十二国記シリーズ 風の万里 黎明の空
小野不由美
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《》:ルビ
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(例)母親は|目頭《めがしら》を押さえた。
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(例)祥瓊を|※《も》[#「※」は「てへん+腕」、1-84-80、20-9]ぎとる。
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(例)
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(例)
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風の万里 黎明の空(上) 十二国記
序章
1
元気でねえ、と母親は|目頭《めがしら》を押さえた。父親も二人の兄もむっつりと押し黙っていた。妹も弟も家の中から出てこない。二人をあやす祖母の声が戸口の外に立った|鈴《すず》の耳に届いていた。
なあに、と陽気な声を出したのは、鈴の横にいる男だけだった。
「|青柳《あおやぎ》さまはお|大尽《だいじん》だからね。|綺麗《きれい》な着物も着せてもらえるし、|行儀作法《ぎょうぎさほう》だって教えてもらえる。|年季《ねんき》が明ける頃にはすっかり|垢抜《あかぬ》けて、どこに出しても恥ずかしくないお|嬢《じょう》さまになってるかもしれないよ」
男は言って、一人で声高く笑った。鈴はそんな男を首をのけぞらせて見上げてから、目の前にあるあばら屋をもういちど見渡した。傾いた柱と|歪《ゆが》んだ|茅葺《かやぶ》きの屋根。中は|土間《どま》と|二間《ふたま》きりで、そのどこもかしこもやはり傾いて歪んでいた。
鈴の家は貧しい。土地を借りて米を作っているけれども、上がりはほとんど小作料に持っていかれる。そのうえ今年は|凶作《きょうさく》で、夏になっても稲の穂が出ない。このままでは小作料が払えない。だから鈴は年季奉公に売られていく。十七の兄でも十一の妹でも、九つの弟でもなく、十四の鈴が。――満年齢で言えば、十二でしかない。
「――さ、行こうか」
男に|促《うなが》されて鈴は|頷《うつむ》いた。家族に別れは言わなかった。|喋《しゃべ》ると涙が|零《こぼ》れそうだったからだ。しつかり目を開けて、|瞬《まばた》きを|堪《こら》えた。その目で家族を見渡して、きちんと顔を覚えなおした。
元気でねえ、と母親はもういちど言って、そうして|袖《そで》で顔を|覆《おお》った。それで鈴は背を向けた。泣いている母、むっつりと押し黙る父と兄、その誰もが鈴を引きとめてはくれないことを理解していたからだった。
黙りこくったまま男の後をとぼとぼと歩いて村はずれを越え、昼に近づく頃には鈴の知る世界の|端《はし》まで|辿《たど》り着いた。山の斜面を|刳《えぐ》りとるような|峠道《とおげみち》、はるか|麓《ふもと》から見たこの峠の外へ、鈴は行ったことがない。
「お前はいい子だ。ぐずぐず泣かないのが気に入った」
男はどこまでも快活で、勝手に喋りながら|大股《おおまた》にどんどん歩いていく。
「東京は立派な街だぞ。お前、|瓦斯灯《がすとう》なんて見たことないだろう。お屋敷に行くのに鉄道馬車にも乗れる。鉄道馬車って知ってるか?」
鈴は声を聞き流し、後ろを振り返らないようにしながら、男が足元に引きずった影を、|懸命《けんめい》に追いかけた。引き離されては小走りに追いかけ、男の影の頭のあたりをえい、と踏みにじる。それを繰り返して峠を越えて、下りにかかったところで|散切《ざんぎ》り頭の影が止まった。男が空を見上げたのだ。
背後から雲が追いかけてきていた。鈴が踏んだ男の影も薄くなってしまっていた。
「――降るかな」
振り返った背後、|山間《やまあい》の村から続くこんもりと木の茂った斜面を、影が登ってきた。水が迫ってくるようにして雲の影が男と鈴の|影法師《かげぼうし》に追いつくと、|生温《なまぬる》い風がさあっと吹いて、たつ、と雨粒が道を|叩《たた》いた。
「こりやあ、まいった」
男は言って、峠道の端に|聳《そび》える|大楠《おおくす》のほうへ駆け出した。雨宿りするのだと、鈴も|風呂敷《ふろしき》包みを胸に抱いてその後を追う。ばたばたと大粒の雨が|頬《ほお》や肩を叩いて、枝の下に駆けこむまでの短い時間のうちに斜めに突き刺さる雨に変わった。
鈴は首を|竦《すく》めて、大楠の根元に走りこんだ。地面に張り出した根は同じように雨宿りをし、あるいは休息した旅人の足に|磨《みが》かれて、どれもつるりとしている。そこに雨粒が掛かって、鈴の足を|滑《すべ》らせた。
ああ、滑るな、と鈴が思った途端、足元を大きく|掬《すく》われた。つんのめって踏み締めた足元に次の根があって、それに|爪先《つまさき》を引っかける。|転《ころ》びかけてなんとか踏み留まった足がさらに滑って、鈴は踊るようにして|崖《がけ》っぶちまで辿り着いてしまった。
「おい、気をつけ――」
男の声は途中から叫びに変わった。大楠の根が途切れた先は、崖と呼んでもいいような急斜面になっていて、鈴はそこから転がり落ちようとしていたのだ。
鈴は荷物を投げ出して手を伸ばした。指は男の手にも、付近の枝や|叢《くさむら》にも届かなかった。崖っぶちから身体が投げ出されて、途端に太い雨足に叩かれた。どうどうと滝が落ちるような雨音がしていた。
落ちる、と思った瞬間までは、鈴も覚えている。ふっと気が遠のいて、水に投げこまれて我に返った。下には川があったのか、と半ば|溺《おぼ》れながら思った。しかし、どんな谷川だろう。どこまでも沈んでいくこの深さは。しかも口の中に流れこんでくる水の|辛《から》さは。
暗い水の中に引きこまれ、意識を失い、次に目を開けたときにはゆうらりと揺れる|床《ゆか》の上だった。数人の男が鈴の顔を|覗《のぞ》きこんでいる。
鈴がきょとんと目を開けて|瞬《まばた》きすると、男たちはほっとしたように表情を和ませて、口々に何かを言った。
鈴はその場に身体を起こす。周囲を見渡してぽかんと口を開けた。
そこは水の上だった。古びた板の敷き詰められたほんの少し先は水面、目を上げれば真っ暗な水がどこまでも続いて、はるか|彼方《かなた》で真一文字に空と接している。こんなに広い水面を、鈴は生まれて初めて見た。
転がり落ちた|大楠《おおくす》を|探《さが》して背後を振り返ると、すぐ後ろに首をのけぞらせて見なければならないほど高い|崖《がけ》が|聳《そび》えていた。崖は深く|刳《えぐ》れ、ところどころから白い糸のように水が流れ落ちている。その崖の|麓《ふもと》から、板を敷き詰めて広い|床《ゆか》が作られているのだった。床の水際にはいくつもの|桟橋《さんばし》があり、そこに三|艘《そう》ほどの小さな船が寄せられていた。
――川を流されて、海にまで辿り着いてしまったのだろうか。
鈴はそう思った。川をずっと下っていくと、どんどん太くなって、やがては海に辿り着くのだと、そんなふうに聞いたことがあった。
――これが海。
真っ黒な水。手を突いて床の|端《はし》から覗きこむと、近所にあった池や川とはまったく違い、おそろしく澄んでいる。それでも底は見えなかった。はるか彼方の暗黒にまで続いていて、そこにきらきらと光る何かが群れを作って泳いでいた。
「――――」
声を掛けられ、軽く肩を揺すられて、鈴はようやく海から目を離した。男たちが、心配そうに鈴を覗きこんでいた。
「――――」
男たちは鈴に何かを話し掛ける。その言葉がまったく分からなくて、鈴はきょとんとした。
「何? なんて言ったの?」
男たちはざわめいて、顔を見合わせる。口々に喋って何か言葉をやりとりしたが、やはり鈴にはその会話が理解できなかった。
「ここはどこ? あたし、戻らないと。ここから村に戻るにはどうしたらいいの? 東京へ行く道でもいいんだけど。おじさんたち、青柳さまの家を知ってる?」
男たちはまたざわめいた。困惑したような表情がそれぞれの顔に浮かんでいた。
男たちが額を集めるようにして相談を始めてしまったので、鈴は所在なく床の上に座って周囲を見渡していた。
崖は陸を切り取ったように聳えていた。すとんと水面に落ちこんで、やや内側に|刳《えぐ》れている。鈴の家の近所の山の、奥深いところに滝があったが、今見ている崖は、その|滝壺《たきつぼ》に面した|崖《がけ》よりもはるかに高かった。それが水面に浮いた|床《ゆか》を大きく抱えこむようにして、左右に伸びているのだった。
床の部分を除けば、|断崖《だんがい》の|麓《ふもと》には岸辺というものが存在しなかった。鈴のいるこの場所だけ大きな大きな|筏《いかだ》ような床が浮かべられて、崖の下から水面に張り出している。そこに船が、|繋《つな》がれていて、床の奥、床と崖が接するあたりに小屋が並んでいた。
なるほど、と鈴は思う。岸がないから、岸を作ってあるのだ。けれども、どうやってこの絶壁を登るのだろう、と首をかしげてよく見てみると、高い崖には石段や|梯子《はしご》が続いていた。どうやらそれを登るようだった。
「あんな梯子を登るなんて、目がまわりそう」
鈴が|呟《つぶや》いたとき、男たちが鈴を振り返った。首をかしげる鈴に崖の上を示す。床を崖のほうへ歩いていく男たちに連れられて、鈴は崖に|刻《きざ》まれた石段に足を載せた。
それが苦行の始まりだった。鈴は崖を登っていく。何度も座りこみそうになるのを、後ろから押され、前から引かれ、背後を振り返ってあまりの高さに目をまわしそうになるのを|宥《なだ》められして、やっとのことで崖の上まで辿り着いた。
「海辺に住むひとは、大変なんだ」
ペたりと座りこんで鈴が言うと、男たちは笑って鈴の背中や肩をてんでに|叩《たた》いてくれた。言葉は分からないが、おそらく|労《ねぎら》ってくれているのだろうと思う。
「|野良《のら》仕事のほうがずっと楽だったなあ」
床のあちこちに|投網《とあみ》が干してあったので、男たちが漁に出ていたらしいことは想像できる。魚を|獲《と》るたびにこの崖を登り下りするのでは、その苦労は大変なものだろう。|田圃《たんぼ》の手伝いをするのも大変だったが、少なくとも|畦《あぜ》沿いに歩いていけた。
崖の上には鈴の|背丈《せたけ》よりもずっと高い、石を積みあげた|塀《へい》が続いている。その一方に入り口があってそこに招かれたので、|萎《な》えそうになる足を引きずって男たちの後に続いた。
塀の内側は長屋のような小屋が並ぶごく小さな村だった。そのうちの一軒に連れていかれて、鈴は|老婆《ろうば》の手に身柄を渡された。|潮垂《しおた》れた着物を脱がされて、土間においた台の上に敷かれた|布団《ふとん》を示されたので、おとなしくそこに横になった。老婆は鈴の着物を持って小屋から出ていく。それを目線で見送って、鈴は目を閉じた。すっかり疲れ果てていた。
――ちゃんと東京に行けるかなあ。
|墜落《ついらく》するように眠りに落ちながら、鈴は思う。
――ちゃんと青柳さまのお屋敷に行かないと。あたしは売られてしまったんだもの。
もう他に行くところも帰るところも、鈴にはないのだから。
鈴はもちろん、ここには東京などという街はありはしないことを知らなかった。
鈴が|溺《おぼ》れたのは|虚海《きょかい》。
鈴が辿り着いたここを、|慶東国《けいとうこく》という。
――そして長い歳月が過ぎる。
2
十二の国々、北西にその国はある。国の名は|芳《ほう》、正確には|芳極国《ほうきょうこく》といい、国を|統《す》べるのは|峯王仲韃《ほうおうちゅうたつ》、本姓を|孫《そん》、彼固有の|氏《し》を|健《けん》という。
健仲韃はそもそも軍事を|掌《つかさど》る|夏官《かかん》、先王|斃《たお》れた後に|峯麟《ほうりん》の選定を受けて峯王を|継《つ》いだのだった。
芳国の|国暦《こくれき》で、|永和《えいわ》六年、仲韃の治世が三十年あまりに及んで、芳国王宮|鷹隼宮《ようしゅんきゅう》に十万の兵が殺到した。仲韃の圧政に耐えかねて|蜂起《ほうき》した、八州諸侯の|州師《しゅうし》である。
芳国首都|蒲蘇《ほそ》の門は、|志《こころざし》を同じくする市民によって内側から開かれた。たちまちのうちに王宮の深部、後宮にまで入りこんだ八州師は、三百あまりの|小臣《ごえい》と壮烈なる戦いを演じた末に峯王仲韃を|討《う》ち取った。
「――あの歓声は」
|祥瓊《しょうけい》はその|鬨《とき》の声を母親の腕の中で聞いた。仲韃の|王后佳花《おうごうかか》、その一女、|公主《こうしゅ》祥瓊、そして不調を訴えて横になっていた峯麟とが後宮の中で息を|潜《ひそ》めていた。
「表から聞こえるわ。――お母さま、あの声は」
祥瓊は|齢《よわい》十三、仲韃と佳花が|掌中《しょうちゅう》の|珠《たま》と尊んで|溺愛《できあい》した娘である。聡明で利発、精麗|婉美《えんび》、|鷹隼《おうきゅう》に|一瓊《ほうぎょく》あり、と|唱《うた》われたその少女はしかし、恐れに|面《おもて》を|歪《ゆが》めていた。
「あれは――まさか」
諸州で蜂起した民、蒲蘇の周囲に集結した|戈剣《ぶき》のきらめき、宮中にまで響く王を呪う歌。王宮へなだれこんだ|青灰色《せいかいしょく》の|鎧《よろい》、――そして、この鬨の声。
「まさか、お父さま――」
「いいえ――いいえ――」
佳花は祥瓊を抱く腕に力を|籠《こ》めた。
「そんなことは」
ありえない、と佳花が叫ぼうとした|刹那《せつな》、血の臭気に酔ってぐつたりと身を横たえていた峯麟が悲桶な叫びを上げた。
「峯麟――」
「|王気《けはい》が――ああ、王気が絶えてしまわれた」
峯麟は|蒼白《そうはく》の顔をさらに白くする。と、同時に後宮の最奥にあるその|房室《へや》の、|扉《とびら》が音を立てて開いた。
踏みこんできた彼らの血塗られた|鎧《よろい》。先頭に立つ若い男の|徽章《しるし》は|星辰《せいしん》、それは州侯の|印《しるし》ではなかったか。
「――無礼な!」
|佳花《かか》が声を上げた。
「ここをどこだと思っているのです。仮にも|王后《おうごう》、|台輔《たいほ》を前に、許しもなく」
男は|精悍《せいかん》な顔を小揺るぎもさせなかった。無言で佳花の前に右手に|提《さ》げたものを投げ出す。重い音を立て、点々と|血糊《ちのり》を|撒《ま》いて、それは|祥瓊《しょうけい》の足元に|転《ころ》がって|恨《うら》めしく宙を|睨《にら》んだ。
「――お父さま!」
不死を約束された王といえども、|馘首《くびきら》されれば生きながらえることはできない。祥瓊も佳花も悲鳴を上げて峯麟の横たわる|榻《ながいす》まで、|退《さが》った。
「父の、夫の首でも|怖《こわ》いか」
男は皮肉げな笑みを浮かべる。佳花はその面を睨み据えた。
「お前――|恵侯《けいこう》――いや、|月渓《げっけい》」
恵州侯月渓は冷ややかに声を落とす。
「峯王は我らが|弑《しい》し|奉《たてまつ》った。王后も公主にお別れを告げられよ」
「何を――」
声を上げた佳花の腕にしがみつき、|祥瓊《しょうけい》は大きく震えた。
「過酷なる法をもって民を|永《なが》く|虐《しいた》げた王と、その王に|讒言《ざんげん》して罪なき民を|誅殺《ちゅうさつ》せしめた王后。どちらにも民の|恨《うら》みを思い知ってもらいたい」
「王は――王は民のために良かれと――」
「貧困に|喘《あえ》ぎ、思い余って一個の|餅《もち》を盗んだ子供にまで死を|賜《たまわ》る法が民のためか。税穀が一|合《ごう》欠けても死罪、病に倒れ、|夫役《ぶやく》を一刻休んでも死罪。民の恐怖は今のお前たちの比ではなかった」
月渓が手を|挙《あ》げる。背後の兵が佳花に|駆《か》け寄り、その腕から祥瓊を|※《も》[#「※」は「てへん+腕」、1-84-80、20-9]ぎとる。祥瓊は叫び、佳花もまた悲痛な声を上げた。
「他の婦女の|美貌《びぼう》と才気を|妬《ねた》み、あるいは他の女子の公主よりも利発なるを妬み、罪を|捏造《ねつぞう》し|讒言《ざんげん》し、国土には|挽歌《ばんか》が満ちた。家族の|骸《むくろ》を前にした悲嘆が分かったか」
「おのれ――月渓」
|吐《は》き出す佳花には構わず、月渓は兵に取り押さえられ身もがく祥瓊を振り返る。
「公主にもよく見ていていただきたい。|己《おのれ》の家族が刑場に引き出され、目の前で|馘首《くびきら》される苦痛がどれだけのものか」
「やめて! お願い! ――お母さま※[#「※」は感嘆符二つ、1-8-75、20-17]」
|祥瓊《しょうけい》の悲囁は、その場の誰の心を動かすこともできなかった。
目を見開き、|喘《あえ》ぐ祥瓊の目の前で|月渓《げっけい》の腕が振りかぶられる。あまりの衝撃に目を閉じることさえできなかった祥瓊は、母親の命が失われるその瞬間を見た。
――転々と|跳《は》ねた首は叫びの表情を、|凍《こお》らせたまま、|虚空《こくう》の覗く口が声なき悲鳴を上げたまま、峯王|仲韃《ちゅうたつ》、の首に寄り添う。
祥瓊の|瞼《まぶた》も|喉《のど》も、その瞬間に、|凍《こお》りついた。
月渓は淡々とした視線を祥瓊に投げて、峯麟の横たわった|榻《ながいす》へと歩み寄る。
「――台輔」
峯麟は|虚《うつ》ろな目で月渓を見上げた。
「二代に|亘《わた》って暗君を選んだあなたに対する、民の絶望を理解していただきたい」
峯麟はまじまじと月渓を見上げ、やがて静かに|頷《うなず》いた。
月渓は深く拝礼し、そして血|濡《ぬ》れた|直刀《ちょくとう》を|翳《かざ》した。
――峯王および、峯麟|登避《とうか》。
芳国で一つの王朝が終わった。
|骸《むくろ》運び出されていくのを、祥瓊は|呆然《ぼうぜん》と見ていた。
いや、彼女自身にも、自分がそれを見ているのか、単に|瞳《ひとみ》に映し続けているだけなのか、分からなかったのかもしれない。
力なく座った祥瓊の前に月渓が立って、彼女は月渓の姿をその|爪先《つまさき》から上へと視線で辿る。
「峯王公主、|孫昭《そんしょう》、|汝《なんじ》を|仙籍《せんせき》より削除する」
そんな、と祥瓊は月渓の顔を見た。父母の死はまだ実感できない。それよりも仙籍を失うことのほうが|直裁《ちょくさい》に身に迫って恐ろしかった。仙籍に入り、下界と隔絶されて三十年あまり。そんな祥瓊の生きる場所がどこにあるというのか。
「やめて、……お願い、それだけは……」
月渓は哀れむような視線を向ける。
「公主をこのまま捨て置けば、|恨《うら》みを|呑《の》んだ民が殺到しよう。小州に|戸籍《こせき》をご用意する。公主の地位も仙籍とともに捨て、名を変え、|市井《しせい》に|紛《まぎ》れてしまうのが御身のためだろう」
それだけを言って、月渓は背を向ける。祥瓊はその背に叫んだ。
「――殺してちょうだい!|私《わたくし》しも!」
祥瓊は|床《ゆか》に爪を立てる。
「どうやって生きていけというの!」
月渓は振り返らない。祥瓊の腕を兵が|※《つか》[#「※」は「てへん+國」、1-84-89、22-16]んだ。
「ひどいわ、――ひどい※[#「※」は感嘆符二つ、1-8-75、22-17]」
|鷹隼宮《ようしゅんきゅう》の一隅に|悟桐宮《ごどうきゅう》と呼ばれる宮がある。この宮の主は|白雉《はくち》、白雉はその生涯にただ二度人語をもって鳴くことから、別名を|二声《にせい》という。一声は「即位」、二声は「|崩御《ほうぎょ》」、よって二声を|末声《まっせい》ともいう。
悟桐宮の白雉は末声を鳴いて|斃《たお》れた。その白雉の足を|月渓《げっけい》は|斬《き》る。
王の|玉璽《ぎょくじ》には呪力がある。王にしか使えない|神器《じんぎ》である。王が斃れてしまえば、玉璽はそこに彫られた印影を失う。以後新王の|登極《とうきょく》まで、そのまま沈黙を守るのである。法も布告も、玉璽なくしては効力を持たない。その代用となるのが白雉の足だった。
六官八侯の見守るなか、一通の書面に白雉の足が|押捺《おうなつ》された。
いわく、公主孫昭を仙籍より除す、と。
――それから、三年の歳月が過ぎる。
3
天上には|雲海《うんかい》と呼ばれる海があって、これが世界を上下に二分する。下界から見上げてもそこに海のあることは分からない。天下の高所から見上げれば、透明な|瑠璃《るり》の|大天井《おおてんじょう》のような雲海の底を見ることができたが、そんな高所に昇ることのできる者の数は知れている。それでただ全ての人が知識として、空の高みには海があって雲海と呼び、これが天上と天下を隔てるのだと、知っているばかりである。
その雲海に一条の雲が伸びていく。淡く|虹色《にじいろ》に輝く細長い雲が東を指して流れていった。――|瑞雲《ずいうん》である。
なだらかな|丘陵地《きゅうりょうち》に広がる農地、|畦《あぜ》の草を|刈《か》る娘が一人、これに気づいた。
「|桂桂《けいけい》、見て。瑞雲が行くわ」
|蘭玉《らんぎょく》ば|汗《あせ》を|拭《ぬぐ》い、|拭《ぬぐ》った手を|翳《かざ》して|眩《まぶ》しい夏の空を見上げる。
彼女の|側《そば》で刈り取られた草を集めていた子供は、姉の視線を追ってきょとんと空を見上げ、南の空に|綺麗《きれい》な雲が伸びるのを見た。
「瑞雲って何?」
「新王が王宮へお入りになるときに現れる、めでたい雲のことよ」
へえ、と桂桂は空を見上げる姉弟が空を見上げるのにつられて、田で同じようにして夏草を刈っている人々が一人二人と顔を上げた。
「新しい王さまが現れたの?」
「そう。前にいた悪い王さまが死んで、次の王さまが現れたの。|蓬山《ほうざん》から|堯天《ぎょうてん》にある王宮に向かっていらっしゃるのよ」
民はいつも、|斃《たお》れた王に対して|容赦《ようしゃ》がない。王とは民にとって神だが、この神なる王とは、自分たちに|賢治《けんち》を|恵《めぐ》んでくれる王を指すものだからだ。
「蓬山は、|女神《にょしん》さまのいる山だよね。 世界の真ん中にある」
「そうよ。よく知っていたわね」
桂桂は少し胸を張る。
「知ってらい。蓬山は|台輔《たいほ》が生まれる山なんだよ。台輔はね、|麒麟《きりん》なんだ。麒麟は、王さまを選べるたった一人のお方なんだよ」
桂桂は再び、のけぞるようにして空を見上げた。
「蓬山の女神さまはヘキ――ええと、ヘッキ……」
「|碧霞玄君《へきかげんくん》」
「そうそう。碧霞玄君|玉葉《ぎょくよう》さまっていうんだ。――で、蓬山の奥の|華山《かざん》には、一番偉い女神さまが住んでるんだ。|西王母《せいおうぼ》っていうんだよね」
「うん。そう」
「|崇山《すうさん》には天帝が住んでいらして、この世のことを全部見守ってる」
そして、と子供は頭上を見上げた。瑞雲は長く尾を引き、一路東を指している。
「王さまが国を治めるんだよね。悪い王さまがいなくなって、新しい王さまが現れたから、ぼくたちは家に戻れたんでしょう?」
そう、と|蘭玉《らんぎょく》は弟を抱き寄せる。|畦《あぜ》に|佇《たた》ずんで瑞雲を見上げる人々と同じように、あまたのものを胸中に抱きこんで。
――|景王《けいおう》|舒覚《じょかく》国を荒廃せしめた無能の先王。特にその末世、|慶《けい》の女という女が国外追放を命じられた。蘭玉もまた、弟の手を引いて国の外を目指さざるをえなかった。多くの娘は家の中に隠され、あるいは男装し、役人や兵士に大金を|※《つか》[#「※」は「てへん+國」、1-84-89、26-5]ませることによってこの|禍《わざわい》をやりすごそうとしたが、蘭玉は|庇《かば》ってくれる父母を、|瑛州《えいしゅう》を襲った大寒波で亡くしていた。
荒れた国、父母を失い、国から追われ、弟と二人海から他国に逃げようとした。同じように国から追い出され、あるいは荒れ果てた国から逃げ出そうと街道を急ぐ人々。その旅の途中で、|里詞《りし》に新王即位の旗が|揚《あ》がった。黒地に力強く飛翔する|昇龍《しょうりゅう》、昇る日月|星辰《せいしん》――|王旗《おうき》である。
これで国が平和になる、豊かになると、|安堵《あんど》の胸を|撫《な》でおろし、蘭玉は再び弟の手を引いて住み慣れた|里《まち》に帰ったのだ。だが、何かがおかしい。新王の選定がなれば里詞に飛龍を描いた|龍旗《りゅうき》が揚がり、正式に|登極《とうきょく》すれば王旗が揚がるものなのだが、その龍旗を見た覚えがない。人に|訊《き》けば、やはり龍旗は揚がらないまま、しかも里詞によって王旗が揚がったり揚がらなかったりしたという。
老人たちは|訝《いぶか》しんだ。新王が登極すれば、ぴたりと天災が|止《や》むものだが、いつまで|経《た》っても天災が|止《や》まない。そのうえに、新王だ、いや|偽王《ぎおう》だと争って起こった戦火。――その戦いの行く末がどうなったのか、王都から遠く離れて暮らす者には|詳《くわ》しく知る|術《すべ》がない。
やはり偽王だった、と|噂《うわさ》が流れた。正しき王が|起《た》って、これと戦っている、と。
そして|揚《あ》がった|龍旗《りゅうき》。東へ伸びる一条の|瑞雲《ずいうん》。
――本当に王がお起ちになったのだ。
蘭玉は東へ去る瑞雲を見送る。
「……どうか新王が、あたしたちに幸いを恵んでくださいますように」
|畦《あぜ》に佇ずんだ人々は同じくうなだれ、等しくその瑞雲を礼拝する。
慶国首都、|堯天《ぎょうてん》。高い丘陵地に層をなして広がる都市、その首都の西に接して|一際《ひときわ》高く|聳《そび》える山がある。その山頂は雲を|貫《つらぬ》く。雲海の高さを|凌《しの》ぐゆえにこれを|凌雲山《りょううんざん》呼んだ。堯天の凌雲山、これを堯天山といい、その山頂には王宮がある。慶国王、景王の居所となる|金波宮《きんぱきゅう》である。
雲海の上に目を転ずれば、堯天は海のただなかに浮かぶ島、高く|吃立《きつりる》し、層をなした峰の、その斜面に断崖に、あるいは中空に張り出すようにして建つ|楼閣《ろうかく》。これが金波宮の全容だった。
その堯天山――堯天島といってもいい――の西岸に、巨大な亀が到着した。これは蓬山から王を運ぶ神獣、その名を|玄武《げんぶ》という。
王宮の諸官が港に平伏してこれを迎える。この玄武が雲海に残す航跡が、下界では瑞雲と呼ばれるのだとは、天上に住む誰もが知っている。
玄武は諸官の見守る中、その|巌《いわお》のような首を岸に渡した。それを踏んで岸に降り立った新王を、諸官の長、|冢宰《ちょうさい》が迎える。
それを|上目《うわめ》|遣《づか》いに盗み見た|幾人《いくにん》かが、その場にそっと|溜息《ためいき》を落とした。
――女王か――。
慶国は波乱の国、王が長く|玉座《ぎょくざ》にいた|例《ためし》がない。特にここ三代の間、短命の王が続き、しかもそれらは|悉《ことごと》く女王だった。その後に起った偽王までが女、そしてその後に起った、新王までが。
|懐達《かいたつ》、という言葉が慶にはある。その昔、三百年以上の治世を行った王、|達王《たつおう》を|懐《なつ》かしむ、の意である。達王はその治世の末、民を幾重にも苦しめた王だったが、少なくともそこに至るまでの三百年近く、安定した賢治を|布《し》いてきた。達王のような長命の王を望み賢治を願う、の意味だが、その裏には溜息が一つ隠されている。
――女王はもういい。王がいた時代が懐かしい。
他者には聞こえないよう|密《ひそ》かに落とされた溜息は、その数が少なくなかったために、溜息を落とした当人をぎょっとさせるほど|露《あらわ》に流れた。
ともあれ、この日、慶の|里祠《りし》という里詞に王旗が揚がった。
慶東国に新王|践祚《そくい》す。景王|赤子《せきし》の時代――|赤《せき》王朝の始まりである。
一章
1
世界の中央に|蓬山《ほうざん》と呼ばれる山がある。その聖地を|統《す》べる|女神《にょしん》の名を|玉葉《ぎょくよう》という。この女神への敬愛から、女子の|字《あざな》には玉葉という名が多い。世界北西、|芳国《ほうこく》にある|恵州坂県《けいしゅうはんけん》にも、玉葉と呼ばれる少女がいた。
「玉葉――!」
秋風に乗って遠くから聞こえる声に、少女は枯れ草の中で顔を上げた。軽く|眉《まゆ》を|顰《ひそ》めたのは、|屈《かが》んだ腰が痛んだせい、そしてその名が|疎《うと》ましかったせいだった。
――|祥瓊《しょうけい》。
かつては美しい呼び名があった。玉葉などという、|凡百《ぼんびゃく》の|陳腐《ちんぷ》な名ではなく。
父母の血に染まった王宮から|坂県《はんけん》は|新道《しんどう》の|里《まち》に移されて三年近く、|珠《たま》のように白かった|肌《はだ》は|陽《ひ》に|灼《や》け、|雀斑《そばかす》が浮いている。白桃の|頬《ほお》は|削《そ》げた。指には節が立ち、手も足も筋張り、|紺青《こんじょう》の髪は陽に|曝《さら》されて灰味がかってしまった。紫紺の|瞳《ひとみ》でさえもが、生気を失い、|淀《よど》んだ色に変じてしまったかのようだった。
「玉葉、どこなの! 返事をおし!」
女の|甲高《かんだか》い声を聞いて、棒立ちになっていた|祥瓊《しょうけい》は、ここです、と声を上げる。|爪先《つまさき》立って乾いた|茅《かや》の間から顔を出した。
顔を見るまでもなく、その|癇性《かんしょう》の声で分かる。|沍姆《ごぼ》だろう。
「茅を|刈《か》るのにいつまで掛かっているの。他の子はみんなもう戻ったというのに」
「――今、終わりました」
沍姆は茅を掻き分けてやってくると、祥瓊がまとめた茅の束を見て鼻を鳴らした。
「確かに六束だわねえ。にしても、ずいぶん小さな束だこと」
「でも……」
祥瓊が言いかけると、ぴしりとした声が飛んできた。
「口答えをするんじゃない。いつまでも何様のつもりだね」
沍姆は声を低める。
「ここは|宮城《きゅうじょう》じゃないんだ。お前はもうただの|孤児《こじ》だってことを忘れるんじゃないよ」
もちろん、と祥瓊は|唇《くちびる》を|噛《か》んだ。
――一度だって忘れたことなどない。日に何度もそう言って|罵《ののし》られれば、忘れようにも忘れられない。
「少しは|殊勝《しゅしょう》にしたらどうだい。あたしが大声を上げれば、|里《まち》中の、連中があんたの首を|斬《き》りにくるんだってことを忘れるんじゃないよ」
祥瓊は黙りこむ。途端に返事は、と|鋭《するど》い声が飛んできて、はい、と小さく答えた。
「それだけかい」
「……ありがとうございます」
沍姆は口元に皮肉げな笑みを浮かべる。
「もう六時だ。|夕餉《ゆうげ》までにおしよ。遅れたら食事を抜くからね」
「……はい」
すでに中秋の|陽《ひ》は傾いている。もちろん、これから夕餉までに六束の茅を刈ることなど不可能に近い。
沍姆は一つ鼻を鳴らして、茅を掻き分け、戻っていく。その背を僅かに見送って、祥瓊は足元に置いた|鎌《かま》を|※《つか》[#「※」は「てへん+國」、1-84-89、32-14]んだ。その手――茅で切って傷だらけの、爪先には泥のつまった。
祥瓊は恵州に連行され、その辺境の山村で|戸籍《こせき》を与えられた。父母を亡くしたことにして、付近の|里家《りけ》に送りこまれた。里家とは各里に一つある、孤児や老人らのための施設である。その世話役である|閭胥《ちょうろう》が荘拇だった。
|沍姆《ごぼ》の他には老人が一人、子供が九人、沍姆もその他も最初は|祥瓊《しょうけい》に|優《やさ》しかった。
子供たちは語り合う。いかにして彼らが父母を亡くしたか。すでに|斃《たお》れた王へ向けての|恨《うら》みの声。祥瓊はこれに加わることができず、|唇《くちびる》を|噛《か》んで|俯《うつむ》いているしかなかった。どうして両親を亡くしたの、と|訊《き》かれても、なんと答えればいいのか分からない。
祥瓊はまた、もともと裕福の|官吏《かんり》の家に生まれ、農村の暮らしが分からない。使用人のいない暮らし、自分の手で土を|耕《たがや》し、布を織る暮らしを間近で見るのは初めてのこと、いきなりそこへ投げこまれても右も左も分からない。何もかもがあまりに|隔《へだ》たっていたために、しぜん|里家《りけ》の暮らしに馴染めず、馴染めない祥瓊を里家の者は|疎外《そがい》した。|鍬《くわ》の使い方も知らない|莫迦《ばか》だと、里家の子供たちは言う。鍬を見たこともなければ、|触《さわ》ったこともなかったのだと、言い訳することはできなかった。
現在祥瓊の|戸籍《こせき》上の父母は、この|新道《しんどう》の|里《まち》に近い山林の中でぽつんと暮らす|浮民《ふみん》の夫婦だった。浮民とは、国から与えられた土地を離れ、どの里にも属さなくなった様々な者たちのことをいう。たとえば、|侠客《きょうかく》、犯罪者、祥瓊の戸籍上の父母のような|隠遁者《いんとんしゃ》。二人は新道からさほど遠くない山の中で、ひっそりと炭を焼いて暮らしていた。土地とも土地の人々ともなんの関係もない、まったくの浮民だった。そして死んだ。|刑死《けいし》したのだ。
祥瓊の父、|峯王仲韃《ほうおうちゅうたつ》は、浮民をなんとか土地に戻そうと、何度も布告を出し、法を設けた。法の保護を拒絶するということは、すなわち法に対する義務もまた拒絶するということだ。浮民は|堕落《だらく》と犯罪の温床であり、彼らの無軌道な生活は実直に生きる人々に堕落をそそのかし犯罪を|勧《すす》める。土地に帰って実直に生きよ、と仲韃は何度も|促《うなが》した。いっこうに浮民が従わないために、これを処罰せざるをえなかったのだ。
祥瓊をこの境遇に落としこんだあの男――|月渓《げっけい》は、祥瓊をその死んだ浮民の夫婦の娘として戸籍に入れた。遠くの里の里家に預けていた子供を、その死の直前に引き取ったということにしたのだ。
だが、どうしてだか、|沍姆《ごぼ》は気づいた。里家に任された少女が、仲韃の娘――死んだはずの|公主《こうしゅ》だと。
「もしもそうなら、おっしゃってください。ここの暮らしはお|辛《つら》いでしょう」
沍姆にある日そう言われ、祥瓊は泣いた。実際、土を耕し、家畜を養う生活は祥瓊にとってあまりに辛かった。
「仮にも公主さまがこんな|田舎《いなか》で|襤褸《ぼろ》を|纏《まと》っているなんて。|蒲蘇《みやこ》の|一瓊《ほうぎょく》、|鷹隼《おうきゅう》の宝珠とまで言われたお方が」
顔を|覆《おお》った祥瓊に、沍姆は甘く言い添える。
「私の知り合いに、恵州の都の豪商があります。いまは亡き峯王を、それはお慕い申しあげておりました」
――祥瓊には抵抗できなかった。ひょっとしたらこの土まみれになる生活から解放され、以前のようなとは言わない、現在のこれより少しでもましな暮らしができれば、と|惑《まど》わされてしまった。
「――ああ、|沍姆《ごぼ》、助けてください」
|祥瓊《しょうけい》は泣き|崩《くず》れた。
「|恵候月渓《けいこうげっけい》がお父さまお母さまを殺して、私をこんな目に。月渓は私が|憎《にく》いのです」
「――やはりそうなの」
|沍姆《ごぼ》の声は底冷えがするほど冷たく、祥瓊ははっと顔を上げた。
「お前があの、|豺虎《けだもの》の娘」
きり、と歯がみする音を聞いて、祥瓊は|己《おのれ》の|愚《ぐ》を|悟《さと》った。
「|民《たみ》を虫けらのように殺した――あの」
それは民が法を破ったからだわ、という|反駁《はんぱく》を、祥瓊は|気圧《けお》されて|呑《の》みこんだ。
「私の|息子《むすこ》を殺した――刑場に引き立てられる子供を哀れんで、|刑吏《やくにん》に石を投げた、それを|咎《とが》めて殺した あの豺虎の王の」
「でも――それは」
「お前が殺したも同然だ」
祥瓊は慌てて首を振った。
「いいえ、私は知らなかったんです。お父さまが何をしているか、なんて」
事実、祥瓊は知らなかった。父が何をし、母が何をしているのか。後宮奥深くに隠され、幸せにくるまれて、世間もそのようなものだと思っていた。城下に兵が集結して|不穏《ふおん》な空気が流れ、それで初めて父王が|恨《うら》まれていることを知った。
「知らなかった、だって? 仮にも公主が朝廷で何が行われているか知らなかったのかい。あれほど国中に満ちた|弔《とむらい》いの歌を、恨みの声を、聞きもしなかったと言うのだね」
「私は、……本当に」
「おめおめと生き延びて――お前のその薄汚い口に入る食い|扶持《ぶち》が、どこから出ているか知っておいでかい。あれはお前たちに|虐《しいた》げられ、虐げられして、それでも道を踏み外さず、まっとうに正直に働いたこの|里《まち》の者が実らせたものなんだよ」
「――だって本当に、知らなかったのだもの!」
「こんな女を食わせるために働いているなんて!」
――ふつり、と鈍い痛みを感じて|祥瓊《しょうけい》は我に返った。歯のこぼれた|鎌《かま》が、祥瓊の指先を|掻《か》き切って、小さく朱珠を生じさせていた。
「……つっ……」
痛いのは指だろうか、それとも胸のほうだろうか。
「……本当に何も、知らなかったのよ……」
|沍姆《ごぼ》が露骨に祥瓊を嫌うから、|里家《りけ》の他の者も、|里《まち》の者も意味もなく祥瓊を嫌う。他の子の倍も三倍も働かされ、人より遅い、|愚図《ぐず》だとの|罵《ののし》られる。
「私がなにをしたって言うの……」
本当に知らなかった。父母は決して祥瓊に朝廷を|覗《のぞ》かせなかった。|宮城《きゅうじょう》の外へも出してはもらえなかった。国がどんなありさまだか、知る|術《すべ》などなかったというのに。
長く影の落ちる道を三度往復して|茅《かや》を運んだ。やっと終わったときには、すでに里家では食事は終わってしまっていた。
「こんな時間まで、どこに行ってたの?」
くすくすと、里家に住む少女たちの|嘲笑《ちょうしょう》が降りかかる。沍姆は冷淡な目で祥瓊を見た。
「言っておいたろう。――間に合わなかったのだから、今日は|夕餉《ゆうげ》は抜きだからね」
祥瓊は|唇《くちびる》を|噛《か》んだ。里家で暮らして三年が|経《た》つ。貧しい暮らしにも|粗末《そまつ》な衣服にもなんとか|辛抱《しんぼう》する|術《すべ》を覚えた。それでもなお、ひもじいと哀願することは口が裂けてもできない。
「仕方ないわよ。玉葉は愚図なんだもの」
「|無駄《むだ》|飯食《めしぐ》い、って言うんだ。おれ、知ってる」
|嘲《あざけ》る言葉を聞きながら、祥瓊は足を引きずって|正房《おもや》を出た。
中秋の月の光が、|院子《なかにわ》に降っていた。院子の左右を囲む|堂屋《むね》その左右に男女が分かれて暮らしている。女子は向かって右の堂屋、そこに祥瓊は他の少女たちと雑居していた。他の少女が|房間《へや》に戻ってくるまでの間、それが祥瓊に与えられた、ほんの短い楽に息をつける時間だった。
並べられた粗末な|臥牀《ねどこ》、小さな|卓子《つくえ》と、ぎしぎし傾く|椅子《いす》。それらのものを見渡して、祥瓊は目を閉じる。
――悪夢のようだ。
|鷹隼宮《ようしゅんきゅう》の|一郭《いっかく》、祥瓊に与えられたのは、小なりとはいえ建物が一つだった。広い|贅沢《ぜいたく》な|牀榻《ねま》いくつもの|房室《へや》、花が咲き鳥の歌う陽光に満ちた|園林《ていえん》。かしずく|女官《にょかん》たち、祥瓊のための|舞妓《おどりこ》と|楽妓《がくだん》、絹の衣装、玉の飾り。諸侯諸官の|許《もと》から遊び相手にと集められた、明るく優美な少女たち。
もぐりこんだ|衾褥《ふとん》は薄く、湿気を吸って冷たかった。北の国に寒い季節が来ようとしている。
|屠《ほふ》られた父母、転々と|転《ころ》がった首。
――|月渓《げっけい》、あの男。あの|殺戮者《さつりくしゃ》。
こんな境遇に落としこむくらいなら、どうしてひと思いに殺してくれなかった。それともこれは月渓の悪意だろうか。|永劫《えいごう》、苦しんで生きろとの。
祥瓊は目を閉じる。
このまま二度と目覚めなければいいのに。
2
世界の南西に|才州国《さいしゅうこく》という国がある。その一地方、|保州《ほしゅう》の|塵県《じんけん》に|琶山《はざん》という|凌雲山《りょううんざん》があった。
凌雲山は王または諸侯の居宮、さもなくばその|麓《ふもと》までがでがなべて|禁苑《きんえん》――すなわち、王の所有物だった。そこは王の|苑《にわ》であり、あるいは離宮であり、さらには陵墓であったりする。しかしながら、この琶山は先々代の王によって一人の女に|下賜《くだ》されていた。女は山頂に近い中腹に居を構えている。その|住処《すみか》を称していわく、|翠微洞《すいびどう》という。
翠微洞に住むのは|仙《せん》だった。先々代の――|扶王《ふおう》――と|諡《おくりな》す――の|勅免《ちょくめん》によって昇仙し、ここ琶山は翠微の峰に洞府を構えた。よって通称を|翠微君《すいびくん》という。かつての名を|梨耀《りよう》、扶王の|愛妾《あいしょう》であった。
その梨耀は|払暁《ふつぎょう》、|己《おのれ》の洞府の門前に立った。下男下女はいるが、それだけの寂しい住まいだった。人の活気を求めて、麓近い街を訪ねてみたりはするが、不老にして不死とも近い身となれば、交わる人もなきに等しい。ほんの僅か、片手で足りないほどの知人は|悉《ことごと》く仙、そのうちの一人を訪ね、洞府を出発しようというところだった。
下界をはるかに見下ろす翠微の峰、洞府の門前は人の身には|登攀《とうはん》ならぬ|千尋《せんじん》の断崖、梨耀は乗騎の|手綱《たづな》を取る。彼女が乗騎としているのは扶王より|賜《たまわ》った|赤虎《せつこ》。宙を|駆《か》ける|虎《とら》を使って、彼女は必ず正門から出入りする。馬や徒歩で下山できる|隧道《すいどう》がありはしたが、|陽《ひ》の当たらぬ裏道をこそこそと通行することは、梨耀の|矜持《きょうじ》を傷つけるのだ。
「お早くお戻りくださいませ」
洞主を見送る下男下女が門内に列を整え、一様に深く平伏した。澄んだ晩秋の空気の中に、彼らの息が淡く白く流れる。梨輝はそれを眺め渡して軽く目を|眇《すが》めた。その数、十と二人。
「送り出すときには、威勢が良いの」
梨耀は皮肉な笑みを|刷《は》く。
「私が出掛けるのが、そんなに嬉しいかえ。やかましい|主《あるじ》がいなくなって、さぞかし羽を伸ばすつもりだろうねえ」
くつくつと梨耀は笑う。|下僕《しもべ》の返答はなかった。じつと寒風を耐える鳥のように、身を|縮《ちぢ》めて|踞《うずくま》っているばかり。
梨耀は平伏した下僕のうち、一人の娘に目を留めた。どうということもない娘だ。洞府の下僕の中では一番若いということ以外に、さしたる取り柄も特徴もない。|字《あざあな》は|木鈴《もくりん》というが、そんな名で呼んだことはなかった。
「戻らねばいい、と正直に言ってもいいのだえ。――どうだい、|笨媽《ほんま》?」
|愚《おろか》か|者《もの》、との意をこめて、|梨耀《りよう》は|嘲笑《ちょうしょう》を含んだ|朱唇《しゅしん》にその|通称《とおりな》を|載《の》せた。娘がおどおどと目を上げる。やせた顔に目ばかりが大きい、その|瞳《ひとみ》に梨耀は笑みを注ぐ。
「本当は戻ってほしくないのだろう?」
とんでもない、と娘は首を横に振った。
「一同、洞主さまのお帰りをお待ちしております。あの……お気をつけて」
「お前に気を|遣《つか》ってもらわなくても、半月もすれば帰るとも。それとも、もっと早く帰ってほしいかえ?」
娘は困ったように周囲を見やり、梨耀の顔を|怯《おび》えたように見上げてから、はい、と答えた。梨耀は声を上げて笑う。
「なるほど。そうまで言うのなら、一日も早く帰ってやろうよ。さぞかし手厚く迎えてもらえるのだろうねえ」
「はい、それはもちろん」
では、と梨耀は|下僕《しもべ》たちを見渡した。
「|玉膏を《ぎょっこう》|醸《かも》しておいてもらおうかね。|洞《どう》を磨きあげて、庭を整えておいで」
娘の顔色が変わった。玉膏は世界中央、|五山《ござん》で産出する石、これを|呪《じゅ》をもって醸せば霊酒になるが、そうそう簡単に拾ってこれる石ではない。
「どうしたえ? 手厚く迎えてくれるのだろう? |箴魚《しんぎょ》を焼いて、|瑤草《ようそう》を煮てもらおうか。洞には|塵《ちり》一つ残すのじゃないよ。庭に枯れ葉一枚あったら承知しないからねえ」
無理難題を承知で|挙《あ》げて、くつくつと梨耀は笑う。
「ついでに壁と柱を塗り替えてもらおうかね。――それがいい。塗り立ての建物ぐらい、胸のすくものはないから。|笨媽《ほんま》、頼んだからねえ」
娘はおろおろと周囲を見回したが、周囲の下僕は顔を上げない。
それを眺めて、梨耀は|白貂《はくてん》の|裘《かわごろも》を|掻《か》き合わせ、|赤虎《せつこ》の|手綱《たづな》を取った。
「まあ、のんびりするがいいさ。私は|優《やさ》しい主人だから、務めさえ果たせば、多少破目を|外《はず》したって|叱《しか》ったりはしない。皆、留守中瀬んだよ」
は、と下僕たちは額を地に擦りつける。泣きそうな顔で娘もそれに|倣《なら》った。梨耀は赤虎に騎乗する。一声笑って、乗騎を門前から冬枯れた下界へと飛び立たせた。
顔を上げた下僕たちは、北へ向かって赤虎が去るのを見送り、一様に娘を振り返る。
「――まったく、余計なことを」
「もう少し言いようはなかったのかい」
「よりによって無理難題ばかり。笨媽が|播《ま》いた種だ、笨媽に|刈《か》らせるがいいよ」
「|下仙《げせん》の笨媽が五山まで行ってこれるかい。帰ってきた頃にゃあ、とっくに洞主さまがお戻りだ」
仙にも格というものがある。|梨耀《りよう》でさえ格は三位、その|下僕《しもべ》ともなれば辛うじて仙籍に名前がある程度、ろくな技も持っていない。特に|笨媽《ほんま》と呼ばれる娘は、下仙の中でも最下位の仙だった。
「いい迷惑だ。この寒い中、五山へ|玉膏《ぎょっこう》を探しに行って、次は|虚海《きょかい》へ|箴魚《しんぎょ》を探しに行けって言うのか。おまけに|瑤草《ようそう》だと? 冬が来ようってこの季節、どこに行きゃあ瑤草にお目にかかれるって言うんだ」
「せっかく洞主さまがお出掛けで、息をつけると思ったのに」
「掃除と塗り替えは笨媽にやらすさ。そのくらいの役には立ってもらうぞ」
|咎《とが》める視線が集中して、娘はその場を逃げ出した。
彼女は庭の奥に走りこむ。|崖《がけ》をなした庭の隅、松の老木の根元で泣いた。
あんなふうに梨耀に言われて、他にどう答えればよかったと言うのだろう。他の下僕たちだって、同じように答えたに違いないのに。自分がへまをしたのじゃない。そもそも梨耀は自分の下僕に、留守中のんびりと過ごさせたくなかったのだ。それはいかにも梨耀らしい振る舞いで、この洞府の誰もがそれを分かっているはずなのに。
どうした、と背後から声が掛かる。これは庭番の|老爺《ろうや》のものだ。
「気にするな。みんなお前に当たってみただけだ。洞主さまには逆らえないから、お前に当たって|憂《う》さを晴らしているだけだ、|木鈴《もくりん》」
彼女は首を振った。
「あたし……そんな名前じゃない……っ」
すず、と呼ばれていたのだ、あの|懐《なつ》かしい国では。歩き坊主が教えてくれた文字はただ三字、「|大木鈴《おおきすず》」と。それを聞いた者が彼女のことを木鈴と呼ぶようになったけれも、そしてそれは笨媽などという|侮蔑《ぶべつ》も|露《あらわ》な名前よりも数倍ましな名前だけれども、それでもそれは彼女の名ではない。
まろやかな形の山々、そこにいた家族。温かな会話、あまりにも多くの失ったもの。
彼女がそこから流されてきたのは、もう百年も前のことだ。人買いに連れられて峠道を越える途中に崖から落ちた。落ちたそこが虚海だった。
「どうしてあんな……っ!」
「洞主さまはああいうお方なんだ、気にするな。なにしろあまりに気が強くて、それでこの洞府をいただいて、|体《てい》よく追い出された方だからな」
「そんなの、分かってる。……けど」
いきなり迷いこんだ異国。言葉も通じず、右も左も分からない。しかも鈴はまだ数えで十四にすぎなかった。
海辺の小さな村から、それよりは大きな村に移され、何が起こったのか理解できないまま数日そこに押しこめられていた。やがて村人に連れられ、さらに大きな街へ連れていかれ、そこで旅芸人の一座に引き渡されたのだった。
三年と少し、一座と一緒に旅をした。鈴には何一つ理解できないままだった。いろんな街を訪ね、たくさんの人々に会って、少なくともここが自分の知っている世界からは遠く離れた場所であることだけは理解した。天を突く山、高い|塀《へい》に囲まれた街、変わった風俗、変わった言葉、なにもかにもが鈴の知るものとは違っていて、そう理解せざるをえなかった。
ひょっとして次に行く街こそ、鈴の理解できる言葉を|喋《しゃべ》る人がいて、故郷へ通じているのかもしれないと、期待し落胆することに|飽《あ》きて何一つ期待をしなくなったころに|塵県《じんけん》に辿り着き、|梨耀《りよう》に会った。鈴は四年いて、芸の一つも覚えられず、 雑役婦をしていた。
「……だって、言葉が分からないんだもの……」
どこに行っても、みんなが何を言ってるのか分からない。たくさん話しかけられて、鈴だってたくさん話をしたけど、少しも通じなかった。帰る道は分からないし、どうしていいのか分からなくて、毎日泣いてばかりいた。
意味不明の言葉で話しかけられ、分からないと言えば、|嘲笑《ちょうしょう》される。鈴は次第に無口になった。話すことも話しかけられることも怖かった。
――だから、塵県のある街で梨耀に会ったときには嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。そのときからすでに梨耀は鈴を|蔑《さげす》んで|憚《はばか》らなかったが、たとえ|罵《ののし》る言葉でも、理解できたことがどれほど嬉しかったか。
言葉が通じるのは梨耀が仙だから、仙になれば誰とでも話ができるのだと聞いて、鈴は梨耀に|乞《こ》い願った。下女でもいい、どんなに|辛《つら》い労働でもする。お願いですから昇仙させてください、と。
――そして百年、ここに捕らわれている……。
逃げようと思ったことなど数えきれない。だが、洞府を飛び出せば、梨耀は|容赦《ようしゃ》なく仙籍から鈴を|削除《さくじょ》するだろう。そうすればこの異国、鈴はまた言葉の分からない不運の中に舞い戻ることになる。
さあ、と|老爺《ろうや》は鈴の肩を|叩《たた》いた。
「戻ろう。休んでる暇はないからな」
鈴は額きながら|凍《こご》えた指を強く組んだ。
――ああ、誰か……。
誰かあたしをここから助け出してください。
3
|蒼穹《そうきゅう》はその色を薄めている。冬の空の色だった。低くなったような空の下、山の斜面に沿って|蛇行《だこう》するように続いている街には|賑《にぎ》やかな|喧噪《けんそう》が流れていた。喧噪は街を押しっぶしそうに|聳《そび》えた|凌雲山《りょううんざん》に|谺《こだま》する。
街の名は|尭天《ぎょうてん》、その|途《みち》を往く人々の顔は明るい。あちこちに|瓦礫《がれき》の残る町並みも、貧しい生活を示す身なりも、とりあえずは念頭にかかっていないようだった。その理由は街のほうぼうに|翻《ひるが》える|幡《はた》を見れば、おのずから知れる。
幡は黒地、一本の枝が黄色で描かれていた。枝に|生《な》った実は三。伝説によれば桃の実で、枝には帯のように一匹の|蛇《へび》が巻きついている。世界の|開闢《かいびゃく》の際、天帝が王に与えたという伝説の枝だった。その幡が途のあちこち、建物の|角々《かどかど》に下げられ、人々を導くように坂の上へ続いて、王宮に吉事あることを示している。家々の|大門《いりぐち》に掛られた花飾り、軒にずらりと並ぶ|灯籠《とうろう》、それらの導く先には、|国府《こくふ》の入り口である|皋門《こうもん》の|碧《あお》い屋根が|聳《そび》えていた。
――新王|登極《とうきょく》。
新王|践祚《せんそ》を示す|王旗《おうき》が|揚《あ》がって|二《ふた》月、ようやく即位式の布告があった。幡はその吉日を示し祝賀するものである。
|広途《おおどおり》を流れる人々の群れは皋門の中に吸いこまれていく。国府と、礼典に用いられる正殿に挟まれた広大な広場には、すでに|立錐《りっすい》の余地もない。|禁軍《きんぐん》、国官の黒い|よろい《よろい》と黒い官服、それらが整然と並び、幾重にも押し立てられた旗が|翻《ひるがえ》る中、正殿の壇上に黒衣の人影が現れて、広場には|歓声《かんせい》が満ちた。
その黒衣を|大裘《だいきゅう》、と言う。|玄《くろ》の|袞《ころも》に玄の|冠《かんむり》、薄赤色の|裳《も》、朱の|膝掛《ひざか》けと赤い|※《くつ》[#「※」は「革(かくのかわ)+昔」、48-5]。そしてそれに合わせたかのような紅の髪。
「……本当に王になったんだなぁ」
|豪奢《ごうしゃ》な室内に立つ人影を認めて、彼は小さく|呟《つぶや》いた。前に立って入室した大小二人の人物も、感嘆めいた声を漏らした。
大裘は王の第一礼装である。|章《かざり》は最高位を示す十二、女王だから冠は小さく、代わりに見事な髪飾りがある。|袞《ころも》の|龍《りゅう》の|刺繍《ししゅう》も|豪奢《ごうしゃ》だった。
即位式をすませたばかりの新王は振り返る。入室した彼らに目を留めて、鮮やかな笑顔を浮かべた。
「――|楽俊《らくしゅん》」
言って、楽俊の|脇《わき》の大小二人を見やって、軽く一礼する。
「遠路ありがとうございます。――|延王《えんおう》、|延台輔《えんたいほ》」
やあ、と手を|挙《あ》げたのは小さいほうだった。
「立派なもんだ、|陽子《ようこ》。見物人も満足そうだったぞ。王が|見栄《みば》えがしないと、それだけで民ってのは落胆するからな。それに、|別嬪《べっぴん》な王だ、と国民に思わせときゃあ、いざというときにいくらか役に立つし」
|延麒《えんき》、と|窘《たしな》めるる声があったが、彼はいっこうに気にした様子がない。
くすくすと笑って、陽子は客人に|椅子《いす》を|勧《すす》めた。|慶《けい》の北に位置する|雁国《えんこく》の王、延と|宰輔《さいほ》延麒。その名を延王|尚隆《しょうりゅう》といい、延麒|六太《ろくた》という。雁が目下のところ、慶と国交のある唯一の国だった。
「お久しぶりです」
陽子は尚隆と六太に深く一礼する。
「本当にお世話になって、ありがとうございました」
言って陽子は、その|側《そば》に立つ灰茶の毛並みのネズミにも頭を下げる。
「|楽俊《らくしゅん》も、ありがとう。おかげでなんとか、即位式まで|漕《こ》ぎつけた」
「よせやい」
楽俊は|尻尾《しっぽ》を振る。
「おいらは|一介《いっかい》の、|半獣《はんじゅう》だもんな。王さまに頭を下げられたんじゃ、寝覚めが悪いや」
くすり、と陽子は笑った。
陽子は海の|彼方《かなた》、|倭国《わこく》――祖国では日本と呼んだ――の生まれ、いきなり右も左も分からないこの世界に投げこまれ、三人に助けられて|登極《とうきょく》した。王を|偽《いつわ》って国権を|狙《ねら》い兵を|挙《あ》げた|舒栄《じょえい》の乱の|鎮圧《ちんあつ》にカを貸してくれた延王、延麒。彼らへの感謝が深いのはもちろんだが、|偽王《ぎおう》らに追われ、行き倒れそうになって、心身ともに|荒《すさ》んでいた陽子を救ってくれた楽俊への感謝はいっそう深い。登極までの長いようで短かった八か月を思うと、自然に頭が下がる。
「――本当に感謝している」
あわあわと|尻尾《しっぽ》を右往左往させる楽俊を、意地悪げに六太が笑った。
「|大裘《だいきゅう》の王に頭を下げられるなんざ、滅多にあることじやねーぞ」
「かんべんしてくれよぉ」
言って楽俊は、陽子を見上げる。|半獣《はんじゅう》の楽俊はネズミでもあり、人でもある。ネズミのときにはその|背丈《せたけ》は子供の背丈ほど、陽子を仰ぎ見る格好になる。
「礼を言わないといけねえのはおいらのほうだ。陽子のおかげで、|雁《えん》の大学にも入れたし、延王にもよくしてもらってる。――ありがとうな」
「それは私に感謝するようなことじやない」
でもさ、と六太が再び笑う。
「よく考えたら、楽俊ってすごいよな。王が二人も知り合いなんだから。大学の連中が知ったら腰抜かすかも」
「|台輔《たいほ》ぉ」
「――しかし、|悠長《ゆうちょう》に構えていたものだな」
笑い含みに言ったのは尚隆である。
「舒栄の乱が終ってからもう|二《ふた》月以上|経《た》つ」
陽子は軽く苦笑した。
「本音を言えばもっと延ばしたかったのだけど。|冬至《とうじ》までにはどうしてもと|諸官《しょかん》が言い張って」
国の王は天地を安らげ諸神を|慰撫《いぶ》する。その祭礼のうち、もっとも|要《かなめ》になるのが冬至の祭礼だった。王が自ら郊外ヘ|赴《おもむ》き、天を|祀《まつ》って国家の|鎮護《ちんご》を願う。これを|郊祀《こうし》という。
「延ばしたいとは、なぜ?」
陽子は軽く息を吐く。
「……|初勅《しょちょく》が決まらないので」
初勅とは新王が初めて発布する勅令をいう。全ての法は王の名のもとに発布されるが、法とはそもそも、宮からの提案があり、関係する諸官に|諮《はか》り、三公六官の賛同を受けて初めて王の|裁可《さいか》を願うものだった。王の務めは自ら法を作り国を運営することではなく、諸官を指導し監督することなのである。王自らが法令を作り、これを宣下すれば勅令と呼ばれる。
「延王はどうなさった?」
「俺は|四分一令《しぶんいちれい》というやつだが」
「それは?」
「公地を|四畝開墾《しぼうかいこん》した者には、そのうちの一畝を自地として与える。――なにしろ耕作できる土地が少なかったからな」
なるほど、と陽子は|俯《うつむ》いた。
「諸官は、|貴色《きしょく》を赤にしろ、と言っている。|予王《よおう》の貴色が青だったから、と言うんだが」
六太は|頷《うなず》いた。
「いいんじゃないか? 理にかなってる」
「そうなのか?」
「|木生火《もくしょうか》だからな。|禅譲《ぜんじょう》ってやつだ」
陽子は息を|吐《は》いた。
「……こちらには分からない風習が多いな」
「|焦《あせ》るなって。そのうち慣れるからさ」
陽子は笑みを作りかけて、首を傾けた。
「――だけど、そういうのは違う気がする。|諸勅《しょちょく》とは、王がこれからどういった国を作るのか、それを端的に示すためのものだと聞いた」
「まあ確かに、どの色が一番いい、なんてことを決めるんじゃ、納得いかねえのは分かるけどなぁ」
そうだな、と陽子は俯き、|微《かす》かに苦笑を浮かべた。
「……私は、国を営むということがどういうことだか、まだよく分かっていない。良い国を作りたいと思う。けれど、良い国とはどういう国だろう?」
「それは難しいなぁ」
「豊かな国であってほしい、と思う。私は|慶《けい》の国民に|飢《う》えてほしくない。だが、豊かだったらそれでいいんだろうか。私の生まれた国はそれは豊かだったけれど、良い国だったかと問われると、そうだとは言えない。豊かな分、たくさんのことがひずんでいた」
なぜもっと、国の成り立ちに興味をもってこなかったのだろう。正直言って|倭国《わこく》の政治の仕組みでさえ分からない。
「一国という、こんなに重いものを預けられていながら、それをどこに下ろせばいいのか分からない。――こんな王が本当に役に立つんだろうか」
陽子、と口を開いたのは尚隆だった。
「陽子、国を治めるということは、実は|辛《つら》い」
「――はい」
「だが、その|苦渋《くじゅう》を決して民に見せてはならん」
「そうなんでしょうか」
「お前がいくら苦労しょうと、悩もうと、民にしてみれば、|己《おのれ》の暮らしが良くならなければ、いささかの値打ちもありはせんのだ」
「……確かにそうだ……」
「ならば、苦しい顔をしても良いことは一つもない。むしろどんなに迷っても、迷いなどないという顔をしていろ。そのほうが民も喜ぶ」
「でも――」
「民が迷う君主を信じると思うか。統治に苦しむ王に暮らしを預けていられるか」
「……そうですね」
「迷っているときは、|吟味《ぎんみ》している、と言え。何も急ぐことはない。どうせ寿命は長いのだからな」
でも、と六太が陽子の前に顔を突き出した。
「ものには程度ってもんがあるからな。|尚隆《しょうりゅう》みたいに、本当に悩まなくなったら問題だぞ」
「――六太」
尚隆が|渋《しぶ》い顔をするのを、六太は無視する。
「|初勅《しょちょく》に迷うのはいいことだ。気軽に|勅令《ちょくれい》を出す王は信用が置けない。勅令は少ないほどいいんだ。だいたい、勅令ってのは国の初めと終わりに多い。荒れた国を立て直すとき、平穏な国を滅ぼすとき」
「なるほどな」
「ちなみに尚隆はすっげー、勅令が多いからな。絶対見習うんじゃねーぞ」
陽子は笑いを|噛《か》み殺した。
「…覚えておこう」
「ま、のんびりいくんだな。――どうだ? 少しは国は落ち着いたか?」
とりあえずは、と陽子は答えた。
「気楽にいけよ。国をどこに連れていくか、なんてことは実は簡単なことだ。陽子ならどういう生き方をしたいか、そのために国がどうあれば嬉しいか、それを|焦《あせ》らず、考えりゃいいんじゃねえか?」
「問題は、初勅だな……」
そんなもの、と六太は笑う。
「とうとう初勅が出なかった王もいるんだぞ。万民は健康に暮らすこと、つて初勅を出した|強者《つわもの》もいる」
陽子は軽く噴き出した。
「……まさか、本当に?」
「今の|廉王《れんおう》は、それが|初勅《しょちょく》だったらしーぞ」
「それはすごいな」
軽く陽子が笑ったとき、ちょうど|宰輔《さいほ》が入ってきた。こちらはもう礼装を平服に改めていた。陽子は笑んで彼を振り返る。
「――|景麒《けいき》、延王がおいでくださった」
二章
1
|金波宮《きんぱきゅう》は|賓客《ひんきゃく》を迎えて浮き足立つ。一月後に控えた|冬至《とうじ》の祭礼の準備と|相俟《あいま》って、諸官の足も下官の足も同様に小走りになった。
衣類を整える|女官《にょかん》たちも浮ついている。それを見やって、|陽子《ようこ》は|微《かす》かに苦笑を浮かべた。
「今日の|御髪《おぐし》はどうしましょうか」
身辺を整えてくれるのは|女御《にょご》という女官たちだった。
「……|括《くく》るだけでいいから」
陽子が言うと、女御たちは一斉に陽子をねめつける。
「お客さまがいらしているのに、そんなお姿ではお出しできません」
「そうですよ。特にお望みがないのでしたら、あたしたちに任せてくださいまし」
口々に陽子を|叱《しか》って、彼女たちは陽子そっちのけで衣装の懸案にかかる。
「あの緑玉の|花鈿《はなかざり》を|挿《さ》していただきましょうよ」
「じゃあ、それに合わせて紅玉の|歩揺《かんざし》を」
「あら、|御髪《おぐし》が赤でいらっしゃるんだもの、紅玉よりも真珠がいいわ」
「じゃあ、|玉佩《おびだま》も真珠にいたしましょうか」
陽子はげんなりと息を|吐《は》いた。|綺麗《きれい》な格好が|嫌《いや》なわけではないが、髪を|結《ゆ》いあげて|簪《かんざし》だらけにされれば重い。落としはしないか気になるし、それでなくても長い|裳裾《もすそ》のせいで動きにくいのがいっそう動きにくくて|堪《こらえ》ら[#入力者注:底本「れ」抜け?、58-8]ない。
「|括《くく》ってくれ。……着るものも|袍《ほう》でいいから」
「そんな、とんでもない!」
|女御《にょご》たちは目を|※《む》[#「※」は「剥」のへんを「祿」のつくりに入れ替えたもの、58-11]く。陽子はもういちど溜息を落とした。
とにもかくにも、こちらの衣装は動きにくい、と異国で育った陽子は思う。|登極《とうきょく》するまではほとんど浮浪児のような暮らしをしてたし、その間者るものといえば、荒い布地で作られた袍と|半袴《はんこ》が精一杯だった。ほとんど最低の衣類だったと言っていい。それに慣れてしまったから、ずるずる裾を引く女物の衣装にどうしても|馴染《なじ》めない。
――日本で着た|振袖《ふりそで》だってこれほどひどくなかったな。
陽子は溜息をつく。
基本的に、こちらにおいて男が着用するのは|袍衫《ほうさん》、女が着用するのは|襦裙《じゅくん》だった。衫は袍の下に着る薄い着物のことで、このまま外出することはあまりない。上に必ず袍を重ねる。襦裙は故郷ふうに言えば、ブラウスと巻きスカートということになるだろうか。襦がブラウス、裙がスカートで、このまま外出することはやはり少ない。必ず上からベストのような短い上着や、着物のような上着を重ねる。
どの衣類にもさまざまな形があり、それぞれに呼称があるが、総じて言えることは、裕福な者が着るものほど|身丈《みたけ》も袖丈も長く、ゆったりとしているということだった。こちらでは布は決して安いものではない。貧しい者は布を節約するから、必然的に丈は短く、ゆるみのないものになる。一目で相手の経済状態が分かってしまうことに、異国育ちの陽子などは困惑してしまう。
同時に、こちらには身分制度がある。特に位の有無によって、生活の程度がまるで違っていた。国官のような有位の人々の問では、|袍《ほう》といえば身丈も袖丈も長い上着のことで、無位の人々が着るものを|袍子《ほうし》と呼んで区別する。反対に無位の人々は普段自分たちが着ているものを袍と呼び、有位の人々が着る丈の長い袍を|長袍《ちょうほう》と呼んで区別する。そのくらい歴然と暮らしに|隔《へだ》たりがあるのだった。
陽子の着るものには国の|威儀《いぎ》とやらがかかっているから、裙は|長裙《ちょうくん》、丈は|呆《あき》れるほど長くて裾を引くし、襦の袖も大きく長い。重ね着は|富裕《ふゆう》と高位の証拠だから、さらにその上から幾重にも様々な着物を重ねられるから|堪《たま》らない。それだけでも重くてうんざりするというのに、|霞披《ひれ》を持たされ、|玉佩《おびだま》だの首飾りだのと飾りを|吊《つる》され、髪には山ほど|簪《かんざし》を挿される。それだけではあきたらず、|耳墜《みみかざり》をつけさせようとする|女官《にょかん》が耳に穴をあけようとしたので、耳に穴をあけるのは故郷の|倭《わ》では犯罪者の風習なのだと|嘘《うそ》八百を並べて、どうにかこうにか免除してもらった。
「……質素でいいから。お客さまといっても、|延王《えんおう》なんだから」
|女御《にょご》は陽子をねめつける。
「延王でいらっしゃるからこそ、そんなお姿はさせられません。あんなにご立派なお国の方なのですもの、|主上《しゅじょう》にも|見劣《みおと》りしないお姿をしていただかなくては」
「延王は武断の王でいらっしゃるから」
陽子は苦しい笑いを浮かべる。
「あまりなよなよした格好がお好きじゃない。なんて大げさな、と|嫌《いや》なお顔をなさると思うな」
――そういうことにしておいてもらおう。
ですが、と残念そうに陽子と|櫛《くし》を見比べた女御に陽子はさらに笑ってみせる。
「|袍《ほう》とは言わないから、できるだけ簡素にしてくれないか?」
この|顛末《てんまつ》を聞いて、当の|延王《えんおう》|尚隆《しょうりゅう》は大笑いした。
「陽子も苦労しているな」
「……|玄英宮《げんえいきゅう》はいいですね。理解があって」
王となれば、男でもさすがに|袍《ほう》とはいかないものらしい。なのに尚隆の身なりはおおむね、|慶国《けいこく》の高官より簡素だった。
とんでもない、と|四阿《あずまや》の|手摺《てすり》に腰を下ろした|延麒《えんき》|六太《ろくた》は顔を|蹙《しか》める。
「三百年戦って、やっとこれで折り合いがついたんだ」
「戦い――なるほどな」
陽子は苦笑する。
「|倭《わ》はいいよな。――洋装つての? あれ、絶対動きやすいもんな」
「|詳《くわ》しいな。そんなにしょっちゅう倭に行くのか?」
まあな、と六太はにんまり笑う。
「これって|麒麟《きりん》の数少ない、特権だからな。――んーと、そんでも、一年に一回ぐらい」
言って六太は腕を組む。
「あっちから服を持って帰って、こういうの作ってくれって言っても、絶対に作ってくんねーの。|花子《ものごい》の着る|褐衣《ぼろ》みたいだって言ってさ」
「確かに、あちらの服は布地がいらないな」
言って陽子はちらりと六太を見る。
「……しかし、どうやって服を手に入れるんだ? 通貨が全然違うだろうに」
「そこはそれ……ま、いろいろと」
にっと笑った六太を陽子は|呆《あき》れた気分で見た。
「|麒麟《きりん》は|仁道《じんどう》の生き物なのじゃなかったのかな?」
「深く|追及《ついきゅう》すんなって」
言って六太は|手摺《てすり》から庭へ跳び降りる。
「――|楽俊《らくしゅん》、なんかいるか?」
|回廊《かいろう》に近い池の縁に立って池の中を|覗《のぞ》きこんでいる、楽俊の所に|駆《か》けていった。
|金波宮《きんぱきゅう》の南に位置する|玻璃宮《はりきゅう》だった。何代か前の王が建てさせたという|玻璃《ガラス》でできた温室。白い石の柱が立ち並び、壁も|欄間《らんま》も|玻璃《はり》、急傾斜の屋根もまた玻璃でできている。陽光が射し入った|園林《ていえん》の中には澄んだ水を|湛《たた》えた池が掘られ、沢を|真似《まね》た小川が流れていた。美しい羽をした鳥と、池には魚が放されている。かなりの広さの園林を回廊が囲み、花の咲いた園林には|四阿《あずまや》ふうの小亭がいくつか設けられていた。
「――昼寝をするにはいいところだな、ここは」
尚隆が言って、陽子は笑う。
「昼寝をする暇があるんですか、延王は?」
「|雁《えん》は|官吏《かんり》が勝手にやるから、俺はあまりすることがない」
「なるほど」
「|政《まつりごと》は頼りになる官が見つかるまでが苦しい」
低く言われて、陽子は延王を見る。彼は苦笑した。
「|登極《とうきょく》したばかりの王朝には情理が通用せぬ。そういうとき、麒麟はほとんど役に立たん。どれだけの時間でどれだけの臣下を集められるか、それに全てがかかっていると言っても良い」
「……そうですね」
「|麦侯《ばくこう》はどうなった?」
陽子は息を|吐《は》いて首を振った。
麦侯は名を|浩瀚《こうかん》という。浩瀚はかつて慶国西岸、|青海《せいかい》に面する|麦州《ばくしゅう》を治め、慶が|偽王《ぎおう》によって混乱した際、最後まで偽王につかず、 抵抗を続けた|州侯《しゅうこう》だった。陽子が延王尚隆の助力を|請《こ》うて偽王を討つために|起《た》ったとき、最初に尚隆から|勧《すす》められたのは、浩瀚に連絡をとり麦州軍の援護を受けることだったが、実際には連絡をする前に麦侯は偽王軍によって捕らえられてしまった。
「……麦侯は|玉座《ぎょくざ》が欲しかったようです」
「ほう?」
|起《た》った王が真実、王であるか、偽王であるか、宮中にある者でなければ判断が難しいものらしい。|宮城《きゅうじょう》に遠い諸侯の多くは偽王を真の王と信じて偽王の|許《もと》に集結したが、|浩瀚《こうかん》はこれに逆らい、偽王に対して抵抗を続けた。――これは一体どういうことか、と官の非難は偽王に従った諸侯よりもむしろ浩瀚に集中した。
自ら玉座に起とうとあえて偽王に下らなかった。――ある官僚たちは浩瀚をそう|糾弾《きゅうだん》し、これに対して別の一派は浩瀚を|擁護《ようご》して朝廷を二分したが、実際に前者を裏付ける証言が多数出て決着をつけた。結局、浩瀚は麦州侯の任を|解《と》かれ、麦州で身柄を|拘束《こうそく》されて処分を待っている。
「――なるほどな」
陽子の言を聞いて、延王は苦笑する。
「官は断固とした処分を、と言うのだけど、|景麒《けいき》が反対して、決着がつかない。たぶん、どこかで|閑職《かんしょく》を与えるという話になると思う」
「|他人事《ひとごと》のように言うのだな」
陽子はほんの微かに笑って、これには返答しなかった。
「――新朝廷というものは、とにかく扱いにくい。だが、少し力を抜くのだな。王がしっかりしようとすると、|奸臣《かんしん》は裏をかくことばかり考える。なめられたぐらいのほうが、やりやすい」
「そうでしょうか」
「王が目を光らせたぐらいで|萎縮《いしゅく》するぐらいの奸臣なら、目くじらを立てる必要はない。どうせ大したことはできぬ」
「延王も大変でした? 即位したばかりのころは」
「まあな。――|焦《あせ》ることはない。玉座に王がいれば、天災が減る。それだけでもお前は何かをしていることになるのだ」
「それだけ、というわけにはいきません」
「王の寿命が長いのはなぜだと思う? 五十年やそこらでは、できないことをやらなくてはならんからだ。どうせ終わりなどないのだ、気長にいけ」
陽子は首を傾けた。
「延王でも悩むことがあります?」
「頭の痛いことなら、いくらでもある。決して絶えることがない」
「大変ですね……」
「なに、問題がなくなってしまえば、することががなくて|飽《あ》きるだけだ」
言って、五百年の長きにわたって一国を支えた王は|園林《ていえん》を見やる。どこか皮肉とも|自嘲《じちょう》ともつかない笑みが浮かんでいた。
「――そうなればきっと、俺は|雁《えん》を滅ぽしてみたくなる……」
2
「なあ……陽子って、ひょっとして落ちこんでないか?」
|玻璃宮《はりきゅう》の水はぬるい。|履《くつ》を脱ぎ水辺に腰をおろし、足先を池に入れて水を掻きまわしている|六太《ろくた》の横で、|楽俊《らくしゅん》も同じように座りこんでいた。
「……そう思いますか、やっぱり」
楽俊は六太の横顔を見る。ひょっとしてそんなふうに感じるのは、自分だけなのだろうかと思っていたのだが。
「うん。――|景麒《けいき》と|上手《うま》くいってねえのかな」
「まさか」
「だって、あんまり一緒にいるところって見ねえじゃん」
「そうですね……、確かに」
うーん、と六太は|膝《ひざ》の上に|頬杖《ほおづえ》をついた。
「景麒が出てこないのは、おれたちが苦手だってのもあるんだろうけどさ。おれも|尚隆《しょうりゅう》もこんなだからな、|超堅物《ちょうかたぶつ》の景麒はつきあいにくいんだろう。……けどそれ以前に、どうも景麒と陽子ってのは危なっかしいんだよな」
「そうですか?」
「|真面目《まじめ》すぎんだよなあ、景麒って。これで陽子が尚隆みたいにふざけた人間なら、それでもうまく|噛《か》み合うんだろーけど、陽子も真面目なやつだから、景麒がきりきりしてると思い詰める。……しかも景麒は陽子が二度目の王だからな」
「それ、やっぱり関係があるんですか」
「そりや、そーさ。二王に|仕《つか》えると、どうしたって王を比べる。最初の王ってのは|麒麟《きりん》にとっても思い入れがあるから、どうしても後の王に点が|辛《から》くなる。たとえ前王が出来の悪い王だったとしても、短命で終わったとしても、麒麟としても|悔《く》いが残るから忘れがたいもんだ。――せめて陽子が男だったら良かったんだろうけどさ」
楽俊は軽く息を落とした。
「そうでしょうねえ……」
「陽子だって|予王《よおう》を意識しないわけにはいかんだろ。そのうえ景麒がああいう|仏頂面《ぶっちょうづら》で口べたな性格だから、どうしたって深読みしたくなる。……こればっかりは時間が|経《た》たないとな」
楽俊は景麒のそっけない口調を思い出す。表情に|乏《とぼ》しい顔と|冴《さ》え|冴《ざ》えとした金の髪。金の髪は麒麟に固有の色だが、六大と景麒とを見比べてみれば、同じ金にも個性があった。六太の金は黄味が強くて明るいのに比べ、景麒の金はやや薄くどこか冷たい色味をしている。本人の性格をよく表していた。
「まあ、なんとかするさ、陽子なら」
六太がにっと笑って、楽俊も|頷《うなず》いた。
「……そうですね」
「なんだか……」
陽子は水辺でなにやら話しこんでいる楽俊と六太を見やる。
「……こちらのことが分からなくて」
低く言った言葉には、快活な答えがあった。
「それは、そうだろう。なにしろこちらは変わっているからな」
尚隆は軽く笑う。
「子供が木に|生《な》ると聞いて、|呆《あき》れた」
陽子もまた軽く笑う。すぐにその笑みが力を失った。
「……こちらの人にとっては、分からないことがとてもいらだたしいようですが」
「景麒か?」
尚隆に問われて、陽子は一瞬尚隆を見返し、次いで首を振った。
「|官吏《かんり》もです。なにしろ、本当に何一つ分からないから、誰もが呆れているみたいで。……無理もないと思うけど」
陽子が分からない、と言うたび、景麒も官吏も|溜息《ためいき》をつく。
「……それに私は女だから。それが不満なのじゃないかな」
これだから女王は、と|暗《あん》に含ませた言葉をいくつも聞いた。
「それは少し違うな」
尚隆が言い切って、陽子は彼を見返した。
「――違う?」
「俺がこちらに来て、一番戸惑ったのは、女が官吏になること、親子の関係が|妙《みょう》なことだったな」
「……へえ?」
「|倭《わ》では、女は家の中にいて、表には出ないものだった。それがこちらでは子を夫に預けて働きに出る女がいる。|慶《けい》は|予王《よおう》が女を追放したから、女官吏の数が少ないだろうが、|雁《えん》だとほぼ半数近くが女だな。武官はさすがに男のほうがかなり多いが、兵士ならば三割近くが女だ」
「そうなんだ……」
「考えてみれば無理もない。王は|麒麟《きりん》が選ぶが、その朝臣の筆頭にあたる麒麟のまず半数が女だ。時代によって増減があるが、|均《なら》せばほぼ雄雌が半数だな。その麒麟が選ぶ王も、男女が半数、記録を見てざっと|勘定《かんじょう》してみても、特にどちらが多いとも言えぬ」
へえ、と陽子は目を見開く。
「王や|麒麟《きりん》が女でいいなら、|官吏《かんり》も女で悪いはずがない。しかも、こちらの女は子を産む必要がない。育てるのも、特に女でなくてもいいから、女は家に納まっている必要がない。男ほど|屈強《くっきょう》でないのはもちろんだから武官、兵士としてはどうしても劣るが、|細《こま》かいことに気がついて|煩雑《はんざつ》な実務なども実に|丁寧《ていねい》にやるから、官吏としては使いでがある。実際、|史書《しょきかん》は女が多い」
陽子は笑った。
「なるほどな」
「だから、慶の官吏が女王だからと渋い顔をするのは、なにも女が王であってはならぬという訳ではない。慶は女王運がないのだ」
陽子は尚隆の顔をまじまじと見た。
「ここ三代、無能な王が続いている。それがたまたま女王ばかりだった。景麒が選んだ先王は女王で、極めつけに在位が短かった。その景麒がまた女王を選ぶ。官はどうしても、またか、と思う」
「……それでなんだろうか」
「それだけのことだな。北西の国、|恭国《きょうこく》の|供王《きょうおう》は女だが、在位は九十年近くになる。その前にも途方もなく長い治世を|布《し》いた女王がいたから、恭などでは王が男だと民は無念そうな顔をする。――その程度のことだ。気にするな」
陽子は軽く息を|吐《は》いて笑った。
「気にしないようにする。――ありがとう」
なんの、と尚隆も笑んだ。
「俺に手伝えることがあれば言うがいい。できる限りの手助けはしよう」
陽子は深く頭を下げる。
「本当に――ありがとうございます」
3
|才国《さいこく》|翠微洞《すいびどう》の|主《あるじ》である|梨耀《りよう》が|己《おのれ》の|洞府《どうふ》に帰還したのは、予告どおり出発から半月後のことである。梨輝は|琶山《はざん》は翠微の峰、そこに|聳《そび》える|楼閣《ろうかく》へと乗騎を寄せる。下界、翠微の峰の|麓《ふもと》に小さく|碧《あお》い屋根が見えた。翠微洞から峰の内部を抜ける|隧道《ずいどう》を通って下界に出るのがそこだった。その屋根を囲む|墻壁《へい》、門前にはさらに碧い|甍《いらか》が並んでいる。翠微の峰に住まう仙人を|祀《まつ》る|廟《びょう》だった。
梨耀は|赤虎《せきこ》の背からそれを見下ろして軽く、|歪《ゆが》んだ笑みを浮かべた。単にここで|齢《よわい》を重ねていくだけ、とりたてて何をするわけでもないのに、下界の者は洞主というだけでありがたがる。いつか一大事あったときには、|梨輝《りよう》が助けてくれるものだと、そう思っているのだ。過去に著名な|飛仙《ひせん》があり、それらは確かに民を助けた。だからといって飛仙の全てが善意に満ち|※《あふ》[#「※」は「縊」の糸(いとへん)を「さんずい」に入れ替えたもの、72-3]れているなどと、期待するのは|愚《おろ》かというもの。
「お帰りなさいませ」
|赤虎《せきこ》が門前に降り立つと、すぐさま門前へと|駆《か》け出してきた下男下女は五人ほど。梨耀は赤虎から降りて、その顔ぶれを見渡す。
「留守中、変わりは」
あれば良いのに、とは梨耀も黙殺した胸の中、なにしろ長い生だから、生きることには|飽《あ》いている。そのうえ|齢《よわい》三百ともなれば、すでに世間から忘れ去られて久しい。――少なくとも梨耀という名の一人の女がいることを、覚えている者が幾人いよう。
下男の一人が深々と頭を下げた。
「ございません」
「そうだろうとも」
言って梨耀は洞府を眺めわたす。出かける前に言い置いた言葉を、もちろん梨耀は覚えている。少なくとも洞府は|綺麗《きれい》に|拭《ふ》き清められ、そこかしこの柱も|梁《はり》も真新しい|丹《に》で塗り香えられ、壁も真新しい|漆喰《しっくい》で白く塗り替えてあった。
「さぼらなかったとみえるねえ」
|梨耀《りよう》は笑って赤虎を下男に任せ、|正房《おもや》へと足を運んだ。自室に戻ると、すでに|下僕《しもべ》の誰かが知らせに走ったのか、下女が三人、頭を下げて待っていた。
「お帰りなさいませ」
そっけなく領いて、梨耀はただ立つ。三人が小走りに寄ってきて、梨耀の衣服を脱がせにかかった。|房室《へや》もきちんと整えられ、柱も壁も塗り替えられている。高が半月でできることではない。梨耀の目に触れる場所だけ、なんとか塗り終わったのだろう。
「――|笨媽《ほんま》」
呼べば、びくりと|鈴《すず》が顔を上げる。この娘は始終梨耀に|怯《おび》えている。それを承知で悪意を|露《あらわ》に、梨耀は|跪《ひざまず》いて衣服の始末をしている娘を見下ろした。
「|慶《けい》の新王を見たよ。――歳の頃はお前と同じくらいだろうかね。女王でいらっしゃる」
女王、と鈴は、おどおどと梨耀を見つめたまま小さく|呟《つぶや》いた。
「同じ歳頃の娘だというのに、お前とはたいへんな違いだ。なかなか|見栄《みば》えのする娘でね。それはそれは|凛《りん》とした」
鈴は|俯《うつむ》く。梨耀は部屋着を着せかけられながら含み笑った。
「|臥山《がざん》の、|芥沾洞《かいせんどう》で会ったのだけどねえ。ちょうど即位式を済ませたばかり、それでご|挨拶《あいさつ》にみえたんだ。芥沾洞の|主《ぬし》は先々代の|景王《けいおう》の母親だから。なかなか礼儀というものをご存じだ。お前とは大違い」
ゆったりと部屋着を着込むと、|梨耀《りよう》は|椅子《いす》に腰をおろす。梨耀の興味が|目下《もっか》のところ、|鈴《すず》にしかないのを察して二人の下女が無言で一礼して|房室《へや》を出ていった。
「|蓬莱《ほうらい》の生まれだそうだよ」
鈴ははっと顔を上げた。目ばかりが印象に残る顔が|微《かす》かに|歪《ゆが》む。
「――そう、お前の生まれた、あの|虚海《きょかい》の東の|倭国《わこく》さ。皮肉だねえ? 同じ蓬莱で生まれて、かたや役立たずの|婢《はしため、》かたや|慶東国景王《けいとうこくけいおう》。質素にしていたけれども、さすがは王だ。着るものも|歩揺《かんざし》も|贅沢《ぜいたく》なこと」
言って梨耀はくつくつと含み笑う。
「お前なんかじゃ逆立ちしたって、|珠《たま》一つだって手に入りそうもないやつだ。王宮に戻ればそれどころじゃない、さぞかし山のように宝物がおありなんだろう。――ねえ?」
鈴は再び俯く。|嘲笑《ちょうしょう》されて|睨《にら》むでなく、|反駁《はんぱく》するわけでもない卑屈さが、梨耀をこのうえもなくいらだたせる。この娘をなぶるのは、狩りをするのに似ている。
「いろいろな話をお聞きしたよ。景王もこちらに流されてしまったんだそうだ。最初は右も左も分からなかったと言ってらした。それでもまあ、ご立派じゃないか。とにかく分からないなりに旅をして|延王《えんおう》に保護をお求めになったとか」
梨耀は組んだ足の先で娘の胸ぐらを軽くつつく。
「誰かとはえらく違うねえ。旅の芸人たちにまじって、しかもそこで芸をするならともかく、その能もなくて下働きをしていたやつとはさあ。涙ながらに|這《は》いつくばって、下女にしてくれなんて頼みこんだ、どこかの誰かさんとはねえ」
さらに|爪先《つまさき》で娘を突くと、鈴のうなだれた首が揺れてばたりと涙が落ちた。
「おやおや。景王に同情でもしたのかい? そりやあ、失礼ってもんだろう。お前ごときに哀れまれたんじゃ、景王は|侮辱《ぶじょく》されたとお怒りだろうねえ」
忍びやかな|嗚咽《おえつ》が聞こえてきた。梨耀は軽く|眉《まゆ》を上げる。獲物は屈した。興が|削《そ》げた。
「お|退《さが》り」
梨耀は言い放つ。
「その|鬱陶《うっとう》しい顔を、さっさと見えないところにおやり」
鈴は庭に走り出た。人気のない最奥に|駆《か》けこみ、|捻《ねじ》くれた松の幹に|縋《すが》って泣いた。
――蓬莱。その、|懐《なつ》かしい国。
「どうした|木鈴《もくりん》。また洞主さまに何か言われたのか」
庭番の|老爺《ろうや》が駆けつけてくる。鈴はただ首を振った。
常に梨耀はそうなのだ。ああして鈴を|虐《いじ》めて喜ぶ。それほど鈴が|憎《にく》いのだろうか。梨耀に憎まれるほどのものを、鈴が持っているとは思えないのに。
「何を言われたか知らないが、気にするな。洞主さまに|仕《つか》えるってことは、ただもう|辛抱《しんぼう》することだからな」
「そんなの、分かってるわ」
分かってはいても。他者から|嘲《あざけ》られることが、苦痛でないわけがない。
「でも、どうしてあんな……っ」
泣き|崩《くず》れた鈴の背後で|老爺《ろうや》は溜息を落とした。
「……景王」
鈴は|呟《つぶや》いた。蓬莱の出身だと言った。だとしたら、故郷はどこだろう。いまごろあの国はどんなふうになっているのだろう。
ねえ、と鈴は涙にまみれた顔のまま、背後で困ったように息をついている老爺を振り返った。
「……景王って、どこにいるの」
「そりやあ、当然、慶だ。慶の王宮におられるだろうよ」
「……そう」
鈴と同じく蓬莱から来た娘。鈴のようにやはり慶に流れ着いたのだろうか。 そして彼女は王になった。この地上で並びなき地位。
……会ってみたい。
どんな娘なのか。ひょっとして。
彼女なら、真実、鈴を哀れんでくれるのではないだろうか。彼女なら理解してくれるだろう。故郷から遠く隔てられ、異国に流された苦しみ、言葉の通じない痛み、鈴がおかれたこの境遇の悲しさ。
「|景王《けいおう》が|才《さい》に来ることってあると思う?」
老爺に訊くと、彼は首を振った。
「ないのじゃないか。どこかの王が来るなんて、滅多にあることじやない」
「そう……」
景王に会いたい、と鈴は胸の中にもう一度呟いた。
どうやって会えばいいだろう。|慶《けい》に行って会いたいと言えば、すんなり会わせてもらえるものだろうか。どうやって慶に行こう。|梨耀《りよう》に言えば、また笑いものにされるだけだろう。理由を言わずに旅がしたいと願って、はたして梨耀がすんなり鈴を出してくれるだろうか。
鈴は梨耀の|嘲笑《ちょうしょう》と|罵詈《ばり》を想像して、小さく震えた。たとえ百年といえども、他者から嘲られることに傷つく痛みが絶えるわけではない。
会いたい。会いに行く方法がない。
どんな娘だろう。|玉座《ぎょくざ》に就くのだから、慈愛深い人柄のはずだ。決して梨耀のような残酷な性格ではないはず。
|訊《き》きたいことがたくさんある。それよりいっそう、訴えたいことがたくさんある。
――来て。
鈴は東の空を見た。
お願いだから、才に来て。
……ここに来て、あたしを見つけて――。
4
白い丘に風が吹き渡る。風花が散った。
|祥瓊《しょうけい》は|橇《そり》を引く手を休めて、腰を伸ばした。遠くに|新道《しんどう》の|里《まち》の|隔壁《かこい》が見えた。ようやく里の問近まで帰り着いたのだ。雪の中に沈んだような里、夕暮れが近いせいで、あたりはすでに|薄闇《うすやみ》が|漂《ただよ》っていた。そこに白く祥瓊の息が流れていく。
北方の国の冬は厳しい。特に降雪の多い|芳《ほう》の冬は、寒さよりも暮らしそのものが|辛《つら》かった。雪に埋もれる街道、孤立し|閉塞《へいそく》する里。息を殺して雪解けを待つ人々。荷が動かないために、里にある|僅《わず》かばかりの店は閉まる。秋に|蓄《たくわ》えたものが底をつくと、|馬橇《ばそり》でやってくる行商だけが頼りだった。それが待ちきれないときには、|膝上《ひざうえ》まで積もった雪を掻き分けて近隣の里まで行かねばならない。――今の祥瓊のように。
祥瓊は肩で息をして、改めて橇の|引《ひ》き|綱《づな》を肩に|担《かつ》ぎなおす。門が閉まるまでに里に帰り着かなくてはならない。里から閉め出されるということは、凍死することを意味する。
道は周囲の農地と段差を失い、どこまでが道なのか判然としなかった。周囲に広がる農地も間近に続くなだらかな丘も真っ白だった。丘の斜面には放牧する羊や|山羊《やぎ》や牛が他里へ逃げていかないよう、石を積んで作った低い垣根が|巡《めぐ》らせてあったが、それも今は雪の中に没している。|冬至《とうじ》前だというのに、今年は常になく雪が深かった。
引き綱をかけた肩が痛む。足先には感覚がない。十|鈎《きん》もの炭を載せた|橇《そり》は遅々として動かなかった。十釣といえば、大の男の体重に匹敵する。
――こんな暮らしをいつまで続ければいい。
疲労に|麻痺《まひ》した|祥瓊《しょうけい》の頭の中にはそれだけがある。
道を見失い、何度も吹き|溜《た》まりに落ちこんだ。その度に橇を起こし、炭を抱え上げる。急がなければ門が閉まる。その一心でがくがく震える足を励まし、|喉《のど》も|脇腹《わきばら》も切り|裂《さ》かれたように痛むのを、|我慢《がまん》して祥瓊は橇を引いていた。
――他の子供たちは、今日はみんな、遊んでいたというのに。
冬の|里《まち》を来訪するのは行商と|朱旌《しゅせい》の集団だけだった。朱旌とは、芸をしながら諸国を遍歴する芸人を言う。その朱旌が里に来ているのだ。冬には本当に楽しみがないから、朱旌が来れば、ちょっとした祭りになる。なのに、祥瓊だけはその日に里を出されて、炭を買いにやらされた。冬には炭は欠かせないから、当然|蓄《たくわ》えはたくさんある。なのに春までもたないかもしれない、とそう言われて|里《まち》を出されてしまったのだ。|馬橇《ばそり》も貸してはもらえなかった。
――そんなに|憎《にく》いか。
|祥瓊《しょうけい》は心の中で|沍姆《ごぼ》に向かって毒づいた。
一人で橇を引いて十鈎もの炭を隣の里まで買いに行くことが、|下手《へた》をすれば死に|繋《つな》がることを知らぬ沍姆ではあるまい。死んでも構わない、と沍姆は言外に祥瓊に告げている。
――いつまでこんな暮らしを。
二十歳になれば、農地をもらって|里家《りけ》を出ることができる。この二十は数え年で数えるのが古来からの慣例だったが、祥瓊の戸籍上の年齢からすると、まだ二年を待たなくてはならない。
――あと二年もこんな生活を。
しかも二年|経《た》って、本当に農地をもらえる保証はどこにもない。|月渓《げっけい》――祥瓊の父母を殺したあの男が、簡単に祥瓊を自由にしてくれるとも思えなかった。
座りこみそうになる自分を励まして、ようやくのことで祥瓊は|里閭《もん》まで辿り着いた。閉門前に辛うじて里の中に入ると、里の中にはまだ浮き足だった空気が残っていた。よろけるようにして|里家《りけ》まで帰り、しばらく雪の中に座りこんでいた。里家の中からは子供たちの興奮した声が流れてきている。
――二年も。
それは|永劫《えいごう》の時間に思われる。王宮で過ごした三十年はあんなに短かったのに。
|惨《みじ》めな気分で立ち上がり、|藁苞《わらづと》に包まれた炭を一つずつ下ろす。納屋の中に入れてから、ようやく祥瓊は里家に入った。
「ただいま戻りました」
裏口の扉を開け|厨房《だいどころ》に入ると、沍姆が皮肉げな笑みをちらりと見せた。
「ちゃんと炭は買ってきたかい。一|鈎《きん》だって欠けていたら、もう一度買いにやるからね」
「買ってきました。ちゃんと十釣」
ふん、と沍姆は鼻を鳴らして、|掌《てのひら》を差し出す。祥瓊はその手の上に|凍《こお》った|財嚢《さいふ》を載せた。
沍姆は中を改め、祥瓊を冷たく見やる。
「ずいぶん釣りが少ないじゃないか」
「炭が高かったんです。今年は炭が少ないとかで」
夏に大風が吹いて、近郊の山に|生《は》える木がなぎ倒された。そのせいで、今年の炭はずいぶんと高い。
どうだかね、と沍姆は|呟《つぶや》いて、祥瓊に冷たい笑みを向けた。
「|嘘《うそ》をついていれば、じきに分かる。それまではそういうことにしておいてやろう」
|祥瓊《しょうけい》は|憮然《ぶぜん》と|俯《うつむ》く。こんなはした金をくすねたりするものか、と心の中で|吐《は》き捨てた。
「――さあ、夕仕事に取りかかるんだよ」
|沍姆《ごぼ》に言われて、|祥瓊《しょうけい》はただ|頷《うなず》いた。|閭胥《ちょうろう》に逆らう権利など祥瓊にはないし、どんなに疲れているか訴えたところで無駄だと、承知していた。
|正房《おもや》から出てきた子供たちと、家畜に水と|餌《えさ》を与え、|寝藁《ねわら》をさばいて替える。牛と|山半《やぎ》の乳を|搾《しぼ》る。夕仕事の間も、子供たちは楽しげに|喋《しゃべ》りどおしだった。
「遅かったのねえ。さっさと戻ってくればよかったのに」
女の子の一人が祥瓊に言う。
「もう|朱旌《たびげいにん》のひとたち、|里《まち》を出てしまったわよ」
祥瓊はむっつりと黙りこんで黙々と餌に混ぜる藁を切った。
「雪が降るとよかったのになあ」
男の子が、心底残念そうに言う。|橇《そり》と馬があるとはいえ、雪道の旅は楽ではない。雪が降れば、やむまで|朱旌《しゅせい》たちは里に留まる。正直言って祥瓊もそれを期待してはいたが、雪が降れば祥瓊が今日じゅうに戻って来れなかったことも確かだった。
朱旌の連中は旅に熟達していたが、それでも冬の旅が困難でないわけはない。そもそも朱旌は春から秋にかけて各地の里を廻り、冬には大きな街に常小屋を借りてそこに落ちつくものだった。それをこの雪の中、危険を|冒《おか》して冬に旅をするのは、祥瓊の父|仲韃《ちゅうたつ》が農閑期以外の興行を禁じたからだった。仲韃が|斃《たお》れて、多くの朱旌は危険な冬の巡回をやめたが、いまだ冬場に旅をする|朱旌《しゅせい》もある。冬の里には楽しみがない。朱旌が来れば、里を挙げての歓待になる。それを目的に無理を重ねて雪道を踏破する朱旌も決して少なくはない数残っている。
「|雑劇《しばい》がおもしろかったわよねえ」
「おれ、|上索《かるわざ》のほうがよかったな」
楽しかった一日の話を|俯《うつむ》いて聞く。そんなもの、宮中でいくらでも見たわ、とは死んでも言えない|悔《くや》しさ。
「――そういえば」
言ったのは少女の一人だった。
「|小説《しょうせつ》で、すてきな話を聞いたのよ。|慶国《けいこく》に新しい王が即位なさったんだって。まだ十六か十七くらいの、女王なんですって」
え、と祥瓊は顔を上げた。
「すごいじゃない? 王なんて神にも等しいお方よ? 天下にたった十二の並びない地位にお着きになるなんて、どんな気分がするかしら」
そうね、と別の少女が|頷《うなず》く。
「きっと着るものは絹よね。|刺繍《ししゅう》に|綺麗《きれい》な鳥の羽飾り。金銀も珠もほしいだけ」
「|偽王《ぎおう》が|起《た》って、好き放題にやってたのをやっつけたんだよな。すげえなぁ」
「あら、それは|雁《えん》の|延王《えんおう》がご助勢なすったからよ」
「延王とお知り合いなんてすごいわよね」
「そりやあ、きっと仲がいいんだよ、助けてくれるぐらいだもん」
「即位式はどうだったのかしら。きっとお綺麗なお姿だったんでしょうね」
祥瓊は足元を見つめていた。次第にかしましい声が遠のいていく。
十六、七の娘。――それが王に。
祥瓊は知っている。王宮での暮らしがどんなものか。この寒村での暮らしとどれだけの差があるか。
――ひどいわ。
祥瓊は口の中で|呟《つぶや》く。
祥瓊がここでこんな暮らしをしているというのに。同じ年頃の娘が、祥瓊のなくした一切のものを手に入れた。祥瓊には二度と王宮に帰る|術《すべ》がない。優しい父母を殺され、辺境の寒村に追いやられ、一生をこうやって生きていく。
祥瓊は|鋤《すき》を持った自分の手を見た。
炎天下の労働で|陽《ひ》に|灼《や》け、重いものを持ち慣れたせいで節の立った手、手入れをしてくれる人もないから|爪《つめ》の形も|歪《ゆが》んでしまった。こんなふうに|祥瓊《しょうけい》は年老いていく。寒村の暮らしに|馴染《なじ》むように身も心も|荒《すさ》んで、やがては|沍姆《ごぼ》のような汚らしい|老婆《ろうば》になるのだ。
その王が美しい十六のまま、王宮で暮らしている間に。
……ひどい。
胸の深いところで、さらに小さな声がした。
……許せない……。
三章
1
月は押し迫り、|慶国尭天《けいこくぎょうてん》の街からもようやく|浮《うわ》ついた空気が消えた。
即位式、|賓客《ひんきゃく》への対応と、慌ただしかった王宮にいつもの|静謐《せいひつ》さがたち戻ってきていた。それでもなおどこか浮き足立った気配があるのは、|郊祀《こうし》が近づいているからだった。
|陽子《ようこ》はそっと窓の外を見やって息を|吐《は》いた。窓の|玻璃《ガラス》越し、寒々とした冬の|園林《ていえん》が見える。
王は午前には|外殿《がいでん》に出、午後には|内殿《ないでん》に戻る。王宮の|中枢《ちゅうすう》をなすこのふたつの建物が王が政務を|執《と》る場所だった。外殿は基本的に朝議の|間《ま》、内殿は王が執務を行う間と定められている。同時にまた、内殿は|外宮《がいぐう》の終わりであり、外殿は|内宮《ないぐう》の終わりだった。|官吏《かんり》が働くのは外宮、基本的に内殿より奥には立ち入ることができない。反対に王が住むのは基本的に内宮、これまた本来、王は外殿よりも表には出ないことになっている。
その内殿を訪れた者があった。|侍官《じかん》に導かれて入ってきた人物を目に留めて、陽子はわずかに|眉《まゆ》を|顰《ひそ》める。
|冢宰《ちょうさい》|靖共《せいきょう》。冢宰は六官の主長、六官とは天官地官春官夏官秋官冬官の六官をいい、各々が宮中の諸事、土地|戸籍《こせき》、|祭祀《さいし》、軍事、法令、造作を|掌《つかさど》る。古くは|天官長太宰《てんかんちょうたいさい》が冢宰に就任し、六官府をとりまとめたが、近来別に冢宰を立てるのが慣例だという。
陽子はこの威厳ある外見の冢宰が苦手だった。
「おそれながら、|主上《しゅじょう》」
靖共は座所の前に平伏する。
「――どうした」
「|夫役《ぶやく》のことでございますが」
まただ、と陽子は|唇《くちびる》を噛む。午後の政務の時間には|宰輔《さいほ》として陽子を補佐してくれる|景麒《けいき》が|側《そば》にいない。彼には|瑛州侯《えいしゅうこう》としての政務があるのだ。――だが、陽子には景麒がいなければ、政治のしくみもこちらの常識も分からない。それを分かってか、靖共は午後にばかりやってくるのだ。
国土は先王の失態と、続いて起こった天災と戦乱、|妖魔《ようま》の襲撃で荒れ果てている。これを平常の状態に戻すには、どうしても大がかりな土木工事が必要になる。ここ数日、朝議の議題はもっぱらそれで、どこから工事を始め、何を基準に|役夫《えきふ》を|徴※《ちょうよう》[#「※」は「徭」の「ぎょうにんべん」を「にんべん」に入れ替えたもの、2-01-78、88-1]するのか、それで朝議が|紛糾《ふんきゅう》していた。
どうやら、|官吏《かんり》には|派閥《はばつ》があるらしい。それは|陽子《ようこ》にも理解できる。最大の派閥が|冢宰《ちょうさい》である|靖共《せいきょう》が率いる一派だが、彼らの|思惑《おもわく》と他派の思惑が真っ向から対立している。靖共らは春までに治水を急げと言い、他派はとりあえずこの冬を過ごせるよう、都市の整備を優先せよと言う。
靖共は|今朝《けさ》の朝議でも繰り返したことを再度繰り返し、|膝《ひざ》をついたまま陽子の顔色を|窺《うかが》うように見上げてきた。
「――いかがでございましょう」
陽子は一瞬、返答に困る。治水も都市の整備も、どちらも重要事項であることは理解できる。だが、どちらかを優先しなければならない。双方を同時に行うことができるほど、|慶《けい》はまだ豊かではない。――しかしながら、その判断が陽子にはつかないのだ。
しかもそのどちらかのうち、どこの治水なり都市の整備なりを優先するべきなのか、そのあたりになると、まったく陽子には判断がつかなかった。|夏官《かかん》の|編纂《へんさん》した地誌を読んだぐらいでは、どこがどういう土地で、どんな特色があり、どんな救済を必要としているのか、そのあたりまでは分からない。
「申し訳ないが、私では分からない」
陽子の声は、しぜん沈む。これを告白させられるのは、かなりのところ|辛《つら》いものがあった。
靖共は溜息を落とした。
「主上。――主上に判断いただかなくてはならないのですよ」
「済まない……」
「主上が|倭国《わこく》のお方でいらっしやるのは、重々承知しておりますが、いま少しこちらの事情をご理解いただけないでしょうか」
「勉強はしているんだが、追いつかない。本当に済まない」
「とにかく、どちらを優先させますのか、それだけでも」
「|景麒《けいき》に相談して、決める」
靖共はさらに深い溜息を落とした。
「失礼ながら。主上は|台輔《たいほ》に|政《まつりごと》を行えとおっしゃるおつもりでしょうか。台輔は確かに|仁道《じんどう》の|御方《おんかた》、おさおさ民に|苦渋《くじゅう》をなめさせるようなことはございませんでしょうが、かと言ってなにもかも台輔に|采配《さいはい》していただいたのでは、哀れみばかりが先に立って、国など簡単に傾いてしまいます」
「分かっている……」
|麒麟《きりん》にとっては、なによりもまず、民への哀れみが優先なのだ。
「だが、本当に私では、判断がつかないんだ」
|靖共《せいきょう》は|僅《わず》かの問、顔を伏せた。そこに浮かんでいるのは|嘲笑《ちょうしょう》だろうか、|落胆《らくたん》だろうか。いずれにしても、靖共がうんざりしていることだけはよく分かる。
「出すぎたことは重々承知しておりますが」
靖共は溜息まじりに言った。
「この件、小宮にお任せ願えましょうか」
なにしろ、急ぐことなので、と言われてしまえば、陽子には|領《うなず》くしか|術《すべ》がない。
「……分かった。|冢宰《ちょうさい》に任せる」
靖共は深く平伏する。
退出した靖共を見送って、陽子は深い溜息を落とした。
|著《いちじる》しく問題のあった国官の整理が済み、とりあえずその穴も埋まった。|予王《よおう》の残した悪法を廃止し、予王が廃した法を再度発布した。難民の救済のために国庫から大きく予算をとり、今年の|租税《そぜい》は軽減した。
なんとか国は前に進んではいる。――全て諸官の言いなりに。
新王|登極《とうきょく》だと誰もが喜ぶ。なにがめでたいものか、と陽子は思う。陽子にはこちらの常識が分からない。判断を|仰《あお》がれても、判断のつかないことが多く、ましてや自分から何かを命じることはよりいっそう難しかった。
たとえ何かを提案しても諸官の失笑を買うだけ、しかも|勅令《ちょくれい》でないかぎり三公六官の承認がいる。|初勅《しょちょく》は多分に儀式的なことだから、初勅がなければ勅令を出してはならないというものでもないらしいが、断固として勅を下す勇気が陽子にはない。結局予王の残した六官の言いなりになっているしかなかった。
――これが景王の実体。
陽子は|自嘲《じちょう》ぎみに一人笑う。
新王登極だと喜ぶ声が王宮にまで聞こえる。|楽俊《らくしゅん》にも|延王《えんおう》、|延麒《えんき》にも|寿《ことほ》がれたそのことの、内実がこうだなんて、誰が想像するだろう。
「――主上」
午後の政務を終えた|景麒《けいき》が、執務の間に入ってきた。
「先ほどまで冢宰がおいでとか」
「そう、来ていた。例の|夫役《ぶやく》の件で。……冢宰に任せることにした」
景麒は|僅《わず》かに|眉《まゆ》を|顰《ひそ》める。
「任せたのですか」
「いけなかったか?」
陽子の問いに、景麒は無言で|憮然《ぶぜん》とした表情を作った。
「私にはどちらを優先するべきか、分からなかった。分からないのは国情が分からないからだ。国のことに|詳《くわ》しい者に任せた。……いけなかったか?」
「べつにそれでも結構ですが」
景麒は溜息まじりに言う。陽子もまた溜息を落とした。
一体、|登極《とうきょく》してから何度、景麒のこの溜息を聞いたろう。
「それではいけないのだったら、そう言ってくれないか」
「諸官の言葉に耳をお貸しになるのはいいことです。主上が任せると決めたのでしたら、それで結構です」
では、なぜそんな渋い顔をする、と陽子はその表情に乏しい顔を見た。表情に乏しいくせに、不満だけは顔に出る。
「不満があるのなら、そう言え。――どうしろと言うんだ、言ってみろ」
自然、陽子の口調は厳しくなる。誰も彼もが陽子に溜息をつく。正直言って、うんざりしている。
景麒はあいかわらず|憮然《ぶぜん》とした表情で口を開いた。
「では、申しあげますが。――国を治めるのは主上なのです。それをどうして、いちいち官の言いなりになるのです。|官吏《かんり》の言を心広くお聞きになるのを悪いとは言いませんが、一事が万事|冢宰《ちょうさい》の言いなりでは、他の官が不満に思いましょう。官の言をお聞きになるというのなら、諸官の言葉を平等にお聞きになるべきではありますまいか」
「聞いているだろう」
景麒はさらに憮然とする。
「お聞きになったうえで、冢宰にお任せになったのなら、不満はございません」
陽子は大きく溜息をついた。
「……景麒も、私が不満か?」
主上、と目を見開く|下僕《しもべ》を陽子は見やる。
「女王が不満か? 私は|不甲斐《ふがい》ないか」
諸官は常に|猜疑《さいぎ》の目で陽子を見る。|懐達《かいたつ》という言葉を聞いた。彼らは女王を|玉座《ぎょくざ》に|据《す》えておくこと自体が、不安なのだ。
「そういうことではありません」
陽子は目を|逸《そ》らした。|書卓《つくえ》に|肘《ひじ》を突く。
「……私を玉座に据えたのはお前だろう。お前までそんな目で見ないでくれ」
「主上、私は」
陽子はその声を|遮《さえぎ》る。
「――|退《さが》れ」
2
――まあ、あなたも|蓬莱《ほうらい》の生まれなの?
そうなんです、と|鈴《すず》は頷く。
――流されてしまったのね。かわいそうに。
とても|辛《つら》かった、と鈴は訴えた。
――ええ、よく分かるわ。流された、|海客《かいきゃく》がどんなに辛いか、きっとこの世界のひとには分からないでしょうね。でも、私にはよく分かる。
ええ、本当に、本当に辛かったんです、と鈴は答える。
でも、あなたに会えてうれしい。――|景王《けいおう》。とても、うれしい。
――私もよ。もう心配はいらないわ。同じ海客ですもの、私が鈴を助けてあげる。辛いことがあったら、なんでも言ってくれていいのよ。
ありがとう、景王。
そして――。
鈴は|衾褥《ふとん》の中で寝返りを打った。そこから先はうまく想像できない。
|梨耀《りよう》から景王のことを聞いて以来、幾夜となく繰り返した会話。
きっと心から哀れんでもらえる。二人で蓬莱の話をしたり、お互いの身の上や苦労を話し合ったりできる。鈴とは違い、相手は王、権にも財にも不自由のないひとだから、きっと鈴を助けてくれるだろう。
――でも、どんなふうに?
|慶《けい》に呼び寄せて、王宮に住まわせてくれるだろうか。|翠微洞《すいびどう》とは比べものにならないくらい|豪奢《ごうしゃ》な王宮、|鷹揚《おうよう》な召し使いたち。そこで景王と話をしたり、庭を散歩したりして暮らせるだろうか。それとも、梨耀を|懲《こ》らしめてくれるだろうか。
――この子は私の同胞です。|疎《おろ》そかにしたら、許しませんよ。
景王がそう言って、梨耀がその足元にひれ伏す。きっと梨耀は悔しがるだろう。どんなに|恨《うら》めしく思っても、王の威光の前には、従わざるをえないはず。
――いっそのこと、翠微洞の|主《あるじ》を|鈴《すず》にしましょうか。梨耀を鈴の|下僕《しもべ》にして。
いいえ、と鈴は首を振るのだ。
そんなことは望んでいません。洞主さまが少しあたしに親切にしてくだされば、それで充分です。
――まあ、鈴は|優《やさ》しいのね。
景王の笑みと、梨耀の感謝の目。
「……だめだ」
鈴は|呟《つぶや》いた。
「洞主さまは、感謝なんかしないもの……」
それでも、と鈴は|衾《かけぶとん》を抱きしめた。景王に会えれば、全てが良くなる。会えればいいのに。――会いに行けるといいのに。
ほわん、と目を閉じて、鈴は高い鐘の|音《ね》を聞いた。外は冬の風が吹きすさんでいる。冬枯れた|灌木《かんぼく》の枝を揺する音、複雑な起伏を描く峰に当たって風は地を|這《は》うように不穏な音を|奏《かな》でている。それにまじって高い音がした。
慌てて起きあがり、耳を澄ます。かん、と高い鐘の音が再びする。|梨耀《りよう》が|下僕《しもべ》を呼んでいる音だ。
鈴は慌てて飛び起き、|臥牀《ねどこ》からすべりおりた。|被衫《ねまき》の上からとりあえず|背子《きもの》を羽織り、大急ぎで帯を締めながら|房間《へや》を|駆《か》け出す。
――こんな、真夜中に。
梨耀は下僕たちが起きていようと、寝ていようとお構いなしだった。鈴が寝起きする|房間《へや》には三人が住めるよう、三つの|臥牀《ねどこ》があったが、二人はずいぶんと前に|辞《や》めてしまった。仙籍をなくしても、梨耀から逃れたいと願い、それを実行できた恵まれた者たちだ。――なにしろ、彼女たちは言葉が通じるのだから。
鈴は|甲高《かんだか》く続く鐘の音に|急《せ》かされながら|走廊《かいろう》を走り、梨耀の|臥室《しんしつ》に飛びこんだ。すでに下僕が二人駆けつけていて、|房室《へや》に入るなり梨耀の|叱咤《しった》が飛んでくる。
「――遅い。なんて|愚図《ぐず》なんだ、お前は」
「申し訳ありません。……寝ていたものですから……」
「寝ていたのはみんな同じだ。|厩《うまや》の者が駆けつけてくるよりも、|側仕《そばづか》えのお前が駆けつけてくるのが遅いとはどういうことだえ」
すでに駆けつけていた男女は目を|逸《そ》らした。うかつに鈴を|庇《かば》えば、自分が梨耀の|罵詈《ばり》の|餌食《えじき》になると分かっているのだ。
「申し訳ございませんでした……」
「だいたい下僕は、寝ていても|主《あるじ》のために気を張っておくものだよ。そのために私はお前を養ってやっているのだからねえ」
はい、と鈴は|俯《うつむ》いた。山にある珍しい実りと、谷間にある小さな土地から上がる収穫、国庫から支給される少額の給付金、そうして山の|麓《ふもと》にある|田圃《たんぼ》を民に貸し出した小作料、麓にできた|祠堂《しどう》の門前町から得る税。――これらのものが梨耀の収入の全てで、そこから鈴たちは食べさせてもらっている。
「まったく、十二人いる下僕のうち、飛び起きてきたのが三人とはどういうことだえ。――お前」
|梨耀《りよう》は中年の女を見る。
「冷えて|堪《たま》らない。足をさすっておくれ。――|笨媽《ほんま》」
梨耀は必ず、この|嘲笑《ちょうしょう》も|露《あらわ》な|蔑称《べっしょう》で鈴を呼ぶ。
「遅れてきた罰だ。空気が悪いから入れ替えておくれ。他の者を|叩《たた》き起こして、|洞《どう》じゅうの|掃除《そうじ》をするんだ。きっと|埃《ほこり》のせいだろうからねえ」
いまからですか、と言いかけた言葉を鈴は|呑《の》みこんだ。梨耀がやれと言えば、やらなくてはいけないのだ。
「まったく、掃除一つ満足にできない|下僕《しもべ》に囲まれた私は不幸だよ。そっと静かにおやりよ。私は寝るのだからね」
鈴は仕方なく、下僕たちを起こしてまわった。梨耀の|命《めい》とはいえ、深夜に起こされた者は|憤懣《ふんまん》やるかたなく、起こした鈴に悪態をつく。それに首を|竦《すく》めて全員を起こし、寒い真夜中掃除をする。全てのものの挨を|払《はら》い、|拭《ふ》き清め、石を|貼《は》った廊下に水を|撒《ま》いて|磨《みが》きあげ、布で拭いて乾かす。すでに|冬至《とうじ》が目前に迫っている。深夜の水は冷たい。
――|景王《けいおう》。
鈴は床を|拭《ぬぐ》いながら涙ぐんだ。
同じ|蓬莱《ほうらい》の者が|登極《とうきょく》したと聞いて、鈴は心底|嬉《うれ》しかった。いつかどこかで会えるだろうか。会えたらどんなに嬉しいだろう。その時を想像するのは楽しいが、夢想から|醒《さ》めるとこんなにもみじめだ。
――景王、あたしを助けて。
夜明けまでかかって掃除を済ませ、ほんの|僅《わず》か眠って起きると、朝仕事が待っている。昼近くに起きた梨耀が掃除の点検をして、その出来が気に入らなかったらしく、鈴たちはもういちど大掃除をやり直さなくてはならなかった。その最中、鈴は|壷《つぼ》を一つ割った。
「なんて役立たずなんだ、お前は」
梨耀は壷の破片を鈴に投げる。
「この壷の分、食事は抜きだよ。――なあに、お前は|仙《せん》だ。|餓《う》えたぐらいで死にはしない。慈悲深い私が、仙に召し上げてやってよかったねえ」
鈴は|咄嗟《とっさ》に梨耀を見上げた。
――景王に会えたら。そうしたら、こんな女なんか。
梨耀は|眉《まゆ》を上げた。
「不満があるかえ? だったら、出て行ってもいいのだよ?」
洞府を出ることは、すなわち仙籍を|削除《さくじょ》されることを意味する。決して鈴がそれをできないのを承知で、梨耀はすぐにこれを言う。
「いえ……」
ふん、と|梨耀《りよう》は鼻先で笑った。
「本当にくだらない娘だ、お前は。お前のような役立たずを置いてやるんだから、私もほとほと人がいい」
|鈴《すず》は|面伏《おもぶ》せ、|唇《くちびる》を|噛《か》んだ。
出て行ってやろうか、本当に。――そう思い、すぐに鈴はそれを|呑《の》みこむ。
「少し待遇がよすぎるかね。――そうだ、お前、|臥牀《ねどこ》なぞいらないだろう?」
鈴は梨耀を見上げた。
「温かな臥牀で寝させてもらうほど、働いているわけじゃない。――そう自分でも思うだろう?」
梨耀は悪意を|露《あらわ》に笑う。
「しばらく|厩《うまや》に寝るがいいよ。あそこなら広いし、|凍《こご》えることもない。――それがいい」
|赤虎《せきこ》と一緒に寝ろ、と言われて鈴は青ざめた。赤虎は簡単に他人には|馴《な》れない。世話をする男が決められているぐらい|獰猛《どうもう》な生き物なのだ。
「お許しください……洞主さま」
鈴は、心底震え上がった。梨耀は|軽蔑《けいべつ》も露に鈴を眺める。
「やれやれ。本当に注文の多い|下僕《しもべ》だ。自分をなんだと思っているのだろうね」
|大仰《おおぎょう》に溜息をついて、梨耀は笑った。
「じゃあ、代わりに|甘蕈《かんきん》を|採《と》っておいで」
「洞主さま――」
甘蕈はこの|凌雲山《りょううんざん》の断崖に|生《は》える|灌木《かんぼく》に|付着《ふちゃく》する|苔《こけ》のような|茸《たけ》だ。それを採るためには|綱《つな》で身体を支えて、|断崖《だんがい》に降りなければならない。
「明日の|朝餉《あさげ》にする。それだったら、許してやろう」
3
|梨耀《りよう》がやれ、と言えば、|鈴《すず》には|拒《こば》む|術《すべ》がない。暗く寒い夜、鈴はたった一つの灯火を頼りに、|翠微《すいび》の峰に登る。綱をかけるのに良い岩や樹木を探して歩いた。風は強く吹きすさぶ。翠微の峰を|辿《たど》る|崖《がけ》上の細い道に立てば、凰に押されて身体が傾くほどだった。
|甘蕈《かんきん》の|生《は》える崖は翠微の峰の中でも最も|険《けわ》しい場所にある。岩盤に根を張った松の枝に綱の|端《はし》をかけ、もう一方の端を自分の腰に結びつける。綱に|縋《すが》りながらそろそろと崖を降りようとしたものの、吹き上げてくる風に及び腰になった。
|凌雲山《りょううんざん》の崖はその高さが尋常ではない。鈴がいま降りようとしている崖も、灯火を|翳《かざ》してみても、底が見えなかった。真っ暗な穴から吹き上げてくる刺すような風、ここに綱一本を頼りにして降りていくことを思うと、恐ろしさに泣けてくる。
なぜ|梨耀《りよう》はこうまで鈴を|憎《にく》むのだろう。いっそ梨耀に会わなければ良かった。言葉の通じない異国は、それはそれは|辛《つら》かっただろうが、一旦言葉の通じる幸福を知らないままなら耐えられたのではないかと思える。
――どうして、こんな、ひどい。
降りなければ、さらにひどい|叱責《しっせき》がある。分かっていても、足が|竦《すく》んで|崖《がけ》から身を乗り出すことができない。
――|景王《けいおう》に会いたい。そうすれば……。
だが、どんな夢想も、現実目の前に横たわる暗い|断崖《だんがい》を見れば、それ以上|湧《わ》いてはこなかった。
――逃げようか。ここから逃げてしまおうか。
せめて|蓬莱《ほうらい》に戻ることができれば、鈴は迷わずそうしたろう。仙にはそれができるのだが、仙にも格があり、鈴ごときでは|虚海《きょかい》を越えることができない。
崖の|縁《ふち》に|縋《すが》って泣き|崩《くず》れたとき、ふいにその縁の向こうから声がした。
|猫《ねこ》が|喉《のど》を鳴らすような声に、鈴は顔を上げ、灯火を|翳《かざ》す。絶壁の向こう、苗に|赤虎《せきこ》が浮いていた。
ひっ、と小さく声を上げて、鈴は|後退《あとずさ》る。身構えるように浮いた赤虎の、宝玉の目が灯火に光った。
「……お前」
|虎《とら》はしきりに喉を鳴らしている。仙はその意を|量《はか》ることができるが、これまた鈴程度では、|獣《けもの》の声を聞くことはできない。
「洞主、さま」
――まさか梨耀は鈴をこの|妖獣《ようじゅう》に|喰《く》わせるつもりだろうか。|襲《おそ》わせるために鈴をこんな寂しい峰に出したのだろうか。それほど憎まれていたのだろうか。――でも、なぜ?
虎は鈴を|促《うなが》すように首を振った。――さっさと降りろ、と|急《せ》かしている。
では、見張りだろうか。鈴がちゃんと言いつけを守るよう、梨耀が赤虎を|遣《つか》わしたのだろうか。
「分かったわ」
鈴は震える声で答える。
「分かった、……降ります」
震える手で|綱《つな》を握って、そろそろと鈴は崖っぶちへ向かう。綱を|手繰《たぐ》り出しながら縁に足をかけ、中空で身体を支える。そうしてぴたりと動きを止めた。
――できない。
これ以上は恐ろしくて降りられない。
「でき……ないわ。……許して」
|命綱《いのちづな》を|※《つか》[#「※」は「てへん+國」、1-84-89、104-2]んだ手は|瘧《おこり》のように震えている。このままでは、落ちる。きっと手が|滑《すべ》って綱を放してしまう。
「お願い、だから」
言った|刹那《せつな》、本当に手が滑った。鈴は後ろ向けに中空ヘ向かって投げ出される。落ちる、と思った。腰に綱が巻いてあることは、鈴の念頭に浮かばなかった。
気がつくと、鈴は中空に浮かんでいた。目の前に|崖《がけ》の|岩肌《いわはだ》があったが、 身体の下には柔らかな地面の感触がする。
すぐ下に地面があったんだ、と息を|吐《は》いて、鈴はすぐにそれに気づいた。柔らかな毛並みの感触。――|赤虎《せきこ》。
自分が赤虎の背にいることを知って、鈴は悲鳴を上げた。
「――いや! 降ろして※[#「※」は感嘆符二つ、1-8-75、104-12]」
ふっと足元の感触が消え失せた。投げ出される身体と、落下の感覚。夢中で宙に|爪《つめ》を立て、がっきと|襟首《えりくび》を掴まれた。赤虎だ、と|悟《さと》って悲鳴を上げる間もなく、赤虎は首を振って鈴を宙に投げ上げた。その背に受けとめられて、鈴は必死で毛並みを掴む。
――ひどい、ひどい、ひどい。
やっと腰に巻いた綱のことを思い出し、これに|縋《すが》って登ろうと思った。震える手で綱をたぐれば、やがてその感触が唐突に断ち切れる。
「――切れてる」
では、と鈴は|赤虎《せきこ》の|巌《いわお》のような首を見た。
この赤虎に|縋《すが》って戻るしかないのだ。――だが、どうして|梨耀《りよう》以外には決して|慣《な》れない赤虎が、鈴を洞府に連れて帰ってくれるだろう。
「……か、帰って」
鈴は赤虎に|懇願《こんがん》する。
「お願いだから、せめて|崖《がけ》の上に戻して」
じわりと背筋に|生温《なまあたた》かいものが伝うのを感じた。血だ、と鈴は|目暈《めまい》を感じる。赤虎の|牙《きば》に|刳《えぐ》られたのだ。実際、ひどい痛みがした。
「ねえ、お願い。助けて……!」
赤虎は動いた。崖に近寄り、そこに|生《は》えた|灌木《かんぼく》に寄る。ぐるる、と|獰猛《どうもう》な声が鈴を|促《うなが》した。役目を果たせ、と言っている。
鈴は片手で赤虎にしがみつき、おそるおそるもう一方の手を伸ばしたが、手が届かない。吹きすさぶ風がその身体を|傾《かし》がせる。強い風、強い不安、歯の根も合わず|膝《ひざ》も|萎《な》えた鈴にはこの作業はあまりにも困難なことだった。
おずおずと赤虎の毛並みを|掴《つか》んでいた手を離した。身を乗り出した途端に赤虎の背から|転《ころ》がり落ちる。岩肌にぶつかり、肌を|掻《か》かれ、赤虎の|爪《つめ》が鈴の帯を引っかけて止まる。再び背に投げ上げられ、それを三度繰り返して、鈴は赤虎の背に泣き伏した。
「どうして、……どうして」
これはあまりにも、ひどい。
「どうしてあんたの主人はこんなことをさせるの! どうしてそこまであたしを|憎《にく》むのよ!」
鈴は赤虎を打つ。
「放り出しなさいよ! 殺せばいいでしょう! もうたくさんだわ※[#「※」は感嘆符二つ、1-8-75、106-9]」
赤虎は低く|喉《のど》を鳴らすばかり。
――逃げてやる。
|咄嗟《とっさ》に浮かんだ思考。でも、どこへ、と気弱な鈴が問う。逃げれば仙籍を削除される。そうしたらお前はおしまい。
「……|慶《けい》」
|景王《けいおう》の|許《もと》へ行けば。――でも、どうやって。
景王に会って訴える。|惨《みじ》めな境遇、梨耀の|暴虐《ぼうぎゃく》。――でも。
鈴はキッと顔を上げた。
「そうよ……訴えるのなら、なにも景王でなくてもいいわ……」
|鈴《すず》は|赤虎《せつこ》の毛並みを引き|毟《むし》るほど強く|掴《つか》んだ。
「|采王《さいおう》にお願いするわ。|才国《さいこく》の王に。……|梨耀《りよう》さまを|懲《こ》らしめてください、あたしの仙籍を削除しないでくださいって!」
鈴は|渾身《こんしん》の力で赤虎を|叩《たた》いた。
「お行き! |揖寧《ゆうねい》の|長閑宮《ちょうかんきゅう》へ行くの!」
いきなり打たれて赤虎は身を|反《そ》らす。宙で身を|捩《よじ》る赤虎の毛並みに鈴は渾身の力ですがりついた。
ただ流され、忍従だけで生き延びてきた鈴の、最初に行った闘争は、赤虎を御することだった。赤虎は鈴を振り落とそうと身もがき、やがて|諦《あきら》めたように一路北東を指して風の中を|駆《か》け始めた。|琶山《はざん》の北東、才国の首都、揖寧を|目指《めざ》して。
才国首都、揖寧。その国府の門を叩く者があった。明け方に近い深夜。こんな夜中に何事だろうと、飛び出してきた|門卒《もんばん》は、赤虎を背後に、門に|縋《すが》るようにして|膝《ひざ》をついた娘を見つけた。
「……お前は」
「あたしは琶山、|翠微洞《すいびどう》の者です。――ああ、どうか助けて!」
門卒たちは|槍《やり》を構えて赤虎を|威嚇《いかく》した。この娘はその|妖獣《ようじゅう》に襲われたのだと思ったのだ。赤虎は一瞬門卒たちを|睥睨《へいげい》してから、くるりと背を見せて飛翔した。門卒の何人かが|安堵《あんど》の息を|吐《は》く。
「娘、大丈夫か?」
明かりを|翳《かざ》してみれば、娘はひどいありさまだった。|裂《さ》かれ、血で汚れた|背子《きもの》、それも乱れて、同様に振り乱した髪も|血濡《ぬ》れている。
「襲われたのか、大丈夫か?」
助け起こす|門卒《もんばん》に鈴は|縋《すが》った。
――ああ、奇蹟だ。|揖寧《ゆうねい》に辿り着けたなんて。
「助けて……! あたし、洞主さまに殺されてしまう!」
門卒たちは顔を見合わせた。
「どうかお願い、助けてください!」
4
人には位がある。王、公、侯、伯、|卿《けい》、|大夫《だいぶ》、士の七がそれである。伯には伯と卿伯の二位があり、大夫と士には上中下の三位がそれぞれある。合計十二位によって有位の人間は分かたれていた。国府で伯といえば、おおむね|卿伯《けいはく》、卿伯よりも上位に位する伯は、|飛仙《ひせん》だけだった。|梨耀《りよう》のような王の|勅免《ちょくめん》によって昇仙した飛仙は卿伯、|仕《つか》える下仙たちは位でいうなら上士以上卿以下、国府の下官よりもおおむねその地位が高い。
位は実際、礼節の目安であってそれ以上ではない。下位の者は上位の者に道で会えば道を|譲《ゆず》る。――そのように、礼をもって待遇される、それを要求する権利がある、それだけのものだったが、ともあれ、それで国府で倒れた|鈴《すず》は、いかにも|丁重《ていちょう》に扱われた。|賓客《ひんきゃく》のための|掌客殿《しょうきゃくでん》に連れて行かれ、|瘍医《いしゃ》が呼ばれ、看護のための|女官《にょかん》が呼ばれた。
礼をもって接され、丁重に遇される。その内実が単に礼儀だけのことにしろ、鈴はそんなふうに扱われたことは初めてだった。貧しかった生家、|地主《じぬし》に頭を下げて暮らしていた家族、梨耀の足元に|這《は》いつくばるようにして生きてきた自分、そんなものから比べれば、本当に夢のようだった。
――夢かもしれない。
眠りに落ちながらそう思い、柔らかな陽光が満ちた|牀搨《しょうとう》の中で目を覚ましてさらにそう思った。
「お目覚めですか? お加減はいかがです?」
牀搨の外に控えていた女官が、鈴が目を開けたのに気づき、そう柔らかな声を掛けてくる。
「ああ――ええ。大丈夫です」
鈴は身を起こす。節々が痛んで顔を|蹙《しか》めた。
「どうぞお休みになっていてくださいまし。|朝餉《あさげ》はお召しあがりになれますか?」
「ええと――はい」
女官はやんわりと笑う。
「それはよろしゅうございました。深い傷がないとかで、ようございましたね。とにかくいま朝餉をしつらえて|瘍医《いしゃ》を呼んでまいります。それまでお休みになってくださいませ」
ありがとう、と出ていく女官を見送りながら、鈴は両腕で自分を抱きしめた。
「お休みになってください、だって。あんな立派な着物を着た女官が、このあたしに」
――信じられない。本当だろうか。
|牀搨《しょうとう》の|幄《とばり》は上げられ、扉は折りたたまれて開け放してある。|牀搨《しょうとう》とはほとんど小部屋のような造作の|牀《しんだい》を備えた寝所をいうが、その牀搨を鈴は見渡してさらに自分を抱きしめた。
「梨耀さまの牀搨より立派だわ」
|錦《にしき》の夜具は暖かく軽い。汚れた|小衫《じゅばん》のまま寝ているのが申し訳ないほどだった。|幄《とばり》は|綺麗《きれい》な模様の薄絹と厚い錦の二重になっている。広い牀の|脇《わき》には細かな細工を施した|黒檀《こくたん》の卓、同じく黒檀の棚があって、昇り降りの際にちょっと足を|載《の》せる足台までが黒檀。着物を掛ける|衣桁《いこう》は銀。
|鈴《すず》はうっとりと|牀搨《しょうとう》の中を見渡し、次いで牀搨の外、明るい陽光が一杯に射しこんだ|房室《へや》を見渡した。
「……|梨耀《りよう》さまのお部屋の何倍も立派だわ」
実際、鈴は知らないが、この房室は|掌客殿《しょうきゃくでん》のこの建物の中でも最上の房室だった。鈴の洞府における位が分からなかったために、|飛仙《ひせん》の|下僕《しもべ》の中では最高位の|卿《けい》と同格の待遇がなされたのである。
鈴がうっとりと牀搨の中から房室を見渡しているうちに|瘍医《いしゃ》がやってきた。彼は|丁寧《ていねい》に鈴の|怪我《けが》の様子を|診《み》て、改めて手当てをすると深く一礼して|退《さが》っていく。それと入れ違いに|女官《にょかん》が|食膳《しょくぜん》を|調《ととの》えてきた。
食器は銀、差し出された着替えは色鮮やかな絹。
――本当に、夢みたい。
「お苦しいところはございませんか?」
女官に|訊《き》かれて、鈴は|領《うなず》いた。
「大丈夫よ、ありがとう」
「もしもお加減がおよろしいようなら、お連れするよう申しつけられているのですが」
鈴はにっこりと|微笑《ほほえ》んでみせた。
「大丈夫だと思うわ。――でも、どなたにお会いするの?」
女官は深々と頭を下げる。
「主上がお会いになるそうでございます」
鈴は目を丸くした。
――信じられない。
鈴は下官に案内されて王宮の奥深くに向かいながら何度も心の中で|呟《つぶや》いた。
――本当に王にお会いできるなんて。
|才国《さいこく》の国主、|号を采王《さいおう》。即位してまだ十二年に満たないが、善政で国民から|慕《した》われている。――それ以外のことを鈴は一切知らない。
一つ門をくぐり階段を登り、一つ建物を通り過ぎる間に、建物はどんどん豪華になる。|丹塗《にぬり》りの柱に白い壁、色鮮やかな|走廊《かいろう》の|欄干《らんかん》、窓には|透《す》きとおった|玻璃《はり》の板が入って、扉の取っ手は|悉《ことごと》く金。床は|細工彫《さいくぼ》りされた石を|貼《は》り詰めて、その所々には色鮮やかな陶器の床石が|嵌《は》めこまれている。
下官が立ち止まり、見事な彫刻の|施《ほどこ》された大きな扉を開いた。一歩入室するなり|膝《ひざ》をつき、そのまま進んで平伏し、深く|叩頭《こうとう》する。ぽかんと周囲を見渡していた鈴は、慌ててそれに|倣《なら》った。
「失礼いたします。|件《くだん》の|仙女《せんにょ》をお連れしましたが」
平伏した鈴には相手の姿が見えない。どこか|怖《こわ》いものでも待ち構える気分で|澄《す》ませた耳に、柔らかな女の声が聞こえてきた。
「ありがとう。――ずいぶん若い娘さんだこと」
年老いた女の声だった。|蔑《さげす》む色も|侮《あなど》る色もなく、その声が鈴を|促《うなが》す。
「顔をお上げなさい。こちらに来てお掛けなさい」
鈴はおそるおそる顔を上げた。広い豪華な室内と、黒塗りの大卓、その|傍《かたわら》にひっそりと立った老女を見つけた。
「……あの……」
この人が釆王なのだろうか。問うに問えず|口籠《くちごも》った鈴に、老女はやんわりと温かな笑みを浮かべてみせた。
「お立ちなさい。|怪我《けが》があるのなら身体をいとわなくてはね。――お茶を差しあげましょう。ここへ」
老女は鈴に|椅子《いす》の一つを示す。周囲の|女官《にょかん》に|頷《うなず》くと、女官らが卓の上に茶器を揃えた。
おっかなびっくり、鈴は立ち上がる。しぜん、手が上がって胸の前で指を組むようにした。
「あの……采王……いえ、主上でいらっしゃいますか」
そうですよ、と笑った顔はどこまでも温かい。
才国の国主、采王は本姓を|中《ちゅう》、名を|瑾《きん》、その|字《あざな》を|黄姑《こうこ》という。
「あたし……わたくし……」
「硬くなることはないんですよ。楽にしておいでなさい。――|翠微洞《すいびどう》の方ですね?」
黄姑は椅子を引いて鈴を促す。鈴はおそるおそるそこに浅く腰をおろした。
「はい……」
「お名前は?」
「鈴、といいます」
「すず?」
「あの、あたし、|海客《かいきゃく》なんです」
まあ、と黄姑は目を見開いた。
「それは珍しいこと。海客のあなたがどうしてまた仙に?」
ああ、と鈴は嘆息した。どれだけの間、これを誰か|優《やさ》しいひとに訴えたかっただろう。突然異国に流されたこと、言葉が分からずに泣いてばかりいたこと、|梨耀《りよう》に会って、初めて人と会話ができたこと、|乞《こ》い願って|昇仙《しょうせん》させてもらったこと。
黄姑は軽く|相槌《あいづち》を打って先を促しながら、鈴の話に耳を傾けた。
|翠微君《すいびくん》といえば、先々代の王によって任じられた飛仙である。飛仙とは国の|政《まつりごと》に参加する|地仙《ちせん》に対するものをいう。国体には関与せず、ただ生き|存《ながら》えるだけの人々。神に|仕《つか》える飛仙もいたが、おおむね飛仙とはただ|隠栖《いんせい》するだけの者だった。
王が飛仙を任じる例は少なく、多くの飛仙はやがて生きることに|飽《あ》いて仙籍を返上する。今現在|才国《さいこく》にいる飛仙は|僅《わず》かに三人、そのうち二人は|行方《ゆくえ》が知れなかった。仙籍を返上しない仙は|失踪《しっそう》することが多く、その後の消息が知れる者はほとんどない。
「翠微君は|梨耀《りよう》どの、といったか……」
はい、と鈴は領く。
「それで、その怪我はどうしたのです? 本当に梨耀どのが?」
|黄姑《こうこ》に問われて、鈴は昨夜の|顛末《てんまつ》を語った。梨耀に命じられて|甘蕈《かんきん》を|採《と》りに行ったこと、その|崖《がけ》っぶちで梨耀の|赤虎《せつこ》に会ったこと、赤虎の監視が|怖《こわ》くて崖を降り、そこから落ちたこと。
「それは大変なことでしたね。……けれども、この時期、しかも夜中に|茸《きのこ》を採りに?」
「洞主さまは、そんなことに|頓着《とんちゃく》なさったりしません。食わせてやってるんだから、どんな無理難題でも聞くべきだって思っているんです。しかも洞主さまは、あたしがお嫌いなんだもの」
思い返すだけで涙が出てくる。
「|二言目《ふたことめ》には追い出してやる、仙籍を削除してやる、って。あたしが言葉が分からないから、そう言えば絶対に言うことを聞くのを分かっているんです……!」
黄姑は涙を|零《こぼ》しはじめた娘を見つめる。飛仙は国政に|係《かか》わらないから、黄姑も梨耀には会ったことがない。仙籍だけが受け継がれて、国庫に歳費が計上される。飛仙も国に関与しないし、国もまた飛仙には関与しない。それが慣例なのだった。
「とにかく一度、翠微君にお会いしてみましょう。あなたはそれまで、国府で養生していらっしゃい」
鈴は黄姑を見上げた。
「あたし、いまにも仙籍を削除されるかもしれません」
「大丈夫ですよ。それは仙君から依頼を受けて、私が行うこと。もしも翠微君からそのように依頼があっても、決して削除しないと約束しましょう」
「……本当ですか」
鈴は黄姑の顔をまじまじと見上げた。黄姑はそれに笑んで|応《こた》える。
鈴は息を|吐《は》いた。長い間――本当に長い間、鈴を|脅《おびや》かしてきた|脅威《きょうい》からようやく解放されたことを知った。
「ありがとうございます。――本当にありがとうございます」
ずるずると|椅子《いす》から落ち、鈴はそのままそこに平伏する。
これでもう、いっさいのことに|怯《おび》える必要はなくなったのだ。
5
|里家《りけ》の裏の、|畜舎《ちくしゃ》も小さな菜園も雪の中に埋もれていた。
家畜の息で暖かいはずの畜舎の中もしんしんと寒く、|祥瓊《しょうけい》は|凍《こご》えた|爪先《つまさき》を足踏みすることでなんとか温めようとする。
雪は|日毎《ひごと》に深まる。|廬《むら》から|里《まち》へと人が集まったばかりの今は、一年の報告が行き|父《か》い|賑《にぎ》やかだが、年を越して一月も終わりになると、徐々に互いに|飽《あ》きた空気が流れ始める。|閉塞《へいそく》して過ごす冬は|辛《つら》い。誰もが気|詰《づ》まりを感じ始め、小さな|諍《いさか》いが起こるようになる。険悪になったころに春が来て、人々は喜び|勇《いさ》んで廬に帰っていくのだ。――祥瓊を残して。
――こんな気分なんて、知らないでしょう。
祥瓊は飼い葉を運びながら、心の中で|遥《はる》か東の国の王に向かって毒づいた。
――|藁屑《わらくず》にまみれる暮らし、家畜の|臭《にお》いが染みついた衣服、あかぎれだらけの手と、しもやけが割れて血を流す足。冷たい夜具と|隙間《すきま》風の入るあばら屋、朝起きると|房間《へや》の中にまで|霜《しも》が降りている。
私は知っている。今、あなたがどんな暮らしをしているか。
絹の|幄《とばり》、香を|焚《た》きしめた|牀搨《しょうとう》、隙間風の入ることのない、陽光の射しこむ房室。絹の|裳裾《もすそ》を引いて歩くたび、|玉佩《おびだま》や|歩揺《かんざし》がきらきら音を立てる。かしずく下官、|平伏《へいふく》する高官、|床《ゆか》に玉を敷き詰めた|玉座《ぎょくざ》、これ以上ないほど、|精緻《せいち》な彫刻を|施《ほどこ》され、玉を|象嵌《ぞうがん》した座所と|屏風《へいふう》、金の|幡《はた》と銀の|珠簾《すだれ》に|縁《ふち》取られる。――ああ、そこにいた父親のなんと|神々《こうごう》しかったことだろう。
|祥瓊《しょうけい》がなくしたいっさいのものを持っている少女。
|飢《う》えたことも|凍《こご》えたこともなく、今後もそれは決してない。万民の崇拝を一身に受け、百官の頭上に君臨する王――。
身体を動かしていると頭の中は空洞になる。そこに渦巻くのは|呪詛《じゅそ》の言葉だった。祥瓊はいつの問にか、自分がなくしたものを|慶《けい》の新王に奪われたように感じていた。
……許せない。
「――|玉葉《ぎょくよう》っ!」
|甲高《かんだか》い|罵声《ばせい》が飛んで、祥瓊はふと我に返った。
一瞬、ぽんやりと|瞬《まばたき》をして、やっとそれが自分に向けられた声だということを理解した。
祥瓊は|慌《あわ》てて振り返る。背後に|沍姆《ごぼ》が立って、眼光|鋭《するど》く祥瓊を|睨《》にらんでいた。
「|飼《か》い|葉《ば》を切るだけにいつまでかかってるんだ、え? まったく|朝餉《あさげ》もできようかというのに、手伝いにも戻ってこないと思えば、ここでぼんやりさぽっていたわけだね」
「……済みません。ちょっとぼうっとしてて……」
「つべこべ言い訳をするんじゃない!」
|沍姆《ごぼ》は手近の棒を|掴《つか》んで|祥瓊《しょうけい》の足元を打った。
「……お前は、人の三倍も五倍も働くべきなんだ。|里《まち》の人間から食わせてもらう権利なんかない。自分の食い|扶持《ぶち》分、その汚い手で|稼《かせ》いで当然なんだ」
済みません、と祥瓊は再び小声で言った。
とにかく|辛抱《しんぼう》することだ。頭を|垂《た》れていれば、そのうち通り過ぎる。それしか祥瓊にできることはないのだと、そう学んでいた。
ただ沍姆が捨てぜりふを残して去っていくのを待っていたので、いきなり棒で打ち|据《す》えられて祥瓊は|驚愕《きょうがく》した。
「一度ぐらい、本心から謝ってみたらどうだい※[#「※」は感嘆符二つ、1-8-75、119-10]」
祥瓊はその場に|膝《ひざ》をつき、|藁《わら》の中に倒れこんで、ようやく肩の激しい痛みを自覚した。
「小うるさい|婆《ばばあ》に|虐《いじ》められてるとでも思ってるんだろう! 口先で|詫《わ》びを言えば、それであたしが|納得《なっとく》すると、そう|舐《な》めてかかってるんだろう※[#「※」は感嘆符+疑問符、1-8-78、119-13]」
「私は……」
もういちど棒が振り下ろされた。祥瓊は|咄嗟《とっさ》に身体を|庇《かば》い、|踞《うずくま》った背に激しい|殴打《おうだ》をくらった。
「なんだってあたしが、あんたの面倒なんか見なくちゃならないんだい! なんだってこの|里《まち》の者があんたを食わせなきゃならないんだ! |里家《りけ》の子供がどうして親を亡くしたか、お前は本当に分かってるのかい、え※[#「※」は感嘆符+疑問符、1-8-78、120-2]」
なにも|殴《なぐ》ることは、と言いかけて、|祥瓊《しょうけい》は|唇《くちびる》を|噛《か》んだ。
「なにもかにも、|仲韃《ちゅうたつ》のせいだ。――お前の父親の!」
それは私のせいじゃない、と祥瓊は|俯《うつむ》いたまま心の中に叫ぶ。
――ああ、|景王《けいおう》。あんたは知らないでしょう。こんな暮らしを!
唇を噛んだ祥瓊の耳に、小さな声が響いてきた。
「……それ、本当?」
祥瓊は顔を上げ、|沍姆《ごぼ》もまた振り返った。|畜舎《ちくしゃ》の戸口に里家の少女が一人、棒を|呑《の》んだように立ち|竦《すく》んでいた。
「――お前……」
「|玉葉《ぎょくよう》のお父さんが仲韃なの? ……じやあ、玉葉は公主さま……」
少女はどこか|縋《すが》るような目で祥瓊を見る。
「……祥瓊さまなの……?」
返答に|窮《きゅう》した沍姆と、祥瓊とが見守るなか、少女はばっと身を|翻《ひるがえ》した。裏庭に走り出、里家に向かって声を上げた。
「公主がここにいるわ! あの人殺しの娘が※[#「※」は感嘆符二つ、1-8-75、120-17]」
|里家《りけ》の子供たちが走り出てきた。言葉もない|祥瓊《しょうけい》を|愕然《がくぜん》としたように見つめ、中の一人二人が、表に向かって|駆《か》け出す。
祥瓊は顔色を失った。里家の表で子供の叫ぶ声がする。すぐに表からざわめきが聞こえ、駆けつける人々の足音が近づいてきた。
「――公主だって?」
「本当なのか」
何よりも|驚愕《きょうがく》を一杯に浮かべた人々に囲まれ、祥瓊は畜舎の隅に追い詰められた。
「本当よ! だって|沍姆《ごぼ》がそう言ってたもの」
「本当なのか、沍姆」
人々の視線は沍姆に集中する。祥瓊は|縋《すが》るようにその顔を見た。沍姆は一瞬、そんな祥瓊を見返し、すぐに集まった人々を見回した。
「――そうだ」
一瞬の沈黙のあと、|罵声《ばせい》が小屋を|震《ふる》わせた。
祥瓊は小屋から引きずり出され、雪の上に投げ出された。
「……待って、お願い……」
口にするまでもなく、|殴打《おうだ》が飛んでくる。祥瓊は悲鳴を上げて倒れ伏した。
「――およし!」
|甲高《かんだか》い声が割って入る。沍姆だ、と祥瓊は|眩暈《めまい》のする頭で思った。
「なんで止めるんだ!」
「この子がどうしてここにいるのか、考えてごらん」
「どうして、って」
「戸籍もあった。少しも問題なんかありやしなかった。誰かがこいつを|庇《かば》って助けたんだ。そうとしか考えられないだろう」
「誰がそんなことを!」
数人が叫び、数人があっと声を上げた。
「……まさか|恵侯《けいこう》……」
諸侯をまとめ、王を|討《う》った|恵州侯《けいしゅうこう》。
「恵侯が庇ったものを、あたしたちが打ち殺していいのかい? 恵侯はあたしたちをあの|昏君《こんくん》から救ってくれた。もう|刑吏《やくにん》の姿に|怯《おび》えることもない。家族が刑場に引き出されるのを見ることもない。|惨《むご》い法も廃止された。恵侯があたしたちに平穏な暮らしを恵んでくれたんだ」
「しかし――」
「あたしだって公主は|憎《にく》いとも。だが、恵侯が助けたものを殺したのでは申し訳が立たない。それこそ恩義に不義をもって報いることになる。みんなの怒りは分かるが、ここは怒りをおさめてもらえないかい」
いまさら、と祥瓊は雪を|掴《つか》んだ。
「いまさらあんたがそれを言うの※[#「※」は感嘆符+疑問符、1-8-78、123-5] いままでさんざ、私を|虐《いじ》めて|溜飲《りゅういん》を下げてきたくせに※[#「※」は感嘆符二つ、1-8-75、123-6]」
ぱし、と雪つぶてが飛んできた。|鼻面《はなづら》を|叩《たた》かれて、|祥瓊《しょうけい》は顔を|覆《おお》う。
なんで、と子供の叫びがした。
「なんでこいつを|庇《かば》うんだよ! |沍姆《ごぼ》、こいつをやっつけてよ!」
「そうよ! あたしたちの|恨《うら》みをはらしてよ!」
「……お前たち」
「こいつが王宮でふんぞりかえって、父ちゃんも母ちゃんも殺したんじゃないか※[#「※」は感嘆符二つ、1-8-75、123-12]」
「罰されたのは法を破ったからじやないの!」
祥瓊は叫ぶ。――いつだってこうだ。人々は祥壇の父親を責める。だが、父|仲韃《ちゅうたつ》は何も楽しみのために人を殺したわけではない。
「少しでも国を良くしようと法を作っているのに、それを守らないで勝手をするからよ!罰が下されるのなんか当然だわ! 法を作った者を恨むのは|逆恨《さかうら》みよ! 罰が|怖《こわ》ければ、ちゃんと法を守っていればよかったんじゃない※[#「※」は感嘆符二つ、1-8-75、124-1]」
また雪つぶてが飛んできた。|踞《うずくま》った祥瓊に、次から次へと硬い雪の|塊《かたまり》が当たる。
「殺されて当然だと※[#「※」は感嘆符+疑問符、1-8-78、124-3]」
「具合が悪くて|夫役《ぶやく》に行けない、それが殺されるほどのことか!」
「倒れた親の看病のために収穫前の|畠《はたけ》を離れた! それが首を落とされるほどのことか!」
「そんなの、知らないわ!」
祥壕は叫ぶ。
「私のせいじゃない! お父さまが何をしてるか、知らなかった! だって表を|覗《のぞ》かせてはくださらなかったんだもの※[#「※」は感嘆符二つ、1-8-75、124-9]」
祥瓊は捕らえられ、|里府《りふ》の|牢《ろう》に投げこまれた。そのまま放置されて|陽《ひ》が落ち、夜になって沍姆が牢へとやってきた。
「炭だ。……|凍《こご》え死にたくはないだろうからね」
祥瓊は冷え切った壁に|凭《もた》れて沍姆を見る。
「凍え死んだほうがましよ」
「……じきにそうなる。いま|里《まち》の連中がお前をどうするか、相談している」
「いまさら、|哀《あわ》れむの? 本当に、いまさらだわ」
|沍姆《ごぼ》は|祥瓊《しょうけい》をそっけなく見る。
「あたしはお前を哀れんだりしない。……ただ、恵侯に申し訳ないだけだ」
祥瓊は笑って|吐《は》き捨てる。
「――|月渓《げっけい》! あの、|簒奪者《さんだつしゃ》!」
「およし」
ぴしゃりとした声に、祥瓊は|傲然《ごうぜん》と顔を上げた。
「王を倒して天命なく|玉座《ぎょくざ》に座れば、|簒奪《さんだつ》だわ。どんな大義を|掲《かか》げようと」
脳裏に|甦《よみがえ》る、後宮での|惨劇《さんげき》。
「あの男はお父さまを殺した。そればかりでなく、私の目の前でお母さままで。そのうえ|峯麟《ほうりん》までも手にかけたのよ。――月渓は纂奪者だわ。王と|麒麟《きりん》を|屠《ほふ》って玉座を盗んだ」
沍姆は低く|呟《つぶや》いた。
「そうか……お前の目の前で|王后《おうごう》をお|斬《き》りになったか……」
「|逆賊《ぎゃくぞく》だわ、月渓は。――分かった?」
分かったとも、と沍姆は祥瓊を冷ややかに見る。
「お前が骨の|随《ずい》まで|腐《くさ》っていることが、よく分かった」
「――何を」
「恵侯は玉座にお|就《つ》きでない。州城におられる。自分が恥知らずだからといって、他の人間まで恥知らずなのだと思わないが良かろうよ。――そこでそうやってせいぜい|恨《うら》み|言《ごと》を言っているといい。……じきにそれもできなくなるさ」
「やっぱり、なんのかんの言いながら、私を殺すのね」
祥瓊は背を向けた沍姆の後ろ姿を|睨《にら》む。
――望むところだ。もう、たくさんだ。
「|里《まち》の連中はそうでなきゃ気がおさまらないようだからね。――お前を|車裂《くるまざき》にすると言っている」
祥瓊は腰を浮かせた。
「――待って。今、なんて」
沍姆が閉じた扉が、そっけなく闇を絶ち切った。
「……車裂……?」
両手を|杭《くい》に|括《くく》りつけ、両足を二台の|牛車《ぎゅうしゃ》に繋いで、身体を|裂《さ》く。もっとも|残虐《ざんぎゃく》な刑罰。
祥瓊はようやく悲鳴を上げたが、それを聞く者は誰もいなかった。
冷え冷えと暗い|牢《ろう》には、|火桶《ひおけ》の炭火だけが赤い。
6
――なんて、悪い夢なのだろう、と|祥瓊《しょうけい》は|牢《ろう》を引き出されながら思った。
きっと嘘だ、|沍姆《ごぼ》の|嫌《いや》がらせだったに違いない、と言い聞かせ言い聞かせ、|里詞《りし》の前にある|広途《おおどおり》まで出て、祥瓊は|凍《こお》りついた。
「……嘘……」
広場を埋めた人々。|里《まち》の者以外の顔も見える。その|人垣《ひとがき》の中央、雪を|掻《か》いた地に打たれた二本の杭と、用意された二台の|牛車《ぎゅうしゃ》。
「……嘘でしょう? まさか、あれを使ったりしないわよね?」
祥瓊は両腕を|掴《つか》んだ男たちを見上げた。一方の男が皮肉げに笑う。
「|怖《こわ》いんじゃないだろうな? お前の父親がよくやっていたことじやないか」
もう一方の男も、|歪《ゆが》んだ笑みを浮かべる。
「|嬉《うれ》しいだろう。父親のお気に入りのやりかただ。|主上《しゅじょう》もお喜びになるだろうよ、自分の娘がこんどは主役だからな」
「……いや……」
祥瓊はなんとかその場に踏み|留《とど》まろうとした。その場に足を踏みしめ、引く力に抵抗し、その場にしゃがみこむようにして身を|捩《よじ》っても、|戒《いまし》めた力はびくともしない。
「やめて……お願い……」
「つべこべぬかすな!」
男は|吐《は》き捨てる。
「俺の女房は、まさしくあれで殺されたんだ!」
たかが髪飾りをつけて隣町へ行っただけで、と男は|呻く《うめ》くように言う。祥瓊の腕を抜けるほど強く引いた。
「女房と同じ目に、|遭《あ》わせるのじゃ、|溜飲《りゅういん》も下がらないが、これ以上の罰を思いつけなかったんだから仕方がない」
「――いや! お願い※[#「※」は感嘆符二つ、1-8-75、128-10]」
祥瓊を見守る|里人《まちびと》の顔に|哀《あわ》れみはなかった。いかなる救済もないまま、地に引き倒され、押さえこまれる。悲鳴を上げ、泣き叫んだが、男たちはいっさいの|慈悲《じひ》を|垂《た》れなかった。胸を抱きしめるようにして縮めた腕を無理やり伸ばされ、その手首に|革紐《かわひも》が巻かれた。丸める身体を伸ばされ、|仰向《あおむ》けにされ、腕が|杭《くい》に|括《くく》りつけられる。
助けを求めて目を見開いた祥瓊の|瞳《ひとみ》に、どんよりと|濁《にご》った空が|虚《むな》しく映った。
地を|蹴《け》って逃げる足が|掴《つか》まれる。足首に|皮革《かわ》の感触を感じて、祥瓊は悲囁を上げたまま|凍《こお》りついた。
――嘘だ。
こんな恐ろしいことが、自分の身の上に起こるなんて。
足に革紐が括りつけられ、紐を引かれて両足が無防備に開く。見開いたまま凍りついた|祥瓊《しょうけい》の視野に黒い|染《し》みが浮かんだ。
――ああ、これが死の先触れだったら。身体を|裂《さ》かれる前に、死んでしまいたい。
|顎《あご》をこじあけられ、口の中に布を押しこまれた。これで祥瓊は舌を|噛《か》みきる|術《すべ》さえ失う。視野の中の黒い染みが広がっていく。
足に巻かれた紐が車に結びつけられた。空に広がった染みがまた一段と大きくなる。ふと、|屈《かが》みこんだ男が頭上を|仰《あお》いだ。
祥瓊はその染みに、赤いものを見る。赤い――深紅の――あれは旗ではないだろうか。
――旗?
ようやく祥瓊はその染みが鳥の影であることに気づいた。巨大な鳥だ。しかも三羽。舞い降りてくる鳥と、そこに騎乗した人影、その手に|掲《かか》げられた真紅の旗。その旗に|星辰《せいしん》と二頭の|虎《とら》を認めて、祥瓊は目を閉じた。|眦《まなじり》から涙が|※《あふ》[#「※」は「縊」の糸(いとへん)を「さんずい」に入れ替えたもの、129-14]れて|蟀谷《こめかみ》で凍りついた。
――|恵州州師《けいしゅうしゅうし》の旗である。
その旗を見て、|広途《おおどおり》に|佇《たたず》んだ人々は苦い息を吐いた。
あと少しで、|積年《せきねん》の|恨《うら》みを晴らしてやれるところだったのに。目の前で殺された家族、|曝《さら》されるその首、助けてやりたくても助ける|術《すべ》はなく、せめて曝された|骸《むくろ》を|葬《ほうむ》ってやりたくとも、期日が過ぎるまでは|遺骸《いがい》を渡してももらえない。その|悔《くや》しさ――恨み。
|妖鳥《ようちょう》の一羽が|広途《おおどおり》に舞い降り、人々はうなだれた。
「――やめよ!」
どうして|州師《しゅうし》が、と多くの者が|溜息《ためいき》を落とし、すぐに|沍姆《ごぼ》を|捜《さが》した。|処刑《しょけい》に最後まで反対していた|閭胥《ちょうろう》。彼女が知らせたのだ、他に考えられない。――だが、その沍姆の姿は広途になかった。
鳥の背から|鎧《よろい》と毛皮を身に|纏《まと》った兵士が降り立った。
「|私刑《しけい》はまかりならぬ!」
どうして、と|落胆《らくたん》の声が広途にうずまく。兵士はそれを見渡した。|小章《かざり》は七、州師将軍である。彼は軽く手を|挙《あ》げて、集まった人々に静まるよう示した。さらに二羽が舞い降り、そこから飛び降りた兵士が、|広途《おおどおり》に|捕《と》らわれた娘を解き放ちに|駆《か》け寄る。
「――お前たちの恨みは分かるが、|恵侯《けいこう》はこれをお望みではない」
さらに落胆の声が満ちた。広途を見渡した男は、その落胆の声を痛みとともに聞いた。先王|仲韃《ちゅうたつ》は、民に恨みしか残さなかった。
|清廉《せいれん》潔白で有名な|官吏《かんり》、|賄賂《わいろ》を求める高官があればこれを|弾劾《だんがい》し、賄賂を差し出す下官があればこれを|容赦《ようしゃ》なく問い|糾《ただ》す。――仲韃はそんな官吏だった。彼が王に選ばれたとき、官僚の多くはそれを喜んだ。先々王のせいで腐敗した国家は仲韃によって|蘇《よみがえ》るだろう、と。
しかしながら腐敗を|戒《いまし》めるために布告された法は、仲韃の期待ほどには効果を上げなかった。さらに法を追加し、みるみるうちに法典は|膨《ふく》れ上がり、ふと気づけば官吏も民も着るものから使う食器に至るまで定められ、これに|背《そむ》けば厳しい処罰が|課《か》せられた。
法を用いるに、|情《なさ》けをもってしてはならぬ、という仲韃の言は一面、正しい。情けや慈悲で法を|歪《ゆが》め、その先例が増えれば法は無力化する。処罰される者はいきおい増え、仲韃はこれを|憂《うれ》えてさらに刑罰を重くする。あまりに過酷な法に不満の声が上がれば、法を設けて不満の声を|塞《ふさ》ぐ。みるみるうちに街の|広途《おおどおり》は|曝《さら》された罪人の|骸《むくろ》で埋まり始めた。
仲韃が倒されたその年、一年の問に実に三十万の民が処刑された。仲韃の即位以後、処罰された者の数は六十万に達した。人口の五分の一にあたる数である。
「お前たちの恨みは、よく分かる。|恵侯《けいこう》もお分かりになるからこそ、あえて汚名を着て仲韃を|討《う》たれたのだ」
諸侯に|弑逆《しいぎゃく》を|勧《すす》めた恵侯|月渓《げっけい》は、州城に戻り国政から身を引いた。諸侯諸官は中央で政権を|執《と》れと勧めるが、月渓はそれに応じていない。
「民が勝手に罪を裁き、私情をもってこれを処罰すれば、国の|理《ことわり》が傾く。どれほど深い恨みがあろうとも、その権利なく法を|弄《もてあそ》び、罪を定め、罰を下してはならない」
でも、と声が上がるのを、男はさらに押し|留《とど》める。
「公主はすでに、諸侯諸官の合議によって裁かれている。国の裁きに不満があるからといって、民が勝手に裁いてよいものではない。一例でもこのようなことがあれば、|噂《うわさ》は他県他郷にも走る。裁きを与えたいと願っている民はお前たちだけではなく、それほど|憎《にく》まれている者も公主だけではない。|刑吏《けいり》のほとんどが私刑を恐れて隠れていることを知っているだろう。私刑は過酷なる刑罰よりも国を食い荒らす。国のためを思って|自重《じちょう》してもらいたい」
うなだれた人々を彼は見渡した。
「我々は国を守り、恥じることなく新王にこれをお渡ししなくてはならない。私刑で荒れ果てた国を差し出して、王にいかにして仁治を願おう。諸侯諸官はそのために努力している。民にも力を貸してもらいたい」
娘は|妖鳥《ようちょう》の背に|担《かつ》ぎ上げられていく。沈黙が|広途《おおどおり》に落ち、やがてすすり泣く声が満ちた。
四章
1
|祥瓊《しょうけい》が目を|覚《さ》ますと、美しく整えられた|牀搨《しょうとう》の中にいた。
――ああ、……全部夢だったんだわ……。
祥瓊は|安堵《あんど》の息を|吐《は》く。
父母が殺されたことも、自分が|里家《りけ》に追いやられたことも、そこで|恨《うら》みを買い、|惨《ひど》い刑罰を受けようとしたことも。
「お目覚めですか」
冷ややかな声が聞こえた。祥瓊は寝返りをうち、牀搨の中を|覗《のぞ》きこんでいる|女官《にょかん》の姿を見つけた。
――こんな女官が|後宮《こうきゅう》にいただろうか。
|訝《いぶか》しむうちに、|牀搨《しょうとう》の外に控えた|女官《にょかん》が立ち上がり、|房室《へや》を出ていく。
ようやく|祥瓊《しょうけい》はその|房室《へや》と|鷹隼宮《ようしゅんきゅう》にあった|己《おのれ》の房室との|差異《さい》に気づいた。身を起こした体を包んだのは綿の|小衫《じゅばん》、|裾《すそ》や|袖《そで》が短くなったのを、別布を|継《つ》ぎ合わせて伸ばしてある。
不安が胸を浸食する。見まわせば牀搨の中の卓の上にはたたんだ|襦裙《きもの》が置いてある。荒い毛織物のごわごわした襦裙、|綿《わた》を入れた|背子《うわがけ》と羊皮の|比甲《うわぎ》。
「ここは……どこ?」
|祥瓊《しょうけい》は寝台を降りて、|小衫《じゅばん》のまま房室に出た。
――では、夢ではないのだ。そうして、助けられた。|駆《か》けつけた|州師《しゅうし》によって。
祥瓊にはそれを喜ぶべきなのか、悲しむべきなのかが分からなかった。
ぽんやりと|佇《たたず》んでいると、房室の扉が開いた。女官に案内され、入室してきた男を見て、祥瓊はその場に|凍《こお》りついた。
「……|月渓《げっけい》……」
その男は祥瓊を見て、口元に苦笑を浮かべる。
「……衣服を著なさい」
祥瓊は|慌《あわ》てて牀搨に飛びこんだ。|継《つ》ぎの当たった|小衫《じゅばん》を月渓の目に|曝《さら》すなんて。そこにある|襦裙《きもの》を大急ぎで身につけ、それがいかにも貧しげな|代物《しろもの》であることにいまさらながら気づいて|恥辱《ちじょく》で顔が赤らんだ。
「|閭胥《ちょうろう》に感謝するがいい。雪の中を州侯城まで一昼夜駆け抜けて、知らせに来てくれたのだから」
月渓の声が牀搨の外から聞こえる。祥瓊は精一杯着るものを整えた。
――|沍姆《ごぼ》が……?
祥瓊は顔を|歪《ゆが》めた。なんて女。さんざん祥瓊に|辛《つら》く当たっておきながら、さも自分は善人の顔をして月渓に|媚《こ》びた。――感謝なんか、するものか。
祥瓊はできるだけ|毅然《きぜん》と顔を上げて|牀搨《しょうとう》を出る。|月渓《げっけい》は腕を組んで軽く大卓に|凭《もた》れたまま、|祥瓊《しょうけい》を見る。
「二度とお会いすることはなかろうと思っていたが、……残念ながらお会いすることになってしまった」
「――満足? 私がこうしてより|惨《みじ》めな姿になって現れて|嬉《うれ》しい?」
月渓の声には|些《いささ》かの|哀《あわ》れみもなかった。
「本当に。――まことに|醜《みにく》い」
祥瓊は|頬《ほお》に朱を昇らせる。貧しい身なりの自分と、絹の|長袍《うわぎ》に身を包んだ月渓と。|辛《つら》い労働で陽に|灼《や》け、節立った自分の身体。冬場のことなので、ろくに水浴びもしていない。
「……お前がこんなふうにしたのだろう……」
祥瓊の声は|恨《うら》みを|含《ふく》んで|尖《とが》る。
「|襤褸《ぼろ》をまとって、土にまみれて暮らすように仕向けておいて、それを言うか」
|月渓《げっけい》は苦笑する。
「絹や珠で飾られて見目|麗《うるわ》しきと|誉《ほ》められるのはたやすいことだ。下官にかしずかれ、夏にも|木陰《こかげ》で遊んでいられれば、さぞかし優美でいられようとも。――だが、民のほとんどは今もお前が襤褸と呼んだ衣服を着ているのだ。土にまみれて暮らしている。それを|蔑《さげす》む心根が|醜《みにく》い」
「そういう|己《おのれ》はどこにいる、月渓」
|祥瓊《しょうけい》は|吐《は》き捨てた。
「己は城の奥で絹をまとい、国権を|弄《もてあそ》んで道に|外《はず》れた|愉《たの》しみに|耽《ふけ》っている。――王のふりは楽しいか?」
月渓はさらに苦笑した。
「それを言われれば、返す言葉はないな」
「王を|弑《しい》して|玉座《ぎょくざ》を奪った|簒奪者《さんだつ》」
「――それも甘んじて聞いておこう。一面、正しい」
言って月渓は祥瓊を見やる。
「どうやら公主を|芳《ほう》に置いておくのは、いたずらに国を乱すことになりそうだ。芳を出られるがよかろう」
「追放しようというのか? 仙籍を|剥奪《はくだつ》し、|草間《いなか》の|茅軒《あばらや》に押しこめ、今度は|浮民《ふみん》になれとぬかすか」
「国の大事に、そんなことにこだわっておいでか」
|軽蔑《けいべつ》も|露《あらわ》に言われて、祥瓊は両手を握りしめた。
「そんなこと――そんなこと、と言うか……!」
「自国が傾こうとしているのが分からぬか。芳はこれからますます傾く。|襤褸《ぼろ》と呼び、|茅軒《あばらや》と呼んだものでさえ、これから失われていくだろう」
「――お前が王を拭したのだろう、|月渓《げっけい》!」
「それを|後悔《こうかい》したことはない」
月渓は平然と言い捨てる。
「あのまま|仲韃《ちゅうたつ》の専制を許していれば、民のほとんどが失われただろう。いずれ|斃《たお》れる運命の王、――だが、天の決裁を待っていたのでは、国は二度と復興ならぬほど荒れたかもしれない。|禍《わざわい》を最小限に|留《とど》めるためにはやむをえなかった」
「|昇山《しょうざん》して、天意を問うてみるがいい。|殺戮者《さつりくしゃ》のお前が王になれるかどうか。少なくともお前は天意あって玉座に|就《つ》いた王を|弑逆《しいぎゃく》した。|雷《いかずち》に打たれぬよう、せいぜい気をつけるがいい」
「それにも返す言葉がないな」
|月渓《げっけい》は苦笑する。
「――|恭《きょう》へお送り申しあげる。|供王《きょうおう》が公主の身柄をお引き受けくださるそうだ」
言って背を向けた月渓に、|祥瓊《しょうけい》が叫ぶ。
「なぜ殺さない! 王を殺したその|太刀《たち》で、私の首を|斬《き》りなさい!」
それはしない、と言いおいて、月渓は|房室《へや》を出ていく。
「本当は自分が王になりたかっただけじゃない! 王が|妬《ねた》ましかったんでしょう! 誰も彼も私を|憎《にく》むのだって、公主の私が妬ましいからじやないの!」
月渓の返答はない。振り返らず房室を出て、扉が閉ざされた。祥瓊はしばらく閉じた扉を|睨《にら》みすえ、たまらずその場で顔を|覆《おお》った。
月渓は州城の奥から|外殿《がいでん》へと戻る。祥瓊は|内宮《ないぐう》の奥深くに隠してあった。諸官の中にも恨みをもって祥瓊を襲おうとする者がいるだろうことを理解していたからだった。
――|昇山《しょうざん》して天意を問うてみるがいい。
祥瓊の声が胸の中に刺さっている。月渓は充分に天意に見放されたであろう自分を自覚していた。だが、後悔はしていない。
外殿近くの一室に立ち寄る前、月渓は窓から雲海の南東を見る。
世界中央|五山《ござん》。そこにはすでに次の王を選ぶ|麒麟《きりん》が生まれているだろう。二、三年もすれば、|蓬山《ほうざん》より知らせがあって|各祠《かくし》に|黄旗《こうき》が|揚《あ》がる。蓬山に麒麟あり、王の選定に入る、自覚ある者は昇山して玉座を望め、と。だが、決して昇山しないであろう自分を月渓は分かっている。
過酷なる法によって民が次々に|屠《ほふ》られていった。麒麟の不調が伝えられた。失道ではと|焦《あせ》った|仲韃《ちゅうたつ》はさらに過酷な法を用意した。もしも失道だとしても、実際に麒麟が|斃《たお》れ、実際に死亡するまでには数か月から一年の時間がかかり、麒麟が斃れてのち王が斃れるまでにはさらに数か月から一年の|猶予《ゆうよ》がある。いったいその間にどれだけの民が失われるか。この王を倒さねばならぬ、と思った。――それこそが天の|意《こころ》であったのだろうと思っている。
正当な王に国を渡すのだ。その日まで荒廃と闘うことが自分に下された天命であろう。
月渓は軽く南東、蓬山に向かって一礼する。
|女官《にょかん》の先触れを聞いて、|沍姆《ごぼ》は顔を上げた。雪の中を、|里府《りふ》の馬を借りて|駆《か》けること一昼夜、かろうじて|間《ま》に合い、|州師《しゅうし》が|祥瓊《しょうけい》を助けたと聞いた。そのまま州城に|留《と》め置かれ、沍姆は裁きを待っている。――裁かれるであろう。問われるままに自分が預かった少女が公主であったことに気づき、これを|虐《しいた》げ、そのせいで|里人《まちびと》が祥瓊を捕らえたことを語った。
入室してきた月渓に、沍姆は深く平伏する。
「顔を上げるがよかろう」
その声に、|沍姆《ごぼ》は顔を上げた。|月渓《げっけい》の静かなばかりの顔を見上げる。
「公主には|芳《ほう》を出ていただく。――行く先は言えないが、二度と芳に戻られることはないだろう」
そうか、と沍姆は|俯《うつむ》いた。やはりあの娘は許されたのだ。実を言えば月渓が|己《おのれ》が下した裁きの軽すぎたことを|悔《く》やんで、処罰してくれることを望んでいた。
「お前を|閭胥《ちょうろう》から|罷免《ひめん》せねばならない」
「覚悟しておりました」
「しばらくは|里人《まつびと》が|辛《つら》く当たるだろう。|里《まち》を離れることができるよう取り計らおう」
「いえ、結構でございます」
月渓は|毅然《きぜん》と顔を上げた|老婆《ろうば》を見る。
「見事な心ばえだが、なぜそのお前が公主を|虐《しいたげ》るまねをしたか」
「許せなかったんです」
沍姆は淡々と目を伏せる。
「|仲韃《ちゅうたつ》はあたしの|息子《むすこ》を殺した。|恨《うら》んでも仕方ないことと分かっていても、実際にあの娘が目の前にいれば、当たらないではいられなかった。|悔《くや》しくて|憤《いきどお》ろしくて。しかも、あの娘はしゃあしゃあと告白したんだ。自分は公主だと。仲韃が何をしていたのか知らなかったと。……あたしはそれが許せなかった」
そうか、と月渓は|領《うなず》く。
「公主には公主の責任があったのじゃありませんか。それを全部ほったらかしで、情けを|乞《こ》う|卑《いや》しさが許せなかった。あの小娘はやるべきことをやらなかった。家畜の世話を忘れれば、人は必ず食うに困る。ぬけぬけと世話をしなかったと言い、それで苦しいから情けをくれろと言う。……許すものかと思った」
「……なるほどな」
「あの小娘は今もって自分の罪を分かっていない。だから|償《つぐな》いのことなんか、考えない。目の前で親を殺されても、その痛みが自分だけのものだと思ってる。たくさんの人間が同じように|辛《つら》い思いをして、それは責務を|怠《おこた》った自分のせいなんだということが、これっぽっちも分かってない」
「気持ちは分かるが、恨みは人に何一つ与えない。我々はもう仲韃を忘れてもいいだろう。――違うだろうか」
はい、と沍姆は|俯《うつむ》く。
「よく知らせてくれた。お前の努力が里人に罪を犯させなかった。当の里人はしばらくお前を恨むだろうが、彼らに代わって私から礼を言う」
沍姆は|平伏《へいふく》した。息子を亡くした日に|涸《か》れたはずの涙が、|床《ゆか》についた|掌《てのひら》に|零《こぼ》れかかった。
2
「お初にお目にかかります」
|采王貴姑《さいおうこうこ》は入室してきた女に軽く目礼した。国府の門前に一人の少女が倒れこんでから十日、黄姑はその間に|頻繁《ひんぱん》に少女に会い、同時に宮に命じ、その主人についても調べさせた。
――|翠微洞《すいびどう》洞主、|梨耀《りよう》。
その梨耀は|傲然《ごうぜん》と顔を上げ、ろくに礼もせずにつかつかと大卓に歩みより、勝手に|椅子《いす》の一つに座った。
「――王宮に入るのはしばらくぶりだこと」
一見して|老婆《ろうば》の黄姑と、|妙齢《みょうれい》の女の梨耀と。しかしながら実際に生きてきた年月は梨耀のほうが倍以上長い。
「……|懐《なつ》かしい。ここは少しも変わらないねえ」
「|翠微君《すいびくん》の洞府にいる、|鈴《すず》という娘を保護しました」
梨耀はにっこりと笑ってみせる。
「それは、お礼を申しあげる。役立たずの|下僕《しもべ》じゃが、あれもいちおう私の身内ゆえ」
黄姑は溜息をついた。
「あれが何か申しあげましたかえ? 采王はそれを信じたとか? |主《あるじ》が|下僕《しもべ》には煙たいもの。それを正面からお聞きになってはいけませんわねえ」
「鈴は翠微君に殺されると訴えておりますよ」
まさか、と梨耀は笑う。
「わざわざ殺してやるまでもない。|目障《めざわ》りならば洞府から|叩《たた》き出してしまえば済むこと。実際私は何度叩き出してやろうと思ったかしれない。けれどあれがねえ、伏してやめてくれと言うものだから」
「この寒中に|甘蕈《かんきん》を採れと深夜に出されたとか」
「私は温情ある主人だから」
梨耀はさらに笑ってみせた。
「あの小娘は、私の主上から拝領した|壷《つぼ》を割ったんだ。それだけで許してやった私を|誉《ほ》めていただきたいもの」
|黄姑《こうこ》は|眉《まゆ》を寄せた。梨耀が言う主上とは、先々代の王、|扶王《ふおう》だろう。実際、梨耀は扶王の|愛妾《あいしょう》だった。
「……|赤虎《せつこ》をけしかけた、とも」
梨耀は肩を|竦《すく》める。
「恐ろしいことを言ってくれる。あれがそう申しましたかえ? ――夜中の|崖《がけ》では危なかろう。それで|赤虎《せつこ》を万一のことがないよう、|遣《つか》わしただけ」
「ずいぶんと|下僕《しもべ》に|辛《つら》く当たられるとか」
「承知で下僕でいるのだもの、他人からつべこべ言われる筋合いなどありやしない。私が不満なら逃げればいい。簡単なことだわねえ」
「逃げたくても逃げられない者もおりましょうに」
ふ、と|梨耀《りよう》は|嘲《あざけ》る色の笑みを刷く。
「仙籍を削除されると言葉が通じない? それが辛いから? ただの人に戻るより、私を我慢したほうがましだと思うから残っているのだろう。本当に我慢ならないぐらい|嫌《いや》だったら、止めたって出ていく。そういうものではございませんかえ?」
「鈴は|海客《かいきゃく》でございますよ。言葉が通じなければ、それは辛いでしょう」
梨耀は|黄姑《こうこ》を|莫迦《ばか》にしたように見上げて、小さく声を上げて笑った。
「同じ言葉を|喋《しゃべ》っていても、言葉が通じるとは限らない」
梨耀の言わんとしているところを|悟《さと》り、黄姑は溜息を落とした。
「なぜそのように振る舞われる。仮にも翠微君ともあろうお方が」
梨耀は扶王の|後宮《こうきゅう》にあって、よく王を助けた。|奸臣《かんしん》が王の柔和につけいり、専横を|恣《ほしいまま》にすればこれを王に代わって|咎《とが》めて|憎《にく》まれ、王が道を失い始めれば王を|叱《しか》って|疎《うと》まれた。その結果が|翠微洞《すいびどう》。逆臣には敵視されていたが、仙籍を|剥奪《はくだつ》することも|処罰《しょばつ》することもできなかった。あまりに功が大きかったゆえに。梨耀を遠ざけてのち、扶王の|玉座《ぎょくざ》は急速に傾いた。
「……なぜそれほど|頑《かたくな》におなりか。梨耀さまがそれでは、私は梨耀さまを処罰せねばなりません」
「王が飛仙の面目に口を出すかえ」
「王にはその権限があるのですよ。誰も使わないだけのこと」
梨耀は不敵に笑んで立ち上がった。
「では、好きにおし」
「――|采麟《さいりん》さまは|景王《けいおう》をご存じ?」
王宮の庭で|鈴《すず》は|日向《ひなた》に座っていた。
「ああ、|台輔《たいほ》、とお呼びするべきでした」
鈴の前に座って金色の髪を陽射しにきらめかせている少女は若い。実際には二王に|仕《つか》えた采麟なのだが、彼女の外見は鈴と同じかそれよりも下に見えた。いかにも線の細い、繊細そうな顔立ち。その|本性《ほんせい》は|麒麟《きりん》という|獣《けもの》だと聞いたけれども、だとしたらなんて優美な獣なのだろう、と鈴は思う。
「……構わないの。好きに呼んでも」
彼女はおっとりと|微笑《ほほえ》む。|黄姑《こうこ》ももの静かな人物だが、|采麟《さいりん》はいっそう静かで、始終ふわりと微笑んでいる。
――夢みたいだ。|梨耀《りよう》に|怒鳴《どな》られていた日々を思うと。
「台輔は景王をご存じ?」
いいえ、と釆麟は首を振る。
「お会いになったことがないの? 釆麟さまでも?」
「隣の国か、よほどおつきあいがなければ、特にお会いしたりしないの」
ふうん、と鈴は|呟《つぶや》く。十二の国に十二の王と|麒麟《きりん》。同胞はたったそれだけなのに、寂しくはないのだろうか。
「景王に興味があるの?」
采麟が首を傾ける。肩をすべって落ちた金の髪が、陽射しに|透《す》けて白金の色に光った。
「同じ|蓬莱《ほうらい》の出身なんですって。同じ年頃の女王さまなの」
まあ、と采麟は|微笑《わら》う。黄姑が与えた|字《あざな》を|揺籃《ようらん》というと聞いた。本当にゆりかごのように優しげな少女だった。
「あたし、ひとりぼっちだったから……一度でいいからお会いしたい。蓬莱の話を聞かせてもらいたいんです」
「鈴は蓬莱が|懐《なつ》かしいのね?」
「そりやあ、故郷ですもん。帰りたくて帰りたくて、どれだけ泣いたか分かりません」
「こちらは……嫌い?」
悲しげに聞かれて、鈴は|慌《あわ》てて首を振った。
「ええと、嫌いとかじゃなくて。……ただ、あたし、こちらのことが分からないし、言葉だって分からないし。あんまりいい目も見なかったから、なんか、|辛《つら》いところだなぁ……って」
「そう……」
「でも、きっと景王もそうだと思うんです。だって同じ|海客《かいきゃく》だもの。だから、お互いに|慰《なぐさ》めあったりできると思うんです。きっとお互いの気持ちがよく分かるから」
言って鈴はちょっと顔を赤くした。
「お友達になれるかしら……って」
「それは……どうかしら」
|鈴《すず》はぴくんと顔を上げた。
「|景王《けいおう》は|蓬莱《ほうらい》を懐かしく思ってはいないかもしれないわ。……違う?」
「それは、こちらのひとだからそう思うんですよ」
鈴の語調はしぜん、強くなる。これに対して|采麟《さいりん》は首を傾けた。
「こちらのひとだって、故郷を離れてしまったひとはたくさんいるわ。|浮民《ふみん》のようにどこも好きじゃなくて、|流浪《るろう》のまま過ごすひともいる……」
それに、と細い首を|俯《うつむ》かせた。
「同じ|蓬莱《ほうらい》の生まれだから、分かりあえるものかしら……。この国にも同じ国で生まれて|憎《にく》み合っているひとがいるもの……」
鈴はいらいらと|采麟《さいりん》をねめつけた。
「こちらのひとには分からないだけだわ。単に故郷が同じなのと二度と帰れない故郷が同じなのじゃ、意味が違うもの」
「そうかしら……」
釆麟が小さく溜息を落とす。それをさらにいらいらと見やったとき、|黄姑《こうこ》が正面の建物から出てきた。
「ああ――ここにいたのね」
言って黄姑は釆麟に目配せする。
「少し鈴と話をさせてちょうだいね」
はい、と|頷《うなず》き、采麟は|丁寧《ていねい》な|会釈《えしゃく》をして|宸殿《しんでん》へと戻っていく。|居住《いずま》いを正した鈴の|脇《わき》に黄姑が腰をおろした。
「――|梨耀《りよう》どのにお会いしましたよ」
鈴はぴくんと身体を震わせた。|安穏《あんのん》とした王宮の美しい庭。そこで梨耀の名を聞くことは、なにか|汚《けが》らわしいものでも見つけてしまったような気がした。
「|翠微洞《すいびどう》の|下僕《しもべ》たちを、王宮の下働きに召し上げようと思います」
鈴は|頬《ほお》が紅潮していくのを感じた。――では、もう翠微洞に戻らなくてもいいのだ。この美しい王宮にいて、黄姑や采麟や――ついさっき|嫌《いや》なことを言われたことは、いったん忘れることにした――、そんな|優《やさ》しい人たちに囲まれていられるのだ。
そう、天にも昇る気持ちがしたから、黄姑の次の一言は鈴を|凍《こお》りつかせた。
「けれども、鈴はその中には|入《はい》れません」
鈴は震えが立ち昇ってくるのを感じた。
「それ……どういう……」
「|仙籍《せんせき》を削除したりはしません。少し下界で暮らしてごらんなさい。|戸籍《こせき》を用意してあげましょう」
「どうして――あたしだけ、だめなんですか※[#「※」は感嘆符+疑問符、1-8-78、149-11]」
黄姑の表情にはなんの色もない。ただ少しだけ、寂しそうな色に見えた。
「あなたは言葉が分からないのが苦しかったのでしょう? もう言葉は分かるのだから、あなたはどこででも生きていけるはず」
「洞主さまが……なにか言ったんですか」
全身が震える。悲しみのせいか怒りのせいか、鈴にも分からなかった。
「いいえ。|梨耀《りよう》どのは私に全てを任せてくださいましたよ」
「じゃあ、どうして……っ」
|黄姑《こうこ》は目を伏せる。
「あなたはもう少し、|大人《おとな》になったほうがいいように思われるのです」
「大人って……」
梨耀のもとに捕らえられて百年。それでなにが足りないというのだろう。
黄姑は静かに鈴を見る。
「いきなり見ず知らずの異国に投げこまれれば|辛《つら》いでしょう。言葉が通じなければ、なおさらですね。――けれども、|鈴《すず》、言葉が通じるからといって、互いの考えていることが分かるというものでもないのです」
鈴はただ|呆然《ぼうぜん》と黄姑の顔を見つめた。
「なまじ言葉が通じれば、分かり合えないとき、いっそう|虚《むな》しい。必要なのは相手の意を|汲《く》む努力をすること、こうだと決めてかからずに、相手を受け入れてあげることなのです」
「……ひどい、そんな……」
「本当に辛かったら、そのときには戻っておいでなさい。とにかく一度、街に降りてごらんなさい。それからでも遅くないでしょう」
「そんな、あたしだけ……いまさら……っ」
鈴は突っ伏す。期待しただけに|落胆《らくたん》は深い。
――いいひとだと思ったのに。|優《やさ》しいひとだと、そう思ったのに。このひとに|仕《つか》えて暮らすなら、どんなに幸せだろうかとそう――。
分からないのだ。故郷から流されて、右も左も分からない異国に投げこまれる苦痛がどれだけのものか。しよせんこの国に生まれて育ったひとには、鈴の悲しみは理解できはしない。
「やってみたいことがあればおっしゃい。私で力になれることなら、手を貸してあげましょう」
いまさら何を、と|唇《くちびる》を|噛《か》み、鈴はふと涙に|濡《ぬ》れた顔を上げた。
「|景王《けいおう》に……会いたい」
黄姑は首を傾ける。
「景王――?」
「あたし……お会いしてみたいんです。同じ|蓬莱《ほうらい》の出身だから……」
ああ、と|呟《つぶや》いて、黄姑は|僅《わず》かに|眉《まゆ》を|顰《ひそ》めた。
「同じ国の人間だもの、景王ならきっとあたしの気持ちを分かってくれる。|采王《さいおう》には分からないわ。|采麟《さいりん》にも分からない。この国で生まれたひとには、絶対に分からない。あたしがどんなに|辛《つら》いかなんて」
心からのいたわりと哀れみ。景王ならこんなひどいことはせずに、きっと鈴を助けてくれる。
|黄姑《こうこ》は少しの間、考えるようにした。
「景王だって寂しいと思うんです。きっと故郷が|懐《なつ》かしくて悲しいと思う。こちらのなにもかにもが分からなくて、とても|辛《つら》いと思うんです。――こちらのひとには|慰《なぐさ》めてあげられないわ。同じ|蓬莱《ほうらい》の人間にしか、絶対に分からない苦しみだもの」
「景王とは面識がないので|便宜《べんぎ》は図ってあげられませんが。そう言うのなら|慶《けい》まで旅ができるよう、私が|路銀《りょひ》と|旅券《りょけん》をあげましょう」
黄姑が言うと、鈴はばっと顔を輝かせた。その無邪気な表情を黄姑は少し悲しく見る。
「行ってごらんなさい。……決して無益なことではないでしょうから」
「ありがとうございます!」
「ただ――これだけは覚えておいでなさい」
黄姑は、涙に|濡《ぬ》れた|頬《ほお》をもう紅潮させて笑っている娘を見る。
「生きるということは、|嬉《うれ》しいこと半分、|辛《つら》いこと半分のものなのですよ」
「――はい?」
「人が幸せであるのは、その人が恵まれているからではなく、ただその人の心のありようが幸せだからなのです」
鈴は黄姑がなぜこんなことを言い出したのか分からなくて、ぽかんとした。
「苦痛を忘れる努力、幸せになろうとする努力、それだけが真に人を幸せにするのですよ、蓬莱の子……」
「……はい」
鈴は|頷《うなず》く。
――確かに、そうだ。鈴が|行《おこな》った幸せになるための闘い、その結果少なくとも|梨耀《りよう》から解放されて、景王に会いにいくことができる。
「ええ、あたし、どんな逆境にも負けません」
鈴は言って笑った。
「だって、苦労は慣れてますもん。|辛抱《しんぼう》強いのには自信があるんです」
どうしてだか、黄姑は|僅《わず》かに|憂《うれ》いを帯びた表情で目を伏せた。
3
|冬至《とうじ》、|郊祠《こうし》とそれに続く祭礼で|金波宮《きんぱきゅう》には再び|浮《うわ》ついた空気が流れていた。
そのさなか、金波宮を|震撼《しんかん》させる事件が起きた。|天官長太宰《てんかんちょうたいさい》の自宅から大量の武器が発見されたのである。
「武器……」
深夜、|内宮《ないぐう》を訪れた|秋官長大司寇《しゅうかんちょうだいしこう》の奏上に、|陽子《ようこ》は|呆然《ぼうぜん》と立ち|竦《すく》んだ。
「どうやら大逆の準備であったようでございます」
武器を集め、これをもって王たる陽子を|弑逆《しいぎゃく》しようと|企《たく》らんだという。
「|太宰《たいさい》の|下僕《しもべ》に、秋官府へ|駆《か》けこんでこれを知らせた者がおりました。まさかと踏みこんでみれば、確かに大量の武器が。|尭天《ぎょうてん》城下にある太宰の別宅には、|強面《こわもて》の|浮民《ふみん》が十数人集められておりました」
確かに太宰は、表面きって陽子に不満を表していた。|冢宰《ちょうさい》|靖共《せいきょう》とも衝突が多く、ことあるごとに陽子が靖共ばかりを重んじると、聞こえよがしに|罵《ののし》ることも多い。しかしながら、|弑逆《しいぎゃく》の|企《たくら》みとなると、さすがに陽子を|慄然《りつぜん》とさせる。自分が官僚のほとんどに受け入れられていないことは重々承知していても、殺してやろうと武器を集められるほど|憎《にく》まれているとは知らなかった。
「そうか……」
「事前に捕らえることができて、ようございました。なにしろ太宰といえば宮中の諸事を|司《つかさど》る官、特に内宮で|主上《しゅじょう》に|仕《つか》える下官のほとんどを|掌握《しょうあく》しております。それらの者に武器を持たせ、あるいは|刺客《しかく》を|紛《まぎ》れこませればどうなったか」
陽子には溜息しか出ない。
「現在|尋問《じんもん》を続けておりますが、家人の取り調べでは、どうやら太宰は三公と|共謀《きょうぼう》の様子、しかも背後には|麦州侯《ばくしゅうこう》――いえ、|浩瀚《こうかん》が」
陽子はさらに深い息を|吐《は》いた。
三公は|太師《たいし》、|太傅《たいふ》、|太保《たいほ》を言う。諸官の中では唯一、|宰輔《さいほ》である|景麒《けいき》の臣下、いずれも宰輔を補佐し、天子である陽子に助言や|諫言《かんげん》を行う。教育を施してくれるのも、三公の役目だった。位で言えば、六宮の長である冢宰、諸侯と同位の侯だが、実際に政治には参与できない。ために、|冢宰《ちょうさい》とは衝突することが多く、|太宰《たいさい》同様、|靖共《せいきょう》を重んじすぎると陽子を|窘《たしな》めることが多かったが、心情的には靖共ら六官よりもずっと陽子に近い。
――その三公が拭逆に共謀するか。
天官は宮中の衣食住を|掌《つかさど》り、私生活で世話になるからやはり親近感が強い。よりによってその天官長、三公が|謀反《むほん》を|企《たくら》んでいたとは。
「しかも、麦州侯か……」
|玉座《ぎょくざ》を望んで|偽王《ぎおう》に抵抗しとおした州侯。麦州に留め置かれ、いまもって復職を許されていない。処遇について、臣下の意見が冢宰派と太宰派とで対立したまま決着をみないからだった。
「なるほど、それが不服だったわけだ……」
臣下の中では、|浩瀚《こうかん》を|処罰《しょばつ》し、のちの|憂《うれ》いを|断《た》つべきである、という意見が|趨勢《すうせい》を占めていた。|景麒《けいき》がこれに頑強に反対し、ともかくも|謹慎《きんしん》させたが、その景麒の哀れみの結果がこれ。
陽子は|苦《にが》い息を|吐《は》く。
「とにかく、|太宰《たいさい》に会いたい。連れてきなさい」
|浩瀚《こうかん》は麦州の州城城下に|蟄居《ちっきょ》している。とりあえず|膝元《ひざもと》にいる太宰から申し開きを聞きたいと陽子は思ったが、実際にはこれは|叶《かな》わなかった。
太宰はすでに|牢《ろう》の中で死んでいたのである。
「主上――太宰が亡くなったとか」
|大司寇《だいしこう》と入れ違いのようにして入ってきた景麒は、その|眉《まゆ》を|顰《ひそ》めている。
「……自殺だそうだ」
景麒は深い溜息をつく。
「……ですから、あまりに主上は|冢宰《ちょうさい》を重んじすぎると申しあげました」
陽子は|眉間《みけん》を寄せる。
「それは、私のせいだ、という意味か? 私のせいで太宰が|謀反《むほん》を|企《たくら》み、だから死んだのだと?」
「臣下の|寵《ちょう》に|偏《かたより》りがあっては、いたずらに乱を招くことになります」
「確かに|浩瀚《こうかん》の件に関して、私は|冢宰《ちょうさい》の|罷免《ひめん》せよという意見を|容《い》れた。実際、浩瀚が玉座を|狙《ねら》っていたという証人がたくさん出てしまったのだから仕方ないだろう? それともそれでも、太宰らの意見を容れて、浩瀚を麦州侯のままにしておくべきだったと言うのか?」
「いえ……それは」
「罷免された浩瀚が私を|恨《うら》んで、太宰、三公らと|弑逆《しいぎゃく》を|企《くわだ》てた。――これは私のせいなのか?」
「……主上」
「臣下の中では、浩瀚に死を|賜《たまわ》り、|憂《うれ》いを除けという意見が|趨勢《すうせい》だった。それに反対したのは誰だ? 生き延びた浩瀚が逆恨みで拭逆を企む。これが、私のせいなのか?」
景麒は|憮然《ぶぜん》と沈黙する。
「確かに太宰は冢宰と意見が対立することが多かった。だが、冢宰は六官の長、対して太宰は宮中の諸事を|司《つかさど》る|天官長《てんかんちょう》だろう。太宰が|祭祀《さいし》を司る春官長を歴任した者なのに対して、冢宰は秋官長、地官長を歴任している。法のこと、土地のことなら冢宰のほうが|詳《くわ》しい。それで冢宰の意見を容れることが、そんなに悪いことだったのか?」
「主上、そういう意味ではありません」
「では、どういう意味だ?」
景麒は|憮然《ぶぜん》としたまま、返答がない。
「|冢宰《ちょうさい》らは今回こそ、|浩瀚《こうかん》を|処罰《しょばつ》せよと言ってくるだろう。私はこれに対してもう反対する|術《すべ》がない。――どうだ?」
「浩瀚の意見もお聞きください」
「もちろん、そうする。すでに|秋官長《しゅうかんちょう》は浩瀚を連れてくるよう、命じてある。ふつう浩瀚は否定するだろう。だが、浩瀚のもとから|太宰《たいさい》宅に使者がたびたびあり、それが武器を運んでいたという証言が実際にある。――こういうとき、私はどうすればいい?」
「臣下を裁くときには情けをもって――」
「そしてまた同じことを繰り返すのか?」
|景麒《けいき》は言葉に|詰《つ》まった。
|陽子《ようこ》はその姿から視線を|逸《そ》らして窓の外を見た。
「お前も諸官も私が悪い、と言う。私が女王だから悪い、私が|胎果《たいか》だから悪い、そう、溜息をつく――」
「主上、決してそのような」
陽子は首を振った。
「冢宰は見たことか、と言うだろうな。|浩瀚《こうかん》および三公を厳重に処罰しろと言うだろう。これを|容《い》れればお前は不満に思う。これを拒絶すれば、冢宰らが不満に思う。――私はどうすればいいんだ?」
「主上……」
陽子は息を|吐《は》いた。
「浩瀚および三公は処罰する。三公を|罷免《ひめん》し、浩瀚ともども国外追放を命じる。処罰しないわけにはいかない。お前は殺すなと言うだろう。――だから、そうする。それでいいな?」
景麒は口を開きかけ、閉ざした。
「……分かりました」
短く言って、深い溜息をひとつ。溜息のほうが言葉よりも、はるかに多くを語っている。
――景麒は気に入らないのだ。
陽子は|払暁《ふつぎょう》の雲海を見やって、軽く笑った。
「|初勅《しょちょく》で溜息を禁じようか」
「主上――」
「お前も溜息をつくのに|飽《あ》きただろうけど、私もそれを聞くのに飽きてるんだ」
言って陽子は手を振る。
「――|退《さが》れ。休むといい。今日の朝議は|紛糾《ふんきゅう》するから」
案の定、冢宰|靖共《せいきょう》らは頑強に|浩瀚《こうかん》および三公に死を|賜《たまわ》るよう主張した。
「ここで温情を示せば、のちに恩義に対して、不忠をもって|応《こた》える者が必ず出ることが|浩瀚《こうかん》の例でお分かりでしょう」
|靖共《せいきょう》の言葉に、不満の声が上がる。ある者は|太宰《たいさい》の|謀反《むほん》そのものがなにかの闇違いであろうと言う。ある者は理由あってのことなのだから、むしろ理由を追及し、のちの|憂《うれ》いを断つために原因のほうを|糺《ただ》せと言う。さらにある者は、臣下を処罰するにはまず温情をもってせよと言う。
共通しているのは、靖共に反対すること。朝廷は靖共派と反靖共派に二分されているのだ。もしも靖共が|赦免《しゃめん》を望めば、これらの者は断固として処罰せよと言っただろう。
国を治めることがたやすいことでないことぐらい、陽子だって想像していた。だが、この種の困難は想像していなかった。なにかといえば溜息をついて暗に陽子を非難する臣下、溜息では|飽《あ》きたらず武器を集める臣下。こちらの世界の事情が分からない陽子には、臣下の奏上に耳を傾け、言い分を|吟味《ぎんみ》するしか|術《すべ》がないのに、その奏上の実態すらがこれ。
臣下の溜息は聞きたくない。だが、どちらの意見を|容《い》れても、他方が溜息をつく。結局、権を争う連中の、双方を満足させることなど、できないのだ。
そう、|蜜《ひそ》かに溜息をついて、陽子はふと視線を上げた。
――いつの|間《ま》にか、顔色を|窺《うかが》っている。官の、景麒の溜息|怖《こわ》さに、顔色を|窺《うかが》い、少しでも満足してもらえるよう、|媚《こ》びようとしてはいないか。そしてそんな自分に|辟易《へきえき》して、いっさいを投げ出したい衝動に|駆《か》られている。
「そもそも|太宰《たいさい》の企みに、|冢宰《ちょうさい》が気づかぬとはどういうわけか」
「いや、冢宰に不満があって太宰も短慮を起こされたのでは」
「武器をもって王を|狙《ねら》えば大逆であろう。それ以上の|忖度《そんたく》が必要なのか」
「|浩瀚《こうかん》を野放しにしておいた官の責任を問いたい」
「その浩瀚はどこにいる。逃がした秋官の責も大きいであろう」
当の浩瀚は麦州から|尭天《ぎょうてん》へ連行される途中、逃走した。秋官が|行方《ゆくえ》を追っているが、いまに至るも捕まっていない。
|陽子《ようこ》は軽く苦笑した。
――もう、たくさんだ。
「分かった」
陽子は口を開く。
「三公を|罷免《ひめん》し、浩瀚とともに国外追放を命じる」
手|緩《ぬる》い、と|靖共《せいきょう》らからは不満の声が上がり、厳しすぎると他派からも不満の声が上がった。
「再び同じようなことが起これば、どうなさいます」
異論を|唱《とな》えた冢宰靖共を陽子は見る。
「六官をまとめるのが、|冢宰《ちょうさい》の責任。六官の中から大逆のあった|責《せき》によって、|靖共《せいきょう》には冢宰を降りてもらう。|太宰《たいさい》に代わって天官を治めよ」
諸官が|呆然《ぼうぜん》と口を開けて、陽子は軽く笑った。
「三公が|空《あ》いた。春官長、秋官長、地官長をそれぞれ三公に|叙《じょ》す」
「……主上」
声を上げた景麒を、陽子目線で押し留める。
「のちの人選は各長に任せる。ただし、冢宰はしばらく景麒に兼任させる」
「――前代未聞でございます! |宰輔《さいほ》に実権をお与えになるなど!」
いっせいに不満が上がったが、陽子は言い放つ。
「――|勅命《ちょくめい》である」
言い捨てて立ち上がる。玉座を降りて退出した。
4
|内宮《ないぐう》の奥、自室に|退《さが》ってしまえば、官は|陽子《ようこ》を追ってこれない。陽子は下官に|景麒《けいき》以外は入れるなと言いおいて、窓を開けた。
湿った雲海の風が潮の|匂《にお》いとともに吹きこむ。
「……よくもあれだけ、するすると出る……」
我ながら苦笑を禁じえない。冢宰を降格し、冢宰派、反冢宰派の要人を実権のない三公に押し上げる。これで宮中の権の図版はほとんど白紙に戻っただろう。きっとおそらく、どこかでそれをずっと考えてきた。だから|咄嗟《とっさ》に口を突いて出たのだ。
「――主上」
景麒の厳しい声がした。陽子は振り返り、これ以上ないほど渋い顔をした景麒を見返す。
「なんということをなさるのです。宰輔には実権を与えないのが定めです。それを――」
景麒、と陽子はその言葉を|遮《さえぎ》った。
「私は、|関弓《かんきゅう》へ行く。|延王《えんおう》の|許《もと》でしばらく|政《まつりごと》について学ぶ」
|景麒《けいき》は目を見開いた。
「何をおっしゃいます!」
「――そう、諸官には言っておいてくれ」
陽子は窓枠に腰をおろす。軽く|膝《ひざ》の上で指を組んだ。
「私はしばらく街で暮らしてみようと思う」
「いったい――」
陽子は自分の|爪《つめ》を見つめた。下官が手入れしてくれるから、それは|綺麗《きれい》に|磨《みが》かれている。|贅沢《ぜいたく》な衣装、贅沢な飾り、――だが、そんなものが欲しかったわけではない。
「私は|玉座《ぎょくざ》が欲しかったわけじゃない」
「主上!」
「王と呼ばれたかったわけでも、王宮で|贅沢《ぜいたく》な暮らしをしたかったわけでもない。王がいなければ国は荒れると聞いた。天意は民意だと言われた。夜に眠る家がなければ苦しい。|飢《う》えることは|辛《つら》い。私は身に|沁《し》みてそれを知っている」
突然、連れてこられた異界。右も左も分からない中で、陽子は実際、|野垂《たれ》れ|死《じ》にしかけた。
「|妖魔《ようま》に追われれば辛い。……私が玉座に|就《つ》かなければ、|慶《けい》の民の誰もが同じ目に|遭《あ》うのだと聞いたから、玉座を受け入れた。王とはそのためにあるはずだ。少なくとも官を満足させるためにいるのでも、景麒を喜ばせるためにいるのでもない。民を満足させるため、喜ばせるためにいるのじゃないのか」
「……ですから」
陽子は首を振る。
「景麒。……私にはこの国のことが分からない」
「主上、それは」
「民が何を考えているのか、何を望んでいるのか、どんなふうに暮らしているのかさっぱり分からない」
「まず、道を知っていることが重要なのですよ」
「――道?」
陽子は軽く笑う。
「授業は週六日、|必須《ひっす》クラブがあって|塾《じゅく》に行って、さらにはピアノを習ったりお|稽古《けいこ》ごと。定期テストは最低でも一学期に二回、その他にも模試があって偏差値で将来が決められる。赤点が|幾《いく》つかで留年、入試に合格できなきゃ|浪人《ろうにん》。スカート|丈《たけ》は|膝《ひざ》まで、リボンは紺か黒。ストッキングは|肌色《はだいろ》か黒。――そういう子供の幸せがなんだか分かるか?」
「……は?」
「そういう社会での|仁道《じんどう》とはなんだ?」
「失礼ですが――その――」
「分からないだろう?」
陽子は苦笑する。
「景麒が分からないように、私にも分からない。一体、何が道なんだろう。少なくとも諸官の顔色を |窺《うかが》って、誰の意見を|重用《ちょうよう》するか|退《しりぞ》けるか、それに苦労することじやない。それだけが分かっている」
「ですが……」
「少し、時間をくれないか。ここはあまりに、私の知る世界とは違っているんだ」
景麒は困り果てたような表情をしていた。
「私はいま、玉座にいることが苦しい」
陽子の言葉に、景麒は軽く目を見開く。
「私は|蓬莱《ほうらい》で人に嫌われることが|怖《こわ》かった。始終人の顔色を|窺《うかが》って、誰の気にも入るよう、無理な|綱渡《つなわた》りをしていたんだ。――今とどう違う? |愚王《ぐおう》と呼ばれることが怖い。溜息をつかれることが怖い。諸官の、民の、景麒の顔色を窺って、誰からも|頷《うなず》いてもらえるよう、無理をしている」
「主上……」
「同じ愚は犯したくない。だけども、私は同じ所に踏みこもうとしている。今この時期、王宮からいなくなることがどういうことなのか、分かってる。官だって不満に思うだろう。これだから女王はと、また溜息をつくだろうな」
陽子は軽く笑う。
「みすみす国を荒らすことになるのかも。……でも、このまま官の顔色を窺って右往左往しているだけの王なら、さっさと|斃《たお》れてしまったほうがいい。そのほうがよほど民のためだ。――このままではいけないんだ、分かってくれないか」
見やった景麒は表情のないまま沈黙し、やがて頷いた。
「――はい」
「しばらくの間、景麒に全権を移譲する。景麒ならば、おさおさ民を|虐《しいた》げるようなまねをすることだけはないだろう。どうしても私でならないことがあれば、この世で最も速いというその脚で|駆《か》けてきてくれ。――景麒、頼む」
「……かしこまりました」
一礼した景麒を見つめて、陽子はやっと|安堵《あんど》の息を|吐《は》いた。
「ありがとう。……景麒に分かってもらえて|嬉《うれ》しい」
陽子にはこの|下僕《しもべ》しかいないのだ。|雁《えん》には王を支える|官吏《かんり》がいる。|延王《えんおう》はけっこう|無軌道《むきどう》な王だし、官吏の誰もが王の|所行《しょぎょう》に溜息をつくが、それでもそこには王に対する信頼があり、王のほうにも官に対する信頼がある。陽子には信頼することのできる者が景麒しかいない。この王宮の中で、本当にこの|麒麟《きりん》だけなのだ。
「それで、主上はこれからどうなさるおつもりですか?」
「少し街へ降りてみようと思っている。|日銭《ひぜに》仕事でもなんでもいいから、民にまじって働いてみたい」
「もしもよろしければ、私に|逗留先《とうりゅうさき》の手配をさせていただけませんか」
陽子は首をかしげた。
「しかし……」
「まさか|浮民《ふみん》のように暮らすおつもりではないでしょうね? どうか、これだけは。私にも安心できる場所においでになってください」
「……分かった。景麒に任せる」
景麒もまた|安堵《あんど》したように息をついた。
「わがままを言って済まないな」
陽子が言うと、景麒は薄く苦笑する。
「……実を申しあげれば、少し安堵しています」
「そうか……」
「ですがどうか、一日も早くお戻りくださいますよう」
「うん。分かっている」
|内宮《ないぐう》を退出しながら、景麒は雲海を見やる。
大変なことになった、と思いながらも、|妙《みょう》に安堵していた。
景麒は二王に|仕《つか》えた。先王は|謚《おくりな》を|予王《よおう》という。在位は|僅《わず》かに六年、その大半を王宮の奥に閉じ|籠《こも》って過ごした。――彼女は政務に興味を抱けなかった。
景麒はその青白い顔を思い浮かべる。
彼女は|優《やさ》しく、思慮深い性格だった。内気に過ぎることを除けば、決して玉座に値しない人柄ではなかった。――だが、彼女が望んでいたのはあまりに|凡庸《ぼんよう》な幸せだったのだ。
予王は民が幸せになることよりも、まず自分がつましくも穏やかに暮らすことを望んだ。豊かでなくてもいい、穏やかで安らかな暮らしを。なんの|誉《ほま》れも波風もなく、静かに土地を耕し、夫を持ち、子供を持つ暮らしを望んでいたのだ。
彼女が織る|機《はた》の音がいまも耳に残っている。
玉座に|就《つ》いた当初、実直に責務を果たそうとした予王は、すぐに官との|拮抗《きっこう》に|飽《あ》いた。先帝の残した|官吏《かんり》、互いに利権を争って|覇《は》を競う者たちに囲まれた暮らしを|疎《うと》んじた。彼女は次第に王宮の奥に引き|籠《こも》るようになり、そこで|機《はた》を織るようになった。そうやって|己《おのれ》に課せられたものを拒絶しようとしたのだ。
「またか、と思ったのだが……」
|景麒《けいき》は苦笑する。|陽子《ようこ》に初めて会ったとき、|予王《よおう》によく似た娘だと思った。またか、と思った。正直に言うと、|辟易《へきえき》していた。
「だがお変わりになられた……」
少なくとも陽子は予王と違い、己と闘うことを知っている。予王と同じく、官に|萎縮《いしゅく》して玉座を|疎《うと》んじる気配があったが、陽子はそれを己で自覚した。それを乗り越えるために自ら動き始めた。――この差は大きい。
「――|班渠《はんきょ》」
景麒は己の|使令《しれい》を呼ぶ。はい、と足元に落ちた影の中から答えがあった。
「主上におつきして、お守りせよ。決して危険のないように。――あの方は|慶《けい》にとってかけがえのない方なのだから」
五章
1
|恭国《きょうこく》は|芳国《ほうこく》の南東、|虚海《きょかい》を隔てた対岸にある。虚海の恭国と芳国に|挟《はさ》まれた場所を、あえて|乾海《けんかい》と呼ぶこともあったが、おおむね単に虚海と呼ばれる。特に対岸が見えるわけでもないのだから、沿岸の人々にとっても、それで充分なのである。
|祥瓊《しょうけい》は|恵州師《けいしゅうし》の空行騎兵、十人ほどに送られ、恭へと向かいながら改めて自国を思った。恭と芳の間にはもちろん航路が開かれていたが、これを使えば対岸まではほぼ三昼夜かかる。虚海の中に浮かぶ芳はそれ自体が、冬の|里《まち》のように|閉塞《へいそく》した国なのだと、初めて思った。
飛行する|妖獣《ようじゅう》の種類は限られる。人が騎乗するためにはやはり馬形の|妖《あやかし》のほうが都合がいいので|殊《こと》に種が限定された。おもに使われるのは|縞《しま》のある|鹿蜀《ろくしょく》という妖獣である。空行する妖獣は車を引くことができなかった。必ずその背に騎乗していなくてはならない。それで州師の|鹿蜀《ろくしょく》を借り受ける形で、祥瓊は兵に囲まれて恭を目指す。造作もない旅だった。途中、芳の岸辺と恭の岸辺の街で宿をとり、三日後には恭国首都|連檣《れんしょう》にある|霜楓宮《そうふうきゅう》に|辿《たど》り着いたのだった。
霜楓宮の|主《あるじ》、恭国|供王《きょうおう》は在位九十年に及ぶ女王だった。祥瓊もそれ以上のことは知らない。芳はどの国ともほとんど国交を持たなかった。祥瓊の父|仲韃《ちゅうたつ》の即位式にも間近の三国、|柳《りゅう》、|恭《きょう》、|範《はん》から |勅使《ちょくし》が慶賀にきたばかり、そもそも、王は他国の王とはあまり交渉を持たないものなのである。
国府を訪ねた祥瓊ら一行は、官に案内され|霜楓宮《そうふうきゅう》の|外殿《がいでん》ヘと通された。一つ門を|潜《くづ》るたびにいっそう華やかになる建物を、祥瓊は切なく見渡す。
――|気後《きおく》れすることなんかない。
|祥瓊《しょうけい》だって王宮に住んでいたのだから。そう言い聞かせても、身が|竦《すく》む。一つにはそこが他国の王宮だからであり、いま一つには自分があいかわらず貧しい身なりをしているからだった。
|拱手《えしゃく》して客に道を譲る官の誰もが、祥瓊を不審そうに見た。きっと下町の|花子《ものごい》が迷いこんだように見えるだろう、と祥瓊は|俯《うつむ》いた。
いや、と磨きこまれた|黒御影《くろみかげ》の|廊下《ろうか》を歩きながら祥瓊はさらにうなだれる。
恭の花子よりも、|惨《みじ》めな格好をしているかもしれない。恭は芳よりも豊かなのだ。首都|連檣《れんしょう》の様子を見ればそれが分かる。整備された美しい街。芳の首都|蒲蘇《ほそ》など|田舎《いなか》町に見えるほど。
外殿に入れば、自分が惨めで顔を上げることもできなかった。同行した使者がちらりと祥瓊を見やってからひざまずき、そのまま前に進んで|叩頭《こうとう》した。祥瓊も使者の視線を心得てそれにならった。ぬかずいた自分の姿がさらに祥瓊を|暗澹《あんたん》たる気分にさせる。本来なら叩頭する必要などはないのだ。|跪拝《ひざまずく》するだけでいい。祥瓊は|公主《こうしゅ》なのだから。
使者は|丁寧《ていねい》に|恵侯月渓《けいこうげっけい》からの奉書を|翳《かざ》して|挨拶《あいさつ》を述べる。
「公主の身柄をお引き受けくださるとのこと、|供王《きょうおう》のご厚情に恵侯および臣下一同、伏してお礼申しあげます」
くすり、と軽く笑う声がした。――供王の声だ、と祥瓊は息を|詰《つ》めた。
「たいしたことじやないわ。お隣なのですもの」
祥瓊は目を見開いて床を見つめた。どこか幼い若い女の――声。
「それより、お国のご様子はいかが?」
「おかげさまで、とりあえずつつがなく」
言って使者はさらに深く叩頭する。
「天命あって|玉座《ぎょくざ》におられます供王には、|恵侯《けいこう》はいかにもご不快かと。それは重々承知しておりますが、このたびのご厚情、まことに感謝の言葉もございません」
幼い響きさえある声が、|鈴《すず》を|転《ころ》がすように笑う。
「よく決断なされた、と恵侯にお伝えなさい。王は自ら滅びるもの。罰を恐れ小舟や板切れにまで|縋《すが》って虚海を越えて恭へ来る民もいましたもの。民はやっと|安堵《あんど》の息をついているでしょう」
祥瓊は咄嗟に顔を上げそうになり、辛うじてそれを耐えた。
――娘がいる目の前でそれを言うか。
許されずに顔を上げれば非礼になる。それだけでなく、祥瓊は供王を見たくなかった。声からするにおそらくは若い娘、もしも自分と同じ年頃だったりしたら。その少女が絹に包まれ、玉で身を飾って玉座に|就《つ》いているのは見たくない。
「……それで? そちらが|孫昭《そんしょう》ですね?」
姓名を呼ばれ、祥瓊は|唇《くちびる》を|噛《か》む。これだけで供王が充分祥瓊に|含《ふく》みあることが分かろうというものだ。
「さようでございます」
「孫昭の身柄は確かにあたくしが預かりました。このままよしなにいたしましょう。芳の民も官も、孫昭のことはお忘れなさい」
は、と使者は|額《ひたい》を|床《ゆか》につける。
「|斃《たお》れた王のことは忘れて、国土のために働いてこの罪を|贖《あがな》うよう、恵侯にお伝えなさい。王のない国はそれは信じがたい勢いで沈むもの。それを救う一柱になるのですよ」
「たしかに承りました」
「恵侯はまだ州城においでとか。思い切って玉座に就いてごらんなさい。次王が|登極《とうきょく》なさるまで、玉座を預かったとみなして民のために働かれるのがよろしいでしょう。――あとでこれを書状にしたためてさしあげましょう。不満を言う者があれば、供王が玉座を|勧《すす》めたのだとおっしゃい」
そんな、と|祥瓊《しょうけい》は顔を上げた。|怺《こら》えることができなかった。
「|月渓《げっけい》は|簒奪者《さんだつしゃ》だわ! |弑逆者《しいぎゃくしゃ》なのに!」
玉座の王と視線が合った。年の頃は十二かそこら。あどけない風情の少女だった。背後に控えたのは男、|赤銅《しゃくどう》に近い金の髪。ではあれが|供麒《きょうき》だろう。
「王は自ら|斃《たお》れるもの」
その少女は|珊瑚《さんご》の色の|唇《くちびる》でぴしゃりと言い放つ。
「自身の犯した罪以外に、王を|弑《しい》すことのできるものはない」
言って、少女は使者を見やった。
「――さあ、一刻も早く芳に戻って、恵侯を助けてさしあげなさい」
深く|叩頭《こうとう》し、感極まったように使者が礼を述べて退出していき、祥瓊はその場にただ一人で残された。平伏することも忘れて、じつと玉座の供王を見上げる。
「戸籍を与えられて|市井《しせい》に降りることと、王宮の|奚《げじょ》になることと、どちらを選ぶ?」
問われて|祥瓊《しょうけい》は|頬《ほお》に朱を昇らせた。奚は王宮で働く|下僕《しもべ》、下官ですらなく、仙籍にも|載《の》せてもらえない|婢《はしため》のことだった。この小娘は言うのだ、公主の自分に、その奚になれ、と。
その祥瓊の顔色を察したのか、少女はくすりと笑う。
「|矜持《きょうじ》だけは高いとみえる。……あたくしは恵侯ほど情け深くはないの。戸籍を得て|里家《りけ》に送られるか、|奚《げじょ》になるか、どちらかを選んで。成年までは里家に置いてあげるけれども、あなたは|恭《きょう》の国民じゃないから成年になっても土地はあげない。里家を出たらどこかに|雇《やと》ってもらいなさい。――どちらがいい?」
「ひどい……」
「あたくし、あなたが|嫌《きら》いなの」
少女はにっこりと笑う。
「あなたの身柄を引き受けたのは、あなたが|芳《ほう》にいては国のためにならないから。決してあなたに対する慈悲ではないことを、覚えておいて。――どちらにするの?」
――こんな小娘に使われるぐらいなら。
祥瓊は思ったが、その感情を記憶が押さえこんだ。土にまみれる生活、足腰立たないほどの労働、隙間風の吹く家、――芳で経験したいっさいのことが、祥瓊を|宥《なだ》める。
「……奚になります……」
そう、と少女は|呟《つぶや》いて|微笑《ほほえ》む。
「――では、王の前では|叩頭《こうとう》すること、決して顔を上げないこと、なにかを|訊《き》かれるまでは決して口を開かないことを、まず学びなさい」
「――主上」
|内殿《ないでん》に戻るなり、背後の|下僕《しもべ》が口を開いて、供王|珠晶《しゅしょう》は振り返った。
「なあに?」
金色の髪をした下僕は困惑した表情を浮かべていた。
「公主へのなされようは、あまりに……」
「ばかね」
珠晶は言い捨てる。
「|祥瓊《しょうけい》を哀れむ前に、祥瓊を|憎《にく》まずにいられない芳の民を哀れみなさい。――本当に|麒麟《きりん》って、哀れみに鼻面を引き回されて、すぐに本末を転倒するんだから」
「しかし」
珠晶は笑って、はるかに高い位置にある|供麒《きょうき》の顔を覗きこんだ。麒麟はおおむねすらりとした人型を持つが、恭の麒麟はがっしりとした体格をしている。
「あ、た、しが、決めたの。――分かった?」
「けれど、民に慈悲を施すことが王の|務《つと》めでございましょう」
困ったように|供麒《きょうき》が言うのを、|珠晶《しゅしょう》は鼻先で笑ってみせた。
「あたしは王になったけど、聖人君子になったつもりなんかないわ。そんなの御免だもの。――そして、あなたはあたしの|下僕《しもべ》なの。そうでしょ?」
「そうですが……」
「だったらつべこべ言わないの。――|祥瓊《しょうけい》の件に関しては聞く耳なんか持たないわ。国を治めるのって本当に大変なんだから。それをさぽって遊んで暮らして、父親を|窘《たしな》める分別も持てなかった愚者を哀れむ慈悲なんて持ち合わせがないの。|麒麟《きりん》とは違ってね」
供麒はさらに困ったようにする。大きな男がしゅんとうなだれた。
「しかし……|恵侯《けいこう》にまるで|簒奪《さんだつ》を|勧《すす》めるようなおっしゃりようも――」
「勧めたのよ」
珠晶は|椅子《いす》にすとんと腰をおろす。
「恵侯は王を|討《う》ったのだから、国を治めてもらわないと。自分が王だ、ぐらいの気概は持ってほしいわよね」
「王は天が決めるものです。それを主上が纂奪をお勧めになるとは。そんなことをなさって、もしもそのせいで|芳《ほう》が荒れれば――」
珠晶は|頬杖《ほおづえ》を突いて溜息を|吐《は》いた。
「あたしが困るのよ。芳から|荒民《なんみん》が流れてきて」
「荒民の苦難をまずお考えください」
珠晶は供麒に指を突きつける。
「あんたって本当にばかね。その頭の中には哀れみ以外の分別は入ってないわけ? ――芳は荒れるわ。恵侯には責任をとって、なんとか国を支えてもらわないと。だって芳には麒麟がいないんですもの」
供麒は慌てたように、周囲を見回した。
「主上――」
「誰もいないわよ。――まさか使者にそれを言うわけにはいかないでしょ? |蓬山《ほうざん》には麒麟がいない。新王が|登極《とうきょく》するまで、想像以上の年月がかかる、なんて。そんなことを知ったら、民は絶望して国をみすみす傾けてしまうわ」
次王を選定するはずの芳の麒麟は蓬山にいない。その理由は珠晶も知らなかった。蓬山の|女仙《にょせん》は神の|下僕《しもべ》、蓬山は諸王不可侵の山、起こった変事がいちいち報告される|謂《い》われもない。三年前、恭から芳へと変異が|駆《か》け抜けていった。――|蝕《しょく》である。ひょっとしたらこれが起こったのは|五山《ござん》からではなかったか、まさか蓬山に異変はなかっただろうかと見舞いを差し向けると、蓬山のどの宮も閉ざされていた、という。麒麟のために開けられている様子がなかったのだ。
|峯麒《ほうき》は――|牡《おす》だと聞いた――|健《すこ》やかにお育ちですか、と問わせれば、|曖昧《あいまい》な返事しか返ってこない。さらに調べて確信を抱いた。蓬山には|麒麟《きりん》がいない。
|珠晶《しゅしょう》は息を|吐《は》く。
「恵侯にやってもらうしかないじゃない。ものの道理は分かった男だわ。芳に麒麟が現れ、王を選ぶのはいつのことか分からないのだもの。――だから、|唆《そその》かしたのよ。文句がある?」
「主上――」
珠晶は足をぶらぶらと揺する。|※《くつ》[#「※」は「革(かくのかわ)+昔」、180-9]が脱げて飛んでいった。
「この事態を招いたのは|仲韃《ちゅうたつ》だわ。仲韃自身と、その周囲にいて王を|諌《いさ》めることができなかったぽんくらたちのせいよ。だから、|祥瓊《しょうけい》は嫌い。――それがそのお涙で一杯の|水樽《みずだる》みたいな頭にも理解できたら、|※《くつ》[#「※」は「革(かくのかわ)+昔」、180-12]を拾ってきて|履《は》かせてちょうだい」
2
「さむーい」
|蘭玉《らんぎょく》の声は朝の空気に白く流れた。
|慶東国瑛州北韋郷個継《けいとうこくえいしゅうほくいごうこけい》。|北緯郷《ほくいごう》は首都|堯天《ぎょうてん》を中心におく|瑛州《えいしゅう》の北西に位置する。尭天から東西へ伸び、|虚海《きょかい》、|青海《せいかい》へと向かう街道のちょうど分岐点にあるために、北韋郷の郷城が置かれる|固継《こけい》は古くから都市として栄えた。ために通称を北韋ともいう。
街は本来、必ず|里《まち》を中核に作られる。ここ固継も例外ではない。
しかしながら、里に付随する街のほうが長い年月の間に肥大し、固継の里はこの街道の要所を占める街から追い出されてしまった。結果として大きな街の北東に小さな里が|癌《こぶ》のように付属する格好になっていた。|門闕《もん》の|扁額《へんがく》は「固継」、だが誰もこの街を固継とは呼ばない。街の名は|北韋《ほくい》、付属する小さな里を|固継《こけい》と呼ぶ。
蘭玉はその固継の片隅、ひっそりとした一郭にある井戸から|桶《おけ》に水を|汲《く》み上げながら、くるりとあたりを見回した。高い|隔壁《へい》越しに冬枯れた山が見える。落葉したあとの|梢《こずえ》に|霜《しも》がついてうっすらと白い。雪でも降りそうな雲行きだった。
「降るかなぁ」
|呟《つぶや》いて裏口から家の中に入る。家は|里家《りけ》である。蘭玉には親がない。それで里家の世話になっている。
「早いな、蘭玉」
蘭玉が|厨房《だいどころ》に入ると、|土間《どま》で|火鉢《ひばち》に炭を入れていた|老爺《ろうや》が顔を上げた。この老爺がこの里家の長、|閭胥《ちょうろう》の|遠甫《えんほ》だった。
「おはようございます」
「年寄りより早起きとは、奇特な子じゃが。一度くらい|儂《わし》が、準備万端整えて、起こしに行ってやろうと思うが、|叶《かな》ったことがない」
くすくすと笑いながら、|蘭玉《らんぎょく》は|桶《おけ》の水を|甕《かめ》に|空《あ》ける。蘭玉はこの|閭胥《ちょうろう》が好きだった。老齢の|遠甫《えんほ》が蘭玉よりも早起きでないはずがない。自分が早く起きれば、里家の子供たちが早く起きようと気を|遣《つか》うから、いつまでも寝床の中にいるだけだと、蘭玉は知っている。
「雪が降りそう」
「そりやあ、水が冷たかったろう。こっちに来て火に当たるといい」
大丈夫、と笑って蘭玉は|竃《かまど》にかけた|大鍋《おおなべ》の|蓋《ふた》をとる。温かな湯気が土間に満ちた。遠甫は小さな|火鉢《ひばち》を一つ、水場の足元に置いてくれる。|朝餉《あさげ》の用意をする|蘭玉《らんぎょく》を気遣ってくれたのだ。くず野菜とくず肉を煮た汁の中に、|練《ね》った小麦をちぎって落とす。
「今日、新しい子が来るんですよね」
蘭玉が振り返ると遠甫は|領《うなず》いた。里家を頼って来る者がいるという。
「朝ご飯はいらないのかしら」
「なに、到着はどうせ昼過ぎか夕刻じゃろう」
「そうね」
街を出たときにいた閭胥は|癇《かん》の強い|老婆《ろうば》だったが、戻ってみると彼女が死んで閭胥が代わっていた。遠甫はもともと|里《まち》の人間ではない。見知らぬ老人が閭胥だと聞いて不安に思ったけれども、蘭玉はいまでは感謝している。
「おはよっ」
|桂桂《けいけい》が土間に飛びこんできた。
「おお、桂桂も早いな」
「寒くて目が|覚《さ》めちゃった」
ぱたぱたと足踏みをするのを笑って、蘭玉は弟のために桶に水を張ってやる。そこに遠甫が炭火で焼いた石を入れる。ちゅん、と小さな音は、冬の音だ。
「ちゃんと、顔を洗ってね。水は外に|零《こぼ》すのよ」
うん、と|領《うなず》いて桶に顔を突っこむ桂桂を蘭玉は笑って見守った。|里家《りけ》には他に三人の子供がいるが、彼らの朝は遅い。遠甫が|叱《しか》らないのをいいことに、いつまでも寝ている。三人はずっと以前から里家で暮らしていた子供たちだった。前の閭胥が厳しかったから遠甫に甘えているのだろう。それを分かっているのか、遠甫も寝たいだけ寝させておきなさい、と言う。
「すごーい、寒いね」
桂桂は裏口の戸を開けて水を零しながら、白い息を|吐《は》いた。
「去年に比べればましでしょ? 雪も少ないし」
新王|登極《とうきょく》から半年が過ぎた。古老の言うとおり、災害はぴったりと止んだ。去年は|慶《けい》には珍しく大雪が降って、降りこめられた|里《まち》が死に絶えたりしたものだった。
「ぽく、雪は降ったほうがいいな」
暖房といえば|火鉢《ひばち》が主、本当に寒い日には|竃《かまど》に|大鍋《おおなべ》をかけて湯を沸かし、その前に大勢の人々が集まって湯気と人いきれで暖をとる。豊かな家には暖炉があったりするし、さらに豊かな家ではその暖気を壁の間や|床下《ゆかした》に通して|房間《へや》自体を暖める|※《こう》[#「※」は「火(ひへん)+亢」、2-79-62、184-6]という施設があったりするが、|慶《けい》ではそんな豊かな家は少ない。
窓にしても、|玻璃《はり》の入っている家はごく|僅《わず》かだった。板戸のついた窓の内側に紙を張る。それで辛うじて陽光を入れ、風が吹きこむのを防ぐのだ。|綿《わた》は貴重品だから、|衾褥《ふとん》には綿が入っていない。秋に|溜《た》めこんだ|藁《わら》がほとんどで、着るものだって毛皮はほとんど手に入らない。火鉢に|埋《い》ける炭もまた安くはないから、家の中はいつだって寒かった。
慶より北の国々はもっとずっと寒いのだが、慶は貧しいので寒さに|備《そな》える|術《すべ》がない。それで慶の北方では冬は|辛《つら》い。
それでも|蘭玉《らんぎょく》は冬が好きだった。蘭玉だけでなく、里家の子供たちはみんな冬が好きだ。人々はふつう、春から秋には近郊の|廬《むら》に出てしまうから、|里《まち》はいつも閑散としている。里家の者と|里府《りふ》の役人だけが残されてしまうのだ。冬には廬に住まう人々が里に戻ってきて、大勢で集まって糸を繰ったり|籠《かご》を編んだりする。それが|嬉《うれ》しいから冬がいい。
蘭玉は大鍋の|蓋《ふた》を開けた。
「桂桂、みんなを起こしてきて。ご飯にしましょ」
蘭玉は餅湯を器に分けていて、突然中庭から悲鳴を聞いた。
はっと振り返ると、桂桂が|廂房《はなれ》から|駆《か》け戻ってくるところだった。
「おねえちゃん――!」
「どうしたの※[#「※」は感嘆符+疑問符、1-8-78、185-6]」
桂桂の悲鳴ではない。――それだけではない。いまも悲鳴が続いている。
「|妖《よう》、|魔《ま》」
|遠甫《えんほ》が立ち上がる。|蘭玉《らんぎょく》は両手で口元を押さえて悲鳴を|呑《の》みこんだ。
「裏から出て、|里詞《りし》に行きなさい」
遠甫は泣きじゃくる|桂桂《けいけい》の背中を押す。
「|里木《りぼく》の下に逃げこんでじっとしておるんじゃ。いいな?」
「おじいちゃんも」
「|儂《わし》もすぐに行く。だから待っておれ」
遠甫は蘭玉に|頷《うなず》いてみせた。先に行け、と|促《うなが》す。蘭玉は遠甫に頷き返して、桂桂の手を引いた。裏口を押し開け、外に|転《ころ》がり出ようとして、羽音を聞いた。|逞《たくま》しい翼が大きく|羽搏《はばた》く音。
|咄嗟《とっさ》に|後退《あとずさ》り、扉を閉めた。その前にほんの一瞬、翼をしなわせて降り立つ|虎《とら》の姿を見た。――|窮奇《きゅうき》である。
「|蘭玉《らんぎょく》?」
|土間《どま》を出て悲鳴のほうに向かおうとしていた|遠甫《えんほ》が振り返る。
「裏に――窮奇が」
桂桂が痛ましい声を上げて泣き始めた。人を食う|獰猛《どうもう》な妖魔。――この|里《まち》は終わりだ。|窮奇《きゅうき》は目につく人間を喰らい尽くす。
まだこれほどに、国は荒れている。
がし、と裏の扉が震えた。蘭玉は|跳《と》び|退《すさ》り、桂桂の手を引き、遠甫に抱えられるようにして|正堂《ひろま》へと走った。その背に窮奇の|爪《つめ》で裂かれた扉の|木《こ》っ|端《ぱ》が飛んでくる。正堂の扉を閉め、|院子《なかにわ》に|駆《か》け下りた。――とにかく、なんとかして|里祠《りし》へ。|里木《りぼく》の下なら、妖魔は襲ってこない。
中門へと|走廊《かいろう》を走り、石段を駆け下りて|前院《まえにわ》に出る。背後で子供たちの悲鳴が続いていた。
助けてやりたい。だが、その|術《すべ》が蘭玉にはない。見捨てて逃げる非道は百も承知、もしもそこに|桂桂《けいけい》がいたなら、なにを犠牲にしても駆け戻っただろうに。
――ごめん、……ごめんね。
|大門《もん》の軒下まで駆け寄ったとき、桂桂がひっと声を上げた。思わず桂桂の視線を追って蘭玉は振り返る。中門の屋根で身を屈めた窮奇の姿が日の中に飛びこんできた。
「逃げなさい」
遠甫の身体が前に出る。
「飛び出して、後ろを見ずに里詞へ走るんじゃよ」
いや、と桂桂が遠甫の上着を握る。
「子供は死んじゃあいかん」
「おじいちゃん!」
蘭玉は桂桂の手を引いた。――この子だけは。
ここで遠甫を見捨て、先で蘭玉が|盾《たて》になっても、この幼い弟だけは。
窮奇が舌なめずりして、深く身を屈めた。飛び降りてくるのを見て、蘭玉は無我夢中で桂桂の手を引く。その鼻先を赤い色が|掠《かす》めて通り抜けた。
「――え」
通り抜けた赤い髪。駆け寄り、駆け抜けていった人影の残像。
振り返った蘭玉の目に映ったのは|翻《ひるがえ》る赤い色と、鮮やかな|弧《こ》を描く|白刃《はくじん》のきらめき。
小柄な少年だった。その影と飛び降りてきた窮奇の影が交わって、蘭玉は弟の身体を抱きしめる。
|窮奇《きゅうき》の|爪《つめ》、窮奇の|牙《きば》、丸太のような太い脚。全身が凶器のようなその妖魔を軽々と|掻《か》いくぐって|白刃《はくじん》が舞う。しぶいた血潮は妖魔のもの、|鋼《はがね》の爪を出した妖魔の脚が|刎《は》ね落とされる。|吼《ほ》えて体を|傾《かし》がせた妖魔の|喉元《のどもと》に繰り出される切っ先。突いた剣を抜きざま払って、窮奇の太い首を深々と|斬撃《ざんげき》が|噛《か》む。
どう、と窮奇が横倒しになった。飛び|退《すさ》ってそれを避けた少年は、|躊躇《ちゅうちょ》もなく|駆《か》け寄って首に一撃を振り下ろす。|柄《つか》を|掴《つか》んだ両手にさらに|片膝《かたひざ》を添えるようにして一息に窮奇の首を落した。
|蘭玉《らんぎょく》はペたりと膝をついた。
「……嘘」
信じられない。窮奇を倒すなんて。
目を閉じる間もなかった。悲鳴を上げる|間《ま》でさえ。桂桂を抱いたまま座りこんだ蘭玉を、少年は|露《つゆ》を払いながら振り返る。
「――|怪我《けが》は」
ない、と首を振る以外になんと答えられただろう。あんぐりと口を開けた|遠甫《えんほ》が、押し留める形に上げたままの手をようやくおろした。
「お前さん――」
|遠甫《えんほ》が言い差したとき、桂桂が声を上げた。
「おにいちゃん、うしろ!」
間髪入れず少年が振り返る。納めた剣を抜き払うと同時に、中門の奥からもう一頭の|窮奇《きゅうき》が飛び出してきた。
体当たりけるように飛びかかってきた窮奇を、するりと少年は|躱《かわ》す。窮奇の|血濡《ぬ》れた|牙《きば》が|虚《むな》しく宙を|噛《か》んだ。その後頭部に振り下ろされる|斬撃《ざんげき》。のけぞった窮奇の肩をさらに突き通し、抜くと同時に身をよじって振り返る窮奇の|喉《のど》を刺し|貫《つらぬ》く。
またも、なんの造作もなかった。
横到しになった窮奇の喉元に食いこんだ剣に引きずられ、少年がたたらを踏むのが|妙《みょう》に迫った。窮奇に比べ、その少年はあまりに軽いのだ。
「すごい――すごい!」
|桂桂《けいけい》が|蘭玉《らんぎょく》の手を離れて立ち上がった。
もういちど、|白刃《はくじん》の|露《つゆ》を払って、少年は振り返る。
「|怪我《けが》は、ないようだな」
「うん。おにいちゃん、すごいね」
桂桂に軽く笑んで、少年は奥を振り返る。
「悲鳴がやんでる……」
|遠甫《えんほ》が少年のほうによろめき出た。
「他にも子供が――」
最後まで言わせず、少年は窮奇の死体を|頓着《とんちゃく》もみせずに|跨《また》ぎ越して、奥へと向かって|駆《か》けていく。
慌てて蘭玉たちはその後についていき、|無惨《むざん》なありさまになった|廂房《はなれ》を見た。
息のある者はいなかった。十五から七つまでの三人の子供たち。同じ家で今日まで一緒に暮らしてきた。
開いた大窓、|揺《ゆ》れる板戸。吹きこんだ冷気でしんと|房間《へや》は冷たく、あたり一面に|撒《ま》き散らされたまだ臭いも生々しい鮮血から、湯気が立っていないのが不思議なほどだった。
|蘭玉《らんぎょく》らは三人の死体を|院子《なかにわ》に寝かせて|筵《むしろ》をかけた。騒ぎを聞きつけた|里《まち》の人々が集まって、蘭玉らを|労《ねぎら》いながら死者を|悼《いた》みながら、それを|里府《りふ》に運んでいった。その頃にはこの出来事が近隣にまで伝わったのだろう、里の中は見慣れない人々でごったがえしていた。
蘭玉は|里家《りけ》を遠巻きにする人々を見やり、次いで剣を片手に|提《さ》げたまま|院子《なかにわ》に立って死者を見送っている少年を見上げた。紅の髪に深い|翠《みどり》の|瞳《ひとみ》。よく|陽《ひ》に|灼《や》けた快活そうな肌の色。着ているものは|丈《たけ》の短い粗末な|袍《ほう》だが、窮奇を|斬《き》った剣は見事だった。
「あの……ありがとう。――おかげで助かりました」
いや、と答えた声は静かだがどこかぶっきらぽうな印象を与えた。歳の頃は|蘭玉《らんぎょく》よりも少し下に見える。|背丈《せたけ》にはあまり変わりがないから、歳のわりには長身の部類に入だろう。
「|北韋《ほくい》のひと?」
少なくとも|里《まち》では見かけない顔だったのでそう|訊《き》いたのだが、これには、いや、と返答があった。蘭玉は首を|傾《かたむ》ける。なにしろ朝早くのことなので|訝《いぶか》しく思った。|里閭《もん》は夜明けに開く。朝一番に里に入ってきたのだとしたら、この人物は昨夜野宿した勘定になる。
蘭玉がそう言うと、相手は|頓着《とんちゃく》なく|領《うなず》いた。
「野宿だった。――どこかの|廬《むら》で宿を頼もうと思ったけど、どこも無人だったから」
この季節に廬に宿を|乞《こ》おうだなんて、と蘭玉は|呆《あき》れ、すぐに考えを改めた。
「ひょっとして、南から来たの? |巧《こう》や|奏《そう》あたりの」
ずっと南の暖かな国では、冬にも廬に残る人が多いと聞いた。
「いや。|雁《えん》から」
「雁なら寒い国でしょう。雁の廬だって|空《から》だったでしょうに」
「そうだったかな」
くつくつと笑う声が聞こえて、振り返ると近所の家に|桂桂《けいけい》を預けた|遠甫《えんほ》が戻ってきたところだった。
「その子は、|海客《かいきゃく》じゃよ」
遠甫に言われて、蘭玉は目を見開いて少年を見上げる。遠甫もまた彼を見上げるようにした。
「あんたが|中陽子《ちゅうようし》じゃね?」
「そうです。――では、あなたが遠甫さん?」
遠甫は|頷《うなず》いて、蘭玉を見る。
「言っておった子じゃよ。これから|里家《りけ》で預かる。仲ような」
「え? ――でも……」
蘭玉はまじまじとその人物を見上げた。遠甫には同じ年頃の少女だと聞いていたので。
「……ごめんなさい……! あたし、勘違いしてたみたい」
相手は軽く笑った。
「構わない。慣れてる」
遠甫は蘭玉を見やる。
「陽子、この娘は里家の子で蘭玉という。先ほどお前さんが助けた|小童《こども》の姉じゃ」
よろしく、と陽子は軽く|会釈《えしゃく》をする。蘭玉がこちらこそ、と笑ったとき、遠甫が軽く蘭玉を|促《えなが》した。
「――さあ、着るものを着替えて、桂桂のところへ行ってやるといい。ずいぶんと|怯《おび》えておったから」
はい、と頷いて小走りに去っていく蘭玉を見送り、|遠甫《えんほ》は改めて|傍《かたわ》らの娘を見上げた。
「――礼はいたしませんぞ。人目がありますゆえ」
「もちろん、結構です」
「申し訳ないが、|里家《りけ》の者として待遇させていただく」
「そのつもりで来ました」
その静かな声を聞き、その目を見て遠甫は|頷《うなず》く。
「お礼申しあげる。よくぞ我らを救ってくだされた」
「まだこんな人里に妖魔が出るんですね」
「じきに出なくなりましょうよ。――|慶《けい》には新王がおられますからな」
3
|鈴《すず》は船の出航を待ちながら、|船端《ふなばた》に|凭《もた》れて手の中の|旌券《せいけん》をためつすがめつした。
旌券とは、旅をするにあたって携帯する小さな木の札のことだった。人は国から与えられた土地を基盤に生き、国もまた土地を基盤に人を治める。給付された土地から離れることは官の保護をなくすことを意味した。
このために発行されるのが旌券、表には本人の姓名が書かれ、裏にはおおむね発行された役所の名が書かれる。役所にある|戸籍《こせき》の上に旌券を置き、その縁を三か所戸籍ごと小刀で突いて、万一照合あったときにはその傷を重ねて確認する。ときには、旌券の裏に身元保証人の名が記されることもあった。
この旌券によって人は土地を離れても、事あったときにはもよりの官府に保護を求めることができる。他国に旅するときにも同様だった。旌券なく旅すれば|浮民《ふみん》と言われ、法の保護を失ってしまう。たとえ隣の街までの往復でも、管轄する官府が違えば旅券が必要になる。それで誰もが常に携行するのが習わしになっている。
鈴の旅券の裏書きには|御名御璽《ぎょめいぎょじ》、|采王《さいおう》自らが発行した旅券である。旅券に結び合わせている小板の表にある焼き印は|烙款《らっかん》といわれる。|界身《かいしん》が発行した保証の印だった。
采王|黄姑《こうこ》は鈴に多額の旅費を与えてくれた。これは|才国揖寧《さいこくゆうねい》にある界身に納められ、この界身が烙款を発行する。界身には強力な|座《ざ》がある。他都市他国の界身と強固に組織されていて――この組織を座という――、座に参加している界身の烙款があれば、どこであろうと同じく座に参加している界身から金銭や|為替《いてい》を受け取ることができる。この烙款は保証を発行した界身と、受け取ることのできる限度額を部外者には読めない界身座独自の文字で示してあった。
「……すごい」
|呟《つぶや》いて鈴は、|旌券《せいけん》をて|丁寧《ていねい》に|内懐《うちぶところ》にしまう。中の帯に通した|紐《ひも》に結びつけた。
王宮に務められないのは残念だけど、と鈴は思う。少しだけ鈴の置かれた境遇は良い方向に動いた。黄姑が下官に命じて鈴を騎獣で|虚海《きょかい》沿岸の|永湊《えいそう》まで送ってくれた。十日余りの旅を|経《へ》て虚海の沿岸に着けば、船に乗れるよう手配をしてくれる。客船がいいか、商船がいいかと|訊《き》かれた。客船は|奏《そう》までの便しかない。旅客船を選ぶなら、|慶《けい》まで何度か乗り継がなくてはならない。荷を運ぶ虚海廻りの商船に便乗すれば|雁《えん》への船がある、途中慶にも停泊するが、と。鈴は商船で構わないと答えた。それで下官が商船のひとつに話をつけてくれたのだった。
これで慶まで旅ができる。采王が裏書きしてくれた旅券があれば、|景王《けいおう》に会うことだって難しくはないだろう。
――会える。
同じ|蓬莱《ほうらい》から来たひと。きっと鈴を分かってくれるこの地上で唯一のひと。
渋色の帆が|揚《あ》がる。船は小さく、帆は一枚。帆柱の頂上には小さな車がついている。これが順風車、国の冬官府で造られる|呪器《じゅき》だった。虚海側には良い港がないために大型船は行き来しない。おもに荷物を運ぶ船だが、依頼があれば人も乗せる。
――|懐《なつ》かしい。
鈴は|船端《ふなばた》からその暗い海を見下ろした。|漆黒《しっこく》の海、星のように明滅する光。懐かしい故郷から流されて、この世界で最初に見たのはこの海だった。鈴はなにも分かっていなかった。自分が|溺《おぼ》れそうになった海がどれだけ故郷からは遠かったか。海中に明滅する光は魚のものだと、そういえばそんなことでさえ、鈴は知らなかった。
深海にあって光を発する|妖魚《ようぎょ》たち。こんなに小さく見えるけれども、あれは実際、|艀《はしけ》なら|呑《の》みこんでしまえるぐらい大きい。嵐の時でもなければ、決して水面には浮かんでこないから、危険ではない。人を|襲《おそ》う|妖魔《ようま》はおおむね|獣《けもの》や鳥で、それは|黄海《こうかい》からやってくる。
船は|才《さい》の南にある港を出て、虚海を東進していく。内海ではなく虚海をゆくのは、途中に通る|巧《こう》の王が|斃《たお》れて、国が荒れているからだった。
「ふつう、三年や五年じゃ、妖魔があんなに出没するようにはならないんだが」
顔見知りになった水夫は教えてくれた。
「とにかく、天災よりも妖魔がすごい。|令巽門《れいそんもん》に通じる|巽海門《そんかんもん》は特にひどいな。内海を|雁《えん》から帰ってきたやつが、黄海から渡る妖魔の群れで|陽《ひ》が|陰《かげ》ったと言ってた」
「まあ……」
世界中央を丸く閉じる|金剛山《こんごうざん》、その内側を黄海という。黄海へ通じるのは|四令門《しれいもん》だけ、そのうちの南東にある門を|令巽門《れいそんもん》といい、|巧《こう》と黄海を隔てる海を|巽海門《せんかいもん》といった。
「よっぽどあくどいことをやったんだろう、死んだ|塙王《こうおう》は。死んでまだ何か月も経たないっていうのに、あのありさまだからな。|巧《こう》の連中はたいへんだ。あれじゃあ次の王が|起《た》つまでに、どれだけ国が荒れるやら」
「たいへんなのね……」
|妙《みょう》な国だ、こちらの世界は。鈴はそう思う。天の神さまが世界を創ったといい、実際、子供の|生《はえ》る木やら、不思議な生き物やら、本当に神さまがいてもおかしくはない気がするけど。――でも、だったらなぜ、神さまは国が荒れないように創らなかったのだろう。
――神さまがいるんなら、|海客《かいきゃく》なんてないようにしてくれればいいのに。
鈴を助けてくれればいいのに。
船は|奏《そう》の沿岸に沿って東に向かい、途中、三か所に寄港した。最後に寄ったのは|巧《こう》に近い小島の港、そこから船は巧と|舜《しゅん》に|挟《はさ》まれた内海を北上していく。内海の水は虚海の水よりも|僅《わず》かに青い。暗い|紺青《こんじょう》をしていた。
「どうして海の色が違うのかしら……」
|船端《ふなばた》に|両肘《りょうひじ》をのせ、そこに|顎《あご》を埋めていると、ふいに隣から声がした。
「浅いからだよ」
鈴は|慌《あわ》てて声のほうを振り返り、すぐ脇で背伸びをしながら海を|覗《のぞ》きこんでいる男の子を見つけた。最初鈴一人だった旅客は、三つの港に寄るうちに八人ほどに増えていた。そういえば、最後に立ち寄った|没庫《ぼつこ》の港で乗ってきた旅客のなかにこんな子がいたな、と鈴は思い出した。
「浅いの?」
「浅いと、海の色は青くなるんだ。――ねえちゃん、なんにも知らないんだなぁ」
鈴はちょっとその子供をねめつける。
「だって海の側に住んだことがないんだもの」
「そっか」
|手摺《てすり》を離して、子供はにっと笑う。十二かそれぐらいだろうか。|雀斑《そばかす》が明るい印象の、|蜜柑色《みかんいろ》の髪をした子供だった。笑うとそれだけでばっと顔が輝いて見える。
「……あなたは|雁《えん》に行くの? |慶《けい》に行くの?」
慶、と子供は答えた。そうなの、と鈴は|微笑《ほほえ》む。
「あたし、鈴よ。よろしくね」
子供は首をかしげた。
「かわった名前だなぁ」
「うん。あたし、海客なの」
「かいきゃく?」
こちらの人間でも知らないことがあるらしい。
「|蓬莱《ほうらい》から来たの。流されてしまって」
へえええ、と子供は大きく口を開けた。
「ほんとに? すげえなあ」
「すごくない。大変なことなの。もう二度と家には帰れないんだから」
ふうん、と|呟《つぶや》いて子供はもういちど背伸びをした。|船端《ふなばた》から海を|覗《のぞ》きこむ。
「ねえちゃん、運が悪かったんだな」
「そうね……」
|舷側《げんそく》を洗う波は白い。暗い海面に鮮明だった。目を沖へ転ずれば、鮮やかに天を切り取る水平線。そのはるか|彼方《かなた》に鈴の生まれた国はある。二度と戻れないのだと聞いて、どれほど泣いたろう。|仙《せん》になれば虚海を越えることができると知って|梨耀《りよう》によく|仕《つか》えれば、そのうち海を越えることのできる仙に取り立ててもらえるのでは、などと甘い夢もみた。同じ|飛仙《ひせん》でも、伯位の仙でなければ越えられないのだと知ったときの絶望。
「元気出しなよ」
子供が鈴の腕を|叩《たた》いた。
「家に帰れないやつなんか、いっぱいいるもん」
鈴は子供をねめつけた。
「いっぱいいないわ。海客なんて本当に少ないんだから」
「海客じゃなくてもさ。国が荒れて、家が焼けて、帰れなくなったやつだっているんだし」
「そんなの、あたしの言う帰れないとは違うわ! もといた場所に帰れるんじゃない。家なんか焼けたって建てれば済むことでしょう。|懐《なつ》かしい場所にもう二度と帰れないって意味分かる? 分かって言ってる?」
子供は困ったように鈴を見上げた。
「同じだと思うけどなぁ……」
「あんたは子供だから、分からないのよ」
子供はぶくんと|頬《ほお》を|膨《ふく》らませた。
「子供だって|大人《おとな》だって、悲しいのは同じだい。家に帰れないと|辛《つら》いのも同じじゃないのか? 家に帰れなくて悲しいのは分かるけど、そんなの、いっぱいあることだろ」
「だから、意味が違うって言ってるでしょ!」
子供はさらに|膨《ふく》れっ|面《つら》をした。
「じゃあ、勝手にそこで泣いてりやいいじゃないか。ごめんな、|邪魔《じゃま》して」
言い捨ててくるりと背を向ける。
――この国のひとたちは、いつもこうだ。何も分からないくせに。
「|嫌《いや》な子ね!」
子供は振り返りもしない。
「あんた、名前は」
|清秀《せいしゅう》と子供は背中越しに投げ捨てた。
六章
1
「――陽子が家出した※[#「※」は感嘆符+疑問符、1-8-78、202-3]」
|楽俊《らくしゅん》は毛並みに|覆《おお》われた|尻尾《しっぽ》をぴんと立てた。それを|面白《おもしろ》そうに見やって、|六太《ろくた》は指の先で落ち着くように伝える。ちらりと周囲の卓で食事をしている人々と|食膳《しょくぜん》を運ぶ店の者を見やった。
「静かにな」
「ああ――すんません」
六太はにっと笑って、前に落ちてきた布をうっとうしげに払う。髪を覆って頭に巻かれた布のせいで、とりあえず単なる子供にしか見えない。
「ちょいと家を出るんだとさ。……|旌券《りょけん》を送ってくれってんで、そうしてやった」
「なんでまた……」
さあなあ、と六太は団子を口に放りこんだ。
「いろいろあんじゃねえのかな。こないだもなんか悩んでる感じだったし」
そうですね、と楽俊は|呟《つぶや》く。
「陽子は|真面目《まじめ》だからなあ。おまけにあそこには輪をかけて真面目な堅物がいるし。ちから抜いて気楽にやれ、なんて言ってもできそうな連中じゃないしな」
楽俊は|頷《うなず》いて、|箸《はし》を手に取り直したが、どうにも手が止まる。
「ちょっくら、様子を見に行ってみようかなあ……」
ちょうど正月を挟んだ|二《ふた》月、大学は長い休暇に入る。
「そりや、過保護」
六大は|揶揄《やゆ》するように楽俊を見る。楽俊はしおしおとひげを|垂《た》れた。
「けど、母ちゃんを迎えに行きたいし、ついでに」
楽俊の故国――|巧国《こうこく》は|瓦解《がかい》した。王がついに|斃《たお》れたのだ。六太は楽俊が母親を呼び寄せると言っていたのを思い出した。
「ちょっとあちこちの国のことも知りたいし、|慶《けい》の様子を見とこうかと」
「見聞を広めるのはいいことだけどな。――そだ」
六大は団子の|串《くし》を楽俊に向ける。
「母ちゃんのことならおれがなんとかするからさ、お前、|柳《りゅう》に行ってみねえ?」
「――柳」
|頷《うなず》いて六太は声を低めた。
「近頃、柳の沿岸に|妖魔《ようま》が出る」
「……まさか」
「|戴《たい》から流れてくるんだろうかって話だが、傾いてない国に妖魔は入れないもんだ。どうもキナ|臭《くさ》い」
楽俊は考えこむようにした。
「ちょっと柳の様子を|窺《うかが》いたいってんで、仕事放り出して、いまにも出て行きそうなやつがいるからさ。、楽俊が行ってくれると、助かるんだがなあ」
「……いいですよ、おいらが行っても」
六大は満面に笑みを浮かべた。
「助かる。――どうも|妙《みょう》な感じだな。|戴《たい》だろ、|慶《けい》だろ、|巧《こう》だろ? そのうえ|柳《りゅう》じゃ、近頃|雁《えん》のまわりに落ち着いてる国がないことになる」
「本当に」
「もしも柳になにかあるんなら、少しでも早く知っておきたい。悪いけど、頼む。そのかわり、母ちゃんのことと陽子のことはおれが気にかけておくからさ」
|楽俊《らくしゅん》は頷き、次いで東に思いを|馳《は》せた。
「――|陽子《ようこ》なら大丈夫だよ」
楽俊は|六太《ろくた》を振り返る。
「信頼してやれ。そりや、しばらくは大変だろうさ。けど、あいつなら、ちゃんと抜ける。……|懐達《かいたつ》って言葉を知ってるか?」
「……いんや」
「慶の言葉だ。男王が|懐《なつ》かしい、ってこと。ひどい女王が続いたからな、無理もないと思うけど。実際、おれも女王だってんで、大丈夫かなと思ったもんな。――ま、すぐにそういう心配はやめたけど。陽子は女だってことでずいぶん器量を疑われてる。……だからさ、おれたちだけは信じといてやろうや」
にっと笑った六太につられて、楽俊も笑う。
「はい。……そうですね」
|瑛州《えいしゅう》は首都|堯天《ぎょうてん》を中心に弓なりに曲がっている。瑛州の北部|北韋郷《ほくいごう》はその弓の先端の部分にあたるから、堯天よりもかなり西に位置した。さらにその東端にあるのが|固継《こけい》、人々はその街を北韋と呼ぶ。河をひとつ越えれば|和州《わしゅう》、付近で最大の都市、|拓峰《たくほう》である。
|蘭玉《らんぎょく》はその北韋の街の外にある小さな墓所で手を合わせた。|里家《りけ》で死んだ子供たち。親を亡くして里家に保護され、そのあげくに自らも妖魔に殺された。彼らの苦しみ、恐怖を思うと、半月が|経《た》ったいまも切ない。
墓所の入り口で待たせておいた|山羊《やぎ》を連れて、蘭玉は|里《まち》へ帰る。昼の問、街の|側《そば》の|閑地《かんち》で放しておいたのを、小屋に連れ帰るところだった。蘭玉が住む固継の里は北韋の街に付属している。ちょうど蘭玉の歩く方向から見ると、北韋の街に固継の里が|瘤《こぶ》のように付いているのがよく分かった。|蘭玉《らんぎょく》はそのありさまに少しだけもの寂しい気分を感じながら、冷たい風の中を山羊を引いて歩く。固継の|里閭《もん》から街に入って、里家へと戻った。
里家の裏手に廻って|畜舎《ちくしゃ》に戻ると、ちょうど|桂桂《けいけい》が夕仕事のために里家の裏口から|駆《か》け出してきたところだった。その隣に|陽子《ようこ》の姿が見える。
「おかえり」
桂桂の高い声はよく通る。陽子はただ軽く|会釈《えしゃく》するようにした。蘭玉も軽く笑んで応え、変わったひとだわ、と思う。|海客《かいきゃく》だと言っていた。そのせいだろうか。|遠甫《えんほ》は里家の新しい子供だと言ったが、実際には陽子は遠甫の客分だった。
|里《まち》はふつう、|里宰《りさい》と|閭胥《ちょうろう》によって運営される。|里府《りふ》を|司《つかさ》どるのが里宰、それを助ける相談役が閭胥である。閭胥は必ずその里の最長老で、里宰が|里祠《りし》の祭主を兼ねるように、小学の教師と里家の|主《あるじ》を兼ねる。だが、遠甫は固継の者ではない。蘭玉が|訊《き》いてみると、|慶国《けいこく》の西、|麦州《ばくしゅう》の出身だと言っていた。だが、ふつう里宰も閭胥も、その里の者が着任するものである。
――よく考えると、遠甫って不思議。
蘭玉はそう思う。どういういきさつで|閭胥《ちょうろう》になったのかは知らない。|里宰《りさい》など、遠甫に対してははるかに目上の者のようにして接する。遠甫には客も多かった。どこか遠くから何日もの旅をして、客人が来ては里家に|逗留《とうりゅう》して遠甫と語らっていく。その客人がどういう人物で、なぜ遠甫を訪ねてくるのかは知らない。|蘭玉《らんぎょく》が|訊《き》いてみても、教えてはもらえなかった。ただ、客の誰もに遠甫が非常に尊敬されていることだけは知っている。彼らは遠甫に教えを|乞《こ》うために訪れるのだ。そういった客人は必ず里家の奥にある客人のための|堂屋《むね》に逗留する。
|里家《りけ》はふつう、四つの建物からなる。一つが里家で、ここには孤児や老人が住む。一つは|里会《りかい》と呼ばれる部分で、ここには|里《まち》の人々が集まる。冬に戻ってきた人々は昼間そこに集まり、|細工《さいく》物をこしらえたり布を織ったりする。夜にはそこで酒を|酌《く》み交わすこともあった。|客庁《きゃくちょう》は里家の人々、あるいは里を訪ねてくる客人のための建物だった。これに付属するように|園林《ていえん》があって、そこにある|書房《しょさい》で遠甫は日の大半を暮らす。これらの建物の世話、集まった人々や客人の世話は里家の人間の仕事だった。
陽子はその中、客庁に|房問《へや》を割り振られた。遠甫がそうしろ、と命じたのだ。里家に住まないなら、里家の者とは言えないだろう。そもそも、里家に住む者もその里の者だけ、陽子はもちろん里の者ではない。
――変な感じ。
蘭玉は|山羊《やぎ》を桂桂に任せ、陽子と|厨房《だいどころ》に戻る。蘭玉に言われるまま外の井戸から水を|汲《く》んできては|水甕《みずがめ》に空ける陽子を見た。
陽子は客庁に房問を与えられていることを除いて、ほとんど里家の人間と同様に過ごしている。こんなふうに厨房の手伝いもするし、里家の掃除もする。蘭玉や桂桂が仕事を終えて遊んでいる問、遠甫の書房を訪ねて話しこんでいることだけが違っていた。
――陽子は|海客《かいきゃく》だから、こちらのことを教えておるんじゃよ。
遠甫はそう言うし、そうなのだろうな、とも思うのだが。
「――なにか?」
突然、その陽子から訊かれて、蘭玉はぎょっとした。いつの|間《ま》にか手を止めてまじまじと陽子を見ていたらしい。
「あ……ううん。なんでもない」
それでもなお陽子が首を|傾《かたむ》けるので、蘭玉は正直に訊いてみた。
「どうして|固継《こけい》に来たの?」
ああ、と陽子は|呟《つぶや》く。
「こちらのことが分からないと言ったら、遠甫を紹介してくれたひとがいたんだ。――それで」
「|遠甫《えんほ》って|偉《えら》いひとなの? なんだかお客さんもたくさん来るんだけど」
「よくは知らない。話をしていると、|聡明《そうめい》な方だなと思うけど」
「ふうん……」
|水汲《みずく》みが終わったというので、野菜を洗ってもらう。|陽子《ようこ》が洗った野菜を切りながら、|蘭玉《らんぎょく》は|訊《き》いた。
「……あのね? |蓬莱《ほうらい》ってどんなとこ?」
古老は|神仙《しんせん》の国だという。どんな苦しみも悲嘆もない、夢の国だと。
陽子は苦笑した。
「こちらとあまり変わらない。災害があったり、戦争があったり」
「そっか……」
少し|安堵《あんど》したような、それでいて少し|落胆《らくたん》したような。
「私も一つ訊いてもいいかな?」
陽子に問われて、蘭玉は手を止める。
「なに?」
「蘭玉っていうのは|字《あざな》?」
「ううん。名よ」
「こちらにはたくさん名前があってややこしいな」
陽子が本当に途方に暮れたように溜息をつくので、蘭玉は思わず笑ってしまった。
「蓬莱には字がないのね。――姓名は戸籍上の名前。字は呼び名ね。昔は決して名を呼んだりはしなかったみたいだし、|昔気質《むかしかたぎ》のひとは今でも名で呼ばれるのを|嫌《いや》がるけど、あたしは平気。姓は|蘇《そ》。|大人《おとな》になって一人立ちしたら、|氏《し》を選んで、|氏字《しじ》を名乗るけど、あたしはまだ大人じゃないから」
大人とは成人をさす。二十になれば国から土地をもらって自立できるようになる。これを|給田《きゅうでん》というが、この給田の二十は特別に|数《かぞ》え|歳《どし》で数える。農閑期の正月、いっせいに給田が行われるためである。
陽子は苦笑した。
「歳の数え方もたくさんあって、ややこしい」
「ふつうは満で数えるの。|夫役《ぶやく》があるから。数え歳だと、同じ十七でも身体の大きさが違ってしまうでしょ?」
納税の義務は成人して給田を受けてから|課《か》せられるが、夫役は年齢を問わない。急場には十の子供でも駆り出されることがある。|堤《つつみ》を|築《きず》き、|溝《みぞ》を掘り、あるいは|里《まち》や|廬《むら》を造作し、運が悪ければ戦う。兵役だけは十八未満の未成年に課せられることは少なかったが、兵卒の数が足りなければ、やはり|懲役《ちょうえき》される年齢は下がってゆく。
「昔は|夫役《ぶやく》も|数《かぞ》え|歳《どし》だったらしいけど。うんと大昔」
「ふうん……」
「|蓬莱《ほうらい》には夫役はないの?」
陽子は首を振った。どこか苦笑するふうだった。
「なかったな。……年中夫役をしてた気もするけど」
「へえ?」
「|大人《おとな》は朝から夜中まで働く。子供は朝から夜中まで勉強する。ベつに強制されるわけじゃないけど、人より働かないとたくさんのものをなくしてしまう。だからみんな、夜中や明け方まで働く」
「大変なのねえ……」
蘭玉が|呟《つぶや》いたとき、|山羊《やぎ》の世話を終えた桂桂が走りこんできた。
「終わったよっ」
元気いっぱいに言って、次の仕事を|催促《さいそく》する。
「じゃあ、卓を|拭《ふ》いて食器を出してね」
「うんっ」
|布巾《ふきん》を持って|駆《か》けていく桂桂を、陽子は目を細めて見ていた。
「働き者でいい子だな、桂桂は」
蘭玉はあっさり|頷《うなず》いた。
「そうでしょ?」
どこか自慢げに言った蘭玉に、陽子は|微笑《ほほえ》む。
「――桂桂は? 名?」
「|小字《しょうじ》よ。子供の呼び名ね。|蘭桂《らんけい》、つていうのが本当の名前」
陽子は軽く笑った。
「本当に、こちらはややこしい」
2
|陽子《ようこ》は|遠甫《えんほ》がどういった人物なのか、|詳《くわ》しいことを知らなかった。
|景麒《けいき》が手配してくれたのがこの|里家《りけ》、彼は遠甫に教えを|乞《こ》え、と言った。たいへん優秀な教師だから、と。それ以上については、|訊《き》いたが教えてもらえなかった。かろうじて|固継《こけい》の|里《まち》の|閭胥《ちょうろう》だ、と答えたばかりだった。
遠甫には話が通じているのだろう、遠甫は陽子が里家に着いた次の日から、午後と夕食のあとに|書房《しょさい》へ来るように、と言った。最初の何日かにしたのは世間話だった。次には陽子自身の生い立ちを幾日にも|亘《わた》って|尋《たず》ねられた。次には|蓬莱《ほうらい》のことを訊く。どういった国があり、どんな地理でどんな産業があり、どうやって治められているのか。そこに住む人々はなにを考え、望んでいるのか。
陽子は遠甫と話していると、|愕然《がくぜん》とすることが多かった。故国のことでさえこんなに知らないのか、と我ながら情けなくなる。
|昼餉《ひるげ》の食器を片づけて、|走廊《かいろう》を|書房《しょさい》へと抜けながら、陽子はひとつ溜息を落とした。またあの問答の続きだろうか。日に日に陽子には答えられないことが増える。
書房を訪ねると、遠甫の姿はなく、|園林《ていえん》を覗くとそこに姿があった。園林に面してある|四阿《あずまや》のような|茶房《ちゃしつ》に座っている。
「こちらでしたか」
走廊を歩いて茶房に向かうと、遠甫は陽射しの中でくしやりと笑った。
「今日はうららかで良い天気になったの。――陽子もそこに座りなさい」
はい、とおとなしく陽子は茶房の|床几《こしかけ》に腰をおろした。
「陽子はこちらの冬は初めてだの。どうだな?」
「あまり日本と変わらない気がします」
ふむ、と遠甫は|頷《うなず》く。
「|慶《けい》は恵まれておる。北の国々に比べればな。ここ|北韋《ほくい》にも家をなくし、宿にも泊まれずに露天に布と板で囲いをして暮らす者がおる。だが、北の国では真冬、野宿すれば確実に|凍《こご》え死ぬ。田畑の収穫も薄い。とにかく種を|播《ま》けば|細々《ほそぼそ》とでも実りが得られる暖かな国とはわけが違う。――冬、人に必要なものはなんじゃと思う?」
「暖かい家……ですか?」
遠甫は|髭《ひげ》をしごく。
「なるほど、|蓬莱《ほうらい》生まれではそうなるじゃろう。――いや、家ではない。食料じゃよ。それは|飢《う》えたことのない国の者の意見じゃな」
陽子は恥じ入って|俯《うつむ》いた。
「特に北方の国では本当に深刻じゃな。夏の日照りが少し悪くても、秋の実りにひびく。細細と収穫があっても、そこから税を納めねばならん。残った穀物のうち、何割かは翌年また播かねばならん。これを食ってしまえば、翌年確実に飢える。たとえ物資があっても、冬の間は荷が満足に動かない国もある。飢えても|凍《こお》った土、根を掘ることさえできぬ国もある」
「……はい」
「話をしてみてよう分かった。なるほど、陽子は|苦吟《くぎん》するはずじゃの」
陽子は遠甫の横顔を見る。
「……ひょっとして、試しておられたのですか」
「いいや。|儂《わし》は人を試すような真似はせんよ。問題がどこにあるのか、確かめておっただけじゃ。……確かに陽子はこちらに|疎《うと》い。こちらとあちらの差があまりに大きい。それではどこへ行ったものか、とうてい分かるまいて」
はい、と陽子は|俯《うつむ》き遠甫もまたしばらくの間、|園林《ていえん》を見ていた。
「――国の|基《もとい》は土地によって成り立っておる」
遠甫は唐突に切り出す。陽子は思わず姿勢を正した。
「全ての民は成人すると土地をもらう。与えられる土地は一|夫《ぶ》、百|畝《ぼう》で、百|歩《ぶ》四方じゃ。九|夫《ぶ》をもって一|井《せい》とし、この一井一|里《り》四方九百|畝《ぼう》を八家で所有する」
「――待ってください。単位が……」
|頻繁《ひんぱん》に|虚海《きょかい》を渡って|蓬莱《ほうらい》へ出向く|延麒六太《えんきろくた》は、あちらの事情に|許《くわ》しい。どうにかすると書籍やちょっとした道具などを持ち帰ることもある。その六太が教えてくれたところによれば、一|歩《ぶ》はあちらの単位で百三十五センチらしい。
「一|歩《ぶ》が百三十五センチ、一里は三百|歩《ぶ》だから……」
計算をする陽子を遠甫は、ふと笑う。
「そんな|妙《みょう》なことを考えんでも、一|歩《ぶ》は二|※《き》[#「※」は「足+圭」、2-89-29、215-13]じゃよ。|※《き》[#「※」は「足+圭」、2-89-29、215-13]はこう」
遠甫は片足を踏み出す。
「この歩幅が一|※《き》[#「※」は「足+圭」、2-89-29、215-15]、左右両方とも歩いて一|歩《ぶ》じゃ」
「……ああ、そうなのか」
「長さでいえば、一歩が一|歩《ぶ》、広さで言うときには一|歩《ぶ》四方が一|歩《ぶ》じゃ。――一|尺《しゃく》はこう」
遠甫は両手の指を揃えて、|掌《てのひら》を並べる。
「この手の幅が一|尺《しゃく》、一|尺《しゃく》は十|寸《すん》じゃから、指一本の幅が一|寸《すん》になろうかの」
「へえ」
「一|丈《じょう》は、大小があるので分かりにくかろうが、人の|背丈《せたけ》ほどじやな。一|升《しょう》というのは両手にものをすくっただけ、と目安にするとよかろうよ」
言って遠甫は、ただし、と笑う。
「大男が一里と言ったら、一里よりも遠い。小男が一升と言ったら一升に少し足りないと考えるのじゃな。これを覚えておくと、損をしない」
陽子は軽く笑った。
「なるほど」
「一|夫《ぶ》はつまり、百|歩《ぶ》四方の土地じゃ。まわりをてくてくと歩いて、四百|歩《ぽ》だの。農地としては広い。この二|夫《ぶ》が九つで一|井《せい》という。この広い土地が八家に割り当てられる。国が民を治めるときには、この一|井《せい》が最小の単位になろうかの」
「八家で九|夫《ぶ》?」
遠甫は得たりというふうに笑む。
「一|夫《ぶ》は公共の土地なのじゃ。八家族の土地八|夫《ぶ》、公共地が一|夫《ぶ》。その一|夫《ぶ》のうちの八割が公田というてな、八家共有の土地じゃ。残り二割に|廬家《ろけ》と畑がぶ」
ああ、それで、と陽子は国土の風景を思い出した。農地の中に点在する集落、その集落はおおむね建物の数が等しい。村と呼ぶほどの数はないが、村であるかのようにひとまとまりを見せていた。
「|畝《ぼう》で言えば八十|畝《ぼう》が公田、二十|畝《ぼう》が|廬家《ろけ》じゃ。――二十|畝《ぼう》といえば?」
「ええと……二千|歩《ぶ》です」
「そうじゃな。一家の取り分は畑が二百|歩《ぶ》、家が五十|歩《ぶ》じゃ。二百|歩《ぶ》の畑がどのくらいの広さか分かるかの?」
「……分かりません」
「畑の周囲に果物の|生《はえ》る木や|桑《くわ》を植えて、残った場所に畑を作る。その畑が一家二人の食いぶちに充分足りるというところだの。五十|歩《ぶ》の家は小さい。|臥室《しんしつ》が二つ、|起居《いま》が一つ、|厨房《だいどころ》が一つでやっとじやな。陽子の国の単位でいうなら、二えるでーけーじや」
くすくすと陽子は笑った。
「2LDKね」
遠甫もまたくつくつと笑う。
「――一家は普通二人で数える。二人の人間が充分食べていけるだけの田と畑と家、これが八家集まったものが|廬《むら》じゃな。この廬が三つ集まって|里《まち》を作る。里とは、|政《まつりごと》の末端の単位の末端の単位じゃな。八家の廬が三つで二十四家、これに|里家《りけ》を加えて二十五家じゃ」
「里にも家をもらえるんですね?」
「そうじゃよ。廬は|田圃《たんぼ》の中じゃから、農閑期にいても仕方がない。それで冬には二十四家が里に戻ってくる」
陽子は|微笑《ほほえ》んで、少し耳を澄ませた。広い里家の表のほうから、|賑《にぎ》やかな声が聞こえてくる。女が集まって糸を繰ったり|機《はた》を織ったりする|房間《へや》、男たちが集まって|筵《むしろ》を編んだり|籠《かご》を編んだりする|房問《へや》。|廬《むら》に出ていた問のことを話し合う声。
「とにかく、いずれにしても基本になるのは一|里《り》四方一|井《せい》の土地じゃ。それでこれを|井田法《せいでんほう》という」
陽子は息を|吐《は》いた。
「|太綱《たいこう》の地の巻に書いてあったのは、これだったのか……」
おや、と|遠甫《えんほ》は白い|眉《まゆ》を上げた。
「私は文章がほとんど読めないんです」
なにしろ、漢文だから。しかも|白文《はくぶん》というやつだ。おまけに意味の分からない語が多く、漢和辞典などというものも存在しない。陽子の漢文読解能力でははっきり言って歯が立たない。|景麒《けいき》に読めと言われて読むよう努力はしてみたが、さっぱり分からなかったというのが、正直なところだった。
「どうせ言葉が分かるようにしてくれるんなら、文章も読めるようにしてくれればよかったのに……」
陽子が溜息をつくと、遠甫は声を上げて笑った。
「いいかね、よく覚えておくんじゃよ。――人は|真面目《まじめ》に働きさえすれば、とりあえず|恙《つつが》なく暮らせるだけのものを持っておるんだ」
陽子はぴくりと姿勢を正す。
「最低限の土地があり、最低限の家がある。ちゃんと働き、とりあえず天災も災異もなければ、一生|飢《う》えることなどありやせんのだ。民はみんな最低限のことを国からしてもらっておる。それで本当に一生|恙《つつが》なく暮らせるかどうかは、実は自分の|甲斐性《かいしょう》にかかっておるのじゃよ」
「……けれど、天災が起これば?」
「陽子が考えなければならんのはそこだ。民の全部を背負っておる気になるのはやめなさい。お前さんがするべきことは、水を治め、土地を|均《なら》し、自らを律して少しでも長く生きることじやな」
「そうなんでしょうか……」
「お前さんのするべきことなど、実は限られておるんじゃよ。|旱《ひでり》にそなえて溜池を掘って水路を整える。水害に備えて|堤《つつみ》を築き、河を整備する。|飢饉《ききん》に備えて穀物を|蓄《たくわ》える。|妖魔《ようま》に備えて兵を整える。法を整えるのがややこしいぐらいかの。――さあ、これで終わりじや。しかもこのほとんども、官が行うべきことでお前さんのすべきことじやない。……はて? これでなにか悩むことでもあるかね?」
陽子は笑う。
「……そうですね」
「国を豊かにしてやろうなどと、余計なことを考えるのは後でいい。まず、国を荒らさないこと、これだけを考えるのじゃな」
陽子は息を|吐《は》いた。ようやくなにかしら、肩の荷がおりた気がした。
「……ありがとうございます」
3
「――帰りのほうが速いの? どうして?」
|鈴《すず》は|甲板《かんぱん》で風に当たっていて、子供の声を聞いて顔を|蹙《しか》めた。
「季節がら、北東から風が吹くからな。潮も北から南に流れる。だから帰りはうんと速い」
「へええ」
振り返ると、船員のそばに|清秀《せいしゅう》がちょこんと座っているのが見えた。
「船って|面白《おもしろ》いなあ。おれ、船乗りになろうかなー」
そりやあ、いい、と船員は笑う。
|奏《そう》から|慶《けい》の南東部にある港までは、ほぼ半月の船旅だった。すでに旅程の半分まで来た。乗船した人間は多くないから、もうほとんどが顔見知りだった。その中で最も小さいのが清秀。誰にでも|物怖《ものお》じせずに話しかけ、けっこう気の|利《き》いたことを言うので、利発だと船員にまで可愛がられている。――鈴はそれをいらいらと見ていた。
――そりやあ、子供だからなにも分からないのは仕方ないけど。
あれほど苦しかったこと、故郷と永久に分かたれてしまったことを、よくあることだと言われれば腹が立つ。
よくある? この世界に|海客《かいきゃく》が何人いるっていうのよ。
鈴はぶいと背を向け、船室に入っていった。
船室には油の|臭《にお》いが充満している。最初はかなり|辟易《へきえき》したが、もう慣れた。それでも長い間、船室にいれば揺れと臭いで胸が悪くなる。そのせいだろう、陽気のいい日にはほとんどの人間が|甲板《かんぱん》に出てしまう。戻ると鈴が一人だった。
船室はただ広いだけのものが二つ。そこに全員が|雑魚寝《ざこね》をする。一応女部屋と男部屋に分かれているが、これはいま乗客が少ないからだ。
鈴は|床《ゆか》に座りこんでなんとなく自を|吐《は》く。その背後から|嫌《いや》な声が掛かった。
「ねえちゃん、いちいちおれを|睨《にら》むの、やめてくれよな」
鈴は振り返らない。用があるふりで荷物を引き寄せ、|行李《こうり》の包みを開いた。
「なんの話?」
「船員のあんちゃんに|叱《しか》られたじゃないか。おれが|悪戯《いたずら》でもしたんだろうって」
「そう」
あのさあ、と軽い足音が近づいてきて、鈴の|脇《わき》に清秀が座る。
「なんでそんなに怒ってんだ?」
「べつに怒ってないわ」
「|大人《おとな》げないやつ……」
|大仰《おおぎょう》な溜息が聞こえて、鈴は清秀を見やった。
「あたしは大人だから、怒ってなんかいないわ。子供のすることに腹なんか立てたってしょうがないもの」
清秀は鈴の顔を少しの間まじまじと見つめてきた。
「……なに?」
「ねえちゃ[#入力者注:底本「ん」抜け?、222-15]って、|優《やさ》しそうに見えんのに、そーとー|根性《こんじょう》悪いな」
鈴は|咄嗟《とっさ》に清秀の顔を|睨《にら》みすえた。
「なによ、それ」
「そう言われたこと、ないか? ねえちゃんって、すげーやなやつ」
怒ったら負けだ、と思いながらも、鈴は頭に血が昇るのを止められなかった。
「友達、いなかっただろ。嫌われ者だったんとちがう?」
それは|鈴《すず》の|臓腑《ぞうふ》を|刳《えぐ》った。気がついたら手が伸びて|清秀《せいしゅう》を|叩《たた》いていた。
「なによっ!」
――|梨耀《りよう》。|黄姑《こうこ》。誰もが鈴を嫌う。冷たく当たる。
清秀はぽかんと目を見開いて、それから笑った。
「なあんだ、やっぱりそうだったのか」
「出てって!」
「人間って、本当のことを言われると怒るんだよなぁ」
「……出ていきなさいよ」
「誰でも同じだって言ったのがそんなに気に|障《さわ》ったのか? おれ、間違ったこと言ってないぞ。家に帰れないやつなんか、いっぱいいる。みんな|辛《つら》い。ねえちゃんだけが特別辛いんじゃない。そんなことも分かんないから、嫌われるんだぞ」
「なによ――あんたなんか、大っ嫌い!」
鈴は|堪《こら》えきれずに泣き|崩《くず》れた。
真実だから胸に痛い。この世界で会った誰もが鈴のことを好きではなかった。誰一人、理解してくれなかった。|哀《あわ》れんですらくれなかった。
――どうして?
「どうしてみんな、あたしに辛く当たるの? |洞主《どうしゅ》さまも、あんたも、どうしてあたしを|虐《いじ》めるの? あたしがなにをしたっていうのよ!」
「洞主さま、って――」
「|翠微洞《すいびどう》の洞主さまよ。|才国《さいこく》の」
鈴はまくしたてた。梨耀がどれほど残酷な|主《あるじ》だったか。どれほど辛く、それを精一杯耐えてきたか。|采王《さいおう》に助けられ、助けられたと思えば追い立てられ。――こんな子供に、言ったところでどうなるものでもないのに。
「しょーがねえなぁ。……ねえちゃんって、おれよりガキみたい」
「……なによ」
「ねえちゃん、自分が好き?」
え、と鈴は目を開けた。
「自分のこと、いいやつだって思う?」
「あまり好きじゃないわ……」
こんな|惨《みじ》めな自分なんて。
「だったら、他人がねえちゃんを嫌うの、当たり前だと思わないか? しょせん人間なんて、自分が一番、自分に甘い生き物だろ?」
鈴はぽかんと口を開けた。
「その自分ですらさあ、好きになれないような人間を、他人に好きになってもらうなんての、ものすげー厚かましくないか?」
「そんな意味で……」
鈴は|慌《あわ》てて言い添える。
「そんな意味で言ったんじゃないわ。――もちろん、好きよ。決まってるじゃない。でも、誰もそうは言ってくれないんだもの。誰も好きになってくれない自分は好きじゃない、ってそういう意味よ」
「そんで? じやあ、好きになってくれない相手が悪いんか? だから、態度を改めて好きになれって? それってさらに厚かましいな。だから嫌われるの。以上、終わり」
「あたしは――」
鈴は両手を握りしめた。
「あんたには分からないわ! だってあたしは海客なんだもの……! あたしが海客で、こちらの人とは違うから! だから意味もなくみんなあたしを嫌うんじゃない!」
「おれ、お前みたいなやつ、大っ嫌い……」
清秀は溜息をついた。
「おれ、そういうの、やなんだよ。人よりも不幸なこと探してさ、ぜ−んぶそれのせいにして|居直《いなお》って、のうのうとしてるのって」
鈴は|喘《あえ》いだ。|眩暈《めまい》がするほど、この|年端《としは》のいかない子供が|僧《にく》い。
「ばかみてえ。ねえちゃん、単に人より不幸なのを自慢してるだけじゃねえの。べつに不幸じゃなくても、無理やり不幸にするんだよな、そういうやつって」
「……ひどい、ひどい! どうしてそこまで言われなきゃいけないの? あたし、こんなに|辛《つら》いのに※[#「※」は感嘆符二つ、1-8-75、226-7]」
「辛いことがあると|偉《えら》いのか? 辛いことがあって、|辛抱《しんぼう》してると偉いのか? おれなら辛くないようにするけどな」
清秀は首をかしげる。
「海客でなきゃ、辛くないわけ? ねえちゃん、|仙人《せんにん》で、病気もなきゃ|歳《とし》もとらないわけだろ? 病気で苦しんでるやつのところに行ってさあ、それ、言える? 仙なら食うものに囲ったことなんてないだろ。今にも|飢《う》え死にしそうな人のところに行って、自分が一番不幸だって言えるのか?」
「あんたに言われたくないわ。――あんたは恵まれてるから、そんなことが言えるのよ」
「おれ、恵まれてるかなぁ」
「こちらで生まれ育って、家族に囲まれて、帰る家があって」
「おれ、家、ないよ」
え、と|鈴《すず》は目を見開いた。
「だって、おれ|巧《こう》にいたんだもん。家どころか、|廬《むら》全部がもうないんだよな」
言って|清秀《せいしゅう》は|膝《ひざ》を抱く。
「|虚海《きょかい》のほとりだったんだけどさ。|崖《がけ》が|崩《くず》れて、全部海の中だ。――まあ、廬の連中全部がそうなんだからさ、おれだけつべこべ言ってもはじまらないけど」
それに、と清秀は笑った。
「家に残ってたおばちゃんとか子供とか、みーんな死んだもんな。命があるだけマシだしな」
鈴には言葉が見つからない。最初に|慶《けい》に流されたとき、保護された海辺の廬を思い出した。崖のふちにしがみつくようにした廬。あの崖が崩れ落ちて――。
「そんなやつ、巧に行けばいっぱいいる。王さまが死んだし。|台輔《たいほ》も死んだから、次の王さまが|起《た》つまでずいぶんかかるだろ。みんな巧を逃げ出したんだ。次の王さまがいつになったら起つのか知らないけど、それまでは戻れない。ひょっとしたら二度と戻れないかも」
「でも……」
「けどさ、おれの|廬《むら》、|奏《そう》の国境に近かったし。逃げ出せただけ、運がいいんだ。これから巧はどんどん荒れる。そのうち、逃げ出そうったって、逃げ出すこともできなくなる」
「でも――好きで逃げ出したんだわ」
「誰も逃げたくなんかねえよ。そりや、自分の家が一番だもん。たくさんの人が逃げて、国境には列ができてた。|妖魔《ようま》が出てたくさん食われたよ。そいつらは帰る家が残ってたって、二度と家には帰れない」
ぽつり、と清秀は|零《こぼ》す。
「とうちゃんも帰れない……」
「……お母さんは?」
死んだ、と清秀は困ったように笑う。
「一緒に船に乗って|慶《けい》へ行くはずだったんだ。けど、船が港に来る前に死んだ。そんで、かあちゃんのぶん、おっちゃんを乗せてやったんだ」
清秀に同行しているのは、貧相な中年の男だった。
「おっちゃんも巧のひとなんだって。 身体一つで逃げてきて、船に乗ろうにも金がなかったんだ」
「どうして慶なの? |奏《そう》に逃げてきて」
奏は十二国で最も豊かな国だ。
「おれら、もともと慶の人間だもん」
「――慶の?」
「慶の王さまが――いまの王さまの前の王さまな。その王さまが|起《た》つ前で国がひどいありさまだったんで、おれが小さいときに|巧《こう》に逃げたんだ。で、やっと落ち着いた|廬《むら》がそれだろ? 慶に新しい王さまが起ったってんで、かあちゃん、慶に帰るって」
言って清秀は溜息をついた。
「かあちゃんもとうちゃんも運がないんだ。……結局苦労するばっかりで死んじまったなぁ……」
鈴はいらいらと清秀をねめつける。
「あたしの両親だって苦労ばっかりしてたわ。家が貧しくて、ろくな食べ物もなかった。そのあげくに不作になって、あたしは奉公に売られた。家を――追い出されたのよ」
「ふうん。……でも、みんな死ぬよりいいだろ?」
「あんたは恵まれてるからそんなことが言えるのよ。そりやあ、優しい両親だったんでしょうし。あたしの親なんて、子供を売っちゃう親だもの」
「うん、いい両親だったけど。でも、一人で残されると寂しいぞ」
「一人なのはあたしも一緒よ。あんたは恵まれてる。最後まで家族といられたんだから。あたし、あれきり家族には会えなかったの。もう二度と会えない。むこうがいまどうなってるか知らないけど、父さんも母さんも、きっともう死んでるわ」
「だから、おれも同じだってば」
「同じじゃないわ。死に目に会えただけ、あんたは幸せなの。あたし、二人を|看取《みと》ってあげたかった」
「かあちゃんは、まあなあ。……けど、とうちゃん、妖魔に食われたからな。あんな死に目はあんまり見たくなかったなぁ」
「それでも、最後まで|側《そば》にいられただけましよ! あたし、どんな|悲惨《ひさん》な|最後《さいご》でも看取ってあげたかった。最後まで側を離れないで――」
清秀は首を傾けた。
「ねえちゃん、いま、自分を無理やり不幸にしただろ?」
「――え?」
「ひどいの、ねえちゃんのほうだよ。自分の父親が目の前で妖魔に引き|裂《さ》かれて食われるの、見るのと見ないのとどっちがましか、そんなの分かりきったことだろ? おれ、見たくなかったよ。|駆《か》け寄ることもできないで、もう駄目だって、自分に言い聞かせて逃げ出さないといけなかったんだぞ? とうちゃんは墓もない。|葬《ほうむ》ってもやれなかった。本当に、そっちのほうがましなわけ?」
鈴は慌てて口元を押さえた。
「あたし……」
「誰かが誰かより|辛《つら》いなんて、うそだ。誰だって同じくらい辛いんだ。生きることが辛くないやつがいたらお目にかかってみたいよ、おれは」
「ごめんなさい、あたし……」
鈴は恥じ入って|俯《うつむ》く。こんな子供が目の前で父親の|無惨《むざん》な姿を見ることがましなことのはずがない。
「本当に苦しかったらさ、人間ってのはそこから抜け出すために必死になるんだよ。それをする気になれないってことはさ、ねえちゃん、実は抜け出したいと思うほど苦しくなかったんだよ」
「……でも」
「言葉が分かんないって、それって死ぬ気になってがんばってもどうにもなんないこと?」
「……それは……」
「だったら、話は簡単だろ。ねえちゃん、死ぬ気になるほど|辛《つら》くなかったんだよ。気持ちよく不幸に|浸《ひた》ってるやつに、同情するやつなんかいないよ。だってみんな自分が生きるのに一生懸命なんだから。自分だって辛いのに、横から同情してくれ、なんて言ってくるやつがいたら、|嫌《いや》になるよ。――当たり前だろ?」
――それで、なのだろうか。それで誰もかれも、鈴に辛くあたったのだろうか。
|梨耀《よう》や|黄姑《こうこ》が生きることを辛く感じているとは、とうてい思えないのだけれど。
「ねえ――」
それを問いかけようと鈴は顔を上げて、清秀が|膝《ひざ》の上に顔を伏せているのに気がついた。
「……どうしたの?」
「ねえちゃんが、ガキくさいんで、頭痛くなった」
生意気なんだから、と鈴は軽く修正を|睨《にら》み、そうして彼の額に|脂汗《あぶらあせ》が浮いているのを認めた。
「本当に痛いの? ……どうしたの。大丈夫?」
「大丈夫……」
ころりと修正は横になる。その顔は|土気色《つちけいろ》をしていた。
「待ってて。誰か人を――」
「いいよ。寝てれば|治《なお》るから。慣れてるし」
鈴はその顔を覗きこんだ。
「いつもなの?」
「うん。ときどき、傷が痛むだけ」
「傷――?」
「妖魔にごつんてやられたんだよな。後ろ頭。それがときどき痛むんだ」
「まあ――」
「大丈夫だって。寝てるとそのうち、治るし……」
鈴は慌てて上掛けを引き寄せ、清秀に掛けてやった。
4
|祥瓊《しょうけい》は|天官《てんかん》のうち、宮中の建物を管理する|掌舎《しょうしゃ》の下に配属された。正確には掌舎の下官が使うさらに|下僕《しもべ》である。
祥瓊の朝は夜明け前に始まることになった。まだ|払暁《ふつぎょう》の先触れさえ見えない頃に起こされ、全ての家具の|塵《ちり》を払うところから生活が始まる。窓の|玻璃《はり》を磨き、|床《ゆか》には水を|撒《ま》き、|藁《わら》で磨きあげ、さらにそれを水で流して、王や諸官が起き出す前に完全に|拭《ふ》いて乾かしておかなくてはならない。
王や諸官が政務に入れば、庭を整える。草を間引き、石畳を掃除し、磨きあげ、これもまた執務を終えた高官が各府を退出する前に、完全に乾かしておかなくてはならなかった。王や諸官が退出した場所を追いかけるようにして整え、掃除に使った大量の布を洗い、|夕餉《ゆうげ》が終われば早々に寝るだけ。
そうして、床や石畳に水を撒いて磨いている間にも、王や諸官が通れば水たまりの中に平伏していなければならなかった。床に|屈《かが》みこんで働いているか、さもなければ平伏して人が通り過ぎるのを待つか、そうでなければ祥瓊は掃除のための布が山のように入った|籠《かご》を背負って歩いた。ここが汚れている、と声を掛けられれば飛んで行って平伏し、汚れを落とす。
住む場所は王宮の|一郭《いっかく》に宿舎があり、着るものは与えられ、ひもじい思いをすることもない。|恭《きょう》の冬は|芳《ほう》の冬よりも過ごしやすく、雲海の上は下界に比べてなおいっそう過ごしやすい。――だが、祥瓊は芳の寒村に暮らしていたころよりもいっそう|惨《みじ》めになった。
他の|奚《げじょ》たちは宮中で働けることを誇りに思っているふしがあったが、祥瓊にはとうていそうは思えなかった。磨かれた床を歩き、平伏されるのは自分だったはずだ、三年前までは。同じ宮中にいて、床に額を|擦《こす》りつける自分の惨めさ。
そして|供王《きょうおう》|珠晶《しゅしょう》は徹頭徹尾、祥瓊を無視した。最初にやってきたあの日以来、声を掛けられることはいっさいなかった。祥瓊はただ床に這いつくばり、視野の片隅を鮮やかな絹の|裳裾《もすそ》が、|馥郁《ふくいく》とした香り、|玉佩《おびだま》の揺れる涼やかな音色とともに流れていくのを見守っているしかなかった。
――いっさいが、かつて祥瓊の手の中にあったものだったのに。
「……こんなものだって」
祥瓊は家具を磨いていた拭き布を置いて、その|花鈿《はなかざり》を手に取った。|戴国《たいこく》に産出する|軟紅玉《なんこうぎょく》。紅の透明な玉の|一塊《いっかい》から彫り出した|牡丹《ぼたん》。指先で折れそうなほど薄い花弁が|幾重《いくえ》にも重なって、見事な花を開いている。
「いくらも持っていたわ。……官が先を争って私にくれた」
|御庫《ぎょこ》の中だった。その部屋の一つ、整然と並んだ棚の中に、布に包まれた装身具が並べられている。
――あれらの品はどうなったのだろう。おそらくいまも御庫の中に眠っているのにちがいない。布に包まれ、持ち主のいないまま手入れだけされて、次の王を待っている。――その|王后《おうごう》か、|公主《こうしゅ》の髪を飾るのを。そうやって継承された御物が、御庫の中には|※《あふ》[#「※」は「縊」の糸(いとへん)を「さんずい」に入れ替えたもの、235-5]れるほどあった。
――あるいは、女王か。
祥瓊はその|花鈿《はなかざり》を床に叩きつけたい衝動をおぽえた。
――|供王《きょうおう》。そして|景王《けいおう》。
いま、この世界にこの幸せを|謳歌《おうか》している者がいる。祥瓊がただ王の娘だったというだけで、これほど|辛《つら》い生活をしているのに。
「どうせ終わりが来るのよ……」
――どの王にも必ず終わりがある。王宮の床に|骸《むくろ》が|転《ころ》がる日が。
自分を|宥《なだ》めようと言い聞かせても、少しも祥瓊は|慰《なぐさ》められなかった。
供王や景王が骸になる日が来る前に、祥瓊の生が終わるだろう――。
「終わったの?」
いきなり声を掛けられて、祥瓊は内心、跳び上がった。|掌舎《しょうしゃ》の|奚《げじょ》を監督する|老婆《ろうば》が祥瓊を見ていた。
「ええ――はい」
「だったら早く次へお行きよ。急いで済ませてしまわないと、|夕餉《ゆうげ》に|間《ま》に合いやしないよ」
|済《す》みません、と祥瓊は慌てて|花鈿《はなかざり》を布に包む。老婆はふと笑む。
「若い娘をここに入れたのが間違いだったかね。気持ちは分かるけど、御品に|触《さわ》るのじゃないよ。もしも欠かせたりしたら、大事になるからね」
「はい……」
祥壌は花鈿を棚に戻す。
「こんなのを髪に|挿《さ》してみたら、と思うんだよね。あたしなんかでも美人に見えるのじゃないだろうかって。あたしも若い頃、そう思ってこっそり挿してみたことがある」
祥瓊は|皺《しわ》の深い老婆の顔を見返した。老婆は笑う。
「そうしてがっかりしたの、なんの。あたしらみたいな人間には似合いやしないのさ。絹の御衣にしてもそう。これは珠みたいな真っ白な|肌《はだ》じゃなきゃ、似合わないようになってる。|案山子《かかし》に花を|挿《さ》したような案配で、自分でも情けないやらおかしいやら」
祥壌は|拭《ふ》き布を手に取り、固く握りしめた。
「けどね、あたしたちには働き者の手足がある。しつかりした身体と、実直な気性がね。位もなけりゃ|花鈿《はなかざり》もないけど、そんなもので飾らなくても|見栄《みば》えのする|健《すこ》やかな身体がある。――そんなもの、構わないでおおき」
――私は違う――。|喉元《のどもと》まで出かかった言葉を、祥瓊は|辛《かろ》うじて|呑《の》みこんだ。|老婆《ろうば》は|祥瓊《しょうけい》の心中も知らず、笑う。
「おまけにあんたには若さがある。そのうえなかなか|別嬪《べっぴん》だ。自分に与えられたものを大切におし。つまんないものをうらやんで、せっかくの器量を台無しにしないようにね。――さ、ここが済んだんだったら、奥の部屋へ行っとくれ」
祥瓊は|面伏《おもぶ》せ逃げるように部屋を出た。奥の部屋へ入り、扉を閉めてしばらくそこで肩で息をしていた。
――|鷹隼《ようしゅん》の|一瓊《ほうせき》。
珠の|肌《はだ》、夜明け前の|紺青《こんじょう》の髪、花のような紫紺の|瞳《ひとみ》。賛美は波のように|飽《あ》くことなく祥瓊に打ち寄せた。いっさいを失った。祥瓊の|与《あずか》り知らぬことによって。
「こんなもの、いくらでも持っていたわ……」
|呟《つぶや》いて祥瓊は棚に歩み寄る。六服と飾りをしまう部屋だった。|祭祀《さいし》に使われる、女王、|王后《おうごう》、|公主《こうしゅ》の盛装と、その姿を飾るための品々。
|鳳凰《ほうおう》の羽を織りこんだ衣、|芥子粒《けしつぶ》ほどの黒真珠を|繋《つな》いで|透《す》かし|彫《ぼ》りのように編んで|梧桐《ごどう》の枝にとまる鳳凰を表した|鳳冠《ほうかん》。玉ならば|戴国《たいこく》の玉泉でいくらでも採れる。真実高価なのは南の海、|赤海《せっかい》の南から収穫してこなければならない真珠だった。
全部失った。――祥瓊のものだった美しい品々は、|御庫《ぎょこ》の中で次の主を待っている。
「でも、あれは私のものだわ」
祥瓊に合わせて作らせた、と臣下から献上された品々。それをどうしてみすみす次の女王にくれてやらなければならない。――祥瓊は次の|峯王《ほうおう》が女王だという確信を抱いている自分を見つけた。
――きっと女王だ。それも祥瓊と同じ年頃の。|景王《けいおう》のような。
そしてその、ほんの少し運の良かった娘が、かつて祥瓊のものだった全てを奪い取っていく。祥瓊がここで這いつくばり、|辛《つら》い労働に忙殺されている間、なんの楽しみも幸せもなく、老いさらばえていく問、それらの品で身を飾りつづけるのだ。
――許せない。
祥瓊が失った全てのものを手に入れた景王。ついこの間まで、ただの娘にすぎなかった女。それが|麒麟《きりん》の選定を受けて、祥瓊が失ったものを手に入れた。ただの娘には永遠に手に入らないはずだったものを。
今頃、|慶《けい》の王宮で有頂天になっているだろう。祥瓊のように、それを失う日が来ることなど、夢にも思わず。数え切れないほどの衣装を着てみるのに忙しく、花鈿を髪に|挿《さ》してみるのに忙しい。
――奪い取ってやりたい。
祥瓊が失ったものを、その女から取り返したい。
祥瓊はふと、手に取った|鳳冠《ほうかん》を頭に|載《の》せてみた。|房問《へや》の隅、大鏡の布を上げて、覗きこんでみる。
――まだ似合う。
ちゃんと衣装を整えて、髪を|綺麗《きれい》に|結《ゆ》い上げれば。
――これを景王から奪い取ってやったらどうだろう。
|簒奪《さんだつ》。
父母を殺し、祥瓊をこの|惨《みじ》めな境遇に落としこんだあの|憎《にく》い男――|月渓《げっけい》が許されるのなら、祥瓊だって許されていいはずだ。
一瞬、祥瓊は|供王《きょうおう》の居室の方角を|窺《うかが》い見た。あの小娘から奪ってやろうかと思ったが、景王からでなければ胸のうちが晴れない。
「景王から|玉座《ぎょくざ》を簒奪する……」
そうして、供王の許に晴れやかに笑ってやってくるのだ。月渓に許したものを、わたしにもよこせ、と。それでこそ、|溜飲《りゅういん》が下がるというものだろう。
祥瓊は冠をおろし、|丁寧《ていねい》に布で包んで棚に戻した。かわりに棚を物色し、小さな飾りをいくつか、帯をいくつか取り上げて、|拭《ふ》き布を山のように押しこんだ|籠《かご》の中にそれを隠した。これを壊して玉を売れば、充分|慶《けい》までの旅費になる。
――もちろん、ばれるだろう。これらの品々は|司裘《しきゅう》の官の|管轄《かんかつ》。その下官が毎日これらの|挨《ほこり》を払い、|磨《みが》きあげる。だが、それは明日の話。今日の彼らの務めはもう終わっている。
棚のものの位置を注意して動かし、そこからものが消えた空白を埋めた。何食わぬ顔で掃除をし、庭の繁みの中にそれを隠して、さらに何食わぬ顔で拭き布を洗って食事をした。|奚《げじょ》四人で共有の|房間《へや》に戻り、眠ったふりで深夜を待った。
深夜、祥瓊は|籠《かご》を背負って|禁門《きんもん》に向かう。|閹人《もんばん》に声を掛け、|粗相《そそう》をした罰に|鞍《くら》を磨けと王に命じれた、と言えば、不審そうにしながらも通してくれた。
禁門からは飛翔する乗騎がなければ出られない。禁門の外の|厩《うまや》に|騎獣《きじゅう》がいるが、一介の|奚《げじょ》に乗りこなせるわけもない。――だが、祥瓊は一介の奚などではない。
|厩《うまや》に入り、|吉量《きつりょう》に目を留めて、祥瓊は手早く鞍を置いた。
「私も自分の吉量を持っていたわ」
にっこり笑んで、祥瓊は厩の戸を開け放つ。|駆《か》け寄ってくる閹人を笑って、軽々と吉量を飛翔させた。
「……|呆《あき》れた」
|珠晶《しゅしょう》はぽかんと|椅子《いす》に腰をおろした。|閹人《もんばん》の制止を無視して禁門から騎獣を駆って飛び出した|奚《げじょ》がいるという。調べてみれば|芳《ほう》から預かった公主|祥瓊《しょうけい》、そのうえ|御庫《ぎょこ》からいくつかの品が消えている。
「思い切ったことをやってくれるわね……」
ですから、と、優美というよりは、|朴訥《ぼくとつ》という印象が強い|麒麟《きりん》は困ったように言う。
「公主へのなさりようは、あまりだと」
|珠晶《しゅしょう》は|下僕《しもべ》をにっこりと笑って見やった。
「あのね? どんな事情があろうと、法を犯せば罪と呼ばれるの。――分かる?」
「罪へ追いやったのは誰なのか、そこをお考えください」
珠晶は、そうね、と|微笑《ほほえ》む。
「――|供麒《きょうき》、来て」
笑顔に招かれて供麒が|側《そば》に寄れば、しやがむように手招きをする。供麒はおとなしく|膝《ひざ》をつき、永遠に幼いままの|主《あるじ》の顔を見上げた。その供麒の横顔に飛んできたのは、|掌《てのひら》。居合わせた下官が身を|竦《すく》ませるような音がした。
一国の|宰輔《さいほ》に手を上げた珠晶はけろりとしている。痛そうに手を吹いてみせた。
「……|雁国《えんこく》の|台輔《たいほ》みたいに、自分より小さい麒麟が欲しかったわ、あたし。張り倒してやりたいときに、手が届かないなんて、腹が立つったら」
「|主上《しゅじょう》――」
あのね、と珠晶はにこりと笑む。
「そりやあ、祥瓊は腹立たしかったでしょうとも。あんなに気位が高くっちゃあ、|奚《げじょ》の暮らしは|侮辱《ぶじょく》だと感じるでしょうよ? そうでなきゃ、意味がないわ。だってあたしは祥瓊を|虐《いじ》めてやりたかったんだもの」
「主上!」
「一国の公主が奚になって、朝から晩まで働き|詰《づ》めで、人に平伏して暮らす。――だから、ものを盗んで逃げ出しても仕方ないの? 麒麟の哀れみって、これだから笑っちゃうわ」
つん、と珠晶は顔を上げて、|竦《すく》んだように目を伏せている下官たちを見回した。
「どうしてあんたたち麒麟は、その哀れみが他の奚や下官――まっとうに正直に生きている人たちへの侮辱だということが分からないの?」
しゅんとうなだれた男を祥瓊は見下げた。
「一国の王族よりも豊かな暮らしをしてる人間なんて、いないの。あたしが奚より恵まれた暮らしをしてるのは、奚たちより重い責任を|担《にな》っているから。だからあたしが絹にくるまれて生活してても、奚たちは許してくれるの。頭を下げてくれるのよ。そうでなかったら、たちまち|峯王《ほうほう》みたいに首を落とされてるわ。違う?」
「……はい」
「祥瓊はその責任に気づかなかった。その責任を果たさなかった。野良仕事は|辛《つら》い、掃除は辛い、|嫌《いや》だ嫌だって駄々をこねて逃げ出す人間を許すことはね、そういう仕事をきちんと|果《は》たしている人に対する|侮辱《ぶじょく》なの。同じように朝から晩まで働いて、盗みも逃げ出しもしなかった人と同じように扱ったら、まっとうな人たちの|誠意《せいい》はどこへ行けばいいの?」
しゅんとうなだれる|麒麟《きりん》を|珠晶《しゅしょう》は溜息をついて見下ろす。
「そういう生き物だっていうのは分かるけど、哀れむ相手を間違えないようにね。あんまりばかな情けを|垂《た》れ流してると、|墓大夫《はかもり》にしてやるから。葬式にはうってつけの人材よね。横で麒麟が一緒に泣いてくれれば、そりや、ちょっとは遺族だって|慰《なぐさ》められるでしょうよ」
「申し訳ありません……」
珠晶は下官を呼ぶ。
「王師を出して、|祥瓊《しょうけい》を追いなさい。|範《はん》と|柳《りゅう》にも連絡をして、罪人が逃げこんだら捕らえて引き渡してくださるように、と」
「――かしこまりまして」
珠晶は平伏している|掌舎《しょうしゃ》の|奚《げじょ》の長を見る。
「顔を上げてちょうだい。――あなたたちの務めがとっても|誘惑《ゆうわく》の多いものだってことがよく分かったわ。|魔《ま》が差しそうになったこともあったでしょうに、よく|怺《こら》えてくれたわね」
「いえ……そんな。――監督がゆきとどかず」
「そんなの、少しもあなたのせいじゃないわ。今日まで真面目に|仕《つか》えてくれて、とても感謝しているわ。これからもお願いね?」
「……主上」
感極まった様子の|老婆《ろうば》を見ながら、|供麒《きょうき》は軽く|頬《ほお》に触れて溜息を落とした。
七章
1
「首都州は必ず国の中央にあると思ってよい」
|遠甫《えんほ》は卓の上に|慶国《けいこく》の地図を広げた。地図といっても|陽子《ようこ》が故郷で見たような精密な地図はこちらには存在しない。だいたいの位置が分かる、その程度のものでしかなかった。
「慶国なら|瑛州《えいしゅう》が中央にある。その周囲に八州。これも|大綱《たいこう》によって決められておる。瑛州なら州侯は|台輔《たいほ》じゃな。瑛州の土地は基本的に、国官への報賞として割与される。基本的に、国官には給金というものがない。必ず瑛州のどこかに封じられて、その封領から上がる|租税《そぜい》から国への上納分を引いた残り、これが給金代わりになる。封領の単位は最小は|里《まち》で上納分は半分、これに人頭税――|賦《ふ》がつくから、一里を封領として与えられる|官吏《かんり》の収入は、成人が|田圃《たんぼ》から得る収入より五割ほど多いことになるな。最大は一県じゃ。封領の|官賦《やくしょ》の長官は領主が任免することができる。――これは州都のある|郡《ぐん》も同様じやな」
「首都郡を割与して、州官の報償にするわけですね」
「そういうことじや。これのよい点はどういうところだと思うかね?」
陽子は首を傾けた。
「こちらには|紙幣《しへい》がないから、官吏の給与をお金で与えると家に持って帰れない……なんてことじやないですよね」
遠甫は笑う。
「|為替《いてい》があるから、その心配は必要ないのう。――官には土地を与える。すると、国に|飢饉《ききん》が起こったときには、官吏の給金は必然的に切り詰められる」
「ああ、なるほど。給料を下げたり上げたりしないでも、勝手に増減するわけだ」
「そのとおりじや。――悪い点は?」
「官吏が専政を|布《し》けること?」
「そうじゃ。――いちおう、首都州には必ず|牧伯《ぼくはく》がいて、|郷《ごう》、県の各府に|刺史《しし》を|派遣《はけん》して|政《まつりごと》を監督するが、必ず隅々まで目が届くというわけではない。刺史は|県正《けんせい》と同格の扱いじゃが、その刺吏と県正が|癒着《ゆちゃく》して勝手をすることもあるな。租税は国によって決められておるが、|賦《ふ》は定められた範囲内で勝手に徴収できる。だから首都州の民は領主が代わるたびに一喜一憂する」
「……なるほど」
「ここ|固継《こけい》のある|北韋郷《ほくいごう》なら現在は|黄領《こうりょう》じゃ。つまり領主がおらんで、|台輔《たいほ》が統治しておられる。――昔は|和州侯《わしゅうこう》の所領じゃったな」
「和州侯……|呀峰《がほう》」
陽子は|眉《まゆ》を|顰《ひそ》めた。呀峰は諸侯の中で最も悪名が高い。|奸智《かんち》に|長《た》けた陰湿な男だと言われているし、州の|政《まつりごと》に関しても|酷薄《こくはく》、|罷免《ひめん》せよという声も多いが、なかなかその契機を与えない。
「呀峰は|予王《よおう》の|登極《とうきょく》にあたって|夏官大司馬《かかんだいしば》に任じられ、北韋のある北葦郷|黒亥県《こくいけん》を封じられた。のちに和州侯に任じられて去ったが、それを聞いた民の中には、やっと呀峰から解放されると泣く者が多かったというな。――呀峰は尾のない|豺虎《けだもの》じゃよ。危険じゃが、捕らえる手|掛《が》かりがない」
「六官も手を焼いています。――調査をしているけれど、罷免に足る証拠が出てこない」
「だろう。――そんなことは、ともかく――?」
扉を|叩《たた》く音が聞こえて、遠甫も陽子も顔を上げた。
「おじいちゃん、お使いだよ」
|書房《しょさい》に|桂桂《けいけい》がそう言って飛びこんできた。
「おお。済まないな」
遠甫が桂桂から手紙を受け取る。その場で開いて、ほんの僅か、陽子のほうを困惑したように見やった。
「……なにか、悪い知らせですか?」
いや、と遠甫は手紙をたたむ。
「すまんが、陽子、今夜は来客がある」
夕食のあとの授業ができないのだと|悟《さと》って、陽子は|頷《うなず》いた。桂桂が遠甫を見上げた。
「お客さん? ご飯とお部屋の用意がいるね」
「ああ、構わなくて良い。|夕餉《ゆうげ》の後にいらして、今日のうちにお帰りになる。|儂《わし》が良いようにするで、構わずお前さんたちは寝てしまいなさい」
陽子は夜、|臥室《しんしつ》で|密《ひそ》かに客を迎えていた。客は|驃騎《ひょうき》という。|景麒《けいき》の|使令《しれい》である。
「あちらの様子は?」
陽子が声を向けた方向にはなんの姿もない。そもそも臥室の中には、陽子以外の姿がなかった。
「……とりあえずは|恙《つつが》なく」
返答はどことも知れない場所からある。聞く者があれば|床《ゆか》の下だと思ったかもしれない。それはあながち誤りではない。驃騎は地中に隠形している。
|使令《しれい》は天地の気脈の中に|潜《もぐ》りこむことができる。それを伝って人知れず移動することができた。これを|遁甲《とんこう》という。|景麒《けいき》もまた風脈に乗って遁甲できたが、さほどの距離を移動できるわけではない。少なくとも、|堯天《ぎょうてん》の|内宮《ないぐう》からはるばる|北韋《ほくい》まで旅することはできなかった。
景麒自身が訪ねてはこれないために、使令を寄こした。|驃騎《ひょうき》はこまごまと宮中の様子を報告する。戻れば景麒に陽子の様子を報告するのだろう。
「――|浩瀚《こうかん》は相変わらず、|行方《ゆくえ》をくらましているようですが」
陽子は|頷《うなず》く。|弑逆《しいぎゃく》を|企《くわだ》てた浩瀚は、捕縛の手を逃れて行方が知れないまま。
「諸官の中には、浩瀚を恐れて|主上《しゅじょう》は|雁《えん》に逃げ出したのだと、|噂《うわさ》する者もございますが」
くすりと陽子は笑った。
「それは言われるだろうと思った。……まあ、そういうことにしておこう」
「ですが、本当にお気をつけください。浩瀚が主上の御在所を知って再び弑逆を|企《たくら》むやもしれません」
「心配はいらない。|班渠《はんきょ》と|冗祐《じょうゆう》がいるから」
「――そのようにお伝えします」
驃騎を見送って――実際には、|遁甲《とんこう》する驃騎は見送るまでもなくその場を去ってしまうのだが――陽子は|臥室《しんしつ》を出た。
建物の基本になるのは一明二暗、開放型の部屋が一つに、|閉塞《へいそく》した個室が二つ付属する。陽子に与えられた|房間《へや》もそうで、故郷ふうに言えば四畳半ほどの|起居《いま》に三畳ほどの臥室が二つ付属している。大きな家では、一方の臥室には|牀搨《しょうとう》を置いて寝室にし、もう一方の臥室には、寝台と|椅子《いす》を兼ねた|榻《ながいす》を置き、|書卓《つくえ》や棚を置いて、基本的には書斎のような個室として使用する。その二室の問にある|堂《ひろま》は起居、気候のよい季節なら扉を開け放して、目隠しのために|衝立《ついたて》を置く。その扉も細く折りたたむ折り戸で、全部を開ければ間口いっぱいまで開くのが普通だった。部屋というよりは、通路の一部が広くなって、そこに卓と椅子が置いてあるという感じが陽子にはする。
|里家《りけ》の折り戸には|玻璃《はり》が入っていない。細かく文様状の|格子《こうし》が入った扉に紙を|貼《は》ってあって|障子《しょうじ》のような造作だった。その折り戸は閉めてある。眠るときなど、他人に入室を遠慮してもらいたい事情があるときでなければ、どんなに寒くても少しなりとも開けておくのが礼儀だった。それで、陽子は扉を少しだけ開く。
ちょうど陽子の|房問《へや》の|起居《いま》から、|院子《なかにわ》を挟んで|書房《しょさい》へ向かう|走廊《かいろう》が見えた。そこを進む人影を見つけて、陽子はふと目を|凝《こ》らす。
男だ、ということだけが分かった。少年というほど若くなく、老人というほどの|歳《とし》でもないだろう。――それ以上は分からない。男はごく質素な|大袖《きもの》の上に綿の入った|襖《うわぎ》を着ている。そうして|被《かぶ》りものが。どうということもない|氈帽《ぼうし》に黒紗の面衣をおろし、さらにご|丁寧《ていねい》に|長巾《かたかけ》を首に巻いて頭までを|覆《おお》っている。そのせいで顔形はほとんど分からない。
「……誰だ、あれは……?」
それはどう見ても、あえて顔を隠しているとしか思えなかった。その影は|俯《うつむ》き加減に|書房《しょさい》へと消えていく。陽子はそれを|眉《まゆ》を|顰《ひそ》めて見送ってから、|起居《いま》を出て|里家《りけ》へと|走廊《かいろう》づたいに向かった。
「――|蘭玉《らんぎょく》」
走廊から声を掛けられて、蘭玉は顔を上げた。桂桂がばっと立ち上がって|衝立《ついたて》の向こうを|覗《のぞ》きこみ、すぐに明るい声を上げて陽子の手を引いてきた。
「どうしたの?」
|訊《き》いたのは蘭玉で、遊ぶんだよね、と言ったのは桂桂である。
「少し話をしてもいいかな?」
どうぞ、と笑って蘭玉は|火鉢《ひばち》の上の土の|土瓶《どびん》を手に取る。|厨房《だいどころ》で沸かしてきたお茶をそうやって温めてあった。
「――そうか、今日はお客さまだから、授業がないのね」
そう、と笑ってから、陽子は蘭玉の差し出した湯呑みを受け取る。
「あれは誰なんだ?」
「お客さま? 知らないわ。聞いてないもの」
蘭玉が言うと、桂桂が|袖《そで》を引っ張った。
「おねえちゃん、あのひとだよ。ほら、|茶斑《ちゃまだら》の髪のひと。ぼく、あのひとから手紙を預かったもん」
ああ、と蘭玉は|頷《うなず》いた。|氏《し》を|労《ろう》、と言ったと思う。黒髪に茶毛の斑の入った髪の男で、ときどき|遠甫《えんほ》を訪ねてくる。どうやら誰かの使いらしいが、|詳《くわ》しいことは蘭玉も知らなかった。
「労さんね。……じやあ、あの気味悪いお客さんなんだわ」
「気味が悪い?」
「顔を隠しているのよ、いつも。ときどき遠甫を訪ねて来るの。まず労さんを使いによこすのよ。本人がやってくるのは必ず夜ね。それも遅くなってから。あのひとが来るときには遠甫が戸締まりをしなくていい、つて言うから分かるの」
「どこの誰なんだ?」
「知らないわ。遠甫に訊いても絶対に教えてくれないし。……あたし、|嫌《いや》なの」
蘭玉が言うと、桂桂も|頷《うなず》いた。
「――あの男が?」
「あいつ、きっと悪いやつなんだ」
桂桂が言って、蘭玉を見る。蘭玉は軽く桂桂を|窘《たしな》めた。
「そんなことを言うもんじゃないわ。 でも、遠甫はあいつが来ると、次の日、必ず沈んだ顔をするの」
「――なぜ」
「知らない。教えてくれないのよ。……それで余計に心配なの。分かる?」
「それは――とてもよく分かる」
しばらくの間、蘭玉たちと話をして、陽子は|房問《へや》に戻った。ずいぶんと夜も|更《ふ》けたというのに、|書房《しょさい》にはまだ|灯《あかり》が|点《とも》っている。
「……|班渠《はんきょ》」
「――ここに」
「あの男が帰ったら後をつけろ。どこに泊まっているか、調べてくれ」
必ず宿にいるはずだ。この時間では門が閉じている。
「かしこまりまして」
2
船は|巧《こう》と|慶《けい》の国境である|高岫山《こうしゅうざん》を越えた。高岫山は各国の国境にまたがる山脈、その|鳥羽口《とばくち》はひとつ、多くても三か所ほどしかない。どの国にも必ずこれがあるために、国境を別名、高岫ともいう。巧と慶を隔てる高岫山から慶国北部東岸中部にある|呉渡《ごと》の港までは四泊だと聞いた。
「ねえちゃん、いーものやるよ」
|鈴《すず》が|甲板《かんぱん》で海を見ていると、|清秀《せいしゅう》が|駆《か》けてくる。
「ほら」
清秀が自慢そうに出したのは砂糖煮にして干した|杏《あんず》だった。
「どうしたの、これ」
「くれた」
清秀はにんまり笑う。
|妙《みょう》な子だ。あれほど鈴を|罵《ののし》っておいて、だからその後鈴を敬遠するかといえばそれがない。むしろ|頻繁《ひんぱん》にまとわりついてくるようになった。ちゃっかり女部屋のほうに来て鈴の|脇《わき》で寝たりする。鈴もなんだか、怒る気概をなくしてしまった。清秀を子供だと|侮《あなど》るとひどい目にあう。この子は本当に口が達者なのだ。
同じ部屋で寝るようになったせいもあって、鈴は清秀が|頻繁《ひんぱん》に苦しんでいるのを目撃することになった。ほとんど毎朝のように頭を抱えて|呻《うめ》いている。休めば治るという言葉は|嘘《うそ》ではないようだったが、治り際に|吐《は》くことがある。いったん治るとあとはけろりとしていたが、その代わりにしばらく足元が定まらず、|蛇行《だこう》して歩いていることが多かった。
――ひょっとしたら、清秀には持病があるのではないだろうか。単なる頭痛とは思えない。
|妖魔《ようま》に襲われたという。一度鈴はその傷を見た。後頭部、ちょうど髪を|束《たば》ねるあたりに小さく|掻《か》き切られたような傷があった。さほどひどい傷ではなかったので鈴は|安堵《あんど》したのだが、その傷を負って以来、頭痛がするようになったという。
「ねえ、清秀、本当に大丈夫なの?」
口に|杏《あんず》を放りこみかけていた子供は、きょとんと鈴を見た。
「――何が?」
「|怪我《けが》よ。まだ痛むってことは、治ってないっていうことじやない。大丈夫なの?」
「うーん。大丈夫なんじゃねえの」
「お医者に|診《み》せた?」
いんや、と清秀は首を振る。
「そんなひま、なかったもん。でも、平気だよ。休んでれば治るんだし」
「少しは軽くなってるの? なんだかひどくなってない?」
少しずつ、|呻《うめ》いている時間が長くなっているような気がする。目覚めてから後も、蛇行がおさまるまでが長い。
清秀は困ったようにした。
「そうかなぁ……」
「ここ二、三日、目を|擦《こす》ってるでしょ? 目も気持ち悪いの?」
「なんか、見えにくいんだ」
鈴は溜息をついた。
「やっぱり、どこか悪いのよ。繰り返すんじゃ、治るとは言わないわ。|慶《けい》に着いたら、ちゃんとお医者に診せないと」
「うん……」
「行く先は決まってるの?」
清秀は首を振る。
「かあちゃん、いないし……」
「|呆《あき》れた。あてもないのに|慶《けい》に行こうとしてるの? それだったら|奏《そう》にいたほうがよかったんじゃない」
渚秀はつんとそっぽを向く。
「かあちゃんが帰るって言ったんだ。だから、帰るんだ」
鈴は溜息をつく。
「とにかく、慶に着いたら医者に|診《み》せるのね。死んじゃってもしらないから」
ぴくん、と清秀は肩を震わせた。
「ねえちゃん|仙人《せんにん》だから、分かる?……おれ、やっぱ死ぬのかな」
清秀、と鈴はその子供の|怯《おび》えた顔を見た。
「言ってみただけよ。べつに本当に死ぬなんて思ってないわ」
「ねえちゃんって、性格悪い」
「悪かったわね。あんただって充分悪いわよ。そういう人間は滅多なことじや死なないの」
だよな、と清秀は笑う。鈴は少しの間、その笑顔を見つめていた。
「|小童《ぼうず》、今頃船酔いか?」
船員の声が笑っている。
「ちがうよー」
清秀は抗議した。
鈴は物陰から顔を出して、それを見て|眉《まゆ》を|顰《ひそ》める。|蛇行《だこう》がひどい。もう日が傾こうというのに、|治《なお》っていない。
「でも、そうなんかな。くらくらする」
「なにを力んでるんだ、お前は。ちったあ落ちつけ。慶に戻れるってんで、緊張でもしてんのか?」
「してないってばー」
船員がそういうのは、清秀の手が震えているからだ。震えというよりも、|痙攣《けいれん》に近い。
「ま、酔ったんならおとなしく寝てろ。ふらふら歩きまわってると、海に落ちるぞ」
はあい、と清秀は笑って、船室に消えていった。鈴はなんとなくそれを、|安堵《あんど》した気分で見る。清秀を見ているのがわけもなく|怖《こわ》い。頭痛だけなら震えだけなら、、女には思わないかもしれない。ただ、なにもかにもが重なって、しかも日を追うごとに悪くなっていると、不安になる。
鈴は船室に清秀を追っていった。清秀はつくねんと船室に座っている。
「……大丈夫?」
清秀は振り返り、それから|怪訝《けげん》そうに幾度か視線をさまよわせた。何度も|瞬《まばた》きし、目を|掌《てのひら》で|擦《こす》る。
「どうしたの?」
「おれ、あんまり大丈夫じゃねえみたい。……すげえ目が|霞《かす》む」
「……大丈夫なの?」
鈴は慌てて|駆《か》け寄り、その右に|膝《ひざ》をついて|清秀《せいしゅう》の横顔を|覗《のぞ》きこんだ。
「苦しい? 頭は痛くない?」
清秀は鈴と正面の壁を何度か見比べるようにした。
「……ねえちゃん、おれ、ねえちゃんが見えない」
「――え?」
「こうやって前を見てると、ねえちゃんの姿が見えないんだ」
鈴は慌てて前を向いた。人間の視野は広い。横にいる清秀が視野の|端《はし》にちゃんと見える。
「おれ、どうしたんだろ」
子供の顔は|怯《おび》えた色をいっぱいに浮かべている。
「清秀――」
|怯《おび》えた顔が|歪《ゆが》んで、泣くのかと思ったが、案に相違して清秀は笑う。目元に怯えた色を漂わせたまま。
「おれって、けっこういいやつだったんだ……」
「清秀」
「やっぱ、死んじゃうみたい」
「そんなはず、ないでしょ! ばかなことを言わないで!」
くしやりと清秀は顔を|歪《ゆが》める。
「一緒に行こう」
鈴は震えている手を取った。
「一緒に、|堯天《ぎょうてん》に行こう?」
「堯天……?」
「あたしは、|景王《けいおう》に会いにいく。王ならきっと清秀を|治《なお》してくれるわ。王宮には偉いお医者だっていっぱいいる。――だから、一緒に堯天に行こう?」
清秀は|俯《うつむ》く。
「いいよ、そんな……立派なひとに会えないよ」
「だって、苦しいでしょ? 頭痛、ひどくなってるんでしょ? このままもっとひどくなったらどうするの?」
「……本当に治してくれるかなぁ……」
「景王が駄目だって言ったら、|才《さい》へ連れていってあげる。|采王《さいおう》ならきっと治してくれるわ」
うん、と清秀は|頷《うなず》く。ぱたりと小さく涙が落ちた。
「……おれ、死ぬの、|怖《こわ》いよ」
「清秀」
「誰だってみんな死ぬんだけど、自分が死ぬのだけは、笑えないよ……」
「ばかね。大丈夫だったら」
ヘヘヘ、と清秀は泣き笑いする。
「おれ、意外に修行が|足《た》りなかったみたい」
「子供が生意気なこと、言わないの」
うん、と清秀は鈴の|膝《ひざ》に顔を伏せる。
「……大丈夫よ。きっと、大丈夫だから」
うん、と|頷《うなず》く清秀の背を鈴は|撫《な》でていた。
船はその三日後に、|呉渡《ごと》の港に辿り着いた。港ととはいえ接岸できる設備はない。|尖《とが》った岩が沖合いに並んでいて、僅かに|弧《こ》を描いている。船はその内側に停泊し、|崖《がけ》から|艀《はしけ》がいくつも寄ってきた。艀が着くのは崖の|麓《ふもと》に作られた浮き|桟橋《さんばし》。そこから崖を掘って作った石段が|九十九《つづら》折れに崖の上まで続いていた。
鈴は清秀の身体を右から支える。渚秀の目は今に至るも治っていない。見えない、と言ったあの日以来、清秀の視野の右|端《はし》は欠けたままだった。
何度も足をもつれさせて|転《ころ》びそうになりながら、石段を登る清秀と、それを支えきれず足を|滑《すべ》らせそうになる鈴を見かねて、港の男が清秀を|負《お》ぶってくれた。
息を切らせながら登った|崖《がけ》、頂上から一望する広がる山野。崖のふちには細長く|廬《むら》が広がっている。
――|慶国和州呉渡《けいこくわしゅうごと》。慶の北東部に広がる和州、そのさらに東の|端《はし》。
男の背から降ろされて、清秀はその山野を見渡した。鈴はその手を握る。
|堯天《ぎょうてん》に行こう。きっと景王が助けてくれるから。
3
|吉量《きつりょう》は軽々と宙を|駆《か》ける。
|祥瓊《しょうけい》は山野を見下ろし、ようやく胸のつかえが取れる気がしていた。
――こうすればよかったんだわ。
おとなしく|里家《りけ》に行ったり、|奚《げじょ》に成り下がったりせず、最初から|出奔《しゅっぽん》して自由になればよかった。
もう誰も、祥瓊を|跪《ひざまず》かせることはできないのだ。
祥瓊はまっすぐ|黒海《こっかい》へ向かい、沿岸の街に閉門前に辿り着いた。そこで|耳墜《みみかざり》を一つ売り、着るものを整えて宿に泊まった。久々に感じる絹の感触、|贅沢《ぜいたく》な食事と|錦《にしき》の|衾褥《ふとん》が延べられた|牀搨《しょうとう》。|快哉《かいさいい》を叫びたい気分で眠りにつき、翌日もう一つ耳墜を売って黒海へと飛び出した。
吉量ならば、二日もあれば一国を横断する。造作なく国境を越えて|柳国《りゅうこく》に入り宿をとり、翌日には黒海の岸に沿って北上して、夕暮れ前にはどちらかといえば|恭《きょう》よりも|雁《えん》に近い中央部の港街、|背享《はいきょう》に辿り着いた。
「――泊まれる?」
吉量の|手綱《たづな》を引いて、祥瓊は大きな門を|潜《くぐ》った。明かり取りの|格子《こうし》窓が切られた|墻壁《へい》、花飾りのつけられた|花垂門《もん》、軒下にいくつも灯火が|吊《つ》るされて、門の中にこぢんまりと広がる|前院《まえにわ》を照らしている。大きな|宿館《やど》だった。
駆け出してきた店の者が、祥瓊の問いに笑んで深く頭を下げる。
「よい|房室《へや》が|空《あ》いてございますよ、お|嬢《じょう》さま」
そう、と祥瓊はにっこり笑いかえした。
「じゃあ、ここにするわ。――吉量をお願いね」
駆け寄ってきた|厩《うまや》係が吉量の手綱を取る。下男が吉量の|鞍《くら》に結びつけた荷を|解《と》いて抱えると、厩係は吉量を門の|脇《わき》にある|厩舎《うまや》に引いていく。祥瓊は|前院《まえにわ》から建物の|大門《いりぐち》の中へと入っていった。
扉を開けると中は|下堂《ひろま》、壁際にゆったりと並べられた|卓子《つくえ》に客が座って歓談をしている。歩み寄ってきて|拱手《えしゃく》した宿の者に、祥瓊は軽くまとめて結い上げた髪から銀の|花釵《かんざし》を一つ外して差し出した。
「これで足りるかしら?」
旅人は大金を持つことを嫌うから、支払いは多く、|為替《いてい》か物品になる。大きな宿には必ず装身具を換金する小店が入っていて、ここで清算がなされる。支払いに余れば、出発の際に釣りは銭で支払われた。店の者は|花釵《かんざし》を手に取って|細工《さいく》を確認し、大きく|頷《うなず》いた。
「充分でございますとも。お預かりいたします」
「足りなかったら言ってちょうだいね」
「ありがとうぞんじます。お食事はいかがいたしましょう」
小さな宿ならば、通りに面して食事を出す店があり、二階か奥かが客室になる。ここのような大きな|宿館《やど》ならば食事を出すのは|園林《ていえん》に面した|飯庁《しょくどう》か|客房《きゃくしつ》だった。客房も、小さな宿では板間に夜具を延べて寝るだけ、顔を洗う鏡台があればましなほう、それさえないことが多く、さらに悪い宿では広い土間に低い|臥牀《しんだい》が並べてあって、|衝立《ついたて》もなく見ず知らずの旅人と雑居しなくてはならない。並の宿なら|臥牀《しんだい》に|天蓋《てんがい》と|幄《とばり》をつけた|牀《しんだい》があって、鏡台と|小卓《つくえ》が揃っている。祥瓊が入った宿館のような大きな宿なら、きちんと|牀搨《しょうとう》を備えた|臥室《しんしつ》二つの間にくつろいだり食事をしたりできる|起居《いま》が付属している。
「|房室《へや》でいただくわ」
実は、と宿の者は困ったようにした。
「ちょうど船が着いたばかりでして。お客さまが多くて、一房がご用意できないのですが。半房でもよろしいでしょうか」
臥室は建物の形式上、必ず二つだから、宿には半房という制度があった。一人で宿泊する客のうち、一房を借り切る余裕のない客が相部屋になるのである。
「どうにもならないの? |妙《みょう》な人と一緒なのは|嫌《いや》だわ」
「申し訳ありません。他の宿をご紹介できればいいのですが、本当に今日はどこの宿もいっぱいで」
「……仕方ないわね」
「あいすいません。――では、ご案内いたします」
祥瓊が案内されたのは三階の|房室《へや》、小さな|院子《なかにわ》を見下ろす|走馬廊《かいろう》を通って、奥の一室に向かう。あまりよい房室でもなさそうだった。こういった建物では、上にあがるほど|天井《てんじょう》は低くなる。本当によい房室は|園林《ていえん》に面しているものである。
「この房間です」
下男が足を止めたのは、最後の一郭、|透《す》かし|彫《ほ》りの美しい扉には|玻璃《はり》が入って房室の中が見渡せる。扉の奥は|起居《いま》、悪くない|細工《さいく》の家具が揃っていた。
起居に面しては厚そうな扉が二つある。これが|臥室《しんしつ》である。鍵は臥室についているが、起居にはない。起居は密室ではないのである。だから半房などという制度が成立する。
「ありがとう」
荷物を|臥室《しんしつ》に入れて出てきた下男に小金を握らせ、祥瓊は起居の|椅子《いす》に腰をおろした。
「ばかみたいに簡単だわ」
くすくすと笑いが漏れる。
祥瓊の胸の中に罪悪感はかけらもなかった。|供王《きょうおう》が悪意でもって祥瓊を迎えたのだから、悪意でもってそれに|報《むく》いて何が悪い。べつに供王はいくつかの装身具がなくなったところで、困るわけではないだろう。どうせ誰かから譲り受けたものだ、それをさらに祥壌が譲ってもらっただけ。
「のんびり旅をしても、六日もあれば|慶《けい》に着くわ……」
慶国首都、|堯天《ぎょうてん》。|景王《けいおう》のいる東の国の都。堯天に着いたら、どうしてやろう。なにからとりかかればいいだろう。とにもかくにも景王に接近できるよう、宮中に入りこむ必要がある。――だが、これが難問だった。
祥瓊には身元を保証する|旌券《りょけん》がない。|芳《ほう》で与えられていた旌券は、置いてきたままだった。金品で旌券を不正に発行する|感吏《かんり》もいると聞いたことがあるが、さて、どこに行けばそんな|猾吏《かつり》に会えるだろう。
旌券さえ手に入れば、宮中に入りこむことは不可能ではない。王が|登極《とうきょく》したばかりの王宮では、下官の入れ替えがあるものだ。祥瓊には教養がある。下官に志願すれば採用される可能性が高い。同時に、|玉座《ぎょくざ》についたばかりの王は心細いものだ。下官でも官吏でも、少し親切にしてくれる者があれば目をかける。景王に取り入ることも不可能ではない。隙をみて王を|討《う》つことも。
祥瓊は宮中の事情に明るい。――宮中のことならよく分かっている。
「|戴国《たいこく》に寄ってみようかしら……」
王を失って荒れた国なら、旌券を買えるのではないだろうか。
|泰王《たいおう》が登極したのは芳に政変が起こる二年前のこと。|僅《わず》かにその半年後、諸国に戴の|勅使《ちょくし》が訪れて王の|訃報《ふほう》を伝えた。勅使を|遣《つか》わしたのは戴の新王、だが他国の王が|斃《たお》れれば勅使を遣わすまでもなく、各国の宮中にいる|鳳《ほう》が鳴いてこれを知らせる。泰王に関して鳳は沈黙したままだった。――少なくとも、祥瓊が芳国の|鷹隼宮《ようしゅんきゅう》にいる間、鳳が泰王|崩御《ほうぎょ》を鳴いたことはなかった。王が生きているのなら、新王が|起《た》つ道理がない。明らかに|偽王《ぎおう》である。実際に戴の内部でなにが起こったのかは分からない。他国の内実はなかなか伝わってはこないものだから。
王を失ったのは芳も同様だが、まさか芳へ戻るわけにもいくまい。とりあえず戴に向かうことだ、と祥瓊は心の中で|呟《つぶや》いた。
「お客さんはどちらへご旅行で?」
食事を運んできた下男が|訊《き》く。祥瓊は皿を並べる手元を見ながら|眉《まゆ》を|顰《ひそ》めていた。
――|嫌《いや》だわ。
卓の上に並べられた食事は二人分ある。見ず知らずの人間と一緒に食事をしなくてはならないのだろうか、と渋い顔をし、さらに下男の呼びかけに答えて|臥室《しんしつ》から出てきた――すでに臥室にいたらしい――人影を見て、祥瓊はさらに眉を寄せる。見ず知らずの他人と同じ卓で食事をすることさえ不愉快なのに、その相手がこれでは。
――|半獣《はんじゅう》。
半分、|獣《けもの》に生まれた人間。多くはないが、少なくもない。|芳《ほう》なら、半獣はこんな上宿には泊まれなかったのに。少なくとも獣形のままでは、庭にも入ることはできない。
その半獣は眉を|顰《ひそ》めた祥瓊には気づかない様子で、ほてほてと出てきて下男に声を掛けた。
「どーもありがとな」
声は子供の声、|鼠《ねずみ》の形の|背丈《》せたけも子供ほどしかなかったが、一人前に|比甲《うわぎ》を身に着けていた。|会釈《えしゃく》する下男に小金を握らせて、鼠は|椅子《いす》に座る。やっと座っている祥瓊に気づいたように頭を下げた。
「よろしく」
どうも、と祥瓊はそっけなく声を返した。
「客が多いんで驚いたなあ。|柳《りゅう》はいっつもこんな案配なのかい?」
祥瓊はそれには答えない。半獣と同じ卓で食事をするなんて、と顔を|背《そむ》けた。
「今日は特別ですよ」
答えたのは給仕のために残った若者だった。
「|雁《えん》から船が看きましたからね。お客さんもその船で?」
「ああ、そっか。――そう」
「降りてきたお客さんが半分と、これから船に乗るお客さんが半分です。――お客さまはどちらへ?」
「おいら都に行ってみようと思ってるんだけど」
ああ、と若者は笑った。
「いいところですよ、|芝草《しそう》は。でも、旅には寒い季節にいらっしやいましたね」
「雁とあんまし差がないかな」
「そうなんですか?」
「雁も寒いからな。柳よりは南だけど、雁は|条風《きせつふう》が吹くから」
へえ、と言って、若者は祥瓊を見る。
「お客さまはどちらへ?」
祥瓊は|戴《たい》へ、と短く答えた。若者は途端に目を見開く。
「……けど、戴は」
「荒れているんでしょう? だから行くの。戴に知り合いがいるのよ。因ってるのじゃないかと思って」
「戴のどこです?」
|訊《き》かれて祥瓊は内心でぎくりとした。
「どこって……なぜ……?」
いや、と若者は困ったように笑った。
「おれ、もともと、戴へ行く船の船乗りだったんで……」
「……そうなの」
「戴へ穀物を運んでたんです。帰りには玉を積んで戻る。なにしろ戴は穀物が少ないから。――でも、もうだめですよ。|妖魔《ようま》が多くて近寄れやしない」
「まあ……」
「|虚海《きょかい》に囲まれた国が荒れると|怖《こわ》い。海底の妖魔が浮かび上がってくるから、あっという|間《ま》に孤立しちまう。――実際、この冬、戴の連中はどうやって食ったんだろう……」
これは返答を期待しているふうではなかったので、祥瓊は黙って|芳《ほう》のことを思った。条件はほとんど等しい。耕作をしていても、収穫は民を食わせるのにかつかつ、どこかが不作になったからといって他からまわしてやる余裕はない。
「お客さんの知り合い、もう戴を出ちゃったかもしれませんね」
「そうかしら……」
「ずいぶんたくさんの人間が|雁《えん》に逃げたようだから。|柳《りゅう》にもずいぶん来ましたしね。おれたちも最後の荷は人間でしたよ。なにしろ、|舷側《げんそく》に爪を立ててでも戴を出たいって連中が港には|※《あふ》[#「※」は「縊」の糸(いとへん)を「さんずい」に入れ替えたもの、271-5]れてましたから、乗せないわけにはいかなかったんです。|下手《へた》に断れば、船を乗っ取られそうな案配で」
「……そう」
「結局、危ないってんで、船便が途絶えちゃったし。それでおれ、親を頼ってこっちに来たんですけどね。船を待ってる連中がいたんだろうなあ……」
「そうね」
「お客さんは|吉量《きつりょう》があるからいいですけどね。船じゃもう、戴へは渡れないみたいですよ。雁からの便も途絶えたらしいし」
祥瓊は軽く目を見開いた。
「私が吉量に乗ってることを聞いたの? もう?」
若者は笑う。
「あんな立派な|騎獣《きじゅう》に乗ってる客なんて|滅多《めった》にいないですから。――あ、いや」
若者はおとなしく食事をしている|鼠《ねずみ》を見やる。
「お客さんの|※虞《すうぐ》[#「※」は「馬+芻」、2-93-02、272-1]はもっとすごいけど。|※虞《すうぐ》[#「※」は「馬+芻」、2-93-02、272-1]なんて、みんな初めてだから、|厩《うまや》に|覗《のぞ》きに行ってますよ」
鼠はひげをそよがせた。
「べつにすごくねえよ。借り物だもん」
それで、と祥瓊は鼠を見る。乗騎があまりに立派だから、半獣にもかかわらず子供――おそらくそうなのだろうと思う――にもかかわらず、一人前の客扱いされているというわけだ。
「でも、お客さん、きっともう空も危ないですよ」
声を掛けられて、祥瓊は慌てて|頷《うなず》いた。
「……ええ」
「ああ、|慶《けい》へ行ったほうがいいかもしれないな」
「――|慶《けい》に?」
「ええ。まだ辛うじて、慶から武装した船がときどき往復してるらしいです。|戴《たい》の|荒民《なんみん》を集めてるんですよ」
「――え?」
「慶の奇特な人が、戴の荒民を集めて、|開墾《かいこん》を手伝わせてるんです。その代わりに、行けば土地と|戸籍《こせき》をくれるって。おれがまだ戴に行ってたころ、定期的に戴に行っちゃ、荒民を乗せて帰ってました。ずいぶん便が減ったけど、あれがまだ続いてるらしいから、それに乗せてもらったほうがいいんじゃないかな」
「そうなの……」
祥瓊は辛うじて笑みを|噛《か》み殺した。
――戴へ行くのだ。そうしてその船を待って、慶へ渡る。戸籍を貰って|堯天《ぎょうてん》へ向かう。……なんて、簡単なんだろう。
「いいことを聞いたわ。ありがとう」
祥瓊は心底から、そう言った。
――|戴《たい》から|慶《けい》へ向かう。
見通しが立ったのに満足して、|祥瓊《しょうけい》はさっさと|臥室《しんしつ》に戻って眠りについた。|錦《にしき》の|衾褥《ふとん》、|牀搨《しょうとう》に入れられた|火鉢《ひばち》、心地よく暖かく寝て、祥瓊は深夜、扉を叩く音で目を覚ました。
「――誰?」
祥瓊は|眉《まゆ》を|顰《ひそ》める。あの鼠がなにか用でもあるのだろうか。
済みません、という声は、食事を運んできた若者のものだった。祥瓊はのろのろと起き、|大袖《きもの》を|羽織《はお》って扉へ向かう。鍵を開けながら、扉の向こうに声を掛けた。
「――どうしたの?」
「|戴《たい》のことでちょっと思い出したことがあって」
祥瓊は鍵を|外《はず》した。軽く扉を開こうとするや否や、いきなりその扉が乱暴に引き開けられて、祥瓊は身を|竦《すく》ませた。|起居《いま》に立っていたのは、あの若者と、青い|鎧《よろい》の兵が数人。
「――何……?」
大きく鼓動が打った。駆け上がる脈を、祥瓊はなんとか無視する。
「――|旌券《りょけん》を|検《あらた》める」
言い放たれて、祥瓊の顔から血の気が引いた。
「なんだっていうの、こんな時間に。……明日にして」
干上がりそうになる|喉《のど》から無理に声を上げて抗議してみたが、兵は|臥室《しんしつ》に押し入ってきて祥瓊を取り囲んだ。
「旌券はどこだ」
|膝《ひざ》が震え始めた。
「……実は、なくしたんです……」
「名は」
「|玉葉《ぎょくよう》――|孫《そん》玉葉」
兵は表情のない顔で祥瓊と同僚を見比べた。
「|吉量《きつりょう》を持っているな? どこで手に入れた」
「……覚えて……ないわ」
――不審すぎる。自分が思わず口にした言い訳のまずさに、我ながら祥瓊は|唇《くちびる》を|噛《か》んだ。
「荷物を|検《あらた》めろ」
「やめて! 勝手なことをしないで!」
叫びながら、祥瓊は終わりだ、と感じていた。せっかく|柳《りゅう》まで来ておいて。|供王《きょうおう》が|捕縛《ほばく》の手を伸ばしてきたのだ。逃げなければ、と祥瓊は視線をさまよわせたが両肩を兵に押さえられている。活路があったところで、逃げ出すことは不可能だった。
兵たちは|牀搨《しょうとう》に近寄り、革帯で|縛《しば》った小さな|行李《こうり》を引き出した。中を開け、着替えの間から|細々《こまごま》とした品を|掴《つか》み出す。兵の一人が紙面を手に持って、それらの品々と文面を見比べていた。
「|珠帯《おび》、|帯頭《かなぐ》は金の地金に|龍鳳文《りゅうおうもん》。|鳳形耳環《ほうおうのみみかざり》、|孔雀石《くじゃくいし》の|珠金《かざり》。……あるな」
紙面の文字面を口の中で読み上げるようにした兵は、祥瓊を振り返った。
「|耳環《みみかざり》が二揃い、|釵《かんざし》が一つ足りない。どこへやった」
祥瓊は答えない。――というよりも、震えで声が出せなかった。
捕まる。罪に問われ、|裁《さば》かれる。やっとそれに思い至った。なぜだか兵に踏みこまれる瞬間まで、そのことを念頭に浮かべたことがなかった。
盗みの罰は――と祥瓊は記憶を探り、全身を|粟立《あわだ》てた。|磔刑《はりつけ》だ。街頭に結びつけられ、いくつもの|釘《くぎ》を打って殺される。
「どーしたんです?」
向かいの|臥室《しんしつ》が開いて、|鼠《ねずみ》が顔を出した。眠そうに目元を|擦《こす》るその半獣に祥瓊は咄嗟に指を突きつけた。
「私は何も知らない! ――これはあいつがくれたのよ※[#「※」は感嘆符二つ、1-8-75、276-6]」
「――へ?」
ぽかんとした鼠を兵たちは見やる。
「|旌券《りょけん》は」
「そっちにあるけど……」
「名は」
「……|張清《ちょうせい》」
書面を確認していた兵は淡々とそれをたたんだ。他の兵に向かって|顎《あご》をしゃくる。
「――連れていけ。二人ともだ」
八章
1
「おいら、お前さんに物をやった覚えがねえんだけど」
|祥瓊《しょうけい》は|柳国《りゅうこく》の|牢《ろう》に|繋《つな》がれた。|霜《しも》の降りそうな寒い牢の中には、あの|鼠《ねずみ》も一緒に捕らえられている。
「いったい何がどうなってんのか、それだけでも教えちゃもらえないかなぁ」
祥瓊は答えない。答えられるはずがなかった。|罪《つみ》が|怖《こわ》くて咄嗟に他人になすりつけようとした。それだけのことだ。
「お前さん、名はなんていうんだ?」
「……祥瓊」
ついうっかり、そう答えてしまったのは、罪悪感があったからかもしれない。
「祥瓊――ってのは、確か|芳《ほう》の|公主《こうしゅ》の名じゃなかったっけか」
祥瓊は思わず顔を上げた。
「公主|孫昭《そんしょう》、|字《あざな》が祥瓊」
「私は……」
なぜそんなことを知っているのだろう、この|雁《えん》からきた|半獣《はんじゅう》が。王族の名は伝わりにくい。身分が高く、名を呼ばれることが少ないからだ。
「死んだってえ|噂《うわさ》もあったが、死んでねえって噂もあった」
「あなた……何者?」
|鼠《ねずみ》はひげをそよがせる。
「おいらは、|楽俊《らくしゅん》っていう。単なる学生だ」
「単なる学生が|※虞《すうぐ》[#「※」は「馬+芻」、2-93-02、278-11]に乗る?」
「だから、借り物だってば。――公主だから追われてんのか?」
祥瓊は返答をしなかった。うかつにも公主だと告白してひどい目にあったことは忘れていない。
「なんか|困《こま》ってるんなら、相談に乗るけど」
「私の心配より、自分の心配をすれば?」
祥瓊は|歪《ゆが》んだ笑みを刷く。
「自分がなぜ|牢《ろう》の中にいるか、分かってるの? |下手《へた》をすれば|磔刑《はりつけ》よ」
楽俊はひげをそよがせた。
「磔刑? そりや、芳の話だろ? 物を盗んで、それで罪人を殺す国なんてのは、芳だけだ。――いや、芳ももうその法が廃止されてっけど」
「……そう……なの?」
「|峯王《ほうおう》は厳しい王さまだったらしいからな。――|窃盗《せっとう》は|殺刑《しけい》、特に主家から金品を盗めば|鞭刑《むちうち》、衣類宝石装飾品なら|磔刑《はりつけ》、食べ物でも|梟首《さらしくび》だ、確か。けど、そんなのは芳だけだろ。普通は|笞杖《ひゃくたたき》だ。|柳《りゅう》ならものによるけど、――ま、|杖刑《つえで》百打に|徒刑《ちょうえき》九十日ってとこかな」
祥瓊は驚いてその鼠を見る。他国の法に通じる、という。有能な|官吏《かんり》の条件だが、実際に他国の刑法にまで通じる官吏は刑を|掌《つかさど》る|司冦《しこう》の官の中にも少ない。
祥瓊はそう言って、改めて問う。
「|只者《ただもの》じゃないんでしょ? あなた」
「只の学生だってば。――|雁《えん》じゃ当たり前だぞ、このくらい」
「少学生?」
「いんや。大学」
祥瓊はさらに目を丸くした。少学は各州に一つ、大学は国府に付属のものが一つだけ、学生も百人程度と少ないから、入学は簡単なことではない。大学を修了すれば国官――それも上級官になれるから、入学を夢見ている者は多いが、毎年のように|選挙《しけん》を受けても一生合格しない者もいる。
「あんたみたいな子供が? いくつよ」
|楽俊《らくしゅん》はひげをしおたれる。
「おいら、いっつも子供に見られるんだよな。いいけどさ。――二十二」
祥瓊は|瞬《またた》いた。二十二なら不可能ではないが、それにしても早い。入学には選挙に合格するだけでなく、少学の|学頭《がくちょう》かよほどの人物の|推挙《すいせん》がいるから、三十を超えることも珍しくない。
「そう……いいわね」
この|鼠《ねずみ》には将来が約束されている。官僚としての豊かな将来。――祥瓊には何一つない。本当に何一つ。こうして|牢《ろう》に|繋《つな》がれ、|裁《さば》きを待っているしか。
「あんまりよくねえけど。これで捕まると、除籍だからなぁ」
祥瓊は言った鼠を見た。大学生なら知識だけでなく、人格も問われる。もちろん、犯罪によって処罰されれば間違いなく除籍になるだろう。
――だが、と祥瓊は思う。祥瓊はたぶん、|恭《きょう》へ連れ戻される。|供王《きょうおう》の|侮蔑《ぶべつ》と処罰。もしかしたらその処罰は常識を超えて重いかもしれない。この鼠は全てを失うわけではないが、祥瓊は|下手《へた》をすれば命さえ失う。
「ま、なんとかなるか。――そんで? いったい何がどうしたんだ? なんで|柳《りゅう》の兵隊さんが宿に踏みこんでくるんだ?」
祥瓊は問いには答えなかった。背を向けて壁に|凭《もた》れて目を閉じる。会話する意思のないことを示した。背後で小さく溜息が聞こえた。
眠ったふりで実は眠れず、震えながら一夜を明かし、その翌日、祥瓊は牢を引き出された。引き立てられながら、祥瓊は牢の中を振り返る。首を傾けるようにした鼠が、じつと祥瓊を見ていた。
牢は|官府《やくしょ》の奥にある。この街にある宮府が郡のものなのか、郷のものなのか、それとも県のものか、それともそれ以下のものなのか、祥瓊は知らない。|蔽獄《さいばんしょ》があるのは県府以上、州府では犯罪事件は取り扱わないが、牢はどこにでもあった。
祥瓊は|府第《やくしょ》の正殿に連れていかれ、その|正堂《ひろま》の床に腰に|縄《なわ》を打たれたまま座らされた。正面の壇上には太った中年の男が座っている。縄を持った獄卒が祥瓊をその場に突き倒し、無理やり頭を下げさせて、|叩頭《こうとう》させた。
「――|芳国《ほうこく》公主、|孫昭《そんしょう》だな」
「……違います。私はそんなご立派なひとじやありません」
男は|面白《おもしろ》そうに笑う。
「ほう? ――|恭国供王《きょうこくきょうおう》より知らせがあって、芳国公主が|御物《ぎょぶつ》を盗んで恭を出たとか。捕らえてほしいとの要請があったと|主上《しゅじょう》がら下達があった。供王からはご|丁寧《ていねい》に盗まれた品の目録が届き、これを添えて|青鳥《せいちょう》が来た。その目録にあった品のほとんどが、お前の荷の中にあったのはどういうわけか」
青鳥とは、官府ごとの伝令に使われる鳥を言う。
「貰った……んです」
祥瓊は|床《ゆか》に|額《ひたい》をつけたまま|吐《は》き出す。
「宿で同房だった、|半獣《はんじゅう》に、貰ったんです」
――申し訳ないけれど、どうあっても恭には帰りたくない。後ろめたい気分で祥瓊は断言する。突然、壇上の男が大声で笑った。
「そんな虚言を信じる|官吏《かんり》がいると思うか?」
「――でも!」
「なるほど、いかにも世間知らずの公主らしい。――御物を盗んで恭国王宮を|出奔《しゅっぽん》しておきながら、|暢気《のんき》に宿に泊まっている。|吉量《きつりょう》などという目立つものを捨てもせずに連れてまわる。さっさと品を換金すればいいものを、丁寧に荷の中に隠してのう」
祥瓊は|唇《くちびる》を|噛《か》んだ。実際、まずいやり方だったと、自分でも思う。自由になれたのが|嬉《うれ》しくて、その他のことに|頓着《とんちゃく》する気になれなかった。
「盗んできたのが飾りばかりなのは、女ゆえか。|愚《おろ》かなことだの」
|県正《けんせい》と壇上へ向けて声がした。するとここは県府だったらしい。
「公主ともあろう者が、そんな愚かなことをしますでしょうか。やはりこの女、公主ではございませんのでは」
「それもそうかの」
県正の声は|嬉々《きき》としている。
「なるほどな、確かにそうだ。――もう一度|訊《き》く。お前は公主|孫昭《そんしょう》か?」
違います、と|藁《わら》にも|縋《すが》る思いで、祥瓊は床に叫んだ。
「では、公主は盗んだ品をお前に押し付け、自分は|行方《ゆくえ》を|晦《くらま》したというわけだ。しかし、せっかく盗んだ品を他人にくれてやるものかの? いいや、そんなことはありはせん。女、どうだ? これは本当に貰ったのか? ――それとも、お前が盗んだのか?」
祥瓊には答えられない。
「顔を上げて、|儂《わし》の目を見て答えよ。――これは盗んだのか?」
祥瓊は顔を上げ、そのにんまりと笑った赤ら顔を見た。
「ち……違います」
「では、他人から貰ったのか? そんなばかな|施《ほどこ》しをする者がどこにいる。――ああ、それとも」
|県正《けんせい》の声は|猫撫《ねこな》で声に変じた。
「これはそもそもお前の持ち物か? 罪に|陥《おとしい》れられるのを恐れて、貰ったと言っておるのか? ならば品が目録に似ておるのは偶然、|恭国《きょうこく》の品とはなんの関係もないことになるが」
祥瓊はその男の|含《ふく》みありげな視線を受けて|頷《うなず》いた。
「……そうです」
「お前が持つにしては、いささか|贅沢《ぜいたく》に過ぎる品のようだが?」
「……でも……私のものです。……本当です」
「|怪《あや》しいな。――だが、|官府《やくしょ》は忙しい。いろいろとな。怪しいというだけでいちいち調べておったのでは、いっこうに|埒《らち》があかん。お前が自分の身柄を|購《あがな》うというのなら、それで|釈放《しゃくほう》してもよい」
男の含みを|悟《さと》って、祥瓊は内心で|呆《あき》れた。この男は|賄賂《わいろ》を要求しているのだ。室内にいる下官も、にやにやと笑っている。
「もしも……わたしをお許しくださるのなら、荷の中の品々、|吉量《きつりょう》は県正に献上いたします」
そうか、と県正は|膝《ひざ》を打った。
「なかなか処世を知っている娘だ。では、それで不問に付そう。――どうも下知された目録の品と似ておるようだが、お前のものなら偶然であろう。供王の御品なら受け取るわけにはいかんが、お前のものなら問題はない」
「私のものです」
祥瓊が断言すると、県正とその下官らはにまりと笑った。
「分かった。では、お前の身柄は釈放しよう。品と吉量は預かる。荷と|財嚢《さいふ》は返すゆえ、好きにするがいい」
「……ありがとうございます」
祥瓊は頭を下げ、面に浮かんだ表情を隠した。
|府第《やくしょ》で荷と|財嚢《さいふ》を受け取り、祥瓊は寒風の吹き渡る街へよろめき出た。
――助かった。
少なくとも命を取られることはなく、|恭《きょう》へ送り返されることもなかった。せっかく持ち出した|御物《ぎょぶつ》は奪われ、吉量もなくしてしまったけれど。――それだけでなく。
祥瓊は|懐《ふところ》に手を入れ、おそろしく軽くなった財嚢に触れた。
宿に渡した|銀釵《かんざし》は押収された。軽くしぽんだ財嚢を祥瓊に返した|官吏《かんり》は、財嚢の中から宿の支払いを済ませておいた、と言った。
――だが、有り金のほとんどをなくしても、恭に送り返されるよりは、数倍ましに違いない。革の上着を|掻《か》き合わせ、肩布を首にしっかり巻いて、祥瓊は自分に言い聞かせる。
――けれど、これからどうすればいい。
荷の中には着替えと、先日買った僅かな装飾品が入っている。これを全て金に換えて、それでどこまで旅ができるというのだろう。|慶《けい》に行くためには|戴《たい》に行って|旌券《りょけん》を手に入れなくてはならず、|戴《たい》へ行くためには|慶《けい》に行って戴国行きの船に乗らねばならない。なのに祥瓊に残されたものは、五日の旅費にも|足《た》りない。
歩いて旅をし、最低の宿に泊まれというのだろうか。それさえできなくなれば、民家に宿を|乞《こ》い、日銭仕事を乞うて、人の情けに|縋《すが》りながら旅をしろというのだろうか。そんなことが自分にできるとは、とうてい思えなかった。
途方に暮れて深く|俯《うつむ》き、|府第《やくしょ》の門を出た祥瓊は、脇から声を掛けられた。
「――無事だったみてえだな」
祥瓊は慌てて振り返り、見事な|※虞《すうぐ》[#「※」は「馬+芻」、2-93-02、286-11]の|手綱《たづな》を引いた|鼠《ねずみ》を見つけた。
「……お前」
「どんな案配になったか、気になって来たんだけど。疑いが晴れたんだな」
|漆黒《しっこく》の目が細まって、笑みに似た表情が浮かんだ。
「……晴れたわけじゃないわ」
祥瓊はそっぽを向いて歩き出す。すぐ後からほたほたと足音が追いかけてきた。
「晴れたわけじゃない?」
「|賄賂《わいろ》を渡せば許してくれると言われただけよ。おかげで持ち物を全部、取られたわ」
祥瓊は道に|吐《は》き捨てる。この鼠に当たっても仕方のないことだが、よかったと言いたげな様子が|癇《かん》に|触《さわ》った。
「……変だな」
低い声に、祥瓊は鼠を振り返った。
「|柳《りゅう》の|官吏《かんり》がそんなことを要求するもんかな」
「でも、したの。珍しいことじやないわ。いつの世だってどこの国だって、権を振り|翳《かざ》して私服を肥やそうとする者はいるものだわ」
「けども、柳は法治国家で名高い国だ。|芳《ほう》の|峯王《ほうおう》も柳に|倣《なら》って国を作ろうとした」
祥瓊は足を止めた。
「民を|戒《いまし》める法より、官吏を戒める法のほうが多い。そのあたりが芳とはちっと違うけどな。――柳の官吏は腐敗できねえ。できねえように法ができてる。それが県府で堂々と賄賂を要求するってか? なるほどなぁ」
「……どういうこと?」
「官吏を監視する体制自体が、腐敗してるってことだな。――祥瓊は、戴へ行くと言ってたな? それはやっぱり柳の港から渡るのかい」
祥瓊は|自嘲《じちょう》するように笑う。
「|慶《けい》へ行くほどの旅費はないわね」
「やめたほうがいい」
「――どうして?」
門へ向かう|広途《おおどおり》の雑踏の中で、|鼠《ねずみ》は声を低めた。
「|虚海《きょかい》には|妖魔《ようま》が出る」
「昨日、聞いたわ」
「半分は|戴《たい》の沿岸に出るが、半分は|柳《りゅう》の沿岸に出る」
「――え?」
|祥瓊《しょうけい》は足を止めてその半獣を見る。黒々とした|瞳《ひとみ》が祥瓊を見返した。
「柳は傾いてるんだ」
祥瓊はしばらく、その言葉を|反芻《はんすう》していた。
柳の|劉王《りゅうおう》は、|恭《きょう》の供王より長く国を治める。すでに統治は百二十年を超えたから、賢君と言っていい。祥瓊にとって間近の三国、|範《はん》、|恭《きょう》、|柳《りゅう》は滅びることのない国のように思えた。祥瓊が生まれた時から、ずっと安定した国でありつづけたから。
「――そんで、どうする?」
突然|訊《き》かれて、祥瓊は|楽俊《らくしゅん》を振り返った。どうというあてもなく、雑踏に流されて街の門を出ていた。
「なに?」
「戴へ行きたいんじゃなかったのかい。荷を取られたんだろう。|路銀《りょひ》はあるのか? おいらは柳をうろうろして|雁《えん》まで戻る。それでもよかったら、一緒に来るかい?」
祥瓊はぽかんと目を見開いた。
「……まさか……私を雁に連れていってくれるわけ?」
「|関弓《かんきゅう》まででよければな。しばらく歩いてもらわなきゃならねえけど」
「……ばかじゃないの? あなた、自分がもう少しで|盗人《ぬすっと》にされるところだったって分かってる?」
楽俊は笑った。
「そりやあ、ねえよ。たぶん捕まることはねえだろうと、思ってたし。ちょっとしたお方が|旌券《りょけん》の裏書きをしてくれたからな」
「――そういう問題じゃなく――」
それに、と彼はさらに笑う。
「おいらはどうも、こういう|巡《めぐ》り合わせに生まれついてるらしい」
2
|歳《とし》が改まった。半月をかけて、|鈴《すず》と|清秀《せいしゅう》は|和州《わしゅう》の西端は|止水郷《しすいごう》まで来ていた。このまま街道に沿って西へ向かえば、首都|堯天《ぎょうてん》のある|瑛州《えいしゅう》に出る。
半月でここまで来れたのは、馬車を使ったせい、にもかかわらずここまでしか進めていないのは、清秀の具合が日々悪くなるからだった。どうにかすると起きるなり苦しみ始めて、半日|呻《うめ》いていることがある。そうなるとその日はもちろん、翌日もとても旅はさせられない。そうした旅の中で、鈴と清秀は信念を|迎《むか》えたのだった。
依然、清秀の目は|治《なお》らなかった。相変わらず|眩暈《めまい》がひどいらしく、歩いて旅をさせることは不可能に近い。頭痛には必ず|痙攣《けいれん》を伴うようになり、決まって|嘔吐《おうと》するようになった。
「ねえちゃん、ごめんな」
清秀は馬車に横になって揺られながら言う。馬車は荷台に|蔽《ほろ》を掛け、敷物を敷いただけだった。多くは近郊の|廬《むら》の者が、街道沿いの街に出た際、|空《から》になった荷台に人を乗せて小金を|稼《かせ》いでいるものだった。|馳車《ちしゃ》という旅客を運ぶ専用の馬車もあったが、おおむね貴人が使うものだから、鈴などでは乗せてくれない。
「金、大丈夫か? おれだったら、歩けるぞ。ちょっと遅いかもしんないけど」
「大丈夫よ。子供がそんな心配をしないの」
鈴がばちんとおでこを|叩《たた》くと、笑ってそれでも|憎《にく》まれ|口《ぐち》を叩いた。
「自分だってガキのくせに」
笑った顔は|痩《た》せた。|吐《は》いてばかりだから当然だろう。
言葉も|怪《あや》しいらしい。鈴は仙だからちゃんと聞こえるが、|馭者《ぎゃしょ》などは変なしゃべり方をする、と言う。「行く」を「きく」と言ってしまうような、そういう奇妙な症状が現れているようだった。
「憎まれ口を叩く|暇《ひま》があったら、寝なさい」
「心配なんだよ。ねえちゃん、頼りないから」
「余計なお世話よ」
言いながら、鈴は笑ってしまう。憎まれ口に腹が立たないのは、清秀の言葉には他意がないからだ。時に腹の立つことも言うが、|嘘《うそ》はないと思える。かわいそうね、と口先だけで言われるぐらいなら、かわいそうじゃない、と言い放たれてしまったほうが楽だった。
鈴はふと、清秀を見た。
「ひょっとしたら、|梨耀《りよう》さまもそうだったのかしら……」
「――なにが?」
「|同府《どうふ》のひとが、みんな梨耀さまを嫌ってた。けど、嫌いかって|訊《き》かれて、嫌いですなんて言えないでしょう? それでみんなとんでもない、って首を振るんだけど、|梨耀《りよう》さまは決まって|嫌味《いやみ》を言うの」
「嫌いって言われて|嬉《うれ》しい人間はいないだろうけどなあ。でも、嫌われてるの分かってるのに、そんなことない、って言われてもぜんぜん嬉しくないよな」
「だったら、嫌われるようなことをしなきゃいいのに……」
うーん、と|清秀《せいしゅう》は|蔽《ほろ》の|天井《てんじょう》を見た。
「人間ってさ、むしゃくしやしてひとに当たることってあるだろ? 自分でもやなことしてるな、って分かってて、やっちゃうことってあるじゃない」
「……あるわね」
「そういうときってさ、自分でも悪いことしたな、って思ってるわけじゃないか。嫌われたかな、と思ってそう|訊《き》いて、見え見えの態度でいいえ、って言われたら、やっぱ腹が立つんじゃねえかな。正直に嫌いって言っても、角が立つけどさ」
「そうかもね……」
「そういうことがあんまり続くとさ、なんか自分でもなんのためにか分からないけど意地になって、とにかく本音を言わせてみせるぞ、って。――そういう感じってあるんじゃないかな」
|鈴《すず》はぽかんとした。
「あんたって、梨耀さまになったことがあるみたいね」
「単なる想像だけどさ」
「そうかもしれない」
振り返ってみれば、梨耀がなにを考えているのか、想像してみたことがなかった。ただそこには悪意があるのだと、そう思っていた。
「――正直言って、梨耀さまの気持ちなんか、考えてみたこともなかった。とにかく我慢しなきゃ、って。それをまた梨耀さまが、本当は|悔《くや》しいんだろう、|憎《にく》いんだろう、って皮肉を言って、答えが気に食わないと大変な用を言いつけたりするの。……息をつけるのは、寝床の中だけ。それもときどき|叩《たた》き起こされるんだけど」
清秀は溜息をつく。
「なんか……かわいそうだなぁ……」
「大変だったのよ、本当に」
「ねえちゃんじゃないよ。ねえちゃんは好きでいたんだもん。――そうじやなくて梨耀ってひと」
鈴は|恨《うら》めしい気分で清秀をねめつけた。
「あんたはあたしじゃなくて、梨耀さまを哀れむの?」
「なんか、そういうふうに無駄な意地を張ってるのって、|辛《つら》そうじゃない。きっと自分でも自分が|嫌《いや》になることってあったと思うんだよな。自己嫌悪ってやだろ。自分からは逃げ場がないから」
「そうかしらね」
鈴はつんとそっぽを向いて、|蔽《ほろ》の隙間から見える街道を見つめた。
「……あんたは笑うだろうけど、本当に|辛《つら》かったんだから。寒い日に冷たい寝床に入って、一人でぽつんとものを考える時間がいちばん幸せだなんて、自分がすごく悲しかった」
「他に人がいたんだろ? 話をしようとか、思わなかったわけ?」
「言ってるでしょ。あたし、|海客《かいきゃく》だから、よく分からないことがいっぱいあるわけじゃない。それなに、って|訊《き》くたびに笑われるんじゃ、話をする気にはなれないわ。確かに、学ぽうとしなかったあたしもいけないけど、あんなふうに常に笑われていたら、人になにかを訊いて学ぶ気になれなくても仕方ないと思うの」
「……そんで、寝床の中に入って、あたしはかわいそう、世界じゅうでいちばん不幸、って泣いてたわけな」
「そんなこと……」
それは事実だったので、鈴は少し赤くなった。
「そんなこと、してないわ。――いろんなことを考えてた。もしもこれが夢で、目を開けたら実は家の寝床の中だったら、とか」
言って鈴は切なく笑う。
「|景王《けいおう》のことを聞いてから、景王ってどんなひとだろう、って。きっと|蓬莱《ほうらい》を|懐《なつ》かしがっていると思うの。だから、こんな話をしてあげよう、故郷の歌を歌ってあげよう――」
そうしたら、彼女はとても喜んでくれる。そうして彼女も故郷の話をしてくれる――。
鈴は息を|吐《は》いた。
「でも、我に返ったら、|虚《むな》しいだけ。|梨耀《りよう》さまには|嫌味《いやみ》を言われてこき使われて、他の人にも意地悪されて……」
清秀は|呆《あき》れたようにした。
「ねえちゃんって、本当にガキくさいのな。当たり前じゃない。だってねえちゃん、なにもしてねーもん」
鈴はぽかんと目を見開いた。清秀はやれやれ、と溜息をつく。
「空想ってのは、ぜんぜん労力いらねーもん。今、目の前の問題をどうしようとか、やらなきゃいけないことをやる、なんてのに比べたら、ぜんぜん楽。けど、その間考えないといけないことも、やらないといけないことも棚の上に置いてるだけだろ? なーんにも変わらないし、むなしーに決まってるじゃん」
「それはそうだけど……」
「そうやって、ぽやぽやしたことばっかり考えてるから、いつまでもガキみたいなんだよな、ねえちゃんって」
「あんたって、ときどき、本当に|嫌《いや》なやつね」
ヘーんだ、と舌を出して、清秀は丸くなる。
「ねえちゃん、よく泣くだろ。でもおれ、泣くのってさ、やなんだよ」
「悪かったわね、泣き虫で。――あたし、小さい頃は泣かない子だって言われてたんだから。|辛抱《しんぼう》強い子だって」
鈴を峠に連れていった人買いの男もそう言った。泣かないのが気に入った、と。
「でも、泣き虫になっちゃうぐらい、|辛《つら》かったの。いろんなことが」
おれさあ、と清秀は鈴を見る。
「|慶《けい》の家が焼けて、|廬《むら》の人がたくさん死んで、おれたちももうどっかに行くしかないって、最後に焼け跡を見にいったとき、すげー泣いたのな。もう、なんか悲しくて悲しくて、我慢できなかったんだよ。ガキだからさ、泣くことなんかいっぱいあるよ。でも、いつもの泣くのと違って、おれそのまま一生泣きやめないんじゃないかと思った」
「あんたでも?」
「うん。そんときに思ったんだ。ああ、人の泣くのには二つあるんだな、って。自分がかわいそうで泣くのと、ただもう悲しいのと。自分がかわいそうで泣く涙はさ、子供の涙だよな。誰かなんとかしてくれって、涙だから。とうちゃんでもかあちゃんでも、隣のおばちゃんでもいいから、助けてくれ、って」
鈴はただ清秀の顔を見る。
「子供ってそれっきゃ、身を守る方法がないからさ。だから、ガキの涙なの」
そう、とだけ鈴は答える。しばらく清秀も口を|噤《つぐ》んでいた。
「……ねえ、清秀の家は慶のどこにあったの?」
「んーと、南のほう」
「身体が|治《なお》ったら、行ってみようか」
「一緒に?」
清秀は横になって鈴の衣にくるまれている。馬車の中は寒いから、鼻先まで衣を引き上げて、その目だけで鈴の顔をうかがった。
「一緒に。――いや?」
「ねえちゃんと一緒じゃ、たいへんだなあ」
言いながら、清秀はくすくす笑っている。鈴もまた笑った。
3
|固継《こけい》の|里《まち》は|北韋《ほくい》の街に隣接する。北東の隅に付属するようにあった。|官府《やくしょ》は|里府《りふ》だけ、里にある建物も二十五家、最小の規模の街である。
|陽子《ようこ》は|蘭玉《らんぎょく》とともに|里家《りけ》の門を|潜《くぐ》って|大緯《たいい》に出た。
普通|里《まち》は百|歩《ぶ》四方、高い|隔壁《へい》に囲まれ、その内側を|環途《かんと》が一周している。里の北に|里府《りふ》と|里祠《りし》、|里家《りけ》が並び、その前を東西に貫く広い|途《みち》が|大緯《たいい》、里詞から|里閭《もん》までまっすぐ南北に延びる途を|大経《たいけい》という。里府には|府邸《やくしょ》と小学がおかれ、里祠は正式には|社《しゃ》といって、|里木《りぼく》と諸神、土地神を|祀《まつ》る。里木を祀る里詞の西に土地神と五穀神を祀る|社稷《しゃしょく》が、東に祖霊を祀る|宗廟《そうびょう》があるのが一般的で、これを総じて|社《しゃ》というが、|里《まち》の人々の信仰は|里木《りぼく》に収束する。――それはその木が、里の人々に子供と家畜を与えてくれるからだった。
「おもしろいな……」
陽子が一人ごちると、蘭玉が首を傾けた。
「――ん?」
「いや、里祠というだけあって、|社稷《しゃしょく》も|宗廟《そうびょう》もおまけみたいだ」
実際、社稷も宗廟も小さく、常にはひっそりと静まり返っている。
蘭玉はくすりと笑った。
「陽子は|妙《みょう》なことをおもしろがるのね」
「そうかな?」
「だって、|里木《りぼく》は子供をくれるもの。いくらお|供《そな》えをして祈っても、豊作になるとは限らないし、災害から守ってもらえるわけでもないわ。――だから、里木が一番。どうしたってそうなるでしょ?」
「こちらの人は現実的だな。――でも、天帝と王母は特別なんだな」
多く天帝も|西王母《せいおうぼ》も|里祠《りし》に|合祀《ごうし》されるが、これとは別にわざわざ両者を祀る廟を設ける街もあった。
「だって、子供をくださるんだもの」
「天帝と西王母が?」
「そうよ。子供が欲しい夫婦は里木にお願いして枝に帯を結ぶの」
「夫婦でないとだめ?」
「だめよ。――そうすると、|催生玄君《さいじょうげんくん》が、子供を欲しがっている人の名簿を作って、西王母に差し上げるんですって。西王母は天帝にお|訊《き》きして、その中から親にふさわしい立派な人を選んでもらうの。そうして王母が|女神《にょしん》に命じて|卵果《らんか》を作らせるのよ」
「へえ」
かつて故郷で聞いた神話とはずいぶん違う気がする、と陽子は思う。――|詳《くわ》しくは覚えていないのだが。
「|送生玄君《そうじょうげんくん》が子供のもとを|捏《こ》ねて卵果にして、|送子《そうし》玄君が里木にそれを運んでくるの。――|蓬莱《ほうらい》はそんなふうじゃないの?」
「ぜんぜん違うな」
|陽子《ようこ》は苦笑する。
「|蘭玉《らんぎょく》はそれを信じている?」
陽子が|訊《き》くと、蘭玉は笑った。
「本当のところは知らないわ。でも、|卵果《らんか》がなるんだもの。お願いした枝の卵果でないと絶対に|※《も》[#「※」は「てへん+腕」、1-84-80、300-6]げないのよ、不思議じゃない? ――だからきっと神さまが恵んでくださるのよ」
なるほどな、と陽子は笑う。
「|家畜《かちく》も|里木《りぼく》に|生《な》るんだよね」
「そう。月の一日から七日までに里木にお願いするの。一日が|鶏《にわとり》や|鴨《かも》なんかの鳥、二日が|狗《いぬ》、三日が羊や|山羊《やぎ》、四日が|猪《いのしし》や|豚《ぶた》、五日が牛、六日が馬、七日が人」
「――人? 人も決まってるんだ?」
「ううん。人は七日か九日以降なら、いつでもいいの。でも、七日にお願いした子は、いい子になるんだって。|桂桂《けいけい》がそうだって、かあさんが言ってたわ」
「へえ。なるほど」
「家畜はひと月で|孵《かえ》るの。一度にいくつも帯を結べるけど、全部に卵果がつくとは限らないわ。人は必ず一つだけ」
「じゃあ、|双子《ふたご》はないんだな」
「――双子?」
「二人一緒に生まれてくる子。|蓬莱《ほうらい》には五つ子なんてこともあるよ」
「へええ。おもしろい」
言って蘭玉は|里祠《りし》を振り返る。
「八日は穀物の日。――これは王だけがお願いできる」
「穀物の日もあるんだ」
「五穀はね、勝手に増えるの。種を|播《ま》けば、実って増えるでしょ?」
「やっぱりそうなんだな」
「草や木は、生き物じゃないもの。でも、新しい穀物は誰かがお願いしないといけないじゃない? それをできるのは王さまだけで、王宮の中にある木だけなの。天がお願いを聞き届けてくださって、王宮に実がなると、次の年には国じゅうの里木に種の入った卵果ができるんですって」
へえ、と陽子は目を見開く。そんな務めがあるとは知らなかった。|詳《くわ》しいことを|遠甫《えんほ》に訊いてみよう、と思う。
「|野木《やぼく》にはね、家畜以外の|獣《けもの》や鳥が|生《な》るの。水の中にも木があるのを知ってる?」
「知らない。――ひょっとして魚が|生《な》る?」
蘭玉は笑った。
「あたり。あとは草や木の種」
「穀物以外の植物は勝手に増えない?」
「増えるわ。そうじゃなくて、新しい草や木。これは勝手にできるらしいの。いつどこでどんな草が生まれるか、誰も知らない。だから|野木《やぼく》にときどき行って、根元に見慣れない草がないか、調べてみるの。調べて、見つけたら持って帰って育てて増やす。そういうのを仕事にしている|浮民《ふみん》がいるわ。|猟木師《りょうぼくし》っていうんだけど。新しい卵果を探してあちこちを旅する人たち。木にもくせがあってね、新しい卵果ができやすい木と、できにくい木があるんだって。できやすい木は秘密なの。絶対に教えてくれない。だから猟木師のあとについていくと、殺されちゃうんですって」
「へえ……」
「珍しい薬や、薬草や作物の苗を持ってきて売ってくれるけど、ちょっと|怖《こわ》い」
陽子は黙って|頷《うなず》く。この世界にもやはり被差別者がいる。職業による差別はあまりない。家系によって職業が受け継がれることがないからだ。子供はどんな家の子供でも必ず数えで二十歳になれば公田をもらって独立する。大きな店も商売も、そのまま子供に継がせることはできない。身体に障害のある者も手厚く養われる。だが|半獣《はんじゅう》や浮民はやはり隔てられるのだ。
「……どうかした?」
|蘭玉《らんぎょく》が|訊《き》いてきて、陽子は首を振った。
友人の半獣。彼に感謝して半獣を隔てる法を|撤廃《てっぱい》したかった。 だが、|官吏《かんり》の賛同が得られなかったのだ。
それを|初勅《しょちょく》にしようか、とも思った。だか、それもなにか違う気がする。初勅は陽子にとって、ひとつの区切りだった。自分が王としての自覚と自負をもって行う最初の仕事にしたいと、いつの間にか|頑《かたくな》に思っている。
「あたし、なにか悪いことを言った?」
「そうじやない。ちょっといろんなことを思い出してただけだ。――じゃあ」
陽子と蘭玉はちょうど|里閭《もん》の前まで来ていた。蘭玉はこれを出て|閑地《かんち》へ行く。陽子は|北韋《ほくい》の街に用がある。
「……うん。元気出してね?」
陽子は|微笑《ほほえ》む。蘭玉は陽子が考えこむと、必ず|蓬莱《ほうらい》のことを思い出しているのだと、そう哀れんでくれるようだった。その心根に感謝して、陽子は軽く手を挙げる。蘭玉と別れて|環途《かんと》を西へ向かった。
通常、|里《まち》には門は里閭ひとつしかない。ここ|固継《こけい》には二つあった。それは固継が本来、北韋の街の一部だからだ。
街は必ず里を核にできる。里にその他の|府第《やくしょ》が付随し、肥大しているのである。県城以上になると、それが転倒し、街の中心に|府城《やくしょ》ができ、肝心の|里《まち》は|里府《りふ》などとともに街の隅においやられる。必ず東北の隅だった。|北韋《ほくい》ではさらに|固継《こけい》の里は街の外に追いやられてしまっている。かろうじて門一つで北韋の街と|繋《つな》がっている状態だった。
陽子はその北韋の街に入り、まっすぐに|府城《やくしょ》へ向かった。街の中央で高い城壁に囲まれた一郭、その周囲を|巡《めぐ》る内環途を曲がり、北韋の南東に向かった。
「……どこだ?」
陽子は小さく|呟《つぶや》く。雑踏の中、足元からさらに小さな声があった。
「次の角を右です」
陽子は声の指示に従い、市街の奥へと入りこみ、小さな家に|辿《たど》り着いた。
本来ならば、街に家を持つのはその里の住人だけ、必ず国から与えられる家だけであるはずだ。だが、実際には人々は土地を売り、家を売って移動する。ある者は|廬家《ろけ》と農地を売って街に|宮府《やくしょ》から土地や店を買い、ある者は農地を買って人の数倍の土地を小作人を雇って耕作させる。どうにかすると|一廬《いちろ》がまるまる一人の人物の所有であることもあった。与えられた農地を見ることもなく売りさばき、街に家を求める者も少なくない。
この家の主は、どういった経緯でこの家に住むようになったのだろう。いずれにしても、持ち主は|労《ろう》、という。――|遠甫《えんほ》のもとを訪れた口妙な客、その使いをした男の家だった。
|班渠《はんきょ》はあの男をつけ、一度目と同じく、男が宿ではなく労の家に入ったのを確認した。男は翌日、北韋を出て北へ向かったという。
――さて、どうするか。
陽子は家を見上げる。男を呼び出して、あの客がどういった人物だか、|訊《き》いたところで答えはすまい。
通りの反対側から眺めているうちに、突然家の|大門《いりぐち》が開いた。陽子はとっさに視線を|逸《そ》らし、通りを見渡して道を探しているふりをする。
それじゃあ、と男の声が聞こえた。
「荷は――」
男は陽子に気づいたように、声を途切らせる。|茶斑《ちゃまだら》の髪をした、中年の小男だった。その|側《そば》にいるのは、反対に大男。|巌《いわお》のような体格に、ごく普通の黒い髪。その男も陽子を見やって、ふいに視線を|背《そむ》けた。
「ま、あんたに任せるさ」
「承知した」
それだけを言い交わし、二人は離れる。小男は逃げるように家の中に入り、大男は足早に|小途《こみち》を歩き始めた。
――単なる客かもしれない。
だが、小男が急に言葉を途切らせたのが気になる。
陽子は大男とは反対へ向けて歩きながら、小さく|班渠《はんきょ》を呼んだ。
「……気になさるほどのことで?」
姿ない声に、陽子は|頷《うなず》く。
「すまないが、たのむ。――単なる客だとは思うけど、どうしても|遠甫《えんほ》の様子が気になるんだ……」
蘭玉が言ったとおり、あの客が来た翌日、遠甫はひどくふさぎこんだ様子だった。今回も同様で、授業もできないという。それですることもなく、|労《ろう》の家を見に来てみたわけだが。
「かしこまりました」
小さく声が離れて、消えた。
その夜、班渠は深夜になってから戻って、男が川向こうの|和州止水郷都拓峰《わしゅうしすいごうとたくほう》の住人であることを伝えた。
「拓峰……」
拓峰ならば|北韋《ほくい》を出て東、遠甫を訪ねてきた男は北へ向かった。あの大男と関係があるのか、ないのか。
陽子はしばらく黙考する。
九章
1
生まれは|巧国《こうこく》だ、と|楽俊《らくしゅん》というその|半獣《はんじゅう》は旅をしながら語った。
「けど、巧じゃ半獣は少学へ入れねえし。そんで、|雁《えん》に留学してる」
確か、|芳《ほう》でも少学、大学へは半獣は入れなかった。そう言うと、彼は|頷《うなず》く。
「|浮民《ふみん》や|荒民《なんみん》も入れない。その国に|戸籍《こせき》がないと駄目なんだな。そういう国は多いんだ。半獣に|戸籍《こせき》を与えない国、ってのはもう|巧《こう》だけだけど、大昔はどこもそうだった。|戴《たい》も新王がようやく戸籍を与えてくれるようになったけど、徹底しないうちに|偽王《ぎおう》が|起《た》ったからなぁ」
「……そう」
「半獣じゃ|官吏《かんり》になれない国、上の学校には入れない国、ってのは|芳《ほう》と|巧《こう》、|舜《しゅん》と|慶《けい》もだいたいそうだ」
楽俊の旅の仕方は無茶苦茶だった。|※虞《すうぐ》[#「※」は「馬+芻」、2-93-02、308-1]の足ならば|芝草《しそう》まで一日かからないのに、あちこちの街にわざわざ足を止める。|芝草《しそう》とは反対方向の街へ寄ってみることもしばしばだった。|※虞《すうぐ》[#「※」は「馬+芻」、2-93-02、308-3]がいるので造作もない旅だが、|祥瓊《しょうけい》は首をかしげざるをえない。なにが目的の旅なのか、よく分からないのだ。
「――|浮民《ふみん》や|荒民《なんみん》が、|官吏《かんり》になれない、学校へ行けない国ってのはもっと多いし、|山客《さんきゃく》、|海客《かいきゃく》に関してはさらにもっと厳しい。普通は浮民扱いだが、|巧《こう》じゃ浮民以下の待遇になる。反対にうんとよく待遇する国もあるな。|奏《そう》と|雁《えん》、|漣《れん》がそうだ。山客や海客は珍しいものを伝える。紙、陶磁器、印刷技術、医術」
「山客や海客って本当にいるの?」
祥瓊は少なくとも、見たことがなかった。
「寺が最初に建ったのは|芳《ほう》だろう」
「そうなの?」
「|必王《ひつおう》の時代に山客が来て、山腹を|刳《えぐ》って寺を建てて仏教ってのを教えたのが始まりだ。だからいまでも芳じゃ死体を|荼毘《だび》にする。荼毘にすんのは|芳《ごう》と|雁《えん》、|奏《そう》と|漣《れん》だけだな。――芳じゃ確か、|里祠《りし》も|廟堂《びょうどう》ふうに建てずに寺堂ふうに建てる。建物の並びが違うんだ」
「|必王《ひつおう》って?」
「芳の十二か十三代目の王じゃなかったかな」
祥瓊は|呆《あき》れて、|半獣《はんじゅう》を見る。芳の民、|公主《こうしゅ》であった祥瓊より、楽俊のほうがよほど芳に|詳《くわ》しかった。それが|悔《くや》しく、いらだたしい。
「――さて、祥瓊には明日からちっと|難儀《なんぎ》してもらうぞ」
|芝草《しそう》を出て、|※虞《すうぐ》[#「※」は「馬+芻」、2-93-02、309-4]でさらに二日旅をし、門を入ろうとするところだった。門へ向かう道は閑散としている。夕暮れにはまだまだ時間があるせいだった。楽俊は小さな筒を|※虞《すうぐ》[#「※」は「馬+芻」、2-93-02、309-5]の首に巻きつける。祥瓊は今朝、その筒の中に、楽俊が手紙を入れるのを見ていた。
「どういうこと?」
「明日から、雁まで歩きだ」
そんな、と祥瓊が抗議する|間《ま》もなく、楽俊は|※虞《すうぐ》[#「※」は「馬+芻」、2-93-02、309-9]を|促《うなが》す。
「たま、先に戻れ。手紙を頼む」
くおん、と鳴いて、|※虞《すうぐ》[#「※」は「馬+芻」、2-93-02、309-11]は宙に舞い上がる。|凧《たこ》のように舞い上がってから、長い尾を|翻《ひるがえ》して風が吹き抜けるように見えなくなった。
「どうするの、|※虞《すうぐ》[#「※」は「馬+芻」、2-93-02、309-13]を放して。まだ雁まではずいぶんあるのに!」
「五日ってとこだろう。――勘弁な。もう寄り道はしねえから」
「そういう問題じゃないわ! 今夜の宿をどうするの!」
半獣にはどこの街でもやや風当たりが強い。高級な宿など、楽俊が入っていくと必ず|嫌《いや》な顔をする。それでも連れた|※虞《すうぐ》[#「※」は「馬+芻」、2-93-02、309-17]を見れば必ず態度を変えた。その|※虞《すうぐ》[#「※」は「馬+芻」、2-93-02、309-17]がいなくなれば、宿泊を断られかねない。
「大丈夫だろ、大層な宿に泊まらなきゃ。たまがいなけりや|厩舎《うまや》にこだわることもねえから、最低の宿でもいいわけだし」
ここまで宿は必ず上の部類だった。それは|※虞《すうぐ》[#「※」は「馬+芻」、2-93-02、310-4]を預けるきちんとした厩舎が必要だったからなのか、と祥瓊はそう納得しながら、門へと向かっていく楽俊を慌てて追いかけた。
「――まさか、最低の宿に泊まる気? 冗談でしょう?」
楽俊は|瞬《まばた》ぐ。
「なんでだ?」
「なんでって――」
「眠れりやいいだろ、どこだって。――そりや、雑居するような宿に祥瓊を泊める気はねえけどさ」
「だって、|牀搨《しょうとう》なんてないのよ? |房間《へや》だって汚いし」
祥瓊が言うと、楽俊は門を入りながら溜息をつく。
「お前さん、本当にお姫さま育ちなんだなぁ……。大丈夫、硬い|臥牀《しんだい》だって|転《ころ》がり落ちるほど|狭《せま》かないし、板の|間《ま》だって寝られないってことはねえからさ」
知ってるわ、と祥瓊は|吐《は》き出した。
「知ってるから|嫌《いや》なのよ。もう二度とあんなところに寝たくないわ」
それは祥瓊を|惨《みじ》めにする。惨めな生活を思い起こさせるから。――|恭国《きょうこく》を逃げ出して上宿ばかりに|逗留《とうりゅう》すると、いっそうそれが耐え|難《がた》く思えた。
楽俊はかりこりと耳の下のふっくらとした毛並みを|掻《か》く。小さな街の|広途《おおどおり》もまた街道のように閑散としていた。
「普通、人は|臥牀《しんだい》に寝る。|床《ゆか》の上に寝ているやつだっている。……土の上に寝ているやつだっているんだがなぁ」
「そんなのだって、知ってるわ」
「なんか、祥瓊って、知ってるだけなんだよな」
祥瓊は|眉《まゆ》を寄せた。
「――なによ、それ」
「知識として知ってるだけで、実はそれが本当はどういうことだか、分かってねえ気がすんだよ、悪いけど」
「冗談じゃないわ。――私はずっと|臥牀《しんだい》で寝てきたの。隙間風の入る寒い|房間《へや》で、薄い|衾褥《ふとん》で。あなたには分からないでしょうけど、私はもうあんな思いをするのは嫌なの」
「――なんでだ?」
祥瓊は|呆《あき》れて目を丸くした。
「なんで? それがどれだけ|惨《みじ》めなことだか、分からないの? 夜明け前に眠いところを|叩《たた》き起こされて、食事もしないうちから働かされて、泥にまみれて家畜|臭《くさ》い|藁《わら》にまみれて。食事が充分に|貰《もら》えなくてひもじい時だってあったわ。くたくたになって眠いのに、ひもじくて寝られない、寒くて寝られない。寝られなくても朝になれば叩き起こされてまた働くの。誰もかれもにばかにされて|罵《ののし》られて。そういう生活を思い出したくないのよ。――分からない?」
「悪いけど、おいらにゃぜんぜん分からねえなぁ。どうしてそれが悪いんだい? どうしてそれが惨めなんだい? そんな暮らし、まっとうに働いてる農民ならみんなしてることだ。貧しい連中なら、ひもじいのだって当たり前だ。どうしてそれが思い出すのも|嫌《いや》なことなのか、おいらには分からねえ」
楽俊は言って足を止め、ああ、と右手を見やった。
「――あそこにするか」
彼が目をやったのは、あまり|流行《はや》ってもいなさそうな小さな宿だった。間口の|狭《せま》い一階に卓がいくつか並んだ土間があって、宿を示す看板がなければ、単なる食堂かと思うようなありさまだった。
「嘘でしょう? あんなところじゃ|臥牀《しんだい》もないわ。 第一、こんな格好であんな宿に泊まる人間なんかいないわ」
「そう思うんなら、服を買ってくるんだな」
楽俊は衣の|懐《ふところ》から小金を取り出す。それを祥瓊に突きつけた。
「おいらはあそこに泊まる。――この金で服を|誂《あつら》えてくるか、これを持って逃げ出すか、好きなほうを選びな」
「そんな――」
絶句した祥瓊に|尻尾《しっぽ》を振って、彼はまっすぐにその宿に歩いていく。祥瓊は|呆然《ぼうぜん》と、その|鼠《ねずみ》が宿の者に声を掛けるのを見ていた。
この小金で買える服といえば、最低限のものだ。かつて|芳《ほう》の|里家《りけ》で着ていた粗末な|襦裙《きもの》、それも古着が精いっぱい。この寒さの中、|背心《うわぎ》か|裘《かわごろも》がなければとてもではないが、いられない。そんなものまで揃えようと思えば、絹の着替えを売るしかない。もう一度、あんな格好をしろと言うのだろうか。
――だが、と祥瓊は思う。祥瓊の所持金は少ない。ここで楽俊に見捨てられてしまえば、どのみち着る物を売ってしまうしかない。それでもとうてい|雁《えん》までの旅費には足りないだろう。最低の食事、最低の宿、それでも果たして国境を越えられるかどうか。
仕方ない、と思いながらも、せっかく逃げ出した惨めな姿に戻るのかと思うと泣きたい気分になる。あんな格好で、|※虞《すうぐ》[#「※」は「馬+芻」、2-93-02、313-15]もいなくて、半獣に連れられて歩く自分を思うと|憤《いきどお》ろしい。
|唇《くちびる》を|噛《か》んで、祥瓊は古着屋を探した。着替えの衣装を引き取ってもらい、粗末な一揃いを|誂《あつら》えると、|履《くつ》だけがそぐわない。結局それまで売り払って、無骨な|鞜《かわぐつ》を買うしかなかった。そうすると今度は、今着ている服に鞜がそぐわない。結局店の隅の|衝立《ついたて》の陰を借りて、着替えてしまうしかなかった。
ごわごわとした|襦裙《きもの》に袖を通していると、泣けてきた。
――いま|慶《けい》には、|呆《あき》れるくらい|贅沢《ぜいたく》な絹の|襦裙《きもの》にくるまれている少女がいるのに。|錦《にしき》の衣、|刺繍《ししゅう》の|裘《かわごろも》、重いほどの珠飾り。
|唇《くちびる》を|噛《か》みながら、宿へ戻った。半獣の連れだけれども、と宿の者に告げるのは恥ずかしく、古びた廊下を案内される気分は|惨《みじ》めだった。ここだ、とぞんざいに教えられ、扉を開くと、板張りの|床《ゆか》の上、|火鉢《ひばち》の前にのほほんと当の半獣が座っていた。
彼は祥瓊を見やり、耳の下を|掻《か》く。
「女の子はよく分からねえなぁ。……絹の襦裙を着て汚い宿に入るのが、そんなに恥ずかしいもんかなぁ」
「……あんたがこうしろ、って言ったんじゃない」
「そうなんだけどな。まさか本当に着替えるとは、ってのが本音だけど。――まあ、この先の旅にはそのほうがいい。その程度の旅をしてもらうからな」
「……ひどいのね」
祥瓊はむっつりと座りこんだ。楽俊は火鉢の中を|覗《のぞ》きこんでいる。
「何度も言うけどな、そんな格好、誰でもしてるんだ。――お姫さま育ちってのは、不便だなぁ」
「――不便?」
「当たり前のことが当たり前に感じられねえんじゃ、不便だろ。確かに、贅沢な衣装に慣れてりや、そういう格好はひどいような気がするだろうけど。絹の衣装が着たいだろう。……けど、そう思ってんのは、祥瓊だけじゃねえ」
「……それは」
「女の子なら誰だって、絹の|綺麗《きれい》な着物が着たいだろうな。着飾って暮らしたい、それが本音じゃねえのかな。女王や|王后《おうごう》や――|公主《こうしゅ》のような暮らしがしたい、きっと誰だってそう思ってんだ」
「でも、誰だって公主じゃないんだから、仕方ないわ」
「そうだな。――でもって、あんたももう、公主じゃねえ」
「……私は」
公主ではない、と否定しようとした祥瓊だったが、楽俊は|尻尾《しっぽ》を軽く上げる。
「あんたは公主だよ。……べつにだからって、どうこうしようとは思っちゃいねえ。ずいぶんと、|芳《ほう》の者には|憎《にく》まれてるだろうけど」
「……どうして」
「いままで|芳《ほう》の|荒民《なんみん》に会ったろう。みんな先王を|憎《にく》んでた。公主を|庇《かば》う者もなかった。……|恨《うら》まれてるな、あんた」
「――私のせいじゃないわ!」
祥瓊は叫ぶ。祥瓊にはなぜ、誰もかれもが自分を憎むのか分からない。
「あんたのせいだよ。……あんたは公主だったんだから」
「――それはお父さまが」
「あんたの親父さんが王になった。だからあんたは公主になった。それは確かにあんたのせいじゃねえよ。けどさ、王には王になった瞬間に責任が生まれるみたいにさ、公主にも責任が生まれるんだよ。|否応《いやおう》なしに」
祥瓊は背中を丸めた|鼠《ねずみ》をぽかんと見る。
「いま、公主や太子のいる国は二つだな。|柳《りゅう》と|奏《そう》だ。|才《さい》の王にも太子がおありだったけど、登極の前に亡くなった。柳の太子はたしか国官だ。国のために働いてるな。奏の公主も太子もちゃんと王を助けてる。公主は官立の医院の長だ。……昔、病人は家で|養生《ようじょう》して、医者がそこに呼ばれた。いまじゃ医者のいるところに入院して、面倒をみてもらう。それは奏の公主さまが始めたことだ。――祥瓊はいったい、何をした?」
「――え?」
虚を突かれて問い返した祥瓊を、楽俊は見る。
「道を|外《はず》れた王を|諌《いさ》めて、他ならぬ父親に殺された公主もいる。つい先だって|崩御《ほうぎょ》した|巧《こう》の公主は、太子と一緒に|夫役《ぶやく》をしておられるそうだ。国が傾いた、それを止められなかった。その責任を|負《お》ってさ、自分で志願なさったそうだ。次王が|登極《とうきょく》なさるまで、荒れた国を少しでも守るために働くとさ。……あんたは、何をしたんだ?」
「でも……お父さまは何もしなくていいと……」
「それがそもそも間違いだな。祥瓊はそれを正すべきだった」
「でも……」
「知らなかったんだろう? 他国の公主が何をしてるか」
「……知らなかったわ」
「知ってなきゃいけなかったんだ。公主の祥瓊より、おいらのほうが芳に|詳《くわ》しい。それって|襤褸《ぼろ》を着るよりも恥ずかしいことだって、分かってるか?」
でも、と言いかけて、祥瓊は言葉を|呑《の》みこんだ。その後にどんな言葉を続ければいいのか、分からなかった。
「毛織物の服は恥ずかしいかい? けど、世の中のほとんどの人はそれを着てる。誰もそれを恥じねえのは、それが自分の手で働いて得た最上のものだからなんだよ。そりや、働かないで絹を着てる連中もいるさ。けど、そういう連中は恨まれる。自分ががんばっても手に入らないものを、なんのがんばりもなしに手に入れてる連中が持ってりや恨めしい。――そんなの、当たり前のことだ。祥瓊だって、自分がなくしたものを、なんの努力もなしに持ってる人間がいたら|恨《うら》めしいだろ?」
そんな、と言いかけて、祥瓊は口元を押さえた。自分は確かに、一人の女王を恨んではいなかったか。
「なんの努力もなしに与えられたものは、実はその値打ち分のことをあんたに要求してるもんだ。祥瓊はそれを分かっていなかった。だから、|憎《にく》まれる」
「でも――」
「祥瓊は|贅沢《ぜいたく》な暮らしをしてきたろう? それに見合うだけのことをしてきたのかい?」
「でも!」
祥瓊は|床《ゆか》に手を突く。
「――だったら、全部私のせいだというの? 全部私が悪かったって!」
それは認められない。認めたくない。
「お父さまが何もしなくていいとおっしゃったのよ! お父さまもお母さまもそう言えば、私に何ができると言うの! 大学に入れていただいたわけでもないわ。何を知る機会もなかったわ。それが全部、私のせいなの※[#「※」は感嘆符+疑問符、1-8-78、318-15] そんな人間なんていくらでもいるわ。それでも贅沢な暮らしをしている人だっていくらでもいるわ。――どうして私だけが責められるの※[#「※」は感嘆符+疑問符、1-8-78、318-16]」
「責任を果たさずに手に入るものなんか、ねえんだよ。あったとしたら、それは何か間違ってる。間違ったことを|盾《たて》にとっても、誰も認めちゃくれねえんだ」
「――でも!」
「あんた、絹の着物を山ほど持ってたろ? 絹の着物のことならよく知ってるよな? けど、それがどうやってできたものか知ってるかい? どれだけの手間がかかっていくらするものか、どうしてそれを与えられたのか、考えてみたことがあるかい? |奚《げじょ》が毛織りの服を着て自分が絹を着てるのはなぜか、考えてみたかい? そういうものを全部知って初めて、本当に分かってるって言うんだと思うよ、おいらは」
「――聞きたくないわ!」
祥瓊は突っ伏し、耳を|覆《おお》う。
「今は、聞きたくないの、お願い※[#「※」は感嘆符二つ、1-8-75、319-10]」
2
「そんじゃ、行こうか」
|楽俊《らくしゅん》に|促《うなが》されて、|祥瓊《しょうけい》はおとなしく荷を抱えた。
昨夜、泣き伏した祥瓊を置いて席を外した彼は、結局そのまま戻ってこなかった。今朝になって泣き疲れて寝入っていたのを起こされ、冷えきった身体を食堂の|粥《かゆ》で温めて、祥瓊たちは宿を出た。楽俊は何も言わなかったので、祥瓊も何も言わなかった。
祥瓊たちは歩いて街を出、東へと向かった。|柳《りゅう》は|芳《ほう》に比べ、雪が少ない。その代わり刺すような冷気が風になって吹いた。最も寒い季節になっていた。毛織物の肩布で鼻までを|覆《おお》って歩かないと鼻先にはごく小さな氷柱が下がる。同じようにして髪を布で覆っていないと、髪までが|凍《こお》った。旅人の多くは馬車を使う。厚い|蔽《ほろ》を掛けた荷台に|藁《わら》と布を敷き詰め、火を入れ、乗り合わせた客同士の体温で暖を取るものだ。近郊の農家の者が農閑期に荷馬車を使ってする商売だった。|芳《ほう》にも同じような制度があった。故国では馬車ではなく、|馬橇《ばそり》だったけれども。
「――あんたたちはどこから来たの?」
乗り合わせた客は女子供、老人が多い。健康な男は街道を歩く。その客のうち、祥瓊の隣に座った女が|訊《き》いてきた。
祥瓊は|懐《ふところ》深く、|釿婆子《おんじゃく》を抱き寄せながら、芳、と答えた。釿婆子は金属でできた丸みのある箱、中に湯を入れる|温婆子《ゆたんぽ》に対して、炭を入れる。表面には小さな|窪《くぼ》みが無数についている。その窪みの底に小さな穴があけてあり、釿婆子の中には石綿が敷いてあった。この平たい|釿婆子《おんじゃく》を首から|提《さ》げて、冬の旅人は街道をゆくのだ。
「芳も大変だねえ。王さまが|斃《たお》れて」
「ええ……」
厚い|蔽《ほろ》に覆われた荷台は暗く、灯が一つ|提《さ》がっている。
「――|小童《ぼうや》はどこから?」
女が、楽俊に問いかけて、祥瓊は|掻《か》き合わせた肩布の下で苦笑した。
「おいら、生まれは|巧《こう》だ」
「あらまあ。巧の王さまが去年亡くなったんだって? ……三年前に芳で、一昨年には|慶《けい》の王さまが死んで、|戴《たい》はあの状態だし。このところ、落ちつかないことだわねえ」
「|柳《りゅう》はいいなぁ。ずいぶん長命の王だから」
そうねえ、と女は笑った。
「|雁《えん》には遠く及ばないけど。芳や巧よりもずっと長いから、まあ恵まれているわねえ」
そのわりに、と祥瓊は街道の風景を思い出した。もっと豊かな国だろうと思っていたのに、風景は想像以上に寒々としていた。あまり高い建物もなく、地にしがみつくようにして街は広がっている。
祥瓊がそう口を挟むと、女はもちろん、他の乗客たちも笑った。
「柳の家はね、地下にあるのさ。――冬は暖かいし、夏には涼しいから人はどんどん地下に|潜《もぐ》る。だからどの家でも上より下が大きいのさ」
雨の多い北東部や|虚海《きょかい》沿岸を除き、柳の家は地下室が大きいのだと女は言う。寒冷のためにこれといった産業に恵まれない国だが、石材は豊富にある。石を切り出し、地下に家を造り、地下では地下室同士が|繋《つな》がって、小さな街路を作っている場所もあるという。
「へえ……」
祥瓊は他国のことをほとんど知らない。|芳《ほう》を出たこともなかった。他国の者との付き合いもなく、宮中はほぽ自国のことだけで|閉塞《へいそく》している。特に他国に興味を持ったこともなかったので、地下街の話はひどくもの珍しかった。
「空気が悪くならないのかしら。においが|籠《こも》ったりしない?」
「ちゃんと換気ができるからね」
「でも、|陽《ひ》は射さないでしょ? 真っ暗じゃないの?」
「|天井《てんせい》があるよ。柳じゃ家の|院子《なかにわ》が地下まで縦穴みたいに続いてる。光はそこから入ってくるから、少しも暗くなんかないね。天井のまわりの|房間《へや》は気持ちいいよ」
「でも、街は?」
「街も同じだ。――見たことがないかい? 大きな街じゃ、|広途《おおどおり》の真ん中に細長い建物がある」
祥瓊は思い出した。広途の中央に、まるで|厩《うまや》のような建物が細長く続いていて、建物にしては屋根がない。なんだろうかと思っていた。
「ああ――あれが、天井? でも、雨は? 水が|溜《た》まったりしない?」
女は笑った。
「そこは雨が少ないから」
なるほど、と祥瓊は|頷《うなず》く。隣の楽俊を見やった。
「宿には地下はなかったわよね? それとも探せば地下に房間のある宿があるのかしら」
「地下は人を泊めるとこじやなくて、宿の者が住むところだな。柳じゃ地下が広いほど、うんと税を取られる。商売なんかするとさらに税がかかって|莫大《ばくだい》になるんだ。だから」
女はにっこりと目を細めた。
「|小童《ぼうや》、|詳《くわ》しいねえ」
楽俊は決まり悪げに耳の下を|掻《か》いた。女はその表情には気づかない様子で笑顔を見せる。
「柳はいいところだよ。そりやあ麦の出来は悪いけど、鉱山と石と|玉泉《ぎょくせん》、あとは材木かね。たっぶり恵みを落としてくれる」
「芳にも鉱山はあったわ。――柳では家畜は飼わないの?」
「飼うけどね。いい|莨《まぐさ》が少ないからねえ。芳にはいい馬がいるんだって?」
「あとは牛と羊かしら。たくさんいたわ」
「柳でも飼うけど、多くないね。夏に|莨《まぐさ》が伸びないからね。――それでもまあ、あたしたちは恵まれてる。王もとてもいい方だし、そりやあ、冬は厳しいけど」
「本当に寒いんで、驚いた」
「|戴《たい》に比べればましらしいけどね。戴じゃ夜、外に出ると鼻の中まで|凍《こお》るというから。昼間でも鼻をこすっていないと、凍傷になるんだってさ」
「へえ……」
祥瓊は少し息を|吐《は》く。
「いろんな国があるのね。……知らなかった」
どこも|芳《ほう》のようだと思っていた。冬には雪に閉ざされ、夏には牧草が緑の海を作るものだと。
「本当にねえ。――南の国じゃ、冬でも外で寝られるっていうじゃないか。麦だって二度も取れるんだって?」
女が楽俊を見て、楽俊は小さな手を振った。
「麦は二度取れるけど、冬に外に寝るわけにゃいかねえよ。|奏国《そうこく》のうんと南なら大丈夫かもしれねえけど」
祥瓊はぽつりと|零《こぼ》す。
「|慶《けい》の冬も暖かいかしら……」
「どうだろうねえ」
言って女は息を吐く。
「慶は新しい王さまが|登極《とうきょく》なすったんだってねえ。早く国が落ちつくといいけど」
祥瓊はこれには答えなかった。
「国が荒れると|辛《つら》いだろうよ。戴の|荒民《なんみん》はみんな辛そうだ。家が焼けたら、冬にはもう|凍《こど》え死ぬしかないからねえ」
「そうね……」
「戴がすっかり荒れたんで、近頃では柳にまで|妖魔《ようま》が出る。――あたしは|遭《あ》ったことはないけど、そういう|噂《うわさ》だ」
祥瓊は思わず楽俊の顔を見る。
「――おまけに近頃、天候も落ちつかないしね。こないだ北のほうで大雪が降ったそうだよ。小さい|里《まち》が閉じこめられて、|飢《う》え|死《じ》にしようかって騒ぎだったらしいからねえ。――いい王さまなのに、どうしてだろうね」
馬車が|軋《きし》んだ。祥瓊はその音をこの国の軋みのように感じた。国は上から順に荒れていくのだ。|県正《けんせい》があれだけ腐敗していれば、上の腐敗はそれ以上だろう。本当にこの国は傾こうとしているのかもしれない。
王が|玉座《ぎょくざ》にいなければ国は荒れる。天災が続く、妖魔が|跋扈《ばっこ》する。火災や水害で家を失えば、人は冬に生きる|術《すべ》を失う。――祥瓊は|里家《りけ》の寒い冬を思い出した。夏の気候がましでも、実った麦を|蝗《いなご》が襲えば民は食べるものを失う。冷害と水害、どれも飢えに直結していた。
――|芳《ほう》もそんなふうに荒れてしまうんだろうか。
祥瓊はそれを思う。――やっと、思った。
「私……本当に何も知らないのね」
街の門前で馬車を降りて、宿へと歩く道すがら、祥瓊はぽつりとこぼした。そうだな、と楽俊の返答は学直だった。
「けど、知らないことなら、これから知ればいい。ぜんぜん問題じやねえ」
祥瓊は足を止める。
「いまさら、って思わない?」
祥瓊はもっと早くに知っておくべきだった。芳のこと、国家のこと、他国のこと、王のこと――公主のこと。
「芳の公主は知っておくべきことを知らなかったから、罰された。――それはもう決着のついちまったことだ。|悔《く》やんでも始まらない。けど、祥瓊の人生は始まったばっかりだろう。いわば三つやそこらじやねえか。|焦《あせ》ることはねえよ」
「そう……思う?」
「うん。世の中には取り返しのつかないことってのがあるよ。公主の人生はもう終わったんだから、やり直しはきかねえ。そういうときはすっぱり|諦《あきら》めて、何が悪かったのか、それだけ覚えておけばいいんじゃねえか?」
「そうかしら……」
「王さまや公主は不便だな。なにしろ、一回|玉座《ぎょくざ》を失えば、やり直しはきかねえからさ。そのてん、ただの民は楽だ。死なないかぎり、やり直しのきかねえことなんてねえからさ」
そうね、と祥瓊はその半獣を見下ろす。灰茶の乗らかそうな毛並みが見た目に暖かく、銀色のひげが細く光って|綺麗《きれい》だと思った。
「……今、気がついたけど、楽俊って暖かそう」
楽俊は笑う。
「いまはな。夏になるとバテるんだ、これが」
祥瓊もまた、軽く笑った。
3
「|遠甫《えんほ》――申し訳ありませんが、出掛けてきてもいいですか?」
|朝餉《あさげ》のあと、小学へと出かける遠甫を捕まえて、|陽子《ようこ》は|訊《き》いた。
「構わんが、どこへ。――遅くなるのかね?」
「閉門までには帰ってきます。――|拓峰《たくほう》へ」
一瞬、|遠甫《えんほ》は白くふっさりとした|眉《まゆ》を寄せ、すぐに首を傾けた。
「なぜまた、突然」
「街を見てきたいだけです。……いけませんか?」
遠甫はやや|躊躇《ちゅうちょ》するように口を閉ざした。すぐに|頷《うなず》き、視線を|逸《そ》らす。
「行ってくるがいいじゃろう。……それもよい」
|謎《なぞ》めいたことを言って、遠甫は背を向ける。|院子《なかにわ》へと出ていった。
陽子は眉を|顰《ひそ》めてその背を見送った。
――何か、ある。
|瑛州《えいしゅう》と|和州《わしゅう》の州境をなす|合水《ごうすい》、その|峡谷《きょうこく》に架かった橋を渡ったところがすでに|止水郷《しすいごう》だった。その|郷都《ごうと》、|拓峰《たくほう》までは馬車で半日、陽子は|蔽《ほろ》の中で|襖《うわぎ》を|掻《か》き合わせる。
|雁《えん》ならば、よほどの川幅でないかぎり、橋が架かっている。渡しも整備され、馬車も船に乗って河を渡る。|慶《けい》では橋の手前で馬車を降りなくてはならない。そもそも橋自体が少ない。この合水上流のように、峡谷をなしているために渡し場が設けられない場所にかぎり橋があったが、それも|吊《つ》り|橋《ばし》、馬車はとうてい通行できないから、旅人は馬車をそこで降りて対岸で馬車を乗り継がなくてはならない。それでも橋を渡せるだけまだまし、対岸が遠ければそれすらもできず、旅人は遠大な距離を|迂回《うかい》しなくてはならなかった。
――|慶《けい》は貧しい。
対岸で旅人を待っている馬車の|溜《た》まりを見ながら思う。
――|雁《えん》と比べてみても仕方のないことだけれども。
半日をかけて|辿《たど》り着いた拓峰は、|北韋《ほくい》よりも荒廃の傷跡の深い街だった。北韋ならばさすがにもう被災した家は取り壊され、新たな建物が建てられているが、拓峰のそこここには焼け|爛《ただ》れ、半壊した建物が放置されたままになっていた。街の外の閑地には粗末な小屋が立ち並び、むっつりと火を囲んで民がたむろしている。およそ北韋では見かけることのない|荒民《なんみん》の群れだった。
瑛州は恵まれているのだ、と陽子は思う。瑛州侯は|台輔景麒《たいほけいき》、特に北韋のように|黄領《ちょっかつりょう》ならば、民は救済を信じていい。反対に和州は悪名向い|呀峰《がほう》が州侯、なるほどこれだけの差ができてしまうわけだ、と納得した。
馬車を降りて対価を支払い、陽子は城門を|潜《くぐ》る。|班渠《はんきょ》の|微《かす》かな声に従って、街の南西へと歩いた。
一つ通りを過ぎるたび、立ち並ぶ家は小さく粗末になる。やがては|傾《かし》ぎ、道には飢えた顔をした子供や、|淀《よど》んだ目をした|大人《おとな》たちが|僅《わず》かな日溜まりに座りこんでいるのが見えるようになった。陽子は無議のうちに、片手に|提《さ》げた|褞袍《がいとう》を握る。|褞袍《がいとう》に包んだ剣の|柄《つか》をしっかりと捕らえた。
「――あそこです」
足元から|微《かす》かに声がして、陽子は通りの先を見やった。あたりの様子からすれば格段にこざっぱりとした小さな宿がある。果たしてこんな一郭で商売になるのだろうかと思うほど、それはいちおう宿の体面を守っていた。
陽子は宿に歩み寄り、開け放した扉を|潜《くぐ》る。中に|屯《たむろ》したいかにも|胡乱《うろん》な|風体《ふうてい》の男たちの目がさっと陽子に集中した。
「――なんだい、|小童《ぼうや》」
奥で立ち上がったのは、|北韋《ほくい》で見た大男だった。
「道を|訊《き》きたいんだけど。――食事ができるかな?」
すでに男たちの視線は|逸《そ》らされている。あの大男だけが歩み寄ってきて、手近の卓の|椅子《いす》を引いた。
「座んな。――道に迷ったのか?」
「そのようだ」
陽子はおとなしく椅子に座る。そろりと背筋を|這《は》うものがある。|景麒《けいき》から預かった|使令《しれい》、|冗祐《じょうゆう》の気配だった。――冗柘は緊張している。危険に備えて身構えようとしているのだ。実際、視線が|逸《そ》らされていても、|卓子《つくえ》を囲んでいる男たちが全身を耳にして陽子の気配を探っているのが分かった。
お前、と男は|卓子《つくえ》に手を突いて身を乗り出してきた。その太く|厳《いか》つい指に細く指輪のはめられていることを、陽子は|妙《みょう》に印象に残した。
「――お前、女か?」
「だけど?」
陽子が見上げると、男は軽く笑った。
「|度胸《どきょう》が|据《す》わってるな」
「それは、どうも。――あなたはここの人?」
そうだ、と|頷《うなず》く男を、陽子は見|据《す》えて笑ってみせる。
「――前に|北韋《ほくい》で会わなかったか?」
いや、と男は|呟《つぶや》く。
「覚えがねえな」
その表情からは、男が真実陽子を覚えていないのか、そんなふりをしただけなのかは分からなかった。
「まさか俺を訪ねてきたわけじゃねえだろ?」
「そんな気がしただけだ」
陽子は追及をやめる。大いに|胡散臭《うさんくさ》い。この男も、この宿も。この男が何者だかは、|景麒《けいき》に命じれば調べられるだろう。
「――私は食事がしたい、と言ったんだが?」
男は恐れ入った、と呟いて、身体を|反《そ》らした。その大きな|体躯《たいく》の上から感心したように陽子を見下ろす。
「本当に度胸の|据《す》わった娘だ。――金はあるのか?」
「高いのか、ここは?」
「高いよ」
じゃあ、と陽子は席を立つ。
「私には向かないようだ。――|広途《おおどおり》へ出るにはどうすればいい?」
男は一歩踏み出した。
「……お前、何者だ?」
「旅の者だ」
「信じると思うか? ――お前、度胸が据わりすぎてんだよ」
周囲の男たちが席を立って、眼光も|鋭《するど》く|側《そば》に寄ってくる。陽子は|褞袍《うわぎ》の中の|柄《つか》を握りしめた。
「……何を調べに来た」
「道を|訊《き》きに」
「|舐《な》めたことをぬかしてくれる」
完全に包囲された。屈強な男ばかりが六人。さらに強く柄を握ったとき、その場にはそぐわない声がした。
「――やめて」
陽子は視線を声のしたほうへ|滑《すべ》らせる。男たちもまた店の奥のほうを振り返った。大男が振り返り、|人垣《ひとがき》に隙間ができる。歩み寄ってくる少年が見えた。|歳《とし》の頃は十四、五だろうか。屈強な男たちの中で見れば、頼りないほど小さく見えた。
彼は男に歩み寄り、その腕に手をかけて引く。
「放してあげて」
言って彼は陽子を見た。
「――行っていいよ」
「おい」
振り|解《ほど》こうとする大男の腕に、彼は腕を|搦《から》めて|縋《すが》りつくようにする。その指にも指輪があった。――陽子はそれをなんとなく記憶に残した。
「ごめんね、|脅《おど》かして。みんな娘さんが珍しいんだ」
「……そう」
彼は男の太い腕に縋るようにして二の腕に|頬《ほお》を当てたまま笑みを浮かべる。
「気を悪くしないで」
陽子は|頷《うなず》いて、|踵《きびす》を返した。渋々というように、男たちの包囲が|解《と》ける。囲みを抜けて戸ロヘと向かいながら、陽子は少しの問少年を振り返って、すぐにまっすぐ頭を上げて宿を出た。
「どうして逃がす、|夕暉《せつき》」
出ていく娘を見送って、男は腕にぶら下がるようにした少年を見た。彼は軽く息を|吐《は》き、腕を解いて笑う。
「……彼女を助けたんじゃない。兄さんを助けたんだよ」
「俺があの小娘にしてやられるとでも言うのか」
「あの度胸は|尋常《じんじょう》じゃないよ。――それに」
夕暉は娘が去った戸口を見やる。
「|物騒《ぶっそう》なものを持ってた……」
「――え?」
「|褞袍《がいとう》を|椅子《いす》にぶつけたとき、重い音がしたもの」
夕暉は目を細める。
「……長さからすると|太刀《たち》だね」
男たちはいっせいに戸口を見やる。
陽子は|釈然《しゃくぜん》としないまま、うらさびれた通りを歩いた。
――何かある。
あの大男、確かにあれは|北韋《ほくい》で見かけた男だった。しかも宿に|溜《た》まった男たち、どれも|厳《いか》つく、不穏な気配をしていた。ただの客とは思えない。――しかも、あの少年。
軽く|眉《まゆ》を寄せて|広途《おおどおり》へ出ようとしたときだった。
陽子は顔を上げた。先に見える|途《みち》の出口、そこから悲鳴が聞こえた。一人、二人の悲鳴ではない。大勢の人間が上げる声、そうして車の走る音と、馬の|蹄《ひづめ》の音。
陽子は|小途《こみち》を走る。|広途《おおどり》に飛び出し、そこを去る馬車と立ち|竦《すく》んだ人々を見た。――そうして、道に倒れた子供と。
傾いた|陽射《ひざ》しが白々と広途を照らしていた。
4
ようやく、と|鈴《すず》は馬車を降りて痛む腰を伸ばした。
|和州止水郷《わしゅうしすいごう》の最も西の街、|拓峰《たくほう》。この街を抜けると、|瑛州《えいしゅう》に入る。あとはもう五日ほどの旅だ。
鈴は|清秀《せいしゅう》を抱え降ろしながら笑う。
「明日には|瑛州《えいしゅう》よ」
うん、と清秀も笑って、いきなりペたんと地面に座りこんだ。――こんなことが近頃よくある。身体を起こした|拍子《ひょうし》に|膝《ひざ》が|砕《くだ》けてしまうようだった。
「大丈夫?」
「ねえちゃんが|負《お》ぶってくれれば、ヘーき」
「|治《なお》ったらうんとこき使ってやるから」
鈴が言うと、清秀は笑う。まさか本当に負ぶって宿は探せないので、|馭者《ぎょしゃ》に頼んで少し預かってもらうことにした。
「宿を探してくるまでの間、お願い」
「いいけど。門が閉まるまでに戻ってきてくれよな」
街の門は日没と同時に閉ざされてしまう。これを過ぎたら、出入りができない。
鈴は空を見上げた。まだそんなに|陽《ひ》は傾いていない。
「大急ぎで帰ってくるわ」
清秀は門の|脇《わき》に座って雑踏を見ていた。馭者は横で所在なさそうにしている。
「にいちゃん、帰っていいよ」
ん、と振り返る男に、清秀は笑って門の外を指さしてやる。どうやら言葉が変らしい。|頻繁《ひんぱん》に言い間違いをするらしいのだが、自覚がなかった。鈴ならば分かるが、鈴以外の者は何度も聞き直さないと分かってくれない。
「帰って、いい」
清秀は繰り返して、立ち上がってみせた。ちょっとふらついたが、ちゃんと立てた。
男はそれを見て、笑顔をみせる。ありがとうな、と声を残して馬車のほうに|駆《か》け寄っていった。家で誰か待っているのだろう。手を振って門を出ていく男に手を振り返して、清秀は周囲を見回す。戻ってくる鈴の姿は見えなかった。退屈だけど、ここでじっとしていないとすれ違ってしまうかもしれない。
それでとにかく、門のあたりをうろうろした。街の|隔壁《へい》の内側には|環途《かんと》がぐるりと一周している。その広い通りの両側には露店が並んでいて、それで半分ほどに|狭《せば》まってしまっていたが、それでも、|途《みち》は相当に広い。
あいかわらずふらふらする足どりで、行き交う人にぶつかっては謝りながら、清秀は門のあたりを歩いてみる。人の群れと、物売りの声。どこか近くで|雑技《げい》をやっているらしく、華やかな音楽が流れてきていた。覗いてみようと途を渡る。
その音楽に消されて、馬車の走る音は聞こえなかった。横から走ってきた車は、清秀には見えなかった。それが右だったために。
清秀のほうを向いた|大人《おとな》が、顔色を変えたので、清秀はやっと近づいてくる四頭立ての馬車に気づいた。慌てて|避《さ》けようとしたが、このところ落ちついて一歩ずつ数えながら歩かないとまっすぐに歩けない清秀にそれは不可能事に近い。清秀はたたらを踏み、避けるどころか、車の前に|転《ころ》がり出てしまった。
馬車が慌てて止まる。馬が|棹立《さおだ》って不満げないななきを上げた。まずいかも、と清秀は思った。車は|華軒《かけん》、貴人の乗る車だった。進路を妨げたのだから|叱《しか》られるかもしれない。
「何をしている! どけ※[#「※」は感嘆符二つ、1-8-75、338-6]」
案の定、叱りつける声が御台から飛んできた。
済みません、と|呟《つぶや》いて、清秀は急いで立ち上がったが、足が|縺《もつ》れる。
「この|餓鬼《がき》! なにゆえ御進を妨げるか!」
「済みません。おれ、具合悪くって……」
言ったが、官服を着た男は|険《けわ》しい顔をした。言葉が通じていないのだ。清秀は頭を下げて足を示し、|拝《おが》んでみせた。
「構うな、行け」
車の中から男の声が聞こえて、それが|含《ふく》み笑った。
清秀はあたふたと起きあがろうとして、くたりと座りこんだ。――まただ。このところ、こうして思いもよらないところで腰が|砕《くだ》ける。もう一度起き上がろうとして、清秀は車が動き出す音を聞いた。高い|鞭《むち》の音。馬がいなないてまっすぐ清秀に向って走り始める。
慌てて|退《さが》ろうとしたが、清秀の足は言うことをきかない。座りこんだまま|這《は》ってその場を逃げ出そうとしたが、|焦《あせ》るばかりでどこもかしこも力が入らず、いたずらに土を|掻《か》いてばたりとその場に倒れてしまった。その顔に|蹄《ひづめ》が掻き立てる|砂塵《さじん》がかかった。
清秀は思考を止めた。――物を考えることができなかった。
|広途《おおどおり》に悲鳴が響いた。
車は|躊躇《ちゅうちょ》なく|駆《か》け抜け、すぐに速度を落として|悠々《ゆうゆう》と去っていく。後に続く随従は何一つ目にはしなかったふうで通り過ぎていく。
広途に|佇《たたず》んだまま|惨劇《さんげき》を目の当たりにした人々は|凍《こお》りついて動けなかった。馬に踏み|躙《にじ》られた子供は|人垣《ひとがき》が作った空白の中に取り残されている。
助け起こしに行ってやりたい、と誰もが思ったが、随従たちが振り返るのが|怖《こわ》かった。その随従が|揚《あ》げた|幢《はた》。――郷長の車である。郷長の名は|昇絋《しょうこう》。昇絋の前で目立つということは、恐ろしい危険を意味した。この街に住む者は、誰もがそれを知っている。
くう、と子供が|呻《うめ》き声を上げた。
――まだ、助かるかもしれない。けれどもせめて、昇紘の車が角を曲がるまでは。
子供は小さく頭を上げる。すぐにそれを|血糊《ちのり》の中に落とした。
清秀はぴちゃん、というぬかるみの音を聞く。もう一度頭を上げて助けを求めようとしたが、もう首が上がらなかった。
|途《みち》に|佇《たたず》んで自分を注視する人々を、清秀は|虚《うつ》ろに見た。
誰か助けてくれないのだろうか。起き上がりたいが、それができないでいるのに。
――痛いよ、鈴……。
間近の小途から人影が一つ走り出てきた。その人影が驚いたように足を止め、清秀に|駆《か》け寄ってくる。
「――大丈夫か」
間近に|膝《ひざ》をついた人影。どんな人物だかは分からない。もう、目がかすんでよく見ることができなかった。ただ、間近の膝を|覆《おお》った布が赤い|染《し》みをつけるのを見た。
「誰か――この子を運ぶものを」
声は言って、清秀の肩に温かな手が触れた。
「しっかりしろ。いま――」
「……おれ、死ぬの、やだな……」
「大丈夫だ」
「……鈴が……泣くから……」
――あいつ、泣くと、なかなか泣きやまないから。
すごく|鬱陶《うっとう》しくて……かわいそうなんだよな……。
それきり、彼の思考は途絶えた。
鈴は門の近くの馬車|溜《た》まりに駆けつけ、清秀の姿がないのを|訝《いぶか》しんだ。どこへ、と周囲を見ると、すぐ近くに人だかりができている。
――何かあったのだろうか。
|広途《おおどおり》がは奇妙な空気が流れていた。
「このくらいの……子供を見ませんでしたか?」
鈴はともかく周囲の人を捕まえて|訊《き》き、しぜん、人だかりに近づいていた。たくさんの人が集まっているのに、そのあたりだけは静寂に包まれている。
「あの――|蜜柑色《みかんいろ》の髪の子を――」
|尋《たず》ねた|人垣《ひとがき》の向こうから、声が掛かった。
「――それは、この子か?」
鈴は人混みを掻き分け、その場に|凍《こお》りついた。|途《みち》に膝をついた人影と、その問近に倒れた子供。
「――清秀!」
倒れたのだろうか。近頃、本当に具合が悪そうだった。
|駆《か》け寄った鈴は、|愕然《がくぜん》とした。どうして――こんなに血が。
「清秀!」
鈴は|膝《ひざ》をつき、周囲の人影を見渡した。
「何があったの※[#「※」は感嘆符+疑問符、1-8-78、342-3] 誰か、お医者さまを!」
「……もう、間に合わない」
鈴は咄嗟にその静かな声の主を振り返った。
「お医者さまを……呼ばないと……」
「さっき、息が絶えた」
鈴は目を見開いてその相手を見つめた。鈴と同じか、少し下の年頃だろうか。|紅《くれない》の髪が|染《そ》め抜いたようだった。
「嘘……」
「――名は?」
鈴は首を振った。そんなことを話している場合じゃない。早く、一刻も早く手当てをしなければ。
「もしもあなたが鈴というのなら、泣かないでほしい、とこの子が言っていた」
言って彼――それとも彼女だろうか――は目を伏せる。
「……たぶん、そういう意味だと思う」
「嘘よ……」
鈴はその身体に触れた。指の先に、まだ温かい。
「清秀――」
このひどい傷はなんだろう。よく似合うせっかくの髪の色が|斑《まだら》になってしまっている。どうして手も足もこんなに|歪《ゆが》んでいるんだろう。どうして胸がこんなに|窪《くぼ》んでいるのだろう。
「……うそ、でしょ……?」
だってこれから|堯天《ぎょうてん》に行くのに。|景王《けいおう》に会って、治してもらうのに。
鈴は敵から取り返すようにして子供の身体を抱き寄せた。
「何が、あったの」
「分からない。私が|駆《か》けつけたときには、この子はもう倒れていた。――たぶん馬車に|轢《ひ》かれたのだと思う」
「誰が?」
鈴はその場を見渡した。犯人を求めて。見渡した誰もが首を振る。
「――ひどいわ!」
誰がこんな、と|拳《こぶし》を握って、鈴はそれが再三自分が|呟《つぶや》いてきた言葉であることを思い出した。
「渚、ひどい、……こんな、誰が――※[#「※」は感嘆符二つ、1-8-75、343-16]」
閉門が近いことを知らせる|太鼓《たいこ》が鳴って、一人二人と|人垣《ひとがき》から人々の姿が消えていく。泣き|崩《くず》れた鈴はやがて|広途《おおどおり》に清秀と二人、とりのこされた。
「――清秀……」
――もう|堯天《ぎょうてん》は目の前なのに。
『風の万里 黎明の空(下)[#入力者注:「(下)」は「下」を箱囲いした記号、344-4]』に続く。[#この行、下揃え]
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【このテキストについて】
底本:「風の万里 黎明の空(上) 十二国記」講談社文庫、講談社
2000年10月15日 初版第1刷発行
2004年3月19日 第14刷発行
ISBN4-06-264998-5
底本の校正ミス、もしくは用字の怪しいところ。
文中[#入力者注:]にて表記
テキスト化:2004年11月初版
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