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薔薇いろのメランコリヤ
小池真理子
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昨日 それはかつて美しかった
そうして今ではこうも空《うつ》ろな尼寺です
昨日 それは少女《おとめ》の心の
薔薇《ばら》いろのメランコリヤです
ギョーム・アポリネール「Hier」より(堀口大學訳)
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薔薇いろのメランコリヤ
わたしは十八になる年……正確に言えば、十七歳と八ケ月で、男にからだを売った。しかも一週おきに二度続けて。
最初の男は、いかにも秀才肌に見える二十八歳の男だった。髪の毛を七・三に分け、高級なスーツを着ていた。何をしていた男なのかは知らない。父親は開業医で、兄が後を継ぐことになっている、と男は言った。
おやじが蓼科《たてしな》に別荘を持っているから今度一緒に行かないか、と誘われた。今度じゃなくて、今夜がいい、とわたしが言うと、男はわたしをラブホテルに連れて行った。
わたしと寝た後で、男は、きみ、初めてじゃなかったんだね、と言った。
当たり前じゃない、もう二十一なんだもの、とわたしは言った。信じたかどうかはわからない。初めての体験だったというのに、シーツに出血の跡は何ひとつ残らなかった。不思議だった。
男はたばこを吸いながら目を細めて、とっても素敵だったよ、と言った。百人の女と寝たら、百人ともに同じことを言いそうな男だった。
お礼がしたいからお小遣いをあげよう、と男はくわえたばこのまま財布を開き、私に五千円札を手渡した。棒つきのキャンディでも差し出す時のような、さりげない仕草だった。
そんなものいらない、とわたしは突き返したが、男は笑って、いいじゃないか、と言った。お礼の気持ちなんだから、と。
結局、わたしは受け取った。何か理由をつけて突き返すことはいくらでもできただろう。だが、そのための言葉を発すること自体、わたしには面倒だった。
膣《ちつ》のあたりと太ももの内側に、かつて体験したことのない鈍い痛みが残った。それは丸三日間、消えなかった。
二度目の男は、三十過ぎの会社員だった。スナックでソーダ水を飲んでいたわたしに近づいて来て、かわいいね、幾つ? と聞いてきた。
二十歳《はたち》、と答えると、にこやかにうなずき、どこかに行こうか、と言いながらわたしを外に連れ出した。雨が降り出したので、男は着ていたトレンチコートを脱いでわたしにかぶせ、肩を抱きよせるようにしながらタクシーを拾った。興奮するとそうなるのか、あるいはそれが体質なのか、男のからだからは絶えずかすかな腋臭《わきが》が漂っていた。
連れて行かれたのは、男が住んでいる団地の一室だった。濡《ぬ》れただろう、風呂《ふろ》に入りなさい、と言われ、断ると、男はその場でわたしを抱きしめてきた。かわいい子、かわいい子、と囁《ささや》きながらわたしが着ていたものを脱がせ始めた。かわいい子、という言葉を吐きつつ女を抱くのが好きらしかった。
妻と別れ、独身生活を始めて五年になる、と男は寝物語に言った。よく喋《しやべ》る男だった。聞きもしないことを喋り続け、わたしはろくに返事もせず、ベランダに向かって開け放された窓の外の、単調な雨の音だけを聞いていた。
帰るところがない、と言うと、男はここで一緒に暮らそう、と言った。かまわないよ、きみさえよければ、と。
さっき言ったのは嘘よ、とわたしは言った。ただ今日は朝までいさせて。眠いの。ぐっすり眠らせて。
もちろんだよ、と男は言い、好色とは似ても似つかない、病的に純粋すぎる視線をわたしに投げて、ぐっすりおやすみ、と囁いた。
朝まで男の部屋にいて、帰ろうとすると「これ」と言って白い包みを渡された。今開けないで、あとで開けなさい、と言うので、男と別れ、地下鉄の駅に着いてから開けてみた。
中には一万円札が三枚、入っていた。札を包んでいた紙の裏には、来週もまた、きみを待っています、連絡ください、と万年筆で書かれた走り書きがあった。男の部屋のものとおぼしき電話番号も書き添えられていた。
かれこれ三十年も昔の話だ。三万円は大金だった。それだけあれば、丸ひと月、贅沢《ぜいたく》しながら遊んで暮らせることはわかっていた。
曇り空の肌寒い三月の朝だった。国鉄の線路を跨《また》いでいる陸橋を渡ろうとして、陸橋の手前にひとりの物乞《ものご》いがいるのに気づいた。まばらな不精髭《ぶしようひげ》を顎《あご》から垂らし、今にも泣きそうな顔をして筵《むしろ》の上に正座している男だった。男の両|膝《ひざ》の手前には、汚れきったハンチング帽が置かれてあり、中に五円玉と十円玉が数枚入っているのが見えた。
男の傍には犬が行儀よく坐《すわ》っていた。日本犬の雑種で、ひどく毛並みの悪い、痩《や》せた犬だった。わたしは犬を見、男を見て立ち止まった。
コートのポケットに手を突っ込んで、もらったばかりの三枚の一万円札のうち、二枚をハンチング帽の中にねじこんだ。
男はそれを見て、はっ、と痰《たん》のからまった声を出した。泣きそうな顔がさらに歪《ゆが》み、紫色をした唇の奥に乱杭歯《らんぐいば》が覗《のぞ》いた。
男が犬に何か命じた。犬はねじを巻かれたぬいぐるみか何かのように、ぴょんとそばにあった空き缶の上に飛び乗った。
桃の空き缶だった。誰かがハンチング帽の中に金を入れるたびに、四本の脚をひとつにまとめて空き缶の上に飛び乗る、というのが犬の仕込まれた芸であるらしかった。
はあはあ、と赤い舌を出した犬の顔は、笑っているように見えた。男はハンチング帽を丸めるようにして、札ごと懐に収め、わたしを見上げて、こいつはどうも、と言った。どうも、どうも、どうも、と続き、永遠に終わりそうになくなった。それに合いの手を入れるかのようにして、桃の空き缶の上の犬が、時折、かん高く吠《ほ》えた。
からだを売るつもりで男と寝たわけではなかった。お金が欲しかったわけでもない。くれると言うからもらっただけで、そういうこともからだ≠売ったということになるのかどうか、長い間、わたしにはわからずにいた。
ずっと後になって、エマにその話を打ち明け、聞いてみたことがある。「わたしはバイシュンをしたことになるのかしら」
エマはだるそうに生|欠伸《あくび》を噛《か》みころしながら、「そうね」と言った。「お金を受け取ったんだから、そういうことになるわね」
わたしが黙っているとエマは、大きな美しい目をわたしに向けた。「でも、だからって、それがどうしたの」
別に、とわたしは言った。
言ってから両肩をすくめてみせた。エマはわたしを一瞥《いちべつ》したが、何も言わなかった。それきりその話は終わってしまった。
エマとわたしは十九歳も年が離れていた。エマはわたしの母親に近い年齢でもあったわけだが、エマを見て母親を連想したことなど一度もない。
エマのほうでも似たようなものだったろう。野乃《のの》、というわたしの名前を面白がり、ののさま、って知ってる? 仏様のことをいうのよ、と言うので、わたしが、じゃあわたしは仏壇の位牌《いはい》みたいなもんなのね、と切り返すと、何が可笑《おか》しかったのか、エマはテーブルに突っ伏して笑い転げた。そんな少女じみたところのあったエマが、わたしのことを娘のように思っていたわけもない。
エマにとってわたしは唯一の友達だったはずだし、わたしにとってのエマもそうだった。コバンザメのようにしてエマに取りつき、エマのもたらしてくれる甘い汁のおすそ分けに与《あずか》り、徹底して自堕落に生きていたというのに、それでもわたしにとって、エマは大切なかけがえのない友達だったのだ。
わたしはエマに憧《あこが》れ、エマをまね、エマの着ているものと似た服を探した。エマがするようなやり方でたばこを吸い、エマの考えるような考え方をもちながら男たちと関わり続けた。
詩人だったエマの書く、前衛的な詩は最後まで理解できなかったが、それでもエマが書いたり口にしたりする言葉はすべて、わたしにとっては飢えた金魚に与える餌《えさ》のごとくであった。わたしはエマの内側からこぼれ落ちてくる言葉の数々を飲みほし、喰《く》いつくし、味わい、それでも満足せずに、エマに話をねだった。
何かにつけて、どうして、という子供じみた質問を繰り返していたわたしに、エマはひとつもいやな顔をしたことがなかった。面倒臭がらずにいろいろな答えを返してくれた。たとえそれが男と女がすること、閨《ねや》の中の秘め事に関する質問だったとしても同じであった。
エマは、自分の閨房《けいぼう》でのあられもない姿を言葉にしてわたしに語ることを好んだ。露悪趣味があったわけではない。ただ単にエマが、欲情する自分自身を恥じる女ではなかった、というだけのことだ。
だからわたしはいつのまにか、エマが、どんなふうにして男に抱かれ、どんなふうにして喘《あえ》ぎ、どんな表情を浮かべていたのかがわかるようになった。エマがその時どんなふうに悦楽のさなかに落ちていったのか、見えてくるのである。エマのからだにどんな変化がおこり、エマ自身がどんなふうに潤って溶けていったのか、まるで見てきたように、自分自身が感じたことであるかのように、知ってしまうのである。
だからといって、何もわたしとエマが同性愛まがいの関係にあったとは思わないでほしい。つまらぬ手垢《てあか》のついた、俗的なものの見方に慣れている或《あ》る種の人間なら、そう言うかもしれない。事実、わたしとエマが親しくしていたあの時代、実際に耳にしたことはなかったにせよ、そんな噂をまことしやかに流そうと企《たくら》んでいた人もいたのかもしれない。そして、エマがそんな噂を耳にしたことすらあったのかもしれない。
だが、よもやそうだったとしても、エマはそんなことを意に介する女ではなかった。エマなら一言で片づけていただろう。想像力が欠如してる人間が多すぎるわね、と。わたしがどんなにたくさんの男を渡り歩いてきたか、あれほど詩に残してきたっていうのに、世間にはまだちゃんと知られていなかった、ってわけだわ……そう言って、エマはきれいにそろえた眉頭《まゆがしら》を軽く上げ、遠くを見るような目をしてたばこを吸い、それきり、同性愛の話には興味を失って、わたし相手に長々と、その晩、会ってきた男の話を繰り返していただろう。わたしはわたしで、すぐにエマの話に夢中になり、わたしたちはいつものように、元麻布《もとあざぶ》にあったエマのマンションの一室で、毛足の長い絨毯《じゆうたん》にしどけなく腹這《はらば》いになったまま、時間を忘れて話し続けていたことだろう。
時間……エマとわたしの間に時間は初めから失われていた。過ぎ去る時間もなければ、新たに生まれる時間もなかった。エマもわたしも、時の落とし穴にはまったかのように、のっぺりと拡がった無意味な時間を生きていた。
わたしとエマをつないでいたものは何だったのか。それはおぞましいほど難解な質問だ。たとえ一万回自問したとしても、答えられることではない。なのに、わたしは今もエマを思う時、同じ質問を繰り返す。
わたしとエマをつないでいたものは、ひとつのイマージュとしてしかわたしの中にかたちを表さない。無意味の意味。わたしとエマとの間にあったのは、常に無意味という名の、形容することの不可能な、何かでしかなかった。
それでもわたしは繰り返す。うんざりするほど年を経た今になってなお、自分とあの誰よりも美しかった女との間に、確かに存在していた何かについて考える。幾つかの風景や言葉、笑い声、冷えたジンの香り、シーツのこすれ合う音、途方もなくエロティックな喘ぎ声の数々……それらは単調につながっていくひとつのイマージュである。わたしはそれらを思い起こす。エマがいて、わたしがいる。わたしたちの上を通り過ぎていった男たちがいる。
それは、画布から乱暴に切り取られた、一枚の絵の切れ端のようなものだ。エマとわたしは、文字通りの切れ端だった。端のほうの糸がほつれ、ばさばさになった、画布の切れ端……。絵の中のほんのわずかの一部……。ただのかけら……。
そう、わたしたちは常に、全体から脱落した、無意味な部分≠ナしかなかった。
エマと初めて会ったのは、十八の誕生日を迎えた年の夏だった。
わたしは今も、暑い夏の昼下がり、一台の大きな白い乗用車が六本木の裏通りの狭い路地をのろのろと、わたしのほうに向かって走ってくる光景を思い描くことができる。それは本当に、見たこともなかったほど大きなセダンである。
運転席には中年の男の顔が見える。小作りの顔は端整で気品がある。助手席には女が坐《すわ》っている。女は大きなサングラスをかけている。車のボンネットに光が弾《はじ》け、束の間、女の顔が白くかすんで見えなくなる。
わたしは、オレンジ色のボックスプリーツになったミニスカート姿で、路地を歩いている。上には、スカートと同じオレンジ色のストライプが入ったシャツブラウス。衿《えり》が、うさぎの耳のようになって大きく垂れ下がっている。今考えてみれば滑稽《こつけい》だが、当時、大流行したデザインである。
シャツブラウスの前ボタンはふたつ外してある。奥に少し日に焼けた小麦色の肌が覗《のぞ》いて見える。乳房は小さく扁平《へんぺい》に見える。そもそも、ブラジャーのサイズがまるでからだに合っていない。サイズを合わせる、ということがどういうことなのか、わたしにはまだ何もわかっていない。
ブラジャーでせっかくの熟しかけたものを無理やり押さえつけたような形になって、乳房はシャツブラウスの上でかろうじて、あるかなきかの隆起を見せている。その胸の上、中央に、ハート型をした小さなロケットペンダントが揺れている。
蝶番《ちようつがい》のついたロケットの中には、写真は何も入っていない。入れるべき写真、密《ひそ》かに人知れず中を開けていとおしむような誰かの顔写真を、わたしは持ったためしがない。
前の晩から降り出して、朝までやまなかった雨が、路面のあちこちに水たまりを作っている。埃《ほこり》と泥と、街それ自体の汚れを溜《た》めたような、黒い水たまりである。
夏の光がその水たまりに弾け、砕け散っている。汗が滴り落ちる。淀《よど》んだように湿った空気の中、じっと立っていると頭がくらくらしてきそうなほど暑い。
白い乗用車はどんどんわたしに近づいて来る。通りは狭く、車をよけようと思ったら、路肩に身を寄せるしか方法がないことをわたしは知る。
わたしはからだを縮めるようにして、路肩に寄る。暑さのせいもあって、わたしは不機嫌である。わたしは白い乗用車を睨《にら》みつける。
車の中の男と女は話に夢中になっているらしく、わたしのほうは見向きもしない。運転席の男が、わたしではない、わたしという人形と車体との距離を推し量るような目をし始める。道路に立っているマネキンにぶつけないように、と注意しているだけのような目である。男は明らかに、わたしではない、助手席の女のほうをより強く意識している。
わたしと車との距離が急速に縮まる。すぐ傍に大きな水たまりが見える。車のせいで、わたしは水たまりの手前で立ち止まらざるを得なくなる。
太いタイヤが水たまりに突っ込む。その直後、わたしの足とスカートのあたりに泥はねが飛び散る。
叫んだはずはない。わたしは何があっても叫ぶような少女ではなかった。麻酔なしで歯を抜かれたとしても、わたしは叫ばなかっただろう。
だとすれば、黙ったまま立ちすくんでいたのか。うらめしそうな目で棒立ちになり、憮然《ぶぜん》として汚されたスカートを見下ろしていたわたしの姿を、車を運転していた男がバックミラーの中に見つけたのか。
車にブレーキがかけられる。運転席側のドアが大きく開き、男が降りて来る。
大丈夫ですか、と男は聞く。たまご色をしたシャツに同色のサマージャケットを着た男である。痩《や》せている。小柄というほどではないが、長身というわけでもない。
わたしは男を無視したまま、黙っている。スカートの汚れよりも、足の汚れのほうが気になる。肩にかけていたショルダーバッグの中をまさぐって、わたしはハンカチを取り出す。かがみこむようにして足を拭《ふ》く。ふくらはぎのあたりに、べったりと泥水がはねている。ハンカチがすぐに黒く染まる。
「申し訳ない。そんなに汚してしまって……」男は重ねて言う。慌てたようにズボンのポケットに手を入れ、大判のハンカチを出し、男はそれをわたしに差し出す。
わたしはそれを受け取らない。わたしの不機嫌は最高潮に達している。わたしは黙っている。黙って自分のふくらはぎを拭き続ける。
乗用車の助手席側の窓が開けられる。女の顔が覗く。女は優雅な手つきでサングラスを外し、わたしを見る。
わたしもまた、女を見る。美しい女である。栗色がかった長い髪の毛を無造作に夜会巻きふうに巻き上げて留めている。チャイナドレスのような、首の詰まったノースリーブの、からだの線が目立つ、光沢のある黒っぽい服を着ている。
唇は真一文字というよりも、への字に結ばれている。笑顔が想像できない。生まれてこのかた、笑ったことなどなかったような顔に見える。
黒い睫毛《まつげ》に縁取られた大きな目は、人を信用していない目である。人を睥睨《へいげい》する目……無関心な冷たい目である。
わたしが泥をはねられたことも、泥をはねたのが自分の乗っている車だったことも、そんなことはどうだっていい、と言いたげに、女はわたしに向かって「ねえ」と少し嗄《しわが》れた声で言う。「乗りなさいよ。そんな小さなハンカチ一枚じゃ、いくら拭いたって無駄よ。わたしのうちに寄ってけばいいわ。冷たいものでも飲んでって」
わたしは女を睨みつける。睨みつけるのだが、何を言い返せばいいのかわからない。
じりじりと太陽が照りつけて、こめかみのあたりから汗が噴き出す。わたしの傍に立っていた男が、「どうぞ」と言う。「スカートはすぐにクリーニングに出しましょう。代わりのものは、彼女から借りればいい。さあ、乗ってください」
「きれいな車が汚れるわ」わたしはやっとの思いでそう言い、泥のついたハンカチを丸めてバッグの中に押し込むと、歩き出そうとする。
待ってよ、と女が言う。「おわびのしるしよ。そのくらいさせてよ」
わたしは女を見る。女もわたしを見ている。女の目には、いささかの優しさも親切心も感じられない。その冷やかな、乾いた、薄情そうな顔が、かえってわたしを安心させる。
気がつくと、わたしは吸いこまれるようにして、男が開けてくれたドアの向こうの、よく冷房の効いた後部座席に乗りこんでいる。
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あの日、わたしは口紅を塗っていただろうか。
数日前に買ったばかりの安物の口紅。桜色と淡いオレンジ色が混ざり合ったような、中途半端な色。濃く塗り過ぎなければさほど目立たない。目立たないのだが、ひとたび口紅を塗った自分の顔を見慣れてしまうと、塗らずにはいられなくなる。だからあの日も塗っていた。そのはずである。
当時、化粧をする習慣をもつ高校生は、まだとても少なかった。校則で固く禁じられていて、髪の毛にパーマをかけただけで、あるいはソックスをはかずに登校しただけで、不良だ、と決めつけられることもあった。
制服を脱いでミニスカートをはき、派手な化粧をして街を歩くことと、制服姿のまま、淫《みだ》らな妄想にかりたてられていることとの間に、いったいどれほどの違いがあったのか、わたしにはわからない。化粧さえしていなければ、女は男を誘惑しないし、男からも欲情されない……そんなふうに信じられていた、おめでたい時代でもあった。
だが、男にからだを売った時、わたしは化粧をしていなかった。口紅ひとつ塗っていなかった。顔の産毛や腋毛《わきげ》の処理すらしていなかった。それでもわたしは男を誘惑したし、男はわたしに欲情した。
唇に色が塗られていたり、顔に美しく化粧がほどこされていたり、からだにオー・デ・コロンの香りが漂っていたり、むだ毛がきれいに処理されていたり……そういうことだけを基準にして、男が女に欲情するわけではない。また、女もそれだけを武器にして男を誘惑するのではない。
誘惑と欲情の法則について、これまで無数の神話が語られてきた。わたしたちはそれを鵜呑《うの》みにし、実際にその通りに演じ、その結果、なんとなく成功したと思いこんでいるだけなのだ。男を欲情させたり、男を誘惑したくなるような気持ちにさせたりするものは、多分もっと別のところにある。肉体や顔の美醜、男を意識して念入りに人工的に装われた姿かたちとは違う、もっと別のところに。
幸か不幸か、わたしはエマと知り合う前から、そういうことに漠然と気づいていた。現実に男のからだを知る以前から、世間で信じられていることに対して盲目的になるのは馬鹿げている、とわたしは勘づき始めていた。
「ついでに口紅の塗り方も教えてあげるわ」
初めて会ったあの日、エマはわたしにそう言った。元麻布の、見たこともない豪華なマンションの地下駐車場に着いた直後のことだ。
運転していてわたしに泥はねをかけた男は、わたしたちのために車のドアを開けてくれた。非のうちどころなく洗練された仕草だった。
女のために車のドアを開けてくれる男、というのは、映画でしか見たことがなかった。それに見とれるあまり、わたしはエマから言われたことに対して返答する機会を失った。
エマはわたしと男とを従えるようにして早足で歩き、さっさと駐車場のエレベーターに乗りこんで七階のボタンを押した。エレベーターに乗っている間中、エマの視線はわたしのほうに向けられなかった。
「何て名前?」
エレベーターのフロア表示を見るともなく見上げたまま、エマが聞いた。
野乃、とわたしは答えた。質問される前に、野乃、という名の書き方も教えた。
初めて会った人間は、わたしの名を知ると、とても珍しい、と言ってはやしたてる。わたしは子供の頃から、自分の名前が好きではなかった。どこにでも転がっている、ひどくありふれていて、すぐに忘れられてしまうような名前だったらどんなによかったか、と思っていた。
だがエマはわたしの説明を聞いても、何の感想も述べなかった。そう、と軽くうなずいただけだった。
「いくつ?」
二十歳、と言おうとして、気がつくとわたしは正直な年齢を口にしていた。エマはわたしにではなく、傍に立っていた男に向かって、「若いのね」と言った。
聞きようによっては皮肉とも受け取れる言い方だったが、わたしは別にそうは思わなかった。若いと思ったから若いと言っただけ……エマの口調には、その種の機械的な響きがあった。
並んで立つと、エマはわたしと同じくらいの背丈だった。からだの線がとても目立つドレスは彼女の形のいい胸と尻《しり》、よくしなりそうな細いウェストを強調していた。だが、それは、見る者を圧倒させるような迫力をもつからだではなかった。
そう、エマはいつだってセクシーすぎるということはなかったものだ。顔も肩も乳房も尻も、すべて小さめだった。それらをエマ自身が露骨に目立たせようと試みることもなかった。
エマはあるがままの肉体をあるがままに人に見せていた。そこには矯正も虚飾も何もなかった。エマは年齢を重ねていくこと、女のからだが変容していくことを恐れてはいなかった。乳房が垂れれば垂れたままに、背中にうっすら贅肉《ぜいにく》がつけばついたままに、かえってそれを誇るようにして生きていたのがエマだった。
そしてエマのつけていた香水! ほのかな甘みを帯びた、にもかかわらず刺激的、官能的だったあの香り。|石の花《フルール・ド・ロカイユ》。
一度、エマはわたしに「香水の名前が気に入っただけよ」と言ったことがある。「別に香りが気に入ったわけじゃないの。名前がよかったのよ。石の花、だなんて、聞いただけでぞくぞくしたわ。だからつけることにしたの。そういうことって、よくあるでしょう?」
わたしがしたり顔をしてうなずいて、「セックスが今ひとつでも、とびきりのハンサムだからおつきあいすることにした、っていう感じ?」と聞き返すと、エマは苦笑しながら「まあね」と言った。「でもわたしだったら、逆のほうがいいわ」
「逆?」
「とびきりのハンサムなのに、セックスがよくない、っていう人よりも、ハンサムでも何でもないのに、セックスだけはいい、っていうほうが断然いいわね」
「セックスがいい、っていうのは、そんなに大切なことなの?」
「今にわかるわ」エマはそう言って笑った。「大切なのよ。とってもとっても大切なのよ」
性的である、ということがどういうことなのか、わたしはエマから学んだ。美しく魅力的であることは事実だったが、エマが性的に見えるとしたら、それはその美しさにあるのではなかった。エマは自分を知り抜いていた。その豊かさも烈《はげ》しさも、弱点も不安も孤独も何もかも。
私たちの間で、セックスの話題は尽きなかった。だが、男が欲しくてたまらなくなる時があるくせに、一転して、男と口をきくのもいやになり、男とあんなことをしたと思い出しただけで、吐きそうになる時もある、とエマは言った。わからないのよ、と。わたしはあれが好きなのか、それとも本当は大嫌いなのか、わたしにはわからなくなることがあるの、と。
エマは酒に酔った時などに、自分を称して売女《ばいた》だと言うことがあった。大袈裟《おおげさ》な言い方をしてわたしの関心を引こうとしていたのではなく、本当にそうだからそう言っているだけだ、と彼女は付け加えた。
「女を売ってるの?」とわたしは聞いた。
売ってるわよ、と彼女は答えた。「いろんな意味でね」
「でも、いちいちお金をもらってるわけじゃないでしょう」
「もらってるわ。わたしが自分のことを詩に書いただけでお金が入ってくるじゃないの」
「それが女を売ったことになるの?」
「なるわよ。わたしは男とあれをした時のことしか、詩に書かないんだから」
そうだったろうか、と今も思う。エマの詩は、数字がぐるぐると螺旋《らせん》状にまわっていたり、アムール、アムール、などという言葉が唇の形に連ねられたりして、絵なのか詩なのかわからない。シュールレアリズムの旗手、と呼ばれたこともあって、エマはそういった、わたしにはとんと理解できない詩ばかり好んで書いたが、どれほどエマの側に立ってそれらを読んでみても、わたしにはそれがエマの性的な風景を生々しく伝えるものだとは思えなかった。
エマは美貌《びぼう》の前衛詩人として世間にもてはやされたが、エマの本当に性的な風景は詩の中にあったのではない。それはエマの内部に、エマ自身の奥底にあった。
「口紅の塗り方を教えてくれる人はいなかったの?」
エレベーターの中でエマは、思い出したようにそう聞いた。
失礼な質問だとは思わなかった。だいたい、エマの質問の仕方はいつも決まって唐突である。失礼かそうでないか感じる以前に、聞かれたほうは驚くだけなのである。
わたしは黙って両方の眉《まゆ》をつり上げてみせた。エレベーターが七階に到着し、がくんと軽い振動と共に停まった。扉がするすると開いた。
エマは単調な、ぶっきらぼうとも言える言い方で「唇から口紅がはみ出てるわ」と言い、つとわたしを振り返った。その顔に楽しげな微笑が広がり、彼女の頬が束の間、薔薇《ばら》いろに輝いた。
わたしは反射的に手の甲で唇をぬぐった。
馬鹿ね、とエマは言い、笑い声をあげた。「余計にはみ出しちゃったじゃない」
男がくすくす笑いながらエマをエスコートするようにして、エレベーターから降りるよう促した。そしてわたしのほうをちらりと見ると、「どうぞ」と、とても丁寧な言い方で言った。
わたしは憮然《ぶぜん》とした顔をしたまま、エレベーターを降りた。エマの歩き方や男のあしらい方をまねて、背筋をぴんと伸ばし、男のほうを見もせずに歩き出した。
エマが途中で立ち止まり、振り返ってハンカチを手渡してくれた。わたしは、いらない、と言って首を横に振り、もう一度、手の甲で唇をごしごしとこすった。
エマがわたしの顔を見て、指をさして、大声で笑いだした。きれいに澄んではいるが、あまり甲高くない、落ちついた笑い声だった。
笑いたい気分ではなかったが、つられてわたしも少し笑った。
目を閉じると、あの部屋の様子が今も鮮やかに甦《よみがえ》る。エマの部屋。エマの住処《すみか》。
広くてあまり家具が置かれていない、どちらかというと殺風景な部屋である。居間のベランダに向かう窓は天井の高さまであり、そこにはドレープをたっぷりとった、薔薇いろのカーテンが掛けられている。
床を被《おお》い尽くしている絨毯《じゆうたん》は銀鼠《ぎんねず》色。白い漆喰《しつくい》壁には、ジャコメッティの『夜』と題された不思議な絵が一枚だけ。
エマとわたしが、昼日中から、絨毯に寝そべっていろいろな話をしている。エマはろくにブラシもかけずにいる髪の毛を肩まで下ろし、乳首が透けて見えるような薄衣のガウンを着ている。顔に化粧っ気はない。
エマが好きなのは、ジンのオンザロック。グラスからあふれ出るほどたくさんの氷を入れて、朝でも昼でも、飲みたくなると飲む。飲みたくなければ飲まない。どんなに人に勧められても、何かアルコールを飲まなければいけないような席でも飲まない。人が眉をひそめるようなことをするのが、エマのお気に入り。
わたしは傍で、面白がってそれを見ている。そして時々、それと知られぬようにして、エマのまねをする。
エマの寝室は秘密めいている。中央にクィーンサイズのベッド。ベッドカバーはカーテンと同じ薔薇いろ。ナイトテーブルの上には何冊かの本。引き出しの中にはメモ帳だの、クリップだの、三角定規だの、消しゴムだの、いろいろな文房具類が未整理のまま押し込まれている。他には睡眠薬の小瓶。小銭が何枚か。時には一万円札が無造作に数枚。そして、引き出しいっぱいに夥《おびただ》しく散らばっている避妊具。
部屋続きのバスルームがあり、そこは洗面台も床も何もかもが大理石でできている。楕円形《だえんけい》をした浴槽は床に埋め込まれている。エマが浴槽の縁に両手をつきながら、足を大きく開いて平泳ぎのまねをしている。巻き上げて留めた髪の毛の先端が揺れている。天井を仰ぎ、目を閉じて鼻唄《はなうた》を歌っているエマの白い尻《しり》が、時折、湯気の中に浮き上がる。小さく開いた白い蓮《はす》の花のようでもある。
エマは書斎を持っていない。詩人は書斎など持たないものだ、とエマは言う。
詩を書く時、エマはたいていベッドの上にいる。ベッドの上であぐらをかいたり、腹這《はらば》いになったり、そんな恰好《かつこう》のまま、原稿用紙ではない、白い画用紙に詩を書く。
気にいらないと画用紙を破り、そのままベッドのまわりに放り投げる。寝室の床が画用紙でいっぱいに埋め尽くされてしまうこともある。
そういう時、エマはひどく不機嫌で、わたしとは口もきかない。どこに行くとも言わずにぷいとどこかに出かけて行き、わたしの知らない男を連れて帰る。
そしてエマはわたしに言うのだ。「悪いけど、ちょっと外に出てて」と。
部屋に入るなり、シャワーを浴びていらっしゃい、とエマに言われた。断ったのだが、エマは聞いていなかった。
よく冷房が効いていて、外の暑さが信じられなくなるほど居心地のいい部屋だった。わたしはじろじろと、遠慮会釈なく部屋の中を見回した。
卑屈、嫉妬《しつと》、羨望《せんぼう》……わたしの中に、そういった感情があったのかどうかは甚《はなは》だ疑問だ。わたしがエマの住まいを見て真っ先に思ったのは、ツイている、ということだけだった。
わたしは落ちつける場所を探していた。落ちつくことができるのなら、ゴキブリやねずみが出るような部屋でもいっこうにかまわなかった。事実、わたしはエマと知り合う直前までの三日三晩、高校を中退してスナックでアルバイトをしながら暮らしている女友達の、三畳一間の汚れきったアパートで、寝起きさせてもらっていたのだ。
エマにバスルームまで案内され、シャワーの使い方を教わった。ついでに汗を流しなさいよ、とエマは言った。「汗びっしょりじゃないの」
「臭う?」とわたしは聞いた。
エマはくんくんと鼻を動かして、わたしの肩のあたりの匂いを嗅《か》ぐ仕草をした。「これは汗の匂いじゃないわね。濡《ぬ》れた匂いじゃなくて、乾いた匂いだわ。日向《ひなた》とか、埃《ほこり》とか、汚れた干し草とか……そういう匂い」
「家出したの」とわたしは言った。「三日くらい前よ」
家出した、というのは必ずしも事実ではなかった。少なくとも娘が家出をした、ということをわたしの父はまだ知らずにいた。わたしはしょっちゅう、無断外泊していたし、それが三日続いたとしても不思議ではなかった。
エマはわたしの言ったことにほとんど無反応だった。
「頭も洗いなさい」とエマは言った。「タオルと着替え、出しとくから」
わたしがシャワーを浴び、からだと頭を念入りに洗っている間に、化粧室にタオルとガウンが用意されていた。ガウンは白いタオル地で出来たもので、丈が膝《ひざ》のあたりまでしかなく、少し油断して歩くと、太もものあたりが丸見えになった。
「こっちにいらっしゃいよ」と呼びかけるエマの声がした。「佐伯《さえき》が冷たいもの、作ってくれたわ」
わたしに泥はねを浴びせた男……女のために恭しく車のドアを開け、忘れずにエレベーターから女を先に降ろしてくれる男の名を佐伯という。
エマよりも三つ年上で、資産家の三男坊。二人の兄は裕福な家庭の令嬢と結婚し、たて続けに子供をもうけたが、佐伯だけがいつまでたっても独身を守り抜いている……そんな話を、エマと初めて会ったあの日、わたしはエマから聞いた。
「ほんとのこと言うとね、佐伯はわたしの元の恋人だったのよ」とエマは言った。エマとわたしを残し、佐伯が帰って行った後のことだ。「恋におちたのはね、わたしが亭主と死に別れる少し前。亭主は心臓の病気で死んだんだけど、亭主の死の知らせを受けた時、わたしは佐伯とベッドの中にいたの」
わたしは、驚きを顔に出さないよう気をつけながら聞き返した。「結婚したことがあるの?」
「おかしい?」
「ううん、別にそうじゃないけど」
「亭主が死んでから、なんとなくうまくいかなくなって、すぐ別れたわ。でも未《いま》だに彼はわたしの傍にいるの」
「よっぽど惚《ほ》れられてるのね」
「どうかしら」
「セックスはしないの?」
「しないわ」
「どうして?」
「したくないから」
「口説いてきたりしないの?」
「全然」
「我慢してるのよ、きっと。一度くらい、エマさんのほうから誘ってあげればいいのに」
「御免だわね。今、間に合ってるの。あなた、誘ってあげて」
冗談とも本気ともつかない言い方でそう言うと、エマはわたしにジンのオンザロックのグラスを差し出し、「どう?」と聞いた。
わたしは首を横に振った。「ビールある?」
「あるわ。冷蔵庫の中。取ってらっしゃい」
わたしとエマはその日、夕方まで部屋にいて、エマはジンを、わたしはビールを飲み続けた。エマはそれから時間をかけて風呂《ふろ》に入り、念入りに化粧をして、寝室のクローゼットを開けた。
「これから佐伯と夕食を食べに行く約束をしてるの」
「セックスはしないのに、御飯だけは一緒に食べるのね」
「御飯は食べないけど、セックスだけする相手はたくさんいるのよ」
エマはそう言いながら、にこりともせずにわたしの見ている前で着替えを始めた。よかったら、とエマは言った。「一緒に行かない?」
行く、とわたしは言った。「でもわたし、お金持ってないわ」
エマは、そんなこと気にしないで、というような表情を返し、その瞬間から、わたしとエマの関係は始まったのだった。
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エマと初めて出会った日の夜、わたしは彼女に訊《たず》ねた。「どうしてそんなに金持ちなの」と。
わたしとエマと佐伯の三人で食事に出かけ、佐伯に送られてエマの部屋に戻った時のことだ。佐伯はよく躾《しつ》けられた猟犬のようにわたしたちを部屋まで送り届けると、おやすみ、と言い残して帰って行った。
金持ちは金持ちなのであり、その理由などどうだっていいことだった。わたしはただ、エマという女について、もっといろいろなことを知りたいと思っただけだったのだが、そういった露骨な質問にひとつも呆《あき》れることなく、率直に答えてくれたのはいかにもエマらしかった。
「遺産が入ったのよ」とエマはこともなげに言った。「死んだ夫のね」
エマはたばこをくわえ、自分でマッチをすって火をつけた。男がやるように、わずかに眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せ、その一瞬、エマはすれっからしの十五の少女のように見えた。
「遺産、って、どれくらい?」
エマは肩をすくめた。「新川|宏次郎《こうじろう》って知ってる?」
「知らない」
「昭和の不動産王、って呼ばれてた男よ。色気のなさすぎる呼ばれ方で、わたしは大っ嫌いだったけど。物珍しがられて、時々、新聞に載ったり、週刊誌で書かれたりしてたわ。彼がわたしの夫だったの」
わたしはろくに新聞も読まない生活を送っていた。家でゆっくりテレビを観ることもなかったし、週刊誌を読みあさる趣味もなかった。エマが有名な詩人であることも知らなかったくらいなのだから、その夫が何者であったのか、知るわけもなかった。
わたしが黙っていると、エマはたばこの煙を深く吸いこみ、吐き出す息の中で続けた。
「山のように不動産を持ってた人だったの。コツコツと手堅く商売する、生真面目な人だったわ。育ちがよかったのよ。よすぎて気が弱かったもんだから、危ない橋は初めっから渡ろうとしなかったし。そういう意味では、面白味のない男だったけど、わたし、好きだったのよ、彼のこと。わたしがこんなこと言うと、おかしいかもしれないけど」
「別におかしくないわ」わたしは静かに言った。エマは片方の眉《まゆ》を軽くつり上げたが何も言わなかった。
「で、結婚生活はどのくらい続いたの?」
「四年? 四年半? そんなものね」
「それっぽっち? じゃあ、その新川宏次郎、って人、ずいぶん若くして死んだのね」
エマはふいに噴き出した。何か可笑《おか》しいのか、肩を震わせて笑い続け、笑いすぎるあまり、目がうるんだ。
「彼は二十五も年上だったのよ」とエマは喉《のど》の奥をひくひくと鳴らしながら言った。「二十五よ。信じられる? 彼は五十二で死んだんだけど、その時、わたしはまだ二十七だったの。死んだ時、ちょっとしたスキャンダルにもなったんだから。子供もいなかったし、わたしが彼の全財産を受け継ぐことになるわけよね。わたしが計画的に新川を死に至らせたんじゃないか、なんて突拍子もない記事を書かれたこともあったの。さすがに頭にきて、名誉|毀損《きそん》で訴えたけど」
「じゃあ、詩人になったのはそれから後のことなの?」
「そうよ。最初に詩集を出したのは二十九歳の時。詩を書く女のいったい何がそんなに珍しかったのか知らないけど、いろんなところに引っ張り出されて、もみくちゃにされたわ。映画にも出ろ、って言われたのよ。笑っちゃうじゃないの。わたしの処女詩集に『乳房+乳首』っていうのがあったんだけど、それを映画化したいから、出演してほしい、って言うのよ。馬鹿げてるわよね。詩集をどうやって映画化する、って言うのかしら。貧相な猿みたいな顔した監督を紹介されて、食事に行って、その場で口説かれたわ。その男、テーブルの下に手をのばしてきたと思ったら、スカートの中にすべらせて、わたしの太ももを撫《な》でるのよ。あんまり露骨に撫でるもんだから、人差し指の先が下着にまで届きそうだったわ」
「で、どうしたの」
「顔に水をぶっかけてやった。それっきり、その話は立ち消え」
わたしは笑った。「ねえ、わたしって、変ね。エマさんのこと、そんなに有名な人だったなんて、ちっとも知らなかった。ごめんなさい」
「別に変じゃないし、あやまるのはお門違いよ。動物園のカバだって、時によっては有名になったりするもんだけど、いくら有名でも、わたしはカバなんかには興味をもたないわね。あなた、あんなに有名なカバを知らなかったの、って言われたら、それがどうしたの、って答えてやるわ」
わたしは感心して笑いながらうなずいた。「世間のこと、知らずにいるのは恥ずかしいことなんだ、って、そんなふうに思ったことがないの。そういうのを傲慢《ごうまん》って言うんだ、って、大人に言われたことがあるけど、どうしようもない。なんにも知らなくたってね、生きていくのにちっとも不自由しなかったんだもの」
「よくわかるわ」
エマはそう言い、驚くほど親しみをこめた目でわたしを見た。
エマは私生児だった。父親は東北地方の豪農に生まれ、中央で活躍していた代議士で、その代議士と、あまりぱっとしない新進女優との間にできたのがエマというわけだ。
エマの母親は、妊娠をきっかけに女優業から身をひいた。初めから女手ひとつでエマを育てる覚悟を決めていたようだが、父親のほうは不憫《ふびん》に思ってか、あるいは生まれたエマのあまりの可愛さに溺《おぼ》れたか、極秘の経済的援助は最後まで惜しまなかった。
とはいえ、エマの記憶の中に、父親の面影は薄い。たまにやって来る父親は、黒塗りの車を家から離れた場所に停め、顔を隠すように帽子を目深にかぶり、こそこそと走って玄関に飛び込んで来た。そしてエマを抱き上げ、高い高い、をし、頬ずりをする。幼児語を連発し、たばこくさい息を吹きかけながら「エマ、エマ」と呼びかける。
あるいはまた、夜遅くやって来た父親が、エマの眠っている布団の傍で深く屈《かが》みこみ、エマの頭を撫でている。呼びかけられ、頬ずりをされて目覚めるのだが、エマはまたすぐ眠りにおちる。
その後、隣の部屋で衣《きぬ》ずれのような音がし始めることもある。女の喘《あえ》ぎ声のようなものを耳にしたこともあるが、それが父親と母親の交わりであったのかどうか、今となってははっきりしない、とエマは言う。
覚えてるのは、頬ずりをされた時、髭《ひげ》が痛かったことだけよ、とエマが言った。「それと、母が泣いてたことだけ。よく泣く女だったわ。悲しくて泣くんじゃないのよ。父が訪ねて来るのが嬉《うれ》しくて泣くのよ。母親の涙って子供は見たくないのよね。わたしは母が泣くから、父が訪ねて来なければいい、と思ってた」
その代議士は、エマが高校に入学した年、卒中の発作を起こして呆気《あつけ》なく他界した。秘書を通じて何がしかの金がエマの母親に手渡され、エマの母親はその金でエマを私立の女子大に入学させた。母親が病に倒れたのは、エマが十九になった年で、その頃になるともう、母親の手元には生活していくだけの資金はほとんど残っていなかった。
生きていかねばならないという本能が目覚め、男を渡り歩くようになったのは、そのせいだ、とエマは言う。男の手から男の手へと、平然とバトンタッチされていくような生き方は、エマ自身が編み出したささやかな処世術だった。
男からその都度もらう小遣いは、小額ながらエマとその母親の生活費の足しになった。時には、数日間、旅行につきあっただけで、母親の療養費用を工面してもらえたこともあった。とはいえ、エマの中に、男に養われているという意識は皆無だった。エマはむしろ、そうやって生きていくことを仕事のように考えていた。
階層が違うのよ、とエマはよくわたしに言ったものだ。「自分は他の人たちと階層が違うんだ、ってこと、わたしは子供の頃から知ってたの」
「私生児だったから?」わたしは聞く。
エマは曖昧《あいまい》にうなずく。「例えばこういうことよ。日曜日に学校の友達の家に遊びに行くでしょ。その家の人はわたしを歓迎してくれて、お菓子を出してくれて、感じよく接してくれるんだけど、わたしがその家にいても、家族の人はちっとも緊張なんかしてないの。ふつうなのよ。子供の友達が遊びに来てる……それだけのことなのよ。でも、わたしの家に友達を招待した時は違った。母はものすごく緊張して、ふるまうお菓子ひとつにしても恥をかかないようにと気をつかって、子供相手にお世辞を言って、馬鹿みたいににこにこして……。その子が帰った後は疲れ果てて放心してたもんだわ」
エマの母親はエマが新川宏次郎と結婚した直後、病死した。新川はエマの母親の葬儀を盛大に執り行い、母親の死に接しても泣かなかったエマの代わりに、涙を流してくれたのだという。
「どうして泣かなかったの?」とわたしは聞いた。「みんなが泣く場面では泣かない主義なの?」
違うわ、とエマは言った。「泣いたりしたら、あんまり母が哀れじゃないの」
わたしの子供時代とエマのそれとは似ても似つかないのか。それともそっくりなのか。
中学一年の時、両親が離婚した。原因はよくわからない。憎み合っていた様子はないし、父の浮気や借金があったわけでもなかった。金持ちというほどではないにせよ、父には安定した収入があり、生活にも困っていなかった。ただ一緒にいるのに疲れたから別れることにした……そんな印象しか残らない離婚だった。
結婚生活そのものにさしたる問題がなくても、男女の間には、そういうことが起こるのかもしれない。相手がそこにいる、という状態に沈みこむような疲れを覚える、ということがあるのかもしれない。
ずっと後になって、わたしはそう考えるようになった。男と女の間には、愛情やモラルや情熱、性的魅力、といったものとは少し違う、何かもっと他の、性が異なる、というだけで相手を疲労させてしまうような、得体の知れない何かが潜んでいるのかもしれない、と。情熱の腐り果てた後の疲労感ではない。それはもともと、そこにあった疲労感なのかもしれない、と。
離婚と同時に母はわたしを養育することを放棄し、わたしは父に引き取られた。母がわたしを邪魔にしたわけではない。嫌っていたわけでもない。それはわかっている。母は昔から神経症を患っていて、気の毒なほどだった。離婚した上に、わたしを引き取り、わたしを育てていかねばならないとなったら、その重圧は母を容易に死に至らしめることになっただろう。
母はすべてのことが気になる人間だった。母にとっては、一切の現実が不吉なのだった。
或《あ》る時、夏の夕暮れ時だったが、わたしと一緒に川べりの道を散歩していて、母は「あ」と小さな叫び声をあげた。
わけを聞いたのだが、答えない。そそくさと逃げるようにわたしの手を掴《つか》むなり、母は走り出した。息せき切って走り続け、家に飛び込み、母はわたしを抱きしめて「大変だわ、大変だわ」と言った。「お母さん、さっき誰かのお位牌《いはい》を踏んじゃった。お位牌のかけらよ。きっと何か悪いことが起こるわ」と。
ありふれた小石……いくらか大きめの小石だったのだとしても……を踏みつけたことの何が、それほどの不安を呼び覚ますのか。どうしてそれが小石ではなく、位牌のかけらだと断定できるのか。だいたい、位牌のかけらがどうして道の真ん中に落ちていなければならないのか。幼かったわたしはうまく質問できずに終わった。
母は、帰宅した父にも同じことを訴えた。父は笑い、呆《あき》れ、困惑し、しまいには怒りだした。それが位牌のかけらだとどうしてわかるんだ、証明してみろ、と言った。
母は、位牌を積んで引っ越し中だったトラックがあのへんで落としていったのよ、と言った。本当よ、そうに違いないわ、落としたもんだから、割れて飛び散ってしまったのよ、と。あれは絶対に位牌だったんだから、それ以外、考えようがないでしょう、と。
庭先でカラスが鳴いた、茶碗《ちやわん》の縁が欠けた、櫛《くし》の歯がこぼれた、財布に結んでいたお守りの紐《ひも》が千切れた……日常生活の折々に起こる、些細《ささい》な、ありふれた出来事の数々が、母を恐怖のどん底に陥れ、そのたびに母は震えながら「野乃に何かいやなことが起こるのかもしれない。お母さんが病気になるのかもしれない。お父さんが事故にあうのかもしれない」と繰り返した。
母は誰をも愛してなどいなかった。母が愛していたのは自分だけだった。わたしを抱きしめながら、野乃、野乃、あんたの身に何か起こったら、お母さん、どうすればいいの、と口走っていた時でさえ、母はわたしではない、自分のことしか考えていなかったのだ。
両親の離婚後、父のもとで暮らしていたわたしは、エスカレーター式の私立の女子高に進学した。深夜まで父が帰って来ないような日が何日か続いたと思ったら、或る日曜の朝、父は「野乃に紹介したい人がいる」と切り出した。
お父さんの女? と聞き返した。父は渋面を作り、そういう品のない言い方はやめなさい、と言った。
父の再婚相手は若い女だった。わたしと十歳しか違わない。女は会うなり、わたしのことを「野乃ちゃん、ねえ、野乃ちゃん」と気安く呼んだ。美人で愛嬌《あいきよう》はあるが、からだ全体に締まりがなく、性的にだらしのない、腰から下だけで充分楽しく生きていけるような女だった。
その女と父がセックスしている場面を何度も想像してみた。想像の中の父に顔はなく、女の顔だけが大写しになる。唇の厚い女で、前歯が少し出っ張っている。仰向《あおむ》けになると品のない顔になり、烈《はげ》しいピストン運動をしている父の下で、豆腐のように柔らかい大きな乳房がゆらゆらと揺れ続ける……。
わたしとエマの交流は、結局のところ、八年に及ぶことになった。八年! それが長かったのか短かったのか、茫洋《ぼうよう》とした人生の記憶の中の一こまにすぎないと言うべきなのか、わたしにはよくわからない。
八年という歳月は、考えてみれば数字の上だけのことで、それが八ケ月だったとしても十八年だったとしても、大して違いはないようにも思える。エマと過ごした様々な時間、風景を思い出すのは、自分の幼年時代の記憶を思い出すのと同じように簡単で、他愛のないことだからだ。
エマはわたしの記憶の中で、いつも同じ顔を見せている。わたしが出会った時、エマは三十七歳だった。三十七歳のエマも四十五歳のエマも、わたしにとっては同じエマである。何ひとつ変わらない。それはエマという一人の女の映像であり、時間はセピア色と化したフィルムの中で完全に停止している。
わたしと知り合ってから、エマはいったい、何人の男と関わったのか。エマは男と寝た後で、それをわたしに報告した。隠す理由などなかったのだから、報告された話の内容は嘘偽りのないものだったろう。わたしならエマの相手の正確な数を言いあてられるはずである。
彼らとどこでどうやって知り合っていたのかは、よくわからない。エマは有名な詩人だったし、その美貌《びぼう》のせいで、女優やモデル、タレントのような扱いも受けていた。エマ自身、芸能界には決して足を踏み入れようとはしなかったが、どこにいてもエマは男を吸い寄せた。おそらくは、美貌を誇る女優やモデル以上に。
その中から、エマは選《え》りすぐりの相手を嗅《か》ぎ分けた。エマが選び出す男たちに、つまらない下卑た男はひとりもいない。たとえその男が、自分の金目当てで近づいて来ている、とわかっていても、エマにはその男の内側に隠されている、本当の狙いを嗅ぎあてる力があった。
「金持ちの女のヒモになりたがるような男は馬鹿じゃないわ」とエマは言った。「馬鹿はヒモにはなれないの。そういう男には、決まって別の目的があって、それはわたしたち女が想像しているよりもずっと、複雑で深淵《しんえん》で、時によっては哲学的なものでもあるのよ」
哲学的だったかどうかは別にしても、確かにエマが連れて来る男たちには共通の魅力があった。少なくとも、これなら、と思わせる相手ばかりだった。
一度で終わる関係もあれば、数回続けて会って急に理由なく終止符が打たれる相手もいた。かと思えば、二月も三月も、あるいは半年近く、まるで本物の恋人のように、ステディのように親密に関わり続ける相手もいた。
男はエマにとって、ビタミン剤であり、同時に詩を書くための道具、あるいはまた、退屈しのぎ、もっと悪く言えば、ボクサーにとってのサンドバッグのようなものだった。機嫌が悪くなるとエマは外に出て行く。そして、どうやって親しくなるのかは見当もつかないのだが、ともかく男を拾ってくる。
エマはその男を相手に、簡単に全裸になる。文字通りの全裸であり、そこには情け容赦のない迫力がある。明日、地球が滅びるとわかっていても、男に生殖行為を促す女スパルタンのようでもある。
ちょうど、佐伯がエマの忠実な下僕になったように、エマにかかると男なら誰でも、束の間、エマにかしずくことを望むようになる。男をかしずかせ、精気をもらい、そうやっているうちにエマ自身、元気を取り戻す。顔に表情が戻ってくる。エマの機嫌は直る。
或《あ》る時、わたしはそれをエマの不思議な法則≠ニ呼んだ。
エマにその話をすると、たいそう面白がり、思い出したように「ねえ」と言った。「野乃、あなたはまさか処女じゃないでしょうね」
たとえちょっとした想像だったにせよ、エマに処女だと思われたということがわたしの自尊心を傷つけた。
「そう見える?」とわたしは聞き返した。
「時々ね」とエマは答えた。「男を知らないように見えたりすることがあるわ。仕方がないわよ。若すぎるんだもの」
あの時、どうしてそんな子供じみたことを言ってしまったのか、未《いま》だに説明ができない。わたしはエマの吸っていたたばこのパッケージから一本抜き出し、自分で火をつけた。たばこを吸うのは苦手だったが、エマのように素晴らしくエロティックにたばこが吸える女になるためには、何度でも吸ってみるつもりだった。
煙が肺まで届かないように、そっと吸いこみ、咳《せ》きこみそうになるのをこらえながらわたしは言った。「エマさんの代わりに、佐伯さんと寝てあげてもいいのよ」
エマはちょっとびっくりしたようにわたしを見つめ、ふざけた様子で眼球をぐるりと回して天井を仰いでみせると、おやおや、と言った。「頼もしい助《すけ》っ人《と》ができた、ってわけね」
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エマの唇。それはエマの顔の中にあって、別の生き物のようにも見える。
笑っている時、エマの唇は美しい口角を結んできりりと上がる。白く形のいい歯を惜しげもなく剥《む》き出しにして、彼女は笑う。そうやっている時のエマの唇は、健康と生命力、或る種の陽気な獰猛《どうもう》さにあふれている。
だが、ひとたび黙りこむと、エマの唇は不機嫌そうなへの字を描く。あらゆる表情が消え失せる。憂鬱《ゆううつ》、倦怠《けんたい》、不満……そんな気配が彼女を包む。さらに口紅を拭《ふ》き取れば、それは薄桃色の湿った肉塊と化して、女の性器を連想させる。
上唇に小さなさくらんぼが二つ、下唇の真ん中あたりにそれよりも少し大きめのさくらんぼが一つ、それぞれ埋まっているような感じである。エマが唇を半開きにすると、三つのさくらんぼがきれいに円を描く。中央にぽっかりと、小さなハートの形をした空洞ができて、それは見る者を誘うかのようにわずかに蠢《うごめ》く。
思わずそこに人差し指の先を押し込んでみたくなる。あげくの果てに自分の唇を近づけてみたくなる。触れてみたい、舌先で舐《な》めてみたい、その三つのさくらんぼを開かせて、奥のものを思いきり吸ってみたい……同性愛者でもないわたしが、時にそう思ったほどなのだから、男なら、なおさらだったはずである。
わたしは鏡で自分の唇を覗《のぞ》きこむ。エマの唇とは似ても似つかない。形は悪くはないが、エマのようにさくらんぼを孕《はら》んでいるようなふっくらとした厚みがなく、笑うと笑った口になり、黙ると黙った口になる。ただそれだけの、これといった特徴のない唇である。
仮に百枚の女の唇の写真の中から自分の唇を選び出せ、と言われても、見分けがつかなくなるかもしれない、とがっかりし、わたしはその、どうということのない自分の唇に熱心にルージュを塗っては、エマが不機嫌な顔をした時のまねをする。
唇を尖《とが》らせるのでもなく、真一文字に結ぶのでもない。不機嫌な時のエマの唇は、いつもよりもさらに無表情になって、にもかかわらずいっそう丸みを増す。怒ったさくらんぼが赤く膨張したかのようである。わたしは鏡に向かって、そんな唇をまねようと必死になる。
何のためにそんなことをしているのか、わからない。理由などなく、人に聞かれても答えようもなかっただろう。わたしはただ、エマのようになりたいと思っていただけなのだ。
遠い記憶の残像の中には、常にわたし自身が鏡に向かって、密《ひそ》かにエマを学習し、演じようとしていた時の光景がある。わたしは愚かで頭のからっぽな、人まね子猿である。唇を突き出す。人を睨《にら》むような目をしてみせる。胸を張り、腰を振って、踵《かかと》の高い靴をはきながら前かがみになり、尻《しり》を突き出すポーズを取る。冷たく笑う。冷やかな流し目を送る。鬱陶《うつとう》しげに髪の毛をかきあげて、氷のたくさん入ったジンのオンザロックを飲む。電話の受話器を握りしめ、愛の告白をしてくる男たちの言葉をうわの空で聞きながら、さも鬱陶しげに足の爪に赤いペディキュアを塗り続ける……。
それらすべてのエマをまねているわたし。世界一、愚かで、世界一、エマが好きだったわたし……。
あなた、ひょっとして処女なの、とエマに聞かれ、自尊心を傷つけられてから、わたしはことあるごとにエマの前で、大人の女のふりをするようになった。
自分はもう子供ではなく、男のからだを知っている、セックスの快感も知っている、とわたしはエマにそれとなく言い続け、言外に、「寝た男は一人や二人ではない」という、途方もなく馬鹿げた嘘まで匂わせた。
信じたのか信じなかったのか、エマは「そう」とうなずくだけで、さしたる質問をしてくるわけでもない。もしかするとまるで信じていないのではないか、と不安になり、わたしはさらに嘘をつく。
具体的な嘘ではなく、抽象的な嘘。男に乳首を愛撫《あいぶ》された時の快感や、首すじにキスをされた時の快感、烈《はげ》しく突き上げられている時の快感をわたしは必死になって別の言葉で表現しようとする。エマさん、わかるかしら、海になるのよ、からだ全体がぬるい海になって、自分自身をのみこんでいくのよ、しまいにはわけがわからなくなって、頭の中まで海になって溶けていくの……。
「うまい表現じゃないわね」とエマは冷たく鼻先であしらう。「女はみんな、そんなことを言うわ。海になった、とか、巨大なお花畑があって、その真ん中に投げ出されたみたいだ、とか、ジェットコースターで急降下したみたいだとか……笑っちゃうわね。みんな一緒」
「じゃあ、どう言えばいいの」
「例えばこうよ。自分が大きな靴下になって、その靴下が裏返しにされたみたいな感じがする、って」
わたしはいささかむっとしてエマを見返す。「その表現だって、あんまりうまくないと思うけど。平凡よ」
「怒ったの?」エマは片方の眉《まゆ》をつり上げて笑う。冷やかな、人を見下したような笑い声。横柄な冷たさ。世の中のすべてに満足していない、と言いたげな、やぶれかぶれの冷たさ。「馬鹿ね。男とあれをした時にどんな気持ちがしたか、言葉で表現するためには時間がかかるのよ。途方もなく長い時間がね。本当にうまく表現できた、って思える頃には、もう遅いの。女はお婆さんになってるのよ」
「わたしは大人よ。子供扱いしないで」
エマはふいに不機嫌になる。にこりともしないでわたしを見る。「わたしの前で、俗っぽい言いがかりはお断りよ」
そしてエマは草原の雌豹《めひよう》のようにすらりと立ち上がり、絨毯《じゆうたん》の敷きつめられた部屋から出て行ったきり、戻って来なくなる。
わたしが佐伯を誘ったのはその晩のことだ。
「よかったら御飯を食べに連れて行って」とわたしは言った。「エマさん、わたしに怒ってるの。部屋から出て来ようとしないのよ」
その晩、佐伯とエマは映画を観に行くことになっていた。部屋にとじこもったきり、訪ねて来た佐伯が呼びかけても返事がなかったため、佐伯は仕方なく映画に行くことを諦《あきら》めたのだった。
佐伯はエマの理由のない突発的な不機嫌に慣れていて、いっこうに動じる様子もなく、「いいですよ」と言った。「御飯だけじゃなくて、代わりに一緒に映画に行きませんか」
「ううん、いいの。正直に言うと、すごくお腹がすいてて、なんにもものが考えられないのよ」
わかりました、と佐伯は笑顔で言った。「じゃあ、急いで食事に出かけましょう。何が食べたい?」
「なんでも」
「なんでも、じゃ困るな。好きなものを言ってごらんなさい」
少し考えたあげく、わたしは「ラーメン」と言った。
佐伯は今にも笑いだしそうに唇の端を上げ、微笑ましげにわたしを見下ろした。
「ちょうどいい」と彼は言った。「僕もラーメンが食べたいと思ってたところなんです」
佐伯に連れて行かれたのは、渋谷《しぶや》の裏通りにある、お世辞にもきれいとは言えないラーメン専門店だった。暖簾《のれん》もカウンターの上のメニューも、油で黒光りしているような店で、店員の愛想も悪い。店内は麺《めん》を茹《ゆ》でる湯気でもうもうと曇っているほどだったが、わたしは後にも先にも、あんなにおいしいラーメンを食べたことはない。
「おいしかった」と、わたしは一滴余さず汁を飲み干してから言った。「ほんとよ。ものすごくおいしい。毎日、これだけ食べててもいいくらい」
「喜んでもらえてよかった」と佐伯は言った。「また来ましょう」
店を出て、師走が近づいた渋谷の街をわたしは佐伯とそぞろ歩いた。あちらこちらにクリスマスのイルミネーションが飾られていて、街は賑《にぎ》わっていた。
夏にエマのところに転がりこんで以来、四ケ月の月日が流れていたが、わたしはまだ高校三年生だった。出席日数が足りずに卒業できるかどうか微妙なところだった上に、その頃になると、まるで学校にも行かなくなっていた。佐伯はそのことについては何も触れなかった。
佐伯が聞いたのは一つだけ。わたしの親のことだけだ。
「つまらない質問だけど」と彼は慎み深い口調で言った。「前から一度、聞きたいと思ってたことがあるんです。野乃さんがエマさんと一緒に住んでいることについて、お父さんやお母さんは、どう言ってるんですか」
「父は実の父だけど、母親はママハハよ」わたしは訂正を促すように言った。「父親もママハハも、わたしがエマさんのところにいるってこと、何も知らないわ」
「でも家に帰っていないわけでしょう?」
「父もママハハもわたしの家出には慣れてるの。家出なんか、しょっちゅうだったのよ。さすがに今回は家に帰らないまんまでいるから、警察に捜索願いを出したかもしれないけど」
「穏やかじゃないですね。じゃあ、ご両親とはずっと連絡を……」
「取ってないわ」
嘘だった。エマのところに居候するようになってから、わたしは二度、自宅に電話をしている。
一度目の電話ではママハハが出てきたので、「友達のところでしばらく一緒に暮らすことにした」と言った。その友達の名前と住所を聞かれたので、適当にでっち上げた。学校にはそこから通うから、と言い、一方的に電話を切った。
財布を覗《のぞ》くと、最寄り駅から自宅までタクシーに乗るだけの金は入っていた。タクシーで自宅まで乗りつけて、ママハハにろくな挨拶《あいさつ》もしないまま、当座必要なものを手当たり次第にボストンバッグに詰め込んだ。
ママハハはわたしの部屋の戸口に立ったまま、おろおろし、「家を出るの?」と聞いてきた。
まあ、そんなようなものね、とわたしは答えた。「ねえ、悪いけど、お金貸してくれない? 帰りのタクシー代、足りなくなりそうなの」
「教えてちょうだい。わたしの何が気にいらないの」
「別に何も」
「わたしが嫌いなのね」
「そういうこととは関係ないのよ」
「わたしじゃ、お母さんになれなかったってわけ?」
「言ってるでしょう。あなたがどんな人でも、わたしの生き方には何の関係もないのよ。あなたはお父さんと楽しくやってればいいじゃない」
「ひどいわ。わたしだって、わたしだって、一生懸命、野乃ちゃんのいいお母さんになろうとして頑張ってるのに……」
涙声が聞こえた。悪いけど、とわたしはぶっきらぼうに言いながら、荷物でふくれ上がった大きなボストンバッグを持ち上げた。「急ぐの。お金、貸してくれないかしら」
ママハハはわなわなと震えながらわたしを睨《にら》みつけた。貸してよ、とわたしは繰り返した。
家の奥に引っこんで行ったママハハは、財布を手に戻って来て、中から千円札をつまみ出そうとした。わたしは財布ごとひったくるようにして手に取り、中を覗き見た。一万円札が一枚と、千円札が四枚入っていた。
わたしは一万円札を抜き取ると、財布をママハハに戻し、「いつか返すわ」と言った。「約束する」
「また連絡くれるわね」
「多分ね」
「お父さんが心配するわ。何て言えばいいの」
「自分で考えてよ」
「学校の先生から連絡が来たら、本当のこと言うけど、いいんでしょ?」
「好きにして」
「来年の春、卒業なのに。どうしてそれまで待てないの」
さよなら、とわたしは言い、片手を上げながらママハハを振り返った。
ママハハは、棒立ちになって泣きまねをしているだけの、太った少女のように見えた。涙声を出しているのに、その目は潤んでさえいない。
わたしはその姿を視界から叩《たた》き出すようにして、勢いよく玄関のドアを閉じた。
二度目の電話は、それからひと月ほどたってからのことになる。父が出てきて、「どこにいるんだ」と怒鳴られた。
「友達のところ」と答えると、「嘘を言うな」と言われた。学校から連絡が来て、恥をかいた、お父さんはおまえをそんなふうに育てたつもりはないのに……父はそう言い、さめざめと泣き出した。
嘘泣きだとわかっていた。都合が悪くなると、父はすぐに泣いた。父の再婚相手のことをわたしが嫌いだ、と言った時もそうだ。しらじらしく芝居がかった涙を流し、父は少年のようになって、私の許しを乞《こ》うたのだった。
父はまだ喋《しやべ》り続けていたが、わたしはかまわずに受話器をおろした。以来、自宅には電話していない。
実の母のこと、ママハハとのいきさつを佐伯に語るのは、何か面倒な気がした。わたしは黙っていた。佐伯もそれ以上、何も聞いて来なかった。
「佐伯さんって、エマさんのこと、本当に愛してるのね」
わたしがそう言うと、佐伯は鷹揚《おうよう》に微笑み、「愛してますよ」と言った。
「そんなに愛してるのに、どうして結婚を申し込まないの」
「エマさんに結婚は似合わない」
「エマさんは自由にやってるじゃない。いろんな男の人とつきあって。そういうエマさんを見ても嫉妬《しつと》しないの?」
「そういうエマさんが好きなんだから、仕方がないですよ。さあ、そろそろ戻りましょうか。エマさんの機嫌も直ってるかもしれない」
佐伯は手をあげて、通りかかったタクシーを停めた。まるで、未成年者は早く家に帰さねばならない、と信じこんでいる、どこにでもいそうな大人のようなふるまいだった。わたしにはその、きわめて紳士的なふるまいが少し不満だった。
「もう帰るの?」
「どこか他に行きたいところでも?」
「別にないけど」
「エマさんが待ってますよ」佐伯はなだめるように言って、わたしをタクシーに乗せた。
佐伯の眼中にわたしはなく、彼の頭の中にはエマしかいない、ということがわたしにはよくわかっていた。物足りなさというよりも、不思議な淋《さび》しさを感じた。とりたてて男としての魅力を感じているわけでもない、父親のような年齢の佐伯に対して、どうしてそんな気持ちを抱くのか、よくわからなかった。
エマのマンションに戻ってみると、エマは留守だった。わたしはエマから合鍵《あいかぎ》を預かっていたので、それを使って中に入った。
エマの寝室を覗いてみた。ベッドはシーツやら毛布やらベッドカバーやらが皺《しわ》だらけに乱れていて、男と女が烈《はげ》しく交わった後のようにも見えたが、実際にエマが私や佐伯の留守中、そこに男を呼びこんだ形跡は何もなかった。
「どこかに遊びにでも行ったんでしょう」佐伯がそう言い、開けっ放しにされていたクローゼットの扉を指さした。「着替えに手間取ったみたいですね。何を着ていこうか、迷ったんですよ。ハンガーにかかったドレスが、あんなにぐちゃぐちゃになってる」
わたしはエマのベッドに腰をおろした。「エマさん、ほんとに怒ったんだわ。帰って来るかしら」
「大丈夫。朝までには必ず」
「あやまらなくちゃいけない。エマさんを怒らせたのはわたしだから」
「気にしないことです」そう言いながら、佐伯がちらりとわたしに視線を投げた。美術館に陳列されている彫刻でも眺めるような目つきだった。
ほう、と彼は言った。「そうやっていると、野乃さんはエマさんの若かった頃に似ているな」
「嘘よ。わたしはエマさんみたいにきれいじゃないもの」
「そんなことはない。どこか似ている」
「お世辞?」
「いや、違う。本当です」
佐伯の視線はわたしから離れない。だがそれは、男が女を眺める時の妖《あや》しげな視線ではない。鑑賞する視線、遠くから褒めたたえるだけの視線……。わたしはベッドから降り、敷きつめられた絨毯《じゆうたん》の柔らかさを足の裏に感じながら、まっすぐに佐伯のほうに向かった。
どうしてそんなことをしたのか、わからない。佐伯を誘惑したかったのか。佐伯を誘惑したことを、後になってエマに自慢してみたい、と思ったのか。佐伯という男に対して、ちっともそんな気持ちになどなっていなかったというのに、わたしは彼が無意識に隠しているに違いない、雄としての衝動を確かめてみたくてたまらなくなった。
寝室の入口に佇《たたず》んでいた佐伯に近づくと、わたしは一足飛びにその胸に飛び込んでいった。
「どうしたんです」
佐伯は少し驚いたように、一瞬、からだを固くしたが、それだけだった。笑っているようでもあった。子供にいきなり抱きつかれた大人のように。
佐伯はさほどの長身でもなかったが、それでもそうやって抱きつくと、わたしの顔は佐伯の喉《のど》のあたりに落ちついた。わたしは顔を上げ、彼を見た。
「キスして」
佐伯は笑った。苦笑した、と言ってもいい。「どこにキスしましょうか。額? ほっぺた?」
「ふざけないで。キスって言ったら、口にするもんでしょう?」
佐伯はさらに笑い声をあげた。のけぞるようにして笑いながら、彼はうまい具合にわたしから離れていった。
佐伯は細めた目の奥で、わたしをじっと見つめた。その顔にあったのは、常識や世間のモラルを守ろうとする時の大人の表情と、そして、愚かな小娘を諭す時の男の表情だった。
「そんなことはしてはいけませんよ」
「大人ぶってるのね」
「していいことと、悪いことがあります。違いますか」
「女から誘ったのよ。断るなんて、失礼じゃない」
「そうだったとしたらあやまります」
気がつくと、わたしの右手は佐伯の左の頬を張っていた。
手が痺《しび》れた。男をひっぱたいたのは二度目だった。一度目は、小学生の時。机の脇に足を出して、わたしを転ばせた同級生の悪ガキを思い切りひっぱたいたのだが、その時のような快感は何ひとつなかった。みじめな気持ちになってわたしは唇を噛《か》んだ。
佐伯はひとつも動じた様子を見せずに、わたしに向かってゆったりと微笑みかけた。おやすみなさい、と彼は言った。そして何事もなかったように、部屋を出て行った。
佐伯の口からエマにそのことが伝わる前に、わたしは自ら、一部始終をエマに打ち明けた。エマは面白がって笑い声をあげたが、佐伯があなたにキスすることを拒んだのは大人げなかったわね、と感想を述べた。
わたしもそう思う、とわたしは言い、かすかな罪悪感に晒《さら》されながらも、その瞬間、エマのことがますます好きになった。
「あなたがいいと思った男がいたら」とエマは言った。「わたしに遠慮することなんか、ちっともないのよ」
「どういう意味?」
「あなたの好きにすればいいわ。そんなのちっとも構わないから」
「でもわたしは、別に佐伯さんがいいと思ったわけじゃないの。ただちょっと……」
「何?」
「試してみたかっただけ」
エマは天井を仰ぐようにして笑った。ころころと鈴を鳴らすような笑い声が高らかに上がって、わたしはその時、エマが心底、楽しそうに笑っていることを知ったのだった。
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ひとつ断っておかねばならないことがある。
わたしはエマとの間で起こった数々の出来事について、その経緯を語ろうとしているのではない。何年の何月何日に自分が何をして、エマが何をした、というように、時間を追いながら物語を進めていこうなどと、わたしは初めから考えてはいなかった。
事実を並べ、時間と共に積み重ねていくことにわたしは興味を覚えない。だいたい、エマとわたしの間で、いったい何が積み重ねられていったというのだろう。何が起こっても、それは時間の流れの中に飴《あめ》のように溶けこんでしまい、痕跡《こんせき》を残さなかった。時折、思い返してみることはあっても、それが全体の中の何を意味しているのか、未《いま》だ分析することができずにいる。
何かが始まるということもなければ、終わるということもなかった。日常の出来事はすべて、柔らかい粘土の山を針先でつついただけのようなもので、そこにできた小さな点は、じきに粘土の中に埋もれてしまって見分けがつかなくなった。昨日と一昨日を区別することは難しく、ましてひと月前の或《あ》る一日に何があったか、思い出そうとするのは、神業に近い作業だった。
時間が流れ、堆積《たいせき》していく中で、一切を混沌《こんとん》のままに、曖昧《あいまい》なままに残しながら、わたしは生きていた。検証したり、分析したりすることはしなかった。たった一つの崇高な真実を手に入れるために、ひたすらまっすぐに歩いていこうとする純粋さとも、はなから無縁だった。
真実という言葉を耳にすると、わたしは鼻先で笑う。そんなものは豚の餌《えさ》にしてしまえばいい、と思う。真実などというものを手に入れたとして、いったい何がわかるというのだろう。わかったという錯覚が欲しいだけなら、錯覚の中に溺《おぼ》れていればいい。
その意味で言ったら、エマのほうがよほど真実味のある人生を生きていた。エマは男に抱かれ、膣《ちつ》の中を男のものでいっぱいにして、悦楽に喘《あえ》ぎながら、それでも頭の中で別のことを考えていた。
エマの頭の中には言葉が詰まっている。エマは言葉を支配し、時にはその言葉自体に溺れようとする。
真実など存在しない、とわかっていて、エマはその、何もない状態、すべてがあらかじめ失われた状態にこそ、真実があることを知っている。それは言葉で表現し尽くせるものではないが、同時に言葉でしか表現できないものでもある。
言葉の孕《はら》む矛盾の中にエマはいて、それでもエマは言葉を手放そうとしない。エマは喋《しやべ》り、エマは書く。そしてそれらをすべて、かなぐり捨てるような勢いで、エマは別のエマになる。男たちの誰彼となく、求められれば応じ、求められなくても、自分が媚態《びたい》をふりまいて彼らがどう反応するか、エマにふさわしい余興に浸る。
エマには器はない。エマはいっときも同じ形をしていない。円形の器に入ればエマは丸くなり、四角い器に入ればエマは角張る。それだけのこと。そして多分、それが真実なのだ。
わたしは真実という言葉を用いる時、今も変わらずにあの頃のエマを思い浮かべる。そして、その記憶の中のエマの隣には、昨日も今日もないような暮らしをしていた頃の、自分自身がいる。
高校を卒業できたのは奇跡としか言いようがないのだが、そこには幾分、わたし自身の計算もあった。
わたしにはすでに、損か得か、で人生を眺める癖がついていた。スーパーのレジ係になるにも、小さな会社の事務員になるにも、高校の卒業証書がないよりはあったほうが遥《はる》かにましだった。世間というものはそういうものだ。そのこと自体をいいとか悪いとか言ってみても始まらない。もらえるものはもらっておいたほうが得であり、そのために多少の無理はしてもいいだろう、とわたしは考えるようになっていた。
わたしはエマのマンションから週に二、三度、定期的に高校に通うようになった。卒業に必要な最低限の出席日数を確保した上で、期末試験にも臨んだ。そのための勉強は苦痛だったが、なんとかやり通した。
エマはわたしが教科書を睨《にら》みつけているのを見るたびに笑い、わたしが「行って来ます」と言ってマンションの玄関を出ようとするたびに笑った。
そうやっていると、別人みたいに見えるわね、とエマは面白がる。時にはわたしが勉強している最中に、ジンのオンザロックのグラスを差し出しては、「少し飲んだら? 頭がよくなるわよ」などと冗談を言ってくる。
時々、母親のまねごとをしてみたくなるらしく、深夜、エマはわたしのためにホットココアや焼きそばを作ってくれた。おむすびを握ってくれることもあったが、握り方が下手くそだったせいで、頬張った途端に御飯粒がぽろぽろと、膝《ひざ》の上にこぼれた。
だが、じきにエマは母親のまねごとにも飽きてしまう。学校から帰り、わたしがエマを相手に学校生活のばかばかしさを語り始めても、エマはろくに聞いていない。エマは元麻布のマンションの、毛足の長い絨毯《じゆうたん》の上に素足で坐《すわ》り、時にはしどけなく横になったりしながら、わたし相手に何か別の話を始める。
別の話……男の話、セックスの話、どんなふうに口説かれたのか、どんなふうにベッドに入って、どんなふうに服を脱ぎ、どんな愛撫《あいぶ》を受けたのか、あるいはまた、わたしにはよくわからない詩の話、小説の話、音楽の話、新しく買ったドレスの話、上の奥歯に小さな虫歯ができて、歯科医院でがりがりと歯を削られていた時に、ずっと両目を大きく開けて、歯科医の顔を見つめていた時の話……。世界はいつだってエマ中心にまわっていて、途切れることがない。
私は聞く。「ハンサムだったの?」
「誰が?」
「その歯医者よ」
「少なくとも醜男《ぶおとこ》じゃなかったわ」
「独身?」
「そこまでは知らないわよ」
「で、どうなったの? その歯医者、真っ赤になって、手が震えてたんじゃない?」
「かなり困ってたみたいね。わたしと目を合わせようとしなかったもの」
「そりゃあそうよ」わたしは笑う。「そんなふうにエマさんに見つめられたら、男はみんな、どぎまぎして、失神しちゃうかもしれない」
「治療が終わった時、誘われたの。こんなところではない、別の場所でお目にかかりたい、って。他の人に聞かれないようにね、耳元でこそこそ囁《ささや》いたのよ」
「何て答えたの」
「目を丸くして、怪訝《けげん》な顔をしてやったわ。この人、何言ってるのかしら、っていう顔」そう言って、エマは少女のようにいたずらっぽい目つきをし、顎《あご》を上げて、ぶるんと髪の毛を揺すった。
その歯科医からは何度かエマあてに手紙がきた。電話もかかってきた。あまりにしつこかったので、エマは業をにやし、「ねえ、一緒につきあってよ」とわたしを誘った。「からかってやりたいのよ」と。
ちょうど高校の卒業式を終えた翌週のことだった。わたしはエマと共に待ち合わせ場所だった赤坂のホテルに行った。
エマが言っていた通り、醜男ではないが、ハンサムとも言いがたい凡庸な顔立ちの男だった。声が格別いいわけでもなく、眼差《まなざ》しに雰囲気があるわけでもない。背丈もあるほうではなく、小柄なエマと並べば大きく見えるが、佐伯のほうがよっぽどエマに似合う、と思った。
だがわたしは即座に、何故エマが、たとえほんの遊びだったにせよ、この男を誘うようなまねをしたのか、理解した。
男はどこかしら性的だった。実際にはどうだったのか知らないが、少なくとも性的な感じを漂わせていることだけは事実だった。わたしには、その男がエマを抱きよせ、細い腰に手を這《は》わせて、情熱的な接吻《せつぷん》をする光景が容易に想像できた。
性的であること……それこそがエマの求める男の原型だった。その男は少なくともエマに通じるための第一関門を突破していたのだ。
わたしとエマと歯科医は、三人で中華料理を食べに行き、ホテルのラウンジでカクテルをごちそうになった。エマは終始、わたしを自分の秘書として扱っていた。わたしはそれが面白くて、わざといかにも秘書らしい言葉遣いをしてみせながら、エマのためにタクシーを呼ぼうとしたり、エマが何か仕事の予定を口にすれば、何も書かれていない手帳を取り出して、「ああ、その日は午後から一件、編集者との打ち合わせが入っています」などともっともらしい作り話をしたりした。
たまたま、エマから借りたクリーム色のスーツを着て、濃いめの化粧をしていたせいだろう、歯科医はわたしのことを本物の秘書であると思ったようだ。
「美しい女性には、やはり美しい秘書がいらっしゃるんですね」などと、歯の浮くようなお世辞を言い、内心、わたしを邪魔者にしていたのは明らかだというのに、表向きにこにこと取り繕《つくろ》って、わたしとエマとを元麻布のマンションまで送り届けてくれた。
部屋に戻り、服を脱ぎ捨て、わたしとエマはげらげら笑いながら、その日の会話を再現して楽しんだ。
ねえ、本当にわたしの秘書になる気はない?……エマがそう聞いてきたのは、確かあの晩のことだ。
わたしは笑うのをやめ、「冗談でしょ」と言った。「わたしなんか頭は悪いし、のろまだし、わがままだし、途中で自分がやってることが急にいやになったりするし……わたしなんか雇ったら、エマさん、きっと一生後悔するに決まってる」
「秘書って言っても、大した仕事があるわけじゃないのよ。これまでだって秘書なんか置かずにきたんだから」
「佐伯さんがいるんだもの。充分じゃない」
「彼は秘書じゃないわ」
「秘書が欲しくなったの?」
別に、とエマは言い、皮肉たっぷりにわたしを見た。「わたしの傍にいれば楽よ。いろんな意味で。わかってると思うけど」
わたしもまた、エマを見た。「……お金のこと?」
「露骨ね」
「わたしは一文無しだもの」
「わたしがあなたを追い出したらどうする?」
「考えたことないわ」
「吐き気がするくらい退屈なレストランで皿洗いでもする?」
「いやよ」
「大学病院の死体洗いのアルバイト、っていうのもあるらしいわ。日当一万円。儲《もう》かるわよ」
「一年中、死体を洗ってろ、って言うの?」
「誰かに囲ってもらう手もあるわね」
「囲われるくらいだったら、街に立って男にからだを売ったほうがまだましよ」
馬鹿な子、とエマはうんざりしたように言い、たばこをくわえると自分でマッチをすって火をつけた。「まだ子供なのね。打算で生きるんだったら、徹底して打算的にならなくちゃ。お嬢ちゃんの浸りそうなロマンティシズムは捨てることね」
エマの言わんとすることはよくわかった。わたしは軽くうなずき、ごめんなさい、と小声で言った。「居候させてもらってるだけなのに。生意気なこと言ったわ」
別にいいのよ、とエマは言い、軽く眉《まゆ》をつり上げた。「ここにいたければ、好きなだけいればいいのよ。ただね、秘書っていう肩書にしておけば、何かと便利だと思っただけ。人に紹介する時も、一緒に仕事につきあってもらう時も。それだけのこと」
確かに秘書ということになれば、どこに行くのにも堂々とエマと行動を共にできる。それまでのように、居合わせた人々の間でひそひそと「あの子は誰?」と交わされる話を遠く近く、耳にせずともすむ。そして何よりも、ただで居候させてもらっているという負い目を感じずにすむ。
「一つ質問させて」わたしは言った。「秘書になったら、エマさんのこと、先生って呼ばなくちゃいけない?」
「これまで通りでいいわよ。あなたに先生って呼ばれたら、蕁麻疹《じんましん》が出る」
わたしは笑いながらうなずいた。
新川エマの秘書、という架空の肩書は、その時からわたしのものになったわけだが、以後、エマの元にいながら、わたしは一度も秘書らしい仕事をしたことがない。
食べさせてもらっている関係上、こまごまとした雑用を引き受け、かかってくる電話に応対するくらいのことはやった。秘書の方ですか、と聞かれれば、こくりとうなずいてにこやかな笑顔を作り、そうです、と答えた。
だが、秘書らしく機転をきかせて、エマのために率先して何かをしてやることはなかった。付き人よろしくエマの影になり、エマを女王様のように扱うようなことも一切しなかった。
わたしはただ、それまで通り、エマの傍にいて、盗み見るようにしてエマを眺め、エマの模倣をし、エマに憧《あこが》れていただけだ。エマと一緒に仕事先の誰かと会っている時も、エマの講演会やサイン会、あるいはテレビ出演が終わって関係者たちと食事をしている時も、エマと一緒に何かの退屈なパーティーに出席している時も、どんな時でも、エマに雇われている使用人らしい態度をとることはなかった。何か命じられれば、素直に聞き入れたが、そうでない場合はエマと同列に坐《すわ》って、エマの分身であるかのようにふるまった。
エマの分身!
エマはわたしにとって、到底、女としてかなわない相手だった。エマを乗り越えようなどと思ったことは一度もない。
だが、わたしにとってエマはスクリーンの中の憧れの女優に匹敵した。少女めいた同化願望が、確かにわたしの中にはあった。
だが、スクリーンの中の女優は遥《はる》か遠い、抽象的な存在に過ぎない。話すことも触れることもできない。現実に会えば、想像とは異なって見える場合もあるかもしれない。
一方、エマは常にわたしの傍にいた。エマはいつも具体的で、生身だった。
わたしはエマが長い漆黒の睫毛《まつげ》をゆっくりと下ろし、エマらしい、もったいぶったような瞬《まばた》きをするのを間近に見ることができた。エマが大きく口を開けて笑った時、あの馬鹿な歯科医が治療した奥歯を覗《のぞ》き見ることもできた。触れようと思えば、エマの腕や肩に触れることもできたし、エマはわたしに限らず、女からそうされることをあまり好んではいなかったが、ふざけてエマに抱きつき、キスをすることだってできた。
そんなエマの傍にいることが、わたしには誇らしかった。傍にいる、ということだけで、わたしはエマと同化した気分になれた。
だが、その話をエマに打ち明けたことはない。エマなら言うだろう。呆《あき》れたようにちょっと唇の端を曲げて、少しだけ意地悪そうに言うだろう。
「あなたはやっぱり子供ね」と。
エマの周辺をうろついている男たちが、わたしに目をつけるようになるまでに時間はかからなかった。
とはいえ、それはわたしがエマに準じるほど男を引きつけたから、ということでは断じてない。わたしは相変わらず痩《や》せぎすで、柔らかなところなどどこにもなかった。傲慢《ごうまん》で、不遜《ふそん》で、愛らしさに欠けていた。おまけにエマほどの知性もなく、エマほどの強さもなかった。唯一の武器であったはずの若さも、何の役にも立たなかった。少なくともエマのような女の前では。
「蝉のおしっこ」とエマは形容した。わたしのような若い娘が発散する色気など、蝉が飛び立つ時に、ぴゅっ、と顔にひっかけていく、生暖かいおしっこ程度のもの、というわけだ。
わたしにその、「蝉のおしっこ」があったかどうかすら、疑わしい。男たちを悩殺する女は、そのための才気を持っている。生まれながらにして持ち合わせている才気である。
そしてわたしには、その才気はなかった。おそらく今もないのだろう。ないままに生きてきて、ないままに、エマと男を共有してきた。そんなことができたのは、才気のないわたしにも、その方面のささやかな能力が少しは備わっていたせいかもしれない。
男たちは実に巧妙なやり方で、エマからわたしへと標的を絞り直した。エマと一度は深い仲になったものの、後になってふられてしまった気の毒な男たちだ。
男たちは、ふられた腹いせに別の女に手を出している、と思われたくないのか、あるいはわたしに対する礼儀だと思っていたのか、あたかも初めからわたしがお目当てであったかのようにふるまった。その演技力は見事と言ってよく、わたしは感心して眺めていた。
エマのからだを通り過ぎた男が、今、自分の上に乗っている、と思うと不思議な気持ちになった。エマと比べられることの恐怖心のようなものは何もなかった。むしろわたしは、エマにふられた彼らを気の毒に思っていた。優しい気持ちにすらなっていたと言ってもいい。
そのせいもあってか、男たちも一様にわたしに対して優しかった。わたしがまだ二十歳にもなっていないことを知ると、わたしのからだの線が美しいこと、肌がつややかであること、弾力があることなどを褒めたたえた。いっときのお愛想とわかってはいたが、わたしは彼らに言葉によって褒められ、丁寧に愛撫《あいぶ》され、肉体が潤いを増していくことに次第に慣れていった。
エマの前では数知れない体験を積んだように見せてはいたものの、性の交わりに関して、わたしには技巧も何もなかった。お手本通りに喘《あえ》ぎ、感じた気分になってからだをのけぞらせてみせるだけで、その実、わたしは性に溺《おぼ》れることの悦《よろこ》びを知らずにいた。
だが、彼らの目に、わたしの不器用さ、冷感症的な自意識は、むしろ愛らしいものとして映ったらしい。男たちはわたしをリードし、わたしを安心させ、わたしを少しずつ性の甘やかな暗がりの中に導いていった。そこにはいささかの乱暴さ、変態ぶりも見当たらなかった。彼らはおしなべて紳士的で、まっとうで、同時に性的に見事なまでに成熟していた。
あの頃のわたしが甦《よみがえ》る。わたしは男たちに抱かれながら、頭の中でエマのことを考えている。エマがこの男たちから似たような愛撫を受け、似たような姿勢で性器を挿入され、烈《はげ》しく喘いでいる光景を想像している。
エマの小ぶりだが、豊かに張った乳房が見える。外見からは想像もつかないほど猛々《たけだけ》しい、それでも一点の品のよさを残す陰毛が見える。エマは潤っている。充分すぎるほど潤っていて、そのことを隠そうともしない。
エマを夢想することにより、わたしの中の快感が増していく。わたしは自ら腰を動かす。もっと、もっと、と懇願する。男に肌をぶつける。苦痛に泣いているようでもある。
わたしはもう少女ではない。蕾《つぼみ》を卑猥《ひわい》な形に膨らませ、今にもこらえきれずに花弁を開こうとしている、一輪の薔薇《ばら》の花である。
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当時のエマを知る人たちは、あの頃いつも、エマの傍にわたしと佐伯の姿があったことを覚えているだろう。気品ある一人の紳士が、遠くからもの静かにエマを見守っている一方で、いかにも小生意気そうな若い娘が一人、エマにぴたりと寄り添い、始終、あたりに獰猛《どうもう》な視線をまき散らしていたことを人々は忘れてはいないだろう。
「あなたの目は、まるで動物の目ね」とエマは何度か、呆れたように言ったものだ。「周囲を威嚇する目よ。誰彼かまわず威嚇しながら、ウーウー、唸《うな》り声をあげてるの。ちょっとでも手を出したら噛《か》まれそう」
エマに指摘されるまで、わたしは自分の視線がそれほど猛々しいとは思っていなかった。第一、自分がエマの傍でどんな目つきをしているのか、考えてみたこともない。
だが、エマが言うのだから本当だったのだろう。エマと公の場所に出向いた時、わたしの目つきは恐ろしいほど獰猛で、それは誰の目にも唸り声をあげる獣のようにしか見えなかったのだろう。
あの頃のわたしは、エマに群がり、エマに取り入ってくるすべての人間が嫌いだった。
文芸誌の編集者、新聞記者、雑誌記者、評論家、小説家、テレビや映画のプロデューサー、イベント屋、演出家、俳優、エマのヌード写真集を作りたがっている写真家、エマに強烈なライバル意識を燃やしながらも、妄想の中でエマを何百回となく犯しているはずの、売れない詩人、そして、エマの熱狂的ファンだと称して、顔を紅潮させながら近づいて来る大勢の男たち……。
何がそんなにいやだったのか、よくわからない。エマと彼らが、わたしにわからない話、難しそうな詩だの映画だの、聞いたこともないような作家や詩人の話ばかりしていたからか。男たちの視線を一手に集めているエマに、わたしが潜在的なやきもちを感じていたということなのか。
エマが彼らに愛想笑いをしたり、時にエマらしくない社交辞令を吐いたりしているのを傍で見ながら、わたしは仏頂面をしていた。エマに合わせて微笑む気分にはなれなかった。わたしはいつだって唇を固く結び、軽蔑《けいべつ》したように彼らを横目で睨《にら》んでいた。
彼らにとってそれは多分、「わたしはあんたたちを軽蔑してるわ」と声に出して言われるよりも遥《はる》かに不快で、許しがたく生意気な態度に見えたに違いない。
「ビジネス」と言うのがエマの口癖だった。「これはビジネスなのよ。わからない? 一足す一を二にするためには、いつだってちょっとした忍耐が必要なの」
「お金のためなら、軽蔑するような相手にでも、にこにこできるってわけ?」
「いちいち、そういう連中をベッドに誘いこまなくちゃいけないわけでもないでしょう。ただ、にこにこするだけなのよ。お安い御用じゃないの」
「小難しい詩だの小説だのの話をして、新しい企画がどうとかこうとか、そんな話ばっかりで退屈なのにお愛想笑いして、褒められれば、ありがとう、嬉《うれ》しいわ、なんて言って。ああいう人たちに取り囲まれてる時のエマさんって、ふだんのエマさんとは別人なのね」
「別人に見えるのは外側だけで、中身は同じよ。ビジネスの話をしている時に、生の自分を見せてしまう馬鹿はどこにもいないわ」
「それも全部、お金のため?」
「だから、これはビジネスなんだ、って言ったでしょう」
「そんなにはっきり割り切れるものなの?」
「割り切れないことはビジネスとは言えないじゃないの」
「わたしだったら我慢できない」
「おやおや」エマはつとわたしを睨みつけ、軽く首をすくめて、意地悪そうに唇の端を曲げてみせる。「柄にもなくご清潔なことを言うのね」
「悪い?」
「ビジネスはビジネスよ」とエマはうんざりしたように言ってわたしを突き放す。「これがわたしのやり方なの。それがいやだと言うんなら……今すぐここから出てって」
何年もエマと共に暮らしているうちに、エマの上機嫌と不機嫌の振幅が大きいことに、わたしは次第に慣れていった。
エマは理由もなく、突然、不機嫌になることがよくあった。たとえわたしがエマを刺激しなかったとしても、偶然、どうということのないわたしの一言が、エマの不機嫌を誘発する起爆剤になってしまうこともあった。
出てって、とわたしに言う時のエマには威厳がある。それは妃《きさき》のような威厳である。
エマはすうっと背筋を伸ばし、顎《あご》を上げ、胸を突き出し、わたしではない、どこか遠くを見つめながらおごそかにそう言う。エマの右手にはたばこがはさまれていて、その煙がゆらゆらと、細くて長い紫色のりぼんのように揺れている。
ごめんなさい、とあやまっても、エマは聞かない。わたしを無視したまま、黙って遠くを見つめながら、恐ろしくゆっくりと、落ちついてたばこを吸う。
わたしはもう一度、ごめんなさい、と言う。慣れてしまうと、エマの不機嫌もきわめて日常的な風景の一つでしかなくなる。
わたしはあやまり続ける。百の言葉、千の言葉を尽くして弁解するよりも、結局のところ、単純にあやまってしまうのが最も簡単で、最も効果的な方法だと知っているからである。
そんな時、エマのやることは決まっていた。たばこを灰皿で軽くもみ消し、わたしなどそこに存在していないかのように、わたしが見ている前で、どこかに電話をかけ始める。
電話の相手は男である。わたしの知らない男のこともあれば、知っている男……知っているどころか、一度か二度、エマの代わりに寝たことのある男だったりする。わたしは自分が寝たことのある男とエマが、目の前で電話で話しているのをじっと眺める。
……その悪魔的な悦《よろこ》び!
あれは、わたしが二十二になった年のことだった。或《あ》る冬の晩、何かの話の途中から軽い口論になった。
エマはいつものように「出てって」とおごそかにわたしに言い、わたしがそれでも部屋から出て行かずにいると、わたしの見ている前で男に電話をかけ始めた。
「久しぶりね」とぶっきらぼうだが、今にも溶け出しそうな飴《あめ》のような甘ったるい口調で、エマは電話の相手に言った。「くさくさするの。今夜つきあってくれないかしら」と。
相手の男の苗字《みようじ》は忘れた。山本だか、山村だか、そんなものだったと思う。だが名前のほうは忘れていない。イサム……だった。
イサムはエマに夢中だったが、エマはイサムを都合のいいセックスフレンドのようにしか思っていなかった。わたしはイサムと一度寝ていた。酔ったイサムが、エマを褒めたり、エマのからだを懐かしんだり、悪口を言ったりし続けるのを黙って聞いてやっていた時、イサムが急に欲望の矛先を変えてわたしを口説いてきたのだった。
そのイサムとの短いやりとりの後、受話器を置いてエマは立ち上がった。わたしはじっと黙って、エマが着替えを始めるのを見ていた。
エマはわたしに見られていることを承知で、するりとバスローブを脱ぎ捨て、素っ裸のままクローゼットの中の衣類をあさり出した。着ていくドレスが決まると、次に下着をつけ始めた。
その日のドレスは黒だった。したがって、つけるブラジャーやガーターベルト、ストッキングも黒になった。
ほんのわずか、目にとまらないほどわずかにゆるみ始めたエマの腹部が、わたしの目にひどく猥褻《わいせつ》に映った。それは男をそそるゆるみであった。これからエマは、その肉体を惜しげもなくあの男……イサムの前にさらすのだ、と想像した。イサムが羨《うらや》ましいように思えてくるのが不思議だった。
大きなドレッサーの前でだるそうに化粧をし、最後にレッドベリーのように見えるつややかな口紅を引いてから、およそ初めて、わたしという人間がそこにいたことに気づいたかのように、エマはわたしを振り返った。
「あの男、どうだった?」
わたしは驚いてエマを見つめ返した。
何びっくりしてるのよ、とエマは言った。無表情の中に、からかうような、かすかな微笑の気配が感じとれた。「イサムよ。どうだったの? あなた、イサムと寝たんでしょ」
わたしは顔が赤くなるのを感じながら、聞き返した。「おかしなエマさん。さっきまであんなにぷりぷり怒ってたのに」
エマは肩をそびやかし、「別にいいのよ」と言った。「誰と寝ようとあなたの自由だもの。で、どうだったの。よかった? 大したことなかった?」
顔がますます赤くなり、耳まで火照り出すのを覚えながら、わたしは目をそらした。「そんなこと、答えられない」
「いいじゃないの」とエマは言い、笑みを浮かべた。「わたしはね、野乃と男を共有するのが楽しいのよ。ほんとよ。ねえ、どうだったのよ。ちゃんと言いなさいよ」
「どう……って」わたしは口ごもった。「よくわかんないわよ」
「感じなかったの?」
「そういうわけじゃないけど……」
「下手くそだったのね」
「わたしはまだまだ、小娘だもの。エマさんならきっと、感じたんだと思うわ」
エマはさくらんぼを上下に三つ並べたような豊かな唇を大きく横に伸ばし、仲直りをしようとでも言うかのように、晴れ晴れとわたしに微笑みかけた。
「じゃあ、行って来るわ。玄関、鍵《かぎ》かけといて。そうそう、今夜あたり寺岡って男の人から電話がかかってくるかもしれないの。もしもかかってきたら、明日また、かけ直すように言ってちょうだい」
「どこかの編集者?」
「違うわ。ファンよ」
エマがファンに自宅の電話番号を教えることはなかった。珍しいことだと思ったが、わたしはあまり深くは考えなかった。
外では冬の冷たい雨が降りしきっていた。エマはわたしにタクシーを呼ぶように言い、黒いアストラカンのコートを着て出かけて行った。
エマが出て行ってから、二時間ほどたって電話が鳴った。
「寺岡と申しますが」と男の声が言った。「新川エマさんをお願いします」
澄んだきれいな声だった。少し照れているようでもあったが、エマのファンにしては、浮ついたところのひとつもない、落ちついた口調であった。
わたしはエマが留守であることを伝え、明日、また電話をかけるように言ってから受話器を置いた。
その一本の電話が、後にわたしとエマの運命を大きく変えることになろうとは夢にも思わなかった。どうしてわかるはずがあっただろう。
わたしは部屋の出窓にあぐらをかくようにして坐《すわ》り、たばこに火をつけた。外の冷気で曇った窓|硝子《ガラス》に、たばこの火が映った。わたし自身の、小生意気で獰猛《どうもう》な、小さな獣のような顔が闇の中に浮かび上がった。
寺岡|晋平《しんぺい》という男について、わたしは今も多くを知らずにいる。あれほど夢中になり、熱狂し、苦しみぬいた恋の相手だったというのに、わたしは本当に、彼について詳しいことは知らないまま生きていた。
彼について知っていたことと言えば、履歴書の域を出ない。一九四〇年生まれ。エマよりも七つ年下で、ちょうど一まわり、わたしよりも年上だった。
東北の旧家の出身である。地元では寺岡家と言えば知らない人はいないほどの名家であり、彼は次男坊だったと記憶している。だが、名家とは名ばかりで、晋平がわたしやエマと出会った頃、寺岡家はすでに没落、一族は完全離散していた。彼の祖父にあたる人が事業に失敗し、少しずつ田畑や山林を売り払ってしまわざるを得なくなったのが、ゆるやかな崩壊のそもそもの原因らしかった。
高校を出て仙台の私立大学に入学したが、学費が支払えずに二年で中退。その後、東京に出て来て、バーテンダーやストリップ劇場の照明係、売れない演歌歌手のマネージャー、場末のホストクラブのホスト、ポルノ映画の男優などの仕事を転々とし、かたわら詩を書き続けた。
一冊分仕上がると、自分でガリ版刷りにし、ホッチキスで乱雑に留めたものを路上に並べて売った。当時、一世を風靡《ふうび》していた、いわゆる街頭詩人≠ニいうのが、彼の自称する本業であった。
結婚はしたことがなかったはずである。したがって子供もいないはずだが、ひっそりと晋平の子を産み、育てている女の一人や二人、どこかにいたのかもしれない。一度ならず、ふざけて聞いてみたことはあるのだが、晋平は笑うばかりで答えなかった。
住んでいたのは、新大久保の裏通りにある薄汚れたアパートだった。朝起きて、顔を洗おうとすると、排水口から子ねずみが顔を出すようなところだった。誰も掃除をしようとしないトイレは汚物にまみれ、共同の玄関にはいつ行っても脱ぎ捨てられた下駄だの運動靴だのが埃《ほこり》まみれになって散乱していた。
晋平はエマから小遣いをもらうようになってからも、そうした暮らしを変えようとはしなかった。エマのおかげで、思ってもみなかった財産を手に入れた後でさえ、彼はそのアパートを引っ越そうとはしなかったし、そのつもりもなさそうだった。
もしかすると、それが晋平の唯一のこだわりだったのかもしれない。彼はその、愚かしいまでに貧しい暮らしに固執することで、エマの甘い汁を吸ってしか生きられない自分自身をかろうじて救おうとしていたのかもしれない。
今も彼のことが懐かしく甦《よみがえ》る。晋平はわたしとどこか似ていた。まるで違う家庭環境、人生を辿《たど》ってきたというのに、彼の中にわたしは時折、自分自身を見ることがあった。
晋平とわたしはいつも、エマをはさんでブックエンドのように向き合っていたのである。
エマがイサムに会いに行った翌日、夕方遅くなって、寺岡と名乗る男から再び電話がかかってきた。
エマは寝室にいて、詩を書いていた。詩作をしている時は、電話は取り次がないことになっていたが、わたしは念のため、エマに声をかけた。
「電話だけど、どうする? 寺岡、って男の人。そう言えば、言うの忘れてたけど、ゆうべもかかってきたんだったわ」
ベッドの上であぐらをかき、原稿用紙を前にペンを握っていたエマは、ちらとわたしを見ると、「こっちに回して」と言った。
着ていた男物の白いワイシャツの前がはだけ、たわわな乳房と、そして、あぐらをかいているせいで、小さな黒のパンティーをつけた股間《こかん》が覗《のぞ》き見えた。わたしは「見えてるわ」と言い、目でエマの股間を指し示した。
エマはそんなことどうだっていい、と言いたげに無表情にうなずき、サイドテーブルの電話機に手を伸ばした。
前日、イサムとどこかにしけこんだまま帰らず、その日、エマは朝になってやっと戻って来た。目の下に隈《くま》を作り、ひどく疲れている様子だったが、その疲れが精神の疲れや睡眠不足の疲れではないことを、わたしはすぐに見抜いた。
エマは烈《はげ》しい交合を繰り返した後、どれだけたっぷり眠っても必ず目の下に隈を作る。それは確かに隈なのだが、肌には潤いと輝きがあって、決して芯《しん》から疲れているようには見えない。
そして不思議なことに、それが満足のいかない交合だった場合は、隈はできないのだ。エマの目が隈に彩られるのは、彼女が味わってきた性愛が彼女をたっぷりと刺激し、潤わせ、活気づかせてくれたという証《あかし》であった。
だが、そんな微細な変化に気づいていたのは、おそらくわたしだけだったかもしれない。
エマの電話は長かった。二十分はかかったかもしれない。時折、くすくす笑う声が扉越しに聞こえてきたが、その笑い声がはらんでいる妖《あや》しさ、媚《こ》びのような気配は、どういうわけかわたしを苛立《いらだ》たせた。エマはめったに男に対して、媚びたことがなかったからだ。
やがて寝室から出て来ると、エマはわたしに、「お客が来るわ」と言った。その顔は輝いており、ひときわ美しく見えた。
「これから?」
「一時間後。シャワーを浴びなくちゃ」
「寺岡さん、って人?」
「そうよ」
「何してる人なの?」
「無職よ。でも彼も詩を書くの。これがね、ちょっと才能があるのよ。大したものよ」
「珍しいのね。エマさんがそういう人を家に呼ぶなんて」
「才能があるだけじゃなくて、感じがいいわ。とってもね」
「それだけ?」
「どういう意味?」
「エマさんをそんなに興奮させるなんて。よっぽど素敵な人なんでしょ」
エマは笑っただけで応《こた》えず、そのまま弾むような足取りで寝室に引き返していった。
きっかり一時間後、男がやって来た。玄関で出迎えたのはわたしだった。
長身でほっそりとした男だった。想像していたほどの美男ではないが、整った魅力的な顔だちをしていた。榛《はしばみ》のような色をした、日本人離れした澄んだ大きな目をしている。肩まで伸ばした髪の毛は茶褐色で、ただ無造作に伸ばしただけ、といった様子であったが、それがよく似合ってもいた。
黒のダッフルコートにジーンズ姿。清潔そうではあるが、金はかけていない。彼は手に薔薇《ばら》の花束を抱えていた。小ぢんまりとまとめられた、真紅の薔薇だった。
「はじめまして」と男は言った。「寺岡といいます」
わたしはうなずき、男を中に通した。エマは居間で男を迎えた。真紅のとっくりセーターにベルベットの黒のパンタロンをはいたエマが、渡された赤い薔薇の花束を抱くと、花はエマ自身の着ているセーターの色と見分けがつかなくなった。
同席を許されて、わたしはエマから少し離れた椅子に坐《すわ》り、会話の一部始終を聞いていた。詩の話はあまりよく理解できなかったが、エマはどうやら、その男……寺岡晋平の書いた詩を詩集としていずれ一冊にまとめ、出版するための仲介の労をとろうとしている様子だった。
寺岡はおもむろに脱いだダッフルコートのポケットから、かつて街頭に立って売っていたという詩集を一冊取り出した。ガリ版刷りのその詩集は、表紙に素っ気なくタイトルと寺岡の名が記されているだけで、何の飾り気もなかった。
「知恵を使ったほうがよかったわね」エマはそれを手に取り、ぱらぱらとページを繰りながら言った。「この素っ気ない表紙じゃ、わたしの詩集だって売れないわ。何か絵を描くなり、色のついた表紙を持ってくるなり、すればよかったのに」
「どうせ売れないとわかっていたんで、思いきって虚飾を全部、剥《は》ぎ取ってやったんです」
寺岡はそう言い、たばこに火をつけてから、初めてわたしの存在に気がついたかのように、ちらとわたしに目を向けた。「あなたは街角で詩集を売ってる男を見かけたとしたら、どうします。立ち止まりますか。それとも無視して通り過ぎますか」
わたしは肩をすくめた。「エマさんの秘書をしてても、わたし、実を言うと、詩のことがあんまりよくわからないんです」
寺岡は品のいい笑い声をあげ、わたしではない、エマのほうを向いて微笑みかけた。
わたしはその時、エマの顔が思いがけずわずかに赤らんだのを知った。
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考えてみれば、エマとて恋をするのである。しないはずはないのである。
日がな一日、一人の男を思い続け、胸を焦がし、他のことが手につかなくなって、何も口にせずにジンのオンザロックとたばこだけで生き続けること、そして、肉体の欲望が不思議なほど希薄になって、セックス、などという言葉を口にすることすらおぞましくなり、ため息と共に恋しい男の名を呟《つぶや》くことが、あのエマにだって起こらないはずはなかったのである。
だが、わたしはずっとずっと、それこそ途方もなく長い間、エマの恋とエマの性愛とを別のものとして考えていた。エマが貪欲《どんよく》に男を求めることと、エマがその男に恋をすることは別物である、と思いこんでいた。
エマの恋は、あくまでもシンプルな欲情に過ぎないはずであった。エマ自身の中にある、得体の知れない欠落感を埋めるために、あるいは詩の世界の言葉を紡ぎ続けていくための原動力として、エマは男を求めていた。そもそもエマには古風なロマンティシズムや感傷、少女めいた胸のときめきは似合わなかった。
男との間で主導権を握っていたのはいつもエマだった。たとえ表向き、口説かれた、という形をとったのだとしても、エマは口説かれたその瞬間から、相手の男を面白いほど夢中にさせた。おそらくは軽い気持ち……エマに対する憧《あこが》れ程度の気持ちで口説いたのであろう男は皆、こんなはずではなかった、と思っただろう。これほどこの女に溺《おぼ》れるつもりはなかった、と思っただろう。
男たちがそう思い始める頃、エマはするりと身をかわす。エマはその、自分が仕掛けたゲーム、ちょっとした艶《なめ》めかしい遊戯を味わい尽くし、そしてまた、何事もなかったような顔をして元のエマに戻る。
エマは恋などしない……わたしはそう思っていた。少なくとも、世間でこれが恋だと信じられているもの、映画や小説や、その他様々なものの中で、誰もが恋だと規定するものと、エマは無縁だった。そのはずだった。
だが、そのエマが恋をしたのである。売れない詩を書き続けていた、貧しい街頭詩人に。絶えず共同便所からアンモニアのにおいが漂ってくる、どうしようもない安アパートに住んでいた男に。過剰な情感と、過剰な理知の塊のような男に。食べていくことと、自分の抱えもつ内的宇宙とを天秤《てんびん》にかけ、惜しげもなく、食べていくことを放棄してしまう男……愚かしくも純粋で、そのくせ、反俗に徹し、背徳的ですらあった、あの男に。
寺岡晋平は決してエマに取り入ろうとしてエマに近づいたわけではない。それはわたしにもわかっている。
彼はエマの書く作品が好きで、もう何年も前からエマの詩の愛読者だった。もちろん、エマの美貌《びぼう》も含めて、ということだったに違いないが、後になってわたしが彼にそう聞くたびに、彼は「違う」と、少し怒ったように言った。
僕は彼女の書く詩が好きだったのだ、と。彼女のもっている宇宙が好きだったのであり、そのことと彼女が美しい人だったということは、何の関係もなかったのだ、と。
エマが晋平と出会ったのは、エマの新しい詩集が刊行された、その大がかりな出版記念パーティーの会場だった。
都内のホテルで開かれたパーティーには、ざっと見渡してみても、五百人を越える人間たちが集まっていた。わたしが見知っていた顔もあったが、知らない顔が大半で、会場はごった返しており、まるでラッシュアワーのプラットホームのような状態だった。
エマに言わせれば「何度会っても顔を覚えることができないほど地味な風貌《ふうぼう》」の、小さな出版社の社長が、晋平を連れてエマの前に現れ、新川先生、ちょっとご紹介させてください、彼が先生の大ファンだそうですので、と言ったのだった。
晋平はその男と以前から親しくしていた。街頭で詩を売っていた頃、何かにつけ、現れて、一冊、また一冊、と彼の詩集を買い求めた男だった。以来、数ケ月に一度、会って喫茶店でコーヒーを飲み、詩の話や小説の話などを交わすようなつきあいを続けていたのだ、と聞いている。
新川エマの出版記念パーティーにうまくもぐりこんで、エマと挨拶《あいさつ》をする機会を作ってくれたのは、他ならぬその男……スタッフが三人しかいない、小さな出版社の社長だったわけだ。だが、おかしなことにその男が何という名前だったのか、何という名の出版社だったのか、わたしは忘れてしまっている。わたしが忘れているくらいだから、エマはとっくの昔に……へたをすれば、晋平を紹介された瞬間に、もう、晋平を連れて来た男のことなど忘れてしまったに違いない。
ともかくその場に居合わせたわけではないから、わたしにも詳しいことはわからない。したがって、エマが晋平を紹介され、ただならぬ関心を彼に抱いたその瞬間の光景は想像する他はないのだが、エマは後になって、その時の自分の気持ちをわたしに正直に語ったものだ。
「直感みたいなものよ」とエマは言った。「この男はきっと詩を書くんだわ、って。そう思ったの。書かないにしても、詩の世界をもってる男なんだわ、ってね。それにね、わたし、その時、彼の目がとても気にいったのよ」
「目?」とわたしは聞き返した。「目つきのこと?」
「目の中の光ね。まっすぐにわたしを見て、たじろぎもしないで、照れもしないで。そのくせ、とてつもなく優しい目だった。彼はあの時、ものすごく無垢《むく》な目をしてわたしを見ていたの。透明で、澄んでいて、人を引き込んでしまうような目よ。曇りのない目。狙った獲物は離さない、っていう感じの貪欲な目じゃなくてね。そういう目をする男は大勢いるけど、あの人はそうじゃなかった。目の奥の奥にね、イノセントな光があったの」
「たったそれだけで気にいったの?」
「たった?」エマは聞き返した。「たったそれだけ、って言うけど、それはすごいことじゃないの。ああいう目をして女を見つめてくる男は、めったにいないわ。どう言えばいいのかしら。ものを見たり、文字を読んだり、睨《にら》みつけたり、考えたりするための目じゃないのよ。あの人の目はね、女を恋するためにだけある目だったの」
エマは、今にもラブソングを歌いだしそうなカナリヤみたいな声で喋《しやべ》り続けていた。そんなエマのことが、わたしはどことなく気にいらなかった。
「エマさんなら、いつだっていろんな男に恋されてるじゃない」とわたしは笑いをこらえているふりをして言った。「男はみんな、エマさんを見るとそういう目をするんじゃなかった?」
「それとこれとは違うわ」エマは少しふてくされたように笑い、ジンのオンザロックに桜色をした唇をつけた。
沈黙が流れた。甘ったるいような、艶《なま》めかしいような沈黙だった。
「どうかした?」
エマは我に返ったようにわたしを見て、「別に」とぶっきらぼうな口調で言った。
それ以上、もう何も話したくない、というサインのようでもあった。わたしは口を閉ざし、エマもまた、黙った。
その沈黙の中に、わたしは別のエマが生まれつつあることを嗅《か》ぎとった。わたし相手に、新しく知り合った男の話をしていて、そんなふうにふいに黙りこむエマを見たのは初めてだった。
エマは寺岡晋平の書いた夥《おびただ》しい数の詩を丹念に読み、中でも完成度の高い作品を何篇か選び出して、それを自分が懇意にしていた出版社の編集者に手渡した。
エマ信奉者の中でも、最もエマを蔭《かげ》ながら愛し、高く評価し、エマの作品に溺《おぼ》れていた編集者を選んだのはいかにもエマらしい。およそ色恋とは無縁そうに見える、実直と誠実だけが取柄の、それでいて社内で絶大な力をもつ四十代の編集者をエマは食事に誘い、新しい才能を見つけたの、すぐに読んで、いいと思ったら出版してあげて、ともちかけたのだった。
今も昔も、わたしには詩の世界のことはよくわからない。だが、詩人と称する人々が、あの当時、なかなか詩作だけで食べていけなかったことだけは、いやというほど知っていた。小さな、名前も聞いたことのない出版社から詩集を出し、そのまま埋もれて、世間にその名を知られることもなく終わる。にもかかわらず、詩を書く人間、書きたがる人間は後を絶たなかった。そういう時代だったのかもしれず、わたしもまた、何も知らないながら、そんな時代の空気にどっぷりと浸かって生きていたのかもしれない。
晋平の詩を手渡した編集者から、エマに連絡があったのは、一週間ほどたってからだった。エマは対談の仕事があって外出していて、対談終了後、わたしは喫茶店でエマと共にその編集者に会った。
いかにも老舗《しにせ》文芸出版社の編集者、といった風貌《ふうぼう》のその男は、喫茶店でエマを前にし、「よかったですよ、あれ」と言った。鼻の頭に汗をかいていた。新川先生と会うと、いつも緊張してしまって、とその男は照れたように言い、言いながら首の後ろをごしごしとこすって、もう一度、「実にいいです。素晴らしかった」と繰り返した。
「いいと思ったから、読んでもらったのよ。どうかしら。お宅で出版できそう?」
いくらか性急な口調でエマがそう言うと、男は芝居がかった調子で大きくうなずき、「むろんですとも」と言った。「実はもう、すでに会議は通してあるんです。新川先生のご推薦とあれば、それだけでも話が早かったのですが、それを別にしても、この人はおっしゃる通り、特殊な才能を持っている。久々に登場する大型新人、といったところでしょうか」
エマは満足げに微笑み、からだの力を抜いて「よかった」と言った。「これでほっとしたわ。できるだけよくしてあげて。できれば初版部数も多めにね」
「いや、これは参ったな」男は笑い、また首の後ろをこすり、鼻の頭にかいた大粒の汗を手の甲でぬぐった。
その翌日、エマは寺岡晋平を元麻布の自分のマンションに呼びつけ、くだんの編集者と引き合わせた。
晋平は細身のジーンズに黒いタートルネックのセーターを着ていて、とても若々しく見えた。セーターには毛玉が浮いていたが、そのいかにも着古した印象のセーターも彼のほっそりとしたからだによくなじんでいた。
冬の日の午後の、柔らかな陽射しに満ちた窓に彼は背を向けて立ち、編集者に向かって深々と礼をした。逆光の中に浮かび上がったその美しいシルエットを、どういうわけかわたしは今も忘れていない。
エマの言う、まっすぐで透明感あふれる、イノセントな光をたたえた目。その目が、編集者を前にして姿勢を正した彼の顔の中で、静かに輝くのをわたしは見た。
お若く見えますね、とその編集者は言った。「学生さん、と言われても驚かない」
「いくらなんでも、それは大げさね」エマが浮き浮きと、楽しげに言った。「彼はもう、三十四よ」
晋平の年齢と彼の経歴、エマから聞いていた彼の暮らしぶりから、もう少し、生活に疲れた風貌を想像していたに違いない。編集者は一通り、晋平の詩集を出版するにあたっての事務的な話を終えると、ソファーに寛《くつろ》いでたばこに火をつけた。「著者略歴と一緒に寺岡さんの顔写真を入れましょう。本のソデの部分に大きく。若い女性ファンがつくこと間違いなしだ」
冗談まじりの言い方ではあったが、彼が晋平を見て、才能とは別に、これはいろいろな意味でいい商売になるかもしれない、と踏んだのは一目|瞭然《りようぜん》だった。
「写真ですか。それはちょっと……」と晋平は言い淀《よど》んだ。照れているのではなく、本気でいやがっているようにも見受けられた。
「いやですか」
「僕の顔は僕の詩とは関係ないですから」
「そう硬く考えなくてもいいな。新川先生のお顔だって、先生のお作品と関係してるんです。だからこそこんなに……」
「いやならやめたほうがいいわ」エマがたばこをくわえたまま、間に割って入った。「この人の言う通りよ。顔と作品は無関係。わたしだって、何も顔で作品を書いてるわけじゃないんだし」
いや、何もそんなつもりじゃ、と編集者は笑いながら頭をかいた。鼻の頭に大粒の汗が浮いている。「そんな意味で申し上げたわけではなく……」
とにかく、とエマは背筋を伸ばし、センターテーブルの上の灰皿でたばこを軽くもみ消した。「寺岡君のこと、よろしくお願いしますね。これはわたしからのお願いよ」
その時のエマには、王妃のような威厳があった。
誰もが、エマと晋平の関係を詳しく訊《たず》ねようとはしなかった。初めから、どうせ男と女の関係なのだろう、と思われていたに違いない。
だが、蔭でいかに小うるさく、時にうすぎたなく勘繰られたところで、エマはひとつも動揺を示さなかった。自分をめぐる男たちとの関係をあれこれ噂されることは、エマにとって日常茶飯事……そう、毎朝、朝刊がマンションの郵便受けに投げこまれるのと同じように、当たり前のことだったのだ。
エマにとって、晋平の詩を「モノ」にしてやる、ということは、彼女が真っ先に彼に対して表現できる、思慕の感情の具現化だった。晋平相手に口説いてみたり、口説かれてみたり、ベッドの中に誘いこんで、はあはあ、と息を荒らげたりすることをエマは望んでいなかった。エマは彼を育ててやる、という形をとりながら、エマ自身の中に芽生えつつあった、不可思議な感情をいち早く整理しようとしていたのだ。
あの後、わたしは何度も考えたものである。
エマは晋平を育てた。年上の女が年下の男を育て、仄暗《ほのぐら》い穴の中の暮らしから羽ばたかせた。少なくともそうしようとした。
晋平もそれに応《こた》えた。そして実際、或《あ》る程度まで、晋平の詩人としての足場は整えられた。
晋平は相変わらず汚くて薄暗い、安アパート住まいを続けていたが、エマと会うために週のうち半分は、元麻布のあのマンションに通って来た。わたしはそのたびに彼を迎え、話をし、エマが着替えるために寝室に入って行った時などに、長い会話を交わした。
だが、それらのことがわたしにとって、いったい何を意味したのか、今もわからない。わたしは初めから……あの日、玄関でダッフルコートを着た彼を出迎えた瞬間から、晋平に惹《ひ》かれていたのか。それとも、エマが晋平に恋をしているのを見て、苛立《いらだ》たしい気持ちに襲われたのか。エマから晋平を奪ってやろうと画策したというのか。エマと寝た男たちの相手をした時のように。
どれも違う。
流れる時間の中で、わたしの中に変化が生まれていっただけなのだ。初めは小さな変化だった。水辺を濡《ぬ》らす漣《さざなみ》のような、音のしない、小さな波……。
だがそれはいつしか大きくうねり始めた。水面に波が起こり、うねり、泡立ち、轟音《ごうおん》と共に水底の砂を巻き上げた。
だが、今になってみればそれすらも、わたしにとってはエマをめぐる幾多のイマージュの中の一つでしかない。あれがわたしの人生における、重大な事件だったという認識も薄れてしまっている。
そのくせ、わたしは晋平を思い返そうとする時、今もかすかに胸焦がれる思いを抱く。
それはまるで、少年を思う少女のような気持ちである。日記の中にだけ秘めた思いを綴《つづ》ろうとする、生意気で多感な、うしろめたさと秘密と、表現しようのない熱狂を抱え持った、少女のような気持ち……。
「本気で好きになったんじゃない?」と或る時、わたしはエマに聞いた。少し笑いながら。エマを怒らせないよう、注意しながら。
「何の話?」
「寺岡さんよ。ずっと黙ってたけど……わたしにはそう見えるの」
わたしとエマは、六本木のレストランで食事をしていた。真っ白なクロスのかかった四角いテーブルで、向かい合わせになって車海老《くるまえび》を食べていた。クリームソースの載った車海老をひときれ、フォークを使って優雅に口に運んだエマは、ゆっくりとそれを噛《か》み砕き、かすかに微笑み、赤ワインのグラスを手にしてから、そのたいそう魅力的な目でわたしを見た。
「こんな気持ち、初めてよ」とエマは言った。
あまりに屈託のない言い方だったので、わたしは初め、聞き違えたのかと思った。
「こんな気持ち、ってどんな?」
「いつもあの人のこと、考えてるわ。何をしてても、よ。こうやって食事をしてる時も、外で仕事をしている時も、大勢の人と会ってる時も、うちで詩を書いてる時も、いつでも」
「会いたい、とか、セックスしたい、とか、そういうこと?」
「セックス?」そう聞き返して、エマは笑い出した。人を小馬鹿にしたような笑い方だった。
「何が可笑《おか》しいの?」
「だって野乃、わたしね、あの人といても、ちっともセックスしたいって思わないでいられるのよ」
「どうして」
「どうして、って、意味なんかないわ。したくないの。しないでいられるの」
「プラトニックな関係、ってこと?」
「プラトニック、っていう言い方は嫌いだわ。嘘がある。ロマンティック、と言い換えてちょうだい」
「ロマンティック? プラトニックとどう違うの」
「肉体だの精神だの、そんな観念的なものは何ひとつないの。胸を熱くさせるものだけがあるのよ。話してるだけでいいの。電話だけでもいい。会っていなくてもいい。彼の言葉が好きなの。彼からわたしに向かって投げられる言葉がね。それはもう、恋する男の詩なのよ。だから……話してるだけで……ううん、彼と交わした言葉を思い出しているだけで、それでいいの」
わたしはわざと呆《あき》れたように両肩をすくめてみせた。「驚いた。ここにいるのは本当にあのエマさんなの?」
白いクロスのかかったテーブルの上の一輪差しに、薔薇《ばら》が活《い》けられていた。黄色い薔薇だった。
エマはその薔薇の花弁を指先ではじくようにしながら、物思いに耽《ふけ》った様子で軽く目を伏せてみせた。焦がれる思いをこらえている十七、八の少女のように見え、その不自然な若々しさがふいに意味もなく、わたしを苛立たせた。
「エマさんらしくなさすぎて、なんだかいやだな」
「どういう意味?」
「恋は錯覚よ。さもなかったら幻想。エマさん、わたしにそんなこと、言ってなかった?」
「言ったかもしれないわね」
「きっと今、エマさんが感じてる気持ちも錯覚なのよ」わたしは訳知り顔で言ってみせた。「教えてあげましょうか。エマさん、じきに飽きるわ。そんな気持ち、長く続くわけないじゃない」
エマはわたしを見つめ、おそろしくゆっくりと瞬《まばた》きをした。怒らせたのか、と思い、わたしは一瞬、身構えた。
だが、エマは何も言おうとせず、わたしからつと目をそらすと、思い出したようにフォークにさした海老の小さな塊を口に運んだ。
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蜜《みつ》のようなとろりとした時間が、ゆるゆると流れていった。
元麻布にあるエマのマンションも、エマがあぐらをかいて詩を紡ぎ出す大きなベッドも、わたしたちがよく寝そべって男の話を交わした毛足の長い絨毯《じゆうたん》も、変わらずそこにあった。わたしとエマの暮らしぶりも同じだった。
ジンのオンザロックを手にしながら、たばこをふかすエマ。雨が降るとどこからともなく飛んで来て、ベランダで雨宿りしていく番《つがい》の鳩。黒インクのように濃い影を落とす、夏の夕暮れ時の木々の緑。それらはすべて、繰り返される日常そのものの中に溶けこんでいて、まるで二十年も三十年も前……わたしがエマのところに転がりこむずっと以前から、そこにあったもののように思われた。
エマの仕事が終わるのを待って、わたしたちはよく一緒に夕食を食べに出かけた。佐伯が合流することもあった。佐伯とエマが、二人だけで飲みに行くこともあったし、マンションに訪ねて来た佐伯をまじえて、三人でぼんやりと、面白いのか面白くないのかわからない、テレビ映画を長々と観ていることもあった。
佐伯は時々、エマをドライブに誘った。エマは冷やかに断ることもあれば、驚くほどあっさりと、しかも喜んだ様子を見せながら受け入れることもあった。
そんな時、エマは佐伯と外で食事を済ませてきて、どこで買って来るのか、チョコレートエクレアだの、チーズケーキだの、チョコチップスだのを手にして戻るなり、「はい、これ、野乃に」と差し出した。エマを送って来た佐伯と一緒に、わたしたちは三人でコーヒーをいれ、何を喋《しやべ》るというのでもなく、黙りがちにそれらの甘い菓子を食べた。
そんな時、部屋にはビリー・ホリディが流れていた。そう、例えば、『I'm a fool to want you』などが。
エマは時折、うんざりしたように「陰気な歌ね」とつぶやく。そして音もなくため息をついてみせる。だがエマは、決してレコードを取り替えようとはせず、それどころか、物思いに耽りながら歌に聞き入っている。わたしや佐伯の話し声すら耳に届かない様子なのだが、それもまた、それまでと変わらないエマ、そうであって不思議ではないエマであった。
エマが男たちと肌を合わせなくなったことに最初に気づいたのは、いつだったろう。気がつくとエマのまわりから、徐々に音もなく、砂がこぼれ落ちていくかのように、少しずつ静かに、男の影が薄らいでいった。
エマは男に誘われても出かけて行くことがなくなった。自分から男を誘うこともなくなった。
新しい服を着て男と外で食事をし、酒を飲むこともしなくなった。男たちの丹念な愛撫《あいぶ》を受けて、甦《よみがえ》ったようになって帰って来ては詩作に励むエマもいなくなった。
エマの口から、新しい男の名、あるいは愛称、あるいは嘲笑《ちようしよう》まじりに「あいつ」などという言葉が発せられることもなくなった。くすくす笑いを繰り返しながら、わたし相手に新しい男との束の間の情事を報告してくれることも一切、なくなった。
エマが会いに行くのは、寺岡晋平だけだった。エマを訪ねて来るのも、佐伯を除けば、寺岡晋平だけとなった。
そしてエマは、わたしに対して、晋平の話をほとんどしてくれなかった。どこで何を食べたか、何を飲んだか、大まかにどんな話をしたのか、ということは報告してくれたが、晋平と狂おしいキスをしたこと、雨の晩、ひとつの傘におさまって、晋平に肩を抱かれながらあてどなく歩いていたこと、晋平の住む、新大久保の裏通りにある、恐ろしく汚れ果てたアパートに行き、共同便所から漂ってくるアンモニアの臭気を嗅《か》ぎながら、晋平と抱き合ったことなどを、教えてくれたことはなかった。
わたしはそれらのエピソードをずっと後になってから知った。しかも、それを教えてくれたのはエマではない。晋平だった。
それでも、詩を書いていない時のエマは、相変わらず忙しかった。次から次へと仕事をこなし、わたしから見ればつまらなくて退屈なパーティーに出席し、人と会い、へとへとに疲れて帰って来る。そしてエマはわたしに、「お風呂《ふろ》入れて」と言う。いくらか不機嫌な口調で。
わたしがバスタブに湯を充《み》たしている間、エマは寝室で裸になり、結い上げていたシニョンをといて肩におろす。バスローブをまとっただけの姿で窓辺に向かい、神経質そうに指先をぴくぴくと動かしながらたばこをふかし始める。
その後ろ姿は、人を拒絶する後ろ姿であり、そういう時、エマに話しかけてはならない、とわかってはいる。だが、わたしは聞く。
「どうかした? 今日のエマさん、なんだかぼんやりしてるみたい」
「あらそう?」とエマは言い、ちらとわたしを振り返る。その唇に疵《きず》のように見える、どこかしら残忍そうな笑みが浮かぶ。
窓辺……エマの寝室にあった窓辺の風景をわたしは今もよく覚えている。細長い、天井まである美しい窓である。窓にはドレープをたっぷりとった白いレースのカーテンが掛けられていて、それはまるで仰向《あおむ》けになった時のエマの乳房のように柔らかくたわみ、両側でゆるく留められている。
窓の外に、緑が見える。たいそう荒々しい、夏の緑である。夕暮れ時で、騒々しい油蝉の鳴き声に混じり、遠くひたひたと押し寄せて来るようなヒグラシの声も聞こえる。
獰猛《どうもう》な橙色《だいだいいろ》の太陽に照らされた木々の梢《こずえ》に、ところどころまだらに影が落ちている。風のない、どぎついような、息苦しいような夏の夕暮れ。まるでそこには、生きているものなどいないかのような。
そんな風景をエマが独り、白いバスローブ姿で見下ろしている。だがエマの目に、何が映っているのか、知っていたのはわたしだけだ。
エマは何も見てはいない。エマの見ているもの、見ようとしているものはエマの心の中にだけある。
エマは待っている。あの男を待っている。男を待っていたことなど、かつて一度もなかったエマが、今は男を待っている。男から電話がかかってくることを。男が訪ねて来ることを。男が彼女を見つめ、彼女を求め、愛し、幾千幾万の狂おしい愛の言葉を投げてくれることを。
「ねえ」とエマがもう一度、わたしを振り返る。怒ったように唇の端をへの字に曲げて、エマは聞く。「電話、なかった?」
「誰から?」とわたしは意地悪く聞き返す。
エマがわたしを見て、吐息まじりに軽く肩をすくめる。「誰から、ってことないでしょ。電話がなかったかどうかを聞いてるんだから」
「今日は仕事の電話、かかってこなかったわ。佐伯さんからはあったけど。明日、よかったらお昼を一緒に食べませんか、って」
そう、とエマは言う。「それだけ?」
そうよ、とわたしはにこやかにうなずく。「どうして?」
エマは痙攣《けいれん》したかのように唇を歪《ゆが》め、わたしに向かって弱々しく笑いかける。「別に」
恋する女がそこにいる。どうしてか、わたしは猛々《たけだけ》しいような気分にかられる。
そして言ってはならないこと、決して口にしてはならないことを思わず口にしている。
わたしは言う。「心配しないでいいと思うわ。寺岡さんは、エマさんから逃げていかないから。絶対に」
「どういう意味?」
「彼は、エマさんにくっついてさえいれば、安泰な人生を送ることができる、ってこと、ようくわかってるもの」
言った途端、エマの表情が凍りつく。しまった、と思うのだが、もう遅い。わたし目がけて、様々な物が飛んでくる。口紅、ライター、クリネックスの箱、イヤリング、クッション……。
そしてエマは、化粧台の上の幾本もの小瓶、クリーム類、マスカラだのビューラーだの、眉墨《まゆずみ》だのが入っているクリスタルガラスの細長い壺《つぼ》を、短い悲鳴まじりの声をあげながら両手でなぎ倒してみせる。
ガラス類が散乱する。烈《はげ》しく割れて飛び散る。出てって、とエマは叫ぶ。エマは泣き出す。泣きながらわたしを睨《にら》んでいる。
こんなにきれいなのに、とわたしは思う。妙に冷静な気持ちで思う。
こんなにきれいなのに何故、この人は恋だの愛だの、そこらの若い娘が口にするようなつまらないことを言い始めたのだろうか、と。何がそんなによかったのか。何故、恋をしなければならなかったのか。
目の前にいるエマがエマではなく、赤の他人に見えてくる。そのことが悲しくて、わたしは気がつくと涙を浮かべている。
だが、その涙のわけをエマに教えることができない。どれほどの言葉を費やしても、理解してもらえないだろう、と思ってしまう。
ごめんなさい、とわたしは言う。言いながら、立ったまま両手をだらりと下げ、涙ぐんでみせる。本気で言ったんじゃないの、ほんとよ、違うの……。
エマはわたしの傍をすり抜けるようにして、大股《おおまた》で部屋を出て行く。バスルームから湯を使う音が聞こえてくる。
わたしは涙を拭《ふ》く。エマが傍にいなくなった途端、拭いても拭いてもあふれてくるものがある。だがそれを唇を噛《か》みながらこらえる。
よろよろとキッチンに行く。そして、エマのためにジンのオンザロックを作り始める。
外では次第に夕陽が濃くなってきて、粘りけのある橙色の光が、西側の窓からどろどろと室内に流れこんでくる。西日のせいでひどく暑い。
わたしは耳をすます。バスルームのエマは静かである。
グラスになみなみとジンを注ぎながら、ふと考える。もしもわたしが晋平を誘惑したとしたら、どうするだろう。彼は拒絶するだろうか、受けてくれるだろうか。
世界一馬鹿げた思いつきだと知りながら、その愚かな思いつきに興奮し、気がつくとわたしは、エマのために作ったばかりのジンのオンザロックに口をつけている……。
寺岡晋平の第一詩集『毒』は、エマの尽力により、無事に刊行され、しかも思っていた以上に世間に好意的に受け入れられた。
函《はこ》入り上製本の帯の部分には、エマの推薦文が大きく掲載され、その文章がいかにもエマらしい、シュールで繊細で、官能的なものだったせいか、広く文芸ジャーナリズムに取り上げられた。
エマのもとにインタビューの依頼が殺到し、そのたびにエマは晋平のために、短いが愛情あふれるコメントを発表した。晋平の顔写真が幾つかの文壇関係の雑誌を飾った。新聞や詩壇向け評論誌には、『毒』を評価する論評も何本か掲載された。『毒』は再版こそされなかったが、その手の新人の詩集としては驚くべき好結果を残した。
まさにエマあっての成功だったわけだが、寺岡晋平が、そのことについてエマにどのように感謝の言葉を述べたのか、わたしにはわからない。まさか、礼の言葉ひとつなかったわけでもないだろうが、わたしの知る限り、晋平がエマの前でエマに取り入るような態度をとったことは一度もなかった。
時折、マンションを訪ねて来ては、エマをエスコートするかのようにしてどこかに出かけて行く晋平の表情は、以前と少しも変わっていなかった。輝かしいデビューを果たした詩人、という立場を自ら拒絶しているようにも見えた。それがわたしには不満だった。
おめでとう、とわたしが言っても、軽く微笑み返すだけで応《こた》えない。
嬉《うれ》しくないの、と聞き返せば、いや、嬉しいですよ、と言い、その後にすぐ、「でも」という言葉が添えられる。「なんだか、自分が生み出したもののようには感じられなくてね」
「どうしてよ」
「市場に出回った途端、僕の作品は僕から離れていく。勝手に解釈されて、勝手に読まれて、勝手な幻想を紡がれて……でも、それでいいのかもしれません。そういうことに僕がまだ、慣れていないだけなのかもしれない」
「素直に喜べばいいのに。成功したんだもの」
わたしは、彼の年齢に見合わない青臭さをからかう。だが彼は笑わない。
「成功する、ということがどういうことを意味するのか、僕には今もわからないんだ」
「真面目すぎるのね。驚いちゃう」
「そう?」
「そうよ。簡単じゃない。成功っていうのはね、お金が儲《もう》かった、ってことなんだから」
ははっ、と彼は笑う。「なるほど。わかりやすいですね」
「そういう簡単なわかりやすい考え方を馬鹿にするもんじゃないわ」
「そうだね。あなたの言う通りだと思うよ」
「本気で言ってる?」
彼はまた、にやりと笑う。「本気だよ」
会話はそこで途切れる。エマがやって来る。エマはまるで、恋をする女子大生のような顔つきをしている。着るものの趣味も変わってきた。性的な放埒《ほうらつ》さを感じさせる服装はしなくなり、エマはいつだって、晋平の前では一人の可愛い女でしかない。
じゃあね、行って来るわ、とエマはわたしに向かって弾んだ声で言い、その瞬間、背の高い晋平の、影にのみこまれるようになって溶けていく。
晋平のそうした、何があっても決して浮き足立つことのない、おもねらない、非常に冷静で客観的な反応が、わたしを面白くない気持ちにさせた。
晋平がもし、エマに向かって、ありがとう、すべてあなたのおかげです、と跪《ひざまず》かんばかりの勢いでひれ伏し、涙を浮かべて感謝の意を表していたとしたら、わたしはあんなことはしなかったかもしれない。富と社会的地位と安楽な暮らしを支えてくれるエマの甘い汁を吸おうとするために、彼がエマの腰巾着《こしぎんちやく》のようにふるまっていてくれたら、あんなふうにはならなかったかもしれない。
彼がエマのヒモ、エマの忠実なしもべでいてくれていたら、と今もわたしは真剣に考える。あるいはまた、第二の佐伯のようになってくれてさえいたら……と。
冬になり、年が明け、あれは二月に入ってまもなくのことだった。
東京にも朝から雪が降りしきり、あたりが暗くなるまでに十センチだか十一センチだかの積雪が記録された。坂の多い元麻布|界隈《かいわい》ではあちらこちらでタクシーや乗用車が滑ったり、エンストを起こしたりしている光景が見られた。
何もかもが雪のせいだ。そう言うこともできる。あの日の雪が運命を変えた……そうだったのかもしれない。
エマは前の日から大阪に行っていた。大阪のテレビ局が制作することになっていた特別番組に出演するためだった。
もちろんわたしも同行するはずだったのだが、出発当日になってわたしは風邪をひいた。うつされたらたまらない、とエマは言い、とにかく一緒に来ないでもいい、ここに残って寝ていてほしい、と命じられた。
確かに気分は悪かった。熱が少しあって、胃のあたりがむかむかしていた。とても大阪まで行くことができそうもなかったため、やむなくわたしは一人、東京に残ったのだった。
そしてその翌日、エマが東京に戻るという日になって、思いがけず大雪になった。巨大な低気圧が日本全土を席巻し、東海道新幹線は全線にわたって不通になり、復旧の見通しすらたたなかった。
エマは電話をかけてきて、仕方がないからもう一泊していく、と言った。晋平会いたさに胸焦がしているに違いなかったが、旧知の男友達とテレビ出演を通して再会した様子で、その晩は雪見酒を楽しんでくる、と言い、口調は明るかった。
晋平から電話がかかってきたのは、まさしくその、大阪にいるエマからの電話を切った直後のことである。
何かエマが言い忘れたことでもあったのか、と思い、受話器を取った。「何?」といささかぶっきらぼうに聞き返したわたしの耳に、晋平の声がすうっと、まるで気持ちのいい風のように流れてきた。
「雪ですね」と彼は言った。「東京でこんな大雪、久しぶりだな」
「ロマンティックな気分になる?」
「いや、別に」彼は短く笑った。「詩を書くからといって、ロマンティストだとは限らない」
「そう? わたしはそうだと思いこんでたけど」
彼はわたしの言葉を無視した。「エマさん、無事に帰れましたか?」
「電話、なかったの?」
「あったのかもしれないけど、今日はずっと外出してたものだから」
わたしはエマがその晩、帰れなくなったことを彼に伝えた。彼は「そう」とだけ言った。感情が読み取れなかった。
すぐに電話を切ってしまうものだとばかり思っていたのだが、晋平はそのまま、黙っていた。受話器の奥から、かすかに車の流れる音が聞こえてきた。
「今、どこ?」わたしは聞いた。
「渋谷」
「何をしてるの」
「これといって何も」
「これから何か予定、ある?」
「どういう意味?」
わたしは笑った。「怖がってるのね、わたしのこと」
「怖がる? まさか」
「少し風邪気味だったの。だから、エマさんと大阪に行けなかったんだけど、今日はよくなったみたい。どうせ一人だし。あなたも一人だったら、一緒に何か食べない?」
わずかにせよ、意味ありげな沈黙、暗黙のうちにこちらを諭すような沈黙が流れるか、と思ったが、そんなものは何もなかった。晋平は即座に「いいですよ」と言った。「そうしましょう」
気軽な女友達にでも言うような言い方で、彼はそう言い、どこで何時に待ち合わせるか、すらすらと口にしてから電話を切った。
わたしは受話器をおろしてから両肩をすくめ、ふん、と鼻を鳴らした。
誘えばすぐについて来る。そういう男だったんじゃない。そう思った。
だから何なのか、と問われても自分の気持ちがわからない。自分の誘いに気軽に応じてくれない晋平を想像していた、というわけでもなかった。天候の異変がもたらした偶然が重なって、そういう結果になった、というだけのことだった。
だが、あまりに気軽に応じてくれた晋平が不可解だった。馬鹿にされている、とも思った。逡巡《しゆんじゆん》、ためらい、そういったものが彼には何ひとつなかった。
一まわりも年上だからか、とも考えた。わたしのことなど、たかだかの小娘程度にしか考えていなかったのか、と。恋人の留守中、年の離れた妹や従姉妹《いとこ》たちと仕方なく食事をする時に、いたずらに緊張する必要がないのと同様、彼もまた、わたし相手なら何も考えずにいられたということなのか、と。
エマはわたしに言った。「あの人の目はね、女を恋するためにだけある目だったのよ」と。
それならわたしのことも振り向かせてみたい、とわたしは思った。わたしに対しても、そういう目をしてくれるのかどうか、確かめてみたかった。
したがって、それは遊戯として始まったに過ぎない。わたしはエマのように晋平と向き合い、晋平がエマを見るようにしてわたしを見てくれるのかどうか、知りたかった。これまでエマを囲んでいた男たちが皆、わたしのことも振り向いてくれたのと同様、彼もまた、わたしを振り向いてくれて、何か甘ったるい、その場限りの科白《せりふ》を投げてくれはしないだろうか、と期待していた。
それだけのことだった。少なくともあの晩、雪道に足を取られながら、静まりかえったような渋谷の裏通りの、入口付近でかいた雪が、泥まじりに黒くこんもりと盛り上がっている、小さなバーに辿《たど》り着くまでは。
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そのバーは焦げ茶色だった。床も壁も、カウンターも天井も、何もかもが煤《すす》けていた。
そして、忘れることのできない、強烈なワックスの香り。遠い昔、小学校の教室に漂っていた、古くさい、黴《かび》まじりの、懐かしいようなあの匂い……。
床を踏むと、ぎしっ、という軋《きし》み音がする。床板はささくれ立っており、おまけに一部が反り返っている。
うすぼんやりとした、とりとめもない黄色い照明が細長いカウンターを照らし、口髭《くちひげ》をはやした初老のバーテンダーが一人、不機嫌そうな顔をして何か飲み物を作っている。奥に小さな厨房《ちゆうぼう》があるらしく、ウェスタン式の開閉扉の向こう側に、かすかに人の気配がある。
カウンターの脇に細長い、鎧戸《よろいど》つきの窓がひとつ。鎧戸は少し開いていて、そこから外のネオンの、点滅する明かりが射し込んでいるのが見える。紫がかった、けばけばしい光である。それが点滅を繰り返すたびに、床に紫色の縞《しま》模様が浮かび上がり、その縞模様はわたしの足元にまで伸びてくる。
客は晋平の他に誰もいなかった。店内には低くジャズが流れている。エマの部屋で、エマのレコードで聞いたことのある曲。カーメン・マックレエの『バイバイ・ブラックバード』。
わたしはふと、黒い鳥≠ニいう言葉の意味について考える。何故、そんなことを考えるのかわからない。第一、何故、こんなところに来ているのか、わからなくなる。引き返したくなる。
カウンターに近づき、わたしは無表情のまま、「どうも」と言い、晋平の隣のスツールに座った。
「お腹、すいてる?」
晋平はわたしを見て、軽く微笑むと、挨拶《あいさつ》も何もなくそう聞いた。
わたしは首を横に振った。
「ここのオムレツ、おいしいですよ。それとフランクフルトソーセージも。何を飲む?」
わたしは軽く肩をすくめ、「ビール」と言った。
晋平はバーテンダーに飲み物と、幾つかの料理を注文した。通い慣れている店のようだった。バーテンダーは厨房の奥に引っ込んで行った。
晋平の、少し疲れているような横顔に、不精髭が昏《くら》い影を落としている。着ている丸首の黒いセーターは清潔そうだが、袖《そで》のあたりが禿《は》げかかっていて、あちこちに小さな毛玉が付着している。セーターの下に、眩《まぶ》しいほど白いシャツの、ぴんと張った衿《えり》が覗《のぞ》き見える。唯一、その衿だけが、彼の生活のわずかな向上ぶりを表しているようでもある。どういうわけか、わたしはその白いシャツの衿を憎み始める。
「もうかれこれ五年になるかな」と晋平は言う。「この店に通い出してから。でもここは、そのずっと前から……大昔からあった」
「お客がいないのね」
「雪だからでしょう」
この男はわたしに無関心を装っている、とわたしは思った。あるいは、本当に無関心なのか。無関心すぎて、親しみを装うことすらできないのか。
前者であってほしい、と願っている自分が浅ましく感じられてくる。何ひとつ、傷つけられてなどいないというのに、架空の傷の痛みが伝わってくるような気持ちになって、わたしは慌ててたばこをくわえる。
晋平は火をつけてくれない。エマにいつもそうやっているように、わたしの前にライターを差し出してはくれない。
仕方なくわたしは自分で自分のライターを取り出し、たばこに火をつける。
ビールとナッツのつまみが運ばれてきて、わたしたちは乾杯のまねごとをする。オムレツやフランクフルトソーセージ、シーザーズサラダが、次々とわたしたちの前に並べられていく。
晋平はオムレツにナイフを入れ、半分に切り分ける。どうぞ、と言われる。オムレツからは仄《ほの》かな湯気があがっていて、わたしはその湯気を見つめたまま、黙ってうなずく。
会話は恐ろしいほど弾まない。晋平はあまり喋《しやべ》らず、何かまったく別のことを考えているようにも見える。
わたしは詩集の話、彼の詩の話をする。時々、大げさに笑ってみせる。わたしなんか、ただの家出娘なのよ、詩のことなんか、全然わからないのに、あんなに有名な女流詩人の秘書をしてるなんて、と言って、蓮《はす》っ葉《ぱ》に、自虐的に見えるように笑ってみせる。
だが、晋平はわずかに唇の端を曲げて微笑みかけるだけで、笑わない。彼の視線が時折、わたしの顔に吸いつく。それは本当に、ただ吸いつくだけの視線であり、恋をする視線、これから恋をするかもしれないという視線ではない。
エマが言うような、「女に恋をするためにだけある目」はわたしの前にない。そこにあるのは、わずかに疑っているような、それでいてさしたる関心もなさそうな、別れた途端、自分が誰と会っていたのか、簡単に忘れてしまうような、そんな目である。
「エマさんのことだけど」わたしは二杯目のビールを飲み干してから言った。少し酔いがまわったふりをして。「……愛してる?」
あはっ、と晋平は乾いた笑い声をあげ、「何を聞くかと思ったら」と言った。
続く言葉はなかった。彼は背筋を伸ばしてカウンターの上で腕組みをし、からかうような目をしてわたしを見た。
「どうしてそんな顔でわたしを見るの?」
「そんな顔、って?」
「人を馬鹿にしてるみたいな顔」
「そんなことはないですよ。わかっていることをわざわざ聞いてくるのはどうしてなんだろう、って思ってるだけ」
わたしは眼球をぐるりと回して、くすっ、と笑ってみせた。「ねえ、エマさんはあなたに夢中なのよ」
「光栄だな」
「そのくらい、もうとっくにわかってるんだろうけど」
晋平はいったん視線を泳がせてから、再びわたしを見つめ直した。「何が言いたいの」
「別に何も言いたくはないわ」
「あなたが僕に言いたがってることを代わりに言ってあげましょうか」
「何なの」
「僕の詩集は、新川エマがいなければ出なかった、僕は新川エマがいなかったら、一冊の詩集も世に残すことなく、野たれ死にしていたに違いない、そのことを自覚しろ……そう言いたいんじゃないのかな」
一瞬の沈黙の後、わたしは笑い声をあげた。「想像力が豊かな人なのね」
図星よ、と言い返さなかったことをすぐに後悔した。言ってやりたかった。その通りよ、と。あなたなんか、エマさんがいなかったら、ただのみすぼらしい失業者で終わってたじゃない、と。エマさんのおかげで、芸術家ぶることもできるようになって、新しい白いシャツを買うことだってできるようになったんじゃない、こうやって、雪の夜、エマさんの留守に、若い女とビールを飲みながらオムレツを分け合って食べることも、エマさんがいたからこそ、できるようになったんじゃない、と。
だが、わたしは笑い続けた。「誤解よ、ほんとに。そんなことちっとも……」
いいんだ、と彼は言った。悲しげな様子はみじんもなく、口調は淡々と乾いていて、冷やかですらあった。「たとえあなたにそう思われていたのだとしても、それはそれでかまわない。だってそれは、事実なんだからね」
わたしは黙りこんだ。傷つけてしまっただろうか、と思いながら、もっともっと傷つけてやりたいという衝動にかられた。目の前にいるこの男が、身悶《みもだ》えするようにして顔を歪《ゆが》ませ、自分はひとりぼっちなんだ、孤独なんだ、おまけに貧しくて、皆が言うほどの才能があるわけでもない、そんな自分を救ってくれた親切な女の人を愛するのは僕の義務じゃないか……そう言ってくれればいい、と願った。
そうすれば自分はこの男に恋をするだろう。烈《はげ》しく恋をして、惜しみなく愛情を降り注ぎ、胸の中に抱きしめて、髪の毛の中に無数のキスを散らしながら、おんなじよ、わたしだっておんなじなのよ、と囁《ささや》くだろう……そう思った。
だが、気がつくとわたしは別の言葉を口にしていた。
「あなたに興味があるの」
「僕に? 何故」
わたしは両方の眉《まゆ》をつり上げてみせた。「わからない。ただ、興味があるの。それだけ」
晋平はそれに応《こた》える代わりに、バーテンダーに向かってジンのオンザロックを注文した。ジンのオンザロック……わざわざエマの好物を注文してみせた彼が、わたしに何を言わんとしているのか、わかったような気がした。
だが、わたしはそれを許さなかった。ぐさぐさと、彼の魂のすべてを太い針で突き刺してやりたかった。
「今夜、わたしと寝てくれる?」わたしは聞いた。言った途端、自分の発した言葉に烈しい寒けを感じたが、後戻りはできそうになかった。「寝てくれたら、きっとあなたに対する興味が何だったのか、わかるんだと思うけど」
彼はわたしを見て、呆《あき》れたように微笑んだ。「あなたはそうやって、たくさんの男たちを誘惑してきたんですね。それもエマさんの影響?」
「影響も何もないわ。男たちがわたしを誘惑してきたのよ。エマさんにふられた男たちが」
「ゴミ処理の役目を引き受けてた、ってわけ?」
「そう思うんなら、そう思ってくれてかまわないわ」
「一度、聞こうと思ってた。どうしてあなたはエマさんにくっついてるんだろう、って」
わたしはバーテンダーに向かって、同じものをわたしも、と言ってから、彼に向き直った。「食べていくためよ」
「明快だな」
「ものごとを複雑に考えるのは好きじゃないの」
「上等だ」
わたしは彼を睨《にら》みつけた。まもなくジンのオンザロックが運ばれてきて、わたしはそれに口をつけ、黙りこくった。
相変わらず、客はわたしたち二人だけだった。窓の鎧戸《よろいど》からもれてくる紫色の光が、時折、雪に反射してぬめるように鈍く輝くのが見えた。
「何故そんなに、僕につっかかる」
「言ったでしょ。興味があるからよ」
「貧乏な男を支配したい……そういうこと?」
「あなたはもう貧乏じゃないわ。これからも貧乏のままでは終わらない。少なくともエマさんがいてくれる限り。……そうでしょ」
「エマさんは僕を養ってくれてるわけじゃない。僕もエマさんに養われているつもりはない。僕とエマさんを、下僕と女主人のような関係だと思いたいあなたの気持ちはわからなくはないけど、それはあまりにも滑稽《こつけい》だし、子供じみてる」
「下僕じゃなかったら何なの? 対等な関係だって言うの? 対等に恋におちて、対等に愛し合って、対等に愛を育《はぐく》んでるってわけ? 悪いけど……笑っちゃうわ」
晋平は何か言いかけて口を閉ざし、わたしから目を外すと、オンザロックのグラスをじっと見下ろした。横顔に無表情だけが貼りついていた。
「コバンザメよ」わたしは低い声でそう言い、自嘲《じちよう》的に笑ってみせた。「あなただけじゃない、わたしもそう。わたしたちはね、エマさんにくっついて、甘い汁を吸って、なんとかその日その日の餌にありつこうとしてるだけの、ただの小狡《こずる》い、コバンザメなのよ」
沈黙が流れた。長い長い沈黙だった。あまりに長すぎて、時間が止まってしまったように思われた。
晋平はグラスに口をつけ、中のものを静かに飲み干し、そうだね、と言った。「その通りかもしれない」
ふいにわたしは、泣きたいような気持ちにかられた。本当に泣いてしまうのではないか、とすら思った。
晋平がわたしを見た。疑っているような、あるいは無関心であるような、その種の光は消えていて、彼の目の奥には途方もない悲しみだけが覗《のぞ》き見えた。
「気を悪くした?」わたしは静かに聞いた。
いや、全然、と彼は言った。「出ましょうか。少し歩きたくなった」
彼がジーンズの後ろポケットに手を入れかけたのを見て、わたしは慌ててバッグから財布を取り出した。
彼に支払わせるつもりはなかった。この程度の飲食代金を払えないほど貧しいとは思っていなかったが、わたしには彼の財布の中身が想像できた。そしてその想像は、思いがけず、わたしを優しい気持ちにさせた。
「まさかエマさんの代役をつとめようとしてるわけじゃないでしょうね」晋平はいくらかぶっきらぼうにそう言い、わたしが制止するのも聞かずに何枚かの千円札の束を取り出すなり、バーテンダーに会計を頼んだ。
店を出ると、もう雪はやんでいて、空気は透明感を増していた。建物の輪郭がくっきりと浮かび上がり、あたりは雪の匂いに満ちていて、空には鎌のように鋭い三日月が昇っているのが見えた。
わたしは思い出す。あの晩のすべてを思い出す。
そこには不思議と欲情はない。わたしはあの男に欲情してはいなかった。そんなものは何ひとつなく、わたしはただ、あの男と今日も明日もないような、空疎なひとときを共有していることに、自虐的な喜びを感じていただけだった。
わたしたちは肩を並べて歩き始めた。彼はわたしよりもかなり背が高かった。脇の下にすっぽりとわたしが収まってしまいそうなほどだった。
嵩《かさ》のないような、厚みのないような肉体がわたしの傍にあった。彼はほとんど、影のように薄い感じがした。死の粒子ばかりが拡がっていて、肉体がいつのまにか薄く扁平《へんぺい》になり、しまいにぺらぺらの一枚の無機質な版画か何かになってしまったようでもあった。
積もった雪は、踏みつけると水になった。ブーツをはいていなかったものだから、ストッキングを通して靴の中に冷たい水がしみこんできた。
まだ風邪が治りきっていなかったので、軽い寒けが背筋を走った。だがわたしは歩き続けた。そうすることが義務のように、歩き続けた。そして歩けば歩くほど、泣き出したくなった。もっと惨めになりたい、と思った。もっと惨めになって、自尊心のかけらも失って、暗黒の井戸の底に叩《たた》き落とされることが自分にふさわしい最後なのかもしれない、などと考え、その考えは思いがけずわたしの気分を和らげてくれた。
公園通りのゆるやかな坂を上り、国立代々木競技場のほうに向かった。時折、タイヤチェーンを巻いた大型トラックが騒々しい音をたてて通り過ぎていったが、行き交う車は少なかった。
街灯が白く染まった街を照らしていて、何もかもが冷たく水っぽく感じられるというのに、それはわたしにとって実体のない風景……譬《たと》えて言えば、気取った絵の中に見る風景に過ぎないように思われた。
彼は言葉少なだった。くたびれたオーバーコートのポケットに両手を突っ込み、わたしに触れようともしなかった。彼はただ歩き続けていた。あてどなく歩いていることだけが、わたしと彼が唯一、分け合っていることのようでもあった。
「よくこうやって歩くの?」わたしは聞いた。
「そうだね」
「何のために?」
「別に意味なんかないよ」
「会わないほうがよかった、って後悔してる?」
「え?」
「わたしと。今夜、こんなふうに会わないでいたほうがよかった、って、そう思ってない?」
晋平はわたしを見下ろして、「いいや、全然」と言った。「会えてよかったよ」
わたしは、ふふっ、と皮肉まじりに笑った。「敬語、使わなくなったわね」
「敬語?」
「ついさっきまで、あなた、わたしに向かって敬語、使ってたわ。時々だけど。ですます調で喋《しやべ》ってた。前から変だ、と思ってたの。わたしみたいに年下の小娘に丁寧な喋り方したりして。……何故?」
「何故、って何が」
「どうして敬語を使わずにすむようになったの?」
彼はふいに立ち止まった。それはほとんど暴力的とも言っていいような素早さだった。わたしは彼の腕の中に抱きとめられ、彼の唇を受けていた。
愛撫《あいぶ》も愛の言葉も、優しい指先の動きも何もなかった。彼はただ、強引にわたしの唇を開き、まるで憎々しいものを犯すようにしてわたしにキスし続けた。
わたしはからだをこわばらせ、軽くもがいた。からかわれているのか、馬鹿にされているのか、どちらかとしか思えなかった。欲情など、生まれようもなかった。怒りに近い悲しみだけがあった。
わたしは腰を引き、からだを離し、唇を手の甲でぬぐいながら、彼を凝視した。「何のつもり?」
彼は薄く笑った。笑ったように見えた。
「コバンザメ」と彼はつぶやくように言った。
その目は潤んでいた。空疎に潤み、どうしようもないほど悲しげで、脱け殻に溜《た》まった水のように見えた。
「あなたの言う通りだよ。僕はコバンザメかもしれない」
わたしは押し黙った。彼が何を言おうとしているのか、わかったような気がした。思いきり自尊心を傷つけられた男が、それを認め、受け入れようとする時に見せる、典型的な冷たさが感じられた。
だが、その冷たさは不思議なことにわたしを失望させたり、悲しませたりはしなかった。わたしは彼の冷たさが自分の中に、しみわたる春の温かな雨のようにして優しく広がっていくのを感じた。
「わたしだってよ」とわたしは言った。声が掠《かす》れていた。わたしは軽く咳払《せきばら》いし、もう一度、同じことを言った。「わたしだって同じなのよ」
彼はわたしに向かって手を伸ばしてきた。わたしは抱きしめられ、頬ずりをされた。とても優しく。
彼の両手がわたしの顔をつかんだ。わたしが顔を上げると、彼の唇がわたしの唇を被《おお》った。
二度目のキスは優しかった。優しすぎて切なすぎて、怖くなるほどだった。
いったん唇を離し、わたしは言った。「わたしのこと、嫌いにならないで」
「どうして嫌いになったりする」
「ひどいことばかり言ったわ」
彼は何も言わず、またわたしを強く抱きしめてきた。彼の着ているコートからは、かすかな埃《ほこり》の匂いと共に、彼自身の甘いような香りが嗅《か》ぎとれた。
わたしたちは長い間、そうやって抱き合っていた。
まるで悲しみを間にはさんで抱き合っているかのようだった。
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10
男と女が出会い、近づき合って、何かの瞬間に衝動が高まり、キスをし合う、ということ……。
長い間、わたしにとってそれは、ありふれた日常の出来事の延長線上に引き起こされるものでしかなかった。どぎまぎさせられるわけでもなく、それが終わった後で、心境に何か特別な変化が起こる、ということもなかった。
若かったせいではない。そういうことに慣れ過ぎていたせいでもない。ずいぶん昔から、わたしには、若い娘にありがちなロマンティックな感覚が、徹底して欠落していた。
わたしはずっと、エマのおこぼれを引き受けてきただけである。エマのおこぼれは、それなりにわたしに優しかった。確かにわたしは彼らによってからだを開発されたし、性の営みがどんなものであるのか、エマの半分にも満たなかったにせよ、知ることができた。
だが、それだけのことだ。おこぼれは、あくまでもおこぼれに過ぎない。ベッドの中で囁《ささや》かれる束の間の愛の言葉が嘘ではなかったにしても、終わればたいてい、沈みこむような虚《むな》しさだけが残された。
そしてまた、虚しさの後の、別のキスが始まる。エマにふられた男たちから受ける、いたずらに甘ったるい、露骨に誘いこむようなキス。どうにかして、エマの代わりにわたしをものにしようと企《たくら》んでいる男たちの、情けないほど子供じみた欲情にかられたキス……。エマ恋しさに、あるいは、エマを憎むあまりに、わたしを抱きながら、腰を使いながら、思わず「エマ」と口走ってしまう哀れな男たちが、わたしの唇をむさぼっただけのこと……。
わたしにとって、長い間、キスという行為は、それだけの意味しか持っていなかった。男とのキスは、そこから始まる虚しい交合への入口に過ぎなかった。
彼らと交合するたびに、彼らの中に淀《よど》んでいた切なさと孤独がわたしの中に噴出される。悲しい井戸の底の底にまで、それは落ちていって、瞬く間に闇に溶けていく。
わたしにとって、彼らはあくまでも他人だったし、彼らにとってもまた、わたしは他人だった。だから、一度寝た男のことは、すぐに忘れた。その男のことを思い出させてくれるのはエマしかおらず、エマが、その男の名前を口にしなくなれば、本当に一切合切、わたしの中から、男に関する記憶はたち消えた。
要するにわたしは、エマと共に暮らすようになってからはもちろんのこと、それ以前も、ただの一度も、誰かに恋などしたことがないのである。そもそも、男に恋をする、という感覚がわからなかったのである。
わからないことを恥じもしなかったが、かといって、恋に盲《めし》いている人たちを軽蔑《けいべつ》もしなかった。どうして自分に無関係なことで楽しんでいる人たちを軽蔑することができただろう。ゴルフに関心がないからといって、ゴルフクラブを振り回している人を軽蔑しないのと同様、わたしは、恋をしている人を軽蔑はしなかった。ただ、無関心だっただけだ。
だが、あの雪の日の晩以来、わたしは変わった。晋平に烈《はげ》しくたてついたあげく、彼からいささか乱暴なキスを受けた後、わたしは変わった。自分の中に徐々に満ちてくる不思議なものを扱いかねるようになった。
それまで多くの女たちが経験していたに違いない、あの、とらえどころのない、不安や期待、あふれ出す欲望でぐちゃぐちゃになった、息詰まるような思いが、わたしの中に芽生えた。
今でははっきり、こんなふうに言うことができる。自分が思いがけず晋平に恋をしている、と思い始めた時、わたしはすでに狂ったように彼に溺《おぼ》れていたのだ、と。
わたしはエマの留守をねらい、エマに隠れて晋平と連絡を取り合うようになった。エマに隠れて晋平と逢《あ》い引きを重ねるようになった。
そのことしか考えなくなった。どうやったら、エマに知られずに彼と逢えるか。どうすれば、彼とキスをし、抱き合い、悲しいような、死にたくなるような愛の言葉を囁き合うことができるのか。
それらはすべて……たとえ、考えるだけのことだったにせよ、エマに対する裏切り行為に違いなかった。エマに知られなければいい、という問題ではなかった。永遠に秘密にしておけるのであれば、なかったことと同然になる、という問題でもなかった。
ごまかす気はなかった。ごまかすのはいやだったし、ごまかして済む問題ではない、ということがわたしには初めからよくわかっていた。
罪ということで言えば、一切か無か、どちらかしかないのだった。すべてが罪なのか、あるいはまた、すべてが罪ではないのか。
そして、わたしの場合、していることはすべてが罪だった。いや、「わたしの場合」ではない、「わたしたちの場合」と言わねばならない。
あの晩以来、晋平がわたしを正面から見つめてくるのがわかった。わたしに向かって手を伸ばし、わたしを求めてくるのがわかるようになった。わたしが彼に恋をしたのと同様、彼もまたわたしに強い関心を抱いてくれるのがわかった。そして、そうなればなるほど、わたしは自分がエマをとことん裏切っていくであろうことを予感した。
わたしたちの間には、いかなる時でも、エマがいた。皮肉なことだ。経済上の理由も含め、エマなしでは生きていくことができなくなっていた時に、わたしと晋平は恋におちたのだ。
あくせく働かずに、いやなことをせずに、つまらぬ人間たちと関わらずに、安楽に生きていく方法をわたしと晋平は手にしていた。その方法がエマだった。エマにくっついて、エマを貪《むさぼ》り、エマから与えられる報酬を甘んじて受け入れていくこと。そこには卑屈さは、かけらもなかった。エマから受け取るのは、あくまでも正当な報酬である、とわたしたちは認識していた。
それは最低の認識だったかもしれない。あの頃のわたしたちは、人間として救いようがないほど堕落していたのかもしれない。
だが、エマなしでどうやって生きていけばいいのか、見当もつかなかった。少なくともわたしには、それ以外のお金の稼ぎ方がわかっていなかった。男にからだを売るという感覚……十七の時に、男にからだを売った、というあの感覚がわたしの中に根強く残されていて、エマから離れたら、あの頃に戻って、自分は平然と街角に立ち、男にからだを売るだろう、とも思った。
エマなしでは生きていけない自分、エマあっての晋平……という図式が、わたしを貶《おとし》め、同時にわたしを苦しめた。
だが、晋平は別の考え方をしていたのかもしれない。確かにエマあっての彼だったし、エマがいなければ彼の詩集は日の目を見ることなく、埋もれていたに違いないのだが、そのことと、エマを敬愛し、果ては女としてエマを見つめるようになったことは別の問題である、と彼は考えていたのかもしれない。
彼は大人だった。少なくともわたしから見れば、わたしより遥《はる》かに大人だった。となれば、人間としておぞましいほど堕落していたのは、わたしだけだったのか。
わたしたちは二度と、エマのコバンザメであることを口にしなくなった。どちらからともなく、あからさまな物言いは避けるようになった。もっとも恥ずべきことは、わたしたちの間で、おのずと隠蔽《いんぺい》されていった。
そして、多分そのせいで、わたしと晋平は皮肉なことにより深く結びつくようになったのである。より重たく、より秘密めいた形で互いを求め合うことになったのである。
……そうに違いない。
前にも書いた。エマとわたしのいる風景は、単調に連ねられたイマージュの連続でしかなかった、と。
ああいうことがあった、こういうことがあった、という、時間とつながった具体的な記録ではなく、それはあくまでも、無意味に重なり合う映像のひとこまでしかない。必死になって、映像のひとつひとつをつなげようとしてみても、そこに起承転結のある物語は生まれない。生まれようがない。
それまでのわたしとエマは、つながりのない、だらだらと続く映像の中にしか生きていなかった。そう、例えば、ふかふかの毛足の長い絨毯《じゆうたん》に寝そべって、寝てきた男の話をしているふたりの女。グラスに水滴がつくほどよく冷えた、ジンのオンザロック。唐突なエマのヒステリー。窓から見える木立。オー・デ・コロンの瓶から漂ってくる、幾種類もの麝香《じやこう》の香り。ふくれっ面と、くすくす笑い。あれをしている時の悩ましい喘《あえ》ぎ声。エマの紡ぎだす言葉の数々。雨あがりのベランダにやって来る、番《つがい》の鳩……。
繰り返される、そうした漠然とした映像の中に、あの時、新たに一人の男が加わったのだった。寺岡晋平。彼はわたしとエマの映像の中に入りこんできて、そこに確固たる物語を作った。始まりもなければ、終わりもないような生き方をしていたわたしたちに、彼は厳粛な事実を突きつけた。何かが始まれば、必ず何かひとつが終わりを告げる、という事実を。
彼はわたしとエマの映像……永遠に続けられていたかもしれない、めりはりのない泡のような映像を破壊してきた。彼の存在ははからずも、わたしやエマに、人生がひとつの物語であることを教えることになった。
そしてわたしもエマも、次第に彼の生み出す物語の中に取り込まれていった。だらだらと繰り返されるだけだった無意味な映像フィルムは、或《あ》る時、鋏《はさみ》で切り裂かれたように断絶されていた。
失ってみると、それはひどく懐かしい。夢まぼろしに過ぎなかったものを懐かしむのは馬鹿げたことだとわかっていながら、本当に懐かしくて、わたしは今も、あの元麻布の部屋の風景、そこに息づいていた美しいエマ、ジンの香り、明けても暮れても、セックスと男の話しかしていなかったわたしたち自身のことを思い出す。あのまま、永遠に終わることなくまぼろしが続いていてくれたら、などと考える。
物語などいらなかった。死ぬまで子供のままでいたい、と願う幼い少女のように、わたしは今も時折、そう思う。そして、あの男をわたしに分け与えてくれた神を呪う。あれほどひとりの男に恋い焦がれてしまった自分自身を、わたしは呪う。
だが、ここに、最後のイマージュがある。そこに映し出されているのはわたしと晋平だけだ。エマの姿はない。ないのだが、どこかにエマが隠れている。エマなしでは完成されなかった、最後の映像である。
渋谷の裏通りにある、薄汚れたラブホテル。煤《すす》けた柿色の布団に白いカバー。白いシーツ。シーツの中央部分に、洗っても洗っても、ついにこそげ落とすことができなかったらしい、血液の染みが丸く広がっている。
部屋の片隅に、細長い窓がついている。窓の擦り硝子《ガラス》には、点滅する赤と青のネオンが映っている。通りをはさんだ向かい側に建つ、似たようなラブホテルのネオンである。
部屋の明かりを消すと、室内が赤くなったり青くなったりを繰り返す。目を閉じても、同じ色が網膜に焼きついて消えない。
わたしの上に晋平が乗っている。彼の荒々しい息づかいが聞こえる。わたしは薄目を開ける。彼は赤と青に彩られた、何か見知らぬ物体のように見える。
不思議なほど、悦楽は襲ってこない。なのにわたしは濡《ぬ》れそぼっている。恥ずかしいほど濡れそぼりながら、どこかが静かに冷めていて、わたしは胸の奥で、この男を愛している、悲しくなるほど愛している、と絶叫している。
彼は時折、動きを止めて、わたしの耳朶《じだ》に唇をあてがう。わたしの乳房を愛撫《あいぶ》する。言葉はない。ないのだが、わたしには彼の気持ちが伝わってくる。痛いほど伝わってくる。
そして実際、彼との交合には痛みが伴っている。性器の痛みではない、心の痛みだ。
自分たちには未来がない、とわたしは思う。今この瞬間ですら、流れる時間のさなかに溶けていって、何も残されないに違いない、と思う。
気がつくとわたしは泣いている。徐々に高まってくる悦《よろこ》びの波を押し返そうとするかのように、泣いている。
彼はそっと動きを止める。どうしたの、と低い声で聞かれる。「痛い?」
わたしは首を横に振る。枕にこびりついていた他人の髪の毛の匂いが鼻をつく。胸いっぱい吸いこむと、吐きそうになるような匂いである。
わたしは彼の首に両腕をまわす。「お願い。ずっと続けて。やめないで。死ぬまでこうしていて」
ああ、と彼は言う。「そうしよう。死ぬまでこうしていよう」
そして彼はまた、腰を動かし始める。わたしは再びそれを押しとどめ、ねえ、と囁《ささや》きかける。「わたしとこうやった後で、エマさんと寝る?」
薄闇の中、彼の顔は黒々とした影の中に沈んでいる。彼は静かに言う。「わからない」
「寝なくてはいけない、と思ってる?」
「そうは思ってないよ」
「じゃあ、寝ないで」
彼はわたしの額に唇を押しつける。「わかった。寝ない」
「約束して」
彼の唇がわたしの唇を被《おお》う。わたし自身の涙の味がする。
からだの奥深く、漣《さざなみ》のように悦楽が少しずつ押し寄せてくる。場違いなほどの悦びがわたしを圧倒し始める。そしてそれはやがて荒々しい波になり、わたしを支配し、我を忘れさせる。
遠くを走り抜けて行く、救急車のサイレンの音がしている。わたしの上にいる彼は、小さく呻《うめ》くと、ぐったりとわたしにからだを預けてくる。水を吸った死人のように、彼は重たくなる。
波は徐々に引いていく。気がつくと、わたし自身、赤と青に彩られた果てしない海の底に、もの悲しく溶けている……。
晋平の第二詩集『虚空』が出版されたのは、その年の夏だった。帯には前回同様、新川エマの推薦文が載せられた。
処女詩集『毒』よりも、それは話題になり、専門誌のみならず、各一般誌でも大きく書評に取り上げられた。部数をおさえて出版されたせいか、店頭で品切れ続出、ということになり、慌てて出版社が増刷をかける、といった一幕もあった。
顔写真を掲載されることをいやがっていた晋平だが、そうもいかなくなった。彼は幾つかのインタビューを、出版社からの要請で半ば強制的に受けさせられた。あちこちに晋平の顔写真が載り、載れば載るほど、また別のところからインタビューの依頼が舞いこんだ。
老舗《しにせ》の総合月刊誌のカラーグラビアには、エマと並んで写っている晋平の写真が掲載された。あの写真のことは、まだよく覚えている。折り込みページを使って掲載された、大きな写真だった。
元麻布のエマのマンションの一室である。エマは袖無《そでな》しの黒いロングワンピースを着ている。けだるい感じで肘掛《ひじか》け椅子に腰をおろし、右手にたばこをはさみながら、エマはどこか不機嫌そうにカメラを睨《にら》みつけている。
晋平はと言えば、そんなエマの後ろに立ち、椅子の背に片手をかけている。白いTシャツにジーンズ姿である。彼は伸ばしていた髪の毛を切っている。若い娘のように柔らかく見える黒い髪が、ふわりと形よく彼の額にかかっている。笑みはない。かといって、苦々しいという表情でもない。端整な顔には、無表情だけが薄く広がっている。
ふたりはカメラを見つめているのだが、その視線は別々のものでしかない。どこまでいっても交わることのないような、冷やかなその視線……。
その写真が撮影された時、わたしは傍にいて、一部始終を見ていた。やって来たカメラマンとその助手が、あれこれと機材を室内にセッティングし、編集者がメイク係の若い女に注文をつけ、窓のカーテンを閉じたり開けたり、家具を移動したり、また元通りにしたりしているうちに、エマは目に見えて苛々《いらいら》し始めた。
「あんまり時間がないの」とエマは言った。「だらだらしていられると、困るのよ」
居合わせた人々は恐縮し、申し訳ありません、とあやまり続けた。全員がぴりぴりしていた。エマは憮然《ぶぜん》とした態度で肘掛け椅子に坐《すわ》った。晋平はその間中、一言も口をきかなかった。
撮影を終えて、人々が帰った途端、エマはわたしに、ジンを作って、と命じた。
油照りの午後だった。窓の外では、どろどろに溶けたような夏の光が渦をまき、何もかもが死んだように暑さの中で静まりかえっていた。
「いい機会ね」とエマはジンの入ったグラスを手に、わたしと晋平を交互に見つめながら言った。「三人そろったわ」
虚をつかれた、という印象はもたなかった。いつかはこういう時が来る、とわたしにはわかっていた。遅すぎるくらいだった。
エマも頑張ったし、わたしも晋平もこらえ続けていた。三人が三人とも、真実を隠そうとして必死になっていた。互いが素知らぬふりをし、愛想笑いを繰り返していた。
その種の滑稽《こつけい》な茶番劇には必ず終わりが来る。終わらなければおかしい。
「くだらない情事の顛末《てんまつ》を聞こうとしてるわけじゃないのよ」エマは言った。いつものエマ以上に、その言い方には威厳があった。「そんなことには興味はないの。ただ、ここで、はっきり確認しておきたいのよ。わたしたち三人が、今、ちょっとした不協和音を奏でてるんだ、ってことをね」
わたしは臆《おく》すことなく、正面からエマを見た。見ながら、この人は相変わらずきれいだ、と思った。この先何があっても、この人がきれいだ、という事実は永遠に変わらないのだろう、と思った。
「あらかじめ言っておくけど」とエマは続けた。黒く縁取られた大きな美しい目が、宙を泳ぎ、まるで獲物を見つけた小動物のように、その視線はわたしに向かって、ひたと吸いついてきた。「野乃、ここであなたが、『知ってたの?』なんて、馬鹿なセリフを吐いたら、わたし、あなたをこの場で殺すかもしれないわよ」
言うなり、エマは薄く笑った。くっ、くっ、と鳩のように喉《のど》を鳴らして笑った。「知らないはずがないじゃないの。わたしも堕《お》ちたものだわ。こういうことが起こるだなんて、ちっとも思わなかった。そのうえ、起こってしまってからも、黙って見過ごすようなまねをしたりして」
「それが、堕ちたことになる?」わたしは小声で聞いた。できるだけ優しく、もの静かに。「エマさんは、ちっとも堕ちてなんかいない。堕ちてるのはわたしたちのほうよ」
「お涙|頂戴《ちようだい》の話はやめることね」エマは憎々しげに言った。
エマの視線が、わたしではなく、晋平に注がれた。潤んだようになった目に、一瞬、赤々と燃え盛る焔《ほのお》が走り抜けていくのがはっきりわかった。「わたしを利用した……そういうこと?」
まさか、と晋平は低い声で言った。「誤解しないでください。そんなことはちっとも……」
「利用してくれたってかまわないのよ。わたしが喜んで、利用させてあげたんだから。ただね、利用しただけのことをきれいごとで済ませないでほしいの。利用したのだったら、利用した、って言ってほしいの。ここにいる三人が三人とも、気持ちをすっきりさせるためには、それしか方法がないでしょう」
「そういう問題じゃない。エマさん、それとこれとは意味が違うんです」
「違う? 何故よ。あなたがわたしを利用して、詩集を出させることに成功して、わたしがあなたにちょっと惚《ほ》れて、そのことがわかっていながら、結局は年の若い、野乃といちゃつくほうが楽しくなった……そういうことでしょう。それ以外、何があるの」
晋平は黙っていた。わたしも黙っていた。
クーラーが効きすぎた室内は、冷蔵庫の中のように冷えきっていた。閉じた硝子《ガラス》窓の外で、油蝉がたけり狂ったように鳴いているのがくぐもって聞こえた。
エマは突然、手にしていたジンのオンザロックのグラスを力まかせに壁に叩《たた》きつけた。烈《はげ》しい音がして、グラスが粉々に砕け散った。
わたしは息をのんだ。エマのヒステリーがそうさせたのではない。エマのヒステリーには慣れていた。いきなりグラスを壁に叩きつけられたからといって、驚くはずもない。
わたしが驚いたのは、別の意味でだった。エマが目にいっぱい涙をため、小鼻をウサギのようにひくひくさせながら、嗚咽《おえつ》し始めたからだった。
そこにいるのは、エマではなかった。少なくともわたしが知っていたエマではなかった。裏切られ、傷つけられ、自尊心をずたずたに切り裂かれた、無力で哀れな一人の女でしかなかった。
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11
エマは暴れ、暴れることに倦《う》み疲れると静まり返った。そして、死んだように身動きしなくなり、その実、密《ひそ》かにわたしを観察しては、また暴れた。その繰り返しがエマの日常になった。
エマはわたしに罵声《ばせい》を浴びせ、泣き叫び、マンション中に轟《とどろ》くような音をたてて寝室の扉を閉めるなり、中に閉じこもった。泣き腫《は》らした顔にルージュを引いただけの、エマにしてみれば考えられないほどあっさりした化粧のまま、ふらりと外に出て行って、誰と飲んできたのか、ひどく酔いつぶれて帰って来ることもあった。
そのたびにエマは、トイレやバスルームで吐き戻しては、その後始末をわたしにさせた。吐いても吐いてもまだ足りず、ジンのオンザロックを作れ、とわたしに命じた。
もうやめて、それ以上飲んだら死ぬわよ、とわたしが言うと、エマはわたしに飛びかかってきた。わたしは両肩をわしづかみにされたまま、じっとしていなければならなかった。
エマは低い声で呻《うめ》くように言うのである。
「文句を言わずに作りなさい。いいわね? 作るのよ」と。
そんな時のエマは、まるで死の床にある病人のように見える。目のまわりだけが赤く、瞳《ひとみ》はうるんでいるが、肌のすべてが青白くて、顔には色彩と呼べるものがない。
わたしは必死になってエマをなだめる。エマさん、エマさん、しーっ、しーっ、と耳元で囁《ささや》き続ける。ソファーに坐《すわ》らせ、氷を浮かせた水を少しずつ飲ませ、エマの背を、エマの腕をエマの肩をさすってやる。冷たい水に浸したタオルで、エマの口もとや汗の浮いた額をぬぐってやる。
わたしの中にこみあげてくるものがある。嘔吐《おうと》感のようなもの。嘔吐したいのに、嘔吐できない時のような、何か奇妙な膨満感がわたしの内臓を押しつぶしてくる。
目の前にいる、この美しい人の苦悩はわたしが与えた……そう思う。思えば思うほど、膨満感はさらに増大し、あふれ出し、肉体が異物のかたまりになってしまったように感じられてくる。
目を閉じたエマが眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せている。そこに深い皺を刻んだのは自分だ、とわたしは思う。どうすればいい、とわたしは自分自身に問いかける。永遠に答えなど出ないことはわかっている。わかっていて、自分は死ぬまで問い続けることになるのだろう、とわたしは思う。どうすればいい、と。自分はどうすればよかったのか、と。
エマの目尻《めじり》に涙がひとすじ流れる。泣きながら、むずかりながら、エマがうつらうつらし始める。わたしはじっとエマを見つめている。自分が恋した男が、この肉体のすみずみまで愛撫《あいぶ》し、このふっくらとしたプラムのような唇に蜜《みつ》があふれるようなキスを繰り返し、この子宮の中に幾千幾万という命の源を放ったのだ、ということをわたしはわざと具体的に想像してみる。
晋平がわたし自身を愛している時のことを思い返せば、想像の翼は、いくらでもはばたかせることができる。エマのからだ。エマの乳房。エマの唇。エマのほんの少しだけゆるみ始めた腹部、エマのほっそりとした足首、エマのなめらかなうなじ、エマの柔らかな、いい匂いのする髪の毛……。それらを愛撫する晋平の、指先の動きひとつひとつまで容易に想像できてしまう。晋平が思わずもらしたであろう、喘《あえ》ぎ声に至るまで。
嫉妬《しつと》はない。不思議なほどない。
代わりに悲しみと罪悪感がわたしを押しつぶす。その罪悪感は、意地悪な、ぞっとするような満足感と裏腹になっている。自分は、この天上の果実のような肉体と美貌《びぼう》をもったエマに、一時《いつとき》、勝つことができたのだという満足感。若さだけではかなわない、女としてのすべての魅力を兼ね備えた人を凌《しの》ぐことができたのだという満足感。エマを愛する以上に、自分を愛してくれる男に初めてめぐり合った、という、子供じみた、子供じみているが故にいっそう悪魔的な満足感……。
そうこうするうちに、窓の外が次第に白んでくる。夏の朝、戸外で囀《さえず》る雀の声が聞こえてくる。
化粧の剥《は》げた青白いエマの顔に、苦悩の影がおちている。ほんの少しだけ、エマにはかすかな老い……いや、老いとも言えない、衰えの徴候が表れていて、それに気づくとわたしはさらに胸をしめつけられる。わたしはエマを抱き起こし、寝室に連れて行く。
エマのからだは湿っていて軽い。まるで、雨に濡《ぬ》れそぼった、長毛種の洋猫のよう。
クィーンサイズのベッドに寝かせ、着ているものを脱がせにかかる。眩《まぶ》しいようなエマの肉体が現れる。わたしは目をそらす。幾多の男たちが通り過ぎていった肉体。男たちのすべてが執着し、追い求め、すがってきた肉体。しかし、最後の一人の男だけが、そうならなかった。その男と自分は今、恋におちている。多分、おそらく、自分はその男を恋することから逃れられないだろう。死ぬまでその男に、恋をし続けるだろう……。
わたしはエマにパジャマを着せ、からだをタオルケットで被《おお》ってやる。部屋のカーテンを閉じ、エアコンが低くなりすぎないように調節し、そっと寝室を出る。
エマは眠る。眠って眠って眠り続けて、その日の午後遅くまで寝ている。
目を覚ましてから、エマはわたしを呼びつけ、アスピリンをちょうだい、と言う。力のない声である。アスピリンを飲み、冷たい水をたくさん飲み、再びぐったりと横たわる。
それからエマの沈静期が始まる。極度の二日酔い状態から抜け出すと、エマはこわいほど静かになる。それは脱け殻のような静けさであり、無数の不吉な針をしのばせている漆黒の闇夜のような、背筋が寒くなるような静けさでもある。
エマがわたしを見ている。どこに行っても、何をしていても、エマがじっとわたしを観察している。
電話が鳴る。わたしが受話器を取る。いつのまにか、エマが部屋の片隅にいる。あるいは、開け放した扉の向こうに立って、会話の内容を聞いている。
食事をしている時も、エマはわたしの表情を見逃すまいとしているように見える。エマは何も言わない。言葉を発さないエマは、冷たい陶器の人形みたいだ。人形の目だけが生きている。目だけでわたしをなぶり殺そうとしているように感じられる。
わたしがバスルームを使っていると、ノックの音もなくエマが中に入って来る。何か他の用……キャビネットの中の薬や化粧品を取りに来ただけのようなふりを装って、エマはつかつかと入って来るなり、まるでそこに誰もいなかったかのような素振りで鏡の前に立つ。そして、鏡に映し出される、バスタブの中のわたしを見ている。わたしの裸。わたしの乳房。わたしの尻《しり》。あらゆる人体の部位に興味があるかのように、ただ、ただ、わたしを見ている。
エマは笑わない。話しかけてもくれない。仕事の用件がある時だけ、ロボットのような乾いた声でわたしに何かを指示する。そこに感情は読み取れず、怒りの焔《ほのお》も、軽蔑《けいべつ》の匂いも何もなく、エマはただ、そこにいて、わたしを観察しているだけなのである。
それでもわたしは出かける。晋平に会いに行く。エマを平然と見捨てていくような態度をとってみせる。何が起こったとしてもかまわない、そうでもしなければ、一歩も前に進めない……そう思うからである。
エマは何も聞かない。どこに行くの、とも、何時に帰るの、とも聞かない。わたしも黙っている。たいてい夜だ。しかも遅い時間。新大久保の晋平のアパートに行き、朝まで帰らない。
晋平に抱かれながら、うとうとと浅い眠りをむさぼっている間、幾度も奇妙な夢を見た。朝方、元麻布のマンションに戻ると、エマの部屋の玄関には鍵《かぎ》がかけられている。合鍵をさしこんでみるのだが、鍵がそっくり替えられてしまっているらしく、鍵穴に鍵が通らない。
どこからともなく佐伯が現れる。そして佐伯はにこりともせずに、こう言うのだ。「エマさんは引っ越しましたよ。もうここにはいません」と。
わたしは叫ぶ。何故叫んでいるのかわからないまま、叫び続け、叫んで叫んで、目を覚ます……。
だが、現実にそんなことは起こらなかった。朝になってマンションに帰ると、エマはたいてい、寝室のベッドで眠っていた。ベッドの下には、ブランデーの瓶と飲み残しが入ったグラスの他に、睡眠薬の錠剤が入った茶色の小瓶が転がり、詩が殴り書きされた、たくさんの白い画用紙が散乱している。
そんな時、わたしは真っ先に、睡眠薬の小瓶を手に取って中を確認した。エマがその晩、何錠、飲んだのか、すぐにわかるよう、わたしは薬の残量をいつも記憶するようにしていた。
多すぎる、と思われる日もあった。このまま目を覚まさないのではないか、と案じられる日もあった。
だが、エマは昼過ぎになると起き出してきて、野乃、と掠《かす》れた声でわたしを呼んだ。
わたしが寝室に行くと、エマは濁ったような目でわたしを睨《にら》みつけ、「まだいたの」と言った。「どうして帰ってきたのよ。帰ってくる必要なんか、ないじゃないの。愛《いと》しい男のところに行ってしまえばいいじゃないの。愛しくて愛しくて、恋焦がれて、一日も会わずにはいられないくせに。何を気取ってるの。何を意識してるの。恋に狂った、ただの女のくせして」
どう応《こた》えても無意味であることをわたしは知っている。わたしは黙っている。泣きたいような気持ちで黙りこくっている。
「顔も見たくない」とエマは言う。「あなたを見てると、自分自身の馬鹿さ加減を見せつけられてるような気になるのよ。遠くに行ってちょうだい。二度とここに帰って来ないで」
エマの沈静期が終わりを告げたことをわたしは知る。エマはまた、凶暴なエマに戻る。
白いカバーがかけられた羽枕を、エマは握ったこぶしで打ちつける。何度も何度も打ちつける。か細い悲鳴にも似た泣き声がエマの口からもれる。
外は夏の照り返しである。油蝉がたけり狂ったように鳴いている。
わたしは嗚咽《おえつ》をこらえ、震えながら、寝室の片隅に突っ立っている。そうしていることしかできない。何をどうすればいいのか、わからない。自分がいったい、本当に誰を愛し、誰を大切に思っているのかもわからなくなってくる。何もかもが、間違っていた、としか思えなくなる。愛すること、恋することから永遠に逃げ続けてしまいたくなってくる。
「エマさん……」とわたしは小声で呼びかける。
エマは応えない。油蝉の乱鳴だけが、わたしたちを支配している……。
昔からわたしには、物事を相談できる相手がいなかった。
友達と呼べる人間もいたためしがない。父も産みの母もママハハも、わたしにとっては心の交流のない他人でしかなかった。手垢《てあか》のついたうすぎたない、ありふれた答えが返ってくるのを待っているくらいなら、黙って一人で結果を出したほうがましである、ということをわたしはずいぶん幼い頃から学んでいた。
その結果、たとえ地獄を見なければならなくなったとしても、わたしはそれを受け入れてきた。それがわたしのやり方だった。
迷いのさなかにある時に、胸の内を打ち明けることができたのはエマだけだ。何か応えてもらいたい、なんでもいい、何か言ってほしい、と心底、思ったのはエマだけだ。正真正銘、わたしにはエマしかいなかった。
そしてわたしはそのエマを、自分のせいで失いかけていた。わたしは一人だった。一人で結論を下さなければならなくなっていた。
夏も終わりかけた或《あ》る朝、わたしは晋平のアパートから元麻布のマンションに戻らなかった。その日、一日中、晋平と一緒に過ごし、夜になっても、また次の朝が来ても、アパートから出なかった。
エアコンがなかったので、部屋はひどく蒸し暑かった。開け放した窓の外からは、街の音がひっきりなしに響いてきた。近隣を行き交う車やバイクの騒音、子供を叱る女のだみ声、赤ん坊の泣き声、テレビやラジオの音……。
共同トイレのアンモニア臭が鼻をついた。夜になると、どこかからイカを焼く醤油《しようゆ》の匂いが漂ってきた。隣の部屋からはラジオのプロ野球中継が大音量で流れてきて、軒先にぶら下げられた、幾種類もの風鈴の音がそれに混じった。
わたしは晋平と何度も何度も、飽きることなく交わった。抱き合えば抱き合うほど、相手を求めたくなる気持ちがつのり、にもかかわらず、それだけ性愛にまみれながら、わたしたちはふたりとも、ちっとも性的ではないのが不思議だった。
終わると、何か冷たいものを持って来て、互いに口うつしで相手の口の中に注ぎこみ、虚《むな》しいような、切ないようなキスを交わし合っては、また互いの肌に指を這《は》わせた。
汗が頭皮からも噴き出して、髪の毛まで濡《ぬ》れそぼってしまうのだが、いくらじっとしていても汗はひかない。わたしたちは、湿った布団にからだを横たえたまま、ぽつりぽつりと話をする。
未来の話は出ない。未来の話などできるわけもない。わたしたちが言葉にして表現できるのは、現在、この瞬間の、束の間の充足、束の間の安堵《あんど》、束の間の静けさについてだけだ。
晋平はわたしのからだを静かに愛撫《あいぶ》しながら、きれいだ、と言う。いとおしい、と言う。好きで好きでたまらないし、多分、僕はあなたのことを本当に愛してしまったに違いない、と言う。それ以外の言葉はもう、見つからないのだ、とも言う。
詩人のくせに、とわたしは笑う。言葉が見つからないなんて、変よ、と。
本当に言葉が欲しいと思う時に限って、言葉は失われてしまうものなんだ、と彼は言う。言いながらわたしのこめかみにキスをする。彼のからだもわたしのからだも、汗と体臭と性愛の匂いがこびりついていて、それ以外、何の匂いも嗅《か》ぎとれない。
ここでエマさんとも寝たのね、とわたしは言う。彼の答えを聞く前に、ひどく悲しくなってきて、わたしは彼の脇の下に顔を埋める。甘いような汗の匂いを胸いっぱい吸いこみ、じっとしている。
彼は何も言わない。わたしの背に回された彼の手が、規則正しいメトロノームのようにゆっくりと左右に動いている。耳元を蚊が飛びかっている。窓の外には騒音にまみれた都会の夜が拡がっている。
エマさんを失った、とわたしはつぶやく。ふたりとも、エマさんを失っちゃったんだわ、と。
そうだね、と彼はうなずく。
「後悔してない?」
「後悔? どうして僕が」
「わからない。あなたは後悔しているのかもしれない、と思っただけ」
晋平はもの悲しい目をしてわたしを見つめる。明かりを消した小暗い部屋の中で、彼の双眸《そうぼう》が濡れたように光る。
「帳尻《ちようじり》は合ってるよ」と彼は言う。「そうだろう?」
彼が言わんとしていることをわたしは理解する。そう。人生の帳尻はいつも合うのだ。合うようにできているのだ。いいことも悪いことも、最後にはひとまとめになって、なにがしかの結論が出る。それが人生だったのだということを、わたしはその時、狂おしいほど切ない気持ちの中で、知る……。
佐伯が晋平のアパートを訪ねて来たのは三日目の夜だ。
佐伯は場違いなほど温かな微笑を浮かべながら戸口に立ち、わたしと晋平に挨拶《あいさつ》した。こんばんは、と。九月に入ったというのに、暑いですね、と。
紺色のジャケットに、ひと目でシルクとわかる、光沢のある白い開襟シャツを着た佐伯は、相変わらずすらりとしていて、とても品がよく見えた。一方、わたしは化粧をしておらず、髪の毛は汗で首すじにへばりつき、慌ててはおった晋平のシャツの下には下着も何もつけておらず、おまけに汗くさかった。
佐伯は室内を軽く一瞥《いちべつ》したが、その目は何も見ていないようであり、その顔に浮かんだ微笑にも変化はなかった。彼はジャケットの内ポケットに手を差し入れ、封筒を取り出して、わたしに差し出した。白い封筒だった。
「エマさんからです」と佐伯は言った。「野乃さんにお渡しするようにと、託《ことづ》かってきました」
いやな気持ちがしてわたしが黙っていると、佐伯は続けた。「お金ですよ、当面の。お小遣いだと思って使ってほしい、とのことです」
「お小遣い?」わたしは呻《うめ》くようにして聞き返した。「こんな皮肉ってないわ。そうでしょ? エマさんはわたしを侮辱しようとしてるの? さもなかったら、復讐《ふくしゆう》?」
はは、と佐伯は呆《あき》れたように笑った。「考え過ぎですよ。彼女はああいう難しい人ですが、復讐などという小細工を弄《ろう》することには適さない。それだけは確かです。それにこれは……」
そこまで言って、佐伯はちらと晋平を見た。「寺岡さんに差し上げるお金ではなく、あくまでも野乃さん、あなたに、ということなのですから」
「そういうお金をいただくわけにはいきません」わたしの隣に立っていた晋平が、最後まで聞かずに冷たく言い放った。「これは野乃だけの問題ではない。僕の問題でもあるんです。おわかりでしょう。申し訳ありませんが、そのようにエマさんに伝えてください」
弱りましたね、と佐伯は嘆息がちに言った。「何があってもお渡ししてくるように、と頼まれてきたんですが。ご存じと思いますが、エマさんは、自分が頼んだことが実行に移されないとすぐに機嫌を損ねる」
「もう充分、機嫌を損ねてるわ」わたしは吐き捨てるように言ったが、佐伯の困惑したような顔を見て、なんとか気を取り直した。
「佐伯さんのせいじゃないのよ。ごめんなさい。わざわざ来てくれたのに。でも本当に、彼の言う通り。受け取れないの。わたしたちはもう、エマさんからお金なんか受け取る資格がないのよ。当然でしょう?」
「何があったとしても、わたしには関係のないことです」佐伯は言葉とは裏腹に、ひどく優しい、悲しいような目をしてわたしを見た。「ずっとここにいるつもりですか。それとも、いずれはまた、エマさんのもとに?」
わたしは黙っている。外で赤ん坊が泣いている。遠くを救急車が走り抜けて行く。
どういうわけか、わけもなく熱いものがあふれてくる。わたしは佐伯の見ている前で、烈《はげ》しく嗚咽《おえつ》しながら涙を流してしまいそうになる。
茶番だ、と思う。何もかもが茶番だ、と。三角関係。金銭と野心と安楽な生活を求める気持ちとでつながっていた三人。堕落した男女。そこに生み出された通俗的な悲劇。そして、或《あ》る晩、メッセンジャーが訪ねて来るのだ。薄汚い、ねずみの出そうな、場末のアパートの一室。セックスをしすぎて汗にまみれ、頭の中に藁《わら》を詰めたようになっている男と女が、絹の匂いが立ちのぼってきそうなほど上品で、清潔そうな紳士を前に、金を受け取る受け取らない、で揉《も》めている……。
赤ん坊の泣き声が大きくなる。佐伯がもう一度、改まったように白い封筒を差し出してくる。
わたしは首を横に振る。烈しく振る。エマを思う。エマがどんな気持ちで白い封筒の中に金をいれたのか、考える。嫉妬《しつと》、羨望《せんぼう》、恋しい男への憎悪、自分を裏切った小娘に対する最大級の皮肉……ありとあらゆるエマの叫び声が聞こえてくる。
悪いけど、とわたしは言った。「このまま帰ってください」
そうですか、と佐伯は言った。ため息がそれに続いた。白い封筒は、静かに佐伯のジャケットの内ポケットに戻された。
さよなら、とわたしは佐伯に向かってつぶやいた。「もう、あそこには戻りません」
佐伯は鷹揚《おうよう》にうなずいた。優しい父、ものわかりのいい教師のような目で、彼がわたしを見た。
「からだに気をつけて」佐伯はそう言い、わたしと、そして晋平を等分に見つめた。そして、何事もなかったかのような、ゆったりとした動作でわたしたちに背を向け、戸口を出て行った。
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12
記憶に残るあの頃の風景はいつも同じだ。
晋平の部屋。かろうじて窓の外に覗《のぞ》き見える、切りとられたような小さな空に季節感はない。夏が過ぎたのか。それとも夏に向かおうとしているのか。部屋の中にはいつもねっとりと淀《よど》んだ、湿った感じのする空気が漂っている。
晋平がそこで、日がな一日、詩を書いている。郷里から持ち運んできた、という古い年代物の文机《ふづくえ》。昔の文士のように、あぐらをかいて文机に向かい、晋平は原稿用紙に何かを書きつける。少し書いては手をとめて、たばこをくわえ、くわえたまま、火をつけることも忘れたようにして、何かぼんやり考え事をしている。
一人になりたいのだろう、と思うのだが、わたしには行くところがない。自由に使うことのできるお金もないから、わたしは邪魔にならないよう、部屋の片隅でじっと本を読んでいる。読むのに飽きると仕方なく外に出て、ふらふらとそこら中を歩きまわる。小さな公園のベンチに坐《すわ》って、たばこを吸う。何本も何本もたて続けに吸う。頭の芯《しん》がくらくらしてくる。
夕暮れ時の公園で、買物帰りの主婦が大声で立ち話をしている。姑《しゆうとめ》の悪口、病気の話、子供の成績の話……。
砂場やジャングルジムのまわりで、大勢の子供たちが遊んでいる。金属的な笑い声が絶え間なく響きわたる。
どこかでしきりと犬が吠《ほ》え、近くの路地から出て来た車が、大きくクラクションを鳴らす。往来を走り抜けていく車が地響きをたてる。街の音が四方八方からわたしに襲いかかってくる。わたしは音の洪水の中にいる。
いろいろなことを考える。晋平が恋しい。何故、そんなに恋しいのかわからない。一緒に暮らしているのに、朝から晩まで一緒にいるというのに、一緒にいればいるほど彼が恋しくなる。
それは本当に、恋しい、という言葉でしか表現できないものであり、その恋しい気持ちは、おかしなことにわたしをいっそう孤独にさせる。わたしはそれまで経験したことのなかった孤独感のさなかにいて、それでもなお、彼に恋することをやめられない。
あんまり彼が恋しくて、恋しい気持ちに慣れきってしまい、もしかすると自分は彼のことなど、何ひとつ愛していないのではないのか、などと考える。宙を飛んでいく矢が、止まって見えてしまうのと同じ原理である。あまりにも凄《すさ》まじい、度を越した烈しさのせいで、何もかもが凍りついてしまっているように感じられてくる。
とっぷりと日が暮れて、あたりに群青色《ぐんじよういろ》の、インクのような闇がたちこめる頃、わたしはやっと、ベンチから立ち上がる。あちこちの叢《くさむら》で、虫が鳴いている。街のネオンが遠くに見える。
このままどこかに行ってしまいたいと思う。他のどこでもない、晋平のいる場所だけを目指して歩いていて、そこ以外、どこにも行きたくないくせに、あそこにだけは戻りたくないような気持ちにかられる。秋めいた風をはらむ夜の街を歩きながら、わたしは烈しく分裂しかかっている自分を感じて、怖くなる。
アパートに戻ると、晋平がわたしを待っている。黄色い電灯が灯《とも》された部屋。少しやつれた彼の頬や顎《あご》に、黒々とした硬い不精髭《ぶしようひげ》が目立つ。
彼は黙ってわたしのところにやって来る。わたしはやわらかく彼の腕の中に抱きとめられる。彼の匂いがする。
どこに行ってた、と聞かれる。公園、とわたしは答える。
そんなに短いスカートをはいて、と彼は言う。怒ったような、心配しているような、嫉妬《しつと》にかられているような言い方ではない。大人が子供を軽くたしなめようとする時の、微笑ましそうな言い方でしかない。
それが気にいらなくて、わたしは小さな嘘をつく。公園で男から声をかけられたわ、と。よかったらお茶を飲みに行きませんか、って。あなたより少し若い男だった。あなたよりも魅力がなかったけど。
晋平の表情に変化はない。彼はわたしを見下ろし、もう一度、やわらかく抱きしめてくる。わたしは耳元に彼の息を感じる。彼は聞く。「で、ついて行ったの?」
「行ったわ」
「お茶を飲んで、それからどうした」
「想像にまかせる」
「本当のことを言いなさい」
彼は落ちつきはらっている。この人は全然、疑ってなどいない。わたしは少し、悔しくなる。
ああ、晋平、とわたしは彼の首に両腕をまわし、自分から唇を求めていく。「嘘よ。誰もわたしのことなんか、誘ってこなかった。ずっと一人でいたの。ベンチに坐って。ずっとずっと、一人だったの」
「じゃあ、どうしてそんな嘘をつく」
「淋《さび》しいからよ」
「淋しくなるのなら、ここにいればよかったんだ」
「……ここにいても淋しいもの」
彼は束の間、わたしを抱く手に力をこめる。何も言わない。黙ってわたしの唇を塞《ふさ》いでくる。やわらかな、火照った、吸い込まれていきそうな唇。かすかなたばこの匂い。なめらかで透明な唾液《だえき》の感触。
からだの芯に火が灯される。切なさが全身をかけめぐる。火の灯り方も、切なさのかけめぐり方もいつもと何ひとつ変わらないというのに、わたしは自分のからだの奥底で、また一枚、別の扉が開かれようとしている気配を感じ取る。
わたしのからだは無数の扉に被《おお》われた、実体のない、孤独な悦楽の塊だ。日毎夜毎、それらの扉の一枚一枚が、ぎい、と音をたてて開かれていく。そして、その扉の奥に、わたしは新たな自分自身……新たな自分の淋しさを見いだす。
あんまり淋しすぎて、もう、本当に自分が淋しいと思っているのかどうかもわからない。度を越した空腹感が、満腹感に変わる時のように、もう何もしなくていい、セックスなんかいらない、もう充分、とわたしは思う。
にもかかわらず、わたしは自分が溶け出していくのを感じる。彼の腕の中で、わたしは彼を求めて喘《あえ》ぎ始める。
そして、自分のからだの奥の奥、それまで目にとまらなかったような闇に閉ざされたところで、またしても別の扉が音をたてて開きかけているのに気づく。
自分の欲情ぶりの烈しさに、わたしは絶望する。心底、うんざりする。
そこに見えてくるのは、皮を剥《む》かれた孤独でしかない。生々しい孤独。隠しようのない、目のそむけようのない、露出された孤独。
わたしはそんな孤独と向かい合わせになりながら、恋しい男との悦楽に浸る。窓の外は相変わらず騒音に満ちている。街の騒音、実体の見えない騒音、世界の皮膜を剥き出しにしてみせるような騒音……。
音はすべてもの悲しい。それはわたしに、わたし自身の、わたしと彼の孤独、わたしと彼の不安を絶え間なく実感させる。
そしてわたしは再びエマを思う。やりきれなくなるほどエマを思う。エマ会いたさに、気も狂わんばかりになる……。
今も昔も変わらずに、わたしが思い浮かべるエマ。大好きなエマ。
偉大な母のような、姉のようなエマ。邪悪な女神のようなエマ。受け入れるエマ。意地悪なエマ。そしてまた、傷つき、息も絶え絶えになっている、瀕死《ひんし》の愛玩《あいがん》動物のようなエマ……。
エマは前に進まない。後ろを振り向かない。ただそこにいて、昨日と変わらぬ美しさを保ちながら、情事の話ばかり繰り返す。
エマに似合うのは、エマを通り過ぎていくだけの男。いっときの悦楽。未来だの過去だのといった、一般的な時間はエマの中に流れていない。エマはいつも同じところにいて、次の獲物を楽しみ、味わい尽くし、ふいに興味をなくして大きな欠伸《あくび》をする。そこには、今この瞬間、という概念すら存在しない。
停滞するエマ。優雅な倦怠《けんたい》の中に棲《す》んでいるエマ。恋などしたことのないエマ。そして、生涯たった一度の恋に身を焦がし、計算も打算もうち捨て、パッションを捧《ささ》げ尽くしてしまう、愚かで可愛いエマ……。
エマに会いに行く必要があった。行かねばならないのだ、とわたしは自分に言い聞かせた。
わたしの荷物のほとんどは、まだエマのもとに残されていた。エマに買ってもらったレースの下着、シルクのネグリジェ、エマに選んでもらった洋服の数々、アクセサリー、何冊かの本、中にはエマの詩集も混じっている。パーティー用のオー・デ・コロン、帽子、靴……ヒールの高い、とてもエレガントなもの、サンダル、ブーツ……そのすべて。
すべて捨てられてしまっているかもしれなかった。夜中に荒れ狂ったエマが、マンションの窓から、わたしの荷物をひとつひとつ、放り投げている様が想像できた。
それならそれでよかった。残しておいてほしいもの、どうしても取り戻したいものなど、何ひとつなかった。わたしはただ、エマの部屋を再び訪ね、エマがどんな顔をしてわたしを迎えるのか、知りたかっただけだった。
十月になっていた。季節それ自体が信じられなかった。エマのもとから離れ、いったい、どれほどの季節を繰り返し通り過ぎてきたのか、と考えてみて、まだわずかにしかなっていないことすら信じられなかった。
曇り空の秋の午後。わたしは金木犀《きんもくせい》の香りが漂う元麻布の坂道を上って行った。エマは留守にしている可能性があった。あるいは引っ越してしまっている可能性もあった。もしそうだったとしたら、どうすればいい、と自問した。エマを捜す? どうやって。捜し出してどうする? 答えは何ひとつ、出てこなかった。
マンションのエレベーターに乗り、エマの部屋の前に立った。表札は変わっていなかった。ほっとすると同時に怖くなった。
目の前に現れたエマは、Vネックの黒いゆったりとした室内着を着て、たばこをくわえていた。ゆるやかなウェーブのついた髪の毛をシニョンにまとめ、後れ毛が白い首のまわりを被っていた。相変わらず美しかったが、ひとまわり痩《や》せたようにも思われた。化粧をしていなかったせいか、目の下の小さな薄茶色のそばかすが目立った。
エマはわたしを見て、軽く眉《まゆ》をつり上げ、少し驚いたような表情をしたが、それだけだった。
「入る?」とエマは面倒くさそうな口調で聞いた。まるで、ちょっと忘れ物を取りに戻っただけの人間を前にしているかのようだった。
わたしはうなずき、いつものように……昔いつもそうしていたように……閉じたドアに内鍵《うちかぎ》をかけ、靴を脱ぎ、中に入った。
エマの部屋は何も変わっていなかった。少なくともわたしの目にはそう映った。時間が停滞し、淀《よど》んでいて、そこだけが昔と何ひとつ変わらずに残されているようにも感じられた。
エマは、何か飲む? と聞いた。わたしは首を横に振った。
窓の外に、どんよりと曇った空が見えた。室内は整頓《せいとん》されていて、曲がったもの、汚れたもの、ぞんざいに扱われた様子のあるものは何ひとつなかったが、どこかしら埃《ほこり》っぽくて白々としていた。
「一時間後に迎えが来るの。ラジオの仕事よ。インタビューの後、わたしの詩を朗読するんですって」
「エマさんが?」
「違うわ。馬鹿な俳優が、よ」
そう言って、エマは当時、主婦層を中心にして絶大な人気を誇っていた中年男優の名を口にした。わたしは形ばかり笑ってみせた。エマもまた、あまり可笑《おか》しくなさそうに笑い返した。
鼻の奥がつんと熱くなった。懐かしいエマがそこにいた。わたしは深呼吸した。
「荷物、取りに来たの。いい?」
エマは肩をすくめた。「ご自由に」
「捨てられてるかと思ってた」
「よくわかるのね。でも捨てなかったわ。面倒だもの」
エマはソファーにゆるりと腰をおろし、サイドテーブルの上のシガレットケースからたばこをつまみ上げて、火をつけながら聞いた。
「どう?」
「どう、って?」
「愛の暮らしはどう、って聞いたの」
エマはふっと淋《さび》しそうに笑った。そんな笑い方をするエマは初めてだったので、わたしは思いがけず、胸の詰まる思いにかられた。
「ごめんなさい、エマさん。わたし……」
「この期に及んでつまんないことを言わないでね。聞きたくないから」
「佐伯さんがお金、持って来てくれたのに断ったわ。エマさんからそんなふうに気をつかわれるのがいやだったのよ。だから……」
「そんなこともあったわね」エマはたばこの煙を細く吐き出し、じっとわたしを見た。「一昨日、晋平から電話があったわ」
わたしは黙っていた。エマに電話をした、という話は晋平から聞いていなかった。淡い、嫉妬《しつと》にも似た感情がゆるくからだの中を駆け抜けていったが、それだけで終わった。不思議だった。
「わたしに一言、あやまっておきたかった、って言ってね。馬鹿みたい。あやまることなんか何もないじゃないの。わたしはあの人の才能に惚《ほ》れて、少し手助けしてやっただけ。確かにあの人に惚れたこともあったけど、束縛してたわけじゃないわ。四十を過ぎたおばさんと、まだ二十代の若い娘と比べて、若い娘を選んだからって、それが何なの、世間では当たり前のことじゃないの、って言ってやった」
わたしはうつむいた。「エマさんの口から、おばさん、なんていう言葉、聞くとは思わなかった」
「どうして」
「エマさんは永遠に、おばさんになんかならない人だもの」
エマは薄く笑い、だるそうな手つきでたばこをもみ消した。「誰だって年をとるわ」
「嘘よ。エマさんだけは別よ」
「馬鹿ね。年をとらない人間なんていないのよ。いつそれを受け入れるか、っていう違いがあるだけ」
「じゃあ、エマさんは受け入れようとしているの?」
「受け入れざるを得なくなったんだもの。仕方ないでしょう。年をとったわ。知らず知らずのうちにね。自分でも気がつかなかった。こんなに恐ろしいことってある? ある日気がついたら、鏡の中の顔が老婆になってたわけよ。もちろん、象徴的な意味で言ってるんだけど」
わたしはじっとエマを見たが、エマはわたしのほうを見なかった。「さあ、荷物を取りに来たんだったら、ぐずぐずしてないで、さっさとまとめてちょうだい。もうすぐ佐伯が迎えに来ることになってるのよ。まだお化粧もすんでないんだから」
もっと皮肉が飛び出してくるに違いない、と思っていた。刺々《とげとげ》しい視線がわたしを突き刺してくる、と思っていた。だが、目の前のエマは、拍子抜けするほど穏やかで、静かで、エマらしくなかった。
わたしはかつて自分の部屋だった小部屋に行き、ボストンバッグ二つ分の荷物を作った。エマから贈られて、着る機会がないまま、袖《そで》を通さずにいたドレスやシャツ、スーツなどはそのままにしておいた。高価なブレスレットやイヤリング、ペンダントにも手をつけなかった。わたしがバッグに詰めたのは、かつて自分が、ママハハのいる家から持ち出して来た古い衣類だけだった。
荷物を詰めながら、涙があふれてきた。何故泣くのか、わからなかった。
玄関先に佇《たたず》んで、わたしはエマを正面から見つめた。エマは赤の他人でも見るように、わたしの強い視線を軽くかわしながら、おざなりな口調で「元気でね」と言った。「大きなお世話かもしれないけど、一つ聞かせて。暮らしていけるお金はあるの?」
「なんとかする。わたしがからだを売ってでも」
エマは呆《あき》れたように笑った。「相変わらず子供ね。からだなんか売らなくたって、あの人に稼いでもらえばいいじゃないの。彼の才能はいつかきっと、実を結ぶわよ。このわたしが見つけた才能なんだもの。実を結ばないわけがないわ。でも詩じゃだめね。小説? 戯曲? どっちにしても、これからは別のジャンルに挑戦したほうがいいかもしれない。そう伝えてちょうだい」
わたしはうなずいた。「エマさん、また会ってくれる?」
「何のために」
「会いたいの。時々、エマさんにむしょうに会いたくなるの」
言いながら、涙があふれてくるのを感じ、わたしは慌てて前歯で強く唇を噛《か》んだ。「無理だってことはわかってる。でも、会いたくなるの」
「わたしが生きてればね」とエマは言った。「生きてればいつかまた、会うこともあるでしょ」
わたしは烈《はげ》しく首を横に振った。「そんなのいや」
「いや、って言われても仕方ないわ。この上、わたしにどうしろって言うの?」
わたしはかぶりを振り続けた。小鼻がひくひくと震え出し、涙が視界を曇らせた。
水の中で見る顔のように、エマの輪郭が失われていく。わたしは瞬《まばた》きを繰り返し、うるんだ視界の中で繰り返す。エマさん、エマさん、エマさん、と。ごめんなさい、エマさん、と。
エマは小ゆるぎもせずに佇んでいる。ふっくらと厚みのある唇がへの字に曲がる。
行って、とエマは言う。厳しい口調である。エマらしい、威厳に満ちた、相手を徹底的に遠ざけようとする時の口調。
「二度とわたしのことなんか、思い出さないでちょうだい」
わたしはまだ、首を横に振り続けている。何を言おうとしているのか、わからない。言いたいことがありすぎて、頭が爆発しそうになる。
愛している男……愛しすぎて、恋をしすぎて、気が変になりそうな男。そして、今、目の前に立っている美しい人。物語のないドラマ。優雅な倦怠《けんたい》感。建設的なこと、積み重ねていくことをあざ笑い、滞ることを美しいと感じた日々。そしてまた、あの男。こんなに恋をして、溺《おぼ》れて、わけもわからずにすべてを壊し、突き進んでいきたいという激情にかられた、あの男……。
「もう何もわからない」わたしは涙声でつぶやく。「ほんとに何もわからないのよ」
「何をわかろうとしてるの。わかろうとするなんて、傲慢《ごうまん》よ」エマは冷たく突き放す。「それともあなたは、人生が、そんなに簡単にわかることばっかりだと思ってたわけ?」
エマの目が潤み始めたのをわたしは知る。エマはわたしではない、わたしの後ろの虚空に向かって視線を投げながら、さよなら、と唐突に言う。そう、本当に唐突に。「さよなら。幸せにね」
わたしは後じさるようにして、玄関の外に出る。マンションの、鋼鉄の扉の閉まる音が、容赦なくあたりに響きわたる。
永遠だと信じていたものがそうではなかった、と知った子供のように、その時、わたしは、およそ生まれて初めて、死んでしまいたくなるほどの孤独を感じる……。
風がやみ、嵐は過ぎ去り、凪《な》いだような日々が始まって、そのくせ相変わらず部屋の空気は淀《よど》んでいる。わたしと晋平は、毎日、セックスをする。本当に毎日。飽きるということも知らずにセックスをする。
堕《お》ちていくことを楽しんで、もう、二度と上昇することがなくなったことに安堵《あんど》さえ覚える。苦しみや不安、絶望が歓喜に変わったかのようにして、わたしたちは裸のまま、一日を過ごす。
大きな葡萄《ぶどう》を一粒、皮を剥《む》いて口にふくみ、晋平はわたしにさしだす。わたしはそれを前歯で半分に齧《かじ》り、キスをしながら、残る半分を舌先で彼の口の中に戻す。
結婚しようか、と彼は言う。わたしは笑う。今していることと、結婚との違いがわたしにはわからない。そんな意味のことを口にすると、彼はうなずく。野乃は頭がいい、と褒めてくれる。
懐かしいのではない。甘ったるく感傷的に思い出そうとしているのでもない。
あの頃の記憶の底に潜んでいるものは、ただただ、強く喰《く》いしばった奥歯に感じる、かすかな痛みのようなもの。キスをしながら分け合って食べた葡萄の、甘さの奥に隠れていた酸っぱさのようなもの……。
その年の暮れ、クリスマスも過ぎた或《あ》る寒い晩、晋平の部屋の電話が鳴った。
晋平は外出していて、わたしは一人で食べた夕食の後片づけをしているところだった。
「佐伯です」と電話の声が言った。落ちついた声、というのではない。佐伯の声は重く沈んでいた。
知らせるべきかどうか、迷ったのですが、と佐伯は言った。単調な口調の中に、佐伯らしくない切迫感が感じ取れた。「……エマさんが、少々、睡眠薬を飲み過ぎました。今朝、私が見つけて救急車で運んで……今、まだ病院にいます」
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13
それは白い病院だった。
建て直されたばかりの、真新しい、どこもかしこも白くて眩《まぶ》しすぎる病院。ロビーも廊下もエレベーターの中も、蛍光灯の白い光で埋め尽くされている。壁も天井も床も、発光体のように白い。それは、死を隠蔽《いんぺい》するための白……隠蔽しながら人に死をそそのかしてくるような白である。
わたしは佐伯に案内されて、エマの入っている個室に行った。広々とした、何の装飾もない白い病室の中央にベッドがある。白いシーツと、白いカバーがかけられた薄い布団。白い枕。血圧を記録するための機械。薄黄色の液体の詰まっている、輸液用のビニール袋。
エマは患者用の空色の寝巻を着せられ、仰向《あおむ》けになっている。エマの鼻には透明な細いチューブがさしこまれ、からだには何本もの管が通されている。室内に灯《とも》されたままになっている蛍光灯の白い光が、エマを容赦なく照らし出している。
エマは苦しそうな表情には見えなかったが、眠っているようにも見えない。まるで死んでしまったように静かだ。
何故、こんなに苦しんでいる人を白い光で包まねばならないのか、わたしにはわからなくなる。闇で包んでやりたくなる。一切を忘れさせ、静かに心落ちつかせてくれる、優しい闇で。
「さっき少しだけ意識が戻ったような瞬間があったのですが」と佐伯が言った。「気のせいだったようです。うめき声をあげただけのことでした」
わたしは震えていた。全身が小刻みに震え、膝《ひざ》もがくがくし、指先という指先がすべて凍えていくような感覚の中にいた。
「自殺?」わたしはエマを遠くから見つめたまま、佐伯に聞いた。まるで自分たちが、煌々《こうこう》と明るく照らし出される解剖台を囲みながら、じっと遺体を眺めまわしているような気がした。「……エマさん、自殺しようとしたの?」
さあ、と佐伯は曖昧《あいまい》に言った。「それはわかりません」
「わたしのせいだわ」
「そんなことを言うもんじゃない」
「でも、わたしのせいよ」
「誰のせいでもありませんよ。ただちょっと、神経がたって眠れない日が続いたものだから、うっかり薬を飲み過ぎただけです」
嘘、とわたしは佐伯を見上げ、低く吐き捨てるように言った。「ごまかさないで。それ以外、何の理由があるっていうの。うっかり飲み過ぎるなんてこと、絶対にしない人だわ。エマさんがやることには、すべて理由があるのよ。知っててやってるのよ」
佐伯は気の毒そうな目でわたしを見下ろした。「薬を飲み過ぎた理由など誰もわからない。知りようもない。そういうことは本人にしかわからないし、その当人ですら、はっきりしないことだってある。こういうことはね、誰のせいでもないんです。……違いますか」
黙って佐伯を睨《にら》みつけたわたしの目に、涙があふれ、それは瞬《まばた》きと共に頬を伝い落ちていった。
佐伯は何も見なかったように視線をエマに戻し、静かに続けた。「詮索《せんさく》は無用です。今は彼女の早い回復を祈るだけです」
わたしはその晩、エマの病室で夜を明かした。佐伯はわたしに遠慮してか、まもなく病室から出て行った。何かあったら、一階のロビーにいるので呼んでください、と彼は言った。
アパートに戻っているであろう晋平に、このことを報告しなければ、と思ったが、電話をかけに行くのに、エマの傍を離れることが怖かった。そのわずかの間に、エマが死んでしまうような気がしたからだが、晋平に知らせなかった本当の理由はもう一つある。
わたしは晋平に、薬を飲み過ぎて青白い顔をして横たわっているエマを見せたくなかった。エマも見られたくないに違いなかった。悲劇の舞台のフィナーレに、登場人物が全員、雁首《がんくび》そろえて集まるのは、どう考えても醜悪だった。エマが何よりもそういうことを嫌う人間であることを、わたしは知っていた。
エマのベッドのすぐ傍に椅子を持って行き、そこに坐《すわ》ってわたしはずっとエマを見ていた。エマの呼吸は深かった。あまりに深過ぎて、眠ったまま死んでしまうのではないかと思われた。
一時間おきに看護婦が様子を見に来た。若い頃から汚れたものを見過ぎてきて、肌まで汚くなってしまったような三十五、六の看護婦だった。来るたびに、看護婦はエマに向かって、「新川さん、新川さん」と呼びかけた。エマの目を覚まそうとして呼びかけているのではなく、なんだか、面白がってその名を呼び続けているだけのようにも聞こえた。この女は勤務を離れたら真っ先に、誰かにこのことを喋《しやべ》りまくるだろう、と私は思った。
あの新川エマが自殺未遂をやらかしたのよ、多分、失恋ね、さもなかったらあんなに中途半端な量の薬を飲んだりしないもの、あわよくば死ねるけど、ほとんどは助かっちゃう、そんな程度の量だったんだから、病院に長く勤めてるとね、そういうことがわかるようになるのよ、単に男に嫌がらせをしたかっただけなんでしょ、病院に運びこまれて来た時、男が一人、付添いでずっと一緒だったけど、その人との三角関係かもね、後で来た若い女も何か関係があるのかもしれないけどさ……。
エマさん、エマさん、エマさん……とわたしはエマの白い顔を見下ろしながら、胸の内で呼びかける。頭の中はからっぽである。ただ呼びかけることしかできない。
時折、おそるおそる手を伸ばして、チューブが何本もさしこまれている白い腕に触れてみる。腕は生温かい。呼吸も続いている。生きているのは明らかなのに、エマは横たわる青白い人形のようにしか見えない。
白いカーテンが引かれた窓の外が次第に明るくなってくる。長い長い冬の夜が明けかかっている。かすかに車の流れる音が聞こえてくる。病室の外の廊下に、時折、人の気配がある。
晋平が心配しているだろうと思う。だが、不思議とわたしは晋平が恋しくならない。晋平に抱かれ、キスを繰り返し、その唾液《だえき》でからだの芯《しん》が溶け始めていきそうになる、あの恍惚《こうこつ》の瞬間も、すでにわたしの中にない。
わたしは乾いている。乾ききって、老婆のようになっている。
エマがわずかに身動きした。わたしは椅子から立ち上がり、エマさん、と声をかける。
エマの陶器のような白い顔が細かく痙攣《けいれん》する。その目がかすかに開かれ、また閉じられる。
エマさん、とわたしは何度も繰り返す。わたしよ、野乃よ、わかる?
長い長い、嘆息のような掠《かす》れたうめき声。眉間《みけん》に深い皺《しわ》が刻まれ、エマの顔に苦悩が波のようになって襲いかかる。
小さく、力のない、苦しげな咳《せき》。嘔吐《おうと》する時のように喉《のど》がふくらみ、反《そ》り返る。わたしはエマの腕をさする。さすりながら、エマの名を呼び続ける。
エマが目を開ける。涙のたまった目がわたしをみとめる。視線が絡まり、焦点を失い、また絡まって、次第にその目にわずかながらの光が宿ってくる。
長い時間が過ぎた。やがてエマはわたしを見上げたまま、小さく微笑んだ。何故、微笑んだりするのかわからなかった。それは恐ろしい微笑だった。諦《あきら》めの、絶望の、狂気の、苦悩の、そして死と隣り合わせの微笑……。
野乃、とエマが言った。声が掠れていて、よく聞き取れない。
わたしはエマの唇に耳を近づける。エマの吐く息は生臭くはない。それどころか、まるで人間らしい匂いはしない。苦い薬を口にふくんで、そこから立ちのぼる気体を吐き出しているだけのようでもある。
「なに? エマさん。聞いてるわ。なに?」
エマは必死になって何か喋《しやべ》ろうとしている。痰《たん》が喉の奥に絡まっている。何度も何度も喉を鳴らして何かを飲みこみ、エマは再び口を開く。
「……あなたとは」とエマは壊れた笛のような声で言う。「たくさんの男、共有してきたわね」
苦しそうだが、次第に語尾は明瞭《めいりよう》になっていく。わたしはエマの腕をさすりながら、いっそうエマの顔に耳を近づけていく。
「あなたと」とエマは言う。「あなたと共有できない男なんて、この世にいないと思ってたけど……ちゃんといたじゃないの。笑っちゃう」
噴き出すような咳が始まる。エマはからだを折り曲げようとする。わたしはその肩を、その腕を、辛抱強くさすり続ける。
知らないうちに、わたしは泣いている。水びたしになったように泣き続けている。涙と鼻水が顔を濡《ぬ》らす。
白い白い部屋。冬の朝の、冷たい蛍光灯に照らし出された白い部屋。カーテンの向こうに、淡い光が射し始める。光は病室の床に、窓の桟の影を映し出す。
わたしは新大久保の、晋平の部屋を思い出す。汗まみれになって晋平と交わっていたあの部屋と、今のこの、吐き気がするほど真っ白な病院のいったいどこに違いがあるのか、と思う。自分の物語はどこにいったのか、と考える。自分がいた場所、自分が味わった時間、そのすべては、物語すら成さない、存在する意味も持たない、ちっぽけな塵《ちり》のようなものにすぎなかったような気がしてくる。
もう、お手あげだ、とわたしは思う。思いながら泣き続ける。荷が重いのではない。わたしの中から現実感が失われてしまっていて、そのことが苦しいのである。もしかすると、初めから自分には現実感などなかったのかもしれない、とわたしは思う。
わたしが触れているエマの肌だけが、わたし自身の通り過ぎてきたものを思い起こさせる。それは脂のような汗で濡れていて、芯は温かいのに、表面がぬらりと冷たい。
ジンのオンザロックを飲んでいるエマを思い出す。ジンの香り。自分たちが共有してきた、世界のどこにもない、倦《う》んだような時間。そのすべてが甦《よみがえ》って、あまりの切なさに声をあげてしまいそうになる。
野乃、とエマはつぶやくようにわたしの名を呼ぶ。力尽きたのか、後の言葉はもう続かない。
エマはまた眠りにおちようとしている。その顔から苦悩の影が消えていく。水が引くように消えていって、後には死のような静けさだけが残される。
年が明け、まもなくエマはスキャンダルの嵐に見舞われた。
隠していたはずのことが、どこからかもれ、それは一挙に勢いを帯びて、エマはたちまち渦中の人となった。エマの不審な緊急入院と自殺未遂をほのめかす記事、詩人としてエマがデビューさせてやった男との恋物語、そこに関わっていたわたしという女のことまでが、面白おかしく、時に大袈裟《おおげさ》なほど生真面目に、時にどうしようもない三流の与太記事となって、週刊誌やテレビのワイドショーを賑《にぎ》わせた。
そのほとんどをわたしは読んでいないし、観てもいない。それでも電車に乗るたびに、中吊り広告が目に飛び込んできて、そこにエマの顔写真がある。エマの顔をわざとつぶすようにして、毒々しく斜めに印刷された赤い文字。死を覚悟させた三角関係、女流詩人の爛《ただ》れた私生活、失恋自殺未遂、などという、まことしやかなフレーズ。そこには、晋平の顔写真まで添えられている。
読む気にはなれない。まったくなれない。読まなくても何が書かれてあるかは、容易に推測がつく。
わたしはぼんやりと他人事《ひとごと》のように、中吊り広告に掲載されているエマの顔写真、そして晋平の顔写真を見ている。そして考える。何故、自分たちの人生の法則は世間に通用しないのか、と。いつだって通用したためしがなかった。つまはじき、悪評、無視、侮蔑《ぶべつ》、嘲笑《ちようしよう》……せいぜいがそんなところだ。
エマの人気はその悪評があってこそのものだった。誰も、世間から孤立した生き方を好む女の詩人のことなど、まともには見ていなかった。複数の男から受けるキス、複数の男から受ける愛撫《あいぶ》、地獄の底まで落ちていきそうな悦楽のうめき声……そんなものを身にまとって生きている女は、たとえどれほど才能があり、どれほど魅力的であったとしても、いつだって世間の敵でしかない。
実際、才能など関係なかった。世間はエマの才能を称賛しながら、実は才能など見てはいなかった。世間が見たがっていたのは、エマの悦楽、エマの肉体、エマの狂気のような熱情なのだった。
孤独な女王は最後まで孤独でいなければならない。自殺未遂、という言葉はそんな女王に捧《ささ》げられるにふさわしい、最後の栄冠であった。そしてエマはその、不名誉な栄冠を渡されたことにより、初めて世間に受け入れられようとしていた。
気の毒な女流詩人。年をとり、さしもの美貌《びぼう》にも翳《かげ》りが見え始め、惚《ほ》れこんで詩壇に送りこんでやった青年を、あろうことか、お付きの若い娘に寝とられた……。
違う、とわたしは電車の中で叫びそうになる。違う、違う、違う。それは嘔吐したくなるほどの、死んでしまいたくなるほどの不快感である。馬鹿げていて話にならない。怒りがわたしを膨張させる。風船のように膨らんで、わたし自身、破裂しそうになる。
晋平の詩集『毒』と『虚空』は、大型書店で新たに平積みにされた。品のない売り方であることは百も承知、と言わんばかりに、その脇にこれみよがしにエマの詩集を並べて売り始めた書店もあった。
誰もエマを訪ねてはこなかった。あたりをうろつくのはマスコミの連中ばかりで、エマの入院している病院の入口にはいつも、カメラを抱えた何人かの男たちが群がっていた。
カメラのフラッシュを浴びるのは真っ平だったので、わたしはエマの病室に行く時、いつも病院の職員通用口から出入りしていた。それでも一度だけ、一人の女に後をつけられたことがある。女はわたしを呼びとめ、わたしの名を口にし、「そうですよね」と聞いた。
わたしは、いいえ、と言った。人違いです、と。
人違い……その通りだ。わたしは誰でもない誰かだった。わたし自身、自分が誰なのか、わからなくなっていた。わたしはただの記号であり、ただの動く物体にすぎなかった。わたしの感情はすでにわたしから離れ、透明なゼリーのようになってわたしに被《おお》いかぶさり、わたしを窒息させ、わたしから意識を奪っていた。
佐伯だけが、いつも影のようにして病室のエマに寄り添っていた。エマは意識を取り戻してからも、ものを喋《しやべ》ろうとしなかった。無言のままでいるエマの脇に、佐伯がそっと佇《たたず》んでいて、その二人の姿はいつ見ても、黴《かび》の生えた額縁の中の、古く美しい、中世の宗教画のように静かだった。
晋平とわたしは、息をひそめるようにして生きていた。晋平はエマの見舞いに行かなかった。たとえエマが晋平と面会することを受け入れてくれたとしても、とても行ける状態ではなかった。晋平が病院に姿を現したら、それこそ彼のまわりで一斉にカメラのフラッシュが焚《た》かれることになるのはわかりきっていた。
新大久保の彼のアパートの周囲にも、それらしきマスコミの人間がうろつき始めた。わたしたちは外に出られなくなった。雨戸を開け閉めするだけでカメラを向けられそうだったので、一日中、窓を開けずにいたこともあった。
あの頃の晋平が何を考えていたのかは、よくわからない。わたしたちはエマについてほとんど何の話もしなかった。エマのしでかしたことについても、その後のエマについても、一切話さなかった。話したくなかったからではなく、話すことが何もなかったからだ。
たとえわたしが、彼に向かって罪悪感の話を始めたとしても、彼は即座にそれを遮っていただろう。そういう問題じゃないんだ、と彼は言っただろう。わかるね、野乃、あなたならわかると思う、そういう問題じゃないんだよ、と。
そう。確かにそういう問題ではなかった。問題はもっと別なところにあった。わたしも晋平も、そのことを知っていた。
わたしたちの間には、哀しみしかなかった。触れ合い、抱き合ってさえ、その哀しみはわたしたちから消え去りはしなかった。
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どこでどう調べたのか。ママハハから晋平の部屋に電話がかかってきたのは、エマのスキャンダルが世間を賑わせてから二週間ほどたってからだ。
「どうして」とママハハは言った。涙声になっているのが相変わらずだった。「どうしてこんなことになったの。どうして野乃ちゃんがテレビや週刊誌で、あんなふうに騒がれなくちゃいけないの。まるで悪いことをしたみたいに。お父さんが心配してるわ。大丈夫なの? 元気でいるの?」
晋平の悪口を少しでも口にしたら、その場で電話を叩《たた》き切ってしまうつもりでいた。だが、珍しくママハハは晋平のことには触れなかった。
「帰ってらっしゃいな」とママハハは猫撫《ねこな》で声で言った。「いろんなことがあるんだろうけど、ともかく一旦《いつたん》、おうちに帰ってらっしゃいな。そうすれば少しは野乃ちゃんも気持ちが楽になるかもしれないわ。ゆっくり落ちついてものが考えられるかもしれない」
帰るつもりは毛頭なかった。今更、父とママハハの元に舞い戻るくらいだったら、死んだほうがましだった。
だが不思議だ。ママハハのその言葉は、意外なほどわたしを強く刺激してきた。それは、怒りにも似た熱い血のたぎりをわたしの中に呼び起こした。わたしは思った。
ここではない、どこかに行こう、と。
今よりももっと、誰でもない誰かになってしまうために、ここではない、別の場所に行こう、と。そうしなければならないのだ、と。
どこかに行くわ、とわたしは晋平に言った。
「どこか、ってどこ」
「外国」
「何故」
「できるだけ遠く離れたいの。あなたやエマさんから」
晋平はわたしをじっと見つめた。その顔に表情はなく、彼は氷柱の中で凍りついた人形のように見えた。
何かわめくとか、けたたましく喋り出すとか、質問|攻《ぜ》めにするとか、あるいはまた、怒り出すとかしてくれればいい、と思ったが、晋平は黙っていた。黙ってたばこに火をつけ、それをわたしに差し出し、わたしが受け取ると、彼は自分のたばこに火をつけて、深々と吸い込んだ。
わたしたちは黙りこくったままたばこを吸い、どちらからともなく灰皿でもみ消して、互いを見た。
もう、あなたのことを想うのがいやになった、とわたしは言った。あんまりあなたを想いすぎていて、これ以上、耐えられない、と。
晋平はそれでも黙っている。黙ってわたしを見ている。観察するような、それでいて得体の知れない不安と戦ってでもいるような、光と闇がないまぜになったような目で。
「抱いて」とわたしは言う。
この人はもう抱いてくれないかもしれない、とふと思う。抱いても、何もできなくなっているかもしれない、と。
だが、晋平はそっとわたしに手を伸ばしてくる。わたしは晋平の胸の中に、いつものように抱き寄せられる。わたしたちは固く抱き合う。抱き合ってキスし合う。烈《はげ》しく舌を絡ませ合い、求め合う。
この密着した胸と胸、唇と唇、舌と舌との間には何があるのか、とわたしは思う。茫々《ぼうぼう》と拡がる闇。突き刺さる刺《とげ》のような孤独。宙づりになって、行き場を失ったまま、いつまでもそこから動こうとしない、死の感覚。
閉じた目に涙がにじむ。わたしはこの人のことを何も知らない。この人もわたしのことを何も知らない。自分たちは愛について、自分たち自身について、過去や未来について、一度もまともに話し合ったことがない。いったい何を話し合ってきたのかすら、わからなくなってくる。もしかすると、自分たちは何も話し合ってなどいなかったのかもしれない。自分たちの会話は、老人が天候の話、病気の話を繰り返すようなものだったのかもしれない。
それでもわたしはこの男を愛しているのだ。愛していて、恋しくて、気が狂いそうになっている。このからだ、この匂い、この弾力、このゆるみ、この硬さ……どうすればいいのかわからないくらい、怯《おび》えてしまうほど恋しいのである。
「破壊するのが怖いんだね」と彼はわたしを抱いたまま問う。
「どういう意味?」
「あなたは破壊することを恐れている。腐臭の漂う、微温の中にじっとしていることを求める。そしてそれは、エマさんも同じだったかもしれない」
「でも、エマさんは死のうとしたわ」
「死のうとすることと、破壊しようとすることは違うよ」
「どう違うの」
子供みたいに質問するな、と彼は苦笑まじりに言う。そしてわたしを抱きしめ、わたしの頬を両手で持ち上げるようにしてわたしにキスをする。「教えてあげるよ。僕もきみたちの仲間なんだよ。破壊し尽くすことができない。それが僕の限界なんだ」
わからない、とわたしは小さく叫ぶ。「わかんないわ。言ってることが難しすぎる。破壊って何? どうすればいいの? 破壊すれば、何かが変わるの?」
「変わる」と彼は言う。言いながら、わたしの胸に手を這《は》わせる。その手は次第に降りてきて、わたしの股間《こかん》にあてがわれる。
わたしは押し倒されるようにして、畳の上に仰向《あおむ》けになる。わたしたちは二匹の欲情する獣のようになる。
破壊、とわたしは胸の内で繰り返す。壊してほしい、と思う。壊してばらばらにして、どれがどの部品なのかわからなくなるほど破壊し尽くして、わたしという人間を解体してほしい、と思う。
コバンザメだよ……烈しく腰を使いながら、晋平がわたしの耳元で囁《ささや》き続ける。喘《あえ》ぎながら、汗まみれになりながら、何度も何度もそう言う。コバンザメなんだ、あなたが言っていた通り、二人ともコバンザメでしかなかったんだ……。
コバンザメ、コバンザメ、コバンザメ……その言葉がぐるぐるとまわって、わたしの膣《ちつ》の中に押し込まれていくような気がする。
快楽は近づいたり遠のいたりして、結局はわたしのものになってくれない。それでもわたしは晋平を受け入れて、晋平の動きに合わせて腰を使う。
閉じた目の奥に、海の中のようなうす青い闇が広がってくる。そこには一匹の美しい、銀色に光る大きな魚が泳いでいる。わたしは魚の後をつけ、魚の背に触れ、生まれて初めて居場所を見つけたような気持ちになって安堵《あんど》する。
無音の世界。太陽の光が淡く届き、小魚の群れが、巨大な白いレースを拡げたように水の中に現れては遠ざかっていく。わたしが触れている銀色の魚は、静かに悠々と、昏《くら》い海の底へ底へと向かって、泳ぎ続けている。わたしの耳元で、水がびゅうびゅうと流れていく。
行く先には無限の闇、無限の水だけがあって、わたしはもう、何も見ていない……。
初めてヨーロッパの地を踏んだ時、わたしは歓喜の声をあげた。
捨ててきたのではない、自ら離れてきた懐かしいものすべてと、わたしはきれいに切り離されていた。パリは小雨が降っていたが、その雨はしみいるように温かかった。
誰かに頼るつもりはなく、なんでも一人でやろうとしていたのだが、正直なところ、わたしが外界に触れるのは初めてだった。どこにどうやって足を踏み出せばいいのかも、わからない。手さぐりで前に進もうとしても、方法がわからずに立ち往生してしまう。
そんなわたしの気持ちを見透かしていたかのように、佐伯がわたしに仕事を紹介してくれた。
パリ市内にある、日本人観光客相手のみやげ物店での仕事。オーナーはフランス人女性と結婚した日本人で、オペラ座に近い一角にある小さな店だったが、当時は、たいそう繁盛していた。オーナー夫妻は、わたしにフランス語の勉強もさせてくれた。異国での暮らしに慣れるまで、という約束で、夜毎の食事にもつきあってくれた。片言の日本語ができる、フランス人の女の子を紹介してもくれた。
働く、ということの意味が、次第にわたしにもわかってきた。暮らしていく、ということの意味。そしてまた、生きていく、ということの意味。人生の豊饒《ほうじよう》の一時《いつとき》を、ぷつりと断ち切ってしまった自分。永久の別れ。永遠に癒《いや》されることのない哀しみ。そして、その哀しみを受け入れ、流れすぎる時間の中で和らげていく方法……。
エマのことは忘れたことがない。もちろん、晋平のことも。
手紙を書こうと思った。幾度も幾度も。実際に書いたこともある。エマにあてて、晋平にあてて。たばこをくわえ、煙にまみれ、涙を流しながら、手紙を書いて、翌朝、読み返してみてはあまりの恥ずかしさに破り捨てた。
ジンの香りを嗅《か》ぐと、決まってエマを思い出した。エマを思い出すと晋平が甦《よみがえ》ってきて、心とからだが火照り始めた。その繰り返し。まるで音楽のように。一つの主旋律が別の主旋律を呼び起こし、双方が一時《いつとき》も離れることなく、呼び寄せ合う漣《さざなみ》のようにもつれ合い、戯れ合って、わたしの中に拡がっていく。
そしてわたしは、その音楽に浸りながら生きる。不快ではない。浸っている、という事実がわたしを生かしている。その感覚は、男と肌を合わせている時の悦楽にも似ている。
時は流れていった。残酷なほど素早く、呆《あき》れるほど簡単に流れていった。
パリで知り合った男は、日本人の通訳だった。阿片窟《あへんくつ》で、隠れて阿片でも吸っていそうな風貌《ふうぼう》の、日本語よりもフランス語を喋《しやべ》っているほうが似合う男だった。男はわたしのことを好きだ、と言い、知り合って五日後にはもう、一緒に朝のカフェ・オ・レを飲んでいた。わたしたちは帰国し、結婚したが、まもなく離婚した。
離婚の理由はありふれていた。多分、結婚した理由と同じように。
離婚後、わたしは都内にある小さな広告代理店に就職した。いろいろな男がわたしの上を通り過ぎていったが、三十五歳になる年、今の夫と知り合った。人のいい、善意の塊のような、それでいて仕切り上手の男だった。いいように話をもっていかれ、気がつくと再婚していた。
東京に戻ってから、わたしはエマに連絡を取ろうとはしなかった。連絡先がわからなかったせいだが、とはいえ、エマがどこに住んでいるのか、調べようと思えば調べることはいくらでもできた。
エマはあまり、マスコミに顔を出さなくなっていたし、新作も発表している様子はなかったが、有名な詩人であることは以前と変わりはなかった。エマは幾つになっても、世間では前衛詩人の新川エマ……男から男へと渡り歩く、つんとすまして顎《あご》を上げた、皮肉屋の、冷やかなまなざしで人を見下してみせる、美しい新川エマだった。
或《あ》る夏の日の午後、銀行で順番待ちをしながら、ふと手に取って開いた老人向け健康雑誌に、わたしはエマを見つけた。見開きのグラビアページに、佐伯と仲良く並んで写っている。エマは白っぽい夏のドレスを着て、首に青い水玉模様のスカーフを形よく巻いている。
どこかの日本庭園。エマと佐伯の後ろに、石灯籠《いしどうろう》が見える。もうとっくに還暦を過ぎているはずなのに、エマは相変わらず美しい。国籍不明、年齢不詳の女優のようだ。エマは静かに微笑んでいる。エマらしくない静けさがそこにあるが、わたしはすぐに見抜く。静かな微笑の奥の奥に、あの当時の烈《はげ》しさが、消えることのないおき火のようになって、くすぶり続けていることを。
佐伯は穏やかな老紳士になっている。きれいに撫《な》でつけた白髪には光沢があり、かつての品のよさはいささかも失われていない。
グラビアのタイトルは、「夫婦で美しく老いる」。
思わず鼻の奥が熱くなる。二十二年。あれから二十二年たったのだ、と思う。
エマと佐伯は結婚していた。初めからそうなることがわかっていたかのように、佐伯の微笑は穏やかで慎ましい。
わたしはすでに、あの頃のエマよりも年を重ねている。二十二年。長い長い旅だった。そして旅はまだ終わっていない。
だが、二十二年前、わたしが東京を離れ、パリの地を踏んだ時から、すでにわたしの物語は終わっていたのだ。今続いている物語は、多分、別の物語。新たに始まった物語ではなく、エマと共に味わった時間が産み落とした、小さな余剰。今のわたしは、その余剰の物語を生きているに過ぎず、本当のわたしの物語は未《いま》だ繭に包まれて、ひっそりと記憶の彼方《かなた》に眠っている。
寺岡晋平は、後に詩人から小説家に転身し、権威ある大きな文学賞を受賞した。
結婚したのが五つ年上の、有名女優だったせいか、あるいは、晋平と恋におちた時、その女優に夫がいて、ちょっとしたスキャンダルになったせいか、文芸雑誌のみならず、多くの媒体で彼の顔写真、彼のインタビューが散見できた。
彼は今も精力的に書き続けている。新刊が出るたびに、わたしは書店に走って買い求め、密《ひそ》かに読みふける。
詩人だった頃に比べて、彼の書くものは凄味《すごみ》を増した。わたしは彼の才能を改めて称賛する。エマがこの才能を見いだしたのだ、と誇らしく思う。
海のものとも、山のものともつかなかった、貧しい街頭詩人。青白い、虚無的な顔をして、その目が、女を恋するためだけにあったような男……。
晋平の作品を読むたびに、わたしは新大久保のアパートで過ごしたひととき、雪の日の晩、ストッキングをはいた爪先に、氷のような冷たさを感じながら、あてどなく共に歩いた時のことを思い出す。そこにはもう、懐かしさはあっても、哀しみはない。哀しみの残骸《ざんがい》のようなものだけがいつまでも漂っていて、それが時折、わたしの胸を鈍く痛ませるだけである。
都内のホテルで、或る大きなパーティーが開かれた。つい、一週間ほど前のことだ。
勤めている広告代理店での仕事がからんでいたので、わたしにも招待状が舞い込んだ。まさかそんなところで、晋平と再会しようとは思わなかった。微塵《みじん》も想像していなかった。
わたしたちの近くに、その時、偶然、人はいなかった。大ホールの隣に続く、小ホール。飲物や食べ物はすべて大ホールに並べられていた。小ホールでは、立っていることに疲れた年配の人々が、壁に沿って並べられた椅子に腰かけ、談笑しているばかりだった。見知った顔は一人もおらず、誰もわたしたちのことを見てもいなかった。
何年ぶり? と晋平は聞いた。
わたしは、さあ、と言った。二十二年、と答えたかったのだが、その数字を口にするのが怖かった。
懐かしいな、なんだか、声が震えそうだ。
わたしは黙って微笑み返す。言葉が出てこない。
挨拶《あいさつ》も何もしない。元気だった? という言葉もない。お変わりなく、という言葉もない。
わたしはただ、こう言う。あなたのこと、本当に好きだったのよ。
束の間の沈黙がある。彼は静かにうなずく。僕もだよ。あなたのこと、忘れたことはなかった。
わたしは瞬《まばた》きをしながら、じっと彼を見上げる。エマさんと、あれから会った?
彼はゆっくり首を横に振る。一度も会ってないよ。
わたしたちは見つめ合っている。じっと見つめ合っている。何を話せばいいのか、わからなくなる。胸が熱い。その熱さが鼻にまで上ってきて、目が潤みそうになる。
わたしは深呼吸し、お元気で、と言う。ご活躍、お祈りしています。
一呼吸おいて、彼はうなずく。小さく。とても小さく、それとわからないほどに。
わたしは一礼して背を向け、彼から離れた。遠くでシャンパングラスを重ね合わせる音がする。人々の衣《きぬ》ずれの音。無数の蜂の羽ばたきのように聞こえる、遠い談笑。
わたしは歩き出す。永遠に彼から、エマから離れ、それでもなお、死ぬまで彼やエマを忘れないだろう、と思う。
小娘だったわたしが、憂鬱《ゆううつ》な日々の中で味わった時間の流れ。そこに堆積《たいせき》している夥《おびただ》しいほどのイマージュの群れは、どれもこんなに退屈で、こんなに倦《う》んでいて、こんなにも虚《むな》しく、無意味である。
なのに、それらは今頃になって、薔薇《ばら》いろに輝き始めている。わたしは、年寄りじみた懐かしささえ覚えながら、振り返る。そして再びあの、深い深い、群青色をした海を思う。
そこには今も一匹の美しい、銀色をした大きな魚が悠然と泳いでいて、音のない水の中は、わたしにしか見えない、淡い薔薇いろの光で充《み》たされている。
角川文庫『薔薇いろのメランコリヤ』平成15年11月25日初版発行