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月光の宝珠 ムーン・ファイアー・ストーン4
[#地から2字上げ]小沢 淳
目 次
1章 月の|巫《み》|女《こ》
2章 石の|行《ゆく》|方《え》
3章 |華《はな》やかな|宴《うたげ》
4章 |虚《こ》|空《くう》の|扉《とびら》
5章 青い月の都
6章 手がかり探し
7章 |月《げつ》|炎《えん》|石《せき》の発現
8章 月の民の消息
9章 |山《さん》|麓《ろく》の奇跡
あとがき
1章 月の|巫《み》|女《こ》
セナ=ユリアはもうすぐ十七歳になる。
青い石の小宮殿で、彼女は誕生日が来るのを待っていた。
同じことのくりかえしの変化のない日々で、誕生日だけが特別の輝きをはなっている日だった。
一年がどのようにしてめぐるのか、彼女はよく知らない。知識としては教えられていたが、季節のうつりかわりや、つみかさねられていく日々を|肌《はだ》で感じとったことはなかった。
小宮殿の彼女の私室から見える景色は、いつも同じ|褐色《かっしょく》の岩壁でしかなく、巣をつくる渡り鳥がときどき季節の変化をつたえてくれるだけだ。
月はよくながめられた。
金色と銀色に輝くふたつの月が、ひとりきりの彼女の窓にほほえみかけた。
誕生日と次の誕生日のあいだに月の満ちかけが何度あるか、彼女はそっと、寝台の脚にきざみつけたことがある。
金の月は十八の満ちかけをくりかえした。
銀の月はその四倍の数の満ちかけをした。
それが彼女の一年をきざむ長さだった。
誕生日のたびに、彼女の保護者は、年齢にちなんだ贈りものをくれた。
おととしはたしか、十五の|紅玉《こうぎょく》を花の形にはめこんだ髪飾り、去年は十六の大粒の|真《しん》|珠《じゅ》のブローチだった。
贈りものは、|巫《み》|女《こ》の正装である白と銀の衣しか身につけない彼女の、たったひとつの装身具になった。
窓辺にたたずむ今の彼女も、純白のゆったりした衣をまとい、十六の|真《しん》|珠《じゅ》のブローチで肩のところをとめていた。それは彼女がまだ十六歳であるしるしで、もうすぐ十七の贈りものに取りかえられるはずだ。
今年はなんだろうと、彼女は胸おどらせていた。幼いころより巫女としてふるまわなければならなかった彼女の、たったひとつの若い娘らしいときめきだった。
彼女の保護者は、長い白髪の|老魔術師《ろうまじゅつし》だ。
彼女が物心ついたときから身近にいて、そのときから年老いてみえた。
|顎《あご》のとがった、いかつい|細面《ほそおもて》の顔はきびしく、子供のころはこわくてならなかったが、今ではすっかりなじんでいた。窓の向こうにいつも見える岩壁と同じように。
彼女の母親は、彼女を産むとすぐに死んだという。
滅びさった高貴な王家の姫だったと、彼女は保護者から教えられた。そして彼女こそが、その気高い血筋をひく最後の姫君であると。
誇りたかく、孤独に、彼女は育てられた。
ごく幼いころには|乳《う》|母《ば》が、成長してからは教育係がいたが、一定の期間がすぎると情がうつらないように交替させられた。名前すらも彼女はおぼえていない。
保護者の老いた|魔術師《まじゅつし》だけが、彼女の身内だった。
それがわかってから、彼女は魔術師をおそれるのをやめた。ひとりきりの身内をそんなふうに遠ざけたくなかった。
身のまわりの世話をする|侍《じ》|女《じょ》のひとりが、彼女の境遇をあわれんだことがある。
けれど彼女は決然と、そんな同情をはねのけた。子供のころから感情をおもてに出したことのない彼女が、そのときだけ激しく怒りをぶつけた。
まわりの者たちがささやくように、彼女はとくに自分が不幸だと思ったことはない。
そんな発想は彼女の中にはなかった。彼女は自分が特別であることを知っていたし、それゆえにふつうの人々とちがう生活をしいられるのはあたりまえだと考えていた。
金と銀の月がふたつとも満月になる夜に、彼女は小宮殿の張りだした|露台《バルコニー》から姿を見せた。
それが|巫《み》|女《こ》としての彼女の、おもな仕事だった。
青い都の人々は、あこがれと敬意をこめた|眼《まな》|差《ざ》しで、露台の彼女を熱心に見あげた。
宮殿の下に集まる人々は年をおうごとに数が増し、彼女をたたえる声も高まっていた。
人々のほとんどは、彼女の同胞たちだった。滅びさった地の記憶が、都の人々をつないでいた。高貴な巫女である彼女は、その記憶をよびさます清らかな象徴だった。
小宮殿と神殿のあった聖地に、彼女の同胞たちはいつのころからか巡礼のごとく集まってきた。
そのまま住みつく者がほとんどで、聖地の周囲には小さな都が生まれた。
セレウコアの都とはくらぶべくもない規模だが、自然の恵みにあふれた、豊かで美しい都である。
都の主要な部分をつくる青い半透明の石は、近くの|山《さん》|麓《ろく》からありあまるほどに掘りだされた。
高い山頂の雪どけ水が谷間の地をうるおし、両側に切りたった岩壁が都の天然のまもりとなっている。熱い荒れ地の砂を吹きおろす風は岩壁にさえぎられ、陽光の|恩《おん》|恵《けい》だけが谷間にふりそそいだ。
枯れた|岩《いわ》|肌《はだ》のただ中に、緑の存在をゆるされた奇跡の地である。聖地と呼ばれるゆえんは、そのとりまく環境からもきていた。
ベル・ダウの山岳地帯の、そのまた奥地に築かれつつあるこの聖なる都は、各地に散らばっている同胞の者たちを、ひそかに呼びよせた。
都の実質的な統治は、けっしておもてには出ない|老魔術師《ろうまじゅつし》によっておこなわれ、彼女は|異《い》|邦《ほう》の地に流れつくことになった者たちの、心のよりどころとなっていた。
銀色のつややかな|丈《たけ》なす髪をおろし、|汚《けが》れのない|清《せい》|楚《そ》な|面《おも》ざしで、彼女は人々にほほえみかけた。見あげる者たちはまるで、生ける女神のごとく、|露台《バルコニー》に立つ彼女をあがめていた。
彼女もまた、人々に希望をあたえ、|導《みちび》きの光をしめす役割に強い誇りをいだいていた。
彼女の保護者がそうなるように教育したのだが、彼女はその役割になんの疑問ももっていなかった。
少なくとも十七歳の誕生日を迎えるまでは。
2章 石の|行《ゆく》|方《え》
|城砦都市《じょうさいとし》セレウコアの、そのまた高い丘にある|歓喜宮《かんききゅう》。
客とは名ばかりで、事実上はセレウコアの|虜囚《りょしゅう》となったリューはそこで|憂《ゆう》|鬱《うつ》な時をすごしていた。歓喜宮という呼び名すら、今の彼には|皮《ひ》|肉《にく》に聞こえてならなかった。
彼は相棒とともに、広い宮殿の庭園を歩きまわっていた。手もちぶさたであるし、じっと部屋にこもっているとすぐにでも逃げだしたくなるからだ。
「やあ、無事でいたようね」
緑林の散歩道の向こうから笑顔でやってきたのは、アルダリアの|女泥棒《おんなどろぼう》とその子分だった。
イェシルはおおげさに一礼した。衛兵が、|位《くらい》の高い相手に向かってするように。
しばらくリューは言葉が出てこなかった。都で別れてからどうしているだろうかと、黒っぽい|肌《はだ》の衛兵を見るたびに、彼女のことを思い出していたところだ。
「悪運が強いからな、つきすすめばなんとかなるんだ」
おもてむきリューは平然と応じた。白金の髪にふちどられたイェシルのひきしまった顔を見たときには、ひどくなつかしい気持ちになった。
「あたしたちのおかげだよ。グリフォンってやつの使いだって、宮殿の門を通してもらって、あんたたちは|詐《さ》|欺《ぎ》|師《し》なんかじゃないって証言したげたんだよ」
すそのみじかい|侍《じ》|女《じょ》の衣を身につけたアヤが口をとがらせた。
隣で腕組みするイェシルのほうは、正規の衛兵の制服を着ている。歓喜宮の例にもれず、赤と黄色の|格《こう》|子《し》|模《も》|様《よう》の派手なものだ。
「そのついでにまた、衛兵と侍女になりおおせたわけか。グリフォンがよく、君たちの復職を許したな」
「あんなやつ、イェシルが少しおどかしてやれば、たじたじだよ。相当しぶってたけど、約束をはたせとか、あんたたちを助けた恩を忘れたかってせまったら、ため息ついて承知したよ」
アヤの物言いは、いたくリューの気に入った。この小柄な少女の頭をなでてやりたくなった。
「お互いの無事と再会を祝って、部屋で一杯やらないか。酒が飲めないなら、何か甘いものでも持ってこさせてやる――どうせ、ひまなんだろう」
|機《き》|嫌《げん》よくリューは誘った。
エリアードは|眉《まゆ》を寄せたが、口に出してはとめなかった。状況が状況だから、少しは気晴らしがしたくなるのも無理はないかもしれないと。
「ひまなはずがないじゃないか、あんたたちのように気楽なご身分じゃないんだ。ちゃあんと仕事があるんだよ」
甘いものには心が動いたが、アヤはきっぱりと言った。
イェシルは少しさがったままで黙っていた。
「とても、仕事をしているようにはみえないな。まあ、ちょうどいい、|侍《じ》|女《じょ》としての仕事を頼むよ――上等の酒と、香料入りの茶と、果実か菓子か、つまめるものを適当にみつくろって、わたしたちの部屋に運んでくるんだ。それなら侍女としても、|面《めん》|目《ぼく》がたつだろう」
リューは優しく、元すりの少女に笑いかけた。
アヤは食物につられ、この|軽《けい》|薄《はく》な女たらしも少しはいいところがあると見なおしかけた。
「君のほうは、イェシル――衛兵として、部屋まで護衛してくれないか。うしろからずっとわたしたちをうかがっている連中は、どうも|不《ぶ》|気《き》|味《み》で、信用ならない」
|女泥棒《おんなどろぼう》に歩みより、リューはその手を貴婦人のように取った。礼儀ただしい|仕《し》|草《ぐさ》で、彼女の冷ややかな表情を溶かしたいかのように。
「何をたくらんでるの、あたしたちの|機《き》|嫌《げん》をとるなんて」
薄緑のきつい眼を、イェシルはいっそう細めた。
「たくらんでなどいない。ここにうんざりしているだけだ。飲んでさわぐ相手がほしい、ここにいる連中以外の」
リューはいつかアルルスの宿の庭でそうしたように、その金の眼で彼女をのぞきこんだ。
イェシルはまた、小娘のごとく|頬《ほお》に血がのぼるのを感じた。
「じゃあ行くわ、さわらないで」
イェシルは彼の手をふりはらった。
まだ彼のことは許せないと思っていたが、時がたつうちにそんな怒りも風化していきそうなのが、イェシルにはくやしかった。
あいかわらずいいかげんとはいえ、リューにはまったく|邪《じゃ》|気《き》が感じられないし、態度も悪びれていない。こんな相手に|恨《うら》みをもちつづけるのは並みたいていではできないと、彼女はあきらめかけていた。
それから夜半まで酒盛りはつづいた。
とはいっても、本格的に飲んでいたのはリューとイェシルだけで、ほかのふたりはもっぱら茶を片手に食べていた。|丁重《ていちょう》にもてなせと皇帝から厳命が出ているらしく、用意された酒も料理も申しぶんなかった。
今日明日には自由の身になれず、おとなしくしてなければいけない状況の|憂《う》さばらしが、リューの主たる目的だったが、ほかにもいろいろ利点はあった。
まず女泥棒がいると、グリフォンがあまり近づいてはこない。いろいろ途中で彼が失敗していることも知られているし、そうでなくてもイェシルは|苦《にが》|手《て》のようだ。
何度かグリフォンは様子を見にきたが、できあがっている彼女が酒の|肴《さかな》にからかうと、じきに退散していった。
この手はもっと早く使うんだったと、リューがくやんだくらいの効果である。
皇帝の|従妹《い と こ》とひきあわせる話もなく、酔いつぶれながらもリューはほっとしていた。
彼らの酒盛りの様子をグリフォンが報告したせいだったが、リューにしてみればこうしたことを毎晩やって、脱出の日までごまかせないかともくろんでいた。
そのかわりのように、明日にでも、彼らの歓迎の|宴《うたげ》を盛大にひらきたいという申し出がきた。
リューは酔った勢いにまかせ、ふたつ返事で承諾した。宴ならば、また明日も酒盛りをしようと。
「あなたたちを狙ってた邪教集団ね、都からいっせいに撤退をはじめたそうよ。アルルスやヤズトや、街道ぞいにいた信者たちもそれにならったように、聖地があるっていうベル・ダウの山をめざしてるんですって」
酒飲み話に、イェシルは都で聞いた|噂《うわさ》を語った。
「ふうん、宝はセレウコア皇帝のもとにあるし、わたしたちにも手出しできそうにないから、あきらめたんだな」
すっかり酔っぱらっていたリューは気楽に聞いていた。これは案外と早く、安全な身になるかもしれないと。
ふたりは互いに競いあうように|杯《さかずき》をそそぎあい、飲みくらべはほぼあいうちとなっていた。アルダリア人の常で、イェシルはめっぽう強く、リューもひさしぶりに互角の相手を見つけた。
「どうして連中から狙われるようになったの。もう教えてくれてもいいでしょう」
イェシルは彼にしなだれてねだった。
窓ぎわに立っているエリアードからの|鋭《するど》い視線も|心《ここ》|地《ち》よく、彼女は酔いもてつだって、以前の親密さを見せつけた。
「|異《い》|邦《ほう》|人《じん》のわたしたちが目ざわりらしい。本当にそうなのか、おもてむきの|芝《しば》|居《い》なのかはわからないが、教団の発展の障害となるやらの予言があったそうだ――そんなこと、こちらは知ったことじゃないが」
|長《なが》|椅《い》|子《す》に身を投げたままで、リューはこたえた。
イェシルはそのわきに座りこみ、彼のぐったりとさがった腕を背もたれにしている。
「でも、おかしいわ。ナクシットの教えは、アルルスの大通りで説いているのを聞いたことがあるのだけれど、人種や身分にかかわらず、人はみな同胞だとかいうものよ。だから貧しい人たちにはけっこう支持されているし、いつも奇異の目で見られているアルダリア人にも信仰しようとする人がいるのに」
酔いつぶれているわりに、イェシルは整然と言った。
「わたしたちは、その同胞ではないんだ。この地上の者ではないからな。同胞の範囲が広いだけに、それの外にいる者たちには|嫌《けん》|悪《お》をしめすのだろうよ」
「北方人は別なのかしら。あまりこのあたりに、北方から来た人は見ないけれど」
「あいにくと、わたしたちは北方人でもないんだ。どうせ信じてもらえないから、あえて今までその誤解を訂正しなかったんだが」
なかばあざけるように、リューはつぶやいた。
庭園の|四阿《あずまや》で、キルケスから聞いた故郷にまつわる話が、酔いをさますようによみがえってくる。あのセレウコアの重臣は、彼の過去からの使者だった。
記憶をおいやるように、彼は|杯《さかずき》をあおった。グリフォンに出会ってから、まったくろくなことがないと、あらためて|苛《いら》|立《だ》ちがこみあげてくる。
「信じてもらえないって――どこから来たの、本当は?」
イェシルは、彼の|金褐色《きんかっしょく》のすんなりした髪を指でかきまわした。たわむれているようで、どこか愛情のこもった|仕《し》|草《ぐさ》だった。
「――かつて天上に輝いていた月から」
窓からのぞいている夜空を指さし、リューは正直に教えた。
「また馬鹿な冗談でごまかすのね、誠意のまったくない人」
からかわれたと怒って、イェシルは彼の髪のふさをいきなりひっぱった。
髪は何本かぬけて、リューは大げさな声をあげた。
「よしてくれ、この歳で|禿《はげ》になったら困る」
「本当はいくつになるの」
「二十歳は越えたようだが、その先はわからない。ふつうに数えて、二十一歳かと思っていたが、もっと若いのかもしれない」
それもふざけた答えだと思い、イェシルは彼の|頬《ほお》を軽く打った。
「真実を言っているのに、なぜこんなひどいめにあうんだ」
リューは抗議したが、聞きいれてもらえなかった。
「セレウコアの皇族の姫と縁談があるって、あのいけすかないキザ|野《や》|郎《ろう》から忠告されたわ。それは本当?」
またイェシルは、本当[#「本当」に傍点]のついた問いをつづけた。
「あるにはあるが、きっぱりとことわる。皇帝のなんだろうが、わたしは結婚などするつもりはない――たぶん、この先、誰ともしないだろう」
そのとき彼は心からそう宣言した。
しかしほんのひと月後、婚礼の席にのぞむことになるとは、予言者でもない彼にわかるはずもなかった。
二日酔いの頭痛とともにはじまった次の朝は、さわがしいものだった。
「――何事だ、いったい」
金色の|天《てん》|蓋《がい》つきの巨大な寝台で、リューは目覚めた。
昨夜、どうやって寝台までたどりついたかは、まったく記憶になかった。
痛む頭と吐き気をこらえながら、彼は身をおこした。
すぐ隣に肩もあらわなイェシルが眠っているのに気づき、彼は|茫《ぼう》|然《ぜん》とした。酔っぱらって、そのまま|不《ふ》|埒《らち》なふるまいにおよんでしまったといわんばかりの状況だ。
外のさわがしさも遠のき、リューはそっと頭をかかえた。
相棒はどうしているのかと、彼は上着をはおり、寝台からはいだした。
見まわしたところ、エリアードは部屋の中にいなかった。|侍《じ》|女《じょ》見習いのアヤもだ。
|愛《あい》|想《そ》をつかして、別の部屋にうつってしまったのではないかと、リューはいっとき考えた。ほとんどそれらしいことはおぼえていないが、状況から言いのがれはできない。
しかし、エリアードは怒った様子もなくもどってきた。
グリフォンもそばにいて、何か深刻そうに話しあっている。
「目がさめましたか、ご気分は?」
ついでのようにエリアードは尋ねた。
「昨夜は、その……」
グリフォンがいるので、リューは口ごもった。
「おふたりとも、|長《なが》|椅《い》|子《す》で酔いつぶれて寝てしまったから、アヤといっしょに寝台まで引きずっていったんです。重くてたいへんでしたよ」
相棒の返答に、それ以上の意味はないようだった。リューはひとまずほっとした。
「何をさわいでるんだ、朝っぱらから」
「なくなったそうですよ、例の石が」
エリアードはこともなげに告げた。青ざめたままのグリフォンにちらと視線をやりながら。
「なくなったというのは、盗まれたということか」
「そうらしいですね、まだはっきりしませんが」
「こんなに衛兵がいて、石の管理はどうなっていたんだ。セレウコアの宮殿の|中枢部《ちゅうすうぶ》なのに、まったく信じられないな」
|嫌《いや》|味《み》ではなく、リューは心からあきれてつぶやいた。
グリフォンは|面《めん》|目《ぼく》なさそうに眼をふせる。
「何を言っても言いわけになるが――外部の者ではありえない。表面の|鉛《なまり》を溶かし、今日にでもあなたがたに見せようと、地下のわたしの実験室に安置してあったのだ。よほど、中のつくりや様子にくわしい者の犯行だ」
「またナクシットの|仕《し》|業《わざ》か」
「わからない、|間諜《かんちょう》をまぎれこましたとしても、こんな簡単に盗まれるはずは……」
グリフォンのこれまでの調査では、ナクシット教団は〈月の民〉としてのふたりに目をつけていたが、託された財宝のほうにはそれほど関心を向けていなかった。
〈月の民〉と、それのもたらすものが教団を滅ぼすだろうという神託が、幾度も|刺《し》|客《かく》の手をさしむけたり、旅を妨害したりした原因のはずである。
もっとも、また別の神託がくだって、石の存在を知った可能性はある。
各地の分教所から、いっせいにベル・ダウをめざしはじめた信徒たちの動きも|不《ぶ》|気《き》|味《み》だった。
「あんた、けっこうどじ[#「どじ」に傍点]なんだな」
自信家で、なんでも先まわりして知っているようなグリフォンが沈んでいるのを見て、リューは黙っていられなくなった。エリアードはやめるように目で合図した。
「全力をあげて、しらみつぶしに宮殿内を捜させている。門も封鎖したし、都の検問も強化したゆえ、犯人はまだどこかに隠れひそんでいるはずだ」
彼らが話しているあいだにも、衛兵はあわただしく通路を行き来していた。
グリフォンはときどき衛兵の報告を聞き、短い指令を出している。
「石を盗まれるだけならいいが、|刺《し》|客《かく》までは見のがさないでくれよ。この派手な寝台で暗殺されたら、なんのために|虜囚《りょしゅう》の身を我慢していたかわからなくなるからな」
明らかな|嫌《いや》|味《み》として、リューはつけ加えた。
グリフォンはひとこともなく、ただうなだれた。
「得意の観相師としてのわざはどうしたんだ」
話のついでに、リューは問いかけてみた。
「|月《げつ》|炎《えん》|石《せき》の|行《ゆく》|方《え》は、わたしの観相板では追えない。板の上の微妙な動きをかきみだして、位置を特定できないんだ――ほかのわざも、すぐにとりおこなえるようなものは、すべてためしてみたが、わからなかった」
「どういうことですか、あなたの力がおよばないという意味ですか」
「はっきりしないが、何かの力でおおいかくされているようだ。石自体にも不思議な力がやどっているせいで、像や線をみだしてしまうらしい」
アヤが|侍《じ》|女《じょ》たちと朝食を運んできて、そのやりとりも中断された。
グリフォンはずっと考えこんでいて、ふたりもそれ以上つつくのはやめておいた。
やっと目がさめたイェシルが、あくびをしながら、しどけないかっこうで起きてきた。
グリフォンは大きな眼をよけいに大きくして、リューと彼女を見くらべた。昨夜、仲よさそうに|杯《さかずき》をかわしていた彼らを見ているだけに、何もなかったとは思えないようだ。
「皇帝に報告してもいいぞ、縁組みさせるのは無理らしいとな」
その誤解を見てとり、リューはささやいた。イェシルには聞こえないように。
「あの縁組みに乗り気なのは兄上だけだ――ナナイヤはよしたほうがいい、わたしはあなたの味方だ」
グリフォンは心からの同情をしめした。
それを見て、リューは少しだけ彼への|嫌《けん》|悪《お》をやわらげることにした。
「あんたたちは|従兄妹《い と こ》どうしだろう。わたしなんかより、あんたたちを縁組みさせたほうが、セレウコアにとってもいいのではないか――二十五歳をすぎた身内がまだ独り身だと、皇帝殿下も|嘆《なげ》いておられたようだが」
ついリューは余分な軽口をたたいた。
グリフォンは|眉《まゆ》を寄せ、形容しがたいほど渋い表情になった。
「わたしがそもそも、女性を|苦《にが》|手《て》とするようになったのは、子供のころナナイヤに、ひどく、それはひどくいじめられたからだ――わたしのほうが年は上でも、母上が|異《い》|邦《ほう》の者で身分として劣っていたし、子供のころは|虚弱児《きょじゃくじ》で、身体も小さく力もなかったから、やられほうだいだった」
不幸な思い出に、グリフォンの口調は暗くなった。
そんな|愚《ぐ》|痴《ち》を聞いていても気分がめいるので、リューはさっさと退散し、|女泥棒《おんなどろぼう》のもとに行った。
イェシルは身づくろいをすまし、アヤが運んできた果実をつまんでいた。
リューが近づいていくと、彼女は立ちあがってほほえんだ。何かたくらんでいるような、ふくみがあるようなほほえみだ。
女泥棒は腕をひろげて彼をむかえ、軽く|接《せっ》|吻《ぷん》した。
昨夜が昨夜だけに、リューはうろたえた。グリフォンには誤解させるようにしむけたが、実際は何もなかったはずだ。相棒の視線も気になっている。
「お互い、酔いつぶれて寝てしまったようだな」
確認するようにリューは小声でささやいた。
けれどイェシルは首をふった。
「そのまま寝てしまったのはあなただけよ、あたしは途中で目がさめたわ」
「――何かしたのか」
「おぼえてないの、夢うつつみたいだったから無理もないかもね」
イェシルはまつげごしに彼を見あげ、またほほえんだ。
「存分に楽しませてもらったわ、無抵抗な何も知らない|乙《おと》|女《め》をもてあそぶような気分だった」
本当なのか|嘘《うそ》なのか、イェシルは|嬉《き》|々《き》として告白した。
リューはあえてそれ以上は追及しなかった。どちらにしても、向こうにいる相棒に聞こえてないことを祈った。
衛兵たちのもたらす報告には変わりばえがなく、|苛《いら》|立《だ》ったグリフォンはまた出かけていった。
エリアードも石の盗難には興味をひかれるものがあり、彼についていった。|女泥棒《おんなどろぼう》のことなど、今のところ眼中にないといったふうの態度だ。
「あなたは行かないの?」
イェシルはわきから尋ねた。
「グリフォンの責任だ、知ったことじゃない」
相棒が石ばかりに気をとられているので、つまらなそうにリューはこたえた。
女泥棒どころではないというエリアードの態度は正しく、いつものごとく|呑《のん》|気《き》にかまえている彼のほうに問題があるにちがいなかった。そもそもはじめから彼には、騒動の核にいるという自覚に欠けていた。
3章 |華《はな》やかな|宴《うたげ》
歓迎の|宴《うたげ》は、ほとんど準備期間がなかったのにもかかわらず、盛大なものだった。
ただでさえ飾りたてた|歓喜宮《かんききゅう》で、もよおされる宴である。過剰な飾りの上にまた飾りを加え、派手さをいちだんとました、目をおおうばかりの華美の洪水の宴となった。
午後になると、石がなくなって右往左往しているのは、グリフォンと衛兵たちだけとなった。
石がどのようなものであるかを知っているのは、皇帝とグリフォンのほかにはほんの数人しかいなかったから、それも仕方のないことだった。
ほかの者たちはみな、宴の準備に熱中しはじめた。
召し使いたちは、飾りつけと料理の下ごしらえにめまぐるしく働いていた。
家臣や、宮廷人と称するひまな貴族たちや、出入りを許された豪商や芸人たち、他国からの客人たちは、衣装えらびと|化粧《けしょう》に余念がない。
この歓喜宮によく出入りしている者たちは、宴のような派手な席がもともと好きなようだ。
宴では、皇帝やその身内の者たちと、へだてなく接することができるという実利的な面もあった。
|謁《えっ》|見《けん》の|間《ま》ではほとんど姿も見せない皇帝も、宴となると本来の気さくな面を発揮し、名だたる|美《び》|姫《き》たちと|率《そっ》|先《せん》して踊ったりした。
いったんは出席すると返事したものの、そのすさまじい準備ぶりを見るにつけて、リューは吐き気をおぼえた。半分は昨夜の深酒のせいだった。
夕方ちかくになり、なかば強制的に準備をはじめられ、彼の不快感はいっそう強まった。
宴に出るときには、|老若男女《ろうにゃくなんにょ》をとわず、きれいに化粧するのがならわしだという。そのうえ、自由にえらんでほしいと並べられた宴の衣装はどれも悪趣味のきわみで、えらぶ余地などなかった。
今さら逃げだそうにも、彼らふたりの身じたく係としてつけられた|侍《じ》|女《じょ》や|小姓《こしょう》たちの軍団は二十人をこえていて、とても突破できそうにない。
衣装室と直結した総鏡ばりの控え部屋で、ふたりはすっかり観念して、されるがままになっていた。
「また酒盛りをやるつもりで、気安く引きうけたんだがなあ」
召し使いたちの目をぬすみ、リューは相棒にささやいた。
「あなたは宴の|主《しゅ》|賓《ひん》ですからね、身じたくに念を入れるのも仕方がないでしょう」
気がなさそうにエリアードは応じた。
彼としては、石の|行《ゆく》|方《え》もはっきりしないのにこんな宴に出ていていいのだろうかという思いのほうが強かった。
グリフォンはまだあきらめず、宮殿内を捜させているはずである。かならず見つけだすから、安心して|宴《うたげ》に出席してくれと、グリフォンは自信ありげにくりかえしていた。
彼を信用しないわけではなかったが、エリアードはどうも安心してはいられなかった。
「どうせ、宴の目的はしれている。その席で、皇帝の|従妹《い と こ》とやらと正式にひきあわされることになってるんだ。ナナイヤという姫君なら、もう庭で出会ってるんだが――ちょうどいい、きっぱりとその場でことわってやる」
どちらかというとリューは、目先の縁組みのほうに関心がいっている。石は無事とどけたのだから、もう彼の責任の範囲ではないと考えていた。
「宴の席で、姫君に恥をかかせたとなると、側近連から|刺《し》|客《かく》をさしむけられるかもしれませんよ。あいまいに受けながすほうをおすすめしますが」
「へたにあいまいにすますと、皇帝の前で即婚約ということにでもなりかねない。ことわったほうがお互いのためだ」
|化粧《けしょう》はまだ途中だが、それでもそこいらの女よりも美しい相棒をながめ、リューは笑った。
「女装の件なら、あらためて引きうけてもいいですよ。この衣装と化粧なら、女装するのとたいして変わりはありませんからね」
視線をはねかえすように、エリアードは小声で言った。
「あの提案は、わたしの認識不足だった――セレウコアの宮殿では、女装しても意味がないんだ。着飾って化粧するのは、年齢と性別をとわずだからな」
眼のふちに金粉をふられ、髪の先に|彩色《さいしょく》した小さな|硝子《ガ ラ ス》|玉《だま》を結びつけられた鏡の中の自分の姿を見つめ、リューは思わず顔をしかめた。
彼らふたりは|主《しゅ》|賓《ひん》あつかいだったので、皇帝のすぐ横の席に案内された。
長い身じたくを終えて着席するころには、おもだった招待客たちはすでにそろっていて、にぎやかに飲み食いをはじめていた。
金色の壁には七色の薄幕が、いくつもかさなった波のようにさがっていた。
そのかたわらを、きらびやかなすそを引きずる、|白粉《おしろい》で顔立ちもさだかではない人々が、深海魚のように行き来していた。
それぞれ趣向をこらして着飾ってはいたが、遠目に見ているぶんには、乱雑に花を投げこんだ金ぴかの|花《か》|瓶《びん》が歩いているとしかみえなかった。
目が疲れてきたので、リューはうつむいて床をながめていた。床は青金石と白貴石を用いた|格《こう》|子《し》|模《も》|様《よう》だったが、もっとも色彩が落ちついていた。
|肘《ひじ》|掛《か》けの上にある自分の腕を見ているのも、彼は苦痛だった。
細かい金糸で編んだ透かし模様の|下《した》|袖《そで》に、ふくらませて|紐《ひも》で中ほどを|蝶《ちょう》結びにした深紅の|上《うわ》|袖《そで》が|肘《ひじ》のところまでかぶさり、手首には|紅玉《こうぎょく》をちりばめた|金鎖《きんぐさり》がまかれている。しかしそんな装飾は、全身にわたる装飾のほんの一部だ。
「ご気分でも悪いのか、ぐったりされているようだが」
列をなしてあいさつにくる客たちをさばきながら、皇帝が声をかけた。
そのていねいな尋ね方や、|異《い》|邦《ほう》の客としては|破《は》|格《かく》の待遇に、まわりからは|羨《せん》|望《ぼう》のざわめきがおこった。
「このような|華《はな》やかな場には、慣れてませんので」
表現に気をつけながら、リューは正直な感想をのべた。
「遠くからの客人は、たいがいそう言われるな。|主《しゅ》|賓《ひん》はそなたたちゆえ、華美にはしらぬよう命じているのだが」
皇帝は、グリフォンによく似た高い鼻をなでながら不思議そうに言った。
金の盆で運ばれてきた|硝子《ガ ラ ス》|杯《はい》の果実酒を、リューは気分の悪さをまぎらすように飲みくだした。昨夜の飲みすぎで酒のたぐいは匂いも遠慮したかったが、飲まずにはいられない|宴《うたげ》である。
「そちらはいかがかな。まもなく余興もはじまる。それまでに腹を満たしておかれるとよい」
皇帝はエリアードにも声をかけた。
リューの横の席に座っている彼は、かろうじて礼をのべた。しかし腹を満たすどころか、息をつくのもやっとである。
銀糸で|刺繍《ししゅう》した紺のひらひらした上着に、|色《いろ》|硝子《ガ ラ ス》の丸い片を星のようにぬいつけた何本もの幅広の帯布が、胸から腰にきつくまかれて、縛られているかのように彼は身動きできなくなっていた。生きながら、きらびやかなミイラにされたようなものだ。
「取ってやろうか、その妙な帯」
見かねてリューは相棒に申しでた。
|虹《にじ》の七色の帯布は、腰のわきのところで花結びにとめられており、そのあたりを引けば簡単にほどけそうだった。
「はじまったばかりにそんなことをしたら、着つけをした召し使いが、世をはかなんで窓から飛びおりかねません。しばらくの我慢です、宴が盛りあがって、|無《ぶ》|礼《れい》|講《こう》になるのを待ちますよ」
それだけ言うにも、エリアードは苦しそうに胸を押さえていた。さすがの彼も悪趣味に飾られすぎて、生来の美貌もかすんでいた。
「グリフォンの野郎はどこだ、あいつは宴に出ないのか」
ざっと見まわしたところ、やたらと背の高い、特徴のある姿はなかった。皇帝をはさんで反対側の席もあいている。
「まだ石の捜索をしているんでしょうから、そんなふうに言っては気のどくですよ」
エリアードはたしなめた。
皇帝も弟にまかせきりで、のんびりと|宴《うたげ》を楽しんでいるし、彼はグリフォンに同情をおぼえた。
「あれはやつの責任だ。こちらの知ったことじゃない」
「あなたにしてみれば、宴に出てこないほうがのぞましいのでしょう。へたに|噂《うわさ》しないほうがいいですよ」
「それもそうだ、もう言わないでおこう」
いつか名を出したとたんに彼が現れたことを思い出し、リューは口をつぐんだ。
「例の姫君もまだのようですね。身じたくに時間がかかってるのかな」
皇帝とその身内、それから|主《しゅ》|賓《ひん》のためらしい|朱《しゅ》|塗《ぬ》りの席は、まだいくつか空席である。
あまり身分の高そうでない|側《そば》|女《め》たちと、小さな子供たちのための別にもうけられた席があり、八歳になる皇女らしい少女が|凜《りん》とした|面《おも》もちで座っていた。
噂をしていると、奥の|扉《とびら》からナナイヤ姫と|侍《じ》|女《じょ》たちが足音も高く現れた。
もともとがっしりした体格の姫君だったが、装飾過多に着飾ったせいで、横幅が倍になってみえた。
強調した両肩の上に金ぴかの塔の飾りをたて、そのまわりに花の|蔦《つた》をからませてあるさまは、とても正気の|沙《さ》|汰《た》とは思えなかった。
「いつぞやの話だが――」
ナナイヤの入場にあわせて、皇帝はリューにささやきかけた。
「それとなく、あれ[#「あれ」に傍点]を呼んでほのめかしてみたところ、まんざらでもない様子であったぞ。どんな縁組みにも、今までは耳を貸さなかったのだがな」
あいかわらず皇帝は、この縁組みをすすめたい意向らしい。
リューはもう一杯、果実酒の|杯《さかずき》を取りよせた。
ナナイヤはちょうど彼らと向かいあう座についた。縁組みの話を聞いているせいか、彼らを見ると、親しげに笑いかけてきた。
ただでさえ大きな|唇《くちびる》は真っ赤にぬりたくられ、その上から金粉をふられ、ひとまわり大きくせまってみえた。
「余興のあとには、主賓が踊るならわしとなっておる。相手は宴に出席している者の中から自由にえらべるのだが、ぜひあれ[#「あれ」に傍点]と踊ってやってくれ」
皇帝は頼んだ。あくまでもていねいな頼み方だが、無視するわけにはいかないだろう。
リューは互いのいでたちを見くらべ、そもそもこのかっこうで踊りが可能なのかと首をひねった。
「しかし、はずかしながら踊りのたぐいはまったくだめで、姫君にも申しわけない結果になると思うのですが」
リューはかすかな抵抗をこころみた。
「心配せずとも、|宴《うたげ》の踊りはきわめて簡単なものだ。早い話が、手を取りあい、曲にあわせて左右に体をゆするだけのものだ」
照れているのだと勘ちがいして、皇帝は笑みをうかべた。
リューはなるほどと思った。たしかにこんな着飾り方をしていては、踊りといっても歩くのがやっとにちがいない。
ほかにことわる口実をさがしていると、白銀の|髭《ひげ》をたくわえた重臣キルケスが歩みよってきた。皇帝のご|機《き》|嫌《げん》うかがいにやってきたのだが、|四阿《あずまや》で言っていたとおり、彼らふたりには目もくれなかった。
地下に安置してあった石を盗んだのはキルケスではないかと、ふたりは内心で考えていた。
|異《い》|邦《ほう》の者たちにわたしたくないというような言葉を、キルケスは口にしていた。
しかしグリフォンたちの必死の捜索など別世界の事件のように、キルケスの態度はまったく平静そのものだ。
|扉《とびら》を警護するように立っている何人かの衛兵の中には、いつのまにかイェシルの姿もあった。
以前にはじゅうぶんに派手だと思った衛兵の制服も、この宴では地味にさえ感じられた。
|槍《やり》を手にまっすぐ立っている長身の|女泥棒《おんなどろぼう》は、着飾った女たちの誰よりもきっぱりとして、美しくみえた。
余興はまだ宴の最初でもあり、子供たちも同席していることから、|獣《けもの》や鳥の|扮《ふん》|装《そう》をした曲芸団が跳びはねるだけのものだった。
余興は大きな円盤のように小高くなった中央の場所でおこなわれ、宴の客たちはそれをかこむようにながめていた。皇帝と|主《しゅ》|賓《ひん》の席は円盤の床よりもやや高い位置にすえられ、よく見える特等席となっていた。
余興が終わると、広間の隅にいた楽団が進みでて、管楽器を主とした編成で、ゆったりとした曲を奏ではじめた。いよいよ踊りの時間がきたということらしい。
このときにはリューも|覚《かく》|悟《ご》ができていた。
相手が金ぴかの小山のような姫君でも、皇帝の手前、一曲のあいだ手を取りあって踊ればすむことである。宴に出ると承知した以上、それくらいのことはことわれないだろうと。
曲が流れ、床をかこむ者たちは主賓が踊るのを待っている様子だった。彼らが最初に踊らないことには、ほかが踊ることは許されないきまりだ。
皇帝はさりげなく、リューにうながすような視線を投げかけた。
彼は本当にしぶしぶ立ちあがろうとした。
しかしその前に、ナナイヤ姫が|侍《じ》|女《じょ》の手を借り、重い身体をもちあげた。皇帝の視線の合図で、彼女も進みでようと思ったらしい。ここでふたりが踊るというのは、あらかじめ言いわたされていた筋書きのようだ。
ナナイヤはほんの数歩のところにある彼らの席に、両側から侍女の手を借りて近づいてきた。
むかえに出るべきかとも思ったが、リューは|椅《い》|子《す》に釘づけになったように足が動かなくなっていた。あまりの姫君のきんきらきんの迫力に、かなしばりになったというところだろう。
姫君は積極的に手をさしのべた。ともに踊るのがあたりまえのごとく、隣席のエリアードのほうに。
昨日、皇帝から縁組みの話を聞かされ、ナナイヤはずっと|夢《ゆめ》|心《ごこ》|地《ち》でいた。
緑林を散歩しているときに運命的なめぐりあいをした銀髪の異国の若者が、縁組みの相手だと彼女は思いこんだ。
皇帝はグリフォールが連れてきた客人としか言わなかったし、もうひとりのほうなど、ひとめ|惚《ぼ》れした彼女の目にはうつってもいなかった。
|宴《うたげ》の|間《ま》に入場してからも、ナナイヤはただ恋する相手だけを見つめ、踊りがはじまるのをじりじりと待ちわびていたのである。皇帝の視線がうながすと、彼女はもうじっとしていられなかった。
「さあ、みながわたくしたちの踊りを待っているわ」
ナナイヤは手をさしのべた。
エリアードは困っていたが、|侍《じ》|女《じょ》たちが姫君の言うようになさいとにらみつけているし、あまり注目を集めるのもまずいので、しぶしぶ立ちあがった。
こうなってはへたにとりなしても恥をかかせるばかりと、皇帝もだんまりをきめこむことにした。
リューも自分から誤解をとくつもりはなく、相棒には気のどくだが|傍《ぼう》|観《かん》していた。
「しばらくお待ちください、このままでは踊れませんから」
ちょうどいい機会だと、エリアードは身体をしめつけていた帯布を包帯のようにほどいた。このままでは息苦しさのあまり倒れそうだったので、彼は少し、姫君の申しこみを感謝した。
紺の長い上着ひとつとなった彼は、ナナイヤの手を取った。
一同の視線を集めながらも、彼の|仕《し》|草《ぐさ》は落ちついて優雅なものだった。
誰もいない円盤の床の上で、ふたりは曲にあわせて踊った。
ナナイヤは衣装が重くてほとんど動けないので、それを支えながらエリアードはひとりで適当に踊っていた。
薄い上着だけをまとった彼の姿は、|粋《いき》でなまめかしく、華美になじんだ|歓喜宮《かんききゅう》の人々の目にもうったえるものがあった。
ナナイヤはますますうっとりとした目つきになり、なみいるほかの娘たちもいつしか彼に注目し、ため息をもらしはじめた。
「何か手ちがいがあったようだ、申しわけない」
皇帝はそっとあやまった。これだけ踊るふたりが|衆目《しゅうもく》を集めていては、あとで訂正することもむずかしくなったかと悩みながら。
「どうやら姫君は、わたしなど眼中にないようだ。やはり縁のなかったお話でしょうね」
少しは傷ついたというふうにリューは応じた。
「かわりとはいってはなんだが、宴の席から好みの相手を選ぶとよい。歓喜宮のほこる|美《び》|姫《き》の、誰でもよいぞ」
皇帝は少し、彼のほうに身を寄せた。ほろ酔いかげんのほんのり赤い顔に、やや好色そうな笑みがのぼる。
「左の列の中ほどにいるヤイラ嬢が、まずはいちばんだ。胸が自慢で、宴となるときまって、胸もとのあいた衣装で現れおる。今夜もきわどい切れこみだ。踊るにはかなり、刺激があるぞ――|侍《じ》|女《じょ》あがりで身分は低いが、右の|扉《とびら》ちかくに控えているマリスも、踊るときの腰つきがなかなかのものだ。育ちのいい娘には期待できないほどに、腰をこう、ぐいと押しつけて踊るぞ」
皇帝は|嬉《き》|々《き》として、名だたる評判の|美《び》|姫《き》の品さだめをはじめた。リューの気をひきたてようという思いやりもあったが、もともと根っから好きなようだ。
相棒からは女好きと非難されているように、リューもべつにそうした話がきらいではなかったが、今はとても、いっしょに楽しめる気分にはなれなかった。
あいかわらずエリアードはひらきなおって、横幅が倍もありそうな姫君と優雅に踊っていた。
気分がすぐれないとでも言ってことわろうかと、リューは考えていた。けれど、奥の扉で手もちぶさたに立っている|女泥棒《おんなどろぼう》の姿を見つけ、気が変わった。
「この席にいる誰をえらんでもいいのですか」
彼は皇帝に確認した。
「かまわんぞ、望むならこのわたしを選んでもいいのだ」
誰でもいいということを強調するために、皇帝はそうした冗談を口にした。
リューは本気でそうしてやろうかとも思ったが、悪趣味にもほどがあるのでやめることにした。
彼はじゃまくさい大きな|袖《そで》の上着をぬぎ、薄い下の衣だけになって席を立った。
そして人々をかきわけながら、イェシルのもとに向かった。
彼が近づいてきたので、イェシルは驚いていた。つまらなくて長い宴会だと、彼女はあくびをかみころしながら勤務についていたところだ。
「相手にあぶれたんだ、少しつきあってくれ」
リューはきちんと彼女の手を取ったが、口調はいつもの言い方で申しこんだ。
「馬鹿な冗談はよして、あたしは客じゃないのよ」
「大丈夫だ、皇帝のお許しを得てある。ということは衛兵の君にとっても、これは職務のひとつだというわけだ」
まわりにいた客たちが|垣《かき》|根《ね》をつくりはじめた中を、リューは|強《ごう》|引《いん》に彼女をひっぱっていった。
イェシルはあきらめてついていった。|退《たい》|屈《くつ》していたこともあり、まあいいかと思っていた。
いろいろとおもしろいことをはじめる客人たちだと、余興のつづきのように人々はながめていた。|拍《はく》|手《しゅ》する者もいる。
もう、ほかの者が踊りはじめてもかまわなかったが、見ているほうが楽しそうなので誰も進みでようとしなかった。
皇帝は、また妙な展開になったと困っていた。
誰をえらんでもいいとは言ったが、衛兵を連れてくるとは前代未聞だ。それも黒い|肌《はだ》と白金の髪の衛兵を。
ふたりとも大柄で、その動きは人の波のあいだにもひときわ目立った。
姫君の相手をしていたエリアードも、何をするつもりなのかと足をとめて、彼らを見守っていた。
楽団に手で合図し、リューは中断しかけた曲をつづけさせた。そのあたりの命じ方にはものなれた感じがあり、楽士たちもなんとはなく従ってしまった。
「踊りなんかやったことはないわよ」
イェシルは彼をにらんだ。
けれど、|白粉《おしろい》をぬりたくられ、紅をさされ、金粉をふりかけられた彼の顔を近くでながめ、すぐに吹きだした。
「わたしだってろくにないさ。戦勝の祝いの席も、めんどうで遠慮していたからな――めんどうというのは、たいがいそういう席には|刺《し》|客《かく》がいたからだが」
笑われても仕方ないとはいえ、リューは|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》に応じた。
「ふうん、ここにだっているかもよ」
「そのために衛兵を相手にえらんだんだ。以前の祝いの|宴《うたげ》にはあいにくと、誘ってみたくなるほど魅力的な女戦士はいなかった」
あいかわらず口がうまいと警戒しながらも、イェシルはのせられていた。
踊りもはじめは曲にあわせ、足を交差させたり、前後に動かしたりするだけのものだったが、しだいに大胆なものとなっていった。
「意外と簡単にできるものね」
なんとなくさまになってきて、イェシルは喜んだ。
「剣術の|稽《けい》|古《こ》と同じだ。足はこびに気をつけ、流れるようによどみなく動く――お互いに剣を持っていれば、このまま御前試合にだってなりそうだ」
曲も彼らの動きにあわせ、テンポが早くなってきた。とても着飾っていてはついてこれない早さだ。
新しい余興のひとつだと確信しはじめた|宴《うたげ》の人々は、曲芸団に向かってやったように、|拍《はく》|手《しゅ》や、はやし声をあびせるようになった。
ナナイヤ姫も主役の座を奪われ、じゃまにならないよう、わきにしりぞかなければならなかった。踊ろうとしても、姫君の重い衣装では曲が早すぎてついていけない。
ちょうどいいと、エリアードは姫君を|侍《じ》|女《じょ》たちに引きわたし、席にもどった。何をやってるんだという思いはあったが、彼としても関心がべつにうつったのは感謝しなくてはならなかった。
ナナイヤ姫も疲れたらしく、侍女たちに|扇《おうぎ》をあおがせ、ぐったりと巨大な背もたれ|椅《い》|子《す》によりかかっている。
踊るふたりは、|背《せ》|丈《たけ》もほとんど変わらなかった。
一方は衛兵姿で、男装しているかにみえた。しなやかな女の曲線をのこしながら、おどろくほど長身で、|鍛《きた》えあげて引きしまった身体つきをしている。|漆《しっ》|黒《こく》のつややかな|肌《はだ》も、|雪崩《な だ れ》のごとくふりかかる白金のちぢれた髪も、色彩の洪水の中できわだっていた。
もう一方のリューは、ごてごてした上着をぬぎ、金糸を編んだ透かし模様の下着だけの|扮《ふん》|装《そう》である。
彼もまた、均整のとれた長身で、透かし模様のあいだや、密着した薄い布地からうかがえる筋肉は見事なものだった。
近ごろは久しく実戦もなく、|怠《たい》|惰《だ》な日々をおくっていたが、まだ鍛えあげた身体は衰えていないようだ。
見ようによっては、長身の男ふたりが親密に踊っているかのようだったし、衛兵の服装のほうがじつは男で、金糸の薄ものをまとって|化粧《けしょう》しているほうがたくましい女のようにも、遠目にはみえた。
ふたりの動きは優雅でなまめかしく、どこか|倒《とう》|錯《さく》|的《てき》で、|歓喜宮《かんききゅう》の宴に新たな娯楽を提供していた。
皇帝が手をたたいて終わらせたときには、ほうぼうで不平の声があがった。
皇帝は|厚《こう》|遇《ぐう》しているが、いまひとつ素性が明らかでなかった今夜の|主《しゅ》|賓《ひん》は、いちやく人気の的となった。
|宴《うたげ》がとどこおりなく終わるころには、北方から来ためずらしい踊りの名手だろうと|噂《うわさ》は定着した。イェシルも衛兵のふりをしていたが、おしのび舞踏団の一員にちがいないと。
ナナイヤ姫との縁談もうやむやになり、彼らふたりとしてはその|噂《うわさ》を否定するつもりはなかった。
4章 |虚《こ》|空《くう》の|扉《とびら》
|宴《うたげ》など知ったことではないと、グリフォンは宮殿内を|隈《くま》なく調べまわっていた。
こんな事態になっても|呑《のん》|気《き》に宴をもよおしている皇帝を、彼は内心ではののしっていた。
異母兄の皇帝とは、世間の常をこえて仲がよく、敬愛してもいたが、こうした|享楽《きょうらく》主義だけは以前からいらいらさせられてきた。
東の大国タウとの終身友好条約をとりつけ、まわりの小国どうしの戦いをやめさせた手腕で、若くして名君とたたえられていたが、それは見とおしがあってのことではなく、単に争いごとがきらいなだけではないかと、グリフォンはこのごろになって思うようになっていた。
平和と平穏を手に入れて数年、皇帝の積極的にしたことといえば、友好国から客人をまねいて宴をひらき、遠方からめずらしい品を取りよせては喜び、宮殿をいっそう華美に増築したくらいのものである。
その副産物として、街道は整備され、東方の文化が取りいれられ、隊商の行き来がさかんになって、都や街道ぞいの町が栄えるようにはなった。
それはそれとして評価しているが、近ごろの皇帝は、平和と繁栄を保護しているというよりも、安楽と|贅《ぜい》|沢《たく》にあぐらをかいているようにみえて、彼は心配していた。
平和がこのままつづけばいいが、いったん事がおこれば、大国セレウコアといえども、ひどくもろいものではないかと。
半年ばかり前におもてだってはじまったナクシット教団の不穏な動きにも、皇帝の腰はひどく重かった。
もっと早く対処していれば、山から降りてきた邪教集団ごときに、北西の村や町を占領され、そのままになっている今の状態はありえなかったはずだ。グリフォンはそう考えていた。
狂信者の集まりごときに何もできまいと、セレウコア|中枢部《ちゅうすうぶ》がたかをくくっているうちに、ナクシットは勢力を拡大していった。
ひとつひとつは小規模ながらも、分教所や、簡易|祈《き》|祷《とう》|所《しょ》はおびただしい数を有していた教団である。
いったんはずみがつくと、信者の増え方も並みたいていのものではなかった。占領された村の者たちも、教団の教えに|帰《き》|依《え》するようになり、占領とはいえない状態となっている。
もし|月《げつ》|炎《えん》|石《せき》を盗みだしたのがナクシットの|輩《やから》で、何かに悪用されるとすれば、セレウコアとしても本気で取りくまないことにはたいへんなことになる。
しかしいくらグリフォンが説明しても、皇帝はいまひとつ、石の威力や影響力を信用していない様子だった。|魔術《まじゅつ》の材料になるものらしいとしか、わかってないようだ。
石の|行《ゆく》|方《え》を捜しながらも、グリフォンはそうしたあせりにも似た思いをいだいていたが、皇帝自身は今夜ものほほん[#「のほほん」に傍点]と|宴《うたげ》を楽しんでいるのである。
途中経過の報告におもむいたときなど、手があいたらなるべく宴に出席するようにと皇帝は彼に命じた。
まったくそれどころじゃないと、彼はどなりたくなった。
しかし石の管理責任は彼にあり、盗まれたのは彼の失策だったから、それほど強いことも言えず、ただ|辛《しん》|抱《ぼう》づよく証拠を集めるしかなかった。
当事者としてまきこまれているリューの自覚のなさにも、彼はいいかげんに|苛《いら》|立《だ》っていた。
|呑《のん》|気《き》な面では、皇帝にも負けないほどである。宴に出るのはいやがっていたが、出なくても昨夜のように酒盛りするだけにちがいない。
母親から聞かされた伝説の雄姿と、実際の人物がかさなることはもう|皆《かい》|無《む》となっていたが、幻滅の|苦《にが》い思いはまだ彼の中に残っていた。
ああした人物にあこがれたことがあったというだけで、最近は腹立たしい思いにかられる。母親の神聖な思い出もけがされたような思いだ。
いっしょにいるエリアードが協力的なだけが救いだった。
|白魔術《しろまじゅつ》にもある程度はつうじていて、宴の準備がはじまるまでは彼の捜索をてつだってくれていた。
事態もよくのみこめているようだし、|真面目《ま じ め》な人柄であるし、彼としては、リューと逆であってくれたらとまで考えることがあった。
ひとつの小さな町ほどある宮殿のおもだったところを、グリフォンと衛兵たちは朝昼晩かけて歩きまわった。
しかし何かあやしいものを見かけたという証言もないし、宮殿内にしのびこんだらしい形跡もひとつとして見つからなかった。
外部から侵入して盗んだのではなく、中のつくりにくわしい内部の者の|仕《し》|業《わざ》だというグリフォンの仮説は裏づけられていた。
空を飛んできたり、塀を乗りこえたり、門を破ったり、地下を掘ったりして、外部の者が入りこんだ形跡はない。出ていった形跡も見つからなかった。
宴などで宮殿内に出入りする者たちは、持ち物もかぎられているし、門から宮殿までのあいだに厳重な検査がおこなわれるので、捜索の範囲からはずしていた。
これまでも|刺《し》|客《かく》などがまぎれこんだことはなく、信用できると思われた。
召し使い部屋や物置、使われてない広間や塔、衛兵の宿舎と、おおやけに調べられるところは夜半までに調べつくした。
なんらかの魔術の力がはたらいてないか、区域ごとに観相板を設置して観察したが、異状をあらわす線を描くことはなかった。
のこっているのは先代の|墓陵《ぼりょう》や、重臣や皇族の私室などの禁域のみとなった。
しかしそのあたりを調べるには、グリフォンといえども、相手の許可を求めなくてはならなかったし、疑いをかけられたと激怒する者もいるだろう。
出自のわからない|妾腹《しょうふく》の生まれの彼は、皇帝の弟として正式にみとめられていず、身分は重臣たちと変わらなかった。
観相師の高位の資格で、衛兵たちを動かす権限はあたえられていたが、皇帝にちかい筋の者たちを容疑者あつかいすれば、これまでの反感が再燃するにちがいない。
そうでなくても、皇帝に目をかけられている最近の彼をけむたく思っている者も大勢いた。
皇帝にはまだ、八歳をかしらとする娘が三人しかいず、彼が次の|位《くらい》をねらっていると勘ぐる者もいた。
そもそも彼が長い放浪の旅に出ていたのも、周囲のそうした|思《おも》|惑《わく》がいやになってのことである。
今の彼は観相師として、皇帝に力を貸しているだけのつもりだったが、世俗にそまった者たちの目からはそうみえなかった。
|宴《うたげ》もそろそろ終わりかけたようで、眠気をおぼえた招待客たちはそれぞれの部屋にもどるところだった。
夜半にかけておこなわれる宴では、地位や身分に応じてあたえられた控えの小部屋で仮眠をとり、次の朝早く宮殿を辞すのがならわしとなっていた。
重臣たちのほとんどは宮殿内に執務室や私室をもっていて、護衛の者に|松明《たいまつ》をかかげさせ、長い回廊をちどり足で歩いていた。
無断で立ち入ることのできないそのあたりを、グリフォンはあきらめきれず、庭からうかがっていた。
もし彼が何かを見おとしているのでなければ、|月《げつ》|炎《えん》|石《せき》を盗んだのは、重臣か、皇帝の一族の中にいるはずである。
彼らならば宮殿の内部にもくわしいし、どこでも自由に出入りできる。
衛兵のひとりのように植えこみを|徘《はい》|徊《かい》しているグリフォンに、白銀の|髭《ひげ》に色粉をふりかけたキルケスが近づいてきた。酔いをさますため、夜中の庭を散歩しているといった歩き方である。
金と銀の月が大きく空にかかり、老重臣の長い髪と髭を月光の滝のごとくうかびあがらせた。
「夜もふけるまで、たいへんですな」
キルケスは彼の姿をみとめ、軽く頭をさげた。
「あの石がなくなったんだ、聞いただろう」
子供のころからなじんでいる重臣に、グリフォンは声をかけた。
|月《げつ》|炎《えん》|石《せき》に秘められているという力を言いあてたのは、このギルドには登録していない隠れた予言者であることを、彼はあらためて思い出した。
「聞いてはおります。グリフォン殿はたいそうお困りのことと、|宴《うたげ》のあいだにも案じておりました」
キルケスは二十年も忠義につとめてきた重臣で、陰謀や|収賄《しゅうわい》にかかわっているという|噂《うわさ》ひとつない|清《せい》|廉《れん》な人物だった。
薄幸のセレナーン姫にも誠意をつくして|仕《つか》えてくれたことを、|亡《な》き母親にかわって、グリフォンはまだ感謝していた。宮殿内で、彼がもっとも信頼している重臣である。
「不快に思うかもしれないが、単刀直入に尋ねる――宮殿内で調べられるところはすべて調べた。あと、のこされているのは、重臣たちの私室と、皇族用の小館のみだ」
「わたくしどもを、いえ、わたくしをお疑いですか」
やんわりとキルケスは問いかえした。いささかもやましい表情はなく、怒りもあらわれてなかった。
グリフォンはなんだか恥ずかしくなった。
「おまえを疑ってるわけではない。重臣たちの中に、様子のおかしい者は見なかったか――それとも何か、予言者としての助言があるならば、どんなささいなことでもいい、教えてくれ」
「石はあるべきところにもどります、あれはそうした運命にあるのだと、わたくしは考えております――わたくしからの助言があるとしたら、心配なさらずともよいと、それだけです」
キルケスは静かにこたえると、きびすをかえして建物のほうに歩きだした。その足どりはしっかりしていて、酔っぱらっているようにみえたのは|芝《しば》|居《い》だったようだ。
だとすれば、キルケスは彼がいるのを承知で、言葉をかけるために近づいてきたのである。
老重臣の思いやりが身にしみて、グリフォンはしばらく立ちつくしていた。
幼少のころより彼を見守っていたキルケスの|眼《まな》|差《ざ》しには、慈愛に似たものがいつもあった。今もそれはたしかに存在し、彼をひとときつつみこんだ。
|宴《うたげ》が終わり、リューも相棒とともに部屋へもどってきた。
気色わるくてたまらなかった|化粧《けしょう》をおとし、派手ではあるが、まだましな部屋着に着がえたあとは、ほっとして|長《なが》|椅《い》|子《す》にもたれていた。
「グリフォンはとうとう現れませんでしたね。まだ今も、捜しまわっているのかな」
気のどくそうにエリアードはつぶやいた。彼は宴のあいだもときどき、どうしたのだろうと思いうかべていた。
「犯人はわかりきっている。気がつかないのはあいつが悪いんだ」
卓にもられている果実をつまみながら、世間話のようにリューは応じた。
イェシルは衛兵の宿舎にもどり、着がえや果実の盆を運んできた|侍《じ》|女《じょ》たちも引きあげ、ひさしぶりに彼らはふたりきりだった。
「やはり、あの重臣の|仕《し》|業《わざ》なのかな、わたしたちの同胞だという……」
エリアードは半信半疑だった。
キルケスは、平然と宴に出席し、終わりまでとどまっていた。
「それ以上は口にするな、どこで誰が盗み聞きしているか、わからないぞ」
低くリューは|叱《しっ》|責《せき》した。この客用の部屋には、|盗聴管《とうちょうかん》のたぐいがあっても不思議ではない。
「内部のつくりにつうじている者、地下の実験室に石があることを知っていた者、そして何よりも石の価値を知る者――条件がこれだけあれば、犯人を特定するのはむずかしくないと思うだけだ」
前言を修正するように、リューは補足した。
「なるほど、単純化してしまえばそうですね」
「複雑に考えることはない。あいつが悩んでいるようだったら、そう助言してやれ」
その話は打ちきるように、リューは相棒の肩に腕をまわした。
「あなたは気楽ですね、いつも」
エリアードはあきれていたが、ふりはらいはしなかった。
「そうだ、これまでの|疾《しっ》|風《ぷう》|怒《ど》|濤《とう》の人生が、こぞって気楽にやれと教えてくれたんだ。せまりくる波のひとつひとつにつきあっていては、とうてい身がもたないとね」
「うらやましい人生観だ。あなたのようになれたらと、たまには思うこともありますよ」
|長《なが》|椅《い》|子《す》の上で、ふたりは|抱《ほう》|擁《よう》と|接《せっ》|吻《ぷん》をかわした。
つまんでいた果実の、口紅のごとく赤い色と、ほんのりと甘い香りを、彼らはひととき共有した。
「――いつ逃げだせるのかな、ここから」
ほとんど|唇《くちびる》の動きだけで、リューはささやいた。
「あの|女泥棒《おんなどろぼう》に、手びきを頼んでみたらいかがですか。衛兵なら、門の警備の裏もかけそうだ」
相棒の耳もとで、エリアードはつぶやいた。抱擁と接吻は、聞かれたくないこうした相談に向いていると彼は思った。
「ふくみのある言い方だな、|宴《うたげ》で踊ったからか」
「とくにふくみなどありませんよ、勘ぐるなんて、そちらこそ何かやましいことでもあるんですか」
本当にふくみはなかったようなので、やぶへびだったとリューは言葉につまった。
「わたしはむしろ、しばらくここにとどまったほうがいいように思えてきましたよ。縁組みも当座は大丈夫そうだし、せめて石の|行《ゆく》|方《え》がわかるまではいたらいかがですか」
「そうかもしれないが、早いうちにあの重臣が、約束どおり脱出の手配をつけてくれるかもしれない」
「あなたの意思しだいですよ、考えてみてください――上等の酒と|肴《さかな》があるし、相手をしてくれる女性もいるし、|居《い》|心《ごこ》|地《ち》は悪くないでしょう」
言葉は優しげだったが、さりげなく|皮《ひ》|肉《にく》は入っていた。
リューはそのあたりには深入りせず、相棒の首筋に唇を押しあてた。
まだ髪の裏には金粉がのこっていて、彼の|片《かた》|頬《ほお》はまだらになった。
衛兵の宿舎で仮眠していたグリフォンは、夜番の衛兵の呼び声で目がさめた。
もうすでに陽は高い。
「ついさきほど、観相板が波動を描きました。方向は宮殿の北東あたりです」
どんな異状でも報告するよう申しわたされていた衛兵は、観相板の変化を見て、すぐにとんできたのである。
寝おきの悪いグリフォンは、大きな身体をむっくりとおこした。そうしたときの|機《き》|嫌《げん》の悪さを知っているだけに、衛兵たちは|扉《とびら》のところまであとずさりした。
「北東か――重臣の私室がたくさん入っている棟があるな」
声音だけはやさしく、グリフォンは部下たちを見まわした。
衛兵たちは直立して口々にうなずいた。
「もちろん、すぐに手のあいている兵を調査に向かわせました」
隊長格の衛兵が、すかさずつけ加える。
「何をこんなところでぐずぐずしてるんだ。わたしをおこすのに、衛兵が十人も必要なのか、さっさと部署につけ――!」
宿舎の薄い屋根をつきあげそうな声で、グリフォンは命じた。
衛兵たちは返事もそこそこに、各部署へもどっていった。
大将を誰がおこすかで、彼らが何度もくじびきしていたとは、グリフォンも知らなかった。知っていたら激怒しただろう。
「グリフォール殿下、たいへんです」
小ぶとりの衛兵がころがりこんできた。グリフォンは身じたくをととのえていたところだ。
「このたびの件と、関係があるかないかは不明ですが、キルケス様のお姿が見あたらないとのことです――早朝から、イロン様とお約束がありましたそうですが、これまで一度なりとも指定の時間に遅れたことのないキルケス様がいっこうにおみえにならず、イロン様が私室をおたずねしたところ、|鍵《かぎ》もかけられていず、もぬけのからだったそうでございます。召し使いも行く先を知らず、執務室のほうにも来られていないそうですが」
あせっているわりには要領よく、衛兵は報告した。
グリフォンは感心して、衛兵の名を聞いておこうかと思ったが、報告の内容に気をとられて忘れてしまった。
「キルケスが、まさか……」
昨夜、庭園の茂みですれちがい、それとなく彼を励ましてくれたキルケスの記憶はまだ鮮明だ。
母親の生前から信の厚い重臣のキルケスが、彼と祖国を裏切り、石を盗んでいったとはとても考えられなかった。
「すぐ現場に行く。イロン殿は待たせておけ、いろいろ尋ねたいことがある」
何か関連した事件にまきこまれたのかもしれないと、グリフォンは老重臣の居住区に向かった。
エリアードはすでに着がえをすませ、運ばれてきた朝食に手をつけていた。
放浪生活をしていたときには、実入りのいい仕事のあったあとの夕食にすら、のぞめなかったほどの豪勢な朝食である。
金の台車で料理の皿を運んできたのは、|侍《じ》|女《じょ》の衣を着こなしたアヤだった。彼女は動きまわるのが好きで、こういった仕事にむいているようだ。
「茶も料理もさめますよ」
まだ寝台にいる相棒に、いちおうエリアードは呼びかけた。しかしあいかわらず、はっきりしない返事がもどってくるだけだ。
彼はかまわず先にたいらげていた。
「お食事中、申しわけありません」
|扉《とびら》の向こうから、衛兵らしい声がした。
「グリフォール殿下から、至急のお話があるとのことでございます」
「何か進展があったのか」
エリアードは席を立ち、通路のほうに出むいた。
奥の部屋にリューがひとりきりとなったのは、ほんの数えるほどの時間だ。
彼はいい匂いにひかれて、部屋着をはおり、寝台の薄幕を出ようとしていた。
もうひとつの寝台があるあたりに、白っぽい影のようなものがうかびあがった。
「――リューシディク様」
影はしだいに、見おぼえのある重臣の姿に実体化し、そうささやきかけた。
「お約束どおり、ここからお救いしにまいりました」
青く長い衣をまとったキルケスは、彼に手をさしのべた。その片方の手の上には、月のかけらにふさわしい、輝きをはなつ石があった。
「おまえが盗みだしたのか、やはり――」
想像していたとおりだったので、リューはたいして驚かなかった。
「そうでございます、グリフォン殿の信頼を裏切るのはつろうございましたが――すべてこれも失われた祖国のためでございます」
「どうするんだ、そいつを」
石の輝きにひきつけられ、リューは歩みよった。
七色のどれともつかない微妙な光に、彼はさからいがたい魅力を感じた。
|鉛《なまり》につつまれていたときとは、何もかもが違っている。
かつて雲の原を駆けぬけるときに彼が手にして、耳飾りに細工して身につけていた石を、何倍にもしたような輝きだった。
気まぐれに手ばなしてしまったことを、彼は口には出さなかったが、ひどく後悔していた。
彼は重臣の手のひらの石に、そっとふれた。
キルケスはうやうやしく彼の手を取り、|虹《にじ》の宝石めいた石をにぎらせた。
その熱さに、リューは声をあげた。石の輝きが彼をつつみ、焼きつくすかのようだった。
「さあ、ともにいらしてください。みなも待ちわびております」
キルケスのすぐ背後には、霧が集まってできたような|象《ぞう》|牙《げ》の|扉《とびら》があった。
「どこに行くんだ、みなとは、誰のことだ」
尋ねながらも、リューはあらがいがたく引きずられていった。
「わが同胞の見いだした、素晴らしき聖地にまいります。あなたがいらっしゃることを、同胞たちはどんなにか喜ぶでしょう」
「聖地、なんだそれは……?」
リューは抵抗したが、すでに身体はいうことをきかなかった。意識がすっと遠のいていく。
「まだ……相棒がいる……ひとりでは行けない」
キルケスはぐったりとした彼を抱きとると、象牙の扉を押してひらいた。
「残念ながら、この扉はあなたとわたしのふたりを通すのがやっとなのです。申しわけありませんが――」
しかしその言葉はもう、リューのもとにはとどかなかった。彼は石の輝きにのみこまれ、意識を失っていた。石はたしかに、彼と共鳴をおこしているようだった。|鉛《なまり》につつまれていたときよりも強く、はっきりと。
石をにぎりしめた彼の手を、キルケスはその上から両手でつつみこみ、|扉《とびら》の向こうの|虚《こ》|空《くう》に飛びこんだ。
ふたりをのみこんだ扉は自然に閉じ、ふたたび霧の向こうに薄らいでいった。
エリアードがもどってきたとき、部屋の中には誰もいなかった。
|象《ぞう》|牙《げ》の扉や、キルケスの|気《け》|配《はい》も、すっかり消えうせていた。
彼を呼んだ衛兵は、声のみで姿はなかった。
念のために、通路を曲がったところまで捜しにいったが、|侍《じ》|女《じょ》が何人か行き来しているだけだ。
急ぎの用でもできて、持ち場にひきかえしていったのかと、彼は部屋にもどってきた。
リューも衛兵に呼ばれたか何かで、出ていったのかと彼は思った。妙な胸さわぎはしたが、部屋を離れたのはほんのわずかなあいだである。
不安になってきたところに、グリフォンと衛兵たちがなだれこんできた。
「ご無事か、ご無事ならいいが――リューシディク殿は?」
グリフォンは性急に問いかけた。
キルケスの私室には妙な仕掛けがしてあり、彼はひととき部屋の中に封じこめられた。
ほかの衛兵たちは平気で行き来していたから、明らかに彼を狙ってかけられた|魔術《まじゅつ》の|手《て》|管《くだ》にちがいなかった。
かける相手を指定するやり方は複雑だったが、わざ自体は弱いものだった。
すぐにわざをとき、グリフォンは部屋から出ることができた。けれど、どうもいやな予感がして、駆けつけてきたのである。
「あなたに呼ばれて、出ていったんじゃないのですか」
エリアードは青ざめて、グリフォンの|衿《えり》もとを両手でゆさぶった。
「呼ぶものか――たった今、キルケスの|罠《わな》から、のがれでてきたところだ」
グリフォンも顔色を失った。
不吉な予感は的中し、リューもまた、重臣のしかけた罠にからめとられてしまったらしい。
寝室から、つづきの間を|隈《くま》なくさがしたが、彼の姿は|忽《こつ》|然《ぜん》と消えていた。
通路を守っていた衛兵に尋ねても、見かけた者はいない。
もう一度、客間を見まわし、グリフォンは透明な粉をふりまいた。
寝室の入り口のあたりが赤く発光し、何かのわざがついさきほどおこなわれたことをしめしていた。
「やられた、キルケスめ、こんなわざを使うとは――!」
床に落ちた粉を、グリフォンは怒りにまかせてふみにじった。
「ギルドには登録していないけれど、あの人は優秀な|魔術師《まじゅつし》だそうですよ」
エリアードは赤くきらめく粉のなごりを見すえていた。
同胞のキルケスをどこかで信頼していて、見とおしが甘かったことを、彼は怒りとともに激しく後悔していた。
5章 青い月の都
誕生日の前日、セナ=ユリアは神殿に呼ばれた。
神殿も、彼女のいる小宮殿と同じように、青い石で壁面をきれいに飾っていた。
本物の空を思わせるように高くそびえる丸屋根は青々と輝き、|色《いろ》|硝子《ガ ラ ス》をつうじて採りこまれる光は、純白の床に花園を思わせるような模様を描いた。
礼拝用の段をきざんだ薄青の石は、|扇《おうぎ》をひろげたように奥までつづき、満月の日には多くの人々を収容した。
どれも、三番めの月の地の高い技術を駆使したもので、この|異《い》|邦《ほう》の地のどこにある神殿よりも、|神《こう》|々《ごう》しくうるわしいと都人は考えていた。
銀の髪をなびかせ、|露台《バルコニー》に立つ|清《せい》|楚《そ》なセナ=ユリアも、都人の誇りでありつづけた。
まだ幼い少女のころから、神秘的な|面《おも》ざしの|巫《み》|女《こ》に成長してからもずっと、彼女は都人の心の|礎《いしずえ》となっていた。
緑の|沃《よく》|土《ど》を出れば、|苛《か》|酷《こく》な自然や、異邦の地でのさまざまな|軋《あつ》|轢《れき》と戦わなければならない人々にとって、彼女のいる小宮殿や、ご神体をまつった神殿はひそかな安らぎの場だった。
彼女の|亡《な》き母親がラウスターの王妃であったことも、都人はじゅうぶんに承知していた。
みごもったまま、この地に降りたった王妃が、小さな娘を産んで亡くなったことも、都にひろく知られた事実である。
三番めの月の地で、ラウスターはリウィウスとならぶ二大国のひとつだった。
かの地が滅ぶ百年前あたりまで、両大国の力は|拮《きっ》|抗《こう》していたが、その後はしだいにリウィウスが勢力をのばし、ラウスターはいくつかの植民都市をうばわれて劣勢に立たされていた。
しかし勢力がおとろえかけていたとはいえ、ラウスターはかの地を代表する国のひとつであり、この地に移住した人々の中にも、ラウスターを故郷とする者は多くいた。
まじりけのないラウスターの王女である彼女を、そうした者たちは生ける女神のごとくあがめていた。
ラウスター以外の出身の者も、異邦の地に降りたった数少ない同胞をたばねるには、彼女がふさわしいことをみとめていた。
神殿にまつってあるのは、砕けちったかの地の破片だといわれている。
かつてベル・ダウの奥地に落ち、山をひとつ吹きとばしたという、人の|丈《たけ》の倍ほどもある石だ。
|虹《にじ》の七色をうちに秘めたような不思議な色あいをしていたが、岩の溶けて固まった不純物がまだらにからみついているのが、ご神体の威厳をわずかにそこなっていた。
かの地には土地によってさまざまな信仰があり、たとえばリウィウスなどでは民間の信仰を人為的に系統だてた教えがひろまっていた。ラウスターでは、ふたつの大きな宗派が激しい勢力あらそいをしていた。
この|異《い》|邦《ほう》の地に住みつくことになった人々をたばねるのに、そんな数ある中のひとつをまつることはできず、|虹《にじ》|色《いろ》の破片を都のご神体とすることにした。
石には微量ながら|癒《い》やしの力があり、それほど抵抗もなく、青い都の人々に受けいれられた。
そのような実務に指揮をふるったのは、ラウスター出身のチェルケンという|老魔術師《ろうまじゅつし》である。セナ=ユリアの母親にあたるラウスターの王妃をまもって、チェルケンはこの地に降りたった。
王妃の死後は、セナ=ユリアの保護者として、神殿の大神官として、彼は青い都の実質的な指導者となっていた。
老魔術師は青い長衣をまとい、枯れ枝のような身体を|杖《つえ》でささえながら、セナ=ユリアをむかえた。
|侍《じ》|女《じょ》たちがさがると、彼女は老魔術師の前に|膝《ひざ》をついた。臣下の者が、主人の命令を待つように。
都人の前では、彼女が女王で、チェルケンは神殿のご神体の守り番でしかなかったが、実際は老魔術師こそが主人で、彼女はその|傀《かい》|儡《らい》だった。
ふたりきりになると、立場はあるべきところにもどった。
「あなたは明日、十七歳になる。この上なく、しとやかで、気品にあふれ、誇りたかい――ラウスターの正統なる姫君らしく、ご立派に成長された」
宝石を|吟《ぎん》|味《み》するような口ぶりで、チェルケンはそう評した。ほとんど|皺《しわ》のない老魔術師の顔には、なんの表情もなかった。
「はい、うれしく思います」
銀色の頭をたれたまま、セナ=ユリアはこたえた。
幼いときから魔術師にはどんな口ごたえも、疑問をさしはさむことも許されていなかった。成長しても彼女は、それがあたりまえだと考えていた。
「一昨日、あなたの|婿《むこ》|君《ぎみ》が神殿に到着された。明日の誕生日に、おひきあわせしよう」
|挨《あい》|拶《さつ》のつづきのように、魔術師は告げた。
セナ=ユリアはおどろいて顔をあげた。
婿というからには、彼女は結婚させられることになるわけだが、そんな話は初耳だった。
誰に言われたわけでもなかったが、彼女はこのまま都の象徴として、ずっと未婚の|巫《み》|女《こ》でいるのだと思いこんでいたから、衝撃と|戦《せん》|慄《りつ》に近いものをおぼえた。
「……はい」
声を落としたが、セナ=ユリアはそうこたえた。ほかにこたえるすべを知らなかった。
「あなたにふさわしい身分と境遇の|婿《むこ》|君《ぎみ》だ、これ以上はのぞめない組みあわせだろう」
冷静で、感情の|片《へん》|鱗《りん》もみせない|老魔術師《ろうまじゅつし》が、会心の笑みをわずかにのぞかせた。
いつもなら用件を言いわたすだけのはずが、いかなる気まぐれか、老魔術師は言葉を加えた。
「どんな婿君なのか、関心はないのか。王家の姫は決められた相手のもとに嫁ぐのは当然のこととはいえ、十七歳になろうとする|娘御《むすめご》ならば、相手が気になるはず――」
つつましやかに聞いていたセナ=ユリアの銀色の眼に、強い光がやどった。彼女の中の真の誇りが、いっときだけひらめいた。
「いいえ、気になりません――すでに、婿とさだめられたお方ならば、どんな方かと思いなやんでも仕方がありません。わたくしはそのお方のよき|伴《はん》|侶《りょ》となるべく、努力するだけです」
それだけの返事をするだけで、セナ=ユリアの両手は|瘧《おこり》のようにふるえた。わずかな反抗心の芽も、幼少よりさからわないようにしつけられた習慣がすぐ押しつぶした。
老魔術師は、彼女のかいまみせた奇妙な反応を、娘らしい恐れからきたものと解釈した。
「心配なさらずともよい。ほれぼれするような好青年だ。年も二十歳か二十一歳かで、十七歳のあなたにはぴったりだろう――ウィラメットの代に|失《しっ》|踪《そう》したというリウィウスの第三王子で、故郷の地の年代では、あなたより百年ほど前の方になる」
いつになく|魔術師《まじゅつし》は|饒舌《じょうぜつ》になっていた。
「――はい」
なんの関心もないかのように、セナ=ユリアはただそれだけの返事を口にした。
|婿《むこ》になる人物がどうであろうと、彼女にとっては新しい別の職務ができるだけだ。
その職務がたやすかろうと、むずかしかろうと、ラウスターの王族の誇りをもって|遂《すい》|行《こう》するつもりだった。これまでずっとしてきたように。
セナ=ユリアを小宮殿に帰し、老魔術師は神殿の奥に入っていった。
通廊のつきあたりには、地下の隠し部屋へつづく|扉《とびら》がある。
「チェルケン殿――あの方をどこにやった」
通廊の途中にキルケスは立ちはだかった。
|口《くち》|髭《ひげ》と|顎《あご》|髭《ひげ》をすっかり|剃《そ》りおとし、長い白銀の髪をうしろで束ねたキルケスは、二十歳ぐらい若がえってみえた。
セレウコアの老重臣の面影はほとんど残っておらず、あまり年をとらない〈月の民〉の本来の年齢にもどっていた。青い神官の衣をまとい、しゃんと背筋をのばした姿は、働きざかりの壮年のものである。
「おまえか、ちょうど呼ぼうと思っていたところだ。約束の|褒《ほう》|美《び》も、まだわたしてなかったからな」
おどろいた様子もなく、チェルケンは応じた。
「褒美などいらん。そんなものをめあてに、あの方をお連れしたのではない――会わせてくれ、どこにおられるのだ」
古樹のような老魔術師の前に出ると、キルケスですら、駆けだしの若造のようにみえた。実際の年齢も、魔術師としての腕や経験も、チェルケンのほうが上であるのは確かだった。
「案じずともよい、まだ眠っておられる――明日、セナ=ユリアにひきあわせるおりに、まみえることができるだろう」
「セナ=ユリア姫と婚礼をあげることを、あの方は|承諾《しょうだく》なさったのか。わが同胞たちのためにも、いずれはそうなるほうがのぞましいと願ってはいたが、あまりに性急すぎる――あの方はまだ、ここがどのような場所かも、理解しておられまい。ほんの数日で理解しろというのが、どだい無理な話だ」
「時間がないのだ。おまえも知らされておろう、ナクシット教団がベル・ダウに信徒を集結させつつあることを――この聖なる地の場所も、連中はいずれつきとめて、攻めてこよう。そうなれば、セレウコアも動くにちがいない」
物わかりの悪い相手をさとすように、チェルケンは説いた。あいかわらず彼は、木のうろと同じくらいに無表情のままだ。
「しかしあの方は、われわれの都合で動かしていい相手ではないぞ。順をおってお話しすれば、かならずわかってくださる方だ。性急にしすぎると、かえって協力を得られなくなると思うが」
「|丁重《ていちょう》にあつかうことは約束する、セナ=ユリアと同等ぐらいにな――この件は、わしに一任してくれ。おまえにはおまえの仕事があるはずだ。ささやかなわが同胞の地の|帰《き》|趨《すう》は、おまえの仕事いかんにかかわっているといっても過言ではないのだぞ」
話はすんだとばかりに、チェルケンは通廊の先を進んだ。なおもくいさがろうとするキルケスをつきはなすように。
はっきりと自覚していたわけではなかったが、キルケスは少しずつ後悔していた。
二十年のあいだ|仕《つか》えて得た重臣の地位を、投げだしたことはかまわなかった。いずれ時期をみてそうするつもりだったし、重臣の地位を利用してやるべきことはやりつくした。
精製した月の石を盗みだしたことにも、ほとんど心の痛みを感じてない。
あの石はもともと彼らの故郷のものであり、セレウコアに利用されるのを防ぐのは当然のことだと思っていた。
しかしいくら|歓喜宮《かんききゅう》をぬけだしたがっていたとはいえ、|拉《ら》|致《ち》同然にリューを連れてきたことはよくなかったのではないかと、キルケスは考えはじめていた。
同胞たちがひそかに築きあげた都に、リウィウスの王子を連れてもどりたいというのが、リウィウス人としてのキルケスの純粋な動機だった。
同胞たちの暮らしぶりをみて、リュー自身も喜んでくれると思った。
それからどうするかは彼の決めることで、ラウスターの王女と婚礼をあげてこの地にとどまるよう頼むつもりだったが、強制するつもりはなかった。|虜囚《りょしゅう》同然にして無理じいするならば、同胞といえども、セレウコア皇帝と同じ|真似《ま ね》をすることになる。
しかしチェルケンはすでに、婚礼を動かしがたい既成事実としておしすすめているようだ。
空間をゆがませてつないだ|扉《とびら》を通り、セレウコアの宮殿から神殿の聖堂に到着したとき以来、彼はリューの姿すら見ていなかった。
会わせてくれと何度たのんでもむだだった。居場所もわからない状態だ。
〈月の民〉の聖地で、これほどチェルケンの陰の力が増していることを、キルケスはここに来るまで知らなかった。
神殿と小宮殿は完全にチェルケンの支配下におかれ、神官たちも腹心の部下でかためられていた。おもてむきのあるじはセナ=ユリア姫となっていて、民衆はそれを信じこんでいたが、都はチェルケンの独裁のもとにある。
セレウコアの重臣として多忙の身だったキルケスは、この地をゆっくりと訪れたことは一度しかない。
ベル・ダウ地方を視察するという名目で、宮殿を|留《る》|守《す》にする許しを得たときのみである。
そのほかは、聖地とセレウコアの都を行き来している商人の同胞たちと連絡をとりあうか、ごく緊急の場合は空間のわざを用いた。
|魔術《まじゅつ》にからんだ方法は、そうしたわざがおこなわれたという|痕《こん》|跡《せき》が残り、警戒されるのでめったなことでは使えず、どうしてもキルケスの知りえた都の情報はかぎられたものになっていた。
チェルケンがわざとそう仕向けたのかもしれない。キルケスは何度か、このラウスター出身の老魔術師と連絡をとっていたが、いつもチェルケンは神官のひとりにすぎないようふるまっていた。
いくらキルケスが後悔しても、チェルケンの目が行きとどいたここでは、今のところどうすることもできなかった。チェルケンが強大な力をもつ魔術師であることは、同胞として、同じ白魔術を修めた者としてよく承知していた。
故郷の地では、年代がちがっているのでまみえたことはないが、この老魔術師はとくに、空間をあやつるわざにたけていた。
|歓喜宮《かんききゅう》からぬけだした空間のわざも、チェルケンの力を借りておこなったもので、キルケスひとりでは不可能なわざである。
チェルケンは、故郷の地が砕ける直前に脱出した一群のひとりで、みごもっていたラウスターの王妃とともにこの地へ降りたったという。
ほかにも多くの者をこの地に送りこんでいて、今も救ってもらった恩義から、チェルケンのために働いているようだ。神殿や小宮殿には、そうした腹心の者が大勢いた。
リウィウスの王女だったセレナーン姫がたったひとり、東の荒れ地に降りたたなければならなかったように、送りこむとはいっても、ふつうは時期や場所を同じくすることはかなわない。
しかしチェルケンは、それをかなりの成功率でやってのけたようである。
空間をあやつるわざに通じていたチェルケンは、砕けた地と、この地をつないでいた|魔《ま》|窟《くつ》のあつかい方を、ある程度まで解明していたのではないかと、キルケスは想像していた。正面きって尋ねたときには、あやふやな返答しか得られなかったが。
なんにしても、チェルケンはすぐれた魔術師で、聖地のおもだった者たちを、おもてに出ないまま|掌握《しょうあく》していることにはまちがいない。
キルケスとしてもおとなしく、様子を見ているよりほかはなかった。セレウコアから盗みだした月の石の調査は、監視つきとはいえ、彼に一任されているのが救いだった。
明日になれば、姫君とひきあわせるおりにリューの無事を確かめることはできるのだと、キルケスは石を安置してある|岩《いわ》|室《むろ》にもどった。
十七歳の誕生日の朝。
その朝を、セナ=ユリアはいつもと同じようにむかえた。
まったくすべてが同じというわけではなかった。彼女は昨夜、ほとんど眠れなかったからである。
|婿《むこ》となる青年とひきあわせられるという事実は、セナ=ユリアの鏡のように澄んでいた心に波紋を投げかけた。
都人の前に出るときと同じように、彼女は念いりに湯あみさせられ、銀の長い髪をくしけずられ、|薄化粧《うすげしょう》をほどこされた。
すべての作業は|侍《じ》|女《じょ》たちの流れ作業でおこなわれ、彼女も侍女たちもいつもと同じようにひとことも口をきかなかった。
生き人形のようにあつかわれながら、セナ=ユリアは眠れなかったわけを考えつづけていた。
保護者の|魔術師《まじゅつし》のほかは、生まれてから一度も、彼女は男と言葉をかわしたことはなかった。言葉どころか、|露台《バルコニー》から遠くにながめるだけで、近くに寄ったことすらない。
彼女は聖地の|巫《み》|女《こ》として、生涯を|乙《おと》|女《め》のままですごすのだといつしか思いこんでいた。
婿という見知らぬ男と、身近に接しなくてはならないことを考えると、身内にひそかなおののきがはしった。未知なものはすべて、彼女には恐ろしかった。
どんな結論もむすばないまま、彼女は髪の色と同じ、銀を織りこんだ飾りのない長衣をまとった。
胸もとには、チェルケンからの誕生日の贈りものである十七の|金《こん》|剛《ごう》|石《せき》の首飾りがきらめいていた。
銀の衣も、透きとおった首飾りも、すべてが彼女の|清《せい》|楚《そ》な美しさをよりひきたてていた。
|色《いろ》|硝子《ガ ラ ス》の模様がうつる純白の石の床と、夕刻の空を模したような青い石にかこまれた聖堂で、セナ=ユリアは銀細工の|椅《い》|子《す》に腰かけて待っていた。
侍女たちはみな辞し、彼女は聖堂にたったひとりだった。
青白い炎の揺れるいくつもの|燭台《しょくだい》をはさんで、彼女と対になるような金細工の椅子がある。それが、彼女の婿になる人物の座る椅子にちがいなかった。
彼女は金色の椅子を見すえていた。
人前ではけっして、表情を変えないようしつけられた彼女だったが、ひとりになった今は、十七歳の乙女の不安とおののきをおさえきれなかった。
右手の|扉《とびら》がひらき、老魔術師とその助手につきそわれた長身の青年が入ってきた。
両側から支えられるように歩いてくるその青年は、天窓からの光と|燭台《しょくだい》の明かりに照らされ、純金づくりのように輝いていた。
肩のあたりまでのびたしなやかな髪は淡い金色で、どこか遠くを見ているような両の眼も、光を受けて金にみえる。
|魔術師《まじゅつし》めいたくるぶしまでの長衣も金糸織りで、そのあいだからのぞいている|肌《はだ》は同胞のしるしのように青白くなめらかだ。
|背《せ》|丈《たけ》は老魔術師とその助手より頭半分ほど高く、顔立ちは若々しく|精《せい》|悍《かん》でありながら、荒々しさはなく、|繊《せん》|細《さい》で高貴な|雰《ふん》|囲《い》|気《き》もあった。
ほとんど若い男を見たことがないセナ=ユリアにも、彼がまれな好青年であることはみてとれた。
不安とおののきはいつしか、強い興味に変わっていた。
何にもまして彼女の心をひきつけたのは、彼の静かな表情だった。静かすぎるといってもいいほどだ。
入ってきたときも、彼女のほうを見たときも、彼の表情にはどんな変化もない。目を見はるとか、周囲を見まわすとかの、ささいな動きすらなかった。
それを少しも不自然と思わなかったのは、彼女自身がふるまうように教えられた姿だったからである。
いかなる場合にも冷静をたもち、表情を変えず、よぶんな口はきかず、誇りをもって相手と接するという|模《も》|範《はん》を、彼は身をもってしめしていた。
彼女は彼の上に誇りたかい同類を見いだし、ふるえるような喜びをおぼえた。
金色につつまれた青年は、魔術師に腕をそえられ、|椅《い》|子《す》にゆっくりと腰をおろした。
彼は正面のセナ=ユリアを見たが、|希《け》|有《う》な金色の眼には何もうかばなかった。ほんのわずかな好奇心ですら。
以前の彼を知っている者なら、これは似ているが、まったくの別人にちがいないと思っただろう。
外見だけを模してつくった彫像のように、個性どころか、人間らしいひらめきもあらわさないまま、彼は姿勢をただして座っていた。
右手の|扉《とびら》からは、チェルケンの手足となって働いている数十人の神官たちが音もなく入ってきた。
その中にキルケスもまじっていた。いっさい口出しをしないという|誓《せい》|約《やく》のもとに、キルケスは儀式に列席することを許されていた。
キルケスは神官の列の端から、金細工の椅子の青年を心配そうに見つめていた。
危害をくわえられた様子はなく、落ちついて元気そうだったので、彼はひとまず|安《あん》|堵《ど》した。
あまりの反応のなさには胸さわぎがした。
しかし遠くからでは、よく確かめることもできなかった。
これはセナ=ユリアの十七歳を祝す儀でもあり、事実上の婚約の儀でもあった。
「リウィウス第三聖紀、二十八代ウィラメットの第三王子リューシディク殿。この地の暦で二年ほど前、北方の地に降りたち、同胞の都をさがしあてて、はるばるいらっしゃった方だ」
|魔術師《まじゅつし》チェルケンはすでに、婚約から婚礼にいたる儀式の軌道をすべてととのえ、腹心の助手や神官たちに申しわたしてあった。
「われらのいただくセナ=ユリア姫は、シーア朝ラウスターの開明王クラ=ケシムの第二王妃セネ=ルイサ殿の|御娘《おんむすめ》」
セナ=ユリアに聞かせるように、列席した者たちと確認しあうように、チェルケンはそう告げた。
「――リウィウスとラウスターの両王家の直系であられる、高貴なおふたりのお血筋があわさることにより、われらのささやかなる聖地の都も、より確固たる|礎《いしずえ》が築かれ、末代までの繁栄を約束されるだろう」
おごそかに、チェルケンは両者の婚約を祝った。
しかしその当人であるはずの向かいあったふたりは、遠い世界でおきている出来事のように、|眉《まゆ》ひとつ動かさず座っていた。
「月の配置のよい日をえらび、数日のうちに都人の前で婚約の披露をとりおこなう。婚礼は、次に両月の満ちる日と定める」
神託のごとくチェルケンはつづけた。
いならぶ神官たちは、チェルケンその人が王か神であるかのように、|従容《しょうよう》と頭をたれた。
婚約をかわした高貴なふたりは、老魔術師の両わきに置かれた等身大の宝石にすぎなかった。
それから婚礼の日までの予定が形式的に告げられ、婚約をあらわすいくつかの儀礼的な捧げものや祈りがおこなわれた。
あいかわらず金と銀の|椅《い》|子《す》のふたりは、ひとことの言葉もなく、向かいあっていても、ほほえみすらかわさなかった。
セナ=ユリアはそれがあたりまえと思い、高貴な者にとっては当然のことだと受けとめていた。
|婿《むこ》となる青年も同じ態度でのぞんでいることが、彼女には誇らしくさえあった。
チェルケンが|強《ごう》|引《いん》な婚約をすすめていっても、すでに反発心は薄れ、彼女の中には幸福な思いだけがわきあがってきた。
こんな心境の変化は、彼女自身にも信じられなかった。婚約を言いわたされたときには、従わなければならない義務でしかなかったのだが。
彼はすべてにおいて、彼女の同類だった。身分の上からも、王族らしい態度においても。
かの地での生まれや身分だけでなく、彼は彼女と結ばれるにふさわしい相手だった。
鏡をながめているような共感で、彼女はひきつけられた。
婚約者のあいだにかわされる愛情というよりは、親子や兄妹のようであり、親しい友人のようでもあり、そのすべてに通じるものでもあった。
これまでの彼女には、どれも禁じられ、封じこめられていたものばかりだ。
保護者の|魔術師《まじゅつし》や、まわりの者からは、一度として与えられたことのないものである。
聖なる結びつきによって、彼女はただひとりの同類である相手にそれを捧げることができるのだ。
彼女はうれしくてならなかった。出口らしい光明を見いだし、そこをめがけて、彼女が禁じられてきたものをそそぎこむのも無理はなかった。
おもてむきはすべての感情をおしころしていたが、彼女の薄い色の眼だけが激しい思いをのぞかせていた。はじめての、心おどるような思いだった。
(……リューシディク様)
正面の無表情な婚約者を見つめながら、セナ=ユリアは胸のうちでそっと名を呼んでみた。
(わたくしの……ただひとりの同胞)
彼の金色の眼には彼女の姿すらうつっていなかったが、何も知らない彼女にはそれがわかるはずもなかった。
婚約の儀を終えると、|侍《じ》|女《じょ》たちはセナ=ユリアをともなって小宮殿にひきあげていった。
もっと婚約者のそばにいたいと彼女は思ったが、そうした自由はいっさい認められていなかった。
チェルケンは助手の手を借り、金衣の青年を支えるようにして控えの間にもどった。
神官もそれぞれの部署にかえっていく。
キルケスはたまらず、|老魔術師《ろうまじゅつし》のあとを追った。
儀式のあいだは口出ししない約束だが、終わってからまでは縛られていない。神殿の奥殿で働く者たちの中では、彼だけがチェルケンの配下ではなかった。
聖堂わきの小さな控えの間では、チェルケンと、腹心の助手のアタルクが、車輪のついた木の|椅《い》|子《す》にリューを座らせていた。彼はあいかわらずされるがままだ。
「――眠レ」
何もうつっていない金色の眼の前で、チェルケンは指でしるしをえがき、短くつぶやいた。
リューは眼を閉じ、椅子の背もたれに寄りかかった。
「いったい……何をしたんだ、この方に……あまりに反応がないから、妙だとは思ったんだ」
飛びこんできたキルケスは、椅子の前に|膝《ひざ》をついた。
「ひどい……ひどいことを、こんな――わたしに会わせようとしなかったのはこうしたわけだったのか、おいたわしい……」
なんの反応もないリューをゆさぶろうとしたが、むだとさとってやめた。
強力な暗示をかけられているのはあきらかで、キルケスではとても解けそうにない。
「どこがひどいのだ、|丁重《ていちょう》にあつかっているぞ」
チェルケンは平然と彼を見おろした。
「丁重だと、これがか――人間のあつかいじゃない、これでは意思をもたない生きた人形だ。リウィウスの王子ともあろう方をこんなめにあわせる権利が、チェルケン殿にあるのか――リウィウス人として、わたしは断固、抗議するぞ」
膝を床についた姿勢で、キルケスは朱を散らした顔をあげた。
「権利はある。セナ=ユリアとの婚礼は、わが同胞すべてのためになさなければならぬことだ。そのためには手段をえらばぬ」
「こんな手を使うなら、なぜ状況を説明して頼まないんだ。わたしが言葉をかわしたかぎりは、|聡《そう》|明《めい》な、物の道理のわかるお方だったぞ。お若いわりに世なれてらっしゃったし、この方ならば、われら同胞を|導《みちび》くにふさわしいお方だと思っていたのに――」
馬鹿めといわんばかりに、チェルケンは|唇《くちびる》をゆがめた。
聡明な、道理のわかる君主などわれらには必要ない。それよりはむしろ、|暗《あん》|愚《ぐ》のほうがどれだけのぞましいか。
口には出さなかったが、チェルケンの表情はそうしたことを雄弁に語っていた。
「そなたはラウスター人だから、リウィウスの王子を上にいただくことが許せないのか。だからこんなむごい|真似《ま ね》をして、そなたの|傀《かい》|儡《らい》として動かすつもりなのか」
キルケスは低い声で問いかけた。
「馬鹿めが、わからんやつだな」
今度はきっぱりと言葉にして、チェルケンは応じた。
「ラウスターだの、リウィウスだの、こだわっているのはおまえのほうだぞ、キルケス――セナ=ユリアも、リウィウスの王子も、わしは同じようにあつかっているつもりだ。わしはどちらでもいっこうにかまわぬ。一日も早く、セナ=ユリアが両方の血筋をひく子を産み、おまえのようなこだわりをもつ者たちを黙らせたいと思っているくらいだ。|異《い》|邦《ほう》の地に根をおろしても、まだかの地の出自にこだわっている者たちが少なくないゆえにな」
「ではなぜ、このお方を人形に仕立てあげたのだ。この方が意志をもつのが|邪《じゃ》|魔《ま》だったんじゃないのか」
なおもキルケスはくいさがった。いくらチェルケンの力が強くとも、このまま黙ってひきさがる気にはなれなかった。
セレウコアの宮殿で見知っていた、明るく|闊《かっ》|達《たつ》なリューを思い出すと、後悔が彼を責めたてた。
「わしも最初は説得をこころみた。おまえがこの青年を連れてきた直後のことだが――同胞たちをまとめ、ナクシットやセレウコアに打ちまけない勢力を築くため、ラウスターの王女と婚礼をあげてほしいと、まずは言葉やわらかに頼んだのだ」
|苦《にが》|々《にが》しくチェルケンは語りだした。
キルケスはうたがわしそうに、|老魔術師《ろうまじゅつし》を見つめた。
「それで、どうお答えになったのだ」
「いやだと、にべもなくことわられた。異邦の地で苦労している同胞の話をし、どうしてもそうしてほしいと|懇《こん》|願《がん》したが、きっぱりとことわられたぞ。過去のすべては捨てた身で、いかなるものにも|束《そく》|縛《ばく》されたくないとな――並み並みならぬ、強い意志の持ち主ではあったな。たしかに、若さに似あわず、骨のある青年といえばいえた」
実際はていねいに頼んだわけではなく、|虜囚《りょしゅう》として高圧的に命じたのだが、そのあたりのところは隠してチェルケンは言った。
しかし半分は本当のことだったので、真実の響きがあり、キルケスを混乱させた。
「ならば、わたしに説得の役をまかせてくれれば――」
「わしもそれは考えたがな――どうもこの青年は、おまえを|恨《うら》んでいる様子だったぞ。だまして連れてきたのはおまえだと、相当に怒っていたゆえ、説得は無理だとあきらめたのだ」
痛いところをつかれ、キルケスはおしだまった。
いつもそばにいた副将からもひきはなし、|拉《ら》|致《ち》するように連れてきたのだから、恨まれているとしてもおかしくはない。
「おまけにだ、考える時間をあたえようとしたところ――おまえの報告には腕がたつという項目はなかったゆえ、見張りをふたりしかつけなかったのが大きな失敗だった」
くぼんだ|頬《ほお》がひきつり、チェルケンは|苦《にが》い笑みで、|椅《い》|子《す》に寄りかかる青年をちらと見た。
「わしが目を離したすきに、この青年は見張りの武器を奪い、一方に重傷を負わせ、もう一方を人質にして脱出しようとしたのだ。
網でからめとって取りおさえるまでに、ほかにも五人の|怪《け》|我《が》|人《にん》を出したのだぞ――どうだ、これでは暗示をかけてでもおとなしくさせるしかあるまい。リウィウスの王子で、これからのわれわれにとって、なくてはならない人物でなければ、|拷《ごう》|問《もん》のうえに処刑しているのはまちがいないな」
さんざん手こずったのは確かだったので、チェルケンの言葉には実感がこもっていた。
当のリューの耳に入ってないのは、彼にとっては幸せだったかもしれない。
婚礼を強制され、それをことわると|牢《ろう》にほうりこまれたから、彼としても|人《ひと》|質《じち》を取って逃げようとしたのだが、チェルケンの話では、まるでどんな理のある言葉も聞きいれない狂暴な|獣《けもの》のようである。
「そんなことが……」
キルケスの抗議は封じられたかたちとなった。
彼も二、三度まみえただけで、リューの人となりをそれほど理解しているわけではなかったから、あえて反論できる材料もとぼしかった。
「さきほどおまえはむごいと言ったが、傷をおわされた者の半数以上が、まだ|床《とこ》を離れられないのだぞ。どちらがむごいといえるのだ、協力を|要《よう》|請《せい》する同胞に剣をふるった者だぞ、腕がたつからさらに始末が悪い――わたしの処置はやむをえないものだ、これだけ説明すれば、おまえも納得してくれるな」
やんわりと追いうちをかけながら、チェルケンは優しくささやいた。
「ずっとそなたがそばについて、このお方に暗示をかけつづけるのか。いくらそなたがすぐれた|魔術師《まじゅつし》とはいえ、婚礼だのなんのとなればいずれあやしまれるぞ」
「われわれの意向にさからう以上は、こうしてくりかえし暗示をかけ、やるべきことを命じるしかないな。セナ=ユリアのようにおとなしく従うようになればその必要はないが――わしの暗示の腕を信用するのだな。さいわいにして、この青年は見てくれもいい、セナ=ユリアにまさるとも劣らない高貴な君主として、見事に演出してやろう」
キルケスはうずくまったまま、ふたたび頭をたれた。
セナ=ユリアと婚礼をあげ、この地にとどまってくれることが彼の望みでもあった。
そこまでしてリューが拒否し、逃げだそうとするならば、チェルケンのとった行為も仕方ないのではないかという思いも頭をかすめた。
いかなる場合も個人の意思を尊重し、まわりの|思《おも》|惑《わく》によって動かすべきではないとまでは、キルケスにも主張しきれないものがあった。
心のどこかでは、月よりきたる同胞のためだという理由で、リューの意思をねじまげ、望まない婚礼をしいるのはまちがいだと思う部分もあったが、口には出せなかった。
助手のアタルクに|椅《い》|子《す》の背を押され、眠ったままのリューは運ばれていった。
どんな事情があろうと、いかに高貴な衣装につつまれて人々の前に披露されようと、いたましい姿にはちがいなかった。
キルケスはそっと涙をぬぐった。椅子の金色のうしろ姿は、ぼやけてかすんでいった。
6章 手がかり探し
|歓喜宮《かんききゅう》の一室で、グリフォンは|苛《いら》|立《だ》っていた。
「お願いだから、そんなふうに歩きまわるのはやめてもらえませんか」
|徘《はい》|徊《かい》する大きな足音に、エリアードは文句をつけた。彼もまたおおいに苛立っていたので、言い方もとげとげしくなる。
「しかし、とてもじっとしてはいられんのだ」
グリフォンはかさの多い銅色のふさふさした髪を両手でかきむしった。そうしているあいだだけ、足はとまった。
「べつに歩きまわったところで、いい考えがうかぶわけではないでしょう。それなら、たまには座ってみたら、気分も新たになるかもしれませんよ。まわりも迷惑しませんしね」
隣にある|肘《ひじ》もたれつきの|椅《い》|子《す》を、エリアードは冷ややかに指さした。
「もとはといえば、あなたがたが、同胞だという理由であのキルケスをかばい、口をつぐんでいたのが原因じゃないか」
みだれた髪のあいだから、グリフォンは彼をにらみつけた。
「|月《げつ》|炎《えん》|石《せき》が盗まれた時点で、キルケスのことを教えてくれれば、少なくともリューシディク殿がさらわれるのは防げていたかもしれないんだぞ」
何も知らず、必死に宮殿内の捜索をしていたときの苦労を思い出し、グリフォンの|眉《まゆ》はいっそう吊りあがった。
「それは申しわけなかったと、何度もあやまりました――けれど、あえて黙っていたわたしたちの立場も察してください。わたしたちをもてなしながらも|虜囚《りょしゅう》としたセレウコアと、脱出を手伝ってくれるという同胞のキルケスをくらべてみれば、あの時点でどちらに好意をもち、どちらを信用するかといえば、まあ無理もない選択でしょう」
今でもまだ申しわけないと思っていたので、エリアードは少し声を落とした。
「セレウコアを信用しないのは仕方があるまい。しかしあなたがたは――シェクで出会い、アルルスに向かう街道からともに旅してきたわたしも信用してなかったのだ。わたしにだけでもそっと教えてくれれば、皇帝にも内密に処理できたものを」
おおげさな身ぶりでグリフォンは嘆いた。
「あれだけあなたがたの身を案じ、ともに旅する仲間だったと思っていたのに――まったくひどい仕打ちだ。母上の代から|仕《つか》えていた重臣に裏切られたのもこたえたが、あなたがたまで知っていて知らぬふりをしていたとわかったときは――衝撃なんてものじゃなかったぞ」
この数日のあいだ、少なくとも日に何度か、さらわれた当初は耳にタコができるほど聞かされた非難である。
ひととおりの文句が終わるまで、エリアードは仕方なく黙っていた。
たしかにグリフォンが怒るのも無理はないといえる。
こんな|埒《らち》のあかないやりとりをくりかえしているのも、リューと月炎石をともなって姿を消した重臣の|行《ゆく》|方《え》が、いっこうにはっきりしないせいだ。
グリフォンは高位の観相師として、この数日のあいだ文句ばかりを言いつづけ、手をこまねいていたわけではない。
宮殿内で可能なわざはすべて試してみた。いろいろやってみたが、たいした効果は得られなかった。
致命的だったのは、キルケスが巧妙に、捜索の手がかりとなりそうなものを消し、混乱させるものをわざと置いていったことだ。
|白魔術《しろまじゅつ》をひととおり修め、グリフォンの身近で観相師のやり方も観察していたキルケスならではの、周到な後始末である。
キルケスはまったくのしろうとのふりをしてきたので、グリフォンも事がおきるまで彼を警戒していなかった。
同胞の者であるだけでなく、魔術師としての修練を積んでいることも黙っていたエリアードには、また新たな非難の嵐がふりかかった。
相手をしろうとだと思っていなければ、こうまで裏をかかれずにすんだはずだというのがグリフォンの主張だ。
よくも二十年のあいだ、あざむきつづけてきたものだと、エリアードは同胞ゆえに感心したところもあったが、黙っていた。今はグリフォンの|機《き》|嫌《げん》を、これ以上そこねたくはなかった。
どこかに、〈月の民〉のひそんでいる隠れ家[#「隠れ家」に傍点]のようなところがあり、キルケスはそこに行ったのではないかというのが、これまでにわかった|輪《りん》|郭《かく》である。
ナクシット教団にとらわれたわけではなく、キルケスもついていることだから、とりあえずリューの身は安全だろうと、その点だけエリアードは安心していた。
彼の身分や立場からいって、キルケスや同胞たちに殺されたり、危害をくわえられたりすることはないだろうと。緑園の|四阿《あずまや》で話したときの、キルケスの敬意は本物だった。
|遡及《そきゅう》のわざで行方を追うには、その人物の残したものが必要である。
しかしキルケスは二十年も|歓喜宮《かんききゅう》に|仕《つか》えてきて、そうしたたぐいのものを何ひとつとして残していなかった。
血でしるした署名や証文などはもちろんのこと、私室や執務室にも髪の毛すら落ちていない。食べのこしの食物とか、汗のしみついた衣類なども見あたらなかった。
かろうじて手がかりとなりそうなものは、リューの残したひとつかみの髪だけだ。
イェシルと飲みくらべをしていたときに、ふざけてむしられたその|金褐色《きんかっしょく》の髪は、清掃に来た|侍《じ》|女《じょ》たちの目をのがれて、|長《なが》|椅《い》|子《す》の下に落ちていた。
ざっと十本以上あり、ぬかれたときはかなり痛かっただろうとエリアードは同情したが、ひどく酔っぱらっていたから、感覚もなかったかもしれないと、すぐに思いなおした。
その髪を用いて、グリフォンは持ち主の行く先を調べてみた。
観相板にあらわれたのは、おぼろげな北方の山影のみである。
ベル・ダウ山脈のどこからしいが、髪の毛ではあまりはっきりした|遡及《そきゅう》の効果は得られない。とくに距離がへだたっている場合はむずかしかった。
「ベル・ダウに行ってみようかと思うのですが――」
一連のグリフォンの非難がとぎれたすきに、エリアードは口をはさんだ。
とんでもないと、グリフォンは大きな眼を|剥《む》く。
「ひと口にベル・ダウといっても、どれだけ広いのかご存じか」
「地図を見れば、ある程度は想像できますね。無謀だとはわかっていますが――ここでこうやって、あなたと口論しながら、無為の時をすごしているよりは、いくらかましだと思いまして」
エリアードはやわらかくほほえみながら、|皮《ひ》|肉《にく》った。
思いがけなくやりかえされて、ややぎょっとしたように、グリフォンは彼を見た。
彼の柔和な美貌とひかえめな態度に気を許していると、相手はときどき手痛い反撃に出合うことがあった。
「……悪かった、つい|苛《いら》|立《だ》ちをあなたにぶつけていたようだ。たしかにこんなことをくりかえしていても、なんの解決にもならん」
素直にグリフォンは反省した。|頑《がん》|固《こ》ながらも、彼にはすぐに自分の非をみとめる可愛げがあった。
だからこうして|愚《ぐ》|痴《ち》や非難につきあい、|歓喜宮《かんききゅう》にとどまっているのだろうとエリアードは思った。グリフォンがいなければすぐにでも、相棒の|行《ゆく》|方《え》をさがすためにあてもなく飛びだしていたにちがいない。
あせる気持ちや、いても立ってもいられない|焦燥感《しょうそうかん》を、グリフォンとのやりとりでまぎらしているのも否定できなかった。リューが聞いたら怒るだろうが、彼らのどこか似たところがエリアードをなぐさめていた。
「ベル・ダウといえば、ひとつ策がないこともない。あなたはいやがるかもしれないと、これまで口にしなかったが」
ためらいながら、グリフォンはきりだした。
「わら[#「わら」に傍点]にもすがる思いだから、ぜいたくやわがままは言いませんよ。なんでも話してみてください」
「山のふもとにある北西の村々が、ナクシット教団に占領されているのはご存じだな。各町や都から集まりだした信徒たちはそのあたりをめざしていて、勢力はますます広がっている。セレウコアとしても、あまり放置してはいられない――わたしは皇帝をつついて、正規の|征《せい》|伐《ばつ》|隊《たい》を出してもらおうかと考えている。以前からそうした提案は重臣たちからも出ているのだが、皇帝の腰が重いのだ。
もしベル・ダウ一帯を捜索しなければならないなら、その隊とともに行くのがいろいろな面で効率がいいにはちがいない」
セレウコアの力をそんな形で借りるのは不本意だったので、エリアードは返答に困った。
しかしどうしても相棒を取りもどすのに必要とあらば、セレウコアでもなんでも利用するつもりだった。
「すべてはベル・ダウをさしているのかもしれない。髪の毛のしめした行く先も、集結しつつあるナクシットの信徒たちも、セレウコアの征伐隊も――何か、そのあたりでおこるということかな、悪い予感がしてならないが」
ひとりごとめいてエリアードはつぶやいた。
「もしあなたがベル・ダウへ行く気になっても、けっしてひとりでは行かないと約束してくれないか」
グリフォンは彼の前に|膝《ひざ》をつき、その手をにぎりしめた。
「なぜですか、わたしもまだ、セレウコアの|虜囚《りょしゅう》だというわけかな」
また怒らせてしまうかと思ったが、エリアードは黙っていられず、|皮《ひ》|肉《にく》を加えた。
グリフォンは悲しげに|眉《まゆ》を寄せ、にぎる手に力をこめた。
「ちがう。わたしもともに行きたいからだ。皇帝から|勘《かん》|当《どう》されたとしても、あなたをひとりで行かせはしない――もちろん皇帝が、あなたを|歓喜宮《かんききゅう》から出さないというなら、わたしは反逆の徒となっても、あなたの自由は保障する」
「反逆とはおおげさだな――あなたの誠意はわかりましたから、そうした不穏な発言は声を低めてくれませんか」
エリアードは笑って、彼の手を押しもどした。力が強いので、にぎられたところはしびれている。
「あなたはまだわたしを、共通の目的をもつ仲間だとはみとめてくれないのだな。おそらく信頼もしてくれてないのだろう」
気落ちしたようにグリフォンはつぶやいた。何度も非難したのは、彼がそのことにひどく傷ついていたせいでもあるらしい。
「今はたぶん、同胞であるキルケスやその一味より、あなたのほうを信頼していますよ」
あまりなぐさめにならないかもしれないが、エリアードはそうなだめておいた。
「行くならもちろん、あたしも連れていってくれるでしょう」
突然、|扉《とびら》のほうから声がして、ふたりは驚いた。
ひらいた|扉《とびら》の|隙《すき》|間《ま》をすりぬけるようにして、アルダリアの|女泥棒《おんなどろぼう》が入ってきた。
|歓喜宮《かんききゅう》の衛兵姿もけっこう板についていたが、何かをたくらんでいるような表情は泥棒のときのままである。
「……立ち聞きしていたのか?」
グリフォンは大きな眼を白黒させた。彼はあいかわらずイェシルが|苦《にが》|手《て》のようだ。
「べつにそんなつもりはなかったけれど、あんな大きな声で話してたら、まる聞こえよ。あたしのほかに衛兵が歩いてなかったことを感謝したほうがいいわね」
イェシルは踊りのステップを踏むように、部屋の中央に進みでる。
「早く部署にもどれ。歓喜宮の衛兵である以上、わたしの命令に従ってもらうぞ」
気をとりなおし、グリフォンは言いわたした。
「このあたりを見張っているのがあたしの仕事よ。少しくらい、ここにいたっていいと思うわ。だって――反逆[#「反逆」に傍点]とか、謀反[#「謀反」に傍点]とか、衛兵としては聞きすごすことのできない言葉がもれてきたのだから、確かめる必要はあるでしょう」
手にした|槍《やり》を置き、イェシルはふたりを交互に見た。
グリフォンは顔をしかめ、頭痛をこらえるかのごとく、|額《ひたい》に片手をあてた。
「連れていくとはいっても、どこへ行こうとしているのか、わかってるんですか」
エリアードは助け船を出してやった。
「ベル・ダウでしょう、〈世界の屋根〉とか呼ばれてる」
「でもそれだけでは広すぎて、どうしようもないんですよ」
イェシルはきっ[#「きっ」に傍点]と彼をにらんだ。
「とにかく行ってみればいいじゃないの。こんなところで役に立たない手品や、くだらない議論をくりかえしてるより、行く先々で情報を集めたり、話でも聞いたりしていたほうがよっぽどましよ」
その真剣な口調から、イェシルが衛兵をつとめながらも、ずっと心配していたのがみてとれた。
ときどきグリフォンを脅したりして、捜索の進行を尋ねたりしていたのも、いやがらせやひまつぶしではなかったようだ。
「それは一理ありますね。わたしも何度か、そうしたくなったことはある」
おだやかにエリアードは応じた。
グリフォンのほうは、観相師のわざを手品よばわりされ、怒りをおさえるのに四苦八苦していた。
「気どってるんじゃないわよ、今日こそは言ってやるわ――あんたたちは口ばっかりの|愚《ぐ》|図《ず》よ、愚図!」
両足をふんばり、イェシルはふたりを見すえた。文句があるなら、かかってこいといわんばかりの態度だ。
「……|愚《ぐ》|図《ず》は、ひどいと思うな」
これにはエリアードもたまらず、グリフォンにならって、指先で|額《ひたい》を押さえた。本来なら痛いのは耳のほうで、そちらを押さえたい気持ちになった。
「いったいあんたたちは、本気で救いだすつもりがあるの、このままなりゆきにまかせておく気なんじゃないの――やわな姫君じゃあるまいし、さらわれたりするあいつが悪いのよ。でもあんたたちのこの数日のやり方は、あんまりだと思うわ」
多少は言葉をやわらげて、イェシルはつけ加えた。
「とりあえず身は安全だから、こうして策を練っているわけです。やみくもに動くよりはいいと判断して」
弱々しくエリアードは反論した。
愚図だという指摘はあたっていないこともないので、どうしても迫力では彼女に負けてしまう。
「安全だなんて、神さまでもないのにどうしてそんなことが言えるの。状況なんて、どう変わるかわかったもんじゃないわよ。タウとの戦いのときだって、|生命《い の ち》は保障すると連れていかれた|捕《ほ》|虜《りょ》たちが、方針が変わったというだけで|惨《ざん》|殺《さつ》されたわ」
イェシルはきつい薄緑の眼を細めた。
「それに――宮殿にいるアルダリアの同胞から、妙な|噂《うわさ》を聞いたわ。あたしたちのあいだには、独特の情報網があるのよ――ベル・ダウの近辺でそのうち大きな戦いがおこりそうだから、ひさしぶりに|傭《よう》|兵《へい》の口がありそうだってね」
これにはエリアードも身をのりだし、グリフォンも仕方なく、そむけていた顔を向けた。
「ナクシットが信徒だけでなく、傭兵もつのろうというのか」
信じられないというように、グリフォンは問いかえした。
ナクシット教団は北西の村を占領するときも、武装した信徒たち以外の手は借りなかった。教団内で組織する暗殺団もいくつかあるが、信徒でない者を仲間に加えることはほとんどないという。
アルルスの分教所で、暗示をかけたアルダリア人の衛兵を使っていたのは例外中の例外だった。
あるいはこれまでの慣習をくつがえすほどの危機意識が、教団にはあるのかもしれなかった。
「噂の出所が、ナクシット教団だとは言ってなかったわ。はっきりしないけれど、不穏な感じがするのは確かでしょう――あんたたちが、どうしてそうも|呑《のん》|気《き》にしてるのか、理解できないわ」
「――調べてみる必要がありますね。状況は変わってきているのかもしれない」
エリアードは考えこんだ。
これまで彼は、キルケスがもどっていったところはささやかな隠れ家[#「隠れ家」に傍点]のようなところで、同胞たちが集まっているとはいっても、それほどの数ではあるまいと思いこんでいた。
この地に来て出会った〈月の民〉と称する人々はごく少数で、彼はそうした固定観念からぬけきれていなかった。
もしかしたらそれは、ナクシット教団をおびやかす規模のものではないかと、彼は視界がひらけるように考えはじめていた。
何度も彼らが教団から狙われた背景には、予言とか、力ある石のせいだけではなく、そうしたもっと具体的なことがあるのではないのかと。
「あたしにまかせてくれれば、都の下町でもっとくわしく調べてあげるよ。もっともあたしは、今じゃ|宮《みや》|仕《づか》えの身だから、こちらの大将の外出許可が必要だけど」
イェシルは熱心に言った。
「許可ならすぐに出す。なんなら、わたしの使いだという証書を作らせよう」
すぐにグリフォンは応じる。彼としては|苦《にが》|手《て》な彼女に、せいいっぱいの申し出をしたつもりだった。
「使いの証書なんてけっこうよ。アルダリア人にものを尋ねるときに、そんなものがあったら逆効果だわ。お|上《かみ》のやることにはひどく警戒心が強いのよ」
「しかし……」
「あんたって、前から思ってたけれど、身分を捨てた一介の観相師だとか言ってるくせに、妙なところでセレウコアの権威をたのみとしているみたいね」
軽くイェシルは|一蹴《いっしゅう》した。
怒りをこらえるのに、グリフォンはうつむいた。さきほどは浅黒い|頬《ほお》に赤みがさしたが、今度は血の気がひいたように、赤くなったり青くなったりしている。
反論しようにも痛いところをつかれていて、|饒舌《じょうぜつ》な彼にとっては|拷《ごう》|問《もん》にちかい沈黙だった。
「その点、あいつは態度が|首《しゅ》|尾《び》|一《いっ》|貫《かん》していたわ。最初は、なんていいかげんなやつだと思ったけれど、いいかげんさに筋が通っていたのよね。どんな権威も気にしてなかったし、利用してやろうともしないかわりに、利用されるのも拒否していた」
故人をなつかしむような口調で、イェシルはつぶやいた。
リューがいなくなってから、いかに彼女がそのことを気にしていたか、はからずも|吐《と》|露《ろ》してしまったような深いため息とともに。
「ありがとう、あなたは彼のよき理解者のようだ――けれど当人の前ではあまり言わないでくださいね。ただでさえうぬぼれぎみですから」
エリアードは立ちあがって、彼女の肩にそっと手を置いた。
彼はずっと感動すらおぼえながら、一連の彼女の|啖《たん》|呵《か》を聞いていた。グリフォンには少し気のどくかとも思っていたが。
「心配してくださっているのは、よくわかりました。わたしたちがぐずぐずしているのが腹立たしいのも」
「わかるだけではなんにもならないわ――ベル・ダウに行くのでしょう?」
肩の手をはらおうとしたが、なんとなくできなくなって、イェシルは視線をそらした。
「ええ、|傭《よう》|兵《へい》集めの|噂《うわさ》には何かにおいます。準備がととのい次第、行くつもりですよ」
「――あたしも行くわ」
気をとりなおしたイェシルは、ほとんど|背《せ》|丈《たけ》の変わらない相手につめよった。セレウコアでは長身の部類に入るエリアードも、このアルダリアの女戦士の前では|華《きゃ》|奢《しゃ》にみえる。
「連れてってよ、こんなところでじっとしてられないわ」
「あなたのような人から、それほどまでに想われるとは幸せですね。うらやましいかぎりだ」
エリアードは彼女の肩から手をはずし、そのかわりのようにきつい眼をのぞきこんだ。
次の言葉が出てこなくなって、イェシルはどぎまぎした。
彼は|真面目《ま じ め》で、うわついたところもあまりなかったが、その容貌から発してしまう磁場のようなものがあった。彼自身はまったく意識してなくても、相手にしてみればあやしく誘われているふうに感じられてしまうような。
「もう……なんとも思ってやしないわ、あんなやつ」
すぐ近くから見つめられているうちに、|頬《ほお》が紅潮してきて、イェシルは眼をふせた。
アルルスの北の丘で、はじめて会ったときのようだった。あのときも、親密なときをすごしたリューの存在すら忘れて、話に聞いていた美貌の連れに見とれてしまっていた。
「でも、あなたの態度は、その言葉を裏切ってますよ」
照れているのだと思い、エリアードはほほえんだ。イェシルが頬を赤らめたのは、心配していたのを指摘されたせいだけだと彼は思っていた。
「どうでもいいのよ、あいつのことなんか――ただ、ひとこと言ってやりたいことがあるだけ……。このまま死なれたりしたら、心残りだわ」
本当にどうでもいいように、イェシルはつぶやいた。
「どんなことですか――冷たくしたけれど、ずっと好きだったと?」
複雑な気持ちをにじませながら、彼は黙っていられず、小声で尋ねた。
イェシルの黒っぽい片頬が動き、白金の|眉《まゆ》が吊りあがった。
ほとんどそれと同時に、しなやかな左手が飛んだ。
エリアードはのけぞって頬を押さえた。まさか殴られるとは思っていなかったので、彼は痛みも忘れ、|茫《ぼう》|然《ぜん》としている。
「右手でなかったことを感謝するがいい――あんたはあいつのいい相棒よ。無礼なところはそっくり」
義手ではない左手をにぎりしめ、イェシルは憤然と言いはなった。
何に対して怒ったのか、彼女にもよくわからなかった。彼のはなつ磁場にからめとられて、冷静でいられないことがくやしかったのかもしれなかった。
「わたしの考えちがいでしょうか――それにしても、殴られるほど無礼なことは言ってないと思うけどな」
エリアードは弱々しく問いなおした。
「あいつに言ってやりたいことがあるなら、これだけよ――狙われてるのがわかってるくせに、やすやすとさらわれるなんて、このどじ[#「どじ」に傍点]、まぬけ[#「まぬけ」に傍点]!」
それを捨てぜりふにして、イェシルは立てかけた|槍《やり》を手にさっさと出ていった。
赤くなった頬をさすりながら、エリアードは腕組みしたままのグリフォンと顔を見あわせた。
イェシルと入れかわるようにして、|侍女長《じじょちょう》が太った腰をゆらしながら入ってきた。
すぐに用件がわかったエリアードは、うんざりぎみに髪をかきあげ、|椅《い》|子《す》に座りこんだ。
「ナナイヤ様が、今朝ほどからお捜しでございますよ。即刻、お部屋まで出むきなさい」
|顎《あご》をそらし、|侍女長《じじょちょう》は命じた。
「お呼びがあるまで、自室で待機してなさいと昨日も申しわたしておいたはずです。ナナイヤ様のご寛大さをよいことに、そなたの態度は無礼にもほどがありますよ」
歓迎の|宴《うたげ》のおりの勘ちがいはまだ尾をひいていて、エリアードはことあるごとに姫君の相手をさせられた。
緑園の散歩のつきそいや、盤遊びや衣装えらびなどにかこつけて|頻《ひん》|繁《ぱん》に呼びつけられ、ことわりきれずつきあうはめになっていた。
皇帝もこのわがままな|従妹《い と こ》には手をやいているようで、まあさしたる実害はなかろうと知らんふりをしている。
「前にもくりかえしたように、わたしは多忙の身だ。ナナイヤ姫にはそのように伝えてくれないか」
|椅《い》|子《す》で脚を組み、侍女長の迫力に負けないくらいにふんぞりかえって、エリアードは応じた。
「そうそう、この方とわたしには、まだやるべきことが山積みになっているのだ」
グリフォンも横から口ぞえした。
「そなたも多少は聞きしってはおろうが、宝物の盗難と、客人の|失《しっ》|踪《そう》の件を解決すべく、われらはさらなる相談をかさねなければならない」
しかし侍女長は動じない。
「それは順序が逆でございますよ、グリフォール様――|歓喜宮《かんききゅう》においては、まず最優先にするのが、皇帝殿下のご用事、その次が皇女殿下、その次がナナイヤ様となっております。あなた様のご用事が、ナナイヤ様のお呼びだしをさまたげることはできません」
かつてのさまざまな|屈辱《くつじょく》がよみがえり、グリフォンは侍女長をにらみすえた。
その大きな眼にもひるまず、侍女長もあなどるような視線をかえす。
「わたしはこれから、皇帝殿下にお目どおりを願わねばならない。つまり、あなたのいう最優先の用事になると思うが」
にらみあいにきりをつけるかのごとく、エリアードはきっぱりと言った。
イェシルに|愚《ぐ》|図《ず》と非難されたせいだけでなく、彼は心から、この|埒《らち》のあかない状況に|嫌《いや》|気《け》がさしてきた。
侍女長の返答を待たず、彼はイェシルでない衛兵を呼びよせ、皇帝への取りつぎを頼んだ。
セレウコア皇帝ルイフォールもこの事態を|憂《ゆう》|慮《りょ》していたので、弟にまかせきりにして、手をこまねいていたわけではなかった。
ナクシット教団の不穏な動きに対して、大がかりな出兵も計画していたし、さらわれた客人の|行《ゆく》|方《え》も捜させていた。
しかし領土内の各町や、街道にもうけた関門所からもたらされる報告に目新しいものはなく、姿を消した重臣や、リューらしい者を見かけたという情報もなかった。
入ってくるのは、ナクシットの信徒たちの集団移動の報告ばかりである。
アルルス近くの街道では、徒党を組んだ数十人の信徒をひきとめ、行く先や理由を問いただしていたところ、関門所の建物ごと焼きうちされて逃げられたという事件もあった。
セレウコアの下町ではそれとは反対に、ナクシットの分教所のいくつかが、都人の手によって打ちこわされてもいた。
黒い建物の中で、|得《え》|体《たい》のしれない祈りや儀式にあけくれているナクシットの徒たちに、つね日ごろから反感や|嫌《けん》|悪《お》をもっていたセレウコア人も多く、ここにきていくつかの私刑や|闇《やみ》|討《う》ち事件もおきていた。
信徒たちがいっせいにベル・ダウめざして移動をはじめたのも、こうした|虐待《ぎゃくたい》からのがれるためだという説も出ている。
まだ都にとどまっている信徒から、衛兵たちが手荒く移動のわけを問いただしても、ナクシットのお告げを聞いたとくりかえすだけだ。
もともとナクシットの信徒たちは、上層部をのぞけば狂信・盲信の徒で、なんの疑問をさしはさむことなく教えに従うのがあたりまえだったから、お告げひとつで移動するのも不思議ではないのかもしれなかった。
セレウコアは広範囲の多民族国家で、関税さえ納めれば、東西のどんな出身の者でも自由に活動させておいた。
しかし半年ほど前、ナクシットの不穏な動きがおこってからは、方針の変更を余儀なくされていた。ここにきてまた、信徒たちの集団移動が近隣に不安を与えている。
主要な箇所にもうけられた関門所の取り調べはより強化され、町や街道を守る兵も増やすことになった。
そのようなことは皇帝にしては不本意なことだった。
セレウコアの|安《あん》|閑《かん》とした繁栄の日々も終わるのかと、皇帝は気分を沈ませていた。
グリフォンにつつかれなくとも、ベル・ダウに集結しつつあるナクシット教団は見すごせなかった。
目的がわからないだけに、数がふえていくのは|不《ぶ》|気《き》|味《み》で、セレウコア全体に不穏な空気をいだかせはじめていた。
歓迎の|宴《うたげ》を最後に、皇帝は連日のようにおこなわれていた宴もとりやめ、かわりに重臣たちによる対策会議が、|晩《ばん》|餐《さん》とともにひらかれていた。余興もあり、料理も|贅《ぜい》をつくしたもので、宴の延長ともいえた。
もうひとつ、皇帝の命によって、セレウコアじゅうの高名な予言者と占者が|歓喜宮《かんききゅう》に集められていた。
ナクシット教団の今後の動きのみならず、|失《しっ》|踪《そう》した客人の|行《ゆく》|方《え》を彼らに予測させるためである。
予言や|占《うらな》いにはほとんど重きをおいていないグリフォンはこれに反対したが、いっこうに捜索がはかどってない以上、あまり強いことも言えずにいた。
皇帝も、観相師としての弟を信頼してないわけではなかったが、ほかの方法をこころみても悪くないと考えていた。
エリアードとグリフォンが皇帝の居間におもむいたときには、そうして集められた予言者、占者たちが列をなしていた。
ざっとその連中をながめ、グリフォンは顔をしかめた。
知っている者もいたが、見るからにうさんくさそうな者もまじっていた。
|辻《つじ》占い師ていどの者も、|噂《うわさ》を聞いてやってきたらしい。
「お捜しのお方は東にいらっしゃいます。お|生命《い の ち》には別状はないかと存じます」
列の端の占者が重々しく告げた。木片占いを得意とする者らしく、細い棒の入った木製の筒を腰からつるしている。
「――次、キュルス通りのアフザ」
筆記係が告げられた内容を書きとめ、重臣のひとりが順番に名を呼んだ。
玉座の皇帝は耳をかたむけ、いちいちうなずいている。
「捜しもの――捜しものは、北にございます。光り輝く、たぐいまれなるもの、まわりにかしずく大勢の者が見えまする」
セレウコアの都では名が知られている予言者が、もったいぶって告げた。
予言や予知は、呼べばこたえるようにおとずれるものではなく、内容もあらかじめ得ていたものにちがいないが、演出効果を高めるためか、神おろしをする|巫《み》|女《こ》のように語っている。
グリフォンにしてみれば、そうした|芝《しば》|居《い》がかったところがきらいで、信用がおけないように感じるのだが、しろうとの皇帝や重臣たちは一種の見せもののように楽しんでいた。
「教団はさらに北へと進みます。目指しているのは、ベリトゥス高原あたりでございますでしょう」
「近く、大きな出来事がございます。それはセレウコアをも巻きこむものでございましょう」
「お捜しのお方はベル・ダウの|山《さん》|麓《ろく》付近で、病に倒れてらっしゃいます。不吉な暗雲がその頭上で渦を巻き、必死に助けを求めてらっしゃいますが、救出はむずかしいかと……」
「ナクシット|討《とう》|伐《ばつ》の進軍は、北東には淡き影、北西に雲間の光、真北には|稲光《いなびかり》と出ております。おそれながら、北西の方角がのぞましいかと」
「お捜しのものは、見つかるとも、もどらず――そのようにあらわれてございます」
などなど、告げられた言葉には共通するところがいくつかあるにしても、ほとんどはまったく異なっていた。
絶望的なものもあれば、楽天的すぎるのではないかと思うようなものもあった。
「今までのところで多数決を採り、まとめてみるとよい」
列をなした予言者、占者の一群がひきあげると、皇帝は筆記係に命じた。
グリフォンはあきれて言葉もなかった。
どうやらこのこころみは、皇帝にとって、|宴《うたげ》の余興とそれほど変わらないもののようだ。宴でさわいでいるよりは、多少の役に立つとはじめたらしい。
それでも、しろうと考えで、あやしげな予言や|占《うらな》いにやたらと頼るよりはましかと、グリフォンは思いなおした。
皇帝はきわめて合理的な考えの持ち主で、これまでも側近に予言者のたぐいをおいて重んじたことはなかった。
「捜している者は、北東の方角で、まずは無事でいる、ナクシット教団もまた北東を目指している。そのふたつの要素があわさるときに、変革なり、災害なり、重大事件がおこる――最大公約数的にまとめるならば、このようになりましょうか」
筆記係はしばらくしてのちに、そうまとめて返答した。
「そういうことだ、参考にしたいなら、するがよい」
皇帝はグリフォンに声をかけた。
「わかったような、わからないような、ですね。占いなどというものは、たいがいそうしたものですが――北東に何かありそうなことぐらいは、参考になるかもしれませんね」
待たされて|苛《いら》|立《だ》っていたグリフォンは、ぶっきらぼうにそう応じた。
「用件はなんだ、新たな展開があったか」
「ありました、画期的なものとは残念ながらいきませんが」
グリフォンは|傭《よう》|兵《へい》を集めているらしい動きについて、兄に報告した。
「それで、というわけではありませんが、かねてよりお願いしていた出立の件を、お許しいただきたいとまいりました。こちらのエリアード殿も同行ねがうつもりです」
横に立ち、エリアードも皇帝に一礼した。許可が出なければ、とびだすのみだと思いながら。
「ならばちょうどよい。大隊ひとつをまかせよう。そなたたちで思うように動かしてもかまわぬ――ベル・ダウ方面への出兵は、重臣たちとの会議でもすでに承認を得て、わたしが最終命令をくだすのみとなっている」
渡りに船といった調子で、皇帝はきりだした。
「おそれながら、それはわたしの目的とは反します――|失《しっ》|踪《そう》した同行の者をとりもどすのが、わたしの最大の目的ですから、身軽な身で関連したところを探ってみたいのです」
エリアードは即座に申し出をことわった。わたしたち[#「わたしたち」に傍点]ではなく、わたし[#「わたし」に傍点]という言い方をしたのは、グリフォンが|征《せい》|伐《ばつ》|隊《たい》を率いるぶんには口出しする気がなかったからである。
「むしろ、目的が異なっているほうがのぞましいのだ。ナクシット教団の狙いが今ひとつはっきりしないゆえ、正面きっての出兵はさけたいとわたしは考えている。重臣連は、甘く出ていればあなどられるという意見が少なくないがな」
ことわられても、皇帝は平然としていた。
「簡単にいえば、捜索をおもてむきの隠れみのにしろということでしょうか」
「本当に捜索のみをおこなってもよいのだ。セレウコアとしては、出兵したということに意味がある。それだけで、目的のなかば以上は達せられることになるのだ――北西の村々を占領したナクシット教団を|威《い》|嚇《かく》し、にらみをきかしつつ、民衆の不安を静める、というところが主たるものだからな」
皇帝は|宴《うたげ》のときと変わらない口ぶりでつづける。
「しかし最初から、征伐を目的として出兵すれば、何もしないでもどることはできまい。ナクシット側にも威嚇にはとどまらず、|脅威《きょうい》や危機感をあたえ、必要のない戦いを余儀なくされる可能性が強い――のぞましいといったのはそうしたことからだ。引きうけてもらえるとうれしく思うが」
ここまで低姿勢に理を尽くされると、エリアードも気持ちが動いた。
手厚くもてなされていることもあり、むげに拒否するのもむずかしい。
「いいえ、兄上、われわれを使わずとも、|征《せい》|伐《ばつ》ではない、ほかの名目はいくらでも見つけられるでしょう――大隊をつけていただく必要はありません」
かわってグリフォンがこたえた。彼はエリアードとちがって、われわれ[#「われわれ」に傍点]という言い方をした。
「おまえならそう言うと思ったが――ふたりきりでおもむき、あて[#「あて」に傍点]や勝算はあるのか」
やはり動じることなく、皇帝は静かに問いかけた。
「大勢の兵を引きつれていくよりは、あると確信しております」
グリフォンはそう告げながら、イェシルの言葉を思い出していた。
どこかでセレウコアの権威をたのみとしているという彼女の指摘は、今もするどく胸につきささっていた。
ベル・ダウ行きについての彼の迷いをはらってくれたひとことでもあり、今となっては彼女に感謝していた。
「――出立を許可する。思ったままにやってみるとよい」
皇帝は弟に告げた。そしてエリアードのほうに視線を向けた。
「あなたは客人だ。わたしに許可を求める必要はない。グリフォールとともに行かれるなり、単独で出発されるなり、どちらでもかまわないが――」
そこで皇帝は、笑みをうかべた。
「ナナイヤはなだめておいてほしい。なぜ黙ってあなたを行かせたかと、あとで責められたくはないゆえ」
「わかりました、なんとかいたします」
皇帝の寛大さにいたみいって、エリアードは頭をたれた。
「もうひとつ、約束してほしいのだが――リューシディク殿を救出されたなら、おふたりでわがもとを訪れてくれ。まだ語りあいたいこともいろいろあったゆえ、心残りなのだ」
|歓喜宮《かんききゅう》にとどめておきながら、守りとおせなかった申しわけなさをあらわしながら、皇帝は頼んだ。リューは同胞たちによってさらわれたのであり、セレウコアの皇帝が責任を感じることではなかったが。
「状況が許せば、そのようにするとお約束します」
床を見つめたまま、エリアードは慎重に応じた。
そんな先のことまで考えられなかったが、皇帝の厚意にはむくいたいと思っていた。
「ベル・ダウには別の者を将とし、近いうちに大隊規模の兵を出すことになるだろう。もしも何か力が必要なおりには、遠慮なく頼るがよい」
最後まで寛大に、皇帝は結んだ。
グリフォンが退出しようとすると、控えの間で待ちかまえていた男がいた。
「ベル・ダウへお行きになることが決まりましたか、グリフォール殿下」
|口《くち》|髭《ひげ》をたくわえた男は、中腰のままで尋ねてきた。重臣の子息で、近ごろよく|歓喜宮《かんききゅう》へ伺候するようになったエラスという青年である。グリフォンとそれほど年も変わらなかった。
「ああ、近いうちに出発するが」
けげんそうにグリフォンは応じる。
それを聞いて、エラスは床に|膝《ひざ》をついた。
「ぜひとも、わたくしを副将に任じてください。北方の国境警備には数年前より従事しておりましたゆえ、ベル・ダウ付近の地理には通じております――わたくしの任期中ならば、ナクシット教団などに北西の村を占領されはしなかったと断言できます」
「何か誤解しているな。わたしは隊とは関係なく、単独で出発するのだ」
相手が遠征する大隊の地位めあてとわかり、グリフォンは|眉《まゆ》をくもらせた。
「単独で――?」
エラスの細い眼が、信じがたいものを見るようにまたたいた。
そしてすぐに事態を理解し、小馬鹿にしたような光がやどった。浮き世ばなれした皇弟殿下がまたか、といわんばかりの目つきである。
「――これはわたくしの勘ちがいで、おてまをとらせました、失礼いたします」
もう用はないと、エラスは皇帝に取りつぎを頼むために進んでいった。
グリフォンは|苦《にが》い表情で、そのうしろ姿をながめていた。
「やつが大隊を率いるとなると、やっかいかもしれないな」
小さく彼はつぶやいた。
「なぜですか、セレウコア内部のことはよくわかりませんが」
黙ってひかえていたが、いちおうエリアードは尋ねてみた。
「皇帝の意に反して、|威《い》|嚇《かく》にとどまらない本格的な戦いがおこるかもしれない――やつは功にはやり、好戦的だ」
「不安でしたら、皇帝がおっしゃられたように、あなた自身が大隊を率いたらいかがですか」
彼としては|皮《ひ》|肉《にく》をいったつもりはなかったが、グリフォンは大きな眼をつりあげた。
「見かけにあわず、あなたはきつい人だな。できないことを承知のうえで、そんなことをけしかけるとは」
「あなたとベル・ダウに行くのがいやだというわけではないんですよ。選択肢のひとつとして、言ってみただけです」
なだめるようにエリアードはほほえんだ。
7章 |月《げつ》|炎《えん》|石《せき》の発現
青い都の人々は小宮殿のささやかな広場に集まり、たえまない歓呼の声をあげていた。
広場に入りきらなかった者たちは仕方なく、通りに列をなし、押しあい、あふれかえっていた。通りぞいの建物の窓や、屋上から、しきりと手をふる者もいる。
オアシスの市の祭りほどの飾りつけもなく、ふるまい酒や祝砲があったわけではなかった。
人々はただ、純粋な喜びだけでわきかえっていた。
失われたかの地の、もっとも高貴な血筋をひく若いふたりが、都人たちの前で正式に婚約を披露したよき日である。
幼いころより都の|象徴《しょうちょう》であったラウスターの姫君と、都をさがしあててやってきたというリウィウスの王子の、都人としてみれば、これ以上のぞむべくもない組みあわせだ。
都の|中枢部《ちゅうすうぶ》が、ラウスター出身の者たちで占められていることに不満や|危《き》|惧《ぐ》が吹きだしかけていたときだけに、効果的な婚約発表だった。
銀色の|乙《おと》|女《め》とともに小宮殿の|露台《バルコニー》に歩みでた金色の若者は、高貴な物腰と純金づくりのような輝かしさで、見あげている都人の心をとらえた。遠目だったので、こまかな顔立ちまではわからなかったが。
都に住んでいるのは、かならずしも|生《きっ》|粋《すい》の〈月の民〉だけではなく、現地の者と混血した二世代めの者や、山岳の部族の者もまじっていた。
けれどそのときは、同じささやかな都で暮らす|絆《きずな》を、高貴なふたりの上に結びあわせ、感動をわかちあっていた。
歓呼の声は、その夜おそくまでつづいた。
婚礼の日まで、都人の興奮はさめやりそうになかった。
「――リューシディク様」
おそるおそるセナ=ユリアは呼びかけた。
彼女から話しかけるのは|不《ぶ》|作《さ》|法《ほう》かとためらっていたが、婚礼の前にこうして会える機会はもうないだろうと、勇気をふりしぼった。
「おいやなのではございませんよね、それだけをお聞きしたいのです」
彼女はかぼそい声でささやいた。保護者のチェルケンが、向こうの控えの間から様子をうかがっていることは知っていた。
婚約の儀をすませ、都人の前でそれを告げてから、二日がたっていた。
彼女が婚約者と顔をあわせたのは、露台にふたりして立ったそのとき以来だ。
婚礼の日どりは次に両の月が満ちる日と決められ、本来ならそれまで機会はなかったはずのものを、彼女が|懇《こん》|願《がん》して会わせてもらったのである。
子供のころから、彼女はこれほど熱心に何かを頼んだことはなかった。
うら若い娘が、みずからの婚礼に大きな関心を寄せることも仕方ないかと、チェルケンはしぶしぶながら承知した。
「リューシディク様、無礼な女とお思いになっているのですか」
しかし彼女の婚約者は、どこか遠くを見つめたまま、あいかわらず何もこたえなかった。
神殿で、初めてひきあわされたときもそうだった。
ふたりならんで、青き都の民に婚約を披露したときも、彼はセナ=ユリアのほうを見もしなかったし、ひとことの言葉もかけなかった。
そうした態度は、高貴な生まれの者として当然のこととわきまえていたが、波紋をひろげるように彼女は少し不安になっていた。チェルケンが言うように、婚礼の前で|乙《おと》|女《め》らしく神経質になっているのかもしれないと気を静めながらも。
彼女の不安の根にあるのは、婚約者がいやいやながら義務として仕方なく、婚礼にのぞむのではないかということだ。
婚約の儀までは彼女自身も、どんなに|嫌《けん》|悪《お》を感じる相手であろうと婚礼をあげるつもりでいた。
彼女のほうは婚約者たる青年をひとめ見て、嫌悪どころか思慕に近いものをおぼえ、いやでたまらない義務ではなくなっていた。
しかし彼のほうはどうなのか、それをどうしても確かめたかった。彼女に|一《いち》|瞥《べつ》すらあたえないのは、嫌悪のしるしと見てとれないこともない。
今もそうだった。
彼は一度もセナ=ユリアを見ようとはせず、返事どころか、うなずこうともしない。ふたりきりで、こうして向きあっていても。
儀式の席や、民衆の前ではない、今のような婚約者どうしの私的な場ならば、王族といえども少しはうちとけてもいいのではと、彼女は思った。
強い暗示をかけられ、人形同然にされているとはセナ=ユリアの思いもよらないことだ。
彼女は|魔術《まじゅつ》の分野から注意深く遠ざけられてきたので、そんなわざがあることすら知らなかった。
「ひとことでも、おっしゃってください――|覚《かく》|悟《ご》はできております、おいやなのだとおっしゃられても」
びくともしない婚約者の横顔を見あげ、彼女はうったえた。
あまり時間はなかった。しばらくすれば、チェルケンがまた彼を連れていってしまうだろう。
それでも彼は何も言わず、視線すら向けなかった。|端《たん》|正《せい》で涼しげな横顔は、血のかよわない冷ややかな彫像のようだ。
「お首をふってくださるだけでいいのです、リューシディク様、どうか――おいやなのですか?」
|慎《つつし》みもかなぐりすて、彼女は婚約者の|膝《ひざ》にすがった。
ゆさぶられて、彼の身体ははじめて、反応らしい反応をした。
金色の眼はまだうつろだったが、必死な|面《おも》もちで見あげている彼女の姿をとらえたようだ。
彼女の銀色に輝く|清《せい》|楚《そ》な姿を、とりわけ床につくほどのみごとな銀の髪を。
「――リューシディク様」
関心をしめされたことがわかり、セナ=ユリアの青白い|頬《ほお》は紅潮した。かつて感じたことのない激しい思いが、彼女の中にこみあげてきた。
「わたくしが――おいやではないのですね、そう、おっしゃってください、そうすれば――」
彼はそっと手をさしのべ、その流れるような銀の髪にふれた。
いとおしむようではなく、いぶかしむようなやり方だったが、何もかも未経験の彼女には区別はつかなかった。
「ああ……うれしいですわ、リューシディク様」
セナ=ユリアは床に膝をつき、ためらいがちに座ったままの彼の胸によりそった。そんな行為が大胆なものであることも知らず、いつのまにか身体が動いていた。
彼はそれを|拒《こば》もうとしなかった。髪にふれた手も、そのままにしていた。
「あなたに出会えてよかった、今はじめて生まれてきたような|心《ここ》|地《ち》がします」
いっそう強く、セナ=ユリアは彼にしがみついた。態度や表情は石のようでも、彼の身体はあたたかく、しまった筋肉の感触が伝わってきた。
「おおげさなことをいうとお思いでしょうけれど、本当にそれが素直な気持ちなんです。ずっとひとりでした、ひとりきりで――高貴な者として、それがあたりまえだと思っていました。婚礼をあげるのも、義務のひとつだといいきかせてきました。あなたのような方と、こんなふうに出会えるなんて――運命は不思議ですね」
|堰《せき》をきったように、言葉があふれた。身も心もふるえ、彼女はめまいを感じた。
控えの間から、チェルケンはそんなふたりの様子を見ていた。
すぐとめには入らず、今後のためにも暗示の効果がどこまでつづくのかを観察していた。
リューは銀の髪のふさを手にとり、かすかに|眉《まゆ》を寄せていた。
空白だった彼の脳裏に、いくつかの断片的な光景がよみがえっては消えていった。
とりわけ、すぐ近くの銀にふちどられた顔は、手の中の髪とあいまって、埋もれた意識を刺激した。
目の前の見知らぬ|乙《おと》|女《め》ではない、同じ銀の髪のなつかしい姿が、彼の中で焦点をむすんだ。
顔立ちはちがっていたが、同胞だけあって、|乙《おと》|女《め》と彼の相棒は髪の色だけでなく、どこか似たところがあった。
「……エリー……」
彼はかすかにつぶやいた。
聞きとれないくらいの小さな声だったが、セナ=ユリアはびくっとした。
「なんて――おっしゃったの?」
彼女にしてみれば、はじめて耳にする彼の言葉だった。前にはもしかしたら、口がきけないのではないかと疑ったこともある。
「ああ……」
彼は両手で|額《ひたい》のあたりを押さえた。指先が小きざみにふるえた。
相棒の名を|鍵《かぎ》にして、彼の意識はがんじがらめの暗示と戦いはじめた。
空間をつなぐ|扉《とびら》で、彼を連れだした|歓喜宮《かんききゅう》の重臣の姿がうかび、同胞たちの築いた都の話がよみがえってきた。
彼は|拉《ら》|致《ち》された怒りで聞く耳などもたず、すぐ元にもどせとくりかえした。
それから彼の前に、枯れ枝のように|痩《や》せた人物が現れた。
その人物はキルケスにかわり、同胞たちに協力しろと高圧的に言いわたした。そうすることが、リウィウスの王族たる当然の義務だと。
|両頬《りょうほお》のくぼんだその顔がちらついた。穏やかで何ひとつなかったリューの中に、反感と憎悪がわきおこった。
彼の顔つきは、けわしくゆがめられた。
「どうなさったんです、リューシディク様」
セナ=ユリアは驚いて、彼の肩をゆさぶった。
これまでの高貴で静かだった彼の表情はどこにもなく、別人のような|猛《たけ》|々《だけ》しい|貌《かお》がとってかわっていた。
「わきにさがりなさい、ご気分が悪いようだ」
いつのまにかふたりの背後にいたチェルケンが、きびしく命じた。
幼少よりしつけられた癖で、セナ=ユリアは本能的に身をひいた。婚約者のことが心配でならなかったし、離れたくはなかったが、さからえなかった。
リューは前に立った|老魔術師《ろうまじゅつし》を見あげた。記憶にある、老いて|痩《や》せほそった|狡《こう》|猾《かつ》そうな顔がそこにあった。
セナ=ユリアの髪をながめていたときよりも、彼の|眼《まな》|差《ざ》しは澄んでいた。
「――この野郎、よくも……」
本来の口調で、彼は叫びかけた。
しかしチェルケンは最後まで言わせず、彼の口を片手でふさいだ。そしてもう一方の手で、複雑なしるしをきった。
目覚めつつあるリューに、ふたたび暗示をかけるのはむずかしかった。
彼は激しい怒りにつきあげられ、急速に埋もれた意識の|扉《とびら》を押しひろげようとしている。
「――眠レ、眠レ!」
意思を奪うのはあきらめ、チェルケンは簡単な|催《さい》|眠《みん》の暗示のみにきりかえた。セナ=ユリアの前ではあまり|露《ろ》|骨《こつ》なわざは用いたくはなかったが。
「また、|姑《こ》|息《そく》なわざを……」
抵抗したが、リューは眠気にたえきれず、眼をとじた。
暗い穴に落ちていくような眠りの中で、彼は|屈辱《くつじょく》に身をやいていた。
暗示のわざに絶対の自信をもっていたから、チェルケンはぎりぎりまで反応を観察していた。しかし、こんなに早い回復は計算外だった。
「いったい、何をしたのです、この方に――」
両手を組みあわせるようにしながら、セナ=ユリアは問いかけた。幼少よりのしつけにさからい、彼女は|敢《かん》|然《ぜん》と、ぐったりとしたリューの前に立ちはだかった。
「さがりなさい、セナ=ユリア」
いつものようにどんな説明もなく、チェルケンは命じる。
以前の彼女なら、すぐに|従容《しょうよう》としたがったが、今はきっぱりと首を横にふった。
「この方はわたくしの婚約者です。どうなさったのか教えてくださるまで、ここをどきません」
勇気のありったけをかきあつめ、全身をふるわせながら、彼女は言った。
「よく見なさい、眠っておられるだけだ」
幼な子に聞かせるかのごとく、チェルケンは応じた。口もとは笑いの形にゆがんでいた。
「どうして眠らせたのです――眠らせたいときにすぐ、相手を眠らせることなんて、やろうと思えばできることなのですか」
あざけるようなチェルケンの表情が少し変わった。
この若いふたりを少し見くびりすぎたかと、|老魔術師《ろうまじゅつし》は後悔しはじめていた。
言われるがままにふるまっていたセナ=ユリアの反発も、まずは自分を取りもどすことはあるまいとたかをくくっていたリューの|覚《かく》|醒《せい》も、予想を越えたものだった。
とくにセナ=ユリアの変わりようには、子供のころから見ているだけに、チェルケンの目を見はらせるものがあった。
|乙女心《おとめごころ》の動きなど、彼の理解の|範疇《はんちゅう》にないので、婚約者に会わせてくれと頼まれたときには支障はないだろうと許した。
何が彼女を変えたのかはわからなかったが、機会をもうけたのはまちがいだったと、老魔術師はあらためて思った。
「そなたはわしに従っておればよいのだ。ラウスターの王女として、わしがしかるべき道をしめしてやる――以前からそのように申しわたしているはずだが、今日の反抗的な態度はどうしたことだ」
保護者の口ぶりにもどり、チェルケンは彼女を見すえた。
しかし彼女はふたたび首を横にふった。
「これまではたしかにそうでした。わたくしを|導《みちび》くのは、あなたしかいませんでした。けれど婚礼をあげれば、このお方がわたくしの夫君で、年若いわたくしを導いてくださる方です――このお方のお身体やご健康を心配するのは、婚約をかわした者として当然の義務ですし、もしも悪いご病気ならば、つきそって看病いたします」
|椅《い》|子《す》の背にもたれかかる|愛《いと》しい婚約者を見つめ、セナ=ユリアはきっぱりと告げた。
その態度と言葉は、チェルケンの|逆《げき》|鱗《りん》にふれた。
「何を、この……!」
彼はふしくれだった腕をふりあげ、|容《よう》|赦《しゃ》なく彼女を殴りつけた。子供を|折《せっ》|檻《かん》するかのように何度も。
セナ=ユリアは床にうずくまったが、ひとことも悲鳴をあげなかった。
彼女の中に芽ぶきかけていた真の誇りが、今やしっかりと根づき、これは|理《り》|不《ふ》|尽《じん》な仕うちだと全身で表現していた。
「ケラス、アタルク、こちらに来い!」
|痩《や》せた腕をふるいながら、チェルケンは腹心の助手たちを呼んだ。
控えの間にいた助手たちは、あわてて駆けつけてきた。
大男のケラスはまだ若かったが、|額《ひたい》が|禿《は》げあがっていたので十はふけて見られた。
アタルクはいかにも|魔術師然《まじゅつしぜん》とした壮年の男で、ふたりともラウスターにいたときからの忠実な腹心である。
「この娘を連れていき、頭が冷えるまで、しばらく閉じこめておけ」
機械的にチェルケンは命じた。
ふたりの助手はどうしたことかと驚いたが、黙って従うことにした。
彼らは両わきからセナ=ユリアをかかえあげ、力ずくで連れていった。
身をよじり、彼女は眠っている婚約者のほうを見つめたが、反応はなかった。
彼女は抵抗をやめ、されるがままになった。いっときの反抗心は火が消えたようになり、おとなしい以前の彼女にもどっていた。
「リューシディク様――!」
|扉《とびら》がしめられる直前に、セナ=ユリアはせつなく名を呼んだ。
彼女はそれから婚礼の日まで、|愛《いと》しい婚約者の姿を見ることすらかなわなかった。
|催《さい》|眠《みん》の暗示の効果がきれたとき、リューは天井の高い|岩《いわ》|室《むろ》のような場所にいた。
座らされた姿勢のまま、広い帯のようなもので|椅《い》|子《す》にしっかりと固定されていた。手足だけでなく、胸と腰も縛られていて、ほとんど身動きもできなかった。
かろうじて首をめぐらすと、ななめ横の少し離れたあたりに、|痩《や》せた長衣の人物が見えた。
その老魔術師こそが、彼をとらえ、人形のごとくふるまわせた張本人だ。
暗示をかけられてふるまっていたときのことはほとんど思い出せないが、その前後に老魔術師がからんでいたことはおぼえていた。
相棒が暗示のわざにたけていたせいで、その方面にはまったく素養のないリューも、やり方の一端や、効果のほどぐらいはわかっていた。
「お目覚めかな、リューシディク殿」
反応をうかがうようにして、チェルケンは呼びかけた。
老魔術師と、リューのいる椅子のあいだには、身の|丈《たけ》ぐらいの|亀《き》|裂《れつ》があった。
首を動かすくらいしかできないリューにはわからなかったが、彼は大きな穴に安置された円盤のような石の上に座っていた。
石はところどころ七色の|彩《いろど》りをひめていたが、にごった不純物が縦横にまじっていた。
石の周囲は、いびつな円を描く|亀《き》|裂《れつ》となっている。
|椅《い》|子《す》の下から、円盤形の石はわずかな光をはなっていた。
それはベル・ダウの山に降ってきた月の破片といわれ、青き都のご神体[#「ご神体」に傍点]となっていたものだ。
最初は聖堂に飾られていたが、今は実験のために面のひとつを平らにみがいて、|岩《いわ》|室《むろ》の中央にすえられていた。
岩室の天井は|円《えん》|錐《すい》|形《けい》で、その頂点となるところから陽がさしてくるようだ。
彼の頭上からは、ひとすじの光が降ってきた。
陽光だけでなく、もうひとつの光源もあったが、椅子に固定されている彼に見るすべはなかった。
チェルケンは岩室の湾曲した壁を背に、円盤石を見おろすような姿勢で、穴のふちに立っていた。
「ここはどこだ、と尋ねないのかね、もう口はきけるようになっているはずだが」
挑発するかのように、チェルケンはふたたび呼びかけた。
しかしリューは黙っていた。
意識はもうはっきりしていた。記憶もよみがえりつつあった。
暗示をかけられる前にかわされた、ラウスター出身の|老魔術師《ろうまじゅつし》との不快きわまるやりとりも、しだいに思い出していた。
「わしの声が聞こえぬのかな」
老魔術師はのんびりと呼びかけたが、わきにひかえていたキルケスは心配になって前に出てきた。
「もしやご気分でもお悪いのでは……」
|贖罪《しょくざい》の気持ちもあって、キルケスはいたわしげに言った。
「そんなやわ[#「やわ」に傍点]なお人ではないな。わしの暗示を、自力で押しやったほどの|強靭《きょうじん》な精神の持ち主だ」
「しかし……」
キルケスにさがれと|一《いち》|瞥《べつ》し、老魔術師はなおもつづける。
「ふてくされておられるのかな。リウィウスの王族ともあろう方が、おとなげない|真似《ま ね》はよすのだな」
「――ことあるごとに昔の身分を押しつけられるのは、|反吐《へ ど》が出るな。とくに名ばかりの、人形か、実験動物でしかない役まわりを、身分といっしょにかぶせられるのは」
穏やかにリューは応じた。
その不敵な態度には、キルケスや助手たちもぎょっとした。
けれどチェルケンだけは別だった。老魔術師はわざとらしいふくみ笑いをもらした。
「それは身分にともなう責任といってよいものだ。のがれようとしても、のがれることはかなわぬ――|異《い》|邦《ほう》の地に根をおろした幾多の同胞たちのためにも、こらえてもらわねばならぬのだ」
「|御《ご》|託《たく》はたくさんだ、素直にあんたの|傀《かい》|儡《らい》になれと命じてくれたほうが、まだましだな」
「傀儡か、わしとても大義のもとにつながれた傀儡にすぎない。われらはともに、未知の海に|漕《こ》ぎだした小舟に乗りあわせた者どうしだ。荒波にのまれぬよう、個人の意思やわがままは捨て、持てる力を出しあわねばならないのだ」
ものやわらかだが、馬鹿にしきったように、チェルケンは言ってきかせた。
|老魔術師《ろうまじゅつし》の|眼《まな》|差《ざ》しは|椅《い》|子《す》のリューにではなく、その頭上で輝いているものにそそがれていた。
キルケスによって|歓喜宮《かんききゅう》からもたらされた|月《げつ》|炎《えん》|石《せき》が、透明な台にすえられて、椅子の真上にかかげられていた。
月炎石は七色の光を織りこんだような輝きを発しつつ、高い天井の一点からさしこむ陽光と、ご神体[#「ご神体」に傍点]の石の微量な光をまきこんで反射している。
「大義のためか、ていよく自由を奪うにはもってこいの|甘《かん》|言《げん》だな」
せいいっぱい首をめぐらし、リューは魔術師をにらみつけた。
「抵抗することにすら、罪の意識を植えつけようという、|卑《ひ》|劣《れつ》きわまりないやり方だ――暗示をかけられ、意思を奪われるのも、身分にともなう義務なのか。でくのぼう同然の、こんなざまをさらすのが、リウィウスの王族にふさわしいと!?」
歓喜宮から|拉《ら》|致《ち》されてきた直後のことが、彼の中にありありとよみがえり、おさえていた怒りが吹きでた。
それに反応するように、彼の頭上と足もとの両方向から光が飛びだした。
月炎石と、ご神体[#「ご神体」に傍点]の石は互いの光をまきこみ、増幅しあうように輝きを高めていった。
輝きはご神体[#「ご神体」に傍点]の円周にひろがり、光の柱のようになる。
目もくらむような輝かしい柱が、|円《えん》|錐《すい》の天井の頂点めがけてつきのぼった。
軽い衝撃をおぼえ、リューは椅子の背もたれに身体を打ちつけられた。
光が、空洞となった彼の中を通りぬけていくようだった。
彼はなかば気を失った。
「みごとな発現だ、キルケス」
めずらしく興奮をあらわにして、チェルケンはふりむいた。
光の波動は頂点の先に消え、あとは|陽炎《かげろう》めいたゆらめきだけが|岩《いわ》|室《むろ》にただよった。
助手たちからはざわめきが起こった。
キルケスは|畏《い》|怖《ふ》のような思いで、全身をわななかせた。この装置は、ふたつの石の力を受けとめ、増幅して、一点に集中させるように彼が苦心して考えだしたものだ。
|月《げつ》|炎《えん》|石《せき》がまだ原石として|歓喜宮《かんききゅう》の地下にあったころから、キルケスはささやかな実験をくりかえし、こうした装置を頭にえがいていた。すぐれた奏者と楽器が存在するならば、音を響かせる劇場が必要になるはずだと。
「実際の効果のほどは報告を待たねばわからぬが、力の発現においてはまずまずの成功のようだな。さすがはリウィウスの王族の直系というべきだろう」
チェルケンは冷静にもどっていた。
|岩《いわ》|室《むろ》の気のみだれや、石の周囲の場の変化を、|老魔術師《ろうまじゅつし》は注意深く観察していた。
「ともあれ、セナ=ユリアの神おろしの儀式よりは、実際の役に立ちそうだな――人によって異なるのは、精神力の差なのか、|祭《さい》|司《し》としてのつながりの深さによるものか、石自体の精度のちがいなのか。よりつっこんだ研究を、おまえには期待しているぞ」
老魔術師はキルケスに向けて、労をねぎらうように言った。
「あいかわらず――まるで石に向けて言っているようだな、そなたの言い方は」
興奮の冷えたキルケスはつぶやいた。考案した装置がうまく働いた喜びも、すぐにしぼんでしまっていた。
「石のことを話題にしているのだから、あたりまえだ。おまえの研究もそれが主眼だろう」
「そういうことではない――たしかにこれでは、実験動物以下のあつかいだ。|椅《い》|子《す》にいらっしゃるお方も、そなたにとっては石の一部にしかすぎないのだろうな」
チェルケンはかさかさの|唇《くちびる》を、笑みの形にゆがめた。
「またおまえの青くさいぼやきか、いいかげんにするのだな――石はわれらにとって、欠くことのできない貴重きわまるものだ。それと同列にあつかわれるなら、最高級の待遇だぞ」
|嘲笑《ちょうしょう》されて、キルケスはおしだまった。
この隠れ里に集まってきた同胞たちのために働こうと、いっときはわりきったつもりだった。
しかし椅子にぐったりともたれたままのリューをまのあたりにすると、彼は激しい後悔におそわれた。これがチェルケンのいう、身分にともなう責任なのだろうかと、疑問もわきあがってくる。
駆けよって助けおこしたかったが、それもキルケスにはかなわなかった。
石のもたらす力の場は、周囲にぐるりとめぐらした|亀《き》|裂《れつ》によって、彼らの立っているところとは|遮《しゃ》|断《だん》されるつくりとなっていた。光のゆらぎがおさまるまでは、近づけないように彼自身が設計したものである。
「おまえの能力と仕事ぶりは高く評価している。よけいな情に流され、その評価を落とすような|真似《ま ね》はよすのだな」
キルケスの様子を観察しながら、チェルケンは冷ややかに申しわたした。
「おかげんはいかがですか」
冷たい布を手に、キルケスがささやきかけてきた。
リューはうすく眼をあいて、もとセレウコアの重臣をにらみつけた。
「わたくしがおわかりになりますか」
まだ意識がはっきりしないのかと心配し、キルケスはかさねて尋ねた。
「――わからんな、見たこともない」
リューは低く応じた。
彼の両手は背中のところで縛られ、固定した寝台の脚につながれていた。
青い石をふんだんに用いた小ぎれいな|間《ま》にいるようだったが、二方向にある窓には|格《こう》|子《し》がはまっていた。
キルケスのほかに、監視するべくとどまっている助手のケラスと、衛兵らしい屈強な男が|扉《とびら》の前に立っている。
「リューシディク様」
「誰だ、そいつは――おまえも、そんな名前のやつも知らんな」
身をおこして、リューは吐きすてるようにつぶやいた。
「お怒りはごもっともです。言いわけはいたしません」
恥じいって、キルケスは頭をたれた。
「言いわけなど聞こうと思ってない。おまえに話す価値のある言葉があるとしたら――すぐにこのいましめをといて、わたしを自由にしろと、それだけだな」
「もうしばし、お待ちください。婚礼の儀がとどこおりなく終われば、機会はあるかと存じます」
|扉《とびら》のところに控えている者たちを気にして、キルケスは声をひそめた。
「婚礼[#「婚礼」に傍点]? ――いったい、どこのどいつ[#「どこのどいつ」に傍点]の婚礼だ」
リューは顔をしかめた。
「あなたと、ラウスターの王女との婚礼でございます」
「そんなものは承知したおぼえはないぞ。当人の|承諾《しょうだく》も得ないで強行する婚礼など、無効だ、単なる余興の見せものにすぎない」
ふとよぎった銀色の面影に、リューはおぼろげな記憶をたぐりよせた。
暗示をかけられ、人形のようにふるまっていたときに見聞きしたものは、断片的にしかうかんでこない。
銀の髪の|乙《おと》|女《め》が、記憶の|片《へん》|鱗《りん》の中にいた。
それがラウスターの王女で、彼の婚約者だったかどうかはあまりはっきりしなかった。
けれどそのぼんやりとした姿は、なつかしい相棒にかさなり、彼の逆立った神経はわずかになぐさめられた。
「同胞たちは何もいきさつを知らず、あなたがたの婚礼を待ちのぞんでおります。リウィウスとラウスターを代表するおふたかたが結ばれることによって、われわれの結束が目に見える形でしめされるのですから――チェルケンは神殿の神官にすぎません。わたしをふくめ、同胞たちのほとんどが真にあがめ、|仕《つか》えるのは、あなたとセナ=ユリア様です。けっしてチェルケン一派ではございません」
まわりには聞こえないように、キルケスはささやいた。
「そもそものまちがいがそこにある。なぜ|傀《かい》|儡《らい》が必要なんだ。チェルケンが実質上の支配者なら、それをおおやけにすべきだ――わたしにあるのは、ただ名ばかりとなったかの地の身分だけだ。別の地に来たのだから、そんな名ばかりの身分など廃し、新たな同胞たちの国を築いたほうがずっとすっきりする」
リューはかまわず、見張り役としてついているチェルケンの助手にも聞こえるように言った。
助手のケラスは、もともと飛びだしぎみの眼をむいた。
「それでは、ひとつに結束するという点でどうしても、反対や不満が起こります。権威がないゆえ、とってかわろうとする者も出るでしょう。青き都にある|肥《ひ》|沃《よく》な大地と貴石の鉱脈を、私欲からわがものにしようとする者も現れます――最悪の場合は、内乱や小ぜりあいに明けくれることになるでしょう。そうした例はどの地においてもめずらしくはありません」
誠意をもって、キルケスは語った。
もっと早く、|歓喜宮《かんききゅう》でまみえたときにでも、率直にすべてを打ちあけ、力を貸してくれるよう頼むべきだったと、彼は深く悔やんでいた。
「チェルケンと、私欲で都をわがものにしようという者との違いはどこにあるんだ。とってかわりたい者がいるなら、やりたいようにさせておけばいい。チェルケンだけを支援しなければならない理由はない」
「理由はございます。それゆえ、わたくしもさまざまな面で力を尽くすことにしたのです」
「どんな理由だ、やつが|姑《こ》|息《そく》なわざを自在にあつかえるからか」
暗示や|催《さい》|眠《みん》で人形同然にされていたことを思うと、リューにはまた新たな怒りがこみあげてきた。
「遠からず、ナクシット教団がここを攻めに来るからです――連中は、同じベル・ダウの山にあるわれわれの隠れ里を、以前から|虎《こ》|視《し》|眈《たん》|眈《たん》と狙ってきました。所在や規模がはっきりしないゆえ、まだ信徒たちを集結させている段階のようですが」
「チェルケンがあの邪教集団と対抗できるのか」
「ひとりでは無理ですが、われわれと石の力をあわせれば、撃退は可能です。そのためにも、今は内輪もめをしているわけにはいきませんし、不本意ながらあなたをチェルケンの|傀《かい》|儡《らい》にしても、同胞たちの都は守りぬかねばならないのです」
キルケスは力説した。|嘘《うそ》いつわりではない様子だった。
「石の力とは、あの妙な光のことか」
光につつまれ、気を失いかけたことをリューは思い出した。
頭上と足もとに月の石があり、共鳴を起こしたことを彼は知らなかった。
「そうです。あれは近くにいる者に反応して、光るのです。わたしをふくめて、神殿にいる者たちはひととおりためしてみましたが、あなたに最も敏感な反応をしめすようです。わたしの考案した|岩《いわ》|室《むろ》の装置は、その反応を力に置きかえ、天井の一点に集中させるためのものでした。
あのときはあなたの怒りか|憤《いきどお》りに、ふたつの石は反応しました。暗示をかけられているときのあなたにはほとんど反応しませんでしたから、なま[#「なま」に傍点]の激しい感情の動きが石を刺激するようです」
実験の成果を見きわめる|白魔術師《しろまじゅつし》の口調になって、キルケスは応じた。
実験動物以下のあつかいだとチェルケンをなじった彼も、こと自分の研究に関しては似たような視点に立っていた。
|月《げつ》|炎《えん》|石《せき》を調べていたときのグリフォンにも、そういうところはあった。
どれにしたところで、リューには不愉快でしかなかったが、石そのものにはひかれるところがあった。
かつて耳飾りにしてつけていた小さな石も、いくたびか彼を守る働きをした。石そのものの力だったのか、単なる偶然なのかわからなかったから、簡単に手ばなしてしまったのだが。
「前には雨雲を呼んで、雨をふらせたようだが、今度は何がおこったんだ?」
「わかりません、まだ報告待ちです」
「近辺にさしたる効果はあらわれなかったわけか」
|揶《や》|揄《ゆ》するようにリューはつぶやいた。雨雲を呼んだことも、はたして石の力なのかと、彼は半信半疑でいた。
「|岩《いわ》|室《むろ》の天井の頂点は、|虚《こ》|空《くう》の|扉《とびら》によって、セレウコアとの国境に近い、ベル・ダウの|山《さん》|麓《ろく》につながっています。もし効果があらわれるとしたら、そのあたりでしょう」
「虚空の扉――?」
「あなたとわたくしを、セレウコアの|歓喜宮《かんききゅう》からベル・ダウのこの地まで、一瞬にして運んだ空間のひずみのことです――リウィウスの|白魔術《しろまじゅつ》でも最高級のわざで、めったにできる者はいないのですが、チェルケンは得意としています」
キルケスは成功の自信ありと、誇らしげな顔をあげた。
気味悪そうに、リューはそれをながめていた。
8章 月の民の消息
ベル・ダウの|藍《あい》|色《いろ》の山なみは、見わたすかぎり視界いっぱいに広がっている。
〈|麗《うるわ》しき山々〉という名のごとく、雪をいただいて整然とつらなった姿は美しい。しかしそのふもとへ近づくにつれて、〈世界の屋根〉の別名のほうが実感としてせまってきた。
ベル・ダウをのぞむ街道の関門所には、北に向かう多くの者たちが足どめをくっていた。
時節がら、正式な使者のしるしや、ちゃんとした通行証をもっていても、かなり念いりな取りしらべを受けることになった。
「山の|市《いち》にまにあわなくなる、早めに通してくれ」
頭から首に布をまいた大柄な商人ふうの男が、関門所の衛兵と押し問答していた。
都のギルド発行の通行証もあり、衛兵としても素性を疑っていたわけではなかったが、同行者のとりあわせが妙なのでしばらく足どめしていたのである。
「こんな辺境に、奥方や娘さんもごいっしょとはめずらしい。|山《さん》|麓《ろく》では戦いがはじまろうというのに」
年かさの衛兵長がやわらかく尋問した。
|面衣《ベ ー ル》をおろしたやはり大柄な夫人と、そのあいだの娘にしては小柄な少女が、商人の背後にひっそりとひかえていた。
もうひとり、商人一家の護衛としてついてきたというアルダリア人の女が、わきに立っている。
「都でもいろいろ不穏な動きがある。とどまっても安全とはいえないなら家族が離れぬほうがよいと思い、こうして連れてきたのだ」
商人は落ちついてこたえた。
その堂々とした態度や、立派な物腰から都でも地位のある商人かと、衛兵長は判断した。この道、数十年というベテランなので、人を見る目にはいささかの自信もあった。
通してよしと、衛兵長は部下たちに合図した。
「うまくいったね」
もういいだろうと、アヤは面衣をはずした。関門所は背後に遠くなり、街道には今のところ人の行き来もない。
「ひやひやものでしたよ、面衣を取れと言われたら、どうしようかと思いました」
同じように面衣つきのかぶりものを脱いで、エリアードはつぶやいた。女物のあつくるしい衣装も、いっしょに脱ぎたいくらいだった。
「言われたって、あなたなら大丈夫よ。それでも不安なら、次の関門所ではきれいに|化粧《けしょう》したげるわ」
楽しげにイェシルも口をだした。護衛役の彼女だけが変装もせず、顔を隠してもいなかった。
「あなたはおもしろがっていますね。ばれたら、即座に|牢《ろう》|獄《ごく》行きですよ」
エリアードはたしなめた。
|歓喜宮《かんききゅう》を出るときから、彼は髪を|褐色《かっしょく》に染めていた。|面衣《ベ ー ル》をかぶっていたとしても、このあたりではめったにない銀髪はひと目でおぼえられてしまう。
青白い顔色のほうは|砂《すな》|馬《うま》をとばしてきた道中の|埃《ほこり》にまみれ、あまり目立たなくなっていた。
街道の要所にある関門所を通るときには、印象的な四人だけにいろいろ細工を必要とした。
グリフォンの持っている通行証でやりすごすこともできたが、皇帝|直《じき》|々《じき》の許しを得たしるしではあっても、時勢が時勢だけに多少の足どめは|覚《かく》|悟《ご》しなければならなかった。
とくに彼らは素性を隠していたし、見ようによっては妙なとりあわせだったから、使者の指輪があってもときどきあやしまれることがあった。
セレウコア皇弟グリフォールの名を出せばすむことだったが、それではナクシット教団や、目的もさだかでない〈月の民〉たちにこちらの動きを|悟《さと》られてしまう。
公式発表では、グリフォール殿下は|流行病《はやりやまい》に倒れ、歓喜宮の奥の院で療養中となっていた。
いろいろためしてみたが、商人の一家になりすました|扮《ふん》|装《そう》のときがもっともあやしまれずにすんだ。
ごまかしようのないアルダリア人のイェシルを護衛とし、グリフォンが都の裕福な商人で、不本意ながら女装したエリアードがその妻、アヤがふたりのあいだの娘とするパターンである。
エリアードとしてはあまりありがたくなかったが、グリフォンの夫人の役まわりは何度かするはめになった。面衣で顔を隠しても不自然でない役柄はかぎられるので、仕方ないといえばいえた。
ほかのヴァリエーションといえば、イェシルを男装させ、アヤと仕事仲間の夫婦にするか、グリフォンとアヤを兄妹にして、残りのふたりを召し使いにするか、などである。
セレウコアからベル・ダウに向かう奇妙な一行がいるとさとられないための細工だったが、イェシルとアヤはなかばやけになって楽しんでいた。
ひたすらさびれた辺境の街道を、砂馬で走るという単調な旅のささやかな娯楽だった。
歓喜宮をひそかに発ってから、もう十日がすぎていた。
北の国境までは、早馬でもそのくらいはかかるから、アヤのような少女を加えた一行にしては順調な旅にちがいない。
「なんだってあんなやつのために、こんな|僻《へき》|地《ち》まで来なくちゃならないのかなあ」
山なみの威容が近づくにつれて、アヤはよくぼやいた。食事で休憩するときや、野営を張るごとにぶつぶつ言っている。
「だから来なくていいと言ったじゃない。|歓喜宮《かんききゅう》での仕事も気にいっていたんだから、あのまま残ったほうが楽だったでしょう」
イェシルも日課のように応じた。しかしどちらかというと、彼女もこの旅を後悔しはじめていた。
「ひとりであんなところにいたって、つまんないよ。それにイェシルのことも心配だしね、あたしがそばにいなくちゃと思ってさ」
アヤはいっぱしの口をきいた。
「心配してくれなくたって、自分の身ぐらいは守れるわよ」
「それは大丈夫だと、あたしも思ってる。心配なのは――あんなやつにまだ未練がありそうな気持ちのほうだよ」
「……未練なんてないわよ、そんなもの。あたしがついてきたのは、宮殿の衛兵をしているよりおもしろそうだったからよ」
少し離れたところで休息をとっている同行者たちには聞こえないよう、イェシルは声を低めた。
|砂《すな》|馬《うま》をつないだ木立のところで、エリアードとグリフォンはあいかわらず深刻な顔で何か話しあっている。
「そうかなあ。あたしだって、イェシルのことが好きじゃなきゃ、いくらおもしろそうだって、こんな辺境まではついてこないんだけどな」
言ってから、アヤは少し照れた。
「ありがとう、でも勘ぐらないで。未練じゃないのよ――なんだかこのまま永久に会えなくなるとしたら、ずっとあいつの面影をひきずっていかなくちゃならなくなるような気がするの。年月がたつうちに、実際より美化されたりしてね」
「でも、あいつのことだからさ、もうとっくに逃げだして、どこかの女のところにでもしけこんでるよ、きっと」
|薫《くん》|製《せい》|肉《にく》の欠片をかじりながら、アヤはまだぶつぶつ言っていた。その一部は歩みよってきたエリアードにもとどいて、銀色のきれいな|眼《まな》|差《ざ》しがわずかにくもった。
「冗談よ、冗談、けっこう要領よくきりぬけてんじゃないかってこと」
アヤはあわてて言いなおした。
あまり自分でもよくわからなかったが、この物静かな美貌の青年を怒らせたり、悲しませたりするのはいやだった。単に面食いなのかなと思い、アヤは小さく|舌《した》を出した。
「そのくらいの力と才覚があればいいのですけどね」
エリアードは小さくつぶやいた。|歓喜宮《かんききゅう》から消えたキルケスとその一味のあざやかなわざからして、自力で逃げることなど無理だろうと思いながら。
心配しているより、ののしったりしていたほうが彼も楽だった。
いくら身は安全だろうと考えてはみても、リューが|失《しっ》|踪《そう》してから、銀の月が二度、満ちかけした。この地の数え方で二旬、つまり十六日がすぎたことになる。
「気に病んで、暗くなるんじゃないよ――あんなやつ、殺したって死なないからね。こっちの心配なんて気にせず、無事に楽しくやってるよ、それなりに」
「さすがに殺したら死ぬでしょうけど、悪運は強いからなんとか無事ではいると信じてますよ」
いくつも年下の少女になぐさめられて、エリアードは恥ずかしくなった。
なるべくおもてには出さないようにしているが、やはりどうしても|焦燥《しょうそう》や不安がにじみでてしまうらしい。彼が表情を|翳《かげ》らすと、その場の|雰《ふん》|囲《い》|気《き》もどこか沈みこんだ。
ベル・ダウの近くまで来ても、まだ決定的な手がかりは見つからなかった。
不本意ながら彼らは、皇帝のもとに集まった予言者と|占《うらな》い|師《し》たちの多数がしめした北東をめざしていた。
セレウコア皇帝が、国境警備の強化を理由に派遣した軍勢も、一日おくれぐらいの距離で後方にいる。みずから皇帝に辺境行きを申しでたエラスが、全軍の指揮をとっていた。
ベル・ダウのふもとに点在する村のほとんどはナクシット教団の支配下にあり、実質的な戦闘は休止しているとはいえ、セレウコアの駐在軍と現在もにらみあっている。
たった四人の一行は、そのふたつの大軍の中間あたりにいた。
皇帝の発行した通行証をもってはいても、彼らはセレウコアの軍勢を|後《うし》ろ|盾《だて》にはしていない。
ベル・ダウが近づくにつれて、大国セレウコアをもまきこんだこの大きな動きの中で、失踪したひとりの|異《い》|邦《ほう》|人《じん》を捜すのはむずかしかった。
本当にこうしていていいのかと、エリアードはあせりを感じつづけていた。
彼の同胞たち、〈月の民〉と呼ばれている者たちの所在は、うねりの大きさにまぎれて|片《へん》|鱗《りん》も伝わってこなかった。
見当ちがいの方向を捜しているのではないかという疑いも、彼の焦燥の要因だ。
〈月の民〉の|行《ゆく》|方《え》は|杳《よう》として知れなかった。所在や規模どころか、はたしてそういう集団が存在するのかも。
その夜、一行はひさしぶりに宿をとった。
国境に近いこのあたりは見晴らしのいい丘陵地で、野営しているとかえって目立つことになる。
そうした手配や交渉はすべてグリフォンがしていた。十代のころから放浪生活を送ってきたというだけあって、彼には各土地になじみの宿があるようだ。
辺境の宿場町にある宿も、立派ではないが信用のおける宿だった。主人だけはグリフォンの素性を知っていたが、おしのびを察して|女将《お か み》にも打ちあけてなかった。
到着すると荷物もほどかないままに、エリアードとグリフォンは情報収集に出かけた。
それほどにぎやかではないとはいえ、辺境の宿場町にはいくつかの宿や酒場があり、朝と夕方には|市《いち》もたった。
旅人たちだけでなく、近辺で放牧や農業をいとなんでいる者たちも、売り買いのためによく集まってきていた。
夕方の市はすでに終わり、軍勢の野営のためにきりひらかれた|開《かい》|墾《こん》|地《ち》は人もまばらだった。
ちょっとした騒ぎがおこったのは、商人ふうの装いでやってきたふたりが売れのこった品を物色しているときだ。
露店の台をたたもうとしていた商人を、地元の青年らしい数人がとりかこんでいた。
よくあることなので、グリフォンは横目でながめながら通りすぎようとした。しかしかこんでいる青年のひとりの手にあった青い石に、彼の視線は吸いよせられた。
「|碧玉《へきぎょく》か、青金石か――いや、それにしては……」
彼はエリアードの腕をつかみ、確認するためにもめているところへ近づいた。
「どうしたんです、何か?」
「鉱物はひととおり知っているが、あんな青みの濃い石は見たことがない」
ドゥーリスの|魔術師《まじゅつし》の顔になり、グリフォンは青年たちの輪に割ってはいった。
引きずられるようにして、エリアードも仕方なくついていった。脇道にそれるのはいつものことだ。
地元の青年たちは、驚いたようにグリフォンを見あげた。
彼はずばぬけて背が高かったし、長い|外《がい》|套《とう》ごしにも、その|鍛《きた》えた並み並みならない身体つきはわかった。商人ふうのなりではあるが、よくいえば物腰の立派さ、悪くいえば態度の大きさは、とても一介の商人にはみえない。
「それを見せてはもらえぬか」
グリフォンが手をさしだすと、いきりたっていた青年も素直に青い石をわたした。
思いのほか石は軽く、半透明で、置物か重しになるよう表面をみがいてあった。
「ただの石のくせに、碧玉の原石だとかで高く売りつけようとしたんで、文句をつけてるところなんだ。見かけねえ|面《つら》だしな」
近くの宿屋の息子だという若者が説明した。
グリフォンも見かけない顔だし、うさんくさく思っていたが、まずは下手に出て様子をうかがっているという態度だ。
「|碧玉《へきぎょく》ではないな。これをどこで見つけてきた?」
フードをさげたままうつむいている商人に、グリフォンは彼としてはやわらかく問いかけた。
「旦那がお尋ねだよ。俺たちのときとはちがって、だんまりは許されんぞ」
グリフォンの得体のしれない威厳に便乗し、青年たちのひとりが商人の|外《がい》|套《とう》の|衿《えり》をつかんだ。
商人のフードがはずれ、少年のような若々しい顔が現れた。石よりもなめらかな青白い|頬《ほお》で、髪は安ものの染め粉でまだらになっていた。
後方でながめていたエリアードは、思わず青年たちをかきわけて進みでた。この若い商人は、彼の失われた地の同胞ではないかと。
「商売上の秘密だ、しゃべるものか」
若い商人は小声だったが、きっぱりと言った。発音には聞きなれないなまりがあり、このあたりの出身ではないらしい。
「なぜ碧玉などといつわるのだ、これはまだ世に知られてない貴石にちがいない。わたしなら、碧玉の二倍の値で買いとるぞ」
石に光をあてたり、透かしたりして、グリフォンは興奮した調子で告げた。
「碧玉の原石といったことなどない。碧玉より美しい貴石だと言っただけだ。青金石より安く売ってるし……|因《いん》|縁《ねん》をつけて、残りの石をまきあげようと、仲間を連れてきたんだ」
こちらのほうはおどしに来たのではなさそうだと、商人はグリフォンとエリアードにうったえた。見かけはまだ少年のようにもみえたが、話しぶりはずっと老成していた。
「この野郎、俺たちが因縁をつけただと――!」
旗色の悪さを感じた宿屋の息子が、商人の衿もとをつかんで引きずりだした。
小柄で|痩《や》せた商人は抵抗もむなしく、されるがままだ。
「――待て、放すんだ」
エリアードは宿屋の息子の腕をつかんだ。
ほっそりして優しげな外見を裏切る、相手の思いがけない力に、宿屋の息子は驚いた。
「なんでえ、てめえもグルかよ、似たような生白い顔しやがって」
ふりほどこうにもふりほどけず、宿屋の息子はいきりたった。
その場に|尻《しり》もちをついた商人が、はっとしたようにエリアードを見あげた。
「まとめてやっちまえ」
相手は三人だ、勝ちめはあると、宿屋の息子が号令をかけた。
体格だけは立派で、力をもてあましているような若者たちは|嬉《き》|々《き》として跳びかかってくる。
地面にへたりこんでいる商人はほとんど戦力にならないので、ふたりは七、八人いる連中をまとめて相手することになった。
グリフォンはうるさい|蝿《はえ》をはらうように、殴りかかってきた者から軽くのしていった。
ふところから短剣をぬいてきた者には、それをへし折ってやり、ひるんだところを蹴倒した。
こちらのほうが弱そうだと、集中攻撃を受けたエリアードは苦戦していた。
殴られた|頬《ほお》は青あざになり、片目がかすむほど痛んだ。ひととおりのことはこなせるが、荒わざはそれほど得意としていない。
手のすいたグリフォンが|助《すけ》|太《だ》|刀《ち》に来てくれて、彼はやっとひと息ついた。
ころあいよく|牡《お》|牛《うし》のような若者が突進してきて、彼はこれまでの借りをかえすかのようにこぶしをぶちこみ、つづけて|膝《ひざ》で蹴りを入れた。グリフォンのように一撃では倒せないのが、少し|癪《しゃく》にさわらないでもなかった。
最後までもちこたえていた宿屋の息子が、よれよれになりながら短剣をつきだしてきた。
エリアードはその腕をかかえこみ、短剣をふりおとしてから、近くの丈夫そうな木にぶつけてやった。
宿屋の息子は木にしがみついたまま、膝をついた。
|開《かい》|墾《こん》|地《ち》のくさむらに、地元の青年たちはうめきながらころがった。
それを|尻《しり》|目《め》に、ふたりは商人をひっぱって逃げた。野次馬が集まってきていて、とどまっていればなにかと面倒そうだった。
「……おかげで助かった、ありがとう」
大事そうに石の入った皮袋を胸でかかえながら、若い商人は小さく礼を告げた。ありがたくは思っていても、警戒はといてない様子である。
彼らは市場の裏手にあたる|藪《やぶ》に身をひそめ、野次馬たちを遠目にしながら、荒い息をととのえていた。
「お返しを要求するわけではないけれど、少しききたいことがある――あなたの出身地はどのあたりだ、北方人なのか?」
商人の青白い|肌《はだ》を見つめながら、エリアードはすぐに尋ねた。見れば見るほど同胞にまちがいないと、確信していたが。
「ちがう、ベル・ダウの山のひとつだ」
同じ思いがあるのか、若い商人は慎重にこたえた。
「〈月の民〉と呼ばれる者たちがいるのを知っているか――警戒しているかもしれないが、あの連中から助けたことで信用してくれないだろうか。わたしたちは〈月の民〉と敵対する者ではない、むしろ……」
手がかりが見つかるかもしれないと、エリアードは商人を熱心に見つめた。
「ああ、親父がそんな話をしていたことがある。俺の髪や|肌《はだ》の色はその血筋だとか……でも、それだけで、よく知らない」
商人は言いよどんだ。まだほかに知っていても、ためらっている様子だ。
エリアードは相手の視線をとらえたまま、さりげなく片手をあげた。
「――急いでるんだ、悪く思わないでほしい」
商人の目の焦点があうところで、エリアードは指先を振り子のように動かした。
向こうも彼を一心に見つめていたので、すぐに軽い|催《さい》|眠《みん》状態に入った。
彼はそのわざを、めったなことでは使わないようにしていた。
静かな場所で、一対一で、じっと視線をあわせていなくてはならない、という条件がそろわなければむずかしかったうえ、そうした条件がそろうのは相手がごく親しいか、気を許した間柄になる。
彼に個人的な関心をもっている場合も成功率は高かったが、どの場合にしろ、なんとなく相手の信頼や好意を裏切るような気分になり、緊急の手段として取っておくことが多かった。
その見事な手際に、横にいたグリフォンは感心していた。
彼はドゥーリスで学んだ関係から、|白魔術《しろまじゅつ》に属する分野は知識としてしかないが、わざの腕としてはかなり上級に属すると判断した。
キルケスもそうだったが、ギルドに登録していない埋もれた|逸《いつ》|材《ざい》はいるものだと彼はあらためて思っていた。
「〈月の民〉と称する者たちは、今どこにいる」
うつろになった商人の|眼《まな》|差《ざ》しを確かめながら、エリアードは慎重に質問しはじめた。
「ベル・ダウの隠れ里にいる――青い聖なる都、聖なる神殿と|巫《み》|女《こ》に守られた都に」
若い商人は郷愁にかられたようにつぶやいた。
エリアードはグリフォンと顔を見あわせた。都[#「都」に傍点]、神殿[#「神殿」に傍点]、などという規模の大きそうな単語が彼らを驚かせた。
「場所はどのあたりだ」
隠れ里の位置については不用意にしゃべらないよう誓いでもたてているのか、商人のガードは固かった。
いろいろ質問の角度を変え、言葉のはしばしに出てきたところを総合すると、それはベル・ダウの北東の谷あいにあり、タロ熱原のちょうど東あたりらしい。
標高の高い、砂漠と山岳の不毛地帯であり、一部の狂信的な宗教集団が修行の場として住みつく以外に、里のようなものが存在するとはとても思えなかった。
セレウコア周辺の地理地形は熟知しているグリフォンですら、信じられないと首をかしげていた。
「しかし、これでナクシット教団があわてふためいているわけが多少はわかってきたな。セレウコアの北西の村に進撃したところで、連中は背後に別勢力がいることに気づいたのだ――それも、彼らの神聖なる山を荒らす|異《い》|邦《ほう》の徒だ。あわてて攻撃の先を、セレウコアから、〈月の民〉とその隠れ里に向けたのだろう」
グリフォンはひとりごとのようにつぶやいていた。
しかしその推測が正しいなら、セレウコアが新手の軍勢を出したのは無駄どころか逆効果になりかねない。|腹《ふく》|背《はい》から敵にはさまれたナクシット教団は追いつめられ、過剰な反撃に出るかもしれなかった。
ただでさえ、捨て身で、|自《じ》|暴《ぼう》|自《じ》|棄《き》|的《てき》なところがある狂信の徒である。
「わたしたちをつけ狙ったのも、そのせいでしょうか」
幾度も難にあったセレウコアまでの道のりを思いかえし、エリアードは応じた。
「そうだ、連中はかなり以前から、ベル・ダウの隠れ里が〈月の民〉によるものであると知っていたのだ。〈月の民〉を、聖地荒らしの敵対勢力とにらみをきかしていたところで、あなたがたの存在を知った――それゆえ、〈月の民〉の士気を高めるだろうあなたがたを殺すか、とらえるかして、隠れ里の同胞たちと合流しないようにとあれこれ工作していたのだろうな」
シェクの分教所で問いただしたときには、ナクシットのお告げだのとあいまいなことを言ってごまかしていたが、ヤイラスもそれを承知のうえだったろうとグリフォンは考えた。
アルルスの丘や、サライの河で公然と彼の敵にまわったウィリクもまた、それだけの背景があって〈月の民〉に連なる者を狙ったのだ。
修行仲間であったヤイラスとウィリクの姉弟は、生まれながらのナクシットの信徒ではあったが、けっして狂信者ではなかった。
グリフォンはどこかほっとする思いだった。
「彼がさらわれたことは伝わっているのでしょうね」
エリアードの言葉が、彼を直面している事態にひきもどした。
「あなたがたが|歓喜宮《かんききゅう》に入ったころから、信徒をあげての集団移動がはじまっている。おそらくその時点で、合流を阻止するのは無理と判断したのだろう――とすれば、戦いは避けられないかもしれないな。セレウコアの|征《せい》|伐《ばつ》|軍《ぐん》とではなく、その隠れ里の〈月の民〉とナクシット教団の戦いが」
それはさらに悪いことかもしれないと、グリフォンは表情をひきしめた。
それから彼らは、商人から隠れ里の様子を聞きだした。
心理的な抵抗があったのは、位置に関するところだけで、ほかは世間話をするような調子だった。
険しい山岳の谷あいの、荒れ地ばかりを見てきた者の目には奇跡のようにうつる緑の|沃《よく》|土《ど》にある、豊富にきりだされる青い半透明の石をふんだんに用いた都だという。
グリフォンが興味をひかれた、|碧玉《へきぎょく》でも青金石でもない未知の青い石は、都の近くの山から出るものらしい。
人の数は出入りが激しいので変動はあるが、数万はくだらないという。
セレウコアの都にはとうていおよばないものの、ベル・ダウの奥地に定住する数としては驚くほど多い。
彼はそこで生まれ、やはり商人だった父親に連れられて、|市《いち》のたつ各地と、隠れ里の都を行き来していた。このあたりにも何度か商いに来たが、どちらかというとベル・ダウの山々を越えた北の国々におもむくことが多かったという。
商人はまだ少年のようにみえたが、実際には二十歳をすぎているようだった。
キルケスが指摘していたとおり、〈月の民〉は、この地の数え方よりも年をとるのが遅いというのはたしからしい。
〈月の民〉の二世代めであり、この地の者との混血であるグリフォンも、考えてみれば成長が遅かった。
少年時代は、いくつか年下のナナイヤよりも体格が小さく、そのせいでいじめられもした。現在のような、|丈《たけ》|高《たか》く立派な身体つきになったのは、二十歳をこえてからのことである。
商人もグリフォンと同様、この地の者との混血だった。
母親は、ベル・ダウの山岳に隠れすんでいた部族の者らしい。未到の山岳地には、各国の政変などで逃げこみ、そのまま子孫たちが住みついた小部族がけっこう存在する。
〈月の民〉がベル・ダウに|礎《いしずえ》を築いたのは、商人が生まれる数年前だという。
そのころは都と呼べるものではなく、小部族の村と変わりない、文字どおりの隠れ里だった。まだ豊かな|沃《よく》|土《ど》も発見されていず、岩穴や|灌《かん》|木《ぼく》のそばに細々と暮らしていた。
そんな不毛の地に、〈月の民〉が集まってきたのは、ベル・ダウの北東の峰に月の破片が落ち、|神《こう》|々《ごう》しくも不思議な光をはなっているという言い伝えがあったせいである。
その石はかつて、峰のひとつを吹きとばしたと伝えられ、谷間に埋まっていた。
都の原型は、その石をまつるために建てられた神殿に人が集まり住んだことからはじまった。
〈月の民〉とその|末《まつ》|裔《えい》たちは、石が吹きとばした奥の谷をたどるうちに、荒れ地のオアシスのような緑の沃土を見つけだした。
その沃土には多くの人々を養う余裕があり、|噂《うわさ》を聞いたほうぼうの地の〈月の民〉もやってきた。
石の神殿も谷の奥地に移され、いくつかの小部族も加わり、ほどなくして大集落となったということだ。
そうした移住にまつわるすべてのことは、失われた地のラウスター出身者たちの主導によっておこなわれた。三番めの月が砕ける少し前に、ラウスターの王族をともなって大勢で脱出してきた者たちだという。
こうしたいきさつは若い商人が生まれる前のことなので、彼は父親から聞いた話としてしか知らないようだった。
父親は数年前、商いの旅の途中で病死したという。
商人の名はトゥランといった。それはリウィウスに七つあった自治領のひとつであり、エリアードの生まれ故郷の名でもあった。
彼は領主の大勢いた|庶《しょ》|子《し》のひとりだったが、やっかいばらいに高名な|白魔術師《しろまじゅつし》のところへ養子に出され、その後はリウィウスの王宮に伺候するようになったので、トゥラン領には三歳のときまでしかいなかった。
息子にその名をつけた父親は、リウィウスのトゥラン領の出身ではないかと思ったが、エリアードはつっこんだ質問をさけた。
今は郷愁にひたっているときではなかったし、あまり感傷にひきずられたくはなかった。
〈月の民〉の都で、指導的な役割をはたしている者たちについて、彼はさらに尋ねていった。ラウスター出身の者たちで占められているというのが、少しひっかかった。
石をまつる神殿の|巫《み》|女《こ》として、〈月の民〉をまとめる|象徴《しょうちょう》となっているラウスターの王女と、神殿の大神官である|老魔術師《ろうまじゅつし》のことを、商人は語った。
けれど商人はひと月前に都を発っているので、それ以上のくわしいことは知らない様子だ。
|月《げつ》|炎《えん》|石《せき》にまつわることも、さらわれたリューのこともまったく聞いたことがないという。術中にある商人に|嘘《うそ》はつけないはずだったから、知らないのは確かだった。
ただ彼は記憶のどこかから引きだすように、断片的な伝聞をつづけた。
「|巫《み》|女《こ》さまは近く、|婿《むこ》|君《ぎみ》をおむかえになるそうだ。|山《さん》|麓《ろく》で会った同胞の話では、リウィウスの王族の方だということで、小宮殿からごいっしょに手をおふりになられたという」
「手を……あなたたちにふったと……」
エリアードは思わず問いかえした。
巫女の王女の婿になるというのがリューではないかとは予想がついたけれど、彼がそれを|承諾《しょうだく》したとは思えない。
みずから同胞たちに|挨《あい》|拶《さつ》したということは、本気でラウスターの王女と婚礼をあげる気なのだろうか。
絶対にありえないわけではないと思えるだけに、エリアードはしばらく|茫《ぼう》|然《ぜん》とした。
「大神官殿のやり方に不満をもっていた者たちも、そのお姿に感動したそうだ。婚礼の儀にはまにあわないだろうが、今度の商いはなるべく早めにきりあげて、その方のお姿をおがんでみたい」
質問されなくても、すすんで商人はそう話した。彼はすでに、まだ見ぬリウィウスの王族を敬愛しているかのようだ。
気をとりなおして、エリアードはその婚礼について尋ねたが、商人の知っているのは伝えきいたものだけで、それ以上のものは出てこなかった。
これまでのやりとりを忘れるよう暗示をかけてから、エリアードはわざをといた。
商人はしばらくぼうっとしていたが、知りあいの安い宿を紹介してやるとグリフォンがもちかけると、喜んでついてきた。地元の青年たちにまた、|因《いん》|縁《ねん》をふっかけられるのではないかという心配もあったらしかった。
同じ宿に商人を押しこめると、ふたりは部屋にもどり、聞きだした〈月の民〉の都の位置を地図で確認した。
グリフォンはドゥーリス製の詳細な地図を持っていたので、未到のベル・ダウの北東部も比較的わかっている。
峰のひとつが吹きとばされた地点は、古文書にもある出来事で、地図に印がついていた。
商人の話をまとめると、都はその奥の谷のどこからしい。
地形の条件から、このあたりだと地図の上でしめすことも可能だった。
位置がそこまで特定されれば、グリフォンはつきとめる自信があった。
商人たちが行き来している秘密の近道も、だいたいわかっていた。もう使われていない古い交易路で、ごく少人数しか通れない、いくつか難所がある岩場の道だ。
「およそ十日で着けるはずだ、途中で何事もなければの話だが」
グリフォンは大きな眼をより見ひらき、ひさしぶりの笑みをうかべた。思えば|月《げつ》|炎《えん》|石《せき》が盗まれ、キルケスが|失《しっ》|踪《そう》してから、笑ったことなどなかったような気がした。
青い石に好奇心をひかれ、たまたま助けてやった商人は、捜索に思いがけない進展をもたらしてくれた。
〈月の民〉の都の位置や規模もおおまかにわかり、リューもそこにいるらしいことが確認できた。月炎石の話は出てこなかったが、キルケスとともに都へ運ばれたことはまちがいないだろう。
「あなたはどうするつもりですか、グリフォン殿」
地図から目をあげて、エリアードは問いかけた。
「どうするとは、どういうことだ。当然、その都とやらへ向かうのだろう?」
「話によると、都はたいした規模で、ナクシット教団をもおびやかすものらしい。あなたは正式にではないにしろ、セレウコア皇帝の弟だ、いくらなんでも、黙って見すごすわけにはいかないでしょう」
「兄上に密告するとでも言いたいのか」
グリフォンは不快そうに|眉《まゆ》をあげた。
「密告ではなく、報告でしょう。今後のセレウコアの国外政策にかかわる問題です――あなたの立場からして、知らせないわけにはいかないと思いますが」
「そんな心配は無用だ。一介の観相師として動いているかぎり、わたしはどこの国からも中立だ。|魔術師《まじゅつし》ギルドから、それは保障されている」
「けれど現実は、あなたの理想どおりにいくでしょうか」
「まだわたしを信頼してはくれないのか。わたしは本来、国や生まれなど捨てた身だ――兄弟としてではなく、現セレウコア皇帝は英明な君主ゆえ、いっとき観相師として協力していたにすぎない。わたしの意思はわたしだけのものだ、セレウコアだろうとなんだろうとかかわりない」
力説するグリフォンを、エリアードは感心したような、複雑な表情でながめていた。
「恩知らずな、とんでもないことを言うと思っているのだろうな。重臣たちはこぞって、わたしのこういう態度を非難した――忘恩の徒ならまだいいほうだ、裏切り者、|売《ばい》|国《こく》|奴《ど》、とな」
「……いいえ、そうではないんです」
エリアードはつい、口もとをほころばせた。
「あなたはやはり、彼に似ているとあらためて思ったのです。王族の生まれとはいえ、権勢欲と|猜《さい》|疑《ぎ》|心《しん》の強い兄弟たちに同調できず、立場を悪くしたところも似ていないこともない」
「そうだろうか」
ほめられているのか、けなされていることになるのかわからず、グリフォンはあいまいにこたえた。
「あの人も、昔の身分をもちだされたり、名を呼ばれることすらいやがっていた」
だから、いくら|異《い》|邦《ほう》の地に集まってきた同胞たちのためとはいえ、リューが彼らに向かって手をふったという光景は信じられなかった。それもラウスターの王女だという|巫《み》|女《こ》といっしょに。
「わたしのほうも確かめたいことがある、いささか失礼な質問になるかもしれないが――」
相手の思いを見透かすように、グリフォンは言いかけた。
「もしやリューシディク殿に、〈月の民〉をたばねて|導《みちび》くつもりがあるなら、われわれが救出に向かうのは迷惑かと思う。そのこと自体を非難するつもりはない。リウィウスの王族として、のぞましい選択だろう」
「それはありえません。あなたが彼の立場でも、そんな道は選ばないでしょう」
いささかの迷いはふりきって、エリアードは断言した。
「しかし|巫《み》|女《こ》との婚礼を|承諾《しょうだく》し、ともに民衆の前に現れたというのだろう」
「すべては伝聞にすぎません。あの商人も、自分の目で見たわけではない。考えられることとしては――おどされるか、暗示をかけられるかで、無理やり|挨《あい》|拶《さつ》させられたか、あるいは……」
「あるいは?」
真剣に身をのりだしてきたグリフォンをかわすように、エリアードはほほえんだ。
「そのラウスターの王女があの人の好みで、心細いからいっしょにいてほしいとすがられたか、ですね」
9章 |山《さん》|麓《ろく》の奇跡
イェシルとアヤは夕食に出たついでに、夕暮れの宿場町を散策していた。
セレウコアの常在の兵らしい者も見かけるが、大半は商人か地元の人々ばかりで、みな警戒心もなくのんびりと歩いている。
馬をとばして一日ほどのベル・ダウの|山《さん》|麓《ろく》では、ナクシット教団の占領した村々と、セレウコアの国境軍がにらみあっているはずだが、遠い世界のことのようだった。
アヤがいっしょでは入れないなと通りすぎようとした|居《い》|酒《ざか》|屋《や》の前で、イェシルは思いがけない知りあいを見つけた。
「クファじゃないの、こんなところで何してんの?」
アルルスの町にいたセレウコアの兵に、イェシルは声をかけた。こんなところで何をしているかというのは、彼女にもあてはまる問いかけだった。
「街道の警備だ、見ればわかるだろう」
|槍《やり》を手に立っていたクファは、せいいっぱいの威厳をたもって、もと|女泥棒《おんなどろぼう》を見かえした。
けれどイェシルのほうが頭ひとつ分くらい背が高いので、のびあがってつんのめるふうになった。
「あんた、そういえば、都の関門所にいたんじゃなかった。その前はサライ河の岸を見張っていたし――また配置がえになったの」
|無《む》|邪《じゃ》|気《き》にイェシルは尋ねたが、クファの表情はとたんにけわしくなった。
河岸の見張りの失敗から、グリフォンの命令で都に送りかえされ、都の関門所では何が悪かったのかわからなかったが、|詐《さ》|欺《ぎ》|師《し》を引きわたしたらすぐに辺境勤務を命じられた。
クファにしてみれば、どうしてこうも災難つづきで、|左《さ》|遷《せん》させられるのかと、やけ酒をあおりながら|愚《ぐ》|痴《ち》っていたところだ。
思いおこせば、イェシルが現れたのが|厄《やく》|災《さい》の前ぶれだったようにも思える。
この|精《せい》|悍《かん》で、独特の魅力をもった女泥棒にはまだ|惚《ほ》れていたが、|不《ふ》|吉《きつ》なしるしであることにはまちがいなさそうだ。
「泥棒にはわかるまいが、配置転換は|宮《みや》|仕《づか》えにつきものさ。おまえこそ、こんな辺境まで出稼ぎかい」
クファは虚勢を張って問いかえした。
「ちょっと、その泥棒ってのはよしてよ。人が聞いてるかもしれないじゃないの」
「だっておまえ、泥棒だろう、それとも商売がえしたんか」
イェシルがたじろぐのをおもしろがって、クファは追及した。
「今はあんたと同じセレウコアの衛兵なのよ。ここにだって、ちゃんと護衛として来たんだからね」
やばいんじゃないとアヤはつついたが、かまわずイェシルは言った。
クファの近眼ぎみの丸い目がよけいに丸くなる。
「護衛って、セレウコアの誰の護衛だ、そんなお偉い方がいらしてるとは聞いてないぜ」
「冗談だよ、|嘘《うそ》だってすぐにばれるから、罪のない冗談だろう」
横からアヤが口をはさんだ。
クファは疑わしそうに、もと|女泥棒《おんなどろぼう》と子分を見ている。
「そういえば、あの|詐《さ》|欺《ぎ》|師《し》、生白い顔したふたり組の話を最初にしたのは、おまえじゃなかったか。なんでもアルダリアに現れた詐欺師と同じじゃないかってのは」
クファはおぼろげな記憶をさぐる。
ただでさえ物覚えのよくないところに、ここ最近の環境の激変で、以前のことはよく思い出せなかった。
しかし詐欺師の話はたしかに女泥棒から聞き、それを彼が同僚たちにもらしたはずだった。
「ああ、何かそんなようなことを言ったけど、はっきりしないし、もう忘れちゃったわ」
なつかしい顔を見つけてつい声をかけてしまったが、まずいことになりそうだとイェシルは笑ってごまかした。
すばやく、この場を立ちさる口実はないかと、彼女はあたりを見まわした。
北の、ベル・ダウの山なみが黒い影となっているあたりに光るものがあった。
「あれは、何かしら、雷――?」
クファの気をそらすためではなく、イェシルはその方向を指さした。
|居《い》|酒《ざか》|屋《や》の付近にたむろしていた人々も、しだいに山のほうを見つめはじめた。
|夕《ゆう》|闇《やみ》に沈んで、山の影すらはっきりしないのでさだかではないが、闇と同じ色をした雲がその一帯をつつみこんでいるかのようだった。
黒々とした雲はうごめき、光の筋がひらめいている。
雨雲にしては唐突なあらわれ方で、おおっている区域がせまいようだ。
イェシルは前にも似たような光景を見ていた。サライ河の宿の屋上で。
しかしそのときは雷のようなものはひらめかず、ただ激しい雨が降ってきただけである。
|閃《せん》|光《こう》は黒雲の中でふくらみ、真昼のように|炸《さく》|裂《れつ》した。
そのあとから落雷の|轟《ごう》|音《おん》が響き、地面がゆらいだ。
雷が落ちたのはベル・ダウの|山《さん》|麓《ろく》あたりだったが、集まってきた野次馬たちは悲鳴をあげて、逃げまどう者もいた。
雨もめずらしいこの地では、落雷などほとんどの者が見たことはない。
腰をぬかしかけていたクファは気をとりなおし、衛兵として混乱をおさめるべく声を張りあげた。
山なみの光はやわらぎ、つづけて雷が落ちてくる様子はなかった。
黒雲も風に流れるようにして、見る見るうちに薄らいでいった。
光も消えうせ、黒い山影はいつもの不変の姿にもどっていく。
さわぎを聞きつけて、エリアードとグリフォンも集まってきた者たちの中にいた。
彼らは居酒屋の前のイェシルを見つけ、人をかきわけて歩みよってきた。
「見ていたか、今のを」
グリフォンは性急に尋ねた。あれは|月《げつ》|炎《えん》|石《せき》の力によるものと、彼はひと目で確信していた。
「雷が落ちたらしいけど……」
まずいとイェシルは合図を送ったが、無駄に終わった。
彼女のもとにやってきたクファがいち早く、グリフォンの姿に気がついた。
「――大将、グリフォンの大将じゃないですか、なんだってこんなど田舎[#「ど田舎」に傍点]にいるんですかあ」
まわりの者がふりかえるような大声で、クファは叫んだ。
「この馬鹿!」
すぐさまグリフォンは衛兵の首をかかえこみ、力ずくで黙らせた。こんなふうにわめかれたら、おしのびで来ているのがばれてしまうから必死だ。
息ができなくなって、クファは両手をばたばたさせた。
彼はどうしてこんな事態になったのか、まったくわからなかった。|鈍《どん》|感《かん》で、血のめぐりが悪いせいもあった。
「どうしたんですか」
関門所にいた衛兵の顔などおぼえていないエリアードは、けげんそうに近づいてきた。
「ああっ、てめえは、あのときの|詐《さ》|欺《ぎ》|師《し》の片われ、女たらしの色男じゃないか」
真っ赤な顔をして彼を指さし、クファはなおもわめいた。
「都の|牢《ろう》にぶちこんだのに、|脱《だつ》|獄《ごく》したな、この野郎……」
そこでクファの|罵《ば》|声《せい》はとぎれた。
グリフォンがたまらず、その後頭部を殴りつけたからだ。
哀れな衛兵は、グリフォンの腕の中に崩れおちた。
イェシルはそっとため息をついた。
とりあえずグリフォンは、気絶させたクファの所属長と話をつけるために出かけていった。|山《さん》|麓《ろく》の落雷についても、くわしい状況を知りたかったせいもある。
ほかの者たちは宿にもどり、明日にそなえて休むことにした。疲れ知らずで|強靭《きょうじん》なグリフォンには、とてもあわせていられなかった。
「あざになってるよ、どうしたの」
アヤからそう言われ、商人を助けたときに殴られたところを、エリアードはさわってみた。
前より|腫《は》れて、ふれるだけで跳びあがるほど痛んだ。
「冷やしたほうがいいわ」
親切に、イェシルは|濡《ぬ》らした布を持ってきてくれた。
〈月の民〉についてはあまりふれないように、エリアードは商人から聞きだしたことを話した。やはりどこか、彼には同胞たちをかばう気持ちがあり、都の存在を広める気にはなれなかった。
話のあいだに、旅で疲れていたせいもあって、アヤはそのまま寝いってしまった。
「あなたもたいへんね」
寝台にアヤを運んでから、イェシルはいたわるようにささやきかけた。
「そのう、いろいろと……」
最初は|片《かた》|頬《ほお》にくっきりと残った青あざを気のどくがっていたのだが、話を聞いていくうちに何を言いたいのかよくわからなくなっていた。
なんのことかと、エリアードは彼女を見つめた。
「前から思ってたんだけど――その、じっと人を見る癖、相手を選んだほうがいいわよ、誤解をまねくわ」
まぶしげにイェシルは視線をそらした。彼に見つめられると、特別な意味はなくてもどぎまぎした。
思いかえしてみれば、アルルスの町で落とし穴から救出されて、はじめて会ったときからそうだった。
「ああ、そうですね、じっと見ているかもしれない。|白魔術《しろまじゅつ》を習っていたときの習慣が残ってるんです。暗示をかけたりするときには、相手の|眼《まな》|差《ざ》しをすばやくとらえなければならないので、そうした訓練をしたから」
エリアードは目をふせ、手近な|椅《い》|子《す》に座った。
「暗示って、相手を好きなようにあやつれるの?」
興味をひかれ、イェシルは彼の隣に腰をおろした。
椅子は小さめだったので、はみ出しそうになって、彼女は|肘《ひじ》もたれの上に座りなおした。そんなささいな動きにも、彼女は彼の存在を意識して、うろたえた。
「条件がととのえばできます。好きなようにとはいっても限界はあって、たとえば自殺しろとか命じることはむずかしいし、人によってどうしてもできないこともあります」
「じゃあ、くどきたい相手をこちらに向かせて、思いのままにすることもできるのね」
非難したいような調子で、イェシルは問いかけた。
「それはやってみたことがないから、わかりません――信用してもらえないかもしれませんが、どうしても必要でないかぎり、暗示のわざは使わないことにしてるんです。今のあなたのように、まわりの人たちに警戒されるのはいやですからね」
ていねいにエリアードは応じた。
その|真面目《ま じ め》な口ぶりに、イェシルは妙な質問をしたのはまちがいだったと反省した。
「馬鹿なこと、言っちゃったわね。たしかにあんたはそんな人じゃないし、必要もないくらいだわ。あんたの女好きの相棒だったら、悪用しかねないけど」
「あの人にはそうした素養はいっさいありませんよ。天の配剤と言ったら、怒られそうですが」
彼はわずかにほほえんだ。
|失《しっ》|踪《そう》した相棒のことを語らせると、彼の表情が輝くのを、イェシルは何度も見た気がした。
あらためて彼女は|嫉《しっ》|妬《と》をおぼえた。以前とちがって、どちらに対しての嫉妬なのかわからなくなっていたが。
「あいつは前に言ってたわ、あんたのことを――行く先々でやたらともてて、どんな女もあんたにしか関心をもたなくて、いつも自分は恋路を|邪《じゃ》|魔《ま》する役まわりになるって」
その話を聞いたのは落とし穴のときのことで、イェシルは半信半疑だった。
けれど実際に話題の主のそばですごし、その深い|眼《まな》|差《ざ》しに出合うと、いつしかうなずけるような気持ちになってきていた。
一種の暗示のようなものかもしれないと彼女は思った。あれからいつも、落とし穴で聞いた言葉は耳に残っていた。
「そんなにもてませんよ。わたしのほうもそれほど関心はないし、まめにくどいたりしませんから」
|謙《けん》|遜《そん》したつもりはなく、エリアードは困惑していた。相棒は彼女にそんなことを言っていたのか、というのが正直な感想である。
「あなたくらいきれいな人なら、くどく必要なんてないわ」
イェシルははじめて会ったときのように、彼をまじまじと見つめた。月明かりの下にいるよりは神秘的ではないが、あいかわらず地上に降りてきた月の精のごとく、彼は|繊《せん》|細《さい》でうるわしかった。
十日ほどともに旅してきて、そのあやしく誘うような見かけに似あわない、誠実で|生《き》|真面目《ま じ め》な人柄にもつねづね感心していた。
「わたしなど|融《ゆう》|通《ずう》はきかないし、おもしろみはないから、つまらなくてすぐ飽きますよ」
彼女の強い視線をかわすように、エリアードは応じた。
「なんといっても、女は面食いなのよ。ほかのことは二の次で、すぐぼうっとなってしまうんだわ」
かまわずイェシルは彼に見入った。
「単純にして、明快な価値基準でいいですね。もしそれが本当だとしたら――女性のことはわかりませんが」
「女には関心がないの?」
単刀直入の問いに、彼はいっそう困惑した。
「ないとは言えませんね、あるとも言いきれないけれど」
「あなたがもてるわけのひとつは、あまり女には関心がないような、冷ややかなところがあるからだって、やっぱりあいつが言ってたわ」
「いろいろ困ったことを言ってますね。わたしの態度が冷ややかになりがちなのは、|惚《ほ》れっぽい相棒を見ている反動のようなものですよ」
「惚れっぽいね、たしかにそうよね、さらわれた先にだってちゃんと女がいるわけだし」
|巫《み》|女《こ》との婚礼話を、彼女はそう決めつけていた。
日ごろの言動から考えて、決めつけられるのも仕方ないかとエリアードはとくに否定しなかった。
「あの人も昔は、あれほどいいかげんで|能《のう》|天《てん》|気《き》ではなかったんですけれどね。戦いに無理やり狩りだされ、味方の|姦《かん》|計《けい》にはまって死にかけてから、あらゆる権威や大義名分が馬鹿馬鹿しくなって、今のようになったんです――あれでも十代のころは禁欲的だったし、うわついたところも少なかったんですよ」
「へえ、そうなの、信じられないけど、あんたが言うなら本当かなと思えるわ。|惚《ほ》れた欲目ってわけでもなさそうだし」
イェシルは彼の肩に手をかけ、その表情をのぞきこんだ。
「惚れた欲目とは、どういうことですか」
「あいかわらず他人行儀な、|隙《すき》を見せない人ね。もう何日もいっしょに旅してるのに――誰にでも、そんなていねいな話し方をするの、あたしみたいなもと|泥《どろ》|棒《ぼう》にはあわないわ」
「これはまあ、癖のようなものだし、あなたは――わたしの認識ではまだ、相棒の惚れた相手ですからね、相応の敬意をはらってるわけです」
ややたじろいでいたが、すぐにいつもの冷静さをとりもどし、彼はこたえた。
「あんたもあいつを好いているのでしょう、前からちゃんと確かめてみたかったのよ」
「も[#「も」に傍点]、ということは、あなたも、ですか。このあいだは否定していたと記憶してますが」
「はぐらかさないで、わたしのことじゃなく、あんたのことを尋ねてるのよ」
「好いていますよ――好いてなければ、いくらわたしがもの好きでも、ああいった手のかかる人とは旅などしません。現に今も、ほかのすべてのことに優先して、|行《ゆく》|方《え》を追っていますしね」
あいまいなところもあったが、実感のこもった返答だった。
何が狙いなのかといぶかしむように、彼は|肘《ひじ》もたれに腰かけているイェシルを見あげた。
「その……あたしが聞きたいのは、恋人としてあいつを愛しているのかってことよ」
彼女は質問の意味するところと、強く見つめられたせいで、恥ずかしそうに目をそらした。
「なぜ今になって、そんなことを尋ねるんです。何かこの旅にかかわりがあるのですか」
「わからないわ、ずっと気になってしょうがなくて――ちょうどいい機会だったから、うるさいグリフォンもいないし」
せまい|椅《い》|子《す》に|隙《すき》|間《ま》をつくり、エリアードは彼女の手をとって引きよせた。
素直に彼女は従った。
「答えは、あなたと同じだということにしておきましょう。それでは不満ですか」
いやいやと首をふるようにして、イェシルは彼の肩に両腕をまわした。
小さめの椅子に大柄なふたりが座ったので、自然と抱きあうような形になった。
どうしようかと迷っていたが、彼はすぐ近くにあるひらいた|唇《くちびる》に|接《せっ》|吻《ぷん》した。これ以上の彼女の追及を封じるような|仕《し》|草《ぐさ》だった。
「わたしに関心はあるの、女にはあまり関心はないって言ってたけれど」
イェシルは|雌《めす》|虎《とら》のようなきつい薄緑の眼を細めた。
その野性的な|眼《まな》|差《ざ》しと、しなやかな|肢《し》|体《たい》には、彼としてもいつものごとく冷静というわけにはいかず、軽い興奮をおぼえた。
アルルスの宿でひとめ|惚《ぼ》れした相棒の気持ちを、彼はしぶしぶながら理解した。
「――関心はおおいにありますよ。あなたは相棒の惚れた相手だから、普通の女とはちがう」
殴られるかなと思ったが、エリアードは正直に告げた。
けれど彼女はしおらしく、青あざになった|頬《ほお》に|接《せっ》|吻《ぷん》しかえしただけだった。
「悪趣味ね、人のものだったら味見してみたくなるわけ?」
「ええ、自分でも悪趣味だと思うのだけれど、相棒の惚れる相手には同じように興味をひかれます――わたしの女性に対する態度は、まったくほめられたものじゃないんです。惚れっぽいだけの相棒より、たぶんずっと悪いものです」
|非《ひ》|業《ごう》の死をとげた踊り子の面影がよみがえり、彼は|懺《ざん》|悔《げ》するようにつぶやいた。
どう言いわけしても、相手の好意をいいことにもてあそんだことになるだろうと思いかえしながら。
「あなたは本当に|真面目《ま じ め》な人なのね、あいつとは大ちがいだわ、そうして反省して、心を痛めるところなんて」
怒って立ちさるどころか、イェシルは笑いとばした。
「それはわたしにとって都合のいい解釈ですね。心から反省すれば、何をしてもいいという」
「そうよ、明日には死ぬかもしれないもの、過去をくよくよふりかえっていても仕方ないわ、あたしはずっとそんな世界で生きてきたから」
なぐさめるようにささやいて、彼女はふたたび接吻した。
今度は受け身でいるだけでなく、彼も積極的にこたえた。
「どうしてわたしの周囲には、そういった|能《のう》|天《てん》|気《き》な人が多いのか、ときどき不思議に思いますよ」
「そのかしこまった話し方はよして――エリーって、呼んでいいかしら。あいつはあたしのことを、まちがえてそう呼んだことがあったわ。女の名かと思って、そのときは怒ったんだけど」
「いやです、呼ばないでください」
「なぜ、あいつにしか呼ばせないつもりなの」
「女の名みたいだからです、あなただってまちがえたのでしょう」
「よく聞けば、べつに女とはかぎらないわ――どうしてもいやなら、交換条件にしましょう。その距離をおいたような、ていねいな話し方をやめてくれたら、呼ばないでおくわ」
理にあわない条件をもちだされて、エリアードは返事のしようがなかった。
「あなたは本当にきれいで、みょうに|生《き》|真面目《ま じ め》で、冷たいようにみえるけど優しい人だわ。いいかげんなあいつが、あなたのことだけは大事に想っているのは、くやしいけれど理解できる」
ついさきほど彼が考えていたのと同じようなことを、イェシルは口にした。
今はここにいないリューをあいだにして、彼らふたりはひかれあっているようだ。
じつに奇妙な三角関係だとお互いに思いつつ、ふたりはせまい|椅《い》|子《す》の上で抱きあった。
「……アヤが起きるかもしれないわ」
「グリフォン殿下が、すぐにもどってくるかもしれない」
|牽《けん》|制《せい》するようにつぶやきあいながらも、彼らはまわした腕をはなさなかった。
こんなことをしているときではないという意識はエリアードの側にはあったが、〈月の民〉の居所がわかった|安《あん》|堵《ど》|感《かん》が彼を大胆にさせていた。相棒もこんなふうに、このしなやかな身体におぼれていったのかと複雑な思いにもかられた。
まあいいかと、なりゆきまかせの相棒のようなことを考えながら、彼は目の前の|女泥棒《おんなどろぼう》の魅力に負けた。
翌朝、彼らは早々に宿を発った。
セレイカ湖のほうをまわる商人を見つけ、グリフォンはやっかいばらい半分でクファを護衛につけてやった。
クファは結局、よく事情がわからないまま、特別手当をもらって別任務を|承諾《しょうだく》させられたかたちとなった。
グリフォンはほとんど徹夜だったが、疲れた様子もなく、先頭をきって|砂《すな》|馬《うま》を走らせた。
報告で聞いたかぎりでは、落雷した|山《さん》|麓《ろく》の様相はひどいものだという。
ナクシット教団の占領した村のひとつを直撃し、そのまわりの森林をひと晩で焼きつくし、逃げまどう信徒たちがセレウコア軍に助けを求めてきたそうだ。
「昨夜の落雷が、あの|月《げつ》|炎《えん》|石《せき》とやらのひきおこした|災《わざわ》いだというわけですか」
街道わきで昼食をとるときに、エリアードはまだ疑わしそうに尋ねた。
宿を出たきり、グリフォンは朝までもどってこなかったし、出発のときはあわただしくて確かめるひまはなかった。
「まちがいないが――なんらかの増幅装置を用いてると思う。キルケスか、話に出てきたラウスターの|魔術師《まじゅつし》の|仕《し》|業《わざ》か、いずれにしても容易ならない事態だ」
|歓喜宮《かんききゅう》の地下で、キルケスがたわむれのようにこころみていた実験を、グリフォンは|苦《にが》|々《にが》しく思いかえす。
「石そのものが、山麓の近辺にあったわけではないでしょう」
「報告を聞いただけで確かめてはいないが、ナクシットの占領区であるゆえ、まず近くにはなかったはずだ――とすれば、増幅装置は転送機能もかねそなえているにちがいない。これが思いのままにあやつれるとしたら、想像するだけで恐ろしいな」
誰を相手に話しているかもうわの空で、グリフォンはつぶやいた。
彼もキルケスとともに、原石のときから月炎石の力を調べてきたし、増幅装置に近いものを考えてみたことがあったから、落雷を見て、大まかな報告を聞いただけで、そこまで理解できた。
「彼はかかわっていると思いますか、あの人の呼んだのは雨だけだったけれど」
まるで|雨《あま》|乞《ご》い|師《し》のようだったと思いながら、エリアードはそれほどの|危《き》|惧《ぐ》もなく言った。グリフォンが異様に興奮しているので、かえって彼は落ちついていた。
「わからん。〈月の民〉の都には、もともとあった、もうひとつの月の石も存在するのだ。あのとんでもない力は、両方をあわせたものかもしれない」
グリフォンはもう、リュー個人のことなど頭にないようだ。
|歓喜宮《かんききゅう》を出たときから、どちらかというと彼よりも、月炎石のほうばかりに関心が向きがちだった。
商人から、婚約者の王女といっしょに手をふったと聞いてからは、もう彼については心配するのもやめたようだ。
「わが同胞たちは強大な力を得たわけですね。ナクシットやセレウコアにも対抗できるだけの」
軽く|挑発《ちょうはつ》するように、エリアードは小声で言った。
「対抗できるどころか、やろうと思えば、セレウコアの都ですら|壊《かい》|滅《めつ》させることも可能かもしれないな」
|不《ふ》|吉《きつ》な予言のごとく、グリフォンはつぶやいた。
[#地から2字上げ]『ムーン・ファイアー・ストーン5』に続く
あとがき
『ムーン・ファイアー・ストーン』の第四巻をお届けします。
東の荒れ地から、花祭りのシェクの町、辺境のアルルス、サライ河岸、|城砦都市《じょうさいとし》セレウコアへと舞台をうつしていった物語も、いよいよ|佳境《かきょう》に。
最初はふたりではじまった旅も、巻をおうごとに同行者が増え、背負う荷物も重くなり、やっかいごとの山積み状態となります。さて、いかなるやっかいごとが本巻では待ちうけているか。それは中身を読んでのお楽しみといたしましょう。
四巻まで読んでくださった方にはおわかりになるかと思うんですけれど、この『ムーン・ファイアー・ストーン』は、ふたりのうち一方が踏んだり蹴ったりのめにあうお話なんですね、構造的に。他の話でもたびたび、二枚目半から三枚目の役まわりを押しつけられている彼ですが、ちょっと今回はお気のどくです。
第一巻が店頭に並んでから、全国からたくさんのお手紙をいただきました。たまに暇をみつけて、お返事がわりのミニコミ・ペーパーをお送りしてますが、多忙で無理なときもけっこうありますから、この場を借りてみなさんにお礼を申しあげます。
女とからませないで! というお手紙が今のところ多いんですが、四巻までおつきあいしてくださったなら、もうあきらめの境地でおられることと思います。そういう話ですから、仕方がありませんよね。
この先もずっと、行く先々で女性キャラとからみます。次巻のタイトル『青い都の婚礼』からもおわかりのとおり、まあなんと、結婚式まであげちゃいます。今度のマドンナ役はどんなタイプかなと、“|寅《とら》さん”シリーズのように気楽な気持ちで見守ってやってください。
反対に、どんどん女とからませてくださいというご意見も、少数ながらいただいております。私としても、いい男を描くのはもちろん楽しいけれど、魅力的な女性キャラを考えるのも楽しい作業です。
一巻めの『あとがき』には、いろいろシリーズ名と各話のタイトルを盛りこみすぎ、混乱をまねいたように思います。
ややこしいんですけど、全体を通じてのシリーズ名が――"Tales From Third Moon"(三番めの月の物語)といいます。本の帯を取っていただくと、表紙の下のほうに紫のロゴが入ってます。
そして、"Tales From Third Moon"(三番めの月の物語)のいくつかある物語の中のひとつが、今回の五分冊となった『ムーン・ファイアー・ストーン』なんです。シリーズ全体としては第九話にあたるものです。
今のところ、他の構想分の物語は二十話ぐらいあります。『ムーン・ファイアー・ストーン』のように長いものもあれば、一冊完結ぐらいのものもあり、中編・短編もあります。一巻めにタイトルを列挙したのは、その二十話のうちの代表的なものです。
ほとんどの話は、金銀ふたりが方々の土地でいろいろな人に出会い、いろいろなめにあうという形のヤジキタ道中記なんですが、今回のように同行者が増えたり、過去に深くかかわってくる話もあります。
『ムーン・ファイアー・ストーン』の話はいちおう、次の五巻めで終わります。そのあとは中短編を集めた一冊完結のものを三巻分ぐらい(霧の都の話と、|占《うらな》い|師《し》の店をひらいて|繁盛《はんじょう》する話と、森の精と動く石像の話の予定です)はさんで、『ムーン・ファイアー・ストーン』のすぐ直後にあたる長めの話(仮のタイトルは『海洋冒険編』で、グリフォンも登場します)をつづけてみようかと思案中です。
まだはっきりとは決まってませんから、次巻でちゃんと予告します。末長く、おつきあいください。
春がすぎ、野球が開幕し、ほーんとにさぼりほうけてしまいました。そろそろエンジンをかけないとあとがつらいぞと思ううちに、もう夏めいてまいりました。
|怠《たい》|惰《だ》な作者の性格にいち早く気づき、ムチを入れてくださった担当の小林さんにはたいへん感謝しております。ミーハーな私の要求にいつもまめに応じてもらってますので、もう日本ダービーのトウカイテイオーのごとく走るしかありません。
そして私のミーハー心を全開にしてくださった|紫《し》|堂《とう》さん、いつも愛の交換FAXにおつきあいくださってありがとうございます。|拙《せっ》|作《さく》にイラストをつけていただくだけでも光栄の至りでしたのに、お姉さまと呼ばせていただけるほど親しくなれるなんて、職権乱用、公私混同と石を投げられても、私はけっして後悔いたしません。
あぶなくなってくる前に|手《た》|綱《づな》をしめて、五巻めでまたお会いしましょう。衝撃の新婚初夜シーンもある隔月刊の次巻『青い都の婚礼』をお楽しみに。
一九九一年六月
[#地から2字上げ]|小沢淳《おざわじゅん》
本電子文庫は、講談社X文庫ホワイトハート(一九九一年八月刊)を底本といたしました。
|月《げっ》|光《こう》の|宝《ほう》|珠《しゅ》 ムーン・ファイアー・ストーン4
講談社電子文庫版PC
|小《お》|沢《ざわ》 |淳《じゅん》 著
(C) Jun Ozawa 1991
二〇〇二年一一月八日発行(デコ)
発行者 野間省伸
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二‐一二‐二一
〒112-8001