講談社電子文庫
銅の貴公子 ムーン・ファイアー・ストーン2
[#地から2字上げ]小沢 淳
目 次
1章 黒衣の|観《かん》|相《そう》|師《し》
2章 |夕《ゆう》|闇《やみ》の決闘
3章 過去の亡霊
4章 青白き|園《その》の|獣《けもの》
5章 |魔術談義《まじゅつだんぎ》
6章 |鋼《はがね》の一撃
7章 白と黒の女泥棒
8章 |邪教《じゃきょう》の|館《やかた》
9章 かぐわしき|報酬《ほうしゅう》
あとがき
1章 黒衣の|観《かん》|相《そう》|師《し》
食事のあいだ、リューはずっと視線を感じていた。
明日にはアルルスの市門に着くという、街道沿いの|居《い》|酒《ざか》|屋《や》でのことだ。
奥行きの広い居酒屋は、人の通る|隙《すき》|間《ま》もないほどに木卓がぎっしりと並べられ、そのほとんどが客で|埋《う》まっていた。
皿を手に行き来する店の者や、立って酒をくみかわす一群にさえぎられ、視線の送り主を確かめることはむずかしい。
敵意や|警《けい》|戒《かい》をふくんだ視線ではないようなので、彼はそちらのほうを向かず、ほうっておくことにした。
注文した煮こみには、豆がまばらにういているだけで腹のたしにもならず、かといってほかのものを注文するには路銀の余裕がなく、|勘定《かんじょう》をすませて出ていこうかと彼は考えているところだ。
「一杯ぐらいならかまいませんよ」
横からエリアードはささやいた。あまり|相《あい》|棒《ぼう》がしずんでいるので、見かねての申し出だった。
「べつにどうしても飲みたいわけじゃない。今は酒のことなど考えてなかったぞ」
「じゃあ料理のほうですか。遠慮なさらないでください」
満員の客のあいだをぬって歩く|女将《お か み》に、エリアードは手で合図した。
女将は浅黒い顔を輝かせて、すぐに彼らのもとに来た。
エリアードは羊肉の包み焼きと果実酒を追加した。
いくらまわりがさわがしいとはいえ、十分に声は聞こえるはずなのに、女将はわざわざ彼の口もとに耳を寄せた。
彼がたじろぐと、女将は今にも|接《せっ》|吻《ぷん》しそうに、真っ赤に塗った|唇《くちびる》を近づけてにっこり笑った。
仕方なく彼が笑いかえすと、女将は軽快な足どりで|厨房《ちゅうぼう》にもどっていく。
「これはいい――うまくすればここの勘定はただになる」
木卓に|肘《ひじ》をついて、リューは小きざみに笑っていた。
「そうしてあの女将の|亭《てい》|主《しゅ》にたたき出されるんですか。まっぴらですね」
「彼女に亭主はいないよ。このあたりの亭主持ちの女は手首の内側に|刺青《いれずみ》をするが、あの女将はしてなかったな」
「それだけ軽口がたたけるなら、元気づけようと追加を頼む必要はありませんでしたね。気をまわして損をしましたよ」
エリアードは相棒をにらみつけた。
「わたしは路銀の残りに気をまわしたんだ。まだ旅は長いのに、このあたりで使いはたしてはまずいだろう」
「たりなくなったら、街道で|物《もの》|乞《ご》いでもすればいいでしょう。|男娼《だんしょう》まがいよりはそのほうがいくらかましですよ」
「大げさだな、何も男娼とまでは言ってないのに――」
はっとして、リューは顔をあげた。
木卓を陣どっていた団体がどやどやと引きあげていったあとに、フードを深くおろした客が彼らの正面に座った。
暑い地方ではめったに着ない|漆《しっ》|黒《こく》の厚手の|外《がい》|套《とう》をはおった、|魔術師《まじゅつし》か|占《うらな》い|師《し》ふうの客である。顔立ちはフードの陰となってよくわからなかったが、ややつきでた|唇《くちびる》は厚めで、|顎《あご》のあたりはがっしりしているようだ。
さきほどからの視線の主はこの客だったとリューは確信した。
いったいなんだとリューが言ってやりたくなったころ、|女将《お か み》が注文の品を運んできた。
皿を置き、果実酒を注ぐあいだに、女将は|偶《ぐう》|然《ぜん》そうにさりげなく、エリアードの肩や胸をさわった。
しかし彼は平然とそれを無視したので、女将はむくれ気味にもどっていった。
正面の客のためには、値がはる高級の|蒸留酒《じょうりゅうしゅ》が|瓶《びん》ごと運ばれてきた。貧しい者にはめったにおがめないもので、|妬《ねた》みの視線がまわりから集まった。
この上客には、店の者たちも心なしかうやうやしく接していた。
リューも内心では、おおいにうらやましく思った。路銀のとぼしい放浪者には、祭りの日にもおがめない高級品だ。
そんなさもしい自分に腹がたって、彼は果実酒をいっきに飲みほした。安物の甘ったるい味が|喉《のど》ごしに広がっていった。
それを読みとったように、正面の客は蒸留酒を差しだした。
「よろしければ、一杯いかがですか」
フードの下からくぐもった声がもれた。かすれた、老人のような声だ。
「けっこうだ、おごられるいわれはない」
そんなにものほしげだったろうかと|自《じ》|己《こ》|嫌《けん》|悪《お》をおぼえながら、リューはことわった。
「|無料《た だ》でとは申しません。かわりとして、あなたたちの相を拝見させていただきたいのです」
「あんた、|占《うらな》い|師《し》か――?」
「いいえ、わたくしは|観《かん》|相《そう》|師《し》です。ドゥーリスのギルドから、上級の|免《めん》|許《きょ》をいただいております」
客は、胸の前に掛けていた金の丸いメダルのようなものを持ちあげて見せた。
リューにはよく見分けがつかなかったが、それは|黒魔術《くろまじゅつ》の都として名高いドゥーリスの魔術師ギルドが発行している資格の印らしい。
「観相師の上級ですか――本当ならば、たいしたものだ」
丸いメダルをのぞきこむようにして、エリアードは言った。占い師まがいのことをして|稼《かせ》いだことのある彼には、それの意味する力と地位がおぼろげながら理解できた。
占い師は個人のごく近い未来をみるものだが、観相師はさらにその未来までを|筋《すじ》|道《みち》だててみとおし、場合によっては国や世界全体の相を観察するという。
ギルドでの地位ではおおむね、観相師は占い師より力をもつ者として位置されているが、下のほうの区分けはあいまいになっていた。しかし上級となると、ちまたの|辻《つじ》占い師とは一線を画するはずだった。
「よけいに妙だな。そんなに立派な|師匠《ししょう》が、なぜ酒までおごって、相をみなくてはならないんだ。金を払ってでも見てもらいたい客が大勢いるはずだろう」
羊肉をたいらげながら、リューは問いかけた。
「失礼ながら、やはり占い師といっしょにしておられるようだ。観相師の上級の者は、客から代金を取って相をみたりはいたしません。観相師のみるものは、個人の明日明後日のささいな運勢などではありませんから」
観相師は、からになったリューの|杯《さかずき》に|蒸留酒《じょうりゅうしゅ》を注ぎこんだ。
「だったら、わたしたちの何をみるんだ」
「正確にはあなたたちの相をみるのではなく、あなたたちのからんでいるある大きな動きをみきわめたいのです。あなたたちは国をも動かす重大な使命を背負っておられる――ご安心ください、観相師はどこにも|与《くみ》しておりませんし、知りえたことを私益に利用することは禁じられておりますから」
声をひそめ、観相師はおごそかに言った。それからしばらく、|喉《のど》に何か引っかかったような|咳《せき》をした。
リューは|相《あい》|棒《ぼう》と顔を見あわせた。彼らの果たさなくてはいけない約束を、この観相師は見ぬいているのだろうかと。
「悪いが、ことわるよ。わたしたちは|一《いっ》|介《かい》の旅人だ、国だの使命だのとは縁もゆかりもない者だよ」
蒸留酒の杯をリューは押しもどした。そうして|居《い》|酒《ざか》|屋《や》を出るべく、木の|椅《い》|子《す》から立ちあがった。
「お待ちください――ではせめてひとことだけ、わたくしの見立てを聞いていただきたい」
|観《かん》|相《そう》|師《し》は彼らを呼びとめた。声のかすれぐあいが前とはちがっていて、わざと|喉《のど》をつぶした作り声を出しているようだ。
「今夜、あなたたちに出会う者をぜひ道づれになさい。旅はその人物によって順調にいくでしょうから」
「観相師と予言者はどうちがうんだ」
|揶《や》|揄《ゆ》するようにリューは尋ねた。彼は|相《あい》|棒《ぼう》とちがって、あまり|占《うらな》いだの予言だのには重きをおいていなかった。
「その違いは、|砂《すな》|馬《うま》と普通の馬の違いくらいなものですね。観相師のほうが、砂馬と同じように用途がひろい」
観相師が何か言う前に、エリアードがかわりに答えた。
リューは笑って相棒の肩を抱き、|勘定《かんじょう》をすませて|居《い》|酒《ざか》|屋《や》を出た。
2章 |夕《ゆう》|闇《やみ》の決闘
隊商が襲われて、荷物類も、シェクで|稼《かせ》いだ金も|砂《すな》|馬《うま》ごと奪われてから、ふたりは徒歩で旅していた。
彼らには上着に入っていたわずかな金しかなく、砂馬を新たに買うどころか、まともな宿に泊まるのも無理だった。
砂馬で飛ばせばアルルスまであと二、三日の距離のはずだったが、街道をとぼとぼ歩いていたせいで余分に二日ほどかかっていた。
夜はいつも親切な農家の|納《な》|屋《や》を借りるか、手ごろな茂みを見つけて野宿するしかなかった。
隊商を襲撃したのは、かなり大きな|盗《とう》|賊《ぞく》|団《だん》らしいと、街道の|噂《うわさ》でふたりは耳にした。セレウコアの兵たちが追っているが、いっこうに行方がつかめないとも。
ハルシュ老はセレウコアの都でも地位のある商人だったらしく、盗賊団の追撃はいまだつづいているという。
「今夜もどうやら野宿ですね」
「深緑の屋根の下の、やわらかな草のしとねだ――安宿の固い寝台よりは|寝《ね》|心《ごこ》|地《ち》がいいぞ」
あきらめ気分のふたりは、そんなふうにつぶやきあった。
夕暮れの街道の右手には、高く木々の茂った森が広がっている。
アルルスの近くまで来ると、西のほうに豊かな緑を存分に拝むことができた。セライカ湖から引かれた水路が、街道ぞいに緑の恵みをもたらしていた。
森につづく小道を行くと、彼らと同じく、宿に泊まるだけの路銀のない者たちがほうぼうで|野《や》|営《えい》しているのが見えた。取られるものもないので、貧しい旅人たちは|無《む》|警《けい》|戒《かい》でのんびりしていた。
「|追《お》い|剥《は》ぎもこうした連中はめったに|狙《ねら》わない。その点は気楽でいいんですけれど」
「しかしわれわれは別のようだ――|誰《だれ》かつけてきている」
ふりむかず、何事もなかったかのように、リューはさらに森の奥へ踏みこんだ。
うしろから|執《しつ》|拗《よう》についてくるのは、せいぜいひとりかふたりのようだった。
ふたりは道をそれて、横手の木々がまばらになった広い場所に出た。あたりに野宿をするほかの者はいなかった。
彼らはそこで尾行者を待ちうけた。
隊商を襲った者たちの仲間か、シェクで出会った|狂信者《きょうしんしゃ》たちか、あるいは彼らが何か価値のあるものを持っているとかぎつけた盗賊か追い剥ぎか。
いろいろな場合を想像していたが、木々のあいだから現れたのは、そのどれをも裏切るものだった。
|優《ゆう》|雅《が》な足どりで近づいてきたのは、羽根飾りのついた大きな帽子をかぶった長身の|貴《き》|公《こう》|子《し》である。
|透《す》かし模様の入った女物のような白い|筒《つつ》|袖《そで》の上着に、|真《しん》|紅《く》に染めた革の胴着をかさね、腰には黒い幅広の布をまいていた。その|仰々《ぎょうぎょう》しい着飾り方は、|貴《き》|公《こう》|子《し》でなければ|道《どう》|化《け》|師《し》とも思えるほどだ。
貴公子にしても、道化師にしても、この場にはそぐわなかった。
敵意がないことをしめすように、その人物は何も持たない両手を広げ、歩みよってきた。
ふたりはどうするべきか迷っていた。どうしてついてきたのかと尋ねるにしても、この貴公子にかける言葉はすぐに見つからない。
貴公子は彼らの前で、帽子をとって|挨《あい》|拶《さつ》した。
その下の顔は彼らの見知らぬものだったが、どこかはじめて見るものではない感じがした。
日が暮れる前の最後の明るみが、貴公子の|容《よう》|貌《ぼう》をあますことなく照らした。
|美《び》|貌《ぼう》というには個性的すぎるが、見る者によっては素晴らしい美男子だとうつるかもしれなかった。
夕焼けのせいで赤みを帯びて見える眼は異様に大きく、とがった高い鼻も厚めの口も全体的に大づくりだ。
ふさ飾りをつけて首のうしろでむすんだ量の多い髪は、やはり夕日をうつしてか、胴着と同じ|真《しん》|紅《く》に見えた。
きれいにととのえられた巻き毛が波うつ背中には、胸のあたりから革帯で長剣が|吊《つ》られていた。腰から吊ると地上についてしまうぐらいの立派な長剣である。
「――あんたは、あのときの」
長剣をながめていたリューは、その|貴《き》|公《こう》|子《し》に見覚えがあったわけに気づいた。
顔を見ていてもわからないのは道理だった。以前に会ったときには、彼は銅の仮面で顔を隠していた。
「自己紹介をする前にわかってもらえて、光栄の至りだ」
シェクで、ふたりの|助《すけ》|太《だ》|刀《ち》に入った銅仮面の男は、にこやかにそう言った。
「なぜ、わたしたちをつけてきた」
リューは金の眼を細めて男をねめつけた。たしかにこの男にはあぶないところを救われたが、その後の不快なやりとりも彼は忘れていない。
「街道のところで見かけたんだ。声をかけようかと思ったが、かけそびれた」
「あんたは何者だ、シェクでは聞き忘れたが」
もう一度、男は帽子を胸に抱き、彼らに向かって|優《ゆう》|雅《が》に一礼した。|王《おう》|侯《こう》の前でも恥じないような作法にのっとったものだったが、|人《ひと》|気《け》のない森の中ではおどけてみえた。
「わが名はグリフォン――|鷲《わし》の頭と|獅《し》|子《し》の身体の|幻《まぼろし》の|獣《けもの》が、わが名づけ親だ。生地はセレウコアの都、|生《なり》|業《わい》はいろいろあるが、今は|流《る》|浪《ろう》の剣士とでもいったところだろう」
「流浪の剣士か――その派手ないでたちから、てっきり、曲芸団を抜けだした|道《どう》|化《け》|師《し》かとも思ったが」
リューは|辛《しん》|辣《らつ》に評したが、グリフォンと名のった|謎《なぞ》の男は怒ったそぶりもなくほほえんでいた。
横で黙っていたエリアードは、真顔をたもつのに苦労していた。どこか似たところのある両者のやりとりを、彼はいつしか楽しんで聞いていた。
「|慧《けい》|眼《がん》だな、曲芸団にもいたことはあるぞ。ベル・ダウの奥地でとらえた絶滅寸前のグリフォンといっしょにな――グリフォン使いのグリフォンと一世を|風《ふう》|靡《び》したんだが、聞いたことはないかな」
冗談か、本当のことかわからないふうにグリフォンは応じた。
「あいにくと、そのたぐいのものには興味がないので知らないな――それで、曲芸団の|獣使《けものつか》いがなんの用だ。シェクでの借りを返せとでも言いにきたのか」
|苛《いら》|立《だ》ちを隠さず、リューは尋ねた。
「そんなにわたしは|吝嗇家《りんしょくか》ではないが――借りがあると思ってくれるなら、ちょうどいいかもしれんな。見返りを求めて、あなたを助けたわけではないが」
「金ならないぞ。宿にも泊まれないほどだから察してくれ」
「わたしはけっこう金持ちなんだ、金ならありあまっている」
「いやみな奴だな、なんの用か、早く言え」
相手のにやけた顔を|殴《なぐ》ってやりたくなって、リューはその|衝動《しょうどう》をおさえるために腕組みをした。
「道づれにしてほしいんだ、あなたたちの」
しらっとグリフォンは言った。
これにはエリアードも驚いて、|夕《ゆう》|闇《やみ》に沈みかけた|謎《なぞ》の男を見つめた。
「――冗談じゃない、ことわる」
気を静めて、リューはきっぱり告げた。
「どうしてだ、わたしはかなり役にたつ道づれのはずだぞ――腕はたつし、ここからセレウコアまでの道なら、自分の庭よりもよく知っている。わたし以上の|護《ご》|衛《えい》兼案内人は、絶対に見つからないと保証できるな。
それに代金をもらうどころか、こちらから金を払ってもいい。あなたたちは明日からやわらかな寝床で眠れるし、腹いっぱいに食事もできるはず……」
「黙れ――!」
勝手なことをならべたてる男の|饒舌《じょうぜつ》を、我慢できなくなったリューはさえぎった。おとなげないと思ったが、彼は腹立ちをこらえきれなかった。
「なんと言われようとおことわりだ、たとえセレウコアの皇帝の直々の命令でも、|誰《だれ》がおまえなんかを道づれにするものか」
これにはグリフォンも表情を変えた。好意をたたえていた大きな眼には|物《ぶっ》|騒《そう》な光がやどり、口もとからはほほえみが消えた。
「おまえなんか[#「おまえなんか」に傍点]とは、いわれなき|侮辱《ぶじょく》だ、聞きずてならん」
「侮辱したのはそちらが先だ。いくらわれわれが宿にも泊まる金もなく、空腹をかかえた放浪者でも、あんたのありあまった金とやらを恵んでもらういわれはない」
多少は落ちついて、リューはきりかえした。
「道づれにしてもらうなら、あまったものを分けあうのは当然だと思ったまでだ。恵んでやるつもりなどないぞ」
「その話ならことわったはずだ。あんたを道づれにする気はない」
「どうしてもことわる気か」
「わたしたちはふたりで十分だ、道づれなど必要としていない」
「ならばシェクで隊商といっしょにいたのはどうしたわけだ。あのとき、あなたたちはふたりきりではなかった」
リューは返答につまった。気にくわない相手だったが、気にくわないからことわるとはさすがに言いだせなかった。
ほかにも|内《ない》|密《みつ》の使命を帯びているという理由があったが、そちらのほうはよけいに知られてはまずい。
「道づれになりたいというのは、どんなわけからですか。わたしたちについてきたとしても、あなたの得になるようなことがあるとは思えませんが」
見かねて、エリアードはやわらかく問いかけた。
グリフォンは今まで目に入ってなかったように、あらためて彼をながめた。
「よくぞ聞いてくれた、まだ何も言わないうちからいきなりことわると言われて、わたしも少々、頭に血がのぼっていたようだ」
もとのどこかおどけた口ぶりで、グリフォンは彼のほうに向きなおった。
「じつはそこの街道沿いの店で、高名な|観《かん》|相《そう》|師《し》から助言を受けたんだ。シェクで助けたふたり組に出会ったら、必ず道づれとなるようにと――そのふたりは重大な使命を負っており、わたしの助力が|是《ぜ》|非《ひ》とも必要だとも説かれた。新しい冒険を求めて旅していたわたしには、一筋の光明のような助言だった」
言ったあとでやや照れたように、グリフォンはがっしりした|顎《あご》を|撫《な》でた。
エリアードはその手の動きをなんということもなく見つめていた。
「観相師か、あの|居《い》|酒《ざか》|屋《や》で会った奴がよけいなことを吹きこんだんだな」
黒いフードをかぶった奇妙な姿を、リューはいまいましく思い出した。今日のごたごたのすべては、あの観相師が運んできたように彼は思えてきた。
「ドゥーリスの正式の|免《めん》|許《きょ》を持っていた。上級の観相師の助言は、そこいらの|辻占《つじうらな》い|師《し》や、なまはんかの予言者の言葉とはちがって絶対のものだ」
相手の迷いを見てとり、どこか余裕をこめてグリフォンはつけ加えた。
「――|嘘《うそ》だ!」
低い声でエリアードは叫んだ。
今度はリューのほうが驚いて|相《あい》|棒《ぼう》を見た。
「その、手の形、|爪《つめ》の形、それから顎の線も――見覚えがあると思った、あなたはあの観相師だ、まちがいない」
「本当か、それは――」
信じられないといったふうに、リューは目の前の男と、記憶にある黒衣の観相師の姿を重ねた。
観相師はフードで顔半分を隠していたし、この森に入りこむまで仮面の男の顔立ちは知らなかった。両者が同一人物だとしても、気がつかない条件はそろっている。
「観相師のふりまでして、いつわりの予言でわたしたちをしばろうとするなんて――どういう|意《い》|図《と》があるのかわからないが、あなたの行為は許しがたいことだ」
穏やかなエリアードとしてはめずらしく、|憤《いきどお》りをあらわにしていた。
|相《あい》|棒《ぼう》のその|剣《けん》|幕《まく》に、リューは少し怒りを|削《そ》がれた。彼としても、目の前の男は許しがたいと思っていたが。
グリフォンは|扮《ふん》|装《そう》がばれてもたじろいだ様子はなく、ただ黙って非難を受けとめていた。その表情にはすでにおどけたところはなく、|厳粛《げんしゅく》とでもいっていい|真《ま》|面《じ》|目《め》なものがうかんでいた。
「ふりなどしていない、|観《かん》|相《そう》|師《し》の|免《めん》|許《きょ》は本物だ」
グリフォンは上着の中から、金の丸いメダルを取りだした。
|居《い》|酒《ざか》|屋《や》の観相師がさげていたものと同じものだ。メダルの表面には星と月を組みあわせた複雑な図形が|彫《ほ》られている。
「どこから盗んできたんだ」
もうだまされるものかと、リューは冷ややかに尋ねた。
「失礼な言い草だな、変装して近づいたのはたしかに悪かったが――これはわたしが、ドゥーリスまで出かけて正式に取得したものだ。観相師の見立てとして、あなたたちに伝えたことも|偽《いつわ》りではない。だから道づれにしてもらおうと追ってきたんだ」
「最初は|流《る》|浪《ろう》の剣士、次は曲芸団の|獣使《けものつか》い、そうして今度は観相師か――素直に信じろというのが無理な話だな」
「――まったく腹立たしいほど、あなたは強情な人だ。あなたたちの旅にはわたしの助力が必要なんだ。これはあらゆる相を観察した末に出た結論だ」
「知ったことじゃないな。相だのなんなのはよくわからんが、うさんくさい奴を道づれにするのはごめんだ」
両者は距離をたもってにらみあった。
「シェクで助けに入ったのも偶然じゃないぞ。ずっとあなたたちを見守っていたんだ――ここでも昨日から、あなたたちが来るのを待っていた」
グリフォンは真剣にうったえた。
しかしリューはますます|不《ぶ》|気《き》|味《み》そうに相手をながめていた。
「|迷《めい》|惑《わく》な話だ、ほうっておいてくれないか。少しでも、われわれの意志を尊重する気があるのならば」
「できたら好意をもって道づれにしてほしかったんだが――仕方ないな」
「だいたいあんたのやり方で、好意をもってもらおうと期待するのがまちがいだ。シェクでの|無《ぶ》|礼《れい》な|挨《あい》|拶《さつ》から、変装で人をだましたり、手前勝手な見立てを押しつけたり――いくら|寛《かん》|容《よう》な者でも受けいれられないな」
やや気落ちしている様子のグリフォンが|愉《ゆ》|快《かい》で、リューはつい言いすぎた。
あまり|刺《し》|激《げき》しないようにと、エリアードは横から彼の腕をつついた。
「救っていただいたことは感謝してます。観相師としての見立ても、参考にはさせてもらいますよ」
|相《あい》|棒《ぼう》の言葉をやわらげるように、エリアードはつけ加えた。
そうして彼らは、グリフォンを残してこの場を去ろうと足を早めた。
「――待て」
低く|鋭《するど》い声で、グリフォンは彼らを呼びとめた。
ふたりが仕方なく肩越しにふりかえると、彼はすばやい足どりで駆けよった。
「もう道づれにしてくれと頼みはしない。わたしの|面子《メ ン ツ》にかけても、このまま黙っては行かせないぞ」
ゆっくりとグリフォンは背中に|吊《つ》るした長剣を引きぬいた。
|宵《よい》の|帳《とばり》とともに昇ったふたつの月の光が、その個性的で大づくりな|風《ふう》|貌《ぼう》を、狂暴な殺人鬼のようにうかびあがらせた。
「思うとおりにならないから、われわれを殺そうというのか――たいした面子だな」
怒りのあまり、リューの青白い|頬《ほお》には笑みがきざまれた。相手の腕がたつのはわかっていたが、ここまできては逃げるつもりは|毛《もう》|頭《とう》ない。
「――あなたのひどい言葉は胸をえぐる。あなたが実際はこんな人だとは思ってもみなかった。わたしがあなたを殺そうとするなんて、どうしてそんなひどいことを」
|哀《かな》しげにグリフォンは|唇《くちびる》をかみ、うつむいた。殺人鬼に見えた表情は、一転して|途《と》|方《ほう》にくれた子供のようになった。
「そのぶっそうな長剣をさげて、殺意がないとは言わせないぞ。|油《ゆ》|断《だん》させて切りつける気か」
|警《けい》|戒《かい》をとかず、リューは冷たく告げた。
「剣をぬいたのは、正式に|決《けっ》|闘《とう》を申しこむつもりだったからだ――殺しあうためのものではなく、わたしを道づれにするかしないかを|賭《か》けての決闘だ。どうあっても道づれをことわられるなら、わたしに残された道はこれしかない」
「ことわると言っても、このまま行かせてはくれないのだろう」
「お願いだ、ことわらないでくれ、せめて――!」
すがるような調子でグリフォンは頼んだ。
リューの表情はさらに|険《けわ》しくなった。
「いいだろう。そのかわり、負けたら二度とわたしたちに近づくな。剣にかけてそれを|誓《ちか》え」
「こんな馬鹿げた|挑発《ちょうはつ》にのるんですか、リュー――」
相棒の正式な名を呼びかけて、エリアードはその先をのみこんだ。
「馬鹿げているから我慢ならないんだ。これ以上、やっかいごとにわずらわされるのはごめんだ――片をつけてやる」
リューはかなりいきりたっていた。
目の前のとぼけているのか、|真《ま》|面《じ》|目《め》なのか、頭がおかしいのかわからない男をどうにかしないと気がおさまらなくなっていた。
シェクで見たように、彼より腕がたつのかどうかということも確かめてみたかった。あのときはそう思ったが、戦ってみないうちに負けを認めるのは彼の|自《じ》|負《ふ》|心《しん》が許さない。
「決闘というなら、公平にしましょう。あなたの長剣では、どう見てもあなたのほうが有利だ」
とめられないと判断したエリアードは、そう提案した。
グリフォンはあらためて、自分の長剣と彼を見くらべた。
「わたしの持っているのをお貸ししますよ。これなら彼のと同じものですからね」
まだ長剣に未練があるようなグリフォンに、彼は短めのやや|湾曲《わんきょく》した剣をわたした。
「わかった、たしかに決闘は公平でなくてはならない」
最愛の子供を手ばなすように、グリフォンは愛剣を、うきでた木の根にそっと置いた。
魂をぬかれたようにさびしげな様子を見つめていたエリアードは、状況を忘れて吹きだしたくなった。
そのあいだを利用して、リューは気を静めようとしていた。
相手は|容《よう》|易《い》ならない技量の持ち主だ。こうも冷静さを欠いていては、勝てるものではない。
彼はしばらく目を閉じて、何も考えないようにつとめていた。
長剣のかわりに商人ふうの短めの剣を手にして、グリフォンはゆらりとリューの前に立った。
その迫力のなさに、リューは少し驚いた。決闘を求めてきたときの必死さも薄れているようだ。
「事前にもう一度、確認します――これは殺しあいのためのものではなく、道づれにするかしないかを|賭《か》けた技量を競う決闘です。その点を|留意《りゅうい》して、互いにひどい傷を負わせないよう戦ってください。もしもそれが守られてないと見たときは、わたしが割って入ります。いいですね」
決闘の判定人になったふうのエリアードは、両者に念を押した。
これならばそれほどの大事にはなるまいと、彼は近くの木の下にしりぞいた。
どこか生気を失った相手と、リューは向かいあった。
ともに戦いなれた名手なので、相手に踏みこませないような距離を取りあっていた。けれど、グリフォンが気落ちしているのは明らかだ。
たしかに素晴らしい長剣だったが、それほどひとつの武器に|執着《しゅうちゃく》したことのないリューにはわからない心境の変化だった。
グリフォンにとって、あの剣は自分の分身に近いものらしい。
|決《けっ》|闘《とう》の公平さを重んじるためにそれを手ばなした態度には、リューとしても多少の敬意をいだかざるをえなかった。
しかしだからといって、彼は手かげんしてやるつもりは|毛《もう》|頭《とう》なかった。これを機会に気にくわない相手をこらしめてやる決意は変わってない。
実際、エリアードが決闘の|仲裁《ちゅうさい》に入らなければ、ただの技量を競う決闘ではなく、相手を殺しかねなかったほどいきりたっていた彼である。
これなら十分に勝ちめはあると見たリューは、見事な静から動への一瞬の変化で打ってでた。
グリフォンは胸の前でかろうじてそれを受けた。
細身の剣はたわんだ。
|頑丈《がんじょう》な長剣のときとはちがう|衝撃《しょうげき》の強さに驚き、グリフォンは背後に飛んだ。
構えを崩した相手に、リューは|容《よう》|赦《しゃ》なくつづけざまに攻撃を加えた。
グリフォンはそれを最小限の動きでかわした。
気落ちして、戦意を失いがちだったグリフォンも、本来の自分を取りもどしつつあるようだ。
小手調べは終わったとばかりに、リューはさっと身を引いた。
今度はグリフォンのほうが声をあげながら突進してきた。
リューは頭を低くして、すれちがいざまに横から切りつけた。
あらゆる動きに対処できていたグリフォンはそれをうまくかわした。
ふたたび両者は距離をおいて|対《たい》|峙《じ》した。
あの重い長剣をふりまわさなければ、まあ互角に戦えそうだとリューは自信をもった。相手のなみはずれた腕力を知っているだけに、接近戦だけはさけようと思っていたが。
グリフォンも彼の技量を見きわめて、似たようなことを考えているようだ。
リューの見せている余裕とは反対に、グリフォンはあせりをおぼえていた。
「――やはり、あなたは強いな」
ひとりごとのようにグリフォンはつぶやいた。
言葉で気を散らすつもりかと、リューは無視して剣をかかげた。
グリフォンはかまわずつづけた。
「あなたがどんな人なのか、長いあいだ思いえがいていた。みな予想からはずれていたが――たったひとつ、あなたの技量だけは予想どおりだった」
「なんのことかわからないが、|卑怯《ひきょう》だぞ、決闘の最中に」
リューはそう叫んで、上から剣をふりおろした。
グリフォンの|赤銅色《しゃくどういろ》の髪のふさが切られて散らばった。
「わたしが意地をはったのがいけないんだ。どうしてもあなたの好意をえて、何も聞かずにこころよく道づれにしてほしかった――でも、はじめからちゃんと説明すべきだった。こんなぬきさしならないはめにおちいるなら」
「うるさいな、黙って戦え」
口を封じるように、リューは相手の顔のあたりを切りつけた。
とっさに顔をかばったグリフォンの左腕から血が吹いた。
腕をもう一方の腕でかかえ、グリフォンは後退する。
奇妙な言葉をかけられて、リューはやや平静を失っていた。
ふだんは自制心の強い彼だったが、目の前の男は彼を|苛《いら》|立《だ》たせ、神経を|逆《さか》|撫《な》ですることにかけては天才的だ。よほど相性が悪いのだろうと、彼は出会いのときから思っていた。
リューはなおも前に踏みこんで、決定的なもう一撃を加えようとした。
しかし|性急《せいきゅう》にとどめをさそうとしたとき、彼の動きに今までなかった微妙な|隙《すき》が生まれた。
ごくわずかなものだったが、グリフォンはそれを見のがさなかった。負傷し、追いつめられていても、彼はすぐれた剣士だった。
リューがとどめの一撃をふりおろすほんの手前で、グリフォンは彼の|喉《のど》もとに剣をつきつけた。
リューは腕の動きをとめた。
彼の剣が届く一瞬前に、グリフォンは彼の喉をつらぬくことができるはずだった。
「――わたしの負けだ。あんたの|無《む》|駄《だ》|口《ぐち》に、つい冷静さを失ったのが敗因だ」
いさぎよく、リューは手にした剣をほうりなげた。
すぐ前につきつけられたままの相手の剣先を、彼は静かにながめていた。
「わかっていただろうが――たった今、わたしはこの|決《けっ》|闘《とう》の決まりを忘れて、あんたにとどめをさすつもりだった。あんたもそうしたいならすればいい」
何か言おうとしたが何も言えず、グリフォンは|唇《くちびる》をふるわし、引っこみがつかないかのようにそのままの姿勢でいた。
「決闘はおしまいですよ。剣を引いてください」
いつのまにか両者の前に立っていたエリアードが、青ざめた顔で告げた。
グリフォンは我にかえったように、剣先をおろした。
「あなたもあなただ、こんなときにどうして相手を|挑発《ちょうはつ》するような|真《ま》|似《ね》をするんですか」
エリアードは|相《あい》|棒《ぼう》の腕を引き、その|頬《ほお》を平手で打った。
力はこめられていなかったが、リューは大げさに頬を押さえた。
「ひどいな、|殴《なぐ》るなんて――」
自分が悪いことはわかっているので、彼は小声で抗議した。
「死ななかっただけ感謝なさい。相手の腕に傷を負わせたところでやめればよかったのですよ。それを本気でとどめを刺そうとするなんて――あの人があなたの殺意につられていたら、まちがいなくあなたは|相《あい》|討《う》ちで死んでましたよ」
「調子が狂うんだ、どうもあいつが相手だと――妙なことをささやかれて、つい気持ちをみだされてしまった」
「妙なこと――?」
離れていたので、エリアードは決闘の最中にかわされた会話を知らなかった。
「わたしを以前からずっと知っていたようなことを言いだすんだ、|卑怯《ひきょう》にも、決闘の最中に」
負けたくやしさがこみあげてきて、リューは決闘相手のほうを見た。
グリフォンは負傷した腕をしばって止血し、束にして持っている薬草の葉を傷口に張りつけていた。このくらいの傷は日常|茶《さ》|飯《はん》|事《じ》なのか、なれた手当ての仕方である。
「あとでちゃんと説明する。あなたを油断させるために|嘘《うそ》を言ったわけではない」
「|好《こう》|奇《き》|心《しん》はあるが、いやな予感がするな」
リューは小さくつぶやいた。
|決《けっ》|闘《とう》に負けたことによって、この男を道づれにしなくてはいけないので、彼はただでさえ|暗《あん》|澹《たん》たる気分になった。|挑発《ちょうはつ》にのった自分の|軽《けい》|率《そつ》さを、彼は今になって|後《こう》|悔《かい》していた。
「このあたりの夜は思いのほか冷える。|焚《た》き|火《び》をおこしたほうがいい」
傷の痛みなど感じてないように、グリフォンは残っている焚き火の跡を掘りかえしはじめた。
もう一行に加わったかのようなものの言い方に、リューはむっとして|相《あい》|棒《ぼう》のほうを見た。
エリアードはただ苦笑いしていた。
3章 過去の亡霊
燃えあがる|焚《た》き|火《び》を前に、グリフォンは|膝《ひざ》をかかえていた。
|決《けっ》|闘《とう》には力を発揮できなかった見事な長剣を|護《ご》|符《ふ》のようにすぐかたわらにおき、彼は小きざみにふるえている。
傷が熱をもたらしているようだったが、グリフォンはひとことも弱音をはかず、寒いとも言わなかった。
荷物の中にあった|観《かん》|相《そう》|師《し》の黒いフードつき|外《がい》|套《とう》をかぶって、歯の鳴るのを懸命に抑えている。いろいろ話したいことがありそうだったが、身体のほうがいうことをきかないようだ。
そのやせ我慢ぶりには、ふたりもあきれていた。
エリアードは|野《や》|営《えい》|用《よう》の容器で湯をわかし、途中で見つけてつんできた野草を入れてやった。香りのいいその黄色の野草は身体をあたため、|催《さい》|眠《みん》効果があった。
布でつつんだ熱い容器ごと、エリアードは新しい道づれに手わたした。
彼のほうは|相《あい》|棒《ぼう》とちがって、どこか芝居がかったところのあるこの|謎《なぞ》めいた若者を嫌っていなかった。
グリフォンはきちんと礼をのべて、それを受けとった。
|火傷《や け ど》しそうに熱い野草の茶をのみほすと、|人《ひと》|心《ごこ》|地《ち》ついたように彼の顔色には赤みがさした。
「さきほどの話のつづきだが――」
大きすぎる銅色の眼をさらに見はって、グリフォンはふたりを見つめた。
「どこまで話したかな、ずっと以前から知っているというところまでか――実際に会ったのはシェクがはじめてなんだが、あなたの名前には、少年のころと、それから|観《かん》|相《そう》|師《し》としてセレウコア周辺を見守るようになってから、何度も出会ってるんだ」
あせるような早口でグリフォンは語った。
寒気の次には、圧倒的な眠気が押しよせてくる。彼はしゃべることによって、それをふりはらおうとしていた。
「わたしを知っているというのか、過去のわたしのことを」
たぶんそうではないかと予想していたリューは、苦々しく問いかけた。決闘のついでに口を封じてしまえばよかったという|物《ぶっ》|騒《そう》な思いが、今も彼のどこかにあった。
「知っているだけでなく、たどっていけば、わたしは、あなたの遠い子孫でもあるんだ、リューシディク殿」
「わたしには子供はいないはずだし、あんたはどう見てもわたしより年上だろう。勝手に子孫だと名のられても|迷《めい》|惑《わく》だな」
とぼけてリューは応じた。
「直系の子孫だとは言ってない。わたしの|亡《な》き母が、リウィウスの王族のひとりだったんだ。あなたよりもかなり後の時代だが」
「だからといって、あんたにもあんたの話にも興味はないな。リウィウスは失われてもう存在しない――あんたの母親が生きているなら会って話してみたいとは思うが、彼女もとうに|亡《な》き存在なのだろう」
「母は失われていない、まだわたしの中に生きている。母がくりかえし話してくれたリウィウスの地も」
グリフォンは叫んだ。熱をおびた|頬《ほお》や|額《ひたい》がほてって真っ赤になっていた。
「――あなたがこんなに、|冷《れい》|酷《こく》で意地の悪い人だとは思わなかった。子供のころに母から話を聞いて以来、あなたにあこがれて、もしこの地のどこかでめぐりあえるものならと夢見ていたんだ。母と同じように、あなたもこの地に降りたはずだと聞いていたから」
「あこがれるだって、どこにあこがれる要素があるんだ!?」
過去の記憶の|奔流《ほんりゅう》に、リューも声を荒らげた。
禁断の地である|魔《ま》|窟《くつ》に踏みこんだときの情景が、彼の中にまたよみがえってきた。
「――リウィウスの地を後にしたとき、わたしは十九歳にしかならなかった。兄の|姦《かん》|計《けい》にはまり、味方の軍勢に狩りたてられ、ほかに行く場もなく、禁断となっていた魔窟に逃げこんだんだ。わたしは、隣国と通じていた|売《ばい》|国《こく》|奴《ど》、裏切り者の将として、兄に|成《せい》|敗《ばい》されたことになっているはずだ」
グリフォンのいくつかの言葉は、彼の眠りかけていたものを揺りおこした。この地に来てからも悪夢にうなされ、忘れようとつとめていた|亡《ぼう》|霊《れい》だった。
「それは知らない……そんな……」
心から意外そうに、グリフォンは言葉をとぎらせた。
「あなたが母上から聞いた話は、まるでちがったものだったのですね。どんなふうに聞いたか教えてください」
|相《あい》|棒《ぼう》をなだめ、エリアードはやわらかく尋ねた。
副将としてリューにつきしたがっていた彼としても、|失《しっ》|踪《そう》した彼らを、後世の者たちがどう評しているのか知りたくなった。
「母上はただ、何代か前の先祖で、この地に降りたった勇敢な王子がいたというふうに話してくれた。少年のころから天才的な戦略家で、戦いには先頭に立って軍勢を|率《ひき》いて勝利をもたらし、リウィウスをかの地で最大の強国にする|礎《いしずえ》を築いた人物だと」
グリフォンは声をおとし、そう告げた。
「ずいぶんと|誇張《こちょう》があるようですね。たしかにこの人は年齢のわりにすぐれた将でしたが、戦略面でそれほど|際《きわ》だった天才ぶりを発揮してはいないと思いますが」
その場の雰囲気をなごませるよう、エリアードはほほえみながら受けながした。
リューは金の眼をひらめかせて、相棒をとがめるように見た。
「あんたの言ったような人物だったら、どうして故郷の地を捨て、別世界のようなこの地に来る必要があるんだ」
|動《どう》|揺《よう》をどうにか静めたリューは、いつもの|皮《ひ》|肉《にく》な調子で問いかけた。
「リウィウスではもう果たすべきことはないと思い、新たな試練と冒険を求めて新世界に旅立ったのだと、わたしは母上から聞いた」
「まるで|下《へ》|手《た》な|吟《ぎん》|遊《ゆう》|詩《し》|人《じん》のでっちあげた|英《えい》|雄《ゆう》|譚《たん》のようだな――新たな試練と冒険を求めてか、そんなものは酒飲み話のついでに聞くのもあきあきする」
リューはあざけるように言ったが、エリアードは少し黙っているように目くばせした。
グリフォンは興奮して熱があがったようで、話すのがつらそうだった。
「わたしたちの同族の人々――つまり、失われた三番めの月の住人が、さまざまの年代からこの地に来ていることは知っています。同族だという人とも、実際に会ったこともありますよ。リウィウスの王族出身という人ははじめてですが」
エリアードは|率直《そっちょく》に語った。
めったに彼らふたりは本当の素性を打ちあけないが、この目の前の男には隠す必要がないだろうとエリアードは判断した。一員として溶けこんでいたハルシュ老の隊商の者たちにも、けっして語るつもりはなかったことだったが。
「あなたの母上はどんなふうにして、この地に降りたったのですか。わたしたちのように、追われた末、この地につづいていた禁断の|魔《ま》|窟《くつ》に入りこんで、というわけではないでしょう」
「――よくはわからない。そんな魔窟があったという話は聞いてない。母上は高名な|魔術師《まじゅつし》によって眠らされて、知らないうちに送りこまれたとか言っていた」
「送りこまれたのですか、いったいなんのために」
「母上の時代には、一部の予言者によって、リウィウスがその地もろとも、近いうちに消滅することは予見されていたという。もちろん信じない者がほとんどだったが、その未来を確信する者たちは、できるだけ多くのリウィウス人をこの地に送りこもうとしていたそうだ」
あまり記憶に自信がなさそうにグリフォンはこたえた。
今は存在しない三番めの月に大勢の人が住んでいて、そこからこの地に人が送られてきたということは、口にしてみると容易ならないことに思えてきた。
少年のころに母親から話を聞き、|観《かん》|相《そう》|師《し》としての素質をみがくために魔術の領域をひととおり学んだ彼だからこそ、かろうじて信じられることである。
「それでなんとなく、|失《しっ》|踪《そう》したわたしたちが美化され、英雄視されているのが理解できましたよ。この地に送りこまれる人たちを勇気づけるための先駆者として、わたしたちは語りつがれたんだ――勇猛なリウィウスの王子が、新たな冒険を求めて別世界にみずから旅立ったこともあるというふうに」
エリアードは|納《なっ》|得《とく》がいった。
しかしグリフォンは、母親から聞かされた伝説の王子が、必要に応じてまつりあげられた偶像だとはまだ信じたくない様子だった。実際のリューと出会って、その伝説の雄姿はほぼ打ち砕かれていたが。
「母上は、わたしが十歳のときに|病《やまい》でみまかった。もう少し長生きしてくださったら、子供相手のとりとめもない思い出話ではない、ちゃんとしたものが聞けたと思う」
グリフォンは小さくつぶやいた。
「あなたの父上はどうですか。母上が――この地の呼び方にしたがえば〈月の民〉ですが、そうした出身と知ったうえでご結婚なさったんですか」
しんぼうづよく、エリアードは質問をつづけた。
リューは|相《あい》|棒《ぼう》に主導権をわたして、おとなしく黙っていた。
「父上も十五歳のときにみまかったが、母上の|出自《しゅつじ》のことはおぼろげにしか知らなかったと思う――母上は淡い金の髪をした絶世の美女で、東の荒れ地を旅していた父上がみそめて、強引に国へ連れてかえったと聞いたな。
母上は見知らぬ地にほうりだされ、頼る者もなく|途《と》|方《ほう》にくれていたから、父上に従うことにしたという」
「リウィウスの王族の姫とあろう人が|供《とも》もなく、東の辺境に送りこまれたんですか」
「わたしの推測にすぎないが――たぶん、送りこむ人員に制限があったのか、同じ場所と時代に送りこむだけの力がなかったのだと思う」
いったん言葉をきり、今度はどこか|暝《めい》|想《そう》|的《てき》な口調でグリフォンはつづけた。
「三番めの月から来た人々は、あなたたちもふくめて、どうしてこの地に現れる年代がまちまちなのか、わたしはドゥーリスなどで調べたがよくわからなかった。
あなたたちは、リウィウスの歴史では母上よりも百年くらい前の人なのに、この地に現れたのはつい最近だ――あなたの子孫にあたる母上は、たったひとりで、この地では二十数年前に、東の荒れ地の|廃《はい》|墟《きょ》のあるあたりに降りたんだ」
「荒れ地の廃墟――クナの廃墟ですか」
「たぶんそうだ、青い門があったと言っていたから」
エリアードは|相《あい》|棒《ぼう》と顔を見あわせた。
荒れ地で、のたれ死にしかけてたどりついた廃墟の青い門を、彼らは同じように思い出していた。
「あなたの母上はまるで、クナの月の|乙《おと》|女《め》のようですね、伝説を知っていますか」
「知っている、わたしもそう思った、母上の運命に似ていると」
「では母上も、月を|焦《こ》がれて泣かれたんですか。天を見あげても、けっして見ることのできない三番めの月を」
「泣きはしなかったが、ひとり息子のわたしに故郷の話をくりかえし語っていた。わたしはセレウコアの都で生まれたが、失われた月が本当の故郷のように思えてくるほどだった――母上の語るリウィウスの伝説の王子にもあこがれ、成長したらそのようになりたいと願っていた」
まだ夢見るようにグリフォンは言った。
いい|迷《めい》|惑《わく》だとリューはしぶい顔をしていたが、余分な口をはさまなかった。
「クナの廃墟には大きな穴があいてますね。一説には、天から降ってきた月のかけらが、クナの都を滅ぼしたといいますが――あれは単なる伝説ではないでしょう。
三番めの月がいつ砕け散ったのか、消滅したのかわからないが、ときどきこの地に破片らしきものが降っている。北のほうの都で、その破片のひとつを見たことがあります。それは三百年くらい前に天から落ちてきたと伝えられていた。けれどクナが滅んだのは、二百年ほど前ですしね」
「おそらく月の地とこの地のあいだには、時間の|歪《ゆが》みのようなものがあるのではないかというのが、わかったような、わからないような結論だった。ドゥーリスの最高位の|観《かん》|相《そう》|師《し》でも、その程度しか推論できていない」
幾晩か徹夜で議論をかわした|黒魔術《くろまじゅつ》の都にもどったように、グリフォンは考えを語った。こちらの銀の髪の若者とは、話がうまくかみあった。
もう一方とはすぐ|喧《けん》|嘩《か》|腰《ごし》になり、|意《い》|固《こ》|地《じ》になって、できる話もできなくなるのとは対照的だ。
「観相師として、あなたはわたしたちがこの地にいるのを見つけたのですか」
やや|矛《ほこ》|先《さき》を変え、エリアードは尋ねた。
「そうだ。べつにあなたたちを探していたわけではなく、わたしはセレウコアとその周辺の動きを追っていたんだ。
|観《かん》|相《そう》|師《し》は予言者のようにただ|天《てん》|啓《けい》を待っているのではなく、あらゆる情報を集め、あらゆる要素を組みあわせて、おかれている位相を観察しなければならない――あなたたちを見つけたのは、ハルシュ老の隊商に合流したときだ。
あの隊商の動きにはずっと注目していた。あなたたちも知っているように、セレウコアにとって大事なものを、東のタウから|内《ない》|密《みつ》に運んでいたからだ」
「――とすれば、クリブでの出来事がすべての|引《ひ》き|金《がね》となったようですね。いや、こちらのことですが」
ごく小声でエリアードはつぶやいた。
リューは|相《あい》|棒《ぼう》の視線をそらし、聞こえないふりをして|焚《た》き|火《び》をながめていた。
「ではあなたは、セレウコアのために働いているのですか。観相師も上級なら、どこの国からも中立のはずですが」
「中立にはちがいない。セレウコアは祖国だが、わたしは父母もとうにない、|流《る》|浪《ろう》の身だ――しかし正式な依頼を受ければ、それが不当なものでないかぎりは引きうける。セレウコアとその周辺を見守ることは、皇帝から依頼されたものだ。
すべて依頼主に報告する義務はないが、今はセレウコアの側に立っているといわれればそうかもしれない」
「ハルシュ老からわたしたちが何かを託されたこともあなたは知っているし、そのうえでセレウコアまで道づれになりたいと申しでたわけですね、わたしたちを|護《ご》|衛《えい》し、案内するために」
「そうなんだ、しかし――ややこしいそうしたかかわりぬきで、友人として、気のあう仲間として、わたしを受けいれてほしかったんだ。ハルシュ老の一行とあなたたちが和気あいあいと旅していたように」
「わかりました、ほかはまた、そのうちにお話ししましょう。まだ旅は当分、つづきますからね――あなたの|怪《け》|我《が》もあるし、今夜はもう終わりにしましょう」
エリアードは気づかうようにそう提案した。強い気力でもちこたえていたが、グリフォンは熱で上気した顔をして、ときどきあえいでいた。
まだ言いたいことがありそうだったが、グリフォンはうなずいて、その場に|崩《くず》れるようにして横になった。
湿った下草に身を横たえ、ふたりは木々に囲まれた夜空をながめていた。
新しい道づれとなったグリフォンは、彼らに多くの記憶を呼びさまさせた。
北方のタレースの町はずれに降りたつ以前の、たちきられた彼らの前半生。
これまでも過去のさまざまな場面は、よく彼らの|脳《のう》|裏《り》によぎっては消えた。
時がたつにつれて少しずつうすれてはいったが、今夜ほど|鮮《せん》|明《めい》によみがえるのはひさしぶりだった。
彼らの故郷、彼らが駆けぬけた地、青白き|肌《はだ》と色淡い髪の人々が住んだリウィウスの地。身を寄せあう夜に、いつも彼らはいやおうなく思い出した。
彼らを結びつけた死と隣りあわせの森と|洞《どう》|窟《くつ》、青白き泉のほとり――幾度もおとずれる記憶の|奔流《ほんりゅう》。
彼らは第三の月にいる。ふたつの月が交差する地に、故郷をもたない放浪者として。
この地で見る月は大きく、〈月の合〉には夜に昇った太陽ほどにも見えた。
どうやってこの地に降りたったのか、今でも彼らは|漠《ばく》|然《ぜん》としかわからなかった。
夜ごと夢よりも、ずっと夢に近い記憶だった。
禁断の|魔《ま》|窟《くつ》に踏みいり、時と空間の|歪《ゆが》みに存在する青白い|花《はな》|園《ぞの》を通りすぎたら、彼らはいつのまにかこの地にたどりついたのである。
時はもどり、しばし彼らは|追《つい》|憶《おく》にひたった。
これまで幾度となく、そうしたように。
4章 青白き|園《その》の|獣《けもの》
ジョイアスの|魔《ま》|窟《くつ》――魔窟とはよく言ったものである。古代の|恐竜《きょうりゅう》も、|亡《ぼう》|霊《れい》も、ほかの何も魔窟にはなかった。
魔窟にまつわるさまざまな言い伝えも、|噂《うわさ》のどれをも、実際はこえていた。ひとたび|洞《どう》|窟《くつ》に入った者でもどった者はいないのだから、事実の一端すらも伝わっていないのは無理もないのかもしれない。
味方の軍勢に囲まれ、ふたりはただひとつ残された退路である魔窟に入った。
白い湯気の立ちのぼる中へ足を踏みいれると、何か雲のようなものが彼らふたりをつつみこんだ。
急激な落下か、あるいは昇降の感覚か。
視界は真っ白になり、意識も空白になった。
そして気がつくとこの白い野にいた。なだらかな|丘陵《きゅうりょう》と、帯のように広がる森の、どこまでも青白い世界に。
空には何もなく、ただ地上の青白きものたちがはなつ|燐《りん》|光《こう》が、太陽と月のかわりだった。
はじめのうちは彼らも歩きまわって、奇妙な野や森を調べた。
どこか、ふつうの見なれた地へつづいていないか、|誰《だれ》か人に|遭《あ》わないかと。
けれどどこまで行っても青白い世界に終わりはなく、どんな生きた人間にも出会わなかった。
人以外では、|野兎《のうさぎ》と|灰色鼠《はいいろねずみ》を一度ずつ見かけたきりだ。
|死《し》|骸《がい》はいくつか、白い下草に|埋《う》もれていた。|腐《ふ》|敗《はい》して形を|崩《くず》すことなく、周囲と同じ青白い結晶におおわれて、生前のままの姿をたもっていた。
武装した兵士、老いた農夫、身分のありそうな若い男女。さまざまだったが共通しているのは、どれもみずから命を|断《た》っていることである。
強引ながら、彼らはこう結論づけた。
自害しないかぎり、ここで何かによって死ぬことはないのだと。|飢《き》|餓《が》や、|渇《かわ》きや、|怪《け》|我《が》などや、|得《え》|体《たい》の知れない外敵によっては。
本当に時間が過ぎないのならば、老いて死ぬこともないかもしれない。
ただ問題は、この色素のない世界と孤独に耐えられるかどうかである。みずから死を選んで死んだ者たちは耐えられなかったのだ。
ひとりだったなら同じようにしただろうと、彼らは思った。
けれど彼らはひとりではなかった。愛する者といっしょであり、どんな異様な光景であろうと、彼らにとっては|至《し》|福《ふく》の地だった。
他者の存在しないことも、|隔《かく》|絶《ぜつ》されていることも、恋人同士にはどちらかというとのぞましいことだ。
ジョイアスの森では、夜が明ければともに死ぬ|覚《かく》|悟《ご》をしていた。
あのままとどまっていたら、彼らは自国の者たちによって確実に殺されていただろう。
それを思えば、|冥《めい》|界《かい》のごとき青白い野にいることがなんだろうか。
時のないここは冥界に似ているが、彼らは|亡《もう》|者《じゃ》ではなかった。
歩きまわっているうちに見つけた泉のほとりで、彼らは初めて愛をかわした。すでに彼らを引きとめるものも、しばるものも何ひとつなかった。
一度は死んだつもりの身だったし、つねの世のならいもここでは無意味だ。互いの身体で生の|温《ぬく》もりを確かめあい、冥界でも亡者の国でもないことを実感した。
それからどれくらいの時がたったのか。彼らは泉のほとりからほとんど動かず、眠り、愛しあい、また眠った。
時間の感覚がなくとも、眠りはおとずれた。まどろみとも、|暝《めい》|想《そう》ともつかない眠りだった。
世に生まれでる前のひとときを、|繭《まゆ》の中で過ごしているような安らかさが、彼らふたりをつつみこんでいた。
水が指先から流れていった。
水――たしかにそれは水のはずだった。ふれる手ざわりも、|心《ここ》|地《ち》よい冷たさも、口にふくんだ味も、水そのものである。
泉から|沸《わ》きでるそれは、透明な渦をなして岸辺に波うった。
白い白い岸辺、地を|埋《う》める砂も白く、そこから生えでる草木も青白かった。
枝葉も、つぼみも、開いた大輪の花々も、すべてが染まる色をもたず、青ざめておぼろげに輝いていた。
|釣《つ》り|鐘《がね》|形《がた》の小さな花の|絨毯《じゅうたん》に、エリアードは身を横たえていた。
こまかな白い砂、柔毛を植えた|茎《くき》や葉は、|天鵞絨《ビロード》のようにむき出しの|素《す》|肌《はだ》をつつみこんだ。
彼の一方の腕は、岸に打ちよせられる泉の水にひたされていた。指先につたう水はたえず動いていて、よどみをつくらずに清らかさをたもっている。
岸に残されたもう一方の腕は、青白い絨毯に|炎《ほのお》をともしたような黄金の髪を抱いていた。何もかもが青白い岸辺でただひとつの|彩《いろど》りだった。
今は閉ざされたふたつの眼がひらかれれば、金の彩りはふえるだろうにと、彼は眠れる恋人を見つめた。黄金のたてがみの、しなやかで美しい|獣《けもの》のような。
親しい同質なる青白き世界――当初より|嫌《けん》|悪《お》も恐れもなく、その奥深くへ踏みこめたのは、彼の身体も同じ色あいで占められていたからかもしれない。
|透《す》けるような彼の青白い肌も、絹糸のごとく細い銀の髪も、天鵞絨の光をはなつ銀の眼も、なんの違和感もなくこの世界に溶けこんでいる。
彼の腕の中で、金の髪の主はかすかにうめいた。白い|額《ひたい》の|眉《まゆ》を寄せて、いかなる悪夢にか、あるいは幸福な夢にか。
起こさないように、羽根がふれるよう、彼は光をまとう髪を|撫《な》でた。
目覚めても、あたりは夢と見まごう光景だ。
|魔術《まじゅつ》の領域に親しんでいた彼も、たしかに今見ているものがすべて現実であるとは信じられなかった。
この白き|園《その》へ来てから幾日、あるいは幾十日がたったのか。
陽も沈まず、月も昇らないここでは時間の経過もわからなかった。
|藍《あい》|色《いろ》の空には陽も月もなく、星の影すら存在しない。ところどころに濃淡のある藍色一色である。
時間もまた存在しないのではないかと彼は思う。
|携《けい》|帯《たい》の|糧食《りょうしょく》にはずっと手をつけていなかったし、髪や|爪《つめ》がのびた様子もない。
|渇《かわ》きも感じなかったが、泉の澄んだ水では習慣的に|喉《のど》をうるおしていた。
「――敵襲は」
すぐ近くにある金の眼がひらいた。青白い地に新たな金の|彩《いろど》りが生まれる。
「つい寝いってしまった。不思議な夢を見ていた。どこまでも白い野原にいる夢だ――どうなっている、戦況は――?」
リューは、国境近くで軍勢を|率《ひき》いていたときの口調のままで、性急に尋ねた。
すぐ彼は、自分が武具も何も身につけていず、さらさらの白い砂の上に横たわっていることに気づいた。
「夢は、敵襲や戦いのほうですよ、ここにはわたしたちを狩りたてるものはありません、何ひとつ」
いたわしげにエリアードはささやいた。おぼろげな光を受けて輝く金の髪と青ざめた|頬《ほお》を|撫《な》でながら。
リューはしばらく|茫《ぼう》|然《ぜん》と、青白い世界をながめていた。
柔毛のはえた|釣《つ》り|鐘《がね》|形《がた》の花に指先でふれると、白い透明な結晶となって砕け、砂粒に|還《かえ》った。
「――夢ではなかったんだな、戦いのほうが夢だった」
|安《あん》|堵《ど》したように彼はつぶやき、暖かな身体を引きよせた。長くむなしい戦いに最後までつきそってくれた副将であり、ただおとなしく死を受けいれるつもりだった彼に生きる意欲を与えてくれた恋人の身体を。
「どちらが夢で、どちらが現実でも、おまえだけは変わらずそばにいてくれる」
「ええ、いますよ、あなたがわたしを必要としてくださるかぎりは」
エリアードは彼の首に両腕をまわした。首筋も肩も腕も、砂にまみれて、白い粉をふったようになっていた。
幾度かの歓喜が彼らをつつみこんだ。いつものように、まどろみにも似た時がゆるやかに過ぎていく。
かすかな水のはねる音に、はっとリューは身じろぎした。まだ戦いの最中にいるように、彼の五感は激しく反応した。
「……どうかしましたか」
満ちたりた眠りに引きこまれかけていたエリアードは、|鈍《にぶ》く眼をあけた。
「|誰《だれ》かいる――人ではなく、|獣《けもの》のようだが」
手をのばせばとどくところにある澄んだ泉には、いつのまにか青白い影がいくつも見分けられた。
水の|沸《わ》きでる源を囲んで水を飲んでいるのは、馬とも羊ともつかない|優《ゆう》|美《び》な姿をした獣たちである。
|花《はな》|園《ぞの》の中で見かけた小動物たちとちがい、獣たちはこの青白い世界の住人のようだった。白い結晶となって砕けた|釣《つ》り|鐘《がね》|形《がた》の花と同じ|燐《りん》|光《こう》を、全身からはなっていた。
ふたりは白い砂の岸辺から身を起こした。
獣の一頭が群れを離れて、彼らのほうへやってきた。
泉の水を|蹴《け》りあげながら、獣はゆっくりと歩みよってきた。
その姿は大形の馬に似かよっていた。全身をおおう長めの毛は、羊のように小さな渦を巻き、|額《ひたい》には細長い巻き貝のような角が一本だけ生えている。
「奇妙な動物だ、見たことのない」
「古い壁飾りの織物にあった|一角獣《いっかくじゅう》というのに似ていますね」
|白魔術《しろまじゅつ》のいくつかを習っていたころに、エリアードはその獣を見聞きしたことがあった。その角を|煎《せん》じて飲むと不老不死になれるというので、多くの者がさがしまわったという|幻《まぼろし》の獣である。
青白い燐光につつまれた獣は、岸辺近くで足をとめ、彼らを静かに見おろした。
ほとんど色のない大きな眼には、年老いた賢者のような|叡《えい》|知《ち》の光がやどっていた。けれど額の角は、たやすく無防備な彼らを|串《くし》|刺《ざ》しにできそうでもあった。
「|無《む》|垢《く》なる者にしか、なつかないといわれています。無垢でない者が近づくと、その角で|威《い》|嚇《かく》すると」
エリアードは|警《けい》|戒《かい》して、|相《あい》|棒《ぼう》をかばうように|膝《ひざ》をついてあとずさりした。
踏みしだかれた釣り鐘形の小さな花たちは、細かい砂の結晶となって砕けていった。
「なるほど、わたしたちは|無《む》|垢《く》にはほど遠い――距離をおいたほうが無難だな」
知性があるような|獣《けもの》の視線を受けとめながら、リューはわずかに笑みをうかべた。岸辺で|睦《むつ》みあっていた彼らを|威《い》|嚇《かく》し、追いはらうために獣は近づいてきたのではないかと。
けれど青白い獣は長い首をななめにたれ、細い前脚を折って岸辺にあがってきた。
甘い香りに|誘《さそ》われるがごとく、獣はふたりに向かってうっとりと鼻を鳴らした。
獣に害意がないことは、やがて彼らにも見てとれた。薄い色の眼は彼らに訴えかけるように優しくまたたいていた。
エリアードはおそるおそる、そのやわらかな巻き毛におおわれた首に手をのばした。
獣は|撫《な》でてほしいかのように、長く|優《ゆう》|美《び》な首を差しだす。
草木に似て|燐《りん》|光《こう》を発する獣の毛並みは、手のひらがふれると青白い火花が散った。
獣は気持ちよさそうに鼻を鳴らし、ふたりのあいだに寝そべった。
「なつかれたようですね。言い伝えがまちがっているのか、わたしたちが無垢なる者だと認められたのでしょうか」
獣の背中ごしに、エリアードはささやきかけた。
わからないと、リューは|頬《ほお》|杖《づえ》をして、獣とならぶように寝そべった。彼の細長い身体は白い砂にまみれて、獣と似かよった一対に見えた。
獣は薄い色の眼をなかばひらき、彼らを優しくながめていた。
声にはならないつぶやきが、その眼からは伝わってきた。
(そなたたちは、たった今生まれおちた子供のように|無《む》|垢《く》だ)
さきほどのエリアードの疑問にこたえるように、|獣《けもの》の声なき声はささやいた。
(ここを訪れた者たちの多くは、意欲も目的もない、今にも死にゆこうとする老人のようだった)
(そなたたちはちがう。新しく生まれかわる喜びに満ちている)
獣はふたたび気持ちよさげに、大きな|目《ま》|蓋《ぶた》を閉じた。彼らふたりの眠気も、ともに|誘《さそ》うように。
「聞こえましたか、今の――」
「ああ、わたしはもう何を聞いても、何を見ても驚かないよ。|額《ひたい》に角のある、口をきく賢い獣がそばに寝ていてもね」
獣の背を枕のようにして、ふたりは手をのばし、腕をからませた。
不思議な安らかさに満たされ、彼らは寄りそいながら眠りについた。たしかにそこで眠ったはずだと、彼らは記憶している。
次に目覚めたとき、ふたりは青白い獣の背に乗っていた。
獣は彼らをふりおとしそうな速度で、おぼろげな光をはなつ白い地を駆けていった。
月も星も見えない|藍《あい》|色《いろ》の空と、|燐《りん》|光《こう》の|花《はな》|園《ぞの》との地平線が、細い帯となって彼らの背後に飛びさっていった。
彼らはひたすら落とされないように、巻き毛のたてがみをつかみ、獣の背に身をしずめていた。
やがて獣の駆けているのは、青白い園から、もっとふわふわした雲のような地に変わっていった。
まわりは|彼方《か な た》まで広がっていた野ではなく、前後につながっている一筋の道か橋のようである。藍色の何もない空は、そのはるか下方までつづいていた。
まっすぐに走っているのか、下へ駆けおりているのか、上へ昇っているのか、どれともつかない感覚だった。
背後から光が射してきて、ふたりはたてがみにつかまりながら、身半分だけでかろうじてふりむいた。
何ひとつなかったはずの空に、光の球体が生まれ、見る見るうちにふくれあがっていった。
それはやがて太陽の何倍にもなった。まぶしかったが、熱さは感じなかった。
獣は脚を早め、彼らはしばらくしがみつくのにせいいっぱいとなった。
球体は光をまきちらしながら|膨張《ぼうちょう》をつづけ、ついには空気を入れすぎた風船のようにはじけ飛んだ。
|閃《せん》|光《こう》と爆風が、彼らの背にも襲いかかった。
|獣《けもの》はそれよりも早く駆けているのか、思ったより|衝撃《しょうげき》はなかった。
しばらくして彼らのもとに届いたのは、|霰《あられ》のような石の雨だった。
おびただしい石たちが、獣とふたりの上にゆっくりと降りそそいだ。
石のひとつはリューの手もとに落ち、白いたてがみの毛の中できらめきをはなった。光を集めたように内側から輝いている、手のひらにおさまるくらいの石だ。
彼はなんということもなくその石をとり、たてがみを握りなおした。
石は温かみがあり、力のようなものがそこから流れこんでくるようだった。
光の渦が薄れていくと、背後の空には球体のかわりに、石の破片のようなものが無数にうかんでいた。
それはやがて少しずつ集まりだし、長い河のように|藍《あい》|色《いろ》の空を流れていった。
それから果てしない落下の感覚がつづいた。
まわりのすべてが渦となって彼らをつつみこみ、つかんでいた獣のたてがみからも振りおとされた。
彼らは意識を失った。
これはすべて、泉のほとりで角のある獣が見せた夢だと、彼らは思った。
夢は、|魔《ま》|窟《くつ》へ踏みいったときからはじまっていたのかもしれない。青白い野をさまよっていたのも、ふたりでともに見た夢かもしれないと、彼らは何度も思った。
長い長い時がたったのか、一瞬だったのか、彼らが次に目覚めたのは、星のまたたく夜空の下である。
砕けた柱や壁が散らばる中に、彼らは横たわっていた。|瓦《が》|礫《れき》のひとつのように。
淡く発光する青白い世界はどこにもなかった。
ひび割れた石のあいだから生えているのは、種類はわからないが、彼らのよく知っている普通の草のようである。
「どこだろう、ここは――今までのは夢か、どこからが夢なんだ、いったい……」
身体を起こし、リューは混乱したままつぶやいた。
草にふれてみようと手をのばし、彼はずっと丸い小さな石を握りしめていたことに気づいた。
石はたしかに、獣の背中に乗っていたときに飛んできたもののひとつだ。あらゆる色を集めたような光の渦が、石の中に小さく輝いている。
彼は言葉を失って、かつての副将であった|相《あい》|棒《ぼう》を見つめた。
「夢ではありませんよ。わたしたちは|魔《ま》|窟《くつ》を通って、どこか別の世界に飛ばされたのです。言い伝えはそれほどでたらめではなかったのですよ」
「別の――世界?」
ほほえみながら、エリアードは星空を指さした。
「あんなに第一と第二の月が大きく見えるのは、わたしたちの故郷の地ではありえません」
無数の星の中に、丸い|円《えん》|盤《ばん》のような月がふたつ、くっきりとうかんでいた。金色を帯びた月と、銀の月である。
ふたりはあきることなく、天空はるかに昇ったふたつの月を見あげていた。
彼らのいた地では、大きめの星のようにしか見えなかった金と銀の月だ。
待っていたが、彼らの見慣れたもうひとつの月は昇らなかった。
月はふたつしか昇らず、まぶしい大きさで夜空に|君《くん》|臨《りん》した。
第三の、青みを帯びた最大の月を、彼らはそれからけっして目にすることはなかった。
今まで見あげていた三番めの月の地にいることをふたりがさとったのは、近くのタレースの町に落ちついてからだった。
多少の発音の違いはあっても、言葉は理解できた。
ジョイアスの魔窟のような場所がほかにもいくつかあり、彼らの故郷の地とこの地には以前からつながりがあるのだろうか。
こちらでもっともひろく使われている公用語は、ほとんどリウィウスで用いられている言葉と変わらなかった。
住んでいる人々にも、それほどの差はないように見えた。
しいてあげれば、彼らの髪や|肌《はだ》の色が全体的に淡いといえるくらいなものだ。
かの地の人々は、こちらと比べて身体の色素が少ないように見えた。日射量の差からくるものかもしれない。
この地の北方人と南方人との|差《さ》|異《い》のほうが、彼らとこの地の人々の違いよりも大きいくらいだった。
見たことのないさまざまな人種が、この地には存在していて、ほうぼうを旅していくうちに何度も彼らは驚いた。
ふたりのいた地では、リウィウスとラウスターという二大国が多くの小国をしたがえてにらみあっていたが、人種的にはそれほどの違いはなかった。
習慣や気質もその地方ごとに大きくちがい、彼らはとくにあやしまれることなく、この地に溶けこんだ。
タレースの町を出てから、彼らは過去のすべてを封じこめ、身分も何もない気ままな放浪者として旅した。
ときにはさまざまなやっかいごとに巻きこまれたりしたが、なんとかそのつど、きりぬけてきた。
もう過去のあれこれには悩まされず、この地で新たな自身を見いだしたと、ふたりは思っていた。
そんな彼らの前にグリフォンが現れた。この|謎《なぞ》めいた道づれはいやおうなく、忘れかけていた地のことをつきつけてきた。
「あの飛んできた小さなかけらは、もうないんでしたね。すべてが夢ではなかったというただひとつの証拠だったのですけれど」
アルルスにつづく森を見あげて、エリアードはつぶやいた。|闇《やみ》に沈んで、黒い木々の影だけがうかびあがる光景は、失われた故郷のジョイアスの森に似かよっていた。
「かけら――ああ、光を集めたような石のことか」
言われてリューは思い出した。
白い|獣《けもの》の背に乗せられていたとき、彼が手にした小さな石は捨てることもできず、耳飾りに細工してしばらく身につけていた。
しかしそれもずいぶん前に、ふとしたいきさつから人にやってしまっていた。
「手ばなしてしまえといったのは、おまえだろう。そんなものを身につけているのは過去にとらわれているせいだと」
「そうです、たしかに――でも今になって考えると、あれをもっとよく調べてみればよかったと|後《こう》|悔《かい》するんです」
「わたしはすべてを|封《ふう》|印《いん》してしまったほうがいいと思うな。あいつもだ――あいつを道づれにして、これから先どのくらい過去の自分に向きあうはめになるのだろうか」
|焚《た》き|火《び》の向こう側で苦しげな息をしながら眠っている男を、リューはうんざりするように見つめた。
「向きあってもいいころですよ。この地に来てから、あなたは本当に変わった。リウィウスでは隠れていたあなたの一面――|能《のう》|天《てん》|気《き》で、なりゆきまかせのいいかげんなところがおもてに出て、追いつめられた獣のような|猛《たけ》|々《だけ》しい将はいなくなった――別人としてながめていればいいんです。後世に語りつがれているあなたはまったくの別人ですし」
幾多の戦いにも、ジョイアスの森でも、この地に降りたってからも、変わらずそばにいたエリアードはそう励ました。
「どこから考えてみても、あいつが気にくわないことにはかわりはない――このままあいつをおいて、逃げたらどうだ」
上半身を起こし、リューは|真《ま》|面《じ》|目《め》に提案した。
「あの人の腕を傷つけた時点でやめていれば、あなたの勝ちだったのですよ。そうすれば誓いを|盾《たて》にして、公然と追いはらうこともできたのに――|自《じ》|業《ごう》|自《じ》|得《とく》ですね。あきらめて受けいれるしかない」
「わかっている、わたしが悪いのは――しかし、あいつと|相《あい》|対《たい》すると、怒りや|苛《いら》|立《だ》ちがおさえきれなくなるんだ。この先もいっしょに過ごさなくてはならないなら、|決《けっ》|闘《とう》は一度や二度じゃすまなくなるぞ」
|不《ぶ》|気《き》|味《み》な予言のようにリューは言った。
エリアードはなだめるように、|相《あい》|棒《ぼう》の肩に手をかけた。
「気持ちはわかりますが、生命を|粗《そ》|末《まつ》にしないでください。自業自得で死んでいくあなたはいいだろうけれど、あとに残されるわたしのことも少しは考えてほしいな」
「簡単には、死なないよ。悪運が強いからな」
「でも、今夜の決闘ではあぶなかった。止めに入ろうとしたけれど、まにあわなくて、血が|凍《こお》るような思いをしましたよ」
そのときの恐怖がよみがえり、エリアードは相棒の胸に顔をうずめた。たしかに彼が生きていることを確かめるように。
「お願いだから、わたしより前に死なないでください。そんな場面には、耐えられそうにありませんから」
「前ではなく、あとならいいのか」
いつものからかうような、気づかうような口ぶりでリューはささやいた。
「ええ、あとならいつでもかまいませんよ。なるべく早いほうがいいですけれど。どこかにある死者の国で、あなたが来てくれるのを待ちわびてるでしょうから」
「まるで、すぐにあとを追えといわんばかりだな――お互い、しぶといから、当分は死者の国も迎えをよこさないだろうよ」
過去の光景は遠のき、彼らは顔を見あわせてほほえみあった。
「――リューシディク様」
「いつになったら、その名で呼ぶことをやめてくれるんだ。わたしはもう、おまえの主君ではないだろう」
「そうですね――」
エリアードはささやいた。
「あなたに|仕《つか》えていた四年と同じだけの時を、ともにこの地で過ごせたら、対等に呼べるのかもしれません」
「先が長いな、それは」
優しくリューはこたえ、銀色のきれいな髪を指先ですいた。
リウィウスの地とこの地の一年は、あまり長さが変わらないように思えた。あくまでそれは彼らの感覚で、実際は一日の長さからして違っているのかもしれなかったが。
彼らが禁断の|魔《ま》|窟《くつ》を通り、青白き|園《その》を抜けてから、この地の数え方でまだ二年たらずにしかならなかった。
5章 |魔術談義《まじゅつだんぎ》
アルルスは緑の多い町だった。
セレウコアの西に位置するこの国境近くの町は、すぐれた|灌《かん》|漑《がい》のわざによって、どんな路地にも緑があふれていた。
市門のところにはシェクと同様に長い列ができていたが、ハルシュ老からもらいうけた|紋章《もんしょう》入りの指輪を見せるとすんなり通してもらえた。
通行証がないので、もう少し足どめをくうかと思ったが、同行したグリフォンがふたりの身分を保証すると、それ以上は何も追及されずにすんだ。
セレウコアまでは自分の庭だとグリフォンが豪語したように、市門の衛兵の何人かは彼の顔見知りのようだった。
見たところ、グリフォンは衛兵たちに重んじられ、敬意をはらわれているようだ。
リューとしても、この不本意にも道づれにした男が役にたつことは認めざるをえなかった。
しかしアルルスに入ってしまうと、いったんはもちなおしたグリフォンの評価はまた暴落した。
腕の負傷の具合がよくないことを理由に、彼はアルルスの高台にある高級宿に入ったのだ。
彼らふたりにはそんなところの宿代が払えるわけはなく、別の|木《き》|賃《ちん》|宿《やど》をとろうとしたが、グリフォンはそれを|脅迫《きょうはく》をもって|阻《そ》|止《し》した。市門を通してもらえたのはグリフォンの口添えがあったせいだから、町中で別行動をとればあやしまれて、もう一度調べ直される危険があると。
それは困るとふたりが迷っているうちに、グリフォンは高級宿の呼び鈴を鳴らした。
いきりたつリューをなだめながら、エリアードは仕方なく立派な宿の門をくぐることにした。
きれいに整備された緑の庭園をすぎ、彩色した石の階段をのぼると、木々の合間になだらかな曲線をえがいた屋根が見える。宿の看板が表になければ、領主の館であっても不思議ではないようなところだ。
大勢の召し使いたちが|凱《がい》|旋《せん》の軍を迎えるように立ちならび、彼らに最敬礼した。
「ここがいつも、アルルスでは|常宿《じょうやど》にしているところだ。今までのつながりから、ほかで泊まるわけにはいかないんだ」
ここからでも引きかえしたいと思っているふたりに、グリフォンはささやいた。安宿の固い寝床では傷が悪化すると言っていたわりに、彼は顔色もよくなって、元気そうだ。
「それにアルルスの宿は信用できないところが多い。へたなところに泊まると、|追《お》い|剥《は》ぎにあう。組織だった夜盗団もいるしな」
「ではシェクよりも治安が悪いんだな。町にうろうろしている立派なセレウコアの兵士は散歩してるだけか」
リューは我慢できなくなって、やりかえした。
「残念ながら、連中は町の治安を守るためにいるのではない。東方からやってくる者たちを|監《かん》|視《し》しているだけだ」
腰を低くして駆けよってきた宿の主人に、グリフォンは手をさしだした。
主人は召し使い頭にふたりを案内するよう命じ、グリフォンとともに奥へ消えた。
「一晩にして、あの人は賢くなりましたね。今日はあなたと口論になりそうだと、うまくさっとかわしている」
感心するようにエリアードがつぶやいたので、リューはますます不機嫌な顔をした。
市門を通るときから高級宿に入るまで、ずっとグリフォンひとりが一行の主導権を握っていた。ここの代金を彼がもてば、さらにそれは強くなるにちがいない。
召し使い頭は長い廊下を先に立って歩き、離れになっている小さな|館《やかた》ふうのところに彼らを案内した。
半二階になった|瀟洒《しょうしゃ》な|露台《バルコニー》があり、大きな居間といくつかの小間に分かれた純白の平屋である。
部屋はどれも豪華ではあったが、飾りすぎで品がないようにも見えた。
壁は薄紅で、|透《す》かし模様の入った薄い布が波をえがいてたれさがり、派手好きな年増女の寝室のようでもある。
「こちらはグリフォン殿がお使いになられますので、それ以外のどの部屋でもお好きにお使いください」
中でも一番ごてごてと飾られた部屋を指さし、|額《ひたい》の|禿《は》げあがった召し使い頭はにこりともしないで告げた。
「グリフォン殿はいつもここにお泊まりになるのかい」
|皮《ひ》|肉《にく》っぽくリューは尋ねた。
「はい、ごひいきにしていただいてます。こちらの離れはそのために、調度からすべて、グリフォン殿のお好みでそろえております。いつおいでになってもよろしいように、いつも準備を整えておるのでございます」
「立派な心がけだ。セレウコアの貴族にはそれくらいの気づかいが必要なのかな」
職務に誇りをだいているふうの召し使い頭に、さりげなくリューはかま[#「かま」に傍点]をかけた。
金はありあまっていると自慢していたグリフォンは、どこかの成金商人の息子か、裕福な下級貴族ではないかと、彼は想像していた。
「妙なことをおっしゃる。グリフォン殿はセレウコアの貴族ではございませんよ。ごいっしょにいらして、そんなこともご存じないのですか」
うさんくさそうに召し使い頭は彼らを見た。まるで彼らが、グリフォンをだましてついてきたのではないかといわんばかりの視線だ。
彼らの身なりは貧しい旅人以外のなにものでもなく、野宿をかさねたせいで薄汚れている。ふつうなら、こんな高級宿に足を踏みいれられる人種ではなかった。
リューはそれを見てとり、それ以上尋ねるのをやめた。
召し使い頭はなおもぶしつけに彼らをながめながら、一礼して出ていった。
「かえすがえすも、どうしてあんなやつを道づれになんかしたのだろう」
|口《くち》|癖《ぐせ》のようになった言葉を、リューはまたつぶやいた。
「あまり気になさらないで。あの人も悪気があるわけじゃなさそうだし、利点がないわけではありませんから」
「おまえはいいだろうな、あいつとは気があっているようだ」
「ああいった人にあわせるのは得意ですよ。なれてますからね。応対はわたしにまかせてください」
エリアードはつい笑ってしまった。
「まだあいつがわたしに似ていると言いたいのか。いったいどこが似てる――下品な成金趣味の、|嫌《いや》|味《み》でずうずうしいあいつと、いったいどこが似てるというんだ」
グリフォンに対する|嫌《けん》|悪《お》の半分は、シェクで|相《あい》|棒《ぼう》から似ていると言われたことにあったと、リューは気づいた。自分に似ていると思うから、いやな部分が拡大して感じられたのである。
「わかりました、訂正しますよ。似たところもあると思いましたが、違っているところも大きいですよ。まあ当然ですね、別人なのだから」
「心からそう思っているのか」
「思ってますよ、あなたのような人はふたりといない――あなたのほうがずっと美男子だし、趣味もいいのは確かです」
終わりのほうは声をひそめ、エリアードは応じた。
ちょうど扉がひらいて、グリフォンが入ってきた。
その晩の食事は、王侯の|宴《うたげ》にくらべても|遜色《そんしょく》ないものだった。
離れの小館の居間には、十人がならんで座れるほどの長方形の卓がすえられ、召し使いたちが次々と料理の皿を運んできた。
料理は卓いっぱいにならべられ、とても三人では食べきれない量である。
中央におかれた大皿には、珍味で有名な|極彩鳥《ごくさいちょう》の丸焼きが姿もそのままに横たわっていた。
その周囲には、|香辛料《こうしんりょう》をまぶした肉の|串《くし》や、数種の具入りの煮こみ、魚の|酢《す》|漬《づ》け、|薫《くん》|製《せい》|肉《にく》や|乳酪《にゅうらく》の切りわけたもの、新鮮な果実、野菜が皿にもられている。
平然としているつもりのリューだったが、目の前で湯気といい匂いをはなつ料理には|飢《き》|餓《が》|感《かん》すらおぼえた。
隊商と別れてからは、まともな食事といえば|居《い》|酒《ざか》|屋《や》で注文したわずかなものだけで、あとは森にはえている木の実や野草しか口にしていない。
それはエリアードも同様だった。彼のほうは|相《あい》|棒《ぼう》のように意地をはらず、うれしげに目を見はっていた。こんなふうにありあまるほどの料理を前にするのは、クリブでのもてなし以来だ。
ふたりは湯あみと着がえをすませていたので、もうみすぼらしい放浪者には見えなかった。グリフォンの用意した彼らの衣装はやはり派手でひらひらしていたが、前に着ていた汚い旅装を処分されてしまい、仕方なくそれを身につけた。
引かれてきた|酒《さか》|瓶《びん》の手押し車から、グリフォンは数本の酒を選びだした。
召し使い頭は、そのうちの指定されたひとつの封をあけ、水晶の三つの|杯《さかずき》に、なれた手つきで血のような|真《しん》|紅《く》の液体を注ぎこんだ。
向きあって座る三人に、召し使い頭は杯をうやうやしくさしだした。
グリフォンは召し使いたちにさがるよう命じた。内密の話をしたいから、給仕は必要ないという合図である。
大勢の召し使いたちはふかぶかとお辞儀をし、退出していった。
「さあ、われわれだけで気楽にやろう。存分に飲み食いしてくれ。遠慮は無用だ」
グリフォンは、ふたりに満面の笑顔を向けた。
「われわれの二度めの出会いと、ともに旅する前途を祝して」
彼らは|杯《さかずき》をあわせた。
主導権はすべてグリフォンにあり、この豪勢な料理と美酒を前にしては、リューも文句を言えなかった。
酒は最高の|舌《した》ざわりで、|慢《まん》|性《せい》|的《てき》な空腹の胃にしみわたるようだった。
かなり強かったが、ひさしぶりの素晴らしい味わいに|抑《よく》|制《せい》がきかず、リューはそのまま飲みほした。青白い|頬《ほお》がすぐにうすく染まっていった。
「お気に召したようで、うれしく思う、リューシディク殿」
グリフォンは席を立ち、からになった彼の杯を満たしてくれた。
「殿はいらない、リューとだけ呼んでくれ」
金糸の|刺繍《ししゅう》入りのひらひらしたじゃまな|袖《そで》をまくりあげ、リューは杯を受けとった。こんな|道《どう》|化《け》|師《し》のような衣装を、無理やり着せられたことに|苛《いら》|立《だ》ちながら。
「そんなわけにはいかない。あなたはリウィウスの王子ゆえ、相応の敬意をはらうのは義務だ」
「地上に存在しない国をあげるなら、|誰《だれ》だって王にも王子にもなれるな。わたしの称号などその程度のものだ」
いつもよりはやわらかくこたえて、リューは杯を片手に、料理をたいらげはじめた。
|心《ここ》|地《ち》よい酔いと、胃の|腑《ふ》を刺激する匂いに、ほかのことはいつのまにか遠のいていた。われながら、あさましいと思いながらも。
「|田舎《い な か》料理だが、お口にあうだろうか。アルルスでは最高の料理を出す宿なんだが」
|機《き》|嫌《げん》よくリューが食事しているのをながめて、グリフォンはうれしそうにつづけた。
「セレウコアに行けば、もっといいもてなしができるだろう。あなたをその身分にふさわしく|歓《かん》|待《たい》することを約束する」
「身分にふさわしくといわれても、リウィウスにいたときにも、こんな豪華な食事にありつけることなどなかったな」
リューは相手の見当ちがいをあざけるように笑った。以前ほどではなかったが、まだ十分にとげをふくんでいた。
「十四、五歳のころからほとんど軍勢を|率《ひき》いて遠征していたから、せいぜい天幕で割りあてられた携帯用の|糧食《りょうしょく》を口にするだけだった。王宮でゆっくりと過ごしたことなど、数えるほどしかない――身分身分というが、しょせん王子とは呼ばれても実態はかならずしも安楽なものではない。今の名もない放浪者のほうが、安らかで心豊かだと思うな、たとえ空腹をかかえ野宿をしていても」
彼をもてなすことができたと喜んでいたグリフォンは、その言葉にしずみこんだ。
小さいころに母親から聞かされ、うえつけられたあこがれはまだ根強く彼の胸に生きていた。実際の人物の言動には何度も|幻《げん》|滅《めつ》し、腹をたてながらも。
「このけっこうなもてなしを感謝してないわけではない。ただ過去のわたしを美化して、ことあるごとに話題に出すのをやめてほしいんだ――リウィウスのリューシディクという人物は、味方の裏切りにあってジョイアスの森で息たえた。ここにいるわたしは別人だ、そう考えてくれるとうれしいが」
グリフォンに対し、はじめて|率直《そっちょく》にリューは語りかけた。
「それは無理だ、あなたは現に目の前にいるのだし――あなたの存在を知っているのは、わたしだけではない。ドゥーリスの|観《かん》|相《そう》|師《し》には、月から来た人々を研究している者だっている。
あなたはこれからもいやおうなく、リウィウスにまつわる過去をもちだされるだろう。さけて通れるものではない。だからわたしは、あなたがたの道づれになることを申しでたのだ」
グリフォンは言ってしまったあとで|後《こう》|悔《かい》した。これでは食事の席が台なしだった。
リューは皿にのばした手をやすめて、|相《あい》|棒《ぼう》と顔を見あわせた。
「忘れていましたが、シェクでわたしたちが襲われ、あなたが助けに入ったことは|偶《ぐう》|然《ぜん》ではないのでしたね」
エリアードは静かに問いかけた。
「あとで話す、昨日、傷の熱で話せなかったことも――とりあえずはまず、|喉《のど》と腹を満たそう」
笑顔にもどって、グリフォンは|杯《さかずき》に酒を注いだ。
次から次へと出される各地方の美酒をたっぷりと味わい、リューは|露台《バルコニー》に出した|揺《ゆ》り|椅《い》|子《す》にもたれていた。涼しい夜風が、わずかに酔いをさましていった。
いつも後悔するのだが、今日も彼はいささか飲みすぎたようだ。
はらいのけても|執《しつ》|拗《よう》にまとわりつく過去の|亡《ぼう》|霊《れい》に悩まされ、つい深酒したというのは言いわけだった。目の前に出される杯の|誘《ゆう》|惑《わく》を|拒《こば》みきれなかっただけである。
酔いつぶれてしまった彼を除外して、グリフォンとエリアードは話がはずんでいる様子だ。
彼らは露台の|柵《さく》にもたれて、|白魔術《しろまじゅつ》と黒魔術の違いについて言葉をかわしていた。
エリアードはリウィウスにいたころにも三年ほど白魔術を学び、この地に来てからも白魔術の都シヴァスで修業したことがあった。
彼が最初からやすやすと|会《え》|得《とく》できたのは、おもに簡単な|暗《あん》|示《じ》と|催《さい》|眠《みん》のわざだ。
その才を応用し、|辻占《つじうらな》い|師《し》まがいのことをして|稼《かせ》いでいた時期もある。
ギルドから許可を得ない非合法のものであり、|占《うらな》い|師《し》としての才はそれほどあったわけではなかったので、半分は|詐《さ》|欺《ぎ》のようなものだった。それでも|繁盛《はんじょう》したのは、彼の|容《よう》|貌《ぼう》にひかれた裕福な女たちが|群《むら》がってきたからである。
リウィウスに伝えられる|魔術《まじゅつ》の体系も、シヴァスの白魔術師たちのわざも、ちまたに|流《る》|布《ふ》している簡単なまじないも、彼はひととおり知っていた。しかし黒魔術に分類される領域については、これまでほとんどふれる機会がなかった。
グリフォンはそれと対照的に、シヴァスとは対になって語られる黒魔術の都ドゥーリスでわざをみがいてきた経歴の持ち主だ。
とはいっても、黒魔術の専門としている|呪《じゅ》|咀《そ》や、死者の|蘇《そ》|生《せい》、|招霊《しょうれい》にはあまり興味はなく、彼は終始、|観《かん》|相《そう》|師《し》としての才をのばすことしか考えてこなかった。
「単純な個人の運命にかかわる占い師たちが白魔術に分類され、その上に位置するとされている、国や世界全体の位相を観察する観相師が黒魔術の領域に属すのはなぜなのかと、いつもわたしは不思議に思ってきました」
薄く水で割って香料を入れた|酒《しゅ》|杯《はい》を手に、エリアードは語った。
派手な|袖《そで》|飾《かざ》りと銀糸の|刺繍《ししゅう》いりの薄い上着と、ぴったりと腰をしめつける|赤《あか》|革《がわ》の|脚《きゃ》|絆《はん》は、優雅な彼にはよく似あっていた。
「リウィウスではそれほど、白と黒の領域がはっきりと分かれていませんでした。といいますか、おもてむき黒は存在しないのです。魔術――魔法、魔道と、どのように呼んでもいいけれど、慣例にしたがって魔術ということにします。そのあらゆる魔術のうちで、公認されて学ぶことのできるものはすべて白魔術と称されてました。
白というのは、おもてにできるもの、おおやけのもの、という意味あいがあったようです。占い師、予言者、予知者のたぐいはみな、白にふくまれていました。観相師という特別な区分けはなく、未来や運命にかかわる者はおおむね占い師に分類されました」
グリフォンは興味深そうに聞いていた。道づれになった森の夜でもそうだったが、エリアードと話していると、ドゥーリスで修業していた時代にもどったような気分になった。
「黒は隠れておこなわれるもの、非合法のものを総称していました。ですから、リウィウスの正式な魔術体系には、白に属するものしかふくまれていません。それ以外のものは禁断の|邪術《じゃじゅつ》で、見つかれば|極刑《きょっけい》を受けました――この地に来て、ドゥーリスのような黒魔術の都があり、公式に認められたギルドがあるのには最初、驚きました」
「白の都シヴァスではわからないが、ドゥーリスでは、おおむね黒魔術は白をうわまわる領域のものと位置されていた。占い師の上級である観相師が黒の領域におかれるのも、そうした慣習からだ――影響力が大きいものを黒魔術と呼んで|隔《かく》|離《り》したとの説もある。ドゥーリスは人里はなれたテルモダル連山にあり、高位の黒魔術師の多くは、そこで人とまじわらずに暮らしているゆえ。
ああしたところで同業者とのみ接し、それぞれの道をきわめていると、俗界のことなど興味がなくなるらしいのだ――ドゥーリスの都は、|黒魔術師《くろまじゅつし》たちの|封《ふう》|印《いん》のためにあるのではないかと思ったこともある」
遠い山あいの都に、グリフォンは見晴らしのいい|露台《バルコニー》から思いをはせた。
「シヴァスにもその傾向はありましたよ。わたしが弟子入りしていた|白魔術師《しろまじゅつし》はどちらかというと研究者か科学者に近く、自室にこもって実験にいそしんでいました。
わたしが手伝っていたのも、器具の準備や、鉄くずや燃料を集めてくる作業がおもでした。なにか|世《せ》|俗《ぞく》の利益を得るためにやっているわけではなく、ただ自分で満足する成果をあげられればそれでいいといったふうでしたね。成果があれば、ギルドに報告はしているようでしたが」
「そうだ。高位にいけばいくほど、黒魔術師も白魔術師も|浮《う》き|世《よ》ばなれしていくのだ。そうあってはならないと、ドゥーリスでも幾度か議論したのだが、聞く耳をもつものはすくなかった」
「リウィウスの、魔術師と名が知られた人たちはちがいましたね。かの地では、魔術師を公然と名のるのは白しかありえないので、いちおうはみな白魔術師と称していましたが、実際はあやしげな者もいました。
白の魔術体系からこぼれた|邪術《じゃじゅつ》の領域には、さからいがたい|魅《み》|惑《わく》|的《てき》な|呪《じゅ》|咀《そ》もありましたから――彼らが道をきわめるのと同じ情熱でしたことは、王侯や領主たちに自分の力を売りこむことでした。リウィウスの王宮には常時、そうした魔術師がたむろしていましたし、政敵を倒すための呪咀も、裏ではよくおこなわれていました。
それを防ぐために、身分や地位のある者は|護《ご》|衛《えい》として、私的に魔術師を|雇《やと》いいれていました――白を認め、黒を封じこめようとして、実際は逆効果になっていたのですね。禁断の邪術をうまくばれないように駆使して、王侯の信用を得た魔術師がたたえられるようになりました。世俗と手をむすばないことには、地位も尊敬も得られなくなってしまった」
「そうなると、どちらがいいとはいえないな。おそらくシヴァスとドゥーリスというふたつの都に、白と黒の魔術師たちを集めようとしたのは、世俗の権力に介入することをはばもうとするギルドの|意《い》|図《と》があったと思う。
それは数百年をへてみごとになしとげられたのだが、白と黒のどちらも各分野に細分化され、実際の役にはたたない、道のための道、研究のための研究に|堕《だ》していった――|堕《だ》|落《らく》だとあえていいたいな。自分と数人の同業者にしかわからない|極《ごく》|意《い》を追いもとめ、それを何にもちいるわけでもなく、山の中の都で|生涯《しょうがい》を終える。大いなる時間と才能の無駄だ」
「ギルドが独自に階級を決め、|免《めん》|許《きょ》を与えるという制度が効果的だったと思いますね。人里に出なくても、成果は認められるわけだから。いくら俗界に興味がなくても、やっていることが注目され、承認されなくてはできるものではない」
最初は相手からいろいろ聞きだそうという|意《い》|図《と》のあったエリアードも、いつしか話の中身に熱中していた。
|魔術《まじゅつ》という分野に、彼はリウィウスにいたころから強い興味があった。彼の|相《あい》|棒《ぼう》はこうした分野にはうとく、話し相手にはならない。
対等に話のかわせる相手と、リウィウスのこともまじえて語ることができるのは、この地にきてはじめてといってよかった。
「わたしが|観《かん》|相《そう》|師《し》の道を選んだのは、資質があったせいもあったが、何よりも観相師だけが専門分野以外にも広く知識を求めることができるからだ。
黒魔術師たちはおおむね自分の専門に近い者としか話もしないのだが、われわれは互いに議論しあうだけでなく、孤立している黒魔術師たちの|架《か》け|橋《はし》にもなった。連中は|迷《めい》|惑《わく》そうだったが――われわれ観相師は黒でもなく白でもない、両者のあいだとなる灰色を名のってみようかという話も出た。
そうなれば、まったく接する機会のない白魔術師たちともまじわることが可能になる。独自の領域をつくるのはギルドの禁止事項にふれるが、それでもあえてやってみようかとも思った」
「観相師とは、具体的にどのようにして位相をみるのですか。聞いたかぎりでは、|占《うらな》い|師《し》や、ちまたの予言者のように、直感や|天《てん》|啓《けい》に頼るものではないとのことですが」
ずっと聞きたいと思っていたことをエリアードは尋ねた。
「観相師は多くのわざを応用し、組みあわせたりするのがつねだ。それぞれにやり方はちがうし、状況によってもちがうが――皇帝の命を受けた隊商の|軌《き》|跡《せき》を追うのは、|遡及《そきゅう》の術の一種を主にもちいた。
あなたもしろうとではないから詳しい説明はさけるが、簡単な|呪術《じゅじゅつ》にもちいられるわざを例にあげると、わかりやすいかもしれない。黒魔術を学んだ者でなくとも、広く一般におこなわれている。
|呪《のろ》いたい相手の髪や皮膚をその相手そのものとみなし、それを焼いたり、刻んだりすることによって呪いをかけるというものだ。髪の一本にも、所有者の記憶がしるされている。その記憶を掘りだし、型や特徴をつかみ、本体に結びつけるわけだ。
それを応用すれば、居場所を調べることも、動きを追うこともできる。わたしはシェクで地図をしるした観相板をもちい、隊商の位置と動きには注意をはらっていた。
材料に使ったのは、隊商の長がセレウコアの役所に残した証文だ。通行証を発行するときにおさめる商人の誓いをしるしたもので、最後に血の署名がある――本当のところ、|遡及《そきゅう》の術には、少し時間をおいて変色した血がもっとも有効なんだ」
いったん言葉をきって、グリフォンは花びらを浮かべた|杯《さかずき》で|喉《のど》をうるおした。
「わたしにはうとい分野なのでよくわからないが、|不《ぶ》|気《き》|味《み》なわざですね――ではあなたはやろうと思えば、わたしたちを遠くから|呪《のろ》うことも、行方を追うことも可能なわけだ」
「心外だな、わたしがそんな失礼なことをするとでも思うのか。あなたもリューシディク殿のように、わたしを|極《ごく》|悪《あく》|人《にん》のように|警《けい》|戒《かい》しているわけか」
グリフォンはまた、傷ついたように声を落とした。
「極悪人とは思っていませんが、警戒するのはわたしたちの立場として当然でしょう。わたしたちにとってあなたは、昨夜道づれになったばかりの相手ですから――それにわたしたちは今まで、さまざまなやっかいごとに巻きこまれてますから、そうは素直に人を信じられないのですよ」
|露台《バルコニー》を背もたれにして、エリアードは彼のほうに向きなおった。|紅《あか》い|唇《くちびる》には好意的なほほえみがあった。
淡い|燭台《しょくだい》の明かりと、月光にうかびあがる彼は、銀の|刺繍《ししゅう》入りの美しい上着のせいもあり、|妖《よう》|艶《えん》な月の精のようだった。踊り子のサイダをはじめ、多くの者がひと目で恋いこがれた、|謎《なぞ》めいて美しい、独特のほほえみをたたえていた。
|生《き》|真《ま》|面《じ》|目《め》で、|媚《こ》びることの嫌いな彼だったが、見ている者にとって、ときおりみせるその表情は|誘《さそ》うようにあでやかだった。
「それで、わたしたちをどうやって見つけたんですか」
自然な調子で、エリアードは先をうながした。思わず彼に目を引きつけられていたグリフォンは、軽く|咳《せき》ばらいをした。
「隊商は順調に旅しているようだったが、クナの|廃《はい》|墟《きょ》の近くで変わった動きをした。無意味と思われる遠まわりの道をたどっているので、今度は|像《ぞう》|喚《かん》|起《き》の術をためしてみた。
これが成功するにはいくつかむずかしい条件があり、全部がそろわないと腕がよくてもできない場合がある。条件は大きく分けてふたつあり、対象となるものの確かな位置がわかっていることと、一定のあいだそれが動きを静止していることだ。
隊商が|野《や》|営《えい》|地《ち》で休んでいるとき、条件がそろって、術は成功した。張った白い幕に、隊商の様子がおぼろげにうかびあがった――あなたがたを見つけだしたのは、そのときが最初になる。しかしあなたがたが、どこの誰であるかはまだわからなかった。
ほかのいろいろな方面から調べてみたのだが、あなたがたはそのどこにも属していないようだった。セレウコアに敵対する組織や、なんらかのギルドに参加していれば、ある程度はあきらかになるのだが。
重要な使命がありながら、わざわざ隊商が遠まわりして合流したあなたがたを確かめるために、わたしはシェクの市門の近くで待っていた――ここから先は|観《かん》|相《そう》|師《し》としての仕事ではなく、わたし個人の興味から、あなたがたを調べはじめたのだが」
「わたしたちがいわゆる〈月の民〉であり、あちらで酔いつぶれている人が、あなたの聞いていたリウィウスの伝説の人物だとわかったのは、どうしてですか。見かけだけでわかったわけではないでしょう」
|揺《ゆ》り|椅《い》|子《す》にぐったりとしている|相《あい》|棒《ぼう》を見て、エリアードは尋ねた。
リューはわずかに薄目をあけ、反応を示した。彼らの話を多少は聞いている様子である。
「いや、ひと目でわかった、直感的に――母上の話してくれた、|勇《ゆう》|敢《かん》な先祖にちがいないと」
「直感ですか、急に|占《うらな》い|師《し》か予知者のようになるんですね」
その指摘に、グリフォンはいやな顔をした。
「天から突然、ひらめきが降ってきたわけではない。母上にどこか、似たところがあったせいだ」
「あなたの母上は絶世の美女だったそうじゃないですか。この人に似ているというのは、母上にお気の毒ではありませんか、いくらなんでも」
エリアードは笑いながら言った。
話題にあげられているリューは、とくに反論しなかった。
「顔形だけのことではない、もっと全体の雰囲気だ――あなたもそうだが、月から来た人たちの色の白さは、北方人とは根本的に異なっている。青白く照りはえるような感じだ。見なれている者なら、すぐにその違いがわかる――最初は、母上にもうひとり息子がいたのではないかと思った。ひとり息子のわたしより、ずっと母上に似ていたからだ」
「あなたは、その月から来た母上にあまり似てらっしゃらないわけですね」
「見ればわかるだろう。髪の色は濃いし、すっかり日焼けしているゆえ、どこから見てもこのあたりの人間だ。あなたがたのような|生《きっ》|粋《すい》の〈月の民〉とはちがう」
|赤銅色《しゃくどういろ》の髪のふさをひっぱって、グリフォンは応じた。
「なんだか妙ですね。母上からひきついだものが少ないことに、あなたは|苛《いら》|立《だ》ってでもいるようだ」
「あなたがたには、あこがれをかきたてるものがあるよ。〈月の民〉には、淡くつかみどころのない月の精のような人が多い。母上もそうだった」
「ひとことだけ、言わせてもらえるなら――」
エリアードは銀の眼をわずかにひらめかせた。
「この地の人たちも、わたしたちにとっては〈月の民〉だったのですよ。わたしたちはリウィウスで、この地を三番めの月としてながめていました――わたしたちは月から来たわけではない。三番めの月に、わたしたちがやって来たわけでもあるんですよ」
返答につまり、グリフォンは押し黙った。|饒舌《じょうぜつ》な彼は、次の言葉を見失うことなどめったになかったが。
「わたしたちは異邦人で、故郷のない放浪者です。この地の片隅においてもらえるよう、ひっそりとしているべきで、〈月の民〉と呼ばれることに異論をとなえる権利などないのかもしれませんが」
「そんなことはない――少なくとも、わたしはそうは思ってない。母上のことをべつにしても」
「どちらでもかまいませんけれど――それで話のつづきですが、母上に似ているというだけでは、そこまで確信をこめておっしゃらないでしょう。シェクでわたしたちを助けたのも|偶《ぐう》|然《ぜん》ではないとのことでしたし」
もとの親しげなほほえみで、エリアードは先をうながした。
「確信をもったのは、ナクシット教団があなたがたに目をつけはじめたときだ。隊商の道筋を追うことだけでなく、ナクシットの動きに気をくばるのもわたしの仕事のひとつだったから、すぐにそのふたつは結びついた。
シェクにあるナクシット教団の|館《やかた》に鳥を送りこみ、リウィウスの王子らしき人物が現れ、連中がざわめきたっていることを知ったんだ」
「鳥を、それはなんというわざですか」
「鳥獣の術とも、使い魔の術とも言うものだ。小形の|獣《けもの》をひととき目と耳にしたてあげ、望む場所に送りこむことができる――どこでもできるわけではない。獣をはなつ地点から、行ってもどってくるまでの経路を、詳細に調べなければならないんだ」
また|警《けい》|戒《かい》されるのではないかと、グリフォンは術のむずかしさを強調した。
「そのナクシット教団が、わたしたちを襲った連中ですね。|狂信者《きょうしんしゃ》の集団だと、シェクであなたはおっしゃっていたけれど」
「そうだ、よくおぼえているな――まだはっきりとは言えないが、連中はこのところ勢力を拡大して、セレウコアの北西をうかがっているんだ。わたしが連中と敵対する立場にあると言ったのはそのせいだ。もともとはベル・ダウの山奥で、奇妙な教理を説いている小さな|邪教団《じゃきょうだん》にすぎなかったんだが」
「いったいどうして、わたしたちを|狙《ねら》うわけがあるのですか。リウィウスの王子だとわかったのも不思議だし、わかったとしても意味のないことでしょう。|相《あい》|棒《ぼう》のいつも言っているように、失われた地での身分が、ここで何になるわけでもない」
「連中が〈月の民〉に注目しはじめたのも、セレウコアに対抗しようとするほど大きくなったのも、ごく最近のことだ。そのあたりのことは調べているのだが、まだ推論の域を出ていない――あなたがたをセレウコアまで|護《ご》|衛《えい》しようと申しでたのは、連中の|不《ふ》|穏《おん》な動きとも関係がある。隊商から託されたものがあるというだけでなく」
「また狙われるわけですか、あの|不《ぶ》|気《き》|味《み》な集団に」
殺意のほかには何もなかったうつろな目つきを思い出し、エリアードはぞっとした。
「狙われるといっても、シェクのときのようにはならないだろう。わたしがかかわっていることを知られたせいもあるが、教団の指令にも変更があったようだ。直接の手をくだすのはひかえて、しばらく動きを見張れというふうに」
「ずっとそのままだと、ありがたいですね、見張られているのもいやなものだけれど」
「近いうちに、連中はセレウコアに攻めこむつもりかもしれない。ここまで強硬に出る背景には何かあると思うのだが、まだはっきりとしないのだ」
「|観《かん》|相《そう》|師《し》の上級であるあなたの力をもってしてもですか」
|皮《ひ》|肉《にく》のようにエリアードは問いかけた。
「さきほどの黒と白の|談《だん》|義《ぎ》にもどるが、ナクシット教団は、|黒魔術《くろまじゅつ》と|世《せ》|俗《ぞく》の権力が結びついた少数の例外なのだ――ギルドに反旗をひるがえした高位の魔術師が教団内部にはいるし、ナクシット教団をつくりあげたのもそうした者たちだという説もある。うかつにさわることはできない」
ヤイラスとウィリクの姉弟を思い出し、グリフォンは顔をくもらせた。彼らは優秀な魔術師で、観相師としての彼のやり方も知りつくしている。
「たいへん興味深い話ではありますね。わたしたちはただ、ともに旅をした仲間の遺志をついで、セレウコアまで届けものをするだけのつもりだったのですが」
皮袋に入れていつも身につけている、とても宝とは思えない宝に、エリアードは指先でふれてみた。そこにあることを確かめるように。
「あなたがたはまるで、わたしが|災《わざわ》いを運んできたような目で見ているが、ちがうんだ。わたしはむしろ、あなたがたの上に|災《わざわ》いの星を見つけ、それをはらう手伝いをするために近づいたんだ」
言ってもむだだろうと、グリフォンは声を落とした。
エリアードはそんな彼の気おちした様子に、つい笑いがこみあげた。
「|相《あい》|棒《ぼう》ほどではありませんよ。|観《かん》|相《そう》|師《し》としてのあなたの力量と誠実さを、わたしは信頼していますしね」
リューは|揺《ゆ》り|椅《い》|子《す》で寝入ってしまったようだ。話題に出してもまるで反応がない。
「ただ届けるだけで、それがなんであるかにはかかわらないつもりでした。よけいな|好《こう》|奇《き》|心《しん》はやっかいごとのもとで、何度も痛いめにあってますからね――でも、こうなっては知りたくなってきました」
エリアードはグリフォンのほうに視線をもどした。
「わたしたちが隊商から託されたものはなんですか。あなたがおっしゃった|不《ふ》|穏《おん》な動きと、関係あるのではないのですか。|占《うらな》い|師《し》をしたこともあるわたしの直感にすぎませんが」
「――それは皇帝も教えてくれなかった。東方から取りよせた貴重なものだとしか、知らないな」
ややグリフォンは言いよどんだ。何かわかっていることはあるが、話していいものか迷っているようだ。
「どう見ても、|鉛《なまり》の固まりにしか見えませんが――」
「鉛は表面だけだ。|鉱《こう》|炉《ろ》で溶かしてみないことには、中身はわからない」
「そうですか、では好奇心は引っこめておきましょう」
やわらかくエリアードは応じた。
グリフォンは信用できそうだし、セレウコアの皇帝の命を受けていることもまちがいなさそうだから、この|得《え》|体《たい》の知れないものを彼に託してしまってもよかった。
むしろ彼らふたりが直接おもむくより、グリフォンのほうが確実に届けることができるだろう。
そうすれば、彼らがセレウコアまで行かなくてはならない理由はなくなる。
このあたりを遠く離れ、未知の東方か、北の地方にもどれば、ナクシット教団ともかかわらなくてすむ。
どう考えてもそのほうが望ましいのにもかかわらず、エリアードは託されたものをほうりだすことができなかった。親切にしてくれた隊商の|無《む》|惨《ざん》な|最《さい》|期《ご》が、ずっと目に焼きついていたからだった。
あんなにグリフォンと同行することをいやがっているリューでさえも、すべての面倒からのがれることのできるその方法を口にすることはなかった。彼の|脳《のう》|裏《り》からも、同じ光景が離れないせいだろう。
|奔《ほん》|放《ぽう》であり、純粋でもあった美しい|踊《おど》り|子《こ》の|面《おも》|影《かげ》がよみがえってきた。
彼女はその|酷《むご》い死に方で、エリアードの中に消えない印を残した。旅の終わりで別れていれば、ゆきずりの女としていつか名前すらも忘れていたにちがいなかったが。
「あなただけでも、ゆっくり話を聞いてくれて感謝している。リューシディク殿には、おりを見て|警《けい》|戒《かい》をといてもらうよう努力することにしよう」
黙ってしまったエリアードに、グリフォンは秘蔵の酒を注いだ|杯《さかずき》を手わたした。
6章 |鋼《はがね》の一撃
真夜中を告げる鳥が鳴いた。
安眠をさまたげるせいと、その|不《ふ》|吉《きつ》な黒い姿でいみきらわれている大きな鳥だ。とくに旅人の宿ではいやがられ、専用の鳥網でとらえて殺すところが多い。
葬送につきそう泣き女のような、かん高いその声に、リューはひとり目がさめた。
彼は酔いつぶれて夕食後にすぐ眠ってしまったのだから、時刻からしてもそのくらいに目覚めるのが自然のなりゆきだった。
いつ寝台にもぐりこんだのか、リューはまったく記憶がなかった。
張りだした|露台《バルコニー》の|揺《ゆ》り|椅《い》|子《す》で、うつらうつらしていたところまでしかおぼえていない。
おそらくは|相《あい》|棒《ぼう》が彼をここまで運んできたのだろうが、もうひとりの気にくわない道づれの手を借りたかもしれなかった。
無防備に眠りこんでいるところをあのグリフォンに見られ、身体にふれられたかもしれないことを考えると、彼は|後《こう》|悔《かい》と|屈辱感《くつじょくかん》で飛びおきそうになった。
クリブでの一件のあとでも思ったが、こうしたことがあるたびに、二度と深酒はしまいと彼は誓う。すぐに破られてしまう誓いだったが。
彼の相棒は隣で眠ったままだった。
銀の細い髪を|頬《ほお》にまといつかせたエリアードは、起きる|気《け》|配《はい》もない。何か幸せな夢を見ているのか、ほのかな笑みをたたえている。
窓から射しこむ月明かりが、その青白いきれいな顔を薄ぼんやりと照らしだしていた。
「……エリー」
起こさないようにそっと、彼は相棒の頬に|唇《くちびる》を押しあてた。
指の先でからみつく髪をかきわけ、わずかに汗ばんだうなじにも唇をはわせた。|喉《のど》のくぼみの薄い|痣《あざ》が残っているところには、また新たな印を加えた。
鳥の鳴き声が微妙に変わった気がして、リューは半身を起こした。
飾りふさのついた窓の薄幕が風にあおられ、人の影のようなものが見えた。彼らの眠る寝台からは遠い、部屋の隅にある窓のひとつが開いている。
彼は寝がえりをうったふうにして身をふせ、窓のほうをうかがった。
影は窓を乗りこえ、身軽に中へ入ってきた。ひどく|小《こ》|柄《がら》で、まだ子供のようだ。
そして|大《だい》|胆《たん》にも、壁ぎわにあった物入れをかきまわしはじめる。
|凝《こ》った|彫《ほ》りものをほどこした木製の物入れには、脱いだ衣類や、着がえや、|野《や》|営《えい》|用《よう》の荷物がほうりこんであった。そうしたところに貴重品を入れておく習慣はないので、リューは落ちついてその仕事ぶりをながめていた。
泥棒にしてはそれほど年季をつんだ者ではないようだ。高級宿の別館だから金目のものがありそうだと入りこんだのだろうか。
アルルスは治安が悪いから、宿は選ぶべきだと言いはっていたグリフォンを思い出し、彼はあらためて腹をたてた。
こんなしろうと泥棒の侵入を簡単に許すようでは、高級なのは見かけだけだ。
じっと様子をうかがっていたリューは、窓の外のもうひとつの影に気づいた。
その影は部屋の中の泥棒の片われらしく、見張りでもしているのか、いっこうに中へ入ってこようとはしない。
しばらくして、物入れを調べていた|小《こ》|柄《がら》なほうが、窓に向かって首を横にふった。捜し物がそこにないという合図のようだった。
たしかに金はほとんど残っていず、グリフォンが彼らに用意した着がえぐらいが、古着屋に売れば多少の金になりそうな|唯《ゆい》|一《いつ》のものだ。
外にいたほうは、意を決したようにうなずいて、|窓《まど》|枠《わく》のところに足をかけた。月あかりが窓のあたりに落ちて、その泥棒をわずかに照らしだした。
泥棒の片われは、ひどく奇妙な姿をしていた。
月光に照らされた頭部は万年雪をいただく高い峰のようで、細長い身体は焼けこげた木の棒のようだった。
興味をひかれたリューはもっとよく見ようと、寝台から身を乗りだした。
窓枠を越えようとしていた泥棒の片われは、|敏《びん》|感《かん》にその|気《け》|配《はい》を察し、動作をとめた。
日に焼けた以上に黒っぽい顔が、注意深く寝台のほうにそそがれた。ちぢれた髪は後光のように白金色で、黒くしずんだ顔とは対照的に輝いていた。
「――退却だ」
白と黒の泥棒は、中にいるもう一方に向かって合図した。押しころした|鋭《するど》いものだったが、その声は澄んだ高い女のものにまちがいない。
中にいた小柄なほうは物入れから手をはなし、はじかれたように窓まで走った。
リューも反射的に寝台から飛びおりて、その後を追った。
窓のすぐ下にあった低木の植えこみで、リューは小柄なほうの腕をとらえた。
彼はあばれる泥棒を押さえつけ、首に片腕を巻きつけた。
泥棒が腰にさした短剣を抜こうとしたのを、彼はたやすくたたきおとし、月光の下に引きずっていった。
小柄なほうも女で、まだ少女だった。しかしこちらはアルルスやシェクではめずらしくない黒髪と浅黒い|肌《はだ》である。
片われがつかまったので、ふりかえって足を止めたもう一方の泥棒の奇妙な見かけとはちがっている。
白い髪と黒い肌の女泥棒は、宿の裏庭のよく手入れされた下草を踏みしめ、ひらきなおったかのように堂々と立っていた。
かなり背が高く、女とは思えないようなしまった筋肉質の身体つきをしている。
「イェシル、逃げて」
少女は小さく叫んだ。
女泥棒も、そうしてしまおうかという迷いがあったらしい。暗がりにとけてみえる黒っぽい顔立ちは見分けられなかったが、|唇《くちびる》をゆがめるように笑ったことだけはわかった。
「どじ[#「どじ」に傍点]を踏んだあたしが悪いの――早く逃げて、お願い」
少女はなおもうったえたが、女泥棒の心は決まったようだった。
両手を軽くあげると、彼女はふたりのもとに歩みよってきた。
「その娘をおはなし――あたしが命じてやらせたんだから、かわりにあたしをつかまえるといい」
女泥棒は|凜《り》|々《り》しい口調でそう告げた。
リューは女たちを見くらべて、どうすべきか迷った。彼は女泥棒への|好《こう》|奇《き》|心《しん》から追ってきただけで、つかまえて宿の者に引きわたそうという考えは|微《み》|塵《じん》もなかった。
「何を目的で入りこんだ、金目のものはなかっただろう」
少女をとらえる腕を少しゆるめて、彼は静かに問いかけた。
「本当にしけてたよ、こんな高い宿に泊まるやつとは思えなかったよ」
胸もとにある隠しに押しこんだごくわずかな収穫を、少女は揺らしてみせた。
金のふれあう音はほとんどしなかった。
「最後のわずかな路銀を、よくも盗んでくれたな。それがわたしたちの有り金全部なんだぞ」
うらめしそうにリューは応じた。
「返すよ、こんなはした金[#「はした金」に傍点]――何もないから、しゃくにさわってかき集めてきただけだからね」
風むきがよくなったのを感じとり、少女は元気づいた。
リューが本気で彼女たちをとがめていないのが伝わったらしい。
「はした金でも貴重なんだ、早く返せ」
少女が胸もとからつかみだした金を、リューは片手で数えながら受けとった。
「一枚くらい残しといてよ、朝めし代にさ、腹ぺこなんだ」
「まだ夜明けには時間がある。宿のほかの部屋に入ってみたらどうだ」
グリフォン専用の部屋だという|薄《うす》|紅《べに》|色《いろ》の部屋の窓に、リューは目をやった。
そろそろ彼は、このどじな女泥棒を放してやろうかと思っていた。ふたりを引きわたして、宿の警備のずさんさを責めるのもめんどうだ。
彼は薄暗がりにしずんだ広大な植えこみと石塀、別館から本館につながる渡り廊下を見まわし、妙だと思った。
ふたりの女泥棒がどこから入りこんだにしろ、ほかの部屋を|狙《ねら》う|余《よ》|地《ち》はいくらでもある。グリフォンの部屋もその通り道にある。わざわざ奥まった彼らのところを選んだのは不自然だ。
「見のがしてくれるの、あたしもイェシルも」
少女はうれしそうに彼を見あげた。
イェシルと呼ばれているもう一方は距離をたもったまま、なりゆきをうかがっている。
「ひとつ、こちらの質問に答えてからだ――なぜ、わたしたちの部屋を狙ったんだ。高級宿の客なら、誰でもよかったわけじゃないだろう」
|詰問調《きつもんちょう》にはならないよう、リューは優しく尋ねた。
「あたりまえよ、そんないきあたりばったりの仕事をするはずないだろう。この宿の内部もちゃあんと頭に入ってんだ。あんたたちがけっこうなお宝を持ってるって情報を仕入れてから、泊まってる部屋も調べて――」
「お黙り、アヤ」
得意そうにしゃべる少女を、もう一方がきつく止めた。
「けっこうなお宝か、そんなものはなかっただろう」
リューは少女の腕をねじあげた。|好《こう》|奇《き》|心《しん》でとらえたときにはない力がこもっていた。
「とんだ骨折り損だ、がせネタをつかまされたらしいや」
苦痛のうめきをこらえ、少女はつぶやいた。
「どこから仕入れたんだ、こうして痛いめにあうのもその情報とやらのおかげだ、腹いせにしゃべってみたらどうだ」
「あたしらの|稼業《かぎょう》には、いろいろカモの情報網があるのさ。どこから聞いたかなんて、いちいちおぼえてないよ」
同じ質問をくりかえすかわりに、リューは力を加えた。
「痛い、痛い、骨が折れるう――!」
今度は我慢しないで、少女はわめいた。
「大げさだな、これでも手かげんしてるのに――そうそう骨なんて折れるものじゃないぞ。まあもし折れたなら、本当に骨折り損になるな」
子供を|虐待《ぎゃくたい》しているような気分になって、彼は苦笑した。
「アヤをはなして、この子は何も知らないのよ」
長身の女泥棒はゆっくりと歩みよってきた。
リューは月あかりのもとに立ったその姿にあらためてはっとした。
浅黒いというよりほとんど黒に近い顔は|精《せい》|悍《かん》に引きしまり、やや吊りあがったきつい眼は|雪《ゆき》|虎《とら》のような緑がかった薄い色に輝いている。
そのけわしい顔をやわらげる白金のちぢれた髪は、とけだした処女雪が滝となって落ちるように肩のあたりまでかかっていた。
ふつうにいう女の美とはかけはなれていたが、彼女は野生の|猛獣《もうじゅう》のように美しかった。
暗がりでかいま見たときから、彼の興味はかきたてられていた。庭まで追ってきたのもそのせいだ。
リューが気をとられているすきに、アヤはしめつけた腕の輪からすりぬけた。
あわてて彼は、少女の肩をつかみなおそうとした。
そこへ背の高いもう一方の女泥棒が、短剣をふりかざしておどりかかってくる。
少女の肩を放し、彼は|間《かん》|一《いっ》|髪《ぱつ》でそれをよけた。
短剣の先は彼の|頬《ほお》をかすっていった。
彼はすぐ身をよじり、いきおいあまってバランスを|崩《くず》した女泥棒の手首をつかんだ。
「すごい、かわしちゃった」
さっとしりぞいて、アヤは目を見はった。武芸大会で|野《や》|次《じ》をとばしてる観客のように気楽な口調だ。
短剣は女泥棒のしびれた手の先から、下のくさむらに落ちた。
短剣を持っていた女泥棒の手は左だった。
あやうくよけそこなうところだったのは、気をとられて|油《ゆ》|断《だん》していたせいもあったが、反対側から攻撃をしかけられたせいでもあった。
「左ききか――すばやい、みごとな動きだったな」
なんでもなかったかのようにリューは語りかけた。
つかまれている手首の痛みのためか、|屈辱《くつじょく》のせいか、女泥棒は歯をくいしばった。赤みのないしまった|唇《くちびる》から、黒っぽい顔とは対照的な純白の歯がこぼれて見える。
あきらかに相手の腕がまさっていると見たのか、女泥棒は抵抗らしい抵抗はしなかった。
ほかに武器を隠しもっている様子もなく、リューは手首を放し、かわりにその両肩をしっかりとつかんだ。
背丈は彼のほうがいくぶんか高かった。
腕や肩は女らしいまろやかな線をえがいていたが、ふれてみると固いねじれた筋肉がしっかりとついていることもわかった。
「ニサの生まれか、よくは知らないが、白金の髪と黒っぽい|肌《はだ》は、そのあたりの者だと聞いている」
薄緑の切れ長の眼をのぞきこみ、リューは静かに尋ねた。
「どこの生まれだろうと関係ないだろう。さっきからじろじろ見てるけど、そんなにあたしの姿がめずらしいの」
女泥棒の表情には野性の怒りがひらめいた。
「ものめずらしそうに見られるのはいつもわたしのほうだったからな、たまには|誰《だれ》かを見る立場にまわってみたかったんだ」
リューは彼女の怒りを受けとめて、ほほえんだ。
女泥棒は怒りをそがれ、相手をあらためて観察した。
このあたりでは彼女の容姿がめずらしいように、金の髪と日焼けしていない肌もめったにないものだ。月あかりのもとで見ると、色白なんてものではなく|蒼《そう》|白《はく》にも見える。
そうした彼女の眼差しをよみとって、リューはつづけた。
「お互いさまだろう、めずらしがられるのはわずらわしいものだとはわかっていても、興味をひかれるのは仕方ない」
あまりに悪びれない口ぶりに、女泥棒の唇もほころんだ。
「生まれはニサじゃない、もっと北東のアルダリアよ」
「アルダリアのイェシルか――どうも君には、泥棒|稼業《かぎょう》は向かないように思えるな。ひと目で特徴をおぼえられてしまう」
「よけいなお世話、いろいろ事情があるのよ――アルダリアは|痩《や》せた地の小国で、特産物も何もないところ。でもたったひとつだけ全土に名をはせている自慢のものがあるの」
「美しい白金の髪と黒い肌のほかに?」
彼の言葉には素直な|感《かん》|嘆《たん》がこめられていて、イェシルにもそれが伝わった。
「アルダリア人は、男女とも|生《きっ》|粋《すい》の戦士よ。背が高くて、力にも恵まれていて、身が軽い――若い者はみな、国を出て、ほうぼうの地で|傭《よう》|兵《へい》として働くの。あたしたちの数で勝敗が決まるほど、優秀な戦士の代名詞なんだ」
「戦士と泥棒は近いようで遠いと思うが」
「このあたりではずっと大きな戦いもないし、傭兵も募集してない。セレウコア周辺のアルダリア人は、ほかの遠い地に行くか、泥棒か|追《お》い|剥《は》ぎをするしか腕をいかす道はないの」
そんなやりとりのあいだ、ふたりは互いの眼差しにとらわれて、くいいるように見つめあっていた。
小さなアヤはすっかり忘れられているくやしさに、腕組みをして彼らをにらんでいた。
「傭兵をしていたこともあるのか」
しっかりした筋肉の感触を確かめてはいたが、信じられないといったふうにリューは問いかけた。
「そう、まだ十五、六歳のころに、東のタウまで攻めこむ|遠《えん》|征《せい》|軍《ぐん》に加わったことがある」
苦い記憶をさぐるように、イェシルはつぶやいた。
「わたしもそのくらいの歳には――」
リューは言いかけてやめた。リウィウスの地で軍勢を|率《ひき》いていたとは、|得《え》|体《たい》のしれない女泥棒に打ちあけられる話ではなかった。
「広い屋敷でのんびり暮らしながら、教師について剣でも習っていたのだろう――腕はたつけど、あんたは見るからに良家の子息だから、こんな宿の別館に泊まるご身分の」
また彼女の言葉には、最初にあったとげがこめられていた。
「昨日までは宿に泊まるだけの金もない放浪者だったな。ふとした愉快でないなりゆきから成金にひろわれて、仕方なくこの趣味の悪い別館に泊まってるんだ」
「信じられないな、そんな言い草は」
イェシルは相手の金の眼から視線をそらした。黄色でもなく、|褐色《かっしょく》でもない、月あかりのもとでは本当に金色に見える|希《け》|有《う》なその眼に、彼女はずっと吸いよせられていた。
「わたしたちが何か財宝を持っていると、どこから聞いたんだ。はじめからそれが目的でしのびこんだのだろう」
女泥棒に魅せられて、しばらくは忘れていた疑問をリューはむしかえした。
「国を遠く離れても、アルダリア人には固い結束と情報網があるんだ。アルルスにいる同胞のひとりが教えてくれた――気の毒だが、こうしたことはたびたびあるかもしれない。いいカモの|噂《うわさ》を聞いたのは、たぶんあたしだけじゃないから」
「それは困るな、おちおち寝ていられやしない」
考えこむふうにして、リューは応じた。
「寝てられないのは別の理由ではないの。こんな真夜中にもあんたは起きていた――隣に眠っていたのは恋人でしょう。いとおしそうに|接《せっ》|吻《ぷん》するのを見ていたわ」
こころもち口もとをゆがめ、イェシルはきつい視線をもどした。
今度はリューがそれをそらした。|相《あい》|棒《ぼう》の|面《おも》|影《かげ》がかさなって、彼はどこかうしろめたい気持ちになった。
「起こしたくはなかったから、たわむれていただけだ」
「そうかな、かなり情熱のこもったものだったけれど――商売柄、暗がりにも目はきくんだ」
いったい何を話しているのだろうと思いながら、リューは肩をつかんでいた手を女泥棒の|頬《ほお》にのばした。
そして衝動的に、ちぢれた白金の髪の束をかきわけ、その黒っぽいつやのある頬に|唇《くちびる》を押しあてた。寝台の上で、眠っている相棒にしたのと同じように。
彼の唇が頬から首筋におりていくと、女泥棒の身体はかすかにふるえた。|名状《めいじょう》しがたい思いで、彼女の両頬には血がのぼり、熱くなった。
このときばかりは|肌《はだ》の色が濃いことを、彼女は感謝した。真っ赤になった顔を見られたくはなかった。
「――こういうふうにしていたんだ、情熱がこもっていたかな」
照れたように、リューはほほえんだ。
ひるんだところを見せてなるものかと、イェシルは何事もなかったかのようにすましたふりをした。
「あいにくとあたしには伝わってこなかったわ――背が高くて、ちょっと見かけがいいから、女なら|誰《だれ》でもぼうっとなるなんてうぬぼれてるのだろうけれど、アルダリアだったらあんたは|華《きゃ》|奢《しゃ》な生白い小男よ。あたしと背丈も変わらないし」
言葉に毒針をふくませて、イェシルは低くつぶやいた。
「あいにくと、うぬぼれるほどはもてたことがないな」
|踊《おど》り|子《こ》のサイダのことを思い出し、リューはしみじみと言った。
目の前の女泥棒と同じように、よく動く黒い|瞳《ひとみ》の踊り子にも心ひかれるものをおぼえたが、サイダは彼など眼中になく、|相《あい》|棒《ぼう》のほうばかりを見つめていた。
彼が傷ついたようなので、イェシルは怒りをやわらげた。
「名前を教えて――あたしだけに名のらせたのは不公平だ」
「リューでいい、もし呼んでくれる機会があるなら」
「でいい、なんて、本当はどういうの」
「偽名じゃない、本当の名だ」
うたがわしそうに女泥棒は彼をにらんだ。
彼はあいまいに笑みをきざんでいた。
「生まれは遠い北のほうだ、捨て子だったし、あちこち放浪しているから、君のアルダリアのようにほこらしく告げる故郷はないな」
問いを先まわりして、リューはささやいた。
イェシルは言葉の先を見失って、そのまま彼を見つめていた。
ふたりはふたたび、視線をはなせないかのように見つめあっていた。かわされた言葉とは別のところで、どうしようもなく互いにひかれあっているのは隠しようもなかった。
|殴《なぐ》られるのは|覚《かく》|悟《ご》して、リューは女泥棒の|顎《あご》に手をかけ、|唇《くちびる》に唇をあわせた。
ほとんど赤みのない引きしまった唇は、ふれてみれば女のものらしくふわふわと|柔《やわ》らかかった。
イェシルは全身の力がぬけたように、彼のほうへよりかかってきた。
いつもとはちがう感触につい彼は熱中し、先をふれあわせるだけの|接《せっ》|吻《ぷん》は次第に|濃《のう》|厚《こう》なものとなっていった。
はじめは固く閉じていた薄緑のイェシルの眼が、彼の眼の前で薄く開いた。
そうして彼の|脳《のう》|裏《り》には火花が|炸《さく》|裂《れつ》した。
後頭部に激しい痛みがはしり、火花が消えるとともに意識も暗転した。
次にリューが目をあけたのは、陽も高くのぼった午後だった。
後頭部に冷たい布をあてられ、彼はうつぶせに寝かせられていた。
「気がつかれましたか」
顔をあげると、エリアードが心配そうにのぞきこんでいた。
うしろから|棍《こん》|棒《ぼう》で|殴《なぐ》られるような痛みがして、リューはまた目をとじた。
「大丈夫ですか、わたしがわかりますか」
真剣にエリアードは問いかけた。
「わかるか、だと……いくら、頭を殴られたからといって、おまえの顔もわからなくなるほど……ぼけたと思っているのか」
弱々しく、リューはつぶやいた。後頭部の痛みは、割れ鐘を鳴らすように激しくなった。
「その調子では、どうやら大丈夫のようですね」
|安《あん》|堵《ど》して、エリアードは背後にいたグリフォンと医師をふりかえった。
頭をめぐらせて確かめることはできなかったが、彼らの|気《け》|配《はい》を察したリューは、激しい|屈辱感《くつじょくかん》をおぼえた。酔いつぶれて寝台に横たえられていたときの何倍かの大きさで、それは痛みとともに彼を責めたてた。
「たいしたことはありません。冷やしていれば、|瘤《こぶ》もなおるでしょう」
あて布を交換して、医師はそう告げた。
「いったいどうしてこんなことになったんです、無理はしないでけっこうですから、簡単に説明してください」
その場にかがんで、エリアードは|相《あい》|棒《ぼう》をのぞきこんだ。
「どこでわたしを見つけた」
「庭の植えこみのあいだに倒れてましたよ。見つけたのは掃除をしていた召し使いです――朝になったらあなたがいないので、捜していたところでした」
本当はグリフォンが見つけたのだったが、エリアードはとりあえずごまかしておいた。リューが痛みと屈辱にさいなまれているのを、彼はいたましげに見つめていた。
「……みっともないざまだな」
「苦しいようなら、あとでお聞きしますよ」
「泥棒に殴られたんだ――部屋にしのびこんできた泥棒を追っていって、返り討ちにあった」
白金の髪と黒っぽい顔の女泥棒を思いうかべ、リューは吐きだすように言った。彼女に心ひかれるものはまだ残っていたが、今は屈辱感のほうが大きかった。
「あなたを一撃で殴りたおすなんて、たいした泥棒ですね。植えこみに仲間でもひそんでいたのですか」
何もいきさつを知らないエリアードは素直に驚いていた。
「だいたいそんなようなものだ。暗がりだったし、わたしにも|油《ゆ》|断《だん》があった」
うしろめたい気持ちがもどってきて、リューは言葉をにごした。
油断したのは、女泥棒との|接《せっ》|吻《ぷん》に熱中していたせいだとは、とても言いだせるものではない。
しかし、と彼は思いなおした。たしかに油断はあったが、女泥棒は丸腰だった。ほかに武器のようなものを隠しもっていたとしても、取りだそうとすればわかったはずだ。
女泥棒の動きには気をつけていたし、いくら熱中していてもそこまではわれを忘れてない。
|素《す》|手《で》で|殴《なぐ》ったとも思えなかった。女泥棒にそんな馬鹿力があったふうではなかったし、向きあっていた体勢からいっても無理だ。石でも握りしめていたなら、あるいは可能かもしれないが。
「泥棒の特徴をわかるかぎりでいいから教えてくれ。すぐにアルルスじゅうに手配しよう」
黙っていられず、グリフォンは進みでた。
その声を耳にするだけで、リューは頭の痛みがました。
「暗かったから、わからないな」
そっけなくリューは応じた。
「背かっこうとか、それくらいでもいい。全力を尽くし、つかまえてみせる」
「殴られたせいで、記憶もぼけているようだ」
女泥棒が何をしたとしても、グリフォンの手に引きわたすよりは逃がしてやったほうがよかった。どうやって彼を殴りたおしたのか知りたい|好《こう》|奇《き》|心《しん》と、もう一度会いたい気持ちはあったが。
「ハルシュ老の隊商を襲った連中と同じかもしれませんよ。今後のためにも何者だったのか、調べたほうがいい」
なだめるように、エリアードは口添えした。
「あ……」
はじかれたように上半身を起こそうとしたが、リューはまた寝台に倒れこんだ。
「どうしたんですか、無理なさらないで」
「あいつだ……たぶん、あいつが……」
今度はゆっくりとリューは頭をもたげた。急激に動こうとしなければ、なんとか我慢できる痛みだった。
リューは|相《あい》|棒《ぼう》の隣のグリフォンを見あげた。気にくわない相手だったが、有能であり、このあたり一帯にくわしいのは確かだ。
「黒っぽい顔の、|痩《や》せた長身の男を捜してくれ――年は若そうで、目のつりあがった奴だ。髪は黒でちぢれていたが、あれはたぶん染めていたんだ。アルダリア人か、その|系《けい》|譜《ふ》を引く者だと思う」
私情はおさえ、彼はグリフォンに頼んだ。
|相《あい》|棒《ぼう》の言葉から|唐《とう》|突《とつ》にひらめいたことだったが、考えれば考えるほど確かなように思えてきた。
「アルダリア人が宿に入って、あなたを|殴《なぐ》ったのか」
グリフォンはいささか面くらっていた。
「そうだ、わたしたちが何か高価な宝を持っていると聞きつけて、入りこんだと言っていた。アルダリア人のあいだにはそういう|噂《うわさ》がひろまっていると――噂を伝えたのが、おそらくあいつだ、ハルシュ老の従者として|仕《つか》えていた男、アルダリア人だとたしかシェクの宿で、ハルシュ老も……」
「あの従者は生きのびたのですか」
老人の従者を、エリアードもよくおぼえていた。
「少なくとも死者の中には見かけなかった。ハルシュ老の近くはたんねんに調べたが――隊商を夜襲した|盗《とう》|賊《ぞく》|団《だん》も、あいつが手引きしたのかもしれない。老人の身のまわりの世話をしていたあいつは、何か大切な宝を運んでいると察したのだろう。しかし宝が実際にどういうものかまでは知らなかった。
盗賊団に襲わせて、値うちのありそうなものはみな奪ったが、宝というほどのものはなかった。しばらくして、あいつはアルルスでわたしたちを見つけ、とてもふつうでは泊まれそうにない高級宿に入っていくのを確かめた。金など持っていないはずのわたしたちが|羽《は》|振《ぶ》りよさそうにしている。
そこであいつは、ハルシュ老の本物の宝はわたしたちの手にわたっているのではないかと見当をつけ、同胞たちにほのめかした。本人が真っ先に来なかったのは、危険をおかすだけの確証がないせいだろう――どうだ、なかば想像だが、ありそうなことだと思わないか」
リューは息をきらしながら、いっきにしゃべった。痛みはあいかわらずだったが、この思いつきは彼の気力をよみがえらせていた。
「たしかに、ありそうなことですね」
エリアードは暗くつぶやいた。
「もしあの従者が隊商の夜襲を手引きしたなら、それに見あう報復を加えてやる」
「早急に手配しよう。アルダリア人なら数が限られている。アルルスにとどまっているなら、今日明日にでもとらえられるだろう――あなたはゆっくりと傷をいやしながら待っておられるといい」
自信たっぷりにグリフォンは応じた。
余分な口はきかず、リューは黙っていた。彼としては不本意だが、しばらくは共同戦線をはるしかなかった。
老人の従者らしき人物を捜すため、グリフォンはすぐに部屋を出ていった。
医師も退出し、宿の寝室のひとつには彼らふたりだけが残された。
「なんだか妙だな、しのびこんできた泥棒をあなたはよく見ているし、話までしたようにも受けとれる」
気になっていたことを、さりげなくエリアードはきりだした。
|相《あい》|棒《ぼう》の|勘《かん》のよさに、リューは少なからずぎくりとした。
「――いったんはつかまえて、アルダリア人であることや、どこから入りこんだのかを聞き出したんだ」
心なしかリューは声を落とした。
エリアードはますます妙に思った。
「なぜそれを最初から言わないんです」
「頭が混乱していたし、グリフォンの奴に教えてやるのはしゃくにさわったからだ」
「混乱していたふうには見えませんでしたけどね――つかまえた泥棒のほうはどんな|風《ふう》|体《てい》の者ですか。そちらのほうはアルダリア人だというだけで、ほかには何も聞いてませんが」
深い|意《い》|図《と》はなかったが、エリアードは疑問をぶつけた。
「|噂《うわさ》を信じこんで入りこんだだけのしろうと同然の泥棒だ。いちいちつかまえるのも労力の無駄だ」
「でもあなたを|殴《なぐ》りたおしたじゃないですか。腕はたつはずだし、このままほうっておいてはくやしくありませんか」
「わたしは|寛《かん》|大《だい》なんだ、相手が一枚上だったとみとめて引きさがるよ」
エリアードは銀の眼をほそめた。
「――かばうところをみると、その泥棒というのは女ですね。|油《ゆ》|断《だん》したというのもそれなら|納《なっ》|得《とく》できる」
「こわい眼でにらむな。女となれば油断するほど、わたしは女好きじゃないぞ」
「女なら|誰《だれ》でも、とは言ってませんよ。話をすりかえないでください――そのアルダリア人の女は、あなたに状況を忘れさせたわけだ」
「まったくたいした直感だ、見直したよ」
仕方なく、リューは昨夜の出来事を打ちあけた。
|接《せっ》|吻《ぷん》のところはうまくごまかしたが、|相《あい》|棒《ぼう》の眼差しが|鋭《するど》い冷ややかなものになっていくのはとめられなかった。
7章 白と黒の女泥棒
アルダリアの女泥棒イェシルは、アルルスの下町にひそんでいた。
彼女の隠れ家はいくつかあったが、泥棒の助手であるアヤの実家の屋根裏部屋がいちばんのなじみだった。
アヤは彼女についてあるき、すり[#「すり」に傍点]まがいのことをしたり、昨夜のように泥棒の助手としてついてきたりしているが、もともとは|仕《し》|立《たて》|屋《や》の娘である。父親は隊商について西方に行ったきり何年も音信がなく、母親が姉ふたりと店をきりもりしていた。
屋根裏部屋につづく隠し|梯《ばし》|子《ご》を、差し入れをかかえこんだアヤは身軽にのぼっていった。
せまい路地裏から入るこの隠れ家は、同じ下町の者でも気づかない場所だ。
丸い純白の毛皮の上で寝そべっていたイェシルは、入ってきた人の|気《け》|配《はい》に短剣をかまえなおした。
「あたしだよ、食糧、持ってきた」
アヤの小さな顔がのぞき窓から現れた。
短剣を手にしたまま、イェシルは|扉《とびら》の掛け金をはずした。
薄くあけた扉を、アヤはすりぬけた。梯子のまわりに|誰《だれ》もいないことを確かめ、イェシルは扉をしめた。
「セレウコアの兵士がこのあたりをやたらうろついてるよ。アルダリア人ばかりをつかまえて、尋問していくんだ。昨夜のことと何か関係あるのかなあ」
首をかしげて、アヤは言った。
「宿に入った泥棒ごときに、セレウコアが動くはずはないわ。ほかに何か事件が起こったのよ」
イェシルは毛皮にもどった。そのやわらかな毛皮をはじめ、部屋にあるものはみな、彼女の戦利品である。
屋根裏部屋の中には、町の裕福な屋敷でもめったに見られない|豪《ごう》|華《か》な飾りものが、|無《む》|造《ぞう》|作《さ》にならべられていた。売れば足のつくものばかりで、こうしてひそかにながめて楽しむより仕方のない品だ。
さる奥方の衣装棚から盗んできた白銀のローブを、イェシルは|素《す》|肌《はだ》にまとっていた。大きくあいた胸もとや、われた|裾《すそ》からはつやのある彼女のしまった身体があらわになっていた。
それを見つめていたアヤはどぎまぎした。長身で|精《せい》|悍《かん》なイェシルにはやたら女の取りまきが多く、アヤも|崇《すう》|拝《はい》|者《しゃ》のひとりだ。
最近のイェシルはアヤを気に入って、助手として仕事に連れていってくれるし、屋根裏の隠れ家もよく利用してくれる。
下町のすり仲間からも、アヤはうらやましがられていた。
せっかくの差し入れもイェシルは手をつけず、どこかうわの空だった。
「まだあいつのことを気にしてるんだ、イェシルは」
アヤはいじけてつぶやいた。昨夜は途中から、彼女がそばにいることさえ忘れられていた。思い出すと、アヤはくやしさがこみあげてくる。
「あいつって、|誰《だれ》のこと?」
くっきりしたイェシルの|眉《まゆ》があがった。黒っぽい|額《ひたい》にひときわ目立つ白金の眉だ。
「昨夜の生白くて、金の眼をしたやつさ、イェシルに無礼をはたらいた――たしかにちょっといい男だったけど、お調子者の女たらしだよ」
「|無《ぶ》|礼《れい》にはそれなりの仕返しをしたから、もうどうでもいいわ。手かげんしないで|殴《なぐ》ったから、まだのびてるはずよ」
「|嘘《うそ》よ、手かげんしていた。イェシルが本気を出して殴ったら、死んでるはずだもの。殴るのだって、その前にいくらでも機会があったのに、長いこと話しこんでいたし……」
|肌《はだ》と同じ色の手袋につつまれたイェシルの右手を、アヤはやや気づかうように見つめた。
それが|精《せい》|巧《こう》な義手であることは、薄明かりのもとで見たくらいではわからない。
|傭《よう》|兵《へい》として東のタウに行ったとき、イェシルは戦いのさなかに右手を失った。
意識不明で死にかけていたところを、彼女は近くの森に住んでいた陰者に救われ、手当てをうけた。
|癒《い》やしの術にたけ、発明家でもあったその老いた陰者は、彼女の右手に義手をつけてくれた。
義手は陰者の発明した素晴らしいもので、指先はわずかに動くし、|柄《つか》の太い剣ぐらいならにぎることもできた。しかし剣の名手だったかつての彼女の動きはもどってこなかった。
かわりに左手で短剣をあやつる訓練をしたが、優秀な傭兵になるのは無理だった。
イェシルは傭兵の道をあきらめ、今の泥棒|稼業《かぎょう》に入った。
彼女を絶望させた義手は、思いがけなく彼女の危機を何度も救うことになった。鋼鉄の義手は、どんな武器よりも強力な彼女の切り札となることが、次第にわかってきたのである。
左で短剣をつかう彼女の腕をたいしたことはないとみくびった者や、丸腰だと|油《ゆ》|断《だん》した者たちを、彼女は義手で殴りたおした。
たいていの者たちはいったい何が起こったか理解しないまま、その場に|崩《くず》れおちた。打ちどころの悪かった者はそのまま永久に目覚めなかった。
昨夜もそうだった。
彼女の|唇《くちびる》をふさいだ無礼な男を、鋼鉄の義手で殴った。
けれどアヤが指摘したように、近づいてきたときからいくらでも殴る機会はあったが、なかなか果たせなかった。殴ってからも|後《こう》|悔《かい》し、彼が生きていて、それほどの|怪《け》|我《が》もないことを確かめ、|安《あん》|堵《ど》していた。
「もう生きる希望もないよ、あこがれのイェシルがあんな男に熱をあげるなんて」
アヤは泣きだしそうに目をしばたたいた。
「馬鹿おっしゃい、あたしがいつ熱をあげたの」
「見てれば|誰《だれ》でもわかるよ、わかってないのはイェシルだけだ」
興奮か、恥ずかしさかで、イェシルは|頬《ほお》が|上気《じょうき》した。
「いいんだ、すぐに立ち直るから――そうしたら、たぶん、イェシルの恋を応援できるよ」
涙をはらうように立ちあがったアヤは無理に笑顔をつくった。
そしてすぐに、イェシルがとめるまもなく屋根裏部屋を飛びだしていった。
「アヤ、アヤ、待って――」
イェシルが|扉《とびら》を開けたとき、身の軽いアヤはもう|梯《はし》|子《ご》をおりて、路地を走っていくところだった。
イェシルはしばらく、その小さなうしろ姿を追っていた。
何も考えられなくなってぼうっとしていたイェシルのもとに、黒い小鳥のようなものが突風のように飛んできた。
小鳥は屋根裏部屋に入りこみ、低い天井の下を旋回した。
小鳥を追いだそうと、イェシルは火かき棒をふりまわした。
そのあいだに扉は音をたてて閉まった。
イェシルは不安におそわれた。これはただの小鳥じゃないと。
矢のように飛びまわる小鳥は、少しずつ大きさをましているように見えた。
小鳥はやがて、大きな|黒《くろ》|鷲《わし》のような姿になった。両手の幅ほどもある翼をひろげ、イェシルに襲いかかってきた。
短剣をふりまわしたが、鳥は実体のない黒い影のように少しも手ごたえがない。
|黒魔術《くろまじゅつ》のたぐいだとイェシルが気づいたころ、黒鳥は部屋いっぱいにひろがっていた。
鳥は黒い|緞帳《どんちょう》のようになって彼女をおおい、もがいても、もがいてもしめつけた。
やがて彼女は意識を失ったが、ついに最後まで、ひとことの悲鳴もあげなかった。
庭のほうがさわがしいので、リューは寝台から身を起こした。
うつぶせに寝ている分には痛みもやわらいでいたが、動くとまた頭痛がおそってきた。
|相《あい》|棒《ぼう》の手を借りようかと思ったが、女泥棒の件で激しくやりあったあとなのでやめておいた。
エリアードは奥の続きの間であいかわらず、ひまつぶしに石ならべをやっているようだった。彩色した石を四角い盤の上で決まった形にならべるという|玩具《おもちゃ》で、このあたりの裕福な層には流行しているというものだ。
リューはそろそろと寝台からおりた。もう夕方近い時刻で、窓にさしこむ陽射しはかたむきかけていた。
「――放せ、放せったら!」
ひときわかん高い声が聞こえてきた。リューはその声に聞きおぼえがあった。
「ここの客に会いたいだけなんだ、泥棒じゃないったら」
まちがいなく昨夜の女泥棒の子分だった。リューは苦労して窓のところまでたどりついた。
きちんと刈りとられた緑の下草のところで、アヤは宿の召し使いに両側から取りおさえられていた。大の男がふたりがかりなのに、この|小《こ》|柄《がら》な少女には手を焼いている様子だ。
「おまえのような者の知りあいはこの宿にはおられんぞ。用事とはいっても、ゆすりたかりのたぐいだろう」
「ちがうよ、どうしても会わなきゃいけない用があるんだ」
アヤは昨夜しのびこんだ窓を見あげ、そこに立っていたリューと視線があった。
彼は腕組みし、やや口もとをゆがめながら庭をながめていた。ハンマーでたたかれるような頭の痛みをこらえるためだったが、必死のアヤからは|意《い》|地《じ》|悪《わる》そうな余裕たっぷりの態度に見えた。
「――あいつだ、用があるのはあいつなんだ、放してよ」
召し使いの腕をすりぬけて、アヤは窓のところまで駆けよった。
召し使いたちもあわてて後を追い、うしろからつかみかかった。
「まさかとは存じますが、このこそ泥[#「こそ泥」に傍点]がお知りあいではございませんね。下町のたち[#「たち」に傍点]の悪い女すりですよ、こいつは」
どこかうさんくさそうに、召し使いは窓のリューを見た。宿に来たときは、この客もひどくみすぼらしいなりだったのを思い出したらしい。
そういえば召し使い頭も、上客で敬愛するグリフォンがだまされているのではないかと心配していた。
「知りあいじゃないな、見たことはあるが」
そっけなくリューはこたえた。
その態度にアヤの怒りは爆発した。
「よくもいけしゃあしゃあと、あたしの大事なイェシルに無理やり|接《せっ》|吻《ぷん》までしたくせに、知りあいじゃないって――?」
召し使いたちはあきれて顔を見あわせた。どうやらこのうさんくさい客は、女すりの仲間に情婦がいると判断したらしい。
「|殴《なぐ》られて頭が痛むんだ、あまり大きな声でわめかないでくれ」
ため息をついて、リューは弱々しく頼んだ。
アヤの声を聞きつけて、奥の間からエリアードも現れたところだ。
「ふん、いい気味だ、イェシルをなめてかかるとそんなめにあうんだ、命があるだけありがたく思うといい」
怒りのあまり、アヤは昨夜の泥棒の正体を明かしてしまったことにも気づかない。
「これでもう貸し借りなしだろう、まだたりないと何か要求しにきたのか」
一連の|屈辱《くつじょく》がよみがえって、リューの口調はけわしくなる。
「なんてひどい、あんたなんかイェシルの純愛を受ける価値はないよ、イェシルはあんたのせいでさらわれたのに」
アヤはわっと泣きだした。
「さらわれた?」
けげんそうにリューは問いかえした。
「そうだよ、あんたの恋人か何かだと思われたんだ。昨日の今日だから、それしか考えられない」
「簡単に結びつけないでくれ。だいたい一度接吻したくらいで、どうして恋人だと、その人さらいに誤解されるんだ。わたしからそんなに身の代金を取れるとでも思っているのか」
うしろに無言で立っている|相《あい》|棒《ぼう》と、ひそひそささやきあっている宿の召し使いたちにも向けて、リューは言った。
「――昨日のことを仲間にしゃべっちまったのは、あたしの失敗だった。イェシルとあんたとのことがくやしかったから、つい」
泣きやんで、アヤは小さく|舌《した》うちした。
「わたしの恋人だとふれあるいたのか」
「だってあんた、イェシルにひとめぼれしたんだろう。いくらあたしがねんねだって、はたで見てりゃあわかるよ、それくらい」
「さらったのはおまえたちの仲間か」
リューは窓枠に|肘《ひじ》をついて、痛む頭をかかえた。
さわぎを聞きつけて、召し使い頭がほかの召し使いを引きつれてやって来た。
「わからないけど、あんたの持ってる宝とやらを|狙《ねら》ってる連中だと思うよ。|噂《うわさ》が噂をよんで、けっこう広まってるもの、その話」
「あの女泥棒が、よく黙ってさらわれたな。盗賊仲間と、ひと芝居うっているんじゃないのか」
アヤはまた泣きだしそうになったが、なんとかこらえて窓のところまで駆けよった。
「お願い、イェシルを助けて――芝居なんかじゃない、信じて、イェシルはぜったいにそんな|姑《こ》|息《そく》な手を使わないよ」
その場に|膝《ひざ》をついて、アヤはうったえた。
「どこで、どんなふうにさらわれたんだ」
リューはしぶしぶ尋ねた。
引きうけてもらえたと、アヤは顔を輝かせた。
「あたしの家の屋根裏――イェシルの隠れ家のひとつで、仲間だって知らないところなんだけど、黒い大きな鳥が……」
アヤは言いよどんだ。たしかに目撃した光景だったけれど、口に出してみると本当のことのように思えなかった。
「ベル・ダウの山にいる|大《おお》|鷲《わし》みたいだった、人の倍くらいの大きさの――そいつがイェシルをくわえて、空を飛んでいったんだ、北の丘のほうへ」
笑いとばされるかとアヤは心配したが、リューは反対に興味をひかれたふうだった。
「妙な話だな、そっちの方角には何があるんだ」
顔をあげて、彼はアヤを見た。
「金持ちの屋敷街だからわかんないよ、禁区になってるんだ」
「そうか、調べてみよう」
「急いでよ、イェシルがあぶないめにあってるかもしれないから」
少し肩の荷をおろしたように、アヤは立ちあがった。
そうしてまわりをかこんでいる宿の召し使いたちに舌を出すと、|塀《へい》のほうへ|一《いち》|目《もく》|散《さん》に駆けだした。
召し使いたちはあわててその後を追った。アヤは身軽に植えこみや花壇を飛びこえ、つかまえようとする腕をすりぬけていった。
窓のところに残った召し使い頭は、|苦《にが》|虫《むし》をかみころしたような顔でリューをふりかえった。
「先代より|仕《つか》えておりますが、わが宿でこのような見苦しい光景を見るのは初めてですな」
「うらむならグリフォン殿をうらめ。わたしたちを強引にここへ連れてきたのは、あの御人だからな」
平然とリューは言いかえした。
「お帰りになったら早々にこの件を申しあげます。もう黙ってはいられません。ご身分と地位にふさわしいかたがたとおつきあいなさるよう、|僭《せん》|越《えつ》ながら進言させていただきます」
召し使い頭は|額《ひたい》まで真っ赤にして、重い身体をゆらしながら去っていった。
リューはため息をついて、部屋のほうに向きなおった。
エリアードはずっと黙ったまま、腕組みをしていた。
「おまえもわたしを責めるのだろう、みんなまとめて引きうけてやる、なじるなり|殴《なぐ》るなりなんでもするがいい」
「べつに――今さら何も言うことはありませんよ、お好きになさるといい」
怒っているふうではなく、しずんだ調子でエリアードはこたえた。彼はそのまま、奥の間に引きかえそうとした。
「エリー、待てよ」
リューは|相《あい》|棒《ぼう》の肩をつかんだ。
「サイダとつきあっていたときに、あなたが|寛《かん》|大《だい》だったわけがわかりました。こういう場合の|免《めん》|罪《ざい》|符《ふ》だったわけですね。お互いに|束《そく》|縛《ばく》しあわず、気に入った相手がいれば気楽につきあおうとおっしゃっていたのは――わたしも少し考えを変えることにしますよ」
肩の手をはらい、エリアードはかまわず歩きだした。
「|接《せっ》|吻《ぷん》うんぬんのところを隠していたのは悪かったが、女泥棒の救出を引きうけたのは、色恋とは関係ないぞ。ハルシュ老の従者のこともあるし、この一連の動きの背後にあるものを確かめるべきだと思ったからだ――ほうっておいたら、また何倍もの火の粉がふりかかってくるのはまちがいない、そう思わないか」
相棒の後を追って、リューは奥の間に入った。
エリアードは|縞《しま》|瑪瑙《め の う》の卓に座り、石ならべの続きをはじめている。
「それに女泥棒を見殺しにでもしたら、わたしはどうしようもない女たらしの人でなしということになるだろう――ほれたはれたではない、|名《めい》|誉《よ》の問題だ、こいつは」
「でも、ひとめぼれしたのでしょう、その女泥棒に」
エリアードは顔をあげ、わずかにほほえんだ。
|否《ひ》|定《てい》しないで、リューは相棒から視線をそらした。
「おあいこにはなりませんね。わたしはサイダに恋したことはなかったが、あなたはその女に熱をあげている」
「興味をひかれ、気になっているだけだ。熱をあげているというほどでもないが――責めはうけるつもりだ。|殴《なぐ》ってもいいから、その見はなしたような態度だけはよしてくれ」
仕方なくエリアードは立ちあがり、|相《あい》|棒《ぼう》の背中を抱いた。
「たとえ何をしたとしても、あなたを見はなすようなことはありませんよ。ただあなたとちがって、わたしが平気じゃないことだけはわかってください」
「わたしだって平気じゃなかったさ」
「あやしいものですね」
「救いだすだけだ、それ以上かかわるつもりはない――|接《せっ》|吻《ぷん》ひとつが高くついたものだ。頭の|瘤《こぶ》だけではたりないらしい」
リューは相棒の|顎《あご》に手をかけたが、すっと身をかわされた。彼の|唇《くちびる》の先は、エリアードの|頬《ほお》をかすった。
「わたしは協力しませんよ、どのみちわたしの領分ではありませんからね。黒い鳥というのは使い魔のたぐいか、鳥獣使いのわざでしょう。|黒魔術《くろまじゅつ》のたぐいであることはまちがいありません」
「|怪《け》|我《が》|人《にん》をひとりで向かわせるのか、黒魔術も白魔術もまったくうといわたしを」
「|黒魔術《くろまじゅつ》ならグリフォンに頼むのが適任でしょう。きっと喜んで協力してくれますよ」
わずかな笑いをうかべ、エリアードは彼の反応を見つめた。
ひどくなってきた頭痛に、リューは寝台に引きかえした。
グリフォンがもどってくると、昨日と同じ豪勢な夕食の席がもうけられた。
事態は|緊《きん》|迫《ぱく》しているはずだったが、グリフォンはまず腹ごしらえをして、ゆっくりと計略を練るよう主張した。
アルルスじゅうのアルダリア人をあたった結果は、それほど|芳《かんば》しいものではなかった。
ごく最近、彼らと前後してアルルス入りしたアルダリア人がいるにはいたが、昨夜あたりから行方をくらましていた。
宝の|噂話《うわさばなし》を流したのはその人物らしいが、やはり確証はない。ハルシュ老の従者をつとめていた若者なのかもわからなかった。
給仕は、召し使い頭がしぶい顔で取りしきっていた。
召し使い頭は午後の出来事をこれ以上ない|不祥事《ふしょうじ》のように報告し、よからぬ|輩《やから》とかかわらないよう誠心誠意で忠告した。しかしグリフォンは笑ってとりあわなかった。
それどころか同行の客たちは想像もつかないほど|尊《とうと》い方だから、そそうのないようもてなせと、グリフォンは念を押した。
育ちのいいグリフォンがだまされていると信じてうたがわない召し使い頭は、なんとも巧妙な|詐《さ》|欺《ぎ》|師《し》だとふたりをにらんでいた。
リューはそんな視線もあり、頭痛もしたので、食欲もなかった。
さらわれたという女泥棒も気になっていた。昨夜のように愛用の長剣を背中におき、酒や料理にやたらと注文をつけるグリフォンにも|苛《いら》|立《だ》っていた。
「食事もいいが、貴重な時間がなくなっていくように思える。そろそろ人ばらいしてもらえないか」
協力をあおぐ手前、リューは低姿勢にきりだした。
「おお、そうしようとわたしも考えていたところだ」
果実酒を味見していたグリフォンは大げさに手を打った。
しかしおさまらないのが召し使い頭だった。|酒《さか》|瓶《びん》を卓に置くと、ゆで|蛸《だこ》のようになった顔をリューに向けた。
「悪事のご相談をもちかけなさるなら、わしは黙って引っこみませんよ。まもなくわしも引退の|歳《とし》ですから、こわいものはございません。|馘《くび》をかけてでもおとめいたします」
はっきり悪事ではないといいきれないだけに、リューは少し|躊躇《ちゅうちょ》した。
それをよみとった召し使い頭はますます疑いを深めた。
「いいかげんにするんだ、このかたの言葉にはわたしよりも重きをおけと、何度も言っただろう」
グリフォンは召し使い頭をたしなめた。
「いいえ、今度という今度は、面と向かって言わせていただきます。あなたさまはだまされておいでになる――こちらは|尊《とうと》い身分でもなんでもなく、泥棒仲間の情婦を助けるために、あなたさまを利用しようとたくらんでいるのです。いや、そもそも昨夜の泥棒さわぎからして|狂言《きょうげん》かもしれません。すべてがうさんくさい。あなたさまを巻きこむよからぬたくらみですぞ」
|椅《い》|子《す》を蹴とばして、リューは席を立った。
「わかった、そのあっぱれな忠義心に免じて、大事なグリフォン殿には頼らんことにしよう」
|相《あい》|棒《ぼう》のほうも見ず、彼はそのまま食卓の間を出ていった。
こんな茶番劇にいつまでもつきあうくらいなら、ひとりで道をきりひらこうと彼は決めた。どうするあてもなかったが。
「――リューシディク殿」
グリフォンはすぐ後を追おうとしたが、召し使い頭の太い身体に|阻《はば》まれた。
エリアードのほうは迷った末、座ったままで果実酒の|杯《さかずき》を飲みほした。
リューは庭を通りぬけ、門衛をおどして門を開けさせた。
まだ日が暮れたばかりだったが、アルルスは治安が悪いので、外出する者は少ない。おやめになったほうがいいとくりかえす門衛を無視して、リューは石段を降りていった。
その暗い急な坂を駆けおりていく途中、彼は頭上に|不《ぶ》|気《き》|味《み》なはばたきの音を聞いた。
黒い|大《おお》|鷲《わし》のようなものが、石段の彼めがけて急降下してきた。
|宵《よい》|闇《やみ》の一部がはがれてきたような鳥に、リューは短めの剣をふるった。
空気を切るようにほとんど手応えがない。
鳥の爪の部分だけが巨大化して、彼をつかもうと迫ってきた。
彼は身をよじって、それをかわした。
鳥の影の中心あたりに剣をつきたてると、黒鳥はわずかにひるんだ。
「頭を低くするんだ!」
門のほうからグリフォンの声がした。
石段に腰を落とすように、リューは身を沈めた。
きらめく粉のようなものが、グリフォンの手から投げつけられた。
粉のふりかけられたところは光り、夜光塗料のように黒鳥の|輪《りん》|郭《かく》を現しはじめた。|翼《つばさ》をばたつかせるが、粉は落ちず、黒鳥の動きを封じていくようだ。
黒鳥の実体は、それほど大きいものではなかった。半分以上が|幻《げん》|影《えい》だったらしい。
|翼《つばさ》は三角形に似たいびつな形で、体は鳥というよりも小獣に近かった。
黒鳥がもがいているあいだに、リューは下をくぐって段をのぼった。
「あれはなんだ、|黒魔術《くろまじゅつ》の使い魔か」
深く息をついて、リューは問いかけた。
「ちがう、あれはおそらく、ゾグト鳥の改良種だ――よくも飼いならしたものだ、あの|幻《まぼろし》の鳥を」
興味深そうにグリフォンは、粉をあびてまだらに光る黒鳥を観察していた。
「感心している場合か、つかまえないのか」
黒鳥は任務をあきらめたのか、少しずつ上方に飛びあがろうとしていた。動いたあとには光る軌跡がしるされる。
「へたに手を出すとあぶない。あれの爪は|獅《し》|子《し》も引き裂く――飼い主のところにもどるはずだ。後を追おう」
グリフォンはリューのいるところまで降りてきた。
リューとしても、このもうひとりの|相《あい》|棒《ぼう》が頼りになることだけは認めざるをえなかった。
門のほうをふりかえったが、エリアードの姿は見えなかった。本格的に見はなされたかと、彼の心は月のない|闇《やみ》|夜《よ》ぐらいに暗くなった。
本来なら、今日にでもアルルスを出発できているはずだった。
それをまた、女がらみのやっかいごとで大きく道筋を狂わせたのである。エリアードの怒る気持ちも理解できた。
黒鳥はおぼろげな光をふりまきながら、北に向かっていた。
北の方角には、宿のあるあたりと同じようにこんもりとした丘の影が見える。見晴らしのいい平地の町アルルスでは、小高い丘がよく目立った。
彼らは北にのびる目ぬき通りを駆けた。
黒鳥の飛ぶうしろからは、光の尾が長くのびていた。かなり遠くからでも、それは目印になった。
日が暮れたアルルスの町はほとんど人がいなかった。
ときどき通りかかるのはセレウコアの兵士だけで、グリフォンの|大《おお》|柄《がら》な姿をみとめると驚いて目礼した。
黒鳥は、北の丘の城壁に囲まれた一帯に入っていった。
治安の悪い下町から|隔《かく》|離《り》するようにできた|新《しん》|興《こう》区域である。主に裕福な商人たちの邸宅が集まって形成されたものだが、あやしげなところもまじっていた。
区域の住人から一定の金額を集めてギルドのような組織をつくり、半独立地域となっていた。城壁も集めた金で整備し、丘をのぼる道には|護《ご》|衛《えい》をおいている。
「――予想どおりだな」
黒鳥の行方を見送り、グリフォンはつぶやいた。
「飼い主の見当がつくのか」
追うのをあきらめかけていたリューは、彼のほうを向いた。
「夕食のときにでも、おいおい話そうと思っていたのだが――アルルスでの出来事にかぎっていえば、糸を引いているのはナクシット教団のようだ。それより以前の、隊商を襲ったのには関与してないらしいが」
あいかわらずのんびりとした調子でグリフォンは言った。
「シェクで、わたしたちを殺そうとした連中か」
「あれはナクシット教団の中でも、一部の急進派だという。しかしアルルスに|居《きょ》をかまえているのは、|穏《おん》|健《けん》|派《は》のはずだ。振り子はどちらにでも容易にかたむくが――しかしゾグト鳥を扱うとは、やっかいだな。かなりの腕の|黒魔術師《くろまじゅつし》がからんでいる」
修業仲間の姉弟が、グリフォンの|脳《のう》|裏《り》によぎった。
「ナクシット教団を監視するのは、あんたの仕事のひとつだといっていただろう。やっかいなところは全面的に|任《まか》すよ。わたしは女泥棒を救いだし、隊商から預かったものをセレウコアの皇帝まで届けるだけだ」
顔をしかめたが、リューもいたって気楽に応じた。
グリフォンは複雑な笑みをかえした。事態はそんなに簡単ではなかったが、正直にそう告げるのはやめておいた。
「この城壁は乗りこえるのか、それとも正面から入れてくれと頼むのか」
目の前に立ちはだかるいびつな石垣を、リューは指さした。
「抜け道はある、このあたりはわたしの庭同然だ」
グリフォンは歩きだした。
小さく|舌《した》うちして、リューはその後についていった。
8章 |邪教《じゃきょう》の|館《やかた》
黒鳥のふりまいていった光る粉は、街路のあちらこちらで見つかった。
ときおり巡回する衛兵の目を盗んで、彼らは光の行方をたどっていった。
丘の上の特別区はそれほど広くなく、こったつくりの建物が整然とならんでいる。このあたりではめずらしい|半《はん》|貴《き》|石《せき》をふんだんにつかい、とんがり屋根や北方の宮殿ふうに、きそって趣向をこらしていた。
曲がり角ごとには、|籠《かご》の中に|炎《ほのお》がゆれる街灯もあった。
ナクシットの分教所はすぐにわかった。
黒い石づくりの|陰《いん》|欝《うつ》な建物は、成金趣味に飾りたてた商人たちの邸宅とはひどくちがっている。ほとんど真四角の本館の左右には方形の塔が隣接していた。
光の軌跡は左側の塔に消えていた。
「まちがいないな」
|館《やかた》のまわりにめぐらしてある鉄の|柵《さく》に身を隠し、グリフォンはふりむいた。
「突入しないのか、ここからうかがっていても|埒《らち》はあかない」
リューは身軽に柵を乗りこえようとした。グリフォンはその腕をつかんで止める。
「危険だ、あの粉でわれわれが追ってきていると見当をつけているはずだ。ゾグト鳥をさしむけたことも、あなたを|誘《さそ》いだす|罠《わな》かもしれない」
「引きかえすつもりなら、こんなところまで来ないね。罠でも、飛びこんでみれば道はひらける。急進派でないなら、すぐに殺されはしないのだろう」
「|無《む》|謀《ぼう》な人だな、おかれた立場を理解してないらしい。ナクシットの徒は、あなたの存在が邪魔なのだ。殺さないまでも、手出しできないようにしたいと考えているはずだ」
「わたしが邪魔? |邪教《じゃきょう》団体とわたしとになんのかかわりがあるんだ。何かわたしが、連中に不都合な教えでも説いてあるいたか」
「くわしくはまだ、お話しできる段階ではない。ただはっきりしているのは、近ごろ連中は、〈月の民〉にかかわる者たちを追っているんだ。急進派はおおかた|抹《まっ》|殺《さつ》するために、|穏《おん》|健《けん》|派《は》は様子をうかがうために――わたしも半分は〈月の民〉に属するというので、|狙《ねら》われたこともある。もっともわたしには、一度で手出しをあきらめたようだったが」
「〈月の民〉など知らないな、ここまで来たのは、巻きぞえをくってさらわれた女のため――恋は|盲《もう》|目《もく》なんだ」
それほど高くない柵を、リューはひらりと乗りこえた。
グリフォンもつづいた。たしかに彼としても、ここまで来て手ぶらで引きかえす気にはなれなかった。
庭には、それが庭といえるならば、草木の一本も生えていない。
|墓標《ぼひょう》めいた黒い|光《こう》|沢《たく》のある石が、庭いっぱいの巨大な円を描くように建てられているだけだ。
「|円環《サークル》の中に入ってはいけない。何か力が|漂《ただよ》っている」
グリフォンが警告した。
そのたぐいにはうといリューは、素直にしたがった。
両側の塔には、窓も入り口らしいものもなかった。
ざっとあたりを見てまわると、リューは本館の正面口から堂々と入っていった。
もうグリフォンも止めようとはせず、|護《ご》|衛《えい》のように後からついてきた。
正面玄関は、つきだした|梁《はり》にふちどられた|居《い》|丈《たけ》|高《だか》なものである。庭と同様に、|柵《さく》がめぐらされていた。
玄関からは、方形の|通《つう》|廊《ろう》がまっすぐにのびていた。
つきあたりにも同じような通廊が、今度は真横につづいている。本館は|廃《はい》|墟《きょ》のように静まりかえっていたが、通廊の先にはたくさんの人影が見えた。
リューは曲がり角に身をひそめ、信徒らしい人々をうかがっていた。どうすると彼にあてがあったわけではなく、グリフォンの言うように|無《む》|謀《ぼう》な侵入にちがいない。
むしろ彼は見とがめられることを期待していた。襲ってきた黒い鳥を追って来たことを|盾《たて》に、正面からわけをただしてやろうと考えていた。
さらわれたというイェシルの件も、ベル・ダウの山奥から勢力をのばしてきた宗教集団がなぜ彼にかかわってくるのかも、当の相手の弁を聞きたかった。
信徒の列は彼のいるほうにやってきた。
幽霊のようにふらふらと、黒衣をまとった人々は行進してくる。武装している様子はなく、体力もありそうに見えなかった。
|誰《だれ》かひとりを|人《ひと》|質《じち》にとって、親玉のところに案内させようかと彼は考えた。
「あれは|幻《まぼろし》だ、かまわず奥に進んだほうがいい」
背後からグリフォンが告げた。
庭の黒い石の円のときと同じく、リューは愉快でなかったが、こうした方面に関してはしたがうしかなかった。今さらながら彼は、エリアードがいっしょに来てくれなかったことを悲しんでいた。
幻であることを証明するように、信徒たちはすぐそこまで近づいても。まったく足音がしなかった。
グリフォンに|促《うなが》され、彼は信徒の列に向かって歩きだした。
目で見れば存在するのに、人々の群れは空気のごとく実体がない。危害を加えてこないとはいえ、|無《ぶ》|気《き》|味《み》だった。
リューは壁に背をつけ、|幻《げん》|影《えい》たちをよけながら進んでいった。
やがて信徒の幻は霧のようにかき消えた。侵入者にさしたる効果もないとわかってやめたかのようだ。
「しかけているのは、|幻術《げんじゅつ》を得意とする|魔術師《まじゅつし》らしい。おそらく得意なのは幻術のみだろう。でなければ、こんなしろうと[#「しろうと」に傍点]だましの|小《こ》|細《ざい》|工《く》で追いはらおうとはしない」
通廊を歩きながら、グリフォンは話しだした。食事のあとで魔術|談《だん》|義《ぎ》をしていたときと変わらない口調である。
「わたしはしろうと[#「しろうと」に傍点]だ。本物だと思って、この先に進むのはやめただろうな」
|苛《いら》|立《だ》ってリューは言いかえした。
「この程度の腕の者なら、わたしがついていればまず大丈夫だ」
「別に魔術合戦をやろうという気はない。ことを大きくしてほしくないな」
「合戦は無理だ。白魔術はもちろんのこと、黒魔術も実際の戦いには向いていないんだ。剣や|槍《やり》で戦うように、その場で相手に傷を負わせるのはほとんど不可能といっていい。術をかけるには制約が多いし、いくつかの条件がそろわないと十分な効果を発しない。
うまくいっても即効とはいかず、細工を|弄《ろう》しているあいだに返り討ちされてしまうだろう。せいぜいが目先をごまかし、注意をそらすのに使えるくらいだ。それに――」
「いいかげんにしてくれ、ここは魔術の教室じゃないぞ」
こんなところでうんちく[#「うんちく」に傍点]をかたむける相手にあきれ、リューは途中でさえぎった。
グリフォンはまだつづけたそうだったが、新手の|幻《げん》|影《えい》が現れて仕方なく口を閉じた。
天井いっぱいまである奇怪な|獣《けもの》が、彼らの前に立ちふさがった。
|鷲《わし》の頭と、|獅《し》|子《し》の身体、巨大こうもりの|翼《つばさ》を持った獣が|炎《ほのお》を吹いた。
炎は本物めいて迫力があり、リューはひとまず飛びのいた。
うしろにいたグリフォンにぶつかると、彼は口もとをゆがめて笑った。
「あいつはあんたの同胞だろう。近づいて|挨《あい》|拶《さつ》したらどうだ」
それからリューはこらえきれず声をたてて笑いだした。緊張がいっきに解かれ、笑いの|発《ほっ》|作《さ》はなかなかおさまらなかった。
|幻《まぼろし》の獣は、ベル・ダウの奥地に生息するという獣のグリフォンの姿をしていた。
獣と同じ名のグリフォンは|眉《まゆ》を寄せ、まだ笑っているリューと、幻影とを見くらべていた。
グリフォンは|腰帯《ベ ル ト》の皮袋から光り粉をつかみだし、宿の石段で黒鳥にしたのと同じように投げつけた。
幻術を破ったり、後をつけたりするときに使えるよう、夜光石を原料にして作りだしたものである。彼はいつもこうした便利な小道具のいくつかを身につけていた。
獣のグリフォンの実体が、光ってうかびあがった。信徒の群れとちがい、幻の核となっているものがあるらしい。
ごく小さな獣のようだった。薄れはじめた獣のグリフォンの幻が|咆《ほう》|哮《こう》した。
その鳴き声は、いきりたった猫のものである。光の|輪《りん》|郭《かく》で見てとれる実体も、大形の猫と見てまちがいない。
「化け鳥の次は、化け猫、それにグリフォンか――ここはナクシット教団ではなく、|曲芸団《きょくげいだん》の|館《やかた》じゃないのか」
リューは馬鹿馬鹿しくなり、通路の壁にもたれてまだ笑っていた。
「猫は猫でも、ベリトゥスの山猫だ、|油《ゆ》|断《だん》してると……」
警告しようとした当のグリフォンに、山猫は|爪《つめ》をかざして飛びかかった。
グリフォンは背中の剣をぬくまもなく、左腕に山猫の|鋭《するど》い爪を受けた。先日、|決《けっ》|闘《とう》したときに傷を負ったところだったので、彼はうめいてうずくまった。
毛をさかだてる山猫は、小さな|獅《し》|子《し》のように|吠《ほ》えた。
山猫の光る輪郭へかぶさるように、また|獣《けもの》のグリフォンの|幻《げん》|影《えい》が現れる。
獣のグリフォンは、左腕を押さえて苦痛の声をこらえているグリフォンにふたたび襲いかかろうとした。
リューはグリフォンの背中から愛用の長剣を引きぬくと、山猫本体の頭めがけてふりおろした。
ぶうんと風が鳴り、剣はなた[#「なた」に傍点]で|胡桃《く る み》を割るように山猫の|頭《ず》|蓋《がい》を打ちくだいた。
素晴らしい切れあじだった。
それほど腕力に自信があるわけでもないリューですら、やすやすと|獰《どう》|猛《もう》な獣の頭を粉々にできるほどのものだ。
彼はあらためて、銀色の広刃の剣に|見《み》|惚《ほ》れた。
「――返してくれ」
|袖《そで》をまくって止血しながら、グリフォンは弱々しく頼んだ。以前の傷口と交差するように、山猫の|爪《つめ》|痕《あと》は|無《む》|惨《ざん》にしるされていた。
「あんたが恋人のようにそばから離さないのもわかるな。こいつは見事だ」
「返してくれ、セレナーンは人には貸さない、たとえあなたであってもだ」
よろめいて立ちあがり、グリフォンは剣を奪いとった。
「剣に名前があるのか、冗談じゃなく本物の恋人のようだな。夜もそいつと添い寝してるんじゃないのか」
リューはあきれていた。
「セレナーンは|亡《な》き母上の名だ、剣も母上の|形《かた》|見《み》だ」
傷の手当てもそこそこに、グリフォンは剣の汚れを上着の|裾《すそ》でていねいに|拭《ぬぐ》いとった。
二十歳もとうにすぎて、何が母上だとリューは思ったが、気味が悪くなって口には出さなかった。
当初の|嫌《けん》|悪《お》は薄らいでいるものの、彼はこんなコンビを解消したくなった。つくづくとエリアードをなつかしく思った。
山猫の|死《し》|骸《がい》を飛びこえ、リューは奥へと進んだ。
|幻《げん》|影《えい》の消えた先にあるのは、|燭台《しょくだい》の明かりに照らされた広間である。
何列もの|長《なが》|椅《い》|子《す》が整然とならび、正面の黒い壁には金色の|頭《ず》|蓋《がい》|骨《こつ》のようなものが掲げられていた。
頭蓋骨には、ぽっかりと穴のあいた|眼《がん》|窩《か》が三つあった。骨が本物だとしたら、|額《ひたい》にも目がついていたらしい。
頭蓋骨の真下には黒石の|香《こう》|炉《ろ》があり、ついさきほどまで火が|焚《た》かれていたように煙を残していた。不快すれすれのきつい癖のある香が、まだ中にはこもっている。
「幻影を送りだしていたのはここからだ――|幻術使《げんじゅつつか》いはそう遠くへは行ってない」
傷の痛みに顔をしかめながらも、グリフォンは変わりなくついてきた。腕からはまだ血がしたたっていたが、弱音もはかず、ひるんだ様子も見せなかった。
その不屈の意志にはリューも感心した。
香炉の|脇《わき》の丸い卓には、信徒の群れやグリフォンの|咆《ほう》|哮《こう》する姿を描写した絵図がほうりだされていた。
端のほうが燃やされていることから、術に使った用具の処分も途中で、いずこへかと逃げたらしい。
グリフォンは香の流れを調べた。
香は幻術使いの身体にしみこみ、逃げた先を示していた。
「こっちだ、左のほうだ」
広間の左側にある暗がりの扉にグリフォンは急いだ。
同時に扉がひらいて、剣を手にしたふたりの黒い衛兵が|躍《おど》りでてきた。
長身の、しまった筋肉質の身体をしたアルダリア人らしい戦士たちだ。髪はどちらもちぢれて白茶けていた。
「おまえは――」
右側の戦士を、リューはまじまじと見た。
揺れる|燭台《しょくだい》のせいと、髪の色が変わっていたせいですぐにはわからなかったが、それはたしかにハルシュ老の従者だった青年だ。
しかし従者の黒っぽい顔の印象はすっかり異なっていた。目尻のつりあがった小ずるそうな眼はそのままだったが、視線はうつろで、口もとはゆるんでいた。
一見して、何かにあやつられているか、|暗《あん》|示《じ》をかけられているのはわかった。その表情は、シェクで彼と|相《あい》|棒《ぼう》を襲った商人ふうの連中とも共通していた。
相手が|誰《だれ》とも理解してない様子で、ハルシュ老の従者は切りかかってきた。
リューはそれを受けとめ、剣を交差させたまま押しかえした。
もう一方は、手負いのグリフォンに襲いかかった。彼は左手をかばいながら、長剣をかまえた。
その長剣の迫力にふつうならひるむはずだったが、戦う自動機械のような衛兵はかまわずつき進んできた。
イェシルが自慢していたように、アルダリア人は優秀な戦士だった。しなやかな動きを可能にする筋肉と、身の軽さが、わざをおぎない、高めていた。
剣技には自信があるふたりも、相手ひとりを引きうけるのがせいいっぱいだった。とくにグリフォンは負傷している。
従者にはいろいろ問いただしたいことがあったので、リューは殺してしまわないよう手かげんしていた。そのせいで互角に打ちあってるようでも、どこか|劣《れっ》|勢《せい》だった。
まだ腕から血をしたたらせているグリフォンも動きが|鈍《にぶ》っていた。
長剣をふりまわしているが、うまく相手にかわされ、突きを入れられていた。
|顎《あご》をのけぞらせ、体勢を|崩《くず》すのは、グリフォンのほうが多くなってきた。
|隙《すき》を見て、リューはグリフォンに加勢しようと考えていた。あの負傷では、長く打ちあえるわけがないのは明らかだ。
気にくわない道づれとはいえ、今は相棒のひとりにちがいないし、|怪《け》|我《が》|人《にん》を見殺しにしては寝ざめが悪かった。
しかし隙があったのは、そうしたよけいな考えのあったリュー自身のほうだった。
彼は床に散っていた|血《ち》|糊《のり》に足をすべらせた。
かろうじて|尻《しり》|餅《もち》はつかずに踏みとどまったが、注意は相手からそれた。
従者は彼の上から剣をふりかざした。
彼はとっさに身をよじったが、肩か腕に傷を負うのは|覚《かく》|悟《ご》した。
|衝撃《しょうげき》のかわりに、高い金属音がした。
従者の剣は何かにあたって、途中で|跳《は》ねとばされた。
リューはその機をのがさず、従者の首ねっこを押さえ、剣先をつきつけた。
武器を失った従者はあいかわらずうつろな眼差しのまま、おとなしくなった。
グリフォンが|助《すけ》|太《だ》|刀《ち》に入ってくれたのか、リューは横を見た。しかしグリフォンは、まだ必死に戦っている。
後方をふりむくと、|長《なが》|椅《い》|子《す》の列のあいだにもうひとつのすらりとした影があった。
「――エリー、来てくれたのか」
リューは喜びをかくさず叫んだ。
けれどエリアードはにこりともしないで、ゆっくりと歩みよってきた。
首を押さえられたハルシュ老のもと従者を、エリアードは冷ややかにのぞきこんだ。
彼は眼をほそめると、従者の目の前で指先を動かした。従者のうつろな目にわずかな光がやどった。
「それほど強い|暗《あん》|示《じ》ではありませんね。よほど急いでかけたようだ」
エリアードは注意深く、従者の目の動きを観察していた。暗示と|催《さい》|眠《みん》のわざは、|白魔術《しろまじゅつ》を学んでいたときに彼が習得したもののひとつだ。
彼は、苦戦しているグリフォンのほうにも近づいた。
敵の戦士と視線が合ったときをのがさず、彼は同じように指先を動かした。半円の弧をえがくようにゆっくりと。
剣を持つ手がだらりとさがり、アルダリア人の戦士は目をしばたたいた。ここがどこかもわからないらしい。
その隙に、グリフォンは戦士の剣をたたきおとした。
もと従者のほうはなかなか暗示がとけないようだった。まだ夢うつつで、|燭台《しょくだい》の明かりのほうをながめている。
エリアードはもと従者の|頬《ほお》を打った。
それほど力をこめているように見えなかったが、黒っぽい顔に指の|痕《あと》がくっきりとついた。
リューは|魅《み》|入《い》られたように、|相《あい》|棒《ぼう》の顔を見つめていた。エリアードは現れたときからずっと無表情で、|端《たん》|正《せい》なだけにそうしていると一種の|凄《すご》|味《み》があった。
もと従者は我にかえり、エリアードの姿をみとめたようだった。
首筋にあてられた剣先と、隊商にいたふたりに、従者は|怯《おび》えの色を見せた。
「ナクシット教団に|雇《やと》われたのか」
わきからリューが尋ねた。
もと従者は首を横にふった。
「ちがう、だまされたんだ。|儲《もう》け口があるとさそわれ、酒を飲まされた――それからはっきりしない。頭の中をさぐられた、あらいざらいしゃべらされて、入りこんできた者を殺せと命じられた」
「わたしたちをおぼえているか」
エリアードは従者の|額《ひたい》に指先をあてた。
また首を横にふろうとした従者は、その動作をとめて目を見ひらいた。
「正直に答えるんだ、ハルシュ老の隊商にいたわたしたちをおぼえているだろう」
従者はうなずいた。しらばっくれようと思ったが、身体が自由にならないようだ。
「街道ぞいにいた隊商を襲って全滅させたのは何者だ、知っているのだろう」
「ウラの|盗《とう》|賊《ぞく》|団《だん》だ、同胞が加わっていた。アルダリア人の結束は、雇い主との約束より固い――|俺《おれ》はシェクで同胞にくどかれ、戦利品の一部をわけまえとする条件で、隊商の動きを教えた。|襲撃《しゅうげき》の夜には、見張りを眠らせて合図をし、盗賊団を引きいれた」
ふたたび|暗《あん》|示《じ》にかけられた従者はすらすらと告白した。
「おまえはハルシュ老の持っているという宝が目的だったんだな」
「そうだ、シェクの宿で、新入りたちに話しているのを盗み聞きした。盗賊団には隠しておいた」
「なぜ、盗むだけにしなかった。女や老人まで殺すことはなかったはずだ」
エリアードの声は静かだったが、|刃《やいば》の|鋭《するど》さがひそんでいた。
「ウラの盗賊団のやり方だ、生かしておくと|人《にん》|相《そう》|書《が》きが出まわる。ただでさえセレウコアの兵が目を光らせていたからな。襲ったら全滅させ、火をかける。そうでなければ遠方へ|奴《ど》|隷《れい》に売る。どちらかだ」
「宝は見つかったのか」
「わからない、はじめはハルシュ老の首飾りかと思った。ほかには見つからなかった。盗賊団にさとられたくないので、あまり時間をかけては捜せなかった」
「そしてアルルスで、わたしたちを見つけたわけか」
従者は素直にうなずいた。
「生きているとは思わなかった。それもアルルス一の高級宿に入っていった。宝は連中の手にわたっていると確信した――俺は顔を知られているので、町にいる同胞たちに宝の|噂《うわさ》を流した。|誰《だれ》かに行かせて、様子をさぐらせるつもりだった」
アルルスに入ってからのことは、だいたいリューの想像どおりだった。
ナクシット教団の|狙《ねら》いは不明だったが、従者がそれ以上のことを隠しているとは思えなかった。
もと従者は次の質問を待つように、おとなしく口をつぐんだ。
エリアードはそれを確かめ、さきほど従者の剣を|跳《は》ねとばした自分の剣を拾った。
一方で、グリフォンはもうひとりのアルダリア人を|尋《じん》|問《もん》していた。こちらも|儲《もう》け|口《ぐち》があると連れてこられただけで、彼らが何者かも知らない様子だった。
「助けられた礼も言ってなかったな、ありがとう、来てくれてうれしいよ」
リューは|相《あい》|棒《ぼう》にほほえみかけた。
しかしエリアードは相変わらずにこりともしないで、剣を握りなおした。
「隊商の一行を|惨《ざん》|殺《さつ》させた罪をつぐなってもらおう」
かわいた口調で告げると、エリアードは従者の|喉《のど》に剣をふりおろした。
従者は声もなく、目を|剥《む》いた。
|茫《ぼう》|然《ぜん》とするリューの前に、なかば首のもげかけた|死《し》|骸《がい》がずりおちるように横たわる。
彼としても無事なままはなしてやるつもりはなかったが、相棒がこんなふうにとどめを刺すとは予想してなかった。
「そっと後をついてきたわたしが姿を現す気になったのは、この男を自分の手で殺すためです。あなたに喜んでもらうためではありませんよ」
エリアードは初めて、かすかな笑みをうかべた。
「それでもうれしいのには変わりないさ。おまえがいないと、いかに心細いか思いしらされたよ」
グリフォンをちらと見て、リューは|機《き》|嫌《げん》よく応じた。内心では相棒のただならぬ迫力にすっかりのまれていたが、おもてには出さなかった。
もうひとりのアルダリア人は|峰《みね》|打《う》ちで気絶させ、三人は左にある|扉《とびら》に向かった。
扉は左の塔へとつづいていた。
見張りの兵がひとり塔の入り口を守っていたが、リューはたやすくそのふところに飛びこみ、剣をたたきおとした。
「女はどこだ、今日、連れてこられた女がいるだろう」
この見張りもどこかぼんやりとしていたが、目の前にちらつかされる剣先には反応した。
見張りはわずかにうなずき、左の塔を指さした。
エリアードは見張りの視線をとらえ、指を動かした。
見張りはいともあっさりと|催《さい》|眠《みん》の|暗《あん》|示《じ》にかかり、その場に|崩《くず》れおちた。
「どうも簡単にかかりすぎる、普通は一回でかかることはないのだが――もともとあやつりやすい者を選んで使っているのかな」
彼は首をひねった。アルダリア人の衛兵たちの暗示もたやすくとけ、また新たにかけるのも簡単だった。
「ナクシットの徒は、香や薬の力で人をあやつるわざにたけている。そうしたわざはおおむね習慣性があり、ほかの暗示にもかかりやすくなるらしい」
「|講釈《こうしゃく》はあとでいい、先に行くぞ」
暗示のわざについてまだ話したそうなふたりに、リューはたまりかねて声をかけた。
しかしエリアードのもの問いたげな視線に出会うと、そっと目をそらした。
塔には上につづく|螺《ら》|旋《せん》階段と、下につづくじめじめした石段があった。
広間から|漂《ただよ》っていた香は、上のほうに濃く漂っていた。
とりあえず彼らは螺旋階段を駆けのぼった。足音が耳ざわりに反響した。
その音に、リューは頭の痛みがまたぶりかえすような気がした。
途中の階には、がらくたがほうりこまれているだけで何もなかった。
ほどなくして視界はひらけ、彼らは塔の屋上にたどりついた。
夜空には金のほうの月がくっきりとうかび、もうひとつの月は雲に隠れている。
そしてもうひとつ、月のほかにうかぶ影があった。妙な影で、よく目をこらしてみなければそれがなんなのかわからなかった。
二羽の大きな鳥が運んでいる|籠《かご》のようなものだった。鳥には何重にも|綱《つな》がゆわえられ、籠を両側から支えている。
籠の中には人の姿があった。フードつきの長い|外《がい》|套《とう》をまとった人物のようだ。
鳥と籠は風に流されて遠ざかっていったが、月の光がたわむれに男の姿を照らしだした。
シェクの分教所にいたヤイラスとうりふたつの、記憶にあるままの|小《こ》|柄《がら》な|魔術師《まじゅつし》を。
「あれは、ウィリク……」
グリフォンは目を見はり、つぶやいた。
青白く光をあびた籠の男には、たしかに見おぼえがあった。
「知りあいか」
耳ざとく聞きとって、リューは問いかけた。
「ドゥーリスで修業していた|同《どう》|輩《はい》のひとりだ――|幻術《げんじゅつ》のたぐいを修めていたやつだが、ここで会うとは思わなかった」
姉のヤイラスから聞いて|覚《かく》|悟《ご》はしていたが、グリフォンはやりきれない思いになった。
かつての修業仲間が、今や公然と彼の敵にまわっていた。幻術や鳥使いの術で、彼とその仲間たちに危害を加えようとしたのである。
鳥にひかれた籠は次第に小さくなり、月にうきでた|斑《はん》|点《てん》のようになった。
「どんな|輩《やから》かは知らないが、逃げたことにはまちがいないな、わたしたちには勝ちめがないと」
楽観的にリューは解釈した。
籠にほかの者は乗ってない様子だから、イェシルはまだ|館《やかた》のどこかにとらわれているはずだと彼は|安《あん》|堵《ど》した。
「おそらくわたしに直接、会いたくはなかったのだろう」
「あんたに会いたくない気持ちはわかるな」
ついリューは小さく言ってしまった。
けれどグリフォンはどういうことかわからないようで、けげんそうに彼を見た。
「そいつはあんたより力は下なんだろう。まともに|挑《いど》んだら負けると思って、|幻《まぼろし》で足どめし、その|隙《すき》に逃げたのだろうよ」
リューは補足した。
「ナクシットは思ったより強硬な態度に出ているな――アルダリア人の衛兵を|雇《やと》いいれたり、魔術師をぶつけてくるとは」
「そのあたりのことは、あんたがゆっくりと頭を悩ますことだ。わたしは下におりてみるよ」
思案するグリフォンに|苛《いら》|立《だ》って、リューはきびすをかえした。しかし背後にひっそりといたエリアードと目があったときには、少しだけ足をゆるめた。
9章 かぐわしき|報酬《ほうしゅう》
イェシルはずっと夢うつつでいた。黒い|翼《つばさ》をひろげた鳥にとらわれ、|闇《やみ》にとざされた|牢《ろう》|獄《ごく》に連れていかれたあとも、なかば眠り、なかば目覚めていた。
まわりにあるのは闇の色ばかりだ。彼女をとらえた鳥も|漆《しっ》|黒《こく》だった。
彼女は自分の色でもある黒が好きではなかった。アルダリアの同胞たちのつややかな黒い色、故郷にいたときには好きでも嫌いでもなかったが。
|異《い》|邦《ほう》の者たちはみな、ものめずらしそうに彼女を見つめた。
|蔑《さげす》む者もいれば、称賛する者もいた。とりわけ彼女が|嫌《けん》|悪《お》したのは、めったに手に入らない極上の|絨毯《じゅうたん》のように、その色あいを|愛《め》でる者たちだ。
あの男もそのひとりにちがいなかった。|蒼《そう》|白《はく》な|肌《はだ》の、金の眼をした男。
|黒豹《くろひょう》の眼、|山《やま》|獅《じ》|子《し》の眼、黄玉の眼、溶けた黄金の眼。顔立ちは記憶の中にかすんでも、その|希《け》|有《う》な眼だけはありありと思い出せた。
金色の眼は彼女をめずらしげに見つめた。あからさまな興味と純粋な|感《かん》|嘆《たん》をこめて。彼女も相手を同じように見つめていた。
どこか育ちのよさそうな、高貴な物腰をしていた。それを打ち消すような、|百戦錬磨《ひゃくせんれんま》の|傭《よう》|兵《へい》めいた|殺《さっ》|気《き》と|猛《たけ》|々《だけ》しさもあった。
薄い上着ごしにふれた肩や胸には、アルダリア人の戦士たちにもおとらない、|鍛《きた》えあげた筋肉がついていた。一見、ほっそりして見えるだけに、それは驚きだった。
そして無礼な|接《せっ》|吻《ぷん》。ものなれた抱きよせ方、女の反応を知りつくしたような|唇《くちびる》のかさね方。アルダリアの同胞たちも恐れて近づかない彼女を、はじめて接吻する小娘のようにあつかった。実際、あの金の眼で見つめられると、彼女の全身はおののいた。
大勢の女たちがあの眼と唇に|陶《とう》|酔《すい》したのだろう。彼女と同じように。
そんな想像につきあたり、怒りにまかせて彼女は義手をふりあげた。
|殴《なぐ》りたおし、逃げたが、それからあの男のことしか考えられなくなった。隠れ家にひそんでいたときも、黒鳥にさらわれてからも、|脳《のう》|裏《り》にうかぶのはあの希有な眼と、気が遠くなるような唇の感触ばかりだ。
恋に落ちたと、ちまたではそう表現するのだろうか。
|囚《とら》われの身となり、頭が|朦《もう》|朧《ろう》としているのに、昨夜会ったばかりの男しか思いうかばないのはどうしてだろう。まとまらない考えの中から、彼女はかろうじて疑問をもった。
彼女はくりかえし|暗《あん》|示《じ》をかけられ、彼についての記憶を引きだされた。彼女はどういうわけか、彼の恋人だと思われているようだった。
筋道を追って考えていくと、彼女の意識は少しはっきりしてきた。
窓のない、暗い部屋にいることもわかってきた。両手はうしろでしばられていた。両足は前に投げだされ、壁にもたれて座るような姿勢でいるようだ。
人の近づいてくる|気《け》|配《はい》がして、イェシルは顔をあげた。
視界の|靄《もや》はおおかた晴れていた。けれどまだ夢を見ているように、彼女は目をしばたたいた。
|炎《ほのお》のゆれる|燭台《しょくだい》を手にした人物が、彼女に駆けよってきた。
|闇《やみ》になれた目にはわずかな明かりもまぶしくて、なかなか相手が見分けられない。
「――|怪《け》|我《が》はないか」
どこかで聞いたことのある声がした。
イェシルはすぐ前の人物を見つめた。さきほどまで夢うつつで思いうかべていた姿が、現実となって目の前にいた。
「|誘《ゆう》|拐《かい》の|首《しゅ》|謀《ぼう》|者《しゃ》は逃げていった、もう大丈夫だ」
安心させるようにリューはささやいた。
「助けに来てくれたの……あたしを……」
まだ信じられないように、イェシルは彼を見つめた。
「なんだ、期待してなかったのか、残念だな、待ちこがれてると思って急いだのに」
その軽口に、イェシルはようやく本物らしいと実感がわいた。
「どこなの、ここは……」
彼女はあらためて、明かりに照らされた室内を見まわした。
方形の小さな部屋で、石段が上方に高くのびていた。石段の降り口には、別のふたつの人影がある。
「ここはナクシット教団の|館《やかた》だ、北の丘にある」
イェシルの両手は|綱《つな》でゆわえられ、壁にある鉄の輪にしっかりと巻きついていた。
リューは剣の先で、腕を傷つけないように綱を切りはじめた。
綱を引くと、鉄の輪はきしむ音をたてた。
イェシルの手が自由になると、石の床が|轟《ごう》|音《おん》とともに真ん中からふたつに割れた。
あっというまに、ふたりは床と床のあいだにのまれ、姿が見えなくなった。
石段近くにいたエリアードとグリフォンが驚いて、駆けよってきた。
塔の地下の床には、四角い穴があいた。
|虜囚《りょしゅう》の綱を切ると、鉄の輪が引かれ、落とし穴が作動する仕掛けだ。
「リューシディク様――!」
穴のへりに手をかけ、エリアードは叫んだ。落とし穴は闇にとざされ、どのくらいの深さがあるのかもわからなかった。
彼は激しく|後《こう》|悔《かい》した。女泥棒を助けるリューの手伝いをするのがいやで、離れたところからながめていたことを。
「……なんとか、無事だよ」
穴のすぐ下のあたりから、声がした。
「どこにいるんですか、そんなに浅いんですか」
グリフォンから|燭台《しょくだい》を奪い、エリアードは穴に身を乗りだした。
しかしせいいっぱい手をのばしても、わずかしか見わたせなかった。ところどころ切れかけた|綱《つな》が、下にのびているようだ。
「綱を……引いて……」
まいあがる|埃《ほこり》を吸いこんで、リューは|咳《せ》きこんだ。鉄の輪にからみついた綱が引かれてふるえた。
リューはとっさにイェシルを横抱きにし、かろうじてもう片方の手で綱をつかみ、宙づりになっていたのである。彼は壁に足がかりがないかさぐっていたが、なめらかな石の感触がかえってくるだけだった。
「|頑《がん》|張《ば》ってください、すぐに引きあげますよ」
エリアードとグリフォンは穴の両側からまわりこみ、鉄の輪の綱に手をのばした。
それが届くか届かないかのうちに、ふたり分の体重でひっぱられた綱は、ずるずると鉄の輪からほどけていった。
不幸中の幸いだったのは、綱が|唐《とう》|突《とつ》に切れるのではなく、からみついた部分を残しながらずり落ちていったことだ。
リューはイェシルとともに、綱と壁にへばりつきながら下まで落ちていった。
「リューシディク様、返事してください、どうか――!」
声がかれるほど、エリアードはくりかえし呼びかけた。
死んだとは思わなかったが、無事を確認できるまでは胸がつぶれるような思いだった。
「あぶない、あなたまで落ちてしまう」
そんな彼の肩をつかみ、グリフォンはなだめた。
「かまいませんよ、はなしてください」
エリアードは力なく応じた。その青ざめた|頬《ほお》はぬれて、|埃《ほこり》でよごれていた。
「泣かれることはない、あの落ち方ならだいじょうぶだ、悲観するのは早い」
「泣いてなどいませんよ、死んだとも思っていません、あの人は悪運が強いから」
グリフォンに腕を引かれ、エリアードは仕方なく穴のへりから離れた。
落ちつかせるように、グリフォンは彼の肩を抱いた。
「この深さでは、|綱《つな》をおろして引きあげるのはむずかしい。また綱が途中で切れては危険だ。別の|方《ほう》|策《さく》を考えたほうがいい」
「引きあげられないなら、わたしひとりでも下におろしてください。ここに離れて残されるよりはいくらかましだ」
うるんで|焦燥《しょうそう》しきった銀色の眼を、グリフォンはいたわしそうにのぞきこんだ。
口では否定しても、エリアードが|一《いち》|抹《まつ》の恐怖を打ち消せないでいるのは見てとれた。落とし穴の底からはなんの返答もなかった。
「あなたは忠義者だな、いささか軽はずみな主君をそれほどに案じるとは」
グリフォンは感心したように言った。しかしエリアードは声もなく笑った。
「忠義、そんなものじゃありません――あの人はわたしのすべてです」
「すべてか、ますます感心するばかりだ」
「わたしの気持ちなど今のところどうでもいいことです。ところでこの塔の裏手は丘の斜面でしたね。穴の深さからいって、人の手で掘ったものとは思えないんですが」
気を取りなおし、彼はグリフォンを見た。
「おお、そうだ、方策を思いついたぞ」
グリフォンは手を打った。
上でそんなに心配されているとは知らず、リューは土の地面に横たわっていた。
イェシルのほうが先に意識を取りもどした。彼らが落ちたのは天然の岩穴のようで、塔の部屋よりもかなり広い。
横穴が向こうにつづき、そこから風が流れてきた。
すぐかたわらに手足を投げだして倒れているリューを、彼女は初めて見るようにまじまじと見つめた。昨夜から寝てもさめてもはなれなかった|面《おも》|影《かげ》が、そこに実物として存在していた。|希《け》|有《う》な金の眼は閉じられていたが。
彼は|囚《とら》われの彼女を救いに現れ、落とし穴を落ちていくときも彼女を支えてはなさなかった。彼女は幸福感に満たされた。こうなってやっと彼女は、自分が熱烈な恋に落ちているのを|屈辱感《くつじょくかん》なしで認めることができた。
イェシルはおそるおそる彼の|頬《ほお》にふれた。いっそう|蒼《そう》|白《はく》に見える頬は暖かく、彼女は|安《あん》|堵《ど》した。
手足にも不自然にねじれたところはなく、大きな外傷もない。気を失っているだけのようだ。
リューが手にしていた|燭台《しょくだい》が、あたりに散乱していた。そばの草に|炎《ほのお》が燃えうつり、煙をあげている。
イェシルは折れた|蝋《ろう》|燭《そく》を集め、炎をともし、手ごろな岩の台に|据《す》えた。
暗かった岩穴も、ひとときの明るみに照らされた。
隅の岩壁からはわずかな水がしみだし、地面をうがっていた。
イェシルはそれで汚れた手と顔を洗い、ローブの|裾《すそ》を破って水にひたした。戦利品の上等なローブだったが、すでにところどころ|裂《さ》けて、見る影もなかった。
彼女はリューを|苔《こけ》むしたやわらかいところに運び、|濡《ぬ》らした布で傷を清めた。
細かい傷は縦横にはしっていたし、|痣《あざ》になっているところも数えきれないほどあった。そのひとつひとつが、彼女のために受けた負傷だった。彼自身はそう思ってはいないだろうが、彼女は感動すらおぼえていた。
イェシルは彼の頭を|膝《ひざ》に抱き、布のきれいな部分で汚れをふきとった。
|金褐色《きんかっしょく》の髪のあいだにまだなごりのある|瘤《こぶ》に気づいたときには、|後《こう》|悔《かい》で彼女は顔を赤らめた。彼女が昨夜、義手で|殴《なぐ》りつけたものだ。
彼女はこみあげたいとおしさで、彼の白い|額《ひたい》や前髪を|愛《あい》|撫《ぶ》した。
彼は息をついて、何かつぶやいた。名前のようだったが、彼女の名ではなかった。
昨夜の寝台でも、彼はひとりではなかった。隣に女が寝ていたようだ。
|接《せっ》|吻《ぷん》のあいだに彼を殴ったのは、そんな光景が目に焼きついていたからだ。女をあつかいなれているという印象もそのあたりからきている。
しかし今は、それほど怒りも感じなかった。彼がたわむれに女をもてあそぶ|自《うぬ》|惚《ぼ》れやではないとわかったからだ。
彼は身を|挺《てい》して彼女を救おうとした。それが愛情からかどうかはわからないが、彼女はそう信じたかった。
「……エリー」
彼女の膝の上で、今度ははっきりとリューは名を呼んだ。彼はその自分の声に目がさめた。
「エリー、ここはどこだ」
|相《あい》|棒《ぼう》と勘ちがいして、彼は腕をのばした。|綱《つな》にしがみついた腕はまだこわばっていて、ひどく痛んだ。
「|誰《だれ》のこと、あたしはイェシルよ」
彼女のいらえ[#「いらえ」に傍点]もこわばっていた。
「イェシル――ああ、アルダリアの女泥棒か」
リューは目をこすった。彼をのぞきこんでいるのは、相棒のいつも心配げな、怒りをおさえたきれいな顔ではなかった。
「あたしたちはふたりして落ちたのよ。ここはその落とし穴の底――あたしじゃなくて違った女といっしょのほうがよかったわけ、そのエリーというひとのほうが」
ひがみっぽく言ってしまってから、イェシルは|後《こう》|悔《かい》した。誰とまちがえたとしても、まずは助けてもらった礼を告げるべきだったと。
「エリーは女じゃないよ。わたしの連れだ。地下におりてきたときにも、うしろにいたはずだ」
彼女の|膝《ひざ》から、リューは身を起こした。
その言葉にイェシルの薄緑の|瞳《ひとみ》は輝いた。石段のところにいた背の高いふたり連れを、彼女は思い出した。
「――ごめんなさい、あたしなんだか変だわ」
「頭でも打ったのか、かなり落ちたからな」
彼は|屈《くっ》|託《たく》なくほほえんだ。イェシルもつられて笑った。
「どれくらい気を失ってたんだ――昨夜からもう二度めだな、よく気を失う日だ」
「そんなに長い時間じゃないわ。|燭台《しょくだい》から燃えうつった|炎《ほのお》が消えずにいたし、|蝋《ろう》|燭《そく》もまだ残っているもの」
「上の連中はどうしたかな、とうてい助からないとみてあきらめたのか」
リューは頭上を見あげたが、岩穴が明るいので落とし穴の口は見分けられなかった。
「わからないわ、あたしが気づいたのもついさっきだし」
「穴はつづいているようだな、先には行ってみたかい」
そう言って立ちあがった彼を、イェシルは感心して見ていた。
「丈夫なのね、少し休まなくてもいいの」
「たいしたことはないさ、これくらい――問題はこれからだろう。|生《い》き|埋《う》め同然で死ぬのはいやだからな」
リューは蝋燭のひとつを取った。
イェシルはそんな彼が頼もしくもあったが、残念にも思った。彼女はここから脱出することなど、今まで考えもしなかった。できるなら永遠に、眠れる彼を膝にのせ、髪と|頬《ほお》を|撫《な》でていたいとそればかりだった。
|蝋《ろう》|燭《そく》の|炎《ほのお》をたよりに、彼はせまくなっていく横穴を進んだ。
イェシルも後につづいていった。短い草や|苔《こけ》がはえていることからして、まったく外からとざされたところではないらしい。
ほどなくして、彼らは円形の広間のような、ひらけたところに行きついた。
丸天井のような頭上の|亀《き》|裂《れつ》からは、月の光がもれていた。
しかし外界に通じているのはその高いところにある亀裂ひとつで、よじのぼってもたどりつけそうになかった。
「こいつは無理だな、助けを待つしかないか」
|天鵞絨《ビロード》のような薄緑の|苔《こけ》に、リューは腰をおろした。
亀裂の下のあたりは日光と雨に恵まれて、びっしりと苔がおおっていた。さしもの|強靭《きょうじん》な身体をほこる彼も、疲れをおぼえた。
「あの、まだお礼を言ってなかったわ――助けてくれて、どうもありがとう、あなたをあんなふうに|殴《なぐ》ったあたしを」
しおらしくイェシルは告げた。
「ちがう、あやまるのはこちらのほうなんだ、君はわたしのせいで巻きこまれたんだ、あの小さな女すりにも責任の一端はあるが」
「アヤがどうかしたの」
「きっかけは、あの女すりが君のことをわたしの恋人だと|吹聴《ふいちょう》したことだ。ナクシット教団はどういうわけか以前から、わたしと連れに目をつけていて、君を|餌《えさ》におびきよせようとたくらんだ――わたしたちはまんまとおびきよせられ、落とし穴の|罠《わな》にはまったというわけだ。殺されはしまいと楽観的に考えていたが、あの罠のねらいは、あわよくばわれわれ三人を|葬《ほうむ》りさろうというものだ。死ななくても、重傷で当分は身動きできなくなる」
わかっていることだけを、彼は|率直《そっちょく》に語った。こんなめにあったのだから、イェシルも知る権利はあるはずだと。
「そういえば、つかまっているあいだに何か飲まされて、いろいろあなたのことを尋ねられたわ。でもわたしは名前ぐらいしか知らなくて、向こうは|苛《いら》|立《だ》っていたみたい」
「とんだとばっちりだったわけだ、本来なら関係ない君を巻きぞえにしたのは悪かった」
イェシルは彼の隣に座った。|裂《さ》けた|裾《すそ》から、黒くつやのある形のいい脚がのぞいた。
「関係ないの、あたしは――アヤの吹聴したことはまったくの|嘘《うそ》なの」
こころもち口もとをゆがめ、リューは笑った。
「昨夜のわたしの|無《ぶ》|礼《れい》な行為もあやまっておくよ。こんなに高くついた|接《せっ》|吻《ぷん》は初めてだ。これでもかなり反省してるんだよ」
その金の眼に見つめられて、イェシルは言葉を失った。
「ひとつ気になっていることがある。どうやってわたしを|殴《なぐ》ったんだ。熱中して、|油《ゆ》|断《だん》していたとはいえ、あの姿勢から丸腰で殴りたおされるとは思えない」
リューの問いに、彼女は黒い手袋をはめた右手を出した。
「さわってみて、それでわかるはずよ」
彼はその動かない指と手のひらにふれた。石のように固い手ざわりがした。
イェシルは手袋をたくしあげ、手首の|継《つ》ぎめのところを見せた。
「いったい、どうして……」
痛々しそうにリューはつぶやいた。こんな負傷をしたときの彼女の苦痛が感じられるようだった。
「東のタウとの戦いに|傭《よう》|兵《へい》として加わったときに、十七歳だったわ、そのときはまだ――泥棒に転職したのはこのせい、剣をうまくあつかえなくなったの」
彼は自分が十七歳のときと、彼女の戦いの日々をかさねていた。
彼もそのころ、戦場に身をおき、幾度となく|怪《け》|我《が》を負った。|利《き》き|腕《うで》を失うことはなかったにしろ、重傷で生死の境をさまよったこともある。辺境の森の|野《や》|営《えい》|地《ち》で、ろくな手当ても受けられず、|死《しに》|神《がみ》と戦っていた。
過去の悪夢を見るたびに、その絶望と恐怖は今もよみがえってきた。同じ経験を彼はイェシルの眼差しの中によみとった。
「不思議な人ね、育ちのいいどこかの|貴《き》|公《こう》|子《し》かと思ったけれど、つかいものにならなくなった傭兵に共感できるなんて」
イェシルはどこかおかしそうにつぶやいた。ずっと視線は、彼の金色にひらめく眼と、動く|唇《くちびる》に|釘《くぎ》づけになっていた。
過去のすべてを話してしまいたい衝動と戦い、リューはそれを打ちけすように彼女を抱きしめた。傷を|癒《い》やし、|慰《なぐさ》めるように。あるいはかつての自分を慰めるように。
今度の|接《せっ》|吻《ぷん》は、イェシルのほうから仕掛けた。言葉をかわしながら、彼女はそうしたくてたまらなかった。早く話をきりあげて、別の用途に使いたいと。
反省した手前、リューのほうはためらっていたが、そんな|防《ぼう》|波《は》|堤《てい》も彼女はつきくずした。|相《あい》|棒《ぼう》のとがめるような眼差しが一瞬かすめたが、すぐに消えていった。
「あなたが――好き」
激しい接吻のあいだに、イェシルはささやいた。
「わたしもだ、|漆《しっ》|黒《こく》と純白のイェシル」
考えるより先に、リューはそう応じていた。言葉にしてみると、それは真実だった。
彼は宿にしのびこんできた女泥棒にひとめぼれし、彼女を救いたいがためにあえて敵陣へ飛びこんでいったのだ。ほかにいろいろ理由をつけながら。
彼はイェシルをやわらかな|苔《こけ》に横たえ、彼女は彼の胸もとに手をすべらせた。
|裾《すそ》の破れた薄いローブを彼がたくしあげると、彼女は上着の|紐《ひも》をほどいた。
青ざめた白と、つややかな黒の、対照的なふたりの身体があらわになり、彼らはその違いをほほえみながら確かめあった。
「……女をあつかいなれてるのね」
時が流れたのちに、イェシルはつぶやいた。彼女は彼の肩に頭をもたせかけ、青白いなめらかな胸に手をおいていた。
「え、なんのことだ」
リューは彼女の手に手をかさね、問いかえした。
「あたしで何人めかってこと」
「――困ったな、そう聞かれても」
「多すぎて数えられないほど?」
記憶をたぐり、リューは返答につまった。リウィウスにいたころをふくめれば、彼女の言うとおりだった。
彼の身分と地位をめあてに、リウィウスでは大勢の者が|下心《したごころ》をもって近づいてきた。
それをいちいち|拒《こば》めるほど、彼の立場は確かなものではなかった。保身のため、和平のため、敵を増やさないために、彼は|誘《さそ》いに応じた。放浪者として旅するようになってからは、それほどの数でもなかったが。
「ここひと月ならば、君が初めてだ」
仕方なく彼はそう表現した。
イェシルは怒るかと思ったが、|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》にもならずほほえんでいた。
「そうでしょうね、あなたはもてそうだもの。行く先々で、女たちがさわぐと思うわ」
「とんでもない、来る者は拒まないたちだが、めったにそんなことはなかった」
リューは真顔になり、彼女を見つめた。
信じられないといったふうに、彼女は|額《ひたい》にくっきりとした白い|眉《まゆ》を寄せる。
「わけがあるんだ、それなりの――またうぬぼれていると言われるかもしれないが、自分でもそう捨てたものじゃないと思う。よさをわかってくれる女はけっこういると思うんだが」
かさねていた彼女の手と、義手のほうの手を取り、彼は交互に|唇《くちびる》をあてた。
そのどこかおどけた|仕《し》|草《ぐさ》と、真剣な眼差しに、彼女は吹きだした。
「どんなわけなの」
悩みの相談に乗るような調子で、イェシルは尋ねた。
「まだ不安があるな、君も以前ひかれていた女のように、わたしのことなど眼中になくなるかもしれない」
ためらいがちにリューはきりだす。
「今のところ、あなたに夢中よ、そんなことありえないわ」
「そうだといいが――わたしの連れは、やたらと女にもてるんだ。当人はあまり女に関心はないらしいが、その冷ややかさがまた女心をそそるらしい。連れとふたりでいると、わたしはいつも、|恋《こい》|路《じ》を邪魔するつけたしでしかなかった。何度もそういうめにあって、ひがみたくなったよ」
|相《あい》|棒《ぼう》の|冴《さ》え|冴《ざ》えとした|美《び》|貌《ぼう》を思い出し、リューは言葉とはうらはらの、なつかしさと|慕《した》わしさをおぼえた。罪悪感もうしろからしのびよってきた。
「そんなに素敵なの、石段にいたときには暗くてよく見えなかったけれど」
イェシルは興味をしめした。
「会わせたくないな、そのうち見る機会もあるだろうが」
きっとエリアードは心配し、彼を救いだすためにいろいろ手段を講じているにちがいなかった。もうひとりの気にくわない相棒と協力しあいながら。
「大丈夫よ、たぶん」
「あまり期待できそうにない答えだな」
「なら、ここから出なければいいわ。|苔《こけ》の寝台で、命の終わる日までずっとこうしていましょう」
まんざら冗談でもなく、イェシルは彼を抱きしめた。
「それはだめだ、まだやらなければならないことがある」
白金のちぢれた髪を|撫《な》で、彼はやさしくつぶやいた。
その返事を封じるように、彼女は彼の|唇《くちびる》をふさいだ。息をとめ、目を閉じて、ふたりは長い|接《せっ》|吻《ぷん》をかわした。
接吻ひとつが高くついたと|文《もん》|句《く》を言っていたリューだったが、事ここにおよんでは十分すぎる見返りを受けていた。むしろもらいすぎて、気がひけるほどだった。
「やらなければならないことって、財宝を運ぶこと?」
さりげなくイェシルは問いかけた。恋に酔う女のすきまから、もとの女泥棒の|貌《かお》がかいま見えた。
「|誰《だれ》に聞いた、アルダリアの同胞からか」
|蜜《みつ》|月《げつ》に水をさされて、リューも顔を引きしめた。
「そうよ、アヤはだませても、あたしはだめよ。|噂《うわさ》のとおり、あなたはちゃんと財宝を持っているのでしょう――奪いたいんじゃないわ、本当のことを話してほしいの。あなたはいろいろ話してくれているようで、|肝《かん》|心《じん》なことは何ひとつ言ってない」
痛いところをつかれ、リューはしばらく黙っていた。
イェシルにひとめぼれし、その素直な気持ちにしたがって腕に抱いたが、何も打ちあけてないのは事実だった。
「預かったものはある、ただしそいつは財宝じゃない、なんなのか、わたしにもよくわからないんだ」
さしさわりない程度に、彼は告げた。
「財宝以上のものかしら、あんなに同胞たちが目の色を変えていたのだから」
「ここであまり、本業を思い出してほしくないな――わたし自身は、そいつがなんであろうといいんだ。約束をはたすと誓ったからには、守る。とくに死者との約束は、取りけせない以上、たがうわけにいかない」
最後のほうは口の中で小さくなった。
イェシルは注意深く、彼の様子を見守っていた。
「あなたはいったい何者、ナクシット教団がこんなにまでして目をつけるのはふつうじゃないし、財宝がなんであっても興味はないなんて」
リューはまた押し黙った。
迷ったが、彼女に過去のいろいろな出来事を話す気にはなれなかった。ひとときともに濃密な時をすごしても、それは別のものだ。
彼女にひかれている気持ちに|嘘《うそ》はなかったが、すべてを分かちあう相手にはなりえなかった。
イェシルのほうは深い|意《い》|図《と》があって尋ねたわけではなかったから、それ以上は追及しなかった。たぐりよせようとした糸が切れたことに、彼女はそのとき気づかなかった。
とりとめのないやりとりがとぎれると、ふたりはどちらともなく互いを求めあった。はじめの無我夢中さはなくなっていたが、穏やかな|陶《とう》|酔《すい》がおとずれた。
救出隊は夜明け近くに現れた。
思ってもみない形で、ふたりは落盤か地震が起こったかと勘ちがいした。
激しい揺れと、地盤沈下がはじまった。
つづいて巨大なもぐらでも近づいてくるような|気《け》|配《はい》がした。
驚く彼らの前に、鉱夫のかっこうをした者たちが、岩壁をつきくずして出現した。土煙がもうもうとあがり、|褐色《かっしょく》の幽霊と見まごうばかりのいでたちだ。
リューとイェシルは岩壁からなるべく離れ、両手で鼻と口を押さえていた。
それでも彼らは土まみれになった。甘く優しい|褥《しとね》だった|苔《こけ》の|絨毯《じゅうたん》も、ふってきた|土埃《つちぼこり》と|瓦《が》|礫《れき》で見る影もない。
横穴はなかば|崩《くず》れかけて、鉱夫たちの掘ってきた穴とつながった。
土煙がおさまると、穴の向こうから外がながめられた。乳白色の空と瓦礫のようなものがのぞいている。
鉱夫たちのうしろから、ひときわ長身の男が進みでて、土まみれになった|頭《ず》|巾《きん》を|脱《ぬ》いだ。銅色のふさふさした髪と、大づくりな目鼻立ちの個性的な|風《ふう》|貌《ぼう》があらわになる。
「いささか手間どってしまったが、|怪《け》|我《が》はないだろうか、リューシディク殿」
芝居がかった調子で、グリフォンは歩みよってきた。
「ここをわたしたちの墓にする気か、もう少しで|生《い》き|埋《う》めになるところだ」
帽子のように積もった土をはらい、リューは|文《もん》|句《く》をつけた。
「乱暴なやり方だったのは認める。優秀なセレウコアの兵士といえども、本職の鉱夫なみにはなかなかいかない。つい力まかせに掘りすすんでしまった」
「セレウコアの――なんだってまた、そんな連中を動員できたんだ。いや、もっと不思議なのは、よくここがわかったことだ。|偶《ぐう》|然《ぜん》に突きあたったのではないだろう。いくらあんたでも、そこまで無茶はしないと思うが」
つぶやきながら、リューは状況を考えて首をひねった。
「話せば長くなるが、塔の落とし穴は人の手でつくられたものではなく、天然のものにちがいないと、わたしは急いで下町に住む知りあいの|白魔術師《しろまじゅつし》のもとにおもむいたのだ――案の定、北の丘にはかつて天然の|洞《どう》|窟《くつ》があり、ほとんどは封じてしまったが、残っているところもあるとわかった」
グリフォンはいつものように、ゆったりと語りだした。
話せば長くなるというのはそのとおりで、リューはよけいな質問だったと|後《こう》|悔《かい》した。地面や壁の揺れはおさまらず、横穴は|崩《くず》れかけていた。
「その|白魔術師《しろまじゅつし》は、アルルスの古文書整理と地図作りを仕事としており、|洞《どう》|窟《くつ》のあるあたりをくわしく調べた図面も持っていた。それで館の塔の真下あたりからつながる箇所に見当をつけ、丘の斜面から掘ってみたわけだ――もちろんわたしひとりの力では無理なので、援軍を頼んだ。持ち場を離れてもいい非番の連中を、かき集めるだけ集めてきたのだ。人数が多すぎて、作業は早かったが乱暴になったようだ」
やっとグリフォンは言葉をきり、ぱらぱらと土の固まりが落ちてくる頭上を見あげた。
リューはもう聞いていず、イェシルをともなって出口に向かった。
「本当に|生《い》き|埋《う》めになる、早く出よう」
グリフォンがそう|促《うなが》したのは、ふたりがすれちがい、先に行ってしまったあとだった。
穴の外にも、多くの兵士たちがいた。その中にまじって、エリアードの姿もあった。
無事なリューをまのあたりにして、彼は|安《あん》|堵《ど》した。先に入っていったグリフォンの声によって、大丈夫らしいことは承知ずみだったが。
リューも|相《あい》|棒《ぼう》を見つけ、すぐに歩みよった。
しかしエリアードのほうは、彼の後から親しげについてくるイェシルのせいで、その場を動かなかった。
「心配かけたな、なんとか生きてるよ」
申しわけなさそうに、リューは軽く頭をさげた。降りつもった土が|雪崩《な だ れ》のごとく足もとに落ちた。
「悪運の強いあなたのことだから、たぶん無事だとは思いましたよ――とんだ災難だと同情はしませんね。かえって望ましい状況になり、いい思いをしたのでしょう」
エリアードは彼と女泥棒を交互に見た。
かま[#「かま」に傍点]をかけただけだったが、リューはさきほどの情事の|痕《こん》|跡《せき》がまだどこかに残っていたのかと身体を見まわした。
|噂《うわさ》に聞いていた|美《び》|貌《ぼう》の連れに強く見つめられ、イェシルのほうは恥ずかしさもともなってどぎまぎした。
夜明けの薄明かりのもとに立つ銀色の青年は想像以上に美しく、これならリューのひがむ気持ちも理解できた。|怜《れい》|悧《り》な月の美しさで、薄い三日月のとがった先のような|不《ふ》|均《きん》|衡《こう》のあやうさに、彼女はひきつけられた。
「あの女すりが心配しているはずだ、早くもどったほうがいい」
ぼうっと相棒をながめているイェシルに、リューは声をかけた。そんなふうにエリアードを見る女にはなれていたし、|覚《かく》|悟《ご》はできていたからあまり落ちこまなかった。
イェシルはますます恥じいった。結局はリューが案じていたとおり、その美貌の連れに見とれてしまったのである。
「ええ、もどるわ――ありがとう、助けてくれて」
もう一度、礼を告げるとイェシルはきびすをかえした。
この場を早く去りたくなったのは恥ずかしさもあったが、あたりにたむろしている兵士のせいもあった。
職業柄うしろめたいこともあり、衛兵のそばには長くとどまりたくはなかった。盗みに入られた金持ちの|誰《だれ》かが、|人《にん》|相《そう》|書《が》きを渡していないともかぎらない。
丘を下りていくイェシルと入れかわりに、穴をもとどおりに|埋《う》める手配をすませたグリフォンが近づいてきた。
「出発はいつにしますか」
それまで黙りこくっていたエリアードが口をひらいた。
リューはぎょっとして|相《あい》|棒《ぼう》を見た。
「リューシディク殿の身体の具合いかんだ。馬に乗れないようなら、|輿《こし》をあつらえてもいいが――穴を掘る前にも相談していたが、ナクシットがここまで明白に動いた以上、一刻も早く都に入るべきだと思う。アルルスのような小さな町や、辺境の街道にいては身があぶない。今夜のように、わたしにも守りきれない場合がある」
「かよわい姫ぎみじゃあるまいし、守ってもらうまでもない。|輿《こし》に乗って運ばれるなど、想像しただけで寒気がする」
グリフォンに救出された直後なので、リューの言葉もいつもの勢いがなかった。
「これは個人の領域ではないんだ、ナクシット教団はあなどれない大きな勢力を有している。アルルスではこの程度だが、西に行けば行くほど分館も増え、信徒も多くなる。いくらあなたに腕と才覚があっても、防ぎきれるものではない」
物わかりの悪い生徒を教えるように、グリフォンは|辛《しん》|抱《ぼう》|強《づよ》く説いた。
|相《あい》|棒《ぼう》もすっかりグリフォンの側に立っているようで、リューの旗色は悪かった。
「――わかった、早いのがいいなら、今すぐにでも出発していいぞ。上等の革の手袋があれば、わたしは大丈夫だ」
|綱《つな》の|摩《ま》|擦《さつ》|熱《ねつ》で|火傷《や け ど》した手のひらを、リューはふたりにしめした。
腕はあざだらけだし、細かい傷は数えきれないほどあったが、やせ我慢でなく彼はまだ元気で、余力があった。
「宿の召し使いに、立つ準備をするよう命じてある。あなたが本当にかまわないなら、夜が明けないうちに町を出よう」
すこし休むように言われると思ったリューは、その返答にどっと疲れをおぼえた。
発言を訂正しようかと思ったが、グリフォンはかまわず先に立って歩きはじめた。
アルルス一番の高級宿から、三人連れの客が朝早く立ったことはすぐに下町でも伝わった。
アルダリア人の泥棒たちをはじめ、その客たちの運んでいるという財宝の|噂《うわさ》は大きく広まっていたせいで、よからぬ目的を持つ者たちは注目していた。
しかしイェシルがそれを知ったのは、その日の夕方すぎだった。彼女はアヤの実家の隠れ家にたどりつき、疲れはてて寝いっていた。
「どうしてすぐに起こさなかったの」
イェシルはアヤをなじった。
「だってイェシル、起きそうになかったし、聞いても悲しむだけだもの」
アヤは自分の判断がまちがっていないと、首を強くふった。そうして、まだ|茫《ぼう》|然《ぜん》としているイェシルの|膝《ひざ》もとにすがり寄る。
「何があったか、あたしはよく知らない。もどってきたイェシルがとぎれとぎれに話してくれたことだけだ――でも確かなのは、あいつがイェシルを救いだしたにしろ、その後もかかわりをもとうとは考えてなかったことだ。
もてあそばれたなんてひどい表現は使いたくないけど、ゆきずりの女としかあいつは見てなかったんだよ。あたしは宿まで行って確かめたんだ、イェシルに伝言でも残してないかって――何もなかったよ、行く先すら教えてくれなかった」
アヤとしては言葉をえらびながら、必死にうったえた。大好きなイェシルを傷つけるのはいやだったが、言わなくてはいけないとアヤは気力をふりしぼった。
「救いだしたのだって、イェシルのためじゃなく、ほかに目的があったついでだと思うよ。|噂《うわさ》では、ナクシットの|館《やかた》に|雇《やと》われていたアルダリア人が昨夜、殺されたんだって。信徒たちによって死体は|丁重《ていちょう》に|葬《ほうむ》られたそうだ――それは最初に財宝の噂を流したやつで、あいつらの|誰《だれ》かが手をくだしたにちがいないって話だよ。そんなこと、あの金の眼のやつはイェシルにひとことも話さなかっただろう」
告げられるたびに、イェシルは思いあたることがあった。
互いの腕の中で|睦《むつ》|言《ごと》めいたことをかわしあっていたときも、リューはけっして財宝にまつわることは話そうとしなかった。彼自身の|素性《すじょう》についてもはぐらかされた。
今まで忘れていたが、掘りすすんだ穴から現れた連れのひとりは、彼を見知らぬ長い名で呼んでいた。
とすれば、彼女は本当の名前すら教えてもらえなかったことになる。
最初はアヤの言葉を否定しようとしていたが、次第にイェシルは怒りで血の気がひくのを感じた。
「……馬鹿にして」
思わずイェシルは口に出してつぶやいた。
わかってくれたかと、アヤは顔を輝かせた。
「そうだよ、あんなやつ、イェシルが大切に思うようなやつじゃないんだよ。いいかげんな女たらしさ、イェシルに助けた恩をきせて、もてあそんだんだ。はじめっから、あたしにはわかっていたよ。あいつに誠実さなんてないってことが」
「でも……あたしを好きだと言ったわ、義手のことを打ちあけたら優しく抱きしめてくれた……」
甘いひとときの記憶が、わきあがった怒りと戦っていた。たばかられたとしても、イェシルはまだ彼を思いきれなかった。
「好きなのは本当だと思うよ。あいつがイェシルにひかれていたのは確かだ――イェシルは|魅力的《みりょくてき》だもの」
「|惚《ほ》れっぽいというわけね、女と寝たのは数えきれないくらいだって言ってた。簡単に好きになって、簡単に|口《く》|説《ど》くんだわ」
低い声でイェシルはつぶやいた。
「そう、そのとおりだよ、あたしも今、そう言うつもりだった。好きなのは本当だからといって、あいつのしたことを許しちゃだめだ。大事なのは、イェシルにふさわしい相手かどうかってことだよ。イェシルが|一《いち》|途《ず》な愛を|捧《ささ》げるにふさわしいかって……」
少しアヤは|頬《ほお》を赤らめた。
「許せない――ぜったいに」
「忘れちまいなよ、ちょうどいなくなったんだから、以前のイェシルにもどって、また楽しくやろうよ」
イェシルのやわらかな|膝《ひざ》に顔をふせ、アヤは|哀《あい》|願《がん》した。
けれどイェシルはきつい薄緑の眼をひらめかせた。
「このまま忘れることなんてできないわ。アルダリアのイェシルをこんなに馬鹿にして、さっさと逃げようだなんて、そんなこと許すものですか」
「どうしようっていうの、|復讐《ふくしゅう》するの」
おそるおそるアヤは彼女を見あげた。
「奪ってやるわ、その大事な財宝とやらを、アルダリアの泥棒の意地にかけても、盗みだして恥をかかせてやる――あたしにふさわしい復讐の方法でしょう」
赤みのない|唇《くちびる》をほほえみのようにゆがめ、イェシルは宣言した。
不安そうだったアヤの表情も明るくなった。
「かっこいい、イェシルらしいや――あたしも行く、連れてってよ、アルルスはしけててうんざりだったんだ。あたしも一度、|箔《はく》をつける財宝なんかを盗んでみたかった。相手があいつなら、良心も痛まないし、ぴったりだ」
ふたりの娘は顔を見あわせ、今度は心から笑った。
「そうと決まったら、旅の|支《し》|度《たく》よ。追いつくのがたいへんだから、急がなくちゃ」
イェシルはすっくと立ちあがった。
[#地から2字上げ]『ムーン・ファイアー・ストーン3』に続く
あとがき
『ムーン・ファイアー・ストーン』二巻めをお届けします。
辺境の荒れ地でめぐりあった隊商から、宝とは思えない|鉛《なまり》の固まりを預かったふたりは、やっかいな使命をせおって、アルルスの町を、西の帝国セレウコアをめざします。
シェクの花祭りで、|怪《かい》|傑《けつ》ゾロのように現れた銅仮面の|謎《なぞ》の男も、この巻から本格的に登場します。派手好きで、ひと癖もふた癖もあるこの第三の男は、作者がいうのもなんですが、主役をくってしまいそうな存在感があって困ってます。
もうひとり、この巻の後半には白金の女泥棒が登場します。ふつうなら、野郎ばかりの三人旅のマドンナ役となるはずなのですが……なかなか|一《ひと》|筋《すじ》|縄《なわ》ではいきません。
金銀のふたり組に、銅と白金が加わるという貴金属カルテットで、しばらくこの物語は進行していきます。
今回の『あとがき』は、書きはじめる前にさかのぼり、発端紹介編をお送りします。どんなものを下地として、この物語が生まれたかというものです。
ヒロイック・ファンタジーには幼少のみぎりより、強くひかれるものがありました。
とくに“コナン”シリーズが好きで、あまりわけのわからないままに|耽《たん》|読《どく》していました。|奔《ほん》|放《ぽう》な野生児の剣と|魔《ま》|法《ほう》の|冒《ぼう》|険《けん》|譚《たん》にはちがいないのですが、私のひかれていたのはその形容しがたい色っぽさと不健康な香りでした。
同じヒーローがいろいろな場所におもむき、さまざまな人と冒険にめぐりあうという連作形式も|魅力的《みりょくてき》でした。
ある長編では王として|君《くん》|臨《りん》しているコナンが、その次の短編では女戦士とともに辺境を旅していたり、宝石を盗みに入ったりという、時の流れにそわない順不同の書き方にもひかれました。
邦訳が遅れたのですが、コナンと対照的なヒーロー像を描きだした“エルリック”シリーズも好きでした。この魔剣の力に頼らなければ生きていけないヒーローの物語は、コナンではあからさまにならなかった影の部分、私のひかれてやまなかったなまめかしい|翳《かげ》りが前面に出ていて、ヒロイック・ファタジーの本質めいたものを強く感じさせてくれました。
前のふたつほどメジャーではないのですが、もうひとつ愛読したシリーズに“ファファード&グレイマウザー”というふたり組のヒーローが活躍するものがありました。この大男の剣士と|小《こ》|柄《がら》な魔法使いのコンビが織りなす冒険譚は、知的でしゃれていて、やはりダークな部分もあわせもっていて、忘れがたい素敵なシリーズでした(向こうでは五巻まで出ているのに、なぜ邦訳は三巻までしかないのでしょう)。
そうした物語の熱心な読者だった私が、あえて読み手と書き手の深くて暗い河をわたってしまうことになったのには、ひとつきっかけのようなものがありました。
いつのころなのか記憶にないのですが(かなり前です)、SF雑誌に海外ヒロイック・ファンタジーの概観が載っていて、未訳作品の紹介もついていました。
うろおぼえの記憶では、コナン型のヒーロー、エルリック型のヒーローなどの分類があり、ファファード&グレイマウザー型のふたり組パターンにも言及してありました。
そのついでのように書きそえてあったのが、海外にはふたり組のヒーローが互いに愛しあっているという作品があるらしいことでした。“ファファード&グレイマウザー”にも、あからさまではないにしろ、そうした要素はありました。ふたりともそれぞれに女の恋人がいるのですけれど、いちばん身近に感じ、大切に思っているのは互いに|相《あい》|棒《ぼう》のほうです。
ヒロイック・ファンタジーにかぎらず、ふたりでずっと旅していく物語にはそうした香りがときどき感じられます。映画の『スケアクロウ』や『明日に向かって撃て』なんかもそうです(映画に関しては有田万里氏の評論集『眺めのいい男たち』収録の「珍道中映画を診る」を、ご興味がある向きは参照ください)。
私は猛然と興味をかきたてられたのですが、作者名もタイトル名もなく、まだ洋書を取りよせて読むということも知らない年齢だったので、あきらめました。
けれど、そのときの激しい|好《こう》|奇《き》|心《しん》はずっと心の奥底にあり、ときどき表に出てきました。そのうちに読みたいものが手に入らないなら、自分で書いてしまえばいいと|不《ふ》|遜《そん》にも考えはじめました。
考えているだけで時はすぎ、前回の『あとがき』にも書きましたように、八九年五月にこのシリーズの概観がうかびました。あまりヒロイック・ファンタジーとは、いえないものとなりましたが。
これはぜったいにおもしろいと思ったのですが、書きようによっては誤解をまねくだろうなと|危《き》|惧《ぐ》しました。
設定や物語の展開は天からふってきたときのまま、ほとんど手を加えませんでしたが、ふたりの微妙なやりとりや、感情描写には|試《し》|行《こう》|錯《さく》|誤《ご》をかさねました。
彼らふたりはバイ・セクシャルといえばいえるのですが、この物語はけっして同性愛を描いたものではありません。むしろ異性愛・同性愛などの区分けをなくした、あやうい|均《きん》|衡《こう》の対等な関係を描けたらともくろんで書きはじめたものです。
たぶん、わざわざこんなことを書かなくても、わかってくださる方はわかってくださるのではないかと思ってます。
ずっとふたりで、ときには三人や四人になったりして、旅をしていく物語です、これは。一種の|貴種流離譚《きしゅりゅうりたん》で、故郷を|喪《そう》|失《しつ》した人々の物語でもあります。もっとも、彼らは次第に|高《こう》|貴《き》とはいえなくなり、生まれながらの放浪者のようになり、軽やかになっていくはずですけれど。
では三巻めで、またお会いしましよう。
九一年四月
[#地から2字上げ]|小《お》|沢《ざわ》 |淳《じゅん》
本電子文庫は、講談社X文庫ホワイトハート(一九九一年五月刊)を底本といたしました。
|銅《どう》の|貴《き》|公《こう》|子《し》 ムーン・ファイアー・ストーン2
講談社電子文庫版PC
|小沢淳《おざわじゅん》 著
(C) Jun Ozawa 1991
二〇〇二年二月八日発行(デコ)
発行者 野間省伸
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