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小池真理子
虚無のオペラ
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虚無のオペラ
1
米原のあたりは烈《はげ》しい雪だったが、京都に近づくにつれて、いくらか小降りになってきた。
車窓の向こうには雪雲が重く垂れこめ、あたりを墨絵の世界に変えている。雪の日特有の仄《ほの》白さがあって、風景それ自体が奇妙に静まりかえって見える。
白く染めあげられた家々の屋根瓦を遠くに眺めつつ、結子《ゆいこ》は腕時計を覗いた。
三時少し前。定刻の到着である。
指先が少し冷たくなりはじめていた。何かしらの緊張を覚えると、いつも指先だけが冷たくなる。子供の頃から治らない。冷たく乾いて、指が氷柱《つらら》の中に閉じこめられてしまったようになる。
裸婦のモデルとして堂島滋春《どうじましげはる》のアトリエに行き、着ていたものを全部脱いで屏風《びようぶ》の前に立った時もそうだった。足の爪先まで冷えきって、そのくせ、頬と胸元のあたりは火のように火照《ほて》っていた。
堂島から、指先の表情が硬い、と言われた。もう少し、ほら、こんなふうに……堂島が無表情のまま近づいてきて、軽く結子の指に触れ、ポーズの指示をした。
堂島は結子の指先が冷えきっていることに気づいたはずなのだが、何も言わなかった。あの時の堂島の手の温かさを結子はよく覚えている。冬の日の、日溜まりの縁側のような温かさだった。
京都駅で降りる乗客が、コートを着たり、荷物をまとめたりしはじめた。サラリーマンふうの男が、携帯電話を耳に、通路を急ぎ足で通りすぎて行った。どこか遠くの席で、赤ん坊が泣きだした。
結子は座席を立ち、網棚のボストンバッグをおろした。膝下まである黒のコートに袖を通し、白いマフラーを二重に巻いて首元で結わえた。冷えきっている手に黒い革の手袋をはめ、両手を軽くこすり合わせた。
島津正臣《しまづまさおみ》と会う時、結子はいつも緊張する。幾度も幾度も、数えきれないほど会ってきたというのに、待ち合わせの場所に向かう時、あるいは自分の部屋で彼が来るのを待っている時、あと三十分、あと十五分、と考えながら、時間がごうごうと音をたてて、彼、というひとりの男に向かい、流れていくのを感じる。
会ってしまえば緊張はすぐさま解ける。冷えきっていた指先にも血が通いはじめる。だが、その直前までの張りつめた気持ちの余韻が消えないせいか、結子の表情はいつだって硬いのだった。
正臣からは何度も言われた。あなたはいつ会っても、仏頂面をしてるんだね、と。不機嫌を絵に描いたみたいな顔して僕の前にあらわれるんだね、と。
ほら、笑って、と言われる。軽く片方の頬を指先で突つかれる。
結子は無表情のまま、眉をつりあげてみせる。四十六の女が八つも年下の男に、あやされるような言われ方をされているのが気にいらない。
気にいらないのだが、正臣の言い方にはいつも、ささくれだった気持ちの刺《とげ》を急速にやわらげる、温かな強引さ、とも呼べるものがある。仕方なく結子は、おずおずと笑みを浮かべる。
よくできました、と正臣はふざけて言う。
結子は少女のように彼を正面から睨《にら》みつけ、何事もなかったように背を向ける……。
新幹線を降りる準備を整えてしまうと、結子は再び放心したように座席に腰をおろした。
京都市左京区の北のはずれ、花背《はなせ》の里にある小さな宿で、ふたりきりで四日間をすごす……そう思いたったのは、つい二週間ほど前である。
いったん、思いつくと、いてもたってもいられなくなった。すぐに正臣にその計画を話し、彼の同意を得るためにあらゆる言葉を弄《ろう》した。
以前、一度だけふたりで訪れたことのある宿だった。ラジオもテレビも新聞も置かれていない。窓から見えるのは渓流と木立《こだち》と空だけである。その、時間が止まったような静けさは、自分たちのような人目をしのぶ間柄にふさわしかった。
だが、今となってはどうしてこんな企みを実行に移してしまったのか、と後悔に似た気持ちにかられる。
四日間を心ゆくまで味わって、静かに別れる……。初めは名案だ、と思っていた。四日も一緒にすごせれば、気持ちはきれいに浄《きよ》められ、訣別を受け入れることができるだろう、と考えた。
丸四日間もよ、うんざりするほど一緒にいられるのよ、と結子は半ば浮き浮きしながら正臣に語った。まるで楽しい小旅行の計画を練っているかのようだった。「そうすれば、きっと心から納得して最後を迎えられる。ね? そうしようよ」
別れるための旅に出るのなんか、僕はいやだ、と彼は言った。どこの馬鹿がわざわざ別れの旅なんかに出る? 別れを意識してすごすなんて、こんなに辛いことはないじゃないか、かえって離れられなくなるとわかっていて、そんな辛い旅に出るのなんて冗談じゃないよ、と。
妥当な意見だった。まともな人間なら、誰だってそう答えるに違いなかった。
だが、結子は自分の編みだしたアイデアに酔った。舞台に幕をおろそうとする時には、仕掛けが必要だった。できれば絢爛豪華な仕掛けがいい。ライトがめくるめく舞台を映しだし、俳優たちが全員、所狭しと登場してフィナーレにふさわしい歌を歌い続け、鳴りやまない拍手の中で堂々と幕がおろされる。
幕がおりてしまってもなお、幕の向こう側では歌が続いている。そしてそれは、いつまでもやむことがないのである。舞台が暗くなり、客席に照明が灯され、観客が三々五々、席を立ちはじめてもなお、音楽は、それを聴こうとする人間の耳にだけ、変わらずに流れ続けるのである。
ただひっそりと、消え入るように終わりを告げるだけの悲劇は御免だった。だって、と結子は正臣に向かって言った。後には無音の闇ばかりが残るのよ、そんなの耐えられない、と。
正臣は呆れながらも、結局は不承不承、旅に出ることに同意した。人工的な仕掛けを施したフィナーレを演出しようがしまいが、結局は結子が自分から離れていくことを知り抜いていたせいかもしれなかった。
事実、何をしようとも、結子の決心が変わるはずはないのだった。一度決めたら、気が変わった、などと言いださないのが結子であった。そのことを正臣は認めていた。それは短い時間とはいえ、結子という女に溺れた人間でなければわからない、直感のようなものと言ってよかった。
旅の段取りはただちに決められた。二月四日から七日まで。三泊四日。花背にある宿、深山亭《みやまてい》に宿泊し続ける。思い出深い宿である。そしてふたりはそこで何もしない。ただ一緒にすごすだけ……。
前日の二月三日に、大阪で男性声楽家のリサイタルが開かれることになっていた。ピアニストである正臣は、伴奏を務めるため大阪入りする。リサイタル後は大阪に一泊するので、翌日、京都に出るということにすれば無駄が省ける。
声楽家の伴奏を主な仕事にしているとはいえ、正臣はソリストとしての活動も続けていた。ちょうど京都にあるコンサートホールでの、彼自身のリサイタルが四月に迫っているという時期でもあった。
ひどくうしろぐらいような偶然ではあったが、それは彼が、京都で何泊かするための口実にもなった。リサイタルの打ち合わせや関係者たちとの懇親会があって京都に滞在する、ついでに久々の休みをとって近隣を観光してくる……妻に対してはそのひと言ですむだろう、と彼は言葉少なに結子に打ち明けた。
問題は、逗留する宿が山間《やまあい》にあって、携帯電話が通じなくなることであった。三泊四日の滞在中に、妻の織江《おりえ》から正臣の携帯に連絡が入らないとも限らなかった。それは緊急の用であるかもしれない。携帯が通じないとなれば、織江が無用な不安を抱く可能性もあった。
そのあたりのことは何とかするよ、と正臣は言った。心配しないで、と。
どのみち、これが最後なのだから、と結子も自分に言い聞かせた。織江に対しては、これまで最大限の配慮を怠らずにきたつもりだった。後のことは正臣に任せるしかなかった。
だが、本当にこれでよかったのだろうか、と結子は改めて考える。
あまりに馬鹿げた、信じられないほど愚かなことを自分たちはしようとしているのではないか。正臣が案じていた通り、こんなことをすれば、かえって別れがたくなってしまうのではないか。芝居がかったことなどせずに、さようなら、これでおしまい、ときっぱり言って、互いに背を向ければそれですんだのではないか……。
たとえそこに、わずかなわだかまりが残されても、いずれは消える。消えるであろうことはわかっている。時間は残酷だ。どれほど烈しく、死をも厭《いと》わないと感じた熱狂ですら、いずれは必ず鎮まって、幾多の記憶の小箱の中の一つに納められていくのである。
その時が来るのを待っているべきだったのではないか。悲しみの底で背中を丸め、膝を抱え、しばらくの間、じっとしてさえいれば、いつかは嵐は通りすぎる。凪《な》いだ日々が戻ってくる。そうわかっていて、何故、そうしなかったのか。
新幹線が速度を落としはじめた。京都の町並みが窓の外に拡がった。近代と古代の融合。凄まじい速さで流れていく時間が、この街ではそこかしこにひっそりと溜まり、淀み、小ゆるぎもせずに息をひそめている。
決してなじみのある街ではない。人並みに幾度か訪れたことはあるが、親戚や友人知人がいるわけでもない。東京生まれ、東京育ちの結子には縁もゆかりもない街である。
かろうじて、正臣と肩寄せ合って訪ねた時の記憶だけが真新しい。だが、それらが果して現実に起こったことだったのかどうか、今となってはあやふやである。ただの、夢まぼろしにすぎなかったような気もしてくる。そしてそのまぼろしを追い求めながら、性懲《しようこ》りもなく再びこの街に来てしまった、と結子は思う。
白い粉のような小雪が舞いおり、風に吹きあげられている中、新幹線「のぞみ」は静かに京都駅のプラットホームにすべりこんだ。
あらかじめ正臣には、結子が乗車する車輛ナンバーを教えてある。ホームまで迎えに行く、と言われて躊躇《ちゆうちよ》したのは、万が一、見知った顔が同じ車輛に乗っていたら、と案じたからだが、その心配もなさそうだった。東京駅でも誰とも会わなかった。結子の知る限り、知り合いが同じ新幹線に乗っていた様子もなかった。
停車した新幹線のドアが、空気のもれるような音をたてながら開いた。凍てついた空気が車内になだれこんできた。十数人の客に混じって、結子はホームに降り立った。
乗降口から少し離れた右手のほうに、正臣が立っているのが見えた。キオスクの壁に寄りかかり、両腕を組んで足を交叉《こうさ》させている。黒のコート、黒のマフラー、黒のパンツ。黒ずくめである。足元に黒い布製の、大きな旅行用バッグが置かれてある。
彼もまた、すぐに結子の姿をみとめた。小動物を威嚇《いかく》する黒豹のような目に、やわらいだ表情が宿った。
結子はその場に佇《たたず》んだまま、微笑した。口からふわりと白い息が立ちのぼった。泣きたくなるような気持ちにかられた。
彼はバッグを肩にかけ、ゆっくりとした足取りで結子のほうに歩いて来た。見慣れた歩き方だった。大股の、背中に一本、棒が入っているかのような姿勢のいい歩き方……。
何を言えばいいのか、わからなくなった。こんにちは、どうも、寒いわね……どれもありきたりだった。かといって、ついに来てしまった、などという芝居がかった言い方をするのもいやだった。
言葉を探しながら、結子は視線を宙に泳がせ、再び笑みを浮かべてみせた。
結子の前に立つと、正臣は手袋をはめていない手で、結子の頬をするりと撫《な》でた。「今日は笑ってくれたね」
温かな手だった。指先からかすかに煙草の香りが漂った。
胸の中を、熱くたぎるような何かが渦を巻きながら流れていくのがわかった。結子は、こくりと子供のようにうなずいた。
発車のアナウンスが続き、ホームは喧騒《けんそう》に包まれた。
京都駅八条口に出て、あらかじめ結子が東京で予約しておいたタクシーを探した。
駅前広場に積雪はなかったが、路面は黒く濡れそぼっていた。厳寒期のせいなのか、あるいは京都を訪れたほとんどの観光客がひとまず烏丸《からすま》口のほうに行ってしまうせいか、あたりに人の姿は少ない。時折、雪まじりの風が吹きつけ、尖ったような冷気が頬を撫でていく。
紺色の制服に白い制帽をかぶった品のいい初老の運転手が、前に進み出て来るのが見えた。運転手は丁重に帽子を脱いで挨拶してきた。結子と正臣は会釈を返した。
結子はかつて正臣と二度、京都を訪れている。前年の夏、二度目に来た時は、貴船まで行った。急に思いついて出た旅だった。貴船での宿や料理の手配は、たまたま利用したタクシーの運転手に任せた。心やすく話が通じる男だったので、帰路もまた、同じ運転手を指名した。堂島夫妻にみやげにするつもりで、和菓子のおいしい店を紹介してほしい、と頼んだ結子に、法然院近くにある老舗《しにせ》の和菓子店に案内してくれたのも、その運転手だった。
正臣との最後の旅を託すのにふさわしい人柄だった。結子は予約の際に迷わず彼の名を口にした。職業柄、秘密めいた男女を星の数ほど乗せてきたはずである。今さら結子と正臣の関係に興味をもつとも思えない。気ごころの知れた運転手のほうが余計な神経をつかわずにすむ。
「運転手さん、申し訳ないけれど、途中でどこか、酒屋に寄ってくれませんか」
車に乗りこむとすぐに、正臣が言った。
宿で、遅い時間にいちいち酒類を注文し、運んで来てもらうのもしのびない、いっそあらかじめ用意しておいて、好きな時に飲めるようにしておいたほうがいいのではないか……出発前から彼はそう提案していた。
花背の深山亭には、部屋の片隅に、目立たぬように小さな冷蔵庫が備えつけられていた。瓶ビールと日本酒の小瓶は常備されている。何を持ちこんでいただいてもかまいませんので、と女将が言っていたことを思いだし、結子も同意した。
「どんなものをお探しですか。日本酒の地酒をたくさん置いてる店もありますし、独自のワインセラーを持ってはって、かなりの種類の中からワインを選べる店もありますし」
「ワインがいいよね」と正臣は結子に聞いた。「白と赤を何本か。それでいいよね」
結子がうなずくと、運転手がバックミラー越しににこやかに笑いかけた。「その店のワインセラーはなかなかのもんですよ。そこのご亭主と深山亭の先代のご主人とは、昔から懇意にしてはったんです。もっとも、今は息子さんのほうがお店をやってる形になってますけど」
「じゃあ、そこに」と結子は言った。「遠いんですか」
「いや、大して遠くありません。ちょっと寄り道する程度です」
前日の雪は少し降ってすぐに消えたが、今日あたりからまた、しばらく雪空が続くかもしれない、ひょっとすると久々の大雪になるかもしれませんねえ、と運転手は言った。花背のあたりはかなり積もってるはずですよ、と。
正臣がコートのポケットから煙草を取りだし、火をつけて窓を細めに開けた。まるでそれを合図にしたかのように、運転手は慎み深く口を閉ざし、やがて会話はそこで途切れた。
暖房が効いていて、車内は温かかった。よく磨かれたフロントガラスに雪がはねている。賑やかな河原町通を車が走り抜ける。
鴨川べりでは、河原に降り立つ水鳥の群ればかりが目立ち、あたりに人の姿は少なかった。四条河原沿いに並ぶ、夏の風物詩の「床《ゆか》」も、冬枯れの葦《あし》のように白茶けて、うそ寒い陰の中に沈んでいる。
賀茂街道を北上し、御薗橋を渡って府道38号線に入ったところの、比較的静かな一角に、目指す酒屋はあった。落ちついた佇まいの古い酒屋であった。運転手が先に立って中に入り、店の主人にひと言ふた言、何か言うと、主人は結子たちを地下のワインセラーに案内してくれた。
五人も入れば、いっぱいになりそうな小さなワインセラーだったが、仄暗くひんやりとした個室には幾種類ものワインが並べられ、選ぶのも苦労するほどだった。
白はシャブリを、赤はブルゴーニュをそれぞれ三本ずつ、異なる種類のものをそろえようとして、ふたりで相談し合った。肩寄せ合い、互いにラベルの文字を声にだして読み取り合い、時折、ふざけて身体をぶつけ合ったりした。笑い声がはじけた。結子はいっとき、これが別れの旅であることを忘れた。
支払いをする段になり、結子が財布を取りだすと、だめだめ、と言って正臣がレジに向かった。後を追い、コートの袖を強く引いた。彼はもう一度、「だめだってば」と少年じみたきつい口調で結子の手を遮った。
「忘れたの? 私が払うんだ、って言ったでしょ」
「そんなに払いたいの? だったらこの店の酒、全部買ってよ」
「あ、そうしてくれはりますか? えろう助かりますわ」
店の主人が、間に割って冗談を飛ばした。中年の、人のよさそうな男だった。自分とさほど年が離れていないだろう、と結子は思ったが、彼のほうではそうは思っていないのかもしれなかった。
結子は誰の目にも若く見えた。堂島にはいつも、三十代にしか見えないと言われている。身体だけではない。肩まで伸ばしたくせ毛の髪をふだんは頭の後ろで無造作にひとまとめに結っていて、そのせいで余計に小さく見える顔も、仕草も、喋り方も。喋り方に至っては、女子大生みたいだ、と言われることもある。
「どうせ、ひと昔前の、でしょ?」と結子は聞き返す。
堂島は笑う。笑うだけで応えない。
そしてまた、正臣も若く見えた。二十八、九、と言っても充分通用する。表現することは異なっていても、ふたりとも肉体と精神を駆使しながら、長い間、何かを生みだそうとしてきた。外見上の若さはひとえに、その結果与えられた、ささやかな余禄《よろく》なのかもしれなかった。
「ここは僕が払う。いいから、あっち行って」
正臣はきっぱりと言った。もともと正臣には、のどかで健康的な男性主義的側面があった。絵に描いたような男を演じるのを好んだ。どんな場所であれ、女に支払いをさせるのは恥ずかしいことだと信じ、そのせいで結子とも、常日頃、会計の際に少なからず揉《も》めることになるのだった。
結子はわざと口を尖らせ、苦笑しながら後に引いた。
訣別の旅で、宿泊費も交通費も、一切合切、結子は自分ひとりが支払うつもりでいた。どう考えても贅沢な、分不相応の旅だった。驚くほどの金額になることはわかりきっていたが、たとえ全財産をはたくことになったとしても、惜しいと思うはずもなかった。
この旅はふたりの訣別の旅であると同時に、正臣の新しい門出を祝福するための旅でもあった。あらゆる感情を押し殺してでも、そのための経費は自分がもたねばならなかった。
一切合切を放出してしまいたい、という思いだけが結子の中にあった。手元にあるもの、一切。すべて。すべてを失って、それでいいのだった。
タクシーに戻り、一路、花背に向かおうとする頃、雪がいくらか烈しくなってきた。夕暮れを迎え、一挙に気温が下がったらしい。
京都産業大学の脇を通りすぎながら、運転手が聞いてきた。「寒くありませんか。ヒーター、強めときましょうか」
「大丈夫です」と、ほぼ同時に結子と正臣は声をそろえて答えた。
ふたりは思わず顔を見合わせ、微笑み合った。シートの上の結子の左手に、正臣の右手がそっと重ねられた。
彼の手は温かく、少し湿っていたが、芯のほうにかすかな冷たさが感じられた。その冷たさは、結子の指先の冷たさと溶け合って、次第に生温かなものに変わっていった。結子は窓の外に顔を向けたまま、正臣の手を軽く握り返し、大きく息を吸った。
京都の街の風景など、何ひとつ目に入らない。目で見るもの、耳で聞くものは、結子の興味を引かなかった。結子はただ、自分と彼とを結んでいる、二本の手だけを意識しながら、そのぬくもり、冷たさ、不安、悲しみ、絶望を受け取ろうとしているだけだった。
何かを喋っていたい、とめどなく喋り続けていたい、と思うのだが、話すことなど何もないような気もする。運転手が聞いている、と思うと、ふたりきりの秘事のような会話を交わし続けるのも気がひけて、正臣の横顔を窺《うかが》うことすらできなくなる。
結子は黙りこくったまま、窓外を流れる景色を眺めているふりをし続けた。そこに風景はなかった。間断なく舞い落ちてくる雪だけが視界を埋める。じっと見ていると、息苦しくさえなってくる。
自分の左手を包んでいる正臣の手だけが、すべてだった。他のものはもう、どうでもよかった。
著名な日本画家、堂島滋春と知り合い、モデルになってみてほしい、と言われたのは、一九八五年、三浦結子が三十歳になった年のことであった。
堂島は当時、五十一歳。銀座の画廊で久々に開かれた堂島滋春の個展に行った際の、年齢よりも遥かに落ちついた彼の風貌を結子は今も、時折、懐かしく思い返す。
個展会場の中央には、白い布貼りのソファーと肘掛け椅子が二脚、置かれており、堂島はそこで知人らしき男ふたりと歓談していた。新聞や雑誌で顔写真は何度か見たことがあるが、実物を見るのは初めてだった。
禿げあがっているというほどではないのだが、額が大きく後退していて、両サイドの、軽くウェーブのかかったやわらかそうな白髪まじりの髪の毛が、耳を被っている。男にしては色が白い。鼻は大きく、唇は厚く、頭部それ自体も大きくがっしりとして見えるのに、目だけが情けないほど小さくて、そのせいで全体のいかつさに優しさが加わり、穏やかな雰囲気を醸しだしている。
夏だった。たまご色をした麻のジャケットにブルーグレーのくたびれたTシャツ、着古したようなジーンズといういでたちで、堂島はにこにこと笑みを浮かべつつ、氷が溶けかかったアイスコーヒーを飲んでいた。
長い間、堂島滋春の絵は結子の中の何かを刺激し続けてきた。美大在学中も、堂島の絵をまねて描いてみたことが何度かある。うまくいったためしはないが、堂島の画集を開いて煙草に火をつける時は、どれほど心乱される出来事があったとしても、常に気持ちが凪いだ海のようになった。
その堂島本人が目の前にいる、と思うと嬉しくなった。着ぐるみの大きなウサギのように見える風貌にも親しみを覚えた。気がつくと結子は、臆さずにつかつかと彼の前に進み出ていた。
「堂島先生、今日は素敵な個展、ありがとうございました。ちょっと絵をやってたこともあって、ずっと先生のファンだったんです」
堂島はつと結子を見上げ、小さな目を瞬かせた。怪訝《けげん》な表情はただちに消え、すぐにやわらかな笑みが口もとに浮かんだ。
「どこかの学生さんですか」
「まさか、とんでもない。とっくに卒業してます」
「そう。美大にいらしたの?」
結子が卒業した大学の名を口にすると、堂島は、ほう、と言った。「一度だけ、呼ばれて講演をしたことがありますよ。ずいぶん前のことですが」
「そうそう。ちょうど私が卒業した翌々年だったかな。先生が講演にいらしたっていう話、友達から聞きました。どうして在学中に来てくださらなかったんだろう、ってものすごく残念でした」
堂島は小さな目を細め、「お名前は?」と聞いてきた。他意のなさそうな聞き方だった。お愛想でそう聞いただけのようでもあった。
「三浦、です。三浦結子」
「専攻は日本画?」
「そうですけど、全然、才能なんかなかったみたいです。先生の絵が大好きで、先生のお描きになるような艶やかさがだせないものかとずいぶん努力したんですけど、似ても似つかなくて……。今はもう、全然描かなくなっちゃいました」
「それはもったいない。続ければよかったですね」
「ええ。でも、食べていくことだけでも大変ですから」
「お仕事は何を?」
「失業中なんです」そう言って、結子は明るく笑ってみせたが、笑い声は場違いなほど大きくあたりに響きわたった。堂島の前に坐っていたふたりの初老の男たちが、咎《とが》めるような目で結子を見た。
「あ、ごめんなさい。お話し中のところ、お邪魔しちゃって。じゃあ、これで失礼します。ご活躍、お祈りしてます」
堂島は微笑み返し、軽く会釈をした。初めて会った人物のようには思えない気軽さに、つい結子は片手をあげてひらひらしようとし、途中で気づいて、慌ててそれを抑えた。
堂島は、くすくす笑って彼のほうから軽く手を掲げ、じゃ、また、と言った。結子は一礼し、その場から離れた。
堂島本人から結子のところに手紙が送られてきたのは、十日ほどたってからのことになる。
個展会場であなたを見て、少しだがあなたと話をして、画家として大いに刺激されるものがあった、もしも興味があるようだったら、一度、僕のアトリエに来て、モデルをやってみる気はないだろうか、そしてもしも、続けてみたいと思うのだったら、しばらくの間、通ってもらうことはできないだろうか……そうした内容の文面であった。結子は面食らった。
個展会場の入口には和紙を綴じた芳名帳が置かれてあり、そこに住所氏名を記帳したことは確かだった。三浦結子、と名乗ったのだから、堂島が芳名帳を調べれば、住所を知るのはわけのないことだった。
だが、そうだとしても何故、この自分がモデルなのか、と結子は思った。笑いだしたくもなった。
堂島の絵のモデル、といったら、裸婦に決まっていた。しかもそれは、大柄の、雌豹のような、日本人離れした体躯のモデルを使って描かれたものがほとんどである。実際、堂島は外国人やハーフの女性にモデルを依頼することが多い風変わりな日本画家としても、つとに有名であった。
髪の毛は黒、瞳も黒、性毛も黒でなければならない、という条件があったとはいえ、堂島の絵に描かれてきた幾多の女たちは、日本的なエッセンスからは大きくかけ離れていた。それは裸体が表現する異国であり、見知らぬ風景そのものでもあった。触れようと思っても永遠に触れることのできない女ばかりであった。誰が見ても、手の届かぬところにぼんやりと佇んでいる美しい異邦人……それが画家としての堂島の好む女のイメージであることは間違いなかった。
一方、結子は誰の目にもきわめて日本人らしい日本人として映った。身長は百五十八センチそこそこ。目も口も鼻も小さく、眉だけが黒く濃くて、いささか下がり気味なこともあり、時として泣いている童女のような顔にも見える。
身体つきにも、西洋人ふうのめりはりなど、少しもない。全体の均整こそとれてはいたが、そこに人を魅了する特殊な輝きは希薄で、どちらかといえばありふれてもいる。群衆の中にまぎれこんだら、すぐに見えなくなってしまう、大勢の日本人の中の一人にすぎず、結子は何故、自分のような平凡な女に堂島が興味をもったのか、まったくわかりかねた。
それでもせっかく堂島が手紙をよこしたのに、ろくに考えもせずに断る、というのも気がひけた。何故、自分に興味をもったのか、堂島本人の口から聞いてみたい気もした。からかわれているのだとしても、それでもよかった。堂島のような優れた画家にからかわれるのなら、本望だった。
失業中、と言ったのは嘘ではなく、時間はたっぷりあった。夏の日ざかりの頃、結子はジーンズに衿《えり》ぐりの大きく開いた白のTシャツといういでたちで、安ものの籐《とう》の大きなショルダーバッグを肩にかけ、堂島滋春のアトリエを訪ねた。
自宅とアトリエは、現在の横浜市青葉区……当時の緑区にあった。田園都市線たまプラーザ駅からバスに乗り、三つ目の停留所で降りたところの奥にあたる。
油蝉が鳴き乱れる閑静な高級住宅地だった。ニセアカシアが立ち並ぶ並木道から奥に入り、少し道に迷ってしばらく同じ界隈をぐるぐる回った。やっと「堂島」という表札を見つけ、石造りの風変わりな二階建ての建物の前に立った時、結子は汗だくになっていた。
玄関まで出て来たのは、堂島の妻、礼子だった。痩せ細った、栄養失調の子鹿のような顔をした女だった。目と口が大きいせいか、日本人離れして見える。終始、はにかんだような、物静かな微笑みを湛《たた》えていて、そうやってスペインの小さな古城のような白い建物の中に佇んでいると、堂島の妻、というよりも、控えめな家政婦のようにも見えた。
ひとまず広々とした居間に案内されて、結子は堂島夫妻と共に小一時間ほど談笑した。
美大を出てから才能の芽はない、と諦めた時の話や、アルバイト的な仕事ばかりに手を染めていた頃の話、なんとか小さな広告代理店に就職することができたものの、上司と恋仲になり、居づらくなって退社した話、その後は失業保険を受けながら呑気に暮らしている、といった話を聞かれもしないのに、結子は正直に打ち明けた。
夫妻は面白そうに話に聞き入っていた。長椅子に並んで坐り、時折、目を見交わし合う姿は夫婦仲のいいことを連想させた。
「で、その後はどうなったの」と堂島に聞かれた。
「どうなった、って?」
「その、恋仲になったっていう上司とですよ」
ああ、と結子は言い、軽く肩をそびやかした。「会社を辞めた時点で、別れました。別にそれほど好きな相手じゃなかったから」
「好きじゃなかったのに恋仲に?」
「私、身持ちのいいほうじゃないんです」
礼子はくすくす笑ったが、堂島は笑わなかった。うなずき、アイスティーをストローで音をたてながら飲みほしただけだった。
「すみません、こんな話。なんだか全然、関係ない話ばっかりですよね」
「いやいや、かまわない。楽しい話でした。じゃあ、そろそろ行きましょうか」
「どこに?」
「アトリエはすぐ隣です」
あの、と結子は言い、もじもじしながら堂島夫妻を交互に見つめた。「ちょっと待ってください。何か誤解されているような気がします」
「誤解?」
「私、今日は別に、お仕事をするために来たわけじゃありません」
「わかっています」
「先生の裸婦のモデルなんて、私には無理です。できっこありません。こんなに小柄ですし、顔も身体も全然、きれいじゃないし、先生の絵にふさわしいとはとても思えない。だから、ああいうお手紙をいただいて、本当に驚きました。でも、ひと言でお断りするのも失礼だし、直接お会いしてお断りしようと思って……それでこうやって今日、お訪ねしたんです。ですから……」
「僕があなたに裸婦のモデルを頼んだ、って? 何故、裸婦だと思ったんです」
違うんですか、と結子は幾分、高飛車に聞き返した。「先生は裸婦を描くことで有名な方です。裸婦しかお描きにならない。先生がお描きになったもので裸婦以外の作品は、二年くらい前に発表された大きな屏風絵くらいでしょう」
ははっ、と堂島はあまり可笑しくもなさそうな乾いた笑い声をあげた。「目が節穴の連中には僕の描く絵は、ただの裸婦に見えるのかもしれませんがね。僕がこれまで描いてきたのは、僕の意識の中では裸婦ではない。裸なのに、衣服をまとっているように見える女……そういう女ばかりを描いてきたつもりなんだ。でも、最近はそういうものにも、少し行き詰まりを感じてきた。逆説的な言い方になるが、衣服をまとっていても、裸婦に見える、そういう女性を描いてみたくなった。この間、個展会場であなたを見た時に、ぼんやりと自分が思い描いていた人が形となって目の前に現れた、そう思ったのです。失礼な言い方に聞こえるかもしれないが」
言われていることの意味がわからなくはなかったが、結局は裸婦なのではないか、と結子は思った。堂島の小さな目が、結子の着ているものを通して、皮膚という皮膚、そのフォルム、足の形、ウェストのくびれやせりだした乳房、臀部の丸みの一つ一つを丹念に採点し、彼の内部にある画家としてのチェックシートに〇や×をつけていた、と思うと、かすかな不快感も覚えた。
「当然ですが、無理強いはしません」と堂島は落ちついた口調で言った。「僕はこれまで、美術モデルという職にあるプロよりも、写真家のモデルになるような人ばかり使ってきた。そうでなければ、たいてい、僕が直接声をかける。街なかで、歩いている女性に声をかけて睨まれたこともあるし、喫茶店で声をかけて、連れの男に殴られそうになったこともある。当然ですよ。彼女たちには僕の頼みを受けなければならない縁も義理もない。今回のこともどうするかは、まったくあなたの自由です」
「まだよくわからないんです。あんまり突然のことだったし……」
「それはそうだ。無理もない」
堂島はそう言うなり、口を閉ざした。機嫌を損ねたようにも見受けられた。結子は救いを求めるつもりで、礼子に視線を投げた。
「あんまり深くお考えにならずに、アトリエだけでも見学に行かれてはどう?」と礼子は言った。「この人のアトリエは涼しいわ。クーラーもいらないくらい」
「アトリエは禁煙ですか」
「え?」
「私、ヘビースモーカーなんです」
礼子は堂島と顔を見合わせ、くすりと笑った。
「吸いたいのに我慢してたんですか。早く言ってくれればよかったのに。ここでもアトリエでも、うちは禁煙なんかじゃありませんよ。好きなだけ吸ってください」
堂島がそう言い、笑みを浮かべながら立ちあがったので、結子も気が楽になった。アトリエの見学に行くのは悪くなかった。堂島滋春のアトリエを目にすることができるとは、実際、夢のような話であった。
結子は堂島の後について、居間の縁先に立ち、礼子が用意してくれたサンダルをはいて庭に降りた。
光と影に彩られている美しい庭だった。木もれ日が踊り、光が弾け、それらが届かない部分には薄墨色の影がおちていた。蝉が鳴き、風が木々の梢を揺すり、その、さわさわと鳴り続ける音は寄せては返す波のようになって、空の彼方に吸いこまれていった。
敷地内にあるアトリエは自宅の隣に建っていて、自宅同様、石造りであった。直方体の巨大な白い箱のようにも見える。極端に窓が少ない。天井はおそろしく高かった。西洋の納屋を模倣して造らせたのだ、と堂島は言った。
中は薄暗く、礼子が言っていた通り、ひんやりしていて、冬はさぞかし寒いだろうと思われた。大小、夥《おびただ》しい数の絵が、乱雑に床置きにされていた。イーゼルには描きかけの絵が立てかけられており、脇のテーブルには画材が所狭しと散らばっていた。疲れた時に横になるためのソファーベッドもあった。ベッドの上のキャメル色の毛布は、使い古されたもののように汚れていた。
板敷きの床の中央に、白い厚手のマットレスが一枚。その背後には金色の屏風が、扇子を拡げたような形で立っていた。モデルにポーズをとらせる場所であることは、ひと目でわかった。マットレスの脇には青いガウンが、乱雑に畳まれ置かれてあった。
煙草、吸ってください、と堂島は言った。「灰皿はそこらへんにあると思う。ちょっと前まで来てくれていたモデルもヘビースモーカーでしたからね」
「先生は吸わないんですか」
「たまに吸うくらいだな。煙草より酒のほうが好きだから」
「私は両方」
煙草をくわえ、安もののライターで火をつけながら結子が笑いかけると、堂島は目をそらした。
「本当に涼しいんですね。クーラーが入ってないなんて、嘘みたい」
「その代わり、冬は寒い。冬は暖房で真夏のように室温をあげるんです。そうでないと、モデルが風邪をひくから」
「そういう時は、先生も半袖で?」
「そうだね。本当のことを言うと、冬場は苦手なんですよ。こちらは暑くてたまらない。夏よりも汗だくになる」
「お仕事は昼間?」
「たいてい夜です。そのほうが自分の世界に浸ることができる。昼間は車の音がしたり、訪問者があったり、宅配便が届いたり、落ちつかないしね。朝まで仕事をすることも多い」
結子は煙を深く吸いこみ、細く吐きだしながら天井を仰いだ。「夜中に先生が、こういうところで裸の女性を前にお仕事されてても、奥様はやきもちを妬《や》かないの?」
「僕がいちいちモデルに恋をするとでも?」
「恋はしなくても、触れることはできますよね。いくらでも、好きなだけ。キスだってできる」
ふん、と堂島は皮肉をこめて鼻を鳴らし、「あなたはまだ、何もわかっていない」と言った。「一度、そのマットの上でポーズをとってみたらいいんです。世間で考えるようなことが、何ひとつ問題にならないということをのみこめるはずだから」
結子は黙って煙草を吸い続け、堂島もまた、黙ったまま、腕組みをして床の一点を見ていた。
「何故、私なんですか」と結子は聞いた。
一番聞きたい質問だった。その質問に対し、優越感を満足させてくれる答えを得られたら、それで充分。そんな気がした。
「何故?……それを説明しろと?」堂島は正面から結子を見つめながら言った。「それは難しいね。あなたのもっている雰囲気、あなたの発する輝き、憂い……そうしたもの全部に一瞬にして興味をもったのであって、それを丹念に言葉に置き換えようとしても、言葉にした瞬間、嘘になってしまう。僕は何も、あなたの顔の造作やスタイルや髪の毛や、指先の様子やお尻の形に興味をもったわけじゃない。あなた自身に興味をもった。そうとしか言いようがない」
「絵ごころを刺激されたってわけ?」
「実際に絵をやっていたんでしょう。今頃になって、そんな手垢のついた言葉を口にするもんじゃない」
「私の裸なんか見たら、先生、がっかりするわよ」
堂島は口を閉ざした。ざらざらとした沈黙が流れた。
かまわずに結子は続けた。「何か勘違いなさってるんです、きっと。先生は大家だし、有名で、私も先生の絵の大ファンだけれど、そういう先生でも見当違いを犯すんだわ。失礼なことを言うと、目が曇るんです。男の人は、先生に限らず、よくそうなるの。目が曇ったまま突き進んで、ああ、失敗しちゃったな、と思って後ろ頭をぼりぼり掻いて……それで終わり」
堂島の片方の眉がぴくりとあがったような気がした。怒りだすかと思ったが、彼はそれ以上、表情を変えなかった。
結子は続けた。「先月の誕生日で三十になったところです。美術モデルにしてはもう若くありません。第一、モデルになることなんか、考えたこともないし、身体の手入れもなんにもしてないし。そりゃあそうですよね。まともな生き方もしてこなかったんだから、身体を磨こうだなんて、そんな余裕、あるはずもないわ」
「失業保険はいつまで?」
「え?」
「失業してると言ってたでしょう。失業保険がおりてるはずだけど、それはいつまで?」
「確か今年の十月までだったと思うけど」
「あなたがもし、モデルを一度だけ引き受けてくれたら」と堂島は抑揚のない声で言った。「あなたが受け取ることになる失業保険金全額の、倍のお礼をだします」
「たった一度で?」
堂島はうなずき、とても不愉快そうに首を横に振った。「金の話は最初で最後にしましょう。こういう話はあまり得意ではない。モデルへの謝礼の計算も、いつも家内にやってもらっている」
「大袈裟ね」
「何が」
「そんな大金、いりません。たかが……」
そこまで言って、結子は次の言葉を飲みこみ、根元まで吸って短くなった煙草をアルミの灰皿の中で乱暴にもみ消した。溜め息をひとつ、ついた。「……裸婦ですか」
「できればね」
「でも先生はさっき、衣服をつけているのに裸に見えてしまう女を描きたい、って言ったわ」
「あなたを描いてみたいんだ。裸かそうでないかは、この場合、何の意味ももたない」
「私が裸になるのはいやだ、と言ったら?」
その時は、と堂島は言った。「仕方がないでしょう」
「諦める?」
「仕方がない、というのは、そういうことです」
ごくりと唾を飲みこんだ。その音は、思いがけず大きくあたりに響きわたった。
わずかの沈黙の後、結子は「考えさせてください」と低い声で言った。
絵の具の匂い、紙の匂い、墨の匂い、インクの匂い、その他、様々な匂いがこびりつき、混ざり合って静かに淀んでいるようなアトリエの中で、ふたりは束の間、睨みつけるような獰猛《どうもう》な視線を交わし合った。
着ているものを通して、結子はその時、堂島の視線が、深く鋭く、錐《きり》のように自分の肉体を刺し続けているのに気づいた。だが、それは淫らさとは真逆のものだった。淫らどころか、堂島の視線は神聖で、乾いていて、結子の肉体にはまるで無関心のようにも見えた。
外では幾種類もの蝉が、連鎖し合うように鳴き狂っていた。
折り重なり、遠く連なって響きわたるその鳴き声は、山間に降りしきる驟雨《しゆうう》のようでもあった。
市街地から離れ、窓外の風景が、次第に山深いものになっていくにつれて、路肩や木々の梢に積もる雪が目立ってきた。
勾配が大きくなり、道はうねりはじめた。杉木立の群落が深くなって、あたりはいっそう薄暗く、雪も烈しさを増した。
車は速度を落としてはいたが、安定した走行を続けている。
スタッドレスタイヤなので、まったく心配無用です、と運転手は言った。「最近は少なくなりましたが、花背のあたりは、積雪八十センチ、九十センチになることもありますからねえ。今年の一月はあまり積もらなかったんですけども、花背のほうでは十二月にまとまった雪がありましてね。そういう時でも、深山亭には遠くからお越しになるお客様がおられますし、何度も往復しますから、私ども、雪道の運転には慣れてるんですよ」
シートの上でつながれた手と手は、離れずにいた。汗ばんできてはいたが、その温かな湿感が結子には快かった。
車の揺れに身を任せ、次第に雪に閉ざされていく冬の暮れ方の風景を眺めていると、まどろむような気持ちになった。現実が遠のいた。雪の日の薄暮は白々としていて、夜明けのようでもあった。
貴船口のあたりで、府道38号線から左に分かれる道が現れる。貴船川に沿って、貴船神社から芹生峠《せりうとうげ》に向かうためには左に入り、鞍馬《くらま》から花背に向かうには、府道をそのまま直進する形となる。
「ほら、この先が貴船だよ」正臣が左手前方を指さして言った。
それに合わせるようにして、運転手が車のヘッドライトを灯した。
あれからまだ、半年ほどしかたっていない、と結子は思い返す。
降るように蜩《ひぐらし》が鳴いていた時期だった。この、同じ運転手の車で貴船まで来て、やっとの思いでとってもらった小さな宿の部屋に落ちつき、早い時刻からふたりで名物の川床料理を食べた。
渓流のせせらぎの音に蜩の鳴き声が混じっていたが、やがて夕立がきて、あたりは夜のように暗くなった。
雨の音と、遠い雷鳴を聞きながら、地鶏鍋をつつき、酒を飲んだ。飲んでも飲んでも酔わなかった。
あの頃、まだ自分たちには未来があった。ある、と結子は信じていた。
車は鞍馬寺を左に見て花背峠に向かい、峠を越えてから、うねうねと曲がりくねった山道を登り続けた。いよいよ道は細く、険しくなった。ギアを落として力強く坂を登り続ける車のエンジン音が、低く唸る。ヘッドライトが照らしだす雪は青白く、凍りついているように見える。
杉林が鬱蒼とあたりを被い、行き交う車もない。ところどころに、融雪剤が入っている砂嚢《さのう》が積まれた小屋が見える。雪煙のために、視界は狭まり、林の向こうに望めるはずの風景は早くも闇に滲《にじ》んでいる。
険しいカーブを車が曲がろうとするたびに、結子は正臣の手を固く握りしめた。とっぷりと暮れてしまった山の雪道に対する恐怖心がそうさせたのではない。このまま、車がスリップして、深い深い谷底に舞うようにして落ちてしまえばいい、そうなればどんなにいいか、と思ったからだった。
この手、と思いながら、結子は正臣の手を丹念に指先でなぞる。
ピアノの鍵盤を叩くためにあるような指である。すばしこく、敏捷で、そのくせ、なめらかに動き、反りかえる。丸くやわらかく、触れるか触れないかの羽根のようになる時もあれば、スタッカートを利かせて演奏している時さながらに弾み、いたずらっぽく愉快そうに、結子の肌の上を這いまわっていくこともあった指……。
指は繊細で長いのだが、女性的な感じはしない。全体が大きく、がっしりとしている。握ったものは離さない、とでもいうような、青年じみた握力の強さ、生命力を感じさせる。肌はなめらかで、手の甲は薄くもなく厚くもない、見事に調和のとれた美しさである。
その掌《てのひら》で頬をはさまれたり、乳房を愛撫されたりした時に感じる、吸いついてくるような適度な湿りけを結子は愛した。その感覚は、肌の奥深くに刻印されて、永遠に消えないのだろうと思われた。
花背峠を越え、別所川という細い川に沿って車は進んだ。途中、幾つかの小さな集落が現れる。どれも雪に包まれた、鄙《ひな》びた山里の風情である。家々の窓にはぽつりぽつりと淡い明かりが灯っているが、街灯はなく、車のライトが、堆《うずたか》く路肩に積まれた除雪後の雪を照らしだすばかりである。
市内の酒屋を出てから一時間余り。時刻は五時をまわっていて、雪はさらにさらに烈しさを増してきた。
大布施のあたりから、道は二手に分かれた。左が本道で、右は杉木立に囲まれた細い市道である。花背の里の北のはずれ、大悲山《だいひざん》という名の山の麓を走る市道で、深山亭はその道の果てに、ひっそりと隠れるようにしてある。
車は小刻みなバウンドを繰り返しながら、雪の市道を走り続けた。右側に渓流が流れていたはずだが、暗くてほとんど何も見えない。ワイパーが、降りしきる雪を扇形に蹴散らせば、フロントガラスにできたその透明な扇の向こうに、ライトに照らし出された白一色の世界がくっきりと浮かびあがる。
何もかもが白である。あまりに白すぎて、闇の中だというのに眩しく感じるほどである。
「もうじきですね」運転手が話しかけてきた。「思ってた通り、たっぷり積もってて、花背の冬は、冬らしい冬ですね」
後部座席のふたりがあまりに黙りこくっているので、怪訝に思ったらしい。結子は運転手の目と自分の目が、バックミラー越しに交叉するのを感じた。
「前に来た時は秋だったんです」聞かれもしないのに、結子は言った。「一昨年《おととし》の秋。秋といっても、十一月の終わりだったから、晩秋でしたけど」
「そうですか。このあたりだったら、紅葉は終わってた時期ですね。でも、お夕食に、マツタケ、召しあがったでしょう」
ええ、と結子はうなずいた。「目の前でたっぷり焼いてもらって」
それはそれは贅沢三昧の夜だった……明るくそう言おうとして、どういうわけか、結子は喉が詰まったようになった。
正臣と出会い、またたく間に恋におちて、狂躁の果てに見極めがつかなくなるほど互いに溺れ、現実から逃れるようにしてこの地にやって来た。雨あがりの、紅葉《もみじ》の張りついた月見台に寄り添うようにして立ち、すぐ目の前を流れていく渓流の、水の騒《ぞめ》きを聞いていたあの夜。葉を落とした木々の、細い枝に懸かった月を見あげながら、じっと無言のまま、正臣に抱かれて佇んでいた、あの夜。明日のことは考えまい、二度と考えまい、と心に決めていた、あの夜……。
同じ宿に行き、同じ夜をすごそうとしても、もうできないのだった。わずか一年と少しの間に、あらゆることが変わってしまったのだった。
「ほうら、見えてきましたよ」
運転手の声が大きくなった。心なし、ほっとしたような声だった。雪の中に立つ「深山亭」と白く彫られた薄墨色の古風な看板を、車のライトが舐めるように照らしだした。
正臣と結子は互いの手を離し、ふと、車の中で顔を見合わせた。
暗がりの中、正臣の顔は外の雪明かりを受け、ひどく青白く見えた。
島津正臣と自分とは、二度、出会ったのだと、結子は未だに考える。
もしも出会いが一度きりのものであったなら、こうはならなかった。よもやその一度きりの出会いから、淡い交際が始まったとしても、それが恋にまで至ることはなかっただろう。異性間に芽生えた友情、気軽な仲間意識……その程度のものであって、それすら、いつしか煩瑣《はんさ》な日常の中に溶けこみ、時の流れと共に風化して、やがては年賀状を交換するだけの間柄になり変わっていっただろう。
出会いは日々、繰り返される。結子のように、堂島のアトリエと自宅の往復を主な日課にしているような人間にも、それなりの出会いは用意されていた。知人の個展、何かのパーティー、堂島の関係者の集まり……。これまで生きてきた軌跡とも言うべき、有象無象の知己は小さな葡萄《ぶどう》の実のように連なっている。好むと好まざるとにかかわらず、生きている以上、何かしらの義理は避けがたく、そうした場所で知り合う人間は大勢いた。
はじめまして、今後ともよろしく……作り笑いを浮かべながら、ありふれた挨拶を交わし合う。稀に初対面で特別な好感を抱くこともないではない。だがあくまでもそれは、束の間、気持ちの中を吹きすぎていく風のようなもの。若い頃、そのつど感じていた新鮮さはないに等しい。時がたてば間違いなく、名前すら忘れてしまう。
結子の記憶の中で、一度目の出会いにおける正臣の印象は、さほど鮮烈ではなかった。
初対面の女の前で、いささか芝居がかった調子で積極的にふるまってみせるような男を結子は少なからず知っている。どこの世界にも、どんな年代にも、そういう男はいた。ほどほどの容姿。ほどほどの社会的自信。ほどほどの会話術。ほどほどの危うさ……。
だが、ひとたびその場を離れてしまえば、胸をよぎった風のような感覚はすぐに消え去る。名前すら思いだせなくなる。島津正臣という男もまた、そうした大勢の男の中のひとりになるはずであった。
結子の中学時代からの友人で声楽家の刈谷恵津子が、青山の小さなホールでミニ・リサイタルを開いたのが、二年前の九月半ば。
百五十人も入れば満席になってしまうホールまで行き、終演後、結子は小さなブーケを手に楽屋を訪ねた。恵津子はまだ着替えをはじめてはおらず、高揚した表情のまま、楽屋前の廊下でミネラルウォーターのボトルを片手に、スタッフと談笑していた。
「ますます声が冴えてきた感じね。すごくよかった。おめでとう。はい、これ、持ち帰りやすいように、小さくしたから、必ず持って帰ってよ。捨てたりしないでよ」
結子がそう言ってブーケを手渡すと、恵津子は「ありがとう!」とカナリヤが鳴くような声で言い、荘重な黒ビーズのロングドレスの胸元からレースのハンカチを取りだすなり、白く塗った顔を扇《あお》いだ。
「ライトが熱くって、汗だくよ。つけ睫毛《まつげ》、取れちゃいそうで心配だったんだから」
「今日はまた、お化粧もばっちりだし、ドレスもいつにも増してゴージャスなのね」
「気軽なリサイタルにするつもりが、これだもんね。でも、このドレス、作りたてなんだけど、オペラの舞台にも使えそうでしょ。上に何かはおれば、感じも変わるし。一石二鳥。さすが刈谷恵津子さん。やることに無駄がない」
招待客の幾人かが傍を通りすぎて行った。恵津子はその一人一人に笑顔で挨拶しながら、「ね、結子」と慌ただしく言った。「ちょっと紹介しとくわよ」
「誰を」
「私の愛しい伴奏者くん」
「え?」
「今日の伴奏をやってくれたピアニストよ。とにかく優秀なの。今回、組んだのは初めてだったんだけど、まあ、あなた、それはそれは息が合って、見事なもんだったんだから。ここだけの話、これまでの伴奏者が皆、クズに見えるわね。結子だって、聴いててわかったでしょ?」
そう言われればそんな気がしないでもなかった。結子が曖昧にうなずいていると、恵津子はつと伸びをして、「島津さん」と大声を出した。「島津さん、ちょっとこっちに来てくれます?」
廊下の奥のほうで、こちらに背を向けるような形で人と話していたタキシード姿の男が、「はい」と応じた。
目と目が合った。男は微笑を浮かべ、何かとてつもなく楽しい出来事を前にしてでもいるかのように、弾む足取りで歩いて来て、結子と恵津子を等分に眺めながら目を輝かせた。
「こちら、伴奏をお願いした島津正臣さん。偶然だったんだけど、私の音大の後輩なのよ。八年も下だけどね。島津さん、この人は三浦結子。私の中学時代からの大親友。一度、紹介したいと思ってたの」
正臣は背筋を伸ばし、結子に向かって一礼した。「はじめまして、島津です。刈谷先生には本当にお世話になっています」
結子も会釈を返し、「最強のコンビが誕生したみたいですね」と言った。「素敵でした。恵津子のコンサートには毎回、足を運んでるの。伴奏の方と意気投合して、今夜は格別に気合が入ってたみたいな感じがするわ。楽しみね。また、聴きに来ます」
「嬉しいなあ。でも刈谷先生のおかげなんですよ。音楽的に刺激を与えてくださる方だから、練習の時も楽しかったし、僕もずいぶん勉強させてもらいました」
切れ長の目が涼しげな男だった。頬骨が高く張っていて、そのせいか、細面なのに精悍な印象がある。均整のとれた、よく引き締まった身体に黒のタキシードがよく似合う。
笑顔が少年じみている。大人びた言葉遣いの裏に、まだまだやんちゃ盛りの青年のもつ破天荒《はてんこう》さも覗いて見える。若者らしい精神のほつれ目も見え隠れしていたが、消そうと思っても消すことのできない、天性の気品のようなものも窺えた。
「結子はね、ちょっと変わった職業についてるのよ」恵津子が言った。「あてたら偉いわ」
結子は渋面を作り、恵津子に目配せを送った。堂島滋春の絵のモデル、として人に紹介されるのはあまり好きではなかった。
世間は時に、不愉快な反応を返してくる。ああ、ヌードモデルですね、と言われ、じろじろと値踏みするような視線を浴びたこともある。男の画家の前で全裸になる時、羞恥心はないのか、生理の時はどうしているのか、などといった、露骨な質問を飛ばしてくる人間もいる。
黙っているのが一番だった。職業を問われたら、堂島滋春の弟子、と答える。弟子、と聞けば、相手は自分の無知をさらけだすまいとして、それ以上の質問を返してこなくなる。これまで堂島は誰であれ、自分の絵のモデルを公表したことは一切なく、結子も例外ではなかったので、黙ってさえいれば知られることはなかった。
「変わった職業? なんだろう。イルカの調教師ですか?」正臣が聞いた。
馬鹿ね、と恵津子は渋面を作って笑った。恵津子は勘がいい。笑いながら、それ以上の会話を避けようとしているのが結子にはよくわかった。
「違う? じゃあ、何だろう」
「大物政治家の愛人」結子はふざけて言った。
「ほんとですか」
「嘘」
「結子ったら」恵津子は呆れたように言い、話題を変えた。「今日はこの後、どうするの? 打ち上げ会があるのよ、赤坂で。よかったら来ない?」
「今夜もこれから仕事なの。ごめんね」
「なんか、ミステリアスですね」正臣が言った。「もう九時ですよ。こんな時間からお仕事、ってことは、いったい何の職業につかれてるんだろう。興味をそそられますね。考えすぎて、今晩、眠れないかもしれない」
「じゃあ、朝まで考えてみてください」結子は軽い口調であしらった。「あたったらお慰み」
「正解はいつ教えてくださるんですか」
「次にお会いした時にでも」
「それまで待てないな。そうだ、名刺をいただけますか。僕はソリストとしても、たまに独自のリサイタルをやったりしてるんです。いずれまた案内状、送らせていただきますから」
さらりとした言い方だった。誰にでも同じことを言い、同じ表情をしてみせるに違いなかった。他意は一切、感じられなかった。
肩書のついていない名刺なら、いつも数枚、持ち歩いていた。世田谷区|等々力《とどろき》に借りている小さな家の住所と電話番号、それに名前が記されているだけの名刺である。
結子が手渡した名刺を手に、正臣は、しまった、僕の名刺がない、と言い、慌てたようにタキシードの胸のあたりをぱたぱたと叩いた。「すみません。いただいておきながら、こちらがお渡しできなくて。あの、何か書くもの、持ってらっしゃいますか。僕の連絡先、メモさせてください」
「またの機会に」結子は笑って言った。「知りたくなったら、恵津子に聞きますから」
「任しといて。いくらでも教えるわよ」
恵津子がそう言い、何か気のきいた冗談を言おうとしてか、つけ睫毛をつけた目をぱちぱちと瞬かせた時だった。「パパ」と呼ぶ声がした。五、六歳の幼い女の子が廊下の向こうに立っているのが見えた。
青いサテンの、裾の拡がったワンピースドレスを着て、細かいウェーブのかかった髪の毛に同色のカチューシャをつけている。女の子の隣には、母親とおぼしき女が立っていた。薄い色のついたサングラスをかけ、髪の毛を肩のあたりで内巻きにしている。色白のほっそりとした、美しい女だった。
「ほらほら、小さな恋人のおでましよ」と恵津子が言った。
正臣は「よう」と片手を上げ、女の子に向かってひらひら振ってみせると、「じゃ、僕はこれで」と結子に向かって言った。「また、お目にかかるのを楽しみにしています」
彼が離れていくのを待って、恵津子が結子の耳元で囁いた。「あそこに立ってるのが島津さんの奥さんなんだけど、気の毒なのよ。目が不自由なの」
「もともと?」
「ううん、違う。何かの病気にかかって、その薬の副作用で視神経がやられちゃったんだって。結婚して子供を産んだ後で、全盲になったっていう話よ」
「ちっともそんなふうに見えないけど」
「そうなのよ。ふつうの人と同じように生活してるの。家事もちゃんとこなして。電車にも乗って。素敵な人でしょう? やっぱり音大の声楽科を出ててね。でもさすがに身体のほうがついていかなくて、今はもう、声楽家を諦めて、家庭に入ってるらしいけど」
見るともなく窺うと、正臣は中腰になりながら娘と何か話していて、傍に立つ妻はにこにことその様子を見ていた。その目に何も映っていない、というのが信じられないほど、目線の位置は自然であった。
淡いクリーム色の、品のいいパンツスーツ姿である。桜色に塗られた唇がつややかに光っている。手に細く白い杖が握られていなければ、誰一人として、彼女が全盲者であることに気づかないかもしれなかった。
「ちょっと私も挨拶してくるわね」と恵津子は言った。「結子も行く?」
ううん、と結子は首を横に振った。
その瞬間、結子が正式に正臣の妻に紹介される機会は永遠に失われた。結子が彼女を見たのはそれが最初で最後になる。
二度目の出会いは、それから二週間ほどたった秋の日の午後だった。
不思議だ、と今も結子は時折、あの日のことを思い返す。十月初め、どこからともなく漂ってくる金木犀《きんもくせい》のむせかえるような香りが、冷たさを孕《はら》んだ秋の淡い光の中に溶けいって、何かしら物哀しくなるような日曜日の夕暮れ時だった。
結子はかねてより堂島から、なるべく車の運転はしないでほしい、何があるかわからないし、万一、事故にでもあって、あなたの身体に傷がついたらと思うと、いてもたってもいられなくなる、と再三にわたって言われていた。
都内に住んでいる姉夫婦から、ただ同然で譲ってもらった紺色の、何の変哲もない軽四輪を持っている。等々力に手狭ながら駐車場つきの古い家を借りたのも、その車を手放したくないと思ったからだった。
堂島のアトリエのある、たまプラーザ界隈までも、東名に乗って東名川崎で降りればすぐである。車で通えればどんなに便利かと思うのだが、堂島は決してそれを許さなかった。
時折、結子は、堂島に黙って車を運転する。黙っていればわからない。買い物の荷物が多くなる時や、深夜、眠れないままに東名高速を飛ばしてみたくなった時など、やはり車を持っていてよかった、と思う。
その日も結子は、午後になって車を運転し、港区麻布近辺まで行った。地下鉄広尾駅近くの画廊で、フランスの画家の個展が開かれていた。かねてより見たいと思っていた個展である。画家本人は来日していないという話だったが、絵を見ることができれば満足だった。
画廊に駐車場はついていなかったものの、近くに大きなスーパーマーケットがある。その駐車場には、さほど長い時間でなければ車を停めておくことができた。そこに駐車し、個展を見てから買い物をして、ついでにあたりを散歩してから帰るつもりだった。
楽しみにしていた個展ではあったが、思っていたほどの収穫はなかった。画風を変えたのは一目瞭然で、そのせいで以前の、日本画に通じるような繊細なニュアンスは影をひそめてしまっていた。
早々に会場を出て結子はスーパーに戻った。近隣の大使館関係者の家族が訪れることで有名な、外国人客の多いスーパーである。日曜日のその時間帯、駐車場は混み合っており、結子が買い物袋を手に外に出てみると、自分の車の正面に一台の紺色の大型RV車が停められているのが見えた。
持主は急いで買い物をし、戻って来るつもりでいるらしく、車のハザードランプが点滅している。
腹がたった。規定の場所に停めていないことは明らかであり、結子の車のみならず、その隣に駐車している車までもが前を塞がれてしまっている。
買い物袋を助手席に放りこみ、結子は車の外に立って、RV車の持主が戻って来るのを待った。
煙草を取りだし、火をつけて、吸いこんだ。日は大きく西に傾き、スーパーの駐車場には建物の影が長く伸びている。
生活の豊かさを感じさせる恰幅のいい初老の白人夫婦や、ベビーカーを押しながら談笑している若い日本人の母親、家族連れなどが、次から次へと結子の目の前を通りすぎて行った。マーケットの隣にはアイスクリームショップがあり、店の前の木製のベンチでは、様々な国籍の親子連れが、色とりどりのアイスクリームを舐めていた。
それは結子とは遠い世界の風景だった。家族、家庭、結婚生活……そのいずれも、結子には無縁のものだった。欲しいと願ったこともない。
あんたは変人よね、と結子はいつも姉に言われている。姉は二度の流産で半ばノイローゼになり、三度目に授かったひとり息子を溺愛《できあい》するあまり、息子の反抗期に対処する術《すべ》をもたぬまま、神経を病んだ。今はかろうじて立ち直っているが、今度は息子が神戸の大学に行くのに下宿生活をはじめる、というので、子離れができずに苦しんでいる。
そういう人生もある。そしてまた、自分のような人生も。
二本目の煙草に火をつけようとして、結子は煙草のパッケージを乱暴にバッグの中に戻し、つかつかとRV車のほうに歩いて行った。持主とおぼしき男が戻って来たのがわかったからだった。
日除けのついたキャップを目深にかぶり、サングラスをかけている。自分の車が結子の車を塞いでいるというのに、男はひどく悠長な足取りで車に近づき、運転席側のドアを開けようとした。
「こんなところに停められたら迷惑なんですけど」
刺々しい口調で、男の背に向かってそう言い放った結子は、ふと口を閉ざした。
結子を振り返った男が、「あれ?」と素《す》っ頓狂《とんきよう》な声をあげた。「もしかして……」
サングラスを外した男の顔に、みるみるうちに晴れやかな笑みが拡がった。「すごい偶然ですね。信じられない」
本当に、と結子は言い、目を瞬かせて正臣を見上げた。「どうしてここに?」
「今夜は、この近くに住んでいる仲間のところで、ちょっとした集まりがあるんです。時々、室内楽を一緒にやってる奴なんですけど、そいつのところに行こうとして車を運転してたら、携帯に電話がかかってきて、急いでラム肉を買って来てほしい、って頼まれて……。それでここに寄ったところだったんですよ。いやあ、それにしても驚きました。あなたこそどうして、ここに?」
「近くで見たいと思ってた個展があったの。それでここに車を停めて、買い物して出ようとしたら、あなたの車が私の出口を塞いでた、ってわけ」
あはは、と正臣は屈託のない笑い声をあげた。「ごめんなさい。駐車場がいっぱいだったし、すぐ出て来るつもりでいたから、変な停め方しちゃって。でも、嬉しいなあ。またお目にかかれたなんて」
結子はうなずいた。本当にそう思った。嬉しい、と思った。
何故なのかはわからなかった。ジーンズに着古したような薄手の黒の革ジャン、白のTシャツ姿の正臣は若々しく見えた。職業も年齢もわからない。二十代の青年のようでもあり、学生と言っても通用した。
うっすらと不精髭が顎を被い、精悍さが増しているのに、茶目っ気のある表情が年齢よりも彼を幼く見せている。その健康的な輝きが眩しくて、つい、引きこまれたのかもしれなかった。
「困ったな。なんだか、心臓がドキドキしちゃいますよ」と正臣が言った。「またお目にかかれればいいな、と思ってたんです。でもすごいな。運命的ですね」
結子は微笑み、そうね、とうなずいた。
「これからどちらに?」
「うちに帰るところよ」
「よかったら、一緒にいらっしゃいませんか。全員、音楽仲間で、気のおけない連中ばかりですし、刈谷先生のお友達とあれば、きっと大歓迎してくれます」
お愛想でそう言っているだけに違いなかったが、その誘い方は自然で、好感がもてた。
「ありがとう。でも、またの機会にね。ともかく、早くこの車、どかさないと怒られるわよ」
「そうですね。残念だな。でも、近いうちに電話します。お宅のほうに」
結子は笑顔でうなずき、自分の車に戻った。互いに車の運転席から手を振り合い、別れた。
そしてその晩遅く、正臣から電話がかかってきたのである。
正臣は言った。「独身でいらっしゃるのかどうかも刈谷先生から聞いていなかったし、よく考えてみれば僕も無謀《むぼう》ですよね。ご主人やご家族の方が電話に出るかもしれなかったのに、こんな時間に電話したりして」
携帯電話からかけている。背後は静まり返っていて、彼の溜め息すら聞き分けられそうだった。
「独身よ」と結子は言った。「結婚歴もなし。子供もなし。どんな時間に電話かけてくれたって、全然、かまわないの」
正臣は低い声で「だったらよかった」と言った。「こんな遅い時間にいったい誰だ、って、ご主人に叱られずにすみました」
結子はそれには応えず、「夜の宴はどうだった?」と聞いた。「盛りあがった?」
「車なので飲めなかったし、結局、僕がラムチョップを作らされて、こき使われて……いや、そんな話はどうだっていいな。あの、僕、わかったんです」
「え? 何が?」
「あなたの職業ですよ。あれからずっと考えてて、刈谷先生に小さなヒントをもらったんです。あなたは美大を卒業なさってるそうですね」
「ええ、そうよ」
「今日、ばったりお会いして、少したってから頭の中に突然、閃《ひらめ》いたんです。もしかして……いや、これは本当に思いついただけなんですが……絵のモデルか何かをなさってるんじゃないですか」
結子は黙っていた。黙りながら、笑いがこみあげてきたので、くすくす笑った。「勘がいいのね」
「正解?」
「どうしてわかったの」
「どうしてかな。ただの直感です」
「どうせ、恵津子があなたに、こっそりそう教えたんでしょう」
「違いますよ。刈谷先生はいくら聞いても教えてくれなかったんですから。それにしてもすごいな。やっぱり正解だったんだ。正直な話、単なるあてずっぽうだったんですけど……」
結子はまた笑った。何がそんなに可笑しいのか、自分でもよくわからなかったが、楽しく弾むような気持ちがわきあがってきて、結子の笑い声はいつまでも止まなかった。
その笑い声を遮るようにして、正臣は結子を食事に誘ってきた。
正しい解答をしてくれたのだから私が奢《おご》る、と結子は言った。
すでにもう、幾度も会ってきた相手と交わすやりとりのように、会話の流れは自然だった。そこに一切、人工的な企みが見えないことが、かえって不吉なほどだった。
タクシーの気配に気づいてか、雪の中に深山亭の女将と、若女将が連れ立って出て来た。二人とも藍《あい》色の和服に、太刀掛《たちが》けと呼ばれる袴に似た実用衣をつけ、番傘をさしている。
宿の玄関に通じる石畳には、丹念な除雪の跡が見えたが、見る間に雪が降り積もり、石を被っていくのがわかる。白足袋に下駄をはいた二人の女の足元はおぼつかなくて、車を降りようとする結子と正臣にそれぞれ番傘をさしかけようとしながら、それは幾度も、優雅に乱れた。
尖ったような冷気である。雪のせいか、芯の部分にかすかな湿りけがあるが、それすらも凍りつかせてしまいそうな冷たさである。吐く息がもうもうと頬にまとわりつく。風があるせいで、時折、雪の面《おもて》を撫でるようにして粉雪が舞いあがり、睫毛にたちまち雪が溜まる。
タクシーの運転手に礼を言い、結子は正臣が荷物を手に歩きはじめているのを視界に入れながら、車の脇に立ったまま、急いで料金の精算を申し出た。
「そんなにお急ぎにならなくても、この雪です、先にお部屋のほうに落ちつかれたらいかがでしょうか。なんでしたら、明日また、伺って、その際に精算さしていただく形にしてもよろしいですけども」
「それでもかまわないですか」
「ええ、ええ、もちろんですとも。それとも、明日もどこかにお出かけになられますか。そうなさるのでしたら、私がまたどこへなりとお連れいたしますが」
どうしたの、と正臣が振り返り、声をかけてきた。
深山亭の玄関に灯された黄色い薄明かりの中、若女将のさしかける番傘の影を受け、正臣の姿は雪原に佇む黒い水鳥のように見えた。
結子は軽く手を振って正臣に応え、「貴船」と慌ただしく運転手に向かって言った。「明日、貴船に行こうと思うんですけど」
何故、そんなことを口走ってしまったのかわからなかった。どこにも行くつもりはなかった。連日、宿で正臣とふたりきりでいようと決めたはずだった。
今一度、正臣と貴船を訪ねてみたいという唐突な感情がわきあがるとは、自分でも予想だにしていなかった。ただの感傷がそうさせたのではない。それは山間の闇の中、木々の梢を埋めるようにして、静かに静かに降りしきっている雪を見たせいかもしれなかった。雪が結子に、止まった時間を遡《さかのぼ》っていく自虐的な切なさを強いたのだった。
「貴船でしたら近いですし、いくらでも」運転手が笑顔で言った。傘をさしていない彼の、制帽を脱いだ頭と肩のあたりに雪が舞い降り、白いまだら模様を作っていた。「それでは何時頃、お迎えにあがればよろしいでしょう」
「午後で結構です。午後一時頃にでも」
「承知しました。それでは明日、また伺わせていただきます」
女将が結子に番傘をさしかけてくれている。雪が傘から滑り落ちていく音がする。女将と目が合い、やわらかく気品ある笑みが結子を包んだ。
また来てしまいました、と結子は女将に向かって言った。そう言った途端、鼻の奥が熱くなり、束の間、視界がゆるりと潤んだ。
お待ち申しあげておりました、と女将は言った。その、紅をさした口もとから白い息が立ちのぼった途端、一陣の風が吹きつけて、あたりに小さな地吹雪が起こった。
去って行くタクシーのエンジン音を風がかき消した。風は雪の面を舐めるように吹きすぎていきながら、ごう、と音をたててあたりの山々を揺すった。
深山亭は明治の頃からの宿坊である。
平安末期に創建された峰定寺《ぶじようじ》は、山岳信仰のための修験場《しゆげんじよう》でもあった。寺は今も宿のすぐ隣にある。深山亭の、客に食事をもてなすための母屋と、宿泊のための部屋のある別棟との間を走る細い道は、かつての参道にあたる。
あたりは鬱蒼と切り立つ山に囲まれ、外界から閉ざされているような一角である。ほっこりと切りとられたようになった小さな場所に、宿はまさに、隠れ潜むようにしてある。
初めてここに来て、大悲山という、その山の名を聞いた時、結子はやり場のない物哀しさを覚えた。大きな悲しみを湛えた山……悲しみもそこまで大きいと、陰鬱さすら吹き飛ばしてしまうものなのか、山々のそこかしこに森のもつ昏《くら》さはみじんもなく、かえって荘厳に、乱されることなく、どっしりとそこにあった。そんな山間の宿に身を潜めていると、気持ちが浄められる思いがしたものだった。
客室は別棟にあり、四室の座敷が並んでいた。座敷の意匠はそれぞれ異なる。初めて来た時は、棟の奥の座敷に泊まったが、その晩、客は結子たち以外一組もいなかった。ひんやりとした玄関先で靴を脱いだふたりは、中央の座敷に通された。
襖を開ければ、四畳半ほどの次の間の向こうに、広々とした座敷が拡がっている。掛け軸のついた床の間には、藪椿《やぶつばき》の花が活けられている。真新しい畳のい草の香りが、あたりにたちこめていて、その香りの奥底には、かすかに艶めいた、男と女の残滓《ざんし》のようなものが嗅ぎとれる。
黒檀の座卓に、白いカバーがかけられた二つの座椅子。板敷きの小さな縁側の外には、月見台が見える。室内の明かりを受け、月見台に積もった雪がきらきらと煌《きらめ》いている。外の闇を湛えた窓硝子に、その時、自分と正臣の立ち姿が亡霊のように映しだされたのを結子は見た。
次の間で、若女将が丁重なお辞儀をした後、菓子とお茶を載せた盆を運んで来た。
「あ、これ、前に来た時の……」
菓子を見て結子が思わずそう言うと、若女将はにこやかにうなずいて、「栃餅《とちもち》でございます」と言った。「いつも同じものばかりで恐縮です。花背の里の栃の実を使って、わたくしどもが作ったものでして、お口に合いますかどうか」
宿の予約は結子が受け持った。したがって予約名は、三浦結子となっている。連れの男が三浦結子の何にあたるのか、宿の人間たちは一切聞かない。職業も聞かない。どこから来たのか、ということも、客が言いだすまで聞いてこない。
自分たちはどう思われているのだろうか、と結子は思った。三泊四日の宿泊である。宿のほうで気づかいをしてきたのは、四日間にわたる食事の内容に関することだけであった。
「さっき、新幹線を降りてからワインを買って、持ってきたんです」と正臣が若女将に向かって言った。「冷蔵庫に入れないで、あの月見台の雪の中に埋めておくのもいいかもしれないな。天然のワインクーラーですよ」
「まあ、まあ、それは素敵なことでございますね」髪の毛を丁寧に撫でつけて髷《まげ》に結っている若女将は、目を細めた。「お風呂のご用意もできておりますので、いつでもお好きな時にお入りくださいまし。今夜は他のお客様はおいでになっておりませんので、どうぞ、お気兼ねなく。お風呂の後で帳場にお電話をいただければ、お食事の席にご案内させていただきます」
それぞれの座敷にはトイレと洗面所がついていたが、湯殿は別棟の離れにある。他の宿泊客がいる場合、客同士が顔を合わせぬように宿の人間が時間を見計らって湯殿まで案内してくれることになっている。
初めて訪れた時は、さすがに正臣と共に入浴することはためらわれた。宿の人間に案内されながら、ふたり並んで浴衣を手に湯殿まで行くことに気恥ずかしさを感じたせいだったが、今夜は何も気づかう必要はなさそうだった。
ありがとう、と結子は言った。「滞在中、よろしくお願いしますね」
「こちらこそ」
艶やかな白い頬に笑みを浮かべたまま、若女将が一礼して退がっていった。座敷に静寂が煙のように拡がって、ふわりと降りてくるのが感じられた。
「静かだね」正臣が言った。静けさを強調するような低い声だった。
「雪のせいだわ。雪が音を消すのよ」
「音がないのに、音が聞こえるような気もしてくる。ああ、こんな雪の中でピアノを弾いたら、どんな音になるんだろうな。共鳴するものがなんにもないから、音が全部、雪の中に吸いこまれていくんだろうね、きっと」
「雪の中の演奏会?」
「そう。積もった雪の上にグランドピアノを置いてね。黒いタキシードを着て、雪まみれになって演奏するんだ」
「その時は何を弾く?」
「そうだな。リストかな。いや、違う、ショパンのプレリュードかバッハのパルティータか。烈しいものは似合わない」
「きっと、音があたりにこもって、雪の洞窟でコンサートをやってるみたいになるんでしょうね」
「そうだね」正臣は結子を正面から見た。「そんな音も、あなたに聴かせてあげたかった」
……かった、と過去形を使われたのが悲しかった。正臣が、別れの旅を自分以上に素直に、まっすぐに受け入れているようにも感じられた。結子は淋しく微笑んだ。
結子の耳の奥では、いつも低く音楽が鳴り響いている。幾多の男たちの身体の上を通りすぎてきた時も、堂島の前で裸体を晒《さら》している時も、正臣との関係が深まった時も、小娘のように感情の嵐と戦っている時も、そしてこうして、雪深い二月の夜、これを最後と決めて出てきた旅のさなかにあっても。
それは結子の耳でしか聴くことのできない音楽である。ピアノの音色なのか、ヴァイオリンのそれなのか、あるいはコロラテューラ・ソプラノやカウンターテナーの声なのか、それはわからない。交響楽なのか、室内楽なのかもわからない。水が流れるようにして音楽が流れていくばかりで、そこにふいにシンバルが打ち鳴らされることもなければ、ティンパニーが大きな音をたてることもない。
いつも同じ諧調で、結子の中の音楽は流れている。悲しみや悦楽、怒りや喜び、絶望……そうした感情の一切こもっていない音楽である。うすきみ悪いほどの透明感があるのだが、その澄みわたった曇りのない硝子のような音楽の中には常に、小さな悪魔のようにして虚ろが潜んでいる。
音楽が流れるままに、結子のドラマも流れていく。何が起ころうと、音楽だけは消えずに奏でられ、そこに潜む虚ろもまた、消えることはない。
正臣はつと立ちあがり、買ってきたワインの中からシャブリを一本取りだして、縁側に立った。するすると音もなく硝子《ガラス》戸が開かれた。雪の匂いと、部屋のすぐ下を流れている渓流の音が座敷に満ちた。
おいで、と彼は言った。
縁側から四角くせりだしている月見台である。以前、来た時は、雨あがりの月見台に色とりどりの紅葉《もみじ》が張りつき、西陣織の帯のようになっていた。ふたりはそこに並んで腰をおろし、空を見あげた。眼前に迫っている山の斜面を舐めるようにして、月の光が青白く照っていた。
だが、今、外には三十センチほどの積雪がある。三方を囲む木製の柵の先端を残しつつ、月見台にはこんもりと雪が盛りあがっていた。
正臣は中腰になり、その積もった雪の中にそっとシャブリの瓶をさしこんだ。
見えるものと言えば、間断なく降りしきる雪ばかりで、山の枯れ木立は早くも漆黒の闇にのまれてしまっている。ただ、ただ、渓流の水の音が聞こえるだけであり、それは結子に、貴船で聞いた水音を思いださせた。
「明日、貴船に行くわ」
「貴船?」
「さっき運転手にそう頼んだの」結子は言った。「いいでしょ?」
いいけど、と正臣は前を向いたまま答えた。「どうして貴船なの」
「突然行きたくなったの。でも言っとくけど感傷旅行じゃないのよ。そんなつもりでここに来たんじゃないんだから」
「結子はすぐにそうやって、寂しい思いつきをするんだね」
「寂しい?」
「こんな季節に貴船に行くなんて……」
「いやならいいのよ。やめるから」
腋の下に正臣の手を感じた。そっと抱き寄せられ、結子は彼の胸に頭をあずけた。冷えきったジャケットの奥に、彼自身の心臓の鼓動が聞こえた。
泣いてはいけない、まだ来たばかりだというのに、こんなに早くから泣いてはいけない……そう思うのだが、またしても鼻の奥が熱くなった。
結子は顎をあげ、わざと大袈裟な渋面を作り、「寒い」と言った。「お風呂であったまって、それから舌がやけどしそうになるほどの熱燗、飲みましょ」
正臣は笑みを浮かべながら結子の髪の毛がぐしゃぐしゃになるまでかきまわし、ほつれた髪の毛を指先にからめとるようにしながら、「そうだね」と言った。妙に気負った口調だった。
湯殿のある離れに行くには、用意された下駄をはき、いったん、外に出なければならない。木製のゆるいアーチ型の屋根がついてはいたが、吹きこむ雪で、飛び石の上は白く染まっている。転ばぬようにと手を取り合って飛び石を歩くふたりの下駄の跡が、そこにくっきりと残された。
脱衣室は床暖房と灯油ヒーターで充分、温められている。後ろを向いて黙って服を脱ぎ、結子は手早く頭にタオルをターバンのように巻きつけた。
正臣の前だという恥ずかしさがあった。性愛抜きで服を脱ぐということは、一枚一枚、嘘をはぎ取っていくことに似ていた。そういうことを結子は堂島との関わりの中で知った。
裸体にはごまかしがないのだった。偽りのない自分自身なのだった。
それをまじまじと見つめられるのはいやだった。あれほど触れ合い、唇を寄せ合い、交わり合った肉体だというのに、だからこそ、その数十センチの距離が何か恐ろしいものに感じられる。
お先に、と結子はそっけなく言い、先に立って浴室に入った。胸も陰部も隠さなかった。隠さない分だけ、そこにはかえって古風な羞じらいがあった。
浴槽は脱衣室から数段の階段をぐるりと降りたところにある。正面に大きなはめごろしの硝子窓がある。湯気で煙る窓の向こうには、降りしきる雪が見える。
床だけがタイル敷きで、壁も天井も浴槽もすべて檜《ひのき》であった。檜の香りと湯の香りが満ち満ちて、静寂の中に外を流れる渓流の音が混じった。
ふたりで湯に浸かり、おずおずと向き合った。
透明な湯であった。山の湧き水を沸かしたものと聞いている。透明な湯の中に、正臣の裸体がはっきりと見てとれる。
見慣れているはずの裸体である。そのくせ、そうやって改めて眺めると、別のもの、見知らぬ肉体にすぎないように思われてくる。
正臣が湯の中に手を差しだしてくる。結子はそこに自分の手を重ねる。重ねた途端、糸で操られるかのようにして、身体が正臣のほうに傾いていく。
軽く唇を合わせる。湯気で湿った正臣の唇がやわらかく開かれる。結子もそれに合わせるようにして肩の力を抜く。
幾度交わし合ったかわからない接吻の、その、一つの儀式のような行為によって、目に見えない扉が音もなく開かれていく。扉の奥にはまた別の扉が控えていて、その奥にまた別の扉がある。一枚一枚、扉を開いていきながら、結子は自分の肉体が徐々に、折り畳まれていた扇のように拡がっていくのを感じる。
堂島は何にあれほど嫉妬したのか。結子は唇を離してから考えた。
この、目の前にいる男の若さに対してか。いや、若さなど、何ほどのものでもない。肌の張りや艶のよさ、肉体の美しさは、いずれ等しく消えていく。人は誰しも平等に衰えていくのであって、その推移の残酷さを知ってさえいれば、若さだけが嫉妬の対象になどなろうはずもない。
では、堂島は心に嫉妬したのか。彼の目には見えぬ、結子自身の心に……。その、馬鹿げた耽溺に。その、愚かしい熱狂ぶりに。
「あなたの身体に変化が起こっているね」……堂島からそう言われた時のことを結子は思いだす。
昨年の一月だった。正臣との恋がはじまり、はじまった途端、滝壺に落ちる滝のように、まっしぐらに、もんどりうつようにして、突き進んでいた時だった。
「どんな変化?」と結子は平静を装って聞いた。
「僕の知らない宇宙が宿っている」と堂島は答えた。そして慎ましく聞き返した。「恋をしているね?」
結子は黙っていた。黙ったまま、ポーズをとり続けた。背中に翼が生えているようなポーズ。その翼を今にも羽ばたかせようとしている時のポーズ。胸を張り、尻を突きだし、両足で床を踏みしめて、顎を斜めにあげながら宙の一点を睨んだ。
堂島はデッサンする手を休めなかった。指先に、表情に、毛筋ほどの乱れも見えなかった。
だが、結子はその時、不思議な体験をした。
寒くもないのに、乳首が立ったのである。尖って、上を向いたのである。
堂島はややあって、ふっと短い溜め息をつき、「今日はこのへんにしておこう」と言った。
「怒ったの?」と結子は聞いた。
堂島は柔和な表情で結子を見た。「どうして怒る。結子が恋をした。素晴らしいことじゃないか。何故そんなことで僕が怒らなくちゃいけない」
「怒るのかもしれない。そう思っただけ」
「この間の男だね。そうだね?」
そうよ、と結子は言った。
そのひと月ほど前、堂島滋春の数年ぶりの個展が銀座で開かれ、結子は正臣を連れて行った。堂島に紹介もした。正臣がピアニストと知って、堂島は興味をもった様子だった。男ふたりは互いの仕事について、和やかな雰囲気の中、二、三のありふれた世辞を言い合った。
「かなり年下だと聞いているよ」
「先生が年齢にこだわるなんて変だわ。それとも私はもうおばあさんで、年下の男と恋におちるなんて、ちゃんちゃらおかしい、ってこと?」
そうは言っていない、と堂島は言い、あやすように目を細めた。小さな奥まった目がさらに小さくなり、その小ささが結子に堂島の老いと衰えを感じさせた。
「また機会があったら連れておいで」と堂島は言った。「感じのいい青年だ。家内も一緒に食事でもしよう」
ありがとう、と結子は言い、裸の身体に青いガウンをまとった。
堂島はアトリエの小さな窓の傍らに立ち、腕組みしながら外を見た。そして、ひどく冷え冷えとした口調で「雪だよ」と言った。「積もらなければいいが」
まだそう遅くない時間だったので、最終バスに乗り、駅まで出た。ホームのベンチで小雪の舞う線路を見ながら、煙草を吸った。たて続けに二本、吸った。
堂島の反応が、結子には不快だった。怒るのなら、怒ってほしかった。嫉妬するなら、愚かしいまでに取り乱してほしかった。結子の恋について、堂島はあくまでも凡庸《ぼんよう》な反応を返すべきだった。人工的な冷静さは結子の神経を逆撫でした。
十数年の間、裸を見せ続け、描かせてきた男が、モデルの女に恋人ができたと聞いて何ひとつ取り乱さないのは不潔だ、とすら思った。それは魂の歪んだ少年が、母親と寝た男から遊園地に行かないかと誘われ、無邪気に喜んでみせる時の不潔さと似ていた。
翌日、結子はアトリエには行かなかった。大雪になり、交通機関がかなり乱れているからと言い訳した。
堂島は電話口で「かまわないよ」と言った。「雪で足をすべらせて、捻挫でもされたら困るからね」
「あの人が来るの」と結子は言った。嘘だった。正臣はその日、仕事で大阪に行っており、新幹線が遅れて戻れなくなっていた。
そうか、と堂島は言った。「楽しそうだね。よかった。でも、明日はおいで。待っている」
待っている、待っている、待っている……堂島はいつもそうやって、結子を待ち続けていた。来る日も来る日も、結子が来るのを待ち、結子の裸を目に焼き付け、そんなふうにして時が流れた。そして、待って待って待ったあげく、ひとつも待ったことなどないような顔をして、堂島は去年の暮れ、アトリエで梁に紐をかけ、縊《くび》れようとしたのだった。
正臣が湯の中で結子の身体を後ろ向きに抱きあげ、自分の膝の上に乗せた。
ターバンから後れ毛が落ちてきて、汗と湯で濡れたまま頬に張りついた。ふたりはそうやって長い間、硝子窓の外の斜めに降りしきる雪を見ていた。
「一週間前」と結子はつぶやくように言った。自分の声が湯気の中でこもって聞こえた。「あれ以来、初めて先生のアトリエに行った」
ぽちゃり、と落ちる湯の音が響いた。
そう、と正臣は低い声で言った。
「何も聞かなかったし、先生も何も言わなかった。私はいつもと同じように服を脱いで、ポーズをとったの」
背後から胴をきつく抱き寄せられた。結子は自分の肩のあたりに、正臣の濡れた頬があてがわれるのを感じた。
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深山亭の母屋は、宿坊だった頃の面影を色濃く残している。天井も柱も廊下も、何もかもが時の流れと風雪を刻みつけて黒ずみ、しっとりと濡れそぼっているようである。
闇と見まがうほどに黒ずんだ石が敷きつめられた玄関の上がり框《がまち》には、ぼんやりとした飴色の行灯《あんどん》が二つ。明かりは、とろとろとやわらかく滴《したた》って闇にこぼれ、焚きしめられた香の匂いと混ざり合っている。
座敷に通じる曲がりくねった仄暗い廊下を歩けば、足の裏に冷たさが伝わって、知らず背筋が伸びる。華美な装飾品は何ひとつない。掃き清められた古《いにしえ》の優雅だけが、そこにある。
硝子戸のついた広い縁側に沿って、大小の座敷が三部屋並んでいる。雪見障子と襖に囲まれただけの座敷である。客人は食事の際にいずれかの座敷に案内され、現実の時空間を忘れ去って、供される料理や酒をゆるりと味わうのである。
その晩、結子と正臣の夕餉《ゆうげ》の席は、一番手前にある小座敷に用意されていた。
八畳ほどの小ぢんまりとした座敷であった。右手奥に書院造りを模した小さな違い棚。正面には中庭に面した雪見障子。違い棚と障子を背にして、L字形にそれぞれ座布団が二枚、並べられている。座卓はなく、座布団の前には朱塗りの美しい丸盆が一枚だけ。一品一品の手のこんだ料理が、たっぷりとした贅沢な間《ま》を空けながら静かに運ばれてきては、丸盆の上に置かれる。
違い棚の下に見える格子戸の奥には、暖房装置が設置されているものの、外からはそれとはわからない。料理から立ちのぼる湯気と共に、室内は充分にぬくもり、燗酒のせいもあってか、座敷はうっすらと汗ばむほどに心地よい。
雪見障子の向こうの硝子越しに、降りしきる雪が見える。座敷の明かりが、窓の形のままに四角く外にこぼれ、なめらかに積もった雪を山吹色に染めている。
雪は相変わらず烈しく降り続いている。雪と闇、そして座敷の簡素なしつらえ以外、もはや何も目に入らない。
隣の座敷とを分ける白無地の襖《ふすま》には、丹頂鶴の図柄が施されていた。繊細な筆さばきによる美しい墨絵であった。天に向かって銘々、鶴が首を反らし、嘴《くちばし》を大きく開けて高らかに鳴き声をあげている。四枚の襖に、大小様々な鶴が九羽……。
「よく見ると、これ、色っぽい絵ね」結子は、いったん箸を休め、萌葱《もえぎ》色の座布団の上で足をくずしながら言った。「鶴って、こうやって求愛行動するんでしょ? これはきっと、皆で一羽の雌を狙ってる、っていう襖絵なんだわ」
「結子が雌の鶴だったら、どの雄を選ぶ?」
そうね、と結子は描かれた墨絵の鶴の、一羽一羽をつぶさに眺め回し、「これ」と言って指さした。
「情けない鶴だな。首の反らし方が下手くそだよ。首が細すぎて栄養失調みたいに見えるし。鶴のくせに足も短くてチビだし。とても雌にもてるとは思えない」
「雌はね、時々、こういう雄に惹かれるのよ。惹かれるどころか、ぞっこんになっちゃうこともあるんだから」
「あそこの、真ん中にいるやつじゃだめ? 背も高くてカッコいいし、強そうだ」
「あんまり興味ない」
「目立ってる強そうなやつはいやだ、ってことか」
「目立ってる強そうな雄には、すぐに他の雌が群がるでしょ。だから、ほっといてもいいの。これって、種の保存のための本能かもしれないな。たまに、だめな雄を本能的に選んじゃう雌がいてこそ、バランスがとれて、生き物は絶滅しない仕組みになってるんだわ、きっと」
「それ、僕のことを言ってるんじゃないよね」
馬鹿ね、と結子は薄く笑った。「あなたはね……そうだな、鶴にたとえると、これかな」
迷うことなく結子が指さしたのは、若々しく、涼やかに、それでいて周囲との調和を保つように描かれている美しい鶴だった。目立ちすぎず、かといって地味でもない。嘴の開け具合もこころもち控えめで、それでいながら自信にあふれている。九羽の鶴の中で、最も強壮な感じのする雄の後ろに控えつつ、美しさや強さではけして劣りはしない、と信じているような鶴……。
そう、これが私にとっての正臣だ、と結子は思う。三十路の半ばをすぎたとはいえ、まだまだ充分な若さを残している雄。体力と生命力に満ちあふれ、死や病を想い患うことからも遠く離れて、無邪気さと無心と無垢が色濃く残されている、壮年期の雄……。
忘れようと努めていた切なさが、胸の奥底で、そろり、と音をたてて小さく蠢《うごめ》くのがわかった。結子は奥歯を噛みしめて作り笑いを浮かべつつ、手酌で自分の猪口にそっと燗酒を注いだ。
「へえ。これが僕?」
「うん、そう」
「僕は二番手ってわけだ」
「一番じゃないと気にいらない?」
「気にいらないな」
「どうしてよ」
「どっちみち、結子には選ばれなかった鶴じゃないか」
「じゃあ、私が選んだ、あそこの不細工な鶴がいいって言うの?」
「不細工だろうと何だろうと、結子に選ばれるんなら、それでいいよ」
「嘘、嘘。最初っから、あの不細工な鶴があなただ、って言ったら怒ってたくせに」
「こういうのはね、男の自尊心の問題なんだ」
「自尊心? 何よ、それ」
「男の最終目的が、気にいった雌を手に入れることだとしたら、自分の容貌なんてものは二の次になるんだよ。いくらたくましくてハンサムでも、雌に振りかえってもらえないんだとしたら、そんなのは何の意味ももたないじゃないか。男にしてみれば、かえって自尊心が傷つけられるだけなんだ。だいたいね、あなたって人はさ、時々……」
飲みかけの酒を思わず噴きだしそうになりながら、結子は「あのね」とゆっくり諭《さと》すように言った。「私は今、人間の男の話をしてるんじゃないのよ。襖絵の話をしてるのよ。しかも、鶴の……」
正臣は芝居がかった表情で目を丸くし、いたずらっぽく微笑み、うなずき、そうだったね、と小声で言った。次いで、鳩のように喉の奥を鳴らしながら声をたてずに笑いはじめた。結子もそれに合わせるようにして笑ってみせた。
だが、その笑いはどこかしら、共に無理をしている笑いのようでもあった。楽しいひとときを心ゆくまで楽しんでいる、という演技。そんな演技がここのところ互いの肌にしみつき、いつのまにか虚実の違いもわからなくなるほど板についてしまった、と結子は思う。
その取りつくろったような笑い声は、雪見障子の外の、しんしんと凍える窓の外に向かって流れていき、やがて堆積した雪の面に吸いこまれて、なかったもののごとくかき消えた。
座敷の外、縁側のあたりは静まりかえっている。冬の名物料理である、ぼたん鍋が供されることになっていたが、耳をすませても宿の人間の気配はない。猪口を丸盆の上に戻す時の音が、ことり、と思いがけず大きく響く。外に降り積もる、雪の音が聞き分けられそうなほどの静けさである。
熱い粕汁が入れられた黒い椀から、かすかに湯気が立っている。ゆらめく湯気の向こうに、胡座《あぐら》をかいて坐っている正臣の、黒いパンツに包まれた膝の部分が見える。
結子は顔をあげた。正臣もまた、結子を見た。ふたりの視線が、ふと不安げに交錯し合った。微笑みかけようとしたのだが、結子にはそれができなかった。
こわばったようになった頬をそのままに、結子は燗酒の徳利を手にした。片手を畳の上につき、静かに正臣のほうに身体を傾けた。
「どうぞ」と小声で促した。正臣は我に返ったようにして猪口を差しだしてきた。
ふたりは交互に酌をし合い、黙って酒を飲んだ。ごくり、とそれぞれの喉を通っていく酒の音がした。
話したいことが山のようにある。それなのに、肝心かなめのことは何ひとつとして言葉にならない。それどころか、いったい何について話したいと思っているのか、それすらもわからなくなってくる。
温かな料理と軽い酔いのせいで、結子の頬は火照りはじめていた。にもかかわらず意識は恐ろしいほど醒めていて、目の前にいる男の、伏せた目に影を落とす睫毛の一本一本まで数えあげられそうである。
もうじき、最初の夜も終わってしまう、と結子は思う。逗留がはじまったばかりだというのに、そう思う。
宿に泊まるのは三晩だけ。夜はあと二回しかなく、時間は情け容赦なく流れていって、間違いなく、最後の晩を迎える時が来るのである。夜が明け、朝になり、また日が暮れて朝を迎えれば、最後の夜は手を伸ばせば届くほどすぐそこまで迫ってくる。自分たちはその、もっとも切ない、甘美なまでに苦痛に満ちた最後のひとときをすごすために、ここまでやって来たのだ、と結子は思う。それでもいい、ないよりはましだ、と信じて、雪の中、京の街から遠く離れた山の奥までやって来たのである。
幾度目かの、正臣からの酌を受け、結子が両手で猪口を口もとに運んだ時、どこか遠くで犬が吠えた。遠吠えのように悲しげな、痛ましいような鳴き方だった。
その、甲高い獣の鳴き声は、雪に埋もれた山肌に谺《こだま》し、細く遠くなっていったかと思うと、ふつりと途絶えた。
あの、恐ろしい知らせを受けてから、まだふた月もたっていない、ということが、結子には信じられずにいる。
たったふた月。その六十日足らずの間に、あらゆることが変わってしまった。スケーターが何かに突き動かされながら、薄氷に向かって滑りだす時のように、そこには意志も覚悟も何もなかった。
行く手には、薄い氷を透かして昏《くら》い湖底が覗き見えている。自分は、その光のない湖底を目指して、この六十日間、疾走してきた、と結子は改めて考える。やわらかく崩れる氷の割れ目から、凍える水の中に落下して、静かに静かに、観念したかのようにおとなしく、昏い湖底に向かおうとしている。それが自分である、と。
あの朝、結子は等々力の自宅のベッドで眠っていた。
冬の夜明けは遅い。おまけに雨戸を閉じていると、部屋の中に外の光は届かない。鳴りだした電話の呼び出し音に目を覚ました時は、てっきりまだ深夜だろうと思いながらベッド脇のスタンドを灯した。置き時計を覗くと、七時近くになっていた。
そんな時間に電話をかけてくるような人間に、心あたりはなかった。伊豆に暮らす老いた両親のうち、どちらかに何かがあったのか、ととっさに考えた。数年前、父が軽い心臓の発作を起こして倒れた時も、姉から連絡があったのは午前六時……真夏の早朝のことだった。
パニックに陥り、泣き叫んで、不吉な言葉ばかりを連発してくる姉の声を聞かずにすむように、と祈る思いで結子は受話器を耳にあてがった。
聞き覚えのある女の声が「結子さん?」と聞いてきた。「堂島です」
いつもと変わらぬ、落ちついた優しげな口調だった。堂島の妻、礼子が電話をかけてくることはめったにない。まして早朝である。いやな気持ちに襲われたが、礼子の口ぶりの裏に不幸の兆しを感じ取ることはできなかった。
「起こしてしまってごめんなさい」と礼子は言った。「電話するのは八時くらいまで待とうと思ったのだけど、早くお知らせしなくちゃいけないことがあって……」
礼子はそう言うと、結子の返事を待たずに、「驚かないで聞いてね」と言い添えた。「堂島がね、昨夜……首を吊ったの」
隣家の庭先で急に犬が吠えだした。
結子が借りている古家の隣には大家が住んでおり、さほど広くもない庭に芝生を敷きつめ、ウェルシュ・コーギーを一匹、飼っている。結子が自宅に出入りする際にも、付近を人が歩いていても、ほとんど吠えることのない犬だったのだが、犬はその時、まるで何かにおびえてでもいるかのように、甲走ったような声で吠え続けた。その声は朝まだきの冬の冷気を切り裂き、情け容赦なく室内にまで飛びこんできて、結子の胸をも引き裂いた。
「聞いてる? 結子さん」
「聞いてる」と結子は言った。声に痰がからまっていた。咳払いをした。
目は、白い大きな羽毛枕の上に落ちている自分の抜け毛しか見ていなかった。一本の、不吉なほど長い抜け毛だった。
堂島が死んだ、と思った。首を縊《くく》って、死んでしまった、自分のせいで自殺した、と。
犬はまだ吠えていた。大家の家の雨戸が、勢いよく開けられる気配があった。犬の声がおさまった。近くの通りを車が走り去って行く音がした。あたりに静寂が戻った。
「でも、安心して。命は取りとめたから。発見がね、あと五分……いえ、三分遅かったら、手遅れだったろう、って、お医者に言われたの。まだこの先、どうなるかははっきりわからないけれど、少なくとも命だけはね、助かったのよ」
「どこでなの」と結子は聞いた。ショックと安堵がいちどきに襲いかかり、唇が烈しく震えだした。受話器を握る手がこわばって、思うように動かなくなった。「いったい、どこで首を……」
「アトリエ。梁に紐をかけて……結子さんがいつも着ている青いガウンがあるでしょう? あのガウンの紐を梁にかけて……」
そこまで言うと、礼子はいっとき、黙りこくった。軽く深呼吸する気配が伝わってきて、礼子の口調は場違いなほど、落ちついたものに変わった。「昨日はね、簡単なお昼御飯を食べただけで、夕食はいらない、朝まで仕事をするから、って言って、ずっとアトリエにこもってたの。何か様子がおかしかったのは事実だった。ここのところ、ちょっと塞《ふさ》ぎこんでもいたし。それでね、胸騒ぎみたいなものがしてきてね、我慢できなくなって、私、ゆうべの十一時頃だったかしら、アトリエを覗《のぞ》きに行ったの。虫の知らせだったのかしら。私が覗きに行かなかったら、あの人、助からなかったんだもの。アトリエは電気が消されて、暗くなってたんだけど、一つだけスポットライトがついてたわ。馬鹿みたいね。そのライトを浴びながら、あの人、ぶら下がってたのよ。まるで舞台で首吊りの演技をしてる役者みたいに。慌てて引きずりおろして……あとのことはよく覚えてない」
ごくり、と唾を飲む音が自分の耳元で大きく響いた。結子は「すぐ行く」と言った。「礼子さん、今どこ? 病院? どこの? 車で行く。今からだったら、三十分、いえ四十分もあれば……」
「いいの」と礼子はやんわりと遮った。「来ない方がいいの。事が事だから、警察なんかにも話を聞かれることになるらしいの。結子さんが来たら、いろいろと騒がれて、あなたにも迷惑がかかると思う。だからね、もう少し、待っててちょうだい。また連絡するから」
「私のせいね」と結子は、ベッドの上にしどけなく坐ったまま言った。言いながら、苦い胃液がこみあげてくるのを覚え、片手で口をおさえた。嘔吐感はすぐに去ったが、代わりに背中が震えだし、涙があふれてきた。「……私のせいよ」
違うのよ、と礼子は低い声で叱るように言った。「違うの。お願いよ。それだけはわかって」
「他に何がある? 私のせいよ。そうに決まってるでしょう」
いくらなんでも、堂島の妻相手に言う科白《せりふ》ではないと思った。だが、どうしようもなかった。
ふっ、と礼子は吐息ともしのび笑いともつかない声をもらした。「遺書はなかったの。あんまり考えすぎないで。誰のせいでもないの。これはそういう問題とは別のこと。彼自身の問題なのよ。あなたならわかるでしょ? ね?」
結子は震える唇を前歯で強く噛み、「ごめんなさい」と言った。手の甲で涙をぬぐった。「何かお手伝いできること、ある?」
「その時は真っ先にお願いするわ」
「いつ会える?」
「堂島に? それとも私に?」
「どっちもよ」
「そのうちきっと」
「連絡してね。絶対よ」
じゃあまたね、と礼子は囁くように言ってから電話を切った。
起きあがり、雨戸を開け放ち、冬の朝の匂いを嗅いだ。冷たい空気が肺の中に流れこみ、結子はむせ返ったように咳きこんだ。
そのまま煙草に火をつけ、ベッドに腰かけてむさぼるように吸った。
最後に堂島と会った時のことを思い返した。思いだそうとするのに、記憶は断片的なものばかりで、なかなか一つにまとまらない。
結子は、片手で額をおさえたまま俯《うつむ》いた。泣きたいのか喚《わめ》きたいのか、わからなかった。まだ小刻みに震えている唇を舐め、何度も深く息を吸い、先生、とつぶやいて顔をあげた。開け放したままの窓の外に、弱々しい朝の光が射しはじめた。
着ているパジャマの前がはだけ、胸元から、乳房が覗いている。暖房のついていない、小寒い部屋の中で、乳首は寒さに震えるように色濃くなり、乳輪を粟立《あわだ》たせながら固く萎《しな》んでいる。
結子は吸いかけの煙草をもみ消し、はだけたパジャマの中に両手を差し入れて、そっと乳房を包んでみた。震える掌に、やわらかな感触が拡がった。
堂島は、かつて一度もここに触れたことがないのだ、と結子は思った。乳房だけではない、唇にも、臀部にも、性器にも、どこにも……。
堂島の目の前で全裸になり、坐り、胡座をかき、時には性器まで見せてしまうようなポーズをとったことは何度もある。だが堂島が、性的な意味合いをこめて結子の肌に触れてくることはなかった。
十六年間もの長い間、堂島は結子の肉体の隅から隅まで目にしながら、描く側と描かれる側との間に、常に千里の距離をおいて関わろうとしてきた。その指が結子の肌に触れるのは、難しいポーズを決める時に限られた。
さあ、こうして、こうだよ、いや、違う、もっと腕をこんなふうに……乾いたような、怒ったような口調でそう言いながら、堂島はまるでマネキン人形の腕や足の位置を替えていく時のように、意のままに結子の裸体を動かそうとしてくる。アクロバティックなポーズをとらされる。
「痛い」と思わず結子が不平をもらしても、堂島は応えない。肩を脱臼しそうになるまで、腕を曲げられ、結子が顔をしかめれば、もう少し我慢しなさい、と言われる。
そんな中、せりだした結子の乳房や尻、時によっては露骨すぎるほどに晒されてしまう性器は、堂島にとってはあくまでも無機質なものであるに違いなかった。
彼の、結子に向けた肉の想いは、彼が描く絵の中にしか表現されない。絵の中に、堂島はたぎる想いや狂おしい欲望の数々を描きこみ、昇華させてしまう。生身の裸体は彼にとっては人形なのだった。乳房も尻も性器も、解体された人形の一部にすぎず、彼の中の性を喚起しない。彼がそこに触れようとしてこなかった理由、現実の結子を求めてこなかった理由が、結子にはわかりすぎるほどわかっていた。
だが、そうした関係もこうなってみればかえって猥褻だ、と結子は思った。猥褻すぎて、腹がたった。
堂島は結子の尻を大きく突きださせた。性器にスポットライトを浴びせた。しばらくの間、そのままの恰好でいろ、と指示してきた。
何を言われても、どんなポーズをとっていても、結子の中に羞恥心は一切、生まれてこなかった。自分は解体されている人形である、という意識。その意識が堂島と結子の間に固い絆を生み、同時に雄と雌としての、すべての性的関わりを閉ざしたのだった。
それほど猥褻な関係はない。あげくに堂島は縊れようとしたのである。私に黙って。
断じて許せない、と結子は思った。いくらなんでも勝手すぎる。私という女の肉体それ自体が、画家としての彼の生涯のテーマになっていたのだとしたら、何があろうとそれを追い続けてみせるのが、礼儀だったはずではないか。私は単に裸を晒してきたのではない。堂島滋春という画家と、十六年間、共同作業をしてきたつもりでいる。私は彼の相棒でもあった。何を見せても平気だった。堂島からは決して触れられることのない性器の奥の奥まで見せたって、平気だった。それなのに……。
そう思いながら、結子は泣いた。烈しく泣いた。
最後に会ったのは、ほんの一週間ほど前。いつもと寸分の違いもなく、結子はアトリエに行き、屏風の後ろで服を脱いで、青いガウンに着替えた。
マットの上に白い大きな布を敷きつめ、両手を大きく前に突きだして腹這いになる、というポーズをしばらく続けた。もっと身体をねじって、お尻をこっちに、と堂島に言われた。
身体をねじると、腰の位置が高くなり、性器が露出してしまうのがわかったが、結子はかまわずに言われた通りにした。
堂島は無表情のまま、さらさらと素描を続けた。その仕草、その態度にも何ら変わったところは見られなかった。
休憩時間には、自分でいれたインスタントコーヒーを美味そうに飲んだ。結子が丸椅子に坐って煙草を吸っていると、堂島は翌年の話を始めた。
「来年は、結子の裸婦像の素描を厳選して画集にまとめるつもりだよ」
「画集の三作目ね。できあがったら、また個展やる?」
「わからん。それはまだ考えてない」
出版社との交渉も順調に進んでおり、あとは夥《おびただ》しい数の素描の中から何を選ぶか、というところまできているのだが、テーマを何にするか、まだ決められずにいる、と堂島は言った。
テーマ、ということに関して、常に堂島は悩んでいた。それは画集を編む時も、個展を開く時も同じだった。
結子の裸体の素描は日毎夜毎増え続け、ふくれあがり、山のように溜まっていくが、ただそれだけであった。彼に言わせると、そこには何ら、共通した確固たるテーマはなかった。あまりにもこれまで漫然と結子を描き続けてきたツケが回ってきた、今頃になって慌てている、と言うのが、堂島の口癖であった。
「でも、いいんだ。結子を描きたいという欲望だけは変わらないし、それは僕の最後の砦にもなっている」
「これからもずっと描く気でいるの?」と、結子はコーヒーの入ったマグカップを片手に、青いガウンの胸元を合わせながら聞いた。
「ああ、描くよ」
「でも、私もさすがに年をとったわ。おっぱいが、横に拡がってきちゃった。先生だって気づいてたでしょ。これ、垂れていく前兆よ。それにね、触るとやわらかいの。昔よりもずっと。ふにゃふにゃ」
「やわらかいのはいいじゃないか」
「よくない。若い頃はもっと固かったわ。自分で触ってもね、全体に、こりっ、とした感触があって、引き締まってて、弾力があるのがわかった。掌をね、そのまんま、弾き返してくるみたいな弾力よ。でも、今はもう全然。あと数年たったら、垂れちゃうでしょうね。おっぱいだけじゃない。お尻も。太ももも。何もかもが」
「年をとれば誰でもそうなる」
「年をとることがいやなんじゃないのよ。そういう裸を先生の前に晒したくないの。最近、そう思うようになった」
「何度言っても忘れるんだな」堂島はうっすらと笑みを浮かべた。「僕は結子が六十になっても、七十になっても、描きたいと思ってるんだよ。結子が年をとって天寿を全うしたら、棺の中を花でいっぱいにしてね、そこに裸で横たわる結子を描きたい」
「驚いた。私よりも長生きする気?」
ははっ、と堂島は笑い、「ただの夢物語だよ」と言った。「そうできたらいい、と言ってるだけだ」
「悪趣味ね。皺くちゃ婆あを裸にして、何が面白いんだろう」
「年をとることで滅びてしまう美は、本物じゃない」
結子はちらりと堂島を見あげた。「口のうまさだけは相変わらずね」
ずっとそのままでいなさい、と堂島は言った。少し疲れたような声だった。「きみが年を重ねても、僕がきみの中に見ているものは変わらないから」
「これからも何度か恋をするかもしれない」と結子は言った。「そのたびに少し輝きを取り戻して、また、元に戻って、行ったり来たりしながら、それでもやっぱり老いていくんだわ、きっと」
それが結子だ、と堂島は言った。「誰に恋をしようが、孕《はら》もうが、老いていこうが、死にかけていようが、全部、結子なんだよ」
わずかに沈黙が流れた。堂島は飲み干したマグカップを床に置くと、さあ、と言った。「続きをやってしまおう」
結子は再びガウンを脱ぎ、全裸のままマットの上に腹這いになった。ひとたびとったポーズは忘れない。自分という名のヒトガタをかたどった枠の中に、すんなりともぐりこみ、一縷《いちる》の乱れも見せずにすむ。しばらくの間、堂島が鉛筆を滑らせていく音だけがアトリエを充たしていた。
先生、と結子はポーズをとったまま呼びかけた。首を不自然な形でねじ曲げているので、自分の声がくぐもって聞こえた。「さっき言ったのは嘘よ」
「え?」
「これからも何度か恋をするかもしれない、なんて嘘。もう私、恋なんかしないと思う。これが最後だと思う」
堂島は手を止めなかった。「島津君のことか」
「嫉妬してる? 先生」
「どうかな」
「嫉妬してよ。ものわかりがよすぎるのはいや」
「わがままだ」
「いい年をして、小娘みたい?」
「小学生レベルだな」
「ねえ、先生」と結子は言った。「セックスなんか何もしなくても、女が恋をするときれいになるのはどうしてか、知ってる?」
「さあね」
「よく言われるような、ホルモンのせいなんかじゃないの。あんなのは作り話」
「じゃあ、どうしてなんだ」
「現実から遠くかけ離れてしまうからよ」結子は宙の一点を眺めながら、静かに瞬きを繰り返した。「自分がこの世のものではなくなってしまうから。この世に流れている時間とか、この世にある空間が見えなくなって、手の届かない場所に飛んでいってしまえるからよ。そうするとね、女はきれいになるの。女を醜くするのはね、年齢じゃない。自分を取り囲んでる現実なのよ」
堂島はにこりともしなかった。室内は温かかったが、堂島に向かって突きだしている尻が、そこだけ冷気にさらされているような気がした。結子も口を閉ざした。
アトリエの外では雨が降りだした様子だった。ぱらぱらとアトリエの屋根を叩く雨の音がし、堂島が滑らせる鉛筆の音がそれに混じった。
「目を閉じるな」ふいに堂島が言った。
低く、憎々しげな言い方だった。
閉じかけた目を慌てて開き、結子は堂島のほうを窺った。そのポーズのままでいると、視界に映るのは立てたイーゼルに向かっている堂島の足だけで、顔は見えない。
何故わかるのか、と思った。束の間、蜉蝣《かげろう》のように頭の中を正臣の幻影が横切ったことが、何故、この画家にはわかってしまうのか。
結子は鬼とも見まがうほど、大きく目を見開き、唇を固く結んで宙の一点を凝視した。堂島はもう、何も言わなくなった。
その晩は深夜二時過ぎまでアトリエにいた。仕事を終えてその時刻になると、堂島はいつも、タクシーを呼んでくれる。門のあたりに車の気配がすると、連れ立って外に出て、見送ってくれる。
雨はまだ降り続いていた。堂島は結子に傘をさしかけてくれた。堂島と並んで歩きながら母屋を見上げると、二階の、堂島夫妻の寝室の明かりが消えているのが目に入った。
冷たい水溜まりに足をとられそうになり、結子は思わず堂島の腕を掴《つか》んだ。堂島は支えようとする様子もなく、掴まれた腕にわずかに力をこめて、それに応えただけだった。
堂島が着ていた鼠色のセーターを通し、思いがけず細く、たるんだ皮膚の感触が結子の手に残された。
ごくろうさま、と堂島はタクシーに乗りこむ結子に向かってそっけなく言った。結子は「おやすみ」と返した。
運転手に向かって「等々力《とどろき》まで」と告げ、今一度、窓越しに堂島を見た。だが、すでにそこに彼の姿はなく、冬の雨に濡れそぼった堂島の家が、黒々とした巨大な影のように見えているだけだった。
夕食を終え、深山亭の母屋の玄関先に出てみると、湿った沓脱《くつぬ》ぎ石の上に、さきほどふたりがはいてきた下駄が用意されていた。
深山亭では、客が母屋と離れとを行き来する際には下駄を使う。男ものと女ものの区別はない。いずれも、藍色の鼻緒のついた、簡素な下駄である。
雪は、さらに烈しさを増している。少し風も出てきた。植えこみのあたりは雪で埋めつくされ、立木の梢も白く塗られて、目につく色彩といえば雪の白しかない。
離れまでの雪は丹念に掻《か》かれてあり、ふたりのために一本の細い小径が作られている。その小径の上にも見る間に雪が降り積もり、見上げれば雪はせめぎ合い、からまり合うようにして顔の上に舞いおりてくる。
深山亭の若女将と女将とが、それぞれに番傘をさしかけてくれようとしたが、正臣はそれを断り、一本の傘の中に結子と共におさまった。
「何か他に御用はございませんか」と女将に聞かれた。ふたりは同時に首を横に振った。
「お風呂はいつでもお入りいただけます。朝もごゆっくりなさって、お食事の時間にはお気をつかわれませんよう。お好きな時間にお目ざめになってから、水屋のほうにお電話いただければ、それでよろしゅうございます」
おやすみなさいませ、と丁重に頭を下げてくる二人の女の姿が、雪を透かして見る地蔵のように、しばし動かなくなった。結子と正臣もまた、会釈を返し、おやすみなさい、と口々に低く言った。
掻きだされた雪が、両側に低い壁を作っている。口からは怖いほど白い息がもうもうと立ちのぼり、ふたりがさす番傘の上に、雪はさらさらと音をたてて落ちてくる。
通りを隔てた離れの玄関先には、古風な行灯がひとつ。とろけるような黄色い明かりは、濡れた敷石を黒々と映しだしている。
結子が正臣に寄り添い、その腕に手をかけようとすると、正臣は傘を持つ手を替えて、結子の腰を抱き寄せた。背後で女将たちの、石をにじるような下駄の音がかすかに響き、まもなく傘を打つ雪の音しか聞こえなくなった。
このままどこへなりとも歩いて行きたい、と結子は思った。コートもなく、セーターに踝《くるぶし》丈のスカート、足元は下駄、という奇妙ないでたちのまま、この男と雪の奥へ奥へと歩いて行けば、行き着く先には桃源郷が待っていてくれるような気がする。
そこでは時の流れは滞り、凍結され、あらゆる記憶は氷の中に封印されている。何もはじまらない代わりに、何も終わらない。自分たちは、記憶を失ったまま、ただの氷柱の人形と化すのである。
離れの玄関に入り、正臣が番傘に積もった雪をはらいのけるのを待った。下駄を脱ぎ、部屋にあがる。廊下も室内も充分に温められていて、ひとたび中に入れば、外の寒さを忘れる。
二間続きの、隣の部屋との境にある襖は、半ば開けられたままになっている。明かりは消されていて、畳の上には青白いような光を投げる小さな行灯が一つだけ。行灯の光の中に、二組の床がのべられているのが浮きあがって見える。
座卓が置かれてある座敷の、閉め切った硝子戸の外からは、かすかな渓流の音がもれ聞こえてくる。月見台の雪の中に、正臣がさしこんだワインのボトルがわずかに覗いて見える。部屋の明かりを受け、それは束の間、きらりと光った。
あれからさらに、積もったらしい。五センチか、いや、十センチか。
「冷えてるはずだよ」と正臣は月見台のほうを見ながら言った。「ワイン、飲む?」
結子は曖昧にうなずいた。飲んでも飲まなくてもよかった。何をしてもよかった。正臣がこの場で、トランプをやろう、と言いだしたら、自分は喜んでその通りにするだろう、と思った。
ただ、起きてさえいればよかった。眠るのが怖かった。眠ってしまったら最後、無化した時間が容赦なく流れ、目覚めた時には、すでに失った時間を取り戻せなくなってしまうのだった。
正臣が冷えきったシャブリのコルクを抜き、室内に用意されていたワイングラスに注ぎいれた。ふたりはグラスを手に、硝子戸の傍まで行き、どちらからともなく月見台を眺める姿勢で板敷きの縁側に腰をおろした。
軽くグラスを重ね合わせた。シャブリはこれ以上ないほど冷えていて、ワインというよりも甘い氷水のように舌先にしみわたっていった。
結子が煙草を手にすると、正臣がライターを差しだし、火をつけてくれた。灯された焔《ほのお》の中に、彼の指が照らしだされた。長く細く、それでいてしなるような腱の強さを思わせる指……。
その指を手にとっては幾度も飽きずに眺めまわし、鼻を近づけて匂いを嗅ぎ、唇を寄せ、わざと歯をたててみた日のことが甦った。
ピアニストとして何よりも彼が大切にしている指だった。だからこそ、と言うべきか、結子にはそれが欲しくて欲しくてたまらなくなることがあった。そこだけ切りとって、部屋に置いていってほしい、と願ったことさえあった。
美しい指である。その指が、魔法をかけられたもののようにピアノの鍵盤の上を自在に動きまわったかと思えば、夜更けた寝床の中、妻の肌の上を這いまわっていることも知っていた。休日の午後、愛娘が口のまわりにつけたケチャップを、笑い声と共にその指先が拭き取っているであろうことも知っていた。
だがそれは、同時に結子の肉体のすみずみまで知っている指でもあった。ここもあそこも、全部。出会って以後、この指が届かなかった場所はひとつとしてない。
正臣がピアノを演奏すれば、彼の指先からは彼と自分とが褥《しとね》の中で繰り返してきたことすべてが、否応なくあふれだすに違いなかった。主旋律の他に、別の無音の旋律が生まれるのである。そしてそれは結子以外、誰の耳にも届かないのである。結子にしか聞こえない音が、正臣の奏でるピアノの音色の中に秘められているはずなのである。
初めて彼のリサイタルを聴きに行った時のことが思いだされる。昨年の夏だった。
結子が正臣を初めて紹介された時と同じ、青山のホール……友人の刈谷恵津子がミニ・リサイタルを開いたホールだった。会場が小ぶりで、通常の本格的リサイタルに向けた、言わば手馴らしのようなものだと聞いてはいたものの、客席はびっしりと埋まっていた。島津正臣というピアニストの演奏を待ちわびているファンが、幾人も目についた。若い女が多かった。
最前列の、ステージに向かって少し右寄りの席が最もよく僕の顔が見える、と言われていたので、その席のチケットを取ってもらった。妻の織江は来ない、と知っていたので気は楽だった。数日前から身体の具合を悪くし、外出することができずにいる、という話だった。
開演時間になると、正臣は黒のタキシードを着て、にこりともせずにステージに現れた。すらりとした美しい立ち姿だった。髪の毛は無造作ながら、オールバックになるよう撫でつけられていて、前髪の一部が、はらりと額に垂れている。
観客席に向かって彼は深々と礼をした。その目は何も見ていなかった。見ようともしていなかった。彼はすでに、彼の内部にある宇宙だけに生きていた。
場内が拍手に包まれる。彼がピアノに向かい、椅子に坐る。椅子の位置を整える。両手を鍵盤の上に載せる。場内が静まり返る。一瞬の、ナイフで切りとったような息づまる静寂……。
演奏がはじまった。静寂が引き裂かれ、たちまちあたりは美しい音の洪水に充たされた。
今、この人は私のことを忘れている、と結子は思った。思いだそうともしていない。ピアノを演奏するという行為の他に、すべての現実はこの人の頭の中から消え去っている。頭の中は、彼にしかわからない一つの壮大な、抽象的なイメージで占められていて、私など関わる隙もなくなっている……。
彼が、何か遠い、手の届かないところにいる見知らぬ男のように見えた。自分が今この男と恋をし、肌を合わせている、ということが、にわかには信じられなくなった。それは唐突な感情だった。唐突すぎて、恐怖心すら覚えるほどだった。
彼の演奏は才気にあふれている。申し分のない正確さ。わずかに破天荒さを感じさせる力強い指の動き……。この人は凄い、と思う。どうしてあんなに指が正確に動いていくのか。うっとりするほどの流麗さである。奏でられていく音は幾百幾千も重なり合い、寄せては返す波のように遠くなったり近くなったりしながら、そこに無限の宇宙を描きだす。
これまで何度か彼から聞いていた、演奏家としてのイメージ作りの手法や実際にステージに立った時の緊張感、それをいかにして昇華させるか、といった方法論などが、今、実際に目の前で具体化されていることも結子は知る。今現在、彼がどのような精神状態にあるのか、ということも想像がつく。
時に「吐きそうになる」ほどの緊張感と共にステージに立ち、ピアノに向かった途端、何も見えず何も聞こえなくなって、まるで自分自身の内臓の中を泳ぎまわっているような、そんな不思議な宇宙が拡がっていくのだ……と言った時の、正臣の表情を思いだし、この人は今、まさしくそんな宇宙を漂っているのだ、と考える。
だが、それらはすべて、自分とは無関係な世界で行われている出来事のようにも感じられる。結子は場違いな悲しさを覚える。遠いのである。正臣があまりにも遠すぎて、別人のように見えるのである。
もういい、このまま席を立って帰ってしまいたい、とさえ思う。この人は二度と自分の元には戻らないだろう、と考える。腹立ちにも似た恐怖がこみあげてくる。見知らぬピアニストの演奏を聴いているかのような、空虚感。絶望……。
だが、と結子は必死になって思い直そうとする。正臣の顔や姿ではない、彼の指だけを凝視する。ああ、と思う。あのなめらかに鍵盤を動きまわる美しい指が、自分だけのものになる瞬間があるのだ、と考えようとする。
あの指は、自分と性的に関わりはじめるといつも湿りけを帯びてくる。汗のようであって汗ではない。ぬめっているのではなく、脂ぎっているわけでもない。それでいて吸いついてくるような湿りけが指先に生まれ、やがてそれは掌全体にしみわたっていく。その、しっとりと濡れた指先で肌に触れられた時の、おののくような高揚感。それらを自分は知っている。知りつくしている。
そして結子はまさにその時、彼の演奏する楽曲の中に、別の旋律が流れていることを知った。結子にしか聴き分けることのできない音を、その瞬間、彼女は確かに聴き取ることができたのだった。
だが、その話を正臣にしたことはない。それは或る意味で、過剰なロマンティシズム、女の専売特許のように思われている大仰な感受性そのものでしかなかった。彼に限らず、その種の気恥ずかしくなるような内面をいちいち人に説明してみせるのが、結子は好きではなかった。
「どうしたの」
正臣に聞かれ、我に返った。ううん、なんでもない、と結子は慌てて首を横に振った。ワインをひと口、飲み、正臣に向かって微笑んでみせた。
「京都での今度のあなたのリサイタル、四月でしょ。準備のほうはどう? うまく進んでる?」
「演奏曲目を何にするか、迷いに迷ったんだ。あれも弾きたい、これも弾きたい、と思って詰めこんでみたら、ボリュームがありすぎて削らざるを得なくなって……。でも、なんとか決めたし、あとは練習を重ねるだけ。チケットの売れ行きについては全然自信ないんだけど」
「大きなホールなんでしょう?」
「僕にしてはね。これまでの最高のキャパは三百だったんだけど、今度は五百だよ、五百! 正直なところ、かなり緊張してるよ。でも、そこのホールに置いてあるピアノが素晴らしくてさ。凄い名器なんだ。ベーゼンドルファーっていう、オーストリアのピアノ。知ってる?」
知らない、と結子は言った。「ピアノの種類で知ってるのはスタインウェイぐらいかな」
「スタインウェイはオールマイティに表現ができて守備範囲が広いんだけど、ベーゼンドルファーってのは、伝統的な職人技術の成果の結集、って感じでね、あんまり普及してないんだ。希少価値があるんだよ。僕がそこでリサイタルをやろうって決めた理由は簡単。ベーゼンドルファーがある、ってことがわかったから、それで即決」
そうだったの、と結子は笑顔で言った。縁側の柱にもたれ、スカートの裾を気にしつつも、膝を抱えてじっと正臣の話に聞き入った。
「普通のピアノって八十八鍵だけど、ベーゼンドルファーは低音部の鍵盤の数を増やしてて、九十二鍵もあるんだよ。そのせいで、共鳴効果があって音色にものすごく深みが出る。といっても鍵盤のタッチは全然重くなくて、むしろ弾きやすいんだ。弾き手のコントロール次第でいかようにも演奏できる。重厚な音から、明るくてきれいな音まで自由自在。なんて言えばいいのかな。そう、素直で、こちらの思い通りになってくれるきれいな女の人みたいなんだけど、これが曲者でさ。調子に乗ってめろめろに酔って演奏していると、とんでもないことになったりもするから怖いんだ。そういうピアノだからこそ、また、こちらとしては堪《こた》えられないんだよね。ベーゼンドルファーに合わせてリサイタルで弾く曲を選んだようなところがあるな。ベートーベンのソナタ第32番とかね。ブラームスの『七つの幻想曲』とかね。あと、リストもどうしても外せなくて……」
結子はじっと正臣の唇を見ていた。指と同様、なめらかに形よく動く唇だった。時折、形のいい白い前歯が覗いて見える。
もっと話し続けていてほしい、と思った。何を話してくれてもよかった。妻の話、子供の話でもよかった。その唇が、自分に向かってとめどなく言葉を発し続けてくれることだけを願った。
だが、正臣は何かに気づいたように途中でふと口を閉ざした。表情に淡い翳《かげ》りが射した。「こんな話、やめよう」
「どうしてよ。聞いてるのよ。それで?」
「いや、どうでもいいんだ」
「変なの。楽しい話だったのに」
「楽しくなんかないよ。無意味だ」
「あなたの住んでる世界の話を聞くのは楽しい、って、いつも言ってるじゃない」
ふてくされた少年のような表情を浮かべ、正臣は結子を軽く睨みつけた。
「来ないくせに」
「え?」
「京都でのリサイタル、結子はもう来てくれないんだろう? それなのにこんな話をしても無意味だ、って言ったんだよ」
結子は短く溜め息をつき、口を閉ざして、抱えた両膝の間に頬を埋めた。
沈黙が流れた。硝子窓の外にはねっとりとした闇が広がり、斜めに降りしきる雪しか見えなかった。渓流の音がかすかに聞こえる。
「どうしてこんなことになったんだろうね」正臣が低くつぶやくように言った。独白のようにも聞こえた。「ずっと考えてた。来る時も、ふたりで風呂に入ってる時も、さっきあそこで夕食をとってた時も。どうして、ってね。やっぱりこんなところに来なければよかったんじゃないか、って」
「後悔してる?」
「これで最後、と思うといたたまれない。だいたい、馬鹿みたいだ。ままごとのお別れごっこをしてる幼稚園児じゃあるまいし。いい年をした大人が、こんなことをしてても辛いだけなのに」
「あなたは受けてくれたのよ。そうしよう、って言って、最後に気持ちよく同意してくれたはずじゃなかった?」
「わかってるよ。でも……」
「そんなに辛いんなら、明日、帰る?」
「そうは言ってない」
「帰ってもいいのよ。帰ろうか」
意地の悪い気持ちになり、結子は正臣に向かって皮肉をこめて微笑みかけようとした。だが、できなかった。頬と口もとがこわばり、喉は詰まったようになった。鼻の奥が思いがけず熱くなった。
慌てて顔をそむけ、硝子戸の外を見つめた。降りしきる雪の中に、硝子に映しだされた自分自身の顔が仄白く浮かんで見えた。
「ねえ」と結子は、硝子を見つめたまま言った。自分の声とは思えないほど、嗄《しやが》れていた。「……あっちに行こうか」
正臣は応えなかった。硝子の外で、軒先から落ちる雪の音が響いた。
結子はゆっくりと視線を戻した。「聞こえた?」
「ああ」
「あっちの部屋に行こう、って言ったの」
「うん」
「少し酔ったわ」
「ほんと?」
嘘、と結子は言い、伏し目がちに笑みを浮かべた。「今夜は眠りたくない。ずっと朝まで起きていたい」
「そうしよう」
「正臣は寝ちゃうね、きっと」
「寝ないよ。寝るもんか」
「いいのよ、寝たって。私が起きてるから。ねえ、手を貸して」
「うん?」
「あなたの手」
正臣がそっと、黒い上質のタートルネックのセーターに包まれた右腕を伸ばしてきた。結子はその手を取り、両手にはさんで掌に頬ずりをした。
「いい気持ち」
「指先の匂い、嗅いでごらん」
「うん」
「さっき食べた猪の匂いがする?」
「ううん、しない。あなたの匂いがする」
「結子は僕の指が好きだね」
「好きよ。大好きよ」
「だったら……」と正臣は言った。「今ここで舐めて」
「いいわよ。どの指にする?」
「一本一本、全部」
結子はうなずいた。
人さし指を口にふくんだ。歯をたてないよう注意しながら、軽く吸った。舌をなめらかにすべらせ、味わうようにして転がし、口腔で感じる指のすべてを記憶の中に刻みつけた。
正臣の目は結子の唇から離れない。結子は彼を強い視線で見つめ返しながら、人さし指を舐め終え、中指にかかる。丹念に丹念に、口の中にふくんで転がし、温かな唾液の坩堝《るつぼ》に浸す。指がやわらかくしなり、次いで溶けだしそうになるのがわかる。
素敵だ、と正臣が身じろぎもせずに低い声で言う。
薬指も小指も親指も、すべて同じようにする。それらは結子の唾液に飲まれ、結子の口の中で少しずつ結子のものになっていく。
硝子戸にわずかにできた隙間から、冷気が室内に流れこみ、そこにはっきりとした雪の匂いが嗅ぎ取れる。渓流の音はもう耳に入ってこない。
結子は目を閉じる。遠い音楽が聞こえはじめる。それは岸辺に寄せる漣《さざなみ》のようになって次第に近づいてくる。彼が演奏するピアノの音色に似ている。
音は閉じた目の奥の、底知れぬ宇宙にみなぎっていく。反響し、遠のき、再び押し寄せてきて、結子の中にあふれ返る。
深い吐息をもらしながら、正臣がそっとにじり寄るようにして結子の傍までやって来た。口にふくんだ正臣の指をそのままに、結子は頬に彼の湿った接吻を受けた。
彼の左手が結子のうなじにかかり、すべるようにして胸元から乳房、ウェストのほうに降りていった。スカートの裾が大きくめくりあげられた。
結子は指を口から離した。その唇を彼の唇が烈しく塞いだ。
結子の中で何かが弾けた。それまで肉体を支えていた芯のようなものが急速に形を失い、奏でられる音楽の中にぬらぬらと、しどけなく溶けいっていくのが感じられた。
軒先からまた、ひとかたまりの雪が落ちた。
まるで小娘みたいだった、と結子は時折、二年前の秋のことを思い返す。
恋に溺れ、夢中になり、前へ前へと突き進むことしか考えていない小娘……。地獄におちるのなら、それでもいっこうにかまわない、むしろ共に堕ちていきたい、とさえ願っている小娘……。
だが、記憶の中にある、あの豊饒のひとときは、不思議なことに現在という時間とうまく繋がってこない。そこだけが鋏《はさみ》で切り取られ、後生大事に額縁の中に飾られて、手の届かない場所に恭《うやうや》しく祀《まつ》られているような気がする。自分の中を流れる時間から、あの時期だけがすっぽりと抜け落ちてしまっているのである。
求め合う気持ちがあまりにも特別で、その歯車の回転はあまりにも速すぎた。そのせいで、現実に起こった出来事であるという実感は失われていた。もしかするとあの時期、自分は異空間に迷いこんでいたのではないか、と思うことさえあり、そう思うたびに結子は、その異空間へ導いてくれる幻の扉を今一度、開けてみたい、と虚しく望むのだった。
麻布のスーパーの駐車場で偶然にも再会してから、わずか五日後、結子は正臣と食事を共にしていた。
結子が指定したのは、恵比寿の閑静な住宅地の中にあるイタリアン・レストランだった。場所がわかりにくいだろうから、とあらかじめファックスで地図を送った。
店の半地下はウェイティング・バーになっていた。私は少し早めに行って待っている、と言っておいたのだが、当日、結子が店に行くと、すでにそこにはバーの肘《ひじ》掛け椅子に坐りながら、ぎこちない面持ちでビールを飲んでいる正臣の姿があった。
正臣は結子をみとめ、弾かれたように立ちあがった。真新しい白の開襟シャツに、仕立てのよさそうな濃紺のジャケットを着ていた。彼は申し分なく気品があり、同時にどこか野性的でもあった。立ったままふたりは見つめ合い、微笑み合った。
「先に飲みはじめてました。何にしますか」
キール、と結子が言うと、正臣はウェイターを振り返ってキールを二つ、と注文し、グラスの中に半分ほど残っていたビールを一息に飲みほした。
「ずいぶん飲みっぷりがいいのね」
「緊張してるんです。小心者なので」
「そうは見えないけど」と結子は笑い、まだ少し残っていたビールをグラスに注ぎ足してやった。ありがとう、と正臣は言い、結子は、どういたしまして、と言った。ふたりはくすくす笑い合った。
「こんな素敵な店で、いったい誰とデートを重ねてきたんですか」
いきなりそう聞かれ、結子は笑って首を横に振った。「知り合いの人が知ってたお店で、一回、大勢で食事に来たことがあるだけよ。いつだったかな。先生の個展が終わった日の夜だったと思う」
「先生って?」
「私がモデルの仕事をしている日本画家の先生。堂島滋春っていうの。有名な画家だけど、絵に興味がない人は多分、知らないかもしれない」
「絵は好きですよ。最近はあまり行かなくなったけど、以前はよく展覧会にも出かけてたし。でも、ごめんなさい。日本の画家に関しては詳しくないな。堂島滋春さんって画家の名前に記憶はあるけど、よくは知らない」
「知らなくたっていいのよ。でも、興味があったらいつか是非、彼の絵を見てちょうだい。私がうようよ、たくさん登場してるから」
「興味がないわけがないじゃないですか。早速、明日、画集を買いに行きますよ」
「言っとくけど裸婦よ」
「ラフ?」
運ばれてきたキールを手に、結子は軽く眉をあげてみせた。「裸、ってこと。つまり、ヌード」
正臣は目を丸くし、ひと呼吸おいてから、形のいい白い歯を覗かせて微笑んだ。「素敵ですね」
その微笑み方は清々《すがすが》しく、優雅だった。その時結子は、およそ初めて、自分が島津正臣という男に、とてつもなく好感を抱いていることを知った。
一階にある店は全面硝子張りになっていて、硝子の外には狭いが手入れのいい西洋庭園が見渡せた。照明を落とした店内の、それぞれのテーブルの上には蝋燭《ろうそく》が灯され、ゆらめく焔が、秋の闇を湛えた硝子に静かに映しだされている。テーブルとテーブルの間には、会話がもれ聞こえないだけの充分な間隔がとられており、店員の応対にも過剰な小うるささがなく、居心地のいい店であった。
ア・ラ・カルトで料理を何皿か注文し、分け合って食べようということになった。正臣は結子の好みを聞きながら、手早く料理を選び、ワインを選んだ。手慣れている、といった印象はあったが、そこに厭味な雰囲気はひとつもなく、すべてが自然な流れの中にあった。
会話は弾んだ。初めて食事を共にする相手とは思えないような親密さがあり、結子はそのことに面食らった。
初めの赤ワインを飲み干して、二本目のワインを開けてもらいながら、結子は訊《たず》ねた。
「飲むピッチが速すぎない?」
「僕たちが、ですか?」
「ううん、あなたよ。同じ時間をかけて、私の倍は飲んでるみたい」
「言ったでしょう。緊張してるんだ、って」
「教えてよ。どうしてそんなに緊張するの」
「どうして? そんなこと、恥ずかしくて説明できるわけがない」
「私が年上で、怖いから?」
「冗談を言うのはやめてください」
「何か変なこと言ったら、叱られるとでも思ってるんでしょ」
「僕が緊張するのは、あなたがすごく魅力的だからじゃないですか」
ウェイターが近づいて来て、二本目のワインをグラスに注ぎ入れた。結子は聞こえなかったふりをした。
この男はこの種の会話に慣れている、と結子は思った。相手が変わっても、習慣のようにして同じ科白が口をついて出てくる。とはいえ、それが彼自身を軽薄に見せることは決してない。そのための天賦の才が備わっているとしか言いようがなく、そういう男が稀にいる、ということを結子はよく知り抜いていた。
緊張している、と言うわりには、正臣はまことに淀みなく話し続けた。まるで自分自身のプロフィールをいち早くわかってもらいたい、とでも言いたげな話し方だった。おかげで結子は、短い時間で彼に関する多くのことを知った。
東京にある私立の音楽大学ピアノ科を卒業し、現在は洗足池にあるマンションで、妻と娘、それに自分の母の四人暮らしをしていること。父親は少し前に亡くなったこと。目黒に借りている防音装置つきのマンションの部屋に通い、生徒たちにピアノを教えるのが主な収入源であるということ。現在、生徒は三十人ほどいる、ということ。声楽家のリサイタルや室内楽コンサートなどでピアノ伴奏を務めるのは、年に二、三回。ソリストとして自分のリサイタルを開くのは、平均して年に一度……。
妻の織江の病気について、正臣が驚くほど率直に語ってきたのもその時のことである。
「彼女、若くしてクローン病を発病したんです」結子に聞かれもしないのに、彼は話しはじめた。「クローン病って、ご存知でしたか」
「聞いたことはあるけど、よくは知らないわ」
「腸の病気ですよ。人によっては厄介なんだけど、たいていは治る。クローン病そのものは怖くないんです。でも彼女の場合はね、運悪く薬の副作用が出てしまった」
「それで目を?」
「そう。視神経がやられるっていう副作用があってね。そのことはあらかじめ知ってはいたんですが、薬を始めて半年くらいたってから、おかしくなっちゃったんです。気づいた時はもう手遅れの状態で、元に戻せなかった」
そうだったの、と結子は言った。感想は言えなかったし、また言うべきではない、と思った。「でも恵津子から聞いたわ。あなたの奥様はふつうの人とまったく変わりのない生活をしてるんだ、って。この間、恵津子のリサイタルがあった時、私も遠くからお見かけしたけど、目が不自由だってこと、聞くまで全然、気づかなかったくらい」
「気丈な人間なんです。本人が一番苦しかったろうと思うけど、見事に乗り越えましたね。目が見えていた時の記憶を少しずつ甦らせて、身体に刻みこんでいったみたいです。電話もね、プッシュホンなら指先でボタンを探ってうまくかけられるし、家事も子育ても、ひと通りこなしてますよ」
「子育て、って、この間、ホールに来ていたお嬢さんのことね?」
「琴美っていうんですけど、あの子は、女房が全盲になる一年くらい前に生まれた子です。目が見えないのに小さな子の世話をするのは気が狂いそうになるほどの苦痛があったでしょうね。でも、彼女は愚痴ひとつこぼさなかった。もちろん、僕のおふくろが同居してるからこそ、そんなことができたんでしょうけど」
「すごい人なのね」
「ええ」
「あなたも大変だったんだろうな」
「変に同情したり、憐れんだりしないようにって、ふつうに接してやることのほうが大変でした。お茶いれてくれる? とかね、これまでごく自然に頼んでたことを言ってはいけない、と思えば思うほど、あっちはそれに気づいて苦しむんです。もっと甘えてくれればいいと思うくらい、甘えない女ですから、かえってそうやって、突き放しながら支えてやったほうが彼女を喜ばせることになったみたいで……。それが大変といえば大変だったけど、でもね、終わったことです。今はもう、彼女自身も僕も娘も、みんな彼女のそういう状態に慣れて、ごくふつうの、ありふれた家庭生活を営んでますから」
結子は溜め息をついた。「そういう話を聞くと、人間の本当の強さを感じるわね」
正臣はうなずいた。「でも……もうやめます」
「え? 何?」
「彼女の話はこれきりにしますよ」
「どうして」
「せっかくご一緒しているというのに、ずっと妻の話をしていても仕方がない」そう言って正臣は表情をやわらげた。「そんなことより、あなたの話を聞かせてください」
「いいわよ。何を話せばいい?」
「全部」
そう言って、正臣はいたずらっぽく微笑み、その微笑みを裏切るような、射るような視線を投げてきた。
それは結子の胸の中の、それまで閉めきっていたはずの扉の鍵穴に容赦なくぐさりと突き刺さった。猛烈な素早さだったので、逡巡する間もなかった。自分の中にある扉の鍵が外され、力強く開けられる時の、ぎい、という蝶番《ちようつがい》の音を結子は聞いたように思った。
食事を終え、店を出てから、正臣が知っているという青山のバーに行った。バーを出た時は午前零時をまわっていて、そろそろ帰る、と言った結子の前で正臣はタクシーを拾い、等々力の結子の家まで送って来た。
車の中で饒舌に喋っていたふたりは、等々力が近づいてくると黙りがちになった。家から少し離れた大通りの角が近づいた時、結子は運転手に「そこで停めてください。ひとり降ります」と言った。
降りぎわに握手をすべきかどうか、迷った。迷ったりするなど妙だ、と思ったが、結局、結子は「おやすみなさい、とっても楽しかった」と言うにとどめた。
正臣はそれに応えなかった。着ていたジャケットの内ポケットから一万円札を取りだし、黙って運転手に料金を支払いながら、彼は「僕もここで降ります」と言った。釣銭を受け取るのももどかしげに車から降りてきた彼を、結子は怪訝な顔で見つめた。
正臣は「心配しないで」と言った。「図々しくあなたの家に寄ってコーヒーをごちそうになりたい、なんてこと言うつもりはないですから。あなたの家の前まで送りたいだけです」
「いつもタクシーを使った時はここで降りることにしてるの。家がちょっと奥まったところにあるのよ。危ない道でもないし、慣れてるから大丈夫だったのに」
「でも送りたい」
「ほんとにすぐこの先なのよ」
「送る、って言ってるでしょう」
結子は正臣を見上げ、なだめるようにして微笑んだ。「じゃあ送って」
ふたりは並んで歩きだした。行き交う車の流れがいっとき途絶えると、秋の夜の涼やかな風に乗って、家々の庭先で鳴く虫の声が聞こえてきた。
通りを渡り、住宅地の中の少し狭まった道に入れば、まもなく結子の家である。道の入口付近に街灯があり、大家の住む家の門灯も煌々《こうこう》と灯されている。その界隈に住みついている白地に黒い斑《ぶち》のある大きな野良猫が、慌てたようにふたりの前を横切って行くのが見えた。
「ここよ」と言い、結子は大家の敷地から地続きになって建てられている小さな古い家を指さした。家は夜の闇の中、小さな四角い黒い影のようになって溶けていた。
結子専用の出入口は簡素な枝折《しお》り戸《ど》になっている。その脇に、透明なプラスチック製の屋根のついた簡易な駐車スペースがある。大家が借家人のために設置した駐車場で、そこには結子が姉夫婦から譲り受けた、紺色の軽四輪車が停められている。
大家が飼っている犬が、ひと声、低く吠えた。首輪につないである長い鎖の音がしたが、ほどなくしてあたりには静寂が戻った。
「なんだか懐かしい感じのする家ですね。ずっと昔、子供の頃に知ってたみたいな」
「大家さん夫婦が、新婚の頃、住んでた家なんですって。そのあと隣に新しい家を建てて、ここを人に貸すようになったのよ。狭くてね、ちまちましてて、おままごとみたいな家。部屋は二間しかないの」
「でも、庭がある」
「猫の額ほどのね」
「もしかして瓦屋根?」
「うん、そう。一度雨もりがしてね、その時に大々的に屋根の修繕をしてもらって……いろんなところにガタがきてるわ」
「それでもなんだか、いい感じだな。想像してたのと全然違う」
「ごみごみした所にあるワンルームマンションか何かに住んでると思った?」
「そうじゃないけど」と正臣は言い、そこで言葉をとぎらせると、ふっ、とかすかに息を吐いた。
門灯の光を受けた正臣の目が、まっすぐに結子を見つめてきた。次に何がはじまるのか、とっさに結子が感知したその直後、結子はやわらかく正臣に抱き寄せられていた。
「今夜は本当に楽しかった」と彼は耳元で囁いた。「また会ってくれますか」
結子が曖昧にうなずき返すと、正臣はやおらその唇に唇を重ねてきた。触れるだけと思われた接吻が名残惜しげに繰り返されているうちに、火のついた藁《わら》がめらめらと燃え拡がっていきそうなほどに烈しくなった。
結子は慌てて唇を離し、小声で聞いた。「からかってるんでしょ」
「どういう意味?」
「気まぐれな男の子の火遊び、って感じがする」
それには応えず、正臣はもう一度、強く結子を抱きしめて、唇を近づけてきた。何か途方もない、突き動かされるような思いにかられた。結子はその唇に自ら唇を重ね、彼の首に両手をまわすと、「おやすみ」と短く言い放った。
踵《きびす》を返し、急いで枝折り戸を開けて中に飛びこんだ。背後で正臣が「おやすみ」と低い声で言うのが聞き取れた。
結子は自分が関わった男について、微に入り細をうがって人に打ち明けたことがない。
そもそも、どれほど急激に火のついた関係であっても、それはいつのまにか、蝋燭の火が消えるように終わりを告げている。追いかけもしないし、残念だったとも思わない。いずれそうなる、ということがわかっているような関係ばかりで、終わってしまえば幾多の記憶の中のひとつにすぎなくなる。感傷すら呼び覚まさない。
ずっと後になって忘れた頃にそれらを思いだし、面白おかしく語って聞かせることはあっても、冗談めかして話すのが関の山だった。どんな経緯で知り合ったのか、相手が何の職業についていて、年は幾つで、既婚者であるのかどうか、関係はどのあたりまで進んでいるのか、といった具体的な話を、たとえ親しい人間であっても打ち明けることを結子は好まなかった。
それは結子の、ささやかな、しかし生涯、揺るがないだろうと思われる流儀でもあった。
打ち明けてみたい、という衝動にかられることもないではなかったが、そうした情事のデータの一つ一つが、相手の「好奇心」という名のファイルの中に収められていくのを想像すると寒々しい気持ちになった。自分の情事は自分で受け入れ、密かに味わい、ひとつずつ過去のものにしていけばよかった。たとえそこに恋に似た感情が渦まいていたのだとしても、その感情は人に向かって語られた途端、現実の手垢にまみれ、嘘になってしまう……そんな気もした。
したがって結子は、友人の刈谷恵津子にも、これまでその種の打ち明け話をしたことはない。何やら行きずりのような束の間の情事を楽しんでいる女、として人から見られることを結子は望んだし、恵津子にもそう思われていたかった。
そんな結子が恵津子に正臣のことを話して聞かせる気になったのは、ひとつには紹介者である恵津子に対してはその種の報告をしておくのが礼儀かもしれない、と考えたからだが、それだけではなかった。
恵津子は自分の大学の後輩でもある正臣に関して、多くのことを知っているはずであった。自分の知らない正臣に関するエピソードを恵津子の口から聞いてみたい、という子供じみた強い好奇心が、結子の中には芽生えつつあった。
「へえ、驚いた」と恵津子は、結子からあらかたの話を聞くなり、喫茶店のテーブル越しに身を乗りだしてきた。「驚きすぎて息が止まるかと思ったわよ。彼とあなたが? ああ、驚いた」
「そんなに驚くこと?」
「そりゃあそうよ。心臓に悪い。ドキドキしてる。ちょっと待って。お代わり、頼むから」そう言って恵津子は通りかかったウェイトレスに、飲んでいたハーブティーを注文すると、再び結子のほうに向き直った。
「こういう時、声楽家としてコーヒーを飲まないようにしてるのはかえって身体に毒ね。強烈なカフェインで気を鎮めたいところだけど……ああ、そんなこと、どうでもいいわ。ねえ、最初に誘ったのはどっちなのよ。彼?」
「言っておくけど、まだ深い関係でもなんでもないのよ。帰りがけに挨拶代わりのキスをしただけの話なんだから」
「ただの挨拶だったとは思えないわよ。それにね、そうなったら最後、深い関係に至るのは時間の問題だってば」恵津子はソプラノ歌手特有の、力強くも澄んだ声で愉快そうに笑った。「でも、素敵。そう言えばそうよね。彼、初めて紹介した時から、なんとなく結子に興味をもっていた様子だったもの。ふたりとも年より断然、若く見えるし、まあ、ほんとに、恋多き男と恋多き女が出くわすと、たちまち火花が散って、何が起こるかわかりゃしない」
恵津子の口から、正臣を称して「恋多き男」という言葉がさらりと出てくるのを、結子は何かぼんやりとした思いの中で聞いた。
その種のありふれた言葉で括られるのが彼ほど似合う男もいない、と思ったし、同時にそれは、現実の島津正臣とは別の、まるで違う男について語られた、見当外れの言い方であるようにも思えた。
「結婚してからの彼はね、奥さんのこともあって、すっかりおとなしくなってたみたいだけど、独身時代はそれはそれは華やかだったらしいから」と恵津子は言った。「あ、こういう話、今の結子にはまずいかな」
「そんなことでやきもち妬く? この私が?」結子は笑った。「聞きたい、聞きたい。どんどん話して」
「伴奏を務めた女の声楽家たちを、ひとり残らず口説いた、っていう噂もあったな。ひとり残らず、ってのは大袈裟かもしれないけどね。口説き方はうまそうだから、女性慣れしてることだけは事実よ。もっともクラシックの世界に根っからのモラリストはいないし、だいたい全員、お盛んだから、そんなの別に珍しくもなんともないんだけど。まあ、少なくとも結婚するまでに、女性がらみの楽しいことがいっぱいあったのは間違いないわね」
恵津子の現在の夫は三人目である。初めの夫は十五も年の離れた指揮者。二人目は四つ年上のテノール歌手。今の夫は三つ年下のピアニスト。一番目の夫との間に、息子が一人いる。
離婚の際に、さして争うこともなく、息子の養育権を夫に譲り渡した。二番目の夫になる男と、わき目もふらぬ烈しい恋におちていたせいだった。恵津子はそのことを深く悔やみ、今も時折、興奮すると息子の話をはじめて涙ぐむのだが、長続きはしない。この人は、四回目の結婚も辞さないのではないか、と結子はいつも思っている。
「で、恵津子はどうだったの」結子はいたずらっぽい気持ちにかられて聞いた。「伴奏してもらってて、口説かれなかった? 噂のピアニストに」
「馬鹿。やめてちょうだい」恵津子は呆れたように笑った。「口説くも口説かないも、そういう関係じゃないの、私たちは。それにね、ここだけの話、彼は私にとっての雄じゃないのよ。すごく素敵な人だとは思うし、もてるだろうな、とも思うけど、何かが違う。私がね、雄にピンと来る時って、身体の中にある共鳴板がびりびり鳴りだすの。お、きたな、きたな、ってわかるのよ。わかったら最後、私なんか、口説かれなくたって全然平気。こっちから口説いちゃうもんね。残念ながら、島津正臣にはそれがなかったわけ。第一、それ以前に私は、こう見えても公私混同しない主義だし」
「嘘ばっかり。今の旦那と恋におちたのは、どうしてだったか忘れたの? あなたのリサイタルの伴奏をしてもらったからじゃない」
「そうだけど、あれは決まってた伴奏者が急病になって入院しちゃったから、慌てて代役を頼んで、そんなこんなでドラマティックな展開になったからよ」
「ドラマティックだろうが何だろうが、公私混同して恋におちたのは事実でしょ」
「ま、そうだけどね」恵津子は肩を揺すって笑い、運ばれてきたハーブティーのカップを口に運んだ。「私のことなんか、どうだっていいわよ。それにしても、なんだか楽しいことになりそうじゃない。結子と島津さんか……。ほんと、お似合いだわ。堂島滋春お抱えの美人裸婦モデルとピアニスト……。これからどうなるんだろう。他人事ながらわくわくしちゃう」
そう言われると、悪い気はしなかった。胸が躍った。その気持ちは、かつてもっと若かった頃に幾度か味わったものでもあった。なんと懐かしい感覚に自分は浸されているのだろう、と結子は少なからず驚いた。
恵津子はいつも、情事や恋愛沙汰について、小娘のように浮き浮きした調子で語ってみせる。昔からちっとも変わっていない。つまらない道徳や常識をひと言も口にしないのが恵津子という人間の面白さであり、破天荒なところだった。
間違っても、正臣の妻が傷つく、だの、あなたが傷つくかもしれない、だの、言いださない。私たちみたいな年齢の女が、八つも年下の男に手をだしたら火傷《やけど》するわよ、などという、どこかで聞きかじってきたような薄汚れた科白も吐かない。
そんな生臭い現実を超えたところで恵津子のファンタジーは活き活きと息づいていて、それは常に結子に、人生の絶えざる悦びを思いださせてくれるのだった。
「奥さんのことも話してくれたわ」ややあって結子は言った。「クローン病っていう病気にかかって、その時の薬の副作用であんなふうになったんですってね」
「病気の名前までは知らなかった。でもそれってどんな病気なの?」
腸がやられる病気みたい、と結子が言うと、恵津子はわずかに眉をひそめた。「奥さんの名前は織江さんっていうんだけど、織江さんは島津さんの出た音大の後輩にあたる人なのよ。私と同じ声楽科を卒業しててね。卒業して彼と結婚してから、一度だけ彼と組んでコンサートを開いたことがあるみたい。もちろん、そんな話、私は知らなかったんだけど……テレビで彼女が取りあげられた時にね、その時の映像が流れてたの」
「テレビ?」
「うん。二年くらい前だったかな。織江さん、テレビの深夜のドキュメンタリー番組に出たことがあるのよ。声楽家を目指してた矢先に病気で目の光を失って、苦しんだあげくに声楽家への道を諦めて、家庭に入って、ふつうの人と同じように生活してる、っていうことが、どこからか制作会社の人の耳に伝わったらしくてね。彼女の日常生活の風景とか、電車に乗ってるところとか……すごく真面目に取りあげられてて、最初はよくそんなものに出る気になれたな、って不思議だったんだけど、見てて思わず、涙ぐんじゃった。いい番組だったわ」
「そこにコンサートの映像があったのね」
「そう。ホームビデオで撮影したやつがほんの少し、はさまれてたわけ。島津さんが伴奏して、織江さんが歌ってて……。小さなホールだったな。百人くらいしか入らない多目的ホール。だから音響効果もあんまりよくなかったけど……。結子、観てみたい? 観たいんだったら、ビデオ、貸すわよ。でも関係ないかな。島津さん本人じゃなくて、その妻が取りあげられてる番組なんだものね」
そうね、と結子は言い、「そのうちまた」と言い添えた。
恵津子はうなずき、「うん、わかった」と言った。
秋雨の降りしきる、小寒い十月の午後だった。若者たちで賑わっている原宿の喫茶店を出ると、冷たく濡れた路面を行き交う車のタイヤの音が妙にうら寂しく聞こえた。
結子はふと、正臣に会いたいという衝動にかられた。その衝動があまりに烈しかったので、やり場のない気持ちに襲われた。
赤坂で知人が藍染の個展をやっているから見に行ってくる、と言う恵津子をタクシーに乗せ、見送った後、ひとりになってからバッグの中にある携帯を取りだした。傘をさし、歩きながら、正臣の携帯を呼びだした。
留守番電話になっていた。半ばほっとしながら、結子は「別に用はないんです」と留守番電話に吹きこんだ。「さっきまで恵津子と会ってました。また連絡します。じゃあね」
原宿駅まで行き、電車に乗り、渋谷経由で自由が丘まで戻った。その日はもう、何もすることがなかった。駅を出て、すでに暮れはじめた街をぶらぶら歩き、結局、何をするでもなく、焼きたての甘栗を一袋買っただけで、駅に戻った。
雨脚が強くなっていたせいで電車に乗って帰るのが急に億劫《おつくう》になり、駅前につけていたタクシーに乗った。自由が丘から等々力まではわずかな距離である。
車の中で、携帯を覗いてみた。着信が表示されていた。雑踏を歩いていて、呼びだし音が聞こえなかったようだった。
メッセージを再生してみると「島津です」という正臣の声が聞こえた。「せっかく電話をいただけたっていうのに、レッスン中で出られなかった。ものすごく残念です。今、どこで何をしてるんですか。会いたい。とっても」
そこまで言うと正臣は束の間、言い淀むように黙りこみ、次いで取りつくろうように「また」とつけ加えた。電話はそこで切れていた。
結子は幸福な気持ちになりながらも、もう一度電話をかけることを控えた。そのメッセージだけで充分だった。
家に戻り、雨の音を聞きながら夕食をすませ、夜遅くなって本を読んでいると、部屋の電話が鳴った。正臣だった。
その晩の電話での会話は一時間半に及んだ。翌日は、モデルの仕事で堂島のアトリエに行くことが決まっており、充分な睡眠をとっておく必要があったのだが、結子はそんなことも忘れていた。
電話を切ってからしばらくの間、煙草をふかし続けた。正臣との会話を飽きず再現しようとするのに、何を話したのか、はっきりとした記憶が残されていないのが不思議だった。
どのくらいの時間がたってからか、結子は書棚におさめてある堂島の画集を取りだした。ぱらぱらとページをめくって、その時その時の自分の裸体に目をとめた。
それぞれの絵を堂島が描いていた頃、自分が何をしていたか、思いだそうとした。はっきり覚えているものもあれば、病的なほどきれいさっぱり記憶から抜け落ちてしまっているものもあった。
少し太っていた時期もあった。体調をくずしたわけでもないのに、どういうわけか痩せてしまい、なかなか元に戻らなくなっていた時期もあった。
髪の毛を今よりも長く伸ばしていた時期。短めにして、軽くパーマをかけていた時期。男と関わっていた時期。いない時期。
いろいろな自分が画集の中に残されていて、あげくの果てに、今の自分がここにいるのだ、と思った。そう思うと、正臣と関わった自分の肉体が堂島の手によって、どのように描かれていくのだろう、と興味がわいた。
それまでの堂島は、結子が情事の後でアトリエに行き、ポーズをとると、決まって目を輝かせ、面白そうに言ったものだった。
「今日の結子はまるで、媚薬《びやく》を飲んだニンフのようだよ」と。
裸は嘘をつかない。情事の後の肉体が、まさに堂島の言う通り、媚薬を飲んだニンフのようになってしまうことを結子はよく承知していた。
たとえ一夜限りの情事であったとしても、男に愛撫《あいぶ》され、素直に快楽を味わえば、女の肉体は甦る。艶やかさを取り戻し、色づき、潤って、さらなる快楽を求めようとしはじめる。堂島は結子がその種の、精神が絡まない輝きを取り戻すことを好んだし、面白がりもした。
情事の後の自分がニンフのように見えたのだったとしたら、恋をした自分は堂島の目に、どう映るのだろう。これからの自分はどうなるのか。堂島によって、どんなふうに描かれていくのか。
想像もつかなくなっているのが、結子には怖いようでもあった。
「雪の音がする」
そう言って、正臣が口を閉ざしてから長い時間が流れた。
二組の床がのべられている座敷には、行灯の明かりがひとつ。座卓の置かれた隣の座敷との間の襖は閉じられており、天井に行灯の光が丸くぼんやりと映しだされている。
耳をすませていると、硝子戸の外を流れる渓流の音に混じって、正臣の言った通り、雪の降り積もる音が聞こえてくる。音にもならないほどのかすかな音である。雪があらゆる外界の音を吸いこんで、離れの宿全体を繭《まゆ》のように包みこんでいるのが感じられる。
全裸で仰向けになったふたりの、つい先程まで繰り返されていた荒い息はおさまっていた。身体のすみずみが未だに火照り続けているのだが、それは火のような熱さではない。生温かい湯をいっぱいに湛えているような、微熱のような火照り方である。
潤いは今もなお、結子の中にとどまっている。ぬるんだ水に身体を浸しているようなけだるさが、足元に拡がっている。あまりの静かな悦楽に気が遠くなっていきそうになる。
「こうしていると、結子の家を思いだすな」正臣の声がしじまを破った。「よくこんなふうに、黙って天井を眺めてたよね」
そうね、と結子は言った。「こんなにきれいな天井じゃないけど。染みのついた天井。古くて、黒ずんでて……」
「ベッドの脇にあるスタンドの明かりが、天井に映って輪を描いてた」
「……懐かしい?」
正臣は答えずに、結子のほうに向き直った。乾いたシーツがこすれる音がし、結子は正臣の腕の中にくるみこまれる形になった。
「私の身体でピアノを弾いたわ」
「ん?」
「あなたのことよ。あなたはずっと、私の身体でピアノを弾いてた。私はピアノみたいだった」
「そうかもしれない」
「いったん指が覚えたことは忘れないもの?」
「忘れない。二度と」
「この身体も忘れないかな」
「もちろんじゃないか。どこに触れるとどんな音楽が鳴りだすか、全部知ってる」
「たまに不協和音もあったりして」
「僕のミスタッチのせいで?」
ううん、違う、と結子は言い、甘やかな溜め息をついた。「ピアニストの指があんまり刺激的に動くから、ピアノがそれについていけなくなって喘ぎ声をあげるのよ」
そうか、と正臣は言い、うん、と結子はうなずいた。
目を閉じた。雪の降りつもる音がしている。結子は巨大な白い繭に包まれた、二匹の蛹《さなぎ》を思い浮かべる。それは永遠に孵化《ふか》することなく、今まさに息絶えようとしている蛹である。
私の家……と結子は思い返す。等々力の、長年住み慣れた家のことが頭に浮かぶ。繭のような家でもある。新しいものが何もない、狭くて古い、時代から忘れ去られたような家だが、それは結子だけの居心地のいい棲みかである。
枝折り戸をくぐると、飛び石が三つ並んでいて、その先が玄関である。もとは硝子つきの古めかしい引き戸だったのだが、結子に貸すようになってから、大家が磨り硝子がはめこまれた木製の扉に替えてくれた。
扉の脇には植え込みが幾つか。ひょろひょろとした、ひとかたまりの竹。風が吹くと竹の葉がさわさわ鳴る。秋も深まれば、舞い落ちる葉が飛び石を埋める。
中に入ると、人が三人も立てばいっぱいになってしまうほど狭い三和土《たたき》がある。左側が靴箱、右側が壁になっていて、結子はその壁に、堂島が描いてくれた自分自身の素描を額に入れて飾ってある。
裸婦像ではあるが、後ろ向きの立ち姿なので目立たない。宅配便などを届けに来る人間がそれを目にしても、結子であるとは決して気づかれない。
上がり框をあがると、廊下をはさんで右側にトイレ、洗面所、風呂場が並び、風呂場の奥が台所である。左側に八畳間と六畳間の和室。台所の脇、廊下の突き当たりには二畳ほどの納戸部屋。
八畳の和室には縁側がついていて、狭いがうっそうと木が繁っている庭が見渡せる。日当たりも悪くない。結子はその八畳間を居間として使っている。絨毯を敷き、ソファーと座卓を置き、食事をするのも、テレビを見るのも、音楽を聴くのも、すべてその八畳間である。
隣の六畳間は寝室である。同じく絨毯を敷きつめ、ベッドとサイドテーブル、古い箪笥を置いている。
ものを溜めこむという習性が昔からないので、結子の部屋はいつも簡素である。気にいれば同じ服を何年も着まわして、たまに新しいものを買えば、順繰りに古いものを処分していく。食器も本もビデオも、その他生活のこまごまとしたものも同様である。
簡素な住まいに簡素に暮らし、堂島のアトリエに行けば着ていたものを脱ぎ捨て、裸の自分を晒す。そうやって長い時間を生きてきた。
何かのきっかけで知り合い、熱心に口説かれて、情事のひとときをもった男は数知れずいたが、男を家に入れたことはない。家の前まで車で送られ、降りぎわに思わせぶりに肩を抱かれて、ちょっと寄ってもいいかと聞かれても、いつも首を横に振った。
借家とはいえ、ここは聖域だから、という意識が結子の中にあった。自分のねぐらを、よく知りもしない男の汗や体液で汚したくはなかった。どれほど気にいっている男を相手にしていても、そう思った。その男とのひとときが欲しいのであれば、どこかその種のしかるべき場所を利用すれば事足りるのだった。
それなのに、何故、と結子は今さらながら不思議に思う。
正臣の時だけは違っていた。結子は彼を自分のねぐらに招いた。求められてそうしたのではなく、自らそうしたのだった。
「ねえ」と結子は言った。正臣の腕の中にいて、唇も鼻も正臣の腋の下に押しつけられているせいで、声がくぐもって聞こえた。「初めてうちに来た日のこと、覚えてる?」
「覚えてるよ。一昨年の十月。十月も終わり近くなってから」
「雨が降ってた。肌寒くって、電気ストーブ、つけようか、って言ったくらいだった」
「そう。夕方だったよね、行ったのは。まだ五時くらいだったのに、薄暗くなってて、あなたの家の玄関の前に立った時、寒いのと緊張と嬉しさで、震えてたのを覚えてる」
「よく緊張する人ね」
「あんなふうに、初めて訪ねて行く女の人の家に行って、まして、その人のことがすごく好きになっていて、会いたくてたまらなくなっていて……それなのにひとつも緊張しないでいられる男なんていないよ」
「私が玄関を開けて、いらっしゃい、って言ったら、なんだか怒ってるみたいな顔して睨まれた」
「睨んだんじゃない。こわばってたんだ」
「私は睨まれたような気分になって、内心、焦ったのよ。どうしたんだろう、この人はここに来るのが本当はいやだったんじゃないか、って。無理して来ただけなんじゃないか、って」
「でも、すぐその後であなたを抱きしめたじゃないか」
「しかも、めちゃくちゃにね」
「濡れた傘なんか、そのへんに放りだしちゃえばよかったものを、なんだか緊張して慌てたもんだから、後生大事に傘を握りしめたまんま、あなたを抱きしめて……」
「おかげで、私がはいてたスカートのお尻の部分がびしょ濡れ」
ふたりは声をひそめて笑い合った。正臣の横隔膜が上下するのを、結子は頬で感じとった。
うちに来ない? と結子はその三日ほど前、電話をかけてきた正臣を誘ったのだった。当日はピアノのレッスンがあるが、遅くとも四時には終わる、それから行けば五時には等々力まで行けると思う、と正臣が言ったので、結子は多くを語らず、「じゃあ、五時に」とだけ言った。
恵比寿のレストランで食事を共にしてから、ひと月もたっていなかった。その間にも一度会っているが、堂島が直前になってモデルの仕事の予定変更を申し出てきたため、渋谷の喫茶店で小一時間ほどすごすことしかできなかった。濃密な時間をすごすのは、二度目と言ってよかった。
玄関先での抱擁の後、八畳の部屋に案内し、肌寒い日だったのでぬるく燗をつけた酒をだした。軒先を叩く雨の音がしていた。
音楽はかけなかった。雨の音だけで充分だった。そして、一本目の徳利が空になるかならないかのうちに、結子はもう、正臣と共にベッドの中にいた。
「初めて私を抱いた時、どう思った?」結子は聞いた。
「きれいな身体をしている人だな、って思った」
「年齢に似合わず?」
「そういう意味じゃないよ。なんかこう、神々しいような感じ。絵の中にいる美しい人を抱いているような……」
「画集を見た後だから、そう思ったのよ、きっと」
「違う。見なくてもそう思ったと思う。でも、あの後、もう一度画集を見たら、ものすごく腹がたってきた」
「どうして」
「堂島滋春っていう画家は、この美しい身体を毎日毎日、眺め暮らしてきたんだ、と思ってさ」
「彼は画家よ。私を描くのが仕事。ただ眺めてたわけじゃないわ」
「僕はあの日、あなたを抱いたすぐ後で、堂島画伯とは寝たことがあるのかどうか、って聞いたよね」
「ええ。ずいぶん露骨なことを聞く人だと思って呆れたけど」
「あなたは、そんな関係ではない、先生はポーズをつける時以外、指一本、私の身体に触れたことがない、って答えた」
「事実だもの」
「でもその答えが気にくわなかった」
「何故」
正臣は結子の頬を指先で愛撫した。「指一本触れたことがないのに、あんなに官能的な絵を描くなんて、許せない。かえって不潔な感じがする」
結子は薄く笑った。「じゃあ、私が先生と寝ていればよかったの?」
「よくはないけど、少なくとも納得はしたと思うよ。やっぱり、って思う気持ちの中には、それを受け入れようとしている自分がいるわけだしね」
「いい表現ね。感心する」
「また悪い癖が出た」
「何?」
「僕の前で年上ぶる」
「感心したから感心した、って言ったまでじゃない。でも、ほんとにそうよね。その通りよね」と結子は言った。
そしてその時、言ってはならない、もう言うつもりもなかった言葉がひと言、するりと口をついてこぼれ落ちた。「織江さんが妊娠した、っていう話を打ち明けられた時も同じだったもの。やっぱり、って思った。許せないとは思わなかったわ。やっぱり……って、それしか思わなかった」
正臣は黙りこみ、険しい目でじっと結子を見つめた。その双眸《そうぼう》が、濡れた黒曜石のようになり、薄闇の中でぎらりとした光を放った。
「だったら、別れようなんて言いだすのはおかしいじゃないか。やっぱり、って思ってくれたんだとしたら、織江の妊娠も受け入れられたはずだし、僕はあなたがそうしてくれるものと信じて疑っていなかった。僕たちはそんなことで別れなくちゃいけないような、そこらにごろごろ転がってる関係じゃなかったはずだ」
結子は黙って正臣から身体を離すと、床の上に腹這いになった。
煙草のパッケージをたぐりよせ、自分で火をつけた。正臣は結子から視線を外し、再び仰向けになった。
「もう何度も話したはずよね」と、結子は顔のまわりをたゆたう煙の中で、静かに言った。「受け入れたのよ。確かにそのことは受け入れたし、その上で、これまで通りに関わっていきたい、って願っているあなたのことを別に図々しい人だ、とも思わなかった。全然、ちっとも、そんなこと思わなかった。でもね、私があなたたち夫婦の間に起こった慶びごとを受け入れることと、私たちが続けていくかいかないか、は別の問題なの。……そういう話、もう何度もしたはずよ」
「正直に言うよ」と正臣は吐き捨てるように言った。「僕は今もまだ、あなたの言ってることの意味がよくわからない。頭ではわかっているつもりでも、身体がわかっていない。なのにこんなところまで来てしまって……それでもまだ、本当のところはわからずにいるんだ」
「そのうちわかる時がくるわよ」結子は言い、枕もとの灰皿に煙草の灰を落とした。「もう少し、大人になったら」
正臣はしばらく黙りこくっていたが、ふいにくるりと背を向け、布団の上で両腕を組んだ。「子供を諭すみたいな言い方、しないでくれよ」
結子はそっと煙草をもみ消し、身体を起こして正臣に近づいた。その肩に手をかけ、静かに首すじに唇を寄せた。湯の香り、かすかな汗の香り、日向《ひなた》くさいような男の香りがした。それは肌を合わせた後の、慣れ親しんだ正臣の香りだった。
「怒ったの?」
正臣は応えない。
寄せた自分の唇が、意志とは裏腹に彼の唇を求めていこうとするのを結子は感じる。
「怒らないで」
雪が降りしきっている。雪の音しかしない。
正臣の腕が結子の腰を抱き寄せた。ふたりはまたしても、白い繭の中の二匹の蛹さながらに、シーツの上で互いを抱きくるみながら丸くなった。
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3
翌朝、遅く目覚めると、障子の向こうが白々とこもったように明るかった。
雪はやんでいたが、厚い雪雲は相変わらずで、たいそう冷えこんでいる。外が仄明るく見えたのは、堆積した雪の白さが微光のようにあたりを包みこんでいるせいであった。
たっぷり眠ったはずなのに、眠りは浅く、切れ切れに夢を見ていた。正臣も堂島も夢には現れず、目の前に拡がるのは茫々とした薄暗い大地ばかりで、たったひとり、結子はそこをとぼとぼと歩いているのである。行くあてのない歩行は、おそらくは自身の不安の象徴だったのだろう。それにしても人間はおろか、草木一本見ることのない夢はあまりにも寂しすぎて、目覚めの気分はひどく悪かった。
ひとりで風呂を使い、髪の毛を洗い、身仕度を整えて部屋に戻ると、正臣はすでに起きて、月見台に面した窓辺で煙草を吸っていた。
おはよう、と結子が明るい調子で声をかけると、正臣はうなずき返した。表情に翳りがあるのは自分もまた同じなのだろう、と思いながら、結子は気づかぬふりをして電話機に手をのばし、水屋のダイヤルをまわして仕度ができたことを告げた。
言葉少なに連れ立って離れを出て、母屋に向かう。いつのまにか、前夜と同じように雪は丹念に掻かれており、母屋に向かう小径《こみち》ができていた。下駄の歯が凍結した雪面に触れるたびに、危うい均衡を保ちながらも軋み音をたてる。
ふたりは手をつないでいた。どちらかが滑りそうになると、どちらかが立ち止まって相手を支える。結子は真剣だった。
そんな場所で正臣が転倒でもしたら、ピアニストの命である手を傷つけてしまうことになりかねなかった。下手をすれば指の骨折もあり得る。
だから結子は細心の注意を払う。今は彼が自分を支えているのではない、自分が彼を支えているのだ、という自覚が結子の中にはある。少なくともこの男の手に関して、自分は最大の保護者だった。別れるその瞬間まで、自分は正臣の手を意識しながら関わり続けることだろう、と結子は思う。
あたりは雪の匂いに満ちている。木々の枝に積もった雪が、時折、霧のように舞いあがり、白いシャワーとなってふたりの頭上に降りそそぐ。近くの山肌のあたりで、数羽のカケスがけたたましく鳴きながら飛び立つ気配があった。
掘り炬燵のある座敷に、朝食の膳の用意ができていた。向かい合わせになって坐り、雪見障子の向こう、雪に埋もれた庭を眺めつつ、食事をする。静けさのあまり、互いが口の中で飯粒を咀嚼《そしやく》する音までがはっきりと聞き取れる。
「寒い日ね」
「そうだね」
会話が長く続かない。疲れが身体の奥底に沈殿している。いや、これは疲れではない、と結子は思う。深い悲しみを通りすぎたところで出会う、虚しさにも似ている。
「去年、貴船に行った時は」と正臣が言った。「暑かったね。蜩《ひぐらし》が降るように鳴いてた」
結子はうなずく。「そうね。暑かったけど、京都の街の中みたいにじっとりする暑さじゃなくて、貴船の暑さは芯の部分に涼しさがあって……。気持ちよかった」
「川床で食事してたら、途中で雨になったっけ」
「しかも大雨よ。雷も鳴って、話し声が聞こえなくなるくらいだった」
「川の音と雨の音の区別もつかなくてね。そんな中で、僕たちだけが部屋に戻らずにずっと、馬鹿みたいに飲み続けてた。宿の人はさぞかし迷惑だったろうな」
「迷惑かけるから戻ろうか、って私が言ったのに、すっかり気が大きくなったあなたが、いいよ、かまうもんか、って言ったのよ」
「そうだったっけ」
「うん、そう」
ふっ、と互いに笑みをもらし、探るようにして相手を一瞥する。椀を膳の上に戻す音が交互に響く。炬燵のぬくもりが、遅い朝の場違いな眠気を誘う。
貴船……と結子は緩慢な手つきで箸を動かしつつ、その美しい地名を今一度、頭の中で繰り返す。
正臣と貴船に出かけたのは前の年の七月だった。正臣は青山の小ホールで開いたミニ・リサイタルを終えたばかりだった。ふたりしてどこかに行こうと思いたち、何も決めずに新幹線に飛び乗ったのだった。
正臣が妻に何と言い訳をしたのか、はっきりとはわからない。思いたって、気ままに京都をまわってくる、と言ったのだったか。大阪に住む先輩ピアニストに会いに行ってくる、と言ったのだったか。結子が気づかぬうちに彼は携帯電話を使って織江に連絡をすませたらしく、そのことについては一切、触れようとしなかったし、結子も聞かなかった。
正臣の妻、織江は、結子にとってまだその頃、何の違和感もなく受け入れることのできる存在だった。出会った時、正臣にはすでに妻がいた。子供もいた。その事実に嫉妬し、つまらない猜疑心を抱き、いたずらに自分と比較しようと試みるほど、結子は若くはなかった。
織江はあくまでも結子にとって、どこか遠い、自分の知らないところで生きている生き物であった。話にだけ聞いている、遠い親戚のひとりにすぎないような……。
したがって、旅に出る前日、ふたりがおよそ初めて大きな喧嘩をしたのは、結子の織江に向けた複雑な感情が働いたせいではない。正臣が密かに堂島に対して抱き続けていた、理不尽な嫉妬心が原因だった。
七月末の夜遅く、結子の家でふたりで飲んでいた時だった。ことの発端は、堂島から電話がかかってきたことにある。
電話の内容は他愛もないものだった。次の仕事の打ち合わせ、と呼ぶにふさわしい手短な会話にすぎず、実際、話していたのは三、四分ほどである。
しかし、裸婦を描く画家である堂島との打ち合わせは、通常、一般のビジネスの打ち合わせとは程遠いものになる。何月何日の何時に訪ねて来てほしい、というようなことはひと言ですませ、それ以外の会話のほとんどは、互いがイメージしたものをなんとかして言葉にかえて相手に伝えようとすることに終始する。その世界を知らぬ人間の耳に入れば、いかにも秘密めいた、淫靡《いんび》な会話に聞こえるかもしれなかった。
「紅《あか》い襦袢《じゆばん》を」と堂島は言ったのだった。「次に来る時は紅い襦袢を着てほしい。できれば半襟に模様のついたものがあればいいんだが」
「紅い襦袢は持ってるけど、半襟に模様はついてないわ。以前にも先生、襦袢姿を描いたことあったでしょう。あの時の襦袢しかない。ただの白い半襟の襦袢よ。それじゃだめ?」
「うん。紅い襦袢の場合、半襟がただの白だと、場合によっては品格に欠ける可能性が出てくる。金色の糸が織り込まれた、優雅な模様がついていたら、と思ってね」
「金糸の模様がついてたら、下品にならない?」
「少なくとも高貴な印象を与えるよ」
「それもポーズのとり方次第だと思うけど」
「例えば?」
「そうね。襦袢をきちんとコスチュームとしてまとって、わざと一切、肌を見せないとか」
「どうだろう。ちょっとつまらない感じもするが」
「先生はどう考えてるの」
「どう、って、はっきり決めているわけじゃないが、少なくともありふれたコスチュームを描くつもりはないんだ」
「じゃあ、腰紐をしめずに着るってわけ?」
「しめない」
「ふわっ、とはおるだけね?」
「そうだ」
「胸元のところだけ合わせるようにしてはおって、腰から下……つまり太ももの部分から下を全部見せてしまう、っていうのもいいかもしれない。もちろん、その時は、足の爪に襦袢に合わせた真っ赤なペディキュアを塗らなくちゃね。足だけじゃなくて、手の爪にも」
「ともかく結子に着てみてもらわないことには何とも言えないよ」
「半襟のことはなんとかするわ」と結子は言い、ちらと正臣のほうを窺った。正臣は無表情に、冷酒の入った切り子硝子の猪口を手にして、じっとそれを眺めていた。
堂島は結子の家に誰かが来ている、と勘づいている様子だった。会話の進め方に、どことはなしに気ぜわしさが窺える。誰かが来ているとしたら、結子が一度だけ個展に連れて来た年下のピアニスト、それ以外考えられないはずであった。
だが、堂島は何も聞いてはこなかった。聞きたがる素振りすら見せなかった。
「梅雨が明けた途端に暑くなったけど、クーラーをつけっ放しにして寝冷えをしないように」
「先生こそ」
「僕は寝る時はクーラーをつけない」
「そうだったわね」
「じゃあ、そういうことで」
「わかった。おやすみなさい」
結子が受話器を戻した途端、正臣はのそりと立ちあがった。結子が彼を見あげると、彼は座卓の上の煙草とライターを乱暴にパンツのポケットに押しこみ、「帰る」と言った。
相変わらずの無表情だったが、その能面のように凍りついた顔の奥底で、出口を見失った感情の嵐がとぐろを巻いているのが結子には見てとれた。
「どうしたのよ」
「なんでもない」
「何か気にいらないことでもあった?」
「何もないよ」
「今の電話のこと? そうなのね?」
正臣は答えずにそのままつかつかと部屋を出て、玄関に向かった。クーラーの冷気が届かない玄関先には、蒸し風呂のような湿った熱気が淀んでいた。
「先生と、ただ単に次の仕事の打ち合わせをしてただけじゃないの。おかしな人。何がいやだったの」
「何もいやじゃないよ」
「正臣ったら」結子が正臣の腕を軽く掴むと、彼はそれを勢いよく振り払った。
「今日のところはこれで帰る」
「子供じゃあるまいし。はっきり言いなさいよ。何がいやだったの? 先生と私が、紅い襦袢の話をしてたから?」
「あなたが紅い襦袢を着ようが、太ももをだして足の爪に真っ赤なペディキュアを塗ろうが、僕には何の関係もない」
ふっ、と結子は笑ってみせた。「紅い襦袢の話や太ももをだす話が、そんなに頭にくるわけ? これは私の仕事なのに」
「仕事?」正臣は狭い上がり框のあたりに立ったまま、吐き捨てるように言った。「あなたは芸術に身を任せてると信じてるんだろうけど、それはあなたと堂島先生の間にだけ通用する感覚だよ。来る日も来る日も裸を晒して何が面白いのか、僕にはわからない」
瞬間、ふたりを包む空気が凍りついたようになった。刺々しい静寂が結子の肌を刺した。
結子は深呼吸し、切れ切れに吐く息の中で問い返した。「ずっとそんなふうに思ってたの?」
「まあ、そういうことになる」
「そう。ちっとも気がつかなかった」
「気がつくわけがないよ。今の今まで、言うつもりはなかったんだから」
「どっちにしても、気がつかなくて悪かったわ」
帰る、と言いだしたのに帰る気配はない。正臣は結子を睨みつけた。
「悪かった? どういう意味だよ」
「あなたのそういう思いに、気がつかなかったことは悪かった、って言ったのよ。私が十何年もの間、深く関わってきた仕事を、あなたがそんなふうに考えてたなんてちっとも知らなかった。あなたは私が、裸になるだけの仕事をしている、と思ってたわけね」
「外からはそう見られても仕方がないだろう。あなたがいくら、違う、と言ったところで、他の人間の目には、あなたが裸になっていることしか見えてこない。僕にはその種の芸術性が理解できないんだよ。あなたは裸になることにあまりにも平然としすぎている。こっちこそ聞かせてほしい。男の前で、そんなに……そんなに裸を晒して、どうして平気でいられるんだ。神経が麻痺してるんじゃないのか」
結子は皮肉をこめた笑みを浮かべ、燃えたぎる怒りをなんとか隠蔽した。「今さら、子供みたいなやきもち、妬かないでよ」
「言っとくけど、これはやきもちとは違う。あなたが堂島先生と何の関係も結んでいない、って言ったことが本当だったとしたら、やきもちを妬く必要は何もないじゃないか。これはやきもちなんかじゃない。そんな単純な問題じゃないんだ」
「じゃあ、何なの」
「……価値観の問題だよ」
笑わせないでよ、と結子は真顔で詰め寄った。「価値観? そこらの頭の悪い大学生みたいな科白があなたの口から飛びだしてくるとは思わなかった。いい? これは私の天職なの。先生の前で裸になろうが、お尻を突きだそうが、ものすごくいやらしい、世間の男たちが見たら涎《よだれ》を流しそうなポーズをとろうが、すべて天職だと思ってやってきたことなのよ。私はこの肉体を使って生きて、表現してるの。あなたがピアノで自分を表現するのと同じことを、私は身体で表現してきたのよ。それの何が気にくわないのよ。あなたの言ってることはね、あんまり通俗的すぎて、吐きそうになっちゃうくらいよ。よくもまあ、見くびられてたもんだわ。あなたみたいな人間とはもう、二度と……」
「二度と……何だよ」
帰って、と結子は低く震える声で言い直した。「二度とここに来ないで」
沈黙があった。
言いすぎた、と思った。正臣の理不尽なもの言いは、雄としての原始的な嫉妬心から生まれたものにすぎない、ということもわかっていた。裸になることを生業《なりわい》にしている女を恋人にもった男は、一度は正臣のような態度をとるに決まっているのだ。それを表立って表現するかしないか、の違いはミリメートルの差でしかない。知性や理性、教養など何の役にも立たなくなるのである。
だが、そうわかっていても正臣の言動は許せなかった。結子はあやまろうとはしなかった。和解に導こうともしなかった。ただ黙って、唇を震わせたまま正臣を睨みつけ、立ちつくしていた。
わかった、と正臣は言った。「二度と来ない」
くそ、と低くつぶやくのが聞こえた。彼の身体に緊張が走るのが見てとれた。彼は右手を高くふりかざし、こぶしを握り、玄関扉を殴る構えを見せた。
「後悔するわよ」結子は早口で言った。「どこを殴ろうがかまわないけど、手を怪我したらどうするの」
正臣は低い呻き声をあげ、握ったこぶしをさらに強く握りしめると、右足で強く扉を蹴り飛ばした。扉についていた磨り硝子がびりびりと音をたてて震えた。
足に痛みが走ったらしく、彼は顔をしかめた。しかめながら、慌ただしく靴をはき、外に飛びだした。乱暴に閉じられた玄関扉からは、夜になってもいっこうに涼しくならない外の熱気が風になって押し返されてきた。
このままで終わるはずがない、と気持ちのどこかで信じていた。あまりにもくだらない、あまりにも子供じみた、度し難く愚かな言い争いであった。
だが、結子は泣いた。それは怒りや悔しさからくる涙ではなかった。正臣を失うのではないかという恐怖ばかりが先にたった。恐怖心は収拾がつかなくなるほど大きくなり、結子自身を引き裂いた。
泣きながら座卓の上の酒器類を片づけ、台所で水道の飛沫《しぶき》を勢いよく飛ばしながら洗いはじめた。何かしていなければ、今すぐ外に飛びだして、夜の巷《ちまた》を彼の名を呼び続けながら朝まで走り続けてしまいそうだった。そんな自分が腹立たしかった。
若かったころ、深い関わりをもった男たちと、よくその種の喧嘩をしたことが思いだされた。たいてい、どちらかのつまらない、愚にもつかない嫉妬心が原因だった。
他の男に優しくされた時の笑顔が気にいらない、他の女の媚びたような態度に鼻の下を伸ばしていたのが気にいらない、どうして他の男の前で胸の開いた服を着るんだ、何故、他の女のお尻と胸ばっかり見るのよ……嫉妬の焔は言葉にした途端、火勢を増して、自分自身を焼きつくそうとしてくる。
原因は忘れたが、何かに腹をたてた男が、一緒に食べていた朝食の味噌汁の椀を中身ごと窓に投げつけたこともあった。窓には安ものの桃色のブラインドが掛けられていた。ワカメがちぢれたようになってそこにひっかかり、だらだらと零《こぼ》れる味噌汁と一緒に奇怪な模様を描いた。
結子は結子で、相手の男がはいてきた靴を窓から放り投げた。靴は、当時結子が住んでいたアパートの脇のどぶ川目がけて落下していった。
男が結子の頬を平手打ちにした。結子は吸殻の溜まっていたアルミの灰皿を男の足もとに叩きつけた。一面に吸殻が飛び散った。男はわなわなと唇を震わせ、その目は、敵を威嚇する時の猿のように、小さく丸くつりあがった。
帰ってよ、と結子は低く言う。二度と来ないでよ。顔も見たくない。
ああ、いいさ、こっちこそ願いさげだ、と男は言い、飛びだして行く。裸足である。馬鹿野郎、と結子はその背に向かって怒鳴る。馬鹿野郎、馬鹿野郎……何度口にしてもおさまらない。涙があふれ、煮えくりかえった胸の中に幾本ものナイフが突き刺さってくるような感じがする。
だが、それでも数時間後には結子はその男を受け入れているのである。情けない顔をしてアパートに戻って来た裸足の男と抱き合い、静かに互いの身体を愛撫し合い、許しを乞い合う。接吻を繰り返す。男の手が結子の乳房をまさぐってくる。やがてお定まりの欲望が渦を巻き始め、互いの口から喘ぎ声がもれてくる。そして何事もなかったかのように、ふたりは着ているものを脱ぎはじめる……。
あれから長い長い旅をしてきた、と結子は思う。充分すぎるほど年を重ね、人並み以上に男たちとのかかわりを経てきたというのに、何故、同じようなことで好きな男との間に諍《いさか》いの種を作ってしまうのか、わからない。自分より遥かに年下の男が、つまらない嫉妬にかられているのを何故、うまく笑ってかわすことができずにいるのか、わからない。
何ひとつ学習をしていない。相手に対する気持ちが深まれば深まるほど、若かった頃と同じような反応をしてしまう。
人の成長など嘘っぱちだ、と結子は考える。感情の奥底には、剥きだしの自分が常に出番を待ちかまえていて、どれほど年齢を重ねても、その剥きだしの自分は情け容赦なく、するりと表に飛びだしてくる。自分はこの先、五十をすぎ、六十になっても七十になっても、同じことを繰り返していくのかもしれず、だとすればこれまで学んできたはずのものは、いったいどこに蓄積されているというのか。探しても探しても、それは見つからない。最後に向き合うのは常に、嵐を抱えて生きている剥きだしの愚かな自分だけなのだ。
深夜零時をまわり、一時をすぎた。結子がひとり、居間の座卓に向かい、立て膝をして煙草をふかしていると、玄関で人の気配がした。
その気配が、何故、自分をそれほど喜ばせるのか、結子にはほとんど不可解だった。
部屋から飛びだし、戸口に立ったまま、玄関先に佇んでいる正臣を見つめた。ぼんやりとした黄色い明かりの下、彼ははにかんだ少年のような顔をしていた。
ごめん、と彼はくぐもったような声で言った。「恥ずかしいよ」
私も、と結子は言った。心臓が烈しく鼓動を繰り返し、胸が波うつのがわかった。「足、大丈夫だった?」
「ちょっと突き指したみたいだ。小指をね」
馬鹿、と結子は小声で言った。
抱き合わなかった。キスもしなかった。相手を射抜くような強い視線を絡ませ合い、照れくさそうに微笑み合っただけだった。だが、結子はその時、恥ずかしくなるほどの恍惚を覚えた。
自分たちはこんなに若い、と結子は思った。こんなに荒々しく、こんなに自暴自棄で、こんなに無垢である……そう思った。
堂島の前で裸になっている時には決して感じることのない、そればかりか、他の幾多の男たちと関わった時にも感じることのできなかった、それは或る選ばれた者同士の間でしか分かち合えない、永遠の若さ、永遠の無垢であった。
結子は年齢を忘れた。年齢を忘れることがかくも満ち足りた恍惚感を導くものであることを知った。
そしてその晩、正臣は初めて結子の家に泊まったのである。汗にまみれた身体をぴたりと触れ合わせながら、彼は言った。明日起きたら、どこかに旅にでよう、と。
どこがいい、と聞かれ、深くは考えずに結子は「京都」と答えた。いいね、と彼は言った。
その瞬間、結子は年齢ばかりか、時間も忘れた。
鴨川の源流でもある貴船川の、あたり一帯の大地は、どの季節に行っても薄暗い。鞍馬山と貴船山の狭間に位置し、樹木は鬱蒼と生い茂って、あたかも巨大な隧道《すいどう》のようになりながら、うねうねと曲がりくねる道路にひんやりとした影を落としている。
そこは強い「気」を放つ場所とも言われている。「気」は太古の昔から途切れることなく立ちのぼり、峰々をくまなく包みこんできた。したがって、「気生根《きふね》」……気が生まれる根元の場所……という語源から発して、後に地名が貴船になったと言われているのだが、それだけではない。
貴船神社を創建したという、神武天皇の母、玉依姫《たまよりひめ》は淀川を遡り、鴨川に出て、さらに北へ北へとのぼりつめ、貴船川上流のこの地に辿り着いた。その時、乗ってきた船が「黄船」だったので、「貴船」に転じた、という説もある。
真夏でも日の光はあまり届かない。貴船川に沿って宿が立ち並んでいる界隈は賑わっているが、貴船神社の参道や、奥宮に続く杉木立のあたりは森閑としていて、物《もの》の怪《け》の気配すら感じ取れる。
運気発祥の祈願で知られる神社も、夜更けて密かに行われる丑《うし》の刻参りで名を馳せた。そのせいか、人が途絶えた一角には妖気が渦巻いているようにも見え、それは魔界への入口を思わせる。
互いの年齢に似つかわしくない、稚気あふれる諍いをした後に、結子と正臣はこの地を訪れた。京都駅に降り立った際、あまりの暑さに呆然として、ならば涼しいほうへ行ってみようということになったのだが、落ちつく先が貴船になったのも、タクシーの運転手に任せきりにしていたからである。
だが、叡山電鉄の貴船口の駅を過ぎるあたりから、そこに渦巻く寂寞《せきばく》とした神秘の気配に心奪われた。その魔力に引きつけられるあまり、ふたりはこの地で一夜をすごすことに決めた。それも貴船一帯に立ちのぼっていた妖気のせいだったかもしれない。
タクシーの運転手の口利きで、立ち並ぶ宿の一番奥、貴船神社の奥宮にほど近い一軒の宿に腰を落ちつけ、荷物を置くなり、結子は正臣とふたり、すぐに外に出た。
暑い日ではあったが、夕暮れ方の川面をわたってくる、ひそひそとしのび寄るような冷気が心地よかった。貴船川の水音が間断なく響きわたり、神社の本社参道には、しぐれるように鳴き乱れる蜩の声が満ちていた。
観光客の姿は多いとはいえ、シーズン中の京都市内の寺社で見られるような混雑はない。人々の交わす話し声も、蜩の声に溶け入って、やがて何も聞こえなくなる。鬱蒼とした木立の間隙《かんげき》をぬうようにしてわずかにもれてくる夕暮れの光は、真夏のものとは思えぬほど淡々しい。
貴船神社は縁結びの神としても知られている。結子と正臣は本社に詣でてから、ふたりの縁が以後、ずっと切れませんように、と願いをこめて、縁結びの小さな札を買い求めた。
すでにその時から、結子の中の現実は失われていた。数日後には再び堂島のアトリエに行き、紅い襦袢をはおりながらポーズをとることになるとわかってはいたが、それは何か、夢で見ただけの漠とした記憶にすぎないようにも思われた。聞こえてくるのは蜩の声と、貴船川の渓流の音ばかりである。
傍らを歩く正臣の腕に腕をからませる。ふたりの話し声は瞬く間に蜩の声に重なり、溶けこんでいく。木立をゆする風が、苔むしたような青くさい匂いを放ちながら鼻腔をくすぐる。
この地には一泊しかできない、ということは納得ずみだった。自分はどうにでもなるが、正臣は前の晩も、結子の家に泊まっている。文字通りの無断外泊だったわけで、一泊くらいなら、なんとか理由も編みだせようが、二泊以上となればそうもいかない。
仮に織江の手前、完璧な言い訳を思いついたとしても、それだけで終わるはずもなかった。彼は大勢の生徒たちにピアノを教えている。そのほとんどが、音楽大学への進学を希望している生徒たちである。趣味でピアノを習わせているわけではない子供たちの親から、高額のレッスン料をとりつつ、彼自身の勝手な都合で二日も三日もレッスンを休むことは不可能だった。
彼は家庭人であると同時に、ピアニストであり、ピアノの教師でもあった。そして結子は、堂島滋春の専属モデルであった。彼女がいなければ、堂島のアトリエは封印されたも同然になってしまう。そうやって生活している以上、何が起ころうと、そこから逃れるわけにはいかないのはお互いさまであった。
だが、いっときそれらをすべて忘れ去り、自分たちは今夜、この地で豊饒のひとときをすごすことになるだろう、と結子は思った。水の音を聞きながら夜をすごし、語らうことよりも触れ合うことだけを求めて、簡素な宿の一室の、薄い布団の上で時のたつのを忘れるだろう、と。
そう思うことは至福だった。
ふたりはその晩、貴船名物の川床で、地鶏鍋をつつきながら川の音を聞いていた。川面に「床《ゆか》」と呼ばれる広い縁台が設置され、座卓と座布団を並べて、客人はそれぞれ、そこで野趣あふれる料理を楽しむのである。天井の葦簾《よしず》張りはもとより、あちこちに風雅な簾《すだれ》がさげられ、夏草の繁る川べりには行灯がぽつねんと置かれている。浅瀬には大きな素焼きの壺が一つ。中には夏の野の草花がふんだんに活けられていて、それはちょうど、遠目に楽しむ美しい日本画のようでもある。
夜のとばりが降りた頃、遠い雷鳴が轟き、雨になった。屋根つきの川床だったので、濡れる心配はなかったが、雨脚が思いのほか強くなったせいか、居合わせた客たちは食事もそこそこに宿に引き返して行った。
残ったのは結子と正臣だけだった。鍋がぐつぐつと煮えたつ音も、酌み交わす酒の徳利を座卓に戻す音も、すべての音が雨と渓流の音にかき消されてしまう。それは恐ろしいほどの水音の奔流である。
果てることのない水音に包まれて、あの時も自分たちは繭の中にいた、と結子は思う。水、という名の繭である。雷鳴が遠く近く続いているのだが、その音すら水音の中にのみこまれ、何も残らない。
気温がさがり、秋の日の夜のような冷たさが湿気の中に感じとれる。何もかもが濡れている。床の上に敷かれた簡易の畳も、座卓の上も、ふたりが手にする煙草のパッケージも、互いの髪の毛も、睫毛も眉も、すべて……。
気がつくと、ふたりは箸を置いたまま、互いを見つめていた。通りをはさんだ向こう側の宿からもれてくる明かりと、川床の明かりとで、あたりは充分に明るい。明るいのだが、そこに鋭角的な眩《まばゆ》さはなく、いくつかの提灯に照らしだされた時のような、透明でもの静かな、闇に溶けいっていくような淡い光に充ちている。
川面にせりだした床の向こうに、雨が光を受けながら大地に撥ねている。金糸銀糸を無数に束ねたように見える雨である。誰もいない。ふたりのために残された宿の茶色い番傘が、開いたままの形で無造作に地面に置かれ、雨にうたれている。
水音に包まれたまま、結子は「ねえ」と言った。「ここで私たちがセックスをはじめたら、どうなるかな」
正臣の瞳が光った。「やってみる?」
「誰かが来ても、水の音で聞こえないから気づかれないかもしれない」
「してみたくなった」
「本気?」
「誰もいないよ」
「いつ宿の人が戻ってくるか、わからないじゃない」
正臣の手が伸びてきて、結子の腰にまわされた。力をこめて身体の向きが替えられたかと思うと、たじろぐほどの勢いで正臣の唇が重なってきた。
長くむさぼるような接吻がはじまった。前の晩、等々力の家で飽きるほど繰り返したというのに、接吻はまるで、初めて交わすそれのように新鮮だった。唾液はしとどにあふれてきて、口腔を蜜のように甘く充たしていった。身体の芯が急速に溶けていくのが感じられた。
快楽は近くまできていた。もうすぐそこまできていた。たったこれだけのことなのに、ただ接吻しているだけなのに、と不思議に思われるほど、結子は肉体そのものが水になって流れだすような感覚を味わった。
結子は小鼻をふくらませ、小さく喘いだ。水の匂いがした。呼吸をすればするほど、その匂いは強くなる。自分たちふたりが水底に向かって深く深く、沈んでいくような感じがする。
もう元には戻れない、と結子は思った。「元」というのがどの場所を指すのかも、はっきりとはわからない。だが、少なくとも自分には、正臣と出会う以前にいた場所があった。それは静かな、漣《さざなみ》のたつことの滅多にない、日々、繰り返されていく同じことの積み重ねの中にあった。
服を脱ぎ、裸になり、堂島の前で自分自身の内面を晒し続ける。移ろっていくものは何もなく、穏やかに変容していく自分の肉体がただ、ひっそりとそこにあるだけである。
堂島のアトリエの、あの白い布が敷かれたマットレスの上だけが、自分の場所だったのかもしれない、と結子は考える。あの四角い、切りとられたような狭い空間。そこには無限の宇宙があり、無限の時間が穏やかに流れている。
あの場所は無音である。音楽は流れていない。聞こえてくるのは、さらさらと砂のように流れ続ける時間の音ばかり。自分が少しずつ年をとり、次第に若さを失い、静けさの中に密かに死を意識するようになっても、何ひとつ変わらずにそのままの形で、場所はあそこに用意されているのである。
だが、自分はあそこには戻らないだろうと結子は思う。戻れなくなってしまった。戻るのは脱け殻と化した肉体だけになるだろう。自分の中身は二度とあの場所に戻ることはないだろう。急流に抗いつつ、遡るようにして、自分はしゃにむに別の場所……上流のほうへほうへと向かいながら、水を切り裂き、逆らって泳いでいこうとするだろう。それがどれほど愚かなことかわかっていても、そうするだろう。
そうさせたのはこの男だ、と思う。自分を引きつけてやまない、この男。指先のみならず、身体の中でも絶えず音楽を奏でている、この男……。
この男の奏でる音楽には常にドラマがある。うねり、高まっていって、頂点をきわめ、次第に静まりながら眠りにつこうとするようなドラマがある。
ありふれたわかりやすいドラマのようでありながら、だからこそ、この男の中を流れている音楽は魅力的だ。とうの昔に忘れてしまった感覚が甦る。未踏の地に向かう感覚ではない。それは結子がすでに体験した感覚……若かった頃、身体で覚えた感覚である。
死に向かっているのではない。この男の生命の火は、今を盛りと燃え拡がっているのである。壮大な音楽がこの男の中に流れている。幾百幾千もの音符の融合体。フルオーケストラのシンフォニー……。
結子は唇を離すと、大きく胸をふくらませながら荒い呼吸を繰り返し、しどけなく腰を折るようにして正臣に抱きついていった。そして、その耳元で淫らな声で囁いた。
部屋に戻りましょう、と。もう、私自身が水になってしまった、と。
深山亭から貴船までの道は雪に埋もれていた。
除雪された雪が、道路の両側に堆《うずたか》く溜まっている。時折、厚い雲の向こうから、淡く弱々しい、光とも呼べないような陽射しがにじむが、それだけである。光はすぐに消えていき、目に映るものと言えば銀灰色の雪景色ばかりである。
昨日、京都駅から深山亭まで乗せてくれたタクシーの運転手は、慎重な運転を続けていた。タイヤにはチェーンが巻かれている。シートに伝わってくる、そのがくがくとした小刻みな振動が、凍った雪の硬さを思わせる。
時折、風にあおられるようにして木々の梢から雪が舞い散る。それはフロントガラスにあたって、跡形もなく溶けていく。
「ひどい雪でしたが、やっと一段落ですよ」運転手が言った。「驚かれたんじゃないですか。東京の方は京都にきて雪にあうと、京都はこんなに豪雪地帯だったのか、ってびっくりなさいますから。今日はまだ、はっきりしないお天気ですけども、明日からは晴れるそうです。しばらくは冬晴れが続きそうですよ。ようございましたね」
ええ、と結子はうなずいた。
運転手の口調はひどく明るく、その明るさは場違いな感じがした。とはいえ、ありがたいと思わないわけにはいかない。正臣との残された時間に、わずかながら分け入ってきて、現実の世の息吹を伝えてくれる人物がいることには感謝すべきであった。
「ええと、今日は貴船の後、市内のほうに行かれますか」
いえ、と結子は首を振った。「そのまま戻ります」
「そうですか。まあ、今日はとりわけ寒いですから、そのほうがよろしいでしょうね」
ほとんど車と行き交わない山の雪道を走っていることの侘しさをまぎらわせようとでもしているのか、運転手は前日よりも遥かに饒舌だった。深山亭はいかがでしたか、とか、お風呂場から外が見えましたでしょう、とか、この季節のぼたん鍋は絶品だったに違いないですね、などと質問し続け、あたりさわりなく結子と正臣が交互にそれに答えているうちに、車はいつのまにか鞍馬を通りすぎ、貴船に向かう曲がりくねった道に入った。
右手に見える貴船川の川べりも、一様に雪をかぶっている。除雪はされてあったが、車一台がやっと通れるほどであり、道はいっそう険しく、狭くなったように感じられた。
あらかじめ決めておいた通り、ふたりは車を一軒の珈琲店の前で停めてもらい、一時間半ほどたったら、奥宮のあたりで待っていてほしい、と頼んだ。
厳寒期で客足が途絶えている様子なのに、珈琲店はいつも通りに営業していた。付近の宿も同様であった。
夏の間、川床を並べて賑わっていたあたりは森閑としていた。残されている床には雪が積もり、渓流の音だけはそのままだが、立ち枯れた木々が白く塗られている風景は侘しかった。
天井まで硝子張りになった店内に、客はひとりもいない。幾つか置かれている灯油ストーブで充分な暖がとれると思うのに、吹き抜けのようになっている広々とした店はどこかしらひんやりしていて、コートを脱ぐ気にはなれなかった。
運ばれてきたコーヒーを飲み、低く流れているジャズの音色に耳を傾けながら、硝子の外を見るともなしに眺める。時折、正臣の視線を感じる。次に結子が彼を見つめると、彼は目をそむけている。ふたりの視線は交わらない。まるで互いを避けているようでもある。
カップの中のコーヒーが半分になった時、結子は煙草に火をつけた。「そろそろ聞こうかな」
「何を?」
「うん。織江さんのこと」
「ああ」と正臣は言い、それきり言葉を失ったように押し黙った。
「ずっと聞きたかったの。でも、なんだか聞きづらくって。というよりも、聞くべき時っていうのがあるような気がして……。せっかくの旅行に、そんな話ばかりしてるのもなんだか寂しいじゃない」
正臣は神経質そうな瞬きを繰り返し、うなずき、わずかに笑みを浮かべた。
「……順調?」
「みたいだよ」
「何ケ月になった?」
「ええっと、もうそろそろ七ケ月目に入るのかな」
「元気でいるのね?」
「元気だよ。初めてじゃないしね。本人も心得てる」
「琴美ちゃんも楽しみにしてるんだろうな」
「どうだろう。弟か妹ができる、っていうことの意味が、よくわかってないみたいだけど。母親が自分のために友達を作ってくれてる、とでも思ってるみたいだ。粘土細工の作り物じゃあるまいしね。おかしな子だよ」
結子はうなずき、微笑んだ。笑みをこわばらせてはならない、と思ったが案じるほどでもなく、微笑みは自然にこぼれ、自然に消えていった。
「あと三ケ月か」結子は言った。「子供ができる時の父親の気持ちって、どんなものなの? 想像もつかない」
「初めての子じゃないし、まして自分が孕むわけじゃないからね。女の人のように具体的に何か感じる、ってことはないな」
「その代わり、不思議な感覚に陥るわけでしょう?」
「一般の女の人が想像するほど、ロマンティックでごたいそうな感覚にとりつかれるわけじゃないよ。生まれた瞬間、立ちあがってブラボーなんて叫ぶ男は、三文小説や漫画の中だけに生きてるんであって、現実にはそうそういない」
結子は微笑み返した。「女の子がいい? 男の子?」
正臣はコーヒーをひと口飲むと、ふっ、と鼻から息を吐いた。「そんなこと聞いてどうする」
「聞いちゃいけないの?」
「そうじゃないけど、なんだか……」
「共有できない世界があるわ、誰にでも。どんなに親しくても、愛し合ってても、共有できない世界がね。だから知りたいのよ。去年、あなたが織江さんから妊娠を打ち明けられた時、どんな気持ちになったかも知りたいし、そのことを私にどうやって報告すべきか、あれこれ考えていた時の気持ちも知りたい。本当は知りたいことが山ほどある」
「ほとんどすべて、正直に話したはずだけどな」
「人が知りたくなるのは、表面的なことじゃない、その裏にあるものなのよ」
「そんなものは、知らないでいるほうがいいこともあるよ。いや、それは僕のことじゃなくてあなたのことだけど。あなたが本当はどんな気持ちで、堂島先生のアトリエに出入りしているのか、あの人の前で全裸になっている時、どんな気分になっているのか、掛け値なしの本当のところを、きっと僕は永遠にわからないままでいるんだと思う」
「貴船って場所は、どうやら堂島先生に対する俗っぽい妄想をかきたてるみたいね」そう言って結子は笑った。笑い声は硝子に谺《こだま》し、わずかに響いた。「私はただ、あの人の前で裸になって自分を表現するだけ。昨日の自分と今日の自分が違うように、毎日、刻々と自分が変わっていくのがわかるの。そこに愛だの恋だの、まして生殖だのといったことはないのよ。まったくない。私がやってきたのはね、堂島滋春という画家との共同作業。仮に私と先生が恋におちていたとしたら、ここまで長くは続けられなかった」
「でも、先生は死のうとした。結子が……つまり、結子と僕がこうなっていなかったら、あんなことはしなかったはずだよね」
「確かに先生は私とあなたに嫉妬したかもしれないけど、ただそれだけが原因だったんじゃないわ」
「そうかな。僕にはそうとしか思えないけど」
嫉妬しただけじゃない、と結子は自分に言い聞かせるようにして言った。「画家としての衰えを許せなくなっていたんだと思う。彼は行き詰まってたの。先が見えなくなってたのよ。私を描けば描くほど、蟻地獄に落ちていって、どうすることもできなくなって、それでも描きたいと思うのは私しかいなかった」
うん、と正臣はうなずいた。「なんだかちょっと、不幸な感じもするね」
「モデルは星の数ほどいるのに、って私も何度か思ったわ。でも彼が選んだのが私で、私はそれを受けてきたのよ。それが不幸なことだったとしたら、私も彼も同じ穴のむじなね」
「でも彼は結子を愛していたし、今も、これからだって、ずっと同じだろう」
「そうかもしれない。でもそれが何?」と結子は小声で問い返した。残忍な笑みが浮かびそうになったが、危ういところでそれをくい止めた。「あなたにどんな関係がある? あなたが織江さんとの間に子供を作ることが私に何の関係もないことと同じように、先生が私を愛していようがいまいが、あなたには無関係。そうでしょ」
「冷たい言い方だな」
「冷たいんじゃない。正しいことを言ってるだけよ」
「相変わらず結子は冷静だよ」
「私が? 冷静? そう?」
正臣は大きくうなずき、軽く唇を舐めた。「事実を冷静に受け止めて、冷静に咀嚼して、あなたはいつも、独自の道を切り拓く。僕なんか及びもつかないほど、きっぱりと」
「かいかぶりすぎよ。私はもっと乱れる人間。人にはそれをなかなか見せようとしないだけ」
「そうは見えないよ。そんなふうに見えたことなんか一度もない」
「あなたの目が節穴だからかもしれない」
「ひどいこと言うね」
店の従業員は奥に引っこんでいた。人の目はどこにもなかった。結子はつと手を伸ばし、テーブルの上に置かれていた正臣の手に自分の掌を重ねた。
「あなたみたいに、きれいな心の持主にはきれいなものしか見えないのよ。でもそれでいいの。見なくていいものをわざわざ見ようとする必要なんか、ないんだから」
「いったい、あなたは何の話をしようとしてるんだろう。わからないよ」
結子は彼の手を軽く叩き、情愛をこめて握りしめた。自分は本当にこの男のことを愛していたのだ、と思った。理由などなく、愛していたのだ、と。
結子は「なんでもない」と言って手を離した。そして微笑んだ。正臣は拗ねたように目をそらし、ふたりの視線は曖昧な曲線を描いたまま、宙に流れた。
織江が第二子を授かった、と聞いた後の自分の狂態をこの人は知らずにいる……結子はまたしてもそう考える。まさしく、あれは文字通りの狂態であった。
打ち明けられたのは、前の年の十一月も半ばをすぎてからである。
会う約束をしていなかったのだが、午後遅くなってからふいに正臣から連絡があり、できれば今夜、会いたい、と言われた。理由を聞いたのだが、彼は答えなかった。
喧嘩をしている時の男女のような、不快な謎めいた空気だけが漂った。様子がおかしいと直感したが、深くは聞かなかった。
その時の結子には、当て推量があった。おそらく家庭の問題だろう、と思った。織江に何か気づかれて、ちょっとした騒ぎになった……おおかた、そういうことかもしれない、そうに違いない、と。
その想像は、ある意味で残忍なまでに結子を幸福にした。自分との間に烈しい焔を燃やしている男でも、家庭に戻れば何食わぬ顔で日常生活を続けているのである。そうしてもらわねばならない、と快く割り切っていながら、ある日ある時、男が思わず、ちょっとした綻びを妻に見せてしまい、そのことで男の家庭に揉め事が起こることを、結子が心のどこかで意地悪く望んでいたのも事実だった。
だが、実際にそんなことが起こったとしても、慌てる必要はなかった。共犯関係にあるのはあくまでも自分と正臣であって、正臣と織江ではない。正臣の家庭を壊す気は毛頭ないのだから、正臣と相談し合い、事態を混乱させないようにするための方法はいくらでも編みだすことができるはずだった。
どだい、年齢を重ねてからの恋というものは、数々のしがらみの上にしか成立しない。若かった頃のように、結婚や同棲を最終目的にできないのなら、互いが引きずっているしがらみを尊重するしかないのである。何か問題が生じたのなら、その火種が小さいうちにただちに消してしまえばいい。そのための協力は惜しまないし、協力したからといって感情が揺さぶられることなどあり得ない、と結子は思いこんでいた。
だが、その晩、共に食事をした正臣は、何やら落ちつかなげにあたりさわりのない話ばかりしたあげく、デザートに運ばれてきたジェラートに手をつけようともせぬまま、実は、と神妙に切りだした。「今日は結子に話したいことがあって来た」
「知ってるわ」と結子は言った。「いつ話しはじめるつもりか、ってずっと待ってたとこ。で、何?」
彼はこわばったような表情で結子を見つめ、「うん」と言った。視線をはずし、また戻した。そして、ひと言ひと言、かみしめるようにしながら続けた。「妻に……子供ができた」
とっさの反応が失われた。徹底して無関心を演じるとか、目を丸くしていたずらに驚いてみせるとか、とりあえずは心の内をぶちまけてみせるとか、何か方法があったはずなのだが、結子は自分がその一瞬、文字通り、岩のように硬くなったのを感じた。
渋谷にあるカジュアルな雰囲気のイタリアン・レストランだった。かつてピアノの教え子の両親に連れてきてもらった店だ、と正臣は言っていた。味も雰囲気も悪くなかったが、四六時中、店内に低く流れている古いカンツォーネは、異国情緒というよりも、どことはなしの侘しさを感じさせた。
「そう」とやっとの思いで結子は口にした。
心臓が動きを止めたような感じがしていたが、自分の顔色を取りつくろうことだけに気をとられ、笑みは驚くほど自然にこぼれてきた。「どう言えばいいのか……そう。そうだったの。困ったわね。こういう場合、どう応えればいいんだろう。おめでとう、なのかな」
正臣は目を伏せた。「隠してたわけじゃないんだ。織江から打ち明けられたのは、つい一週間くらい前で、実のところ、僕も驚いてる」
自分の愚かさ加減を結子は恥じた。織江に自分たちの関係を気づかれ、そのための謀議をする予定でいた。どうやって織江の気持ちをおさめるか、今後、どうやって密会を続けていけばいいのか、しばらくの間、会わずにいたほうがいいのか、ぼそぼそとした口調の中にも一抹の酷薄な楽しみを覚えつつ、今夜、自分はこの男と食事をする予定でいたのだ……。
結子はエスプレッソをひと口飲み、手の震えを見破られないよう注意しながら、カップをソーサーに戻した。「織江さんとは、二人目を作るつもりでいたの?」
「それはまったくない。彼女はああいう身体だし、育児はこれ以上、難しいとも思ってた。だから今回のことは自然に……つまり、何の考えもなく……」
その先は言わないでもいい、と教えるために、結子は大きくうなずいてみせた。「で、予定日はいつ?」
「……来年の五月かな」
「五月?」
「うん。五月の半ば」
その直後、気も狂わんばかりの慌ただしい計算が結子の中ではじまった。予定日から十ケ月を引いてみる。十ケ月前といえば、今年の八月になる。となれば、現在、織江は妊娠三、四ケ月ということになり、その計算でいくと、受胎、着床したのは八月末……。
八月末には何があっただろう、と結子は必死になって記憶を甦らせようと試みた。貴船に行ったのは七月末。それからひと月後である。何も変わったことはなかった。夏の盛りが少しすぎた頃、横浜の堂島の自宅に招かれて、ふたりそろって食事に出向いた。堂島と妻の礼子もまじえた四人で、広いテラスで夜風に吹かれながら食事をした。
帰りにそのままふたりで等々力の結子の家に行き、肌を合わせた。烈しい性愛だった。そのせいで一挙に酔いがまわったのか、珍しく正臣は結子のベッドでとろとろと浅い眠りをむさぼり、明け方近くなって起きだして帰って行った。
帰りぎわに熱い抱擁を交わした。何故、そんなことまで覚えているかというと、正臣が半覚醒状態のまま結子を抱きしめ、胸のあたりにがむしゃらなキスをしてきたせいで、そこにキスマークが残されてしまったからだ。
その数日後、堂島のアトリエでポーズをとった際にも、それはまだはっきりと残っていた。否応なく肌に刻印された、性愛の証のようでもあった。堂島の目にそれが映っていないはずはないのに、彼は何も言わなかった。何も言わない、ということの中に、結子は堂島の苦悩を見た。
あれはいつのことだったか。八月も終わり近くになってからではなかったか。
「夫婦に子供ができるのは自然なことよ」結子はやっとの思いで言った。「やっぱり、おめでとう、って言わなくちゃね。おめでとう」
ありがとう、と正臣は言った。その言い方はぎこちなく、今にも声が震えだすのではないかと思われた。
気詰まりな沈黙が続いた。カンツォーネがその沈黙をあざけるように流れ続けた。
先に沈黙を破ったのは結子だった。「ね、今夜はこのまま帰してくれない? ひとりになりたいの。ううん、だからって別に変な意味じゃないのよ。今夜だけよ。次に会う時は元気になってるから。約束する」
「……ショックだった?」
その質問には答えたくなかった。あまりにも無防備で、あまりにも軽々しい、あまりにも人の気持ちを理解しない質問のように思えた。結子は一瞬、正臣を烈しく憎んだ。
軽く眉をあげ、目を伏せ、結子は隣の椅子に置いてあったバッグを手に取った。唇のひきつれを隠すのが精一杯だった。「先に行くわ。大人げないかもしれない。でも仕方ないと思ってちょうだい。そのくらいはわかってもらえるわよね?」
そう言ってはみたものの、ひとりで店を出てタクシーを拾ってから、結子は自分の言動を深く後悔した。笑って受け入れることはできないまでも、何故、その場で素直に自分の気持ちを打ち明けることができなかったのか。場合によってはショックをあらわにしてみせてもよかったのではないか。
いったい自分の中に生まれたこの感情の嵐は何なのだろう、と結子は怪訝に思った。冷静に考えれば、男と女が一つ屋根の下に暮らしていたら、ふたりの間に子供ができて何の不思議もないのである。百回、肌を合わせれば、百人の子供ができても不思議ではないように、正臣が織江と共に暮らし、性愛を交わしている以上、そうなる可能性は初めから用意されていたし、その問題に関しては無意識のうちに納得もしていたはずなのである。
正臣が約束違反をしてきたわけではなかった。世間で言うところの、裏切り行為があったわけでもない。責めるべき何物をも正臣はもっておらず、結子の中に生じた理不尽な悲しみはどこにもぶつけることのできない、彼女の内部で処理しなければならない種類のものであることは明白であった。
となれば、自分は、自分よりも遥かに年若い女が、恋しい男との間に子を宿したということに苛立ちを覚えているのか。その苛立ちが通俗的な嫉妬の嵐を呼んだのか。それはまぎれもない嫉妬なのか。それとも嫉妬のように見えて、実は異なる感情なのか。
等々力の家で、眠れぬままに、結子はその夜、ひとりでワインを二本近く、空けてしまった。明け方近くなって、トイレに駆けこみ、烈しく嘔吐したが、それでもかまわずに飲み続けた。
音楽もかけなかった。テレビもラジオもつけなかった。何時になったのかもわからなかった。初冬の空が明けてきて、新聞配達のバイクの音が聞こえる頃になり、やっと不快な眠気に包まれた。着替えてベッドにもぐりこむ気力すらなく、座卓の脇に毛布を持ってきて、クッションを枕に横になった。
午後遅く、目を覚ましたが、猛烈な頭痛と吐き気で起きあがることができなかった。起きようとすると胃袋が喉元までせりあがってきて、めまいがした。そのままじっと仰向けに寝ている他はなかった。
その晩は堂島のアトリエに行く予定になっていたが、とても外出できる状態ではなかった。それは肉体上の問題だけではなく、むしろ精神の問題と言えた。堂島のみならず、誰かと顔を合わせ、まともな会話を交わすことはできそうになかった。
電話機をたぐり寄せるようにしながら受話器を耳にあてがい、電話口に出てきた礼子にひどい風邪をひいて寝こんでいる、と嘘をついた。嘘をついてまで、アトリエでの仕事を休んだのは初めてのことだった。
それまで、原因不明に乱れた生理周期のせいで、アトリエに行く日の朝にその月の出血を見、仕事を休まざるを得なくなったことは何度かあった。その時も、嘘はつかなかった。それどころか、礼子に頼んで堂島本人と電話を替わってもらい、正直に生理になってしまったことを告げた。
堂島はそのたびに「わかった」と言った。婦人科の医師が、患者に向かって言うような、あたりさわりのない、むしろ事務的な感じのする言い方だった。
再び夜が訪れ、いくらか気分がよくなってきたので、なんとか起きあがって風呂に入った。身体を洗い、髪の毛を洗い、いったん湯船に浸かってから、もう一度バスタブの外に出て、同じことを繰り返した。
自分は汚れている、という意識があった。肌が汚れているのではなく、魂が汚れているのだった。通俗の塊と化したような魂の汚れが我慢ならなかった。世俗から離れ、あれほど別次元で生きてきたつもりであった。それは自分が芸術の高みにのぼりつつある、という誇りであり、世間の薄汚れた規範を軽々と飛び越えて生きていける、という自負心でもあった。
それなのに、と結子は身体中をバスソープの泡で包みながら深い嘆息を繰り返した。それなのに自分は、恋しい男が妻との間に子供を作ったというその一点において、これほどまで惨めな狂態の坩堝《るつぼ》の中に落ちてしまっている……。
直後に襲ってきたのは、深い悲しみだった。それは、ありふれた喪失感とは似ても似つかない感情の渦であった。すべてが曖昧模糊としていて、悲しみの輪郭すらはっきりしなかった。井戸の底をのたうちまわっているほうが遥かにましだと思われた。
そのくせ、泣くとか喚くとか叫ぶといった、感情の吐露はなかった。自分が何を感じ、何を考えているのかも定かではなかった。
感情は死んでいた。空疎な白々とした脱け殻のようなものだけが結子を支配していた。
一度しか見たことのない織江の姿を頭の中で再現してみた。淡いクリーム色のパンツスーツを着ている。内巻きにした髪の毛が肩のあたりでやわらかなウェーブを作っている。とても品のいい、物静かな印象で、唇には絶えずにこにこと微笑みを浮かべている。片手に白い杖を携えている。全盲になってしまったという現実を受け入れてきた強靭さが、その表情に確固たる自信のようになってみなぎっている。ほっそりと痩せていて、肌は抜けるように白い。その立ち姿は、すっくと佇む、白く透明で美しい、一羽の鶴のようでもある。
正臣が自宅で織江と性愛を交わしているであろうことはわかっていた。なるべく露骨な想像はしないように控えていたし、むろん、面と向かって訊ねたこともない。訊ねなかったのは、聞きたくなかったからではなく、自分には無関係のこととして処理していたせいでもあった。
だが、その時、結子は織江を愛撫している正臣を想像した。性愛を交わす時の正臣の小さな習慣の一つ一つが、自分のみならず織江に対しても同様に行われていることを想像した。
指先の動きを想像した。次第に高まっていく喘ぎ声と共に、腰の動きが烈しくなる様を想像した。馬鹿げた想像だった。だが、その馬鹿げた想像が、自分の中にこれ以上、怪しげな嫉妬心を巻き起こさないのだ、ということを確認してみたかった。
結子が想像し、確認しようとしたのはもっと別のことだった。その想像が、ある意味で自爆に通じる行為であることは百も承知だった。だが結子は自分が今まさに、これまで目をつぶってきたこと、考えまいとしてきたことと直面していることに気づいていた。
妊娠は、言うまでもなく男と女の性愛の結果である。正臣の肉体から放たれた幾千幾万という精子が、織江の中の卵子と結びつく。受精を果す。織江の子宮内に着床する。
男と女なら、いや、雄と雌との間には、人間のみならず、どんな動物にも起こり得る現象である。だが、結子はその現象をこそ憎んでいた。嫉妬していた。
自分にはもう、その若さは失われつつある、と思うからであった。容貌の若々しさとは裏腹に、自分の生殖能力が激減していること、それどころか、もうじき完全に失われてしまうという事実を突きつけられるからであった。
子供を生もうとしたことはなく、欲しいと思ったこともない。どういうわけか、あれほど自在に男たちと関わってきたというのに、赤ん坊ができたことはなかった。恋の麻薬が切れる直前に、我を忘れるようにして好きな男との子供を作っておきたい、と願ったこともなかった。
そんな自分が、今まさに、他人の女が孕んだことに嫉妬していた。それは正臣という男を介在させた嫉妬であると同時に、失われゆく自分自身のいのちの輝きに向けた喪失感につながるものでもあった。
自分は老いていく途上にある。一方、織江は生殖のさなかにあって、いのちの輝きの頂点を見ようとしている……。
苦しみはそこにこそあった。そしてそれは、努力や理性でなんとかなるものではなかった。どれほど抗おうと、どうすることもできないもの……受け入れる他に仕方のないものであった。
小一時間ほど喫茶店にいて、ふたりは外に出た。
貴船川に沿った小暗い坂道を肩を並べて歩き、途中、立ち止まって渓流の音に耳をすませた。前の年の夏に訪れた時、宿泊した宿が見えてくる。硝子越しに中を覗くが、人の気配はない。雷鳴の轟く豪雨の中、ふたりで酒を酌み交わしていた川床が、雪に埋もれてそのままになっている。川べりの木立は、重たげな雪で枝をしならせ、それぞれ川面に向かって頭を垂れているように見える。
あたり一帯の川は「思ひ川」とも呼ばれている。夫の愛を取り戻そうとした和泉式部が貴船詣でをした際、この川で手を洗い、口をすすいで禊《みそぎ》をすませた、という言い伝えがある。貴船の川は、恋を成就させるための川でもある。
自分たちの恋も確かに成就した、と結子は川べりを歩きながら考える。そして、今、自分たちはその恋を密かに封印しようとしている。これは封印の旅。そして、それを企んだのが他でもない、自分自身であることを思うと、結子はまたしても地の底に引きずりこまれていくような切なさを覚える。
貴船神社の奥宮はその坂道を上りきったところにある。陰鬱な森が周囲を囲んでいる。丑の刻参りを思わせる暗い参道をふたりは手をつなぎながら歩く。近くの梢をヒヨドリが、不吉なほど甲高い声をあげて渡って行く。それぞれの口から立ちのぼる白い息が、烈しく頬にまとわりつく。
これは絶望なのだろうか、と結子は思う。一切を受け入れた後の絶望。だが、違うような気もする。少なくともこうして手をつなぎあっているひとりの女とひとりの男の、内側を音もなく流れているものは同じ絶望でありながら、その種類はまったく異なっているようにも感じられる。
共にヘンデルのオペラ『アリオダンテ』を聴いた時のことが甦った。結子の家で、結子の古いCDデッキを使い、正臣が持って来たCDを聴いたのだった。
正臣はよくそういうことをした。自分の演奏する楽曲について結子に語りながら、同じ楽曲を弾くピアニストのCDを聴かせてくれることもあった。
ヘンデルのアリアが好きだ、という結子に、正臣がヘンデルならこれが最高傑作だ、と言い、持って来たのが『アリオダンテ』であった。全体の構成が演劇的でわかりやすい。ロマンティックでドラマティックなオペラである。アリア部分も美しく、長い。
王子アリオダンテと美しい王女の結婚をめぐって、王位継承をねらう悪漢が登場し、ふたりの恋は悲劇的な顛末を迎えようとするのだが、最後にはすべての誤解がとけて幸福な幕がおりる。特殊な音域の広さを要求されるアリオダンテ役は、かつてはカストラートが演じていたというが、現代においては女性メゾ・ソプラノ歌手があたっていて、それはそれで美しいものであった。
正臣は聴きながら言ったものだった。「どんな悲劇を描いていても、オペラは甘美なんだよね。絶望の歌を歌いながら、どこにも絶望がない」
絶望の歌を歌いながら、どこにも絶望がない……それは正臣自身でもある、と今さらながらに結子は思う。
いつなんどきでも、正臣には絶望がない。絶望や悲しみはすぐさま甘美な旋律となって、彼の内側に溢れてくる。彼はそれを音楽にし、奏でる。奏でている彼自身を結子は愛する……。
それは正臣の充分な若さのせいなのか。それとも彼自身が兼ね備えている、生きるということに向けた健康的なエネルギーのせいなのか。
巨大な杉並木の参道が続いている。奥宮が見えてくる。去年、訪れた時の佇まいそのままに、雪をかぶって、今にも朽ち果てようとしている廃屋のようにも見える。
奥宮の脇に、頼んでおいたタクシーが、白い排気ガスを吐きながら停車していた。他に車の影はなく、人の気配もない。
「どうする?」と正臣が聞いた。「参拝していく?」
ううん、いい、と結子は答えた。
「疲れた?」
「それより寒いわ」
今さら、縁結びの神様に参拝しても仕方がない……そう言いたかったのだが、そのことは口にせぬまま、結子は正臣と連れ立ってタクシーのほうに向かった。ふたりの姿に気づいた運転手が車から降りてきた。運転手に会釈をし、ふたりは後部座席に乗りこんだ。
帰路は運転手の発案で、元来た道を戻らずに、奥宮の先から芹生峠を越えて花背に戻ることになった。
今の季節、アマゴが美味しいですよ、と運転手が路肩の雪を器用に避けつつ、快活に話しはじめた。川釣りの話がそれに続いた。相槌を打ちながら、結子はそっとシートの上で正臣の手を求めた。
その手がいくらか湿りけを湛えたまま、結子の手を握り返し、やがて着ていた黒いコートの間から奥に向かっていったと思うと、悪戯のすぎる少年のような動きを見せつつ、スカートをそっとたくし上げてきた。ストッキングに包まれた太もものあたりに、五本の指が触れた。指先の触感を楽しむようにして、指は静かに結子の肌にまとわりついた。
意識がふわりと遠のくような感じになった。それは場違いな悦楽であり、同時に場違いな悲しみを伴ってもいた。
結子は思わず歯を喰いしばり、顔をそむけて窓の外を見据えた。
その晩、深山亭には結子たちの他に、もう一組の客が宿泊していた。
夕食前のお茶を運んできた若女将によれば、新婚さん、ということであった。とはいえ、雪深い厳寒期に、新婚旅行で京のはずれまでやって来る人がいるとは思えない。新婚旅行の名を借りた、蜜月どきの男女であるに違いなかったが、結子も正臣も多くを訊ねず、若女将もまた、それ以上、何も語らなかった。
客人は別棟の、入口にもっとも近い座敷に宿泊していた。入浴や食事の際にはこちらからお声をかけさせていただきます、と若女将は言った。
木材しか使っていない数奇屋造りの建物であるはずなのに、隣室の気配はひそとも感じられない。かすかに聞こえてくるのは、硝子窓の外の渓流の音ばかりであり、あからさまな防音設備などひとつも必要としないようだ。自然のままの佇まいこそがかえって、秘密めいた空間を生みだしている。
母屋での夕食の際にも、わずかながら奥の座敷で人の気配が感じられたが、それだけであった。話し声が聞こえるわけではない。それはあくまでも気配としか言いようのないものにすぎず、強いて言えば、火鉢の炭が小さく爆《は》ぜる音を隣室で耳にしているようなものであった。
前の晩と何ひとつ変わらぬ静けさに包まれたまま、食事を終え、若女将の案内で母屋を出ると、凍てついた冬の夜空には満天の星が仰ぎ見えた。
「明日からは久しぶりにいいお天気が続くそうでございます」若女将が空を振り仰ぎながら、笑顔で言った。「その代わり、気温はいちだんと下がりますので、どうか温かくしておやすみくださいまし」
「晴れたら、雪道の散歩もできますね」と正臣が言った。「このあたりを歩いてみるのもいいな」
相槌を求めるような視線を感じたので、結子は軽くうなずいた。翌日は最後の日、最後の晩となる。遠出をする気はなく、近隣を散策するか、近場の寺をまわろうと思っていた。いずれにしても、日がな一日、部屋にとじこもっているつもりはない。そんなことをしていたら、かえって切なさがこみあげてきて、いたたまれなくなるに決まっている。
「このへんでどこか、お勧めの場所はありますか」と結子は聞いた。
「本当にご覧の通り、何もないところですが、そうですね、三本杉というものがございます」若女将がふたりの顔を交互に見ながら、にこやかに言った。「ここの峰定寺の御神木で、今頃の季節、めったなことでは、地元の人たちもそこまで奥には入りません。静かな山間の突端に三本の、それはそれは大きな杉が立っておりまして、ただそれだけ、と言ってしまえばその通りなのですが……一度、ご覧になって損はないかもしれません」
いいですね、と結子は言った。「行ってみようかしら。あ、でも、スノーブーツをはかなくちゃ無理でしょう。革靴じゃ、歩けないですよね」
「スノーブーツはご用意できます。あいにくわたくしどもがはき古したものしかなくて、申し訳ないのですが。それと、もしよろしければ、途中までわたくしどもの車で送迎させていただくこともできますけれど。四輪駆動の大きな車です。運転のほうも確かな者をつけますし、決してお邪魔はさせませんので」
正臣が聞いた。「往復、歩くのはやっぱりきついですか」
「そうでございますね。雪がなければ往復四、五十分もあれば充分ですし、気持ちのいいお散歩になりますが、これだけ積もりますと、ちょっと難儀かもしれません。それと、やはり途中で道に迷われたり、転んだりされると大変ですし……」
「じゃあ、出かける時はお願いするかもしれません」と結子は言った。
「お好きな時にお申しつけください。お待ち申しあげております」
雪が積もっているとはいえ、天候が回復して湿度も下がったようである。前夜よりも遥かに気温が低くなったように感じられる。そのせいか、雪の匂いが濃くなっている。冷たく甘い、ミントのような匂いである。
三人は口からそれぞれ、白い息を立ちのぼらせながら挨拶をし合ってそこで別れた。隣室のカップルが、先に部屋に引き取ったのかどうかはわからない。御影石が敷きつめられたひんやりとした玄関先に、履物のたぐいは一切見当たらない。仮に彼らが下駄をはいて離れに戻って来たのだとしても、結子たちの目に触れないようになっているのは明白である。
自分たち以外の客人の在不在の証が、まったくわからないようになっている。その、さりげない配慮はまことに清潔な感じがした。
家族連れや女同士は別にして、こうした宿に宿泊する男女は、何をして夜をすごすのだろう、と結子は考える。テレビがないのだから、男と女が浴衣姿で寝そべりながら、どうでもいいような番組をぼんやり眺める、ということもできない。携帯電話が通じないのだから、携帯を使って友人知人にメールを送ったりすることもできない。読書、ということも考えられるが、こういう場所にまで来て、互いに別々のものを読みふけるのなら、来る必要もなさそうである。
ふたりして座敷でできることと言えば、せいぜいが対座して酒を飲むか、話に興じるか、さもなければ互いの肌をむさぼり合うか、しかないのだが、それとて、互いに慣れ親しみすぎていれば退屈なことと言えなくもない。
何もせずにいられるのであれば、それはそのふたりの関係が、ある飽和点に向かって疾走している場合に限られる。無為の状態で非現実のきわみに溺れることができるのは、特殊な関係にある男女でしかない。
自分たちもまた、その意味では特殊であるに違いない、と結子は思う。だが、特殊であること以外、彼らと共通するものは何もないのかもしれない。
この宿で贅沢な秘密の空間を共有した男女は、かつて数多くいただろう。それはおしなべて、契りのための滞在であっただろう。彼らには未来があっただろう。永遠を約束する未来ではないかもしれないが、少なくともそこには、明日に向かおうとする健康的な輝きがあっただろう。
自分たちにはそれがない。自分たちがこれから契ろうとしているのは、別れの契りである。今、この瞬間、かろうじてふたりにとっての明日という日は用意されてはいるが、その先には巨大な戸がそびえ立っているのである。把手のついていない戸である。鋼鉄のように頑丈で、びくともしない。それは開けるためにある戸ではなく、隘路《あいろ》の果ての、行き止まりを示す戸なのである。
前日、買いそろえたワインのうち、ブルゴーニュ産の赤ワインの栓を抜き、ふたりは黙りがちに座卓を囲んだ。
若女将が言っていた通り、外気温が下がっているのがわかる。座敷は温かいが、闇を湛えた硝子窓は、氷を思わせるようにぴんと張り詰めて見える。月見台に積もった雪は踏み固められた氷塊のように、いかにも重たげである。
「もうあと一日しかないんだね」正臣が言った。
ひどく屈託のない言い方だったのが、少なからず結子の気持ちを傷つけた。人が滞りなく予定をこなしつつある時の、澄み渡ったような満足感が感じられた。卑屈になってはいけない、と思うのだが、どうしようもない。この人の今の気持ちと、自分の気持ちとの間には千里の距離がある、と思ってしまう。何の確証があるわけでもないのに、そう思えてならなくなる。
「戻ったら、どうするの」
「とりあえずは溜まっているレッスンをこなして、そろそろ四月のリサイタルに向けて本格的な練習を積まなくちゃいけない」
結子はうなずき、吸っていた煙草の灰を灰皿に落とした。生徒たちのレッスンをこなし、四月に京都で大きなリサイタルを開き、その後で織江との間に、第二子が誕生する。この人の人生は躍動している。予定が山積みになっている。白かったスケジュール表は、瞬く間に黒く埋められていくのである。
正臣の視線を感じたが、結子は目をあげなかった。
「あのさ」
「ん?」
「考えてたんだ。明後日のことだけど、僕はここから小浜《おばま》に行こうと思う」
「小浜? 福井の?」
「そう。一度、行ってみたかった。鯖《さば》街道を通って、若狭に出るんだよ。今頃の季節、日本海は荒れて寂しいだろうし、小浜の町も鄙《ひな》びてるだろうけど、それもかえっていいと思って」
「一緒に東京まで帰るのかと思ってた」
「うん。でもそうしないほうがいいんじゃないかな。僕はあなたと違って我慢強くないし、自虐的にもなれないから」
その言葉に反応するのは避け、結子は抑揚をつけずに聞いた。「小浜で一泊するの?」
「それができるくらいだったら、あなたとそうしてるよ。そのまま、その日のうちに引き返す。米原経由で新幹線に乗って」
「米原の駅で待ち伏せしてようかな」
正臣は結子を凝視した。怒りとも憎しみともつかない光が目の奥に瞬き、消えていった。
「ごめん。冗談よ」
「こんな時になっても、つまらない冗談を言うんだね」
「治らない癖だと思ってちょうだい。大丈夫。私はあなたとここで別れたら、まっすぐ京都駅に戻って、新幹線に乗るから」
正臣は目をそらし、「うん」と言った。そして彼は、その後の言葉をのみこむようにして黙りこくった。
一切の感情をまじえずに、笑顔を作ろうとしたが、そんなことをするのはあまりにも芝居がかっているように思えた。無表情のまま、結子はワイングラスを手に取った。
渓流の音が聞こえる。月が出ているようである。堆積した雪の面が月の光を受け、青みを帯びて煌いているのが、硝子の向こうに見える。
「明日の予定、まだ決めてなかったけど、さっき聞いた三本杉のあたりをうろついてみる?」ややあって正臣が口を開いた。
「さっきまではそのつもりでいたけど、気が変わった」
「どんなふうに?」
「遠くまで行ってみようか」
気が変わったのは、正臣が帰りに小浜に寄る、と言いだしたからであった。彼は自分の中に流れている非日常の時間を、巧妙に現実のそれと連鎖させようと試みているように見えた。その企みの健康的な輝き、逞《たくま》しさのようなものが、結子には憎く感じられた。
いかなる悲劇のクライマックスを迎えようと、正臣はこうして、現実に立ち返っていくのである。現実に戻って行けるだけのエネルギーを兼ね備えているのである。そしてそこからまた、何かがはじまるのである。
終焉の意味するものが、正臣と自分とではまるで異なる。終焉の後に、彼にはまた何がしかのはじまるものがある。彼はそれほどまでに若い。充分に若い。
だが結子にはもう、そんなことは自分に期待できないように思われた。少なくとも、これから何かがはじまるということの想像がつかない。行く先はもう、決まっている。人生に起こり得るあらゆる幸福な変化は、広大な草原に射した一条の光のようなもの。結子はその光が、やがて翳り、草原が灰色に見える時が戻って来ることを知っている。いかに光が満ちる瞬間があったとしても、風景そのものの佇まいは、所詮、同じなのだ。
彼の若さが憎かった。一条の光のさなかに毅然と胸を張って立っていられる、その若さが憎かった。箱を開けた途端、白い煙に巻かれて、美しく逞しい青年が一瞬にして老人と化してしまうのなら、そんな箱を何としてでも手にいれて、正臣に贈ってやりたい、とすら願った。
正臣が何か問いかけてきた。ぼんやりしていた結子は、「え?」と問い返した。
「遠くってどこ? って聞いたんだ」
「大して遠くないのかもしれないけど」と結子は言いつくろった。「そうね。高雄山あたりまで行くのはどう?」
「高雄山? 降りていくと嵐山だろう? どこか行きたいような寺があるの?」
「別にない。でも、あのあたりは北山杉の群落が続いてるっていう話でしょう? 去年、貴船に来た時に運転手さんから聞いたこと、思いだしたの。車を走らせながら、そういうのを見てもいいかなって、ふと思っただけよ。明日は晴れるみたいだし、雪道のドライブも悪くないかもしれない」
どこを目指そうが、今回、はからずも世話になってきた同じタクシーの運転手に頼めば造作もないことであった。運転手からは貴船からの帰途、翌日、もし行きたい場所があれば朝にでも連絡してもらえればすぐに迎えに参ります、と言われている。
「それともずっとこの部屋にいる?」
いや、と正臣は言い、装ったようないたずらっぽい笑みを浮かべてみせた。「それだけはやめよう。そんなことをしたら……僕たちはきっと、見るもの全部、黄色くなってしまう」
そんなことにはならないだろう、と結子は思うが、あえて口にはしない。悦楽の海に溺れるのが、これで最後になると思えば思うほど、自分は正臣の腕に抱かれることを恐れるようになるに違いなかった。悲しみを忘れようとして交わす性愛の、奥底ににじむ虚無を覗きこむくらいなら、何もせずにいるほうがましだった。
酔いがまわってくる。食事の際にもかなりの量の日本酒を飲んだ。正臣と関わるようになってから、いっそう酒に強くなったように思えるが、本当に強くなったのかどうかはわからない。おそらくは時の流れを押し止めようとして、いたずらに飲み続けているだけなのだ。酩酊《めいてい》の果てに夢心地は訪れてはくれないが、少なくとも束の間、忘我を味わうことができる。
目の前にいる正臣が揺れているように見える。遠近感が失われてきて、座卓をはさんだ正面にいる彼自身が、手を伸ばしても伸ばしても届かないほど遠くにあるようにも感じられてくる。
結子、と正臣が声をかけてきた。エコーをきかせたピアノの音色のように、その声が頭のすみずみにまで響きわたる。彼に名前を呼ばれるたびに、同じ感覚を味わってきたような気がする。結子、結子、結子……自分の名前が好きになる。所有されることへの虚しい渇望……。
「頼みたいことがあるんだ」
「何?」
「笑ったり、怒ったりしないで聞いてほしい」
「もう充分、笑ったり怒ったりしたから、何を言われても平気よ」
「言いにくいんだけどさ。気を悪くするかもしれないと思って」
「じれったいのね。言って」
「僕の前で、堂島先生のアトリエにいる時のようなポーズをとってほしい」
結子は正臣を見つめ、ふっ、と息を吐きながら笑った。「本気?」
「本気だよ。いつも思ってた。僕の前でポーズをとるあなたを見てみたい、ってね」
「先生の前でポーズをとるのは、私の仕事。誰の前でもそんなことができるわけじゃない」
「僕に見せるのはいや?」
「あなたの前でポーズをとってどうするの。あなたがそれを絵の中に描いてくれるわけじゃないんだし。ただ、黙ってじっとしてるの? それをあなたが見てるの?」
「焼き付けておきたいんだよ、頭の中に」
「私の裸なら、げっぷが出るほど見たでしょ」
そう言って微笑みかけた結子に、正臣は生真面目な顔をして応えた。「それとこれとは違う。何なんだろう。僕の知らなかった結子を知っておきたいと思う、そういう気持ちかもしれない。いろんな結子を知ってきたけど、僕はまだ、あなたが画家の前で服を脱いでポーズをとっている姿を見たことがないんだ」
「欲張りね」
「おかしいかな」
結子はそれに答えず、しどけなく座卓に頬杖をついたまま溜め息をつき、次の間のほうに疲れたような目を向けた。「あそこの布団をこっちに持ってきてくれる?」
「布団?」
「そう。シーツをかけたまま、敷布団だけをここに。マットレス代わりにするから」
「わかった」
「持ってきたら、電気を消して」
「消したら見えない」
「雪明かりで充分よ」
正臣はしばらくの間、何かを考えている様子だったが、やがてゆっくりと座卓に手をついて立ちあがった。
白いシーツがかかったままの一枚の敷布団を座卓の脇まで運んで来ると、丁寧に皺を伸ばしてから、正臣は座敷の明かりを消した。一瞬、闇になじめずに、あたりが漆黒の世界に変わったように感じた。
それでもふたりは何も言わなかった。沈黙だけが闇の中に滲んだ。
闇に目が慣れるに従い、硝子の外の、月の光を受けた仄白い雪明かりが見えてくる。光は静かに流れるようにして、座敷に射しこんでいる。
四角く細い窓枠の影が畳の上に落ち、それは長く伸びて、布団の上にまで届いている。シーツのやわらかな窪みに沿って、影はそこだけ、いびつな線を描く。
これからここで行われることは、きっと正臣の夢なのだ、と結子は思った。正臣が密かに紡いできた夢そのものなのだ、と。
永遠に相いれない不満を自分たちは抱いてきた。どこにも接点などない。それは説明し、理解し合える種類の問題ではなかった。どれほどの言葉を駆使して説明したとしても、説明が終わった途端、振りだしに戻ってしまう。互いの不満は、身体の奥底に澱《おり》のようになって溜まっていくのである。
結子が正臣の若さを密かに憎めば、彼は彼で、結子が別の男に肌を晒して生活していることを憎む。結子が彼の未来に嫉妬すれば、彼はアトリエでの結子の、止まっている時間に嫉妬する。
その憎しみや嫉妬の対象は相手そのものであるようでいて、実は違う。自らの内部が生みだしてしまう、如何ともしがたい業こそが、互いの気持ちを乱しにかかるのである。
青白い闇が座敷のすみずみに、薄墨を流したように拡がっている。正臣は開け放したままの襖に背をもたせ、両腕を組んだまま佇んで、見るともなく結子を見ている。その目が外の月明かりを受け、深い沼のように黒く光る。
結子は着ていたセーターを勢いよく脱ぎ捨て、スカートのホックを外した。堂島のアトリエの、金色の屏風の後ろでいつもやっているように、恥ずかしげもなくストッキングと下着をいっしょくたにして、するりと脱ぐ。ブラジャーを脱ぐ時も、後ろを向いたりなどしない。ここは屏風の後ろなのだ、という意識を保ちつつ、結子はふだん通りの手順で脱いだものを手早くひとまとめにする。
全裸になるといつもそうなるように、一瞬、かすかに全身が粟立つ。寒さのせいではなく、それは無意識の緊張からくるものである。
全裸になった結子は、敷布団の上に立った。乳房も陰部も隠さない。両手はだらりとさげたままである。そして正面から正臣を見据え、ぶっきらぼうな、怒ってでもいるような口調で聞いた。
「指示してよ。どんなポーズがいい?」
「なんでも。結子の好きなポーズでいい」
「だめよ。先生はいつも指示するわ。アトリエでは私は先生の意のままになる。指示してくれなくちゃ、何もはじまらない」
「どう言えばいいんだろう。よくわからないよ。具体的に?」
「具体的でも抽象的でもどっちでも。変な言い方だけど、あなたがいつも頭の中に描いている私自身の裸を、今ここで私に演じさせるのよ。そのための言葉がなくちゃ。何か言葉をちょうだい。その言葉を受け取って、咀嚼して、初めて私はオブジェになれるんだから」
うん、と正臣はうなずき、組んでいた両手をはずして思案するように結子を見る。ひどく緊張している様子である。彼の、どくどくと繰り返している心臓の鼓動の音が聞き分けられそうでもある。
「例えば」と正臣は言い、声が嗄《しやが》れてもいないのに、軽く咳払いをした。「愛し合っている時のポーズ……」
「愛し合っている時の? どういう意味? もっとわかりやすく言って」
正臣は大きく息を吸って、途切れ途切れに吐きだした。「僕と愛し合っている時の……いや、きれいごとはよそう。僕を受け入れて、感じてくれている時の結子自身を見てみたい」
「それはポーズとは言えないわね」と結子は言った。苦笑しようとしたのだが、できなかった。絵描きの前でポーズをとるということの意味をこの人は理解していない、と思った。「それがあなたのイメージする、私の裸なの? あなたにとっての裸婦はそれ?」
「……結子。僕と堂島先生とを一緒にしないでくれよ。僕は画家じゃない」
結子は口を閉ざした。外の渓流の音がひときわ大きくなったような気がした。手足の指先が冷えきっているのを感じる。甚だしい緊張の中にいるせいだとわかっている。だが、何故、正臣の前でそれほど緊張しなければならないのか、理由がわからない。
何でもなさそうに軽く頭を振ってから、結子は「そうね」とやわらかい口調で言った。「その通りよ。あなたは画家じゃないわ」
結子は観念して布団の上にゆっくりと仰向けになった。正臣を受け入れている時のようにして、軽く両足を開く。両手を大きく伸ばして、耳の後ろにもっていく。そのままの姿勢でシーツを軽くわし掴みにし、全身を弓なりに反らせる。
いつものように、手足の爪の先にまで緊張感をみなぎらせる。毛穴の一つ一つ、髪の毛の一本一本までが見られる対象と化していくのがわかる。
堂島はいつも、顔の表情にも注文をつけた。苦悶の表情、あるいは、いたずらににこやかな表情を堂島は嫌った。堂島が好むのは、結子の無表情だった。
結子の口もとには、常に、黙っていても笑みのようなものが浮かんでいる、と堂島は言う。それは冷笑に近いものである。その冷笑をこそ堂島は好む。
だから、結子は長い間、ポーズをとる際にもあえて顔の表情を作らずにきた。かろうじて目の光だけで表情を演出する。何かを凝視する目、見つめているのに何も見ていない目、恍惚とした目、虚ろな目、無関心な目……。
この薄闇の中では、目の表情までは正臣に届かないとわかっていて、結子はアトリエでいつもやっていることと同じことをした。目の表情を決める。恍惚と虚ろが交叉するような目……それは愛する男を受け入れている時の女の目であり、同時に、正臣を受け入れている時の自分自身の目でもある。
両足の開き加減を決める。陰部が外気に晒されるのがわかる。自分自身の内部はこれほど温かいものだったのか、と少なからず驚かされる。ひんやりとした風のようなものが、陰部から奥へ奥へと流れこんでくるような気がする。
寒さのせいか、乳首は固く引き締まり、尖ったようになっている。仰向けになり、両手をあげると、結子の小ぶりの乳房はほぼ扁平に近くなり、尖った乳首だけが天に向かって突きだされているように見えてくる。
おっぱいが小さいから恥ずかしい、と堂島に言った時のことを思いだす。まだ裸婦モデルをはじめて間もない頃だった。結子は言った。「仰向けになんかなったら、ほら、こんなになんにもなくなっちゃう」と。
堂島は絵の道具を手元に並べながら、さも無関心そうに、仰向けに寝ている結子の胸を一瞥し、それの何が問題なんだ、と問いたげに憮然とした表情を返してきた。
「先生、大きいおっぱいのほうが描きやすいでしょ」
「関係ないね」
「少なくともおっぱいが大きいほうが、裸としてきれいだわ」
「そうかね」
「そう思わないの」
「僕はどちらでもかまわない」
「寛大なのね」
その後、堂島は無表情のまま、するりと言葉を吐きだした。まるで老人が習慣のようにして静かに咳き込んだ後、ものなれた仕草で痰を吐きだす時のように。
「あなたの乳首は美しくそそり立っているよ」……彼はそう言ったのだった。
結子はいっそう身体を弓なりに反らし、開いた両足に力をこめた。これでいい、と思うまでわずかながら手足を動かし、ポーズを決める。正臣の執拗《しつよう》な視線を感じる。
アトリエでの堂島の視線には、常に乾いた砂のような感触があった。いくら情け容赦のない視線を浴びても、それはすぐにさらさらと傍らにこぼれ落ちていく。湿った、べとついたものは何も残らない。
事務的というのでもなく、かといって、あからさまに芸術を意識している視線でもない。それは、何かに夢中になっている時の人間の視線であり、そこに生じる結子の意識と彼の意識との合一こそが、奇妙な安堵感を生むのである。安らぎといってもいい、静謐《せいひつ》な空間が生まれるのである。
だが、今、正臣の視線にはそれがなかった。彼の目は、雌を前にした雄の目であった。教養や品位をかなぐり捨てれば、男は誰しもそうなる時がある、あの、雄に返った時の目……。怒りや軽蔑をまじえたような、攻撃的な目……。
堂島がこんな目をして自分を見たら、自分はモデルの仕事は続けられなかっただろう、と結子は思う。視線を浴びるごとに息苦しさが増しただろう。恋とも肉欲ともつかない、ただただ、落ちつかない乱れた気持ちばかりが渦を巻き、やがて身体中の細胞という細胞が生々しく蠢《うごめ》きはじめて、やがてはポーズをとり続けることなどできなくなってしまっただろう。見る側と見られる側に分かれてしまったら最後、裸の自分はそれこそ正臣の言うように「裸を晒している」だけの存在になり果てるのだ。
どちらも口をきかない。結子も正臣も黙りこくったままでいる。
硝子を通して射しこんでくる月の光が、青白さを増して結子の肉体を包みこむ。目には見えない薄いヴェールに被われて、そのままの姿で自分が固まってしまったようにも感じられる。
長い時間がすぎたような気がした。だが、実際には二分か三分……そんなものだったのかもしれない。
身じろぎもせずに自分を見つめているであろう正臣に向かい、結子は初めて口を開いた。「何か言ってちょうだい」
「何を言えばいい」
「あなたは絵を描かないのだから、私にこういうポーズをとらせて、それをじっと見つめて、何を考えているのか、それを教えて」
「堂島先生の前で、そのポーズをとったことはある?」
「さあ、覚えてない」
「そこまであっさりと足を開くこともあったんだね」
「あったと思うわ」
「そういう時、先生は何て言った」
「なんにも。彼は画家よ。足を開いている私を描いてただけよ」
「結子は彼にすべてを見せてきた。そういうことだよね」
「見せたけど、彼が私に触れたことはないのよ。何度も言ったでしょう」
「触れたくなる時はなかったのかな」
「そういうことは彼に聞いて」
「そのあたりのことが解せない」
「やきもちを妬くんだったら、こんな遊び、やめるわ。いい?」
「いや、誤解しないで。妬いてるわけじゃないよ。それどころか……何て言ったらいいのか……ああ、結子。僕はさ、今、すごく感動してるんだ」
正臣の声はかすかに震えていた。大きく息を吸いこむ気配があった。
結子もまた、大きく息を吸い、軽く目を閉じた。「ねえ、私たちは馬鹿ね」
「どうして」
「たった今、気づいたことがあるの。このポーズ、何かに似てるわ。何だと思う?」
「いや、わからない」
「お産の時のポーズよ」
織江の顔が浮かんだ。織江は苦悶の表情を浮かべ、目を閉じている。それは正臣を受け入れている時の表情であり、同時に、赤ん坊を産み落とそうとしている時の表情でもある。
自虐的にすぎる自分の発想にふいに耐えがたくなって、結子は開いていた足をきつく閉じた。
正臣はひたと結子を見つめたまま、じっとしていた。月が煌々と雪を照らし、座敷はいっそう青白い光に充たされた。
「こっちに来て」と結子は言った。言いながら、右手を彼に向かって差しのべた。
正臣は緩慢な動作で結子に近づいて来ると、その手を取り、その身体を抱き起こし、火のように熱く火照っているくせに、内部がしんしんと冷えている結子の裸体を荒々しくかき抱いた。
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至るところで水音がしている。
陽射しが強い。あたりに光を遮るものは何もなく、真冬とは思えぬほどの勢いで、屋根に積もった雪が溶けはじめているのである。
軒先から、しとどな水が氷柱《つらら》を伝い落ちてくる。水滴は凍りついた雪を穿《うが》ち、水溜まりを作る。水溜まりの中で水音は刻一刻とその音色を変えていき、母家は今、賑やかな不協和音の中にある。
外があまりにまばゆく晴れわたっているせいで、部屋の中はどこもかしこも白茶けて見えた。明かりの下で眺めていた座敷の様子とは、どこかしら違うようでもある。宴が終わり、享楽の名残りをあっさり片づけられてしまった後の、かすかな侘しさに似たものが感じられる。
結子は正臣と縁側に出て、開け放たれた硝子戸の向こうの、光が乱反射する雪の庭を眺めながら、煙草を吸った。
カケスやヒヨドリの鳴き声が、時折、冷たい冬の空気を切り裂いていく中、水音はのどかなリズムを奏でている。庭のそちこちで、ハレーションのようになって撥ねる光が眩しく目を射る。じっと見ていると目の奥がちりちりと痛みはじめる。瞼《まぶた》を閉じれば、山吹色に染めあげられた網膜に、光の残像が踊っている。
今日は高雄山あたりまで行ってみたい、と宿の若女将に申し出て、タクシーを呼んでもらったのは、遅い朝食を摂りはじめた時であった。
車が来るまでに小一時間はかかる。今しばらくお待ちを、と言われ、食事が終わってからも、掃除がはじまっているであろう離れに戻るのを遠慮して、ふたりはそのまま母屋にとどまった。
ぽかりと空いた無為の時間であった。することが何もない。眠たくなるようなぬくもりの中、互いを突き刺すような会話は影をひそめ、ふたりはまるで老人同士のように、ぽつりぽつり、と五感で感じることばかり口にし合った。
「ああ、なんてあったかいの。暖房がいらないくらい」
「雪に反射する光が眩しいね。目を閉じても目の中に光がある」
「目の中が万華鏡になったみたいよ」
「このままうたた寝したら、頭の中まで万華鏡になりそうだ」
「目を開けて。ねえ、あの木、何だか知ってる?」
「どれ?」
「あれよ。大きな石の隣の木。小さな紫色の実をたくさんつけてるやつ」
「ああ、あれ? 見たことがあるな。でも、名前は知らない」
「あれね、ムラサキシキブっていうの」
「『源氏物語』の作者?」
「そう。変よね。どうしてそんな名前がついたのかな」
「紫色をしてるから」
「単純な発想ね」
ふたりはゆるりと顔を見合わせて、微笑み合う。結子はつと、正臣の艶やかな、血色のいい肌を視界の片隅におさめる。
どれほど飲んでも、どれほど夜更かしをしても、ひと晩中、どれほど烈しい性愛の中に身を委ねても、翌朝、正臣の肌がくすんでいるのを結子は見たことがない。くすむどころか、若々しい清潔な皮脂に被われて、つやつやと光っている。寝起きにわずかに浮かんでいた目の隈も、旺盛な食欲をみせる朝食の後にはただちに消え失せ、まさにスタートを切ろうとしているランナーのごとき、快い緊張にひきしまった肌が甦る。
自分はこの男の目にどんなふうに映っているのだろう、と結子はふと考える。
自分ほどの年齢に至ると、これだけのあからさまな陽射しの中で、たとえ化粧を施しているとはいえ、間近に顔を見られることから逃げずにいるためには相応の覚悟が必要になってくる。もういい、どこを見られてもかまわない、これが朝の自分の顔なのだから、とありのままをさらけだすためには、涙ぐましい努力をして、自意識を捨ててしまわなければならない。
そんな想像を、一度でも彼はしたことがあるのだろうか。光の中にいる時、いつも伏し目がちになってしまう女の真意がどこにあるのか、考えてみたことがあっただろうか。
「まだ車が来ないな。お茶でも飲もうよ」
そう言って腰を浮かせかけた正臣を制し、結子は「私がやる」と言って、そそくさと立ちあがった。
丁寧に片づけられ、拭き清められた座卓の上に湯飲みと急須が用意されていた。小さな丸い手火鉢の上では、鉄瓶の湯が沸いている。火鉢の中の白い灰が、弾ける光の中で侘しいようにくすんで見える。
結子は急須に湯を注ぎ、湯飲みと共に丸盆に載せて縁先まで運んだ。ゆったりと時間をおいて、お茶をいれ、湯飲みの一つを正臣に差しだす。彼は「ありがとう」と言い、それを受け取って、慎ましく乾いた音をたてながら中のものを啜《すす》った。
結子はかつて二、三度寝たことのある、少し年上の男が、お茶やコーヒーを飲むたびにずるずると汚らしい音をたてていたことを思いだした。その時、こういう男はいやだ、と思った。道ばたの泥だらけの水溜まりに顔を近づけ、水を飲んでいるように見えるからだった。
かといって、パントマイムでもしているように、まったく音をたてずにものを飲む男も薄気味悪い。結子は正臣のように、ちょうどいい具合に小さな音をたてて、お茶やコーヒーを飲む男が好きだった。
年老いた自分たちが、冬の日溜まりの中、座布団の上でお茶を啜り合っている情景を結子は夢想する。
共に七十、八十をすぎてしまえば同じである。相手が幾つになったのか、ということも忘れてしまうに違いない。それどころか、自分の生年すら覚えていられるかどうか、怪しいものだ。
通りすぎてきたものを振り返ることすら面倒になり、目の前にある風景、今、口の中で味わっているものだけがすべてになる。残された時間を数えることからも自由になる。そんな中、いたわり合うように肩を並べ、背を丸めてそっと静かに光の中に坐っていられれば、どんなにいいだろう。
だが、その愚かな夢想、実現不可能な願望は、愚かな分だけ余計に切なく、結子の中の哀れを誘った。その種の夢想の滑稽さは、重い病床の中で不老不死を唱える病人の滑稽さと、どこか似ていた。
「明け方、夢を見たわ」湯飲みを両手でくるみこんだまま、結子は言った。横顔に正臣のやわらかな視線を感じた。
「どんな?」
「うん、ちょっと怖い夢」
他人から、前の晩見た夢の内容を延々と語られる時ほど、退屈で困る時はない。それはふたりがいかなる関係にあろうと同じである。
次の言葉を口にすべきかどうか、逡巡し、結子がひと呼吸おいた時、庭の垣根の向こう側で車の気配がした。
母家の玄関のあたりが急に賑やかになった。太刀掛け姿の若女将が、晴れやかな笑みを浮かべながら縁先に現れ、車が到着したことを告げた。
正臣が湯飲みを盆に戻し、「ようし。じゃあ、行こうか」と言った。
彼は立ちあがり、結子に向かって微笑みかけ、大仰な仕草で手を差しのべてきた。結子はその手に自分の手を重ね、正臣の力を借りるようにして立ちあがった。無邪気さを装った笑い声が弾けた。その瞬間、結子は、前の晩、自分が見た堂島の夢を正臣に話すきっかけを失った。
ふたりはそれぞれコートを手に、やって来たタクシーに乗りこんだ。見送りに出て来た若女将ともうひとりの女性従業員に向かって、窓越しに会釈をし、結子は、高雄山まで行ってほしい、と運転手に告げた。
前日まで来てくれていた運転手は、当日予約が入って他をまわっているとのことで、その日、ハンドルを握っていたのは別の運転手だった。老舗のホテルマンよろしく、老練な感じのする応対ぶりが板についた、初老の男だった。
高雄山のどちらまで、と聞かれ、ふたりが返答に窮していると、運転手は「あのあたりには、いいお寺がたくさんございますよ」と言った。「高山寺とか神護寺とか……。あ、神護寺のかわらけ投げはご存じでしょうか」
「かわらけ投げ?」
「かわらけ、というのは素焼きの土器のことを申しましてね。深い谷をはさんだ正面の山に向かって、小さな素焼きの皿を投げるんです」
「何の御利益があるんですか」
「厄除けとか、投げたかわらけの行方を見定めることによって、今後のとるべき道がおのずとわかってくる、などといったような言い伝えがあるようでございますね」
面白いな、と正臣が言った。
面白い、と口にするほどには、実際に面白いと思っているかどうかわからないような、単調な口ぶりだった。
結子は運転手に、神護寺に行く場合も北山杉の群落が見られるかどうか、訊ね、運転手は勿論、ご覧いただけます、と答えた。行って帰って来るまでの、おおよその所要時間も教えられた。
過不足のない説明に満足し、勧められた寺に詣でてみよう、ということで意見が一致して、正臣と結子は互いに口を閉ざした。タイヤチェーンを巻いた車は、溶けだした雪の塊の上に不規則な轍《わだち》を作りつつ、光の中を西へ西へと向かいはじめた。
それは恐ろしい夢だった。
結子は堂島のアトリエにいて、ポーズをとっている。堂島は、ワークシャツにサスペンダー付きのジーンズという見慣れたいでたちで、結子の素描を続けている。
無表情に手を動かし続けているのだが、そのくせ、堂島が凝視しているのは結子の裸体ではない。彼はアトリエの片隅の、何もない、汚れたぼろきれが丸まって落ちているだけの一角を睨むように見つめ、結子のほうを振り向きもしない。
「先生、私はここよ。こっちを見て」と結子は呼びかける。
結子はマットレスの上にいる。仰向けのまま、膝を立て、両足を大きく拡げたポーズをとっている。とてもいやなポーズだ、と思う。いやらしい、というのではない。これは婦人科の診察台にいる時のポーズ、いや、出産の時のポーズそのものではないか、と思う。
先生ったら、と結子は大声を出す。「こっちを向いてよ。どこ見てるの」
結子は、自分が眉をひそめ、苦悶の表情を浮かべていることを知る。何故、こんな表情をしているのか、と不快感を覚える。それなのに、眉間に深く刻まれた皺は消えない。
それでも堂島は結子のほうを見ない。声は届いているはずなのに、その表情を変えようともしない。
結子は出産のポーズをとったまま、首をめぐらせて堂島を見つめる。堂島の、皺の寄った赤黒い首のあたりに、何かが見える。結子は目を凝らす。ループタイのようにも見える。だが、堂島にループタイを身につける習慣がないことを結子はよく知っている。
よく見れば、それは細い紐である。革紐のようにも見える。ひどく汚れている。堂島の首にめりめりと喰いこんでいる。あまりに強く喰いこみすぎて、それは堂島の皮膚を破り、赤黒い血を滲ませている。千切れたようになった紐の先端が、堂島の背中のあたりで揺れている。
その時、堂島がゆっくりと結子のほうを振り向いた。堂島の眼球は大きく飛びだしている。紫色になった厚い舌が口からこぼれ、彼は相変わらず結子のことなど見てはおらず、その目は死んだ魚のように濁りきっている……。
結子は金切り声をあげ、自分の声で目を覚ました。
凄まじい悲鳴をあげたような気がしたが、隣に寝ている正臣がそれに気づいた様子はなかった。かすかに鼾《いびき》をかきながら眠っている。
首すじにうっすらと汗をかいていた。粘ついた汗であった。正臣の腕枕で寝入ったような覚えがあるが、彼の腕は今、結子の身体からは離れていた。
結子はそっと布団から出て、はおっていた寝巻の前を合わせながら、手さぐりで煙草を探した。下着はつけていない。そのせいか下半身が寒々しく感じられる。
正臣の前でポーズをとり、その場で彼と肌を合わせた。肉体の火照りが収まった後は、ぽつりぽつりと会話を交わし、喉を潤すようにして、残されたワインを少し飲み、結局、襖の向こうの寝室には行かず、そのまま一枚の夜具の中で絡まり合うようにして丸くなった。いつのまにか深い眠りの底に落ちてしまったのは、あれは何時頃だったのか。ほとんど何も覚えていない。
ざらついた闇が次第に遠のき、闇に目が慣れてきた。座卓の上に、正臣の腕時計が放りだされている。黒革のバンドのついた、四角い文字盤の時計である。正臣の手首の形そのままにたわんでいるバンドの部分をつまみあげ、掌に載せて、目を凝らした。三時を少し回った時刻だった。
くわえ煙草をしたまま、結子は座敷の障子を開け、寝巻の衿元をかきあわせながら月見台を眺めた。青白い月明かりが雪を照らし、硝子の外は凍りついたように静まり返っている。
堂島を想った。彼は今、どうしているだろう。何を考えて生きているのだろう。死に損なった人間が、生きてこの世に戻って来た時に必ず思うことを堂島もまた、思っているのか。
またしても生き地獄に戻ってしまった、という絶望感と、たとえここが生き地獄であったとしても、今もなお、生きて呼吸をしているということに対する、一種、宗教的な諦念……その二つの間を行きつ戻りつしながら、彼は礼子と共に、朝がきて、夜が訪れる平凡な日々の繰り返しを虚ろな気持ちで味わっているのだろうか。
礼子から再び連絡があったのは、堂島の自殺未遂の一報を受けた、二日後のことであった。
本人は未だに強いショック状態にあるが、神経系統の障害、頸椎や意識の障害などを調べるための検査結果に、何ら異常は見つからなかった、という。精神面での長期的なリハビリ、という課題が残されているにせよ、これ以上の治療は要さず、一両日中には退院できるという話だった。
わざわざ来ることはない、見舞ってくれるのであれば、自宅に戻ってからでかまわない、と礼子は言ったが、結子はその日の午後、堂島が入院する横浜の病院に向かった。
そのあたりの地理には疎《うと》かった。田園都市線青葉台駅で下車し、バスに乗って二十分ほどだという。だが、結子が駅を出た時に、ちょうどバスは発車したところで、見れば次の発車時刻まで時間が空いてしまっている。結子は迷わず、駅待ちのタクシーを使った。
十二月の薄暮の街は、クリスマスが近いというので、そこかしこに派手なイルミネーションが目立っていた。
自力でものを食べることはできるが、ほとんど食欲がない、と聞いていた。退院が間近であるなら、食べ物は無駄になるだろうと考え、花屋に寄って花束を作らせた。クリスマスローズという名の花だった。
深い桃色の花である。佇まいがトルコキキョウに少し似ており、束ねるとやわらかくしなった茎が優しげな印象を残す。
その花の名を理解するだけの力が堂島に甦っているのかどうか、わからなかった。クリスマスという言葉ですら、堂島の中では、未知の言葉、何を意味する言葉なのか、曖昧になっているのかもしれない、などと考えた。
車のシートに身を委ね、花束を抱えたまま、結子は怒りと侮蔑と悲しみとで、胸が熱くなるのを覚えた。馬鹿、という言葉が口をついて出そうになったのは、およそその時が初めてだった。
私に男ができたからって、それが何? 私が恋をし、アトリエでポーズをとる際に、これまでにない雌の匂いを漂わせたからって、それが何? あなたに何の関係があるって言うの。たとえ恋をし、小娘のようにどっぷりとそこに溺れたのだとしても、私があなたの前で裸になって、ポーズをとり続けることに何ひとつ変わりはない。私の人生の一部は、確実にあなたのアトリエの中にある。あなたのアトリエで年老いて、身体の線を崩していって、皺だらけになって、果実が熟して腐り落ちていく時のように息絶えるのが、私の本当の理想だった。そのことが、どうしてあなたにはわからなかったんだろう。どうしてあなたに伝わらなかったんだろう……。
市街地から少し離れたところにある病院に到着すると、ロビーで待ってくれていた礼子が目を細めながら結子を迎えた。
毛玉の浮いた灰色のセーターに、着古した黒のニットのロングスカート。それまでつけていたとおぼしき白いエプロンを外し、丸めて手に持っている。顔に化粧の跡はない。ふだん以上に皺が目立つ。急に老婆と化してしまったような面持ちで、礼子は結子に向かって弱々しく微笑みかけた。
「思ってたより元気そう」と結子は嘘を言った。「面会時間はどのくらい?」
「大丈夫。病院には身内が来ると言ってあるから。重態患者でもないんだから、好きなだけいてちょうだい」
「話、できるの?」
「まだ声がよく出ないの。壊れた笛みたいな声をだして、もごもご口を動かして。まるでおじいさんみたい。でも意識ははっきりしてるわ。結子さんが来てくれたってことは、すぐわかるはずよ」
「私を見たら、なんで俺は死ねなかったんだろう、って思うわね、きっと。私を前にして、ざまあみろ、死んでやった、って、先生はそう言いたかったはずだから。おめおめと生き返って、私なんかと顔を合わせることになって、きっと悔しがるでしょうね」
結子が冗談めかしてそう言うと、礼子は困惑したように小さく首を横に振った。
「ごめんなさい。冗談よ」
「行きましょうか。特別室なの。四階よ」
中規模の古い病院だった。リノリウムが敷きつめられた床は清潔に磨きあげられていたが、ところどころ剥《は》がれた壁には錆《さ》びた画鋲《がびよう》がそのまま残され、待合室の紅いビニール椅子には穴が目立った。
救急を含む脳外科が専門だが、総合診療も行っているという。その時刻、一階のロビーには午後の診察を受けに来たとおぼしき外来患者が数人、会計で名前を呼ばれるのを待っていた。
「とても腕のいい先生がいるの。腕がいいだけじゃなくて、人間的にできてる人。堂島にも私にもね、自殺、っていう言葉、一度も使わなかったわ。つまらないお説教をしたり、人生訓を垂れたりもしてこなかった。見栄えはあんまりよくないけど、ここに運んでほんとによかった」礼子はエレベーターに乗りざま、言った。
「ここまでどうやって通ってるの?」
「自分の車よ」
妻の礼子が車を運転しても、堂島が何ひとつ文句を言わなかったことを結子は思いだした。人生を生活というレベルも含めて共有する女と、幻想の中に閉じこめる女とはおのずと堂島の中で、意味が異なっているのかもしれなかった。礼子は、夫が結子に車の運転を禁じていることを知っていた。
主人がそう言うのは当然でしょう、と礼子があっさりと言ったことがある。結子さんは主人の、それはそれは大切なモデルさんなのだから、と。
その時、結子は礼子の気持ちの奥底にある、一糸乱れぬ男女の方程式を覗きこんだような気持ちになった。即ち、礼子と堂島。堂島とそのモデル。両者の間には決して混ざり合うことのない掟があり、自分たちはそれを守っているからこそ、こうして今日も、平和に関わっていられるのだ、とする礼子の潜在意識……。
四階の特別室は廊下の突きあたりにあった。入るとすぐにバスルームとクローゼット、冷蔵庫のついたミニキッチンがあり、硝子のはまった扉の奥が病室になっている。
左右に細長い病室で、右側に簡易ソファーセットがあり、ベッドは左側だった。窓辺が花台になっていて、三、四個の小さなフラワーバスケットや花瓶入りの花が置かれてあった。堂島の自殺未遂はその時点で、結子と二、三の関係者以外、知らずにいたはずだった。花が誰から贈られたものなのかはわからなかった。
点滴のチューブを腕につけたまま、堂島は仰向けに寝ていた。頬がこけ、顔色はひどく悪い。額には生きている人間の艶やかさがなく、枕に拡がっている白髪も、藁《わら》のように光沢を失って見える。
「寝てるわ」と結子は言った。
「眠ってるんじゃないの。目を閉じたまま、ぼんやりしてるだけ。一日中、こんな感じなの。ねえ、あなた。結子さんが来てくださったのよ」礼子が堂島に近づき、その耳元で大きな声で呼びかけた。「眠ってた? でも、結子さんなのよ。とても心配してくれてたのよ。ね? 起きてちょうだい。起きられるわよね?」
結子、という名にだけ反応したかのように、堂島がその時、うっすらと目を開けた。白濁した目やにが浮いている。小さな奥まった目が、いっそう窪み、いっぺんに十も老けてしまったように見える。
礼子がその背に手をあて、身体を起こそうとしたので、結子はそれを遮った。
「先生、私よ」と結子は顔を近づけたまま、話しかけた。「寝たままでいいわ。疲れるでしょ。そのまんまでいて」
堂島の目が泳ぐようにして結子を捉えた。やがてその瞳に、感情とも呼べないほどかすかな変化の色が浮かんだ。潤んだようになった目が、二、三度、瞬きを繰り返した。
「人をこんなに心配させて。心臓が止まるかと思うくらい驚いたわよ。ねえ、先生。いったいどういうつもりだったの。馬鹿をやるにもほどがある。いい年して、傷つきやすい少年みたいなこと、しちゃって。呆れるわ。呆れすぎて、ものも言えない」
堂島の唇がわずかに震えた。結子はじっとその顔を見おろした。青いストライプ入りのネル地のパジャマを着ている。衿のあたりを凝視するのだが、首に白いガーゼが巻かれているせいで、縊死しようとした時の紐の跡……痛々しい鬱血痕は見えない。
礼子は遠慮してか、ベッドから離れ、窓辺に立ったまま、腕組みをして窓の外を眺めている。窓の外には造成中とおぼしき小高い丘が見える。その周囲に寂しいような街の明かりが点在している。冬の夕暮れは早い。
「ほんとに馬鹿な人」と結子は礼子に聞こえるように言った。「私が死んでも、お棺に入った私を描いてみたい、だなんて言ってたくせに。いいわよ。好きなだけ描かせてあげるわよ。どんなみっともない状態になっても、先生には描かせてあげる。でもその前に先生が死んじゃったら、どうするのよ。私は誰の前でポーズをとればいい、って言うのよ。ね、先生。馬鹿をやるのもいい加減にして。いつまでもそんなふうに、おじいさんのふりして寝てたりしないでよ。早く元気になって、アトリエに戻って来てよ。そうしてくれなかったら、私……ここで……この病室で着てるもの脱いで、先生の前に立つわよ。早く私を描いてくれ、って言って、すぐにでもそうしてやるわよ。病院中が大騒ぎになっても、かまやしない。素っ裸になって、それで……それで……おっぱいもあそこも全部見せて、先生の前にずっと立っててやるから」
言いながら、涙があふれそうになった。小鼻がひくひくと震えはじめ、結子はそれをくい止めるのに、握った拳《こぶし》を前歯で強く噛まねばならなかった。
堂島はじっと結子を見ていた。化石のように色を失った唇が動きはじめ、何か言いたげに大きく開いた。笑おうとでもしているかのようだった。声とも呻き声ともつかぬ、掠《かす》れた音がもれた。空洞のようになった口の中が覗き見えた。何か言ったようだが、何を言ったのか、聞き取れなかった。
この人は入れ歯だったのだ、とその時初めて、結子は気づいた。年齢からすれば、不思議なことではない。だが、堂島滋春の歯が義歯であるのかどうかなど、これまで考えてみたこともなかった。
改めて堂島の年齢を思った。いとおしさが増した。この画家がアトリエに戻って来たら、いつかこの、空洞になった口にキスしよう、と結子は思った。感謝と、この世にまたとない深い友情と、偉大な才能に向けた尊敬をこめて。
「花、買ってきた」ぶっきらぼうにそう言い、結子は買ってきたクリスマスローズの花束を掲げてみせた。「もうすぐクリスマス。だから、これ、クリスマスローズっていうの。どう? ありふれたポインセチアなんかよりも、ずっときれいでしょ?」
結子は花束を抱えていないほうの手で堂島の頬に触れ、人さし指でその乾いた唇をひと撫でした。次いで、堂島の手を握りしめた。
「またね」と結子は低い声で囁いた。「すぐにでも退院できるんですってね。よかったね、身体のほう、なんともないみたいじゃない。大丈夫よ。先生は、自分でくたばろうと思ったって、なかなかくたばらないから。そういう身体をしてるのよ。まだまだ先が長いんだから、まあ、のんびりやることね」
堂島は何も言わず、無反応のままでいたが、強く瞼を閉じることでそれに応えた。
閉じられた目の、睫毛の長さに結子は少なからず驚いた。少年のように初々しく伸びていて、その間には光るものが見えた。死のうとした初老の画家……若い頃からその作品を愛し、共に生きてきた天才的な画家に、そんなふうにして泣かれたくはなかった。結子はつと目をそらし、ベッドから離れた。
しばらくの間、ソファーに礼子と差し向かいになって坐り、堂島に聞かれてもかまわない種類の、治療に関する会話を交わした。首に縊死しかけた時の青黒い圧迫痕が残ってしまったので、そこに抗生剤入りの軟膏を塗っている、ということ、喉の奥に烈しいむくみが続いているので、ステロイド入りの点滴もしている、ということ……。
会話は長くは続かなかった。看護婦が入室してきたのを機に、結子はいとまを告げた。
見送るからと、礼子が後について来た。礼子は身体の具合の悪い老婆のように、おそろしくゆっくりとした足取りで廊下を歩きながら、結子の腕にそっと腕をからませてきた。
「知ってた? 首を吊って四分過ぎたら、ふつうは助からないんですって。四分よ。たった四分。四分過ぎて、万一、助かっても後遺症がひどいみたい。記憶障害なんかが残るんですって。あの人を見つけても、私がおろおろして、怖くて引きずりおろすこともできなくなって、そのまま救急車を呼んで、救急車が来るのを待ってたりなんかしていたら……もうだめだったってこと」
「どうやって紐を外したの」
「がらくたが載っかってる机の上にね、大きな鋏があるのが見えたの。で、すぐ椅子を持って来て、それに乗って紐を切り落としたのよ」
「礼子さんが冷静だったから先生は助かったのよ。私だったら、両足をおさえて、馬鹿みたいに泣き叫んでただけだったかもしれない」
「そうよね。ふつうはそうするわね。私もそう思うけど、気がついたら紐を切ってたの。本能ね、きっと。何があってもこの人を助けなくちゃ、っていう本能」
結子はうなずき、エレベーターホールに立った。何と返せばいいのか、わからなかった。
「わざわざ、来てくれてありがとう」
「いいのよ、そんなこと」
「さっき結子さんを見て、あの人、生きててよかった、と思ったはずよ」
「アトリエで裸になった私を見て、もっと強くそう思ってくれればいいんだけど」
「そうなるわ、きっと」
やって来たエレベーターに、礼子と肩を並べて乗りこんだ。結子は何かの衝動にかられるようにして口を開いた。他の話題を探してそうしたのではなく、むしろ、そのことを礼子に教えたい、知ってほしい、と強く願ったからだった。
「ねえ」と結子は言った。「彼の奥さん、妊娠したわ」
「彼?」
「島津正臣よ。二人目の子。つい、この間、打ち明けられてびっくりよ」
そう言って薄く笑ってみせた。礼子が奥まった目を瞬かせ、何か問いたげに口を開きかけた時、二階でいったん、エレベーターが止まった。車椅子の入院患者が乗りこんで来たため、話はそこで終わった。
よかったらお茶でも飲んでいかないか、と礼子に誘われたが、結子はそれを断り、病院の玄関に向かった。堂島がこんな事態に陥っている時、礼子に向かって自分の気持ちをくどくど語って聞かせたくはなかった。たとえ、礼子が詳細を知りたがっていたのだとしても。
玄関の外まで見送りに出て来た礼子に向かい、結子は言った。「さっきの話、先生には言っちゃだめよ」
「もちろんよ」と礼子は言い、ふっと肩の力を抜いたように微笑み返した。「私でよかったらなんでも言ってちょうだい。力になるから」
そうして、と言おうとして、口を閉ざした。こんなことでいちいち人に頼っていたら、自力で立つ術《すべ》も失ってしまう、と思った。好きになった年下の男……別に一緒になろうとしているわけでもない、ただ単に恋しいと思っていただけの年下の男の妻が妊娠した。ただそれだけのことにすぎない。誰の力が必要だというのか。そんなありふれたことが自分の人生に翳りを落とすなど、想像しただけで馬鹿げているではないか。
結子は曖昧にうなずくにとどめ、病院をあとにした。
堂島が自殺を図ったという噂は、画壇や画商たちの間で急速に広まった。だが、厳しい箝口令《かんこうれい》が敷かれていたせいか、その噂が大っぴらに外部にもれだす気配はなかった。
知名度の高い画家である以上、マスコミで報道される可能性は非常に高かったが、あくまで未遂に終わったせいもあって、記事にはしにくかったのだろう、ゴシップ好きの週刊誌に堂島滋春の名が散見されるかもしれない、という不安は杞憂に終わった。
世間のつまらぬ好奇心に満ちた詮索が、画家である堂島滋春の芸術性や気品を奪い、描く気力を失わせ、堂島自身を痛めつけていくことを誰よりも恐れていたのは礼子であった。礼子が最も避けたがっていたのは、三浦結子というモデルが恋人を作り、それに嫉妬し、絶望して堂島が縊死を図った、とまことしやかに噂されることだったに違いない。
とはいえ、礼子は、自分と堂島との間には何ひとつ性愛の関係がなかったこと、これからもないであろうことを信じて疑っていない、と結子は思う。
礼子は堂島の才能を愛し、特別のものとして認めている。堂島に必要なものは一つ残らず受け入れようとしている。堂島が、結子を必要としている限り、結子を愛で、堂島と同じ目線で結子を眺めようとするのが礼子であった。
だが、もしも自分が堂島と性を交わしていたとしたら、礼子はどうしただろう、と結子は今も思うことがある。
それでも礼子は私という裸婦モデルを受け入れただろうか。あの、痩せた子鹿のような目で私をやわらかく見つめ、堂島がすぐれた画家として画壇に君臨するためには、あなたが必要なのだ、と心から思ってくれただろうか。
アトリエであなたは、自分の性器を夫に晒し続けなければいけない、夫の愛撫を受け、夫をさらに深く刺激して、画家としての夫の潜在能力を高めるために全身全霊をつくさねばならない、それがあなたの務めなのだから、などと、思ってくれただろうか。
決してそうはならなかっただろう、と結子は結論する。
礼子は堂島の行為は許すかもしれないが、結子の行為は許さないのだ。結子がいくら堂島の前で性器を見せ、恍惚の表情を浮かべてみせたとしても、それがモデルとしてのポーズである限り、礼子は結子を許し続ける。そんな結子に、万一、堂島が手を触れることがあったとしても、恐ろしいほど寛大な気持ちでそれを許す。画家とモデルという関係が成立さえしていれば、夫が何をしようが許すのである。
だが、礼子は結子が堂島に触れること、結子が堂島に女として気持ちを傾けることは許さないのだ。結子が堂島の、自分に向けた気持ちを受け取り、堂島を誘おうとすることだけは、決して許さないのだ。
今回、堂島は自分への恋に狂って、あんなことをしたのではない、と結子は思う。正臣の出現と彼に対する嫉妬は、自殺に向かう一つの引きがねになったにすぎない。たとえ、正臣が現れなくても、堂島はいずれ同じことをしていたに違いない。礼子もまた、結子同様、そう考えていて、だからこそ、堂島のしでかしたことを結子と共有できたのである。結子が堂島を翻弄し、あげくに堂島が死を選ぼうとしたなどと、礼子は微塵《みじん》も思っていなかったのである。
堂島はただ、虚ろになっていただけなのだ。長い人生の中で、結局、誰もが通りすぎることになる虚ろなひととき。
前に進めば衰弱と死が待ち構えている。かといって引き返そうとすると、遥か遠い過去の思い出が、輝きを失って塵《ちり》あくたのように並んでいるばかり。
どちらに向かうこともできなくなり、いっとき、静かに佇んで、虚ろを味わっていた時に、ふと、死への誘惑にかられただけのこと。
ただそれだけのこと……。
桂川に沿って走る477号線から162号線に入ってしばらく行くと、周囲に北山杉の群落が目立つようになった。
さほど広くはない車線の両側が、びっしりと杉の木で埋めつくされている。幹の色は白みを帯びて、遠目には淡い桜色にも見える。どれもまっすぐに天に向かって伸びており、幹の長さに比べれば、葉を繁らせている部位がたいそう短い。一本一本を見あげれば、そのシルエットは巨大な緑の綿あめ、さもなければ巨大な矢印を思わせる。
幾百幾千もの細い幹が山肌に突き刺さり、そそり立っているかのように見える群落である。降り注ぐ冬の光を遮りながらも、淡い木もれ日がそこかしこに落ちていて、その厳しい陰影にやわらかさを添えている。雪の白さと対比を見せて、瑞々しい緑の群れが織りなす光景は幻想的ですらある。
結子と正臣は、言葉少なに窓の外を眺めていた。その不自然な、なんとも意味ありげな沈黙を救ったのは、運転手だった。
コインを投げ入れれば三分間の観光ガイドが流れてくる機械のように無機質な、聞き手の存在をはなから無視しているかのような、ひどく平板な話し方で、運転手は話しはじめた。
「この道は周山《しゆうざん》街道といいましてですね、脇を流れているのが清滝《きよたき》川です。高雄、槇尾《まきのお》、栂尾《とがのお》というのが、それぞれ山号になっていて、このあたり一帯は三尾《さんび》と呼ばれているのですが、清滝川はその合間を縫うようにして流れておりまして、この川はやがて保津川に合流いたします。はい、急流下りで有名な、あの保津川です。保津川はその後、桂川となりまして、やがて鴨川と一緒になり、皆様ご存じの淀川になっていくわけです。このへんは秋の紅葉の盛りの頃が見事でして、それはそれは混雑いたしますが、人が途絶えた今頃の季節もまた、格別でございましてね。雪に被われた高山寺や、これから参ります神護寺の境内も風流なものです。なにしろ神護寺というのは、和気清麻呂や、空海や最澄が関わって平安仏教の基盤を作った、格式のあるお寺でございますからね。平安末期に火災で消失してしまったのですが、これを再興したのが文覚《もんがく》上人という人でして。このお坊様はなんと、仏門に入る前、まだ武士であった時分に人妻に恋をいたしました。その後、思わぬことからその女性を死なせてしまい、そのことを深く悔いるあまりに仏の道に入った方だ、などと言われております」
ふっ、と正臣が笑う気配があった。結子は正臣のほうを振り向き、視線に気づいた正臣もまた結子を見て、ふたりは互いにくすくす笑い合った。
バックミラーに、メタルフレームの眼鏡をかけた運転手の視線を感じた。
「何か」と聞かれ、結子は「いえ、何も」と笑みを喉の奥に含ませながら言った。
運転手の、テープに吹きこまれた観光ガイドのような喋り方が可笑しかったせいだが、それを口にするのは憚《はばか》られた。
「人妻に恋をして死なせたから仏門に入ったなんて、ちょっと可笑しかったものだから。なんだかものすごく現代的なお話にも聞こえますね」
「まったくねえ」と運転手は同調するように言った。「なかなか面白いお坊様もおいでになったようで」
正臣が身を乗りだすようにして聞いた。「その文覚という人は、もし人妻に恋をして、その女性を死なせずにすんでいたら、仏門に入らなかった、というわけですか」
「さあ、どうでございましょうか」
「その女性が死んだからこそ、罪の意識にかられて仏の道に入って、それで神護寺を再建できた……そういうことになるんでしょう?」
「そうかもしれませんねえ。いや、これはまた、そんなふうに考えてみれば不思議なものでございますよねえ」
北山杉の群落が次第にまばらになり、視界が開けてきた。道は相変わらずうねっているが、周囲に茶屋や宿の看板が目につきはじめた。
結子は窓の外に顔を向け、燦々《さんさん》と車内に射しこんでくる冬の光に目を細めた。見あげれば、木立の間に拡がる青空に雲の気配はない。路肩の、木陰にある雪は固く凍りついているが、日向《ひなた》の雪は早くも溶けかかっており、濡れた路面の黒い地肌が覗いて見える。
仏門……と結子は胸の内でつぶやいた。
もっとずっと若かった頃……まだ堂島とも出会っておらず、様々な種類のアルバイトをはじめたり辞めたりしながら、風来坊のように暮らしていた頃……剃髪《ていはつ》して尼僧になりたいと思ったことがあった。
当時、人生の目的を探すのは、結子にとって、濃い霧の中に落とした一本のピンを探すよりも難しかった。たとえ、束の間、感情に火が灯されたとしても、それはすぐに鎮まって、後にはいつも、倦《う》んだような気持ちだけが残された。かといって死にたくはなかった。遺書を何通も残して死ねるだけのエネルギーもなければ、狂ってしまえるほど自尊心や理性をかなぐり捨てているわけでもなかった。
食べて寝て排泄して、ただそれだけの中で、生き永らえていきたい、と思った。そして、もしもそうすることになるのであれば、何かそこにささやかな目標、まなざしを向けるにふさわしいものが欲しい、と思った。それが結子の中に、尼僧になる夢を呼び起こしたのだった。
尼寺に入ろうかな、と大まじめにつぶやいた時、ある男は結子をせせら笑った。せせら笑った後で、「きみがそうするんだったら、毎晩でも夜這いに行くよ」と言った。
頭の毛を剃り落とした、化粧っ気のない、身体の線など何ひとつ目立たない袈裟《けさ》をまとい、あの世ばかり覗きこんでいるような女を見ると、かえって欲情するんだ、と男は言った。
予備校の講師をしていた男だった。インテリを鼻にかけているわりには、品のない印象を与える男だったが、そういうことを口にすると、さらに下品な顔つきになって哀れだった。
新宿歌舞伎町にある、騒々しい酒場で隣り合わせで酒を飲んでいた時だった。結子は、ふっと笑った。あんたなら毛を刈った雌山羊にだって欲情するでしょうよ、と言いたくなるのをこらえてトイレに立ち、何も言わずにそのまま店を出て来た。
夜の巷を長いチェーンのついた小さなハンドバッグをぐるぐる回しながら歩いていると、どういうわけか涙が出てきた。買ったばかりのハイヒールで踵に靴ずれができていた。あまり痛むので、踵をつぶしたまま歩き続けた。靴ずれが痛むせいで涙が出るのか、それとも違う理由でそうなるのか、わからなくなった。
酔漢が寄って来て、結子の肩に手を回してきた。若い男だった。電柱にでもぶつかったのか、喧嘩をしたのか、鼻血が出ていて、それを拳で拭うものだから、顔中、血だらけになっていた。
結子は渋面を作り、チェーンのついたバッグで思いきり強く男の頬を殴ってやった。男は一瞬ひるんで地面によろよろと倒れかかった。
人垣ができ、まばらな拍手がわきおこった。口笛を吹いてからかってくる、別の酔漢たちもいた。結子は黙ってその場から去った。明るいところで見ると、白いビニール製のバッグに、男の鼻血がこびりついていた。
本当に自分は仏門に入るしかない、と真剣に考えたのは、その一瞬だった。男の鼻血や精液や、その場限りの愚かしい口説き文句の数々を洗い流し、肉体のみならず魂を清めるためには、それしか方法がない、と思った。
女なら誰でもそんなふうに思う瞬間があるのではないか、と結子は思う。時が過ぎれば忘れてしまい、そんなこともあった、と笑い話のように思いだすことになるのかもしれないが、それでも女は時に真剣に、尼僧になりたい、と思うのである。
穢《けが》れを清め、洗い流し、改めて煩悩を捨て去って、静かに残された生を生きたい、と願う一瞬……死にたくもなく、生きたくもない人間が、ありふれたつまらない、凡庸な苦悩の果てにたどり着く、それは一つの想像上の桃源郷でもあるのかもしれなかった。
やがて車は高雄橋を抜け、神護寺境内に至る石段下の広場に到着した。
日が少し傾いてきたとはいえ、冬の陽射しはまだ充分、ぬくもっている。結子と正臣は、タクシーの運転手に同じ所で待っていてくれるよう頼み、楼門に向かう長い石段を登りはじめた。
滑りやすくなっていますからね、お気をつけて、と背後で運転手の声がした。ふたりは銘々、振り返ってうなずき、軽く手をあげた。あげた手をおろした時、互いの手が触れ合って、ふたりは自然に手をつなぎ合わせた。
長く急な石段である。言葉少なに登っていても、次第に息があがってくる。ふたりは時折、顔を見合わせて、ふざけたように目をぐるりと回してみせる。
階段を登り切ったところにある古く大きな楼門の左右には、それぞれ四天王でもある持国天と増長天、二つの像が安置されている。門を抜ければ、白砂利が敷きつめられた広大な境内があらわれる。右側に書院や茶室、和気清麻呂の霊廟《れいびよう》などが並んでいるが、そのあたり、雪はさほど深くは積もらなかったようで、冬の午後の温かな光の中、日陰の部分に、わずかながら凍りついた雪の塊が見えるばかりである。
風もなく、淡い陽射しは優しくて、あたりに人影はない。一点の曇りもなく群青色に染めあげられた空に、時折、飛び交う鳶《とび》の鳥影が映る。歩いていれば、コートがいらなくなるほどの温かさで、吐く息が白く見えるのが不思議なほどである。
結子はつないでいた手をはずし、正臣の腕に腕を組ませた。彼の腕がわずかに緊張し、力をみなぎらせたのがコートの袖を通して感じられた。
どこかで山鳩が鳴いている。春の日の午後のようにのどかで、雪を残した広い境内である。
やがて道の行く手に金堂があらわれた。階段をあがった右端に、寺男と思われる男が一人、お守りや参拝記念品の数々を並べて売っている。上がり框のあたりに、拝観客のものとおぼしき婦人ものの、黒や茶色のショートブーツが三足、並べられている。光に満ちた外から眺めれば、金堂の内部は巨大な洞窟のごとく暗い。
「寄って行こうか」と正臣が聞く。「人妻を死なせて坊さんになったやつに、敬意を表して」
結子は正面を向いたまま、無表情にうなずく。正臣が怪訝な顔をして自分を見おろすのを感じたが、それにかまわず、結子は先に立って靴を脱ぎ、本堂の奥に進んだ。
何かに向かって手を合わせたいと、強く願っている自分に気づいた。それはがむしゃらなまでの気持ちであった。
救われたい、支えられたい、祈りたい……そう思いつつ、結子は本尊が祀られている中央の奥をのぞむ位置に立ち、暗さに目が慣れるのを待った。
ひどく底冷えがしている。ストッキングを通して、足の裏に床の冷たさが氷のごとく滲《し》みわたる。かすかな話し声がする。見れば、金堂の奥のほうに、三人の女の姿がある。三人とも、示し合わせたかのようにして派手な色合いのショールを肩に掛けている。時折、くすくす笑いが弾け、金堂の天井に谺する。衣擦れの音がそれに重なる。
大人の背丈ほどある本尊は、薬師如来立像である。美しく流れるような衣文《えもん》。崇高な螺髪《らほつ》。笑みもなく、への字に固く結ばれた唇。人の心の奥底まで覗きこむような、鋭いまなざし……。
結子は如来像に向かって手を合わせた。とはいえ、何を祈りたいと思っているのか、よくわからない。何から救われたいと思っているのか、何を叶えてもらいたいと思っているのか。気持ちの中に細かい泡がわきたつばかりで、いっこうに形にならない。
来た道を戻りもせず、先に進もうともせず、立ち止まったまま、煩悩に喘いでいる自分を感じる。あと一歩だ、と思う。あと一歩、前に進み出れば、この苦痛から形ばかり逃れられることは確かである。なのに、その一歩を踏みだして、舞台が一挙に暗転してしまうことを思うと、今さらながら、耐えがたい寂しさを覚える。
自分は今もこの男にしがみついている、と結子は改めて思う。別れを決意し、その後に襲いかかってくるであろう虚しさを受け入れる覚悟を決め、何やらひとり相撲でもしているかのように、一切を自分で決めこんで、こんなところにまで来てしまった。しがみついてでもいなければ、そんなことはしようとも思わなかったはずだ。別れの旅、などと銘打って、当の男と旅に出ようなど、夢にも思わなかったはずだ。
芝居がかった別れの旅……この愚かな芝居の演出をしているのは自分であり、主演も自分であり、監督も自分であり、大道具小道具の後始末をして、舞台を片づけるのも自分である。共演者である男は、舞台の上で、自分が作ったシナリオ通りに動いてくれている虚構の存在にすぎない。
虚構とわかっていて、自分はその男にしがみついている。男との別れを惜しんでいる。シナリオ通りに芝居が終わり、めでたく幕がおりた後も、自分は観客の去った後の劇場にひとり残り、物陰に身を潜めて、全身を震わせながら号泣するに違いないのである。
何故、と問われても答えられない。愚かさの限りをつくしたあげく、さらに上塗りをするかのように、自分は正臣の不在を嘆き続けるしかないのか。憎むこともなく、侮蔑することもなく、嘲笑することもなく、可愛がっていた猫に死なれた少女のように、一心不乱に愛していたものの不在を嘆き続けるとでもいうのか。オペラの終幕まで出ずっぱりで悲しみのアリアを歌い続ける、ヒロインのごとく。復讐もせず、かといって潔く受け入れることもできぬまま、ただただ、細い甲高い声で未練がましく歌い続ける女のごとく……。
結子は手を合わせ、目を固く閉じたまま、強く唇を噛んだ。
隣に正臣の気配を感じた。手を合わせたまま、結子は薄目を開けてそっと隣を窺った。正臣は如来に向かって手を合わせてはおらず、ただじっと前を向き、立っていただけだった。
金堂を出てから、ふたりは南側の地蔵院のほうに向かった。なだらかな坂道を降りて行くと、秋にはさぞや紅葉が美しいだろうと思われる山々を見渡せる、見晴らしのいい広場に出た。
地蔵院の一角と山々との間には深い渓谷があるようだが、見おろそうにも雪の跡を残した枯れ草が夥《おびただ》しく、すぐにそれとは判別がつかない。常緑樹に被われた山の端はところどころに真新しい雪肌を見せ、午後の陽射しを浴びて輝いている。
そこが、かわらけ投げをする場所らしく、近くの無人の小屋には二枚百円、と墨文字で書かれた札の下、籠に入れられた素焼きの小皿が幾枚も重ねられていた。
「ここから投げるんだね。やってみようよ」正臣が弾んだ声で言った。「これでもガキの頃はボール投げのチャンピオンだったんだ。まだ腕はそんなに鈍ってないよ。ひょっとすると、あっちの山肌まで届いちゃうかもしれない。どうする?」
「まさか」と結子は笑った。「スーパーマンじゃあるまいし。こうしてると近くに見えるけど、あそこまではかなりの距離があるわ。最低でも五百メートル。ううん、八百近くあるかな。あなた、ボール投げをして八百メートルも投げてたわけ?」
「いくらなんでもそりゃあ、無理だ」
笑いながら正臣はズボンのポケットをまさぐって小銭を取りだし、結子の分も含めて十枚のかわらけを買い求めた。白くくすんだ素焼きの小皿である。
「そんなに買うの?」
「ひとり五枚ずつだよ。どうせ結子はそんなに飛ばないだろうから、失敗用も含めて」
「失礼しちゃう。中学の時、ソフトボールの地区対抗試合に出たこともあるっていうのに」
「ほんと?」
「補欠選手として、だけど」
「よっぽどいい選手がいなかったんだ」
「逆よ。いい選手ばっかりだったのよ。だから私、結局、試合の間中、ずっとベンチにいた」
正臣は天を仰ぎながら、高らかで無防備な笑い声をあげた。光の中、正臣の白く健康的に輝く歯がはっきりと見てとれた。汚れのない、治療跡すら見えない、奥の奥まで一分の隙もないように形よく並んでいる歯は、彼の健康と生命力の強さを感じさせた。
腰の高さほどある手すりが、ぐるりとL字形に伸びている。かわらけ投げをしている観光客はひとりもいない。
山肌に反射してきらめく雪が眩しい。射るような眩しさである。遠くで鳶が甲高く鳴いた。
「行くぞ!」
正臣は片足を大きく前に踏みだすと、投球姿勢を作り、美しいフォームを保ったまま、かわらけを投げた。着ていた黒のコートの裾が、美しく翻った。小さな白い皿が、あたかもゆるやかな風に乗るようにして、正面の山に向かってまっすぐに飛んで行き、行方を見定めることができないほど遠くまで行ってから、ふっつりと見えなくなった。
「すごい。かなりの距離が出たわ」
「言ったろう? 向こうの山に届いたかもしれないよ」
「それはないでしょ。でも、驚いた。ほんとにすごいのね。さすがなのね」
「結子もやってごらん。僕の投げたかわらけの後を追うようにして投げてごらんよ」
「無理よ。そんなに飛ばせっこない」
「いいから、さあやって」
結子はうなずき、手にした五枚のかわらけのうち、一枚を投げてみた。手首の使い方が悪いのか、あるいは、力がなさすぎるのか、かわらけは結子の手から離れた途端、情けなくも、すぐ目の前をまっすぐ落下していった。
正臣は笑いころげた。子供みたいなんだな、と言ってさらに笑った。「かわいいよ、結子。なんにもできない幼稚園の女の子みたいだ」
「いいわ、そんなに言うんなら、本気だすから」
結子はむきになって二枚目、三枚目のかわらけを投げ続けた。四枚目は少し距離が出たような気がしたが、それでも行方を見定める、というほどにはならなかった。
正臣は笑い続けている。何がそんなに可笑しいのか、と思われるほど、目尻に涙を浮かばせながら笑っている。
これが私だ、とその時、結子は唐突に思った。自分は自分の未来に向かって、一枚の小皿を投げている。投げたつもりの小皿は、手から離れた途端、落下していく。自分の未来はこの先、手の届かないところにあるのではなく、すぐそこの、眼下の、足元にこそある。足元の叢《くさむら》の奥深く、小皿は落ちていくだけで、そこに自分の未来が見え隠れしている。すでに、手の届くところにしか、未来と名のつくものはないのである。
一方、正臣の未来はかわらけ投げに象徴されるごとく、遥か彼方にある。頭上高く、青々と拡がる空に吸いこまれ、山肌と重なって何も見えなくなってしまうほど遠いところに、正臣の未来が用意されている。いくら手を伸ばしても届かない。それは未知の空間、未知の場所。折り重なる時間の果てに用意されている、想像もつかないほど遠い場所……。
「最後の一枚になっちゃったじゃないか。頑張って気合を入れて、遠くに投げてごらんよ」正臣が笑いをにじませた声で言った。「フォームは悪くないんだけどな。手首の利かせ方が悪いみたいだ。もっとこんなふうに、やわらかくしてごらん。固くしてるから飛ばないんだよ」
だが、結子が投げた最後のかわらけは、それまでと同じように、結子の手から離れた途端、目の前の崖下の、冬草に被われた谷に向かってがさごそと鈍い音をたてながら転がり落ちていった。
堂島もあの時、同じことを感じたのか、と結子は思う。
自分にはすでに未来と呼べるものが失われている、と。自分の未来などというものは、目を閉じて眠った後に訪れる、単調な朝のようなものにすぎない、と。
人生には途方もなく遠い場所、途方もなく長い時間をかけて辿り着く場所がある、などと感じていたのは昔の話である。今はもう、未来はすぐそこにある。今この瞬間と隣り合わせ。明日か明後日か、せいぜいが、ひと月後。その先にひっそりと控えているのは、死しかない。自分は淀んだ死の淵に向かって日々、歩き、呼吸し続けている……そんなふうに堂島は感じたのではなかろうか。
去年の八月、結子は堂島夫妻から、正臣と一緒に自宅に食事に来ないか、と誘われた。
結子が正臣を堂島に紹介したのは、堂島の個展が行われた時で、以後、顔を合わせる機会はなかったから、それ以来ということになる。四人で食事をする、などという計画を持ちだしたのが堂島本人だったのか、礼子だったのかはわからない。堂島には少なくとも、その種のありふれたスノビズムは希薄だったから、単に礼子が気をきかせて、そんなふうに誘ってくれただけだったのかもしれない。
そのちょうどひと月ほど前に、正臣と裸婦モデルの一件で諍いになった。以後、正臣が結子のモデルとしての仕事に関して不満を述べることはなくなっていたが、いつまた、似たような諍いがはじまらないとも限らない、と結子は思っていた。
四人で食事をするというのは、正臣に堂島と自分との関係を理解させる、いい機会だった。そんなふうに判断し、結子は半ば強引に、正臣を誘って堂島の家に連れて行ったのだった。
朝からよく晴れた暑い日で、約束の六時に堂島の家に到着した時も、あたりはまだ獰猛な夕暮れの光に満ちていた。庭に面した外の広いテラスには四人掛けの四角いテーブルが用意されており、赤いギンガムチェックのテーブルクロスが掛けられていて、礼子の家庭的な温かい歓迎ぶりを窺わせた。
堂島と正臣をその場に残すのは気が咎めたが、結子はかまわずに台所に行って礼子を手伝った。台所のカウンター越しに、堂島と正臣の姿が遠く見てとれた。表向きの親密さを装いながら、庭の花木についての話でもしている様子だった。堂島が、正臣にビールを勧め、正臣がグラスを差しだすのが見えた。
堂島はくたびれた感じのする白い半袖Tシャツにジーンズ姿。正臣は色とりどりのフルーツがプリントされた開襟シャツに白のコットンパンツ。いくらか畏《かしこ》まってはいるが、正臣は寛いだ様子で微笑みを絶やさない。
パエリアを作ったの、と礼子は言った。「結構、おいしくできたみたい。食べてみる?」
パエリア用の鍋の蓋を開け、結子は指先でサフラン色に染まったライスをつまんだ。「うーん、最高」
「でしょう? あとはいわしのフリットみたいなものと、ラタトゥイユ。ハーブのサラダとパン。枝豆も茹でてあるし。でも、たいしたもの、なんにもないのよ。おつまみみたいなものばっかり。台所にいちいち立たなくていいようにね」
運ぶわ、と結子は言い、次から次へとテラスのテーブルに料理を運んだ。正臣が形ばかりそれを手伝い、やがて四人はテーブルを囲んで、よく冷えた白ワインで乾杯をした。
堂島と礼子は、結子と正臣をあくまでも一組のカップルとして扱った。夫婦でもなく、婚約者同士でもない。恋人同士なのかどうかも判然としないが、それでもこの場では、恋人のようにふるまってくれて、いっこうにかまわない、というサインを受け取ることができて、堂島夫妻のそうした客人の扱い方は結子の目に、とても洗練されたものに映った。
あたりさわりのない世間話を交わしていたのは初めのうちだけで、庭にとばりが降りる時分になると、話題は自然に音楽と絵画に関することに移っていった。
「僕のように音楽をやる人間は、僕に限らず、時々、むしょうに絵を観たくなることがあるんですよ」と正臣は言った。「変な言い方ですが、絵は音をださないから安心できるんです。毎日毎日、僕たちは音の洪水の中にいるわけですからね。絵を前にすると、ほっとします」
「さあ、それはどうかしらね」と結子は口をはさんで反論した。「絵だって、音をだしてるわ。聴きとれる人はちゃんと聴きとってるはずだけど」
「うん。観る人の頭の中で音が奏でられる、っていうんでしょう? そういう意味で言えば、絵だって音をだしてるけど、その音は万人に共通するものではないよね。個人個人、違う。違う音楽を勝手に夢想できるところがいい。それに、第一、絵を前にすると、僕は音楽を連想するよりも先に……なんて言えばいいのかな、静寂を連想するんです。音ではない、静寂、です」
堂島は大きくうなずいた。「そう言われてみればそうかもしれないね。例えばの話、野山を疾走している野生の馬を描いた絵を観ても、聞こえてくるのは馬の蹄の音ではないんだよ。無音という音だけがあって、蹄の音は、その無音の中にこそある」
「先生は結子さんを描いている時、アトリエで何か音楽を流しておられるのですか」
「いや、何も。それこそ無音だよ。アトリエに音楽は流さない。私の場合、音楽は不要なんだ」
しかつめらしい顔をして、堂島と抽象的な絵の話などを交わしている正臣が可笑しかった。懸命に背伸びしている様は、どこかしら少年じみて見え、それは愛らしくもあった。
結子は言った。「私のたてる衣擦れの音が、先生の音楽なのよね。そうじゃない? ガウンを脱ぐ時の音とか、休憩時間にガウンをはおる時の音とか」
堂島との無邪気な親密さをわざと見せつけるような言い方をし、結子は正臣の反応を窺った。正臣は無表情を取りつくろっていたが、滑稽なほど落ちつきを失いかけているのが見てとれた。
結子は彼の、単純な反応に素朴な悦びを覚えた。感情の綻びを隠すのが苦手な男だった。そんなところが結子には好ましかった。
まるで友情のような、熱い感情がわきあがった。結子はテーブルの下で手を伸ばし、そっと正臣の膝をまさぐると、その太もものあたりをあやすように軽く叩いた。
だが、思ってもみなかった行動に出られたせいか、正臣はぎょっとしたように身体を硬くした。次いで、ギンガムチェックのテーブルクロスの下を覗きこみ、ああ、びっくりした、と言った。「猫でもいるのかと思ったよ」
「何か?」と礼子が眉をひそめ、中腰になりながら聞いた。「どうかなさった?」
「いえ、何も……ただ、ちょっと……」
堂島が落ちつきはらった目を結子に投げた。「彼に何をしたんだ、結子」
「何もしないわ。ちょっとこの人の膝を撫でただけよ」
堂島の表情に変化はなかった。いくらか呆れたような目をして、軽く右肩をすくめ、くすくす笑いだした礼子のほうをちらりと見て、口もとを綻ばせただけだった。
正臣は赤面し、照れたような、あどけないような笑い声をあげて、まいったな、と言った。咳払いがそれに続いた。「この人はいたずら好きで困ります」
「隣に坐ってる女の手が、テーブルの下で自分の膝に置かれたら、気づかないふりをしなくちゃ。それが紳士ってものよ。ね、礼子さん。そうよね?」
礼子が笑い続けながら、大きくうなずいた。「そういえば、昔観た洋画で、時々、そんなシーンがあったわね」
「ちょっと待ってください。話をそらさないで。ええと、確か、僕は、絵画から聴きとれる音楽の話をしてたんですよね」
「だから衣擦れの音がするんだ、って言ったじゃない。それが先生の音楽なんだ、って」
「そうだけど……でもつまり、その……あなたは先生の前で、一糸まとわぬ姿でいるんじゃなかったの」
「それでも衣擦れの音はするわ。ガウンを脱いだり着たりする時だけじゃなくて、マットレスの布地が音をたてることもあるし。小さく呼吸するだけでね、その振動がマットレスに伝わって、小さな小さな、虫の羽ばたきみたいな音がするの」
「どきどきしますね。裸の女性が虫の羽ばたきみたいな音をたてる、だなんて。僕が画家だったら、手が震えて絵が描けなくなるだろうと思いますよ」
正臣は堂島に向かってそう言ったが、堂島は鼻先で軽く笑い、「そんなことはない」と言った。「島津君が絵描きになっていたら、裸婦を前に手が震えるなんてことは、決して経験しないはずだよ。裸婦が十人、目の前にいても平然としていると思う。そんなことより、私こそ、初めて人まえでピアノを弾こうなどという時がきたら、震えに震えて、椅子から転げ落ちてしまうかもしれない」
まさか、と正臣は言い、微笑んだ。
「絵描きと音楽家には共通点もあれば、違う点もたくさんあると思うよ」堂島はそう言い、けだるい仕草でワインを飲み干して、新たに自分でボトルを傾けた。「私は、ここにいる結子という女性を私の好きなように絵の中に閉じこめてしまうが、きみは多分違う。きみはピアノを奏でることによって、結子を外に連れだすことができる。世界の外側に、という意味だよ。同じ結子なのに、関わり方はもちろんのこと、見る角度まで異なってくる。音楽をやる人間は私から見れば羨ましいよ」
「何故です」
「音楽は人を解放する。奏でている本人のみならず、それを聴く人間をもね。だが、絵画は人を内向させる。描く側も観る側も」
「そうでしょうか」
「人にもよるだろうけれどね。私も若い頃はそうは思わなかった。描けば描くほど、自分が解放されるような錯覚を覚えたことがあるよ。でも今は変わったね。内向する。いまいましくも自分自身の内側の、腐ったようなものしか見ようとしなくなる。それは単に、年をとったということにすぎないのかもしれないが……でも、それを認めるのは、どこか寂しいことだよ」
堂島は、いっこうにワインをやめる様子もなく、飲み続けた。夜も更けてから、礼子が小さなグラスに入れた蝋燭を二つ持って来て、火を灯した。テラスの奥の居間からもれてくる明かり目がけて、小さなカナブンが飛んで来て、時折、硝子戸にあたり、コツコツという音をたてた。
庭の叢で虫が鳴いていた。「そろそろ秋だな」と堂島は言い、汗と酒の火照りとで赤く膨れあがったようになった顔を礼子のほうに向けた。「ワインがなくなったよ。もう一本、もっておいで」
「飲みすぎよ。いったい何本飲んだら気がすむの? コーヒー、いれるわ。デザートもあるのよ。チーズケーキだけど」
「甘いものはいらないよ」
私はいただくわ、と結子は言い、礼子に目配せをして立ちあがった。
「御機嫌があまりよくないみたいね」と礼子は台所で、買いおきのチーズケーキを箱から取りだしながら言った。「ワインの度がすぎてるわ。お願い。これ以上、飲ませないでね。トイレの便器を抱えたまま、外に出てこなくなられたら、こっちがかなわない」
「機嫌が悪い、というのともちょっと違うと思うけど。どうしたのかしら」
「決まってるじゃないの」礼子は、頬骨に張りついたようになっている皮膚に、たくさんの皺を作りながら結子に向かってやわらかく笑いかけた。「あなたたちにやきもちを妬いているのよ」
「私たち、って私と彼のこと?」
「まるで娘を嫁にだそうとしてる父親みたい。困ったものね」
「大変。正臣は先生に殴られるかも」
結子の冗談に礼子はふっと笑い、視線を流した。「堂島はあなたのことが大好きなんだもの。取られたくないのね、誰にも」
「そんなこと言われたって……」
「でも気にしないで。堂島自身、どうにもできないってことくらい、わかってるはずだから」
結子と礼子がコーヒーとケーキをテーブルに運んで行くと、堂島は両手を椅子の肘掛けに載せ、うつらうつらしはじめていた。傍らで正臣が、見守るともなく、それを見ていた。
そうやってると、ただの酔っぱらいのおじさんね、と結子は言った。「とても高名な日本画家、堂島滋春とは思えない」
礼子は微笑みながら、肩にかけていた夏用のたまご色のショールをはずし、堂島の身体を包んでやった。夜風が涼しくなっていた。テーブルの上の蝋燭の炎が、風に吹かれて大きく揺れた。
堂島の、耳の両側に残っているひとかたまりの白髪が、だらしなくほつれていた。大きくせりだした腹部が、深い呼吸と共に上下していた。手の甲に、老人性の大きなしみが目立った。
「コーヒーをいただいたら、そろそろ」と正臣は結子に向かい、大人びた口調で言った。「失礼しようか」
その時の正臣の、張りのある澄んだ声、透明感のあるまなざし、美しく伸びた背、薄い筋肉に被われた肉体のすみずみを結子は一瞬、堂島の目で眺めた。形のいい眉、力のみなぎった、ややつりあがった目、いかつさはないが、鋭くたくましく伸びた鼻梁……。
手の甲にはしみ一つない。ぴんと張りつめた肌。ものを飲みくだすたびに、健康的に上下する頤《おとがい》のなめらかさ……。
そこにはまだ死の影も、悲哀の影もなかった。あったのは、先へ先へと歩みを進めていこうとする、威勢のいい、知的でエネルギッシュな几帳面さと、動物のような、死に向けたたおやかな無関心だけだった。
そして堂島の家から帰る途中、彼は性に渇望している若者のような言い方で、結子に言ったのだった。「これからちょっとあなたの家に寄って行きたい」と。「このまま帰りたくない。あなたを抱きたい。猛烈に抱きたくなった」と。
神護寺を出て、近くの茶屋で休んでから戻る頃、日は大きく傾いて、雪深い山間の宿は早くも冬のとばりに包まれはじめていた。
日が落ちると急激に気温がさがり、溶けかかった雪がたちどころに凍りつく。空は葡萄色に暮れなずみ、葉を落とした木々の枝が版画のように繊細なシルエットを作っているのが見える。あたりいちめんに、冬の匂いが漂っている。
玄関先の行灯の、黄色い明かりが照らしだす雪面をタイヤで踏みつけながら、タクシーは静かに止まった。女将と若女将がそろって迎えに出て来て、口から白い息を立ちのぼらせつつ、お帰りなさいませ、と口々に言った。
今夜、宿泊する予定でいた客人が急にキャンセルになった、という。前夜の客人は昼のうちにすでに出発しており、離れにはもう誰もいない、いつでもご自由にお風呂をお使いになってください、と女将は言った。
正臣とすごす最後の晩であった。他の客人に気兼ねすることなくすごせるのはありがたかった。
ひとまずふたりで風呂に入りたい、と結子は思った。神護寺を歩いていた時は感じなかったが、立ち寄った茶屋でも、帰途の車の中でも、暖房が効いていたはずなのに、しんしんと足元から這いあがってくる冷たさがあった。すぐにでも湯船に浸かって、凍りついたようになっている身体の芯をほぐしたかった。それほどの寒さを感じるのは、ひどく疲れているせいかもしれなかった。
「熱燗でもちょっとやりたい気分だね」
タクシーが白いガスを吐きながら帰って行くのを見るともなく見送りながら、正臣がコートのポケットに両手を入れたまま、そう言った。
結子は笑った。「お風呂の前に、少し飲もうか」
「いいね。そうしよう」
「変ですか? お風呂の前にお酒を飲むなんて」と結子は女将に向かって聞いた。「でも、なんだか飲みたくなって。ほんの一合でいいんです。熱くお燗したものを持ってきていただけたら嬉しいんですけど」
女将はにこやかに笑いながら、「ちっとも変ではございません。すぐにご用意させていただきます」と言った。「寒うございますものね。雪の日よりも晴れた日のほうが、気温がさがって寒くなってしまいます。お酒とお風呂で温まって、お風邪をお召しにならないようになさいませ」
きれいに整えられた離れの座敷に戻ると、すぐに熱い燗酒が運ばれてきた。時計を見れば、まだ五時になったばかりである。夕食は七時から、ということにしたので、時間はたっぷりある。
「いいことを思いついた」と正臣は小さな丸盆に載せられた九谷焼の一合徳利と二つの猪口、それに、小皿に少量だけ盛られた若狭名物の鯖のへしこを見おろしつつ、目を輝かせた。「これを持って、風呂に入るっていうのはどう? 風呂場で割ったりしない限りは別に迷惑にならないだろうし」
「お風呂で熱燗? 素敵じゃない」
「一度、やってみたかったんだ」
「やったこと、ないの?」
「ないよ。結子は?」
「私もない」
「じゃあ、ふたりで初体験しよう」
浮き立つような気持ちが不自然なほどだった。結子は勢いをつけて立ちあがり、手早く入浴の用意をした。
煙草を持って行こうとすると、正臣が呆れ顔でたしなめた。「濡れた手で煙草なんか吸えないよ。火もつかないだろうから、そんなもの持ってっても無駄だよ」
だが結子は何でも持って行きたかった。吸えないとわかっていても、煙草とライター。他にミネラルウォーター、缶コーヒー、缶切り、小袋に入ったピーナッツ……離れにあるものなら何でも。意味などもたせなくてもかまわない。まるで今すぐピクニックに行く、と知らされた子供のように、はしゃいだ気分を失いたくなかった。
連れ立って離れを出て、いったん下駄にはきかえ、湯殿に入った。湯殿は清潔な湯の香りに満ち、湯気が脱衣所にまで流れこんで、小窓の曇り硝子をしっとりと湿らせていた。
先に裸になった正臣が徳利の載った丸盆とタオルを手に、湯の滲みた小さな階段を降りて行った。頭にタオルを巻きつけた結子が後に続くと、正臣はすでに湯船の中にいて、丸盆を湯に浮かべつつ、無邪気な目で結子を見た。
誰もいない。広々とした湯殿に湯の音と、ふたりの声だけが響く。正面のはめごろしになっている窓の向こうに、薄墨色の闇が流れている。葡萄色だった夕暮れの空が溶け、流れだして、薄く拡がったような色合いである。
湯殿の外は日陰になっているらしく、積もった雪が溶けた様子はない。じっとしていると、湯の音に渓流の音が混じるのが聞き取れる。黒いシルエットと化した木々の狭間に、青インクのような冬の暮れ方の空が見える。小さな星が一つ、寂しく煌《きらめ》いている。
透明な湯に身体を沈め、結子は正臣と丸盆を前にした。冷えきっていた手足の先が、しびれるように温もっていくのがわかる。滞っていた血が乳首の先にまで届き、乳輪が次第に薔薇色に染まっていくのが、自分でも見えるようである。
互いに酌をし合ってから、二つの猪口を軽く掲げ、見つめ合った。静寂があたりを包み、渓流の音が大きくなった。
その日初めて、正臣の顔をまじまじと見たような気がした。彼はほとんど無表情だった。あらゆる感情を殺した後で、ただ、目の前にあるものを黙って見つめているだけのようにも思われた。
はしゃいだような気持ちに急速に翳りが射した。結子はなじみのある、虚ろな風景の中に自分が立ち返っていくのを感じた。
「こんなふうに、お風呂で乾杯するとは思わなかった」
「そうだね」
「乾杯しましょ。いろいろとありがとう。楽しかった」
正臣の無表情が崩れ、露骨なまでの不快さがあらわになった。
「まだ言うなよ」と彼は言った。おそろしく低い声だった。「……それを言うなよ」
だが、結子は聞かなかったふりをして、軽く笑みを浮かべ、先に猪口に口をつけた。ぬるくなってはいたが、酒は美味だった。
正臣はしばらく黙ったままでいた。やがて思い直したように猪口を空け、小鉢の中の、鯖のへしこをつまみあげて、結子の口に運んだ。結子はねだるようにして大きく口を開け、それを食べた。ふたりは微笑み合った。まだ性に対して臆病な、年端もいかぬ少年と少女が、この先どうすればいいのかわからなくて、不器用に微笑み合ったようでもあった。
心中をする前も、男と女はこんなふうに微笑み合うのだろうか、と結子は思った。正臣との別れの決意は、心中を決意するのに似ていたような気がした。違っていることがあったとしたら、死してなお、生きていかねばならないことだけであった。
一合の徳利は分け合って飲んでいると、まもなく空になった。内臓が火照ったようになり、意識がかすかにぼんやりして、眠たいような気持ちになった。
「身体、洗ってあげる」と結子は言った。「全部。すみずみまで」
「僕が結子を洗ってあげるよ」
「ううん、いいの。私が洗いたいの」
「背中を流すだけでいいよ。そんなに汚れてない」
「いいじゃないの。洗わせてよ」
「おふくろみたいだな」
「どうしてよ」
「子供の頃、おふくろと風呂に入るといつもそう言われてた。僕がカラスの行水だったから」
「洗ってもらうのがいやで、逃げまわってたの?」
うん、と正臣はうなずいた。「素っ裸で風呂場から出て、そのへん駆けずりまわってた。結局、叱られて連れ戻されるんだけど」
「洗ってもらうのが、どうしてそんなにいやだったのよ」
「わからない。じっとしてるのがいやだったんだろうね。苦痛だった」
「今日はじっとしてて」結子はそう言い、湯船からゆるりと立ちあがった。
正臣をカランの前に坐らせた。目の前の鏡にはくもりどめが施されている。正臣の裸体と、そこに寄り添うように中腰になっている自分の裸体がはっきり映しだされている。
両手を使って石鹸を泡立てて、結子は正臣の背を洗いはじめた。こんなふうに明るい中で、性的な意味合いをこめずにこの男の裸体を眺めたのは初めてではないだろうか、と思った。
大きな広い、なめらかな肌をした背だった。少し湾曲している。ところどころに小さな黒子《ほくろ》がある。無駄な肉が一切ついていない。それは明らかに男の背である。
ひと通り、背中を洗い、肩から胸に移る。きめ細かい肌は張っていて、筋肉は少ないまでも、触れると弾き返さんばかりの弾力がある。
下腹部に手を伸ばす前に、腕を洗う。何も考えない。この腕、この手、この指……それがピアニストの指であることも、その指が自分自身を愛撫し、陰部の奥深く分け入ったことも忘れる。忘れようと努める。
正臣の陰毛は薄くもなく濃くもない。見る者を圧倒するような猛々しさはないが、あやふやな曖昧さもない。ちょうどいい具合に黒く、形よく縮れ、あるべきところにきちんとおさまっている……そんな印象を受ける。
正臣はじっと背を伸ばし、前を向いている。まるで戦に出る前の、甲冑《かつちゆう》をつけた武士のようである。時折、鏡の中で目が合う。互いに突き刺すような目線を送り、どちらからともなく目をそらす。その繰り返しが続く。
石鹸を手に取って充分に泡立ててから、陰毛とペニスに触れた。
陰毛の部分でさらに泡をたて、ペニスを両手でくるんで、丁寧にやわらかく洗ってやる。かすかにそれが膨張しはじめるのがわかったが、結子は黙っている。性的な意味合いなどまったくないのだ、ということを理解させるために、結子は彼をいったん椅子から立たせ、事務的な手つきで肛門と睾丸を撫でるように洗い続ける。ペニスがさらに固くなる。そそり立たんばかりになる。
正臣が低く吐息をついた。「馬鹿。……感じるじゃないか」
しゃがみこんだ結子の肩に、その手がかかり、もどかしそうに切なそうに蠢いたが、結子は応えない。応えずにいると、彼は腰を二つに折り、結子の乳房に触れてきた。
結子は身体を引き、「だめ」と小さく言って彼の尻を叱るようにぴしゃりと叩いた。
そんなこととは違う、違うのだ、と言いたかった。私は最後にあなたの身体を洗いたいだけなのだ。自分の掌や指先に、あなたの身体の感触を刻みつけたいだけなのだ、と。
だが、そんな気持ちが相手に正確に伝わるとも思えなかった。結子自身、自分が何故、そんなことに一心不乱になっているのか、うまく説明できない。
この男の性器が自分の性器の奥に入り、この男の精液が自分の子宮の中にあふれたとしても……幾度、そんなことを繰り返したとしても、結子は自分がこの男とひとつになったと、心底感じたことはなかった。そんなことよりもむしろ、いったん離れた後に思いだす、記憶の中の正臣の身体の形、ペニスの形こそが結子の中の感情を揺さぶった。
そこに彼の感情が感じ取れるからであった。現実に交わす性愛よりもずっと、結子は記憶に残された感触の中にこそ、彼と自分の感情の静かな合一を感じてきたことを思いだした。
だからこうして、と結子は正臣の身体を洗い続ける。洗っている、というのは口実で、実際には彼の肉体に触れていたいだけなのである。性愛抜きの感覚の中で、冷徹に、落ちつきはらって、指先や掌に彼の肉体を感じるというのは、最後に許された最上の悦びであるようにも思える。
彼を再び椅子に坐らせる。この肉体が、と結子は、足、足の指の一本一本、足の甲、足の裏を丹念に洗い続けながら思う。この肉体が、人生のいっとき、私のものだったことがあったのだ、と。まぼろしでも夢でもなく、この肉体が現実に私だけのものであり続けたことがあったのだ、と。そしてそこに、形こそ定まらなかったとはいえ、烈しい感情の睦《むつ》み合いが生まれたことが確かにあったのだ、と。
ふと彼と自分の年齢差を思う。八つ違い。自分が六十になった時、この人は五十二歳。自分が七十になった時、この人は六十二歳。
六十二になったこの人の肉体は、どんなふうに変化しているのだろう。力と潤いがみなぎっていた肌もさすがに萎れ、背中にしみが幾つも浮いているのか。腹部がせりだし、二の腕がゆるくたわんでいるのか。首のあたりにうっすらと、幾重もの輪が刻まれているのだろうか。
そんな裸を見て、自分は快哉を叫ぶのか。七十になった自分が六十二になった正臣の裸を見て、やっと追いついてくれたのね、とほくそ笑むのか。その瞬間が欲しいあまりに、そんなことを想像してしまうのか。
また、別のことも想像する。一般的に、七十になった女と六十二になった男とが並んで街を歩いていたら、人はどう見るだろう、と。どちらかが格別、老化の度合いを促進させていない限り、似たような年齢にしか見えず、少なくとも年齢差はほとんどないように見られるのではなかろうか。
だが、いずれの想像も馬鹿げていた。結子はそうした種類の想像を重ねようとする自分に、幾度か猛烈に腹をたてたことを思いだした。あれほど腹をたて、嫌悪にかられ、自分を戒めてきたというのに、ここにきてまた、そんなことを考えている。
自分はつまらない人間だ、と思う。もしも誰かが、「そんなふうに考えるのは、あなたがとても女らしいからだ」と言ってきたら、ただちに反抗の牙《きば》を向けるかもしれない、と思う。
そんなことは女らしいことでも何でもない。諦めの悪い、往生際の悪い人間の、愚かな、未練がましい夢想にすぎない。
人を洗うのは、こんなに疲れるものだったのか、と思われるほど結子は疲労を覚える。あれほど寒かったというのに、今は全身に汗をかいている。額から流れ落ちた汗が、しとどに目に入ってくる。結子は手の甲で自分の顔を拭い、マスカラが流れて目の下を黒く滲ませているのも気にせずに、シャワーで彼の身体の泡を洗い流した。
次は頭である。前傾姿勢をとらせ、髪をぬらし、シャンプーを泡立てる。いい気持ちだ、と正臣が呻くように言う。
結子は黙ったまま、せっせと頭を洗う。やわらかいがコシのある髪の毛である。頭皮もやわらかく、身体同様、弾力がある。シャンプーのいい香りがしてくる。結子は男の頭から、女もののフルーツの香りのするシャンプーの匂いが立ちのぼっているのが好きだ。鼻をつけ、くんくんと匂いを嗅いでいたくなる。
いったん、泡を流し、リンスをつけてマッサージし、再び流す。乾いたタオルで軽く水滴を拭ってやる。顔をあげさせる。
彼は目を閉じて、されるままになっている。口もとが無防備に半開きになっている。ねぼけた少年のようでもある。
結子は言った。「キスして」
ぼんやりと湯のぬくもりの中にあった正臣が目を開け、きょとんとした顔つきで結子を見返す。
結子はもう一度、抑揚をつけずに言う。「ぼんやりしてないで、私にキスしてよ」
正臣は我に返ったように小さくうなずく。両手で結子の顔をはさみ、マスカラの流れかかった、目のまわりが黒くなったその顔をじっと見つめ、いくらか首を傾けるようにして唇を合わせてくる。
自分の汗と、正臣の顔を流れ落ちる湯がふたりの唇を濡らす。結子は正臣の首に手をまわさない。タイルの上に横坐りになったまま、両手をだらりと下げ、接吻を受けている。
ふたりとも何も言わない。接吻はそれ以上、性的に烈しいものにはならない。ついばみ合うような接吻が繰り返されているだけで、かすかに相手の舌を感じるが、それは結子の口の中に押し入ろうとはしてこない。
傍若無人さのまったくない、荒々しさのまったくない、互いに行き止まりを意識したような接吻である。優しさの中に、他人行儀なよそよそしさが感じられる。
互いに素っ裸でいるというのに、接吻それ自体がコスチュームをまとっている。ひどく淫靡な感じがするくせに、行き場を見失ったような惨めさが渦を巻いている。この先にはもう、何もないのだ、と互いに言い聞かせているようでもある。
そのくせ、いとおしさが増している。この男はこれほどまで、いとおしかっただろうか、と思われるほどである。
やがて結子は自分の唇がわずかに震えだしたのを知る。何か熱いものが頬を流れ、汗や湯と一緒になって唇を伝い落ちていくのを感じる。
結子はつと顔を離す。それが涙であることを正臣に知られたくなくて、湯桶にたまっていた湯でごしごしと顔を洗う。
頭に巻いていたタオルをはぎ取り、顔を被うようにしながら嗚咽を噛みしめ、結子はつと、硝子窓のほうを見た。
闇に包まれた冬木立の向こうに、早くも月がのぼっていた。
煌々と照る、十三夜の月であった。
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それは花背ですごす、最後の夜であった。
深山亭における夕食の膳はひときわ華やぎ、翌朝、宿を離れる客人へのいっそうの心配りが感じられた。ひと品ひと品のいろどりが美しく、その際立った贅沢さこそが結子に、それが文字通り最後の夕餉であることを思わせた。
しずしずと運ばれてくる料理も終わりに近づいた頃、鮮やかな九谷焼の皿に盛りつけられた鴨肉が膳の上に載った。若女将はにこやかに膳の前に正座したまま、先代の主が鴨撃ちの名人であった話をしはじめた。
猟犬を従えて、鴨を撃ちに行った時に猪と遭遇したのだという。結局、鴨ではなく、猪を仕留めて参ったこともあったようでございます、と言う若女将の話に、さも驚いたような相槌を返してはみるものの、それ以上の会話は弾まない。つまらない感想をふた言三言、繰り返すばかりで、結子も正臣も接ぎ穂になるような言葉をすぐに見失ってしまう。
若女将はふたりの反応に、わずかな鈍さがあることに気づいた様子だった。さりげなさを装いつつ、会話を途中で打ち切ると、畳を滑らせる白足袋の音だけを残し、遠慮がちに座敷から出て行った。
障子の向こうの廊下を立ち去って行くかすかな気配が途絶えるのを待って、結子はおもむろに薄くスライスされた鴨肉のひときれを口に運んだ。ひと噛み、ふた噛み、口の中で鴨肉をころがしながら、ふいに奇妙な感覚にとらわれた。
食前の長湯で気分が悪くなったわけでもなさそうである。体調に変化はない。酒の量がすぎているわけでもなく、食事を進めながら飲む日本酒もいつになく少ないほどである。
それなのに、温かな鴨肉から立ちのぼる香りにも、やわらかくとろけるような歯ざわりにも、一切の興味が失われた。食べる、という行為を精神が拒絶しようとしているのが感じられた。改めて結子は、これが最後の夜であることを思った。
小さく音をたてて箸を膳に戻し、結子は足をくずして煙草に火をつけた。
「もう?」
「え?」
「もう食べないの」
結子は煙を吐きながらうなずいた。「美味しいんだけど、なんだかお腹がいっぱいで」
正臣は曖昧に微笑み、目を細めて結子を見た。「湯あたりでもしたかな」
「ううん、そんなんじゃないの。気にしないで、あなたは食べて。私の分も」
「そんなに食べたら、食べすぎた鶏みたいになって動けなくなるよ」
「食べすぎた鶏って、動けなくなるものなの?」
「子供の頃、見たことがある。田舎の祖父が庭先で飼ってた鶏がね、餌を食べすぎてまん丸に腹をふくらませて、地べたに坐りこんでた」
「あなたがそうなったら、抱っこして離れに連れてかなくちゃいけなくなる」
「そうしてくれると嬉しいな」
「やってみるけど、でぶの鶏を抱いて運んだ経験、ないのよ。全然自信ない」
正臣は大袈裟なほど甲高い笑い声をあげ、改まったように箸を手にすると、膳の上に身を乗りだした。だが、勢いこんだような仕草のわりには、正臣の箸の進め方も、どことなく鈍かった。
雪に閉ざされた外はしんしんと冷えこんでおり、ぬくもった室内にも、どこからともなくしのび寄ってくる、かすかな冷気が感じられる。
会話は長く続かない。ふたりとも隣り合わせにいながら、別の世界を彷徨《さまよ》っているような気がする。話すことはすべて話しつくした。改めて交わされる会話はすべて、どうでもいい冗談めいたものばかり。もうとりたてて、話すことは何もないのだ、と思う。結子は、その沈黙の無慈悲さに凍りつきそうになる。
湯殿を出て、食事をとるためにこの母屋に来てから、結子は執拗にひとつのことを考え続けていた。
貴船で、あるいは神護寺で、正臣は織江に連絡を取ったのだろうか、と。京都に来てから、正臣が自分に隠れて織江に電話をしたことはなかったのだろうか、と。
何故、急にそんなことが気になりはじめたのかはわからない。ひとたび考えだすと、終わることなくその問いは堂々巡りをはじめる。滑稽なほど巡り巡って、結局、結論は出ない。
深い山間に建つ深山亭にいる限り、携帯電話が通じないことはわかっていた。結子に隠れて、正臣が密かに自宅に電話をかけようと思ったら、深山亭から遠く離れねばならない。そして実際、そのチャンスがあったとすれば、貴船に行った時か、もしくは神護寺に行った時か、いずれかでしかなかった。
貴船や神護寺で、正臣をひとり残したことはあっただろうか、と結子は記憶を遡る。まったくなかったわけではなかった。結子だけが、あるいは正臣が、それぞれトイレを使うのに互いから離れたことは二、三度あった。
貴船の珈琲店のトイレは店の外にあったが、使ったのは結子だけである。その合間に店内に残された正臣が、慌ただしく携帯で織江に電話をかけることもできないわけではない。だが、ひと言ふた言ですむような会話ならいざ知らず、ある程度のまとまった会話を交わそうと思えば、いつ結子が戻って来るかわからない情況の中、彼がこそこそと携帯を使っている姿は想像しにくかった。
神護寺の参拝者用のトイレを使ったのは結子だが、その時は手を洗っただけで、すぐに出て来た。帰途、暖をとるために入った茶店では、ほとんど同時に強い尿意を覚え、ふたりで笑い合いながら店の奥にあるトイレに駆けこんだ。
男女別に入口が分かれていたが、ひどく壁の薄いトイレだった。仮に正臣がトイレの中でこっそり織江に電話をかけたとしたら、すべて結子の耳に筒抜けになっていたはずである。
携帯を使わず、離れの座敷にある電話機を使って連絡を取る方法もあったが、深山亭においては、外部と連絡を取ろうとした場合、いったん帳場を呼びだしてから相手先の電話番号を告げねばならない。その気になれば、結子がひとりで湯殿にいた時もあったのだから、できないこともなかったろう。だが、正臣が帳場を通してまで東京の自宅に電話をかけるなど、よほどの緊急事態でもなければ考えにくいことであった。
となれば、三日前、京都駅に降り立って以来、正臣はただの一度も織江と連絡を取らずにきたと考える他はなかった。明日、自分と別れた直後、即座に携帯を取りだして織江に電話をかけるつもりでいるのかもしれないが、そうだとしても、四日間というもの、彼が妻に何の連絡もしなかったことに変わりはないのだ。
四月に行われるリサイタルの準備で忙殺され、様々な関係者たちとのつきあいに飛び回り、ついでに観光もしてきた……後になってそんなふうに夫から説明されて、織江という人はそれで納得するのだろうか。
電話がかけられない場所にいたはずもない。少なくとも織江は、正臣が京都市内のホテルに滞在している、と信じていたはずである。
連絡を取ろうとすれば、いつだってできるような場所にいて、それでもなお、電話一本、かかってこなかった、ということに、織江は不満を覚えずにいるのだろうか。四日間、夫婦間で連絡を取り合わずにいる、というのが彼の家庭においては日常茶飯事だということなのか。
正臣に限らず、いかなる夫婦の間にも独自の取り決め、習慣のようなものがある。中には数日間、夫から連絡がなくても平然としていられる妻もいる。居場所さえはっきりしていて、夫が何をしているのかわかっていれば、それでよし、と思う妻もいる。かと思えば、たった一日、連絡がなかったからといって、夫の身を案じ、あらぬ妄想を抱く妻もいる。
だが、織江が正臣の外出、不在をどのように受け止めているのか、結子にはわからない。正臣と織江の間に、いかなる取り決めがあるのか、いかなる習慣のもとに夫婦が動いているのか、すべてのことがわからない。
わからなくて当然であり、知る必要もないことだと思っていながら、それでもやはり、結子は自分が知らぬ正臣の側面があることを今さらのように思い知らされる。
自分は正臣の家のことなど、ほとんど何もわかっていない、と結子は思う。どんな玄関で、中に入るとどんな間取りになっていて、寝室ではどうやって夫婦が寝ているのか。ダブルベッドなのか、シングルベッドを二つ並べているのか、それとも畳の部屋に布団を敷いて寝ているのか。バスルームのタイルの色、トイレマットの色、室内に漂っている香り、窓から見える風景の数々……。
センターテーブルの上に、白いレースの敷物があることは知っている。その脇にはアップライト式のピアノがあり、楽譜類が堆く積まれていることも知っている。時折、彼のひとり娘が鍵盤に人さし指を置き、無邪気にぽろぽろと音をだしては、演奏のまねごとをするピアノである。キッチンの壁の色も知っている。くすんだ黄色いタイル貼り。冷蔵庫の色は白……。
キッチンとリビングルームに関することだけは、よく知っている。一本のビデオテープを観たからである。島津織江を取りあげた、あの深夜のドキュメンタリー番組……。
観なければよかった、と思ったこともあれば、観ておいてよかった、と思ったこともあった。正臣の暮らしぶりについて、あるいは正臣の家族について、生々しいとはいえ、情報が与えられたのだから喜ぶべきだと思ったり、あるいはまた、自分の知らない正臣の生活を覗いてしまったことに、かすかな嫌悪感に似たものを感じたりもした。
だが、幾度となく番組の内容を思い返しているうちに、そこにはもう、心を乱してくるものは何もなくなってしまった。
結子がかけめぐらせる想像の中にはいつだって、遠くを見るような表情で穏やかに微笑み続けるひとりの女が佇んでいる。声楽家になること、音楽家になることを断念した女である。今まさに、正臣との間に二人目の子供を孕んでいる女である。そしてその、美しい全盲の女は、闇の中に生きながら、闇ではない、光を見ている。
想像の風景の中に頻々《ひんぴん》と立ち現れるその姿を幾度凝視してみても、結子の中にはもう、何ら違和感は生じない。
それどころか、もしかすると、と思うことすらある。どこかで何かのきっかけで出会って親しくなったら、自分は織江のことを実の妹のように、年の離れた女友達のように愛し、気持ちを許して、誰よりも親しく関わり続けていたのではないか、と。そうなったら、正臣のことなど忘れ去り、いや、正臣の介在があってこその、不思議な深い関係を紡ぎ合って、自分は織江の内部に輝いている澄んだ光を一緒になって覗きこもうとさえしていたのではないか、と。
結子が刈谷恵津子から一本のビデオテープを借りたのは、前年の暮れであった。
わざわざそんなものは観る必要はなかった。織江が第二子を孕んだ、という事実を正臣の口から知らされた後で、織江をつぶさに観察する必要がどこにあるのか、自分でもよくわからなかった。自虐的にすぎる、ということもよく承知していた。
それでも観てみたくなる、という気持ちの底には、何が何でも、自分自身を徹底的に痛めつけてみたい、とする衝動があった。痛めつけ、踏みにじり、これでもかこれでもか、と苛め抜いて、あげくにどんな精神状態がもたらされるのか、知りたかった。
事実を正確に把握する、ということから逃げ続けていたいのであれば、永遠に逃げていればいい。目をそむけ、嘘で塗りかためた自分だけのまぼろしを受け入れていればいい。それで精神の安寧が得られるのであれば、そうすればいい。
だが、その代わり、中途半端に知ってしまったことがあったのだとしたら、それをそのまま宙づり状態のさなかに放りだしておくことなど、結子にはできなかった。見て見ぬふりはできなかった。どれほど恐ろしい現実を突きつけられることになったとしても、正しい認識をもちたかった。自分が関わっている現実の詳細を見ずにすませることはできなかった。損なことなのか得なことなのかは、わからない。それが結子の性分であった。
「今さらこんなもの、観なくたって」と恵津子は眉をひそめた。「どうしても、って言うから持ってきたけど、私だったら観ないわね。絶対観ない。こんなテープが存在してる、ってこと自体、記憶の中から抹殺するわね。今さら、観てどうするのよ。辛くなるだけじゃない」
「辛くなりたいのよ」と結子はこともなげに言い、笑ってみせた。「誰よりもいい加減に生きてる人間だけど、その代わり、結論を出す段になったら、早いの。短気なの。結論を出すために全力を傾けるのよ。私の性格、昔からそうだったでしょ?」
「結論? どういう意味よ。島津さんと別れるつもりなの?」
「どうかな。わかんない。でもこのまま、同じ形で続けることはできないと思う。無理」
恵津子は軽く溜め息をついた。「気持ちはわからないでもないけど、子供を産むのは織江さんよ。島津さんがお腹を大きくして分娩台《ぶんべんだい》にあがるんじゃないのよ。それにさ、夫婦なんだもの。子供ができたって、別にどうってこと、ないじゃない。珍しいことでも何でもないわよ。彼が結子とは別の女との間に子供を作ったっていうんだったらわかるけど、子供を作った相手は女房なのよ」
結子は力なく微笑み返し、それでも首を横に振った。
「しかも二人目の子なんだから」と恵津子は身を乗りだし、強く言い聞かせるように言った。「初めての子でもあるまいし。そりゃあ、自分と関係しながら妻とも……って想像したら、面白くない気持ちになるのは当然だけど、そこまで厳しくものごとを追及していったら、ろくなことにならないわよ。壮年期の男が子供の一人や二人作ったって、別にいいじゃないの、って私なんかは思うけどなあ。島津さんの家庭を壊す気がないんだったら、このまま今まで通り、いくらだって続けていけるじゃない。結子には人生を賭けた仕事があるんだし、彼にもある。そのうえで、ふたりで素敵な関係を紡いでいって、その代わり、互いのプライベートな生活には絶対に踏みこまない。無理を言って相手を困らせない。そういうお約束のもとに成立するのが、大人の恋、ってもんじゃないの?」
うん、と結子は再び微笑み、そうね、と言った。「恵津子の言う通りよ。でもね、やっぱりね、それだけじゃないから」
「それだけじゃない、って?」
うん、と結子はもう一度うなずき、微笑み、目をそらした。「うまく説明できない。……いろいろあったしね」
「堂島先生のこと?」
「まあね」
「でも先生は運良く助かったんだし、結子の恋が原因になって先生が自殺未遂をやらかしたんだとしても、そのことで奥さんは別に、結子のことを恨んだりしてないんでしょう? できた奥さんだ、っていう話なんだし。先生に関しては、結子がそこまで思いつめることはないんじゃないの?」
「別に思いつめてなんかないってば」と結子は陽気さをこめて言い、大きく息を吸って会話の続きを遮った。「平気よ。一切、心配無用。とにかくビデオ、借りるわ。大丈夫。ビデオで織江さんの姿を見て、生々しい嫉妬にかられて、頭にきて、テープをぐしゃぐしゃにしたりしないから」
馬鹿ね、と恵津子は言い、薄く笑った。「そんなこと何も心配してないわよ」
「一つだけ前もって聞かせて。失明する前に、織江さんが小さなリサイタルをやって、その時、ホームビデオで撮影されたものが番組の中に挿入されてる、って言ってたでしょ。そこで織江さんは何の曲を歌ってたの?」
「モーツァルトよ」と恵津子は言った。「オペラ『コシ・ファン・トゥッテ』の中のね、フィオルディリージのアリア=v
ああ、それ、と結子は言った。「あなたの十八番じゃない」
まあね、と恵津子はうなずき、生真面目な顔をして結子を正面から見つめた。「ざっと見るだけにしなさいよ。ね?」
わかった、と結子は言い、笑いかけた。
その晩、結子は自宅のビデオデッキを使ってビデオを観た。
三十分番組だった。『歌は忘れず』というメインタイトルの後に『盲目の歌姫の一日』というサブタイトルがついている。
画面に立ち現れた織江は、白いトレーナーにジーンズといういでたちである。トレーナーの胸の部分には赤い星形の模様がついている。青山のコンサートホールで結子が見た織江は、髪の毛を肩のあたりで内巻きにしていたが、ビデオの中の織江は無造作に後ろで束ね、黒いバレッタで留めている。ほつれ毛が何本か、しどけなくうなじにかかってはいるが、化粧の跡の薄い、色白のその顔は初々しく、年齢よりも若く見え、女子大生のようでもある。
カメラは丹念に織江の暮らしを追っている。織江はひとり娘の琴美のために、冷蔵庫を開け、ヨーグルトの入ったパッケージを取りだす。ほんの少し、迷うような様子が窺えるが、ほとんど瞬時にしてその手は冷蔵庫の中のヨーグルトをさがしあてる。
調理台の上で織江は器用にパッケージの蓋を開け、用意しておいたガラスの小鉢にスプーンを使ってヨーグルトをすくい取る。素早く苺を洗い、へたを取り、半分に切って、三粒ほどヨーグルトの上に載せる。傍で琴美がそれを見あげている。琴美はまだ三つか四つである。織江は歌うように「さあ、おやつよ」と言う。
琴美がキッチンのカウンターテーブルでヨーグルトを食べている間、織江は夕食の仕度をはじめる。まな板に向かい、包丁を使ってじゃがいもの皮を剥く。姑が白いエプロンをつけながら、手伝いにやって来る。とはいえ、とりたてて織江を助けようとはしていない。
これが正臣の母親か、と結子は思う。よく似ている。切れ長の目が涼しい印象である。その年代の女にしては背が高く、胸の張りもあって、立ち姿が美しい。銀縁の、フレームが尖った感じのする美しい老眼鏡をかけており、端正な顔立ちにその眼鏡はいささかきつい印象を与えてはいたが、神経過敏、といった様子は微塵もない。万事、淡々とやりすごし、機嫌良く明日を迎えようとする種類の人間によくある、たおやかな呑気さが窺える。
いくらか手元とは異なるところに視線が向けられているように見えるものの、織江は当たり前のようにして動きまわり、手際よく仕度を続けている。くっきりと開かれた両目に濁りは見られず、それどころか光を失っているなどとはとても思えない。時折、こぼれる笑みには華やいだやわらかさがある。
男の声でナレーションが入る。「島津織江さんは全盲である。二十代の半ばを過ぎてから発症した病気治療のため、服用し続けていた薬の副作用で光を失ってしまった。だが、織江さんはごらんの通り、ごくふつうに暮らしている……」
場面は変わり、織江は琴美と手をつないで外を歩いている。白い杖を握っている。ナレーションが再び説明を加える。織江は光を失った後、自分がそれまで暮らしてきた生活圏のすべてを克明に思いだし、今ではもう、家の近所はもちろんのこと、最寄りの駅から電車に乗ることもできるようになったのだ、と。
どこから見ても、若く美しい母親が幼い女の子の手を引いている、という風景である。織江は微笑み続けている。琴美に何か話しかけ、琴美が笑うと、織江も笑う。束ねていた髪の毛はおろしていて、そこに午後の光があたり、艶やかな金色に弾けている。
この島津織江という女は、かつて声楽家を目指していた、というエピソードが挿入される。音楽大学声楽科卒業という織江の経歴と共に、ホームビデオで撮られたとおぼしき映像が流される。
どこかの小さなホールである。舞台と観客席の間には段差がない。正臣がグランドピアノを弾いている。黒いスーツに白い開襟シャツ姿。ネクタイはしておらず、くだけた装いが、かえって彼を貴公子のように見せている。
織江はシンプルなクリーム色のロングドレスを着ている。ドレスは細い身体の線をなぞるように流れ落ち、シニヨンに結い上げた髪の毛に、小さく光るピンが一本見える。他にアクセサリーの類はない。
織江が歌っている。まだ病状が進まずに、薬の副作用も出ていなかった頃の織江である。モーツァルトのオペラ『コシ・ファン・トゥッテ』の中のフィオルディリージのアリア=c…。
恵津子がリサイタルを開くと、必ずと言っていいほど歌っていた曲である。恵津子に比べ、遥かに力強さには欠けるが、繊細な、透き通った、硝子細工を思わせる声質が美しい。
時折、織江は伴奏者である正臣のほうに視線を向ける。正臣がうなずく。若かった頃の正臣である。髪形がほんのわずか、異なっている。伸ばし気味にしている今のほうが、大人びた印象である。
演奏会が終わった後の情景がそれに続く。幸福そうな若い音楽家夫婦。友人たちに囲まれ、花束を手渡され、織江が笑っている。その織江の細い腰に、正臣が手を回している。
まだ私を知らなかった頃の……と結子は思う。まだ私と出会うことになるとは夢にも思わなかった頃の正臣である。そんな映像を眺めても嫉妬はなく、嫉妬に似た複雑な気持ちすら湧いてこない。隔てられている時間と空間自体が、現実のものとは思えないのだ。遡ろうと試みる時間の流れの果てには、茫々とした漆黒の宇宙しかなく、それはまるで生まれ落ちる前に自分自身が漂っていた闇のようでもある。
そこにいるのは見知らぬ男である。同じ顔をし、同じ表情を湛えてはいるが、それは結子が知っている正臣とは別人である。結子という女の記憶をもたない、別の正臣なのである。
この人が今、と結子は思う。自分と恋におち、ありふれた男女がよくやるようにして、日毎夜毎、求め合い、肌を合わせている。つまらぬことで嫉妬し合い、つまらぬことで傷つき、傷つけられ、少年少女のようにロマンスの悦びに震えたあげく、別れようと決意して京都のはずれの山里に来ている。そして、ここにいる、この肌が透き通るように白く美しい女は、正臣との間に二人目の子供を孕み、出産しようとしている。
時の流れが残酷なのは、残酷な結末を生むからではなく、ものごとを大きく変容させていくからなのだ。不変であることはあり得ない。変わる。すべては変わる。水が流れるように自然に、しかし、残酷なまでにものごとはひとつところにじっと留まってなどいない。
番組の終わりのほうで、再び織江が現れる。織江はインタビューに応えて、こう言う。
「主人がピアニストを続けていて、私だけが何故、という思いを抱いたことは一度もありません。声楽家になることを諦めて、家庭に入る、というのも、私が自分でそう決めたのであって、誰かから指図を受けたわけではないんです。病気のせいばかりじゃありませんでした。確かに私は身体が弱く、病院通いが日課のようなところはありますが、目が見えなくても、身体が弱くても、歌は歌えますし、ピアノも弾けます。やめることはない、と言われて当然だと思います。でも、私は歌を歌うことよりも、どうやって生きていけばいいのか、を考えることで必死だった。本当に必死でした。朝起きて目を覚ましても闇の中にいる……それでも私は生きていかなくちゃいけなかったんです。誰かに頼っていたら、それこそ一生、頼り続けなくちゃいけなくなる。それに私にはそのころ、もう、この子……琴美がいました。まだ一つになるかならないか、の頃です。この子を前にして、光を失ったことをいつまでも嘆いてはいられませんでした」
リビングルームのようである。ブルーグレーのソファー。背後にアップライト式のピアノが見える。琴美は母親の横に坐り、画用紙のようなものにクレヨンで絵を描いて遊んでいる。面差しが正臣によく似ている。
結子は正臣が琴美を抱きあげ、頬ずりしている様を想像してみる。そうした想像の中での正臣は、まぎれもない父親の顔をしていて、そこに男の匂い、性の匂いはない。ないくせに、結子にはそうやっている正臣がひどく男臭く感じられる。それは性愛ではない、生殖行為を通りすぎてきた雄にしかもつことのできない、男臭さである。
質問文がテロップ文字となって画面に映しだされる。「夫の島津正臣さんは、どのようにして織江さんの病気と関わってきたのですか」
織江が答える。「私が完全に失明してしまって治る見こみがない、とわかった時は、さすがに衝撃を受けていたようですが、でも、私たちが深刻になってその話をしたことはありません。子供もまだ小さかったですし、本当に深刻になる暇もなかったくらいなんです。少なくとも私にはやることが山のようにありました。嘆き合っている時間があるくらいだったら、目が見えないということを受け入れて、生きていく方法を編みだすために使いたかった。プッシュホンで電話をかける方法も覚えなくちゃいけなかったし、家の中の電化製品を指で触って、指先ですべてがわかるようにしなくちゃいけなかったし……私には時間が足りないほどだったんです。そんな私の傍にいて、主人は以前と同じように関わってくれました。大袈裟に気の毒がったり、憐れんだり、騒ぎたてたりはしなかったですね。かえってそれが私にはありがたかった。優しい人ですので、彼は彼でものすごく心配してくれたようなんですけど、そういうことをいちいち細々と口にしてこなかったからこそ、私はこんなに早く元の生活に戻ることができたのかもしれません。これからも私たちは変わらずに生きていくんだろうと思います。私は彼のピアニストとしての人生を裏から支える側にまわった。変な言い方かもしれませんが、それで私は……充分に幸せなんです」
充分に幸せ……そう言う織江の画像にピアノ曲が重なる。ショパンの「子犬のワルツ」である。画面の下のほうにテロップで小さく、「島津正臣さん演奏」と示されている。この番組のためにわざわざ正臣が演奏し、録音させたのか、あるいは何かのリサイタルで演奏したものを使用したのか。
そのまま番組は静かなエンディングに入る。織江がじゃがいもの皮を剥いているシーンが再び挿入される。織江が琴美の手を引きつつ、道を歩いている。琴美がピアノの前に坐り、鍵盤を叩いている。その脇のセンターテーブルの上で、織江が乾いた洗濯物を畳みながら微笑んでいる。かかってきた電話に出て、織江が何か喋っている……。
正臣の弾くピアノ曲が、それらの情景に淡く重ねられる。できすぎた構成のようにも見えるが、ピアノの可憐な旋律は、織江が通りすぎてきた人生の一こまにとてつもなく似合っている。織江は自然体でそこにいる。一切、カメラを意識してはいない。
それはおそらく、ふだんの織江そのものなのであろう。乗り越えてきた道は確かに地獄であったに違いないが、だからといって大仰《おおぎよう》に騒いだりはしない。昔を振り返りもせず、先を案じることもない。いたずらに嘆かないし、憂いもしない。ただ、その瞬間瞬間を生きることだけを考えて生きてきた。そんな生き方が板につき、織江は寂しい野原に凜としてたわわな花を咲かせた、一本の山百合の花のようであった。
その精神の強靭さとひたむきさに、結子は胸うたれた。恋しい男の妻であり、今まさにその男との間にできた子を孕んでいる女である、と知りながら、結子は織江が好きになった。
光のない世界にいながら、この人はいつもにこにこと台所に立ち、じゃがいもの皮を剥いているのだろう、と結子は思う。二番目にできた子供にヨーグルトの用意をしてやるのだろう。生きるということはそういうこと。じゃがいもの皮を剥くこと。幼い子におやつの用意をしてやること。晴れた日に太陽の匂いを嗅ぐこと。吹きすぎていく風の中に、季節の移ろいを感じること。病を克服して、再び日々の暮らしの中に戻っていくこと……。
そしてまた、信頼し、共に手を取り合って暮らしている男との間に子ができれば、その子を産み、育て、流れ去る時間を受け入れていく……それが生きるということであり、難しくも何ともない、生きていくということはそうした単純さの中にどれだけ無垢な気持ちで漂っていられるか、ということにつきる。
この人、好きだ、と思うそばから、しかし一方で、結子はその時、織江を憎んだ。少なくとも憎みたいような気持ちにかられた。その綻びのなさ、あるいは、綻びをただちにつくろってしまえる強さを憎んだ。それは自分にはない強さであったし、そうした織江の強さを当たり前のように受け入れている正臣をもまた、結子は憎んだ。織江と正臣の、ふたりの若さを憎んだ。それはもう、二度と結子のもとに戻ってくることのない、封印された若さであった。
結子は観終わったテープを巻き戻し、ビデオデッキから取りだしてケースに戻した。しばらくの間、ぼんやりと宙を見つめ、煙草をふかしていたが、一本の煙草を吸い終える頃、結子は、うん、と独り、誰もいない部屋の中でうなずいた。
うなずいた後で、目を閉じた。不思議なことに、それで一切が決まったような、清々しい気持ちにかられた。
夜更けて雨が降りだしていた。明け方には雪がまじるかもしれなかった。心は豊かであり、満ち足りてもいる。それなのに、月の光に照らされた湖面のような、青々とした寂しさがあった。
それでも泣きはしなかった。泣くまい、と自分で決めた。これが惨めということか、と思えばいっそう、惨めさがつのり、馬鹿馬鹿しくさえなってくる。惨めなのではない。季節はめぐり、咲きほこった花は実を結んで、散っていく。光は満ち、時に時雨《しぐれ》が吹きすぎて、朝と夜とを繰り返しながら、世界はいっときたりとも、昨日と同じ顔をしてはいない。
結子は勢いよく立ちあがると、ケースに収めたテープを箪笥の引き出しの奥に押しこんだ。それから風呂に入り、頭を洗った。
そして風呂あがりに灯油ストーブの中の火を見つめながら、日本酒を半合ほどゆっくり味わい、ドライヤーで髪の毛を乾かして、いつもの晩と寸分も変わりなく、ベッドにもぐりこんだ。その間中、考えていたのは堂島のことであり、堂島が回復して最初の仕事でアトリエに立った時、どんなポーズをとろうか、ということであった。
おかしなことに正臣のことは一度たりとも頭に浮かばなかった。
若女将が蛍の話をしている。
花背の里のあたりでは、毎年、六月末が蛍の見頃となり、各地から観光客が訪れるのだという。
「今度は是非、その季節においでくださいまし」と若女将は言った。「それはそれはきれいで、幻想的で、見慣れている私どもですら、思わず頭の中がぼんやりしてしまうほどでございますから」
夕食を終え、そろって母屋の外に出ようとして蛍の話になったのは、月があまりに明るかったせいである。雪を照らす月明かりの美しさに、思わず結子が感嘆の声をあげ、それを受けた若女将が花背の里の蛍を思いだしたのだった。
「でも、その季節はこちらもお客さんが大勢で、たてこむのでしょうね、きっと」
結子があたりさわりなくそう言うと、若女将はにっこりと微笑み、「お早い時期にお申しつけいただければ、お部屋のほうは必ず」と言った。
結子と正臣は、曖昧にうなずき、笑みを返した。もう二度とここに来ることはない。少なくともこの男と連れ立って、この地を訪れることはない。永遠に見ることのできない蛍の話をしているようであった。
明るすぎる月の光は恐ろしいほどである。雪の面を照らし、撥ね返る青白い光の中に、幾重にも重なった透明な別の光が見える。そこかしこに冬木立の影ができている。影は昼間のように濃い。吐く息はもうもうと白く、空を振り仰ぐ目に、煌く無数の星々が映る。
時間が止まっているように感じられるのに、今、この大地は時間の流れの中にあるのだ、と結子は思う。刻々と休みなく流れ去る時の流れの中にあって、自分たちもまた、流れている……。
離れの座敷に戻ったものの、ふたりは何をするでもなく、月見台の雪を眺める恰好で、硝子戸の前に腰をおろした。
もう何もしたくなかった。酒も飲みたくなければ、話もしたくない。かといって肌を触れ合わせれば、その途端、悲しみの井戸の底に落ちていくような気がして、そうするのが怖くなる。
結子の中で、欲望は鎮まり返っている。あれほど欲しいと思っていた男なのに、もう何も欲しくなくなってしまっている。肉体が乾いているのを感じる。潤っていた時の自分自身を思い返せなくなるほど、結子の肉は乾ききっている。
「不思議ね」と結子はつぶやくように言った。「私は、すごくあなたのことが好きだったけど……」
正臣が結子をちらと見た。かすかな笑みが他人事のように、その口もとに浮かんだ。「好きだったけど? 何?」
「好きだったけど、あなたと心中しようって思ったこと、一度もなかったのよ」
ははっ、と正臣は力なく笑い、何か言いかけて、それきり疲れたように黙りこくった。
「心中なんて時代遅れだ、って思う? そりゃあ、そうよね。第一、そんなことしなくたって、男と女の問題の解決法はいくらだってあるんだもの。離婚したり、家出したり、場合によっては蒸発しちゃったりしてもいいんだから。なんだってできる。何も死ななくたって、多少のリスクを覚悟すれば、充分、なんとかなる」
「そう思うよ」
「それなのに、今も心中を選ぶ人はいるのよね。彼らはいったい何を理由にしているんだろう、って考えることがあるわ。どうにもならない現実から逃げようとするだけが、心中の理由じゃないような気もする。解消できない双方の婚姻関係とか、背負ってしまった借金とか、思わず手を染めてしまった犯罪のためとか、どちらかの不治の病のためとか、そういうことだけを理由にして死んでいくのではないのかもしれない、って」
「そうだね」
「もっと別の、全然違う理由があるのよ、きっと。この瞬間を留めておきたい、っていう気持ち。他にはもう、何もいらない、っていう気持ち。それを理由に心中しようとする男女もいるわ、きっと」
「でも、あなたはそうしようとしなかったし、考えもしなかった」
「そうよ。どうしてだと思う?」
正臣は結子ではない、硝子戸を凝視していた。硝子に映しだされている正臣の、漆黒に見える二つの眼窩《がんか》がぬらぬらと光ったような気がした。
「いや」と正臣は疲れたような低い声で言った。「わからないよ」
ふっ、と結子は吐息のように笑い、何も言わぬまま立ちあがって硝子戸を開け放った。自分で質問しておきながら、そんなことはもう、どうでもいいような気がした。結子自身、答えなどもっていないのだった。何故、自分が正臣との心中を考えずにきたのか、誰かに問われても何も答えられないのだった。
心中……というのは、何も現実に互いの命を絶つことだけではないのかもしれない、と結子は改めて考える。心中という言葉に象徴される、男女の心のありよう……それこそが行為を超えた某《なにがし》かの意味をもつのかもしれない。
心中を口にし合う男女と、そんなことは考えも及ばなかった男女との間には無限の距離があるのだ。そして自分たちは、そんなことはひと言も口にしなかった。考えもしなかった。
死ぬのは馬鹿げている、と思っていたからではない。死ぬほどの烈しさを肯定しなかったからでもない。
やはり自分たちは、と結子は考える。向かっていく方向が、初めから異なっていたのだろう、と。
自分たちはもうどうにもならない。初めから異なっているものを受け入れ、すべてをあるがままに肯定していく他に、生きていく術はない。カタルシスがあるとすれば、そうやって生きていく、その過程で人知れず自分たちに与えられるものでしかない。
冷気が肌を刺す。結子は素足のまま、月見台のほうに進み出た。そっと腰を折り、雪を両手ですくいあげ、匂いを嗅ぐ。雪の中に足を踏み入れ、腰をおろし、そのまま仰向けに寝そべってみる。自分の身体の形に雪が沈んでいく。冷たさは感じない。着ていたセーターやスカートを通して伝わってくるのは、火照りにも似た感覚だけである。
「何をしてる」
「気持ちがいい」
「馬鹿だな。風邪をひく」
「平気よ」
「氷点下十度くらいになってるんだよ」
「あなたもここに来てよ。きれいよ。月が見える。ほんとにきれい。世界が全部、自分のものになったみたい。ねえ、やってみて。ここで私を抱いてみて」
そうは言ってみるものの、肉の疼《うず》きは一切ない。氷の中で固まった肉体に何ができよう。言葉だけが空回りしている。思ってもいない言葉ばかりを吐き続けている。結子は呆然として空を見あげる。
渓流の音が間近に聞こえる。月明かりが青々と闇を照らしている。雪の匂い、氷の匂いがする。
傍らに正臣がやって来て佇《たたず》む気配がある。雪の表面は凍りつき、固まってしまっている。正臣が少し動いただけで、さくさくという音があたりに響く。
正臣がそっと結子の隣に仰向けになる。ふたり分の身体の重みで、堆積した雪が沈み、一挙に嵩《かさ》が失われる。
ふたりの体温で早くも溶けだした雪が、背中を濡らしはじめている。「ああ、月が……」と正臣が言う。後の言葉は続かない。
正臣が上半身を起こし、結子の上に被いかぶさるような姿勢をとる。雪に濡れた手が結子の頬に触れる。
唇が重なる。吐息だけが熱い。
この男の何がこれほど好きだったのか、と結子は改めて思う。答えは出ない。彼の中で絶えず奏でられている音楽が好きだったのか。ずっとずっと若い頃から結子の中に寂しく流れ続けていた音楽とは異なり、正臣のそれは強弱のつけられた美しい、生命力あふれるものである。その、自分には奏でることのできない音の数々、力強い響きが好きだったのか。
それとも、ただ単に、この唇、この指の動き、口腔の香り、躍動する腰、褥《しとね》の中で、いくらかくぐもったように聞こえる、低いが若々しい声が好きだったのか。それらに触発されるようにしてふたりの内部を流れる音楽が混ざり合い、溶け合っていく、その感覚が好きだったのか。
いつのまにか、涙が視界を潤ませている。頭上の月が、木々の梢越しに白々と水の中に浮かんでいるように見える。
泣きそうになっていることを知る。涙には気づかれたくない。
結子は自ら両腕を彼の首にまわし、雪のかけらが目に鼻に額にこぼれ落ちてくるのも構わず、やわらかく湿った唇を強く押し開くようにして口腔と口腔とを合わせた。
閉じかけた目に冴え冴えとした月が映り、ふたりはふだんと寸分も変わりのない接吻を交わし合った。
だが、結子の肉は相変わらず乾いたままだった。
ふたりの関係を終わらせたい、と正臣に打ち明けた時のことを結子は思いだす。
ついこの間のことだというのに、もう随分昔の話だったような気もしてくる。一挙に、このとき限りで終わらせましょう、とはどうしても言えず、曖昧な別れ話になった。そのせいか、自分自身の物言いも歯切れが悪く、それを聞く正臣の表情は想像していた以上に険しくなった。
「理由は?」と正臣は問い返した。
つっけんどんな聞き方の奥に、軽蔑するような響きが窺えた。それは結子にとって、初めて見る正臣であった。
「織江が妊娠したから? それが理由? だとしたら、僕には……まったく信じられないけどね」
「そう言ってるわけじゃないのよ」
「じゃあ、何。堂島先生が自殺未遂したから?」
「あなたは何でも具体的にものごとを捉えたがるのね。まるで新聞の三面記事の小見出しみたい。恩師が自殺未遂。弟子は恋人と訣別……。たった一行ですむわ」
冗談めかして言ったのだが、正臣はふてくされた少年のように顔をそむけ、目を大きく見開いてあらぬ一点を見つめた。
一月半ばの寒い日だった。何もあらかじめ、その日に別れ話を用意していたわけではない。たまたま、夜になって正臣が等々力の結子の家にやって来た。ピアノの教え子の都合が急に悪くなって、ふだんよりも早く仕事が終わったということだった。
いつものように酒の用意をするために台所に立った時、足元からしんしんと染み渡ってくる真冬の冷気に、結子は身震いした。そしてほとんど一瞬にして、今夜言おう、もう今夜しかない、と思ったのだった。
「理由はいろいろよ」と結子は言い、言葉をとぎらせた。「うん。いろいろ。ひと言じゃ言えない。織江さんとあなたの間に子供ができたのが理由じゃないし、堂島先生が首を縊《くく》りかけたのが理由でもない。どちらも正しくて、どちらも理由の一つにはなってるのかもしれないけど、決してそれがすべてじゃないのよ。じゃあ、何なんだ、って聞かれて、言おうと思えば、ひと晩かけてでも説明してあげられるかもしれないけど……でも、こういうことって、たとえ説明できたとしても無意味だと思う。言葉でいくら説明しても、結局は、言葉の空回りで終わっちゃうわ」
正臣は沈黙を続け、口を開こうとしない。火を放ったのにいっこうにぱちぱちとはじまらない花火を前にしているような、不安な気持ちにかられる。結子は息をひそめたまま、次に起こることを待った。
ひどい絶望感にとらわれているというのに、同時にそこには恥ずかしいほどの期待感もあった。正臣が仁王立ちになって、いやだ、と言い、地団駄を踏むようにして、自分が言いだした別れ話を拒絶してくれれば、という子供じみた期待だった。
もしそうなったら、自分はどうするか。嬉しさのあまり、簡単に意志を覆してしまうのだろうか。
だが、結子は知っていた。もし正臣が不快感をあらわにして結子を罵りはじめたとしても、自分は母親のように穏やかにそれを受け止め、諭すだろう、と。心から微笑み返すことはできないにせよ、少なくとも笑みを湛えて、正臣の自我をやんわりと戒め、遠ざけようとするだろう、と。
この男にとって、死はまだ遠くにある、と結子は思う。遠い遠い、彼方の、見知らぬ道標のようなものである。大きく口を開けて待ちかまえている黒く寂しい死の洞窟など、この人の視野には入っていない。そんなものが存在していることすら、この男は知らずにいる。
この男は今を盛りと燃えさかっている。活き活きと暮らし、多忙さの中にあって、健康な肉体はつつがなく日々の責務を果たし続けている。
日夜、繰り返される出会いと刺激的な出来事の数々。夢という言葉が実感を伴い、将来という言葉が現実味を帯びている。長い長い人生の小径は、その先にあるものが見えないほど長く果てしなく続いていて、幾本にも分かれた脇道の先にもそれぞれ、個別の宇宙が拡がっている。彼はどの道を選んでもいい。選択肢は無数にあり、その一つ一つに未知の可能性が潜んでいるのである。
そんな正臣に二番目の子供ができた。いよいよ彼の活力は勢いを増したのだ。彼は今、素直にまっすぐに、彼の未来に向かいつつある。それは単純なまでに美しく延びた一本の道である。道の果てには、万人に用意されている湖があり、死んだような黒い湖面に一艘のボートが浮かべられているのだが、正臣はまだ、そんなところに湖とボートが自分を待ち受けているとは気づいていない。
だが、いよいよ晩年を意識した人間は、その湖に辿りつき、ボートを漕ぐのだ。そうしなければ、人は自らの死に向かうことができなくなるのだ。
ボートは黒い湖面を静かに進む。黒々と口を開けて待ちかまえている洞窟のほうへほうへと、わずかな波をたてながら滑っていく。湖面に幾重もの静かな輪が拡がる。濁っているわけではない、汚れているわけでもない、水は黒い羅紗《らしや》を映した鏡のようになって、そこにあるばかりである。
その湖は衰弱の湖である。衰えつつある者が自らの死に向かって、ボートを漕ぐための湖である。あたりは鬱蒼とした黒い森に被われて、湖には霧がたちこめ、鳥の鳴き声ひとつしない。振り返れば岸辺にわずかに一条の光が射しており、その遥か向こうに、自分自身が通りすぎてきた道が見える。山坂のある、うねった道。しかしそこには光があふれ、さあっと降った雨が、木々の梢で幾千幾万という光のプリズムを作っている。それは懐かしい一枚の絵のように、記憶の中にだけ留まって静止している……。
堂島は雨風にさらされながら、光を浴びながら、その道を歩き続け、すでに湖の岸辺に辿り着いてしまったのだ、と結子は思う。堂島のためのボートが目の前に用意されている。堂島は今まさに、そのボートに乗り、漕ぎだそうとしている。
通りすぎてきた幾多の出来事は、すでに堂島にとって煩わしいものでしかない。思い出を懐かしむという余力さえ失われつつあり、堂島はただ、まっすぐ前を向いて、自分の渡るべき衰弱の湖を眺めている。
黒い森が湖面に影を落としている。たちこめた乳色の霧が、行く手の風景を遮っている。
何かが執拗に彼をいざなっていて、彼はもう、振り返ることすら忘れている。衰えていきつつある者にだけ感じられる、死の匂いを孕んだ、しかし何ものにも替えがたい安息が彼を待っている。彼はボートに乗りこみ、ゆっくりと舫《もや》いを解く。ボートは音もなく岸辺を離れ、霧の奥へ奥へと進んでいく。
そして自分は、と結子は考える。自分もまた、堂島の後を追っているのだ。少なくとも、燃えさかる火をもてあますように生きる正臣の後に続こうとしているのではない。自分と正臣との距離は遠いが、自分と堂島との距離は近い。手を伸ばせば届きそうなほど近い。
堂島は先に湖にボートを浮かべ、結子が後を追っていくのを待っている。自分はこれから湖目指して、ゆっくりと焦らず、静かに、歩みを進めていけばそれでいい。湖はもしかすると、もうすぐそこに……目と鼻の先にある。それがはっきり見えていないだけのことで、今、正臣と佇んでいる、この草いきれに満ちた眩しく躍動している森を抜ければ、自分に用意された衰弱の湖は、驚くほど近くにあるのかもしれない。
それが別れる理由である、などと、どうやって正臣に説明できよう。どうやれば理解してもらえるだろう。衰弱の湖が見えていない男に、衰弱の湖の話をしても仕方がない。それはさながら、死ぬことの意味がわかっていない赤ん坊に向かって、死を語って聞かせるようなもの。
「とにかく」と結子は言った。「こうするのがいいと思うの。あなたさえよければ」
「僕さえよければ?」正臣は居丈高《いたけだか》に聞き返し、呆れ返ったように天井を仰いで、いくらか唇を震わせながら皮肉めいた笑みを浮かべた。「別れたいと言っている女の人に向かって、いやだ、と言い続けたって無駄なんだろうね」
「多分ね」と結子は沈みこむような気持ちの中で言った。「決めたことを覆すのは勇気がいるわ」
「勝手に決めて勝手に結論をだした。そういうことなんでしょう。僕はそこに関わっていなかった」
ふたりは長い間、睨み合った。これほどまでに瞬きひとつせず、相手を睨んだことはかつて一度もなかったのではないか、と結子は思った。しかも憎くて睨んでいるのではないのだった。いとおしくて、気が狂いそうになるほど恋しくて、それでもなお、断ち切らねばならない絆を意識しつつ、睨んでいるのだった。
「僕がいやになった?」
「馬鹿なことを」
「いやになったのか、って聞いてるんだ」
「いやになって別れたいと思うんだったら、こんな話なんかしないで、とっとと逃げればいいでしょう」
「織江に赤ん坊ができたからでもなく、堂島先生がああいうことになったからでもない。それぞれが理由の一つにはなっていても、それがすべてではない。しかも僕のことをいやになったわけでもない」
結子は小さくうなずき返した。
「織江の目が見えていたら?」
「え?」
「もし織江が全盲でなかったとしたら、どうしてた」
「それはまったく関係ないわ」
「そうは思えない」
「私は織江さんを憐れんだことは一度もないのよ。もちろん、さぞかし大変だったろうとは思うけど、憐れんではいない。憐れむなんて失礼じゃないの。彼女に気をつかって、彼女の目が見えないからあなたと別れることにした、だなんて、そんなふうに思わないで。私はそれほど偽善的な人間じゃない」
「きっとあなたは……」と正臣は言い、次に言いかけたことをのみこむようにして間を空けた。「うん、うまくは言えないけど……ただ単に、自分を護《まも》ろうとしているだけなんだ」
「そうだとして、それのどこが悪いの?」刺々しく聞こえないように注意して、結子は囁くように聞き返した。「誰だって自分を護るわ。何かに向かって捨て身になろうとしている時も、命を絶とうとしてる時も、いつだって自分を護ろうとするんじゃない? 自分で護らなかったら、誰が護ってくれるの。自分で自分を護りながら、先に進むのよ。そうしなくちゃ前に進めない」
「あなたのことがよくわからないよ」正臣は老人のような嗄《しやが》れた声で言った。「あなたが何にこだわって生きているのか、それが僕に見えてこない。ひとつのことが見えたような気持ちになっても、すぐに別のものが見えなくなる。あなたは何かというと、引きこもってしまうんだ。自分だけの世界に。そして自分勝手な結論をだす」
「そう思いたいなら、思ってくれてかまわないわ」
正臣は渋面を作った。「僕の中にあるパズルのピースがほんの一つ、嵌《は》まっただけなのに……」
「何の話をしてるの」
「織江との間に子供ができた、っていうことはね、僕にとってはパズルのピースがまた一つ、嵌まった、という意味しかもってないんだよ。それ以上でもそれ以下でもない。それのどこが問題なんだろう」
まさにそれなのだ、と結子は思った。今まさに彼が言ったこと……彼にとって人生のパズルは、まだまだ豊かな空きが残されていて、彼は今、一つのピースをぱちりと音をさせながら、そこに嵌めただけなのだ、と。嵌めるべき残りのピースは山のように残されているのだ、と。
だが自分は違う。自分の人生のパズルはすでにあらかた、埋められてしまった。もう、ピースの数は残り少なくなっていて、しかもそれらをどこに嵌めるべきか、嵌める前からわかってしまっている。あとはもう、嵌める時期を見計らっていくしかないのである。
「僕がいやだと言っても、聞く耳を持たない……そういうことなんだね?」
結子は曖昧にうなずいたが、曖昧さの中に腰をおろしたがっている自分を恥じるあまり、大きく首を縦に振った。あまりに大きく振りすぎたため、首それ自体ががっくりと前に落ちていくような感覚にとらわれた。
沈黙がはじまった。押し黙った正臣の表情に翳りが落ちた。見えない刺が無数に見えた。
「あなたがそう言い張るのなら」
ふいに顔を上げた正臣は言った。取りつくろっただけの、偽りの威厳が感じられたが、その実、言葉の裏側には烈しい怒りが滲んでいるようでもあった。「これ以上、この問題について話しても仕方がない」
終わった、と結子は思った。これでいい、と思うよりも先に、自分と正臣との間に、更なる深い淵ができ、自分はその昏い淵を二度と渡ることができなくなったように思われた。
結子は堂島の人生のパズルを思い描いてみた。堂島のパズルはもうほとんど、埋めつくされてしまっている。完成品に近い。残ったピースはほんの少し。彼はそのピースを乾いた指先で弄《もてあそ》びながら、嵌めるべき場所をぼんやりと眺めている。いつそこに嵌めてもいいのである。嵌め終えるその瞬間を彼は今、推し量り、無言のうちに準備して、静かに待ち望んでいるだけなのである。
京都に旅立つ一週間ほど前、結子は堂島を訪ねた。
退院して自宅に戻ってから、当分、人とは会いたくない、と言っていた。画壇関係の人間が訪れても、頑として会おうとせず、仕方なしに礼子が応対していたのだと聞いている。
一時期、烈しい抑鬱状態に悩まされたようだが、薬のおかげでまもなく回復したということだった。それでもアトリエには行こうとせず、日がな一日、ベッドから出てこないこともある。話しかけても無言のままで、外出はおろか、庭に出ることすらいやがった。このままでは再びあの精神状態に戻ってしまうのでは、と案じることもしばしばだったが、だましだまし、見守るようにして接してやって、今はやっと薄紙を剥ぐような緩慢さながら、本来の気力を取り戻しつつあるようだ……礼子は電話でそんなことを話してくれた。
結局、結子のところにも、堂島は葉書一枚よこさず、電話もかけてこなかった。だが、結子には堂島の気持ちが痛いほどわかっていた。
彼は私を待っている、と結子は思う。アトリエの、あのマットレスの上に白い布を敷きつめ、そこで全裸のままポーズをとる私を待ちわびている。
堂島にとって必要なのは、アトリエで向き合う裸婦としての結子なのである。アトリエ以外で顔を合わせ、コーヒーなど飲みながら世間話をする結子や、正臣と恋におちた結子、その恋に苦しんでいる結子は不要なのである。絵の話もいらない。人生の話もいらない。通りすぎてきたものをしみじみと振り返る時間もいらない。彼は裸婦としての結子を求め、そこにこそ自分自身を投影して、残されたわずかなパズルのピースを埋めようとしているに違いないのだった。
あらかじめ電話連絡をし、訪ねて行く旨を礼子に伝えた。冬晴れの日の午後だった。時間通りに横浜の堂島の家の門をくぐると、早くも日が傾きかけた冬の庭先に堂島の立ち姿があった。
見慣れたサスペンダー付きのジーンズに白いシャツを着ている。シャツの胸元が少し開いていて、縮れた茶褐色の胸毛が数本、見える。さらに薄くなったかと思われる白髪が、両耳の脇でもやもやと冷たい風に吹かれている。痩せてもおらず、太ってもいない。いくらか縮んだ、という印象があるが、それは現実の肉体が縮んだのではなく、身体から発散される生気そのものが角を削ぎ落とされ、ひとまわり小さくなったというようにも受け取れた。
赤い実をつけた南天の繁みの向こう側に立ち、堂島は結子を見て軽く微笑んだ。
「こんなところで何してるの。寒いのにコートも着ないで」
挨拶もせずに結子がそう言うと、堂島は、うん、と小さくうなずいた。「別に何もしてないよ。そろそろ結子が来る頃だろうと思ってね。外に出たところだった」
堂島は射るような視線を結子に浴びせた。この画家は今、自分を見ている、と結子は思った。恋をする男の視線ではなく、それはあくまでも画家の視線であり、十数年にわたって結子の中を貫いていった視線と何ひとつ変わっていない。だが、それでもその視線の奥には、巣穴の中で病み衰えていこうとしている老いた小動物が、この世の終わりに最後の生殖活動をしようと雌を狙っている時のような、生々しい精気が感じられた。
「それにしても久しぶりね、先生。どう?」
「なんとかね。見ての通りだよ」
自宅の玄関脇にある部屋の硝子窓の向こうに、礼子の姿が見えた。礼子は笑顔で軽く結子に手を振っただけで、奥に引っこんで行った。
「ここ二、三日、アトリエですごすことが多くなった。掃除をしたりね、片づけたり、いろいろとやることが山のようにある」
「これまでアトリエの掃除なんか、ほとんど礼子さん任せだったのに」
「自分でやっているよ。少しずつね」
「えらい」
結子は笑いかけ、母屋ではないアトリエのほうに歩みを進めた。「先生のいれたまずいコーヒーが飲みたくなった。しばらく飲んでなかったものね。いれてくれる?」
「まずいだけ余計だね。いいよ。飲ませてあげよう」
「飲んだら早速仕事するわ。そのつもりで来たのよ。いいでしょ」
「そうか」
「先生が疲れない程度にね」
「もう元に戻った。疲れはしないよ」
「ポーズについては、今日のところは私に決めさせて」
「気が早いね」
「性分なのよ」
この日を待っていた、などと繰り返し、堂島の生還を悦び、しみじみと目を潤ませるようなことはしなかった。まるで昨日までここに通って来ていたかのような、あっさりした物言いで、結子はコートの裾を翻しながらアトリエに入った。
久方ぶりに入るアトリエだった。堂島が言っていた通り、丹念に少しずつ掃除をしたらしい。あちこちに散らかっていたはずのものが、とりあえずはひとまとめにされてある。
灯油ストーブが焚かれている。上に載せられたやかんの湯が沸いている。かすかな湯気が立ちのぼり、中はぬくぬくと温かい。
あたりにはレモンのつやだし剤のような匂いが漂っている。それは絵の具の匂い、カンバスの匂い、埃や日向の匂いと混ざり合い、古びた学校の校舎を思わせたが、その匂いの奥底のほうには、以前と変わりのない、堂島滋春の懐かしいアトリエの香りを嗅ぎ取ることができた。
堂島は多くを語らぬまま、やかんから湯を注ぎ、インスタントコーヒーをいれてくれた。結子が薄汚れたマグカップを受け取って、粉クリームの瓶の蓋を開け、そのままスプーンも使わずにカップの中に振り入れるまで、ふたりとも何も喋らずにいた。
堂島が首を吊った梁はどれなのだろう、と結子は思った。思いながらコーヒーをすすり、天井を見上げた。何本も渡された梁はどれも、窓から射しこむ冬の遅い午後の淡い光の中にあって、浮きあがる埃の筋を際立たせていた。
縊《くび》れようとした時、堂島の胸にはいったい何が刺さっていたのか。楔《くさび》のように突き刺さっている、得体の知れないそれを自分で取り除くことができなくなって、才能に恵まれたこの画家は裸婦モデルが使っていた青いガウンの紐を手に、梁に向かっていったのだろうか。自ら人生に幕をおろすその瞬間の、虚しい悦びを意識しつつ、衰弱の湖から一足飛びに仄暗い死の洞窟に向かおうとしたのだろうか。
コーヒーを飲み終えると、結子は黙ったまま着ていたコートを脱ぎ、アトリエの隅のほうに立てかけられてあった屏風を運んだ。マットレスの上に、いつもの白い布をかけ、軽く皺を伸ばした。そして屏風の後ろにまわり、手早く服を脱ぎ捨てた。
それまで裸体にまとっていた青いガウンは、どこを探しても見当たらなかった。堂島が縊れるために使った紐と一緒に、処分されてしまったようだった。
だが、ガウンなどなくてもいっこうにかまわなかった。結子は全裸のまま屏風から出て、マットレスの上に腰をおろした。堂島の目を意識しつつ、持ってきたショルダーバッグから化粧ポーチを取りだし、口紅を引き直した。これまであまりつけたことのない、燃えたぎるような真紅の口紅だった。
紅を塗り終えてから、髪の毛に指をたて、わざとかき乱すように首を横に振った。家を出てくる時に使ったばかりのシャンプーの香りが鼻腔をくすぐった。
白い布が敷きつめられたマットレスの上で、軽く深呼吸をし、自分の両膝を抱きかかえるようなポーズをとった。身体を深く二つに折り、両手は胸を被うように交叉させて肩のあたりに置く。足は軽く開き気味にし、頭を傾けて、片方の膝の上に載せるようにする。
両の乳房は完全に隠されたが、性器が晒されるのがわかった。何かから身を護ろうとしているにもかかわらず、晒されている性器が気持ちを裏切っている。何かの前に留まり、足をすくませて、もういやだ、これ以上進めない、と言わんばかりに身体を丸めているのに、性器だけが持主ですら気づかずにいる露骨な生命力を表現している……そんなポーズである。
堂島は黙っている。小揺るぎもせずに、その場に立ち、じっと無表情に結子を見つめている。
「どうしたのよ」と結子は言った。「……描かないの?」
うん、と堂島は喉の奥から低い声をだした。それに続く言葉はない。
「前にもこのポーズ、やってみたことがあったかもしれない。よく覚えてないけど」
「そうだったかな」
「髪の毛がもっと長ければいいのに。長く、こんなふうに前にばっさりと垂れていればもっとよかったのに」
「いいよ、そのままで」
「もっと足を開いたほうがいい?」
「いや、それでいいだろう」
こうやって自分たちは生きていくのだ、と結子は思う。アトリエの外で何が起ころうと、こうやって自分はこの男の前で裸になり、この男は私の裸を見つめ、音もなく時は流れていくのだ、と。
「描いてよ、先生」と結子は床の一点を見つめながら、甘えたような声で懇願する。「私を描いて」
ああ、と堂島は言う。「そうするよ」
堂島は、鈍重な動きで立て掛けられていたイーゼルに向かった。絵筆や鉛筆を用意する気配があり、やがて、ざりざり、という、紙の上を走る鉛筆の音があたりを充たした。
結子は今一度、強く自分の肩を抱き、太ももに力をこめた。丸めた背が固くたわんだ。乳首の先と性器のあたりに、かすかな風を感じた。乾いた性器が、その時、しとどに潤い、熱い体液を流して、やがて自分自身を溶かしていこうとするまぼろしを結子は見た。
溶けかかった自分が衰弱の湖の岸辺に佇んで、たちこめた霧の向こうに堂島を探している。ボートを漕ぐ堂島の姿が、濃くなったり薄くなったりを繰り返している。結子は叫ぶ。堂島の名を呼ぶ。
自分の声が虚しくあたりに谺《こだま》する。だが、堂島は振り返らない。結子は自分のボートを探す。探しても探しても、灰色の岸辺に一艘のボートも見当たらない。死の洞窟を目指し、自分も早く先に進みたい、と思う。堂島の後を追って行きたい、と思う。なのに、どうすればいいのかわからない。
仕方なく結子は全裸のまま、湖の中に入っていこうとする。爪先が濡れる。足首が濡れる。ふくらはぎが濡れる。次第にその冷たさが身体にしみわたっていく。
性器のあたりに冷たさを感じる。ぴくりと身体が震える。身体は冷たいのに、その部分だけが熱く火照っていくようで、どうにも片づかないような気持ちに陥る。もう前に進めない。一歩も進めない。
目の前では堂島が、一心不乱に画布に向かい、筆をすべらせている。結子はそっと片手を動かし、性器に触れてみる。何も起こっていない。溶けはじめてもいない。そこはかすかな湿りけと共に小さく正しく、あるべき形にまとまっている。
結子は軽く息を吸った。そして、自分の肉体が虚しいようなオブジェと化し、衰弱の湖の岸辺にぽつりと残されたのを知った。
夜が明けたのを結子は覚えていた。それどころか、月が西に傾き、外の闇が次第に薄らいでいく、その一瞬一瞬の気配をほとんどすべて、身体が感じ取っていたような気もした。
まったく眠れなかったわけではない。うとうとと眠りの底を漂っては、再びぽかりと目を覚ます。植物の綿毛のように、意識とも呼べない意識が頭の中を音もなく浮遊している。ぼんやりそれを眺めながら、何を考えるでもなくじっとしていると、いつの間にかまた、砂にもぐりこむようにしてまどろんでいる……その繰り返しであった。
正臣の寝息も聞いていた。軽い鼾も、寝返りをうつ時の、かすかに喉の奥で甘えたように唸る、その声も、聞いていた。
つと手を伸ばせば、正臣の身体に触れることができた。眠りに落ちている彼の手に自分の掌を預けてみれば、彼はおそらく無意識のままに、それを軽く握り返してきた。
時折、かすかな水の匂いを感じた。外を流れる渓流の匂い、雪の匂い、木々の枝に絡みついている氷の匂い、それらが夜明けの凍てついた空気の中でひとつになり、雨戸の隙間からひっそりと座敷の中へ流れこんでいるのかもしれなかった。
畳の匂いがあった。乾いた寝具の匂い、そして寝具の中には自分と正臣の匂いがあった。その晩、性を交わさなかったとはいえ、それはまぎれもなく生温かい、自分たちの肌の匂いであった。もう二度とこの匂いを嗅ぐことはないのだろう、と思うと不思議な気がした。
別れは死に似ていた。そして死は一切の終わりであると同時に、それまで当たり前のようにして繰り返されてきた習慣の終わりを意味した。
正臣と携帯で連絡を取り合いながら、会う約束をしたり、等々力の家を訪ねて来る彼を迎えたり、時にはふたりして外に食事に出たり、家でそのまま飲み続けたり、抱き合ったり、キスをし合ったり、キスをする際に両手で顔をはさんでくる彼の癖にうっとりと目を閉じたり、自分の身体の上に乗っている彼の重みを感じながら、背を反らせ、思わずシーツをわし掴みにしたり、冗談を言って笑い合ったり、ふざけて身体をぶつけ合ったり……。それらすべての、これまで習慣のようにして自分たちの間にあった行為は、別れた途端、過去のもの、ひとつの記録、刻まれた碑銘のようなものになるのだった。
この人はもう自分の目の前からいなくなる、と結子は思う。あと数時間たてばいなくなってしまう。いない、見えない、触れることができない……そういうことだけが問題なのであって、それ以外の複雑な感情の流れはもはや、どうでもよくなってしまったような気がした。
待つことも待たされることもなくなるのである。電話もかかってこなくなるのである。携帯が鳴りだして、ディスプレイに正臣の名が表示されることもなくなるのである。
不安になることもなく、相手を不安にさせることもなくなる。会話の中のつまらないひと言にこだわって、互いの気持ちを刺々しく確かめ合おうとすることもなくなる。これから先、カレンダーを見ても、並べられている数字は何の意味ももたなくなる。ただ、暦が変わり、時が流れていくだけ。そこに自分たちの睦み合ってきた軌跡は何ひとつ残らない。
幾度、性を交わしたことか。幾度、接吻し合ったことか。数えてみたい気持ちにかられた。そんなことを数えてみても、何の意味ももたないとわかっていて、思いだし、数えあげてみる行為の中にだけ、安息が潜んでいるような気がした。
性愛抜きにしては考えられない恋であった。無垢な夢を紡ごうとするのなら、性愛は不要だと考える人々は確かに存在する。肉と魂を分けて考える種類の人間は少なからずいるのである。
それはそれでいい。人それぞれ、好きに生きればいい。いいの悪いのと言ってみてもはじまらない。そういう人間もいる、というだけのことであり、自分が違っているからといって、戸惑ったり羞じらったりしてみせる必要はひとつもないのだった。
それにしても、自分は淫蕩《いんとう》だったのだろうか、と結子は考える。自分の中には本来、淫蕩の血が流れていて、それが正臣を相手にした途端、あるべき形にまとまったということなのか。
いつだって正臣を求めたし、正臣から求められることを求めた。それこそが結子にとっての自然であった。
かつてアトリエで、堂島と交わした言葉が鮮やかに思いだされる。
正臣と恋におち、彼と肌を合わせることに溺れはじめていた頃だ。魂と肉とがいかなる繋がりを果たしているのか、どんなふうに連動しているのか、自分でも見えなくなっていた。結子はふいに、その日の自分の仕事ぶりに不安を覚えた。
アトリエでポーズをとり終え、青いガウンをはおりながら、結子はぽつりとつぶやいた。「今日の私、なんだか変だったでしょ」
堂島はちらと結子を見て、わずかな間を空けてから「そうかもしれない」と言った。
「清潔感がなかった。生臭かった。違う?」
「いや、別にそうは感じなかったけどね」
「そう? でも自分ではわかるのよ。いつもと違う。だからね、今日はあんまりいい仕事をしたっていう気分になれなかった」
「以前の結子とは変わってきているよ。そんなふうに見えたのは確かだが、だからといってそれは僕が結子を描く上で、何の問題にもならないことだ」
「何もしてないのに、少し痩せたの。わかったでしょ?」
「うん。そのようだね」
「痩せたのに、おっぱいとお尻だけは張ってきたの。それにね、骨が抜けちゃったみたいに身体がやわらかくなってる。三つにも四つにも折り畳めてしまいそうよ。自分でもうんざり。これじゃあ、ポーズになんかなってなくて、私生活の告白だわ、まるで」
ふっ、と堂島はかすかに笑った。「島津君との?」
「それ以外、誰がいるの」
堂島はわずかな時間、結子を見たが、睨んでいるようにも面白がっているようにも見えず、その目はただの小さな空洞のようであった。
「でもそれでいいんだよ。淫蕩な肉体というのはいいものだ。淫蕩のきわみは、純潔が最後に辿り着くところと似ている=c…誰だったかな。作家が書いていた文章だ。とっくに死んでしまった作家だけどね。今もよく覚えている」
「淫蕩のきわみは、純潔が最後に辿り着くところと似ている……」結子は堂島の言葉を繰り返した。「その通りね。いいことを言う人がいるものね」
「本物の純潔に辿り着くまで、きわめてみたらどうだ」堂島は絵筆を束ねながら言った。「結子ならできるだろう」
結子は煙草に火をつけ、唇の端にくわえたまま、着ていたガウンの紐をきつく締めた。
「そうしたらまた、私を描く?」
「ああ、そうしよう」
「嫉妬のかけらもなく?」
堂島はそれには応えなかった。かすかに片方の眉をつりあげ、あらゆるものに関心を失った人のような無表情を湛えながら、遠くを見ただけだった。
七時まで待って、結子は布団から出た。正臣はまだ眠っている。電話を使って母屋を呼びだし、これから湯を使わせてほしい、と頼んだ。
ひとかたまりの荷物のように丸くなって眠りこけている正臣を見おろして、しばしの間、その枕に落ちた横顔を眺めた。やわらかな髪の毛が頬にかかっている。閉じた瞼から長い睫毛が伸びていて、それは黒い美しい蜉蝣《かげろう》が止まってでもいるかのように、眼窩のあたりに薄い影を落としている。
寝巻の前がはだけており、薄い筋肉に被われた胸が見える。布団の外に置かれた手はやわらかく開かれている。その長い指が鍵盤の上を滑っていく様を想像してみる。自分自身の肌の上を、乳房を、性器を、この指が這いずりまわった記憶を甦らせようとする。
だが、どういうわけか、記憶はすでに遠い。霧の中で見る風景のように茫洋としてしまっている。結子はもう、目の前にいるこの男が遠くなりつつあることを感じる。感覚は麻痺しかけていて、悲しみもわきあがってはこない。
座敷を出て湯殿に行き、軽く身体を洗ってから湯に浸かった。大きな硝子窓の外に朝の光が満ちはじめている。積もった雪が、明け方に急速に落ちた気温のせいで凍りついているのがわかる。
晴天に恵まれそうな一日のはじまりである。東京は温かいだろう、とふと思う。
東京に帰ってすることは決まっている。等々力の家に戻り、荷物を置いたらすぐに車を運転して堂島の家に行くのである。堂島の家に行っても、母屋には入らない。まっすぐアトリエに行き、黙って服を脱ぐ。
堂島にその気がなければ、何も描いてもらわなくてもかまわない。ただ、そこに立っていてくれるだけでいい。裸体を眺めていてくれるだけでいい。あの無表情な目で、あの無感動な目で、それが仕事なのか、私的な好奇心にすぎないのか、まるで計り知れないあの空洞のような目で、この裸の身体を眺め続けていてほしい。それだけでいい。それだけでおそらく自分は、自分が決めて進みはじめた道が急速に衰弱の湖に向かっていくのを感じることができるだろう。そしてそこにはきっと、悦びとは言えないまでも、静かな満足感が生まれるだろう。
服に着替え、化粧をしてから、結子は湯殿を出た。座敷では正臣が起きており、すでに着替えもすませて、しどけなく畳に坐ったまま結子を迎えた。
微笑み合い、軽くうなずき合ったが、それだけだった。もう朝がはじまっている。一日がはじまるのである。これから死ぬまで繰り返されるであろう一日の、最初のはじまりである。
空腹感はまるでなかったが、そろって離れから出て母屋へ行った。丹精こめた朝食の小鉢が並ぶ膳を前に、言葉少なにそれぞれ少しずつ箸をつける。雪見障子の硝子越しに、外の光が見える。雪を乱反射して、それは眩しく室内に飛びこみ、朱塗りの椀にあたって砕け散る。
火鉢の上で、鉄瓶が湯気をあげている。静かな朝、美しい冬の朝である。何もかもが透明で、光の中にある。軒下にさがっている氷柱が見える。そこにも光は燦々と射していて、虹色の小さな無数の渦を作っている。
食後のお茶を運んできた若女将に、結子は問うた。「峰定寺の御神木だという三本杉ですけど、帰る前にちょっと見に行って来てもかまいませんか」
正臣と相談した上のことではなかった。思いつきに近いことであり、正臣の気が乗らなかったとしたら、それはそれで仕方がない、と思っていた。
だが、正臣は結子を見て、いいね、と小声で言った。弾んだような言い方が結子の気持ちをわずかに解きほぐした。
若女将は笑顔で大きくうなずいた。「ええ、ええ、それはもう。それではわたくしどものほうでお車をおだし致します。運転は確かな者をつけさせていただきますし、スノーブーツもお貸し致します。新しいものではなくて、本当に申し訳ないのですが」
「そうしてください」
「今日はいいお天気ですし、雪も少しは溶けて、車をお降りになってから、いくらか歩きやすくなっているかと存じます」
「どのくらい歩くのですか」
「いえ、ほんの五、六十メートルくらいでしょうか。距離は短いのですが、車をお降りになってから、三本杉の手前まで行くのに、少しだけ斜面を下るようになっております。くれぐれもお足元にお気をつけになって、滑らないようになさいますよう」
ありがとう、と結子は言い、三本杉を見て戻った頃にタクシーを二台、呼んでおいてほしい、と頼んだ。さりげなさを装って「二台」と言ったことに、若女将は「かしこまりました」と笑顔で応じただけで、何ひとつ詮索はしてこなかった。
別々に出発されるのですか、などと聞かれても、黙ってうなずく他はなかった。まして、どちらに、と聞かれたら、共に結子と京都駅には戻らず、若狭街道をあがって小浜まで行くという正臣の、仕事上の言い訳めいたことなどを口にしてみせなければならない。
夫婦でないことは誰の目にも明らかである。冬の京都観光に来ただけの、陽気な恋人同士、というようにも見えなかったはずである。人目をしのんだ関係、と呼ぶしかない男女の四日間にわたる逗留をどんなふうに思っているのか。何も思わないはずはなかったのだが、若女将は最後の最後まで、そうした世間一般の好奇心めいたものをつゆほども感じさせなかった。
荷物は座敷に置いたままにし、ふたりは食事の後、コートを着こんで、深山亭が用意してくれた車に乗りこんだ。濃紺の大型RV車であった。若女将よりも少し年上と思われる男が、運転席から降り立って、ふたりがスノーブーツをはくのを手伝ってくれた。宿の主人ではなく、深山亭の使用人であるらしかった。
車は深山亭の裏側……ちょうど結子たちが泊まった離れの下の、渓流沿いに続く小径を奥へ奥へと走りはじめた。砂利が敷かれてある道である。生い茂った常緑樹の影になっていて、雪はまったく溶けていない。固まったまま残されている数本の轍の上をRV車はバウンドしながら進んで行く。
渓流をはさんだ向こう側に、光を浴びた深山亭の離れが見える。幾本もの木々に遮られてはいるものの、目をこらせば、結子と正臣が宿泊した部屋の月見台が、はっきりと見て取れる。
暗い観客席から、ライトに照らされた小さな舞台を見るような思いがする。あそこで自分たちは、昨夜、雪の上に仰向けになり、抱擁し合ったのだ、と結子は思う。月の光に充たされた、その月見台の上の自分たちの寝姿を今、別の自分が眺めているような気持ちになる。
運転席の男が、器用にハンドル操作をしながら、「大悲山」についての説明をしている。走っているのは大悲山林道で、付近は国有林に指定されている。「鞍馬の奥」と呼ばれていて、かつては落人《おちうど》たちの隠れ里だったのだという。
「わたくしどもの中にも、峰定寺の御神木をまだ見に行ったことのない人間もおるんでございますよ」と男はくすくす笑いながら言う。「実を言いますと、若女将も深山亭に嫁いでから、一度しか行ったことがないそうで」
「こんなに近くに住んでらっしゃるのに?」と結子も笑い声をたてる。「たった一度? そんなこと、ひと言もおっしゃってなかったけどな」
「やっぱり、灯台もと暗し、なのでしょうね。わたくしどもばかりではなく、このあたりの住人も、めったに御神木のほうには参りません。車で行けるとはいえ、山奥のことですし、わざわざあそこまで行こうという気にはなれなくて、わたくしが深山亭のお客様を時々、こうしてお連れするくらいでしょうか。その意味では本当に、人里離れた、まぼろしの一角と言って差し支えないですね」
雪をかぶり、ところどころ陰日向になっている山道は、烈しくうねっている。なるほど歩けないほどではないにせよ、道の脇は崖になっていて、若女将が言っていた通り、あやまって足を滑らせれば大事になりそうでもある。
しばらく行くと、雪道に車の轍の跡が見あたらなくなった。積雪があってから、一台の車も通らなかったということである。
七、八分をすぎた頃、突き当たりになったような一角で、車は静かに止められた。
男が開けてくれた後部座席のドアから、外に降り立つ。はいていた紺色のスノーブーツが、きしきしと音をたてて、半ば凍りついた雪の中に埋もれた。
あちらでございます、と男は正面左側を指し示した。目を転じ、結子は思わず正臣と顔を見合わせた。
左手に巨大な三本の杉の木がそびえ立っている。それぞれ注連縄《しめなわ》が巻かれてある。幹の太さは尋常ではなく、男が五人、ぐるりと囲んで手を回しても足りないほどである。
RV車のエンジンが消された。静寂が甦った。雪を被った木々の梢を渡ってくる風が、ごう、という低い音をたてて耳元で唸った。
急斜面になった雪の上を正臣に助けられつつ、降りて行く。枯れた下草が、かろうじて足元を支えてくれてはいるが、日向の部分の雪は早くも溶けだしていて、かえって滑りやすくなっている。
見あげれば、雪で洗い流されたようになった紺碧の空が森の彼方に拡がっている。木の間越しに落ちてくる光が淡く目を射る。
三本杉の手前には細い小川が流れている。そこに架けられている、板を組んだだけの粗末な渡し戸にも雪が堆積している。獣の足跡ひとつ見えない。
正臣と手をつなぎながらそこを渡る。御神木の周囲は石積みの壁で囲われている。石積みの中央に石段がある。結子はその、雪を被った数段の石段を登る。
圧倒させられるような大きさである。空は三本の杉の葉の裏側に、ちかちかと瞬く青い星のようにして在る。木もれ日が落ちているのだが、それはあまりに遠すぎて、大地までは届かない。
この三本の杉が、と結子は思う。大地に根を張り、天を衝《つ》き、ひっそりと何百年も前からここに立っている。世界はこの杉の木を囲んだまま、いっこうに変わっていない。
山があり、森があり、川面を煌かせる渓流がある。荒れ野があり、尖った峰があり、黒々とした洞窟があり、獣が走り去る小径がある。光が弾け、煌き、嵐を受けて木々の梢はしなる。葉は落ち、再び芽吹き、雨が土を穿つ。無数の、目に見えない点の集合体がそこにある。
それらが集まり、点が面を作り、体積を成し、豊饒と不毛を繰り返す世界を生む。自分たちはその中で生き続けている。そしてこれからも、生き続けていくのだろう。何十年、何百年たってなお、三本の巨大な杉がここに生きてきたように、自分たちはこの不思議な、混沌とした、騒々しいのに静謐な、不条理にあふれているというのに秩序立った、汚れているのに美しい世界の中で、生き続けていくのだろう。
あたりの空気は澄み渡っていた。遠くで鳥が鳴いた。空も大地も雪も木々も風も、すべてが明晰だった。一点の濁りもなかった。
結子は正臣を見上げた。正臣も結子を見た。ほとんど同時に、ふたりで大きく息を吸った。
「いつか会うことがあったら」と結子は言った。その声を風がさらっていった。「また一緒にここに来たい」
うん、と正臣はうなずいた。「そうしよう」
どうやって最後の瞬間を迎えればいいのか、結子にはわからない。元気でね、と言うべきか。さようなら、楽しかった、と言うべきか。手を握り合えばいいのか。それとも最後の接吻を交わすべきか。
だが、案じることはない、と自分に言い聞かせる。人は進む。前へ前へと進んでいく。元に戻れないからといって嘆く必要はない。進んだ先には必ず静かな湖が待っていて、そこには一艘の小舟が用意されているのである。結子が先に小舟に乗ることになるとはいえ、後か先か、ということにこだわる必要もない。しばらくたてば必ず、正臣もまた、同じ湖の岸辺に辿り着き、彼のために用意された小舟を見つけることになるのである。
小舟に乗って、振り返ってみればいい。振り返ることの幸福をその時初めて、心ゆくまで味わえばいい。岸辺に佇んでいる正臣を遠くに眺め、その懐かしさに胸焦がせばいい。
風が雪の匂い、氷の匂いをはらんでいる。甘さを含んだ匂いである。夜更けてひとり剥く、林檎の匂いに似ている。
結子は御神木に向かって軽く手を合わせ、無意識のうちにコートのポケットをまさぐった。小銭を探したのだが、小銭はおろか、財布も持って来ていないことを思いだした。
神仏を前にして、ご縁がありますように、と五円玉や五十円玉を捧げるようになったのはいつからだったか。だが、もうこの三本杉とご縁がなくてもかまわない、と結子は思った。心の風景の中に三本杉があり、正臣がいる。それで充分だった。
正臣は黙って結子の手を取った。そしてふたりは、自分たちが残した靴の跡を辿るようにして歩きはじめた。
深山亭に戻ると、すでに二台のタクシーが到着しているのが見えた。それぞれの運転手は車の外に出て、談笑していた。同じタクシー会社の同僚であるらしかった。
どちらが宿泊料金を支払うか、という段になって、わずかに揉めたが、結子は決然として正臣の申し出を拒絶した。有無を言わせぬ勢いだったためか、結局、正臣は不承不承、それを受け入れ、にこりともせずに離れの座敷に入って行った。
荷物はすでにまとめてある。あとはそれらを手に外に出て、車に乗りこむだけでいい。
ご出発の前にお茶でも一服いかがでしょうか、と若女将に聞かれたが、結子はやんわりと断った。もう時間切れだった。これ以上、引き延ばしても無意味だった。
座敷は丹念に掃除されていた。光が燦々と室内に射しこんでいる。月見台の雪に、前夜の自分たちの身体の跡をなぞるような窪みができているのが見える。かろうじて自分たちが滞在した痕跡をとどめているのはそこだけである。室内はもはや次の客人、新しくやって来る旅行者のためのものになり変わっている。
室内の空気を入れ替えるためか、窓が開け放されている。気温は低いはずなのに、寒さは感じない。渓流の音がしている。春の水音のように聞こえる。
ふたりは座敷の戸口のあたりで、立ちすくんだように向かい合った。結子は顔がこわばるのを覚えた。微笑みかけようとするのに、それができない。
正臣が近づいて来た。怒ってでもいるかのような顔をして、彼は瞬きひとつせずに結子を見つめた。
「何を言えばいいんだろう」と彼は言った。聞き取れないほど低い、掠れた声だった。「もうなんにも、わからない」
さよなら、と結子は言った。声が震えぬよう注意した。声は震えずにすんだが、視線が震え、いとしい男の顔が揺れて見えた。
黙って立っていた正臣の首に片腕をまわし、その唇に素早くキスをした。一度では足りなかったが、二度三度と唇を重ねれば、涙ぐんでしまいそうで恐ろしかった。結子はやっとの思いで笑みを浮かべ、目をそらした。
自分の荷物を手に座敷を出て、玄関に向かう。三和土の沓脱ぎ石の上に、二足の靴が用意されてある。正臣の靴と結子の靴。こうして玄関先にふたりの靴が並べられているのを見るのも最後である。
靴をはき、振り返りもせずに外に出た。若女将と女将とが、そろって見送りに出ている。こぼれるような笑みが冬の光の中に弾けている。結子と正臣は口々に礼を言う。何事もなかったかのような挨拶が続く。
前日と同じように、そこかしこで水の音がしている。氷柱が溶けだし、屋根から落ちてくる水と混ざり合って、軒先からしとどに流れ落ちてくる。のどかだが、荒々しさを秘めた音楽のようでもある。
タクシーの運転手が白い手袋をはめたまま、それぞれの車の外で待機している。二台の車が前後して停められている。どちらがどちらの車に乗ればいいか、結子はとっさに考える。
この先のT字路を右折すると小浜、左折すると京都市内方面である。それはわかっている。右に折れていく車を後ろから見送るのはどんなに辛いだろう。立ち去られる側は立ち去っていく側よりも辛い。見送るのではなく、せめて見送られる側にまわりたかった。それはせめてもの、最後の願いであった。
「じゃあ、そろそろ」と結子は言う。言いながら、正臣に軽く目配せし、彼を見上げる。「行くわ」
「わかった」
「気をつけて」
「結子も」
互いに眩しいような目をして見つめ合う。だが、それも一瞬のことにすぎない。
前の車に向かう。運転手が結子から荷物を受け取り、後ろのトランクに入れてくれる。どちらまで、と聞かれる。「京都駅」と結子は答える。
車に乗りこむ。女将と若女将が並んで窓の外に立っている。窓越しににこやかな挨拶を交わす。何故、こんなときに微笑んでいられるのかわからない。わからないのだが、かといって泣きたい気持ちでもない。気持ちの底にしんと静まり返っている部分があって、結子は必死でそこにしがみつこうとしている。
振り返らない。後ろの車に乗っているであろう正臣に手も振らない。結子は深山亭のふたりの女にもう一度、車の中から深々と礼をし、決然と前を向く。
光に包まれた雪景色である。少し気温が上がったと見えて、道はいくらかぬかるんできている。右側に杉木立、左側に小川が見える。川べりは雪を被っているが、川の流れは勢いがあり、段差のある部分で白い水飛沫をあげている。車内を充たしている光が、細めた目の睫毛の上で虹色の小さな輪を描く。
小川の向こう岸に、かすかに色づいたようになった木が数本見える。葉を落とした細い枝先がわずかに桜色と化している。木が雪の中にあって、早くも芽吹きはじめているのかもしれない、と思う。
そのことが結子の胸を熱くさせる。さっき見た三本杉を唐突に思いだす。そこに吹き渡っていた風の音を思いだす。
T字路が見えてきた。深山亭から二キロほどの地点である。左右に道が延びている。運転手が速度を落とす。左側のウィンカーが点滅しはじめる。
「大悲山峰定寺」と彫られた大きな丸木が立っている。車がいったん停車する。行き交う車は一台もない。人影もない。正面には雪に埋もれた小高い山が見えるばかりである。
車はゆっくりと左折をはじめる。交差点のすぐ脇、丸太を組んでできている小さなバス停留所の小屋を横目で見ながら、結子は「止めてください」と大声をあげた。車は前のめりになるように急停車した。雪道のせいで、わずかにタイヤがスリップしたような感覚があった。
「ごめんなさい、急に」
「驚きましたよ。どうかしましたか」
「いえ、ちょっと後ろの車を見送りたいので……」
運転手が何か言ったが、聞き取れなかった。結子は勢いよく後ろを振り返った。ちょうど正臣の乗った車が、交差点に差しかかったところだった。光の中に後部座席に坐っている正臣の顔が見えた。
正臣がこちらを見ている。車は右に曲がろうとする。正臣が慌てたように窓硝子を開けたのがわかる。
窓の外で手が振られた。わずかに一、二度だけ。ひらひらと硝子の外で白い手が揺れて、結子はその指、その掌、その、彼だけの音楽を奏でるためにあった手を永遠の記憶に焼き付けようと、身を乗りだした。
だが、それも束の間のことだった。車はまもなく、大きく旋回するように右折し、立ち去って、遠くなっていく一点の黒い影のようにしか見えなくなった。
「よろしいですか」運転手がバックミラー越しに聞いた。
結子は前を向き、顎を引いて姿勢を整え、潤みかけた目を何度か瞬かせてから、「はい」と言った。
初出誌 「オール讀物」二〇〇二年六月号〜十月号
単行本 二〇〇三年一月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成十八年一月十日刊