小田 実
何でも見てやろう
目 次
まあなんとかなるやろ
――「留学生業」開業――
何でも見てやろう
――美術館から共同便所まで――
「考える人」
――いよいよ出発――
ビート猫・ZEN猫
――アメリカ(猫)の悲劇――
ゲイ・バーの憂欝
――アメリカ社会の底――
アメリカの匂い
――さびしい逃亡者「ビート」――
ヒバチからZENまで
――アメリカの「日本ブーム」――
ハーバードの左まき「日本人」
――アメリカ人ばなれのした人たち――
幸福者の眼
――アメリカの知識人――
松の木の下にウナギ
――ニューヨーク貧乏案内――
フランス語を学ぶには
――カナダ紀行――
芸術家天国
――ただし、あなたの原稿はハカリで計られる――
黒と白のあいだ
――南部での感想――
「月世界」紀行
――「文化大使」メキシコへ赴任す――
メキシコ天一坊
――シケイロス氏らと会う――
「資本主義国」U・S・S・R
――一日一ドル予算の周囲――
Sick, Sick, Sick ... しかし
――そしてオデュセウスの船出――
フィッシュ・エンド・チップス
――「|怒れる若者たち《アングリー・ヤングメン》」のなかみ――
あいるらんどのような田舎へ行こう
――ズーズー弁英語の国――
「求職」あるいは「おしのび」旅行
――北欧早まわり、オスロからコペンハーゲンへ――
金髪と白い肌は憧れる
――「サムライ」の魅力――
ユース・ホステルの「小便大僧」たち
――ハンブルグ、アムステルダム、ブラッセル――
ビデとカテドラル
――アメリカの女の子とパリを観れば――
「反小説《アンチ・ロマン》」の財布
――ロブグリエ氏会見記および世界各国作家清貧物語――
ニセ学生スペイン版
――アンダルシア放浪記――
ビザを買う話
――貧乏旅行の悲喜劇――
「ルパナーレ」の帽子
――イタリア貧乏滞在記――
パン屋のデモステネス君、仕立て屋のアリストテレス氏
――ギリシア無銭旅行――
アクロポリスの丘
――ギリシア、そして「西洋」の意味――
腐敗と希望
――ピラミッドの下で考える――
ナセル氏「随行」記
――エジプトからシリア、レバノンへ――
たがいにむかいあう二つの眼について
――イランの「外人」のなかで――
のぞきメガネ「ヨーロッパ」
――テヘランをうろつく――
にわかヒンズー教徒聖河ガンジスへ行く
――ニュー・デリーからベナレスへ――
不可触賤民《アンタツチヤブル》小田実氏
――カルカッタの「街路族」――
アミーバの偽足
――むすび・ふたたび日本島へ――
再 訪
あとがき・1
あとがき・2
あとがき・3
まあなんとかなるやろ
――「留学生業」開業――
ひとつ、アメリカへ行ってやろう、と私は思った。三年前の秋のことである。理由はしごく簡単であった。私はアメリカを見たくなったのである。要するに、ただそれだけのことであった。
それ以外に言いようがない。先ず大上段にふりかぶって言えば、もっとも高度に発達した資本主義国、われわれの存亡がじかにそこに結びついている世界の二大強国の一つ、よかれあしかれ、われわれの文明が到達した、もしくは行きづまったその極限のかたち、いったいその社会がガタピシいっているとしたら、どの程度にガタピシなのか、確固としているなら、どのくらいにお家安泰なのであるか、それを一度しかとこの眼でたしかめてみたかった、とまあそんなふうに言えるであろう。アメリカについて考えるとき、あるいは議論するとき、実際、私は何か空虚な観念の空マワリみたいなものに悩まされていたのだった。
アメリカの現代文学がむやみやたらと好きであったということも、私をアメリカ行きに駆りたてた一つの要因であろう。誰だってある国の文学に凝れば、その国のもろもろが見たくなるではないか。といっても、私が「文学的散歩」とやらの愛好者であると思ってくださると困る。私はもっと単純な人間であろう。小説の筋など読んだはしから忘れてゆく便利なたちの私は、たとえば、ニュー・イングランドのソローゆかりの地ウォールデン池《ポンド》のほとりにたたずんで懐旧の情に身をゆだねる、というようなことはもっとも苦手とするところなのである。私はボストンに住んでいたからよくウォールデン池《ポンド》に出かけたが、それはソロー氏のイオリのあとにたたずみに行ったのではない。水泳のためであった。水は冷たいが、なかなかよい泳ぎ場であった。
そんな高級な文学的なことより、私には、いったんこうと思いこんだら、ぜがひでも見に出かけなければ気がすまないというアホらしいほど旺盛な好奇心があるのだ。そいつが私をアメリカへ放りやったといってよい。とにかく、私はくり返そう、私はアメリカを見たくなった。ただそれだけのことであった。
アメリカのもろもろのなかで、とりわけ私が見たいと心ひそかに憧れていたものが三つあった。話があんまり単純で子供っぽいので、ここに書くのがいささか気がひけるくらいだが、それはニューヨークの摩天楼とミシシッピ河とテキサスの原野であった。というと、なるほど、おまえは要するに大きなものが好きなんだな、とうなずかれる向きもあろう。そのとおりであった。私は、自然であれ、人間がこしらえたものであれ、大きなもの、それもばかでかいものが大好きなのである。ばかでかいものを見ていると矢も楯もたまらなくなるといってよい。たぶん、それは、そのばかでかいもののなかに潜む(とあるいは勝手に私が想像する)わけのわからないエネルギーの塊のようなものが、私を故郷にひきつけるようにグイグイとひきよせるのであろう。私は、友人のあいだで、ずいぶんと原始人、あるいは野蛮人の定評のある男であった。
このばかでかさは、もちろん、摩天楼や大河や原野にかぎったことではない。人間についても同じことが言えるであろう。たとえば、ばかでかい理性、情熱、洞察力、想像力、空想力、ばかでかい好奇心、もの好き、陽気さ、のんきさ、あるいは途方もない怒り、悲しみ、笑い、あるいはまた野放図な食欲、咀嚼力、消化力――そういったものの根底には、おそらく、ばかでかい人間エネルギーが存在し爆発しつづけているのであろう。私はそれを感じ、そしてシャニムニそれにひかれて行く。私のばかでかい好きを分析すれば、まあそういったところであろう。
もっとも、実際に私がそれら三つのもの、ニューヨークの摩天楼、ミシシッピ河、テキサスの原野を目撃したとき、私がそれらをそれほどまでにばかでかく感じなかったことも事実である。ばかでかさにガンと参るということもなく、ハハン、なるほどね、くらいのところで、自然にスルスルとそれらの風景のなかに溶け込んで行けた。といっても、アメリカのばかでかさが小さいと言っているのではない。私にとっては、アメリカのものばかりではなく、メキシコの原野も、イランの砂漠も、ガンジス河も、そんな感じであった。このことは、あながち、すべてがすべて、そうした風景が私の想像のなかで、いつのまにか途方もなくばかでかいものにまでふくれ上がっていたせいでも、私が特異体質、いや、特異感覚の持主であったためでもない。それも幾分かはあるにしても、根本のところは、私自身をもふくめて、われわれ日本国の住民の感覚が、そうした風景にのまれてしまわれない程度にまではけっこう大きくなってきているためなのであろう。すくなくとも私のような若い世代については、そんなふうに思われるのである。
この後日の「幻滅」はさておいて、とにかく私の脳裏に、ここ四五年来、前記三つのものが去来していたのだった。それらは私が対すべき、そして何ごとかそれに対して自分自身の決をつけるべき一つの目標でさえあった。つまり、私はその三つのもののなかに、それまで私が学び知ってきたアメリカというものの集大成を読みとっていたのであろう。アメリカ、またアメリカ人の持つタフさ、底抜けの明るさ、人のよさ、ときにはやりきれなくなる彼らの「善意」、途方もない底力、要するに例の「開拓者魂《フロンテイアー・スピリツト》」とやらいうもの――私にとって、アメリカとは何よりも先ずそうしたものであった。すくなくとも私の胸に切実に響いてくる、自分がまっこうから対したいアメリカとは、そんなものであった。
もう一つつけ加えておこう。私はそれら三つの風景のなかで、摩天楼というものにもっとも心をひかれていた。他の二つのものが自然のばかでかさというものであり、したがってアメリカでなくては見られないというたぐいのものでないのに対して、摩天楼はこれはもうどうあってもアメリカのもの、アメリカの人間の意志がそこに働き、彼らの労働がそこに凝集してつくりあげたアメリカ独自のものであろう。それに摩天楼は、同じ人間がつくりあげたものだといっても、エジプトやメキシコのピラミッドやアテネのパルテノンではない。大きく言えば、われわれの文明が二十世紀になって行きついた(行きづまったと見るのも自由だが)極限のかたちを最も端的に象徴するものであろう。アメリカに出かけるまえ、想像のなかの摩天楼に対しながら、私はたぶん次のように感じていたのである。二十世紀のわれわれの文明が、われわれの手に負えないほどに巨大な、ばかでかいものになっている、あるいは、そうなりつつあるなら、そのばかでかさというものに、ひとつ直面したい。そいつが重圧となって私の頭上におおいかぶさってくるなら、その下で自分を試したい、コトバを変えて言えば、自分の存在を確かめたい、と。
しかし、いくら摩天楼の下で自分を試したい、自分の存在を確かめたいといっても、現実のところは、私は一文ナシであった。私のそのときの存在自体が、大嵐の日のエンパイア・ステート・ビルのようにグラグラとゆらいでいた。私は小説を書き、ある大学の大学院学生だったが、そんなものはすこしも金の卵を生み出してくれはしない。ある感化院みたいに騒々しい私立高校で英語を教えて、それで辛うじて私はメシを食っていた。
幸いにして、留学生という制度がある。ことに戦後はどうした風の吹きまわしからか、世界各国が競って日本の学生を招きだしたから、これを利用するのが得策というものであった。それに、私のかねがねの理想は「留学生業」を開業することにあったのである。日本から現在留学生を募集している国は、アメリカ、イギリス、フランス、西ドイツ、オーストリア、イタリア、スペイン、イスラエル、インド、フィリッピンなど十指にあまるから、一年ずつ順ぐりに出かけるとしても、それだけでゆうに十年はタダメシを食えるではないか。おまけに見知らぬ他国の風物を見物でき、ひょっとすると、きれいな女の子と恋におちいるという気のきいたことだって起りかねない。
ことに優秀なのが、アメリカ政府募集のフルブライト留学生であった。念のため言っておくと、この「フルブライト」というのは、このけっこうなプランを思いついてくれたアメリカ国の上院だかの議員さんの名前であるが、どういう点でこいつが優秀だというと、他の国のは生活費だけで旅費はこっち持ちなのに、アメリカのは旅費もふくめて何から何まで丸がかえであるということであった。私のような一文ナシにこれほどふさわしいものはない。で、その試験を受けることにした。ちょうど試験が秋にあったのである。
「そやけど君は英語しゃべられへんのやろ」
新宿近くのゴミタメみたいなアパートの一室で寝ころがりながら私がその決意を表明したら、友人のKがまのぬけた大阪弁で即座に言った。私はうなずいた。英語教師でありながら、いや、それゆえにこそ、と書けば満天下の英語教師諸君の満腔の同情と共感を得ることができるであろう、私はオシとツンボであった。
「どうするんや?」
Kのほうが私より心配げであった。
「まあなんとかなるやろ」
私もまた、まのぬけた大阪弁で答えた。
思うに、もしこの私に生活の信条というものがありとすれば、それはこの「まあなんとかなるやろ」であろう。こいつがなかったら、アメリカへ出かけることもなく、そこでノホホンと一年暮らすこともなく、その帰途、日本まであの無鉄砲でユカイでアホらしいコジキ旅行をすることもなかったのにちがいないのである。
試験の願書を出してからも、私は依然としてのんきであった。正確に言えば、のんきであらざるを得なかったのである。ある日、私は志をたてて、ラジオの駐留軍向け放送というのを聴くことにした。たぶん演説か何かであったらしい、三分聴いて私はサジを投げた。三分間で私の耳が捉え得たのは、「十月」と「サクラ」と「出産率の低下」の三語にすぎなかったのである。この三語がいかなる論理的連関にたつのか、これが解けたら、それこそ私は新しい哲学の創始者というべきであろう。私はのんきであることに心を決めた。
私は大学院でふしぎなものを専攻している(すくなくとも、そういうことになっている)学生であった。私の専攻は古代ギリシア語であり、その文学であったのである。英語で「それは私にとってギリシア語である」と言えば、チンプンカンさっぱり判らぬ、ということであるが、このことはこういった試験には好都合なことであったかもしれない。私は根がおめでたいほうだから、原子物理学を専攻していますと人が言えば、たちまちその人の顔が湯川秀樹氏のごとく見えてくるのであるが、私のギリシア語もそういう効果を持っているのであろう。私が自分の専攻が何であるかを打ち明けると、ひとは必ず、こいつ左マキにちがいないと思案する一方で、おかたい学者であると見当はずれの推量をして、なんとなく安心してしまうのである。日本でも外国でもそうであった。
ニュー・デリーの税関で、私はテヘランの友人にもらったウィスキーの持ち込みがばれて、危く没収されかかったことがあった。禁酒国インドに数本の巨大なウィスキーの瓶を持ち込んだのだから、えらく問題になった。「おまえは何者か?」係官はつっけんどんに訊ねた。「学生である」「何を勉強しているのだ?(このウィスキー野郎め! という表情を彼はつくった)」私はできるだけ効果的にしずかに言った。「古代ギリシア語である」「ギリシア語?」彼はすっとん狂な声を出した。「つまりホメーロスであり、プラトンであり、アリストテレスである。あなたは大学時代彼らの名を耳にしたのにちがいない。インドの古代文化もすばらしいが、ギリシアのそれもすばらしいではないか」私がそう言ってインド、ギリシア両文化の比較論を展開しようと思ったら、彼はわけのわからぬようなわかったような表情で、「しっかり勉強してくれたまえ」と言い、ウィスキーは持って行け、という身ぶりをそれにつけ加えた。
こんなこともあるものである。ことに日本人とギリシア語というとりあわせは、韃靼《ダツタン》人とホッテントット語のとりあわせと同じような効果を西洋人にあたえるらしい。私が自分の専攻を言うと、間髪を入れず、「WHY?」と反問してきた人がかなりいた。微笑が必ずそのあとにくる。いや、私がひそかに恋い焦がれていた女の子などは、私がギリシア語専攻の学生であることを知ると、やにわにけたたましく笑いはじめて、ついに私に愛を告白するチャンスを永久に失わせてしまった。
女の子にあたえたのと同じ効果を、私のギリシア語はフルブライトの試験委員諸氏にあたえたのであろう、私を「面接」したフルブライト一党はまさに笑いづめであった。そこへもってきて、私は小説を書く男というおかしなふれこみであり、かてて加えて、英語がかいもくしゃべれないときた。まったくのところ、「おまえは大学で何を研究しているのか?」と訊かれて、「私は昼食には地下食堂で金三十五円ナリのミソ汁つき定食を食べることにしている」と答えていては、そいつを聞いたほうでは笑い出すよりほかはないではないか。
もっとも、こうした奇妙な問答も決してスムーズに運んだわけではない。私は一問につき平均三度は「もう一度言ってくれ」と言い、その上で処置ないときは、キテレツな答えを組みたてることにしていた。したがって、やけに時間がかかった。それに、面接は二回あり、一回目で私の勇名をきいたのであろう、二回目最終のには、用事のなさそうな連中まで大挙して押しかけて来ていたのであって、およそ全員が思い思いのことを訊ねるのである。もし私が原子物理学者であるなら、いやギリシア語でもよろしい、要するにキマジメな学者というものでありさえすれば、質問者の数も質問の種類もしぜん限定されてきたことであろう。悪いことに、私は小説を書く男であった。こんなおかしな男には、誰でも、何でも訊いてやれ、できるだけ変ったことを訊いてやれ、ということになる。実際のところ、その日のフルブライト一党は、私を訊問することを十分たのしんでいたかのように見えた。私もまた何かしらたいへんユカイであった。
やっとのことで放免となり、廊下をノソノソ歩いていたら、一党の一人が追いかけてきた。こいつはもっとも難物の英語を話した男であった。彼は廊下のまんなかで私を呼びとめると何か言ったが、それがまた判らない。二三度押し問答のあげく、「おまえは、これまで一度たりともアメリカ人と会話をしたことがなかったであろう」というようなことを言っているのが判った。事実である。それで私は、「そんなことはぼくの英語をきけばすぐ判ることではないか」と答えたら、彼は「まったくその通り」と、大きくうなずいた。
これで合格マチガイナシ。私はそう確信した。
その通りになった。たぶん、くだんの男が有力な一票を投じてくれたのであろう。私は彼をはじめフルブライト一党を、あの「面接」で十分にたのしませたのだから、それぐらいの報酬はあってしかるべきである。合格の通知を受けてから、フルブライトの日本支店のようなところへ出かけて行ったら、「おまえがこの間の小説を書くという男か?」と言って、わざわざ私の顔を見にきた男までいた。
しかし、フルブライトの試験に受かったからといって、べつにそれでもって私の英語が進歩するわけでもない。私は依然としてオシとツンボであった。それでは困る、おまえはこれから例の視察旅行とか称する「物見遊山」に出かけるのではなく、れっきとした「留学」に行くのではないか、オシとツンボでどうするつもりだ、と他人事ながら心配してくれる親切な人がいた。それで、その人への義理もあって、ある日、私はある「会話学校」ヘヒョコヒョコ出かけてみた。事務所の爺さんが、当校の卒業生から多数のフルブライト留学生を出しています、あなたもここで勉強してフルブライトの試験をお受けなさいよ、と激励してくれた。いや、もうその試験には通っているんです、ともまさか言えないであろう。バカらしくなってやめることにした。そんなお金があれば、ビフテキでも食って家で寝ているほうがよろしい。「まあなんとかなるやろ」私の結論は依然として簡単であった。
何でも見てやろう
――美術館から共同便所まで――
出発はそれからほぼ一年後、五八年の夏であった。
出かけるにあたって、私は一つの誓をたてた。それは「何でも見てやろう」というのである。これは、行くからには何でも見ないとソンや、といういかにも大阪人らしい根性からでもあるが、もともと、私は何でも見ることが好きな男であったのである。それは私のタチでもあり主義でもあった。東京でも大阪でも、その他どこでも、私はむやみやたらと歩きまわり、むやみやたらとものを見て、そんなことで、あたら貴重な青春を浪費していたのである。
私はかねがねトーマス・ウルフというアメリカの作家を敬愛している。こいつは、ばかでかい小説を四つか五つ書き、それでポックリ死んでしまった誇大妄想の塊みたいな男だったが、この男もまた私同様の「何でも見たい」病にとりつかれていたらしく、彼の自伝的小説の記述に従うと、深夜、彼はベッドの上に坐って、彼が生まれてこのかた見た橋の数、ビルディングの数、会った人の数、いっしょに寝た女の数を克明に数えあげて、世界にあるそれらすべてをすませるまでは果たしてあと何年かかるのかと嘆息するのであるが、私にもそんなアホらしいところが大いにあるのだろう。「おまえは要するに誇大妄想狂なんだよ」友人はよく私にそう言ったが、私は「なに、ルネサンス的なんだ」と答えて、胸をひと張りすることにしていた。
つまり外国へ行って、いや、べつに行かなくったってよろしい、この日本国のことでもよい、めいめいの趣味、主張、主義にしたがって、上品なところ、きれいなところ、立派なところばかり見る、あるいは逆に、下品なところ、汚いところ、要するに共同便所のようなところばかり見てくる、私はそんなことはきらいである。世の旅行者というものはたいていその二つ、上品立派組と共同便所組のどちらかに所属してしまうようであるが、これはどうもやはり困りものではないのか。ひとつの社会というやつは、どこだって、美術館だけでできあがっているのでもなければ、どこへ行っても共同便所ばかりというようなこともないのである。美術館もあれば共同便所もあり、山の手もあればスラム街もあり、国会議事堂もあればキチガイ病院もあり、美人もいればシワクチャの婆ちゃんもおり、総理大臣もいればオコモさんもいるのである。それが「社会」というものであろう。
いや、ことは一国の社会についてだけでない。話を横に大きくひろげて、われわれの「西洋」理解についても同じことが言えはしまいか。各人がその趣味、主張、主義、あるいは偶然、必要によってイギリスならイギリスに行く。そうすると、もうそこが彼にとってのただ一つの「西洋」というものになり、それが絶対確実の不変の真理みたいなものになり、なお、やっかいなことに日本に帰りついたあとでも、その真理をふりまわして日本のもろもろを、ああでもない、こうでもないとやっつける。
しかし、「西洋」もまたやたらと広いのである、早い話、あの七面倒くさい食卓作法というやつもである。日本国で教えられるところにしたがえば、「西洋」ではスープは手前からすくってのみますということであるが、それはイギリスでのことであって、フランスへ行けばまったく逆となるではないか。私を「西洋」へ送り出したフルブライト一党はまことに親切な人たちの集まりであって、「テーブル・マナー」の大家と称するオバチャマを呼んで一席講義をうけたまわらせてくれた。オバチャマはザマス口調で、食卓にヒジをつけてお食べになりませんようにとか、くれぐれもお食事のあとで楊子をおつかいになりませんように、あれは日本人だけのすることで「西洋」のお方はおやりになりませんから、と言って何がおかしいのか、ホッホッと上品に笑われたが、なるほどアメリカ、イギリスではそうであった。しかしパリへ行けば、みんな食卓にヒジをつけてムシャムシャやっていたし、スペインでは誰も彼もメシを終えるといっせいに楊子をつかい出すのであった。パリで、アメリカの女の子がしみじみと語ったことがある。私は小さいときから食卓にヒジをつけて食べないようにと、そればかりしつけられてきた。それが今こうやってヒジをつけて食べていると(私と彼女はレストランで話しているのだった)、私たちがどんなにアホらしいことに精いっぱいになっていたか、どんなに田舎者であったかが判る。彼女はそんなふうに言うのであった。
「何でも見てやろう」主義にしたがって、話を急転直下させてトイレットのことにおもむこう。「西洋」式トイレットというのも、いつもいつもあの腰カケ式のやつだと思っていると大チガイで、フランスからスペイン、イタリア、ギリシアの南ヨーロッパ一帯にかけては、日本のに似たトルコ式トイレット(と呼ぶのだそうである。なるほど中近東ではすべてそうであった)のほうがむしろ普通なのであった。それは、おまえの泊まったところが場末や貧乏人のところばっかりだったからだとおっしゃるかもしれない。それはたしかにそうであろう。しかしである、私はクレタ島はフェストスの遺跡で女王様のトイレットの跡なるものを見たことがある。クレタ文明というのは、最近の文字の解読でギリシア文明とのじかの結びつきが明らかにされてきているのだが、そうすると、それは「西洋」の本源のそのまた本源ということになる。フェストスはクノッソスと並んでそのクレタ文明の一大中心地だったのだが、そこの女王様のトイレットはトルコ式であった。
話をもう一度ひき上げることにして、メシどきの飲みもののことにしよう。これは案外知られていないことであるが、アメリカ人はメシを食いながらコーヒーを飲む。これはまさに食いながらであって、ビフテキの一片を口にほうり込んでおいてコーヒーを一口飲み、ついでサラダをつまみ上げるといったぐあいにやってのけるのである。私と前記アメリカの女の子がパリであるときこれをしたら、まわりのフランス人がみんな眼をむいて、この田舎者の礼儀知らずめ! といったふうに私たちを見た。私も彼女もいたずら好きだったから、それからも機会あるごとにそいつを試みようとしたが、これはたいへんに困難なことであった。フランスのレストラン(私と彼女が行ったような安レストランに関するかぎり)は、コーヒーのたぐいなど供さないのである。では、何をメシどきの飲みものとして供するのであるかというと、これはいわずと知れたブドー酒である。同じものがちょっと北へ行ってドイツ、デンマークとなるとビールに化ける。いや、同じアメリカ大陸だって、メキシコへくだれば、もう誰だってビフテキにコーヒーを混ぜるような途方もないことはしないのであって、やはりこれも、あのすてきなメキシコ製のビール、セルベサスということになるであろう。
ついでに、もう一つ、飲みもののことを書こう。どこの国へ行っても、そこの国民が好む飲みもの、ホッと一休みするときに飲むもの、日本でいうならお茶にあたるものが必ずある。(私はこれを「国民飲料」と呼ぶことにしている。)アメリカでなら、これはさしずめドラッグ・ストアで飲む一〇セントコーヒーであろう。イギリスでなら、あそこは紅茶ならでは夜も明けぬ国だから、もちろんあの牛乳入りの甘たるき紅茶。フランスへ行くならカフエ・オー・レ、あるいはカフエ・クレーム、スペインならチョコレート、イタリアではエスプレッソ・コーヒー、ギリシアは小さなコップに入ったトルコ風コーヒー、メキシコのこともついでにまた言っておけば牛乳入りコーヒー、カフエ・コン・レッチエ……
これが「西洋」なのである。というと、私の言いたいことはもはやお判りであろう。旅行者が「西洋」へ行く、あるいはそこに住みつくということは、「西洋」なんていう抽象的存在は日本にいるインテリのオツムのなか以外にはどこにもないのだから、彼は「西洋」のどこかの国へ行って、そこに住みついているということになる。そこは、たとえば紅茶の国だったとする。そこではひとびとは、あたかも紅茶だけが人類が飲みうる唯一の飲みものであるかのように、そいつを来る日も来る日も飽きもせずに飲んでいることであろう。これがどんなにアホらしいことであるかは、ヨーロッパを一国一日か二日の割合でヒコーキで旅行をしてみるとよく判る。一時間前には老いも若きもがえいえいとしてチョコレートを飲んでいたのが、今度は紅茶である。どこへ行っても、誰に会っても紅茶を飲みましょうということになる。旅行者はそいつを滑稽に思うだろう、トーヘンボクめ、たまにはコーヒーでも飲めばいいじゃないか、と憤慨したくさえなるかもしれない。しかし、やがて彼自身も来る日も来る日も紅茶の波にもまれているうちに、そいつが絶対無比の飲みもの、いわば真理にまで上昇する。そして、いつのまにか、彼は他の国のもろもろを、その真理を通して眺めはじめる、批判しはじめる、やっつけはじめる。いや、まだある。彼はやがてその真理を抱いて、故国に帰るだろう、故国のもろもろをその真理でもって快刀乱麻に切りすてて行くことをはじめるのかもしれない。
ことは「西洋」に関してだけではないのである。アジアについても、アフリカについても、同じことがひょっとしたら今言えるのではないか。かつて英国帰りが英国の眼を通して故国を眺めたように、われわれは、今、たとえばインドならインドを通して故国を遠メガネで捉えているといったふうなことをやりはじめていはしまいか。インドにはネルーというそれこそ真理のような人がいて、インドはその点ではまさに便利な国であるが、ネルーはネルーであって、われわれではないのである。
こんなふうに言うと、私がアメリカに行くまえ、「何でも見てやろう」という誓をたてたことは、それはそのままアメリカからの帰途、ヨーロッパ、アジアをぐるりとまわって、できるかぎりいろんな国、いろんな社会を見てやろう、というぐあいに私が考えていたことになる。その通りであった。アメリカという「西洋」の一角に行くなら、その本場であるヨーロッパを見ることは私にとって必然であった。ヨーロッパへ行くなら、私の所属するアジアを見ることは必然であった。とにかく、私は「何でも見てやろう」と思った。国会議事堂から刑務所からスラム街から金持ち街から豪華ホテルから簡易宿泊所からカテドラルから広告塔から何から何まで、そしてまた、コーヒーの国、ビールの国、ブドー酒の国、チョコレートの国、紅茶の国、可能なかぎりのさまざまの国、さまざまの社会、そこに住み、うごめくさまざまの人間、それらすべてを見てやろう、私は誇大妄想狂あるいはルネサンス人である私にふさわしく、そんなふうに考えたのである。
「考える人」
――いよいよ出発――
船で太平洋を渡った。日本船であった。
船のなかのことはべつに書かなくてもよいだろう。毎日、食ったり飲んだりして、あとは眠ってばかりいた。あまりたくさん食ったり飲んだりしたので、私のテーブルにだけ、いつもボーイが気をきかせて余分にくれるようになった。こうなればしめたものである。私とボーイとの間に食物に関して意思が疎通し合うようになり、ボーイは私がひとつ大食のレコードでも破ってくれないかと期待すれば、私も私で、ひときわ奮発して食いに食うのである。ことに、シケで食堂に人影まばらなときには、それはいっそうそうなのであった。
こういうボーイ氏と私との間のうるわしい友情は、もちろん、日本のボーイ氏だけにかぎったことではない。アメリカからの帰途、ヨーロッパをほっつき歩いていたときだった。マドリッドの空港で、ヒコーキがおくれて、われわれ乗客がすべてタダで晩メシの御馳走にあずかったことがあった。私はもうそのころは一日二度ときめた食事もろくにとれないほどの窮乏状態におちいっていた矢先であったから、それはたいへんありがたく、したがって私は食べに食べた。明日はおろか明後日の分まで、私は食いだめをしておく必要があったのである。さっそく特配がきた。一人のボーイ氏が私の食いっぷりを認めたのである。彼は何かスペイン語で私に言ったが、それは「おみごと!」などというお世辞であったかもしれないし、それとも、「これでおまえさん、もう何日メシを食っていないのかね?」と訊ねていたのかもしれない。たぶん後者であったろう。髪はボーボーで風呂などというしろものにはもう一と月このかた入ったことがなかったから、はじめは、彼はウサンくさげに私をじろじろ眺めまわしていたのであった。私が特配を食べ終ると、彼は他のテーブルから果物やらパンやらチーズやらを持ってきて私の前に並べた。そして、ポケットのなかにしまっておけ、という身ぶりをさかんにする。私がポカンとそれを眺めていたら、彼は自分で、かたわらの椅子の上にほうり出してあった私のすりきれたオーバーをとって、そのポケットにそれらの貴重なる物品を押し込みはじめた。
ありがたいことであった。私が感謝のコトバを述べようと、それも気のきいたスペイン語で言ってやろうと、満腹でいささか朦朧となった頭脳にノロノロと命令を下しているうちに、彼はそれだけの作業を終え、そそくさとテーブルから立ち去って行った。見れば、ボーイ頭とおぼしき人物が現われ出てきたのである。彼はボーイ頭の背後から、黙っていろ、とでもいうふうに片眼をつぶってみせた。
もちろん、こういうことは男性のボーイ氏だけにかぎったことではないのであって、ヒコーキのなかでは、スチュワーデス嬢がよく食事のお代りをくれた。満足にメシが食えない状態であった私は、いつもメシつきのヒコーキを選んで乗ったのだが、お代りをくれたのはあれはどういうわけからであったろう、べつにもの欲しげにしていたつもりはないが、私がよほど男性的魅力に富んだ人物であるのか、それとも私の胃袋の空虚さが垢だらけの私の体から放散する異臭とともに彼女を打ちのめしたのにちがいないのである。このスチュワーデス嬢のお代りには、お代りをもらうことで彼女とグンと親しさがまし、あげく、目的地でのデイトにしぜんに移行するというちょっとしたオマケまでついていた。ことにスカンジナビア航空のあのうつくしい金髪娘F嬢は――いや、この話はやめにしよう。ここでは食事の話をしているのであって、それ以外のことはなんら語っていないのである。それどころか、私はまだ太平洋を渡りきってはいないのである。「とにかく、おまえのは胃袋が食っているのではなくて、心臓が食っているんだ」ある友人がまさに適切な批評をしてくれた。
ハワイが私にとっての最初の外国であった。私はいよいよ英語を話さなくてはならない。いささか武者ぶるいを感じながら船を下りたが、ここではべつに英語など知らなくても用は足りるのである。なにしろ人口の半分以上が日本人一世、二世、三世の土地だから、たいていの連中が日本語を解するのであった。道をききたければ、そこらの店にとびこめばよい。七十がらみのオバアチャンが英語入りで教えてくれる。「そこんところにカーが来るね、ブラックのカー。そこを右へターンして……」
これくらいの英語入り日本語なら、無学な私にもまだ判るが、二世、三世氏のはすこぶる難解であった。ある野外劇場のようなところで、たぶん三世氏らしいのが、ここでは「マイ・サンデー」に「バン・コンサート」があるというので何かと思ったら、それは「毎・サンデー」に「晩・コンサート」があるという意味であった。ついでながら、その三世氏は「生長の家」の熱烈な信者であったことも付記しておこう。
日本人街というものにも行ってみた。「森の石松」の映画のポスターが壁にヒラヒラしていて、そのかたわらで一世の老人二人が将棋をさしている。そんなふうなえらくみすぼらしい感じの街であったが、ちょっとおどろいたのは、そこにゴロゴロしている二世、三世連中の体の大きさであった。みんなプロレス選手まがいに、大きく、まるまると肥えている。これはひとえに食いものと気候のせいなのであろう。大きくなりたい人は、「あこがれのハワイ航路」とやらに乗って、ハワイへ出かけることである。
しかし、もしあなたが、東京のような世界一娯楽設備がととのっていて刺激的で賑やかなところからはるばる行くとしたら、二三日でアクビの連発であろう。パール・ハーバーは要するに、いくさ船に油と水とマンゴーを積み込むわれわれにはエンもユカリもない(かつては妙なかたちでエンもユカリもあった)ところであり、ワイキキの浜辺も、つまるところは砂浜であり、フラ・ダンスはハワイ土人の盆おどりであったということが判ってしまえば、さてもうほかには出かけるところは余りない。致命的な欠点は、せまいということにあろう。私のような、だだっ広い、広いだけで何もないようなところが好きな人間は自殺でもしかねないのである。ホノルル市の背後に、オアフ島の分水嶺とでもいうべきヌアヌ・パリ峠があるが、そこは自殺にかっこうな場所と見えた。切りたった断崖がそびえていて、太平洋を見わたしながら悠然と身を投ずることができるのであるが、そこは下から吹き上げてくる風の強いことで有名な場所で(何を基準にして言うのか知らないが世界で三番目に強いということであった)、自殺者がみずからの体を落下せしめることはとうてい不可能であるという説もあった。もっとも、私が「ためしにやってみようか」と言ったら、その説を紹介してくれた当の本人が「およしなさい、引き上げるのにお金がかかって困る」とたしなめたから、それはやはりマユツバであろう。
夜がきたのでフラ・ダンスを観に行った。ごく安い大衆的なところというふれ込みのに入ってみた。海に面していて、海水浴場によくあるヨシズばりの劇場の感じであった。スイカでもパクつきながら、アロハ娘のフラ・ダンスを見物するしかけになっている。
適当なところに腰を下ろしてボーイが来るのを待っているうちに、私はふと砂浜からこちらをのぞきこんでいる立ちん坊氏の列を見いだした。あれでやればスイカなど食って一ドルつかうこともないではないか、私はそいつに気づくとすぐ外へ飛び出て、アメリカ人立ちん坊諸氏の列のなかに入った。砂浜は涼しいし、第一、よく見える。舞台のソデのところで、さっきまで微笑満面だったフラ・ダンス嬢が、いかにもバカバカしいことでしたとでもいうように大アクビするのまで一目瞭然なのである。
深夜、私は思いたって深夜のホノルル散歩に出かけた。私は何でも見ておかねばならないのである。
船を出ようとすると、見張りに立っていた大きなポリス氏が、私の肩をかるく叩き「グッド・ラック」と言ってニヤニヤした。女を買いに出かけるのだと思ったのかもしれない。
南国の街の深夜は静かであった。かれこれ二時間近く、私はあてもなくホノルルじゅうを歩きまわった。ある大通りで、巨大なものが巨大な音をたてて近づいて来るのに出会った。
それは清掃トラックであった。巨大な真空掃除器が大型トラックの下部にくっついていて、それでもって街路のゴミを一気に吸い上げて行く。トラックが動くにつれて、ズーズーという巨大な音響が静まりかえった深夜の街にこだました。その音をきいているうちに、はじめて私の胸に、ここは外国だな、という感慨がわき起ってきた。
* * *
ハワイを出て一週間後に、船はアメリカ本土に着いた。シアトルである。
船および私自身がアメリカ本土についたということを私にはっきり知らせたのは、摩天楼がチョロチョロとまじるシアトルの街景でも、コーヒーのコップをほうり投げるようにしてよこすドラッグ・ストアのオヤジでもなくて、船客のなかにまじっていた一人のアメリカの女の子だった。小学校六年生くらいの年ごろのなかなか活発でユカイな子供で、かなり流暢な日本語を話したから、船のちょっとした人気者であった。私もピンポンのお相手をおおせつかったことがある。彼女がとりそこねて球が甲板の上をコロコロ転がって行っても、たいていの場合彼女はとらず、アメリカの女というやつは子供でもけっこうたいへんであるな、と私を奇妙な感慨に走らせたが、コトバのほうは、これは日本のかわいい女の子のそれであった。私が球の走り拾いに疲れてやめようとすると、「もうやめるの、つまんないわ」と口をとんがらかせる。
さて、その女の子だが、船がシアトルに着くと同時に、ガンとして日本語を話さなくなったのである。日本語で話しかけてみても解らないふりをしたり、英語で答えたりする。もう故郷だから日本語はいらないというわけなのか、少しばかり胸にコツンときた。
シアトルからは汽車で大陸を越えた。いわゆる大陸横断鉄道というやつである。シアトル・シカゴ間には数本そういうのがあり、各線にそれぞれ「帝国建設者《エンパイア・ビルダー》」号とか「|西部の星《ウエスターン・スター》」号とか名前をつけた特急列車が走っていて、およそ五十時間でつっぱしる。日本の「こだま」号とかいうのを一まわり大きくして、遊園地の汽車ポッポよろしく極彩色にぬりたくれば、そんなふうな感じになる。
乗ってみてはじめて気づいたことだが、実は、各線とも一日に一本か二本しか、汽車、すくなくとも長距離列車は走らぬのである。したがって線路は草ボーボーで、そこんところを、私の乗りこんだ「帝国建設者《エンパイア・ビルダー》」号は孤独にひた走るのであった。
シカゴ・シアトル間は、西部に関するかぎりだいたい原野であり、各線ともみんな似たりよったりのところをひた走るのだから、われわれの常識からいうと、ひとまとめにして一本の鉄道の上にたくさんの列車をゆききさせたほうがよいような気がする。しかし、ここは自由企業、自由競争の国であって、その各線とも実は会社が違うのだから、これもいたしかたのないことかもしれない。それにしても、いささかもったいない、と私が「帝国建設者《エンパイア・ビルダー》」号のなかであるアメリカ人に言ったら、ヘエ、世ノ中ニハソンナ考エ方モアルノデスカ、というような顔をその人はした。
おかげで汽車賃はべらぼうに高くなる。今日どこかへ行くのに汽車に乗るのは、バカか見エ坊か、それともほんとうの金持かであって、貧乏人はバス、ちょっとお金のある人はヒコーキに乗るのである。(自分の車で行くのは、ガソリン代と有料道路代と途中の宿泊費を考えると、家族、友人で大挙して移動するという場合をのぞくと、あまり得策ではない。もっともタダ乗り、ヒッチ・ハイクならべつである。)いちばん安いのはバス、ついでヒコーキと汽車のツーリスト・クラスがどっこいどっこい、いちばん高いのは汽車の一等。
とにかく鉄道はすでに時代おくれの存在であることが、アメリカに来てみるとよく判る。今日のアメリカは鉄道の墓場に満ちている。と言っても過言でないだろう。どこへ行っても、廃線、廃駅がうらびれた姿をさらしている。ことに田舎でそうであった。いや、堂々なる大幹線ですら、ある大鉄道会社のP・R誌を見ていたら、線路工事の写真があり、それには「本線の近代化《モダーニゼイシヨン》着々と軌道にのる」という説明がついていた。単線を複線にしているところかと思ったら、そうではなくて、逆に複線を単線にしているのであった。これは、いろんな意味で私を考えさせた。「近代化トハ単線ヲ複線ニスルコトデアル」というのがアメリカ以外のところでの常識であろうが、アメリカではその「常識」は通用しない。このことはどうも鉄道のみに関することでなくて、アメリカの社会を見ていると、あの社会はいろんなところでこうした常識はずれに満ちているように見えた。アメリカの社会を見るとき、われわれは、われわれの常識を一応うたぐってかかる必要がありはしまいか。
それはともかくとして、私はその「帝国建設者《エンパイア・ビルダー》」号では、バカか見エ坊か、それともほんとの金持かである一等客だった。フルブライト一党は、すべてによく気のつく人の集まりであって、私の「何でも見てやろう」という野望をとっくの昔に見ぬいていたらしく、船は三等であり汽車は一等であった。これは、私の二年間の旅の性格をもっともよくあらわしていることかもしれない。急上昇と急転落を、それからもめまぐるしくくり返したことになる。
私はそれまでは日本で学割切符で三等にしか乗ったことがなかったから、一等寝台室におさまったときはえらく感激した。しかし、それは余り感激することではないのである。黒ん坊のボーイ氏にはチップを必ずやらなければならないのであって、やはりこの一等というのはバカか見エ坊か、それともほんとの金持しか乗らぬものであることをはっきりと確認した。
それに車窓の風景は、一等に乗ろうがどうしようが、べつに変りはない。ロッキー山脈を越えるあたりを除いて、半日走っても大差はない、野っぱらであり、ただそれだけであった。
これは私のような生来動作鈍重な男には、まことに好都合なことであった。同車した留学生のなかに、牛が野っぱらに寝そべっている写真をとりたいという奇特な志をもった女の子がいて、私は何でも女の子には安うけ合いをするほうだから、私にその大任が任せられた。「小田さん、牛がいるわよ」と彼女が叫べば、私はおもむろにカメラを開く。私がノロノロとカメラを眼の位置にかまえるころには、むろんのこと、牛などははるか後方に消し飛んでいる。が、慌てることはなかった。五分と経たないうちに、さっきと寸分たがわない風景が出現するのである。それが失敗なら、もう五分、それも駄目なら、さらにもう五分。同じように牛が五六匹ゆったりと寝そべり、ゆったりと野っぱらがその背後に展開する。アメリカだな、と思った。
そしてシカゴ。
シカゴは、実は私の憧れの都会であった。これはひとつには、シカゴ小説耽読の結果である。二つめには、私はギャング映画が好きであって、アル・カポネの街ときくと、それだけでうれしくなってくる。三つめには、シカゴはわが故郷大阪と似ているからである。活力に満ちていて、在野精神に富んでいて、お金の町であり、工場のむらがるところであり、汚くてそして無限に美しい。大阪とシカゴの差は、つまるところ、歴史のそれだけであろう。シカゴの駅を一歩出て、頭上を轟々とすぎる高架鉄道の汚い車輛の列を見たとき、私は故郷にかえったようにホッとひと息ついた。
百貨店へ行ってみた。私は百貨店というものが妙に好きで、どこの国へ行っても百貨店訪問を欠かしたことがない。もちろん誰もが言うように、日本の百貨店は世界一という判りきった結論になるが(念のため言っておくと、サービスにおいて、キレイであるということにおいて、品物の数の多彩さ豊富さにおいて、売子が若い女の子で、それもおおむね十人並み以上の容貌の持主であるという点において、タダでお茶をくれる点で、たえず展覧会というのをしていてピカソから殺人犯の使用したピストルまで見せてくれる点で、ヤカン一つでも無料配達してくれる点で、その他もろもろの点で、それはそうなのである)、シカゴには、全米随一の、やっと日本並みのが一つあった。しかし私の話そうとしているのは、その立派なのではない。場末のババッチイのであった。私はそこでトイレットへ入ったのである。
トイレットには扉がまるっきりなかった。アメリカ人はこういう点は実に平気で、Y・M・C・Aという立派な泊まり場のなかにも往々にしてこういうのがあって、みんな泰然と腰を下ろしているが、くだんのトイレットにも、ひとりの若者が「考える人」の姿態をしていた。
いささか躊躇したが、私は何ごとでも見、またやってみなければならない。それにそのとき、そうする必要が緊急に私にはあったのである。私もまた「考える人」となった。
「ヘイ!」
しばらくして、孤独であった私という「考える人」は隣室の「考える人」に声をかけた。
「今日はいやに暑いではないか」
こんなババッチイ百貨店には、日本とちがって、冷房装置などという気のきいた設備はしてないのである。隣室の「考える人」は肯定のむね答え、それから逆に訊ねてきた。
「どうだい、シカゴは? 面白いか?」
「まあね」
「職探しかい? 職なら、おまえ、ロサンジェルスへ行ったほうがよいぜ」
「しかし、シカゴもいいじゃないか。第一……」
私はそこで絶句し、それから、自分でも思いがけないことを口走った。
「詩的《ポエテイツク》だ」
外国語というものは暑さに極端に弱いものであって、頭が暑さでボケてくると必ず神がかりが飛び出してくるようになる。この場合もその適切な一例だが、それにしても、この思いがけないコトバは真実の気持からでもあった。常識はずれのことかもしれないが、大阪が日本でもっとも詩的な都会であるのと同様に、シカゴもアメリカでそうであろう。
「詩的《ポエテイツク》?」
となりの男はすっとん狂な声を出した。あたりまえである。いくら真実からくるコトバであっても、場所が場所である。常識からいうと、これほど非詩的な場所もないであろう。
「おまえは学校出だな。しかしシカゴは暑いぞ。冬は寒くてしようがないし」
「なら、どうしてここにいる?」
「おれはここで軍隊に入っているんだ。自由を守るために、おまえ、軍隊というものがいりまさあ」
彼はひどく公式主義的なことを言った。その口調は皮肉でも何でもなく、原爆でも水爆でも命令されればあっけらかんと落しかねないほど無邪気なものであったから、彼はほんとにそう考えているのだろう。しかし、いずれにしても、「自由の擁護」という問題もまた、この場所でとりあげるのにふさわしい論題ではない。
「おまえ、なかなかエイゴができるじゃないか。アメリカへ来て何日だ?」
「四日」
「フム、たいしたものだ」
彼の賞讃は耳に快かった。何でも、誰によってでも、ほめられるとうれしいものである。
「おれはフロリダで、おまえんとこと海一つへだてたところにいたんだ。スペイン語がちょっとやれるぜ」
話がおかしい方向にすべって行った。私は慌てて訊き返した。
「あんたは、おれがいったいどこから来たと思っているんだ?」
「判ってるじゃないか、おまえ、プエルト・リコ人だろ?」
思うに、日本の紳士諸君は、こんなところにまで遠征して思索にふけることもないのであろう。アメリカの植民地プエルト・リコからは目下食えない連中が大挙してニューヨーク、シカゴに押し寄せて来ていて、今日のアメリカの社会問題は黒人ではなくて実はプエルト・リコ人であるときいた。私もまた一文ナシのプエルト・リコからの移民のひとりであると、そんなふうに彼は判断したのにちがいない。私は自分は日本人であり、この国のピカ一大学ハーバード大学にこれから留学せんとする身であることを明かそうとしたが、場所が場所である、なんだか妙な気がしてやめにした。
これを皮切りとして、私は世界各地で、さまざまな人種、種族、あるいは部族にまちがえられた。だいたい、これは、私の旅行ルートが最低線上にあって、そこでは誰もが日本の紳士など見かけたことがなかったのが原因であろう。前記プエルト・リコ人、メキシコ人、アメリカ・インディアン、キューバ人、フィリッピン人、シナ人、アラビア人、いやギリシアでは、アメリカ人、イギリス人、ドイツ人、イタリア人、スエーデン人、フランス人、スペイン人(つまり私の泊まった寒村では、それまで誰も外国人を見たことがないのであった)、イランではイラン北部の遊牧民ナントカ族、ニュー・デリーではネパールの商人、カルカッタではブータンのインテリ……
ビート猫・ZEN猫
――アメリカ(猫)の悲劇――
その年の九月から、私はハーバード大学に一年いた。「いた」と書くだけで「勉強した」とも何とも書けないのは残念しごくであるが、それは私の性向としてやむをえないことであろう。それに、ハーバードが所在するボストンには、私のめざす摩天楼はあいにく一つか二つしかなかったのである。それで私はまったくしばしばニューヨークヘ出かけた。ありがたいことに、ニューヨークには私にタダで宿を提供してくれるアメリカの友人たちがワンサといたから、行けば必ず二三週間の長逗留となった。
その友人たちとどうして知り合いになったかというと、先ず私が英語ができなかったからであった。奇異にひびくかもしれないが、それは真実である。
ハーバードにおちつくまえ、私はニュー・イングランドの田舎の女子大でひと月ほど暮らしたことがあった。フルブライト留学生は各自の志望大学に入るまえに「国際夏季学校《インターナシヨナル・サマー・スクール》」とかいうのに出席する義務があって、私はその女子大で開かれているのに出たのである。(ことわっておくが夏季休暇中であった。)何をしていたのかときかれると、こと私に関するかぎりは、ヒルネをしていましたと答えるよりほかはない。私はひそかに「国際ヒルネ学校」と名づけていた。
そのヒルネ学校に、たぶん彼らもヒルネに来たのであろう、作曲家の一団が合宿していた。アメリカには最近いろんな新発明のものがあるが、この作曲家の合宿もその一つであろう。何と訳すか、「コンポーザーズ・コンファレンス」とかいって、作曲家が避暑のシーズン中あちこちに群れつどい、何をするかといえば、ストラビンスキー、バルトークばりの(アメリカの作曲家たちに言わせると、二人は「アメリカ人」であった。アメリカの作曲家と話すときは、どちらかをほめておけばゴキゲンがよろしい)、ちょっとはじめのところを聴いただけで頭がガクンガクンしてくる音楽をやたらと製造するのである。
私のいた女子大にその一つがあり、彼らは毎夜コンサートを開いた。他にすることがなんにもないというしごく単純な理由から、私は聴きに出かけた。静かで単調な田舎にいると、彼らのたてる騒音は、けっこうアタマの洗濯機の役割をはたしてくれるものである。私はさっそく彼らの注目のマトとなり、いろんなやつが私に話しかけてきた。私は日本にいたとき、ベートーベンの運命交響曲のダダダダーンという勇ましい出だししか知らないので有名な男だったが、英語が話せないとは実に便利なことである。私は黙り込み、それだけで思慮ぶかく見え、私のたまに発言するコトバは千鈞の重みをもち、そのコトバというのがすでにシカゴの「考える人」でテストずみの神がかりだったから、あいつはすばらしく音楽の判るインテリだということになった。
ここでついでながら、外国で友人をつくる方法、ことに女の子と仲よくなる(すくなくともアメリカにおいて)方法を伝授しておこう。アメリカの女の子と仲よくするには、英語がペラペラでダンスを軽くこなし自動車の運転ができて、その上西洋人向きに女性にかしずくことがうまくなければいけないと考える向きがあるかもしれないが、これはとんでもない謬見である。私には女の友人がワンサといたというのではないが、それでも二十六歳の知性あり魅力ある男性がふつう持つと考えられる程度にはいた。それで私の例で行くことにする。
先ず私は英語がペラペラのまったくの反対であった。(黙って坐っていると、アノ人神秘的ダワ、ZENぶっでぃすとニチガイナイワ、ということになり、一言二言何か神がかりを重い口調でつぶやくように言うと、スプレンディット、ワンダフル、となる。)次にダンスもできなかった。(パーティでいつまでも踊っているのはアホウか舞踏病患者であって、気のきいたやつはいいかげんに切りあげて、気に入った女の子と外へ出るのである。下手クソなジルバなどであたら貴重な精力を浪費しているより、おれはダンスなどくだらぬものはできぬ、それより外のしずけき暗黒のなかで宇宙の神秘について語ろうではないか、と言えば、それだけで女の子は参るのである。)第三に自動車の運転もできなかった。(由来、古今東西を問わず、女性は変った男性が好きになるものである。アメリカには、ダンスがうまい、自動車の運転ができる、というのは、それはその男がまったくの並みの男、なんの変てつもとりえもない男であるということになる。つまり、アメリカでは、ダンスができないということができる、自動車の運転ができないことができる、これが肝心なのである。私が、もちろん運転などできない、というと、マーベラス! と叫んで手を打ってよろこんだ女の子がいた。)さて、最後のもっとも重要な女性に対する礼儀作法に関することであるが、私は男性横暴のありがたき国日本国においても、その点で有名な男であった。(私のように何もしないでいれば、女性のためにドアを開けることから皿を洗うことまでしてやる国では、それだけで変っていることになる。第一、私にそんなことをやらせるのは危くて見ていられないという。皿を洗えば一枚や二枚は崩壊し、オーバーを背中からかけようとしたらインク瓶がひっくり返って大さわぎになった。ZENぶっでぃすとハシズカニシテイテクダサイ、ソノホウガ魅力ガアリマス。あるとき、ある女性が、日本国では男性は恋人あるいは奥さんを呼ぶとき、いかなる呼びかけをつかうのであるか、と訊ねたことがあった。そのとき私は、彼女提供のマルティニの飲みすぎで頭がクルクルまわっていた矢先だったから、考えるのもめんどくさく、そいつは「oi」というのであると答えた。そのとき日本の女性たちは何と応じるのか、彼女はつづけて訊ねた。それは「hai」である。私は調子にのって言った。答えのほうは、アメリカ人は友人などに呼びかけるのに「ハーイ」というから、しごく覚えやすいのであった。当時、私はその女性と恋のマネゴトらしいものをしていたから、早速、実地に用いることにした。私が彼女のアパートに行き、「オイ、コーヒー」とどなれば、彼女は「ハーイ」と答え、コーヒーを持って来てくれる。これはニューヨークでは大いに気持よいことであった。)
というわけで、黙っているほうが万事よろしい。私は田舎の女子大で有名無名の作曲家たちとたちまち友人となった。彼らの大半がニューヨーク出身者だったから、オダよ、ニューヨークへきたら、おれのところで泊まれよ、ということになった。
私の最初のニューヨーク行は、ハーバードの新学期が始まる直前の八月末のことであった。着くとすぐ、私はそのなかでもとりわけ親しかったTに電話をかけた。「やあよいところへきた。留守番を探していたとこなんだ」Tは開口一番そう言った。
きけば、彼と彼のルーム・メイト(同居して暮らしている友人のことを、アメリカ人たちはそう呼ぶのである)は、三年ごしに計画していたロング・アイランドヘの休暇旅行に出るところだという。ねがったりかなったりではないか、私は早速出かけることにした。
彼らのアパートはグリニッチ・ビリッジ近くのスラム街のまんなかにあった。判りにくい地下鉄を迷い迷い乗って、やっとこさそのアパートにたどりついたら、すでに夜になっていた。
Tのルーム・メイトというのに紹介される。Kという写真家あるいはその志望の男。T、Kともに、容易に想像されるように貧乏であった。Tはもっぱら失業保険で食いつなぎ(彼はかつて音楽雑誌の編集者だったことがあった)、Kはどこかの会社でアルバイトをしていた。
おまえの義務は猫に食事をやることだ。彼らはそう言い残して旅行に出かけて行った。アメリカの猫はいったい何を食うのであるか。私が彼らに最初に先ずそれを訊ねようとしたら、彼らのほうが先に同じことを訊ねてきた。日本の猫は何を食うのであるか? 魚であり米である。「ライス?! 日本の猫はライスを食べるのか」彼らは呆れはてたような声を出した。
アメリカの猫族は、国富に比例して、やはり贅沢であった。先ず「キャッツ・フード」と称するおネコ様用カンヅメをおあがりになる。中身は魚肉のミンチ固めのようなものだったが、これだってなかなかバカにならないほど(すくなくとも日本円に換算すれば)高いのである。それだけでは足りないから、TとKが一週間分を電気冷蔵庫のなかにためこんだヒキ肉をア・ラ・カルトとしてお用いになるが、そのなかには、水性ビタミン剤が数滴もちろんたらしこんであるのであった。
しかし、これでは生まものが絶対といっていいほど不足だから、いろいろ壊血病的症状に悩んでいた。抜け毛。カイセンに似た吹出物。もちろん医療設備はどこへ行ってもいたれりつくせりに完備しているのだから、ことがあれば連れて行けばよい。生まの魚をドシドシ食べさせなさいというような野暮なことは言わず、医者はビタミン剤を矢つぎばやに次から次へと注射するだろう。猫の存在自体が何かの拍子に不要になったら、そこへ連れて行けば注射で眠らせてくれるし、逆に毛並みのよいのが欲しければ、そこから貰ってくることもできる。去勢の手術をあらかじめしておくのが習慣のようであって、その点でもネコ医者は大はやりであった。
TとKの愛猫もそうだったが、たいていの猫はアパートに住んでいて、それも五階だて、十階だて、二十階だてというようなのが多いから、しぜん、一生せまい空間に飼い殺しということにあいなった。抜け毛の多いのも、一つには運動と日光の不足であろう。これは、そのまま、アメリカの男性が栄養のよすぎるためと運動の不足とで、二十五歳をすぎれば中年ぶとりにみにくくふとり、ハゲチャビンとなり、白髪となることを思い出させた。(あるお医者の説によると、アメリカ人は三十歳で中年に入る。)そんなふうに見てみると、アメリカの猫族はアメリカの社会の一つのみごとな縮図であった。カンヅメ料理とビタミン剤を運動不足の体におしこみ、ガラス窓を通して入り込んでくる弱い日光を慕って、おちつきなく動きまわり、おまけに去勢されてしまっているとあっては、私は心底からの同情を禁じえないのであった。いや、まだある。不要になればどこかへ処分し、欲しければ新しいのを手に入れる……
「アメリカの猫はまったくビートじゃないか」
私はそう言い、今書いたようなことをつけたしたら、TとKはうなずき、「そんなら日本の猫はZENブッディストかね」と、なかなかうまいことを言った。
なるほど、そう言えば、同じようにひなたに寝ころがっていても、アメリカの猫は人工衛星的にイライラしているふうだし、日本の猫はきわめて宇宙的に神秘に見える。
しかし、猫というやつは、ビート猫であろうとZEN猫であろうと、ソソウはするものである。ことに、西洋風のおふろというものは、あれは水が入っていないときは、ビート猫にとってのまことにけっこうなおまるになる。
私がビート猫のそうしたソソウのあと始末を黙々として、きわめてZEN的に行なっていたら、同じフルブライト留学生仲間だった新聞記者がやって来た。彼は私のそのざまを見てつくづく慨嘆して言った。「とにかく君だけだろうなあ、アメリカくんだりまで猫のウンコ掃除に来たのは」
ゲイ・バーの憂欝
――アメリカ社会の底――
TとKは「夫婦」であった。二人はホモ・セクシュアルだったのである。二人がそうであるむねを告げると、前記新聞記者氏はとび上がり、ほうほうのていで逃げ帰って行った。
これが普通の正常なる日本男子の反応であろうか。とすると、私はまったく異常者ということになる。しかし、誤解のないように言っておこう、私はゲイではない。その反対の「ストレイト」(「ゲイ」に対して、正常の人のことをそう言った)であって、やはり女の子のほうが何かにつけてよろしいほうなのである。それにもかかわらず、私が新聞記者氏式の反応を示さず、その後も悠然とTとKとの共同生活をつづけたのは、これはひとえに私の異常なる好奇心のたまものであろう。私がもし異常だとすれば、それは知的食欲がどうかしているのであって、もう一つの本能のほうは、それはまったくまっすぐ――「ストレイト」にしか動かぬのである。
TとKのアパートには三室があり、一室に「夫婦」が眠り、それとは中央のリビング・キッチンをへだてて「私の室」があった。書斎とも仕事部屋ともつかぬ乱雑にちらかした室で、片隅に簡易寝台があったから、私はそこで横になることにしていたのである。
Kはアルバイトに出かけるために朝早くアパートを出た。私がのっそり起き上がるころには、Tも起きていてピアノを叩いたりしていた。私がリビング・キッチンに顔を出すと、「ガスの上にコーヒーがわいているぜ」と彼は言い、私はうなずき、二人の朝食となるきまりになっていたが、Tは往々にして裸体、まっぱだかであった。
これはTがゲイであるということとはあまり関係がない。彼は少しばかり異常に裸体が好きだったが、だいたい西洋、ことにアメリカのおのこは、こういう点、非常に無頓着である。私はハーバードでは寄宿舎で暮らし、ニューヨークに来ては友人宅にころがり込み、あとで述べるように「芸術家村」で芸術家たちと合宿し、メキシコでまたひとの家に居候、ヨーロッパではユース・ホステルあるいはその類似のところで合い部屋泊まり、といったぐあいにしていたから、西洋のおのこのよそ行きでない、もっと適切に言えば、レイディの存在がないところでのはだかの(私はこのコトバを文字通りの意味にも、比喩的な意味にもつかっている)姿にやたらと接する機会があったのである。
私は今「よそ行きでない」と書いて「レイディの存在がない」と言いなおしたが、たしかに西洋の「よそ行き」の概念は、翻訳すればそういうことになるのである。わが日本国が古来男性横暴の国であるとするなら、西洋はインギン無礼のほうであろう。わが日本国の男性どもは、私をもふくめてきわめて単純素朴であって、女性がその場にいようといまいと態度を変えるというようなはしたない(女性に言わしめれば、すばらしい)ことはしないのであるが、西洋の連中は極端に態度を変える、いや、変えるのではなくて中世以来つちかわれた(私は西洋古典学専攻の学徒として、学問的良心に誓って言うが、ギリシア・ローマではそういうばかな、あるいはすばらしいことはなかったのである)女性尊重、インギン無礼の伝統にしたがってしぜんに変る、コトバを変えて言えば、女性のまえではきちんとエリを正しているのに、男だけになるとモーレツに乱れ落ちる、そんなところがあった。もっとも日本の男性氏のほうは、女性がいてもいなくても、いつでもモーレツに乱れ落ちているのかもしれない。公平を期するためにちょっと付記しておこう。
つまり、西洋の生活というものは、パーティのようなものであろう。女性は必ずパーティにいなくてはならぬ。その前では礼儀正しく、あるいはインギン無礼であらねばならぬ。私はよく人の家のパーティなんぞに招かれる機会があったが、そのときいつも驚いたのは、そこの家の子供のそういうことにかけてのしつけの良さであった。十七歳くらいの少年が大人顔負けの手なれた態度で、女性にマルティニをすすめ、女性向きの話題をとりあげてそらさず応対する。もちろん酒を飲んでも酔っぱらったりしてはならないのであって、そういう必要があってもとにかくこらえにこらえて、わが家に帰りつくと同時にトイレットにとび込むのである。私の友人たちはよくそれをした。そしてそのあと、ああアホらしい時間つぶしであったと、まっぱだかになってベッドの上に寝そべりながらうそぶいてみる。
そこへいくと、われわれ日本国のおのこは、なんといじらしいほど単純で素朴で子供であることか。パーティのまっ最中に酔っぱらって、まっぱだかになってドジョウすくいを踊り、ケンカをおっぱじめ、あげくのはて人の家のトイレットどころか座敷のまんまんなかに派手にスーパー・マーケットを開業する。いや、もう一つあげくのはてを言えば、そのおかげで、日本の男というものはなんて礼儀知らずでなっていないんでしょう、それに比べると、西洋の男性は……と当の日本国の女性から鼻ツマミに合う。その証拠に、女流作家の書く小説というものをごらんなさい。たいてい「日本人ばなれのした」(したがって西洋人ふうに魅力にみちみちた)男性というのが登場してくる。
日本語には「プライバシー」というコトバがないとはよく言われることだが、これはわかりやすく言うと、パーティのホールとわが家のトイレットの区別が、われわれのように年中酔っぱらってばかりいる日本人には区別がつきにくいということであろう。西洋人のほうにはその区別が厳然とある、ということは、逆に言うと、よそ行きのところではきちんとしていなくてはならないが、いざプライベイトなことになると何をしてもよろしい、アメリカの男性諸氏のごとく、まっぱだかで寝ていてもよろしい、ということになる。実際、友人のなかにも寝室裸体主義者がたくさんいた。もちろん彼らはゲイではない。
「日本には銭湯というものがあって、日本人はみんな平気でいっしょにおふろに入っているのである」と、びっくり仰天したような西洋人の記事をよく見かけるが、なに、アメリカだって、寄宿舎に住み、あるいはY・M・C・Aあたりで泊まると判ることだが、シャワーはすべて共用である。アメリカ紳士の養成所のように見られているハーバードの寄宿舎のシャワーもこの例外ではないのであって、私はいつも三四人の裸体主義者と画一主義《コンフオーミズム》を論じ、アジア・ナショナリズムについて一席ぶち、ミッサイルを嘆じながら仲よくシャワーをあびた。男性同士というのはプライベイトであるというのと同義なのか、身体検査に行くとまるはだかにされるし、体育館のプールではみんな太古さながらの姿態で泳いでいる。水着着用はどうしたわけか禁止なのであった。これらすべては紳士養成所のハーバードでのことなのである。
TとKが「夫婦」であるからといって、彼らのうちの一人が女性的でナヨナヨして、アソバセ言葉をつかい、女の服を着て、お料理をつくることに精出し、ミシンにばかり向かっている、といったぐあいに考えてもらっては困る。そういう連中もいることはいるが、それはゲイのなかでも特殊な種族であって、「ドラッグ」という俗語で呼んで区別していた。ニューヨークにもそういった連中をウェイトレス(?)にしたナイト・クラブが二三あり、視察御旅行の日本人重役氏のおしのび見物の場所らしいが、私はお金がなかったから出かけたことがない。私は日本で、そうした重役氏が、「アメリカ人とはなんと生活をたのしむ手段をこころえているのか。われわれも学ばなければならぬ」という奇想天外な観察を下しているのを読んだ記憶がある。重役というのは途方もないことを考え出す生物のようである。よほどいそがしすぎるのか、それともひますぎるのか、どちらかであろう。
ゲイの世界でいうと、そういう「ドラッグ」は異常者であって、TとKはその点で異常者でなくて、きわめて正常であった。
どういう点で正常かというと、TもKも立派な男性であった。もちろんゲイだから、どこかに女性的なところが潜んでいなければならぬのだが、すくなくともそれは「ドラッグ」のようなかたちでは出てこないのであった。「夫婦」といっても、どっちかが夫であり妻であったというわけではない。私は多くのゲイ「夫婦」を知ったが、たいていはT=Kタイプのものであった。しかしどちらにしても、あまり気持のよい話ではない。雲つくごとき大男が二人暮らしていて、その二人が「夫婦」である、そんなふうな、どうも私でさえ首をひねることが多いのであった。
ひとつ、こいつをトコトンまで調べてやろう、私がそう言ったら、Tはそれならゲイ・バーへ連れて行ってやろうか、という。「日本にはないだろう」おかしなナショナリズムにとりつかれていて何でも日本のことについていばることにしていた私は、「もちろんあるさ。東京には何でもある」と大見得を切ったが、なるほど、あんなふうにあじけのないバーなら、世界に冠たるバー・喫茶店・レストランの王国日本ならずとも、ヨーロッパにさえないだろう。
グリニッチ・ビリッジのに行った。半地下室のバーで、そのせまい店内に男性たちが立ったままひしめき合っているのが外から見えた。それは文字通りひしめき合っているのであって、満員の場末の映画館の立見席を心に描けばよいだろう。あんなふうにやたらと混んでいて、トイレットの臭いがしてどことなく汚くわびしいものであった。
少し人相のよくないのが扉口に立っていて、そいつがドアをひらいてくれた。この用心棒のことを、これはゲイ・バーのそれにかぎらず、どこのでも「|ほうり出し役《バウンサー》」という。彼は警官その他それに類似の客が来たら、ほうり出さんとして待機しているのであった。いつだったか、そのあとで、私があるアメリカの作家とそこへ行ったら、そいつはいつも画一主義者《コンフオーミスト》みたいにキチンとした服装をしているのが好きな男だったので、たぶん警部か何かにまちがえられたのであろう、扉口のところで「ほうり出され」たことがあった。
なかには異様な雰囲気がただよっている。異様な雰囲気といっても、東京のゲイ・バーから類推してもらっては困る。ゲイ・バーというと、ナヨナヨした女性的男性が現われてオシャクでもしてくれる、エロともグロともつかない異様に濡れた遊蕩的な気分をおもい浮かべがちだが、そんなものはここになかった。サバサバと乾ききっていて、散文的であり事務的であり、あらあらしく、そして何よりさびしいものであった。
いささか呆然としていたら、Tがこっちに来いという。カウンターでビールを買うのである。
西洋、ことにアメリカのバーは要するに酒を飲ます、それもお金と引きかえにグラスを放り出すようにして乱暴に飲ましてくれる(もちろん女性などはいない)、ただそれだけのところであるが、それでもゲイ・バーに比べると、格段と優雅であった。
先ず一ドルを払う。バーテンはビール壜の栓をぬき、それをくれる。ただそれだけのことであって、べつにコップもくれようとしないのである。どうするのかと思ってまわりを見まわしたら、みんなはビンのままでラッパ飲みしているのであった。(その姿態はいささかフロイト的であった。)そいつをラッパ飲みしながら、声高に、早口にしゃべりまくり、新しい相手を求めて、押し合いへし合いもみあいながらホールのなかを遊弋する。私がいささかあじけない気持になってビールをガブ飲みしていたら、Tが、「おいおいあんまりそう急いで飲むなよ、この一本が入場料なんだからな」と、えらく現実的な忠告をしてくれた。そう言われてあたりをもう一度見たら、みんな、なるほど一本のビール壜を後生大事にかかえている。もうビールはとっくの昔に生まあたたかくなっているにちがいない。これもまた、さっき以上にフロイト的に意味深長なことがらであった。
この第一日を皮切りに、私はニューヨーク各地に散在するゲイ・バー探訪に出かけてみた。うそかほんとか知らない、そういったゲイ・バーは一種の組合みたいなものをつくり、お金をあつめて、つまりワイロをニューヨーク市警察に出しているのであって、それで警官隊のふみ込みを受けないのだとか聞いた。お金が切れると、たちまちゲイ・バーは警官隊の急襲するところとなり、店主、お客は逮捕され、店は閉館の憂きめに会う。
ゲイ・バーはどれもこれもたいして差がなかった。ダンスができるところもあり、男性同士がチーク・ダンスを踊っていたが、それも刑務所の倉庫のかげで男囚同士が踊り合っているような感じがして、どうともあじけなく寒々としたものであった。
私は日本人だから、もちろん好奇心のマトとなった。いろんなやつが話しかけてきた。日本のゲイはどんなかね、ゲイとZENとの関係はいかん? そのうち、「暑いね、外へ出よう」外へ出るということは意気投合したしるしであって、二人のうちのどちらかのアパート(ホテルは高いし、往々にして危険である)にしけ込む寸法になっている。この「外へ出よう」以後のところは、私はいつもいいかげんに受け流したから、くわしくは知らない。
つまり、ゲイ・バーは一種の社交場なのであろう。いや、社交場というには余りに汚くてみすぼらしいから、集会場と言いなおそう。新しい相手を見つけるためという実際的な理由のほかに、彼らはなんとなくここへ集まってくる、集まって来ざるをえないのであった。おそらく彼らは慢性的に情緒不安定の状態にあるのだろう。こうやって集団をかたちづくり、そのなかへ逃亡することで、ようやく安心感をもつのであった。
グリニッチ・ビリッジのゲイ・バーで、私はひとりの黒人と友人になった。彼はふしぎな男で、黒人のくせにジャズなど大きらいだった。暗いバーの片隅のとりわけ暗いところに陣どって、何をしているのかと言えば、ジューク・ボックスに五セント銀貨を放り込みつづけているのだった。といっても、彼はジャズなど鳴らしていたのではない。日本のジューク・ボックスにそんなのがあるかどうか知らないが、アメリカの気のきいたのでは、お金を放り込むと、かっきり三分間、沈黙のレコードがまわるようになっていた。彼はそれをしているのであった。五セントを放り込み放り込みして、たえまない沈黙を形成している。「アホらしい、帰って寝てたらいいじゃないか」私がそう乱暴なことを言ったら、「ここへ来てみんなといっしょになっていないと不安で眠られないんだ」彼はジャングルからそのまま抜け出して来たような巨大な男だったが、二十世紀のアフリカの酋長氏は、そんなふうに気弱なことを打ち明けるのであった。
アメリカの匂い
――さびしい逃亡者「ビート」――
ゲイのことを書いて、ビート・ジェネレイションに触れなければ片手落ちというものであろう。一人、ビートの女詩人に友人がいた。
ある日曜日の午後、「ひとつ、今日は公園へ行って静かに午後を過ごそう」と彼女が言った。彼女によれば、公園は、全ニューヨークにただ一つしかない。グリニッチ・ビリッジの中心にあるワシントン・スクェア・パーク。日曜日の午後、どうしたわけか、要するに他に適当な気晴らしがないのであろう、水の涸れた中央の噴水にビートの若者たちが入り込んで、てんでにギターを鳴らし、踊り狂う。
女詩人の希望は「静かに午後を過ごす」ことにあった。だから、私はその喧騒を避けて、周囲の木立ちの下のベンチに彼女を導いた。が、彼女はオカンムリであった。私は日本人とちがうから、こんなところは不安でいられないのだという。やむなく、私は彼女を連れて噴水に立ちもどり、その喧騒のなかで、たしかに「静かに」午後を過ごした。彼女は幸福そうであった。「なんだ、こんなホッテントットの首狩り踊りみたいなもの」私はそんな毒舌を吐いたが、彼女はいつになくニヤニヤするばかりであった。
噴水のビートのなかにも多くのゲイがいた。ゲイ・バーでお目にかかったのもいて、彼らは私を見ると、ヨウともオウともつかない不可思議な喚声をあげた。
ゲイとビートのあいだには、切っても切れない深い関係がある。どういう点でそうかというと、両者ともにアメリカ現代社会の産物である点でである。
実は、さっきからゲイのことを長々と書きながら、一つ気づいたことがあった。それは、ゲイとは性錯倒であり、それゆえに性の問題にほかならないのに、少しも自分が性について語っているように思えないことである。もっと言えば、そいつは何やらいやらしくグロテスクな話題であるはずだのに、少しもそんな気がしない。もっと日常的で事務的で散文的で乾いていて味けなくてあらあらしくて、そして何より寂しげなもの――いや、もっとはっきり言うと、ゲイのことを述べながら、私は、アメリカの社会、その社会が発する一つの「匂い」について語っていた、語りかけていたのではないか。
アメリカには、どこへ行ってもスーパー・マーケットがある。このごろ日本でも幸か不幸かはやり出したから今さら説明する必要もないだろうが、カウンターに並べてある商品から自分の買いたいものを勝手に選び出して、そいつをウバ車みたいなものにいっぱい積み上げて入口へ行く。そこに計算係がいるから計算してもらって金を払う。週末になると、アメリカ人たちは自動車でスーパー・マーケットに一週間分の食料を買い込みに来るから、土曜の夕方などたいへんな混雑であった。
アメリカのスーパー・マーケットのうちで、どこへ行ってもあるのが「A&P」という会社ので、この店はまったくアメリカ的に徹底していて、商品の配列が全国どこへ行っても同じなのであった。たとえば、ボストンの「A&P」でスープのカンヅメが入口から三つ目の棚の中段にあれば、サンフランシスコ近郊の田舎町の「A&P」でも同じなのである。だから「A&P」にいれば、東部と西部の区別は存在しない、あるいはまた、山の手とスラム街の差異もないということになる。
もちろん、この現象は「A&P」にかぎったことではない。売っている食料品というのが、すべてカンヅメであり、小ギレイに包装された冷凍品であるとすれば、どこのスーパー・マーケットへ行ったって、そうたいして差があるはずがない。それで、スーパー・マーケットというものの扉を開くと、どこででも、「A&P」であろうとなかろうと、ニューヨークであろうとシカゴであろうと、オマハの何トカ町であろうと、同じ匂いが鼻をついた。いや、鼻をついたと言っては言いすぎであろう。そんな強い匂いではない。生まものというのはないのが原則だから(野菜も小ギレイな包装のなかにおさまっている)、サンマを焼くようなドギツイ匂いがプンと鼻にくるというようなことはないのである。きわめて衛生的な匂いであった。無害無益な匂いとはこういうものをいうのであろう。サンマを焼く匂いは、人によっては食欲をそそりたて、あるいは逆に吐き気でももよおさせるかもしれない。スーパー・マーケットの匂いにはそんなところはないのであった。吐き気ももよおさせない代りに、食欲のほうもトンと起ってこない。日本でいうなら、クスリ屋の匂いであろう。そして、もちろんこの匂いは、東部へ行っても西部へ行っても、山の手であろうとスラム街であろうと、まったく同じなのであった。
いや、ことはアメリカの土地の上だけではない。アメリカからの帰途、私はイランのテヘランに立ち寄った。アメリカで友人だった詩人がテヘラン大学で英語を教えていたから、私は彼のもとにころがり込んだのである。ある日、私は彼にくっついて、アメリカ大使館付属のP・Xみたいなところに見物に行った。そこの扉をひらいたとき、あのなつかしい匂い、衛生的で無害無益な匂いが匂ってきた。「アメリカの匂いだ」私がそう言ったら、詩人は大きくうなずいた。実際、私はそのとき自分が中近東の一角にいるのを忘れて、アメリカ中西部のどこかの田舎町にいるような錯覚を感じた。店内にはカンヅメがあり、冷凍食品があり、アメリカ・タバコがあり、インテリなら誰でも読む「タイム」があり、どこの家にでもころがっている「ライフ」があり、もう一つ、「日本ブーム」の今日、アメリカのスーパー・マーケットではよく小型の瓶詰のあまりうまくない「サケ」(彼らは「サキ」と発音する)を売っているが、それまでそこにあり、つまりアメリカ式規格型生活のすべてがあり、それ以外は何もなかった。
この「アメリカの匂い」というものを高級なコトバに翻訳して言えば、それは、このごろアメリカの社会を論じる際に必ず問題とされる「画一主義《コンフオーミズム》」になるであろう。誰もが同じものを食べ、同じ服を着、同じ住居に住み、同じふうに考え、同じふうに語り、同じふうに行動する。これはたしかに、今日のアメリカの社会が直面している最大の問題の一つであろう。
「アメリカの匂い」をスーパー・マーケットから追放しようとしたら、なかの商品を全面的に入れかえなければならない。カンヅメを捨て、冷凍食品を捨て、代りに生まのトマトを入れ、まだピクピク動いている魚をカウンターの上におかなければならないだろう。それが不可能だとしたら、いや、たしかに、それは社会のしくみがそうしあがっている以上、というよりはわれわれの二十世紀の文明のしくみがそうでき上がっている以上は、不可能であろう。だとしたら、とりうる態度は二つしかない。その匂いに自分を合わせる《コンフオーム》か、つまり「画一主義」のまえに屈服するか、それとも、その匂いから逃げ出すか。――
結局のところ、ビートもゲイとともに「アメリカの匂い」からの逃亡者であるのだろう。彼らは「画一主義《コンフオーミズム》」を、それに満ち満ちたアメリカの社会を嫌い、憎み、嗤う。が、それでいて、もちろん彼らには、その主義を打ち破るだけの、彼らの社会を根本的に変革させるだけの力はないのだ。それどころか、彼らの「画一主義」に対する反応、反動ほど、画一的なものを私は知らない。誰もが同じようにヒステリックに笑い、首狩り踊りを踊る。どちらを向いてもお目にかかるアゴヒゲ、スエーター、スラックス。どこからでも聞えてくる同じような旋律のジャズ、ボンゴの音。狂っているとすれば、誰もが同じしかたで、しかも同じ程度に(たぶん社会にとって真に有害な程度にではなく、社会を打ちこわし、叩きのめして別のかたちのものになす程度にではなく)狂っている。彼らは集団をつくる。ひとりでいるかぎりは、彼らはひとたまりもなく、アメリカの社会の重圧に圧しつぶされてしまうのであろう。あいよるメダカのごとく、彼らは無意識的に集まり、集団のなかで、辛うじて自己の存在を確認する。たぶん、ビートとは一種の小児退行現象なのであろう。「大恐慌」の記憶はすでに遠く、今日のアメリカの社会は、安泰であり、何より豊かであり、それは永遠に続くかのように見える。「|豊饒なる社会《アフユリエント・ソサイエテイ》」(ベスト・セラーの題名だった)のなかに溺れながら、それにむなしい反逆の叫びをあげる坊やたち――ビートとは、たぶん、そうしたものであろう。いや、もっとシンラツにも言える。社会という大人のまえで泣いてみせる、怒ってみせる、自称坊や、若ものの甘えきったトッチャン小僧たち。
ビートとゲイの関係はたぶんに象徴的である。ゲイが子供を生むことがないように、ビートは、今日、おそらくアメリカの社会に対して、害悪であれ善であれ、何ものも積極的なものをもたらしてはいないのである。そうすることは、いわば「アメリカの匂い」の背後にあるものを見通すだけの力を持ってはじめて可能なことなのであろう。その力――社会的視野というものを、ビートは徹底して欠いている。いや、これはビートのみの問題ではないであろう。今日のアメリカの知識人にもっとも欠けているもの、それはそれにほかならないのである。
しかし、そうはいっても、私はビートを他人事として突き放せない気がする。ビートが小児退行現象であるというとき、私はじつは、ビートをそうしたところにまで追いやったものの恐るべき大きさについて語っているのにほかならないのだ。それは一口にいって、アメリカ的なもの――「アメリカの匂い」にほかならないのだろう。しかし、これは決して他人事ではない。スーパー・マーケット一つをとってみても、われわれのトウキョウもまた、すでに幾つか、幾十かのそれを持ちはじめているのではないか。
アメリカで私が感じたのは、これからあとでくり返し述べることだが、決して西洋文化の圧力ではなかった。私が感じたのは、すくなくとも重圧として身に受けとめたのは、それは、文明、われわれの二十世紀文明というものの重みだった。二十世紀文明が行きついた、あるいはもっと率直に言って、袋小路にまで行きついて出口を探している一つの極限のかたち、私は、アメリカでそれを何よりも感じた。
たぶん、それが私のいう「アメリカの匂い」の本質なのであろう。そして、残念なことに、まだ出口は見つかっていないのだ。いや、もっと残念なことに、その出口は永遠に見いだし得ないかのように見える。アメリカで現代の絵を観、音楽を聴き、バレエを観るたびに、私は、アメリカの芸術というものは、多かれ少なかれビート的なところがあるな、と思った。出口なし、という感じだった。何かを求めて必死になっている。それは胸に響いてきたが、出口はないのだ。努力はしたがって内へ内へと入り込んで行く。トリビアリズム――それも途方もなく大きなトリビアリズムが、そこにくる。それは完成は完成ではあろう。しかし、一歩視点をかえてみれば、それはまた、なんとむなしい完成であることか。
巨大な盆栽だという感じがした。日本の伝統芸術が小さなトリビアリズムに裏うちされたものであるとするなら、アメリカの現代芸術は巨大なトリビアリズムの産物であった。しかし、両者はふしぎに一致する。どちらも、自然にのび上がろうとする力を、ねじ曲げ、ひんまげ、無理やりに奇怪なかたちをこしらえあげている点で、つまり、盆栽であるという点で。
が、このアメリカの巨大な盆栽は、日本のちっぽけなそれとはちがって、なまなましく傷ましい。針金によってねじ曲げられたあたり、血潮が噴いている。そこからうめき声が、じかに、われわれの胸に響いてくる。われわれ――日本人とかヨーロッパ人とかいうわれわれではなくて、この二十世紀のばかでかく非人間的な文明のなかに生きているわれわれ。私は、旅行中、多くの国のさまざまな芸術にさまざまなやり方で触れたが、すくなくとも、ことが絵画、音楽、舞踊に関するかぎり(その三つが、現代アメリカの芸術のなかでいちばんすぐれていることはたしかだと思う)、私をもっとも感動させた、いや、感動させたといってはならないであろう、身を切りきざむような感覚でもって私を歯ぎしりさせるまでに、たぶんうんざりさせるかたちで迫ってきたのは、アメリカの芸術であった。もうたくさんだ、いいかげんにしてくれ、とどなり出したくなりながら、それでいて、顔をそむけることはできない。ギリギリのせっぱつまったもの、追いつめられたもののやぶれかぶれの迫力といったものが、これでもか、これでもか、と言わんばかりに、われわれに襲いかかってくる。
したがって、そこにあるものは、たとえそれが外観はどんなに強烈でばかでかいものに見えようとも、それはたとえばピラミッドのように堅固なものでも、ピカソの「ゲルニカ」のように力に満ちたものでもない。どこかにポカッと大きな穴があいている。大きな空洞をもった巨大な肺病患者だという気がする。そして、その空洞の底に、二十世紀の文明というものが覗いている。そんなふうに考えれば、この空洞は、他人事ではないのだろう。われわれもまた、体内に空洞を持っている、あるいは、空洞がいつのまにか形成されはじめている。
私はべつに政治的なことを語っているのではない。「二十世紀のわれわれの文明」というコトバをつかうとき、私は社会主義諸国をもそこにふくめて言っているのだ。社会主義諸国も、このオートメーションと画一化の機械文明の指し示す方向に従うかぎり、おそかれ早かれ、空洞に、出口なしに、ビートに、つまりは「アメリカの匂い」というものに正面きって対さなければならなくなるのだろう。いや、これは、もちろん社会主義諸国だけの問題ではない。他の西欧諸国の、われわれの日本の、そして、いつの日かはアラブ連合の、インドの、アフリカの新興独立諸国のことになるのであろう。ビートが他人事でないというとき、それはそんな意味で、私は言っているのである。(すでにその一つのあらわれが、イギリスの「|怒れる若者たち《アングリー・ヤングメン》」であると見ることができる。しかし、彼らの場合、問題の根はイギリスの社会組織自体にあり、ビートのように、「アメリカの匂い」を通じて、われわれの文明にこれほどの直接のかかわりあいを持っているものではない。日本のいわゆる「怒れる若者たち」の場合は、私には彼らがいったい何に対して怒っているのか、いまだにピンとこないのだが、それはどうだろうか。)
面白いことに、私の友人のビートたちは、大半が田舎の小都会出か(ビートの開祖ジャック・ケルーアックが育ったのも、たしかニュー・イングランドの田舎町であった)、Tの母親が住むスケアスディルのような大都会近郊の郊外地《サバービア》であった。これは偶然でなくて、大いに必然なことなのである。
つまり、たとえばニューヨークでなら、スーパー・マーケットがいやなら、TとKが住んでいたあたりのスラム街へ行けば、そこには昔ながらの手押し車の八百屋がやって来る。あんなパラフィン紙に包んだパンがいやというなら、イタリア人街へ行ってできたてのパンを買うこともできる。ハリウッド映画がいやなら、それこそあの知的で芸術的で高級な「ラシャモン」(「羅生門」のことである)とやらを見ることだって可能である。一口にいうと、ニューヨークやシカゴのような大都会でなら、「アメリカの匂い」をそれほどまでに感じなくてすむ。
ところが田舎町や郊外地《サバービア》ではどうか。
私はTの母親に招かれてよくスケアスディルへ行った。行けば彼女は必ず誰かをお客に招いて晩メシをいっしょに食べるのであるが、そのためには、私と彼女はスーパー・マーケットへ買物に出かける必要があった。われわれが買物を終えて、五七年型だかのピカピカの車でもどって来ると、彼女の家ぜんたいが「アメリカの匂い」を放ちはじめる。そのうち客が来る。客もまたビートの嫌う「画一主義者《コンフオーミスト》」であって(ビリッジのビートは何かといえばスケアスディルの紳士方、ご婦人方のことを嗤うのであった)、話題も話の内容もおおむね「タイム」「ライフ」の記事の域を出ず、したがって私が次には彼らはこういうことを言いそうだと思っていることを言ってくれるものだから、ずいぶん英語の表現力の勉強となった。
そのうち、映画へ行こうか、ということになる。ピカピカの自動車をつらねて、例の自動車のなかから見られるドライブ・イン劇場というのに行く。もちろん、そこで上映されている映画はハリウッド映画であって、「ラシャモン」ではない。
スケアスディルならニューヨークまで一時間だから、たいして問題はない。退屈したらニューヨークヘ出かけ、チャイナ・タウンでも、それこそグリニッチ・ビリッジでも歩いてくればよろしい。しかし、中西部の田舎の小都会なら、そうもゆかない。問題はさらに深刻となる。
アメリカに一年暮らしたのち、私は中西部、南部の旅行に出かけたことがあった。例の「何でも見てやろう」という主義にしたがって、ちょっと名の知れたところなら、どんな田舎町でもすべて寄ってやろうという計画をたて、それをこくめいに実行した。
あとでふり返ってみると、それは途方もなく退屈な計画であった。計画の半ばまですませないうちに、私は次に訪れるべき小都会のさまをはっきりと心に描くことができたのである。
私はバス旅行をしていたから、先ず眼に入るのはバスの駅である。これはどこへ行っても差異はない。待合室の中央に大きな一時預け用の鋼鉄製ロッカー、その右手か左手かにキャフェテリア。食事をしておこうとちょっと入ってみる。カンヅメから出てきたスパゲッティ、あるいは冷凍カンカチコが化けたこうしのカツレツ。同じ味であり、同じ値段である。ゲップまで同じのをしながら出る。左手を見ると必ず坂になってのぼりである。そこに、どうやら街の中心があるらしい。ゆるゆるとのぼって四つ目か五つ目の辻、そこが坂の頂点で目抜き通りが交叉している。バスかトロリーバスが走っている。右を見る、そこに必ずウールワーズの一〇セントストア。左を見る、店じまい大売出しのドラッグ・ストア。ウンザリしてそのまま目抜き通りを横切って坂を反対側にくだる。くだったところが必ず公園か河。アホらしくなってうしろを見る。そこに「A&P」、アメリカの匂い――
これではビートのみならず、行きずりの旅人である私だって逃げ出したくなる。こうした田舎あるいは郊外地《サバービア》からの逃亡者にとって、国際都市ニューヨーク、シカゴ、あるいはサンフランシスコは、つまりそれらの諸都市が、たとえほのかであれ放つ「非アメリカの匂い」は、たまらない魅力となる。
たとえば喫茶店である。喫茶店などというものは西洋の産物であり、したがって西洋ならどこへ行ってもあると思ったら大チガイで、早い話、アメリカにはほとんど皆無といっていいほどない。コーヒーを飲みたければ諸君はドラッグ・ストアへ行く、行くよりほかはない。一〇セントをガチャリと払う。それとひきかえに、コーヒーの入ったコップをガチャリとおいてくれる。飲む。飲み終るとサッサと出る。出るしくみに社会がなりたっている。
私は今確信をもって言えるが、こんなにも喫茶店に満ち満ちて、その一つ一つがかくもすばらしいものである国は、全世界で日本をおいてない。安くて、いつまでいても追い出されず、ウェスタンからタンゴはおろかベートーベン、ストラビンスキーにいたるまで万事O・K、その上便利で典雅で洒落れている日本の喫茶店は、一度日本にいたことのあるアメリカ人が私に言ったことだが、まったくこの世の天国であろう。
日本の天国ほどでないにしても、まだ原始的段階にその発達がとどまっているにしても、たとえばパリ市には同じたぐいのものがある。さらに程度は落ちるが、他のヨーロッパ諸国にも何かしらそれに似たものがある。中近東諸国にだって、たとえばイランへ行くと、テヘラン市には、小さなグラスに入った|アラビア紅茶《チヤイ》を供する喫茶店《テイ・ハウス》があり、そこではひとびとは何かしら談論風発し、そのうち中世の吟遊詩人さながらのストーリー・テラーが現われ、フェルドーシの詩などを身ぶりよろしく語ってくれるのである。インドの喫茶店《テイ・ハウス》にも、ビワ(だと思う)を弾じながらタゴールの詩を吟ずるタゴール語りがいた。
つまり、こういった一切のものが、アメリカにはほとんどないのである。ニューヨーク、シカゴ、サンフランシスコのような国際的大都会になってはじめて、日本のあの上品で典雅で芸術的でその上便利なのに比べると、お話にもなんにもならない、殺風景で非上品で非芸術的で、ただむやみやたらとやかましいだけのものが、チョロチョロとある。(アメリカ一の大都会ニューヨークでやっと五六軒。ほぼ同人口のトウキョウのそれの数と比較したまえ。)しかし、この五六軒だけでも、いかにたいしたものであり、またこれがどんなに非アメリカ的なものであるかは、たとえばハーバード大学の学生新聞を見ると判る。いつだったか、もちろんちょっと茶化したものであったが、喫茶店とはいかなるものであり、人はなぜ喫茶店などというものに出かけて時間をつぶすかについて長々しい論文がかかげてあった。日本でなら、こんなものはユーモアのタネにもなんにもならないだろう。
シカゴで知り合った女の子が、とても面白いところへ連れて行ってやるというのでノコノコついて行ったら、それはなんと、なんのへんてつもない喫茶店であった。先日開店したばかりで、実は彼女も初めてなのだとか言った。
この話にはまだあとがある。翌日、シカゴのビート詩人に会った。この男もまた面白いところへ連れて行ってやるという。ついて行ったら、それは昨日女の子と来た喫茶店であった。きけば、シカゴにはぜんぶで一軒か二軒しか喫茶店がないのである。
喫茶店のことを、アメリカ語では「フレンチ・コッヒー・ハウス」と呼ぶ。フレンチ――つまりは、アメリカのものでないという心づもりであろう。「アメリカの匂い」から逃れるために、ビートはその小「非アメリカ」に出かける。下手クソな詩の朗読でもききながらコーヒーを飲み、群れつどう同種の人々のあいだに、友人を、というよりはもう一人の自分を見いだして孤独感から逃れ出る。ビリッジのある「フレンチ・コッヒー・ハウス」で、一人のビート娘が、こうやってみんなのなかで詩を聞いているときほど心にやすらぎを覚えるときはない、としみじみ語ったことがあった。
この彼女のコトバは、前に書いたゲイ・バーの黒人のコトバと本質的に同じことを言っているのであろう。マックス・ファクターの口紅の匂いをプンプンさせた女性と結婚し、スケアスディルかどこかに住み、子供をもち、テレビに熱中し、P・T・Aの会合に出、エプロンをかけて皿をふき、芝生の手入れをし、そのうちロータリー・クラブの会員になって、アメリカ人の好きなコトバをつかえば、「共同体《コミユニテイ》」に奉仕する――そういったことは、ゲイたちに言わせれば、まぎれもなく「アメリカの匂い」のまっただなかに、もはやどうしようもなく踏み込んでしまったことになるのであろう。もちろん、ゲイになる連中にはもともとゲイ的素質がある。私もそれを否定しない。しかし、すくなくとももし彼らの社会の「アメリカの匂い」があんなにまで強いものでなかったなら、彼らのうちの幾割かは、いや、多くがゲイにならなかったかもしれない。私は、TとKといっしょに暮らしながら、いつもそんなふうに思ったのである。
ヒバチからZENまで
――アメリカの「日本ブーム」――
さっき喫茶店のことをアメリカ語で「フレンチ・コッヒー・ハウス」と呼ぶと書いたが、あれは「ジャパニーズ・コッヒー・ハウス」と言ったほうがいいじゃないかと、あるとき、いつか日本の喫茶店のことをこの世の天国だと言ったアメリカ人に提案したら、即座に賛成してくれた。それから彼は笑ってつけ加えた。「はやりますよ。とにかく日本は今モテていますからね」
「画一主義《コンフオーミズム》」から脱け出す、あるいはそのポーズをする近路は、他国の事物、そのもろもろにとびつくことである。それもフランスなどというケチくさいことは言うまい。中国もいいが、あそこは政治が気にくわぬ。とすると、日本だ。日本もまたえらく古い国だし、よくわけはわからないながら、すばらしい文化がありそうだし、日本へ兵隊で行っていたうちのオジ貴の話では、風景美しく人情こまやか、おまけに女性はすばらしいとのことだし、それにあのZENというやつも人があれほど言うのだから、ひとつ研究してみてもよいではないか、とにかくあそこには何かがあるかもしれない、とまあそんなふうな過程で、「日本ブーム」は起ってきたのだろう。
日本でなら、ちょっとインテリぶる人は、英語あるいはアメリカ語を入れる。もっとインテリぶりたい人はフランス語を入れて、「サヨナラ」と言えばよいところを「オー・ルボワ」と言ってみたりする。アメリカでなら、ちょっと通ぶって「オー・ルボワ」、大通、大インテリとなると、それが「サヨナラ」になる。そのほうがあの高級な日本映画のファンのようだし、ZENブッディズムにも通暁しているようにも見える。ある大インテリが、「スムレー、スムレーが……」と言うから何かと思ったら「サムライ」のことであった。
こういうわけで、ちょっと気がきいた、あるいは気がききたい連中は、何かしら「日本もの」をもっている。もっとも、めんくらうことも往々にしてある。あるすてきにきれいな女の子のアパートに入って行ったら、眼の前にぶらさがっていたのは「大売出し」の赤い旗であった。それが、さかさになっている。えらく意味深長なのであわてて訊ねてみたら、彼女はそれを日本共産党の旗だと思っているのであった。彼女の茶目なアメリカ人のボーイ・フレンドが東京から持って帰ってきたものらしい。そのボーイ・フレンドが彼女をいっぱいひっかけたのか、それとも彼もまたそう信じていたのか、知る由もない。
あるえらい人の客間には、葬式用のチョーチンが二つれいれいしくかざってあった。彼が非常にその二つを好み、また自慢しているらしいので、とうとう私にはその真の用途を明かす勇気は出なかった。
しかし、笑うまい。われわれの「西洋」理解だって、いろんなトンチンカンをやってここまで来たのではないか。まだ「日本ブーム」は先日始まったばかりなのだ。
この「日本もの」に対する情熱は、そういつまでも「大売出し」の旗や葬式用のチョーチンにかぎられていないので、たとえば日本製カメラ、トランジスター・ラジオなどが流行の対象となりつつある。たとえば、友人のKの理想は日本製カメラ所持にあったし、前記のビートの女詩人の夢は「すてきに小さい」トランジスター・ラジオにあった。
ほかの友人の一人に、日本製機械のマニアがいた。この人はテープレコーダーから電蓄から冷蔵庫にいたるまで日本製を所持していた。彼の口ぐせは、アメリカ製は質がわるくてダメです、この間も洗濯機を母の家で買ったが三日で動かなくなった、日本製ならこんなことは絶対にありません、と彼は私に大いにうけあってくれた。誰かにきかせたい話であろう。
仰々しいセントラル・ヒーティングより「ヒバシ」(「ヒバチ」のことであった)というまことにポエティックな簡易暖房装置に憧れているビート氏がいた。ある日、彼はとうとうその憧れの品をグリニッチ・ビリッジの「日本もの」屋(こんなのが二三軒あった)から手に入れてきた。私は使用法を教えた。二三日たって会ったら、どうも元気がない。彼は一酸化炭素中毒にやられかけたのである。密閉完全の西洋のアパートには、やはりポエティックな簡易暖房装置は向いていないらしい。
そんなことがあってしばらくしたら、べつの友人が、みんなでピクニックに行って、野外で「テリヤキ」を食べようじゃないか、と誘いに来た。「テリヤキ」は目下刻々と有名になりつつある日本料理で、料理法が簡単なせいか、グリニッチ・ビリッジのあるレストランでは、マルセーユ風ブイヤベースとかナポリ製何とかスパゲッティと並んで、「TERIYAKI」というのが大きくメニューに出ている。
自動車で一同そろって郊外へ出て、その野外「テリヤキ」とやらを楽しんでいたら、その友人が、こういう野外「テリヤキ」のことを日本で何という、知らないだろう、教えてやろうか、という。彼が、最近新聞から得た新知識だといって得々として披露してくれたのは、なんと「バーベキュー」であった。
こんな例は枚挙にいとまがない。これは誤解のないように、へんな想像などしないでサラッときいていただきたいが、あるところで、きみのネグリジェはすばらしいね、と言ったら、何言ッテイルノヨ、コレKIMONOヨ、と言って怒られた。
そして映画である。
長々しく書く代りに、ある大学の学生新聞にのったユーモア小説の面白いところをちょっと紹介しておこう。
田舎出のいささかボンクラの大学生が、二年生《ソフオモア》(「ソフォモア」――語源的にいうと、それはギリシア語で「リコウ・バカ」ということである。アメリカでも大学二年生というのは、生意気でまぬけているということに相場がなっている)になるとともに、おれも今までのようにボクシングやボンゴなどにこっていてはいかぬ、もっと知的で高級になろうと決意する。そう決意した主人公が先ず何をしたか――さっそく日本映画を観に出かけたのである。
最後には、言わずとしれたZENブッディズムがくる。ニューヨーク・タイムズ日曜娯楽版によれば、カクテル・パーティでの成功の秘訣は、ZENについて適当に論じることであった。なるほど、これほど人をケムリにまくのに好適な話題もないであろう。インテリと話していて、「Are you a Zen Buddhist?」と訊かれなかったことがない。私の答えはいつもイエスであった。幸か不幸か、私の家は禅宗だったのである。
ニューヨークに雅楽が来たことがあった。シティ・ホールで、ニューヨーク・シティ・バレエと共演したのである。いや共演でない、競演と書くべきであった。プログラムの前半はGAGAKUで、後半はバレエ、両者のあいだには何の関連もなかった。誰が考え出したのか知らないが、私は最も近代的なものと最も古代的なものの、これほどみごとなとり合わせを見たことがない。――
私の友人の作曲家たちは雅楽を愛していた。判らないとは言った。(ニューヨーク・タイムズはじめ各紙の批評は完全にお手あげの感があった。みんな音楽と踊りそのものの批評の代りに、東洋哲学について一席ぶったりしてお茶をにごしていた。)しかし、と彼らはつづけた。この「しかし」のあとは千差万別であるが、彼らがそこから何かを得ようとしていることはたしかだった。
「日本ブーム」には、さっきも述べたように、いろいろトンチンカンなこと、また皮相浅薄なところも多々ある。たんなるワイワイガヤガヤさ、と言って片づけてしまうこともむしろ容易である。
しかしである、さっきもちょっと言いかけたように、われわれの西洋理解も、すくなくとも出発点においてはこんな程度のものであったのかもしれない。問題は、そのワイワイガヤガヤのなかに、そう騒ぎたたせている本元のもの、明治時代の日本でいえば「西洋」、今日のアメリカでいうなら、日本をふくめて東方の文化、そういったものを必要としている条件、あるいはそいつを内部にとり入れようとする集団意志のようなもの、そういったものがあるかどうか、そこにあるのだろう。百年前の日本には、その条件があり意志があった。そして今、アメリカの社会にも、その二つが確固として存在しているように見える。
一口にいって、アメリカは東方に冷淡であり得ないのである。政治的にはもちろん、文化的にもそれはそうなのである。今日のアメリカの社会、文化を見ていると、つくづく、この社会、文化は何かを求めて必死になっているという気がしてくる。その努力の一つが「日本ブーム」となり、ヒバチとなりZENとなり、あるいは雅楽への関心となるのだろう。
私は何度も雅楽をきいたが、ある日曜日、面白い対比を一つ見た。
前にも述べたように、プログラムは雅楽が先であった。舞台の上にもう一つ古式ゆたかな舞台がしつらえてあって、楽人はその上で静かに楽を奏し、踊りを踊る。そいつが一時間ほどですむと、シティ・バレエの強烈にモダンな狂乱がはじまる。想像していた以上にその対比はみものであった。雅楽が古くさくて見られなかったというのではない。驚くべきことに、ちょっと信じられないことだが、ある場合には、雅楽のほうがはるかにモダンに見えた。シティ・バレエの様式化《スタイライゼイシヨン》は、雅楽に遠く及ばないかのようであった。友人の作曲家たちも同じ意見だった。
しかし、今ここで私が述べたいのは、そんなふうな雅楽とバレエの直接の対比ではない。聴衆の反応について書きたいのである。
日曜日には、バレエ愛好家でない、つまり通でないしろうとの会社づとめの女の子などが大挙してシティ・ホールに現われる。私の右どなりにも、それらしいのが二人坐った。左どなりには、典型的ビート。あごひげ、インテリ的表情、イライラしてくたびれている。
雅楽の静かな旋律が流れはじめると、ビート氏は体をのり出すようにして、熱情をこめて聴きだした。彼がどれほど感動しているのかは、私にも判った。彼のその姿態は、日本の厳粛なるジャズ・ファンのそれを思い出させた。
それとみごとに対照をなすのが、右どなりの女の子二人だった。何があんなものが面白いか、といった表情であらぬ方を見ている。一人が言った。「判る?」他の一人がクスリと笑った。(アンナノ判リッコナイワネ、アナタガモシ人間ナラ。)左どなりのビート氏がシーッと彼女の笑いを制した。
前半のプログラム、雅楽がすんだ。ビート氏は狂気したようにやけに手を叩いた。「ブラボー!」彼は叫んだ。何度もアンコールを求めた。
女の子のほうは? 彼女らは拍手一つしないのであった。しきりにチョコレートをかじり、誰サンガネ、というような同僚のつまらぬ噂話らしいのをすでに始めている。
アンコールが終り場内が明るくなると、ビート氏は立ち上がり、扉口のほうへ大股に歩き去って行った。彼は後半のバレエのプログラムをすべて捨て去ったのである。
後半は女の子二人の独壇場であった。彼女たちは、何かといえばキャッキャッと叫びながら、狂的に拍手をなした。
ハーバードの左まき「日本人」
――アメリカ人ばなれのした人たち――
それでは、「日本ブーム」の総本家みたいな、アメリカの日本研究者のことに話を移そう。
ハーバード大学には多くの日本人がいた。学生だけでも五〇人もいたのだから、その他、研究員とか、図書館の東洋関係の係員だとかを入れるとたいした数になる。そのなかに一群の「日本人」がいた。私が今カッコつきで書いたように、彼らはハーバードで日本のことを勉強しているアメリカ人たちで、口を開けば「日本へ帰りたい」という人たちであった。総勢、先生を入れて五人か六人。これは、日本の私の大学でギリシア語を学ぶ人たちとほぼ同数であった。事実、この両者のあいだには共通な特性があるようである。たとえば、物好き、現実遊離、就職がきわめて困難、ディレッタンティズム。私は彼らになみなみならぬ同情を抱いた。そのうちの一人が流暢な日本語で言った。「どうしてだか知らないけど、日本語を勉強している人には左ギッチョが多いんです。きっとアタマのほうも左マキなんでしょう」
先ずその左ギッチョもしくは左マキ氏の筆頭に、助教授のヒベット先生をあげよう。彼はよほど左に縁がある人だと見えて、なかなかの左党で、また「アメリカ人ばなれのした」(これは「日本人ばなれのした」と同じくホメことばである)粋人であった。酔えば小唄をうたい、いささか下がかった話も、うまい日本語で洒落を入れながらおやりになる。
私はよく先生のところにころがりこんで泊めてもらった。先生のところには落語のテープがあったから、私は寝ころがって落語ばかりきいていた。
そのうち、私は先生の翻訳の手つだいをすることになった。先生はある出版社に頼まれて、谷崎潤一郎氏の『鍵』を訳していたのだった。そんなもの訳してクビになりませんかね、と訊いたら、自分の職は永久保証だからやることにしたのだ、とのことであった。
これはたいへんな難物であった。翻訳者の先生にとってはむろんのこと、私にとってもである。先生は二、三〇ページすませるごとに疑問の個所をお訊きになるのだが、それがたいていは微妙なシーンであった。そいつが日本語独特の微妙な表現方法と微妙にからみあってくる。
こんなのがあった。あるところで、女主人公がネマキを脱いでハダカになったことになる。それからしばらくすると、彼女は何もかも脱いでハダカになって、というような表現が出てくる。これは、われわれにはなんとなく判ってしまう表現で、日常、われわれ自身がこれと類似の表現を、それと気づかないでつかっていることであろう。しかし、ヒベット先生はやはり「西洋人」だけあって、合理的であった。「これ少しヘンじゃないですか? さっきネマキ脱いでハダカになったんでしょ、それがまた何もかも、と書いてありますね。日本の女のひとは、ネマキの下に何を着ているんですか?」いったい何を着ているんですか? 私もよく知らないのである。
ヒベット先生の本業は西鶴研究であった。私はイギリスで出版された先生の著書を読んだことがあるが、たいへん立派なものであった。
さてその次は、ヒベット先生の愛弟子たちのことについて少しばかり述べよう。
何ごともレイディ・ファーストの国ゆえ、女性からゆくとして、先ずF夫人がいた。ある会合の席で、彼女にはまったく驚いたことがある。途中で中座して彼女は帰って行ったのだが、そのとき「主人が待っておりますから、これで失礼させていただきます」という立派なセリフを残して行ったのである。これには参った。その二三日まえ、何かといえば英語をつかい挙動まったくアメリカ人化した日本女性と出会った矢先だったのである。
F夫人は、一度、スキヤキ・パーティを自宅でもよおしたことがある。東京で買って来たという白いカッポー着をきて、夫人はかいがいしく立ち働いた。スキヤキは何でするかといえば、これも東京で買って来た七輪があった。炭火をおこすのにバタバタとウチワ(きわめて上等のであった)をつかっているのを見て、ヒベット先生もつくづく感嘆して、「Fさん、ほんとに日本の奥さんですね」と言ったが、私もまったく同感で、こういう日本的な日本の奥さんに会うためには、これからアメリカに来なければならなくなるかもしれないぞ、と妙なことを考えた。ただ惜しむらくは、テーブルの上に七輪をのせて炭火をおこしたのが玉にキズで、立派なマホガニーのテーブルに大きな焼け焦しをつくってしまった。
F夫人は『細雪』が好きで、ことにそのなかの「雪子」の描き方に感心すると言ったが、彼女の告白によると、彼女自身が雪子にそっくりだということであった。雪子同様に電話をかけるのがこわくて胸がドキドキするという、まことにF夫人は「アメリカ人ばなれのした」女性であったが、日本文学は結局『源氏物語』ですねと、ときどき辛辣なことをしとやかな口調でサラリとおっしゃるのである。
男の学生のなかではKとDがとりわけ親しかった。Kはもと駆逐艦の乗組員で、「ボクハモト水兵デス」というのを口ぐせにしていた。奥さんは日本人で、そのせいか彼の日本語には、彼自身が雲つくばかりの大男のくせに、なまめかしい女コトバがときおり入り混じるのであった。何かいやなことがあると、「イヤーダ、イヤーダ」という。
Dは、Kがまじめな学生という感じであるのと対照的に、文学青年でディレッタントであった。熱烈な荷風愛好家で、荷風のように生きることを終世の理想としているように見えた。ある日、「私ノ先生が死ニマシタ」と言ってしょんぼりとしているのでどうしたのかと思ったら、わが故国で荷風が死んだのであった。
最後に、ハーバードの左ギッチョもしくは左マキ連中の総大将ライシャワー教授のことについても書いておかねばならない。「ことについても」というのは、これは書きづらいことであるからである。というのは、教授はかねがね私が帰国後彼らを題材につかって書くのではないかと恐れられて、お弟子さんたちに、あいつに近よるな、書かれるぞ、と忠告されていたこともあって、私は、ある日、先生のことは書きませんよと宣言したのである。で、私はその約束を守らなければならないのであるが、全然書かぬのもシャクだから、教授自身のことではなく、先生ら知日知識人をもふくめて、アメリカのインテリ一般について少し次に書いておくことにする。
幸福者の眼
――アメリカの知識人――
ライシャワー教授とはよく議論した。むろん日本について、日本のもろもろについてである。彼と議論してみてよく判ったことは、日米知識人の考え方の相違であった。
彼は、私をもふくめて日本のインテリの考え方の観念的・非現実的であることを衝いた。それはたしかにそうかも知れない。私の経験からいうと、国が貧乏になればなるほど、インテリはそうなる、あるいはそんなふうに他人に見えてくる嫌いがある。ヨーロッパの知識人はアメリカの知識人に比べて観念的・非現実的に見えるし、メキシコとなると、さらにその程度をまして(日本のインテリの観念的・非現実的程度は、まずメキシコのインテリ並みであろう)、インドにいたっては、ある若いインテリが、私に発した第一問は、「おまえは死についてどう考えているのか?」であった。あの偉大でみごととさえ言えるどうしようもない「貧困」を前にしては、人は死についてでも考えざるを得ないのか、それは私をつくづく考えさせたことがらであった。この例から判るように、「貧困」は多かれ少なかれインテリを観念的・非現実的にする、言いかえれば、「貧困」のなかではインテリはそうなる必然性をもっている。――
おそらく、この「貧困」というものが日米両国のインテリの考え方の差異を解くひとつのカギなのであろう。断わっておくが、私は日本が極端な貧乏国であると言っているのではない。中近東、インド、ことにインドのあのモーレツな「貧困」を見たあとでは、「日本は貧乏国です」(日本では一種のプライドをそこにこめて誰もがうれしそうにそう言いますと、うがったことを言ったアメリカ人がいた)とはお世辞にも言えない気がする。いや、逆にアメリカが豊かすぎるのだと言ったほうが正確だろう。つまり、豊かすぎるアメリカと、そうでない日本との差異――それが問題なのだ。
第二に、第一のカギにまさるとも劣らない重要なことがらであるが、それは一方が戦争の直接の被害を受け、どうしようもないところまで追いつめられたことがあるのに対し、一方がそうでなかったことである。同じ日本人でも、空襲で死にかけた人と田舎で暮らしていた人の間に大きな差異があるのだから、これは当然のことであろう。
この二つが作用して、いかなるくいちがいが日米両国の知識人のあいだに生じてくるか。ひとつ、具体的な例をあげておこう。あるとき、ハーバードに、今は亡き火野葦平氏が来たことがある。あるところで茶話会のようなものがあり、火野氏は最近の中国について即席のスピーチを求められた。ハーバードの中国研究者(多くが中共承認論者であって、アメリカの良識を代表する人たちと見うけられた)は中共に関する新鮮な知識をいつも求めていたから、彼らはその魂胆もあって火野氏を招いたのであろう。そんなつもりのなかった火野氏も、アレヨアレヨというまに「最近の中国見たまま」を語らなければならなくなった。
彼らアメリカの中国研究者の焦点は、新中国の作家の友人であった人もいたので、いったい、火野氏の見たところ、新中国に自由はありや否や、ということにあった。火野氏もまた、いろいろなことを話したあとで、結論するようにこう言った。「中共には餓死はなくなったが、自由もなくなった」
このコトバこそは、彼らのききたいコトバであったのだろう。みんなはいっせいに拍手をし、一時それは鳴りやまぬほどであった。
私はその拍手の音をききながら、しきりに別の想念に捉えられていた。どこか違う、われわれならそういう考え方をしない、いや、火野氏は明らかにわれわれの一員だが、すくなくとも、そういう考え方が万雷の拍手をもってむかえられることはない。私はそんなふうに思い、しきりに、われわれにぴったりするコトバを探しもとめた。そして最後に一つのコトバにたどりついた。「中共に自由はなくなったかもしれないが、餓死もなくなった」
私は、ここで新中国に自由がありや否や、というようなことを問題にするつもりはない。ただ私は深い断層を感じた。身をもって餓死を体験したわれわれと、決してそういうことのなかった幸運な国民との間に横たわる溝――それはなんでもないもののように見えて、決して浅くはないのである。
アメリカ人は「外から」日本を見る。そのとき問題になるのは、先ず「記録《レコード》」であろう。たとえば、ある政治家を問題とするとき、彼がどんな人間であり、何を考えていたか、国民を虫けらのように考えていたかどうか、そんなことは問題にならないし、また判らないことだという。何が問題になるか。要するに彼がなし残したこと、たとえば彼のおかげで鉄道がしかれたとか、橋ができたとか、売春禁止法案が成立したとか(内心は彼はプロスティテューションに賛成であり、たんに選挙のための必要から禁止法に一票を投じたのにすぎないとしても、彼ももちろん禁止法成立の功労者として考えられるべきである。)……
なるほど、「外から」見ているかぎり、そうであるし、またそれでよいのかもしれない。しかし、日本のなかでその政治家の気にくわない言動、あの見るだけでウンザリする顔に毎日でくわしているわれわれは、そううまくはゆかない。われわれはそんな客観的な「記録《レコード》」よりも、もっと主観的な、いわば内部感情みたいなものを重視しようとする。
ライシャワー氏その他知日知識人と話していて感じるくいちがいの一つは、この「外から見る」人の考え方と、「内で生きている」人の考え方の差異であろう。私はライシャワー氏にいつもこのことを言った。すくなくとも、われわれはまだ「歴史的事実」でないのだ、と。
たとえば、彼の『アメリカと日本』(訳書名『太平洋の彼岸』)という本によると(私と彼とは、いつもこの本を中心にして議論していたのである)、「共産党の泡沫は一九四六年四月十日に行なわれた戦後初の総選挙で穴をあけられた。その際共産党は投票の僅か三・八パーセントと衆議院における四百六十六議席中五議席だけをかち得たのに過ぎなかった」(訳書による。傍点筆者)
こういう記述を読んで、どこかしら違う違うと叫び出したくなるのは私のみではないであろう。たしかに事実は「過ぎなかった」のである。「記録《レコード》」としてはそうである。しかしである、私はマザマザとおもい浮かべるのだが、たとえ五議席であるにせよ、共産党が出て来た、合法的に議席を占めたということが、当時のわれわれにとってどんなに新鮮なおどろきであったことだろうか。そういう主観的なことは「記録《レコード》」には一切出ない。客観的に見れば、コトバをかえて言えば、「現実的な」眼で眺めれば、たしかに「過ぎなかった」ということになる。しかし、われわれにとっては「過ぎなかった」ではすまされないことがらなのである。たとえ、それがいかに「外から見る」場合、観念的なものに、また非現実的なものに見えようとも、われわれはやはり「過ぎなかった」というぐあいに片づけ去ることはできないのだ。そうすれば真実でないという気がする。
総じていって、ヨーロッパ人とアメリカ人とを並べて、へんな言い方であるが、おまえはどちらのほうが解るか、と訊かれたら、私はためらわずにそれはアメリカ人のほうだと答えるだろう。これは私がヨーロッパに比してアメリカに長くいたせいもある、また文学を通じて格別の親近感をもっていたせいもある、また占領下で何くれとなく彼らの考え方なり生き方なりを見知っていたせいもある。しかし、そんなことのほかに、そうしたことがなかったとしても、われわれ日本人はほんとうのところは、たとえばフランス人などに比してアメリカ人のほうに親近感をもつのではないか。たとえば何でもシャニムニ新しいものを受け入れようとする意志、能力。人はよくフランス文化と日本文化の類似を言ったりするが、正直いって、これほど無縁のものはないであろう。私はヨーロッパでいつもアメリカ人とつき合っていた。といっても、私のように一文ナシでぶらぶらほっつき歩いている連中であるが、何かことがあるごとに、私と彼らとは共同戦線をはることが多かったようである。
けれども、このよく解るはずのアメリカ人が、まったく理解不可能なもの、われわれの理解を絶したものとなる一点がある。そして、この同じ点において、ヨーロッパ人がかくべつ親しいものとして眼に映じてくる。ヨーロッパ人、われわれと同様に戦争を、飢餓を、身をもって体験した人間としてのヨーロッパ人――と言えば、私の意味するところは判っていただけると思う。たぶん、ヨーロッパ人も「中共に自由はなくなったかもしれないが、餓死もなくなった」という式の考え方はしないであろう。しかし、われわれがそんなふうに考えたい気持を、アメリカ人よりは、まだしもよく理解してくれるだろう。
アメリカの社会を見るとき、ひとは三段階を通過すると思う。第一段階、無邪気なおどろき。金持だなあ、すばらしいなあ、というやつ。第二段階。なんだ、こんなものは日本にだってある、イバルナヨという式のイバリ反省期。それから第三段階に入ると、この社会は眼に見えないところに途方もなく金をかけた、底知れないほど豊かな社会であることが判ってくる。
ヨーロッパでも日本でも、あるいはその他のところでも、すばらしい建物は建つ。外観とか肝心の内部の構造とか、すべてアメリカのものに劣らない。どこに差異があるかというと、ほんのなんでもない、どうでもよいことにおいてなのである。トイレットに出かける。そこに「湯」と「水」の栓がある。「湯」のほうをひねってみる。ヨーロッパ、日本、その他のところでは、お湯がまるっきり出ない場合が往々にしてあるが、今、お湯が出たとする。が、この場合でも、すぐ熱いお湯がとび出してくるというのではないだろう。はじめ水が出て、そいつがのろのろと次第にお湯に変ずる。それがアメリカでなら、最初から、手をつけられないくらいのが、文字どおり、ほとばしり出てくる。
湯がすぐ出ようが出まいが、生活にはさして影響があるわけではない。だから、どうでもよいことだと言いきってしまうこともできる。つまり、ヨーロッパ、日本、その他のところは、極端なまでにそのどうでもよいことをギセイにして、目下、アメリカを息せききって追いかけているのではないか。こちらはいいかげん息が切れてフラフラなのに、たとえば、アメリカには「オムツ・サービス」なるものができて、毎週、衛生無害なるオムツを持って来てくれたりする。――
とてつもない豊かな社会にいる気が、アメリカにしばらくいると実感としてして来る。そのなかに生きているアメリカ人もまた、むろんのこと豊かであり、彼らがもしその豊かさを重圧として感じないなら、つまり「アメリカの匂い」をそのままなんの不満もなく受け入れるなら、とてつもなく幸運な国民であると言える。たいていの大学では、フットボールのラリーとクイーンの選挙と駐車場の問題とが「学生運動」のすべてであった。そして、ひとにぎりの「過激派《ラデイカルス》」(この国では英国風の社会主義が「ラディカル」であった)と「ヤング・デモクラッツ」「ヤング・レパブリカンズ」を除いて、学生たちは日夜電話帳のごときサイズのテキストにとりくみ、毎週レポートを書き「クイズ」と称する小試験の波をこえ、その間隙をぬってデイトをし、こうしてたとえば「哲学博士」への道をまっしぐらに進む。
こんな彼らにとって、ヨーロッパ、アジア、アフリカの学生のように、「政治運動」などという観念的・非現実的なことがらのために、貴重な精力と時間を浪費することは、おそらく狂気のサタ以外の何ものでもないのだろう。彼らアメリカ人は、たしかに具体的であり、現実的であり得るのだ。
* * *
私がハーバードにいたとき、キューバのカストロ氏が来たことがあった。大学が彼を講演に招いたのである。彼は野外フットボール競技場に集まった超満員の聴衆を前にして、キューバ革命の意義について一席ぶった。私がここで述べたいのは、しかし、その演説についてではない。カストロ氏がボストンに鉄道で到着したときのちょっとした挿話についてである。
アメリカ人は日本人ほどもの好きでないと見えて、国際的有名人に食傷しているキライもあろう、えらい人が来てもそんなに出迎えに人がむらがるというほどのこともないが、さすが、その日は、「カリブ海の独裁者」(そうある新聞の見出しにあった)カストロ氏の来訪だけあって、駅の出口からしばらくは道の両側にズラリと人垣ができていた。私も人垣のなかに加わってカストロ氏出現を待っていた。
やがて、ひときわ喚声があがると同時に、カストロ氏の自動車が来た。写真でおなじみのカーキー色の戦闘帽、上着、アゴヒゲ、そういったカストロ氏が群集の歓呼に応えて手をふっている。つづいて次の車。そこにも、おどろいたことにカストロ氏がいた。手をふっている。カーキー色の戦闘帽、上着、アゴヒゲ。三台目、同じ、戦闘帽、上着、アゴヒゲ。四台目、同じ、手をふっている……
ようやくまわりの連中が笑いはじめた。一台目のは正真正銘のカストロ氏だったが、二台目からのはアメリカの新聞記者諸氏のいたずらだったのである。
そう思ってあたりを見まわすと、いる、いる、アメリカ製カストロ氏がワンサといる。カーキー色の戦闘帽、上着、アゴヒゲ、そんなのがカストロ氏よろしく大股にノッシノッシ歩いている。二人連れのそれまでいた。たのしそうに手を組んで歩いている。革命軍の男兵士と女兵士という思い入れであろう。
なるほど、彼らにとっては、革命もまたスポーツなのだな、そうあり得るのだな、と私はふと思った。私は彼らアメリカ製カストロ氏をべつに非難しているわけでも嘲笑しているわけでもない。ひとつには、それはこの国の若さを示すものであるのだろう。その若さによって、彼らは結局のところ、太平洋戦争でわれわれを打ちのめしたのかもしれないのだ。私はそうも思った。しかし、同時にまた、ひとりのヤンキー・カストロに「どうだい、面白かったかい、革命は?」とからかい半分に訊ねたとき、彼が肩をすくめながらこう言ったのを、その場のばかに明るいフンイ気(それは現実に血を流した、流さざるを得なかったキューバの革命とはまったく無縁のものであった)とともに、私はいまだに記憶している。
「なに、期待したほどエキサイティングじゃなかったね」
松の木の下にウナギ
――ニューヨーク貧乏案内――
ニューヨーク市のマンハッタン島の地図を見ると、東南のスミのところがふくれあがったかたちをしている。そのあたりはイースト・サイドと呼び、スラム街であった。TとKのアパートも、その他もろもろの友人宅もおおむねそのスラム街に展開していたから、友人宅を泊まり歩いていた私は、結局、イースト・サイドをたえずグルグルまわっていたことになる。
そこはユダヤ人、スペイン系アメリカ人、イタリア系アメリカ人、ロシア系、ポーランド系、リトワニア系アメリカ人、要するにヨーロッパからの移民、それからプエルト・リコ人の街であった。ニューヨークでもっとも色彩豊かな地域というと、私は躊躇なくこの地をあげる。それに、イースト・サイドはニューヨーク中でもっとも物価が安いのであった。ドロボウ市みたいな古物市場があって、私はそこでよく買物をした。ユダヤ語(「イーデッシュ」という)のわけのわからない看板が並び、「ポーランド系市民集会所」「ユダヤの星」出版社、ニューヨーク市警察浮浪者収容所、救世軍、そういった建物が点在する。私がことによく訪れたのは、プエルト・リコ人用の立ち食い屋であった。巨大な豚のアタマや臓物らしいのがぶら下っていて、やたらと油こいえたいの知れないものを食べさせる。私はいつも、ホットケーキともお好み焼ともつかぬ「マカラ」と称するものを食べた。あんなにうまくないものもないと思う。しかし安いのであった。
焼きいも屋の屋台を見かけたのも、イースト・サイドである。アメリカ国にも、焼きいも屋の屋台というものはあるのであった。屋台は金属製で、マキをくべて焼くらしく、小さな煙突からポッポッとまぬけな煙が出ていた。私はよくスーパー・マーケットでいもを買って来ては友人宅のオーブンで焼いて食っていたから、アメリカのさつまいもがやたらと大きいだけで極端にまずいことを知っていたが、それでも好奇心にかられて寄ってみた。いかにも意地わるげに肥ったユダヤ人のバアチャンが屋台の主だった。いくらかと訊ねると、一個二五セントだという。焼きいも一つに八〇円を払っていてはやりきれない。いさぎよくあきらめることにしたら、意地わるバアチャンは、買わないのなら、はじめから訊くな、と理不尽なことをがなりたてはじめた。もっとも、彼女のコトバには強いユダヤ人ふうのなまりがあって、半分以上も判らぬのであった。
イースト・サイドの一角に、ボウエリイと称する通りがある。ある旅行案内を見ると、「ここには悲惨以外の何ものもなく、観光旅行者はあまり近よらないほうが賢明」とあった。スラム街中のスラム街である。「オールド・ブラック・ジョウ」の作曲者フォスターが晩年野たれ死したのもここだが、通りの両側に「簡易宿泊所《フロツプ・ハウス》」が建ち並び(たいてい「男子専用《フオー・メン・オンリー》」という札がかかげてある。名前だけは立派で「ホテル・マジェスティック」とか「キュナード・ホテル」とか、れいれいしくつけてあった)、街路にはひるひなかから、コジキ、ものもらい、浮浪者のたぐいがたたずんで、道行く人に、一〇セントよこせとか、タバコを一本くれとか言ってうるさくせがむ。
私はボウエリイヘはことのほかよく出かけた。それはもちろん例の旺盛すぎる好奇心からであるが、もう一つには、物価の安いイースト・サイドのなかでも、とりわけボウエリイは安いところだったからでもあった。
先ず、ばかに安いレストランがあった。汚くて非衛生的であること、隣りに坐る人がさっきあなたにお金をねだったコジキであることを気にしないなら、こんなすばらしいところはなかった。他のところで最低一〇セントのコーヒーが、ここでは七セントだった。
しかし、酔いどれ、アル中の街、ボウエリイの本領はバーにあった。よほどこの街のフンイ気に慣れてからでないと、ちょっと入る気にはなれないモーレツなのが並んでいる。バーはここでは「ホテル」になり得るのだった。朝の四時くらいまでは開いていたから、浮浪者たちは先ず一ぱいを注文し、それを飲み終るとテーブルにうつぶせになって眠るのである。夜更けにどこでもよいからその一つに入ってみると、彼らのかもし出す汗くさい異様な臭気が鼻を衝いた。どのテーブルも満員であった。うつぶせになって眠りこける浮浪者が占領しているのであった。
こんなところで眠るより、前記「ホテル・マジェスティック」、つまり「簡易宿泊所《フロツプ・ハウス》」に出かけたほうがよいだろう。好奇心のオバケである私は、ある夜、泊まりに出かけた。日本の簡易宿泊所のことを思ってくださればよい。あの木造の建物を汚いビルディングにし、泊まっている連中の鼻の高さを少しばかり上げ、しゃべる言語を変える――いや、コトバなどは何語でもよろしい、移民のなれの果てみたいな連中が多いから、てんでにメチャメチャな英語らしいものをがなりたてているのにすぎないのである。ただ一つだけ言っておこう、われわれの習った正統的なる学校英語はほとんど絶対に通用しない。あなたがそれを言っても、彼らはキョトンとして、それは日本語であると思うだろう。いや、まさか日本語とは思うまい、日本の紳士諸君の来訪は先ずもってないだろうから。
私の上のベッド(ベッドは三段になっていた)にいたジジイは、おまえはチャイナマンかと訊ねた。ノーと答えると、それではおまえの出身はキューバだな、という。うるさくなって、おれは日本人だ、と宣言すると、フーン、ジャップか、道理でえらくスマーダ(「スマート」のことである)と思った。ジャップ、ジャップと言うな、ジャパニーズと言え、とさえぎったら、ジジイはへんな顔をした。ジャパニーズなどという正統的なる単語は彼の語彙《ごい》にはないのである。
日本にいたことのあるという黒人がやって来た。もちろん、兵隊としてである。おまえは「サトコ」という女を知っているか、とヤブから棒に言う。要するに彼の情婦だったのだろう。おまえはいったい日本のどこにいたんだと訊いたら、忘れたと言い、なにしろクラゲがたくさんいた海のきわだった、とつけ加えた。クラゲではお話にもなんにもならない。
そのうち、ケンカが始まった。そいつと半黒のプエルト・リコ人のあいだで闘いはたたかわれたが、原因はバナナ一本をくすねたとか、くすねなかったとかいうことにあった。私がボンヤリしてそれを見ていたら、よこのインテリめいた中年男がビラをくれた。救世軍のビラで、「酒は人生を滅し、アメリカを滅す」とあった。ところでその中年男をよく見たら、どうしてもアルコールが多量に入っているとしか思えない顔色をしているのだった。
ボウエリイにはたしかに酔っぱらいが多かった。この点でボウエリイはまったく「日本であった」。小間物店を派手にひろげて、そのかたわらで、ひるひなかから眠りこけている若者、そんなものには慣れっこになっていたが、ある日、なつかしいものを見た。一人の男が立小便していたのである。それもきわめて派手に、道のまんなかさして堂々と突ったち、そしてしていた。
ボウエリイで覚えておいてもよいものの一つは、散髪学校《バーバー・カレツジ》である。アメリカの散髪というものは、ふつう、ただ頭を刈ってもらうだけで、それも十分とかからずパッパッと要所要所にハサミをあててもらうだけで、チップをふくめて二ドルぐらいは支払うしくみになっている。もちろんまえもってヒゲは剃っておく。顔そりなどしてもらっていては総計金五千円ということにでもなりかねないのである。散髪、いや頭の刈り込みがとにかくめでたく終ると、散髪屋は「ウェットにするか?」と訊ねる。ハハン、この国では散髪にでもウェットとドライの区別がある、さすがはドライの本場、ハードボイルドの国だな、とやけに感心し、ウェットのほうは髪の毛のときつけを古典的にやわらかく仕上げ、ドライのほうは要するに人殺しスタイルだと合点してウンと言ってみたら、彼はおもむろに水道の水を私の頭にぶっかけた。それで頭髪をなでつけるだけのことである。そのやり方はまったくドライと見えた。ある有名な文学者に会ったら、日本の散髪屋はヒゲを剃ってくれるどころか、耳の穴ソージからマッサージまでやってくれるんだってね、と初対面の挨拶がすむとすぐそう言ったから、私はなんでも日本のことがほめられればうれしいというおめでたい性分なので、図にのって、先生、それではひとつ頭を刈りに日本へ行くのですな、としたり顔で発言してよく彼を見たら、まったくのハゲチャビンであった。あんな間のわるい思いをしたことはない。
だいたい、この散髪をていねいにやるかどうかは、生活水準に逆比例するものらしい。生活水準の低い国ほど、ていねいで長くかかり、生活水準があがれば、急行、特急、アメリカではジェット機並みになる。ただし、これには唯一つの例外がある。それはわが日本国であって、われらの生活水準は東南アジア、インド、中近東諸国はもちろんのこととして、ヨーロッパへ行っても、たとえばスペイン、ギリシアなどよりは明らかに高いが、散髪のていねいなこと、長くかかることはおよそ世界に比類がない。あんまりていねいで長くかかるものだから、日本の散髪屋は、あれはみんなハイク詩人《ポエツト》かZENブッディストではないか、と半分冗談に半分本気に言う元アメリカ軍将校どのがいた。
こんなふうに書くと、私は世界各国で散髪屋にばかり入りびたっていたように見えるが、事実は逆であった。私はお金が極端になかったから一と月半に一度しか散髪に行かず、いつもザンバラ髪でのし歩いていた。いざ散髪するとなるとたいへんである。私はその見も知らぬ異国の街を、東京でいうなら「百円散髪」を求めて歩きまわる。もちろん、そこでは英語などは絶対に通じないからすべて手マネである。いや、何も言わないよりは何か口に出しているほうがいいのであるから、私は手マネで頭をさしながら「ココヲ刈ッテクレ、オッサン」と日本語でやっていた。散髪屋も散髪屋のほうで、何か自国語でわけのわからないことを言いながら、のろのろとハサミを動かしはじめる。この光景はちょっとした漫画であった。
長々と脱線したが、ニューヨークでお金のない人はボウエリイの散髪学校へ行けばよろしい。三五セントですべてはすんだ。ただし、こういうことはある。少々痛いこと。汚いこと。それと、たとえば、ある日、私が入ろうとしたら、実習中の生徒が私の腕をとり、押しとどめて、「|おまえ払うか《ユー・ペイ》?」と訊ねた。「払う」と答えたら、安心したように私を空いた椅子の一つに連れて行ってくれた。実は街路のルンペンたちが、用もないのにのこのこ入って来るのであった。「おまえ払うか?」と訊いたのだから、アタマの刈り逃げというのもあるにちがいない。
この挿話は、しかし、他のことも意味している。つまり、私のさまがルンペンと見まちがえられるものであったこと。私はいつも薄汚れたシャツ一枚でボウエリイを歩いていたのである。
いや、私はルンペン以下になり下ったことがある。一人のルンペン氏が私にお金を恵んでくれたのである。もっとも、名誉のために言っておかねばならない。これは私の意志したことではなく、まったくエイゴというもののおかげであった。それも、私が英語ができなかったというわけではない。ルンペン氏が、私の正統的で正確なるそれをまったく理解しなかったのである。
ある夜、私はばかに酔っぱらったことがあった。ボウエリイのまんまんなかで、私は方向の観念を失い、ついに街路の立ちん坊氏に道を訊くことになった。服装、ものごしから判断して、彼はあきらかにルンペン氏と見えた。ドコソコへ行くにはいかにすればよいか、私はまったく正統的で正確なる学校英語で訊ねた。彼はまるでキョトンとしたふうで私を見た。トーヘンボクめ、私は怒り、もう一度、同じことを言った。すると、彼は何を血迷ったか、やにわに二五セント銀貨を私の手ににぎらせたのである。私はあわてて手を振って、おれはコジキでなく、また金が欲しいわけでなく、単に道を訊ねているのにすぎない、と、くりかえして言った。それをもまた、正統的で正確なる英語で言った。効果はなかった。彼は、なに二五セントぐらいたいしたことないですよ、といったふうに私を憐れむように見るばかりであった。私はアホらしくなりメンドくさくなり、ついでにこれはふしぎな心理の動きであるが、なんとなく自分がその寛大なルンペン氏の憐憫を受けるに値する情けない存在であるような気までしてきて、敢然とその二五セント銀貨をポケットに入れることにした。「どうもありがとう」私がそう言ったら、それだけは通じたものと見え、ルンペン氏はおおようにうなずき、どういたしまして、という意味のことをどうやら口のなかでモゴモゴ言った模様であった。
この話をTとKにしたら大笑いだった。「おれも行こうか」という。「やめておけ、マクソリーのバーの二の舞になるぜ」私は忠告した。「松の木の下にウナギかね」彼らはそう答えてユカイげに笑った。
このマクソリーのバー云々と「松の木の下にウナギ」については、ちょっと説明しておかねばならない。
マクソリーのバーはボウエリイの北のはずれにあった。ニューヨーク最古というふれこみで、百年は経っているとか言った。ヨーロッパからの移民の愛好の場所であった。言ってみれば、イギリスのバー「パブ」の感じか。オガクズをまき散らした床、へちゃげたテーブル、壁いちめんに並べられた古ポスター、古湯わかしなどのガラクタ。ここではみんなエールをのんだ。エール二杯で二五セントだったから決して高くない。
面白いのは、ここは女人禁制のバーだった。いったいにボウエリイのバーなどで女人を見かけたこともないが、ここはそれをはっきり店の規則にしていた。たしか現在の店の持主はレイディだった。あるとき、彼女が営業時間中に店へ入ろうとしたら、ここは女の人は入れません、といって追い帰されたという。ウソかホントか知らないが、そんな間のぬけたフンイ気がここにはあった。
私は酔っぱらいたくなると、マクソリーのバーへ出かけた。エール二杯分の代金で完全に酔っぱらうことができたのである。それはこういうわけからであった。
先ず私がエールのジョッキ二つを前にしてひとりでいると、いつのまにか、私のまわりにひとびとは集まって来るのであった。ぜったいに日本人紳士は来ないところだったから、彼らが私を珍重するのはムリがなかった。みんなはてんでに、イタリアなまりの、ドイツなまりの、ロシアなまりの、ポーランドなまりの、チェッコスロバキアなまりの、スペインなまりの、ユーゴースラビアなまりの、ユダヤなまりの思い思いの英語で話しかけてくる。大半は判らぬのであったが、かまわなかった。彼ら相互のあいだでも、べつに意思が疎通し合っているとはどうしても思えないのである。全然べつのことを口にしながら、元イタリア人と元ドイツ人のジイサンが肩をたたき合っている。圧倒的に老人が多いのであった。第一次大戦の生き残りにはザラに会った。彼らにとっては、第二次大戦はまったく存在しないかのごとくであった。「日本《ジヤパン》……フン、同盟国だったね」と言下に言ったジジイまでいた。彼らの大半が故国を出て、もう三十年にも四十年にもなる。英語もろくすっぽ駄目なら、母国語もきれいさっぱりと忘れ去っている。つまり、何語でも自分の意志を表現できないというのんきなのまでいた。
彼らは東洋の珍客に対してきわめて寛大であり親切であった。いつのまにか、私のテーブルには誰が買ったとも知れないジョッキが並び、私は何ごとにも遠慮をしない男だから、それをどんどん頂くことにした。その結果、ときには歩行いささか困難なほど酔っぱらう羽目におちいった。
このことをTとKに話したら、そんなうまい話があるものか、ぜひ行ってみよう、というわけで二人でノコノコ出かけて行った。が、やがて浮かぬ顔で戻って来た。ダメだ、誰もおごってくれやしない。二人はまったく世をはかなんだ。これは当りまえのことであろう。バーの老人たちは東洋の珍客なればこそ私にエールを買ってくれるのであって、金髪の彼らにべつにおごらなければならぬ筋合いもないではないか。こういうたぐいのことを、柳の木の下にいつもドジョウはいない、と日本では言うのであると言おうと思って、私は「松の木の下にいつもウナギはいない」と言った。そのとき酔っていたせいか、私の頭にどうしても「柳」にあたる英語が浮かばず、メンドくさいから「松」ということになり、また今もって「ドジョウ」のことを英語でなんというのか知らないのだが、これも同じ理由で類似の「ウナギ」ということにしたのである。
彼らはそれをよく覚えていて、何かといえば、「松の木の下にいつもウナギは……」と言い出すのであった。
このバーで、私は元何トカ級ボクシング世界チャンピオン氏に出会ったことがある。彼がほんとに世界チャンピオンなのかどうかは知らない。みんなは彼をそんなふうにからかい半分に呼んでいたから、きっとそうなのであろう。倉庫の番人をしているとかいった。この腕にさわってみろ、というからさわってみると、なるほどそのばかふとい(常人の優に四倍はあった)腕は鋼鉄のかたさであった。
彼はもとロシアの炭坑夫で、ろくすっぽ英語が話せなかった。何を思ったのか、彼は私を昼食に自宅に招いたことがある。出かけてみたら、アラビア人ともトルコ人ともギリシア人ともイタリア人ともスペイン人とも、なんともつかぬ得体の知れないバアチャンと二人で住んでいるのであった。おどろいたことに、バアチャンはアラビア語とイタリア語しか話せないのだという。チャンピオン氏はそのどちらもできない。それでどういうことになるかというと、判りきった話だが、彼らはコトバの媒介なしに暮らしているのであった。二人がうまく暮らすのには、およそコトバなどというやっかいなものはいらないのだろう。第一、あれでは夫婦ゲンカもできないであろう。
私は二人のあいだにはさまって、「これがニューヨークなんだな」と日本語で感慨をもらしたが、二人はただ黙々とスープ、例のカンヅメスープをすするばかりだった。たぶん、チャンピオン氏は私がその感慨をアラビア語かイタリア語で言ったのだと思い、バアチャンのほうは私が英語かロシア語でわけのわからないことをつぶやいたのだと解釈したのであろう。二人の表情はかわらず、まさに平和そのものであった。
フランス語を学ぶには
――カナダ紀行――
ボウエリイの散髪学校の生徒に、ひとり妙なのがいた。英語がほとんどダメで、フランス語がペラペラ。まだ若いから、まさか移民のなれの果てでもあるまいと思ったら、彼はカナダのモントリオールから来たのである。「モントリオールはいいところだぜ。ストリップをじゃんじゃんやっていて、それに女の子がいい。アメリカのオカメオタンチンとはことが違いまさあ」なるほどそういうものか、最後のところが気に入ったので、出かけることに決めた。フランス人移民の子孫だから、みんな美人であるにちがいない。「女の子のことは知らないけど、とにかく、フランス語はうまくなるわよ」私がカナダ行のことを話したら、そのオカメオタンチンであるアメリカの女の子が軽くふくれながら保証した。
なるほど面白いところであった。モントリオールの市街を東西に長く、せまい目抜き通りが一本通っている。私はそいつを東から西へ歩いて行くことにした。先ず気がついたことは、道路標識などが二ヵ国語で書いてあることだ。「parking」と書いた下には、必ず「stationnement」とフランス語が入っている。しかし、全般的にいって目抜き通りの「東部」はまだ英語の街であった。そこらの看板も大売出しの標示も英語だけというのが多かった。それが、ものの十分も歩いて行かないうちに「西部」に入り、風景は一変する。ちょうど目抜き通りを半分来たあたり、何トカいうちっちゃな四つ辻をこえるとともに、街並みは薄汚くなり、スラムの様相を呈してくる。と同時に、さっきまでのばか高い英国系カナダ人は影をひそめて、小柄なフランス系カナダ人がフランス映画の登場人物そのままに肩をすくめながら、ベチャベチャ早口にやっている。そのコトバは、言わずと知れたフランス語であった。
極端な対照をなすのが本屋である。「西部」のは英語の本ばかり。「東部」は逆にフランス語のベスト・セラーが山と積み上げてある。圧倒的に「東部」の本屋の数が多いのは、フランス系カナダ人の文運隆盛のしるしと見えた。
「東部」の一つ大きなのを選んで入ってみた。カミュ、サルトル、なんでもここにはある。なるほど、たいしたフランス語の本の数だ。しかし、どこかもの足りない気がしてならない。外へ出てから、やっとその理由が判った。カナダの作家の本が一冊もなかったのである。あわてて引き返して、「おまえんとこの国の作家の本を見せてくれ」とたのんだら、ベレ帽をかぶったオヤジは泰然として、そこらに並んでいるではないか、と言う。バカを言え、そこらにあるのはカミュやサルトルであって、カナダ人のではない。私がそれを指摘したら、世にもふしぎなことを言う奴じゃというような顔でオヤジは私を眺めまわした。それからしぶしぶ隅っこのほうに私を連れて行き、書棚の下のほうを指して、「ここだ」ときわめて無愛想に言う。なるほど、たしかにカナダの出版社発行のカナダ人の作家の本が、それも薄汚れたのが二百冊ばかり並んでいる。「これですべてか?」「ウイ・ムッシュウ」オヤジは元気よくさばさばと返事をした。
実際、それですべてだった。状態はどこの本屋へ入ってみても大差はない。隅っこの二百冊、ウイ・ムッシュウ。われわれはなんでも輸入する。アメリカからはコカコーラに自動車、フランスからは香水と文学、そう言って澄ましている本屋のオヤジもいた。
もっと驚いたことには、彼らは同じカナダのことながら、英語で書かれた本については何一つ知らないのだ。アメリカでそのころ十大ベスト・セラーのしっぽぐらいのところに入っていたカナダの小説のことを言ったら、それは英語の作家のものだったから、本屋のオヤジのうち誰一人として題名も知らないのであった。
つまり、アメリカ、イギリス、それとフランスの出店がここにはあるのだろう。政治的・経済的には前者が優勢で、後者はそれに反してヨーロッパ大陸の伝統の文化というものを売り物にしている感じであった。モントリオールの劇場で上演されているのは、たいがいがフランス語の劇である。英語しか判らぬお客のために、同時通訳のイヤホーンの設備があったり、映画式に字幕が横に出てきたりする。もっとも、フランス語はフランス語でも、彼らの先祖がヨーロッパから渡って来たときのそれなので、少しばかり時代おくれなのは否めない。いや、こちらのほうが純粋なのです、といきまくカナダ人もいた。フランスでは今やアメリカ英語大流行だが(「オト・ドグ」というから何かと思ったら「ホット・ドッグ」のことであった)、カナダはアメリカに近く、いつもいばられているせいもあって、かえって言語的ナショナリズムは強いのであった。フランスでは「アイス・ホッケー」をそのままフランス語よみにして使っているというのに、カナダでは「氷の上の球あそび」と優雅にのたまうのであった。
たしかに女の子はきれいであった。オカメオタンチンもいたが、そうでないひとと、そうであるひととの比率は、アメリカの場合と逆であるように思われた。
そして、軒なみにストリップである。やたらとナイト・クラブ、バーのたぐいがあり、そこでは必ずストリップをやっていて、得体の知れないお嬢さんたちが寄って来る。こうしたお嬢さんたちをアメリカで見かけるのはまったく困難なことであったから、とてもなつかしい気がした。この佳人たちも、「西部」では英語で取引をし、「東部」では、「あなた、今夜、おひま?」というようなことをフランス語で言ってのけている。後者と適当にやっていたら、横から酔っぱらいが何語ともつかぬスットン狂な叫び声をあげてわり込んで来た。ギリシアの船乗りだという。モントリオールには大きな港があるから、街でぶらぶらしているのには船員が多いのである。そいつと、英語、フランス語、ギリシア語をチャンポンにつきまぜて、いや、日本語までもそこに薬味としてバラッバラッと加えて(彼は横浜を知っていた。もっとも薬味は薬味でも、彼のそれはちょっとここに書くのをハバかるほどのものであった)話しながら、夜のモントリオールをうろついた。もう明けがた近く、あるところでストリップを横眼で見ながら、「モントリオールはずいぶんとイカれたところだな」と、私が疲れはてた声を出したら、ギリシア人氏は、いや、この世界にはもっとイカれたところがある、と言う。それはいったいどこかと訊ねたら、彼はニヤニヤ笑い、「TOKYO」と一言答えた。
ケベックへ行くと、もっとフランスだという。それでモントリオールから東部へ、ケベックさして夜行バスに乗った。バスに乗り込むと同時に、そこはもうフランス語の世界である、車掌が「メルシー・ムッシュウ」などとやっている。となりに止まっている西行トロント行のバスでは、それがすべて「サンキュー」なのであった。
きれいなフランス系のお嬢さん(これは正真正銘のお嬢さんであって、前述の街の佳人のことではない)が私の背後に坐った。「あめりかカラノカエリナノ」お嬢さんは下手な英語でそう打ち明けた。「どこへ行って来たんですか?」私も英語で訊いた。「ミアミ」彼女はそう簡単に答えた。「ミアミ?」私は反問し、彼女は無邪気にうなずいた。いったい、それはどこのことなのであるか? しばらく考えているうちに、ハタと気がついた。彼女は「マイアミ」に行っていたのである。なるほど「Miami」をフランス語でよめば「ミアミ」ということになる。とすると、彼女は一月近くマイアミのホテルに滞在しながら、ずっと「ミアミ」で押し通してきたのか。「ミアミでは楽しかったか?」彼女は「ウイ」と澄んだ声で答え、それからちょっと恥ずかしそうに、「ベリー・マッチ」と英語でつけ加えた。私はいっぺんに彼女が好きになり、それで例によってデイトを申し込んだ。
ケベックはセント・ローレンス(フランス語で読めば「サン・ローラン」となる)河に面した古風で美しい街であった。古いカトリックの大学があり、黒衣の坊主が間のぬけた足どりでゆったりと、あるいはノソノソと歩いていた。えらく豪勢なその名もシャトー何トカという一見城塞ふうのホテルが街の中心にそびえ、その背後の河に面した斜面の中ほどに、テラース・デュランと称する長い木製のテラスがあった。ケベック人は朝な夕なこのテラスを歩くのが習慣だときいた。私もまた俄かケベック人となり、テラスの北端から南端まで半キロばかりの距離を六度にわたって往復した。同行者はミアミ嬢である。東洋人はケベックではまったくの珍客なのであろう、またお連れがフランス少女とあって、ひとびとはじろじろ私を見た。私は世界のいろんなところでいろんな毛色の変った女性とぶらぶら歩きを試み、ひとびとの好奇心の対象となったことがあるが、私のとぼしい経験によると、このケベックでのそれは、先ずイランのテヘランに次ぐものであったろう。もっとも、彼女は根っからのケベック児だったから(大学の学生であった)、テラスのぶらぶら族のあいだにやたらと知人が多いのでもあった。その半キロの行程のあいだに必ずひとり、そしてそのひとりも北端から南端へ振子運動をつづけているのだから、何度となく会釈することになった。
夜になって、私は彼女を晩餐に御招待申し上げた。私はいつも見知らぬ土地でのデイトに一つのシステムを持っている。それは前もって特急で街をかけめぐり、私のばか軽いサイフでまかなうことができる安レストラン、安喫茶店のたぐいを探し出しておき、そこへ相手の女性を導くということである。古今東西を問わず、なんにせよ、女性は導かれることが大好きなものなのである。
ただ、このシステムには一つのどうしようもない難点があった。私のサイフがばか軽いものであるという必然的な理由から、私の探し出してくるレストランのたぐいは、その土地に住む彼女がこれまで一度も足をふみ込んだことがないスラム街にあったり、あるいは外観を見ただけでおったまげるようなしろものが多かったのである。
ケベックのも、その一つであった。しかし、女性の不安というものは、より強くより頼りとなり得るものになんとなく接近したがる(それは精神的にも肉体的にもそうである)衝動に化ける点で、かえって好都合なものである。私とミアミ嬢は、その格別に汚いレストランで、フランス料理ともアメリカ料理ともカナダ料理ともつかないもの(そこにはきっとエスキモー料理さえもが加味されてあったにちがいない。考えてみると、ケベックはずいぶんと北極に近いのである)をパクつきながら、たのしいひとときを過ごした。驚いたことに、このレストランでは「水《ウオター》」という英語さえ通じないのである。出がけにトイレットへ入ったら、壁に男女対照の巨大な人体解剖図がくろぐろと描かれてあった。そんなものはどこにでもあるとおっしゃるかもしれない。しかしケベックのは、一つ一つの微妙なるオーガンの説明が、すべて、英仏語対訳であったのである。
フランス語を学びたい人は、ぜひ、カナダへ行くとよろしい。
芸術家天国
――ただし、あなたの原稿はハカリで計られる――
一年が経ち、ハーバードの留学期間も終りに近づくころ、それが終りになるということはアメリカ政府が月々くれるお手当てのほうも終りになるということなので、どこかひと月かふた月、タダでメシを食わせてくれるところはないかしらと冗談口をたたいたら、「それでは、小田さん、『芸術家村《アーテイスト・コロニイ》』へ行きなさい」とヒベット先生が知恵を授けてくれた。
そこでは、最高三ヵ月ぐらいのわりで、作家、作曲家、エカキのたぐいにタダで暮らさせてくれるのだという。そんなふしぎでありがたいところが、金持国アメリカには数ヵ所あるのだった。耳よりな話ではないか。二つを選んで、さっそく応募することにした。
むかし書いた小説のいいかげんな一節を英訳してタイプを叩き、ヒベット先生その他の推薦状をくっつけて出したら、首尾よく二つともO・Kがきた。二つとも出かけるとなると、タダで半年暮らせることになる。しかし、世の中のことはそううまくゆかない。極度に学業成績不良だったせいなのか、それとも他の理由によるのか、とにかくヒベット先生に言わせると「小田さんは不良外人ですからね」ということで、私は九月末日限りでアメリカ国を追い出されることになっていたのである。仕方がない、私は二つのうち「マクドゥエル・コロニイ」というのを選んで出かけることにした。
むかし、マクドゥエルという作曲家がいた。彼は貧乏なのでコロンビア大学の先生になって生活費をかせいでいたが、そちらに追われて作曲に専念できず、貴重な才能をあたら棒にふってしまった。彼の死後、彼の奥さんはこういう「悲劇」を二度と芸術家に味わわせたくないというわけで、いろいろな手段で資金をあつめ、この理想郷をつくったのである。この種の「芸術家村《アーテイスト・コロニイ》」の最初のものであった。美談である。
もっとも、そこに滞在している連中がその美談に値するかどうかとなると、問題は別であろう。連中を大別すると、避暑族と私のように無料飲食宿泊めあてのタダメシ族との二つに分かれる。後者の連中について言えば、滞在は三ヵ月くらいまでは可能だから、アメリカじゅうに散在するこの種「芸術家村《アーテイスト・コロニイ》」をグルグルまわっていれば、一生めでたくタダで暮らすというユメのようなことも可能なのである。連中は、あっちの食事がうまいとか、いや、そうはいってもこっちの仕事部屋のほうが立派だとか、そんなことにやたらと詳しいのであった。
六月末のある夕、私はマクドゥエル・コロニイに着いた。聞きしにまさる美しいところで、広大な森林のなかにショーシャなコッテイジが散在している。中央に大きなのが一つ、それが食堂兼用のホールであった。ちょうど夕食の時刻だったから、さっそく私もみんなとぞろぞろとつらなって食堂に入った。
白髪のオバアチャンが私を手招いたからそのテーブルに行った。坐るなり、オバアチャンは「おまえは自家用飛行機で来たのであろう。さっき爆音がしていたのは、あれはてっきりおまえの自家用ミサイルであったにちがいない」と、人を食ったことを言いはじめた。同じテーブルにいた連中がゲラゲラ笑った。
オバアチャンは作家であった。よわい七十七歳。(水泳に行くと一九一〇年代にはやったすてきな水着をつけた。)積み重ねると身の丈にあまるぐらい作品を出版しているのだが、一向に有名でないと誰かがカゲ口をきいた。オバアチャンの右どなりの赤いシャツの男は南部人で、それもたしか、かつての南軍のナントカ将軍のお孫さんか何かで、作曲家であった。オバアチャンの左どなりは人なつっこい容貌をしたユダヤ人のエカキ、そのまたとなりがボヘミヤン風の詩人、お次は今にも泣き出さんばかりの顔をした、何かといえば「アイ・アム・ミゼラブル」とくり返す作曲家。――
「おまえはいったい何をする男なのか?」
私が一人一人クロス・エクザムネイションにかけていたら、人なつっこい容貌のユダヤ人エカキ氏が逆に訊ねてきた。私は、何をかくそう、小説を書いているのだと答えた。「日本語でね」私が軽くそうつけ加えたら、「日本語で?!」と、みんなは呆れ返ったような表情になった。何もびっくりすることもないではないか。わが日本国の小説の歴史は、おまえの国じたいの歴史の三倍以上も長くて、現代にいたっては純文学雑誌が毎月六万部の発行部数を誇る世界に稀有な文学国家ではないか。私が憤慨して一席ぶとうと思ったら、「それはZENに関する小説であるのか?」と、南軍の勇将のお孫さんがパイプをくわえながらしたり顔で訊ねた。アホらしくなって一席ぶつのはやめにした。
翌日から「芸術家村」での生活が始まった。朝は早く起きた。早く起きないと、実は肝心の朝飯に食いはぐれるのである。食堂の建物から歩いて三分ほど離れたところに、私の住む独身男子用の宿舎があった。べつに当番をきめておいたわけでもないが、たがいに起し合いをして、顔もろくろく洗わずに外へ飛び出すと、そこには誰かの自動車がエンジンをかけて待っている。アメリカ人というものは、御承知のことであろうが、歩いて三分の距離でも自動車に乗るのである。
もっとも、わが独身寮の連中は例外なしにタダメシ族だったから、みんなオンボロ車だった。ことに人なつっこい容貌のユダヤ人エカキ氏のは日本円でいえば一万円で買ったというシロモノで、すぐエンコした。車が動かなくなると、彼は車体のあちこちをガタガタとゆり動かしながら、「このボロ車め、ポンコツ屋にたたき売るぞ!」とどなるのであった。すると、ふしぎに車は動き出す。彼によれば、馬が動かなくなったときには「馬肉屋にたたき売るぞ!」とどなれば動きはじめるそうで、その要領で、彼は自動車をいわば御しているのであった。
朝食がすむと、各自、めいめいに一つあてあたえられた「仕事部屋《ストウデイオ》」におひきとりになった。なかなか立派な「仕事部屋」であった。「一つから他の一つが見えない程度に十分な距離と配慮をもって」(要するに、オイ、たいくつした、遊びに来ないか、と言わしめないように)つくられたコッテイジふうのが、広大な森林(山あり野あり谷あり川あり)のなかに点在する。一つずつ「仕事部屋」のスタイルはちがっていて、「牧神の家」とか「石亭」とか、そんな洒落れた名前がついている。トイレットもベッドの設備ももちろん内部にはあったから、そこでも十分暮らせた。タダメシ族は、ときどきニューヨークから遊びに来た友人を、そこにひそかに泊めていたようだった。
私のは「森のコッテイジ」とか言った。とにかく「仕事部屋」とかいう豪勢なものをいまだかつてもったことがなかったものだから(「仕事部屋」はおろか住む部屋だって、東京では私は四畳半以上に住む光栄に恵まれたことがないのであった)、私はえらく感激して、中央の大きな壁炉に火をくべてみたりした。七月というのに、そうしていてもべつになんともないくらいの涼しさで、ときには、夜などは、ほんとうにそなえつけのマキをどんどん燃やさないと耐えられないくらいであった。
壁炉のきわに大きな木の板があって、そこにゴチャゴチャと名前が書き並べてあると思ったら、それはその「森のコッテイジ」でこれまでに仕事をした(と称する)芸術家たちの署名であった。そのなかに、ウイラ・キャザーとソートン・ワイルダーという二人の大きな名前《ビツグ・ネーム》を見つけ出したのだから、たまらない。私はそれだけで十分にうれしくなり、その署名の列の末尾に日本語で自分の名前を書き加えただけで、うかうかと第一日目を過ごしてしまった。もっとも、その感激、興奮だけでその日一日をバカ暮らしたのではない。午後にはある女流作家の来訪があり、私はその感激、興奮を冷やして仕事にたちむかう必要があったから、彼女と近くの湖へ泳ぎに出かけた。マクドゥエル・コロニイが所在するニュー・ハンプシャ州は、「バケイション・ランド」として有名なところで、ことに各地に散在する池まがいの小さな湖が呼びものであった。それにどういうわけか、この州には松が多いのであった。「日本みたいでしょう」女流作家は砂浜で肩を並べて甲羅を乾しながら眼を細めてそう言った。「日本ブーム」はコロニイの芸術家のあいだにまで及んでいて、これまで実際に日本へ出かけた者、あるいは出かけようと必死になっている(私までがしばしば就職の依頼を受けた。なんでもよい、日本に職がないかというのである)者が全体の七割近くいた。女流作家もその一人で、キョウトへ行きたい、とそればかり口癖のように言うのであった。
ソートン・ワイルダーは、ひと冬、このコロニイにこもって(それも、たぶん私の「森のコッテイジ」で)、コロニイから十分の距離の小さな田舎町ピーターボローをモデルとして、『わが町』という世にも有名な作品を書き上げた由であるが、そういう刻苦勉励の士は、そのとき、コロニイには皆無のように見うけられた。毎日、夕食のとき、例の白髪のオバアチャン作家は、私のようにお孫さんくらい若い作家をつかまえては、「今日は何ポンド書いたか? もうじき、ここの係の人がハカリをもっておまえの原稿の重さを計りに行くよ」というようなことを言ってからかっていた。もっともしばしばオバアチャンの槍玉にあがったのは、オバアチャンの「仕事部屋」からほど遠くないところに存在していた「森のコッテイジ」の主、つまり私であった。オバアチャンはこう言うのである。「私はおまえの『仕事部屋』の前をよく通るが、たえてタイプライターの音をきいたことがない」
それは当りまえであろう。いつも私は「森のコッテイジ」でヒルネをしているか、女流作家と泳ぎに出かけていた。(女流作家のほうも自分の「仕事部屋」でヒルネをしているか、私と泳ぎに出かけているか、そのどちらかであったろう。)しかし、私はコロニイに日本の全文学者諸君の代表として滞在しているのではないか。そういうような非愛国的な真実は語ってはならない。私はおもむろに言った。
「われわれ日本の文学者は、あなたも知ってのとおり『源氏物語』のあの優雅な宮廷の伝統のなかに今も生きているのであって、この醜悪で野蛮なる機械文明のもっとも醜悪で野蛮なる発明品であるタイプライターなどというものをつかって、自分の心の内面を打ち明けるというようなはしたないことはしないのである」
「しからば、何を用いるのであるか?」
誰かが訊ねた。どういうわけか、そのとき私はポケットに原稿用紙を一枚持っていたのである。「これを見よ」私はそいつをうやうやしくさし出して言った。みんなは好奇の眼をかがやかした。「このチェス・ボードのごとき紙のマス目のなかに、日本国の作家は一字一字、彼の感情をあの美しい象形文字を通して表わして行くのである」「筆《ブラツシユ》でやるのだろう、ちょうどホクサイの絵のように」誰かがえらく気のきいたことを言った。「いや、万年筆をつかってもよろしい。しかしその精神は同じだ。つまり、そいつは美だ」私はまた神がかりを言った。私はデモンストレイションをする必要があった。私は「へのへのもへの」と書き、「知らぬが仏」となすくった。「なるほど美しい字《カリグラフイー》だ」彼らは賛嘆し、私は苦笑した。私は悪筆をもって鳴る男で、東京で私の編集者にしかられてばかりいたのである。さっそく、今夜東京に手紙を書き、あのコワイ編集者氏に彼らの賛嘆ぶりについて知らせてやろう。私はユカイになり、無邪気に有頂天になった。「おまえはこのチェス・ボードのごとき紙にZENを感じないか?」一人が一人にそう言い、みんなはふかく考え込んでいるふうに見えた。
その原稿紙のZEN談義の翌日、ニューヨークのある新聞記者が、コロニイの取材にやって来た。めずらしい外国人というわけで、もちろん、彼は「森のコッテイジ」にもやって来たが、わるいときに来たものである。私はベッドを外に持ち出してまさにヒルネしようとしていた矢先だったのであった。彼は私のその姿態を見て大いによろこび、日本製写真機「ナイコン」(ニコン)で何枚も写真を撮った。「私はZENを横臥の姿勢で行なっているのだ」私は照れかくしにいいかげんなことを言った。「なるほど、仏陀のネハンも横臥の姿勢であったね」新聞記者氏は新聞記者だけあってえらく学のあることを言い、満足げに合点した。
要するに、コロニイはこの世の「天国」というものであろう。しかし、「天国」というものは長く住めるところではないのである。一と月もいると、誰もが例外なく少しおかしくなってくる。このエカキが一と月いるのか、それとも昨日来たばかりなのか、一眼見て判った。「天国」長期滞在者は、すべてとろんとした眼をして背中をかがめ、挙動落ちつかない。
ことに芸術家というものは、洋の東西を問わず、やきもちやきであるらしい。私はつぶさにそれを知ることができた。
どういうわけからか、そのときコロニイには作曲家がワンサといたのである。その上、えらく有名なのが一人いたから、余計たまらない。あいつのホット・ケーキの食いっぷりがいけないというのまで、音楽の評価にそのまま結びついた。もっとも、考えてみれば、批評などというものはそんなものであるのかもしれない。とにかく、悪口の言い合いであった。きき手は主として私であった。私は小説を書く男で音楽には縁がなく、その上日本人だからもっとも中立、安全であったからであろう。入れ代り立ち代り、彼らは私のところにやって来るのであった。もちろん、手ぶらで来るのではない。ウィスキーとかジンとかをぶら下げて御来訪になる。
一度、わが室で悪口を言っているうちにベロンベロンになったオッサンと、深夜のドライブに出かけたことがあった。私もいいかげん意識モーローとした矢先だったから、彼の車で出かける気になったのだが、もう少しで、命を落すところであった。十分もたたぬうちに、車は巨大な岩石とも樹木とも家ともつかぬ(私も酔っていたから判定がつかなかったのである)ものに轟然とぶち当った。しかし、私のかたわらでハンドルをにぎる作曲家氏は泰然たるものであった。それも道理、よく見たら、そのアメリカではかなり有名な作曲家氏は、ハンドルに顔をおしあてて、ヨダレをたらしながらえらくかわいい寝息をたてていた。
単調な「天国」生活に刺激をあたえるためか、アフリカはカサブランカから、フランス人夫妻がはるばるやって来た。夫が彫刻家、妻が画家。(夫妻ともに芸術家の場合、二人ともコロニイに滞在できる。彫刻家=画家、作曲家=彫刻家というとり合わせが二組すでにいた。そうでなければ、奥さんのほうはピーターボローの田舎町で避暑かたがた御滞在ということになる。)
ところで、この二人は英語がかいもくしゃべれないのである。そこで、アメリカ人芸術家諸氏のフランス語の語学力テストということにあいなった。これは、へいぜい英語で苦労していた私にとっては、まことに気持のよいみものであった。
たいていがフランスにいたというふれこみであった。いや、半数はパリに「留学」していたのである。が、駄目であった。一言、二言、言うと、あとはみんな、ニヤニヤ、ニコニコとなる。これなら私の英語のほうが数等ましではないか。ニヤニヤ、ニコニコしないだけ、それだけでよほど上等というものであろう。
日本人は何かというと外人にニヤニヤ、ニコニコして困るという説がある。あれこそは日本人の劣等感をよくあらわすものであるという学説もある。しかし、ちょっと待って欲しい。外人と話をするとき、九九パーセントまでは、あちらさまは自分の国のコトバ、こちらさまは、その相手にとっての母国語であるもの、つまり当方にとっては異国語であるものをしゃべっているのだろう。母国語だから、相手はメチャなスピードでとばす、どうしてもそのスピードについて行けないから、当方にはニヤニヤ、ニコニコのあいの手が入ることになる。
早い話、英会話の本でも見ると、相手の言うことが判らなくなったら、おめずおくせず、「もう一度言ってください」を言うがよろしいとある。しかし、実際におやりになってみるとよく判るが、そういつもいつも、のべつまくなしに「もう一度……」をやっていられたものではない。社交上の会話というものは大部分がどうでもよいことなのだから、「私は明日の天気がよければいいのにな、とさっきからくり返し言っているのです(まだ判らぬのか、このトーヘンボクめ)」というような答を得るために、「もう一度……」を何度となくくり返すこともないであろう。いや、会話が重大な局面に入って人生の機微にふれてきたような場合も同じである。たとえば、彼女が「私ハアナタガドウモ好キナヨウナ気ガシマスワ」というようなことを聞きとりがたいささやき声で言ったとき、「判リマセン、マコトニスミマセンガ、ソコノトコロヲモウ一度言ッテクダサイマセンカ?」とやったのでは、それだけで万事おしまいということにもなりかねないであろう。よろしくこういうときは、なんとなく微笑、それもなるべく魅力的なのを一つなさるとよろしい。べつに訊ねかえさなくても、彼女がそんなふうなことを言ったらしいことは、彼女の眼を見ているだけで判るではないか。あとは、動作による国際語にものを言わせるとよろしい。
実際、このニヤニヤ、ニコニコには、たいへん積極的な効用があるのである。アメリカから日本へ帰る途中、各地で、それも英語などというものがこんりんざい通用しないところで、私はタダメシ、タダドマリの特典によくありついたが、そのときの唯一の武器は、このニヤニヤ、ニコニコであった。私はどこでも、「コンチハ、サヨナラ、アリガトウ」ぐらいのことしか言えなかったから、あとは手まねと身ぶりとこのニヤニヤ、ニコニコとで、「どこかタダで泊まれるところはないか?」というような複雑なことまで話したのである。先方さまも、やがてニヤニヤ、ニコニコし、ここへ泊まって行け、と手まね、身ぶりでやってくれる。
ニヤニヤ、ニコニコ談義が長くなったが、とにかく、コロニイはフランス人の到着以後、ニヤニヤ、ニコニコの洪水となった。フランス人はいかにもフランス人らしく茶目であり、またアメリカ人を小バカにしていた。アメリカの田舎には、夏になると「夏季劇場《サマー・シアター》」というのが開かれる。これはわりと最近にできた習慣であるらしいが、都会から避暑をかねて俳優がキャラバンをなして来るのである。ブロードウェイの劇場は、七月、八月は、そのため半数ぐらいがお休みになる。
その一つがピーターボローにもあった。一夕、みんなで連れだって出かけたことがあった。ブロードウェイで大あたりをとった喜劇を上演していた。フランス人夫妻は私と例のオバアチャン作家のあいだにはさまって見物していたが、そして笑うべきところはみんなにつき従って笑声を出していたが、わかるはずがないのである。これは私のほうとて大差がない。
ついでながら外国での芝居見物について、念のため、一言言っておこう。私は妙な男で、日本でお芝居、それも「新劇」というものをたえて見たことがなかったのだが、ニューヨークではどういう風の吹きまわしか、ブロードウェイ、オフ・ブロードウェイの劇場にやたらと出かけた。それで一つ判ったことは、まったく妙なことが判ったのであるが、劇というものは、あれは、どなっているか、普通の調子で話しているか、それともささやいているか、その三つのうちのどれかをしているのであって、とにかく判るのは、そのうち、まんなかの普通の会話の部分である。とすると、結局、三分の一しか判らぬことになる。まあ、それでよろしいのであろう。あとの三分の二は、想像力でこね上げるというたのしい操作に任せておけばよいのである。あるとき、オフ・ブロードウェイのちっぽけな劇場に友人に招かれて出かけたことがある。その友人はビートの劇作家兼俳優であって、そのときそこでしていた何トカいうビート劇の作者であった。むやみにどなりたてる劇で、かいもく判らなかった。すんでから、そいつが「どうだ、判ったか?」というから、たぶん、こんな筋だったのだろうと言ったら、彼は大笑いに笑いはじめた。主人公のビート青年が生きているのに私は首を吊って死んだのだと思い、そいつがそのあとで画一主義《コンフオーミズム》をいきどおって友人と一寸した議論のやりとりをするところを、私は、彼の死後の霊が葬儀屋の払いを心配したあげく、もう一度この世に現われて、葬儀屋と値ビキの談判をしているところだと思い込んでいたのである。奇抜なことを考えついたものであった。友人のビート劇作家兼俳優氏は手を打ってよろこび、そっちのほうが原作よりもっと面白いから、そんなふうに改作しようと語った。私は、それでは原稿料をよこせと言い、例のマクソリーのバーへ行き、彼の払いでしこたま飲んだ。
フランス人夫妻のことに戻ろう。とにかく、二人は笑うべきところにくるとケラケラ笑った。オバアチャン作家はそのたびに二人をふり向き、「面白いでしょう」と下手なフランス語で言う。フランスのオッサンのほうが大仰に肩をひろげて、「オオ、ナントスバラシク、ワンダフルデアルコトカ。あめりかノ演劇ノダイゴ味ガマッタクヨク判ル」というようなことを言い、そいつに、奥さん(はすてきな美人)は、「ウイ、ウイ」とうなずいてみせる。オバアチャン作家が満足げに眼を細め、舞台のほうに視線を戻すと同時に、オッサンは私のほうに向き直り、いたずらっぽく片眼をつぶってみせる。「なに、何も判るものか」
彼らがほんとうに気にいっていたのは、その田舎町唯一の映画館にかかる西部劇でありギャング映画であった。鉄砲やピストルの勇ましい場面が少しとぎれて、七面倒くさいラブ・シーンなどになると、オッサンは「パン、パン、パン」とどなりながら右手をあげ鉄砲を打つかっこうをして、次の勇ましい場面を催促する。いつだったか、私も同じかっこうをしながら、「パン、パン、パン」の大合唱をしていたら、周囲のお客からえらく怒られた。
フランス人夫妻のために自称通訳の役を買って出て、ニヤニヤ、ニコニコを適当にまぜながらその大役を果たしたのは、詩人のGであった。さっき私のコロニイでの最初の夕食について書いたとき、ボヘミヤン風の詩人と述べたのは彼のことである。彼はお世辞ぬきにして、よい詩人であった、すくなくとも、そうなるものと私に思われた。しかし、彼の未来のことなどは、今どうでもよろしい。
彼はむやみといそがしい男であった。独身寮では私の隣室の住人であったが、満足に夜自室にいたためしがない。日中は先ず女子大生とアイビキをしていたし、夜は夜でその夏季劇場の主演女優とよろしくやり、早朝御帰館になるのが常であった。
彼はコロニイを出るとすぐアメリカを離れて、イランのテヘランへ英語の先生になりに行くのであった。(かつてフランスでその経験があった。だからニヤニヤ、ニコニコまじりでフランス語があやつれたのである。)途中、日本へ寄って行きたいという。私も私で、日本へ帰る途中、ヨーロッパを通ってテヘランにも寄るつもりだったから、それではおたがいに友人を交換しよう、ということになった。
彼はかつてヨーロッパ、中近東を放浪してまわっていたことがある。で、各地に友人がいた。その友人の大半が、会ってみると判ったのだが、きれいな女の子であった。天性のドン・ファンといってよいかもしれない。どういう点でそうかというと、その女の子たちのみんながみんな、別れた彼のことをよく言うからである。彼と私の共通の友人が、おまえ、あいつのお友達のところに行くのはよいが、ピシャリと鼻先でドアをしめられるぞ、と言っておどかしたが、そんなことはまるっきりなかった。それにどこが似ているのか、たぶん「まあなんとかなるやろ」式に無鉄砲なところがソックリなのであったろう、私が彼に生き写しというわけで、いたるところで大歓迎であった。
もっとも、彼のほうも、私が宣伝につとめたせいもあって、日本で大歓迎であった。テヘランで彼に再会したとたん、彼は私の女友達の名を言い、彼女から今カン入りの酒がとどいたところだと言った。(酒は実はイランでは輸入禁止なのだが、税関で係官が、「これはジャムのようなものであるか?」と勝手にひとり合点したから、「そうだ」と答えて貰ってきたそうであった。)いささか嫉けることではあったが、なんせイランで日本の酒にありつくとは思わなかったから、ありがたくいただいた。
とにかく、いそがしい男であった。日本を出てからイランに着くまでの間に、もうバンコック、カルカッタ、ニュー・デリーの三個所に「お友達」をつくっていた。コロニイにいたときも、さっきも述べたように、日中は女子大生、夜は夏季劇場の主演女優とそれぞれよろしくやっていたのだが、実はその一方で、ブロードウェイのえらく有名な女優を、彼に言わせると「ホンモノノ恋人」にしていたのであった。彼女は、そのとき、テネシー・ウィリアムズのある劇の主人公を演じていた。彼のおかげで私はタダの券をもらってそいつを観に出かけ、ついでに楽屋に彼女を訪れたら、恋人の友達だというわけで大歓迎であった。彼女の自宅にもヒルメシの御馳走になりに行ったことがある。グリニッチ・ビリッジのアパートの屋上で、彼女お手製のサンドイッチをパクつきながら、彼女のおのろけをきかされたひとときであった。クリスマスの休暇にはテヘランへぜひ行くつもり、と彼女は別れぎわに言ったから、三月にテヘランに着いたとき、私は、さっそく彼に「いったい彼女はやって来たのか?」と訊ねた。彼は「来た」とそっけなく答え、それから、「あれはもう終った」ときわめて事務的につけ加えた。彼はテヘランで、今度はノルウェー人のお嬢さんと大恋愛の最中だったのである。
* * *
一夕、コロニイで、私はたのまれて日本の詩を読んだことがある。
短歌、俳句、能の一部を朗読し、それに私なりの訳をつけた。それは多大の感銘を彼らにあたえた。ホウというため息さえそこにはあった。もちろん、それは私の訳のせいではない、私のまずい訳を通してでも彼らにため息をつかせるほどに、原作がよかったのである。
そのあと、現代詩について一席ぶった。日本にもシンボリズム、ダダ、シュルレアリズムの運動があり詩があったということが、彼らを無邪気によろこばせた。その一席のあと、私は、「諸君の耳に痛いことかもしれないが……」と前おきして、原爆の詩を読んだ。
私がそれを読んだのは、彼ら――良識あるアメリカの知識人の直接の反応を知りたいからでもあった。「国際夏季学校《インターナシヨナル・サマー・スクール》」にいたとき、私はそこへ講演をしに来たパール・バック女史にある質問をして、ひと波瀾まき起したことがある。パール・バック女史の講演は彼女という「アメリカの良心」にふさわしいまことにもっともな主旨のものであった。「原子力時代の芸術」とかいう題名のもので、原爆、水爆が人類の生存をおびやかしている今日、アメリカの芸術はこれではたしてよいのか? というのであった。あまりにも非人間的な怪物になりつつあるアメリカの芸術を、われわれはもう一度、アメリカの良き伝統であるヒューマニズムにひき戻さなければならない――バック女史の結論は、おおむね、そんなふうに受けとられた。
それは、かねがね私自身が考えていたことだったから、私はまったく彼女の所説に賛成であった。いや、正確に言うと、賛成のはずであった。
はっきり言うと、私は彼女のコトバにひとつひとつうなずきながら、〈幸福者の眼〉の項でふれたことでもあるが、薄い透明なマクのようなものを、彼女との間に感じはじめていたのである。なんと説明したらよいか、私自身の例で言えば、敗戦直前の廃墟のなかで、一枚のタブロイド版の新聞を手にして、そのなかに「広島に新型爆弾投下さる」という見出しを発見したときに私が子供心に感じた恐怖とも虚脱感ともつかないもの、そいつをバック女史は感じたことがない――私は、たぶん、そんなふうなことを感じ、それが薄い透明なマクとなって私と彼女との間に立ちこめていたのであろう。私は立ち上がり、「原爆投下のことを知ったとき、あなたはそのとき何をしていたのか、またいったいそのとき何を感じたのか?」という意味のことを訊ねた。あとで考えてみると、それは余りにも直接的な質問でありすぎたかもしれない。また、私は英語が下手だから、その直接的な質問をもう一つ直接的に訊ねたきらいがあったかもしれない。バック女史の答は彼女らしい率直なものであったが、問題は聴衆の反応であった。当夜の聴衆は「国際夏季学校《インターナシヨナル・サマー・スクール》」の学生のほかに、町から町の住人と避暑客がたくさん来ていたのである。私がバック女史にそれを訊ねたとき、聴衆のあいだにざわめきが起った。ただならぬ気配さえがした。司会者があわてて質問打ち切りを宣して話題を強引に転じるまでに、その気配はただならぬものであった。
その後、町の人々から、私は同じように直接的な質問を受けた。代表的な質問は、「われわれは真珠湾以前に、おまえの国に対していったい何をしたというのだ?」そして、「おまえは真珠湾のニューズを聴いたとき、何をしていたのか、何を感じたのか?」
マクドゥエル・コロニイで原爆の詩を読んだとき、私はこの事件を念頭に入れていたのだった。その夕の聴衆は、私がこれから原爆の詩を読むと宣言したとき、そのときまで小声でささやき合ったりしていたのが、ピタリと静まり、それとともに異様な緊張感が一座にみなぎって行った。私は原民喜氏の碑銘になっている有名な四行詩を始めとして、峠三吉氏などの作品を、はじめ日本語で読み、ついで私の英訳(らしきもの)をつけた。みんなは、ただ黙って聴いているのみであった。
読み終っても誰も発言する者はなかった。司会者が事務的に礼を言い、みんなは立ち上がった。
私はいささか拍子ぬけした感で室を出ようとしたら、ドアのところで、ひとりの詩人が私を呼びとめた。「私はこれらの詩の発表に尽力したい」彼はそういう意味のことをひかえめな口調で語り、一言、最後につけ加えた。「アメリカのひとびとは、もっと知る必要があるのだ」
独身寮の入口のところで、それまでそこで私を待っていたらしい作曲家に会った。彼はそこで自分の戦争体験について語った。それまで知らなかったが、彼はオキナワ生き残りの勇士だったのである。彼がいかにして日本また日本人を憎悪するに至ったか、またどんなふうにしてその憎悪を清算したかを、芝居げのない口調で語った。
夜、一人の画家が私の室のドアをノックし、自分は個人的にヒロシマについて謝罪したいと、ただそれだけをつぶやくように言った。
反応は、すべて、そんなふうに静かなかたちできた。
黒と白のあいだ
――南部での感想――
「芸術家天国」を出ると、七月から九月にかけて、私は中西部から南部の旅行へ出かけた。ついでにメキシコまで足をのばした。ぜんぶバスで旅行したのである。ニューヨーク、メキシコ・シティ間は、直線距離にして、ほぼ長崎からシンガポールまでにあたる。それをシカゴ経由で大まわりして行ったのだから、その倍以上をバスでかけめぐったことになる。なかなか面白い旅であった。
この旅行のことは、〈アメリカの匂い〉のところでちょっとふれた。中西部の印象となると、何はともあれ、その「アメリカの匂い」が先ず鼻にくる。それが南部となると、そこに新しい一つの要素が加わってくる。それは、さしずめ「黒人の匂い」というものであろう。
マクドゥエル・コロニイにいたとき、私は誰かがこう言うのを聞いたことがある。「あの人は南部人ですが、よい人です」あわててそれはどういう意味なのか、と問いただすと、彼はニヤニヤ笑ってごまかしてしまった。南部へ出かけるのだと言ったら、Tも、あんまりユカイな目にあわないかもしれないが、これもアメリカの一面なのだから、とアメリカ政府のスポークスマンのようなことを言った。彼は北部人つまり「ヤンキー」だったから、南部ではろくな目にあったことがないという。Kはニュー・オルリーンズの出身で、そこで黒人解放団体に加わっていたこともあったから、なおさらであった。「ひどいぜ《オーフル》!」とただ一言言った。
南部人にも実は友人がいたから、私はそんなことは余り書きたくない。「南部人の客好き」というコトバもあるくらいで、みんな親切でよい人ばかりだった。しかし、それは私が日本人であったからであって、もし私の皮膚がまっくろで髪の毛がちぢれていたらどうであったか、私は残念ながら疑問に思うと言わざるを得ないのである。
南部へ行くと、御承知のように、レストラン、バー、駅の待合室、トイレット、映画館の席、バス、市電の座席、それらすべてに「白人用」「黒人用」の区別があり、われわれ日本人は、中国人、メキシコ人、プエルト・リコ人らと同じく「白人用」のに入ることになっている。(プエルト・リコ人について一言しておこう。プエルト・リコは今日事実上のアメリカの植民地だが、戦時中、彼らを「白人」の部類に入れるかどうかで論争が起きた。実際、彼らのなかには黒人とまごうぐらいのまでいるのである。彼らは結局「白人」に入ったが、その判断の基準の一つは、彼らの髪の毛が黒人のようにちぢれていず、まっすぐであるということにあった。この髪の毛がちぢれているということは、どうやら黒人のコンプレックスの一つらしく、黒人用の婦人雑誌などを開くと、コールド・パーマ液ならぬコールド・のばし液の広告がやたらと眼につく。)
とにかく、われわれは「白人」なのである。これはもちろん髪の毛がまっすぐなせいだけでなく、当りまえの話だが、たとえば私はよくニューヨークの黒人街ハーレムに出かけてバーに入ったが、そこに大きな鏡があって店内がうつっていたりする。まっくろな人たちがかたまって飲んでいるなと思ったら、そのなかにひとり白人がいる。オヤ、変だな、とよくよく見たら、それは自分だった、というような経験を私は何度もした。しかし、そうかといって、もちろん私は純粋の「白人」ではない。アメリカの女の子のなかでもずばぬけて「白人的な」(つまり、真白い肌、そして金髪)北欧系のと手をくんだりすると、私の皮膚には、少し色がついているのがよく判る。――
この「少し色がついている」というのは便利なことでもあった。ハーレムのバーに純粋の白人が入って来たら、やはり、そこにはそこはかとないながら敵意のようなものがかもし出されてくる。私はジャズをききによくハーレムの大衆劇場アポロ劇場というのに出かけたが、とてもひとりでは入る気がしないというのが私の白人の友人たちの意見であった。私は料金の安い二階席に陣どったが、そこから見下ろす光景は、まさに、黒、黒、黒、で、すこぶる壮観であった。「よくあんなところへ行くね」と言った日本人もいたが、私に対する彼らの反応はまったく友好的であった。
いろんな黒人の会合にも出かけてみた。政治的なのにも顔を出してみたが、たとえばドアのところに用心棒氏がいても、私は文句なしに入れてくれるのであった。一度、「白人はいかぬ」という用心棒氏とゴタゴタしていたら、「彼の皮膚を見よ。彼はわれわれの味方だ」という男がなかから現われて、難なく入ることができた。
ひとつ、変てこな集会とも儀式ともつかないものに出たことがあった。「アフリカ正月」というのである。九月二十五日が、それがいったいアフリカのどの地方でそういうことになっているのか、とにかく正月であった。
アメリカの黒人の政治運動には、大ざっぱに言うと今二つあって、一つはわれわれのよく知っているもので、アメリカ国内で人種的差別を廃し黒人の地位を高めて行こう、というのである。もう一つのは、これは耳あたらしいことだったが、もうこんなアメリカのような腐ったところに用はない、アフリカには今われらのはらからが国づくりにいそがしい、みんな帰ってそれに協力しよう、というのであった。この後者のほうも、今、なかなか力を得てきつつあるようであるが、「アフリカ正月」も、そうした連中の企画したものの一つだった。
少しばかり珍妙な儀式が、大きなホールのなかでとり行なわれていた。おかしげな白衣を着こんだ男が壇上にたって、ニワトリを抱き上げたり下ろしたりする。そしてわけのわからない、ノリトのようなのを誦している。
さっぱり要領を得ないから、かたわらの黒人に訊いてみたが、実はおれも判らぬと答える。いや、考えてみると、儀式をしている当の本人だって、彼は明らかにアメリカ生まれでそんな神秘的なノリトよりもモダン・ジャズのほうがお得意と見えたから、なんのことやら判らないでいるのにちがいなかった。それとも、ひょっとしたら、あの儀式も彼らの新案のものであったのかもしれない。
呆気にとられていたら、お供物のお下りだといってサツマイモのふかしたのをくれた。入口のところに白人の警官がいて、そいつが私に「どうだった、面白かったかい?」と話しかけてきたから、そのサツマイモをおすそ分けしようとした。警官はあわてて手をふって、「ノー・サンキュー」と言った。
こんなたぐいの話をシカゴである女の子にしたら、うらやましがって、黒人街へ連れて行けという。女の子はれっきとした「白人」であった。私と行けば安全だというのである。で、出かけた。
あるバーへ入ってみた。ちょっとした舞台があり、そこではジャズ、それもモダン・ジャズ、ホット・ジャズのあつあつのところを演奏している。彼女はシカゴ生まれだが、黒人街のバー見物は初めてであった。入りしなにドアのところで彼女の顔を見たら、ナニ大丈夫ヨ、とでもいうふうにニッコリ魅力的に笑ったが、緊張その極に達しているのが、こわばった頬の動きからよくよみとれた。
バーのみんなはいっせいにわれら二人を見た。白いのが入って来ることだけでもそこでは一寸した事件だろうが、その白いのがえたいの知れない黄色いのを同伴している。さっそく、いろんな奴がいろんなことを話しに来た。例によって、日本帰りのもと兵士もいた。「あのころはよかった」そう述懐するやつの横手から、誰かが「おまえたちは恋人同士であるのか?」とぶしつけなことを訊いてきた。そんなふうにも見えたかもしれない。女の子はいささかこわいのであろう、私のそばにえらくくっついていたのである。
もっとも、こうした問答もてきぱきと運んで行ったわけではない。これは言っておく必要があるが、黒人の英語というものはとびきり判らないのである。人種問題を論ずるのもよい、彼らのなかにとび込んで行って何かしてやろうと考えるのもよい。だが、先ずあの英語をなんとかモノにしなければ、第一、彼らが何を言っているのか判りもしないであろう。男性のほうはまだよろしい。難物は女性であった。白人の女性よりも声が一オクターブも高いのであるか、典型的なキンキン声であって、それだけでもけっこう神経が疲れてくる。白人にきくと、彼らでもよく判らないことがあると言ってこぼしていた。あるとき、黒人の女の子を連れ「散歩」としゃれこんだら、たった二時間しかデイトしていなかったのに、帰って来たらフラフラであった。何もホテルなどへしけこんだのではない。単純に英語で参ったのである。なかなか魅力的な女性で私は好きであったが、あれではどうしようもない。ザンネンである。
そのうち、舞台でサキソホンを吹いていた男が降りて来た。「どんな曲をやりましょうか?」と言う。私は彼らの難解きわまる英語で参っていた矢先だったから、なるべくやかましいのをやってくれ、と答えた。
とたんに上の拡声器から声が流れてきた。「これから演奏するリクエスト曲は何トカで……」「アラ、ココ放送局ナノヨ」女の子がびっくりしたような声を出した。なるほど、そう言われてよく見れば、バーの片側にガラス張りの小さな室があり、天井から吊り下げたマイクに向かって、アナウンサーらしいのが何やらさかんにまくしたてている。ニューヨークやシカゴには、こうしたプログラムもサイクル数も定かならぬモーロー放送局がやたらとあるのであった。大部分が移民相手で、イタリア語、スペイン語、ロシア語、ユダヤ語、ポーランド語などの放送をしている。
そのアナウンスの最後のところが、私の耳をとめた。アナウンサーは次のように言ったのである。このリクエストをされたのは美しい白人のレイディと、彼女のボーイ・フレンドであるジェントルマン(彼はつづけた)「彼は白人じゃない。では何だ? 黒人《ニツガー》か? NO、彼は日本人だ。He Stands between Black and White(彼は黒と白のあいだにたっている)……」
数日後、私はシカゴを去り、南部の旅へ出発した。
どこから「南部」(私は以後、南部というコトバをカッコつきでつかうことにする。たんに地理的な意味で、このコトバをつかうのではないからである)というものが始まるかというと、中南部でいえば、シカゴの所在するイリノイ州のすぐ南のミゾリー州からそれは始まるのである。東海岸では、ワシントンからポトマック河一つへだてたバージニア州から。
Tはかねがね言っていた。「南部」の人種差別についての本当の理解は、実際に「白人用」「黒人用」の掲示板を眼にしたときから始まるのだ、と。
私もそうであった。ミゾリー州の片田舎の小駅に私の乗ったバスがガクンととまり、その衝撃でそれまで眠っていた私は眼をさました。そのとたんであった。その二つの掲示が、私の視界にとび込んできたのである。私はガクゼンとした。いよいよ来たな、おいでなすったな、私はそう心のなかでつぶやいた。いつのまにか、身がまえるような姿勢が無意識的にかたちづくられていた。
こうして、私は生まれて初めて、同じ人間でありながら区別されている世界の一つに入った。
「白人用」待合室のまんまんなかで、私はおちつかない気持であたりを見まわした。なるほど、ここにいるのは「白人」であった。コジキのように服装のみすぼらしいのもいたが、彼もとにかく「白人」であった。そうであることにちがいはなかった。彼はただそれだけのことで、この広く清潔で明るい待合室に坐る権利をもっている。
ガラス窓があり、それごしに、向こうの別世界、「黒人用」待合室が見えた。うす暗く狭く汚い。そして、こちらの世界にはわずか五六人の客しかいないのに、それよりはるかに小さい別世界は、人間――黒い色をもった人間でみちていた。ベンチに坐れずに立っている人もいる。その人は、こちらのコジキのような白人よりも、はるかにゆたかに見えた。しかし、彼は「あちら側」にいる。
この二つの世界を見比べたときに、私の胸にわき上がってきたものを正直に書いておきたい。胸にわき上がってきたもの――それは感慨などというしみじみしたものではない。もっと激しく私の全存在を下からつき上げ、根底からゆり動かしたものであった。
それには二つあった。一つは、これで私も、いよいよ人種問題というえたいの知れない、それでいて簡単明瞭なものにいやおうなしに巻きこまれてしまったな、というどうしようもない気持であった。
それまで、はっきり言うと、人種問題は私にとっては他人事であった。私はハーレムに出かけ、黒人バーに入り、集会に参加し、黒人の友人をつくり、彼らとたとえばリトゥル・ロックについて議論をした。しかし、正直に言おう、それらはすべて知的好奇心の領域を出ないものであった、と。私はいつも問題の外側にたっていたのである。黒と白のあいだで、私は中立であり、どちらにも荷担しない第三者であった。幸いなことに、そうあり得た。
つまり、私はアメリカ人(フランス人でもイギリス人でもよろしい)に対するとき、彼が「白人」であるかどうかを問題にしたことはないのだった。今だって、私にはそんなふうな心の習慣はない。さっき私は、私のシカゴの女友達のことを叙するのに、「女の子はれっきとした『白人』であった」という一行をつけ加えたが、それはずいぶんと不自然さを感じながらそうしたのだった。
これは、たぶん、私だけのことではないだろう。すくなくともアメリカで私がつきあった若い世代の日本人たち(大部分が留学生であった)は、そうなのであろう。彼らが彼らのアメリカ人の友人のことを、「あいつは白人だから」どうのこうのというふうに言ったのをたえて聞いたことがない。もちろん彼ら、いや、私たちと言おう、私たちは、「白人」というコトバを往々にしてつかった。しかし、それは、たとえば友人のAは「白人」であり、彼のルーム・メイトは「黒人」である、といった場合においてのみでであった。つまり、「黒」と「白」を対立させる場合においてのみ、私たちは「白人」というコトバをつかったのであり、決して、それは、「白人」である彼ら対「有色人種」である自分という意味でではない。はっきり言って私は、それまで、アメリカで自分の皮膚の色を意識したことは一度もなかったのである。もちろん、さっき書いた北欧系美人との対照で、自分の皮膚には「少し色がついている」ということを感じたとしても、それがそのまま人種差別の問題に結びついて、それによって劣等感をかりたてられたというのではなかった。
「黒人」というコトバは、私たちはよくつかった。たとえそこに人種差別の観念がなかったとしても、なんとなく、「黒人」と自分たちはちがう、というような意識をもってつかっていたのだと思う。早い話、アメリカ人の友人をもっているというとき、誰しもの頭に浮かぶのは、白い皮膚をもったふつうのアメリカ人のことであって、もう一つの黒いアメリカ人のことではないだろう。後者の場合、「黒人の友人」というふうに表現するだろうと思う。そこに微妙なちがいがある。
今、日本人と(同じアメリカ人である)白人と黒人が三人いるとする。その三人が、べつに深刻なケンカをするわけでもないが、何かの拍子に二派に分かれるとする。これにはおよそふた通りの組み合わせが考えられる。先ず同じアメリカ人であるということで、日本人対白人=黒人。次いで、日本人=白人対黒人。後者の日本人=白人の結びつきの根底には、「アイツはクロンボだから」というのがどことなくあり、そしてこの後者になり得る可能性のほうが、政治的問題での論争を除けば、前者よりもはるかに大きいだろう。そしてこの場合、たぶん皆無なのは、日本人=黒人対白人の組み合わせではないか。白人と黒人の結びつきには「同じアメリカ人だ」というのが、また日本人と白人のそれには、「アイツはクロンボだから」というのがあるとすれば、日本人と黒人のあいだにも「同じ有色人種だ、人種差別に対して闘うべきだ」というのがあってもよさそうなのに、実はそういう意識は皆無といっていいほどない。つまりアメリカでは(南ア連邦では、日本人はもっと戦闘的に自分の「有色人種」の血にめざめることであろう)、日本人はなんとなく「白人」になってしまっている。(もちろん、就職、結婚などの問題になると、いまだに日本人に対する差別待遇というのが往々にして問題になる。たとえば、南部諸州には、有色人種――もちろん日本人をふくめて――との結婚は無効である、というおどろくべき法律がいまだに残存しているのである。)
もちろん、白人になっているからといって、それはあくまでなんとなくであって、意識的、積極的に、自分を黒と白の二つの陣営のどちらかに荷担させたというのではない。たぶん、やはり次のような言い方が正確であろう。日本人はその二つの陣営の対立の外側にたっている、黒と白のあいだで、その対立を、他人事として第三者として眺めている、高見の見物をしている。――
もう一言つけ加えよう。それは「南部」以外のところではそうであるのだ、そうであり得るのだ、と。
ミゾリー州の片田舎の駅の待合室「白人用」のそれで私の胸にわき上がってきたことの第一は、その心地よき快適きわまる高見の見物席から、自分が人種問題のルツボのなかにいやおうなしに放り込まれてしまった、気がついてみたら、そうなっていたという衝撃的な感覚だった。そいつは、ほとんど絶望のようにふかく私の存在に突きささった。もはや「白人用」と明確に区別されている世界にいる以上、私は黒と白の対立を他人事として、第三者として片づけ去ることはできない。「南部」では、ひとは、好むと好まないとにかかわらずどちらかを選び、そのどちらかに荷担しなければならない。
そして私は、たとえそれが私の本意からでないにしても、いやおうなしにであったにしても、「白」の側についた。私は「白人用」待合室のベンチにおちつかない気持で坐り、ガラス窓ごしに汚い別世界、そこの住人である「彼ら」を眺めていた。私はそうしながら、心のなかにいきどおりを覚え、「彼ら」のために終世闘わねばならぬ、と心に誓った。
と書けば、大向こうのカッサイをはくするかもしれない。しかし、それはウソだ。私は、もちろん、いきどおりを覚えはした。が、正直に言おう、私は何かしらホッとしたのだ。ヤレヤレ、あそこに入れられなくてよかったという見下げはてたヒキョウないやったらしい気持を、私は感じたのである。いや、ひょっとしたら、私はユカイであったのかもしれない。私はすでに「彼ら」を「こちらの世界」の眼で、つまり「白人」の眼で眺める、見下ろすことを始めていたのだ。それはたまらなく不快な経験ではあった。しかし、その不快さの底に、ある程度の快感が潜んでいたことを、私は今思い返してみるとき、どうしても否定することはできないのだ。
話はメチャメチャにとぶが、日本へ帰ってから、おまえは、おまえの世界のぶらつきのあいだ、劣等感を感じたことはなかったかというアホらしい質問を、アホらしいぐらいよく訊ねられた。どうしてそんなことが、いったいこれほどまでに気になるのか、とこちらが訊ねたくなるほどであった。私なら、どんなときにおまえは優越感を感じたか、と訊くところであったろう。事実、生来いばることが大好きなせいもあって、私は世界のあちこちで日本のことについていばりづめにいばっていた。(もちろん、いくらいばってみても、それは中国人やインド人ほどではない。彼らのいばり好きはちょっと比類がない。)
これを劣等感のウラ返しだなどと、きいたふうなコトバで片づけてほしくない。日本国の価値も、私が無邪気にいばってよいくらいのところにまでは上昇しているのである。アメリカの「日本ブーム」のことはすでに書いた。それは私たちにこころよいものであった。ヨーロッパへ行っても、あそこはアジアのことなどどうでもよろしいというアホらしいところだからアメリカほどでないにしても、それでもけっこう日本の名の通りはよいのである。
それに、なんにつけても、いばるタネというものはあるものである。(インド人諸氏のなかには、あのカースト制度でさえ、なんとか理窟をつけていばっていたのさえいた。)先ず昔のことからゆけば、歴史の長さ、文化のあること、能、カブキ、ホクサイ、ハイク、そしてかの世界に冠たるZEN(私が訪れた世界の二十二ヵ国のうちで、インテリからZENについて訊ねられなかった国は一国もない)……
私の父母、あるいは祖父母の時代なら、これでいばることはおしまいであろう。ところが、今なら、私はそのあとにつづけることができる。世界有数の工業国(「原爆以外は何でもつくれる」と私はいばることにしていた)、世界でもっともいそがしい、活力にとんだ国(これは日本を訪れた外国人がひとしく賛嘆もしくは慨嘆するところであろう)、世界有数のインテリ国(超満員の電車のなかでも、ひとは本を、それもサルトルでもフロイトでもマルクスでも読むではないか)、世界有数の映画国(フランスのある詩人が、「世界でただ一人会いたい人がいる」というから、「そいつは誰だ、フルシチョフか?」と訊ねたら、「いや、クロサワだ」という答であった。同時にその製作本数を見よ。これもまたものすごいではないか)、世界でもっとも自由な国(ある意味ではアメリカよりフランスよりもわが日本国ははるかに自由だ。ことに、欲しくない子供は合法的にまったく簡単におろすことができる。これも比類がない)、娯楽設備の世界一ととのった国(遊ぶのにこんなにベンリな国はない。あの見ただけで卒倒するぐらいえんえんとつづくレストラン、のみや、バー、喫茶店の列。またその喫茶店のすばらしさ。日曜であろうと、夜の九時であろうと、商店は開いていて、ちょっとものを買っても、ガンジガラメに包装紙で包みあげてくれる。その間頭上のテレビを見上げれば、ジャズ、タンゴ、流行歌、三味線、ナイター、おスモウ、スパゲッティのつくり方、茶の湯の作法、ボクシング、パリ風デザイン、ついでに、デモ、なんでもやっている)、そしてあのものすごい世界一の大都会TOKYO(私はアイルランドのダブリンで東京の紹介映画を観た。観客の誰もがホウーとため息をついた。私もため息をつき、ニューヨークやロンドンのような平穏無事な都会に暮らしたり見物したりしたあとだったから、いささかメマイを覚えた)……
いや、もう一つあった。私はこれこそは本心からいばることができたのだが、東と西、また中立陣営をとわず、世界の文明国じゅうで、徴兵制というような野蛮な制度がない唯一の国で、わが日本国はあるのではないか。私はこのことをもっと誇ってよいと思う。
とにかく、私はいばってばかりいた。日本人がいばらなくて謙虚な人種であることまで、私はあまり謙虚でなくいばった。
が、そういう私が、まるっきり劣等感を感じていなかったかというと、はっきりそうも言えない気もする。ある種の劣等感が、私のいわば意識下に潜んでいたと、私は残念ながら言ってよいような気もする。
それは、たとえば次のようなかたちで、表面に出てきた。
スペインを旅行していたときのことだった。
カテドラルで名高いコルドバへ行ったとき、私は街はずれのスラム街へ出かけてみた。スペインの貧困というものはヨーロッパではケタはずれのものだが、たしかに眼をおおいたくなるような情景が、そこにはあった。
私が好奇心にまかせて歩きまわっていたら、スラム街の住人もまた私に対する好奇心のとりことなっていたのだった。私の背後にいつのまにか子供たちの一団がうるさくつきまとうようになった。いや、大人までが数人、そこにいた。彼らは口々に喚声をあげた。
はじめ、私は彼らがつきしたがって来るのは、単なる好奇心のためからばかりだと思っていた。そのうち、彼らが実は私をバカにしてよろこんでいるのだということが判ってきた。彼らの笑いは明らかに嘲笑だった。
「チーノ、チーノ!」
彼らは口々に叫んでいた。彼らは私を中国人だと思っていたのである。私はふと気づいた。そしてどなり返した。
「ノー、ハポネス、ハポネス」
(ちがう、日本人だ、日本人だ)という心づもりであった。私の予期したとおり、一団の態度は急変した。まったくコロッと変ったといってよい。さっきまで最も戦闘的に私を嘲笑していた男が、私に近づき、握手をもとめた。彼は何か言っているのだが、もちろん、私のスペイン語の学力ではどうしようもない。ただ、その場のフンイ気から、私は次のようにこの男は言っているのだと想像した。「シナ人とまちがえてすまぬ。ハポン(日本)はシナとちがって、すばらしい国だ」その想像はまちがっていないだろう。たとえば、ニューヨークのボウエリイで、私は何度となく同じ経験をもったことがあるのだから。
おめでたい私は、むろんのこと、うれしくなった。そのオッサンと無邪気に握手をかわした。これは「スペインの片田舎で起ったこと」という短篇小説のよいタネになるな、私はそんなことを考えながら、上機嫌で別れた。そして別れてから気づいた。私が上機嫌だったのは次のようなことを言われたためではないのか。
「シナは野蛮国でヨーロッパの先進国とは比較にならないが、そのシナに比べると日本はまだマシであって、どうにかヨーロッパの仲間入りをすることができる。さあ、おまえさんよ、われわれはおなさけによって、おまえをヨーロッパ人とみなすから、いっしょにシナ人などという野蛮人を見下そうではないか」
私の黒人に対する気持にも、そんなところがあったのではないか。そしてたぶん、このことは、あらゆる人種問題の底に潜むのであろう。
ニューヨークに帰ってから、私はユダヤ人の女の子に、ミゾリーでの挿話、というよりはその「白人用」待合室で私が感じたものについて語った。つねひごろ、同じ人種的偏見に悩まされているユダヤ人のことだから、私は無意識的ながら彼女に共感の溜息を期待していたのだろう。しかし、彼女の反応はみごとであった。彼女はやにわに笑いはじめたのである。大声できわめてユカイげに彼女は笑った。彼女によれば、問題があまりリアルすぎて、彼女に密着しすぎていて、笑わざるを得ないのであった。さもなければ私は泣き出すであろう、彼女はそうつけ加えた。
彼女はそれを「|身代り山羊《スケイプ・ゴート》の神話」と呼んだ。それは――ある社会での少数グループが自分の劣等感をまぎらすために、他の少数グループに攻撃のホコ先を向け、優越感を誇示する、あるいはそこはかとなきそれに耽溺する。「つまり、そいつは一種の人種的マスターベイションなのだね」私がそう言い、彼女はうなずいた。
アメリカでの場合、たとえば、黒人はユダヤ人を軽侮の対象にする。私は、前記アポロ劇場で、黒人の漫才師みたいのが、ユダヤ人の口まねをしてこっぴどくやっつけていたのを聴いたことがある。反対にユダヤ人は黒人をやっつけ、アイルランド人、イタリア人をバカにする。この人種的マスターベイション劇への最新の登場者はプエルト・リコ人であろう。誰もが彼らを白い眼で見、その結果、いよいよ彼らはアメリカの社会問題となる。そして不幸なことに、彼らにとって、まだ彼らの「|身代り山羊《スケイプ・ゴート》」は見つかってはいないのだ。
私は「南部」を重苦しい気持で旅行した。楽しいことも多くあった。ひとびとは親切であった。が、「白人用」「黒人用」に関して、私は重苦しい旅であったと言わなければならない。
いや、むしろ、それは私自身に関していることなのだろう。人種の差別にたえずいきどおりを感じながら、それでいて「白人」の世界に安住している自分、それをこそ私は重苦しいものに感じつづけていたのだろう。
私は「南部」でも黒人街へ出かけ、彼らと酒を飲み、彼ら専用の映画館で映画を観た。しかし、はっきり言おう、私の内部の「白人」の眼は、そのどこにもついてまわった。
「南部」の旅行を終え、ワシントンにバスが着いたとき、あんうつな曇り日ではあったが、私は陽のいっぱいに照りわたる広い野原に躍り出たような気がした。
そこには、ワシントンのバスの駅には、旅行のあいだ、しつように私についてまわった「白人用」「黒人用」の二つの掲示がなかったのである。ニューヨーク行のバスを待つあいだ、私は待合室のベンチに黒人の老婆と白人の青年とにはさまれて坐っていた。
ふたたび、黒と白のあいだであった。私はホッと安堵の息らしいものをついたが、「南部」を見てしまったあとでは、もはやそこに安住できないであろう自分を、一方では感じているのだった。
「月世界」紀行
――「文化大使」メキシコへ赴任す――
せっかく南部まで行けば、メキシコへ足をのばさなければソンである。それに、メキシコといえば、名を聞くだけで、なんとなく血湧き肉躍ってくるではないか。あそこには何か変ったものがあるにちがいない。私は、深夜、バスでテキサスの原野を横切りながら、しきりにこれから行くメキシコのイメージを心に描いていた。ソンブレロとかいう例の大きな帽子、生きたニワトリを抱いて売りにくる農夫、あるいは高原の都メキシコ・シティ……
バスのなかには、すでにメキシコ人がたくさん乗っていた。御承知のことと思うが、メキシコ人のなかには、日本人そっくりなのがいるのである。例のインディオという原住民であった。私のとなりに坐っていたのなんか、私の東京の友人そっくりで、あわて者の私は、危く「おい、おまえ、なんでこんなとこにいるんや」と訊ねかけたほどであった。しかし、彼は正真正銘のスペイン語を話す。エンピツを落したので拾ってやったら、「サンキュー」の代りに「グラーシアス」と言った。
私はラレドという田舎町でアメリカに別れを告げ、メキシコに入った。ラレドとメキシコ側のノイベ・ラレドとの間には、リオ・グランデがチョロチョロと流れている。(この西部劇でおなじみの河は、実際にはかなりの大きさだったのだが、私はもうそのころは大きなもの、ばかでかいものに食傷していた矢先だったから、まったくチョロチョロの感じであった。)そのリオ・グランデに一本の橋がかかり、両側に税関があり、それが国境というわけであった。
わずかに二百メートルほどの距離、ブラブラ歩いて行ってもほんの五分もあれば着くだろう。しかし、そのわずかな時間のあいだに、世界は文字どおり一変するのである。
私はそれからも日本に帰りつくまで、いろいろなところでいろいろな国境を越えたが、あんなにまで極端な対照を見せる国境を見たことがない。先ず文化の差異というものがあろう。河のこちらはアメリカ語でありスーパー・マーケットでありスープのカンヅメであり、要するに「アメリカの匂い」にみちみちているのに、橋一つ向こうは、スペイン語であり古びたカトリックの教会堂でありソンブレロであり生きたニワトリなのである。しかし、もっとガクンとくるのは、いわずと知れた生活水準の差、金持国と貧乏国の差であった。
もちろん、たとえばヨーロッパの貧乏国スペインへフランスから行けば眼をみはることも多いだろう。しかし、その当のフランスだって、たいしていばれた金持国ではない。すくなくとも両者の差異は、世界一の金持国アメリカからスペイン程度、せいぜいそれよりちょっとまし程度のメキシコに出かけたときほどの急転直下なものではない。
それはまさに急転直下であった。税関の建物を出るとともに、ボロをまとったハダシの子供がワアッとむらがって来た。チューインガムを売りに来たのだが、私はとたんに敗戦直後の日本の風景を思い出し、それから思いは勝手に進んで日本のもろもろのこととなり、とどのつまり、当然の帰結として、われわれの貧困という壁につき当った。私はウンザリして、なんということもなくトイレットに入った。
手を洗おうと思ったら、水が出ない。ここから橋一つ向こうのラレドでは、栓さえひねれば水はおろか、手のつけられないほどの熱いお湯さえがほとばしり出たというのに、ここではお湯はもちろんのこと水も出ない。一滴たりとも出ないのである。そのとき、私の横にいてさっきから私の一挙一動を興味ぶかげに見ていたアメリカ人が私を見てニヤリとし、それからこう言った。
"This is Mexico."
出会いがしらにガンと一発やられたというのは、こういうときのことを言うのであろう。なるほどうまく言うわい、「これがメキシコだ」か――そう思って感心したのは、アメリカ人が立ち去ってしばらくしてからであった。私はそれまで、まったくアホウのようにそこに突ったっていたのである。
つまり、私は慣れきっていたのである。栓をひねれば水はおろか、お湯までがほとばしり出るという生活に、である。そいつは、日本から来た当座は、たしかにショッキングであった。しかし、アメリカで一年暮らしているうちに、私は、いつのまにか、それをあたりまえのこととして、いわば、どこの国のどこの人間であろうとやっていることとして、受けとることを始めていたのである。
その「慣れ」がどんなに危険なことであるかについては、私はすでに〈何でも見てやろう〉の項でふれた。その危険を、私はそのとき、まざまざと思い知らされた感じであった。
第一に「貧困」という問題がある。私が今メキシコに来ないで、したがってそのトイレットに入らず、金持国アメリカから直接貧乏国日本へ帰ったとする。わが家の水道栓をひねる。むろんのこと、そこからは絶対にお湯などはほとばしり出てくれない。そのとき、私はいったい何を考えるのだろう? 今日の世界をおしなべて言えば、栓をひねればお湯がジャージャーというのはきわめて特殊であって、水さえが出ないのがむしろ普通のことであるのを忘れ、その一事でもって、わが故国はなんという貧乏国であり野蛮国であるのかと嘆きはじめかねないのである。
ことは生活水準だけの問題ではない。アメリカ式生活、たとえばメシを食いながらコーヒーを飲むといった生活様式に慣れきっていた私は、そいつが「西洋」だと思い、そうした眼で、日本のもろもろを見ることだってやりかねないのではないか。
私は何でも見ようと思った。あらためて、私はそう思った。水の出ない国も、チョロチョロの国も、お湯の出る国も、出ない国も、私はすべてを見て歩かねばならない。私はそのとき、はじめてはっきりと、アメリカからの帰途、ヨーロッパ、アジアをまわって帰国することを決意したと言ってよい。そんなふうな決意を胸にいだきながら、私はメキシコ・シティまで二十時間で突っぱしる大型バスの客となった。
サボテンが点々と生い茂る原野にまっかな夕陽が落ちて行く。そんな風景に気をとられていたら、よこの肥った男が話しかけてきた。すでにバスのなかにはスペイン語が充満していたが、彼は英語ができたのである。彼はのっけから私をびっくりさせるようなことを言った。「私は政治的亡命者なのだ」「どこから?」私はいささかドギマギしてオーム返しにきき返した。彼はゆったりと答えた。「ハイチ共和国」
ハイチ共和国なんてのがあったっけ。私はあわてて高校時代の地理の知識を喚起したが、どうもピンとこない。なんでも現今の大統領というのは独裁者であって、彼はそいつに反抗したあげく命が危くなって逃げ出したというのだが、なおよくきいてみると、彼は前の大統領、つまり倒されたほうの親類か何かであって、以前はけっこう甘い汁を吸っていたように見受けられた。すくなくとも、彼のタイコ腹はそんなふうに語っている。「住民の大半は無知なニグロさ」彼は吐きすてるように言うが、彼自身が黒人か、それともそれとの混血児としか思えないほど黒いのである。
そのうち、これはそれから何度もくり返されたことであるが、「パッサポルテ」と触れをしながら警官が入って来た。パッサポルテ、すなわち、旅券を見せろ、というのである。ハイチ共和国の志士氏は、もちろん、パッサポルテを所有していない。その代り、彼はフトコロから何やら手紙らしいものを取り出した。それが彼の亡命者としての身分を証するものであったらしい。警官はちょっとそれを見たが、べつに好奇心をそそられた様子もない。きわめて事務的であった。
「簡単だね」
「なにしろ、ここの連中は亡命者に慣れているからね」
ハイチ共和国の志士はこともなげに答えた。
たしかに、メキシコは亡命者に慣れているし、またそれにみちあふれてもいる。
メキシコ・シティで私がころがり込んでいた(正確には彼のところにではない。後述のところ参照)アメリカの半キチガイの小説家が、すてきな法律の存在を教えてくれた。合法的にメキシコに入国した場合、五年たてば市民権がとれる。また非合法に入国した場合は、十年待てばよろしい、というのである。どう考えても、なんだか妙な法律であるが、彼の友人がその非合法組の一人であった。「どうしてつかまらないのだ?」ときいたら、その友人は、政府の高官のところに居候になっているからだ、という返事であった。どうもよく判らないが、たぶん、それは半キチガイ氏のヨタッパチでなくて本当であろう。メキシコには、なんでもあり得るような気がする。
事実、奇妙なひとびとに私は会った。会いすぎたと言っても言いすぎではない。半キチガイ氏もその一人だが、彼が編集をしていた観光雑誌の事務所に上品なオバチャンがいた。私は彼女はメキシコ人だとばかり思っていたら、ある日、「私はもうここへ来て十年になる」というようなことを言う。「あなたはメキシコ人でないのか?」彼女はケラケラと笑い、「今の国籍はね」と軽くいなすように言い、どこの国の生まれか、あててみよときた。そんなこと判るものか。中南米の国名十ほどあげて降参したら、彼女はケロリとして言った。「私、ヨーロッパ人なの」
ポーランド人であった。半キチガイ氏が「あれはえらいんだよ。すくなくともえらい人の奥さんだったんだよ」と、しごく真面目な表情になった。元メキシコ駐在ポーランド大使夫人。夫と離婚さわぎのあと、ここにずっと住みついている。変なオバチャンで、トーマス・マンの親友であったとか言った。「トーマスちゃんがね」というような調子で、彼女は文豪を語るのであった。
半キチガイ氏のかかりつけの精神病医というのも、これもまた、亡命者であった。ロシア系ユダヤ人。メキシコ・シティで英語が話せるただ一人の精神病医というわけで、彼のノイローゼ患者相手のグループ療法《セラピイ》はたいした人気をもっていた。半キチガイ氏によれば、メキシコのインテリの大半はかつて彼の手にかかったことがあるそうだったが、たとえば彼のそのグループ療法《セラピイ》のあるグループは、次のようなメンバーで構成されていた。
○メキシコの左翼進歩的哲学者 ○ベネズエラの世界的に有名な(という)交響楽団指揮者夫人(もと共産党員) ○アメリカのかなり高名なピアニスト ○スペイン内乱の亡命者で麻薬常習者 ○アメリカの離婚夫人(後述のところ参照)でビート詩人で自称かわいい女 ○アメリカの女と結婚しメキシコ人の情婦とデンマーク人のゲイの友人をもつアルゼンチンの元ペロン党員。
このお医者さん自体が、しかし、どうもおかしいふうに見えた。まったくドストエフスキー的な医者であって、彼の内部はかの文豪のように怪奇でアホらしいものにみちみちているように思われた。彼のライフ・ワークは右にあげたようなややこしい連中の治療などにあるのではなく(彼はそう私に広言した)、「死とはいかなるものか?」という高遠な書物を一冊出すことにあった。それは英語で出版されることになっていて、先生自身は立派な英語が書けないから、実際の執筆は半キチガイ氏が行なっているのであった。
とにかく、メキシコは亡命者にみちている。御承知のとおり、日本からの亡命者、セキ・サノ氏までがそのなかにいる。彼はメキシコ演劇育ての親で、とてもえらいのであった。メキシコのインテリは誰でも彼を知っているし、また彼も誰でもえらい人を知っているのである。一種の名物男になりかかっているように見えた。しかし、彼のことはあとに述べよう。
亡命者のうちでもっとも多いのは、スペイン内乱からのそれであった。私はメキシコの文学者にかなり会ったが、おどろいたことに、半数がスペインの亡命者なのだった。「この国では、メキシコ人のインテリに会うのはまったく困難だ」私が悲鳴をあげたら、半キチガイ氏はわが意を得たようにうなずいた。
半キチガイ氏とはべつに前から知り合っていたわけではない。シカゴでぶらぶらしていたとき、私は本屋の店頭で英文のメキシコの観光雑誌を見つけた。そいつを買ってきてパラパラとページをくっているうちに、ハタと名案を思いついた。もともと私はメキシコで文学者、ことに私ぐらいの年の若い無名の文学者に会いたかったので、編集者に手紙を書き、あなたの知己に作家がいたら紹介してくれないかと頼んだのである。折り返し返事がきた。私が自分の手紙に「私は貧乏でまったく無名の日本の作家である」むねを明記しておいたら、「ワガ親愛ナル貧乏デマッタク無名ノ日本ノ作家ヨ」という書き出しで、要するに、よろしい、万事引き受けた、といううれしいものであった。
その編集者が半キチガイ氏だったのである。私はメキシコ・シティに着くとすぐ、彼に電話をかけた。「すぐ事務所にやって来い」という。わりとモダンなビルディングの三階にある事務所に顔を出したら、丸坊主でえらくノッポな男が出て来た。その男が彼であった。名をサムといった。頭を丸坊主にしているのは、のぼせないためであった。
私がどうしてサムのことを半キチガイと呼ぶのかというと、彼は、私と初めて会った数日前に、精神病院(そこにさっき書いたドストエフスキー医者がいた)から退院して来たばかりだったからである。私にくれた手紙も、実は病院で書いたのだという。いったいもう大丈夫なのか、と念をおしたら、ウンとうなずき、おれの病気は小説の仕事さえしなければ発病しない、タイプを叩き出すとてきめんにおかしくなるんだ、とつけ加えた。
五年前に、アメリカのある財団から「メキシコをテーマとした小説を執筆するために」お金をもらい、メキシコ・シティへ来たのだという。お金は一年で切れ、彼の才能のほうもどうやらそれとともに切れ、ある日思いたって原稿のすべてをダンロの火にくべ、その後、メキシコの女二人と関係し、それぞれ二人あて子供をつくり(男が三人で女が一人だったか、いや、その逆だったかな――彼はすこぶる心もとないのであった)、メシが食えなくなっていろんな職業を放浪、ついにこの雑誌に拾われたのだという。
「泊まるところはあるのか?」ときくから、「ない」と答えると、「それではおれのところに来い」と気前のよいところを見せる。願ってもないことなので、さっそく、郊外の彼の家について行った。文部大臣の隣家にあたり、たいへん立派な家であった。おまけに召使がいる。インディオの女の子二人。貧乏は貧乏でも、さすがアメリカの貧乏はちがうわい、と私は妙に感心した。
深夜、さかんに雨が屋根を叩くような音がするので耳をすませてみたら、それはたしかに隣室でサム氏がタイプを叩く音であった。ときどき何やら野獣のごとき叫び声をあげるところから判断すると、どうやら彼は小説を書きはじめた、つまり狂いはじめたらしい。えらいところへ来たなと思ったが、案じてみたところで、どうともなるものでない。そのうち安楽に眠ってしまった。
翌朝、サムが起しに来た。どうやらまだ正気らしい。階下へ降りてみると、彼はかいがいしく朝食の準備をしている。「昨日の女の子はどうしたんだ?」と訊ねると、今朝お金がないことを発見したので、今しがた里へ追い帰したところだという。
二三日たってかなり親しくなったころ、そんなにお金に困っているなら、こんな大きな家は引き払ってもっと小さいのに移ったらどうだと言うと、彼はやにわに笑いだした。この家は彼の友人の友人宅で、彼は要するに留守番をしているのにすぎなかったのである。サムの友人の友人がサムの友人に留守を頼み、その友人がまたサムに留守を頼んだというややこしいことになっている。「いったい連中はどこへ行ったんだ?」と訊ねると、友人のほうは太平洋岸へ、友人の友人のほうは大西洋岸へ、それぞれフカ釣りに出かけたのであるというトボけた返事であった。
考えてみると、これでは、私は友人の友人の友人宅にころがり込んだことになる。しかし、今さら恐縮したってどうともなることではない。私は、私から言えば友人の友人の友人の夫人もしくはガール・フレンドのものであるにちがいないパンティがタンスいっぱいにつまっている(私はあんなにもおびただしい量のパンティを見たことがない)という奇妙な室で、それからもずっと暮らすことにした。深夜になると、あいかわらずサムはタイプを叩き、奇声を発したが、なにかまうことはない、とにかくタダですむことではないか。
そこを根城として、私はメキシコ・シティ探索を始めた。
メキシコ・シティは人口五百万と四百万のあいだというから大都会である。五千メートル余の活火山ポポカテペトルのふもと、もと湖だったのが火山の噴火でうずめられたあとに大きく無秩序に、まるで東京のようにひろがっている。海抜二千四百メートルとか言った。市民はみんななんとなく慢性高山病にかかっているらしく、メキシコ人の事務がはかどらぬのもそのせいであると、メキシコ・シティ在住の外国人はカゲ口をきいていた。もっとも、お金がなくて酔っぱらいたい人には好適な土地である。高さのかげんか、少し飲めばすぐ酔ってしまうのである。
気候は理想的であった。年じゅう日本でいうなら秋の気候。そのくせ、熱帯だからブーゲンビリアが真紅に咲き乱れている。太陽はカッカッと輝くのだが、それでいて、真夏でさえ暑くない。真夏は雨季。夕方、必ず一雨驟雨がきて、それが上がると急激に気温が下り、下手をするとコートがいるくらいの涼しさになる。
中心に中南米を通じて一番高いという摩天楼「トーラ・ラテン・アメリカーノ」がそびえ、そのまわりにえらくモダンな建物がたち並んでいる。しかし、メキシコ・シティでは、建物はすべて沈む。地盤が湖のあとだから極端にやわらかいのである。いい標本が、美術館と劇場をいっしょにした「国立芸術殿堂」(とでも訳すのだろう)であった。大理石づくりの立派なのが、ポッコリ街路から数メートル沈んでいる。
だいたい、あまり細部に拘泥しないのがお国がらなのであろう。立派な目抜き通りのあちこちに穴があいているのはまだよいとしても、数年前の地震の名ごりというすさまじい二つのビルディングを見た。一方は右へ傾き、他方は左へ傾き、二つはアタマをつきあわせて、辛うじてバランスを保っているのであった。
御自慢の大学へも行ってみた。種々なモダン建築。壮大な壁画。校庭にはブーゲンビリアの真紅。勉強にはどうか知らないが、すくなくともヒルネには申し分ないところと見受けられた。
一代目の学長だったか文部大臣氏だったか忘れたが、とにかくこの大学を建てたことに関係したえらい人の巨大な銅像があった。「あれ、誰に似てますか?」私を案内した学生氏は、先ずそう訊ねた。スターリンに似ているのであった。まったくそっくりの感じで、トロツキイが生きていたメキシコであんなのがそびえているとは、ずいぶんと皮肉なことであるのにちがいなかった。
この大学にも、細部に拘泥しないメキシコ人かたぎが見られた。すばらしいデザインの建物に入る。内部の壁画もすばらしい。さらに中へ進もうとする。と、扉が開かない。カギがかかっているのではなく、天井が傾いているからであった。「あれは政治がカギをかけているのです」メキシコ人のインテリがうまいことを言った。「新しいものをつくるのは名誉だし人気とりにもなるから、政治家は誰でもやる。修理したって名誉にも何にもなりませんから、あんなふうにあのままになっているのです。この大学も外観は立派だが、あまり目だたない肝心の学生の学力は……」彼はコトバをにごした。そのインテリ氏は大学の教師だったのである。
しかし、どことなくのんびりしていてよろしい。大いに気に入った。メキシコ・シティに到着した翌日は、休日でもないのにたいていの事務所などがお休みであった。ふしぎに思ってサムに訊ねたら、「今日は議会で大統領が演説するんでね」と笑いながら教えてくれた。法定の休日ではないが、国民の誰もがきけ、というわけかそうなっている。おまけに、その日はアルコール類が一切販売禁止であった。しらふで演説をきけ、というわけであろう。
大統領の演説はテレビで拝見したが、なるほど休日にする必要があるわい、と納得がいったほどばか長いものであった。三時間はつづいたであろうか、大統領が児童福祉について一席ぶてば、そのあいだは託児所の写真が映り、国防を論ずればオモチャの兵隊さんよろしく騎兵隊の悠悠濶歩、もしくはジェット機の編隊飛行が画面に現われるしくみになっている。シケイロス氏などから言わせれば、この政府はアメリカに魂を売った資本家たちの腰抜け買弁政府であったが、アメリカからヒョコヒョコやって来れば、かなりな社会主義国に来たような感じをあたえる。アメリカ資本の石油会社を接収して国有化したのはかなり以前のことであるが、それの記念碑というのが、目抜きのシャンゼリゼみたいな大通り、パセオ・デ・ラ・レフォルマ(「改革通り」とでもいうのだろう)に突ったっている。ついでに、アメリカ人がいつも指摘するメキシコ人のメキシコ的矛盾は、彼らはアメリカ資本、アメリカ帝国主義を何かといえば目の敵にするが、きっとそうしながらコカ・コーラを飲んでいるのだろう、というのである。あるところでヒルメシをよばれたら、のっけから、「どんなコーラを飲みますか?」と言われてめんくらったことがある。とっさに答えられず黙っていたら、「コカ・コーラ、ペプシ・コーラ、ヘチマ・コーラ、ナスビ・コーラ……」と順にあげて言ってくれた。(ついでながら、メシを食いながらコーラを飲む新しい習慣がメキシコにはできつつあるようである。)「石油なんか国有化するより、コカ・コーラを国有にすればよいのに」アメリカ人の誰かがカゲ口をきいた。
それはとにかくとして、メキシコはいいところである。ピストル屋があるのも気に入った。メキシコ・シティで目につく商店といえば、先ず本屋であり、ついでピストル屋であろう。アメリカは極端に本屋の数が少ないお国柄だから、そのアメリカから行くと、目抜き通りに、フランスあるいは日本なみに並ぶ本屋の列は壮観であった。
ピストル屋のほうは本屋ほど多くないが、ときどき見かけた。「護身用にどうぞ」と美人がシナをつくってピストルを斜にかまえているポスターの下、ガラスのケースには大小さまざまなのが並べてある。二千円ぐらいからあったから、そのとき私にお金があれば買ったであろう。そいつを持って帰ってきて、いま日本でいやにはやっているらしい、アメリカではいささか時代おくれのハード・ボイルド派を自称する青年作家たちに高く売りつければよかったのに、かえすがえすも惜しいことをした。バスのなかで見かけた男はワイシャツのポケットに一梃ぶちこんでいたから、気のきいた連中はみんな持っているのかもしれない。
「とにかく、ここは月世界なのよ」
あるアメリカの女の子が私に言った。私が「メキシコが好きだ、ここに住みたい」と言ったら、彼女は「住みたくない」と答え、そうつけ加えたのだった。「判る? メキシコは私だって好きよ。美しいと思うし。でもね、あなた、月世界に人間が住めると思って?」
彼女によれば、これはメキシコにいるアメリカ人の最大公約数的な意見であった。サムもそれに同意した。
その女の子は離婚するためにアメリカから来たのだった。これは覚えておいてよいことだが、メキシコ・シティには、かなりの数のアメリカの「前夫人」が住みついている。アメリカで離婚するよりは、こっちのほうが簡単なので、彼らはジェット機に乗ってニューヨークからまたシカゴからやって来る。それに生活費は安く、観光を兼ねることだってできる。めでたく離婚を獲得した「前夫人」たちは、夫から月々仕送りを受けるが、その場合だって、メキシコにとどまっていれば豪奢な生活ができるではないか。あるパーティに出たら、女の半数がそれであった。
なんにせよ、ドルの威力というものはシャクにさわるものである。「私はここではまるで女王なの」と無邪気に放言する女学生もいた。クソクラエである。そのウップンもあって、私はこれらドルの女王たちを大いに活用することにした。彼女らに運転とサンドイッチつきで自動車を提供させたのである。
田舎へ行けば、メキシコはさらに月世界となる。例の大きな帽子、生きたニワトリ、月世界的な家の構え、ソカロという町の中心のきれいな広場。メキシコの田舎を旅行するには「二等バス」にかぎる。理由。(1)料金がべらぼうに安い。(2)各駅停車(とまるごとに、お手製のサンドイッチを売りに農夫が来る。発車の合図には、車体の外にぶら下っている車掌が丸太で車体を叩く)(3)超満員(これは車掌が外にぶら下っている理由である。いやでもメキシコ人と席のゆずり合いをやり、サンドイッチの交換をやり、ニワトリにズボンを汚される)(4)実益(日本人などはものめずらしいから、いろんな食いものをくれる可能性あり)
グアナホアトというのにも行ってみた。大学とエカキの街として著名で、さしずめ京都かフィレンツェというところ。
着いて一日のうちに、私はこの街に住む外国人数人と知己になった。ナチに追い出されたドイツ系ユダヤ人のエカキ、メキシコ文学研究中のアメリカの大学生坊や、デザイナーの女の子。いや、死者にまで親しくなったというべきであろう。私は彼らに連れられて街の背後にある山上の墓地に至り、先日まで彼らの仲間だったアメリカの女流作家の埋葬にまで立ち会ったのである。
墓地にもブーゲンビリアが真紅に咲き乱れていた。墓地といっても、われわれにおなじみの十字架が林立しているのではない。格子状のコンクリートの壁が周囲をとりまいている。その格子の一つに棺を入れ、そいつをセメントでふたをするといういささかモーレツな埋葬であった。つまり墓地の中央にたてば、死者にグルリととりまかれていることになる。私もまた、その見知らぬ女流作家に同業者のハシクレとして花をささげた。この地に住みついて二十年、典型的な精神的|国籍喪失者《エクス・パトリオト》だったとか言った。メキシコには、こうしたアメリカ人がやたらと多いのであった。「アメリカの匂い」から逃れ去るいちばんの近道は、先ずメキシコへ来ることであろう。
この墓地はまたミイラ寺で著名なところだった。地下室の長い廊下の両側に、ウンザリするほどズラリとミイラが整列している。デザイナーの女の子は、ついに入る勇気をもたなかった。
女の子、女の子とかいたが、デザイナーには夫があった。彼もまたアメリカのエカキで、山のテッペンにおき去りになっていた百姓家をうまく改造してアトリエにして、そこに住みついていた。壁に大きく「Yankee, Go Home!」と落書してあったのはユカイだった。彼が自分で書いたのだという。私は頼まれて日本語で「ヤンキー・ゴー・ホーム」となすくり、そのあとユダヤ人エカキ氏がドイツ語で、大学生坊やがスペイン語で、それぞれ書き加えた。
そのあと、みんなでゾロゾロ街へ出たら、ビラをくれた。ひょっと見たら、漢字が眼に入ってきた。『無法松の一生』――今夜一夜だけ、かの世評高い日本映画を大方の御要望にこたえて上映するのだ、という。「一生」の「一」が抜けていたが、それはまぎれもなく漢字であった。みんなで出かけた。
アメリカでは日本映画をアメリカの友人と連れだって見たことがあるが、メキシコの片田舎でまさか『無法松の一生』にお目にかかろうとは思わなかった。スペイン語の字幕つきのそいつが終って、ロビーに出ると、たいへんであった。メキシコ人たちは私が日本人であることを知ると、いろいろ話しかけてきたのである。私はまるでその映画をつくった監督氏のように胸をはり、ひとりひとりと丁重な握手をかわした。彼らの讃辞の大半は判らなかったが、私は微笑を浮かべて鷹揚にうなずきつづけた。なんせ私は、当夜、メキシコはグアナホアト駐在の日本の文化大使だったのではないか。私は十分にその責務を果たしたと、日本国民諸氏に報告することができる。特に、私とその夜デイトしたメキシコ女性に忘れがたい印象を残したがゆえに。
メキシコ天一坊
――シケイロス氏らと会う――
メキシコ・シティに帰ってから、私の文化大使としての職責はいよいよ重大となった。サムが、日本の作家のハシクレであり、またメキシコにはそのとき私以外には日本の作家は誰一人としていないのだから、彼がそうふれこんだとおり、その代表であるにちがいない私を「メキシコ文学センター」というのに送り込んだのである。
誰が考えだしたのか知らないが、センターはなかなかの名案であった。ロックフェラー財団から資金をもらってつくりあげた、アメリカの作家とメキシコの作家の交流機関であり、また文学学校のようなものであった。
先ずセンターは、アメリカ、メキシコ双方の前途有為な作家に奨学資金をあたえる。作家のほうは週に一度か二度センターで開かれる会合に出席して、講師の講義をきいたり、作品の合評をしたりして、そのあいだ、一年か二年のあいだに、長篇小説なりなんなりの大きな仕事をしあげる。言ってみれば、食えない若い作家の救済機関であった。実際、メキシコの文学者の多数がここの出身か、あるいはなんらかの関係をもっている。
センターを通じて、私はかなりの数の文学者と知己になった。
先ずファン・ルルホ氏のことを書いておかねばならない。何もここでメキシコ文学の宣伝をするわけでもないが、彼の小説『ペドロ・パラモ』は英、仏、独その他の訳が出て、アメリカ、ヨーロッパでかなり有名なのであった。日本は名うての翻訳国だから、そのうち、その訳書が出てベスト・セラーにならないともかぎらない。そんなとき、私は彼と会ったことがあるといっていばらなければならない。
センターに出入りする作家は一応英語ができるということになっていたが、それは日本を出るまえ私が英語教師だったから英会話ができたというのと同じであった。彼と会見しても、とにかくおたがいに意思を疎通させる方法はべつに見当らなかったから、二人ともニコニコしていたら、新聞が写真を撮った。よほど彼が有名人なのか、それとも日本の風来坊がものめずらしかったのか、そのどちらかであろう。これには後日談がある。その彼とのニコニコ写真が新聞に出ていたということをきいて、これはよい記念になる、ひとついばってやれと思いたって、メキシコ・シティ出発の前日、私はわざわざ新聞社へ新聞をもらいに行った。ちゃんと住所を教えてもらって出かけてみたのだが、その住所には新聞社などはないのであった。大きな美容院がその番地にはあり、きれいな女の子が出たり入ったりしている。どこでどう混線したのか、私の手帳にあったその住所は、どこやらのアメリカの離婚夫人がデイトの場所として指定していたその名残りであったのかもしれない。とすると、私は、その美貌(であるにちがいない)夫人をすっぽかしたことになる。残念である。月世界に起りがちのことであった。
トーマス・モハロという若い作家、たしか私とおない年のがいた。彼は長篇小説を書いているというふれこみであった。とにかく、明日のメキシコ文壇を背負って立つのは彼である、ということになっていた。私は彼が好きであった。私の東京での文学仲間に、ひるまにボソボソと歩くアンマさんそっくりの男がいるが、モハロ君は彼に生き写しなのであった。
初対面のあとで、私がいつものアケスケな調子で、「おい、このへんでいちばん安いレストランを知らんかい、おれはお金がないんだ」と訊ねたら、その質問はモハロ君にとってはたいへんな衝撃であったらしい。彼によれば、アメリカ人はそんなことがきける。メキシコ人はへんてこなプライドがあって決してできない。日本人はみんなお前のようなのであるか?
モハロ君は親切であった。私がその質問をしたら、彼は自分の下宿へ私を夕飯に誘ってくれたのである。下宿のあるじはモハロ君の伯父さんか何かで、もとエンジニアであった。伯父さんのほかに、伯父さんの小さな子供たち二人、モハロ君、モハロ君のガール・フレンド(工場で働いているとか言った。日本人そっくりの顔だちの大柄なひとで、私はこのひとがキャラメル工場かどこかで働いているさまを勝手に想像して、ちょっとホーム・シックになった)、ほかの下宿人であるメキシコ軍下士官どの。期せずして中産階級の下ぐらいの家庭に入り込むことができたのだが、残念なことにモハロ君以外は英語が誰も話せない。そのモハロ君の英語だってすごいもので(彼も私の英語を評して同じことを言ったことも公平のために記録しておこう)、彼の英語を理解するためには推理小説家の推理と天才詩人の空想力が必要であった。
しかし、英語が通じようと通じまいと、ゴチソウを食べるのにべつに変りはない。メキシコ名物エンチリダーデス(とびきり辛いホットケーキだと思えばよろしい)など、たらふく食べた。
「おまえはテキラを飲んだことがあるか?」モハロ君は訊ねた。テキラはメキシコの地酒で、ウォツカ並みに強い。「まだだ」と答えると、来週の水曜日の一時におまえをもう一度ここに招きたい、という。「昼食を食べ、いっしょにテキラを飲もう」これは伯父さんの意向でもあるというので、私は大いに感激し、その招待を受けた。
さて、その水曜日となった。アメリカの女の子が、私はずっとメキシコにいるが、これまで一度だってメキシコ人の家庭に招かれたことがない、連れて行け、とダダをこねたので、女性には国籍を問わず極端に弱い私はついにO・Kと言わざるを得なくなった。女の子の説によると、メキシコ人の約束はだいたいにおいて一時間おくれて行けば丁度よろしい。それではあんまり悪い気がしたので、われわれ二人は一時半に着いた。
ところが驚いたことに、モハロ君は不在であり、四時にならないと帰って来ないのだという。伯父さんもニコニコわれわれに応対するのだが、実はくだんのヒルメシの招待が、彼のニコニコの背後に潜んでいるとはどうしても思えないのであった。まさかヒルメシを食わせてもらいに来たとも今さら言えないではないか。アメリカの女の子は片眼をつぶってみせ、「コンナコトハ月世界デハ日常茶飯事ナノヨ」と小声で言う。が、伯父さんはまさに月世界的に親切であった。もうメシどきだから(メキシコではヒルメシは二時ごろが普通である)ヒルメシを食って行ったらどうか、と彼はあらためてわれわれを招待した。(これももちろんすぐ判ったのではない。女の子の頼りなげなスペイン語の会話力と私のポケット字引きのおかげで、やっとのことでそれだけ判った。)
で、ヒルメシとなった。われわれ二人がいったい招待されたのか、それとも招かれざる客なのか、それとても一向に定かでないヒルメシを居心地わるく、そして厚かましくゴチソウになっていたら、モハロ君がやがてガール・フレンド君とともに悠然と御帰館になった。モハロ君もきわめて月世界的であった。弁解も何もせず、やあ来ていたんですか、ちっとも知らなかった、というような気安げな調子で、「それでは、ひとつ、テキラをゴチソウしましょう」と、また改めて先日の招待のやり直しをしてくれた。紆余曲折を経たが、これで結果的には同じことになる。メキシコの習慣にしたがい、青いレモンかダイダイかユズかに(そのうちのどれかである)塩をまぶしたものをサカナとして(交互にそのすっぱい汁と酒を口に入れるのである)、われわれは待望のテキラを飲んだ。グラスをとりあげるごとに何か言わなければならないというので、私は「メキシコ万歳」と日本語で言い、モハロ君は「日本とメキシコのミューズのために」とアンマさんに似合わしからぬえらくハイカラなことを言ったが、残念なことにそれを言ったのは彼の英語でであったから、そいつを理解するにはまったくミューズの空想力が要った。
モハロ君によれば、メキシコ人は何かといえばテキラを飲む。大きな仕事にとりかかるといえば先ずテキラ、旅行に出かけるといえばテキラ、山に登るといえばテキラ、女をくどくとなるとテキラ。彼はそう言いながら、彼のガール・フレンドと私の女の子にチラと意味ありげな視線を走らせた。「君は君のガール・フレンドと結婚するのであるか?」彼の視線がいささか気にかかって私は訊ねた。彼はフンと鼻で笑い、見当はずれではあるが、要旨次のような、なかなか好もしくたのもしいことを言った。「われわれメキシコ男子は、腰ぬけのアメリカの野郎どもと異なって、男女同権などはクソクラエで、女にほれたってそれはそれだけのことで、一日にして捨て去る勇気をもっているのである」――
たしかに、彼はその哲学を実行しているのかもしれない。後日、アメリカの女の子に会ったら、このあいだのあとでモハロ君がブラリと彼女のアパートにやって来て、酒など飲んでいるうちに、酔っぱらったのか、それともそれをよそおったのか、やにわにキッスしかかってきたとのことであった。
そんな点、モハロ君はまったく私の友人のアンマ君と同じであり、また、そんな点、私はまったく彼が好きである。
センターの大将はアメリカの女流作家だったが、ほんとうの事務はラモン・ヒラウという詩人兼評論家がやっていた。スペイン内乱の際、父に連れられてバルセロナから逃れてきたのだという。原爆をおとされた日本人は、いったいアメリカ人に対して率直にいってどんな感じを抱いているのか、私はバルセロナで反乱軍による空襲しか受けたことがないが、それだけでも恐るべきものであった。彼はそんなふうに、きれいな奥さんが運転するフォルクス・ワーゲンのなかで語った。
ヒラウ氏はセンターで事務をやり講義を受けもつかたわら、メキシコ国立大学の先生であり、一方では『メキシコ文学展望』という同人雑誌の同人であった。メキシコにもたくさんの同人雑誌があるが、『メキシコ文学展望』はたいへん知的高級なものであるとのことだった。それでは、というわけで、私も何をかくそう、東京で知的高級な同人雑誌の同人であると言ったら、彼らの会合に私を連れて行ってくれた。「みんな英語が話せないが、よいか?」ということであったが、そんなことはべつにかまいはしない。私は何でも見なければならないのだ。
編集長どのは詩人であった。英語は読むのなら何でも、それこそフォークナアでもジョイスでももってこいなのだが、オシとツンボ、とまったく日本人的なことをおっしゃる。これが先ず私の東京の知的で高級な文学仲間のことを思い出させた。次に彼の書斎である。そこにあるのは、ズラリと書棚に並んだフランス語、英語の知的高級な本であった。とたんに東京へ帰った気がした。第三に酒である。テキラをさしずめトリス・ウィスキーのガブ飲みにかえれば、そのまま東京・新宿の友人宅となる。大いに気分がよろしい。
とにかく、英語が話せるのは、なみいる七人の面々のうち、二人であった。もちろん、会議(編集会議であるとのことだった)はスペイン語で進行した。インテリというものはどこの国へ行っても生来どうしたわけかむやみと早口のものだが、その上アルコールが入っているからたいへんである。スペイン語は宙を飛ぶごとく走った、走りに走った。
二時間もかかって話が一段落したところで、ヒラウ君が私に向き直り、スペイン語で話してすまない、退屈しただろうと言った。私はかぶりをふった。いや、たいへん面白かった。実際、それはそうだったのでお世辞でも何でもなかった。その二時間のあいだ、私はなつかしい東京の知的高級なフンイ気に浸れたのではないか。「判ったのか?」彼は意外な表情をした。「判らなかったが判った」私はZEN問答のような答をしたが、それは本当だった。私は言った。「スペイン語はもちろんたいてい判りはしない。しかし、私はあなた方がだいたい何を話していたか当てることができる。先ず第一に、あなた方はこの雑誌の財政的問題について論じていただろう。つまり、端的に言えば、金がない」彼はうなずいた。同人誌の問題はどこの国へ行っても、先ずお金であり、それがないことである。アメリカの同人雑誌の編集者も、「日本ではどうなのか」といつもそれを訊ねた。「第二に……」私はつづけた。「あなた方は『文学と政治』というような問題について論じていただろう」ヒラウ氏は呆れた顔でうなずいた。タネを明かせば簡単である。議論のあいまに、やたらと人名が入った。それで判断をしたまでである。その人名というのが、カール・マルクス、アンドレ・マルロー、ジャン・ポール・サルトル、アルベール・カミュ……といったわれわれにまったくのおなじみのものであって、そういう名前が出てくれば、議論は「文学と政治との関係を論じる」というような七面倒くさいものになっているのにちがいない。すくなくとも東京ではそうであった。
それに、うれしいことに、そうした人名の発音がまったく日本式であり、そいつはすぐさま私の東京の知的高級な文学仲間を思いおこさせた。スペイン語と日本語は発音の点でよく似ていて、スペイン人、メキシコ人はすべて日本語を読ませると、やたらとうまく(私はメキシコでひさしぶりに自分の名前が日本人的に発音されるのをきいた)、逆に、私がスペイン語を意味も判らず棒よみすると、十年もスペイン語を勉強してきたというアメリカ人が舌をまいたりする。サムも、私の完全無欠に日本式である英語の発音をきいて、この人は英語はモーレツに下手だが、スペイン語はペラペラであるにちがいないと判断したそうである。
第三のあて推量は、実はこの発音に大いに関係があった。「あなた方は、その次には、雑誌の編集方針をもっと大衆的なものにするかどうかを論じていたにちがいない」私はそんなふうに言ったが、それは、彼らのコトバのあいまに「マス・コミニュケイション」という英語(それを彼らはまったく日本式に発音したからよく判ったのである)がしきりに入ったからであった。その一語だけでそう推量するのは冒険だったが、ヒラウ君は、もうまったく呆れ果てたような顔でうなずいた。)
アメリカでなら、第一のお金の件をのぞいて、こううまくはゆかない。〈幸福者の眼〉のところで論じたように、アメリカ人は現実的・具体的であり、「文学と政治」「マス・コミニュケイション」というような非現実的・抽象的なものを口角泡を飛ばして論じて時間と精力を浪費するようなおろかな所業はしないのである。アメリカで私が東京の空を思っていつもなつかしがっていた、極端に飢えていたのは、実はこの種の非現実的・抽象的な議論、日本では、いや、たぶんアメリカ以外のところでは、インテリのあいだで日常茶飯事であるところの議論だった。アメリカの若い文学仲間と議論するとしたら、相手がビートであれノン・ビートであれ、彼らはマルクスとサルトルをあわせて論じ、「マス・コミュニケイション」を云々することは絶えてないだろう。早い話、彼らの部屋には、『メキシコ文学展望』の編集長どのの書斎のように、はたまた私の東京の知的高級な仲間のそれのように、フランス語の本がめじろおしに並んでいるというようなことは、まあないのである。アメリカのインテリのあいだでは、私はいつも例の薄い透明な膜を彼らとのあいだに感じた。それが、どこかしら居心地わるいものにさせた。メキシコではそれがなかった。メキシコのインテリといるとき、極端に言えば、私は東京にいたのである。
メキシコから帰ったとき、私はアメリカ人の友人から「メキシコはどうだった?」とよくきかれた。「あそこのインテリはまったく日本のインテリそっくりだぜ」私はそう冗談まじりに答えることにしていた。
第一に、彼らは日本のインテリ同様に、アメリカ(あるいは「アメリカ帝国主義」)が嫌いである。第二に、その反動もあってか、共産主義万歳である。第三に、むつかしい議論をするのが大好きである。そのなかには必ずヨーロッパ人あるいはアメリカ人の名前が出現する。その名前も、ふつうアメリカできかれるものとは種類を異にしている。たとえば、ルヘーブルやヒューバーマンというような名前を、私はメキシコで一年ぶりに耳にした。第四に、フランス語の本を手にして歩く。その本は必ず難解で、たとえば実存主義の書物であったりする。
つまり、メキシコ人のアタマのなかには、たえずヨーロッパがあり、アメリカがあるのだろう。これは、われわれのアタマのなかに、そういったもので代表される「西洋」が常に存在するのと同じではないか。そして、ある場合には、メキシコ人のヨーロッパ・アメリカに対する気持は、劣等感のかたちをとる。これもまた、日本人と同じではないか。
あるメキシコの詩人の説によると、メキシコ人の劣等感は、先ず、彼らが征服民であるスペイン人を父とし、被征服民である原住民を母としたことからきているという。メキシコ人は、たえず自分の内部に父なるヨーロッパと母なるメキシコを感じ、その両者のあいだにはたえざる分裂抗争があり、それが彼らを孤独にし、あんなにまでフィエスタ(お祭り)好きにする。
そこへもってきて、メキシコが「後進国」「貧乏国」であるという冷厳たる事実がおおいかぶさってくる。さらに、スペイン、フランス、イギリス、アメリカには、それぞれこっぴどくやられた経験をもっている。(メキシコに対して何もわるいことをしなかったし、逆にわるいことをした前記の国々をある程度打ちのめしたドイツ、日本は、メキシコでは絶大な人気をもっている。)
あるとき、私はあるホテルのバーで、アメリカの無邪気な女の子とメキシコの進歩的知識人と酒を飲んだ。(「無邪気な」も「進歩的」もともに、いかにもおそまつな形容であるが、これ以外に両者とも適当なコトバが浮かばない。読者は勝手にイメージをつくってくださればよい。)三人がいいかげん酔っぱらったときに、女の子がケーキを食べたいと言いだした。彼女はボーイにいろんなケーキをのっけた「|お盆《トウレイ》」をもってこさせて、好みのものを選びたいのだという。「|お盆《トウレイ》をスペイン語で何というか?」彼女は進歩的氏に訊ねた。知らぬ、「トゥレイ」とはそもそも何であるか? 彼は反問した。彼はインテリであったから、「|お盆《トウレイ》」などという単純素朴な英語は御存じなかったのである。それはいい、二三押し問答の末、すぐに彼女の意味するものは彼にも判った。しかし、彼はさっきから女の子が私にいやに親切にするものだから、いささかおカンムリだったのかもしれない(がんらいは彼女は彼のガール・フレンドであった)、そんな「|お盆《トウレイ》」などというものは、メキシコには存在しないのであると大見得を切った。「傲慢不遜なるアメリカ人とことなり、われわれメキシコ人はハンブルであるから、食いものはすべて手で捧げ持つのである」彼は両手をあげてお供物を捧げるときの身ぶりをした。
三人は笑った。もちろん大笑いに笑った。しかし笑いながら、日本人である私は、その笑いの底に何かヒヤリとしたものを感じていた。
* * *
今から考えると、メキシコの諸君は、私がよほどえらい作家であると思っていたのかもしれない。私は自分が無名のスカンピンであることをくりかえし説いたのだが、幸か不幸か、私は自分の著書を二冊もっていた。二冊ともに長篇小説であり、ともにサンタンたる売れ行きを示し、富も名声も何ものももたらさなかったものだが、著書は著書である。これはアメリカでもヨーロッパでもどこでもそうだったが、相手は先ず「おまえは著書をもっているか?」と訊ねてくる。そうくれば、正直に二冊あると答えざるを得ないではないか。そうすると彼らは眼を丸くして驚き、とたんに私の株価はピンとはね上がる。このことをもうちょっと専門的に説明すれば、「西洋」の文壇と日本のそれとの根本的な差異は、前者が本になった長篇小説に重きをおくのに対し、後者は月々の雑誌掲載の短篇小説を重視することにあるらしい。それで、長篇小説を私ぐらいの年で二冊出していれば、それはもうそれだけで、たいしたえらぶつということになる。かくして、いわば私はメキシコ天一坊となった。すくなくとも、そのへんにまで、私の株価はあがっていたのである。
シケイロス氏に会ったら、彼はわざわざ大きな画集を署名と献辞入りで私に進呈してくれた。この話を他のメキシコ人にしたら、あの人はそんなことをするはずがない人だのに、と小首をかしげたから、シケイロス氏も、私の天一坊性に眩惑されたのかもしれない。いや、私はそんなにもへり下ってみる必要もないだろう。私はもっと厚かましく次のように言うことにする。私はかくも深い印象を彼の胸ふかくに、誇大妄想的知性とばかでかい心臓と下手クソな英語のおかげであたえたのだ、と。天一坊となるにも、それ相応の才覚は要るものなのである。
もっとも、紹介者もよかった。例のセキ・サノ氏である。彼は、前にもかいたように、むやみにえらい人であったから、誰にでも、日本流に言えば、顔がきわめてきいた。「誰か画家に会いたい」と言ったら、「誰に会いたい? 私は誰でも知っている」と彼は即座に反問した。「シケイロス」私は躊躇なく彼の名をあげた。もともと私は彼の絵にひかれるたちなのであったが、ことに、そのとき「国立芸術殿堂」にあった巨大な彼の絵が私の心にまだなまなましく残っていた。彼の絵こそは、ばかでかいものの典型ではないか。私はそのばかでかいものをこしらえあげたオッサンの顔をトクと見てやらなければならない。
「シケイロスか、O・K」セキ・サノ氏は気軽に言った。すぐかたわらの受話器をとりあげ、五分と経たないあいだに、私と彼との歴史的会見(すくなくとも、私にとってはそうであろう)はとりきめられていた。
シケイロス氏は、彼自身のコトバをかりれば、メキシコでローヤの外にいる唯一人の共産党員であった。(ついでながら、メキシコでは共産党は非合法である。)そしてこの共産党員氏は、ふしぎなことに、いや、考えてみればふしぎでもなんでもないが、政府の美術委員か何かで、第一、目下アメリカに魂を売ったはずの買弁資本家政府の委嘱を受けて、歴史博物館の巨大な壁画を描いているのであった。彼をどうとかこうとかするというのには、あまりに彼は有名すぎ、えらすぎる。つまるところ、彼は一種の困り者の名物男と見えた。私的な場所、公けの場所をとわず、たえず政府攻撃の論陣をはりながら、それでいて政府のおえらがたには知己も多く、彼らからもケムたがられながらも結構愛されている、いわば、大久保彦左衛門氏のごときものであろう。「シケイロスに会いに行くんだ」と誇り顔に告げたら、メキシコのインテリ諸氏はみんなちょっと困ったようにほほえみ、「あれは話好きでなかなか面白い人だ」と異口同音に言った。
こういう大久保彦左衛門氏的名物男は、オールド・コンミュニストの一つの特徴であろうか。セキ・サノ氏も愛すべき人物で、話好きで面白い人であった。私のアメリカの友人はルイ・アラゴン氏をよく知っていたが、彼によれば、アラゴン氏もまた、話好きで面白い人であるそうだった。
とにかく、私は、ある日、シケイロス氏訪問に出かけた。四時の約束であった。
かなり大きな家であった。もう少しで「邸宅」というコトバで呼んでもよい。鉄の扉がピッタリ閉まっていて、そいつは押してもビクともしない。ガタガタしばらくしていたら、階上の窓が開き、女の子がひとり顔を出した。女中さんと見える。スペイン語で何か言うが、まったく要領をえない。「セニョール・シケイロス?」とどなったら、彼女はうなずいた。「彼ハ今イマスカ?」つづけて私は訊ねた。彼女はかぶりをふった。さあ、ことである。時刻はすでに四時を十分ばかりすぎている。もう一度、念を押そうとしたら、こんどはべつの女の子が出てきた。また押し問答。私は大あわてでポケット字引きを出した。「ワタシ、四時、シケイロス先生ト約束アル、アナタ判ル?」苦労のかいあって、ようやく鉄の扉は内部から開かれ、私は客間に招じ入れられた。女中二人は交互に何か言うのだが判りっこはない。要するに「待っておれ」ということだろうと、私は泰然自若をきめこむことにした。
立派な客間である。正面に、エハガキなどでよくお目にかかったことがある夫人の肖像画。しばらくその夫人と向き合って無言の対話をしているうちに、ひとつ困ったことが起きてきた。トイレットに行きたくなったのである。世界的画家のまえでオシッコタレでもしたら、それこそは日本国民全体の名折れであろう。私は客間を出て、さっきの女中さん二人を探して歩いた。ようやく、シケイロス家の台所まで至って二人をつかまえることができたが、トーヘンボクめ、ゲラゲラ笑っているばかりで私の苦心のスペイン語はサッパリ通じない。窮余の一策、私は手を洗うマネをしてみせた。判った。彼女はうなずき、安堵の胸なでおろす私をあるところに連れて行ったが、そこはほんとうに手を洗うための場所であった。
それから、いかにして目的を果たしたかは、もうここに書くまい。目的を果たした場所は、シケイロス氏専用のトイレットと見えた。あそこで、たぶんシケイロス氏は画想をねったのであろう。トイレット・ペーパーにデッサンでもしていないかと思ったが、あいにく、それはなかった。しかし、世の中にはコレクション・マニアというのもいるのである。クソ紙を集めているのも、クソ紙のごときデータを集めてとくとくとしている批評家や伝記作者もいるのである。シケイロス氏愛用のトイレット・ペーパーというのも、あれは持って帰るべきであった。まったく惜しいことをしたものである。
シケイロス氏は大男であった。彼がほんとうに大男であったかどうかは今思い出してみると判然としないのだが、そういう印象を彼は私に残した。とにかく大きな掌であった。私は、あのばかでかいものをつくり出したその大きな掌に、しばし見とれた。
シケイロス氏はフランス語のほうがお得意であるということだったが、英語で話してもらうことにした。先年中国旅行の帰途日本へ立ち寄るつもりだったが、妻の家族が急病になってホンコンから直接帰国せねばならなかった、残念であった、機会があればぜひ行きたい、というようなことから話は始まった。いろいろなことが話題になった。彼の闘争経歴から社会主義リアリズムに対する彼の考え方にいたるまで、話好きの名にたがわず彼は雄弁に語ったが、そのうちの一つを、ここにちょっととり上げておこう。それはメキシコの若いエカキについてだった。彼は彼らの絵はダメだときめつけた。どうしてか? ――「われわれ(私、そしてリベラ、オロスコ)は人民のために描いた。それに反して、彼らはニューヨークの画商のために、お金のために描いている。彼らはメキシコ人の誇りをすて、精神的な国籍喪失者になり下ろうとしている……」
メキシコの若いエカキたち(少し年長だが、その代表者はアメリカでえらく人気のあるタマヨである)が、シケイロス氏の言うように、はたしてニューヨークの画商のために、つまりはお金のために描いているのかどうか、私は知らないし、またそれについて云々する資格もない。ただ私は、シケイロス氏ら老大家と若い世代の間に横たわるどうしようもない距離を感じた。そして、シケイロス氏ら老大家にとっては、それらの若い世代がもはや理解を絶した存在であることをも、私は感じた。たとえば、シケイロス氏が「政治」を重視しようとするのに対し、若い世代は一切の政治的なるものからの分離を宣言する。シケイロス氏がメキシコ的なものを求めようとすれば、若い世代はより国際的なものにおもむこうとする。私はシケイロス氏の話をききながら、ある若いエカキがこう言ったのをしきりに思い出していた。「メキシコがなんだ、社会主義がなんだ、人民がなんだ。私には私があり、私の芸術がある。それがすべてじゃないか」――
シケイロス氏にとっては、こうしたことを若いエカキに言わせる何かしらせっぱつまった気持、それは永久のナゾなのであろう。若いエカキたちの立場――それは、シケイロス氏のように、人民のために描くことがそのままメキシコ国民の進歩となり、人類の進歩となるというふうに楽天的に信じられないところからきているのであろう。私には両者が判るような気がする。若いエカキたちがそうした立場をとらざるを得ないということが、また、シケイロス氏にそれが判らないということが。それは、たぶん、私自身が若い世代に属しているからなのだろう。
同じふうなことを、私はセキ・サノ氏と話しているときにも感じた。彼もまた人民のための芸術を語り、メキシコの若い芸術家たちを非難した。しかし、こう言えばお判りになっていただけるだろうか、彼のその口調は余りにも明快でさわやかであった。彼は彼の信念にしたがってしゃべっているのであろう。それはそれでよかった。ただ、私は正直に言って、どこか彼について行き得ない何ものかを感じたのである。たとえ、共産主義を信奉するとしても、われわれは今、シケイロス氏やセキ・サノ氏や、あるいはアラゴン氏が信奉したふうに、そんなふうに明快にさわやかにやってのけることはできないのではないか。われわれの投げ込まれている世界は一九三〇年代とはちがって、そんなふうに割りきって行くことはできないのではないか。そして彼らには、ひょっとしたら、そんなわれわれが永遠のナゾであるのではないか。――
シケイロス氏と話しつづけながら、私はしきりにそんなことを考えていた。
翌日、私はシケイロス氏が壁画を描く現場を見に行った。「自分の本領は壁画だ、ぜひ今自分が描いているのを見てくれ」とのコトバがあったからである。もと王宮の歴史博物館の一室が将来「メキシコ革命」の部屋になる予定だったが、その部屋の大きな壁四面ほどに、シケイロス氏の手で革命の情景が描かれつつあった。
驚いたことに、彼は下絵をつかわずに、じかに壁に描いてゆくのであった。パイプを組みあわせてつくった移動可能の大きな足場の上にのぼったり、またそこから身軽に飛び降りたりして、ずんずんブラッシュをふるってゆく。第一の情景は、たしか革命前夜。資本家と将軍が女を抱いて酔いつぶれている。第二の情景、革命の英雄サパタの登場。彼をとりまいて銃をもった農夫が力強く並ぶ。この対比だけでも、シケイロス氏の世界のもつ純粋さ、単純さ、素朴さ、すばらしさ、アホらしいところ、それでいて人を打つところ、そういったものがよく出ていた。壁画と彼とを見比べながら、私はその両者に、いわば、反撥と牽引とを同時に感じていたのである。
私はセキ・サノ氏にも同じものを感じたのかもしれない。いや、もっと端的に言って、それは嫉妬であり羨望であった。
彼とは三度会った。最初に会ったのは、彼が校長をしている演劇学校においてであった。私が学校に着いたとき、彼は国立劇場のオペラ歌手に演技指導をしている真最中だった。もちろん、すべてスペイン語でやっているのである。いや、それどころか、彼はもう日本語がほとんど話せなくなっているのであった。その代り、彼はスペイン語のほかにも、英、仏、独、露語を話した。それもきわめて正確に流暢に話した。アメリカの女の子が彼の英語をきき、私が彼女にウソをついていたと責めたてた。その女の子はもの好きで、絶対に直りっこはない私の日本式発音を矯正しようなどという無謀な志をたてたことがあった。私はうるさいものだから、日本人の英語とはまさにこういうものであって、いくら直そうとしたところで無駄であると、言語学的・音声学的に説明したのである。それで納得がいったのか、以後、私の発音に文句をつけなくなったが、セキ・サノ氏の英語によって、私のその説明は一瞬にしてウソとなり、彼女は改めて私の英語を、せめてセキ・サノ氏なみのものにしたいと悲願をたてたので、またもやうるさいこととなった。
彼女の悲願のことなどどうでもよろしいとして、とにかく、セキ・サノ氏はスペイン語その他を正確に流暢に話し、それに、彼はすでに「メキシコ市民」なのであった。目下、ベネズエラ政府から演劇指導をたのまれていて、それは大金になる予定だから、そいつがすむと世界一周、途中、日本にも「メキシコ市民」として立ち寄る予定。三度目の会見のとき、彼は自宅でくつろぎながら、そんなことを語った。
私が嫉妬し羨望したのは、しかし、そういったことではない。彼は最近日本大使館の人たちともつき合うようになったとのことだったが、それにしても、日本大使館の人たちは彼に何一つ教えようとしなかったのか、彼は戦中・戦後の日本の事情について、なんにも知らないのであった。空襲のことも知らない。戦争中の、また戦争直後のあの怖るべき食糧事情のことも知らない。原爆のことについてだって、彼はそれを「メキシコ市民」として受けとっているのかもしれない。そして、三鷹事件について、松川事件について、メーデー事件について、鹿地亘氏の事件について、私はひとつひとつ話して行かねばならなかった。「治安維持法はもうなくなった」と言えば、彼は「ホウ、あれもなくなったかね」と感慨ぶかげにため息をつき、私はあわてて「ところが今はまた似たようなのがあるんです、破防法というのが」とつけ加えなければならなくなる。私は話していて、どうしようもないハガユサを感じた。つまり、治安維持法が猛威をふるい、暴虐のかぎりをつくし、そいつがやっとなくなり、平和で自由な青空がちょっとのぞいたと思ったら、またぞろ破壊活動防止法というのが登場してくる、そのめまぐるしい変化のひとつひとつを、私をもふくめて日本にいるわれわれは逃れるすべもなく自分の身に受けとめているのに、彼にはそのようなことはないのであった。私の感じたハガユサは、そこのところの差異からきたものであろう。いわば、彼は、もし彼が今も共産主義者であるとするなら、彼が日本を脱出したときのそれでありつづけているのであろう、すくなくとも、日本の共産主義者としては、そうなのであろう。つまり、われわれにとってはすでに歴史的存在である築地小劇場が彼の体内に生きている。当時の日本の共産主義が、また日本そのものが生きている。そのことが私をハガユクさせた。そして同時に私を嫉妬させ羨望させた。
* * *
セキ・サノ氏と三度目に会って二日後、私はメキシコに別れを告げた。私はふたたびアメリカに帰ったのである。いや、こんな言い方をしてはならないのだ。メキシコ・シティを去る日、私は散髪屋で「今日アメリカへ発つ」と言って、たどたどしい英語を話すオヤジからこうたしなめられたのである。「お客さん、メキシコもアメリカなんですぜ。アメリカは広いんです。アメリカ合衆国っていうのは、ほんのその一部なんです」
そうだろう、いろいろな国がそこにはあるのだろう。メキシコ一国がすでに十分にそれを証していた。しかし私は、より広い世界を見るために先を急がねばならない。私は文字どおり後ろ髪をひかれる思いで、メキシコ国境を出た。
アメリカの税関の役人は、私の顔を見ると、やにわにスペイン語で話しはじめた。メキシコ人と思ったのであろう。私は自分は日本人である旨を告げ、英語でしゃべってくれるように頼んだ。彼は呆れたようにちょっと私を見た。それからすぐ、「ユー・ガット……」となつかしいアメリカ英語が彼のチューインガムくさい口から流れはじめた。月世界から私はふたたび地上に舞い戻ったのだ。それを十分に感じさせるほどに、その英語は早口に、また人間臭いものに私の耳に響いた。私は何かしらホッとした。
「資本主義国」U・S・S・R
――一日一ドル予算の周囲――
メキシコからふたたび南部経由でニューヨークに帰りつくとすぐ、私はヨーロッパへ向けて船に乗った。すくなくとも、もう半年かそこら私はアメリカに腰をおちつけていたかったのだが、例のヒベット先生の表現をもう一度借用すれば、私は「不良外人」で、アメリカのお役所がどうしても滞在延長を認めてくれなかったからぜひもない、強制送還にでもなったらそれこそ元も子もないから、滞在期限ぎりぎりの五九年十月七日、アメリカをあとにした。
それから以後、六〇年四月に羽田へ窮死あるいは餓死寸前のかたちでたどりつくまで、半年にわたって、アメリカと日本のあいだに横たわるもろもろの国をブラブラ歩いて来たことになる。羽田の税関で順番を待つあいだ、退屈しのぎに旅券を開いて数えてみたら、私の訪れた外国の数は、アメリカ、カナダ、メキシコをふくめて、ぜんぷで二十二ヵ国であった。これでも「何でも見てやろう」主義にしたがうと、おそろしく少なすぎる。私自身、もっといろんなところに行くつもりだった。しかし、お金がない、それも極端にないという単純でそのものズバリでアホらしい、そして何より冷酷な現実が、私のその野望のまえに立ちふさがっていたのである。
たとえば、私はソ連邦をはじめ東欧の社会主義諸国にはどれ一つとして行けなかった。と書くと、そいつを見なくては「何でも見てやろう」も何もないではないか、と憤慨される向きもあるかもしれない。まったくその通りである。私自身が実は憤慨したくて仕方がないのである。問題はしごく簡単であり明瞭であった。私は行きたかった。ぜひとも見たいと思った。努力もした。が、駄目であった。必要なものがなかったのである。必要なもの、それはばかでかい財布というものであった。
くだくだしく述べるより、ニューヨーク市に所在するインツーリストの出店のようなところで、私とそこの大将の頭の禿げた小フルシチョフ氏との間に行なわれた問答をここに記録しておこう。
先ず、彼および彼の代表するU・S・S・R側の言い分はこうであった。あなたがひとりでインディペンデントに旅行するなら、一日三〇ドル、団体旅行に加わるつもりなら、一日一〇ドルあてを、あなたは用意しなければならない。これはあらかじめ前金で払い込み、ビザもそれに関係する。たとえば団体旅行の場合、あなたが三〇〇ドルもてば、U・S・S・Rは三十日通用のビザをあなたにさずける。これは一見高いようであるが、そのなかには、ホテル代から通訳代にいたるまで入っているのである。私、べつに何を代表するわけでも代表されるわけでもない孤立無縁の私の言い分。それはメチャクチャに高いではないか。正直に言って、おれが今計画しているヨーロッパ、アジア旅行は、一日一ドルか、よくて二ドルの予算だ。おれにはそれ以上のお金はありゃしない。ユース・ホステルに泊まり、パンと牛乳で生きてゆけば、それでなんとかやって行ける。私は実例をあげて説明した。おまえの国ソビエットでは、こんなことはできないのか。第一、おれには通訳などいらないのだ。おれはスペイン語しか絶対に通じぬメキシコの片田舎へ行って、けっこう暮らしてきた。なるほどそうではあろう――小フルシチョフ氏は答えた。しかし、わが国では不可能である。すくなくとも不可能であるということになっている。待ってくれ、待ってくれ、と私はさえぎった。この資本主義の牙城アメリカ国でさえ、おれは一日四ドルで旅行したのだ。とすると、おまえの国のほうがよほど資本主義国ではないか。小フルシチョフ氏は困ったように肩をすくめ、それからニヤリと笑った。まったくおまえの言う通りだ。Yes, U.S.S.R. is a very capitalistic country. それでは、その資本主義国であるU・S・S・Rに行くことは、おれにはまったく絶望であるか。ほとんどそうである。だが、と言って、彼は私を見た。私はよほど悲しげな顔をしていたにちがいない。ただ一つ道がある。それは「招待される」ことである。小フルシチョフ氏は一日一ドル予算に同情したのか、なかなか親切であった。名刺に何か書きつけたと思ったら、それがインツーリスト総裁への紹介状であった。これを入れて手紙を書きたまえ、ただ(彼はまたニヤリとして)私の国は名うての官僚主義国家だから、返事が手に入るまで長くかかるだろう。また返事も通り一ぺんの官僚主義的なものであるかもしれない。しかし、|まあやってみるんだね《ユード・ベター・トライ》。彼はアメリカ人のようなゼスチュアをしてみせた。
私は手紙を書いたのである。三日かかって手紙を書いた。返事はふた月あと、ヨーロッパをほっつき歩いていた私を追いかけてきた。非常にソッケない刷り物で、それはよく見たら、一日一〇ドルの団体旅行のプログラムであった。(他の東欧諸国も、おおむね同じシステムである。つまり、ばかでかい財布がないと、とうてい行けない。)
すべては、私のまったくばかでかくない財布のおかげである。それでは、どれくらい、その財布がばかでかくなかったか、ということになる。
メキシコからニューヨークに帰りついて、大西洋横断の船賃とオスロから東京までのヒコーキ賃を涙をのんで払ったら、私の手もとにはわずかに一〇〇ドルしか残らなかった。TとKが、おまえ、いったいどれくらいのあいだ旅行するつもりだときくから、半年だと答えたら、彼らのほうがあわて出し、私といっしょに友人のあいだを金策に駈けめぐってくれた。先ずお金を借りた。条件は、私が帰国後本を書き、それがベスト・セラーとなり、同時にそのとき日本の外貨事情がよくなっていて自由に海外送金が許されるなら返すという三段ガマエのものであった。「その三つを同時にみたすのは、はなはだ困難である」と私の金主の一人が言った。第一、怠け者のおまえは本などなかなか書かないだろう。第二に、そいつは絶対といっていいほどベスト・セラーにならないだろう。その二つが奇跡的にうまく行ったとしても、そのころ、日本の外貨事情のことはよく知らないが、アメリカは原爆をおっことされてコッパミジンになっていることであろう。
もう一つの金策の方法は、「資金カンパ」であった。私は彼らに、「Sikinkanpa」という日本語を教えた。何ごとも「日本ブーム」であって、彼らはこの語を愛用していたが、困るのは、連中がよくそれを「サイキンカーンパ」と発音することであった。
で、とにかく、一〇〇ドルが集まった。前記の一〇〇ドルと合して二〇〇ドル、半年の旅程で一日一ドル。「まあなんとかなるやろ」――私は断乎出かけることにした。
いや、まだ一波瀾があった。出発の二日前、TとKのアパートに怪盗が侵入、貧乏な二人の住居のことだから盗むものにことかいて、その二〇〇ドルの大部分を持ち去って風のごとく消えたのである。
これにはさすがの私も蒼くなった。私以上にTとKはうろたえ、これは彼らの責任だというわけで、なんとかすると確約、私は手もとにあった一五、六ドルを持って旅立つ羽目になった。いささか悲壮でさえあった。
TとKはもちろん約束を守ってくれた。私のベスト・セラー払いの借金を増額することと、「サイキンカーンパ」の再開その他でなんとか掻き集めたのであろう、ヨーロッパ各地に、なしくずしに送ってきてくれた。最後に計算してみたら、二〇一ドルで一ドル多い。そのむね書き送ったら、「あれは利子であった」ということであった。
アメリカを十月に出て羽田にたどりついたのが四月だったから、ちょうど半年、したがって予算のほうも予定通り一日一ドルあてぐらいになった勘定になる。もっとも正確に言うと、その利子をもふくめて二〇一ドルは羽田までもたなかった。バンコックでグズグズしているうちに、そいつはあとかたもなく消え去っていた。ホンコンに着いたとき、私は必死になってスーツ・ケースの底をかきまわした。その夜の泊まりはヒコーキ会社が負担することになっていたが、一文ナシではやはり困る。努力のかいあって、数分ののちに、しわくちゃになった日本国紙幣金百円也が出現。それは日本を出たときから記念用にとっておいたものだったが、ホンコンのお金でいくらになったか、九竜からホンコン島へ渡る渡しの下等に乗り、大きな中華マンジュウを二個パクパクやったら、それはそれできれいに消えた。だから、私は羽田へは、まったくの手ぶらでたどり着いたことになる。誰もむかえに来ていなかったらどうしよう、十円借りてデンワをかけよう、私は真面目に心配していた。しかし、さっぱりしてよい気持ではあった。
一日一ドル、それで行こうと思ったら、食べるのは最低のレストラン(まあ一ゼン飯屋というところであろう)、街路の立ち食い、もしくは牛乳とパンということになり、泊まるのは、一泊百円見当のユース・ホステル、スポーツマン・クラブ、スチューデント・センター、あるいは救世軍といったたぐいのものになる。インドへ行くと、あそこは便利な国で、宿泊無料のお寺、駅の待合室、もう一つ落ちれば街路にゴロ寝、といった手もあまたある。それに、私には、ニューヨークの友人諸君やメキシコの半キチガイ・サム君宅での例が示すように、ひとの家にころがりこんで暮らすという奇妙な才能に恵まれているらしい。世界各国でそうであった。考えてみると、これなしには、私は栄養失調症か何かになって、カルカッタあたりであえない最期をとげていたかもしれない。そのあいだ、私はタダメシを食うことができ、また栄養を補給することができた。その補給ぶりは、ギリシアの片田舎で、あるオッサンが日本人というのはみんなそんなに食べるのかね、といぶかしんだほどであった。
このギリシアのオッサンはべつに知人ではない。村のパン屋さんであったが、まったくのアカの他人であった。こんなふうに、私は行きずりのアカの他人の家にも躊躇なく泊めてもらった。ことに、ギリシアでペロポネーソス半島の片田舎を旅行したときなど、それはほとんど毎夜であった。しかし、このことはあとに項を改めて述べよう。誰かが、おまえが旅行記を書くのだったら、題名は『世界をたかり歩いて』か、『世界ころがり込み記』にしろよ、と親切な助言をしてくれた。
おもえばふしぎな旅であった。私は貧乏だったから、私の「何でも見てやろう」という野望には好都合であったかもしれない。私のような状態(憐れなそれといってよい)にたちいたれば、ひとはいやでも社会の底みたいなところを目撃しなければならないだろう。それはときには楽しい、そしてたしかに有益な経験ではあった。だが、ときには悲しげで不快で、うんざりしてたまらない経験でもあった。私はあるときには人間ではなく、動物であり虫けらであった。しかし、私はいつも社会の底ばかりをうろついていたのではない。私の旅は、いつも急上昇と急転落をくり返した。私は貧乏ではあった。が同時に、私は遠い日本からの客人であり、それも無名の作家というそれだけで、すでにひとびとの好奇心をひく存在であった。友人は友人を呼び、ないところはたやすくつくり、私はわりと困難なく上層をもふくめて社会の各層に触れることができた。
急上昇と急転落を最も象徴するのが、私の旅行手段であろう。幸運なことに、私にはオスロから東京までのヒコーキの切符があった。もちろん自然に存在したわけではない。半額以上の金額を親切なフルブライト一党が払ってくれてはいたが、残りのお金は、私が無理算段して出したのである。これはまことに厳密な計算を経たうえでのことであった。
ヒッチ・ハイクで日本までたどりつくのは、ちょっとすてきなアイディアのように響くが、現実問題としては不可能に近い。現今のドイツ青年の夢はもっぱらここにあるらしいが、だいたいインドはカルカッタで行き暮れてしまうものらしい。カルカッタまでヒッチ・ハイク(ヨーロッパのコトバでは、この語を「オート・ストップ」という。そのものズバリであろう)で行った連中には、各地のユース・ホステルで幾人も会った。ただむやみやたらと時間がかかるらしい。私がカイロにいたのは二月末のことだったが、そこのユース・ホステルで会ったドイツの坊やは、私がどれくらいの日数がかかるかときいたら、「忘れた」と言ってから、「そういえば、去年のクリスマスにはアフガニスタンのカブールにいたようだ」と他人事のように答えた。
ヨーロッパあるいはエジプトから船に乗ってしまえば、中近東、インドへ立ち寄ることは不可能となる。それでは、カルカッタあたりまでいろんな交通機関をつかって行き、そこから船に乗り込んだらどうか。これも長い間かかって調べてみた。これは調べるのに、まことに困難なことであった。バグダッド・テヘラン間のバスの値だんなど、どこへ行けば判るのか。旅行案内業者はそんなケッタイなことは教えたがらぬし、また実際何一つ知りもしないのである。トーマス・クック社で、大ゲンカのあげくやっとこさ「アフガニスタン旅行事情」と大書したフォルダーを取り出させて開いてみたら、そのぶあついフォルダーには紙きれ一つ入っていなかった。
それでも、とにかくいろんな手段をつかって調べあげてソロバンをはじいてみたら、やはり、ヒコーキでヨーロッパから飛ぶほうが安あがり、すくなくともどっこいどっこいだ、という結論になった。
というのは、ヒコーキというのは、あれはいったいどういうことになっているのか、「途中下車《ストツプ・オーバー》」をしようと思えば、同じ料金でやたらとできるしくみになっているのである。おまけに通用期限は一年である。私はオスロから飛べば最大限にそいつができることを発見して、ノルウェー船の四等(「集団収容設備《グループ・アコモデイシヨン》」とかいう名まえであった)に乗ってオスロへ行き、そこから飛びはじめたのだが、オスロから一気に北極経由で東京へ飛んでも、私のようにえんえんと、ありとあらゆる廻り道をしながら半年をついやして帰ってきても、料金は同じなのである。オスロからスカンジナビアを経て、ヨーロッパの中央部を南西へスペインに至り、今度は東へイタリアを経てギリシア、ギリシアからエジプトへ南下、エジプトから北上して中近東各国、東へインド、東南アジア、ホンコン、そういったぐあいに魔法のようなことが可能であった。
しかし、ヒコーキがいくら「途中下車《ストツプ・オーバー》」ができるからと言っても、どこへでもそれで行けるわけではない。そこでヒッチ・ハイク、すしづめのバス、三等車、船の四等、そういったものが登場してくる。なかでも私が最も愛用したのは、もちろんお金が一銭たりともかからぬヒッチ・ハイクである。手をあげて自動車を停めて乗せてもらう。これは、はじめはなかなか勇気を要することであった。アメリカやイギリス(あるいはスカンジナビア、ドイツ)でなら、まだことは簡単である。とにかく英語が通じる。運転をしているオッサンと話ができる。が、南欧となるとお手あげである。無言の行となる。これは楽しいことでもあったが、へんに疲れもするのである。
しかし、ヒッチ・ハイクをすると、各国でのひとびとの親切さにじかにふれることができる。誰だってはるばる日本から来た若者の旅行者がすりきれたオーバーをまとい、ろくろくメシも食っていない様相を呈していたとしたら、親切にしてやりたくなるものだろう。ときには、そいつはメシつき、ホテルつきさえになった。こんなこともあった。私は今一足のスペイン製の靴をはいて相変らず貧乏ひまなしで東京をかけめぐっているが、もとはと言えば、これはあるスペイン人のプレゼントである。スペインで私を自分の自動車に拾ってくれたその男は、ホテルに私を泊めたあと、底に大穴があいた私の憐れな靴を見て、私を靴屋に連れて行って靴を買ってくれた。バルセロナのことであった。ありがたい話である。
ヒッチ・ハイクをしたのは長距離旅行の場合だけでない、ヒコーキに乗るために空港へ行くときにもした。都心のヒコーキ会社の事務所から空港までバスが出るが、ヨーロッパではこいつにお金がかかる。もちろん、これはササイな金額である。あるヒコーキ会社の事務所の男は、私がいくらか、と訊ねると、almost nothing(ただ同然)、と片づけた。なるほど他の乗客にしてみれば「ただ同然」だろうが、私にとってそうではない。(同種の経験を私は何度もした。カイロに夜おそく着いた私は、ユース・ホステルに行けず、ヒコーキ会社の人に、「もっとも安い泊まり場所を教えてくれ」と頼み、彼も「それなら、もう寝るだけのところでいいのだね、ノミが出ても知らぬぞ!」と念を押してから、ある一つのホテルを教えてくれたが、一泊一ドルのそのホテルは、私にとっては金殿玉楼の感があった。)それで、空港へ行くのもヒッチ・ハイクをつかった。これは、たとえばパリからマドリッドまでヒッチ・ハイクで行くよりも困難な事業であった。パリからマドリッドまでなら、いつマドリッドに着いてもよろしい。しかし、ヒコーキは、空港からある決まった時刻に出発してしまうのだ。
ハンブルグの空港へ行くときであった。運よく私を乗っけてくれた男が私に訊ねた。おまえは何のために空港へ行くのか、ヒコーキ見物か。いや、私はヒコーキに乗るために行くのだ。私がそう答えたら、男はへんな顔をして、私の全身を眺めまわした。ヒコーキに乗るほどの男がヒッチ・ハイクをするとは、よほど想像を絶したことであったかもしれない。(やはり、ヒコーキで旅行する人は、どこの国でも比較的金に縁がある人が多いのであろう、私の泊まったようなところでは、ヒコーキで旅している人に絶えて会ったことがない。たとえば、ヒコーキ会社の事務所では便を予約するさい住所を訊くしくみになっているのだが、そのとき「ユース・ホステル」と答えて、それがまともに通じたのは、ホステルが普及しているはずのヨーロッパでさえ、コペンハーゲンとアムステルダムだけであった。「ユース・ホステル」とはそもそも何ぞやと反問するか、「ユース・ホテル」と勝手に変更する、そのどちらかであった。
ヒコーキに乗っているかぎり、私の旅行はまさに大名旅行であった。タダの食事をたらふく詰めこみ、特二ばりの座席にらくらくと身を沈めて惰眠をむさぼる。そこまではよい。地上にヒコーキが着くと同時に、私の旅も大名からコジキに転落する。ヒコーキ会社の事務所にスーツ・ケースをあずけて、私は未知の国・未知の都会に一歩を踏み出す。ユース・ホステルを、救世軍を、スチューデント・センターを、その他もろもろの可能なかぎりの安宿を、私は先ず探し出さなければならない。それも満員の市電やらバスやらに、大声で目的地をどなることと手まねだけをたのみとして乗り込んで、いや、たいがいの場合はヒコーキ会社の事務所からパクってきた無料地図を唯一のたよりとして、ただやみくもに徒歩で――
それがどんなふうだったか、行きついた先に何が待っていたか。私は以下に順を追って書いて行かなければならない。
Sick, Sick, Sick ... しかし
――そしてオデュセウスの船出――
アメリカを出発する数日前、私はビートの女詩人とグリニッチ・ビリッジのボンゴ・パーティへ行った。おきまりの地下室。中央にちょっとした舞台があり、そこで余りうまくもないバンドが狂的な主旋律を狂的に叩き出し、そいつに合わせて、ある者はやけくそに持ち込んできたボンゴを叩き、ある者は汗だくになって踊りまくる。濁った空気、煙草の煙、そして、あらゆる会話を不可能にする騒音。
女詩人が、さっきまでワイシャツを脱ぎすてて、汗にてらてら光った半裸の背中を見せて踊っていた少年を連れて来た。一見して、ゲイと知れた。そのむね訊ねたら、≪Of course≫と肩をそびやかせる。ゲイであることを誇る一種の英雄的気分にあると知れた。「麻薬注射《フイツクス》」もやっているんだろ? ≪Of course≫しかし、まだ少年は、私のガール・フレンドのように麻薬常習者《ドラツグ・アデイクト》になるまでには至っていない。彼はやがて歌をくちずさみはじめた。≪I'm sick, you are sick, we are sick, sick, sick...≫その歌は知っていた。ブロードウェイのミュージカルのヒット作「ウェスト・サイド・ストーリー」のなかの「不良少年の歌」であった。(ついでながら、今日のアメリカの演劇のなかで、ミュージカル以外の他のジャンルもふくめてただ一つ推薦しろと言われるなら、私は「ウェスト・サイド・ストーリー」をあげる。これはブロードウェイがこれまでに提供したおそらく最上のミュージカルだし、その上、ここには現代のアメリカの芸術のもつすべてがある。たとえば、前衛的実験へのたくましい意欲、俳優たちのみごとに訓練された演技、そしてもう一つ、〈アメリカの匂い〉のところで述べたその実験や完璧な演技がもつ「出口のないむなしさ、わびしさ」。)インテリにもっとも人気のあった漫画家ファイファー(ハーバードの寮の壁には、よく彼の漫画の切りぬきが貼ってあった)のベスト・セラー漫画集の題名も、≪Sick, Sick...≫であった。
たしかに、この国は、ある意味では病んでいるのかもしれない。大げさに言えば、二十世紀というものを病んでいるのであろう。「アメリカの匂い」については、すでに書いた。それが体内ふかくに秘められた病根の一つであるとするなら、その外へのあらわれが、たとえば、ニューヨークその他の大都会の郊外にきまって存在する自動車の捨て場であった。何十台、何百台、いや、ときには何千台という自動車が、汚い埋立地などの一角に、無造作に幾重にも積み重ねて捨ててある。そうやってクズ鉄にされる運命を待っているのだが、それは、なんとも言いようのないほど、わびしげな光景であった。よく日本でも大都会の工業地帯のはずれに行くと、高圧線の鉄塔の立つ下あたり、ウジウジと鉄錆に赤くよどんだ池とも泥地ともつかぬものがあり、そこらに無造作に鉄材などが積みあげてあって、無機物のかなしさ、わびしさというものが、まるでわれわれの物質文明の象徴であるかのように迫ってくる。やたらと長々しく書いてしまったが、そういった空地があるだろう。あれである。あれをずうっと大規模にして、たけを高くし、自動車などという、われわれ貧乏国の住人にはちょっと手のとどかないものを、そいつをペッシャンコにしたやつを、エイヤッと積み上げていく。そこでは自動車は、もはや自動車でなかった。一個の無機物にすぎなかった。無機物でありながら、それでいて、生物なのである。生物のわびしさ、かなしさをもっているのである。巨大な物質文明の重みに圧しつぶされようとしている生物のわびしさ、かなしさをもっているのである。
あれは、たしかに、まだ現在のところでは、アメリカ以外にはない風景――やたらと孤独で救いのない風景であった。私は、そして、その無機物であり生物である自動車の行くえ、未来を知っていた。クズ鉄として売られたそいつは、やがて、巨大なプレスでガシャッと一押し、一瞬のまに、自動車一台分がリンゴ箱一箱ぐらいの鉄クズのかたまりに化ける――
そしてアメリカは、ある意味では、すでに「若い国」ではない。わがあこがれの摩天楼を最初に見たときのことを書いておこう。その第一印象は、意外なことに、えらくみんな古びてやがるな、苔むしていやがるな、というのであった。失望ではないにしても、妙な感じであった。真白い「近代建築」が、ピカピカ窓を輝かせて目白おしに並んでいるのかと思っていたら、そんなではなかった。古ぼけた婆さんの葬式行列みたいのが、ひょろひょろと並んでいる。私の期待を満足させてくれたのは、国連ビルとパーク・アベニューに最近建ちつつあるニュー・モードのガラスのやたらに多いピカピカ建築の群れであった。
これは無理ないことかもしれない。考えてみると、タイムズ・スクェアのかの高名なタワー・ビルが建てられたのが一八八六年というから、これはもう前世紀の話となる。ウォール・ストリート近くに六十階建てを誇るウールワース・ビルが一九一三年、比較的新しいエンパイア・ステート・ビルだって、すでに三十年近い歳月を経ているのである。もちろん、新しいビルディングも続々と建ちつつある。一九四七年以来、マンハッタン地区に新たにつけ加えられたオフィスの総面積は、シカゴじゅうのそれよりも多いとのことであった。が、それにもかかわらず、全体としてみれば、摩天楼の列は薄汚れ、どこか、くたびれはてて見える。
実際、多くの摩天楼がぶっこわされつつある。私はいつだったか、ウォール・ストリートのあたりで、そいつにお目にかかったことがある。摩天楼を宙空におったてる光景が壮烈に雄々しい光景だとすれば、それを叩きこわす風景は、壮烈にわびしい。四十階建てぐらいの見上げるように高い建物はすでに半ばは鉄骨がむき出しになっていて、残った壁の要所要所に大穴をぶちあけ、そこから、ときどき、壁土か何かをザアッと吹き落す。吹き落すというよりは、宙空にまき散らすのだ。壁土は突風に高く舞い上がり、やがて、地下鉄の駅に急ぐ通行人たちの上に降りかかる――
たしかに、かつては摩天楼は自由の女神像とともに、自由の新天地アメリカの象徴であったかもしれない。旧大陸から、さまざまなかたちでの「自由」を求めて逃れ出てきた人たちは、甲板の上にたたずんで、眼前にたち並ぶ摩天楼の列を不安と期待の眼で眺める。ピカピカと光り輝く白堊の摩天楼の列――それはアメリカの象徴であり、そのもつ「自由」の象徴だったのだ。
だが、今、摩天楼は年老いてしまっている。それはすでに薄汚れ、どうしようもない疲労がそこにしみついている。同じように、今、ひとは、たとえば、この国がその対極にあるソ連とともに、世界でもっとも入国がむつかしい国の一つであることを知っている。また、アメリカの何よりもの象徴だった「自由」に、さまざまな歯止めがかけられ、薄汚い疲労のようなものがこびりついているのを見る。
私の友人のなかに、二人までFBIの捜索を受けた者がいた。「おれが共産主義者だったら、ふつうのアメリカ人はみんなそうだぜ」そのうちの一人がそう言って笑った。ハーバードの中国研究の学生たちは、中国からの書物が、すべて税関でさし止められて手に入らないのを嘆いていた。
しかし、そうかといって、アメリカは年老いた肺病やみになりはててしまったのではない。たとえば「自由」について言っても、アメリカの社会のなかには政治的復元力のようなものがあって、ある限度以上「自由」に歯止めがかかりすぎると、またもとへ戻るようになっている、私にはそんなふうに見えた。この復元力のもととなるものは、解りきった話だが、それは、やはり独立以来一般民衆のなかに生きつづけているあのアメリカ的に開けっぴろげな「自由」なる精神の伝統というものであろう。税関で中国からの書物をおさえられているハーバードの学生たちは、もちろん泣き寝入りしているわけではなかった。ある日の会合の席上、非米活動調査委員会に喚問されたことがあるという教授は、「一つ一つのケースについて、それぞれ、忍耐強く、そして徹底的に闘わなければならない」と説いた。復元力はインテリのあいだにだけあるのではなかった。田舎町のふつうのオッサン、共産主義を不倶戴天の敵と感じているやからのなかにさえ、それはどこかに存在するように見えた。私は、このことを、やはり貴いことだと思う。
さっき私は、ある意味ではアメリカは「若い国」ではない、と書いた。同じ言い方を逆に使おう。ある意味では「若い国」である、と。
テキサスの原野のなかにぶったてられた、いや、今もなお、ぶったてられつつある大都会ダラスやヒューストンの「若さ」については今さら言うまい。中西部の古い鋼鉄の都市ピッツバーグでは、えらく大規模な街のつくりかえが行なわれていた。ピッツバーグはニューヨークのマンハッタンのように、河の中洲にたてられた都会なのだが、その中洲の尖端のところにあったスラム街を完全にぶっつぶして、そこに、まさしくピカピカ光る最新式の摩天楼をおったてる。スラム街の住人のほうは、郊外の住宅地のほうへ近代式アパートをたててそこへ移転をお願い申しあげる。計画はまだぜんぶ完成したとは言いかねるが、うち見たところ、すでに「鉄の町」というコトバからはまったく想像もできないような、きれいで美しい小型ニューヨークになりかかっていた。(ほんもののニューヨークの印象のほうは、一口に言うと、汚く、そして美しい。)そこには、「若い国」アメリカの夢がよい意味で十分に働き、また、その夢を可能にさせるだけの富のうらづけがあると見受けられた。
たしかにアメリカは、まだ「若い」のだ。アメリカの社会の動きの各所に、私は、その「若さ」を感じた。「開拓者精神《フロンテイアー・スピリツト》」とやらいうものも、まだ十分に生きつづけていると言ってよい。ソ連のスプートニクの出現に、アメリカの国ぜんたいがあれほどの反応をひき起したのも、それは「若さ」のあらわれと見ることができる。若いがゆえにあんなにもびっくりもし慌てふためきもし、それから次のことがもっとも肝心なことだが、こりゃなんとかせんとアカンゾ、という気概のごときものが政府の内たると外たるとをとわず湧き上がってきて、そしてそいつが気概のままにアワのごとく消えて行かないで、現実のいろんな施策となって実を結ぶ。これは、やはり、アメリカのもつ好ましい「若さ」の一つの例ではないのか。もちろん、アメリカにはそいつを可能にさせるだけのお金があるからだと言ってしまえばそれまでであるが、たとえば、スプートニクに対する反応は、たんに自然科学部門の研究を政府が援助するとか、科学教育を振興させるとかいったものにとどまらなくて、それは国ぜんたいの学術、また教育の程度を高めるという、いささかドン・キホーテ的なところにまで達するのである。ソ連のスプートニクは、アメリカのギリシア学にまで、おそらく好もしい刺激と影響をあたえたのではないか――私は半ば冗談に、しかし半ばは真実心の底から、そう思うのである。
アメリカの社会は、今日、たしかに病んでいるのかもしれない。私がこれまで述べてきたように、たとえばビートはその一つのあらわれであろう。しかしビートが、モダン・ジャズが好きであり、ボンゴが好きであり、麻薬常習者であり、ゲイであり、ケッタイなスエーターとスラックスをはき、アゴヒゲをつけ、奇声を発し、わけのわからんオブシーンな詩を書き朗読するからといって、アメリカの社会ぜんたいが今そんなヒステリックなものになっている、そんな末期症状を呈していると考えては、大きなマチガイであろう。アメリカの社会を見わたして言えば、ビートは、おそらくほんの地方現象にすぎないのだ。ここに今、一つの巨大な病院があるとする。しごくぜいたくなお金のかかる病院で一億五千万もの人間が入っている。病気は、たぶん糖尿病のごときゼイタク病であろう。毎日、しごくぜいたくな、それでいて糖尿病患者向きにつくられた、まったくうまくもない、きまりきった食事があたえられる。大部分の人間は、しかし、それに満足しているであろう。すくなくとも、病院の食事は衛生的ではないか。ところが、ここに風変りな少数者がいる。彼らは非衛生的でもなんでもよいから、ハエがたかっていてもよいから、おいしいものを食いたいのである。彼らにとっては、毎夜、病院の外に来るシナソバ屋の屋台がたまらない魅力だ。ひとりずつ、あるいは数人が群れをなして、彼らは病院の窓から飛び降り、屋台にかけつける。いつのまにか、屋台には常連が存在するようになり、みんなは何だか気が強くなり、てんでに騒ぎはじめる。ジャズまがいの口笛を吹き、腰をふって踊り、奇声を発し……そいつを、病院から少し離れたところに住む人が、いつも見ていたとする。いつとはなしに、彼は、この屋台の患者たちの狂態から、病院ぜんたいを推しはかることを始めるかもしれない。たとえば「あの病院では、みんながジャズに狂っている」と。
帰国後、私はどこへ行ってもビートのことをきかれた。これは、正直に言うと、たいへんに意外なことであった。少し皮肉って言うと、ビートやイギリスの「|怒れる若者たち《アングリー・ヤングメン》」とか称するものを、こんなにも問題にしているのは、次項にも触れるように、彼らの本国よりも日本ではないかと勘ぐりたくなるほど、私は訊かれたのである。まるで、アメリカぜんたいがビートであるかのように――
しかし、アメリカが病んでいるとしたら、それは決してビート的に病んでいるのではない。静かに、そしてたぶんもっと深いところで病んでいるのであろう。ビートたち自身の定義によれば、自分たちは「病者」であり、非ビートの「スクェア」たち(「スクェア」は「まともでバカ」というぐらいの意味であろう)、つまり「健康者」に対する存在であった。しかし「スクェア」たちもまた病んでいるのではないか。それがどんな病気であるかは、私はすでに書いた。それが彼らのアメリカ社会だけの問題でなく、この機械文明のなかに生きているわれわれすべての問題であることも、すでに書いた。たしかに、それは他人事ではないのだ。≪Sick, Sick, Sick...≫は他人事ではないのだ。
* * *
十月のある日、ニューヨークを、クイーン・エリザベス号で発った。
Tが見送りに来た。前夜、送別会というわけで友人一同大挙して集まり、大ドンチャン騒ぎをやったおかげで、二人は眠い目をこすりながら彼のアパートを出た。「最後のおごりだ」そう言って、彼は二五セントのホット・ドッグを立ち食い屋で食わせてくれた。「一個で大丈夫かい?」私はうなずいた。「ヒルメシは船で出る。このあいだ、チャンときいてきた」立ち食い屋を出てから、われわれ二人はきわめて稀れなことをやった。タクシーに乗ったのである。彼が一ドル札を出し、私が不足分五〇セントを払った。チップはどちらが出したのだっけ。
二人で船内のブラブラ歩きをやった。こういう大客船では、一等では、出帆の日にはタダで飲み食いさせるのだときいていたから、ひそかに二人とも期待していたのだが、そんなことはなかった。出帆と到着の日だけ、一、二、三等の区画をなしている重い鉄の扉が開かれるので、一等という天国世界にだってもぐり込むことができる。その天国の食堂に、むろん、われわれは出かけた。「本船ではこんな立派な料理ができますよ」というのを見せびらかすためか、テーブルの上にはうまそうなエビだとか、肉のかたまりだとか、腸づめだとか、キャビアとかが盛りあげてあるのだが、それは要するに見せ物であって食わせ物でない。つまり、まったくの食わせ物であった。
「それでは、これでサヨナラだ」
ひとわたり船内をめぐってから、Tは私に「サヨナラ」という日本語をまじえて、ちょっと改まって言った。私は答えた。「とにかくおたがい貧乏だから、いつ今度会えるか判らんが、おまえはそのときストラビンスキーとなっているか」「おまえのほうはどうだ。おまえは日本のジョイスとなるか。いや、ジョイスぐらいなら、おまえさんは不服であろう」彼はニヤニヤした。「おまえさんはこう言うと満足であろう。おまえさんは、いつかは、日本のホメーロスとなる、と」
なるほど、ホメーロスとは、これはまったくもって私にふさわしいではないか。ホメーロス先生描くところのオデュセウス君のごとく、私は今、なつかしの故国さして大まわりの船出をするのである。うまく行くと、彼のごとく可憐美貌なるプリンセスにかしずかれることもあろうし、いや、うかつ者の私のことだから、へんてこな魔女の婆さんにひっかかってブタにかえられてしまうのが関の山ではないか。
とたんにドラがガンガン鳴った。いよいよ、オデュセウス君の船出である。
Tは日本人とちがってアメリカ人だから、波止場で送るようなことはしない。握手をすると、それだけでさっさと消えて行った。やがて、船はのろのろと動き出す。波止場はハドソン河のかなり上流にあったから、摩天楼の列がつい眼と鼻の先に見えるはずなのだが、あいにく小雨がけむっていて、河岸近くのアパートの屋上の洗濯物しか見えない。波止場の尖端のところに、そう二十人くらいであろうか、見送り人が手をふっている。これが大西洋航路の大花形船のお出ましなのである。私はヨコハマ出帆のさいの火星へでも行かんばかりの大さわぎを思い出して苦笑した。もちろん、ヨコハマのほうにむかって苦笑したのである。
私がクイーン・エリザベス号に乗った理由は、しごくカンタンであった。それが世界最大の客船であり、それゆえに、この世界で私が乗り得るもっともばかでかい船だったからである。いつだったか、ニューヨークの港でクイーン・エリザベス号のきわにちっぽけな船がいると思ったら、それがたしか日本をこれまでに訪れた最大の客船であった。私はその一事だけでうれしくなり、なんとしてでもこいつに乗ってやろうと心に決めていたのである。
それにもう一つ言うと、この船の船賃は、私のように船底深く身を潜めれば、格安の部に属する。これもうれしいことの一つであり、理由の一つであった。
私の室は格安の部でも格安だったから、甲板まで這い上がるのがたいへんだった。「這い上がる」と書いたが、これはコトバのアヤであって、事実はエレベーターに乗るのである。船酔いをさましたくても、タッタッと階段をかけ上がればそこが甲板、というわけには参らぬのである。先ず、やけに大きいからエレベーターまで行きつくのが一仕事で、それからボタンを押し、やっとこさエレベーターが来て、そいつに乗り込んでゆらりゆらりと(これはコトバのアヤでなく、船が揺れるから事実エレベーターも揺れるのである)十一階にまで達する。そこからまた階段を登って、やっとこさ、格安部専用甲板。まったくのところ、「十一階建ての船酔い」であった。
甲板に出ると、風がきつかった。そのはずである。二十九ノットというから巡洋艦なみの速度で、東洋の貧乏オデュセウスのお召し船は、新大陸から旧大陸さして、ひたすらに走りつづけているのであった。
フィッシュ・エンド・チップス
――「|怒れる若者たち《アングリー・ヤングメン》」のなかみ――
クイーン・エリザベス号は、予定どおりかっきり五日後、サザンプトンに着いた。船に接続した「ボート・トゥレイン」という特別列車で、その日のうちに私はロンドンへ運ばれた。すでに冷たく暗欝な霧のロンドンであった。
アメリカ人は、たいてい、イギリスへ行くと故郷に帰ったみたいだという。なるほど、そんなものであるのかもしれない。ことに、アメリカで私のいたのはニュー・イングランドだったから、そういうアメリカ人の気持はよく判るのであった。たとえば、ボストンをやたらと古くし、歴史の埃と臭気をそこへべったりとぬりたくればよろしい。それと、もう少し、ひとびとの動作をおだやかに、ゆったりとさせる。
もっとも、イギリス紳士というものはいつも悠然とかまえているのかと思っていたら、例外の場合がすくなくとも二つあることが判った。一つは、例の二階建てのバスに乗るとき。イギリスのバスの制度は飛び乗りをしないといけないことになっているらしく、ぐずぐずしていると取り残されてしまう。山高帽にコーモリ傘という黒服の紳士が、身軽にひょいひょいと入口の柱にとびついて行くのに、私は何度驚嘆の声を発したことか。もう一つは、地下鉄のエスカレーターをかけ降りるとき。地下鉄のエスカレーターは二人並んで立てるぐらいの広さであるが、左側は立ちびと用、右側は走りびと用になっている。山高帽の紳士もビジネス・ガールも腰の曲ったお婆さんも、私がおとなしく手すりにつかまって降りて行く横を、勇敢に奈落めがけて走りくだる。もっとも、ロンドンの地下鉄はやたらと深く、そうでもしないと時間がかかって仕方がないのである。
生活様式とか街の外観とかにさして大きな変化がないとすれば、アメリカからイギリスへ渡った場合に、先ず感じるのは「貧困」というものであろう。いや、ヨーロッパでスカンジナビアにつぐ生活水準をもつ国を貧乏だなどと言ってはよくない。逆に、アメリカの並みはずれた豊かさを、今さらのように感じたというべきだろう。トイレット・ペーパーひとつとってみても、私はそこに紙質の微妙な差を感じた。これは仕方のないことかもしれない。スカンジナビアはたしかにその豊かさで私の眼をみはらせることが多かったが、オスロの駅の待合室で、破れてやっかい物になったビニールの洋服おおいをアメリカ流にいさぎよく捨てたとき、ある人品いやしからぬ紳士がそれを拾って行ったのを目撃したことがある。
そのスカンジナビアにはコジキはいない。いるかもしれないが、探すのに非常に困難である。(この点でアメリカより豊かであるということができる。)あるノルウェー人が言ったことがある。「イギリスでもっともショッキングなのはコジキがウヨウヨしていることだ」
これは少し意外なことであった。ウヨウヨというのは大げさかもしれないが、コジキの姿はたしかに眼につく。それに、あれはどういうわけからなのか、子供にコジキ的行為をするのが多い。道ばたに手製の人形を置き、その前に皿をおいておく。子供は横でその皿に小銭が投じられるのをにらんでいるという寸法である。そんな紳士的なことにはあきたらない連中は、もっと端的に小銭をせびりに来た。社会保障の文化国家としては、少しどころか大いに意外であり、不ユカイなことであった。子供にそういってせびられたのはメキシコ以来であり、またその後もスペインに行くまではそういうことはなかった。もちろん、私の滞在していたのは、ロンドンでもろくな一角ではない。しかし、どこの国、どこの都市でも私は同じようなところをうろついていたのだから、それは説明にも言いわけにもならない。
私はあるスラム街のまんまんなかにあった、古びた、今にも倒れんとしかかっている「スチューデント・サービス」に居を定めていた。誰がいったいどんなふうに経営しているのか未だに判然としないが、とにかくそういったものがあり、一泊百円かそこらで人を泊めていた。「スチューデント・サービス」というが、誰だって泊まれるのである。ユース・ホステルで四五日ごろごろしたあと、電話帳をくっているうちに偶然私はこれを見つけ、「スチューデント・サービス」というからには、空きベッドが室の片隅にあるにちがいないと山勘で電話をかけてみたのであった。
同じ室で一週間をともにしたのは、先日までキプロス島で英語教師をして目下失職=求職中のイギリスのインテリ氏、アイスランドから何トカ大学留学中の文学青年、それにめでたく留学を終えて帰国の途につかんとしているインドのエンジニア。みんな、私と同年輩か、それとも少し若いらしく見えた。
この四人がせまい一室に暮らしていたわけだが、毎日毎夜、議論をした。よくもあんなにアホらしいまでに議論したことだと思うが、それは、たぶん、みんなにお金がなく、それゆえに気のきいた休み場に行けず、毛布にくるまって所在なげに時間をつぶすことが多かったせいであろう。それに、話していないと寒くてやりきれぬのであった。ロンドンの十月末は、もう冬である。もちろん、その室には暖房はなかった。
ある日など、いち日、朝から晩まで議論でつぶした。発端は、インテリ氏が「全体主義はふつう効率が良いものとされているが、実はさにあらず、早い話、イギリスがドイツに勝利を博したのはその政治体制のおかげである」と言い出したことにあったが、このなんでもない論旨が、あんな大議論にまでやみくもに進展して行ったのも、これとても四人がいちように罹っていた慢性飢餓症のおかげであったかもしれない。インテリ氏の議論は次第に押し進んで、「コンミュニズムは全体主義であって、しかるがゆえに効率が悪く、世界制覇は不可能である」というところにまで達したのだが、そこで「共産主義をナチズムと同一視するバカがあるものか」と猛然と反撃に出たのが、アイスランドの文学青年であった。それにインドのエンジニアと日本の無名作家が加わり、議論はえらく紛糾した。ことに、その途中で、インテリ氏が興奮のあげく、イギリスのインド支配を正当化するようなことを口走ったからたまらない。「インド人がイギリス帝国主義について論じはじめたら、それはもうオシマイ、あとは忍耐力の問題だ」と誰かが教えてくれたことがあるが、その通りであった。はじめは、「そうだ、そうだ、わが祖国もデンマークの植民地支配の下に苦しんでいたから、君の気持はよく判る」とさかんに相づちをうっていたアイスランドの文学青年も疲れはてておし黙るにいたり、当の相手のインテリ氏ときたら、とっくの昔に白旗をかかげて、賛成とも反対とも何ごとも意志表示するひまさえ見いだせないでいる日本人氏にむかって、やれやれたいへんなことになったという表情をつくるばかりであった。
しかし、何ごとにも限度がある。この場合の限度というのは、議論のタネ切れではなくて、四人が空腹に耐え得る限度であった。アイスランドの文学青年のオナカがグーと鳴り、ついでインテリ氏、私、ついにはその当のインド人氏のそれまでがひときわ高く鳴りひびいた。それが休戦のラッパであった。「フィッシュ・エンド・チップスでも食らいに行くか」アイスランドの文学青年がそう言い、他の三人はさっそくそれに応じた。
池田勇人氏ではないが、日本の庶民はよくカレー・ライスを食べる。同じふうに、イギリスでフトコロの軽い連中は、「フィッシュ・エンド・チップス」のやっかいになる。何も変った料理ではない。魚の切り身のフライ、そいつにつけ合わせとして、ジャガイモを小さく長方形に切ったもののフライ。日本語ではこんなおイモの揚げ物のことを何というのか――アメリカ語では「フレンチ・フライ」とか言った。(言語学的蛇足。アメリカで「ポテト・チップ」といえば、日本流にうすっぺらなおイモをカラカラに揚げたものを指す。アメリカ英語とイギリス英語の用法の差異を示すものとして、受験生諸君は記憶されたい。)
イギリスは食い物のまずいことで世界に有名であって(「アメリカ以上にまずい」といえば、もうお判りであろう)、まして、この種の「フィッシュ・エンド・チップス」ときたら、うまかろうはずがない。しかしそれにしても、こいつは、インテリ氏によれば中産階級以下の誰もが食らうがゆえに、「大英帝国の根幹」であり「タマシイ」でさえあった。そう彼が言ったら、アイスランドの文学青年が「ゆらぎつつある大英帝国の、だろう」と注釈をつけ加え、さらに「いや、イギリス帝国主義のタマシイだと言いかえるべきだ」とインドのエンジニアが、ケチャップをダブダブ、大西洋産のフカの切り身ともシーラカンスのシッポとも何ともつかないものにぶっかけながら、革命的意見を出した。「あんたの好きな『|怒れる若者たち《アングリー・ヤングメン》』もこいつを食うのかね」私は言った。インテリ氏は、オックスフォード=ケンブリッジの名門の出でなく、しがない駅弁大学出身者だったから、それゆえに、いつも「|怒れる若者たち《アングリー・ヤングメン》」の気持はよく判ると口ぐせにしていたのである。インテリ氏は、わが意を得たり、というふうに大きくうなずいた。「フィッシュ・エンド・チップス」のまずいことが、あの連中をあんなに怒らせるのか。この論法でゆくと、アメリカのビートのおなかにはハンバーガーとホット・ドッグがわんさとつまっていて、そいつが体内であばれまわっているのであろう。それにしても、魚と肉とでは、イギリスとアメリカの国力の差を示すものであるな、と妙なところに感心していたら、「日本では連中は何を食っているのかい?」とインテリ氏が傍点のところに力を入れて訊ねてきた。「連中って誰だい?」私が訊ね返したら、インテリ氏は呆れた顔になった。「おまえさんも自分の国の事情にうといね。おまえさんとこでも、わが大英帝国のマネをして、『|怒れる若者たち《アングリー・ヤングメン》』というのが大流行らしいぜ」初耳であった。若い芸術家諸氏が集まって、「|怒れる若者たち《アングリー・ヤングメン》」日本版の集会をやったとかやらなかったとか、インテリ氏はそんなことまで知っているのであった。新聞で読んだのだという。これでは、わが日本国には、私の留守中にビートというのまで発生しているのかもしれない、と感慨無量になった。「なにしろ、おまえさんの国はイミテーションの上手な国だからね。ロンソンのライターを初めとして、ことは『|怒れる若者たち《アングリー・ヤングメン》』にまで及ぶか」インテリ氏はなかなかうまいことを言う。ライターを持ち出されて旗色がわるくなった私は、インド人氏とアイスランド人氏に向き直って、「おまえさんの国はどうだい、『|怒れる若者たち《アングリー・ヤングメン》』というのはいるかい?」と訊ねたら、なんというマヌケめ、彼ら二人はこの「|怒れる若者たち《アングリー・ヤングメン》」の本場、イギリス国に来て二三年になるというのに、いまだに遠くわが祖国日本国にまで及んだこの「世界的現象」を御存じないのであった。インド人のほうはエンジニアだからまだ許せるとしても、アイスランド人は文学青年ではないか。しかし、彼はいたって平然としている。「|怒れる若者たち《アングリー・ヤングメン》」のことなどはそっちのけにして、アイスランドに伝わる何トカいう古代の叙事詩のすばらしさ、ノーベル賞受賞者である詩人ラクスネスの偉業について、悠々と一席ぶちはじめた。
インテリ氏は、この「世界的現象」に無頓着な野蛮人に困ったように肩をすくめ、「いったい連中は、日本では何を食っているんだ?」と皮肉たっぷりにふたたび畳みかけてきた。「やっぱりフィッシュ・エンド・チップスかね」「いや……」私はかぶりをふった。「カレー・ライスだ」「カレー・ライス?」インド人がこおどりした。「ホホウ、日本の若き芸術家諸氏はカレー・ライスを食べるのであるか。しかし、彼らはカレーのように美味なるものを食べながら、何に対して怒っているのだ?」「たぶん、カレーそのものに対してであろう。彼らのカレーは、インド人のそれ以上に辛いものであるにちがいない」インテリ氏が茶々を入れた。チクショウメ、私は仕方がないからアイスランド人にほこ先を転じた。「おまえのところでは、若き文学者は何を食っているのだ?」彼はしずかに答えた。「われわれはイギリス産のフィッシュ・エンド・チップスも、インド産のカレー・ライスも食べない。といって、フランス産のカミュもサルトルも、ドイツ産のカフカも、ロシア産のドストエフスキーもパステルナクも食べない。もし、われわれが食べるとすれば……」彼はそこでコトバを切り、それからいやに澄んだ声でつづけた。「それは、たぶん、われわれのところでとれるクジラであろう」
* * *
イギリスへ行けば、ドイツの少女と仲よくならなければウソである。ドイツのお金持の家庭では、娘に英語を覚えさせるためにイギリスへ修業に出す風習があるらしく、私はそうしたドイツ娘にあちこちで会った。
だいたいドイツの女の子というものは、愛くるしく家庭的で人なつっこいところへもってきて(私はドイツ少女を見ると、いつも津軽のおとめたちのリンゴのほっぺたを思い出した)、イギリスというところは無愛想で冷たく、おまけに、ドイツ人とくると、いまだに変な敵愾心を燃やしてロクなもてなし方をしないから、かわいそうなほど孤独である。日本人のほうもイギリスではあんまりよい顔をされないから(イギリスが全世界で日本人にそんなふうにあたる唯一の国であろう)、しぜん孤独であり、孤独な二つの魂はあいよるということになる。なんせ、ドイツと日本とは、昔の同盟国ではないか。
ある夜、サドラーズ・ウェールズのバレエをてっぺんの格安席から背中の筋がつっぱるまで伸びをしてのぞき込んでいたら、となりにかわいいドイツ少女が来た。さっそく知り合いになった。彼女は、ほとんど毎夜、音楽会かバレエに来るという。彼女はこれでロンドンに一年近くいるのに、親しい友人も知己もできず、さびしくて仕方がないからそうしている、ということであった。
彼女はミュンヘンっ子であった。ミュンヘンの何一つ不足ない、かなり旧式の家庭のお嬢さんであることは一目見て判った。芳紀二十歳。私は彼女とよくデイトをしたが、待ち合わせの場所は、鳩ポッポで有名なトラファルガー広場。おくれて行くと、彼女はいつも無心に鳩にエサをやっているのだった。
無邪気な女の子であった。それまでアメリカとカナダとメキシコの女の子しか知らなかった私には、彼女はずいぶんと子供に見えた。いや、こんな言い方はへんだろう、アメリカの女の子が年のわりにませていたと言うべきであろう。それにアメリカの女の子とちがって、ヨーロッパの女の子は、ずいぶんと女らしい。日本からヨーロッパへ直接行くと、女の子は日本のおとめたちに比して男性的に見えるかもしれないが、いったんアメリカを経由して行くと、イギリスの女の子さえ女性に見える。そんなわけで、そのドイツ少女の「女らしさ」は、私の感傷を淡くゆり動かした。
私はやたらと感傷的になり、子供っぽくなった。彼女といっしょに「ロンドン見物」をしてまわった。ロンドン塔のどこやらの室の壁に彼女のおじいさんがイギリスへ来遊の節、書きのこしたとかいうラクガキのあとを懸命に探したが、見当らなかった。お父さんは、たしかにそいつを見たことがあるという。「きっと戦争のせいね」彼女は無邪気に笑った。戦争が終ったとき、彼女はまだやっと五歳だったのである。何も覚えていないのだという。ドイツの新しい世代の子なのであろう。スチュワーデスになるのが最大のユメであった。「スチュワーデスになって日本へ来たまえ」私はいつもそう言い、そのたびに、彼女の瞳はみるみる夢みる瞳となった。
ロンドンを去る前夜、私は彼女と夜おそくまでテームズ河畔のベンチに腰を下ろしていた。あちこちのベンチで、いろんなカップルが接吻を交わしている。私も彼らにならってそうしようとしたら、「こんなところで、みんなあんなことしているのね」と彼女は感にたえたような声を出した。彼女はロンドン生活一年のあいだ、一度もこんな時刻にテームズ河畔に来たことがないのであった。ヤレヤレ、と私は嘆息を発したが、気をとり直して、「とにかく、スチュワーデスになって日本へ来たまえ」と、いつもの口ぐせを言った。「ある日本の歴史家が、昔、テームズ河の水は東京湾の水に通じていると言ったことがある。だから、この河の水に祈りたまえ。きっとそうなるから」私はそんなえらく少女趣味でアホらしいことを言い、林子平氏をとんだところで引き合いに出したことに自ら苦笑したが、それは苦笑ではあったが、まるで微笑のようにこころよかった。
あいるらんどのような田舎へ行こう
――ズーズー弁英語の国――
私はかねがねアイルランドという土地に、ひそやかなる憧れを抱いていた。先ず、私の愛誦する丸山薫氏の詩の一節をあげておこう。
汽車にのって
あいるらんどのような田舎へ行こう
ひとびとが祭の日傘をくるくるまわし
日が照りながら雨のふる
あいるらんどのような田舎へゆこう
これを口ずさめば、誰だって、アイルランドへ行ってみたくなるではないか。私がこの詩にはじめておめにかかったのは、まだ中学生のころだったから、わがアイルランドに対する憧れもずいぶん年久しいものである。それに陽気で寂しがりやでセンチメンタルな私は、まったくそんなふうなアイルランド民謡が大好きであった。
そこへもってきて、アイルランドの歴史が私をひきつける。日本人の大半は、アイルランドといえば、いまだにイギリスの一部だと思っているかもしれないが、それは大きな誤りである。北部アイルランドはたしかにそうだが、南部は「アイレ共和国」といって、れっきとした独立国なのである。入国にはイギリスとは別なビザが必要であり、それは英語でなくアイルランド語で書かれているから、たとえば無学な私にはかいもく読めなかった。第二次大戦中も中立を守り通した数少ない国であった。
そして、この独立は平和のうちにかち得られたものではない。アイルランドの近代史はまことに血なまぐさい。流血につぐ流血。第一次大戦後になって、やっとアイルランドはイギリスの支配を脱することができた。ダブリン市内どこへ行ってもその闘争の遺跡があり、現在イギリスとの関係は友好的だが、反英感情はひとびとの心の底に根強く残っている。それに、アイルランドは貧乏国で有名だが、それは一つには、イギリスが工業地帯である北部アイルランドを手放さないからであった。
小国で農業国で人口過剰だから、みんなイギリスへ出かせぎに行く。勇敢なのはアメリカくんだりまで移民に出る。アイルランド移民は「アイリッシュ・アメリカン」といって、ついこの間までは貧乏人の代名詞であった。
アイルランドといえば、忘れてならないのは、イギリス文学史に必ず出てくるアイルランド系の作家たちであろう。ジョナサン・スウィフトをはじめとして、ジェイムス・ジョイスに至るまで、大立物がズラリと並んでいる。「ダブリンへ行くぜ。あそこはわが愛するジョイス先生の街だからね」と私が言ったら、前記失職=求職中のインテリ氏は、「日本人は誰でもジョイスを読むらしいね。えらいものだ」と皮肉たっぷりに感心した。
わが愛するジョイス先生はどうだったか知らないが、アイルランド人は田舎人種で人がよく親切である。英語でHe is Irish.といえば、お人よしで、その上ちょっと足らん、ということになる。それに無類の話好きである。
私のアメリカでの飲み友達に、ひとりアイルランド人がいた。ニューヨーク生まれだから、「アイリッシュ・アメリカン」というべきであろう。もと左翼のジャーナリストで、ヒューバーマンの友人であった。ある日、彼は私を自分のアパートに招いたことがある。私が彼の室についたのが午後四時、出たのが翌日の午前四時だったから、彼の室にいたのは十二時間であるが、彼はその十二時間をのべつまくなしに喋りつづけたのである。そのあいだにはもちろん食事もとったのであるが、彼が黙っていたのは、彼が実際に肉の一片を口に入れてモグモグしていたほんの瞬間的な時間だけであった。あとは話、話、話……である。話題はチベット問題からジャズの起源にまで及んだ。彼と別れて外へ出たら、エンパイア・ステート・ビルが薄明のなかで二重に見えた。「話に酔う」とは、まさにこういうたぐいのことを言うのであろう。翌日一日中、私の頭は重く、ときとしてズキンズキン痛んだ。「話の二日酔い」というところであろう。
この話を日本へ帰ってからある友人にしたら、彼はどこかの本にあったといって、アイルランド人の客好きについての新説を紹介してくれた。それによると、アイルランド人が客を歓待するのは実は彼らが孤独を愛するがためである。客が来る、すると彼らはひとりになったときの楽しさを思って、歓待する。彼らのサービスは時間がたつにつれて、だんだんとよくなる。しかし、これも考えてみるとふしぎでない。ひとりになる時間が近づいてくるのがうれしいのであって、それゆえ、彼らはサービスにこれつとめるのである――
この説はあたっているのだろうか。アイルランド人の招待を受けるときは、とにかく「話の二日酔い」にだけは注意したほうがよろしい。
「二日酔い」の一つの原因はコトバにある。またまた英語のハナシとなって恐縮だが、彼らの英語「アイリッシュ・イングリッシュ」というのも難解なことおびただしい。私の日本人の友人にアイルランド人を恋人としている男がいたが、彼の最大の悩みは彼女の英語にあると言っていた。彼女の希望は日本で英語教師をすることにあったが、「あれではおれのほうがまだしも正確な英語を話すぜ」と彼はカゲ口をきいた。
そこへもってきて、共和国政府は、英語は侵略者のコトバだというわけで、公用語はケルト語の一派であるアイルランド語ということになっている。公衆電話の掲示もそいつで書いてあるから、電話をかけるのに大いに困った。ところがおかしなことに、子供のほうは学校でアイルランド語を習うから自由に会話ができるらしいが、オヤジたちのほうには、英語しかダメです、という手合いがはるかに多いのである。ひとびとの話しコトバは、いぜんとして英語である。映画館に入ってみると面白い。劇映画のほうはたいがい英国映画であるから問題はないが、そのあいまに上映するニュース映画の解説はすべてアイルランド語でやるのであった。何のことやら判らず私はポカンとしていたが、映画館にはアイルランド人でありながら私と同様にポカン組というのが多いのである。子供を除けば、たいていの連中がそんなふうに見えた。
私がダブリンさしてロンドンを発ったのは、休日の前夜のことだったからたまらない。ちょうど、連休かお盆休み前の上野駅、まったくあんな感じであった。故郷へかえる出かせぎ組でゴッタ返す。そこにたちこめているのは、啄木ではないが、田舎の匂いであり、またズーズー弁にあたる「アイリッシュ・イングリッシュ」であった。
やっとのことで超満員の汽車に乗り込んだが、まったくのところ、みんなは「ヨウ、元気かい」と肩でも叩きたくなるようななつかしい乗客ばかりであった。信玄袋のようなカバンを後生大事にかかえたバアさん。新調のセビロが板につかぬ、一年前までは野良仕事に精を出していましたというようなボクトツ青年。私の前にお嬢さんがひとりいたが、このお嬢さんなどは日本人式に靴をぬいで座席の上にぺたりと坐り込んだ。靴下の裏がまっ黒である。帰ったらすぐ乳しぼりにでも行くにちがいない――私は勝手にそんな空想をたのしんだ。
イングランド西岸の何トカいう田舎町からダブリンへ連絡船が出る。こいつに乗った。ちっぽけな船で、これもまた私に日本を思い出させることしきりであった。先ず乗り込むまでの長蛇の列。そこに並んでいる連中の買い出し部隊的大きな荷物。船内もまたもやたいへんな混雑であった。みんな廊下に新聞紙を敷いてへたり込む。私も同じようにへたり込んだ。眠るには、しかし、あまりにもズーズー弁がやかましい。
翌日、フラフラになってダブリン着。冷雨のダブリンであった。先ず泊まり場所を求めてウロウロ。ついに救世軍ホームに拾われた。一泊八〇円。室に入って行くと、みんないっせいに私を見た。みんな――「旅路の果て」という映画か「どん底」の描写を思い出していただけばよい。壁のキワにひとり老人が寝ていて、こいつがひっきりなしにゼイゼイ咳きこむのには恐れをなした。「えらいところへ来た」と思ったが、一泊八〇円は魅力であった。居つくことに心をきめた。
一人、気の弱い善良そうな青年がいた。私が日本人だと知ると、親しげに寄って来た。日本へ水夫として行ったことがあるという。なんでもデンマーク人の同僚と東京見物をしたとき、英語の話せるお巡りさんと親しくなった。彼は親切にしてくれたが、アイルランドなんて国がどこにあるのか、と言い出した。「彼はデンマークのことはよく知っているんですよ。悲しかったね。アイルランドなんて国はないというんです。地図を持ってこさせて見たら、古い地図だったからか、まだ英国領だということになっていた……」
彼といっしょにダブリンを歩いた。仙台ぐらいの都会が首府であって、ちっぽけな国会から国立博物館にいたるまで、何でも一応はそろっている。ただ冷雨のせいか、街にはあまり人影はなく、すべてやたらと暗く、またわびしいのであった。「ジョイス先生が青春をここで送ったと思うとかわいそうだ。われらの輝かしきバビロン、東京へ招待してやるべきだった。もっともほんとに来たら、彼は遊びつかれて『ユリシーズ』など書かなかったかもしれぬ」と私は友人に書き送った。
あまり雨が降って寒いので、私は駅へ行った。待合室のストーブで暖まろうという魂胆からである。しかし、おどろいたことに、その日は日曜だったから駅もお休みなのであった。想像もできないことだが、東京駅か新宿駅にあたるのが、日曜日は一日に二三本しか列車が発着しないから、その発着時刻の夕刻までかたくヨロイ扉をおろして、ヒルネをきめこんでいるのであった。
救世軍に早く帰る気もしないから、私はダブリン滞在の二日間、たてつづけに映画を観た。他に何も娯楽がないのである。ダブリンでは、日曜の夜の映画館は前売り券でないと入れないといえば、その娯楽のフッテイぶりがいかなるものかお判りだろう。
その二日ともに、どういうわけからか、私は英国製、U・S・S・R製のそれぞれの劇映画とともに、日本についての文化映画みたいなものを観ることができた。一日目のは日本製の日本刀についての映画であった。二日目のはイギリス製の観光映画で、「TOKYO」が「Mystic Far-East――Tokyo」という解説つきで写し出された。ある二人連れが銀座の松屋とおぼしき建物の屋上にあがり、周囲をゆっくり見まわす。そこのところのシーンで、周りの観衆から、いちようにホホウという嘆声がもれた。カメラはゆっくり回転するのだが、そのあいだじゅう、立派な高層建築が切れ目なくつづく。私でさえがその「威容」にちょっと息をのまれたくらいだから、この世界の果てみたいなダブリンの市民たちが、もう一方の果ての大都会にキモをつぶしたのもムリないことであろう。安価なナショナリズムと笑うなかれ。私は正直いって少しうれしくなった。
この映画のラスト・シーンが傑作であった。銀座四丁目にあった(たしか今はもうない)、どこかの酒会社の大きなタヌキのネオン・サインが大写しに写った。私はアツカンで無性に一ぱいやりたくなった。
救世軍のかたい冷たいベッドの上で、私はそのタヌキのゆめを見た。手に一つずつ大きなサカズキを持った無数のタヌキたちにとりまかれて、どうやってこの包囲から逃げ出そうかと苦慮している最中に、例の壁ぎわのジイさんの咳がひときわ高く鳴り響き、私は東京からダブリンにとたんにひき戻された。
外ではまだ雨が降りしきっていた。まったくの冷雨である。
「求職」あるいは「おしのび」旅行
――北欧早まわり、オスロからコペンハーゲンへ――
オスロへ行っても、冷雨は降りつづいていた。同じように暗く、寒く、わびしかった。おどろいたことに、ある日など、まだ六時半だというのに、もう目抜きの大通りにさえ人影はまばらなのであった。とにかく寒くてやりきれない――私は何かえらく腹をたてながら、オスロを歩きまわった。私はオスロではどうもついていなかったらしい。美術館へ行けば目下閉館中だし、彫刻家ビゲランドの彫像で飾られたビゲランド公園というのに行けば雨は土砂降りになるし、あるノルウェー人にノルウェーの地酒アカビットを御馳走になったのはよいが、そのメチャに強い酒をのみすぎて、もうちょっとのところで北極間近の海のなかに滑り落ちそうになったり、とにかく、あまりろくなことはなかった。
ついていないと言えば、イギリスからオスロまでの航海もついていないことの標本であった。アイルランドからイギリスにかえるとまもなく、私は石炭の積み出し港として名高いスコットランドのニュー・キャースルから、オスロ行の船に乗った。さして大きくもないノルウェー船のやっかいになったのだが、それはたいへんなやっかいのなりようであった。この「たいへんな」というのは私に対してであって、船に対してではない。
この船には三階級あった。一等、二等、それに「集団収容設備《グループ・アコモデイシヨン》」というのがある。これを三等と呼ばない理由は、乗ってみて判った。
船のヘサキのところは、通例、下級船員の居住区ということになっているが、そこんところにもひとつ一文ナシの乗客たちを入れてやれ、と頭の良いのが考え出したらしい。それが「集団収容設備《グループ・アコモデイシヨン》」である。私のベッドがどうも居心地がわるいと思ったら、船のヘサキのかたちに合わせて、少しばかり先細になっていた。
「集団収容設備《グループ・アコモデイシヨン》」に収容されたサムライは、ぜんぶで九人いたが、私を除く八人はみんな船員なのであった。当のノルウェーをはじめとして、イギリス、ドイツ、デンマーク、イタリア各国がそろっていたが、みんなオスロから各自の船に乗り込むことは一致している。いや、私までがそんなふうに思われていたらしい。イタリア人が私に「ボーイが日本の船員が来たのは初めてだと言っているぜ」と注進に及んでくれた。訂正するほどのこともないので放っておいたら、とんだところで化けの皮がはがれた。
私をのせたノルウェー船が勇ましく冬の北海めがけて出撃したちょうどその日、折あしく、その冬最初の本格的な冬の嵐が北海を襲ったのである。各地で難破船が出る騒ぎであった。私はそれまで船には強いほうだとうぬぼれていたのだが、そんなうぬぼれなど、出航後五分で消し飛んだ。
前にも述べたように、私の先細のベッドが示すごとく、「集団収容設備《グループ・アコモデイシヨン》」は船のヘサキにあり、それゆえに波がまともにぶつかってきて、もっとも動揺のすさまじいところであった。二晩と二日のあいだ、私は振り落されまいとしてその先細のベッドに必死にしがみついているばかりであった。もちろん、お得意のメシを食らう、どころではない。それとまったく正反対のことをしつづけるばかりであった。
オスロへ着いて、かたい大地の上に立つことができたあとも、私の体は、それから二日ほどまだ揺れ動きつづけていた。
オスロではスポーツマン・クラブという妙なのに泊まった。ユース・ホステルは満員だったのである。オスロ市内からバスで半時間、しずかな山中にあった。かたわらに巨大なジャンプ台がある。スポーツマン・クラブといっても、スポーツマンでなくても泊まれた。旅行者どころか、そこにたむろしているのは、オスロ市内で職を見つけて働いている外国人たちであった。
だいたい、季節外れ《オフ・シーズン》にヨーロッパや中近東・アフリカを旅行しているのは、それもユース・ホステルとか救世軍とかを利用して放浪している連中は、求職旅行を兼ねているのである。この連中を国籍別に分けると、圧倒的に多いのは、ヨーロッパではアメリカ人、中近東・アフリカではドイツ人であるが、職がありあまっているアメリカ、ドイツを捨ててぶらぶらしている連中のことだから、もちろんボヘミアンであり、どこかに必ずおかしなところがあった。ヨーロッパにおける彼らのルートは、偶然、私の旅程と同じであった。イギリスを出発点として先ずオスロへ行く。それからスエーデンをかすめてコペンハーゲン、ついでドイツ、オランダ、ベルギー、そしてパリが一応の終点となる。それでもまだうまく行かない場合は、一隊はスペインへ、もう一隊はイタリアへ向かう。私は、オスロやコペンハーゲンで会ったそうした連中と、しばしば各地で再会した。もっともしげしげ出会ったのは、そのオスロのスポーツマン・クラブで会ったイランの青年であった。えらくシニカルな男だったが、私は彼とその後コペンハーゲンで会い、アムステルダムで会い、パリで会い、スペインのバルセロナで会い、次いでレバノンのベイルートで会った。「職はみつかったかい?」と訊ねると「まだだ」と言い、「まだテヘランまでダマスクスがあるさ」とうそぶいていたが、テヘランで再会しなかったところを見ると、ダマスクスで、貿易商か旅行業者にやとわれたのか、それともバザールの売り手となり終ったのであろう。
後者の「バザールの売り手」というのは、何も失礼な想像ではない。みんな職についたといっても、幸運な例外を除けば、外国人のことだからろくな職につけるはずもない。オスロのスポーツマン・クラブに、アメリカはウィスコンシン州立大学出身のインテリ氏がいたが、彼は毎朝四時に起きるのであった。オスロ市内まで身仕度を入れて一時間かかるとして、いったいいかなる仕事が朝の五時に始まるのか。彼は笑って自分の仕事が何であるかを遂に明かさなかったが、余り芳ばしいものでなかったことだけはたしかであろう。
私はこのクラブに三日いたが、すっかり風邪をひいた。アメリカ人というのはやたらと戸外の空気を好むらしく、どこででも窓をあけはなって、それがいつも悶着のタネとなっていたが(セントラル・ヒーティングに慣れているから、そういうことになるのだろう。ヨーロッパでも南へ行くにしたがって、ひとびとは窓をあけなくなる)、私の風邪の原因もそこにあった。二段だてのベッドの上段に私は寝ていたのだが、私の下にはえらく肥ったアメリカの中年男がいた。彼はスパイであるという評判だったが、アメリカ国のスパイともあろうものが、一泊百二十円のあんなみみっちいところにいるはずなものか。おおかたスパイにたかって食っていたのだろう。とにかく、この肥った男は無類の暑がり屋で汗かきであったからたまらない、一晩中窓をあけはなって寝ようとする。それを防ごうとしたのが、私と、もう一人同じアメリカ人ではあったがウィスコンシン州のインテリ氏であった。私たちは彼があけはなった窓を閉め、彼はまた開き、私たちがまた閉める。そいつをやっているうちに一晩がすんでしまうのであった。「ここは北極に近いのだぞ!」私たちは口ぐせのようにそう言った。ある早朝、余り寒いので眼覚めたら、外はうっすらと白の薄化粧であり、あけはなした窓から白い粉末が舞い込んできている。あわてて窓を閉め、「畜生め、よくも窓をあけておきやがったな」と腹をたてながらくだんの肥った男を見たら、その男のおヘソのあたり、雪がつもっていた。彼は、この北極近いところで、ハダカで寝ているのであった。
* * *
コペンハーゲンまで行きつくと、実は私はホッとした。ここは都会であった。しかも、アンデルセンの国にふさわしい、お伽話的に美しい都会であった。オスロからコペンハーゲンまでのヒコーキのなかで(私はいよいよ東京までの大まわり飛行の第一歩を踏み出したのである)、スエーデン人が「あそこはゲイ・タウンだ」と、軽蔑と羨望を同時にこめた口調で言った。デンマークは北欧でもっともヨーロッパ的なところだし、またヨーロッパではもっとも北欧的なところなのである。コペンハーゲンのことを「北方のパリ」だという人もいる。
コペンハーゲンを好きな人は多い。アメリカでのかくれたベスト・セラーのひとつに、もとヨーロッパ駐留のアメリカ兵士が書いた『ヨーロッパ一日五ドル旅行』という貧乏旅行指南書があるが、その著者はよほどコペンハーゲンが気に入ったらしく、コペンハーゲンのことを「真実すぎるには余りによすぎる」とまで言っている。たしかに、ぶらぶらしているかぎりではこんな気持のよい都会はないだろう。小さいながら、ここにはすべてがある。ティボリという大きな遊園地、気のきいた商店街、王様が昔天文学に凝って建てたという円筒形の奇妙な建物、昔の王宮、今の王宮、そのまえにたつイギリスのバッキンガム宮殿ばりの、しかしもっと庶民的で童話的な番兵さん、ヨーロッパでもっとも値段が安いかもしれないナイト・クラブ、おいしい料理(私の感じではヨーロッパではフランス、イタリアについでうまい)、国立歌劇団、バレエ(デンマークのバレエは有名である)。そして、金髪と真白い肌のきれいな女の子たち――
私がコペンハーゲンに着いたのは、すでにもう十時近い時刻であったが、街には人がワンサと歩いていて、レストランもまだ開いているのがあった。これが、六時半すぎにはすでに人影もまばらだったオスロから来た私を、何より感激させた。宿探しかたがた、私はさっそく街を歩くことにした。ユース・ホステルの門限はもうとっくにすぎていたから、今夜だけ、どこか他のところに泊まる必要があった。
いいかげんあてもなく歩いたところで、無性に腹がへってきたから、とあるキャフェテリアに入った。いろんな種類の魚やら肉やらハムやら野菜やらをのっけたオープン・サンドイッチをみんなパクついている。これがデンマーク名物の「スモレブロット」であった。私はさっそくそいつをサカナにして、デンマーク産のビール(たいへんうまい)をガブのみしていたら、横のテーブルににぎやかな少女たちの一群が来た。私は道を訊ねるにしても女の子にするのを主義としていたから、さっそく少女たちのテーブルに割り込んで入った。総勢五人。ありがたいことに、みんな英語が話せる。「どこから来たんですか?」そのうちの一人、大柄でひときわみごとな金髪をクルクルと頭の上高くまきあげたのが訊ねた。「オスロから」みんなはケゲンな顔をした。私がノルウェー人でないことは、一目瞭然であろう。「そのまえはアイルランド、そのまえはイギリス、そのまえはアメリカ、そのまえは……」「デンマークでしょう」小柄でピチピチした感じのお嬢さんが茶目を言った。みんなはケタタマしく笑った。どこの国でも、女の子というものは笑うものである。「とにかく、もともとは日本出身だ」「ヤーパン!」みんなは異口同音に叫んだ。さあそれからがたいへんである。みんなは好奇と賛嘆の眼をかがやかせて、口々に話しはじめた。いかに「ヤーパン」がすばらしい国であるか、今や北極空路のおかげでわれわれは隣人であるとか、「ヤーパン」に行くのが私の生涯のユメですというのやら、いや、「ヤーパン」国の人間と今夜しゃべったこと自体が後世にのこる記憶であろう……
外国で自分の国のことをほめられるのはうれしいことであるが、こんなふうに手ばなしで、しかもきれいな女の子たちからやられるといささかおもはゆい。私はそれで話題を私にとってもっとも緊急な今夜のホテルに持ってゆくことにした。私は学生であってお金がなく、ユース・ホステルはもうしまっていて行けない、どこかに安く泊まれるスチューデント・センターみたいなところはないか。私はそう言った。
予期したとおり、彼女たちは学生であったから、さっそく総勢六人でにぎやかに出発、「スチューデント・ホテル」というのに連れて行ってくれたが、ここももうおそすぎた。途方にくれたら、一人が名案を出した。「ミッション・ホテル」へ行けばよいという。救世軍みたいなところかと思ったら、普通のホテルの安いのだということであった。どうしてそんなケッタイな名前がついているのか、誰も知らなかったが、とにかく、こんな名をつけたのがコペンハーゲンの駅を中心にちらばっている。一泊五、六百円はするという。予算超過だ、ダメだ、と言うと、私たちが知っているところがあるから何とか交渉してみましょう、「任せておけばいいのよ」ということになった。
で、ぞろぞろと六人で行った。この六人連れは、こんなことに慣れっこになっているはずのコペンハーゲンでも、人眼をひいた。あたりまえであろう、少女五人が連れだってガヤガヤ歩いているのだけでもめだつうえに、その中心に「ヤーパン」国人がいる。「この街の感じはどうですか?」小柄のピチピチ娘が訊ねた。「私は王子様のように大いに気分がよろしい」私はちょっとトンチンカンな答をした。街の気分もよかったが、それより、私は美しい女官をしたがえて歩く王子様の気分がして、それが大いによろしかったのである。
ホテルといっても、ふつうのしもたやふうの構えの小さなものであった。オヤジはあまり英語を解さぬということなので、交渉はもっぱら五人がデンマーク語でした。北欧のコトバというのは、意味がわからないせいか、えらく音楽的にひびく。五分ほどその音楽を楽しんだら、一泊普通の半額の三百余円ということになった。予算よりはむろん高いが、これには明日の朝食の分もふくまれているのだという。「タック」私がそうデンマーク語で「ありがとう」と言ったら、お嬢さんはよろこび、そして、オヤジが何を思ったのか、気ヲツケの姿勢になって挙手の礼をした。日本はもののふの国だからそうしたのか知らないが、どうも意味がいまだによく判らない。あとでお嬢さんがたに、どんなふうに私のことを言ったのかときいたら、みんなはまた笑い出した。「V・I・P("very important person"の略。政府の重要人物の旅行に用いる)が |incognito《おしのび》 で旅行している、と言ったのよ」金髪のクルクル巻き娘が笑いをこらえながらそう答えた。オヤジはそれで、きっと日本のいくさ人が密使旅行をしているとでも思ったのかもしれない。挙手の礼をしたところを見ると、きっとそうであろう。それにしても、V・I・Pともあろう人物が、六百円の宿泊費を半額に値切ったとあっては、日本国の名折れである。私はわが同胞諸君にここでふかく陳謝しておかねばならない。
翌日から、私はいそがしくコペンハーゲン市内をかけめぐった。私はいろいろなものを見に出かけたが、ことに私の見たいものが二つあった。それはコジキとスラム街である。しかし、いくら市内をかけめぐっても、それらしいものにお眼にかかることはできないのであった。さっき、私は「コペンハーゲンには何でもある」と書いたが、このコトバは訂正を要するようである。私のその二つを見ようとする努力は、先ずコジキに関するかぎりまったくの徒労であった。スラム街に関しては――ある日、金髪のクルクル巻き娘が「あなたは何トカ街へ行ったことがあるか?」と訊ねた。私は「イエス」と答えた。とたんに彼女はクスクスと笑い出し、日本の女性コトバに直して言えば、「あなたってお悪いわね」と言ってかるくにらんだ。彼女によれば、その何トカ街はスラムであり、酔っぱらいとならず者の街であった。うかつなことに、私はそこに何度も足を運びながら、それがそんな曰くつきの街であるとは夢にも思わなかったのである。私の眼には、その彼女の言うスラム街でさえ、清潔であり、何よりゆたかに見えた。私はガクゼンとし、ふいに日本のことを思い出した。
金髪と白い肌は憧れる
――「サムライ」の魅力――
どうやら人間というものは、正反対なものに憧れるらしい。日本国の女の子たちのあいだでは、髪を茶色にそめることがどうやら流行らしいが、みごとな金髪と真白い肌をもった私のデンマークの恋人たち(複数で言うことを許されたい。私はその五人にそれぞれ恋をしたのである)の憧れは、黒い髪であり黒い瞳であり、「色のついた」肌であった。「一度でいいから、あなたみたいな黒い髮になってみたい」金髪のクルクル巻き嬢(彼女の金髪はひときわみごとであった)が、いつかしみじみと述懐したことがある。
北欧人種、ことにデンマーク、スエーデンの女性が美しいことは定評があるが、われわれ東洋人にとってありがたいのは、彼女らほど東洋人に憧れをもっている女性たちはいないであろう。ことに日本はアジアにおける高度な文明国であり、TOKYOの名は鳴りひびいており、すばらしいKUROSAWA映画の生産国であり、ZENがあり、そのうえ北極航空路のおかげで隣人であるから、もっとも通りがよろしい。このことは、すでに、さっきの「ヤーパン」の一語のもつ魔術的力一つでもって十分にお判りいただけたと思う。しかし、もう一つ、オマケとして次の例も書いておこう。
すでに〈芸術家天国〉のところで述べたことだが、私はイランのテヘランに行ったとき、その「芸術家天国」で知り合ったアメリカの詩人のもとにころがりこんで、しばらくいっしょに暮らしていた。彼が天性のドン・ファンであること、世界各地で女の子にもてたこと、ブロードウェイの有名女優をソデにしてテヘランではノルウェーの少女とあつあつであったこと、それらはすでに書いた。
さて、そのノルウェーの少女であるが、彼女は、イランでは有名なあるデンマークのテクニカル・コンサルタントの会社につとめていた。そのせいでテヘランにはむやみやたらとデンマーク人が多く、郊外には立派な北欧人専用のクラブまであった。ある日、そのクラブでカーニバルの仮装舞踏会があり、私もその女たらし詩人氏といっしょに出かけることにした。彼は「サムライ」になりたいというたっての望みだったので、私はスーツケースの底から古びたユカタを取り出して彼にあたえた。刀は街のブリキ屋へ行き、二人がかりでそれらしい形に切りぬいた。(そのブリキ板がであったのは御愛嬌であった。)眼は「私のように」ボール紙にかいた。問題は髪の毛であった。彼は金髪であったから弱った。ついにクツズミをぬりたくることに一決、彼はクツズミひとカンをそのために消費した。(これにはおマケがついている。アパートに帰ってそいつを洗い落そうとしたら、水が出ない。ついに一晩、彼はクツズミを頭につけたまま寝る羽目となった。それもペルシャの王女に扮した彼の恋人とともに。)
私はべつに着るものもないから、彼所有のフランスの電柱工夫の着るナッパ服を着込んだが、もちろん、私が日本人であることはすぐ判った。しかし傑作なのは、彼のことをみんな最後まで日本人だと思っているのであった。その夜、この二人の日本人はえらくもてた。私の場合でいえば、私は少女たちにとりまかれて、いったい誰にデイトを申し込んだらよいのか、大いに選択に迷うくらいであった。その少女たちというのが、みんな、インド人だとかニグロだとかメキシコの少女だとか、要するに金髪と白い肌以外の何ものかに化けているのであった。
あとで詩人氏に、「どうだい、もてただろう」と訊ねたら、わが生涯においてこれほどもてたことはなかった、というような返事であった。彼のように世界各国に女友達がいる男の言だから、日本の男性諸君は大いに安心されるがよろしい。
しかし、この日本の男性がもてるのは、何も北欧にかぎったことではない。私の印象では、かつては日本人といえば女性しか存在しなかったようなものだが、今や日本のサムライの末裔諸氏が新しい魅力の対象として登場しつつあるようである。「日本ブーム」の本場、アメリカではことにそうであった。
早い話、アメリカの劇や映画に出てくる日本の男性といえば、かつては、いつもアタマをペコペコ下げてお追従笑いするウンザリするやつばかりで、また決して主役などにはなれっこなく、アメリカ人の主役のひきたて役としてみじめな姿を舞台上にさらすのが多かったが、今日では、事情は逆転の感がある。「東方ブーム」「日本ブーム」はブロードウェイにまで及んでいて、私のいたとき、そこで上演されている劇の主題のうち七つまでが、多かれ少なかれ、東方に関するものであったが、そのなかには、日本の男性を主役にしたのが二三あった。たとえば、これは興行的にはあまり成功しなかったがかなり評判のよかった「KATAKI」という早川雪洲氏主演の劇があった。この劇はえらくかわっていて、登場人物は雪洲氏のほかにはアメリカ人が一人出てくるだけで、終始二人の対話だけで劇は成立しているのであった。いや、雪洲氏は英語を解さないことになっているので、対話はまったく一方的で、雪洲氏のほうはパントマイムと彼のおちついた風貌とだけで芝居しているようなものだった。筋は簡単で、戦争中南海の孤島にひとり生きていた日本人兵士雪洲氏のもとにアメリカ人飛行士が空から降ってくる。二人の奇妙な漂流生活がそこに始まり、ふしぎな友情がそこに芽生える。最後は、米軍がその島に上陸して来ることになり、そのとき、そのアメリカ人飛行士が懇願するようにまでして止めるのをふりきって、雪洲氏はハラキリを敢行する。この最後のところは西洋人の日本人についての固定観念を示していていささかバカらしいが、それにしても、雪洲氏の演ずる日本の男性のおちつきと立派さは舞台を圧していた。
たぶん、日本の男性の魅力というものは、そういうところにあるのだろう。(だから、この本の初めのところで述べたように、エイゴなどペラペラしゃべらぬほうがよろしいのである。)もう一つ、これはえらくあたりをとった喜劇があった。主人公は二人。ユダヤ人の老婆と日本の老実業家。この二人の恋愛を描き、人種問題をヤユし、また「アメリカの匂い」それ自体をかるく皮肉り、最後は二人の結婚を暗示するところで終っている。日本人の老紳士の役には、「サー」の称号をもったイギリスの役者が扮し、ユダヤ人の老婆の役は有名なユダヤ人の俳優が演じたが、二人のやりとりはまことにみごとであった。(ついでながら、この喜劇は、私には思いがけぬところで喜劇であった。そのイギリス製日本人がユダヤ人の老婆に日本語を教える場面があり、老婆はめちゃくちゃな発音をして老紳士が吹き出し、観客のほうもそれに和して笑いこけた。私もむろん笑ったが、それは他の観客とまったく異なった意味でだった。実は教えてもらったはずのユダヤ人の老婆の日本語のほうが、教え役のイギリス製日本人のそれよりもはるかに正確だったのである。)
たいして傑れた作品ではなかったが、なかなか見ていて気持がよいものであった。ことに私にとってこころよかったのは、老紳士が日本の男性としてもつ良さが、よく表わされていたことだった。
この芝居見物には面白いオマケが一つくっついていた。私はこの劇を実はユダヤ人の女の子と観に行ったのである。いや、ユダヤ人の女の子が先にひとりで観てから、ぜひいっしょに、というわけで連れて行かれたのであった。
彼女は一眼でユダヤ人と知れた。また、私も日本人であろうことは容易に想像はついた。幕あいに二人が仲よく通路を歩いて行くと、ひとびとは眼をみはって私たちを見た。見た、というよりは、観た、と言うべきだろう。まだ舞台はつづいている、と錯覚したのかもしれない。
ユース・ホステルの「小便大僧」たち
――ハンブルグ、アムステルダム、ブラッセル――
コペンハーゲンを発ってから、私はハンブルグ、アムステルダム、ブラッセルの三都、そして三国を大急行で通過した。金がなかったせいもあるが、次項に述べる特殊事情もあって、先を急ぐ必要があったのである。
ハンブルグには例のセント・パウリと称するキャバレエ街があり、そこにはまたかのレババンというその道の通たちには名高い通りがあるが(要するに、ハダカの女性がショー・ウィンドのなかにいるのである)、金のない私には両者ともにまったくの無縁の存在であったから、両者についての詳しい情報を得たい向きは、もっとほかに適当な専門家の書かれた旅行記でも読んでもらうことにして、私はハーゲンベッグ動物園のことでも書いておこう。といっても何もべつに改まって書くこともないのである。雨が降ってむやみと寒かったから、期待した猛獣たちはみんな室のなかに閉じこもっていて、結局、私は彼らがいつもなら跳びはねていると称する岩石の山を眺めに行ったことになる。あんまり寒かったから、私は動物園内のレストランに入った。ボーイが来て英語でベチャベチャやりそうだったから、私は英語は解らぬと言い、ドイツ語もダメだと前おきしてから、それでもとにかくドイツ語らしきものでビールを注文した。ところがどうであろう、出てきたのはミネラル・ウォーターであった。英語で文句を言おうと思ったが、さっき英語はできないと断わったばかりではないか。私はただもくもくと、要するにそのただの水にすぎないものを飲んだ。
ハンブルグでは語学の神さまは、私にほほえんでくれなかったらしい。ハンブルグのユース・ホステルでの一夜は奇妙な一夜であった。
どこのユース・ホステルでもそうだが、世界各国から泊まり客は来ている。いったいこんな国があったのかいな、と首をかしげさせるのまで多々あった。たとえばアフリカのダホメからの留学生、ウガンダのオッサン、カメルーンのお嬢さん、ポルトガル領インドのインド人とポルトガル人の混血児、スペインとフランスの国境にあるアンドラ国の住人……このことを前おきにして話を進めよう。
ホステルにはどこでも消灯時刻というのが定められていて、これがたいてい九時か十時という早い時刻であった。ハンブルグのその夜も、たしか十時に灯が消えて、みんなは眠りについた。ついたはずなのだが、その夜はみんなどうしたわけかワイワイガヤガヤ騒ぎたてて眠られない。めいめいがめいめいの友人、あるいはめいめいの言語を解するものとしゃべりつづけている。例えば、こちらではイタリア語で「レババン」の噂をやっている。あちらではドイツ語でドイツ文化論をぶっている。その中間のところからは、「もうあと金は一〇ドルしかない」というアメリカは南部なまりの英語が聞えてきた。日本語でも響いてきはしないかと思ったが、いくら耳をすませてみても、聞えてくるのはただ風の音ばかり。まことにその夜の異国のコトバの騒音は台風のごとくすさまじいのであった。普通、意味のよく解らぬ外国語の会話をまたぎきするのは、ムード・ミュージックを聴くみたいでなかなか耳に快いことであるが、その夜のは少し度がすぎていた。眠られぬ私はカンシャクをおこし、「諸君、もうおそいから眠ろうではないか」と大声で叫んだ。私は英語でそれを言ったのだが、その提案に和する者もあって、次第に室内は静かになり、ただ一組のガヤガヤを残すのみになった。あいにくなことに、そいつらは私のよこのベッドに上下にわかれて寝ていたのである。私は業をにやして、「だまれ!」と英語で乱暴に叫んだ。彼らはちょっとおどろいたふうに私を見た。しかし、それで話をやめるのかと思ったら、また平然とその何語ともしれないコトバで話を再開しはじめた。中断のあとでかえって前より声が高いくらいであった。月の光が室のなかにまで射し込んできていたから、私には彼らの表情ははっきり読みとれたが、それは要するに、この異国人が何かわけのわからぬことを言ったね、というキョトンとしたそれであった。明らかに、彼らは英語を解さぬのである。トンチキめ。私は「だまれ!」を今度はフランス語で言った。キョトンであった。ドイツ語。キョトン。スペイン語。イタリア語。ついにはギリシア語。ごていねいにプラトンの時代のギリシア語と現代のそれとで言った。すべて徒労であった。キョトンの連続であった。私はサジを投げた。私の異国語の片言のストックはそれでおしまいだったのである。「おい、この連中に何とか言ってやれ」私は下段のアメリカ人を叩き起した。こんなとき私はいつもアメリカ人を使用することにしていたが、彼はロシア語ができるというふれこみでもあったのである。で、アメリカ人はロシア語(あるいはそれらしきもの)で言った。キョトンに変りはない。事態がそこまでくると、さっきから一部始終に好奇の耳をそばだてていたまわりの連中が、てんでにてんでのコトバで、「だまれ!」をやりはじめた。そのうちのどれがいったい効果があったのやら、二人は突然に黙った。「何語が効いたと思うかね?」アメリカ人が私に訊ねた。「バンツー語かバスク語かエトルリア語であろう」私はそんなデタラメを答えたが、ほんとに効いたのは、たぶん、万国共通の疲労語というものであろう。それとも、それこそいまだに解読されていないエトルリア語であったかもしれない。ユース・ホステルには世界各国からひとは来るのだから、古代人がとなりのベッドにいてもふしぎではない。
オランダの第一印象は、ずいぶんアメリカに似ているな、というのであった。ニューヨークがもとはニュー・アムステルダムであって、アメリカ人の血のなかにはかなりオランダ人の血が流れこんでいることを考えるとあたりまえかもしれないが、私は、ある意味ではイギリス人よりもオランダ人のほうがアメリカ人に似ていると思った。ことにオランダ人のよく言えばフランクさ、わるく言えば神経にさわってくる粗野さ。お金に対する率直な態度。料理の大味なこと。それにふしぎなことだが、アメリカの影響が直接にくるのか、アメリカのように日本のカメラをかなり大々的に売り出しているヨーロッパでは唯一の国であった。もう一つつけ加えれば、オランダ人はおそらく世界じゅうでいちばん英語がうまい国民である。言語構造が似ているせいであろう。
しかし、それにしても、やはりオランダはオランダであり、古い国であった。アムステルダムには例の「東インド会社」の建物がいまだに建っている。水路が四通八達した汚いベニスといった感じの街で、汚いは汚いなりにふぜいがあった。水路のおかげで自動車はあまり使えず、代りにここは自転車の独壇場であった。朝夕の通勤者の自転車部隊の行進はちょっとしたみものではある。夜になると、木靴のカラコロという音が響いてきたりする。
アムステルダムのユース・ホステルは、ヨーロッパで、おそらく全世界でもっとも厳格なホステルであった。
ホステルはどこのホステルでも、朝は七時半ごろには起され、八時半ごろには外へ追い出される。これは雨が降ろうと風が吹こうとそうなのであって、午後五時ごろまではホステルの門は閉じている。いち日ぐらい休養にあてたいと思ってもそうはゆかない。くたびれはてながら、あてもなく街をぶらついていたこともある。門は五時ごろふたたび開き、九時ごろ閉じ、十時には消灯ということになる。(泊まりたい人は九時までにホステルに着いていなければならない。)
これをもっとも厳格に実施していたのが、アムステルダムのホステルである。朝は勇壮なるマーチが鳴りひびき、「みなさん、朝です、起きる時刻です」というアナウンスが、オランダ語、英語、仏語、独語の順であった。夜も同じである。シューベルトの子守歌か何かでオネンネということになった。
ホステルでは泊まり客(ホステラーと称する)は、原則として朝何か仕事をしなければならないことになっているのだが、それを義務として課していたのはロンドンとアムステルダムのホステルだけであった。ロンドンでは、私は庭の掃除と洗面器みがきをおおせつかった。アムステルダムでは、朝食後の皿洗いであった。アムステルダムは、この点にかけてもすこぶる厳格であって、台所をつかさどるオバチャンに、「この人はたしかによく働きました」というしるしにサインをいただくことになっている。もっとも皿洗いをする仲間は八人もいて、そのうち三人は女性だったから、「ここはアメリカとはちがうんだ」と男性軍は主張し、われわれは皿をふけばよいだけになった。
ここのホステルは朝食つきでたしか一五〇円だったかと思う。オランダではパンにバターをぬり、その上にチョコレートの粒をばらまき、そいつをナイフで二つに切って食べるという奇妙な習慣があるのを知った。それはよいが、その朝食の前にホステルのきもいりみたいのが出て来て、お祈りの音頭とりをするのには弱った。はるばる南米のコロンビアから来た横の男に「おまえ、何を祈っているんだ?」と訊ねたら、「今夜、きれいなのに会いますように」と念じているということだった。まさかホステラーが買うのではないが、皮肉なことに、この厳格なるホステルの周囲には毎夜「街路娘《ストリート・ガール》」が出没するのであった。アムステルダムは、その後廃止になったということであるが、私のいたときはまだ「公娼」の存在で有名な都会だった。
このホステルとまったくよい対照をなしたのが、ブラッセルのホステルであった。汚くてルースでノンシャランで、いかにもフランス語の通じる国へ来たという感じであった。ユース・ホステルを見ただけで、イギリス、北欧、中欧、南欧の差は極端に出てくる。イギリスは親切だが、ぶっていて、厳格、清潔。北欧は清潔、そして親切。中欧は厳格、杓子定規、清潔。フランスから南欧にかけてはルース、不潔、自由放縦。たとえば、マドリッドのホステルには門限はない。その代り設備は貧弱、ホステラーに何もしてくれず放りっぱなし。イタリアのホステルは傑作であった。門限はある。たしかにあった。しかし、百リラ渡せば開けてくれるのである。イタリアらしいな、と思った。
ブラッセルのホステルのひとびとは親切ではあったが、難は英語がほとんどできないということにあった。フランス語と手まねで事務はすませた。
いや、難はもう一つあった。トイレットが汚く、その上、日本の田舎式に寒風吹きすさぶ庭にあった。いちいち戸外へ出て行かねばならぬ。このことをふるえながら用を足しているホステル仲間にグチったら、「仕方がないよ、ここは小便小僧で有名なところだからな」といううまい返事があった。なるほど、ブラッセルは小便小僧の本場である。古びた街並みの片隅で、ちっぽけなそいつが弧状に物体を放射し、それをめがけて善男善女がおしかけて来るしくみになっている。ホステルのには誰も見物に来ないが、さしずめ、「小便大僧」の群像というところであろう。苦笑したとたんに大きなクシャミが出た。オスロ以来の風邪がまた勢いをぶり返したらしい。
ビデとカテドラル
――アメリカの女の子とパリを観れば――
先に引き合いに出したユダヤ人のアメリカの女の子に、おれのパリにいるときパリにやって来ないかと言ったら、行くと答えた。同じことなら、再会をできるだけ劇的にしようというわけで、彼女が一航海あとのクイーン・エリザベス号でフランスに着くその日に、私もベルギーから飛行機でパリに達する。彼女は大西洋岸の港シャールブールから汽車でやって来て、私を空港からのバス発着所「アエロ・ガール」に出むかえるという算段であった。私がむやみと先を急いだのは、この特殊事情のせいである。
しかし、この劇的な再会はうまくゆかなかった。彼女の船が延着したのである。「アエロ・ガール」で待ちぼうけをくって、私はカクカクシカジカのアメリカ女性が私を出むかえに来ていなかったかを事務所で訊ねた。「彼女は、今日、船でアメリカから来たはずである。われわれ二人はここで再会することになっている」と言ったら、事務所のオジサンは、いかにもフランス人らしく、大げさに両手をひろげて、「おお、なんてロマンチックなことなんだ」と感嘆してみせた。
しかし、現実はそうロマンチックではない。パリのどこに彼女は消え失せたのかと思っていたら、二三日後に、サン・ジェルマン通りの喫茶店でフランス人のボーイ・フレンドたちにとりまかれている彼女を見つけた。友人をつくるのがえらく速い女だったから、二三日のあいだで、五人や六人できてもべつにふしぎはない。それにことわっておくが、彼女は私の恋人でも情婦でもなく、ただの友人であった。ヤキモチをやく筋合いではない。
彼女のホテルをさっそく見物に出かけた。私のと大差ないがボロ・ホテルであり、ボロ部屋であった。「トイレットは汚いからいつも外でするのよ」と彼女は先ずまったくロマンチックでないことを言った。ところが、こんなボロ部屋でも例の「ビデ」の設備はあるのであった。「あれ、どうして使うのか知ってるかい?」私はぶしつけなことをきいた。「そうなのよ、判らないのよ」彼女は無邪気に言った。「でも、あれ便利よ。いつも靴下をあれで洗うの」なるほど、われわれの頭上には、「ビデ」で洗った靴下が二三本ヒラヒラしている。私の部屋は屋根裏の独身部屋でそいつはなかったが、今度見つけたら、ひとつパンツを洗ってやろう、と考えた。
翌日から、私は彼女と毎日ケンカしながらそれでも仲よく「パリ見物」を始めた。二人とも世界の首都パリにのこのこやって来たまったくのお上りさんである。私はいわば旧世界から、彼女は新世界から来たのであるが、「西洋」に関するかぎり、私も新世界から来たというべきであろう。二人の意見、態度は、ときおりびっくりするぐらい、よく一致した。
私がすがすがしくまた同時にはがゆく腹立たしく思ったのは、彼女のパリ、またパリに代表されるヨーロッパのもろもろに対する子供のような「|純真さ《ナイビテ》」であった。私、そして私たち日本人もまたこの「|純真さ《ナイビテ》」を「西洋」に対して持っている。子供のように率直にぶつかり、おどろき、ぶったまげ、そしてそこからひたむきに何かをとらえようとする。われわれはそういう態度を明治以来「西洋」に対して持ちつづけてきたし、今もたぶんそれを失っていないであろう。彼女も、そして彼女の属するアメリカもまた、そいつを持っている。たとえその結果が幻滅であろうとも、そいつでもってヨーロッパに向かい、今また「東洋」に、また日本に向かおうとしている。
しかし、この態度は往々にして、はがゆい腹立たしいもの――つまり劣等感にまでなり下がる。これもまた、われわれにはおなじみのことであろう。私たちがこれまで「西洋」についての議論をして、この劣等感が問題にならなかったことはない。アメリカ人の場合も同じであった。何かしらヒケメのようなものを、いつもアメリカ人はヨーロッパに対して抱いている。私はいつもそれを感じた。アメリカはたしかにアメリカ独自の文化を今もちはじめているのに、これはまたなんとしたことだ――アカの他人の私にそんなことを思わせ腹立たしくさせるほど、そのヒケメはときとして深刻であった。平たく言えば、たとえば私は、そのアメリカの女の子に、日本によくいるアチラかぶれのお嬢さん、あるいはそれと頭脳及び精神構造を等しくする同種のインテリ氏と同じものを見いだしていたのである。それが往々にして、彼女とのケンカのタネとなった。
しかし、それにしても、新世界の住人アメリカ人は、なんであんなにも古いものに憧れるのか、憧れなければならないのか。一日、私は彼女とパリ名物の「蚤の市」というのに出かけたら、彼女はそこらへんに積み上げてあるありとあらゆるガラクタに一つ一つ嘆声をはなつ。嘆声をはなつだけならよいが、立ちどまって動かなくなった。古い、古い、なんて古いんだ、このブローチには、あのボタンには歴史がある。この古色蒼然として、まるで使い古しの便器のような(とは彼女は言わなかったが)ガラスの壺はルイ王朝時代のものではあるまいか。あの上からぶら下っているコーモリ傘のできそこないみたいなシャンデリアの下で、幾世代の人間が晩飯をパクつき、恋を語り、生殖をいとなみ、夫婦ゲンカをし、遺産争いをひき起したことか……おお、すばらしいではないか。歴史かおり伝統におう国フランス、そしてパリ、この永遠不滅の都――
ざっと、こういったぐあいであった。のべつまくなしにそいつをきかされているうちに私は頭が変になり、彼女の掘り出し物と称する、私ならタダでやると言われても手が出ない、古びてペッシャンコになった兵隊の雑嚢(彼女によればグリニッチ・ビリッジのビートたちが万金を投じても買うのである)を、七ドルも出して買うのを見るに及んで、これだけあればバカメ、一週間は暮らせるじゃないか、と万感胸にせまってきて、おれの国へ来てみろ、おれの国ではノミはおろかシラミまでが歴史かおり伝統ににおっているぞ、とばかなことをどなり始めた。
この古いもの好きは、しかし、彼女だけのことではない。アメリカ人という人種は、どうやら、なんであれ、古いもの、歴史のあるもの、それらしく見えるものに、ひそやかなため息のごとき憧れを抱いているらしいのである。アメリカの家庭を訪れると、たいてい、コロニヤル・スタイルとか称する植民時代(これは今からわずかに三百年昔のことである。念のため)のぶさいくなタンスを筆頭として、なんのとりえもないような古くさいガラクタの類をれいれいしく見せられる。たぶん、彼らは中年をすぎるころから、ひどいコットウ病にとり憑かれるのであろう。新天地アメリカというコトバからは想像もつかないことかもしれないが、人口一人あたりのコットウ品店の数は、日本のそれよりひょっとしたら多いのではないか。私にはそんなふうにさえ思われるのである。
古いもの好きが「文化」の領域に入ると、兵隊の雑嚢とちがって、問題は少しばかり深刻になる。アメリカのインテリは、ヨーロッパ人、あるいは中国人、日本人と対しているとき、どうやら彼らに対して何かヒケメのようなものを感じているらしいのである。大げさに言えば、いや別に大げさなことでもないが、ヨーロッパ人、中国人、日本人の背後には、性質のちがいも長さ深さのちがいもあるにしても、とにかく文化が、伝統が、歴史がひかえている。自分の背後にはそれがない。あったところで大したことがない。つまりは、ルイ王朝時代の便器のごときガラス壺とコロニヤル・スタイルのタンスの差であろう。それを感じてしまうらしいのである。
たとえば私が詩人と話していたとする。話している彼の背後には、ロングフェロー、ポーをはじめとしてサンドバーグ、フロストからハート・クレイン、ロバート・ローエルに至るまでの有名無名、一流二流三流の詩人たちがたたずんでいるのにちがいない。しかし、こいつをわが日本国の詩人と比べるとどういうことになるか。背後にたたずむ詩人の数だけからいっても、それはお話にならない。万葉集だけで、人麻呂《ひとまろ》、憶良《おくら》、赤人《あかひと》、旅人《たびと》、家持《やかもち》、エトセトラ、エトセトラ……ということになる。実際に日本の詩人がこんなものを感じているかどうか、私は知らない。そこには伝統の断絶というややこしい問題もあり、もし感じていたとしても、詩人は逆にそいつをうるさいもの、うんざりするものとして受けとっているのかもしれない。そんなむつかしいことはさておいて、私のここで言っているのは、アメリカの詩人が、日本の詩人ならこんなふうに感じているにちがいないと感じていることについてである。
問題が対ヨーロッパ人となると、一段と深刻の度を加える。日本の詩人と話しているときにはヒケメを感じるだろうが、片一方では、アメリカ流にいえば、彼らはO・Kだと思っているのだろう。文化がまるっきり違うのである。他人事であると安心できるのである。ハイク、といえば、なるほど面白いですね、すばらしいものですね、ですますことができる。だがもし、ホメーロスが、ダンテが、そこまで行かずとも、ラシーヌが、キーツ、シェリーが現われ出てきたらどうするのか。もはや、O・Kではないであろう。
このことをヨーロッパ側から見るとどうなるか。戦後とみに威勢のあがらなくなった反動もあって、ヨーロッパ人は、一言にしていえば、かわいそうなほど、私のようなアカの他人にまでいささかソクインの情をもよおさしめるほどに、アメリカ、アメリカ人、アメリカの事物、その他アメリカに付随するもろもろの現象、要するにアメリカ的なもの一切をバカにする。このことは私の経験からしゃべっているので、それゆえ、私はいつもそのバカにする現場に、第三者として、アカの他人として、立ち会っていたことになる。
たとえば、「私はアメリカにいた」と一言いえば、「あそこにはお金以外の何ものもないでしょう」とたいていの人が同情してくれる。ずいぶんインテリの人でもそんなふうに言うのである。その口調は軽蔑と羨望の入り混じった複雑なものであった。
そのアメリカの女の子とパリ近郊のミレーゆかりの地、バルビゾンへ出かけたときのことだった。ミレーのアトリエの跡を見物していたら、庭の植木の手入れをしていた百姓の老爺が訊ねた。「おまえは日本人か?」うなずいたら、おまえのマダムもそうなのか、とちょっと突拍子もないことを言った。いたずら心を出してウンと答えたら、それからオジイさんの言うことがふるっていた。日本人は知的でよろしい。このごろアメリカ人がよく来るが、あの連中は知性が低くてお話にならん。おカネだけは持っているが――私の「マダム」は苦虫を噛みつぶしたように、オジイさんの話をきいていた。
これが一般庶民のアメリカ人に対する反応であろう。しかし、ものの判ったインテリだってあまり変りはないのである。私は詩人イバン・ゴルの未亡人クレア・ゴルによく会った。クレア・ゴルは彼女自身詩人で小説家で、それに少しセンチメンタルではあるが、なかなかに感じのよいバアチャマであったが、彼女はずっとアメリカに暮らしていたので(私のいた例の「芸術家天国」マクドゥエル・コロニイにも滞在したことがあった)、アメリカ文学に博識で、アメリカの作家・詩人に知己も多いのであった。一夕、彼女とともに、パリ在住のメキシコの女流劇作家の家に招かれたことがある。フランスの若い詩人、ユーゴースラビアの女流映画監督、アメリカの若い作家が同席であった。話題はいつのまにかアメリカ文学のこととなり、その夕の会食者はそれ相応に知識もあったので、話はなかなかはずんだ。なかでもクレア・ゴルのバアチャマはもっとも雄弁であった。彼女の話はフォークナアからカーソン・マッカラースにまで及ぶのであるが、ことに彼女が熱情をこめて語ったのは、すくなくともそんなふうに私に思われたのは、アメリカの詩及び詩人についてであった。たとえばハート・クレインのすばらしさ、マックリーシュについて、女流で行けばマリアンヌ・ムーア、あるいはバアチャマの友人だったルイズ・ボーガン……
さて、宴はてたのち、私はクレア・ゴルといっしょになった。なかなか来ないセーヌ河左岸行のバスを待つためである。私は何気なく訊ねた。さっきの話のつづきを引き出そうとして、私はいわば話のマクラとしてこう訊ねたのである。あなたはアメリカの詩について、ほんとうのところはどう思っているのであるか、ことにフランスの詩と比較して。彼女は言下に答えた。判りきったことをきくな、とでもいうふうに次のように言い切って、それから無造作に笑った。≪nothing≫
それは、やっぱり、私にとっては意外な答であった。あれだけクレア・ゴルは熱情をこめて語り、賞讃のコトバさえそこにはあったのだから、私がバアチャマから予期したのは、まさか≪nothing≫ではなかった。フランス人のフランス文化、ことに文学に対するたぶんにショービニスティックな熱情に悩まされていた矢先だったから、私としてもさっきのメキシコ人女流劇作家宅でのバアチャマの話を額面どおりに受けとるほど無邪気ではなかったが、それにしても≪something≫ぐらいの答は予期していたのだろう。ほんとうに≪nothing≫だと思うか、私は念を押した。その通りだ、と言い、言ってからクレア・ゴルのバアチャマはこうつけ加えた。「必要があれば、われわれはなんでも読むのである」
なるほど、そんなふうに、ジッドはスタインベックを、サルトルはドス・パソスを、もっと古く言えばボードレールはポーを、新しく言えば、先日会ったロブグリエはフォークナアを読んだのであるか。そんなことを考えながらクレア・ゴルといっしょにバスにゆられているうちに、無性に腹がたってきた。何に腹がたったのか。たぶん、クレア・ゴルの背後に潜む、潜むにちがいない文化の自信みたいなものに、である。バスはセーヌ河をへだててルーブルを左手に見ながら走っていた。私はルーブルとクレア・ゴルの顔を見比べながら、たぶん、この二つは一つ穴のムジナであり、それらの背後には茫洋として捉えがたいながら、たしかに存在するお化けのようなものがあるのだろう、そして、そのお化けのようなものが西欧文化であり、「西洋」というものであるのだろう。私はそんなふうに思い、ヨーロッパへやって来たことの意味が、そのとき初めてはっきりと自分につかめたような気がした。つまり、私はそのお化けの正体をあばくためにヨーロッパへ来たのではないのか――
アメリカももちろん西欧の一部である。が、アメリカで、日本人であるあなたが自分の眼前に立ちはだかる何ものか、重圧となって襲いかかってくるばかでかい何ものかを感じるとすれば、それはおそらく先ず「現代文明」というものであって、「西欧文化」というものではないだろう。むろん「現代文明」は西欧のものではある。そのことには断じてまちがいはないのだが、もうこの文明は、それが西欧のものであるとかないとかいうことに問題の所在があるのではなくて、それがすでに二十世紀のこの世界に住むわれわれすべてのものになっていることに問題があるのではないか。私はそんなふうにこの文明を捉えたいのである。その文明の重み、つまり「西洋」も「東洋」もいっしょくたにして「現代」というものの重み、重圧が、もっともむき出し、直接的なかたちで、アメリカではのしかかってくる。もちろん、日本もヨーロッパ諸国も「文明国」ではある。が、やはりアメリカに比べると、「文明国」であるよりはまだまだ「文化国」だという気がしてならないのである。
さて、この「文化」だ。「文化」ということになると、それはいうまでもなく、われわれ日本人の文化とは異質の、それとは無縁に成立し育ったギリシア・ローマ以来の「西欧文化」ということになる。私は、この旅行記の発端のところで、アメリカで自分を試したかった、自分の存在を確かめたかったと書いたが、それと同じことがここでも言えただろう。異質の文化をもつ自分を、ヨーロッパというルツボのなかで試したかった、自分のなかにある異質の文化の存在を確かめたかった、と。もちろん、このことは現代のわれわれの文化が、西洋も東洋もゴタマゼにした「雑種文化」であることをチャンと念頭において言っているのである。雑種であろうとなんであろうと、異質は異質であろう。アメリカで感じるものが、われわれをそのなかにいやおうなしにふくめた、ふくめてしまった「現代」の重み、つまり同時性の重圧であるとするなら、ヨーロッパでのは、われわれの外で、われわれとは無縁に成立した、誤解される危険をおかして言えば、無縁であることによってのみ成立した歴史の重みであるのだろう。
もちろん、私はくり返して言うが、アメリカも「西洋」の一部である。しかし、ヨーロッパを三千年の歴史を誇る「西洋」の老舗《しにせ》だとすれば、アメリカはわが日本国のあのすばらしいデパートにある「名店街」のなかの支店だというべきだろう。いろんな種類の「西洋」が軒を並べ、モダンで気がきいていて便利ではあるが、その代り、万事いささかぞんざいでお手軽にできすぎている。私はやはり本店へ行ってみる必要があったのだ。本店へ出かけて、われわれの日本文化が始まる数世紀前にすでに確固として存在した文化、われわれの属する歴史とは無縁に、無縁であることによって成立した異質の歴史に、いわば自分をぶっつけてみる必要があった。クレア・ゴルは、逆にアメリカ人に日本の詩についてどう思うかと訊ねられたら、ひょっとしたら、言下に≪nothing≫と片づけたかもしれない。いや、きっとそうであるのだろう。そして、つけ加えてこう言うであろう。「必要があれば、われわれはなんでも読むのである」日本文学でさえも、というところである。
なぜヨーロッパへ来たのか、とヨーロッパ人に問われるたびに、私はいつも答えた。「そうだ、私は、あんたがたが、どれほどわれわれに、われわれの文化に冷淡であるか、あり得るか、を見に来たのだ」と。
* * *
アメリカの女の子、私の「マダム」のおかげで、私はいろんな種類の「パリのアメリカ人」に会うことができた。ピンからキリまであった。これはフトコロぐあいについてそう言っているのであるが、ピンのほうは、一流ホテルに泊まっている観光客の一団だった。そのうちの一人、アメリカの金持のオバアチャンであるが、彼女をホテルに訪ねたら、飲ませてくれたのがアメリカ特産ウィスキー「バーボン」であり、世界中どこへ行ってもアメリカ人が注文するというカクテル「マーティニ」であった。いや、もっとおどろいたことがある。酔いざましにコーヒーを飲みたいと言ったら、そくざに注文してくれたのはよいが、彼女はパリの水道は信用ならないからといって、わざわざ壜入りの「ミネラル・ウォーター」でそいつをつくるようにボーイに指定した。ボーイは明らかに軽蔑しきった表情で彼女のコトバをきいていたが、彼女のほうはそれに気づくどころか、それを羨望のそれととっていたことであろう。
キリのほうは私のパリでのアメリカ人の友人たちであった。一人おどろくべきのがいた。彼は、パン一切れの半分を朝メシに食ったから何フランだとか、昼メシは牛乳半壜とトマト半切れとオレンジ三分の一だったからいくらだとか、微に入り細にわたることまことに驚き入った家計簿をつけ、一フランでも二フランでも前日より食費を節約することに全精力をついやしていた。実際、それ以外に彼はまったく何もしていないのであった。その精細・厳格なる予算生活に自分をあてはめることだけでくたびれはててしまっていたのだろう、パリにもうそれで一年いるというのに、彼の安宿から眼と鼻の先のオデオン座のありかさえ、彼はさだかでないのであった。
キリのほうの連中は、例外なしに古都パリに足をとられた連中であった。アメリカへ帰れば職がうなるほどあるというのに、「ヘラルド・トリビューン」のヨーロッパ版を立ち売りしたりしながら、ほそぼそとやっとのことで暮らしている。エカキ志望も文学青年も詩人気どりも、そのどれでもないブラブラ居士も、さまざまのがそのキリ連中のなかにはいた。彼らに共通するものはただ一つ、この項のはじめに書いた、パリに代表されるヨーロッパのもろもろに対する、すがすがしくもはがゆくもある、子供のような「|純真さ《ナイビテ》」であった。子供のように率直にパリにぶつかり、おどろき、ぶったまげ、そしてそこからひたむきに何かを捉えようとする。私は彼らが好きであった。
アメリカ人の語学下手は定評があるが、私と私の「マダム」はフランス語のほんの片言を解したから、それだけでも、ずいぶんと人助け、いや、アメリカ人助けになった。道に迷って途方にくれているやつを無事ホテルへ送りとどけてやったこともあった。語学のことだけではない。「トルコ風」トイレットに直面して、これをいかに使用するのか困却しているお嬢さんに、使用法を教えてやったこともあった。もっともこれは私の「マダム」が教えたのである。もっと困ったことがあった。私と「マダム」は、英語でいうところの「サニタリイ・ナプキン」を、薬局へ買いに行くお嬢さんのお供をしたことまであったのである。お嬢さんはフランス語にかけてはまったくのオシであり、「マダム」もひとりでは心もとないというのでついて行ったのだが、あんなにうらはずかしい思いをしたことはついぞなかった。「マダム」も私も「サニタリイ・ナプキン」にあたるフランス語が何たるかを知らず、「ソレハ女性ガ月々ニ使用ヲ余儀ナクサレル何モノカデアッテ……」というぐあいに、二人でしどろもどろになりながら説明してゆかねばならなかったのである。
困ってたのを助けると、自動車を持っているのは、「どこか好きなところへ乗せて行ってやる、自分も見物したいから」というありがたいお返しをくれた。そのおかげで、ベルサイユやフォンテンブローの森などへ、ドライブに出かけることができた。
こいつをもっと組織的にやろうじゃないか、私と「マダム」はそんなふうに決めた。日本には「ツツモタセ」というものがある。あんなふうにやるとよろしい。私はそんな冗談口を叩いた。
アメリカ人のたむろするところへ行き、車を持っていそうなやつと仲よくなってどこかへ行こう、という算段であった。アメリカ人が集まるところといえば先ず「アメリカン・エクスプレス」であったが、その他のところを探し出すのには、前で触れたアメリカでのかくれたるベスト・セラー『ヨーロッパ一日五ドル旅行』というのが大いに役にたった。この本には、パリその他の観光地の安ホテル、安レストランのリストがかかげられていて、その指示どおりに暮らせば一日五ドルでしあがるしくみになっている。おどろいたことに、現今のアメリカ人旅行者はたいていこいつを持っているのであった。ひとりでフォルクス・ワーゲンを運転して旅行してまわっている男が、「私はアーサーといっしょに旅行している」というから何かと思ったら、その『ヨーロッパ一日五ドル旅行』の著者がアーサー・何某なのだった。レストランのほうでもこの本をショー・ウィンドに飾ったりして、アメリカ人の客引きにつとめている。そのうちの一つの小さなのに入ったら、そこでパクついている客は私を除いてすべてアメリカ人であり、ひとりが『ヨーロッパ一日五ドル旅行』をとり出せば、われもわれもと全員がとり出して大笑いになったことがあった。私と「マダム」は、そういうところに網をはって、フォルクス・ワーゲンやルノーや、あるいはアメリカ製のあのばかでかいフォードやシボレーがひっかかるのを待っていたのである。
「ツツモタセ」をやりすぎた罰か、ある朝、気がついてみたらカメラが消え去っていた。もっとも臭いのは、わが安宿の女主人自身であった。私はさっそく私のアメリカ「マダム」を呼び出して助けを求めた。われわれ二人のフランス語では話にならぬというわけで、彼女はどこからか英語を解するベトナムの青年を拾ってきた。ソルボンヌの学生で、もちろんフランス語はペラペラ。警察署に行き、彼が一席弁じたおかげで、警部が実地検証にわが室にやって来た。そこで、警部、女主人、私、「マダム」、ベトナム青年五人の大論戦となった。しかし、これはまったく奇妙な大論戦であった。先ず、警部、女主人の早口のフランス語は、私、「マダム」双方に何一つ判らぬ。ベトナム青年が英語に訳すのだが、彼の英語の学力は、私の渡米前と大差ないと思えた。それで、やたらと時間がかかり、結局のところは、カンで判断しているのに近い。やっととにかく判って、さて、こちらの言い分を述べる段になるが、先ず私の日本式発音の英語をベトナム青年が判らないのである。私の英語を「マダム」がもう一度正統的な発音のそれに言い直す必要があり、おまけにそいつを、青年の「もう一度言ってくれ」に応じて何度となくくり返す必要があった。それから、それがフランス語に変る。すると女主人が金切声をあげ、警部が肩をすくめながらブツブツ言う。それはまったくフランス映画のシーンであったが、映画はこのまだるこしいスーパーインポーズのおかげで、やたらと長く、五時間近くつづいた。もっとも大論戦の甲斐はあった。翌日、私のカメラはベッドの下から忽然と出現した。警部とわれわれ三人に国際問題になると(ことは、日本、アメリカ、ベトナム三国に関しているのである)さんざんおどかされたから、女主人はこわくなったのだろう、掃除に入って来たふりをして、そっとカメラをそこに置いて行ったのにちがいなかった。
日本=アメリカ=ベトナムの同盟軍は、ちょっとやそっとのことで驚かないパリでも、もの珍しいものであったにちがいない。その日、カメラの出現をまた三人で警察署に報告に出かけると、用のない警官まで三人を見物に来た。
数日後、私がひとりで喫茶店でコーヒーを飲んでいたら、コンチハという見知らぬ男がいた。誰かと思ったら、先日私たちを見物に来たお巡りさんの一人だった。彼は英語の片言が話せた。
「あのマドモアゼルはアメリカ人だね」私がうなずいたら、彼はおっかぶせるように、「日本はアメリカとどえらい戦争をやったんじゃなかったのかい」
これはフランス人のみならず、ヨーロッパ人が、私とアメリカ人と親しげにしているのを見たときに先ず示す普通の反応であった。私の率直な感じでは、ヨーロッパには、まだ前の戦争というものが残っている。ひとびとの心のなかでは戦争はまだ続いているのだろう。イギリス人はドイツ人を憎み、フランス人は彼らを恐れ、ドイツ人はドイツ人で、たとえばハンブルグのビヤ・ホールで私の肩をどやしつけながら、「われわれは勇敢だった。今度やるときはイタリアぬきでやろうじゃないか」とクダをまいていた男もいる。日本人は淡白すぎる、過去を忘れすぎるというが、たしかにそれも困りものであろうが、ヨーロッパ人のねちねちした執念もあまり気持がよくない。過去に手ひどい傷手をこうむったことがないとはいえ、アメリカ人はこんな点サッパリとして健忘症的であって、ずいぶん日本人に似ているな、と思わせるときもあった。
ともあれ、こうしたヨーロッパで、日本人とアメリカ人が仲よくしているのは、一種異様なものに眼に映じたのだろう。ギリシアの電車のなかで、私がアメリカの坊やと冗談を言って笑い合っていたら、かたわらのギリシア人が、右手と左手の人指し指をたがいに当てさせてチャンバラのかたちをつくりながら、さっきのフランス人警官と同じようなことを言った。
* * *
パリにはちょうど一ヵ月いて、私はひとりスペインへ発った。もう十二月に入っていた。スペイン出発の前日、私のアメリカ「マダム」との別離の前日、私は彼女とともにシャルトルのカテドラルへ出かけた。フランスのゴシック建築の粋――シャルトルについては、私が多言を弄することもないであろう。
やけに寒い日であった。「中世の冷蔵庫《リフリジレイター》だ」私はそうカテドラルを評した。それほどカテドラルの内部は冷たかったのである。しかし、冷蔵庫とすれば、それは無限に御馳走がつまった冷蔵庫であった。美しかった。外観もそうであり、内部もそうであった。私は感動した。「マダム」もそんなふうに見えた。一心にステンド・グラスを凝視しつづける彼女を眺めながら、私は、自分と彼女とは同じものをきっと正反対の側から見ているのだ、と思った。が、それでいて、二人の感動はなんのよどみもなく異様に通じ合った。
外へ出て、私がなんの気なしに「ぼくはここでは異教徒だ」とつぶやいたら、「あら、私もよ」と彼女は言った。うっかりして忘れていたが、彼女はユダヤ人であり、ユダヤ教徒だったのである。
「反小説《アンチ・ロマン》」の財布
――ロブグリエ氏会見記および世界各国作家清貧物語――
パリには、メキシコのえらい詩人オクタビオ・パース氏がいる。彼は日本ではいざ知らず「西洋」ではかなり有名な存在だったが(ついでながら、彼は文化アタッシェとして東京のメキシコ大使館にいたことがあった)、ある日、ヒルメシに私を招んでくれたことがある。私のほかに、英語のうまいフランスの若い詩人、スペインの亡命詩人、ギリシアの哲学者、フランスのシュル・レアリスト詩人が来た。なかなか楽しいヒルメシの会であったが、私の書きたいのはこのことについてではない。
英語のうまい若い詩人が遊びに来ないかと言った。彼はある美術雑誌の編集をしてメシを食っているのだが、その編集所は私の安宿のすぐきわだったので、さっそくその日の夕、出かけてみた。四方山話の末、誰か他の文学者に会いたいか、と彼は訊ねた。「若い小説家に会いたい。詩人はもうたくさんだ」私がそんなふうに答えたら、彼はそくざに、二人の作家の名前を紙に書いて、二人は友人だ、二人ともえらいやつだが、どちらに会いたいかという。「どちらでもよい。どうせおれはフランス文学のことなどかいもく知らぬから、同じことだ」ドチラニシヨウカイナ。私はそう日本語でくちずさみながら、それに合わせて交互に二つの名前をエンピツの先で突っついた。最後の「ナ」がおちついた先がアラン・ロブグリエ。「ベリー・グッド、彼はこの近くの出版社で働いている」詩人はすぐ電話をかけた。彼がフランス語で何やらやりとりをしているあいだに、この「ロブグリエ」という名前が初耳でないような気がしてきた。私は気がついて訊ねた。「この男は反小説《アンチ・ロマン》の大将か?」詩人はうなずいた。初耳でないのも道理、この男は今やフランス文壇でえらく有名な作家であり、おまけに、私の東京での知的高級な文学仲間が何トカいう彼の作品を翻訳したばっかりだったのである。O・Kだ、すぐ来いと言っている。詩人は受話器をかけた。「それにしてもロブグリエ氏はエイゴを話すかね。おれのフランス語はからきし駄目だぜ」私は念を押した。「大丈夫だ。ロブグリエはフォークナアを原文で読んでいるんだ」詩人はちょっと憤然としたふうにうけ合ってくれた。
ロブグリエ氏のつとめる出版社「レ・ゼデイション・ミニュイ」はすぐ近所だった。えらく古い傾きかけた建物である。扉がかたくしまっていて、押しても引いてもビクともしない。ガタガタやっていたら、一人のチョビヒゲの男が三階の窓からヒョッコリ顔を出した。それがロブグリエ氏なのであった。彼が自分で降りて来て扉を開いてくれた。
彼の自室で話すことになった。いかにも好人物らしい感じの四十がらみの男、それがロブグリエ氏なのであるが、たいへんなことが判明した。彼はエイゴは何一つ話せないという。フォークナアの原文を読めるのと、たとえば明日のお天気について会話ができるのとは、まったくべつの次元に属する。その点で、ロブグリエ氏はまったく日本のインテリ的であった。当のウィリアム・フォークナアについても、「ウーイーリーアーム……フォークナアー」と切れ切れに出てきた。
えらいことになったなと思ったが、仕方がない。まさか私もフランス語ができません、サヨナラと言えないではないか。彼のそのエイゴぐらいにひどい私のフランス語の登場となった。
あんなに当惑した三十分間は、これまでの私の生涯においてない。これは、ひょっとしたら、ロブグリエ氏にとっても同じことかもしれない。えたいの知れない日本人が来たかと思ったら、そいつがオシとツンボに近い状態にいる。
それでも私はいろんなことを訊ねた。重要だと思うフランスの現代作家は? サルトル、カミュ。サルトルはカミュより重要。またカミュは重要で「あった」というべきだろう。(カミュ没前のことであった。)影響を受けた作家は? カフカ、フォークナア、それにもちろんドストエフスキー。まあこういった調子の月並みな問答であった。それ以上のことを私のフランス語で訊けといったって、それはムリというものであろう。もう一つ。日本文学についての知識は皆無。日本映画はよく観ている。
いかにも小説家らしいと思ったのは、私が私の東京での知的高級な文学仲間とその同人雑誌のことを思い出して、あなたの作品をのせたいものだ、われわれは貧乏だから原稿料は払えないかもしれぬが――と虫のよいことを言ったときだった。実は私はいつも世界のあちこちで詩人諸君にこのことを言い、貧乏はおたがいだからお金などいらぬ、ぜひのせるだけのせてくれ、という返事をいつも得ていたから、ロブグリエ氏もそんなふうに答えるだろうと勝手に決めていたのである。しかし、ロブグリエ氏は雲のなかを歩む詩人ではなく、大地にしっかりと足をつけた小説家であった。彼はオーム返しに、≪rien ou un peu?≫(全然なしか、それとも、ちょっとありか?)と訊ね返した。私がとっさに答えることができずにいると、彼はそれを英語で言い直した。≪nothing or a little≫そして、≪un peu≫はよろしいが、≪rien≫は困る、とつけ加えた。あたりまえのことであろう。私が頭をかいたら、自分はアメリカのような金持国からはとるだけとるが、日本のようにフランス同様に貧乏な国からなら≪un peu≫でよいことにしているのだ、と、チョビヒゲをひねりながら、彼は一席語った。奇跡的にそこのところだけよく判った。たぶんそれは、彼にとっても私にとっても重要なお金のことだったせいであろう。
どこの国でも、ベスト・セラー作家などという幸運な、あるいは不幸な少数の例外を除けば、文学者というものは、あまりお金に縁があるほうではないらしい。ロブグリエ氏も有名は有名だが、出版社で働いているところを見ると、サガン嬢のようにはうまくゆかないのであろう。いや、フランスとかアメリカとか、とにかく読書人口がかなりあって、ベスト・セラーが成立し得る国の作家は、まだしも幸福である。あのチョビヒゲの田舎オヤジ・ロブグリエ氏だって、香水の匂いをふんだんにまきちらしながら、「ブラームスはお好き?」(というサガン嬢の新作ベスト・セラーが、私のいたとき、パリの本屋の店頭に氾濫していた)と色っぽく流し目でつぶやけば、アッというまにブリジット・バルドーばりの人気を持つに至るだろう。
悲劇は小国の作家たちである。ギリシアの作家が「おまえの本は何部売れた?」と、私のまったく金の卵を産み出さなかった二冊の本について訊ねた。因果なことをききやがるなと、「まあよくいって二千部か三千部だね」と元気のない声で打ち明けたら、相手がたまげた声を出した。「おまえはベスト・セラー作家じゃないか!」
きいてみると、彼――ギリシア文壇でわりと有名な存在だった男だったが、彼のこの前の評判になった小説は、二七三部だか五部だか売れたきりであったという。とにかく、そんなこまかい端数まで覚えているのだから、おして知るべしである。私はべつに彼の記憶力に驚いているわけではない。
したがって「作家業」というものは、なりわいとして成立しない。その先生は、前キプロス島ギリシア領事の外交官であった。交通公社みたいなところに勤めている詩人もいたし、ガイドもいたし、ビジネス・マンもいたし、もちろん、学校の先生もいた。こういう事情は、他の小国、みな同じであった。ことに、アジア、アフリカとなると、話はいささか天文学的におかしくなる。中近東のある国で詩人と称する男に会い、例によって「おまえはなんで食っているのか?」と訊ねたら、「私はスパイ業でなりわいをたてている」との人をくった返事であった。
もう一度、話をベスト・セラーが成り立つ「大国」に戻そう。そこへ行っても、ベスト・セラー作家を除けば、たいてい、みんな何か他のことをして、それでメシを食っている。金持国アメリカでも、それはそうなのである。いや、アメリカには、あんまり本を読むという習慣がなく(そのしるしに、図書館が発達しているという理由はあるにしても、本屋の数がおどろくほど少ない)、日本のように、自動車を買うお金がないからドライブ族のことを書いた小説を買う、ピストルをいじれないからそんなことばかり書いた子供だましのおハナシが売れるということもないから、本はあんまり売れてくれないのである。ふつう、小説の初版の発行部数など、日本のそれの半分以下であった。
これでは、むろん食えぬ。で、さまざまのアルバイトである。私の友人たちの例でいうと、会社づとめ、喫茶店のウェイトレス、電話交換手、教会の門番、クツ屋、それと学校の先生。
最後のものについて一言すると、アメリカの作家の大部分は先生である。それも大半が大学の先生。といっても、日本でのように七面倒くさいフランス文学やドイツ文学、あるいは国文学などという「学問」を教えているのではない。アメリカの大学には、たぶん全世界でアメリカだけであろうが、どこへ行っても、小説を書くコースというのが正規の授業科目のなかにある。彼らはそこの先生なのであった。これはずいぶんと人助け、文学青年助けのことであった。日本にもこいつがあれば、私などはさっそくそこの先生におさまって(アメリカでは、田舎のボロ大学へ行けば、私程度でなれたのである)、もう安心しきって小説など書かないようになったかもしれない。
私はハーバードで英語がうまく書けるようにと思って、そのひとつを試しに受けてみた。先生は、昔かなり有名だった小説家兼詩人。はじめに見本を提出して、それによって、そのコースを受けさせてくれるかどうかが決まる。エッセイとも短篇小説ともつかぬものを書いて出したら、どうした風の吹きまわしか、とってくれた。
一週に一度くらい、短篇小説と詩を書いている連中は、何かしら作品を出す。長篇を書いているのは、ときどき、その一部をもってくるとよろしい。週に一度、クラス(十五人くらいだった)は集まり、誰かの作品を先生が読み、そのあと討論となる。子供だましだが、アメリカの文学志望の青年の考え方を知るのに好都合な機会であった。それに、なんといっても先生がそこらの英作文の先生でないので、私の英語もおかげで少しは上達したかもしれない。これは大いにありがたかった。
この先生に、私は彼の作品について、ことにその売れ行きについて訊ねたことがある。彼の答はまったく簡単であった。「実際的《プラクテイカリー》にゼロ」
それでは、作家が盛大にメシを食っているところはどこかというと、これは、ひょっとしたら、わが貧乏国日本であるかもしれない。あるアメリカ人は、この人は日本の有名作家をアメリカに招くことをしている団体のキモイリみたいな人だったが、「日本では、作家はみんな|繁栄している《プロスペラス》が、あれはどういうわけか?」と私に訊ねたことがあった。「『|繁栄している《プロスペラス》』のは、あなたがお招きになった連中ばっかりですよ」と答えたら、彼は少しへんな顔をした。「私はアメリカへ来るまえは、ひと月三〇ドルで暮らしていたのですよ」と言おうと思ったが、それはやめにした。
しかし、「繁栄している」連中にかぎっていえば、それはまさしくそうなのであろう。作家が、こんなにまで社会的名士となっている国も、私の知るかぎり他になかった。帰って来て驚いたのは、やたらと留守中に週刊誌が発刊されていたことだったが、そのべつに文学雑誌でもない週刊誌のなかに、映画スターかプロ野球選手なみに作家たちのゴシップ欄があるのには、まったくたまげた。これは、世界でただ一つの現象であろう。
いや、日本国はたしかに世界一の「文学国」なのであろう。電車にのってみると、超満員のなかで吊皮にぶら下りながら、何かしら本を読んでいる。漫画本から週刊誌からカフカ、サルトルのたぐいまで読む、読みに読むのである。「おまえの国では、サルトルの個人全集が出ているんだって!」と頓狂におどろいた人があった。「そうだ、そいつを、ラッシュ・アワーの電車のなかで読む」私は、よろこんでいいのか悲しんでいいのか判らぬ表情でそう答えたが、相手はますます眼をまるくして、「なるほどね、さすがにヘンリー・ミラーがベスト・セラーになる国だけのことはあるね」
その人はミラー氏の親友だった。彼によると、ミラー氏は、日本で翻訳が出るまでは、ろくにメシが食えたためしがなかったそうであった。ある日ミラー氏を訪ねると、彼は日本の出版社からの小切手をふりまわして、とび上がらんばかりにして喜んでいたそうである。
そこへ行くと、アメリカは駄目な国である。
シカゴで私を「喫茶店《フレンチ・コツヒーハウス》」へ連れて行ってくれたビート詩人はかなり有名な男で、シカゴの大きな放送局で詩の講座を受けもっていた。
ある夕、この男と会うことになった。晩メシをいっしょに食おう、と彼が言ったからである。彼のアパートで、彼は先ず大いにアメリカの現代詩について語った。「語った」というのは、おおむね「罵倒した」という意味である。
そこまではよろしい。いざメシを食いに外へ出るだんになると、彼はちょっとまのわるそうな顔をした。「実は、このところずっとアルバイトにあぶれていてお金がないのだ」ひとを晩メシに呼んでおいて、お金がないというのは何ごとであるか。仕方なく私は、自分がおごろう、と大きく出た。柄にもなく大きなことは言うものではない、ポケットを探りに探ったら、やっとこさ一ドル札一枚が出てきた。アメリカでの実際の購買力からいうと、一ドル=百円の感じだから、私のポケットからよれよれの百円札が一枚出現したことになる。
それでも、とにかく、メシはすませた。「シカゴ在住の作家行きつけのナイト・クラブへ行こう」と言う。「アホなこと言うな、金もないのにどうして行ける」と、私が当然のことを言ったら、彼は何がおかしいのかゲラゲラ笑った。「遊びに行くのじゃない、お金を借りに行くのだ」彼のガール・フレンドから五ドルぐらいまき上げて、それで飲もうという。異議ナシである。
遠来の客に敬意を表してか、彼女は五〇セントおまけをつけて五ドル五〇セント奮発してくれた。もちろん、そんなナイト・クラブで飲んだのではない。場末のスラム街でビールの立ちのみをした。二ドルあまったから、「それも飲んでしまえ」と言ったら、「カンベンしてくれ。これで明日と明後日食べるんだ」と彼はビート詩人らしからぬ弱音を吐いた。
ニセ学生スペイン版
――アンダルシア放浪記――
スペインへ行くと、学生になるのが一番だと、パリで会ったアメリカの貧乏エカキが言った。なんでもマドリッドにある「|スペイン全学連《シンデイカト・エスパニヨル・ユニベルシタリオ》」(略して|S・E・U《セウ》)の本部に行き、そこでカードをもらえば、美術館の入場料がタダになったり、下宿の斡旋をしてもらえたり、各地の大学の寄宿舎に泊まれたりする。
マドリッドに着くとすぐ私はその本部へ出かけた。満員の地下鉄にもまれながら(マドリッドにも「メトロ」があった)ようやく目的地に着いたら、例のおヒルネの時刻であって、事務所は午後四時にならないと開かないという。さっきの地下鉄の混雑は、家ヘヒルメシとヒルネのために帰る人たちのせいであった。商店もすべて四時までお休み。驚いたことには、百貨店までそうなのであった。シャッターを降ろしてヒルネをきめこんでいる。スペインの百貨店の売り子は日本と同じく若い女の子が多かったが、彼女たちもみんなおヒルネであった。
四時になって、やっと「|S・E・U《セウ》」の事務所は開いた。若い女の子ばかりで、悪いことに英語もフランス語も解する者は一人もいない。仕方がないから、私はスペイン語で言った。「ワタシ、学生、日本ノ学生、旅行スル、カード欲シイ、クダサイ、ワカル?」
これを大声でどなったものだから、女の子たちは私の周囲にワアッとむらがって来た。みんな口々に何かを言う。言ってくれたところで、私には何一つ判らないのだから仕方がない。ポカンとしていたら、いちばん年かさのが、スペイン語ではほんとは何というのか今もって知らないのだが、とにかく何かを言い、それが私の耳に「ドキュメント」という英語でもって響いた。ハハン、何か証明書を見せろ、と言っているのだと判断がついたので、私は学生証を手渡した。とたんに、彼女はギョッともオオともつかぬえらく動物的な声を出した。学生証に貼ってあった私の写真の男性的性的魅力に情熱のスペイン女らしく反応したのかと思ったが、そうではない。その学生証は日本の私の大学のであり、したがってそこには、「右の者は本大学大学院の学生であることを証する」云々の日本語しか書かれていないのであった。
それでも、スッタモンダのあげく、カードはめでたくできあがった。ノンブレ(名前)、マコト。アペリド(苗字)、オダ。ナショナリダド(国籍)、ハポネッサ。そして、「エストゥディアンテ・デ・リテラトゥーラ」(文学専攻の学生)。万歳である。スペインの学生生活の第一歩として、私は先ず下宿を紹介してもらうことにした。スペインの下宿の安さを、前記アメリカの貧乏エカキが力説していたのである。三食つきで、それもタラフク食わせて、一日二五〇円くらいだという。
また地下鉄にゆられて、紹介された下宿へ行った。素人下宿であった。その家じたいがアパートに住んでいて、その一室を貸すようになっていた。日本でいうなら、公団アパートのカミさんが家計の補助に学生をおく気になったというところか。ベルを押したら、そのとおり肥ったオカミさんが出て来た。彼女はたまげたように私を見た。宇宙人が現われたら、ひとはきっとあんな表情をするのだろう。私は臆せず、一枚の紙片をさし出した。そこには、「この学生は下宿を求めている日本人であって……よろしくたのむ」というようなことが書かれているはずであった。私はそんなふうに書いてくれるよう「|S・E・U《セウ》」で頼んだのである。しかし、オカミさんの表情は変らなかった。いや、いよいよ不審の度を加えてきた。私は仕方なしにスペイン語で言った。「ワタシ、室欲シイ。アルカ? ココデ寝ル。ココデメシ食ウ」「寝ル」というところで、私は首をかしげ、そこに手をあて、ついでに眼までつぶってみせた。「食ウ」と言いながら、手でメシをかき込むゼスチュアをした。オカミさんは、とたんにカブリをふった。オカミサンがそのときほんとうのことを言ったのかどうか知らない。オカミさんは何ごとかを早口のスペイン語でまくしたて、私には、要するにもう室はつまったのであるということだけが、なんとなく薄ぼんやりとではあるが理解された。オカミさんがウソを言ったとしても、これはとがめるべき筋合いのものではないだろう。日本で公団アパートのカミさんが学生をおく気になって、学徒援護会みたいなところへ頼んでおいたら、ある日、ボッソリやって来たのがアメリカ人である。おまけにこの男は日本語を解さないとあっては、日本のカミさんも躊躇するのにちがいない。
それにしても、おかしなのは、あの霊験あらたかなはずの紙片であった。あとでスペイン語の達人に読んでもらったら、そこには私の期待したような文章はなくて、ただその下宿の住所だけが書いてあったそうである。
仕方なく私はユース・ホステルへ行った。私がノッソリ事務所のドアをあけて入ると、なかの連中が、さっきのオカミさんと同じ表情で私をみつめた。英語はむろん通じない。私はまたスペイン語で言った。「ワタシ、泊マリタイ。ココ、ホステルダネ? ワタシ、日本人」「ハポネス!」みんなは異口同音に叫んだ。あとは大丈夫である。「日本」の名はどこでも通りがよろしい。
へんてこなホステルであった。フランコ将軍が、特に青少年のためにありがたき配慮をなされた結果、建てられたのだという。広い敷地に、事務所、食堂、男子宿舎、女子宿舎が散在している。何がへんてこだというと、ふつうのホステルには門限があるが、ここには何もなかった。つまり他の国のホステルでは、事務所と宿舎が同じ建物のなかにあって、事務所を閉めることそれ自体が宿舎を閉めることになるのだが、ここのホステルでは、宿舎と事務所はまったくべつべつに暮らしていた。あなたは何時まで寝ていようと、また夜中の何時に帰って来てもよろしい。宿舎の扉は年中あけっぱなしで、だだっ広い内部のどこのベッドにも勝手に眠ることができた。
いや、もっとスペイン的なところがあった。ふつうのホステルでは前金で宿泊費を払うのだが、ここでは出発のときでよかった。出発のとき事務所に来て、これから私は金を払うのである、と宣言すると、必ず「君は何日いたかね?」と訊ねてくる。事務所には帳簿も何もないのであった。あなたが三日と言えば三日分、一ヵ月と言えば一ヵ月分――なかには、五週間もいたのに二週間だとか、十日いたのに四日だとか、ゴマかして行く手合いもいた。もっとも、こんな小細工は必要でなかった。もしお金がなかったら、正直にそのむね言えば、気前よく彼らは一月を半月とし、二週間を五日にしてくれた。私の場合も半額になった。
ところで、ここの宿泊費は一日七〇円である。ホステルで夕食をとれば、スープ、シチュー、オレンジ、ブドー酒小壜一本、パン食い放題、これで九〇円ほど。フランスの物価高に悲鳴をあげていた私には、驚異的にうれしくやすかった。しかし、この九〇円の食事を高いというのもいた。街で食うと八〇円であがる、というのである。
実際、あんなに一文ナシがゴロゴロしていたホステルも珍しいであろう。私が今夜ホステルで食事をするというと、おまえはパンはいくら食っても同じ値段ということになっているのだから、おれのためにパンをとって来てくれ、というのが必ず二三人は出てきた。そのパンをかじるだけで、あとは一日中あきもしないでベッドの毛布にくるまってひねもす暮らしている。
その連中のなかに、イタリアの坊やがいた。彼によると、マドリッドでは、ユース・ホステルにいれば、だいたい一日二〇〇円で暮らすことができる。しかし、スペイン領のカナリア群島に行けば、それは八〇円ぐらいに切り下げることが可能である。もし二〇〇円出す気があれば、「おまえ、一軒の家がもてるぜ」彼の理想は、カナリア群島に行き、一軒の家をもち、土人の女を恋人とし、バナナを食べ、馬鹿なアメリカ人観光客相手にギターをかなでて生計をかせぐ。彼はその理想を実現すべく、カナリア群島行の便船を待っているのであった。かたがた、同行者をつのっている。今アイルランド人とドイツ人が名乗りをあげているが、いっしょに来ないか、という。
毎日、彼は何をしているのか。ヒル二時に起床、ブラブラ、午後十時には就眠。彼ばかりではなかった。アイルランド人もドイツ人もベルギー人も、ニューヨーク市から来た半黒のアメリカ人も、その日課に厳格に従っていた。
それにしても、物価が安いのはありがたい。工業製品を除けば(これは大部分輸入品だから高い)、物価は、安いことで世界に有名なわが日本国よりも安いくらいである。ことに食いものと飲みものの値段。バルセロナ(魚料理で世界的に著名である)ですごくうまい魚料理を食べたが(それが私の旅行中での最もゴーカな食事であった)、酒もふくめて四〇〇円であった。私がフランスでいつも食っていたような最低の食事をすれば、まさに八〇円くらいですむ。うれしいのは、果物が安いのであった。オレンジやネーブルも安かったが、バナナがよかった。カナリア群島産ので、一キロが三〇円か四〇円である。私はよく食事の代りにバナナ一キロですませた。イタリアへ発つとき、バナナ五キロを買い込み持ち込んだら、税関吏が眼を白黒した。「食べるのだ、食事の代りに」私はそう言った。
マドリッドのこの天国のようなユース・ホステルの難点は、寒いことにあった。「南国スペインが寒いことはないだろう」とお思いになるかもしれない。私もそうであり、ホステルにゴロゴロしている連中も、みんなそう思ってスペインへ来たのである。しかし、これほど、とんでもない考えはない。マドリッドはなるほど南国スペインの首府であり、なるほど南国スペインはアンダルシアまで下るとあたたかいが、マドリッド自体は海抜六〇〇メートル余の高地にあって、ヨーロッパでもっとも寒い都会の一つなのであった。(近郊へ行けば雪までつもっている。)ことにこのユース・ホステルは、シャルトルのカテドラルが「中世の冷蔵庫」であるとするなら、これは「フランコの冷蔵庫」であった。寒さを防ぐのは、薄い毛布以外の何ものもない。私は毎夜上着を着て寝た。念のためつけ加えておくと、この「フランコの冷蔵庫」のトイレットも、例の「トルコ風」というやつであった。
寒いが、冬のマドリッドは美しかった。ことに、空。いわゆる「ベラスケスの空」というので、あの画家が描いたのとそっくり同じ色の空が頭上に高くひろがる。澄明、冷涼とした青、あれはやはりマドリッド独特のものであろう。市街には高層建築が多く、街全体が立体的であった。ヨーロッパ最高の摩天楼というのもここにある。落ちついたよい街であった。中心の広場プエルタ・デル・ソル(太陽の広場)のあたり、それはまさに太陽のごとく美しい。たしかに落ちついたよい街であった――場末の、また郊外の貧民窟を除けば。私が「日本は貧乏だ」と言ったら、「とにかく日本ではひとは家に住んでいる。しかし、スペインでは穴居生活をしているのもいる」そう言うアメリカ人がいた。
スペインで困るのは、食事の時刻がやたらとおそいことであろう。ヒルメシが二時すぎ、バンメシとなると午後九時にならないとありつけない。バンメシのまえに、「アペルティボス」というのを食べる習慣になっている。立ち食い屋でブドー酒かシェリー(スペインの特産であるが前者に比して高いから、みんなブドー酒を飲んでいる)のグラスを傾けながら、サカナをつまむ。このサカナというのが、われわれ日本人の好みに合うものばかりだった。えびの塩焼き、ちょっとした魚のフライ、カキ、貝類、イカ、それにタコまであった。どういう調理方法でやるのか知らないが、私の粗雑な舌には、そのタコは日本の酢ダコとまったく同じ味がした。(南欧諸国は、ギリシアにいたるまで、イカ、タコ大歓迎である。)八時ごろ、どこの立ち食い屋に行っても大入り満員であった。貴夫人も会社勤めのセニョリータもタコの足をつまみながら一ぱい飲む。ありがたい習慣である。そいつをすませてから、レストランへくり込むことになる。
セニョリータのことについて言えば、スペインのみならず南欧諸国はカトリック国だから、アメリカや北欧のように、簡単にデイトの相手を探し出すことはできない。もちろん商売女ならいるだろうけど、私の言っているのは良家の子女のことである。(そうでなければ、一文ナシの私につき合えたものではない。私は各国のかわいい少女たちについてならいくらか語る資格もあるかもしれないが、商売女は、ナイト・クラブの女性であろうと何であろうと、誰一人知らないのである。)それともう一つ、またしてもコトバの問題がある。商売女でないふつうの女性とつき合うためには、もちろん、コトバがいるだろう。たとえ究極的には言語の存在が不必要な甘美幽明の世界に入ろうとも、そこに至るまでには、「アノ映画ハヨカッタデスネ」とかなんとかのもろもろの会話が要るのである。北欧、ドイツ、オランダがこの点でよかったのは、英語がよく通じるからであった。それがフランスから南欧にかけては、自国語一点バリとなる。英語に比べると、まだフランス語のほうが通りがよろしい。しかし、私のフランス語の学力は――それは、すでに明らかなことであろう。
* * *
スペインといえば、誰だって思い浮かべるのは、闘牛であり、フラメンコであり、カルメンであろう。その本場は、なんといっても南スペイン、アンダルシアである。それにマドリッドはこんな寒いのに、アンダルシアではオーバーもいらないという。出かけることにした。
汽車に乗って、先ずコルドバへ行った。スペインは今のヨーロッパで、汽車に一、二、三等の区別があるまれな国だが(たしか他にポルトガルがあるきりである)、その三等車というのは、幹線でも日本の田舎を走っているオンボロ二等車(先日までは三等車であった)なみである。あんなふうにみすぼらしく汚く、おまけに満員であった。
たとえば、今、東北の田舎を走る二等車のなかに、すりきれたオーバーを身にまとったアメリカの若者が忽然と出現したらどうなるか、ひとびとは先ず好奇の眼で彼を見るだろう。それと同じことであった。スペインのその三等車のなかで、ひとびとは、私の一挙一動に眼を動かした。こんなとき、私はどこの国でも、知っているかぎりのその国のコトバをどなりたてることにしている。その日はやけに寒い日だったから、私は「サムイ!」と一言大声をはりあげた。それが会話の皮きりであった。いや、会話などというものはもともと存在するはずもないのである。私が「サムイ!」をくり返せば、彼らは大声でケラケラ笑い、「サムイ、サムイ!」と連呼する。そのうち、ヒルメシの時刻となった。みんなてんでに持参のお弁当を食べはじめた。あのアルミのお弁当箱というのは日本特産のものであると思っていたら、スペインの庶民もあれを使うのである。幼稚園の子供が持って行く円型の小さなお弁当箱があるが、あれとまったく同型のものを使用する。そのなかには円型のオムレツが入っていた。お弁当箱をもたない連中もいた。彼らは大きなコッペパンに無器用にハムを押し込んでモサモサ食べている。私がボンヤリそれを見ていたら、隣りのオッサンが、やにわにそのパンをグイと眼の前に突き出した。「食え」とさかんに身ぶり入りでくり返す。それが一種の合図であった。ひとびとは私にてんでに食物を提供することを始めた。いつもの私にならこれはまったく願ってもないことだったろう、しかし、その日、私は朝から腹工合わるく、何ものも食べるものは遠慮したいところであったのである。それに、彼ら提供の食物は、その円型のオムレツであれハムであれベーコンであれ、貧乏国スペインの庶民のものらしく、きわめて非衛生的に見えた。しかし私に、「好意は感謝するが、実は私は腹下しなので……」というような器用なことが、スペイン語で言えるはずがないのである。私は手をふってノーの身ぶりをしたが、彼らはそれを東洋の君子国人の謙譲と見た。私はもくもくと食べた。食べるばかりであった。そして最後には、あの怖れていたバナナまでが現われ出てきた。私の腹下しの原因はひとえに一キロ三、四〇円のバナナの食いすぎにあったのだろう。しかし、もう乗りかかった船だ。私はまたバナナをも、もくもくと食べた。はっきり言っておかねばならない。私は食いだめをするために、それらのものを食べたのではない。スペインの庶民の友情を日本の庶民である私がうらぎってはならない、私の心あるいは胃袋のうちには、そうした高貴な感情が流れていたのにちがいないのである。
私は「|S・E・U《セウ》」のメンバーであったから、「|S・E・U《セウ》」指定の大学の寄宿舎に泊まれる特典があった。コルドバにはその指定校の獣医学校がある。私はそこの寄宿舎へ行った。ちょうどもうクリスマスの休暇のころだったから、学生は帰省しているだろう、そうすると、どこかの空き室に入ることができるわけだ。
寄宿舎の事務所で、私は来意を告げたが、ここにも英語を解する者がいない。「|S・E・U《セウ》」のカードをヒラヒラ手にかざして、「ココニ泊マル、ヨロシイカ?」をくり返していたら、紅顔の少年が出て来た。彼は今フランス語を勉強中なのだという。彼の助けで、私はようやく二階の一室をあたえられた。二人部屋だったが、室の持主はどちらも帰省中であった。壁に大きなセニョリータの壁画が描いてある。掃除のバアさんがそれを指しながら、「カルメン、カルメン」という。そうかもしれない。いやに馬面のカルメンであった。二人のうちのどちらかが描いたのだという。
そのおバアさんに、私はオーバーと上着のボタンをつけてもらった。オーバーの三つのボタンと上着の二つのボタンは、すでにちぎれてなかったのである。ポケットからボタンを出し、オーバーと上着にあてがって、私は「つけてくれよな、おバアさん」と日本語で言った。おバアさんはうなずき、さっそく針箱を持ち出して来てつけてくれた。老眼鏡をかけて針仕事をするおバアさんを見ていると、故郷の老母の姿が自然にそれに二重写しになった。ちょっとセンチメンタルになった私は、おバアさんに、祇園の舞子さんをプリントにした小さなハンカチを呈上した。おバアさんは大喜びであった。「孫にやるのだ」と、さっきのフランス語を解する少年を通じて言った。
私がセンチメンタルになった理由の一つは、やはり体工合のせいだった。車中のあの「暴食」のせいで、ついに私は倒れた。翌日から、私はその馬面のカルメンの一室で寝込むことになったのである。
およそ何が心細いといっても、異郷で寝込むことほど心細いことはないだろう。まして、ここではコトバが通じないのである。フランス語を解する少年がいたおかげでいくらかは助かったが、彼のフランス語はやっと教則本の第一冊目をすませたぐらいのところであったから、率直にいって、私のよりはるかに憐れなものであったと言わなくてはならない。しかし、その少年をはじめとして、みんなは親切であった。とうとう「医者」までつれて来てくれた。私が今ここでカッコつきで医者というコトバを使ったのには意味がある。それは私が勝手に「医者」だと思っているだけのことで、ほんとうのところはどうとも解らないからである。彼はスペイン語以外解せず、私はその少年のたよりない通訳でしゃべるほかはなかったし、少年はたしかに彼のことをフランス語で「医者」というぐあいに私に告げたのだが、「あの人はこの学校では、いちばんえらいんだよ」とあとで言ったところをみると、医者は医者でも獣医だったのかもしれない。念のためにもう一度言っておくと、コルドバのその学校というのはブタの病気治療で有名な獣医学校だったのである。
とにかく、あんなケッタイな診察の場面に出くわしたことがない。「医者」が何か言う。それを長い間かかって、それもたぶん「医者」のコトバのおよそ十分の一くらいを、少年がとぎれとぎれに訳す。私がそれに答えて、たとえば、ここんところが痛いと言おうとする。しかし、私のフランス語は健康なときでさえなかなか出てきてくれないのだ。まして、そのときには熱があり、断食していてフラフラのさなかだったのである。「字引きを」という私のもとめに応じて、少年は一冊の辞書を貸してくれたが、それは「仏・西、西・仏」の辞書であって何の役にもたちはしない。
しかし、その「医者」は天才であった。あるいはめったに病気をしない私の体には歯ミガキ粉でも効いたのかもしれない、四日後に、私はもうコルドバの街を観て歩くぐらい元気になった。
マドリッドはふつうの近代都市といった感じだが、コルドバは、これはもうスペイン、スペイン以外の何ものでもなかった。白堊の家々が曲りくねった街路の両側にどこまでも続く。家はすべて「中庭《パテイオ》」をもち、そこには植物と噴水とちょっとした彫像までがある。ここの呼び物は、カテドラルだった。昔、回教の「モスク」だった上に強引におおいかぶせて、カテドラルを建てた。内部には、アラビアふうの色をダンダラにぬった柱が林立している。カテドラルの庭で、えらく芳ばしい匂いがすると思ったら、オレンジがたわわに実っているのだった。
しかし、この詩の街にも、スラム街がある。ローマ時代に建てられたという橋を越えれば、ひとは誰でも詩から現実へとひきもどされるだろう。カテドラルからスラム街へ、スラム街から「中庭《パテイオ》」をもった豪華な邸宅街へ、私はまたいそがしく往復した。ようやく私のばかでかい好奇心も、私の健康、いや、胃袋とともに回復しはじめていたのである。
コルドバのお次はセビリアであった。セビリアにはいささか失望した。コルドバがあまりによすぎたせいかもしれない。私はしきりにアメリカのニュー・オルリーンズのことを思い出した。ニュー・オルリーンズも私は好きではなかったのである。小都会のくせに大都会の騒々しさと汚さだけがそこにはあって、大都会のもつ美しさがそこにはない。セビリアもそんな感じであった。
この地でぶらぶらしているアメリカのエカキと知り合った。彼といっしょに宿探しをして歩いた。ここには大学の寄宿舎もあったが、そいつは「|S・E・U《セウ》」指定でなかったから泊まれないのである。あちこちの、四級、五級のヤドヤ、つまりは木賃宿のたぐいをたずね歩いた。彼もスペイン語がほとんど話せず、私も今までくり返してきたような状態だったから、これはとんだヤジキタ道中だった。この二人のスペイン語でもって値切ろうとするのだから、心臓であった。
彼は一見してアメリカ人であることが知れ、私は私でニューヨークを出るときTが餞別にくれた使い古しの「パン・アメリカン」航空のバッグをぶら下げて歩いていたから、通りすがりのスペインの若者たちが「アメリカーノ、アメリカーノ」といってはやしたてた。その口調は反感と軽侮と羨望と憧れの混じったものであった。私は、どうしたわけからか、よくアメリカ人とともにいたせいであろう、それと、たぶんいくぶんかアメリカなまりとなった私のエイゴと、アメリカ人的にあけすけで厚かましい態度(どこの国でだったか、女の子に紹介されたとたんにデイトを申し込んだら、「あなたはやはりアメリカにいただけあるわね」と叱られたことがあった)と、もう一つそのバッグのおかげかもしれない、ヨーロッパでは、よくアメリカ人――アメリカ人自身の言い方を借りれば、≪lousy(しらみのように騒々しい) American≫にまちがえられた。迷惑千万な話である。
宿はようやくにして見つかった。一泊一五〇円。一泊といっても一室の代金ではない。これはベッド単位の取引きなのであって、一室に二つか三つベッドはあるわけなのだから、もちろん、同室者はいるわけである。こんなことには私は慣れっこになっていたが、私と相棒になる見知らぬスペイン人にとっては、たまげたことであったにちがいない。眼をさましてみたら、隣りのベッドの男が何国人ともつかぬ男だったとあっては、これは驚かぬほうがふしぎだろう。朝、私がむっくりベッドの上に起き上がったら、隣りのベッドのスペイン人が一瞬凝結したように私をマジマジとみつめたことを、いまだに覚えている。
フラメンコを観に出かけた。どこへ行ってもだいたい値段は同じだというので、わりと上等のキャバレエへ行った。四〇〇円をはりこんだ。が、この四〇〇円は決して損な取引きではなかった。先ず一ぱいのシェリーをくれる。こいつをチビリチビリやっていれば、夜の十一時から早朝の二時まで、のべつまくなしに続くフラメンコを観ていることができる。いったいあれで経営は成り立つのか、その夜の客は私のほかにアメリカの学生ただひとりであった。背後の席でワアワアキャアキャアやっているスペイン人の一団がいたが、それはこのフラメンコ・ダンスの一座に新入りした男の子の家族たちなのである。私とアメリカの学生もその涙ぐましい声援に加わったら、あとでニキビ面のその坊やが二人に礼を言いに来た。
スペインの夜でぜひ覚えておかなくてならぬのは夜警である。コン棒を手にして鍵を腰にいっぱいぶら下げた男が街角に立っている。彼はその界隈の家やアパートや宿屋の戸締りを受けもっているのである。妙なシステムだが、あなたが夜おそく宿に帰って来ると、この夜警が宿の人たちに代って外の扉をあけてくれる。お返しにあなたは何ガシカの小銭を彼にあたえなければならない。彼を呼ぶにはどうするか。宿の前にたってカシワ手を打つのである。夜のスペインの街には、たえず、このカシワ手の音がする。それは妙にものがなしく、それでいて陽気に賑やかに耳に響いた。
夜警氏のやっかいになったあと、私は足音をしのばせて室に入った。電気をつけたら、隣りのベッドに今朝までいたスペイン人の姿はそこにはなくて、一見してアラブ人と知れる巨大なヒゲモジャの男が、大鼾をかいて眠っていた。モロッコから来たのだろう。
翌日、私はシェリー酒の本場であるヘレスへ出かけた。べつにシェリー酒を飲むためではない、闘牛がそこで行なわれたのである。
残念なことに、それは本式の闘牛ではなかった。ちょうど真冬のことだったから、闘牛はシーズン・オフにあたっていたのである。スモウでいうなら何トカ神社の奉納ズモウにあたる、本式ではないが一流闘牛士が腕ならしに集まって来たものであった。あの華麗なユニフォームは見られなかった。みんな練習用のそれで出てくる。しかし、その点を除けば、あとはすべて本式のと同じということであった。とにかく楽隊がマーチを鳴らし、血が流れ、牛が倒れ、やがてこと切れる。超満員の観衆。みんなはやたらと興奮する。私のすぐ前に坐っていた婦人は、闘牛士の恋人であったのかもしれない、闘牛士は牛の耳を切り、それを彼女に投げあたえ、彼女はその血に染まった耳をかかげながら彼に投げキッスを返した。
やたらと牛が出てきて、やたらと死んだ。期待していたより、ずっと単純で単調なものであった。なんでこんなアホらしいものにヘミングウェイ先生は熱中したのか。そんなふうにさえ私は思った。二つ面白いことがあった。一つは、飛び入りの素人闘牛士が現われたことだった。いざ牛を突き刺さんものとして闘牛士が身がまえたとたん、観客席から一人の若者が自製の剣をかかえて飛び下りたかと思うと、牛めがけて突進する。リングは大さわぎであった。周囲で待機していた警官が早速彼をとりおさえる。と思ったら、今度はそのすきに、別の若者が飛び下り突進。総計四人の素人闘牛士が出現した。
闘牛がすべてすんだあとで、リングに豆闘牛士が出てきた。日本で言うなら豆行司というところであろう。チャンと闘牛士の服装をした三四歳の坊やが、闘牛士そのままの演技をして見せてくれた。途中で父親らしいのが慌てて飛び出してきて連れ去ったから、それはこの闘牛のプログラムにない、坊やの自発的演技であったのだろう。
* * *
スペイン南端、ヨーロッパ大陸の西南の尖端アルヘシラスまで達した。アフリカはモロッコのタンジールまで、ここからわずかに汽船で二時間。もちろん、アフリカは見えた。山々が淡く霞んでいる。
私はモロッコへ行くつもりだったからこそ、そこへ行ったのだった。しかし行けなかった。モロッコの領事館へ出かけたら、ビザを貰うのに四ドル払わなければならないと告げられたのである。その余裕は正直いってなかった。私は涙をのんで断念した。
代りにすぐ眼と鼻の先のジブラルタルへ渡った。そこへはビザが不要だったのである。ジブラルタルはホンコンのように一種の自由港なので、タバコとか時計とかカメラとか、そういったものは安い。その代り、食物は島には何もできないのだからスペインに比べて割高になっている。それで売り込み=買い出し部隊が、アルヘシラスから出動した。オレンジやらニワトリやらタマゴやらを売り込みに出かけ、帰途にタバコなどを買ってくる。私は渡船の下等のほうにもちろん乗ったから、そこは大きな荷物を背負ったオバチャンたちでいっぱいだった。
ジブラルタルは面白くもなんともなかった。ヒッチ・ハイクをして島をかけめぐった。最後に乗った車の持主は、英海軍の士官だった。呉《くれ》に駐留したことがあるという。「女がよかった」苦虫を噛みつぶしたような顔をしながら、そのくせ、彼はそんなことを言った。
帰途の渡船は、スペインから日やといの出稼ぎに来た労働者たちでいっぱいだった。甲板で彼らはトランプをつかって博打をやる。私にアラビア語で話しかけてくる男もいた。アラブ人だと思ったのだろう。
その夜の宿は、同じようにベッド一ついくらの木賃宿だったが、共同風呂があり、そして、ああ、うれしいことにお湯が出たのである。風呂といえば、アメリカを出てから私は一度も入ったことがないのであった。シャワーを浴びたのだって、ロンドン、コペンハーゲンのユース・ホステルで各一回、パリの銭湯で二五〇円余を払って一回。そのパリからでさえ、もう一と月経っていた。私は風呂に入り、入念に体を洗った。そして下着とスエーターの洗濯をした。そうしながら、これから日本に帰りつくまで、私はいったい何回風呂に入るだろうかと、そんなことを考えていた。(その次シャワーを浴びたのは、レバノンのベイルートでであった。二ヵ月後のことだった。)
アルヘシラスから南へ、海をこえてモロッコへ行けないとすれば、また北ヘマドリッド指して戻らなければならない。汽車で帰った。
私の車室の同室者は、モロッコ(スペイン領モロッコ)帰りの兵隊さんたちであった。元気のよい連中で、どなりわめき、フラメンコのまねごとよろしく踊り、プラットホームのセニョリータに奇声を発し、そのうち、網棚の上によじ登って寝そべる者までいる。この連中とも、時刻をきいたのがキッカケで私は親しくなった。私の精工舎製腕時計は、ロンドンあたりで眠りぐせがつきはじめ、パリでもうまったく動かなくなってしまっていたのである。それ以後、五ヵ月のあいだ、私はまったく時計なしで旅行していたことになる。修理費に当てる金があれば、私はそいつでもって、何日分かのパンでも買いだめたことであろう。とにかく、どこの国へ行っても、私は「今何時ですか?」というコトバだけは覚えた。答は実物を見せてもらえばよろしい。
途中、マドリッドの手まえのトレドで一夜泊まった。ちょうど、クリスマス・イブだった。
トレドはグレコの町。スペインでもっともスペイン的な町とも言われる。古い大きなカテドラルがあった。そこで、イブのミサが荘厳に行なわれた。暗い会堂いっぱいに重々しくコーラスの声が響く。
外は対照的に陽気なクリスマス・イブだった。日本の銀座のクリスマスを思い出させたといってよい。街路いっぱいに酒気の入った男女がひしめき合っている。アメリカのイブは、繁華街に人影まばらな静かな、そしておそらく宗教的なイブだったのだが、敬虔なるカトリック国スペインのイブは、いやに銀座のそれに似かよっていた。
宿に帰れば、ダンス・パーティをしていた。一夜中、それはつづいた。ジルバやらチャ・チャ・チャやらが響いてきて、なかなか寝つかれなかった。私は腹を立て、こんな音楽のなかった昔に生きていたグレコは幸いであった、と結論した。
マドリッドに帰って数日してから、私はバルセロナヘおもむいた。そこに数日いてから、私はイタリアへ飛んだ。
ビザを買う話
――貧乏旅行の悲喜劇――
ビザに恨みは数々ござる、と言えば、おまえもビザをとるのに苦労した組かと御自分の経験から同情して下さるかたもあるだろうが、べつに私はビザをとるのにそう苦しんだことはなかった。恨みがあるのは、ビザの代金に対してであった。
ビザをもらうためには、手数料を払う必要がある。これがふつうの旅行者にとってなら、なんでもないことかもしれないが、私には容易ならぬことであった。ビザ代の四ドルが払えないために、モロッコ行を棒にふったことは前に述べた。西ヨーロッパの国々とは、イギリス、アイルランド、ポルトガル、スペインを除いて、日本は文化協定を結んでいて相互にビザなしで行ける。これがどんなにありがたいことか。もしこいつがなければ、私の旅行はとうてい実現し得なかったであろう。
金を払わされるのがシャクだから、私はいつも「ビザを買う」という表現を用いた。各国の出先の領事館へ出かけて、「おまえの国へのビザを買いたいのだが、いくらか?」と先ず訊ねるのである。「その額によって行くか行かないか決めるのだから」私はつけ加えた。
それはほんとうだった。はじめ私はスペインヘは行かないつもりでいたのである。ニューヨークのスペイン領事館できいたら、八ドル要るという。「高いからやめにする」私がそう宣言したら、係の人はへんな顔をした。こんな旅行者が来たのは、おそらく初めてのことであったろう。
パリで念のためもう一度きいたら、そこの領事館では六ドルだという。えらくもうけものをしたみたいな気になって、ついにビザを「買い」、前述のスペイン旅行となったのだが、それにしても、同じ日本人が同じスペインへ入るのに二ドルの差異があるのは、あれはどういうわけからなのか、判らないことではある。
とにかく、どこへ行っても私は「ビザはいくら?」と訊ねた。そしてまた、あらゆる種類の格安ビザを買い漁った。たとえば、私はインドヘは通用十五日間の「通過査証」で入国したが、それだとふつうのものに比べると、ばかみたいに安くすむのであった。
ビザが高くて断念した国は、モロッコをはじめとして、たくさんあった。たとえば、ヨルダン、パキスタン、ビルマ、ベトナム。アホらしいことに、アジアの国々は文化協定がなくてみんなビザが入用だし、それに、その値段がみんなむやみやたらと高いのである。ベトナムなど、たしか一〇ドルぐらい要求したと思う。
二十四時間以内、四十八時間以内なら、ビザはいらんという国々もいくつかあった。私は綿密にヒコーキの時刻表を読んで作戦をたててみたが、たいていはうまく行かないのであった。私はこの手をホンコンで使ったきりである。
ビザを旅行者に与える、あるいは「売りつける」のは出先の領事館だから、ずいぶん領事館員の意志がそこには働いた。だから、友人でもそこにいれば万歳であろう。ニューヨークで「買った」イランへのビザが、ヨーロッパに余り長く居すぎたものだから期限切れとなった。カイロでイランの大使館へ何とかしてくれるよう交渉に行った。係の男は初めは絶対にダメだ、買い直してくれ、と言ってきかない。私は一策を案じ、日本とペルシアの由緒深い長年の交渉史を一席ぶった。話の判る男であった。それに感激したのか、それとも、私の一文ナシ的状態に同情したのか、サラサラと何やらペルシア語でビザに書き加えてくれた。「これでよろしい、ボン・ボワイアージュ」彼ははじめてニッコリした。
ベイルートからヒコーキで、いざテヘランへ行く段になって、このビザはひと悶着のタネになった。ヒコーキ会社の男が、このビザは無効であると宣言し、私がヒコーキに乗るのを拒否したのである。彼は英語で書かれたビザの本文だけ読んだのである。「なるほど、そこではそうなっている。しかし、ここを読みたまえ」私は意気揚々とそのペルシア語のつけ足しのところを指し示したが、彼は読めないのだという。彼ばかりではなかった。その事務所にもどこにも、読める人はいないのであった。私もなんだか心もとなくなってきたが、「とにかく自分で責任をとるから」と言い残して、強引にヒコーキへ乗った。
テヘランでべつに強制送還されず拘引されることもなかったのをみると、あのつけ足しはやはり有効であったのだろう。しかし、それをイラン人に読んでもらうのを心がけながら、ついに忘れ去ってしまったから、いまだに私はそこに何が書かれているか知らないのである。アラブ連合の動向に関する秘密情報か、それとも「へのへのもへの」のたぐいであったかもしれない。
しかし、考えてみると、ビザにお金がかかるからといって、各国政府を恨むのは、いささか筋ちがいのようである。恨むべきは、私の貧乏そのものであろう。スペインからイタリアへ飛んだとき、私のヒコーキは途中ニースへ寄った。フランスへはビザがいらないのだから降りようと思ったら降りられたけれども、私は断念した。どうしてこの南仏を見る絶好の機会を逸したかというと、一旦降りてフランスへ入国してしまえば、今度出国の際に、出国税とか称するものを八〇〇円ぐらいとられるからである。アホらしい、というなかれ。私にとって八〇〇円は貴重であった。それは私の二日分の生活費にあたる。南仏を見る機会とイタリア滞在二日延長とを、私は慎重にハカリにかけた。そして、ついに涙をのんで後者を選んだ。
とにかく、貧乏だから、見たいものは見られず、食いたいものは食えず、行きたいところへ行けぬ、ということはしょっちゅうであった。たとえば美術館だが、あれだってお金がいる。ただ、ありがたいことに、ヨーロッパでは各国ともタダの日をもうけている。私はいつもその日を選んだ。というよりは、私の旅のスケジュールを強引にそれに合わせたのである。
しかし難は、見るべき美術館や遺跡の数が多すぎることであった。美術の都フィレンツェでは、そのタダの日、私は早朝からメシも食わず飛びまわった。たった一日のあいだに、フィレンツェの主な美術館をみんなのぞいてまわろうとするのだからたいへんである。その特急飛びまわりのあいだに気に入ったのが見つかれば、翌日は「お金を払って」それを観に出かけることにしていた。ウフィツィ美術館のボッティチェルリの「春の祭典」の前で、私のおなかは空腹のあげく、春を告げる天使のラッパのごとくえらく大きな音をたてて鳴りひびいた。それはボッティチェルリに陶然としていたひとびとの眼を私に向けさせるほどのものであった。「何トカいう絵に魅せられて、私は滞在をのばし、連日、美術館に通った」というのはよくある文章だが、私には、それがそのときのいわば生涯のユメだったのである。私はそのウフィツィ美術館のウッツェーロの戦争の絵に魅せられて、なんとしてでもこいつを何度も観たいと思ったのだが、サイフのかげんでとうとう思うに任せなかった。残念である。
古都アテネには長くいたからまだよかった。あそこは毎週木曜日がタダの日で、もちろん私はその日は遺跡と美術館めぐりに専念した。これは私ばかりではない。その日は、私のいたアテネのユース・ホステルは、早朝から大騒ぎであった。みんな一日のうちにできるだけたくさん見ようと思う連中ばかりだったから、顔もろくろく洗わずに飛び出して行くのである。連中とは、その日、街の各所で出会った。たとえば国立美術館のポセイドーンのみごとな立像の前、あるいはパルテノンの「勝利女神《ニーケー》」の神殿で――そこでへたり込んでいた私にむかって、ある日、前夜私の上のベッドで寝たアメリカ人の学生が、しみじみ言った。「せめて、美術館をゆっくり見るくらいのお金があればね」
貧乏旅行をしていて不便なことは、ものごとの様子がよく判らないことである。スペインで、私が果たしてお医者(「ブタ医者」ではなくて「人間医者」)の世話になったかどうか判らなかったことは、すでに書いた通りであるが、こんなことはしょっちゅう起っていた。あなたが旅先で何か変ったことに出会うとする、その地にあなたの知人がいなかったとしたら、あなたはせめて英語の通じるホテルへ帰って訊ねるだろう。私にはそれができなかった。私の木賃ホテルでは、誰も英語を解さなかったのである。加藤周一氏は私の敬愛する評論家であり作家であるが、彼のウズベッグへの紀行文を読んだとき、私はある個所で真に彼を羨しいと思った。なんでもない、他の人なら見逃してしまうところで、私はそう思ったのである。彼が街のクツ屋にロシア語で話しかける。クツ屋は喜んで、その地方でのクツの製造状態などについてまくしたてる。それは、加藤氏のロシア語の理解の能力の程度をこえるまくしたてかたであったらしい。しかし、加藤氏は平気だった。それぐらいのことは、ホテルへ帰って英語の話せる者に訊けば判ることだから――そのくだりを読んだとき、私は、なるほどねえ、そんなものかねえ、と妙に感心した。私の宿に帰っても、英語を解する者は誰ひとりとしていないのであった。加藤氏の旅から得た知識は、それゆえに、私のようにあちこちにボコンボコンと大きな穴があいていることがないのであろう。私のと言えば、それは穴だらけである。そして、その穴のところに、くやし涙でもたまっているのかもしれない。
しかし、私はグチを言っているのではない。コジキ旅行には、それ相応の積極的な効用もあった。
先ず第一に、各国の生活水準の差異が、身にしみてよく判ることである。英語の通じるホテルにいるかぎり、そこには大きな差異はないであろう。風俗習慣の差異がないことはいうまでもなく、そこに現われ出てくるものは、ベッドでありシーツでありインターフォーンでありフランス料理であり西洋式トイレットであろう。つまり、どこへ行っても、衛生的に文化的に暮らすことができる。しかし今、あなたが最低で生活するとする。そうすると、あなたの生活は急転落と急上昇をくり返すということになる。同じ最低といっても、北欧の最低は、それはスペインの中の下くらいのところであろう。そしてスペインの最低は、それだって、たとえばインドへ行けば、中の下の暮らしとなる。もっとはっきり言うと、ヨーロッパの最低でなら、とにかく人間(とにかく、われわれ日本人が現在もっている程度の文明の便利さを経験した人間、と言っておこう)は暮らして行くことができる。しかし、中近東、インドの最低となると、私は身ぶるいを感じる。私は帰ってから「インドだけはお金を持って旅行したい」とくり返しひとに語った。インドのような貧乏国にどうしてまた、と言うひともあった。理由は簡単である。インドには中産階級がまだあまり強力でなく、それゆえにそれにふさわしい旅行設備がなく、ひとは旅行するとなると、べらぼうに高い(すくなくとも私にとって、またヨーロッパの標準から言っても)旅費をつかうか、それとも街路に果てしなくひろがって眠る家なき民の列のなかに入るよりほかはない。私は後者だった。だから、私は今度はお金をもって行きたいのである。
第二。お金というものの媒介がないから、人の親切が身にしみて判ることである。「人間」が本来もっている良さというか、甘チャンと言うなかれ、私にはそれがよく判った。
第三。これは第二に関連することだが、これもまたお金の媒介がないから、一国の国民性がよく判ることである。たとえば早い話、その国民が外国人に親切であるかどうか。また親切のあらわし方の差異を通じて、その国民の生活様式やら思考方法にいたるまで、何がしかの知識を得ることができる。
生活様式やら思考方法といえば、「ころがり込み」の功徳《くどく》も多かった。ひとの家にころがり込んでしまえば、いやでもいろんなことが判るものである。たとえば、インド人はあのインドふうのトイレットをどんなふうに使用するか。チャパティと称するインド式ホットケーキをいかにしてつくるか。あるいは、インドのインテリが不可触賤民《アンタツチヤブル》をいかに現実にとりあつかうか。
「ルパナーレ」の帽子
――イタリア貧乏滞在記――
イタリアは、先ずミラノへ行った。ミラノはイタリアでないということになっている。ひとはどういうわけからか、大きな都会、近代都市、工業都市に妙な反感を抱いているらしくて、やれニューヨークはアメリカでない、ハンブルグはドイツでない、バルセロナはスペインでないとおっしゃりたがる。しかし、あれほどの嘘っぱちもないであろう。近代的工業都市ミラノにそびえる摩天楼だって、その地の巨大なドーモと同じように「イタリア」なのである。すくなくとも、そこにあるのは、生きているイタリアであろう。早い話、おひるのドーモの内部には、外国人の観光客しかウロウロしていないが、摩天楼のなかはイタリア人で満ち満ちているではないか。
ミラノは、以前からおなじみの、妙に親しい感じのする都会であった。先ず「ミラノの奇蹟」というデ・シーカ監督つくるところの映画があった。私がそれを観たのは、たしかまだ中学生のときだったが、ビルディングと工場の吐き出す煤煙と瓦礫の廃墟とスラム街と、そこに、そこはかとなく芽生えはじめたひとびとの希望と夢――それはそのまま、戦後間もないころの大阪であった。大げさに言えば、私の青春が大阪を通じてその映画に、またミラノに結びついている。ついでに言うと、私は大阪人であり、大阪人というやつは、なんでもかでも大阪のものを自慢するというきわめてフランス的、あるいはインド的郷土愛をもっているから、いつもいつも大阪的な都会を世界各国に求めていたのかもしれない。大阪的な都会――工業都市で活力とエネルギーに満ちていて、首府ではなく在野精神に富み自分自身の文化をもち、お金の都であり騒々しくて汚くて、それでいてどこよりも美しくて無限に詩的な都市。アメリカでいうならシカゴ、イギリスでならグラスゴー、ドイツでならハンブルグ、スペインでならバルセロナ、イタリアはこのミラノ、エジプトでならアレキサンドリア、インドなら、あの世界最悪の都カルカッタ。(ついでながら、私はカルカッタを世界でもっとも詩的な都会だと思う。テヘラン在住の私の友人のアメリカの詩人も、まったく同じ意見であった。)
「なんで、あんなところに行きたがるんだい? ミラノには何もないぜ」パリのベトナム青年は、私がミラノヘぜひ行きたいというと、呆れはてたように私を見た。「もっともドーモはあるがね。とにかくばかでかいやつが」彼はそうつけ加えたが、その最後のコトバが私のミラノ行を決定したといってよい。ドーモがばかでかいものなら、ぜひとも行って見なければならぬ。そのてっぺんによじ登れば、きっとアルプスを見ることもできるであろう。
ひとつ難関があった。私のオスロから東京までのぐるぐる廻りのヒコーキの切符は、バルセロナからローマまで直行するようになっていて、ミラノへたちよることを許していないのであった。パリであるヒコーキ会社にかけあいに行ったが、そこの男は大きなトラの巻みたいな本を開いて、「どうも残念ですが……」と言った。それで戦法を変えて、その男から二人離れたところに坐っていたかわいいお嬢さんを買収することにした。これには買収という実際的目的のほかに、そのかわいいフランス娘とデイトしたくもあったのである。翌日その事務所にまた出かけて、お嬢さん連れ出しに成功、四方山話の末、私は何くわぬ顔でその話を持ち出した。バルセロナからローマまでに私の切符はなっているが、常識から考えると、ミラノで「途中下車《ストツプ・オーバー》」できるように思われる。私は素人なのでよく判らないが(あなたならエクスパートだから判るだろう)――カッコのなかは言わなかったが、そこが自然と強く押し出されてくるように私は言った。これは成功であった。お嬢さんは力強く、イエス、できる、と言い、今からその切符をつくってやろうと答えた。私は、お嬢さんが有能のまったく反対であることを、とっくの昔に、たぶんそのかわいい顔を見たときから見ぬいていたのである。
右に書いたことは、すべてウソである。すくなくとも、そんなふうにヒコーキ会社関係者は読んでいただきたい。私の専攻する古代ギリシア語の文献は、読み方によっては、二通りにも三通りにも読めるのがふつうであるが、長年の研鑚の結果、私の日本語もそんなふうになったのである。したがって右に書いたことは、ヒコーキ会社関係者にとっては、ウソであるように読まれるべきであろう。アメリカにいたとき、私の恋敵の一人にミラノ産のイタリアの若者がいたから、焼きもちの女神がお嬢さんのかたちを借りて、切符を書き替えてくれたのかもしれない。いや、きっとそうであろう。
ミラノには、しかし、期待したほどの騒々しさ、汚さはなかった。それはあたりまえであろう。私は世界一忙しい国の出身者であり、その日本よりは落ちるにしても、かなり忙しい国アメリカ、ドイツを通過して来たのではないか。私の眼には、ミラノは静かに、のんびりときわめて「イタリア的」に見えた。イタリアも、もちろんスペインと並んで、あのおヒルネの国であった。そのあいだ、このイタリアの経済と工業の心臓も眠っている。目ざめているのは、ドーモの前の広場の鳩と、その鳩に負けじとクルクルと歩きまわっている外国人旅行者だけであろう。バカと煙は何トカのたとえどおり、外国人旅行者はドーモのてっぺんにみんな登る。私も登った。そこからは、アルプスが見えるというふれこみであったが、それも焼きもちの女神のせいであったのだろう、泣きべそをかいたように空はいちめんに曇っていて、何も見えなかった。私は代りに、そばに立っていたイタリア娘のヒゲを見ていた。西洋人は誰でも毛深くて、女のひとでもうっすらヒゲが生えている。(西洋の習慣には顔を剃るということはあまりないらしい。その代り、これはアメリカの女の子にかぎって自信をもって言えることであるが、安全カミソリで毛ずねを剃る。)これが北欧から中欧にかけての女の子は毛が金髪か、そこまでゆかずとも褐色だからあまりめだたないが、南欧となると、われわれ同様のみどりの黒髪、黒毛だから、ずいぶんとめだつ。そのイタリア娘はかわいいこともかわいかったが、ヒゲのほうがよりみごとであった。あまりじろじろ見たので、彼女はこわい眼で私をにらんだ。「ボン・ジョールノ(今日は)」ばつがわるくなって、私はそう言ったが、むろん彼女は答えなかった。
いったいに、イタリア人は何でもないことにすぐ腹をたてる性質がある。私はイタリア人と総計八回ケンカをしたが、その発端はまったくどうでもよいことだった。「やつらはカンターレ(歌う)族だから、あんなのさ」あるドイツの青年はそんなふうに評した。もっとも、ドイツ人のイタリアに対する態度は公平を欠く。「今度やるときはイタリア抜きで」というのがドイツ人の日本人に対する合いコトバみたいなものだが、彼らのイタリアヘの眼は軽蔑と、それとちょっとした羨望であろう。
私の友人にユーゴースラビア人との混血のイタリア人画家がいるが、「どうしてイタリア人はあんなに短気なんだい」と訊ねたら、笑って、自分もひとがケンカをしているのを見るときは、ユーゴースラビア人である自分の半身が目ざめているらしくてバカバカしいと思うのだが、いつのまにか、自分だって怒りはじめているのだ、と答えた。
ミラノには、かの有名なオペラの殿堂スカラ座というのがあって、お上りさんは誰でも出かけることになっている。もちろん、私も出かけた。私もまたお上りさんであり、お上りさんであることが人一倍うれしいほうなのである。
オペラ行には、二つの難関があった。こんなことはホテル住まいの旅人には想像もつかないことであるが、先ず、ホステルの門限が問題であった。ここのホステルは十時が門限だが、どうせオペラは十二時ぐらいにならないと終りはしないだろう。もちろん、どこのホステルでも、こんな場合特例を認めてくれるのがふつうだったが、困ったことには、ミラノのホステルのオヤジはかいもく英語を解さぬのであった。それでも当ってくだけろとばかり、オヤジにむかって私のイタリア語で一席ぶった。いや、一席ぶつも何もなかった。「今夜、ワタシ、オペラ観ル。ヨロシイカ? カエル、オソイ、十二時、門シマル」私は門をしめる身ぶりをした。オヤジは判ったのかうなずいたが、たしかにO・K、よろしい、というふうにうなずいてくれたのだが、何やら口のなかでモゴモゴ言い、私の耳には、そのモゴモゴのうち、ただ一つ、「百リラ」というコトバだけが捉えられた。何がいったい百リラなのか、切符が百リラというのか――私は「百リラか?」と念をおし、彼は「百リラ、百リラ」とくり返しうなずいた。
次の難関は切符であった。私のスカラ座行は十二月の三十日という日だったから、えらく混んでいた。もちろん私の切符はスカラ座のてっぺん天井棧敷のそれであって、前売りではなく当日その場で並んで買うものなのである。列のなかにホステルで顔見知りのユーゴースラビアの青年がいた。列といってもどこにも掲示がなく、また誰一人英語を解する者もなく、ユーゴースラビアの青年も私も、それが果たして天井棧敷の切符を買うための列なのかどうか、まるっきり判らないのであった。
が、幸いにして、それは天国への道程であった。押し合いへし合いとカケ足をくり返して、私と青年とは、ぶじ天国こと天井棧敷の立見席の一角に立つことができた。
私は、世界各国の主要な劇場の天井の装飾をよく知っている。というのは、私はいつも劇場のてっぺんで劇なりオペラなりバレエなり音楽なりを、観、聴きしたからである。おおむね、天井には、天使やら何やらのつまらんペンキ画がれいれいしく描かれていた。アメリカでいうと、メトロポリタン歌劇場とカーネーギー・ホールが、そのペンキ画の天使ならぬ実物の天使、つまり天井棧敷の立見衆を虐待することで群を抜いていた。メトロポリタン歌劇場の立見席は側面にあって、そこからは舞台のほぼ半分が見えた。カーネーギー・ホールのはてっぺんの椅子席の背後ふかくに潜んでいて、立ち見に疲れてかがむと、もうそれはひとびとの背中しか見えない。その背中の背後から、妙なる楽の音がひびいてくるという寸法であった。私はベートーベンもバルトークもストラビンスキーも、すべて、この背中のテープ・レコーダーによって聴いた。舞台が見えないだけ、それだけ、客観的に聴いたかもしれない。
立見衆虐待の尤《ゆう》は、パリのオペラ座であろう。椅子もチャンと並べてあるくせに、椅子に坐ると何も見えない。立ったところで、その劇場側面にしつらえてある立見席のまんなかあたりでは駄目。自然、ひとびとはその端のほうへにじり寄り、柱か何かに手をからませて上体を前方に大きく傾斜、それでやっとこさ舞台の半分が、わるくゆけば三分の一をはるかに望見するということになる。こんなのに比べると、東京のカブキ座のそれは、はるかにましであろう。あそこでは、とにかく舞台はぜんぶ見える。(ついでながら、劇場といわず海水浴場といわず、日本のこういった設備は、民主的というか庶民的というか、貧乏人にもたのしめるようになっている。後者についていえば、日本でなら、海があれば、あるいは湖があれば誰でも泳げるが、「西洋」の場合、たいてい、その海岸なり湖岸なりが私有地になっていて、ホテルなりクラブ・ハウスなりがあって、そいつを通過しないと泳ぎもできないことになっている。ホテルにはお金がかかるし、クラブのメンバーになるにはいろいろむつかしい制約があった上に、もちろんお金がかかる。〈黒と白のあいだ〉のところで書き落したことだが、ある人がニューヨーク近郊の海水浴場のその人所属のクラブ・ハウスに連れて行ってくれたが、そのクラブは「白人」専用のクラブであった。たとえゲストであっても、それはそうなのである。ただし私は、もちろん、O・Kであった。アメリカでは、われわれは「白人」なのである。人種的偏見のないはずの北部でさえ、こんなふうなかたちで差別があること、これは見逃してならないことであろう。このクラブはユダヤ人も駄目だった。ユダヤ人はおとなりに別のクラブ・ハウスをもっていて、そっちのほうは、なみの白人はお断わりだということであった。ユダヤ人となみの白人とをどんなふうにして見分けるのか、私がそう訊ねたら、私の友人は答に窮した。このクラブ・ハウスで、西洋ふうエチケットのアホらしさを一つ見た。食堂へ入るのは水着ではいけないことになっている。女性はケープを羽おるが、男性はどうするか。ワイシャツを着ればよろしい。下は要するに海水パンツだから、みんなワイシャツのシッポをヒラヒラさせて歩いている。インドでもよくそんなのに出会ったが、あそこでは下はズボンである。こっちのように、そのヒラヒラのシッポの下から、太い毛ずねがニュッと現われ出ているというようなことはないのである。こうしていると服を着ているのと同じとみなされる、友人はそう説明した。ネクタイでもつけようか、と私は言ったが、それには及ばないという返事であった。
えらく脱線したが、スカラ座の「天国」の話に戻ろう。あそこの「天国」は、オペラ座に比べればちょっとましというところであった。だしものは「トスカ」であった。こういう甘ったるいだしものは、要するにカブキと少女歌劇にトトカルチョ的興奮を加えあわせたものと見てよろしい。すくなくとも聴衆の反応はそうであった。たしかに、スカラ座の天井棧敷の「ブラボー」の声は、群をぬいていた。
ユーゴースラビアの青年が、途中で帰ると言い出した。「どうしたんだ?」ときいたら、「今から帰ればホステルの門限にまにあう、百リラ惜しいからね」と答える。よくきいてみたら、ホステルのオヤジがくり返し言ったのは、べつに入場料のことではなくて、門限がすんでのちの開門には百リラいただくということだったのである。彼はあっさり帰って行った。私は「トスカ」というような甘たるく悲しき物語は人一倍好きなほうだし、その上、百リラ失うという悲哀に甘たるく身をまかせるということもある。私は残った。
深夜、私はホステルの門を叩いた。オヤジに百リラ渡したら、そのミラノのホステルでの三日間、いつも仏頂面をしていたオヤジが、はじめてニッコリ笑った。ドーモよりもスカラ座よりも「トスカ」より何よりも、そのオヤジのニッコリが、私に、イタリアへ来たなという感慨を起させてくれた。
* * *
ベニスは迷路の街であった。大ミソカの夜を、私は迷路探索ですごした。私はあてもなく水の都のこの街でのバスであるモーター・ボートに乗って上ったり下ったり、そいつをいいかげんなところで乗りすてては、闇黒の人影一つない小路、ぐるぐるとうねりながらどこまでも涯しなくつづくそれに分け入って行った。掘り出しものもあった。労働者らしいのがワンサと入っているちっぽけなレストランでは、二〇〇円で、スパゲッティ一皿、カツレツ一皿、食後の果物一皿の晩メシを食べることができた。ブドー酒をおごることにした。五〇円。私はそれで行く年を祝った。
海岸にそって遊園地があった。射的、木馬、のぞきの活動写真、ローラー・コースター。ベニスの夜の静寂のなかで、そこだけがやけにやかましく、やけにまた明るかった。
私は射的をした。百円余を消費したが、うまく行かなかった。横を見たら、イタリアの青年が笑っている。私は彼と歩くことにした。もちろん、会話というほどのものは、二人のあいだに存在しうるはずがない。私はスペイン語とイタリア語をチャンポンに話し、彼が近郊の労働者であることを知った。大ミソカの夜は、みんなこうやってベニスへ出て来るのだという。「モメントー(ちょっと待って)」彼はふいに言った。何かと思ったら、共同便所へのこのこ入って行くのであった。
サン・マルコの広場はやはり美しい。広場というよりは、天井のない大広間の感じ。やがて十二時がきた。耳をろうするばかりの鐘の音。ひとびとの投げる爆竹。ひとびとの叫び。舞い上がる鳩。年が変ったのだ、と思った。同時に、私は昨年のこの時間を思い出した。あのとき、私はニューヨークにいた。タイムズ・スクェアでひとびとの雑沓にもまれていた。年が変った瞬間、ひとは誰とでも接吻をかわしてよいことになっているのだが、私は、あのとき、いっしょに連れだって歩いていた女の子にキッスをしたのだが、今、あの子はどこにどうしているのだろう。私は感傷的になり寂しくなり、また同時に、ひどく疲れきっているのを感じた。むりもないだろう。一日一ドルの予算で暮らしはじめて、もう三ヵ月経っていたのだ。
* * *
ローマのユース・ホステルは、景気のよいにわか俳優たちで満ちていた。あるイタリアの映画会社が、イギリスの会社と合作で戦争映画をローマのスタディオでつくっていたのだが、その連中はなかなか頭のよいやつで、ユース・ホステルでごろごろしているやからからエキストラを動員することを思いついたのである。なるほど、これはうまい考えであった。ホステルへ来れば、いながらにして、イギリス人、アメリカ人、ドイツ人、イタリア人をかり集めることができる。その上、ここには演劇青年あがりのまでかなりいたから、そいつらはちょっとした役につけて使うことができた。
実は、そのかり集めに来た男に、私も会ったのである。どうせこの戦争映画にはアメリカ人二世もいるだろう、あるいはアラブ人にだって私は化けられるだろう、私はそう力説したが、駄目であった。「ジンギスカンの映画をつくるまで待て」という返事であった。
季節外《オフ・シーズン》れのホステルのことだから、そこにごろごろしているのは、みんな奇妙なやつばかりだった。ここのベッドは二段で、私は下段に寝、私の上はアメリカの自称ビート詩人であった。兵隊として日本にいたことがあり、うれしそうに私に日本語の片言を話した。つまらぬ詩を書いたが、アゴヒゲはみごとであった。職探しのドイツ青年とアメリカ青年がいた。ギリシアからヒッチ・ハイクで帰って来たイギリスのエカキがいた。ここの電話局で働いているイタリアの坊やがいた。もとオフ・ブロードウェイの俳優で、目下は前記戦争映画のなかで通信将校に化けて、毎日ツートン・ツートンをしている(何をしているのか、ときいたら、彼はそんなふうに答えた)アメリカ青年がいた。アルジェリアからのフランスの負傷帰還兵(彼はまだほんの子供だった)とその父親がいた。帰還兵はコトバすくなに、アルジェリアでの戦争の恐ろしさを語った。遠くから見ていると、そいつを英雄的《エロイツクマン》に論じることができる、しかし、なかへいったん入ると――彼はそんなふうに言った。
読者は、ユース・ホステルに彼の父親がいたのにびっくりされるかもしれない。ユースといったって、べつに年齢の制限はないのである。(あるのだが、守られていないと言ったほうが正確であろう。)父親ぐらいの年どころか、ローマのホステルには、そのときフランスのお爺さん作家がいた。
「作家」といっても、彼がどの程度にえらいのであるか、つまり私よりもえらいのであるか、あかんのであるか、私は知らないのである。お爺さんは英語が話せず、私があることで通訳の労をとってやったことから親しくなった。私がギリシア語を学んだことがあると知ると、朝起きると先ず私に、「ボン・ジュール、ムッシュウ・ル・プロフェソール」と言うのであった。これがいつのまにか、「ムッシュウ・ル・コンミュニスト」に変った。彼が私の不在中に起った日本の王家のおめでたいばかさわぎに言及したとき、私がきわめて冷淡であったからである。いや、彼は私を「ウソツキ」とさえ呼んだことがある。日本の人口はいくらであるかを訊ねられて、私が九千万だと答えたら、そんなはずはない、あんなチッポケな国に九千万も入るはずがない、おまえは稀代のウソツキだと言いはるのであった。
この「作家」(六十代と見られた)は、毎日何をしているのか。朝七時にみんなと同じく起され、八時半には放り出され、それからタイプライターをかかえて駅の待合室に行く。そこで日がな一日、何やら執筆し、五時の開門を待ちかまえてホステルに戻って来る。それからホステルの食堂で「野菜サラダ」を一皿とり、外で買ってきたパンとともに食べる。彼の食事の最後近くに食堂へ入って行くと、彼がその貴重な野菜サラダの皿をなめるばかりにしてさらえている風景が見られた。それは、センチメンタルな私の胸にビンとひびいた。私は彼がかわいそうになり、私のきわめてしんどいフランス語で、何がなししゃべってやるのであった。
冬のローマは雨が多いというが、私の二週間の滞在のあいだ、ほとんど毎日が雨であった。やけに冷たく、寒かった。雨が降れば、どこかの暖かいホテルの一室でローマの雨の音でもきいていたいところであった。しかし、ホステルは日中閉まっているのだから、雨のなかをうろつくよりほかはなかった。私は幾多の遺跡を見たが、その一つ一つに、あの冷たかった雨の記憶が結びつき、さらにそれに、あの寒かったホステルの夜の記憶が結びついている。へんな話だが、ローマというと、私もまた人なみに、たとえばパラティンの丘やコロセウムを思い出すが、それと二重写しになって、あの野菜サラダの皿をなめるようにしてさらっていたフランスの老作家の姿が出てくるのである。
話がしめっぽくなったので、ここらで一つアホらしいザンゲ話を書き、それでイタリアはおしまいにしよう。
私はイタリアから、立派なボルサリノの中折帽を持って帰ってきたが、「いったい、それどうしたんだい?」ときかれるごとに、「買った」のだとか「貰った」のだとか言を左右にした。この帽子は、金目のものを何一つ今もって持っていない私は声を大にして言っておく必要があるが、アメリカのお金にして一〇ドルもする立派な帽子なのである。たとえ、ボルサリノとしては最低のものであろうと、ボルサリノはボルサリノである。また古物屋の産物であるなどと失礼な想像をしてはならない。ナポリの目抜き通り、「ビヤ・ローマ」のある立派な帽子店での買物である。「買物」と今書いたが、実は、もちろん私が買ったのではない。ひとが、アメリカ人が買ったのだが、といっても、おくり物でもない。私は賭に勝ったのである。
では、何の賭に勝ったのか――これが余り言いたくないことがらであって、それゆえにこそ、私は帰国後「買った」とか「貰った」とか言ってごまかしてきたのである。
ナポリのユース・ホステルでごろごろしているときに、同室者にアメリカの青年がいた。ある夜、どうしたわけからか彼と二人きりになり、これもまた何がキッカケだったのか、ワイ談をする羽目になった。私は翌日ポンペイの遺跡見物に出かける予定をたてていたから、ほんとうは早く眠りたいところであったが、話題が話題である。ぜひもなかった。私も、日本の青年の名誉にかけて、ウンチクを傾けねばならない。
何をどんなふうに傾けたかは、ここに書いていると一冊の本になる。話はやたらと歴史的になり、カクカクシカジカの姿勢は古典的なものであって、その証拠に、ポンペイの遺跡にはそいつがあると私は言った。「ポンペイ?」彼は大声を出した。そうだ、ポンペイのルパナーレ(遊女屋)の壁のフレスコには、そいつがれいれいしく描かれているはずだ。私は写真を見たことがある。「あり得ない」彼は大声を出した。「たしかだ」私もまた大声を出した。「なんなら賭をしようか」金もないくせに、私は大きなことを言った。彼は応じた。
ポンペイで、そういう妙なものの遺跡のなかを見ようと思ったら、遺跡ぜんたいの入口で口やかましく客引きをしているガイドの尻にくっついて特急で遺跡をかけまわるか、それとも、その特定の遺跡の前に突ったっている守衛氏にいくばくかをにぎらせて、扉を開いてもらうよりほかはない。「守衛氏はすべてイタリア政府の役人であって、金品を受理してはならないという命を受けている」云々の掲示の下で、守衛氏は悠然とお金を受けとる。実際、そういう妙なものの遺跡にかぎらず、すべて名ある家のあとだとか、お社のあとだかは必ず扉が閉められていて、守衛氏が前にいて、そういう掲示があってということになっている。
ルパナーレ(遊女屋)の前にも、もちろん守衛氏はいて、もちろん彼はきわめてイタリア的にふるまい、おうように私とアメリカ人とをなかへ招じ入れてくれた。小さな個室が両側にいくつか。「ここで彼らは彼らのビジネスをした」守衛氏はそう英語で言い、あらかじめわれわれ二人の反応を測定したかのように、ころあいを見はからって、懐中電灯で壁の上部にずらりと描かれた、あの名高いフレスコを一つ一つ照らし出してくれた。「こういうのは、日本でもするのかね」彼はあるものをさしてそう言ったが、それは、考えてみると、やはりお世辞であったのだろう。その「日本でもするのかね」の隣りに、ああ、私とアメリカ人が昨夜討論を重ねていたのがあった。私は賭に勝ったのである。
賭は忘れてくれ、お金はいらない、と私が殊勝なことを言ったら、それなら、ぜひ私にプレゼントしたい、と彼はきかなかった。私が、昨夜、そのワイ談を始めるまえに、お金があったらボルサリノの帽子ぐらい買ってかえりたいところだと泣言を言ったのを、彼はまだ覚えていて、そのビヤ・ローマの帽子店へ私を強いて連れて行ったのである。
こうして、ボルサリノの帽子は私の所有となったが、これは、ほんとうは「ルパナーレ」の帽子と呼ぶべきでないのか。そのほうが、私のようにアホらしい想念でいっぱいになっている頭には、よりふさわしいのかもしれない。それにしても残念なのは、私がその後の旅の途中で、一枚の紙片を失ったことである。それには、その「ルパナーレ」の帽子を私に献じたアメリカ人の氏名と住所が書かれていたのである。彼はジョンといったが、ジョンなら全アメリカに何百万といることだろう。探し出すすべもない。
パン屋のデモステネス君、仕立て屋のアリストテレス氏
――ギリシア無銭旅行――
私の考えでは、われわれ日本人自身のことはカッコに入れるとして(日本人はギリシア人と同じくらい親切だという説があったが)、世界各国のひとびとのなかで、ギリシア人ほど、客好き、外国人好きの国民はないと思う。理窟も何もない、彼らは外国の旅人にむやみやたらと親切なのであった。ギリシア語には、「フィロクセノス」(外国人好き)というコトバがあるが、おそらく、ギリシア語がその意味をただ一語でもって言い表わすコトバをもつ世界で唯一の言語ではないか。北欧人もドイツ人も、外国人に親切である。が、彼らの場合、生活が豊かだから、というコトバに還元することもできる。が、ギリシアはスペインと並んで、ヨーロッパの貧乏国の一つなのだ。「国民性」というものは、やはり、あるものである。イタリアの生活水準はギリシアのそれに比べてはるかに高いが、外国人に対する親切という点になれば、話はまったく逆となる。ローマから夜のアテネに着いて、ユース・ホステルヘの道を訊ねたときから、彼らの親切は始まった。ちょっと道を訊いただけで、黒山のような人だかりとなり、そのうちの一人が私をはるばるその目的のところまで連れて行ってくれた。
彼らのその親切はなかなか徹底していて、たとえば田舎でバスに乗るときなど、どんなに乗客が列をつくっていても、私が一番であった。列のうしろにくっついていると、必ず車掌か誰かが私を呼んでくれるのである。空席がなかったりすると、必ず誰かが私を坐らせてくれた。
それに、気持のよいことには、彼らは外国人に親切でありながら、自分の国に対して強い誇りを持っているのであった。これがどんなに気持のよいことかは、たとえば、イタリアから来てみるとよく判る。貧乏人の誇りと廉直、私はそういったものをギリシア人に感じた。
たとえば、私はアテネの大ホテルのボーイ君に大いに世話になったことがある。田舎のバスのなかで私は彼ととなり合わせに坐ったのだが、私がべつのバスに乗りかえることになったら、私のかなり重い旅行カバンをさげて、それから十分ほどの距離をついて来てくれた。これは私のたのんだことではなく、すべて彼の自発的意志なので、大ホテルのボーイのことだからチップでも欲しいのだろうと、私は内心ありがた迷惑に思っていたのである。しかし、これほど失礼な想像はなかっただろう、ボーイ君は私からチップをとるどころか、私がお金を出すのにまごまごしていたら、私の切符の代金を払い、私が慌ててお金を返そうとしても、決して受けとらないのであった。
彼らの親切は、一つには、彼らの知的好奇心からきていた。私は、正直に言って、ギリシア人ほど好奇心の旺盛な国民を見たことがない。たぶん彼らの先祖は、その好奇心のゆえに、あれほどの偉大な業績をなしとげることができたのだろう。
私は少しばかり現代ギリシア語を解し、また話した。だから、容易に彼らの好奇心の好餌となった。バスや汽車のなかで、せめて私は憩いをとろうとした。が、駄目であった。必ず誰かが話しかけてきて、たちまち、みんなの質問の十字砲火を浴びる。スペイン人はこちらから口火を切らないかぎり大丈夫だし、話もとぎれがちだが、ギリシア人は先方から、「どこから来た?」を皮切りに、はてしなく質問はつづく。私にもっともふかい印象をあたえたのは、その質問のあいだにひとびとの瞳に燃え上がる好奇心というものであった。私は誇張を言っているのではない。彼らは小児のように、あどけない純粋の好奇心でもって私に対してきた。彼らの瞳は、そのとき、ほんとうに未知なるものの探求と発見に燃えくるめいていた。
ひとびとが幾多の外国人のなかでも、私にとりわけ親切だったのは、一つには、私が彼らの言語を解したからであった。外国人がぜったいに自分の国のコトバを話すはずがないときめてかかっている国(たとえば、わが日本がそうだろう)へ行って、その国のコトバを話せば、ひとは予想外の好遇を受ける。たとえ、それが「アリガトウ」「サヨナラ」のたぐいの片言であろうと、そいつを言ったとたんの相手の反応を見よ。エジプトのカイロの美術館で、それまでえらくつっけんどんだった守衛から、ただ一言「コンニチハ」を彼らのコトバで言ったおかげで、えらく親切にとりあつかわれたことがあった。私はどこの国へ行っても、そういう「基本語」だけは、その国のコトバで言うようにつとめた。これこそは、実をいうと、貧乏旅行の忘れてならない鉄則なのである。
私は古代ギリシア語専攻の学徒だから(たとえ、それが多分にインチキくさいものであるにせよ)現代ギリシア語は大丈夫だったろう、と思ってくださると大マチガイである。早い話、今アメリカ人が一人来て、あなたに万葉時代の日本語で道を訊いたとしたら、あなたはそれを理解するだろうか? それと同じことであった。私は現代ギリシア語というものを新たに学び直す必要があったのである。正直のところ、私がそのとき知っている現代ギリシア語の単語は五〇〇をこえていなかっただろう。あとは、たとえばホメーロスやプラトンの使ったコトバをとりまぜたとしても、十五分も話せばタネはつきる、というところであった。この十五分で、いかにはなばなしく十字砲火のなかをくぐり抜けて行ったかは、少し後に書こう。
私が特に親切にされ歓迎された理由の一つには、やはり、私が日本という遠国の旅人であったこともあるのかもしれない。稀少価値ということもある。そこへもってきて「日本」は、すでに他の国のところでも述べてきたことだが、妙に人気がある。あの人気には、奇妙に響くことかもしれないが、例のトランジスター・ラジオというのが多分に影響をもっていた。ヨーロッパのどこでも、私はそれについて質問されたが、ギリシアでもむろん、そうであった。わざわざカバンの底から見せてくれる男までいた。ヨーロッパもギリシアまで来ると、日本の工業製品もかなり進出しているらしく、大きなタイヤの広告があったり、日本製のバスをほめる男もいたし、あるいは日本の薬品を絶讃するアテネの薬屋さんまでいた。
彼らが日本製品をほめる気持のウラには、ある種の憧れに似たものがあった。日本の発展を、自分たちの模範としたいというようなところがあった。ギリシアの青年の多くはそんなふうに語った。
日本という国は私たち日本国民が知らないあいだに、ずいぶんと他の小国の理想となっていたものである。フィンランドもその一つだが、ギリシアもそうであった。これから書くことなど、日本人の誰一人として夢にも知らないことであろう。
パリで、あるギリシアの哲学者(彼はギリシアの対独レジスタンスの勇士であった)に会ったら、いきなり、「私の父は日本人です」という。彼の現代ギリシア人らしい顔つき(古代ギリシア人のいわゆるギリシア的な風貌を想像してはならない。重なる侵略、人種混合の結果、現代の彼らはヨーロッパ人と中近東人との中間の容貌をしている)からおして、ぜったいに日本人との混血児ではあり得ないのであった。私がケゲンな顔をしたら、彼はコトバをついで、実は私の父は「日本人」という政党に属していたのだと説明してくれた。
日露戦争後、「日本」の名は小国ギリシアにとって希望の象徴であったのだという。日本のように、日本人のようにやらなければいかん――そういった人たちが集まって、当時としてはもっとも進歩的な政党をつくった。それが「日本人」党であったのだ。うれしい話ではないか。
いつも大国にいじめぬかれている小国には、小国なりの立場があって、それに従うと、この前の戦争に対する考え方だってずいぶんとちがう。私は小国の人と話すとき、いつもそう思った。彼らは、日本がアメリカやイギリスのような大国にある程度の打撃をあたえたことを、小気味よいことのようにも感じているのである。ヨーロッパ本土における日本のふしぎな人気も、ヨーロッパのアメリカあるいはソ連への劣等感とあいまって、案外こんなところに根が潜んでいるのかもしれない。
それともう一つ、ギリシアにおける日本の人気は、朝鮮戦争のおかげでもあった。国連軍兵士として、ギリシア人もそいつに参加した。(ギリシアから朝鮮まで、船で一と月かかって出かけたそうである。)戦争のあいだ、休暇といえば、彼らは必ず日本へ来た。「日本はこの世のパラダイスだ」片田舎で会った青年がそう言った。
同じコトバを、朝鮮がえりでない造船技師からきいたこともある。彼は鶴見の造船所へ、そこへ船を注文した会社から派遣されていたのである。「日本人は礼儀正しくて正直で、そして知的だ」最後の「知的」というコトバの証左に、彼は東京駅前の立像をあげた。知らない人は行ってみられるとよろしい。丸ビル、新丸ビル、東京駅を結ぶ三角形の中心のところに、大きく手をあげた男の裸像が立っている。その台石に「愛」とあり、その下に横文字があるが、それは「アガぺー」というギリシア語なのである。なるほど、世界でも稀れに知的な国民であるのであろう、われわれは――
* * *
アテネのユース・ホステルで日を暮らしていたら、ある日、ドイツの青年エカキがペロポネーソス半島の片田舎からやって来た。彼はその電灯もない片田舎で暮らしているのだが、ひと月、わずかに二千円余をつかうのみであるという。どうしてかというと、間代にほんのかたちばかりのお金を払うだけで、あとはすべて村人がくれるというのである。誰も外国人を見たことがない寒村を選べば、みんなはたいへんな「フィロクセノス」(外国人好き)だから、それでやって行ける。ドイツの青年は自信ありげに説いた。
これは耳よりな話であった。私は翌日から、ペロポネーソス半島の無銭旅行に出た。
ペロポネーソス半島には、アガメムノン王の王国のあったミケーネやら、スパルタ教育で著名なスパルタやら、オリンピック競技ゆかりの地オリンピアやら、むやみと有名な遺跡があちこちに転がっている。そいつを二週間でぐるりと見まわってやろうと考えた。
ペロポネーソス半島の住人といえば、純朴な田舎人として定評がある。ギリシア人じたいがそんな感じだが(パリへ行くとき、ギリシア人はよく「ヨーロッパへ行く」という表現をする)、半島の住人はことにその点で有名で、王宮の近衛兵はそこから採用するのだとのことであった。その二週間のあいだに、私はそれら近衛兵候補者のあいだに、いったい何人、何十人の友人、知人をつくったことか。大半が庶民――お百姓さん、羊飼い氏をはじめとして、パン屋、仕立て屋、肉屋、トラックの運チャン、石ケン工場の工員、ギリシア陸軍の兵隊さん、帰郷中の大西洋航路の客船のボーイ君、そういった面々であった。
彼らからは、帰国後の私のところに、ときどき手紙が舞い込んでくる。とてつもないのが来たこともあった。彼らの大半が、ことローマ字に関しては(彼らの文字はギリシア文字である)文盲に近い連中なので、私は十分注意して私の住所と名前をローマ字で書き残してきたのだが、仕立て屋のアリストテレス氏から貰ったのは、私の住所もギリシア文字なら、私の名前も「ODA」の代りに「OΔA」とあるのであった。これでよく私のもとにとどいたものだと思うが、日本の郵政省は、ひそかに集配人諸氏にむかって、ギリシア語の教育をなしているのかもしれない。なにしろ、東京駅前にギリシア語が見られる知的な国のことである。
困るのは、手紙をもらっても誰が誰だったか、私がよく覚えていないことである。彼らには写真をくれたがる妙なクセがあり、それも田舎人のこととて一生に一代の晴れ姿めいたものばかりだが(たとえば朝鮮戦争従軍中の勇姿)、それを惜しげもなく、たのみもしないのに私にくれるのである。正直いって、そんなものを貰っても困るだけのことだから懸命に断わるのだが、私のその努力は効果があったためしがない。彼らはアッというまに、写真の裏面に、「わが親愛なる友OΔAに」と書いてしまうのであった。パン屋のデモステネス君から、先日、おまえにやった写真はちょっと必要があるので送り返してもらいたい、と言ってきたのだが、手もとにある幾枚かの写真を見比べながら、私は今、毎日、記憶の喚起に努めているところである。たいていの写真には、「わが親愛なる友OΔAに」のほうはあるが、どうしたわけか、署名がないのである。
さっきから、仕立て屋のアリストテレス氏とかパン屋のデモステネス氏とか言っているのは、べつに奇をてらってそうしているのではない。それらは、まさに、彼らの本名であった。
ギリシア人はやたらと偉い先祖の名をつけたがる。私は詩人のオデュセウス氏にも会ったことがあるし、アレクサンドロスという老ガイドとも仲よかった。いや、もっと有名な欲ばり名前があった。たしか世界一の金持の一人だかに、アリストテレス・ソクラテス・何某というギリシア人がいた。
ギリシア人というのは、むやみとコーヒー、それも小さなコップに入れて出すやけに甘たるいターキッシュ・コーヒーが好きである。これはイギリスでの牛乳入り紅茶にあたるもの、つまり私の言う「国民飲料」であろう。日に幾度となく飲む。どこへ行っても、どんな寒村に行っても、必ずこれを飲ませるところ、喫茶店《カフイニオン》があって、そこは一種の村の集会場となっている。べつに用事もないのに、ひとびとはそこに集まり、どうやって遊ぶのか判然としないゲームをしたり、おしゃべりに日を暮らす。ギリシアの農村というのは、たしかにひとは働いているのだが、それは日本のように忙しく死物狂いでたち働いているというのではなかった。貧しいことはひどく貧しいのだが、それでいて、えらく牧歌的でのん気であった。喫茶店《カフイニオン》でぼんやり時間を過ごしている彼らを見ると、この連中、いったいいつ働くのかしらと疑問に思えてくる。
ひとびとは集まる、と今書いたが、喫茶店《カフイニオン》へ来るのは男性だけである。中近東もインドもそうだったが(そして、たぶん、昔の日本もそうだったのだろう)、べつに女性入場お断わりというのでもないのに、社会的習慣でそうなっているらしかった。日本にも、ひとつ、こんな喫茶店《カフイニオン》をつくったらいかが。私はよろこんで行くであろう。そして前記パン屋のデモステネス君のように――女性が来なくて寂しくはないかと訊ねたら、以下のように答えた――椅子を街路に持ち出して、道行く乙女《コリジ》のお尻のゆれ動きぐあいでも眺めてひねもす暮らすであろう。パン屋というのは、作家志望のひとにとって、まったく都合のよい職業であることが判った。乙女《コリジ》のお尻のゆれ動きぐあいはともかくとして、デモステネス君は朝五時に起きて仕事を始め、その仕事は八時に終って、あとはもうまる一日何もすることがないのであった。長篇小説一つぐらいはやすやすと書けるではないか。ひとつ、デモステネス君に弟子入りしてパン屋になろうか、私はそんなふうに冗談でなく考えた。
喫茶店《カフイニオン》は、私の無銭旅行には、えらくぐあいがよかった。喫茶店《カフイニオン》なくしては、私の無銭旅行は存在し得なかったと言ってよい。
バスで、あるいはバスも来ないような寒村へは徒歩で村につくと、私はすぐ喫茶店《カフイニオン》へ行った。おひるの一休みどきか、あるいは夜がよろしい。村びとはたいていそこに集まっている。私は店内へ入る。みんなはいっせいに私を見る。おもむろにコーヒーを注文し、そいつをゆっくり飲む。それから、さっきからずっと私の一挙一動に眼を走らせている連中にむかって、そのなかでもとりわけ人なつこく笑っている若者に向かって、私はニコニコしてやる。私のニコニコはやけにどこでも効果があった。すぐさま、そいつが私のそばに来る。そしてギリシア語で訊ねる。「どこから来ました?」第一問はきまってそれであった。「どこから来たと思うか?」私もギリシア語で答える。とたんに、その若者の眼に喜悦の色が浮かぶ。彼はみんなに、「おい、この客人《クセノス》(ギリシア語では「客人」と「外国人」とは同一語である)は、ギリシア語が判るぞ!」とどなる。みんなはどっと私のまわりに集まって来る。おまえはドイツ人だろう、イギリス人だろう、いや、アメリカ人だろう。要するに外国人というものをろくすっぽ見たことがない連中ばかりだから、みんなはそんなすっとん狂なことを言った。そのうち、村のもの知りが出てくる。この客人は髪の毛の黒いところを見ると、イタリア人かスペイン人であろう。オヒ、オヒ(ノー、ノー)、このかたはきっとアラビア人だ。このかたの眼を見なさるがよい、このかたの鋭い眼は、これは砂漠に生きる者の眼だ。私にはよくいって半分ぐらいしか判らなかったが、おおかたそういったふうなことを言っていたのであろう。ころあいを見はからって、私は真相を明かす。「日本《イアポニア》だ」みんなは、一瞬、呆気にとられたように黙る。それから異口同音に叫び出す。「イアポニア! イアポニア!」誰かが握手を求めに来る。おれの伯父さんの友人の息子が、朝鮮戦争のとき日本に行った。ぼくの兄貴の嫁さんの友人の夫が、日本製の魔法のようにちっちゃなラジオをもっている。すばらしい。すばらしい。そこまではよいが、さて、それからがたいへんである。私は質問の十字砲火を浴びる。ギリシア人ほどあけすけに何でもものを訊ねる国民を私は知らない。おまえにはお父さんがあるか。何をしている。お金持か。兄弟は何人ある。何をしている。ギリシア語はどこで習った。ギリシア語はむつかしいか。キプロス島についてどう思うか。アメリカに対する日本国民の一般的感情は如何。ヒロシマはどうなっている。あのちっちゃなラジオは日本ではいくらする。アメリカ人はよい人か。おまえは日本へ帰って何をするのか。先生になるのか。給料はどれくらいあるのか。日本ではパン百グラムがいくらか。日本にはこんなミカンができるか。日本にジプシーはいるか。ここから日本へはいくらで行ける。東京の人口は何人か。みんな何を食って生きている。ロバは日本にいるか。おまえの名は何か。おまえの年いくつか。ヨメさんはいるか。恋人はいるか。おまえは今お金をいくらもっているか……
これがひとわたりすんだところで、私は訊ねる。「ときに、この村には宿屋《クセノドフイオン》はないか?」彼らはかぶりをふる。あたりまえである、私は始めから宿屋のないような寒村ばかり選んで行ったのである。「それは困った。おれはもうくたくただから、ここで泊まりたいのだ」すると、四五人が口々に、「それじゃあ、おれのところに来いよ」と言いだす。その四五人のうちで、失礼な話であるが、もっとも身なりのよいのを選んで、その人の家にころがり込むことになる。
正直にいって、彼らは貧しい。彼らの家庭生活の水準は、ほぼ日本の農家のそれと同じであると想像された。しかし彼らは、その貧しさのなかから最上のものを私にあたえようとする。あるお百姓さんの老婆がお嫁入りのときに持参したというシーツにくるまりながら、私はあるとき、彼らの親切に真実泣いた。お手製のわが家で焼いたパン、牛乳、オレンジ、そして、おお、羊の肉と酒さえが、私の食卓にはあった。
しかし、苦行がひかえていた。この苦行のゆえに、私は二三日「ころがり込み」をくり返したあとでは、必ず、例のベッド一ついくらのホテルに泊まった。「ころがり込み」を毎日つづけていたら、私はほんとうに参ってしまっただろう。私は私の寝所にたどりつくまで、ふたたび、集まって来た近所のひとびとの好奇心にみちあふれた瞳と質問の十字砲火を浴びなければならないのであった。ここでもまた同じ質問。「どこから来ました?」からはじまって、話はえんえんとつづく。こんどは女性軍と、それと子供がいた。私の耳の底には、私が何か一言いうたびに笑いこけていた彼女らの、また子供たちの明るい笑声が今も鳴り響いている。同じように、たとえばその子供たちの記憶には、降ってわいたように現われた、はるかに遠い、まったくのお伽話めいた国からの旅人の姿が永久に焼きついているのであろう。
私は、まったくいろいろなひとびと、ことに庶民たちと知己になった、なりづめであったと言ってもよい。たとえば、古代ギリシアの聖地デルフィで、私はギリシア正教の神父さんと友人になった。デルフィのちっぽけな、二、三十人も入れば満員になるオモチャのような教会堂に入り込んでいたら、そこへ神父さんがやって来たのだった。神父さんといっても、まだ私と同年の、なりたてのホヤホヤだった。アテネ大学生物学教授の息子で、子供のときから隠遁生活に憧れての結果だという。かわいい奥さんと赤ちゃんとの三人ぐらし。収入はほとんどゼロだが、その代り、教区の善男善女の喜捨があった。
一度ギリシア正教のミサを見たいものだと言ったら、彼はひとりで実演してくれた。説教壇のそばに立っていろというから立っていたら、彼はやにわに聖歌を歌い出した。よく見たら、説教壇の上には、譜面がのせてある。私はギリシア正教の聖歌の譜面なるものにそのとき初めてお目にかかったのだが、義太夫か謡曲のそれだと思えばよい。高低の符号か、そのえらく原始的なのがくっついたのを前にして、彼は顔を真赤にして声をはりあげるのであった。
彼は、ギリシア正教のみが唯一の頼るべき宗教である、と私に説き、別れぎわに、キリストの像を描いたありがたきお札をくれた。「あなたが改宗なされるように」との、ありがたきお志からである。そう言ってから彼は私に、日本に着いたら東京のエハガキを送ってくれるよう頼んだ。一度でいいから外国の事物を見たいのだ、と隠遁者にふさわしからぬ、えらく現世的なことを言った。
デルフィの安レストランの隠居さんも、よい爺さんであった。ギリシアの田舎へ行くと、アメリカからの出稼ぎ帰りが多いが、爺さんもその一人だった。お金がなくて酒を飲めないでいる私に、お酒をふるまってくれた。
もっとも、こういうことはギリシアではしょっちゅうだった。私はコジキにさえおごってもらったことがある。神秘主義で著名なエレウシスへ立ちよったとき、安レストラン、外食券食堂のたぐいに入り込んだら、うす汚い爺さんが寄って来た。「おまえは酒を飲まないのであるか?」「飲みたいが、実は先だつものがないのである」私がそう答えたら、爺さんは自分で酒を買って来て、「飲め、飲め」と言ってきかない。まわりの連中がゲラゲラ笑い出して、ちょっと妙なフンイキだったが、なにかまうものか、とありがたくちょうだいすることにした。
あとでバスの駅のあたりを、さっきのふるまい酒のおかげでホロ酔いのよい気分になってぶらついていたら、汚い帽子を前にして地べたに坐っていたコジキが妙に親しげに手をあげるのであった。よく見たら、さっき私にお酒をふるまってくれた爺さんだった。
前にも書いたように、私はニューヨークでもコジキにお金を恵んでもらったことがあるが、よくよく旅行中の(断乎として「旅行中の」と言っておく必要がある)私はみすぼらしく見えたのであろう。それはさておき、いったいコジキと奴隷とでは、どちらがえらいのであるか。自由なる民コジキが不自由民奴隷を憐れむのが正当であるのか、それとも、その反対がふつうなのか。そのペロポネーソス半島の無銭旅行からいったんアテネにたちかえったのち、私はエーゲ海の島をめぐった。そのとき私は四等船客だったが、ひとはそれを、いみじくも「奴隷クラス」と呼ぶのである。
私はかなりぶあついオーバーを一つもっていた。風邪はしょっちゅうひきづめにひいていたにしても、私がそれ以上肺炎にならずにすんだのは、まったくそのオーバーのおかげであった。私はそのオーバー一枚をたよりに、甲板で数夜を過ごしたのである。いくら南地中海でも、真冬のことだったから夜はこたえた。四等船客用の船艙に降りて行けば、とにかく寒さだけは防げるのだが、その代り、そこはたいへんな混雑であった。それに、やたらとニワトリが多いのである。どういうわけからか、たいていの乗客はニワトリを抱いて乗り込んでくるのである。異様な臭気がした。ペンキと油と煙草と酒と食物とニワトリの糞とゲロとの混合した臭気。それが厭なら甲板で寝なければならない。アメリカ人というものは寒中でも窓をあけたがる人種だから、彼らもまた、私同様甲板でゴロ寝をえらんだ。そのオーバー一枚を頼りに寝ちぢまっている私のそばには、たえず誰かしら一文ナシのアメリカの若者がいたが、私は彼らと話をして夜を過ごした。共産主義について、自由について、ギリシアの女の子について、ZENについて、スイス人のケチンボさについて、日本の映画について。話題は何でもよかった。話していなければ、寒くてやりきれぬのであった。
* * *
いくつかの島へ行った。
ミコノスという小さな島が、ギリシアの島というと先ず眼に浮かぶ。印象を一口に言うと、白、純白、光り輝く「白」であった。家の壁といわず、この島の名物の風車の塔といわず、あるいは石畳の道といわず、すべて白のシックイでぬりかためてあって、月夜のときなど海上から望見すると、その小さな村ぜんたいがまったく夢幻的にくっきりと白に浮かび上がる。お伽話の国というのはやはり実在するんだな、はじめてその白の魔術を見たとき、私は無邪気にそんなことを思った。
船は沖合にとまり、下船者は、小さなハシケで島のちっぽけな波止場につく。私がついたのは、すでに深夜もふけたころだったが、その波止場には村じゅうの人がつめかけている感があった。私は、アテネのユース・ホステルの仲間に教えられていたとおり、「ルイザ船長」の名を叫んだ。おう、という返事があり、立派な白髪の口ヒゲをピンとはやした老船長が群集のなかから現われた。彼がほんとうに船長であるのか、あったのか、知らない。とにかく風貌は、彼の名刺にあるとおり(彼はすぐ大きな名刺をくれた。それには、ばかでかい字で「キャプテン・ルイザ」とあった)、まさしく船長であった。この地で学生相手の下宿屋を開業している。
「ルイザ船長」の家も白であった。いや、白ばかりではない。ホステルの仲間は、彼の家を「緑のバルコニーの家」と呼びならわしていたが、その白のまんなかに、バルコニー(半ば朽ちた、まったく危なかしいものであったが)の緑があざやかな対照をなしているのだった。そのバルコニーの下は、海――エーゲ海の静かに澄明な水であった。バルコニーにつづくトイレットから下を見たら、同じように静かで澄明な海がたゆたっている。エーゲ海めがけていばりをするとは、えらく風流なことだな。私はそんなばかなことにうれしがっていた。
ところで、このちっぽけな村、二十分もあれば一まわりできるようなお伽話の国には、教会が三三三ある。たしか、二軒に一つの割合だとか言った。教会といっても小さな御堂だが、みんな立派なシックイづくりで、鐘だってちゃんと持っているのである。どうしてこんなへんなことになったかというと、この村は漁村だから、シケに合うと、漁師たちは神さまにこのシケを鎮めてくだされば教会を一つつくります、と神に祈ったのである。彼らはウソをつかない。二軒に一つの割合で教会が存在するようになった。
今さっき書いたように、教会には鐘が一つあてある。外からヒモでひっぱって簡単に鳴らせるようになっているから、夕方などになると、その三三三の教会の鐘がすべて鳴りはじめて、やたらとやかましいのであった。が、これは自動車のブーブーとはちがう。神経にさわる物音ではなかった。
ここには映画館もダンス・ホールもない。その代り、ここのひとびとは、ふしぎな楽しみをもっていた。海にそって二〇〇メートルばかりの鋪道があるが、日曜の夜は、この二〇〇メートルを行ったり来たりするのがならわしになっていた。一種の社交場だった。そこへ来れば、だれかれに会うことができる。私もやってみたが、なかなか楽しいものであった。
もう一つ、その夜は、レストランはすべて舞踏場となった。村じゅうの青年男女が着かざってレストランに現われる。誰かがアコーディオンをひき、みんなは踊りまくるということになる。そのなかに、きっとキューピッドもまぎれ込んでいるのだろう。
こういうお伽話的環境にいると、旅行者だって、そんなふうになってくるらしい。ここでぶらぶらしている外国人にもよく会った。フランスのエカキもドイツの彫刻家もアメリカの文学青年もいた。みんな、ただ何ということもなく日を暮らしている。傑作なアメリカの坊やがいた。十八歳の南部のある大学の学生だったが、彼はこの島に産するベークライトか何かの鉱石を積みとりに来るアメリカ船を待っているのだった。その船はニュー・オルリーンズから直行して来て、また直行して帰るのだという。たぶんタダで乗せてくれるだろう、という期待のもとに彼は待っているのだが、いつ来るのかときいたら、そいつは半年に一度ぐらいはやって来ることになっていて、このまえ来たときからもう五ヵ月たっているのだから、もうすぐのはずだ、という返事であった。船が来たらすぐ飛び出せるように、もうスーツケースもつめてある、とのことだった。
クレタ島の遺跡も、たぶんにお伽話的であった。ギリシアの古代文明も、古典時代のパルテノンとかオリンピアの遺跡などでは現実感があるが、クレタ文明の紀元前二千年とか三千年となると、現実感が薄らいで、お伽話の領域に入る。(このあたりに来ると、日本がいかに若い国であるかが実感として判る。アメリカでは、私は日本は古い国であると言っていばっていたが、その当のアメリカ人がクレタ島で、「日本の歴史は何年あるのか?」と訊ね、「よく判っているところで二千年だ」と答えたら、「えらく若いんだね」と、まったく軽蔑しきったように言った。)フェストスの遺跡の女王様のトイレットのことは、この本のはじめ近くのところで書いたが、そのトイレットの近くに、王様の「図書館跡」というのがあった。アレクサンドロスというフェストスの老ガイドが、まじめくさって、これがライブラリーの跡で、と言ったら(跡と言ったところで、草ボーボーの瓦礫の山なのだが)、聞いていたアメリカ人が、「こりゃ、まるでH・G・ウェルズの世界だね」と吹き出した。
アレクサンドロス君は、よいお爺さんであった。私とはえらく仲よくなった。もちろん、お金のない私は彼にガイドしてもらったわけではない。フェストスの遺跡にしばしば出かけているうちに、親しくなったのである。私にガイドをするどころか、逆に、彼は何か判らなくなると、私の持っていた案内書をのぞきに来るのであった。ヘンリー・ミラー氏の友人(?)であった。ミラー氏も彼の純朴な人となりを愛していたのにちがいない。ミラー氏からの手紙を、いつも胸ポケットに入れていた。
別れるとき、彼は涙を流した。アレクサンドロス大王の涙である。
アクロポリスの丘
――ギリシア、そして「西洋」の意味――
ギリシアで、いや、ヨーロッパで、私がもっとも感動したものと言えば、私はためらわずにアテネのアクロポリスの丘をあげるだろう。私にとって、それがギリシアであり、またヨーロッパの、もっと大きく言えば「西洋」というものの、すくなくとも一つの根源であった。
アクロポリスの丘とは谷一つへだてたムーセイオンの丘(そこにソクラテスの牢獄跡と称するものがあった)から初めてそれを望見したとき、私は身動きできないほどの強力な感動を受けた。陽を見ない日が年間平均わずかに二十一日というギリシアのことだから、その日もカラリと晴れわたっていた。澄んだ、というよりは、あざやかな印刷インクの青色――その空を背景として、パルテノンの神殿を頭に冠したアクロポリスの丘がくっきりと浮かび上がる。私はそれをみつめながら、これがギリシアなのだな、と思った。いや、私はそうしながら、これが「西洋」だ、すくなくとも私が求めている「西洋」だと感じていたのであろう。それは一つの壁であったかもしれない。私が対すべき、たぶん私の生涯かけて対して行かなければならない壁。――壁は動かなかった。真冬とはいえ、燃えくるめくように強烈な陽光を浴びて、私の視点の中央で、静かに、しかし確固として動かなかった。
アクロポリスの丘を見たとき、私の心を先ず打ったのは、そこにある美が、内部からほとばしり出てくる一つの力である、ということであった。その力はもちろん、借りものや模倣によってつくられたものではない。自然に自分の体のうちから生まれ出てきたもの、というよりは、奔流としてほとばしり出て、見る者の心のなかにまで殺到してくる、そういった巨大なエネルギーとしての美であった。
しかし、アクロポリスの美にあるのは、その力だけではなかった。それだけなら、すぐれた原始芸術の多くに見られるものであろう。たとえばアフリカやメキシコの原始芸術には、たしかに、その巨大なエネルギーがある。アクロポリスの美が私の心をゆり動かすのは、もう一つの、同じように巨大な力の存在であった。ほとばしり出ようとする力とちょうど反対の方向に働いて、それをひとつの秩序のなかにまとめあげている力――
オリンピアの美術館には、往古のゼウス神殿のペジメント(古典建築の三角形の切妻壁)が復元されて展示されてあった。東面、西面のペジメントをかたちづくっていた一連の巨大な彫像が、二組、それぞれホールの右手、左手にずらりと並ぶ。中央に、とりわけ大きな立像、その両側に屋根型に次第に先ぼそのかたちになるようにして。
その彫像の一つ一つが力に満ちていた。これもまた、自然に体のうちから生まれ出てきた、ほとばしり出てきた力であった。その力は、たとえて言えば、上向きに思い思いに爆発しようとしていた。しかし、同時にまた、私は別種の力を感じた。その爆発をおさえている同じように強力な力、その上向きの噴出をおさえて、爆発をペジメントの三角形の一つの秩序のなかにまとめあげている巨大な力――私はそれを感じた。
アクロポリスの丘にも、その力が働いていた。パルテノン神殿をはじめとして、巨大な建築群は今にもそれぞれ思い思いの方向に噴出しようとする。それをおさえて、一つの巨大な建築の交響曲にまとめあげているもの――それがそこにあった、明らかにあった。
アクロポリスの丘に対しながら、私は、たぶん、いや、たしかに、その二様の力に対していたのだろう。ギリシアの本質は、すくなくとも私にとってのそれは、そこにあるのだ、と私は思った。そして、それはまた、西洋、われわれがそれに正面から対し、今もなお何ものかをそこからつかみとるべきものとしての「西洋」、そのひとつの本質ではないのか。私はそうも思った。その想念は、ギリシアを旅しているあいだ、ずっと私についてまわった。いや、今もなお、私は東京の片隅で、その想念を噛みしめているのだ、記憶にふかく刻みこまれたアクロポリスの丘という一つの巨大な、真実ばかでかい壁に対しながら……
しかし、もう一つのギリシアがある。
クレタ島のフェストスにいたとき、ある夜、私はアメリカの大学の先生夫妻とともに、近くの農学校へ出かけた。その農学校に、キプロス島の農民たちが来ていたのである。キプロスは今は「独立国」となってしまったが、ギリシア系住民のほとんどすべては、ギリシアを自分の祖国とみなしているのは事実だろう。そうした住民に対して、ギリシア政府は、いわば「内地留学」の機会をあたえていたのであった。キプロス島から農民を招び、それをギリシア各地に散在する農学校に収容して、教育あるいは再教育の機会をあたえる。
フェストスの農学校には、三十人ばかり、十四五歳の少年から老人にいたるまで、あらゆる年齢の農夫たちがいた。そこで、アメリカ人教師を指導者として、新しい農法を学んでいる。
アメリカの大学の先生夫婦の計画は、キプロス島に昔から伝承されてきているにちがいない詩や歌を彼らに歌わせ、それをテープにとることであった。そのこと自体も私の専門に関係していることだったから、大いに興味があった。ある老人は叙事詩の断片らしいものを朗々と歌った。それは十分もつづく長いものだったが、彼の記憶は完璧と見えた。他の老人は、カケ合い漫才めいた詩とも語りものともつかぬものを、さびのある声で語った。しかし、キプロス島にも時代の波は押し寄せてきているものと見える。三十歳ぐらいを境として、それより下の世代は、もはや、何一つそうしたものを覚えていないのだった。大きなギャップがそこにあった。
だが、そのギャップをこえて、新旧二つの世代を大きくひとつのものに結びつけているものがあった。誰かが行進曲ふうのものを歌いはじめたときだった。それは行進曲というよりは、もっとうちひしがれた悲しみに満ちあふれたものだったが、ほとんど一瞬のあいだに、三十人全員が声をそろえてそれを歌い出したのである。対英レジスタンスの歌だった。歌詞は覚えていない。ある勇士の死を悼んだ行進曲だということだったが、みんなはもうまったく憑かれたように歌っているのであった。その歌声の渦のなかで、私は自分に言った。これが、もう一つのギリシアなのだ、と――
もう一つのギリシア。後進国としての、被侵略国としての、貧乏国としての、現代ギリシア。それはまた、過去のあまりにも偉大だった栄光の下にあえぐギリシアでもあった。
ある文学者は、率直に言って過去は重荷なのだ、と私に語りはじめた。「喫茶店ブラジリア(アテネにある小さな喫茶店だが、そこはギリシアの現代芸術の一中心だった。アテネ在住の芸術家は、毎日午後一時にそこへ集まるという几帳面な日課を守っている)に行ってみるとよい。あそこで、みんなは何を語っているのか。サルトル、カミュ、プルースト、バルザック、ドストエフスキー、エリオット、リルケ、カフカ、ゲーテ……ヨーロッパだ、ヨーロッパばかりだ」彼は明らかにギリシアをヨーロッパのワクの外において語っていた。それは、ギリシア人がいまだによく言う「ヨーロッパへ行く」という表現を思い出させた。「昔、すべては、ここより発した。哲学も物理学も医学も数学も文学も、すべてがすべて……だが、今は、すべてがヨーロッパよりくる。資本主義もダーウィニズムもフロイトもマルキシズムも、自動車も飛行機も電話もラジオもテレビも、すべてがすべて」
「こんな国ってあるだろうか」ひとりのギリシアの青年が、パルテノン神殿で、怒りをぶっつけるようにして私に語った。「全世界の学校の歴史の本の初めのほうにはえんえんとその記述がのっていて、そいつが忽然と、そう、まったく忽然と消え去ってしまう国。そして、ふたたび登場してくるときには、やっとこさ独立をかち得た、貧乏国、後進国、とるにたらない小国としてでしかない……」
ある彫刻家が語った。「何か新しいことをしようとするときに、君、そいつ(伝統)がぼくのうしろから襲いかかってくるのだ。君はおそらく判ってくれるだろう。君の所属する日本もまた、古い歴史と伝統をもつ国なのだから。これは、しかし、君やぼくだけの問題ではないのかもしれない。たとえば、インドの芸術家だって、これと同じものを感じているのかもしれない。しかし、そう思ってみたところで、べつに助けにはならない。それぞれの国民が、それぞれのやり方で、自分たちの伝統と対決して行くよりほかはないのだから……」
* * *
ギリシアを去る前日、私はアクロポリスの丘に登った。夕刻であった。
アクロポリスの日没は見逃してはならない天下のみものとして著名だが、その夕、それはひときわ壮麗であった。私はパルテノン神殿の巨大な大理石の円柱のかげに立ち、エーゲ海にまっさかさまに落ちて行く太陽を望見した。息づまる美しさとは、あのような美しさを言うのであろう。美しさを通りこして、それは荘厳であり崇高でさえあった。太陽が姿を消すと同時に急速に寒さが加わってきたが、私は身じろぎ一つしないで、残照の空と海を見比べていた。その色、それは往古、ホメーロスがブドー酒の色になぞらえたものであった。
これでヨーロッパともお別れなのだ。私はつくづくそう思った。いや、一年半前のアメリカに始まった「西洋」というものとも、私は別れを告げるのだ。私は自分に言った。私は「西洋」でいろいろのものを見た。美しいものであれ醜いものであれ、好もしいものであれ嫌悪すべきものであれ、私はいろいろなものを見、また学んだ。その一つ一つに、私はこれから、私が好むと否とにかかわらず、正面から対して行かなくてはならないのだろう。ゴマカシや妥協は許されないのだ。私はそうくり返し自分に言った。
パリで森有正氏と会ったとき、私は、正直に言って、フランス文化は過ぎ去りつつあるという感じがする旨を述べた。森氏は私の感想に同意したが、こうも言った。なるほど、君の言うとおりフランス文化は過ぎ去りつつあるだろう。しかし、われわれが学ぶべきものとしてのフランス文化は、まだ決して過ぎ去りつつはない、あのばかげたフランス心酔の時期のあとで、われわれは今、冷静にフランス文化を学ぶことができる位置にようやくのことで達したのではないか――
私は、森氏の言葉を、フランス文化という語を、ヨーロッパに、また「西洋」におきかえて自分に言った。たしかに「西洋」の時代は今や過ぎ去りつつあるかもしれない。しかし、われわれが学びとるべきものとしての「西洋」は、今、やっと始まったばかりではないのか、と。
腐敗と希望
――ピラミッドの下で考える――
貧困――それがエジプトの、いや、アラブ連合のと言おう、ギリシアから地中海をひとまたぎしたときの第一印象であった。先にも述べたように、ギリシアも貧乏国だった。しかし、その貧之は北欧からドイツ、フランス、イタリアと徐々に切れ目なく落ちてきた程度の貧乏であった。アテネからカイロへジェット機で二時間、私が機内で夕食を食べ、スチュワーデスとだべっているあいだに、世界はガクリとひと落ちする。もちろん、その差異は、アメリカからメキシコへ行ったときほどのものでないかもしれない。しかしメキシコの場合、ひとはまだ十分に、辛うじて飢えない程度にというのではなく、食えた。たぶん、メキシコの生活水準はギリシアのそれと等しいのだろう。そのギリシアからアラブ連合へ、アラブ連合につづく世界へおもむくこと、それはいわばなみの貧乏から人類の生存の最下限にまで落ちて行くことだった。私は誇張して言っているのではない。私がアラブ連合の貧困を語ったとき、あるアラブ人はうなずき、しかしインドへ行ってみたまえ、インドを君が見たら、われわれアジア・アフリカの問題は、こんなふうに(アラブ連合のように)生まやさしいものでないと思うだろう、とつけ加えた。その通りであった。私はインドで、真実うめいた。しかし、そのことは、またあとで述べよう。
それともう一つ、私の心のなかに容赦なく侵入してきたのは、ひとびとの、といってもよい、風土の、といってもよい、おそらくその両者をまぜ合わした社会の空気といったものの肌ざわりのあらあらしさであった。この「あらあらしさ」は、漢字で書けば「荒々しさ」とも「粗々しさ」ともなる。要するに「きめのこまかさ」とまったく正反対のものであった。
「西洋」の社会の空気も、日本のそれに比べると、きめがあらい。しかし、それをアラブやインドのそれと比べると、まだまだ、へんな表現だが、日本的だという感じがする。この「日本的」というコトバは精密な分析を要するが、「日本的」なるものの特性は、ほんとうのところは、現世的であり現実的であり人間肯定的――一口に言えば、「人間的」ということであろう。つまり、オバケや怪物の世界とはほど遠いのである。私の友人に説をなす者があって、たとえばインド思想というものは、おしなべて言うと、人間をはなれて思想だけが大入道的にどうしようもないほどばかでかくなってしまったものの典型だが、そのオバケの思想は、西へ「西洋」へ流れて行って縮小され、ちょうど実物大のもの、つまり人間のサイズにふさわしいものとなった。一方で、そいつは東へ流れて、東方の島国に達してはじめて、それもまたそうなった、つまりヒューマニスティックなものとなった。そうかもしれない。私はインドでヒンズー教のお寺に暮らしていたが、それはお寺というものの概念を越えた存在であった。私は宗教などというしろものには何のえんもゆかりもない人間だが、それにしても、そこにいたとき、ヨーロッパのカテドラルが妙になつかしく思い出されてきたのを覚えている。もし私がどちらかに改宗を強いられたら、私はやっぱり後者をえらぶだろう。すくなくとも、後者になら、生地のままの私で入って行ける感じだが、前者に入るためには、私は私の心をひとつオバケ的にきたえ直してからでないと、とうてい駄目な気がするのである。同じことが、エジプト芸術とギリシアのそれとの対比にも言える。私はアクロポリスの丘に感動したが(つまり私の心は、それに人間的に反応した、またそうできたと言ってよい)、ピラミッドはまったくお手あげの感じであった。こいつに感動するためには、私は私の精神構造をいささかなりとも造り直してかかる必要がある。私はそんなふうに感じた。
たぶん、これはひとがよく言うことだが、日本と「西洋」の距離は、日本が高度に西欧化された社会であるという事実をぜんぶぬきにしても、もともと「西洋」とアラブやインドの世界との距離よりも小さいのではないか。逆にいうと、そういう下地があったからこそ、日本は明治以来の短時日のあいだに、かくも急速に西欧化されたのではないか。私は今ビルディングや工場やネオンサインのことについてではなく、われわれの考え方や感じ方について言っているのである。それらのものの西欧化には、もともと「西洋」の思想と共通のもの、それとすくなくともおつきあいできる共通の基盤のようなものが存在してはじめて可能であったのにちがいないのだ。そしてその共通の基盤というものは、やはり、それは「ヒューマニズム」というものであろう。すくなくとも、思想なり感情なりがオバケのものでなく、人間のものであること――
日本と「西洋」の距離が、「西洋」とアラブの世界やインドとの距離よりも小さいのではないか、ということは、それが、日本とアラブの世界やインドとの間に横たわる距離よりも小さいのではないか、という、われわれにとってきわめて悲観的な結論につながっている。つまり、アジアがアジアを理解し得ないこと。私は西のほうからアラブの世界やインドに入って行ったからまだましだったろうが、これが東からインドやアラブの世界に飛び込んで行ったらどうなるか。類似よりも何よりも先に、その驚くべき差異が旅行者の心を奪うであろう。(堀田善衛氏の『インドで考えたこと』はよい本だが、そのよさの一つは、彼がその無邪気な驚きを正直に、また生き生きと描いている点にある。)たとえばインド。私はわずかの時日しかいられなかったが、そのわずかな滞在のあいだだけでも、インドのオバケ性は私をほとほと呆れさせ、暗然と腕組みさせたほどであった。考えてみると、イギリスが東インド会社をつくったのは一六〇〇年のことだし、完全にインドがイギリスの植民地となったのだって明治維新の百年前のことであるのに、インドという国は、なんとまあガンコに反「西洋」的であることか。根強く、そのオバケを守り通してきたものだ、と呆れはてたくなる。私はインドで、よく主としてアメリカ人どもとインドについて論じたが、こと文化に関するかぎり、インド人と「西洋」について論じるよりも、おたがいに判りがよかったようであった。アメリカのオッサンとの間には、私がアメリカにいたということをぬきにしても、ツーと言えばカーというようなところがあった。前提を同じくしているといってよい。ところがインド人と「西洋」について論じるなら(もう一度言っておくが、「イギリス帝国主義」などというような問題でない場合)、そこにどうもしっくりとゆかないところがあった。
しかし、これもまた、旅行者にありがちな一方的な見方かもしれない。アラブの世界やインドの住人の側にたって言えば、日本人も理解不能でないにしても、えらく理解困難なものであって、「西洋」人のほうが近いものであるのかもしれない。イランで、ある作家が次のようなことを言った。誰かが言っていたが、アジア・アフリカで作家業が成りたつのは、中国と日本二国だけだろうが、イランのその作家も御多分にもれず、実業家業のほうでメシを食っていた。そっちのほうで、日本の実業家諸氏と親交があった。彼は言うのである。自分はドイツ人やイギリス人といるときには安心できる。どうしてかというと、その相手が友人であるか敵であるか、容易に判断することができるからである。しかし日本人となら、不安で不安で仕方がない。私はその紳士の年齢さえ言いあてることができないのだから。
同じふうなことを、インドでも言った人がいる。そこまで行かずとも、こういうことを私は感じた。ニュー・デリーで友人だったあるインドの作家は、口ぐせのように、われわれはアジア人だから、というコトバをつかったが、それはときどき何かしらむなしいものの標本のように私の耳に響いた。いや、こういう言い方はいけないだろう。他の言い方をしよう。彼のそのコトバより、カルカッタでべつのインドの作家が私に酔っぱらったあげくどなった、おまえとこと、おれとことはメチャメチャにちがうんだぞ、というコトバのほうが、ときどきは真実に響いた、いや、私の身にズシンときた――と言えばお判りになっていただけるだろうか。アジアは一つ、というぐあいに、私は、アラブの世界、インドの社会の最低線のところをうろついたあとの私は、そんなふうに簡単に考えるわけにゆかないのである。
こういうことが、ひょっとすると、すくなくとも言えはしまいか。どっちが「西洋」に近いとか遠いとかいうのではなくて、一方に日本、他方にアラブの世界、インド(ほんとうはこの両者だってこんなふうにいっしょくたにするのは、えらく乱暴なやり方である。その乱暴さを十分承知のうえで、私はあえてそうしているのである)――この二つのものが、「西洋」とそれぞれ別の糸で結びついているのではないか。「西洋」に結びついて、そのなすがままにブランブランと揺れていた、それがすくなくとも今日までのわれわれの姿であったのだろう。
では、この二つのものを横に結びつけるヨコ糸はないのか、ということになる。答は、もちろんある、である。私は今うっかりして、「今日までの日本、あるいはアラブの世界、インドの姿であった」と書こうとして、「われわれの姿」と書いた。そこにポイントがある。その文章の前のところを読み返していただくとお判りになると思うが、どこが共通かというと、「西洋」のなすがままにブランブランと揺れていた、というところが共通なのである。つまり、「西洋」のなすがままに、しぼりつくされ、半殺しのめにあっていた「われわれ」被支配国、植民地国、後進国、そして貧困。そこで、おそらく、アジアは一つとなる。いや、私は「アジア」というコトバを思い浮かべるとき、必ずそのコトバに中近東はおろかアフリカさえもふくめてそうしているのだが、そこの一点において、アジアとアフリカはまさに一つになる。すくなくとも私には、皮膚の色とか髪の毛の色とかそんな生はんかのものより、われわれが「西洋」のブランブランであったという連帯感のほうが、はるかに現実味をおびて迫ってくるのである。すくなくとも、私を前に押し出す力としては――
そして、腐敗と希望。
それが、その相反した二つのものが、私のエジプト滞在の一つの結論であった。いや、アラブ連合の、と言おう。いや、アラブ世界の、と言ってもよい、インドのことだと言ってもよい。私はその相反した二つのものを身にたえず感じとりながら、アジアの国々を旅して行ったのである。私はその国の政治形態をよみとるほど各国について学んだこともない、またその社会のしくみをじっくりと見てきたわけでもない。私の話したいことは、ひとびとの心のなかに潜む腐敗と希望、それについてである。小さなことかもしれない。しかし、考えてみると、それがもっとも肝心なことではないのか。
私は、ある日、雪花石膏《アラバスター》のスフィンクスで名高いメンフィスへ出かけた。私の目的は二つあった。そのスフィンクスを見ること、それと古都メンフィスの今日の姿を見ること。実を言うと、私は二つのメンフィスを対比させた小説を書いてやろうともくろんでいたのだった。その古都メンフィス、それとアメリカ合衆国テネシー州メンフィス。
そのスフィンクスにはハダシの子供がよじ登り、写真をとれ、モデルになってやるから金を出せと、うるさくせがんでいた。(スフィンクスといっても、あの巨大なものではない。私の背丈の二倍位の高さのものだった。)そのうち乗用車が着き、ガイドを連れた二人ともアホウのように肥ったアメリカ人夫妻が現われた。その夫妻は、ふつうのヨーロッパ人がアメリカときくと必ず思い浮かべるイメージそのままであった。つまり、無教養、そして、お金。ガイドはうだる砂漠の熱気のなかで何やら説明したが、二人はもちろんきいていなかった。きいたところで、何一つ判らなかっただろう。夫のほうはスフィンクスの背後にまわり、ああ、そこで、スフィンクスめがけて勢いよく小便をひりはじめた。
メンフィスの街――そんなものは何もなかった。ヤシの木がチョロチョロと茂る砂漠――そこにゆがんだ土造の家が建っている。子供や大人が、うさんくさげに外をうかがっている。次の瞬間には、彼らは外へ飛び出てきて、あなたにうるさく小銭をせびるだろう。ぎらぎら輝く太陽。むっとする砂漠の熱気。私はくたびれはてていた。私は、そのとき、最悪の状態でそのメンフィスにたどり着いていたのである。
そこへ着くまでは、えらく時間と労力がかかった。そのアメリカ人夫妻のように乗用車で来れば問題はないだろう。が、私にはそんなアホらしい金はない。
メンフィスへ行こうと思って、私は先ずカイロ市の観光案内所みたいなところへ行った。どんなふうにメンフィスへ行けばよいのか。ハイヤーで行きなさい、それとも観光バスでどうぞ――彼らの答は、それですべてだった。もっともこんなふうなことには、あちこちの国で慣れていた。どこでも、ひとびとは、旅行者というものは一等の汽車に乗り、一流ホテルに泊まり、観光バスに乗るものときめてかかっているようである。わが日本国の交通公社も、外国人旅行者にとってはそうであるらしい。バンコックで会ったイギリス青年は日本への途上にあったが、日本の交通公社に汽車の運賃を知らせてほしいと手紙を出すと、必ず一等か二等の運賃を言ってくる。「ぜひ三等を」と頼んだら、やっとこさ、しぶしぶと教えてくれたが、それは「避けたほうが賢明です」という注釈つきだったとのことだった。日本に来る「西洋」からの旅人も、いつもいつも、金のなる木をスーツケースのなかに潜めているわけではない。
訊ね訊ねて、やっとこさメンフィスの近くを通過するバスの駅を探しだし、そこまでも訊ね訊ねて、バスで行った。そのバスの駅に着くと、あちこちにボロバス(日本の戦時中のを思い出せばよい)がとまっているが、あいにくなことに行先標示はアラビア文字だから、かいもく読めやしない。「メンフィス、メンフィス」とどなっていたら、ひとりの男がとりわけ汚いのを指さした。
バスの前部に乗れば一等、後部の超満員の部分が二等。私はいつものことながら後部に乗った。車掌がきたが、もちろん英語を解さない。「メンフィス、メンフィス」とどなるのみであった。一時間ばかり、コジキのようなボロをまとったハダシの集団のなかにもまれたのち、車掌が慌てて何ごとかをどなり、私はそこでポトリとバスから降ろされた。何が何だかさっぱり判らないが、推察するところ、車掌が突然私がメンフィス行の乗客だったことを思い出してくれたのにちがいないのである。ただ残念なことには、その思い出してくれたのが余りにもおそすぎた。メンフィスをかなり過ぎたところで、私は降ろされたのである。
そこは砂漠のどまんなかであった。ヒッチ・ハイクをしようと思ったが、自動車はどちらの方向からも一台もやって来ない。仕方なく、私はとにかくもと来た方向さして戻ろうとした。目つきの鋭いのが横から出てきた。「メンフィス、メンフィス」私はどなった。こっちへ来い、という身ぶりをする。私はとぼとぼ彼について行った。彼は砂漠の小山めがけて登ろうとする。と、また一人、同じように目つきの鋭いのが現われた。「メンフィス、メンフィス」その男は自分からそう言い、さっきの男とまったく逆の方向さして、来い、という身ぶりをする。さっきの男が怒りはじめた。二人は何か口汚くののしり合っている。しばらくするうちに、いいかげん暑さに参っていた私にも、彼らのケンカの原因が判ってきた。要するに、彼らは「えもの」である私を取り合いしていたのであろう。どちらにせよ、砂漠のまんなかでハダカにされてはお話にも何にもならない。私は勝手に第三の方向さして進むことにした。
それが結果的には正しかった。やがて一つの村に出た。しかし、ひとびとは決して正しい道を教えようとしないのだった。これはアラブの世界どこでも経験した不快な事実だったが、たとえ無邪気そうに見える子供でさえ、用心してかからなくてはいけない。彼らはウソを教える。(ダマスクス、ベイルート、そしてテヘランで、幾度、私はそんな目にあったことか。)悲しい事実だった。もちろん、こんなふうに彼らをしたのには、一つには、長年の「西洋」の植民地支配であるとしても、それは、やはり悲しむべき事実にほかならなかった。(一つには、その旅人にウソの道を教えることは回教の信仰からきていると言うアメリカ人もいた。彼によれば、異教徒にはウソを教えてもよい、という教えがあるとのことであった。この説が正しいかどうか知らないが、すくなくとも回教には、異教徒を人間と思わないような烈しいところがやはりあるのだろう。たとえば、イランでモスクや墓地に入り込むことは、「西洋」人にとっては、えらく危険なことであった。なぐり殺されたアメリカ人も事実いたのである。)
子供が来る。金をくれとせびる。やらない。すると、彼は石を私にむかって投げはじめる。私は四五人にウソの道を教えてもらったあとで、一人の老人を見つけた。この老人はいかにも実直そうに見える。「メンフィス、メンフィス」私はどなった。彼は、自分について来い、という身ぶりをする。
私は老人と連れだって歩いた。いったい老人がほんとにメンフィスにむかっているのやら、老人もまたさっきの目つきの悪いのと同類であるのやら、私にはかいもく判らないが、とにかく彼について行くよりほかはない。「メンフィス、メンフィス」私がどなるたびに、老人は頼りなげにうなずく。二十分ものろのろと歩いたろう、そのうち、学校のような建物の前に来た。そこに一人、スエーターを着たインテリらしいのが立っている。彼は何かを教えているらしく、そのまえで十人ばかりの人が動いている。私は彼を見たとたんにホッと一息ついた。彼は英語を話すのにちがいない。
その通りであった。彼は英語を話した。ソシァル・ワーカーだった。学校のような建物は、病院と授産場をいっしょにしたような設備であった。今、アラブ連合政府は、こうした設備を各所に建てつつある。
私と彼とは大いに語りあった。私が日本の「貧困」について一言述べたら、彼は一笑にふした。日本はわれわれにとって雲の上に存在する天国である――彼はむやみと詳しい数字をあげて、それを例証した。私はインドでもこういう青年に出会ったことがあるが、彼は、たとえば日本の国民の平均所得がどんなふうに伸びて行ったかを、たちどころに私に逆に教えることができた。彼はつづけて話した。われわれは今誇るべき何ものも持っていない、しかし、われわれには未来がある。彼のそのコトバは他のところできけばかなりお座なりのものに響いたかもしれない。しかし、メンフィスの荒涼たる自然のなかでは、えらく真実味と迫力をもって私の身に迫ってきた。ここの庭に(彼はその授産場の庭を指しながら言った)、われわれは花をいっぱい咲かせるつもりだ。また、やきものか何かを焼くことを始めて、それをメンフィスの名物として観光客に売り、その収益を村民の生活の向上にあてる。彼の計画には夢と現実が交錯しているように見えた。私は、それをこころよいものに感じた。私は、その青年のなかにひとつの曙光、未来への希望を見たといってよい。幾多の腐敗に砂漠のなかで出会ったあと、その希望は、文字どおりオアシスのように光り輝いていた。
帰途のバス、私はボーイ・スカウトの少年に会った。「盗人が多いから気をつけろ」と注意してくれたあと、夕陽にきらめくピラミッドを見ながら、彼もまた、「しかし、われわれには未来がある」と私に告げた。彼の口調は澄みきっていた。それもまた、私に快いものであった。
しかし、現実は、そういったふうに生まやさしいものではないのだろう。たとえば、腐敗と希望は、同じ一人の人間のなかに同時に巣くっていたりする。そして、その両者は、私たち日本と彼らを結ぶきずな――「貧困」によってうらうちされている。
ある夜、私は夜のピラミッドを見ることを思いたった。月明の砂漠、そこに無言で横たわるピラミッド、そしてスフィンクス。私は勝手にその自分の想念に感激して、さっそく出かけた。
あいにく月はなかった。まったくの暗黒に近い。たよりになるのは、砂漠の砂の白さだけだった。いいかげん砂漠のまんなかまで進んだところで、私は腰を下ろした。月はなかったが、たしかに無言で横たわっているピラミッド、そしてスフィンクス。
五分もたたないあいだに、私のまえに一人の中年男が現われた。いささかギクリとした私に、彼は身分を明かした。夜警である。こんなところに一人いると危い、いま帰るところだから、いっしょに帰ろう、と言う。私がためらっていると、おまえがいるかぎり自分は帰れない、自分はユスリやタカリではない、おまえにいっしょにくっついて行っても小銭をとろうなどというさもしい考えはもっていない、このあたりにいるガイドなんてものは、みんなそうだが……
仕方なしに、私は彼とともに歩きはじめた。彼は、かなり苦しげではあるが、とにかく英語を話した。彼はナセルの偉大さについて語った。ナセルの指導の下、われわれはとにかく今未来を指して努力をしている。今、この国には、たとえば、このピラミッドのあたりには、ユスリ、タカリ、コジキ以外何もいないように見える。しかし、見ていてくれたまえ、今に、われわれは……
彼の言説は立派であった。私は、なるほど夜警でもアラブの新興国の夜警は立派なことを言うわい、と感心していた。先日のソシァル・ワーカーの青年やボーイ・スカウトの少年の思い出に結びつけて、私は感激さえしていたのかもしれない。
それが、とたんに妙なことを言いはじめた。彼はこう言うのだ。「私は健康と長寿を神に祈ってあなたにさしあげる。だから、あなたも something をくださるがよい」はじめ、私は彼が何を言っているのか判らなかった。something の意味が、である。もちろん、お金のことを言っているのではないかという気はした。しかし、彼は五分もたたない前に、ナセルの偉大さをほめたたえ、人々の腐敗を攻撃し、自分はそんなくさったガイド連とちがって、お金などおまえからタカろうと思ってやしない、と公言したばかりではないか。
やはり、私は甘かった。そうした論理は、砂漠ではセンチメンタルな感傷にすぎない。やっぱり、彼はお金のことを言っていたのだ。彼は、やがて平然と「|お金《マニイ》」というコトバを脅迫がましくつかいはじめた。私は腹をたてた。おまえは今さっき、自分はユスリ、タカリのたぐいでないと公言したばかりではないか――私はそう言った。すると、彼は戦法を変えた。自分がいかに悲惨な生活を送っているか、自分の夜働いて得る給料はいくらか。正確には覚えていないが、それは一週間で四〇〇円くらいの金額であった。彼は泣きごとを言い、その泣きごとでもって、ねちねちと私を脅迫した。私は屈服した。わずかばかりの、しかし貧乏な私にはかなり巨額のお金を出した。彼は平然と「すくない」と言った。これもまた、一時間前までの泣きごととはうってかわった、ふてぶてしい態度でありコトバであった。「いやならいい」私はひっこめようとした。が、それより早く、彼の手はお金にのびた。そして、さらにおどろいたことに、彼はポケットにお金を収めると、まったく何ごともなかったふうに、アラブ連合の輝かしい未来について語りはじめた。
彼の内部には、腐敗と希望が、矛盾なく同居している。
レバノンのベイルートでも、私は同じような例に出会った。先ず、ことは、私のいたユース・ホステルにイタリア航空の車が迎えに来なかったことから起った。絶対行きますと何十回となく約束したあとから、こうであった。が、怒ってはならない、中近東からインドにかけて、こういうことを書くのはいやなことだが、人の言はそのままに信用できない。はっきり書いておこう。アラブ連合のカイロ市の目抜き通りの大郵便局で、私はツリ銭をごまかされたことがある。この事件については私はあまり書きたくない。向こうには向こうの言い分はあるにしても(たとえば偶然の過失)、私には決してそうとは思えない。また、私と同じめにあった外国人に、私はアラブ連合の国内で何度となく出会ったことがあったのである。
私が航空会社の車を待っていたのには、わけがあった。その車で行くかぎり、空港までタダで着ける。私はもう一銭もレバノンのお金をもっていなかった。困却しているところへ、一台の車がとまった。レバノンの紳士たちが乗っている。空港まで乗せて行ってやろう――紳士たちはそうありがたいことを言った。他のところでなら、私はその親切をそくざに受けただろう。しかし(これもまた書きつけるのは悲しいことだが)、中近東では、ひとは他人の親切をそのまま真に受けることはできない。ことにベイルートは、その点で悪名高い都会であった。
私は一文ナシである旨を告げた。彼らは笑いながら、べつにおまえからお金をもらおうと思ってやいないさ、と答えた。私は安心して彼らの車に乗った。彼らもまた、アラブ世界の未来について語った。ちょうどダマスクスにナセルが来て、ベイルートからもひとびとは山をこえて(ちょうどほどよいドライブの距離である)ナセルの顔を見に出かけたころのことなので、話題は、しぜんナセルのこととなった。彼らもまた、ナセル党であった。レバノンの政府は腐敗しきっている。われわれは、こんな政府を一日でも早く倒して、アラブ連合に参加しなければならない……
彼らの言論もまたさわやかであった。耳に快いものであった。すがすがしいものであった。が、突然、それに雑音が、きわめて不快な音響が付随してきた。一人がこう言うのである。おまえは、なるほど、お金は持っていないであろう、しかし、何かスーベニアなら持っているにちがいない、それをわれわれとおまえとの友情のしるしに……
お安い御用である、と私は思った。ギリシアでなら、日本の古切手を一枚さし上げるだけで、ひとびとは小踊りしてよろこんだのである。私は何もめぼしいものを持っていなかったが、日本手ぬぐいか何かをとり出したと思う。が、彼らは見むきもしなかった。そして、こう言うのである。≪something better≫
一人は、実際、私のスーツケースに手をつっこんでかきまわそうとした。私は異常な怒りにかられて、おまえたちは私に親切をするつもりではなかったのか、という意味のことをどなった。しかし、彼らは平然としていて、私のコトバの意味することは、もうまったく自分たちの論理の外にあるというようなあっけらかんとした顔をしていた。一人が言った。「そのとおりだ。われわれは親切をした。だから、その代償に……」
ベイルートからテヘランへの夜行の機内で、私はうつうつとして楽しまなかった。ナセルの偉大さについて、輝かしいアテブ世界の未来について語り、また現在のひとびとの、また政府の腐敗についていきどおることと、私から何かをせしめようとするさもしい気持とのあいだに、いったい如何なる論理的、あるいは倫理的連関が成り立つというのか。誰が、いったい、こんな悲惨な連関に彼らを追いやったのか。私は楽しまなかった。しかし――私は結論した。これがアラブ世界の現実なら、私たちは、それを肯定しなければならないのだ、と。この現実をすべて感傷なしに認め、その上で、ひとびとの心に、あるいは社会に存在するこれら二つの矛盾したもののうち、ひとつのものをもりたてて行くよりほかはないのではないか。結論というものが、もしあるとすれば、それはそのほかにはあり得なかったであろう。私は重苦しい気持で、その判りきった結論に面していた。テヘランまでの飛行のあいだ、私はずっとそうしていた。
話はまるっきりちがうが、カイロのユース・ホステルのことについて、いや、そこで出会った人たちについて、ちょっと書いておこう。
ここのホステルは、いささかモーレツなホステルであった。事務所に「泊まりたい」むね告げるなり、「おまえ、金を持っているか。持っているなら、ここにすべて出せ」と言う。このホステルは泥棒の巣だから、お金はすべて事務所が保管するのだというのである。えらいホステルであるわいな、と思って室へ入ると、なるほど、薄汚いのがごろごろしている。
大部分がドイツの若者であった。みんなヒッチ・ハイクで、インドやアフリカの南端から帰って来たのや、これから出かける連中であった。ある極端なのは、もうドイツを離れて五年になるという。ヨーロッパのホステルで、どこでも多数勢力だったアメリカ人はもうまったく影をひそめて、ここはドイツ人の独壇場であった。
私の感じでは、アメリカ人もかなり勇敢だが、ガンバリがきくという点で、やはりドイツの青年の足もとに及ばないであろう。アメリカ人なら、カルカッタまでヒッチ・ハイクで行き、帰途これからヨハネスブルグまで同じヒッチ・ハイクで行って帰るのだというようなマネはできないにちがいない。コッペパンを噛じり噛じり、ドイツ青年は、この「偉業」(それはまさにそうだった)をなしとげるのである。
しかし私は、彼らの勇敢さに敬服しながら、一方でやりきれないと思っているのであった。何と言ったらいいか、一つのやりきれない臭気がした。ボヘミアンの匂いというべきものかもしれない。それが気になったのは、私自身の精神が、その匂いを発散していたからにほかならないのであるが。
無銭旅行を連日つづけていると、もうあらゆることがどうでもよくなってくる。外国に住むことの最大の魅力(また危険)は、自分がその外国の社会に何ら責任がない、そこでは何をしてもよい、あるいは逆に何もしなくてもよい、すくなくとも自分の行為なり状態なりに心理的制御を感じなくてすむ、ということだが、無銭旅行の場合は、そいつがもっとも端的なかたちで出てくる。何が起っても、ハハン、とすませる神経ができてくる。金がなくったって、まあ明日になれば何とかなるさ、ですますことができるようになる。つまり、その日暮らしの精神状態におちいる。私の言う「まあなんとかなるやろ」が最悪のかたちをとるに至る。
これは要するに、コジキの精神なのであろう。ホステルのヒッチ・ハイカーたちは、亡命者に似ていた。「政治的亡命者」と言えば、なるほど立派に響く。しかし、彼らが、その亡命先で当初の精神の緊張を保ち、彼らの信念を維持しつづけることがどんなに困難なことであるか。彼らはやがて堕落し、彼らの精神は虚無と不潔な臭気を発しはじめる。同じことが、ヒッチ・ハイカーたちにも言えた。ヒッチ・ハイク、無銭旅行、青春のよろこび、青年の冒険心に幸いあれ! ――なるほど、それはそういうものであろう。たとえば日本国内を一ヵ月にわたって旅行すれば、それはそうであるにちがいない。しかし、カイロのホステルのヒッチ・ハイカーたちは、そうした明るい美しいものとは、およそ無縁のしろものであった。彼らは長旅につかれ、倦み、それでいて、旅を切り上げて、自分の所属していた社会に敢然と立ちかえることもしないでいる。彼らは匂った。彼らはもう長いあいだ風呂に入ったことがないのだろう、肉体的にも精神的にもそうであるに違いなかった。体も精神も異様な臭気――虚無的で不潔なすさんだ臭気を発していた。
しかし、これは私も同じであった。私の精神も私の体同様に、その臭気を発している。危険だ、と私は思った。私はやはり帰らなければならない。何のために――たぶん、自分のほんとうに所属する社会のなかで、自分で自分に責任をとるために。
私は、私のとなりのベッドに寝ていたデンマークの新聞記者とケンカをした。私は彼をからかったのである。おまえの国はあんまり平和すぎて眠くなる。ひとつ革命でも起したらどうだい――
どういうわけからか、その冗談が彼の癇にさわったらしい。思うに彼も、アフリカ旅行半年のあとなので、疲れて、気が立っていたらしい。やにわに彼は怒り出したのである。私も同じふうに気が立っていたのだろう。私もやり返し、一時は同室の連中が耳をそばだてるほどであった。ケンカの内容はどうでもよろしい。要するに、疲れたボヘミアン二人のヒステリーである。デンマークの新聞記者は、さかんにわが日本国を攻撃しはじめた。ことに、そのインテリについて。一言が耳に残った。東京の超満員の通勤電車のなかでは、誰もが本を読んでいるというが、いったいそれがほんとの読書であるのか、そんなふうに『わが闘争』や『資本論』を読まれてはたまったものではない……
まさに、その新聞記者氏の言うとおりかもしれない。そのときの私は、しかし、そうした論理を追っていはしなかった。私は中央線の超満員の車内を思い浮かべ、そこで吊皮にぶら下りながら何かしら本を読んでいるメガネをかけたサラリーマン諸氏の姿を心にえがいた。みんなはああやって毎日生きているのだな。私はそう思い、そのときはじめて、自分が日本へ帰りつつあるのだという事実が、実感として身に迫ってきたように感じた。
ナセル氏「随行」記
――エジプトからシリア、レバノンへ――
私は午前四時にカイロ空港を出るヒコーキでシリアのダマスクスへ発った。これは乗ってみて初めて判ったのだが、新聞をカイロからダマスクスへ運ぶための便であった。乗客はホンのつけ足しとして運んでくださるのである。(中近東からインドにかけて、ヒコーキ会社のサービスは最低に落ちて、そこではまったく「運んでくださる」のである。)
どうしてこんなへんてこな便に乗り込んだかというと、ホステルの泊まり賃八〇円を倹約するためであった。空港を四時にヒコーキが出発するためには、空港行のバスは、二時にカイロ市内の事務所を出る必要がある。そいつに乗ると称して、事務所のソファで寝ていれば、それでまるまる八〇円を浮かすことができる。
私はそうした。空港までは予定どおりであった。それからがたいへんである。ヒコーキは待てどくらせど出ない。アナウンスもなければ何もない。ただ出ないだけのことであった。誰に訊いても、判りません、私の責任ではありません、とくる。いらいらして待つこと四時間、やっとヒコーキは出ます、と言ってきた。どうしてこんなにおくれたのだ、と詰問したら、新聞の印刷がおくれたからだ、しかるがゆえに、われわれには責任はないと、いやに論理的なことをおっしゃる。なるほど理窟は理窟である。彼らは一度たりとも、すみません、という一語を発しなかった。みごとである。
やっとこさ出発準備完了した小さなヒコーキに乗り込んでみたら、驚いた。乗客は私一人であり、私一人分の座席を除いてすべて座席を取りはずしてあって、あとは新聞の山である。スチュワーデスというような気のきいたのはいない。むくつけき大男のオッサンが、眼の前で不器用に、それにきわめて非衛生的にパンを切り、朝飯をつくってくれた。新聞を読むかと言うから、うなずくと、無造作にその山のなかから一枚抜きとってくれた。しかし、それはアラビア語の新聞であった。アラビア語のしか積んでいないのである。一面中央の大きな写真を指し、「ナセル、ナセル」と言う。昨日は、エジプトとシリアが合併してアラブ連合をつくった記念日なのだった。カイロでは、夜、花火があがり、街はえらい人出であった。今日、ナセルがカイロからダマスクスへ来るのだという。「そうすると、おれはミスター・ナセルといっしょにダマスクスへ行くのだな」私がそう言ったら、そのむくつけき大男のオッサンは、そうだ、そうだ、とうなずき、バターをいっぱいにつけた掌で私の掌をにぎった。
ダマスクスは空から見下ろすと、砂漠のなかで赫々と燃えていた。緑一点ない荒涼とした黄色。砂漠には砂漠の思惟があり、イマジネイションがある。また、なければならぬ。私は、ふと、そんなことを思った。
ダマスクスにはバザール(市場)とその中心に位置するモスク(回教寺院)をのぞいて、アラビアン・ナイトの古都の面影はもはやない。発展途上にある中近東の典型的な都会――その一語でもって現在のダマスクスを評し去ることができる。そこには二つの極端な対照がある。だだっ広く雑然とした現代、それに対して、狭く曲りくねった古きもの、過ぎ去り行くもの、打ち毀されて行くもの――二つに共通するものといえば、乾ききった大気、砂漠がもたらす砂塵、それと、ぎらぎらと燃えくるめく太陽。
その日、だだっ広く雑然とした現代は、興奮のただなかにあった。ナセル氏が来たのである。
行列がつづいた。銃を持った民兵の一行が、大きな声で詩吟のようなものを吟じながら歩く。なかには馬上、抜身の刀をふりまわすのまでいる。ついで、完全武装の正規兵の一団――
ナセル氏は、野外スタディアムで演説をなした。超満員の聴衆であった。入ろうとしたら、もう満員だ、入れぬ、という意味らしいことを大声でどなりながら、番兵が通せん坊をした。「ジャパン、ジャパン」私は自分をさしてそんなふうにメチャクチャにがなりたてたら、下士官らしいのがニコニコして近づいて来て、番兵に話をつけてくれた。
しかし、入ってみたところで満員で何も見えぬ。ここまで来て、ナセル氏の顔を見ないで帰るのもシャクである。塀によじ登ることにした。誰かが手を貸してくれた。ついでにその誰かが私の肩を叩き、ペラペラと何語かで話しはじめた。私はイランでもよくこんなめに会ったが、中近東にも、日本人的な、すくなくとも日本人の片われであるにちがいない私にそっくりな風貌をもった種族が住んでいるらしい。一語判った。それは魔法の響きをもったコトバであった。「ナセル!」彼は私にそれを言い、私もまたそのコトバを返してから、中央の演壇のほうを見た。ナセル氏がそこにいた。今朝機内で見た新聞の写真そっくりの風貌。カストロ氏に一脈通じる感じがした。いや、カストロ氏より、もう一まわり人物は大きいとふめた。彼は何ごとかを熱心に論じている。拍手。歓呼。彼はその日、後日見た英字新聞によると、イラク政府を激しく攻撃したそうであるが、私には、もちろん、何一つ判ろうはずはない。ただ、彼のコトバのもつ気迫のようなものが、ひたひたと押し寄せてきた。
「ナセル!」隣りの男が私の肩を叩き、またそう言った。私も同じコトバ――同じ魔法の一語で応じた。それで、私と彼との気持は通じ合ったとみてよろしい。いや、野外スタディアムを埋めつくした聴衆のすべてが、ただその一語のために、ここへ集まり、かくも熱狂的に拍手をし、歓呼の声をあげているのだろう。私はうらやましいと思った。「ナセル!」を批判することは、アラブ連合をけなし去ることは、むしろ容易であろう。しかし――たとえ「ナセル!」の語が民衆をたぶらかす魔法であろうと、無鉄砲な言い方をあえてすれば、それはとにかく「未来」というものに結びついている。それも大きく結びついている。いや、こんなふうにも言える。「ナセル!」もアラブ連合も、そうしてここにこうして集まって来ているひとびとも、たとえそこに大きなマチガイがもしあったとしても、現在彼らがあるようにしかあり得ないのだろう、すくなくとも、そういうギリギリのところから、彼らは出発しているのだろう。いや、このことは、彼らだけにかぎる問題ではないのだ。インドのことであり、中国のことであり、あるいはまたアフリカのことでもあるのだろう。このことを理解しないかぎり、たとえば、われわれはそれらの国の人たちの持つ、西欧的な眼をもってすれば、ときにはショービニスティックにも見える強力なナショナリズムを理解することはできないのではないか――
夕刻、私はバザールのなかのモスクヘ行った。会堂の前に、小さなプールのようなものがあり、ひとびとはそこで、その汚水で、口をすすぎ、また足を洗う。会堂のなかはずっと絨緞を敷きつめてあって、ひとは裸足で歩くようになっている。マゴマゴしているうちに、夕べのお祈りが始まった。私ひとりを残して、みんなは立ったり坐ったりしてアラーの神に祈りはじめた。祈りの妨げとなってはならない。また、異教徒はなぐり倒される恐れもある。私は慌てて外へ出た。すぐ外にバザールがあった。すでに暗くなりかけている。カンテラの光を頼りに、何やら得体の知れないものを食っていた連中が、いっせいに私を見た。そして何かを口々に言った。またもや私を、何トカ族の一員にまちがえたのであろう。
* * *
レバノンのベイルートで、私はふたたび地中海を見、またそれに最後のお別れを告げた。
レバノンはふしぎなところである。「西洋」と「東洋」の交叉点。メキシコで、私がある文学者に日本の「雑種文化」について一言述べたら、彼は「レバノンに似ているんだね」と、そんなコトバで理解した。どういうふうに「雑種」であるかを説明するために、もっともよい例を一つあげておこう。
レバノン人が子供を産むときには、愛児生誕という意味のほかに、もう一つ、ひそやかなる期待とよろこびがある。子供が、どんな眼の色と髪の色をもって生まれてくるか。兄が、眼は黒、髪も黒、容貌もアラブ人的だといっても、妹もそうなるとはかぎらないのである。青い眼、金髪、西欧人的容貌で生まれてくるかもしれない。つまり、父と母両者の家系のどこか遠いところで、混血が行なわれていて、それが遺伝子相互間のマカ不思議なる作用によって、いろいろ面白い結果を生じてくる。西欧人的な子供、ことに女の子が生まれると、レバノン人は大いに喜ぶときいた。おヨメの売れ口がよいのである。
全人口わずか一五〇万たらずの小国。かつてのフランスの植民地。したがってフランス語がかなり通じる。ことにインテリは、よせばいいのに、レバノン人相互のあいだでも、アラビア語の代りにフランス語で用を足している。キリスト教徒五五%・回教徒四五%――たしか大統領はキリスト教徒から、首相は回教徒のほうから出ることになっている。(その逆だったかな。)
ベイルートでは、またユース・ホステルに泊まった。探し出すのに、まったく困難をした。どうしたわけか看板を出していず、誰にきいても、ユース・ホステルなどというメンヨーなものの存在を知らないのである。ここでも、「ナセル!」の魔法は有効であった。今度はそのコトバではない、あるビルディングの扉口のところに、ナセル氏の写真が貼ってあり、そこに歓迎の文字らしいものが書かれている。そこがホステルにちがいないと思ったら、やはりそうであった。
日本人などというものを見たことがない連中のことだから、大歓迎であった。(ここでも、「ナセル!」の人気は抜群であった。先日、ナセル氏がダマスクスへ来たときは、ホステルの連中も大挙してダマスクスへ出かけたのである。)そのうち、なかのひとりが握手を求めに来た。「おめでとう、おめでとう」とさかんにくり返すから何ごとかと思ったら、はるか遠きわが祖国において、王家の若夫婦というものに長子誕生というちょっとしたおめでたごとがあったのである。そばの女の子が、このたび親となったあなたのところのプリンスとプリンセスとは大恋愛のアツアツのはてにいっしょになったというが、それはどんなアリサマであったか、きかせてほしい、と言いだした。そんなこと知るものか、こっちはわが祖国を出てから、もう二年近いではないか。世界のあちこちで、私には実際何の縁もユカリもない日本の王家の家庭事情についてゴチャゴチャ言われたのには、とにかく閉口した。わが愛する日本国、わが愛する日本国のひとびとに関してなら、私はいくらでも外国人にむかって言いたいことがあったが、その象徴とかいうわけのわからないものについては、私は何一つ言うことがなかったのである。これは私だけの感情ではないだろう。海外にいる日本人は、たいてい王家の「民主的快挙」について外国人に賞められたりすると、何となくくすぐったい顔をした。ところが、そのくすぐったい顔で家に帰ると、日本の新聞や週刊雑誌が来ていて、そのすべてが、判で押したように何トカ妃のおハナシだから、それを見ていると、日本国ぜんたいが王家となったかのような錯覚を感じてくる。それで、もう一度くすぐったい顔を自分の故国に、つまり自分自身にしてみせる羽目になった。
ある人の説によると、ベイルートは、ホンコン近くのマカオ、モロッコのタンジールと並んで、世界でもっともこわいところであり、よからぬ者が集まっているところである。正直いって、人間はあまりよくない。中近東人のいやらしいところに、フランス人のいやらしいところがくっついているかのように見えた。あるレバノン人自身の意見によると、アラブ世界における「希望」をアラブ連合が代表すれば、その「腐敗」のほうをレバノンとイランが引き受けている。
街路でゆすりにあった。より正確に言えば、ゆすりらしいものに出会った。人相の悪いのが二人、深夜近くひょろひょろ街を歩いていた私を呼びとめた。何かしきりに言っている。アラビア語である。私は手をふり、解らんぞ、と日本語で言った。今度は、彼らはフランス語で言った。たぶん金をくれと言っているらしいのだが、何しろなまりがひどくてよく判らない。金なんかあるものか――私はそう大声でどなりながら、上着をパッとひろげてみせた。半年近いゴロ寝生活のおかげで、私の上着の裏は無残に裂けて、ボロがぶらさがっているのであった。私の見幕に驚いたのか、それとも、その裏地のボロさかげんから私を一文ナシと判断したのか、そのまま歩き出した私を、彼らはべつに引きとめようともしなかった。
たがいにむかいあう二つの眼について
――イランの「外人」のなかで――
ベイルートからイランのテヘランへ、私はまた夜行のヒコーキで行った。ローマから来るイタリア航空の中近東急行便は、毎週金曜日午前零時三十五分にベイルートを発ち、同六時きっかりに終点テヘランへ達する。私には、ふたたび宿泊費節約の大目的があった。
イタリア航空は、いろんな点で親切であった。先ず、前にも書いたとおり、ユース・ホステルへ私を拾いにくるのを忘れて、中近東人の「腐敗と希望」について重要な観察をなす機会をあたえてくれた。ついで、機内で、ひきで物として靴下のカバーをくれた。これは女性へのプレゼントとしてなかなか有効であると思ったら、隣りの先ずアラビアの奴隷商人とふめる肥った男が、まだ貰っていないと言っては、いや、このオッサンは英・独・仏・伊などのケチくさいヨーロッパ語は何一つ話さなかったから、身ぶりでとにかくそうして、スチュワーデスから何枚もせしめるのであった。思うに、この男は回教国の習慣に従って、何人かの奥さんの持主であって、彼女らへのおみやげをロハで仕上げるつもりだったのだろう。私のこれからおもむかんとするイラン国も、三人まで奥さんを持つことができた。御苦労千万な話である。奥さんなど、まったく一人でけっこうなしろものではないか。イタリア航空の第三番目の親切は、朝食であった。私のひもじい日々をおもんぱかっての処置かもしれない、ここでもオムレツのお代りを頼みもしないのに私にくれたから、きっとそうなのだろう。午前四時という少しばかり異例な時刻に、朝食の配給があった。みんなは叩き起されて食べなければならない。ボーナ・セーラ。いや、これも御苦労な話であった。
テヘランのことを、中近東のスイスだと言う人がいた。海抜一二〇〇メートル、背後に最高五〇〇〇メートル余の高度をもつエル・ブルースの連峰がそびえる。朝まだきのテヘラン空港に降り立ったとき、私は思わず身ぶるいした。カイロ、ダマスクス、ベイルートと名をきくだけでも汗ばんでくるような土地を通過したあとでは、ここの冷涼の気はむしろ身にしみる。税関の建物を出ると、すぐ眼と鼻の先に、雪をいただいたエル・ブルースの連山が見えた。炎熱の中近東とはいえ、ここは高原のテヘランであり、まだ三月中旬、冬なのである。
ヒコーキ会社の無料バスを、私は最大限に使った。しぶる運転手をなだめすかして、まだ人影のない早朝のテヘラン市街をあちこち走りまわったあげく、ようやく目的のアパートに着いた。私はベルを押した。返事なし。もう一度強く長く押す。三階建てのてっぺんの窓が開いて、一人のあから顔の男が顔を出した。
「ガロウェイ!」
私は旅行カバンをふりまわしながら叫んだ。
「Who?」
私は自分の名を言った。「MAKOTO?! Oh! It's you.」彼はたまげたようにすっとん狂な声を出した。声の調子から明らかに二日酔いと見えた。奴さん、あいかわらずやっているな。「とうとう来たぞ」私は頭上の彼にむかって、大声で厳かに宣言した。「とうとう来たな」彼も同じことを言った。
これがガロウェイ、すでに〈芸術家天国〉のところで述べたことだが、そこで出会ったアメリカのドン・ファン詩人との記念すべき再会の一瞬であった。五九年八月に別れたあと、彼は西行して日本に至り、私の友人たちと楽しいひと月を過ごし、テヘランへ来た。目下はテヘラン大学英文科講師。彼をアメリカ国から送り出したのは、アメリカ国のフルブライト一党である。彼の将来は、率直にいって、判らぬ。私は東行して、ヨーロッパで彼の友人たち(考えてみると、私の会ったのは女人ばかりであった)と楽しい数ヵ月を過ごし、ようやくにしてこの地にたどり着いた。目下はコジキ旅行者。私を日本国から送り出したのは、日本国にたむろするフルブライト一党の片われである。将来のことは、これも率直にいって、どうなるかまったく判らぬ。東と西の世界の二人の放浪者が、それぞれの所属する世界とはことなった方向からやって来て、その東と西の世界が微妙に交叉するこのペルシアの地で、ふたたび出会ったのである。感激せざるを得ない。で、祝杯をあげるということに必然的になった。とたんに彼は言った。
「日本の酒《サキ》があるぜ。ミス・何トカが送ってきた」
そのあと、私の友人のミス・何トカが送ってきたカン入り一級酒を、いささかやきもちをやきながら飲んだことは、すでに書いたことだが、彼がそのミス・何トカ嬢の名前を言ったとき、彼の発音がたとえへんてこであったにしても、そのなつかしがるべき名前が、私にはまったくピンとこなかったのである。私はそれほど、日本のあらゆる事物から、いつのまにか遠のいてしまっていたのだろう。彼女をもふくめて、日本がいつのまにかはるか遠いところに行ってしまっていて、それが、その瞬間にグウッと近づいてきた。そしてその近づいてきたことによって、かえって自分がいかに遠ざかっていたかを意識した、そんな感じであった。私は彼女をはじめ、もろもろの友人の顔を思い浮かべた。いや、友人ばかりではなかった。私が大阪で、東京で、場末の映画館で、市場のなかで、税務署で、超満員の国電のなかで出会った無数の日本人の顔、顔、顔……。私が二年間ひとりでふらふらと世界を歩いているあいだ、彼らはめいめいの場所で、めいめいがえいえいと、雨ニモ負ケズ風ニモ負ケズ働いていたのだ。そんな感慨が私の胸にきた。どうしてだか知らない、私はふと涙ぐみたいような気持で、意識のなかのそれらの「日本人」の群像に対していた。彼らは働いてきた、そして今も働いている……
「おまえは十一月に来ると言ったじゃないか」黙り込んでしまった私に、ガロウェイは言った。そう彼に告げたのだろうか。えらい昔のことのような気がした。とにかく電報ぐらいくれれば空港へ迎えに行ってやったのに。彼はそう言ってから一言つけ加えた。「きわめて日本人流にね」電報代なぞあるものか。おれの予算は一日一ドルだぜ。「一ドル?」さすがのアメリカのボヘミアンも呆れた顔をした。それから、ここにいるあいだはおれの客だ、費用はコヅカイにいたるまでおれが出す、と景気のよいことを言った。私は、ありがとう、その好意をありがたくお受けすると言い、ついでに、実はそのつもりでやって来たのである、と白状に及んだ。
スキーに行かないか、と彼は言う。実は今日は休日なので(回教国では、金曜日が週の休日である)、友人たちとエル・ブルースの山ふところにスキーに行く約束をしていたのだという。中近東でスキーとはしゃれているではないか、私はイエス、行こう、と言った。
一行は、テヘラン在住の「外人部隊」であった。ガロウェイ。彼の恋人のノルウェー人。フランスからペルシア留学に来ている若いお嬢さん二人。有能な登山家である、しかし登山家とはちょっと見えない、どこを叩いてもパリの響きがするテヘラン大学のフランス人文学講師。同じテヘラン大学で地質学を講じるフランスの石油技師二人。ダマスクスから来たシリア人、いや、アラブ連合人。それと、ひょこひょこいずことも知れぬところからまぎれ込んで来た日本人一人、つまり私。
石油技師のジープで行った。二時間のドライブ。道は鋪装していないからえらく揺れる。その動揺が、私に故国のことを思い出させた。私はガロウェイに私の親友の名をあげ、近況を訊ねた。あいかわらず忙しがっている、彼のお得意の「|心の事件《アフエアーズ・オブ・ハート》」でね。ガロウェイは身につまされたように言った。それから、パリの彼の「親友」のことを訊ねた。彼女は映画プロデューサーの奥さんだったが(プロデューサーはえらく有名で、えらく忙しい男だった。一目でゲイと知れた)、目下ボーイ・フレンドを下宿させて、三人でいっしょに暮らしているのであった。ふむ、ガロウェイはちょっと感慨ぶかげにうなずいた。
いつのまにか、ジープは山ふところに入っている。何という木か、やけに背が高くずんべらぼうに高いだけのが谷間に群生している。そのあいだに点々と、土造の家が見える。背後の山嶺は、すでに雪である。そのずんべらぼうに高いのだけを除けば、ほかには樹木というものは何もないのだから、砂漠の一角が忽然と隆起し、そこに雪がのっている感じがする。つまり、景色はあまり俳句的でない。
やがてスキー場に着いた。といっても、そこはみすぼらしい山村である。そこから急峻な山道をかなり登れば、リフトがあり、色とりどりの服装で、ひとびとが滑っている。スキー場のことなどはどうでもよろしい。スキーそのものは、また雪そのものは、信州だってアルプスだってエル・ブルースだって、そう大差はない。ただ、滑っている人、またそれを見ている人の差だ。
滑っている人は、たいていが外人であった。この「外人」というのは、私に対してでなく、イラン人に対して言っている――つまり、イラン人以外の人たちなのである。アメリカ人、フランス人、ドイツ人、ノルウェー人、デンマーク人、etc、etc……もちろん、イラン人もいることはいる。しかし、そのイラン人というのは、外人とつき合うことが大好きで、またそれとつき合うことができる程度に金持か、それとも、そういった便宜をもっている人たちであった。もう一言つけ加えれば、外人(日本で「外人」といえば、十中八九まで「西洋」人のことを指すだろう。イランでも同じであった。悲しいことに、そうであった)とつき合うことに誇りを感じている、そうすることで、おれはなみのイラン人とはちがうのだぞ、という意識をもっている人たちであった。日本にもワンサとそういう手合いがいるであろう、あれである。
メキシコで、あるアメリカ人が、私にはよく判らないことが一つあると前おきして、どうもこの国のひとびとはアメリカ人を友人とすることに誇りを感じているらしいと言ったことがある。それである。一口に言うと、外人に弱いということか、「西洋」に対するアホらしい憧れやら劣等感やらが、イランにもある。イランのみならず、たいていの後進国にある。そして、もちろん、それは私の故国の有名な社会現象でもあったから、私はイランで、また他のところで、ずいぶんと身につまされる思いがした。ブルータス、おまえもか――ではないが、ひとり、イラン大学の学生でガロウェイの教え子に、この点でものすごいのがいた。ぼくはあなたがうらやましい、と言うから、わけをきくと、私がガロウェイはじめ他の「外人」連中とつき合っているのが羨ましいというのである。この学生の例は二重に教訓的であった。つまり、私という非「西洋」人は、イランでは「外人」の部類に入っていないという点においても――
とにかく、ガロウェイを介在として、私はテヘラン市在住の「外人」の集団のなかに吸い込まれてしまった。いや、叙述をもっと正確にしよう。「西洋」人と、それとつき合っている上流階級の人たちのあいだに。
後者のなかに、たとえば、かつての石油国有化の大立物モザデグ氏の孫娘嬢がいた。彼女は画家で、長年イギリスで暮らし、きれいな「|王様の英語《キングズ・イングリツシユ》」を話し、目下はテヘラン大学で絵の先生をしている。なかなかのペルシア美人であった。
ある日、ガロウェイは彼女と私を昼食に誘った。彼は彼として最上級のレストランを指定したら、そんなところへは私はとても行けないと言い、別のレストランの名をあげた。仕方がないから、われわれはそこへ出かけたが、それは、やはり、べらぼうに高いところであった。となりに坐っている男を指して、あれは新しくきまった王様のヨメさんの兄だか弟だか、あるいはその友人だとか彼女は言った。彼女は、おしのびで旅行する伯父さんだかのお供で日本へ来ると言い、またそのときには私とデイトする約束を交わしたのだが、さて私は、トウキョウで彼女を、いったいどんなレストランへ連れて行ったらよいだろう。私とても、彼女を、定食三十五円也の私の大学の地下学生食堂へ案内するつもりはさらさらないのだが――
こういう「外人」やそれに類する上流階級のなかに吸い込まれてしまうと、私のような根っからの庶民に気になることは、そういうところに属さない人たちの反応であろう。先ず、イラン(イランのみならず、他のアラブ諸国、インド、アフリカ諸国その他)には、中産階級というのはいまだにほとんど存在せず、インテリはたいていは社会の上層に位置しているから、「そういうところに属さない人たち」というのは、他のコトバで言うと「下層階級」ということになる。さっきの例で言えば、スキーを滑っている人たちではなくて、それを見ている人たち。
ボロをまとった子供たちがいた。彼らは私たちのジープのまわりを遠まきにとりまき、私たちをしつように眺める。その背後には、彼らの親たちの同じような視線。彼らはたんに眺めるどころか、私たちのために働くのであった。子供は急峻な雪の山嶺をよじ登って、コカコーラを売りに来る。雪の上では、彼らの裸足はやはり傷ましい。
私は、彼らの視線をやりきれないものに感じた。羨望と敵意に満ちあふれた、それでいてそうした感情をまったく無意味なものにするほど無気力で投げやりな眼。私は、それに、どこへ行っても、ガロウェイと、またその「仲間」といるかぎり、出会った。たとえば、ガロウェイと彼のアパートへ入ろうとするとき、私は何気なくふり向く。すると、そこに二三人の子供がいて私たちを見ている、そんな眼をにぶくぼんやりと光らせて。
こんなことを気にしていたのは、もちろん私だけのことだったろう。ガロウェイは感受性の鋭い詩人だったが、それでも彼は、やはり、恵まれた国、余りにも恵まれすぎた国の人間であった。
とくに彼らの眼は、私に一つのやりきれない光景を想い起させた。「光景」と客観的に言いきってしまえないかもしれない、自分も明らかにその風景の一部であったのだから。戦争が終ってまもないころ、日本には二つの世界があった。一つは飢えたる国日本、もう一つはガロウェイの属する恵まれたる国の出店である。大阪の私の家の近くにも、その出店の一つがあった。病院を接収して、彼らは兵舎にしていた。その門のところに、飢えたる国のひとびとがよくぼんやりと立っていて、出入りする血色のよい兵士たちを眺めていた。飢えたる国のひとびとはべつにコジキであったわけではない、ただ何ということもなくそこに立っていて、自分たちと対照的な世界を眺めていたのだ。そのときのひとびとの眼――それは、イランの子供たちのように羨望と敵意の、そして、もうまったく無気力で投げやりな眼であった。その記憶が、ありありと、テヘランでの私によみがえってきた。はっきり言うと、私自身そんな眼で、その恵まれたる別世界、その住人を眺めたことがあるのだ。
こんな私には、したがって、さっきの例をもう一度つかって言えば、スキーを滑っている連中(そのなかに私もいた、もじもじといた)が、彼らを見ている人たちに向ける眼が気になった。それは憐憫と軽蔑の入りまじった眼だ、とむしろ私は書きたいと思う。そんなものではなかった、そんな生まっちょろい文学的表現ですませるものではなかった。
それは一口に言って、無機物を見る眼であった。動物を見る眼でさえない、いわば、そこらにころがっている岩のカケラか何かを見る、いや、もっと適切に言おう、彼らのまえにぼんやりと立っている子供たちは、彼らにとって一つの透明な空気であった。彼らはそれを、傲然とではなくきわめて無意識的に無視した。空気であったから、彼らは始めからその連中の存在など意識しているはずはないのだ。それでいて、空気は、彼らの生を支えるために必須不可欠のものであるにちがいないのだが。
デンマーク人の女中さんがいた。彼女は、私がイランの庶民たちとともにバスに乗るのを知って、真実、マユをひそめた。いや、イラン人自身の例をひこう。ガロウェイは大学の先生だったから、彼を通じて私は多くの大学生と知己になった。大部分が上流階級の子弟だった。王様の親類だとかいう警察士官《ポリス・オフイサー》(大学を出ておけば給料が上がるとのことで、むやみやたらと警察士官《ポリス・オフイサー》がガロウェイの学生には多かった)もいた。石油王の御曹子もいた。この連中は、もちろん、道で行きあう貧民のむれを空気と化し去った。恵まれたる国の人ガロウェイもさすがにそれに反感をもち、私と彼とは自然に、中産階級出身者に好意を抱くようになった。そのなかにひとり、小役人の伜がいた。気持ちのいい男だったから、私たち二人は彼とよくつきあっていた。
ある日、ガロウェイは、イランの子供たちがどんな遊びをしているか見たいと言いだし、彼が道案内をかって出たことがあった。
イランの子供(すくなくとも庶民の子供)は、およそ、オモチャなど持ち合わしていないふうに見えた。一本のクギを投げ合ったり、あるいは棒ギレで石をボールとして、野球のような遊びをしていたりする。(一度、極端な情景を見た。犬の四肢を切りとったのを、子供たちが綱で喚声をあげながらひきずって歩いていた。「ここではすべてが残酷だ」とガロウェイは言い、私とともに顔をそむけたが、かたわらにいたイラン人の大人は、べつにそれをとがめだてするふうもなかった。砂漠的風土、宗教、被抑圧者の心理、娯楽の欠如、そういったものが子供たちのその行為の背後に横たわっているのであろう。)
イラン人は、「外人」(「西洋」人)に対して極端なサイギ心、警戒心を持っている。このことについてはあとでもう一度述べるが、これは「西洋」人ならずとも、あまりユカイなことがらではない。子供ももちろんそうであった。道案内の学生君によると、私はイラン北部の何トカ族そっくりなのでまだよかったが(そのおかげで、私は外人、異教徒禁制のモスクに何度となく無事に出入りできたし、それこそ絶対に入場まかりならぬという回教墓地にも入り込むことができた)、問題はガロウェイだった。彼がわれわれの一団のなかにいるのを認めると、子供たちはすぐ遊びをやめたりする。そんなとき、われわれの道案内君はどうしたか。彼は子供たちにお金を渡して、遊びをつづけさせたのである。ときには、お札をポイと投げ出して、ボール遊びをやれ、やれ、と言う。
私は、何かうそ寒いものを感じた。もちろん、私は彼の親切に感謝すべきであった。が、それでいて、どうも釈然としないのだ。
彼はその途中、イラン人としての国民的誇りについて語った。だから彼が、その行為を、自分の国の恥部をさらけ出すものであると考えていないことはたしかだった。彼は、まったく自然に、お札を投げあたえていた。子供たちが遊んでいる場所はスラム街ではなかったが、もちろんあまり豊かな地区でもなかった。でこぼこの鋪装されていない道のまんなかに溝があり、泥水がうずまき、その泥水で人々は顔を洗い、炊事用の水をくみ、あるいは洗濯をしている。われわれの道案内君は、そうした光景にはマユをひそめた。非衛生的だと言い、なるべくわれわれがそいつを見ないように誘導した。その同じ彼が、しかし、きわめて無造作に、われわれの眼前で子供たちにお札を投げあたえる。
これは、やはり、理解しがたいことだった。ただ一つ、理解できる道があった。つまり彼が、その子供たちをイラン人として認めていないこと、いや、私はためらわずに言おう、人間としてでも認めていないこと――昔、ペナンかどこかの港では、船上からお金を投げると、土人が海に潜ってそれをとる、その競技(?)がその地の一種の名物のようになっているという話をきいたことがあるが、そんなとき、面白がってお金を投げる旅行者は、もちろん、その土人たちを人間として認めているのではないのだろう。猿が芸当をしているのとあまり変りはない、いや、もっと適切に言えば、スロット・マシーンにお金をほうり込んで行くのと同じなのであろう。そんなふうに、われわれの親切な案内者君も、無造作にお札を子供たちに投げあたえる。
このことは、大きなコトバで言えば、中産階級やインテリをもふくめた「上層階級」(その数はきわめて少数である)と、一般庶民つまり「下層階級」(その数は無限である)とのあいだの根本的隔絶ということになるのだろう。中近東諸国で、またインドで、私はうんざりするほどその例に出会った。エジプト、シリア、レバノンでは、私は一介の旅行者として、その隔絶を、いわば横向きに眺めた。イランでは、私はいやおうなしに上層階級に組み入れられて、それを上から見下ろした。インドでは、友人の家にひきとられたり、ともかくもホテルというものに泊まった数日間をのぞき、下層階級のまっただなかから、上向きに、私は渇仰の眼でもって、その隔絶を、その上に君臨する階級を、見上げた。
もちろん、この隔絶をなくそうとする努力は、今、真剣になされつつある。私もそれを否定するつもりはない。しかし、たとえばインドの下級官吏が民衆をどのように取り扱うかを、その民衆のなかの一員として目撃したことがある私には、ハイ、ソウデスカ、ケッコウデスネ、で引きさがることはできない気がする。隔絶をなくすためには、下層階級の生活水準の引き上げ、教育の普及、文盲の撲滅といった上層の下層への働きかけと同時に、いや、それ以上に、上層自身の覚醒が何よりも必要なのであろう。このことを、私は他人事として言っているのではない。明治以来のわれわれの先輩たちの努力は、この方面にもある程度は向けられてきたのではなかったのか。率直に言って、その努力は無駄ではなかったし、立派なものであったと思う。中近東やインドの現状ほどひどいものではなかったにしても、すくなくともそれに近いところから出発して、今日のわれわれの状態にまでなしてきた先輩たちの努力、それを私は、やはり貴いものだし美しいものだと思うのである。
イランは底の底まで腐敗している、政府も国民も――これは、テヘラン郊外でダム建設に従事しているあるドイツ人技師の言ったコトバだった。「ここで初めて、私は人間の心の腐敗の恐ろしさを知った」彼はそうも私に語った。彼がそう言ったのは、ある「外人」たちのパーティの席上でだったが、他の種々様々な国籍、職業、年齢の「外人」たちは、そのとき、いちようにわが意を得たようにうなずき、めいめいがめいめいの体験を語りはじめた。一人一人が、おどろいたことに、ツリ銭のちょっとしたゴマカシから巨額のワイロにいたるまで、ドイツ人技師のコトバを裏づける例をもっていた。自分はこの国の民衆の貧しさを救うために来たはずだった、しかし、ここでは自分が働けば働くほど、民衆を貧しくさせ、民衆をしぼり上げている一にぎりの連中の私腹を肥やすことになるのだ。国連派遣のアメリカ人技師は、そんなふうなことを言い、もう自分は帰るつもりだ、とつけ加えた。見たまえ、この首都のテヘランの市街でも、人々は土造の家に電灯もなく住んでいるというのに、皇帝は新しいワイフを迎えるためにどれほどのお金をつかったことか。スエーデン人が腹立たしく語った。同じテヘランで、皇帝はジェット機を気晴らしに駆り、バザールでは、七八歳の子供がけなげに重い荷車をひっぱっている――
彼らの非難はすべて当を得ていた。私自身、あらゆる矛盾をこの国で認めたと言ってよい。反論する材料はほとんどなかった。アラブ連合やインドでは、私は「希望」というコトバを「腐敗」に対して持ってくることができた。たとえ現状が、どのように腐敗に満ちているものであろうと、未来への「希望」が、そのすべてを帳消しにすることができた。しかしイランでは、たとえば、ひとびとは「未来」について語ることは稀れであった、いや、私の接したかぎりのイラン人についていえば、まったく皆無であった。国民的誇りについて語ったものがあったことは(それがまたいかに妙チキリンなものであったかは)すでに述べた。しかし、その「国民的誇り」というものも、それは「未来」に関したものではなかった。偉大なるペルシア帝国という過去の幻影についてのみ、彼らは、それを語ったのである。
アラブ連合やインドでは、多くの人が「政治」について語った。「未来」を論じる以上、それは当然であったろう。しかし、ここでは、ある「外人」の表現を借りれば、ひとびとはお天気のことしか話さないのであった。あるとき、ヒロシマのことについて積極的な質問をしてきたテヘラン大学の学生に、こいつはひょっとしたら、というはかない希望をもちながら、イランの現状についての彼の意見を訊ねた。彼は、しかし、やはり答えなかった。答える代りに、アメリカ、ソ連、イギリスの三つの力に囲まれたわれわれの国は用心深くなくてはならぬのだ、という一般論を、それもきわめて短く言った。
自分は投獄されたくないのだ。他の学生は笑いながらそう言った。その笑いは、私の思いすごしからか、少しばかりこわばって見えた。あんなところへ、あんな連中によってほうり込まれたら、おしまいだからね――彼の眼はそんなふうに語っていた。私とガロウェイは彼とともに、数日前、ガロウェイの教え子でありその学生にとっては同級生である警察士官《ポリス・オフイサー》の案内で、ある小さな警察署の留置場を見たのである。中世紀の牢獄を思わせる土造の小さな室だった。それはまだよい。そこには、あるときには十数人が詰めこまれるとのことであった。小さな室だったから、もしそうなったら、ぎっしり詰めこまれてやっとだった。身をのばすことなどできそうもない。いや、しかし、それもまだよいとしよう。がまんがならなかったのは、それを説明する警察士官《ポリス・オフイサー》の口調であり態度であった。夏に十数人がここに入ったら、みんなフラフラになる、泣き叫ぶ、面白いね――彼はそう得々と言い、ケラケラと笑った。
しかし、イラン(また他の中近東諸国の、インドの、他のすべてのアジア、アフリカの諸国)の「腐敗」について語るとき、「外人」(「西洋」人)諸氏は、そんなにもさわやかな口調で非を断じることはできないであろう。その「腐敗」について、彼らにも一半の、いや、多くの責任があるのだ。イランに、また他の諸国に「腐敗」があるとすれば、それは「西洋」の「腐敗」と大きく結びついたものではなかったのか。いや、まだ過去形で語るべき段階ではない。私は言い直すべきであろう、今もなお大きく結びついているのではないか、と。
ガロウェイは、イランの民衆の腐敗の一つの例として、モザデグ失脚の背後事情について語った。モザデグ支持の大会が開かれ、デモがテヘラン市中をねり歩いた翌日だかに、その大会・デモに参加した同じ民衆によって、モザデグ打倒の大会・デモが行なわれ、それが結局、モザデグ政府の命とりとなった。その前夜、民衆のボス連中に、大金がある筋からばらまかれていたのである。
「ある筋とは何か?」私は何気なく訊ねた。私はそのときのガロウェイの表情を忘れることはできない。ガロウェイは、アメリカを愛し、アメリカ人であることを誇りにしていたのである。彼は吐き出すように言った。≪The United States.≫
イラン人のもつ「西洋」人に対する極端なサイギ心、敵対心も、彼らが排他的な回教の信者であるという理由のほかに、彼らがこれまでその「西洋」人たちによって、さんざんに痛めつけられてきたことからも大いにくるのであろう。その点で、同じ外国ながら、「西洋」でない「ジャパン」は、きわめて安全であった。それと、黒い髪、黒い眼、色のついた皮膚のもつ効力も、ばかにならない。もっともイランでは、「ジャパン」は、たとえばアラブ連合におけるように爆発的な人気をもっているというのではなかった。アラブ連合のひとびとにとって、「ジャパン」は未来への一つの目標であるのに対し、イランでは、西ドイツやアメリカやイギリスやデンマークや、あるいはソ連などとともに、商売の一つの相手にすぎない。だが、いずれにしても、すくなくとも「ジャパン」は「西洋」でなく、すくなくともイランに関しては、何らの悪もなしたことはないのだ。
イランでは、女性の地位は低い。また、どれほどの恋愛の自由が存在するのか、テヘランの街は、極端にいえば、男、男、男の街であった。二人連れなど、めったに見かけたことがない。ときたま二人連れが来ると、ちょうど日本の戦前でのように、野蛮なヤジがとんだりする。
「西洋」人ぎらいが女性蔑視に結びつくと、ヨーロッパ人の女性は一人歩きができないということになる。ガロウェイの恋人であるノルウェー人も、私の友達だったデンマークの女の子も、その他多くの「西洋」女性が、うんざりする例を語ってくれた。
私にこんな経験があった。私はテヘランの街を、そのデンマーク嬢とよく歩いた。二人の姿は、テヘラン市民にとって、えらくショッキングなことであったにちがいない。二人連れが稀れである。ヨーロッパの女性がバザールをうろつくことなどは稀れである。そこへもってきて、二人の組み合わせが妙である。一方はヨーロッパ人、他方がどこの国の人間とも知れぬが、とにかく東洋人である男。
私たちが歩くと、みんなは立ちどまって見た。わざわざくっついて来るのも、みだらな喚声をあげるのもいた。ひとりで行けないところへ連れて行ってほしい、というのがデンマーク嬢の頼みだったから、私は昼なお暗いバザールの迷路のなかへもかまわず入り込んで行った。
ある夕べ、バザールの裏手のスラム街のまんなかで、私たちは道を失った。街灯一つろくにないこんなところで暗くなれば、何をされるか知れたものではない。彼女は慌て、泣きベソをかきはじめた。すでに、大人をまじえた子供たちの一団が私たちの背後から石を投げはじめていたのである。私はデンマーク嬢に、心配しないように言った。明るいところへ来れば、私がヨーロッパ人でないことをはっきり認めさせることができるところへ出れば何とかなる。私はそう言って彼女をなだめた。
そして、まったく、そのとおりになった。スラム街にまばらにある街灯の下まで来ると、さっきの石を投げていた連中は私の黒い髪を認めるとともに、投石をやめた。それどころか、その一団の年かさの一人が、私たちをバスの通る大通りにまで連れて行ってくれた。
のぞきメガネ「ヨーロッパ」
――テヘランをうろつく――
ガロウェイは、テヘランのある英字新聞に、彼の『イラン滞在記』を書いていた。その取材の必要もあって、彼は私とともにテヘラン市中を連日のように歩きまわった。
二日に一度はバザールへ行った。バザールは巨大な一個の市場というよりは、それぞれが複雑な迷路をもった幾つかの市場の集まりだと言ったほうがよい。迷路はすべて上部をおおわれて暗く、果てしなくくねくねと曲り続いた。へたをすると、同じところへ戻って来たりする。トラックが乱暴に押し入ってきたかと思うと(日本製ミゼット三輪トラックが大流行であった)、羊の群れがのろのろ歩く、そのあと、二輪車の牛車がギッコンギッコンと続く。むやみとやかましかった。みんな何かしら叫びつづけていたし、ガンガンと金槌で金属板を叩いて何やら作っている店の列もあった。その列を通り抜けると、突然、モスクの中庭の静寂のなかに、いつのまにか吸い込まれたりする。
商品のすくなくとも三分の一は、日本製品であるとのことであった。それはよいが、ものを買うのに、イランでは定価というものがまったくない。消息通の話によると、イランの物の値段には、すべて三つの値段がある。一つはイラン人のための、もう一つは外人のための、第三番目のはアメリカ人用の値段。定価がないのは、何もコットウ品にかぎったことではないのであって、そのイラン的慣習法は、たとえばリンゴ一個、タマゴ一つ買うにも適用されているのであった。リンゴ一個、タマゴ一つ買うにも、ひとは、ことに外人は、ましてアメリカ人は、値切らなければならない。したがって、買物には、むやみやたらと時間がかかる。あるとき、私はデンマーク嬢とともに、リンゴを買うのに半時間を費やしたことがあった。考えてみると、妙な話である。
妙なことといえば、こんなアホらしい妙なこともあった。休日、公園へ行ってみたら、学生らしいのが多くいて本を読みながら、それをブツブツ音読しながら、行ったり来たりしている。ふしぎなこともあるものだと思ってガロウェイに訊ねたら、家が狭くて勉強できないから公園でするのだという返事であった。それは判ったが、なぜ、みんなはあんなにブツブツ言いながら歩いているのか。ガロウェイの答は簡単だった。彼らは教科書を丸暗記しているのだが(イランの学校の試験問題は、たいてい、暗記物なのだそうだ)、彼らは歩きながらでないと覚えられないというやっかいな性癖をもっているという。大学へ来てみろ、みんなやっているぞ、と言う。出かけてみると、なるほど、たしかにみんなやっていた。みんな、ブツブツ言いながら校庭を行ったり来たりしている。考えてみると、たしかに妙な話である。
そのうち、われわれ「外人」にとって妙なことの筆頭である「断食月」が始まった。イランはイラン自体の暦をもっていて(イランのカレンダーには、イラン暦、回教暦、西暦の三種の暦が併記してある)、そいつによるお正月の前ひと月が、たしか「断食月」にあたっていた。
回教国共通の現象であるが、「断食月」のあいだは、タクシーに乗らぬほうがよいと教えてくれた人がいる。空腹で気がたっているから、事故を起しやすいのだという。たしかに、そうかもしれない。ひとびとがケンカ早くなっているのは、ちょっとバザールをぶらつけば、すぐ判った。
陽の中空にかかっているあいだは、何も食ってはいけない。日没と同時に鐘が鳴り、ひとびとは大急ぎで食い物屋になだれこむ。ガロウェイの観察によると、「断食月」のあいだのほうが、食い物屋の売り上げはよいのではないか、ということであった。
日中は、法律によって、すべてのレストラン、食い物屋のたぐいはお休みである。旅行者のためにホテルのレストランは開いているが、それも一応は表扉をとざして、裏口から出入りするようになっている。しかし、断食強制の法律まであっても、それが今のイラン人にどれほど守られているかは、こと前記の上層階級に関してはまったく疑問であろう。たとえば、私の会った多くの学生のなかで、断食をしていると答えたのはただの一人であった。それもよくきいてみると、彼は坊主の息子だったのである。早い話、ホテルのレストランへ行くと、顔見知りのイラン人が、たいていそこにそろっている。信心しないのかと訊ねたら、一人は、病気だからね、とニヤニヤし、他の一人は、これから出張だから、おれはすでに旅行中だ、と答えた。
法律によると、断食を励行しない者は逮捕されることになっているが、それには例外が二つあった。病気中の者、また旅行中の者。一般庶民は大部分、断食腹ペコ組のように見えたが、それでも、ときどき街路で悠然とパンをかじっているのを見かけたことがある。警官が来ても、私は病気ですと言えば、それですむのだそうであった。
日中は腹ペコなのだから、その代り陽が落ちるとともに、大げさに言えば、テヘラン全市が食欲のルツボと化す。ことにバザール近くの庶民の住むあたり、食い物屋はたいへんなにぎわいを呈する。
私とガロウェイは、毎夜、夕食をそのあたりでとった。いろんな店があった。先ず街頭の立ち食い屋。豆をただ茹でたのだけを売っている男もいたし、病原菌培養器のごとき果汁や、そうかと思えば、風邪によく効くというウドンのだし汁のごとき濃いスープを売る屋台もあった。そんなのに適当に立ち寄ってから、二人は、いつも「頭ユデ屋」へ行った。ペルシア語でほんとうはどう言うのか知らないが、ガロウェイの教え子の翻訳によれば、「ヘッド・ボイラー」であった。テヘランのそのあたりには、そうした店がやたらとある。入口のところに巨大な鍋があって、そのなかには羊のアタマがグツグツと煮えたっている。脳ミソのスープというのが安くて、その上うまかった。
食い物屋のついでに、喫茶店のことも書いておこう。ここはコーヒーではなくて、文字どおり紅茶を供する。小さなガラスのコップに入ったのを角ザトウのカケラをそえて持ってきて、客のほうはそのカケラを先ず口にふくんでから紅茶を飲む。小さいコップだから、すぐなくなる。黙っていると、また持ってくる。手をふって断わらないかぎり、いくつでも、給仕人はあなたに紅茶を持ってくるだろう。勘定はえらく紳士的だった。客のほうが、おれは何杯飲んだと言って払う。
ギリシアの喫茶店《カフイニオン》と同じく、ここもまた男の天下であった。いろんな喫茶店へ行ってみたが、一度たりとも、女性の姿を見かけたことがない。それに、「喫茶店」というコトバから、日本流の優雅にやさしく小ぎれいでモダンで芸術的なものを思い浮かべてはならない。先ず田舎の駅の待合室のごときものであろう。長いベンチに押し合いへし合いするまでにして坐りながら、その小さなコップの紅茶を飲み、何かしら大声で談論風発し、あるいは水煙草の器具を前において、何時間でもプカリプカリやっている。そのうち「|物語かたり《ストーリー・テラー》」が現われる。主として、この国の十六世紀の叙事詩人フェルドーシの詩を語るのである。身ぶりを適当にまぜて、彼はよろしくやる。聴衆のほうも、もうみんなきっとそらで知っているのだろう、サワリのところへくると、彼らも声を出して、ときならぬ合唱が店内にまき起る、そのあと、「|物語かたり《ストーリー・テラー》」は帽子をまわし、そのなかに、彼の一日の収入の幾割かがたまって行く。
こんなものに熱中するとは、よほど他に娯楽がないんだね――ヨーロッパの文明国の男がそう言った。なるほど、娯楽というコトバを「西洋」人やわれわれ日本人が用いる意味合いで使うなら、ヨーロッパと日本(あるいは、たぶんホンコン)のあいだは、その意味では、まったくの砂漠だろう。
たとえば、日本国では一時間に三点の割合で本が出版されているそうだが、そんな国の人間であるわれわれには、次のようなことは想像もつかないことであろう。街頭に本屋がある。鋪道にゴザを敷いて小型の本を無造作に積み上げ、その横で子供が番をしている。こんな光景なら、どこの国にもある。ただ問題は、その本の種類だった。そこはバザール近くの通りだったから、日本でなら、(また「西洋」でなら)さしずめ、そこに並べてあるのはマンガ本か週刊雑誌か何かだろう。テヘランではそうではなかった。そのすべてが詩集だったのである。フェルドーシをはじめとして、とにかく、すべてが詩集!
私は、イラン人が文学的な国民だと言っているのではない。そんなことを例証するために、このことを書いたのではない。ああ、ここでは他に読むものがないんだな――そのすべてが詩集であることを発見したとき、私の先ず感じたことは、それだった。そういったふうなことをすぐ私に思いつかせるフンイ気のようなものが、すくなくともテヘランにはあった。しかし、私はまた同時に思った。それはそれでいいのじゃないか。一時間に三点の本が出て、どこへ行っても誰に会っても「週刊何トカ」を読んでいる、あるいは眺めていることのほうが異常なのではないか。そんなことを私に感じさせるフンイ気のようなものが、テヘランといわず、日本とヨーロッパのあいだの「娯楽の砂漠」にあった。
もっと驚くべきものを見た。それは「ヨーロッパ」というのぞきメガネであった。楕円形の円筒に車をくっつけたのをオヤジがひっぱってくる。二三人の大人や子供がその円筒のまわりにかがみ、周囲につけられたのぞき窓から中をのぞき込む。オヤジが口上よろしく何かをブツブツ言いながらハンドルをまわせば、円筒の中では「ヨーロッパ」の風景の絵巻物がグルグル展開して行く。つまりは、原始的活動写真というところであった。絵巻物はいつもヨーロッパの風景を扱っていることになっていて、それで、こういうのぞきメガネは、すべて「ヨーロッパ」と呼ばれているのである。いや、「ヨーロッパ」は純粋にヨーロッパだけの風景を扱っているのではなくて、ニューヨークの摩天楼も、マイアミらしい海岸で水上スキーに興じている美女も出てきたから、要するにこれは、イラン人の頭のなかに存在する「西洋」というものであろう。それが具体的なかたちをとってこの「ヨーロッパ」という見世物に凝集している、とまあそんなふうであった。
世にもまったく悠長な見世物であった。オヤジがブツブツ言うのにつれて、パリのシャンゼリゼがポカッと現われ、消え、次にはテームズ河が忽然と何の脈絡もなく出現、ついではクイーン・エリザベス号の雄姿、次いではバティカンのサン・ピエトロ大寺院、ダグラスD・C・7C型機、機内で食事をとっている二人連れ……
ばかばかしいと言うなかれ。この「ヨーロッパ」にはもっと驚くべきことがあった。その絵巻物というのは、べつに、そののぞきメガネ用に描かれたものではないのである。すべてが雑誌の記事やら広告やらからの切り抜きであった。きっと、そのオヤジは「ライフ」か何かを二三冊買ってきて、適当なのを切り抜き、そいつを何の順序、脈絡もなく、ベタベタと巻物に貼っていったのであろう。こいつを、子供はおろか大の大人まで、お金を払って懸命にのぞき込んでいる。
その「ヨーロッパ」という見世物に、イランの庶民の哀歓のすべてがあった、と言っては言いすぎであろうか。彼らの「西洋」への憧れ、豊かさへの、文明への憧れがそこにはある。それは裏返して言えば、そうしたライフか何かの広告の切り抜きにも眼をみはり、羨望の息をつくほど、彼らの生活が貧しく、惨めで、文明からかけはなれたものであることを示しているのであろう。「ヨーロッパ」を見る者のあるものは、古タイヤのキレハシでつくった靴をはいていた。あるものはボロをまとっていた。しかし、私は言っておかねばならない。石油の国イランは中近東でもっとも豊かな国であり、たとえその富が少数者の手ににぎられていようとも、庶民の生活水準でさえもが、アラブ連合に比して、そしてもちろんインドに比して、はるかな程度にまで豊かなのである。たとえばインドでなら、先ずたいていが靴をはいていないだろう、いや、カルカッタで私が共に寝た連中のなかには、ボロさえ身にまとっていない者がいた。わずかに腰のまわりに色のすでにさだかでない三角形の布をまきつけた老人たち、中年男たち、若者たち――
テヘラン市のスラム街に、英語でいうと「ニュー・シティ」と称する一画があった。大阪を思い出すね、とガロウェイは言った。私はアメリカで彼に大阪の「新世界」へ行くことをすすめ、彼は大阪に着くとすぐそうしたのである。大阪の「新世界」(ガロウェイは、それを「ニュー・ワールド」という英語で記憶していた)、あるいは東京の浅草のごとく、「ニュー・シティ」は庶民の歓楽街だった。中心に土塀をはりめぐらしたかなり大きな遊廓があり、そのどまんなかに、どうしたわけからか、「コジキ劇」を専門に上演する小さな劇場があった。私とガロウェイは、ともに、その劇場のファンになった。
「コジキ劇」という意味は、どんな劇であれ、必ず劇のなかにハジフルーズと称するコジキが出てくるからである。コジキといっても、日本の三河万歳か何かを思い出してくださるとよい。踊ったり歌ったりしながら旅行している一団である。言うなれば、ハジフルーズは、劇の道化役であった。劇の主題は雑多であったが、伝統的に、ハジフルーズが出てくることになっているらしい。
私とガロウェイは、一座のひとたちとたちまち親しくなった。一人として英語など解する者はなかったが、そこはガロウェイの教え子がときどき通訳として出張して来てくれたので助かった。劇団といっても、お祭りのときにやってくる旅まわりの一座といったところだ。オヤジがいて、そいつが座頭で、オヤジの娘が主演女優で、そのボーイ・フレンドがハジフルーズ役のイラン・チャップリンで――だし物は、毎日、変った。脚本はどうするのだと訊ねたら、座付作者がひとりいるという。会いたいものだと申し込んだら、もうあなたがたは会っているはずだという。よくきいてみたら、切符のモギリをしている貧相な中年男が、座付作者であった。
彼と改めて対面した。ガロウェイの教え子が、こちらはアメリカの詩人と日本の作家であると紹介した。そのもったいぶった紹介に、私とガロウェイの同業者は蒼くなり、ふるえ出す始末であった。でも、とにかく私たちの質問にのろのろと答えた。
彼はもとは床屋だったのだという。芝居好きで、連日この劇場に通っているうちに、家業は左前となり、あげくのはて、ずるずるとこの道に入り込んだのだという。一日に一つは脚本を書くと言った。これには驚き入った、それこそ、大量生産で有名な日本の文学者諸氏も顔負けの話である。どのくらいの長さかと反問したら、ここに今一ヵ月分の脚本を持っている、と言いながら、胸ポケットを叩いた。マイクロ・フィルムじゃあるまいし、そんなところへ一ヵ月分が入るものかと思ったら、そこから出てきたのは、ボロボロの手帳であった。そいつを開いて見せてくれた。およそ一頁に一つあて、脚本と称するものが書かれている。つまりは、それは筋書きにすぎないのである。
私とガロウェイの推測するところは、次のごとくであった。このもと床屋のわれわれの同業者は、ちょっとした筋書きを役者たちに伝授する。おまえは主演女優と恋愛して、失恋して、身を投げる、投げかけるところを、ハジフルーズの道化と機転で救われるのだ、といった程度のことなのだろう。セリフは役者が、てんでにでまかせを言っているのにちがいない。工合が悪くなったら――私がそのことを訊ねたら、モギリ兼座付作者氏は「幕を下ろします」と、てんたんとして答えた。
この劇場は、前にも述べたように「ニュー・シティ」の遊廓のどまんなかにあった。あんなところをうろついていると殺されるぞ、と誰にでも言われたから、よほど、そこはこわい所であったらしい。ときどき、イラン駐留の米軍兵士がやって来るらしいが、本来はイランのお客様用のためのものらしく、私とガロウェイは、娼家の戸口にたたずむ女性たちの注目の的となった。大きな肩かけで顔の半ばまでおおい、眼だけで、われわれ二人に語りかけてくる。
イランを去る前夜、私とガロウェイは、もう一人、フランスの石油技師を連れて娼家の一つに潜り込んだ。紅茶を飲ませてほしいという口実で、娼家の内部を探索しようと思ったのである。
内部は、ポンペイで見た古代の娼家と何ら変らなかった。女は一人あて室を持っている。室の入口には、毛布がたれさがっていて、そいつが扉の役目をする。暗い室内にランプがにぶく光っている。汚れたジュウタンが敷いてあって、客も女も靴を脱いで坐り込むようになっている。横手には、それこそポンペイそっくりの石造りの寝台。
三人は、女の供する黴毒菌がプカプカ浮いているにちがいない紅茶をおそるおそる飲んだ。「今度会ったときは、三人とも鼻カケだぜ」ガロウェイがアホらしいことを言った。女は、なかなかユカイな女であった。ガロウェイと石油技師の話すペルシア語の片言だけが頼りなのだから、会話などもともとありようがない。しかし、それでいて、この女が根っからの善人であることが判ってくるのだからふしぎなものである。もう一人、ヤリ手婆みたいな中年女を加えて(このほうは明らかに相当病状の進んだ黴毒患者と見えた)、五人でガヤガヤやっていたら、不意に毛布が外側からまくり上げられて、警官が一人入って来た。いったい何をしに来たのかと、いささかギョッとしていると、警官氏は紅茶を何杯か飲み、女とだべり、そのまま引きあげて行った。引きあげるせつな、さっきのヤリ手婆女史が素早く銀貨を彼の掌につかませた。つまり、彼はコヅカイかせぎに来たのである。こんなふうに、てまめに娼家を見まわれば、一晩でちょっとした収入になるのにちがいなかった。あとできくところによると、その銀貨は、元来は客が出すしきたりになっている。
おしまいに、ヤリ手婆を除く四人は、それぞれの国の歌をうたった。女に歌をうたってくれと頼んだら、先ずおまえたちからうたえ、と言ってきかなかったのである。
先ず、フランスの石油技師が、「アビニヨンの橋の上で」をうたった。彼は童顔だったから、そのあどけない歌はふさわしかった。負けじと私は、「チイチイパッパ」をうたった。二節目で気がついてみたら、そいつは、いつのまにか「ショウショウ、ショジョジ」に変っていた。石造りのベッドの下にはきっと巨大な魔羅を持った魔狸が潜んでいたにちがいない。ガロウェイは、アル・カポネの歌とか称するものを、えらく気どった声でうたって、女に笑われた。
女は、民謡あるいはそれらしいものをうたった。それは、へんに日本の民謡に似ていた。いつだったか、私は場末の劇場でお神楽そっくりの踊りと音楽をきいて驚いたことがある。正倉院にはペルシア伝来のガラスの器などがあるのだから、お神楽だって、はるばるとペルシアから流れてきたのかもしれない。その民謡だって――そう思うと、私はやたらとユカイになってきた。私はよくイラン北部の何トカ族にまちがわれたが、ほんとうに、私の親類がそこにいるのではないか。私は、何かユカイなこと、面白いことがあると、それを日本語で、それもわがなつかしの大阪弁で言う妙な癖がある。「オイ、オモロイヤナイカ、オッサン」私がガロウェイにそう唐突に言うと、彼はキョトンとして私を見た。もう黴毒菌が頭にきたと思ったかもしれない。
にわかヒンズー教徒聖河ガンジスへ行く
――ニュー・デリーからベナレスへ――
テヘランからニュー・デリーへ飛んだ。テヘランでは出発前日に雪が降ったというのに、ニュー・デリーは、日本の真夏なみの気温であった。インドの三月半ばというのは、すでに十分に、十分すぎるほどに、夏なのである。
ニュー・デリーでの数夜を、私はヒンズー教のお寺で過ごした。
ヒコーキがおくれたせいもあって、私がテヘランからニュー・デリーの空港へ、そこからまたバスで都心に着いたのは、すでに十時近い時刻であった。人影まばらな鋪道をあてもなく歩きながら、安宿をさがしていたら、途中で出会った英語を話す男が(断わっておくが、インドでは誰もが英語を話すのではない。英語を話すのは、全人口のわずか三パーセントである)、おまえは仏教徒だろう、だったらヒンズー教のお寺へ行くとよい、無料で泊めてくれる、と教えてくれた。お寺に泊まるとは風流だ。腹がへっていた私は、日本のお寺が供する精進料理の品々をグウッと腹の底に思い浮かべた。それと、お寺の青畳の美しさ。(あそこへ寝ころがりたい!)私は行くことにした。とにかくタダで泊まれるとは、これにこしたありがたいことはない。
しかし、ヒンズー教のお寺はたしかに私をタダで泊めてくれはしたが、そこには、精進料理も青畳もないのである。お寺というよりは、貧乏旅行者と言えば通りはよいが浮浪者一歩手前のものの収容所であった。規定によれば五日が最高の宿泊日数だが、その一夜だけ他の類似のところで寝てくればよいのだから、みんなここを宿泊所として、どこかへ働きに出たり求職に歩いたりしている。
第一夜のことに話を戻そう。訊ねに訊ねて、クタクタになって、私はお寺にたどりついた。夜空に白いパゴダがくっきりと浮かび上がっている。あのパゴダの下で眠るのかと思うと、えらく夢幻的な気がして、ちょっとうれしくなった。
しかし、これは甘い考えというものである。折よく庭に立っていた係の男に、私は泊めてほしいむね言った。「私は日本の仏教徒であるが……」彼はうなずき、泊めてやろう、と答えた。本来なら大使館の手紙を貰ってきてほしいのだが、それは明日のことにして、とにかく泊めてやるというありがたい答である。私はサンキューと言い、どこに私の寝場所はあるのか、と訊ねた。彼はそくざに、ここだ、と答えた。ここだ、と言ったところで、ここは庭ではないか。私はもう一度同じことを訊ねた。彼はケゲンな顔をして、もう一度、ここだ、と言った。
とたんに、鈍い私にも判った。私の今いるのはインドではないか。ここだ、と言われれば、それはこの庭であり、それ以外の何ものでもない。あたりを見まわすと、いる、いる、コンクリートの庭に毛布を敷いて、老若男女がぎっしりと、いぎたなく眠りこけている。
私は係の男に懇願した。私は疲れている、毛布もない、外国人だ……。深夜を過ぎたころにもう一度やって来い、なんとかしよう、と彼は言った。空腹をかかえて、私はあてもなく深夜近い街路をうろついた。みすぼらしい露店で、アグラをくんだ爺さんが紅茶を売っている。それと、むやみと辛いカレーセンベイ。紅茶とセンベイとで二〇円余。それが、インドでの私の最初の晩餐となった。
晩餐を終えて帰ってくると、さっきの係の男が、とにかく一つ室を確保した、とうれしい返事をしてくれた。ハダシの召使が案内してくれた。彼は英語を話さない。とある室の前で、ここだ、という身ぶりをする。なかへ入る。そこは礼拝堂なのだろうか、だだっ広い室に机が一つ。もちろん、ベッドなどない。ここで眠るのか、私は英語で言った。その英語が判るはずがないのだが、ハダシの大男はうなずき、バタリと大きな音をさせて扉を閉めて出て行った。私は仕方なしに机の上にゴロリと横になり、そこで、インドの第一夜を明かした。
これが皮切りであった。私は、その後、机の上だとか床の上だとか、ついには鋪道の上にいたるまで、いろいろな固形物の上で眠った。インドは面白いところで、ほかの国で、たとえば二階に室があいているといえば、それは、あなたがその上で眠られるベッドがあり、ともかくもシーツとか毛布とかがあるという意味にとってよいだろう。しかしインドでは、そうした「常識」は通用しない。室があるといえば、それはまさに室を意味し、それ以上の何ものでもない。インド人たちはどこへ行くにも毛布をかついで行くのだからそれでよいのだろうが、われわれ異国人は、そんな場合、今言った固形物の上ヘゴロ寝となる。私は背広のままじかに寝ころがり、オーバーをひっかぶるという戦法をとっていたが、おかげで、インド滞在を終えたころには、たださえ憐れだった私の背広は、もうまったくボロ切れのごときものとなっていた。
翌日、私は日本大使館へ出かけた。タダでお寺に泊まるためには日本国政府の保証が必要なのである、と私が言ったら、大使館の人たちは妙な顔をした。そんなへんてこなことを頼みに来たやつは余りいないのにちがいない。そこへもってきて、私のふうていである。髪はボーボー、この暑いのに冬の背広、それもボロボロ、すりきれた靴。
私はとっておきを言った。わが輩は東大を出たのである。フルブライト留学生であった。アメリカはハーバード大学で勉学をした。この三つのおまじないは霊験あらたかであった。日本国政府は、私に大きなハンコつきの手紙を下げ渡されることになった。
お寺では、外国人には特別に一室をあたえるということになっている。それにもう一つありがたいことに、木の枠に帆布を張っただけのものだが、とにかくベッドらしいものまでその室にはあるのである。
私は、今、大きな南京錠を一つ持っている。友人が来るたびに、それが何国製のものであるか当てさせるのだが、いまだかつて正解者に出会ったことがない。たいていの連中が、ドイツ製、イギリス製だろう、と言う。実は、そのあまりしゃれてもいない大きな南京錠は「メイド・イン・インディア」なのである。お寺に泊まるためには、室にはもともと鍵などないのだから、南京錠を買ってこなくてはならない。いや、これは義務であった。南京錠を買ってこないと泊めないと言う。どこに売っているのかと訊ねたら、あそこだ、といって門のすぐ外を指した。なるほど、そこにはカギ屋さんが地べたで商売をしていた。これもまた、ヒンズー教のヒンズー教的な貧民救済事業の一つなのであろう。
こうして二日目から、私も自分の室を持つ身になったが、その室というのが、余り気持のよいしろものではなかった。刑務所の個室位の大きさで、その帆布のベッドが一つあり、それ以外には椅子もなければ机もない、何もない。いや、窓さえがない。扉を閉めれば(外はすぐ庭である)、まったくの夜であった。
しかし、まあそんなことはよろしい。気持がよくなかったというのは、私以前にその室に誰が住み、そのベッドの上で誰が眠っていたかを知っていたからである。日中、何気なくその室の前を通りかかったとき、そのベッドの上には一人の老人がアグラをかいて坐り、何か草のごときものをムシャムシャやっていた。老人は枯木のごとく、あるいは故ガンジー翁のごとくやせさらばえていた。白髪、メガネをかけ、上半身を丸出しにして、オヘソのあたりをグイとにらみつけている。あれは行者にちがいない、と私は思った。ヨーガの大家かもしれないな、とも思った。しかし、行者というものは、あんまり見ていて気持のよいしろものではない。それに一見して、そのオジイさんは肺病やみであることが知れた。見ているうちにも激しく咳き込みはじめ、大きな痰をベッと吐いた。彼はインド中を修行して歩き、病気にかかったのにちがいない。あんな調子では、あいつはレプラにだってやられているかも知れないな、私はそんなふうにも思った。
そのときは、そうして他人事のように御老人を見ていたのだが、夜になって、いざ私に室が配給されることになったら、なんと、御老人の室が私にきたのである。いやとも言えないから、がまんすることにしたが、先ずやりきれないのは、御老人の食い残した草のごときものが室の片隅にうず高くあることであった。私はそれから掃除することにした。
ハーバード大学にいたとき、私は二人のインドからのフルブライト留学生と友人だった。一人は小説家で、もう一人はどこかの大学の英文学の先生であった。小説家といったって、まあ私とどっこいどっこいといったところであろう。ヒンディー語の長篇小説を一冊出版し、それではむろんメシが食えないから、彼もやっぱりニュー・デリーの大学の先生をしていた。私がインドでたくさんの文学者と知己になり、そのうちの一人にお寺から救い出されて彼の家にひきとられたのも、その無名作家の紹介状のおかげであった。
ハーバードでの話であるが、無名作家と英文学の先生は、かわりばんこに寄宿舎の私の室にやってきては、片一方の動静を面白おかしく話すのであった。無名作家が、あるとき、英文学の先生について妙なことを言った。あいつはアメリカへ来てから、ほとんど金をつかっていないというのである。あいつはタバコもすわぬ、お酒はむろん飲まぬ、映画も観ぬ、どこへも行かぬ、おまけに、あいつはインドから食料をしこたま持って来たから食費がほとんどいらぬ。最後のところがどうも腑に落ちないから、詳しくきいてみた。無名作家によると、英文学の先生は何トカ族で、その何トカ族は元来草食性の人種であって、彼は大きなロッカーいっぱいにセンジ薬の原料のごときものを持って来ているのであった。あいつはあれをグチャグチャ煮て、スーパー・マーケットで買って来たミルクをセンジて飲んでいる。あいつが払うのは、そのミルク代だけじゃないか――
私はニュー・デリーのお寺で、行者の残りものを懸命に始末しながら、無名作家のその話を不意に思い出した。なるほど、これは安上がりである。私もやってみようかと思ったが、どうにも食欲がでない。いさぎよく、そのセンジ薬の原料のごときものを掃き捨てることにした。こいつに比べれば、道ばたで売っている妙チキリンなカレー粉の団子の揚げ物だって数等ましであろう。
正直に言うと、インドというところはあまり食物に恵まれたところではない。メシがうまくないという点では、征服者たるイギリスと被征服者たるインドは、まったくよく一致する。どこの国でも、街路の立ち食いが私の普通の食事だったが、インドのには少し閉口した。ハエがむらがっていたりする非衛生的なことは、これはまあ無理ないこととしても(もっとも、インドのはあれは極端である)、やたらと辛いのである。辛いだけである、と言えばインド人諸氏に怒られようか。お金があったらレストランで英国式食事でもとれたろうが、私にはその余裕はなかった。不可触賤民《アンタツチヤブル》諸君と仲よく地べたにアグラをかいて、チャパティと称する原始的ホットケーキをカレー汁に浸してムシャムシャやるほかはなかった。申しおくれたが、彼らは、したがって私も、指で食事をとるのである。カレー汁だって、三本の指で器用に(もちろん、にわかインド人の私はきわめて不器用に)すくいあげる。
パンと称する奇妙な食物があった。インド人はこれなしに暮らせないらしく、どこへ行ってもパン売りがいる。何やらの木の葉っぱに三種類ぐらいの色のついた香料らしいものを入れ、そいつをクルックルッと丸めて口にほうり込む。あれは強いからやめておけ、と言うインド人がいたので、たいして食欲をそそるものでもないので試みずにいたら、ある日とうとう、それを口にせざるを得なくなった。インド人の友人二人と散歩しているとき、彼らが強引に私に試みさせたのである。すすめられた以上、敵に後ろを見せてはならない。彼らは若き作家志望の男であったので、日本の文学青年の名誉をそこなってはならないという一心から、私はそいつを口にほうり込んだ。味もくそもへったくれもあるものか、要するに木の葉を食っているのではないか。その色のついた香料のおかげで口中を真赤に染めながら、とにかく喉に押し込んでしばらくすると、やけに熱いものが喉から口中へ、口中から全身へひろがって行き、頭上にウンザリするほど照りに照っているお日様のごとく、私の体は、真実、燃えた。
お寺のことに戻ろう。
お寺を静かなものと思っては、ことヒンズー教に関するかぎり、大マチガイである。日本のお寺だって、早朝は勤行でやかましいのにちがいないが、しかし、あれだってヒンズー教の大合唱のごときものではないだろう。それに大合唱は、深夜近くまで続くのである。あれには参った。眠ろうと思ったって眠れるものではない。大合唱はそれほどの騒音であった。
ヒンズー教には、いろんな判らないことがある。ちゃちな新興宗教じゃあるまいし、世界の大宗教がちょっとやそっとで判るはずもないのだが、それにしても、たとえばお寺の壁に描かれている宗教画である。たいていのが、神さまが(何という神さまか知らない。ヒンズー教には、ものすごい数の神さま諸君がいるのである)信心薄きやからをこらしめている図であるが、そのこらしめ方が、他の宗教に比してちょっと群を抜いているように見えた。きれいな女神が、血のしたたる男の首を持っていたりする。
しかし、ヒンズー教が判らないといっても、実は、なんとなく判ったのである。へんな言い方だが、中近東の砂漠を見て、ああ、この宗教(回教)はこうした砂漠を背景にして生まれてきたのだな、と合点できたように、インドのあの荒涼たる自然のなかにいると、つまりはヒンズー教というのは、この自然のなかでの人間の存在の確証なんだな、と思えてくる。すくなくとも私個人にとっては、ヒンズー教理解の一つのカギは、そこにあるように見うけられた。ついでにもう一つ言えば、仏教がなぜインドに生まれながら育たなかったか。
一口に言うと、ヒンズー教も回教と同様に、苛烈である。すくなくとも私にとって、またわれわれにとって、そうなのであろう。いや、ガロウェイも同じことを言った。「中近東やインドでは、人々がおたがいを酷烈にとりあつかうね」正直いって、私はバンコックへ着いたとき、何がなしにホッとした。私はビルマへ行けなかったが、きっとラングーンへインドから着けば、同じやすらぎを味わえたことだろう。実際のところ、おしなべてバンコックの人たちのほうがインド人よりも、いろんな点で親切だったが、そんなことより彼らには、インド人にも中近東人にも(そして、たぶん「西洋」人にも)見られない、ある種のやさしさがあった。仏教国だな、と私は思った。
おまえはヒンズー教のお寺にいたのだから、ひとつ、ヒンズー教のメッカへ行くべしだね――インドの友人が冗談まじりにそう語った。ヒンズー教のメッカは、聖なる河ガンジス河畔の古都、ベナレスである。地図を見ると、ちょうどニュー・デリーとカルカッタの中間にある。立ち寄ることにした。
その友人の言によると、ひとびとは死ぬためにベナレスに来る。ガンジス河の水に一度全身を浸すごとに天国での階級が一つあて上がることになっているので、老齢に入るとともに、ひとびとは大急ぎで、このベナレスの地さして巡礼の旅に出るのである。何しろ、その天国の階級というのは三百余あるのだ。急がなくてはならない。
インドじゅうから巡礼者はやって来た。西方パンジャブからだって、南方デカン高原からだって、北方はヒマラヤのふもとからだって、彼らの群れは切れ目なく続く。お金のある連中はインド国営航空のダコタ機で、ない連中は汽車で来る。後者の幾割かは、無賃乗車者であった。汽車が駅近く速力をゆるめたころを見はからって飛び降りるか、あるいは、改札口で駅員に土下座、合掌するのである。
やっかいなことが一つあった。彼らは死ぬためにやって来たのだが、死のほうが意地悪をしてなかなかやって来てくれないのである。待っているうちに、待ちくたびれているうちに、わずかの所持金をつかい果たし、必然的に、彼らはコジキとなる。聖地ベナレスはコジキの街でもあった。
コジキは街のいたるところにいた。ことに、ガンジス河に降りる石畳の道は、どれをとってみても、コジキの列を避けることはできない。そこを通るには、こんなことには慣れっこになっているはずのインド人でさえ、いささか勇気が要った。彼らは一様に老いさらばえている。平均寿命がたしか三十一歳だとかいうこの国では、実際にはそうたいした年でもないかもしれないが、行きずりの旅行者である私の眼には、みんなえらく年をとっているように見えた。たいていの連中が、何かしら病んでいた。肺病、レプラ、寄生虫病、皮膚病、あるいは赤痢、チフス、etc、etc――
ベナレスはまた動物の街でもあった。先ず、聖なる生きもの、牛がいた。インド各地はどこでも牛の洪水だが、ことにベナレスには多かった。狭い街路をわがもの顔に横行し、ところきらわず、ハイセツ物をまきちらす。次いでは、野良犬がいた。わんさといた。あれで狂犬病がべつに流行していないのだから、そこが聖地の聖地たるユエンであろう。野良犬はコジキの食物を奪いにくる。一度、巨大な犬と対照的に小さくちぢこまった老婆が、残飯の奪いあいをしている壮絶な光景を見たことがある。第三には羊である。羊は群れをなして歩いた。第四には象である。薄汚れた象ではあったが、やはり象は立派である。背中に荷物を積んでいたから、運搬用トラックの役割を果たしていると見えた。第五には、いや、これを第一にあげるべきだったかもしれない、ハエである。これだけの熱気と不潔があって、ハエの大群が生じなかったら、それは奇跡というものであろう。私は例によって露店の食い物屋で食事をとっていたが、あるとき、こんなことがあった。インド特産の白いチーズ菓子に点々とゴマのようなものがまぶしてある。ちょっと変ったチーズ菓子だなと思って手を出したら、そのゴマとおぼしきものが、ワアッといっせいに中空に飛び立ったのである。古い中国では、ハエがたかるほどその食物は美味なのである、という考えがあったそうだ。私もそれにならって、いや、ほんとうのところはオナカがペッチャンコだったのである、そのチーズ菓子を敢然とほおばることにしたが、やっぱり、あまり気持のよいことではなかった。
だいたい、ここでは、ひとは衛生とか不潔とかについての考えを改めなければならない。ガンジス河に身を浸せば天国の階級が上がるというが、あれは茶色の泥河なのである。泥河そのものならまだよろしいが、いろんなものがそこには混入している。たとえば、水浴している男のすぐ横の岸辺で、婆さんがウンコをしている、子供がオシッコをしている。と思うと、聖河の水をくんで炊事をしている。顔を洗い、歯を洗い清めている。その横では水浴、ウンコ、炊事、オシッコ、洗濯、水浴、オシッコ、炊事、ウンコ、顔を洗い、歯を洗い清め……
* * *
ベナレスでは、ある出版社の二階に泊まった。聖地ベナレスは、ヒンディー文学の中心地でもある。私の友人の前記無名作家の本を出した出版社がここにあったから、私はこれ幸いところがり込んだのである。二階に室があると、編集者が言ってくれた。もちろん、室そのものだけがあった。倉庫兼用のだだっ広い室。私はまた机の上で眠った。枕にしようと思って手あたり次第にそこらの本をとりあげたら、そのなかに、私の友人の本がまじっていた。本といったって、すべてがヒンディー語で書かれているのだから読めるはずがない。ただ友人のは、カバーの絵で覚えていたのである。マラリア蚊の侵入に悩まされながら、私は、まだアメリカにいるその友人に手紙を書いた。おまえの本をマクラとして、これから眠るところである、と――
ここでちょっと脱線して、インドの文学事情について書いておこう。これは、すでに堀田善衛氏(はインドでかなり有名であった。ことに、彼のすばらしい「プーア・イングリッシュ」とケンカによって)の著書にも書かれていることだが、むやみやたらと言語があり、それぞれがそれぞれの文学をもっていて、すこぶるややこしい。
もっともいばっているのは、カルカッタを中心とするベンガル語の文学である。詩聖タゴールはその大立物であった。その伝統を受けついで立派なものをつくり出している、というのはベンガル語派の見解であって、ヒンディー語のある作家に言わせると、みんなタゴールの重みでふらふらになっているのさ、であった。
次いでベナレス、ニュー・デリーを中心とするヒンディー語文学。ヒンディー語の社会では、文学は人気がないということであった。カルカッタではインテリもベンガル語の文学を読むのに、ここではインテリはイギリスの文学を読む。家庭の主婦とかミーチャン、ハーチャンがヒンディー文学の主な読み手になっているというなげかわしい現状である、ということだった。ヒンディー語の英訳された本を買おうと思って、ニュー・デリーの主な本屋をかけずり歩いたのだが、たいていのところが置いていないのであった。そのくせ、イギリスやアメリカの三文小説ならウンザリするほどある。
第三に、ヒンディー語と重なり合って存在するウルドゥー語の文学。第四に、南部のマラティー語、タミール語の文学。ウルドゥー語のはまだいいとしても、第四のものになると、ニュー・デリーでは誰もその文学事情の詳しいことを知らぬのであった。どんな文学雑誌が出て、誰がえらいのかさえ。ヒンディー語への翻訳がないから、という理由であった。ベンガル語文学のことだって、翻訳があるからこそ判るのであった。反対にカルカッタでは、ニュー・デリーの文学のことなど、みんな余り知らなかった。
それともう一つ、英語で書く一派がある。この一派は、どこの地方へ行っても、非英語の作家から微妙な反感をもたれていた。私がニュー・デリーである作家の名前をあげ(これはガロウェイが紹介したものであった)、これから会いに行くのだと言うと、私の友人は露骨に不ユカイな顔をした。「あれはインド人じゃない、すくなくともインドの作家ではない」彼はそうまで極言した。
面白いのは、その彼がカルカッタの文学者として紹介してくれたのは、なんと英語で書く詩人であった。その連中をもくして、カルカッタのベンガル語の文学者たちは、やっぱり「インド人でない、インドの作家でない」と言った。カルカッタに関するかぎり、英語で書く連中は、英国で教育を受ける機会に恵まれた上流階級の子弟と見えた。それに反して、ベンガル語のほうは、まあ私と同程度のクラスから出てきたのであろう。ベンガル語の文学者と出かけるときは、たいていはバスか市電だが、英語のほうは自家用車の場合が多かったようである。その英語のほうのある人に、現代インド文学で読むべき小説は何か、と訊ねたら、いくつかの小説の名前を教えてくれたあとで、彼は一言つけ加えた。「しかし、われわれはまだオサム・ダザイのごとき文学を生み出していないのである」彼は「オサム・ダザイ」の英訳本を最近に読んだのだが、私はちょっと返答に困った。
ベナレスの話に戻ろう。
インド一般が早起きの国であるが(文学者だって、六時半か七時には眼をさましているのである)、ベナレスでは、ことに夜が早く明けた。ニュー・デリーのお寺での鳴物入りの大合唱がかなわなかったことは前に書いたが、ベナレスは聖地だから、街ぜんたいがお寺なのである。ガンジス河のほとり、ひとびとは大音じょうをはりあげて、聖歌(たぶん聖歌であろう)をうたう。そいつが、河からかなり離れたところにある出版社の二階まで響いてきて、目ざまし時計の役目をする。
ガンジス河畔には、コジキのほかに行者がいた。もちろん行者だってお金をゆするのであるが、彼らはそんなとき、必ず英語で"I am a saint"とのたまうのであった。そこが主な違いであろう。河畔のゆるやかな階段には(その階段のことを「ガット」と言った)つくりつけのビーチ・パラソルのような大きな傘がたちならび、その下で、行者はオヘソを眺めてひねもす暮らす。詩人も傘の下にいた。ひとびとを集めて詩を読み、物語を読んできかせる。私もインドに生をうけたなら、きっとそういった詩人になっていたであろう。
河畔には、かの有名な露天の火葬場があった。二〇メートル四方ばかりの石畳みの台地に、三つか四つ、タキギを積み重ねて火葬を行なう。先ず死体がくる。死体はエジプトのミイラよろしく、白布か何かで先細の長い三角形のかたちに包んであった。そいつを船に乗せて聖なる河の河上に出る。そこで、天国での階級が最高位にまで上らんことを希って、死体の浸水式を行なう。それをすませると、いよいよ燃えさかるタキギの上におくのである。何時間でいったい灰になるのか、私は知らない。私が見ていたとき、一つのタキギの山は準備中であり、一つはしきりに白煙をあげ、もう一つ、かつてはタキギの山があったとおぼしきあたり、一人の男が乱暴にホーキで灰を河中に掃き落していた。あんなふうにして、かつての肉体は聖なる河ガンジスに呑み込まれて行くのであろう、塵や芥とともに、また岸辺の人間と動物のたれ流したハイセツ物とともに。
それは、いささかモーレツな光景であった。まださかんに白煙をあげているタキギの山のすぐ横に、薄汚れた聖なる白牛が寝そべり、やがてのっそり立ち上がったかと思うと、轟然たる音響を発しながら小便をたれはじめた。その横には、飛び散る小便の飛沫をさけようともせず、骨と皮だけになった老人が、精も根もつきはてたようにうずくまっている。この途方もなく古い国の太古から、老人は、おそらくそうやってそこにうずくまり続けてきたのであろう。老人の背後には、老人同様に骨と皮にやせさらばえた子供が、残飯らしいものをガツガツと食っている。その子供の食欲の激しさは、かなり離れたところにいる私にまで執念のように響いてきた。そして、かつての肉体だった灰がまきちらされて行くあたり、男が水浴し、女が洗濯し、子供がそこでも小便をたれている――
これがインドなのだ。タキギの火の照りかえしのまっただなかで、私は、そんなことをぼんやりと思いながら茫然と立っていた。そのあいだにも、入れ代り立ち代り、行者やらコジキやらがお金をせびりに来たのだが、私はもう気にもとめなかった。しばらくたって、私は視線を上げた。そこに、ゆったりと、聖なる大河があった。流れていた、というより、それは、あった。それこそ、たしかに、太古の昔から、それはあったのであろう、ありつづけたのであろう。そして、おそらく、いや、たしかにそれは、これからも、ありつづけるのであろう。
不可触賤民《アンタツチヤブル》小田実氏
――カルカッタの「街路族」――
カルカッタに着いて数日後、私の財政状態は最悪のものとなった。洋式ではなくインド風のものであったが、とにかく「ホテル」と名のつくものに泊まったのがいけなかったのである。ポケットには、まだ三千円足らず持っていたが、インドのあとには、バンコック、ホンコンがひかえている。ついに、街路上にゴロ寝という最低なことになった。
インドのことについて少し読めば、ひとは誰でも、インドの大都会で街路上に眠る家なき民たち(それは実際行けども行けどもつきぬ感じであった)の記述に出会うであろう。堀田善衛氏によれば、ボンベイ駅頭でそいつを目撃したとき、あるアジアの社会主義国から来た友人は、「ネルーの社会主義はいったいあれはなんなのか」と怒り出したとのことであった。加藤周一氏も、ホテルの前にたむろする街路族の姿を見ることは苦痛だった、と述べている。そして、彼の同行のある美しいインドの夫人が、美しいサリを微風にひるがえして、ゆうゆうとまるで空気のなかを歩いて行くように、その風景をまったく無視し去って行くのに賛嘆の声を発している。
私もそうであった。かねがねきいていたことではあったが、ニュー・デリーではじめて「そいつ」にお目にかかったとき、やはり、眼をそむけた。そしてまた、私の友人知己だったインドの知識人が、街路族に対してあたかも空気に対するごとくしているのに賛嘆もしたのである。ときには、街路族は拾われて彼らの召使となることもあるのだろう。あるところで、アメリカの人種問題を論じながら、ときどき姿をあらわすハダシとボロの召使の姿に、妙に居心地わるいものを感じたことを、私は今も明瞭に記憶している。
センチメンタリズムと言ってしまえばそれまでである。いや、カルカッタで実際彼らの群れに身を投じるまで、私の彼らにたいする感情は、やはり、たんなるセンチメンタリズムにすぎなかったのかもしれない。
わずかに二夜のことであった。そして何ごとも起らなかった。が、何ごとも起らなかったがゆえに、かえって、私にはその二夜を忘れがたいものにしている。
一夜目はまだよかった。私は好奇心のトリコになっていた。彼らはどのようにしてベッドをつくるのであるか。ベッドをつくると書いたが、それは極端に上等な言いまわしであろう。彼らはべつに何ものをもつくらないのであった。薄汚れて色もさだかでないシーツもしくは布切れのたぐいを顔の上までかぶって横たわる。それはそのまま、ベナレスの火葬死体を思い出させた。
もっとも、シーツもしくは布切れがあるのは、それだけで財産があると言うべきであろう。ハダカで寝ている連中もあった。腰のまわりに、ほんの申しわけ程度に三角形の布切れをまとっただけである。私はオーバーを持ち出していたから、それだけで、街路族のなかでは、まさに大ブルジョアというべきであったろう。私は適当な空間をえらび、腰を下ろした。隣りの目やにのいっぱいたまった老婆が妙な顔で私を見、何か言ったが、それはもちろん英語であり得なかったから、傲然と無視することにした。彼女は、ヒマラヤの奥から来たネパール人か何かのように思ったのにちがいない。
露天で寝ると、しきりに、ギリシア船の「奴隷クラス」のことが思い出された。あれに比べれば、寒くないだけましかもしれない。話相手はいなかったが、私はべつだん寂しくもなかった。自分で自分のすばらしい経験に興奮したのか、かえって気分がよろしいくらいであった。それに私は適度に疲れてもいた。私は眠りはじめた。いつのまにか私は一張羅の背広の背中をじかに大地にあてて、眠りはじめていた。オーバーをかぶり、ベナレスの火葬死体のごとく、はたまたエジプトのミイラのごとく。
朝がきた。街路族はいったい何時に起きるのか。私は正確な時刻を知らない。前にも書いたように私の時計はここ五ヵ月眠りつづけであった。インド一般が早起きの国で、夜もまためちゃくちゃに早く明けたから(すくなくとも私にとってはそう思われた)、それはむやみやたらと早い時刻であったにちがいない。第一、喧しくて眠ってもいられないのだった。交通妨害にもなる。起きると同時に、私がまわりの街路族の注目を浴びているのを知った。私は用心してオーバー以外の何ものも持たなかったから(スーツケースはヒコーキ会社の事務所に鎮座していた)、彼らはべつに私の何かを狙っていたわけでもないだろう。といって、べつに親愛の情を示すのでもない。私はそそくさと立ち上がり、あてもなく歩きはじめた。
奇妙な一日であった。ころあいを見はからって、ヒコーキ会社の事務所へ行った。スーツケースから下着の着がえを取り出すためである。ついでにバンコック行のジェット機の予約をした。係の男が、どこにお泊まりですか、と訊ねた。私は思わず絶句した。絶句したあげく、私はバカなことを言った。私が寝た街路近くにそびえる何トカ・ホテルの名をあげて、「その近くだ」と言ったのである。「いったいどこか」杓子定規の典型のようなインド人にふさわしく、彼はあくまで正確な住所を要求した。私は、アメリカン・エクスプレス気付にしておいてくれ、と慌てて答えた。まさか街路の上で寝たとは、私のようにきわめて愛国心に富む日本国民には言えないであろう。
ヒコーキ会社の事務所を出てから、朝食。もちろん、これも街路上でである。それから、当のアメリカン・エクスプレスへも行った。私は各国に散在するエクスプレスなる旅行業者をよく利用したが、利用の最大の目的は、事務所のトイレット使用にあった。容易に想像できることだが、私の泊まるようなところはすべてトイレットの設備が極端に貧弱で、見ただけでトイレット欲が減退してくるのであった。それで、私はいつも、アメリカ式トイレットの完備したエクスプレスへ出かけることにしていたのである。
むろんのこと、カルカッタの街路にはトイレットの設備は存在しない。私はアメリカン・エクスプレス・カルカッタ支店のしごく快適なトイレットでシャツを着がえた。実はその日、私はベンガル語の詩のほうでとてもえらい人に会うことになっていたのである。
彼との会見はたいへん楽しかった。私と彼はタゴールについて語り、タゴールの日本への紹介者で後に軍国詩人と化し、それで終った男のことに触れ、ついでどうして日本人はあんなに英語を喋るのが下手なのかについて、その下手な英語で熱弁をふるい、彼になるほどと言わせ、そのまま日本の政治情勢の話となり、インドの問題に移り、中国が登場し、パキスタンが出現し、それではビルマは、インドネシアは、ということになり、つまりは全アジアが顔を出し、とどのつまり、アジア最大の問題「貧困」とあいなった。私は十分に楽しかった。ハダシとボロの召使がここにもいたが、あまり気にならず、私は浮き浮きとさえしていた。「貧困」も抽象的話題にとどまるかぎり、それは知性にとっての一つの体操であろう。私はみちたりた気持で、彼と別れた。
しかし、夜は、あいにくなことに、全インドの知性を代表する彼と会ったのちにも、全日本の知性を代表する私の上にやってくるのである。夜が更けてゆくにつれ、私は次第に元気を失って行った。先ず一つ、小事件があった。あるホテルの前で腰を下ろしたとたん、ホテルの掃除夫からじゃけんに追い立てをくったのである。掃除夫といえば、おそらく例の不可解賤民《アンタツチヤブル》か、よくてせいぜいカーストの最下層にとどまるであろう。私は追い立てをくったことに怒り、そうした連中に追い立てをくったことでより一層怒っている自分(私は人種的差別や階級的差別、ましてこのばかげたカースト制度などに強く反対してきたはずであった)に、また腹をたてた。私は何かたまらなくユーウツになり、あてもなく夜ふけのカルカッタをさまよったのち、とある街路の片隅に精も根もつきはてたかたちで身をのばした。霧のようなものがいちめんに立ちこめ、街灯の光も鈍く弱い。それは霧ではなかった。砂埃だったのである。砂埃の底に夜のカルカッタは沈み、そのカルカッタの底の底に、私もまた沈んでいた。
蒸し暑い夜であった。余り疲れはてていたせいか、眠くもなかった。私は弱っていた。こんなにおれは弱くなかったはずだと自分を励ましてみたが、無駄だった。たぶん私の健康はもうムチャクチャになっているのだろう、と私は思った。カルカッタにはおよそ人類の罹り得るすべての病いがある、だからおれはここへ勉強に来たのだ――ナイジェリアからカルカッタ大学へ留学に来た男が先日言ったことだが、それが、悪いことにそのとき私の胸によみがえってきた。コレラ、チフス、肺病、マラリア、そして、レプラ。私はレプラの病者に街路で何人も出会ったことを思い出した。昨日の老婆もそうだったかもしれない。いや、すぐ五メートルわきに眠りこけている老人とも青年ともつかぬやせさらばえた男も、手に薄汚れた繃帯をしているところを見ると、きっとそうなのであろう。私は怖くなり、ユーウツになり、おしまいには泣き出したくさえなった。これが、なるほどアジアの「貧困」か――クソクラエと思った。今ごろ、あの全インドの知性代表氏は、ハダシとボロの召使につくらせたベッドでスヤスヤと眠っていることだろう。私は楽しいことを考えようと努めた。やたらと蒸し暑かったせいか、私はしきりにヨーロッパはコペンハーゲンのあの冷涼たる大気をしきりに思った。いま金さえあれば、おれはすぐにでもコペンハーゲンさして旅立つであろう。そしてふたたび、金髪と真白い肌の少女たちと楽しく遊ぶであろう。アジアの「貧困」などクソクラエではないか。勝手にしやがれと思った。私はコペンハーゲンの、あの清潔で豊かな「スラム街」のことを思い出しながら、何ものかに対して、しきりに腹をたてた。スラム街さえが、私がうかうかと見過ごしてしまうほど清潔で豊かな都市、コジキのたぶん皆無な国――そして、いま私が眠ろうと必死に努めている都会カルカッタは、おそらく世界最悪の都会であった。人口六百万、ひとにぎりの大金持と無数の街路族、コジキ。暑さと病気と、そして何よりも貧困。ここに存在するのは抽象的、カッコつきの「貧困」ではなくて、なんの形容詞も虚飾も誇張も必要でない、むき出しの事実としての貧困、それ自体であった。正直に書こう。私はコペンハーゲンを思い、金髪と真白い肌の少女を思い、そのコペンハーゲンのスラム街をさえ思うことで、ようやくカルカッタのその一夜を堪えた。
それは、やはり、ショッキングな経験であった。こうまでむき出しの途方もない貧困に、こうまでむき出しに、私は立ちむかったことがいまだなかったのだ。そのときほど、私はものごとを外から見るのと内から見るのとの違いを身にしみて感じたことはなかった。私はこんなことを言っていばっているのではない。あの途方もない貧困を身をもって体験した、などとおこがましく言うつもりもない。私は貧乏で街路に寝はした。が、私はたんなる行きずりの旅行者にすぎなかったのだ。私は逃げ出そうと思えば、いつだって逃げ出せたのである。げんにそのときも、私はバンコック行のジェット機の予約をすませたばかりではなかったのか。
私の書きたいことは、そのときに私が胸に感じたことについてである。それは、一口に言って、もうこれはタマラン、ぜがひでも、何がなんでも、ここから逃げ出したい気持、いや、激しい欲望であった。
こう書いていても、私は気の進まぬのを覚える。私はなんという卑怯者だろう。ベンガルのえらい詩人とアジアの「貧困」を論じたとき、私はあんなにも雄弁であったではないか。それがいざ貧困に直面すると、眼をむけるどころか、背を向けて一目散に逃げ出そうとする。貧困のまえで眼を見ひらいて、問題の本質をみきわめようともせず、コペンハーゲンとか金髪と真白い肌の少女とか、要するに「西洋」に自分をゴマかそうとしている。それが卑怯でなくて何だ。私にはその自分の声がきこえる。そして、その通りであると思う。つくづく思う。
アジアを見るということは、私にとって、まったく自明のこと、理由をことさらに述べたてる必要もないことであった。しかし、それは同時に、どこか宿題くさい、もっとはっきり言えば、義務くさい自明であった。そして、もう一つ言えば、この「アジア」というコトバは、中近東はおろか、アフリカをさえそこにふくんでいる、と言えば、私の意味するところは、すでにお判りであろう。
アメリカやヨーロッパに出かけるとき、われわれ日本人は、たとえば「片雲の風にさそわれて」というような表現で、自分の旅を言いあらわすことができるだろう。アジアでは、しかし、そうはゆかないのではないか。われわれがアジアに対するとき、そこにそうした表現であらわし得ない何ものかがある。その何ものかは、きっと、やたらと重苦しいものであろう。決して軽やかに片雲の風に吹かれる筋合いのものではないのである。
つまり、アジアでは、われわれは純粋に物見遊山に耽ることも、自分ひとりだけの想念に没入することもできないのではないか。「西洋」人なら、眼前の遺跡なりお寺なり何なりを、その背後あるいは門前にひろがるもろもろの諸現象からそこだけ切り離して見ることができる。一口に言えば、街路族の存在を空気と化し去ることができる。いや、それだけでは正確ではない。街路族さえも、その風景に不可欠なものとして、風景の一部として、たとえば審美的に、あるいは社会学的に、鑑賞《アプリーシエイト》することができる、そう言うべきであろう。
たとえば、アジアの文化を語るとき、われわれは、それを「文化」のタームだけで語ることができない。すくなくとも私には、それもカルカッタで二夜を街路で過ごしたあとの私には、それはできない。その二夜のあと、私はカルカッタの美術館を訪ねた。期待していた美術館ではあった。が、その日の私は見ていないのと同然であった。私は、たとえば加藤周一氏などとちがって、よほど頭のできが悪く、また途方もなくセンチメンタルなのであろう。インドの現実を見た眼を、美術館に足を踏み入れた瞬間に、ガンダーラ彫刻向きのそれに切りかえることができなかったのである。私の脳裏にたえず街路族のことがあり、カーストがあり、貧困があり、イギリス帝国主義があり、おまけにそのときには南ア連邦で黒人虐殺事件なるものが起り、ネルーがそれをインドでイギリスがやった何トカいう虐殺事件と同じであると激しく攻撃していた矢先だったから、血まみれの黒人あるいは街路族の姿が眼にちらつき、要するに私は何も見ていないのと同じであった。
「西洋」でなら、かくも頭が悪くセンチメンタルな私も、もっと自由にものを見ることができた。スペインのコルドバの町外れで、インドほどではむろんないにしても、ヨーロッパではなみはずれた貧困を目撃したときも、私は眼をそむけなかった。私の例の旺盛な好奇心は活発に動き、言ってみれば、私はその貧困をコルドバのカテドラルを見るのと同じ眼で眺めていたのである。貧困もまた一種の不可欠な点景物ではないか。それはカテドラルに、いかにもスペインらしい興趣をそえた。
メキシコでこんなことがあった。メキシコの進歩的哲学者とアメリカの無邪気な女とのあいだに、「|お盆《トウレイ》」についてひともんちゃくあったことは前に書いたが、それとはべつの機会に、またもや一騒動がもちあがった。きっかけは、女がペルーへ行ってみたいと言ったことからだった。アメリカ人は妙にペルー、ことにその首府リマがことのほかお気に召すらしいが、彼女は一枚の写真を取り出し、すばらしいではないか、これが自分がペルーへ行きたい理由である、とへんにかさにかかった言い方をした。摩天楼のそびえたつリマの近代的街景を背景に道ばたにうずくまる、疲れきった半裸のインディアン。とたんに、進歩的哲学者が怒り出した。いったいこの写真のどこがすばらしいのであるか。ここに憐れなインディアンがいる。金もなく職もなく、ここにこうやって放り出されて途方にくれて坐っているのではないか。あんたがたアメリカ人は、われわれの生活のなかに貧しさ、悲惨さを見つけるたびに喝采する。まさにこれこそペルー、これこそまさにメキシコらしいもの、オー、ワンダフル、ワンダフル。あんたがたは、そのインディアンが五千年前と同じ原始生活をいとなんでいたら、もっと満足するであろう……
彼女の示したのは、それはそれなりに美しい写真であった。だから、進歩的哲学者の怒りも、たぶんに理不尽で公式主義的な怒りであった。私は、彼自身がその写真を内心では美しいと認めている、あるいは認めたがっていることを知っていた。が、彼は何か怒らずにはいられないのだ。私には彼のその気持が通じた。美を美として切りはなし得ないところに、彼は、またメキシコという一個の「後進国」は、立っているのだ。そんなふうに、彼の気持は私に通じた。ひしひしと通じた。
アジアの問題は、貧困が途方もないという点で、後進性がメキシコの比較にならない点で、「西洋」の支配から脱しはじめたのがつい昨日のことであった点で、その他多くの点で、より深刻であろう。ことは美についてだけではない。アジアの事象というものは、すべて一つ取り出せばズルズルと芋づる式にもろもろのものがつながって出てくるのであろう。逆の言い方をすれば、われわれは何であれ必ずや問題の底まで降りて行かねばならなくなる。そして、底まで降りて行けば、そこに必ず、眼をそむけたくなる、背を向けて一目散に逃げ出したくなる何ものかがあるのではないか。その何ものかは、つまるところ、貧困、抽象的カッコつきの「貧困」でない、むき出しの事実としての貧困、それにほかならないであろう。
私はさっきアジアを見ることは私にとって自明のことであったと書いたあとで、しかしそいつは宿題くさい義務くさい自明であった、とつけ加えた。告白すれば、それはいささか気の進まぬことでさえあった。私はアジアを見る前から、そのむき出しの事実としての貧困につき当ることを本能的に予想し、恐れていたのだろう。それが私の気を重くさせていたのにちがいないのだ。もう一歩突っこんで言えば、私は、自分が眼をそむけ逃げ出したくなるのを、前もって見ぬいていたのかもしれない。
たしかに、私は逃げたいと思った。しかし、逃げ出して、どこへいったい行くのか、行けばよいのか。「西洋」人なら、コペンハーゲンに、金髪と真白い肌の少女の腕のなかに、要するに「西洋」というもののなかに帰って行けばよいのだろう。しかし私は、アジア人である私は、アジアに帰って行くよりほかはないのだ。私の所属する日本をふくめて、アジアはアジアの底へ降りて行かねばならない。降りて行くより仕方がないのだ。そこに待っているものが、たとえむき出しの事実としての途方もない貧困であるにせよ、われわれは、そしてわれわれだけが、それに正面きって対さなければならないのだろう。私は、カルカッタで、バンコックで、ホンコンで、そしてより一層明確なかたちで、たぶん九州島らしい島影を飛行機の窓から望見したとき、そう思った。それは、重苦しくやりきれぬ、こういう言い方が許されるなら、そのこと自体から眼をそむけ逃げ出したくなる、そうした決意であった。しかし、それはたしかに決意ではあった。そうであることにちがいはなかった。
アミーバの偽足
――むすび・ふたたび日本島へ――
カルカッタから、予定どおりバンコック、ホンコンを経て、四月初め羽田に着いた。ほんとうなら、カンボジアにもベトナムにもたちよるつもりだったのだが、その余裕はなかった。先ず、ビザが高すぎるのである。ベトナムのは、それだけで、私の所持金すべてを上まわる金額であった。政治家が「アジアはひとつなり」というようなことを本気で考えているなら、日本とヨーロッパ諸国で今行なっているように、相互でビザ廃止の文化協定でも結ぶ努力をしてみたらどうなのか。すくなくとも、ビザの値段を安くする(これはおたがいが同金額ということにあいなっている)ことぐらいはできることであろう。
バンコックから日本航空のヒコーキに乗った。とたんに、日本が始まった。なつかしい日本語、まぎれもなく日本女性であるスチュワーデス――しかし私に、ああこれは日本のヒコーキだわい、と思わせたのは、奇妙なことに「アロハ・オエ」であった。ヒコーキが滑走路に出て、管制塔からの離陸の指示を待っているあいだ、日本航空はマイクを通して、親切にもハワイ音楽を耳に送り込んでくれた。私はいろんな国のいろんな会社のヒコーキに乗ったが、こんな鳴物つきのヒコーキはまったく初めてであった。とたんに私は、日本では、田舎の小駅へ行っても、汽車が動き出すと「蛍の光」か何かをマイクを通してガアガア奏しはじめるのを思い出した。いや、それにもまして、ああ日本だな、と思わせたのは、その「アロハ・オエ」という曲目であった。逆説的に響くかもしれないが、それが「佐渡おけさ」か何かだったら、それほどまでに私は「日本」を意識しなかったかもしれない。すくなくとも、われわれがそのなかにまきこまれ生きている現代の日本、その象徴である東京を――
「アレハ日本ノ音楽デアルカ?」左横に坐っていた世界早まわり旅行中のドイツの新聞記者が訊ねた。右横の、ホンコンの夫のもとに急ぐ赤ん坊を連れたデンマーク婦人も同じことを言った。私はかぶりをふり、それから慌てて、「ソウダ、スクナクトモ、モウソノヨウニナッテイル」と答えた。
私のコトバは嘘ではない。もうひとつ、ケッタイナな話を書いておこう。東京に帰りついてしばらく、私は日本食ばかり食べていた。スシ、ウナギのカバヤキ、テンプラ、スキヤキ、ナメコのミソ汁、オムスビ……それぞれに日本に帰ったことを味わわせてくれた。が、もう一つ、どうも落ちつかないのだ。私は、ある日、ふと思いついて、「洋食」を食べさせてくれる大衆レストランへ行った。そこで「当店特製」の「特大ハンパークステーキ」と「スパケット」をとって食べた。はじめて、その日本人の舌向きにつくられた「洋食」なるものに、私は真実ふるさとの味を感じた。正直に言うと、食事のうまいヨーロッパではさすがにそういうことはなかったが、何を食ってもうまくないアメリカで私が恋しく思ったのは、スシやらナメコのミソ汁ではなくて、東京のビフテキであり海老フライでありサラダであり、もう一つ言えば、ラーメンであった。
そして喫茶店。そのあと私は、ベートーベンを奏でている典雅な喫茶店へ入って一息ついた。これもまた、「日本」を実感として感じさせるものであった。夜は「歌ごえ酒場」というのに行ってみた。ひとびとは大声で合唱する。先ず「しあわせの歌」ついで「ステンカ・ラージン」二年近く、きかないものだった。なつかしいと思った。日本だな、と思った。くり返し思った。
これらの挿話は、少なからぬことを私たちに語ってくれている。たとえば現代日本の位置について。その雑種的文化について。あるいはまた、雑種的文化をすでにふるさととして育ってきた若い世代について。さらにまた、これがおそらくもっとも肝心なことであろうが、それらの若い世代が、どんなふうに現代の日本を見ているか。もっと端的に言ってもよい。たとえばその世代の一人である私自身が、どんなふうに現代日本というものを捉え、考え、そして、そこでどのようにして生きようとしているか――
私は、とにもかくにも「留学生」だった。それで先ず、若い世代の海外での代表者である「留学生」というものから出発して考えてみよう。
ハーバードにいたとき、こんなことがあった。私は、あるとき、インドからの留学生と話をしていたのである。彼は、インドのある地方大学の講師か何かで、政治学を専攻しているとのことであった。「帰ったら、また大学に戻るのか?」私は何気なく訊ねた。彼はかぶりをふった。「ノウ、政界に入る」「政界?」私は思わず言った。彼はふしぎそうに私を見た。「Why not?」自分の政治学を実践するために、自分は現実の政治に身を投じなくてはならぬ。「日本ではインテリは政界に入らぬのか?」私はかぶりをふった。「すくなくとも例外的なこととされている」「なぜか?」「たぶん日本の政治は余りにも腐敗しすぎていると彼らが感じているからであろう」この常識的な私のコトバをしおに、彼はインド人特有のあのとうとうたる弁舌の嵐でもってまくしたて始めた。おまえはふしぎなことを言う、インドの政治だって腐敗しきっている。だからこそ、その腐敗と闘うためにこそ、知識人は政界に入るべきではないか……
現実の政治は、そんなにうまくいくものじゃない。政治にたずさわるってことは、多かれ少なかれ、手を汚すことだ、などといって反論することは、むしろ容易だった。しかし私は、彼のコトバの基本的正しさを認めた。その正しさのまえには、すべてのきいたふうな反論はひっこまなくてはならない。実際われわれは、その基本的正しさからもう一度出発し直すべきではないか。私はそんなふうにも思った。が、一方では、私は彼のコトバの基本的正しさを認めながらも、それに承服しかねている自分を見いだしていたのだ。いや、こう言ったほうが正しいであろう。そんなふうに単純に、自分がインドの政治(「未来」といってもよい)について何ごとかをなしとげ得ると確信することができる彼が羨しかったのだ、と。私は皮肉を言った。「そうすると、君はいつかはネルーとなる」「Yes, it may happen.」彼はこともなげに、そしてしごく真面目に答えた。そのコトバもまた、基本的には正しいであろう。彼がネルーのようにインドの首相になることも、たしかにあり得るであろう。しかし、ヨーロッパで、アメリカで、またわれわれの日本で、知識人がそのようなことを言うであろうか。たとえ心の奥底でそう夢想していたとしても、それは、きっと、気はずかしくて、とうていできなかったことであるにちがいなかった。私は黙り込み、黙り込んだ私に、彼はふたたびとうとうたる弁舌の嵐でもって、彼の抱くインドの未来の構図について述べはじめた。
この未来のネルー氏の例は何もインドの留学生にかぎったことではなかった。他のアジア、アフリカの留学生のなかに多く見られた。彼らにとって、彼らの勉学は、彼らの属する社会の進歩と直接に結びついている。彼らが一つ多くの実験をものにすればするほど、彼ら自身の未来が保証されると同時に、彼らの社会もまた「西洋」の支配から、「貧困」から一歩脱することができる。あるいは、すくなくともそう信じることができる。つまり、彼ら自身の立身出世の欲望と愛国の至情とが単純に結びついて、結びつくことができて、そこに矛盾がない。
しかし、アジアの「先進国」日本の留学生の場合はどうか。おそらく、彼らは、自分の留学と彼らがあとにしてきた社会との関係について、まともに考えたことはないだろう。そのようなことが、実際、彼の頭に一度も浮かんでこなかったか、それとも自分の留学をそうした大げさな背景で考えることが何か気はずかしくてできなかったか、そのどちらかであろう。
明治初期の日本の留学生は、今日のアジア、アフリカの「後進国」の留学生とおそらく同じ幸福な立場にたっていた。彼らは、いささかのいつわり、気はずかしさ、てらい、矛盾の意識なしに、自分の留学を、彼ら自身の出世と社会の進歩の双方に同時に結びつけることができた。政治家のことは言うまい。文学者鴎外が、あれだけ多くのものを留学中に獲得することができたのも、彼自身の若さのほかに、国の若さがあったからなのだろう。新興国民のもつ、現実的で同時に理想的たりうる楽天主義、鴎外の根底に、私はそれを認めることができる。しかし、やがてこの留学パラダイスの時代は過ぎ去り、彼の言う日本の「外発的開化」が進行するにつれて、怒りの人、漱石によって代表される時代がくる。たぶん、この時代は、それからずっと戦争が終るまでのあいだ続いたのであろう。留学生は、彼が何を学ぶにせよ、もし真実に学ぶなら、日本の跛行的な「文明開化」の矛盾を痛切に感じはじめる。そのうちの幾人かは、それをわがこととして苦しみ、彼の生涯の事業をその苦しみの上にうちたてる。漱石の場合がそれだった。また、荷風の場合だってそうだったろう。彼はアメリカで、はじめて「西洋」社会への眼を開いた。たとえば、彼はシカゴの友人宅で、当時の日本では夢想さえできなかった友人とそのいいなずけの「平等な」恋愛、それに対する家族の気持のよい反応を見た。それがどれほど彼にとって新鮮な衝撃であったかは、彼がその『あめりか物語』の一章を、ほとんど憧憬にも似た調子で書いていることからでも判るだろう。彼は言う。「弁慶のような強い国の人たるより……頭を打たれたら、打たれた痛さだけ遠慮なく泣けるような国に生れたかった」
しかし、今、少し的《まと》外れではあるが皮肉な比喩をつかって言えば、「弁慶のように強い国」は、われわれの日本ではなくて、アメリカであろう。すくなくとも今、われわれは、泣くことだけはできる。遠慮なく、打たれた痛さだけ、たとえ、それが何ものをも生み出さないとしても。つまり、それほど日本の社会は「西洋」社会との距離を失ってしまっている。ひとは、今アジア、アフリカの諸国に出かけたときのほうが、かえって日本の社会のもつ問題、矛盾に眼を開くことができるのではないか。
もちろん、そうはいっても、われわれが今日の「西洋」で何の「発見」もなさないというのではない。私自身だけについていっても、これまでくり返し書いてきたように、私は数えきれないほど多くの貴重なものを学んだ。しかし正直にいって、その「発見」は、荷風の感じたあの「新鮮な衝撃」では、もはやない。青年の心を根底から揺り動かし、彼の未来の進路を変えるまでに至るそれではない。もう一歩、突っ込んで言おう、もし彼が「新鮮な衝撃」を受けるとすれば、それはアジアからであり、アフリカからであろう。すくなくとも私の場合、インドでの経験は、私の心を根底から揺り動かし、今、私の未来の進路まで変えさせようとしているかのように見える――
たぶん、今日の日本の留学生は、成金一家の三代目に似ているのであろう。
「身をおこし家を成す」ユメにとりつかれた一代目は「西洋」に出かけ、エイエイ辛苦、刻苦ベンレイして財をつくる。帰国後、外人と交際する必要上から、彼は西洋風の家をしつらえ、家庭教師をやとって子供に英語をならわせるだろう。しかし、ひょっとしたら、彼が「西洋」で身につけたものは、財産と西洋風のエチケット以外の何ものでもないのかもしれない。彼の精神は、おそらく、なんの変革もなしていないのであろう。不幸なことに、いや、この上もなく幸福なことに、彼は、その自分の外面と内面の分裂、矛盾に少しも気がついていないのである。
その分裂、矛盾が二代目の出発点となる。一代目とても、もちろん、たぶん家屋の装飾用に幾冊かのシェイクスピア、幾枚かの「泰西名画」を持ち帰ってきたことであろう。「西洋風」にしつらえた応接間で、二代目が、やがてそのシェイクスピア、「泰西名画」のとりことなる。若くて感受性豊かな彼は、やがて、オヤジが暖炉の上にシェイクスピアを並べ、壁に「泰西名画」をかざりながら、一瞬たりともそれをひもとき、あるいは眺めることがないのに当然の疑問を抱くようになるのだろう。考えてみると、オヤジの生活は矛盾だらけだ。「西洋」のエチケットだけは心得ながら、自由・平等という「西洋」の本質をなすものについて一度たりとも考えたこともなく、家長としての絶対権力をふるう。姉の結婚にだって、オヤジは姉の意志の存在を少しも認めなかったではないか。そのくせ、帝国ホテルという「日本の西洋」のなかでヒロー宴をひらいたりする。二代目はやがて「洋行」し、「オヤジの西洋」でないほんものの「西洋」に触れる。そこへ折から妹の結婚問題が起る。妹には恋人がいるのに、オヤジはむりやりに他の紳士と結婚させようとしている。二代目はオヤジに手紙を書き、オヤジの外面と内面の矛盾をつこうとする。が、彼は思いとどまる。もしそうしたら、オヤジは金を送らなくなり、自分は日本へ呼び戻されるだろう。オヤジへ手紙を書き、妹の自由恋愛を護ってやるという「西洋的行為」の代りに、彼はオヤジの金でたぶんヤケ酒をのみ、ヨーロッパの底をうろつきまわり、そして、あげくのはて、自分自身の外面と内面の分裂に果てしない苦悩を抱きながら、ふたたび故国へ帰って来る。その彼を待っているものは、最後には「みそぎ」という惨憺たるアホらしい行為にまで行きついた、厚くはりめぐらされた封建的なるものの壁であろう。
三代目は、おそらく二代目の苦悩とは無縁に育つ。彼は二代目の書棚の「西洋文学」を、それこそホメーロスからプルーストにいたるまで読破する。それも正確を期して言えば、二代目が原書で辞書をひきひき苦しみながら読んだとすれば、彼は日本語訳で楽しみながら読む。こうして、二代目が抵抗なしには受け入れられなかった「西洋」を、最初からまったく自分のものとして、あたかも日本のもののようにして受け入れる。いや、日本のものこそ、彼にとって無縁のしろものであるかもしれない。西鶴をろくすっぽ知らない彼もモーパッサンならたいてい読んでいる。狩野探幽よりもゴッホやピカソに、彼はより身近なものを感じている。あるいは、雪舟を「ここのマチエールが……」というような表現で語る。
この三代目は、一代目、二代目に比して、英語がおそらく比較にならぬほど下手であろう。このことは、これまでのすべての対比を、うまく言いあらわしているかのように見える。一代目と二代目が、「西洋」を西洋のコトバを通して学ばなければならなかったのに対して、三代目は日本語で学ぶことができる。もっとこまかくわければ、一代目は会話がうまいだろう。二代目は読書力に長じていることだろう。三代目は、そのどちらでもないかもしれない。しかし、だからといって、彼が翻訳でばかり西洋の本を読んでいるからといって、彼の「西洋」理解がいつも皮相浅薄なものであるとはかぎらないのだ。彼は原書をうまく朗読できないにしても読みこなせないにしても、彼は、たとえばマルクスならマルクスについて、サルトルならサルトルについて、自分自身の考えというものを立派に表現する(もちろん日本語でだが)ことならできるかもしれない。そして考えてみると、実は、このことがもっとも肝心なことではないか。つまり、もう一度、コトバを変えて言えば、彼はマルクスなりサルトルなりの提出する問題を「自分の問題」として悩むことができる。二代目が「西洋」(あるいは、その苦悩)と自分との距離に悩んだとしたら、三代目は「西洋」の苦悩自体を悩んでいるのではないか。
三代目が「西洋」にやって来たとき、彼は、先ず自分と「西洋」との差異よりも、それとの同質性、同時性といったものに眼を奪われるのであろう。私自身がそうだった。妙な話だが、たとえばアメリカ人と話をしていて、先方がシュール・レアリズムがどうのこうのとか、フォービズムがどうのこうのとか言いだすと、私は何ゆえとも知れず、うれしくなってくる。ハハン、オ前サントコニモ、ソンナコトガアッタカネ――本来なら「西洋」のものであるはずのそれらを、私はまるで逆のもののように、いつのまにか感じてきていて、そいつを「西洋」のなかに、いわば「再発見」してよろこんでいるのである。いや、もっとアホらしい「再発見」の例を一つ書いておこう。コペンハーゲンで、私は中央線か山手線みたいな電車が走っているのを見たとき、妙になつかしかった。ちょうど、その昔、ヨーロッパ人が日本にも汽車があると知って驚いたように、オヤ、でんまあくニモ国電ガアルンダネ、と無邪気に眼をみはったのである。えらくホーム・シックを感じた。
つまり、三代目にとって、ピカソはフランスの画家Picassoではなく、彼と同時代の偉大なる芸術家(片カナ書きの)ピカソなのである。二代目がバルザックといえば、フランス綴じの原書を思い浮かべるのに対し、三代目の頭にくるのは、先ず岩波文庫の赤帯であろう。こうした三代目は、ある意味では幸福といえる。「西洋」のなかに、するすると、何のわだかまりもてらいも劣等感も不必要な気負いも緊張もなく、入って行ける。二代目の苦しみ悩んだ自己の外面と内面の分裂、矛盾に、そんなにまで悩まなくてすむ。私自身がそうだったし、他の多くの私と同世代の留学生諸君がそうであった。
二代目の一人、森有正氏の著書を読んでいると、彼がフランスに来ることを、どんなにこわがっていたかが痛ましいまでによく判る。マルセーユに着いたとき、彼がそのまま日本へ帰ってしまいたいと思ったことも、よく理解できる。しかし、三代目にとって、これほど無縁の思想はないであろう。「このごろパリへ来るお嬢さんは、みんな銀座から浅草へ来るくらいのつもりで来ますね」森氏は私にそんなふうに語った。そして、それを好ましいものに思っている、とつけ加えた。
三代目のこうした態度は、ヨーロッパに向けられたときばかりではない。アジアに対して、たとえばインドに対して――私は、堀田善衛氏の『インドで考えたこと』という本を、アホらしい本だと思うと同時に、たいへんすぐれた本であると思う。あれは、たしかに、インドについての本ではなかった。成金一家の二代目のインテリである堀田氏が、インドという得体の知れないものに対してどのような反応を示したか、あの本のもっとも面白いところはそこにあった。たとえば、ヒコーキの下に見えるどの河も、どの河も、ガンジス河というインドの「広さ」というものに無邪気にぶったまげ、また、そのガンジス河に巣くう大魚に眼をみはったりする。そいつが、アホらしいと同時に面白いのであった。そのナイーブなばかでかいものに対する驚きから、彼はたしかにインドというものを捉えている。私は、それをすぐれていると思った。しかし、同時に、これはずいぶんと二代目的なアプローチのしかただと思ったことであった。私はべつにインドの広さにぶったまげることもなかったし、大魚に恐れをなすということもなかった。いや、大魚といえば、メキシコ湾のだって大西洋のだって、ばかでかいのである。そんなことにいちいち驚いていてはオハナシにも何にもならんじゃないか、シッカリシロヨ、オッサン、と、私は堀田氏の肩を叩きたくなったことであった。
三代目にとっての悲劇は、彼がいつのまにか「同化」してしまった「西洋」というものが、今やガタピシとしていることである。こっちがヒューマニズムとか進歩とかを何とか自分のものにしかかってきたと思ったら、「西洋」の本家のほうでは、もうそんなものはおしまいです、お世辞かどうか知らないが、われわれはZENに学ばなければなりません、とおっしゃったりする。つまり、三代目がすでに「西洋」のなかにふくまれてしまっているとするなら、それは、一代目、二代目のまえにかつて存在したようなアジア・アフリカの植民地の上にどっかりとアグラをかいた、確固とした、お家安泰万々歳の「西洋」ではなく、その植民地をもぎとられて、グラグラと今にも倒れんばかりにして揺れ動いている「西洋」のなかにではないか。つまり、もう一度「つまり」を使えば、三代目は、その「西洋」の苦悩自体に、自分の苦悩としてとりくまなければならなくなっているのではないか。
しかし、やっぱり私は、三代目の位置を幸福なものと思う。何に対して幸福かというと、それは三代目自身に対してではない。(三代目自身は、一代目、二代目より、もっとシンドイかもしれない。)いやおうなしに「西洋」文明(この文明は、それはやはり「西洋文明」というものであろう)にふくまれ、そのなかで、これからも生きつづけて行かなければならないわれわれすべて、まだ生き残っているにちがいない一代目、二代目はおろか、これからの四代目、五代目……に対してである。理由は簡単であろう。われわれが本当に「西洋」を理解しようとするなら、それをいわば自分のものとして捉えないかぎり不可能だからである。その苦悩を自分の苦悩として悩んではじめて、われわれの真の意味における「西洋」理解は始まるのではないか。たしかに、「西洋」は過ぎ去りつつあるかもしれないが、われわれの学ぶべきものとしてのそれは過ぎ去りつつはない。いや、それは、こちらにその準備がようやくできたという意味で、まだ始まったばかりなのだ。
けれども、いくら三代目が自分のなかに「西洋」を見いだすといっても、もちろん、彼は「西洋」人ではない。ある一点までくると、彼は、そこでピョッコリ、「西洋」人でない、ありえない自分を見いだす。私はここで何も、西欧の小説を理解することはそうした市民社会の伝統をもたない日本人には結局のところ不可能だとか、罪の意識をもたない日本人にはキリスト教は判らんとか、そんなことを言っているのではない。私はもっと簡単なことを言っているのである。
これから少し乱暴なことを書くことにする。もうおそらく読者諸君はお忘れになったことだろうが、私は、古代ギリシアの文学とか文化とかを勉強している男でもあった。私がなんでこんなへんてこなものをやり出したかというと、ひとつには「ひとのやらんものをやったれ」という無鉄砲な茶目っ気もあったからだったが、真面目に言うと、この文明が西洋文明なら、ひとつその根本のところを調べてやれ、という勇ましい大野望からであった。私がものごころついたときは、「ヒューマニズム」というコトバが大ハヤリのころだったから、私は、ヒューマニズム教の大本山であるギリシア詣でをしようと志したわけであった。これは、私のような生来怠け者でアタマの悪い男には、まことにたわけた大野心だった。私の勉学は、学問的にいうと今のところ何一つものになっていないと言ってよろしい。
しかし、負け惜しみを言うのではないが、学問的にはダメだったかもしれないが、学者としてではなく日本のふつうの青年としては、私はやはり、私のギリシア勉強から何ものかを得てきたのだと思う。自分のものの考え方について。事物の捉え方について。大げさに言うなら、生き方について。それはそれでよいのだと、私は今思う。自分にとって、日本人としての自分にとって、何ものかになっていれば、それはそれでもう十分ではないか。たぶん、われわれにとって必要な「西洋」理解とは、こういうものをさすのであろう。西洋風の市民社会がわれわれのところに存在しなかったから、「西洋」の小説はわれわれには本当には判らぬのであれば、べつに、本当に判らなくったってけっこうと思う。われわれには、われわれ流の読み方、判り方があるのである。そうでなければ、結局は、東は東、西は西、というあの判りきった不毛の結論に達するのがオチであろう。
それでは、われわれが自分が「西洋」人でないことにハタと気づくときが、「西洋」の小説が本当には判らんとか、罪の意識がわが心にはないとか、あるいはギリシアはしょせん理解不可能だとか、そんなラチもないことを考えるときでないとしたら、いったい、いつなのか。話はえらく簡単になる。
私はギリシアのことを学んでいる学生だから、ロンドンにいたとき、大英博物館へ行った。あそこには、かの有名なパルテノンのフリーズをはじめとして、ギリシアのもろもろがある。私はよろこび勇んで博物館へ出かけた。たしかに、そのコレクションはすばらしいものであった。特にパルテノンのフリーズのまえで、私は涙を流さんばかりにして感動し、ため息をつき、茫然とそこに立ちつくしていた。小一時間も、私はそうしていたかもしれない。そのうち私は、ふと、あることに気づいたのである。いや、そのことなら昔から知っていたことだから、ふと胸によみがえってきたと言ったほうがよい。それは、このフリーズをはじめとして、ギリシアのもろもろ、いや、ギリシアばかりでない、エジプト、バビロニア、メソポタミア、その他のもろもろが、イギリス帝国主義が根こそぎ引っこぬいてきたものである、という事実であった。とたんに、私は不快になった。落ちついていられなくなった。フリーズをじっと見ている、学者的に眺めていることはとうていできがたくなり、フリーズを離れた。帰途、私の足は重かった。私は、ただ一つのことばかり考えていたのである。私は「西洋」人でないこと、あり得ないこと、そしてまた、そうあってはならないこと。だいじなことは、私がそれを感じたのは、フリーズ自体を眺めていたときではなく(それは何のわだかまりもなく、じかに私の心のなかに入ってきた)、フリーズにまつわる「ある事実」に気づいたときであった、ということであろう。
たぶん、一代目、二代目にとって、日本と「西洋」のことについて考えるといえば、彼らの想念のなかに出てくるのは、まさしく、日本と「西洋」であり、その二つだけであったろう。三代目の場合はそうではない。彼が日本と「西洋」を問題にしようとすれば、必ず、そこにアジア、それも前項で述べたように中近東をふくむことはおろかアフリカをまで念頭に入れて言っているアジアが顔を出してくるのである。コトバをかえて言えば、われわれはもう「西洋」を「西洋」のタームだけで考えることはできないでいる――
この三代目の位置が、それがそのまま、日本の現在の位置をあらわすのであろう。日本は、すでに一代目の無邪気で功利的な楽天主義を持っていない。二代目の外面と内面の分裂をもっとも手痛いかたちで経験した。そして、三代目の今、すでに「西洋」は日本の体内ふかく食い込み、日本自体が、「西洋」とともに大きく揺らいでいるように見える。こんな日本の姿は、堀田氏が『インドで考えたこと』のなかで、あるインド人のコトバとして記録していたように、たしかに「悪ずれ」のしたものとして、他のアジアのひとびとの眼にうつるかもしれない。いや「西洋」人にだって、このどっちつかずの日本の姿は、あまり気持のよいものではないだろう。
しかし、私はひらきなおって言うが、たとえそれがそうだとしても、他にどんなありようがあったのか、また、あるのか。インドもまた、いつかは二代目、三代目の時代になっていくのであろう。中近東も、アフリカ諸国もまた。歴史の歩みを逆転させることはできないのだ。としたら、われわれにできることは、またしなければならぬことは、先ず自分の位置を、たとえそいつがわれわれ自身にとってもお気に召さぬものであったとしても(たしかに、そうであろうが)、だから日本はダメです、われわれはアカンのです、というふうに否定的に持っていくのではなくて、それを、とにかくわれわれはここにいる、よかれあしかれここから出発する、ここから以外は出発するところがないのだ、というふうに肯定的に捉えることではないか。すでに述べたように、たとえば、中近東諸国やインドの現状がたとえ腐敗と貧困に満ち満ちたものであろうと、彼らがそこから出発する以外手がなかった、また今もって、そうするよりほかに手がないように、われわれもまた、たとえ「悪ずれ」のしたものであろうと、このギリギリのところから出発して行くべきではないのか。
そして、三代目が究極的には「西洋」人でなく、それであり得ず、またあってはならなかったように、日本もまた「西洋」でなく、それであり得ず、またあってはならないのだ。
私はここで、べつに政治のことについて語っているのではない。もちろん、われわれがどのように出発して行くかは、必然的に、政治にかかわりあいを持ってくるであろう。たとえば、早い話、さらに一層西欧側にべったりとくっついて行くか、それとも逆の方向に行くか、あるいは中立の道を歩むか、そのどれかによって、われわれの未来は大きく変るであろう。そういうことは百も承知で、私は今、いわば「政治以前」のことを語っているのである。いや、こういう言い方は卑怯であろう。私は自分の立場をもっとはっきり出したいと思う。私は、どんなことがあっても、われわれの日本は第三の中立の道を歩むべきだと考えるが、ただそれのみが未来へつながる道であると考えるのだが、それには先ず、われわれの体内に巣くっているへんてこな劣等感や卑下(それらは今「西洋」に向けられているのみならず、アジア、アフリカの新興国にも向けられている)、自慰にも似たそれらのアホらしいものを清算することが必要であろう。
たとえば、こんなことがあった。帰国後、職のない私に友人が予備校の英語の先生の職を世話してくれた。予備校というのは、あれはいろんな意味で日本の一つの縮図だと思うが、そこで、私は試験の採点をしたことがある。長い英文の大意を書く問題があった。その英文というのは、誰が書いたのか知らないが、とにかく日本人をえらく賞讃した文章だった。そのなかに、日本人の手先のすばらしい器用さと感嘆すべき模倣の才(それはまったく皮肉の調子でなく書かれていた)とが、まれにみる勤勉さとあいまって、あの短時日のあいだに西欧に追いつくことを可能にしたのだ、という一節があった。そこのところの大意である。あいにくなことに英語がそうやさしいものでなかったから、半数ぐらいの学生は、自分の「常識」にしたがって大意をでっちあげた。それはいったい、どんな「常識」だったのか。大半の学生は書いた。日本人ハ手先ガ器用ナダケデ、物真似ガウマイバカリデ駄目デス。いや、ある学生は、勤勉という美徳についてさえ、「日本人は働くことだけして、西洋人のように生活を楽しまないから駄目です」たぶんこの同じ学生は、その「西洋人」であるドイツ人についてなら、次のように言ってのけただろう。「ドイツ人は真面目に働く国民です。ドイツの偉大な復興は彼らの勤勉によってなされた。それに比べると日本人はだらしがなくて駄目です」中国人やインド人についてなら、「彼らは未来への意欲をもって懸命に働く。そこへゆくと、われわれ日本人は……」
小さなことかもしれない。しかしこれは、考えてみると、一予備校の小さな現象だと言ってすましていることはできない。この答案を書いた、でっちあげた受験生たちは、やがて大学に入り、日本の知識階級の一員となる。いや、すでに私たちは、日本のインテリたちの議論に、いやというほど、この種の「常識」が存在しているのを見てきたのではないだろうか。どうして、われわれは、われわれがたとえ手先の器用さと模倣の才と勤勉さだけしかもっていないにしても(それだけでも、私はたいしたことだと思うが)、ただそれだけの理由で、こんなにまで自分自身を痛めつけ、アホウのように泣いてみせる必要があるのか。どうして、たとえばそれらの三つのものを、前進のための貴重なエネルギーとして考えることはできないのか。われわれが明治以来ここまでとにかく来たのには、たしかに、その三つのものが前向きのエネルギーとして大きく作用していたのだろう。としたら、これからも、それがそうでなくなる理由は、どこにもないのではないか。
くり返し断わっておこう。私はべつに、われわれの現状を肯定しているのではない。ただ、そんなアホらしい「常識」的悲観なるものにもたれかかって、ひかれ者の小唄よろしく、私ハ憐レナ人間デス、駄目ナ人間デス、と嘆いてみせることを、もうやめにしようじゃないか、と言っているのにすぎないのである。それをやめないかぎり、われわれの未来は、それこそ本当に行きづまるのではないか。
自分の現状をもっと積極的に肯定的に捉えること――たとえば、われわれが今「弁慶のように強い国」でなくなったこと、世界の小国の一つになり下ったことも、このこと一つだって、大きな飛躍の代りに着実な出発をなすことができる土台として、肯定的に積極的に捉えることができる。
世界をまわってみて、小国の国民であることがどんなに幸いであるか、私はよく判った。たとえば、イランのところで書いたことだが、モザデグ政権を倒すために金をばらまいた「ある筋」とは何かと私が訊ねたときの、ガロウェイの≪The United States≫という吐き出すような答、また彼のそのときの苦しげな表情を、いまだに私は覚えているのである。彼は自分の祖国を愛していたから、それを言うのは、とりわけ辛いことであったのにちがいないのだ。
ギリシアではイギリスだった。アテネのユース・ホステルで、キプロス島でのイギリスの卑劣で残虐な行為について一人のギリシア人が語ったとき、イギリスの青年はまったく聞きづらそうにしていた。アメリカで、あるハンガリー人は私に、ハンガリー事件の傷ましい出来事について淡々と、しかしそれだけ一層悲痛な口調で語った。ローマのユース・ホステルで、フランスの負傷兵は、自分たちがアルジェリアでやっていることについて、声を潜めて、苦しげに語った。インドでは、そのとき国境侵犯事件が起っていた矢先だったから、中国が攻撃の的であった。いや、その当のインドすら、ある人の話によると、ネパールへ行けば「インド帝国主義」というコトバがあるくらいだという。
外国の「大国」の例はもうよしにしよう。われわれの日本だって、ついこの間まで、大国のうちの一つだったのではないか。他人事ではない。朝鮮で、中国で、また他のアジア各地で、われわれが何をなしたかは、これはもうわれわれすべてがよく記憶していることであろう。
私は「小国」の国民であることをうれしく思った。誇りにさえ思った。これは決して消極的受け身な善ではない。現在、他のどの国に対しても、すくなくとも積極的に悪をなしていないこと――それは、もしわれわれがこれからもそうでありつづけるなら、それだけで、大きな能動的なエネルギーにまで転化できるものであろう。
そして、われわれが徴兵制度をもたないこと、これもまた、うれしいことであり、誇りに思えることであった。どこのユース・ホステルでも必ず誰かがこのことについて訊ね、私がかぶりをふりながら、われわれはそんな愚劣で野蛮な制度はもうとっくの昔にかなぐり捨てたのだと言うとき、まわりにいるさまぎまの国籍の若者の眼が輝いてくる。そのはずであった。すでに西ドイツでさえその制度を持つにいたった今、私が出会った多くの若者たちのなかで、徴兵制を持たない国に所属する者は、ほとんどなかった、いや、皆無だった。私はこのことを大切にしたい、大切に護り抜きたいと思う。若者たちのなかには一人として、それではソ連が攻め込んできたらどうするのか、というような利いたふうなことを言いたてる者は、誰一人としてアメリカの若者のあいだにさえいなかったのだから。
* * *
二年間ひとりで、日本の外をぶらぶらしていていちばんよかったことは何か、と訊ねられるたびに、私は、それは日本が地図にあるあの弓なりの列島のかたちで見えたことだ、と答えた。ユース・ホステルのベッドに寝ころがって日本のことを考えていると、その弓なりの列島がボウッと頭のなかに浮かび上がってくる。日本にいれば、自分の周囲のゴタゴタガタガタにまきこまれて、日本を「日本」という一つの大きな単位で考えることはとうていできない。現代の日本が一つの大きな混乱とすれば、その混乱を外から眺め得たこと――やはり、それは、私にとって貴重な経験であった。
その弓なりの列島は、静止して地図上の一点にあるのではなかった。動いていた。全体として一つの方向をもって動いていた。列島のなかにはいろんな動きが無数にあり、そいつがてんでんばらばらに列島を動かそうとしながら、全体として見ると、列島は、やはり一つの方向さして動いている。単純なことを言おう。その方向とは、「よい方向」であった。国がとにかく豊かになり、国民の生活水準が上昇しつつあるという方向――それに向かって進んでいることだけは、たしかであった。
日本を訪れる外国人が誰しも驚くのは、日本人の忙しさであり、勤勉さであり、それを総括する異常なエネルギーであろう。ハーバードのライシャワー教授は≪The most alive country≫というコトバで日本のことを語った。私もまたそう思う。久しぶりで中央線のラッシュ・アワーに行きあわせたとき、私は軽いめまいを覚えた。超満員の群集、そこに充満する異常なエネルギー――
ただ、惜しいことに、これは誰もが言うことだが、そのエネルギーに方向がないのだ。そして、ラッシュ・アワーの電車のなかでのように、異常なエネルギーが、どれほど無目的に、無駄に消費されてしまっていることか。
私はさっき、予備校は日本の一つの縮図であると書いた。毎日、必死になって勉強をしている受験生諸君に顔を合わせるごとに、私はつくづくそう思う。(先日、東京で再会したライシャワー教授に、私は冗談でなく真実に、予備校を見ることをすすめた。)そこには、若さというエネルギーが充満している。そしてそのエネルギーが、たとえば、アメリカ人でもまともに解答できないような、高等数学(いや、「高等算術」というべきかもしれない)めいた「受験英語」というものを必死に習得することに費やされて行っている。日本の「受験界」(そうしたものがたしかにこの国にはある)にしか存在しない英語の構文を丸暗記することに数時間を費やす彼ら――彼らは、それと同じ調子で、他のすべての学課を学ぶだろう。人生とも、真の学問ともまったく無縁のことがらを、きわめて勤勉に、きわめて優等生的に、他の一切のものに眼を向けることなく、ただそれだけを頭に詰めこんでゆく。そして、めでたく彼らは大学に入る。いや、そうしなければ、たとえば進歩的教育の研究を自称する私の大学の教育学部の門さえ開かれないだろう。
大学生となった彼らに、今度は何が起るか。合格の翌日、彼らは先日まで必死に噛じりついていた受験参考書のすべてをほうり捨てるであろう。そして、彼らのうちのある者は、代りに、『資本論』に、『経済学教科書』にとびついて行くかもしれない。ふたたび、彼らの「受験勉強」が始まる。彼らは、きわめて勤勉に、きわめて能率的に、きわめて優等生的に、それらすべてを学ぶ。もちろん他の一切のものに眼を向けることなく、ただそれだけを。短時日のあいだに、彼らがかつてアッというまに受験英文法の大家となったように、彼らは左傾する。直接行動がそれにつづく。学生大会、デモ、歌ごえ運動――それらのすべてに、彼らは勤勉であり、また真面目であろう。
が、やがて、大学卒業がくる。今度は就職だ。昨日までの闘士は、有能な会社員となる。受験生として優秀であったように、学生運動のなかで優秀な闘士であったように、彼は、資本主義社会のなかでも、きわめて優秀なのであろう。彼は今度は、たとえば、ゴルフを学ぶ。それを、きわめて真面目に、能率的に、勤勉に、他の一切のものに眼をむけることなく、ただそれだけを学ぶ。死ぬまで学びつづける。
私は、しかし、こんなふうに書いてきたからといって、べつに、日本人の忙しさを皮肉っているのではない。私は、一方ではそれらのエネルギーが無駄に消費されて行くのを悲しみながら、一方では、そんなふうに巨大なエネルギーがてんでばらばらの方向に消え去って行きながら、それでいて、まだ国ぜんたいが一つの方向、「よい方向」に進んで行っているのに驚嘆を覚えているのだ。
思うに、日本列島の運動は、アミーバ運動のごときものであろう。アミーバはてんでばらばらにあちこちに偽足を出して動きながら、それでいて、ある一定の方向さして移動して行く。日本の場合もまさにそれではないのか。あらゆる混乱がそこにあり、みんなはてんでんばらばらの方向に走り出して行こうとする、てんでんばらばらの方向にエネルギーを消費して行こうとする。が、それでいて結局のところは、この社会は、一つの方向さして動いて行っているのであろう。もちろん、そのエネルギーに一つの方向があたえられ、すべての力が結集されるなら、われわれの速度は、今とは比較にならないほど速いものとなるだろうが――
たしかに、現代の日本というのは、ふしぎな国である。私は外国の友人によく言ったが、ある意味では、世界でもっとも興味ある国であろう。
メキシコのことについて書いたところで、私は東京で知的高級な文学同人雑誌に所属しているむね書いたが、帰国後のある日、私はその会合に出た。会合そのものについては、メキシコのところで書いたように、酒があり、資金難の問題があり、むつかしい議論があって、今度は逆に私は東京でメキシコの文学者たちのことを思い出す始末だったと言っておけば十分であろう。会合が終り、私がなおもわがなつかしきメキシコの友人諸君のことに思いをはせていると、ふと、そばの誰かがヨーロッパとアメリカの文学のことについて対話をしているのが耳に入ってきた。何トカという文学雑誌が出て、何トカいう作家の何トカいう小説が面白くて――「おい、待ってくれ、おれは、その何トカも何トカも何トカも知らんぜ」私が大声でさえぎったら、そばにいたべつの友人が、小声で私をたしなめてくれた。「とにかく、君、ヨーロッパやアメリカの文学事情は、日本にいないと判らないんだよ」
知的高級な仲間たちと別れてから、私はバスに乗った。バスはえらく揺れた。酒の酔いもヨーロッパやアメリカの文学事情もコツゼンと忘れさせるくらい揺れに揺れた。ふしぎに思って外を見たら、そこは鋪装がしていない。そこは二年前もそうなのであった。世界一の大都会トウキョウの目抜きの通りなのに、それはそうなのであった。
さらにショッキングなことが家に待っていた。大阪の母からの手紙。そのなかに、親類の娘が今度婚約したとあった。それはよいのだが、その娘さんは相手に(すくなくともその実物には)まだ会ったことがないというのだった。私は、その手紙にえらく動揺した。いつかヨーロッパのどの国でだったか、日本では相手の顔も知らずに結婚するそうだね、という奴がいて、私はそいつに、山奥のことならいざ知らず、今の日本では、すくなくとも都会には、そんなバカなことがおこりっこない、と力説したことがあるのだった。そのバカなことが、ところもあろうに、大阪というどえらい都会のどまんなかで、おまけに知的高級なる知識人である私の身内に起ろうとしている――
気を鎮めるために私は喫茶店へ行き、コーヒーを飲んだ。そこではテレビというものをやっている。ある有名な女の人がどこか日本の外へ行って来たらしくて、その人にアナウンサーがいろいろと質問しているのであった。実は、この人にお目にかかるのは初めてではなかった。朝から二三度他のテレビで、おんなじふうに質問を受けているのを見かけたことがあるのだった。よくあきもしないで同じふうなことをやるな、と少し呆れもし、昨日か今日帰りついたばかりだというのに御苦労さんなことだと、頼まれもしないのに、その女の人に同情したりした。アナウンサーの最後の質問が私の耳をとめた。「これからどうなさいますか?」彼女はホホッと笑い、「とにかく二ヵ月日本を留守したでしょ、すっかりボケてしまって」
私はガクゼンとした。夢からさめた思いであった。二ヵ月間留守にしただけで、すっかりボケてしまうとは、そもそも日本というのは、いかなる忙しいところであるのか。彼女は小説のほうで有名な人であった。二年前にも彼女の名は毎月、毎月、あちこちの雑誌の目次に並んでいたから、あれからもずっと、たぶん彼女が日本の外へ旅立つ二ヵ月前まで、並びに並びつづけたのであろう。いや、きっとその不在の二ヵ月間にだって、彼女は旅行記なるものを、どこかの雑誌にのっけていたのにちがいないのだ。何という忙しい人生であるのか。私は、ふと、アメリカの「芸術家天国」で出会った芸術家たちのことを思い出した。彼女に比べれば、あれはまた何という間が抜けてのんきな人生であったことか。私は、テレビの女流作家の聰明そうな美しい顔を見ながら、一方ではアメリカの作家たちのことを思い、もう一方では、しきりに予備校の勤勉な受験生たちのことを想起していた。彼女もわが予備校に来たら、たちまち、優秀な受験生となりはてるであろうと、そんな失礼な想像までした。
ケッタイな一日だと思った。ケッタイな国だとも、私は同時に思った。
* * *
パリをアメリカの女の子とぶらついていたとき、ある夕べ、私は凱旋門で予期しない光景に出会った。門の真下には無名戦士の墓があって、そこにはフランスがこれまでに参加した戦争の戦死者の霊が祀られているのだが、毎夕、ある種の儀式が行なわれていることになっている。その夕べ、私たちはそれに行き会ったのである。
ラ・マルセーズが奏されると同時に、ベレ帽をかぶった在郷軍人らしい一団が黙祷を捧げる。私とアメリカの女の子もまた頭をたれた。その瞬間、私は、ふと、自分が涙ぐんでいるのに気づいた。いや、実は涙ぐむというような生まやさしいものではなかった。センチメンタルな私としても自分で恥ずかしいほど、涙が頬をつたい、アメリカの女の子の認めるところとなった。
「なぜ、あなたは泣いたのであるか?」あとで彼女は当然の疑問を発した。「おれの国の戦死者たちのことを思い出したからだ」私は答えた。「アイ・シー」彼女は短く言い、「私にもその気持は判る。私たちはおたがいに戦ったのだから」とつけ加えた。
しかし、ほんとうのところは、彼女には私の気持が判らなかっただろう。私が泣いたのは、むくわれずして死んで行った同胞たちのことを、そのとき、思い出したからだった。戦死者はフランスにもアメリカにもあった、というのなら、私はただ一つのことだけ言っておこう。彼らには、とにもかくにも、ナチズム、ファシズム打倒という目的があった。だが、私の同胞たちには、いったい何があったのか。彼らの死はまったくの犬死であり、彼らをその犬死に追いやった張本人の一人は、ついこの間まで、われらの「民主政府」の首相であり、口をぬぐって「民主主義」(彼らはたしかそれとの闘いのなかで殺されたのではなかったのか)を説いている――
そのすべての思いが、そのとき、凱旋門で私の胸にきたのだった。いったい、彼らは何のために死んだのだ? 私はくり返し思った。彼ら――それは私の同胞ばかりのことではなかった。ドイツの兵士のことであり、イタリアの兵士のことでもあった。いや、今やアルジェリアに駆り出されて、死に直面さされている当のフランスの兵士のことでもあった。
こうした私の涙は、アメリカでもヨーロッパでもやっていることだからといって、巨大な無名戦士の墓とやらをおったて、そのまえで、あるいは靖国神社の大鳥居のまえで、鳴物入りで自衛隊の行進をやってみせるというようなことには、決して結びつかないであろう。アメリカ人はみんな愛国心を持っている、われわれも持たなくちゃいかん、というような視察旅行の代議士氏の結論にも結びつかないであろう。アメリカにはどこへ行っても星条旗がかかげてある、だから、われわれも日章旗をおったてるべきだという議論にも、結びつかないであろう。おそらく、それらのむくわれざる死者をして安らかに眠らしめるただ一つの道は、判りきったことだが、ふたたび、このような死者を出さないこと、それ以外にはないのだ。すくなくとも、もし私の涙が結びつくものがあるとすれば、それはそこにおいてしかない。そして、二年間の旅を通じて私の体内にも何ほどかのナショナリズム、あるいは「愛国心」というものが芽生えてきているとしたら、それは、たぶん、その結びつきから生まれ出てきたものなのであろう。
* * *
日本に帰りついて二日後、私は一月半ぶりで床屋へ行った。私のものすごい頭にヘキエキした床屋は、最初に先ず頭を水道の蛇口につけて、アジア各地で付着したにちがいないありとあらゆる病原菌を洗い流すという異例の処置をとった。「いったい、この前はいつ刈ったんですか?」感にたえたように彼は訊ねた。「一月半前」と答えてから、「カイロで」と私は何気なくつけ加えた。よく聞きとれなかったらしく、彼はどうかんちがいしたのか、「だんなも九州旅行ですか」と、えらくトンチンカンなことを言った。私は思わず吹き出したが、同時に、私にとって二年間の世界旅行もそんなものであったのかもしれない、と思った。そんなふうに、九州へ行くつもりぐらいの気持で、私は世界を気軽に歩いてきたのだろう。しかし、たとえばカイロから東京までの間に、私の軽やかな足は、どれほどの重苦しいもののなかをつきぬけて来たことであろう。私はそうも思い、ニューヨークとコペンハーゲンとカルカッタの街景を同時におもい浮かべた。
感無量というのではなかった。しかし、やはりハラにこたえた。
再 訪
1
六年ぶりにアメリカへ行った。
六年のあいだに、アメリカに何がおこっていたか。あるいは、何がおこっていなかったか。
昔、私がころがり込んで暮らしたTとKの「夫婦」は、とっくの昔に夫婦別れして、写真家のKの行方は知れなかった。Tのほうは、あれから黒人の坊やといっしょにいたかと思うと、それとまた別れて、そのうち、プエルト・リコ人と黒人とドイツ人とインディアンの血がまじり合った、まじりにまじり合ったというよりほかにない中西部の田舎から来た若者といっしょに暮らしていた。Tはタイムズ・スクェアあたりでもの好きな老人相手に金をかせいでいた彼を拾い出して来て(タイムズ・スクェアのあたりをぶらぶらすると、こんな少年、青年によくお目にかかる。どれだけのかせぎになるのか知らないが、そうした少年、青年相手の男もあまたいるものと見えて、けっこう暮らしはなりたつものらしい)、Tの友人(これもまた、ゲイの仲間だ)のやっているモダン・ダンスの学校に入れた。よほど素質があったものとみえて、めきめき頭角をあらわし、ダンスばかりでなくオフ・ブロードウェイ、ブロードウェイの劇場からも口がかかるようになったが、そのあいだに、Tとの「夫婦」関係は終わりを告げ、二人はただの男どうしの共同生活にもどっていた。
Tはもう昔のアパートに住んでいなくて、十四丁目の古ぼけた建物のなかの「ローフト」に住んでいたが、「ローフト」というのは、どのように説明すればよいか。一口に言うと、大きなむきだしの空間なのである。建物の一つの階全体を占める空間で、そこを区切って室をつくることもできれば、倉庫にすることもできれば、そこ全体をオフィス、あるいは、たとえば、印刷機をすえつけて工場にしたってよろしい。ニューヨークは十四丁目あたりからウォール街のほうへかけて、そんな空間を各階に内蔵した古びた建物が並んでいて、そいつを借り受けて、本来なら人間がそのままの状態では住むはずのないむきだしの空間にベッドをすえつけて入り込むというのが、「ビート・ジェネレイション」といわず、ぶった連中の流行なのであった。だだっ広いむきだしの空間だから、そこで、とんだりはねたりしたところでびくともするものではない。キチガイみたいなモダン・バレエをやることだってできるし、キチガイ・パーティをすることもできる。それに、とりえは、やはり、ねだんが安いことだ。あれやこれやで、私の友人には「ローフト」住まいが多くて、私はおかげで「ローフト」の権威だ。
十四丁目というところがどんなところかとちょっと説明しておくと、たとえば、ニューヨークのショウの一場面に漫才みたいのをやったりするが、そんなとき、ひとりが相手に、おまえ、その服どうしたんだ、ときく。相手が買ったんだ、新品だぜ、と答える。とすかさず、おまえが買ったんならどうせ十四丁目の……といったところで観衆がドッとわく。
十四丁目には「クライン」と呼ぶ百貨店があって、これは安売り百貨店の代表みたいな店であり、万引きする人の数もむやみと多く、売場のあっちこっちに巨大なバックミラーみたいなのがぶら下がっていたりする。十四丁目の街路を歩いている人のふうていも、もうこれで三日もろくにメシをくっていないというのも多く、名うてのスラム街ボウエリイ(は十四丁目から歩いて五分の距離だ)ほどではないにしても、歩いていると無遠慮に手を出して金をくれとねだるのもいる。このあたりの公衆電話は二つに一つはこわれていて(何かの腹イセにこわして行くらしい)、ボックスに入るときに注意しなくてはならない。そこで小便をするやつが多くて、プンとにおった。小便どころか、もう一つ大きなのがあったことがある。
十四丁目でもうひとつ有名なのは、そこがゲイたちにとってのボーイ・ハントの場所で、えたいの知れない若者が行ったり来たりしている。こういうところは、さっき述べたタイムズ・スクェアあたりと変わらないが、いちだんと薄汚く見すぼらしい。Tと、Tのルーム・メイトのプエルト・リコ人と黒人とドイツ人とインディアンの混血児のSはもう「夫婦」ではなく、たんに共同生活者で、二人は夜ごと、それぞれ十四丁目からその夜の相手を拾って来ることにしてあって、それについてはおたがいに何も言わないということになっていた。「うまくやって行けるのかい?」私がTにきくと、Tはてんたんとして答えた。「これが人生というものだ」
すくなくとも、アメリカの人生というものであるにちがいない。彼らのローフトのトイレットは、よほどうまくやらないかぎり、水が流れたためしはない。大きな棒があって、それで下から水のタンクをうまくつつくと、水がちょろちょろ流れた。それはいかにも非アメリカ的な流れであって、私がそれを言ったら、その彼らのローフトを内部におさめた建物は、建ってからそれでもすくなくとも八十年になるというのだった。「昔、この十四丁目がニューヨークの中心だった時代がある。そのときの産物だ」あちこち棒でつつきながら、Sがしたり顔に言った。
二人とも、お尻の性病にかかったことがあった。なんでもゲイたちのあいだにはそんな性病がはやっていて、なかなか治りにくい。その話を聞いてから、私は彼らのローフトのトイレットを使わないことにした。ある日、Tが言った。「水が流れないという理由で、きみがわれらのトイレットを使わないというのは理にかなっている。ただ、もう一つの理由によるなら、それはバカげている。われわれがそいつにかかったのは二年前だし、それ以来、無数の人間がトイレットを使った」私はうなずいてから笑った。「それではなんだか、アメリカ中の人間が病気にかかっているような気がするな」「そうかも知れん」彼はニヤリとした。「だから、あそこに星条旗をはってある」トイレットの扉に大きな紙の星条旗がはってあって、人はロダンの考える人≠フ姿勢をとるとき、いやでもそれにご対面しなければならない。棒で水タンクをつつくと、扉がゆれ、星条旗もゆれた。
Tは昔ながらのTだった。まえよりもあきらかに年をとり、くたびれた風貌をし、まえよりも少しは金持で、また、あきらかに、はるかに有名になっていた。彼は昔はコンサート用のふつうの音楽をつくっていたのだが、六年のあいだに、劇場音楽、映画音楽のほうに転向していた。劇場音楽、映画音楽といっても、彼がブロードウェイやハリウッドの座付き作曲家になったというのではない。そうなっていれば、もちろんもうローフトなんかに住んではいないで、ゴーカなアパートでも借りていただろうが、そして、それで、すべてはオシマイになっていただろうが(「ハリウッドはすべての芸術家の墓場である」と誰かが言った)、幸いなことに、彼のつくっているのは前衛劇や前衛映画の音楽であって、したがって彼にはさして金が入らず、したがって、オシマイにはなっていなかった。
しかし、Tは変わらなかった。まず、その前衛劇、前衛映画そのものが変わらなかったと言ってよいだろう。人間はなぜあんなふうなものをつくるのか。男と女がだまって歩いている。だまって歩きつづけている。何にもおこらない。ただ、歩く。ただ、歩く。そうかと思えば、ダンスだ。わけのわからない狂的なダンスだ。それでなければ、独白のつみ重ねのような対話、そこへ、音楽がつく。ピー、ポン、ピー、ポン、というようなとぎれとぎれの雑音、それが音楽で、Tはそんなのをつくっていた。あいかわらず。
Tはあいかわらずの政治ぎらいだった。政治的なもの一切を嘲笑する。私がベトナム反戦運動をしているのを知ると、いつにない真面目な表情で言った。「きみはいい、きみはまだ政治を信じることができる」私は答えた。「信じることができないから、自分で運動をすることにしたんだ」
「なるほど」
と彼は言った。
「アメリカ人のなかにも、そんな人がいま多く出てきた」
たとえば、十三の星の星条旗――独立戦争当時の星条旗をかついでホワイト・ハウスのまえを歩いていた若者のことを考えながら、私は言った。彼の言いたいのは、二つだった。ベトナムはかつてのアメリカと同様に、いま独立しようとしているのだ。そして、もう一つ、アメリカよ、独立戦争当時のアメリカにたちかえれ。あの素朴な民主主義、民族自決の精神にたちかえれ。――
「アメリカにもいろんなことがあった。この六年間のあいだに」
その一つが公民権運動であることは誰もが言った。それが大きな力となって、若者がふたたび政治にめざめた。あるいは、アイゼンハウワーに代わってケネディの登場。暗殺。
「おれはアメリカがよくなるとは思わないな」
彼は言った。
「おれだって日本がよくなるとは思わないな」
私が言った。
「世界はどっちみち変わらない」
彼が言った。
「そうかも知れんな」
私が言った。
「きみのやっていることを無駄だと思わないか」
彼は訊ね、私が答えた。
「ときどき思うね。……しかし、やって行くよりほかにないな」
2
インドには、一見したところ、どこにも変わったところはなかった。インドはインドであった。すくなくとも、一見したところ、そんなふうに見えた。
まず、コジキだった。それから、人にお金をせびる習慣であった。空港でポーターにお金をやるために、私は空港の小さな銀行で両替をした。両替していると、横で、私の手にしている小銭を、これは何、あれは何、と説明してくれる男がいる。てっきりポーターだと思って、私は彼にいくばくかの小銭をあたえた。もうそれで、すべてはすんだと思って市内行のバスまで行くと、うしろからずっとつき従って来る男がいる。そいつをひょいと見ると、ポーターであった。私はきみにお金をやらなかったか? いいえ、いただいていません、ダンナ。たぶん、そんなふうなことを心のなかで言っているにちがいない。彼は悲しそうにかぶりをふった。
私は彼にお金をやった。インドへ来たんだな、という感慨が夜行の飛行機から降りて来た私に衝撃のようにしてやって来た。七年前にもインドは、まさにそんなふうな感じで私のまえに立ちあらわれたのだが。
友人を訪ねた。
昔、私をヒンズー教のお寺から救い出してくれた絵描きのラム・クーマルについては、ときどき、噂話をきくことがあった。
噂話の一つは、日本へ帰って来て、彼の日本人の知人に会ったとき、ラム・クーマルがあなたによろしくと言っていたと言うと、その人はやや声をひそめて、「あの人、党員でしょう?」と反問するようにして言ったことだった。あるいは、「それは、党員だったのでしょう?」であったかもしれない。そろそろインドでも、共産党の内部分裂がとりざたされて、あちこちで除名さわぎがおこっていたころだったから、ほんとうにそれは過去形の質問だったのかもしれないのだが、とっさの質問のことで、その「党員」が「共産党員」を意味していることをさとるのにはしばらく時間がかかった。
もちろん、彼が共産党員であろうとなかろうと、そんなことはまるつきりどうでもいいことなのだが、そのときはまだ、インドの共産党がかなり大きな人気を民衆のあいだにもつていたときだった。それがのちになって、まず、中印の国境紛争があり、ついで、中ソ論争のあおりをくって共産党は二つにも三つにも分裂、それとともに人気を失っていってしまったのだが、ラム・クーマルはその党員であることを今もつづけているのか。ニュー・デリーで面会したとき、彼はインドの平和運動の衰退をさかんに論じ、共産党の諸派をそれぞれ論難したが、彼自身がどうなったのか、私はなんということもなく訊きそびれてしまった。
噂話の第二は、これはラム・クーマルを私に紹介した小説家のクリシュナ・バイドが三年前に日本に来たとき言い出したことなのだが、ラム・クーマルがえらく金持になったという、まことにおめでたい話であった。なんでも私が立ち去ったあとで貧乏画家のラム・クーマルのベナレスのものがなしいコジキの絵にブームが来て、ある日など、バイドがクーマルの家を訪れると、机の上にぶあつな字引きくらいのボリュームのある札束が無造作にのっかっていたというのである。コジキの絵で彼はもうけたというわけか――私はややブゼンとして言った。それが現実というものだ――バイドはものわかりのいいテレビの司会者のような口をきいた。それに、金がはいったのは、結果であって目的ではなかった。それに――彼はニヤニヤして言った――金が入るということは、いずれにせよ、わるいことではない。
それから二年たって、インドでラム・クーマルに会って来たというアメリカ人の絵描きに会った。彼はクーマルのコジキの絵をほめた。あれはすばらしい絵描きだ。彼は言い、私はうなずき、そのあとで二年来気にかかっていた質問をした。彼はほんとうに金持になったのかね。きみがクーマルのアトリエに入ったとき、机の上にあれくらいの(私はそばの電話帳をさした)厚さの札束がのっていただろうか。あいつの家には電話はなかった――アメリカ人の絵描きは見当ちがいの答をした。
ラム・クーマルのコジキの絵は、たしかにすぐれたもので、そのすばらしさは、しばらく見ていると見ているこっちがウンザリしてくるほどのもので、それはまさにそれがすばらしいということであった。ベナレスというと、あのぎらぎらと照りつけてきた太陽の光の原色のコジキの長たらしい列が、ラム・クーマルが黒一色で描いた、たとえばひっそりとひとりたたずむ少年コジキと二重写しのようになって私の眼に映じてきた。彼の絵をもっている人は日本人のなかにも一人いて、その人はある大きな新聞のワシントン支局長で、ワシントン市内の清潔な一角の清潔な彼の家に招かれて入って行ったときに、客間の正面にかけてあったのだが、まさに私を長いあいだ待っていたようにそこにあったのは、ラム・クーマルのコジキの絵であった。とたんにアメリカというゆたかで清潔で、そして、冬のワシントンという冷たくしずまりかえった一角に、あのベナレスの喧噪と暑さと、そしてまた、もちろん、インドの貧困とが客間いっぱいに立ちこめてきて、私はしばらくことばを失って立っていた。
さて、ラム・クーマルは、はたして金持になったかどうか。彼は六年前と同じ住居に住んでいて、同じものしずかな微笑で私をむかえた。書斎にはこじきの絵の一枚がかけてあって、たしかにそこには机があったが、その上には札の堆積などどこにもなかった。
「きみの状態はどうかね」
私は、彼がインド平和運動の現状、つまり、衰退について語ったあとで、ふと思いついたようにして訊ねた。彼はケゲンな顔で訊ね返した。
「なんの?」
「財政的状態」
「インドと同じだ」
彼はすぐ言った。
「いぜんとして貧困の大海の底に沈んでいる。しかし……」
彼はニヤリとした。
「とにかく、生きている」
しかしと、もう一度しかしを使って言うと、ラム・クーマルの家計については知らないが、インド国全体の家計について言えば、それはかえってわるくなっているのではないか。そして、それとともに――六年前、私がインドを旅して歩いていたときは、まだネルーが生きていたときだった。人々は彼について熱情的に語り、彼は彼で世界をまわり歩いて世界平和を説き、多くの人々が「私たちはまだ貧乏だ。しかし、ネルーがいる」という意味のことを言った。
そのネルーは、もう、この世にいない。それとともに、世界の政治の舞台でのインドの姿はかなり色あせてきたように見える。それは世界情勢の変化のおかげであるとともに、インドのお家の事情それ自体の変化のおかげなのかもしれない。六年のあいだに、中印の国境紛争があり、インド経済の崩壊があり、中ソ論争があり、ネルーというスターの死があり、カシミールをめぐってのパキスタンとのケンカがあり(そのケンカは、正直に言って、インドにとって分のわるいケンカだった)、世界の人々の眼にうつるインドは、もはや、平和の救世主としてのインドではない。あるいは、平和の理想の権化でももはやない。インドもまた、ナショナル・インタレストを追う国家群の一つであること、それが六年のあいだに次第にあきらかになっていったようだ。
一人のインドの政治家が、彼は口のわるいことで有名な野党の政治家だったが、えらく率直なことを私に言った。
「きみがこの国の政治家たちに、今、インドが当面しているもっとも重要な国際問題は何かと訊くなら、彼らはどいつもこいつも、それはベトナム問題だと答えるだろう。しかし、そいつはウソだ」
彼はきっぱりした口調で言った。
「インドの政治家のまえにある国際問題は、それでは……」
私は少し口ごもってから思いきって言った。
「パキスタンとのことだ」
「そのとおり」
彼は大きくうなずいた。
「いったい、きみはパキスタン戦争の真の原因は何だと思うのかね」
「宗教じゃないでしょうか」
「ぼくの言っているのは、真の原因は何かということだ。……それがインドの最大の国内問題でもあるゆえに、最大の国際問題ともなっている」
「それは……」
私はふと思いついて言った。
「貧困、でしょう」
彼は大きくうなずいたが、さっきのように「そのとおり」と勢いよく言いはしなかった。だまって、しばらくだまって、空間の一点をみつめていた。
3
六年ぶりの、大きな旅行だった。
昨年九月に日本を出て、まず、アメリカ。ついで、ソ連。つづいて、イタリア、オーストリア、西ドイツ、フランス、イギリス、アイルランド、アイスランド、ふたたび、アメリカ。アメリカに二カ月いて、東部、中西部、南部を歩き、ふたたびヨーロッパ。そのあとは、イスラエル、インド――七ヵ月かかった。
なんでこんなややこしい旅行をしたのかというと、ベトナムのためだった。九月にアメリカに行ったのは、ミシガン大学で行なわれたベトナム戦争に反対する国際的な集会(「国際ティーチ・イン」といってよいだろう)に出るためで、そのあとも各国のベトナム戦争反対の運動と実際に接触して歩いた。そのことについては、ここでくだくだしく述べないが、一つだけその成果についていっておくと、八月十一日から十五日まで「ベトナムに平和を!」日米市民会議という大きな集会を開いて、日米の反対勢力を結集する。アメリカからは、さまざまな運動の指導者がきて、これからの反対運動の具体的な計画をつくり上げる。いや、その集会自体が一つの反対運動の行動なのだろう。
しかし、ここでは、政治についてよりも人間について、あるいは風物について語ろう。
こんどの旅行ではじめて訪れた国はソ連とアイスランドとイスラエルの三国だけだから、まずソ連について語ろうと思うのだが、さて、語ろうと思うと、まるでシベリアの荒野のようなものが頭のなかにいっぱいにひろがってきて、つまり、あまりに茫として果てしがないのだろう。何から語っていいかわからない。モスクワにひと月いて、毎日ぶらぶらしていたのだが、もうそのときには雪が降っていて、雪の街路でアイスクリームを立ちぐいしたらそれがめっぽううまかった。私はロシア語はからきし駄目で、はじめておぼえたロシア語は「マロージネ」(アイスクリーム)と「ピサーチェリ」(作家)だった。ソ連では作家や詩人がむやみとえらい国で(作家と詩人とどちらがえらいかというと、それはもちろん雲の上に昇ることができる詩人だった)、広場や街路には昔の作家や詩人の名がついている。昔、スターリンという人がいて、作家、詩人の書くものにいちいち難くせをつけ、自分で書きなおしたり、書きなおしさせたり、それでもいうことをきかぬやつはシベリア送りにさせたということだが、それも作家、詩人がえらかったからだろう。
そこへいくと、わが愛する日本国では、総理大臣は、捕物帖か推理小説しか読まぬたてまえになっていて、こんりんざい、私の書くものなど見ないだろうから、安心である。そんな冗談口をソ連の人にたたいたら、その人はえらく生マジメな口調で「シカシ、小林多喜二ハ殺サレマシタ」といった。小林多喜二が殺されたときの総理大臣は誰だったか知らないが、彼が『蟹工船』や『党生活者』などを読んでいたとは思えない。また、彼の頭のなかで、作家、詩人の地位がかくべつえらかったはずもない。とすると、あれはどうして殺されたのだろう?
私はスターリンに会いたくなった。どこへ行けば会えるかときいたら、それはまずお墓でしょうということだった。赤の広場のまえにレーニンのお墓をまつったお堂があって(あれは、やはり「まつった」という以外にはないものだろう。お堂のまえには番兵さんが二人立っていて、その立ち方はまさに不動の姿勢で、最初そのお堂のまえに行ったのは夜で、おかげでよく見えなくて、私はこれはロウ人形にちがいないと一瞬思ったほどであった。しかし、その不動の姿勢で動いているものが二人にそれぞれ一つあって、それで私は二人がロウ人形ではなくて人間であるとさとったのであるが、その動いているものは、二人が吐き出す白い息であった)、お堂の背後に、スターリンもまたまつられているという。早速出かけてみたら、そのお墓を見るには、レーニンのお堂そのものに入らなくてはならないしくみになっていて、そこへ入るためにはシベリアから来た雲つくばかりの大男、レニングラードの赤いマフラーのおシャレ男、十三世紀をそのまま背中に背負ってきたようなサマルカンドのおばあさん、デートのついでにレーニン様にお参りするモスクワっ子の男の子と女の子(二人ともモスクワ大学めざして受験勉強中であるのかもしれない。私は予備校教師をしているから、そんなことが気にかかる。調べてみると、ソ連もなかなかの「受験地獄国」であるようだった)などといっしょに、えんえんとつづく列のなかで立ちん坊して順番を待たなければならない。これはかなわんといったら、革命博物館に行きなさい、あそこならスターリン様はいらっしゃるだろうと教えてくれる人がいて、乗車拒否をするタクシーの運チャンをなだめすかして革命博物館へ行った。
しかし、博物館のなかのどの室も革命と建設と解放の大小さまざまの英雄、志士、戦士、官僚の大小さまざまの肖像画、写真にみちみちているというのに、スターリンの姿だけはどこにも見えない。業を煮やして、番人のおばあちゃんにきいてみると、三ヵ所だけ、彼の姿が見えるという。おばあちゃんがその一つ一つに引っぱって行ってくれた。二つはどちらも大きな大会のありさまを描いた油絵のなかであって、中心にはレーニンが大演説をぶっていて、ゴチャゴチャとおえら方が並んだはしのところに、まだ若き日のスターリンが横顔を見せてションボリと坐っている。
これだと指でさされてみないとわからないくらい小さくて、またションボリとしているのだが、あのなつかしい(とは、ソ連の人は思っていないだろうが)大きな口ヒゲがあって、たしかに、彼、スターリンだ。
「スターリン、スターリン」と私が叫ぶと、おばあちゃんは、お孫さんの大発見をよろこぶときの表情で、いくぶんの威厳をこめてフム、フムとうなずく。
もう一つは、これは新聞の写真で、正面からのポートレートで、ただ一人、壮年の彼が写っているのだが、名前はない。独ソ戦開戦のときの彼の大演説のなかにかかげられているのだが、その演説自体、誰がした演説なのか書いていない。徹底した非スターリン化である。それにしても、この大きな博物館からスターリンを追放するのはたいへんな事業であったにちがいない。スターリンの大肖像画、写真を放り出すぐらいならことは簡単だが、レーニンが演説しているすぐ横でスターリンが正面むいて坐っていたらどうするのだろう。これも放り出してしまって、はしのところにションボリと横顔見せて坐っているのに書きなおしてもらわなくてはならぬ。
そんなことを考えていたら、おばあさんが横から小声でいった。「また、もう少し、スターリンが復活するそうです」どこで? もちろん、博物館のなかでだけのことだろうね? 私がそうした眼でおばあさんを見ると、おばあさんはまたフム、フムとお孫さんに対するときのようにうなずいた。
わが友エフトシェンコよ、きみによるとソ連にはまだまだスターリンの亡霊がはばをきかせているらしいが、よきコミュニストである(きみは自分のことをそういったが、私もそう思う)きみは、これからもどしどし発言をつづけて、これ以上、亡霊をのさばらさないでくれ。
革命博物館の一室ではベトナムの写真展をやっていて、北ベトナム政府と解放戦線からの写真が展示されていたが、そこはガランとしてまったく人影がなかった。
ソ連のことを書くと、アメリカのことが書きたくなる。アメリカの平和運動のことについては、これまでに書いたし、また、これからも書くだろうから、簡単に言っておこう。若い人たちと話していると、アメリカもずいぶん左がかった国になったと思うし、それはいくぶん事実なのにちがいない。すくなくとも、ひと昔まえのように、エセ現実主義者がはばをきかせることはなくなって、計算機ですべては片づくというようなことはなくなって(そう考えたマクナマラ氏一派のベトナムでの失敗は、人々にとっていい薬だった)、ものごとをもう少し原理にまでさかのぼって考えようとする。「自由」の一語をふりまわすよりも、ベトナム人にとって(アメリカ人にとってではなく)何が「自由」なのかを考えて、そこから出発しようとする。そして、こんなアメリカ人とつきあって帰ってくると、日本では目下、エセ現実主義者どもが活躍中で、まるでひと昔まえのアメリカにかえった感あり。アベコベ物語だ。アメリカ共産党の大会の記事がニューヨーク・タイムズの一面トップに写真入りで、でかでか出ていて(ひと昔まえなら、十二面ぐらいの片隅にしか出ないだろう)、そこでは、共産党の親玉が人民戦線ばりの進歩派の統一戦線を呼びかけている。日本では――もう、それはよそう。
南部へ行った。このまえ旅したときから六年たって、そのあいだに公民権運動というのがあり、それがモウレツに動き、公民権が成立して――さて、南部はどのように変わったか。
昔は、バスの駅などへ行くと、待合室、便所に「白人用」「黒人用」の別があって、それぞれ≪WHITE≫≪COLORED≫という表示がかかげられていたが、そんな表示はきれいサッパリとなくなった。昔は白人専用だったレストランにもホテルにも、黒人は入れる。
しかし、黒人はやっぱり黒人街にむらがっていて、メシもそこでくっている。白人街の、ということは、都心ということだが、そこのレストランへ行ってみると、いつ行ってみても、給仕以外に黒人の姿はない。ためしに話しかけてきた白人のドラッグストアの主人だという初老のおじさんにきいてみる。「どうして、黒人はここへこないのかね」おじさんはまさに即座に答えた。
「やつらは行くべき場所を知っているさ」
それから、おじさんの黒人攻撃がはじまった。なんでも黒人は白人に比べて先天的にお脳の程度がわるい、手くせがわるい、白人の女が、黒人の男に強姦される。コンゴを見たまえ、えらくやられたそうじゃないかというようなことを述べたてる。もちろん、おじさんは、黒人がこれまで白人にどんな目にあわされてきたか(たとえば、いったい何十万、何百万の黒人の女が白人の男に強姦されたか)、そんなことは全部ヌキにしておっしゃるのである。お脳の程度がわるいのはどちらか(このごろ日本でもこんなことをいう手合いがふえてきて、最近も、そうしたオポチュニストの一人が、日本の大総合雑誌の誌上でおじさんそっくりのことを言っていた。
白人と黒人の結婚は、それは州法によっているのでいぜんとして駄目なところが多い。それが駄目ということは、ミシシッピとユタ州だったが、日本人と白人の結婚を違法だということだろう。いっしょに住んでいると、逮捕される。つまり、これは他人ごとではない。
いや、根本的には、黒人の経済状態がよくならないかぎり、解決はないだろう。誰もがそれを言った。黒人の大学出で、やっと白人の小学校出と同じくらいの収入にありつける。マーティン・ルーサー・キングの団体は、いま、この経済問題にシカゴのスラム街の状態改善というプログラムを通じてとりくんでいるが、そのプログラムの指導者が私にこんなことを言った。「公民権によってもたらされたのは、心理的効果だね。これによってはじめて、黒人は顔をあげて白人に正面から対することができるようになった」「ほかには?」私が言うと、彼はまっくろい顔を天の一角にむけて吐き出すように言った。「NOTHING」(何もない)
ニューヨークの黒人街ハーレムに、私は友人を幾人かもつが(つまり、彼らは黒人である)、ある日、あるとき、日本の坊ちゃん、お嬢さんをハーレムに連れていった。たいていの日本人は、ニューヨークに住んでいながらハーレムに足を踏み入れたことがなく、たいていが黒人のことを「クロンボ、クロンボ」などと軽ベツしきった口調でのたまう。どうして、いつもは白人がいばりくさりやがるといまだにこぼしつづけているのに、そのときだけ、白人と同じ口調になっていばるのだろう。ハーレムの地下鉄の駅で降りて、穴グラから外へ出てきてしばらく歩くと、とたんに、お嬢さんがとんきょうな声を出した。「ここ、ほんとうにハーレムなの?」私がけげんな顔でうなずくと、彼女は意外な表情でつづけた。
「なんだ、ここ、ふつうのところじゃないの」
お嬢さんのイメージでは、黒人街というのは、いつも人間がけだものみたいにケンカしていたり、ピストルを射ち合いしていたり、そうでなければ、朝から晩までジャズで踊り狂っているところだったのかもしれない。つまり、人間ならぬ「クロンボ」のいるところなのだから。
アメリカのことが出たついでに「パリのアメリカ人」について書こう。その一人に『地上より永遠に』という大ベスト・セラー小説を書いたジェイムス・ジョーンズがいる。彼はパリのどまんなか、ノートル・ダム寺院のすぐ裏に住んでいて、はじめて会ったとき、彼はすでに半ば酔っていた。私の会ったのは夜だったが、朝、電話で「私ハ日本ノ作家デアル。会イタイ」と申し入れてから、彼は一日中落ちつけなかった。ジョーンズはガダルカナル戦生き残りの兵士で、あのジャングルの白兵戦以来、日本人と「至近距離」で会うのははじめてだったのだという。それで、酒をのんで、酔っぱらって私をむかえて、ときどき、キャッキャッと奇声を発する。察するところ、いろんなどろどろした重苦しいものが彼の頭のなかいっぱいにつまっていると見えた。彼によれば、日米双方にわたって、人類がいかに動物に化するかを見たのだという。
どういうわけからか、私は彼とむやみに親しくなった。親しくなってから、彼はそのキャッキャッのあいまに、ガダルカナルのことをポツリポツリと話す。その一つに、なんでも斬り込み隊が彼の陣地に飛び込んできて、先頭の隊長が日本刀を重機関銃めがけて打ちおろした。アメリカの当時の重機関銃は水冷式で水の入った大きな鋼鉄製の箱がついていたのだが、その日本刀はそれごとまっぷたつに重機関銃を切断した。返す刀で、彼に打ちかかってきたところでジョーンズは彼の胸めがけてナイフを投げた。ジョーンズは今でもそうだが、投げ矢の名人で、ねらいたがわず、隊長の胸にあたった。――ある日、ジョーンズは私のためにパーティをもよおした。出かけてみるとほかにもガダルカナル生き残りの勇士がいて、彼もまた「パリのアメリカ人」の一人で、しかし、話題はガダルカナルのことになって、どうして花のパリのどまんなかでそういうことになったのか、ジョーンズのキャッキャッに比べて、その男は寡黙で、しかし、同じようにどろどろとしたものがその男の頭のなかいっぱいにありありと見えて、窓からはノートル・ダム寺院がものしずかに見えて、それが、つまり、私にとってのパリであった。
重苦しくなったから、もう少したのしい話を書こう。となると、やはり、イタリアだ。
イタリアの共産党は柔軟で心が広くて、現代のややこしい情勢に対応しようと心をくだいていて、どこの国の進歩派にも人気がある。某月某日、イタリア共産党本部を訪ねると、ひっそり閑として、人影なし。どうしたのか、党員すべて根こそぎ逮捕されたのかと案じたら、一人残っていた小使さんがこれはイタリア名物の「シエスタ」、つまり「ヒルネの時間」であると教えてくれた。イタリアでは、午後一時から四時ごろまで、人々はメシをたべ、ブドウ酒をのみ、そのあとゴロリと横になってヒルネをする。そのため、会社、官庁、商店はすべて一時から四時ごろまでは閉店。――共産党もまた例外ではなかった。日本共産党も、やれ中国だソ連だとメクジラたてないで、ヒルネの時間をもうけるといい。
某月某日、共産党某氏、車で私をローマじゅうひきまわす。その車は大きくてゴウカで、おまけに新品で、私が「コレハいたりあノ独占資本ノ生産物ニアラズヤ」ときくと、彼は「シカリ」と答え、それからカラカラと笑った。「全いたりあノ労働者ガカヨウナル車ヲモツコト、スナワチ、ワガ党ノ方針ナリ」
エフトシェンコは、世界でいちばんいい共産党はイタリア共産党であるといった。
もう一国つけ加えよう。
それはアイスランドで、全人口が二十万足らずで、二階建ての村役場みたいなのがあるなと思ってよく見ると、それが外務省だった。日本の都会の小学校の半分ぐらいのが、アイスランド国立大学。気に入った。
ただ吹雪で、ブリザードで、眼もあけていられないくらい風と雪が吹きまくって、それでいて、人々は平気で歩いていて――いや、そんなことはいい、ウンザリするのは、アメリカの基地があって、アメリカの兵隊が空港へ行くとむやみといて、それは、フランクフルトともトウキョウとも似ていた。
フランクフルトで、私は、実際、軽いホーム・シックにかかった。アメリカの基地がフランクフルトのまわりを包んでいて、アメリカの兵隊がやたらと眼について、まさに日本だった。
心たのしい話からまた重苦しい話になってしまった。
仕方がない。これが現在の世界なのだろう。
(1967年7月)
あとがき1
最近私のところに、「日本通運|晴海《はるみ》埠頭事務所」なるところから人間の荷物が届いた。日通のトラックが京都から外人の無銭旅行者三人を拾って来たのだという。早朝、電話が事務所からかかってきて叩き起された。
「ハロー、オーダ、覚えているかい、ローマとアテネのユース・ホステルで会ったアメリカ人二人、アゴヒゲをはやしている……」
二人の連れのドイツ青年(同じくアゴヒゲ)は、私とマドリッドとローマのホステルで会った。私は忘れていたが、彼は私の上のベッドで寝たのだと主張する。とにかくもう一年前のことなのだ。アメリカ青年二人とドイツ青年はアテネのホステルでおち合い、おたがいへんてこな日本の若者に会ったね、などとしゃべり合っているうちに意気投合したのだろう、ついに日本までヒッチ・ハイクの旅に出発することになった。一年の紆余曲折ののち、神戸に上陸、一路、「オーダ」のいる東京めざして上京。ありがた迷惑なのは私である。私自身、いまだに人生の無銭旅行者ではないのか。とりあえずミルクを飲ませ、一個十円ナリのアンパンを一つあて分配。彼らはとたんに生気をとり戻し、大声で「アリガトウ」と言った。私は苦笑した。これはそのまま一年前の私の姿ではないか。
私もまた多くの人(ことに河出書房新社の坂本一亀氏、また装幀と写真に関して、岡本栄士、岡川千勝、野島元昭、山科義郎、美古野苫麻の諸氏)に「アリガトウ」を言いたい。友人、知己を始めとして多くの人の協力と援助なしには、この本は成り立たなかったであろう。そしてまた、私のムチャクチャな世界旅行を可能にしてくれた世界各国の人々、なかでもパン屋のデモステネス君のような無名の庶民たちにむかって、日本語と、できれば彼らの母国語とで、それがかなわぬなら万国共通のニヤニヤニコニコ語とで、私は心から「アリガトウ」と告げたい。
(1961年2月)
あとがき2
私が『何でも見てやろう』を書き始めたのは一九六〇年の夏のことだった。書き終えたのは、同じ年の冬――それから、すでに七年がたつ。その七年のあいだに、さまざまなことがあり、さまざまな変化がおこった。
たとえば、私がこの本を書いたころ、本の材料となった旅行をしたころには、日本の飛行機はまだヨーロッパまで来ていなかった。あるいは、日本は安保闘争によってその名を世界にとどろかせてはいなかった。オリンピックもはじまっていなければ、新幹線もなかった。いや、これは世界も同じだろう。すでにまったく過去の人となったアイゼンハウアーがいてフルシチョフがいてネルーがいた。そしてまだ、EECはできていず、アルジェリア戦争は解決されていず、ドゴールもまだ登場していなかった。アメリカでいえば、ジョンソンはおろかケネディさえ、まだ、世界の表舞台に登場していなかったのである。そして、ベトナムで今日のような事態がおこることを私はまだ考えてもいなかった。いや、これは、世界の多くの人々にとっても同じだろう。
眼に見える変化はいくつもある。
たとえば、日本の社会がさらに「ゆたか」になったこと。それとともに(オリンピックや新幹線とあいまって)人々は急速に日本に自信をもち始めているにちがいない。ヨーロッパについても、同じことが言えるだろう。ヨーロッパがゆたかになり、人々が自信をもち始めていること、私はそれを、一昨年の秋から昨年の春にかけてかなり大規模な世界旅行を試みたとき、随所に認めた。たとえば、パリやローマの安宿のトイレットに新聞紙の代わりにトイレット・ペーパーがそなえつけられるようになったこと。あるいは、「わが偉大なるドゴール!」。アメリカで言うなら、眼に見える変化は、たとえば、南部の街から≪COLORED≫≪WHITE≫のあの不愉快な標示が消え去ったことだろう。あるいはまた、あの非政治的なアメリカで、今日では容易に眼にすることができるベトナム戦争に反対する、人種差別に反対するデモの隊列。
けれども、事態はほんとうに変わったと言えるか。たとえば、日本人はほんとうにゆたかになっただろうか。それはヨーロッパ人も同じだが、それにもまして、≪COLORED≫≪WHITE≫の標示がなくなった事実は、そのまま人種差別が消滅したことを決して意味していないのだ。標示はとり去られ、多くの改善がなされたとはいえ、差別は根本的にはまだ残っている。そして、たしかにデモの隊列はたとえば大きく「ベトナム戦争反対」を叫ぶ。しかし、いぜんとして、この戦争はアメリカ人の大多数によって支持されてつづく。
いや、事態はわるいほうに変化しつつあるのかもしれない。アジア・アフリカの諸国においては、そんなふうにたしかに言えるだろう。インドのネルー、アルジェリアのベンベラ、ガーナのエンクルマ、インドネシアのスカルノ――このわずかな年月のあいだに、彼らは姿を消した。そして、七年前、世界にはまだ中印国境紛争も中ソ論争も文化大革命もおこってはいなかった。そして、もう一つはっきりしていることは、いぜんとして存在するアジア・アフリカ諸国の人々の生活水準の低さであり(あるいは、七年前より、ある国では状態はわるくなっているかもしれない)、その低さの上に、ふたたび、西洋(そのなかに日本をふくめて、私は言う)が力を得ようとしていることだろう。私はさっきヨーロッパの回復を説いた。しかし、その回復の基盤の一つには、やはり、「新植民地主義」という名で呼んでしかるべきものがあったのではないか。ほんとうに、アジア・アフリカで、事態は急速に悪化しているのかもしれない。一つの例をあげよう――ベトナム戦争。
* * *
この本は二つの部分に分かれる。一つは、「何でも見てやろう」。もう一つは、一昨年の秋から昨年の春にかけての旅行の再訪の記録の一部(ソ連もそのときには訪れることができた)。ただ、後者の旅行は「何でも見てやろう」という旅行ではなかった。世界のベトナム戦争反対運動との連帯を確立するための旅行――その旅行は、八年前の「何でも見てやろう」の旅行に比べて、重苦しく、みじめな旅行だった。
(1967年7月)
あとがき3
『何でも見てやろう』の旅に出かけていなかったとしたら、私はどんなことをしているか、いや、もっと端的に、今どうなっているか。ときどき考えてみることがある。
たぶん、『明後日の手記』、『わが人生の時』の延長線上で仕事をつづけて来ていたことだろう。それは、どういうことか。
『何でも見てやろう』を世に出してから、私はたまたまインテリたちが酒をのんで議論しているのを横できく機会に出会った。それは東京の片隅のさる酒場ないし飲み屋においてであったが、そういうところでは、インテリたち(私がそのとき見かけた人たちもメガネをかけ、おおむね痩せており、横文字の本なども見えたから、インテリであることにまちがいはなかった。いや、次に述べることがらにおいて、彼らはまったくのインテリであった)は、きわめてワイザツな話をするか、それとも、難解な革命談義などをおっ始めることになっていて、そのときには後者であった。たしか政治参加における思想の重要性について彼らは議論を展開していたのであるが、そのうち話は『何でも見てやろう』のことになった。つまり、私のことになったのである。私がその場にいることを彼らが知らなかったことはもちろんのことだが、彼らの「『何でも見てやろう』論」、「小田実論」はたいして長くつづいたわけではない。結論がすぐついてしまったのである。いや、結論ははじめからきまっていた。あいつは歩きまわっているだけだよ。あんな本に思想などあるものか。
そのうち話は、私と同年輩の作家の話になった。あいつには、小田などとちがって思想があるからな、とそんなふうな話になり、結論になった。
なるほど、この人たちにとっては、思想とはそういうものなんだな、という気が私にはした。そんなふうに型にはまったものなんだな、本にそれとはっきりと名ざしできるようなかたちで書かれているもの――たとえば、それこそ何トカ書店発行の「思想講座」、「哲学講座」に出て来るようなかたちのものであるのだな、と私は思った。その私と同年輩の作家の「思想」は、なるほど、そうしたインテリたちにとって規格外れの思想ではなかった。私は彼の名前をきいて、なるほど、とあらためて合点した。
『何でも見てやろう』の旅に出かけていなかったら、私もそんなふうなインテリの一人になっていたにちがいない。たかだか、彼らにほめそやされる思想の持主になっていたにちがいない。『明後日の手記』、『わが人生の時』の延長線上の私はそんなふうな私でしかなかったように思われる。今の私がそうした私よりかくだんにすぐれていると言うのではない。ただ、ちがっている、ちがった存在になっている、ということを言いたいのである。そして、そのちがいは私にとって何よりも重大なのである。
後年、「ベ平連」(「ベトナムに平和を!」市民連合)の運動をやり出したとき、運動のなかで知己になった人たち(その人たちは「左翼」と呼ばれるべき人たちだった)が、『何でも見てやろう』が世に出たときのことを思い返して、「へんな右翼が出て来たと思ったよ」と異口同音に言った。そう言われたときにも、私は、なるほど、と思った。私の政治へのかかわりかたも、たぶん、規格外れだったのだろう。いや、規格を外れるというよりは規格をぶちこわすかたちで始まったのだろう。既成の「左翼」とか「右翼」とかいうワク組みをぶちこわすことが、私にとって必要だったにちがいない。言うまでもないことだが、たとえば、私の「べ平連」の活動は『何でも見てやろう』とあきらかにつながっている。『何でも見てやろう』の旅に出かけていなかったとしたら、私はそうした反戦運動へのかかわりを始めていなかったにちがいない。
象徴的に言えば、思想が本のかたちでまとめ上げられるものでないこと、そこから大きくはみ出たものであること、同じように政治が「左翼」とか「右翼」とかいうようなワク組みをはみ出たものであることを、私は、私のことばを一言半句も理解しようとしないカルカッタの「街路族」のなかで体得し始めたように思う。そして、そうした体得はその後も今日に至るまでつづいている。
(1971年5月)
●編集部より
本書には、卑語、蔑視語(差別語)を伴った表現、また、現在では誤りとされる記述がありますが、本書をお読みいただければわかるように、差別を容認するものでも、その観念を広めようとするものでもありません。むしろそれに対極するものです。作品の執筆年代・執筆された状況を考え、また、この作品により、差別≠ノついて思いをめぐらしていただくため、あえて、単行本刊行時(一九六一年)のテキストのまま、出版いたすことにしました。
読者のご理解をお願いいたします。
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本作品は、一九六一年二月、河出書房新社より刊行されました。講談社文庫版は、一九七九年七月刊行。