の広さ、姿勢の具合、なによりも歩調が、そんなふうに見えた。
そろそろと正雄は家に近づく。裏庭といっても、正雄の家のそれは広い。博巳らが遊べる程度の庭と、小さいいながらも家庭菜園が穫れる程度の広さではあった。人影は、裏木戸から庭に入っていった。確かにそのように見えたが、見上げた家の窓のどこにも明かりは見えない。しんと寝静まっているとしか思えなかった。
(変だな)
正雄は首を傾げた。宗貴が出かけているなら、智寿子が起きて待っているだろう。第一、宗貴が出かけるとも思えない。家の連中はいま、博巳のことで手一杯だ。ご苦労にも枕許に交代で詰めている。
気のせいだったのか、と思う。暗い夜道のこと、両隣の家に入っていったのを見間違えたのかもしれない。そう思いながら、正雄は裏口に向かう。ドアに手をかけると、さすがに裏口の鍵は開いていた。ドアを開け、家に入ろうとして、正雄は庭のどこかで物音を聞いた。さして多くはない庭木の陰のどこか。枝を揺するような音。
正雄は動きを止めて振り返った。
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
敏夫が患者から解放されたとき、通夜はとうに終わっている時刻だった。慌てて武藤家に顔を出し、武藤と静子に改めて悔やみを言う。それからその場で小池老を捕まえた。
息子さんたちの話を聞きたいんだが、というと、小池老は渋い顔をした。それを無理に促し、家に戻る小池に付いていって詳しい話を聞く。出て行ったという家族が具合が悪い様子だったというのは本当か、具体的にはどういう様子だったのか。聞けば聞くほど、小池の息子一家は発症していたのだとしか思えない。
(発症――転居)
関連性などあるはずがない。なのに明らかな相関関係を描いている。何かがおかしい。あり得ないことが起こっている。
考え込みつつ家に戻ったときには日付が変わっていた。私室では静信が待っていた。
「来てたのか」と何気なくいい、頷く相手の硬い表情を見て、良からぬ事態が起こったことを悟った。
「……何か言いたいことがありそうだな」
「石田さんに何を言ったんだ?」
それか、と敏夫はひとりごちた。いつかはバレるだろうと思っていたが、いかにも時期が悪かった。敏夫はすでに手詰まりになっている。調査はほとんど進展していないに等しい。それどころか、正体不明の何かが附帯してきて、混迷の度合いを深めている。それなりの結論や結果があるならともかく、現在のような状態で、石田に口止めしたことを責められれば、敏夫としても返す言葉がない。
「理由を訊こうとは思わない。石田さんとデータを取りまとめて、兼正と会見できるようにしてくれ」
「静信――いいか」
「至急だ」
敏夫は息を吐く。
「こういう場合、封じ込めしかないんだ。それで疫病の拡大は止められても、村は救われない」
「詭弁だ」
「詭弁? 冗談じゃないぞ。それ以外に、どう打つ手があるというんだ? 外場で疫病らしきものが流行っている。これの正体は分からないが、少なくとも既存の伝染病じゃない。法的な根拠がなければ、行政だって動けないんだ。救済策などとりようがない」
「じゃあ訊くが、その封じ込めは何を根拠に行うというんだ?」
「それは」
「具体的にどうやって封じ込めるというんだ。お前はまさか、町が警察や自衛隊を派遣してきて道路を封鎖するなんてことを言い出すつもりじゃないだろうな?」
敏夫は痛いところを突かれて押し黙った。
「まったく現実的じゃない。いくら溝辺町がそれを望んでも、そんなことは実行できない。道路を封鎖するのならともかく、そうでなければどうやって村から人が出るのを防ぐというんだ。村外の職場に通っている人間をどうする。高校に通っている人間をどうするんだ。単に買い物に出る人間は? 店に入って店員と接触するのをどうやって止めるんだ。ナチスがユダヤ人にしたように識別票でもつけさせるのか?」
「……たしかに」敏夫は息を吐いた。「おれだって行政がそこまで思い切ったことができると本気で思っているわけじゃない。ただ、連中が保身に走ることは間違いない。外場は疫病の流行地として水面下で封じ込められることになる。有形無形の圧力で」
静信の答えは低かった。
「疫病の存在が知られれば、外場は忌避され差別されることになる。そんなことは当然のことだし、それは行政が動こうと動くまいと変わらない。必ず起こることで、避けられない」
敏夫は押し黙った。この一見して温厚な友人が、一線を越えると恐ろしく辛辣になることを敏夫はよく知っている。敏夫自身、かなりのニヒリストであることを自認しているが、静信は時に自分以上のニヒリストではないかと思うことがある。果たして本人は、それに気づいているのだろうか。
「……意味がないんだ。報告を差し止めても起こることは変わらない。報告したからといって、行政が医師団を派遣して外場を助けてくれるとは思えない。病名を特定できないというならなおさらだ。だかといって、積極的に外場が不利益を被ることもない。封じ込めなどあり得ない。そんなことはお前だって分かっているはずだ」
敏夫は内心で舌打ちをした。そう――分かっている。その通りだ。
静信は白々とした表情で敏夫を見た。
「封じ込めは言い訳だ。お前だってそんなことは信じてない。お前は状況を自分の支配下に置きたかったんだ」
敏夫は息を吐いた。
「……おれは余所者に口を挟んで欲しくないんだ」
「そのために情報を握りつぶしたのか」
「そうだ」と、敏夫は静信を見る。「その通りだ。もちろん、封じ込めなんてことは起こらない。だが、律儀に報告書を上げていれば、連中はいずれ異常に気づく。外場で正体不明の疫病だと思われる疾病が蔓延していることを知るんだ。だからといって救済の手を差し伸べてくれるほど、連中が親切なもんか。自分の足許に火が点かなけりゃ何もしないんだ、絶対に。だが、不安にはなるだろう。それがいつ外場を溢れて溝辺町にも蔓延し始めるか分かったものじゃないんだからな。だから煩く口を出す。そうなることは分かり切ってる。
「役所が口を挟み始めると、お前は事態のイニシアチブを取れない」
「その通りだ。三役なんていったところで、非公式の存在でしかないんだ。外場の外にまでは通用しない。役所はおれに事態を任せてくれたりはしないだろう。煩く指図して来るに決まってるんだ。しかもおよそナンセンスなことを言ってくる」
たとえば、と敏夫は、何度も想像したことを改めて確認した。村を流れる渓流は、溝辺町を貫く尾見川の源流になる。尾見川は溝辺町の水源だ。町がまず考えることは水源を汚染されないことだろう。生活汚水の管理、水質のチェック、目の前の患者救済には大して益もないことのために村は奔走させられることになる。そういうことが無数に起こるに違いなかった。
「連中にとっちゃ、外場救済なんかは二の次だ。自分たちの身の安全が優先、これが外場の外に漏れないことが最優先になるんだ。そのために細々と指図してくる。およそ実効性のない雑用に忙殺されて、肝心の患者をケアする時間も手間も奪われていくんだ」
しかも、と敏夫は吐き捨てる。
「それが起こるときには、さらに状況は逼迫してるんだ。村の連中を見ろ。最近になってようやく異常に気づいた。村の中にいてさえこうなんだ。村の外の、所詮は対岸でしかない連中が異常を察知するのはいつの話だ? 外の連中が異常を認める頃には、村の中は混乱を極めてにっちもさっちもいかないようになってる。そこにのほほんと、報告書を出せだの、やってきて説明しろだのというナンセンスな指示が割り込んでくるんだ。そのくせ、口は出しても手は出さない。足を引っ張るだけだ。だから伏せたんだ」
静信の声は冷ややかだった。
「それが正論だと思うなら、なぜ最初からそう言って石田さんを説得しないんだ?」
敏夫は返答に詰まった。
「町が口を出してくるのは確実だろう。それがおよそ現場の人間にとってはナンセンスな指示になることも分かり切ってる。――それで? それにいちいち対応するのは面倒だから嫌だという駄々と、お前の主張はどう違うんだ?」
「それは」
「面倒なやりとりが必要になるのは確かだろう。だが、いまそれを済ませておくのと、状況がもっと逼迫して、行政の助けを借りなければどうにもならない段階になってからそれをするのと、どちらが本当に患者にとって有益なことなんだ?」
敏夫は黙り込んで視線を逸らした。
「報告書を纏めてくれ。兼正にはぼくが話しに行く。どう理由をつけようと、お前は自分のすべきことを怠った。しかも意図的に、だ。こんなことは許されない」
敏夫は息を吐いて項垂れる。
「静信……」
「お前は行政は無能だと責める。だから愚かな対応をするだろう、というわけだ。――違うんじゃないか? お前は無能であって欲しいんだ。愚かな対応をするような連中であって欲しい。そうに違いないと自分を騙すことで、報告を握りつぶす大義名分を捏造しているだけだろう。理由も何もない、お前は自分が状況を支配したいんだ。余所者に口を挟んで欲しくない。横合いからやってきて、自分の取り分を奪っていって欲しくないんだ」
敏夫は静信の白々とした硬い表情を見た。
「つまりおれは、功名心にかられて石田さんに口止めをしたってわけか? よほど信用されてないんだな」
静信は冷ややかな表情のまま首を横に振った。
「これはもっと単純なことだ。人間は誰だって自分が世界の中心だという幻想から逃れられないんだ」
「おれは途方もなく我が儘で利己的な人間だと思われてるらしい」
「そうじゃない。どんな人間も当人にとって自分は、この世界で唯一の主体なんだ。自分以外のものは全て認識の客体に過ぎないから、自分が唯一の中心点だという幻想から逃れられない。自分こそが中心点だと主張する有象無象の一例でしかないことを受容できないんだ。だから事態に巻き込まれ、単なる端役に成り下がることを拒む」
それがお前の人間観か、と敏夫は問いたい気がしたが、声にはならなかった。静信はその内面に敏夫にも理解できない空洞を飼っている。時として現れる辛辣さ、人間や社会に対する途方もなくペシミスティックな態度は、そこから表出するものではないかと思うが、確信はない。それこそがかつて、この一見して何の問題もなさそうに見える友人が、死を選ぼうとした理由ではないかと思えたが、これについては本人に向かって訊いたことがなかった。敏夫はそれを話題にしたことがない。
「……悪かったよ」
敏夫は軽く息を吐いて手を挙げた。
「お前の言う通りなのかもしれん。別に自分がヒーローになりたかったわけじゃないが、余所者が入ってきて指図されるしかない立場になるのが嫌だったのは確かだ。おれがこの事態を何とかするんだ、という気があったことも否定しない」敏夫は自嘲した。「正直言って、おれは事態を舐めてた。調べれば、それなりに原因が見えてくるはずだし、対処方法も分かるはずだと思ってた。だからおれにもなんとかできると思ってたんだ。だが、これはそれほど簡単なことじゃない。――さっき、小池さんに会ってきた」
「小池の昌治さん?」
敏夫は頷き、広沢豊子が発症したこと、敏夫が念を押し、豊子も通院していたにもかかわらず、転居したことを告げた。前原セツもそうだった。転居者と疫病の間には、あるはずのない関連性がある。
「おれには手に負えないんじゃないかという気がしていたんだ。おれひとりでなんとかできると思い上がるのは危険すぎる、という気がしている。……武藤さんのこともあるしな」
静信は頷いた。
「潔く非を認めるよ。至急、石田さんと相談して報告書を書いてもらう。それを持って兼正に状況を説明に行く。早急にだ。――それでいいか?」
静信は頷いた。そうしてようやく、我に返ったように、困惑したふうな表情を浮かべる。
「ずいぶんな言い方をしたな」恥じ入ったように言う。「敏夫が最善を尽くしていることは分かっているんだ。……悪かった」
敏夫は苦笑して見せたが、同時に背筋が冷える思いもしていた。内部に空洞を飼っていながら、こうして詫びる幼なじみの心根が、敏夫には今も理解できない。
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
小さく傾いた扉が動く音がして、静信は自分がそれを待ちわびていたことを知る。
「こんばんは」と笑うその幼い顔を、静信はしげしげと見た。
「……どうしたの?」
いや、と静信は首を振る。娘ほどの年頃の少女に、今や自分が精神的に依存しているのを自覚して複雑な気分がした。
「また落ち込んでるのね。今度は何があったの?」
「敏夫と……ちょっと」
「喧嘩したの? 世話のやける人ね」
沙子は言って笑う。そうだね、と静信は苦笑した。
「また尾崎先生に当たられちゃったの?」
「少し違う」
苦笑して、静信は空洞の祭壇を見る。少し迷って、かいつまんで事情を語った。
「分かっているんだ。敏夫はぼくではない。敏夫は敏夫なりに良かれと思って行動しているのだし、それが自分にとっての最善ではないからといって、ぼくには敏夫を責める権利はないんだ。……けれども」
その先の言葉を、静信は見失った。
「腹が立つ?」
「ノーというのは正直じゃないな。そう、腹が立つんだよ。どうしてそんなことをするんだ、と思う。自分に怒る権利がないことは分かってる。けれども無視できない。結果として相手を責めて、責めた自分に嫌気がさすんだ……」
実際のところ、と静信は視線を自分の掌に向けた。
「敏夫のほうが普通なんだと思う。そうだね、ぼくは確かに君の言うとおり、センチなんだよ。敏夫はぼくを理想主義者だという。その通りなんだと思う。ぼくのほうが特異なんだ。敏夫のほうが当たり前で。どちらがマジョリティだと問われれば、敏夫のほうがマジョリティなん゛し、その立場に立てば、ぼくの言うことは潔癖すぎるし青臭いんだろう。だから本当に、ぼくには敏夫を責める権利はないんだ。なのに責めてしまうんだよ」
「それで落ち込むとここに来るのね」
静信は首を傾げた。
「室井さんは殉教者になりたいんでしょう?」
「ぼくが?」
「そう。神様に殉じて自分を捧げてしまえるような、そういう人間になりたいんだわ。けれども神様の姿が見えない。……なぜなら自分は神様に見放されているから」
静信は苦笑して首を横に振った。
「そう? でも、わたしにはそんなふうに見えるけど。室井さんは本当にロマンチストなのね。絶対的な正義ってもの、理想ってものを貫きたがってるみたい。――絶対的な正義とか理想って、神様の別名よね?」
「ああ……そう。そうだね」
沙子は頷く。
「室井さんは神様に忠実でありたいのね。村で疫病が流行ってる。神様の意志に従うなら、その蔓延を食い止めて、村の人たちを助けることが正しいことよ。だから室井さんは、そうしようと努力する。村の人たちを助けたいのは尾崎先生も同じだわ。でも、尾崎先生は室井さんほどロマンチストじゃない」
静信は黙って沙子の顔を見守った。
「尾崎先生だけじゃない、全ての人が、と言ってもいいんだと思うけど。誰だってそこに疫病が蔓延してれば、食い止めなきゃ、と思うわよね? けれども中には、目的のためには手段を選ばない人もいるし、それが正義だと分かっていても自己保身や臆病から行動できない人もいる。自分の安全を守りたい、だったら、疫病対策なんて自分が安全でいられる範囲内のことよ。それ以上はできないの。別の人にとっては、自分の存在意義を貫きたい、そういうことかもしれない。だったら自分の意地や矜恃のほうが優先なの。疫病対策はそれに抵触しない範囲内。そうやって優先順位をつけていく。
けれども、室井さんは唯一絶対の神様に奉仕したい。絶対的な正義に対して忠実でないと我慢できないんだわ。神様より優先される何かがあっちゃいけないの。――でも、自分ひとりしか信奉してない神様の絶対性ってどこにあるの?」
「ああ……」静信は顔を両手に埋めた。「その通りだ」
「室井さんは神様を信じているのよね。それに奉仕したいと思ってる。殉じられるほど忠実でいたいんだわ。けれども誰も、室井さんの信じる神様を信じてない。それを確認するたびに、室井さんは実は神様なんていなくて、それは単に自分が固執してる価値観でしかない――誰もが持ってる多様な価値観のひとつでしかないことを悟るんだわ。それは神様じゃない。室井さんはそのたびに神様を見失ってしまう」
沙子は軽く笑った。
「だから室井さんは落ち込むとここに来るのね。ここを建てた誰かさんに共鳴するんだわ。神様を信じたい、それに殉じたい、なのに神様が見つからない。あの祭壇と一緒」
静信は祭壇を見上げた。掲げられるべき神を持たない空洞の祭壇。
「そこに神様を据えるべきだって分かってるのに、どういう神様を据えればいいのか分からないんだわ。自分の思い描く神様は、理念としては理想的だけど、自分だけのものだから神の名に値しない。かといって、世の中の人が指し示す何かは、大勢の人の信仰を集めているけど、理念としては不純で、やっぱり神の名に値しないように見える」
「……そうだね」
「神様の|僕《しもべ》なのに、その神様は室井さんの前に姿を現してくれない。だから室井さんは自分が神様に見捨てられているように感じるんだわ」
静信は頷いた。
「……そうかもしれない」
沙子は首を傾げた。
「これを訊くのは酷いかしら。子供の無邪気な残酷さってことで許してもらえると嬉しいんだけど。――だから室井さんは死にたかったの?」
「だから?」
「この世のどこにも神様がいないから。自分の前には姿を現してくれないから」
いや、と静信は首を振った。
「そうじゃないと思うよ」
「思う?」
「うん。……ぼくには分からない。実を言うと、ぼくも動機を知らないんだ」
「まさか」
本当に、と静信は苦笑した。
「ぼくがとても理想主義者で、そしてその理想が、自分だけの理想でしかないことにしばしば喘いでしまうのは確かだと思う。そういう自分の有様をこの聖堂に重ねて見てるのも確かだろうね」
けれども、と静信は祭壇を見上げる。
「実を言うと、ぼくは絶対的な何かなんて信じていない。あればいいとは思うけれども、ないんだってことを分かってるんだ。ひとつの価値観が絶対的であるなんてことは、そのように統制された結果としてしか生じないことだと思うんだよ。そして統制の結果、絶対的な地位に祭り上げられた理想なんて、理想を語る値打ちがない。ぼくは君が考える以上に理想主義者なんだ」
沙子は呆れたように静信を見つめた。
「そのようね」
「だから、そんなことじゃないんだ。こんな、簡単に理屈にしてしまえるような、言葉で表現できるようなことが原因じゃない……」
それはもっと深いところからやってきた。知識や理屈や言語を司る部位などとは別の、まったく異質な部分から唐突に浮上し、静信を突き動かした。衝動、としか呼びようのない、それ。
「自分でも不思議に思う。……ぼくはいったい、あのとき何を考えたんだろうね」
[#改段]
[#ここから3字下げ]
十章
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
夏野は暗闇の中に横たわっていた。ステレオのパネルの明かりだけが光源で、小さな音量でAMのラジオがなっていたが、すぐにそれが疎ましくなって消した。後に残ったのは無音だった。微かな素子の明かりと、無音。
夏野はそこから「死」をイメージしようとしてみたが、上手くいかなかった。
徹は今日――いや、もう昨日だ――の午後、山の中に埋葬されてしまった。もうこの世のどこにもいない。
永遠の停止。少なくとも、どんなに暗くてもどんなに音がなくても、他のいかなる感覚が遠くても、「死」はこうやっているのとは、全く別物だろう。これが死だ、という認識さえも失われる。認識の主体である自己が消え去ってしまったら、あとには何が残るのだろう。自分以外の全てがそこに残っても、それを夏野はもはや知覚することができない。それは夏野にとって、世界のほうが消失することに等しいはずだが、世界を失ったと認識する夏野自身もそこにいない。そういう虚無。虚無と認識されることもない全き無。
徹はそこに行ってしまったのだし、夏野もいずれはそこに行く。両親も保も葵も、全ての人間がそこに向かって突き進んでいる。自己と世界の全てを喪失する破滅に向かって。
怖いとは思わなかった。ただひたすら不思議だった。想像することさえできない無というものが、明らかに存在することが不可解だ。確実に存在するのに、誰もそれに手を触れることができない。触れた瞬間、それを知覚することは不可能になる。
自分がいなくなる。「いる」と感じる自分自身でさえ存在しなくなる。それは消え去るというよりも、永遠に凍結され停止されるのにイメージとしては近い気がした。
いずれにしても、と夏野は思う。徹は行ってしまった。村を出た。それを望んでいたのは自分だったはずなのに。夏野は置いて行かれてしまった。
続く死者。恵、徹。他にもいる。村のあちこちで何度も葬式を見たように思う。そして転居。どこかの誰かが逃げたとか引越したとか。徹だって訝しんでいた。今年は変だ、と。変だと言われるほど多くの人間が村を出て行って、なのに夏野はまだ村に囚われている。
そっと溜息をついて、夏野はそれで微かな物音に気づいた。それは捲れ上がった布が、はたりと落ちる音に似ていた。何気なく音の出所とおぼしき方向を見ると、枕許に近いカーテンが揺れていた。それは風に揺れるというふうではない、まるで誰かがカーテンを捲り上げてみて手を放した、それが今も揺れているというふうに見えた。
夏野はなんとなくその動きを見守る。カーテンはすぐに静まり、風に揺れるでもなく無表情に垂れている。
気のせいだったろうか、と思う。音を聞いたのも、揺れているのを見たと思ったのも。窓の外で微かに物音がした気がした。それはあるいは、夏野自身が起こしたベッドの軋みだったのかもしれない。意外に夜にも物音はするものだ。
夏野はじっとカーテンを見守る。窓を開けていただろうか。――開けていたと思う。部屋に戻ってから窓を開けて、閉めた覚えがない。
カーテンは動かない。物音ももうしない。全てが気のせいだと言わんばかりで、それで逆に、夏野は確かに誰かがカーテンを動かしたのだ、という確信を抱いた。誰かがカーテンを捲り、そして窓の外で物音を立てた。
夏野は起き上がり、そしてカーテンの端を捲ってみる。ちょうど窓の外がわずかに覗けるほど捲って手を放すと、さっき聞いたのとまったく同じ音がした。
やはり、これだ。夏野は窓辺により、少しだけカーテンを開けてみる。窓ガラスは部屋の暗い光に黒い鏡のよう、陰鬱に陰影のついた自分の姿が映っている。さらにカーテンを開くと、十センチほど開いた窓の雨戸越し、艶のない闇が覗いていた。付近には何の物音もない。
夏野は窓ガラスに額を寄せる。室内の光が身体の陰になって遮られたが、やはり何も見えなかった。おぼろに闇の濃淡で、裏庭の空洞じみた横に長い広がりと、その向こうの林、茂みが見える。すぐ近くにこんもりと盛り上がっているのは木苺の茂みだ。それが揺れている。付近の下生えも林の梢も動いていない。ただ柔な枝を伸ばした木苺だけが身震いするように動いていて、それもすぐに静まった。まるでさっきのカーテンのように。
その動きを見守っているうち、そうやって闇を見つめている自分を誰かが見ている、という感覚を得た。視線を感じる。自分を見ている誰かの気配が、そう遠くないところにある。
目を凝らしてみても、闇の濃淡以外、何も見えなかった。ほんの一メートルほど離れた林の中に、誰かが潜んでいたとしても、夏野には見えないだろう。あまりに窓の外には明かりがなさすぎる。
視線は断ち切られることなく、注がれている。確かに誰かが、夏野を見ている。
しかし、誰が?
真っ先に浮かんだのは、同じ歳の少女の|俤《おもかげ》だが、これはあまりにリアリティを欠いていた。すでに夏野は恵がいないことを承知している。恵の机は未だ教室に残されていたが、最近では花が飾られることもない。最初は恵がいた位置に他人を拒むようにして残っていた空席は、席替えのたびに目立たない辺りに移動して、今では本当に視野の中に入らない隅の最後列に弾き出されてしまっている。それは、恵の存在をこの世から抹消していく手続きの一環だった。確かな現実性をもって、恵の死亡をこの世に刻みつけ、そうして刻まれたそれは、もはや摩耗していこうとしている。
いまや、恵が存在しないことは、夏野にとって、自分が存在することと同等に自明のことだった。だから、自分を見ている誰かが恵のはずはない。
「……徹ちゃん?」
声にならないほどの声で、零れ出たのはそれだった。死者が別れを言いに生者を訪れるという。あまりによくある怪談話。ひょっとしたらそれだろうか。そんなことはあり得ないと思いつつも、それは妙にリアリティを伴っている。
だったら、どんなにいいだろう。別れを言いに訪れることができるなら、徹の意思と、意志に従って行為をなすほどの何かが、抜け殻が埋葬されてしまった今も、どこかに残っているのなら。
闇に目を凝らしたが、やはり何も見えなかった。もう物音もしない。木苺の茂みも動かない。そうしている間に、視線も感じられなくなっている。
徹かもしれない何かは立ち去ってしまった。――そんな気が、夏野にはした。
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
十月五日、敏夫のもとにまた訃報が届いた。外場の村迫博巳が死亡した。わずか九歳の子供は決着が早かった。
昼には石田から連絡があった。明日には、頼んでおいた報告書のとりまとめが終わるという。
「悪かったな、急に」
いえ、と石田は妙に安堵したような声音で答えた。
「おれか静信が兼正に連絡を取って」敏夫は言いかけて、控え室に顔を覗かせた汐見雪に頷く。「いま、行く。ちょっと待ってもらってくれ」
石田の声に、敏夫は苦笑した。
「どうもうちの午前の診療時間は、二時、三時までになったようだ」
「そりゃあ、お手を取らせて済みません。なんでも土日にも診察をしてるんですって?」
「幸い、うちのスタッフは理解があってね。なんだが、今日はレントゲンの担当が欠勤なんで天手古舞いだ」敏夫は笑って、「とにかく、できるだけ早い時期に会えるようセッティングをする。そうだな――明日、書類ができたらもういちど連絡をくれるか? あまり先走っても何だし、それを聞いてから兼正に連絡をしてみよう」
「分かりました。じゃあ、終わったら連絡をします。先生に?」
「おれは急患出ているかもしれないから、静信のほうに連絡してもらったほうがいいだろう」
石田は了解して電話を切った。敏夫はTVX線室に急ぐ。途中で物療室から患者を送り出している清美に会った。
「永田さん、下山さんは?」
「お大事に」清美は患者を押し出してと敏夫を振り返り、声を低める。「ひれがまだ連絡がないんです」
「おかしいな。あの人は無断欠勤は、したことがないんだが」
レントゲン技師の下山が出てこない。今に至るも連絡がなかった。
「連絡してみましょうか」
清美は表情を曇らせる。武藤の例があるからだ。
「してみてくれ。ひょっとしたら、疲れ果てて寝てるのかもしれないが」
清美は頷き、廊下を急ぐ敏夫を見送った。それから事務室に向かう。そこから下山の家に電話をした。
下山は溝辺町の外れにできた住宅地に住んでいる。病院までは車で三十分ほどだ。
コール三回で下山の妻が出た。名乗って事情を伝えると、彼女は、まあ、と声を上げる。
「済みません。自分で電話するって言ったのに、してなかったんですか?」
「ええ」
「ちょっと待ってくださいね」
無理に変わらなくても、と言おうとしたが、間に合わなかった。ややあって、下山が電話口に出た。
「どうしたの? 大丈夫?」
「ああ……永田さんか」
下山の声は低かった。
「みんな心配してるのよ。どうしたの、具合でも」
清美が全部を言う前に、下山が口を挟んだ。
「辞めます」
え、と清美は言葉に詰まった。
「いま、何て言ったの?」
「仕事を辞めます。先生にそう伝えといてください」
清美はぽかんと口を開けた。
「下山さん……そんな」
事務机に向かっていた十和田が、怪訝そうに顔を上げた。
「勘弁してください。女房と子供がいるんです。家のローンだって残ってる」
清美は口を開きかけ、けっきょく噤んだ。
「そう……。でも、先生に直接、話をしたほうがいいと思うけど。それも嫌?」
下山は、勘弁してください、ともう一度言って電話を切った。
清美は深い溜息をつく。十和田がどうしたんですか、と訊いてきた。
「辞めるんだって。……下山さん」
そんな、と十和田も言ったが、すぐに視線を書類の上に落とす。
「……そうですか」
清美はなんとなく頷き、診察室を覗き込む。敏夫はまだTVX線室から戻っていない。隣の処置室でやすよと雪が、次の患者のために器具を消毒していた。
「先生、まだ?」
「まだです」雪は笑う。「下山さん、いないと、ペース狂っちゃいますね」
「辞めるんだってさ」
やすよも雪も、弾かれたように顔を上げた。雪が、そんな、と声を上げて、やすよがそれを制す。壁の向こうにある中待合のほうへ目配せをして、内緒話に誘うように、手招きをした。
「辞めるって……」
「勘弁してくれ、って言われちゃったわ。先生にそう伝えてくれって」
「どうしてえ?」雪は子供のような声を上げる。慌てて自分で口を塞ぎ、声のトーンを落とした。「だって、こないだだって下山さん、外場に越してこようかって言ってたのに」
「武藤さんとこの件が堪えたんでしょ」
言ったのは、やすよだった。
「でも」
「下山さんには奥さんも子供もいるんだからね。子供だって小さいし、家だって去年、建てたばかりでしょ。ローンだってあるだろうし」
清美は頷く。
「そう言ってたわ」
「実際、それとなく覚悟してたとはいえ、武藤さんとこから死人が出ると、堪えちゃうわよねむ言って、やすよはさらに声を低める。「武藤さんだって悔やんでたもの。自分が持ち帰ったんじゃないか、って」
「そうね……」
「武藤さんとこのお葬式に行って、目の当たりにしちゃったから考えちゃったんでしょ。こればっかりは、下山さんを責めるわけにはいかないわ。あの人は外場の人ってわけでもないし」
「そんなの、関係ないですよ」憤然と雪は口を挟んだ。「気持ちは分かるけど、なんか……こう……」
やすよは肩を竦める。
「もっとやり方がありそうな気はするけどね。せめて先生に相談して、みんなに一言、詫びるとかさ」
「そう、それですよ」
「でも、もう外場に足を踏み入れるのが怖いんでしょ。そんなもんだと思うわよ。そのうち、溝辺町の人たちも気が付いて、それこそ学校とか職場でさ、外場の連中とは関わり合いになるなとか、そういう話になっていくのよ」
清美は溜息をついた。
「いかにもありそうな話よね」
呟いたところに、敏夫が診察室に戻ってきた。敏夫に下山の件を伝えると、敏夫も、敏夫に従って戻ってきた律子も軽く息を呑んだ。しかしながら、律子は何も言わなかったし、敏夫も「そうか」と言っただけだった。
「十和田くんに言って手続きをしてもらってくれ。武藤さんもまだ忌引きだし、こんな時なんで急がなくていい。下山さんには悪いが、そのくらいは辛抱してもらおう」
清美は頷いた。急に、ひどく心細く、同時に恐ろしく感じられた。
自分たちはどうなるのだろう、――これから。
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
村迫米穀店の前には、見慣れた提灯が出ていた。それを見た途端、武藤葵は泣きそうな気分になった。抹香の匂い、人のざわめき、夜には似つかわしくない賑々しさ。どれも経験したばかりだ。やっと終わったところなのに。葵は繰り返す悪夢の中に迷い込んだような気がした。
立ち竦んだ葵を、弟の保が促した。
「……行こう」
うん、と葵は頷く。そろそろと店に近づき、中を覗き込んだ。店の中の棚は壁に寄せられ、それを鯨幕が覆っている。奥の戸は外されて、住居が真通しに見えた。上がってすぐのところに村迫宗貴が坐っている。
葵は数珠を握りしめて、宗貴に近づいた。そっと声をかけると、泣き腫らしたふうの赤い目が葵を振り仰ぐ。
「……ああ、武藤さんとこの」
葵は頭を下げた。
「このたびは、御愁傷様です」
「どうも御丁寧に。――武藤さんのところも、お兄さんが亡くなったんだって?」
はい、と葵は頷いた。
「そりゃあ大変だったね。もう落ち着いたかい?」葵は苦労して微笑んだ。「宗貴さんのところも、大変でしたね。その……お辛いでしょう?」
うん、と宗貴は頷いた。
「まだ小さかったからね。別に大きかったから構わないってわけじゃないんだけど、どうしても不憫な感じがしてね」
「分かります」
「でも、ひょっとしたら、まだろくに物心もついてないようなものだし、今のうちのほうが良かったのかもしれないね。仕事を持って、それこそ彼女でもいたらさ、そのほうが可哀想なのかも」
そんなことは、と言いかけて、葵は嗚咽に言葉をとぎらせた。残された者にとっては、子供だろうと大人だろうと関係ない。家族が死んだという意味では同じだ。
保が「姉さん」と、軽く小突いた。葵は頷き、懸命に涙を拭う。
「済みません。お悔やみを言いに来たのに」
「いいんだよ。こっこそお悔やみを言うよ。本当に残念だったね」
はい、と葵は頷いた。
「あの……正雄くんは?」
宗貴は複雑そうに顔を歪めて笑った。
「二階。しんどいとか言ってね、降りてこないんだよ、部屋に籠もったまま」
「そんな……お通夜なのに?」
宗貴は苦笑する。
「あいつは博巳のことが気に入らなかったんだよ。家の人間の関心が、博巳に向いてしまったのが面白くなったんだろう」
「そんな……」
「死んでも顔色ひとつ変えなかったからね」と、宗貴はどこか不快なものを呑み下すような表情をした。「そう、でおしまいだよ。まったく他人事の顔してる。降りてこいって言っても、関係ないってさ」
そういう奴なんだ、と宗貴の声は吐き出す調子だった。
「……あたし、兄が死んで動転してて、お通夜のとき正雄くんに酷いこと言っちゃったんです。それてお詫びしないとと思って」
「先に正雄が失礼なことをしたんでしょう。こちらこそお詫びしなくちゃな」
「どてんもないです」
「正雄は降りてこないよ。二階の部屋にいるから。悪いけど、勝手に行ってくれるかな」
葵は頷き、保を促した。
弔問客の間を縫って、二階へと上がる。正雄の部屋は保が知っていた。保はドアを開けようとしたが、鍵がかかっているらしく開かない。改めてドアをノックした。
「おい、正雄」保が呼びかけたが、部屋の中から返答はない。「いるんだろ? おい」
「正雄くん、葵です。お願い、開けて」
しばらく中からは何の気配もなかった。何度かノックを繰り返し、呼びかけると、やっと中で身動きする気配がしてドアが僅かに開いた。部屋の中は暗い。まるで隙間から外の様子を窺うようにして、正雄が顔をわずかにのぞかせた。
「あの……ええと、御愁傷様です」
葵が言うと、正雄は視線を逸らす。
「おれ、関係ねえから」
そんな、と言いかけ、葵は言葉を呑み込んだ。今夜は詫びに来たのだ。責めるようなことを言うべきじゃない。
「その、この間は御免ね。あたし、酷いことを言ったと思う」
べつに、と正雄は掠れた声で言った。
「御免な。ちょっとおれたち、動転してて」
「……そう」
正雄は低く言って、ドアを閉めた。かちりと中で鍵を下ろした音がする。
「――正雄」
保がドアを叩く。葵も呼びかけたが、もはや部屋の中からは何の応答もなかった。
しばらくドアの前で声をかけていたが、
保が溜息をついたのを合図に、葵もノックする手を止めた。ひどく泣きたかった。
保がそっと促して、仕方なく踵を返した。また改めて謝ろう、と思いながら。
正雄はしばらくドアの脇にもたれ、廊下の物音を窺っていた。
軽い足音が廊下を遠ざかり、下に降りていくのを聞いてドアを離れ、ベッドによろめき寄る。足に力が入らず、腰が抜けたように坐る破目になった。勢い余って倒れ、後頭部を壁にぶつけたが、正雄は特に反応をしなかった。虚ろに目を開いて天井を見ている。その目には憑かれた色がある。結膜が異様に青味を帯びていた。顔は白く、唇にも色がない。その唇を、正雄は同じく色味を失った舌で舐めた。異様に喉が乾いている。水が欲しかったが、動くのは億劫だった。
「……水」
呟いた声は、ドアの外までは届かなかった。
正雄は天井を見つめたまま、水、ともう一度、呟いた。
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
窓の外で、また人の気配がした。
夏野は机を離れ、カーテンを少し開けてみる。なんとなく窓は閉めている。だから窓から見えるのはガラスに映った自分の姿だけだった。
ぱたりと部屋の中で音がして、振り返るとスタンドの明かりの中、机の上に開いておいた英語の辞書が閉じたところだった。――そう、何かが動かなければ音は生じない。
気配、というものを、正確にはなんと言えばいいのか、夏野には分からない。それは呼吸音、衣擦れの音、あるいは身動きにまつわる小さな音の集合なのかもしれないし、聴覚ではなく臭覚に訴える者なのかもしれない。別にオカルトじみたものでも、超常的なものでもないと思う。「これ」だと指摘できないほど些細な、意識に引っかからないほど微細な何かが気配として察知されるのではないかという気がしていた。
(……視線)
そう、気配はそのように解釈することができても、視線はどう解釈していいのか分からない。確かに誰かに見られている、という気がすることがあり、振り返ると実際に誰かの視線に出会うことがある。経験的に、視線は察知できるものだという気がしているが、なぜ察知できるのかは分からなかった。けれども確かに、あると思う。そして今も、それを感じる。
誰かが見ている。おそらくは窓の外、林の下にわだかまった闇の中から。
(……でも、誰が?)
徹ではない、という気がした。もしも徹が別れを言いに来られるものだとして、だとしたら、今、夏野を見ている誰かは徹ではない。別れを一度だけ言いに来るのは徹らしい振る舞いのような気がした。けれども再度、訪ねてくるのは徹らしくない。いつまでも未練がましくやってくるのは、徹に全くそぐわない。
(だったら、誰だ?)
ふっと浮かんだのは、やはり恵のことだった。一度なら恵ではない。けれども二度以上続けば恵だという気がする。恵本人ではなくても、恵のような誰かだ。
窓に顔をつけてみたが、やはり闇の中に人影は見えなかった。窓を離れ、カーテンを閉じて息をつく。視線のような何かが途切れたのを感じた。その安堵感が、かつて恵に感じていたものにひどく似ていた。
(けれど、清水は死んだ……)
徹もいないのだし、恵いない。訪ねてこられるはずがない。
机に戻り、なんとなく雑然としてたものを放り込んでいる箱を見た。地所の箱田。それを書類差し代わりに本の間に立ててある。
夏野はその中から一枚の葉書を取った。捨てようと思いながら、なんとなくここに入れておいた。
[#ここから2字下げ]
結城 夏野 様
[#ここで字下げ終わり]
宛名の、無邪気な気取りを感じさせる文字。時季外れの残暑見舞い。届くはずのないものが夏野の手に届いた。
夏野はそれを見つめ、ゴミ箱に放り込もうとして、なんとなくやめた。もとの箱の中にぞんざいに戻す。取っておきたい意思があるわけではない。あえて捨てようという意思がないだけのことだ。
耳を澄まし、息を吐いて、夏野は閉じてしまった辞書をもういちど開く。まだ今日の予定を消化できていない。これは夏野にとって「勉強」という行為ではなく、村を出て行くために支払わねばならない「代価」だ。やらなければ、それだけ望みが遠のく。
窓の外のことは意識から閉め出して、夏野は辞書を引き始めた。
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
十月六日の午後、結城がクレオールに行くと、準備中の札が下がっていた。宛が外れた気分で踵を返し、なんとなく家に戻る気にはなれなくて、仕方なく近所をぶらぶらと歩いた。あたりを一まわりして再度クレオールの前を通りかかると、準備中の札が外されている。おや、と思いながらドアを押すと開いた。
「いらっしゃい」
長谷川がカウンターの中から笑う。
「ついさっき来たら準備中だったんですよ。てっきり今日は休みなのかと思った」
ああ、と長谷川は苦笑した。
「そりゃあ、失礼しまたね。ちょっと出てたもんで。葬式だったんですよ」
「――葬式」
「ええ。商店街の中に米屋があるでしょう。あそこの子供が死んだんですよ。わたしも個人的に親しいわけじゃないんですけどね、いちおう商店街の寄合で付き合いがあるんで、お悔やみに」
またか、と結城は思う。少し俯き、考え込んだ。
「どうしました?」
「いや――これは絶対におかしい。また、としか言い様がないでしょう。武藤さんのところの息子さんも亡くなったばかりですよ。こんなに人が死ぬなんてどうかしてる。そう思われませんか」
「それは……」長谷川は目に見えて狼狽した。「確かにそうかもしれませんが」
「田舎ではこんなものだ、というなしは聞きました。そうなのかもしれないと思う。けれども、それも死者がこの半数ならの話です。これはどういう常識に照らしてもおかしいと思う」
結城は言って、長谷川の顔を見た。
「伝染病なんじゃないでしょうか」
長谷川は言葉に窮したように黙り込んだ。俯いたその顔色で、長谷川もそれを疑っているのだ、と結城は悟る。
「でも……役場からも何も言ってきませんし……」
「伏せている、ということは考えられませんか。それこそ村がパニックになるのを恐れてのことだとは」
「……そうかもしれません」
店の中には結城と長谷川だけ、そこに妙に明るくピアノの音が響いていた。黙りこくったままでいると、店のドアが開いた。入ってきた田代は店の中の妙な空気に気づいたのか、結城と長谷川を見比べた。
「どう――したんです?」
結城は同じ指摘を繰り返した。田代もやはりそれを疑っていたのだと、その表情を見て分かった。誰もがおかしいと思っているのだ。それを口に出せないでいた。
「確認したほうが良くはないでしょうか」
結城の声に、田代はしばらく考え込む。結城は言い添えた。
「もちろん、収拾がつかなくなることを心配して、伏せてあるのかもしれません。だったらそれでもいい、わたしも協力します。ですが、このまま黙ってはいられない。明らかにおかしいと分かっているのに、確認しないで不安なままでいるなんてことは、わたしにはできません」
「そうだねえ」と、田代は沈痛な表情で頷いた。「そのほうがいいだろうね」
尾崎医院に電話をしたのは田代だった。敏夫を呼び、少し話をしたいことがある、と切り出す。敏夫はそれで話の内容を予想したようだった。低く、分かった、とだけ答え、その内容については問わなかった。今からクレオールに来る、という。午後の診察が始まるまでに戻らなければならないが、それでいいかと問うので、田代は了承した。長谷川は表に出準備中の札を再び下げた。
敏夫は本当に、いくらも経たないうちにやってきた。結城も病院で、あるいはここで、何度かあったことがあるから初対面ではない。敏夫は入ってくるなり、ごく何気ない調子で長谷川にコーヒーを注文し、カウンターに腰を下ろして煙草に火を点けた。
口火を切ったのは田代だった。この中では最も敏夫と付き合いが長い。
「その……村迫の博巳くんが死んだろう」
ああ、と敏夫は悪びれた様子もなく頷いたが、どこか緊張感が漂っていた。
「武藤さんとこの長男も死んだ。なんだかね、死人が続きすぎるような気がするんだよ」
「それで?」
「ここで話をしてたんだが――伝染病ってことはないのかな」
敏夫は煙を吐きながら田代をじっと見つめる。田代は慌てて言い添えた。
「いや、もしも事情があって伏せているんだったら、おれたちも協力する。ここだけの話でいいから、もしもそうならそう言ってもらえないかな。どうも変な気がして、なんだかもう、釈然としなくて――」
敏夫は煙草を揉み消し、軽く息を吐いた。
「伝染病じゃない。少なくともこれまでの死者で、伝染病で死んだ者は一人もいない」
「――本当に?」
「医師免許を賭けてもいい。全くのシロだ。少なくともおれが診た限り、伝染病に罹っていた患者はいない」
割って入ったのは、結城だった。
「じゃあ、これだけの死者が続いたのは偶然ですか?」
「偶然にしちゃ続きすぎてることは認める」
「でも伝染病ではない? 伝染しているわけではないんですか」
「伝染病と、伝染する疾病を一緒くたには語れない。だが、伝染してるという確証もないな」
「確証が――ない?」
敏夫は頬杖をついた。長谷川がそっと出したコーヒーを見つめて新しい煙草に火を点ける。
「おれにはなんとも言えないんだ。伝染病じゃないのは確かだし、断線している確証もない。うかつなことを言って村を騒がせたくないし、言えるのはここまでだ」
「でも、敏夫」
田代が口を挟むと、敏夫は黙り込む。しばらく何かを迷うように考え込んでから、口を開いた。
「おれには何も言えないが――そうだな、もしもおれの家族が死んだら、おれは火葬にするよ」
結城は少しの間、敏夫の横顔を見つめ、そして長谷川や田代と目線で頷きあった。――やはり。
「……了解しました」結城は息を吐く。重い溜息になった。「じゃあ、伝染病ではないってことなんですね」
「伝染病ではない。それに関しては信用してもらって構わない」
「これは単なる世間話として聞くんですが、どうも死人が多いでしょう。それも突然死が多い。なので――そう、健康ってものが気になるんですよ。何か気をつけることはありますかね」
敏夫は結城を見なかった。
「そうだな。貧血には気をつけるね、おれない。顔色が悪い、怠そうに見える、食欲がない、息切れがしているようだ――そういう様子があったら医者に診せたほうがいい」
「自覚症状としては?」
「ない」敏夫は投げ出すように言った。「本人が具合が悪いと周囲に訴えるようなら、突然死んだりはしないんじゃないかい。本人が無自覚ということがあるんだよ。最近、患者の中にも多いよ。本人は少しも不具合を意識してない、むしろ周囲が心配して連れてくるって例がね。そういう患者は大変なんだよ。話しかけても上の空でね。こっちの言うことを聞いてるんだかどうなのか、質問をしても答えが鈍かったりね。コミュニケーションが取りにくくなるんだ。人形か何かを相手にしてるみたいでね。まるで他人事のような顔をしてる」
「……予防する方法はありますか」
「さあ。月並みだが、きちんと寝て食うことかな。地下水は飲まないほうがいい。死体や汚物に触れるときは手袋をしたほうがいいだろうな。あとは害虫の駆除だね。特にダニ」
そうですか、と結城は呟く。感染経路が分かっていないのだろう。ダニなどが媒介している可能性もあるということか。
「それで……早めに診せれば治りますか」
敏夫はちらりと結城を見て、煙をあらぬほうに吐いた。
「――いや。単なる貧血なら治るが、そうでなければ難しいな、正直言って」
結城は息を呑んだ。敏夫はようやく、結城らに向き直る。
「おれはこの店に来る客は信用してる。さほどに馬鹿ではないだろう、とね。軽はずみな行動も取らないし、簡単に逆上して見境をなくすこともないと思ってるんだ」
結城は頷いた。
「そして、無責任な噂話もしない。そう信用してください」
うん、と敏夫は頷いた。
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
夏野は奇妙な威圧感と戦いながら、黙々とノートを埋めていた。単語を暗記することも、数学の例題に取り組むことも、とうに諦めている。窓の外に存在する妙なプレッシャーとでも言うべきものが気になって、作業に集中できなかった。それで窓の外に意識を向けたまま、ひたすら歴史上の語句や人名を書き写している。
手が文字を覚えてくれればそれでいい。そう思いながら手を動かして、ふと気づくとノートの端や余白に、「徹」という文字や「清水」という文字が現れている。そのたびに消すが、現れる頻度は圧倒的に「清水」のほうが多かった。それも時間を追うごとに、明らかに増えている。
自分はこの――現在の、奇妙な監視下にある、という緊張感に覚えがある。それが何に由来するものなのかも知っている、と思う。だが、恵は死んだはずだ。棺の中に納められ、夏野自身は見届けていないが、徹のように担ぎ上げられ、土の中に埋められたはずだ。
だが、窓の外に誰かがいる。暗闇の中から部屋の窓を――夏野を見ている。カーテンに映る夏野の影、それをじっと見ている。
夏野は何度目かに「清水」という文字を消して、それで諦めて書類立てから葉書を抜き出した。夏野には理解できない感性の賜物。文字も文面も、なにもかもが、自己アピールに見えないように意図されたあからさまな自己アピールという矛盾に満ちている。距離を保持しているように見えるよう意図された、あからさまな接近。残暑を見舞う言葉以外、何も書かれていない。けれどもそこには、あえて書かないのだという差出人の意図があまりにも明らかで、明らかであるというその事実が真情を露呈している。――それは恵そのものだ、という気がした。
今もそうだ。明らかな監視。けれども監視者は気配を殺し、姿を隠そうとしていることが明らかだった。それがあまりに明らかだから、逆に監視されているのだという確信を与える。
(……清水)
けれども、そんなわけはない。
夏野は立ち上がった。カーテンを開け、窓を開ける。室内の明かりが外へ向かって流れ出たが、木の幹や茂みの作る闇はかえって濃くなった。そして明らかな視線。誰かが闇の中にいて――それもほどちかいところから、自分を見ている、という確信。
夏野は闇を見渡す。誰も見えない。いないのではない、見えないだけだ。相手からは夏野が見えている。間違いなく見ている。
闇に向かって、|誰何《すいか》するようなことはしなかつたし、する気もなかった。黙って夏野は片手に持った葉書をかざした。光が当たるよう、ゆっくりと指の先で何度か廻す。誰かが近くで息を呑む音が聞こえたような気がした。そして、身動きする微かな音。
視線が強い。そんな気がする。そう思いながら右手に摘んだ葉書に左手を添える。ゆっくりと、監視者の目に見えるよう角度を保ってそれを裂いた。また、微かな音がした。
両手で葉書を二度三度と裂く。細かな紙片になったそれを、窓の外に向かって投げ捨てた。白い紙片は文字通りの紙吹雪となって舞い、闇の中に零れて落ちた。
闇を――物陰を見渡し、夏野は窓を閉める。カーテンを閉めて机に戻り、じっと耳を澄ました。微かな物音がした。今度はあまりに明らかだった。下生えの揺れる音、誰かの足音。それが窓のすぐ近くにまでやってくる。
――いる。
窓の外に誰かがいて、その誰かは小声を漏らした。意味をなさない短い声は、ごく微かな悲鳴のようでもあり、押し殺した嗚咽の最初の一声のようでもあった。
微かな物音は続いている。まるで地面を小さな生き物が這い回るような音。今ここで立ち上がり、カーテンを引き開ければ、それの姿が見えるような気がする。姿を消すには間に合わないだろう、という思い。そうしてみたい衝動を、夏野は懸命にこらえた。なぜだかは分からない。見てはいけない、という気がした。窓の外を覗いてはいけない。
それは窓の外に禁断の何かが存在すると思っているせいなのかもしれなかったし、あるいは、単にそれを見ることが恐ろしかったのかもしれない。見れば取り返しがつかない、という気がしたし、同時に見たら落胆することになる、という気がした。そうしてその奥底で、夏野が最も恐れていることは、何も見ないことなのだった。
隠れる間もないほど迅速にカーテンを開けて、そしてそこに何もいなかったら? それが即座に何かを意味するとは思わない。怖いのは、目に見えない何かがいる、という認識と、単に隠れたのかもしれないという認識の間に宙づりになることだった。
じっと耳を澄まして耐えた。窓の外の気配は付近を這い回って、やがて絶えた。夏野はノートを埋める作業に戻ったが、やはり手は頻繁に「清水」という文字を、いつの間にか綴っていた。
翌朝、ほとんど眠らないまま、夏野は裏庭に出た。薄青い光の中、雑草のまばらに生えた地面は黒い色をしている。そこに二、三の白いものが散っていた。拾い上げてみると、葉書の一部だった。
探し出した紙片はわずかに三枚。それ以外の破片は、まったくどこにも見えなかった。
[#ここから5字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
七日の朝一番に、村迫家から連絡があった。朝、起きてみると三男の正雄が死んでいた、という。敏夫は暗澹たる気分になった。村迫家は博巳が死んだばかりだ。その通夜、葬儀と家中がバタバタしている間に、少年はひっそりと病み、誰にも看取られることなく死んでいったのだった。
受付が開くと、工務店の安森節子が入ってきた。顔を見れば分かる。例のあれだ。着々と惨禍は工務店を蝕[#「蝕」の字は旧字体。しょく偏部分が「餡」の偏と同型。Unicodeに該当なし]んでいる。午後には外場に住む清水|祐《ゆう》という若者が運び込まれてきた。これもやはり発症。節子よりも容態は悪いが、救急車を呼ぶほどでもない。もはや受け入れ先の病院の不審を恐れる必要もないのだし、とりあえず、本人が望むなら、とアドバイスするに留めた。国立なりに行ったところで結果は変えられない。溝辺町の病院に行って検査入院なりすることになれば、そこで死んで二度と家には戻らない、ということだった。それを本人に言うわけにもいかず、だからいっそう、転院を勧めるのは|躊躇《ためら》われた。
控え室に戻り、グラフに書き込みをしているところに、静信から連絡があった。静信の声は固い。
「石田さんがいない」
敏夫はグラフに目をやったまま、それが、と答えた。
「失踪したんだ、昨夜。家族の話を聞くと、そうだとしか思えない」
敏夫はペンを落としそうになった。
「馬鹿な」
「奥さんは、夜、自分が寝るときには確かに起きて居間にいたと言っている。それが、朝起きると家のどこにもいなかった。車は車庫に残されたままだ。遠くに行っているはずはないと、朝から探しているけれども、未だに見つからない」
(失踪――転居)
敏夫は立ち上がる。
「石田さんのところに行ってみる」
「ぼくも行く」
石田の家で落ち合う約束をし、取るものもとりあえず駆けつけた。石田の妻の千枝は、顔色を失っていた。
「何が起こったんでしょう。――あの人がいなくなるなんて、そんな」
「落ち着いて。昨夜、石田さんの様子に変わったところはありませんでしたか? とえば顔色が悪かったとか、口数が少なかったとか」
「いえ……別に。いつも通りでした」
「夕飯は?」
「普通にいただきました。一昨日は忙しかったみたいで、家に仕事を持ち帰ってたんですよ。昨日も午前中は役場を休んでやっていたんです。でも、それも終わったみたいで、午後からは役場に行って、帰ってきてからはのんびり晩酌をして。むしろ、いつもより明るかったぐらいです」
では、と敏夫は静信に目配せをする。石田は発症したわけではない。しかし、ではなぜ、石田が急にいなくなるのだろう。それも妻が寝た後に家を出て行く理由がどこにある?
あの、と静信が千枝に声をかけた。
「済みませんが、石田さんから書類を受け取ることになっていたのですが、御存じありませんか」
「書類……ですか?」
「ええ。一昨日、家に持ち帰っていた仕事というのがそれだと思います」
ああ、と千枝は頷いた。
「それなら主人の部屋だわ。昨日、封筒に収めて机の抽斗に入れているのを見ましたから。――そう、若御院にお渡しする書類だったんですね。昨日、役場に持って出なかったんで、変だと思ったんです」
千枝は先に立って、二階の部屋に案内する。階段を上がってすぐの部屋は、もともとは石田の子供が使っていたものなのだろう。ワープロの載せられた古い学習机と、今は使われていないふうの家具が置かれ、不要品が入っているらしい段ボール箱が二、三、積み上げてあった。
「息子の部屋で――今は納戸と兼用なんです」知恵は言って恥じるように微笑み、学習机の引き出しを開けた。「ここに――あら?」
千枝は抽斗の中を探る。
「変ね。ここに入れているのを見たと思ったんだけど」
千枝は呟きながら、他の引き出しも開ける。
「おかしいわ。やっぱり役場に持っていったのかしら」
「済みません」敏夫が千枝を押しのける。「ちょっと見せてもらっていいですか。重要な書類なんです」
「ええ……どうぞ」
敏夫は抽斗を探る。そこにあるほとんどは文具やメモを書き留めた紙の類で、きちんとまとめられた体裁の書類はどこにもない。報告書ばかりでなく、資料として使ったはずのメモやコピーまで見当たらなかった。
「資料がないはずは……」
敏夫の声に、静信はワープロを引き寄せた。石田はこれを使ったはずだ。見るが、ディスクが入ってる様子はない。試しにイジェクト・ボタンを押してみたが、やはりディスクは挿入されていなかった。蓋を開け、スイッチを入れて起動してみる。
「敏夫、どこかにディスクがないか?」
「ある。三枚だけ。二枚はラベルがついてる。一枚は年賀状、一枚は住所録」
静信は敏夫からディスクを受け取る。ラベルのない三枚目を挿入したが、目指す文書は見つけられない。ワープロ本体にもセーブされていない。念のために他の二枚も挿入してみたが、タイトル通り、年賀状と住所録の文書が入っているだけで、報告書はどこにも存在しなかった。
「ない……どこにも」
敏夫は千枝に向き直った。
「どこか、他の場所に書類を移したということはありませんか。ディスクを入れているということは?」
「いいえ。主人は几帳面な性格で、あちこちに物を置き散らすような人じゃありませんから。そこになければ、家にはないんだと思います。
「馬鹿な」
千枝は困惑したように首を振る。
「机になければありません。……ええ、確かに昨日は、手ぶらでした。役所に行くのに、手には何も持ってませんでした。たいがいいつも手ぶらなんです、あの人」
「確かですか? 玄関先まで持って出たということはないですか?」
「ありません。お昼はおにぎりにしてくれって言ったんです。朝、そう言われて、それで、お茶とおにぎりを持ってここに来て、そしたら主人が書類を封筒に入れているところでした。封筒に入れて、ディスクを抜いて片づけて、全部、抽斗の中にしまっていたんです。もう終わったから、下で食べるって」
知恵は言って、敏夫と静信を見比べる。
「それ……そんなに大切な書類だったんですか」
まあ、と敏夫は言葉を濁した。
「主人と一緒に下に降りたんです。わたしがわざわざ持ってきたのに、って言ったものだから、主人が自分で持って降りるから、って。それで一緒に降りて、お昼を食べて、それから役場に行くって。寝室で――寝室は一階です。そこで着替えて、出かけました。出かけるまで世話をしたんだから間違いはないです。確かに手ぶらでした。二階にも戻っていませんし」
「いいんです」静信は口を挟んだ。「驚いただけなので。大丈夫です。控えがありますから」
そうですか、と千枝は半ば安堵したふう、半ば依然として困惑したふうだった。
「あの……探してはみますけど」
「お願いします。もしも石田さんから連絡があったら、至急、寺か病院まで連絡をくださるようにと」
はい、と頷いた千枝は、それで再び夫の行方を案じ始めたようだった。
「でも……どこへ。こんな、馬鹿な」
千枝を慰め、敏夫と静信は石田の家を出た。敏夫は、病院に寄っていくか、と静信に声をかけたが、静信は腕時計に目をやって首を横に振る。
「いや……もう戻らないと。今日は通夜があるから」
敏夫はその言葉に胸を衝かれた。
「そうか……」
「石田さんは――」
「どう考えても変だ。あの人が突然、いなくなるはずがない。奥さんの話からする限り、発症してたわけでもなさそうだ。なのに、夜中に行方をくらましている。しかも、たぶん書類と資料の一切合切を持って」
データは敏夫の手許にもある。静信の手許にもあるのだから、書類自体はもう一度、作り直すことができる。だが、なぜ石田が書類を持って姿を消さなければならないのだろう。
[#ここから4字下げ]
村は死によって包囲されている。
[#ここで字下げ終わり]
これはそう――包囲されている感触だ。転居者、辞表、自分たちが何者かによって意図的に孤立させられているという感触。敏夫たちは包囲され、切り離され――妨害されている。
(馬鹿な……)
それこそ、馬鹿な話だ。誰が何のためにそんなことをするというのだろう? 自分は、ばかばかしい陰謀説でもぶち上げるつもりなのだろうか。
「何かが変だ……」
車のドアに手をかけたまま考え込んでいた敏夫の背後で静信が呟いた。
敏夫も頷く。
「……ひょっとしたら、これは単なる疫病なんかじゃない」
静信も頷き、そして自分の車のほうに戻っていった。
(通夜……村迫家の)
発症者が二名、失踪者――一。
敏夫は病院に戻りながら、それを頭の中で繰り返していた。死者一、発症者二、失踪者一。呪文のように唱えながら病院に戻ると、カーテンを閉めた玄関のドアの前で、高校生ぐらいの少年が中を窺っているのが見えた。車に気づいたのか振り返り、敏夫が車を駐車場に入れる間に小走りに寄ってくる。
「どうした? 急患かい」
敏夫は車を降りながら声をかけた。どこかで見た顔だ。何度か診察したことがある。
「急患じゃないんですけど……。尾崎先生ですよね」
少年は言う。その口調で、敏夫は思い出した。ずっと以前、脛骨結節を腫らして通院していた患者だ。
「君は確か、結城さんのところの息子さんじゃなかったかな?」
「そうです」と少年は頷く。下の名前は夏野と言ったはずだ。「ちょっと先生に訊きたいことがあるんですけど、いいですか」
「どうぞ。ときに、君を結城くんと呼べばいいんだったかな。それとも小出君と?」
夏野は肩を竦めた。
「どっちでもいいです。戸籍の名字は小出ですけど、普通は結城」
「じゃあ、結城くん、だ。――結城くん、聞きたいってのは何だい?」
「清水さんのことなんです。清水、恵さん。先生が診察したんですよね」
「診察もしたし、死亡診断書を出したのもおれだよ」
「彼女、なんで死んだんですか」
「悪性の貧血だな」
夏野は少し言い淀み、敏夫を上目遣いに見る。
「確かに死んでました? ――ほら、脳死とか、いろいろあるでしょ」
敏夫は軽く笑う。内心では得体の知れないものがもやもやとゆたっているのを感じていた。
「脳死している患者を死んでいないと言う医者はいても、心臓死している患者を死んでいないと言う医者はいないだろうな」言って敏夫は笑う。意味もなく手の中で車のキーを持ち換えた。「呼吸、心拍は停止、血圧はゼロ、瞳孔反射も消えてた。彼女は死んでたよ。疑問の余地はない」
「でも、仮死状態、ってよく言いますよね」
敏夫は苦笑する。
「あまり仮死という状態にはお目にかかったことはないが、極めて死体に似ていて実は死んでない患者というのはある。あまりに心拍が弱くなって素人では脈を探れない、呼吸が浅くなって、息をしていないように見えるってことはあるだろうさ。だが、彼女の心臓は完全に停止してた。あれだけの時間、心拍が止まれば、生きている者だって死ぬだろうな。――まあ、仮死状態で、死斑や死後硬直が起こるとも思えないが」
「早すぎた埋葬って、知ってます?」
敏夫はさらに笑う。
「おれは、ほんのちょつとでも生きている可能性があれば、死亡診断書なんか書かんよ。断固として治療をする。家族が止めたってな。そして、おれが死亡診断書を書かなきゃ、埋葬はできないんだ」
「じゃあ、清水さんが生き返ることは、絶対にないんですね」
敏夫は爆笑した。
「あの状態で生き返ったら、ゾンビか吸血鬼だよ」大いに笑い、敏夫はふと笑いが強張るのを感じた。(今、おれは何て言った?)夏野を振り返り、とりあえず笑む。「紫斑や死後硬直が現れるということは、もはや彼女が単なる死体になったことを意味する。命のないモノとして腐敗し始めているってことさ。どんな名医でも、腐敗を始めた人間を生かすことはできんと思うぜ」
「そうですか」夏野は考え込むようにして呟く。すぐに顔を上げて頭を下げた。「分かりました。済みません、変なことを訊いて」
「ところで君は――」敏夫が言いかけたにもかかわらず、夏野は身を翻す。逃げるように駐車場を横切り始めた。「なんだってまた、そんなことを訊きにきたんだ?」
敏夫の問いに、夏野は答えない。ちらりと振り返って軽く会釈をし、小走りに敷地を出て行った。
――ゾンビか吸血鬼だよ。
敏夫は、自分の言葉を反芻する。
患者の様子、死因。考えて首を振った。(馬鹿な)自分自身に苦笑したが、やはり笑いは中途で強張り、消えていった。(ありえない。そんなモノは、存在しない)
――悪い子のところには、鬼が来るぞ。
墓場から起きて、やってくる。子供を捕まえ、墓穴の中に連れて行って食べてしまう。
ほんの子供の頃、古老に言われて、墓穴の中に人間二人は入れない、と言い返した覚えがある。墓から甦る鬼などない(死者一、発症二、失踪一)。
(セツ[#「セツ」は「やまいだれ」+「節」に似た字。Unicode:U+7664]……虫さされのような傷)敏夫は裏口に廻り、通用口から控え室へと戻った。(傷、貧血――死)
死者一、発症二、失踪一。
控え室のドアを開けかけて閉め、敏夫は休憩室に顔を出す。
「永田さん」声をかけると、看護婦たちがガーゼを折っていた手を止めて振り返った。清美が軽く腰を浮かした。「悪いんだが、勤務表を作り直してくれるか」
「勤務の予定表、ですか」
敏夫は頷いた。
「人手が足りないのは分かってるんだが、どうもまずい気がする。――安森の奥さんに入院してもらおう」
夏野は小走りに歩く。西の山に向かって釣瓶落としに陽は傾き、夏野の影は足許に長く伸びていた。
(ゾンビか吸血鬼)影は前兆に見えた。(生ける屍――甦った死者)
それでいけないはずがない。
この村では、未だに死者を土葬にするのだから。
[#改丁]
底本:「屍鬼(上)」新潮社 小野不由美著
一九九八年九月三〇日 初版第一刷発行
本文中、室井静信作として挿入される作中作の小説は底本では太字書体で表記されています。青空文庫形式テキストでは書体の差異表現はできないため、該当作中作部分、およびその他の太字表記部分は四文字の字下げとしてあります。
【底本中の誤字等】
九九九三行目:「紫斑」→「死斑」? 単なる紫斑は「アザ」のことだよね?
テキスト化 二〇〇四年十月