くらのかみ
小野不由美
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)座敷童《ざしきわらし》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)ふだんは|座敷童《ざしきわらし》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、Unicodeのコード番号、または底本のページと行数)
(例)
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
:挿絵等 HTML形式の画像タグを使用
(例)
-------------------------------------------------------
[#ここから3字下げ]
くらのかみ もくじ
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
1 死人《しびと》あそび 7
2 座敷童子《ざしきわらし》 19
3 毒《どく》 44
4 バケツリレー 59
5 行者沼 79
6 探偵《たんてい》たち 110
7 お葬式《そうしき》 128
8 ひみつの屋根裏《やねうら》 159
9 地蔵《じぞう》|担《かつ》ぎ 186
10 幽霊《ゆうれい》じゃない犯人《はんにん》 205
11 井戸《いど》で待《ま》つ 242
12 裏切《うらぎ》り 258
13 誰《だれ》も犯人《はんにん》じゃない 269
14 犯人《はんにん》 279
15 若干《じゃっかん》の仲間《なかま》と多少《たしょう》の協力《きょうりょく》 302
[#改丁]
[#ここから3字字下げ]
くらのかみ
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
1 死人《しびと》あそび
「耕介《こうすけ》くん、真由《まゆ》ちゃん、音弥《おとや》くん、禅《ぜん》くん。」
ひとりずつ呼《よ》んで指《ゆび》さしながら、梨花《りか》は最後《さいご》にその指《ゆび》を自分《じぶん》に向けた。
「……あたし。」
梨花《りか》は、なんとも言《い》えない奇妙《きみょう》な表情《ひょうじょう》で、鼻先《はなさき》に突《つ》きつけた指《ゆび》の先を、じいっと見つめた。そのようすを見守《みまも》っていた耕介《こうすけ》には、梨花《りか》がとほうもない難問《なんもん》を解《と》こうとしているように見えた。
耕介《こうすけ》たちは、広《ひろ》い座敷《ざしき》のまんなかに集《あつ》まって、ぽかんと立ちつくしたまま梨花《りか》が答《こた》えを出すのを待《ま》っていた。敷《し》きこまれた畳《たたみ》は、ぴったり十|枚《まい》。ただのひとつも家具《かぐ》のない座敷《ざしき》は、きっちりとした長方形《ちょうほうけい》を描《えが》いている。壁《かべ》は青ざめたように白い塗《ぬ》り壁《かべ》で、天井《てんじょう》は高《たか》く、油《あぶら》でもしみこんでいるのか、ぬるりと黒《くろ》い。ねじれて曲《ま》がった太《ふと》い梁《はり》から吊《つる》された電灯《でんとう》が、にごった黄色《きいろ》い光《ひかり》を落《お》としていた。
「五人、よね。」
難問《なんもん》の答《こた》えが出た。耕介《こうすけ》も、さっきから考《かんが》えていた。いや、考《かんが》えるまでもないことだ。ここにいる子どもは何人《なんにん》かという、それだけのことだから。知《し》りたかったら数えてみればいい。そして、何回《なんかい》|数《かぞ》えてみても答《こた》えは同《おな》じだった。五だ。
問題《もんだい》は、ぜったいに五人だったはずがない、ということだった。
「四人ゲーム」というのだと聞《き》いた。まっくらにした部屋《へや》の四隅《よすみ》に四人の人間《にんげん》が立つ。そして、順番《じゅんばん》に肩《かた》を叩《たた》きながら、ぐるぐる部屋《へや》をまわるという遊びだ。
そんなゲームがあるんだと、教えてくれたのは本家《ほんけ》の三郎《さぶろう》だった。三郎《さぶろう》は大学の先輩《せんぱい》からこれを聞《き》いたと言《い》っていた。
四人の男女《だんじょ》が山に登《のぼ》った。激《はげ》しい雪《ゆき》が降《ふ》りだして遭難《そうなん》しそうになった。なんとか山小屋《やまごや》にたどりついたが、食《た》べ物《もの》もなければ、明《あ》かりもなく、あたたまる方法《ほうほう》もなかった。眠《ねむ》ったら死《し》んでしまう、と思《おも》った彼《かれ》らは、山小屋《やまごや》の四隅《よすみ》に分《わ》かれて座《すわ》った。ひとり目が立ちあがり、まっくらな中を壁《かべ》づたいに歩《ある》いていく。小屋《こや》の隅《すみ》にたどりつくと、そこに座《すわ》っている人の肩《かた》を叩《たた》く。肩《かた》を叩《たた》かれたふたり目《め》は、同《おな》じように壁《かべ》づたいに歩《ある》いて三|番目《ばんめ》の隅《すみ》にいる三|番目《ばんめ》の人物《じんぶつ》の肩《かた》を叩《たた》く。肩《かた》を叩《たた》かれた人が次《つぎ》の隅《すみ》に向《む》かって歩《ある》いていって、そこにいる人物《じんぶつ》の肩《かた》を叩《たた》いて――そういうふうにして一晩《ひとばん》じゅう、次《つぎ》から次《つぎ》へと肩《かた》を叩《たた》きながら、山小屋《やまごや》の中を歩《ある》いていたのだそうだ。そのおかげで誰《だれ》も眠《ねむ》りこむことなく夜《よ》を明《あ》かして、翌日《よくじつ》、無事《ぶじ》に下山《げざん》することができたのだ、と。
「でも、よく考《かんが》えると変《へん》なんだよ。」
三郎《さぶろう》は、そう言《い》った。
「これで続《つづ》くはずがない。途中《とちゅう》で終《お》わるはずなんだ。試《ため》してみると分《わ》かる。」
やってみよう、と言《い》いだしのが誰《だれ》だったのか、耕介《こうすけ》は覚《おぼ》えていない。たしかなのは、それが本家《ほんけ》の茶《ちゃ》の間《ま》だったということだ。
子どもたちは夏休《なつやす》み、この家《いえ》に泊《と》まりに来《き》ていた。おとなたちは、なにごとかを相談《そうだん》するため表座敷《おもてざしき》に集められていて、子どもだけが茶《ちゃ》の間《ま》で夕飯《ゆうはん》を食《た》べた。本家《ほんけ》は山奥《やまおく》にある。子どもたちがいつも見ているテレビ番組《ばんぐみ》は映《うつ》らなかった。映《うつ》るチャンネルの数《かず》が、すごく少《すく》ないのだ。退屈《たいくつ》していると、三郎《さぶろう》が怖《こわ》い話《はなし》をしてくれた。まだ大学生の三郎《さぶろう》は、おとなではないと見なされているらしい。おとなの集《あつ》まっている表座敷《おもてざしき》のほうではなく、子どもと一緒《いっしょ》に茶《ちゃ》の間《ま》にいて、耕介《こうすけ》たちの面倒《めんどう》を見ていたのだった。
三郎《さぶろう》の話《はなし》に聞《き》き入《い》っているうちに、梨花《りか》の弟《おとうと》の光太《こうた》が怯《おび》えて泣《な》きだした。仕方《しかた》がない、いちばん年下の光太《こうた》は、まだ七つだから。母親《ははおや》を呼《よ》んで泣《な》く光太《こうた》を、三郎《さぶろう》がかかえて表座敷《おもてざしき》へと連《つ》れていった。茶《ちゃ》の間《ま》に残《のこ》された子どもは、かっきり四人になった。
試《ため》してみるしかないよね、といたずらっぽく誰《だれ》かが言《い》った。ゲームをするためにはまっくらになる四角《しかく》い部屋《へや》が必要《ひつよう》だった。だったら蔵座敷《くらざしき》を使《つか》おう、と言《い》いだしたのが誰《だれ》なのかも、耕介《こうすけ》は覚《おぼ》えていない。ただ、誰《だれ》かがそれを口にする以前《いぜん》から全員《ぜんいん》がそんな気分《きぶん》だった、と言《い》うのが正しいような気がする。誰《だれ》もが当《あ》たり前《まえ》のように蔵座敷《くらざしき》のことを思《おも》い浮《う》かべた。ほとんど以心伝心《いしんでんしん》で話《はなし》はまとまって、子どもたちは三郎《さぶろう》が戻ってこないうちにと、茶《ちゃ》の間《ま》を抜けだしたのだった。
本家《ほんけ》は大きい。しかも、どこもかしこも古《ふる》かった。まるで合《あ》わせ鏡《かがみ》に映《うつ》った景色《けしき》のように、同《おな》じような和室《わしつ》が障子《しょうじ》と襖《ふすま》で区切《くぎ》られて、際限《さいげん》がないかと思《おも》われるほど、えんえんと続《つづ》いている。どの部屋《へや》も空《から》っぽで、薄暗《うすぐら》くて、どこかカビくさかった。それらの部屋《へや》を全員《ぜんいん》でそろりと通《とお》りぬけ、やっと出た黒《くろ》い板張《いたば》りの廊下《ろうか》は、さびれたトンネルのように長《なが》い。しかも何度《なんど》も折《お》れまがり、あちらこちらで別《べつ》の廊下《ろうか》と交差《こうさ》していた。
悪《わる》い夢《ゆめ》の中に出てくる建物《たてもの》のようだ、と耕介《こうすけ》は思《おも》った。走《はし》っても走《はし》っても、ぬけられず、現在地《げんざいち》も分《わ》からない。なにかがふいに姿《すがた》を現《あらわ》しそうなのに、なにもない。今度《こんど》こそ出口《でぐち》だと思《おも》っても、また同《おな》じような場所《ばしょ》に出てしまって、それが同《おな》じように思《おも》える別《べつ》の場所《ばしょ》なのか、それとも本当《ほんとう》に同《おな》じ場所《ばしょ》なのか分《わ》からない。
昨日《きのう》もそうだった、と耕介《こうすけ》は思《おも》い出《だ》していた。耕介《こうすけ》は昨日《きのう》、初《はじ》めて本家《ほんけ》にやってきて、そして初《はじ》めて蔵座敷《くらざしき》に行《い》った。おとなたちに囲《かこ》まれて歩《ある》いているあいだも、やはり同《おな》じような気分《きぶん》がしていた。特《とく》に理由《りゆう》はないのだけれど、なんとなく不安《ふあん》でおっかない。ましてや今《いま》は、すっかり陽《ひ》も暮《く》れて、おとなだっていない。薄暗《うすぐら》い電灯《でんとう》の明《あ》かりだけを頼《たよ》りに歩《ある》いていくのは、いっそう不安《ふあん》な感《かん》じだった。全員《ぜんいん》が同《おな》じ気分《きぶん》だったのだろう、耕介《こうすけ》たちはいつの間《ま》にか、押《お》しあうようにして身《み》を寄《よ》せあっていた。電灯《でんとう》の数《かず》が少《すく》なくて、ひとつ角《かど》を曲《ま》がるとまっくらで、壁《かべ》のどこかにあるスイッチを手探《てさぐ》りしながら進《すす》んでいかなければならない、そのせいもあったかもしれない。
スイッチを探《さぐ》るのは、先頭《せんとう》を歩《ある》く耕介《こうすけ》の役目《やくめ》だった。梨花《りか》は最年長《さいねんちょう》の中学一年だけれど、本人いわく「か弱《よわ》い女の子」だし、二|番目《ばんめ》に年上なのは六年生の耕介《こうすけ》だから、耕介《こうすけ》の役目《やくめ》だ、ということだった。仕方《しかた》ないと思《おも》っても、電灯《でんとう》の明《あ》かりが届《とど》かない暗《くら》がりに足を踏《ふ》み入《い》れて、しっけた塗《ぬ》り壁《かべ》をなでてスイッチを探《さが》すのは、いやな感《かん》じだった。だから、何度目《なんどめ》かに角《かど》を曲《ま》がって明《あ》かりをつけて、ほんのすこし広《ひろ》くなった短《みじか》い袖廊下《そでろうか》に出たときには、ほっとしてしまった。
廊下《ろうか》はそこで行《ゆ》き止《ど》まりだった。廊下《ろうか》の三方《さんぽう》は漆喰《しっくい》の壁《かべ》で、残《のこ》る一方《いっぽう》には白と黒《くろ》の漆喰《しっくい》で作《つく》られた大きな扉《とびら》があった。これが蔵《くら》の扉《とびら》だった。ふつう、蔵《くら》は庭《にわ》に建《た》っているものだが、この家《いえ》の蔵《くら》はこうして廊下《ろうか》で続《つづ》いているのだった。扉《とびら》には黒《くろ》くて大きな錠前《じょうまえ》が下がっている。鍵《かぎ》は、すぐそばの壁《かべ》にかけてあることを、耕介《こうすけ》は昨日《きのう》見て知《し》っていた。鍵《かぎ》を取《と》り、平《ひら》たい箱《はこ》のような錠前《じょうまえ》にさしこむと、鍵《かぎ》をまわさないでも錠《じょう》が外《はず》れた。扉《とびら》は厚《あつ》みが三十センチほどもあったけれど、意外《いがい》に軽《かる》く開《ひら》くことができた。二|枚《まい》の扉《とびら》を観音開《かんのんびら》きに両側《りょうがわ》へ引《ひ》き開《あ》けると、中には木の格子《こうし》に金網《かなあみ》の貼《は》られた厳《いか》めしい板戸《いたど》がある。その片側《かたがわ》にも鍵穴《かぎあな》があって、これには鍵《かぎ》がかかってないのを、耕介《こうすけ》は覚《おぼ》えていた。なので板戸《いたど》を開《あ》けた。かなりの力が必要《ひつよう》だった。
その先は、本当《ほんとう》にまっくらだった。もういちど湿《しめ》った壁《かべ》を手探《てさぐ》りして、ようやくスイッチを見つけだした。明《あ》かりをつけると、がらんとした蔵座敷《くらざしき》が現《あらわ》れた。きっちり敷《し》きこまれた畳《たたみ》と、それを取《と》り囲《かこ》んだ窓《まど》ひとつない壁《かべ》。正面奥《しょうめんおく》の壁《かべ》には一面《いちめん》、仏壇《ぶつだん》のような黒《くろ》い折《お》り戸《ど》が続《つづ》いている。昨日《きのう》来《き》たときにも閉《し》まっていた。今日《きょう》もやっぱり閉《し》まっている。三郎《さぶろう》によれば、あれは仏壇《ぶつだん》ではなく、本家《ほんけ》の神様《かみさま》をまつる厨子《ずし》で、決《き》められた日にしか開《あ》けてはいけないのだそうだ。だから日頃《ひごろ》は鍵《かぎ》がかけてあって、その鍵《かぎ》は大事《だいじ》に保管《ほかん》してある。
耕介《こうすけ》は昨日《きのう》まで、土蔵《どぞう》を間近《まぢか》でみたことなんてなかった。初《はじ》めて来《き》た親戚《しんせき》の家《いえ》が、迷子《まいご》になりそうなほど大きくて、曲《ま》がりくねった廊下《ろう》の果《は》てに土蔵《どぞう》があることにびっくりしていた。生まれて初《はじ》めて土蔵《どぞう》の中に入って、物々《ものもの》しいのに圧倒《あっとう》された。それはたぶん、他《ほか》の子どもたちもそうだったのだと思《おも》う。もう一|回《かい》、蔵座敷《くらざしき》に入ってみたかったし、神妙《しんみょう》に座《すわ》って挨拶《あいさつ》をするのじゃなく、気ままに歩《ある》いて探検《たんけん》してみたかった。たとえ座敷《ざしき》が四角《しかく》いだけの空間《くうかん》で、探検《たんけん》する余地《よち》のない場所《ばしょ》だったとしても。
歓声《かんせい》をあげて座敷《ざしき》に駈《か》けこみ、広《ひろ》い畳《たたみ》の上で思《おも》い切《き》りのいい前転《ぜんてん》をやってみせたのは誰《だれ》だったか。ほとんど同時《どうじ》に全員《ぜんいん》が中に飛《と》びこんで、意味《いみ》もなくそのへんを走《はし》ったり転《ころ》がったりしたので、よく分《わ》からない。そのとき何人《なんにん》いたのかも分《わ》からない。四人だったはずだけど、じっさいに数《かぞ》えてみたわけではなかった。
しばらくのあいだ全員《ぜんいん》で無意味《むいみ》にはしゃいで、それから扉《とびら》を閉《し》め、板戸《いたど》を閉《し》めた。おもむろに明《あ》かりが消された。きゃあきゃあ騒《さわ》ぎながら手探《てさぐ》りで四方《しほう》に散《ち》った。耕介《こうすけ》は、蔵座敷《くらざしき》に入ってすぐ左を壁《かべ》ぞいに歩《ある》いて隅《すみ》にたどりついた。誰《だれ》かがあとからやってきて、耕介《こうすけ》がすでに陣取《じんど》っているのを触《さわ》ってたしかめ、たぶん座敷《ざしき》の奥《おく》のほうに去《さ》っていった。何度《なんど》も「もういい?」と、確認《かくにん》する声《こえ》がして、何度目《なんどめ》かに「もういいよ。」という声《こえ》がそろった。始《はじ》めるね、と言《い》ったのは、梨花《りか》の声《こえ》だったような気がする。
行《い》くよ、と梨花《りか》らしき声《こえ》がして、それきり沈黙《ちんもく》がおりた。まっくらで、なにも見えなかったし、誰《だれ》の声《こえ》も聞《き》こえなかった。明《あ》かりがあってもいけないし、しゃべってもいけないのだと、三郎《さぶろう》に聞《き》いていた。
耕介《こうすけ》が押《お》し黙《だま》って隅《すみ》に座《すわ》りこんでいると、たぶん梨花《りか》が、まっくらな中、壁《かべ》づたいに歩《ある》いてきて耕介《こうすけ》の背中《せなか》を叩《たた》いた。なので耕介《こうすけ》は立ちあがり、梨花《りか》が来たのとは逆《ぎゃく》のほう、入り口を越《こ》えて右|手前《てまえ》の隅《すみ》まで歩《ある》いた。入り口の内側《うちがわ》にある板戸《いたど》に指《ゆび》が触《ふ》れたから、方向《ほうこう》はまちがっていないはずだ。それまで耕介《こうすけ》がいた隅《すみ》には梨花《りか》が残《のこ》された。耕介《こうすけ》は突《つ》き当《あ》たりまで歩《ある》いて、そこにいる誰《だれ》かの身体《からだ》を叩《たた》き、その場《ば》に座《すわ》った。耕介《こうすけ》に押し出された誰《だれ》かは座敷《ざしき》の奥《おく》に向《む》かって遠《とお》ざかっていった。そして奥《おく》にいた誰《だれ》かの身体《からだ》を叩《たた》いたはずだ。三|番目《ばんめ》のその子は四|番目《ばんめ》の隅《すみ》にとどまり、それまでそこにいた四|番目《ばんめ》の誰《だれ》かは、厨子《ずし》の前《まえ》を通《とお》って一|番目《ばんめ》の隅《すみ》に向《む》かい、そこにいる誰《だれ》かの身体《からだ》を叩《たた》く。
でも、そんなことができるはずはないのだ。
そこにいた梨花《りか》は、耕介《こうすけ》がいた隅《すみ》に移動《いどう》している。さっきまで梨花《りか》がいた隅《すみ》には誰《だれ》もいない。四|番目《ばんめ》に歩《ある》いた誰《だれ》かは空《から》っぽの隅《すみ》にたどりついて、そこでゲームは終《お》わるはずだ。なのに誰《だれ》かがいて肩《かた》を叩《たた》くことができてしまう。「四人ゲーム」はそういうゲームだ。
いるはずのない誰《だれ》かが混《ま》じって、成立《せいりつ》するはずのないゲームが成立《せいりつ》する。その誰《だれ》かは霊《れい》なのだ。だから「四人」は、「しびと」と読《よ》むのが正しいのだと、三郎《さぶろう》が教《おし》えてくれた。
じっさいには、なにが起《お》こるのだろう。耕介《こうすけ》は全身《ぜんしん》を耳《みみ》にして、闇《やみ》の中に座《すわ》っていた。やがて、どこかで小さく、えっ、という声《こえ》がした。耕介《こうすけ》は思《おも》わず周囲《しゅうい》を見まわした。当《あ》たり前《まえ》のことだけど、何《なに》も見えはしなかった。暗闇《くらやみ》に、にじんだような花が咲《さ》いていた。視覚《しかく》のいたずらで見える幻《まぼろし》の花だ。何度《なんど》も瞬《まばた》きして幻《まぼろし》を追《お》い払《はら》っていると、ありえないことに横手《よこて》のほうからひそやかな足音が近《ちか》づいてきたのだった。
畳《たたみ》の上をおっかなびっくり、すり足で歩《ある》く、ささくれた音が微《かす》かにしていた。さらさらと低《ひく》く響《ひび》いているのは、壁《かべ》を指先《ゆびさき》でなでる音だろう。そんなはずはないのに、と耕介《こうすけ》が息《いき》をひそめていると、誰《だれ》かの手が触《ふ》れた。なまあたたかい、すこし湿《しめ》った手だった。それが肩《かた》を叩《たた》くというより、そこに耕介《こうすけ》がいることを確認《かくにん》するように動《うご》いて、ぎゅっと服《ふく》をつかんだのだった。
「変《へん》だ。」と、耕介《こうすけ》はとっさに声《こえ》をあげた。だって、四人しかいないのだから。
耕介《こうすけ》の声《こえ》におどろいたように、服《ふく》をつかんでいた手が離《はな》れた。きゃっと悲鳴《ひめい》がして、それから言葉《ことば》にならない叫《さけ》び声《ごえ》や、半泣《はんな》きの声《こえ》がして、全員《ぜんいん》がばたばたと走《はし》りまわる足音がした。耕介《こうすけ》も壁《かべ》づたいに駈《か》けてスイッチを探《さぐ》った。ぱっと明《あ》かりが点《つ》いた。白々《しらじら》と四角《しかく》い座敷《ざしき》のあちこちに子どもが散って、それぞれ壁《かべ》に張《は》りついていた。耕介《こうすけ》はその顔振《かおぶ》れを、たしかめた。
五人、いた。
[#改ページ]
2 座敷童子
「最初《さいしょ》は梨花《りか》ちゃんだった?」
耕介《こうすけ》がきくと、梨花《りか》はうなずいた。
「そうよ。あたしから行《い》くよ、って言《い》って、あっちからこっちへ歩《ある》いたの。」
梨花《りか》は正面《しょうめん》|左《ひだり》の奥《おく》をさし、指先《ゆびさき》を動《うご》かして最初に耕介《こうすけ》がいた隅《すみ》を示《しめ》した。たしかに耕介《こうすけ》は二|番目《ばんめ》だった。
「でもって、そこで誰《だれ》かの肩《かた》を叩《たた》いたのよ。」
「梨花《りか》ちゃんが叩《たた》いたのは、ぼくだよ。ぼくはあっちの隅《すみ》に行《い》った。」
「そこにいたのはおれだよ。」
「ぼくだよ」
同時《どうじ》に声をあげたのは、音弥《おとや》と禅《ぜん》だった。ふたりは一瞬《いっしゅん》ぽかんとしてから、お互《たが》いの顔《かお》をまじまじと見た。禅《ぜん》が冷《ひ》ややかに言《い》った。
「そこは、ぼく。音弥《おとや》ちゃんじゃない。」
音弥《おとや》は困《こま》ったように丸《まる》い顔《かお》をきょときょとさせた。
「あれ? じゃあおれ、奥《おく》だったかな。」
ちがうよ、と真由《まゆ》が抗議《こうぎ》した。
「奥《おく》にいたのは、あたしよ。」
「そんなはずないよ。おれ、どっちかだよ、たぶん。」
「たぶん?」と、梨花《りか》は音弥《おとや》をにらみつける。
「覚《おぼ》えてないんだよ、だってまっくらだったんだから。最初《さいしょ》に行った隅《すみ》に誰かいて、あわてて別《べつ》のとこに行《い》こうとしたら、自分がどこにいるか分《わ》からなくなって、やっと誰《だれ》もいない隅《すみ》を見つけたんだ。なんとなく、奥《おく》に行《い》って手前《てまえ》に戻《もど》った気がしたんだけど。」
「最後《さいご》までもたもたしてたのは、あんただったのね。」
「音弥《おとや》ちゃんが、あやしい。」と、真由《まゆ》が指《ゆび》を突《つ》きつけた。
「ちがうって。おれは最初《さいしょ》からいたよ。」
同《おな》い年《どし》、どちらも小学五年生のふたりは、仇敵《きゅうてき》みたいにお互《たが》いをねめつけた。
「ぼくだっていたよ。」と、禅《ぜん》が言《い》った。禅《ぜん》はさらに下の四年生だった。「梨花《りか》ちゃんがいたのも、耕介《こうすけ》くんがいたのも、真由《まゆ》ちゃんがいたのも、ちゃんと覚《おぼ》えてる。」
禅《ぜん》はきっぱり言《い》って、そして急《きゅう》に変《へん》な顔《かお》をした。耕介《こうすけ》もきっと同《おな》じような顔《かお》をしていただろう。なぜなら、音弥《おとや》が最初《さいしょ》からいた記憶《きおく》が、たしかにあるからだ。蔵《くら》に入ったとき、まちがいなく音弥《おとや》もいたと思《おも》う。そして困《こま》ったことに、梨花《りか》も真由《まゆ》も、禅《ぜん》も、ひとり残《のこ》らず、いたという気がするのだ。
「五人、だったっけ?」
急《きゅう》に自信《じしん》をなくしたように禅《ぜん》がきいた。全員《ぜんいん》が、ぜったいにちがう、と声《こえ》をそろえた。
「いつの間《ま》にか、増《ふ》えてたのかな。」
真由《まゆ》が首《くび》をかしげた。増《ふ》えていたのはたしかだけれど、真由《まゆ》が言《い》いたいのはそういうことではないことが、耕介《こうすけ》には分《わ》かった。四人《よにん》で蔵《くら》に来《き》たつもりだったけど、来《く》る途中《とちゅう》か、そうでなければ来《き》てから、気づかないうちに誰《だれ》か混《ま》じっていたのだろうか。意《い》を察《さっ》したように禅《ぜん》が首《くび》を振《ふ》った。
「そんなはずはないよ。だって、子どもは五人だもん。」
うん、と全員《ぜんいん》が同意《どうい》した。蔵《くら》にやってきた四人と来《こ》なかった光太《こうた》で五人。今《いま》、この家《いえ》にいる子どもはそれだけだったはずなのだ。
耕介《こうすけ》がこの家《いえ》にやってきたのは、昨日《きのう》のことだった。話《はなし》はそもそも、夏休《なつやす》みに入ったばかりの、半月前《はんつきまえ》にさかのぼる。
その日、耕介《こうすけ》は親友《しんゆう》の拓人《たくと》の家《いえ》に遊《あそ》びに行《い》っていた。拓人《たくと》は幼《おさな》なじみで同級生《どうきゅうせい》で、六年になってからは同《おな》じクラスで、すごくほがらかな、いいやつだった。耕介《こうすけ》と拓人《たくと》は、クラスでふたりだけ塾《じゅく》に通《かよ》っていない。スポーツクラブにも行《い》っていない。本が好《す》きで図書館《としょかん》が好きで、それですごく気が合《あ》った。その拓人《たくと》の家《いえ》から帰《かえ》ってみると、居間《いま》とダイニングキッチンと、父親《ちちおや》の仕事場《しごとば》をかねた八|畳《じょう》のこたつ台《だい》に、客用《きゃくよう》の茶托《ちゃたく》と湯呑《ゆのみ》が出ていた。誰《だれ》か特別《とくべつ》なお客《きゃく》さんだったのかな、と思《おも》ったことを、耕介《こうすけ》は覚《おぼ》えている。
ことさら「特別《とくべつ》な」と思《おも》ったのは、耕介《こうすけ》の家《いえ》は店《みせ》をやっていて、常《つね》にお客《きゃく》さんが出入りしているからだった。なにもかも兼用《けんよう》の八|畳《じょう》の手前《てまえ》は、一段《いちだん》さがって土間《どま》になっていて、同《おな》じ程度《ていど》の広《ひろ》さの、小さな店舗《てんぽ》がある。父親《ちちおや》の想一《そういち》は「ハンコ屋《や》」だ。書類《しょるい》におす印鑑《いんかん》を売《う》っている。既製品《きせいひん》の三文判《さんもんばん》やスタンプも取《と》り扱《あつか》っているし、名刺《めいし》の印刷《いんさつ》なんかも引《ひ》き受《う》けているけれども、おもな仕事《しごと》はこつこつと印鑑《いんかん》を彫《ほ》ることだ。銀行印《ぎんこういん》や実印《じついん》、烙款《らっかん》などの、ちょっと特別《とくべつ》な印鑑《いんかん》を、自分《じぶん》でデザインして自分《じぶん》で彫《ほ》る。すこしだけ、占《うらな》いみたいなこともする。印鑑《いんかん》には「印相《いんそう》」といって、人相《にんそう》や手相《てそう》のように、よし悪《あ》しがあるのだ。印相《いんそう》のよい印鑑《いんかん》を持つと、その人は運《うん》がひらけるというし、逆《ぎゃく》に印相《いんそう》の悪《わる》い印鑑《いんかん》を持《も》つと運《うん》が傾《かたむ》くという。本当《ほんとう》にそうなるかどうかは分《わ》からない。信《しん》じている人もいれば、ぜんぜん信《しん》じない人もいるけれど、どちらにせよ、やっぱり人は印相《いんそう》の悪《わる》い印鑑《いんかん》より、よい印鑑《いんかん》のほうをほしがる。それで想一《そういち》は、いちいち印相《いんそう》を見て、よい、きれいな印鑑《いんかん》をデザインして彫《ほ》るのだ。たいがいは、八|畳《じょう》にあがったすぐのところにある作業台《さぎょうだい》で店番《みせばん》をしながら、機械《きかい》で粗彫《あらぼ》りしたのを、ていねいに手作業《てさぎょう》で仕上《しあ》げていく。
この日も想一《そういち》は作業台《さぎょうだい》に向《む》かっていた。耕介《こうすけ》が帰《かえ》ってきたのを見て、あわてて時計《とけい》を見あげ、夕飯《ゆうはん》の時間《じかん》になっていることを確認《かくにん》すると、大急《おおいそ》ぎで作業台《さぎょうだい》をかたづけて立ちあがり、こたつ台《だい》の上の湯呑《ゆのみ》を引《ひ》いて夕飯《ゆうはん》づくりに取《と》りかかった。耕介《こうすけ》には母親《ははおや》がいない。二年生のときに死《し》んでしまった。だから食事《しょくじ》の用意《ようい》をするのは想一《そういち》の役目《やくめ》だ。そのかわり、三年生になったときから、耕介《こうすけ》があとかたづけを引《ひ》き受《う》けている。
いつものように台所《だいどころ》をかたづけた耕介《こうすけ》が、こたつ台《だい》の上に夏休《なつやす》みの宿題《しゅくだい》を広《ひろ》げたときだった。想一《そういち》が湯呑《ゆのみ》の客《きゃく》について切《き》りだした。
「実《じつ》は今日《きょう》、お客《きゃく》さんがあってね。」
想一《そういち》は作業台《さぎょうだい》に向かったまま、小さな鑿《のみ》と金槌《かなづち》を使《つか》いながら言った。
「八月になったら、本家《ほんけ》に行《い》かないといけないんだ。本家《ほんけ》の弁護士《べんごし》さんが来《き》て、集《あつ》まるようにって言《い》うんだよ。すまないが、耕介《こうすけ》も付《つ》き合《あ》ってくれないかな。」
「いいけど。本家《ほんけ》? ぼくも行《い》くの?」
耕介《こうすけ》はすこしおどろいた。「本家《ほんけ》」とは、親戚《しんせき》の呼《よ》び名《な》だ。死《し》んだ母親《ははおや》の実家《じっか》の、そのさらに親戚《しんせき》の家《いえ》が「本家《ほんけ》になるらしい。詳《くわ》しいことはよく知《し》らない。耕介《こうすけ》は、その「本家《ほんけ》」の人間《にんげん》に会《あ》ったことがなかった。想一《そういち》が話題《わだい》に出すこともほとんどなかった。知識《ちしき》として親戚《しんせき》らしいとは了解《りょうかい》していたけれども、それ以上《いじょう》のことを耕介《こうすけ》は知《し》らなかった。
「耕介《こうすけ》にも、必《かなら》ず来《き》てほしいということなんだ。おじさんの具合《ぐあい》が悪《わる》いらしいんだよ。今《いま》のうちに全員《ぜんいん》に会《あ》っておきたい、ということでね。」
「おじさん?」
「耕介《こうすけ》にとっては、大伯父《おおおじ》さんかな。死《し》んだお母《かあ》さんのお父《とう》さん、つまり耕介《こうすけ》のおじいちゃんだね、その人のお兄《にい》さんなんだる」
「おじいちゃんのお兄《にい》さんかあ。」
耕介《こうすけ》は祖父《そふ》もよく知《し》らなかった。耕介《こうすけ》が生まれてすぐの頃《ころ》に死《し》んだと聞《き》いている。祖母《そぼ》は耕介《こうすけ》が生まれるずっと前《まえ》に死んだらしい。耕介《こうすけ》の母親《ははおや》も四|年前《ねんまえ》に死《し》んで、以来《いらい》、母方《ははかた》の親戚《しんせき》とはぜんぜん付《つ》き合《あ》いがなかった。
「ぼく、お母《かあ》さんの親戚《しんせき》って、もういないんだと思《おも》ってた。」
「お母《かあ》さんが死《し》んで、すっかり疎遠《そえん》になっていたからなあ。」
「感慨深《かんがいぶか》そうに言《い》った想一《そういち》の視線《しせん》の先には小さな仏壇《ぶつだん》があった。位牌《いはい》がひとつ、その脇《わき》には、小さな桐《きり》の箱《はこ》がおいてある。中身《なかみ》は白い盃《さかずき》だ。どういう由来《ゆらい》のものかは知《し》らないけれど、その桐《きり》の小箱《こばこ》を布《ぬの》に包《つつ》んでバッグに入れ、想一《そういち》は耕介《こうすけ》とふたり、電車《でんしゃ》に乗《の》りこんだ。八月の初《はじ》めのことだ。
見《み》ず知《し》らずの大伯父《おおおじ》は、見《み》ず知《し》らずの遠《とお》い土地《とち》に住《す》んでいた。家《いえ》を出て、新幹線《しんかんせん》や電車《でんしゃ》を乗《の》り継《つ》いで五|時間《じかん》|以上《いじょう》、やっとたどりついた山奥《やまおく》の小さな駅前《えきまえ》から、さらにタクシーで山の奥《おく》へ入りこんだ。ひとつ峠《とうげ》を越《こ》え、山のあいだにひらけた谷間《たにま》とも盆地《ぼんち》ともつかない場所《ばしょ》に出た。四方を山に囲《かこ》まれ、田圃《たんぼ》と人家《じんか》が広《ひろ》がっている。本家《ほんけ》の建物《たてもの》は、その端《はし》っこ、なだらかな山の麓《ふもと》に建《た》っていた。城《しろ》のような石垣《いしがき》の上に大きな瓦屋根《かわらやね》がぎっしりと並《なら》んで続《つづ》いている。古《ふる》くて厳《いか》めしくて、時代劇《じだいげき》にでも出てきそうな立派《りっぱ》なお屋敷《やしき》だった。
「お母《かあ》さん、いい家《いえ》のお嬢《じょう》さんだったの?」
高《たか》い石垣《いしがき》をあんぐり見あげて耕介《こうすけ》が言《い》うと、タクシーから荷物《にもつ》を運びおろしながら、想一《そういち》は笑《わら》った。
「ここは本家《ほんけ》だよ。お母《かあ》さんの実家《じっか》は別《べつ》の町にある。」
行《い》こう、と言《い》われて物々《ものもの》しい門《もん》をぬけ、大きな家《いえ》に入った。広《ひろ》い家《いえ》の中には、たくさんの人間《にんげん》がいた。それが全部《ぜんぶ》、初《はじ》めて会《あ》う親戚《しんせき》なのだった。次《つぎ》から次《つぎ》へと「おじさん」や「おばさん」を紹介《しょうかい》されたが、耕介《こうすけ》には誰《だれ》が誰《だれ》なのか、さっぱり分《わ》からなかった。顔《かお》と名前《なまえ》と続柄《つづきがら》と、全部《ぜんぶ》をいっぺんに覚《おぼ》えろと言《い》われても無理《むり》な話《はなし》だ。わけが分《わ》からないまま、たくさんの人に頭《あたま》を下げ、ぐねぐね曲《ま》がった廊下《ろうか》をぬけて、離《はな》れに行《い》った。こんもりとした木が涼《すず》しげな影《かげ》を落としている庭《にわ》に向《む》かって、大きな和室《わしつ》が四|部屋《へや》、続《つづ》いていた。この離《はな》れひとつでも耕介《こうすけ》の家《いえ》よりずっと大きい。その奥《おく》の間《ま》に布団《ふとん》が敷《し》いてあって、老人《ろうじん》がひとり、横《よこ》になっていた。それが大伯父《おおおじ》の淵屋《ふちや》泰三《たいぞう》だった。今時《いまどき》めずらしく、和服《わふく》を着《き》た老婆《ろうば》が枕許《まくらもと》に座《すわ》っていて、団扇《うちわ》で泰三《たいぞう》に風《かぜ》を送《おく》っていた。それが大伯母《おおおば》の春日《はるひ》だと、耕介《こうすけ》は、あとから聞《き》いた。
「ごぶさたしてます。」と、言《い》って、想一《そういち》は深々《ふかぶか》とおじぎをした。大伯父《おおおじ》は横《よこ》になったまま、うなずいた。げっそりと痩《や》せて顔色《かおいろ》はひどく青黒《あおぐろ》かった。
黄《き》ばんだ感《かん》じの目が、ぎらぎらと鋭《するど》くて、なんだか怖《こわ》そうな老人《ろうじん》だった。
「お加減《かげん》はいかがですか。」
想一《そういち》がきくと、大伯父《おおおじ》は投《な》げ捨《す》てるように、だめだ、と言《い》った。
「もう長《なが》くはない。棺桶《かんおけ》に片足《かたあし》、入っとる。」
そう割《わ》れた声《こえ》で答《こた》えるあいだも、大伯父《おおおじ》はじっと耕介《こうすけ》を見ていた。会《あ》いたい、と言《い》っていたそうだが、大伯父《おおおじ》の顔《かお》つきはすこしも歓迎《かんげい》するふうではなかった。笑《え》みひとつなく、まるでいたずらをしたのは誰《だれ》かと詮索《せんさく》する教師《きょうし》のような表情《ひょうじょう》をしている。
「耕介《こうすけ》か。」
問《と》われて、耕介《こうすけ》は内心《ないしん》で飛《と》びあがりながら、はい、と答《こた》えた。大伯父《おおおじ》は、そうか、と言《い》ったきり黙《だま》りこんでしまった。
「ゆっくりなさい。」と、言《い》ったのは、ずっと団扇《うちわ》で風《かぜ》を送《おく》っていた大伯母《おおおば》だった。「全員《ぜんいん》がそろうまで、のんびりしてればいいわ。」
にこりともせずに、大伯母《おおおば》はそう言《い》った。それで、初《はじ》めて会《あ》う大伯父《おおおじ》|夫婦《ふうふ》との面談《めんだん》は終《お》わりだった。耕介《こうすけ》はなんだか、あてがはずれたような、ほっとしたような、複雑《ふくざつ》な気分《きぶん》になってしまった。
結局《けっきょく》、蔵座敷《くらざしき》に全員《ぜんいん》がそろって挨拶《あいさつ》をするまで、大伯母《おおおば》の顔《かお》をまた見ることはなかった。蔵座敷《くらざしき》には、当然《とうぜん》のことながら大伯父《おおおじ》の姿《すがた》はなかったので、耕介《こうすけ》は短《みじか》い面談《めんだん》ののち、大伯父《おおおじ》に会《あ》うことがなかった。大伯母《おおおば》は、堅苦《かたくる》しく挨拶《あいさつ》をして、そして離《はな》れに戻《もど》っていった。おとなたちは表座敷《おもてざしき》に集《あつめ》められ、そして子どもが茶《ちゃ》の間《ま》に集められた。そこには五人、子どもがいたはずだ。耕介《こうすけ》|自身《じしん》を含《ふく》め、五人で夕飯《ゆうはん》を食《た》べた。おとなたちの顔《かお》と名前《なまえ》は覚《おぼ》えることができなかったが、子ども同士《どうし》はすぐに親《した》しくなった。夕飯《ゆうはん》のあとは広《ひろ》い家《いえ》の中で遊《あそ》んだし、一晩《ひとばん》|寝《ね》て今日《きょう》は、朝《あさ》から裏山《うらやま》や庭《にわ》で遊《あそ》んだ。そのあいだも、ずっと五人だったはずだ。その五人のうち、光太《こうた》を除《のぞ》く四人が蔵座敷《くらざしき》の中に入った。
なのに今《いま》、蔵座敷《くらざしき》の中には五人、いる。
「あたし、こういう話《はなし》を、本で読《よ》んだことがある。」
「口を開《ひら》いたのは真由《まゆ》だった。
「ぼくも知《し》ってる。」と、禅《ぜん》が言《い》った。「増《ふ》えたひとりは、座敷童子《ざしきわらし》なんだ。」
「じゃあ、誰《だれ》かがお化《ば》けなのか?」
音弥《おとや》が目をまん丸《まる》にして、すっとんきょうな声《こえ》をあげた。梨花《りか》は顔《かお》をしかめた。
「そんなわけ、ないじゃない。お化《ば》けなんていないでしょ。」
「だって、本当《ほんとう》にひとり多《おお》いじゃないか。」
音弥《おとや》に言《い》われ、梨花《りか》は苦《にが》い薬《くすり》でも飲《の》んだような表情《ひょうじょう》で黙《だま》りこんだ。
四人だったはずなのに五人いる。なのに知《し》らない子がいない。耕介《こうすけ》は本家《ほんけ》に着《つ》いてからのことを、あらためて思《おも》い返《かえ》してみたが、どう考《かんが》えても最初《さいしょ》から六人いたとしか思《おも》えなかった。なぜこんなことが起《お》こったのか、さっぱり分《わ》からない。
「お母《かあ》さんに、きいてみる。」
きっぱりと、真由《まゆ》が言《い》った。子どもたちは顔《かお》を見合《みあ》わせた。そう、おとなの誰《だれ》かに会《あ》えば、はっきりするにちがいない。問《と》うまでもなく、余計《よけい》なひとりを指《ゆび》さして、「あなたはどこの子?」ときいてくれるだろう。
そう分《わ》かっていても、なんとなく気おくれするものを感《かん》じるのは、勝手《かって》に蔵座敷《くらざしき》に入った、という引《ひ》け目《め》があるからだった。べつに誰《だれ》かから入るな、と言《い》われたわけではないけれども、子どもたちが気安《きやす》く遊《あそ》び場《ば》にしてはいけない場所《ばしょ》だ、という雰囲気《ふんいき》があった。
第一《だいいち》、おとなは「四人ゲーム」みたいな遊《あそ》びが嫌《きら》いだ。勝手《かって》に蔵座敷《くらざしき》に忍《しの》びこんで、こんな遊《あそ》びをしていたら、ひとり増《ふ》えてしまったみたいです、なんて簡単《かんたん》に言《い》えそうになかった。全員《ぜんいん》が同《おな》じように感じていたのだろう、気まずい感《かん》じの沈黙《ちんもく》がおりた。
「三郎《さぶろう》にいさんなら、分《わ》かるんじゃないかな。」
禅《ぜん》の提案《ていあん》に、ほっとした空気《くうき》が流《なが》れた。そもそも「四人ゲーム」を教《おし》えてくれたのは三郎《さぶろう》だ。おとなの中でひとりだけ若《わか》くて、おとなが話《はな》し合《あ》いをしたり用事《ようじ》をしたりするあいだ、ずっと子どもたちの面倒《めんどう》を見てくれていた。それもすこしも偉《えら》そうな感じではなくて、仲間《なかま》に入るという感《かん》じ、本当《ほんとう》に「おにいさん」という感《かん》じだった。梨花《りか》が「三郎《さぶろう》にいさん」と呼《よ》びかけるのだって、あっさり受《う》け入《い》れてくれた。そもそも三郎《さぶろう》の名前《なまえ》は「三郎《さぶろう》」なんかじゃないのに。さすがに三郎《さぶろう》の本当《ほんとう》の名前《なまえ》は耕介《こうすけ》も覚《おぼ》えた。淵屋《ふちや》多佳保ととうのだ。大伯父《おおおじ》には息子《むすこ》が三人いて、一番《いちばん》下《した》が多佳保《たかお》だった。上のふたりの名前《なまえ》はまだ覚《おぼ》えていない。三人|息子《むすこ》だから、「一郎《いちろう》、次郎《じろう》、三郎《さぶろう》」でいいじゃないか、と言《い》いだしたのは梨花《りか》だった。
「それ以上《いじょう》、覚《おぼ》えられっこないもん。おとな全員《ぜんいん》の顔《かお》を覚《おぼ》えられるかどうかも自信《じしん》ないのに。」
梨花《りか》にかかると、耕介《こうすけ》の父親《ちちおや》は「耕介《こうすけ》おじさん」になってしまう。「耕介《こうすけ》くんちのおじさん」の省略形《しょうりゃくけい》なのだそうだ。音弥《おとや》の父親《ちちおや》は「音弥《おとや》おじさん」で、母親《ははおや》は「音弥《おとや》おばさん」。それ以上《いじょう》の宿題《しゅくだい》を出されても無理《むり》だ、と梨花《りか》は言《い》い張《は》ったし、じっさい、梨花《りか》にならったほうがだんぜん便利《べんり》だった。
「禅《ぜん》の言《い》うとおりね。」と、梨花《りか》は言《い》った。「三郎《さぶろう》にいさんなら分《わ》かるかも。分《わ》からなくても三郎《さぶろう》にいさんには、こんな結果《けっか》を引《ひ》き起《お》こした責任《せきにん》を取《と》ってもらわなきゃ。行《い》きましょ」
おとなたちがいる表座敷《おもてざしき》は、母屋《おもや》とは別《べつ》の棟《むね》にある。茶《ちゃ》の間《ま》からいったん土間《どま》におり、踏《ふ》み板《いた》を渡《わた》って行《い》かなければならない。土間《どま》を越《こ》えて板《いた》の間《ま》にあがり、五人でぞろぞろと廊下《ろうか》を行《い》くと、なんだか落《お》ち着《つ》きのない気配《けはい》が伝《つた》わってきた。小走《こばし》りに歩《ある》きまわる足音、緊張《きんちょう》した感《かん》じの話《はな》し声《ごえ》、合間《あいま》に怯《おび》えたような泣《な》き声《ごえ》がする。きっと光太《こうた》のものだろう。
「どうしたのかしら。」
梨花《りか》がつぶやいたとき、大きな座敷《ざしき》から畳敷《たたみじき》きの縁側《えんがわ》へと、三郎《さぶろう》が出てくるのが遠目《とおめ》に見えた。
「三郎《さぶろう》にいさん。」
梨花《りか》が呼《よ》びかけるまでもなく、三郎《さぶろう》ははっとしたように耕介《こうすけ》たちを見て、そして険《けわ》しい表情《ひょうじょう》をした。
「みんな、どこに行《い》ってたんだい? ああ、とにかく茶《ちゃ》の間《ま》に戻《もど》って。」
君《きみ》は誰《だれ》だい、と三郎《さぶろう》が誰《だれ》かをさして言《い》ってくれるにちがいない。そう思《おも》って、子どもたちは固唾《かたず》を飲《の》んでいたが、三郎《さぶろう》はそもそも、こどもたちの顔《かお》など満足《まんぞく》に見ていないふうだった。大股《おおまた》に歩《あゆ》み寄《よ》ってきて、背後《はいご》の座敷《ざしき》のほうを気《き》にしながら、子どもたちを押《お》し戻《もど》す。
「茶《ちゃ》の間《ま》でテレビでも見てなよ、ね。さあ。」
「どうかしたの?」
梨花《りか》が問《と》いかけたときだった。奥《おく》の襖《ふすま》が開《ひら》いて、おとなが飛《と》びだしてきた。たぶん一郎《いちろう》おじだ、と耕介《こうすけ》は思《おも》う。
「多佳保、だめだ、救急車《きゅうきゅうしゃ》。」
耕介《こうすけ》はどきりとした。一郎《いちろう》おじの背後《はいご》から、すぐに大伯母《おおおば》が出てきた。
「お医者《いしゃ》さんを呼《よ》んでちょうだい。そっちのほうが早いわ。」
三郎《さぶろう》は背後《はいご》に向《む》かってうなずき、そしてどういう意味《いみ》でか、耕介《こうすけ》たちに向《む》かってもうなずいた。
「だいじょうぶ。ちょっと急病人《きゅうびょうにん》が出たんだ。医者《いしゃ》に電話《でんわ》をするから、一緒《いっしょ》に行《い》こう。」
「でも。」と、真由《まゆ》が言《い》うより先に、音弥《おとや》が座敷《ざしき》に向《む》かって走《はし》りだした。きっと心配《しんぱい》で我慢《がまん》できなかったのだ。すぐに梨花《りか》と禅《ぜん》も続《つづ》いた。耕介《こうすけ》も、たまらず駈《か》けだしてしまった。
表座敷《おもてざしき》は三|間《ま》|続《つづ》きの広《ひろ》い部屋《へや》だった。そのうちの一番《いちばん》|手前《てまえ》にある上座敷《かみざしき》に、黒塗《くろぬ》りのお膳《ぜん》が並《なら》んでいる。並《なら》べられたお膳《ぜん》の列《れつ》は脱線《だっせん》した列車《れっしゃ》みたいにゆがんでいて、そのあいだをおとなたちが右往左往《うおうさおう》していた。ある者《もの》は畳《たたみ》に倒《たお》れこんで、うめいていたし、別《べつ》の者《もの》はそのそばに屈《かが》みこんでいる。畳《たたみ》のあちこちに変《へん》なしみが見えた。苦《くる》しそうな声《こえ》と、光太《こうた》の泣《な》き声《ごえ》が響《ひび》いていた。
耕介《こうすけ》は中に飛《と》びこんですぐ、壁際《かべぎわ》に座《すわ》りこんでいる父親《ちちおや》をみつけた。立てた膝《ひざ》の上に伏《ふ》せた顔《かお》は青くて、しかも苦《くる》しそうだった。すうっと血《ち》の気《け》が引《ひ》いていくのが自分《じぶん》でも分《わ》かった。真《ま》っ白《しろ》になった頭《あたま》の中に、ぽんと浮《う》かんだのは、父親《ちちおや》まで死《し》んでしまったら、自分《じぶん》はどうなるのだろう、という問《と》いだった。
「お父《とう》さん。」
想一《そういち》は、すぐに耕介《こうすけ》に気づいて顔《かお》をあげた。
「お父《とう》さん、だいじょうぶ?」
「だいじょうぶだ。ちょっと胸《むね》が悪《わる》いだけだから。」
そう言《い》って想一《そういち》は手招《てまね》きした。なので耕介《こうすけ》は想一《そういち》はのそばに座《すわ》りこんだ。
「たぶん、食《しょく》あたりだと思《おも》うよ。お父《とう》さんは、たいしたことない。」
耕介《こうすけ》は、ようやくほっとした。落《お》ち着《つ》いて、あらためて周囲《しゅうい》を見まわすと、禅《ぜん》の両親《りょうしん》と音弥《おとや》の父親《ちちおや》が、畳《たたみ》の上に倒《たお》れていた。真由《まゆ》の父親《ちちおや》も想一《そういち》のようにうずくまって、苦《くる》しそうに胸《むね》のあたりを押《お》さえている。
「ここはだいじょうぶだから、みんなで茶《ちゃ》の間《ま》に行《い》ってなさい。」
「でも。」
とても別《べつ》の場所《ばしょ》になんか行《い》けない。それは他《ほか》の子どもも同様《どうよう》だろう。禅《ぜん》は倒《たお》れた母親《ははおや》の手を握《にぎ》っていたし、音弥《おとや》だって真由《まゆ》だって、母親《ははおや》にしがみついたまま、父親《ちちおや》のようすを緊張《きんちょう》した表情《ひょうじょう》で見つめていた。光太《こうた》は、母親《ははおや》である梨花《りか》おばのスカートにぶらさがって、ものすごい声《こえ》で泣《な》いていた。梨花《りか》おばは無事《ぶじ》なようだったし、梨花《りか》おじは本家《ほんけ》に来《き》ていない。両親《りょうしん》のことが心配《しんぱい》で怖《こわ》いというより、この場《ば》の雰囲気《ふんいき》に怯《おび》えているのだろう。
「なんかあったのかね。」
唐突《とうとつ》によく響《ひび》く声《こえ》がしたのは、その時《とき》だった。振《ふ》り返《かえ》ると、すぐそばの縁側《えんがわ》に庭先《にわさき》から「師匠《ししょう》」があがりこんでくるところだった。「師匠《ししょう》」は、例《れい》によって梨花《りか》の命名《めいめい》で、庭《にわ》の手入《てい》れをしている気さくな老人《ろうじん》だった。家《いえ》は本家《ほんけ》のすぐ裏手《うらて》にある。騒《さわ》ぎを聞《き》きつけてやってきたようだった。
「どうしたんだ、これは。だいじようぶかい。」
師匠《ししょう》はおどろいたように座敷《ざしき》の中を見まわしながら、耕介《こうすけ》のそばに駆《か》けよってきた。
「食《しょく》あたりだって。」
「医者《いしゃ》は。」
これには想一《そういち》が答《こた》えた。
「多佳保《たかお》くんが呼《よ》びにいってます。ここはだいじょうぶですから、子どもたちをお願いします。」
師匠《ししょう》は、うなずいた。耕介《こうすけ》の肩《かた》に手をかけ、さあ、とうながす。泣《な》きじゃくる光太《こうた》をなだめ、梨花《りか》を呼《よ》んで預《あず》け、不安《ふあん》そうにする禅《ぜん》をはげまして建たせた。
「じきにお医者《いしゃ》が来《く》るから心配《しんぱい》ない。ここにいると、お医者《いしゃ》の邪魔《じゃま》にらなるからあっちに行《い》ってよう。な。」
いやだ、と訴《うった》えるように首《くび》を振《ふ》る真由《まゆ》の手を引《ひ》いて、音弥《おとや》を手招《てまね》いた。
「お医者《いしゃ》の先生に、頑張《がんば》って治《なお》してもらわないとな。ちゃんと頑張《がんば》ってもらうためには、邪魔《じゃま》はしないことだ。」
子どもたちはてんでにうなずき、そうしてうしろ髪《かみ》を引かれるように、それぞれの親《おや》を振《ふ》り返《かえ》った。
[#改ページ]
3 毒《どく》
翌日《よくじつ》、耕介《こうすけ》が目を覚《さ》ましたときには、もう昼《ひる》を過《す》ぎていた。部屋《へや》の中があんまり明《あか》るいのにおどろいて枕許《まくらもと》を探《さぐ》り、旅行用《りょうこうよう》の目覚《めざ》まし時計《どけい》を見つける前《まえ》に、父親《ちちおや》の姿《すがた》が見えないのに気がついた。
耕介《こうすけ》と想一《そういち》が泊《と》まっているのは、表座敷《おもてざしき》のある東《ひがし》の棟《むね》の六|畳《じょう》だった。家具《かぐ》のないがらんとした部屋《へや》で、今《いま》は耕介《こうすけ》の布団《ふとん》だけが部屋《へや》の片側《かたがわ》に敷《し》かれていた。想一《そういち》が寝《ね》ていたはずの布団《ふとん》が見えない。すぐに、ゆうべの騒《さわ》ぎを思《おも》い出《だ》した。
師匠《ししょう》に連《つ》れられて茶《ちゃ》の間《ま》に行《い》って、そこで子どもたちと三郎《さぶろう》と、じっとなにかの知《し》らせが飛《と》びこんでくるのを待《ま》っていた。お医者《いしゃ》が来《き》た、という声《こえ》は聞《き》いた。迎《むか》えるために走《はし》りまわるおとなが、「もうだいじょうぶよ。」と茶《ちゃ》の間《ま》に声《こえ》をかけていった。そのあとで救急車《きゅうきゅうしゃ》が来《き》たのも覚《おぼ》えている。音弥《おとや》の父親《ちちおや》と、禅《ぜん》の両親《りょうしん》が運《はこ》ばれていって、音弥《おとや》も禅《ぜん》も泣《な》きそうな顔《かお》をしていた。一晩《一晩》|病院《びょういん》に泊《と》まるだけで翌日《よくじつ》には戻《もど》ってくる、と電話《でんわ》があったのは深夜《しんや》になってからだったか。耕介《こうすけ》はそのまま茶《ちゃ》の間《ま》で寝入《ねい》ってしまった。
「お父《とう》さん。」
父親《ちちおや》は具合《ぐあい》が悪《わる》そうだった。あれきり想一《そういち》の顔《かお》を見てない。耕介《こうすけ》をこの部屋《へや》まで運《はこ》んでくれたのは誰《だれ》だろう。父親《ちちおや》は、ちゃんとこの部屋《へや》で寝《ね》たのだろうか。
気にしながら、あわてて着替《きが》え、廊下《ろうか》に飛《と》びだした。顔《かお》を洗《あら》い、長《なが》い廊下《ろうか》を小走《こばし》りに建物《たてもの》をぬけると、台所《だいどころ》のある大きな土間《どま》に出る。土間《どま》に渡《わた》した踏《ふ》み板《いた》に飛《と》びおりると、明《あか》るい|声《こえ》がかかった。
「あら、おはよう。やっと目が覚《さ》めた?」
声《こえ》をかけてきたのは、次郎《じろう》おじの奥《おく》さんだった。梨花《りか》が呼《よ》ぶところの「次郎《じろう》おばさん」だ。
「あ、はい。寝坊《ねぼう》して、ごめんなさい。」
耕介《こうすけ》があわてて謝《あやま》ると、次郎《じろう》おばは、土間《どま》を掃《は》いていた手を止《と》めて、ふんわりと笑《わら》う、く。ふっくらと白い頬《ほほ》に片《かた》えくぼができた。
「そういう意味《いみ》じゃないのよ。ゆうべは、くたびれたでしょう。しっかり眠《ねむ》れた?」
はい、と耕介《こうすけ》はうなずく。次郎《じろう》おばの前《まえ》に立つと、耕介《こうすけ》はなんとなく、どぎまぎしてしまう。それは、次郎《じろう》おばの雰囲気《ふんいき》が、耕介《こうすけ》が覚《おぼ》えている母親《ははおや》のそれに似《に》ているきがするせいなのかもしれなかった。
「あの、お父《とう》さんは。」
「想一《そういち》さんなら、仏間《ぶつま》のほうにいたわよ。」
聞《き》くやいなや、耕介《こうすけ》は茶《ちゃ》の間《ま》の前《まえ》にある幅広《はばひろ》の縁側《えんがわ》(広敷《ひろしき》というらしい)に飛《と》びあがった。耕介《こうすけ》には、こうしてひとつの家《いえ》が土間《どま》で分断《ぶんだん》されていたりする本家《ほんけ》の建物《たてもの》が、すごく不思議《ふしぎ》だ。しかも本家《ほんけ》は、部屋《へや》と部屋《へや》が襖《ふすま》や障子《しょうじ》で区切《くぎ》られていて、どこまでも続《つづ》く構造《こうぞう》になっている。おかげで、六|畳《じょう》も八|畳《じょう》もあって畳《たたみ》だってちゃんと敷《し》かれているのに、通路《つうろ》でしかない部屋《へや》があったりして、これも奇妙《きみょう》な感《かん》じがしてならない。
茶《ちゃ》の間《ま》から、大小三つの部屋《へや》を通《とお》りぬけて仏間《ぶつま》に向《む》かった。大きな仏壇《ぶつだん》を据《す》えた座敷《ざしき》の、縁側《えんがわ》に近《ちか》い風通《かぜとお》しのいいところに座《すわ》って、父親《ちちおや》はなにごとかを熱心《ねっしん》にしていた。
「おはよう。具合《ぐあい》、どう?」
声《こえ》をかけると、顔《かお》をあげて振《ふ》り返《かえ》る。膝《ひざ》の上や周囲《しゅうい》には、金色《こんじき》の器《うつわ》や布《ぬの》きれが散《ち》らばっていた。
「うん。もういいよ。」
「なにをやってるの?」
「仏壇《ぶつだん》の掃除《そうじ》をね。他《ほか》にすることがないから。」
想一《そういち》は言《い》って、手の中の器《うつわ》を布《ぬの》きれでこすった。どうやら仏壇《ぶつだん》の道具類《どうぐるい》を磨《みが》いているらしい。
「ゆうべ、たいへんだった?」
想一《そういち》は笑《わら》って首《くび》を横《よこ》に振《ふ》った。
「お父《とう》さんは、そんなにたいへんでもなかったよ。お医者《いしゃ》さんが手当《てあて》してくれたら、楽《らく》になったからね。禅《ぜん》くんのご両親《りょうしん》と、音弥《おとや》くんのお父《とう》さんのほうが、たいへんそうだったけど、さっき病院《びょういん》から戻《もど》ってきたよ。すっかり元気《げんき》になったみたいだった。」
そうなんだ、と耕介《こうすけ》は息《いき》を吐《は》いた。
「なにがあったの?」
「ご飯《はん》の中に、なにか悪《わる》いものが入っていたらしいね。たぶん、おひたしじゃないかな。変《へん》な味《あじ》がしたような気がしたから。半分《はんぶん》、口をつけて残《のこ》したおかけでたいしたことにならずにすんだようだよ。」
「よかった。」
「みんなもう、だいじょうぶだ。それよりご飯《はん》を食《た》べてきなさい。子どものご飯《はん》はお弁当《べんとう》で、梨花《りか》ちゃんたちが庭《にわ》に持《も》って出《で》ていったよ。」
想一《そういち》はすっかりいつもどおりで、本当《ほんとう》に具合《ぐあい》はよくなったらしい。ほっとしながら、耕介《こうすけ》は広《ひろ》い家《いえ》を戻《もど》って庭《にわ》に出た。
本家《ほんけ》の庭《にわ》は家《いえ》の四方《しほう》に広《ひろ》がっていて、しかもそのどれもが広《ひろ》かった。お客《きゃく》が泊《と》まったり表座敷《おもてざしき》があったりする東《ひがし》の棟《むね》の脇《わき》には、特別《とくべつ》広《ひろ》い主庭《しゅにわ》が広《ひろ》がっていた。転《ころ》げまわって遊《あそ》べそうな芝生《しばふ》があって、隅《すみ》には石で囲《かこ》ったきれいな池《いけ》がある。子どもたちは、その池《いけ》の端《はし》の木陰《こかげ》になったところに集《あつ》まっていた。
「おはよう。」
「ぜんぜん早くないわよ。」
ほがらかにそう言《い》った梨花《りか》は、裸足《はだし》になった足《あし》を水にひたして、ぱしゃぱしゃやっていた。池《いけ》の水は山から引《ひ》いているらしい。裏山《うらやま》をおおった、うっそうとした林の縁《ふち》に、大きな岩《いわ》が組《く》み合《あ》わさって細《ほそ》い滝《たき》を作《つく》っている。そこから流《なが》れ落《お》ちた水は、渓流《けいりゅう》のように石がごつごつ並《なら》んだ小さな浅《あさ》い瀬《せ》を流《なが》れて、池《いけ》へとくだっていくのだった。梨花《りか》たちは、その瀬《せ》に集《あつ》まって、思《おも》い思《おも》いの石に腰《こし》をおろしている。瀬《せ》の中央《ちゅうおう》にある平《ひら》たい石に、お弁当《べんとう》にした昼《ひる》ご飯《はん》がのせてあった。
「そう言《い》うお姉《ねえ》ちゃんも、さっき起《お》きたんだよ。」
得意《とくい》げに言《い》ったのは、梨花《りか》の弟《おとうと》の光太《こうた》だった。
「音《おと》ちゃんも遅《おそ》かった。」
「仕方《しかた》ないだろ。」と言《い》って、音弥《おとや》はサンドイッチをほおばった。「ゆうべ、遅《おそ》かったんだから。」
「音弥《おとや》のお父《とう》さんは? 戻《もど》ってきたって?」
「ぴんぴんして帰《かえ》ってきたよ。ゆうべ吐《は》いたぶんも食《た》べるんだって、さっき、丼《どんぶり》でご飯《はん》を喰《く》ってた。」
音弥《おとや》は言《い》って、にやっと笑《わら》う。禅《ぜん》は、と目をやると、
「うちのお父《とう》さんとお母《かあ》さんは、大事《だいじ》をとってお粥《かゆ》を食《た》べてた。消化器系《しょうかきけい》にトラブルがあったときは、そのほうがいいんだよ。」
「真由《まゆ》のお父《とう》さんは?」
「お粥《かゆ》。耕介《こうすけ》くんのお父《とう》さんも、お粥《かゆ》を食《た》べてるの、見たよ。」
そう、と耕介《こうすけ》はうなずいた。
「梨花《りか》ちゃんのお母《かあ》さんは、なんともなかったの?」
「ぜんぜん無事《ぶじ》よ。具合《ぐあい》が悪《わる》くなったのは、五人だけなの。他《ほか》のおとなは、みんなだいじょうぶ。」
では、本当《ほんとう》にもう心配《しんぱい》しなくてもいいのだ。安堵《あんど》の息《いき》が、妙《みょう》な具合《ぐあい》に沈《しず》んで溜息《ためいき》になってしまったのは、あまりだいじょうぶでないことを思《おも》い出《だ》してしまったからだった。
どうしたの、と問《と》いかけるように光太《こうた》が耕介《こうすけ》を見あげてきた。なんでもない、と首《くび》を横《よこ》に振《ふ》ると、同《おな》じような音色《ねいろ》の溜息《ためいき》を梨花《りか》がついた。
「なにが言《い》いたいのか、よおく、分《わ》かるわ。」
うん、と耕介《こうすけ》はうなずいた。
「光太《こうた》も、ぜんぜんおかしいと思《おも》ってないみたいなの。」
「ぼく? なにが?」
「あんたは、いいの。」と、梨花《りか》は言《い》って、耕介《こうすけ》に小声《こごえ》で言《い》った。「おとなだって、誰《だれ》ひとり口にしないのよ。」
つまり、おとなにも分《わ》からなかったのだ、と耕介《こうすけ》は思《おも》った。
あいかわらず、子どもがひとり多《おお》い。ゆうべ、あんな事件《じけん》があって、それで耕介《こうすけ》はすっかりそのことを忘《わす》れていた。ついさっき、子どもたちが石に座《すわ》っているのを見て、突然《とつぜん》、思《おも》い出《だ》したのだ。とっさに数《かず》を数《かぞ》えてみた。耕介《こうすけ》自身《じしん》を入れると六人だった。
「三郎《さぶろう》にいさんは?」
「右《みぎ》に同《おな》じ、よ。さっきまで一緒《いっしょ》にお昼《ひる》を食《た》べてたけど。師匠《ししょう》が呼《よ》びに来《き》て手伝《てつだ》いに行《い》ったわ。」
そうか、と耕介《こうすけ》はうなずいた。やはり三郎《さぶろう》にも分《わ》からなかったのだ。ゆうべも子どもが多《おお》いことに気づいてないふうだった。思《おも》い返《かえ》せば、師匠《ししょう》だってそうだ。当《あ》たり前《まえ》のように六人の子どもを連《つ》れて茶《ちゃ》の間《ま》に向《む》かった。三郎《さぶろう》とふたり、ずっとついていてくれたのに、とうとう一度《いちど》も、ひとり多《おお》いじゃないか、とは言《い》いださなかった。
「どうすればいいんだと思《おも》う?」
耕介《こうすけ》が小声《こごえ》できくと、梨花《りか》は肩《かた》をすくめた。
「どうしようもないじゃない。」
話《はなし》の内容《ないよう》を察《さっ》したのか、真由《まゆ》が口を挟《はさ》んだ。
「きっと誰《だれ》かが騒《さわ》ぎだすと思《おも》ったのにね。」
「なっちゃったもんは、仕方《しかた》ないだろ。」と、あっけらかんと言《い》ったのは、音弥《おとや》だった。「べつに、いいじゃん。誰《だれ》も困《こま》ってないんだら。」
「よくないよ。」と、真由《まゆ》が口をへの字に曲《ま》げた。「気味《きみ》が悪《わる》いじゃない。」
「そうかあ?」
「ねえ、なに?」と、光太《こうた》が不思議《ふしぎ》そうに子どもたちの顔《かお》を見まわした。真由《まゆ》が光太《こうた》に全員《ぜんいん》を示《しめ》した。
「この中に、座敷童子《ざしきわらし》がいます。誰《だれ》でしょう?」
「座敷童子《ざしきわらし》? いるの?」
「いるの、実《じつ》は。」
光太《こうた》は満面《まんめん》に笑《え》みを浮《う》かべて飛《と》びあがった。
「すごい。ねえ、誰?」
そうか、すごい、という言《い》い方《かた》もあるか、と耕介《こうすけ》は思《おも》った。
「あんた、怖《こわ》くないの?」
梨花《りか》があきれたようにきくと、光太《こうた》は勢《いきお》いよく首《くび》を横《よこ》に振る。
「だって、座敷童子《ざしきわらし》はいい妖怪《ようかい》だもん。ほんとにいるの? 誰《だれ》?」と、嬉《うれ》しそうに言《い》って、光太《こうた》はすぐに、ふくれっつらをした。「こんなしか、いないよ。」
「みんな?」
「お姉《ねえ》ちゃんと、耕《こう》ちゃんと、音《おと》ちゃんと禅《ぜん》ちゃんと、真由《まゆ》ちゃん。」
「そうよねえ。それで、みんな、よねえ。」
梨花《りか》は大きく溜息《ためいき》をついて、座《すわ》っていた平《ひら》たい石の上に寝転《ねころ》がった。
「あーあ。もう、知《し》らない。あたしは降参《こうさん》。考《かんが》えると胃《い》が痛《いた》くなっちゃう。」
「痛《いた》いの? お姉《ねえ》ちゃんも、どく、飲《の》んだ?」
光太《こうた》の言葉《ことば》に、耕介《こうすけ》はどきりとした。
「どく?」
なんでもなさそうに光太《こうた》はうなずく。
「だったんだって。ゆうべ、おじさんたちが、おなかこわしたの。」
梨花《りか》が大きく顔《かお》をしかめて、光太《こうた》をこづいた。
「変《へん》な言《い》い方《かた》をしないの。食中毒《しょくちゅうどく》って言《い》うのよ。」
「だって、お母《かあ》さんが言《い》ったもん。」
口をとがらせる光太《こうた》と梨花《りか》を、耕介《こうすけ》は見比《みくら》べた。音弥《おとや》も禅《ぜん》も真由《まゆ》も、初《はじ》めて聞《き》いたように、ぽかんとしていた。
「なにか悪《わる》いものがはいっていたんじゃないの?」
「悪《わる》いものは入ってたのよ。食《た》べられない野菜《やさい》が入ってたんだって。」
「食《た》べられない野菜《やさい》?」
「なんだったかしら。聞《き》いたけど、忘《わす》れちゃった。毒《どく》のある野菜《やさい》よ。料理《りょうり》の中にそれが入っていて、あたっちゃったんだって。」
「なんで?」と、声《こえ》をあげたのは禅《ぜん》だった。「どうしてそんなのが入ってたの?」
「あたしにきかれたって、知《し》らないわよ。」
「毒《どく》のある野菜《やさい》って毒草《どくそう》のことでしょう? トリカブトとかジギタリスとか。」
梨花《りか》があきれたように禅《ぜん》を見た。禅《ぜん》は四年生のくせに妙《みょう》に博識《はくしき》で理屈《りくつ》っぽい。
「あんた、なんでそんな名前《なまえ》、知《し》ってんの?」
「本で読《よ》んだんだよ。それより、毒草《どくそう》がご飯《はん》の中に混《ま》じってたなんて、変《へん》じゃない。それって誰《だれ》かが入れたってこと?」
音弥《おとや》と真由《まゆ》がそろって声《こえ》をあげ、飛《と》びあがった。
「誰《だれ》かが、わざと毒《どく》を入れたのか?」
「お父《とう》さん、毒殺《どくさつ》されそうになったの?」
梨花《りか》があわてたように大きく両手《りょうて》を振《ふ》った。
「ちょっと待《ま》ってよ。誰《だれ》もそんな話《はなし》、してないじゃない。だから食《しょく》あたりだってば。」
「でも、毒草《どくそう》が入ってたって、そういうことでしょう?」と、禅《ぜん》は険《けわ》しい顔《かお》をする。「毒草《どくそう》なんて、どうやって手に入れるの? わざわざ探《さが》して手に入れて、それを誰《だれ》かが、こっそりご飯《はん》の中に混《ま》ぜたってことなんじゃないの?」
「だから、知《し》らないってば。」と、梨花《りか》は悲鳴《ひめい》じみた声《こえ》をあげた。「そんな、たいへんなことじゃないでしょ? そんなだったら、警察《けいさつ》が来《き》たはずだもん。お母《かあ》さんだって、他《ほか》のおとなだって、もっと大騒《おおさわ》ぎしてるわよ。」
だって、と不満《ふまん》そうに言《い》う禅《ぜん》たちを見やって、梨花《りか》は腰《こし》をあげた。
「いいわ。誰《だれ》かに聞《き》いてみる。きっと、三郎《さぶろう》にいさんなら、なにか知《し》ってると思《おも》うわ。」
[#改ページ]
4 バケツリレー
三郎《さぶろう》と師匠《ししょう》は、家《いえ》の裏手《うらて》のほうにいた。こまごまと建物《たてもの》が入《い》り組《く》んでいるあたりの屋根《やね》に梯子《はしご》をかけて、ふたりで雨樋《あまどい》をのぞきこんでいる。
「なにをしてるの?」
梨花《りか》が声《こえ》をかけると、屋根《やね》の上から三郎《さぶろう》と師匠《ししょう》が見おろしてきた。
「雨樋《あまどい》の掃除《そうじ》だよ。」と、ほがらかに答《さぶろう》えたのは三郎《さぶろう》で、「耕介《こうすけ》くんのところのお父《とう》さんは、もういいのかい。」ときいてきたのは師匠《ししょう》だった。
「はい。もう、すっかり。」
耕介《こうすけ》は答《こた》えて、ゆうべの事件《じけん》についてきこうとしたのだが、なにを言《い》うより先に、「そりゃあ、よかった。」と師匠《ししょう》がにっこり笑《わら》った。あんまりその笑顔《えがお》が屈託《くったく》なく明《あか》るくて、耕介《こうすけ》は次《つぎ》の言葉《ことば》に詰《つ》まってしまった。師匠《ししょう》はそんな耕介《こうすけ》のようすには気づかず、すぐに三郎《さぶろう》に目をやる。「ちっと水を通《とお》してみよう。」と言いながら、雨樋《あまどい》から泥《どろ》のようなものを掻《か》きだしてバケツに投《な》げこんだ。
師匠《ししょう》は庭《にわ》の掃除《そうじ》や手入れだけでなく、家《いえ》の修理《しゅうり》もする。三郎《さぶろう》もそういうことがめっぽう好《す》きで、家《いえ》の手入れをするために毎週末《まいしゅうまつ》、大学のある町から二|時間《じかん》も車を運転《うんてん》して戻《もど》ってくるらしい。やり方《かた》は全部《ぜんぶ》、この老人《ろうじん》から習《なら》うのだと言《い》っていた。だから三郎《さぶろう》が呼《よ》ぶところの「松《まつ》じい」は、三郎《さぶろう》にとっての「師匠《ししょう》」なのだった。
「雨樋《あまどい》って掃除《そうじ》するものなの?」
梯子《はしご》をおりてきた三郎《さぶろう》に、梨花《りか》が問《と》う。
「本当《ほんとう》は、したほうがいいんだよ。」と言《い》って三郎《さぶろう》はすぐそばの壁《かべ》の上のほうをさした。「しみが出てるだろ。雨樋《あまどい》が詰《つ》まってあふれた証拠《しょうこ》だよ。うちみたいな古《ふる》い家《いえ》は、壁《かべ》が漆喰《しっくい》や土《つち》でできてるから、あんなふうに漏《も》ると、すぐに傷《いた》んでしまうんだ。」
「へええ。」
ふたりのようすを見ていると、毒《どく》がどうのこうのという話《はなし》は、いかにも現実的《げんじつてき》ではなかった。本当《ほんとう》に毒《どく》が入っていたのなら、三郎《さぶろう》も師匠《ししょう》も、こんなになんでもない顔《かお》はしてないだろう。すっかり気勢《きせい》をそがれた格好《かっこう》で、子どもたちはしばらくそのあたりの渡《わた》り廊下《ろうか》や濡《ぬ》れ縁《えん》に座《すわ》って、ふたりが作業《さぎょう》をするのを見ていた。三郎《さぶろう》が水の入ったバケツを屋根《やね》の上に持《も》ってあがって、雨樋《あまどい》に流《なが》した。やっぱり水はあふれてしまった。三郎《さぶろう》と師匠《ししょう》は相談《そうだん》のすえ、壁《かべ》に沿《そ》って軒《のき》から地面《じめん》まで縦《たて》に通《とお》っている樋《とい》のまんなかを外《はず》した。軒《のき》に残《のこ》った部分《ぶぶん》と地面《じめん》に残《のこ》った部分《ぶぶん》の、どちらが詰《つ》まっているのかを確認《かくにん》して、軒《のき》から壁《かべ》の途中《とちゅう》まで残《のこ》ったほうに、すんなりした竹《たけ》を通《とお》した。上と下を三郎《さぶろう》と師匠《ししょう》が持《も》って、何度《なんど》か押《お》したり引《ひ》いたりすると、どっと汚《よご》れた水が落《お》ちてきた。下を受《う》け持《も》った師匠《ししょう》は泥水《どろみず》をかぶって、作業着《さぎょうぎ》をすっかり汚《よご》してしまった。
「やれやれ。やっぱり鳥《とり》の巣《す》だ。」
師匠《ししょう》は笑《わら》って、泥《どろ》と一緒《いっしょ》に肩《かた》にのった、たわしのようなものをつまんだ。
「鳥《とり》の巣《す》?」
駈《か》けよって見ると、小枝《こえだ》や枯《か》れた草《くさ》の茎《くき》や、そんなもののかたまりだった。そこに鳥《とり》の小さな羽毛《うもう》が混《ま》じっている。
「雛《ひな》はいないの?」
「とつくに巣立《すだ》ちしたんだろうさ。ほら、卵《たまご》の殻《から》も混《ま》じってる。」
ウズラの卵《たまご》を砕《くだ》いたようなかけらが混《ま》じっていた。すると、この巣《す》で卵《たまご》を産《う》んだ親鳥《おやどり》と、この巣《す》から巣立《すだ》ちした雛《ひな》がいたんだ、と耕介《こうすけ》は感心《かんしん》してしまった。
「雨樋《あまどい》は、鳥《とり》の巣《す》で詰《つ》まるの?」
「いろいろだな。単《たん》にゴミや枯《か》れ枝《えだ》のせいで詰《つ》まることもあるが、蜂《はち》の巣《す》で詰《つ》まっていたこともある。あのときは、ひどい目にあった。」
そう言《い》って、師匠《ししょう》は、おもしろそうに笑《わら》う。梯子《はしご》をおりてきた三郎《さぶろう》も、一緒《いっしょ》になって笑《わら》った。
「ぼくが三か所《しょ》、師匠《ししょう》が二か所《しょ》、刺《さ》された。」
たいへんだった、と言《い》いながら、三郎《さぶろう》も師匠《ししょう》もすごく愉快《ゆかい》な出来事《できごと》を思《おも》い出《だ》しているように見えた。
「おれはちょっと着替《きが》えてこよう。汗《あせ》が流《なが》れたのはいいが、えらい臭《にお》いだ。」
「行《い》っておいでよ。」と、三郎《さぶろう》は笑《わら》う。「ここに手伝《てつだ》いが六人いるから、あとはやっておくよ。」
うええ、とわざとらしく妙《みょう》な声《こえ》をあげたのは音弥《おとや》で、「手伝《てつだ》わせてくれるの?」と、無邪気《むじゃき》な歓声《かんせい》をあげたのは、光太《こうた》だった。
「こきつかってあげるよ。ぼくより君《きみ》たちのほうが早そうだからな。」
言《い》って、三郎《さぶろう》は身《み》をかがめ、渡《わた》り廊下《ろうか》の床下《ゆかした》をさした。廊下《ろうか》の床下《ゆかした》には壁《かべ》もなにもない。かなりの高《たか》さがあって、その向《む》こうに古《ふる》い井戸《いど》が見えていた。
「井戸《いど》で水を汲《く》んでバケツリレーをしてくれないか。君《きみ》たちなら最短《さいたん》ルートを行《い》ける。」
うん、と光太《こうた》が嬉《うれ》しそうな声《こえ》をあげて、まっさきに床下《ゆかした》にもぐりこみ、廊下《ろうか》の下をあっという間《ま》にくぐりぬけて井戸端《いどばた》に出た。耕介《こうすけ》と音弥《おとや》がそれに続《つづ》いた。床下《ゆかした》を通《とお》ってバケツで水を運《はこ》ぶなんて、なんだかおもしろい。
井戸《いど》は古《ふる》びた石で囲《かこ》ってあった。四方《しほう》に柱《はしら》が立って、上にこぢんまりとした屋根《やね》がのっている。井戸《いど》の真上《まうえ》には木でできた滑車《かっしゃ》が吊《つ》ってあった。かけられた縄《なわ》の両端《りょうはし》には木桶《きおけ》がついていて、きちんとそろえ、竹を編《あ》んで作《つく》った井戸《いど》の蓋《ふた》の上にのせてある。先を争《あらそ》って井戸端《いどばた》に駈《か》けつけたときだった。
「こんな家《いえ》、取《と》り壊《こわ》しちまえばいいんだ。」という、ぞんざいな声《こえ》が聞《き》こえた。子どもたちが振《ふ》り返《かえ》ると、母屋《おもや》のほうから渡《わた》り廊下《ろうか》へと、誰《だれ》かがやってくるようだった。
「あら、最近《さいきん》は流行《りゅうこう》なのよ、古民家《こみんか》って。」と、女の人の声《こえ》がした。
「だからって、古《ふる》いままはないよ。」と、これは三人目の声《こえ》だった。「ぼくなら全面的《ぜんめんてき》に手を入れて、もっと小《こ》ぎれいにするけどね。」
「壊《こわ》して材木《ざいもく》だけ、叩《たた》き売《う》ればいいんだ。結構《けっこう》な金額《きんがく》になるぞ。」
「そうだな、すこし建物《たてもの》を減《へ》らしたほうがいいかな。こう棟《むね》が立てこんでたんじゃ、暗《くら》くていけない。」
「庭木《にわき》も整理《せいり》したほうがいいんじゃない。あのへんの木を切《き》ったら、ここに広《ひろ》い駐車場《ちゅうしゃじょう》が取《と》れるわよ。」
背後《はいご》に向《む》かって言《い》いながら渡《わた》り廊下《ろうか》に姿《すがた》を現《あらわ》したのは、禅《ぜん》おばだった。指先《ゆびさき》で井戸《いど》の向《む》こうにこんもりしげった大木をさしていた。禅《ぜん》おばのうしろには、真由《まゆ》おじと、音弥《おとや》おじのお兄《にい》さん――梨花《りか》が呼《よ》ぶところの「弥太郎《やたろう》おじ」がいて、子どもたちに目を止《と》め、ぎょっとしたように足を止《と》めた。
「あら、こんなところで遊《あそ》んでたの?」と、禅《ぜん》おばが気まずそうに言《い》った。子どもたちもやっぱり気まずい思《おも》いで、うなずいた。
「あっちは、なんだっけ?」と、あわてたように渡《わた》り廊下《ろうか》の向《む》かいを指《ゆび》さしたのは真由《まゆ》おじだった。
「行《い》ってみよう。」と弥太郎《やたろう》おじが言《い》って、三人はそそくさと戻《もど》っていった。
「勝手《かって》なことを言《い》ってらあ。」音弥《おとや》が小声《こごえ》で言《い》った。「他人《たにん》の家《いえ》なのにさ。」
「ちょっと言《い》ってみただけよ、きっと。」と、梨花《りか》は言《い》って、禅《ぜん》と真由《まゆ》に目配《めくば》せしながら音弥《おとや》を肘《ひじ》でこづいた。
「でも、古《ふる》くて暗《くら》いのは本当《ほんとう》だもんね。」
梨花《りか》は体《からだ》を曲《ま》げ、渡《わた》り廊下《ろうか》の向《む》こうにしゃがみこんでいる三郎《さぶろう》を見る。三郎《さぶろう》は苦笑《くしょう》した。
「反論《はんろん》の余地《よち》なし、だね。友達《ともだち》が遊《あそ》びに来《く》ると例外《れいがい》なくお化《ば》け屋敷《やしき》みたいだって言《い》うよ。」
「陰《かげ》になるのは、たしかだけど、あの木はいい木だと思《おも》うな。」と、禅《ぜん》が力をこめて言《い》った。三郎《さぶろう》は、声《こえ》をあげて笑《わら》う。
「お気づかいなく。ぼくもそう思《おも》ってるからね。春《はる》に来《き》たら、禅《ぜん》のお母《かあ》さんも考《かんが》えを変《か》えると思《おも》うよ。」
「春《はる》?」
「桜《さくら》なんだ。樹齢《じゅれい》が二百年ぐらいでね、満開《まんかい》のときはすごいんだ。」
禅《ぜん》が感心《かんしん》したような声《こえ》をあげるのを聞《き》きながら、耕介《こうすけ》は井戸《いど》をさした。
「この蓋《ふた》を開《あ》けて、釣瓶《つるべ》で水を汲《く》めばいいんだね?」
耕介《こうすけ》が廊下《ろうか》ごしにきくと、三郎《さぶろう》はうなずいてバケツを転《ころ》がして寄越《よこ》す。
「ただし、落《お》ちないよう、気をつけて。」と、言《い》ってから三郎《さぶろう》は、にやっと妙《みょう》な笑《わら》い方《かた》をした。「蓋《ふた》を取《と》るとき、気をつけないと、手が出てくるよ。」
「ええっ。」と声《こえ》をあげて、耕介《こうすけ》たちは三郎《さぶろう》を振《ふ》り返《かえ》った。三郎《さぶろう》はしゃがみこんだまま、にやにやしている。
「なにかいるんだよ、その井戸《いど》には。ときどき手が出てきて引《ひ》っ張《ぱ》るってさ。」
「うそだい。」
光太《こうた》が声《こえ》をあげると、三郎《さぶろう》はさらにいたずらっぽく笑《わら》う。
「本当《ほんとう》だよ。ずぼらをして、釣瓶《つるべ》をおろしたままにしておくと、そいつが夜《よる》に桶《おけ》にのって、あがったりおりたして遊《あそ》ぶんだ。滑車《かっしゃ》の軋《きし》むキイキイいう音が聞《き》こえるんだよ。」
「それって、井戸《いど》を使《つか》うときには注意《ちゅうい》しろっていうことでしょう、要《よう》は。」
禅《ぜん》があきれたように溜息《ためいき》をつく。
「どうかな?」
「でもって使《つか》い終《お》わったらちゃんと蓋《ふた》をして、釣瓶《つるべ》をかたづけておきなさいっていう教訓《きょうくん》になってるんだよね。」
「なあるほど。」
音弥《おとや》が感心《かんしん》しながら、蓋《ふた》を開《あ》けた。のぞきこんだ井戸《いど》は、かなりの深《ふか》さがあった。何度《なんど》も釣瓶《つるべ》をあげおろしして水を汲《く》み、廊下《ろうか》の下をリレーして渡《わた》した。三郎《さぶろう》はそれを持《も》って屋根《やね》へあがり、雨樋《あまどい》に流《なが》すことをくりかえし、すっかり雨樋《あまどい》から落《お》ちてくる水がきれいになると、外《はず》した雨樋《あまどい》をもとに戻《もど》した。そのあいだに耕介《こうすけ》たちは井戸《いど》の蓋《ふた》をもとどおりにかぶせて、釣瓶《つるべ》をきちんと始末《しまつ》して蓋《ふた》の上にのせた。
「ありがとう。助《たす》かったよ。」
言《い》ってタオルで顔《かお》を拭《ぬぐ》う三郎《さぶろう》に、梨花《りか》は、あっと声《こえ》をあげた。
「ちがうの。あたしたち、三郎《さぶろう》にいさんに、こきつかわれるために来《き》たんじゃないんだから。」
「あれ? 感心《かんしん》な子どもたちが手伝《てつだ》いにきてくれたんじゃなかったのかい?」
「そう何度《なんど》も、感心《かんしん》な子どもなんてやってられないわ。」
梨花《りか》は笑《わら》いまじりに舌《した》を出した。一昨日《いっさくじつ》、本家《ほんけ》に来《き》て以来《いらい》、耕介《こうすけ》たちは何度《なんど》もこうして三郎《さぶろう》と師匠《ししょう》を手伝《てつだ》わされている。実《じつ》を言《い》えば、ふたりがてきぱきと仕事《しごと》をしているのを眺《なが》めていると、おもしろそうに見えて仕方《しかた》なくて、みんな手伝《てつだ》わせてほしくてたまらない気分《きぶん》になってしまうのだ。
「それより、ゆうべのことを聞《き》きたかったの。」
三郎《さぶろう》はきょとんと目を見開《みひら》いた。
「ゆうべって、おじさんたちが倒《たお》れた?」
「そう。お母《かあ》さんが、毒草《どくそう》にあたったって言《い》ってたんだけど。」
梨花《りか》が上目遣いに三郎《さぶろう》を見ると、三郎《さぶろう》はうなずいた。
「みたいだね。ドクゼリが入ってたんだ。お医者《いしゃ》さんが、吐《は》いたものの中にドクゼリが混《ま》じってるのを見つけてくれたらしいよ。おかげで、ちゃんと手当《てあて》ができて、大事《だいじ》にならずにすんだんだって。」
全員《ぜんいん》が互《たが》いに顔《かお》を見合《みあ》わせた。「ドクゼリ」という言葉《ことば》はいかにも恐《おそ》ろしげだった。
「ね、ドクゼリって危険《きけん》?」
真由《まゆ》の問《と》いに、三郎《さぶろう》は首《くび》を傾《かたむ》けた。
「そうだな、危険《きけん》と言《い》えるかもしれないね。植物《しょくぶつ》には、毒《どく》を持《も》っているものが意外《いがい》に多《おお》いものなんだけど、そんなに強《つよ》い毒《どく》じゃない。ちょっとでも食《た》べたら、たいへんなことになるような、そこまで危険《きけん》なものはあまりないんだよ。毒草《どくそう》のほとんどは、薬草《やくそう》としても使《つか》ったりするからね。量《りょう》を過《す》ごすと毒《どく》になるけど、ほんのすこしなら薬《くすり》になる、そういうものなんだ。けれど、ドクゼリは薬《くすり》にならない。塗《ぬ》り薬《ぐすり》として使《つか》う地方《ちほう》もあるらしいけとど、口にすることはないんだ。つまりそれだけ猛毒《もうどく》なんだね。」
「そんな危険《きけん》なものが、ご飯《はん》の中に混《ま》じってたの?」と、真由《まゆ》がきいた。「どうしておとなは、もっと大騒《おおさわ」ぎしないのかな。」
ああ、と三郎《さぶろう》は意《い》を得《え》たようにうなずいた。
「ときどきあることだからだよ。ドクゼリはね、セリに似《に》てるんだ。セリという野草《やそう》があってね、野山《のやま》に生《は》えてて食《た》べられるものを山菜《さんさい》っていうんだけど、セリはその山菜《さんさい》のひとつなんだ。いい匂《にお》いがして、田舎《いなか》の人は春《はる》によくつんで食《た》べるよ。ドクゼリは、そのセリによく似《に》てるんだよ。だから、ドクゼリっていうんだね。似《に》てるから、まちがえる人も多《おお》い。うっかりまちがえて、毒《どく》にあたってしまう事故《じこ》が、ときどきあるんだ。」
「じゃあ、誰《だれ》かがまちがえたの? ゆうべも?」
「じゃないかな。」
「そんな、ばかな。」
背後《はいご》から声《こえ》がした。まるで怒《おこ》ってでもいるような調子《ちょうし》の声《こえ》だった。全員《ぜんいん》が振《ふ》り返《かえ》ると、じっさいに険《けわ》しい顔《かお》をした師匠《ししょう》が、服《ふく》を着替《きが》えて立っていた。
「ゆうべの騒動《そうどう》は、そういうことだったのかね。」
ああ、と三郎《さぶろう》はうなずいた。
「そう。松《まつ》じいには言《い》ってなかったっけ。そうなんだ。どうも、ドクゼリだったらしいんだよ。」
言《い》って、三郎《さぶろう》は師匠《ししょう》をなだめるように笑《わら》った。
「誰《だれ》かがセリとまちがえて、つんできたんだろうね。」そう言《い》ってから、子どもたちを見渡《みわた》す。「運《うん》がよかったよ。ドクゼリは、季節《きせつ》によって毒《どく》の量《りょう》が変《か》わるんだ。春《はる》や秋《あき》が強《つよ》くて、夏《なつ》には弱《よわ》くなるんだってさ。この時期《じき》だと、葉《は》っぱより根《ね》のほうが危険《きけん》なんだ。うっかりつんできたのが葉《は》っぱだったから、大事《だいじ》にならずにすんだんだね。きっと量《りょう》も少《すく》なかったんだろうけど。」
「そんなばかな話《はなし》は、ありゃあせん。」師匠《ししょう》は語気《ごき》を強《つよ》くした。「今《いま》の時期《じき》、なんだってセリをつんだりするんだ。」
そっか、と禅《ぜん》が心得《こころえ》たようにうなずいた。
「春《はる》の七草《ななくさ》だもんね。セリって夏《なつ》にも食《た》べたりするの?」
「べつに夏《なつ》だと食《た》べられない、ということはないよ。たしかに普通《ふつう》は春先《はるさき》に若葉《わかば》を食《た》べるものだし、夏《なつ》になるとトウが立つから、あまり食《た》べないものだけど。きっと、ちょっとした匂《にお》いつけのつもりで、つんできたんじゃないかな。」
「それにしたって変《へん》だろう。この時期《じき》に、まちがえてオオゼリをつむ人間《にんげん》なんて、いるもんか。第一《だいいち》、このへんでオオゼリが生えているのは、沼《ぬま》だけじゃないか。沼《ぬま》でセリをつむやつなんて、いるはずがない。」
耕介《こうすけ》も他《ほか》の子どもたちも、師匠《ししょう》の剣幕《けんまく》におどろいてしまった。梨花《りか》が口を挟《はさ》んだ。
「オオゼリってなに? ドクゼリのこと? セリに似《に》てるの? 似《に》てないの?」
三郎《さぶろう」は困《こま》ったように笑《わら》う。
「オオゼリはドクゼリの別名《べつめい》だよ。さっきも言《い》ったように、ドクゼリはセリに似《に》てるんだよ。ただし、春《はる》に芽吹《めぶ》いたばかりの葉《は》っぱがね。若葉《わかば》はよく似《に》ているけど、注意《ちゅうい》すれば、ちがいは分《わ》かる。山菜《さんさい》に慣《な》れた人なら、まちがえるようなことはないよ。ついうっかり、ということもあるけど。」
三郎《さぶろう》は言《い》って、憤然《ふんぜん》とした表情《ひょうじょう》の師匠《ししょう》の顔《かお》をちらりと見た。
「そうだね、ただ、ドクゼリはセリよりうんと大きくなるんだ。今頃《いまごろ》は、ぼくの胸《むね》のあたりまで育《そだ》ってる。セリよりもだんぜん大きいんだ。だから別名《べつめい》をオオゼリっていうんだよ。茎《くき》だって太《ふと》くて、節《ふし》がある。今《いま》の季節《きせつ》だと、オオゼリはセリとは別物《べつもの》に見えるよ。」
「じゃあ、まちがえないわよね、ふつう。」
でも、と三郎《さぶろう》は控《ひか》えめに言《い》った。
「ぼくらみたいな田舎《いなか》の人間《にんげん》にとっては、常識《じょうしき》だけど。こういう言《い》い方《かた》は、すごく失礼《しつれい》だと思《おも》うけど、今《いま》は都会《とかい》からお客《きゃく》さんが来《き》ているだろう?」
梨花《りか》は心外《しんがい》そうに三郎《さぶろう》をにらんだ。
「それ、あたしたちの親《おや》の誰《だれ》かが、まちがえたってこと?」
「断言《だんげん》するわけじゃないけどね。残念《ざんねん》ながら師匠《ししょう》の言《い》うとおり、今《いま》の時期《じき》、ぼくらにとってセリとドクゼリはまちがえようがないんだ。しかも、このあたりじゃドクゼリは裏《うら》の沼《ぬま》にしか生えない。近郊《きんこう》の人はみんなそれを知《し》ってる。だから、そもそも沼《ぬま》でセリをつもうなんて思《おも》うはずがないんだ。万《まん》が一《いち》、ドクゼリとまちがえてしまったら、たいへんなんだから。」
言《い》ってから、三郎《さぶろう》は、なだめるようにやんわり笑《わら》った。
「きっと誰《だれ》かが沼《ぬま》に行《い》ってみて、セリを見つけたんだと思《おも》うんだ。ちょっぴりつんで料理《りょうり》に混《ま》ぜれば、いい匂《にお》いがすると思《おも》ったんじゃないかな。そのとき、何本《なんぼん》かドクゼリを混《ま》ぜてしまった。きっと、育《そだ》ちのよくないひょろひょろしたドクゼリがすぐ近《ちか》くにあったんだろうね。セリとドクゼリは迷惑《めいわく》なことに、同《おな》じ場所《ばしょ》に生えるんだよ。」
「いったい、どうしたんだ。」
師匠《ししょう》は、三郎《さぶろう》に腹《はら》を立てたみたいだった。
「どうして、そんなありもしないことを熱心《ねっしん》に言《い》い張《は》るんだね。お前《まえ》さんだって分《わ》かっているだろう。これは、たたり[#「たたり」に傍点]だ。」
子どもたちは、なかよくぽかんと口を開《あ》けた。
「師匠《ししょう》。そういうことは。」
「どうして隠《かく》す。今時《いまどき》のやつは笑《わら》うけどな。笑《わら》いごとですむんだったら、この子たちがこうして家《いえ》に集《あつ》まる必要《ひつよう》なんて、ないだろう。」
「なあに?」と、梨花《りか》がおあいそ笑《わら》いを浮《う》かべて三郎《さぶろう》と師匠《ししょう》を見比《みくら》べた。「あたしたち、大伯父《おおおじ》さんのお見舞《みま》いに来《き》たのよ? 大伯父《おおおじ》さんが会《あ》いたいって言《い》って招待《しょうたい》してくれたの。それとドクゼリがなにか関係《かんけい》あるの?」
耕介《こうすけ》たちもてんでにうなずいた。少《すく》なくとも、本家《ほんけ》に来《き》た最初《さいしょ》の日、子どもたち同士《どうし》で話《はな》した限《かぎ》り、耕介《こうすけ》たちは、病気《びょうき》の大伯父《おおおじ》さんが会《あ》いたいと言《い》ってきたから、見舞《みま》いにやってきたのだ。
三郎《さぶろう》は気《き》まずそうに視線《しせん》を逸《そ》らした。師匠《ししょう》はいまだに怒《おこ》ったふうで、頑健《がんけん》そうな腕《うで》を組《く》んで仁王立《におうだ》ちになっている。
「師匠《ししょう》?」
梨花《りか》が問《と》うと、師匠《ししょう》は、ぐい、と麦《むぎ》わら帽子《ぼうし》をかぶりなおした。
「まちがえたやつなんか、いやしない。ドクゼリは降《ふ》ってわいたんだ。そうでなきゃ、同《おな》じものを喰《く》ったのに、跡継《あとつ》ぎだけが倒《たお》れるはずなんかないだろう。ゆうべから、変《へん》だと思《おも》ってたんだ。」
「跡継《あとつ》ぎって?」
梨花《りか》がきいたが、三郎《さぶろう》も師匠《ししょう》も答《こた》えてくれそうになかった。
「まあ、おっかさんたちは心得《こころえ》てるかもしれないけどな。」と、師匠《ししょう》はようやくもとの気さくな顔《かお》に戻《もど》ってちょっとだけ笑《わら》った。「だが、これからも、そういうことがあるかもしれない。じゅうぶんに気をつけなよ。くれぐれも、子どもだけで沼《ぬま》に行《い》くんじゃないぞ。なにがあっても、ひとりで沼《ぬま》に近《ちか》づいたらだめだ。」
いいな、と念《ねん》を押《お》して、師匠《ししょう》は大股《おおまた》に表《おもて》のほうへと歩《ある》いていった。耕介《こうすけ》たちはあっけにとられて顔《かお》を見合《みあ》わせ、しばらく居心地《いごこち》の悪《わる》いものを感《かん》じて黙《だま》りこんでいた。
[#改ページ]
5 行者沼《ぎょうじゃぬま》
しばらくしてから、三郎《さぶろう》が息《いき》を吐《は》いて沈黙《ちんもく》を破《やぶ》った。三郎《さぶろう》は立ちあがり、ズボンの土《つち》を払《はら》った。
「沼《ぬま》に行《い》ってみようか。」
でも、と梨花《りか》が困《こま》ったように、周囲《しゅうい》を見まわす。
「ぼくが一緒《いっしょ》だから、だいじょうぶだよ。」と、三郎《さぶろう》は笑《わら》ってから、ごく真剣《しんけん》な顔《かお》をした。「行《い》くな、って言《い》われれば、行《い》ってみたいのが人情《にんじょう》だからね。特《とく》に君《きみ》たちの年頃《としごろ》はそう。禁止《きんし》されて行《い》かないでいられる子どもなんていないよ。だから、連《つ》れていってあげる。そのかわり、子どもだけで沼《ぬま》に行《い》かないと約束《やくそく》してほしいんだ。」
「ええと。うん。分《わ》かった。」
「ただし、ぼくにくっついていること。全員《ぜんいん》で固《かた》まってないといけないよ。沼《ぬま》には、危険《きけん》なところが、いっぱいあるんだ。」
「了解《りょうかい》。それも約束《やくそく》ね?」
「約束《やくそく》だ。」
全員《ぜんいん》で、約束《やくそく》を守《まも》ります、と誓《ちか》って、ぞろぞろと庭《にわ》をぬけた。耕介《こうすけ》にとって意外《いがい》に思《おも》われることに、本家《ほんけ》の庭《にわ》には塀《へい》がない。庭《にわ》の向《む》こうがそのまま裏《うら》の山や、隣《となり》の原《はら》っぱに続《つづ》いているのだった。
三郎《さぶろう》は、庭《にわ》の片隅《かたすみ》から涼《すず》しい林の中に出た。だらだらと登《のぼ》る林の中の坂道《さかみち》を行《い》くと、いくらもしないうちに木立《こだち》がとぎれた。その向《む》こうは陰気《いんき》な感《かん》じの原《はら》っぱだった。山の裾野《すその》に広《ひろ》がる、背《せ》の高《たか》い雑草《ざっそう》が一面《いちめん》に生《お》い茂《しげ》った窪地《くぼち》で、アメーバみたいな形《かたち》の周囲《しゅうい》を、すこし小高《こだか》くなった土手道《どてみち》が取《と》り囲《かこ》んでいる。ちょうど林から出た先のほうには、お地蔵《じぞう》さんがたっていた。ずいぶん古《ふる》いお地蔵《じぞう》さまで、隣《となり》には壊《こわ》れてしまったお地蔵《じぞう》さんの名残《なごり》なのか、丸《まる》みをおびた石のかけらが、いくつも転《ころ》がっている。
「いいかい?」
三郎《さぶろう》はお地蔵《じぞう》さんに手を合《あ》わせてから、子どもたちを振《ふ》り返《かえ》った。
「この道《みち》を、このお地蔵《じぞう》さんより先に行《い》ってはいけない。ずっと原《はら》っぱが続いているように見えるけど、すぐ先がもう沼《ぬま》の《きし》なんだ。」
「えっ。」と梨花《りか》が声《こえ》をあげる。「これが、沼《ぬま》なの?」
「そう。原《はら》っぱにしか見えないだろう? でも、ここに生えてるのは、全部《ぜんぶ》|水辺《みずべ》に生える草で、地面《じめん》に見えるのは、草の根《ね》がからまったり、枯《か》れた草が倒《たお》れて重《かさ》なりあって沼《ぬま》の表面《ひょうめん》に浮《う》いてるだけのものなんだ。水の上に、カーペットを浮《う》かべているような感《かん》じかな。だからうかつに踏《ふ》みこむと、足の付《つ》け根《ね》まで沈《しず》んでぬけだせなくなってしまう。」
「怖《こわ》いのね。」
「この先に行《い》かなければ、だいじょうぶだよ。土手の上は安全《あんぜん》だから。でも、うっかり落《お》ちないように気をつけて。」
そう言《い》って、三郎《さぶろう》はお地蔵《じぞう》さんの脇《わき》から、土手道《どてみち》へと登《のぼ》っていった。耕介《こうすけ》たちもそのあとに続《つづ》く。土手は、おとなの背丈《せたけ》ほどの高《たか》さで、上にはぎりぎり車が通《とお》れそうなくらいの道《みち》があった。道《みち》の両端《りょうはし》には夏草《なつくさ》が生《お》いしげっていたけれども、その中央《ちゅうおう》に小道《こみち》が続《つづ》いている。土手道《どてみち》に登《のぼ》って見おろすと、たしかに原《はら》っぱの中程《なかほど》には、暗《くら》い色《いろ》の水面《すいめん》がのぞいていた。緑《みどり》とも青ともつかない、にごった色《いろ》で、とてもじゃないけど、泳《およ》いでみたいとは思《おも》えなかった。
「本当《ほんとう》に沼《ぬま》なんだ。これ、深《ふか》いの?」と、真由《まゆ》がきいた。
「という話《はなし》だよ。深《ふか》いだけじゃなくて、水草《みずくさ》がすごいから、水に入ると浮《う》いてくることができないんだ。」
言《い》いながら、三郎《さぶろう》は土手道《どてみち》を進《すす》む。いくらも行《い》かないところに、沼《ぬま》とは反対側《はんたいがわ》の斜面《しゃめん》に向《む》かって張《は》りだした広場《ひろば》があって、そこにはお堂《どう》のような祠《ほこら》がひとつ、建《た》っていた。三郎《さぶろう》は軽《かる》く手を合《あ》わせて、お堂《どう》の前《まえ》の縁側《えんがわ》に座《すわ》る。子どもたちがそれにならって座《すわ》ると、ちょうど沼《ぬま》を一望《いちぼう》できた。
「すごく静《しず》かで、気味《きみ》が悪《わる》い。」
真由《まゆ》がぽつんとそう言《い》う。じっさい、鳥《とり》の声《こえ》も蝉《せみ》の声《こえ》も、不思議《ふしぎ》なくらい、しなかった。これだけ水があるのに、蛙《かえる》の声《こえ》もしない。
「うん。ここはいつも静《しず》かだよ。薄気味《うすきみ》が悪《わる》い場所《ばしょ》だから近所《きんじょ》の子どもは近《ちか》づかない。楽《たの》しいことは、なにもないからね。危険《きけん》で泳《およ》ぐことはできないし、これだけ草が生えてると、魚釣《さかなつ》りもできない。」
「ドクゼリ、ある?」と、光太《こうた》がきいた。
「いや。ここから見えるところには、生えてない。ドクゼリは猛毒《もうどく》を持っているだろ。だから見つけしだい、ぬいてしまうんだ。昔《むかし》はあちこちに生えていたけど、今《いま》はもう、このへんじゃ生えているのはこの沼《ぬま》だけだ。それも、手の届《とど》く範囲《はんい》のドクゼリはみんな刈《か》ってしまうから、岸《きし》からすこし離《はな》れたところに残《のこ》っているだけだね。」
禅《ぜん》が不思議《ふしぎ》そうに首《くび》を傾《かたむ》けた。
「それ、変《へん》じゃない?」
「変?」
「うん。だって、手の届《とど》く範囲《はんい》にドクゼリはないんでしょう? なのに誰《だれ》かがドクゼリをセリとまぢかえて取《と》ったの?」
「そういうことになるね。」
「てことは、わざわざ危険《きけん》なところに入りこんで、つんでこないといけないんじゃないかな。そんなこと、うっかりする人っている?」
「そのとおりだ。不思議《ふしぎ》だね。」
三郎《さぶろう》は、すこしも不思議《ふしぎ》だとは思《おも》ってない口調《くちょう》で言《い》った。
梨花《りか》が納得《なっとく》したように、大きくうなずいた。
「師匠《ししょう》の言《い》うとおりね。そんな、ばかな、よ。ここでドクゼリをつむ人なんて、いるはずないわ。」
梨花《りか》が断言《だんげん》すると、光太《こうた》が不思議《ふしぎ》そうに梨花《りか》を見あげた。
「でも、だったらどうして、ご飯《はん》にドクゼリが入ってたの?」
「事件《じけん》よ。誰《だれ》かがわざとやったの。」
三郎《さぶろう》がくすりと笑《わら》った。
「ちがうよ。師匠《ししょう》も言《い》ってただろう? ドクゼリは降《ふ》ってわいたんだよ。」
「まさか。ありえないでしょ。」
「あるんだ。だってこれは、たたりなんだから。」
「たたりなんて、あるわけないじゃない。」
「うん。あるわけないよねえ。」と、三郎《さぶろう》は言《い》って、すこし憂鬱《ゆううつ》そうな顔《かお》で沼《ぬま》を見た。「でも、そうなんだよ。」
耕介《こうすけ》たちは、どう言《い》っていいのか分《わ》からずに、三郎《さぶろう》の横顔《よこがお》を見ていた。三郎《さぶろう》はちょっとのあいだ、言葉《ことば》を探《さがす》すように黙《だま》って沼《ぬま》を眺《なが》めてから、口を開《ひら》いた。
「この沼《ぬま》はね、行者沼《ぎょうじゃぬま》、っていうんだ。」
沈黙《ちんもく》がとぎれてホッとしたように、梨花《りか》が問《と》い返《かえ》す。
「行者《ぎょうじゃ》?」
「修行《しゅぎょう》をしているお坊《ぼう》さんのこと。山に入って、いろんな修行《しゅぎょう》をして、不思議《ふしぎ》な力を身《み》につけて、病気《びょうき》を治《なお》したり困《こま》った人を助《たす》けたりして旅《たび》をしている人がいたんだよ。昔《むかし》の話《はなし》だけどね。」
「へええ。」
「その行者《ぎょうじゃ》が、この沼《ぬま》で溺《おぼ》れたことがあるんだって。以来《いらい》、その行者《ぎょうじゃ》の無念《むねん》が人を引《ひ》くんだ。沼《ぬま》で泳《およ》ぐ子どもや、近所《きんじょ》を通《とお》りがかった人の足を引《ひ》っ張《ぱ》って次々《つぎつぎ》に事故《じこ》が続《つづ》いたらしいんだよ。それでこの祠《ほこら》に行者《ぎょうじゃ》をまつってあるんだ。」
三郎《さぶろう》が背後《はいご》を示《しめ》した。耕介《こうすけ》たちはいっせいにうしろのお堂《どう》を振《ふ》り返《かえ》ったが、古《ふる》くてさびれた建物《たてもの》があるだけで、行者《ぎょうじゃ》を示《しめ》すものなんて、なにもなかった。
「それで、行者沼《ぎょうじゃぬま》っていうんだね。」
禅《ぜん》が言《い》うと、三郎《さぶろう》はうなずいた。
「そうなんだ。少《すく》なくとも、ぼくはそういうふうに習《なら》った。だけど、別《べつ》のことを言《い》う人もいる。単《たん》なる言《い》い伝《つた》えなんだけど。」
三郎《さぶろう》は言《い》って、声《こえ》を低《ひく》めた。
「昔《むかし》、旅《たび》の行者《ぎょうじゃ》がやってきたんだ。その頃《ころ》、うちはまだ貧《まず》しかった。そこに行者《ぎょうじゃ》がやってきて、具合《ぐあい》が悪《わる》いから泊《と》めてくれと言《い》ったんだ。」
けれども、その頃《ころ》の本家《ほんけ》は本当《ほんとう》に貧《まず》しかった。あんな立派《りっぱ》な家《いえ》もなくて、小さな掘《ほ》っ建《た》て小屋《ごや》に家族《かぞく》|全部《ぜんぶ》で住《す》んでいた。沼《ぬま》はそばにあっても、田圃《たんぼ》も畑《はたけ》もろくにない。本家《ほんけ》の家族《かぞく》は食《た》べるだけで精一杯《せいいっぱい》だった。お客《きゃく》を泊《と》めても、寝《ね》かせる場所《ばしょ》もない。食《た》べさせるものだってなかった。それで本家《ほんけ》の主人《しゅじん》はそう言《い》って断《ことわ》ろうとした。すると、その行者《ぎょうじゃ》は、懐《ふところ》からどっさりお金の入った包《つつ》みを取《と》りだしてみせて、お金《かね》ならあるから泊《と》めてくれ、と言《い》ったのだ。
「びっくりするような大金だった。それで欲《よく》に目がくらんだんだね。家《いえ》の連中《れんちゅう》は話《はな》し合《あ》ったすえ、この沼《ぬま》にやってきてドクゼリをつんで、行者《ぎょうじゃ》にそれを食《た》べさせたんだ。」
耕介《こうすけ》たちは息《いき》を呑《の》んだ。
「殺《ころ》したの? あたしちのご先祖《せんぞ》が?」
梨花《りか》がおそるおそる問《と》う。三郎《さぶろう》は困《こま》ったように笑《わら》った。
「うん。そういうことになってるよ。あくまでも、昔話《むかしばなし》の中では、だけど。行者《ぎょうじゃ》は死《し》んで、家《いえ》の者《もの》は死体《したい》をこの沼《ぬま》に沈《しず》めて金を奪《うば》った。それを元手《もとで》にして金持《かねも》ちになったんだってさ。だから、このへんではドクゼリのことを『行者殺《ぎょうじゃごろ》し』っていうんだよ。」
「それで、たたり、なの? 殺《ころ》された行者《ぎょうじゃ》のたたり?」
「そういうことになってるね。うちは金持《かねも》ちになったけど、不思議《ふしぎ》なことに、それ以来《いらい》、子どもが育《そだ》たない。そもそも生まれないし、生まれても小さいうちに死《し》んでしまうんだ。だからいつでも、跡継《あとつ》ぎに困《こま》ってる。それは殺《ころ》された行者《ぎょうじゃ》の復讐《ふくしゅう》なんだよ。」
「だとしたら自業自得《じごうじとく》って言《い》うのよ。強盗殺人《ごうとうさつじん》じゃない。」
まったくだ、と三郎《さぶろう」は笑《わら》った。
「この昔話《むかしばなし》が本当《ほんとう》か嘘《うそ》かは知《し》らないよ。べつに自分《じぶん》を庇《かば》うわけじゃないけど、こういう伝説《でんせつ》が、それも、すごくよく似《に》た話《はなし》が、日本|全国《ぜんこく》にいっぱいあることは言《い》っておかないと公平《こうへい》じゃないと思《おも》う。たたりなんてものが本当《ほんとう》にあるかどうかだって、ぼくは知《し」らない。」
でも、と三郎《さぶろう》は声《こえ》を落《お》とした。
「けれども、本当《ほんとう》に家《いえ》では子供が生まれないし、生まれても育《そだ》たない。」
「三郎《さぶろう》にいさんがいるじゃない。一郎《いちろう》おじさんも、次郎《じろう》おじさんだって。」
三郎《さぶろう》は首《くび》を横《よこ》に振《ふ》った。
「兄《にい》さんたちは、この家《いえ》で生まれたわけじゃないんだ。生まれたのは別《べつ》の家《いえ》だよ。父《とう》さんがこの家《いえ》を継《つ》ぐことになって、それでここにやってきたんだ。ぼくはこの家《いえ》で生まれたけど、引《ひ》っ越《こ》してきたときには、もう母《かあ》さんのお腹《なか》の中にいたんだ。じきに生まれる予定《よてい》だったし、じっさいに越《こ》してきてすぐ、予定《よてい》より早く生まれた。早産《そうざん》だったんだよ。昔《むかし》なら早すぎて死《し》んでいたかもしれない。でも、今《いま》は医学《いがく》が進《すす》んでいるからね。かろうじて、だいじょうぶだったわけだけど。」
言《い》って、三郎《さぶろう》は深《ふか》い溜息《ためいき》を両膝《りょうひざ》のあいだに落《お》とした。
「とりあえずぼくは、無事《ぶじ》に育《そだ》った。一郎《いちろう》|兄《にい》さんも、次郎《じろう》|兄《にい》さんも大きくなった。やがて一郎《いちろう》|兄《にい》さんは、お嫁《よめ》さんをもらった。すぐに子どもができたけど、生まれる前《まえ》に死《し》んでしまった。ふたり目《め》もそうだった。やっと三人|目《め》が生まれたけど、その子は三|歳《さい》になってすぐ、沼《ぬま》に落《お》ちて死《し》んでしまった。」
「この沼《ぬま》?」
「そう。お嫁《よめ》さんが見ている目《め》の前《まえ》で、沼《ぬま》に落《お》ちてしまったんだ。助《たす》けようとしたけど、お嫁《よめ》さんも足を取《と》られて身動《みうご》きができなかった。目《め》の前《まえ》で子どもは沈《しず》んでしまった。あとで近所《きんじょ》の人《ひと》が集《あつ》まって総出《そうで》で草を刈《か》り払《はら》って沼《ぬま》を浚《さら》ったけど、とうとう死体《したい》はみつかっていない。だめなんだ、この沼《ぬま》は。死体《したい》が浮《う》いてこないんだ。」
耕介《こうすけ》は、おそるおそる沼《ぬま》を見渡《みわた》した。沼《ぬま》のどこかに、小さな子どもがいまだに沈《しず》んでいるのだ、と思《おも》った。たぶん、ぎっしりと生えてからみあった水草や、水草の根《ね》に包《つつ》みこまれて。
「そういうふうに、沼《ぬま》で死《し》んだ子をは多《おお》いらしいよ。だから、お地蔵《じぞう》さんがあったろう?」
「あれは、沼《ぬま》で死《し》んだ子を供養《くよう》するためのものなの?」
「そうなんだ。一郎《いちろう》|兄《にい》さんのお嫁《よめ》さんは、それがショックで、離婚《りこん》して実家《じっか》に帰《かえ》ってしまった。次郎《じろう》|兄《にい》さんもそう。ずっと子どもができなくて、やっと授《さず》かった子どもは生まれる前《まえ》に死《し》んでしまって、それきりだ。だから次郎《じろう》|兄《にい》さんにも子どもはいない。」
三郎《さぶろう》は言《い》って、すこしのあいだ言葉《ことば》をとぎれさせた。
「ふつう、家《いえ》は長男《ちょうなん》が継《つ》ぐ。こういう田舎《いなか》の古《ふる》い家《いえ》は、そういうものなんだ。本当《ほんとう》だったら家《いえ》を継《つ》ぐのは一郎《いちろう》|兄《にい》さんだ。けれども兄《にい》さんには子どもがいない。お嫁《よめ》さんも逃《に》げてしまって、この先も子どもを持《も》てるかどうか分《わ》からない。すると、一郎《いちろう》|兄《にい》さんが家《いえ》を継《つ》いでも、兄《にい》さんが死《し》んだあとに家《いえ》を継《つ》ぐ者《もの》が誰《だれ》もいないということになる。つまり、兄《にい》さんの代《だい》で、この家《いえ》は終《お》わりになることが、もう分《わ》かり切《き》っているんだ。」
「じゃあ、どうするの?」
「だからね、みんなの両親《りょうしん》が呼《よ》ばれたわけさ。」
「お父《とう》さんが継《つ》ぐの?」
梨花《りか》はきょとんとした。
「そういうこと。親戚《しんせき》には無事《ぶじ》に生まれた子どもがいる。みんな、こんなに元気《げんき》で、大きくなってる。だから、すでに子どものいる誰《だれ》かに継《つ》がせるんだ。うちは、代々《だいだい》そうやってきたんだよ。」
「でも、三郎《さぶろう》にいさんのお嫁《よめ》さんは、元気《げんき》な赤ちゃんを産《う》むかもしれないじゃない。」
「そうはならない。きっとね。」
「でも。」
「松《まつ》じい、つまり、師匠《ししょう》もそうなんだよ。」
三郎《さぶろう》は微笑《ほほえ》んだ。やっぱり困《こま》ったような笑《え》みだった。
「師匠《ししょう》は本家《ほんけ》の息子《むすこ》なんだ。父《とう》さんが家《いえ》を継《つ》ぐ前《まえ》の淵屋《ふちや》の主人《しゅじん》、つまり先代《せんだい》だね、その次男《じなん》。一郎《いちろう》|兄《にい》さんと同《おな》じように、結婚《けっこん》したけど子どもが生まれなくて、生まれてもみんな死《し》んでしまって、お嫁《よめ》さんを離縁《りえん》して新《あたら》しいお嫁《よめ》さんをもらったけど、それでも子どもは生まれなかった。先代《せんだい》は、すでに一郎《いちろう》|兄《にい》さんと次郎《じろう》|兄《にい》さんのいる父《とう》さんを跡継《あとつ》ぎにしたんだ。」
「それが大伯父《おおおじ》さん?」
「そう。師匠《ししょう》の兄弟《きょうだい》で、子どものいる人はひとりもいない。父《とう》さんが跡取《あとと》りとして家《いえ》に入ったとき、みんな家《いえ》を明《あ》け渡《わた》して出ていって、それきり疎遠《そえん》になって今《いま》では消息《しょうそく》も分《わ》からない。きっとほとんどの人が死《し》んでしまったんだろうな。」
みんなもう、いい年だからね、と三郎《さぶろう》は言《い》った。
「ただ、師匠《ししょう》だけは父《とう》さんに頼《たの》みこんで家《いえ》に残《のこ》った。師匠《ししょう》は、この家《いえ》がすごく好《す》きだったんだよ。家《いえ》を出ていくのが決まりだけど、家《いえ》を離《はな》れたくなかった。だから庭師《にわし》でも下働《したばたら》きでもなんでもするって約束《やくそく》で、ここに残《のこ》ったんだ。師匠《ししょう》は家《いえ》を明《あ》けて使用人《しようにん》の使《つか》ってた別棟《べつむね》に移《うつ》った。そこに、父《とう》さんが入ったんだよ。」
「養子《ようし》になったの? おとなでも養子《ようし》になれるの?」
「なれるんだよ。役所《やくしょ》に届《とど》ければいいんだ。」
「じゃあ、あたしたちの親《おや》も養子《ようし》になるのね? そして跡《あと》を継《つ》ぐの?」
「うん。そうなんだ。誰《だれ》を跡継《あとつ》ぎにするか決《き》めるために、父《とう》さんはみんなを呼《よ》んだんだよ。」
音弥《おとや》が首《くび》をかしげた。
「でも、卓朗《たくろう》おじさんは?」と、言《い》ってから、耕介《こうすけ》たちのほうを見る。「弥太郎《やたろう》おじさん。おれのおじさんなんだ。ええと、だから耕《こう》ちゃんのおじさんでもあるんだよ。おれと耕《こう》ちゃんは、従兄弟《いとこ》|同士《どうし》なんだから。」
へえ、と耕介《こうすけ》はつぶやいた。母親《ははおや》が死《し》んだせいで耕介《こうすけ》は母方《ははかた》の親戚《しんせき》と、まったく交流《こうりゅう》がなかった。だから、ここに来《き》て紹介《しょうかい》されて初《はじ》めて、母親《ははおや》には兄《あに》がふたりいて、音弥《おとや》という従兄弟《いとこ》がいるんだと知《し》った。
「弥太郎《やたろう》おじさんには、子どもがいないんだ。奥《おく》さんは、いたんだけど離婚《りこん》しちゃった。」
「きっと、お盃《さかずき》を交《か》わしていたんだろうね。」と、三郎《さぶろう》は言った。
「お盃《さかずき》?」
梨花《りか》がきいた。耕介《こうすけ》は、あっ、と思《おも》った。
「お母《かあ》さんの仏壇《ぶつだん》に、盃《さかずき》の入った桐《きり》の箱《はこ》が供《そな》えてあったよ。なんでなのか分《わ》からないけど、ここに来《く》るとき、お父《とう》さんはそれを持《も》ってきてた。」
「ああ、それだね。将来《しょうらい》、家《いえ》を継《つ》ぐ可能性《かのうせい》のある人はね、結婚《けっこん》するとき、跡継《あとつ》ぎに決《き》まったらちゃんと家《いえ》を継《つ》ぎます、って約束《やくそく》させられるんだよ。そのときに、かための盃《さかずき》を交《か》わすんだ。」
「そうだったんだ。」
「弥太郎《やたろう》おじさんも、きっと約束《やくそく》をしてたんだろうね。子どもがいないから家《いえ》は継《つ》げないけど、お盃《さかずき》を交《か》わした人は、誰《だれ》にするか相談《そうだん》するとき、発言権《はつげんけん》があるんだ。それは一郎《いちろう》|兄《にい》さんも、次郎《じろう》|兄《にいさん》も同《おな》じだけどね。」
「三郎《さぶろう》にいさんには、ないの?」
「呼《よ》ばれないから、ないんだろうね。ぼくはまだ大学生で、一人前《いちにんまえ》のおとなとは言《い》えないからなあ。」
「それでみんな、毎日《まいにち》、表座敷《おもてざしき》に集《あつ》まって相談《そうだん》してたんだね。」
「うん。誰《だれ》にするのか、なかなか意見《いけん》がまとまらないらしいね。自分《じぶん》がやりたい、と特《とく》に言《い》いだす人もいないようだから。」
「みんな、本家《ほんけ》を継《つ》ぐのをいやがってるの?」
禅《ぜん》が意外《いがい》そうにきいた。
「どうだろう。本当《ほんとう》は継《つ》ぎたいけど、自分《じぶん》からは言《《い》いだせないのかもな。実《じつ》のところ、辞退《じたい》した人もいたらしいけど、みんなで止《と》めたようだから。」
「なんで?」
音弥《おとや》がきょとんとすると、梨花《りか》があきれたような溜息《ためいき》をついた。
「おとなのやりそうなことだわ。誰《だれ》かが辞退《じたい》すると、辞退《じたい》しない人はすごく強欲《こうよく》に見えるじゃない。だから止《と》めるの。そうやって足並《あしな》みをそろえるのよ。それがおとなのやり方《かた》なの。」
「そんなもんか?」
「そういうものなのよ。」言《い》って、梨花《りか》は顔《かお》をしかめた。「でも、いやだわ。あたし、お父《とう》さんとお母《かあ》さんに、こんな家《いえ》を継《つ》いでほしくない。」
言《い》ってから、梨花《りか》はあわてたように三郎《さぶろう》を見た。
「こんな家《いえ》、っていうのは失言《しつげん》。でも、気味《きみ》の悪《わる》い沼《ぬま》が近《ちか》くにあって、家《いえ》だって古《ふる》くて、なんだか不気味《ぶきみ》な感《かん》じで、近所《きんじょ》にはデパートもなにもないし、都会《とかい》で育《そだ》った娘《むすめ》としては、いやなものなの。べつに三郎《さぶろう》にいさんの家《いえ》を侮辱《ぶじょく》するつもりはないんだけど。」
「分《わ》かるよ。」
「うちの家《いえ》って、建《た》ったばかりなのよ。ずっと公団《こうだん》に住《す》んでて、やっと引《ひ》っ越《こ》したの。あたしも光太《こうた》と一緒《いっしょ》じゃない自分《じぶん》だけの可愛《かわい》い部屋《へや》をもらえて、そのうち犬だって飼《か》ってもらえる約束《やくそく》なのよ。ええと、自分《じぶん》の家《いえ》が好《す》きだし、離《はな》れがたいの。分《わ》かってくれる?」
「それも分《わ》かるよ。」と言《い》ってから、三郎《さぶろう》はいたずらっぽく笑《わら》った。「でも、犬ならうちでも飼《か》えるけどね。それも好《す》きなだけ飼《か》える。血統書《けっとうしょ》のついた犬でもなんでも、お望《のぞ》み次第《しだい》だよ。なにしろ、うちはお金持《かねも》ちだから。」
梨花《りか》は首《くび》をかしげた。
「家《いえ》が大きいのは、認《みと》めるけど。そんなにお金持《かねも》ちなの?」
「そう。なんとかして跡継《あとつ》ぎを決《き》めないと、もったいないくらいね。」
「どうやって稼《かせ》いでるの、それ。」
「いろいろだよ。もともとうちは、このへんの土地《とち》を全部《ぜんぶ》|持《も》っていたんだ。それを売《う》ったり、人に貸《か》したり。そうやって作《つく》ったお金を人に貸《か》すこともするし、商売《しょうばい》の援助《えんじょ》をして、利益《りえき》を還元《かんげん》してもらったりもしてる。骨董品《こっとうひん》もうじゃうじゃあって、他《ほか》にも、有価証券《ゆうかしょうけん》とか金《きん》とか宝石《ほうせき》とか、銀行《ぎんこう》の金庫《きんこ》に入ってる。」
「なるほどねえ。みんな、心《こころ》の底《そこ》では家《いえ》を継《つ》ぎたがるはずだわ。おとなって、そういうのにすごく弱《よわ》いんだもの。」
でも、と禅《ぜん》が首《くび》をかしげた。
「こどもには相続権《そうぞくけん》があるんでしょう? たとえ養子《ようし》を取《と》ったとしても、三郎《さぶろう》にいさんたちの相続権《そうぞくけん》がなくなるわけじゃないよね? 普通《ふつう》は、子どもが均等《きんとう》に分《わ》けるものだし。」
禅《ぜん》の言《い》うのを聞《き》いて、三郎《さぶろう》は目を丸《まる》くした。
「禅《ぜん》は本当《ほんとう》に、いろんなことを知《し》ってるんだな。」
「まあね。三郎《さぶろう》にいさんには権利《けんり》があるんだから、おとなしく全部《ぜんぶ》譲《ゆず》って家《いえ》を明《あ》け渡《わた》しちゃうこと、ないじゃない。師匠《ししょう》だって、いやだって言《い》えばよかったんだよ。家《いえ》を出たくないのに、なんでおとなしく譲《ゆず》っちゃったの?」
「それが決《き》まりだから、だろうね。たしかに、子どもは財産《ざいさん》をもらえるものだけど、師匠《ししょう》たちは、その相続《そうぞく》を放棄《ほうき》しますって書類《しょるい》を作《つく》らされたらしいよ。そのかわりに、それぞれ新《あたら》しい生活《せいかつ》を始《はじ》めるためのお金をもらったし、師匠《ししょう》は家《いえ》に残《のこ》ることができた。逆《ぎゃく》に父《とう》さんは、家《いえ》を継《つ》ぎます、守《まも》ります、自分《じぶん》が死《し》ぬときにはちゃんと代々《だいだい》の定《さだ》めに従《したが》って家《いえ》を譲《ゆず》りますって、やっぱり書類《しょるい》を作《つく》ったって聞《き》いてる。」
「どうしても、そうしないといけないの?」
耕介《こうすけ》は、思《おも》わずそうきいた。脳裏《のうり》に、とても楽《たの》しそうに雨樋《あまどい》の修理《しゅうり》をしていた三郎《さぶろう》と師匠《ししょう》の姿《すがた》がよみがえった。ふたりはいつも、家《いえ》のことをするのが楽《たの》しそうだ。きっと三郎《さぶろう》もこの家《いえ》がすごく好《す》きなんだろう。なのに、三郎《さぶろう》も家《いえ》を出ないといけないのだろうか、と思った。
「そういう決《き》まりなんだ。たぶん、法律《ほうりつ》どおりに子どもたちみんなで財産《ざいさん》を分《わ》けると、どんどん身代《しんだい》が小さくなっていくからなんだろうね。きっと、大きいものは大きいまま残《のこ》したいんだと思《おも》うよ。」
言《い》ってから、三郎《さぶろう》はちょっと寂《さび》しそうに笑《わら》った。
「たしかに、家《いえ》を全員《ぜんいん》で分《わ》けたりしたら、耕介《こうすけ》たちの代《だい》か、その次《つぎ》の代《だい》には、ひと部屋《へや》を分《わ》けっこするはめになるものね。だから、仕方《しかた》ないことなんだと思《おも》うよ。特《とく》にぼくらはね。家《いえ》に残《のこ》しておくと、あとから入《はい》ってきた跡継《あとつ》ぎと、もめ事《ごと》が起《お》こるだろうから。」
「変《へん》なの。」
禅《ぜん》が鼻《はな》を鳴《な》らした。梨花《りか》が禅《ぜん》をねめつける。
「人にはいろいろ事情《じじょう》があるのよ。」
「事情《じじょう》のことなんか言《い》ってないよ。跡継《あとつ》ぎの決《き》め方《かた》が変《へん》なんだよ。行者《ぎょうじゃ》のたたりで後継者《こうけいしゃ》が育《そだ》たないんでしょう? 子どもが育《そだ》たない、だからすでに子どもを持《も》ってる者《もの》を後継者《こうけいしゃ》にする。そうやって大伯父《おおおじ》さんだって後継者《こうけいしゃ》になったわけでしょう。息子《むすこ》が三人もいるから後継者《こうけいしゃ》には困《こま》らないってわけだけどさ、結局《けっきょく》のところ、おじさんたちには子どもがいなくて、だから後継者《こうけいしゃ》にはなれない。大伯父《おおおじ》さんの子どもは家《いえ》を継《つ》げない。」
「あら、ほんとだ。」
「どういうこと?」
音弥《おとや》と真由《まゆ》が、なかよく首《くび》をかしげた。
「だから、たとえば、だよ。先代《せんだい》が師匠《ししょう》に跡《あと》を継《つ》がせたとする。けれども師匠《ししょう》には子どもがいないから、将来《しょうらい》、どこからか養子《ようし》をもらってこないといけない。つまり、そこで血縁《けつえん》がとぎれちゃう。そこで、師匠《ししょう》には譲《ゆず》らずに大伯父《おおおじ》さんを跡継《あとつ》ぎにしたわけだよ。けども、一郎《いちろう》おじさんには子どもがいないから、結局《けっきょく》、一郎《いちろう》おじさんは跡《あと》を継《つ》げない。それでたとえば、音《おと》ちゃんのお父《とう》さんを養子《ようし》にするわけでしょ? だったら、先代《せんだい》が師匠《ししょう》に家《いえ》を継《つ》がせて、師匠《ししょう》が音《おと》ちゃんのお父《とう》さんを養子《ようし》にしたって同《おな》じことなんだよ。」
「あれ?」
「そんなへんてこな相続《そうぞく》、なんの意味《いみ》もないじゃない。」
なるほどなあ、と三郎《さぶろう》は感心《かんしん》したようにつぶやいた。
「無意味《むいみ》なんだから、やめちゃえばいいんだよ。そうしたら三郎《さぶろう》にいさんだって、ずっと家《いえ》にいられるんだから。」
禅《ぜん》が力説《りきせつ》するのを聞《き》いて、禅《ぜん》もやっぱり三郎《さぶろう》が家《いえ》を追《お》いだされるのは理不尽《りふじん》だと感《かん》じているのが分《わ》かった。
「今《いま》まで、誰《だれ》もそれに気づかなかったの? うかつな話《はなし》よねえ。」
梨花《りか》が本気であきれたように言《い》う。三郎《さぶろう》はちょっと苦笑《くしょう》した。
「意外《いがい》にみんな、そんなものだと思《おも》っていて、盲点《もうてん》に入っていたのかもしれないね。それとも、うちにある言《い》い伝《つた》えのほうが本当《ほんとう》なのかな?」
「言《い》い伝《つた》え?」
そう、と三郎《さぶろう》はうなずいた。
「近所《きんじょ》の人は、たたりだって言《い》う。でも、うちではそうは言《い》わないんだよ。この沼《ぬま》を『行者沼《ぎょうじゃぬま》』って呼《よ》ぶのは、行者《ぎょうじゃ》が溺《おぼ》れたからで、沼《ぬま》で子どもが溺《おぼ》れたりするのは、行者《ぎょうじゃ》が引《ひ》くからなんだ。もちろん、先祖《せんぞ》はお金を盗《ぬす》んだりしていない。うちが金持《かねも》ちなのは、もっと別《べつ》の理由《りゆう》があるからなんだ。」
「別《べつ》の理由《りゆう》って?」
「蔵座敷《くらざしき》に厨子《ずし》があっただろう?」
三郎《さぶろう》が言《い》って、耕介《こうすけ》はどきりとした。
「あそこには、家《いえ》の守《まも》り神《がみ》がいるんだ。神様《かみさま》が富《とみ》を集《あつ》めてくれる。そして、誰《だれ》が家《いえ》を継《つ》ぐかは、神様《かみさま》が決《き》めることなんだよ。」
「それって座敷童子《ざしきわらし》のこと?」
おそるおそる耕介《こうすけ》はきいた。三郎《さぶろう》は笑《わら》う。
「どうだろう。うちでは『お蔵《くら》さま』と呼《よ》んでるよ。沼《ぬま》からあがってきた神様《かみさま》で、先祖《せんぞ》がお願《おねが》いして家《いえ》に来《き》てもらったんだそうだ。ふだんは蔵座敷《くらざしき》の厨子《ずし》に住《す》んでいるんだって。年に一回《いっかい》、厨子《ずし》を開《あ》けて贈《おく》り物《もの》やご馳走《ちそう》と一緒《いっしょ》に、小豆《あずき》ご飯《はん》を供《そな》えるんだよ。」
「それ、信《しん》じてる?」
「どうだろうね。ぼくは経験《けいけん》したことがないけど、赤い着物《きもの》を着《き》た子どもを見たとか、蔵座敷《くらざしき》で寝《ね》ると枕《まくら》を返《かえ》されるとか言《い》うよ。知《し》らない人と大きな商売《しょうばい》をするときは、相手《あいて》を蔵座敷《くらざしき》に泊《と》めるといいんだってさ。相手《あいて》がこっちに大損《おおぞん》をさせるような、よくない人だと、ひどい目にあうらしいんだ。」
「へええ。」と、梨花《りか》が感心《かんしん》したような声《こえ》をあげた。「その『お蔵《くら》さま』が跡継《あとつ》ぎを決《き》めるの?」
「ということになってるよ。家《いえ》の財産《さいさん》を減《へ》らすお客《きゃく》を拒《こば》むみたいに、家《いえ》を傾《かたむ》ける跡継《あとつ》ぎをお蔵《くら》さまが拒《こば》むんだ。だから父《とう》さんが勝手《かって》に決《き》めちゃあ、いけないんだよ。それが、お蔵《くら》さまにいてもらうための約束《やくそく》なんだ。」
言《い》って、三郎《さぶろう》は縁《えん》から立ちあがった。いつの間《ま》にか陽《ひ》が大きく傾《かたむ》いていた。
「お蔵《くら》さまは、どうやって決《き》めるの?」
「知《し》らない。この人だってお蔵《くら》さまが決《き》めると、自然《しぜん》に、そういうことになるらしいよ。べつにお蔵《くら》さまは、子どもに譲《ゆず》ったらいけないとは言《い》ってないようなんだけど、不思議《ふしぎ》に子どもが跡継《あとつ》ぎになることはないらしいね。」
「どうして?」
「さあ? だいたい、二|代目《だいめ》というのはお坊《ぼっ》ちゃま育《そだ》ちだからじゃないかな。苦労《くろう》知らずのぼんくらだから、家《いえ》を傾《かたむ》けるものだって相場《そうば》が決《き》まってる。」
明《あか》るく言《い》ってから、三郎《さぶろう》は、「帰《かえ》ろう。」と子どもたちを招《まね》く。寂《さび》しい土手を帰《かえ》る道々《みちみち》、三郎《さぶろう》は足許《あしもと》にこぼすようにつぶやいた。
「子供が生まれない、育《そだ》たないのは本当《ほんとう》だ。だから、本当《ほんとう》にたたりなのかもしれないね。だったら、行者《ぎょうじゃ》|殺《ごろ》しは本当《ほんとう》にあったことで、きっと自業自得《じごうじとく》なんだろう。それで呪《のろ》われているんだよ。けれども、同時《どうじ》に守《まも》られてもいる。だから今日《きょう》まで、なんとか続《つづ》いてきたんだ。」
[#改ページ]
6 探偵《たんてい》たち
本家《ほんけ》に戻《もど》ると、三郎《さぶろう》は勝手《かって》に手伝《てつだ》いにいった。なにしろゆうべ、おとなが倒《たお》れたから、人手がいるんじゃないか、と言《い》って。耕介《こうすけ》たちは夕陽《ゆうひ》の当《あ》たる庭《にわ》に残《のこ》された。山ではヒグラシの鳴《な》く声《こえ》がしていた。
「本当《ほんとう》のところは、どうなのかしら。」
歩《ある》いていく三郎《さぶろう》を見送《みおく》りながら、真由《まゆ》は誰《だれ》にともなくつぶやいた。
「本当《ほんとう》のところ?」
「たたりってあると思《おも》う?」
梨花《りか》は肩《かた》をすくめる。
「たたりなんて、嘘《うそ》っぱちよ。三郎《さぶろう》にいさんも、似《に》た話《はなし》が日本じゅうに、いっぱいあるって言《い》ってたじゃない。」
「でも、祠《ほこら》があったよ。」と、光太《こうた》が言《い》った。
「だから、溺《おぼ》れた行者《ぎょうじゃ》をまつってあるんでしょ。」
「一郎《いちろう》おじさんにも次郎《じろう》おじさんにも、子どもはいないし。」
真由《まゆ》が言《い》うと、梨花《りか》は顔《かお》をしかめる。
「偶然《ぐうぜん》でなきゃ、DNAがどうとか、なにかそういう理由《りゆう》があるんだわ。」
「そうだね。」と、同意《どうい》したのは禅《ぜん》だった。「そもそも、たたりそのものだって変《へん》だよ。復讐《ふくしゅう》したきゃ、自分《じぶん》を殺《ころ》した犯人《はんにん》にすればいいのに。子どもにはぜんぜん罪《つみ》がないんだから、子どもを殺《ころ》すのは、すじちがいだよ。」
「たたりってそういうものでしょ。」と、真由《まゆ》は声《こえ》を尖《とが》らせた。「子どもがいなくなると、家《いえ》が絶《た》えるの。お話《はなし》じゃ、たいがいそれが目的《もくてき》なんだよ。」
「でも、本家《ほんけ》は絶《た》えてないじゃない。お話《はなし》はお話《はなし》だよ。悪《わる》いことをすると子どもや子孫《しそん》までひどい目にあう、っていう教訓《きょうくん》なんだ。」
「そんなものね。」と、梨花《りか》は笑《わら》った。「ドクゼリの件《けん》だって、誰《だれ》かうっかり者《もの》がいたってことよ。それって誰《だれ》だか、聞《き》いた人いる? はっきりさせて、とっちめてやらなきゃ。」
子どもたちは顔《かお》を見合《みあ》わせた。自分《じぶん》がまちがえた、という告白《こくはく》を聞《き》いた者《もの》がいないのはもちろん、誰々《だれだれ》だったらしい、という話《はなし》を聞《き》いた者《もの》もいなかった。
「分《わ》からないんだって、お母《かあ》さんは憤慨《ふんがい》してたけど。」と、禅《ぜん》は言《い》った。「誰《だれ》にだってまちがいはあるんだから、謝《あやま》るべきなのに、誰《だれ》も謝《あやま》らないんだって。」
「誰《だれ》がやったのか、おばさん、見当《けんとう》がついてるふうだった?」
「ぜんぜん。推理《すいり》ぐらいできるんじゃないの、って言《い》ったら、分《わ》かるはずがないって怒《おこ》られちゃった。なにしろ大人数《おおにんずう》でしょう? 土間《どま》には、どっさり材料《ざいりょう》が積《つ》んであって、おまけに料理人《りょうりにん》も大人数《おおにんずう》で、お母《かあ》さんたちはてんてこまいだったんだから。」
そうか、と耕介《こうすけ》はうなずいた。本来《ほんらい》、本家《ほんけ》に住《す》んでいるのは大伯父《おおおじ》|一家《いっか》の六人だった(三郎《さぶろう》が大学に行《い》っているあいだは五人になる)。そこに、子どもたちとそれぞれの親《おや》がいて、弥太郎《やたろう》おじがいて、十五人。総勢《そうぜい》で二十一人もの人間《にんげん》がいるのだった。そのうえ、庭師《にわし》の師匠《ししょう》がいて弁護士《べんごし》が混《ま》じることもある。これだけの人数《にんずう》ぶんの食事《しょくじ》を、一気に用意《ようい》しなければならない。
耕介《こうすけ》は不思議《ふしぎ》に思《おも》うのだが、なぜか本家《ほんけ》には使用人《しようにん》がいない。これだけ大きな家《いえ》だと何人《なんにん》もいそうなものだが、働《はたら》いているのは師匠《ししょう》だけだった。だから食事《しょくじ》の用意《ようい》をするのは五人のおばたちの仕事《しごと》だ。台所《だいどころ》は広《ひろ》いとはいえ、食事《しょくじ》の前《まえ》は人でごったがえして戦争《せんそう》のようなありさまだった。しかも食事《しょくじ》の前《まえ》だけではとうてい準備《じゅんび》できなくて、おばたちは常《つね》に台所《だいどころ》にたむろしていた。おしゃべりをしながら下準備《したじゅんび》をするのだ。そのために、土間《どま》にはいつもどっさり材料《ざいりょう》が積《つ》みあげてあった。それらの中には一郎《いちろう》おじたちが近郊《きんこう》のスーパーで買《か》ってきたものもあれば、師匠《ししょう》が裏《うら》の畑《はたけ》で丹精《たんせい》している野菜《やさい》もあった。近所《きんじょ》の川から釣《つ》ってきた魚《さかな》や、山でとれたキノコなんかも混《ま》じっていた。
あの中に、人を殺《ころ》すかもしれない危険《きけん》な草が混《ま》じっていたんだ、と耕介《こうすけ》は常《つね》に小山のように積《つ》みあげてある材料《ざいりょう》を思《おも》い浮《う》かべながら思《おも》った。その分量《ぶんりょう》と台所《だいどころ》の騒《さわ》ぎを思《おも》い出《だ》すと、毒草《どくそう》が混《ま》じっていても気づかないだろう、という気がした。
「でも、ドクゼリなんてスーパーじゃ売《う》ってないよね。」と、禅《ぜん》が言《い》う。「正規《せいき》の流通《りゅうつう》を通《とお》って売《う》られている野菜《やさい》の中に混《ま》じってるはずはないよ。と、いうことは、誰《だれ》かが外《そと》からつんできた野菜《やさい》の中に混《ま》じってたわけでしょう? きっと師匠《ししょう》の畑《はたけ》から来《き》たんじゃないと思《おも》うんだ。師匠《ししょう》が、そんな危《あぶ》ない毒草《どくそう》が畑《はたけ》に生えてるのを、見逃《みのが》すはずないもの。」
「そりゃそうよ。」と、梨花《りか》がうなずいた。「誰《だれ》かがセリとまちがえてつんできたんだわ。」
「でも、だったらその人は、それを覚《おぼ》えてるはずじゃない? ドクゼリをつんだ自覚《じかく》はなくても、自分《じぶん》がセリをつんできたことは覚《おぼ》えてるはずだよ。なのになぜ、自分《じぶん》がまちがえたのかもしれない、って自首《じしゅ》する人がいないんだろう?」
「怖《こわ》くて黙《だま》ってるのかもしれないわ。」
「おとななのに?」
「おとなだって、じぶんの失敗《しっぱい》は怖《こわ》いのよ。」
「なんで、たたりじゃいけないんだ?」と、音弥《おとや》が憤慨《ふんがい》したように言《い》った。「たたりはあるよ。なんか、そういうことってあるんだよ。だって、おれら、ひとり多《おお》いじゃないか。」
全員《ぜんいん》がいやなことを聞《き》いた、というふうに動《うご》きを止《と》めた。
「三郎《さぶろう》にいさんも師匠《ししょう》も、ひとり多《おお》いじゃないか、って言《い》わなかったよ。昨日《きのう》から、おとなは誰《だれ》も、多《おお》いって言《い》わないんだ。でも、たしかに蔵《くら》に入ったの、四人だったろ。」
「まあ、そうだけど。」と、梨花《りか》は困《こま》ったように答《こた》えた。
「座敷童子《ざしきわらし》だよ。お蔵《くら》さまだ。きっと、出てきたんだよ。」
「そういうことにしてもいいわ。でも、なんで?」
「だから、たたりだろ。」と、音弥《おとや》は力説《りきせつ》した。「だって師匠《ししょう》も言《い》ってたじゃないか。同《おな》じものを食《た》べたのに、跡継《あとつ》ぎだけが倒《たお》れたのは変《へん》だって。」
「そうね。」と、梨花《りか》は眉《まゆ》をひそめた。「すごく変《へん》な感《かん》じがするのは、たしかだわ。でも、だからって行者《ぎょうじゃ》のたたりは無茶《むちゃ》よ。」
「どうして無茶《むちゃ》なのさ。昨日《きのう》の朝《あさ》だって、光太《こうた》が変《へん》なことを言《い》って怒《おこ》られてたじゃないか。」
「変《へん》じゃないよ。」と、光太《こうた》は抗議《こうぎ》した。
「変《へん》だろ。起《お》きてくるなり、おじちゃん、死《し》んだ、なんて。」
そんなこともあった、と耕介《こうすけ》は思《おも》い出《だ》した。本家《ほんけ》にやってきて、一晩《ひとばん》|寝《ね》て、起《お》きだした昨日《きのう》の朝《あさ》、光太《こうた》は茶《ちゃ》の間《ま》にやってくるなり、そうきいたのだ。どういうわけか、光太《こうた》は大伯父《おおおじ》が死《し》んだのだと思《おも》ったらしい。縁起《えんぎ》でもない、とおとなに叱《しか》られていた。おとなが血相《けっそう》を変《か》えたので、理由《りゆう》を問《と》い質《ただ》すことができるような雰囲気《ふんいき》ではなかったけれど、まるで不吉《ふきつ》な予言《よげん》みたいで、耕介《こうすけ》は薄気味《うすきみ》|悪《わる》く感《かん》じたのだった。
「そんなこともあったわね。」と、梨花《りか》は首《くび》をかしげた。「あんた、どうしてそんなことを考《かんが》えたの?」
「だって、お葬式《そうしき》してた。」
「お葬式《そうしき》?」
「夜中《よなか》に、お葬式《そうしき》してたの。お参《まい》りする声《こえ》がしてた。」
禅《ぜん》が身《み》を乗《の》りだした。
「それ、夜中《よなか》にお経《きょう》を読《よ》む声《こえ》がしてたってこと?」
「うん。いっぱいいて、読《よ》んでた。」
「ほら。」と、音弥《おとや》が胸《むね》を張《は》った。「行者《ぎょうじゃ》ってお坊《ぼう》さんの一種《いっしゅ》なんだろ? それで父《とう》ちゃんたちが狙《ねら》われたんだ。父《とう》ちゃんたちがいなくなると、家《いえ》を継《つ》ぐ人間《にんげん》がいなくなるから。それを察知《さっち》して、お蔵《くら》さまは出てきたんだ。座敷童子《ざしきわらし》って家《いえ》の守《まも》り神《がみ》だろ?」
「そっか。」と、真由《まゆ》は手を叩《たた》いた。「行者《ぎょうじゃ》とお蔵《くら》さまは対立《たいりつ》してるのね。行者《ぎょうじゃ》は家《いえ》を絶《た》やそうとしてて、お蔵《くら》さまはそれを防《ふせ》ごうとしてる。」
「すごいや。」と、光太《こうた》は弾《はず》んだ声《こえ》で言《い》った。「何百年《なんびゃくねん》も続《つづ》いた闘《たたか》いなんだね。」
「テレビの見すぎだよ。」と、禅《ぜん》があきれたように言《い》った。
「そうよ、ばかげてるわ。」と、梨花《りか》は半分《はんぶん》|怒《おこ》った調子《ちょうし》だった。
「お姉《ねえ》ちゃんは、怖《こわ》いんだよ。」光太《こうた》がにっと笑《わら》った。「だから、たたりなんてないって言《い》い張《は》ってるんだ。」
「そんなんじゃないわよ。」と、梨花《りか》は光太《こうた》をこづいた。
「でも、それでお父《とう》さんたち、軽症《けいしょう》ですんだのかもしれないじゃない。」
真由《まゆ》が言《い》うと、禅《ぜん》は肩《かた》をすくめた。
「関係《かんけい》ないよ。お蔵《くら》さまは、ずっとぼくらと一緒《いっしょ》にいたんだから。お父《とう》さんたちを助《たす》けるために、なにかをしたわけじゃない。」
「実《じつ》は助《たす》けてくれたのかもしれないだろ。」と、音弥《おとや》は頑強《がんきょう》に言《い》う。「だって、梨花《りか》ちゃんのお母《かあ》さんも無事《ぶじ》だったし、おれの母《かあ》ちゃんだって無事《ぶじ》だった」
梨花《りか》はあきれたように首《くび》を振《ふ》った。
「お母《かあ》さんが無事《ぶじ》だったのは、おひたしを食《た》べなかったからよ。食《た》べる間《ま》がなかったのよ。お母《かあ》さんもおばさんたちも、ご飯《はん》だお酒《さけ》だって、ぎりぎりまで走《はし》りまわってるじゃない。やっと席《せき》についたら、光太《こうた》が行《い》っちゃって、光太《こうた》をかまうので手一杯《ていっぱい》で、ろくにご飯《ごはん》を食《た》べてるひまがなかったの。」
「おひたし?」と、音弥《おとや》は梨花《りか》を見た。「ドクゼリが入ってたのって、それ?」
「みたいよ。」
「なんだ。だったら、母《かあ》ちゃんも食《た》べてないや。母《かあ》ちゃん、おひたしとか、あえものとかって大っ嫌《きら》いだから。父《とう》ちゃんが好《す》きで作《つく》るけど、いっつも味見《あじみ》もしないんだ。」
「お父《とう》さんは、口の中が熱《あつ》いような気がして吐《は》きだしたんだって。」と、真由《まゆ》が言《い》った。「それで、お母《かあ》さんにも、食《た》べないほうがいいって言《い》ったのよ。だから、お父《とう》さんはたいしたことがなかったし、お母《かあ》さんは無事《ぶじ》だったの。」
「ぼくのお父《とう》さんも、似《に》たようなことを言《い》ってた。変《へん》な味《あじ》がした、って。」
耕介《こうすけ》が言《い》うと、なあんだ、と梨花《りか》は笑《わら》った。
「ほら、ぜんぜんお蔵《くら》さまは関係《かんけい》ないじゃない。みんな食《た》べなかったから、あたらなかっただけで。」
「次郎《じろう》おばさんも食《た》べるひまがなかったんだね。」と、真由《まゆ》が言《い》った。「だって、次郎《じろう》おばさんって、いつもどこかを掃除《そうじ》してるか、用事《ようじ》をしているかで、ずっと走《はし》りまわってるもの。」
そうだね、と耕介《こうすけ》はうなずいた。子どもたちが食事《食事》をする茶《ちゃ》の間《ま》は土間《どま》の脇《わき》にあって、台所《だいどころ》は広《ひろ》い土間《どま》の一郭《いっかく》にある。だから、食事《しょくじ》の用意《ようい》で走《はし》りまわっているおとなたちのようすは、よく見えた。次郎《じろう》おばは、いつだって率先《そっせん》して働《はたら》いて、食事《しょくじ》に行《い》くのだって、だいたい最後《さいご》だ。食事《しょくじ》が始《はじ》まってからも、なにかを運《はこ》んできたり取《と》りに戻《もど》ったりして、しょっちゅう土間《どま》と座敷《ざしき》を往復《おうふく》していた。
「一郎《いちろう》おじさんと、次郎《じろう》おじさんは?」と、禅《ぜん》がきいた。
「さあ? きっと食《た》べなかったんでしょ。なんともなかったんだから。三郎《さぶろう》にいさんは、」と言《い》いかけて、梨花《りか》は笑《わら》った。「子どもの組《くみ》だから関係《かんけい》ないか。」
おとなと子どもでは料理《りょうり》が別《べつ》だった。子どもには子ども用《よう》のメニューが用意《ようい》されて、おとなとは別《べつ》に食《た》べる。だからその世話係《せわがかり》が必要《ひつよう》だし、世話係《せわがかり》に任命《にんめい》された三郎《さぶろう》も、子どもと同《おな》じものを食《た》べるはめになるのだった。
「弥太郎《やたろう》おじさんは、食《た》べたはずだけどな。」と、音弥《おとや》が言《い》った。「弥太郎《やたろう》おじさんって、今《いま》、ひとり暮《ぐ》らしだから、煮物《にもの》とかおひたしとかに飢《う》えてるんだよ。うちに来《き》たとき、いっつもがっついていくもん。」
「たまたま食《た》べなかったのよ。そうでなきゃ、体質《たいしつ》が関係《かんけい》してるのかも。ほら、同《おも》じものを食《た》べても、おなかを壊《こわ》す人とそうでない人がいるじゃない。」
「それは、そうだけど。」
「ねえ。ぼく、今《いま》のを聞《き》いて、もっと変《へん》なことに気がついたんだけど。」
禅《ぜん》が困惑《こんわく》したように言《い》った。
「もっと変《へん》って?」
「師匠《ししょう》の言《い》うとおり、全員《ぜんいん》が同《おな》じものを食《た》べたんだから、全員《ぜんいん》があたって当然《とうぜん》だよね? なのに全員《ぜんいん》があたったわけじゃなかった。梨花《りか》ちゃんのお母《かあ》さん、真由《まゆ》ちゃんのお母《かあ》さん、音《おと》ちゃんのお母《かあ》さんの三人は、食《た》べてなかったから、あたらなかった。」
「だから、さっきからそう言《い》ってるでしょ。」
「分《わ》かってるって。ちょっと待《ま》ってよ。耕介《こうすけ》おじさんと真由《まゆ》おじさんのふたりは、ちょっとしか食《た》べなかった。だから、あたったけど、たいしたことはなかった。つまりちょっとでも食《た》べれば、あたったはずだってことだよね?」
「ええ、そうね。」
「食《た》べてなかった人があたらないのは当然《とうぜん》のことだけど、食《た》べてるはずの人があたってない。弥太郎《やたろう》おじさんとか。」
「そうだけど。」
「おとなのうち、子どもを持《も》っている人は、多少《たしょう》なりとも食《た》べてあたったか、食《た》べなかったから、あたらなかったかのどちらかなんだ。なのに、子どもを持《も》っていない人たちは、誰《だれ》ひとりあたってない。これって、そもそも相続人《そうぞくにん》じゃないおとなのお膳《ぜん》には、ドクゼリが入ってなかった、ってことなんじゃないかな。相続人《そうぞくにん》だけが倒《たお》れたって言《い》うより、相続人《そうぞくにん》のお膳《ぜん》にだけ毒《どく》が入ってたんだって言《い》うべきだと思《おも》うんだけど。」
梨花《りか》は、ぽかんとした。
「そのとおりだわ。」
「なんだよ、それ。」と、音弥《おとや》が不服《ふふく》そうに言《い》った。「つまり、誰《だれ》かが毒《どく》を入れたってことか?」
「それでも変《へん》じゃないでしょう? だって三郎《さぶろう》にいさんも、本家《ほんけ》はすごいお金持《かねも》ちだって言《い》ってたじゃない。莫大《ばくだい》な財産《ざいさん》の行方《ゆくえ》がかかってるんだよ? どうしても自分《じぶん》がそれを手に入れたくって、相続人《そうぞくにん》をどうにかしようって考《かんが》える人がいても不思議《ふしぎ》じゃないと思《おも》うよ。」
「そっちのほうがテレビの見《み》すぎだよ。」と、音弥《おとや》が口を尖《とが》らせた。「だったらピストルとかナイフとか、使《つか》えばいいだろ? そのほうが確実《かくじつ》じゃないか。」
「ピストルなんて、簡単《かんたん》に手に入らないでしょう。」
「テレビじゃ簡単《かんたん》そうだけどなあ。だからって、ドクゼリを使《つか》うことはないだろ。もっとすごい毒薬《どくやく》があるんだからさ。それじゃ、まるきり行者《ぎょうじゃ》のたたりみたいじゃないか。わざわざ、そんな方法《ほうほう》を選《えら》ぶかなあ?」
「それも、そうね。と、あっさり梨花《りか》は同意《どうい》した。
「たたりに見せたかったのかも。」と、言《い》ったのは真由《まゆ》だった。「そうじゃないと、警察《けいさつ》が来《き》ちゃうでしょ。それは困《こま》るって、思《おも》ったんじゃないのかな。」
「そうか。」と、禅《ぜん》がつぶやいた。「きっとそうだよ。もしも夕飯《ゆうはん》に入っていたのが毒薬《どくやく》だったら、犯人《はんにん》は誰《だれ》だって大騒《おおさわ》ぎになってたよ。まちがいなく警察《けいさつ》だって呼《ゆよ》ばれて殺人事件《さつじんじけん》として捜査《そうさ》されてた。正確《せいかく》には未遂《みすい》だけど。でも、じっさいに入ってたのはドクゼリでしょう。ドクゼリをセリとまちがえる事故《じこ》は、ときどきあるんだよ。」
「そうね、だから事故《じこ》だって話《はなし》になったわけだし。」
「でも、事故《じこ》にしてはたしかに変《へん》だよ。師匠《ししょう》もおかしいって言《い》ったし、ぼくらだって疑問《ぎもん》に思《おも》ってる。他《ほか》のおとなだって、変《へん》だなって思《おも》った人はいたと思《おも》うんだ。特《とく》に、行者《ぎょうじゃ》|殺《ごろ》しの伝説《でんせつ》とか、たたりのことを知《し》ってた人は、おいかしいって思《おも》うよ。まるで行者《ぎょうじゃ》のたたりみたいだ、って。でも、おとなは、たたりなんて信《しん》じない。だから、たたりみたいなことが起《お》こると、かえって変《へん》なふうに納得《なっとく》しようとしちゃうんだ。たまたま誰《だれ》かがまちがえたんだ、たたりのはずはない、きっと事故《じこ》だったに決《き》まってるって。」
梨花《りか》は大きくうなずいた。
「そうね、そうだわ。おとなは常識《じょうしき》で割《わ》り切《き》れない出来事《できごと》にあうと、深《ふか》く考《かんが》えずに偶然《ぐうぜん》だって言《い》ってかたづけちゃう。そういう癖《くせ》があるのよ。だから、犯人《はんにん》はわざと、たたりみたいな事件《じけん》を起《お》こしたんだわ。」
そうかもしれない、と耕介《こうすけ》は思《おも》った。禅《ぜん》は、そんな耕介《こうすけ》たち全員《ぜんいん》の表情《ひょうじょう》を確認《かくにん》して、妙《みょう》に重々《おもおも》しく言《い》った。
「誰《だれ》かがわざとやったんだったら、この先も似《に》たようなことがあるかもしれない。犯人《はんにん》が誰《だれ》かは知《し》らないけど、子どもを持《も》ってるおとなは危《あぶ》ない。」
「たいへん。そのとおりだわ。」と、梨花《りか》は腰《こし》を浮《う》かせた。
「お父《とう》さんとお母《かあ》さんに忠告《ちゅうこく》しなきゃ。」と、真由《まゆ》が言《い》った。
「忠告《ちゅうこく》するだけじゃ意味《いみ》がないよ。信《しん》じるはずがないんだから。」と、禅《ぜん》は真由《まゆ》を止《と》める。「たたりなんて、ぜったいに信《しん》じないし、誰《だれ》かが狙《ねら》ってるなんて言《い》っても笑《わら》うに決《き》まってる。自分《じぶん》たちにそんなことが起《お》こるなんて、夢《ゆめ》にも思《おも》ってないんだ。そうじゃなかったら、ゆうべの時点《じてん》で、もっと大騒《おおさわ》ぎになってたはずでしょう。」
「それもそうね。」と梨花《りか》は言《い》って、それから大きくうなずいた。「だったら、あたしたちがなんとかするしかないんだわ。」
「なんとかするって?」と、音弥《おとや》は目を丸《まる》くした。
「もちろん、」と、梨花《りか》は言《い》った。「犯人《はんにん》を捜《さが》してお母《かあ》さんたちを守《まも》るのよ。」
[#改ページ]
7 お葬式《そうしき》
夕飯《ゆうはん》のあと、ゲームでもしようか、という三郎《さぶろう》の誘《さそ》いを梨花《りか》は断《こと》った。
「いつまでも子どもに付《つ》き合《あ》うことはないわよ。三郎《さぶろう》にいさんだって、したいことがあるでしょ。もうすっかり家《いえ》に慣《な》れたから、あたしたちだけで平気《へいき》よ。」
三郎《さぶろう》は、ちょっとのあいだ不思議《ふしぎ》そうな顔《かお》をしたけれど、すぐに心得《こころえ》たようにうなずいた。
「じゃあ、ありがたく、のんびりしてるよ。」
三郎《さぶろう》の部屋《へや》は家《いえ》の奥《おく》のほう、母屋《おもや》から蔵座敷《くらざしき》へと向《む》かう途中《とちゅう》にあった。井戸《いど》のある渡《わた》り廊下《ろうか》のすぐ手前《てまえ》で、三|畳《じょう》と四|畳半《じょうはん》の小さな部屋《へや》が二間《ふたま》つづきになっている。こんな広《ひろ》い家《いえ》で、なにもそんな狭《せま》い部屋《へや》にいなくてもよさそうなものだが、
もともとは茶室《ちゃしつ》で、「造作《ぞうさく》がとてもいい」のが気に入っているらしい。あまり広《ひろ》い部屋《へや》は必要《ひつよう》ない。三郎《さぶろう》は普段《ふだん》は、大学のある町に下宿《げしゅく》しているからだ。
手を振《ふ》って部屋《へや》のほうに戻《もど》っていく三郎《さぶろう》を見送《みおく》り、それから梨花《りか》は広敷《ひろしき》に身《み》を乗《の》りだして、土間《どま》の向《む》こう、表座敷《おもてざしき》のほうをうかがった。
「今日《きょう》はだいじょうぶみたいね。」
話《はな》し合《あ》いをするざわめきが伝《つた》わってきていた。べつに変《か》わったことが起《お》こったようすはない。
「気が気じゃないわ、まったく。」と、梨花《りか》は大仰《おおぎょう》に溜息《ためいき》をついた。
「本人たちが、ぜんぜん呑気《のんき》なんだもんなあ。」と、音弥《おとや》が顔《かお》をしかめる。「食《く》い物《もの》に気をつけろって、父《とう》ちゃんに教《おし》えてやったら、笑《わら》われたんだぜ。そう何度《なんど》も事故《じこ》が起《お》こるはずはないってさ。」
「おとななんて、そんなものよ。ドクゼリがどうして混《ま》じったのかだって、誰《だれ》にも分《わ》からないみたいよ。そもそもおとなは、誰《だれ》もそんなこと気にしてないの。たしかめようって気すらないんだから、あきれちゃう。」
梨花《りか》は言《い》って、広敷《ひろしき》に面《めん》した障子《しょうじ》を半分《はんぶん》だけ閉《し》めた。茶《ちゃ》の間《ま》がちょっぴり秘密会議《ひみつかいぎ》の会場《かいじょう》らしくなった。障子《しょうじ》を全部《ぜんぶ》閉《し》めたわけではないから、表座敷《おもてざしき》の気配《けいは》は伝《つた》わってくる。それを確認《かくにん》して、耕介《こうすけ》は座卓《ざたく》の上にノートを広《ひろ》げた。夏休《なつやす》みの宿題用《しゅくだいよう》に持《も》ってきたノートだが、宿題《しゅくだい》のほうはぜんぜん進《すす》んでいなかった。かわりに、最後《さいご》のほうからページを使《つか》って、系図《けいず》を書《か》いてあった。夕飯《ゆうはん》の前《まえ》、想一《そういち》にきいて、親戚《しんせき》には誰《だれ》がいて、どういう関係《かんけい》なのかをメモしておいたのだ。
「あら、すごい。」と、梨花《りか》がノートをのぞきこんで言《い》った。「そうね。そういうメモがあったほうがいいわね。ついでだから、耕《こう》ちゃんを記録係《きろくがかり》に任命《にんめい》してあげるわ。」
「お姉《ねえ》ちゃん、ひとに命令《めいれい》するばっかだね。」と、光太《こうた》が言《い》った。
「失礼《しつれい》ね。そんなことはないわよ。あんたたちが遊《あそ》びに行《い》ったぶん、あたしが苦労《くろう》してお母《かあ》さんたちに探《さぐ》りを入れてきたんだから。おかげで夕飯《ゆうはん》の用意《ようい》を手伝《てつだ》わされちゃったわ。」
「遊《あそ》んでたわけじゃないよ。」と、光太《こうた》は口を尖《とが》らせた。
「はいはい。ちょっと用《よう》があったのよね。」梨花《りか》は、いなすように言《い》って、「あたしが独力《どくりょく》で調《しら》べたところによると、ドクゼリは、おひたしの中に入ってたわけだけど、肝心《かんじん》のおひたしを誰《だれ》が作《つく》ったかは、分《わ》からないらしいのよ。」
「分《わ》からない?」と、真由《まゆ》が不思議《ふしぎ》そうにした。
「少《すく》なくとも、お母《かあ》さんが台所《だいどころ》に行《い》ったときには、もう作《つく》ってあって、他《ほか》の何品《なんぴん》かと一緒《いっしょ》に、そこの広敷《ひろしき》においてあったんですって。それでお母《かあ》さんが盛《も》りつけてお膳《ぜん》にのせて、座敷《ざしき》に持《も》っていったの。念《ねん》のために、みんなにきいてみたんだけど、誰《だれ》も自分《じぶん》じゃない、誰《だれ》が用意《ようい》したのか知《し》らないって。」
「それ、いかにもあやしいな。」と、音弥《おとや》が言《い》った。
「関係《かんけい》ないと思《おも》うわ。お母《かあ》さん、味見《あじみ》したって言《い》ってたもの。なのにぜんぜん元気《げんき》だったでしょ。」
「たまたまドクゼリの入ってないところをつまんで、味見《あじみ》したのかもしれないじゃないか。味見《あじみ》するのなんて、ほんのちょっぴりなんだし、そのくらいじゃ具合《ぐあい》が悪《わる》くなるほどの害《がい》はなかったかもしれないだろ。」
「そっか。それは、そうね。」
梨花《りか》は音弥《おとや》に同意《どうい》したが、禅《ぜん》は首《くび》を横《よこ》に振《ふ》った。
「ちがうよ、梨花《りか》ちゃんが言《い》ってたやつだよ。おとなでも、自分《じぶん》の失敗《しっぱい》は怖《こわ》いんだって。」と、禅《ぜん》は不思議《ふしぎ》なことを言《い》って、子どもたちを見まわした。「ねえ、子どもを持《も》ってないおとなが、おひたしを食《た》べたかどうか、分《わ》かった?」
「それが、」と、耕介《こうすけ》はノートに目をやって口ごもった。耕介《こうすけ》は梨花《りか》に命《めい》じられて、夕飯《ゆうはん》までの時間《じかん》で、子どもを持《も》たないおとなたちに事情《じじょう》をきいてまわったのだった。「次郎《じろう》おばはくさん以外《いがい》は、みんな食《た》べてるんだよ。」
「次郎《じろう》おばさんは、食《た》べなかったの?」
「うん。やっぱり食《た》べるひまがなかったんだって。大伯父《おおおじ》さんと大伯母《おおおば》さんは離《はな》れで食事《しょくじ》をしたけど、おひたしは空《から》になってお膳《ぜん》が戻《もど》ってきてたって、次郎《じろう》おばさんが言《い》ってた。師匠《ししょう》は、ゆうべは自分《じぶん》で夕飯《ゆうはん》を作《つく》ったから関係《かんけい》ない。一郎《いちろう》おじさんたちは、ちゃんと食《た》べたし、べつに変《へん》な感《かん》じはしなかったって。」
耕介《こうすけ》はノートを示《しめ》した。後継者《こうけいしゃ》とそうでない人間《にんげん》と、分《わ》けて書《か》いて印《しるし》をつけてみると、後継者《こうけいしゃ》だけが狙《ねら》われたことが、あからさまだった。
ふうん、と禅《ぜん》はノートを見てつぶやく。
「やっぱり料理《りょうり》を用意《ようい》した誰《だれ》かは、自分《じぶん》のせいだって誤解《ごかい》して、怖《こわ》くて黙《だま》っているんだな。」
「でなきゃ、そいつが犯人《はんにん》か。」と、音弥《おとや》が言《い》った。
「だからちがうってば。その料理《りょうり》は問題《もんだい》ないんだよ。」
「なんでだよ。」
「じゃあ、きくけど、どうやってその料理《りょうり》を後継者《こうけいしゃ》だけに食《た》べさせるの?」
「へ?」
「作《つく》ってあった料理《りょうり》を、梨花《りか》おばさんがつぎ分《わ》けて盛《も》りつけたわけでしょう? もしも最初《さいしょ》からドクゼリが入ってたら、全員《ぜんいん》があたったはずじゃない。」
「あ、そうか。」
「じゃあ、誰《だれ》かが台所《だいどころ》の大混乱《だいこんらん》に乗《じょう》じてドクゼリを入れたのかしら?」と、梨花《りか》は首《くび》を傾《かたむ》けた。
「それもないよ。」と、禅《ぜん》は断言《だんげん》した。「梨花《りか》おばさんが盛《も》りつけた料理《りょうり》を、お膳《ぜん》にのせて座敷《ざしき》に運《はこ》んだんでしょう? 運《はこ》ばれた時点《じてん》では、全部《ぜんぶ》の料理《りょうり》が均質《きんしつ》なんだ。器《うつわ》だってお膳《ぜん》だって客用《きゃくよう》のおそろいのやつだもの、目印《めじるし》だってないじゃない。座敷《ざしき》での席順《せきじゅん》は決《き》まってるみたいだけど、どのお膳《ぜん》が誰《だれ》の席《せき》に並《なら》ぶかは、誰《だれ》にも予想《よそう》できない。だから、お膳《ぜん》が運《はこ》ばれて誰《だれ》の席《せき》にどのお膳《ぜん》が来《く》るかが確定《かくてい》するまでは料理《りょうり》は無毒《むどく》だった、これは確実《かくじつ》なんだよ。」
そうか、と耕介《こうすけ》はノートにメモを取《と》りながら、ひとりうなずいた。たしかに、座敷《ざしき》には席順《せきじゅん》がある。大伯母《おおおば》の席《せき》が一|番端《ばんはし》で、その両側《りょうがわ》に一郎《いちろう》おじ、次郎《じろう》おじ、と順番《じゅんばん》に並《なら》んでいくのを耕介《こうすけ》は見たことがあった。誰《だれ》がどこに座《すわ》るかは決《き》まっているけど、お膳《ぜん》はまったく同《おな》じものが広敷《ひろしき》で整《ととの》えられて運《はこ》びこまれるから、どれが誰《だれ》のところに並《なら》ぶのかは、ぜんぜん予想《よそう》できない。盛《も》りつけをちょっといじって目印《めじるし》にしたところで、いつものように総出《そうで》でお膳《ぜん》を運《はこ》んでいったら、誰《だれ》の席《せき》にどのお膳《ぜん》が行《い》くか、分《わ》かったものじゃないし、一度《いちど》おいてしまったお膳《ぜん》をあちこち移動《いどう》させたりしたら、あやしまれてしまうだろう。
「そっかあ。」と、音弥《おとや》はつぶやいて、感心《かんしん》したように禅《ぜん》を見《み》た。「おまえ、頭《あたま》いいなあ。」
「座敷《ざしき》にお膳《ぜん》を並《なら》べてから、誰《だれ》かがこっそりしのびよって、ドクゼリを混《ま》ぜたんだね。」
そう真由《まゆ》が言《い》うと、梨花《りか》もうなずいた。
「きっと用意《ようい》してあったのよ。ドクゼリをゆでて隠《かく》しておくかどうかして。
それを持《も》ちだしてきて、親《おや》のぶんだけに入れて、さっと混《ま》ぜて分《わ》からなくしたんだわ。お禅《ぜん》を運《はこ》んで並《なら》べてからも、ご飯《はん》を運《はこ》んだり、お酒《さけ》を用意《ようい》したりで、みんな走《はし》りまわってるじゃやい? おとなが集《あつ》まって席《せき》について、ご飯《はん》が始《はじ》まるまでのあいだ、お膳《ぜん》は表座敷《おもてざしき》にほったらかしにされているようなものだし、チャンスなんていくらでもあるわ。」
「でも、それじゃ誰《だれ》が入れたかなんて、分《わ》かりっこないね。」と、真由《まゆ》は溜息《ためいき》をついた。「ご飯《はん》が始《はじ》まるまでは、みんな右往左往《うおうさおう》してるんだもん。」
「そうよねえ。」と、梨花《りか》もそっくり同《おな》じ溜息《ためいき》をついたところで、「大伯父《おおおじ》さんは、いなかったよ。」と、光太《こうた》が得意《とくい》そうに言《い》った。
「そんなの、考《かんが》えるまでもないわよ。大伯父《おおおじ》さんは、そもそも離《はな》れを出られないんだから。それに、三郎《さぶろう》にいさんもちがうでしょ。ずーっとあたしたちの面倒《めんどう》を見てたんだもの。」
「おれたちの父《とう》ちゃん母《かあ》ちゃんもちがうだろ。」と、音弥《おとや》は言《い》った。
「もちろんよ。」
梨花《りか》はあっさり肯定《こうてい》したが、耕介《こうすけ》はすこし疑問《ぎもん》に思《おも》った。後継者《こうけいしゃ》の誰《だれ》かだってドクゼリを入れるかもしれない。候補者《こうほしゃ》が減《へ》れば、それだけ自分《じぶん》が跡継《あとつ》ぎになる可能性《かのうせい》が増《ふ》えるということなのだから。そう考《かんが》えて、耕介《こうすけ》はすぐに自分《じぶん》のまちがいに気づいた。ノートを見れば明《あき》らかだ。ドクゼリはたぶん、後継者《こうけいしゃ》|全員《ぜんいん》のお膳《ぜん》に入っていたのだ。あたらなかったのは、食《た》べなかった人だけで、食べなかった人にはそれなりの理由《りゆう》がちゃんとあった。真由《まゆ》おばは、真由《まゆ》おじに忠告《ちゅうこく》されたのだし、音弥《おとや》おばは、そもそも嫌《きら》いで食《た》べないのが当然《とうぜん》なのだ。梨花《りか》おばは光太《こうた》が行《い》ったから、食《た》べるひまがなかった。そんな事情《じじょう》がなければ、全員《ぜんいん》が食《た》べて全員《ぜんいん》があたったにちがいない。そう考《かんが》えると、後継者《こうけいしゃ》|同士《どうし》の争《あらそ》いなんてことは、ありそうになかった。
「あやしいのは、後継者《こうけいしゃ》じゃないおとなね。一郎《いちろう》おじさんと次郎《じろう》おじさん、次郎《じろう》おばさんと弥太郎《やたろう》おじさんの四人か。」
梨花《りか》はしばらく、腕組《うでぐ》みしたまま考《かんが》えこんだ。耕介《こうすけ》も同様《どうよう》に考《かんが》えてみたけれども、四人の中の誰《だれ》が犯人《はんにん》なのかは分《わ》からなかった。
「でも、なんかピンと来《こ》ない。」と、真由《まゆ》は言《い》った。「だってみんな親戚《しんせき》なんだもん。それは、全部《ぜんぶ》が全部《ぜんぶ》、親《した》しいわけじゃないけど。いくら本家《ほんけ》がお金持《かねも》ちだからって、そこまでして跡継《あとつ》ぎになりたがるかな。」
「お金が絡《から》むと、親《おや》も子もないってよく言《い》うじゃない。」
「言《い》うの?」
「ええと、たぶん。よく分《わ》からないけど、保険金《ほけんきん》めあてに自分《じぶん》の子どもをどうにかする親《おや》だっているご時世《じせい》だもの。たたりだって言《い》うより、よほどありそうなことでしょ。」
「だよね。」と、言《い》って禅《ぜん》は溜息《ためいき》をついた。「第一《だいいち》、たたりだって言《い》われると困《こま》っちゃうよ。そんなの、対抗《たいこう》のしようがないもん。」
「退治《たいじ》する方法《ほうほう》は分《わ》かんないって言《い》ってたもんね、師匠《ししょう》。」と、あっけらかんと光太《こうた》が言《い》って、音弥《おとや》があわてたように口をふさいだ。
「なに?」
音弥《おとや》と真由《まゆ》が顔《かお》を見合《みあ》わせた。
「だから、そのう。」と、音弥《おとや》はきまり悪《わる》そうに言《い》う。「実《じつ》は、師匠《ししょう》にきいてみたんだよ、おれたち。」
「あきれた。ちょっと用《よう》があるって言《い》ってたのは、それだったのね。」
「だって、念《ねん》のためって言《い》うだろ。」
「たしかにそうだけど。それで?」
「だから、たたりをどうにかする方法《ほうほう》は分《わ》からないって。」と、真由《まゆ》もばつが悪《わる》そうに言《い》った。「お祓《はら》いをしたり、お百度《ひゃくど》を踏《ふ》んだりしたけど、ぜんぜん効果《こうか》がなかったって言《い》ってた。」
「お百度《ひゃくど》?」
梨花《りか》の問《と》いには、禅《ぜん》が答《こた》えた。
「なにかをお願《ねが》いするのに、百回《ひゃっかい》、お参《まい》りすることだよ。」
「そう。」と、真由《まゆ》はうなずいた。「行者《ぎょうじゃ》のお堂《どう》にお百度《ひゃくど》を踏《ふ》んで、許《ゆる》してくださいって、お願《ねが》いしたんだって。子どもを授《さず》けてくださいって。でも、やっぱりだめだったんだって。」
そうか、と耕介《こうすけ》は思《おも》った。師匠《ししょう》は本当《ほんとう》に家《いえ》に残《のこ》りたかったのだ。たぶん財産《ざいさん》なんかは、どうでもよかったんだろう、と思《おも》う。もしもお金がめあてだったら、庭師《にわし》になってまで家《いえ》に残《のこ》ろうとはしないだろう。きっと三郎《さぶろう》が言《い》うように、この家《いえ》が好《す》きだったのだ。
本家《ほんけ》に来《き》て最初《さいしょ》に師匠《ししょう》に会《あ》ったとき、師匠《ししょう》が家《いえ》の案内《あんない》をしてくれた、そのときのようすが思《おも》い出《だ》された。耕介《こうすけ》と想一《そういち》に家《いえ》のあちこちを示《しめ》しながら、どんなに立派《りっぱ》な材料《ざいりょう》を使《つか》ってあるか、どんなにみごとな細工《さいく》をしてあるか、楽《たの》しそうに語《かた》った。そのたびに、想一《そういち》が心《こころ》から感心《かんしん》したように声《こえ》をあげるのが、本当《ほんとう》に嬉《うれ》しそうだった。
「神主《かんぬし》さんとかを呼《よ》んで、お祓《はら》いをしてもらったりもしたけど、ぜんぜん効果《こうか》がなかったって言《い》ってたよ。」と、音弥《おとや》が言《い》ったが、その声《こえ》も師匠《ししょう》に同情《どうじょう》したように沈《しず》んでいる。
「とにかく気をつけろって。おれも気をつけてやるからな、って言《い》った。」と、光太《こうた》は大まじめに報告《ほうこく》した。
「気をつけろって言《い》われてもねえ。」と、梨花《りか》はつぶやいて、もしも、よ。本当《ほんとう》に行者《ぎょうじゃ》のたたりだったら、なにをどう気をつければいいのかしらねえ。」
「父《とう》ちゃんたちに、ぴったり張《は》りついてるしか、ないんじゃねえの?」
音弥《おとや》はそう言《い》ったが、ぴったり張《は》りついて、それでなにをどうすればいいのかは自分《じぶん》でも分《わ》かっていないふうだった。それはそうだよな、と耕介《こうすけ》も思《おも》う。暴漢《ぼうかん》が襲《おそ》ってくるのなら、不意《ふい》を突《つ》かれないよう気を配《くば》っているとか、できることもあるだろう。ところが相手《あいて》は、行者《ぎょうじゃ》の怨念《おんねん》などという得体《えたい》のしれない代物《しろもの》だ。姿《すがた》も見えず、実体《じったい》も定《さだ》かでないような相手《あいて》から、どうやって守《まも》ればいいのだろう?
「相手《あいて》がなにを仕掛《しか》けてくるか分《わ》からないのに、護衛《ごえい》のしようなんてないよ。」
禅《ぜん》は極《きわ》めて冷静《れいせい》なことを言《い》った。
「だよなあ。」と、音弥《おとや》はうなずいた。「やっぱ、向《む》こうも霊力《れいりょく》みたいなもんで攻撃《こうげき》してくるんだろうからさ、こっちだって、お蔵《くら》さまの力で対抗《たいこう》するしかないんじゃないのか?」
それはそうだ、と全員《ぜんいん》が納得《なっとく》したものの、そのためにどうすればいいか、という段《だん》になると、やっぱり想像《そうぞう》がつかない。
「お札《ふだ》を貼《は》るとか、お経《きょう》を書《か》くというのは?」
真由《まゆ》が言《い》うと、禅《ぜん》は重々《おもおも》しくうなずいた。
「ああ。『牡丹灯籠《ぼたんどうろう》』と『耳なし芳一《ほういち》』だね。」
「なあに?」と、光太《こうた》が不思議《ふしぎ》そうにした。
「そういうお話《はなし》があるんだよ。」と、禅《ぜん》が説明《せつめい》をする。「牡丹灯籠」と「耳なし芳一」と、ふたつの物語《ものがたり》を話《はな》して聞《き》かせたけれど、光太《こうた》に泣《な》きべそをかかせただけで終《お》わってしまった。梨花《りか》は光太《こうた》をなだめながら、大きな溜息《ためいき》をついた。
「たたりじゃないことを祈《いの》るわ。でないと、あたしたちには、どうしようもないんだもの。」
その夜《よる》、耕介《こうすけ》は部屋《へや》で本を読《よ》んでいた。本は三郎《さぶろう》から借《か》りたものだ。なにか参考《さんこう》になることが書《か》いてあるかもしれないと思《おも》って、座敷童子《ざしきわらし》や伝説《でんせつ》について書《か》いていそうな本を探《さが》してもらった。特《とく》に耕介《こうすけ》が気になっていたのは、行者《ぎょうじゃ》|殺《ごろ》しの伝説《でんせつ》が、他《ほか》にもたくさんあるというところだった。ひょっとしたら撃退《げきたい》した話《はなし》だってあるかもしれない。
そう思《おも》って三郎《さぶろう》に本を探《さが》しだしてもらったのだが、おとな向《む》けの本で、内容《ないよう》をちゃんと理解《りかい》することは難《むずか》しかった。それでも投《な》げずに読《よ》み進《すす》めてみると、たしかに似《に》た話《はなし》が日本じゅうにあることは分《わ》かった。だけれども、各地《かくち》の話《はなし》を並《なら》べてあるばかりで、あまり耕介《こうすけ》たちの役《やく》に立《た》ちそうにない。
耕介《こうすけ》は眠気《ねむけ》をこらえ、縁側《えんがわ》に腹這《はらば》いになって本《ほん》と取《と》り組《く》んでいた。水音《みずおと》が響《ひび》いてきていた。縁側《えんがわ》はちょうど池《いけ》に張《は》りだす格好《かっこう》になっている。カーテンは閉《し》めていたけれど窓《まど》は開《あ》けてあった。すこし肌寒《はだざむ》い風《かぜ》が、ときおり通《とお》ってカーテンを揺《ゆ》らすので、何度《なんど》閉《し》めてもカーテンのあいだには隙間《すきま》ができた。耕介《こうすけ》は、また隙間《すきま》でできているのに気づいて、本をおいてカーテンを閉《し》めた。ぽちゃん、と池《いけ》で鯉《こい》が跳《は》ねる音がした。
部屋《へや》の中の明《あ》かりは、耕介《こうすけ》が縁側《えんがわ》に持《も》ちだしたスタンドの明《あ》かりだけだった。部屋《へや》には二|組《くみ》、布団《ふとん》が敷《し》いてあったけれど、耕介《こうすけ》は縁側《えんがわ》だし、想一《そういち》はまだ帰《かえ》ってきていない。表座敷《おもてざしき》では、あいかわらず相談《そうだん》が続《つづ》いているのだろう。その気配《けはい》をとらえようと聞《き》き耳《みみ》を立てると、そろそろと廊下《ろうか》をやってくる誰《だれ》かの、微《かす》かな足音がした。想一《そういち》にしては、重《おも》みのない足音だった。耕介《こうすけ》は半身《はんみ》を起《お》こしたまま耳を澄《す》ませる。すぐに、こふっ、と襖《ふすま》を叩《たた》く音がした。
「耕《こう》ちゃん、起《お》きてる?」と、ささやくような声《こえ》がした。梨花《りか》の声《こえ》だった。
「起《お》きてるよ。」答《こた》えながら、なんとなく息《いき》を吐《は》いて、耕介《こうすけ》は立ちあがった。襖《ふすま》を開《あ》けると、薄暗《うすぐら》い廊下《ろうか》に梨花《りか》と光太《こうた》がしっかり身《み》を寄《よ》せあって立っていた。
「光太《こうた》がトイレに行《い》きたいって言《い》うの。」と、梨花《りか》は耕介《こうすけ》に訴《うった》えた。「寝《ね》ているのを揺《ゆ》すり起《お》こして、我慢《がまん》できないって言《い》うのよ。一緒《いっしょ》についてきてくれって。ほら、夜《よる》に禅《ぜん》が怪談話《かいだんばなし》をしてたじゃない? それで光太《こうた》はすっかり怯《おび》えてるの。一緒《いっしょ》に行《い》くのはいいけど、トイレの外《そと》で待《ま》ってるあいだ、あたしもひとりになるじゃない。この家《いえ》の廊下《ろうか》で、ひとりでいるのって、いやなのよ。」
耕介《こうすけ》は笑《わら》いを噛《か》み殺《ころ》して、「いいよ。」と答《こた》えた。「ぼくが行《い》くよ。」
「一緒《いっしょ》に行《い》きましょ。光太《こうた》だって、トイレの外《そと》から話《はな》し声《ごえ》がしてれば、心強《こころづよ》いと思《おも》うわ。」
うなずいて、耕介《こうすけ》は部屋《へや》を出た。東棟《ひがしむね》のトイレは耕介《こうすけ》の部屋《へや》の前《まえ》を曲《ま》がったさらに先にある。ちょうど耕介《こうすけ》|親子《おやこ》の部屋《へや》が棟《むね》の端《はし》で、そこから曲《ま》がって、池《いけ》の上にかかった渡《わた》り廊下《ろうか》を越《こ》えたところに、洗面所《せんめんじょ》と風呂《ふろ》とトイレがひとまとまりになっていた。
渡《わた》り廊下《ろうか》を越《こ》えると、光太《こうた》がぴゅっとトイレの中に駈《か》けこんだ。耕介《こうすけ》は梨花《りか》と渡《わた》り廊下《ろうか》に座《すわ》りこんだ。廊下《ろうか》の舌では、さらさらと水音がしている。のぞきこむと、どうやら廊下《ろうか》の真下《ました》に大きな穴《あな》があって、池《いけ》の水はそこに流《なが》れ落《お》ちているようだった。
「田舎《いなか》のトレイって、どうして端《はし》っこにあるのかしら。」と、梨花《りか》がぼやいた。
「そうかな。」とだけ、耕介《こうすけ》は答《こた》えた。耕介《こうすけ》には田舎《いなか》がないので、よく分《わ》からなかったのだ。父方《ちちかた》の親戚《しんせき》は、みんな都会《とかい》に住《す》んでいる。
「お父《とう》さんのほうのおばあちゃんちなんて、家《いえ》の外《そと》にトイレがあるのよ。今《いま》は家《いえ》の中にもあるけど、昔《むかし》はそれしかなくって、雨が降《ふ》ったらわざわざ傘《かさ》をさして行《い》かないといけなかったんだって。」
「へえ。」と、耕介《こうすけ》がつぶやいたところで光太《こうた》が飛《と》びだしてきた。梨花《りか》はぱっと立ちあがった。
「ついでだから、あたしも寄《よ》ってく。そこにいて、光太《こうた》に手を洗《あら》わせてね。」
念《ねん》を押《お》すように言《い》うのに、笑《わら》いを噛《か》み殺《ころ》してうなずき、耕介《こうすけ》は光太《こうた》を洗面台《せんめんだい》に連《つ》れていった。
「実《じつ》はおねえちゃんも、怖《こわ》いんだよ。」と、光太《こうた》は手を洗《あら》いながら言《い》った。
「ぼくもおっかないよ。」
「ほんと?」
うん、とうなずいたときだった。微《かす》かになにかの声《こえ》が聞《き》こえた。水の上を這《は》うようにして低《ひく》い声《こえ》が伝《つた》わってきたのだ。
「耕《こう》ちゃん、」
「しっ。」と、耕介《こうすけ》は口の前《まえ》に指《ゆび》を立てて、光太《こうた》を黙《だま》らせた。耳を澄《す》ますと、水の音が聞《き》こえる。山の梢《こずえ》が揺《ゆ》れる音、魚《さかな》の跳《は》ねるような音。そしてその合間《あいま》に、低《ひく》く歌《うた》うような声《こえ》が聞《き》こえるのだった。
「また、お葬式《そうしき》、してるよ。」と、光太《こうた》がパジャマにしがみついてきた。たしかに、その声《こえ》はお経《きょう》を読《よ》む声《こえ》にひどく似《に》ていた。それは水面《すいめん》を伝《つた》わって池《いけ》の向《む》こうから響《ひび》いてくるように思《おも》えた。ふたりで耳を澄《す》ましていると、勢《いきお》いよく梨花《りか》が飛《と》びだしてきた。
「ねえ、なにか変《へん》な声《こえ》がしない?」
耕介《こうすけ》と光太《こうた》は黙《だま》って池《いけ》の向《む》こうを指《ゆび》さした。梨花《りか》は渡《わた》り廊下《ろうか》から身《み》を乗《の》りだして、そして確認《かくにん》するようにうなずいた。
「庭《にわ》みたい。」そう声《こえ》をひそめて言《い》ってから、こくんと喉《のど》を鳴《な》らした。「行《い》ってみる?」
「怖《こわ》いよ。」と、光太《こうた》が言《い》った。
「でも、たしかめないわけには、いかないじゃない。またお母《かあ》さんたちになにか起《お》こる前触《まえぶ》れかもしれないわ。」
「梨花《りか》ちゃんと光太《こうた》は、ここにいなよ。ぼくが行《い》って見てくる。」
耕介《こうすけ》は言《い》って、手洗《てあら》いの奥《おく》へと向《む》かった。そこに勝手口《かってぐち》があるのだ。
「一緒《いっしょ》に行《い》くわ。なにかあっても、大勢《おおぜい》ならなんとかなるわよ。」
梨花《りか》が光太《こうた》の手を引《ひ》いた。光太《こうた》はしりごみするかと思《おも》ったけれど、残《のこ》されるほうがいやなのだろう、しっかり梨花《りか》の手を握《にぎ》ってついてきた。勝手口《かってぐち》には、下駄《げた》が何組《なんくみ》かおいてあった。それを適当《てきとう》に突《つ》っかけて、三人はそっと夜《よる》の庭《にわ》に出た。
庭《にわ》には月が出ていて、思《おも》ったよりも明《あか》るかった。声《こえ》はたしかに池《いけ》の向《む》こうからしていた。声《こえ》を聞《き》き逃《のが》さないよう、足音を忍《しの》ばせて、苔《こけ》の生えた裏庭《うらにわ》を歩《ある》いていく。下駄《げた》はおとな用《よう》で、とても歩《ある》きにくかった。何度《なんど》も脱《ぬ》げそうになって、早々《そうそう》に耕介《こうすけ》は諦《あきら》めた。
「ここにおいておくよ。」と、耕介《こうすけ》が言《い》うと、梨花《りか》もそれにならった。
「足なんて、あとで洗《あら》えばいいわよね。池《いけ》だってあるし、どうせ勝手口《かってぐち》をあがったところはお風呂《ふろ》なんだから。」
言《い》い訳《わけ》するように言《い》って、光太《こうた》の下駄《げた》も脱《ぬ》がせる。柔《やわ》らかく湿《しめ》った苔《こけ》を踏《ふ》んで池《いけ》の端《はし》をまわりこんでいくと、だんだん声《こえ》がはっきりとしてきた。数人《すうにん》の男の声《こえ》だった。読経《どきょう》する声《こえ》だ。微《かす》かだけれどまちがいない。
池《いけ》の縁《ふち》に沿《そ》って歩《ある》いていると、沢《さわ》に出た。月明《つきあ》かりを頼《たよ》りに、足許《あしもと》に気をつけて石を伝《つた》って対岸《たいがん》に渡《わた》った。渡《わた》ったところで、庭《にわ》の端《はし》、木が生《お》いしげってやぶのようになったあたりに明《あ》かりがひとつ、浮《う》かんでいるのが見えた。
「あれ!」
梨花《りか》が押《お》し殺《ころ》した声《こえ》で、それを示《しめ》した。まるでその声《こえ》が聞《き》こえたように、その暗《くら》い明《あ》かりはすうっと揺《ゆ》れた。
「ひ、人魂《ひとだま》?」
耕介《こうすけ》には答《こた》えられなかった。人魂《ひとだま》をみたことがなかったからだ。ただ、テレビで見る人魂《ひとだま》は、たいがい青や赤の炎《ほのお》をあげているように見える。けれども、やぶに見える明《あ》かりは、丸《まる》くふんわり浮《う》いているだけだった。色《いろ》は茶色《ちゃいろ》く、にごったように暗《くら》い。
そっと足を踏《ふ》みだすと、光《ひかり》はふわんと揺《ゆ》れて動《うご》いた。耕介《こうすけ》たちから逃《に》げようとするかのようだった。三人でしっかり身《み》を寄《よ》せあって、あとを追《お》う。光《ひかり》は上下《じょうげ》にゆっくりと揺《ゆ》れながら、すうっと林の奥《おく》へと流《なが》れていった。
ちくちくする芝生《しばふ》を踏《ふ》んで、耕介《こうすけ》たちはあとを追《お》った。林の中を貫《つらぬ》く小道《こみち》に出た。沼《ぬま》に続《つづ》くあの道《みち》だ。石ころだられの地面《じめん》を踏《ふ》みこむと、先のほうで暗《くら》い明《あ》かりが揺《ゆ》れている。頭上《ずじょう》の梢《こずえ》が月の光《ひかり》を遮《さえぎ》って、小道《こみち》はひどく暗《くら》かった。何度《なんど》も小石を踏《ふ》んで足をとられ、転《ころ》びそうになった。そのたびに、三人でなんとか支《ささ》えあう。ふわふわと揺《ゆ》れる明《あ》かりは、止《と》まってはすうっと動《うご》いて、先へ先へと逃げていった。そちらのほうから、あの読経《どきょう》の声《こえ》がしている。
すぐにあたりが明《あか》るくなった。林《はやし》をぬけたのだ。木立《こだち》が切《き》れると冷《ひ》ややかな月の光《ひかり》がいっぱいに降《ふ》ってきた。目《め》の前《まえ》にロウソクの明《あ》かりがあった。三郎《さぶろう》と約束《やくそく》したあの地蔵《じぞう》だ。台座《だいざ》の前《まえ》にロウソクが三本ほど立てられて、その明《あ》かりがゆらめきながら、いやな感《かん》じに地蔵《じぞう》の顔《かお》を照《て》らしていた。その向《む》こうには耕介《こうすけ》たちの背丈《せたけ》ほどもある草が一面《いちめん》に生《お》いしげっている。かろうじて踏《ふ》み分《わ》け道《みち》のような地面《じめん》が蛇行《だこう》しながら続《つづ》いていて、アシの中へと消《き》えていた。暗《くら》い明《あ》かりはその向《む》こうに浮《う》かんでいた。アシのしげみのあいだから、ちらちらとこぼれた明《あ》かりが、ゆっくりと揺《ゆ》れて、遠《とお》ざかっていこうとしている。
「どうする?」
足を止《と》めた耕介《こうすけ》のパジャマをつかんで、梨花《りか》がきいた。耕介《こうすけ》は明《あ》かりと、目《め》の前《まえ》のお地蔵《じぞう》さんを見比《みくら》べて迷《まよ》った。この先には、ぜったいに行《い》かないと、三郎《さぶろう》と約束《やくそく》したのだ。この先は危険《きけん》だと三郎《さぶろう》は言《い》っていた。地面《じめん》のように見えても、実《じつ》は地面《じめん》じゃない場所《ばしょ》がある。踏《ふ》みこむと、足がもぐってぬけなくなる。一郎《いちろう》おじの子どもはそうやって、この沼《ぬま》に沈《しず》んでしまったのだ。
「行《い》けないよ。約束《やくそく》だもの。」
「そ、そうよね。」
明《あ》かりのほうから、読経《どきょう》の声《こえ》は流《なが》れてきていた。誘《さそ》うように明《あ》かりが揺《ゆ》れた。
「ねえ、逃《に》げるよ。」
光太《こうた》が耕介《こうすけ》の手を引《ひ》いたが、耕介《こうすけ》はその場《ば》を動《うご》かなかった。ひょっとしたら、沼《ぬま》で溺《おぼ》れた子どもの多《おお》くが、こんなふうにして誘《さそ》いだされたのかもしれない。
ふっと読経《どきょう》の声《こえ》が絶《た》えた。歌《うた》うような調子《ちょうし》の声《こえ》が、唐突《とうとつ》にぷつっと断《た》ち切《き》られて、前方《ぜんぽう》に浮《う》かんでいた明《あ》かりが消《き》えた。沼《ぬま》に呑《の》みこまれてしまったように。
「逃《に》げた。」と、光太《こうた》が言《い》った。耕介《こうすけ》はうなずき、光太《こうた》の手を引《ひ》いた。
「戻《もど》ろう。ここで、また現《あらわ》れるのを待《ま》っていても仕方《しかた》ないよ。」
言《い》って戻《もど》ろうとしたとき、背後《はいご》から「おーい。」という声《こえ》が聞《き》こえた。耕介《こうすけ》や梨花《りか》を呼《よ》んでいる。振《ふ》り返《かえ》ると、林の中の道《みち》を、懐中電灯《かいちゅうでんとう》の明《あ》かりが駈《か》けてくるところだった。
「そこを動《うご》くんじゃないぞ!」
怒鳴《どな》り声《こえ》が聞《き》こえた。一郎《いちろう》おじの声《こえ》のようだった。耕介《こうすけ》たちは顔《かお》を見合《みあ》わせ、そこにじっと立《た》ち止《ど》まっていた。すぐに数人《すうにん》のおとなが駈《か》けつけてきた。一郎《いちろう》おじと、想一《そういち》、梨花《りか》おばと音弥《おとや》おしじ、真由《まゆ》おじの姿《すがた》が見えた。
「こんなところで、なにをしてるんだ!」と、一郎《いちろう》おじがまた怒鳴《どな》った。
「お葬式《そうしき》の声《こえ》がしたの。」と、あっさり光太《こうた》が答《こた》えた。
「なんだって?」
「お葬式《そうしき》の声《こえ》がして、人魂《ひとだま》がいたんだ。追《お》いかけてきたら沼《ぬま》に消《き》えちゃった。」
一郎《いちろう》おじが大きく息《いき》を吐《は》いた。梨花《りか》おばは息《いき》を弾《はず》ませて、光太《こうた》を引《ひ》き寄《よ》せた。
「また妙《みょう》なことを言《い》って。だめでしょう、夜中《よなか》にこんなところに来《き》たら。」
「でもね、」
言《い》いかけた光太《こうた》を、一郎《いちろう》おじがさえぎった。
「蛍《ほたる》かなにかを見たんだろう。ここで立《た》ち止《ど》まっていてくれてよかった。この先はすごく危《あぶ》ないんだよ。」
「知《し》ってるわ。」と、梨花《りか》が言《い》った。「このお地蔵《じぞう》さんより、先に行《い》っちゃいけないんでしょ? ぜったいに行《い》かないって、三郎《さぶろう》にいさんと約束《やくそく》したの。だからここで立《た》ち止《ど》まっていたのよ。」
「梨花《りか》、それより、ごめんなさい、は? おじさんたち、心配《しんぱい》して捜《さが》してくれたのよ。」
「でも、本当《ほんとう》に人魂《ひとだま》がいたの。」
「こんな夜中《よなか》にいなくなって。部屋《へや》に戻《もど》ったらもぬけのからなんだもの、お母《かあ》さん、死《し》ぬほどびっくりしたわよ。」
厳《きび》しい声《こえ》で言《い》われて、梨花《りか》が首《くび》をすくめた。
「ごめんなさい。」と謝《あやま》るのに、耕介《こうすけ》と光太《こうた》もならった。
「夜《よる》に外《そと》を出歩《である》いちゃだめだぞ。沼《ぬま》でなくたって、なにがあるか分《わ》からないんだから。」
一郎《いちろう》おじの声《こえ》は、すこし震《ふる》えていた。ひょっとしたら、ここで死《し》んだ子どものことを思《おも》い出《だ》していたのかもしれない。
[#改ページ]
8 ひみつの屋根裏《やねうら》
耕介《こうすけ》たちは、家《いえ》に戻《もど》ってから、あらためてうんと叱《しか》られた。三人は、読経《どきょう》の声《こえ》や人魂《ひとだま》のような明《あ》かりを見たことを訴《うった》えたけれど、信《しん》じてくれるおとなは、その場《ば》にはいなかった。声《こえ》は気のせい、明《あ》かりは蛍《ほたる》だろう、というわけだ。唯一《ゆいいつ》の例外《れいがい》は想一《そういち》だった。
「読経《どきょう》の声《こえ》なら、わたしも聞《き》きました。」と、耕介《こうすけ》たちもおどろくようなことを証言《しょうげん》してくれたのだった。
想一《そういち》は、話《はな》し合《あ》いが終《お》わり、ひととおりかたづけも終《お》わって、酒《さけ》を飲《の》みながら雑談《ざつだん》をしているおとなたちを座敷《ざしき》に残《のこ》し、一足先《ひとあしさき》に部屋《へや》に戻《もど》るところだった。そうすると、廊下《ろうか》の奥《おく》のほうから微《かす》かに読経《どきょう》の声《こえ》が聞《き》こえてきたのだ。こんな時間《じかん》に誰《だれ》がお経《きょう》を読《よ》んでいるのだろう、と想一《そういち》は不思議《ふしぎ》に思《おも》った。廊下《ろうか》を端《はし》まで歩《ある》いてみると、池《いけ》の向《む》こう、庭《にわ》のほうから流《なが》れてくるような気がした。最初《さいしょ》は、裏手《うらて》のほうに家《いえ》をかまえた師匠《ししょう》が、お経《きょう》をあげているのかとも思《おも》ったのだが、どうやらそうではなさそうだった。
不思議《ふしぎ》に思《おも》いながら襖《ふすま》を開《あ》けると、スタンドの明《あ》かりがついたきりで、耕介《こうすけ》の姿《すがた》がなかった。トイレにでも行《い》ったのだろうかと見に行《い》ったが、誰《だれ》もいるようすがない。他《ほか》の子どもの部屋《へや》に遊《あそ》びに行《い》っているのだろうか、と捜《さが》しているうちに読経《どきょう》の声《こえ》のことは忘《わす》れてしまった。廊下《ろうか》を歩《ある》きながら、どこかで子どもたちが遊《あそ》んでいる声《こえ》がしないかと気配《けはい》を探《さが》していると、ばったり梨花《りか》の母親《ははおや》と出くわしたのだった。
梨花《りか》おばも、想一《そういち》と同《おな》じく一足先《ひとあしさき》に部屋《へや》に戻《もど》って、子どもがいないのに気づいた。中学生の梨花《りか》はともかく、光太《こうた》はとっくに寝《ね》ている時間《じかん》だ。どこに行《い》ったのか捜そうとして、ちょうど想一《そういち》と出会《であ》ったのだった。ふたりであたりの部屋《へや》をのぞきこんで捜《さが》した。他《ほか》の子どもたちはそれぞれの部屋《へや》で寝《ね》ていた。座敷《ざしき》では残《のこ》ったおとなたちが無駄話《むだばなし》をしていた。話《はなし》を聞《き》くと、一郎《いちろう》おじは血相《けっそう》を変《か》えて表玄関《おもてげんかん》に向《む》かい、靴《くつ》があるのを確認《かくにん》すると、勝手口《かってぐち》に向《む》かった。行《い》ってみると鍵《かぎ》が開《あ》いていて、しかも下駄《げた》が減《へ》っていた。外《そと》に出たのだと察《さっ》して、おとなたちは手分《てわ》けして捜索《そうさく》に出た。一郎《いちろう》おじたちが、まっさきに沼《ぬま》のほうを探《さが》しにきて、そしてお地蔵《じぞう》さんの前《まえ》に立ちつくしている耕介《こうすけ》たちを見つけた、というわけだった。
「すごく叱《しか》られた?」
翌朝《よくあさ》、起《お》きだして集《あつ》まっていると、真由《まゆ》がきいた。
「かんかんよ。夜《よる》は早く寝《ね》るって約束《やくそく》させられちゃったわ。」
子どもたちは、茶《ちゃ》の間《ま》の裏手《うらて》にある部屋《へや》に集《あつ》まっていた。中庭《なかにわ》に面《めん》して広《ひろ》い縁側《えんがわ》があって、午前中《ごぜんちゅう》は涼《すず》しい風《かぜ》が通《とお》って居心地《いごこち》のいい場所《ばしょ》だった。
「ぜんぜん信《しん》じてくれなかったね。」と、光太《こうた》ががっかりしたように言《い》う。
「信《しん》じる信《しん》じない以前《いぜん》に、聞《き》く耳を持《も》たないって感《かん》じよ。」
「でも、耕《こう》ちゃんのお父《とう》さんも聞《き》いたんでしょ?」と、真由《まゆ》は言《い》った。「少《すく》なくとも、全部《ぜんぶ》口から出任《でまか》せじゃないって、分《わ》かってもらえたはずよ。」
「どうかしら。」と、梨花《りか》は顔《かお》をしかめた。
「他《ほか》のおとなは、みんな表座敷《おもてざしき》に残《のこ》っていたんだよね?」と、禅《ぜん》がきいた。
「みたいよ。大伯母《おおおば》さんはとっくに離《はな》れに戻《もど》ってたし、お酒《さけ》を取《と》りに行《い》ったり来《き》たりで、みんなうろうろしてはいたみたいだけど。」
「じゃあ、おとなの誰《だれ》かがいたずらをしたわけじゃないよね。」
「そもそもおとなは、あんないたずらなんてしないわよ。本当《ほんとう》に行者《ぎょうじゃ》のたたりなのかもしれないわ。すごく気味《きみ》の悪《わる》い声《こえ》だったのよ。あの、読経《どきょう》の声《こえ》。」
「だとしたら、よかったじゃない。」と、禅《ぜん》は言《い》った。
「よかった?」
「だって、同《おな》じ声《こえ》を、耕《こう》ちゃんのお父《とう》さんも聞《き》いたんでしょう? ひょっとしたら、耕《こう》ちゃんのお父《とう》さんが声《こえ》を追《お》っかけて行《い》ったかもしれないじゃない。そうしたら、きっとたいへんなことになってたよ。だって耕《こう》ちゃんのお父《とう》さんは、お地蔵《じぞう》さんの意味《いみ》を知《し》らないんだから。」
「そうか。」と、耕介《こうすけ》はつぶやいた。「お父《とう》さんだったら、あのままお地蔵《じぞう》さんの先まで行《い》っていたかも。」
「本当《ほんとう》だわ。そしたら、沼《ぬま》に落《お》ちてたかもしれないわ。大声《おおごえ》を出しても、あれだけ離《はな》れてるんだもの、きっと家《いえ》の人には聞《き》こえなかったわよね。」
梨花《りか》がおどろいたように言《い》うと、真由《まゆ》が声《こえ》をひそめた。
「ね、ひょっとしたら、今度《こんど》は耕《こう》ちゃんのお父《とう》さんが狙《ねら》われたってこと?」
「そうかもしれないわ。なのにたまたま、あたしたちがトイレに行《い》ってて、耕介《こうすけ》おじさんを助《たす》ける格好《かっこう》になっちゃったのかも。」
「お母《かあ》さんだったかもしれないね。」と、光太《こうた》が緊張《きんちょう》したようすで言《い》った。
「そうね。そうなんだわ。お母《かあ》さんだって一足先《ひとあしさき》に戻《もど》ったんだもの。しかもお母《かあ》さんも、お地蔵《じぞう》さんの意味《いみ》は知《し》らないのよ。」
「やっぱ、たたりだよ。」と、音弥《おとや》が勢《いきお》いこんで言《い》った。「行者《ぎょうじゃ》は、相続人《そうぞくにん》をどうにかするつもりなんだ。」
「これからどうするの?」と、きいたのは真由《まゆ》だった。「これじゃあ、本当《ほんとう》にお父《とう》さんたちから目を離《はな》せないわ。なにがあるか、分《わ》からないんだもん。」
「昼間《ひるま》はどうってことないのよ。相手《あいて》は幽霊《ゆうれい》なんだから。問題《もんだい》は夜《よる》ね。」
「家《いえ》の中でうろうろするぶんには、夜更《よふ》かししてても叱《しか》られないと思《おも》うな。限界《げんかい》があるとは思《おも》うけど。」と、禅《ぜん》が言《い》った。
「みんなで、お互いの部屋《へや》に泊《と》まりっこするというのはどうかしら?」と、真由《まゆ》が言《い》った。「泊《と》まったってことにして、見張《みは》りを立てるの。」
「名案《めいあん》だわ。」と梨花《りか》は声《こえ》をあげた。「でも、おとなが寝《ね》に戻《もど》ってきたらそれまでよ?」
「三郎《さぶろう》にいさんか、師匠《ししょう》のところに泊《と》まったことにできないかな?」
音弥《おとや》が言《い》って、みんなから賞賛《しょうさん》を得《え》た。お願《ねが》いのために三郎《さぶろう》を捜《さが》しに行《い》こうとしたとき、ちょうど当《とう》の三郎《さぶろう》がやってきた。
「寝坊助《ねぼすけ》ぼうずたち、朝《あさ》ご飯《はん》だよ。別名《べつめい》を昼《ひる》ご飯《はん》。」
「子どもが寝坊助《ねぼすけ》なのは、現代病《げんだいびょう》よ。あたしたちは時代《じだい》の犠牲者《ぎせいしゃ》なの。」
梨花《りか》が言《い》うと、三郎《さぶろう》は笑《わら》う。
「夜遊《よあそ》びの弊害《へいがい》だろう?」そう言《い》ってから、ちょっとにらんだ。「ゆうべ、沼《ぬま》に行《い》った約束《やくそく》やぶりの子どもがいたようだね。」
「行《い》ってないわ。一歩《いっぽ》|手前《てまえ》で立《た》ち止《ど》まったのよ。お地蔵《じぞう》さんの前《まえ》。」
「そうか。」と、三郎《さぶろう》は破顔《はがん》してから、わざとらしく怖《こわ》い顔《かお》をした。「でも、夜《よる》はだめだよ。お地蔵《じぞう》さんを見落《みお》としたらたいへんなことになるだろう? 沼《ぬま》だけじゃない。田圃《たんぼ》だって山《やま》だって、夜《よる》は危険《きけん》なんだよ。なんのはずみで事故《じこ》が起《お》こるか分《わ》からないんだから。」
「もう夜遊《よあそ》びはしないわ。家《いえ》の中でじっとしてるわよ。ついては、三郎《さぶろう》にいさんのところに泊《と》めてくれない?」
梨花《りか》が言《い》うと、音弥《おとや》がつけくわえた。
「本当《ほんとう》に泊《と》めてくれなくてもいいんだ。三郎《さぶろう》にいさんの部屋《へや》は狭《せま》いだろ。泊《と》めたってことにしておいてよ。」
三郎《さぶろう》は興味深《きょうみぶか》そうに梨花《りか》と音弥《おとや》を見比《みくら》べた。
「悪《わる》だくみかい?」
「ちがうわ、人助《ひとだす》けよ。」と、梨花《りか》が力説《りきせつ》した。「あたしたち、自分《じぶん》の親《おや》を守《まも》らないといけないんだから。また変《へん》なことがあったらいやでしょ。」
「まあ、同《おな》じ家《いえ》の中なんだから、どこに寝《ね》ようと、おじさんたちは許《ゆる》してくれるだろうけど。」
「そう。外泊《がいはく》するわけじゃないの。重要《じゅうよう》なのは、そこよ。」
「まあね。じゃあ、ぼくの秘密基地《ひみつきち》を貸《か》してあげるよ。ただし、本当《ほんとう》にお父《とう》さん、お母《かあ》さんがいいと言《い》ったらね。」
全員《ぜんいん》が張《は》り切《き》って、すぐさま親《おや》の了承《りょうしょう》を取《と》りつけてきた。子ども同士《どうし》で寝《ね》たいんだと言《い》うと、特《とく》に反対《はんたい》はされなかった。耕介《こうすけ》の父親《ちちおや》や真由《まゆ》の両親《りょうしん》は、子ども同士《どうし》がなくよくするのは結構《けっこう》なことだと言《い》ったし、音弥《おとや》の両親《りょうしん》や梨花《りか》の母親《ははおや》は、自分《じぶん》たちが小さい頃《ころ》、盆《ぼん》正月に親戚《しんせき》の家《いえ》に集《あつ》まって、子どもだけで夜更《よふ》かししたのがすごく楽《たの》しいことだったと、思《おも》い出《だ》さないわけにはいかなかった。禅《ぜん》の両親《りょうしん》だけは、子どもだけで集《あつ》まってきっと夜更《よふ》かしするだろうことに及《およ》び腰《ごし》だったけれども、結局《けっきょく》ひとつの家《いえ》の中のことだし、子どもだけで茶《ちゃ》の間《ま》に寝《ね》るようなものだ、という意見《いけん》には同意《どうい》せざるを得《え》なかったのだ。
それで三郎《さぶろう》は、秘密基地《ひみつきち》に案内《あんない》してくれた。三郎《さぶろう》の言《い》う秘密基地《ひみつきち》は、茶《ちゃ》の間《ま》や土間《どま》のある母屋《おもや》の上にあった。裏手《うらて》のほうの、やたら小さくて暗《くら》い部屋《へや》がごちゃごちゃと入《い》り乱《みだ》れている一郭《いっかく》の、納戸《なんど》の奥《おく》にある押入《おしい》れとしか思《おも》えない板戸《いたど》の向《む》こうに、二|階《かい》に登《のぼ》る階段《かいだん》があったのだ。
「もともとは、梯子《はしご》だったんだよ。大昔《おおむかし》は、ここにワラやカヤを貯《た》めておいたらしいよ。もうちょっと昔《むかし》、まだうちが農家《のうか》もやっていた頃《ころ》には、ここに下働《したばたら》きの人たちが住《す》んでいたんだって。そのままずっと、ほったらかしになっていたのを、師匠《ししょう》が階段《かいだん》をつけて、物置《ものおき》にしたんだ。」
細《ほそ》くて急《きゅう》な階段《かいだん》を、手をついて登《のぼ》ると、上はだだっ広《ぴろ》い、天井《てんじょう》の低《ひく》い板敷《いたじ》きの大部屋《おおべや》になっていた。ちょうど土間《どま》と茶《ちゃ》の間《ま》の真上《まうえ》に当《あ》たるらしい。
「たまたま見つけて、掃除《そうじ》して、修理《しゅうり》したんだ、高校《こうこう》の時《とき》。師匠《ししょう》に手伝《てつだ》ってもらって、夏《なつ》いっぱいかかったな。」
「へーえ。」
天井《てんじょう》は屋根《やね》の形《かたち》のままの三角形《さんかくけい》で、一番《いちばん》|高《たか》いところでも、やっと三郎《さぶろう》が立っていられるギリギリの高《たか》さしかなかった。部屋《へや》の両端《りょうはし》では、子どもでも屈《かが》んでいなければならない。そこには、細長《ほそなが》い窓《まど》があった。窓《まど》の外《そと》には太《ふと》い格子《こうし》が並《なら》んでいたが、太《ふと》いぶん間隔《かんかく》も広《ひろ》かったので、そのあいだから外《そと》を眺《なが》めることができた。のぞくと、表座敷《おもてざしき》のこちら側《がわ》に延《の》びる縁側《えんがわ》が見通《みとお》せた。
「すごい。見張《みは》りには最高《さいこう》の場所《ばしょ》だわ。」
反対側《はんたいがわ》にも同《おな》じような窓《まど》がある。こちらからは、家《いえ》の裏手《うらて》をすっかり見通《みとお》すことができた。折《お》れまがりながら続《つづ》いた屋根《やね》の向《む》こうに土蔵《どぞう》までが見える。
「もう使《つか》ってないの?」
部屋《へや》の両側《りょうがわ》に、古《ふる》くて低《ひく》い家具《かぐ》が並《なら》んでいた。年代物《ねんだいもの》を修理《しゅうり》したのだろうと思《おも》われるものもあったし、手作《てづく》りに見えるものもあった。本や雑誌《ざっし》が入っていて、入りきれないものは積《つ》み重《かさ》ねてある。中には高校《こうこう》の教科書《きょうかしょ》と思《おも》えるものも混《ま》じっていた。どれも埃《ほこり》が積《つ》もっている。
「うん。高校生《こうこうせい》の頃《ころ》は、ここに住《す》んでいたけど、。ごらんのとおりだから、掃除《そうじ》をしないと使《つか》えないよ。」
「任《まか》せといて。いい部屋《へや》なのに、もったいないわね。」
「大学《だいがく》に入ってからは、ずっといられるのは、長期休暇《ちょうききゅうか》のときだけだからね。でも、ここは屋根《やね》の真下《ました》で夏《なつ》は暑《あつ》いし、冬《ふゆ》は広《ひろ》すぎて寒《さむ》いんだ。ぼくはそのときどきで、いちばん居心地《いごこち》がよくて、気が向《む》いた場所《ばしょ》に行《い》くんだよ。」
「家《いえ》の中で? すごいわね。」
梨花《りか》が言《い》うと、三郎《さぶろう》はにっこり笑《わら》った。
「使《つか》わないと、家《いえ》が傷《いた》むからね。それもあって、ぼくはしょっちゅう、住処《すみか》を変《か》えるんだ。春《はる》から夏《なつ》は、今《いま》の場所《ばしょ》。」
「夏《なつ》は日陰《ひかげ》で涼《すず》しそうよね。でも、春《はる》も?」
「桜《さくら》があるから。」と、三郎《さぶろう》は笑《わら》った。「言《い》ったろう? 満開《まんかい》になるとすごいんだ。花が散《ち》る頃《ころ》はもっとすごい。あれ一本で、本当《ほんとう》に花吹雪《はなふぶき》としか言《い》いようがないありさまになるよ。」
「へええ。」
「小さい頃《ころ》、花吹雪《はなふぶき》を集《あつ》めて布団《ふとん》にしたらどんなだろう、と思《おも》って、木の下で寝《ね》たことがあったな。」と、三郎《さぶろう》はなつかしそうに言《い》った。
「木の下って、外《そと》で?」
「うん。木の下に寝《ね》ていると、どんどん花びらが積《つ》もって、ふかふかの桜《さくら》の布団《ふとん》ができるにちがいないって思《おも》ったんだ。桜《さくら》の花びらの布団《ふとん》に埋《う》もれるなんて、いかにも気持《きも》ちよくてあたたかそうじゃないか。それで無謀《むぼう》にも、ぼくはある晩《ばん》それを実行《じっこう》に移《うつ》したんだ。」
「寝心地《ねごこち》はどうだった?」
「冷《つめ》たかったな。花弁《はなびら》が湿《しめ》っていてね、いくら積《つ》もっても、ちっともあたたかくならないんだ。おまけに風《かぜ》が吹《ふ》けば、あっさり飛《と》んでいってしまうし、いつまで経《た》っても、花びらのシーツを一|枚《まい》、かぶったようなありさまでね。だからって途中《とちゅう》でやめるのは、すごく悔《くや》しくて、我慢《がまん》できるだけ我慢《がまん》したんだけど、ものすごく即物的《そくぶつてき》なことで諦《あきら》めざるを得《え》なかった。」
「即物的《そくぶつてき》なこと?」
「うん。冷《ひ》えたからトイレに行《い》きたくて、我慢《がまん》できなくなったんだよ。」
梨花《りか》は声《こえ》をあげて笑《わら》った。
「ほかのおじさんたちは、ここのこと、知ってるのかしら?」
「兄《にい》さんたちは知《し》ってるはずだけど、もうすっかり忘《わす》れてるんじゃないかな。階段《かいだん》のある納戸《なんど》じたい、生活《せいかつ》にはぜんぜん関係《かんけい》のない場所《ばしょ》だからね。」
「すごいわ。これこそ本当《ほんとう》の秘密基地《ひみつきち》ね。しかもそれが、おとなの頭上《ずじょう》にあるのよ。」
「ここなら、好《す》きに使《つか》っていいよ。でも、プロレスごっこは禁止《きんし》だ。茶《ちゃ》の間《ま》と土間《どま》にもうれつに埃《ほこり》が落《お》ちるんだ。」
「了解《りょうかい》。」
子どもたちは、その日の午後《ごご》いっぱいをかけて屋根裏《やねうら》部屋《べや》の掃除《そうじ》をした。おとなに気づかれたくなかったから、そうっとやったので思《おも》いのほか時間《じかん》がかかったが、ていねいに雑巾《ぞうきん》をかけたりいろんなものを整理《せいり》していると、そこが自分《じぶん》たちの場所《ばしょ》だという気《き》がして楽《たの》しかった。バケツの水《みず》を替《か》えたり掃除道具《そうじどうぐ》を出し入れするたびに、周囲《しゅうい》に人目がないかうかがって、なにくわぬ顔《かお》をするので、とびきりおもしろいゲームをしているような気分だった。
夕飯《ゆうはん》を終《お》えて風呂《ふろ》に入ると、わくわくしながら屋根裏《やねうら》部屋《べや》に集《あつ》まった。どうせ夏《なつ》の暑《あつ》い盛《さか》りのことだから、布団《ふとん》なんて必要《ひつよう》ない。タオルケットと枕《まくら》でじゅうぶんだし、三郎《さぶろう》の言《い》ったとおり、それでも暑《あつ》いくらいだった。あわれんだ三郎《さぶろう》が、蚊取《かと》り線香《せんこう》と扇風機《せんぷうき》をさし入れてくれた。それでやっとしのぎやすくなった。
おとなたちは、べつにどこに寝《ね》るんだとききもしなかった。三郎《さぶろう》のところに泊《と》まる、と言《い》ってあるから、どこか三郎《さぶろう》の部屋《へや》のあたりに集《あつ》まるのだろうと思《おも》ってるらしかった。三郎《さぶろう》の部屋《へや》の周辺《しゅうへん》には、空いた小部屋《こべや》がいっぱいあった。どれも、昔《むかし》まだ使用人《しようにん》が大勢《おおぜい》いたときにその家族《かぞく》が使《つか》っていたり、六人も八人も子どもがいた時代《じだい》に、子どもたちが使《つか》っていた部屋《へや》だという。
子どもたちは話《はな》し合《あ》いのすえ、順番《じゅんばん》に不寝番《ふしんばん》をつとめることになった。年下から順番《じゅんばん》にふたりずつ、東棟《ひがしむね》を見張《みは》るのだ。最初《さいしょ》は光太《こうた》と禅《ぜん》だった。ふたりは表座敷《おもてざしき》を見おろす窓辺《まどべ》に大まじめに陣取《じんど》って、ときおり立っては裏庭《うらにわ》|側《がわ》を見渡《みわた》していた。その次《つぎ》は、音弥《おとや》と真由《まゆ》の組《くみ》だった。もうずいぶん遅《おそ》い時間《じかん》だったので、耕介《こうすけ》と梨花《りか》は自分《じぶん》たちの番《ばん》に備《そな》えて寝《ね》た。その眠《ねむ》りから、激《はげ》しく揺《ゆ》さぶられて引《ひ》きずりだされたのだった。
「もう、順番《じゅんばん》?」
耕介《こうすけ》が目をこすって起《お》きあがると、音弥《おとや》が上擦《うわず》った声《こえ》をあげた。
「井戸《いど》、井戸《いど》。」
「井戸《いど》?」と、梨花《りか》が寝《ね》ぼけた声《こえ》できいた。
「井戸《いど》の音、するんだ。」と、音弥《おとや》が切羽詰《せっぱつ》まったようすで耕介《こうすけ》を揺《ゆ》すった。
「キイキイって。」と、真由《まゆ》が半泣《はんな》きの声《こえ》で訴《うった》える。
耕介《こうすけ》はやっとしゃっきり目を覚《さ》ました。
「どこ?」
きくと、音弥《おとや》と真由《まゆ》が、裏《うら》のほうの窓《まど》をさす。窓《まど》に駈《か》けよってみると、たしかに遠《とお》くから、ゆっくりとなにかが軋《きし》るような音がしていた。
「い、井戸《いど》の、音じゃない? 三郎《さぶろう》にいさんが言《い》ってたやつ。」
耕介《こうすけ》は耳を澄《す》ませた。それが、なんの音なのかは分《わ》からない。けれどもたしかに、なにかがゆっくり軋《きし》る音で、金属《きんぞく》がこすれ合《あ》う音とは、すこし調子《ちょうし》がちがっていた。もっとこもった、いやな音だ。キイと微《かす》かに鳴《な》り、すこし止《や》む。一息《ひといき》つくほどの間《ま》をおいて、またキイと軋《きし》る。
以前《いぜん》、釣瓶《つるべ》をおろしたときに聞《き》いた音だ。誰《だれ》かがゆっくり釣瓶《つるべ》をおろしてあげてを繰《く》り返《かえ》している。
「どうしよう。」と、音弥《おとや》がきいた。
「でもあれは、お母《かあ》さんたちには関係《かんけい》ないわよね?」と、真由《まゆ》が懇願《こんがん》するように言《い》った。
「見てくるよ。」と、耕介《こうすけ》は答《こた》えた。三郎《さぶろう》は、井戸《いど》の中にいるのが何者《なにもの》なのかは言《い》わなかった。だからこれは、おとなにはなんの関係《かんけい》もないことなのかもしれなかった。「音弥《おとや》たちは見張《みは》りを続《つづ》けてて。」
「あたしも行《い》くわ。」と、梨花《りか》が引《ひ》きつった声《こえ》で言《い》った。「なにかあったら、たいへんだもの。」
耕介《こうすけ》はうなずき、梨花《りか》とふたり、急《きゅう》な階段《かいだん》をおりていった。おりるとき、部屋《へや》に目をやると、音弥《おとや》と真由《まゆ》が不安《ふあん》そうにしている横《よこ》で、光太《こうた》と禅《ぜん》はぐっすり眠《ねむ》りこんでいた。
納戸《なんど》はしんと静《しず》まりかえっていた。いったん出た茶《ちゃ》の間《ま》にも人の気配《けはい》はなかった。東棟《ひがしむね》のおとなも寝入《ねい》っているのだろう、なんの物音《ものおと》も聞《き》こえない。そろそろと座敷《ざしき》をぬけ、仏間《ぶつま》の脇《わき》を通《とお》って渡《わた》り廊下《ろうか》に出た。三郎《さぶろう》のいるあたりを越《こ》えて裏手《うらて》に向《む》かうと、井戸《いど》のある渡《わた》り廊下《ろうか》に出る。つい昨日《きのう》、床下《ゆかした》をバケツリレーした廊下《ろうか》だ。
渡《わた》り廊下《ろうか》の手前《てまえ》にさしかかったあたりから、軋《きし》る音は絶《た》えていた。そろそろと井戸《いど》のほうをのぞきこむと、月明《つきあ》かりで井戸《いど》の蓋《ふた》が開《あ》いているのが目に入った。本当《ほんとう》なら蓋《ふた》の上にそろえてあるはずの釣瓶《つるべ》は、一方《いっぽう》が井戸《いど》の中におろされたままで、ついさっきまで誰《だれ》かが使《つか》っていたかのように揺《ゆ》れている。
「誰《だれ》も、いないわ。」
耕介《こうすけ》はうなずいて、そして井戸《いど》をのぞきこんでみるべきか迷《まよ》った。とりあえず周囲《しゅうい》に誰《だれ》もいないか、たしかめないといけない。裸足《はだし》のまま廊下《ろうか》からおりた。三方《さんぽう》を建物《たてもの》と廊下《ろうか》に囲《かこ》まれた裏庭《うらにわ》には、誰《だれ》の姿《すがた》もなかった。念《ねん》のために、壁際《かべぎわ》に生えたヤツデの陰《かげ》や、廊下《ろうか》の下をのぞきこんでみたけれど、やはり誰《だれ》かが隠《かく》れているようすはない。もう釣瓶《つるべ》は静《しず》まりかえっている。調《しら》べる場所《ばしょ》が残《のこ》っているとすれば、井戸《いど》そのものだけだった。
渡《わた》り廊下《ろうか》の柱《はしら》にしがみついたままの梨花《りか》が小声《こごえ》で言《い》った。
「でも、見てみないと。」
井戸《いど》をのぞきこんでみないことには、調《しら》べたとは言《い》えないだろう。屋根裏《やねうら》部屋《べや》に戻《もど》って「どうだった。」ときかれたとき、肝心《かんじん》の井戸《いど》はのぞいてみなかった、とはとても言《い》えない。
「危《あぶ》ないよ、もし、」
梨花《りか》は言《い》いかけたけど、その先は言《い》わなかった。
「すごく気をつけるよ。それに、蓋《ふた》を戻《もど》して釣瓶《つるべ》をちゃんとしておかないと。」
耕介《こうすけ》は言《い》って、井戸端《いどばた》に歩《ある》いていった。蓋《ふた》は井戸《いど》の脇《わき》に落《お》ちていた。踏《ふ》まないように気をつけて、おそるおそる井戸《いど》に近《ちか》づく。少《すく》なくとも、耕介《こうすけ》の立った場所《ばしょ》からは、暗《くら》い穴《あな》より他《ほか》にはなにも見えなかった。勇気《ゆうき》を出して足を踏《ふ》みだし、ちらりと中をのぞきこんだ。やはりまっくらな穴《あな》しか見えなかった。そっと手を伸《の》ばして、釣瓶《つるべ》の縄《なわ》をつかまえる。下からすっと冷《ひ》えた空気《くうき》が吹《ふ》きあげてきたが、それ以外《いがい》のものが出てくる気配《けはい》はなかった。中をのぞきこまないように、けれども視野《しや》の端《はし》でしっかり中を注視《ちゅうし》しながら、そろそろと釣瓶《つるべ》をたぐる。滑車《かっしゃ》がいやな軋《きし》みをあげた。
釣瓶《つるべ》をあげ、井戸《井戸》の縁《ふち》において蓋《ふた》をした。釣瓶《つるべ》の中の水をこぼして、二つの釣瓶《つるべ》を蓋《ふた》の上に並《なら》べる。それでやるべきことは終《お》わりだった。なにも起《お》こらなかった。井戸《いど》の中には、なにもいなかった。少《すく》なくとも耕介《こうすけ》に見えた範囲《はんい》には。
「だいじょうぶ?」
「うん。なにもいないよ。」
「どうして釣瓶《つるべ》がおりてたの?」
「分《わ》からない。」と、答《こた》えながら渡《わた》り廊下《ろうか》に這《は》いあがった。「少《すく》なくとも、三郎《さぶろう》にいさんや師匠《ししょう》が使《つか》ったまま放《ほう》りだしてあったんじゃないと思《おも》うけど。」
「そうよね、あのふたりならきっと、そんなことはしないわよね。」
「うん。ひょっとしたら、親《おや》たちの誰《だれ》かかも。でも、なんでもなかったよ。」
「さっきまで音がしてたわ。」
「風《かぜ》で釣瓶《つるべ》が揺《ゆ》れたせいかもしれないね。」
言《い》って、耕介《こうすけ》は足の裏《うら》をこすった。払《はら》えるだけ土を払《はら》って、戻《もど》ろう、と梨花《りか》をうながした。足跡《あしあと》が残《のこ》らなければいいんだけど、と思《おも》いながら茶《ちゃ》の間《ま》のほうへ戻《もど》る。茶《ちゃ》の間《ま》から納戸《なんど》のほうに入ろうとしたところで、梨花《りか》が「ちょっと。」と、耕介《こうすけ》のパジャマを引《ひ》っ張《ぱ》った。
「ねえ、あれ。」
梨花《りか》が示《しめ》したほうを見ると、土間《どま》の入り口が開《ひら》いていた。格子《こうし》の入った引《ひ》き戸《ど》が半分《はんぶん》、開《あ》いたままになっている。
「さっきも、開《あ》いてた?」
「覚《おぼ》えてない。」と、耕介《こうすけ》は答《こた》えた。さっき、おりてきたときは、井戸《いど》の軋《きし》るのばかり気にしていたから、ぜんぜん土間《どま》の入り口には注意《ちゅうい》していなかった。でももしも開《ひら》いてたなら、気づきそうなものだ。たった今《いま》、そのつもりもなく梨花《りか》が気づいたように。
耕介《こうすけ》は土間《どま》におりて、戸口《とぐち》から外《そと》をのぞいてみた。しんと寝静《ねしず》まった内庭《うちにわ》と、表門《おもてもん》に続《つづ》く前庭《まえにわ》が広《ひろ》がっているのが見えた。
「誰《だれ》かいる?」
いない、と答《こた》えようとしたとき、ぱっと庭《にわ》に明《あ》かりが射《さ》した。激《はげ》しく揺《ゆ》れて、同時《どうじ》に甲高《かんだか》い声《こえ》がした。
「落《お》ちた! 落《お》ちた!」
悲鳴《ひめい》みたいな真由《まゆ》の声《こえ》だった。耕介《こうすけ》はぞっとして駈《か》けだした。「落《お》ちた」という言葉《ことば》で、すぐさま沼《ぬま》を思《おも》い出《だ》した。庭《にわ》に走《はし》りでると同時《どうじ》に、真由《まゆ》が主庭《しゅにわ》のほうから駈《か》けてきた。
「耕《こう》ちゃん、たいへん!」
懐中電灯《かいちゅうでんとう》の明《あ》かりが、大きく揺《ゆ》れた。真由《まゆ》はひとりだ。ひばに、音弥《おとや》の姿《すがた》が見えない。
「音弥《おとや》は?」
「沼《ぬま》!」と、真由《まゆ》は金切《かなき》り声《ごえ》をあげた。ぱっと東《ひがし》の棟《むね》に明《あ》かりがついた。「助《たす》けて! 落《お》ちたの! 沈《しず》んじゃう!」
耕介《こうすけ》は、真由《まゆ》の手から懐中電灯《かいちゅうでんとう》を取《と》りあげた。「おとなを呼《よ》んで。」と、言《い》うやいなや走《はし》りだした。主庭《しゅにわ》を横切《よこぎ》り、林の中をぬける。小道《こみち》を途中《とちゅう》まで来《き》たところで、梨花《りか》が一緒《いっしょ》に走《はし》ってきていたのに気づいた。言葉《ことば》をかける余裕《よゆう》なんかなかった。耕介《こうすけ》は一心《いっしん》に走《はし》った。懐中電灯《かいちゅうでんとう》の明《あ》かりが揺《ゆ》れる。林《はやし》をぬけたところで、「おーい。」と声《こえ》がした。
声《こえ》のほうに明《あ》かりを向《む》けると、すこし先の草むらに、音弥《おとや》が転《ころ》がっていた。最初《さいしょ》、耕介《こうすけ》は音弥《おとや》が半分《はんぶん》、沈《しず》んでいるのだと思《おも》った。駈《か》けよって、すぐにそうでないことに気づいた。音弥《おとや》は腰《こし》に巻《ま》いたロープをつかんで腰《こし》を落《お》とし、アシの草むらに懸命《けんめい》に足を踏《ふ》ん張《ば》っているのだった。
「音弥《おとや》!」
「助《たす》けて。落《お》ちちゃうよ。」
耕介《こうすけ》と梨花《りか》が飛《と》びついて、音弥《おとや》とロープを支《ささ》えた。アシのしげみの向《む》こうから、水音と「助《たす》けてくれえ。」という情《なさ》けない声《こえ》がした。
「父《とう》ちゃんなんだ。埋《う》まっちゃったんだよ。」
「しっかり端《はし》を持《も》っててください!」
耕介《こうすけ》は、音弥《おとや》おじに声《こえ》をかけてロープをつかんだ。幸《さいわ》い、ロープはしっかり音弥《おとや》の腰《こし》に結びつけられていた。耕介《こうすけ》と梨花《りか》はロープを持《も》って懸命《けんめい》に踏《ふ》ん張《ば》った。なんとか音弥《おとや》と一緒《いっしょ》に前《まえ》に進《すす》もうとしたけれども、その場《ば》に踏《ふ》みとどまるのが精一杯《せいいっぱい》だった。
「父《とう》ちゃんが、落《お》ちる。」
「だいじょうぶよ、じきにおとなが来《く》るから。」
梨花《りか》の言《い》ったとおりだった。すぐにおとなたちの大声《おおごえ》が聞《き》こえた。懐中電灯《かいちゅうでんとう》の明《あ》かりが何本《なんぼん》も林の中を貫《つらぬ》いて、夜空《よぞら》に光《ひかり》の帯《おび》を作《つく》った。
[#改ページ]
9 地蔵《じぞう》|担《かつ》ぎ
駈《か》けつけたおとなたちの手で、音弥《おとや》おじは沼《ぬま》から引《ひ》きあげられた。音弥《おとや》おじを引《ひ》きあげると、足《あし》にからまった水草やアシの根《ね》までが、ずるりとぬけてあがってきた。まるで音弥《おとや》おじを引《ひ》きこもうとする細《ほそ》い手のようだった。
その夜《よる》、耕介《こうすけ》と梨花《りか》が屋根裏《やねうら》部屋《べや》をおりていって、残《のこ》された音弥《おとや》と真由《まゆ》は気味《きみ》の悪《わる》い思《おも》いをしながらも、ちゃんと表《おもて》を見張《みは》っていたのだった。できるだけ井戸《いど》の軋《きし》る音は気にしないようにつとめた。それから気を逸《そ》らしているためにも、ふたりは熱心《ねっしん》に表《おもて》を監視《かんし》していた。庭木《にわき》のあいだに揺《ゆ》れている明《あ》かりに気がついたのは、真由《まゆ》だった。ふたりはすぐさま、その前《まえ》の夜《よる》、耕介《こうすけ》たちが見た人魂《ひとだま》のことを思《おも》い出《だ》した。見に行《い》ったものか悩《なや》んでいると真下《ました》で戸《と》の開《平》く音がして、音弥《おとや》おじが内庭《うちにわ》に出ていくのを見たのだった。
ふたりはすっかり怯《おび》えていたが、音弥《おとや》おじが一緒《いっしょ》だった。手を引《ひ》いてもらったわけではないけれども、すぐ前《まえ》を音弥《おとや》おじが歩《ある》くのなら、一緒《いっしょ》に行《い》くのと同《おな》じことだ。それで、ふたりは、ぐっすり寝入《ねい》っている光太《こうた》と禅《ぜん》を残《のこ》して、あわてて下におり、音弥《おとや》おじのあとを追《お》って沼《ぬま》へと急《いそ》いだのだった。
「そしたら、父《とう》ちゃんがいきなり見えなくなったんだ。ズボッて。」
音弥《おとや》は翌日《よくじつ》、庭《にわ》を歩《ある》きながら言《い》った。
「すごい音がして父《とう》ちゃんが浮《う》いてきた。這《は》いあがろうとしてもだめなんだ。。それでおれ、あわててそのへんを探《さぐ》ったんだよ。そしたら、しげみの中にロープがあって、それを父《とう》ちゃんに投《な》げたんだ。」
「間一髪《かんいっぱつ》だったわねえ。」と、梨花《りか》がたった今《いま》、それを見ているように大きく息《いき》を吐《は》いた。
「まったくだよ。父《とう》ちゃんがロープをつかんだとたん、ずるっておれまで引《ひ》きずられちゃってさ。ロープを放《はな》したら父《とう》ちゃんが溺《おぼ》れる、って思《おも》ったから、必死《ひっし》で草むらに足を踏《ふ》ん張《ば》って、ロープを腰《こし》に縛《しば》ったんだ。でも、耕《こう》ちゃんたちが来《き》てくれるの、もうちょっと遅《おそ》かったらヤバかった。」
あとで聞《き》いたところでは、音弥《おとや》おじはその日、表座敷《おもてざしき》での相談《そうだん》のあと、いつものように酒盛《さかも》りをして、その場《ば》で寝入《ねい》ってしまったのだそうだ。夏《なつ》のことだし、他《ほか》のおとなもそのままにしておいた。そして音弥《おとや》おじは、深夜に目を覚《さ》ました。部屋《へや》に戻《もど》ろうとして、庭《にわ》に明《あ》かりがあるのを見たのだった。
音弥《おとや》おじは、前《まえ》の夜《よる》の騒《さわ》ぎを覚《おぼ》えていた。きっと子どもがまた夜《よる》の庭《にわ》で遊《あそ》んでいるのにちがいないと思《おも》ったのだそうだ。特《とく》におかしいとは感《かん》じなかった。なぜなら読経《どきょう》の声《こえ》が聞《き》こえなかったからだ。暗《くら》い光《ひかり》が浮《う》いているだけで、だからきっと子どもたちの懐中電灯《かいちゅうでんとう》だろうと思《おも》ったらしい。わざわざ青い布《ぬの》かなにかを、かぶせて暗《くら》くしてあるんだと思《おも》ったのだそうだ。ひっつかまえて叱《しか》ってやらなければ、と思《おも》って明《あ》かりのあとをつけていって、そしたらいきなり、ずっぽり沼《ぬま》に踏《ふ》みこんでしまった。音弥《おとや》おじは、突然《とつぜん》|地面《じめん》がとけてぬけたような気がした、という。
「天のお恵《めぐ》みね。そんなところにロープがあったなんて、あんたたち、本当《ほんとう》に運《うん》がよかったわよ。」
「ほんとだ。お蔵《くら》さまが恵《めぐ》んでくれたのかもなあ。」
話《はな》しているうちに、林《はやし》をぬけた「やっぱり。」と、音弥《おとや》は立《た》ち止《ど》まった。
「ほら、言《い》ったとおりだろ。お地蔵《じぞう》さまがない。」
「ほんとだわ。」
梨花《りか》は、ぽかんとあたりを見まわした。林の位置《いち》、土手道《どてみち》の位置《いち》、記憶《きおく》にあるそれらからすると、あるべき位置《いち》にお地蔵《じぞう》さまの姿《すがた》が見えない。
お地蔵《じぞう》さまの向《む》こうは危険《きけん》だと教《おし》えられていたのだ。その先には行《い》かないと約束《やくそく》していたのに、音弥《おとや》は父親《ちちおや》を追《お》ってずっと先まで入りこんでいた。なぜ立《た》ち止《ど》まって父親《ちちおや》を呼《よ》ばなかったのか、と梨花《りか》に問《と》われて、お地蔵《じぞう》さまなんか見なかった、と音弥《おとや》も真由《まゆ》も主張《しゅちょう》したのだ。そう言《い》われてみると、耕介《こうすけ》にも梨花《りか》にも、昨晩《さくばん》お地蔵《じぞう》さまを見た覚《おぼ》えがなかった。それでこうやってたしかめに来《き》たのだが、やはりお地蔵《じぞう》さまは姿《すがた》を消《け》していた。
「でも、なんでお地蔵《じぞう》さまはくが消《き》えるの?」と、真由《まゆ》がきいた。
「歩《ある》いてどこかに行《い》くはずは、ないものねえ。」
「探《さが》す?」と、光太《こうた》が走《はし》りだすのを、梨花《りか》は襟首《えりくび》をつかんで捕《つか》まえる。
「だめ。お地蔵《じぞう》さんがいないんだから、どこまで安全《あんぜん》か分《わ》からないでしょ。」
「あそこまではだいじょうぶだよ。」と、禅《ぜん》が言《い》った。「人がいっぱい踏《ふ》み荒《あ》らしたあとがあるもん。ゆうべの足跡《あしあと》でしょう?」
「そうだけど。」と、梨花《りか》が言《い》ったとき、耕介《こうすけ》が声《こえ》をあげた。
「あそこ。」
うんと右のほう、草むらのそばに丸《まる》い石が転《ころ》がっていた。お地蔵《じぞう》さまのそばに転《ころ》がっていた石のようだった。
「光太《こうた》は、ここにいて。真由《まゆ》、光太《こうた》をお願《ねが》いね。」
梨花《りか》は言《い》って、そろそろと先に進《すす》んだ。耕介《こうすけ》と音弥《おとや》、禅《ぜん》もそれにならった。一|歩《ぽ》ずつ、足許《あしもと》をたしかめるように進《すす》んで近《ちか》づくと、まちがいなく台座《だいざ》のそばに残《のこ》されていたお地蔵《じぞう》さまの残骸《ざんがい》らしい石だった。見れば、その近《ちか》くのやぶの中には壊《こわ》れた台座《だいざ》が放《ほう》りこんであり、別《べつ》の草むらの端《はし》にはお地蔵《じぞう》さんが埋《う》もれている。
「こんなところにあるわ。」
「ねえ、これ、このままにしとくわけには、いかないんじゃない?」と、禅《ぜん》が言《い》った。「だって、沼《ぬま》で死《し》んだ子の供養《くよう》のために立ててあるんでしょう?」
「そうね。師匠《ししょう》か三郎《さぶろう》にいさんに知《し》らせましょ。」
子どもたちは駈《か》け戻《もど》り、すぐに庭掃除《にわそうじ》をしているふたりを見つけた。
「ゆうべは、たいへんだったんだってなあ。」と、師匠《ししょう》は子どもたちがやって来《く》るのを見るなり言《い》った。「おれはすっかり寝入《ねい》ってて、ぜんぜん騒《さわ》ぎに気づかなかったんだよ。駈《か》けつけてやれなくて、すまなかったなあ。」
「ううん。」と、音弥《おとや》は答《こた》える。「父《とう》ちゃんもだいじょうぶだったし、どうってことないよ。それより、お地蔵《じぞう》さんがたいへんだよ。」
音弥《おとや》が説明《せつめい》すると、ふたりはおどろいたように顔《かお》を見合《みあ》わせて、すぐさま沼《ぬま》へと足を運《はこ》んだ。
「罰当《ばちあ》たりなことをするやつがいたもんだ。」
師匠《ししょう》は言《い》って、慣《な》れたようすで草むらの中に足を踏《ふ》み入《い》れた。どこまでが地面《じめん》なのか、知《し》りつくしている感《かん》じで、迷《まよ》うことなく散《ち》らばった石を探《さが》しだした。三郎《さぶろう》が手伝《てつだ》って、それぞれは拾《ひろ》いあげられ、もとあった位置《いち》に戻《もど》された。お地蔵《じぞう》さまがのっていた台座《だいざ》のほうは三郎《さぶろう》とふたりがかりだった。
「重《おも》い?」と、光太《こうた》がきくと、「かなりね。」と三郎《さぶろう》が答《こた》えた。
「お地蔵《じぞう》さまが自分《じぶん》で逃《に》げだしたんじゃなきゃ、よほどの力持《ちからも》ちが動《うご》かしたのね。」と、梨花《りか》が言《い》う。
「誰《だれ》か呼《よ》んで来《こ》ようか? お地蔵《じぞう》さまを戻《もど》せないでしょう?」
禅《ぜん》がきくと、いいや、と師匠《ししょう》は手を振《ふ》った。
「それより縄《なわ》を取《と》ってきてくれ。ああ、いい。そこにある。」
師匠《ししょう》が示《しめ》して、三郎《さぶろう》がそれを拾《ひろ》いあげた。
「それ、ゆうべ父《とう》ちゃんの救助《きゅうじょ》に使《つか》ったやつだ。」と、音弥《おとや》がなんとなく誇《ほこ》らしそうに言《い》った。
「これで担《かつ》ごう。起《お》こしてくれ。」と、師匠《ししょう》はなんでもないことのように言《い》う。子どもたちは目を丸《まる》くした。師匠《ししょう》はどちらかと言《い》うと小柄《こがら》なほうだ。しかも、歳《とし》だって取《と》っている。ぜんぜん元気《げんき》だったけど、老人《ろうじん》であることはたしかだった。どう考《かんが》えても台座《だいざ》の何倍《なんばい》も重《おも》そうな石の地蔵《じぞう》を担《かつ》げるとは思《おも》えない。なのに、三郎《さぶろう》は当《あ》たり前《まえ》のように、やぶの中の地蔵《じぞう》を苦心《くしん》して起《お》こした。起《お》こした地蔵《じぞう》の首《くび》に、師匠《ししょう》がロープを巻《ま》く。巻《ま》いてねじったロープの下に肩《かた》を入れると、ぐっと力を入れて背中《せなか》に担《かつ》ぎあげた。
「すごい。」
三郎《さぶろう》が手を貸《か》して、それでお地蔵《じぞう》さんはもとの台座《だいざ》の上にちゃんと収《おさ》まった。
「すごいねえ。」
こどもたちが口々《くちぐち》に言《い》うのに、師匠《ししょう》は照《て》れたように笑《わら》う。
「なあに。そんなに大層《たいそう》なことじゃないんだよ。腕《うで》に抱《かか》えるとたいへんなんだが、ああすると結構《けっこう》|重《おも》いものも、あがるものなんだ。」
「でも、お地蔵《じぞう》さんの首《くび》を吊《つ》ってるみたいで、ちょっと罰当《ばちあ》たりな感《かん》じね。」と梨花《りか》が言《い》った。
「まあね。」と三郎《さぶろう》が苦笑《くしょう》した。「でも、お地蔵《じぞう》さんを運《はこ》ぶ、伝統的《でんとうてき》な方法《ほうほう》なんだよ。地蔵《じぞう》|担《かつ》ぎっていうんだ。」
師匠《ししょう》がちょっと位置《いち》を直《なお》して、使《つか》い終《お》わったロープを巻《ま》いた。禅《ぜん》はぽかんと、それを見ていた。
「これでいいだろう。」と、師匠《ししょう》が言《い》った。「知《し》らせてくれてありがとうな。」
「ねえ、おかしくない?」と、禅《ぜん》が言《い》ったのは、みんなで家《いえ》に帰《かえ》って、三郎《さぶろう》と師匠《ししょう》が掃除《そうじ》の続《つづ》きに戻《もど》ってからのことだった。
「おかしいって?」芝生《しばふ》に寝転《ねころ》がっていた梨花《りか》が、禅《ぜん》を振《ふ》り返《かえ》った。
「あのロープ、なんであんなところにあったのかな。」
「さあ? 誰《だれ》かが忘《わす》れていったんでしょ? でなきゃ、本当《ほんとう》にお蔵《くら》さまのプレゼントかもね。」
「師匠《ししょう》みたいにして、担《かつ》いだんじゃないかな。」
禅《ぜん》が言《い》って、耕介《こうすけ》は、はっとした。すぐに禅《ぜん》がなにを言《い》いたいのか分《わ》かった。あのロープは本当《ほんとう》に忘《わす》れ物《もの》だったのかもしれない。師匠《ししょう》がやったように地蔵《じぞう》を担《かつ》いで動《うご》かした誰《だれ》かの。
「そうかもしれない。あのロープ、まだ新《あたら》しかったから。」
耕介《こうすけ》が言《い》うと、梨花《りか》が不思議《ふしぎ》そうに身《み》を起《お》こした。
「なあに?」
「だから、誰《だれ》かが師匠《ししょう》と同《おな》じようにして、地蔵《じぞう》を動《うご》かしたのかもしれないってことだよ。使《つか》い終《お》わったロープを、放《ほう》りだしてあった。それをたまたま音《おと》ちゃんが見つけた。」
「動《うご》かしたって、誰《だれ》が?」
「問題《もんだい》はそこだよ。」と、禅《ぜん》が声《こえ》を低《ひく》めた。「音《おと》ちゃんのお父《とう》さんが沼《ぬま》に落《お》ちたの、もしも行者《ぎょうじゃ》のたたりだとしたら、そんな方法《ほうほう》でお地蔵《じぞう》さまを動《うご》かす?」
梨花《りか》はちょっと宙《ちゅう》をにらんだ。
「そうね。それはあんまり幽霊《ゆうれい》らしくないわね。」
「でしょう? あの方法《ほうほう》でお地蔵《じぞう》さまを動《うご》かした人がいたとしたら、それは、ちゃんとした人間《にんげん》だよ。普通《ふつう》に抱《かか》えあげることができないから、ロープを使《つか》って担《かつ》いだ。そうやってお地蔵《じぞう》さんを動《うご》かして、やぶの中に放《ほう》りこんで、まわりの石もなにもかもそのへんに放《ほう》りだした。」
「そして、」と、耕介《こうすけ》は言《い》った。「お地蔵《じぞう》さまがなかったから、音弥《おとや》おじさんは沼《ぬま》の危《あぶ》ないところまで行《い》ってしまったんだ。そういうことだろ?」
そうか、と子どもたちはいっせいに声《こえ》をあげた。
「ぼくと梨花《りか》ちゃんたちが沼《ぬま》に行《い》ったとき、音弥《おとや》おじさんも捜《さが》しに来《き》てたよ。あのときぼくらは、お地蔵《じぞう》さまの先は危険《きけん》だから行《い》ってない、約束《やくそく》したんだって言《い》ったろ? 音弥《おとや》おじさんがそれを覚《おぼ》えてるかどうか分《わ》からないけど、覚《おぼ》えてて地蔵《じぞう》を見たら、きっと先には行《い》かなかったと思《おも》うんだ。」
「父《とう》ちゃんの場合《ばあい》、」と、音弥《おとや》が言《い》った。「本当《ほんとう》に行《い》かなかったかどうかは、あやしいけどな。でも、ちょっとくらいは立《た》ち止《ど》まって考《かんが》えたと思《おも》うよ。」
禅《ぜん》はうなずいた。
「逆《ぎゃく》に言《い》うとさ、誰《だれ》かが音弥《おとや》おじさんを沼《ぬま》に落《お》としてやろうと思《おも》ったら、あの地蔵《じぞう》を動《うご》かしておけば確実《かくじつ》なんだよ。そうしないと、沼《ぬま》の手前《てまえ》で引《ひ》き返《かえ》しちゃうんだから。」
「誰《だれ》かがやったってこと? わざと音弥《おとや》おじさんを落《お》とそうとして?」と、梨花《りか》がきいた。
「音弥《おとや》おじさんを狙《ねら》ったのかどうか、分《わ》からないよ。でも、誰《だれ》かを狙《ねら》ってわざとやったことは確実《かくじつ》だよ。でもってそれは、ぜったいに幽霊《ゆうれい》なんかじゃない。」
「でも、誰《だれ》が?」と、真由《まゆ》が怯《おび》えたようにきいた。
「分《わ》からないよ、そこまでは。でも、やっぱりちゃんと犯人《はんにん》がいるんだ。」
そう禅《ぜん》は断言《だんげん》してから、首《くび》をかしげた。
「真由《まゆ》は、音弥《おとや》おじさんが落《お》ちてすぐ、家《いえ》に駈《か》け戻《もど》ってきたんだよね?」
「そうよ。音《おと》ちゃんが、そうしろって言《い》ったの。助《たす》けを呼《よ》んでくれって。」
「でもって音弥《おとや》おじさんが落《お》ちる直前《ちょくぜん》まで、人魂《ひとだま》は見えてたんだよね?」
そう、と真由《まゆ》も音弥《おとや》もうなずいた。
「ということは、犯人《はんにん》は真由《まゆ》が家《いえ》に戻《もど》ったのと前後《ぜんご》して、家《いえ》に戻《もど》ったはずじゃない? 真由《まゆ》ちゃんがおとなを起《お》こしたとき、いなかった人は?」
真由《まゆ》は首《くび》を傾《かたむ》けた。
「どうだったかしら。とにかくあたし、東《ひがし》の棟《むね》に駈《か》けこんだのよ。」
表座敷《おもてざしき》には誰《だれ》の姿《すがた》もなかった。声《こえ》をあげながら客間《きゃくま》のほうに向《む》かうと、すぐに梨花《りか》おばがパジャマ姿《すがた》で出てきた。音弥《おとや》おじが沼《ぬま》に落《お》ちた、と騒《さわ》いでいる声《こえ》を聞《き》きつけて、想一《そういち》と真由《まゆ》の母親《ははおや》が出てきた。話《はなし》を聞《き》くと、母親《ははおや》は悲鳴《ひめい》をあげて部屋《へや》の中に駈《か》け戻《もど》った。父親《ちちおや》を起《お》こす声《こえ》がした。一方《いっぽう》、想一《そういち》は母屋《おもや》のおじたちに声《こえ》をかけるよう言《い》いおいて、すぐさま駈《か》けだしていった。真由《まゆ》は母屋《おもや》に向《む》かって走《はし》った。その背後《はいご》で、「なんの騒《さわ》ぎ?」と、とがめるようにきく眠《ねむ》そうな音弥《おとや》おばの声《こえ》を聞《き》いた。のんきそうな声《こえ》が、真由《まゆ》をいたたまれない気分《きぶん》にさせた。
「あとは、よく覚《おぼ》えてない。記憶《きおく》がごちゃごちゃで。とにかく母屋《おもや》に行《い》って、大声《おおごえ》をあげてたら、三郎《さぶろう》にいさんが出てきたのよ。お母《かあ》さんたちも駈《か》けつけてきたわ。次《つぎ》から次《つぎ》へと、おとなが出てきて、おじさんたちが表《おもて》に出ていったの。」
「全員《ぜんいん》いた?」
「もちろん、大伯父《おおおじ》さんと大伯母《おおおば》さんの姿《すがた》は見なかったよ。他《ほか》は分《わ》かんない。」
耕介《こうすけ》も記憶《きおく》をたどってみる。耕介《こうすけ》たちが駈《か》けつけて、すぐにやってきたのは、想一《そういち》と次郎《じろう》おじだった。次郎《じろう》おばも一緒《いっしょ》だったと思《おも》う。想一《そういち》と次郎《じろう》おじがロープをつかんで音弥《おとや》おじを引《ひ》きあげにかかったとき、一郎《いちろう》おじと三郎《さぶろう》、真由《まゆ》おじが前後《ぜんご》して駈《か》けつけてきて、それに手を貸《か》した。やっと引《ひ》きあげたときには、音弥《おとや》おばも来《き》ていて、音弥《おとや》おじにすがって、おいおい泣《な》いた。そこには真由《まゆ》おばと禅《ぜん》おじ、禅《ぜん》おばもいたと思《おも》う。
「弥太郎《やたろう》おじさんを見た覚《おぼ》えがないな……」
耕介《こうすけ》がつぶやくと、梨花《りか》は溜息《ためいき》をついた。
「弥太郎《やたろう》おじさんは、酔《よ》いつぶれてお風呂《ふろ》の中で寝《ね》ていたのよ。お母《かあ》さんが見つけたんだって。あきれてたわ。」
ふうん、と禅《ぜん》は考《かんが》えこむようすをする。
「弥太郎《やたろう》おじさんは、あやしいな。でも、一郎《いちろう》おじさんたちだって、ちがうとは言《い》えない。ひょっとしたら、沼《ぬま》の近《ちか》くに隠《かく》れてて、暗闇《くらやみ》にまぎれて仲間入《なかまい》りしたのかもしれないし。」
そう言《い》って、ふいに禅《ぜん》は顔《かお》をあげた。
「耕《こう》ちゃんと梨花《りか》ちゃんは、井戸《いど》が軋《きし》るのを聞《き》いたんだよね?」
「そうよ。それが?」
「音《おと》ちゃんと、真由《まゆ》ちゃんも聞《き》いたって言《い》わなかった?」
「聞《き》いたよ。」と、真由《まゆ》がうなずいた。「音がしなくなって、すぐ音弥《おとや》おじさんを見たの。」
「その音弥《おとや》おじさんが外《そと》に出たのは、庭《にわ》で明《あ》かりを見たからだよね? 庭《にわ》って表《おもて》のほうでしょう? 井戸《いど》があるのは裏《うら》のほうで、家《いえ》の反対側《はんたいがわ》だよね。てことは井戸《いど》を鳴《な》らした人と明《あ》かりをともした人は別人《べつじん》じゃないの?」
あっ、と梨花《りか》が小声《こごえ》をあげた。
「そういうことになるわ。じゃあ、共犯者《きょうはんしゃ》がいるの?」
「たぶんね。」と、禅《ぜん》が言《い》うと、梨花《りか》は顔《かお》をしかめる。「いやになっちゃう。これでまた、話《はなし》がややこしくなっちゃったわ。」
まったくだ、と子どもたちはいっせいに溜息《ためいき》をついた。
「なんにしても、」と、梨花《りか》はまじめな顔《かお》をした。「犯人《はんにん》は三|度目《どめ》も失敗したのよね。たぶん、すごく焦《あせ》ってると思《おも》うの。きっと跡継《あとつ》ぎが決《き》まるまで、そう時間《じかん》は残《のこ》されてないと思《おも》うのよ。休みだっていつまでも取《と》れないだろうし。」
「おとなは急《いそ》いで結論《けつろん》を出したいだろうな。」と、禅《ぜん》はうなずいた。「今《いま》までの事件《じけん》をもう一|回《かい》、調《しら》べ直《なお》さないといけないと思《おも》うよ。犯人《はんにん》は、追《お》いつめられてるはずだもの。」
[#改ページ]
10 幽霊《ゆうれい》じゃない犯人《はんにん》
それからすぐに、音弥《おとや》と光太《こうた》はふたりで沼《ぬま》に出かけていった。正確《せいかく》には沼《ぬま》の入り口まで。沼《ぬま》そのものには用《よう》がないのだ。音弥《おとや》と光太《こうた》は庭《にわ》の隅《すみ》から林の中、そしてお地蔵《じぞう》さんのあたりまでの地面《じめん》を這《は》いまわって、万《まん》が一《いち》、犯人《はんにん》がなにかを落《お》としたり、手がかりになるものを残《のこ》していないか調《しら》べるのだ。もちろん、井戸《いど》も調《しら》べなくてはならない。ただし、井戸《いど》の蓋《ふた》には手をかけない、とふたりはかたく約束《やくそく》させられた。どうせ蓋《ふた》を開《あ》けても中は暗《くら》い穴《あな》だ。犯人《はんにん》がなにかを落《お》としたとしても、見つけられっこないのだから、蓋《ふた》は閉《し》めたままで問題《もんだい》ない。
耕介《こうすけ》と禅《ぜん》はふたりで半日《はんにち》、おじたちのあいだを行《い》ったりきたりして、いろんなことをきいてまわった。そうやってみて最初《さいしょ》にはっきり分《わ》かったことは、おとなたちは、子どもがそうやって嗅《か》ぎまわることを歓迎《かんげい》しない、ということだった。
「なんだってそんなことを知《し》りたがるんだ、え?」と、怖《こわ》い顔《かお》でにらみつけてきたのは、弥太郎《やたろう》おじだった。目は充血《じゅうけつ》していて昼間《ひるま》なのにお酒《さけ》の匂《にお》いがした。
いろいろ危《あぶ》ないことがあって、気《き》になって仕方《しかた》ないのだ、というようなことを耕介《こうすけ》と禅《ぜん》がふたりがかりでなんとか説明《せつめい》すると、「ここはそういう家《いえ》なんだ。」と吐《は》き捨《す》てるように言《い》った。
「縁起《えんぎ》の悪《わる》い家《いえ》なんだよ。見ろ、家政婦《かせいふ》のひとりもいないじゃないか。誰《だれ》も来てくれないんだ。いろいろ不吉《ふきつ》なうわさがあるからな。このあたりの連中《れんちゅう》は、みんなそれを知《し》ってるんだ。」
本当《ほんとう》か嘘《うそ》か、弥太郎《やたろう》おじはそう言《い》って、それからしつこく誰《だれ》が家《いえ》を継《つ》ぐことになるのか知《し》っているか、ときいてきた。耕介《こうすけ》も禅《ぜん》も、何度《なんど》も知《し》らない、と答《こた》えたのだが、どうやら弥太郎《やたろう》おじは、親同士《おやどうし》のあいだでは相談《そうだん》がまとまろうとしていて、自分《じぶん》だけがそれを知《し》らされてないのだと疑《うたが》っているようだった。ほうほうのていで逃《に》げだすと、今度《こんど》は禅《ぜん》おじに、子どもがおとなの事情《じじょう》に首《くび》を突《つ》っこむのはよくない、と叱《しか》られた。禅《ぜん》おじは教師《きょうし》たがら、本当《ほんとう》に学校で先生に叱《しか》られているような気がした。
「鈍《にぶ》いよね。」と、禅《ぜん》が深《ふか》い溜息《ためいき》をついた。「自分《じぶん》たちが危険《きけん》だっていうのに。まだぜんぜん気づいてないのかな。」
これには、耕介《こうすけ》は首《くび》を傾《かたむ》けた。むしろ逆《ぎゃく》の感《かん》じがしたのだ。おとなたちはなんだかピリピリしているようだった。
「いろいろあるのは、誰《だれ》かの陰謀《いんぼう》かもしれない。」と、言《い》って耕介《こうすけ》と禅《ぜん》をぎょっとさせたのは、音弥《おとや》おじだった。「わたしが沼《ぬま》に落《お》ちたのだって、誰《だれ》かに仕組《しく》まれたことかもしれないな。」
そう言《い》ってから、音弥《おとや》おじは大笑《おおわら》いしたので、どうやらこれは冗談《じょうだん》の一種《いっしゅ》のようだった。
「そこのところを、調《しら》べてくれているんだな、少年探偵団《しょうねんたんていだん》。」
耕介《こうすけ》と禅《ぜん》が答《こた》えられずにいると、「いや、救助隊《きゅうじょたい》かな?」と、音弥《おとや》おじは言《い》ってまた笑《わら》った。
「なんにしても、ゆうべは助《たす》かった。ありがとうな。」
「ぼくは音弥《おとや》を手伝《てつだ》っただけだから。」
「耕介《こうすけ》くんが来《き》てなかったら、音弥《おとや》と一緒《いっしょ》に落《お》ちたかもしれない。しかし、それまであいつが、ひとりで踏《ふ》ん張《ば》ってくれたのは立派《りっぱ》だったな。」
音弥《おとや》おじは嬉《うれ》しそうだった。耕介《こうすけ》も禅《ぜん》も、これがちょっと嬉《うれ》しかったのだが、「ところで、懐中電灯《かいちゅうでんとう》を持《も》っていたのは誰《だれ》だったんだい?」と、きいてきたのには、がっかりした。
「ぼくたちじゃないです。」と、耕介《こうすけ》が言《い》うと、「いいんだ。べつに怒《おこ》ってるわけじゃない。せっかくの夏休《なつやす》みで、子どもが集《あつ》まっているんだ。肝試《きもだめ》しや、いたずらぐらいしてみたいもんさ。だが、沼《ぬま》に行《い》くのは危《あぶ》ないぞ。わたしのようなことになるからな。」
鷹揚《おうよう》に言《い》われて、耕介《こうすけ》も禅《ぜん》も複雑《ふくざつ》な気分《きぶん》になってしまった。もやもやしながら行《い》った風呂場《ふろば》では、ちょうど次郎《じろう》おじが掃除《そうじ》をしているところだった。
「おじさんが掃除《そうじ》をしているの?」
耕介《こうすけ》がきくと、次郎《じろう》おじは、はにかんだように微笑《ほほえ》んだ。
「おばさんだけじゃ、たいへんだからね。」
いつも東棟《ひがしむね》の風呂《ふろ》は、次郎《じろう》おじが掃除《そうじ》して準備《じゅんび》するらしい。
「手伝《てつだ》いましょうか?」と、耕介《こうすけ》が言《い》うと、「かまうことなはないよ。」と、次郎《じろう》おじは言《い》ったが、禅《ぜん》とふたり、さらに手伝《てつだ》いを申《もう》し出ると、「じゃあ、脱衣所《だついじょ》の床《ゆか》を拭《ふ》いてもらおうかな。」と嬉《うれ》しそうに言《い》った。
次郎《じろう》おじに限《かぎ》らず、一郎《いちろう》おじも次郎《じろう》おばも、いつもひっそりとして黙々《もくもく》と働《はたら》いているという印象《いんしょう》があった。本家《ほんけ》の家族《かぞく》のはずなのに、まるでお客《きゃく》を迎《むか》えた家《いえ》の使用人《しようにん》のようだ、と耕介《こうすけ》は思《おも》っていた。お客《きゃく》のほうが、よほどくつろいでいて、自由《じゆう》気ままにふるまっている。
「いっぱいのお客《きゃく》で、おじさんもおばさんもたいへんだね。」
同《おな》じことを感《かん》じていたのか、禅《ぜん》が、ごしごし床板《ゆかいた》に雑巾《ぞうきん》をかけながら、浴室《よくしつ》を磨《みが》いている次郎《じろう》おじに声《こえ》をかけた。
「そんなことはないよ。滅多《めった》にないことだからね。」
「料理《りょうり》してくれる人とか、掃除《そうじ》をしてくれる人とか、いないんですか?」と、禅《ぜん》がきいた。
「うん。いないんだ。」と、次郎《じろう》おじはタイルを磨《みが》く手を止《と》めずに言《い》った。「だからすこしでも手伝《てつだ》ってあげないとね。」
「いつもは、おばさんが全部《ぜんぶ》やってるんですか?」
「離《はな》れのこと以外《いがい》はね。父《とう》さんが寝《ね》こんでから、母《かあ》さんはそれにかかりきりだから。」
「たいへんだね。この家《いえ》をひとりで掃除《そうじ》するのって、学校をひとりで掃除《そうじ》するような気分《きぶん》がするんじゃないかな。」
禅《ぜん》が言《い》うと、次郎《じろう》おじは声《こえ》をあげて笑《わら》った。
「普段《ふだん》つかわないところは、必要《ひつよう》になったときだけやるんだけどね。それでも、おばさんは、たいへんだと思《おも》うよ。」
「ぼくたち、長《なが》いこといて、邪魔《じゃま》じゃないですか?」
「いや。」と、次郎《じろう》おじは言《い》った。「うちは普段《ふだん》は、本当《ほんとう》に静《しず》かでね。おばさんは君《きみ》たちがいてくれると楽《たの》しいようだよ。とても子ども好《ず》きなんだ。」
すこし、寂《さび》しそうな声《こえ》だった。そう言《い》えば、次郎《じろう》おじと次郎《じろう》おばは、子どもを生まれる前《まえ》に亡《な》くしてしまったんだ、と思《おも》い出《だ》した。
「でも、毎日《まいにち》、変《へん》な騒《さわ》ぎになっているでしょう? お客《きゃく》で疲《つか》れているうえに、毎晩《まいばん》、ちっとも落《お》ち着《つ》いて寝《ね》てられなくて、ぐったりしてるんじゃないかな。ゆうべだって寝《ね》てたんでしょう。」
「そうなんだけどね。でも、大事《だいじ》にならなくてよかったよ。」
「ごめんなさい。その前《まえ》の晩《ばん》には、ぼくが騒《さわ》ぎを起《お》こしちゃって。」と、耕介《こうすけ》は謝《あや》った。
「いいんだよ。無事《ぶじ》だったんだから。兄《にい》さんは真《ま》っ青《さお》になってたよ。知《し》っているかもしれないけど、兄《にい》さんは子どもを沼《ぬま》で亡《な》くしたんだ。」
「三郎《さぶろう》……いえ、多佳保《たかお》さんに聞《き》きました。」
言《い》うと、次郎《じろう》おじは軽《かる》く笑《わら》った。
「一郎《いちろう》、次郎《じろう》、三郎《さぶろう》だって? 梨花《りか》ちゃんの命名《めいめい》らしいね。」
「すみません。」
「いいよ。分《わ》かるよ。これだけたくさんの親戚《しんせき》がいっぺんに集《あつ》まると、そんなものだ。」
言《い》いながら、次郎《じろう》おじはタイルに水を流《なが》した。
「いつもは、こんなに大きな家《いえ》に、五人だけなんでしょう? その、怖《こわ》くないですか?」
「小《ちい》さい頃《ころ》は怖《こわ》かったよ。」
「ぼく、お騒《さわ》がせした夜《よる》、人魂《ひとだま》みたいな明《あ》かりを見たんです。」
「そう言《い》ってたね。」と、次郎《じろう》おじは浴室《よくしつ》を出てきて、濡《ぬ》れた足を拭《ふ》いた。「おじさんは、見たことがないけどね。でも一度《いちど》、枕返《まくらがえ》しにあったことがあるよ。」
「枕返《まくらがえ》し?」
「蔵座敷《くらざしき》で寝《ね》ると、枕《まくら》を返《かえ》されるんだ。寝《ね》たときとは頭《あたま》が逆《ぎゃく》を向《む》いてしまうんだよ。小さい頃《ころ》その話《はなし》を聞《き》いて試《ため》してみたんだ。起《お》きたらすっかり逆向《ぎゃくむ》きになってた。」言《い》ってから、次郎《じろう》おじはおかしそうに笑《わら》う。「今《いま》から思《おも》うと、単《たん》におじさんの寝相《ねぞう》が悪《わる》かっただけなんだろうけどね。」
「へええ。」
「古《ふる》い家《いえ》だから、そんな言《い》い伝《つた》えがいっぱいあるんだよ。」
「井戸《いど》が軋《きし》るとか?」
「ゆうべ、そんな音を聞《き》いたんだって? でも、おじさんはそれは聞《き》いたことがないな。」と、次郎《じろう》おじは言《い》って、おもしろそうにした。「昔《むかし》、あの近《ちか》くにあった五右衛門《ごえもん》風呂《ぶろ》にはアカナメが出るという話《はなし》だったけどね。おじさんが小さい頃《ころ》に壊《こわ》してしまったけど。そういう話《はなし》なら、松《まつ》じいが詳《くわ》しいよ。興味《きょうみ》があるなら、話《はなし》をしてもらうといい。」
次郎《じろう》おじは微笑《ほほえ》んで、「もういいよ。ありがとう。」と言《い》うと、母屋《おもや》のほうへと戻《もど》っていった。
禅《ぜん》は雑巾《ぞうきん》をかたづけながら溜息《ためいき》をついた。
「ひどいな。井戸《いど》の話《はなし》、きっと三郎《さぶろう》にいさんの作《つく》り話《ばなし》だよ。」
「次郎《じろう》おじさんが知《し》らなかっただけじゃないのかな。禅《ぜん》は寝《ね》てたけど、ぼくらは本当《ほんとう》に井戸《いど》が軋《きし》るのを聞《き》いたよ。」
「そっか。」と、禅《ぜん》は言《い》った。「じゃあ、あれは本当《ほんとう》なのかな。でも、四人《しびと》ゲームの方は作《つく》り話《ばなし》だよ。三郎《さぶろう》にいさん、先輩《せんぱい》に聞《き》いたって言《い》ってたけど、ぼく、同《おな》じ話《はなし》を本で読《よ》んだことあるもん。」
「そうなんだ。」
「おとなって、そういう話《はなし》を頭《あたま》っからいやがるか、おもしろがって子どもを脅《おど》すのに使《つか》うか、どっちかなのかは、なんでだと思《おも》う?」
まったくだ、と耕介《こうすけ》は笑《わら》った。
「でも、これじゃ、誰《だれ》が犯人《はんにん》か分《わ》からないね。」
渡《わた》り廊下《ろうか》に座《すわ》りこみながら、禅《ぜん》が溜息《ためいき》をついた。同《おな》じく座《すわ》ってノートを広《ひろ》げながら、うん、と耕介《こうすけ》は答《こた》えた。
基本的《きほんてき》におとなたちは、表座敷《おもてざしき》で三|度《ど》の食事《しょくじ》をして、昼《ひる》と夜《よる》はその続《つづ》きで話《はな》し合《あ》いをする。昼《ひる》の話《はな》し合《あ》いは二|時《じ》か三|時《じ》ぐらいには終《お》わり、それから夕飯《ゆうはん》まではそれぞれが勝手《かって》に過《す》ごしている。おじたちは部屋《へや》に戻《もど》ってくつろぐか、庭《にわ》や家《いえ》の中をぶらぶらしているようだった。これに対《たい》して、おばたちは台所《だいどころ》で食事《しょくじ》の用意《ようい》をしているし、一郎《いちろう》おじと次郎《じろう》おじは働《はたら》いている。ドクゼリ事件《じけん》にあった日も、次郎《じろう》おじは今日《きょう》と同《おな》じように風呂《ふろ》の掃除《そうじ》をしていたらしい。
「でも、次郎《じろう》おじさんだってドクゼリを入れるのは、不可能《ふかのう》じゃない。」
禅《ぜん》がノートをのぞきこみながら言《い》って、耕介《こうすけ》はうなずいた。掃除《そうじ》をしていたと言《い》っているのは本人だし、それが本当《ほんとう》でも座敷《ざしき》を通《とお》りがかったときにドクゼリを入れることは可能《かのう》だ。ただし、座敷《ざしき》のあたりをうろうろしている次郎《じろう》おじを目撃《もくげき》した人はいない。次郎《じろう》おばは基本的《きほんてき》に台所《だいどころ》で働《はた》いているが、なにしろ全員《ぜんいん》が忙《いそが》しくしているので、気づかれないうちに台所《だいどころ》を抜《ぬ》けだすことは可能《かのう》だ。ただし、次郎《じろう》おばの姿《すがた》を座敷《ざしき》で目撃《もくげき》した人はいなかった。目撃《もくげき》されていないのは弥太郎《やたろう》おじも同様《どうよう》で、本人《ほんにん》は食事時《しょくじどき》まで部屋《へや》で寝《ね》ていたと言《い》っている。
「さっきの話《はなし》の感《かん》じじゃ、ゆうべ、次郎《じろう》おじさんと次郎《じろう》おばさんは、寝《ね》てたんだね。ということは、一郎《いちろう》おじさんもひとりだったってことだよ。」
禅《ぜん》が言《い》うのに、耕介《こうすけ》は同意《どうい》した。
「そういうことになるね。」
「一郎《いちろう》おじさん、ゆうべ駈《か》けつけてきたとき、パジャマ姿《すがた》だった?」
「うん。そう言《い》えば、三郎《さぶろう》にいさん以外《いがい》は、みんなそうだったよ。」
夕飯《ゆうはん》とそれに続《つづ》く話《はな》し合《あ》いは、だいたい九|時《じ》か十|時《じ》くらいまで続《つづ》く。話《はな》し合《あ》いが終《お》わるとおばたちは、あとかたづけをし、おじたちは座敷《ざしき》で雑談《ざつだん》しているが、やがて、てんでに部屋《へや》に戻《もど》風呂《ふろ》に入ったり一服《いっぷく》したりして寝《ね》るのだ。
そんなふうだから、話《はな》し合《あ》いがお開《ひら》きになってしまうと、それ以後《いご》の全員《ぜんいん》の居場所《いばしょ》がはっきりしない。もちろん全員《ぜんいん》が部屋《へや》に戻《もど》った、寝《ね》たと言《い》うのだけど、家族《かぞく》|以外《いがい》にそれを証言《しょうげん》できる者《もの》はいないし、もしも犯人《はんにん》がふたりいるという話《はなし》になると、家族《かぞく》の証言《しょうげん》もぜんぜん信用《しんよう》できない。たしかなのは、耕介《こうすけ》たちが沼《ぬま》に行《い》った頃《ころ》、一郎《いちろう》おじが座敷《ざしき》にいたことと、弥太郎《やたろう》おじが座敷《ざしき》で酔《よ》いつぶれて寝《ね》ていたことぐらいだ。弥太郎《やたろう》おじは雑談《ざつだん》の途中《とちゅう》で寝入《ねい》ってしまって、耕介《こうすけ》たちを捜《さが》しに出たおとなたちが戻《もど》ったときも、まだ座敷《ざしき》で寝《ね》ていた。これはいつものことらしいし、じっさいに大勢《おおぜい》が目撃《もくげき》している。ゆうべは風呂《ふろ》の中で眠《ねむ》りこけているのを梨花《りか》おばが見つけているけれど、ずっと眠《ねむ》っていたとは限《かぎ》らない。次郎《じろう》おじと次郎《じろう》おばは部屋《へや》で寝《ね》ていた。たぶん一郎《いちろう》おじも部屋《へや》で寝《ね》ていたのだろう。起《お》きていたのは三郎《さぶろう》ぐらいで、だから真由《まゆ》が大声《おおごえ》をあげると、すぐに奥《おく》から出てきた。
「やっぱり、誰《だれ》が犯人《はんにん》なのか、はっきりしないね。」
禅《ぜん》は溜息《ためいき》をついた。耕介《こうすけ》もメモを読《よ》み直《なお》して溜息《ためいき》をつきたくなった。一郎《いちろう》おじは買《か》い出《だ》しに行《い》っていて今《いま》はいないし、だから話《はなし》を聞《き》いていないが、聞《き》いたところでこれ以上《いじょう》細《こま》かいことが分《わ》かるとは思《おも》えなかった。
「梨花《りか》ちゃんたちが、なにかを聞《き》きこんでくるかもしれないよ。それより、たいへんな人《ひと》が残《のこ》ってる。」
「誰《だれ》?」と、禅《ぜん》がきいた。
「もちろん、大伯父《おおおじ》さんと大伯母《おおおば》さんだよ。なんて言《い》って離《はな》れに行《い》ったもんだと思《おも》う?」
ふたりでしばらく考《かんが》えたが、これという名案《めいあん》は思《おも》い浮《う》かばなかった。なのでお見舞《みま》いに来《き》ました、と言《い》うしかないという結論《けつろん》に達《たっ》したのだが、じっさいにそう言《い》って離《はな》れを訪《たず》ねてみると、大伯母《おおおば》はひどくそっけなくて、あたりさわりのない話《はなし》をする隙《すき》なんて、ぜんぜんなかった。夜《よる》になるたびに騒動《そうどう》があるのは、病人《びょうにん》にとってよくないことだ、と言《い》われ、耕介《こうすけ》も禅《ぜん》も恐縮《きょうしゅく》して謝《あやま》るしかなかった。
「それでなくても暑《あつ》さで眠《ねむ》りが浅《あさ》いのに、こう毎日《まいにち》寝入《ねい》りばなを起《お》こされたのじゃ、大伯父《おおおじ》さんだってそのうち参《まい》ってしまうわ。」
「子どもを責《せ》めても仕方《しかた》なかろう。」と、突然《とつぜん》がらがらした声《こえ》で言《い》ったのは、横《よこ》になったままの大伯父《おおおじ》だった。おどろいて目をやると、大伯父《おおおじ》は顔《かお》を合《あ》わせまいとするように寝返《ねがえ》りを打《う》って、背中《せなか》を向《む》けた。
「場合《ばあい》が場合《ばあい》だからしょうがない。お前《まえ》がぐずぐずと跡目《あとめ》を決《き》めないでいるから、こうなるんだ。」
「だって、」と、大伯母《おおおば》は言《い》いかけ、すぐに口をつぐんだ。
「来《き》たのは誰《だれ》だ。」と、大伯父《おおおじ》は背中《せなか》を向《む》けたまま言《い》った。
大伯母《おおおば》は困《こま》ったように耕介《こうすけ》たちを見た。きっと、誰《だれ》なのか分《わ》からなかったのだろう。最初《さいしょ》に会《あ》って以来《いらい》、ほとんど会《あ》ってないのだから仕方《しかた》ない。
「耕介《こうすけ》と禅《ぜん》、じゃない、しずかです。」
禅《ぜん》は、「しずか」と読《よ》むのが本当《ほんとう》だ。
大伯父《おおおじ》は背中《せなか》を向《む》けたままうなずいた。「お前《まえ》たちは、この家《いえ》が好《す》きか。」
耕介《こうすけ》と禅《ぜん》は、ちょっと顔《かお》を見合《みあ》わせた。
「あの、来《き》たばかりなので、よく分《わ》かりません。」と、耕介《こうすけ》は正直《しょうじき》に答《こた》えた。
「とても立派《りっぱ》な家《いえ》だと思《おも》うんですけど。」と、禅《ぜん》が言《い》い添《そ》えた。
「そうか。」とだけ、大伯父《おおおじ》は言《い》った。顔《かお》が見えないので、たしかとは言《い》えないけれど、ちょっと笑《わら》った気配《けはい》がした。
「お邪魔《じゃま》しました。」と、耕介《こうすけ》が頭《あたま》を下げたとき、禅《ぜん》が勇気《ゆうき》を出したように、顔《かお》をあげて大伯母《おおおば》を見た。
「あの、ゆうべ騒《さわ》ぎが起《お》きたときには、寝《ね》てたんですか?」
「誰《だれ》かが沼《ぬま》に落《お》ちた、と言《い》っていたとき? 寝《ね》てましたよ。」
「その前《まえ》の日も?」
「わたしたちは、早く寝《ね》て早く起《お》きるんですよ。」
「ずっとここからでないんですか? あの、大伯父《おおおじ》さんはでられないでしょうけど、大伯母《おおおば》さんも?」
「必要《ひつよう》がなければ出ませんよ。」と、大伯母《おおおば》は言《い》った。冷《つめ》たい口調《くちょう》だった。「特《とく》に今《いま》は。」
禅《ぜん》は、はっとしたような表情《ひょうじょう》を浮《う》かべて、ぱっとお辞儀《じぎ》した。耕介《こうすけ》もそれにならって、足早《あしばや》に離《はな》れを出た。
「大伯母《おおおば》さんは、ぼくたちが嫌《きら》いなんだね。」
母屋《おもや》にたどりついたとき、禅《ぜん》が言《い》った。耕介《こうすけ》も、うなずいた。
「考《かんが》えてみると当然《とうぜん》だよね。ぼくたちは、大伯母《おおおば》さんの子どもから家《いえ》や財産《ざいさん》を奪《うば》っていく泥棒《どろぼう》みたいなものだから。」
「誰《だれ》も盗《と》ろうなんて思《おも》ってないのに。」
「でも、大伯母《おおおば》さんは盗《と》られる感《かん》じがするんじゃないかな。だから、あまりぼくたちや、お父《とう》さんたちと顔《かお》を合《あ》わせたくないんだ。それで離《はな》れから、ちっとも出てこないんだね。」
「そうか、大伯父《おおおじ》さんや大伯母《おおおば》さんという可能性《かのうせい》もあるのね。」
夕飯《ゆうはん》を終《お》えて、屋根裏《やねうら》部屋《べや》に集《あつ》まって、耕介《こうすけ》たちの話《はなし》を聞《き》くなり、梨花《りか》がそう言《い》った。
「そんなはずないよ。大伯父《おおおじ》さんは、病気《びょうき》なんだし。」
「分《わ》からないわ。特《とく》に、大伯母《おおおば》さんは。」
「分《わ》かるよ。いくらなんでも、大伯母《おおおば》さんに地蔵《じぞう》担《かつ》ぎは無理《むり》だよ。」
「あら。そうか、そうね。」
「ちぇっ。」と、声《こえ》をあげたのは、音弥《おとや》だった。「犯人《はんにん》のやつが、なににか落《お》としていってくれれば良《よ》かったのになあ。」
「音弥《おとや》は半日《はんにち》、光太《こうた》といっしょにあちこちを探《さが》しまわったのに、なにも見つけられなかったのだ。庭《にわ》にも林の小道《こみち》にも、沼《ぬま》の入り口にも、そして井戸端《いどばた》にも犯人《はんにん》を示《しめ》す手がかりは落《お》ちていなかった。音弥《おとや》と光太《こうた》はひどくがっかりしていたが、梨花《りか》は、そんなこと当《あ》たり前《まえ》だ、と言《い》った。
「犯人《はんにん》だってじゅうぶんに気をつけてるわよ。ロープを残《のこ》していったのが、うかつすぎたぐらいだわ。」
「自分《じぶん》が調《しら》べてこい、って言《い》ったくせに。」と、音弥《おとや》は不満《ふまん》そうに言《い》った。「で、梨花《りか》ちゃんたちはどうだったのさ。」
梨花《りか》と真由《まゆ》は顔《かお》を見合《みあ》わせた。ふたりは台所《だいどころ》の手伝《てつだ》いをするふりで、おばたちに話《はなし》を聞《き》きにいったのだ。
「それが、やっぱりよく分《わ》かんないの。」と、真由《まゆ》が困《こま》ったように言《い》った。
問題《もんだい》の料理《りょうり》は、いつの間《ま》にか用意《ようい》されていた。誰《だれ》が用意《ようい》したのかは、やはり分《わ》からなかったらしい。
「おばさんたちに聞《き》こえるように、その中にドクゼリが入ってたはずはないよね、って話《はなし》を梨花《りか》ちゃんとしたんだけど、やっぱり誰《だれ》も自分《じぶん》が作《つく》った、とは言《い》わなかったよ。」と、真由《まゆ》は言《い》った。
「それにあれ、そもそもは子ども用《よう》だったんですって。」と、梨花《りか》は言《い》った。
「子ども用《よう》?」
禅《ぜん》がきくと、梨花《りか》はうなずいた。料理《りょうり》は広敷《ひろしき》においてあった。そばには子ども用《よう》の食器《しょっき》が積《つ》んであったし、量《りょう》もおとな用《よう》にしては少《すく》なかったから、子どものために用意《ようい》されたのだと思《おも》われた。
「でも、あの日はハンバーグだったじゃない? ハンバーグにおひたしは合《あ》わないし、お母《かあ》さんが、ほんのひとつまみだけ味見《あじみ》してみたら、微妙《びみょう》な味《あじ》つけだったんですって。あまり子ども向《む》けじゃないから、それをおとな用《よう》にまわすことにして、先に子どもの晩《ばん》ご飯《はん》の用意《ようい》をしたんだって。」
ところが、いざおとなのご飯《はん》の用意《ようい》にかかってみると、問題《もんだい》の料理《りょうり》はそもそもは子どものぶんだから、量《りょう》が多《おお》くなかった。梨花《りか》おばは、多少《たしょう》すくなくてもいいか、と思《おも》っていたのだが、じっさいに器《うつわ》につぎ分《わ》けてみると、露骨《ろこつ》に少《すく》なかったのだそうだ。困《こま》っていると、ざるに洗《あら》った青菜《あおな》が盛《も》ってあった。ぱっと見たところ、おひたしを作《つく》った余《あま》りのようだった。それで、それを大急《おおいそ》ぎで料理《りょうり》して、追加《ついか》することにしたのだ。
そこまでを聞《き》いて、禅《ぜん》は身《み》を乗《の》りだした。
「ひょっとして、その中にドクゼリが入っていたのかも。」
「あ、それはないの。」と、あっさり梨花《りか》は言《い》った。
梨花《りか》おばは、追加《ついか》を作《つく》るのを禅《ぜん》おばに任《まか》せて、自分《じぶん》は他《ほか》の料理《りょうり》を盛《も》りつけていた。追加《ついか》ができて、それを味見《あじみ》しているところに大伯母《おおおば》がやってきた。これなら大伯父《おおおじ》にも食《た》べられる、ということで、大伯母《おおおば》のぶんと大伯父《おおおじ》のぶんを器《うつわ》に盛《も》って、離《はな》れに持《も》っていった。というのも、梨花《りか》おばは離《はな》れのぶんを用意《ようい》するのを、すっかり忘《わす》れていたからだ。
「どういうこと?」
「だから、料理《りょうり》は最初《さいしょ》から用意《ようい》してあったでしょ? お母《かあ》さんはそれを、おとな用《よう》の器《うつわ》に盛《も》って、お膳《ぜん》にのせて禅《ぜん》おばさんとふたりで表座敷《おもてざしき》に運《はこ》んでしまっていたのよ。お膳《ぜん》がいつまでも広敷《ひろしき》にあると、場所《ばしょ》を取《と》って邪魔《じゃま》だから。」
コップやお箸《はし》や、すでにできていた一、二品《ひん》の料理《りょうり》と一緒《いっしょ》にお膳《ぜん》にのせて、料理《りょうり》は表座敷《おもてざしき》に運《はこ》びこまれた。梨花《りか》おばたちは、ひき続《つづ》き食事《しょくじ》の用意《ようい》をした。そうしているうちに、離《はな》れのぶんのお膳《ぜん》がないのに気づいたのだ。
おとなは表座敷《おもてざしき》でいっせいに夕飯《ゆうはん》を食《た》べるが、大伯母《おおおば》だけは、大伯父《おおおじ》と一緒《いっしょ》に離《はな》れで食《た》べる。食事《しょくじ》をすませてから、話《はな》し合《あ》いに参加《さんか》するため、表座敷《おもてざしき》にやってくるのだ。なのにおばたちは、離《はな》れのぶんをすっかり失念《しつねん》していた。
あわててお膳《ぜん》を用意《ようい》しているところに、追加《ついか》ができあがった。食事《しょくじ》が遅《おそ》いので大伯母《おおおば》がようすを見にやってきて、追加《ついか》を味見《あじみ》し、病人《びょうにん》にも食《た》べられることを確認《かくにん》したので、それを離《はな》れのぶんのお膳《ぜん》にのせた、というわけだった。
「だから、離《はな》れに持《も》っていったおひたしは、追加《ついか》が百パーセントなの。器《うつわ》は空になって戻《もど》ってきたけれど、大伯母《おおおば》さんも大伯父《おおおじ》さんも無事《ぶじ》だった。だから、追加《ついか》にドクゼリが入ってなかったことは確実《かくじつ》なの。」
「なるほど。」
梨花《りか》おばが子どものご飯《はん》を茶《ちゃ》の間《ま》に並《なら》べていた頃《ころ》、その追加《ついか》を真由《まゆ》おばが座敷《ざしき》に持《も》っていって、器《うつわ》につぎ分《わ》けた。真由《まゆ》おばが座敷《ざしき》に行《い》ったとき、三|間《ま》|続《つづ》きの座敷《ざしき》の一番《いちばん》下の間《ま》で、弥太郎《やたろう》おじと音弥《おとや》おじが将棋《しょうぎ》をさしていた。真由《まゆ》おばはお膳《ぜん》を整《ととの》えると、ふたりに「ご飯《はん》よ。」と声《こえ》をかけた。どうやら音弥《おとや》おじが負《ま》けていたらしく、真《ま》っ先《さき》に音弥《おとや》おじが駒《こま》を放《ほう》りだしてお膳《ぜん》のところにやってきた。それと同時《どうじ》に他《ほか》のおばたちが、お酒《さけ》やご飯《はん》の入ったおひつを運《はこ》んできて、それを並《なら》べているあいだに、おじたちも集《あつ》まってきて、夕飯《ゆうはん》が始《はじ》まったのだった。
話《はなし》を聞《き》いて、禅《ぜん》は首《くび》をかしげた。
「問題《もんだい》は、お膳《ぜん》が座敷《ざしき》に運《はこ》ばれて、追加《ついか》が来《く》るまでのあいだだよね。弥太郎《やたろう》おじさんは音弥《おとや》おじさんと座敷《ざしき》に入って将棋《しょうぎ》をしてた。
次郎《じろう》おじさんは座敷《ざしき》に入ったかもしれない。少なくとも、風呂掃除《ふろそうじ》が終《お》わって母屋《おもや》に帰《かえ》るのに、座敷《ざしき》の横《よこ》を通《とお》ったことは確実《かくじつ》だよ。他《ほか》にも座敷《ざしき》に近《ちか》づいた人は誰《だれ》だろう?」
「次郎《じろう》おばさんは、ずっと台所《だいどころ》にいたわ。ぜんぜん土間《どま》を出てないの。それはお母《かあ》さんたちに確認《かくにん》したからまちがいないわ。一郎《いちろう》おじさんは表座敷《おもてざしき》にいた。」
梨花《りか》が言《い》って、禅《ぜん》も耕介《こうすけ》も、えっと声《こえ》をあげた。
「お母《かあ》さんと禅《ぜん》おばさんが座敷《ざしき》にお膳《ぜん》を運《はこ》んだとき、ちょうど一郎《いちろう》おじさんが座布団《ざぶとん》を並《なら》べているところだったんですって。それでお母《かあ》さんたちは、お膳《ぜん》をきちんと並《なら》べるのは一郎《いちろう》おじさんに任《まか》せて、台所《だいどころ》に戻《もど》ったの。」
「一郎《いちろう》おじさんが、あやしい。」と、音弥《おとや》が断言《だんげん》した。
「それはちがうわ。」
「なんでだ? 一郎《いちろう》おじさん、ひとりだったんだろ?」
「そうよね。」と、真由《まゆ》も同意《どうい》した。「お母《かあ》さんが追加《ついか》を持《も》っていく前《まえ》は、弥太郎《やたろう》おじさんと音弥《おとや》おじさんがふたりでいたわけだし、そのあとはみんながやってきたわけでしょ? だったら、一郎《いちろう》おじさんしかいないじゃない。」
でも、と梨花《りか》は困《こま》ったように渋《しぶ》い顔《かお》をした。
「おとといの夜《よる》、一郎《いちろう》おじさんは駈《か》けつけてきたんだもの。ほら、あたしと光太《こうた》と、耕《こう》ちゃんが沼《ぬま》に行《い》ったとき。あたしたち、人魂《ひとだま》を追《お》いかけてたでしょ? それが消《き》えてから、すぐだったのよ、一郎《いちろう》おじさんが駈《か》けつけてきたの。お母《かあ》さんと、耕介《こうすけ》おじさん、音弥《おとや》おじさんと真由《まゆ》おじさんが一緒《いっしょ》だった。」
「あ、そっか。」
「それだけじゃ、ぜったいとは言《い》えないけどね。」と、禅《ぜん》が言《い》った。「人魂《ひとだま》みたいな明《あ》かりがどういう仕掛《しか》けのものか分《わ》からないもの。消《き》えるように細工《さいく》してから、大急《おおいそ》ぎで林の中に飛《と》びこんで、駈《か》けつけたおとなの列《れつ》に混《ま》じることだってできるし。でも、一郎《いちろう》おじさんは無理《むり》だよ。おとなが捜《さが》しはじめたとき、座敷《ざしき》にいたんだから。」
そうか、と耕介《こうすけ》はつぶやいて、音弥《おとや》から取《と》り戻《もど》したノートに向《む》かった。耕介《こうすけ》たちが人魂《ひとだま》を追《お》いかけていった夜《よる》のことを思《おも》い出《だ》した。
耕介《こうすけ》たちは、読経《どきょう》の声《こえ》を聞《き》いて人魂《ひとだま》に気づいた。人魂《ひとだま》らしき明《あ》かりをめざして勝手口《かってぐち》から庭《にわ》に出て、ぐるっと池《いけ》をまわりこんで近づいていったのだ。そして、想一《そういち》もその読経《どきょう》の声《こえ》を聞《き》いている。ということは、想一《そういち》がそれを聞《き》いたのは、耕介《こうすけ》たちが池《いけ》の周囲《しゅうい》をうろうろしていた頃《ころ》なのだ。耕介《こうすけ》たちは人魂《ひとだま》を追《お》いかけて沼《ぬま》に向《む》かい、想一《そういち》は耕介《こうすけ》を捜《さが》して表座敷《おもてざしき》に行《い》った。そしてそこには、一郎《いちろう》おじがいたのだ。
耕介《こうすけ》は時間順《じかんじゅん》に起《お》こったことを整理《せいり》し、ついでにあたりの略図《りゃくず》を書《か》いて、歩《ある》いていったルートを書《か》きこんだ。全員《ぜんいん》でそれをのぞきこんで、一郎《いちろう》おじには無理《むり》だという結論《けつろん》に至《いた》らざるを得《え》なかった。
「やっぱり問題《もんだい》はドクゼリなんだと思《おも》うよ。」と、禅《ぜん》が締《し》めくくった。「ドクゼリの入っていたおひたしは、作《つく》ってそこにおいてあったんだよね。」
「みたいよ。でもって、いつだって作《つく》った料理《りょうり》が広敷《ひろしき》にはおいてあるの。できるときに作《つく》って用意《ようい》しておかないと、間《ま》に合《あ》わないんだもの。」
「分《わ》かってるよ。いいんだ、それは。毒《どく》が入っていたはず、ないんだから。とにかく、用意《ようい》してあったのを、梨花《りか》おばさんがつぎ分《わ》けた。梨花《りか》おばさんは後継者《こうけいしゃ》なんだから、つぎ分《わ》ける時《とき》にドクゼリを混《ま》ぜたってことは考《かんが》えられない。」
「お母《かあ》さんは後継者《こうけいしゃ》じゃなくても、そんなことしないわ。」
「分《わ》かってるってば。純粋《じゅんすい》に可能性《かのうせい》を検討《けんとう》してるんだよ。むと、禅《ぜん》は顔《かお》をしかめた。「つぎ分《わ》けたのを、梨花《りか》おばさんと、ぼくのお母《かあ》さんが持《も》っていってお膳《ぜん》に並《なら》べた。この時点《じてん》ではまだ、毒《どく》は入っていない。どの器《うつわ》が誰《だれ》の席《せき》に行《い》くのか、確定《かくてい》してないから。」
「そうね。」
「それから、ぼくのお母《かあ》さんが、追加《ついか》を作《つく》った。それを真由《まゆ》おばさんが持《も》っていって足した。このとき、もうお膳《ぜん》は並《なら》んでいたわけだし、どのお膳《ぜん》が誰《だれ》のものかは席順《せきじゅん》から分《わ》かるわけだけど、真由《まゆ》おばさんが運《はこ》んだ追加《ついか》にはドクゼリが入ってない。大伯父《おおおじ》さんも大伯母《おおおば》さんもあたってないんだから。つまり、あやしいのは、追加《ついか》が来《く》る前《まえ》と、あとなんだ。」
「でも、あとはあり得《え》ないわ。大勢《おおぜい》が座敷《ざしき》に集《あつ》まっちゃったから。」
「だろうね。そうすると、やっぱりあやしいのは一郎《いちろう》おじさんだって話《はなし》になっちゃうんだよね。」と、禅《ぜん》は困《こま》り果《は》てたように溜息《ためいき》をついた。
「ねえ、共犯者《きょうはんしゃ》がいるって話《はなし》だったよね?」と、真由《まゆ》が首《くび》をかしげた。「ドクゼリは一郎《いちろう》おじさんで、梨花《りか》ちゃんたちのときは共犯者《きょうはんしゃ》ってこと、ないかな?」
「そっか。」と、音弥《おとや》が声《こえ》をあげた。「次郎《じろう》おじさんとか。」
「次郎《じろう》おじさんは、あたしたちが沼《ぬま》に行《い》ったとき、どこにいたの?」
梨花《りか》にきかれて、耕介《こうすけ》と禅《ぜん》は顔《かお》を見合《みあ》わせた。次郎《じろう》おじは一郎《いちろう》おじと一緒《いっしょ》にいたようなことを言《い》っていた。つまりは、座敷《ざしき》にいた、ということだ。けれどもたしかに、確認《かくにん》できたわけではなかった。あの日はまだ大勢《おおぜい》が座敷《ざしき》に残《のこ》っていて、土間《どま》とのあいだをうろうろしていたのだ。
「やっぱり、そうだよ。」と、音弥《おとや》は言《い》った。「共犯者《きょうはんしゃ》がいるんだったら、兄弟《きょうだい》か夫婦《ふうふ》が自然《しぜん》だもんな。」
すこしばかり、しんとした沈黙《ちんもく》が子どもたちのあいだにおりた。「犯人《はんにん》」と呼《よ》んでいたあいだは、テレビドラマの中の悪人《あくにん》でもひそんでいそうな感《かん》じで、なんの抵抗《ていこう》も感《かん》じなかった。けれども、それが一郎《いちろう》おじなり、次郎《じろう》おじだということになると、なんとも言《い》えない後味《あとあじ》の悪《わる》さを感《かん》じた。
「でも、親戚《しんせき》だよ。」と、光太《こうた》がその気分《きぶん》を代弁《だいべん》するように言《い》った。
「親戚《しんせき》だからこそ、よ。」と、梨花《りか》は深《ふか》い溜息《ためいき》をつく。「そうよね、大伯母《おおおば》さんがあたしたちを嫌《きら》ってるみたいに、一郎《いちろう》おじさんだって嫌《きら》いで当然《とうぜん》なんだわ。変《へん》な決《き》まりがなかったら、この家《いえ》も財産《ざいさん》も、全部《ぜんぶ》|一郎《いちろう》おじさんたちが継《つ》いで当然《とうぜん》なんだもの。」
「それに、一郎《いちろう》おじさんには、子どもだっていたんだもんね。」と、音弥《おとや》がしゅんと言《い》った。「三郎《さぶろう》にいさんみたいに、お嫁《よめ》さんもいなかったら仕方《しかた》ないって思《おも》えるのかもしれないけどさ。」
「そうね。自分《じぶん》だって子どもがいたのに、って思《おも》うでしょうね。」と、真由《まゆ》がうなずいた。
「気持《きも》ちは分《わ》かるけど、」と、梨花《りか》は言《い》った。「だからって、お母《かあ》さんたちを危険《きけん》な目にあわせられないわ。おじさんたちがあやしいんだったら、見張《みは》るかどうかしておかないと。」
「だな。」と、音弥《おとや》がうなずいた。
耕介《こうすけ》は、ちょっと気後《きおく》れするものを感《かん》じながら、口をはさんだ。
「ねえ、本当《ほんとう》に共犯《きょうはん》なのかな?」
梨花《りか》は、きょとんとした。
「そういう話《はなし》だったでしょ? 井戸《いど》の音がしたとき、明《あ》かりは庭《にわ》にあって。」
「だから、犯人《はんにん》はふたり以上《いじょう》いるって話《はなし》だよね? それはそのとおりだと思《おも》うけど、そのふたりが協力《きょうりょく》してるって保証《ほしょう》はないよね?」
「それはそうだね。」と禅《ぜん》が言《い》った。
「ぼく、すごく不思議《ふしぎ》な感《かん》じがするんだよ。ほら、ぼくたちが追《お》いかけていった人魂《ひとだま》は、にごった茶色《ちゃいろ》で暗《くら》かったじゃない。でも、音弥《おとや》おじさんが追《お》いかけていったのは、青かったって。懐中電灯《かいちゅうでんとう》に青い布《ぬの》をかけてあるみたいだったって、音弥《おとや》おじさんは言《い》ってたでしょ?」
「あ。そう言《い》ってた。」と、音弥《おとや》がうなずいた。それに、おれと真由《まゆ》ちゃんも見たよ。たしかに青《あお》っぽかった。白っぽい青。」
「そっか。」と、禅《ぜん》は首《くび》をひねる。「しかも、音弥《おとや》おじさんは読経《どきょう》の声《こえ》を聞《き》いてないんだよね。梨花《りか》ちゃんたちの時《とき》にはしてた声《こえ》が、音弥《おとや》おじさんの時《とき》にはしてなかった。それって、なんでなんだろう?」
「大勢《おおぜい》の声《こえ》だったから、あの声《こえ》は、きっとテープかなにかだと思《おも》うのよ。それをなくしちゃったんじゃないからしら。あたしたちが沼《ぬま》に行《い》った夜《よる》。」
「お地蔵《じぞう》さまに、ロウソクもついてた。」と、光太《こうた》が言《い》った。
「そうね。それが、音弥《おとや》おじさんのときには、どけてあったのよね。」
「それも変《へん》な話《はなし》だよね。なんで犯人《はんにん》は、そんなことをしたんだろう? まるでそこにお地蔵《じぞう》さんがあることを強調《きょうちょう》するみたいにさ。」
「そうねえ。」
「耕《こう》ちゃんの言《い》うとおりだな。なんだか噛《か》みあってない感《かん》じだよ。」と、禅《ぜん》は言《い》って腕組《うでぐ》みをした。「ぜんぜん別《べつ》の、ふたとおりの犯人《はんにん》がいるみたい。」
「ふたとおり?」
「うん。まず、お父《とう》さんたちの夕飯《ゆうはん》にドクゼリが入ってた。これはとっても危険《きけん》で、悪意《あくい》のある行為《こうい》だよね。次《つぎ》に明《あ》かりを使《つか》って沼《ぬま》のほうに梨花《りか》ちゃんたちを連《つ》れていったけど、危険《きけん》|区域《くいき》の目印《めじるし》になるお地蔵《じぞう》さまには、ロウソクをともしてあった。まるで、梨花《りか》ちゃんたちを守《まも》るみたいに。次《つぎ》には、音弥《おとや》おじさん。目印《めじるし》のお地蔵《じぞう》さんは、わざわざどけてあった。これも危険《きけん》で悪意《あくい》のある行為《こうい》だよ。つまり、親切《しんせつ》な犯人《はんにん》と、親切《しんせつ》じゃない犯人《はんにん》がいるんだ。そんな気がしない?」
「そう言《い》われれば……」
子どもたちは、それぞれが思案《しあん》するように黙《だま》りこんだ。耕介《こうすけ》は、おそるおそる思《おも》っていたことを口にしてみた。
「なに?」
「音弥《おとや》おじさんは、井戸《いど》の音を聞《き》いてないんだよね? 他《ほか》の人も聞《き》いてないみたいだった。」
「それが疑問《ぎもん》?」と、梨花《りか》は言《い》った。「聞《き》こえなかったんでしょ。だって、井戸《いど》は家《いえ》の奥《おく》のほうにあるし、おとなのいる東《ひがし》の棟《むね》とは、うんと離《はな》れているんだから当《あ》たり前《まえ》よ。」
「だよな。」と、音弥《おとや》が同意《どうい》して、耕介《こうすけ》はうなずいた。
「でも、だったらなんで、犯人《はんにん》は釣瓶《つるべ》を鳴《な》らしたんだと思《おも》う?」
[#改ページ]
11 井戸《いど》で待《ま》つ
耕介《こうすけ》は、暗《くら》がりの中に身《み》をひそめていた。隣《となり》には光太《こうた》がうずくまっている。ぴしゃん、と小さな音がした。
「光太《こうた》、誰《だれ》かに聞《き》こえちゃうよ。」と、耕介《こうすけ》は小声《こごえ》で言《い》った。
「だって蚊《か》がいるんだよ。」
「我慢《がまん》しないと。」と、耕介《こうすけ》が言《い》うと、光太《こうた》はしぶしぶうなずいた。
ふたりは渡《わた》り廊下《ろうか》の下に座《すわ》りこんでいた。床下《ゆかした》はじゅうぶん広《ひろ》かったけれど、ヤブ蚊《か》がすごいのが、悩《なや》みの種《たね》だった。できるだけ食《く》われまいと、光太《こうた》は足《あし》をTシャツの下に入れていたが、ヤブ蚊《か》ときたら、足がだめとなると腕《うで》や顔《かお》を狙《ねら》いにくるのだ。
「なんにも起《お》こらないね。」と、光太《こうた》はつまらなさそうに言《い》った。
「起《お》こるとしたら、これからだよ。」と、耕介《こうすけ》は答《こた》える。ついさっき、梨花《りか》が足音《おしおと》をしのばせてやってきて、廊下《ろうか》の上から「表座敷《おもてざしき》の明《あ》かりが消《き》えた。」と告《つ》げていった。話《はな》し合《あ》いがお開《ひら》きになって、おとなたちが部屋《へや》へ引《ひ》きあげたのだ。なにかが起《お》こるとしたら、これからのはずだ。それもそんなに時間《じかん》が経《た》ってからのことじゃない。これまでの例《れい》から言《い》うと、おとなたちがそれぞれ部屋《へや》に引《ひ》きあげた頃《ころ》が危《あぶ》ないのだ。
きっと、と耕介《こうすけ》は思《おも》った。それが犯人《はんにん》にとっても、いちばん都合《つごう》のいい時間《じかん》なのだろう。全員《ぜんいん》が部屋《へや》に引《ひ》きあげて寝《ね》る準備《じゅんび》に入らないと、どこで誰《だれ》に出《で》くわすか分《わ》からない。かといって、うんと深夜《しんや》まで待《ま》つと、みんな寝入《ねい》ってしまって、狙《ねら》った相手《あいて》をどうにかするには、危険《きけん》をおかして相手《あいて》を起《お》こさないといけない。
耕介《こうすけ》と光太《こうた》がひそんでいる渡《わた》り廊下《ろうか》は、いつかバケツリレーをした、あの渡《わた》り廊下《ろうか》だった。三郎《さぶろう》の部屋《へや》になる茶室《ちゃしつ》と蔵座敷《くらざしき》のある棟《むね》をつなぐためのもので、床下《ゆかした》からは中庭《なかにわ》にある井戸《いど》が見えていた。壁際《かべぎわ》はシダやヤツデなどの、あまり陽《ひ》の当《あ》たらないところに育《そだ》つ植物《しょくぶつ》が生《は》えているだけで、あとは一面《いちめん》、うっすらとコケにおおわれた地面《じめん》だ。おかげで月明《つきあ》かりでも見通《みとお》しはよかった。
「ねえ。蚊取《かと》り線香《せんこう》を持《も》ってきちゃだめ?」と、光太《こうた》が言《い》った。
「だめだよ。匂《にお》いと煙《けむり》で、ここに誰《だれ》かいるのがばれちゃうから。」
「でも、指先《ゆびさき》を噛《か》まれた。すごくかゆいよ。」
「屋根裏《やねうら》部屋《べや》に行《い》って、かゆみ止《ど》めを塗《ぬ》っておいでよ。ついでに交代《こうたい》してかまわないよ。」
「そうだね。」と光太《こうた》は言《い》ったが、その場《ば》を動《うご》こうとはしなかった。光太《こうた》は、ゆうべ一番《いちばん》どきどきするところを見のがしてしまった、と感《かん》じているようだった。今夜《こんや》もまた寝《ね》てしまって、起《お》きたら事件《じけん》が終《お》わっていた、なんてことにはなりたくない、と考《かんが》えているのがよく分《わ》かった。
微笑《ほほえ》ましく思《おも》っていると、どこかで微《かす》かな音がした。耕介《こうすけ》も光太《こうた》も、はっと井戸《いど》のほうを見たけれども、井戸《いど》には異常《いじょう》がなかった。いや、異常《いじょう》はあったと言《い》うべきだろうか。蓋《ふた》が開《あ》いて片方《かたほう》の釣瓶《つるべ》がおりている。ふたりがこっそりやってきたときから、ああなっていたのだ。そばに行《い》ってのぞきこんでみようとも思《おも》ったが、なんとなく気味《きみ》が悪《わる》かった。それにそんなことをして、見張《みは》りがいることに気づかれてしまったら意味《いみ》がない。
かさっと音がした。井戸《いど》の向《む》こうから聞《き》こえるようだった。
「なにかいるよ。」と、光太《こうた》が小さな声《こえ》で言《い》った。
「しっ。」と、耕介《こうすけ》は答《こた》えた。
また音がした。それは足音のようだった。茶室《ちゃしつ》の向《む》こうから、こちらへまわりこんでくる。中庭《なかにわ》には月の光《ひかり》が降《ふ》っていたけれど、足音の主《ぬし》は、建物《たてもの》が作《つく》る影《かげ》に用心深《ようじんぶか》く身《み》を隠《かく》していた。それで壁際《かべぎわ》を歩《ある》くことになって、壁際《かべぎわ》のシダやヤツデに音を立てさせるはめになるのだった。
姿《すがた》を隠《かく》しても、音を立てたら意味《いみ》がないのに、と耕介《こうすけ》は心《こころ》の中で思《おも》った。それとも犯人《はんにん》にとっては意味《いみ》があることなのだろうか。影《かげ》にいれば[#「にいれば」に傍点]屋根裏《やねうら》部屋《べや》からは見えない[#「からは見えない」に傍点]。音を立てても[#「音を立てても」に傍点]、屋根裏《やねうら》部屋《べや》までは[#「までは」に傍点]届《とど》かない[#「かない」に傍点]。
ゆっくりと歩《ある》いてきた誰《だれ》かは、すこし周囲《しゅうい》をうかがうように立《た》ち止《ど》まった。しばらくじっとたたずんで、そして影《かげ》から足を踏《ふ》みだした。スニーカーを履《は》いた足が見えた。ジーンズの裾《すそ》が現《あらわ》れた。犯人《はんにん》はずいぶん渡《わた》り廊下《ろうか》のほうに近づいていた。それで耕介《こうすけ》が見たのは、その人物《じんぶつ》の胸《むね》から下のほうだけだった。ジーンズにTジャツ、黒《くろ》っぽい色《いろ》のスニーカー。その人物《じんぶつ》は、完全《かんぜん》に影《かげ》から出てきて、井戸《いど》に向《む》かった。一|歩《ぽ》、二|歩《ほ》、三|歩《ぽ》。大股《おおまた》に歩《あゆ》み寄《よ》る。
耕介《こうすけ》は口許《くちもと》をひきしめた。やっぱり、という気がした。ちらっと光太《こうた》に目をやると、光太《こうた》はTシャツの中に入れた膝《ひざ》をかかえこんだまま、懸命《けんめい》に頭《あたま》を下げて、それが誰《だれ》だか見届《みとど》けようとしていた。じっとしてるよう、耕介《こうすけ》が手を伸《の》ばしたときだった。光太《こうた》が「あっ。」と声《こえ》をあげた。
「やっぱり、三郎《さぶろう》にいさんだよ。」
耕介《こうすけ》が止《と》めるひまもなかった。声《こえ》をあげて、光太《こうた》は床下《ゆかした》から這《は》いだした。もう隠《かく》れていても仕方《しかた》ない。耕介《こうすけ》もそれに続《つづ》いた。中庭《なかにわ》には、おどろいた顔《かお》をして三郎《さぶろう》が立っていた。
「こんなところで、なにをしてるんだい?」
複雑《ふくざつ》そうにきいた三郎《さぶろう》に、光太《こうた》が答《こた》えた。
「見張《みは》りだよ。待《ま》ってたの。」
光太《こうた》が言《い》ったとたん、三郎《さぶろう》がさっと目を伏《ふ》せた。
「三郎《さぶろう》にいさん、」と、耕介《こうすけ》が光太《こうた》の前《まえ》に踏《ふ》みだしたときだった。耕介《こうすけ》は膝《ひざ》のあたりが、ぴんと突《つ》っ張《ぱ》るのを感《かん》じた。足払《あしばら》いを喰《く》らった格好《かっこう》で、その場《ば》に転《ころ》んでしまった。
「だいじょうぶかい。」と、言《い》って近《ちか》づいてきた三郎《さぶろう》も、転《ころ》びかけたように姿勢《しせい》を崩《くず》した。かろうじて踏《ふ》みとどまり、その場《ば》に膝《ひざ》をつく。「なんだ?」
耕介《こうすけ》も転《ころ》がったまま、周囲《しゅうい》を見まわした。顔《かお》の前《まえ》でなにかが光《ひか》った。
「光太《こうた》、動《うご》いちゃだめだ。」
「動《うご》かないよ。どうしたの?」
耕介《こうすけ》は手を伸《の》ばす。目《め》の前《まえ》に透明《とうめい》な糸《いと》があった。つまんでみると、硬《かた》く弾力《だんりょく》がある。テグスだ、と分《わ》かった。釣《つ》り糸《いと》が目《め》の前《まえ》に張《は》ってある。
「あっ。三郎《さぶろう》にいさん。」
音弥《おとや》の声《こえ》がした。振《ふ》り返《かえ》ると、音弥《おとや》が渡《わた》り廊下《ろうか》に立っていた。うしろには禅《ぜん》と梨花《りか》おばが並《なら》んでいる。
「どうしたんだ?」と、音弥《おとや》が渡《わた》り廊下《ろうか》から飛《と》びおりようとした。
「おりてきちゃだめだ。」と、耕介《こうすけ》は言《い》った。「光太《こうた》も、廊下《ろうか》にあがってなよ。」
「どうしたの?」と、梨花《りか》おばが言《い》う。
「なんでもないんです。」と、答《こた》えたのは、三郎《さぶろう》だった。「それより、おばさんこそ、どうしたんですか。」
「あたしは、」と言《い》って、梨花《りか》おばは音弥《おとや》と禅《ぜん》を見た。
「梨花《りか》おばさん、呼びだされたんだ。と、音弥《おとや》が言《い》った。ほら、と白い紙《かみ》を出す。「井戸《いど》で話し《はなし》がある、って書《か》いてあるんだ。」
音弥《おとや》は、一郎《いちろう》おじを見張《みは》っていて、梨花《りか》おばに会《あ》ったのだった。
音弥《おとや》と禅《ぜん》は、それぞれ一郎《いちろう》おじと次郎《じろう》おじを見張《みは》るため、二手に分《わ》かれた。次郎《じろう》おじの部屋《へや》は渡《わた》り廊下《ろうか》でつながった別棟《べつむね》にあり、一郎《いちろう》おじの部屋《へや》は、母屋《おもや》からその別棟《べつむね》までのちょうどあいだにあった。別棟《べつむね》へ行《い》く道《みち》は、渡《わた》り廊下《ろうか》と、空《あ》き部屋《べや》のあいだを通《とお》る廊下《ろうか》と、ふたつがある。禅《ぜん》は渡《わた》り廊下《ろうか》の下にひそんだ。そこからだと、一郎《いちろう》おじの部屋《へや》の窓《まど》が真向《まむ》かいに見え、次郎《じろう》おじのいる棟《むね》の廊下《ろうか》の窓《まど》が見えるのだった。音弥《おとや》は三|畳《じょう》の小部屋《こべや》にひそんだ。廊下《ろうか》を隔《へだ》てて、一郎《いちろう》おじの部屋《へや》だ。一郎《いちろう》おじが出入りすれば、物音《ものおと》が聞《き》こえるし、ここを通《とお》って次郎《じろう》おじが母屋《おもや》にやってくれば、それだって分《わ》かる。
音弥《おとや》は部屋《へや》の中で息《いき》をひそめていた。特《とく》に荷物《にもつ》はなかった。カビくさい、畳《たたみ》を敷《し》いた狭《せま》いだけの部屋《へや》だ。一郎《いちろう》おじの部屋《へや》のほうに向《む》かった壁《かべ》に身《み》を寄《よ》せて、耳を澄《す》まして座《すわ》りこんでいると、廊下《ろうか》をやってくる足音がした。音弥《おとや》は襖《ふすま》をすこしだけ開《ひら》いてみた。すると足音の主《ぬし》は、一郎《いちろう》おじでも次郎《じろう》おじでもなく、梨花《りか》おばだった。梨花《りか》おばは曲《ま》がり角《かど》まで来《き》て、どちらに行《い》けばいいのか迷《まよ》うように左右を見た。踏《ふ》みだしたのは、一郎《いちろう》おじの部屋《へや》とは反対《はんたい》のほうで、家《いえ》の奥《おく》のほう、つまりは井戸《いど》や蔵座敷《くらざしき》に向《む》かうほうだった。
おかしい、と音弥《おとや》はぴんときた。梨花《りか》おばが犯人《はんにん》のはずはない。梨花《りか》と光太《こうた》という子どもがいるのだから。だったら、梨花《りか》おばは被害者《ひがいしゃ》のほうだ、と思《おも》った。音弥《おとや》は迷《まよ》わず、納戸《なんど》を出た。梨花《りか》おばは、ぎょっとしたように立ちすくんだ。
「おどろいた。」と、梨花《りか》おばは両手《りょうて》を胸《むね》のあたりで握《にぎ》り合《あ》わせた。「なあに、あなたたち、このへんで寝《ね》ていたの?」
「まあね。おばさん、どうしたの?」
「呼《よ》びだされのよ。」
「誰《だれ》に?」と、音弥《おとや》がきくと、梨花《りか》おばは手の中の紙《かみ》を出した。「これ。ひょっとして、音弥《おとや》くんがくれたの?」
白い紙《かみ》には、「話《はなし》がある。井戸《いど》で待《ま》つ。」とだけ書《か》いてあった。すごく下手《へた》くそな字で、音弥《おとや》といい勝負《しょうぶ》になりそうだったのはたしかだ。けれどももちろん、音弥《おとや》は手紙《てがみ》なんか出していなかった。
「おれじゃないよ。これ、どうしたの?」
「お風呂《ふろ》に入って、部屋《へや》に戻《もど》ったらあったのよ。」と、梨花《りか》おば怪訝《けげん》そうに答《こた》えた。「わたしがお風呂《ふろ》に行《い》ってるあいだに、誰《だれ》かがえおいていったらしいの。」
「行《い》かないほうがいいよ。」
「でも、誰《だれ》だか知《し》らないけど、話《はなし》があるって。」
「だったら、送《おく》っていくよ。ひとりで行《い》かないほうがいいよ。物騒《ぶっそう》だから。」
音弥《おとや》が言《い》うと梨花《りか》おばは、すこし考《かんが》えて、「そうね。」とうなずいた。すこし不安《ふあん》そうな顔《かお》だった。それで音弥《おとや》は大急《おおいそ》ぎで禅《ぜん》を呼《よ》びにいって、そして禅《ぜん》とふたり梨花《りか》おばの護衛《ごえい》をしながら井戸《いど》のあるここまでやってきたのだった。
音弥《おとや》がそう説明《せつめい》していると、ばたばたと廊下《ろうか》をやってくる足音がした。見ると梨花《りか》と真由《まゆ》がやってくるところだった。
「あらっ、お母《かあ》さん。」梨花《りか》はおどろいたように足を止《と》めた。
「あなたたち、どうしたの?」
「騒《さわ》がしいから来《き》てみたのよ。お母《かあ》さんこそ、どうしたの?」
梨花《りか》がきいて、梨花《りか》に手紙《てがみ》が渡《わた》された。梨花《りか》はそれをポケットに突《つ》っこんだ。
「こんなのかまうことないわ。誰《だれ》かの陰謀《いんぼう》よ。お母《かあ》さん、忘《わす》れて寝《ね》ちゃいなさいよ。」
「でもね。」と梨花《りか》おばが言《い》いかけると、
「そのほうがいいです。」と、三郎《さぶろう》が言《い》った。「誰《だれ》かのいたずらですよ。これ、左手《ひだりて》で書《か》いたんですよ。放《ほう》っておいたほうがいいです。」
そうお、と梨花《りか》おばは狐《きつね》につままれたような表情《ひょうじょう》で、三郎《さぶろう》と子どもたちを見渡《みわた》した。
「光太《こうた》、お母《かあ》さんを護衛《ごえい》して行《い》きなよ。」と、禅《ぜん》が言《い》うと、光太《こうた》は張《は》り切《き》ってうなずいた。
「お母《かあ》さん、行こう。」
釈然《しゃくぜん》としないように、うしろを振《ふ》り返《かえ》り振《ふ》り返《かえ》り、去《さ》っていく母親《ははおや》に手を振《ふ》って、梨花《りか》は向《む》き直《なお》った。
「なにがあったの?」
耕介《こうすけ》は足許《あしもと》を示《しめ》した。
「ここにテグスが張《は》ってあるんだ。きっと土間《どま》においてある釣《つ》り竿《ざお》のだよ。」
えっと梨花《りか》が渡《わた》り廊下《ろうか》をおりようとすると、「動《うご》いちゃだめだ。」と、三郎《さぶろう》が声《こえ》をあげた。「こっちにもある。ぼくも耕介《こうすけ》もこれに足をとられたんだ。」
「罠《わな》だよ。」と耕介《こうすけ》は言《い》った。「ぼくは三郎《さぶろう》にいさんに向《む》かってたし、三郎《さぶろう》にいさんはぼくのほうに向《む》かって来《く》るところだった。だからなんでもなかったけど、井戸《いど》に向《む》かって歩《ある》いてたら、井戸《いど》に落《お》ちていたかもしれない。」
梨花《りか》と真由《まゆ》が、こわばった顔《かお》をして井戸《いど》の周囲《しゅうい》を見渡《みわた》した。これ、と示《しめ》すように三郎《さぶろう》が宙《ちゅう》でなにかをつまんだ。見えないものを探《さぐ》って、中庭《なかにわ》の隅《すみ》にある雨樋《あまどい》にたどりついた。
「端《はし》はここだ。ちょうどおとなの脛《すね》の高《たか》さだね。」
言《い》って、三郎《さぶろう》は苦心《くしん》して見えないものを樋《とい》から外《はず》した。外《はず》したそれを持《も》って立ちあがったとき、きらりと糸のようなものが光《ひか》るのが見えた。耕介《こうすけ》も同《おな》じようにして糸をたどった。耕介《こうすけ》がつまんだ糸は、三郎《さぶろう》が手にしたそれとは別《べつ》の糸のようだった。三郎《さぶろう》の糸と交差《こうさ》して井戸《いど》の向《む》こう側《がわ》に向《む》かい、壁際《かべぎわ》にあるヤツデにたどりついた。ヤツデの陰《かげ》に竹竿《たけざお》をさしてあって、それに端《はし》を結《むす》びつけてあった。
耕介《こうすけ》がいてをたどっているあいだに、三郎《さぶろう》も糸をたぐって、ちょうど耕介《こうすけ》がいるのと反対側《はんたいがわ》の壁際《かべぎわ》にたどりついていた。
「ここに杭《くい》がある。」言《い》って、三郎《さぶろう》は振《ふ》り返《かえ》った。「井戸《いど》を二本の糸で三角形《さんかくけい》に囲《かこ》ってあるんだ。そっちの渡《わた》り廊下《ろうか》のほうから来《き》ても、こっちの裏庭《うらにわ》のほうから来《き》ても、糸にひっかかるようになってる。」
梨花《りか》が悲鳴《ひめい》みたいな声《こえ》をあげた。
「お母《かあ》さんを井戸《いど》に落《お》とそうとしたんだわ。」
「だろうね。」と、三郎《さぶろう》は硬《かた》い声《こえ》で言《い》った。
「よかった。たいへんなことになるところだったわ。見張《みは》っていて大正解《だいせいかい》ね。」
「でも、三郎《さぶろう》にいさんは、なんで?」
三郎《さぶろう》が困《こま》ったように視線《しせん》を逸《そ》らすのを見「 み》ながら、耕介《こうすけ》は答《こた》えた。
「光太《こうた》が飛《と》びだしちゃったんだ。」
「そっか。」と、梨花《りか》は複雑《ふくざつ》そうに笑《わら》った。「しょうがないわねえ。光太《こうた》のことだから、そういうことになるんじゃないかって気がしたのよ。やっぱり屋根裏《やねうら》部屋《べや》にいさせればよかったわ。」
「どうしたんだい?」と、三郎《さぶろう》は耕介《こうすけ》と梨花《りか》を見比《みくら》べた。梨花《りか》はちょっと笑《わら》って渡《わた》り廊下《ろうか》に腰《こし》をおろす。
「もしも三郎《さぶろう》にいさんを見ても、隠《かく》れてて見なかったふりをしよう、って言《い》ってたの、あたしたち。」
[#改ページ]
12 裏切《うらぎ》り
三郎《さぶろう》はすごく困《こま》ったようすで、子どもたちを見渡《みわた》した。
「それは、どういうことなのかな?」
「だから、釣瓶《つるべ》を鳴《な》らしに来《き》たんでしょ?」
梨花《りか》が言《い》うと、三郎《さぶろう》はおどろいたようにして、それからすぐに失笑《しっしょう》した。
「ばれてたんだ。」
「うん。」と、言《い》ったのは禅《ぜん》だった。「だって、釣瓶《つるべ》を鳴《な》らしたって聞《き》こえるのは、屋根裏《やねうら》部屋《べや》にいるぼくたちぐらいなものだもんね。でも、おとなはみんな、ぼくたちが屋根裏《やねうら》部屋《べや》にいるなんて知《し》らないし、気づいてたとしても夜中《よなか》まで起《お》きて見張《みは》ってるなんて知《し》らない。少《すく》なくとも、音弥《おとや》おじさんが沼《ぬま》に落《お》ちた、ゆうべの時点《じてん》では知《し》らなかったはずなんだ。なのに、ゆうべも井戸《いど》の音がした。」
そうか、と三郎《さぶろう》は笑《わら》った。
「そもそも、屋根裏《やねうら》部屋《べや》で聞《き》こえた音が、すぐ隣《となり》にいる三郎《さぶろう》にいさんに聞《き》こえないのは変《へん》だよなって、話《はなし》になったんだ。」と、音弥《おとや》が言《い》った。「ゆうべ、耕《こう》ちゃんが井戸《いど》を見に来《き》たとき、直前《ちょくぜん》まで音がしてたのに、三郎《さぶろう》にいさんの姿《すがた》はなかったって。」
「寝《ね》てたんだよ。」と、三郎《さぶろう》はおもしろそうに言《い》った。
「あたしが母屋《おもや》で騒《さわ》いでたとき、三郎《さぶろう》にいさんはすぐに出てきたもん。」と、真由《まゆ》が言《い》った。「こんな奥《おく》のほうに寝《ね》てるのに、一郎《いちろう》おじさんより早かった。しかも服《ふく》のままで、パジャマも着《き》てなかったし。」
「本を読《よ》んでて、寝《ね》こんでしまったんだ。」
「だから、だめだよ。」と、禅《ぜん》が言《い》った。「釣瓶《つるべ》が鳴《な》るのを、ぼくらに聞《き》かせたかったんでしょう? 聞《き》こえる場所《ばしょ》にぼくらがいて、起《お》きてるはずだって分《わ》かってるの、三郎《さぶろう》にいさんだけなんだよ。」
「なるほどなあ。」と、三郎《さぶろう》は感心《かんしん》したように言《い》って、「ぼくの仕業《しわざ》だってことは分《わ》かってるから、もしもじっさいに見ても、見なかったふりをしようって言《い》ってたんだ。そういうことだね?」
「うん、そう。」と、禅《ぜん》はうなずいた。「べつにそれでも問題《もんだい》ないから。だって三郎《さぶろう》にいさんは、親切《しんせつ》じゃないほうの犯人《はんにん》とはちがうって分《わ》かってるから。」
「親切《しんせつ》じゃない?」
「ドクゼリを入れた犯人《はんにん》。」耕介《こうすけ》は言《い》って、テグスを示《しめ》した。「これを仕掛《しか》けたのも、きっとそうだね。」
「これは、ぼくじゃないよ。」と、三郎《さぶろう》があわてたように言った。
「うん。だと思《おも》うよ。これに引《ひ》っかかったから井戸《いど》に落《お》ちるって決《き》まったものじゃないし、むしろ落《お》ちる確率《かくりつ》のほうが低《ひく》いと思《おも》うけど、これはすごく悪意《あくい》があるもの。わざわざ梨花《りか》おばさんを呼《よ》びだしたりさ。」
「確認《かくにん》しといたほうがいいわよ。」と、梨花《りか》は言《い》って三郎《さぶろう》に向《む》き直《なお》った。「テグスも手紙《てがみ》も、三郎《さぶろう》にいさんじゃないわよね?」
「ちがうよ。」
「だったら、いいわ。おやすみなさい。」
三郎《さぶろう》は困《こま》ったように梨花《りか》を見て、それから子どもたちを見渡《みわた》した。
「怒《おこ》らないのは、なんで?」
「仕方《しかた》ないからだよ。」と、音弥《おとや》が言《い》った。「三郎《さぶろう》にいさんの気持《きも》ち、分《わ》かるからさ。おれだって、家《いえ》を出るの、いやだもん。母《かあ》ちゃんに言《い》わせると、古《ふる》くてボロ屋《や》なんだけど、やっぱいやだよ。ミイが爪《つめ》をといだあともあるし。」
「ミイ?」
「猫《ねこ》。去年《きょねん》、死《し》んだんだ。おれが拾《ひろ》ってきたんだぜ。どうしても柱《はしら》で爪《つめ》をとぐの、やめさせられなくて、居間《いま》の柱《はしら》が傷《きず》だらけなんだ。でも、あれを見《み》ると、ミイはいっつもここで爪《つめ》をといでたなあ、って思《おも》ってなつかしくなるんだ。」
そうか、と三郎《さぶろう》はつぶやいた。
「言《い》ってるだけだったと思《おも》うけど、」と、禅《ぜん》が言《い》った。「うちのお父《とう》さんが家《いえ》を継《つ》いだら、三郎《さぶろう》にいさんの桜《さくら》は切《き》られて、駐車場《ちゅうしゃじょう》にされちゃうかもしれないもんね。少《すく》なくとも、お母《かあ》さんがそう言《い》ってるのを、三郎《さぶろう》にいさんは聞《き》いちゃったんだから。」
「弥太郎《やたろう》おじさんは家《いえ》を壊《こわ》すなんて言《い》ってたもんね。」と、真由《まゆ》は言《い》った。「弥太郎《やたろう》おじさんは跡継《あとつ》ぎ候補《こうほ》じゃないけど、家《いえ》を継《つ》いだ誰《だれ》かが、同《おな》じことを考《かんが》えるかもしれないでしょ? あたしのお父《とう》さんだって、建物《たてもの》を減《へ》らしたほうがいいって言《い》ってたし。」
「うん、そうだね。」三郎《さぶろう》は言《い》って苦笑《くしょう》した。「なにもかもお見通《みとお》しなんだな。そんなにぼくは、不満《ふまん》そうにしてたかな?」
そうじゃない、と耕介《こうすけ》は答えた。
「次郎おじさんが言《い》ってたんだ。井戸《いど》が軋《きし》るなんて話《はなし》は知《し》らないって。禅《ぜん》は、きっと三郎《さぶろう》にいさんの作《つく》り話《ばなし》だろうって言《い》ってた。」
「ふうん?」
「なのに本当《ほんとう》に井戸《いど》が鳴《な》るのが聞《き》こえたから。それで、ひょっとしたら三郎《さぶろう》にいさんのいたずらだったのかな、って思《おも》ったんだ。本当《ほんとう》にある話《はなし》なら、誰《だれ》か別《べつ》の人がやったとも考《かんが》えられるけど、ありもしない話《はなし》なんだったら、その話《はなし》をした当人《とうにん》しか考《かんが》えられないでしょ?」
「次郎《じろう》|兄《にい》さんは、たまたま知《し》らなかったのかもしれないよ。」
「それも考《かんが》えたけど。でも、三郎《さぶろう》にいさん以外《いがい》の誰《だれ》かだったら、音を立てても意味《いみ》がないんだよ。井戸《いど》はこんな家《いえ》の奥《おく》のほうにあるし、普通《ふつう》だったら誰《だれ》にも聞《き》こえないんだから。そしたら禅《ぜん》が、おとなは怪談《かいだん》をいやがるか、子どもを脅《おど》すのに使《つか》いたがるかどっちかだ、って。」
「でも、単《たん》にあたしたちを怖《こわ》がらせるためにやってるとしたら、あまりにおとなげないでしょ。」と、梨花《りか》があとを引《ひ》き継《つ》いだ。「釣瓶《つるべ》を動《うご》かしたり、妙《みょう》な明《あ》かりを持《も》って夜《よる》の庭《にわ》をうろうろしたり。大のおとなのやることじゃないわよ。それなりの事情《じじょう》がなくっちゃ。」
「明《あ》かり?」
「そう。あたしと光太《こうた》と耕《こう》ちゃんが追《お》いかけていったやつ。あれも三郎《さぶろう》にいさんだったんでしょ? ひょっとしたら大事《だいじ》になってたかもしれないのよ。ひどいと思《おも》うわ。」
「ごめん。」と、言《い》って三郎《さぶろう》は笑《わら》った。「でも、集《あつ》まった子どもが約束《やくそく》をちゃんと守《まも》る子だったら、心配《しんぱい》はないはずだったんだよ。お地蔵《じぞう》さんの先は危険《きけん》だって言《い》ってあったんだから。万《まん》が一《いち》、見落《みお》とすことがないように、ロウソクも立てておいたし。」
「やっぱり、そういうことだったのね。」
「うん。お地蔵《じぞう》さんの先の道《みち》を、ぼくはよく知《し》ってる。ぼくは先へ行《い》けるけど、約束《やくそく》を守《まも》るちゃんとした子は、そこで立《た》ち止《ど》まる。それで、お互《たが》いに安全《あんぜん》で、だいじょうぶなはずだったんだ。だいじょうぶだろうと思《おも》っていたし、じっさいにだいじょうぶだっただろう?」
「夢中《むちゅう》になって、約束《やくそく》のことなんて忘《わす》れたかもしれないわ。」
「ついうっかり、ということはあるからね。だから、梨花《りか》ちゃんが立《た》ち止《ど》まるまで、ちゃんと見てたよ。」
「あ、そう。」と、梨花《りか》は舌《した》を出して、それからちょっと真顔《まがお》になった。「ついでだから、ひとつきいてもいい?」
「なんだい?」
「あたしたち、実《じつ》はにいさんに嫌《きら》われてたの?」
「嫌《きら》ってなんかないよ。」
「でも、そういうことでしょ? 大伯母《おおおば》さんは、あたしたちが財産《さいさん》を持《も》っていくから、あたしたちの顔《かお》を見るのもいやなの。だから離《はな》れから出てこないのよ。三郎《さぶろう》にいさんも実《じつ》は同《おな》じだったってことなんでしょ?」
梨花《りか》はちょっとだけ涙声《なみだごえ》だった。
「そんなにいやだったら、いやだって言《い》えばいいじゃない。大伯母《おおおば》さんみたいに、あたしたちにかまわなきゃいいんだわ。にこにこしながら、そんなことをするなんて卑怯《ひきょう》よ。」
そうだね、と三郎《さぶろう》は苦笑《くしょう》するような笑《え》みをこぼして、そうしてうつむいた。
「これって、ひどいよ。裏切《うらぎ》りって言《い》うのよ。いたいけな子どもの心《こころ》に、取《と》り返《かえ》しのつかない傷《きず》がつくんだから。」
「本当《ほんとう》に、そうだ。」と、三郎《さぶろう》は言《い》った。「でも、べつに母《かあ》さんは、みんなのことを嫌《きら》ってるわけじゃないよ。家《いえ》を譲《ゆず》りたくないって思《おも》ってるのは、たしかだと思《おも》う。けれど、離《はな》れを出てこないのは、みんなの顔《かお》を見たくないからじゃない。たぶん、みんなの顔《かお》を見ると、いやなことをしなきゃならないって思《おも》い出《だ》すからだと思《おも》うよ。」
「大差《たいさ》ないわ。三郎《さぶろう》にいさんもそうなんでしょう? だから、あたしたちに出ていってほしくて、こんなことをしたんじゃないの? こんな気味《きみ》の悪《わる》い家《いえ》、ほしくない、って思《おも》ってもらいたかったのよね。」
「うん。まあ、そういうことかな。この家《いえ》の怪談話《かいだんばなし》を聞《き》いたら、この家《いえ》に住《す》むのはごめんだって思《おも》ってくれないかな、とは思《おも》ってた。子どもから話《はなし》を聞《き》いて、きみたちのご両親《りょうしん》がいろいろと不吉《ふきつ》な話《はなし》を思《おも》い出《だ》して、自分《じぶん》が住《す》むなんてとんでもない、こどもだって家《いえ》を継《つ》いだら不幸《ふこう》になるって考《かんが》えて、洗《あら》いざらいお金だけ持《も》っていってくれないかな、って。そうすれば、この家《いえ》だけは残《のこ》るんじゃないかとは思《おも》った。」
「可能性《かのうせい》、極小《きょくしょう》よ。おとなって欲深《よくぶか》いから、く。誰《だれ》か高《たか》く買《か》ってくれる人に売《う》り払《はら》うなり、壊《こわ》して更地《さらち》にして叩《たた》き売《う》ってしまうわよ。」
「きっとそうなるんだろうな、とは思《おも》ってるよ。」
「なのに、やったの?」
「母《かあ》さんと同《おな》じかな。」と、三郎《さぶろう》は言《い》ってから、あわてて、「べつに、顔《かお》を見たくないとか、嫌《きら》ってるとかじゃないよ。母《かあ》さんだって分《わ》かってるんだ、これは決《き》まってることだから仕方《しかた》ないって。仕方《しかた》ないのがつらいから、離《はな》れから出てこない。それと同《おな》じ。意味《いみ》がないって分《わ》かってるんだけど、いたたまれなくて、なにかしないでいられなかったんだよ。」
「おとなって、ややこしいのね。」梨花《りか》はあきれたように息《いき》を吐《は》いて、ぞんざいに手を振《ふ》った。「もういいわ。気にせず寝《ね》ちゃいなさいよ。あとはあたしたちの仕事《しごと》だから。」
「まるで、ぼくの言《い》い分《ぶん》を信《しん》じたみたいだね。」
「信《しん》じるわ。言《い》っておくけど、これは好意《こうい》じゃないんだから。仲間《なかま》|意識《いしき》でもないわ。そんなの、あったとしても、三郎《さぶろう》にいさんの裏切《うらぎ》りでチャラよ。純粋《じゅんすい》に、三郎《さぶろう》にいさんにはできないの。少《すく》なくとも、にいさんは、あたしたちを怪談話《かいだんばなし》で脅《おど》すのに忙《いそ》しかったんだから、ドクゼリを混《ま》ぜることはできなかったのよ。」
[#改ページ]
13 誰《だれ》も犯人《はんにん》じゃない
「あーあ。がっかりだわ。」
梨花《りか》は屋根裏《やねうら》部屋《べや》に戻《もど》るなり、そう嘆《なげ》いて寝転《ねころ》がった。
「やっぱり光太《こうた》を井戸《いど》にやるんじゃなかった。」
「光太《こうた》が出ていかなくても、隠《かく》れてるわけにはいかなかったと思《おも》うよ。」と、耕介《こうすけ》は言《い》った。「あんな仕掛《しか》けがあったんだから。」
「そうだね。」と、真由《まゆ》がうなずいた。「おまけに梨花《りか》おばさんが呼《よ》び出《だ》されてたんだもんね。」
「でも、これではっきりしたじゃない。」と、禅《ぜん》は言《い》った。「梨花《りか》ちゃんたちが沼《ぬま》に誘《おび》き出《だ》されたのは、考慮《こうりょ》に入れなくていいんだよ。だから、問題《もんだい》になるのはドクゼリの事件《じけん》と、音弥《おとや》おじさんが沼《ぬま》に落《お》ちた事件《じけん》なんだ。」
「そっか。」と、梨花《りか》は身《み》を起《お》こした。「これで、一郎《いちろう》おじさんが犯人《はんにん》で、なんの問題《もんだい》もないんだわ。」
梨花《りか》がそう言《い》うと、音弥《おとや》と禅《ぜん》は困《こま》ったように顔《かお》を見合《みあ》わせた。
「一郎《いちろう》おじさん、今日《きょう》は部屋《へや》から出てないぜ。な、禅《ぜん》。」
「うん。部屋《へや》にいたよ。ぼくのいたところから、ずっと座《すわ》ってる一郎《いちろう》おじさんの頭《あたま》が見えてた。」
「それは関係《かんけい》ないんじゃないかな。」と、耕介《こうすけ》は首《くび》をかしげた。「だって、ぼくが行《い》ったとき、井戸《いど》のまわりには、もうテグスが張《は》られていたんだから。つまり犯人《はんにん》が罠《わな》を用意《ようい》したのは、ぼくらが見張《みは》りに行《い》く前《まえ》のことなんだよ。」
そっか、と梨花《りか》は腕組《うでぐ》みをした。
「でも、耕《こう》ちゃんたちが出たとき、まだ表座敷《ざしき》では相談中《そうだんちゅう》だったわ。とすると罠《わな》を張《は》ったのは夕飯《ゆうはん》の前《まえ》だったってことね。」
「それも遅《おそ》めの時間《じかん》だよ。」と、音弥《おとや》が言《い》った。「だって、夕飯《ゆうはん》の前《まえ》に、おれと光太《こうた》で手がかりを探《さが》しに行《い》ったんだから。おれらが行《い》ったときには、罠《わな》なんてなかったよ。蓋《ふた》だってちゃんとしてあったし、釣瓶《つるべ》だっていつもどおりにあがってた。だから、犯人《はんにん》が罠《わな》を張《は》ったのは、そのあとのことなんだ。」
「またアリバイ調《しら》べかあ。」と、梨花《りか》はうんざりしたように言《い》った。「アリバイを調《しら》べるのって、すごく不毛《ふもう》なのよね。話《はなし》を聞《き》いても、本当《ほんとう》かどうか分《わ》からないんだから。」
「でも、」と耕介《こうすけ》は声《こえ》をあげた。「手紙《てがみ》は?」
禅《ぜん》は、はっとしたように口を開《あ》けた。
「そうか。梨花《りか》おばさんは、お風呂《ふろ》から戻《もど》ったら手紙《てがみ》があった、って。」
「梨花《りか》おばさんが、お風呂《ふろ》に入ってるあいだに、誰《だれ》かが手紙《てがみ》をおいていったんだよね。それ、相談《そうだん》が終《お》わってからの話《はなし》じゃないの?」
「そういうことになるわ。」と、梨花《りか》は目を輝《かがや》かせた。「その頃《ころ》にはもう、あたしたち、しっかり監視《かんし》|体制《たいせい》をしいていたのよ。」
「でも、」と禅《ぜん》が、口ごもるように言《い》った。「一郎《いちろう》おじさんは、相談《そうだん》が終《お》わってお開《ひら》きになったら、しばらく土間《どま》であとかたづけを手伝《てつだ》ってたよ。それはぼくと音《おと》ちゃんでずっと見てたから、たしかなんだ。それから部屋《へや》に戻《もど》った。戻《もど》ってからは一歩《いっぽ》も部屋《へや》を出てないよ。」
禅《ぜん》が同意《どうい》を求《もと》めるように見ると、音弥《おとや》もしっかりうなずいた。
梨花《りか》は目を丸《まる》くする。「じゃあ、一郎《いちろう》おじさんじゃないの?」
「ぜったいちがう。ありえないよ。」禅《ぜん》と音弥《おとや》が声《こえ》をそろえて断言《だんげん》した。
「だったら、誰《だれ》なの?」と、梨花《りか》が困《こま》ったように全員《ぜんいん》を見まわした。「だって、他《ほか》にドクゼリを混《ま》ぜるチャンスのあった人は、いないのよ?」
「どうにかしたって考《かんが》えるしかないんじゃない?」と、真由《まゆ》が言《い》った。「次郎《じろう》おじさんか、次郎《じろう》おばさんか、弥太郎《やたろう》おじさんの誰《だれ》かよ。」
「次郎《じろう》おじさんは、ないよ。」と、禅《ぜん》が言《い》い切《き》った。「だって、井戸《いど》の怪談《かいだん》は存在《そんざい》しないんだから。」
「どういうこと?」と、梨花《りか》が首《くび》をかしげた。
「だから、犯人《はんにん》は一貫《いっかん》して、行者《ぎょうじゃ》のたたりを利用《りよう》したがってるでしょう? なのに井戸《いど》のまわりに罠《わな》を張《は》った。井戸《いど》の怪談《かいだん》なんて、ないのに。きっとゆうべ、耕《こう》ちゃんたちが井戸《いど》の音を聞《き》いたって話《はなし》をして、それで利用《りよう》できると思《おも》ったんだと思《おも》うんだ。三郎《さぶろう》にいさんの作《つく》り話《ばなし》なのに。」
「そっか。」
「犯人《はんにん》はきっと、この家《いえ》の事情《じじょう》に詳《くわ》しくないんだよ。お地蔵《じぞう》さんの件《けん》だって、知《し》らなかったんじゃないかな。耕《こう》ちゃんたちが話《はなし》をしたから、動《うご》かしたんだ、たぶん。」
「じゃあ、次郎《じろう》おじさんと次郎《じろう》おばさんでもないって話《はなし》にならない? 家《いえ》の人間《にんげん》なんだもの。」
「次郎《じろう》おばさんはお嫁《よめ》さんだから、あまり詳《くわ》しくない可能性《かのうせい》があるけどね。でも、だとしても次郎《じろう》おばさんは関係《かんけい》ないよ。ドクゼリがお膳《ぜん》に入れられたのは、お膳《ぜん》が並《なら》んだあとのことなんだから。次郎《じろう》おばさんはずっと台所《だいどころ》にいて座敷《ざしき》に近《ちか》づいてない。ドクゼリを入れるチャンスがぜんぜんなかったんだ。」
「じゃあ、残《のこ》るのは、弥太郎《やたろう》おじさんだ。」と音弥《おとや》が言《い》うと、梨花《りか》は、そっか、と声《こえ》をあげた。
「真由《まゆ》おばさんがお膳《ぜん》に追加《ついか》を持《も》っていったとき、弥太郎《やたろう》おじさんは、音弥《おとや》おじさんと表座敷《おもてざしき》にいたのよね。ふたりで将棋《しょうぎ》をさしてたからって、一緒《いっしょ》に表座敷《おもてざしき》に来《き》たとは限《かぎ》らないわ。ひょっとしたら、音弥《おとや》おじさんと将棋《しょうぎ》を始《はじ》める前《まえ》、ひとりで座敷《ざしき》にいたのかも。」
真由《まゆ》が、ぱちんと音を立てて手を合《あ》わせた。
「そうなんだね。梨花《りか》おばさんたちが座敷《ざしき》に行《い》ったとき、一郎《いちろう》おじさんしかいなかったけど、そのあと、お母《かあ》さんが座敷《ざしき》に行《い》くまでのあいだに、一郎《いちろう》おじさん以外《いがい》の人が座敷《ざしき》に入ったかもしれないんだ。」
「そうそう。」と、梨花《りか》は笑《わら》ってから、はっとしたように顔色《かおいろ》を変《か》えた。「ちょっと待《ま》って。それもちがうわ。」
「ちがう?」
「だって、弥太郎《やたろう》おじさんは、いたもの、表座敷《おもてざしき》に。」
梨花《りか》が言《い》うと、真由《まゆ》もぽかんと口を開《あ》けた。
「そうだわ。いた。あたしたち、見てた。」
梨花《りか》と真由《まゆ》はうなずきあった。禅《ぜん》が、おどろいたように割《わ》って入った。
「ちょっと待《ま》ってよ。どういうこと?」
「だから、弥太郎《やたろう》おじさんは、相談《そうだん》が終《お》わってからもお酒《さけ》を飲《の》んでたの。屋根裏《やねうら》|部屋《べや》から、それが見えてたのよ。そのままおじさんは酔《よ》いつぶれて表座敷《おもてざしき》で寝《ね》ちゃった。表座敷《おもてざしき》の明《あ》かりが消《き》えてからも、誰《だれ》かがおじさんの枕許《まくらもと》にスタンドをつけたままにしてたから、ずっとおじさんが見えてたの。」
「ずっとだよ。」と、真由《まゆ》は言葉《ことば》に力をこめた。「梨花《りか》ちゃんが、明《あ》かりが消《き》えたの、知《し》らせにいった時《とき》も、そのあとも、ずっと寝《ね》てた。」
「だから、弥太郎《やたろう》おじさんもだめなの。手紙《てがみ》をおきにいけないのよ。」
子どもたちは声《こえ》をなくした。
「でも。」と、禅《ぜん》は難《むずか》しい顔《かお》をした。「そんなの、おかしいじゃない。犯人《はんにん》がいなくなっちゃうでしょう。誰《だれ》も犯人《はんにん》じゃないってことは、行者《ぎょうじゃ》のたたりだってことに話《はなし》が舞《ま》い戻《もど》っちゃう。そうでなきゃ、」
禅《ぜん》は言《い》いかけて、ぽかんと口を開《あ》けた。
「どうしたの?」
「もうひとり、候補者《こうほしゃ》がいるには、いるけど。」と、禅《ぜん》が言《い》いにくそうにして、耕介《こうすけ》もふっと考《かんが》えこんだ。
「だれ?」と、梨花《りか》がきくと、禅《ぜん》は口ごもった。「だから……師匠《ししょう》。」
全員《ぜんいん》がいっせいに目を丸《まる》くして、そしてすぐに「ちがう!」と声《こえ》をそろえた。
「だって、師匠《ししょう》なら不可能《ふかのう》じゃないよ、たぶん。」
「師匠《ししょう》だって井戸《いど》に怪談《かいだん》がないことぐらい、知《し》ってるはずよ。」
「だったら、弥太郎《やたろう》おじさんだ。梨花《りか》ちゃんたちが見《み》まちがえたんだよ。」
「でも、ぜったいに、たしかだもん。」と、真由《まゆ》が泣《な》きそうな声《こえ》で言《い》った。
「ちょっとは目を離《はな》したはずだよ。でないと、師匠《ししょう》しか、」と、禅《ぜん》が言《い》いかけたとき、「ちがう。」と、耕介《こうすけ》はつぶやいた。
「ちがうって、なにが?」
「他《ほか》にも犯人《はんにん》がいていいんだ。」
「え?」
「忘《わす》れたの? 子どもはひとり[#「子どもはひとり」に傍点]、多《おお》いんだよ[#「いんだよ」に傍点]。」
子どもたちは、全員《ぜんいん》ぽかんとした。
「ひとり、多《おお》い……」
禅《ぜん》はつぶやいた。
「ぼくらの親《おや》の中の誰《だれ》かは、本当《ほんとう》は子どもなんて持《も》ってない。」
なんだかすっかり慣《な》れてしまって、六人いるのが当《あ》たり前《まえ》になっていたけど。
耕介《こうすけ》が言《い》うと、梨花《りか》があらためて全員《ぜんいん》を見まわした。
「いったい、誰《だれ》が座敷童子《ざしきわらし》なの?」
[#改ページ]
14 犯人《はんにん》
「名乗《なの》り出《で》なさいよ。」と、梨花《りか》は語気《ごき》を荒《あら》くした。「分《わ》からないの? あんたの親《おや》が犯人《はんにん》かもしれないのよ。」
「お蔵《くら》さまに、『あんた』はないよ。」と、禅《ぜん》は言《い》った。「やっぱり、お願《ねが》いします、とかなんとか言《い》わないといけないんじゃない? ひょっとしたら、お供《そな》えかなにかして。」
「だって、お蔵《くら》さまのせいで、またなにか起《お》こるかもしれないのよ。さっき、お母《かあ》さんだって、危《あぶ》なかったんだから。」
梨花《りか》は、どしんと足を踏《ふ》み鳴《な》らして、子どもたちを見る。
「家《いえ》を守《まも》るんじゃなかったの? これは家《いえ》の大事《だいじ》なのよ。お母《かあ》さんたちが殺《ころ》されちゃったら、家《いえ》を継《つ》ぐ人はいなくなるの。そうしたら、あんたの集《あつ》めた財産《ざいさん》なんて、なんの意味《いみ》もなくなるんだから。」
そのとき、梨花《りか》おばを送《おく》っていった光太《こうた》が戻《もど》ってきた。
「今《いま》、すごい音がしたよ。」そう言《い》って、光太《こうた》は階段《かいだん》からあがってきた。「お母《かあ》さんが、どうしても泊《と》まっていけって言《い》うんだ。だから、寝《ね》たふりをしてぬけだしてきちゃった。」
得意《とくい》そうに言《い》ってから、光太《こうた》は梨花《りか》を見た。なにか気まずい雰囲気《ふんいき》が漂《ただ》っているのを感《かん》じ取《と》って、不安《ふあん》そうに子どもたちを見る。
「なにか、あったの?」
梨花《りか》は光太《こうた》に向《む》き直《なお》った。
「光太《こうた》、最初《さいしょ》の日にいなかった子どもは誰《だれ》?」
強《つよ》い語調《こちょう》できかれて、光太《こうた》はちょっと後《あと》ずさりした。
「最初《さいしょ》の日って?」
「本家《ほんけ》にきた最初《さいしょ》の日よ。あの日は子どもが五人だったの。次《つぎ》の日の夜《よる》からひとり多《おお》いのよ。あんた、なんか感《かん》じない? 知《し》らない感《かん》じのする子はいない?」
「そんな。みんな、いたよ。」
「いなかったの。」
梨花《りか》の剣幕《けんまく》におじけて、光太《こうた》は耕介《こうすけ》の陰《かげ》に逃《に》げこんだ。
「やめなよ。」と、耕介《こうすけ》は言《い》った。「光太《こうた》を責《せ》めても仕方《しかた》ないよ。たぶん、お蔵《くら》さまは自分《じぶん》から名乗《なの》り出《で》たりしないと思《おも》うよ。そんな気があったら、とっくにそうしてるんじゃないかな。」
「だって。」
「それより、誰《だれ》が犯人《はんにん》かってことなんだよ。今《いま》まで、無条件《むじょうけん》にぼくらの親《おや》は犯人《はんにん》じゃないって考《かんが》えてきたけど、たぶん、親《おや》の中に犯人《はんにん》がいるんだ。」
「お蔵《くら》さまの親《おや》だね。」と、禅《ぜん》がうなずいた。「音《おと》ちゃんのお父《とう》さんはちがうよね。沼《ぬま》に落《お》ちたんだから。ということは、音《おと》ちゃんはお蔵《くら》さまじゃないから、音《おと》ちゃんのお母《かあ》さんもちがう。」
光太《こうた》は声《こえ》をあげた。
「お母《かあ》さんもちがうよ。井戸《いど》に落《お》ちるところだったんだから。」
「それを言《い》うなら、耕介《こうすけ》おじさんだってそうよ。」と、真由《まゆ》が言《い》った。「ドクゼリを食《た》べたんだから。うちのお父《とう》さんもだよ。」
「それは、ぼくのお父《とう》さんだってお母《かあ》さんだって同《おな》じだよ。」と、禅《ぜん》は溜息《ためいき》まじりに言《い》った。「やっぱり犯人《はんにん》がいなくなっちゃう。」
「きっと、そういうことを考《かんが》えても意味《いみ》がないんだわ。誰《だれ》も死《し》んだわけじゃないんだから。よく考《かんが》えたら、自分《じぶん》が疑《うたが》われないように、わざとやった可能性《かのうせい》もあるわけだし、あたったふりをした可能性《かのうせい》だってあるのよ。」
梨花《りか》は肩《かた》をすくめてから、耕介《こうすけ》の顔《かお》をのぞきこんだ。
「どうしたの?」
耕介《こうすけ》はじっとノートを見ていた視線《しせん》をあげた。
「ねえ、ドクゼリを入れるチャンスは、二|回《かい》あったんじゃないかな。」
「二|回《かい》? お膳《ぜん》が並《なら》んだあとと、それから?」
「一番《いちばん》|最初《さいしょ》。ほら、最初《さいしょ》からみんなあやしいって言《い》ってたじゃない。誰《だれ》が用意《ようい》したのか分《わ》からないやつ。あれにそもそも入ってたとしたら?」
「それはないわよ。」と、梨花《りか》が困《こま》ったように禅《ぜん》を見た。「だって、それはあり得《え》ないって、話《はなし》だったじゃない。」
「本当《ほんとう》にそうかな?」
「だって。」と、禅《ぜん》は言《い》って、「そう、それに最初《さいしょ》からドクゼリが入ってたなんて変《へん》だよ。梨花《りか》おばさんだって味見《あじみ》してるし、それにあれは、本当《ほんとう》は子どものご飯《はん》に出るはずだったんだから。それを梨花《りか》おばさんが、おとな用《よう》にまわしちゃったんだよ。犯人《はんにん》は、そんなの予測《よそく》できるはずがないし。」
「そうね。」と、梨花《りか》はうなずいた。「そりゃ、お母《かあ》さんが味見《あじみ》したのは、ほんのちょっぴりだったみたいだし、だから具合《ぐあい》が悪《わる》くなることはなかったのかもしれないけど、でも、子ども用《よう》の料理《りょうり》に毒《どく》なんて入れるはずないわ。だって、そんなことしたら、自分《じぶん》の子どもだって危《あぶ》ないじゃない。」
「だからね、子どもはひとり増《ふ》えたんだよ。それは、いつ?」
「蔵座敷《くらざしき》で四人《しびと》ゲームをしてから?」
「そう、つまりドクゼリ事件《じけん》のあとだよ。ドクゼリは夕食《ゆうしょく》の前《まえ》に準備《じゅんび》されて、料理《りょうり》の中に入れられたはずなんだ。つまり犯人《はんにん》は、ドクゼリを混《ま》ぜた時点《じてん》では、まだ子どもを[#「まだ子どもを」に傍点]持《も》っていなかったんだ[#「っていなかったんだ」に傍点]。」
「あっ。」と、梨花《りか》は声《こえ》をあげた。「そっか。そうよね、自分《じぶん》に子どもがいないんだったら、そのほうが安全《あんぜん》なんだわ。むしろおとなを狙《ねら》うと、自分《じぶん》にまで危険《きけん》が及《およ》ぶかもしれない。」
「うん。」と、禅《ぜん》が同意《どうい》した。「狙《ねら》われていたのは、ぼくらのほうだったんだ。犯人《はんにん》には子どもがないんだから、親《おや》の全員《ぜんいん》をどうにかしないと、自分《じぶん》が家《いえ》を継《つ》ぐことなんてできない。それって簡単《かんたん》なことじゃないよ。それより、子どもを狙《ねら》ったほうが、うんと簡単《かんたん》だ。数《かず》だって、そのほうが少《すく》ないんだから。」
そうなんだ、と耕介《こうすけ》は言《い》って、子どもたちを見渡《みわた》した。
「そもそも、犯人《はんにん》は、どうしてドクゼリを使《つか》ったり、音弥《おとや》おじさんを沼《ぬま》に落《お》としたりしたんだろう?」
「行者《ぎょうじゃ》のたたりだって思《おも》わせたかったんでしょ?」と、梨花《りか》が答《こた》えた。
「そのはずだよね。でも、だったらおかしくない?」
「おかしいって?」
「三郎《さぶろう》にいさんの話《はなし》だよ。一郎《いちろう》おじさんには子どもがいたけど亡《な》くしてしまった。大伯父《おおおじ》さんの子どもが死《し》んだんじゃない、子どもの子どもが死《し》んだんだ。」
子どもたちは不思議《ふしぎ》そうに目を丸《まる》くした。
「子どもの子ども……」
「そう。そもそもこの家《いえ》は、子どもが育《そだ》たない家《いえ》だって話《はなし》だったんじゃないのかな。それが、行者《ぎょうじゃ》のたたりなんだろ?
だったら、すっかり育《そだ》ってしまったおとなは、たたりには関係《かんけい》ないはずだと思《おも》うんだけど。」
「そのとおりだわ。」梨花《りか》は、あきれたように口を開《あ》けた。
「行者《ぎょうじゃ》|殺《ごろ》しを使《つか》っても、死《し》んだのがおとなだったら、たたりにならないよ。」
「そうなんだわ。」と、梨花《りか》は腕《うで》を組《く》んだ。「犯人《はんにん》は子どもを全員《ぜんいん》かたづけて、子どものいない自分《じぶん》にも相続《そうぞく》のチャンスがまわってくるようにしたかったのよ。だから子ども用《よう》の料理《りょうり》にドクゼリを入れた。なのに、お母《かあ》さんが、おとなのお膳《ぜん》にまわしちゃった。」
「でも、だったら、おとなの全員《ぜんいん》があたったはずだろ。」と、音弥《おとや》が言《い》う。
耕介《こうすけ》はうなずいた。
「そう、きっと、そうなるはずだったんだ。けれども、梨花《りか》ちゃんのお母《かあ》さんが言《い》ってたろう? おとなのぶんにしては量《りょう》が少《すく》なかったって。だから、あわてて追加《ついか》を作《つく》って、真由《まゆ》のお母《かあ》さんに頼《たの》んでお膳《ぜん》に足してもらったって。追加《ついか》のぶんにはドクゼリが入ってなかったことは確実《かくじつ》なんだよ。だからぼくらは、その前《まえ》にお膳《ぜん》を並《なら》べていた一郎《いちろう》おじさんが、どこからか持《も》ってきたドクゼリを混《ま》ぜたにちがいないと考《かんが》えたわけだけど、それが全部《ぜんぶ》、まちがっていたんだ。」
そう、なにもかも逆《ぎゃく》だったのだ。ドクゼリが入っていたはずはない、と思《おも》われていた料理《りょうり》には、最初《さいしょ》からドクゼリが入っていた。おとなを狙《ねら》ったと思《おも》われたそれは、実《じつ》は子どもを狙《ねら》ったものだった――そんなふうに。
だとしたら犯人《はんにん》はひとりしかいない。そう思《おも》いながら、耕介《こうすけ》は背後《はいご》を振《ふ》り返《かえ》った。耕介《こうすけ》のうしろには、いつの間《ま》にか子どもがひとり、立ちあがって、ぽつんとたたずんでいる。困《こま》った顔《かお》をするわけでなく、ましてや笑《わら》うわけでもなく、とても無感動《むかんどう》な表情《ひょうじょう》で、耕介《こうすけ》を見おろしていた。
「真由《まゆ》ちゃん、なんで、出てきたの?」
真由《まゆ》はすこしのあいだ、耕介《こうすけ》をじっと見つめた。なにを考《かんが》えているのか、そもそも、なにかを感《かん》じているのか、それさえさっぱり分《わ》からなかった。耕介《こうすけ》がさらに問《と》いかけようとしたとき、真由《まゆ》はくるりと背《せ》を向《む》けた。
「おもしろそうだったから。」
そう言《い》って、すたすたと屋根裏《やねうら》|部屋《べや》からおりていく。きょとんとしていた子どもたちは、我《われ》に返《かえ》って立ちあがった。てんでに声《こえ》をあげて転《ころ》がるように階段《かいだん》を駈《か》けおりる。おりきったときには、真由《まゆ》の背中《せなか》が納戸《なんど》をぬけて廊下《ろうか》へと出ていくところだった。あとを追《お》って廊下《ろうか》に出ると、曲《ま》がり角《かど》を折《お》れていく真由《まゆ》のうしろ姿《すがた》が見えた。
「真由《まゆ》!」
曲《ま》がり角《かど》へと走《はし》ると、先の曲《ま》がり角《かど》をちらりと折《お》れる。まるでわざとタイミングを計《はか》っているようだった。またひとつ角《かど》をまわりこむと、ずっと先の角《かど》を曲《ま》がっていく姿《すがた》が見えた。その角《かど》までたどりつくと、蔵座敷《くらざしき》の扉《とびら》しかなかった。扉《とびら》は閉《し》まったまま、もちろん真由《まゆ》の姿《すがた》はない。耕介《こうすけ》が鍵《かぎ》に飛《と》びついて、いつかの夜《よる》のように扉《とびら》を開《あ》けた。板戸《いたど》を開《あ》け、明《あ》かりを点《つ》けたとき、正面《しょうめん》の厨子《ずし》の戸《と》が、
内側《うちがわ》から小さな白い手に引《ひ》かれて、ぱたりと閉じるのが見えた。
「えーっ!」
奇声《きせい》をあげて、まっさきに厨子《ずし》に駈《か》けよったのは梨花《りか》だった。扉《とびら》に飛《と》びつき、開《あ》けようとしたけれども、扉《とびら》は軋《きし》みをあげるだけで動《うご》こうとはしなかった。当然《とうぜん》だろう、厨子《ずし》の扉《とびら》には、大きな錠前《じょうまえ》がついている。
音弥《おとや》も光太《こうた》も一緒《いっしょ》になって、しばらく扉《とびら》を揺《ゆ》さぶって、そして三人は諦《あきら》めたように耕介《こうすけ》を振《ふ》り返《かえ》った。三人も、そしてそれをぽかんと見ていた禅《ぜん》も、目がまんまるだった。
「どういうこと? 真由《まゆ》が?」
耕介《こうすけ》はうなずいた。
「そうだったんだ。真由《まゆ》のお父《とう》さんとお母《かあ》さんには、実《じつ》は子どもなんて、いなかった。」
「たしかにそうなんだろうけど、でも。」
「追加《ついか》の中には、ドクゼリが入っていなかった。真由《まゆ》のお母《かあ》さんは、安全《あんぜん》なそれを座敷《ざしき》に持《も》っていってお膳《ぜん》に足した。その時《とき》しか、チャンスはないんだ。真由《まゆ》のお母《かあ》さんが座敷《ざしき》に行《い》ったときには、お膳《ぜん》が並《なら》んだ小鉢《こばち》の全部《ぜんぶ》にドクゼリが入っていたんだから。なのに、ドクゼリを食《た》べたのは、ぼくらの親《おや》だけだった。つまり、ドクゼリを足したんじゃない、誰《だれ》かがドクゼリをぬいたんだ[#「かがドクゼリをぬいたんだ」に傍点]。真由《まゆ》のお母《かあ》さんが、子どものいないおとなのお膳《ぜん》の小鉢《こばち》から、毒入《どくい》りの料理《りょうり》を取《と》って、他《ほか》の小鉢《こばち》につぎ分《わ》けて、空になったところに毒《どく》の入ってないのを入れた。真由《まゆ》おばさんはひとりだった。下座敷《しもざしき》に弥太郎《やたろう》おじさんと音弥《おとや》おじさんがいたけど、ふたりは将棋《しょうぎ》に熱中《ねっちゅう》してた。だったら、自分《じぶん》の体《からだ》で隠《かく》しながら細工《さいく》をするのは不可能《ふかのう》じゃないよ。」
そうか、と禅《ぜん》がつぶやいた。
「それより前《まえ》に座敷《ざしき》にいて、お膳《ぜん》を並《なら》べた一郎《いちろう》おじさんには、それができないんだね。一郎《いちろう》おじさん以外《いがい》の人にだってできない。肝心《かんじん》の、ドクゼリの入ってない追加《ついか》が来《き》てないんだから。」
「びっくりだわ。」
力がぬけたように梨花《りか》が言《い》って、その場《ば》に座《すわ》りこんだ。その脇《わき》に、どすんと音をたててあぐらをかいたのは音弥《おとや》だった。
「それを言《い》うなら、がっかり、だよ。真由《まゆ》はぜんぜん、父《とう》さんたちを助《たす》けてなんか、くれなかったじゃないか。お蔵《くら》さまって座敷童子《ざしきわらし》じゃなかったのか?」
光太《こうた》はそんな音弥《おとや》と、梨花《りか》を見比《みくら》べる。
「座敷童子《ざしきわらし》って、いい妖怪《ようかい》じゃなかったの?」
「みたいね。」
梨花《りか》が肩《かた》をすくめると、禅《ぜん》が溜息《ためいき》まじりに言《い》う。
「べつに悪《わる》いことをされたわけじゃ、ないけどね。」
「そうだけど。でも、誰《だれ》かを助《たす》けてくれたわけでもないし、なにかを教《おし》えてくれたわけでもない。たんに、そこにいただけ。むしろ真由《まゆ》がいたせいで、真由《まゆ》の両親《りょうしん》が子どもを持《も》ってるおとなの組《くみ》に入っちゃって、話《はなし》がややこしくなったんだもの。たしかに、がっかり、だわ。」
全員《ぜんいん》が、それぞれに気落《きお》ちしたような気分《きぶん》で黙《だま》りこんだ。
「不思議《ふしぎ》ねえ。」
梨花《りか》がぽつんと言《い》った。耕介《こうすけ》が振《ふ》り返《かえ》ると、梨花《りか》は同意《どうい》を求《もと》めるように耕介《こうすけ》を見る。
「今《いま》になって思《おも》い返《かえ》してみると、たしかに最初《さいしょ》は真由《まゆ》はいなかったって気がするの。」
指摘《してき》されて、耕介《こうすけ》も記憶《きおく》を掘《ほ》りおこしてみる。蔵座敷《くらざしき》に入ったときには、四人だった。そう、今《いま》から思《おも》うと、そのとき真由《まゆ》がいたという気がしない。それ以前《いぜん》もそうだ。本家《ほんけ》にやってきて、そうしたら梨花《りか》と光太《こうた》のふたりはすでに着《つ》いていた。大伯父《おおおじ》に挨拶《あいさつ》をして戻《もど》ると、ちょうど禅《ぜん》が両親《りょうしん》とやってきたところで、入れちがいで離《はな》れに向《む》かっていった。最後《さいご》に到着《とうちゃく》したのは音弥《おとや》と両親《りょうしん》だった。思《おも》い出《だ》せるのは、それだけだ。真由《まゆ》に初《はじ》めて会《あ》ったときの記憶《きおく》がない。
「おとなはどうなのかな。」
音弥《おとや》は首《くび》をかしげた。そうねえ、と梨花《りか》は首《くび》を傾《かたむ》ける。
「真由《まゆ》が現《あらわ》れたあと、おとなはそれで当《あ》たり前《まえ》だって感《かんじ》じだったのよね。今度《こんど》もそうなんじゃない? ひとり減《へ》ったのに気づかないで、これでみんなだって顔《かお》をするのよ。」
「真由《まゆ》の父《とう》ちゃんと母《かあ》ちゃんも?」
「じゃない? 子どもがいたことなんて忘《わす》れちゃうのよ、きっと。いなかったことだって、すっかり忘《わす》れてたんだもの。」
「でも、どうするの?」と、禅《ぜん》が言《い》った。
「どうしようもないじゃない。」と、梨花《りか》が溜息《ためいき》をついた。「あたしたちが真由《まゆ》のことをきいたって、みんな、その子は誰《だれ》、って言《い》うに決《き》まってるし。」
「そうじゃなくて。真由《まゆ》のお母《かあ》さんなんでしょう、ドクゼリを入れたのは。」
全員《ぜんいん》が、びくっと背筋《せすじ》を伸《の》ばした。
「真由《まゆ》のお父《とう》さんもドクゼリにあたったんだよね。ちょっぴり食《た》べて、ちょっぴりあたった。真由《まゆ》がいたから、ぼくらはそれを疑問《ぎもん》に思《おも》わなかったけど、真由《まゆ》なんていなかったって考《かんが》えると、真由《まゆ》おじさんはドクゼリにあたったフリをしたか、そうでなければ、わざとあたってみせたってことにならない?」
そっか、と梨花《りか》はつぶやく。
「子どもの料理《りょうり》にドクゼリを入れたはずだったのに、それがおとなにまわってしまったのよね。真由《まゆ》おばさんは、あわてたはずだわ。自分《じぶん》たちが、毒《どく》を食《た》べるはめになっちゃったんだもの。だからって、反対《はんたい》するのはおかしいし。それで、あわてておじさんと打《う》ち合《あ》わせて、ちょっぴり食《た》べるか、あたったフリをすることにしたんだわ。ドクゼリを入れたのは自分《じぶん》たちじゃないって示《しめ》すために。」
「でしょう? ということはつまり、真由《まゆ》のお父《とう》さんも共犯《きょうはん》なんだ。きっと狙《ねら》いは跡継《あとつ》ぎになること、なんでしょう? だから音弥《おとや》のお父《とう》さんを沼《ぬま》に誘《さそ》い出《だ》したりしたわけだし。」
「そういうことね。本当《ほんとう》なら引《ひ》きつづき、子どもを狙《ねら》ったはずよ。でも、あの事件《じけん》のあと、自分《じぶん》たちには子どもがいたんだわ。だから同《おな》じ後継者《こうけいしゃ》をひとりずつ減《へ》らす方法《ほうほう》に切《き》りかえたのよ。ひとり後継者《こうけいしゃ》が減《へ》れば、自分《じぶん》が相続《そうぞく》できる確率《かくりつ》がそれだけ上がるってことだもの。」
「だったら、本当《ほんとう》になんとかしないといけないよ。」と、禅《ぜん》は主張《しゅちょう》した。「このまま放《ほう》っておくと、また誰《だれ》かをどうにかしようとするんじゃない?」
「今度《こんど》はおれたちかも。」と、音弥《おとや》は身《み》をすくめた。「真由《まゆ》がいたから、子どもじゃなくておとなを狙《ねら》ってたんだからさ。」
「警察《けいさつ》に言《い》うの?」
光太《こうた》がなんでもなさそうに言《い》って、耕介《こうすけ》たちはびくりとした。
「まさか。」
「だって、真由《まゆ》おじちゃんと真由《まゆ》おばちゃんは、悪《わる》い人なんでしょ?」
「それは、そうだけど。」
困《こま》ったように梨花《りか》が耕介《こうすけ》たちを見た。禅《ぜん》はぶすっとしてうなずいた。
「傷害罪《しょうがいざい》だもんね。殺人未遂《さつじんみすい》かもしれないけど。」
「おれたちが警察《けいさつ》に行《い》って、だからつかまえてくれ、って言《い》うのか? そんなの、相手《あいて》にしてくれるわけ、ないじゃないか。」
耕介《こうすけ》は溜息《ためいき》をついた。
「誰《だれ》かに言《い》うなら、おじさんたちに言《い》うのが先《さき》じゃないかな。」
「だよな。」
梨花《りか》はおろおろと耕介《こうすけ》と音弥《おとや》を見比《みくら》べた。
「でも、なんて言《い》って? そんなの、みんな信用《しんよう》してくれると思《おも》う?」
「母《かあ》ちゃんに言《い》えばいいじゃないか。」
「お母《かあ》さんなら笑《わら》うか怒《おこ》るか、どっちかよ。妙《みょう》なことを考《かんが》えたのね、って笑《わら》うか、失礼《しつれい》なことを言《い》うんじゃありません、って怒《おこ》るか。」
禅《ぜん》もむっつりとうなずいた。
「そもそも、おとなは犯人《はんにん》がいるなんて思《おも》ってないんだから。ぜんぶ事故《じこ》で、たまたまなんでしょう。お父《とう》さんたちが疑問《ぎもん》に思《おも》ってるんなら、こういう答《こた》えはどうだろうって、言《い》うこともできるけど、ぜんぜんそうじゃないし。第一《だいいち》、証拠《しょうこ》だってないんだから。」
「真由《まゆ》が消《き》えたじゃないか。」
音弥《おとや》が言《い》うと、禅《ぜん》は怒《おこ》ったように答《こた》える。
「そんなの、ぜんぜん証拠《しょうこ》じゃないよ。事件《じけん》そのものとは、なんの関係《かんけい》もないんだから。それに、おとなが真由《まゆ》ちゃんのことを、覚《おぼ》えてなかったらそれまででしょう。」
「おれは父《とう》ちゃんに言《い》うぞ。だって、父《とう》ちゃんだって沼《ぬま》に落《お》ちかけたわけだしさ。また、なんかあるかもしれないし、黙《だま》ってられないもん。」
「信《しん》じてくれっこないよ。」
「ぼくがお父《とう》さんに言《い》ってみるよ。」
耕介《こうすけ》が言《い》うと、梨花《りか》も禅《ぜん》も、ほっとしたような顔《かお》をした。
「そうね。耕介《こうすけ》おじさんなら、聞《き》いてくれるかも。」
「耕《こう》ちゃんなら、ちゃんと説明《せつめい》できるしね。」
音弥《おとや》がむっとしたように禅《ぜん》をにらんだが、「それもそうだ。」とすぐに笑《わら》った。
「おれ、順番《じゅんばん》になにかを説明《せつめい》するのって苦手《にがて》だしなあ。父《とう》ちゃんも、早とちりの早のみこみだから、なにかを説明《せつめい》して分《わ》かってもらうの、骨《ほね》が折《お》れるんだ。」
耕介《こうすけ》はうなずいた。
「右|代表《だいひょう》で、ぼくがお父《とう》さんに説明《せつめい》してみるよ。分《わ》かってもらえれば、お父《とう》さんが他《ほか》のおとなに話《はなし》をしてくれると思《おも》うから。」
[#改ページ]
15 若干《じゃっかん》の仲間《なかま》と多少《たしょう》の協力《きょうりょく》
子どもたちにうけあったものの、実《じつ》を言《い》うと耕介《こうすけ》は、本当《ほんとう》に信《しん》じてもらえるのか心配《しんぱい》だった。どういうふうに言《い》えば、分《わ》かってもらえるだろうと考《かんが》え考《かんが》え、廊下《ろうか》をたどって部屋《へや》に戻《もど》った。部屋《へや》では、想一《そういち》がまだ縁側《えんがわ》で本を読《よ》んでいた。
「お父《とう》さん、あのね。」
耕介《こうすけ》が声《こえ》をかけると、想一《そういち》は本から顔《かお》をあげる。「どうしたんだい。」と、問《と》われて、「相談《そうだん》したいことがあるんだけど。」と、言《い》ってみた。
想一《そういち》は本を閉《と》じて、耕介《こうすけ》に向《む》き直《なお》った。
「じゃあ、なにか結論《けつろん》が出たんだね?」
耕介《こうすけ》はびっくりして想一《そういち》を見た。想一《そういち》はちょっと笑《わら》う。
「ずっと子どもたちで集《あつ》まって、なにかを調《しら》べたり相談《そうだん》したりしてただろう?」
分《わ》かっていたんだ、と耕介《こうすけ》は思《おも》った。急《きゅう》に身体《からだ》が軽《かる》くなった気がした。
「父《とう》さんたちがドクゼリにあたったり、音弥《おとや》くんのお父《とう》さんが沼《ぬま》に落《お》ちそうになったことかい?」
耕介《こうすけ》はうなずいた。
「その前《まえ》に、お父《とう》さん、ぼくらが何人《なんにん》いるか分《わ》かる?」
「子どもたち? 耕介《こうすけ》と、梨花《りか》ちゃんに光太《こうた》くん。音弥《おとや》くんと、禅《ぜん》くん。」
言《い》ってから、想一《そういち》はふっと首《くび》をかしげた。もういちど、全員《ぜんいん》の名前《なまえ》をくりかえして、「やっぱりそれだけだな。なんだか足りないような気がしたんだが。」
耕介《こうすけ》はすこし寂《さび》しい気がした。やはりおとなの記憶《きおく》の中から、真由《まゆ》は消《き》えてしまったのだ。だったらもう、真由《まゆ》のことは言《い》わないほうがいいのかもしれない。そう思《おも》ったのだが、結局《けっきょく》|耕介《こうすけ》は、蔵座敷《くらざしき》で四人《しびと》ゲームをしたときのことから話《はなし》を始《はじ》めた。なんとなく、そんなことがあったんだ、ということだけは言《い》っておきたい気がしたからだ。
想一《そういち》はおどろいたような表情《ひょうじょう》をしたけれど、べつになんの意見《いけん》も口にせず、耕介《こうすけ》に先をうながした。それで耕介《こうすけ》は、順《じゅん》を追《お》って、真由《まゆ》の両親《りょうしん》――克基《かつき》おじと美里《みさと》おばがやったとしか思《おも》えないのだ、という説明《せつめい》をした。
「真由《まゆ》はもういないし、だからすごくへんてこに聞《き》こえると思《おも》うんだけど。でも、みんなで相談《そうだん》して、他《ほか》に考《かんが》えられないってことになったんだ。」
そうか、とだけ言《い》って、想一《そういち》はしばらくのあいだ、黙《だま》りこんでいた。スタンドの明《あ》かりが、ひとつひとつ確認《かくにん》するように小さくうなずいている想一《そういち》の顔《かお》を照《て》らしていた。縁側《えんがわ》の窓《まど》のすぐ外《そと》からは、池《いけ》に流《なが》れこむ水の音がしていた。とても静《しず》かだった。
「どうやら、ひどくおかしな箇所《かしょ》はないようだね。」
しばらく経《た》ってから、想一《そういち》は言《い》った。
「そう思《おも》う?」
「真由《まゆ》ちゃんという子どものことを除《のぞ》いては、お父《とう》さんにも納得《なっとく》するしかないようだ。証拠《しょうこ》があるわけではないし、まちがいだったら、ものすごく失礼《しつれい》な話《はなし》だけど、この先もなにかあったらたいへんだ。みんなに言《い》って相談《そうだん》してみるよ。」
耕介《こうすけ》は、やっとほっとしてし肩《かた》の力をぬいた。
「しかし、どう言《い》ったものかな。真由《まゆ》ちゃんのことは、省《はぶ》いて説明《せつめい》するしかないんだろうね。む
「信《しん》じられない?」
「お父《とう》さんには分《わ》からない。耕介《こうすけ》たちがいた、と言《い》うなら、そういう不思議《ふしぎ》なこともあるんだと思《おも》うしかないかな。」
「真由《まゆ》は、座敷童子《ざしきわらし》だったんだって思《おも》う?」
「どうだろう。『お蔵《くら》さま』というのは、たしかに座敷童子《ざしきわらし》のことを言《い》っているように聞《き》こえるね。真由《まゆ》ちゃんが、その『お蔵《くら》さま』の厨子《ずし》に帰《かえ》っていったというなら、そう考《かんが》えるのが自然なんだろうね。」
耕介《こうすけ》は、うなだれた。
「光太《こうた》が、座敷童子《ざしきわらし》はいい妖怪《ようかい》じゃなかったの、って言《い》うんだ。」
なのに助《たす》けてはくれなかった。梨花《りか》が言《い》ったように、真由《まゆ》はただ、そこにいただけだ。耕介《こうすけ》は真由《まゆ》に出てきた理由《りゆう》をきいたけれど、答《こた》えは「おもしろそうだったから。」という、とてもそっけないものだった。それが耕介《こうすけ》にも、ひどく気落《きおち》ちする種類《しゅるい》のことに感《かん》じられた。
「いい妖怪《ようかい》、か。」と、想一《そういち》はすこしなつかしそうな顔《かお》をした。「そう、たしかにそう言《い》うね。でも、なぜなんだろうね。」
「家《いえ》を守《まも》ってくれるから、じゃない? 家《いえ》をお金持《かねも》ちにしてくれるんだよね。」
言《い》ってから、耕介《こうすけ》は「そうか。」とつぶやいた。
「座敷童子《ざしきわらし》がいい妖怪《ようかい》だって言《い》われるのは、だからなんだね。お金持《かねも》ちになれるのはいいことだから、それを連《つ》れてきてくれる妖怪《ようかい》は、いい妖怪《ようかい》なんだ。」
「へえ?」と、想一《そういち》はちょっと、いたずらでもたくらむような顔《かお》をした。「お金持《かねも》ちになるのは、いいことなのかい? するとうちは、お金持《かねも》ちじゃないから、いい状態《じょうたい》じゃないんだな。」
「そういう意味《いみ》じゃないよ。」
「そうかい?」
「今《いま》でもじゅうぶん、いいと思《おも》うけど。でも、お金持《かねも》ちになったら、もっといい状態《じょうたい》になるってことなんじゃないのかな。」
今《いま》に不満《ふまん》があるわけでは、ないのだけど。けれどもお金持《かねも》ちになれば、きっとほしいだけ本が買《か》えて、わざわざ図書館《としょかん》に行《い》かなくていいのだし、想一《そういち》だって夜《よる》|遅《おそ》くまで仕事《しごと》をして、肩《かた》こりに悩《なや》んだりせずにすむ。
「お金《かね》はあるにこしたことはないんじゃないのかなあ。お金持《かねも》ちって、なんだかすごいと思《おも》うんだけど。」
「すごいのかい? たしかに、お金がたくさんあれば、すごい、立派《りっぱ》だと言《い》われるね。けれども、それはなぜなんだろうね。」
耕介《こうすけ》はちょっと考《かんが》えてみた。あらためて考《かんが》えてみると、どうしてなのか分《わ》からなかった。みんなそう言《い》うから、というのは、きっと答《こた》えではないのだろう。
「世《よ》の中《なか》には困《こま》っている人がいっぱいいる。困《こま》っている人に薬《くすり》や食《た》べ物《もの》を買《か》ってあげるためのお金なら、そりゃあ父《とう》さんだってすごいと思《おも》うし、立派《りっぱ》なことだと思《おも》う。けれど、自分《じぶん》がぜいたくをするためのお金だろう? 人よりいい服《ふく》を着《き》たり、豪勢《ごうせい》な食事《しょくじ》をしたり、おもちゃをいっぱい持《も》っていることが、どうして立派《りっぱ》なことなんだろうね?」
「ええと、」答《こた》えを探《さが》して、耕介《こうすけ》は言葉《ことば》に詰《つ》まってしまった。べつにおもちゃをたくさん持《も》っていることが立派《りっぱ》なわけではない、ということは分《わ》かる。むしろ逆《ぎゃく》だ。立派《りっぱ》な家《いえ》の子どもだから、おもちゃをたくさん持《も》てるのだ。なぜ立派《りっぱ》かというと、それはそれだけお金持《かねも》ちだからで……そう考《かんが》えると、最初《さいしょ》の問《と》いに戻《もど》ってしまう。なぜお金持《かねも》ちだと立派《りっぱ》なのだろう?
成功《せいこう》したことの証明《しょうめい》だから、という答《こた》えが浮《う》かんだ。成功《せいこう》したということは、その人が有能《ゆうのう》だから、ということだ。そこまで考《かんが》えて、耕介《こうすけ》は首《くび》を振《ふ》った。想一《そういち》は「ハンコ屋《や》」で、お客《きゃく》さんはいつだって「いい腕《うで》だね。」と言《い》って喜《よろこ》んでくれる。けれども一生|寝《ね》ないで働《はたら》いたところで、本家《ほんけ》のような大きな家《いえ》を建《た》てたり、維持《いじ》できるようになるとは思《おも》えなかった。だからと言《い》って、父親《ちちおや》が無能《むのう》で失敗《しっぱい》した人間《にんげん》で、立派《りっぱ》でないなんて、誰《だれ》にも言《い》わせない。
「世《よ》の中《なか》には、お金を生むこととは無関係《むかんけい》な才能《さいのう》や、立派《りっぱ》なおこないがあるんじゃないかな。」
「そうだね。」と、耕介《こうすけ》はうなずいた。
「耕介《こうすけ》は、うちが嫌《きら》いかい?」
きかれて、耕介《こうすけ》はきょとんとした。
「そんなはず、ないよ。もちろん好《す》きだよ。」
そうか、と想一《そういち》は微笑《ほほえ》む。
「実《じつ》は、父《とう》さんもうちが好《す》きなんだ。ここに比《くら》べれば、うんと小さな家《いえ》だけど、母《かあ》さんの思《おも》い出《で》がいっぱい残《のこ》った家《いえ》だかね。住《す》むところはちゃんとある。父《とう》さんには仕事《しごと》があるし、自分《じぶん》の仕事《しごと》が好《す》きだよ。ちゃんと働《はたら》いていればご飯《ごはん》を食《た》べることができるし、耕介《こうすけ》を学校にやることができる。それ以上《いじょう》のお金が必要《ひつよう》なのかな? たしかに、うちはお金持《かねも》ちじゃないけどね。つまり、いい妖怪《ようかい》はいないわけだけど、お父《とう》さんはじゅうぶん、いい状態《じょうたい》だと思《おも》っているんだ。」
「ぼくも、そう思《おも》うよ。」
耕介《こうすけ》が言《い》うと、想一《そういち》は無言《むごん》で、にっこり笑《わら》った。
「お父《とう》さんは、相続《そうぞく》を断《ことわ》るの?」
「最初《さいしょ》からそのつもりだったんだよ。お母《かあ》さんと結婚《けっこん》するとき、大伯父《おおおじ》さんと約束《やくそく》したから来《き》たけどね。」
「仏壇《ぶつだん》の盃《さかずき》だね?」
「そう。たしかに、将来《しょうらい》、家《いえ》を継《つ》ぐことになったら養子《ようし》になりますと約束《やくそく》はしたけれど、お母《かあ》さんは死んでしまったし、それきり本家《ほんけ》ともすっかり連絡《れんらく》が途絶《とだ》えていた。だから、もうぜんぜん関係《かんけい》ないと思《おも》っていたんだ。なのに急《きゅう》に、弁護士《べんごし》さんがやってきたからおどろいたよ。その時《とき》にも辞退《じたい》したんだけど、約束《やくそく》だと言《い》われたし、それはたしかにそうだしね。耕介《こうすけ》にも大伯父《おおおじ》さんに会《あ》わせてやりたかったし、具合《ぐあい》が悪《わる》いんだったらお見舞《みま》いぐらいはしないと、と思《おも》ってね。」
そうか、と耕介《こうすけ》は思《おも》った。辞退《じたい》した誰《だれ》かというのは、父親《ちちおや》だったのだ、と思った。考《かんが》えてみると、すごく当《あ》たり前《まえ》のことに思《おも》えた。
「いいの?」
「お金は、ぜいたくをさせてくれる。でも、だからこそ、泥棒《どろぼう》に狙《ねら》われたり、誰《だれ》にお金を残《のこ》すか、けんかしないといけなかったりする。お金のために身《み》を滅《ほろ》ぼしたり、悪《わる》いことに手を染《そ》める結果《けっか》になったりする。」
これは、真由《まゆ》の両親《りょうしん》のことを考《かんが》えると、よく分《わ》かった。
「富《とみ》は、よいことを与《あた》えてくれもするし、悪《わる》いことを呼《よ》び寄《よ》せもする。気をつけていないと呑《の》みこまれてしまう。得体《えたい》がしれなくて、油断《ゆだん》のならないお化《ば》けみたいなものだ。」
そうか、と耕介《こうすけ》は思《おも》った。その「得体《えたい》がしれなくて、油断《ゆだん》のならないお化《ば》け」そのものなのだ、座敷童子《ざしきわらし》は。
「父《とう》さんは、そんなおっかないものと一緒《いっしょ》に暮《く》らしたいとは思《おも》わないんだ。」
「お父《とう》さんは、お化《ば》けが怖《こわ》いんだ?」
「お母《かあ》さんの幽霊《ゆうれい》|以外《いがい》は、願《ねが》い下《さ》げだな。」
耕介《こうすけ》はちょっと笑《わら》った。
それから先のことは、おとなの世界《せかい》のことだから、耕介《こうすけ》たちにはよく分《わ》からない。とりあえず翌日《よくじつ》、おとなたちは表座敷《おもてざしき》に集《あつ》まって、半日《はんにち》なにやら相談《そうだん》していた。夕刻《ゆうこく》、想一《そういち》が子どもを呼《よ》び集《あつ》めて、すこしだけ話《はなし》をしてくれた。
「やっぱり、克基《かつき》さんと美里《みさと》さんだったようだよ。」
耕介《こうすけ》たちは、大きくうなずいた。
「ふたりはもともとお金持《かねも》ちで、華《はな》やかな暮《く》らしをしていた。それが続《つづ》かなくなったのにやめられなくて、たくさんの借金《しゃっきん》をしてしまっていたんだ。だから、とても本家《ほんけ》の財産《ざいさん》がほしかったんだね。ただ、ふたりとも、誰《だれ》かを傷《きず》つけようと思《おも》ったわけじゃない、と言《い》っていた。ああいう事件《じけん》が起《お》これば、みんなが本家《ほんけ》のたたり話《ばなし》を思《おも》い出《だ》して、怖《お》じ気《け》づいて辞退《じたい》してくれるんじゃないか、と思《おも》ったらしいね。特《とく》に子どもに変事《へんじ》があれば、親《おや》はお金なんかより子どもの安全《あんぜん》のほうを選《えら》ぶだろう、と思《おも》ったというんだ。そうすれば、子どものいないふたりにも可能性《かのうせい》ができる。」
ふうん、とつぶやいた梨花《りか》は、言外《げんがい》に「本当《ほんとう》かしら」という調子《ちょうし》を漂《ただよ》わせていたけれども、とりあえずそれを言葉《ことば》にしたりはしなかった。
「本人たちも、とても反省《はんせい》しているし、きみたちのおかげで大事《だいじ》に至《いた》った人もいない。だから警察《けいさつ》に言《い》ったりする必要はないだろう、ということになったよ。」
想一《そういち》はそれだけ言《い》って、こどもたちにお礼《れい》を言《い》った。誰《だれ》も取《と》り返《かえ》しがつかないほどひどい目にはあわなかったし、真由《まゆ》の両親《りょうしん》だって、重大《じゅうだい》な罪《つみ》を犯《おか》さずにすんだ。それは全部《ぜんぶ》、子どもたちのお手柄《てがら》なのだ、と言《い》ってくれた。
もっと詳《くわ》しい話《はなし》は、それぞれの親《おや》がそれぞれの子どもにした。夕飯時《ゆうはんどき》、いつものようにおとなは表座敷《おもてざしき》に集《あつ》められ、三郎《さぶろう》と子どもたちは茶《ちゃ》の間《ま》に集《あつ》まった。その食卓《しょくたく》の上に、それぞれが聞《き》いた話《はなし》が持《も》ち寄《よ》せられた。
「まさか、あんなに強《つよ》い毒《どく》だとは思《おも》ってなかったんだって。」と、梨花《りか》はあきれたように言《い》った。「ドクゼリっていうくらいだから、身体《からだ》によくないんだろうとは思《おも》っていたけど、みんなちょっと具合《ぐあい》が悪《わる》くなる程度《ていど》なんだろうって思《おも》ってたんですって。」
禅《ぜん》が、箸《はし》を宙《ちゅう》に止《と》めたまま、ぽかんとした。
「だって、真由《まゆ》おじさんも食《た》べたのに? 猛毒《もうどく》だったらたいへんなことになるんだから、ちゃんと調《しら》べればいいのに。」
「まったくねえ。」と、梨花《りか》は思《おも》いっきり顔《かお》をしかめた。「おとなって、いつもそうなんだから。自分《じぶん》では、なんでも知《し》ってるつもりなのよ。きっとこうだとかこうに決《き》まってるってひとりぎめして、ちっとも調《しら》べてみようとしないの。」
「うーん。」と、声《こえ》をあげたのは三郎《さぶろう》だった。「おとなとしては耳が痛《いた》いな。」
「三郎《さぶろう》にいさんは、ここにいるんだから、子どもの組《くみ》よ。」
「それは、ありがとうと言《い》うべきなのかな。ところで、なんで『真由《まゆ》おじさん』なんだい?」
耕介《こうすけ》たちは、はっとして顔《かお》を見合《みあ》わせた。三郎《さぶろう》もやっぱり覚《おぼ》えていないのだ。想一《そういち》がそっと耕介《こうすけ》に耳打《みみう》ちしてくれた話《はなし》によれば、真由《まゆ》の両親《りょうしん》さえ、自分たちにいっとき子どもがいたことを、やっぱり覚《おぼ》えていないらしい。だから想一《そういち》も、真由《まゆ》のことは省《はぶ》いて説明《せつめい》するしかなかったのだった。
「秘密《ひみつ》よ。」と、梨花《りか》があわてたように言《い》った。「あたしたちだけの、秘密《ひみつ》。」
ふうん、と言《い》いながら、三郎《さぶろう》は小首《こくび》をかしげて子どもたちを見渡《みわた》した。その眉《まゆ》が、ふっとひそめられた。なにかがどこかにひっかかる、という表情《ひょうじょう》をして、三郎《さぶろう》は、ひとりひとり確認《かくにん》するように耕介《こうすけ》たちの顔《かお》をのぞきこんだけれども、結局《けっきょく》なにも言《い》わなかった。
「真由《まゆ》おじさんたちは、警察《けいさつ》に行《い》かないの?」
光太《こうた》はどこか残念《ざんねん》そうな口調《くちょう》だった。たんに、「警察《けいさつ》に行《い》く」という言葉《ことば》の感《かん》じに、わくわくしているだけなのかもしれない。
「行《い》かないの。警察《けいさつ》には言《い》わないって条件《じょうけん》で、おじさんたちに白状《はくじょう》させたんだから。」
「なあんだ。」
「真由《まゆ》おじさんたち、まだみんなに締《し》めあげられてるのかな。」と、音弥《おとや》が同情《どうじょう》するように表座敷《おもてざしき》のほうを見た。
「まさか。ふたりとも、もう帰《かえ》ったんだよ。」
禅《ぜん》が言《い》って、子どもたちはいっせいに禅《ぜん》を見た。禅《ぜん》は肩《かた》をすくめる。
「おじさんたちだって、気まずくていられないでしょう。おとなは、いつもの相談《そうだん》だよ。誰《だれ》を跡継《あとつ》ぎにするかっていう。真由《まゆ》おじさんたちは関係《かんけい》ないんだ。そもそも子どもがいないんだから。それでも誰《だれ》を跡継《あとつ》ぎにするか、意見《いけん》を言《い》う権利《けんり》はあったんだけど、真由《まゆ》おじさんたちは、その発言権《はつげんけん》も取《と》りあげられちゃったんだ。当《あ》たり前《まえ》と言《い》えば、当《あ》たり前《まえ》だけど。だから残《のこ》っていても仕方《しかた》ないし、みんなの気が変《か》わってやっぱり警察《けいさつ》に言《い》おうって話《はなし》になる前《まえ》に、荷物《にもつ》をまとめて帰《かえ》っちゃったんだよ。」
ふうん、と言《い》ってから、音弥《おとや》はごろんと横《よこ》になった。耕介《こうすけ》も、やはり気ぬけしたような気分《きぶん》だった。なんだかとっても、あっけない。
「話《はな》し合《あ》い、いつまで続《つづ》くのかなあ。」
梨花《りか》は答《こた》えを求《もと》めるように三郎《さぶろう》を見た。三郎《さぶろう》は苦笑《くしょう》する。
「ぼくにきかれても知《し》らないよ。」
「なんか、ばかばかしくなったって母《かあ》ちゃんは言《い》ってたけど。」と、音弥《おとや》が言《い》った。「人をどうにかしてまで、こだわることなのかしら、って。父《とう》ちゃんは、自分《じぶん》は沼《ぬま》に落《お》っこちたんだから、見舞金《みまいきん》くらいはもらうぞって息巻《いきま》いてたけど。あの口調《くちょう》じゃ、半分《はんぶん》は本気《ほんき》だな。」
禅《ぜん》が溜息《ためいき》をついた。
「お父《とう》さんとお母《かあ》さんは、そもそも相続《そうぞく》の仕方《しかた》がおかしいんだ、って憤慨《ふんがい》してたよ。子どものいる親《おや》に譲《ゆず》るんなら、最初《さいしょ》から子どものいない人間《にんげん》は、呼《よ》ばなければいいんだって。呼《よ》んだから妙《みょう》なことを考《かんが》えたんで、だから、こんなことが起《お》こったのは、半分《はんぶん》は大伯父《おおおじ》さんの責任《せきにん》なんだって。」
「そう言《い》ってるみたいだね。」と、三郎《さぶろう》がうなずいた。「だから、こんな妙《みょう》なことはやめて、みんなで等分《とうぶん》すればいいって言《い》ってるようだよ。」
音弥《おとや》が身《み》を起《お》こした。
「そうなれば、三郎《さぶろう》にいちゃん、家《いえ》をでなくていいじゃん。」
「そうだな。耕介《こうすけ》のお父《とう》さんが、そもそも意味《いみ》がないって話《はなし》をしてくれたようだよ。ほら、前《まえ》に禅《ぜん》が言《い》ってたやつだよ。結局《けっきょく》、子どものある親《おや》を相続人《そうぞくにん》にしても、子どもが跡《あと》を継《つ》いだ例《れい》はないんだから、同《おな》じなんだって。母《かあ》さんは、かなりぐらっと来《き》たみたいだけど、父《とう》さんは財産《ざいさん》を分《わ》けるのに反対《はんたい》なんだ。そんなことをしたら、身代《しんだい》がどんどんちいさくなるって。」
禅《ぜん》はうんざりしたように頬杖《ほおづえ》をついた。
「それは本当《ほんとう》なんだから、大伯父《おおおじ》さんがいやがるのは当然《とうぜん》だと思《おも》うな。等分《とうぶん》しようっていう発想《はっそう》のほうが変《へん》だよ。相続《そうぞく》の仕方《しかた》がおかしいって言《い》うなら、ごく普通《ふつう》に、三郎《さぶろう》にいさんたちに継《つ》がせればいいのに。でも、お父《とう》さんもお母《かあ》さんも、それはしたくないんだ。」
「そうなのよね。」と、梨花《りか》も膝《ひざ》をかかえこんだ。「うちのお母《かあ》さんもそう。そこまでするなんて、って真由《まゆ》の両親《りょうしん》を非難《ひなん》してたわよ。子どものいる親《おや》じゃないとだめで、それは仕方《しかた》のないことなんだから諦《あきら》めるしかないのに、って。でも、そう言《い》う自分《じぶん》だって諦《あきら》められないのよ。」
梨花《りか》は言《い》って、おとなびた溜息《ためいき》をついた。
「結局《けっきょく》、おとなって欲深《よくぶか》いのよ。お金がほしい、あれがほしい。子どもにはいちばんになってほしいし、お父《とう》さんには出世《しゅっせ》してほしい。いっつもねほしがってばっかり。」
三郎《さぶろう》は苦笑《くしょう》した。
「人間《にんげん》は欲深《よくぶか》いんだよ。おとなと子どもでは、こだわるものがちがうだけで。」
「そうかもねえ。」
ひとつ息《いき》を吐《は》いて、梨花《りか》は盛大《せいだい》に顔《かお》をしかめた。
「あたしは、なんでもいいから、家《いえ》に帰《かえ》りたいわ。せっかくの夏休《なつやす》みなのに。こんなに長《なが》く旅行《りょこう》してたら、友達《ともだち》にも会《あ》えないし、話題《わだい》から遅《おく》れちゃう。」
ぼくもだ、と禅《ぜん》が溜息《ためいき》まじりに同意《どうい》した。
「塾《じゅく》があるのにな。お父《とう》さんもお母《かあ》さんも、いつも休んだら遅《おく》れるってやかましく言《い》うくせに。帰《かえ》ってから、遅《おく》れを取《と》り戻《もど》すのはぼくなんだ。考《かんが》えるだけで、うんざりだよ。」
「帰《かえ》るの? ぼく、やだよ。」と、光太《こうた》が口をとがらせた。「今《いま》のほうが、にぎやかでおもしろいもん。夕飯《ゆうはん》のあとだって、遊《あそ》べるんだよ。」
「あら、ほんとだ。」と、梨花《りか》は三郎《さぶろう》を見て笑《わら》った。「光太《こうた》みたいに小さくても、欲深《よくぶか》いわ。」
「だって家《いえ》に帰《かえ》ったら、三郎《さぶろう》にいさんだっていないじゃないか。音《おと》ちゃんだって耕《こう》ちゃんだって禅《ぜん》ちゃんだっていない。」
「音弥《おとや》には会《あ》えるわよ。そんなに遠《とお》くないもの。」と言《い》ってから、梨花《りか》はちょっと困《こま》ったようにした。「でも、そうね、耕介《こうすけ》と禅《ぜん》は、ちょっと遠《とお》いわね。」
「三郎《さぶろう》にいさんと師匠《ししょう》は、うんと遠《とお》いよ。」と、音弥《おとや》ががっかりしたように言《い》った。「やっぱり、三郎《さぶろう》にいさんたちが家《いえ》を継《つ》げばいいんだよ。そうしたら大伯母《おおおば》さんだって、おれたちの顔《かお》を見るのもいやだ、なんて言《い》わないだろ。三郎《さぶろう》にいさんだって師匠《ししょう》だって、ここにいられて、そしたらまた休みには、みんなで遊《あそ》びに来《こ》られるんだからさ。」
「そうねえ。」と、言《い》って、梨花《りか》は気乗《きの》りしなさそうに全員《ぜんいん》を見た。「蔵座敷《くらざしき》と行者《ぎょうじゃ》の祠《ほこら》にでも行《い》ってみる?」
「なんで?」と、音弥《おとや》は怪訝《けげん》そうに梨花《りか》を見あげた。
「師匠《ししょう》を見習《みなら》ってお百度《ひゃくど》を踏《ふ》むの。ひょっとしたら、ご利益《りやく》があるかもしれないわ。」
「お蔵《くら》さまには、頼《たの》んでもむだだと思《おも》うよ。」と、禅《ぜん》が溜息《ためいき》をついた。「ぜんぜん助《たす》けてなんか、くれないよ、きっと。」
「そうだよ。」と、光太《こうた》も口をへの字に曲《ま》げた。
「でも、結局《けっきょく》あたしたち、お蔵《くら》さまの力なんて、これっぽっちも借《か》りないで、ちゃんとお母《かあ》さんたちを守《まも》ったじゃない。人間《にんげん》の底力《そこぢから》のほうが上かもよ。」
「だったら余計《よけい》に、お蔵《くら》さまなんて役《やく》に立たないって話《はなし》じゃないか。」と、禅《ぜん》があきれたように言《い》った。「お蔵《くら》さまに頼《たの》むくらいなら、その底力《そこぢから》はお父《とう》さんたちを説得《せっとく》するのに向《む》けたほうがましだと思《おも》うよ。」
「でも、いちおうは、いい妖怪《ようかい》なんでしょ。たぶん、欲《よく》に取《と》り憑《つ》かれたおとなよりは、話《はな》せるわよ、きっと。」
「あのね。」と、耕介《こうすけ》は言《い》った。「お父《とう》さんが、富《とみ》は、得体《えたい》がしれなくて油断《ゆだん》のならないお化《ば》けみたいなものだ、って。」
梨花《りか》はきょとんと耕介《こうすけ》を見た。
ほしがる者《もの》にとっては、それを与《あた》えてくれる妖怪《ようかい》は「いい妖怪《ようかい》」なのだろう。たぶん、そういうことだ。
梨花《りか》はちょっと考《かんが》えて、そうして溜息《ためいき》まじりに笑《わら》った。
「そっか。そもそも、あたしたちの味方《みかた》のわけ、ないか。」
「ぼくが遊《あそ》びに行《い》くよ。」と、三郎《さぶろう》がおもしろそうに言《い》った。「これからも子どもの組《くみ》に入れてくれるならね。」
「本当《ほんとう》に?」と、光太《こうた》が飛《と》びあがった。
「信《しん》じないのよ。」と、梨花《りか》は光太《こうた》をこづいた。「もしも、うちのお父《とう》さんが相続人《そうぞくにん》になったら、三郎《さぶろう》にいさんだって、あたしたちの顔《かお》なんて見たくないって思《おも》うに決《き》まってるんだから。」
「そうでもないよ。どうやら、誰《だれ》が跡継《あとつ》ぎになっても、その子どもたちはぼくらや師匠《ししょう》が家《いえ》から追《お》いだされるのに、反対《はんたい》してくれそうだからね。」
「期待《きたい》しないで。」と、梨花《りか》は顔《かお》をしかめて手を振《ふ》った。
「そう。」と、禅《ぜん》も同意《どうい》する。「おとなに対《たい》する、ぼくらの影響力《えいきょうりょく》なんて、微々《びぴ》たるものだから。」
「そうかい? おとながぜんぜん対応《たいおう》|不能《ふのう》だったことを、かたづけちゃった子どもたちがどこかにいたような気がするけどな?」
梨花《りか》と禅《ぜん》が、ぽかんとした。
「そう、そう。」と、得意《とくい》そうに言《い》ったのは光太《こうた》だ。
「子どもの底力《そこぢから》のほうが上かもね。」にやにやしながら音弥《おとや》が言《い》った。
そうだね、と耕介《こうすけ》は同意《どうい》した。
「若干《じゃっかん》の仲間《なかま》と、話《はな》せるおとなの協力《きょうりょく》が、ちょっぴり必要《ひつよう》だとは思《おも》うけど。」
梨花《りか》と禅《ぜん》は顔《かお》を見合《みあ》わせ、そして笑《わら》いくずれた。
一緒《いっしょ》になって笑《わら》いながら、真由《まゆ》は、なにをさして、「おもしろそう」と言《い》ったのだろうか、と耕介《こうすけ》はふっと思《おも》った。こどもたちが、ばかげた遊《あそ》びをしていたことだろうか。それともひょっとしたら、真由《まゆ》の両親《りょうしん》が、ほしいものを求《もと》めて無茶《むちゃ》なことを始《はじ》めた、それをさしていたのだろうか。あるいは単純《たんじゅん》に、みんなの中に混《ま》じってみたかったのかもしれない。だったらいいな、と、そう思《おも》った。
その二日|後《ご》、耕介《こうすけ》と想一《そういち》は本家《ほんけ》を離《はな》れた。音弥《おとや》と音弥《おとや》の両親《りょうしん》も、翌日《よくじつ》には家《いえ》に帰《かえ》ると言《い》っていた。その先のことは分《わ》からなかったけれど、夏休《なつやす》みが終《お》わる前《まえ》までには、それぞれの子どもたちから残暑《ざんしょ》|見舞《みま》いが来《き》て、耕介《こうすけ》もそれに返事《へんじ》を書《か》いた。誰《だれ》も本家《ほんけ》のことには触《ふ》れてなかったので、耕介《こうすけ》もきかなかった。
それからも電話《でんわ》や手紙《てがみ》をやりとりしたけれど、やはりなにも分《わ》からなかった。ただ、冬休《ふゆやす》みが終《お》わる頃《ころ》になって、時季《じき》|遅《おく》れの年賀状《ねんがじょう》が届《とど》いた。それは三郎《さぶろう》からで、そこには、ひとり旅《たび》を許《ゆる》してもらえる歳《とし》になったら、桜《さくら》を見においで、と書《か》いてあった。もちろん、父親《ちちおや》|同伴《どうはん》でなくても歓迎《かんげい》する、と。
耕介《こうすけ》には、それでじゅうぶん満足《まんぞく》な結末《けつまつ》だった。
[#地付き]本作品はミステリーランド≠フために書き下ろされたものです。
-------------------------------------------------------
底本:「くらのかみ」講談社ミステリーランド
二〇〇三年七月三一日 初版第一刷発行
テキスト化:二〇〇五年五月初版
底本の字組は三六字×一三行
-------------------------------------------------------