丕緒《ひしよ》の鳥   十二国記       小野不由美
その山は天地を貫く一本の柱だった。限りなく垂直に近い角度で聳《そび》える峰は、穂先を上にして立てた筆のよう、その筆がぎっしりと束ねられて巨大な山塊を形作る。山頂は実際に雲を貫いていた。雲の下にも尖った峰が林立し、その穂先は小波を描きつつ急激に基底部に向かって落ち込んでいった。麓は広大きな斜面だった。そこには階段状に街が広がっている。
世界東方、慶国の首都となる堯天《ぎようてん》である。
山はそれ自体が一つの王宮だった。山頂には王と高官のみが住まう燕朝《えんちよう》が広がる。燕朝と堯天の間には、偽りなく天地ほどの落差があった。しかも両者の間は透明な海で完全に隔絶されている。地上から見上げてもそこに海があることは分からない。山頂に打ち寄せた波が、まとわりつく白い雲として見えるのみだった。その雲の下、群がる峰の間には下級官の住まう治朝《じちよう》が広がる。白茶けた岩棚が巨大な山塊にしがみつくようにして連なり、そこに無数の府第《やくしよ》と官邸が建ち並んでいた。
その南西には夏官《かかん》府が広がる。四角く院子《なかにわ》を囲むように並んだ堂屋《むね》が、高さを変えつつ縦横に連結されて広大な府第を形成していた。その一郭に、射鳥氏《せきちようし》の府署《ぶしよ》はある。丕緒《ひしよ》が新たに任じられた射鳥氏に呼び出され、邸からそこへ出向いたのは、慶の国暦で予青七年、七月の末のことだった。
取り次ぎに出てきた下官は、丕緒を府署の奥まった堂屋に通した。堂《ひろま》は中空に張り出した広い露台に面している。石を刻んだ欄干の向こうは千尋《ちひろ》の崖、露台の隅には柳の古木が立って蓬髪《ほうはつ》のように垂れた枝を欄干に打ち掛けていた。その下には一羽の鷺《さぎ》に似た鳥が蹲《うずくま》っている。欄干に留まった鳥は、ほっそりと長い首を谷底へと向け、物思うように徴動だにしない。
──何を見ているのか、と丕緒は思った。
眠っているとも思えない。下界でも眺めているのだろうか。丕緒が所在なく佇んだ場所からは見えないが、鳥の眼下には下界の景色が広がっているはずだ。暑気と閉塞に倦《う》んだ堯天の街と、街をくるみ込む疲弊した山野が。
──荒廃しか見えんだろう。
丕緒は思ったが、なぜだか鳥は、その荒廃こそを見詰めているのだ、という気がしてならなかった。
その姿が何かを憂えているように見えるせいだろうか。
それは、不思議に一人の女を思い起こさせた。およそ鷺に似通ったところなど持ち合わせてはいなかったが、よくああして谷間の景色を眺めていた。ただし、女のほうには何かを憂えている様子など欠片《かけら》ほどもなかったが。そもそも彼女は下界など、端から見ようともしなかった。
──荒れ果てた下界なんか、眺めたって詰まらないでしょ。
女はそう言って笑って、梨の実を枝げた。下界にも荒廃にも興味はない、惨いものなど見たくないと、あっけらかんと言い放った。
なのになぜ、あの鳥と重なるように思うのだろうか。──思いながら鳥を眺めていると、せかせかとした跫音《あしおと》がした。それに驚いたのか、鳥が飛び立つ。振り返れば、堂に貧相な男が入ってくるところだった。今日まで顔を合わせたことはないが、これが新しい射鳥氏の遂良《すいりよう》だろう。そう察して丕緒は跪《ひざまず》き、とりあえず一礼して男を迎える。
「待たせたようだな。──よく来てくれた」
男は両手を広げて歓迎の意を示した。歳の頃は五十過ぎ、青黒く即せた顔には取って待けたような満面の笑みが浮かんでいる。
「そなたが羅氏《らし》の丕緒だな? いやいや、気にせず立ってくれ。 ──そこへ」
手先で示しながら、傍らの方卓《つくえ》を示した。自らも椅子に腰を下ろしながら、丕緒にも坐るよう勧める。珍しいこともあるものだ、と丕緒は心の中で思った。方卓を挟んで並べられた二つの椅子は、本来、主と客の席だ。丕緒はもちろん客などではあり得ない。
「遠慮することはない、坐るがいい。──真っ先に会おうと思っていたのだが、いろいろと雑用が多くてな。やっと時間が取れたので、そなたの許を訪ねようかとも思ったが、生憎《あいにく》そこまでの暇がない。なので呼び立ててしまったのだが、急のことにもかかわらずよく来てくれた。済まないな」
遂良は阿《おもね》るかのように丁重だった。射鳥氏は羅氏を掌《つかさど》る。用があれば呼び出して当たり前なのだし、丕緒には拒む権利もない。呼び出したからと言って詫び、来てくれたと言って感謝する必要などないはずだった。
「坐るがいい──これ」
遂良は背後の下官を振り返った。下官は酒器を捧げ待っている。遂良に呼ばれて、それを方卓に並べた。これまた慣例ではあり得ない待遇だった。
重ねて坐るよう言い、酒杯を押し出すように勧めながら遂良は身を乗り出した。
「なんでもそなたは、羅氏がたいそう長いとか。悧《り》王の時代から羅氏を務めておると聞いたが、真か」
丕緒はこれには、頷くだけで答えた。遂良は「そうか」と唸り、丕緒をしみじみと見た。
「私よりも年若に見えるが、遥かに年上ということになるのだな。──いや、私が官吏になって仙籍に入ったのは一昨年のことでな。仙籍に入れば歳を取ることもないと言うし、それは重々承知しているのだが、どうも慣れない。そなた、実年齢は幾つになる?」
「さて──覚えておりません」
これは事実だった。丕緒が官吏として登用され、仙籍に入ったのは悧王の時代、それも悧王が即位して十年かそこらのことだったと記憶している。すると官吏になってから、すでに百数十年は越えていることになるだろうか。
「覚えられないほど長いか。大したものだな。なるほど、羅氏中の羅氏と呼ぶわけだ。数々の逸話を残しているとも聞いておる。先王──予王が即位なされた際には、王から直々にお言葉を賜ったとか」
丕緒は薄く笑った。人の噂というものは、体よく歪んでいくものだ。
丕緒の笑みを誤解したのか、遂良は両手を叩いて摺り合わせ、「そうかそうか」と大いに破顔する。
「その腕を揮《ふる》ってもらわねばならない」
そう言ってから、遂良は再び顔を寄せ、声を低めた。
「──近々、新王が登極《とうきよく》なさる」
丕緒は遂良の眼を見返した。遂良は頷く。
「ついに偽王《ぎおう》を下されたそうだ」
「……偽王だったのですか、やはり」
丕緒は問うた。
丕緒の生まれ育ったこの国──慶には今、国を統《す》べる王がいない。先の王は在位わずかで弊《たお》れ、後、時を措かずにその妹、舒栄《じよえい》が立ったが、これは王を騙《かた》った偽王らしいという説が王宮では有力だった。
そもそも王は国の宰相たる宰輔《さいほ》が選ぶものだ。宰輔の本性は騏麟で、天意を聴いて天命ある者を玉座に据える、という。何者であろうと騏麟の選定なしに玉座に就くことは許されず、天命のない王は偽王と呼ばれる。
舒栄が真実、王なのか、それとも偽王にすぎないのか──これを確実に知る者は宰輔しかいない。にもかかわらず、肝心の宰輔はこのとき国にいなかった。予王崩御の前に体調をくずし、崩じてからは麒麟の生国とも言える蓬山に戻っていたのだ。宰輔が戻ってくることがないまま舒栄が立ち、王宮に入れよと求めたが、新王かどうかを確認する術がない。衆議の末、国官たちはこれを拒んだ。
実際には、丕緒はそれらの事情について正確なところを知るわけではない。王宮に住まう国官の端くれだが、丕緒の地位は国の大事に関与できるほど高くないのだ。そもそも羅氏は国政とはほとんど関係のない官だった。所属こそは軍事を掌る夏官だが、軍にも戦にも全く関係のない射儀《しやぎ》を掌る。祝い事や賓客があったときなどの祭礼に際し、弓を射る儀式がそれだが、その射儀で的にする陶鵲《とうしやく》を射鳥氏の指示を受けて誂《あつら》えることが職務だった。身分から言っても職務から言っても、国の重大事など耳に入るはずもない。それらは全て王宮の上のほう──文字通り雲の上での話で、なので漏れ聞こえてくる噂話として経緯を承知しているにすぎなかった。
正しく天命を得て麒麟が選んだ王が立てば、王宮の深部で数々の奇瑞《きずい》が起こるものだ、という。にもかかわらず、その奇瑞がない──ゆえにどうやら偽王らしい、これが雲の上の人々の判断だったようだ。王宮に入れよと求める舒栄に対し、これを拒んで王宮を聞ざした。怒《いか》った舒栄は慶国北方に陣営を構え、官吏が王宮を私物化して王たる自分を宮城に入れない、と糾弾の声を上げたと聞く。
「しかし、宰輔が御前におられるという噂も聞きましたが」
どうやら宰輔が舒栄の陣営にいるらしい──そういう噂が流れて、王宮は一時、恐慌に陥った。舒栄が真実、新しい王なら、正当な王を王宮から聞め出した官吏は責任を問われる。正式に新王が王宮に入ったとき、厳罰に処せられることは必至だ。浮き足だった官吏が王宮を逃げ出して舒栄の陣営に参じた。遂良の前の射鳥氏も、そうやって消えた宮吏の一人だった。
「あったな。それを聞いて各州が雪崩を打って舒栄の許に下ったが、やはり偽王だったという話だから、おそらくは何かの聞違いだったのだろう。天を信じて踏みとどまった我らの労が報われる時が来た、ということだ」
遂良は感慨深げに言ったが、果たしてそれはどの覚悟があったかどうか。偽王らしいという噂はあった。正当な王が立ってこれと戦っている、とも聞いたが、王宮から閉め出した以上、舒栄が新王であってもらっては困る──これが王宮に残った高官たちの本音だろう。
「──もっとも、女王だそうだがな」
遂良は口許を歪めた。
「女王……なのですか。また?」
だそうだ、と遂良の返答は苦々しげだった。無理もない。この国は女王と折り合いが悪いのだ。少なくともここ三代、無能な女王の時代が続いている。
「まあ、女王であろうと、天に認められた正当な王には違いない。──新王はじきに宰輔と共に王宮にお入りになるだろう。そうすればすぐに即位の礼だ。大至急、大射《たいしや》の準備をしてもらいたい」
大射とは国家の重大な祭祀古礼に際して催される射儀を特に言う。射儀はそもそも鳥に見立てた陶製の的を投げ上げ、これを射る儀式だった。この的が陶鵲で、宴席で催される燕射《えんしや》は、単純に矢が当たった陶鵲の数を競って喜ぶという他愛ないものだが、大射ともなれば規模も違えば目的も違う。大射では、射損じることは不吉とされ、矢は必ず当たらねばならなかった。射手に技量が要求されることはもちろんだが、陶鵲のほうも当てやすいように作る。そればかりでなく、それ自体が鑑賞に堪え、さらには美しく複雑に飛び、射抜かれれば美しい音を立てて華やかに砕けるよう技巧の限りを尽くした。果ては砕ける音を使って楽を奏でることまでがなされる。──楽を奏でる陶鵲というのは、丕緒も過去に作ったことがある。正確に陶鵲を投げ上げるため小山のような投鵲機を作り、射手には名うての名人ばかりを取り揃えた。打ち出された陶鵲を順次射ていくと、砕けて立てる音が連なって楽になる。大編成の楽団が奏じる雅楽なみの音を鳴らすため、三百人の射手を居並ばせたものだ。御前の廷を色とりどりの陶鵲が舞う。舞ったそれを射ていくと、大輪の花が開くように砕け、──石や玉で作った楽器──のような音色がして、豊かな楽曲が流れる。音程を揃えようとするとどうしても芳香を持たせることができず、足りない香りを補うため、周囲には六千鉢の枳殻《からたち》を用意させた。──昔の話だ。
「また逸話になって残るような射儀を──のう?」
遂良は言って丕緒の顔を舐めるように見上げた。
「お前も腕が鳴るであろう?」
「さて……どうでしょう」
「私に向かってまで謙遜することはない。──なにしろ新王が登極なされて初めての射儀だ。見事な射儀をお目にかければ、どんなにかお喜びになるに違いない。主上《しゆじよう》がお喜びになれば、夏官も大いに面目が立つ。お褒めの言葉だけではなく、なにがしかの褒美もあるやも知れん。そうなれば夏官が総じてそなたに感謝し、そなたを誇りに思うことだろう」
そういうことか、と丕緒は心中で失笑した。もしも予王の例のように、新王から直々に褒め言葉を賜るようなことがあれば、射儀に携わった全ての官の未来が拓けるだろう──そう期待しての、この持て成しなのだと理解した。
「それで、そのお褒めをいただくための腹案はおありでしょうか」
丕緒が問うと、遂良がぴたりとロを襟《つぐ》んだ。怪訝《けげん》そうに眉を寄せ、丕緒の顔を窺《うかが》い見る。
「──腹案?」
「どのような陶鵲をお作りすれば良いのか、指示をいただきませんことには。もっとも、実際に陶鵲を作るのは冬官《とうかん》でございますが」
本来、射儀を企図するのは射鳥氏の役割だ。どのような射儀にするのか思案し、羅氏に命じて陶鵲を用意させる。羅氏は冬官府の冬匠《とうしよう》──特に陶鵲を作る専任の工匠である羅人《らじん》を指揮して実際にそれを作らせる。
「そなたは企図から何もかもやってのけると聞いたぞ」
「とんでもございません」
「そんなはずはない。前の射鳥氏は、大射と燕射の区別すらつかなかったという話だ」
それは事実だ。前の射鳥氏だけではない。丕緒が最初に仕えた射鳥氏を除き、歴代の射鳥氏全てがそうだった。「羅氏中の羅氏」が勝手に何もかもやるから、位に坐っているだけでいい。旨味はないが楽な役目だ──遂良もまた、そう言われてやってきたのだろう。
官吏には、下から業績を積み上げて位を昇っていく者と、高官の強い引きを得て上から降りてくる者がいる。遂良は確実に後者だった。
「射鳥氏があまりに無能でいらっしやれば、私がお助けするしかありません。そういうこともなかったとは申しませんが」
あからさまな皮肉に、遂良は一瞬、不快そうな表情を浮かべたが、すぐに貼り付けたような笑顔を取り戻した。
「なにぶん私は射鳥氏に任じられたばかりだからな。もちろん、役目は分かっているし、至急覚えるつもりでいるが、今回の大射には間に合うまい。無理をして不調法があっても申し訳ない。今回はそなたに任せたほうが良かろう」
「お助けしたい気持ちは山々ですが、なにぶん長いあいだ羅氏を務めて参りましたので、あいにく思案が枯れました。実を言えば、そろそろ役目を変えていただくか、お暇をいただきたいと思っていたところです」
「いや、そんな……」
遂良はうろたえたように呟き、すぐに膝を打って身を乗り出した。
「予王にお褒めをいただいたという件《くだん》の陶鵲はどうだ? それに手を加えてさらに華やかにすればよかろう」
「まさか」
丕緒は苦笑した。遂良はよほど「件の陶鵲」が気に入っているようだが、あいにく、予王の例のように新王から言葉を賜れば、遂良は得たばかりの官位を失うことになりかねない。真実を知らないということは幸せなことだ。
「なぜだ? 数を増やすなり色を変えるなりして──丕緒は素っ気なく首を横に振った。
「陶鵲は冬匠が作るものです。件の陶鵲を作った冬匠がもうおりません」
「同じものを作らせればいい。書き付けか図会《ずえ》が残っておろうが」
「さあ、どうでしょう。残っておりましても、現在の冬匠で作ることができますかどうか。何より時間がございません」
蓬山で天勅《てんちよく》を受け、正式に即位してから大射まで、過去の例からすれば一月というところか。
「それを指導して何とかするのが羅氏の役目だ」
遂良はついに不快を露《あら》わにした。
「登極したばかりの王の前で、無様な射儀は許されぬ。必ず新王にお喜びいただけるような陶鵲を用意せよ」
怒って堂《ひろま》を出ていった射鳥氏《せきちようし》の、遠ざかる跫音《あしおと》が消えてから丕緒《ひしよ》はその場を辞した。困惑したような下官の視線を受けながら堂屋《むね》を出ると、夏の陽は大きく傾いていた。自身の府署《ぶしよ》には立ち寄らず、治《じ》朝《ちよう》を東西に貫く大緯《おおどおり》を辿って西へと向かった。
治朝はほぼ南面する。その中央の最も奥には、山の斜面を剔《えぐ》るようにして巨大な門が聳えていた。これが路門《ろもん》、雲の上──天上に広がる燕朝《えんちよう》に続く唯一の門戸だった。路門を通って天上に足を踏み入れることのできる者は限られる。それは王舎に仕える国官といえども例外ではなかった。治朝と堯天の間にも天地に匹敵する距離があったが、天上の世界から閉め出されている点では、どちらも変わりがなかった。
丕緒は路門を一瞥し、さらに大緯を西へ、冬官《とうかん》府へと向かった。冬官府は中心となる府第《やくしよ》を核に、大小の工舎が無数に周囲を取り囲む。丕緒は複雑に入り組んだ工舎の間を抜けていった。通い慣れた道だが、このところ足が遠のいていた。周囲の高い順壁《へい》越しに漏れてくる物音や匂いが懐かしい。槌の音、灼けた鉄の匂い、一つ一つ確認しながら突き当たりの門を潜った。
工舎は正確には冬官府に属する府署であり、府署の中心となる匠舎《しようしや》は基本的に院子《なかにわ》を囲んだ四つの堂屋からなる。それに隣接する形で規模は様々に工舎を擁す。ほとんどの場舎、匠舎よりも工舎のほうが格段に大きい。ゆえに冬官府の府署を一般に工舎と呼ぶのだが、丕緒が訪れたこの匠舎には、そのうえさらに西の堂屋がなかった。院子の西は断ち切られたように断崖をなし、その先は二つの巨大な峰に挟まれた峡谷だった。
白茶けた峰が左右の視界を遮《さえぎ》り、壁のように立ち塞がっている。峰の間の上方には夕映えの空が覗き、その下は遥か遠くに霞む山々、薄藍に連なる山の稜線に向けて陽は落ちようとしていた。さらに下にはかつて、堯天の街が見えていた。今はそれが、こんもりとした緑の森に遮られている。院子の足許から続く斜面は一面、梨の木で覆われていた。
蕭蘭《しようらん》の植えた梨木《やまなし》だ。下界など見たくないと言って、蕭蘭は倦《あ》かずにこの院子から梨の実を投げた。運良く根付いた梨木が人樹に育ってさらに実を落とし、そうして増えた梨木が谷底の斜面を覆っている。春にはそれが真っ白な花を付けた。純白の梨雲《りうん 》が谷間に懸かり、それは見事な光景だった。
眼を細めてそれを見ている蕭蘭の姿が思い出される。やはりそれは、不思議にどこか射鳥氏の露台で見た、あの鳥の姿を彷彿とさせた。相通じるものなど何もないのに。
考え込んでいると、背後から驚いたような声がした。
「丕緒さま──」
北の堂屋から姿を現した若者が、くしゃりと笑って駆け寄ってくる。
「丕緒さま、お久しぶりです」
「無沙汰をしたな。元気だったか」
はい、と頷いた彼がこの匠合の主だった。陶鵲《とうしやく》を作る専門の工匠、羅人《らじん》の長だ。羅人はその下に所属する工合に数十人のエ手《しよくにん》を抱える。工手の長を師匠《ししよう》と言い、羅人府の師匠が羅人だった。いかにも繊細な細工に向いた柔な物腰の若者で、その名を青江《せいこう》という。
「どうぞ──どうぞ、お人りください」
青江は丕緒の手を引かんばかりだった。今にも泣き出しそうにさえ見える。実のところ、丕緒はもう一年近く、この羅人府を訪れていなかった。かつては、ほとんどここに住んでいるようなものだったのに。羅人府を訪れないばかりでなく、そもそも丕緒は官邸を出ることすらしていなかった。王が玉座にいなければ射儀《しやぎ》は行なわれることがない。それをいいことに羅氏《らし》の府署にも立ち寄らず、ひたすら自身の邸に引き龍もって過ごした。この春には青江から、梨雲が懸かったので見に来て欲しいと使いがあったが、それすらも断った。一向に姿を見せない丕緒の身を案じ、梨の花にこと寄せて使いをくれたことは了解していた。丕緒の拒絶に青江が傷つくだろうことも分かっていたが、どうしてもその気になれなかった。
久々に足を踏み入れた堂屋の中は、以前と少しも変わっていなかった。所狭しと並べられた卓《つくえ》と棚、雑多な道具と山のような書き付けと図会《ずえ》。一年前もこうだったし、それ以前──蕭蘭が羅人だった頃もこうだった。丕緒が羅氏として初めて足を踏み入れたときから、些《いささ》かも変わらない。
感慨深く見廻していると、青江が顔を赤らめた。
「相変わらず取り散らかしたままで……」
「こんなものだろう。ここがきちんと片付いているところなど、見た記憶がない」
済みません、と呟いて青江が慌てて掻き集めているのは、古い書き付けや図会だった。卓の上に散らばっているのは青江の作だろうか。どれも古い陶鵲に見える。丕緒の視線に気付いたのか、青江は恥じ入ったように俯《うつむ》いた。
「あの……勉強になるかと思って、古い陶鵲を再現していたんです」
そうか、と丕緒は呟いた。不緒が指示を与えないから、青江はすべきことがない。
「熱心で結構なことだが、しばらくそれは諦めてもらわねばな」
青江は、ぱっと顔を上げて喜色を浮かべた。
「では、陶鵲をお作りするのですね?」
「作らねばならん。近々|大射《たいしや》があるそうだ」
驚いたようにする青江に、丕緒は射鳥氏から呼ばれた件を伝えた。話を聞くにつれ、青江は明らかに萎《しお》れていった。
「──時間がない。急かせて悪いが、なにやら適当に見繕ってくれ」
「適当というわけには……」
「構わん。要は無様でない程度に飛んで、見苦しくないように割れればいいのだ。工夫をしたところで始まらん。儀礼が恙《つつが》なく終わればそれでいい」
「しかし……新たに登極なさる王の初めての大射なのですから」
丕緒は薄く笑った。
「じきにまた変わる」
丕緒さま、と青江は咎《とが》める声を上げた。
「また女王だそうだからな」
女王の治世など想像がつく。何年か玉座の上で夢を見て、そのうち夢にも倦いて身を滅ぼす。予《よ》王の治世はわずかに六年、その前は比王で、これの治世も二十三年にしかならなかった。その前の薄王が十六年。女王が三代続いたその間、王が玉座にいた時間より、そうでない時間のほうが長い。
「工夫しても詮方ない。適当に見栄《みば》えがして、めでたそうならそれでいい」
青江は悲しそうに眼を伏せたまま足許に零《こぼ》した。
「……そんなことを仰らず、もう一度、かつてのような見事な射儀を見せてください」
「何も思い浮かばない。とにかく時間もないことだし、過去の陶鵲を使い廻すしかなかろう。小手先でいい、多少あやをつけて目先を変えるのだな」
青江は傷ついたように項垂《うなだ》れた。
「……とにかく図会を持って参ります。しばしお待ちください」
堂を出ていく青江の背が寂しげだった。青江は蕭蘭の徒弟《でし》だった。蕭蘭が姿を消して工手から羅人に取り立てられたが、期を同じくして丕緒は陶鵲の思案を止めた。陶鵲は射儀にのみ使用するものだが、常日頃から工夫をしていなければ急の儀式に間に合わない。にもかかわらず、青江が羅人になってからというもの、丕緒はただの一つも陶鵲を作っていなかった。青江がそれを己のせいだと思っていることは理解していた。青江の腕に不足があるから、丕緒は陶鵲を作る気になれないのだ、と。
丕緒は青江の席に坐った。卓の上には古い図会や試しに作った細工の類が並んでいる。揃えて積み上げた書き付けの上には青い陶鵲が載っていた。文鎮《ぶんちん》代わりに使っているのだろう、羅人府に伝わる古いものだ。細かい意匠で埋め尽くされた四角い陶板の中央には、尾の長い鳥の絵が染め付けられている。鵲の絵だ。そもそもはこんな他愛もないものだったのだ──と思い、陶鵲に罅《ひび》が入っているのに気付いた。よくよく見れば鵲の尾を分断する形にごく細い亀裂がいくつも走っている。割れていたものをそこで接いであるのだ。
「……いい細工だ」
青江が行なったのだろう。蕭蘭が眼をかけて育てただけのことはある。これだけの技量に不満のあろうはずがない。
丕緒は陶鵲を手に取ってみた。それなりに厚みがあり、ずしりと重い。軽い陶鵲は良く飛ぶが、それだけ速いので射損じることがある。ある程度の重みは必要で、わずかに底面を窪ませてある。そのほうが空に留まる時間が長い。──陶鵲の最も初期の形だ。
ここから羅氏たちは創意工夫を重ねてきた。最初は正確に射抜くため、できるだけゆっくりと飛び、長く宙に留まるよう形状や重さに工夫がなされた。そのうち、見た目にも拘《こだわ》るようになった。丸や方形の陶板でしかなかたものが、さまざまな形を取るようになった。凝った図柄を染め付けるばかりでなく、金や宝玉で象眼《ぞうがん》したものもある。やがては飛び方までが工夫され、素材や加工を吟味することで砕け方をもエ夫するようになった。今では陶鵲は、必ずしも陶製であるとは限らない。にもかかわらず陶鵲と呼ばれるのは、古い時代の名残だろう。
ただ──さらに古くは実際に鳥を射たらしい。鵲をはじめとする様々な鳥を放し、射る。だが、王の宰相となる宰輔《さいほ》は殺生を忌《い》む。それで将来にかかわる吉礼であるにもかかわらず、射儀に宰輔は臨席しないのが通例だった。それでは吉礼にならない − そう思ったのかどうか、どこの国のいつの時代とは知れず、鳥の代わりに陶板を使うようになった。射落とした陶鵲の数だけ鳥を王宮の庭に放すようになったのだと聞く。
なぜ鵲なのかは誰も知らない。おそらく鵲の鳴き声は喜びの前兆だとされることと関係しているのだろう。射落とすことが目的ではなく、射落とした数だけ鵲を放すことのほうに主眼があったのかもしれない。陶鵲が射落とされれば射落とされるだけ、喜びの前兆とされる声が王宮に満ちる、というわけだ。
確実に射披かれ割れるよう──そこから歴代の射鳥氏と羅氏が思案と工夫を重ねるうちに、射儀は陶鵲を射て砕くことそのものが目的になっていった。楽を奏でる陶鵲は、丕緒が作った中の最高傑作だ。
思えば、あれが丕緒にとって最も賑々しい射儀だった。当時の射鳥氏は祖賢《そけん》、悧《り》王の治世も末期に入ろうとしていた。 ──もちろん、当時は末期などと知る由もなかったが。
不緒が手先の器用なのを見込まれて羅氏になったとき、すでに祖賢は射鳥氏として経験豊富な老爺《ろうや》だった。丕緒は祖賢から必要な知識の何もかもを与えられた。温厚で──しかも、いつまでもどこか無邪気なところを残した祖賢と共に、射儀の工夫をするのは楽しかった。ひとつ工夫が成功すれば、新たな望みが生まれる。祖賢と共に羅人府に通い詰め、すでに羅人であった蕭蘭を含め、三者で寝食を共にしながら試行錯誤を重ねた。祖賢は射鳥氏中の射鳥氏と呼ばれ、じきに丕緒は羅氏の中の羅氏と呼ばれるようになった。楽を奏でる陶鵲は悧王を大いに喜ばせ、わざわざ雲の下に降りてきて射鳥氏府を訪ねてきた王の手から丕緒らは直々に褒美を授かった。治朝に住まう者にとって、これ以上の誉れはなかった。そのままでいられれば、どんなにか良かっただろう。
──だが、王は変節した。次にはどんな楽を鳴らそうか、今度こそ前に芳香をつけ、砕ければ馥郁《ふくいく》たる匂いが流れるようにしよう──そう思案している間に、悧王の治世は翳《かげ》り始めた。次に大射があったのは、三年後だったか。王の在位六十年を祝う席だったが、このときすでに悧王は暴君へと姿を変えようとしていた。
悧王に何かあったのかは知らない。一説には太子を何者かに暗殺されたことが王と側近の間に深い亀裂を作ったのだと言われている。太子を暗殺した何者かは明らかにならなかった。それで悧王は疑心暗鬼に捕らわれたのかもしれない。官吏に対して辛く当たることが増えた、と言われた。それが雲の上から下ってきて丕緒の身辺にまで及ぶまで、いくらもかからなかった。王は事あるごとに官吏を試すようになった。不可能とも思える難題を突きつけ、時には過度な忠誠の証を求めた。射鳥氏に対しても例外ではなかった。六十年の在位を祝うに際して、前回以上の射儀を見せよ、と直々の言葉があった。言外に、前回以上でなければ許さないという含みが漂っていた。
当時のことを思い出すと、丕緒は今でも息苦しい気分になる。丕緒らの工夫は楽しみではなく課せられた義務になった。特に射鳥氏の上官にあたる司士《しし》が、功を焦ってこうせよああせよと無理な横やりを入れた。前回以上でなければならぬ、という義務感と、司士の現場を考慮せぬ横やりに手枷足枷《てかせあしかせ》を填《は》められた状態で射儀に漕ぎ着けるのはたいそうな苦労だった。
それでも射儀自体は成功したのだ、と思う。前回以上だと悧王は喜んだ。だが、祖賢も丕緒もそれで満たされることはなかった。陶鵲は見事に砕けたが、吉兆だとは思えなかった。射儀の頃には、丕緒の周囲でも見慣れた官吏がぼろぼろと欠けるようになっていた。信を失った王の前で射落とされる陶鵲は寒々しく、どんなに見事な花を咲かせても、見事な楽を芳香と共に奏でてもただ虚しいだけだった。
それでも──それだからこそ、祖賢は新しい趣向を凝らすことに前向きだった。
「今度は王のお心が晴れるようなものにしよう」
どうだ、と院子の椅子に跨って丕緒に問いかけた祖賢は、幼童《こども》が悪戯《いたずら》を企むような顔をしていた。
「それは結構ですが、どうやってお心を晴らします」
丕緒が訊くと、さてなあ、と祖賢は天を仰いだ。
「賑々しく華やかなだけではいかん。もっと心が浮き立つようなものでないと。それも気持ちが高揚するのではないぞ。何となく心が温もって、自然に笑みが零れる、そういうふうに浮き立つのでないとな。笑みが浮かんで、周囲を見渡すと、高官たちの顔にも同様の笑みが浮かんでいる。互いの笑顔を確認して、親しみを感じ、和む。──そういうのはどうだ」
丕緒は苦笑した。
「またそういう、分かったような分からないようなことを仰る」
「分がらんか? ほら、微笑ましい景色を見たときに、そういうことがあるだろう。笑っている互いの顔を見て、何かが通じた気がすると申すか──」
「感じならば、充分に分かっておりますよ。問題は、それをどう形にするかでしょうに」
形かあ、と祖賢は顔を傾けた。形なあ、と呟いて逆へ傾ける。
「とりあえず、雅楽は違うと思うのだがなあ」
雅楽は雅声《がせい》ともいい、「雅正《がせい》の楽」を略した呼び名だ。国の威厳ある祭祀や礼典に用いる古典音楽で、用いられる楽器も古楽器に限られ、歌がつく場合は歌謡ではなく祝詞《のりと》に近い。楽曲そのものも曲想より理論のもので、音楽と言うより呪力を持たせた音の配列と言ったほうが正しかった。重厚で荘厳だが、楽曲としての楽しみには欠ける。
「では、俗曲を使いますか」
それだ、と祖賢は跳《と》び上がった。
「俗曲がいい。それも酒宴で使う艶《えん》な曲ではないぞ。もっと軽やかな──」
「童歌のような?」
「童歌。悪くない。働くときの歌でもいい。ほら、川で洗濯をするかみさんたちが、よく声を揃えて歌っているだろう。ああいう曲をこちらからひとくさり流して、別の曲をあちらからひとくさり流す。それでどうだ」
眼を輝かせた祖賢を苦笑まじりに見やり、丕緒は視線を蕭蘭に向けた。院子の端の石に坐って、梨の実を投げながら祖賢と丕緒のやりとりを聞いていた蕭蘭の顔には、仕様のない幼童を見守るような種類の笑みが浮かんでいる。
「やってみても構いませんけど」
蕭蘭は言って、最後の実を投げた。辛抱強く投げた実のおかげで、谷底にはささやかな梨木の森が生まれつつあった。
「でも、俗曲は雅楽に比べて大変ですよ。雅楽なら音も調子も理屈で機械的に決まってますけど、俗曲はそうはいかないんですから」
「蕭蘭ならできるだろう?」
老爺はねだるように女の手を引いた。蕭蘭は苦笑して丕緒を見る。丕緒は笑いを怺《こら》えて溜息をついてみせた。
「音は実際に砕いてみて、一つ一つ整えていくしかないだろうな。調子を合わせるのも耳が頼りだ。耳で合わせた調子に従って陶鵲を飛ばす。また投鵲機が要るだろう」
「あっちからひとくさり、こっちからひとくさりだ」
祖賢は得意げに断言する。丕緒は頷いた。
「つまり、投鵲機は複数要る、ということだ。曲ごとに投鵲機を作って、射手が矢を陶鵲に当てる地点も複数の目印を立てて正確に決める」
「あらまあ、大変だこと。また冬官を総動員だわ」
蕭蘭も溜息をついたが、その眼はやはり笑っていた。素材の工夫、投鵲機の工夫、陶鵲そのものの製作──結局はいつも、他の冬匠《とうしよう》の手を借りて、結果として冬官府を挙げての騒動になる。だが、不思議に冬匠が嫌な顔をすることはなかった。蕭蘭もそうだが、冬匠は概《おおむ》ね、無理難題を言われると奮起するのだ。祖賢や丕緒が持ち込む話はいつも必ず前例のない無理で、だから口先では四の五の言うが、そのわりに楽しげに手を貸してくれる。
他ならぬ丕緒もそうだ。前回以上であれ、と他者から目標を強制された陶作りは苦しかった。だが、これを作ろう、と前向きに示された無理難題は楽しい。前回が苦しかっただけに嬉しかった。
ちょうど青江が羅人府に工手として入ってきたのはこの頃だったか。まだまだ工手としては拙《つたな》いながらも、青江でさえ楽しげに手作業に没頭していた。
──だが、祖賢はある日突然、乱入してきた兵卒に連れて行かれた。
丕緒には今も、何かあったのか分からない。謀反《むほん》の罪であったことは知っているが、断じて祖賢には王に対する反意などなかった。おそらくは誤解か──あるいは虚言によって謀反の罪に連座することになったのだろうが、その経緯はあまりにも複雑で丕緒には辿《たど》りようがない。謀反などあり得ないという丕緒の叫びはどこにも届かなかった。そもそも、どこに向かって叫べばいいのかすら分からなかった。射鳥氏の上官にあたる司士は連座をおそれて丕緒を避け、その上の太衛《たいえい》も大司馬《だいしば》も雲の上、訴えようにも面会する術さえ存在しない。訴状を書いてみたが返答はなく、高官たちの手に渡ったのかどうかすら分からなかった。
所詮、世は天上でのみ動くのだ──そう言って慰めてくれたのは誰だったか。丕緒や蕭蘭の周囲にいた者たちは、せめても彼らが連座せずに済んだことを喜ぶべきだ、と言った。おそらくは祖賢が身を挺して庇ってくれたのだろう、ついに丕緒や蕭蘭が共謀を疑われ、取り調べを受けることはなかった。そ
れがいっそう苦しく辛い。やっと司士が面会に応じてくれたと思えば、それは最悪の事態を告げるためだった。祖賢には身寄りがないから、丕緒に遺骸を引き取るように、と。
憤慨する気力も、涙も枯れていた。言われるまま刑場から祖賢の首を引き取り、抱いて帰る道すがら、丕緒は一つの確信に辿り着いた。
──鵲は喜びの前兆を鳴く。その鵲を射落とすことが、吉兆であるはずがない。
陶鵲が射技かれ、砕けて落ちることで見る者を喜ばせるのは間違っている。本来、陶鵲は射てはならないのだ。当ててはならず、砕いてはいけない。だが、射儀とは陶鵲を射る行事だ。陶鵲が射落とされるのはあってはならないことだが、王の権勢が儀礼という形でそれを強要する。吉兆ではない。凶兆だ。
王が権の使い方を誤れば凶事しかもたらさない。それを確認する行事が射儀なのだと、そう思った。
「匂いを取ってしまおう」
祖賢の弔《とむら》いを済ませた後のある日、丕緒は工舎に行って、蕭蘭にそう告げた。まあ、と蕭蘭は眼を丸くし、困ったように手元を見た。
「構わないけど──でも、せっかくここまで漕ぎ着けたのに」
小皿の中に銀色の小さな玉がいくつも転がっていた。中には祖賢が目指した香油が入っている。祖賢は匂いにも拘った。単に良い香りではなく、心が浮き立つような香りであって欲しい。浮き立ち──同時に、満ち足りる、そんな匂いがいいのだと主張した。冬官|木人《ぼくじん》に諮《はか》り、工合に通い詰めて香油を調合した。品良く香るよう香油を封じる玉の大きさも工夫て、祖賢亡き今になって、やっと完成したところだった。
「ないほうがいいんだ。陶鵲の砕ける音も変えよう。もっと陰に籠《こ》もっか音のほうがいい。奏でるのも賑やかな楽曲は違う。いっそ大葬の時に使う雅楽でいいぐらいだ」
蕭蘭は控えめに苦笑しながら溜息をついた。
「全部やり直せってことね」
蕭蘭は小皿に改めて目をやる。惜しむような──あるいは、哀しむような色がその眼に浮かんでいた。
「でも、いくら何でも大葬の雅楽というわけにはいかないでしょ。それじゃあ吉礼にならないもの」
「では、俗曲でいい。ただし、明るい曲は違う。音も減らそう。もっと寂しい楽でいい」
そう、と感情の窺《うかが》えない声で蕭蘭は呟いただけで、特に異論は唱えなかった。匂いを取っていかにも寂しい俗曲を奏でるよう工夫したが、それを俐王に披露する機会はなかった。在位六十八年で悧王は斃《たお》れた。
それからの空位の時代、その間も丕緒は陶鵲を作り続けた。いつしか陶鵲に民を重ねて見るようになったのは、青江の一言があったからだった。
「なぜ鵲なんでしょうね」
青江は手先も図披けて器用で、しかも頭も良かった。祖賢が失われてから、蕭蘭はまるでその穴を埋めようと意図したかのように、青江を手許に置いて熱心に仕込むようになった。
「鵲の声は喜びの前兆だと言うからな」
丕緒が説明すると、青江は首を傾げた。
「縁起の良い鳥なら他にもいるでしょう? もっと綺麗な鳥とか、珍しい鳥でないのはなぜなんでしょう。不思議です」
確かにそうね、と蕭蘭は細工をする手を止めて、興味深そうに眼を輝かた。
「言われてみればその通りだわ。鳳凰《ほうおう》だって鸞鳥《らんちよう》だっていいのにねえ」
まさか鳳凰や鸞鳥を射落とすわけにはいかないだろう。──丕緒はそう苦笑したが、改めて考えると確かに不思議だった。
鵲は特に珍しい烏ではない。むしろ廬《むら》や耕地で普通に見かける凡庸な鳥だ。烏のような黒い頭と黒い翼を持っていて、翼の付け根と腹だけ白い。そして長い尾。体長ほどもある長い尾も烏色だ。すんなりした翼と長い尾は優美だが、格別美しい色彩でもなく目を引く模様があるわけでもない。特に鳴き声が美しいわけでもなかった。雀や烏のようなありふれた鳥で、春先には地面を啄《ついば》み、秋になれば木の実を啄む。飛んでいる姿より、地を歩いたり飛び跳ねる姿を見ることのほうが圧倒的に多い。
──民のようだと、ふと思った。
どこにでもいるごく普通の人々。質素な衣服に身を包み、その一生のほとんどを地を耕すことで終える。とりたてて才があるわけでもなく、耳目を引くほど見栄えが良いわけでもない。地道にこつこつ技を磨き、あるいは勉学に勤しんだところで、せいぜいが丕緒らのような下級官止まり、雲の上へと駆け昇ることなどあり得ない。それを恨むでなく、無心に日常を積み重ねていく──ただ、それだけ。
間違いなく鵲は民だ。満ち足りて笑み崩れ、喜んで歌えば、確かにそれは王にとっての吉兆だろう。民の喜びは王の治世が正しいことの証左《しようさ》、民が歌い囀《さえず》るならばその王の治世はそのぶんだけ長く続く。
陶鵲を射て喜ぶのは違う、という勘は誤っていないのだと思った。王の持つ権が民を射る。射られて民は砕け散る。射落として喜ぶのは間違っている。あえて過つことで、権の恐ろしさを確認する──させなければならない。
射抜いた射手が罪悪感に駆られるような陶鵲を作りたかった。見る者が胸を痛めるようなものを。だが──。
「──とりあえずあるだけ掘り返してきました」
唐突な声で思考から醒《さ》めた。 丕緒が振り返ると、青江が大部の書き付けを抱えて戻ってきたところだった。
「幸い、丕緒さまの作は全て図会が残っていました」
そうか、と 丕緒は息を吐く。
「では、その中から間に合いそうなものを選んでくれ」
青江は項垂れる。
「……それほど私の腕を見限《みかぎ》っておいでですか」
「そうじゃないと言っている」
青江は黙ったまま首を振った。そうじゃない、と丕緒は改めてロの中で呟く。ずしりとした重みを掌《てのひら》に思い出して目をやれば、まだあの陶鵲を握っている。
図会の中から適当なものを選んで製作にかかろうとしたが、これは 丕緒自身が予想していた以上の難問だった。たとえ図会が残っていても実際に陶鵲を作ったのは蕭蘭で、エ程の多くは蕭蘭をはじめとする冬匠の微妙な手加減に負っていた。材質にしても細エにしても、細部は担当した冬匠が試行錯誤の末に辿り着いたものだ。それは冬匠自身の眼と手を通さなければ加減が分からない。実際に作るのは工手だったが、師匠が作業の現場で、口伝え、手伝えでその加減を指示してきた。つまりは、実際にその作業に関わった冬匠がいなければ、もう一度最初からやり直さねばならない、ということだった。しかも──悪いことに、慶は悧王の時代の末から、常に波乱を抱えてきた。蕭蘭がすでにいないように、冬匠の多くも姿を酒し、加減を覚えている者の数が限られる。過去の陶鵲をすぐさま作ることは不可能だった。工程の多くは一から試行錯誤をせねばならない──とすれば、新たに作っても労力は変わらない。むしろ過去の記録に縛られる必要がないだけ、話が早いと言えた。
そうは思ったが、身体が動かなかった。往生際《おうじようぎわ》悪く過去の図会を漁《あさ》っている間に、正式に新王が登極した。過去の儀礼に則り、新王が王宮に入った際には、位を持つ官吏の全てが雲の上にまで出向いてこれを迎えたが、丕緒のいる場所からは新王の姿を見ることなど、とてもできなかった。顔も分からず、為人《ひととなり》も分からない。異境から来た娘だ、ということだけが確かなこととして雲の上から流れてきた。物慣れず常識に疎《うと》い、おどおどとした小娘だ、と。
またか、と思うと、いっそう陶鵲を作る気が萎《な》えた。
薄《はく》王は権を顧みず、ただ奢侈《しやし》に溺れた。極みない地位に昇り詰め、そこで得られる最上級の贅沢に舞い上がり、そのまま一度も地上に降りてこなかった。比《ひ》王は逆に権にしか興味を持だなかった。自らの
指先ひとって百官と人民が右に左に意のままに動くのを見て喜んだ。そして予《よ》王はその双方に興味を持たなかった。王宮の深部に引き籠もり、全く表に出てこない。権はおろか国も民も拒んで、ようやく朝廷に現れたときにはすでに常軌を逸した暴君だった。
新王が王宮に入って間もなく、丕緒は再び射鳥氏に呼ばれた。以前と同じく、丕緒の機嫌を取り結ぼうとするかのように、遂良《すいりよう》は丁重で親しげだった。
「どうだ? 良い思案は浮かんだか?」
いえ、と丕緒が短く答えると、遂良は困ったように眉を寄せる。次いですぐに、取りなすような笑みを浮かべた。
「幸か不幸か、思っていたよりも射儀が遅れそうだ。即位礼では大射を見送るらしい」
「見送る──?」
丕緒が怪訝《けげん》に思って問い返すと、遂良は顔をしかめた。
「頼むから理由は訊かないでくれ。私にもさっぱり分からない。新王の意向か
──さもなければお偉い方々の意向だろうが、我々にいちいち理由を説明してはくれないからな」
さもあろう、と丕緒は頷いた。
「どうやら初の大射は郊祀《こうし》になりそうだ。せっかくの大射を即位に際してお見せできないのは無念だが、これで時間には余裕ができた」
天に国の加護を願う郊祀の儀式は必ず冬至に行なわれる。特に即位して初の郊祀は王にとっても国にとっても重大な儀式だ。初の郊祀なら大射がついて当然──どうあってもこれは動かないだろう。冬至までは二月と少し、一から創案を練っても、ぎりぎりで間に合う。
「夏官全ての将来がかかっておる。何もかもそなたに任せるゆえ、ぜひとも夏官の面目が立つだけのものを作ってくれ」
どうあっても陶鵲《とうしやく》を作らねばならない。余計なことを考えている余裕はなかった。
諦めて卓《つくえ》の前に坐った。丕緒は羅人府の堂屋《むね》の一つに自分の房間《へや》を持っていた。大して広くもない房間に卓が二つ、損《ながいす》が二つ。かつて祖賢《そけん》と居着いていた場所だ。卓の一つ、榻の一つはとっくに物置になっていた。丕緒の使っていたほうは、さすがに片付いていたが、何しろ長いこと寄りつきもしなかったので至る所に埃《ほこり》が降り積もっている。とりあえず卓の埃を払い、嫌々ながら紙を広げ、墨を摺って筆を手に取った。──そして、そこで動きが止まった。丕緒の中には何もなかった。
何かを思い描こうとしても空白しかない。
思案が枯れた、と丕緒は常々言ってきた。だが、それは作る気が失せただけのことだと自分でも思っていた。あれをやりたい、これを試してみたいという欲は確かに枯れていた。だが、何も思い浮かばない、などということは思ってもみなかった。
あまりに長く職を放り出していたせいか。──丕緒は思い、かつて自分がどうやって思案を練っていたのか思い出そうとしてみたが、それすら朧で出てこない。
次をどうしようか、詰まったことは多々あった。だが、そういう場合にも丕緒の頭の中には、あれこれの断片が無数に漂っていたものだ。その中から何かを選ぼうにも気が乗らない。何となく気を引かれて取り出してみても続かない。──思案に詰まるというのはそういうことで、肝心の頭の中に何もない──断片すらなく、綿のような空白しか存在しないという経験は初めてだった。
我ながら愕然《がくぜん》とした。次いで、焦った。大射《たいしや》ともなれば陶鵲はそれなりの数が要る。数を揃えるだけでも工手《しよくにん》が不眠不休で働いて半月以上がかかるものだ。数を揃える前に試行錯誤を終え、試射を済ませて調整を施し、陶鵲自体は完成させておかねばならない。本当に一からやるのであれば、即座にかからねば間に合わない。何かを引き出さねばならないが、何もない。
──そうか、と思った。自分は既に終わっていたのだ。
終わったのがいつかは分からない。蕭蘭が消えたときか──それとも、予王から言葉を賜ったときか。あるいは、それ以前なのかもしれない。祖賢を失い、陶鵲は民だと思い定めて以来、丕緒は取り憑かれたように陶鵲を作ることに邁進《まいしん》してきたが、ひょっとしたらその熱気は最初から「作りたい」という思いとは違う種類のものだったのかもしれない。
そう、確かに丕緒はその間、陶鵲を作ることで喜びを感じたことはなかった。
──もっと綺麗なものにすればいいのに。
指示を与えるたび、蕭蘭はそう苦笑した。そのたびに丕緒は繰り返した。陶鵲が砕けるのを見て喜ぶのは間違っている、と。
「陶鵲が射抜かれて落ちるのは惨いことだ」
現実を見ろ、と丕緒は漏窓《まど》から見える谷間を示した。巨大な峰に挟まれた峡谷、生い茂る梨の木が覆い隠してはいても、その底には王に顧みられず権に踏みにじられた下界が横たわっている。
「無能な王の粗雑な施政が国を荒らす。民を顧みない政《まつりごと》に翻弄されて、誰もが飢え、困窮している。王は指先一本で、それを救いもすれば、さらなる困窮に突き落としもする。命を奪うこともある。それを王に分かってもらわねばならない」
蕭蘭は呆れたように溜息をついた。
「分かってもらえるものかしら。陶鵲を見て分かる人なら、見るまでもなく心得てるような気もするけど」
「そうかもしれん」
蕭蘭の言には一理があった。だが、ならば他にどうすればいいのだ。
「ありがたくもない王のためにただ陶鵲を作るのか。その場でだけ王や側近を喜ばせて、それが何になるというんだ」
「でも、それが仕事なんだから」
当然のように言って、平然と細工を続ける蕭蘭の姿が苛立《いらだ》たしかった。楽しそうに見え、満ち足りたように見えるからいっそう腹が立った。
「確かに我々は国官とは言っても、取るに足らない下級官だ。国の大事に関与することはないし、職分から言っても国政に意向を反映させることもできない。だが、国に官位を賜っていることに変わりはないだろう。我々の肩には民の暮らしが乗っているんだ。せめて自分の職分を通して、少しでも民のため
になることをする──そうでなくてどうする」
蕭蘭は顔も上げずに、くすりと笑った。
「民のため──ねえ」
「では逆に訊く。お前は羅氏《らし》や羅人がどうあるべきだと思っているのか」
「どうあるも」
呆れたように言って、蕭蘭は笑った。
「人間はみんな同じでしょ。与えられた仕事をこつこつこなすの。だから、気難しい羅氏が難題をふっかけてきても、ちゃんとやっているでしょう」
「そうやって目を逸らしたら、何一つ変わらない」
「目を逸らしたって嫌でも目に入るけど。──王だって同じじやないかしらね。見たくもないものを無理に突きつけても、眼を閉じるだけじやないかしら」
「──お前が下界から目を逸らし、梨で覆い隠すように?」
皮肉を含ませて言うと、蕭蘭は肩を竦《すく》めた。
「だって荒れ果てた下界を見ても仕方ないもの。それより綺麗なものを見ていたほうがいいじやない?嫌なことをわざわざ数えて不愉快な思いをするなんて馬鹿げてる」
「それで? 工舎《こうしや》の中に閉じ籠《こ》もって、日がな一日、卓に向かって俯《うつむ》いているわけか。そんな閉じた場所にしか、楽しいこともないのだろう」
もちろんよ、と蕭蘭は声を上げて笑った。
「ただし、そこにしかないんじやなくて、そこだけにあるの。細工をするのは楽しいもの。上手くいったりいかなかったり──どちらでも楽しい」
言ってから、蕭蘭は鑢《やすり》を手に取った。銀の細工を磨き始める。
「余計なことを考えず細工にだけ集中してるのは、とても楽しい……」
独りごちるように言ってから、蕭蘭はくすくすと笑った。
「意外に民もそうかもしれないわよ? あなたが哀れんでいるおかみさんは、王がどうとかより、今日の料理は上手くいったとか、天気が良くて洗濯物がよく乾いたとか、そういうことを喜んで日々を過ごしているのかも」
そう言ってから、丕緒の不快を嗅ぎ取ったのだろう、慌てたように居住まいを正して真顔を作った。
「はい。もちろん羅氏の仰る通りにしますとも。喜んで」
蕭蘭には現実を見る気がなかったのだ、と丕緒は思う。民にも国にもさして興味がなかった。そこにある悲惨より、自身のまわりに卑近な喜びを探そうとした。祖賢が処刑されたときには声を嗄《か》らして泣いていたが、それとて親しかった者が死んだというだけのことでしかなかったのだろう。事実、丕緒がずっとそれを引きずっているのに比べ、蕭蘭はすぐにそこから立ち直った。残念だけど済んだことだ、と言って。
蕭蘭がそんなふうだったから、羅人府の工手たちも総じてそういうふうだった。気乗りはしないが、羅氏である丕緒が命じるから生真面目にこなしている。誰の理解も得られず、丕緒は孤立した。祖賢に代わって任についた射鳥氏《せきちようし》たちは、丕緒に任せておけばそれで足りると思っているふうで、丕緒が何を作っても大して興味はなさそうだった。彼らが興味を持つのは、その結果だ。雲の上の人々がそれを喜ぶかどうか。そして丕緒は、概《おおむ》ね歴代の射鳥氏を満足させてきた。
丕緒の作る陶鵲は、総じて喜ばれた。時には「晴れやかさがない」と言われることもあったが、むしろ荘厳で美しいと褒められることのほうが多かった。必ずしも本音とは限らない。名高い「羅氏中の羅氏」が作ったのだから、褒めるべきだという思い込みもあったに違いない。だが、そうと分かっていても、にこやかに「見事だ」と言われることほど、丕緒を打ちのめすことはなかった。思いを込めたが、通じない。一兵卒にすぎない射手が、儀礼の後で丕緒を訪ね、いかにも辛く悲しくて胸を打ったと言ってくれるのも皮肉だった。その身分が低ければ通じる──高ければ全く通じない。届かねばならない場所に、丕緒の意図は全く届いていなかった。
丕緒は陶鵲を作ることに没頭した。二人の女王が現れ、そして消えていった。多くの場合、玉座には王の姿がなく、従って大射が行なわれることもなかったが、丕緒は工夫を止めなかった。やがて──ようやく丕緒の意図が王に通じる日が来た。
それは予王の即位礼だった。
その陶鵲は長く優美な翼と尾を持ち、投鵲機から投げ上げられるというよりも押し出されるようにして飛び立ち、滑るように宙を舞った。空の高所から舞い降りる鳥を見ているようだった。射手が射ると、か細い音を立て、五色の飛沫を散らして二枚の翼と尾に割れた。それはもがくように舞い落ちる。割れたときに立てた音は、その間、悲鳴のように頼りない尾を引いた。苦しげに落ちる翼は地に叩き付けられ、痛ましいほどに澄んだ音を立てて砕けた。砕けると同時に赤い肢璃《はり》の欠片《かけら》となって散る。射儀《しやぎ》が終わると御前の廷《にわ》は輝く玻璃の欠片で紅に染まっていた。
王や高官が居並ぶ承天殿《しようてんでん》、その前に広がる廷からは声が絶えた。しんとした重い沈黙を聞いて、丕緒はようやく己の意が通じたことを悟った。射儀の後には王に呼ばれ、御簾《みす》越しとはいえ、直々に言葉を賜った。
そして彼女は開ロー番、「恐ろしい」と言ったのだった。
「なぜあんな不吉なものを。私はあのような惨いものを見たくはありませんでした」
丕緒は言葉を失った。惨いからこそ見て欲しかったのだ。民が失われるのは惨いことだ。射儀を通じて、王の両手に乗ったものを確認して欲しかった。
「主上《しゆじよう》はとても傷ついておられる」
そう、宰輔《さいほ》からも声を掛けられた。だが、もちろん傷ついて欲しかったのだ。その痛みから民の痛みを察して欲しかった。深い傷になれば忘れられないだろう。惨いことだと、深い痛みでもって胸に刻みつけて欲しかった。
惨いことから目を逸らしたら、惨いことはなくならない。惨さを自覚することができなくなる。
胸を剔《えぐ》ったのに届かなかった──丕緒は途方に暮れた。他にどうすれば良かったのか。丕緒は急速に陶鵲を作る意欲を失った。即位後の郊祀《こうし》では大射そのものが行なわれなかった。理由は射鳥氏も知らなかったが、たぶん王が見たくないと言ったのだろうと、丕緒白身は思っている。それでも陶鵲を作ることを止めたわけではなかった。このときは──まだ。
以来、丕緒は頻繁に市井に降りるようになった。民の暮らしを間近に眺め、時には戦場や刑場にまで足を運んだ。悲惨を目の当たりにすることで、何か思案を得られないか。萎《な》えそうになる自分を掻き立てる何かを探していたようにも思う。
そこから拾ったなにがしかを羅人府に持ち帰るたび、蕭蘭は苦笑を浮かべてこれを受け取った。誰に差し出す宛もない陶鵲──丕緒自身も何を作ればいいのか分からず、ただ作っては放り出すことを何年も繰り返した。そしてある日、丕緒が工合に戻ると、そこには蕭蘭の姿がなかった。
その日は重く雲が垂れ籠《こ》めていた。その前夜、下界ではまだ稲穂が熟してもいないのに、霜が降りた。どうしたことか、と不安そうに天上を見上げる民の声を聞きながら、丕緒は短い旅を終え、堯天《ぎようてん》ヘと戻って治朝《じちよう》に昇った。そのとき、どこでどんな創案を拾ってきたのか、丕緒は今や思い出せない。確実に何かを拾い、意気込んで冬官《とうかん》府へと向かい──そして、立ち並ぶ工舎が妙に静まりかえっているのに気付いた。
まるで何か眼に見えない巨大なものが、一帯に伸《の》し掛かっているようだった。不穏な気配とでも言うべきものを感じつつ、羅人府に入ると、蕭蘭の姿がない。蕭蘭の堂《ひろま》は、いつも通りだった。ごたごたと物を積み上げた卓、その間に放り出された工具、まるで少しの間、席を外しているとしか思えなかった。なのになぜ、堂に入った刹那《せつな》、丕緒はそこに凍り付くような空洞を感じたのだろう。何一つ欠けて
ないのにその部屋は空っぽだった。呆然と欠けたものを探していると、青江が駆け込んできた。
「丕緒さま──いらっしやるお姿が見えたので」
青江の顔には血の気がなかった。
「蕭蘭は」
「おいでになりません。朝からお姿が見えないのです。あちこちをお探ししましたが、どこにもお姿がありません。私にもどういうことなのか──でも」
青江は目に見えて震えていた。
「師匠《ししよう》だけではありません。あちこちの工舎から工匠が消えています。それも──女ばかり」
不緒は疎んだ。
「……女ばかり?」
「はい。榔人《しつじん》の師匠は夜明け前に兵卒がやってきて連れて行ってしまったのだそうです。将作《しようさく》の工手も女ばかりが同様に引き出されてしまったとか──丕緒さま、これは」
青江の震えが丕緒に伝染した。膝が笑う。──とても立っていられない。
「……だから、逃げろと言ったのに!」
予王が何を思ってそれを命じたのかは知らない。王宮の奥に引き籠もっていた女王はご三月ほど前、唐突に朝廷に現れ、王宮の女官の全てに王宮を出て国外に退去するよう命じた。命に従わねば厳罰に処する、と暗に最悪の刑罰を匂わせていたが、当初、これを真面目に受け取る者はいなかった。
この頃、なべて玉座のほうから降ってくる法令はそんなものだったからだ。麗々《れいれい》しく定めが発布されるが、目的は明らかでなく、あるいは具体性を欠いていた。触れだけは出ても、官自体がそれを施行することに何の熱意も持っておらず、ほとんどが単なる報せで終わっていた。これについても同様で、全ての女官を王宮のみならず国からも追放するなど、およそ現実性を欠いている。宮中の官吏の半数近くが女だ。膨大な数の女を王宮から退去させるにはどれほどの時間がかかるか分からないし、何より全員を追放すれば国政が成り立だない。
最初はそう軽く受け止められていたが、やがて雲の上のほうから本当に女官の姿が消え始めた。そのほとんどは身のまわりのものだけを携えて王宮を逃げ出してのことだったようだが、明らかに逃げたとは思えないのに姿が消える者も少なくなかった。
逃げたほうがいい、と丕緒は蕭蘭に告げた。
「とても信じられないが、どうやら主上は本気であらせられる。これはこれまでのような形だけの触れではない」
まさか、といつも通りに卓に向かったまま蕭蘭は笑った。
「こんな馬鹿馬鹿しいお触れなんか聞いたことがないわ」
「だが、実際に上のほうで女官の姿が消えているんだ」
丕緒が訴えると、蕭蘭は首を傾げた。
「女官と喧嘩でもなさったのかしら。だとしても私は心配ない。だって主上は私のことなどご存じないんだもの。きっと治朝にも下級官がいて、その中には女もいるなんてこと、想像してごらんになったこともないと思うわ。いることを知らない者を罰したりはできないでしょ?」
蕭蘭はそう言って笑ったが、丕緒には蕭蘭の認識が甘すぎるように思えてならなかった。事実、彼女の姿はその日を限りに消え失せた。他の女|冬匠《とうしよう》と同じく、どこでどうなったのか、それすら知ることはできなかった。一切が雲の上で進められたことらしく、雲の下には何が起こったのかを説明できる者がいなかったのだ。ただ、消えた誰もが二度と戻ってはこなかった。予王が崩《ほう》じ、新王が立った今になっても音信の一つすらない。それだけは動かしようもなく確定している。──だから現実から目を逸らすな、と言ったのだ。
丕緒はずっとそういう気がしている。蕭蘭は惨い一切のことを見ようともしなかったから。王に対する認識が甘く、権に対する用心が足りなかった。目を逸らしていれば、悲惨は届かないと思ったか。祖賢が罪もなく殺されたことを忘れたのか。
腹立たしいと同時に悲しかった。蕭蘭が消えて以来、丕緒の中から陶鵲を作ろうという気は完全に失せた。
丕緒はあまりに無力だ。祖賢も蕭蘭も失われてしまった。何が起こったのか、誰を責めればいいのかを知ることさえできなかった。そこには何の罪も存在しなかったことだけは確かで、にもかかわらず守
ることもできず、防ぐこともできなかった。王宮の中──王の膝許《ひざもと》にいながら。
間違っている、止めてくれと叫びたかった。だが、その声を王に届ける方法が丕緒にはなかった。それどころか、王の側近くに侍《はべ》る宰輔や高官たちに届ける術さえ持たなかった。雲に向かってどんなに叫んだところで届くまい。天上の人々にとって、丕緒は最初からいないも同然の存在だった。誰一人耳を傾けるつもりもなく、その必要すら感じていない。唯一、丕緒が王に何かを伝える術があるとすれば、射儀がそれだった。だからこそ、その射儀を通じて丕緒は懸命に思いを伝えようとしたが、届かなかった──いや、もっと悪い。届いたのに受け入れてはもらえなかったのだ。
予王が「恐ろしい」と言った射儀から、権の惨さを理解していてくれれば。
だが、予王は理解することを拒んだ。惨いことから目を逸らし、ゆえに自身の惨さにも気付かなかった。
──この国は駄目だ。
声を上げることにも、上げるべき声を探すことにも倦《う》んだ。どうせ丕緒は王の眼中にない。生きるためには喰わねばならないから、羅氏でいたが、陶鵲を作る気もなければ陶鵲のことを考えることも嫌だった。国も官も見たくなかった。何を思ったところで、どうせ丕緒にはそれを伝える術がなく、相手ももとより聞く気などない。
全てが無意味に思われた。何をするのも億劫で、官邸に引き籠もって過ごした。そこで何をするわけでもない。何を考えるわけでもなかった。無為《むい》に時を数えるだけ、その空虚な日々の積み重ねが丕緒を空洞にしたのだろう。
自分の中にはもう何もない──丕緒は思い、諦めて筆を置いた。
何もないなら、かつて作ったどれかを使うしかなかった。どれなら間に合うか、青江に相談しなければ。
思いながら堂を出た。院子《なかにわ》を囲む走廊《かいろう》には、秋の訪れを告げる寂しい夜風が吹いていた。
予王の陶鵲なら間違いはない。作ったのは蕭蘭だが、実際に工手を束ねて作業の指揮を執ったのは青江だ。青江が詳細を覚えているだろう。だが、あれをもう一度作ったところでまた拒絶に遭うだけだろう、という気がした。たとえ拒絶されないにしても、丕緒自身、もう一度あれを作りたいとは思えなかった。酷《ひど》い、と叫ぶだけの陶鵲など、あえて作りたくはない。ならばたぶん俐《り》王の陶鵲を作るのが正しいのだろう。だが、それも気が向かなかった。
あんなふうに華々しく砕けて欲しくなかった。もはや陶鵲に何を託そうという気もなかったが、射られた陶鵲が砕けて華麗な花を咲かせ、見る者が歓声を上げるようなものを作ることだけは、どうしても気が進まない。予王の陶鵲のように射られて壊れるのも辛い。砕けなければ意味がないが、できることなら壊れずにいて欲しかった。
「……そういうわけにもいかないか」
丕緒は独りごちて笑う。陶鵲なのだから、射落とされなければ意味がない。壊さないわけにはいかないが、砕けて楽が流れるというのも気に入らなかった。重厚な雅楽も寂しげな俗曲も違う。そもそも音律など奏でて欲しくない。もっと静かな、単なる音のほうがいい。ただし、歓声も拍手も止めて思わず
聞き入るような音。澄ました耳に沁《し》みるような音色が欲しい。
思いながら隣の堂屋《むね》に入り、頼りない灯火を点《とも》して卓に向かった青江にそう言うと、青江は椅子の上から振り返って少し首を傾げた。
「たとえば──雪の音?」
青江の脇に積み上げてある箱に坐りながら、丕緒は苦笑した。
「雪は音がせんだろう」
しませんね、と青江は顔を赤くする。
「では、水音でしょうか。風音とか?」
水音──ではない、と丕緒は思う。水の零《こぼ》れる音、流れる音、せせらぎ、さざなみ、どれも違う気がする。かと言ってどんな風の音でもない。水音も風音も、何かを語りすぎる気がする。
「もっと静かな……そう──そうだな、確かに雪の音なのかもしれない」
何も語らないが、耳を傾けずにいられないような──。
「雪には音がないが、感じとしては雪の音だ。よく分かったな」
丕緒が言うと、青江は困ったように微笑んだ。
「師匠が似たようなことを言っておられたので。……ああ、同じことを仰っている、という気がしたんです」
丕緒は驚いて問い返した。
「蕭蘭が?」
「はい。雪のようなしんしんとした音がいい、と。自分ならそうすると仰ってました」
丕緒は言葉を失った。
──そう言えば、丕緒は一度も蕭蘭の作りたいようにさせてやったことがなかった。
それどころか、丕緒はただの一度も、蕭蘭にどんな陶鵲を作りたいかと、訊いてやることすらしなかった。蕭蘭自身も望みを言ったりはしなかった。丕緒が頑なに惨い陶鵲を作っている間、もっと綺麗なものにすればいいのに、とは言ったものの、具体的な望みなど言ったこともなかったし、そもそも望みがあることさえ窺《うかが》わせなかった。
そうだったのか、と思った。蕭蘭もそれを望んでいたのか。
「……他には?」
「はい?」
「他には何か言っていなかったか? どう砕くか、は」
丕緒の問いに、青江は俯《うつむ》き、考え込んだ。
「予王の鳥は辛い、と仰っていました。痛ましい感じがする、と。かと言って、あまり華やかに砕けるのも晴れ晴れとしすぎて面白くない、と仰っていたような気がします」
言ってから、はたと思い出したように青江は顔を上げた。
「そう言えば、鳥がいいと仰っていた記憶があります。鳥が射られて落ちてしまうのは辛いから、割れてまた鳥になればいいのに、と」
「鳥になる……」
青江は懐かしそうに頷いた。
「鳥なんだから、と常々仰っていましたよ。飛ばせてやりたい、って。飛んだままでは射儀にならないのだけど、矢が当たったとき、せめて惜しい感じがして欲しいと。当たってしまった、残念だなあと思っていると、そこから鳥が生まれるんです」
「そして、それが飛んで行く……?」こ
丕緒は何となく呟いたが、青江は意を得たように笑った。
「そう──そう仰ってましたよ。陶鵲が割れて本当の鵲《かささぎ》が生まれればいいのに、って。そうして飛び去ってしまうんです」
「それは悪くないな」
陶鵲が投げ上げられる。射られて割れると、そこから本当の鵲が生まれ、居並んだ人々の目の前から飛び去ってしまう。王も、玉座の威光も、百官の権威も思惑も何もかもを置き去りにして──。
「せっかく生まれた鳥が、廷に落ちて残るのも、砕けるのも嫌だと言っておられました。消えてしまったほうが気分に合うって」
「気分に合う……か」
丕緒は頷いた。蕭蘭は何も言わなかったが、同じ気分でいたのだと思った。いや、丕緒が聞こうとしなかっただけだ。頑なに自分の望みだけを追い、望みを失った今頃になって同じところに辿り着いた──。
丕緒は西の漏窓《まど》を振り返った。そこには闇しか見えなかったが、昼間ならば谷間の風景が見えたはずだ。岩肌には薄く雲がまとわりつき、眼下に街が見えるべき場所を梨木《やまなし》の群が遮《さえぎ》っている。
「蕭蘭はよくあの景色を見ていたろう」
青江は丕緒の視線を辿り、きょとんと眼を瞠《みは》った。
「……谷間の? はい、ええ」
「本当は何を見ていたのだろうな」
今になって不思議に思う。──蕭蘭は何を思って谷間を眺めていたのだろう。
「下界なんか見たくない、と言っていた。本人がそう言うから、そうなのだと思っていたが。しかし、よく考えてみれば、下界を見たくないのなら、そもそも谷など見なければいい。よく院子の際にある石に坐って、谷のほうを眺めていたが、そちらには下界しか見えんだろう」
青江もまた、意外なことを言われたように小首を傾げた。
「そう言われてみれば……そうですね」
いつか見た鳥の姿が目に浮かんだ。あの鳥は荒廃こそを見ている、という気がした。それと同様に、ひょっとしたら蕭蘭は「見たくない」と言いつつ、荒廃を見てはいなかっただろうか。
「そんなわけはないか……」
丕緒が苦笑すると、青江は問い返す。
「何がです?」
「いや。……下界しか見えないのに、その下界を見たくないと言って、辛抱強く梨を植えた。何とも気の長い話だが、本当にそうやって下界の悲惨を覆い隠してしまったな」
「覆い隠した……のでしょうか」
「違うのか?」
どうでしょう、と青江は首を傾げた。
「確かに師匠は、下界なんか見たくないと仰っていました。そのくせいつも下界を見てらした。──そう、確かに師匠は下界を見ていたんだと思います。視線が向いていたのは、堯天のほうでしたから」
「正確には梨の森だろう。特に花が咲くと、眼を細めて見入っていた」
「でも、真冬にもやっぱり同じ場所を見ていました。冬になれば梨の葉は落ちてしまいます。そこには下界の景色しかありません」
「確かにそうだな……」
青江は立って漏窓に向かった。秋めいた風が寂しげな匂いを含んで吹き込んでいた。
「下界なんか見たくないと仰っていたのは、そこに悲惨があることを重々ご存じだったからではないでしょうか。実際、辛い報せは聞きたくない、とも仰っていましたが、私がお耳に入れるまでもなく、よくご存じでした」
「蕭蘭が?」
「ええ。──聞きたくない音ほど気になって耳をそばだてずにいられない、ということだった気がします。それと同じで、分かっているから見たくない、けれども見ずにいられない、ということだったのでは。梨を植えられたのも、それで覆い隠してしまおうというわけではなくて……」
青江は言葉を探すように闇の中に下界を透かし見た。
「花が咲くと、それは喜んでおられました。なんて綺麗な景色だろう、と仰って。それは見苦しい下界を花が覆って消し去ってくれたという意味ではなかったのだと思います。きっと師匠は、下界に花を重ねておられたのではないでしょうか。花を見るとき、いつか叶うかもしれない美しい堯天を見ておられ
たのだという気がします」
かもしれない、と丕緒は思った。
「私は、蕭蘭は常に現実に背を向けているような気がしていた……」
青江は振り返って微笑んだ。
「それは確かだと思いますよ。決して現実に正面から向き合う方ではありませんでした。背を向けて、自分の両手とだけ向き合ってこられた方です。ただ、だからと言って現実を拒んでおられたわけではないと思います」
丕緒は頷いた。……何となく分かる気がする。現実を拒む、とは丕緒のような閉塞の仕方を言うのだろう。官邸に籠もって無為に時を数えるような。世界に背を向け閉じ籠もっていたのは蕭蘭も同じだったが、蕭蘭は陶鵲を作ること、両手を動かしてそこに喜びを見いだすことを止めなかった。今になって
それこそが蕭蘭なりの、世界と対峙する、ということだったのかもしれない、と思う。
いつも下界を見ていた。荒廃なんか見たくない、と言いながら、いつか下界が花で覆われる日を待ち望んでいた──。
「蕭蘭の望む陶鵲を作ってみよう」
丕緒が言うと、青江は切なそうに──けれども確実に嬉しそうに頷いた。
「できるだけ思い出してくれ。蕭蘭が何を望んでいたか」
最初の一羽は水のように青く透けた鳥だった。
王と高官たちが御簾《みす》越しに居並ぶ承天殿《しようてんでん》、その西の高楼から飛び立った鳥は、長い翼を持ち、長い尾を持っている。薄青い冬空が凝《こご》ったようにも見えるその鳥は、楼閣に囲まれた広大な廷《にわ》をゆるやかに一周すると、ついと方向を変え、琉璃《はり》のように輝きながら空の高所に駆け上がっていった。
殿下に居並んだ射手の一人から矢が放たれた。矢は蒼穹《そうきゆう》に鳥を追い、これを射抜く。同時に鳥は澄んだ音を立てて割れ、そこから鮮やかに青い小鳥が弾けて生まれた。琺瑯《ほうろう》のように艶やかな小鳥は十程
度、くっきりとした紺青をして羽ばたくように煌めきながら右に左に舞い降りていく。それは徐々に色を薄くしていった。羽ばたくように舞うほどに色が抜け、抜けた端から透明な欠片《かけら》となって壊れていった。青く透ける切片は花弁のように宙を舞い落ちる。地に接すると、あるかなきかの徴かな音を立てて砕けた。ちりちりと音を立て、透明な切片が廷に撒《ま》かれる。
次は二羽──今度は陽射《ひざし》のように金色に透けた鳥だった。二羽の大きな鳥は絡み合うように廷を巡ると、共に天上を目指し、交錯するように昇っていく。二人の射手が矢を放った。矢は鳥を射抜き、射抜かれ鳥は黄金《こがね》色の小鳥の群に変じる。小鳥たちは鮮やかな羽根を輝かせて高所から舞い降り、同時に端から透けて砕けていった。澄んだ金に花弁が舞う。ちらちらと舞う黄金色の花弁の間を、薄紫の鳥が飛び立った。今度は三羽。それが射抜かれて鮮やかな紫紺《しこん》の鳥に変じる頃には、四羽の鳥が薄紅に駆け上がっていく。上空で生まれた赤い小鳥の群は、舞いながら砕け、透ける薄紅の花弁を廷一面に降らせた。
色さまざまに鳥が舞い上がっていった。それらは射られて鮮やかな小鳥に姿を変え、小鳥は群をなして舞い降りながら脆《もろ》い花弁となって砕け散っていく。花弁が割れる密やかな音が縒《よ》り合わされ、さらさらと霙《みぞれ》のような音が場内に満ちた。
最後は銀の鳥が三十だった。射られて割れると純白の翼を待った小鳥の群に変じる。真っ白な小鳥の群は艶やかに陽光を照り返しつつ舞い降り、羽ばたく端から砕けて乳白色に透けた花弁に変じた。無数の脆い花弁が白く降る。一面の梨花が一斉に散るように。
丕緒《ひしよ》は最後の一片が、押し殺した溜息のような音を立てて砕けるのを見守った。
承天殿の前に広がる廷にはしんと物音が絶えている。一呼吸あって、人々が漏らした吐息がさざなみのように広がるのを聞いた。やがてそれが賛嘆の声となって高まる前に、丕緒はその場をひっそりと退出した。
──終わった。
射儀《しやぎ》を見守っていた高楼を離れ、儀式の場となっていた西園《さいえん》を出る。自分でも不思議なほど、丕緒は満ち足りていた。ただ美しいだけの景色だったが、丕緒の気分に良く合っていた。あれが作りたかったのだし、実際にやってのけた。これ以上のことはない。
一人、路門《ろもん》を下って雲の下に戻り、まっすぐ羅人《らじん》府に向かった。射儀の成り行きを案じ、青い顔で院子《なかにわ》を歩き廻っていた青江《せいこう》に、「見事だったぞ」と声を掛けた。
「では──無事に」
青江はくしゃりと泣きそうな顔で駆け寄ってくる。
なにしろ時間が充分にあるとは言えなかった。期限までに数を揃えるので精一杯、とても大射《たいしや》の通りに試射をしてみる余裕がなかった。陶鵲《とうしやく》を射てみるだけの試射なら何度もやったが、問題は昇っていく
陶鵲が舞い降りる小鳥の小片とぶつかりはしないかということだった。小片は単純に小鳥を象《かたど》っただけのもの、その形状から羽ばたくように翻《ひるがえ》りながら舞い落ちるだけで、飛んで行く軌跡を操作することが
できない。昇ってくる陶鵲に当たれば、肝心の陶鵲の軌道が変わる。射手が射損じるおそれがあった。
「小片の高さと位置が、狙い通りに収まった。おかげで一羽も射損じずに済んだ」
良かった、と青江は力が抜けたようにしゃがみ込む。
「……もしも射損じたり、それどころか、射られる前に陶鵲が落ちてしまったらどうしようかと」
「最初は、はらはらしたが、すぐにこれは大丈夫だと分かったな。安心して見ていられたぞ。とても綺
麗で──お前にも見せてやりたかった」
はい、と青江は泣き笑いに頷いた。
せっかくの景色だから、見せてやりたかった。だが、羅人の位ではたとえ監督のためといえども天上の儀式に参加することは許されない。
「最後はお前の言う通り、白にして良かった」
丕緒は院子の外を見やった。巨大な峡谷に冬の陽が落ちて行こうとしている。一年で最も命短い太陽が滑り落ちて行く先には、新王を迎えたばかりの堯天《ぎようてん》の街が垣間見えた。蕭蘭が植えた梨は葉を落とし、新しい春を待って眠りについている。
「……のようでしたか?」
青江の声はごく小さく、呟くようで、だから聞き取れはしなかったのだが、丕緒には青江が何を言ったのか分かった。蕭蘭が待ち望んでいた春のあの景色だ。真っ白な梨雲《りうん》が谷間に懸かり、風が吹けば一斉に花弁が舞う。記憶にあるそれを見ているかのように、青江の目は谷底に向けられていた。
ああ、と丕緒は頷いた。
その夜だった。丕緒が青江や工手《しよくにん》たちと祝杯を挙げているところに、射鳥氏《せきちようし》が飛び込んできた。興奮したように顔を赤らめた遂良《すいりよう》が、王がお召しだ、と言う。
実を言えば、丕緒は何も聞きたくなかった。丕緒は自らの作った景色に満足していた。他者の評価は邪魔だとしか思えなかったが、拒むことなど許されるはずもなく、舞い上がった遂良に引きずられるようにして再度雲の上に向かった。路門を越えたところで天官に引き渡され、王が待つという外股へ向かう。道行きは気が重かった。外殿へ向かうのは、これで二度目だ。前回の失望が、意味を持だなくなった今も胸に甦って苦い。
外殿は朝議に用いる巨大な宮殿で、中央には玉台《ぎよくだい》が聳《そび》え、周囲を御簾《みす》に遮られている。丕緒は天官に促されるまま御前に進み、その場に叩頭《こうとう》した。御簾の中から顔を上げるよう声があったが、男の声なので王の言葉ではあるまい。言われるままに頭を上げると、同じ声が天官に下がるよう言い、そして丕緒に、立って間近まで来るように言う。
丕緒は戸惑いながら身を起こした。広大な宮殿の中には、いまや丕緒一人しかいない。灯火も玉座の周辺にしかなく、丕緒のいる場所からは建物の端が見えなかった。あまりに巨大な空洞の中で、自分の存在はいかにも頼りない。おそるおそる御前に進み、言われるまま跪いて一礼する。
「……あなたが羅氏《らし》か?」
今度は若い女声がした。声の持ち主は近かったが、御簾のせいでその姿は一切、窺《うかが》い知れなかった。
「左様でございます」
「射儀はあなたが直々に采配をするのだと聞いた。不世出の羅氏だとか」
「評価については存じませんが、私が羅人と共に陶鵲を作らせていただきました」
そうか、と若い王は呟く。少し言葉を探すように声が途絶えた。
「……申し訳ない。わざわざ来てもらったが、実を言うと、何をどう言えばいいのか分からない。ただ……」
固唾《かたず》を呑んだ丕緒に向かい、王は言う。
「……胸が痛むほど美しかった」
どきりとした。思わず澄ました丕緒の耳に、ごく微かな溜息が届いた。
「忘れがたいものを見せてもらった。……礼を言う」
真摯な声を聞いた瞬間、どうしてだか丕緒は、通じたのだ、という気がした。陶鵲でもって何を語ろうとしたわけでもなかったが、たぶん王はあれを作った丕緒の──蕭蘭の、青江の気分を理解してくれた。
「身に余るお言葉でございます」
一礼しながら、これでもういい、という気がしていた。本当に職を辞そう。丕緒がやるべきことはこれで終わったと思う。後は青江に任せればいい──そう思ったときに、さらに声がした。
「次の機会を楽しみにしている」
いえ、と答える間もなく、新王は言葉を継いだ。
「……できれば一人で見てみたかったな。鬱陶しい御簾など上げて。もっと小規模でいいから、私と──あなただけで」
王の声は飾り気もなく率直だった。それを聞いた途端、丕緒の脳裏に浮かんだのは夜の廷だった。月か篝火《かがりび》か──明るく照らされた廷には、誰の姿もない。射手も物陰に潜み、その場に佇むのは自分だけ、見守るのは王だけ、言葉もなく歓声もないただ静かなだけの廷に、美しく陶鵲が砕けていく。
丕緒は陶鵲をもって語る。王はそれに耳を傾ける。語り合いたい、と王の言葉は言っているように思われた。
鳥は白だ、と丕緒は思った。夜目に明るく、砕ければその破片が篝火を受けて輝く。夜の海が月光を照り返すように舞い降りていく。ならば音は潮騒のような音だ。眠りに誘うような静かな微かな潮騒の音──。
丕緒はその湯に深く叩頭しながら、脳裏に一羽の白い鳥を見ていた。潮騒の中を飛ぶ最後の一羽。その一羽は射手の矢を避けて、まっすぐ王の膝許に飛んでいく。この王なら、それを不吉だと言って拒んだりはすまい。
「……お望みとあれば、いつなりと」
丕緒は答えていた。
──慶《けい》に新しい王朝が始まる。