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正しい大人化計画
―― 若者が「難民」化する時代に ――
小浜逸郎
目 次
はじめに
第一章 日本の若者問題とは何か
第二章 「教育システム」はこう変えよ
第三章 「法的な通過儀礼」を設定せよ
第四章 就労体験で間延びした日常を立て直せ
第五章 「上昇システム」への依存を断ち切れ
あとがき
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はじめに
人間が「一人前の大人」であることにとって、最も重要なものは「誇り」である。
だが「誇り」とは、中身をもたないただの「高慢さ」や劣等感を糊塗するための「プライド」のことではない。それらは周囲の人々によってすぐにそういう見せかけだけのものとして見抜かれる。
ある人の誇りがその人格に本当にふさわしいものと人から思われるためには、あくまでその誇りを形作っている現実的な裏付けが伴わなくてはならない。この現実的な裏付けにもとづいて人は周囲の人々から「一人前の大人」としての承認を得、そのことによってこそ真の「誇り」を保てるのである。
では、現実的な裏付けとは何か。それは大きく言って、次の二つに集約される。
一つは、きちんとした仕事に就き、その責任を果たすことである。そしてもうひとつは、恋愛関係、家族関係、友人関係など、身近な関係をうまくやっていくことである。
そしてこれらは、自分の人生のイメージを具体的に思い描くこと、言い換えると、適切に「身を固める」ことを意味する。
現代日本の若い世代は、この二つの課題(大人への条件)を前にして、さまざまなかたちでためらいや迷いや漂いを示している。同時にそれらが集積して、日本の未来社会像を不安なものにしている。
ためらいや迷いや漂いの現象とは、具体的には「ひきこもり」「フリーター」「ニート」「パラサイト・シングル」「教育の機能不全」などである。
これらの現象を、その内実をよく知らずにすべて「悪いこと」と決めつけてはならない。また、これらの現象を体現させている個々の主役たちに向かって「いまの若者は」式の非難を投げつけても意味がない。これらの現象が生み出されてくるのには、ある共通の時代的・社会的な必然があるからである。しかしその必然性自体のなかに、日本の未来に対して不安を抱かせるような何かがあることもまたたしかである。
そこでむしろこう問うべきだ。これらの社会現象はなぜ生まれてくるのか。またその理由のなかの何が私たちに不安を抱かせるのか。そして最後に、どのような未来構想を提示すればその不安が解消できるのか。
この本では、はじめの二つの問いに答えつつ、特に最後の問いに比重を置いて、若い世代が適切な「大人化」を果たすための具体的なプランを示したいと思う。
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第一章|日本の若者問題とは何か
†大人とは何か[#「†大人とは何か」はゴシック体]
まず、「大人」とはそもそも何だろうか。さまざまな答え方ができるし、さまざまな答えが出されてきたが、整理されているとは言い難い。「大人である」という概念内容のうち、この本の課題にとって優先すると考えられるものを抽出するために、次のような整理を試みる(図参照)。
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――――――――――――――――――――――――――――――
大人
A生理的大人
@年齢を経て身体が大きくなり運動能力が強くなっている
A生殖能力がある
B社会的大人
B親から経済的に自立している
C仕事や家庭で責任を果たせる
C心理的大人
D落ち着いていて、小さなことで騒がない
E場面に応じて態度を使い分けられる
Fいろいろな知恵・知識があってそれを伝えられる
――――――――――――――――――――――――――――――
[#ここで字下げ終わり]
@からFまですべて完璧に備えている「大人」というのは少ないだろうが、およそ、これらの七つの条件を適度なバランスで備えていれば「大人」と見なされることになるといってよい。
少し解説を加えよう。
「B社会的大人」と「C心理的大人」とはたがいに絡み合う関係にある。たとえば、「C仕事や家庭で責任を果たせる」が可能なためには、「D落ち着いていて、小さなことで騒がない」、「E場面に応じて態度を使い分けられる」、「Fいろいろな知恵・知識があってそれを伝えられる」のすべてが必要とされるだろうし、「B親から経済的に自立している」や「C仕事や家庭で責任を果たせる」が実現できていることが、その後の生きる自信につながり、DEの態度をもっと本物にし、Fをさらに発展させていくだろう。
また、Eは「八方美人」とか「二枚舌」とか「狡猾」とか、偽善的で不誠実なあり方を「大人」であることの不可欠の条件として掲げているように聞こえるかもしれない。しかし、人は事実、多面的な関係のなかを泳いでいかなくてはならないのだから、それぞれの関係のモードにふさわしい「マスク」を持つのは当然のことであり、また必要なことでもある。私はこの条件を備えることが、「大人」であるために非常に重要であると思う。もちろんあまりの多面性は、信念がなく頼りない、卑屈な人格ということになるし、さらにそれらの多面性が一定の自我のもとに統合されていなければ、多重人格ということになってしまう。しかし、公私のけじめをつけられるとか、具体的な関係の綾をそのつど読みとってそれにふさわしい態度がとれるといった能力は、大人としてぜひ必要なことである。
たとえば、性的に親密な相手とのやりとりを、そのまま公開の場面で、他人の目にさらして平気でいられるようでは大人とは言えない。恋人同士が密室でいちゃつく関係というのは、互いに「子ども」になってしまう関係であり、その関係と非性的な関係とはまったく質を異にしている。
またたとえば、日本語には敬語文法という複雑で独特の使い分け作法があるが、これを身分制社会の名残と考える必要はない。距離や親密さの度合いに応じて互いの関係の質を確かめ合い、また把握し直してゆくための繊細な付き合い文化と考えればよい。過度にこだわる必要はないが、ある程度まできちんとこれを使いこなせることは、彼や彼女が相手の存在についてまともな想像力を持っていることをあらわしており、また、相手の人格を認めていることをも意味している。
もう三十年近く前になろうか。ある布団屋に布団の打ち直しを頼んだことがあった。布団を私の家に取りに来たのは店主である父親のほうで、打ち直した布団を収めに来たのは息子のほうだった。息子はどう見ても私より年上で、三十代半ばくらいに見えた。
彼はそのとき「お父さんが布団を預かりましたが」とかなんとか言ったのだが、私は一瞬意味が分からず、そして次の瞬間唖然としてしまった。この息子は自分の父親のことを顧客に対して「お父さん」と呼んだのだ。いい年をした大人が、自分の両親について他人に話すのに「お父さん、お母さん」という呼称を平気で用いる、その使い分け感覚の欠如に出会ってあきれたのは、これが初めての機会だった。
それから時は流れ、いまではこれが当たり前になってしまった。だが、私の違和感はどうしても消えない。私は、学生が私に向かってタメ口をきくのなどは一向に気にならないが、こういう使い方を耳にするとすぐに「父、母」と言いなさいとたしなめることにしている。家族同士や恋人同士で互いをどう呼び合おうが勝手だが、性(エロス)が絡んだ私的な関係の世界と性が絡まない公的な関係の世界の区別だけは、人間社会をかたちづくる秩序の根源を維持する上で絶対に必要なことだと日頃信じているからである。
このように、場面に応じて振る舞いや言葉の使い分けが適切にできるということは、その人の視野の広さや想像力の大きさや人間観察力の深さや感情の豊かさをもあらわしているから、同時にFの、いろいろな知恵があることと呼応している。
知恵とは、それが格別、世故にたけているとか世渡り術がうまいといった俗世間的なものでなくても、もともと狡猾なものである。
わが日本では昔から「まこと一途」とか「正直」とか「誠実」とか「裏表のなさ」等の美徳の尊さが強調されることが多いが、むしろ「正直」や「誠実」や「裏表のなさ」をうまく演じることができる狡猾さを身に帯びることこそが、「大人」の条件として欠かせないのだ。なぜならば、多面的な関係を泳ぎわたらなくてはならない人間の生においては、ある関係における「正直」で「誠実」な言動が、同時に他の関係では「不正直」で「不誠実」な言動としてあらわれるということがいくらでもあり得るからである。
†大人は死を内在化している[#「†大人は死を内在化している」はゴシック体]
ここまでは、子どもにはない能力を獲得した存在としての大人という観点から「大人」の概念を考えてきたが、ここでもうひとつ大事なのは、「大人」とは、子どもよりも死に近づきつつある存在だという観点である。
「大人」が「子ども」に比べて死に近づきつつあるという事実は、幼い子どもは死にやすいとか、青春期にある一部の人々は死を思いがちだとか、壮健な大人は最も死から遠いといったこととは矛盾しない。この事実が含む大切な意義は、大人は子どもに比べて、自己意識のうちに、「やがて死すべき存在としての自分」という観念をより多く含み込んだ存在だというところにある。
大人の生き方のなかには、死が内在化されている。それは、現実的には、逃れることのできないさまざまな生の条件を、たとえそれらが個体の立場からは一見不条理に感じられたとしても、逃れられないものとして意志的に引き受けるというかたちをとってあらわれる。
たとえば、親が自分の子どもを責任をもって育てるという営みは、自然な人倫的慣習として受け入れられている。これはなぜだろうか。
人は子育てを通して、自分の存在が自らの分身のうちに移行していって、自らはしだいに枯れていくことを経験する。その経験によって、自らの有限性がより具体的な実質に充たされたものとして実感されるのである。親は親としての責任を果たし続けることで自分の死をしだいに身近に引き寄せていくが、そのことによって、「死すべき存在としての自分」を完成させていくのである。
また、たとえば、まともな「大人」は、これこれの仕事をしなくてはならないという規律を自らに課したり、こういう仕事をいついつまでにしようといった企画を自ら立てたりできるが、いったいどうしてそういうことが可能なのかと考えてみよう。それは、獲得された能力という概念とはまた別の観点からとらえ直すことができる。
つまり、そういうことが可能なのは、「死すべき存在としての自分」という自覚の深まりによってなのである。というのは、この「生の有限性」の自覚がなかったり浅かったりすると、自分の一生のイメージをあらかじめ一定のところまで思い描くことができず、そうなると、仕事の節目や広がり具合や見通しを設定することもできなくなるからである。
さらに、たとえば先に、「C心理的大人」の条件として、「D落ち着いていて、小さなことで騒がない」、「Fいろいろな知恵・知識があってそれを伝えられる」を挙げたが、まともな「大人」はどうしてたいていそうなるのか、と考えてみると、これも「死すべき存在としての自分」という自覚にかかわっていることが分かる。
落ち着いていて、小さなことで騒がないのは、経験の蓄積によって、人生についての視野と展望があるところまで開け、確定しているからである。また、いろいろな知恵・知識を伝えようという欲求は、伝えなければ自分の死によってそれらが消滅してしまうという認識に根拠づけられていることが明らかであろう。
最後にこういう場合を想定してみよう。たとえばあなたが、友人と一献傾けてその飲み代をおごったり、彼のために借金を肩代わりしてやったり、職を斡旋してやったりしたとする。これらの行為は、一般に「友情」という情緒関係にもとづいている。もちろん、貸しを作っておいて、将来の見返りを期待するという打算が含まれていることもあるが、見返りを得ることは確実ではないのだから、親密な友人ならばそうした要素は少ないのがふつうだろう。
さて、こうした寛大な行為は、「大人」であればあるほど頻繁に行われやすい。それはなぜだろうか。
一般に相手をサポートするような好意的・積極的な情緒表現がなされるのは、その表現行為者自身、自分にとって相手の存在が重要な意味を持つことを心得ているからである。ところで、ある相手との情緒的関係の重要性を正しく推し量ることができるかどうかは、彼自身が相手との「別離」をどれほど重いものとして受け止めるかという見積もりのいかんにかかっている。
もちろん別離は、単に一時的に会わなくなるということを含んでいるが、しかし絶対的・究極的な別離は、どちらかの死である。だから、互いの存在の有限性をどれだけ深く自覚しているかということ(つまりどれくらい「大人」であるかということ)が、友情のような人間関係の情緒的価値を規定するのである。
以上のように、「大人」と呼ばれる存在の生き方のなかには、子どもに比べて「死」がより深く内在化されている。そしてそれは、現実的には、親が次世代を養育すること、仕事の規律や企画を自らに課すこと、理性的な知恵を表現すること、他者との関係の情緒的な重みを測定すること、などのように、人間にとって逃れられないさまざまな生の条件をそれとして引き受ける営みとなってあらわれるのである。
†大人になることはなぜよいのか――成熟の人間論的な意味[#「†大人になることはなぜよいのか――成熟の人間論的な意味」はゴシック体]
大人になるということは、一般に生理学的な自然過程として当たり前のことのように考えられやすい。しかし、人間は、生物であると同時に、社会的・心理的存在でもある。したがって、すでに整理したように、「人間として大人である」と言えるためには、単に身体の大きさや能力が増大していることだけをその指標とするのではきわめて不十分である。
このことはただちに次のことを意味する。人間が大人化していくプロセスは、生理的、社会的、心理的……などのそれぞれの人間規定に応じた、複線的なプロセスであり、したがって、それぞれのプロセス相互の間にアンバランスな発達の仕方が生じやすい。
先の図式をもう一度示そう。
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――――――――――――――――――――――――――――――
大人
A生理的大人
@年齢を経て身体が大きくなり運動能力が強くなっている
A生殖能力がある
B社会的大人
B親から経済的に自立している
C仕事や家庭で責任を果たせる
C心理的大人
D落ち着いていて、小さなことで騒がない
E場面に応じて態度を使い分けられる
Fいろいろな知恵・知識があってそれを伝えられる
――――――――――――――――――――――――――――――
[#ここで字下げ終わり]
たとえばこの図式で、AとB、AとCなどは同時に成し遂げられることはまずない。また一般に、AとCも同時に成し遂げられることはない。第二次性徴発現後の思春期では、ことに男の子の場合、Aには攻撃性の発達が伴うので、DやEの能力と矛盾した行動表現をしばしば示してしまう。
さらに、一応は「大人」と呼ばれている人のなかにも、DやEの条件を満たせない「性格」の持ち主がいる。彼にとっては、もはやDやEは達成不可能な条件である。その場合には、たとえ他の条件を満たしていたとしても、あまりよくない意味で「子どもみたいな人」と評価されてしまう。
こうしたそれぞれのプロセス相互のアンバランスは、人がだんだん発達して大人になっていくときにどうしても伴うので、子ども時代特有のつらさ、生きにくさとしてあらわれる。また、ゼロ歳から十数歳までの長い長い過程を、一口に「子ども時代」と言い括ることはできず、それぞれの段階に応じたつらさ、生きにくさがあることも考えておかなくてはならない。
たとえば、歌人の佐藤通雅氏は、中勘助の『銀の匙』の微細な描写が大人の読者に子ども時代への郷愁と童心の美しさへの感動をかき立てるのは、むしろ語り手の「私」が、虚弱児として生まれてきて、幼年期に外界とのあらゆる親和を欠き、いわゆる〈子どもらしさ〉からはじき出された眼差しを持ってしまったことによると評して、次のように指摘している。
[#2字下げ]………およそ大人になっていくとは、社会性を身につけていくことといえる。その社会性とは自己の小世界を破砕して、新たな場に飼いならしていく別名にほかならない。本当なら全く自由にいたいところ、公的領域に身を売らなければならない。私的領域からすれば、そこに行く必然性は存在しない。にもかかわらず人間は公的にも生きていかなければならないから、そこにスムーズに入っていくための訓練を時間をかけてしているものだ。だが「私」(『銀の匙』の語り手―引用者注)のように訓練そのものが欠落しているとき、学校は何の必然性もない恐怖の場としてしか受けとめられない。ここでも「私」は無意識の過程を逸し、過度なまでに意識をさかなでる場面にさらされる。「私」のこういう状態は、生育する途次に次々と出てくる。〈子どもらしさ〉とは自然性とか無意識性の別名だから、それがはじめから欠損している以上、子どもらしい子どもの時間はありえないことになる。だのに『銀の匙』は、しばしば童心や郷愁の世界と受けとめられている。それは過去の微細・繊細な描写が、〈子どもらしさ〉欠損に発していることを見逃しているからだ。(『子どもの磁場へ』北斗出版、一九九〇年)
この鋭い批評は、読む者をぎくりとさせる。そしてわが身を振り返ってみて、これが、単に作者・中勘助の特殊事情だけを語っているものではないことに気づかされる。たしかに佐藤氏の指摘するとおり、『銀の匙』の「私」は、ふつうの子どもよりも自然性や無意識性としての〈子どもらしさ〉を奪われた星のもとに生まれてきた。
しかし、では「ふつうの子ども」が、大人の眼差しを通して外からとらえられるような〈子どもらしさ〉を百パーセント持ち合わせ、それを維持していけるかといえば、そんなことはあり得ないだろう。彼もまた、社会性を身につけた「公的な人間」(大人)となるための訓練の過程で、何ほどか『銀の匙』の「私」と同じようなつらさ、生きにくさをくぐり抜けたにちがいない。
逆説的だが、育っていく途上で、つらさ、生きにくさをまったく感じなければ、その時代を懐かしんだり美化したりする心理がはたらくはずがない。だからこそ、この作品の「ふつうの読者」は、はじめから〈子どもらしさ〉を徹底的に喪失させて生まれてきた者の手になる作品に、忘れていた〈子どもらしさ〉喪失時のリアリティを無意識に喚起させられ、郷愁や美化の心理に陥るのだ。
じっさい、過去を美化する私たちの心理的な習慣をできるだけ取り払ってよく思い出してみよう。幼年期、児童期、思春期は、それぞれに生の課題を抱え、その克服のために必死になっていたはずだ。あなたはそのどれかの時期に本当に戻りたいと思うだろうか。少なくとも私は、児童期のほんの一時期を除いては、戻りたいと思わない。
大人を生きることはもちろんつらいことだが、子どもを生きることにも、それぞれの時期に特有のきつさが伴う。両者はその質が異なるのだ。このことは、裏を返せば、子どもには子ども特有の楽しさや充足の世界があるのと同様に、大人にも大人特有の楽しさや充足の世界があることを示している。その違いをこんなふうに言ってみてはどうだろうか。
[#2字下げ] 子どもは、その生存を保護されることのうちに自由を見いだすが、生きる能力の不全を感じることのうちに不自由を見いだす。いっぽう、大人は、他者の評価にたえず曝され、自立と責任を強制されることのうちに不自由を見いだすが、まさにそれらを果たしているという自己達成感(誇り)のうちに自由を見いだす。
なかなか大人になれない若者、大人になりたくない若者、どのような大人になったらよいのか分からない若者が大量発生する時代、この「大人であることの自由」の意義を強調することは大切に思える。人間は、動物のように、ただ生理的な法則によって大人にならざるを得ないのではない。摂食を続けていれば自然に体が大きくなり生殖能力を獲得してゆく過程を自分の生にとっての意味としてもう一回とらえ直し、自ら自由の実現過程として引き寄せることによって大人になるのである。事実、このことがきちんと果たされる場所で生きている人は、充実した、楽しい生を送っている。
とはいえ、すでに周囲の大人たちに存分触れていて、やがて自分がそのようになることをすでに予期している若者たちの目に、現在の大人像が魅力ある存在と映らないなら、若者たちに向かって、「大人であることはこんなによいのだ」と、ただ景気づけのためにだけ旗を振り回しても意味がないだろう。また、力を示せなかったり、自立できなかったり、責任を果たせなかったりしたらどうなのかという不安のまっただ中にある存在に向かって、「いや、必ずそれらはクリアーできるはずだ」と、言葉の空手形をいくら振りだしても効果は薄いだろう。
だから、私たち大人は、なぜこうした若者が大量発生するのかをつきとめ、それが未来社会を担う若者たち自身にどんな問題を引き起こすのかを予測し、そしてどうすればその問題を克服できるのかについて具体的な提案をしてみるのでなくてはならない。
†何が子どもの「大人化」を阻んでいるか[#「†何が子どもの「大人化」を阻んでいるか」はゴシック体]
さて、先の図式について、本書で重要視したいのは、次の三点である。
第一に、現代の日本社会では、個人のなかで、Aの「生理的大人」とBの「社会的大人」との時間的なギャップがはなはだしく開いていること。
これには主として次の要因が考えられる。
一つは、主として「人の心」を相手とする第三次産業中心の社会になったために、職能としての「一人前」のイメージがあいまい化し、特定の技術習得による「一人前」感が本人たちになかなか得られなくなったこと。「心」をうまくつかまなくてはならないこの複雑高度な社会では、身体的な力・技能の獲得より、知識・情報という、常に流動する不確かなものを獲得する能力を示さなくては「一人前」と見なされない。
そしてもうひとつは、高等教育の大衆化によって就学期間が長くなり、経済的な自立感を得るのに時間がかかるようになったことである。もちろん、高校生や大学生の多くはアルバイトに励んでいるが、これは主として遊興費に使われ、生活の主たる費用は親がかりがほとんどだから、経済的な「一人前」感覚が育つとは言えない。
また、同じことの裏返しだが、社会学者の山田昌弘氏が常々強調しているように、特に高度成長期前後に青春期を過ごした日本の親たちが、自分たちの味わった苦労を子どもたちに味わわせたくないという思いを強く抱き、高額の教育費や仕送りを負担していることも要因として考えられる。要するに、若者を見る大人たちの眼差しが、彼らを「大人」にしないで「子ども」に囲い込んでいるのだ。
さらに、家族関係を超えた近隣地域での異なる年齢の子ども集団が崩壊し、世代間伝達が行われにくくなったこと、家族内の関係でも、少子化のため年長者(兄姉)が年少者(弟妹)に、より上の世代の経験を持ち込む機会が少なくなったことも関係しているだろう。
第二に、都市社会の情報環境や人的環境のあり方が複雑多様であるために、先の「E場面に応じて態度を使い分けられる」を満たすのが難しいこと。
これは何をイメージしているかというと、たとえば、ファミレスやファストフード店でマニュアル言葉をロボットのように繰り返すバイトの子が多いが、あれは本人たちの人間的適応力のなさをあらわしているだけではなく、ファミレスやファストフードのチェーン店というシステムが一種の流れ作業的な「大量消費工場」的体制をとらざるを得ないからでもある。
またたとえば、電子メールが普及すると、他の情報手段にもうひとつ新しい便利な手段が付け加わるために、電話でやりとりすべきことをメールで済ませて誤解を生んだり、対人恐怖症ぎみや電話恐怖症ぎみの若者に逃げ道を与えてかえって恐怖症的な傾向を助長したりする。
さらに、農耕社会的な集団主義に代わって都市型の個人主義が浸透し、人間関係を律する規範が不安定になっている(自由になっている)ために、さまざまな他人と適切な距離を取ることが困難で、過剰適応したり孤独に引きこもったりしがちである。言い換えると、他人とどううまくつきあうかという問題が、若者の心にかなりのプレッシャーと緊張を強いている。命令や抑圧や規範が少なくなった分だけ、つきあい関係をパターンによって処理しにくくなり、自己責任とか、自分探しとか、やたら「自分」という領分の範囲で処理しなくてはならない部分が増えたのである。私の周辺でも、巧みにモードを使い分けられない若者をしばしば見かける。ことに男性が多い。
第三に、先の「Fいろいろな知恵・知識があってそれを伝えられる」を満たすべき現行の教育体制がうまく機能していないこと。
この要因としては、日本が物質的な意味で豊かな近代化を完成させたことによって、多くの子どもたちが「いまよりももっとよい生活を得るために勉学に励む」という心理的なモチベーションを失ったことが何よりも大きい。そして、「詰め込み教育や受験競争で苦しむ子どもたち」という、時代遅れで誤った問題設定にもとづく「ゆとり教育」政策が取られてきたことが、いっそう、子どもたちのモチベーション低下に拍車をかけた。
現在この問題は、すでに「学力低下」問題として反省されているが、そういう問題把握だけで済ませられるものではない。社会階層的に中以下に属する家庭の子女に勉学意欲の低下が著しく、またそれと裏腹に、特にこの階層の子女に現在の自分に対する満足度の高さが著しいことが、教育社会学者の苅谷剛彦氏らの研究によって明らかにされている(『階層化日本と教育危機』有信堂高文社、二〇〇一年)。そしてこの事態は、将来の日本社会における階層分離と階層固定化とを一層促進させる要因としてはたらくことが予想される。
†「ひきこもり」はなぜ困るのか[#「†「ひきこもり」はなぜ困るのか」はゴシック体]
以上のように、現代の日本は、若者を大人になりにくくさせている時代・社会である。そのことは、それほど大きな問題ではないという考え方もあり得る。豊かになったのだし、寿命も延びたのだし、ゆっくり「自分探し」をやればよい、と。私自身もふとそんな気がしないでもない。だが将来を見とおしたとき、いくつかの点で、やはりこの事態はかなり深刻な問題をはらんでいる。
まず、ミクロなレベル、つまり個々の実存のレベルで考えてみよう。
たとえば、「ひきこもり」は、精神科医の斎藤環氏らによって、少なく見積もっても現在およそ百万人以上いると推定されている。なお、斎藤氏による「社会的ひきこもり」の定義は、次の通りである。
[#2字下げ]「@(自宅にひきこもって)社会参加をしない状態が六カ月以上持続しており、A精神障害がその第一の原因とは考えにくいもの。(ただし「社会参加」とは、就学・就労しているか、家族以外に親密な対人関係がある状態を指す)」(『「ひきこもり」救出マニュアル』PHP研究所、二〇〇二年)
六ヶ月という限界設定や、精神障害を第一の原因とはしない理由については、たいへんリーズナブルな説明が加えられているので、直接当該書にあたられたい。
この定義で興味深いのは、但し書きとして、「社会参加」に、単なる「就学・就労」だけではなく、家族以外の親密な対人関係がある状態も含めている点である。簡単に言えば、就学・就労していなくても遊び友達や恋人がいれば、「社会的ひきこもり」には含めないということである。
さてそうだとすると、「社会的ひきこもり」という状態像は、かなり孤独なイメージとなる。要するに、六ヶ月以上、家族以外にはまったく人づきあいのない状態がつづくのだ。
こういう状態がなぜ問題かというと、まず本人自身がこの孤独状態に自足しているわけではないという点である。
平然と孤独を楽しんでいたり、また何か創造的な仕事に没頭しているなら、問題はない。しかし「ひきこもる」若者たちの多くは、そういう強さを持った若者たちではなく、自分がひきこもっていることそのもので悩んだり苦しんだりしている。つまり自分の状態自体を問題として感じてしまうという悪循環に陥っている。
人間の意識にはもともとそういう「自己言及」的なところがある。自己意識というのは、内在化された他者の眼だからである。
この他者の眼は、第一に、いい年をして経済的に親に依存している後ろめたさとして、第二に、自分が対人関係をうまくとれない閉ざされた性格の持ち主であるという劣等感として、そして第三に、将来自分はどのように生きていっていいかわからない大きな不安感としてあらわれるだろう。
その結果、この状態が長きにわたると、内外を隔てる壁が余計に厚くなって対人恐怖的な側面を募らせたり、強迫神経症的な、または統合失調症的な症状を引き起こしたり、自分に対するいらだちから家庭内暴力に走ったりするケースが多い。
次に問題なのは、当然のことながら、親が深く心配してしまうという点である。
いい年をして、仕事にも就かず学校にも行かず、生活は昼夜逆転で、友人も好きな人もいないという子どもの状態を心配しない親は、まずあり得ない。これは、いくら慰めを言っても癒される問題ではない。そして、この状態が長引けば長引くほど、親も弱ってくるし、経済的な不安も重なるから、子どもの将来への心配も深まるだろう。
さらに問題なのは、兄弟姉妹がいる場合である。
ひきこもる若者の兄弟姉妹の多くは、自分が本人とどんな心理関係におかれているのか、どんな心理的役割を背負わなくてはならないのかについて悩むことになるだろう。兄弟姉妹関係は、親子関係が互いによかれ悪しかれ一生何かを引きずるのとは違って、やがてそれぞれ独立した別々の人生を歩むべき縁である。だからこそ、どんなに優しい性格の持ち主であっても、またどんなに仲の良かった兄弟であっても、本人の状態像によってはうまく距離がとれずに険悪な関係に陥る可能性が高い。
また同時に、親の育て方を責めるなど、親と自分との間にわだかまっていた感情問題を、ひきこもっている本人の問題に投影させやすいともいえるだろう。もちろん、このあまり幸せとはいえない状態によって、皮肉にも人生勉強させられるという可能性はあるだろうが。
世の知識人のなかにはときおり、ひきこもる若者を、外側からのみ見てそのままで肯定したり、創造的活動には孤独なひきこもりがつきものだなどと理屈を弄する手合いを見かけるが、右のような一般的な実態についてよく考えようとしない、想像力の欠落した無責任な言辞である。本人や親のせいとして責めるのも間違いだが、そのまま認め続けるのも間違いだ。何とかしなくてはならない問題であることはたしかなのである。
†「フリーター」増大はなぜ困るのか[#「†「フリーター」増大はなぜ困るのか」はゴシック体]
次に「フリーター」について、やはり個々の若者の生き方の視点で考えてみよう。
労働政策研究・研修機構の小杉礼子氏の定義によれば、「フリーター」とは、「一五〜三四歳で学生でも主婦でもない人のうち、パートタイマーやアルバイトという名称で雇用されているか、無業でそうした形態で就業したい者」(『フリーターという生き方』勁草書房、二〇〇三年)のことである。
この定義にしたがって二〇〇一年八月に実施された、総務省の「労働力調査特別調査」より「フリーター」の人数をはじき出したところ、約二〇六万人となったという。これは、一九八二年の三・五倍、一九九二年の一・九倍である。また同書では、最近の同一年齢層では、三人に一人はフリーターであるとも分析されている。
なお、平成一五年版『国民生活白書』では、若干右の定義とは異なるが(派遣等を含む)、二〇〇一年における「フリーター」数は、何と四一七万人となっている。
なぜこれほどフリーターが急増したのかについては、どの資料でも、ほぼ一致している。自発的な選択意思によるものもないわけではないが、どちらかといえば、若者を取り巻く雇用環境の悪化(若年労働需要の減少)によって仕方なくこうした選択を取らされる格好になっているというのである。大企業が高卒を採用しなくなったこと、不況対策のために、既雇用者をリストラするよりはまず新規採用数をカットすること、求人倍率とじっさいの就職確定率との間には大きな開きがあり、求人側と求職側との間にミスマッチが存在すること、など。
求職側の意識の面でもこれはあらわれていて、フリーターのうち、正社員になりたいと考えている人の割合は七割以上と高く、もともと自発的にフリーターになりたかった若者は想像以上に少ない(『国民生活白書』)。
また、フリーターと正社員とでその職業スキルの高低や、収入の高低などを比較すると、これまたどの資料でも、フリーターのほうが低いという結果が出ている。
さらに、最近、就職意欲がなく働かない「ニート」(Not in Employment, Education or Trainingの略)と呼ばれる若者たちが急増しているという。「フリーター」は、少なくとも働く意思はあるのだが、「ニート」はそれよりもつかみどころがない存在で、社会の不安定要因になると心配されている(「産経新聞」二〇〇四年五月一七日付)。
フリーターという言葉が登場したとき、若い世代が、古い雇用慣行に囚《とら》われず、自発的に選択する自由で新しい働き方であるかのように何となく感じられた。むろんそういう側面は、いまもなくなってはいないだろう。
だが特に九〇年代後半以降、求職側のそうした主観的な要因に、さらに不況や産業形態の変化によって、若者をめぐる雇用環境の悪化という要因が大きく加わった。そのため、正社員になりたくてもなれないのでやむを得ずフリーターを選ぶ層が急増するという結果となってあらわれた。
そして、事態はさらに進んで、「働くこと」に希望を見いだせず、「いまが楽しけりゃ、先のことは考えなくてもいい」と感じる刹那主義的な若者が確実に増加しているのである。しかも、こうした刹那主義的な傾向は、低学力、低学歴、低階層の若者において著しい。
個々の「フリーター」にとって何が問題かは、はっきりしている。彼らの多くが積極的にそういう道を選んでいるのではなく「やむを得ず」選んでいるのだとすると、無意識にその仕事に対して投げやりな態度になりやすいし、また短い期間に職を転々とするために、いつまでたってもある特定の職能に上達することができない。じっさい、フリーターの職種は、飲食店接待などの単純なサービス業が多く、特に専門的なスキルのいらない領域に多く分布している。
さらに収入も低く、将来、安定した生活を確保できる見通しも少ないから、不安も高まるだろう。経済面での親への依存度も強まるかもしれないし、親との間の心理的な関係も不安定になりやすいだろう。
また、これから先、いつまでも親に頼るわけにもいかない点では、「ひきこもり」と共通している。結局、「フリーター」をずるずると続けることによって、いま生きている自分に自信や誇りを抱けなくなる可能性が高い。
人間というのは一般に、事態がよほど自分にとって深刻なところまで進まないと、自分のおかれている状態をなかなか客観的に見つめようとはしないものである。
いま見てきたように、フリーターやニートの急増にはマクロな構造的要因があることは明らかである。にもかかわらず、いざそういう状態にある自分自身をこのままにしておいていいのかと考えようとすると、自分の意思で好きな道を選んだのだからこれでいいのだという自己肯定感で自分を粉飾しがちである。あるいは、考えたって仕方がないし面倒くさいからこれでいいやという投げやり的なあきらめ感に支配されがちなものだ。
だが、治療を怠るうち病巣が拡大して取り返しがつかない状態になるように、また民衆がいつの間にかファシズムの支配を許してしまうように、気づいたときには手遅れだということにならないだろうか。何でも新しいことを吸収できる若いかけがえのない時期に、地道で安定した職業選択の志向性を持とうとしなかったツケは、やがて回ってくる。そのときになってそれまでくすぶっていた不満を見当違いの方向に爆発させたり、やけを起こしたりしてもどうにもならないのである。
繰り返すが、若者の多くが、そのような投げやり気分に陥ることそのものを非難することはできないし、非難しても意味はない。問題は、私たち大人が、若者を絶望させないようにするために、どういう社会的な成熟を促すプログラムやシステムを構築できるかなのだ。
†いや増す停滞への予感[#「†いや増す停滞への予感」はゴシック体]
以上、「ひきこもり」と「フリーター」の増大現象を、本人たちにとっての問題という視点から考えてきたが、同じ現象を、社会全体というマクロな視野から眺めると、どういう問題点が指摘できるだろうか。
これは、すでによく言われているように、産業社会の活力の減退と機能不全、階層間格差の拡大、世代間文化伝達の困難、中間層の空洞化、国民の平均的な生活水準の実質上の低下、そして最終的には、治安の悪化と国家秩序の混乱に結びつく可能性が高い。民衆が「パンと見世物」を求めて都市を徘徊したという古代ローマ末期のような状態に陥る危惧が拭いきれないのである。
思えば、私たち平均的な日本人は、バブル期に登りつめる途上で「いまの生活水準を落としたくない」「どうせ生きるなら楽しいことをできるだけたくさんしたい」という意識傾向を強く確保した。そしてこの意識傾向は、バブルがはじけて不況が長引いても、そのまま残り続けた。
もちろん、享楽的な生を続けようとすること自体は、それがどの人にとっても、そしていつまでも可能ならば、少しも悪いことではない。しかし、低成長の成熟社会では、楽しい生を送るための高い生活水準をできるだけ多くの人が維持するだけで、たいへんな努力が必要である。だれが、どのようにその努力を続けるのかということへの厳しい自覚と認識力とを私たちは曇らされてはいないだろうか。
「生活水準を落としたくない」という主観的意識は、えてして「水準は落ちていない」という信仰に転化しやすい。そのため人々は、物質的に豊かとはいえない現状におかれている人あるいはおかれそうな人がたくさんいるのに、一般化した「豊かさ」の感覚や心理のほうは後戻りさせられないというギャップの存在になかなか気づかない。そこそこの豊かさが当たり前であるという意識が支配的な社会では、このギャップの事実がとかく隠蔽されがちなのだ。
そして、物質的に豊かとはいえない人あるいはこれからそうなりそうな人の筆頭こそ、「ひきこもり」や「フリーター」や「ニート」を体現している若年層である。さらに、そうした若年層自身の多くが、その若さゆえだろうか、自分たちが近い将来、親の支えを失うだけではなく、親の面倒を見なくてはならないかもしれないこと、つまり決定的に「弱者」に転落する危険を抱えていることにあまり自覚的でないように思える。
たしかに消費が全体として冷え込んでいる現状から見てもわかるとおり、いまの平均的な日本人は格別の贅沢に耽っているわけではない。かえって大きなことや危機に備えて財布の紐を引き締め、堅実にため込んでいると言えるだろう。三十代、四十代の人々のベンチャービジネス精神もかつてに比べて大きくしぼんでいると言われている。「守り」の態勢が続いているのだ。
だがまさに不況による私たちのこの「生活保守」的な意識傾向こそが、再び消費不況をもたらすというスパイラル現象を引き起こしている。そしてそれは、結果的に若者の多くに、「自分たちはどうがんばってみてもこんなものだ」という諦観的な将来イメージを抱かせ、また同時に彼らから、充実感をもちかつ充分な報酬を獲得できるような仕事を得る機会を奪っているのではないだろうか。
多くの日本人が、これからの日本社会は停滞の一途を辿るのではないかというペシミスティックな予感を抱いているのもゆえなしとしないのである。
†「物質的・精神的難民」が大量発生する?[#「†「物質的・精神的難民」が大量発生する?」はゴシック体]
ヨーロッパ中世末期からルネサンス期にかけて「遍歴学生」というのが大量に出現した。背中に大きなバスケットを背負い、生活道具と勉強道具を詰め込んで、諸国の「偉い先生」の元を尋ね歩くのである。これだけ聞くと「神」の呪縛から解き放たれた自由・自立の気風を尊ぶ新時代の到来を象徴する光景のように感じられてくるが、「解放史観・進歩史観」を素朴に信じる気にはなれない。
実態は、物乞いや農家の手伝いで飢えをしのぎ、無料宿泊所や寺院などで雨露をしのいだ一種のあてどない放浪者がほとんどだったらしい。要するに土地(それは当時の支配的な生産手段だった)から閉め出されたか、地道に働くことを嫌った「フリーターたち」である。ばくちや酒や女買いで身を持ち崩した連中もさぞかし多く、「偉い先生」に巡り会えて学問に生きる道を見いだせた者などごくわずかしかいなかったにちがいない。終わりなき「本当の自分探し」は別にいまに始まったことではないのである。
ある人の社会的な存在のあり方がその人の意識を規定するのか、それともある人の意識のあり方がその人の社会的存在を規定するのかというのは、すでにカビの生えた哲学的な問いかもしれないが、依然としてこういう問い方が有効な局面というものがある。そして、平凡人の生活意識に関するかぎり、前者を重く見るのが妥当だと私は思う。
人は誰でも、不安をなだめるために自分が現に取っている生活行動に対して「意義と誇り」の自己肯定感情をつきまとわせずにいられないが、そのためにかえって、自分がどんな社会構造から規定されてそういう行動をとっているかという疑問には目が向かなくなってしまう。
先にも触れたように、現在、社会階層的に中以下に属する家庭の子女ほど勉学意欲が低下しており、またそれと裏腹に、特にこの階層の子女ほど、現在の自分に対する満足度の高さが著しいことが明らかにされている。
満足ならばいいじゃないかという考え方も成り立つが、五年先、十年先を見とおすことのできない年少者たちが今満足していたとしても、その満足自体が長い人生の過程で、取り返しのつかぬ後悔の種に転化しないとは限らない。
しかしそのことを現在の彼らに主体的に納得させようとしても無理であろう。だからこそ、年少者の教育や養育や就労にかかわる大人たちが、どういう未来社会の構想を描けば彼らの後悔をより少なくできるのかに真剣に取り組むのでなくてはならない。つまりふらふらした「本当の自分探し」など大部分が人生の無駄に終わることを自然に悟らせるような社会システムを考案する責任が私たちに課せられているのだ。
いうまでもなく、「フリーター」や「ニート」の大量発生は、ひとり教育の責に帰せられる問題ではない。企業の求人担当者がしばしば漏らす、いまの若者はマナーや言葉遣いがなっていず技能習得力も落ちているという感想には、それなりのリアリティがあることはたしかだろう。しかし逆に、かつてのように企業内教育によって有能な働き手を育てることを放棄してしまった産業界が、目先の要請に駆られて、若者を適切な戦力として育成するための長期的な視野と意欲とを失っていることも関係していよう。互いが原因のなすり合いをしている場合ではないのである。
また「ひきこもり」も、単に経済的な豊かさが生みだしている問題ではなく(もちろん、親に経済的に依存するのでなければひきこもり続けることは不可能だが)、いまの日本の教育システムと就労システムとの間にうまい連係プレーが成立していないことが要因の一つとして考えられる。
先の斎藤環氏は、精神分析用語である「去勢」という言葉を象徴的なキーワードにして、次のように述べている。
[#2字下げ]端的にいって、現在の教育システムは、「去勢を否認させる」方向に作用します。(中略)人間は自分が万能ではないことを知ることによって、はじめて他人と関わる必要が生まれてきます。さまざまな能力に恵まれたエリートと呼ばれる人たちが、しばしば社会性に欠けていることが多いことも、この「去勢」の重要性を、逆説的に示しています。つまり人間は、象徴的な意味で「去勢」されなければ、社会のシステムに参加することができないのです。これは民族性や文化性に左右されない、人間社会に共通の掟といってよいでしょう。成長や成熟は、断念と喪失の積み重ねにほかなりません。成長の痛みは去勢の痛みですが、難しいのは、去勢がまさに、他人から強制されなければならないということです。みずから望んで去勢されることは、できないのです。(中略)……教育システム全体が、「その中にいれば社会参加が猶予されるもの」あるいは「自己決定を遅らせるためのモラトリアム装置」として作用している点も重要です。学校は、このような保護を与えることとひきかえに、学校独自の価値観を強要してきます。まず問題とされるべきは、子どもたちが学校において「誰もが無限の可能性を秘めている」という幻想を強要されることです。これが問題となるのは、すでに去勢の過程を済ませつつある子どもたちにとって、このような幻想が、あたかも「誘惑」として強いられることです。つまりこれが、去勢の否認です。(『社会的ひきこもり』PHP新書、一九九八年)
去勢の否認ということは、言い換えれば、いまの日本社会が、子どもを社会的・心理的な大人にしていくための有効な装置(通過儀礼)を持っていないということである。そしてこれは、すでに生理的な大人になっている人間(思春期以降の人間)を一般社会とは無縁な長い長い就学期間の中に囲い込んで、いつまでも「社会的・心理的な子ども」として扱うことを意味する。
繰り返すが、人間の「大人」は、ただ自然的にできあがるのではなく、社会や文化のありようによって、人為的に作られるのである。この道筋そのものを避けるわけにはいかない。
そもそも「思春期」という時期の存在自体が人間に特有である。動物には思春期なるもの、つまり生殖能力を獲得していながら生殖活動を留保される時期は存在しない。そして人間特有のこの時期は、文明が進めば進むほど長期化する。社会的な大人であることを充たす条件の平均水準が高度化するからである。そこに、生理的な大人と社会的・心理的な大人とのギャップの問題が発生する。「ひきこもり」現象はその典型である。
要するに、これらの現象には、個人、親、社会、国をあげての共犯関係という皮肉な「マッチング」が存在する。そしてこのマッチングは、じつはその内部に二つの巨大なミスマッチの可能性を抱え込んでいる。
ひとつは、異なる世代間で職能や技術などの文化伝達がうまく行われないために、産業機能全体が不全をきたす可能性が高いこと、そしてもうひとつは、若年世代の広範な部分が、社会的な人格を形成できないまま年齢だけを重ねてしまうことである。私たちは、高度な情報社会・都市社会という新しい局面における、「内なる遍歴学生」、つまりは一種の「物質的・精神的難民」の大量発生がもつ意味をもっと切実に感じ取るべきである。
しかし、人間の「大人」が社会や文化のありようによって人為的に作られるものだとすれば、このことは、現代の「大人‐子ども」問題にとって、逆に一つの希望を指し示していると言えないこともない。というのは、もしそうなら、いまの社会システムを総合的に見直し、新しいシステムをうまく構想すれば、いま起きている若者問題をある程度までは解決することが可能なはずだからである。
次章以降では、この可能性を「正しい大人化計画」として具体的に探ってみたい。その場合、攻め手は三つ考えられる。すなわち、「教育」と「法」と「労働」である。ただし、これらの対策・提案は、一つ一つばらばらに推進されるのではなく、あくまで統一的な視野のもとに連動して機能することが求められる。
したがって、こういう計画がなるべく理想に近いかたちで実現されるためには、当然、現在の縦割り行政のあり方も根本的に見直されなくてはならない。たとえば文部科学省と厚生労働省と経済産業省の三つが巧みに共闘できるような場が作られることが必要とされるだろう。しかし、本書では、そうしたテクニカルな領域にまで踏み込む余裕がないので、取り急ぎ、計画だけを提案するにとどめる。
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第二章|「教育システム」はこう変えよ
†「教育システム」構想のための五大原則[#「†「教育システム」構想のための五大原則」はゴシック体]
まず、教育制度をどうするかである。
これについては、拙著『子どもは親が教育しろ!』(草思社、一九九七年)で、粗略ながら基本的なアイデアを示しておいた。いまそれを復元・修正しながら、より詳しく緻密なものに仕上げて行きたいと思う。
また同じく拙著『頭はよくならない』(洋泉社新書y、二〇〇三年)の結論部で、「教育システムを構想するために踏まえるべき五大原則」なるものを掲げておいた。ここにそれを再現する。
[#ここから1字下げ]
@「頭脳コンプレックス」を一時的、ごまかし的に救済するような欺瞞を捨て、個人の能力には雲泥の差があることをみんなが公認する(「瓜の蔓には茄子はならぬ」「上智と下愚とは移らず」)。
A教育は、そのときどきの子どものためにあるのではなく、その子どもが自分の将来のイメージを具体的につかむためと、大人が、よき社会秩序やよき文化を次世代に伝達するためにある。
B「子ども」を一括把握するような粗雑な抽象的理念(例:「生きる力」)を立ててはならない。発達年齢と、能力の差に応じた、複線的なシステムを構想すべきである。
C学校の先生に過剰な期待を寄せたり、過剰な負担を負わせたりする結果を生むようなあいまいな政策(例:「総合的な学習」)を立ててはならない。
D義務教育という限定された場所で、次世代に何を伝えたいのか、何を伝えることが可能なのかをきちんと議論する。
[#ここで字下げ終わり]
さて、右に掲げた「五大原則」は、いわば私一個の教育理念のようなものである。しかしこういう個人的な教育理念を立てたのには、それなりの動機がある。
ごく簡単に言うと、カッコ書きからも想像されるとおり、現行教育、特に公立の初等、中等教育の現場における八〇年代からの長きにわたる混乱は、教育行政の中枢である文部省(現・文部科学省)及びその外郭機関が、右のような考え方とは正反対の施策を講じ続けてきたことが大きな原因の一端をなしているからである。その施策の背景にあるのは、言うまでもなく戦後民主主義・進歩主義が、戦前戦中の軍国体制に対する過度の反省からはびこらせた悪平等主義、子ども中心主義的な教育思想である。
この教育思想は、教育界で「進歩主義」の音頭をとった日教組がまず体制批判のための体制批判として唱え続け、次に、高等教育の大衆化が実現してその必然性が失われると、今度は行政府である文部省自身が、安易なポピュリズム的発想からそのまま引き継いでしまった。「ゆとり教育」は、まさにそのかがやかしい「成果」である。
私は、これに対して批判的である点では、一見、復古主義的、保守主義的な態度をとっているかもしれない。しかし、他面、子どもをめぐる社会環境(家庭、メディア、地域、テクノロジー、グローバル化、その他)がこの二十年ほどの間に大きく変化している点に対する感度も失っていないつもりである。その意味では、むしろ現行「ゆとり教育」の理念があまりに時代遅れの産物であるために機能不全をきたしている事実にも目を届かせている。そして、抜本的な改革を断行しないかぎり、この機能不全はけっして終わらないと考えている。
たとえば、「教育は子どものためにある」というだれもが疑いを抱かないような命題は、「受験競争や詰め込み教育で子どもが苦しんでいる」という判断にたやすく結びつく。しかし、ここ二十年ほどの教育現場での実態は、この判断とは大きくかけ離れており、多くの子どもは競争や詰め込みで苦しんでなどいないのである。
すでに周知のこととなっているが、日本の小中高生の勉強時間は国際的に見て最低レベルであり、高望みさえしなければ、だれでも大学に入れる。「分数ができない大学生」や「日本語でまともな文章が書けない大学生」は今日ごろごろしている。
また、子どもはみんな学びたがっている、とか、どの子どもも素晴らしい個性を秘めているといったまやかしの美辞麗句が、いいかげんな「民主教育」をはびこらせ、教師のしかるべき権威を台無しにし、教室を子どもたちのわがままが跋扈する場に変えてしまった。今日、生徒が私語にうつつを抜かして先生の話を聞かないために授業が成り立たない事態は当たり前となっており、そのために苦しんでいるのは、「子ども」ではなく「大人」である教師なのである。
誤った判断にもとづいて作られた教育施策が功を奏するはずがない。時代の変化にあわせて一から考え直さなくてはダメなのだ。右の「原則」は、そのための前提の意味も持っているのである。
†義務教育機能を限定せよ[#「†義務教育機能を限定せよ」はゴシック体]
さて、次に私の考えている教育システム全体の構想の概略を示し、一つ一つの項目につき、なぜそうするのがよいのか、詳しい解説を加えていきたい。ただし、一つ一つといっても、制度改革は、個別の改革そのものに意味が限られるのではなく、常にその分野全体との関係において意味を持つので、適宜全体との関連にも言及する。
また、これは一応、公教育制度の改革を中心として立てられた構想だが、周知のとおり、現在の日本には、塾や予備校をはじめとした多くの民間教育機関が存在する。成熟した市民社会では、多様な機能が互いに影響を及ぼしあうので、ある限られた領域である理念を活かそうと考えて行った改革が、その外側の領域との関連で、かえって逆効果を生み出しかねない。
たとえば、かつて東京都が行った学校群制度や、文部科学省が行った「ゆとり教育」は、その平等主義理念の適否に問題があったこともさることながら、制度の適用範囲の外側との関連を考えなかったために、理念を活かそうと思った所期の目的それ自体をも果たすことができずに失敗した。
そこでここでは、ある領域での改革がその外側に対してどういう影響を及ぼし、教育領域全体がどのようなイメージのものになるのかということをつねに視野に入れながら話を進めたい。
【義務教育年限を八年に縮小し、小学校を四年、中学校を四年とする。授業は午前中のみ。科目は主要科目に限定し、技能科目は民営化する】[#「【義務教育年限を八年に縮小し、小学校を四年、中学校を四年とする。授業は午前中のみ。科目は主要科目に限定し、技能科目は民営化する】」はゴシック体]
義務教育とはそもそもどういう概念だろうか。
いうまでもなく、日本の国民のすべてがその子女に受けさせる義務のある教育という意味である。そしてこれは、原則的に子女にとって無償であり、税金によってまかなわれる。このことによって、子女が成長して「日本国民」となったときに、特定の人々が社会的不利益をこうむらない権利が保障される。その最低限の「機会の平等」をあらかじめ準備するのが「義務教育」である。したがって、これを言い換えるなら、「国民共通教育」とか「公民一般教育」などと称されるべきものであろう。
そこで、義務教育によって果たされるべきことは次の二つに限られると私は考える。
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@日本国民として必要な基礎学力を身につけさせる
A公民として必要なルール感覚を身につけさせる
[#ここで字下げ終わり]
誤解のないようにことわっておきたいが、子女に教育を施すこと一般にとって、これだけで「十分だ」と言っているのではない。教育は、何も「義務教育」だけではない。公立小中学校で行われる義務教育以外に、いくらでも幅広い、高度な、奥深い教育がありえてよい。その部分をどのように構想すればよいかについては、このあと展開する。しかしすべての子女に共通に施す「義務教育」としては、この二つの条件を満たすだけで十分である。
さらに具体的にいえば、@の条件を満たすためには、現行の小中学校で行われている主要教科(国語、算数、数学、理科、社会)だけにしぼって基礎学力の涵養を効率的に徹底させ、ゆとり教育(ゆるみ教育)によって低下してしまった学力や勉強意欲の向上を期すべきである。
なお英語は、民間教育機能にゆだねた方がいいと思う。英語を使いこなせることは、グローバル化した現代社会では有利にはたらくことは疑いないが、だれにとっても完璧にマスターすることがどうしても必要とされるものでもない。その点でこの教科は技能教科に似ている。
一方、現在の公立教育では中学から必須科目とされているものの、その内容が語学の総合的な習得にとっていかにお粗末であるかは、最近の教科書を見ただけで一目瞭然である。「活きた英語」と称して薄っぺらでイラストばかり。文法の体系的な学習をほとんどさせないように出来上がってしまっている。週授業時間数は大幅に減らされ、ネイティヴ・スピーカーを教師に導入するなどと謳いながら、実態はおざなりそのものである。要するに、語学を本格的に習得しようとする生徒たちのことを考えずにだれでもわかるようなレベルに照準を合わせようとするから、こういう中途半端なていたらくとなるのだ。それが公立学校教育の限界である。
語学の習得は、ピアノの稽古と同じようになるべく個別学習的に、しかも小学校三、四年くらいからたっぷり時間をかけて行うのが望ましい。その意味で、民間教育の持つ活力と進取の気性とに期待すべきであろう。
またAの条件を満たすためには、小学校では、教師の話を静かによく聞き、時間を守り、教室秩序をきちんと保たせるようにすること、クラスメートどうしの関係を円滑に運営することなど、実践的な「しつけ教育」を通して、自然な集団生活感覚として体得させていくのがよい。
その場合、生徒間ではあくまで対等な関係形成が要請されるが、教師と生徒との関係は対等ではなく、教師は生徒に対して正当な権威を維持することが必要である。それでなければ、「教える‐教えられる」という教育の基本関係が成り立たない。
また中学校では、以上のことに加えて、「倫理」という教科を必修として新しく設け、専任の教師を育成してこの科目の指導に当たらせるべきである。なおこれについては後に詳しく触れる。
では、なぜ八年に縮小するのか。一見、これまでよりも学力低下を招くのではないかという危惧を抱かれるかもしれない。だがこれにはいくつかの理由がある。
まず第一。先に述べたように、「公立小中学校」で教える教科は主要科目のごく基礎的な内容に限定されるので、そのために必要十分な時間数は、九年分も要らない。週五日、午前中だけを使うとしても、二十時限は確保できるわけであるから、各教科平均週五時限取ることができ、現行よりも余裕をもって指導に当たることができる。
第二。子どもの発達段階をよく観察していると(私は長年塾を経営していた)、現在の中学校二年(十三、四歳)くらいから、共通の学習内容による指導がほぼ限界に達する。つまり、学力差、能力差が固定化してくるのである。ぬきんでている子、ふつうについてこられる子、なんべん教えても分からない子などの格差がはっきりしてくるのだ。
これを、教え方のまずさ、などに還元することはできないというのが私の経験的な確信である。一例を挙げるなら、数学で、方程式の文章題や、図形の証明問題など、抽象度が高く、しかも応用力や論理力が要求される領域にさしかかると、この格差は歴然としてくる。
これには、先天的な能力差を主たる理由として想定せざるを得ない。しかしそれ以外にも、思春期まっただ中の子どもたちのうちのある部分は、性的関心(だれをめがけるか)や生活的関心(何をして遊ぶか、何をして生きていくか)に大きく傾き、密室での「勉強」なるものに意味が感じられなくなってしまうということも関係しているように思われる。
よい成績評価を得られず、勉強の不得意を自覚した中学生ほど、こうした傾向を強く示し、性的関心や生活的関心のために勉強離れに陥っていくのも、常識的に考えれば当然である。私たちは、教育の対象を粗雑に一括して「子ども」ととらえるのではなく、こうした発達的な変化や、その変化が生徒間の個人差にどういう影響を与えるかを直視しなくてはならない。ここでも、平等主義イデオロギーが作り出すタブーを断固として排するべきである。
この時期に、後に述べるような「半人前の大人化」のための法的措置と連動させるかたちで、いったん、学制をリセットすることが是非とも必要に思われる。つまりこの縮小アイデアは、高等学校を新たにどう編成し直すかという問題と、教育の「外側」における大人化をどう図るかという問題とに関連しているのである。
第三。現代の日本のような成熟社会では、子どもにも個人主義的な感覚が浸透している。これを覆すことは不可能である。したがって従来型の大集団によるクラス運営は成り立たず、教師をいたずらに疲れさせるだけの結果に終わるから、一クラスの人数はなるべく少ない方がよい。
ところでそのためには、少なくとも教師の数を減らしてはならない。クラス人数を減らしつつ、教師を増やすことが予算上難しいのだとすれば、義務教育年限を減らすことによって、相対的に教師の数は増えることになるから、小人数のクラス運営が可能となるわけである。
なお、現在、少子化にあわせて教師の新卒採用の数が極端に減らされているが、よい施策ではない。子どもを教えることに情熱を感じて教師を希望する若者の意欲を挫くし、教育者集団も老朽化する。また、個々の教師の負担もたいへんなものとなる。教育のことを真剣に考えるのなら、コストを惜しんではならない。
また新任教師はただちにクラスを受け持たされるが、教育は医療と同じようにたいへん現場テクニックが要求される職業分野である。大学在学中の短い教育実習だけではなく、できればインターンシップ制度を取り入れて、最低一年間は、ベテラン教師のもとで、同一授業に参加するのが望ましい。
この考え方の利点は、新任教師自身が教え方を学べるという本来の目的以外にもいくつかある。
一つは、教壇で講義している内容がよくわからない生徒に対して、演習時に個別指導ができること、二つ目は、騒いだりいじめたりしている生徒をより厳しくチェックできること、三つ目は、ベテラン教師自身が新任教師の目にさらされることによって、惰性的な授業でやり過ごすわけにはいかなくなり、しゃきっとせざるを得ないこと、四つ目は、教える現場に複数の教師が居合わせることによって、そのナマの共通体験を活かして「よりよい授業」とは何かを具体的に討論できること、である。
この最後の利点が活かされるためには、ベテラン教師は、変なプライドを捨てて開かれた態度を堅持しなくてはならない。ちなみに、こうしたチームワークによる作業のあり方は、一般の市民社会、たとえばふつうの企業などでは、当たり前のことである。
さて義務教育期間を八年間に、また授業時間を午前中のみに短縮する最後の理由は、子どもの生活時間のうち、一つの学校に通う時間の割合を短くすることによって、同一施設内での囲い込みを少なくし、友人関係のこじれによるいじめなどの可能性を減らすことができるという点である(たとえば二〇〇四年六月、佐世保で起きた六年女子の同級生殺害事件は、教師の目の届かない給食時間の出来事だった)。
同じことを裏返しに言うなら、学校で過ごす以外の時間帯に、さまざまな教育や就労の体験を味わわせることによって、子どもを多様な人間関係に触れさせることが可能となる。
こうした多様な人間関係の場所が存在することは、社会的成長を促すという目的にとってだけでなく、子どもの精神衛生的な面からも大切である。あるところで居づらいときに、人は他の居場所、逃げ場所を求める。ことにいまの子どもたちには個人主義が浸透しているから、囲い込まれた空間での人間関係は、行動を通しての絆の形成に向かうよりは、むしろ個人どうしの「心」と「心」の純化された葛藤関係としてあらわれやすい。だからこそ、彼らにはそうした多様な居場所が用意されていることが必要なのである。
†四・四制にする理由[#「†四・四制にする理由」はゴシック体]
次に、なぜ四・四制にするほうがよいのか。これにもいくつかの理由がある。
第一。やはり子どもの発達段階に関わることであるが、彼らは一般に小四(九、十歳)から小五くらいにかけて、急速な変化を見せ始め、社会的な意味で大人びてくる。よく周囲の物事に気づくようになり、行動力、生活力の及ぶ範囲も格段に広がり、大人を批判的な眼で眺める力もついてくる。要するに親や教師からの自立度が増すのである。ということは、逆にいえば、それまでは甘えん坊で可愛かったのが、生意気になって教師の言うことを素直には聞かなくなるということでもある。
この時期以降、一人の教師が親代わりのようなアタッチメントを媒介にして多くの生徒の心を掌握しようとすることは、クラス運営にとって有効な効果を生まない。ことに新任の女性教師や過度に「民主的」な教師などは、よほど毅然としていないとなめられやすく、「学級崩壊」に陥ってしまう危険がある。
かつて中学校を中心にして社会問題となった学級崩壊現象は、現在、小学校高学年にまで降りてきているが、ここにもあまりよくない意味での個人主義的な感覚の浸透現象が見られる。私は、ある若い女性教師が高学年を担任して学級運営がうまくいかず、翌年、小一の担任に変えてもらったら、「可愛くてよく言うことを聞いてくれて、地獄から天国に来たようだ」と漏らしたという話を聞いたことがある。
第二。第一の理由と関連するが、学習内容が小四から小五にかけてかなり高度化する。そのため一人の担任教師が主要教科すべてを教えることには無理がはたらく。国語の文章読解から酸素の実験まで、一人の小学校教師がきちんと担えるだろうか?
あることをうまく教えるには、その内容について数等高度な理解力を持っていることが要求される。だれにも得意、不得意があるから、建前上、一人がすべての科目をきちんと教えることになっているとしても、不得意領域は手を抜いて適当にやり過ごしているというのが実情ではあるまいか。しかし学校教師の多忙さを考えれば、そのこと自体を非難できないのである。
また、生意気になった子どもたちが教師の不得意領域を見抜いてバカにし、結果的に学級運営を困難にするという可能性も考えなくてはならない。
しかし、だからといって、「ゆとり教育」のように、義務教育での内容を極端に削減してやさしくしてしまい、そのツケを先送りするわけにはいくまい。必要最低限の知識を限られた期間に徹底して伝えるためには、どこかで高度化させるステップを踏ませることが不可欠である。そしてその時期は、先に述べたように、発達年齢的に分別が急につきはじめる小五あたりに設定するのがリーズナブルであると考えられる。
つまり、この学年から現行の中学校と同じように、すべての教科について教科担任制にするのである。ということは、実質的にはここでいったん卒業させ、新しく中学校に入学させるのと同じである。
なお、小学生を対象としたよく繁盛している学習塾では、すでに当然のごとく教科担任制が取られており、そのため「学校よりも塾のほうがよく分かっておもしろい」という感想を漏らす小学生が多い。
第三に、この点が最も重要なのだが、現行の六・三制は、中学校の期間が短すぎて、入ったと思ったらじきに高校への進路を考えなくてはならず、たいへんあわただしい。
私の構想では、公立義務教育で教えるべき教科を主要科目に限定し、余白の時間帯は多様な民間教育機関が担えばよいということになる。この考えにしたがうと、中学校通学期間は、子どもが親とよく相談しながらいくつかの民間教育機関を選択し、そこでの学習や体験を通してしだいに自分の能力と適性を自覚し、将来どんな職業に就くのかに関するイメージを固めていく期間であると規定できる。そういう模索期間はいまよりも長い方がよい。そこで、四年間ぐらいは必要だろうという判断が妥当なものとなる。
なお、かつてこの義務教育四・四制の構想を発表したとき、私が信頼を寄せているある知人から次のような趣旨の異論が寄せられた。小五の段階で中学に組み入れるのは上級生からの威圧感や教科担任制に対する厳格さの感覚が強く、少し早すぎるのではないか。また、小五小六くらいの発達段階では、その「お兄さん、お姉さん」的な要素を下級生に対して発揮することでかえってよい意味の成長が促されるのではないか。総じて、小学校六年間という長さは、かけがえのない児童期をゆったり過ごさせるという観点からして適切ではないか、等々。
傾聴すべき意見と考える。この考え方を私の構想と折衷させて、小・中・高五・四・三制というアイデアも検討に値しよう。
また、現在三歳児保育が当たり前となっている状況と照らし合わせて、五歳児就学という線も考えられる。五歳は言語的吸収力をとても旺盛に示す年齢である。この時期に暗記などを通して読み書き計算能力の基礎を養わずにただ幼稚園的に遊ばせておくのは、もったいない気がする。その場合、五歳からゆるやかにスタートを切って、五・四・四制を取るということになろう。
いずれにしても、国民共通教育としての「義務教育」は、十四歳あたりを上限とし、その後は、それぞれの人生コースを歩ませることを主眼にするのが望ましい。そのためにも、中学校四年間をその準備期間として位置づける必要がある。
中学校四年間のあいだに通わせることのできる民間教育機関には、学力増進のための塾も含まれるが、従来、学校が背負い込んでいた技能科目(体育、音楽、美術、技術家庭)及び外国語に相当する部分を民営化するという発想が中心になっている。その他、コンピュータ学校、帰国子女に有利な学校、福祉学校、料理学校などさまざまなものが考えられる。
学力増進のための塾は、午後の時間帯が空けば、もっと需要が増すだろう。その他の学校も同様である。ここに大きなマーケットが成立すれば、当然、競争も盛んになるから、教育サービスの品質は向上することが見込まれるし、価格もそれほど高くならないだろう。民間教育機関や地域の教育ボランティア機関が教育委員会と契約を結んで、午後の時間帯に、空いている学校の施設を安く利用させてもらうという手も考えられる。
では、なぜ技能的な科目は民営化が望ましいのか。それにもいくつかの理由がある。
第一に、こうした身体や情操を養う教育は、資質の向き・不向きが大きく作用するために、年少の頃からの選好度が強く、それを、義務教育の枠内にすべて押し込めて一律強制的に習わせる建て前を取ることは、事実上、非効率であり、時間も足りず、成果も上げにくい。このことは、たとえば幼い頃から民間の個別指導でピアノを習っている子が学校の「音楽」でもぬきんでた成績を取ることや、地域のサッカーチーム、野球チーム、民営のスイミングスクールなどに通っている子が、すぐれた「体育」的技能を発揮していることなどによって、すでに証明済みである。
第二に、民営化によって、養育責任者としての親の自由選択度が増す。たとえば八年間のうち、初期は身体や情操の教育に比重をかけ、中間期では基礎学力や語学に力を注ぐ。終盤になったら、それぞれの親がこれまでの経験にもとづいて、自分の子どもの能力と適性をよく見きわめつつ、さまざまな方向に分岐した教育を受けさせる。こうした自由な設計が可能となるのだ。
そもそも、すべての生徒が同じ割合で技能教科を必修としなくてはならない時代だろうか。
子どもの向き、不向きをいちばんよく知っているのは親である――これがあるべき実態のはずだったのだが、現実には「どの子もみんなすばらしい力を秘めている」などというおかしなイデオロギーによって、ここ何十年か、自分の子を見つめる親の厳しい判断力も曇らされてしまったようだ。しかし、これからは、その親が、責任をもって自分の子どもの資質に応じた能力や適性を伸ばす手だてを考えるのでなくてはならない。そのためには、義務教育領域におけるこれらの科目が占めている時間の無駄をそぎ落とす必要がある。
教育は自由と強制のバランスだとよく言われるが、年端のいかない子どもの気の向くままに任せることが、教育における自由の実現なのではない。現行の義務教育では、このあたりがどうもはき違えられている。
ゆとり教育のように主要科目の内容を削減することによって、肝要な部分で子どもを「ゆるふん」にさせて意欲の減退を招来させながら、いっぽうでは子どもの適性や能力にしたがってより個別的に技能教育を施すような施策を何ら考えようとせず、長時間にわたってだらだらと強制的に子どもを囲い込んでいる。これでは、うたい文句の「一人ひとりの個性を伸ばす」などは実現できるわけがない。
「自由と強制のバランス」という言葉を、子どもにどの程度自由を与え、どの程度強制するかという観点で理解するのではなく、発想を変えるのだ。国民共通教育の枠組みの部分には「強制」を施し、その他の部分には、親の養育責任に即して親に選択の「自由」を与える。このように、システム上の配分のあり方へとシフトさせるのである。
第三に、すでに述べたように、学校がこの部分を民間に解放すれば、サービスの提供側である民間の教育産業はそれだけ活気を帯び、もっと本腰を入れた投資に踏み込むことができるだろう。そこに健全な競争市場が成立すれば、安価で良質のサービスが期待できる。また特に、いまの公教育では窮屈でなかなかできないような新しい多品種の教育サービスが出現することも期待できる。
さらに考えられることは、このアイデア(技能教科のための時間を学校から解放すること)のもつ可能性を単にいわゆる「教育産業」の枠内で探るのではなく、産業社会一般がここに参入することによって、社会に向かって開かれた、実効性のある職能教育への連続性が確保される可能性が高いのではないかという点である。この点は、後に「労働」との関連で再び取り上げたい。
第四に、学校教師(特に小学校教師)も現在の多忙から少しは楽になり、主要教科の教材研究などに真剣に打ち込む余裕も生じる。子どもも、深夜の塾通いなどはしなくて済むようになる(普通の生活時間に通える)。
こう考えてくると、既存の塾や各種学校は、単なる受験産業や補習産業として生き残ることだけを考えるのではなく、将来的に、子どもの教育のある部分を積極的に担うという役割感覚をもっと持つことが必要ではないだろうか。そのために、いまから責任意識の徹底と体制固めの準備をしておくことが望ましいと、私には思われる。
なお、現在、公教育の学制に関しては、既存の六・三・三制の枠内でさまざまな試みがなされている。たとえば品川区では小中一貫校に四・三・二制を導入することを決めている(「朝日新聞」二〇〇三年二月五日付)。また、公立の中高一貫校もすでに相当数発足しているし、この先、文科省は全国で五百校程度を当面の目標に整備する方針であるという(『ドリコムアイ』二〇〇四年夏号)。さらにトヨタ自動車、中部電力、JR東海の三社が母体となった全寮制の男子中高一貫校が設立に向けて本格的に始動することになったという(「産経新聞」二〇〇四年七月三日付)。
これらの試みは、それぞれの趣旨はそれなりに理解できるものの、正直なところ、どれも歯痒いという印象を禁じ得ない。第一に、みな単発的であるために、特別な学校をいくつか作るだけに終わり、これまで指摘してきたような現在の「若者問題」一般に食いこむことは難しいのではないかと思える点。第二に、六・三・三制の枠組み自体がもつ問題が疑われていない点(品川区の場合は別)。そして第三に、学校に通う主体を市民社会に向かって開かずに、結局はかえって狭義の「教育」という「純粋培養」空間の中に囲い込む旧来型の発想を出ないのではないかと思える点である。
私の考えでは、次に述べるように、国民共通教育としての「義務教育」の場と、多様な専門分野に踏み込んでゆくための教育の場との間にはっきりとした線を引くべきである。この考え方からすれば、中高一貫校というのは、一部のエリート校以外にはほとんど意味をなさない。もともと「義務教育」ではないはずの「高校」と「義務教育」である「中学」とをなぜ連動させる必要があるのか? ふつうの職業人になっていくふつうの子どもにとって、「中校一貫」が何か普遍的な意味を持つだろうか? 現在一部で見られる「中高一貫校」ブームは、現行の六・三・三制という枠組みと、全員が高校に行くようになってしまった状態、および私立中高一貫校が学力の面で公立に大きく水をあけている現状とにただ引きずられているだけなのである。私は、国民共通教育としての「義務教育」においては、私立校は原則廃止の方向で検討すべきだという考えを持っている。
繰り返すが、制度改革やモデル校設立の理念は、現在の教育の何が問題であり、どこが現実と噛み合っていないかということをよく見極め、あくまで総合的な視野のもとに打ち立てられなくてはならない。
†高校は私立中心、実学重視の四年制へ[#「†高校は私立中心、実学重視の四年制へ」はゴシック体]
【高等学校は私立を中心とし、それぞれ専門性を強めた独自のカラーを強く打ち出す。就学期間は四年とする】[#「【高等学校は私立を中心とし、それぞれ専門性を強めた独自のカラーを強く打ち出す。就学期間は四年とする】」はゴシック体]
先に、中学校二年くらいから、生徒の学力格差が固定化し、もはや大勢はほぼ決していると述べた。この時期から、いわゆる机の上の勉強に向いている子どもと向いていない子どもの区別がはっきりしてくるのである。
ところで、いまの教育の最大の問題は何であったか。中等・高等教育が大衆化し、就学期間が長期化するいっぽうで、そこに通う生徒や学生が、やる気がなかったり、学力がついていけないために、適切な活力を発揮する方向性や場所をもてないという点である。ほとんどが普通高校に通い、わかりもしない微分積分や高等英文法などを習わされるが、関心は別のところにあり、授業は聞いていず、世代間伝達の機能が麻痺している。
普通高校のカリキュラムはもともと、より上級の学校に進むために編まれたものであり、中学校までの学力が低かった子には適応できない。だから偏差値の低い普通高校では、極力やさしい教科書を使用したり、授業の仕方を工夫したりと、いろいろ苦労しているようだが、それでも先生の悩みや徒労感は一向に消える気配がない。
かつて人々はわれもわれもと普通高校進学を目指し、その結果、偏差値によるランクを示す「普工商農」という冗談混じりの言葉まで生まれた。より上を目指そうとする大衆の切ない夢が反映していたというべきだが、大学に入学するのが楽になり、企業が高卒を採用しない傾向が強まるにつれ、技能系の高校の人気はさらに落ちていると考えられる。実態としては、地方の工業高校などに、けっこう優秀で堅実な生徒がいるにもかかわらずである(安田雪『働きたいのに…高校生就職難の社会構造』勁草書房、二〇〇三年)。
問題は、実力が見合わないのに、ほとんどの子どもや若者が、実業に役立たないカリキュラムに基づいた中等・高等教育を受けるようになったために、そこに彼ら自身の身体のもてあましが生じ、「終わらない自分探し」や「永遠のモラトリアム」の気分が習慣化してしまったことである。高校や多くの文系の大学の授業と実社会との間には、彼らが渡っていくべき橋が架かっていない。
この流れは、考え方を根本的に変えないかぎり、今後も続くだろう。一昔前までは、学歴に関して「中卒」が蔑視の言葉だったが、今後は「高卒」がそうなるだろう(もうなっている)。
そしてそうなればなるほど、皮肉なことに、今度は高等教育(ことに四年制大学)全体の学歴的な価値それ自体が下落し、ただ大学を出たといっても、それだけでは何の商品価値ももたないようになるだろう(ブランド大学は価値を維持し続けるだろうが)。そして若者は相変わらず「いったい私は何でこんなところにいるのか」と自問し続けることになるだろう。高校→大学→正社員という連続線が現実感を伴った夢(希望)として見えなくなってしまったかぎり、「フリーター」や「ニート」や「ひきこもり」や「大人になれない若者」は増えるだろう。
事態がこのようであるとはいえ、高等教育の大衆化の流れをいまさら逆戻りさせることはできない。お前の学力では高校の授業は無理だから中卒で働けとか、君の成績では三流大学にしか入れない、三流大学など出ても企業でやらされることは同じだから、早く地道に実務能力を身につけた方がよいなどと説得しても、親に経済力があって若者に遊び心があるかぎり、まず説得効果はない。もちろん、進路を強制できるような時代でもない。
私は、本来なら、大学進学の準備段階として考えられた普通高校のカリキュラムを履修すべき者は、同世代人口の二割か三割もいれば十分だと考えている。机の上の勉強に不向きな者が高等教育などを目指すべきではない。猫も杓子も、かたちばかりの「高校生」「大学生」という勲章を求めすぎたのだ。しかし、そのように嘆いてみせても、問題が解決するわけではない。さて、どうすればよいだろうか。
先に述べたように、「国民共通教育」としての義務教育で教えられるべき教科は、主要科目だけで十分であり、その目標は、国民の平均的な基礎学力水準の高さを相当程度まで維持するところにある。それ以上の「学問的な深化」を、時間をかけて全員に求めようとするのは無理であるし、無駄でもある。
しかし身分制社会ではないいまの日本で、学齢期の長さを人によって大きく短縮するわけにはいかないとすれば、長期にわたる学齢期を維持したままで、それぞれの能力と適性に応じた中等・高等教育システムが考えられなくてはならない。しかもそこで教えられる内容は、これらに通う大多数の生徒や学生にとって、社会人となるのに即、役立つようなものでなくてはならない。
そこで、高等学校のあり方として第一に要求されるべきなのは、教育内容の実践的な専門性と多様性である。「一般教養」的知識を教える「普通高校」を二割ほど残して、その他に、語学高校、電子技術高校、福祉医療高校、機械工学高校、経営高校、情報処理高校、建設高校など、学校ごとに専門性を強く打ち出した多くの高校を設立する。「普通高校」は、有力大学進学を目指すエリート校に限られるようにする。
ところで、こうした多様性を保証し、しかもその名目にふさわしい指導内容と「教える-学ぶ」情熱とを維持するためには、公立であるよりも私立であるほうが都合がよい。
というのも、第一に、教育サービスの供給側は、経営に必死になるから、質の高いサービス、生徒の興味をかき立てるサービスを提供できるように力を注ぐだろう。また第二に、需要側も、個人的にお金を払って(親にお金を出してもらって)ある専門の道を自分で選択したという意識を持つことになるから、現在のように「ただみんなが行くから自分も行く」といっただらけた勉学意識は、相当程度低減するにちがいない。
この高等学校のイメージは、勉強が飛び抜けてできるわけではない、ごくふつうの中学生を入学者の対象として考えられているが、彼らの勉強への意欲はもともとさほど強くない。だからこそ、具体的で、手触りのある、将来、社会人として役に立つことが実感できるようなカリキュラムを提供することが重要な意義を持ち、彼らに適切なインセンティヴを与えることになるのである。
さらに、そうした生徒を対象にして職能教育を考える以上、実をあげるためには一定の長い年数が必要となることも否定できないだろう。したがって、この期間を四年とする。また、専門性を強く打ち出すと言っても、現在の専門学校のように、その分野のことしか教えないというのではない。どの高校も、いくらかは知識の総合性を残して、現在の専門学校と普通高校との中間ぐらいのイメージをキープするのが適当だろう。中学時代に基礎知識を十分習得できなかった生徒たちが専門科目を学んでいくときの橋渡しの役割、つまり一種の「再履修」の機能も合わせもつことが要求される。
こうした私立高校の設立には、当然、産業界も積極的に参加すべきである。大企業は教育投資を真剣に考え、ただ単に机の上の勉強をするところという「学校」イメージを打ち破らなくてはならない。教師陣にも実業の世界を歩んできた人々を数多く登用するなど、学校社会と一般の市民社会とをつなぐためのさまざまな工夫が必要となろう。
なお、現在、一部のブランド私立高校が有名一流大学への高い合格率を独占している。そして、ここに通うのは、言うまでもなく、経済的・文化的に豊かな階層出身者である。しかし、一流大学は、もともと法律、政治、社会科学、人文科学、自然科学、医学など、高度な専門知識を深めることを通して、「ノーブレス・オブリージュ」(気高き者の責任)の精神を持った国家社会のエリートを育てるためにあるのだから、この進路を選択する生徒こそは、公立高校で育成することが必要である。
つまり、残すべき二割の「普通高校」とは、出身階層に関わりなく、高度な一般教養的知識の獲得に耐える優秀な生徒を対象として、国家や地方自治体が税金を使い、自ら身を乗り出してその育成に熱意を注ぐべき教育システムと言えるだろう。奨学金制度なども、公的な制度として、もっともっと充実させるべきである。
このように、高等学校の専門性、多様性を強めることによって、それらの各学校に通う多くの生徒は、実戦に役立つ知識や技能を身につけることができるから、ここから実社会に出て活躍することも心理的にしやすくなり、「高卒」が少数者として蔑視されるなどということもなくなるだろう。もちろん、これだけでは知識・技能が不足していると感じた生徒は、後に述べるかたちの「大学」に挑戦すればよい。
†資格試験と落第制度を活用せよ[#「†資格試験と落第制度を活用せよ」はゴシック体]
【義務教育修了資格試験、各校別の二次試験、落第制度】[#「【義務教育修了資格試験、各校別の二次試験、落第制度】」はゴシック体]
専門性、多様性を強めた私立中心の高校というイメージは、先に述べた、四年制中学での学校体験、学校外体験を経た中学生の進むべき進路としてスムーズに連続していると考えられる。というのも、先の設定に従うかぎり、中学生の多くは、すでに自分が何に向いており何には向いていないか、これから何をして生きていくのかについて、かなり像を固めつつあるはずだからだ。
ところで、義務教育期間中に、すでにさまざまな民間教育機能を体験してきている彼らが高校に進むにあたって、私たちは彼らの前にどのような関門を設けるべきだろうか。この問題は、現在多くの、ことに成績が中以下の中学生や高校生が、学校に通うことの意味を実感できず、インセンティヴとモチベーションを失っているという根本問題とも絡んでくる。
私の構想では、まず第一に、八年間の義務教育が終了しかけた時点で、全員に国家試験としての「義務教育修了資格試験」を受けさせることが適切と思われる。これはいわば心理効果をねらったもので、内容はやさしくして、だいたいの生徒がパスできるようにしておく。しかし、そこを通過しなくては高校生になれないという「壁」をともかく設けておくことが、彼らを中学時代にだらけさせない一つの有力な方法になる。
第二に、大部分の生徒が何らかの専門カラーを強めた高校に進むのだから、個々の生徒には、それぞれの進路にふさわしい能力と適性と意欲とがある程度までは育っていなくてはならない。引き受ける高校側としても、そういう生徒を求めるのは当然だろう。
そこで、「義務教育修了資格試験」をパスした生徒に対して、各高校単位で考案した二次試験を受けさせる。これは、主要科目にかかわる一定の学力水準を問うことを基礎にした上で、たとえば語学高校ならば、語学能力に重きを置いた試験、福祉医療高校ならば、その方面の関心や知識を問う試験、普通高校ならば、エリート育成にふさわしい難問を盛り込んだ試験、というように、さまざまな工夫を凝らすのである。筆記試験の配点を工夫してもよいし、論文(作文)や面接を重視するというように、試験形式を工夫してもよい。
大事なことは、あくまで個々の学校単位で二次試験を作成するということであって、このような方策を取りやすいのも、私立ならではと言えよう。なお「普通高校」は国公立という設定なので、これはハイレベルの共通テストでもよいかもしれない。
第三に、中学校では、学年ごとに落第の制度を設けるべきである(小学校では早すぎる)。いまどき落第など、子どもの心を傷つける、とんでもない試みだと思う向きもあるかもしれない。しかしこれも心理効果をねらったもので、もし落第したら同級の友人関係を失い友達に後れをとってしまうという恐れを抱かせることは、だらけた生徒をしゃきっとさせるのにけっこう効くと思う。
それでもじっさいに落第する生徒が出た場合、それが少数であればあるほど、彼らは落伍者の烙印を負ってしまうではないかという反論があろう。そのとおりだが、現在だって、勉強のできない子は、日々の成績のかたちで烙印を押されているのである。また私立中学入試では、多くの不合格者が出るし、高校入試の際には、いやでも進路選択を通して自分の学力程度を思い知らされるのである。
落第者を出すことを過剰に恐れるのは、大衆平等主義社会の共通感情であろう。しかし、落第者の烙印を押すことをそれほど恐れるとすれば、それは、生徒のことを思いやるからというよりも、じつは指導者が指導者としての自信を持てず、責任を負いたくないからではないのか。
中学の課程をほとんど何も理解できなかった子を形式的に卒業させて高校に進学させ、さらにさっぱり分からない授業を受けさせることの方がもっと残酷であり、その子の人生を無駄にしているのではないか。理解の及ばなかった子には時間をかけて教え、再び進級に挑戦させる方が教育の理念に叶うではないか。
かつて中学の進路指導教師の間で「十五の春を泣かすな」が合い言葉であったように、そもそも同一年齢の子どもが一斉に進級、卒業しなければならぬというような「横並び平等主義」の原則はおかしい。十三、四歳ともなれば自分の学力に対する自覚と分別は十分あるはずなのだから、彼らの「心の傷」なるものを、周囲の大人が過剰に思いやる必要はないのである。
むしろ私たちは、制度をそのように確定することで、要らぬ「甘え感情」の増長を抑制させ、本人たちのおおらかな「あきらめ感情」と周囲の生徒たちの差別意識のない「受け入れ感情」とを育てるべきである。敗者復活のシステムさえ整備しておけば、適切な時期における挫折経験(斎藤環氏の言葉では「去勢」)は、それはそれで何かよいものをもたらすにちがいない。
なお、ここで言う「敗者復活のシステム」とは、たとえば、不幸にして落第してしまった子どもを集めて次年度には必ず進級できるよう懇切丁寧に個別指導してくれる補習塾のような機関が考えられる。そのような機関の運営には、公共体が積極的に補助金を拠出するというアイデアも有意義だろう。
以上のことに加えて、この構想では、中学校で主要教科を午前中習うだけなのである。子どもの生活の中で学校が占めている意味と割合とは、新しい構想の中では、いま私たちが目にしているような風景とはだいぶ違ったものとなっているはずである。つまり、中学生は学校以外の場所で多様な訓練を受け、多様な評価を受けていることになるのだから、学校が彼らにとって持つ意味は相対的に縮小しているのだ。したがって、彼らの心の中で「落第」が持つ意味合いも、その分だけ「心の傷」とはならないはずである。
†大学は単科大学に分解せよ[#「†大学は単科大学に分解せよ」はゴシック体]
【高校卒業後の高等教育機関はすべて「大学」とする。就学年数は各大学の自由とし、総合大学を専門性を強めたカレッジ的な方向に分解させる】[#「【高校卒業後の高等教育機関はすべて「大学」とする。就学年数は各大学の自由とし、総合大学を専門性を強めたカレッジ的な方向に分解させる】」はゴシック体]
現在、高校卒業後の進路は、専門学校、短期大学、四年制大学、医学系の六年制大学、などであるが、これはすべて「大学」として差し支えないように思われる。就学年数は、各「大学」の自由とする。そして、いわゆる総合大学は、やはり専門性を強めたカレッジ的な方向に分解させるのが適切であろう。
もちろん、組織体としてさまざまな学部が集まった総合大学の利点というのもあるのだろうが、総合大学は、しばしばマンモス化して、経営上や運営上も非効率な点が多いように感じられる。この点は果たしてどうなのだろうか。
またそのブランドだけが記号として一人歩きして、一流、二流、三流などの難易度を測る粗雑でわかりやすい尺度になってしまっているが、そうなるのは、普通高校での成績のいかんによって志望校が選択されるからで、普通高校では、一般教養的な知識の多寡でその成績が評価されるからである。
普通高校と一般の総合大学との接続点、つまり大学入試は、一般社会の実践的な知識・技能とは遊離したリベラル・アーツ的な学力の評価によってその連続性を保っている。そこで、高校生の強い職業欲求やより限定された専門の道を選択しようとする具体的な欲求は潜在化してしまい、偏差値が七三だから東大の理三を選ぶといった、倒錯した傾向が続いている。もちろん学識のすぐれた医者が輩出するのはけっこうなことだが、すぐれた医者になりたいから理三を選ぶのではなく、偏差値の高さを示すために一流大学の医学部を選ぶというのでは本末転倒である。
また逆に、ある専門能力(たとえば語学能力、コンピュータの情報処理能力、ゲームやロボットづくりの能力、デザインの能力など)においては相当に高度なものを持っている高校生が、リベラル・アーツ的な総合力において劣るために、総合大学を受験する場合には、二流、三流に甘んじるといった現象も見られるのではないか。そのため、おそらく自分の潜在的な力がよく自覚できず、「自分はいったい何になったらよいのか」という終わりなき問いに巻き込まれてしまいやすいのである。
しかし、単科大学への分解の方向を推し進めることによって、ある領域で優れた能力を示す者、それほどではない者の区別が外からも鮮明となる。事態がこのようになれば、東大のようなエリート総合大学の存在意義はなくなり、それぞれの分野において、実践的な能力水準の差異を示すエリート大学と二流、三流大学の区別が顕在化することになる。そのことによって、企業や官庁が新卒者を採用する場合にも、ミスマッチを少なくすることができると考えられる。ウチではこのような人材を求めているという採用側のニーズと、新卒者の学校歴とをより具体的に照らし合わせることができるからである。
入り口の問題も同じである。「大学」を受験する多くの高校生は、すでにある程度まで専門性を強めた知識・技能を身につけていることが期待されるので、主としてそれらの能力を問われることになる。
たとえば現在の専門学校や短大は、入試を課しているところでも、事実上無試験で入学できるところが多いが、これも望ましいかたちとはいえない。基礎学力が一定程度あり、専門的な知識・技能もそこそこあるなら、やはりそれらを試す試験を実施して、学生を選抜すべきである。
専門学校や短大が事実上無試験になってしまうのは、そうしなければ学生を獲得できないという経営上の問題が第一次的な原因だろうが、そもそもそうなってしまうのはなぜだろうか。それは、専門学校や短大が四大よりは一段低い教育機関と見なされているからで、そこに成績のあまり優秀ではない生徒しか集まってこないからである。しかもその成績とは、「普通高校」的なカリキュラムによって評価された成績である。
だからあまり勉学意欲や勤労意欲のない「フリーター」や「ニート」志向の若者が多く、そのことは学校の評判にも反映する。ここに四大とのランクの固定化と経営難という悪循環が生じる。
しかしもし、「普通高校」的なカリキュラムではない仕方で得意領域を培ってきた高校生が、それにふさわしい進路を専門学校や短大に求めたらどうであろうか。特殊な得意領域で優秀さを示す学生が集まれば、それらの学校もまた活性化が期待できるのではないか。
このように、「高校」から「大学」への過程で進路を選択する生徒が、一定の連続性を備えたコースの上にうまく乗っていることが、両者の連携を高め、結果的に「大学」に進学した学生のセルフ・アイデンティティの確立に役立つはずである。また、高校時代のコース選択で自分の不向きを知らされてその進路に希望を持てなくなっている場合でも、「大学」がそれぞれ単科大学的な専門性を鮮明に示していれば、やり直しのための選択がしやすいはずである。
大学をもっとプラクティカルな知識・技能を授ける場にするべきだという考えを強調してきたが、これは、苔むした古典学問を追究するようなアカデミズム中心の大学の存在を排除するものではない。アカデミズムも百年の計という観点からは重要であり、そこでは、やはりエリート研究者の養成が望まれる。しかし、当然のことだが、これはとりわけそのような面で優れた才能を発揮する人にのみ門戸を開くように、数をいちじるしく限定する必要がある。
現在、研究者志望の学生のために大学院の門戸がずいぶん広くなっているが、これはあまりよい事態ではない。
なぜなら、第一に、この現象はまさに本書のテーマである、「社会的大人になかなかなれない若者」を増やす結果になっているし、親や配偶者の収入にパラサイトする若者の傾向を助長しているからである。
そして第二に、アカデミックな研究というものは、ことに人文系の場合、よほどスケールの大きい才能のある人でないかぎり目を見張るような業績を示すことはまれで、しかも文献研究に何年も費やさなくてはならないため、多くは教授の研究のサポートや下働きに追われて、欲求不満をためやすいからである。
また第三に、オーバードクターの就職難の問題がある。苦節何年を経たあげく、仮にその分野で研究業績を多少は上げたとしても、アカデミズムの世界に席がなかなかなく、また一般社会はあまり相手にしてくれない。
第四に、人文系の研究者などもともとそんなに要らないのである。大学院の膨張は、若者の社会人化を阻害し、「社会的大人」になることから若者を逃避させる回路の一つになっているのではないだろうか。
†「中学・倫理」を正課とせよ[#「†「中学・倫理」を正課とせよ」はゴシック体]
【中学校で「倫理」を正課とし、高等学校で「公民」を正課とする】[#「【中学校で「倫理」を正課とし、高等学校で「公民」を正課とする】」はゴシック体]
さて、先に義務教育の役割の二つめとして、「公民として必要なルール感覚を身につけさせる」という目的のために、中学校で「倫理」を正課とし、そのための専門の教員を養成してこれに当たらせるべきだと述べた。高等学校においてもその延長上で、すべての学校に「公民」という科目を設けるのが望ましい。
これらがなぜ必要か、その中身はどんなイメージになるのかについて語ってみたい。
繰り返すが、子どもの適切な大人化を図るには、ただ知識を与える教育の世界だけでその方法を模索していたのでは限界があり、法治社会に生きる感覚、労働によって人とかかわっていく感覚を身につけさせる必要がある。
ところで、法と労働のうち、前者の法感覚の養成のほうは、高校の場合も民間に任せきりにするわけにはいかない。というのも、ちょうど運転免許取得のための訓練機関が警察という国家機関と密接にかかわっているように、法は国民の代表である立法府がその作成主体であり、これから国民になってゆく年少者に法の大切さをきちんと説くのは市民社会のエージェントとしての国家の仕事だからである。
国家が決めたルールや法的手続きを年少者に理解させ、何が私たちの社会で公正なことであるのかの判断力を培うには、国家機関自身がその基本方針を立てて実施にあたるのが最も適正と考えられる。こうした目的を充たすのが、正課としての「倫理」であり「公民」である。
これは、後に述べるように、現在見られるような妙なジェンダー・フリー教育や性教育などの恣意的な教育がはびこるのを防ぎ、公正な市民感覚、公共性感覚を養うためである。また、一部でカルト集団などによる偏向した宗教教育が行われて力を振るったりすることを防ぐ意味もある。しかしまた逆にこの公民教育そのものが国粋主義的な偏向に陥らないかどうか、一般市民は常に監視する必要があるだろう。
さて、この手の教科を中学校の段階で「道徳」とせずに「倫理」と名づけたのには私なりの理由がある。
道徳と倫理の違いは何だろうか。いろいろな答え方ができると思うが、私は次のように理解している。
道徳とはある共同性が自らの存続のために作った具体的な(しかし法のように外面的なかたちをとらない)掟であり、「汝殺すべからず」や「汝自身の如く隣人を愛せよ」のようにはっきりとした禁止や命令のかたちをとる。それは何が善であり何が悪であるかを決めた有無を言わせぬ内面の律法である。
これに対して、倫理とは、人間が人生の長さや人間関係の広がりを射程に入れながら、何がよい生き方であるかを感じ取り、考える不断の精神のはたらきである。それは、一見、まったく個人的な志としてあらわれるから、道徳とはしばしば抵触することがあり得る。
したがって、たとえば「汝殺すべからず」という道徳命題を、「場合によってはそんなことはいえないのではないか」と疑うことは、十分倫理的なことである。また、一見、功利や打算としか映らない態度も、そこによく考えられた痕跡が認められるならば、それは倫理的な態度であると言えることがある。
しかしこうした倫理的な精神のはたらきの一部は、事実上、道徳や法のように表面にはあらわれないかたちで、生活習慣の中に沈潜し、定着し、歴史的に根づいた理性や感情として法や道徳を支えるものとなっている。つまり倫理とは、「何が、だれにとって、なぜ、よいことであり、悪いことなのか」をたえず感じ取り、考える抽象的な精神のはたらきのことであるから、同時に道徳の指し示す善悪の基準の普遍的な根拠にもなりうる。そうなったとき、それは「人倫」と呼ばれる。
このように道徳と倫理の違いを理解したとき、ことに現代日本のような自由主義・相対主義の時代に、有無をいわせぬ禁止や命令のかたちをとる「道徳」を上から教えるのには、大きな無理がはたらく。「道徳」は、あるまとまりを強固に維持した共同体の内的な掟であるから、時代や社会が変わればしばしば普遍性を持たないものとしてにべもなく見捨てられてしまうことがある。「女性は結婚までは処女であるべきだ」のように。
さて、思春期にさしかかった中学生(私案では十歳〜十四歳)が、社会的な成熟への途上にある存在として最も必要とするのは、これから歩み出てゆく人生の長さや、人間関係の広がりについて、自ら考えようとする構えを形成することであって、自分の住んでいる世界で、基本的なところで何が許され、何が許されないかを改めて教えられることではない。そんなことは、ほとんどの子がこの年齢ではすでに経験的にわかっている。
一九九七年五月神戸の酒鬼薔薇事件(加害者十四歳)、二〇〇三年七月長崎の幼児殺害事件(加害者十二歳)、二〇〇四年六月佐世保の同級生女子殺害事件(加害者十一歳)など、ここ数年、世間に衝撃を与えた少年犯罪にしても、加害者たちが「人を殺すのは悪い」という道徳命題を理解していなかったはずがない。
一般に、基本的な道徳感覚は、フロイトが「超自我」と名づけたように、大人に取り囲まれた乳幼児期からの生活習慣によって自然に根づいていくもので、それを思春期になって改めて頭で理解させるなどということには意味がないし、効果もない。たとえ道徳感覚が根づいていても、条件次第で犯罪を犯す少年は犯すのである。
つまり「道徳」教育は別に必要ないのである。必要なのは、「なぜそういうことになっているのか」を、彼ら個人個人の前に開けている人生の視野に引き寄せつつ、自ら考えさせる手だてを提供するような教育である。
「なぜ人を殺してはいけないのか」「みだりに性関係を渡り歩くことはいい結果を生むか」「他人に迷惑さえかけなければ何をやっても自由なのか」「なぜ人は働くのか」「社会や国家のしくみはどうなっており、なぜそうなっているのか」……こうしたことを当人たちに考えさせるように誘導する教育、そういう教育のイメージを実現させる教科を私は「倫理」と呼びたいと思う。
お望みなら、これを戦前の「修身」の二十一世紀版と考えていただいても差し支えない。ただ、「修身」という言葉には一部の左翼の人がアレルギー反応を示すような手垢が染みついているので、「修身」を復活させろなどと提唱すれば、またぞろただのイデオロギー論争を巻き起こすだけである。そんな不毛なことは私としては避けたい。
こういう「自分のこれからの人生の広がりについて考えさせる教育」は、この年齢では、「国語」や「社会」が部分的に担ってきたといえよう。
しかし、「国語」は、言葉の学習・理解がメインテーマであり、そのことに時間が割かれるため、しばしばテキストの中に豊かに内蔵されているはずの「倫理」的な主題をそれとして独立に取り出して教えることがおろそかにされがちである。また「社会」も、「地理」や「歴史」は言わずもがな、「公民」でも、知識の吸収で精一杯になってしまう。
知識の吸収は、それはそれでたいへん大事なことである。知識がなければ考えることはできない。しかしそれとは別に、それらの知識をいかに各人がよく活用するかについての技術、自分で考える技術もまた必要である。その技術を育成する教科が「倫理」である(なお私は、この提案の中身をさらにはっきりさせるために、一つのサンプルとして『中学生のための倫理教科書』という本を書くことを計画中である)。
†「高校・公民」を正課とせよ[#「†「高校・公民」を正課とせよ」はゴシック体]
次に、高等学校段階では、年齢が十四歳から十八歳であるから、大人になるためのもっと具体的な指針が必要となろう。中学生の「倫理」からの連続性を維持しつつ、さらに「高度」にするのではなく、むしろさらに生活者への道に近づくように、より「具体的」にするのである。
これも「倫理」としてもよいが、現在、高校社会の一分野になっている「倫理」のように、哲学史、思想史を教えるものと混同されては困るので、「公民」としたい。
哲学史や思想史など、いまの平均的な高校生にはほとんど関心を呼び起こさないし、彼らにとって何の役にも立たない。これもまた高等教育の、しかもかなり程度の高い大学に進むために設定された科目であり、リベラル・アーツを真剣に学ぶ意欲と能力のあるごく一部の学生のためのものである。そういう学生は社会的エリート候補生であって、一割でたくさんである。
「高校・公民」では、まずごく基礎的な法律知識を中心に、具体的な事例にもとづいた実学的知識をわかりやすく教えることを基本とする。
たとえば、こういうことをすればこの程度罰せられるとか、こういう資格を得たい場合にはこれこれの勉強や手続きが必要であるとか、事業やNPOを興したい場合にはこのようにするとか、職業の賢い選び方とか、恋愛関係や親族関係で発生しやすい問題をどう処理するかとか、エイズ等、性にかかわる保健衛生教育、交通安全教育、結婚し家庭を持つとはどういうことか、日本という国家の一員であることの意味、人権を認められるとは具体的にどういうことか、少子・高齢社会の実際、障害者問題、環境問題、異文化との接触の仕方、市場でのお金のまわり方、等々、若者がこれからの人生を生きていく上で欠かせない身近な知識の提供と演習を行うのである。
演習では、たとえば犯罪や事故の加害者と被害者のロールプレイをするとか、学校の外に出て役所や会社や自衛隊や警察や刑務所や法廷や環境NPOや老人ホーム、障害者施設、医療施設での実態に触れ、「一日何々員」をやってみるとか、ある設定のもとに企画書や報告書を書かせるとか、出産・育児のシミュレーションをするとか、家計のやりくりを実践してみるとか、身近な環境でトラブルが発生したときにどう処理するかを経験させるなど、さまざまな試みが考えられる。
いかにも盛りだくさんに見えるが、週二時限ほど割いて、四年間行えば、相当のことができるはずである。
これはすべての高校生の必修科目であるから、それぞれの教師が場当たり的にどれかだけを特段に選んで、偏向した比重で教えても仕方がない。「ゆとり教育」の「総合的な学習」などは、現場丸投げの無責任な教育方針であって、こうした偏向を産む土壌を作っているといえる。中央の教育行政府は、何も考えずに現場の教師に責任を押しつけているのである。
「高校・公民」では、中央行政府が、平均的な高校生にふさわしい水準をよく踏まえ、きちんとした問題体系をあらかじめ作成し、普遍性のあるテキスト作成とカリキュラムのモデル提示をやってみせるのでなくてはならない。
また、「中学・倫理」と同じように、こういう幅広い実践倫理的な領域のことをいきいきと教えられる専門教育者を育成することが必要であるのはいうまでもない。
†ジェンダー・フリー教育の愚かさ[#「†ジェンダー・フリー教育の愚かさ」はゴシック体]
【性教育を倫理教育として位置づける】[#「【性教育を倫理教育として位置づける】」はゴシック体]
「正しい大人化計画」の教育部門を論じるにあたって、最後に、性教育の問題に触れておきたい。
昨今、「男女共同参画社会」という美名の陰に隠れて、ジェンダー・フリー教育や「過激な」性教育が一部で行われてきたことが問題視されている。これらについては、憲法学者の八木秀次氏が、そのおかしさ、非常識さをつとに指摘している。
八木氏によれば、地方自治体におけるジェンダー・フリー教育の実践については次のようなものがある。三重県の教育委員会が二〇〇〇年三月に発行した小学五年生の「道徳」の副読本教材に、男の子らしさ、女の子らしさを否定するように誘導する十二項目のチェックシートが掲載されている。この種のジェンダー・チェックは全国各地にあるという。また、千葉市の男女共同参画課が二〇〇〇年八月に発行した広報誌には、「カタツムリは、雌雄同体。結婚≠キると、両方の個体が土の中に白くて小さな卵を産みます。同じ一匹で雄の気持ちも雌の気持ちもよくわかるなんて、ちょっぴりうらやましいような……」といった、子どもだましの文章が掲載されている(『反「人権」宣言』ちくま新書、二〇〇一年)。また、福田前官房長官がこうした実態を知って、はっきりと不快感を示したという一幕もあった。
要するに、これらの教育政策の根底にあるのは、性差別の根源は男女の性差そのものにあるから、性差をなくしてみんな中性的人間にしてしまおうというフェミニズムの幼稚な思想である。
この思想がなぜ幼稚か。社会活動や法的レベルでの男女差別をなくすことと、性差の存在とは十分両立できるという簡単なことがわかっていないのである。性差別の元凶が性差だから、性差をなくせばよいと考えるのは、交通事故の元は車の存在だから車をなくせばよいと考えるのと同じ短絡思考である。
この社会が全く差異のない均等な個人によってのみ構成されるのが望ましいと考える理想は、次のことをまったく視野に入れていないか、あるいは作為的に排除している。
性差を否定して何でも「個の自由対等な関係」を基盤にして社会を成り立たせようとする発想は、人が生きるということに対する想像力を欠落させた非現実的・空想的な発想で、人は、実際には、さまざまな「男らしさ」や「女らしさ」その他、具体的な「何々らしさ」という制約を通して「自分らしさ」という自由を実現させているのである。
たとえば家族における両親は、自ら産んだ次世代を養育する責任を果たすことによって社会との接点を持ち、社会秩序一般を支えるが、この家族を成立させる発端は、一対の男女の性愛関係であり、性愛関係を媒介するものは、性差を基本とした両性のうまいかみ合いである。そこでもし性差否定の理想を全社会に浸透させようとすれば、必然的に家族を否定することになり、次世代の養育責任をだれが担うのかという問題が発生する。これを社会全体で担うとするのは、昔から一部にある発想だが、歴史的な実践としてはすべて失敗している。
人間社会はある具体的な共同性、関係性によって成立している。このことを無視して、ただ「個」を基礎としてのみ成り立つと考える「個人絶対主義」は、次のような権力論的問題を隠蔽するのである。
「個」が互いにばらばらに自由を求めて行動するという社会イメージは、一見自由主義の最高の到達点のように見えるが、実際には互いの錯雑した摩擦、ぶつかり合い、葛藤、責任をだれがどのように調整・処理するのかという問題をたえず発生させかつ拡大し、トマス・ホッブズのいう「万人の万人に対する闘争」という自然状態に帰結せざるを得ない。そこで、これをだれかがどこかで制圧する必要が生じ、それを一気に果たすためには、強大な全体主義的権力にゆだねなくてはならない可能性が非常に大きいのである。
性愛と私的な情愛という特殊な絆の原理にもとづく家族のような中間共同体が社会に根を下ろしていることは、その利害が社会一般の意志としてたえず政治に反映する力となることによって、そのような全体主義の危険に対する防壁となりうるのだ。
こうした見えにくい力がいかに社会の安寧と秩序を支えているかということに対して、「個人絶対主義」はあまりにも無防備で脳天気でありすぎる(これに関しては、拙著『やっぱりバカが増えている』洋泉社新書y、二〇〇三年参照)。
本書の文脈でこのジェンダー・フリー教育がはらむ問題点の超克を考える場合、やはり「倫理・公民」という教科において、わかりやすく具体的に性や結婚や家族の意味について説くという手だてしかないであろう。
†性教育は必要か[#「†性教育は必要か」はゴシック体]
次に、いわゆる「過激な」性教育について述べる。
性教育を推進してきた一部の団体は、恥ずかしさを人一倍感じる年齢の子どもたちが集まる学校という公的な場で、「性を明るく正しく語ろう」などと謳いあげ、恥ずかしげもなく「ペニス」や「ヴァギナ」を連発し、「父親にマスターベーションのやり方を教えてもらいましょう」とまで説いているそうである。
また、先述の八木氏によれば、小学校四年のご子息が通う学校で、保健の時間に子どもたちが「セックス、セックス、セックス」と連呼させられたという(「産経新聞」二〇〇三年七月十二日付)。
また、二〇〇四年四月二十四日付「産経新聞」の記事によれば、小学校での「過激な」性教育への保護者の反応として、「子供たちが『うちは週何回しているの?』と聞いてきた」「授業でコンドーム班が劇をすることになったがコンドーム役をみんなが嫌がり、だれもが劇をやりたくないと言った」「性情報を収集するとしてコンビニでエッチな雑誌を買い、拡大コピーしてノートに張って発表した。この授業に5時間もかけた。信じられない」などとある。
さらに、二〇〇四年四月三十日付「産経新聞」の記事によれば、文部科学省所管の財団法人「日本学校保健会」が、「過激な表現のある」性教育本を全国の中学校に送付していたことが東京都教育委員会に知れ、都教委は、「校長預かり」の措置を執るように各区市町村に通達した。この本では、女性性器について「体の内側にあるから分かりにくい。鏡を使って確かめてみるのがいい」などと、女の子が鏡でのぞき込んでいる絵をつけて説明しているという。
同記事では、このほか、批判された性教育の実例として、「生徒に外性器の名称を教えるために作成したプリントを授業後、回収する」(東京都北区)、「結婚は異性とは限らない」という記述や「精液を飲む」といった表現を肯定的に高校生に紹介した副教材を自治体自らが作成した(川崎市)などの例が挙げられている。
ところで、こうした性教育ならぬ露骨な「性器教育」「性交教育」が、「過激な、行きすぎたもの」として批判されるのはなぜなのだろうか。果たしてそれは過激とか行きすぎといった「程度」の問題なのだろうか。
この問いは、これまできちんと問われ、答えられたためしがない。
性教育のあり方の適否を、「程度」の問題で線引きしようとすることは、性教育について根本的に考えたことにならない。現在、「過激な」表現が公教育の教材として用いられ、それを知った関係者があわてて「それは行きすぎだ」と批判するといういたちごっこが続けられている。しかし、こうした構図を続けるかぎり、性教育とはいったい何か、「性教育」という概念について私たちはきちんとした共通了解を持っているのかという一番重要な議論はいつまでも先延ばしにされる。
プラトンは『饗宴』のなかで、「エロス神を賛美せよといっても、およそ何かある物事を賛美するためには、その物事が何であるかをまず正確に知らなくては不可能である」とソクラテスに言わせている。同じように、「性教育」の是非を論ずるには、そもそも私たちは、「性教育」という言葉にどんな意味や目的を託しているのかについて、まず共通の了解を持たなくてはならない。
「性教育」とは、もともとは、「性についての正しい知識の伝達を通して性道徳を教える教育」という概念で、昔は「純潔教育」と呼ばれていた。
こういう教育が求められてきた背景には、「性情報の無秩序な氾濫は、青少年の欲望をいたずらに刺激し、彼らを婚前交渉や不純異性交遊などに走らせ、公序良俗を紊乱《びんらん》する恐れがある。だからそれを防いで青少年に健全な性の観念を植えつけるために公式的に性道徳を説く必要がある」という動機があった。この動機の是非について私自身がどういう考えを持っているかは後述するが、ともかく事実として、オリジナルな動機はそうであった。
ところが時が移り、豊かで平和な時代が続くにつれて、ふつうの人々の間で性に対するタブーの意識が薄れてきた。特に女性の性行動や性意識に対する寛容度が増したために、「純潔教育」といった禁欲的な概念は時代遅れとなり、若者の性行動、性意識の実態との間にはなはだしいずれがあることが感知され、むしろそういう性道徳を強調するような教育は、個人の自由な欲求を抑圧するものだという感覚が広がった。
この過程は、もはや後戻りできない。その結果、旧来の「性教育」はその形式を保存しながら(つまり必要性それ自体は否定されずに残りながら)、その概念内容の中心軸を変質させざるを得なかったのである。
現在、一定年齢の青少年に対して「性教育」が必要であると考えられるとき、どういう理念にもとづいてそう考えられているのかを想定してみると、およそ次のようになるだろう。
[#ここから1字下げ]
@性情報の氾濫は、間違った性知識を若者に植えつけやすく、その結果、性病、望まれない妊娠、性犯罪など、個人を不幸にする事態を招きやすい。だから公的な機関が「正しい性知識」を提供することは必要である。
A性を陰湿な、後ろめたい世界ととらえず、明るくオープンに語ることを通して、そこに伴う不要な悩みや苦しみを軽減することができるし、新しい命を産む営みの大切さを認識させることができる。
Bセックスは対等な個人どうしのコミュニケーションとしてあるべきであり、それを歪めるような偏見や差別意識をなくしていくべきである。その意味でも、まず男女の性についての科学的な知識を徹底させることが必要である。
[#ここで字下げ終わり]
つまり、現在あちこちの教育現場で行われているような「性知識教育」の推進者たちには、「正しい知識」を公開の場所で与えさえすれば、それが個々人のより幸福な愛情生活につながるはずだという短絡的な信念のようなものがあって、この信念が「過激な」表現をも辞さない教育態度をとらせていると思われる。
いっぽうその「過激さ」を批判する側は、公序良俗を守るという「性教育」のもともとの理念(純潔教育)に反対であるはずがないから、性教育を「学校教育」で行うことそのものに明確な反論を対置するわけにいかず、ただその教育のあり方がかえって公序良俗を侵すかぎりで批判するということになる。
批判者側が有力な反論材料にするのは、いまの「過激な」性教育推進者たちは子どもの発達段階を考えていないからバランスを欠いているという言い分である。しかしこの言い分は、発達段階をちゃんと考えているなら公教育で行われる性教育自体には反対ではないと言っているのと同じである。実際、批判者も、右の三つのうち、Aに対する感覚的な違和感を表明することはできても、@やBにあからさまに反対することは難しいにちがいない。
推進者は言うだろう、「大人と子どもが性のことを互いに隠さず、まじめに、堂々と語れる公共の場を持つべきだ」と。また批判者は言うだろう、「公序良俗を守るために、正しい知識を適切な時期に適切な仕方で教えることは必要だ」と。
以上のように、推進者も批判者も、社会的・公共的な機関(権力)の中に性というテーマを取り込んでいこうとするその志向性それ自体においては一致するわけだ。
だが、私の考えは、両者のいずれとも違う。私は過激か穏当か、発達段階を無視しているかいないかにかかわらず、そもそも「性器教育、性交教育、性知識教育」としての性教育を、学校教育で行うことそのものに反対である。そんなものは、無意味だし、百害あって一利なしだし、ばかばかしいし、滑稽そのものだからやめてしまったほうがよいというのが日頃の持論である。以下、なぜそう考えるのかについて述べる。
†「性知識教育」の無意味さ[#「†「性知識教育」の無意味さ」はゴシック体]
性にかかわる知識の獲得や披瀝は、ふつうの知識の獲得や披瀝とは次元を異にした人間論的な意義を持っている。それは内密な、秘匿された心の領域を通して得られ、伝えられるものであり、その知識の獲得や披瀝に伴って、当事者たちの情緒を大きく揺さぶり、羞恥心を刺激する。このことには普遍的な理由がある。
人間は発情期を喪失しているために、いつでもだれとでも性関係を結ぶことができるという潜在的な可能性のうちにおかれている。この事実は、人間の性関係がもともときわめて乱脈な本質を持っていることと同じである。
だから、ここに何らかのタブーの意識を配分しなければ、複数の男女が集まる場所では、社会秩序(労働の秩序)を保つことができない。そこで、人間は、性関係における心理的なモード(「私」性)と、労働関係における心理的なモード(「公」性)とを使い分けることを学んだのである。この使い分けは人間が文化によって生きることの根源的な基盤の一つとなっている。
いくら性が社会規範から自由になったといっても、この基本的な使い分け感覚(タブー意識)が消滅したわけではない。そのため、性に関する事柄は、常に「素晴らしいことであると同時にいやらしいこと」という分裂した情緒を伴って受けとめられるのである。具体的な場面に即してこれを端的にいうなら、性的行動や性的意識の当事者にとっては素晴らしいと感じられることが、それらの非当事者にとってはいやらしいと感じられるのである。
そこで、もしこの心理的な使い分けが消滅すると、性的羞恥心はなくなり、「私」と「公」の区別もなくなり、人はそれこそいつでもどこでも他人の目も気にせずに性交することになり、性にかかわるすべての文化秩序、社会秩序は破壊される。そして逆に内密さ、秘匿性を失うことによって、性愛感情の昂揚のほうも消滅するだろう(拙著『エロス身体論』平凡社新書、二〇〇四年参照)。
ところが言うまでもなく、「小中学校」とは性的な未経験者・未熟者を集めた公的な空間であり、「学習」という一種の労働秩序の支配する空間である。性的な未経験者の側はさしあたり非当事者のグループに属し、教育する側は、その世界について既知であることが前提だから、たとえその時点で非当事者の意識で臨んでいるにしても、話題を通してあたかも当事者であるかのような羞恥心に直面しなくてはならない。
そういう空間でこの羞恥心の独特さを無視したような「性器教育、性交教育、性知識教育」を行うことは、私たちの文化の基盤である、性的な事柄と非性的な事柄とに対する使い分け感覚を根源的に食い破る一歩を意味する。
「過激な」性教育に対する批判者が、明確な反論を対置できないままに、発達段階を無視しているからよくないと困惑気味に主張するのも、実を言えば、この使い分け感覚の侵食を直感的に危惧するからなのである。若い教師などの場合、「先生はもうやったの」などというからかいによる「崩し」を克服することはさぞたいへんであろう。
子どもは一定の年齢になれば、「人間がセックスをする存在だ」という知識それ自体については、どのようなルートを辿ろうと、自然に覚えてゆく。それは、「イラクの首都はバグダッドである」といった客観的な知識とは違って、身体の内部衝動が教える知識だからである。
たとえ禁欲的環境などのさまざまな条件によって性的な発育と性的な「知識」との間に相当なアンバランスがあったとしても、いつかはそれを知るだろうし、それを知るための時間は数分間もあれば事足りる。何も同年齢の子どもを集めて、時間をかけて一斉に教える必要などはない。
事実、私どもの世代には公式的な「性教育」などはなかったが、それで後年何か困ったことがあったかと言えば、別になにもなかった。私的な情報のやりとりや市場に出回るメディアを通して徐々に内部的な欲求の呼び声と「知識」との間に折り合いをつけていったのである。いったい、この個人的な、秘められた納得の過程のどこが悪いのか?
私は、性に関しては、光のくまなく当たった場所での「科学的な知識」の注入などよりは、こういう秘密の、隠微で内的な納得の過程がむしろ必要だと考えている。というのは、ほの暗い性の領域が個的な実存のあり方と密接に結びついていることによってこそ、そこに文学的な奥深い世界が自然と生まれてくるのだし、人間の心の微妙な綾もまたはらまれるのだから。
また、セックスが個人間の対等なコミュニケーションであるべきだというようなよく耳にする言い方は、私には半分くらいしか理解できない。
たしかに性愛関係はそれ特有のコミュニケーション(伝達)を含むし、また性関係の延長上に営まれる男女間の生活のタイプのあるものは、外から見れば性差別的なものとして映ることがあろう。しかし、そもそも性愛は、心身の相互占有によって合一の欲求を満たすことを本質としているのであって、情緒の共有の他に外的な目的をもたない。
したがって、それは何らかの意思を伝達するための「手段」(いわゆるコミュニケーション)ではないし、「対等」とか「平等」とかいった権力関係的な語彙による解釈を寄せ付けない独特の心的な磁場を持っている。だから、谷崎潤一郎の『春琴抄』に出てくるような、惚れた女にかしずいてどこまでも共感していこうとする純愛男もいれば、オットセイのように何人もの女を侍らせながら、どの女にも恨みを買わない男もいるのである。
さらに、「個人の幸せに結びつく明るく正しいセックス」などというものがあるはずはないし(こんな理念で性教育が行われているとしたら、噴飯ものである)、またそんなものを「科学的な教育」によって作り出せるはずがない。性愛を通して幸福になりたければ、一人ひとりが経験を通して学べばよいのである。
もちろんそこには多くの不幸や挫折や葛藤の契機が含まれていようが、そうした契機こそが真の「性教育」なのである。想像力豊かで早熟な子どもは学校の「性教育」などせせら笑っているにちがいない。
要するに、青少年に禁欲を課すかつての「純潔教育」としての意味を失った現在の「性教育」(性知識教育)においては、いったい何を目的とし、どこを目指しているのか、なぜそれをすることがよいことなのかがまったく判然としないのである。推進者たち自身が自分でもさっぱりわかっていないのではないか。
それでも、先の@に記したように、間違った、興味本位の性情報が氾濫しているので、エイズなどの性病、望まれない妊娠、性犯罪などを防止し、青少年の生命や身体の安全を確保するためには、一種の保健衛生教育としての「正しい性知識」の提供を、学校教育を通して実施する必要があるという言い分だけは残るかもしれない。
しかし、このことは、何も年少の子どもたちに公開の場で「性交の知識」をあらかじめ徹底させておくということを前提条件として要求しない。それは、ちょうど先に述べたように、「他人のものを盗んではいけない」という道徳律を、あえて学校教育で再確認させる必要がないのと同じである。
「性知識教育」を早くから手がけてきたスウェーデンやアメリカで、その効果として、性病や望まれない妊娠や性犯罪の減少が実証されたという話を私はとんと聞かない。一国の性風俗の実態は、さまざまな歴史的、社会的要因が絡むので、「正しい性知識」を早く教えれば事態が好転するなどという単純な因果関係で論じられる問題ではないのである。
†性教育を学校で行うとすれば……[#「†性教育を学校で行うとすれば……」はゴシック体]
もし学校で行われる性教育というものに少しでも意義があり得るとすれば、それは、性の「知識教育」としてではなく、また禁欲を説く「道徳教育」としてでもなく、あくまで「倫理教育」の一環としてであろう。
繰り返すが、倫理と道徳とは同じではない。性教育を「倫理教育」の一環として位置づけるということは、それぞれの個人がこれからの人生をよりよく生きるために何をどのように考えたらよいかという枠組みの中で「性」を扱うということである。
すでにこの位置づけについては、「中学・倫理」「高校・公民」の項で述べておいたのだが、もう一度、性を扱うというアングルのほうからさらに具体的に提案してみよう。
先の、四・四・四制を前提として言うなら、小学校年齢では、大人の側から積極的にはたらきかけるような性教育は必要ない。子どもが興味や疑問を持って大人に聞いてきたら、もう少し大きくなるとわかると答えておけばいい。
しかし、十三歳くらいまでには性的な関心と欲求はほぼ全員に目覚めており、性についての知識も基礎的なことは行き渡っていると想定できる。
そこで、四・四・四制の終盤に入った時期、つまり中学四年(現中二)くらいから、たとえば「十代前半のセックスは早すぎないか」とか、「みだりに性関係を渡り歩くことはいい結果を生むか」とか、「好きになった相手とならセックスしてもかまわないか」とか、「妊娠してしまったらどうするか」(女子)とか、「妊娠させてしまったらどうするか」(男子)とか、「性を売って金銭を稼ぐことはいいことだと思うか」といったさまざまなテーマで作文を書かせる。これは無記名のほうがよい。また、書きたくないものには強制しない(たとえば性以外のテーマを並べて自由に選択させる)。
倫理の専門教師はこれを集約し、授業中、代表的な考えをいくつか紹介しながら、こういう意見があったが、こう考えた方がいいのではないかといったヒントを提供する。もし避妊や性病予防の知識に広範な欠落があれば、それを補う。まじめな質問や意見が出れば、取り上げ、それにきちんと答える等々。
ただし、羞恥心を尊重しなくてはならないし、卑猥な興奮の場にすることも許されないことであるから、この年齢では、意見発表を強要したり討論会を設定したりするようなお節介な態度は厳禁である。
「高校・公民」では、まずエイズ問題、妊娠問題、売買春問題、性犯罪問題、同性愛問題、結婚問題などに関して、より社会的な視野から一般的な講義を行う。具体的なデータ、さまざまな事例などをよりどころに、社会実態を紹介しつつ、それぞれの生徒に自分の生活問題として考えさせるのである。
また、「中学・倫理」と同じように、テーマ設定をして作文を書かせ、講評する。たとえば、女性をはらませてしまった未成年の男性は、その責任を具体的にどう取るべきかとか、同性愛者同士の結婚は許されるべきかとか、こういう性犯罪には、これだけの刑が科せられるが、それをどう思うかとか、結婚することにはどういう意義があるのかとか、家事や育児における夫婦間の性役割についてどう考えるかとか、何をストーカーと言い、何をセクハラと言うのかとか、いろいろなテーマ設定ができる。生徒の年齢が高くなるにしたがって、意見発表や討論の機会を増やすのもいいだろう。
以上のように、倫理教育の一環のなかに溶かし込むという条件付きでならば、学校教育で「性」を扱ってもよいと私は考える。その目標は、個人の身体レベルでの「性」の問題を、男女互いの「生活」レベルの問題にしだいに引き寄せてゆくというところにある。
もはや、「健全な性道徳」を説くための性教育=純潔教育は意味がないし、お笑いである。豊かな自由主義社会では、青少年に性的な禁欲を強いる根拠がない。日本のように、統一的な宗教戒律を社会構成の原理にしていないような国では、なおさらこのことが言える。
現在の「性知識教育」的な性教育の推進に対して嫌悪を感じて批判する人々(私もこの嫌悪を共有する)の一部は、その反動感情から、ともすれば「寝た子を起こすな」式の禁欲道徳としての性教育を復活させるような傾向に吸い寄せられるかもしれない。
しかしそんなことは不可能であり、無意味である。なぜなら、現代のような情報社会では、一定年齢以上(色気づいてから)になれば、「寝た子」など存在せず、みな起きてしまっているからである。やろうと思えば、インターネットや携帯メールを利用していくらでも性的な情報を得られるし、性的な行動への手がかりも得られる。
こういう社会で、「性」の問題を公教育に取り入れられるとしたら、その理由はただ一つである。年少者の性行動は自分にとって不利な結果を生み、他人をも傷つける可能性が大きい。だから、自己責任を担えない年少者が軽はずみに行動した場合、どういう不利やツケを背負い込むことになるかについてよく理解し、慎重で賢い行動をとるように誘導する必要があるということだ。
この必要を充たすためには、法をきちんと学び、しかも現代社会の実態についてよくセンスを磨いた専門的な教育者が求められるだろう。しかし現実にはこれはなかなか難しいことである。お互いの羞恥心を押し殺してまで、あまり無理をしないほうがよい。
公開的な性教育よりも無理がなく、しかも有効に思えるのは、性愛問題について身近で気楽に相談できるような雰囲気のカウンセリング室を設け、そこによくもののわかった専門家を配置して、個別に相談に応じるようにすることである。医者と同じように、個々の生徒の秘密は必ず守るものとする。
[#改ページ]
第三章|「法的な通過儀礼」を設定せよ
†法的な「大人化」の時期とは?[#「†法的な「大人化」の時期とは?」はゴシック体]
以上、学校教育という枠組みにおける可能な「大人化」の構想を語ってきた。しかし繰り返し確認しておきたいが、「学校教育」とは、近代社会あるいは近代国民国家が作りだしたあくまでも限定的な枠組みであり、子どもを社会的な大人にしていくための分化形態の一つにすぎない。そこで果たせることは限られており、多くを期待してはならない。「学校教育」のまわりには、もっと大きく、広義の「教育」、つまり「社会的養育」の必要が取り巻いている。この課題をできるだけ一般社会レベル、あるいは国家レベルで克服するには、「学校教育」という枠組みのなかだけで改革を考えていても無駄である。
この指摘は、次の二つの条件が充たされることを要請する。一つは、狭義の「教育」という営み以外に、どういう側面からの「大人化」を考慮しなくてはいけないのかということ、そしてもうひとつは、それらの各側面からの「大人化」がどのように連関しあいながら有効にはたらかなくてはならないのかということ。
以下、この二つの条件をともども考慮しながら、記述を進める。
第一の条件については、すでに記したように、「法」的な面からのアプローチと、「労働」の面からのアプローチが考えられる。
なぜこれらの面からのアプローチが必要かに関しては、そもそも「人間」というものをどう理解したらよいのかという基礎的な問題にかかわるので、その問題に絡めて簡単に述べたい。
人間は、いうまでもなく他者とかかわってはじめて人間としての条件を備えていく存在である。しかし「他者」という哲学者好みの言葉は、もともと抽象度が高すぎる。そういう言語の周辺ばかりうろついていると、次の事実の重要性が忘れ去られる。それは、実際に人間が生きていくときにはさまざまな属性を持った「具体的な他者」と出会いつつそのつど異なるモードで関係を取りつつ生きざるを得ないという事実である。
そこで一人の人間の発達過程に即して、たとえば一次的な他者、二次的な他者、三次的な他者というような枠づけ(概念分け)を試みることが必要となる。ただしこれはあくまで作業仮説である。
一次的な他者とは、家族関係において出会う他者、ことに両親である。二次的な他者とは、友人、教師、異性、同僚、上司など、家族以外での具体的な人間関係において出会う他者である。
そしてもし、三次的な他者という概念が想定できるとすれば、それは、「観念として私たちのだれもが考えることのできる見知らぬ他者一般」である。人間は、発達過程においておおむねこのような順序で「他者」という関係概念を自分の頭と心にしだいに刻み込み、そうして社会的に生きる身構えを確立させていくはずである。
ところで、ある社会の秩序を構成しているものは、その社会固有の規範観念であるが、規範観念には暗示的な(implicit) ものと明示的な(explicit) ものとが考えられる。
暗示的なものとは、慣習(宗教なども含む)と道徳であり、これは個人の生活史の初期に植えつけられ、内面的な良心として形成される。
明示的なものとは法である。一定の文明社会では法は必ず「書き記されたもの」としてあるので、これが一人の人間に意識されるためには、社会の成り立ちを展望し理解してゆく言語能力の獲得が前提となる。だから、それが個人の前に姿を現すのは、生活史上、比較的後のことになる。
また法は、慣習や道徳のように、自分の一部として無自覚的に感じ取られるのではなく、すでにできあがった自分の欲求を外側から制御したり承認したりするシステムとして自覚的に意識される。
さて、慣習や道徳は、主として第一次的な他者(両親)が次世代(子ども)をしつけるというかたちでその継承が果たされ、二次的な他者とのやりとりを通して本人へのその根づき具合が試され、鍛えられる。
これに対して、法は、主として二次的な他者とのやりとりのなかでその存在が意識され、かつ、三次的な他者(観念としての他者一般)の存在が想定できるという人間了解の段階に本人が到達したとき、はじめてその合理性が理解され、納得される。
というのも、法は人間の自己意識に向き合う外的な対象として、自己の自由な欲求を外側から制御する体系、ないしは自己の自由な欲求を条件付きで承認してくれる体系として理解・把握されるが、こういうことが可能なためには、たとえ漠然とではあれ、次のような俯瞰的・抽象的な認識の水準が必要となるからである。
その認識とは、この世の中は、互いに見知った者だけではなく、見知らぬ者同士の多様な欲求が絡み合った関係の網の目によって成り立っており、そこにおける利害の一致や対立のあり方が世の中の実相を形作っているという認識である。この俯瞰的・抽象的な認識が前提となることではじめて、一人の人間にとって、「法」というものの存在、その合理性、その「致し方のない」意義といったものが納得されるのである。
もちろん、第一次的な他者関係、つまり親子関係のもとにあるだけでも、法的な感覚は養われる。「それは法律で禁止されているからダメだよ」という言い聞かせは、親を通して効果を発揮することが可能である。しかし、その効果(子どもへの浸透)は、いわば、いまだ情緒を仲立ちとした親子の絶対的な信頼関係の一表現の域を出ないというべきものであって、子ども自身が一定の社会的な視野を持ったうえで理性的な判断として法の存在と意義を納得・理解するというのとは異なっている。
そういうわけで、一人の人間が社会的に大人化するということのなかには、法の存在と意義とを納得・理解するということが必然的に含まれている。逆に言えば、法の存在と意義とを納得・理解できない人間は、「大人になった」とは言えないのである。
なおこれは、法律知識を豊富に持っているかどうかということとは別の次元の問題である。重要なのは、一つの直観、自分が法の世界の住人であることによって大人としての条件を満たしているという直観を形成できているかどうかなのだ。
したがって、私たちが年少世代の「大人化」のレールを敷くとすれば、どうしても法の存在と意義とを彼らにきちんと納得・理解させるための適切な時期というものを考えなくてはならない。その納得・理解がきちんと果たされるべき時期は、二次的な他者との経験的なやりとりを十分に踏まえて、三次的な他者の概念を確実につかみつつある時期が適切であると言えるだろう。
個人差があるから何歳ぐらいがそういう時期に当たるとは一概に言えないが、この時期をたとえば、先の四・四・四制構想における義務教育終了時期に一致させ、そこに何らかの新しい法的な「通過儀礼」を設定して両者を連動させるというのはどうであろうか。義務教育終了が単なる狭義の「共通教育」の終了を意味するのではなく、それが同時に法的な「通過儀礼」と連動することによって、総体としての「大人化」への半歩踏み出しの意義が補強されるのである。
また、高校終了期(十八歳)は、ほぼ成人として認めてもよい時期に一致するから、この時期にも再び何らかの法的な「通過儀礼」を設定すべきだろう。これもまた、必修科目としての「倫理・公民」の単位を取得できた時点と連動させるのが望ましい。というよりも、後述するように、この科目の単位取得自体が、十八歳という年齢での法的な通過儀礼の意味の一つを担うということになる。
†「法的な通過儀礼」の第一段階[#「†「法的な通過儀礼」の第一段階」はゴシック体]
それでは、新しい「法的な通過儀礼」のあり方を実際にどのように設定したらよいだろうか。
先に述べたように、これは中学校卒業時(十四歳)と、高等学校卒業時(十八歳)の二段階で考えるのが適切と思う。第一の段階では、「半人前の大人」であることを社会が認め、また自分も認める。第二の段階では、社会的法的人格としては一応一人前であることを周りも自分も認める。
昔の通過儀礼は、たとえば武家の元服のように一段階だったが、これは現代社会には適さない。いろいろな意味で、思春期・青春期の幅の広がりそのものをいまさら後戻りさせられないからである。いきなり「社会的な大人」になる(させられる)のではなく、だんだん「社会的な大人」になっていく(させられていく)というイメージのほうが、子どもや若者自身の生きる実感にもフィットするであろう。
具体的なアイデアとしては、次のようなことが考えられる。
【法的な通過儀礼の第一段階】[#「【法的な通過儀礼の第一段階】」はゴシック体]
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@姓名、国籍、生年月日、性別、両親など、本人の基本的アイデンティティに関する項目について確認同意書を交付し、本人にサインさせる。すべてに同意した場合、改めてこれらの項目を記載したアイデンティティ・カードを交付する。一部または全部に同意しなかった場合は、その項目について、担当機関・親権者・本人の間で協議する。
A十四歳は、刑事責任を問える年齢の下限であるから、今後日本国の法を侵した場合どのような処遇を受けるかについてわかりやすい基本文書を作成・交付し、同意書にサインさせる。
B日本国憲法第三章で規定された国民の権利及び義務、民法第四編第四章(親権)などについて理解を徹底させると同時に、両者の関係に照らして、十四歳から十八歳までの日本人が保障される権利、負わなくてはならない義務は何であるかをわかりやすく明記した文書を作成し、本人たちに交付する(なお、この提案を実施するにあたって、日本の憲法及び法律で未成年者をどこまで「国民」と認めるのかについて法理上の齟齬が生じることが危惧される。これは「子どもの人権」などが取りざたされる昨今、よく考えておかなくてはならない問題であり、後述する)。
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以下、各項について解説を試みる。
@は、村瀬学氏の『13歳論』(洋泉社、一九九九年)に書かれたアイデアを拝借し、私なりに変奏したものである。村瀬氏は同書の中で、十三歳になったら「家」から「法の世界」へ新しく入ることによって新しい人格が必要となるため、この時点で名前、性、親、国籍を選び直しさせるという提案をしている。
この提案は、具体的にどうするというよりも、大人になっていくことの意味の自己確認という原理的な考え方の展開と見るべきだろう。その意味でたいへん有意義なものだが、実際に取り入れるとなると、まったく自由な選び直しというわけにはいかない。この年齢の子どもに、自分のアイデンティティについて完全に恣意的な選択をさせるだけの「分別」を期待したり認めたりすることはできないからである。
そこで、具体的には、右に記したような方法を採るのが妥当であろうと判断した。あらかじめ作成した確認同意書を交付して本人にサインさせるというかたちは、あまりに恣意的な選択をさせないための歯止めである。
だから、たとえば「自分の名前は嫌いだからこう変える」といった考えを強く主張するような子どもに対しては、この手続きを担当する公的な機関(家庭裁判所が適切か)と、両親と、本人との間で協議の場を開くことにするとよい。性同一性障害を感じているような子どもの場合には、医学や心理学の専門家の参与も考慮されるべきである。
また、アイデンティティ・カードは、いわばこれから「法の世界の住人」となっていくための仮運転免許証のようなものである。
Aについて。
現在の刑法の規定では、「十四歳に満たない者の行為は、罰しない」(第四一条)となっている。この年齢につき、ここ数年十四歳未満の少年の殺害行為が大々的に報じられ、そのあおりで刑事責任年齢を引き下げよという声が一部で高まった。
しかし、私は、ごく一部の特異例を根拠に、そういうことを軽々しくすべきではないと思っている(少年法は改定されたが)。十四歳未満の少年の殺人事件は、細かい年次変化で見れば増加傾向として読みとることも不可能ではない。しかし、何しろ絶対数が極度に少なく(多くても二ケタ台)、少ないからこそニュース種になるのである。
昨年五件だったものが今年十件に増えれば、「何と二倍に増加した」と人を驚かせることになる。しかし、これを果たして「激増傾向」などと言えるだろうか? 偶然の増加と見るべきではないか。私たちは、かけ算わり算で「率」を出して判断基準にしようという統計学的な定石に惑わされているのである。「率」が意味を持つのは、母集団の絶対数が十分に大きいときである。
また、十四歳に満たない者でも、少年法第三条の二や二〇条の規定によって、家庭裁判所が刑事処分を相当と認めるときには、検察官に送致できるのであるから、このテクニカルな手段が有効であるかぎり、刑事責任年齢を引き下げる必要はない。
「責任」を負う年齢を引き下げるということは、「理性的存在」とか「国民」とか「人権」などのたいへん重要な概念を書き換える意味を持っている。つまり責任年齢の引き下げは、裏を返せば、大人と同じか、またはそれに近い「自由」や「権利」を認めるということでもある。それは、後に述べるように、かえって望ましくない。
他方、先にも書いたとおり、学制の節目と法的な通過儀礼とは、年齢的に連動させるのが効果的であり、望ましい。概して十四歳という年齢は、第二次性徴が大部分の子どもに行き渡る時期であり、閉ざされた「机の上の勉強」に熱中するよりも性的・生活的な関心が強く育つ時期である。また、家族からはっきりと距離をとろうとする時期であり、そして、四・四制を採用するならば、義務教育終了と一致する時期でもある。この時期を狙って、狭義の「教育」の外側から、大人への自覚を促すきっかけを与えるのである。
そういうわけで、私は刑法で規定された「十四歳」という年齢を妥当なものと考える。 さてその上で、「法の世界の住人」(公民)になっていく第一ステップとして、「今後日本国の法を侵した場合どのような処遇を受けるかについてわかりやすい基本文書を作成・交付し、同意書にサインさせる」という手続きが必要である。
この文書には、刑法や少年法から、本人たちの運命にかかわる重要事項を抽出し、「これからこういうことをすると(しなくてもその虞《おそれ》があると判断されたときには)、家裁送りになり、場合によっては審判に付され、さらに場合によっては保護観察処分を受けたり、少年院に送致されたりする」ということをはっきりと謳う。そして、くどいようだが、本人に理解を徹底させて、本人自身の意思によって同意させることが大切である。
もちろん、その理解と同意のために、親や教師の支援と指導があってよいし、あるべきである。「中学・倫理」の授業であらかじめこういう制度があるということを知らせておく必要もあるだろう。
†子どもは「日本国民」なのか[#「†子どもは「日本国民」なのか」はゴシック体]
最後にBについて。
日本国憲法第一〇条には、「日本国民たる要件は、法律でこれを定める」とあり、これは「国籍法」のことを念頭に置いている。国籍法第一条では、「日本国民たる要件は、この法律の定めるところによる」となっているからである。
しかし国籍法をざっと眺めると、この法律は主としてある人が日本人か外国人かを厳密に規定しようとする意図にもとづいて作られている側面が濃厚で、そもそも日本国籍を持つ未成年[#「日本国籍を持つ未成年」に傍点]をどこまで完全な「国民」として認めるのかという法意識が希薄であるという印象を受ける。
もちろん、条文としては、次のように明快に書かれている。
第二条 子は、次の場合には、日本国民とする。
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一 出生の時に父又は母が日本国民であるとき。
二 出生前に死亡した父が死亡の時に日本国民であったとき。
三 日本で生まれた場合において、父母がともに知れないとき、または国籍を有しないとき。
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この条文にしたがえば、両親のうちどちらかが日本国民でありさえすれば、子どもが未成年であっても無条件に「国民」として認められることになる。だが、これは憲法第三章の「国民の権利及び義務」や民法第四編第四章(親権)と照らし合わせるとき、多くの部分で抵触する。
たとえば、憲法では「すべて国民は、法の下に平等であつて」(一四条)とか、「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」(一五条)とか、「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ」(二七条)とか、「国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ」(三〇条)などとあるが、未成年者も「国民」であるなら、これらの規定が適用されることになる。
つまり、理屈上は、未成年者も公務員を選定したり罷免したりできることになるし、勤労や納税の義務を負っていることになる。その他、二二条では、「国民」という言葉は使われていないものの、「何人」に対しても居住、移転及び職業選択の自由が保障されている。
しかし一方に、民法第八一八条では、「成年に達しない子は、父母の親権に服する」とあり、同八二一条「子は、親権を行う者が指定した場所に、その居所を定めなければならない」とか、同八二三条「子は、親権を行う者の許可を得なければ、職業を営むことができない」とも書かれている。
言葉遊びを弄しているわけではないし、論理的に矛盾した条文のあら探しをしているわけでもない。憲法と法律とはその法理の目的と抽象水準が違う。憲法は統治権力が暴走しないための「押さえ」をその本質としており、法律は市民社会のいざこざを裁くためのマニュアルである。だから純論理学的には矛盾しているように見える場合があり得る。そう見える場合には、実際にはそのつどの常識に従って運用すればいい。法というものは、だいたいそういうものである。
しかし私がなぜわざわざここでこのようなことを持ち出すのかというと、先にBでカッコ書きしておいたように、日本の憲法や法律には、「国民」という概念と「未成年者」との関係をしっかり考えてきた形跡がなさすぎると言いたいのである。
ここには一種のエア・ポケットがある。私は、「子どもの正しい大人化」の必要について共通了解を持つためにも、このままではまずいのではないかと指摘しているのだ。
というのは、昨今、「子どもの人権」なる概念がよく取りざたされ、この概念を振り回して、これはいかがなものかと思われるような主張や制度がまかり通るのをしばしば目にするからである。
「子どもの人権」という考え方は、一九八九年の国連総会で採択された「児童の権利条約」をもとにしている(日本は一九九四年に批准)。しかしこの条約は、本来、発展途上国における子どもの苛酷な人権環境を改善することを目的としており、日本のように子どもの養育環境が整った先進国に適用すべき条約ではない。
ところが日本の一部の浅薄な「人権」主義者たちは、これを、子どもにも大人と対等な人権があるのだと勝手に拡大解釈し、子どもたちのただのわがままを「権利=法的正しさ」として上から認めようと主張している(詳しくは八木秀次氏『反「人権」宣言』参照)。
西欧の人権思想の元祖ともいうべきジョン・ロックや、自由主義思想の草分けであるJ・S・ミルは、その著書のなかで、未成年者は「対等な人権」の保有者から除外されるという意味のことをはっきり述べている(前者は『統治論』、後者は『自由論』)。
これは当然のことで、「人権」や「自由」を行使できる存在は、一定の理性と社会的視野と義務の履行力とを備えた「責任主体」に限られるからである。先祖がはっきりそう述べているのに、末裔の「人権」主義者たちは、社会秩序維持に不可欠なこういう原則の正当性を無視して突っ走っているのである。
この種の愚かしい傾向は最近の教育制度改革にもあらわれている。
たとえば、東京都教育委員会は、二〇〇四年度から、高校生が何項目もの質問に答えるかたちで、教師を五〜三段階で評価する制度を、全面導入することに決めたという(「朝日新聞」二〇〇三年六月三日付)。
また、埼玉県行田市では、小中学校の教員を新しく採用するにあたって、採用試験に、学校長の推薦を受けた中学二年と小学六年の男女計二十八人を試験官として入れることを発表したという(「産経新聞」二〇〇三年十一月三〇日付)。
高校生や小中学生は、完全な意味での「国民」ではない。「国民」になりつつある存在であって、そのために保護を必要とする存在である。彼らは大人と同じ義務や責任を担うことから免れているし、逆に大人と同じ権利を行使する資格もない。
そういう半人前の存在に対して、大人である教師を評価する権限や教師の採否決定権を公式的に与えることは、教師の「人権」を侵害することであり、それこそ憲法に規定された「勤労の権利」や「職業選択の自由」を奪うことである。「国民」や「人権」という概念を子どもに正しく理解させるためにも、こういう愚挙をおかしてはならない。
しかしそうかといって、この年代の子どもたちが、「ただの無権利、無責任な子ども」(つまり、法的な人格ゼロの状態)として扱われるべきかといえば、それもまた違う。そういう「お子さま」への囲い込みと留保をいつまでも続けていては、逆に「法の世界の住人」になっていく学習過程をくぐらずにいきなり成人の世界に突き出されてしまう。
刑事責任年齢のところでも述べたが、一般に刑事責任年齢を引き下げることを主張する「厳罰」主義者たちは、子どもに責任を負わせることが、同時にそれなりの権利(たとえば裁判を受ける権利)をも認めるべきであることを見ようとしない。また逆に、「人権」主義者たちは、子どもの権利の拡張ばかり訴えて、権利の獲得が必ずそれ相応の義務をも負うべきであることを見ようとしない。どちらも自由と責任が互いにメダルの裏表の関係にあることを公平に見積もろうとしないのである。
そこで、十四歳から十八歳の「半人前」の世代に対しては、彼らが未だ完全な「国民」ではないが、「国民」になりつつある存在であること、そしてそうした存在はどれだけの権利を持ち、どれだけの責任を負わなければならないかということ、を具体的に納得させるのでなくてはならない。
そのために、国民の権利と義務にかかわる憲法の正しい意義を理解させ(憲法それ自体にこの面で不備があるのなら、改正する必要がある)、同時に、民法に規定された「親権」や「婚姻」(第四編第二章)、「能力」(第一編第一章第二節)などから重要事項を抽出し、わかりやすく手短な文書を作成して交付するのがよい。短期間の講習を義務づけるのも有力な方法である。
しかし、そもそもこうしたことをしっかり果たすためには、まず、この年代にふさわしい権利と義務とはそもそも何であるかについて周到な議論をするための公的な委員会のようなものが必要だろう。
問題は法の不備そのものではないし、姑息に法をいじればいいということでもない。個人主義、自由主義、情報社会の時代になってから久しいのに、大人になりかかりの不安定な存在を法的にどうとらえるかが、公共機関の実践にきちんと結びつくようなかたちで十分議論されてこなかったという点が問題なのである。
†「法的な通過儀礼」の第二段階[#「†「法的な通過儀礼」の第二段階」はゴシック体]
次に十八歳の時点で設定される第二段階の通過儀礼について述べよう。この第二段階では、法的に「成人」と認めるので、第一段階よりも、いくつかの厳密な手続きが必要になってくる。以下、同じように箇条書きにする。
【法的な通過儀礼の第二段階】[#「【法的な通過儀礼の第二段階】」はゴシック体]
[#ここから1字下げ]
@第一段階で交付したアイデンティティ・カードの更新。もう一度、姓名、国籍、生年月日、性別、両親などについて本人にサインさせ、新しいアイデンティティ・カードを交付する。すでに結婚している場合には、配偶者の名前、年齢なども明記し、出産している場合には、その子どもの名前、生年月日、性別なども明記する。不同意の場合、担当機関と本人との間で協議する。
A第一段階と同じように、国法を侵した場合、どのような処遇を受けるかについて基本文書を作成・交付し、同意書にサインさせる。
B以上二つの手続きを終えた十八歳の者は、第一段階と同じように、しかし今度はもっと詳しく、日本の法律を守るかぎり、身分、職業、門地、性別などによって一切差別されないこと、思想、信条、言論、結社、職業選択、居住移転の自由、請願権や裁判を受ける権利などが保障されること、経済的困窮に対しては一定の社会福祉が得られること、納税、子女への教育、勤労の義務を負うこと、また犯罪と刑罰に関する規約、婚姻や財産管理に関する規約、運転免許取得資格、等々を謳った「法の世界」へのパスポートを交付される。
C中学・高校で学んできた「倫理・公民」の授業を修了した者には、それぞれの学校の卒業証書とは別に「倫理・公民」修了証書を交付する。
Dその他、補足として、他人のプライバシーをむやみに侵してはならないこと、軽犯罪法の規定、男女は互いに対等な人格として尊重すべきこと、配偶者及び直系血族には扶養の義務があること、売買春に関する罰則規定、などを盛り込んだルールブックを配布する。
EBのパスポートは、犯罪を犯して禁固以上の刑に服することになった場合には、いったん剥奪され、刑の執行を終えたときに再び@Aの更新の手続きをとらなくてはならないこととする。
[#ここで字下げ終わり]
以上であるが、ここでも現行の法律のちぐはぐさが気にかかる。現在、十八歳未満は法的に「児童」と見なされ(たとえば保護と健全育成を目的とした「児童福祉法」)、二十歳以上は「成年」または「成人」と見なされる(たとえば民法や少年法、選挙権、軽犯罪法など)が、中間の十八歳と十九歳の位置づけがあいまいである。
また同じ民法でも、男十八歳、女十六歳に達して親の同意を得て婚姻した場合には、財産管理などにかかわるかぎりで「成年」と見なされる(七五三条)。つまり親権に拘束されることはなくなる。ところが、それによって選挙権が得られるわけではない(公職選挙法第九条)。
これらはもっと統一した方がよいのではないか。
私の考えでは、十八歳や十九歳を「未成年」と考えるのは、身体的発達度、行動能力、性的能力、学制との関連、運転免許取得資格の所有、婚姻資格の所有、多くの者が飲酒・喫煙・ギャンブル・売買春などにかかわる社会規範を確信的に侵犯している実態、その他、いろいろな観点から見て不自然であり、非現実的である。ちょうど、かつて高速道路の制限速度八十キロをほとんどだれも守らなかったのと同じようなものだ。
もちろん精神的成熟という意味では「大人とはとても言えない」という判断が成り立つかも知れないが、これは、すでに述べたように、社会的制度がそうさせている(子どもとして囲い込んでいる)ことに帰因する面が大きい。また、そうした未熟さを客観的に測りとる尺度がない。
法的にどこで「大人」と見なすかという問題は、内面的な成熟度とは一応区別すべきである。法的な「大人」は、本人たちのある意思や行為がどれだけの人倫感覚の共有を前提として自覚的に発動されており、またそれが関係存在である人間としてどういう波及の意味を持つかという視点から決定されるべきである。
たとえば、女性を妊娠させた十八歳の男性は、たとえ彼が精神的にかなり幼稚であっても、もはやそのことに責任を負うべきである。また明らかな知的障害者や心神喪失者でないかぎりは、人を殺した十九歳の者は、「成人」とまったく同じ処遇を受けるべきであると私は考える。
さらに、十八歳くらいになれば、たとえその政治的な考えが幼稚であっても、中高年の一般庶民の政治意識とそれほど水準が違うとは思えないし、九十歳になって頭が硬化していたり半分ぼけ状態になっている老人に比べて、政治的判断が劣るとは考えられない。平等選挙の原則を貫くなら、十八歳で参政権を与えてもかまわないと思う。
いま問題にしているのは、「法的な通過儀礼」をどのように設定するかであるから、こちらの法律に従えば十八歳以上、別の法律に従えば二十歳以上を「成人」と見なすというようなあいまいさを取り払って、一気に「今日からは全面的に大人である」という法的なお墨付きを与えて自覚を促すのが有効であると、私は考える。そしてそれは十八歳が妥当であると思う。
なお、高学歴社会、晩婚社会、長寿社会の今日、親への経済的依存度も高く、三十歳成人説などが唱えられている現状から見て、法的な「大人化」を早めるのはかえって時代に逆行する施策ではないかという異論が予想されるが、これについては後述する。
さらにいくつかの点について補足説明しておきたい。
Cの「倫理・公民」の修了証書は、これがなければ日本国民たる資格が得られないというものではない。ただ、それを交付された者は、周囲からも「一人前」として認められるし、本人も国民としての自覚を深めるという積極的な心理効果が期待される。
また、たとえば中学校を卒業して高校進学への道を選ばなかった場合、一般的には「高校・公民」を履修しないことになるから、修了証書はもらえないことになるが、これは、公的機関が別個に「高校・公民」の課程を用意しておき、希望者はそこに通えばいつでも履修でき、修了したら修了証書をもらえるかたちにすればよい。
また、知的障害者など、@ACの条件をクリアーすることが期待できない存在についての扱いをどうするかという問題が最終的に残る。
たとえば現在、重度の知的障害者として認定を受けた者でも二十歳以上になれば形式的には参政権を持っていることになっており、選挙があれば投票日と投票場所を知らせる葉書が届く。彼らが国政参加の責任を担うのが困難であることはほぼ明瞭であるが、しかしだからといって「国民」としての権利の保持者から排除するわけにはいかない。これは思うに一種の民主主義理念のコストともいうべきもので、まあ現在のかたちの延長上で考える以外に仕方がないとしかいいようがないだろう。法で何もかも整合的に固めるというのではなく、周囲の者の良識にゆだねるというのも知恵の一つであろう。
ただ、彼らが参政権を持っていることを悪用する人間もいるので、もう少しこの矛盾をすっきりさせたいのであれば、「親権者」や「後見人」の法的範囲を拡大することも必要かも知れない。つまり、成年に達しても国政参加などの責任能力を担えないと明らかに判断される者に対しては、未成年者と同等の保護を受けると同時に、国民の権利についてはやはり未成年者と同等の制限を受けるという規定を新たに考えてもよいかも知れない。
†「法的な通過儀礼」は自由主義社会にふさわしい[#「†「法的な通過儀礼」は自由主義社会にふさわしい」はゴシック体]
以上、二段階の「法的な通過儀礼」について、そのアイデアを述べてきたが、これらは、いわばこれから公民になる者が、国家との契約を自覚的に行う手続きである。宮参りなどの宗教的通過儀礼や自治体が行う成人式がほとんど実質的な効力を持たなくなった現在、こうした法的な手続きを国家がきちんと行い、正式な「国民」あるいは「公民」になるべき存在がそれに正面から応えることは、これからの時代に、ふつうの人々が、国家と自分たちとの関係を自覚していくことにとって、それ相応の意義を有すると信じる。
私の提案は、読み方によっては、ずいぶんハードで、個人を拘束するナショナリスティックな構想に見えるかも知れない。
しかしこの構想は、単に、個人を国家のもとに掌握し、拘束しようという「保守的・国家主義的な」意図のもとに編まれたものではない。繰り返し読んでいただければわかると思うが、私の提案は、近代民主主義的な法治国家の存在を前提としている。
民主主義的な法治国家では、個々人の人権は、国家の存在によってこそ保障される。国家は、ホッブズを持ち出すまでもなく、人々が互いに私的な欲求の相克を繰り返すことによって悲惨な「自然状態」に陥ってしまうことを避けるために案出された超越的なコントロール機構である。人々は、この超越的なコントロール機構が自らの権利を守ってくれることを条件として、自らの「自然権」の一部(武力など)を同時に放棄して一つの権力に信託することを相互に契約した(と考えるのがやはり最も合理的である)。
したがって、国家を支える最も重要な要素は、そのメンバーの全員が合意して服すべき「ルールの体系」、すなわち法であり、法の存在こそがまたメンバー全員の「人権」(生命、身体、財産、その他の安全と、諸権利の行使)を支えるのである。
この基本的な考え方は、これからも根底から揺らぐことはまずあり得ない。そうであるかぎり、ある国家の内部に生まれ、これから「国民」になろうとする存在(子ども、若者)は、国家のあり方(特に法のあり方)が自分の人権をしっかりと固めることにとって適切であるかどうかをよくチェックしたうえで、今度は、国家との間に一種の「契約」を結び直すのでなくてはならない。
そうすることで、個人の人権が真に保障されるのであり、同時に、法治国家の一員としての責任もまっとうされるのである。私の提案は、その線に忠実に沿ってなされている。恣意的かつ野放図な「子どもの人権」の主張や、国家と個人の人権とをただの対立項と見なすことが、よりよい自由社会の創出と維持にとって何か生産的な結果をもたらすことなどあり得ない。
なお、ここでいう、法治国家の一員としての責任をまっとうするとは、ふつうの人々にとっては別に何ら重いことを意味しない。消極的な意味では、要するに法を破りさえしなければよいのであり、より積極的に考える必要があるなら、時に応じて政治参加をしたり、生きていく上で不当と思える法のあり方に対して、暴力的でない仕方で異議申し立てをしていけばよいのである。
私の提案はまた、反対の角度から読めば、かえって自由主義の程度がすぎ、現状追随と映るかも知れない。十八歳を正式な「大人」としたうえでいろいろな権利を公認するのは、いかにも早い。このようにお墨付きを与えると、現代日本の若者はこの寛容な社会に甘えて、ますます増長するのではないか。規範崩壊の時代風潮をさらに助長するのではないか……。
私はそうではないと思う。
先に述べたとおり、こうした法的措置は、現代にふさわしい一つの現実的な「儀式」である。こうした儀式の持つ意味をないがしろにしないことによって、若者は、自分たちの時代感覚にフィットするかたちで自分たちが社会や国家と関係をもたざるを得ないことを知らされる。そしてそのことを通して、むしろ、市民国家におけるルール感覚を成熟させる道を自ら開くことになるはずである。
†「法的な通過儀礼」は市民感覚を成熟させる[#「†「法的な通過儀礼」は市民感覚を成熟させる」はゴシック体]
ここで、本筋とは直接関係ないが、このルール感覚の成熟ということに関して、一つのたとえ話をしてみたい。
私は、自分が以前住んでいたマンションで、数ヶ月間、管理組合の役員を務めていた。そこで議題とされたことの一つに、ペット飼育を新たに認めるべきか否かというのがあった。
このマンションの管理規約では、限られた戸数(六戸)だけが飼育を認められており、他の大多数の住戸(一〇四戸)では禁止となっていた。しかし、一定の築年数を経たマンションならどこでも見られることだが、どうやら何戸かはひそかに飼っているようであり、それらしき兆候も噂を通して聞こえてきた(もちろん確証はなかった)。
そこで理事会としては、現行の規約を掲げた上で、ペット飼育についてどう思うかというアンケートを試みた。結果は、現行規約どおり禁止のままでよいとする意見が多数を占めたが、厳しい条件付きでなら認めてもよいのではないかという意見も相当数あった。
「現状維持」派の根拠は、犬猫に対するアレルギーの人もおり、においやほえ声、毛やフンなどで周囲に迷惑をかける、最初に「ペット可」の住戸と「ペット不可」の住戸とが分けられている規則を全員が承知で入居したのだから、それを変えるべきではない、など。また、「条件付きで許可」派の根拠は、老人だけの世帯では寂しいだろう、ペットは家族に近い存在であり、子どもの情操を豊かにすることに役立つ、最近の新築マンションではほとんど「ペット可」となっている、など。
私の個人的な意見は、後者に属するものだった。そして右の根拠と似たような理由に加えて、次の二つを掲げておいた。
[#ここから1字下げ]
@ 最近の「ペット可」の趨勢にしたがう方が、転売の時に資産価値として有利にはたらく。
A なし崩し的に違反者が増えた場合、現行では罰則規定がないため、かえって環境がスラム化するおそれがある。厳しい条件と罰則規定のもとに認可した方が、かえって住民のルール感覚を成熟させることに寄与する。
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この問題は依然続行中で、私自身は途中で引っ越してしまったのだが、ここで特に強調したかったのは、民主的なルールは絶対のものではなく、情勢や必要に応じて変えることが可能であるという点が大事であること、みんなで約束したのだから既定のルールをあくまで守るべきだというような考え方は、一見、誠実、公正のように見えながら、じつは心理的な事なかれ主義に依存している面が大きく、自治の精神に悖《もと》る可能性が大きいこと、である。
一般に規則というものは、どんな外側の権威(神、君主、情緒的・惰性的な習慣など)によっても絶対化されるものではありえず、その規則のもとで現に生活する人々自身のそのつどの共通利益の表現であるべきである。だから規則の見直しは、その見直す過程それ自体を通して、規則というものが自分たちの生活のためにあるのであって規則のために自分たちの生活があるのではないことを、より身近なかたちで自覚させる効果を持つ。
いま、ペット禁止の規則があり、それを守るべきだとする人たちは、規則自体の既存性、ペットが苦手な人たちの迷惑感情、住環境悪化の可能性などを根拠に、改定に反対する。かたや、条件付きで「ペット可」に変えた方がいいとする人たちは、家族構成の小人数化やペットを家族の一員として遇する最近の趨勢、他のマンションでの傾向、子どもの情操教育の重要性、飼いたい欲求などを根拠に、改定に賛成する。
この意見対立が、感情論や平行線に終わらないようにするためのうまいやり方は何だろうか。私の考えでは、一つしかあり得ない。まず改定派のほうから、飼育の条件と違反者に対する制裁措置についての具体的な提案を出す。これは右に記したように、なるべく厳しい方がいい。それについて現状維持派も対等な立場で検討し、それでも改定に反対ならばその根拠を明らかにする。こうして討議を重ねていく。
この過程をきちんと踏むことのメリットは、まず第一にペット問題に関して双方の歩み寄りが得られる可能性があるという点である。しかしそれよりも重要なのは、住民全体の共通利益にとってよい規則一般とはどうあるべきかについての住民自身の感覚が、この経験を通して鍛えられるということである。ルールは上や外から与えられるものではなく、自分たちで作り、見直し、必要があれば変えていくものだという自覚とその熟成が、民主主義を支えるのである。
話を本筋に戻す。
若者に対する法的な通過儀礼の経験は、このペット問題における討議の必要性と同じように、個人がこれからより快適な人生を送るために、国家や市民社会との間で、どういう自由や権利が承認され、その代わり、どういう義務や責任を引き受けなくてはならないかということに対する合意形成を行う意味を持っている。そしてこの通過儀礼の経験は、彼らが「社会的な大人」への自覚を深めることに貢献するのである。
その年齢が十八歳であることは、けっして早すぎない。なぜなら、すでに述べたように、彼らは実質的には、すっかり形骸化した二十歳の「成人式」などを待たずして、とっくに大人としての行動能力を備え、現に、飲酒・喫煙・ギャンブル・性行動・確信的犯罪行為・労働(アルバイト)・社会生活的判断などを行っているからである。
さらに、次のような反論もあるかも知れない。
いわく、同意書の受理やパスポートの交付や修了証書の交付やルールブックの配布による法と人権への理解の徹底などは、厖大な物的人的なコストを新たに要求し、それに引き比べてどこまで効力があるか疑わしい。
これに対しては、たしかにそうかも知れないと答える以外ない。しかし、繰り返しになるが、これらの法的な措置は、それだけとして行われるのではない。先に述べた教育システムの根本的な再編成と、後に述べる年少者に労働経験をさせる試みとを連動させながら、適切と思える時期に楔を打ち込むのである。少なくとも、ただの成人式や説教や道徳教育などよりはよほど効果があるはずである。
†いまの若者は幼稚なのか[#「†いまの若者は幼稚なのか」はゴシック体]
ところで、今日の日本のような長寿・晩婚社会では、内面的な成熟が先送りされるばかりで、「三十歳成人説」などがよく唱えられる。また、「いまの四十歳は昔の二十五歳ぐらいに当たる」などということも漠然と言われる。
たしかにある感覚をうまく言い当てた判断だが、そういう「成熟の遅れ」にそのまま社会的法的な通過儀礼を寄り添わせるとすると、二段階目が十八歳では早すぎるという考えや、三十歳くらいの時点で三段階目の通過儀礼を設定した方がよいのではないかという考えが導かれるかもしれない。
しかし、果たしてそうだろうか。
ここで少し脱線するようだが、「法的な通過儀礼」設定の意義をきちんと了解するために、次のような問題についてもう一度考えておこう。大切なことは、こうした施策や構想が、その対象であるいまの若年層に対してピントが合ったものなのかどうかである。ピントを合わせるためには、被写体の実像をきちんととらえておかなくてはならない。
本当に「いまの日本の若者」は、昔に比べて全面的に「幼稚」なのだろうか。
もし全面的に幼稚なのだとすれば、みんなうぶで可愛かったり、ガキっぽく後先見ずに暴れたりするということになるはずだが、とてもそうとは思えない。ある部分では、私どもの世代に比べて、けっこうしたたかで大人びているようにも感じられる。かつてのように青臭い理想主義にいかれるような必然性を失って、生活的な関心、大人的な遊びへの関心が彼らの多くを占めるようになっているからである。それだけ現実的になっているとも言える。だから「体ばかり大人で精神年齢は子ども」といった言い方も当てはまらない気がする。
第一に、性的な成熟は昔と同じか、または昔よりも早く訪れ、性体験年齢が高くなっているわけではなく、むしろ低くなっている。
ただし、この低くなっているというのも、いつの時代と比べてとか、社会階層別に見たらどうかとか、都市部と農村部ではどう違うか、などのようにいろいろなファクターを繰り入れて判断しなくては、決定的なことは言えない。
たとえば、数十年前の都市部の中流家庭の子女と、現在の都市部の中流家庭の子女とを比べたら、平均初交年齢はたしかに低くなっているだろう。私どもの若い頃の都市中流家庭では、禁欲的な気風が生きていたからである。しかし、タイムスパンを少し大きくとり、社会階層も広くとり、農村部ではどうだったかなども考慮に入れると、今度は土俗的な、早熟の気風が生きていた時代を視野に入れなくてはならなくなる。また、公平な比較を可能にする資料にも乏しいから、時代の傾向を単線的に判断するのは難しくなる。
高校生を対象とした意識調査なども、性に関してはほんとうのことを言っているかどうか疑わしい。それに、「高校生」に属する若者の層がわずか数十年で劇的に拡大したのだから(つまり母集団の持つ意味のほうが変化したのだから)、たとえば初交年齢の低下といった年次変化それ自体が有意味とは必ずしも言えなくなる。要するにこれはよくわからないのである。
いずれにせよ、性体験をするということは、単に生物学的に大人になるということではない。個人差があるだろうが、性の世界に行動で参入することは、おおむね、自分が属していた家族から心理的に距離をとることを意味する。
しかし彼らは、心理的に距離をとっても、社会的に自立できるわけではない。社会的に大人と認められる年齢のほうが大衆的規模で上昇していることはたしかな事実だからである。そこに単なる全面的な「幼稚さ」でも、全面的な「成熟」でもない、一種独特のアンバランスが現れる。いまの若者のおかれている平均的な状態は、おそらくこれである。
またすでに述べたように、行動や体験がなくても、現代は情報にあふれており、性知識などはその気になればたやすく手に入るので、一種の「耳年増」を多くする。ここにもアンバランスが生じやすい要因がある。「耳年増」になっても、だれもが異性との付き合い関係を持てるわけではないからである。
†責任と自立の精神を自覚させる[#「†責任と自立の精神を自覚させる」はゴシック体]
いまの若者が昔(たとえば私などの若かった頃)に比べて果たして全面的に「幼稚」と言えるかどうか、別の側面から考えてみる。
すぐ暴力に走ることは、精神が「幼稚」であることを示す指標の一つであろう。周囲の処遇に不満があっても暴発させずにねばり強く耐え、言葉などを用いてうまく闘って、その不満を克服するのが「大人」である。
数年前、ニュースネタになった少年のナイフ殺人事件などに反応して、「いまの若者はすぐにキレる」などという言い方がはやった。しかし、ほんとうに「いまの若者」は昔に比べてすぐにキレるようになったのだろうか。
殺人のような凶悪犯罪を犯す者の率には、一般に年齢特性があって、たいていどこの国でも二十代前半がそのピークである。これは、最も血気盛んであるという生理的条件、就職など所属が定まらず、家庭も抱えていない不安定な時期に当たるという社会的条件などからして、当然と考えられる。
ところが、日本の場合、一九七五年から八〇年を境として、この年齢特性が消滅してしまった。長谷川寿一氏が示したグラフによれば、日本の男性百万人あたりの殺人者の数は、一九五五年には二十代前半二四〇人、二十代後半二〇〇人、三十代一〇〇人、四十代六〇人、以下高齢になるにしたがって低減していた。
この明らかな年齢特性は、時代が下るにしたがってはっきりしなくなり、やがてなくなってしまう。殺人の絶対件数が激減していくとともに、殺人者全体に占める二十代前半、後半の殺人者の割合が激減していき、八〇年、八五年には、何と二十代のそれよりも、三十代、四十代のほうがピークを示すようになった。つまり、殺人者全体の数を減らしたのは、主として二十代なのである。そしてその後、九四年まで、ほぼこの傾向が継続している(「現代若者考――彼らはなぜ殺さなくなったのか?」『草思』二〇〇〇年十一月号)。
これほど若者が殺人を犯さなくなった国は、他に例を見ない。「すぐにキレる」などというのはウソなのである。むしろ、いまの日本の若者は、大人しくなって暴力を振るわなくなったのだ。激しい学生運動なども絶えて久しい。
もっとも、「キレる」という言葉を、暴力を振るうことと解さず、仕事関係にせよ友人・恋人関係にせよ、少し気に入らないと関係を持続しようとせずにあっさりと断ち切ってしまうという意味に解するなら話は別である。これなら、事実かどうかは別だが、豊かな自由主義・個人主義の時代にありそうなこととして一応納得できる。フリーターの続出や、パラサイトシングル、晩婚社会現象などとも符合するように思われる。
さてそれでは、こうした日本の若者、特に男性が激しい暴力を振るわず「大人しく」なっている事実を、かつての青年に比べて、より社会的に成熟した「大人」になっているととらえられるかといえば、それもまたためらわれる。
というのも、この若者の暴力的犯罪が少なくなった事実を、「ひきこもり」の増加と照らし合わせてみると、二つの現象が同じ文化特性の両側面をあらわしていると推定できるからである。「ひきこもり」青年が妄想をふくらませて暴力志向をもつと考える人々がいるとしたら、それは、バスジャック事件、新潟監禁事件など、いくつかの特異な犯罪がメディアを通して喧伝されたことにもとづく偏見である。むしろ家に長い間ひきこもって他人とかかわらない若者は、家庭内暴力を除けば、暴力を振るう機会がないし、その気もないのがふつうである。
事実、一般にひきこもりの若者は、まれに他人と接する機会があると、借りてきた猫のようにおとなしいことが知られている。家庭内暴力は、家庭のなかで、特に母親に対してだけしか振るわれないケースが多く、これは、退行現象の一種であり、自立できないいらだたしさから「赤子のように」暴れるのである。
いまの日本の若者は、「大人」になっているから大人しいのではなく、概して、リスク回避の傾向を持ち、心理的に繊細になっているのである。これはそうなることが許される(必然化される)ような文化風土や環境のなかで育ってきたからだとも言える。
つまり彼らの多くは、平和と豊かさと少子化のなかで、母親に手厚く世話を焼かれ、個室とたくさんのお小遣いを与えられ、煩わしい関係を避けることが可能な個人主義的環境を当然のこととして成長してきた。そのために、大きな挫折によって社会的な免疫を作る機会が少なかったのである。ここにも「社会的成熟」という課題にとって、一つのアンバランスが認められる。
日本の現代の若者は、概して勉学の上でも生活行動の上でも、荒々しい活力を発揮する誘因を欠いており、そこそこ「大人しく」まとまってしまっており、意思のはっきりしないぐちゃぐちゃした心理状態にあるのだ。意識調査の国際比較をしても、アメリカ、台湾、韓国、中国などに比べて、「将来のことを考えて努力する」と答える青少年は少なく、「いまを楽しめればそれでよい」と答える青少年が圧倒的に多いと言われている。
この状態を、説得のような手段で意識変革することは不可能であるし、一概に「悪」と決めつけることもできない。しかし、前にも述べたように、これをほうっておくことが、本人の将来にとっても日本全体の将来にとってもあまりよくないことはたしかである。何かに依存して「いまを楽しむ」ことができているうちはよいが、日本社会の体力の維持がどんな人々のどんな努力によって支えられているか、支えられる必要があるかを考えると、太平楽を決め込むわけにはいかないのである。
そこで、教育のみならず、法的なシステムの上からも、あたかも「大人」になることにとってある通過儀礼をくぐることが是非必要であるかのごとく思わせるようなインセンティヴを彼らに与えるのでなくてはならない。これはどのみち一種のフィクションにすぎないと言えば言える。しかしやはり必要なフィクションだと思う。
かつては徴兵制がこのフィクションの意味を担っていた。だがまさか今日徴兵制を復活させるわけにはいかない。徴兵制は国家の安全保障のための武力の維持という観念に結びついているので、それが通過儀礼としての意味を持つとしたら、どうしても尚武の精神の獲得というイメージに限られてしまう。そしてこれは男子だけに限られる。現代では、「大人」として必要とされるのは、尚武の精神であるよりは、ルール感覚をわきまえつつ対人関係をきちんとこなしてゆく責任と自立の精神である。
この精神を自覚させるのはまた、やはり比較的早い時期、自分はどうやって自立して生きていこうかと考えあぐねはじめる時期、高校中退やひきこもりやフリーターやニートをし始める時期が適切であると思う。この期を逃すと、彼らのもっと多くの部分が、実際に高校中退やひきこもりやフリーターやニートになってしまうだろう。
またもし、その後に第三段階の通過儀礼があり得るとすれば、定職に就いて仕事の経験を積むこと、結婚すること、出産すること、子育てすることなどの現実的な生活への踏み込みがそれに相当するであろう。それは個々の過程にゆだねられるのであって、教育的、法的に「一人前」といったんは認められた者が、再び外からの関与を受けなければ「一人前」としての自覚が持てないのでは、あまりに情けない話である。そういう人は、外からどういう関与をしても一生「社会的な大人=誇りある存在」にはなれないだろう。
以上のことを再確認して、次に進もう。
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第四章|就労体験で間延びした日常を立て直せ
†つねに労働は社会性を帯びる[#「†つねに労働は社会性を帯びる」はゴシック体]
次に「労働」の意義を子どもに体得させることが「社会的な大人化」にいかに寄与するかについて考えてみよう。
人間の労働は、はじめから社会的である。という意味は、第一に、ほとんどすべての人間労働は、だれか他者の労働の成果を利用することによって成り立っているということ、第二に、ただ「働く一個の主体」にとってだけの労働というものはほとんどあり得ないということ、そして第三に、このことが最も重要なのだが、人々は、自らの労働をこの現実世界に投げ入れることによって、他者から「働く存在」としての承認を得、そのことによって自ら「精神存在」としての誇りを獲得・維持できるということである。
たとえば、腹が減ったのでたった一人で自分の飯を作って一人で食うというケースを考えてみると、この場合、飯を作るという労働は、そこだけを取り出せば、一見、右の三つのどの一つをも充たしていないように見える。つまりそれは、動物が餌を探して食うというのと変わらないように見える。
けれども、このような極限的な場合でさえ、人間の労働は、右の三つの規定を帯びているのである。
というのは、第一に、この社会では、飯を作るのに人が採取した食材や人が作った道具という労働の成果をまったく利用しないということはまずあり得ない。これは問題ないだろう。
次に、彼はある飯を作りながら、心のどこかで「何のためにこれこれの飯を作るか」という問いから自由になれないでいる。言い換えるとその労働行為は、ただ「腹が減ったから飯を作る(餌を探す)」という生理的欲求だけではないものに条件付けられているのである。
もちろんいちいちそんなことを意識に上らせながら作っているわけではない。こういう風に作るとさぞうまいだろうな、とか、味加減はこれくらいにしようかとか、まな板でこれを切って次にガス栓をひねってとか、時間がないからできるだけ手間を省こうとか考えているだけだろう。
しかし、さて料理ができあがって、これを食うという段になると、自分がうまいものを作ろうと時間をかけて凝った努力をしたときほど、むなしい無駄な努力をしたような気がしてくる。たぶん、単身者なら、ほとんどだれもがこういう心理的経験をしているにちがいない。
これはいったいどうしてだろうか。次のように考える他はない。
つまり彼は、飯を作るという労働を、自分のなかの「内なる他者」に向かって行っていたのである。「内なる他者」は、飯を作っている時点では、未来の自分である。ところがいざそれを食う段になると、未来が現在になってしまうから、「内なる他者」は消え失せ、さっき食を供せられるはずの他者だった自分が、正真正銘のただの自分になってしまう。彼は、他人のために作る人から、供せられたものを消費する人へと転換する。この他者の消え失せが、先ほどの料理行動のむなしさをかき立てるのである。
ということは、彼が料理をしていた(労働していた)のは、未来の自分という観念的な他者のためだったのであり、彼の労働は、純粋に腹を充たすためだけに行われたのではないのである。言い換えると、彼はどこかで(無意識に)、自分の労働行為に「腹を充たすため」という意味以外の意味をも貼り付けながら行動していたのだ。それは、「未来の自分」という他者に供するためであり、また、さらにその先の未来の「社会存在としての働く自分」という他者を再生産するためである。
労働が、手触りのある、生身の他者に向かって行われたものであったら、この種のむなしさはあらわれない。そして格別報われたという強い満足感や達成感がやってこなかったとしても、この、むなしさがあらわれないという事実だけで、その労働が意味ある行為として感じられたということと同じである。そしてその場合、彼は他者の承認を得たのであり、そのことによって、自分が「精神存在」であるという誇りを維持できたのである。
もちろん、高度な分業体制と貨幣経済と労働力の商品化とを基礎にした資本制社会では、ある労働(ことに製造業など)は見えない不特定多数に向かって投与されるから、生身の他者に向かって行われるという実感が得られることが相対的に少ない。したがって似たようなむなしさが感じられることが多いとは言える。
しかしこれに対しては、抽象的なかたちではあれ、貨幣による対価や報酬という知恵が用意されている。それが彼の消費活動や自己再生産活動にとって十分なものでありさえすれば、彼はむなしさの大きな部分をなくすことができるのである。
いっぽう、サービス業などは、顧客の喜怒哀楽の渦中に置かれるので、別種の苦しさに出会う契機が多くなるかもしれない。しかしそれでも、同時にそうした苦しさとの出会いとその克服の努力との過程においてこそ、かえって人間労働が本質的に社会的なものだという意味が貫かれるのである。その場所以外に、社会存在としての「誇り」を維持できるような逃げ場所はどこにもない(社会存在として誇りを維持できなくても、エロス存在としての逃げ場所はあるが)。
先に、ひきこもりの悩みについて述べた。「ひきこもり」は、斎藤環氏の規定では、就学・就労という条件を満たしていないだけでは十分ではなく、家族以外に親密な人間関係をもっていないこともその条件とされていた。
これは言ってみれば、社会存在としてもエロス存在としても「誇り」を保てない状態である。ひきこもる若者のほとんどが自分のその状態に自足できずに悩みの悪循環に陥ってしまうのも、この二つの側面における「誇り」を裏付ける条件を欠いていることが彼ら自身に自覚されているからにほかならない。
だから、そのうちの一つの側面、就労と、その準備段階としての就学という場所から撤退してしまうことは、他者の承認によって精神存在としての「誇り」を維持するという人間の条件の大事な部分を失うことを意味するのである。
また、先に社会的大人の条件として、B親から経済的に自立していること、C仕事や家庭で責任を果たせること、心理的大人の条件として、D落ち着いていて、小さなことで騒がないこと、E場面に応じて態度を使い分けられること、Fいろいろな知恵・知識があってそれを伝えられること、を挙げた。
これらの条件はみな、労働経験の蓄積によってより確固たるものとして培われる。BCFは言うに及ばず、DやEもそうである。労働の経験は、自然の事象や人間同士の出来事に対する観察眼を無理なく養うので、小さなことでいちいち騒がない行動様式を形成するのに与《あずか》る。またさまざまな労働の経験は、当然さまざまな人間関係に触れる機会を増やすので、場面に応じて態度を使い分けることを自然に学ぶようにさせる。
「正しい大人化」を構想するにあたっては、以上のことを年少者たちにうまく体得させる技術、システムが必要とされる。
†労働経験を「学校教育」とは別に味わわせる[#「†労働経験を「学校教育」とは別に味わわせる」はゴシック体]
年少者に労働経験を味わわせることは、広く言えば「教育」の一環としてとらえられるが、ここでは、いわゆる「学校教育」とは一線を画すものとして理解しておきたい。「学校教育」のなかに労働経験を囲い込むと、「教育」に対するこれまでの通念が災いして、本当の意味で年少者たちに働くことの意味を実感させるのを妨げるおそれがあるからである。
「教育」に対するこれまでの通念とは、何となく浸透している次のような固定観念である。
第一に、教育は、常に徳育、知育、体育のバランスがとれていなくてはならないという観念がある。この観念は、別に間違ってはいないが、どのようなときにこういう考え方が主張として強く前面に出てくるかというと、だいたい決まっている。それは知育偏重の風潮が意識され批判されるとき、及び、少年犯罪や少女売春などの過熱報道に煽られて道徳の頽廃が嘆かれるときである。
ところが、「いまの教育は知育偏重である」とか、「少年犯罪が激増して生命の尊さが忘れられている」といった判断そのものが正しいかというと、それが必ずしも正しくないのである。そのことは、「ゆとり教育」を推進した勢力の判断が完全に時代遅れのものであったこと、少年の凶悪犯罪(殺人、強盗、強姦など)は、長い目で見れば減っていることによって余すところなく証明されている。
ところで、徳育、知育、体育のバランスという考え方は、間違っていないにしても、この三つをすべて「学校教育」で充たそうというのは、はなはだ欲張りであり、お節介でもある。先にも述べたとおり、道徳観念は乳幼児期より家庭のしつけによって体得される感情であり理性であるから、義務教育でことさら道徳を教える必要はないし、また有効でもない。
また、体育をあえて「学校教育」が背負わなくてはいけないという考えも、すでに述べたとおり、既成の義務教育カリキュラムに囚われた古くさい見方である。義務教育が「体育」の面倒まで見なくても、民間のシステムが、安価で質のよいサービスを提供することが十分可能である。集団的チームワークの大切さもそこで養うことができる。
この固定観念、特に徳育尊重の観念が「学校教育」のなかで実践され、そしてその中に「労働経験」が囲い込まれると、どのような結果になることが予想されるか。
数年前、教育改革国民会議というのがあり、そこで提唱されたことの一つに、「勤労奉仕の精神を教える」というのがあった。これは、老人ホームなどにみんなで出かけていってボランティア活動をさせるというのであろう。社会的見聞を広めるという意味で、それ自体としては悪い試みではないが、私はその基本精神に反対である。
要するに、「上からの」道徳臭が強いのである。こういうことを、「教育」のカリキュラムのなかに組み込んで、無理矢理やらせようとしても、まじめに従う子はやり、ちゃらんぽらんな子はちゃらんぽらんにしかつきあおうとしない。特にいまの子どもはこうした押しつけを「うざったい」として嫌い、かえって倦怠や反発を強める可能性が高い。
それはなぜかと言えば、労働への意欲というものは、けっして「奉仕の精神」の無理強いによって培われるものではないからである。また、いまの子どもは、よくも悪しくも個人主義が発達しているので、生活上の必要や切実感が伴わない前提で彼らに「世のため、人のため」といった博愛的観念を植えつけることは、不可能に近いからである。
労働への意欲は、働くことが自分のためになるという実感によって培われる。それは、自発的な意思で動いたその結果が、周りから一定の評価を受けるという経験によって支えられる。
もちろん自発的な意思という概念が純粋に成立するかどうか疑問だが、もし労働経験によって働くことの意味を実感させたいなら、少なくとも自発的と思わせるようなシステムをとるのでなくてはならない。上からの「教育」によって「奉仕の精神」を教えるのでは、それは無理であろう。
ところで、この周りからの評価には二種類あって、二種類しかない。一つは精神的なもの、つまりその具体的な成果・業績について誉められるとか歓ばれるということ、そしてもうひとつは物質的なもの、つまりそれにふさわしいだけの対価(お金)を得ることである。この二大条件を満たさないような「勤労の勧め」は、およそ意味をなさない。
教育に関する第二の固定観念に、教育というものは、何か神聖で純粋な「学びの心」を養うものだというのがある。この観念が浸透していることも、労働経験を「学校教育」のなかに囲い込むことによる弊害を産む。
本来、教育にはある明確な目的があって、教育そのものはあくまで目的のための手段にすぎない。その目的とは、これまで作られてきた秩序のあり方や文化のあり方を次世代に伝えることによって、当の社会共同体の平和と安定と豊かさを維持し、さらにそれを創造的に発展させるための土台を提供することである。
この目的は、一人ひとりの個人に知識や技能や生き方を具体的に学ばせる営みを行うことを通して果たされる。それは、個人が充足感や誇りを持って生きられるようになることがそのまま社会の安寧や発展につながり、逆に社会の安寧や発展が個人の充足感や誇りにつながるという理想の地点を常に目指している。
この観点にしたがえば、広い意味での教育は、けっしてただ教育を受けるその時々の個人の「学びの心」を養うためだけにあるのではないことが了解されよう。それは、いつも個人の欲求と社会の要請とをつなぐ橋として機能していなくてはならない。
ところが、往々にして教育の世界は、一般社会から切り離され、それだけとして自立した内部循環的なシステムに陥りがちである。それには理由があって、まだ大人社会と直接にはつながっていない年少者に眼差しとエネルギーが向けられるからであろう。
「学校教育」という基本の枠組みがいったんできあがって定着してしまうと、その枠組みの時間と空間の中身をどうしようかという議論が、教育全体を論じることと同じであるかのような錯覚に陥ってしまう。つまり、枠組み自体が教育全体にとっては相対的なものでしかないことが忘れられるのである。そして時には、「学び」の神聖性、純粋性が「教育=学校教育」の場で貫かれなくてはならないような感覚に支配される。この風通しの悪さはなるべく避けるべきだが、ほとんど避けることができない。
そこで、労働経験を味わわせることの必要を「学校教育」の枠組みの内部で充たそうとすると、科目の設定をし、カリキュラムを作り、指導書や教科書を作り、「教育上」好ましくないと思えるやり方は無意識に排除し、ということになる。報酬を与えることなどもおそらく論外として取り除かれてしまうだろう。このように純粋培養された「教科」としての労働など、本当の労働経験ではない。
年少者に味わわせる労働経験は、「学校教育」とは切り離した時間と空間で行われるのでなくてはならない。そのためもあって、先述のように「義務教育機能の縮小と限定」を提案したのである。
†中高生に向けた「職業訓練メニュー」[#「†中高生に向けた「職業訓練メニュー」」はゴシック体]
具体的にどのようにすべきだろうか。いつ頃から、いかなる機関が、どの程度の、どんな就労機会を、子どもたちに与えるべきだろうか。現段階での私のアイデアを箇条書きに並べてみる。
[#ここから1字下げ]
@小学生(四年生まで)に対しては、それぞれの家庭に任せる。
A中学生の段階から、企業など一定の社会機構が中心になって「中学生のための職業訓練メニュー」「高校生のための職業訓練メニュー」を作り、各学校、家庭、地域に呼びかけ、中学生、高校生の参加を促す。ただし強制的手段はとらず、自由選択とする。また、応募者は必ず親の承諾書を添付して申し込むものとする。
Bこの「職業訓練メニュー」作成にあたっては、一日労働時間数、週労働時間数の上限などを規定した「未成年労働基準法」の策定・施行を先行させ、それに則るものとする。苛酷な労働をさせないためである。一日三時間まで、週十時間まで、くらいが適当であろうか。
Cこの職業訓練メニューは、次のことをねらいとしている。
a.未成年者が将来、職業選択をするにあたって、自分の適性、能力などを適切に測定できるような選択眼を養う。
b.未成年者に、実際に労働体験させることによって、働くことの意味、つらさ、楽しさ、たいへんさなどを実感してもらう。
c.未成年者に、成年との出会いの機会を提供することによって、社会に対する開かれた感覚を養ってもらう。
d.未成年者が特定の職業スキルを身につける。
e.社会が余剰労働力を吸収し、生産効率を上げることに役立てる。
f.職業適性を自覚しある程度まで職業スキルを身につけた未成年者側と、訓練を施した企業側との、求職・求人にかかわるミスマッチを減らすことができる。優秀な仕事能力を示す中高生を企業があらかじめマークしておくことも可能である。
Dこのメニューに参加した中高生には、その労働の貢献度にしたがって、必ず一定額の報酬を支払うものとする。たとえば、中学生の場合は、時給三百円程度、高校生の場合は、時給四百円から五百円程度が適切だろうか。「訓練」の意味もあるので、一般のアルバイト料よりは、やや安くすることが必要である。
E一定期間、このメニューに参加した中高生は、その証明を受けることができ、それを将来の進路選択の際、自分の履歴として利用することができる。学校が「成績評価」として記載するのではないところが大事。
F大企業のみならず、中小企業、個人営業者なども参加することが望ましい。また業種は、農林漁業、製造業、一般事務職、飲食接待などのサービス業、デパート、スーパー、小店舗などの小売業、医療福祉事業その他、できるだけ多様であるべきである。中学校の四年間、高校の四年間で、生徒は両親とよく相談しつつ、いくつかの試みに挑戦してみるとよい。
[#ここで字下げ終わり]
†「職業訓練メニュー」のねらい@[#「†「職業訓練メニュー」のねらい@」はゴシック体]
こうしたアイデアを出してみた意図についてこれ以上詳しく述べる必要はないかも知れないが、やはり、いくつか補足しておきたい。
一つに、思春期以降の子どもに対する日本の親の甘さを低減させるという効果をねらっている。
山田昌弘氏が『パラサイト・シングルの時代』(ちくま新書、一九九九年)で書いていたように、高度成長期に苦労して育ち、中流家庭を築いた日本の親たちは、子どもに自分の苦労を味わわせたくないという心理に拘束されてきた。そのため彼らは、高額の教育費、お小遣い、仕送りなどを躊躇なく負担する。また都市近郊に一戸建ての家を構え、住宅コスト、耐久消費財のコスト、家事労働などを親が一手に負担する。その結果、子どもは社会人になっても、経済的自立を回避して実家から出ようとせず、親への依存体質を培ってしまった(なお山田氏は、日本のこの「親依存型」に対して、アメリカを「自助型」、スウェーデンを「国家依存型」の典型とした上で、それぞれの問題点も指摘している)。
そこには子どもの依存心だけではなく、親の側の依存心が深層心理的にはたらいていて、親もまた、子どもを簡単に自立させたくはないのである。しかしよく考えると、これは、子どもに経済的な意味で苦しい思いをさせたくないという明快な理由だけではないように思われる。おそらく核家族形態が定着して長い時間を経たために、それ以外に、それを超えるだけの強固な共同関係、共同生活のあり方があまりイメージできなくなってしまったのだ。いわば自然に形成された「親子相互依存」体質である。
核家族形態の定着は、同時に、都市化し個人主義化したこの社会のなかで、家族以外に頼りうる心理的な絆(たとえば地域社会や企業社会や宗教組織)が相対的に希薄化してしまったことをも意味する。
むろん、青年男女のエロスの新しい結びつきは、当然この核家族的な結びつきをいったん壊して再構築する強力な、そしてほとんど唯一の要因たりうるはずである。しかしそれも、「親の決める結婚」に代わって、本人同士の自由恋愛心理という決定要因があまりに当たり前のこととして行き渡ってしまったために、かえって人生決断を躊躇させ、晩婚化を招く原因となっているように思えてならない(「目移りがしてなかなか一人に決められない」「どうしても結婚しなくてはならないと思えるほど、自分はあの人を好きかしら」等々)。
一九八〇年代あたりから顕著となった日本のこの「親子相互依存」体質は、親にある程度のストックと働く力がある間は、必ずしも一方的に悪いと決めつけることはできない。パラサイトシングルの広範な存在は、親子間の心理としては、健全で親和的な家族関係を送ってきた歴史が背景にあり、その自然な延長と見なせる部分もなくはないように思えるからだ。もっとも同じその親和性、特に母子関係の親和性が過度に強い場合には、マザコン男性やひきこもり男性を作り出す要因になっていることも否定できない。
ちなみに、他の欧米諸国と違って、イタリアは、日本とこの点でよく事情が似ているようだ。「アングロサクソン系の国で、二十五歳になる息子がいまだに独立していない、ともなれば、『あそこの家の息子には、何かおかしなところでもあるのだろうか』と人は笑うはずである。ところがイタリアは、全く逆だ。もし二十五歳の息子が独立宣言して親の家から出ていったなら、『あそこの家では、息子と親の間に何かあったのだろうか』と人が心配するのが普通なのである」そうだし、「統計によると、イタリア人男性のうち二十五歳から二十九歳までの六〇%、三十歳から三十四歳までの二五%が、独立せずに親の家で同居している」そうである(内田洋子『破産しない国イタリア』平凡社新書、一九九九年)。
だが山田氏も指摘するように、この「親子相互依存」体質がある程度までは改まらないと、将来、ストックが食いつぶされ、親が倒れて子どもに頼らなくてはならなくなったときの日本は危ない。ことに、団塊世代が七十代後半から八十代をむかえると、人口構造がほぼ完全な逆ピラミッド型になる(二〇二〇年代)ので、そのときが正念場である。
また、いまの日本の親は、手伝いなどしなくていいから勉強を、アルバイトなどするより塾や予備校に、という傾向が強い。戦前の一般庶民の家庭、ことに農家ではそうではなかった(どちらかといえば、「役に立たない勉強なんかするより、家業を手伝え」という家が多かった)のだから、これは高度成長以後急速に培われた養育心性である。
中学生も職業訓練につくことができ、しかも報酬が得られるとすれば、親は、高額の教育費や小遣いの負担をいくらかでも減らすことができる。子どもが友達づきあいや悪さのために使う月何万もの携帯電話代を親が負担する必要もなくなる。もっとも、それでも親がこれらを全額負担して、新たに金を得た子どもがますます贅沢をしてしまうようでは逆効果かも知れないが。
結局、こうした改革アイデアが功を奏するかどうかにとって最も鍵を握っているのは、子どもを甘やかす親の意識が変わるかどうかである。
†「職業訓練メニュー」のねらいA[#「†「職業訓練メニュー」のねらいA」はゴシック体]
職業訓練メニューのもうひとつのねらいは、教育の項で論じたように、現在の中等教育の現場で、勉強意欲をなくして授業を聞かない生徒が当たり前となり、クラス運営が成り立たなくなった状態をどうしたらよいかという問題への一つの解答である。
繰り返すように、この「授業崩壊」は、けっして「詰め込み教育で子どもを苦しめた」せいでもなければ、「管理教育で子どもを抑圧した」せいでもなく、また「個別の教師の指導力」の問題でもない。これは次のような要因によっている。
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@もともと子どもの学力には個人差がはなはだしくあって、全員が高校に通ったとしても、そこで教えられる学習内容についていける生徒が限られていること。
A豊かな近代社会の実現によって「学校成功物語」が終わり、ふつうの生徒が我慢と努力によって勉学に励む必然を体で感じることができなくなったこと
B「ゆとり教育」(ゆるみ教育)などの誤った教育政策が、子どもの勉強意欲の低下を後押ししたこと。
C誤った人権思想や個人絶対主義の浸透によって、教師の権威が失墜し、子どもの「わがまま勝手な振る舞い」が助長されたこと。
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この問題に対する私の提案は、高い「教養」を身につけるべき生徒を大幅に制限すること、主要科目にかかわる基礎学力を義務教育の期間中に徹底させること、そしてふつうの生徒に対する「実学のすすめ」だった。「義務教育」以外の場所と時間における就労経験は、この提案と連続している。
高等学校の大半を私立中心としてそれぞれに専門カラーを強く打ち出すことにすれば、当然、中学時代の就労体験をこれに活かすことができるし、また逆に高校での実学的勉強を就労体験に活かすことができる。こうして、机の上の勉強に関心が持てなくなった中高生のだらだらした日常を立て直すことに効果を発揮するはずである。
「職業訓練メニュー」による中高生の就労体験は、当然、産業界が連携してプロジェクトを作り、積極的にその機会を提供するのでなくてはならない。そしてまた同時に、産業界には、もっと積極的に職能教育そのものに関与してもらうことが期待される。
たとえば、トヨタ自動車が力を入れている整備専門学校は、受験資格が高卒以上だが、これをもっと引き下げて、さまざまな大企業が高等学校としての専門学校設立に乗り出すべきである。またたとえば、中小企業連合会や小売商の連合会のような全国組織が資金を投入して創造的で多様な教育機関を作り、中学校卒業者も受け入れるようにするとよい。
もちろん、これらは先にことわっておいたように、すべてを専門的な技能教育にしてしまうのではなく、カリキュラムの三分の一程度は、一般的な基礎教養の科目を配分し、中学校までの学習で遅れをとった生徒たちへの補習対策も考慮しなくてはならない。
当然、現在の公立普通高校は相当数が過剰になるから、思い切って整理し、統廃合してしまえばよい。あるいは現在の普通高校を力のある企業に貸し出して新しい設備を導入し、専門性の強い技能高校に転用するという手も考えられる。
もしこのような事態が実現すれば、高校生を対象とした「職業訓練メニュー」も、管理体制の連関を保てるし、近接した施設を利用できるから、たいへん実施しやすくなるだろう。また、いちばん職能スキルを吸収しやすい年代の生徒たちが、わかりもせず役にも立たない机上の勉強を強いられてだぶついた三年間(四年間)を無駄に過ごすこともなくなるだろう。年々増加していた高校中退者も減少することが見込まれる。
なお、以上述べてきた中高生を対象とする「職業訓練メニュー」は、それを提供する実施母体が民間企業や企業の連合体である場合、収支バランスから考えてとても割に合わないとして敬遠されてしまうことが予想される。
しかし、短期的な損得勘定にばかり目を奪われていてよいのだろうか。次代を担う若年労働力の質を高めること、コストと時間を十分にかけて適材適所を実現させることは、中長期的に見れば、日本の産業界全体にとっても個別企業にとっても必ず資するところが大きいはずである。政府も財政に余裕があれば積極的に補助金制度を作って投資に乗り出すべきだ。官民一体となって「若者励まし基金」を設立してはどうだろうか。
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第五章|「上昇システム」への依存を断ち切れ
†「学問の要は活用にあり」を復活させよ[#「†「学問の要は活用にあり」を復活させよ」はゴシック体]
以上で、「大人化計画」のほぼ全容を語り終えた。
これらの構想がこのとおり一挙に実行に移せるとはもちろん私も思っていない。また仮に実行に移せるとしたところで、果たして期待されたとおりの適切な「社会的大人化」が成し遂げられるのかどうか、絶対の確証があるわけではない。もとより精密な実証研究の結果これ以外にはあり得ないというかたちで提出した構想ではないので、そこここに甘いところ、効果の期待できないところがあるかも知れない。厳しく検討していただければ幸いである。
だが次のことだけはたしかだと思われる。
こうした実践的な構想を提出してみることが、若者の未来や日本の未来をより安定したより豊かなものにすることにとって、必ず何らかの寄与をなすこと。また、くどいようだが、ある限られた部署の小手先だけの改革などはやっても焼け石に水か、逆効果にしかならないこと。そして、この種の全体的な視野を持った構想を立て、実現に向けて半歩でも一歩でも踏み出さないと、近い将来、日本の屋台骨が危なくなること、さらに、こうした施策を実現に近づけるには、政官財が一体となった敏速な連係プレーが必要であり、互いに異なる領域間での合意形成が急務であること。
なお、私はそれほど詳しく調べたわけではないが、アカデミズムで論議される教育論は、それぞれが細かい「タコツボ」に入り込みすぎていて、時代の危機をどう乗り越えるかという総合的な要求にほとんど応え得ていないように思える。一方、教育政策を進めなくてはならない政権担当者は、現在の「未成年」問題の核心が何であるかを、センスとして理解していないようだ。
たとえば、ある人からの又聞きだが、現在民主党の代表を務めている人が幹事長時代に、「いま教育問題で何が一番重要だと思いますか」と尋ねられたときに、「詰め込み教育」と答えたそうである。また、数ヶ月前、国会中継を聞いていたら、小泉首相への自民党の質問者が「受験地獄で苦しむ子どもたちをいかに塾などに通わずに済むようにさせるか」などという三、四十年遅れの戯言を相も変わらず弄していた。
これらの事態には認識と実践との間に、無惨と評すほかないギャップがある。こういうおざなりの認識しか持っていない人々に、日本の教育政策をゆだねるわけにはいかない。そもそも、学問とか知識とか呼ばれるものは、その時代や社会が抱えた深刻な問題を汲み上げ、その原因を探し当て、どうすれば解決できるかというところにその本来的な動機を持っていた。それは常に、いかによりよい政治実践や社会実践を行うかという意思と密接に結びついているべきものである。このことは古今東西変わらないはずだ。
ところが、近代以降、社会システムの複雑化に対応して学問が独立した閉鎖領域を持つとともに細分化と専門化が著しく進み、さらに、「客観性」「検証可能性」を重んじる自然科学の影響で、認識の中立性が過度に尊重されるようになった。また特に戦後の日本では平和と豊かさがつづくという僥倖に恵まれたため、皮肉なことに危機に応える学問、実用に役立つ知識という必要性の感覚が薄れてしまった。
その結果、学問や知識の本来的な動機がいつの間にかそれを追究する人々のなかで忘れられ、ことに人文系の学者はごく限られた専門領域で浮世離れした「認識の精細さ」を極めることに耽っていればそれだけで何か値打ちがあるかのような錯覚に支配されるようになってしまった。教育学、教育論の世界もその例外ではない。
福沢諭吉の「学問の要は活用にあり」という言葉を復権させるのだ。多くの若者が自分の生き方を定められずに踏み迷い、ためらい、漂っている今日の日本社会。この現状がやがて何をもたらすかに、知識界は、よく目を凝らし、手遅れにならないうちに、どういう総合的な対策を講じるべきなのかについて、真剣に議論しなくてはならない。
†構想実現にとっての克服課題[#「†構想実現にとっての克服課題」はゴシック体]
最後に、この種の構想を実現するにあたって何がネックになるかについて論じておきたい。
ネックになることはいろいろ考えられる。制度上の問題、行政機構の足枷、必要な予算の確保、実施にあたっての細かい点での不整合や足並みのそろわなさ、既存のシステムや既得権を整理することの難しさ、等々。
しかし、最大のネックは、親子、教師、その他教育関係者の「心理」であると私は思う。ここで、「心理」というのは、次のようなことである。
第一に挙げなくてはならないのは、私たちの大部分が、深くその中身を考えずに、当の社会で「より高い」とされているものを得ようとあこがれ、そのように行動するということ、そして、それを得た人間が多くの割合を占めれば、それに乗り遅れることを屈辱と感じるということである。
近代になって、公教育が大衆規模で行き渡ってからの親や子どもの動向を振り返ってみただけで、このことは歴然としている。
小学校の実質的な「通学率」が九割を超えるのは、ようやく第一次大戦の始まった一九一四年(大正三年)だから、現在まで九十年ほど経っていることになる。一九〇〇年にはまだ六割未満だったのがわずか十五年足らずで急速に「みんなが小学校に通うもの」という意識が普及したのである。
ところがいったんこうした意識が普及すると、今度は中学校(旧制)、高等女学校、実業学校の生徒数が激増しはじめる。一九一七年(大正六年)から一九二九年(昭和四年)までの十二年間にこれらの学校の生徒は、それぞれ約二・二倍、三・三倍、二・六倍に増えている(もっとも、絶対数は戦後に比べれば問題にならないほど少なかっただろうが。なお以上の数字は、影山昇『日本の教育の歩み』有斐閣、一九八八年による)。
この動向は、戦後一九五〇年代から七〇年代にかけての高校進学率の伸びとそっくりである。戦後前半期は、子女を高校に進学させることが多くの親、特に農業従事者の悲願だった。
つまり、当たり前といえば当たり前だが、社会的なステイタスを象徴的に示すある上昇システムが目の前に用意されていて、多少の経済的な余裕さえあれば、人は一般に、その中身と自分の適性や能力とが一致するかどうかなどをたいして吟味することなく、その上昇システムにしたがって次々に階段を上ろうとするものだということである。
かつて「何になるにしても、せめて高校ぐらいは出ておけ」とどの親も口にしたものだが、いまでは、「せめて大学ぐらいは」となっている。そして大学という高等教育制度の内部では、「せめて何々大学ぐらいは」となる。
大学へ進学できる可能性がより大きいように思える普通高校に人気が集中して実業系の高校に人気が集まらなかったために、両者の間に歴然としたランクができてしまったのも、このわかりやすい(と同時に、抽象的な)上昇システムという指標があるからである。
ところで、この抽象的で単純な上昇システムのイメージを取り払って、複線的で多様なコースをそれに置き換えるのは、教育サービスを受ける側の心理からすると、これまでの強固な習慣を克服しなくてはならないために、なかなかたいへんなことだ。
だが抽象的で単純な上昇システムにもとづく価値心理、評価尺度、上昇欲求がかくも強固に生き残るのも、まさにそういう単線的な上昇システムが支配的な制度として居座ってから相当の年月が経っているからである。ちょうど、一八七二年(明治五年)にはじめて学制を頒布したときに各地で就学拒否や学校焼き討ち事件が起きたように、いまもし抜本的な改革を断行すれば、これまでの制度が作ってきた心理的慣性からして、大きな反対の声がわき起こることは避けられないだろう。
しかし学制頒布から三十年後、ほぼ制度が定着し(一九〇二年、小学校「就学率」九割突破)、そしてさらに十五年後には、学校に通えない子、通わない子はほとんど考えられなくなった。こうして定着した近代学校制度が、国民の平均的な知識水準を著しく高め、優秀な中級労働者を大量に社会に送り出し、それが日本の経済的繁栄の礎になったことは疑いない。少なくともそれは一九六〇年代末くらいまでは有効に機能し、日本の近代化、富裕化に大きく貢献したのである。
そのように、制度やシステムというものは、新しい時代に生きる大衆の潜在的な感覚をうまく顕在化することができれば人々の意識をしだいに変えていくことに成功するのである。希望を捨ててはならないと思う。
ここで「心理」として克服されるべきなのは、上昇志向心理一般ではない。上を目指そうとする志そのものは大切である。問題は、現在の上昇システムが社会の実相からかけ離れて抽象的であるために、普通の人々(親子)をして、自分に合った人生選択とは何かをよく考え抜くことをさせないという点なのだ。その抽象的な上昇システムにそのまま追随してしまう心理こそ、克服されなくてはならない。
一人ひとりが自分の未来の生を豊かにするために何が大切かを考えさせる多様で具体的なメニューが揃っていれば、それぞれの子どもや若者は、その具体的な選択肢のどれかを選ぶことによって自分の向上心を刺激される。
そしてそのためには、比較的早い時期に、ある一元的な方向性(たとえばいわゆる「学力」)に対して挫折を味わうことも必要である。つまり、大方の子どもには、基礎学力を超えた抽象的な学力向上などに無理なエネルギーを注がせずに、その面に対しては「健全なあきらめ感情」を抱かせることが大事なのである。私の提案は、この考え方に従っているはずである。
第二に克服されなくてはならないのは、「学校教育」に対する親の依存心理である。これもまた、わずか一世紀足らずの間に強固に根を下ろしてしまっている。
現在、公立教育への不信感が募っており、多くの親は、私学や塾・予備校にその不満の捌け口を求めている。これは、一見、親が「学校教育」に対してもう期待を寄せることをあきらめつつあり、依存心理を捨てようとしている事態であるかのように見える。
しかし、実際にはそうとは思えない。私学への強い志向は、あくまで既存の「学校教育」という枠組みのなかで、よりマシな(より高い学力を保証してくれる)環境を選ぼうという意識のあらわれであり、それだけ「学校教育」への期待感は高いと言える。高いお金を出すのだから、これくらいはきちんとやってほしいという親の気持ちは強いだろう。またブランド校に通わせることで優越感を抱くことができ、名誉心や虚栄心を満足させられるという要素も非常に大きい(私はこれを、親を非難するために言っているのではない。かくいう私自身、自分の子どもを私立中高一貫校に通わせたし、その気持ちのなかには、明らかにこうした感情があった)。
また、親が塾や予備校に子どもを通わせるのは、公教育が果たすべき「学力の向上」という目的を公教育自身が期待された水準まで満たしていないと感じられるために、これらの機関がその補完機能を担う役割として求められているからである。つまり、そこでは、「学校教育」という枠組み自体は疑われていない。
そしてまた、現在の親は、教育サービスに対して、ちょうど市場で売られている商品に対してのように、よい意味でも悪い意味でも「目が肥えている」ところがあるので、学校に対して、さまざまな要求を突きつけてくることが多いようだ。しかもそれらは親一般の要求パターンとして一括できない多様な、互いに矛盾したかたちをとるので、教師はどの要求を優先させてよいのか対応に苦慮すると言われている。
たとえば、もっときちんと勉強を教えてほしいという要求と、子どもにゆとりを与えてほしいという要求。またいじめをなくすようよく監督・指導してほしいという要求と、子どもをうるさく管理しないでほしいという要求。
要するに、都市社会化、個人主義化が進んでいて、それぞれのエゴイズムが交錯して表現されるようになったのだが、公的なサービス機能はそれに対応しきれていないのである。エゴイズムを抑えてもらうよう説くこと、公共精神の大切さをわかってもらうことも大事かも知れないが、それには限界がある。親たちは既存の「学校教育」に対する依存心理をそのまま引きずりながら、要求を出してくるからである。
この依存心理をできるだけ低減するためには、やはりシステムの編成を抜本的に組み替えるのが唯一有効な方法ではないかと思う。義務教育機能を大事なものだけに限定し、子どもの生活時間の大部分を学校に囲い込むようなことをせず、もっと多様な養育形態に誘い込むようにするのだ。
そして、学校生活以外の時間帯で子どもにどのような経験をさせるかについて、親自身が愛情と責任をもって助言、指導し、数あるメニューのなかからその子どもにふさわしいサービスを選ばせるようにする。一つでうまくいかなければ他のオプションを模索する。十分な模索が可能なように豊富なメニューと時間的余裕が社会のなかに整っている。
これが、豊かな少子化時代に適応した養育体制のあり方であると私は信じている。
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あとがき
七年前(一九九七年)、あの「酒鬼薔薇」事件のあった年、このたびと同じちくま新書から『大人への条件』という本を出した。またちょうど同じ年の同じ月、本文中でも触れた『子どもは親が教育しろ!』という本を出した。
前者はどちらかといえば個人の内面の過程に軸足を置き、記憶の問題や文学的な素材を通して人間の成長過程を追いかけたものである。また後者は、すでに当時から顕著になりつつあった「ゆとり教育」の弊害をにらみながら、教育について人々が抱きがちなさまざまな先入観を批判しつつ、あるべき学校教育のあり方についてアウトラインを示したものである。言い換えるなら、前者は子どもから大人への過程における「実存」の問題を扱い、後者は同じ過程における「社会」的課題を扱っている。
どちらが自分の身の丈にあった本かともし聞かれたら、迷うことなく前者だと答えると思う。正直に告白すると、私はいわゆる「社会問題」とか「政治問題」などを扱うのが苦手なのだ。新聞や雑誌やテレビがなくてもほとんど困らないし、自分の生き方ばかりが気にかかる一種の屈折したナルシシストだから、「社会評論」というような一般性、客観性の要求されるスタイルでものを書くのが得意ではない。
今回は、「大人化計画」というタイトルのもとに、その不得意な領域のほうにさらに深く首を突っ込む格好になった。「大人化計画」とは、子どもや若者にとってまた何とお節介なタイトルだろう。これはファシストが書いた本ではないかと感じる向きもあるかも知れない。また若い世代の読者は、アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の「人類補完計画」を連想するかも知れない。
いずれもあながち誤解だとは言い切れない面がある。事実私は本書のなかで、子どもや若者をうまく社会に連れ出すにはこういう攻め手を考えてみてはどうかという、すこぶる操作主義的な手法を提案しているし、また、気弱さと全能感との矛盾を背負いがちな現代の少年心理を象徴的に投影させたあのアニメ作品に登場する、「企てる強者」の立場にもっぱら立っているからだ。
けれど、読み終えてくださった読者の皆さん、特に知識人の皆さん、こういう試み(細部の認識の精確さを競うよりも、総合的な政策を構想・提案する試み)はいまの日本で必要ではないのだろうか。私などよりももっと得意な人がやってはくれないだろうか。
巧妙な言い逃れのためにこの「あとがき」を書いているととられるのも潔しとしないので、本書に盛られている思想は、やはり「大人-子ども」問題に対する私なりの資質と経験と認識にもとづいた掛け値なしの、そして現時点ではこれ以上にはできないぎりぎりの「社会的提言」なのだと、はっきり言明しておきたいと思う。そして普通の若者たち、あんまりふらふらしないで、やっぱり地道に、きちんと大人になろうよ。できるだけサポートするからさ。
*
本書を執筆するにあたって、発案のレベルから脱稿した原稿の問題点に至るまで、筑摩書房の石島裕之氏の緻密な指示を仰いだ。また執筆を承諾してから完成までにずいぶんお待たせしてしまった。この場を借りて深くお礼とお詫びを申し述べたい。
二〇〇四年七月十五日
[#地付き]小浜逸郎
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主要参考文献(著者アイウエオ順)
稲泉連『僕らが働く理由、働かない理由、働けない理由』(文藝春秋、二〇〇一年)
内田洋子『破産しない国イタリア』(平凡社新書、一九九九年)
梅根悟『世界教育史』(新評論、一九八八年)
影山昇『日本の教育の歩み』(有斐閣、一九八八年)
学研 編著『フリーター なぜ?どうする?』(学習研究社、二〇〇一年)
苅谷剛彦『階層化日本と教育危機』(有信堂高文社、二〇〇一年)
苅谷剛彦『なぜ教育論争は不毛なのか』(中公新書ラクレ、二〇〇三年)
工藤定次『おーい、ひきこもりそろそろ外へ出てみようぜ』(ポット出版、一九九七年)
玄田有史『仕事のなかの曖昧な不安』(中央公論新社、二〇〇一年)
小杉礼子 編著『自由の代償/フリーター』(日本労働研究機構、二〇〇二年)
小杉礼子『フリーターという生き方』(勁草書房、二〇〇三年)
小浜逸郎『子どもは親が教育しろ!』(草思社、一九九七年)
小浜逸郎『大人への条件』(ちくま新書、一九九七年)
小浜逸郎『頭はよくならない』(洋泉社新書y、二〇〇三年)
小浜逸郎『やっぱりバカが増えている』(洋泉社新書y、二〇〇三年)
小浜逸郎『エロス身体論』(平凡社新書、二〇〇四年)
斎藤環『社会的ひきこもり』(PHP新書、一九九八年)
斎藤環『「ひきこもり」救出マニュアル』(PHP研究所、二〇〇二年)
斎藤環『OK?ひきこもりOK!』(マガジンハウス、二〇〇三年)
斎藤環『心理学化する社会』(PHP研究所、二〇〇三年)
斎藤環『ひきこもり文化論』(紀伊国屋書店、二〇〇三年)
佐藤通雅『子どもの磁場へ』(北斗出版、一九九〇年)
渋井哲也『出会い系サイトと若者たち』(洋泉社新書y、二〇〇三年)
スタジオ・ポット編『ひきこもり「知る語る考える」』(ポット出版、二〇〇〇年)
千石保『新エゴイズムの若者たち』(PHP新書、二〇〇一年)
谷崎潤一郎『春琴抄』(新潮文庫、一九五一年)
内閣府『平成一五年版 国民生活白書』(ぎょうせい、二〇〇三年)
長山靖生『若者はなぜ「決められない」か』(ちくま新書、二〇〇三年)
長谷川寿一『現代若者考』(『草思』二〇〇〇年十一月号)
広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』(講談社現代新書、一九九九年)
福沢諭吉『学問のすすめ』(岩波文庫、一九七八年)
プラトン『饗宴』(岩波文庫、一九六五年)
ホッブズ、T『リヴァイアサン』(岩波文庫、一九九二年)
宮本みち子『若者が≪社会的弱者≫に転落する』(洋泉社新書y、二〇〇二年)
ミル、J・S『自由論』(岩波文庫、一九七一年)
村上龍『13歳のハローワーク』(幻冬社、二〇〇三年)
村瀬学『13歳論』(洋泉社、一九九九年)
諸星ノア『ひきこもりセキラララ』(草思社、二〇〇三年)
八木秀次『反「人権」宣言』(ちくま新書、二〇〇一年)
矢島正見・耳塚寛明 編著『変わる若者と職業世界』(学文社、二〇〇一年)
安田雪『働きたいのに…高校生就職難の社会構造』(勁草書房、二〇〇三年)
山田昌弘『パラサイト・シングルの時代』(ちくま新書、一九九九年)
山田昌弘『家族のリストラクチュアリング』(新曜社、一九九九年)
ロック、J『統治論』(中央公論社・世界の名著27、一九六八年)
『ドリコムアイ』二〇〇四年夏号
『模範六法2002』(三省堂、二〇〇一年)
小浜逸郎(こはま・いつお)
一九四七年横浜市生まれ。横浜国立大学工学部卒業。現在、国士舘大学客員教授。家族論、教育論、思想、哲学など幅広く批評活動を展開。主な著書に『学校の現象学のために』『方法としての子ども』『オウムと全共闘』『癒しとしての死の哲学』『なぜ人を殺してはいけないのか』『人はなぜ働かなければならないのか』『やっぱりバカが増えている』『「弱者」とはだれか』『なぜ私はここに「いる」のか』『これからの幸福論』『大人への条件』『「恋する身体」の人間学』『吉本隆明』『エロス身体論』などがある。
本作品は二〇〇四年九月、ちくま新書の一冊として刊行された。