小池真理子
彼女が愛した男
彼女が愛した男
1
空気が丸味を帯びているような、気持ちのいい十月の午後だった。木々は色づき始め、風はほとんどなく、空はパレットの上に絞り出した青い絵の具のようだった。
軽井沢《かるいざわ》の十月。冬に向かって自然が朽ち始める瞬間の、もっとも美しい季節。夏と紅葉シーズンとの間で、観光客(それはほとんどが都会からやって来た十二色クレヨンみたいないでたちの若い女の子だったが)が、比較的少なくなる季節でもあった。
「サンシャイン・リゾート前」という文字が書かれた旧式のバス停留所にバスが停《と》まり、二人の男が降りて来た。
二人とも若く、身長は百八十センチ近くあり、足にぴったりしたジーンズに、ほとんど見分けがつかないほど似通《にかよ》った黒い革ジャンを着ていた。一人は犬山。一人は尾木。犬山のほうが尾木よりもいくらか肉付きがよく、目が細かったが、遠くから見ると二人とも双子《ふたご》のようによく似ていた。
犬山がそれまで噛《か》んでいたチューインガムを路上に音をたてて吐き出すと、しゃがれた声で言った。
「これさ。軽井沢で最高の別荘地ってのは」
尾木が肩をいからせ、ジーンズの小さなポケットに指先を突っ込みながらうなずいた。
「どのくらい広いんだよ」
「さあな。これから歩いて一周したら、日が暮れちまうよ」
「豪勢なもんだな。いったい何様が住んでんだ」
「レースのパンツをはいたババアばかりだよ。だんなの目を盗んで、どっかで一発やりたがってる連中さ」
二人はげらげら笑いながら連れ立って歩き、リゾートホテルか何かの入り口を思わせるレンガ造りの大きなアーチの下をくぐった。
門を入ると舗装された通りが続き、右側に八面ほどのテニスコートとクラブハウス、左側に二階建ての管理事務所、それにレンタサイクルショップがあった。テニスコートでは色とりどりのテニスウェアを着た若い女たちが数名、インストラクターの長身の男を囲んで素振《すぶ》りの練習をしている。犬山が足を止め、「見ろよ、あれ」と言った。
「いい女ってのはなかなかいないもんだな。めかしこんでるだけで、皆、ブスばっかりだ」
「インストラクターも楽じゃねえな。いい女の時は教える気もおこるだろうけどな」
「オッパイと尻《しり》だけ見てりゃ、目の保養くらいにはなるんだろうよ」
「だが、こいつら、皆、ペチャパイじゃねえか」
「やってられねえよな、まったく」
二人はわざとらしく大声をあげて笑い、唇に指を当てて口笛を鳴らした。コートの中の女たちが一斉《いつせい》に二人を振り向いた。犬山が女たちの格好をまねて、へたくそな素振りのポーズをとってみせた。
女たちのうちの半分が苦笑し、もう半分は小馬鹿《こばか》にしたような視線を投げてきた。犬山は「ふん」と鼻を鳴らし、「ブスどもが」と吐き捨てるように言った。
「お上品ぶりやがってよ!」
二人はその場を離れ、ゆっくりと歩き出した。
土曜の午後のせいか、週末を別荘で過ごす人々が散歩を楽しんでいる。抱《かか》えきれないほどの大きなスーパーマーケットの包みを抱いて、よたよたしている老夫婦。自転車に乗った子供。ソフトクリームをなめながら毛むくじゃらの犬を遊ばせている女。中央広場では、白樺《しらかば》の木のまわりを白人の少年がスケートボードを乗り回して歓声をあげていた。
広場のまわりはちょっとした街……という感じだった。高級スーパーマーケット、フラワーショップ、ブティック、書店、ドラッグストア、それに小規模ながら、内科、小児科のあるクリニックセンターまでそろっていた。
「これに葬儀屋と火葬場があったら、一生ここで暮らせるってわけだな」
尾木がショートホープに火をつけながら言った。煙草《たばこ》に火をつける時、必要以上に眉根《まゆね》を寄せ顔をしかめて見せるのは、彼の昔からの癖だった。
「おまえもよくこんなところでバイトできたもんだな。お上品で退屈でさ。俺《おれ》なら一週間で飽《あ》きると思うぜ」
「仕方ねえさ。金がよかったんだから。あれだよ。あれ」と、犬山は前方の『花田電器』という看板が出ている店を顎《あご》でしゃくってみせた。
「俺は見られるとまずい。オヤジがいるかどうかおまえ、見て来てくれ」
尾木が言われるままに店の中をのぞくと、丸い顔に髭《ひげ》をたくわえた中年の男が電話でなにやら声高《こわだか》に喋《しやべ》っていた。犬山が解雇された原因となったという店主の女房の顔は見えなかった。
「オッサンはいたけど、女房の姿は見えなかったぜ」
「追い出したのかもな。アルバイトの男とも寝ちまう尻軽《しりがる》女房だったからな」
「いい女だったのか」
「別に」と、犬山は興味なさそうに答えた。「あの程度と一度寝ただけで喰《く》いっぱぐれるなんて、まったくあの女、ぶっ殺してやりてえよ」
店が立ち並んでいる広場のはずれに、ガラス張りのコーヒーショップがあった。二人はガラスの扉《とびら》を押して中に入った。店内には軽快なアメリカンポップスが流れ、数組の客がコーヒーを飲んでいた。窓辺に沿って水槽が置かれ、赤や青の見事な色をした熱帯魚が泳いでいる。太陽の光が水に反射し、店全体がゆらゆら揺れる大きな水槽のように見えた。
二人は端のほうの席に座り、申し合わせたように足を通路へ投げ出した。尾木が前髪をかき上げながら大あくびをした。
二日前から犬山の住む北軽井沢の小さなアパートに泊まっているが、さしたる新鮮な出来事もない。第一、アルバイト先の電器店を追い出された犬山も彼も、自由になる金は持っていなかった。いくら節約しても、この調子でいったらあと一週間の食事代を確保するのが精一杯だ。遊びまわるどころの騒ぎではない。
高校を出て八年になるが、尾木は十回以上、職を変えた。不動産会社の営業マン、車のセールス、売れないクラブ歌手の付き人、YMCAレストランのウェイター、運送屋、引越専門店……。人間関係がうまくいかなかったからでもなく、給料が安かったからでもない。彼はただ単に、飽《あ》きるとそれまでの職をあっさり捨てた。そして金があるうちはぶらぶらと遊んで暮らし、なくなるとまた別の職を探す。そうした生き方が彼の流儀だった。
高校時代からずっと付き合っている犬山も似たようなものだったが、金もうけの仕方にかけては尾木より犬山のほうがずっと手慣れていた。金をもうけるためなら暴力団とも平気で関《かか》わっていくタイプで、二十二歳の時、傷害罪で執行猶予《しつこうゆうよ》つきの有罪になったこともある。
今回の「サンシャイン・リゾート」における電器店のアルバイトは、犬山が東京で口説《くど》いた女子大生から紹介されたものだった。給料がよく、北軽井沢のアパートを安く貸してくれるというのでとびついた仕事である。だが、二か月もしないうちに店主の妻をアパートに連れ込んでいるのを店主に目撃され、給料未払いのまま即刻、解雇を申し渡された。つい三日前、すなわち尾木が東京から出て来る前日の話である。
『こんなことなら、わざわざ出て来ることもなかった』と、尾木は思っていた。金は底をついていたが、働くのもおっくうだったので、少しは犬山にたかってやろうと軽井沢へやって来たのだ。犬山に金がないとなると、ここにいる理由はまったくなくなる。東京までの乗車券を買う余裕のあるうちに、引き払ったほうがよさそうだった。
尾木はブレンドコーヒーをすすると煙草を深々と吸い、「金もねえしな」と、だるそうに言った。
「明日あたり、帰るかな」
「まあ、そう言うなって」と、犬山は目を細めた。「せっかく来たんじゃねえか。俺に付き合っていけよ」
「付き合うって何を?」
「いろんなことさ。週末は結構いい女どもがやって来るしよ。退屈しないぜ」
「文無しの男について来る女がいたらの話だろ」
尾木はそう言いながら窓の外を見た。高く上った太陽の光は、あまり明るすぎて目の奥に鈍い痛みを起こさせる。彼は目をこすり、もう一度あくびをした。
「俺、いいことを思いついたんだよ」
犬山が低い声で言った。
「おまえ、うらべ康太って知ってるか。作詞家の」
「だれだって知ってるだろ。二年続けてレコード大賞を取ったんだから」
「あいつの別荘がここにあるんだ」
「へえ」と、尾木は興味なさそうに言った。犬山が身を乗り出してきた。
「それでちょうど今日と明日、嬬恋《つまごい》であいつが主催したチャリティコンサートをやってるんだよ。アイドル歌手どもを集めてさ」
「それがどうしたんだ」
「今日は土曜日、明日は日曜だろ。銀行は休み。うらべ康太はコンサートで集めた金を入金できない。当然、金はここの別荘に置いておくしかないってわけさ」
尾木はこの相棒が何を言おうとしているのか、すぐにわかったがわざと黙っていた。犬山の耳には赤みがさしている。興奮している証拠だ。こういう時は最後まで喋《しやべ》らせておかないと、決まってあとで機嫌が悪くなるのだ。
「俺は電器屋のバイトをしていて、一度あいつの別荘に行ったことがあるんだよ。寝取られじじいと一緒にな。居間の照明の具合が悪いってんで、道具を持って調べに行ったんだ。その時も、うらべ康太の女房がチャリティコンサートの話をしててさ。この女房ってのがえらくいい女でよ。亭主と十五も年が離れてるんだぜ。顔はいい、体はいい、オッパイなんか突き出てるし……」
「おまえ、どっちが目的なんだよ」と、尾木が聞いた。「その女か、それとも金か」
「女は無理だ」と、犬山は真面目《まじめ》な顔つきで言った。
「いつも亭主と一緒にいるからな。だが、金は手に入る。コンサートの終わったあとは金を別荘に運び、金庫にしまいこんでから、関係者連中とホテルに食事に行くのが習慣だってことらしいぜ。豪勢におフランス料理だとよ。花田電器のオヤジが言ってたのを聞いたんだ。その合い間を狙《ねら》うんだよ」
「狙うって、どうやって中に入るんだよ。鍵《かぎ》がかかってるんだろ」
「金をいただきに行くんだぜ。玄関から入る必要もないってことよ。窓。窓からコンニチワ……ってわけさ。ガラスを一枚、割らせてもらってな。単なる空き巣をやるんだから話は簡単だ」
「金庫はどうする。おまえ、開け方を知ってるのか」
尾木は用心深く聞いた。犬山は耳を真っ赤にしながら、さらに身を乗り出した。
「それだよ、それ。もし、この計画がうまくいったら、俺のおかげと思えよな」
「なんだよ、それは」
「俺がうらべ康太のとこへ行った時、女房が居間のサイドボードの中の鍵《かぎ》つきの引き出しを開けながら、『わが家の金庫』とかなんとか、電器屋のじじいに話してるのを見たんだ。ちょっと開けたところも見たけど、中に証券か小切手みてえなものが入ってた。チャチな引き出しでさ。ドライバー一本あればアッという間だよ」
「確かだろうな」と、尾木はあたりに気を使いながら、小声で聞いた。犬山は大きくうなずいた。
「そいつの別荘の近くはどんな感じなんだ」
「なんにもねえよ。隣の別荘まで歩いて三、四分はかかりそうなくらいだ。この別荘地の中でも一等地だからな。だれかに見られる心配はまずない」
「おまえ、疑われるんじゃないのか。一度行ってるんだし、おまえをクビにした電器屋のオヤジがそれを思い出せば、いいこと言うわけがねえぞ」
犬山は嘲《あざけ》るように笑った。
「そんなことまで心配してたら、このへんの店員は全員、疑われちまうよ。うらべ康太の家に物を届けに行ったことのない奴《やつ》を探すのはひと苦労だぜ」
ふーっと音をたてて、尾木は溜息《ためいき》をつき、シートに背をもたせかけた。
「やるか」と、尾木が言った。犬山は嬉《うれ》しそうにニヤリとし、革ジャンのポケットから千円札を一枚取り出した。
「前祝いだ。どっかでうまいもんでも喰《く》おうぜ」
彼は勢いよくレシートをつかんで立ち上がった。
2
ちょうどそのころ、原田美穂と香川令子は荷物を片手にふうふう言いながら、鬼押出《おにおしだ》し園近くの歩道を横切っていた。
目的の山荘入り口は目の前だというのに、タクシーが中まで入ってくれなかったのだ。入り口から山荘玄関までの百メートルほどの道が極端に狭く、帰りが面倒だ、というのが運転手の言い分だった。
「前に一度、暗くなってからお客さんを乗っけて無理して突っ込んでったことがあったんですけどね」と、その初老の運転手はかん高い声で美穂たちに言った。
「そりゃあ、あんた。大変だったの何のって。お客を降ろしてあの狭っ苦しい山荘の前でUターンしようとしたら、バンパーを木にぶつけちまうし、なんとかUターンできたと思ったら今度は、タイヤがパンクですよ。まったくまいっちまったですよ」
「なら、ここで降ろしてもらって結構よ」
令子が幾分、居丈高《いたけだか》な口調で言った。彼女はタクシーの運転手やレストランのボーイ、ホテルの従業員などに対しては必ず居丈高にふるまう。普段は全然、違うのに……と、美穂は思って苦笑した。
「悪いね。歩いてっても、すぐだからね」
後ろの座席を振り返って、運転手は申し訳なさそうに言った。令子はつんと顎《あご》をそらし、料金を払うと無言のまま車を降りた。
「どうもありがとう」美穂が降り際に声をかけると、運転手は「いい天気になってよかったねえ」と、笑顔を返した。本当にいい天気だった。何もかもがまぶしく、きらきらとしている。木々のこずえと青い空はあまりにくっきりしていて、二色使いのポスターみたいだ。
川村《かわむら》出版社軽井沢山荘≠ニ書かれた小さな標識が立っている細い道に入りながら、令子が言った。
「やんなっちゃう。こんなこと初めてよ。何度も来たけど、どんなタクシーだってちゃんと玄関まで行ってくれたのに」
「文句言わないの。大した距離じゃないんでしょ。せっせと歩かないと太るわよ」
「ま、そうだけど。こんなことだったら、管理人のおじさんにでも迎えに来てもらえばよかった」
令子は大きくて引き摺《ず》ってしまいそうなルイ・ヴィトンのボストンバッグを左腕に通し、右手でポシェットを押さえながら大袈裟《おおげさ》に身体を傾けて歩いた。腰の線があらわになって見えるぴっちりとした黒革のパンツに、アルパカのざっくりとした大きなセーターを着た彼女は、小柄《こがら》ながらやはりどこか結婚した女の貫禄《かんろく》があった。
令子は辞典専門出版社として業界でトップの川村出版社社長、川村|牧夫《まきお》の一人娘である。学生時代からわがままで自己顕示欲が強く、世間知らずのじゃじゃ馬的傾向があったが、美穂には心を許していた。
手当たり次第に男友達と寝て、誰《だれ》の子かわからない子を身籠《みご》もってしまった時も、美穂だけにはしおらしく胸の内の淋《さび》しさを打ち明けてきた。普段でも何か事がおこると、まっさきに美穂が駆り出される。延々と続く打ち明け話につき合わされて睡眠不足になった夜も数えきれなかったが、美穂はなぜか令子を憎めなかった。
学生時代の美穂の恋人が事故で急死した時、冷静に彼女をかばってくれたのは意外にも令子だった。美穂の恋人は、まったく知らない若い女とドライブしていて事故に遇《あ》った。恋人は即死。同乗の女も病院に運ばれて二時間後に息をひきとった。
あの時、令子がついていてくれなかったら、何をしでかしていたかわからない。相手の女の身元と彼との関係を調べようとして半狂乱になった美穂を制し、今は何も調べてはいけない、と言ったのは令子だった。
そして令子の言ったことは正しかった。葬儀が終わって一か月間、美穂は半《なか》ば死んだようになっていた。そんな時に恋人と共に死んでいった見知らぬ女のことを詳しく聞かされていたら、発作的に首をくくっていたかもしれない。
落ち着きを取り戻し、朝起きてコーヒーと共にトーストを食べられるくらい体調が回復したころ、美穂は意を決して死んだ恋人の実家を訪ねた。彼と一緒に死んだ若い女が実は彼と結婚することになっていたこと、彼はそろそろ美穂と別れるつもりであったこと、などを両親からぽつりぽつりと聞かされても、彼女はそれほど驚かなかった。
その帰り道、美穂は令子を呼び出して渋谷《しぶや》でコーヒーとレアチーズケーキをおごった。令子は何も聞かなかったし、美穂も何も話さなかった。二人で卒業論文の話をし、道行く人々をコーヒーショップのガラスの向こうに眺めながら「気晴らしに旅行でも行こうか」ということになった。
行き先は軽井沢。令子の父親の会社がやっている小さな山荘があって、シーズンオフは人が誰もいないのだという。老夫婦が住み込みで管理しており、奥さんの作る料理は格別。ちょっとした山小屋ふうの造りの居間には大きな暖炉があり、周辺はカラマツ林。のんびりするには安くあがって最高なのよ……という令子の説明を聞くうちに、美穂はあの苦しみが嘘《うそ》のようにひいていくのを覚えていた。
若さのせいで、何もかも失ったと絶望するのも早かったが、同時に人生の月並みさを再確認するのもまた早かった。だから山荘行きの計画が、令子のお決まりの「ちょっとね。新しいカレとデートすることになっちゃったのよ。ゴメン、美穂。許して」という電話で中止になった時も別に腹が立たなかった。
彼女は軽井沢へ行くためにとっておいた金を使って、前から欲しいと思っていたシャネルのパウダーファウンデーションを買い、美容院で髪をカットしてから『恐怖の屋敷』というタイトルの、どうしようもなく垢抜《あかぬ》けないB級ホラー映画を見た。
アパートに帰り、洗面所の鏡に向かってシャネルを試し、髪型の具合を確かめ、よく冷えた缶ビールを飲みながら、ひとつだけ捨てきれずにいた恋人の歯ブラシを燃えないゴミ$齬pのポリ袋に放り込んだ。ポリ袋の口をきちんと閉め、アパートの横のゴミ置き場に置いて部屋に戻った時、彼女は「こんなもんよ」と独《ひと》り言《ごと》を言った。
確かにその独り言は当たっていた。美穂のその後の生活は「こんなもんよ」という独白にふさわしく平板で、金魚鉢の中の金魚のように退屈だった。
卒業後は会計事務所に就職した。でっぷり太った赤ら顔の会計士とその部下の見習い会計士たちとの間にはさまって電卓を叩《たた》き続ける毎日に、これといった変化が起こるはずもない。オフィスにやって来る人間はたくさんいたが、誰もが数字の話に夢中で彼女のことなど気にとめなかった。
彼女は自分の生活が、同僚と昼食を食べに行く近所の安レストランみたいなものだと、いつも思っていた。そのレストランのランチメニューは、三年の間、一度も変わったことがなかったからである。
男《おとこ》っ気《け》のない生活のせいか、彼女は次第に自分が若いのか老けているのか、わからなくなっていった。アイシャドウの色を変えてみても、流行の服を着てみても、鏡に映る顔は昨日の自分、一昨日の自分と同じに見えた。
淋《さび》しくなかったと言えば嘘《うそ》になる。別に死んだ恋人に操《みさお》をたてる必要もない。昔のことはほとんど思い出しもしなくなっていた。恋愛は面倒だが、たまには男たちとアバンチュールを楽しみ、寝不足のまま出社して電卓を叩《たた》き間違えるくらいの生活もいいものだとわかっていた。
だが、いざそうした局面に立たされると彼女は気が乗らなくなった。食事をし、飲みに行き、ディスコで踊り、くたくたになったあと男に肩を抱かれながらラブホテルの門をくぐるのは考えただけでもおっくうだった。
令子はよくそんな美穂をけしかけてきた。
「馬鹿ね。あなたはきれいだし、男が放《ほ》っとかないはずなのに、なんでもっと表に出て行かないのよ。そのままおバアちゃんになっていく気?」
「面倒臭くって」と、美穂はそのたびに笑った。「夜、十時過ぎると眠くなっちゃうんだもの」
卒業してすぐ、自分で「これまでの男関係の中でもっともお気に入り」と、称していた七歳年上の香川久と結婚した令子は、夫の帰りが遅い夜に決まって美穂に電話をかけてきた。遊びの誘い、ちょっとした悪だくみの誘いだった。誘い先は六本木のオカマクラブだったり、新宿のディスコだったり、時には外人客の多いホテルのメインバーだったりした。
「ごめんね。もう眠いの」と、そのたびに美穂は電話口で言った。本当に眠いわけではなかった。ただ、口紅を引き直し靴を履《は》いて外に出て行くことに何のときめきも感じられなかったのだ。
令子は舌打ちし、「この若年寄り!」と悪態をついた後、タクシーで美穂の住むアパートにやって来る。そして美穂は少なくとも二時間は、ディスコの喧噪《けんそう》の代わりに女友達の騒々しい愚痴《ぐち》と打ち明け話を聞かされる羽目になった。
夫の久が構ってくれないこと、夫婦|喧嘩《げんか》の話、毎日が退屈だという話……。一通りそれが済むと、次は男の話になる。令子の浮気の話には昔から慣れていたが、あけすけなベッドの中での描写になるといつも美穂は閉口した。倫理感がそうさせたのではない。他人の情事には関心が持てなかったのだ。自分の情事にも関心がない状態にあって、どうして他人の情事を面白がれるだろう。
「こんにちわ!」
山荘の木の扉《とびら》を勢いよく開けながら、令子が大声で言った。中はひんやりとしていて、木の香りがした。
奥からスリッパをひきずる音がし、白いエプロンをつけたやせた女が「あらあら」と言いながら現れた。女はしわだらけの目を丸く見開き、「車でいらしたんじゃなかったんですか」と口をすぼめて言った。口にも目のまわりと同じようなしわが寄った。
「ひどいのよ。タクシーがここに入るのいやだって言うの。前に一度、ここに来てバンパーをこすってパンクしちゃったんですって」
「道が狭いですしねえ。じゃ、通りから歩いて?」
「そうよ。もう、重たくってやんなっちゃった。この人が原田美穂さん。美穂、こちらが岸本さんの奥さんのトキさん。料理がすごくうまいんだから。フランス料理だってちょっとしたもんよ」
美穂が岸本トキと挨拶《あいさつ》を交していると、外から薪《たきぎ》を片手にかかえた岸本老人が声をかけてきた。まん中がはげ上がり、耳のうしろに白髪を残した色の浅黒い岸本老人は、腰をかがめて若い女二人に会釈《えしやく》し、そのまま庭のほうへ消えた。
ゴールデンウィークと夏の期間を除けば、滅多《めつた》に人がやって来ることがない川村山荘は、この時期、ひっそりとしていて個人所有の別荘と変わらなかった。岸本トキに案内され、五室ある客室のうち、もっとも広い陽《ひ》当たりのいい部屋に入ると、令子は荷物を投げ出し、炬燵《こたつ》の上に用意された茶菓子をつまみ始めた。
「ね、いいでしょ。そこらのつまらないホテルやペンションをとるよりもずっといいんだから。召使いが二人いる別荘……ってところよ」
美穂はうなずき、雨戸がついた大きな窓を開けて外を見た。以前、令子から聞いていた通り、カラマツの林が拡《ひろ》がっている。鳥の声以外、何も聞こえない。耳が痛くなりそうな静けさだ。
「すてきだわ。のんびりするには最高ね」
「ね、美穂。二泊だなんて言わず、もう一泊できないの。せっかく来たんだもの。旧軽《きゆうかる》まで出て買い物もしたいし、おいしいものも食べ歩きたいし……」
「もう一泊っていうと、月曜の夜も泊まることになるでしょ。無理よ。月曜の午後には事務所に戻るって言って来たんだから」
「働くのも楽じゃないわねえ。妻でいるのも楽じゃないけど」
令子はセーターの袖《そで》をまくり上げ、セイラムの煙を天井に向かって吐き出した。美穂もジャケットのポケットから自分のたばこを取り出し、火をつけた。
「まったく、うちのダンナときたら働くことしか興味がないんだから。あれじゃ私も彼も独身生活してるのと変わりないわよ」
早速《さつそく》、始まった……と思いながら、美穂は座椅子《ざいす》に背をもたせかけてたばこを味わった。今夜は食事のあと、持参のウィスキーを飲みつつ、この炬燵《こたつ》の中で令子の長い物語を聞きながら過ごすのだろう。化粧を落とし、パジャマに着替えて、気兼《きが》ねなく女同士、酔っ払う。
それもいい……と、美穂は心から思った。二泊三日の休暇は楽しいものになりそうだった。少なくともきれいに晴れわたった十月十九日の土曜日、美穂も令子も、そして山荘管理人の岸本夫妻も、これからおこることを予想できるはずはなかった。
3
日曜日。犬山はそれまで読んでいたスポーツ新聞をたたみ、缶ビールを飲みほしてから大きなげっぷをした。テーブルの上にはたばこの吸いがらが浮いているラーメンどんぶりが二つあり、彼はそれを落とさないよう注意しながらテーブルの端に両足を乗せた。
「そろそろ電話で確認するか」
尾木が腕時計をのぞいてうなずいた。犬山が花田電器店でアルバイトしていた時、うらべ康太の別荘の電話番号を控えておいたのである。夜七時。全員|留守《るす》かどうか確認するために、まず電話してみることは必要だった。
犬山はそのままの姿勢で手元に電話機を引き寄せ、メモを見ながらダイヤルを回した。ラーメンの出前を頼む時のような気軽な回し方だった。
「三回、四回、五回……」と、彼はコールサインの数を口に出して尾木にわかるように伝えた。
「十二回……間違いなく留守だ」
犬山は受話器を置いた。
「そろそろ行くか。早いほうがいい」
尾木が立ち上がり、革ジャンの前チャックを閉めた。小道具はドライバー一本。いただく予定になっている金をつめるための大きな布製バッグにドライバーを放り込み、たばことライターも忘れずにポケットに収めた。ちょっとした散歩に行く、という雰囲気が二人をとりまいていた。
犬山は椅子《いす》から降り、大きく伸びをしながら言った。
「タクシーで行こうぜ。今さらケチケチしたって馬鹿くせえしな」
「ついでにひと仕事終えたら旧軽に出て遊んで来ないか。おまえ、いいとこ知ってるだろ」
「旧軽ねえ……」と、犬山はキッチンの安っぽい白木の戸棚《とだな》の引き出しを開けた。
「季節はずれの日曜の夜だからな。店じまいが早いと思うけどな。どっかは開いてるだろうよ。ホテルに行って飲んでもいいし……」
「何だ、それ」
尾木が犬山の手にしたものを見て、驚いたように言った。銃身が手のひらに収まってしまうほどの小さなピストルだった。
「オモチャだよ、オモチャ」
犬山は笑いながらシャツのすそで銃身を磨《みが》いた。
「ワルサーのモデルガンでさ。けっこう気に入ってんだ」
「おまえ、モデルガン集める趣味があったのか」
「集めちゃいないよ。これしかない。特に趣味があるわけでもねえしな」
「空き巣をやろうってのに、何でそんなオモチャ持ってくんだよ」
「いいじゃねえか。カッコイイからさ。自己満足だよ」
「まるでゴッコだな」
尾木は、犬山が映画に出てくる刑事よろしく、ワルサーを革製ホルダーにおさめて肩にかけるのを見て苦笑した。
外に出た二人はいくらかはしゃいでいた。二人ともかつて、つかまりはしなかったが盗みをした経験がある。尾木はドサ回りのクラブ歌手のマネージャーをしていた時、楽屋でギャラの十万円ほどを盗んだ。犬山は池袋《いけぶくろ》のアパートにしのびこみ、一人暮らしのホステスから三万円、盗んだ。盗んだ金額は少なかったが、ついでにホステスを気絶させて、その身体も奪って来た、というのが彼の自慢だった。他《ほか》に二人とも万引きの類は数え切れない。
慣れている、というほどではないが、二人にとって人の金を盗むということは大した犯罪ではない、という意識があった。むしろ邪気のないスリルを楽しめる絶好の機会だった。小学生が、文房具屋の店員の目を盗んでノートや消しゴムをポケットに入れる時のあの秘密の楽しみ。初めは新しいノートや漫画つきの消しゴムが欲しいからそうするのだが、やがて大人の目を欺《あざむ》くことに快感を覚え始める。盗みは昔から彼らにとって、快感と報酬が一致する唯一《ゆいいつ》の冒険だった。
北軽井沢まで出て、タクシーを拾った。どの道にも人影はあまりなく、ペンションのような建物のレストランやコーヒーショップも閑古鳥《かんこどり》が鳴いていた。尾木は熱くて濃いコーヒーが飲みたくなったが、我慢した。あと二時間もすれば、コーヒーにあつあつのベーコンをはさんだクラブハウスサンドウイッチをつけてサービスしてくれる旧軽井沢のホテルにいることになるのだ。盗んだ金額によっては今夜中に東京へ帰り、犬山と豪遊したっていい。
犬山は時折、胸のあたりをさわってピストルの位置を確かめてはニンマリした。外はさすがに寒く、昼間の暖かさが嘘《うそ》のようだったが、タクシーの中はヒーターのおかげでぬくもっている。二人は無言のまま、それぞれ金が入ったあとの計画を楽しみながら窓に目を向けていた。
サンシャイン・リゾートの門の前でタクシーを降りると、二人はもくもくと歩いた。明りはついているが人けのない管理事務所の前を通りすぎると、犬山は慣れた足取りで道からはずれた植え込みのほうへと尾木を誘った。気温がどんどん下がっているらしく、二人の吐く息が白く流れる。
点在している大型別荘のうち、ほとんどは人の気配がなかった。週末を楽しんだ人々は、夕方のうちに発《た》ってしまったのかもしれない。歩道を行きすぎる車のライトも見えなかった。明りがともっている別荘からはTVの音声も人の話し声も流れてこない。時々、風が吹いてカラマツやナラの木のこずえを揺すった。虫があちこちで鳴いていたが、二人が枯れ葉を踏みしめる音を聞くとぴたっと静まり、またしばらくすると鳴き始めた。
うらべ康太の別荘は、別荘地の中でもかなり端のほうにある。おまけに高台になっており、急ぎ足で裏山を上った二人は、別荘に着くころには息を切らしていた。
「ひでえところにあるな」と、尾木はポーチ以外、別荘の窓という窓にひとつも明りがついていないのを確認すると大声で言った。
「車がなけりゃ、こんなとこ住めないだろうな」
「ここらの連中で車がないやつなんていねえよ」
犬山がジーンズのすそについた枯れ葉をむしり取りながら言った。身をかがめた時、革ジャンの蔭《かげ》からホールダーに収まったピストルが見えた。尾木はそれを見て「落としたりすんなよ」と注意し、肩にかけた布袋からドライバーを取り出した。
二階建ての別荘は尾木が想像していたよりずっと大きく、豪華だった。さっき通りすぎてきた他のどの別荘よりも金がかかっているのは素人眼《しろうとめ》にもはっきりわかる。
丸木で組まれたベランダの手すりに足をかけ、二人は地面より一メートルほど高くなっている広いテラスに上った。バーベキュー用の細長いガスコンロと白いリゾートふうのデッキチェアが四脚、それに丸いテーブルが置いてある。テーブルの上のコカ・コーラ≠ニ書かれた白い灰皿には、口紅のついたタバコの吸いがらが一本、入っていた。
革ジャンのポケットに片手を突っ込んでガラス戸の中をのぞきこんでいた犬山が「あれ!?」とつぶやいて尾木を振り返った。
「開いてるぜ、この窓」
「ほんとかよ」
尾木が行ってみると、犬山が手をかけたダークブラウンの木枠《きわく》のガラス戸はスルスルと音もなく開いた。
「鍵《かぎ》をかけ忘れたんだな。ありがたいこった」
犬山がスニーカーをはいたまま、先に中に入った。尾木もそれに続いた。慣れた手付きで犬山が天井の照明をつけると、淡いぼんやりとした光が部屋全体を照らし出した。尾木は軽く口笛を吹いた。
「すげえな。さすがに売れっ子作詞家のお住まいだ。映画を見てるみたいだぜ」
「だろう? 趣味は悪くねえんだ」
犬山は自分の別荘でもないのに、さも知ったようにうなずいてみせた。まったくの留守宅《るすたく》である、ということが二人にこの状況における注意深さを失わせていた。金の入っているサイドボードの中の鍵忖き引き出しに注目すると、それをこじあける前に彼らはバーカウンターに行き、封を切っていない上等のコニャックを三本、布袋の中に押し込んだ。金目のものは何でも袋の中に押し込みたいという欲望にかられて、二人はワクワクした。
二階のほうで音がしたのに気づいたのは尾木のほうだった。それは何とも言えないひそかな音で、人の気配なのか、それとも風で小枝が窓に当たった音なのか、判別しがたかった。
尾木はサイドボードの引き出しをこじあけようとしている犬山に向かって小声で言った。
「聞こえなかったか」
「何が?」
「さっき上のほうで音がした」
犬山はしばらく手の動きを止め、耳をすました。
「気のせいさ。今、この家は留守なんだ」
そう言われてみればそうだった。誰かがいたら、どこかに電気がついていたはずだし、第一、さっき電話した時、誰も出なかったのだ。この家は由香利という名の妻とうらべ康太の二人家族だと聞いている。使用人もいないということだから、夫婦がタレントたちと飲み食いに出かけたあとに誰かが残っているはずもなかった。
尾木は納得《なつとく》し、再び犬山の手の動きに注目した。作りが頑丈《がんじよう》そうに見えたわりには、引き出しはドライバーで難なく開いた。中には茶色い布袋が入っていた。袋の口を開けると、犬山は鼻息を荒くしてつぶやいた。
「見ろよ。たんまりあるぜ」
袋の中の金は千円札、五千円札、一万円札……と各々札束に分けられてあり、一目見ただけではいったい幾ら入っているのかわからなかったが、尾木は二百万はくだらないだろう……と見当をつけた。
「古い札ばかりだから足もつかない。けっこうずくめだ」
犬山は耳を赤くしてつぶやき、尾木のさし出す布袋の中に金を放りこんだ。尾木が小銭のつまった別の袋を引き出しから取り上げ、その意外な重さに驚き、袋の底が抜けないよう注意して両手のひらに乗せた、その時である。背後で声がした。
「何なのよ。あんたたち」
冷水を浴びたようになって二人が振り返ると、そこには花模様のパジャマにぶかぶかの男物のナイトガウンをはおった若い女が立っていた。女は顔面|蒼白《そうはく》で唇が小刻みに震えていたが、気の強そうな吊《つ》り上がった大きな目はすべてを明らかにしてやるという勇気を物語っていた。
「い、今すぐ出て…かないと、け、け、警察を呼ぶ……わよ」
犬山は急いで金をつめた布袋を床に置くと、胸元に手をすべりこませ、ワルサーを取り出した。
「おとなしくしてろ。さもないとぶっ放すぞ」
その気迫には尾木も驚いた。オモチャを使ってこれだけ演技できる男はそうざらにはいるまい。
女は銃口を見るとひっ≠ニいう声にならない声をあげた。そして全身を硬直させながら後ずさりし、首を左右に激しく振ってしゃがみ込んだ。あまりの恐怖に腰が抜けたという感じだった。歯の根が合わなくなったため、形のいい小さな口からは唾液《だえき》がこぼれ始めている。化粧がはがれかけているが、若くてつややかないい女だった。
「この女が女房なのか」
尾木が聞いた。犬山はうなずいた。ワルサーをかまえた手が微妙に震えている。この手のこけおどしの道具を持って来て果たして正解だったのかどうか、尾木にはわからなかった。女を黙らせるためには確かに効果的だが、どっちにしろ顔を見られてしまっている。万一、つかまった時、単なる盗みではなく、強盗の罪に問われてややこしくなるではないか。
だが考えている暇はなかった。こうなったら女をどこかに縛りつけ、どこにも連絡をとれないようにしてから金の入った布袋を持ってすぐに逃げなければならない。さっきの言い方では、女が犬山を覚えていたようには見えなかった。もしかすると恐怖のため、判別がつかなかったのかもしれない。もちろん、尾木とは一面識もないのだ。うまくいけば二人とも逃げおおせるかもしれない。
犬山も同じことを考えていたようだった。彼は尾木に金の入った袋を示し、低くかすれた声で言った。
「これを頼む。俺はこの女を二階に縛りつけて来る」
尾木が言われるままにドライバーと共に金の入った袋を持ち上げ、外から見えないよう居間の照明を消すと、犬山は女の尻《しり》を蹴《け》った。
「立て。上に行くんだ」
女は生命の危険が去ったことを知ったせいか、震えながらもおとなしく立ち上がった。犬山がその両腕をわしづかみにし、背中を押すと、女はよろけて歩き出した。
女を連れた犬山が階段を上がって行ったのを見届けながら、尾木は指紋を残したことを思い出した。女さえいなかったらそんなことを気にする必要はなかったが、今は話は別だった。証拠は一つ残らず取り除いておくに限る。
革ジャンのポケットからくしゃくしゃになった汚れたハンカチを取り出し、尾木はバーカウンターや居間のガラス戸などをごしごしこすった。サイドボードは特に念入りにこすった。こすりながら尾木はかわいたおかしさがこみ上げてくるのを感じた。
俺もおちたもんだな、と彼は思った。
金ほしさに何でもやるようになっちまった。昔からどうしようもないチンピラだったが、金を盗んで女をおどし、指紋ふきまでするとはな。いっぱしの悪党じゃねえか。が、まあ仕方ない。この別荘の主、うらべ康太だって俺や犬山よりもっと汚ないことをやってもうけたんだろうよ。どういうやり方がいいの悪いのと言ったって始まらない世の中だ。いくらドブさらいしたって俺や犬山みたいなゴキブリ野郎は消えねえんだよ……。
二階からは床のきしむ音、かすかな悲鳴が途切れ途切れに聞こえてくる。尾木には犬山のやっていることがわかっていた。犬山には金も女も両方、手に入れたがる性分がある。特に女に関しては病的な執着を見せることがあった。これまでも強姦《ごうかん》の類いは犬山の本領だった。盛りのついた雄犬のように、犬山は女を追い、袋小路《ふくろこうじ》に追いつめて犯すことを悦《よろこ》びとしていた。
尾木はそうしたやり方にはこれまで見て見ぬふりを決めこんできた。尾木とて女に興味がないわけではなかったが、犬山のようにすべての女を力ずくで手にいれることに賛成しかねるものがあった。かといって犬山に道徳の教師よろしく、女の扱い方を説く筋合いでもない。仲間としてはウマが合い、へたになついてくる女と過ごすよりは犬山と過ごしたほうがずっと楽しかった。犬山がどう女を乱暴に扱おうと尾木の知ったことではなかった。
床のきしむ音が消え、静かになった。そろそろ降りてくるな、と尾木は思い、金の入った布袋を肩にかけた。
乾いた音を聞いたのはその時である。たんすの引き出しを持ち上げ、思いきり床にたたき落とした時のような音だった。尾木は天井を見上げた。何の音もしない。家の中も家の周りもあまりに静かすぎて空気が流れる音まで聞き分けられそうだった。
「おい」と、尾木は階段の下まで行き、上に向かって声をかけた。
「犬山。どうかしたのか」
かすかにうめき声のようなものが聞こえた。動物が喉《のど》を鳴らしているようなグルグルという声。
尾木は何かがおこった、と直感した。階段を駆け上がり、三つある扉《とびら》のうち、半開きのままになっている一つを足で蹴《け》って開けた。
犬山が革ジャンを着、下着をつけただけの奇妙な格好で突っ立っていた。右手には銃口を下に向けたワルサーが握られている。握っていると言うよりは、手に付着して離れなくなってしまったように見えた。
大きなダブルベッドの上で、女が倒れていた。下半身は裸で、パジャマを着たままの胸のあたりに赤黒い汚点《しみ》が見えた。片手がマホガニーのナイトテーブルにある白い電話機に伸びている。顔は斜め下を向いていたので見えなかったが、目が開いたままだということはその上向き加減の長すぎるまつ毛が物語っていた。
「おまえ、何てことを……」
尾木が恐怖にかられて途切れ途切れに言うと、犬山の口から出ているグルグルという唸《うな》り声《ごえ》が勢いを増した。尾木は犬山のそばに行き、手にしていたワルサーをもぎ取った。
「本物のハジキとは知らなかったよ。馬鹿野郎! 何で殺した?」
「で、で、電話をか、かけようとしやがったんだ。お、俺がパンツをはいてる間に……。だ、だから、慌《あわ》てて、撃っちまった」
「早くジーパンをはけ! すぐに出るんだ!」
尾木の声に我にかえった犬山は、パントマイムを演じているようなぎこちなさで脱ぎ捨てたジーンズを手にとり、今度はそれにどうやって足を通そうか迷っている幼児のように両足をバタつかせた。尾木は舌打ちしながらそれを手伝ってやり、ワルサーを犬山のホールダーにおさめると相棒の背中を突きとばした。
廊下は暗く、よく見えなかった。暗がりに目が慣れていなかったせいではない。二人とも動転していて、たとえ百ワットの電灯が三つ、つけられていたとしても同じヘマをやっただろう。
犬山が階段を二、三段降りた。と思うと自分の足につまずき、ほとんど前のめりになるような形で下に転げ落ちた。あっという間の出来事だった。大きな音が家中に響きわたり、やがて苦しげなうめき声に変わった。
尾木は慌てて下に降り、腰をかがめて仲間の肩に手をやった。
「どこを打った? 頭か?」
犬山は首を横に振った。さきほどのショックはこの肉体的苦痛で乗りこえることができたが、今度は別の苦痛、別のショックが犬山をがんじがらめにしていた。彼は左足をゆっくり丸め、片手でかばうような仕草をした。
「足がおかしくなった。畜生《ちくしよう》!」
「折れたのか」
「わからん。ひでえ痛さだ」
顔をしかめて身体をエビのように丸めている犬山の両脇《りようわき》を手で支え、尾木は無理矢理、立たせた。
「立ってみろ。ここで一晩中、うめいてるつもりか。ともかくここを出るんだ」
犬山はやっとの思いで立ち上がり、深呼吸をひとつした。
「馬鹿野郎。折れてなんかねえよ。ちゃんと立てるじゃねえか」
「がなりたてるな! 歩けるかどうかが問題なんだ」
一歩、左足を踏み出した犬山は、強烈な痛みに叫び上がりそうになった。折れたのか、くじいただけなのかはわからない。
彼の左足の薬指と小指のあたりは、火ばしを当てられたような焼けつく痛みでほとんどマヒしかかっていた。
尾木は玄関ホールの壁にかかっている大きな四角い時計を見た。八時二十分。犬山にいたずらされたあげく殺されたうらべ由香利がパジャマを着ていたところを見ると、恐らく体の具合が悪くなったか何かで一人だけ別荘に居残っていたのだろう。いずれにしても妻を一人、別荘に残しているので、うらべ康太はそう遅くならずに戻って来るに違いない。康太が戻って来なくても、連れのうちの誰かが由香利の様子を見にひと足早く、帰って来るかもしれない。
ぐずぐずしてはいられなかった。尾木は犬山の腕を自分の肩に回し、片手で金を入れた袋を持ち上げると、犬山を引きずるようにして歩き始めた。ベランダから出てもよかったのだが、足を痛めた犬山が一メートルの手摺《てす》りを越えられるかどうか、自信がもてなかった。彼は玄関へ行き、鍵《かぎ》をはずした。犬山が苦しそうに言った。
「もと来た道を引き返すのはやめよう。ここから別荘地のはずれを抜けて、通りに出るんだ」
二人は外に出た。気温は来た時よりも下がっていた。月が青白い光を投げ、木々のこずえの向こうにはクリスマスツリーにちりばめられたスパンコールのように、鈍く光る星がたくさん見えた。女さえいなければ、いや、犬山が女を殺しさえしなければ、この美しい夜を満喫できたろうに。そう思うと尾木は犬山に対し、およそ初めて不快な憎しみに似た感情を抱いた。
手負いの獣のように荒々しく呼吸し、額から脂汗をにじみ出させて歩いている犬山に尾木は聞いた。
「どこから手に入れたんだ」
「何だよ」
「あのハジキだよ」
「おまえに関係ない」
「盗んだのか、それともヤクザものからのプレゼントか」
「うるせえ。黙ってろ」
「黙ってるわけにはいかん。女のからだから弾丸《たま》が抜き出されたら、どんなハジキを使ったかすぐにわかっちまうんだ。ハジキの足取りをたどればおまえの名前があがってくるかもしれないんだぜ」
犬山は答えなかった。尾木は続けた。
「あと何発残ってる?」
犬山は立ち止まり、じっと尾木の目を見た。からだがわなわなと震えている。尾木は黙って犬山を見返した。犬山が押し殺したような低い、ぞっとする声で言った。
「二発、弾丸《たま》は残ってる。なんならここで、おまえのその小うるさい口に一発ぶちこんでやってもいいんだぞ」
「とんがるなって。みっともない」と、尾木はなだめすかすように言い、相手の気分を和らげようと無理に笑顔を作った。犬山とは高校時代も含めてかれこれ十年近いつき合いになるが、これほど荒っぽく、小心な男だとは尾木も知らなかった。こういう男に限って自分の悪ふざけの後始末にとんでもないやり方を選び、自分のしたことへの腹立ちを他人にぶつけるのだ。
尾木は犬山をせかして歩かせ、今後、どうすべきか考えた。うまい案はまとまりそうになかった。他の土地へ高飛びするにしても、相棒の足がこんな状態では目立ちすぎる。かといって大通りでタクシーを呼び、犬山のアパートに戻るのも危険だった。あと数時間もすれば由香利の死体は発見され、警察が躍起になって動き出すだろう。不審な人物を乗せたタクシーを割り出すのは、タクシー台数の少ないこの土地では簡単にできる。犯行に関わった人間が一人ではなく二人だということも、鑑識捜査ですぐにわかってしまう。とすると、二人でタクシーをこのあたりから拾うなど、もっての他だった。
別荘地サンシャイン・リゾート≠フはずれの向こうに通りが見えてきた。行き交う車はほとんどない。通りのむこう側は黒々と拡《ひろ》がるカラマツ林だ。別荘地内をうろうろしているよりはましだった。尾木はとりあえず通りをへだてた向こう側の茂みの中へ身をひそめる決心をし、犬山にそう伝えた。
「ともかく」と、犬山は弱々しく言った。
「人の来ない納屋《なや》か倉庫みてえなところを探そう。そこで休むぞ。もう歩けねえ」
尾木はサンシャイン・リゾート≠フ区画を抜けると車が来ないのを確かめ、犬山を抱えて通りを横切った。
4
日曜日の夜、九時。川村山荘の居間は暖炉が赤々と燃え、吹き抜けになっている広い部屋がよく暖まるようにと、石油ストーブにも火がつけられていた。岸本夫妻は美穂たちに気をつかってか、夕食以来、自室にこもって姿を見せなかった。おかげで広々とした暖かい居間は二人の若い女のものになった。
令子はミニスカートに赤い毛糸のレッグウォーマーをはき、おそろいの赤いショールを膝《ひざ》にかけて、うっとりした顔で揺《ゆ》り椅子《いす》に腰をかけている。長い指にはいつものセイラムがはさんであったが、彼女はさっきからほとんど吸っていなかった。
「いい休暇だったわ」
美穂が手鏡で意味もなく自分の顔を見ながら言った。二十五歳。まだまだ若い。心なしか令子と軽井沢にやって来てから表情が明るくなったような気がする。空気がいいせいなのか、それとも気のおけない女友達と気ままにリゾート地のショッピングを楽しんだせいなのかはわからない。だが少なくともこの山荘ですごした時間は、美穂にとって久しぶりの至福のひとときだった。
「ねえ、美穂。明日、どうしても帰らなくちゃならないの?」
令子が甘えたように美穂を振り返って言った。暖炉に当たりすぎて、頬《ほお》がばら色になっている。
「私はちょっと家に電話して、うちの朝帰りご主人様に一言、予定変更を伝えるだけでいいんだから」
「私だって明日も一泊したいのはやまやまよ」と、美穂は言った。
「でもね、こればっかりはね。私は令子と違って労働者なんだから」
「仕方ないか」
「そう。仕方ないの。でもまた来ようよ。また、お金ためとくわ」
二人の女は心を通わせ合った時に特有の、やさしい、仔猫《こねこ》を見る時のような視線を交し合い、微笑《ほほえ》み合った。暖炉の中で薪が音をたててはじけた。こんな夜はTVも音楽も必要ではなくなる。もう少し、こうしていて、あとでお風呂《ふろ》に入ろう、と美穂は思った。この山荘の風呂は総ヒノキで香りがとても良い。髪を洗って、乾かしながらおばさんからビールをもらって飲もう。そして眠る前に令子とウィスキーを一杯。早く眠るのがもったいない夜だ。持って来た推理小説を読んでもいい。
居間のドアをノックする音がした。岸本トキがうるし塗りの盆にコーヒーとシュークリームをのせてニコニコしながら入って来た。令子が大袈裟《おおげさ》に歓声をあげた。
「うわあ、トキさん。バツグンよ。ちょうどコーヒーが飲みたいなって思ってたとこ」
「お菓子もいっしょに召し上がれ。ここのシュークリームはあんまり甘くなくっておいしいって、評判なんですよ」
からし色のテーブルクロスの上に、ガラス製のコーヒーポットを置き、トキは二人の女の顔を交互に見比べた。
「ほんとにお二人ともお美しくて」
「あら、やだ、トキさんたら。お世辞のつもり?」
「いいえ、そんな。ただ、さっきも主人とそう話してたんですよ。若くてきれいな人はいいねえ、って」
「若くてきれいでもね」と、令子は早速《さつそく》、シュークリームにフォークをつき刺しながら言った。
「忙しいダンナをもつと色あせるわよ。浮気でもしなきゃイライラしちゃうわ」
「そんな……香川さんは新聞社勤めだから仕方ありませんよ。今に偉くなって、もう少し自由がきくようになるんですから。ねえ、美穂さん」
美穂は微笑した。
「この人、ダンナの愚痴を言いながらのろけてるんですよ。いつもそうなんだから」
「あら、そうでしたか。それはどうもごちそうさま」
三人の女は声をあげて笑った。戸口に岸本老人がやって来て、茶目っけたっぷりに中をのぞきこんだ。
「おじさん。おじさんもいらっしゃいよ。お茶の時間よ」
令子が声をかけると、岸本老人は人のよさそうな笑顔を向け、「女同士で楽しんで下さい。私は薪を取って来ますから」と言った。
「薪がもう足りないんですか」
トキがたずねた。
「ああ。暖炉のほうはいいが、風呂のほうがな。すぐそこだ。ちょっくら行ってくる」
トキはうなずき、二人の若い女はシュークリームに熱中し始めた。岸本老人だけが薄暗い勝手口のほうへ歩き始めた。老人の背中で、暖かい火にあたりながら喋《しやべ》っている楽しげな女たちのかん高い声がいつまでも聞こえている。
老人が薪小屋へ薪を取りに行こうと思ったのは、ほんの思いつきからだった。別に薪が今すぐ必要なわけではない。今夜、風呂をわかす程度の薪は多分、今ある分で足りる。暖炉の薪は、三束も居間に置いてある。若い女たちが喋りながら、一晩中暖炉にあたっていたとしても充分、間に合う量だった。
ただ、昔から身体を動かすことが好きな岸本老人は、じっとしているのが苦手《にがて》だった。ことにこの季節……十月は山荘に客が来ることは滅多《めつた》になくなる。客が来ないと、ばあさんと二人、山荘を維持管理していくための労働量は半分に減ってしまう。それが老人にはやりきれなかった。もっともっと身体を動かしていたかった。こたつにもぐりこんでじっとしていたら、天からのお迎えが五年も早く来てしまいそうな気がする。
だから今日のように客が来ている時は気持ちがはずんだ。客室のトイレの掃除、客用の風呂場の掃除、薪割り……と、仕事が普段の倍以上、増える。妻に任せるのは料理と皿洗いだけで、あとは全部、老人が率先してやった。客……それも若い人が来ると心なしかばあさんの顔が生き生きとして見えるのも、老人にはささやかな喜びだった。都会の真ん中で隣近所の悪口を言い合いながら老妻と二人、年金暮らしなどしていたら、とても今のような充実感を味わえなかったに違いない。
勝手口を出ると老人はぶるっと身震いした。十月の夜。さすがにもう、外は凍《い》てつく寒さだ。振り仰ぐと、星が黒いドレスの上のブローチみたいにチカチカとまたたいている。
明日もいい天気だ。老人はそう思って裏庭を横切った。
山荘の薪小屋は裏庭のむこうの、カラマツ林の中に建っている。もう二十年近くも山荘の管理人をしている岸本老人ですら、川村山荘の敷地がどれほどあるのか見当がつかなかった。一説によるとこのへん一帯の林野がすべて川村社長の所有地ということだったが、真偽のほどは定かではない。山荘自体がもともとは先代の社長の別荘だったのだから、その噂《うわさ》もあながちまちがっていると言えないかもしれない。
ただ、岸本老人もトキも他人様の所有地がどのくらいあるのかについては関心がなかった。二十年前、空気のきれいなところに住みたい、と夫婦で話し合っていた時にたまたま新聞の求人欄でこの山荘の住み込み管理人を募集していたのが目に入った。面接を受け、夫婦はすんなりとパスして、半年後にはもうここへ来ていた。川村出版社とは何の縁戚《えんせき》関係があるわけでもない。単なる雇い主と使用人の関係である。所有地がどうのこうの、川村家の財産がどうのこうの、と、夫婦で推理し、面白がったことはそのせいか、かつて一度もなかった。
薪小屋へ至る小道は、照明がないので暗かった。小屋の中にも照明はない。だが老人は長年の勘で手さぐりで目的のものを見つけることができるから、懐中電灯の類いは必要としなかった。
遠くで犬が鳴いた。風のない夜。木の枝がゆれる音もしない。
老人は薪小屋の戸に手をかけた。戸の具合が普段と違うことに気づかなかったのは、彼が頭の中でこの冬はどのくらいの薪を用意しておくべきか≠ニ、ぼんやり考えていたからである。去年は思っていたより寒くならず、余ってしまった。余らせてしまうと湿り気をおび、火付きが悪くなる。少な目に用意し、万一、足りなくなったら石油ストーブを使おう……老人はそう考え、引き戸をひと息に開けた。ネズミが走ったような、ガサッという音が中から聞こえた。老人は異変に気づいた。何かが中にいる。ひそんでいる。
「誰かいるのか?」
老人は間の抜けた声で言った。ネズミかもしれない。野良猫《のらねこ》かもしれない。単に薪束が動いた音かもしれない。以前にも山荘の裏庭の暗がりで物音がし、「誰だ!!」と叫ぶとやせた野良犬が申し訳なさそうに姿を現したことがあった。動物に怒鳴《どな》るのは老人の本意ではない。
小屋の中は真っ暗でしんとしていた。きっと猫か何かが老人の声に驚いて身をすくませているのだ。彼はゆっくりと中へ入った。小さな小屋だから足元に気をつけないとつまずいてしまう恐れがある。彼の記憶では入ってすぐ右側の奥に薪束が重ねて置いてあるはずだった。彼は暗がりの中で手を伸ばした。
目が闇《やみ》に慣れるに従って、薪束がぼんやりと見えてきた。右足をもう一歩、前へ踏み出す。
何かやわらかいものが老人のサンダルをはいたつま先に当たった。その瞬間、彼の真下で低い声がし、腹に固いものが当てられた。
「静かにしろ」
老人は腰が抜けかかった。いったい何がおきたのか、わけがわからず、悪い夢を見ている気分だった。声の主が男で、しかも腹に当てられたものがナイフか何かの凶器であろうことを理解するまで、途方もない時間がかかったように思えた。
「だ、だ、だ、だ……」
誰だ、と言おうとして老人は「だ」の音を繰り返した。どうしても舌がもつれて「れ」という音が出てこない。
「何も喋《しやべ》るな、じじい! あんたの腹に当たってるのはピストルなんだぜ。本物のな」
ピストルと聞いて老人はもう少しで気を失いそうになった。かろうじてそれを避けられたのは、山荘の居間にいる老妻と若い美しい女たち二人の顔が脳裏をよぎったからである。いくら年寄りとはいえ、彼はこの山荘で唯一《ゆいいつ》の男だった。ここで気を失っていたら、彼女たちに何がおこるかわからない。
「よく聞けよ」
男は言った。
「このハジキには弾丸《たま》が入ってる。変な真似《まね》をしようとしたら二度と生きて帰れないと思え。わかったか」
老人は夢中でうなずいた。足をひきずるような音がし、男が立ち上がった気配がした。暗がりの中に二つの頭が見えた。顔ははっきり見えないが、二人とも老人よりはるかに背が高い。
「ようし。そのままの姿勢で答えろ。あんたはあそこの山荘の人間か」
「あ、ああ」
「いま、山荘の中に何人いる」
「よ、四人。いえ。さ、三人」
「どっちなんだよ。え?」
男はもう一度、銃口を老人の腹に突き当てた。老人はしゃっくりのような音を喉《のど》から発し、あわてて「三人」と答えた。「私を除いて、さ、三人……」
「男か」
「いえ、お、女。全員、女です」
「薬はあるか」
「は?」
「薬があるかって聞いてんだよ。さっさと答えろ」
「何でもそろってますけど……」
「痛み止めもあるな」
「は、はい」
「飲ませろ」
「え? は、はい」
「いいな。あんたは俺たちと一緒に山荘に戻るんだ。戻ったらすぐ、三人の女を呼べ。妙な考えをおこしたら、あんたの背中か、女たちのかわいいオッパイに穴が開くぜ」
岸本老人は震え上がった。銃口を彼に向けているほうの男がもう一人に話しかけた。
「俺がこいつを背中に突きつけてるからよ。おまえは俺に肩を貸してくれ」
「山荘の中に入ってどうする気なんだ」
初めてもう一人の男が口をきいた。銃口をつきつけている男よりもはるかに落ち着いた冷静な声だったので、老人は少し安心した。少しはまともな男なのかもしれない。
「どうするもこうするもないさ」と荒っぽいほうの声が言った。「こうなったら今夜はここで籠城《ろうじよう》だ。おい、じじい」
老人はハッと息を呑《の》んだ。
「明日、誰か人が来る予定はあるのか」
「誰も、来ません」
「本当だな」
「はい、はい。本当です」
「よし。行け。ゆっくり歩くんだ」
老人は言われた通り、ゆっくり薪小屋を出た。男たち二人がそれに続いた。
「あんたたちはいったい……」
老人は前を向いたまま、勇気をふりしぼって聞こうとした。強盗なのか、浮浪者なのか、それともこの山荘に恨《うら》みがあってやって来たのか、何かが欲しいのか、何故《なぜ》、薪小屋にひそんでいたのか、わからないことだらけで彼はとまどっていた。
「いったい何者なんです」
「そんなこと知ってどうする。黙ってろ!」
「金が欲しいなら、こ、ここにはないですよ」
「喋《しやべ》るなってんだよ」
すごみのある低い声が、老人の耳元でささやいた。彼はもう一度、ふるえ上がった。老人の背中には痛いくらいきつく銃口が当てられている。銃を突きつけているほうの男が、足を踏み出すごとにうめき声を発し始めた。どうやら怪我《けが》をしているらしい。
「そんなに痛いのかよ」
まともなほうの男の声がした。
「痛いの何のって、切り取っちまいたいくらいだよ」
前を向いたままなので、老人には男たちの顔は見えない。山荘の勝手口が見えてきた。さっき電気をつけておいたままなので明るい。ほっとする明るさ、泣きたくなるような優しい明りだ。
戸口の横のところに、トキが吊《つ》るした大根がほの白く見える。妻の作る切り干し大根はうまい。もうしばらくしたら毎晩、夕食に切り干し大根が出るだろう。老人はそれをつつきながら、一合だけ熱燗《あつかん》を飲む。妻も時々、お猪口《ちよこ》を一、二杯、口に運ぶ。そして二人でテレビの時代劇を見るのだ。よく身体を動かしたあとの心地《ここち》よい平和な夜が、老人にとっては何か遠い、夢の中の出来事のように思えた。
「入れ。入ってまっすぐ女どものいるところへ行くんだ」
男は怪我《けが》の痛みのせいか、かなり苛々《いらいら》した口調で言った。老人はどうすべきか、まったく考えがまとまらないまま、勝手口を上がった。台所を抜けた長い廊下の先の居間の扉《とびら》から、黄色い光がもれている。妻の声が聞こえるところをみると、妻もまだ居間にいるらしい。居間には電話もある。庭に抜ける大きな窓もある。何とかあの三人に知らせることができたら、少なくとも三人だけは無事でいられるのに。そう思うと老人は自分の無力さに腹が立った。
廊下を足をしのばせて歩き、老人は扉の前ですくんだように動かなくなった。扉のむこうからは、令子のおどけた声とそれにつられて笑う美穂、それにトキの声がしてくる。
「それでね、久さんたらね、寝呆《ねぼ》けて電話口に出て何て言ったと思う? ラーメン一丁、大急ぎで頼む、ですって」と、令子の声。げらげら笑う美穂。コホホ、コホホと癖のある笑い方をしている妻。
背中で男がさらに強く銃口をつきつけてきた。老人は意を決して扉のノブに手をかけ、ゆっくりと押し開いた。
話に夢中の女たちは、初め老人が扉を開けたことに気がつかなかった。トキが盆を小脇《こわき》に抱《かか》えたまま、何気なく彼のほうを見た。彼女の顔は笑顔を作ったままみるみるうちにこわばり、目が冷たい石のようになった。
怪我《けが》をしているほうの男が老人の両腕をねじ上げ、銃口をゆっくりと女たちのほうに向けた。
誰も何も言わなかった。叫び声をあげるにしては、あまりに突然の出来事だった。からだを硬くして老人のほうを見ている女たちに向かって、犬山は低くうめくように言った。
「動くな。三人ともその場で両手を上げろ」
5
つい今しがたまで、シュークリームを食べ、甘味料を使わないお菓子の作りかたやダイエットの方法、それに罪のない笑い話を披露《ひろう》し合っていた三人の女は、「手を上げる」ということが何を意味するのか充分わかっていながら、化石のように動けないでいた。
女たちの六つの目が黒いびい玉のように二人の男に向けられている。暖炉の薪がパチパチと音をたてた。
「言われた通りにしなさい」
腕をねじり上げられたままの老人が、痰《たん》をからませた力ない声で言った。美穂は持っていたコーヒーカップをテーブルの上に置くと、ゆっくり両手を肩の高さまで上げた。令子もトキも同じようにした。
犬山は老人を前に突き出すと、銃を構えたまま片足でピョンピョン飛びはねながら、部屋の中に入った。
「四人でそこに一列に並ぶんだ。早くしろ」
部屋の中央にある大きな木製の丸テーブルのまわりに四人が手を上げたまま立ち並ぶと、犬山は四人を嘗《な》めまわすように見た。その視線が令子に止まり、ついで美穂に止まった。美穂は唾液《だえき》を飲みこもうとして喉《のど》がつまり、咳《せ》き込んだ。
「手始めに、薬が欲しいんだ。ちょっとばかしアンヨにお怪我をしてよ。どこにある」
視線が自分と令子の間をさまよっている。美穂は首を横に振った。
「私たちは知らないわ。客だから」
「じゃあ、客じゃないのはこっちのジジババか。おい、ばあさんよ、痛み止めでもサービスしてくれよ。あんまり痛くててめえら全員、ぶっ殺してしまいそうなんだ」
「救急箱はそこの、お台所の棚《たな》に……」
「持って来い。ついでに水もだ」
トキは老人の顔を不安そうにのぞき見た。
老人はうなずき、取って来るよう促《うなが》した。尾木が近づき、老婆の腕をつかんだ。トキは歩き出した。
愛妻の姿が廊下の向こうに見えなくなると、老人は言った。
「金ならいくらかはある。全部渡すから、出て行ってくれ」
「喋《しやべ》るなってんだよ。じじい。金を取りに来たとでも思ってんのかよ」
犬山はふらつく足取りで、側のロッキングチェアを引き寄せ、どっかりと腰を降ろした。額に脂汗が浮いている。かさかさに乾いた唇から呻《うめ》き声《ごえ》がもれた。
「こうして会ったのも運命だとあきらめろ。逆らわなければ命だけは助けてやるから」
トキが救急箱と水の入ったコップを持ち、尾木に連れられて戻って来た。犬山は箱の中身を乱暴に床にばらまき、ドン・ジャスト≠ニ書かれた鎮痛薬を取り上げるとむさぼるように白い錠剤を飲み込んだ。
「おまえら、足の骨を折ったことがあるかよ」と、彼は唇の片側を上げ、美穂と令子を見ながら言った。「テニスの捻挫《ねんざ》とはわけが違うんだぜ」
美穂は令子と顔を見合わせた。犬山がふんと鼻を鳴らした。
「骨折は放っておくと大変だ。お医者に見せたほうがいい」老人が大声で言った。「お医者を呼んだほうが……」
「ぐだぐだ言うな!」
犬山が怒鳴《どな》った。「つまらん考えはよしな。外部と連絡を取り合おうったって、そうはさせねえよ。おい、こいつら、縛っておけ」
尾木が革ジャンのポケットに手を突っ込み、ふてくされた顔つきで犬山のほうを見た。
「縛ったらずらかるんだろ。車をちょっと拝借してさ」
「急ぐことはねえよ」と、犬山は抑揚《よくよう》のない声で言った。「ここにいたほうが安全かもしれねえ」
「気でも狂ったのかよ」
「俺は正気さ。くそ寒い中を出て行くのはまっぴらなだけだ」
「わざわざ、必要もないのにじいさんにハジキを突きつけることはなかったんだ。今日はおまえのおかげでとんだ一日だったってこと忘れるな」
「俺を苛々《いらいら》させんなよ。そこに縄があるだろ。縛りつけてあとは酒でも飲んで夜明かしだ」
尾木は舌打ちし、暖炉の脇《わき》にある麻縄《あさなわ》を持って来た。
「うちの荒くれが、ああ言ってるからな。縛らせてもらうぜ。悪く思うなよ」
彼は四人を一列に並ばせ、一本の縄で老人、トキ、令子、美穂の順に手首を縛りつけた。手加減をしなかったので、四人の手首には縄が食い込み、みるみるうちに血が止まって手が青白くなった。
「これじゃあ、手がしびれちゃうわ。もっとゆるくして」
令子が半分泣きながら叫んだ。
尾木は令子をにらみつけながら、もう一度、全員の縄をかけなおした。作業を終えると暖炉の脇に立って眉間《みけん》にしわを寄せ、煙草に火をつけた。
美穂は憎々しげに二人の男を見つめた。年は若そうだ。もしかすると自分と同じくらいかもしれない。
着ているものと言葉のアクセントから判断すると、土地の人間ではないらしい。東京……少なくとも東京周辺の人間だ。やくざだろうか。いや、やくざの手下かもしれない。怪我《けが》をしているほうは特にそうだ。きっとどこかで喧嘩《けんか》か何かをした後なのだ。それで気分がおさまらず、ここへ侵入し……。
犬山がリモコンを使ってTVのスイッチを入れた。十六インチのTV画面に音なしで画像が現れた。クレジットカードのコマーシャルだ。少年が抱《かか》えきれないほど大きな薔薇《ばら》の花束を抱え、ジョギングウェアを着て走っている。木に囲まれた一軒の家。彼はその家のドアの前に立つ。呼吸を整え、チャイムを鳴らすとカーリーヘアの可愛《かわい》い少女が出て来る。彼女は喜んで彼に抱きつきキスをする。薔薇の花と共に画面に大きく映し出される文字。
『二人で始めるハッピーライフ』
美穂は笑い泣きしそうになった。二人で始めるハッピーライフ……。手を縛られ、銃を向けられ、わけもわからずにじっとしている女にはもっとも縁遠い話だわ。馬鹿げた子供だまし。ハッピーライフですって。
「座りたいんだけど」と、突然令子が言った。「いつまで立たせておく気?」
犬山が湿り気を帯びた目つきで、彼女を見た。
「威勢のいい姉ちゃんだな。年はいくつだ」
「おあいにくね。人妻よ。さっさと座らせてくれたらどうなの」
「へえ」と、犬山は椅子《いす》の上で腰を浮かせ、椅子ごと引き摺《ず》って令子のそばに来た。令子が生唾《なまつば》を飲みこむ音が美穂に聞こえた。
「どうりでムチムチしてると思ったぜ。俺の好みだ。腰の線もなかなかいかしてるしな」
そう言うなり、犬山は令子のスカートの中に手を入れた。令子が短く叫んだ。
「やめて!」
「痛みがおさまったら、かわいがってやるぜ」
彼は尾木に向かって「おまえはこっちの姉ちゃんにしろよ。こっちも相当のいい女だぜ。ォッパイは小さそうだけどな」と、美穂を顎《あご》でしゃくって示した。
尾木は答えなかった。TV画面を凝視している。煙草の灰が落ち、床に舞った。
「なあ、おい。どっちの姉ちゃんも……」
尾木は黙ったまま、煙草を暖炉に投げ捨て、静かに犬山を見た。
「今、ニュース速報があった」
犬山はぎょっとしたように振り向いた。
「うらべの女房は即死だってよ。警察は大がかりな捜索を始めたらしい」
奇妙な沈黙が流れた。誰も何も言わなかった。犬山はしばらくじっとしていた。令子のスカートの中に入れた手が、ずるずると力なく床に落ちた。
「こいつら、人殺しをしてきたんだ。うらべ康太の奥さんを、殺して来たんだ」
老人が突然、叫んだ。「サンシャイン・リゾートからここは近い。こいつら、逃げる途中だったんだ。それでうちの薪小屋に隠れていたんだ」
トキが意味不明のことをわめきながら、泣きじゃくり始めた。犬山は、持っていたワルサーでいきなりテーブルを叩《たた》いた。老人は黙り、トキの泣き声はしゃっくりのような音に変わった。犬山がぞっとするような低い声で言った。
「同じ目に遇《あ》いたくないなら、スピッツみてえにキャンキャン言うなよ。え?」
不意に後ろ手に縛られた令子の手が、美穂の手に触れた。冷たく汗ばんだその手を美穂は懸命に握り返した。
6
香川久はその晩、P新聞社芸能部の雑然としたデスクに向かって最後の入稿に追われていた。離婚の記者会見をした歌手の記事だったが、あまり書くことがなく、粗雑な内容になっていることが彼を苛立《いらだ》たせていた。
社会部から芸能部に移って一年。芸能人の婚約発表や結婚離婚、出産から死亡記事までを区役所の戸籍係みたいに追っていく仕事に、彼はうんざりしていた。付き合う人間も社会部のころとうって変わって、得体の知れないプロダクションの胡散《うさん》臭そうな男とか、俗に芸能ゴロと呼ばれるやり手の連中ばかりになってしまった。
スクープを追っていくためには、毎晩、こうした連中と情報を交換し合い、時には芸能人たちとも一線を超えたつき合いをしていかねばならないのだろうが、彼にはそれが苦痛だった。『誰が結婚しようが、ガキを作ろうが知ったことか』というのが、彼の本音《ほんね》だった。或《あ》る女優が或る男優と関係したかどうかを調べるために、その女優のマンションへ行き、ゴミ集積場の生ゴミまであさったという男と飲んだ時はさすがに呆《あき》れてものも言えなかったものだ。
「香川ちゃん、苦労してるね」
紙コップにコーヒーを入れて側を通りかかった同僚が、冷やかすように声をかけた。
「あの記者会見は活気がなかったからなあ。書くことないだろ」
「まったくだよ。別れます、はい終わりってなもんでさ。わざわざ会見なんかするなってんだ」
「早く書き上げてご帰還しないと、また奥さん、角だしてるよ」
「女房?」と、久はスチールの椅子《いす》に弓なりに背をもたせ、ハイライトに火をつけた。
「今、いないんだ。軽井沢に旅行中でね」
「へえ、ダンナの忙しさについに愛想をつかしたのか」
「かもな。学生時代の友達とおやじさんの山荘に行ったよ。どうせさんざん金を使って帰って来るんだ」
「それで機嫌がよくなるんだったら、いいじゃないか。ま、あとで一杯、付き合うよ」
久は微笑し、再びデスクに向かった。その時、TVの前にたむろして、将棋《しようぎ》をやっていた連中のほうが急に騒がしくなった。一人が電話の受話器を握りしめて興奮している。久はぼんやりとそのほうを見た。
「おい、大事件だ」と、腹の出っ張った編集長が大声でわめきながら部屋を横切った。居合わせた者、全員が立ち上がった。
「うらべ康太の女房が射殺されたよ」
記者の本能から、久はそれまで持っていたペンを放り投げ、ざわめいている同僚たちのほうへ駆け寄った。入社間もない、通称カバという小太りの新米記者が、じっとしていられないといった表情で久の腕をつかんだ。
「香川さん! すごいニュース! まだ入稿に間に合いますよ」
「射殺だって? 誰に?」
「捜索中らしいですけどね、強盗のようですよ。なにしろ別荘の金、全部盗まれているんですから」
「別荘? どこの?」
「軽井沢のサンシャイン・リゾート」
それまで電話に向かって怒鳴《どな》り声をあげていた男が、久たちを振り返って大声で言った。
「女房は強姦《ごうかん》されてたってよ。おい、誰かすぐに記事にしろ!」
久はその男の横に走り寄り、「犯人は逃走中なのか」と、聞いた。男はネクタイをもぎとるように取り、丸めてポケットに乱暴に突っ込みながら答えた。
「多分な。あのへんに潜伏《せんぷく》してるのかもしれない。頭のおかしい強姦魔なんだろうよ。さあ、忙しくなるぞ」
久はデスクに戻って、目の前につみあげた雑誌の束の中から軽井沢の観光マップを捜し出した。サンシャイン・リゾートという別荘地の名は聞いたことがある。多分、令子からだったはずだ。彼女はあそこのテニスコートでテニスをしたことがあると言っていたっけ。
地図を見ると、川村山荘とサンシャイン・リゾートは徒歩でも充分行ける距離だった。何も知らずに山荘のおばさんや美穂に甘えて、のんびり軽井沢の夜を楽しんでいるだろう妻にこのニュースを聞かせて驚かせてやろう、と彼は思った。意地悪くそう思ったのではない。漠然とした心配が彼の中に生まれ始めていたのは確かだった。
ふらふらほっつき歩いてないで、明日はまっすぐ帰って来い。そう言ってやるつもりだった。まったく、あいつときたら、幾つになっても学生気分が抜けない。困ったもんだ。
彼がアドレス帳をめくり、川村山荘の番号を指で押さえながら電話を手元に引き寄せると、さっきの同僚が遠くから大声で言った。
「香川ちゃん、奥さんに言っといたほうがいいよ。軽井沢は今、美人が襲われるらしいからね」
久は片手を軽く振って「今、電話しとくよ」と、ダイヤルを回し始めた。
7
美穂たちはやっと座ることを許された。四人が一列に並んで座れるソファーがなかったため、麻縄《あさなわ》は各自、切り離され、センターテーブルとセットになっている木の椅子《いす》に身体ごとくくりつけられる形になった。
掛時計が十一時半を指している。男たちが侵入して来てからどのくらいたったのか、美穂にはわからなくなっていた。シュークリームを食べ終え、二杯目のコーヒーを飲んでいた時だったから、あれは九時半かそこらだったろう。まだ二時間しかたっていないのか。途方もない時間が流れたような気がする。後ろ手に縛られているので、肩や背中、それに腕が硬直している。木の椅子の背が、硬すぎて落ち着かない。
時々、令子と目を交し合い、視線で励まし合えるのが唯一《ゆいいつ》の救いだった。令子や岸本老人はまだしも、トキはすっかり弱々しくなってしまっていた。しわの寄った目尻《めじり》や口元には、一層、苦悩の影がこびりつき、寝たきりだった病身の老婆のように見える。ついさっきまでのトキの笑顔はもう、想像もつかない。生涯、笑ったことなんかないような顔になってしまっている。
美穂はトキと目が合うと、必死になって心の中で呼びかけた。
大丈夫よ、おばさん。きっと誰かが助けに来てくれるわ。この殺人鬼たちがずっとここにいられるわけがないもの。
だがその呼びかけもトキには通じず、彼女の視線はすぐ美穂から離れて空しく宙に舞うのだった。
二人の男はほとんど何も喋《しやべ》らず、台所の冷蔵庫から持ち出したチーズやハムをつまみながら、落ち着かない表情で缶ビールをガブ飲みしていた。犬山はあいかわらずロッキングチェアに座ったままだったが、薬が効いて足の痛みが和らいだのか、荒っぽい目つきはしなくなった。ピストルも膝《ひざ》の上に置いたままで、意味もなく脅《おど》すことはやめたようだった。
尾木は時折、窓のカーテンの影に隠れて外を見たり、山荘内を点検したりしていた。美穂は怪我をしている男のことは怖かったが、もうひとりに対しては特に恐怖感を感じなかった。何を考えているのかわからない男ではあったが、少なくともここで一晩、籠城《ろうじよう》することを馬鹿げたことだと思っているようだった。
うらべ康太の奥さんを射殺したのは、きっと怪我をしている男のほうだ、と美穂は思った。怪我をしていない男はピストルに対してさっきからまるで興味を示さない。もし何らかの形で興味があったり、自分たちの身を守るための威嚇《いかく》行為としてどうしてもそれを必要としているのなら、たとえば相棒が薬を飲んでいる時などにピストルを彼から奪って、代役をつとめたがっていたはずだ。
二人がどうしてうらべ康太の奥さんと関わり合いになることになったのかはわからない。しかし、彼らの間で何かの突発事故があったのは確かだ。怪我をしていないほうの男が言っていたではないか。
「おまえのおかげでとんだ一日だった」と。
だから怪我をしていない男には少しは期待できる。この男は不承不承《ふしようぶしよう》、ここにいるだけなのだ。本当は早くここから出て行きたいのだ。
二人の男はさっきからビールをずいぶん飲んでいる。床に放り出された空き缶だけでも四つ。このぶんだといずれまもなく、トイレに行くだろう。荒っぽいほうがトイレに立ったあと、もうひとりに頼みこんでみるのはどうだろうか。私たちは何も喋《しやべ》らない。だから出て行って。車も使っていいわ……。
いえ、だめ……と、美穂は自分の想像力のなさにうんざりした。人質が、解放されてから警察に犯人について何も喋らないなどということがあり得るだろうか。誰だって何もかも喋ってしまうに決まっている。顔のつくり、身長、声、犯人たちの会話、それに彼らの飲んだ缶ビールの数に至るまで、ひとつ残らず喋るだろう。
「喋らないわ」という言葉にだまされるほど頭の弱い犯人なんていやしない。
美穂は暗い気分になった。いくらここにいることを無駄《むだ》だと思っているほうの男だって、自分が助かるための方法は考えているはずだ。そうやすやすと、四人をこのままにしてここを出て行くわけはない。
美穂がうつむいて、小さなため息をついたその時、戸口の横の白い電話機がいきなり鳴った。
居合わせた六人の人間は全員、びくっと身体を震わせた。ベルは二回、三回と単調な音で鳴り続ける。美穂は令子と顔を見合わせ、鼓動が激しくなるのを感じた。
誰だろう。誰でもいい。外部の人間と話ができる。チャンスだ……。
犬山がおもむろにピストルを取り上げ、険しい顔で岸本老人とトキをにらんだ。
「出ろ。ふつうに喋《しやべ》るんだ」
老人はトキを見、トキは激しく首を横に振った。彼女がとてもふつうには喋れない状態であることは、誰の目にも明らかだった。老人が決然と犬山に向かって「私が出る。電話をここへ……」と言った。
尾木が電話機を持って来て老人に近寄った。犬山は銃口を老人に向け、低い声で言った。
「わかってるな。余計なこと喋ったらズドン、だぜ」
尾木が受話器をはずし、老人の耳に当てがった。老人は深呼吸をし、「はい、こちら川村山荘」と、しゃがれた声で言った。「ああ、香川さん」
令子がはっとして腰を浮かせかかった。犬山が銃口を令子に向けた。
「令子様ですね。はい。あの、まだ起きてらっしゃって……。はい。ちょっとお待ち……え? 何ですって。はあ、はあ、いえ、それは私どもはちっとも。ええ、TVも見ておりませんで……。あの、ちょっとお待ち……」
老人の額には玉のような汗が光り始めている。尾木が受話器を取り上げ、送話口を手で押さえたまま、「令子ってのはどっちだ」と小声で言った。
「私よ」と、彼女はふてぶてしく答えた。犬山が目を光らせた。
「姉ちゃん、一言でも叫んだらあんたの股《また》ぐらが木っ端みじんになると思えよな」
令子は犬山をにらみつけた。尾木が彼女の耳に受話器を当てた。
「もしもし、あたしよ」
令子が美穂をちらっと見た。美穂は祈るような思いで彼女に目配せした。長く、少しでも長く話を引きのばすのよ、令子。そして会話の中でそれとなく知らせるのよ。無駄話《むだばなし》をどんどんして、謎《なぞ》めいたことを言うのよ。
「え? あら、そうなの」
令子は幾分、不自然な素頓狂《すつとんきよう》な声を出した。全員が彼女の顔を見つめている。令子はちらちらと犬山を見返しながら、「それは大変ね。TVなんか見てないから知らなかった」と、言った。口の中が乾いているらしく、喋るたびにパサパサという音が美穂の耳に入ってくる。
「え? ええ、大丈夫よ。男を見たら注意しとくわよ。あ、あのね、あなたまだ会社に?いえ、別に。うん、もう寝るわ。それじゃ……」
電話は切れた。令子はふーっとため息をついた。「喋るだけ喋って向こうから切ったわ」
「誰からだ」と、犬山が聞いた。
「亭主よ」
「何だって今ごろかけてきた」
「あんたたちのことが大ニュースになってるっていうしらせよ」
「亭主はTVを見たのか」
「TVなんか見なくたってわかるでしょうよ」と、令子はあごをそらせた。
「彼はP新聞社の記者なんだから」
犬山は尾木と顔を見合わせた後、「けっ」と喉《のど》を鳴らした。
「知らぬは亭主ばかりなり……だ。そいつは怪《あや》しんでなかったか」
「何をよ」
「あんたの今の話しっぷりをだよ」
「さあね。本人に聞いてみたら」
「令子!」と、美穂は犬山が真っ赤になって立ち上がりかけたのを見て、この気の強い友人をたしなめた。
「怒らせたって損するだけよ。もう少し、こらえて」
令子は顔をひきつらせながら、歯を喰《く》いしばって犬山を見据《みす》えた。犬山は小馬鹿にしたように口元に笑みを浮かべ、ピストルを指でくるくる回した。
「ものわかりのいい友達の言うことは聞いといたほうがいいぜ。俺はただでさえ、気がたってるんだからな」
「私がものわかりがいいなんて思ってるんだったら、間違いよ」と、美穂は静かに言った。今は危ないまねをする気はなかったが、なめられてしまうのもいやだったからだ。犬山は「ほう」と興味深そうに言いながら、彼女を見た。
「あんたもだいぶ、突っ張るな。いったい何が言いたいんだ。え?」
「別に何も言いたくないわ。ただね、あなたたちが何をしようとしてるのか知らないけど、どっちみち、明日になったらいろんな人間がここに来るのよ。いつまでも私たちを縛りつけてはおけないってこと、覚えといたほうがいいわ」
「いろんな人間が来る? たとえば誰が来るんだよ、姉ちゃん」
「客とか、御用聞きとか……。だってここは会社の山荘なのよ。誰も来ないはずがないでしょ」
「じじい、嘘《うそ》をついたな」
犬山は老人を見た。美穂はあわてて付け加えた。
「客が来る来ないは、私は知らない。でもとにかく誰かが来るわよ。無人島の一軒家じゃないんだから。電話も来る。そのうち、誰かが怪《あや》しんで警察に通報するわ」
「だったらどうだって言うんだよ」
犬山の目に常軌《じようき》を逸した光が走ったのを見て、美穂は口を閉ざした。
「そんなこと心配する前に、てめえらの心配をしてろ。どこの箱入り娘か知らんが、元気で帰れると思ったら大間違いだぜ」
「私たちを殺す気?」と、今度は令子がおそるおそる聞いた。犬山はさもおかしそうに天井を振り仰いで笑った。
「いつだって、これが」と、彼は持っていたワルサーをなでてみせながら言った。
「てめえらの尻《けつ》の穴にぶちこまれたがってウズウズしてるってこと、忘れんな」
8
サンシャイン・リゾートは、あちこちに警官が立ち、管理事務所の前やショッピングセンターの横にパトカーが止まって、ものものしい雰囲気だった。それまで寝静まっていた別荘も、ところどころの窓が開けられて、中から人々の不安気な顔がのぞいている。ことにうらべ家の別荘近くの住人は、警官の深夜の聞きこみ訪問に興奮して、寒さに震えながらも外をうろうろしていた。
うらべ康太は、凶行があった家の居間に放心したように座り、年齢にしては派手なピンク色のジャケットのボタン穴を片手でしきりといじっていた。目の前に置かれたコーヒーには手をつけてもいない。
時折、ボタン穴をいじっていないほうの手で意味もなく白髪《しらが》の混じった頭をかきむしり、乾ききった唇を半開きにして「どこのどいつだ。どこのどいつだ」と、独《ひと》り言《ごと》を繰り返している。
居間には彼につきそう数人の若い男がいたが、誰も彼も落ち着きを失って部屋の中を歩き回っていた。うらべ康太のマネージャーである柴田《しばた》は居間の電話が鳴って刑事がそれに応答するたびに、首を伸ばして不安そうにそちらをうかがった。うらべ康太とその夜の夕食会に出席した、由香利の妹の加奈子は目を真っ赤に泣きはらしてソファーにうずくまっている。
電話が再度、かん高く鳴った。N県警捜査一課の田辺警部補が受話器を取り、短く「そうか。わかった」と言って切った。柴田がその後ろ姿に向かっておずおずと聞いた。
「何かわかったんですか」
「鑑識からの報告なんですがね」と、田辺警部補は鼻の脇《わき》をこすりながら、この場に不釣合なほどのんびりした口調で言った。
「ホシは二名ってことです。靴跡……スニーカーの跡が二種類、至るところで確認されましてね」
うらべ康太も柴田も加奈子も、他の男たちも申し合わせたように田辺を見てうなずいた。
「うらべさん」田辺はうらべ康太の前の椅子《いす》に座り、子供に話しかけるように彼の顔をのぞき込んだ。
「もう少し何か思い出していただけませんか。何でも結構なんです。たとえば今回のチャリティコンサートに関係したこととか、奥さんの知人関係とか……」
「さっきから思い出そうとしてるんだ」と、うらべはジャケットのボタン穴をいじくりまわしながら言った。
「でも、コンサートも何のトラブルもなく終わったし、由香利の知人友人関係もほとんど全部知っているが、皆、彼女とはうまくいっている。第一、僕と由香利は結婚してからほとんど一緒に行動してたしね。彼女を恨《うら》んでいる奴《やつ》なんてひとりもいないと僕が断言するよ。むろん僕個人もいれてね。それに銃を持ち歩くような連中とはつき合いは一切《いつさい》ない」
「奥さんを追い回していた男に記憶がありませんか」
「結婚前のことは知らんが、少なくとも僕と一緒になってからはなかった」
「ご結婚されて何年です」
「三年とちょっと。彼女が二十五の時に結婚したんだから」
「その間、いやがらせをされたことは」
「ない」
「いたずら電話や無言電話は」
「三、四度、マネージャーの柴田君が受けたことはあるが、どれも他愛のないものだった。僕や女房個人にあててかかってきたものではなかったし」
「こちらの別荘へはどのくらいの割合でいらしてましたか」
「けっこう頻繁《ひんぱん》に来ていたよ。月に一回は来ていた。しかも来ると必ず最低、一週間は滞在した」
「軽井沢での他のおつき合いは?」
「地元の人たちとのつきあいはしてなかった。サンシャイン・リゾートの住人たちとは買い物なんかで挨拶《あいさつ》する程度だったし」
「では……奥さんを襲った男にはこれという心当たりが……」
「ないと言ったらないんだ!」と、うらべは怒鳴《どな》り、頭を抱えて小刻みに震えた。
「これ以上、聞かれても困る。僕は何も知らないんだ!」
柴田があわてて立ち上がってホームバーのカウンターに行き、コニャックをグラスに注ごうとして動きをとめた。手が宙をさまよっている。
「先生」と、彼はうらべに向かって低い声で言った。
「ナポレオンが全部、盗まれてます」
うらべは顔に当てていた手を離した。
「強盗だよ」と、彼は力なく言った。「どうせなら由香利の代わりにこの別荘全部を持ってきゃよかったんだ」
田辺が手帳を取り出し、納得《なつとく》しかねる顔で「何本、盗まれてます」と聞いた。
「さあ、それは」と、柴田はボトルの置いてある棚《たな》を見回した。「とにかく何本かあったナポレオンが一本もありません」
「その他のものは」
「それは大丈夫のようです」
「ふむ」と、田辺は何やら手帳をめくって考えこんでいたが、ゆっくり顔を上げると重々しく言った。
「ホシは単なる物盗《ものと》りではなく、お宅の今夜のスケジュールをよく知っていた人間と考えていいようですな」
「と言うと」と、柴田がうらべの代わりに聞いた。
「ふつうの空き巣ねらいなら、金だけ取るか、さもなくば、金目のものすべてを手当たり次第に持っていくのがふつうです。短時間のうちに逃げ出す必要がありますからね。ところが今回の場合はどうもホシの動きに余裕がありすぎる。金を取り、ナポレオンだけを盗み出し、おまけに……」
「由香利を犯した」と、うらべが抑揚《よくよう》のない声で言った。田辺はそれを無視して続けた。
「ともかく、ホシはこの家が今夜は完全に留守宅《るすたく》だということ、あるいは奥さんが一人だけでいるということを知っていたんでしょう」
「そんな」と、加奈子が初めて口を開いた。とれたマスカラが目の下にこびりついている。
「そんなこと考えられない。だって姉が今日の夜、頭痛がするから一人で残ってるって決めたのは、皆が出かける直前なんだもの。私たち以外の誰にも、姉が一人でここにいるってことわかるわけがないわ」
「お姉さんがそう言い出したのは何時ころですか」
「確か六時ころよ。私がそれを一番先に聞いたんだから。姉はここ二日ばかり、風邪気味《かぜぎみ》だったの。アスピリン飲んで寝てろって、義兄《にい》さんと私もすすめたんです。あんなこと、すすめなきゃこんなふうに……」
加奈子はしゃくり上げた。田辺は目を伏せ、質問を続けた。
「皆さんでお出かけになられたのは」
「六時十五分ころです」柴田が答えた。「ホテルのレストランの予約は六時半からとっておいたんで。あわてて出たんです」
田辺警部補はうなずき、部屋の中をぐるぐると歩き回った。そしてサイドボードのところまで来て足を止め、腰をかがめて中をのぞき込んだ。
「この鍵付《かぎつき》ひき出しにいつも現金がしまわれているのを知っている人物は皆さんの他に誰かいますか」
「うちに出入りしている者以外は誰も知らんはずだ」と、うらべが言った。「その代わり、うちに出入りする奴《やつ》は僕が厳選している。タレントたちも含めて、信用できる人間ばかりだ」
「では、今夜、ここに現金が置いてあるのを知っていた人物は?」
うらべは渋面を作りながら、柴田や加奈子、そして自分の側近たちの二、三の名をあげた。
「今名前をあげられた方は全員が今夜、ホテルのレストランに行ったわけですね」
「そうだ。これ以外に今日のコンサートで入った現金のありかを知っている人間などおらんよ」
「なるほど」と、田辺はうなずいた。電話が鳴った。柴田が受話器を取り、田辺に渡した。
「そうか。すぐに照合しろ。応援を頼んでな」
田辺は受話器をおろすと頭のうしろをかきながら言った。
「奥さんの体内から摘出《てきしゆつ》された弾丸《たま》から、使われた銃の口径がわかりました。これまでに犯罪に使われた銃であるかどうか、照合中です。それから」と、彼はさりげなくつけ加えた。
「犯人の血液型はB型。少なくとも二人のうちの一人は……ということですが」
うらべがもう一度、顔をおおった。田辺警部補は、裏地のついたレインコートを腕にかけ、姿勢を直した。
「私はひとまず署へ戻ります。また何かわかったらご連絡します」
柴田が田辺に付き添って玄関へ歩いて行くと、加奈子が独《ひと》り言《ごと》のようにぽつんと言った。
「この家、いろんな人が来てたわよね。お姉ちゃんはぜいたくだったから焼きたてのパンを届けさせたり、しょっ中、植木を刈らせたり、ちょっと照明が気に入らなくなると電器屋さんを呼んだり……」
誰も加奈子の言うことを真剣に聞いていなかった。うらべ康太は深いため息をついて席を立ち、カウンターのスコッチをストレートであおった。
9
川村山荘の広々とした居間は暖炉と石油ストーブの火で、汗ばむほど暖かかった。二人の男が惜しげもなく薪《たきぎ》を炉にくべたので、三束分、置いてあった薪はもう半分に減ってしまっている。
尾木も犬山も革ジャンを脱ぎ、うらべ家から盗んで来た上等のナポレオンを飲んでは黙って煙草《たばこ》を吸い続けた。電気を消し、暖炉の光の中に浮かび上がる二人の姿は、そうしてみると山荘にバカンスを楽しみに来たただの若者のように見えた。
トキは身体の不調を訴えたため、手の縄をほどかれ、特別に長椅子《ながいす》に横になることを許された。彼女は血圧が低く、ふだんから疲れると必ず動悸《どうき》が激しくなる体質だった。
近所の医者に調合してもらった心臓に効く漢方薬を服用するとすぐ治ってしまうはずなのに、この夜の動悸は薬を飲んでもなかなかおさまらなかった。
あとの三人は、さっきと同じ姿勢で椅子にくくりつけられている。岸本老人だけが時々、睡魔に襲われてこっくりと船をこいだが、寝こんでしまうことはなかった。彼はぼんやりした意識の中で様々なことを考えていた。
どうやったら外部と連絡をとることができるか。どうやったらここから脱出できるか。外から電話がかかってくることは、もう期待できなかった。深夜二時。混み合っているシーズン中でも、ここの山荘に真夜中をすぎて電話がかかったことはない。一度だけ、もう五年近く前になるが、客の一人で川村出版の営業部員の母親が危篤《きとく》になった時、深夜、電話がかかってきたが、それ以前もそれ以後も夜は静かなものだった。客がいる時でも老夫婦は十二時前には必ず、床についてしまう習慣なので、夫婦あてに深夜かかってくる電話も皆無である。
電話が期待できないとなると、あとは何とか縄をほどかせ、トイレにでも行くふりをして一息に走り出してしまうか……だ。いったん外に出れば、夜の闇《やみ》にまぎれてしまうので彼らもなかなか追いかけてこないだろう。玄関前にとめてあるバンのキイは茶の間に置いてあるので運転は無理だ。しかし何とか通りまで出て、電話を探すか、さもなくば車を止めて事情を話すことはできる。そうすれば警察はすぐ来てくれるだろう。
だがしかし……と、彼は空しい気分で考えた。果たしてこの自分にそんなことができるのか。一息に走り出すといっても限度がある。二十歳の若者ではないのだ。異変に気づいたあの男たちは、すぐに追いかけて来て……そう、最悪の場合は殺されてしまうかもしれない。
老人はかたわらで苦しそうに眠っている妻をちらりと見た。寝息の不規則さが気にかかる。こんなに心臓を病んでいるのだったら、もっと早く大きな病院で見てもらうべきだった。あんな怪《あや》しげな漢方薬など、あてになるものか。昔から太ったことのない女なので、心臓だけは大丈夫だろうと本人も思いこんでいた。だがそれも、軽井沢のこの気候と空気のよさ、それにまったくストレスのない生活のおかげでどうにか小康状態を保っていられたにすぎないのかもしれない。
こんなショックはもっとも心臓に悪影響を及ぼす。一刻も早く何とかしてやらなくてはならないというのに……。
くそ……と、老人は暖炉の火の暖かさで眠りに吸いこまれそうになるのを必死になってこらえた。彼は年をとってしまったことが悲しかった。せめてあと二十歳、若かったら、縛られてしまう前にこのヤクザ連中を殴《なぐ》り倒すことだって出来たかもしれないのに。
頭はどうにか冴《さ》えていたが、からだが眠りを要求し、どうにも我慢ならなくなってきた。彼はいつのまにか、うつらうつらと重苦しい眠りの中へ入っていった。
美穂は少しでも眠っておいたほうがいい、と思いつつ、手首が痛くてなかなか眠れなかった。目をつぶっても、不安ばかりが先行して目の奥にまんだら模様の光の渦が浮かびあがる。じっとそうしているとかえって疲れ、恐怖にかられるので、彼女は目を開け、床の木目《もくめ》をなぞったり数えたりして気を紛らわした。
さっきの香川久からの電話で、令子がもう少し気を利かせてくれていたら、と思うと彼女は理不尽にも令子に腹がたった。何か伝えることができたはずだ。暗号めいたこと、ふだんの会話からは想像もつかないような喋《しやべ》り方、何でもいい。たとえば……そう、早口の英語で私たちはおどされている≠ニか何とか。ヘルプ・ミー……などという言い方だったら、すぐに悟られてしまうけど、それ以外だったら彼らにも聞きとれなかったに違いない。
でも、おどす≠ニいう単語は何て言うんだっけ……美穂は必死になって考えた。Tのつく単語だったと思うけど、違ったかしら。令子と共にもっと学生時代にしっかり英語を勉強しておけばよかった。
彼女はまた、令子が久ともっとしっとりした、甘い関係であってくれたら、とも思った。もしそうだったら、あの時、久はすぐに電話を切ろうとせず、ちょっとした令子の喋り方のトーンの違いに気づいて「何かあったの」くらい聞いてきたかもしれない。そういう質問に対してはこちら側は「YES・NO」で答えられるから、ひょっとして何かが通じていたかもしれないではないか。
だが、久はもとより妻にしっとりと話しかけるタイプの男ではなかった。たいていの電話は要件だけですませてしまう、とよく令子が愚痴を言っていたものだ。唯一《ゆいいつ》の助け舟だったあの電話くらい、久さんもデリケートになってくれたらよかったのに。
そんなことをとりとめもなく考えながら、美穂は時間をつぶした。
犬山はコニャックのびんを抱えながら、ロッキングチェアの中で目をつぶっている。尾木のほうは、暖炉を向いているので顔は見えなかったが、身動きひとつしない。あれほど絶え間なく吸っていた煙草のパッケージにもう手を伸ばさなくなったところを見ると、尾木も眠っているのかもしれなかった。
暖炉の中で火が赤々と燃えている。その火のゆらめきが四方の壁にシルエットとして映って、部屋中が巨大なスクリーンのように見えた。
「美穂」
令子が小声で彼女を呼んだ。美穂は二人の男の様子をうかがってから、そっと首を横に向け、令子を見た。
「寝たみたいね、あいつら」
「多分ね」
「いいことを考えたのよ。私の声、聞こえる?」
令子はひそひそ声というより、ため息に近いような声で話している。美穂はできるだけからだを傾け、令子に近づくようにした。令子はチラチラと男たちのほうに視線を走らせながら口を開いた。
「トイレに行くって言って縄をほどいてもらうのよ。からださえ自由になったらこっちのもんだわ」
「何をするのよ」
「美穂。頭を使って。女だってこと忘れちゃダメ」
美穂は目をむいた。ロッキングチェアが揺れる音がし、犬山が上半身をもぞもぞと動かしながらこちらを見た。二人は黙った。しかし、犬山は何も言わずに再び目を閉じた。
「こうなったら手段を選んでる暇はないわ」と令子がささやいた。
「あなた、まさか……」
「そうよ。やるのよ。どんなにいやでもやるのよ。あっちがそれに乗ってきたら、何とかしてピストルを奪うのよ」
美穂はまじまじと令子の顔を見た。
「本気なの?」
「本気よ。私、やってみる」
美穂が何かを言おうとして口を開きかけた時、尾木がいきなり二人のほうを振り向いた。二人はギョッとして押し黙った。彼は険しい表情をしながらも、もの静かに聞いた。
「何か用か」
「あ、あの……」と、令子は言いにくそうに言った。
「トイレに行きたくて。もう我慢できないの」
犬山は目をさまし、ワルサーを右手にたずさえた。
「トイレだとよ」尾木が面倒臭そうに言った。犬山はゆっくり上半身を起こすと、あくびをしながら令子を見た。
「しょうがねえな」
彼は面白そうに言った。
「手を縛ったまま、おしっこできるか」
「できるかもしれないわ。何なら見に来る?」
「ヒョーッ。おい、聞いたか」と、犬山は尾木と顔を見合わせた。令子はあごをそらせて口をへの字に曲げた。
「じゃあ、この俺がついてってやるよ。おもらししねえようにな」
犬山はロッキングチェアのはずみをつけて立ち上がり、「いてて」と足を引きずりながら令子のところに来た。令子がひきつったような笑みを浮かべて両手首を背中のほうで彼に差し出すと、犬山は手荒く縄をほどいた。彼女の両手は数時間ぶりに自由になった。彼女は手首をなでさすりながら立ち上がった。老人とトキが目をさまし、不安そうにうかがっている。犬山が急にニヤニヤと笑い始めた。
「さ、行くんだよ。便所でもどこでもついてってやるからな」
令子がちらっと美穂を見た。美穂はとても令子を正視することができなかった。いくら何でもやろうとすることが大胆すぎる。相手はこれまで令子が遊んできたようなタイプの男ではない。凶悪殺人犯なのだ!
だが令子は思いのほか、冷静な歩き方でドアに向かい始めた。犬山が今にもよだれをたらしそうな表情をしながら彼女のあとを追う。
扉《とびら》がしめられ、二人の足音が廊下のむこうに遠のくと、再び室内は静かになった。尾木が立ち上がり、渋面を作りながら煙草を吸い始めた。トキは乾いた咳《せき》をし、老人はため息をつくと二人とも再び目を閉じた。美穂は手のひらがじっとりと汗ばんでくるのを感じた。
尾木が着ていたシャツの袖をまくり、腕時計を見た。心ここにあらず、といった感じだ。何かを必死になって考えている。宙の一点を凝視してまばたきひとつしない。美穂は思いきって声をかけた。
「いつまでここにこうしている気なの」
尾木は美穂を見、苛々《いらいら》したように吸っていた煙草を暖炉の中に投げ捨てた。
「俺《おれ》のほうが知りたいね。こんなはずじゃなかったんだから」
「どうしてあの男の言いなりになってるの。一人でどっかへ行ってしまえばいいじゃない」
「できねえよ」
「何故《なぜ》?」
「何故でもだ」
「こんなことしてたって意味ないでしょ。私たち四人を誘拐《ゆうかい》して身代金をとるつもりなら別だけど。ただ縛って転がしておいて何の得があるの」
「さあな」と、尾木はけだるそうに言った。
「あんたに関係ないだろ」
「でも、私」と、美穂はしどろもどろに続けた。
「このまんまでいたらお互いのためによくないと思うけど」
「うるさいんだよ。今さらあんたなんかの説教を聞く気はねえよ」
「せめて」と、彼女は小声で言った。
「縄だけはほどいてほしいわ。何もしやしないんだから」
尾木の目が無表情に彼女に吸いよせられた。
「そのうち」と、彼は頭をぼりぼりかきながら気のない声で言った。
「そのうちほどいてやるさ。こっちだってションベンのたびにヒモをはずしたり、ゆわえたりさせられるのは真っ平だからな」
その時、廊下のむこうで叫び声がした。令子のわめきちらす声が続く。パシンパシンと頬《ほお》をたたきつけるような音。美穂はくくりつけられている椅子《いす》と共に思わず立ち上がろうとした。尾木があわててドアを開け、音のしたほうへ走り出した。
「何、何があったの。何なの」トキが片肘《かたひじ》をついて身体を支えながら起き上がりかけた。
「令子さんが……令子さんがどうかしたの」
美穂はそれに答えず、ドアのむこうの闇《やみ》を凝視していた。身体中から冷たい汗がふき出している。廊下でバタバタという足音がし、犬山に腕をねじり上げられながら令子が戻って来た。片方の頬が真っ赤に腫《は》れ上がり、おまけにミニスカートのチャックがはずれて半分、ずり落ちている。美穂もトキも岸本老人も、ものも言わず令子を見つめた。彼女は泣いてはいなかったが、その目は度し難い恐怖におびえて血走っていた。尾木が不思議そうにたずねた。
「いったいどうしたってんだ」
「このあま!」と、犬山は殺気だった口調で怒鳴《どな》った。
「色仕掛けで来やがった」
「色仕掛け?」
「便所の中で俺に抱きついて来たと思ったら、ハジキを取り上げようとしやがったんだ。大したあばずれだぜ。油断もスキもねえ」
「ふふっ」と、尾木は含み笑いをした。
「おまえもよほどなめられてるな」
「何だと」
「おまえがニタついて女の尻《しり》を追っかけて行くからそういうことになるんだ。ちっとは先のことも考えろ。ケリがついたら女なんていくらでも買えるだろう」
犬山は尾木の言うことを無視した。ワルサーをかまえ、令子のこめかみにつきつけた。
「このあばずれ! 今度やったらただじゃおかねえぞ」
令子は目をつぶり、歯をガチガチと鳴らした。美穂はできるだけ静かに言った。
「お願い。もうやめて」
犬山は銃を持つ指の力をゆるめると、乱暴に令子を突きとばした。令子はつまずき、床に四つん這《ば》いになった。はずみでミニスカートがずり落ち、下着があらわになった。
「令子! 大丈夫?」
美穂の声に令子は小刻みに震えながら顔を上げた。彼女は目に涙をうかべて首を左右に振ると途切れ途切れに言った。
「何だか、吐きそう」
そして彼女は同じ姿勢のまま、床に向かって少量の黄色い液体を吐きもどした。
10
明け方近かったが、N県警内は朝も夜もなくざわついていた。
軽井沢での婦女暴行事件は決して珍しくない。ことに若者たちが集まる夏場はピークで、時には悪質な内容のものもあった。また、殺人事件もないわけではなく、貸し別荘での刃物メッタ刺し事件など地元の人間の記憶に新しいものも少なからずある。
田辺警部補はそれらの凶悪犯罪をいくつか手掛けてきたが、今回の事件は中でも相当の難事件となりそうな予感がしていた。手掛かりになる物証は、被害者の体内から摘出された弾丸《たま》と二種類のスニーカーの跡だけ。指紋は玄関のドアノブに一種類だけ確認されたが、これも照合の結果、前科犯リストには載っていないものとわかった。
物盗《ものと》りと怨恨《えんこん》の両面から捜査が可能だったが、被害者の夫が芸能関係者であることが焦点を絞りにくくしていた。世間に顔を出す機会の多い有名人には、本人が関知しないところでも充分に恨《うら》まれたり、狙《ねら》われたりする可能性が大きいのである。
「別荘付近に車で来た形跡がないとなると……」と、田辺警部補は二箱目の煙草の封を切りながらつぶやいた。
「徒歩で逃走ってことになるな」
側にいた若い刑事が、顔を上げてちらりと田辺を見た。
「敷地の外の路上に停《と》めておいた車で逃走した線も考えられるが、少なくともそこまでは徒歩だ」
若い刑事は、今ここで何か余計なことを言うと田辺にどやされるか、さもなくば「自分でそう思うなら、さっさと調べ上げて来い!」と、尻《しり》を叩《たた》かれるかどっちかだと思い、黙っていた。田辺は今にもかみつきそうな表情で、ひとりぶつぶつと口を動かしながら、紙の上に鉛筆をすべらせ、わけのわからない模様を書いている。これは苛々《いらいら》した時、彼が必ずやる癖だった。
「ホシは被害者となんらかの形で面識があった。そう、あったんだ。面識がある奴《やつ》で、別荘に詳しいとなると……地元の野郎かもしれない……」
若い刑事はそっと席を立った。給湯器のところへ行き、出がらしのほうじ茶を入れながら近くにいた同僚に肩をすくめてみせた。
「始まったよ。張り切りナベさんのクソまじめ捜査が」
同僚はにやりと笑い、田辺のほうを見て「まったく、表彰もんだな」と、皮肉っぽく言った。
窓の外が白んできた。もうすぐ夜が明ける。
電話が鳴った。本庁からだった。田辺は身体中の血が騒ぎ始めるのを覚えた。彼はメモをとり、受話器を降ろすと警部に向かって、大声で言った。
「銃は四年前、東京の池袋で暴力団の発砲事件があった時、使われたものらしいですよ。その際の暴力団関係者を全部洗いましょう。やっと糸口がつかめてきたぞ」
11
長かった夜が明けた。カーテンのむこうで雀《すずめ》や野鳥がさえずっている。昨日にひき続き、今日もいい天気のようだった。
美穂は浅い眠りから覚め、身体中が自分のものではないかのようにしびれているのを感じて、もう少しで悲鳴をあげそうになった。腕と背中はコッていると言うのもおこがましいほどにカチカチに固くなり、首は曲げると小枝を折った時のような音がした。口の中がザラザラし、目がかすんでいて気分は最悪だった。
隣にいる令子を見ると、目の下に涙のあとを残してうつらうつらしている。化粧が無残にはげ落ち、きれいにカールされていたはずのセミロングヘアもバラバラで、おまけにつやを失っていた。
もうたくさん……と、美穂は思った。もう抵抗する気力もない。ものごとを考える余裕もない。この二人の男のやっていることは、あまりに馬鹿《ばか》げて常軌《じようき》を逸している。目的もないのにここに来て、人質をとった誘拐犯《ゆうかいはん》気取りでいるなんて、いったい何を考えているのか見当もつかない。
今日は月曜日。午後から出社の約束になっている。オフィスの人たちはどう思うだろう。ただし、どう思おうが彼らが想像することは今の場合、多分何の役にも立たない。もし、私の無断欠勤の理由を軽井沢でうらべ康太の妻を射殺した犯人に縛りつけられているからだ≠ニ推理できる人がいたら、その人はあんなチャチな会計事務所になど勤めていられっこない。ずっと以前に優秀な推理作家か、さもなくば予言師に転職していたことだろう。
彼女は小さく唸《うな》って身体を揺すった。犬山と尾木が血走った目で彼女を見た。
「何だ」
犬山が相変わらず凶暴な声で聞いた。美穂は顔をゆがめながら言った。
「痛くて死にそうよ。いい加減にほどいて下さい」
「こっちも足が痛くて死にそうだ。おあいこだよ。ほどいてほしかったら、飯を作れ。腹が減った。熱いコーヒーもだ」
「作るわ。何でも作るわよ。だからもう、ほどいて。お願い」
言っているうちに美穂の目に涙があふれてきた。情けなかった。自分がみじめで何もできない女のような気がして、ともかく悲しかったのだ。学生時代、恋人が別の女と事故死した時だってこれほど情けなくはなかった。あの時は少なくとも身体の自由がきき、おまけにすべてをいやしてくれる時間の流れが強力な味方としてついていてくれた。だが今は違う。身体は不自由、そして苦痛をいやしてくれる時間の流れなど、どこにもない。あるのは目の前にいる頭のおかしい二人組が下してくる予想のつかない命令だけだ。
尾木に縄を解かれると、彼女は胎児《たいじ》のように手足を丸め、自分の身体を抱くようにして身をかがめた。肩から背中にかけて血がものすごい勢いで回り始め、全身の関節は針を刺されたように痛んだ。
令子の縄も岸本老人の縄も解かれた。二人とも昨夜までの反抗的な態度が嘘《うそ》のように消え、半ば諦《あきら》めかけているようにじっとしている。トキは相変わらず苦しそうだった。平らな板のような胸が、不規則に大きく上下し、助けを求めるように二つの目は居合わせた人々のほうへ向けられていた。
「薬はもうないのか」
老人が空になった漢方薬の瓶《びん》を見てトキに聞いた。トキは力なく老人を見上げてうなずいた。
「全部、飲んでしまったの。買いおきもないはずです」
「苦しいか」
「少し」
「何か食べたほうがいい」
「何も、食べたくなくって」
「じゃあ熱いお茶でも……」
「ガタガタ喋《しやべ》ってんじゃねえよ!」と、犬山が怒鳴った。
「早く誰か飯を作れ!」
美穂はゆっくり立ち上がった。腰から上がつっかえ棒を当てがわれているみたいだった。
「キッチンへ行かせて。私がやるから」
犬山があごをしゃくった。尾木がついて来た。美穂は尾木を振り返ってにらみつけた。
「つきそいは結構よ」
「そういうわけにはいかねえんだよ」と、尾木がふてくされたように言った。美穂は抵抗するのを諦め、そのままキッチンへ歩き出した。
広々とした山荘の台所は、勝手がわからず、美穂はあちこちの戸棚《とだな》を開け閉めしてパンや食器、それにコーヒーの缶などをさがさねばならなかった。冷凍庫の中には調理済みの食料が冷凍されてひしめいていたが、それらを電子レンジに入れて解凍し、調理する気力は彼女になかった。
彼女はロールパンを一盛り、カゴに入れ、大きなフライパンに油をひいて卵をいくつも割り落とした。目玉焼が焼ける間、湯をわかし、インスタントコーヒーを各々のカップにスプーンですくって入れた。そしてふと思い出し、トキのために牛乳を暖めた。牛乳には鎮静作用があることを知っていたからだ。
彼女のそうした一連の動作を見ながら、尾木はキッチンの丸椅子《まるいす》に腰かけて煙草を吸い出した。
「うまそうだな。そこのソーセージも焼いたらどうだ」
美穂は答えなかった。焼き上がった目玉焼を皿に一つずつ入れ、昨夜の残りものらしいフライドポテトを冷えたまま添えた。
「あんた、幾つだ」
彼女は菜箸《ばし》を置きながら尾木を振り返った。
「二十五」
「へえ、俺の一つ下か」
湯がわいた。大きなやかんはヒューヒューと湯気を吹き出している。美穂は一瞬、想像の中で、この熱湯を尾木にかぶせ、ひるんだすきに外に飛び出そうかと考えた。だが昨夜、縛られっ放しだった腕と肩が痛くて、どう考えてもやかんごと男の頭に放り投げるまねなど出来そうになかった。それにそんなことをして万が一、犬山が腹いせに令子たちに乱暴でもしたらと思うとこわかった。
彼女は諦め、痛みをこらえて湯の入ったやかんをやっとの思いでコーヒーカップの上に傾けた。コーヒーのいい香りが漂った。彼女はひと息つくと言った。
「二十六にもなって、ずい分、くだらないことをしてるのね」
「くだるかくだらないかは、あんたの知ったこっちゃないよ。ぜいたくして生きてけるお嬢さんたちとはわけが違うんだ」
「どうせいつかつかまるに決まってるのに。馬鹿なことをしたもんね」
尾木は黙って彼女を見た。無表情な疲れたような目だった。美穂は聞いた。
「あなた、何者なの。チンピラヤクザ?」
「何故《なぜ》、そんなことを聞く」
「知りたいからよ。どうしてあんな凶暴な友達と組んでこんなところで人質ごっこをしてるのか。こういうこと、好きなの? 商売にしてるの?」
「ゆうべっからいろんなことを聞いてくる女だな」
「暖炉の前にいる暴れ者と比べたら、あなたは話がわかる人のような気がするの。だから聞いてるのよ」
「ふん」と、尾木は鼻を鳴らし、唇の片方を上げると上目づかいに彼女を見た。
「俺を丸めこもうったって、そう簡単にはいかねえよ」
「丸めこむ? そんなつもりはな……」
「いいから、くだらん質問をしてないでさっさと運べよ。もうできたんだろ」
美穂はため息をつき、コーヒーとコーヒーカップ、皿、ロールパン、それに暖めた牛乳を手押しワゴンの上に乗せた。食器棚《しよつきだな》からシュガーポットを取ろうとして手をのばした時、ワゴンからフォークが一本、音をたてて落ちた。彼女は痛む背中を押さえながら、拾おうとして中腰になった。
山荘中に玄関ブザーの音がとどろいたのとそれとは、ほぼ同時だった。尾木が反射的に立ち上がり、美穂の腕をねじ上げて乱暴に口を手で押さえつけた。
「静かにしろ」
美穂は激しく首を横に振った。
「居間に戻れ。早くするんだ」
尾木はそのままの姿勢で、彼女を引きずるようにキッチンを出た。
居間では犬山がトキを抱きかかえ、その後頭部にピストルを当てていた。トキの顔は蒼白《そうはく》で、その目はどこも見ていなかった。犬山が聞きとれないほど低い声で尾木に言った。
「じじいに出させるんだ。表にサツが来ている」
「サツが? 何だってまた……」
「知るもんか。おい、じじい。いいな。余計なこと喋《しやべ》ったらばあさんの葬式が出るぜ」
岸本老人はしわの寄ったメロンのような青い顔をして、ぶるぶる震えながらうなずいた。尾木が居間の扉《とびら》を開けた。玄関ブザーが再び鳴った。犬山に促《うなが》されて、老人はおぼつかない足取りで廊下に出た。犬山がトキの口を押さえ、廊下の壁にぴったりと背をつける。美穂と令子は尾木の両腕に抱えこまれ、首を押さえつけられた。
「何も喋るな」と、尾木は二人の女に言った。彼の心臓の激しい鼓動が、抱きすくめられた美穂の耳に入ってくる。
ブザーが二度、三度続けて鳴ったと思うと、同時に玄関のドアが激しくノックされた。老人が「はい」と、頼りなげな声を出してドアチェーンをはずす音がした。
「早朝から申し訳ありません。K署の者ですが」
警官の声は信じがたいほど大きく、居間にいる美穂たちの耳にもはっきり聞きとれた。
「実は昨夜、サンシャイン・リゾート内で殺人事件が発生しまして。川村山荘の管理人の方ですか」
老人が何を言ったかは聞こえない。おそらく、うなずいただけなのだろう。
「何か昨夜から今朝にかけて、変わった点、気づかれた点はありませんか。不審な車を目撃されたとか、妙な噂《うわさ》を聞いたとか……」
「別に」
「そうですか。ええと、犯人は二人組。二人ともスニーカーをはいてます。現在、逃走中でしてね、何でも気づかれたことがありましたら是非、ご一報下さい」
「わかりました」
「それから、失礼ですが今、山荘は営業中ですか」
「はい」
「ですと、昨夜のお客さんは何人?」
老人はひと呼吸おいて答えた。
「二名です」
「お客さんにもお伝え下さい。不審なことに気づいたらすぐ警察にご協力していただきたい……とね。いやあ、今日もいい天気だ。今週末あたりは紅葉も見頃《みごろ》で、また賑《にぎ》やかになりそうですなあ。それじゃ、これで」
「ご苦労様でした」
ドアが閉じられ、まもなくエンジンをかける音がした。犬山はトキに押しつけたピストルを降ろし、口から手を離した。老人が戻って来た。犬山は老人の肩をつついて面白そうに言った。
「じいさん、なかなかやるじゃないか。見直したぜ」
老人は聞いていなかった。彼は咳《せ》き込んでいる老妻を抱きかかえながら、この数十年間、一度も感じたことのない怒りと憎しみが噴水のように湧《わ》きおこってくるのをじっとこらえていた。
12
「いやねえ、こんな高級別荘地で殺人事件だなんて」
「ここにパトカーが入って来たなんて、前代未聞なのよ。一度もこんなことなかったんだから」
サンシャイン・リゾート内『花田電器店』の店先で、二人の女が喋っている。店は開けたばかりで、セール用のビデオカセットが山積みされたワゴンを外に出すのに、花田澄江は「よいしょ」と掛け声をかけた。
東京に嫁いだ五歳年上の姉が信州《しんしゆう》の実家に里帰りしたついでに立ち寄ってくれたその夜、目と鼻の先で暴行殺人事件があったわけだから、姉妹はずっと事件の話をして飽《あ》きることがなかった。おかげで姉の連れて来た四歳になる末の男の子は母や叔母にかまってもらえず、不機嫌きわまりない顔であたりをうろうろしていた。
「私、あとでそのうらべさんの家のあたりまで行ってみようかしら」
「姉さんも好きね。でもきっと無理よ。警察以外の人間は近づけないわよ」
「でもねえ、気の毒にねえ。何がおこるかわかったもんじゃないわねえ」
奥の間から店主の花田がむっつりした顔で出て来た。「行ってくるからな」と、彼は誰に言うともなく言った。
「義姉《ねえ》さんはゆっくりしてって下さい。僕は商店会の会合で午後までは戻りませんから」
「ご苦労様。でも私も昼過ぎの列車に乗らないと。きっと家中、ゴミの山になってるでしょうからね」
花田は微笑し、おいの頭をなでると澄江には目もくれず店を出て行った。その後ろ姿を見ながら姉は心配そうに言った。
「ちょっと、あんた。いったいあんたたち夫婦、どうなっちゃってるの。まるで冷戦状態じゃない。昨日は事件のことで興奮しててあまり気づかなかったけどさ」
「別に」と、澄江は不機嫌そうに言った。
「よくあることよ」
「よくあることって……いったい何があったの」
澄江はパトカーが一台、坂の上の方へ上って行くのをうわの空で眺めたあと、姉を振り返って言った。
「小さな事件があったのよ。ま、上へあがってお茶でも飲まない?」
姉は子供の手を引っぱると、澄江のあとをついて店続きの和室に上がった。澄江は電気|炬燵《ごたつ》のスイッチを入れ、子供にマンガのついたビスケットの箱を渡すと、姉に向かって声をひそめた。
「誰にも言わないでよ、姉さん。父さんたちにも言わないって約束して」
「何なのよ。そりゃ、言うなってことは言わないけど……」
「私ね」と、澄江は栗《くり》色に染めた髪のカールを指でいじり回しながらもじもじした。
「実は浮気しちゃったのよ」
姉は目を丸く見開いた。興味津々《きようみしんしん》といった様子である。澄江は続けた。
「絶対、バレないと思ってたんだけど、つまらないことからバレちゃって。夜、店の奥でキスしてたとこ、うちの人に偶然見られちゃったのよ。その時はうまくごまかしておいたんだけど」
「ちょ、ちょっと待って。いったい、その相手ってのはどこの誰《だれ》なの」
「姉さんの知らない男よ。ここにアルバイトに来てた人」
「じゃ、学生なの?」
「ううん、違う。実を言うと彼が何なのか、私もうちの人もよく知らないのよ。前にバイトに来てくれてた東京の女子大生の紹介だったの。よく働いてくれてね。若いし、力仕事も向いてるし、うちの人もけっこう気に入ってたのよ」
「へえ。あんたがねえ。驚いた」
「何が? 私、浮気しそうになかった?」
「うーん、よくわかんないけどさ。度胸があるわねえ」
「なんか自然にそうなっちゃったのよ。けっこうカッコいい男だったんだ」
「だった……って、もう、いないの?」
「当り前じゃない」と、澄江は吸っていた煙草のけむりを両方の鼻の穴から吹き出しながら言った。
「キスを目撃された次の日にね、彼の北軽《きたかる》のアパートに行ったんだけど、うちの人、突然、怒鳴《どな》りこんで来たのよ。私はひっぱたかれるし、彼はその日のうちにクビ。ついこの間の話よ。五日位前。今、どこでどうしてんのか、全然、知らないわ」
「かわいそうにねえ、花田さんも。あんたも火遊びはいい加減にしとかないと、そのうち追い出されるわよ」
「火遊びなんかじゃなかったのよ、姉さん。背は高いし、乱暴な言葉使いをするとこなんか、ちょっとヤクザっぽくて惚《ほ》れ惚《ぼ》れ……」
「馬鹿おっしゃい」と、姉はぴしゃりと言った。
「あんたはカッコだけ派手で、ちっとも経験なんてありゃしないんだから。身元の不確かな男だったんでしょ。危ない、危ない。蔭《かげ》で何してるか、わかったもんじゃないわ。そういうのに限って、詐欺《さぎ》とかゆすりたかりとか、平気でやっちゃうのよ」
「とてもそうは見えなかったわよ。もっとも自分のことは話したがらなかったけど」
「そら、ごらんなさい」
姉は勝ち誇ったように言った。
「花田さんが追い出してくれてよかったのよ。こんな物騒な世の中だもの。人の紹介だからって安心してアルバイトの人間なんか雇わないほうがいいって。ましてそんな男と火遊びするなんて。あんたらしくもない」
澄江は、ぼんやりしながら犬山のことを考えていた。まだあのアパートにいるのだろうか。その月の給料も支払わずに追い出してしまったのだから金に困っているに違いない。アパートには三度位、行ったが、めぼしい家具もなく汚れ放題に汚れていた。夫の目を盗んでの情事だったから、いつも二時間ほどしかそこにはいられなかったが、さすがに澄江も犬山が何者なのか、不審に思った。本人は高校を出て、デザイン関係の専門学校に行ったと言っていたけれど、それも怪《あや》しいものだった。部屋にはデザインに関する書物など一冊もなく、あるのはポルノ雑誌と古い競馬新聞の山だけ。
それに澄江に話す彼自身のことは、その時その時でクルクル変わった。二人兄弟の末っ子と言っていたのが、次の日には三人兄弟の次男坊……となり、父親が田舎《いなか》で公務員をやっているはずなのに、それが突然、寺の住職に変わったりする。
澄江は別に犬山と本気でつき合う気はなかった。だから嘘《うそ》で塗り固めた関係もまた、面白いと思い、彼のいい加減さは気にならなかったが、それにしても犬山の素姓《すじよう》の悪さだけははっきりわかるような気がしていた。
ベッドの中での扱い方は乱暴そのものだった。それは性的にそうした傾向があるというよりも、むしろ彼の一種の幼児性、社会的コンプレックスの表われであるように見えた。だからこそ澄江は犬山を可愛《かわい》いと思い、夫にはない新鮮な魅力を感じたのだが、よく考えれば、姉の言う通りだったかもしれない。
夫に見つかって、かえってよかったのだ。あのまま続けていたら、得体の知れない世界に引きずり込まれていっていたかもしれない。
「その男、クビにさせられて恨《うら》んでやしないんでしょうね」
姉が小指を立てながら、急須《きゆうす》の茶を注《つ》いだ。
「どういうこと?」
「ほら、よくいるじゃないの。自業自得《じごうじとく》なのに恨んで放火したりなんかする人間って」
「いやだ。そんなことあるわけないでしょ。申し訳なさそうに辞めてったもの」
「どうだか。そういう連中って自分がしでかした罪を罪だと思わないんだから。案外、復讐《ふくしゆう》のツメを研《と》いでるのかもよ」
姉は冗談めかしてそう言い、豪快に音をたてて茶をすすった。子供がビスケットの箱に飽《あ》きて、持って来たプラスチック製のおもちゃのピストルを取り出し、一人で「パン、パン」と言いながら走り回っている。姉はそれを見守りながら言った。
「こわい世の中よ。ほんとに。あんた知ってる? こないだうちの近所でもね、強姦《ごうかん》されそうになって怪我《けが》した娘さんがいるのよ。新聞にも小さく載ったんだけどさ、犯人は近くの雑貨屋の店員だったのよ。私もその店員、知ってるんだけど、ふだんからちょっと突っ張った感じでヤクザっぽかったわ。なんでもその男、昔、これもんだったらしいの」と、彼女は頬《ほお》に人差指で傷をつけてみせた。澄江は眉《まゆ》をひそめてうなずいた。
「パン、パン。おばちゃん、パン、パン」
子供が面白そうに澄江の背中におもちゃのピストルをつきつけてきた。澄江はそれに対して答えなかった。彼女は思い出そうとしていた。自分が何を思い出そうとしているのかわからないままに、必死で記憶に神経を集中していた。
このやりきれない不安は何なのだろう。全身の細胞がざわざわと動いている。何かを思い出したいと思っているのに、それが何なのかわからない。
「おばちゃん。ピストルだよ。パン、パン」
子供が澄江の膝《ひざ》の上に乗ってきた。淡いブルーのおもちゃのピストル。
ピストル……。
「そうだ」と、彼女は声を出した。姉が驚いて彼女を見た。
澄江は思い出していた。二度目に犬山のアパートに行った時のことである。栓抜《せんぬ》きをさがそうとして戸棚《とだな》の引き出しを開けると、黒い光沢の重そうな拳銃《けんじゆう》が無造作《むぞうさ》に入れてあるのを見つけた。犬山に問いただすと「おもちゃだよ。よくできてるだろ」と、答えていたっけ。あの時、感じた説明のできない不安感は、今でも覚えている。見てはいけない闇《やみ》の世界を見てしまったようなあの気分。
「どうしたのよ」
姉が聞いた。澄江は笑って「何でもない」とごまかした。こんな話は今、姉に話すべきではない。
店に客が来た。澄江は不安を振り払うように急いで立ち上がり、サンダルをはいて店先に出た。
13
警視庁に設置された「うらべ由香利殺人事件合同捜査本部」の取調室に、一人の男が座っていてしきりと頭をかいている。男はカーキ色のジャケットに白っぽい綿のパンツをはき、腕時計をはずして目の前に置いていた。
「勘弁して下さいよ、刑事さん」と、彼は言った。
「あと三十分で俺、店に戻らないとおやじさんにぶっとばされちまいますよ」
「悪いな。簡単な質問ばかりだからすぐすむよ」
「ここまで俺を引っぱり出してくるようなことなんですか。まったく、弱っちゃうな。俺、とうの昔に悪い仲間からは足を洗ったんですよ。今は堅気《かたぎ》にもどってパン屋で修業中なんですからね」
「おまえを責めるような話じゃないんだ。ただ、おまえ自身の過去の話なんでね、店の人間に聞かれたくないだろうと思って呼び出したんだよ。まあ、聞け」と、刑事は男と反対側の椅子《いす》に腰をおろした。
「うらべ康太の女房が射殺された事件は知ってるな」
「ええ、今朝、新聞で読みましたけど」
「その女房の身体にぶち込まれた弾丸がな、昔、おまえのいた戸塚組の抗争中、発砲された弾丸と同じだったんだ。覚えてるだろ、あの池袋での……」
「覚えてますけど、俺はあの事件とは関係ないですよ。何しろ俺は組員といっても下《した》っ端《ぱ》中の下っ端だったんだから」
「わかっている。我々が知りたいのはそんなことじゃないんだ。あの時、使用された銃は今、どこに誰の手元にあるかってことなんだよ」
「そんなこと」と、男は困ったように笑った。
「俺にわかるわけないでしょ。ハジキなんて組員の間だけじゃなく、関係者の間にも往き来しますからね。あの時のハジキが今、誰のところにあるかなんて、そんなこと……」
「だが、何か心当たりがあるだろう。誰かから間接的に聞いたとか何とか……」
「さあねえ。四年前の話ですよ。あの池袋の話は。何も覚えてないですよ」
「おまえと仲が良かった連中で、あの事件のあと、新しく銃を手に入れたという話をしていた奴《やつ》はいないか」
「弱ったなあ。ほんと、何も知らないんですよ。幹部連中を探ったほうが早いんじゃないですか。少なくとも俺なんかより何かを知ってるかもしれないし」
「そうか。おまえなら何か知ってると思ったんだがな」
刑事は無念そうに言い、立ち上がった。
「わざわざすまなかった。帰っていいよ」
「お役に立てませんで申し訳ない。じゃ、俺、店に戻りますから」
男は腕時計をはめながら聞いた。
「ところでその殺人事件、どこでおこったんでしたっけ」
「軽井沢だよ。サンシャイン・リゾートって名の俺たちには縁のない高級別荘地さ」
「へえ、軽井沢ねえ。いいですねえ」
男はニヤニヤ笑いながら歩き出し、ドアのノブに手をかけてふと立ち止まった。刑事の一人が不思議そうに男を見た。
「軽井沢っていえば」と、男は振り返った。
「何だ」
「いやね、ずっと以前、戸塚組とちょこっと関係のあった俺のダチが軽井沢に行ってるはずなんだけど。関係ないか」
刑事たちは顔を見合わせた。
「そいつは何のために軽井沢に行った?」
「さあね。条件のいい働き口が見つかったとか何とか言ってましたけどね。チャラチャラしたバイトか何かじゃないんですか。何の仕事かは知らないですよ。ダチといっても、それほど親しかったわけじゃなかったからね」
「それはいつだ。その男が軽井沢に行ったのは」
刑事の一人がメモを乱暴にめくって鉛筆を走らせながら聞いた。
「いつだったかなあ。半年位前かな」
「名前は?」
「ケン坊、ケン訪って俺、呼んでたからな。名前なんてちゃんと覚えてないな。犬≠チて字が苗字についてたのは確かだけど。だからケン坊≠ノなって……」
「若いのか」
「二十五、六くらいかな」
「他《ほか》にその男について知っていることはないか」
「さあねえ、親しかったわけじゃないから何も知らないな。ねえ、刑事さん、奴《やつ》が怪《あや》しいんですか」
「わからん。調べてみなくては」
「まあ、いいけど」と、男は言った。
「昔の仲間は死のうが生きようが、関係ないですよ。じゃ、俺は行きます」
男が出て行くと刑事の一人があわただしい口調で言った。
「県警本部に至急、連絡だ。軽井沢で最近、仕事を始めた二十五、六の男で、犬という字のつく奴を洗わせろ!」
14
犬山は指を折った足のことをひどく気にし始めていた。折れた薬指と小指は汚れた靴下の中でパンパンに丸く腫《は》れ上がり、床に触れただけで飛び上がるほど痛んだ。
もう、いくら痛み止めの薬を飲んでも効きそうにない。このまま放っておいたら、生涯、歩けなくなるような気もした。
彼は美穂の作った朝食を食べ終えると、四人に聞こえないよう小声で尾木に言った。
「ずらかるか。痛くてたまんねえ」
「痛いからずらかる気になったのかよ。へん。いい気なもんだぜ。勝手放題しやがって。こいつらをどうするつもりなんだ」
「連れて行く」
「何だって!?」と、尾木は目をむき、そのあと馬鹿にしたように笑い出した。
「おまえ、頭までイカレちまったのか。サラ金に追われた家族じゃあるまいし。ゾロゾロと引き連れてって何しようってんだよ」
犬山は憮然《ぶぜん》とした顔で尾木をにらみつけた。
「じゃあ、片付けるか」
「馬鹿言え。俺はおりるぜ。これ以上、つき合いきれねえ。おまえの尻拭《しりぬぐ》いは真《ま》っ平《ぴら》だ」
尾木は食べ残したロールパンのかけらを小さくちぎり、腹立ちまぎれに床に投げつけた。外は明るいが、ぶ厚いカーテンを閉めきっているので室内は巨大な納戸《なんど》のように薄暗い。おまけに空気はどんよりと濁っていた。
トキはやっとの思いで暖かい牛乳をカップに半分だけ飲むと、肩で息をしながら横になってしまった。老人が片時も離れずにそのそばにつき、二人の女は不安そうに遠くから犬山たちの動きを見つめている。
犬山がその不幸な人質たちを一瞥《いちべつ》し、尾木に哀願するように言った。
「今さらおりるなんて言わないでくれよ。俺一人じゃどうにもなんねえ。サツも動き回ってるようだし」
「当たり前だ」と、尾木は吐き捨てるように言った。
「今ごろグチったって遅いんだよ。人を殺せばサツはやっきになって動き回るさ」
「どうすりゃいいんだ、俺たち」
明らかに主客転倒しているようだった。尾木は憎々しげに相棒の顔を見た。相棒は汚れ、疲れ果て、不安にさいなまれている死にかけた野良犬《のらいぬ》のように見えた。今朝までのあの異常な高ぶりが嘘《うそ》のようだ。『サツが来たせいだな』と、尾木は内心、思い、この小心でドジな小悪党を引きずって逃亡しなければならなくなった自分の運命を呪《のろ》った。
「金はある。ともかく逃げるしかないだろ」
「どうやって逃げる」
「歩いてくってのか? その足で。車だよ。車。この山荘の車を借りて、どっかで乗り捨てりゃいい。あとはその時、考えるさ」
「こいつらはどうするんだ」
「てめえで考えろ。おまえがしょい込んだお荷物なんだ。俺は知らん」
尾木は立ち上がり、時計を見た。十一時。これから出発してどこへ行こうか。中央高速で東京方面に行くか。それとも裏日本のほうへ抜けるか。
目立たない町があったら、人目につかない場所に車を隠し、そこから列車を乗り継ぐ。いや、伊丹《いたみ》まで出て北海道行きの飛行機に乗ってしまってもいい。そして安全な場所に着いたら犬山とは別れるのだ。一緒に行動してたってロクなことはない。金は山分け。それを持ってまた東京へ帰ろう。そうするのが一番いい。
「おい、じいさん」と、尾木は岸本老人に呼びかけた。
「車を借りるぜ。キイはどこだ」
老人はうつろな、しかし憎しみが鈍く光る目を尾木に向け、廊下の向こうを指さしながら言った。
「むこうの茶の間だ。鍵束《かぎたば》が壁にかかってる。青いリボンのついたやつだ」
尾木が居間を出て行こうとすると、その後ろ姿に向かって老人は付け加えた。
「うちの車には今、ガソリンが少ししか入ってないよ」
「かまわねえ。近くでガソリンくらい入れるから」
「だが、あんたらが二人でうちの車に乗っているところをスタンドの人間に見られるよ」
尾木は振り返った。犬山がぎらぎらと濡《ぬ》れた目で尾木と老人の両方を見比べた。老人は抑揚《よくよう》のない声で続けた。
「このへんのスタンドの人間はたいていうちの車を知ってるから。二人で乗ってたら怪《あや》しまれるな」
「何が言いたいんだ、このくそじじい!」
犬山がわめきちらしたが、尾木は「まあ、いい」とそれを制した。
「今どのくらいガソリンが残ってる」
「さあ。ほとんどないと思う。あまり出かけないんでね。必要なかったんだ。遠くまでは行けないよ」
「本当か」
「本当さ。こんなこと嘘《うそ》言って何になるんだい。逃げるんだったらちゃんと逃がしてやろうと思って教えてやったんだ」
尾木はうなずいた。老人に他意はなさそうだった。少なくともその時はそう思えた。
「……というわけだ。仕方ねえ。俺がまず、ひとっ走りして近くでガソリンを入れてくる。十分もかからねえさ。満タンにして戻るからそのあと、おまえをここで拾って行くことにしよう」
「俺たち指名手配されてるわけじゃねえんだ。二人で乗っかってもわかるわけねえよ」
犬山がふてくされたように言った。尾木は冷たく言い放った。
「どうして手配されてないってわかる。少なくともおまえの顔は、とっくの昔に手配されてるかもしれないんだぜ。おまえが不用意にぶち込んだあの弾丸《たま》が原因でな。どうせ昔、ヤバイことに使ったハジキなんだろうが」
犬山は口をつぐんだ。尾木は腹立たしげに居間のドアを開けて出て行った。しばらくするとポーチのほうでエンジンをかける音がした。タイヤが小石をはね、車の音はすぐに遠ざかった。
静寂が戻った。全員が……トキですら……身動きひとつしないで犬山を見ていた。暖炉の火が消えかかり、白い灰ばかりになっている。犬山は落ち着かない様子で足をひきずりながら立ち上がり、その灰に向かって唾《つば》を吐いた。白い煙がかすかに立ちのぼった。
ワルサーは今は暖炉の上の狭いへりに置かれてある。犬山が一時も銃への注意を怠らないようにしているのは相変わらず同じだった。尾木がちょっと留守《るす》にしている今、足を痛めた彼にとっては銃は唯一の頼りがいのある相棒だった。彼は時折、ワルサーの位置を確かめ、視野の中に入る四人の人質たちが妙な動きをしないかどうか神経をピリピリさせた。
「喉《のど》がかわいたな」
犬山が大声で言った。口の中がかわいていたのは確かだが、それを喉がかわいたと言っていいのかどうか、彼にはわからなかった。ただ、何かを怒鳴《どな》っていたかった。怒鳴っていないと、死に神のように視線を向けてくる四人の目が彼の全身にまとわりついてきて耐えられなかったのだ。
「喉がかわいたって言ってるんだよ!」
彼はもう一度、怒鳴った。美穂と令子は目をそらし、トキはふるえ上がった。
「誰か飲み物を持って来い。今すぐだ」
おもむろに暖炉の上からワルサーを持ち上げた犬山に向かって、老人が静かに言った。
「コーラですか。それともジュース」
「ちっ」と、彼は歯の間から音を出した。
「そんな甘っちろいもんが飲めるかよ。ビールだ。冷えてるやつだぞ」
「持って来ます」
老人はゆっくり立ち上がろうとした。彼はその時、すばやく自分を縛っていた麻縄《あさなわ》を丸めて、ブカブカのズボンのポケットにつっこんだ。ちょうどトキが横になっているソファーのうしろでその作業が行なわれたので、犬山からは何も見えなかった。老人が腰をかがめて背筋の痛みをこらえているようにしか見えなかったに違いない。
老人はそのまま立ち上がり、何も考えずに牛車を引く老いた牛のような表情でのろのろと歩き出した。誰の目にもそれは、無抵抗な、白旗を上げたあとのあきらめきった人間の姿としか映らなかった。
「あんた」と、トキが言った。
「すぐ戻って下さいね」
老人は足を止め、妻を振り返った。そして「むろんだ」とでも言うように深くうなずいた。それがこの老夫婦の最後の会話になろうとは、犬山にも予測がつかなかった。犬山は数十分後には尾木と車で逃走するつもりだったし、岸本トキは数十分後には少なくともこの悪党どもから解放してもらえるつもりでいた。たとえ、がんじがらめに縛りつけられた形の解放であっても、それはそれでよかった。もうおびえずにすむのだ。縄など四人で力を合わせれば何とかなる。たとえ丸一昼夜、縄と格闘しなければならなくなったとしても、それが何だろう。今までのこの恐怖に比べたら、運動会のゲームみたいなものだ。
ただ、老人だけはそう考えていなかった。老人は黙って二人を逃がしてやる気など毛頭なかった。これほど手ひどい仕打ちを受けて、あげくに車まで逃亡用に奪われ、空気の淀《よど》んだ居間にしばらくの間縛りつけられているなど真っ平だった。
確かに彼も今朝までは二人組をおそれていた。本物のピストルを見たのは、軍隊にいた時を除けば初めてだったし、そのピストルがあの有名なうらべ康太の妻を殺したものだと思うと歯の根が合わなくなるほど恐ろしかった。
だが、今朝、心臓の具合が悪い妻の頭に銃口がつきつけられているのを見てから、考えが変わった。これほどまでに人を憎んだのは初めてだった。彼は片腕か片足を一本、失っても、危険に挑《いど》んで二人組を警察に突き出そうと決心したのだ。
いつも使っている灰色のバンにガソリンが残り少なくなっているのは本当だった。だがあとのことは賭《か》けだった。尾木がそれでも犬山を乗せて出発すると言いはったら、とる手段はなくなっていた。ともかく二人を一度に相手にすることは、どう考えても不可能である。どちらか一人、それも足を痛めている犬山のほうを相手にしたほうが勝ち目がある。いくら年をとったとはいえ、老人はまだ腕力に自信を失っていなかった。少なくとも都会の隠居老人よりは日々の労働の中で鍛えてある。やってみれば何とかなるかもしれない。
うまい具合にひとりがガソリン・スタンドへ行ってくれたのは上出来だった。何だか知らんが、あの怪我人は前科者らしい。指名手配されているのを怖《おそ》れて、外に出ようとしない。
あとはチャンスを待つばかりだった。ひとりがガソリンを入れて帰って来るまでのチャンス。怪我人がピストルから目を離すチャンス。
その百万分の一ほどの奇跡のようなチャンスが老人に与えられた。ビールを持って行ってやれば男に近づける。男はビールを飲んでいる間、ピストルから目を離す……!
老人はゆっくり冷蔵庫を開け、残り少なくなった缶ビールを一つ取り出した。それを左手に持ち、台所をぐるりと見渡した。
流しのステンレスの上に包丁が一本あった。老人は息をのみ、おそるおそるそれに手を伸ばした。柄《え》をつかみ、じっと刃先を見ているうちにこわくなった。言い知れぬ恐怖。その鋭い刃先であの男を刺すなどということが彼には想像できなかった。血が飛び散るだろう。もしかしたら死んでしまうかもしれない。
殺してやりたいとは思っていたが、その前に無傷のまま警察につき出すことのほうが快感が倍増するに決まっている。そうだ。そうに違いない。
老人は包丁を元あった場所に戻し、きびすを返した。ズボンのポケットが麻縄のせいで少しふくらんでいる。彼はそこに手をつっこみ、縄をとり出して右手に少し巻きつけた。一回だけ両手で縄をピンと張ってみてから、彼は右手を後ろに隠し、左手で缶ビールを持って居間に戻った。
犬山はさっきと同じ位置――暖炉を背によりかかるようにして立っていた。右手は暖炉の上に沿って伸ばし、ワルサーを軽く握っている。目は抜け目なく三人の女たちに向けられていたが、老人が入って行くと視線が缶ビールに集中した。
老人はできるだけゆっくり歩き、できるだけ犬山に近づける場所に行けるよう努力した。犬山の前にはロッキングチェアーがある。チェアーをはさんで缶ビールを手渡したとしたら、これからやろうとしていることは失敗する可能性が出てくる。老人と犬山の間に何の障害物もない場所に立たなくてはならない。
ロッキングチェアーのうしろ側を通ろうとした時、犬山が缶ビールのほうに手を伸ばして来た。老人はそれを無視してよたよたと歩き続けた。
「何やってんだよ。渡せよ」
老人は聞こえないふりをして犬山のすぐそばまで行き、缶ビールを差し出した。犬山はかすかに怪訝《けげん》そうな表情を見せたが、すぐにひったくるように缶ビールを取り、右手でプルリングを開けた。
ワルサーは暖炉のへりの上にある。そして犬山の手は今や完全にそこから離れていた。
こわいという感情は老人にはなかった。あったのは「やれ! やれ!」と声援を送ってくる自分の中の未知のざわめきだけだった。老人は落ち着いた表情で後ろに隠していた麻縄を引き出し、左手の手首に巻きつけた。
犬山が缶に口をつけ飲み始めた。老人は半ば目をつぶったまま、ひと息に縄を犬山の首にかけた。缶ビールが床に落ち、女たちは驚いて棒立ちになった。
「何しやが……る……や、やめろ……」
犬山が両手を縄にかけ、必死でもがいた。老人は手のひらが焼けるように痛むのを感じながら夢中で締めつけた。少しでも手をゆるめると、犬山のもがきに負けそうになってしまう。老人は歯を喰《く》いしばり、女たちに怒鳴《どな》った。
「早く! そこの銃をどこかに!」
令子と美穂が同時にすべてを察し、駆け寄って来た。犬山の右手が宙をさまよい、断末魔の苦しみの中で必死に何かを求め始めた。それは超人的とも言える離れ業《わざ》だった。
美穂が暖炉の上の銃に手を伸ばそうとしたのと、犬山が銃を見つけて後ろ手にまわし、老人の腹に当てがったのはほぼ同時だった。
鈍い銃声がした。すべてはその銃声が物語っていた。老人は一時の間、男にうしろからおぶさっているようにも見えたが、男が向きを変えると伐採された木のようにドサリと床にくずれ落ちた。
「畜生!」
犬山はしゃがれた声で毒づきながら、首にかけられた麻縄を乱暴に取りはずした。誰も何も言わなかった。老人がうつぶせに倒れた床の上に、浜辺に寄せる海水のような形で赤い血が拡《ひろ》がった。
最初に声をあげたのはトキだった。それは獣が吠《ほ》えるような声、とても人間が発したものとは思えない声だった。犬山が喉《のど》をさすりながらトキをにらみつけた。
トキは白目をむき、口を裂けんばかりに開いて咆哮《ほうこう》し続けた。まげに結った白髪《しらが》まじりの髪がほどけ、細い蛇のように肩のあたりでのたうった。
耳をつんざくその叫び声に、犬山はたけり狂った。誰も彼も正気の顔をしていなかった。犬山は喉に縄の跡を残し、目を飛び出させたまま、野獣のような唸《うな》り声を発してトキに飛びかかった。
首に犬山の固い指が当てられても、トキは声を出すことをやめなかった。自分が何をされているのかすらわからない様子だ。声が次第につぶれ、途切れ途切れになった。それでもトキは、狭《せば》められていく喉のわずかな隙間《すきま》から、死にもの狂いで音にならない音を出し続けた。
美穂の足下に昨夜、犬山たちが飲んでいたコニャックの瓶《びん》が転がっていた。彼女は何も考えていなかった。手が発作的に瓶の頭を握った。
肩のあたりに瓶を持ち上げた。犬山の頭は、すぐ目の前にある。瓶の中に残っていたコニャックの液体がボコボコと微《かす》かな音をたてた。彼女は目をつぶって思い切り手を振りおろした。
瓶が固いものに当たった。衝撃で手がしびれた。彼女は目を開けた。
犬山が唇の端にねばねばした液体を浮かばせながら、こちらを見ていた。笑っているようにも、死にかけているようにも見えた。手に握っていた瓶が床に落ち、転がる音がした。その音を聞いて、美穂は自分が大変愚かなことをしてしまったことに気づいた。震えながらやったため、力不足で瓶は犬山の頭に当たりながらも、割れなかったのである。
「この……あま!」
犬山は呻《うめ》くように言った。手はトキの首から離れ、黒光りする鉄棒か何かのように宙を泳いだ。美穂は立ちすくんだ。息がうまく吸えない。
吸って……吐いて……。
彼女は自分に言い聞かせた。逃げるのよ。今すぐ。しかし、足がすくんで動かない。犬山が右手をきつく握りしめた。
「死んじまえ!」
固い岩のようなこぶしが勢いよく美穂のみぞおちに当たった。信じ難い衝撃が全身に走った。吐き気がする、と思ったのも束《つか》の間、意識はどんどん薄れ、彼女は腹を押さえてよろよろと床に崩れ落ちた。
15
殺されたうらべ由香利の遺体は、解剖室から霊安室へ移され、白木の棺《かん》に収められて夫のうらべ康太と共に東京の自宅へ戻った。雑誌社や新聞社、TV局の取材攻勢からうらべを守らねばならないため、マネージャーの柴田は東京まで同行した。
別荘には由香利の妹、加奈子とスタッフが一人残った。別荘内は昨夜の現場検証や人々の悲しみの跡で見る影もないほど荒れすさんでいた。加奈子は、生前からきれい好きだった姉のために別荘を元通りに整頓《せいとん》し、掃除してから東京に戻るつもりだった。それにいろいろな人間があたりをうろつき、別荘の周辺には「立入禁止」のロープが張られている。身内の人間が全員そろって別荘をそのままに東京に帰ることはとてもできそうもない状態であった。
木々の茂みのむこうに、時折、大きなカメラを抱えたTV局の人間らしい男の姿が見える。ロープのギリギリ近くまで寄って来て、シャッターを切っているカメラマン。何とか中に入りたくて警官と押し問答をしている顔なじみのTVレポーター。中には興奮した猿のように、別荘のまわりを飛び回って、裏口のゴミ用ポリバケツから屋根の上のTVアンテナに至るまでカメラに収めている男もいた。
加奈子は閉じたカーテンの隙間《すきま》から外の様子を眺め、深い溜息《ためいき》をついた。この分では自分たちがここを出る時に大騒ぎになるかもしれない。警察に頼んで裏からこっそり出て行かないと……。
加奈子に付き添って残ったスタッフの若い男が、湯気をたてているコーヒーと卵をはさんだサンドウイッチを持って来てテーブルの上に置いた。
「食べませんか。少し食べないと元気が出ませんよ。ずいぶん大勢、来てるみたいですからね。体力をつけないとここかち出られません」
彼は「URABE」と書かれたマリンブルーのブルゾンを腕まくりし、空元気《からげんき》を装いながら言った。加奈子は席について礼を言い、コーヒーだけを口に運んだ。とても食欲などなかった。家中の窓とカーテンを閉め切っているので、空気が淀《よど》んでいる。昨夜一晩、うらべ康太が眠れずにふかした煙草の煙だけでも、煙突が必要なくらいだった。
外で車の音がした。足音が近づいて来て玄関ドアのチャイムが押された。田辺がワイシャツのネクタイをゆるめたまま、中に入って来た。
「お食事中でしたか」
「いいえ」と、加奈子は立ち上がり、田辺に椅子をすすめた。
「外がすごい騒ぎで、滅入《めい》ってたところです。どうやって東京に帰ろうかと心配で」
「それは何とかなりますよ。うらべさんから何か連絡がありましたか」
「ええ、さっき、着いたらしいです。むこうも大変な騒ぎだったようだけど。何とかまあ、無事に……」
「そうですか。それは良かった」
「あの……」と、加奈子は立ったまま聞いた。
「何かわかったんですか」
「ちょっとしたことなんですがね」と、田辺はあごの下の無精《ぶしよう》ヒゲをこすりながら考え深げに言った。
「ここの別荘に出入りしていた人間のリストを作りたいんですよ。うらべさんの仕事関係者ではなく、それ以外の」
「それ以外って、どういうこと?」
「たとえば地元の人間です。近所の人とか、郵便配達員とか、車の修理屋とか、タクシーの運転手とかね」
「そんな人……来たかしら。近所のつき合いは全然ないし……」
「つき合いらしいつき合いじゃなくてもいいんです。ほんのちょっと顔見知りとか、いつもソバを届けに来る出前の人間とか。いつも≠ニいうのが重要でしてね」
「さあ」と、加奈子は考えこんだ。
「いつも@てる人なんていないわ。そりゃあ、郵便配達の人とかは当然、来るし、お客のためにタクシーを呼ぶこともあるし、車の修理は頼んだことないけど、おソバや中華料理の出前なんかは数え切れないくらい持って来てもらったわ。焼きたてのパンを届けてもらったりね。でも、いつもじゃなかった。時々よ。それにその人たちとは顔見知りでもない。道ですれ違っても、お互い、わからないくらいよ」
「昨夜、うらべさんはここに出入りする人間を厳選していたとおっしゃってましたが、いま、伺うと結構、他人の出入りは多かったんですね」
「そう……」と、加奈子は目をしばたたいた。
「そういう意味での出入りはね。だって仕方ないわ。義兄《あに》はああいう商売をしてるんだし、お客も多いもの」
「わかります」と、田辺刑事はうなずいた。加奈子は続けた。
「それに姉は、何て言うか、人を使って何かやってもらうのが好きな人だったんです。植木屋さんとか造園業のおじさんとか、時々、必要もないのに呼んだりね」
「ほう。それは初めて聞きました。そういった連中のリストはあなた、作れますか」
「それが何か犯人に関係あるんですか?」
「何とも言えませんがね。ただ、本庁のほうから情報が入りましてね。お姉さんを撃ったピストルはある暴力団に関係していたものだったんです。その暴力団と近い筋にいたらしい男が最近、軽井沢に仕事を見つけてこちらにやって来たようなんでね」
加奈子は、暴力団と聞いて眉間《みけん》にシワを寄せた。刑事は彼女を見つめた。
「協力して下さい。お姉さんが呼んだ人間、うらべさんが無意識に呼びつけた人間、誰でもいいです。軽井沢の人間に限ってすべてを思い出して下さい」
加奈子は一瞬、ためらうように目を伏せた。今は何も考えられない。考えていたくない。気持ちがざわざわしていて、冷静になどなれない。しかし、やらねばならないことはわかっていた。
それができるのは今、自分しかいないのだ。彼女は顔をあげ、かすかにうなずいた。
「やってみます」
「そうですか。助かります」
刑事は笑みを浮かべた。加奈子はスタッフの若い男と一緒に並んで椅子《いす》に座り、紙の上に考えつく限りの店の名前、名前がわからない場合はその業種を乱れた文字で書きなぐった。時折、エンピツをこめかみに当てて考えこみ、スタッフに質問をし、記憶の糸をたぐり寄せては再び紙にエンピツを走らせる。
スタッフが二階の自分の部屋から、スケジュール帳を持って来た。過去十か月余りのうらべ康太のスケジュールがびっしり書き込まれてある。
その中の別荘でのスケジュールに関して彼は赤線を引き、加奈子に見せた。加奈子がそれを見て、再び思い出す作業を繰り返す。
四月二十日、軽井沢での花見会。別荘の庭に宴席を設けて騒いだっけ。あの時、姉さんはビールが足りなくなりそうだと言って酒屋のおじさんに二回も足を運ばせた。そう、あの酒屋もここに来たわ。
五月十八日、六月二十四日、七月十二日、……。ああ、この日は植木屋を呼んだ。姉さんお気に入りの歌手のGが来るからって、いそいそしてたっけ。バーベキューをするんで朝から用意に大変だった。
八月十日、九月二日……。おソバ屋だったかしら、お弁当屋さんだったかしら。出前を頼んだし、電気を直させて、夜はパンを届けてもらった。焼きたてのクロワッサン。朝食用に、って。
加奈子は記入もれのないよう、すべてを書き終えると、丹念に読み返した。スタッフにそれを見せる。
「こんなもんですよね」と、彼は言った。「これ以上はなかったと思いますけど」
加奈子はうなずき、田辺に紙を渡した。田辺はボールペンでその一つ一つを指し示しながら、加奈子に確認した。酒屋、パン屋、植木屋、電器屋……名前と場所がはっきりしているものに丸印をつける。加奈子の不在中に由香利が呼んだらしい人間を除いては、そのほとんどに印がつけられた。サンシャイン・リゾート内で営業している店もあれば、車で二、三十分かかる場所にある店もある。田辺はその紙を大切そうに四つに折りたたみ、背広の内ポケットにしまった。
「ああ、そうでした」と、彼は帰りがけに言った。
「この人たちの中でケン≠ニかケン坊≠ニか呼ばれていた男に心当たりはありませんか」
加奈子はスタッフと顔を見合わせた。
「来た人たちをやっと思い出せたくらいですもの」と、彼女は疲れきった嗄《しやが》れた声で言った。
「一人一人の名前までわかるわけないわ」
刑事はごもっともと言ったふうにうなずき玄関口を出た。一斉《いつせい》にロープの外の男たちが、刑事のほうへカメラを向けた。田辺は眉《まゆ》をしかめ、待たせておいたパトカーに乗り込んだ。
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波が引いては寄せるような感じだった。醒《さ》めそうで醒めない不快な眠りの中で、美穂は起き上がろうと必死の努力をした。胃がむかむかするが、そうした肉体的苦痛は意識を取り戻すのに効果がある。彼女は痛みとむかつきに神経を集中した。
自分の呻《うめ》き声が聞こえる。目を開けなければ、と思うのだが、なかなか思うようにならない。胃が痛い。吐き気がする。
海老《えび》のように身体を丸め、美穂はゆっくり深呼吸を繰り返した。次第に頭の中がはっきりしてくる。瞼《まぶた》をぴくぴくさせながら、目を開けた。何か微《かす》かに動いているものが見えるが、ゆらゆらとして焦点が定まらない。美穂は大きく息を吸い、何度もまばたきをして目をこらした。
尾木が放心したように立っていた。くぼんだ大きな目が、冷やかに美穂を見下ろしている。手には銃が握られていた。
どのくらいの間、尾木と目と目を見合わせていたのかわからない。尾木は何も言わなかった。美穂は注意深く身体を起こした。
あたりはしんとしている。物音ひとつしない。首を動かして、彼女は自分のまわりを見てみた。床に倒れている三つの身体が目に飛び込んできた。
岸本老人、トキ、そして、犬山。令子の姿はない。どこにいるのか。山荘の他の部屋からは、もの音ひとつしない。
犬山は美穂のすぐそばで、横向きに倒れていた。Tシャツの胸の部分に赤い穴が開いている。初めに美穂が思ったのは、その穴が真ん中にあるのか、それとも左寄りにあるのか、ということだった。
美穂は恐怖に顔をひきつらせながら、尾木を見上げた。尾木は何も言わなかった。相変わらず、さっきと同じ表情で美穂を見ている。
美穂は恐ろしくなった。喉《のど》が開閉ポンプの弁のように音をたてた。
「令子!」
彼女はかすれた声で叫んだ。
「令子! どこにいるの!」
尾木がゆっくりと手を伸ばし、彼女の二の腕をわしづかみにした。
殴《なぐ》られるか、蹴飛《けと》ばされるか、それともこのまま殺されるかもしれない。美穂は全身を硬直させた。
「行くんだ」
尾木は聞きとれないくらい静かな声で言った。
「え?」
「行くんだよ」
「ど、どこへ?」
「俺と一緒に来るんだ」
「いやっ!」
彼女は叫んだ。手を振り払おうとするが、尾木の手は機械のようにはりついて離れない。
「離してよ!」
「来るんだ!」
「じょ、冗談言わないで。逃げたいなら、勝手に逃げればいいじゃないの」
「あんたを置いていくわけにはいかない」
「何故《なぜ》よ。離してったら!」
美穂は身体中をくねらせてもがいた。尾木は口をへの字に結んだまま、彼女を引きずった。美穂は大声を上げた。
「やめてってば! 助けて! 誰か助けて!」
いきなり、男の平手打ちが飛んできた。痛かったのかどうかわからない。頬《ほお》が麻酔をかけられたようにジリジリとしびれる。美穂は黙った。男はひと息つくと低い声で言った。
「ダチは死んだ。俺はあんたを連れて行く」
「令子はどこ? 令子をどうしたのよ!」
「逃げた」
「え?」
「逃げられちまったって言ってんだよ!」
美穂は男の顔をまじまじと見た。男は口調とは裏腹の、能面のように静かで得体の知れない表情をして彼女を見返した。美穂の目に大粒の涙がたまった。彼女は両手を尾木につかまれたまま、顔を歪《ゆが》めて泣きじゃくった。
何がおこったのか、何を考えたらいいのか、彼女にはもうわからなかった。自分が殴《なぐ》られて気を失っている間に、とんでもないことがおきてしまったらしい。そして今、銃を片手にしている男は、自分をここから連れだそうとしている。何故、こんな目にあわなくてはならないのか。生まれつき、運が悪いせいなのだろうか。
美穂は、赤ん坊のように力みながら泣いた。泣くことだけが、すべての表現のような気がした。
尾木はしばらくの間、茫然《ぼうぜん》として美穂の激しく無防備な泣き顔を見ていたが、やがて乾いた声で言った。
「車に乗れ。いいな」
美穂はそのひと言で泣くのをやめ、しゃくり上げながら尾木を見上げた。尾木は軽蔑《けいべつ》と憎しみと苛立《いらだ》ちのこもった目で彼女をなめまわすように見ると、つかんでいた腕をぐいと引っ張った。美穂はぐったりしたまま男に引きずられ、よろよろと立ち上がった。
ドアのところで彼女は振り返った。二つの死体の横で、トキが目を丸く見開いてこちらを見ていた。トキは彼女と目が合うと、口をぱくぱくと開けた。何か言おうとしているのだが、声にならない様子だった。
美穂はトキに声をかけようとしたが、尾木がそれを許さなかった。廊下に出ると、床を這《は》うかすかな衣《きぬ》ずれの音がした。こわれた笛のようなか細い声。トキは時間をかけてでも電話台のところまで這《は》って行き、なんとか声をふりしぼって警察に電話するだろう。そして警察は尾木を追うだろう。令子、令子が無事に逃げていたとしたら、やっぱり警察に通報しているに決まっている。
いつかは自分も助かる……その思いだけが美穂の支えだった。彼女は諦めてポーチに停《と》めてあったバンの助手席に乗り込んだ。尾木はキイをさしこみ、エンジンをふかした。木もれ日がフロントガラスに当たって、丸くやわらかな影絵を作っている。玄関もそのまわりの木立も、光と影の交錯《こうさく》する美しい写真のようだ。
尾木はアクセルを踏んだ。写真は急速度で動き出した。バンが周囲に張り出した木々の小枝を車体でこすりながら直進する。地面に埋まった小石や、夜の寒さのせいで固くなった泥をはねのけ、騒々しい音をたてた。
すぐに大通りに出た。白く左右に伸びるアスファルトの通りに、その時、車一台、人一人、影が見えなかった。
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令子は身体に毛布を巻き、与えられた熱いコンソメスープのカップを両手で支えて、ほとんど機械的にスープを喉《のど》に流しこんだ。喉と胃が焼けつくような感じがしたが、寒気は消えなかった。肩や顎《あご》のあたりが絶え間なく震えている。
「寒いんですか」
中年の婦警が赤ん坊をのぞき込むようにして彼女に顔を近づけた。
「ショックのせいね。かわいそうに。でももうじき、よくなりますからね」
令子はうなずいた。
あてがわれた部屋は、普段、職員たちの休憩室に使われているらしく、二段ベッドが二組とソファーがひとつ、置いてある。南向きの窓からは日の光が差し込み、テーブルの上の枯れかけたベゴニヤの鉢植えの埃《ほこり》を浮き立たせていた。
山荘を飛び出してから、どこをどう走ったのかよく覚えていない。覚えているのはただひとつ。木々の間を走り抜けながら、何かにつまずいて転んだことだ。膝《ひざ》を強く打ち、激痛が走った。涙をにじませながら痛みをこらえ、後ろを振り返った。
木立の向こうに山荘の赤茶色の屋根が見え、あたりはしんとしていた。誰かがやって来る気配はない。背伸びして周囲をうかがい、もっとも近くに見えた建物のほうへ走った。あんまり早く走り過ぎて、息が切れ、咳《せき》が出た。
それは木造の古びた別荘だった。建物のまわりには雑草がところ狭しと生えている。ポーチに壊れた三輪車が横倒しになっていた。両手のこぶしでドアをがんがんと叩《たた》いた。応答はなかった。
彼女は泣いた。泣きながら再び走り出した。サンシャイン・リゾートの裏手の街道に出るまで、走り続けた。街道で一台の乗用車を停《と》め、途切れ途切れの息の中でわけを話した。ドライバーは血相を変え、近くの公衆電話から警察に連絡してくれた。
警察はすぐにやって来て、彼女をパトカーに乗せた。署に着いた直後、彼女はトキが気を失ったまま病院に収容されたこと、岸本老人と犬山の死亡、そして美穂の行方《ゆくえ》不明を知らされた。彼女はそこで一回、意識を失いかけ、休憩室のベッドに寝かされたのだ。
ドアにノックの音があり、二人の男が入って来た。男たちは婦警に目配せし、コーヒーを三つ運ばせると、令子を正面にしてソファーに座った。
「聞きたいことが山ほどあります。気分はどうですか」
「あまりよくありません」と、令子は正直に言った。よくないどころか、何故、気を失わないでいられるのか、不思議なほどだった。彼女は哀願するように、身を乗り出した。
「美穂は……原田さんはどうしたんでしょう。わからないんですか」
「全力を上げて捜索してます。ただ、そのためにもあなたの話を伺わないとね。岸本トキさんはショックで意識が恢復《かいふく》しませんし」
「怪我《けが》はなかったんですか。トキさんに」
「ないようです」
「ああ」と、令子は顔をおおった。刑事は互いに顔を見合わせて、溜息《ためいき》をついた。ことは一刻を争う。そのすべての鍵《かぎ》を握っているのは、今のところ令子だけだった。いつまでもショック状態を続けていられては、埒《らち》があかない。
「まず、手短かに昨夜からの経緯を聞かせてくれませんか」
刑事は事務的に言った。令子は顔を上げ、深呼吸をしてうなずいた。コーヒーを飲んでみたが、ぬるくておいしくなかった。
「ふたり組が来たのは何時ころです」
「九時……ころだったと思います。居間で私と美穂……原田さんとトキさんの三人でコーヒーを飲んでいた時、岸本さんにピストルをつきつけた犯人たちが入って来て……。私たち、縛り上げられたんです」
「ホシの人相を詳しく教えてください。もっとも死んだほうは結構ですがね」
「もうひとりのほうは、背が高くて、そう、百八十センチはあったと思います。筋肉質で、細面で。目が大きかった。眉毛《まゆげ》が濃くて、髪は……」
刑事はサラサラとメモを続けながら、途中でさえぎった。
「あとでモンタージュを作りますので、その時はよろしく頼みます。で、服装は?」
「服? ええと、黒っぽい革ジャンとジーンズ。中には……そう、白い長袖《ながそで》のTシャツを着てました」
「持ち物は?」
「布製のバッグひとつでした。青いバッグです。中にコニャックの瓶《びん》が入っていて……」
「金が入っているのは見ませんでしたか」
「さあ」
「名前かニックネームで呼び合っていたのを聞きましたか」
「いいえ、全然。おまえ……って言い合ってましたから」
「何かふたりの会話で気づいたことがあったら、言ってください」
令子はもう一度、コーヒーを飲み、少し咳こんだ。
「ふたりは……あまり、喋《しやべ》ってなかった。私たちに向かって脅《おど》したり、ひどいことを言ったりはしてたけど。とにかくものの言い方は乱暴でした。ヤクザみたいに。ただ……」
「ただ、何です?」
刑事たちは日の光の中で目をしょぼしょぼさせて令子を見た。
「死んだ男のせいでこんなことになったんだ、とか何とか、もうひとりが言ってたみたいです。よく覚えてないけど……おまえのせいだ、おまえのせいでひどい目に遇《あ》った、って、何度か言ってました。あの……うらべさんの奥さんを殺したのはそっちの男だったみたいです」
「そっち、って逃げたほうのですか」
「いえ、そうじゃなくて」と、令子は苛々《いらいら》して言った。男たちの名前がわからなくて、説明するのがもどかしい。
「死んだほうの男です、多分。うらべさんの奥さんを殺したのは」
「なるほど」
刑事たちは顔を見合わせた。
「わかりました。ところで大事なことですが、どうして岸本さんが射殺されるようになったんです」
「それは……ちょっと混み入ってます。朝食の後、ひとりが……逃げたほうの男ですが、ひとりが車にガソリンを入れに出掛けたんです。その間に岸本さんがキッチンへビールを取りにやらされ……」
「だって、縛られていたんじゃないんですか」と、ひとりが言うと、もうひとりがほとんど同時に「どうしてガソリンをわざわざ入れに出掛けたんです」と、聞いた。令子が顔を歪《ゆが》めて頭を抱えたので、ふたりは溜息《ためいき》をつき、口々に「申し訳ない」と言った。
「順番に質問します。縛られていたはずではなかったんですか」
令子はひと呼吸おいてから、ゆっくり答えた。
「朝早く、警察の人が訪ねて来た時、岸本さんが応対させられました。その時、全員……といってもトキさんは心臓の具合を悪くして、昨夜から縄はほどかれていたし、美穂は朝食を作らされたので、その時は自由になってましたけど……。要するに警察が来たのをきっかけに全員、縄をほどかれたんです」
「ガソリンの件は? 何故《なぜ》、出掛けたんです。ガソリンがなかったんですか」
「そうらしいですね。岸本さんがそう言ってました」
「逃走用に使う車なら、どこかでガソリンくらい補給できたでしょう」
「私にそう言われても……とにかくふたりで山荘の車に乗ってるところをスタンドの人が見たら、通報されるかもしれない、って怯《おび》えてたようです」
「ふむ。それで? 岸本さんがキッチンに行き、どうしました」
「ビールを男に手渡して、男がちょっと目を離したすきに岸本さんが隠し持っていた縄で男の首をしめようとしました。でも、力が足りなかったのか、運が悪かったのか、男がピストルをつかんで……」
令子は口をおおった。刑事は令子が呼吸を整えるのを待って、ボールペンのノックをカシャカシャと鳴らした。暑苦しく、苛々《いらいら》させる音だった。
「そして男はどうしました。あなたがたに危害を加えようとしたんですか」
令子は口をおおったまま、うなずいた。そして大きく息を吐き、冷たくなった額に片手を当てた。
「トキさんの……トキさんの首をしめようとしました」
「それで?」
「美穂が、コニャックの瓶を振り上げて、男の……頭を殴《なぐ》ろうとして……。男はそれに気づいて今度は美穂を思いっきり殴ったんです。美穂は気を失って、倒れて、後は後は……」
令子は胸がつかえて、頭がくらくらしてきた。岸本老人の腹のあたりから流れていた血。トキの悲鳴。男のこぶしが美穂のみぞおちに当たった時のあの鈍い音。
「もうひとりの男が戻って来たのは、いつです。その時なんですか」
令子がじっと刑事の顔を見た後で、ゆっくりとうなずいた。
「原田さんが気を失った時に、もうひとりが戻って来た……と」
刑事はボールペンの先で、こめかみのあたりをごしごしとこすった。スプリングがきしみ、いやな音をたてた。
「その時の状況をもう少し詳しく教えてください」
令子は生唾《なまつば》を飲み込みながら、ふたりの刑事の顔を見つめた。
「美穂が倒れた瞬間、もうひとりが戻って来て……いきなり、ピストルを拾い上げて仲間を撃った……んです。何がなんだか、ちっともわからなくって、私、怖くて、逃げ出したんです」
「しかし、それにしてもよく逃げ出せましたね。男は追いかけて来ませんでしたか」
令子はあの時のことを思い出して、身震いした。今にも歯がかちかちと鳴りだしそうだ。彼女は口を押さえ、深呼吸をし、言葉を選ぶようにして言った。
「何も、私は……わかりません。ただ、夢中で逃げました。誰も追いかけて来なかったんです。何故なのかわかりません。とにかく、山荘の裏口を出て必死になって走って、気がつくと通りに出ていただけで……。私、美穂を助けられなかった。私さえ、助けてあげていればこんなことにはならなかったのに……」
「まあ、それは致し方なかったでしょう。逃げるだけで精一杯でしたでしょうからね」
刑事は慰めるように言った。
「とにかく、今のところはこれくらいで結構です。休んでいてください」
ふたりの刑事は立ち上がり、眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せながら慌《あわ》ただしく部屋を出て行った。令子はソファーに身をもたせかけた。肩のあたりが寒い。凍えそうな感じがする。
刑事と入れ換わるようにして婦警がドアのところから顔をのぞかせた。
「香川さん、東京の御主人と連絡がとれましたよ。すぐにこちらに向かうそうです」
令子は顔を引きつらせてうなずき、毛布を肩まで引き上げた。
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灰色のバンは制限速度を二十キロ以上オーバーしたまま、南へ南へと下った。季節はずれのウィークデーのせいか、道はどこもすいていた。日差しが十月とは思えないほど強い。
途中で、カナリヤ色のゴルフのオープンカーに乗った若者たち五人の男女グループとすれ違った。全員がテニスウェアを着て、色の濃いサングラスをかけ、後部座席の三人はシートの背もたれの上に腰をかけていた。
古いハリウッドの青春映画ポスターみたいな一団だった。美穂は目をしばたたかせ、窓を少し開けて外の空気を吸った。サイドミラーに映るオープンカーは、みるみるうちに小さくなり、小さな黄色い点になった。
窓外に流れていく店や建物や木々、それに信号機や漬物《つけもの》の看板などは、感度の悪いカメラで撮った観光パンフレットのように、どぎつく、よそよそしかった。
運転席では、尾木が絶えずバックミラーやサイドミラーに目をやりながら、怒ったような顔をしてハンドルを握っている。彼は山荘を出て星野《ほしの》温泉の近くまで一息に走り、温泉の前を右に折れて遠回りしながら国道18号に出た。その間中、一言も喋《しやべ》らなかったし、美穂の顔を見ることもなかった。
真っ黒のサングラスをかけているので目の表情はわからない。横顔はぞっとするほど硬直していて、青白い石のように見えた。
追分《おいわけ》を過ぎ、西軽井沢に近づくころ、美穂はむしょうに煙草を吸いたくてたまらなくなった。考えてみたら昨夜から一本も吸っていない。令子とシュークリームを食べ終えた後、キャスターを深々と吸い込んだのが最後である。彼女はそっと運転席のほうを見た。
「煙草、ある?」
尾木は黙って革ジャンのポケットをまさぐり、くしゃくしゃになったショートホープのパッケージを取り出して美穂に投げた。中には二本、残っていた。彼女は一本をくわえ、車内に転がっていたマッチで火をつけた。
「俺《おれ》にもくれ」
美穂は尾木を見た。尾木は表情を変えずにつけ加えた。
「火をつけてな」
美穂は少しためらった後、残った最後の一本を口にくわえ、火をつけて軽く吸い込んでから尾木に手渡した。尾木は初めて彼女のほうをチラリと見た。
ふたりの吐き出す煙草の煙が車内に充満し、三センチほど開けた助手席側の窓から平たい糸のように外へ流れていった。
煙草はうまかった。深く吸い込むと頭の中が朦朧《もうろう》としたが、不快感はなかった。犬山に殴《なぐ》られたみぞおちの痛みも、少しずつ和らいできている。美穂は根元のあたりまでひとしきり吸い終えると、灰皿に放り込んで火を消した。
「どこへ行く気なの?」
美穂がそう聞いた時、一台の大型ダンプカーがバンの横を爆音をたてて通り過ぎた。彼女は窓を閉め、もう一度、聞いた。
「どこへ行くつもりなの?」
尾木は吸っていた煙草を窓を開けて放り投げ、ぶっきらぼうに答えた。
「わからん」
「わからんって、どういうことよ」
「黙ってろ」
「でも」と、美穂はひるまずに聞いた。
「ただ、逃げるだけなの? それとも、人のいない場所に行って私を殺すの?」
「うるせえな。あんたは黙っていればいいんだ」
「やってることが無茶苦茶《むちやくちや》よ。なんで私を連れていくのよ。ひとりで逃げなさいよ。ひとりのほうが動きがとりやすいじゃないの」
「わめくな!」
「ね、お願い」と、美穂はべそをかきながら尾木のほうへ身体を傾けた。
「降ろして。降ろしてくれれば、私、あなたのことは黙ってるから。何も喋らないわ。本当よ。誓う。だから……」
尾木は押し黙ったまま、ハンドルを握っていた。前方を石材を積んだ大型トラックがゆっくり走っている。彼は舌打ちし、シートの上で腰を据《す》えると急にハンドルを右に切った。アクセルが力一杯踏まれ、車体はいきなり大きく揺れた。
上り車線の向こうから、対向車が走って来る。もう目と鼻の先だ。美穂は息を飲み、シートを両手でつかんだ。
対向車の白いブルーバードが、鋭いクラクションを鳴らしてブレーキを踏んだ。今度は車体が左に傾いた。石材トラックの間延びした鈍いクラクションが鳴り続けた。
「のろのろ走りやがって!」
尾木は悪態をつきながらハンドルを元に戻し、バックミラーでトラックをのぞきこんだ。美穂が振り向くと、走り去る白いブルーバードの後ろの窓から若い女が首を出してこちらを目で追っているのが遠くに見えた。トラックはずっと後ろのほうでまだクラクションを鳴らしている。
「うるせえんだよ。ブーブー、ブタじゃあるまいし」
「ひどい運転するのね」
尾木は「ちっ」と、歯を鳴らして苛立《いらだ》たしげにバックミラーの位置を直した。
「ああいうのにつき合ってたら、日が暮れちまう」
「事故でも起こしてればよかったのよ。警察が来て、私は助かってたわ」
「その前に道路にあんたの脳味噌《のうみそ》が飛び散ってたさ」
「この車に乗り続けてるよりはましよ」
ふん、と尾木は小馬鹿《こばか》にしたように鼻を鳴らし、「勝気な嬢ちゃんよ」と、言った。
「それ以上、喋《しやべ》ったらちょっとの間、眠っててもらうことになるぜ」
喋りたくて喋ってるわけではない、と言いたかったが、美穂は黙って前を向いた。
疲労しすぎていて、頭がぼんやりとしていた。ヒスタミン剤入りの風邪薬《かぜぐすり》を飲んだ後のような気分だ。全身の知覚が麻痺《まひ》して、何を考えるのも億劫《おつくう》……そんな感じだった。
彼女はそっと腕時計を見た。唯一《ゆいいつ》の持ち物であるその丸型の時計は、一時三十分をさしていた。一時三十分。何も知らない会計事務所の人々は、美穂が無断で休んだと思い、さんざん悪口を並べていることだろう。遅くとも一時には出社すると言っておいたのだ。
以前にも一度、地下鉄で人身事故があった時、連絡せずに三十分遅れて出社したら、会計士のひとりにいやみを言われたことがあった。あそこの事務所ではすべてが明確な数字のように動いていくことを要求される。
「数字は実に明快だ」
太っちょのボスは、機嫌のいい時に決まってこう言う。
「野球やラグビーのスコアボードを見たまえ。勝ったか負けたか同点か、そのいずれかひとつしか結果はない。実にすっきりして気分がいいじゃないか。え?」
あのボスは私が殺人犯の人質となり、行方《ゆくえ》不明になっていることを知ったら何て言うだろう、と美穂は考えた。それでも「勝ったか負けたか同点か」で決めつけるだろうか。聞いてみたいものだ。
車は佐久《さく》を通り過ぎ、千曲《ちくま》川を左に見ながら南下した。川の向こうにスイスの山岳列車のような赤い小海《こうみ》線が走っているのが見える。窓から入ってくる空気は冷たいが、車内は温室のようにポカポカと暖かかった。
八千穂《やちほ》村のあたりで道は二手に分かれた。左が国道141号で、清里《きよさと》、須玉《すだま》方面。右は国道299号で茅野《ちの》方面。尾木は迷わず右の道を選んだ。
川と山と木々に囲まれた美しい道だった。山々は、更紗《さらさ》に染め上げた小紋のように見事に紅葉しており、勾配《こうばい》のある道を曲がりくねって進む車は、遠くから見ると和服の上の帯止めみたいに小さくキラリと光っていた。
尾木は大きな溜息《ためいき》をついた。
「畜生《ちくしよう》。煙草がねえな」
美穂は黙って横を向いた。尾木は灰皿を片手でまさぐって、長めの吸殻を探し出し、自分で火をつけた。
「煙草くらい買えるでしょうよ」と、美穂は皮肉をこめて言った。
「後ろに積んである袋の中に、お金がたんまり入ってるんでしょ」
尾木はちらりと美穂を見た。
「へらず口ばかり叩《たた》くなってんだよ」
「馬鹿みたいね、あなたも。私を殺して逃げたいなら、早くそうすればいいじゃないの。こんなドライブ、意味がないわ」
「なんで俺があんたを殺さなきゃなんないんだよ」
「邪魔でしょ。私なんか」
「利用価値がある間は、邪魔なんかじゃねえさ」
「私も逃げることができるのよ。殺しておいたほうが楽でしょうに。やるならさっさとやればいいじゃない。さんざん、悪いことをしてきて、ひとり殺すもふたり殺すも同じでしょ」
何故《なぜ》、こんな開き直った台詞《せりふ》が次から次へと出てくるのか、美穂にはわからなかった。男は銃を持っている。まして、こんな山の中だ。美穂が泣こうがわめこうが、誰にも聞こえない場所で一発、弾丸を発射するくらい、造作《ぞうさ》のないことである。
しかし、彼女は男を刺激することを言い、その反応を見て少しは安心したいとも思った。それは危ない賭《か》けではあったが、すきを見て逃げ出すためにもその前に相手の考えを知っておくことは損はないはずだった。
黙りこくっている尾木にむかって、美穂は続けた。
「私を縛りつけておかないでいいの? いつ、わめいたり、暴れたりするかわからないわよ」
「わめきたかったら、わめけよ。こんな場所では人も来ない」
「今夜はどうするの? あなたが眠ったら、逃げるわよ」
「そうはさせねえよ。素っ裸にしてから寝るさ。表でストリップでもしようってんなら、そのまま逃げればいいけどな」
美穂はむっとして言った。
「裸にして何かしようとするつもりなら、言っとくけど大変なことになるわよ」
「どう大変なんだよ」
「どう、って……」と、彼女は言葉を濁した。
「ともかく暴れるから」
ははっ、と尾木が乾いた笑い声をたてた。
「情けない答えじゃねえか。そんな答えを聞いてると、かえってムラムラしてくるぜ。いつでも暴れさせてやるよ。気持ちよくなるぜ」
彼は美穂をチラリと見て薄笑いを浮かべた。彼女は目をそむけた。
「安心しな、お嬢さん」
尾木は前を向いたまま、品のない調子で言った。
「あんたは俺好みの女じゃない」
美穂は「ありがたいことね」と、口をとがらせて言った。
「それで安心よ」
「あんたが俺に襲いかかってこない限りは大丈夫だぜ。俺も男だからな。裸の女に襲いかかられたら黙っちゃいない」
「よしてよ。誰があんたなんかに」
「じゃあ、いいじゃねえか。平和条約は事前に結ばれたってことよ」
美穂は唇を固く結んで窓の外を見た。エンジンの音が単調に響き渡っている。尾木がその響きと同じくらい単調な、しかしドスのきいた声で言った。
「茅野の近くのモーテルか何かに行くぜ。今日はそこで休むんだ」
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田辺警部補は疲労困憊《ひろうこんぱい》していた。昨夜からほとんど眠っていない。ソファーで少しうとうとした程度だ。ソファーはスプリングが半分こわれていて、呼吸するたびにギシギシと鳴り、おまけに事件のことが気がかりですぐに起きてしまった。
難事件になりそうだと予感していたことはやはり当たった。誰もが考えもつかなかった事態が発生したのだ。逃走したとばかり思っていた二人組が、サンシャイン・リゾートの目と鼻の先で人質をとって潜伏《せんぷく》していたとは! しかも人質のうちの一人を射殺し、あろうことか仲間割れしてさらに人質を連れ、逃亡するなどと、いったい誰が予想できただろう。
『俺も年をとったな』と、田辺はサンシャイン・リゾートに向かう車の中で思った。昔はもっとカンが働いたものだ。人々がまさかと思うようなことも考えつき、時間をかけてそれを立証してみせる体力と精神力があった。
彼は刑事仲間とコンビを組んで捜査するのがあまり好きではなく、いつも一人で勝手に動き回るので仲間からの評判は芳《かんば》しくなかった。協調性に欠ける、というのが上司からの毎度の小言《こごと》だった。
「デカの経験と才能は充分なんだから、もっと若手を教育してやる立場に回ってくれよ。全員が一丸となることが必要なんだ」
そのたびに憮然《ぶぜん》としてうなずくものの、田辺は捜査面での独走をやめることができなかった。チームプレーなどうんざりだ。性格に合わないことはどうしようもない。彼は一丸≠ニいう言葉が嫌いだった。金魚のうんこみたいにゾロゾロつながって行動して、事件が早期解決した試しはないじゃないか!
彼は一人でコツコツと捜査を続けることを信条とし、その際には若手の連中をアゴでこき使った。初めのうちは使われることにマゾヒスティックな快感をもっていた刑事たちも、次第にキャリアを積んでくると田辺を疎《うと》んじるようになった。
三時間の間に二十四軒の住宅の聞き込みを命じられた刑事もいる。
「十軒がせいぜいですよ」と、その刑事は田辺に文句を言った。「そんな神ワザみたいなこと誰ができるんです。二人で行かせて下さいよ」
「一人でできないならデカなんかやめちまえ」
田辺は静かにそう言った。そして上着をつかむと一人、外へ出て行き、きっかり三時間後に戻った。手帳には九軒の聞き込みの結果がびっしりメモされてあり、そのうちの一軒から得た証言が事件を解く有力な手がかりとなった。
二十四軒の中から九軒を選び出すカン。あのカンはどこへ行っちまったんだろう。彼はバックミラーに無精《ぶしよう》ヒゲを映して、運転しながら電池カミソリでヒゲをそった。夕暮れの軽井沢の町を走り抜けていく自家用ポンコツファミリアの中には、例によって彼一人しか乗っていなかった。
殺された由香利の妹、加奈子に聞いて作ったリストには、うらべ家に配達その他で出入りしたことのある商店の名が十一個、連ねてある。そのうち四つは消化した。旧軽井沢にあるベーカリーショップ。仕出し屋。高級中華料理店。それに、|千ケ滝《せんがたき》付近の植木屋……。
被害者の香川令子の証言から、射殺されたほうの男が暴力団と何らかの形で関係があり、銃の持ち主もその男だという読みはあったが、遺体には身元を明らかにする何の手掛かりもなかった。田辺刑事は仕方なく、遺体の顔写真を鑑識から回してもらい、そのうちもっとも気味悪くなさそうなものを一枚選び出し、背広のポケットにしのばせて四軒の店を訪ねた。
誰もがその写真を見ると顔をそむけた。目を大きく見開き、黒目が上の方に片寄っている男の死に顔は、一度見たら一晩、忘れられなくなりそうな代物だった。
どの店の主人も首を横に振った。中華料理店の店長は、蝶《ちよう》ネクタイをしめたオカマか何かのように両手を口に当てがって「しまって下さい、そんなもの」と、不快感をあらわにした。
もちろん逃走中の男のモンタージュ写真を見せても、誰も知らないと言いはった。あと七軒。根気よく死体の写真を持って回らねばならない。
サンシャイン・リゾートのアーチ形の入り口をくぐりながら、田辺はふと「こんなことをしても徒労ではないのか」と弱気になった。一課の人間は皆、人質を連れて逃走したほうの男を追うのに殺気だっている。死んだ人間はおかまいなし。生きて動いているほうを追ったりそれから逃げたりするという、人間の生存本能に従っているのだ。
生きているほうは手掛かりを両手で数えきれないくらい残していってくれた。おまけに車のナンバー、型、色、それに加えて人質の原田美穂の写真も朝刊にはデカデカと載る。殺されていない限り、原田美穂は必ずどこかで誰かに目撃されることになるだろう。
だがそれが三日後になるのか、一か月後になるのか、誰もわからない。遅れれば遅れるほど人質の身に危険が増す。見つかったらすでに手遅れ、という可能性だって充分あるのだ。
田辺は死んだほうの男が何者なのか、つきとめたかった。それがわかれば逃走中の男の正体と行き先がつかめるかもしれない。だが、死んだ男が加奈子の作った出入りの人間のリストの中に入っているという確証は何もなかった。そればかりか、死んだほうも逃走中のほうも、うらべの別荘とはもともと何の関係もないのかもしれない。
サンシャイン・リゾート内の「花田電器」の看板が見えてきた。田辺は沈みこむような疲れを覚えながら、店の前でファミリアを停めた。
花田澄江は店先でタバコを吸いながら店頭のTVを観《み》ていた。子供向けの漫画番組をやっていたが、あと五分ほどで終わってニュースが始まる。午後からはどの局のニュースも軽井沢の連続殺人事件をトップに取り上げて報道していた。ニュースだけではない。三時からの主婦向けワイドショーでは、うらべ康太が妻の棺《かん》と共に自宅に入って行くシーンをこれでもか、これでもかと画面に流し、サンシャイン・リゾートにやって来たレポーターたちの現場報告をまじえてたっぷり五十分間、特別番組を組んでいた。
店の前を通りすぎていったワゴン車の中に、TVによく顔を出す有名レポーターの姿もあった。そんなこともあって澄江はかなり興奮していたが、それは周囲のざわざわした雰囲気のせいだけではなさそうだった。
商店会の定例会合から戻った夫は、エアコンの取り付けを頼まれて出掛けて行ったまま、まだ帰らない。外はとばりが降りかかり、気温がぐんぐん下がってきた。彼女は足元の電熱器の温度を上げ、毛糸のカーディガンをセーターの上にはおると、ニュースの始まるのを待った。
店のサッシ戸をそっと開けて、田辺が中へ入ったのはそんな時だった。
「いらっしゃいまし」
澄江はタバコをもみ消し、椅子《いす》の上の座布団《ざぶとん》をおとさないよう注意しながら立ち上がった。田辺は店内にぐるっと目を走らせて言った。
「冷えこんできましたね」
「ほんとにねえ。いいお天気でしたから余計に冷えますね、夜は」
「ご主人はおられますか」
「主人ですか。出掛けてますけど、あの、何か……」
「N県警の田辺といいます」
そう言いながら彼は警察手帳を見せた。澄江は「まあ」と言って、その手帳をしげしげと見つめた。うらべさんのところの件で何か聞きに来たのだろう。そう思った。こちらにやましいことがない場合は、警察手帳を見せられて協力を求められると興奮する……と、姉も言っていた。澄江はかいがいしく、丸椅子を彼にすすめ、電熱器をその足下に置いた。
「うらべさんのお話ですね。あの、もうすぐ主人が戻りますからお待ちになってて下さい。主人はうらべさんのお宅に何度か行ったので詳しいと思いますよ。私はただの店番で、あのお宅には一度も……」
「奥さん……ですね」と、田辺は小児科の医者のように寛容な笑みを浮かべて聞いた。澄江は目をパチパチさせてうなずいた。そして、この刑事は夫よりも年をとっているか、若いか、というようなことをチラリと考えた。
「こちらのお店には従業員は何人おられます」
「従業員? まあ、そんな。こんな小さな店で従業員なんかおりませんよ。忙しい時に臨時のアルバイトを雇うのがせいぜいです」
「じゃあ、普段はご夫婦だけで?」
「はあ。それが何か?」
「アルバイトを最近雇ったのはいつです」
澄江はこの質問をされたとたん、首筋が寒くなった。何故、あの人のことを聞いてくるのだろう。何故、あの人が話題に上らなくてはならないのだろう。
やっぱりという思いと、まさかという思いで彼女は思わず刑事から目をそらせた。あのことを聞かれたらどうしよう。正直に言うべきなのだろうか。
「ついこの間まで雇ってました」と、彼女は消え入るような声で言った。刑事は「ほう」と言った。
「男ですか。女ですか」
「男の人です」
「若い男……ですね」
「ええ」
「どういったご関係で?」
「前に来てもらったことのある東京の女子大生からの紹介です」
「契約が終わったのでやめたんですね」
「いえ、それは」と、澄江は言葉を濁した。まさか浮気して主人に追い出されたとは言えない。いくら刑事でもそういうことは耳に入れたくなかった。
「ちょっとトラブルがあって、やめてもらったんです」
「トラブル?」と、田辺は目を光らせた。
「金銭上のトラブルですか」
「どうしてそんなこと、お聞きになるんです。うらべさんの事件と何の関係があるんですか」
「これは申し訳ない」田辺は頭をかいた。彼のよくやる演出のひとつだった。
「手掛かりがなくてワラをもつかみたい気持ちでしてね。気ばかりあせってるんですよ。許して下さい」
「何故、アルバイトの人のことが問題になるんでしょう」
「私のカンでしてね。ホシは土地カンのある若い男らしい。そこで奥さんに折り入ってお願いがあるんですが」
そう言いながら、彼は内ポケットから封筒を取り出した。
「初めに言っておきますが、これは今日、山荘で射殺された一味のうちの一人の顔写真です。何分、死んだ人間の写真なのでお気持ちが悪いでしょうが、ちょっとごらんになっていただけませんか。見覚えがあるかどうか」
死人と聞いて澄江はぞっとした。最近はロクなことがない。浮気はバレるし、夫とはケンカばかりだし、姉には説教されるし、そのうえ、死人の写真を見させられる始末だ。このうえ、あの人のことまで根掘り葉掘り質問されたら、舌をかみ切りたくなってしまう。
「お願いできますか、奥さん」
澄江は不快そうな顔をあらわにして、こわごわ、その写真を封筒から引っぱり出した。現像した直後のように少し湿っぽい。彼女は大きく息を吸い、老眼の人がやるようにそれを目から遠ざけて見た。
見た瞬間、彼女は「ひっ」と叫んで目をつぶった。そこに写っていたのは目をむいた若い男の青白い死に顔だったが、同時に彼女が心ときめかせてベッドの中で見つめたことのあるなつかしい男の顔でもあった。
写真はハラハラと下に落ち、電熱器の上に乗った。田辺はそれを取り上げ、澄江を凝視した。
サッシ戸が乱暴に開けられ、店の主人が帰って来た。これ以上、不機嫌な顔はできないというくらい仏頂面《ぶつちようづら》をした花田は、田辺の姿を認めると客と思ったのか、急に相好《そうごう》を崩し「いらっしゃい」と言った。外からの冷たい風が店内に吹きこんだ。
「あなた!」
澄江が目を開け、花田に向かって低い声で呼びかけた。
「犬山君よ。犬山君、死んだわよ」
花田は作り笑いを硬直させたまま、黙って澄江と田辺の顔を交互に見た。
「あの人、犯人だったのよ。あの人だったのよ!」
目に丸く盛り上がった涙が、澄江の頬《ほお》に今にも落ちそうになっている。花田は田辺がさし示した警察手帳と写真を見ると、額に手を当てて丸椅子《まるいす》に座りこんだ。
「何てこった」
あかぎれのできたソーセージのような太く短い指が、髭《ひげ》の生えた丸い顔をおおった。
「犬山……という名前なんですね」
田辺が聞くと花田はうなずいた。太った肉づきのいい肩が、灰色のジャンパーの下で小刻みに揺れた。
「ついこの間、やめさせたばっかりです。得体の知れない奴《やつ》でしたが、まさか、こんなことまで……」
花田は口ひげの下のぶ厚い唇を歯でかみ、顔を上げた。
「おまえは」と、彼は澄江に向かって低く唸《うな》るように言った。
「殺人鬼に股《また》を開いたんだぞ!」
「ごめんなさい! ごめんなさい! 許して! 知らなかったのよ! 許して!」
澄江は田辺の前であることも忘れ、子供のように両手をだらりと下げて、天井を仰ぎながら大声で泣いた。
20
小一時間走ると、車は茅野の市街地へ出た。道路は混んでいなかったが、信号の数が急に増え、信号待ちで止まるたびに尾木は神経質そうにあたりを窺《うかが》った。
街は干し草のようにのどかだった。ニュースではもうとっくに山荘での事件が報道されているはずだったが、道行く人々の表情にこれといった変化は読みとれなかった。
雑貨屋の、軍手や亀《かめ》の子《こ》タワシを並べている埃《ほこり》のかかった店先で、割烹着《かつぽうぎ》をつけた中年の女と腰の曲がりかけた老婆が立ち話している。学校帰りの黄色い帽子を被《かぶ》った小学生の一団が、信号待ちで止まったバンの前を駆け抜けて行き、向こう側に渡るとランドセルを放り出してジャンケンを始めた。負けたひ弱そうな男の子が全員のランドセルを持って半ベソをかきながら歩き出す。残った少年たちは口々に彼を罵《ののし》り、あっという間に次の角めがけて走り去ってしまった。
焼肉屋の油の浮いた看板。薬局のガラス戸に貼《は》ってある成人病予防薬のポスター。洋装店のショーウィンドウに飾ってある時代遅れのマネキン人形。
美穂は黙りこくっている運転席の男をちらりと見た。男の横顔はガラスに張りついたシールか何かのように静かで青白かった。
はえかけた硬そうな髭《ひげ》が鼻の下と顎《あご》のまわりに灰色の影を作り始めている。きつく結んだ薄い唇は開くことを忘れたかのように、口の中にめり込んでいた。
おかしなことに尾木は美穂にまるで注意を払わなくなった。さっきまであんなに悪態をついていたのが嘘《うそ》のようだった。
市街地に出て来ておびえているのだな、と美穂は思った。追われている人間はどんな状況にも猜疑心《さいぎしん》を働かせる。大きな犬を連れて散歩している男を見ても、電話をかけている女を見ても、自分の車の後ろをずっと走って来た乗用車を見ても、それが偶然かどうかを胃の痛む思いで考え込んでしまうものだ。
信号待ちで停車するたびに、美穂はあらゆる可能性が自分に与えられていることを実感した。彼女はいつだってドアの把手《とつて》を引き、外へ飛び出すことができた。
そればかりではない。車の窓から顔を出し、道行く人に大声で助けを求めることだってできたし、多少の怪我《けが》を覚悟しさえすれば、走行中の車から体ごと転げ出すこともできた。周囲にはたくさんの人が住んでいる。すぐに異常に気付いた人々によって彼女は助けられるだろう。
実際、彼女はためしに窓を全開にし、ドアの把手に手をかけて尾木の反応を見た。だが彼は何も言わなかったし、彼女のほうを見ようともしなかった。
これなら大丈夫、と彼女は思った。突然逃げ出しても、彼は子供のように素直にあきらめ、すぐに全速力で車を発進させるだろう。あとのことは知らない。彼は勝手に逃走を続けるのだろうし、警察は私の証言をもとに追跡するだろう。どうせこの男は初めから何も計画などしてはいなかったのだ。相棒の後始末をどうつけようか計りかねて、大した意味もなく私を人質として連れ出しただけなのだ……。
車は茅野市街地を通り抜け、中央線の線路を越えた。蓼科《たてしな》方面に行くビーナスラインや中央高速道入り口の案内標識が見える。
信号が赤になり、バンは長野ナンバーの乗用車の後ろに止まった。その白い小型車の後部座席には四歳くらいの双子《ふたご》の男の子が乗っていて、リアウィンドウに顔をなすりつけながら騒いでいた。
子供たちの目と美穂の目が合った。彼等は美穂に向かって手を振ったりアカンベエをしたり、鼻を指でおしあげてふざけてみせたりした。二人ともまったく同じ青い縞《しま》のセーターを着ており、やることもまったく同じだった。
歩道を自転車に乗った女子中学生の一団が通り過ぎた。美穂は視野の中に入る尾木の横顔に注意を払いながら、信号を確かめた。横断歩道の緑色の信号が早くも点滅を始めている。
彼女はそっと左手で助手席側のドアの把手《とつて》に手をかけた。音がしないよう注意しながらロックをはずす。前の白い乗用車に太陽が反射して眩《まぶ》しい。子供たちは飽《あ》きもせず美穂に向かって下手《へた》くそな演技を続ける。ガラスの向こうの二匹の子猿のようだ。
少し心臓がドキドキしたが、点滅する信号の速さほどではなかった。彼女はドアの把手に人差し指と中指をかけながら、腰をずらせた。
「降りるのか」
前を向いたまま、尾木が低い声で言った。美穂は体を硬くして指の動きを止めた。その瞬間、尾木の太い指が彼女の二の腕をつかんだ。大型のペンチではさまれたような激痛が腕に走った。
進行方向の信号が青に変わった。バンはすべるように走り出した。青縞模様の子猿の乗った乗用車はどんどんスピードをあげ、バンから離れていく。
「降りる時は挨拶《あいさつ》くらいするもんだぜ」
尾木は無表情に美穂を見た。美穂は黙っていた。尾木は何事もなかったかのように再び視線を元に戻した。
彼女は憮然《ぶぜん》としたまま、前を向いた。失敗してしまった。もっと早く、ドアを開けて飛び出していればよかった。
しかし、これでチャンスがなくなったわけではない。今度、信号待ちをした時には必ず、飛び出そう。何があっても、だ。
尾木は黙りこくったまま、じっと前方を睨《にら》んでいる。遠くにラブホテルの看板が見えた。『ファンタジー』とある。
遊園地にある御伽《おとぎ》の国のようなその建物は、全館ピンクと白で統一されており、まだ真新しかった。車はみるみるうちにそのけばけばしい俗悪な建物に向かって走った。表通りから少しはずれているので、その間中、信号はなかった。
ホテルの入口にはピンク色のビニールの暖簾《のれん》が下がっていた。暖簾の下を車が通るとフロントに信号が送られ、駐車場に通じる重々しいドアが開くシステムになっているらしい。尾木はハンドルを勢いよく切り、暖簾をくぐった。ブーッというブザーの音が遠くでした。
半地下になっている駐車場にはウィークデーの昼間だというのに、十数台の車が止まっている。どの車も他《ほか》から見えないように、ナンバープレート部分に備え付けの専用板があてがわれていた。
尾木は出口に一番近いスペースに車を止め、美穂に外に出るよう命じた。彼女は黙って激しく首を振った。
「出るんだ。聞こえないのか」
「いやよ。こんなところ」
「贅沢《ぜいたく》言うんじゃねえ。出ろ」
「いやっ」
いざ、こうした場所に尾木と入るとなると恐怖心が否応《いやおう》なく湧《わ》いてきた。彼女は胸がドキドキし、口の中が乾くのを感じた。何故《なぜ》、もっと早く逃げ出さなかったのか、何故、いい気になって威勢のいい台詞《せりふ》を吐いてきたのか。美穂は後悔した。
尾木がハガネのような腕を伸ばし、美穂の手をつかんだ。彼女は咄嗟《とつさ》にそれをはねのけ、ドアロックにしがみついた。ドアは難なく開いた。転がり出る格好で片足を外に出そうとすると、尾木が首に腕を回してきた。息が詰まりそうになり、彼女は目を丸く見開いて足をばたつかせた。
尾木はそのままの形を取りながら、片手で後ろのシートから布袋をかつぎ上げ、キイを抜くと美穂を引っ張るようにして運転席側から彼女を降ろした。
叫べば誰かが出て来てくれるかもしれない、と思ったものの、尾木の腕の力が強すぎて声が思うように出ない。
運転席のドアを閉めると尾木は彼女に歩くよう命じた。各駐車スペースは壁で仕切られており、それぞれの部屋へ通じる狭い階段が上に向かって伸びている。階段の上り口にはハート型のカードがかけられ、ルームナンバーと部屋の呼び名が書いてあった。その部屋の名は『アリス』だった。
美穂は首に腕を回された不自然な形で、息を詰まらせたまま階段を上がった。腕をすり抜ける方法を考えようとするのだが、何も思いつかない。階段は短く、すぐに部屋の扉《とびら》の前に出てしまった。尾木は扉を開け、中へ美穂を押し込んだ。
押し込まれた瞬間、腕が離された。美穂はすぐに尾木の横をすり抜けて扉から外に出ようとした。今なら間に合う。今なら!
美穂が全身の力を込めて扉に体当たりした時、尾木が彼女を後ろからはがい締めにした。
「いやっ。離して!」
「馬鹿野郎! 静かにするんだ!」
美穂は暴れた。だが、身長百八十センチの体力のありそうな男の前では無力に等しかった。彼女はあっという間に尾木に引きずられ、もんどりうつようにして部屋の床に投げ出された。
全身に痛みが走った。痛いのと情けないのとで涙があふれた。床に転がったまま、彼女は両手で顔を押さえ、声を殺して泣いた。疲れていて、もうこれ以上、抵抗できそうになかった。最後のエネルギーを使い果たしてしまったみたいだった。
彼女は同じ姿勢で長い間、泣き続けた。みじめで哀れで、死んでしまいたい気持ちだった。殺人犯とラブホテルに! しかも、こんなに乱暴されて……。
このまま、遊ばれて殺されるのが関の山だわ、と彼女は思った。ついてない人生。これまで、自分がついていると思ったことは一度もなかったが、これほどだとは考えなかった。お笑い草だ。こうなるのが運命ならば、どうしてもっと以前に世界のありとあらゆる馬鹿騒ぎを楽しんでおかなかったんだろう。お祭り騒ぎをしたあげくに、死ねるのならそれもいいかもしれないが、金魚鉢の金魚のように退屈な毎日を送ってきて、最後にズドンとやられるなんて最悪についてない。病床の中で、突然ギロチンにかけられるようなものではないか……。
気がつくと、目線の位置に尾木のはいているスニーカーが見えた。スニーカーは同じ場所にじっとして動かなかった。丸く黒い染みが広がって、かなり汚れている。美穂は静かに顔を上げた。尾木が中腰になりながら、美穂を見下ろしていた。
サングラスをはずしたその目は、隈《くま》ができ、思ったより哀《かな》しげだった。彼は目を伏せた。
「ごめんよ」
「…………」
「乱暴するつもりはなかった。許せ」
美穂は聞き違えたのかと思った。尾木は続けた。
「血が出てるぜ」
彼が指さした手の甲を見ると、うっすらとしたひっかき傷があった。さっき、取っ組み合いをした時に何かで傷つけたらしい。美穂は本能的にそれを撫《な》でて隠した。
尾木は部屋の中を見回して、ティッシュの箱を見つけると、一枚抜いた。そしてそれを丁寧に細長く折りたたむと、美穂の傷に当てがった。血がティッシュに滲《にじ》んだ。
美穂は尾木を見た。尾木も彼女を見ていた。
「平気よ」と、美穂は言った。起き上がろうとすると、尾木がそれを助けた。嵐《あらし》が去った後のような感じだった。尾木はさっきまでの凶暴さが嘘《うそ》だったかのように、静かだった。疲れて諦《あきら》めて、今にも死に場所を探しに行こうとしている手負いの動物のように見えた。
彼は美穂をソファーに座らせると、自分も隣に座って部屋を見渡した。部屋はその名にふさわしく、馬鹿げたほど子供っぽかった。あちこちに大きなキノコを型取ったプラスチック製の置物や猫、ウサギ、小鳥などのぬいぐるみが置かれ、盗難防止のためか、それぞれ床にしっかりと埋め込まれているのが滑稽《こつけい》だった。天井は作り物のツタの葉で覆われ、おまけに部屋の真中にはペンキをべたべた塗りたくったようなハリボテの木が置かれている。大袈裟《おおげさ》なほど大きいベッドはカヌーの形になっていて、枕《まくら》も布団《ふとん》もシーツもすべてピンク色だった。
尾木は布製のバッグを放り出し、テーブルに足を投げ出した。
「何か食うか。暴れて腹が減ったろ」
美穂は答えなかった。それほど長く車に乗っていたわけではないのに、船から降りたばかりの時のように体の芯《しん》が揺れている。それに昨夜も今朝も歯を磨かず、顔も洗わなかったので首から上の汚れが不愉快だった。
「喉《のど》がかわいた。お風呂《ふろ》にも入りたい」
「じゃあ、風呂に入ってろ。その間に食いものを頼んでおく」
美穂は少しためらいがあったが、尾木の言う通りにすることにした。バスルームは部屋の続きにあり、ラブホテルによくあるようにガラスを通して入浴姿が部屋から見えるようにはなっていない。彼女は大股《おおまた》で尾木の前を横切り、バスルームに入った。
バスタブいっぱいに湯を満たしてのんびりつかる気力も余裕もなかったので、彼女はシャワーの栓をひねり、部屋に続くドアを確認しながら素早く着ているものを脱いだ。さっき尾木があてがってくれたティッシュが、はらはらと床に落ちた。美穂はそれをしばらくじっと見ていたが、やがて丸めて屑籠《くずかご》に捨てた。
熱いシャワーは心地《ここち》よかった。手の甲の傷が少ししみたが、さほどではなかった。顔を洗うついでに備えつけの歯ブラシで歯を磨いた。
ラブホテルで歯を磨いたのは初めての経験だった。普通、こういう場所では歯なんか磨かないものだ。そう思うとおかしかった。歯磨き粉が初めから塗りつけられているその歯ブラシは、味が悪く、磨き終えると口の中が苦くなった。彼女はシャワーの湯で何度も口をすすいだ。
タオルで顔や体を拭《ふ》きながら、ふと化粧品を何も持ってきていないことを思い出した。かまうものか、と思いつつ、美穂は鏡に映った自分の素顔を見て、口紅一本、紙おしろいの一枚でもあればと思った。令子ならどうしていただろう。いつも厚化粧の令子なら、たとえ逃亡中の犯人の人質になっていても、化粧道具一式が入った大きな化粧ポーチを手離さなかったに違いない。
脱衣室にあった使い古しの安っぽい乳液を顔になすりつけ、美穂は部屋に戻った。尾木はぐったりした様子で音を消したままTVを見ていたが、美穂の姿を見ると「ビールでも飲めよ」と言った。「飯を頼んでおいたぞ。煙草もな」
美穂はうなずき、テーブルの上にあったコップにビールをついで飲んだ。ビールは冷えすぎていて、胃が少し痛んだ。
「世間は大騒ぎだぜ。どのチャンネルも軽井沢しか映ってねえよ」
TV画面には、ちょうど川村山荘の全景が写しだされたところだった。美穂たちが泊まっていた部屋の窓も見える。紺ずくめの服を着た警察の人間たちが数人、山荘のまわりをうろうろし、眼鏡をかけたきつね顔の男のアナウンサーが興奮して口をぱくぱく開けていた。
「もうすぐあんたの写真も公開されるな。ついさっきまではうらべの女房の写真しか映ってなかったけど、今度はあんたの番だ。あんた、原田ミホっていうんだって?」
「どうしてわかったの」
尾木はTVのブラウン管を顎《あご》でしゃくり、「あいつがさっきそう言ってた」と言った。
美穂は立ち上がってボリュームをあげた。
「無駄《むだ》だよ」と、尾木が言った。「さっきから同じことしか喋《しやべ》ってねえんだ。詳しくはわかり次第、お知らせしますとさ。多分、あんたの友達からの情報がまだ完全に入ってないんだろ」
「令子は無事だったの?」
「無事に決まってるだろ。ひとりで逃げ出したんだから。今夜のニュースでは悲劇のヒロインをやるんだろうよ」
美穂は顔をしかめ、TV画面を見つめた。尾木の言う通り、山荘で管理人と犯人のひとりとみられる男が射殺され、人質の女性一名が行方《ゆくえ》不明ということ以外、大した情報は入っていないようだった。
「ミホ、か……」
尾木がひとりごちた。
「運が悪かったな。あんたも」
彼は革ジャンのポケットに両手を突っ込み、薄笑いを浮かべながら肩をいからせた。ビールを飲んだせいか、少し頬《ほお》が赤い。
「あなた、名前はなんていうの?」美穂が聞いた。
「名前なんか聞いてどうすんだよ」
「別にどうもしない。ただ知りたいだけ」
「知らなくたっていい。適当に呼べよ。ケンでもジュンでも、あんたの恋人の名前で呼べばいいさ」
「恋人なんていないわよ」
美穂は笑った。尾木は彼女を上目づかいに見た。充血して腫《は》れてはいたが、どこかにあどけなさの残る涼しい目だった。
「尾木ってんだ。尾っぽの尾≠ノツリーの木=v
「前科があるの?」
「サツの世話になったことはない」
「でしょうね。そんな感じよ」
「どうしてわかる?」
「なんとなく」
尾木はふっと力なく笑い、ビールをついだ。ドアにノックの音がし、女の声が響いた。
「お食事、お持ちしましたけど」
尾木は立ち上がり、少しためらってから低い声で答えた。
「そこに置いといてくれ」
「いいんですか」と、ドアの外の声が聞いた。世間のあらゆることに興味関心を失った、映画館の切符売り子のような声だった。
「いいんだ。今、手が離せない」
「では、ここに置いておきます」
廊下に食器の鳴る音がし、足音が去った。尾木はドアに耳をつけて誰もいないのを確認すると、プラスチック製のトレイを部屋の中に運び込んだ。トレイの上には色の毒々しいカレーライスと二人前はありそうな大盛りのピラフ、サンドウイッチ、それにハイライトが二箱のっていた。
「食えよ」
美穂はうなずき、サンドウイッチをひとつつまんだ。冷たく乾いたサンドウイッチだったが、旨《うま》く感じられた。尾木はみるみるうちにカレーライスをたいらげ、ピラフに手をつけ出した。スプーンを口に運ぶと同時にビールが流しこまれる。噛《か》んでいるのか飲み込んでいるのかわからない。その食欲につられて美穂も次から次へとサンドウイッチを食べた。食べれば食べるほど、新たな食欲が湧《わ》いてくる。気付いた時は皿は空になっていた。
尾木は面白そうに美穂を見た。
「立派な食欲だな。見直したぜ」
「お腹《なか》がすいてるって、今初めてわかったのよ」
「これも食えよ。俺《おれ》はもういい」
彼は皿ごと美穂に押しやった。皿の上には盛られたピラフの山のちょうど半分がきれいに残っていた。美穂はためらわずにそれを受け取った。そして、飢えた子供のようにスプーンを口に運びながら、尾木の使ったスプーンであることをまるで気にしていない自分に気付いて少し驚いた。
*
六時のニュースで、美穂は生まれて初めて自分の顔がTV画面に大写しになっているのを見た。学生時代、令子やその他の友人たちと箱根に遊びに行った時のスナップ写真である。頭に幾何学《きかがく》模様のターバンを巻いた令子とホテルのコテージで撮ってもらったもので、同じ写真を美穂も持っていた。
アナウンサーは手に美穂の特徴を示すカードを持っており、二度繰り返してそれを読み上げた。
髪はショートカットで多少、くせ毛。身長一メートル六十センチ。ジーンズにクリーム色のセーター。所持品はないもよう。
「なお、原田美穂さんを連れて逃走中の犯人の身元はまだ不明ですが」と、アナウンサーは眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せながら言った。
「身長一メートル八十センチ位でジーンズに白のTシャツ、黒い革のジャンパーを着、青い大型布製バッグを持ち歩いているとのことです」
画面には今度は尾木のモンタージュ写真が現れた。尾木は「ほう」と、言った。
「いい男に画《か》けてるじゃないか」
「あまり似てないわ」と、美穂が言った。
「別人みたい」
それは本当にそうだった。令子の証言をもとに作成されたに違いないそのモンタージュ写真は、尾木の唯一《ゆいいつ》の特徴と言える目の大きいことを除くと、どこと言ってとらえどころのない平凡な顔に描かれていた。
「本当に原田美穂さんが無事に戻ってくれればいいのですが」と、男のアナウンサーがアシスタントの若い女に言った。若い女は通夜《つや》に出席しているような暗い顔で「心配ですね」と、相槌《あいづち》を打った。カメラがもう一度、美穂の顔写真を大写しにした。
「この女性をみかけた方は、ただちに最寄りの警察へ御一報ください」
尾木が立ち上がり、黙ってTVを消した。革ジャンを脱ぎ、Tシャツ姿になった彼は贅肉《ぜいにく》のないぶ厚い胸をTシャツの上からボリボリと掻《か》いた。
「この調子でいったら、明日あたりあんたは国民的有名人だな」
「そうかしら」
「当然さ。新聞を見りゃあわかるよ。どの新聞もあんたの写真をでかでかとのっけてるさ」
「じゃあ、もう外を私なんか連れて歩けないわね」
「だろうな」
「諦《あきら》めたほうがいいわね」
「何を」
「私を連れていくってこと」
尾木は短く首を横に振り、「今さら諦めてどうする」と、言った。
美穂は溜息《ためいき》をつき、煙草に火をつけた。時折、外の通りを疾走していく車の音が聞こえる。外気は冷たいのだろうが、部屋の中はヒーターがきいて暖かかった。足元の虎毛《とらげ》の猫のぬいぐるみが見えない目で美穂を見上げている。
尾木はカヌーを型取ったベッドに寝そべり、両手を組んでその上に頭を乗せた。その反動でべッドが少し揺れた。
「何か話をしよう。黙ってると眠くなりそうだ」
「何の話?」
「何でもいい。あんたのことでも話してくれ」
「何を話せばいいの? 住所? 電話番号? それとも年収?」
美穂はふてくされたように言って、鼻を鳴らしながら笑った。尾木は表情を変えなかった。
「あんた、幾つだって言ったっけな」
美穂は指に煙草をはさんだまま、天井を見上げた。
「二十五」
「どこに住んでる?」
「東京よ。目黒の近く」
「ひとり暮らしなんだろ」
「そう、ひとり。猫も犬も飼ってない」
「働いてんのか」
「働かなかったら食べていけないもの。会計事務所に勤めてる」
「仕事は面白いか」
「ちっとも。でも今日、あなたの人質として連れてこられて得したことがひとつだけあるわ。本当は今日の午後から事務所に出なくちゃいけなかったから」
「今度、事務所に戻ったら、昇進してるぜ、きっと。英雄さ、あんたは」
あはは……と美穂は力なく笑い、「戻れたらね」と、つけ加えた。尾木はベッドの上に上半身を起こし、ピンク色の枕《まくら》を抱きかかえた。
「男はいないのか」
「恋人のこと? いないって言ったでしょ」
「珍しいな。若いのに。あんまり遊ばないんだろう」
「興味ないの。そういうこと」
「じゃあ、処女か」
「まさか」と、美穂は煙草を灰皿で押しつぶした。「二十五よ。これでも」
「俺が当ててやる。恋人にふられたか何かして、ショックから立ち直れないでいるんだろ」
「そんなとこね。立ち直れないってのは当たってないけど」
「前の恋人ってどんな奴《やつ》だったんだ?」
「どんなって、普通よ。嘘《うそ》をつくのがうますぎて、すっかりだまされたけど」
「頼もしい野郎じゃねえか。女をだましきるのは案外、難しいもんだ」
「でしょうね。頭がよかったのよ。私なんかよりずっと」
「そいつは学生か」
美穂はうなずいた。尾木は指を一本ずつ折りながら、数え上げるように言った。
「学生で頭がよくて、育ちもいい。きっとカッコもよかった。で、今はエリートコースに乗って社長の娘か孫かと婚約した……そんなとこだな」
「死んだわ」
美穂の後ろでベッドがきしむ音がした。彼女は続けた。
「三年前かな。別の女の人と一緒にドライブしてて、事故に遇《あ》ったの。その女の人、彼の婚約者だったみたい」
「ふーん」と、尾木は退屈そうに言った。
「あんたはその事実を後で知らされたわけか」
「そう。安っぽいTVドラマになりそうな話でしょ」美穂は笑った。
尾木は枕《まくら》を放り出すと、冷蔵庫からビールを取り出し、栓を抜いた。「男と女なんてそんなもんさ」
「でもそれ以来、なんとなく愛だの恋だのっていう感情がわかんなくなっちゃってね。毎日、ぼんやり生きてきたの。ぼんやりしてるのって、気持ちいいのよ。私、昔からタフじゃないから」
「タフな女は嫌いだ」と、尾木は美穂の隣に座りながら言った。
「俺みてえなその日暮らしの風来坊には、タフな女は合わないよ。どいつもこいつも計算高くて、女王を気取るか、さもなきゃ金貸しばばあだ。ケツを振ってるだけのパープリン姉ちゃんのほうがよっぽどましってもんだ」
「あなた、恋人いるの?」
美穂は尾木のほうへ顔を向けて聞いた。彼はビールの入ったグラスを目の高さに掲げてぐるぐる回しながら「いないよ」と、答えた。
「寝た女なら三桁《けた》はくだらねえけど」
「どこに住んでるの? 東京?」
「生まれも育ちも東京さ。両親とは長いこと会ってねえけどな」
「親はどこにいるの?」
「親父《おやじ》の郷里の熊本《くまもと》に引っ込んでるよ。そのうち、慌《あわ》てるだろうよ。息子が有名になって」
「でしょうね」
「犬山の親父《おやじ》さんもびっくりしてんだろうな」
「犬山、っていうの? あの人」
「ああ。俺の高校からの友達だった。あいつの生まれは悪くないんだぜ。おふくろはいないけど、親父さんは東京で呉服屋をやってるんだ。あいつがヤクザとの付き合いを始めてからは親父との緑も切れてるみたいだったけど。まあ、俺なんかの比じゃねえよ。あいつ、目茶苦茶《めちやくちや》だったもんな」
「よく二人で悪いことしてきたの?」
「二人でやったのは万引くらいさ。あいつが女を犯すシーンは何度か拝ませてもらったけどな。一緒にヤバイことやったのはこれが初めてだ」
「そう」
「あいつも馬鹿だったよ。バカスカと考えもなしに人を殺しちまうから、最後には自分がやられるんだ。ざまあみろってんだよ」
美穂はなにげなく尾木の右手を見た。その手が、今話している仲間を撃ち殺したのだと思うと恐ろしかった。何故《なぜ》、尾木が犬山を殺したのか、理由を聞きたい気持ちはないわけではなかったが、美穂は二度と事件の話はしたくなかった。話すだけで身の毛がよだつような気がしたのだ。
雨が降り出したらしく、ホテルを出て行く車のタイヤの音が、遠ざかってもなお、ざわざわと耳に残る。
「すんじまったことよ」
尾木がいきなり立ち上がると、軽薄な抑揚《よくよう》をつけてそう言った。
「今さら何言っても仕方ねえさ」
尾木はアリスの部屋≠フ作り物の木にもたれ、腕を組んだ。疲れた顔をしてはいたが、その姿は若々しく、美穂に何かなつかしい感情を呼び覚ました。ずっと昔、太陽や夜の匂《にお》いや足元の濡《ぬ》れた草や風……ありとあらゆる世界のひとつひとつが、この上もなく正確につかみ取れるような気分になった時があったが、それに少し似ているような気がした。
尾木が腕組をしたまま、口もとにやさしげな笑みを浮かべて言った。
「今日、車の中であんたに言ったこと、訂正するよ」
「何?」
「俺の好みのタイプじゃないってこと。あれ、嘘《うそ》だ」
美穂が黙っていると、彼はジーンズのポケットに両手の親指を突っ込みながら、ソファーのところまで歩み寄り、どさりと音をたてて座った。
「もう寝な」
「え?」
「ベッドを使って寝な。安心しろ。何もしないよ」
車のエンジンの音が、遠くでかすかにした。
21
令子がベッドの中でもぞもぞと動いた。うわごとのようなものを口走り、次に両手でシーツを握りしめながら急に飛び起きた。
香川久はスタンドのシェードにかけておいた上着を取りはずし、部屋を明るくするとベッドに駆け寄った。
「どうした?」
令子は汗で光る額に手を当てて、夫を見上げた。少し、呼吸が荒い。
「うなされてたぞ」
「何でもないわ。なんか変な夢を見たみたいで……」
改めて見る妻の顔は、化粧を落としているせいかひどく頼りなげに見える。事件の概略は警察で聞いたが、新聞社に報告したり、軽井沢に来ている同じ記者仲間たちに取り囲まれたりしたおかげで、令子から詳しい話は聞かずじまいだった。
とても東京まで帰る気力と体力がなさそうだったので、南軽井沢にあるこのホテルをとったのだが、令子は話もそこそこにベッドにもぐり込んでしまった。よほどひどいショックを受けたのだろうと思うと、久は改めて犯人たちに煮えくりかえる怒りを覚えた。
昨夜は、うらべ由香利射殺事件で社内は大騒ぎになり、おかげで久の担当した芸能記事は掲載延期になった。いつまでも社内をうろうろしていると、ろくでもない用を頼まれそうだったので、早々に引き上げ、珍しくどこへも寄り道せずに家へ帰った。
深夜二時頃、おかしなことだがもう一度、山荘に電話をしたくてたまらなくなった。令子は時々、気晴らしの旅行をしたが、彼が宿泊先に日に二度も電話をかけたくなったことなど、かつてなかったことだった。
結局、岸本夫妻を起こすことになるので遠慮したが、あれはやはり虫の知らせだったのだと、彼はつくづく思った。
「眠れなくなったのなら、無理に寝ることはないよ。何か飲むか?」
久がそう言うと、令子は仰向《あおむ》けになったまま、両手でツルリと顔をこすった。
「アルコールは今いらない。ジュース、ある?」
「持ってこよう」
久は部屋に備え付けの冷蔵庫から缶入りオレンジジュースを取り出し、グラスに注《つ》いで令子に差し出した。彼女はだるそうに起き上がり、小鳥が水を飲むように少しずつそれを飲んだ。
「今、何時?」
「十一時半だ」
「まだ、何の連絡も入らないのね」
「ああ」
「どこにいるんだろう、美穂。かわいそうに」
「バンのナンバーも手配済みだし、彼女の写真もばらまいてるし、犯人のモンタージュもあるんだ。逃げきれるはずはないと思うんだがな」
「私が、美穂をおいて逃げ出したりしなきゃよかったのよ」
令子は顔をおおった。
「もう、いい。君だってできるだけのことはしたんだから」
「でも……」
「でもも何もないさ。いいかい。君が逃げ出さずにいたら、君も美穂ちゃんと一緒に人質にとられて今頃、行方《ゆくえ》知れずだったんだよ」
「美穂に何かがあったら私のせいよ」
「誰のせいでもないよ。みんな、あの気が狂った連中のせいなんだ」
令子はジュースをひと口飲み、片手で口を拭《ぬぐ》った。
「パパ、電話でなんて言ってた?」
「心配してたさ。明日の朝、ここへ電話をかけるって言ってた」
久が警察から川村出版社に電話した時、川村牧夫は興奮して今にも泣き出さんばかりだった。普段から娘を溺愛《できあい》していた川村は、生き残って逃走中の犯人を金を積んででも見つけ出し、機銃掃射《きじゆうそうしや》でひと思いに殺してやりたいと、電話口でまくしたてた。人質になっている美穂のことなど、頭にないようだった。
彼はさんざん、あたりちらした後、久に向かって言いたい放題の皮肉を言った。君みたいな新聞記者と結婚するから娘はこんなことになったんだ、妻をほったらかして下らん芸能人の尻《しり》を追ってる男に、娘を安心して預けた私が馬鹿だったよ、若い女房にひとりで旅行に行かせておいて、よくも平気だね、君は、亭主としての責任をどうとるつもりなのかね!………
「心配しすぎたらしく、僕まで叱《しか》られたよ。亭主失格だってさ」
令子はふっと笑ったが、別に父親の大袈裟《おおげさ》な表現をけなしたりはしなかった。だいたい、令子はいまだに父親べったりなのである。給料を渡すのが一日でも遅れると、すぐ実家に帰って父親に小遣いをねだる。大きな買物をするとなると、久に相談もなく父親に金を出させる。久と喧嘩《けんか》すれば、すぐ実家に帰るか、さもなくば美穂に泣きつく始末だ。とても二十五歳の一人前の女とは思えない。
「今夜、すぐ軽井沢に行くってきかなかったんだけどさ、僕がやめてくれって言ったんだ。僕がついてるから大丈夫ですよ、ってね。まったく、あの人も娘のこととなると半狂乱だから」
「パパは私のこと、大事で大事でたまらないのよ。それにこんなことのあった後だったら、親ならたいてい半狂乱になるでしょ」
「そんなもんかね。君のおやじさんはいつだって君のこととなると半狂乱じゃないか」
「何が言いたいの?」
令子が目をつり上げた。「パパにやきもちなんか、妬《や》かないでよ」
「まあ、いいさ。君はいつまでたってもお嬢さんなんだからな」
そう言った後で久は後悔した。何もこんな時に、日頃のわだかまりを言う必要はない。令子が受けたショックを考えると、言うべきことは他にいくらでもあるはずだった。彼は姿勢をただしてベッドの端に腰を下ろし、大きく息を吸った。
「やめよう。こんなことは今、どうでもいいことだしな。それより僕に詳しい話をしてくれ。知りたいんだ」
「話なら警察から聞いたんでしょ」
令子の口調はとげとげしかった。
「聞いたけど、君の口から聞きたい」
「警察に言った通りよ。もう、何がなんだかわからないことばかりだったわよ。人が死ぬのを見たのも初めてだったし。TVのギャング映画みたいなもんだった」
久はうなずきながら立ち上がり、煙草をくわえてテーブルの上のマッチで火をつけた。
「吸うか」
令子は首を横に振った。彼は煙をスタンドに向かって吐き出すと、考え深げに煙草を指の間でくるくる回した。
「気になってたんだ。正直に言ってくれよ。君、いや君も美穂ちゃんも、犯人たちに何かされなかったのか?」
「何かって何?」
「一晩中、犯人と一緒だったんだろ。トキさんを別にすると、若い女は君と美穂ちゃんしかいないじゃないか」
「何が言いたいのよ」
「……何もなかったんだろうな」
「ないわよ。縛りつけられて痛いし、怖いし、犯人たちも殺気だってるし、それどころじゃなかったわ。変なこと聞かないでよね」
「それだったら、いいんだ」
「なんなら、身体を調べてみる?」
令子が皮肉っぽく言った。久はちらっと彼女を見たが、答えなかった。
部屋は適度に暖かく、静かだった。久は苛々《いらいら》したように煙草を灰皿で押しつぶすと、部屋の中を歩き回った。
「連中は、山荘に行く前にうらべ由香利を暴行してるんだ」
「それがどうしたの」
「女と見れば、見境《みさかい》なく乱暴するような連中なんだよ」
「だから、それが何なのよ」
「いや、今日、記者連中から不愉快なことを言われたんだ。何もなかったはずはない、君や美穂ちゃんに何があったのか、詳しく知りたいってね」
「何よ。私や美穂が暴行を受けたっていうの?」
「下卑《げび》た興味はそこにあるんだよ。いまいましい」
「いやんなっちゃう」と、令子は顔を歪《ゆが》めて頭を激しく振った。
「どうしてそんなことしか想像できないんだろう。最低よ。あなたもよくそんな世界で仕事をしてるわね。不謹慎で品がなくて、下劣で! 人がどんな思いをしていたか、わかろうともしないんだわ。こんな時に、こんな時に……いったい何だって言うの。そんなこと話したくもないわ」
令子の目から涙があふれ、花模様のパジャマの胸に落ちた。それは丸い露のようにレースのフリルの上でころころと転がった。
久は目を伏せ、令子の側に行ってその肩に手を乗せた。
「ごめん。悪かったよ」
今夜は頭がどうかしている。何を話しても何を聞いても、想像力だけが先行して、つまらない言い合いになってしまう。自分がしっかりしていなくてはならない時だというのに。
令子は声を上げて泣き出した。彼は背中を抱きしめた。
「もういい。泣くな。君が無事でよかったよ。それだけでも不幸中の幸いだ」
令子はしばらく泣いていたが、やがて鼻をすすり、そっと顔を上げた。
「ね、本当にそれどころじゃなかったのよ。そんな……犯人たちに何かされたかどうかだなんて。それどころじゃなかったのよ」
久が子供をあやすように背中をぽんぽんと叩《たた》くと、令子は目を伏せ、静かに身体を離した。
「もう寝るわ」
「水割りでも飲まないか」
「いいの。横になっていたいだけ」
久は令子が横になるのを手伝い、毛布を肩のところまでかけてやった。枕元《まくらもと》のスタンドを消そうとすると、令子の手が伸びてきて久の腕をつかんだ。
「美穂、無事だと思う?」
「きっと無事さ。あの子は頭がいい。もう逃げ出してるかもしれないよ」
令子は哀《かな》しげに微笑《ほほえ》むと目を閉じた。
22
美穂は夢を見た。小さな汚い映画館にたくさんの人が集まっている。館内は静かで物音ひとつしない。田舎《いなか》の廁《かわや》にあるような、薄ぼんやりとした気味の悪い明かりが天井で時折、点滅している。
美穂は後ろの席を見渡した。男と女が交互に座り、全員が色の濃いサングラスをかけている。誰も美穂のほうを見ようともしない。
スクリーンはまっ白だった。美穂は不吉な予感がして席を立とうとする。だが、立とうとして腰を浮かせると隣の女が泣く。気のせいかと思い、もう一度、席につくと女は泣きやむ。ますます、薄気味悪くなり、彼女はひと思いに立ち上がった。
その途端、女の絶叫が響き、スクリーンがメリメリという音をたてた。驚いてスクリーンを見ると、白い画面に赤い穴が空いた。穴の中心からぽたぽたと血が流れ出す。美穂は目をつぶって叫んだ。「やめて!」
自分の叫び声で目を覚まし、飛び起きると尾木が美穂を見下ろしていた。寝ながら暴れていたらしく、カヌーのベッドが揺れている。美穂は額に手を当ててうつむいた。
「夢をみたの。怖かった」
「そうらしいな。うなされてたぜ」
「どこかの映画館で座ってたら、スクリーンから血が流れ出したの。逃げようと思っても逃げられなくて……」
彼女は首にかいた汗を手の平でひと拭《ぬぐ》いした。油っぽいべとべとした汗だった。尾木は黙って美穂のやることを見ていた。
雨足が強くなったらしく、窓のない部屋の外壁に時折、激しく当たる音がする。雨の音以外、何も聞こえない。美穂は首を回して雨の当たる壁のほうを見た。
「今、何時?」
「さあ、二時ころかな」尾木が美穂から目をそらせ、見当をつけて言った。「二、三十分前から、俺も目が冴《さ》えて眠れなくなっちまった」
美穂は毛布をはいで、ベッドから出た。服を着たままで寝たので、セーターが伸びてしまったような感じがする。彼女は腕をまくって、ソファーに座った。
室内はキノコの形をしたスタンドの明かりだけで、ぼんやりと薄暗かった。ぐっすりと眠れなかったせいか、かえって疲れが出て軽い頭痛と吐き気がする。美穂は冷蔵庫から冷えたコーラを取り出して栓を抜き、瓶《びん》に口をつけて飲んだ。
「寒くないか」
尾木が彼女の正面にある椅子《いす》に腰を下ろして聞いた。美穂は首を横に振った。
「ひでえ雨だな。あんなに天気がよかったのに」
「そうね。まるで台風みたい。風もあるし」
「子供のころ、台風が好きだったっけな」
尾木が思い出したように言った。
「俺、台風が来るっていうと喜んで学校に行ったっけな。皆、そわそわしててさ、センコウたちまでいきいきして、祭りみたいだった。風と雨がちょっとでも強まると、センコウどもは職員室に集まってひそひそやるんだ。俺たちがカバンに教科書を全部しまいこんで待ってると、担任が帰って来てさ。もったいぶった、まるで誰かが死んだみてえな言い方で『皆さん、今日はこれで学校は終わりです』って言うんだ。俺たちは大喜びで机をばたばたやって騒ぐ。楽しかったよ」
うふふ、と美穂は笑った。
「同じよ。私も台風って好きだった。町中がざわついてるのよね。大晦日《おおみそか》の夕方みたいに。皆、食料を買いこんだり、家中の窓を確認したりして、いよいよって時に備えて……。うちの母親なんか、はしゃいじゃって大変だったわ。父がいつも帰りが遅かったもんだから、台風の時くらいしか夫婦の団欒《だんらん》がなかったみたい。今から思うと」
「故郷はどこだったんだ?」
「私も東京生まれよ。でも、中学二年の時に父が死んで、母と妹と母の郷里の松江《まつえ》に引っ越したの」
「松江か。行ったことねえな」
「いいところよ。水の多い町でね。あっちこっちに運河みたいな小さな川があって、一軒一軒の家の前に橋がかかってるの。ベニスの小型版って感じ」
尾木はのびかけた顎《あご》の髭《ひげ》をこすりながら、ゆっくりと目ばたきした。
「もう、随分、松江には帰ってないな」
美穂は両手を首の後ろに回して背筋を伸ばした。
「帰ると母たちがうるさいのよ。見合いをしろしろ、って。松江の男と結婚させるのが夢らしいわ。結婚なんてね、考えたこともないのに。宍道《しんじ》湖の水に囲まれて、とっても平凡に松江で主婦になるのも悪くはないけど、面倒くさくってね。別に他に夢があるわけじゃないんだけど……」
彼女はそう言った後、ふっと我に返ったように姿勢を正し、笑いながら言った。
「変ね。こんな話して。人質だっていうのに」
尾木はそれには答えなかった。美穂は目をこすった。雨がいっとき激しくなった。キノコ型のスタンドの明かりが微《かす》かに揺らぐ。
「結婚したいと思ったことある?」美穂は聞いた。
「ねえな」
「私もない」
「でも、死んだ恋人とやらと結婚するつもりだったんじゃないのか」
「そんなこと考えてなかった。ただ好きだっただけよ」
「変わってんな、あんた。女はたいてい、すぐ結婚したがるもんだぜ」
「結婚と人を好きになることは別だもの」
「いいこと言うな。その通りだぜ。あんたの昔の恋人はあんたよりも、どっかのおひい様と結婚して楽をすることが目的だったんだ」
でも、と美穂は言った。「事実を知った時は落ち込んだわよ。あの時、令子がいなかったらどうなってたか、わかんない。令子は私の恩人なの」
尾木はじっと美穂を見た。
「へえ、あの女がね」
「そう。本当に彼女のおかげよ。そういうことってわかるでしょ」
「ああ」と、尾木は言った。
「ただし、実感はねえな。俺、誰かのおかげとかなんとかっていう目に遇《あ》ったことがないからな。女ともないし、まして男とあるわけがない。あんたのように幸せに生きてこなかったしな」
「何が幸せなのかしらね。私にはよくわかんないわ」
尾木はしばらく黙っていたが、思いきったように立ち上がると、美穂の横に来て座った。クッションが少し、傾いた。彼は前屈《かが》みになり、太股《ふともも》に肘《ひじ》をつきながら何かを考え、その後、ぽつんと言った。
「あんたとは気が合いそうだな」
「そう?」
「ああ。そんな気がするぜ」
尾木は彼女のほうを見た。
「どこか、行きたいところがあるか」
「行きたいところ?」
「ああ。明日からは、あんたの行きたいところに逃げることにした。どこでもいい。言ってくれ」
「旅行してるみたいね、まるで。人質と犯人の旅行プラン。面白いじゃない」
あまり、尾木が真面目《まじめ》な顔をしているので、美穂は茶化《ちやか》した調子で言った。彼女は自分の中で熱くなりつつある、パイロットファイヤーほどの小さな火の行方《ゆくえ》が怖かった。その火が火屋《ほや》を失ったランプの火のように、危なげに燃えさかり、風向き次第ではめらめらと焔《ほのお》をたててしまいそうな気がしていた。
「どこへ行きたい」
尾木は表情を変えずに繰り返した。美穂は息を飲み、彼を見つめた。
「松江に行きたいか」
「…………」
「それとも……」
美穂の顔のすぐ近くに尾木の顔があった。尾木が彼女の顎《あご》を引き寄せ、大きな手で頬《ほお》を包んだ。暖かい、安心する手だった。彼女は目を伏せた。柔らかいものが鼻に当たり、次に唇に移った。微《かす》かに煙草の匂《にお》いがした。
彼女は体の力を抜き、じっとしていた。何も考えられなかった。今、自分が何をしているのか、もし考えていたとしたら、すぐにその場から逃げ出さねばならなかっただろう。尾木は筋肉の塊のような腕で、美穂をおずおずと抱いた。
「ごめんな」
耳元で尾木が囁《ささや》いた。泣いているみたいな声だった。鈍く大きく鼓動する心臓の音が伝わってくる。
「あんたには悪いと思ってるよ」
美穂は黙ってじっとしていた。強い風が吹き、建物がみしみしと音をたてた。
「許してくれ。夢中だったんだ。夢中であんたを連れて来ちまった」
美穂は上半身をねじって正面を向いた。そして尾木の目を見た。その目はうるんでいた。
「不思議ね」と、彼女は小さな声で言った。
「今はそのこと、何とも思ってないわ」
「俺が怖くないか」
美穂は首を横に振った。尾木はうなずいた。美穂は涙ぐんだ。何故《なぜ》、涙が出てくるのかわからなかった。昔、父親が死んで松江に行く時、列車の中でみかんをむきながら泣けて泣けて仕方がなかった時の感じに似ていた。
「金沢《かなざわ》がいい」と、美穂は目をしばたたかせて言った。
尾木が怪訝《けげん》な顔をして彼女を見つめた。
「明日は金沢に行きたいわ」
彼の口元に微《かす》かな笑みが浮かんだ。彼は美穂の額、目、鼻から口、顎《あご》へと視線を移し、最後に幼い子供がすすりあげるようにして鼻をすすった。丸い喉仏《のどぼとけ》が上下に揺れた。
「金沢って、一度行ってみたかったの」
彼は大きくうなずいた。そしてもう一度、かたく美穂を抱きしめると、耳元で繰り返した。
「一緒にいてくれ。俺と。怖いんだ」
尾木は微かに震えていた。美穂は少しためらった後、両手を彼の背に回した。背中はぶ厚く、広かったが、子供のように頼りなげでもあった。彼女は大きく息を吸うと、力を込めて彼を抱いた。
*
翌朝、美穂はカヌーのベッドの中で、尾木はソファーでそれぞれ目を覚ました。尾木は彼女をベッドに寝かせた後、ソファーの上でほとんど一晩中、うなされていたが、美穂はそのことを彼に言わなかった。
サンドウイッチとコーヒーの簡単な朝食を頼み、食べ終えると、尾木が聞いた。
「あんたのセーター、男物か?」
「ううん。大きいけど女物よ。どうして?」
「それ、俺が着れないかな。交換したいんだ。あんたのセーターと俺の革ジャン」
「ああ」と、美穂は納得《なつとく》した。「そして私がサングラスをかける。そうでしょ」
彼女は昨夜のTVに映し出された自分の顔を思い出した。あの時と今と比べたら、今のほうが少し髪が短いが、顔はまったく変わっていない。尾木は今朝になってもTVのスイッチを入れなかったからわからないが、多分、世間に自分の顔は知れ渡っていることだろう。
「気は変わってねえだろうな」
美穂はうなずいた。もう、逃げ出そうとは思わない、あなたと一緒に行く、そしてそのことが何を意味するのかもちゃんと知っている、それでも私はあなたと金沢に行く……そう伝えたかったのだが、うまく言葉になりそうもなかったのでやめた。尾木はじっと彼女を見つめると、言った。
「後悔しないか」
「しない」
「逃げるなら今だぜ」
美穂は首を振った。
「もし、逃げたら、また追っかけて来てよ」
尾木はふっと笑った。「OK。そうするよ」
美穂には尾木の革ジャンは大きくても似合ったが、尾木には美穂のセーターは見るからに小さすぎた。彼は丈の足りない袖《そで》をまくり上げ、窮屈そうに肩を動かして笑った。
「きつそうね。大丈夫?」
「平気さ。後で何か着るものを買うまでの辛抱《しんぼう》だ。昨夜、あんたが寝てる間に初めて金を数えてみた。三百万近くあったよ。何でも買ってやるぜ。毛皮のコートでも何でも」
「いらない。そんなもの」
ふたりは微笑《ほほえ》み合った。尾木が美穂の頭を軽く撫《な》でた。
「あんた、可愛《かわい》いよ。ぶかぶかの服を着た人形みてえだ」
「大事に扱ってよね。昨日みたいに怪我《けが》するのいやだもの」
「わかってるって。刺《とげ》、一本刺しゃしねえよ」
ホテルの会計を済ませる時、尾木も美穂も緊張したが、フロントは防弾ガラスとも見まがうぶ厚いスモークガラスで仕切られており、相手の顔は見えず、ふたりの顔を見られることもなかった。ガラスの向こうで、「ありがとうございました。またどうぞ。お気をつけて」と、テープに吹き込まれたような女の声がした。昨夜と今朝、食事を持ってきた女と同じ声だった。
十数時間ぶりに出た外は、まだ少し雨が残っていて寒かった。駐車場には昨日、来た時とはまったく違う車が並んでいる。夜遅く来て泊まったカップルの車らしい。どの車のボンネットにも雨滴が渇ききらずに残っている。フロントガラスに枯葉がこびりついている車もあった。
尾木はバンの廻《まわ》りをぐるりと廻り、異常がないことを確かめると運転席につき、イグニションキイを入れた。
「駅の近くでこいつを乗り捨てるからな」
「駅の駐車場に入れるの?」
「いや、駐車場はヤバイ。すぐ見つかる。どこか何でもない道路に止めとけばいいさ。さりげなくな」
ピンク色の暖簾《のれん》をくぐり、道路に出ると尾木は茅野駅方向に向けて車を走らせた。フロントガラスの雨滴を落とすワイパーの規則正しい音が車内に響く。中央高速道路と平行して走る一般道を抜けると、すぐ駅が見えてきた。尾木はあたりを見回し、古い駄菓子屋《だがしや》の横に公園とも駐車場ともつかぬ小さな空き地を見つけると、迷わずそこへ車を入れた。
どうやら家を取り壊した後の空き地らしかった。草が伸び、泥だらけのダンボール箱や空《あ》き瓶《びん》などがまとめて捨てられている。灰色のカバーをかけた乗用車が一台、駐車しており、尾木はバンをその車の横に並べて止めた。
車内に傘がないかと探したが、何もなかった。ふたりは仕方なくそのまま外へ出た。
町はぼんやりと煙って見えた。細かい埃《ほこり》のような雨が舞うように降っている。
ふたりは寄り添って革ジャンを頭にかぶり、小走りに町を走った。道行く人々はこの、長身の男と派手なサングラスをかけた若い女の、デートと呼ぶにはあまりに大胆な寄り添い方を好奇の目で見て通り過ぎた。
走りながら時折、ふたりは見つめ合い、微笑《ほほえ》み合った。吐く息が白く交差する。男の片腕はしっかりと女の肩を抱き、女の片腕はしがみつくように男の腰に回されている。誰もふたりがあの事件で追われている男とその人質だとは、夢にも思わなかった。
駅に着くとふたりのジーンズはびしょ濡《ぬ》れだった。尾木はキオスクで大きな紙袋を買い、青い布袋をそれに入れた。ついでにタオルと櫛《くし》、ビニールの傘、ポケットサイズの時刻表、そして少しためらった後、新聞を二紙買った。
構内のベンチに座ってふたりが新聞を広げると、一面トップに「軽井沢連続殺人事件」という大きな文字が読み取れた。美穂の写真、尾木のモンタージュは昨夜、TVで見たのと同じものが載っていた。
午前九時半。駅は比較的、人の流れが減る時間帯らしく静かだった。弁当とお茶、週刊誌を売っている国鉄の制服を着た中年の女が、退屈そうに煙草をふかしている。みどりの窓口には客の姿はなく、職員がガラスの向こうでしきりと生あくびを繰り返しては何かぶつぶつ独《ひと》り言《ごと》を言っていた。
尾木はひと通り目を通すと新聞を閉じ、そのまま側のゴミ箱に投げ入れた。
「読まないの?」
「自分の指名手配記事を読んでどうすんだよ」
尾木が目を曇らせた。美穂はその通りだと思った。新聞やTVのニュースは事実を知らず、知りたくてたまらない人のためのものだ。美穂はすでに事実を知っている。知りすぎるくらい知っている。今さら警察発表の記事を読む必要がまったくないのは、他ならぬ美穂と尾木だけなのだ。彼等の書く嘘《うそ》や勝手な推測、そして倫理的判断のずれを読んでいたずらに腹をたてても意味のないことだった。
美穂は尾木の腕に手を置いた。
「一切《いつさい》、新聞は読まないでいればいいわ。もちろんTVも」
「ああ」と、尾木はうなずき、付け加えた。
「忘れたいからな。あんなこと」
人生であれほど忘れられそうにないことは恐らく他にない、と思いつつ、美穂は力を込めてうなずいた。今は忘れるべきだった。何もかも。尾木が仲間を殺した直後のあの顔も、何もかもだ。ふたりの旅のことだけを考えているべきだった。帰る場所のない、綱渡りのような旅。旅は帰る所があるからこそ旅なのだ、という文章を以前読んだことがある。旅は自分の住処《すみか》を影のように引きずってこそ旅となる。だとしたら、これは旅とは言えないかもしれないと、美穂は思った。しかし、それでよかった。引きずりたいもの、引きずっておかなくては生きていけないものなど、美穂には何ひとつとしてないような気がしていた。それに今さら執着したいものを検証しても何の意味もないことだった。
尾木は切符売場で松本《まつもと》までの乗車券二枚を買った。松本から大糸《おおいと》線に乗り換え、糸魚川《いといがわ》まで行き、そこからさらに乗り換えて金沢に入るとすると、金沢着は夕方の四時過ぎになる。ふたりはベンチで時刻表を調べ、十時十五分茅野発の急行に乗ることに決めた。
23
田辺は、尾木の身元を割りだしてから幾分、憂鬱《ゆううつ》な気分に襲われていた。
本名、尾木|広明《ひろあき》。二十六歳。東京の中野《なかの》区生まれ。私立工業高校中退。死亡した犬山とは高校時代の同級生。前科なし。現住所、新宿《しんじゆく》区若松《わかまつ》町。
職歴に関しては不明だったが、犬山との関係は高校中退後、現在に至るまで続いていたらしく、暴力団との繋《つな》がりがある可能性は強かった。
だが、仮にそうであったとしても、何故《なぜ》尾木はこんな大それた犯罪に加担したのだろう。うらべ由香利を暴行殺害したのは、香川令子の証言から、明らかに犬山のほうだったと断定できる。それに岸本老人を射殺したのも犬山だ。初めから仕組まれた殺人でないならなおさら、尾木に犬山を殺してしまわねばならない理由など何ひとつないではないか。
盗んだ金を独《ひと》り占めするためとも考えられるが、調べたところ尾木にはこれといって大口の借金はない。それにだいたい、三百万ぽっちの金だけを目当てに仲間を殺すとは、まず考えられない。まして、人質を連れていくとなるとよほど覚悟の上でなければあり得ないことだ。
尾木が何故、犬山を射殺したか。そして何故、原田美穂を人質にとって逃走したのか。この二点が、田辺にとっての割り切れない謎《なぞ》だった。
岸本トキの意識が回復したという知らせを受けたのは、凶行のあった日の翌朝である。田辺は勇んで病院へ走った。香川令子の証言を上回る何か新しい証言が得られるかもしれなかったからだ。
病院の個室で、トキは呆《ほう》けた寝たきり老人のような顔をして田辺を迎えた。まだ、ベッドに起き上がる気力もないようで、仰向《あおむ》けに寝た白い枕《まくら》カバーには藁《わら》に似た灰色の髪の毛が放射線状に広がっていた。浴衣《ゆかた》模様の寝間着《ねまき》の袖《そで》が肩までめくられ、細い腕に点滴のチューブが差し込まれている。皺《しわ》の浮き出た首筋に残る、赤黒い指の跡が痛々しい。
田辺はなるべく静かにベッドに近づき、定期券を見せるように形式的に警察手帳をトキに見せると、「少しの間、お話できますか」と、聞いた。
トキは溜息《ためいき》と共にうなずき、すぐに田辺から目をそらした。クリーム色のビニールのカーテンがかかった窓から、小枝を伝って流れる雨の雫《しずく》が見える。田辺はトキから自分の顔が見えやすいように、丸椅子《まるいす》をベッドの脇《わき》に引き寄せて座った。
「香川令子さんから、事件の詳しい内容は聞きました。ですから、もう概略を話していただく必要はありません。ただ、ひとつだけ。あなたが首をしめられた時の詳しい話をお聞きしたいのです。覚えておられますか」
トキは濡《ぬ》れて血走った目を見開き、田辺の顔をじっと見つめた。
「よく、わかりません」
声帯がやられたその声は、壊れた笛の音のように聞き取りにくかった。田辺は耳を近づけた。
「私、どうしてたのか、さっぱり……。気がついた時は、あの人、あの、美穂さんが男に引っ張られて……出て行くところでした」
「どんな感じでした、美穂さんの様子は」
「とても、怖がっていて、顔が真っ青で……。かわいそうに、男は乱暴に美穂さんの手をつかみ、廊下を引きずるようにして出ていきました」
「あなたはその時、男と何か話しましたか」
「いいえ、何も」
「男は何も言わなかったのですね」
「はい」
「拳銃《けんじゆう》か凶器のようなものを男は持っていましたか」
「さあ、見えなかったけれど。でも美穂さんの様子ではずいぶん、乱暴に脅されていた……ように思います」
「それからあなたは警察に電話した。そうでしたね」
トキはうなずき、苦しそうに息を吐いた。
「いやなことを思い出していただくことになって恐縮ですが、御主人が撃たれた後、犯人はすぐにあなたの首をしめにかかったそうですね」
「はい」
「いつ、もうひとりが戻って来たか、覚えておられますか」
トキは目をつぶり、微《かす》かに首を横に振った。目尻《めじり》に涙が光った。
「ではあなたは犯人同士の争いを目撃しなかったのですね」
「何も知らないんです。死ぬかと思った途端、気を失ってしまって」
「では原田美穂さんが倒れた時の様子は?」
「知りません」
「銃声の音も聞かなかったんですか」
「聞かない。聞かなかった。私、もう何も……」
彼女は点滴を受けていないほうの手で、額をおおった。呼吸が乱れ、鼻孔が激しく動いた。付き添いの看護婦が田辺に目配せしながら、トキの肩をさすった。
「申し訳ない。まだ、気持ちが落ち着いておられないのにこんな話はおいやでしょうが、あと少し、我慢してください」
田辺は辛抱《しんぼう》強くトキの呼吸が元に戻るのを待った。看護婦が「あと一、二分にしていただかないと困ります」と、耳打ちした。彼はうなずき、もう一度、ベッドに身を乗り出した。
「ふたりの男について何かを覚えておられたら、言っていただきたいんですが。何でもいいんです。印象のようなものでも……」
トキは涙の光る目で田辺のほうを向き、何かを決心する時のように大きく息を吸い込んでから言った。
「ふたりとも、乱暴でヤクザみたいな口をきいて……。人を殺してきた話をして、私は恐ろしくて恐ろしくて、ただ、息をしているのが精一杯でした。主人は殺されたんです。私が覚えているのは……忘れられないのは……そのことだけです。あとのことはただ、怖かったとしか言えません。主人は死んだんです。私の目の前で。血がたくさん流れて、私、私、もうどうしたらいいのか……」
声が途切れ途切れになり、声を出しているのか、息を吐いているのかわからない。
看護婦が憮然《ぶぜん》とした表情で再び田辺に目配せした。彼は椅子《いす》から立ち上がった。トキはひゅうひゅうと鳴るぜんそくの時のような呼吸を繰り返している。看護婦が注射器に薬液を注入し始めた。田辺はトキに向かって礼を言い、部屋を出た。
「田辺さんじゃないですか」
部屋を出たところで同僚の若い刑事に出会った。同僚と言ってもキャリアは田辺の三分の一にも満たない。ついこの間、結婚したばかりで、この事件のおかげで家に帰れないと嘆いていた男である。
「あれ、田辺さん、もう岸本トキと会ったんですか」
「会った。話は聞いたよ」
「早いなあ。いつも先を越されるな、俺なんか」
「これから会おうったって無駄《むだ》だよ」
「え? どうしてです」
「発作が始まった。ひどいショックから全然、立ち直ってない」
「そうか」と、若い刑事は田辺と足並を揃《そろ》えて歩き出した。
「で、何かつかめましたか」
田辺は背広の内ポケットから煙草を取り出して口にくわえた。
「特に新しいことはわからなかった。ただ、俺が思うに逃走中のホシは犬山に比べたら相当、冷静で覚悟をつけてる」
「そりゃまたどうしてです」
「やつが犬山をやったのは偶然だったろうが、原田美穂を連れて行ったのは計画的だ。目的は金じゃない。やっこさん、犯罪自体に酔ってる感じがする。前科がないくせに犬山のような男とつるむってのがいい証拠さ。おそらく銃なんかぶっ放したのは初めてだったんだろうよ。今も生きてるとしたらかなり、興奮していると見ていい」
「じゃあ、原田美穂は危険な状態ですね」
「危険だな。生きて見つかりゃあ、いいが」
すれ違った小太りの若い看護婦が、「ここは煙草はだめですよ」と、人差し指をたてた。田辺は「失敬」と、くわえていた煙草を再び、ポケットに入れた。
「若いのにかわいそうにな、あの娘も」
「は? 今の看護婦ですか」
「馬鹿。原田美穂だよ」
若い刑事はばつが悪そうに笑った。田辺は足取りを早めると、玄関のガラス扉《とびら》を勢いよく開けた。
24
列車に乗ってから変わったことは何ひとつ起こらなかった。車内は空《す》いていて、美穂と尾木に注意を払う者は誰もいなかった。
糸魚川から北陸本線に乗り換えるころにはそれまで窓ガラスに不規則な縞《しま》模様を作っていた雨もすっかりやみ、雲の切れ目から太陽がのぞき始めた。悪夢のあった軽井沢からどんどん離れていることが美穂の気分を楽にさせた。
名物の笹《ささ》ずし弁当を食べ終えると、いっそうひと心地《ごこち》つき、美穂はくつろいでシートに首をもたせかけた。時折、窓に映る自分の顔は田舎娘《いなかむすめ》のように化粧っ気がない。金沢に着いたら尾木に言って、真先に口紅と簡単なファウンデーション、それに乳液の瓶《びん》を買わなくちゃ、と心に決めながら彼女は、昨夜、ベッドに入ってからは自分の身体に指一本触れなかった尾木に対して胃のあたりが火照《ほて》るような感じを覚えた。と同時に、嵐《あらし》の音を遠くに聞きながら尾木の唇を受けた時の官能が蘇《よみがえ》ってきた。尾木の身体の匂《にお》い、耳元で重ねられる溜息《ためいき》、交合ではなく、密着を求めて肌を合わせたあの心の震え。それらが今頃になって彼女の中の欲望を目覚めさせたことを知り、美穂は少し驚いた。
「俺、金沢には前に一度、行ったことがある」
尾木が両手を組み、目を閉じながら言った。「五、六年前かな。売れない歌手の付き人やってた時に行ったんだ。昼間は退屈で、なんとかっていう有名な公園で昼寝してた」
「兼六園《けんろくえん》でしょ」
「そう、だっけかな。夏でひでえ暑さでさ。金沢っていうとミンミン蝉《ぜみ》のがなりたてる声しか思い出さねえよ」
「付き人、やってたの?」
「ああ。短い間だったけどな」
「なんていう歌手の?」
尾木は或《あ》る中年の男性歌手の名前を言った。美穂の聞いたことのない名だった。
「いろんな仕事したけど」と、尾木は言いながら煙草に火をつけた。「あいつの付き人やった時ほどいやなことばかりあったことはねえな。自分が売れてないもんだから、俺に当たるんだ。女を連れてこいって言うから、みつくろって連れていくと、やれ顔が気にいらない、もっとやせてる女がいいとか言いやがってさ。女はふてくされてヒステリーおこすし、女にくっついてるヒモが短刀持って怒鳴《どな》りこんでくるし、さんざんだったんだ。あんまり、いろんなことで腹がたったから、あいつの金を盗んでやった。それでクビさ」
「警察|沙汰《ざた》にならなかったの?」
「全然。サツに訴えたら自分もヤバイことがたくさんある野郎だったんだよ」
「そう」と、美穂は言った。後ろのほうの席で赤ん坊の泣き声がした。母親らしき女が訛《なま》りのある言葉であやしている。車内は日の光と暖房とで汗ばむほどだった。美穂は着ていた革ジャンを脱ぎ、壁のフックにかけた。
「でも」と、尾木は少し声を落とした。
「今こうしてると、あんなことがあったって嘘《うそ》みてえだな」
「あんなことって、軽井沢のこと?」
「いろいろさ。全部だよ。俺があいつの金を盗んだことも、犬山とくだらない遊びをしたことも、顔も忘れるような女と寝たことも、全部。全部、夢の中でおこったことみたいだ。それに、人質として連れて来たつもりの女と仲よく汽車に乗ってるってのも、夢みてえだ」
美穂が黙っていると、尾木は左手を彼女の腰に回し、自分のほうへ引き寄せた。手は次第に彼女の腰から上へ動き、脇《わき》の下あたりで一旦《いつたん》止まると、乳房のふくらみを求めるようにおずおずと前へさし出された。美穂は右手を彼の腰に回した。尾木が唇を彼女の髪の毛に当てがった。
「もうすぐ金沢だ」と、彼はささやいた。
美穂はからだを尾木になすりつけるようにして傾けた。
「ミホ、あんたと知り合えて俺、嬉《うれ》しいよ」
美穂はうなずきながら、官能が波を引くように引いていき、代わりに昨夜と同じ哀《かな》しみのこもった感動に包みこまれていく自分を感じた。ふたりはほとんど同じ興奮から、シートの上で固く抱き合った。赤ん坊の泣き声がひときわ高く聞こえ、その声が踏み切り警報器の乱打する音にかき消されていく。美穂はそれを遠い世界の音のように聞いていた。
金沢に着いてから、ふたりは駅の地下にあるショッピングセンターへ行き、男女兼用のセーターを二枚と下着、女ものの帽子とコットンの青いブルゾン、それに美穂用の化粧品を一式、目につくままに急いで買いこんだ。
駅のトイレでふたりとも着替えた。美穂がうっすらと化粧をし、ブルゾンと揃《そろ》いの青い帽子を被《かぶ》って外に出て行くと、尾木は軽く口笛を吹いて「見違えたぜ。いい女だ」と、彼女の肩を抱きしめた。その様子を何人もの人間が見て見ぬふりをして通り過ぎた。尾木は美穂の耳元で囁《ささや》いた。
「これなら誰もあの写真の女とは思わないぜ。帽子のせいでまるで別人だ」
「私さえ別人に見えればいいのよね。あとはこうして歩いていれば、誰もあなたを疑わないわ」
彼女は腕を尾木の腰に回し、歩き出した。
ほとんどそのままの格好でふたりは構内にある観光案内所まで行き、岡田という名で旅館を予約した。犀《さい》川のほとりにある「川の音旅館」という小さな旅館である。
「ここはね、いいところですよ、お客さん」と、旅館に電話をかけ終えた案内人の中年の男が好色そうな笑みを浮かべてふたりに言った。
「市内の真中なのに静かでねえ。規模が小さいからあんまり人気がないんですが、私はお若いカップルにはここをおすすめしてるんですよ。女将《おかみ》は控え目な加賀美人でしてねえ。とにかくいいところ。損はないですよ」
尾木はうなずきながら、予約券を受け取った。案内人は好奇心たっぷりに尾木と美穂を見比べている。
「新婚さん? じゃないか。隠密《おんみつ》旅行かな」
美穂は本能的に顔を伏せた。男はひゃっひゃっと品のない笑い声をたてて立ち去った。
街は雨の後らしく、路面に水溜《みずた》まりが残っていた。落ちかけた太陽の淡い日差しが水たまりに反射してキラキラ輝いている。ふたりはタクシーを拾い、「川の音旅館」へ急いだ。
美穂は金沢に来たのは初めてだった。自分の気質に合いそうな街だろうとうすうす思っていたのだが、タクシーの窓から見る街並はその直観がはずれていないことを物語っていた。
繁華街はデパートやブティックが立ち並び、見慣れた都会と変わらない風景だった。だが、道行く人々の表情には、市内|唯一《ゆいいつ》の繁華街で一度に用を済ませてしまおう、とするかのような一種のせわしさが垣間見《かいまみ》られる。そしてそのせわしさから解放されると、ひと思いに黒い瓦《かわら》のひんやりとした家々に吸い込まれていきそうな感じだった。夜は繁華街ですら静かになるのかもしれない。
香林坊《こうりんぼう》から片町《かたまち》を抜けると、犀川大橋が見えてくる。川面《かわも》は夕日を受けて虹《にじ》色に光り、その向こうに広がる寺社の黒い屋根が濡《ぬ》れた御影石《みかげいし》のように見えた。
「どちらから?」
タクシーの運転手が前を向いたまま聞いた。美穂は帽子の頭に手を置きながら「東京からです」と、答えた。
「雨が上がってよかったなあ、ゆうべはひどい嵐《あらし》で。東京はどうでした?」
「少し、降ってたよ」と、尾木が窓の外を眺めながらぼそっと言った。
「今年の金沢は雨が多くてねえ。この十日間で傘のいらない日は二日あったかどうかでしたよ。早く冬がきそうでいやだねえ」
橋を渡りきると、車は左に折れた。川沿いの細い道である。雨が多かったせいか、川の水はたっぷりと満ち、そこかしこで小さなさざ波を作っていた。
「川の音旅館」の看板が見えた。古めかしい土塀《どべい》に囲まれた二階建ての木造の建物は、あまりに小さくて看板がなければ旅館とは思えないほどだった。開けっ放しにした格子戸《こうしど》の向こうで、真っ白な割烹着《かつぽうぎ》をつけた和服の初老の女が、竹箒《たけぼうき》を使って敷石の上を掃いている。ふたりが車から降りると、女は急いで箒を置き、愛想よく会釈してきた。
「いらっしゃいまし」
「さっき予約した東京の岡田です」
尾木が低い声で言うと、女将は目を細め、うなずきながらふたりを中へ通した。並んで立つと、女将は尾木の背丈の半分にも満たないように見えた。その後ろ姿が少し岸本トキに似ているような感じがして、美穂は目をそらした。
通された部屋は、二階の端の部屋で、狭いが掃除が行き届いており、犀川の流れが窓の外に見えてしかも静かだった。度の強そうな丸い眼鏡をかけた四十がらみの仲居が、にこにこしながら風呂《ふろ》とトイレの場所をふたりに教え、お茶を入れると「ごゆっくりなさいまし」と言って部屋を出て行った。
尾木は部屋の鍵《かぎ》をかけ、立ったまま美穂を見つめた。大きなくぼんだ目がやさしげにうるんだ。美穂はうなずいた。
「来ちまったな。とうとう」
「誰も私たちだってわからないみたいね」
「わからないはずさ」と、尾木は美穂の隣に来て座った。「俺たち、逃げてるようには見えねえだろうよ。こうしているとな」
「ずっと旅行を続ける?」
「もちろん。ずっとだ」
尾木はおずおずと美穂の肩を抱き、彼女の耳に唇を当てた。
「飯を喰《く》ったら、散歩しよう」
「どこへ?」
「どこでもいいさ。あんたと歩くのは楽しい」
尾木の顔を振り仰ごうとした時、美穂の目に部屋の隅にある小型TVが映った。彼女はつと立ち上がり、風呂場からバスタオルを持ってきてTVの上にかけた。尾木はそれを見て笑った。唇がかじかんだような笑いだった。
「さてと」と、美穂はカラ元気を装って大きな声を上げた。
「じゃあ、食事は早くしてもらいましょうね。ゆっくり食べて、それから散歩よ」
開け放した窓から入ってくる風が冷たい。美穂はガラガラと音をたてて窓を閉めると、食事時間を早めてくれるよう帳場へ知らせるため、室内電話の受話器を取った。
*
夕食は小さな旅館のわりには豪華版だった。朱塗りのテーブルに幾皿も並べられた料理を前に、尾木はビールグラスを美穂に渡し、なみなみとビールを注いだ。
「乾杯」と、彼は照れくさそうに言ってグラスを掲げた。窓を閉ざした室内は、時折通り過ぎる車の音を除けばビールを飲み込む喉の音すら聞き分けられそうに静かだった。ふたりは漫然と箸《はし》を動かし、生きのいい刺身を頬張《ほおば》った。美穂はふと動きを止め、箸の先を口に当てたまま言った。
「静かね」
「ああ」
「世界中にふたりっきりっていう感じがする」
「こんなの初めてだよ、俺。第一、女とふたりきりで旅行に来たことなんかないからな」
尾木はカニの足を器用にむいて付け汁につけながら言った。固形燃料の火が小鍋《こなべ》をぐつぐつと鳴らし始めた。部屋が蒸気でほんのりと暖かい。
「ねえ」と、美穂は言った。
「聞いていいかしら」
「何を?」
「どうして……犬山って人を殺したの?」
尾木は一瞬、美穂を見たが、すぐに目をそらして煙草をくわえ、火をつけた。美穂は辛抱《しんぼう》強く彼が煙を吐き終えるのを待った。
「話したくない? 話したくなかったらいいんだけど」
「あんたは俺が殺人犯と知ってて、こうしているんだろ」
「そうよ」
「それだけで俺は満足だよ」
「変ね。私の質問に答えてないわ」
「答えたくないわけじゃないさ」と、尾木は猪口《ちよこ》に酒をつぎ、それを飲みほした。
「俺、あんたの前では悪党でいたいんだよ。何の理由もなく相棒を撃った悪党でいいじゃねえか。弁解はしないよ」
「どうして悪党でいたいの?」
「最悪の男で、もうどうしようもない野郎だって知ってて、あんた、俺と一緒にいてくれるんだ。俺、そういうあんたが好きなんだよ」
長く時間をかけた食事をすませると、もう外は真っ暗だった。ふたりは食事をさげに来た仲居に外出を告げると、外へ出た。
通りすがりの車のヘッドライトがふたりを大きく照らし出す。美穂はこんなに大胆に外を出歩くのは危険かもしれないと思ったが、尾木の嬉《うれ》しそうな顔を見ていると、どうにでもなれ、という気持ちが強く働いた。
ぶらぶらとあてどなく歩いていくと、廓町《くるわまち》に出た。なまめかしくうるんだような古い建物が並んでいる。漆黒《しつこく》の佇《たたず》まいの間を縫うように、ぽつりぽつりと淡い明かりが見え、幾分濃い目の化粧をした女たちが、廓に不釣り合いな横文字の書かれたスナックの店の前に暇そうにたむろしている。女たちは、尾木と美穂が抱き合いながら歩くのを遠巻きに眺め、何やら面白そうにひそひそ話していたが、やがて嬌声《きようせい》をあげて笑い出した。その笑い声を後ろに歩くふたりの足下の水たまりに、明かりがゆらゆら揺らいで映る。
いくらでも笑って……美穂は思った。軽井沢の事件と結びつけない限りは、いくらでも笑ってくれていいんだから……。
どこかから三味線《しやみせん》の音が聞こえてくる。大通りの車の音はほとんど聞こえない。打ち水をしたような濡《ぬ》れた舗道を、白い猫が横切っていった。迷路のような廓のはずれに来ると、人の姿はまったく見えなくなった。湿った木の匂《にお》いがする建物の壁に背をつけ、美穂は尾木の唇を受けた。
「こんな町の中であんたとひっそり暮らせたらいいだろうな」
尾木は水たまりにはね返る明かりを目に映しながら、まじまじと彼女の顔を見た。美穂は鼻のあたりがつんとして、涙がこみあげてくるのを感じた。泣きたいのか、何かを言いたいのかわからなかった。尾木は黙って美穂の肩を抱くと再び歩き出した。そして、旅館に戻るまで、ふたりはひと言も口をきかなかった。
部屋に戻り、ドアの鍵《かぎ》がしめられた。畳の上には二組の布団《ふとん》が敷かれてある。隅に寄せられたテーブルの上には水差しと、よく磨かれたコップがあった。尾木は黙って部屋の明かりを消した。床の間の薄暗い蛍光灯だけがぼんやりと室内を照らし出す。暖房が切られているらしく少し寒い。尾木は掛け布団を乱暴にめくるとその上に美穂を押し倒した。尾木の身体の重みで、美穂は息が詰まった。
「いきなりどうしたの」
美穂が苦しげにそう言うと、尾木はそれ以上|喋《しやべ》らせないと言わんばかりに、彼女の唇を吸い始めた。
荒々しい求愛だった。尾木は美穂の着ているものを、見たくていてもたってもいられない包みを開けるかのように剥《は》ぎ取り、布団の外に投げ捨てた。ブラジャーがテーブルのコップに当たり、コップが倒れる音がした。美穂が覚えているのはその音だけだった。ふたりはすべてを消し去ろうとせんばかりに肉体を消しゴムのようにこすり合わせ、上になり、下になって互いを求め合った。あまりの激しい官能に、美穂は頭の中が真っ白になっていくのを感じていた。何も見えず、何も聞こえなかった。身体が反応することがすべてだった。頭のてっぺんから足の先まで、尾木の手、尾木の唇、尾木のセックスによって包みこまれてしまったかのような気分だった。
「あんたが好きだ。好きなんだよ」
尾木の声が遠くに聞こえる。美穂は涙が目尻《めじり》を伝っていることにも気づかず、薄闇《うすやみ》の中に向かって生まれて初めての官能の呻《うめ》き声を発し続けた。
25
翌朝、金沢はいい天気だった。宿泊代を清算すると、ふたりはどこへ行くというあてもなく「川の音旅館」を出た。
見送りに出てきた女将《おかみ》が、うなじの白いほつれ毛をかき上げながら屈託のない表情で「今日はどちら方面へお行きですか」と、尾木に聞いた。美穂は尾木の代わりに「能登《のと》を回ろうと思って」と、笑顔を作って答えた。
「お天気がようなってよかったこと」
女将は眩《まぶ》しそうに手の平を額に当てがい、目を細めて空を見上げた。天気がいいだけで、あらゆる苦悩がたちまち消え去ると信じているような口振りだった。ふたりは挨拶《あいさつ》をし、格子戸《こうしど》の前で女将と別れた。
犀川大橋のたもとで流しのタクシーを拾い、とりあえず駅へ向かった。能登に関しては美穂も尾木もまったく土地カンがない。だいたい、国鉄の路線がどこまで伸びているのかも知らなかった。駅で能登の案内書を買い、のんびりと行けるところまで行ってみようというのが今朝、ふたりが決めたことだった。
金沢駅は雑然としており、特に学生らしい若い男女の姿が目立っていた。これから能登を回ろうというグループらしい。切符売場では、エレッセのスポーツバッグを腕にかけた若い男が、何やら書きつけてある印刷物を高々と掲げて、十人ばかり集まった男女に声高《こわだか》にスケジュールの説明をしている。
彼が何か言うたびに、グループはどっとどよめき、笑い声がはじけた。サーファーカットにしたミニスカートの女が、皆に売店で買って来たチューインガムを一枚ずつ配っている。煙草《たばこ》を吸っていた小太りの男が彼女のスカートにあやまって灰を落とした。女は大袈裟《おおげさ》な叫び声を上げ、幼児がするようないやいやをしてみせる。また、全員が笑った。
尾木はその一団の横を通り抜け、売店に行って能登のガイドブックを買った。
「国鉄は七尾《ななお》線とかいう線が一本あるだけみたいだ」
ベンチに美穂と並んで腰をかけた尾木が、ガイドブックをめくりながら言った。
「じゃあ、それに乗るしかないわね」
「レンタカーを借りられればなあ。自由に動けるのに」
「だって、免許証、持ってきてないんでしょ」
「免許証も持ってきてないし、それにあったとしても借りる時に手が後ろに回っちまうさ」
「そうだったわね」
「それともその辺の車、盗むか?」
美穂が顔をしかめると、尾木は「冗談だよ」と笑った。
ふたりの目の前をさっきガムを配っていたサーファーカットの女とエレッセのバッグを持った男が通り過ぎた。男が手にしたガリ版刷の印刷物の表紙が美穂の目に入った。『トラベルミステリー研究会・能登合宿』とある。どこかの大学の愛好会らしかった。
美穂はかつての大学時代、この人たちと同じようにゼミの仲間と北海道に旅行したことがあったことを思い出した。その仲間の中にあの死んだ恋人がいたことも、札幌《さつぽろ》の大通り公園で彼と焼きとうもろこしを歩きながら食べたことも、宿泊先で皆の目をかすめながら慌《あわ》ただしいセックスをしたことも、今となっては死者が生前の自分を思いおこしているような遠い無感覚な記憶でしかなかった。
尾木はともかく七尾線に乗ろうと提案した。美穂に異論はなかった。目的地に思い入れはない。どこか気の向いた駅で降り、落ち着いた旅館を探せればそれでよかった。
尾木は買ったばかりのガイドブックを茅野駅で買った紙袋に滑り込ませ、美穂を促して立ち上がった。十一時四十三分発の急行能登路五号に乗るのが一番、手っ取り早そうだった。ふたりは切符を買い、ホームへ上がった。
発車まであと三十分ほどある。ふたりは自動販売機で缶コーラを買い、ベンチに座ってそれを飲んだ。ホームを行き交う人々は弁当や週刊誌やボストンバッグやその他様々な持ち物を手にして、いささか退屈そうに互いの行動をちらちらと眺め合っている。構内アナウンスが五分おきに能登路五号の出発ホーム案内を繰り返す。線路に落ちているジュースの缶が日の光を反射して眩《まぶ》しい。
改札を通って、大学生グループの一団が笑いさざめき合いながらホームにやって来た。美穂たちと同じ列車に乗るらしい。
「うるせえな、あのガキども」
尾木が眉《まゆ》をひそめて言った。
「なるべく離れて座らないと、俺たちが邪魔されそうだ」
「早く降りてくれればいいのにね」
「ずっと乗ってるようだったら、俺たちが先に降りようぜ」
列車がホームにすべり込んで来た。それまでベンチに座っていた人々は待ちかねたように腰を上げた。
尾木が「さあ、乗るか」と、言いながら立ち上がり、美穂の手にしていたコーラの空き缶に手を伸ばした。屑籠《くずかご》はそのベンチの側にはなかった。
尾木が屑籠を探そうとして横を向いたのと、ホームの向こうから玉が転がるようにしてまっしぐらに走ってきた五歳くらいの男の子が尾木の長い足にぶつかりそうになったのは、ほとんど同時だった。
「危ない!」
美穂は叫んだ。尾木は反射的に男の子の片腕を支えようとして手を差し出した。
尾木の長い手がベンチの端に置いた紙袋に勢いよく当たった。コーラの空き缶が音をたててホームに転がった。男の子はかろうじて転ぶのを免れたが、紙袋は平衡《へいこう》を失ってドサッと音をたてながら地面に落ちた。
中に入っていたものが一度に外に放り出された。男の子の母親が走り寄って来て、子供を叱《しか》った。男の子はわざとらしい大声を上げて泣き出した。
その脇《わき》をさっきの学生グループが通りかかった。急いでホームに投げ出された衣類を袋の中にしまい込もうとする尾木の頭上で、声がした。
「何事よ。何の騒ぎ?」
グループの中の女が大袈裟《おおげさ》な口調で言った。
「あらあら、あんなに泣いちゃって、あの子」
「このチョコレート、あげようか」
「いいわよ。もったいない。あとで私が食べるんだから」
「ケチなおばさんね」
「うるさい。黙れ」
グループはひとしきり笑い声を上げて歩き去った。泣いている男の子は、母親にせかされて行ってしまった。去り際に母親は美穂に向かって頭を下げた。儀礼的で、ドアに向かってお辞儀しているみたいだった。
ホームに投げ出されたものを全部、紙袋に詰め終えると尾木は美穂の腕をつかんでその場を離れた。振り返ってみると、グループの一団がいつまでも興味深そうにこちらを見ている。
「振り返るんじゃない」
尾木が低い声で言った。
「どうかしたの?」
「なんでもないけどさ、顔を見られないようにしたほうがいい」
美穂は言われた通り、顔を前に向け、歩き続けた。先に列車に乗り込んだ人々が窓際に席を取って、荷物を荷棚《にだな》に乗せている様子がガラスの向こうに見える。さっき尾木にぶつかった男の子が母親にせきたてられて列車に乗り込もうとしていた。母親は赤ん坊をおぶり、片手にみかんの入った網目の袋を下げている。赤い頬《ほお》をした赤ん坊が尾木と美穂のほうをじっと見て、探るようないぶかしむような目つきをしたが、母親はふたりに気がつかないまま、中へ入って行った。
尾木に促《うなが》され、彼女は一番近くにあった乗り口に足をかけた。
26
東京のS学院大学トラベルミステリー研究会の一行は、能登路五号に乗車すると、四人掛け席を三つ確保してそれぞれ腰を降ろした。これから穴水《あなみず》まで行き、民宿に泊りながら三日間、全員でトラベルミステリーに関する研究をするというのが一応の目的であったが、実際は酒宴と目当ての異性との懇親会であり、例年、誰もが楽しみにしている合宿であった。
会長の和田《わだ》はスポーツバッグを網棚《あみだな》に乗せると、隣の席の桜田《さくらだ》あつ子に声をかけた。
「民宿のおばさん、またうんざりして俺《おれ》たちを待ってるぜ、きっと。去年は飲み会で座椅子《ざいす》を壊されたし、その前は仏壇にウィスキーをひっかけられるし。今年は家が壊されると思ってんじゃないか」
あつ子の前に座った雪見だいふく≠ニいうあだ名の色白で丸顔の女の子がげらげら笑った。
「和田さんもこれが最後の合宿でしょ。少し、派手に騒いでもいいですよ。あたしたちも騒ぐつもりだから。ねえ、あっこ。ストリップでもやっちゃおうか」
あつ子は黙っていた。雪見だいふく≠ヘ怪訝《けげん》な表情であつ子をのぞきこんだ。
「どうしたの。何、考えてるのよ」
「さっきのことよ」
「さっき、って何よ」
「さっきのふたり連れ」
「ふたり? ああ、あの転んで泣いてた男の子と一緒にいたふたり?」
「あの男の子はふたりと一緒にいたわけじゃないわよ」
あつ子が眉《まゆ》をしかめてそう言うと、和田は「何が言いたいんだよ」と、笑ってたばこに火をつけた。
「あのふたり連れの荷物が散らばってたでしょ。その中身、見た?」
「中身? なんだよ、それ」
「いろんなタオルとか小物とかに混じって、ピストルが入ってたのよ」
「ピストル? ほんとに?」
「確かよ。見たんだから。小さいけど黒くて重たそうな感じの……」
「見間違いじゃないの?」と、雪見だいふく≠ェからかうように言った。和田も声をそろえた。
「きっとモデルガンか何かさ。珍しくもなんともない」
「そうよ。今時、モデルガン見ていちいち驚いてるなんてダサイわよ」
雪見だいふく≠ヘ目を細めてあつ子を見た。あつ子はサーファーカットの長い髪を片手ですくい上げ、溜息《ためいき》をついた。
「そうかしら。でも、そのピストルをしまう時のあの男の目つき、見なかったでしょ。すごかったんだから」
「どう、すごいんだよ」
「なんて言うか、凄味《すごみ》のあるヤクザみたいな目をしてたのよ」
「偶然じゃないのぉ?」
雪見だいふく≠ヘ、セカンドバッグの中からチョコレートの包みを出して和田に差し出しながら言った。
「でもねえ。なんかひっかかるのよ。あの男、どっかで見たような気がして。それが思い出せなくて」
「結構、いい男だったじゃない? あたしの好みよ。連れの女は田舎《いなか》くさい帽子かぶってたけど、まあ、結構美人だったわね」
「よく見てるなあ。俺なんか顔までいちいち見てないよ」
「あたし、盗み見るのは得意なの。特にいい男はね。和田さんは盗み見ないけど」
「どういう意味だ」
「別に。そういう意味よ」
和田と雪見だいふく≠ヘ声を合わせて笑った。あつ子は和田に向かって聞いた。
「ねえ、本当にどっかで見たことない? あの人」
「全然、記憶にないよ。いったいどうしたんだよ」
「変よ。変なの。なんかあのふたり、変よ」
和田と雪見だいふく≠ヘ、笑いながら肩をすくめ合った。列車の発車ベルが鳴り響き、軽い振動と共に窓の外の風景がゆっくりと流れ始めた。
27
尾木と美穂は、羽咋《はくい》駅で下車し、バスに乗った。誰かが追ってくる気配はなかった。
バスは国道249号線を輪島《わじま》方面に向かって走った。海寄りの道なので、かすかに潮の香りがする。どこで降りても、海が見えそうな道だ。
ひとつ前の座席では、手拭《てぬぐ》いを頭にした中年を少し過ぎた女が居眠りしている。美穂は松江にいる母を思い出した。
あの母とももう二度と会えないかもしれない。そう思うと切ない気持ちだった。母はまさか娘が殺人犯と愛し合い、逃避行をしているとは夢にも思わないだろう。それに娘が殺人犯に誘拐《ゆうかい》されたというニュースが耳に入って、動転し、寝込んでいるかもしれない。
母はよくこの女のように、頭に手拭いを巻き、昔ながらの主婦のように松江の広い木造の家を片《かた》っ端《ぱし》から掃除していた。雑巾《ぞうきん》かけをする時のバケツの水の音、台所から匂《にお》ってくる煮物の香り、干し終えた洗濯ものの間を抜けてくるかすかな石鹸《せつけん》の匂《にお》い。庭の山吹きの花が芽吹いたよ、とひとりごとを言う祖母のしわがれた声。
美穂の高校時代は松江で始まり、松江で終わった。母も祖母も祖父も、そろって美穂が東京の大学へ行くことを反対した。
「東京へ行ってもろくなことはない」と、口をすっぱくして言う彼らを説き伏せて、上京してから八年。一度も松江に帰りたいと思ったことはない。母や祖父母を思い出したこともなかった。それなのに、今は思い出されてならない。
きっと、今こそ本当に松江を捨てようとしているからだ。そう思って美穂は胸が熱くなった。
「何を考えてる?」
尾木が美穂を見ながら聞いた。
「ちょっとね。海の匂《にお》いを嗅《か》いでたら、田舎を思い出しただけ」
「松江か」
「そう。日本海が近いのよ」
「この海も日本海だぜ。つながってるよ」
「そうね」
窓の外を見た美穂の横顔に向かって、尾木はゆっくりと目ばたきをした。
「おふくろさんのこと考えてたのか」
美穂は彼を振り返った。
「会いたいと思ってるんだな」
咎《とが》めている口調ではなかった。
「会いたくてももう、会えないわ」
美穂は微笑《ほほえ》んだ。尾木も唇を歪《ゆが》めた。
「松江に行ってもいいんだぜ」
「いいのよ。馬鹿ね。松江に帰る気があるくらいなら、あなたと今、こんなところにいないわよ」
尾木は目を伏せ、姿勢を元に戻して前を向いた。停留所でバスが止まり、居眠りしていた女はとび起きてバスを降りていった。
「なんていう映画か忘れたけど」と、尾木が言った。
「昔、見た映画でさ、潜水艦が沈没して海底に突っ込んだ話があったんだ」
「誰が出ていた映画?」
「それも忘れた。ともかく海底に落ちて動かなくなった潜水艦の排水ハッチを開けないと、五十人全員が死ぬんだよ。ハッチを開けるのは簡単だから、艦長が見守る中を二人の男がハッチに近づいた。ところが、一人がハッチを開けた途端、外の水が逆流してきた」
「逆流するってことに気がつかなかったのね」
「そう、機械が故障してるからね、どこがどうなってんのか分からないんだ。それでさ、二人の男はあっという間に水の中に投げ出されたんだよ。一人はすぐに頭まで水をかぶって見えなくなってしまった。残る一人が必死になって操舵室《そうだしつ》との境目のハッチにしがみついてるんだ。艦長が手を延ばして、奴《やつ》を助けようとした。それからどうなったと思う?」
「さあ」
「そいつはさ、助けを断ったんだ。操舵室のハッチをすぐに閉めないと、全員が死ぬ。ハッチを閉められるのはそいつだけ」
「…………」
「艦長は迷ったんだ。一瞬な。でも、五十人が死ぬのと一人が死ぬのとでは、どっちを選ぶべきか、すぐに判断がつくだろ」
「それで?」
「艦長は敬礼をしてさ、黙って手を引っ込めた。そいつは泣き笑いしたみたいな顔をして、水を飲み込みながら操舵室のハッチを閉めた。それっきりさ」
美穂は尾木が何故、こんな話をしたのか、よくわからなかった。
「俺、こういう話って好きだけどさ。でも今の俺たちはこの話の逆をやってる、って思うよ」
「どうして?」
「ミホが艦長で俺が水を飲んでるドジな野郎なのさ。ドジな野郎は艦長の差し出す手にしがみついて、艦長を水の中に引っ張りこんじまった。ハッチのうしろでは五十人が艦長を救おうとしてうろうろしてる。でも、艦長はかわいそうに、ドジ野郎と海の底に消えちまうんだ」
美穂は黙って尾木の手を握りしめた。尾木がゆっくりと彼女を見た。
「手が冷たい。なんでこんなに冷たいんだ」
「そう? 冷たい?」
尾木は美穂の額に手の平を当てた。
「あんた、熱があるぞ」
美穂は自分でも額に手を当ててみた。そこだけ、くすぶった炭火のように熱かった。
「ほんと。熱がある」
「俺の肩に寄りかかってろ。風邪《かぜ》かな」
「平気よ。これくらい。ちょっと興奮したのよ、きっと。いろんなごとがあって」
尾木は眉《まゆ》をひそめ、彼女を片手で抱くとすぐに泊まれるような旅館を探して、ガイドブックを乱暴にめくり始めた。
「静かにしてろよ。どっかいいところを見つけて降りよう」
「急ぐことないわよ。別に気分は悪くないんだもの」
それは本当だった。金沢で列車に乗った時に少しめまいがしたが、あとはこれといった自覚症状はない。頭がぼんやりして気持ちがいいほどだ。
尾木のめくるぺージの音を聞きながら、美穂は目を閉じた。まぶたの裏に、尾木と手をつないで海の底に落ちていく自分の姿が浮かんでいた。
*
厳門下《げんもんした》という停留所で、美穂は尾木に揺り起こされた。まどろんだせいか、身体が一層、だるかった。
バスを降り、しばらく歩くと小さな古めかしい旅館が目に入った。『金剛館《こんごうかん》』と読める。このあたり一帯が能登金剛と呼ばれているところからつけられた名前らしい。尾木は迷わず、その旅館目指して美穂を歩かせた。
『金剛館』の玄関は、建物の小ささとは不釣り合いなほどだだっ広く、ちょっとした銭湯の洗い場のようだった。歓迎≠フ札にはどこかの農協団体の名前がひとつ書かれてあるだけである。あたり一面に並べられたオレンジ色のビニールスリッパの群れの中で、黒い大きな猫が昼寝をしていた。
ふたりが玄関に立っていると、番頭らしき頭の禿《は》げあがった男と、丸々と中年太りした金縁めがねの女が奥のほうから走り出て来た。何か食べていたらしく、女は口に手を当てて口の中のものを急いで飲み込んだ。
「いらっしゃいまし」
番頭が言った。尾木は目を伏せたまま、「今晩、部屋は空いてますか?」と、聞いた。
「クーポンか何か、お持ちで?」
「いや、気が向いて来ただけだから何も」
「けっこうでございますよ」と、番頭は愛想笑いをしながら言った。
「今晩は団体さんがひと組あるきりでして。ちょうど海側のいいお部屋が空いてますですよ」
「じゃあ、そこをお願いします」
尾木がそう言うと、女はめがねの中の細い目をぱちぱちさせながら、眩《まぶ》しそうに彼を見、次いで美穂を見た。スリッパの中で眠っていた猫が起き上がり、後ろ足で耳の後ろを掻《か》いている。黒光りした廊下の向こうで、細長い柱時計が鳴った。女が聞いた。
「どっか具合でもお悪いの?」
「は?」
尾木が女を見ると、女はじっと美穂を見ていた。彼は慌《あわ》てて言った。
「ちょっと風邪をひいたんです。急に熱が出てきちゃって」
「あらそう、それは大変。旅行中に風邪をひくと治りにくくてねえ。あとでお部屋のほうにお薬をお持ちしましょう」
あまり歓迎されてないな、と尾木は直感的に思った。ことに女の口調には、言葉とは裏腹なかすかな刺《とげ》があった。
番頭がふたりを中へ案内した。柱時計の脇《わき》にある階段を上がる。二階の廊下の右側はガラス窓になっていて、旅館の中庭が見えた。箱庭のように小さな庭だった。
通された部屋には『藤《ふじ》の間』という木札が下がっていた。窓から遠くに波の荒れた日本海が眺められる。赤茶けた岩々と白い波しぶきは、太陽の光を受けて一枚のスチール写真のように見えた。
「いい眺めでしょう。この部屋は」
番頭がお茶の道具をテーブルの上に乗せながら、退屈そうに言った。誰にでも言う、決められた台詞《せりふ》のようだった。尾木は黙っていた。
眺めはよかったが、部屋はどこかしらすさんでいた。畳にはいくつもの煙草の焼け焦げの跡があるし、壁には茶色いしみが丸い輪を描いている。一面鏡の上にはうっすらと埃《ほこり》がたまり、鏡の一部はひび割れていた。
番頭が出て行くと、入れ違いに女将《おかみ》が入って来た。薬瓶とコップを乗せた盆、それに宿帳を持っている。
「効くかしらねえ。わかりませんけど、風邪薬、お持ちしましたよ」
「すみません」
美穂が初めて口をきいた。女将は美穂のところに盆を押しやり、わざとらしい作り笑いを浮かべた。
「おふとん、敷いておきますか?」
「いえ、自分でできますから」
尾木がそう言うと、女将はさらにニッと笑い、「そちらの押し入れに入ってますからね。お好きな時にお休みになって結構ですよ」と、かん高い声で言った。
「早く治ればよござんすねえ。せっかくの旅行でらっしゃるのにねえ」
女将は畳の上に見つけた小さな糸くずをさも、大発見でもしたかのように指先でつまんで持ち上げ、丸めて割烹着《かつぽうぎ》のポケットにしまった。
「どちらからいらっしゃったんですか」と、彼女は宿帳を尾木の前で広げながら聞いた。
「東京ですよ」と、ぶっきらぼうに答えながら、尾木は宿帳に乱れた字で「岡田」と記した。金沢の旅館で書いた名と同じである。
女将は中腰になって座ったまま、首を伸ばして宿帳をのぞきこんだ。
「目黒ですか。私も東京出身なんですよ。東京と言っても下町ですけどね。亭主がこの旅館をやっていて、嫁に来ましてね。死に別れてからは、すっかり女将で腰を落ち着けちまって。時々、東京のお客様がいらっしゃると、懐かしくてねえ」
なかなか立ち上がろうとしない。もうひとつ、糸くずを見つけるまでは、テコでも動かないといった感じだ。
「東京もそろそろ寒いんでしょうね。このあたりはもう、夜は相当冷えますよ。波も荒れてますしね。あ、そうそう、よかったら炬燵《こたつ》でも入れますか? 風邪は冷えるのが一番悪いから」
「いいんです」と、尾木は言った。「少し、休ませますから」
女将はうなずき、やっと思い出したように腰を上げた。めがねの奥で目が光った。尾木はくるりと背を向けると、ぐったりしている美穂を助けて座椅子《ざいす》に座らせた。
28
「ちょっと、あのふたり、どっかおかしいよ」
帳場で女将《おかみ》が番頭に声をかけた。夕食の下ごしらえをしている最中の調理場から、仲居のひとりがあくびしながら出て来て、ふたりの前を横切って行った。女将は、仲居が行ってしまうのを確かめてから、声を落とした。
「あれ、もしかして、例の事件のふたり連れじゃないかと思ってさ」
「事件?」
番頭は電卓を叩《たた》きながら、うわの空で言った。
「ほら、軽井沢であったでしょ。連続殺人の事件よ」
「あの逃げてる奴《やつ》だって言うんですか。まさか」
「だって、よく似てるじゃないの。男も女も」
「そうですかい? 私にはあまりそう思えないですがねえ」
「それにさ、どっか様子が変なんだよ。なんかこう、人目を避けてるみたいでさ」
「女将さんの考えすぎじゃないんですか。あの娘さんは風邪をひいてるから、様子がおかしくて当たり前でしょうが」
「うーん、あんたもじれったいね。ちょっと二、三日前の新聞を持っといでよ。とにかく似てるんだから」
番頭は電卓を打つのを諦《あきら》め、露骨にいやな顔をしながら奥から新聞を持って来た。日頃《ひごろ》から彼は女将の度を越した詮索《せんさく》癖にうんざりしており、最近、客足がめっきり減ったのもそのせいかもしれないと内心、苦々しく思っていた。事実、つい一か月前には大阪から来た初老のカップルに興味津々《しんしん》の立ち入った質問をしたため、客を怒らせ、二泊の予定を一泊で出て行かれたばかりだった。
「えーと、あれは昨日の新聞だったよね、確か」
女将は指を唾《つば》でしめらせながら、新聞の束をめくった。番頭は帳場をうろうろしていた猫を抱き上げ、壁にかかった時計を見た。もうそろそろ、団体さんが到着する時刻だ。宴会場の準備もしておかなければならない。
女将がソプラノで鳴く蛙《かえる》のような声を上げた。
「ああ、あった。あったよ。これだよ。見てごらん。そっくりじゃないか」
番頭は猫をあやしながら、いやいや女将の差し出す新聞に目をやった。三面に三センチ四方ほどの写真が二枚載っている。男の写真はモンタージュでわかりにくかったが、女のほうは鮮明に写っており、確かに藤の間の客と似ていないこともなかった。
「そっくりってほどではないですよ」と、番頭は視線を猫に戻しながら言った。
「今の若い女の子は皆、似たような顔してますからね」
「何言ってるの。瓜《うり》ふたつじゃないのよ。確かにあの子よ。男だって似てるよ、この写真に。背も高いしさ。尾木っていうんだってよ。試しに尾木さんって呼んでみればわかるね」
「馬鹿なことを」
番頭は吐き出すように言った。
「違ったらどうするんです。これ以上、客を怒らせないでくださいよ、女将さん。それにもし、女将さんの言う通りだったとして、なんであの娘は男から逃げ出さないんです。いつでも逃げられるでしょうに」
「こわいんだよ。逃げたりしたら殺されると思ってるんだよ、きっと」
ははは……と、番頭は乾いた笑い声を上げたが、すぐに表情を元に戻し「他人様《ひとさま》のことを勝手に想像して迷惑かけるのはいい加減にしたらどうです」と、語気を荒げた。女将は聞いていなかった。
調理場で食器か何かを落としたらしく、ガラスが派手に飛び散る音がした。女将はキッと目を吊《つ》り上げ、大声を上げた。「またやったよ。あのとんま! 食器がいくらあっても足りゃあしない」そしてまた新聞に目を落とし、指をぽきぽきと鳴らしながら誰に言うともなく言った。
「引き止めておいて、警察に連絡したほうがいいね、これは。殺人誘拐犯《ゆうかいはん》を逃がすわけにはいかないからね」
番頭は呆《あき》れ果て、猫を床に放すと大袈裟《おおげさ》な足音をたてて帳場を出て行った。
29
夕方近くに大量の汗をかいた美穂は、夜になって熱も大分下がり、元気が出てきた。食欲はなかったが、膳《ぜん》の上に並べられた夕食を少しずつ尾木に食べさせてもらったため、一層、身体に力がついたような気がした。
食事が済むと、尾木はタオルを持って来て美穂の布団《ふとん》の側に座った。
「身体、拭《ふ》いてやるよ。汗で気持ち悪いだろ」
美穂はうなずいた。部屋はほんのりと暖かく、鍋《なべ》ものの湯気がこもって空気が湿り気を帯び、喉《のど》や鼻の粘膜が心地よい。
美穂が床の上に起き上がって、浴衣《ゆかた》の前がはだけないよう注意して背中を出すと、尾木は眩《まぶ》しそうな目をしながらタオルを当てた。
「水から引き上げられた魚みたいな気分。あなたの顔もこの部屋もさっきまではうるんで見えたけど、今ははっきり見えるもの」
「魚は水から引き上げられると死んじまうぜ」
「じゃあ、レースのカーテンを開けて出て来たみたいな気分、って言ってもいいわ。ずっと、レースのカーテンの向こう側からあなたの顔を見ているみたいだったから。かなり熱があったのね。こんな熱を出したの久しぶりだな。気持ちいいくらい」
尾木は脇《わき》の下を拭《ふ》き終えると、黙って美穂の前に回り、「前をはずせよ」と言った。
「自分で拭くからいい」
「いいからはずせよ」
その強引な言い方が美穂には嬉《うれ》しかった。彼女は思いきりよく、浴衣を押さえていた手をはずした。尾木は黙ってもくもくと乳房の回りを拭いた。冷たく浮かんだ汗がどんどんタオルに拭き取られていく。
「もう一枚、浴衣があったろ。あれに着替えろよ。そしてあったかくしてるんだ」拭き終えると尾木はそう言い、美穂の額にかかったほつれ毛を指でかき上げた。
遠くの宴会場で騒いでいる人々の声がする。カラオケに興じているらしく、歓声の合間に調子っぱずれの歌が聞こえた。尾木が手渡してくれた浴衣に腕を通しながら、美穂は言った。
「なんだかこうしていると、旅回りしてる芸人みたいね。流れ流れて一生、旅で終える役者。行く先々で大道芸をやるの。たとえば、パントマイムをやるとか、踊りを踊るとか」
「俺、どっちも出来ないよ。何の芸もないから駄目《だめ》だろうな。出来るとしたら煙草の煙で輪を作ることぐらいだ」
「できるの? やってみて」
尾木は吸っていた煙草を深く吸い込むと、上を向き、頬に人差し指をぽんぽんと当てて丸い輪をいくつも作った。
「うまいうまい」
「昔、輪をふたつ繋《つな》げることもできたんだぜ。今はどうかな」
「繋げるの?」
「ああ。見てな」
初めのうち失敗したが、彼は三度目に煙の輪を交差させることに成功した。美穂は手を叩いた。
「観客から十円ずつくらいはもらえるわ。十五人から十円ずつもらって百五十円。それでふたりでコロッケパンを買うの」
尾木は煙草を灰皿に投げ込むと、ふっと笑った。
「かわいいこと言うんだな、あんたって女は」
美穂も微笑んだ。
「私ね、あなたからあんた≠チて言われるの、とても好きよ」
「育ちが悪いんだ、俺。女の人にきみ≠ニかあなた≠ニか言えなくてさ」
「あんた、って呼ばれるの、これまでは好きじゃなかったけど、今は違うの。あなたが言うあんた≠チて、すごくいい」
尾木は目を細めた。ぼんやりとした電灯の明かりが彼の目の下に隈《くま》を作っている。
「あんたが元気になってよかったよ。医者に見せようかと思ってた」
「私たち逃亡中でしょ。そんなことしたら警察に通報されちゃうわ」
「でも、あんたの命には代えられないよ」
「それによって捕まっても?」
「かまわないよ。俺は今、何よりあんたが大事だ」
「でも私、捕まりたくない」
「馬鹿だな。捕まるとしたら、あんたじゃなくて、この俺だ。あんたは保護される立場なんだから」
「ううん」と、美穂は首を振った。
「私も共犯よ。あなたをかくまっているんだもの」
「それとこれとは別だよ」
「どうして? 同じよ」
「俺は犯罪人だが、あんたは違う」
「でも、私は犯罪人のあなたと逃げてるわ」
尾木は美穂の横に来て立て膝《ひざ》をしながら座った。
「真面目《まじめ》な話、これからどうする?」
「どうするって何が」
「金はまだたんまりあるけど、二か月もつかどうかだ」
美穂は答えなかった。尾木が何を言いたいのか、彼女にはよくわかっていた。いつまでもこんな当てのない旅が続くわけがない。しかも追われている身で、行動の自由もきかない。パスポートがないから外国へも行けない。人里離れた山の中かどこかに廃屋を探すか、都会の雑踏に紛れてひっそりと身を隠しつつ生き延びるか。そのどちらを想像してみても、現実味は薄かった。
「わからないわ、私も」と、美穂は静かな声で言った。
「わからないから、あんまり考えたくない」
「俺も考えたくないさ。ただ……」
「ただ、何?」
「いや、あんたが熱を出して苦しんでるのを見て、俺、あんたにすまないと思ったんだ」
「どうして?」
尾木は美穂の手を取り、そっと撫《な》でまわした。
「うまく言えないよ」と、彼は美穂の手の甲に唇を当てた。
「俺にもっと教養があったらよかったと思うよ。いろんな気持ちをうまく説明できるのに」
「言葉はいらないわ、言葉なんか信用できないもの」
「でもな。つまり、その、あんたにこんな思いをさせるのは、よくないって思ったのさ。多分、そういうことだと思う」
宴会場からマイクを使った男のだみ声が聞こえてくる。スリッパを引きずる音が階下で微《かす》かにした。海からの風が窓ガラスを叩《たた》いて過ぎる。美穂は腰をずらせ、尾木の膝《ひざ》に手を伸ばした。
「いいのよ」
彼女は押さえた声で言った。
「私がこうしたくて、してることなんですもの。あなたのせいじゃないわ」
尾木はゆっくりと美穂の身体を抱いた。
「俺が何を望んでるかわかるか」
美穂は尾木の胸の中でじっとしていた。彼は言葉を選びながら、ひと言ひと言、朗読するように言った。
「あんたと一日中、毛布にくるまってるんだ。外はいい天気で、窓からは風が入ってきて、俺たち毛布にくるまったまま、一日を過ごすんだ。そして、俺はあんたを何度も愛する。一日中、愛してやるんだ」
「たった、一日だけ?」
「そう。一日だけ。何故って、次の日は死んだように寝てるからさ。そしてまた次の日は、一日中、愛し合う」
美穂はくすりと笑った。
「それで金がなくなったら、ふたりで銀行強盗でもやりゃあいいさ。あんたは胸の開いた色っぽいドレスを着て、銀行のじじいを誘惑するんだ。じじいがやに下がってる間に、俺はハジキをつきつけてやる。じじいから金をもらったら、あんたはじじいにキスのひとつでもしてやんな。じじいが呆気《あつけ》にとられてる隙《すき》にふたりでずらかるんだ。あんた、そういうの似合いそうだぜ」
「そう? 似合う?」
「似合うさ。いかしてるよ。それで俺たちはカッコいいオープンカーかなんかに乗って、次の町に行く。そこでしばらくは毛布の中にくるまっててさ。また金がなくなったら町の銀行を襲う。いいだろ、こういうのって」
「いいわね。本当にそうなればもっといいわね」
美穂が顔を上げると、尾木は彼女の唇の端にキスをしてじっと彼女を見た。小鼻がぴくっと動き、口許に微笑みが浮かんだ。
「昔の小説だったら」と、美穂が言った。
「こういう時って、ふたりで死のうか、って話になるのよね」
「心中か?」
「そう。たいてい、心中して物語が終わるじゃない」
「心中なんてダサイよ。死んだらおしまいじゃねえか。同じカッコつけるんなら、あんたと銀行を襲いまくるほうが俺の好みだな」
「それで最後につかまるの?」
「つかまるかもしれないし、そうじゃないかもしれない。先のことがわかんないのは、どういうやり方をしても同じだろ」
「わかるわ」と、美穂は言った。
「死ぬなら幸せな時に死にたいわね。毛布にくるまって一日中、愛し合って、何の不安もない時にふっと死んじゃうってのが一番いい」
「でも俺、まだまだ死にたくないぜ。死んでたまるかよ。あんたみたいないい女と知り合ったってのに」
美穂は微笑んだ。尾木は大きく息を吸い、ぽんぽんと美穂の背中を叩《たた》いた。
「電気、消そうか」
「もう寝るの?」
「少し、寝たほうがいい。あんた、まだ身体が直ってないしな。途中で目を覚ましたらまた話をしよう。俺は、ひと晩中、あんたの隣に寝てるから」
「いいわ」と、美穂は言った。「元気になっておかないと明日からまた大変だものね」
美穂が布団にもぐり込むと尾木は立ち上がり、壁についている電気のスイッチを消した。室内が暗くなり、窓の外の海のうねりが聞き分けられそうな感じがした。宴会場の騒ぎも途絶え、あたりはしんとしている。
「まだ少し身体が熱いよ。よく寝てすっかり治さなくちゃな」
美穂はうなずき、尾木の側で身体を丸めた。尾木は彼女の呼吸が静かになり、やがて寝息に変わるまで、闇《やみ》を見つめながらじっと待った。
30
田辺は、捜査本部の手垢《てあか》で薄汚れた机を鉛筆でコツコツと叩《たた》いた。集まった若手の刑事のうちのひとりが、頭をぼりぼりと掻《か》きむしりながら言った。
「信用できますか、田辺さん。ガセじゃないんですかね」
「なんとも言えんな」と、田辺は鉛筆の先で紙の上に意味のない模様を書いた。
I県警から入った連絡によると、能登厳門の『金剛館』という旅館から有力な情報があったという。尾木広明、原田美穂とおぼしき男女が一泊し、翌日の午後、立ち去ったとのことだったが、その情報を伝えたI県警の捜査官は半ば、苦笑していた。『金剛館』の女将は自信たっぷりで、犯人に間違いないと言い張るのだが、代わって電話に出た番頭が「女将は誇大妄想だから」と、小声で伝えてきたらしい。
「信用度、五十ってとこだな」
田辺は独《ひと》り言《ごと》のようにつぶやいた。この事件以来、全国から百件近くの情報が寄せられた。そのうち、捜査本部を色めきたたせたのは、わずか二件。東京湾に上がった若い女の水死体が原田美穂に似ているという本庁からの連絡と、大阪の連れ込み旅館に尾木と原田美穂そっくりの男女が逗留《とうりゆう》し、不審な行動をとっているという市民からの通報である。
そのどちらも捜査の結果、シロだとわかった。東京湾の水死体は家出人の自殺、大阪の二人は、シャブ中毒患者であることが判明し、保護された。
事件に関する市民の協力はありがたいが、情報をふるいにかけていくためのエネルギーも馬鹿にならない。田辺は鉛筆で「能登」と何度も書き、頭を抱えた。
部屋の隅の電話が鳴った。今年、デカ部屋にやって来たばかりの新米刑事が受話器を取った。彼は中腰になったまま、「田辺さん!」と呼んだ。「また、I県警から電話です」
田辺は急いで受話器を受け取った。居合わせた全員が彼の口許を睨《にら》んだ。
「誇大妄想の女将の言ったことは、どうやら今度だけは当たっていたらしい」
電話を終えた田辺はそう言って、机に戻った。
「金沢駅と小松空港に緊急配備だ。女将の言ったことを信用するなら、奴《やつ》はタクシーを呼んで金沢方面へ向かったらしいからな」
「どうしてまた、誇大妄想の言ったことが信用できるんです」
刑事のひとりが聞いた。田辺はにやりとして答えた。
「きのう、金沢駅で尾木を見た学生が現れた。ピストルを持ってたってよ。そして七尾線に乗ったっていうから、女将が誇大妄想じゃないことが証明されたわけだ。畜生、あの野郎、図々しくも昼日中から列車に堂々と乗ってやがったんだ。旅館を泊まり歩いてな」
「その学生ってのは?」
「合宿中の平和な学生たちだ。トラベルミステリー研究会だとよ」
田辺は急いで背広を着ると、時計を見た。一時半。彼はその目で尾木が逮捕される瞬間を見届けたかった。人質というのは自分の置かれた状況にある程度慣れてしまうと、おとなしくなる。抵抗する気力を失った原田美穂を奴《やつ》はさんざん、手込めにしているに違いない。
相棒を撃ち殺し、犯罪に酔う狂気。その狂気にここまで付き合った人間のひとりとして、田辺は是が非でも尾木の最後の舞台の観客になってやりたいと思った。
彼は黙って部屋を出た。
31
厳門の『金剛館』が呼んだタクシーの運転手は、乗せた客がまさか小松まで行くとは思っていなかったらしく、嬉《うれ》しい悲鳴を上げた。尾木はその後ろ姿に向かって言った。
「五時十五分の飛行機に乗りたいんだ。間に合うかな」
「五時十五分? 間に合いますよ、充分。四時には着きますね」
運転手は、この上等の客にいくらかの追従《ついしよう》を並べるのが礼儀だと考えたらしく、ふたりが似合いのカップルに見えるとか、東京の人はやっぱりセンスが違う、羨《うらや》ましいとかいった話に加えて、『金剛館』の女将は気の強い後家《ごけ》で、いずれあの頭の禿《は》げた番頭と一緒になる噂《うわさ》があるが、自分としては女房の尻《しり》に敷かれるような結婚はまったく理解できない、などと喋《しやべ》りまくった。
尾木も美穂もその他愛のないお喋りに適当に相槌《あいづち》を打っていたが、やがて聞いているのに疲れ、黙りこくった。運転手はバックミラー越しにちらりとふたりの様子を窺《うかが》い、まったく今日はいい天気で、と言って話を勝手にしめくくると、口を閉じた。
道はどこも空《す》いていて、ドライブは快適だった。美穂は、尾木が会計を済ませている間に旅館のロビーから持ってきた飛行機の時刻表を取り出し、眺めた。五時十五分発羽田行きに乗れば、東京には六時二十五分に到着する。そしてすぐ、七時三十分発札幌行きに乗るのだ。
札幌に行こうと言い出したのは尾木のほうである。北海道の奥地へ進むにしても、まず札幌に行っておけば今後の方針がたて易い。東京に一時、寄るのは不安だが、危険というならどこへ行っても危険なのだから、思いきっていったん羽田に降りよう……そう尾木は提案した。
美穂の熱はすっかり下がり、体調もよくなっていた。悪い風邪ではなかったらしい。彼女は今後のことを考えて、身体には充分注意しようと思った。もう、賽《さい》は投げられているのだ。後には引けない。自分の身体くらいは自分でコントロールしていくべきだった。
「空港に着いたら、早めの食事を済ませておこうな」
尾木が言った。細めに開けた窓から、海の香りが微《かす》かに漂ってくる。
「ええ」
「何か、買いたいものはあるか?」
「ううん、別にない」
「どうせろくなものがないんだろうけど、俺、空港に着いたらあんたにプレゼントしたいんだよ」
「何を?」
「何でもいいさ。気持ちだけのプレゼントだから。何が欲しい?」
「おかしな人ね。こんな時に」
「いいじゃないか。みやげもの屋で何か買おう」
「じゃあ、チョコレートがいいわ。甘いやつ」
「よし、チョコレートか。それから?」
「それから? そうねえ。九谷《くたに》焼きの茶碗《ちやわん》か何か」
「九谷焼きだな。よーし、わかった」
「でも」と、美穂は小声で言った。
「そんなもの持って行ってどうするの? 荷物になるだけよ」
「いいんだ」と、尾木は微笑した。
「何か買ってやりたいだけなんだから」
尾木はシートの上で姿勢を直した。その時、革ジャンの内側に黒いものが見えた。それは日の光を受けて、一瞬、禍々《まがまが》しく光った。
「それ、どうする気?」
「え?」
美穂は運転席のほうを注意しながら、尾木の胸を指さした。尾木は「ああ」と思い出したように言った。
「捨てるさ。飛行機に乗る時には、こいつは邪魔だからな」
「でも、どこに捨てるの」
「まだ考えてない。なんとかなるよ」
のんびりした口調でそう言うと、彼は革ジャンのファスナーを上のほうまできっちりしめた。
「気をつけてね」
美穂は言った。そしてそう言ってから、果たしてこんなものを捨てる場所があるのかどうか、不安になった。誰かが見つけてしまうに決まっている。もしそうなったら、ふたりの足取りが知られてしまうではないか。
いろいろ、質問をしたかったが、狭い車内では運転手に聞かれる恐れがあった。美穂は黙り、窓の外を見た。目には見えない不安が埃《ほこり》のようにうっすらと美穂の中にたまり始めていた。その不安がどこからくるのか、彼女にはわからなかった。知らず知らずのうちに何かの回転が早くなっている。スピードを上げて疾走するこの車のように、加速を増して何かが動き始めている。そんな気がした。
窓の外には外能登の海岸線が見えた。車の窓枠《まどわく》に囲まれたその風景は、額縁に入った風景画のようだった。天気は申し分なくよかった。すべては上々で、嘘《うそ》のように完璧《かんぺき》だった。一点の曇りもない完全なひととき。なのに何故、何を怖がって自分はざわめいているのか。美穂は軽く目をつぶり、深呼吸した。
小松空港に着くと、尾木はあたりを見回し、伏目がちに黙ったまま美穂を二階にあるみやげもの店へ連れて行った。店内には大勢の買物客がいた。それぞれ能登の名産品を吟味したり、週刊誌を買ったりしている。売り子も客も忙しそうで、誰も他人のことに気を使っている様子はなかった。
尾木は急いで、チョコレートと九谷焼きの湯呑《ゆの》み茶碗を買い、ビニールの手提《てさ》げ袋ごと美穂に手渡した。
「ありがとう」と、美穂は言った。尾木はサングラスをかけたまま、笑顔を作った。
「礼を言われるほどのもんじゃねえけどな。もっといいもんを買いたかったけど、ここじゃ無理だ」
「何もいらないのに。お金は大切に使わないと」
「いいさ。俺、今んとこ金持ちなんだから。さあて、まだ、たっぷり時間があるから、飯でも喰《く》うか」
「そんなにお腹《なか》がすいてないわ。それに……」
美穂が心配そうに尾木の胸のあたりに視線を集中させると、尾木は子供をあやすように彼女の頭を撫《な》でた。
「大丈夫だって。急がなくても飯を喰った後に始末するから」
「先に航空券を買っておいたほうがいいんじゃない?」
「それもあと。まず飯だ。レストランに入ったら、俺がひとっ走りして買ってくるからさ。満席だったら、のんびりキャンセルを待っていりゃいい」
「そうね」と、美穂は言った。
「なるべく、ふたりでいないほうがいいものね。空港って、だだっ広いし、なんとなく誰かにじっと監視されてるみたいな気がするもの。ね、本当に大丈夫?」
「大丈夫って何が?」
「後をつけられてたりはしないかしら」
「誰があとをつけて来るんだい」
「……わかんないけど」
ははは、と尾木は笑った。
「心配すんなって。後なんかつけられてたまるかい。さ、行こうぜ。俺、実を言うと腹が減って力が入んねえんだ」
「いやあね。よく食べる人ね。朝だってしっかり食べたじゃないの」
「あんたを愛するためにはよく食べて体力をつけとかないとな。一日中、毛布の中って話、覚えてるだろ」
美穂は笑った。尾木は彼女の肩を力強く抱き、歩き出した。
二階ロビーを抜け、空港で唯一《ゆいいつ》のレストランに入る。入り口で尾木はカレーライスとビール、それに美穂のためのサンドウイッチの食券を買い、窓際の席に座った。
ガラス越しに一階のロビーが見える。搭乗カウンターの中では、濃紺の制服を着た空港職員たちが搭乗チェックをしており、ロビー備え付けのベンチには新婚カップルを見送りに来たらしい留袖姿《とめそですがた》の女や黒いスーツを着た男たちが座って、何やら賑《にぎ》やかに談笑していた。
搭乗手続きを終えた新婚カップルは、その黒い集団の中に入って行った。けばけばしいピンク色のツーピースを着た新婦が、真っ赤に塗った唇を左右に大きく開けて留袖姿の女たちに笑顔を振りまいている。紋付を着た痩《や》せて小さな老婆が、皺《しわ》くちゃのハンカチを目に当てて、泣いているのか笑っているのかわからない顔でピンク色の女のスカートを撫《な》でた。
新婦の友人らしき若い女が走り寄って来た。新婦は老婆の手を蜘蛛《くも》の巣でも払うようにさっと振り払い、その若い女に近づいた。老婆は一瞬、顔を硬直させたが、やがて諦《あきら》めたようにへなへなとベンチに腰を降ろした。老婆はもう、泣いていなかった。
ウェイトレスがビールを運んできた。尾木はふたつのグラスにビールをつぐと、じっと美穂を見た。
「楽しかったな」
「え?」
「能登の旅、楽しかったな」
美穂はうなずいた。尾木はグラスを軽く持ち上げて「乾杯」と小声で言うと、声に不釣り合いな勢いをつけて、ひと息にビールを飲み干した。
「うめえや」と、彼は言った。この数日間、美穂が聞きなれた小さなげっぷの音が同時に聞こえた。
彼の視線がロビーとレストランの入り口との間を行き交った。どこかしら挑戦的な、そのくせ愁いのある目付きだった。
「どうしたの?」
「え?」
「誰かがいたの?」
「誰もいないよ」と、彼は言い、今度は目を細めてじっと美穂を見た。さっきまでの目付きは消え、いつもの表情に戻ったが、その変化はあまりに早すぎた。微妙な苛立《いらだ》ちが美穂を襲った。
「哀《かな》しそうな顔よ。どうして?」
「そうかな」と、尾木ははにかんだように唇を歪《ゆが》めた。
「俺、哀しそうか?」
美穂はうなずいた。うなずいたきり、何も言えなかった。
「あんたが好きだ、って思うとこんな顔になるのかもしれねえな」
美穂が黙っていると、尾木は椅子《いす》の背にもたれかかり、二本の腕をテーブルいっぱいに伸ばした。そして両手にこぶしを作り、もどかしげにぎゅっと握りしめた。すがるような、生真面目《きまじめ》な視線が美穂をとらえた。
「俺のこと……好きか」
彼は低い声で聞いた。催眠剤でも入っているかのような声。美穂は魅入られたように彼を見つめ、ゆっくりとうなずいた。
「声に出して言ってくれ」
「好きよ。ずっと一緒にいたいわ」
尾木はそれを聞くと安心したように微笑《ほほえ》み、肩の力を抜いた。テーブルに投げ出された彼の腕の下に、白いテーブルクロスの微《かす》かな皺《しわ》が見えた。
「嬉《うれ》しいよ。何度、聞いても飽《あ》きないな。あんたからそう言われるってのは。さあてと」と、彼は幾分、姿勢を正して言った。
「その言葉に励まされて、行ってくるかな。俺、航空券を買ってくるよ。あんたはここにいな」
「カレーを食べてからにしたら?」
「すぐに済むさ。それに、捨てるものもあることだし」
そう言って、尾木は胸のあたりを軽くたたいてみせた。
「いいわ。早くね。早くしないとカレーが冷めちゃうわよ」
「わかってるって」
尾木は紙袋を持つと立ち上がった。
「これ、ちょっと持って行くぜ。場合によっちゃ、こういう隠れ蓑《みの》が必要だからな」
「気をつけて」
「ああ」
尾木は袋を抱え、美穂の横に来ると、もう片方の手で彼女の頬《ほお》に触れた。太い指が頬から下に降り、最後に顎《あご》にきて止まった。彼は人差し指で美穂の顎を少し持ち上げ、ふっと目を細めた。
「待ってろな。ここで」
美穂はうなずいた。尾木は大きく息を吸うと、手を離した。暖かいが湿った指の感触が美穂の顎に残った。
彼はくるりと後ろを向き、歩き出した。そして出口を出てしまうまで、一度も振り返らなかった。
尾木の姿が見えなくなると美穂はロビーを見下ろした。新婚カップルの一団がまだ、ロビーにたむろしている。さっきの老婆は、新婦のスカートに触れるチャンスを探してでもいるかのように、ベンチの上で目をきょろきょろさせていた。
美穂はビールをひと口飲み、落ち着かない気持ちで煙草に火をつけた。心臓の鼓動が少し、早かった。
ウェイトレスが仏頂面《ぶつちようづら》をしたまま、カレーライスとサンドウイッチを運んで来た。まるで、自分の不機嫌の原因が、カレーライスとサンドウイッチにある、と言わんばかりの様子だった。彼女は食券の半分をよく太った指で乱暴にちぎり取ると、大股《おおまた》で去って行った。
美穂は目の前に置かれた二つの皿を見るともなしに見た。主のいない向かい側の席の前に、ほのかに湯気のたつカレーライスが置かれている。
その湯気の向こうに人影が浮かんだ。初めはそれが何を意味するのか、美穂にはわからなかった。彼女は放心したように、影を見つめた。影は恐る恐る美穂に近づき、やがて彼女の前に立ちはだかると、不器用に笑いかけた。美穂は吸いかけた煙草をテーブルの上に落としそうになった。
「美穂……」
令子が泣きそうな顔をして立っていた。見覚えのある、暖かそうな焦茶色のジャケットを着、腰にぴったりした黒のタイトスカートをはいている。耳にはめた派手な大きい銀色の丸いイヤリングが、神経質そうに揺れた。
美穂が息を止めて立ち上がりかけると、令子はあたりをさっと見回しながらそれを無言で制した。
「びっくりさせてごめんね、美穂。わけがあるのよ、これには」
「令子。どうしてここに……」
「お願い。何も聞かないで私と一緒に来て」
「何故、わかったの。私がここにいるってこと。誰かに聞いたの?」
「話せば長いわ」
「彼も一緒なのよ。今、私、彼を待ってるのよ。私……、ねえ、私、とんでもないことだけど、彼のこと、好きになって……」
全部を聞き終わらないうちに令子は「わかるわ」と、目をしばたたかせ、顔を歪《ゆが》めながら芝居がかった仕草でうなずいた。美穂は目の前にあった令子の腕をつかんで、低くうめくように言った。
「令子。教えてよ。変だわ。警察があなたに頼んだの?」
「違う。違うのよ。わけは後で説明するわ。だから、とにかく……」
美穂は荒い呼吸をしながら、ロビーを見た。尾木の姿は見えない。何をしているのだろう。先に航空券を買わなかったのだろうか。ピストルを捨てるのに手間どっているのだろうか。
令子がおどおどした様子で、美穂の前の座席に腰を下ろした。
「とにかく、あなたが元気でよかった。どんなに心配したか。松江のお母さん、寝込んじゃってるのよ。妹さんが今、東京に来てるわ」
美穂は疑い深そうな目で令子を見るともなく見た。令子は美穂に余計なことを言わせまいとするように、どもりながら話し続けた。
「次の便で東京に帰りましょう。私、航空券を二枚、持ってるのよ。皆、心配してるわ。私だって生きた心地《ここち》がしなかったのよ。トキさんは少し、元気になったらしいわ。まだ病院にいるけど。美穂が無事だと知らせたら、きっと喜ぶと思うわ」
「そんなことより、いったい何なの? なんで令子がここに来たのよ。なんで航空券を二枚、持ってるのよ。何しに東京へ行くっていうの?」
美穂は令子の顔を見、次にロビーを見た。まだ尾木の姿は見えない。
「美穂!」
令子が突然、美穂の手をつかんで低く叫んだ。
「わけは今は言えないのよ。こんなところじゃ、話せないくらい混み入った話なのよ。私、もう、どうしていいか……」
みるみるうちに令子の目から涙があふれ出した。美穂は呆気《あつけ》にとられて彼女を凝視した。レストランにいた人々が好奇心むきだしで、自分たちに視線を注ぎ始めたのがわかる。令子の大きな吐息で、灰皿の中の灰が飛び、白いテーブルクロスに散らばった。
令子はしゃくり上げながら、途切れ途切れに言った。
「あの男はもうここへは戻って来ないわ。戻らないのよ」
美穂は目をむいた。令子は美穂の反応にこだわらずに続けた。
「わかる? もう待ってても戻らないのよ。美穂、これでいいのよ。私の話を聞いたら美穂だってきっとこれでいい、って思うはずなんだから。だから……」
美穂は令子をさえぎり、低く憎しみのこもった声で言った。
「何が言いたいの、令子」
令子は身体を小刻みに震わせながら、嗚咽《おえつ》をこらえている。美穂は令子を一瞥《いちべつ》し、中腰になりながら再びロビーを見た。ついさっきまでたむろしていた新婚カップルを見送る人々の姿は一切なく、ロビーは閑散としている。カウンターの中で職員たちがあたりをきょろきょろ見回した。
黒っぽい背広を着た男が、すべるようにどこかからやって来てカウンターの影に隠れた。ロビーには四人の男がおり、四人とも立ったまま、片手をズボンのポケットに入れていた。そのうちのひとりは、内ポケットに顔を突っ込むようにして、口を動かしている。
その内ポケットから少しはみ出した黒いものが、小型の無線機だと知った途端、美穂は立ち上がった。
美穂がガラスにへばりついたのと、尾木の姿が見えたのはほとんど同時だった。尾木はカウンターのほうではなく、逆の出口のほうへ足早に歩いていた。
無線機の男が大きく口を動かした。ロビーの四人の男が一斉にピストルを出し、銃口を尾木に向けた。
尾木はさっと振り返った。手にしていた紙袋が床に落ちた。彼の手が革ジャンの内ポケットにすべり込んだ。黒く光るものが一瞬のうちに取り出された。四人の男たちの後ろから、十人以上の警官がぱらぱらと美穂の視界に現れた。
尾木は銃を胸のあたりで構えた。次の瞬間、銃声がはじけた。一発なのか、二発なのかはわからなかった。どこからか、女の悲鳴が上がった。尾木が上を向いた。階上のレストランにいる美穂を探すようにして、彼の視線が揺れた。
それはまるで、上を向きながら大きく伸びをしているかのような格好だった。彼の手から銃がぽろりと落ちた。彼の足は大きくもつれたが、目は開かれたままだった。
しかし、それもわずかの間だった。洋服がハンガーにかけられたまま畳の上に落ちるように、彼は力なく静かに床に崩れ落ちた。
美穂はガラスに両手をぴたりと当てがいながら、声をふりしぼって叫んだ。
自分でも何を叫んでいるのか、わからなかった。声がかすれ、目がうるんだ。ロビーの中央に横たわった尾木の細長い身体に向かって、警官たちが四方八方からにじり寄って来た。尾木はぴくりとも動かなかった。
美穂は狂ったようにガラスを手で叩《たた》き続けた。令子が口を押さえながら、美穂の腕をつかんだ。
美穂はその手を振り切ると、レストランを飛び出し、階段を転がるように駆け降りた。後ろから絶叫に近い令子の声が聞こえたが、何を言っているのかはわからなかった。
ロビーには人だかりがし、無線機を使う声があちこちで聞こえていた。警官たちが黒い壁のようになって美穂を制した。美穂はそれにも構わず、声にならない声を張り上げて少しでも尾木の近くに行こうと黒い壁の隙間《すきま》をぬって這《は》いつくばった。
警官たちが美穂を取り押さえた。彼等の怒鳴《どな》り声は、蜂《はち》がぶんぶんと頭の上を飛んでいるみたいに聞こえた。尾木の死体はやがて壁に囲まれて見えなくなった。警官のひとりが言った。
「この人、原田美穂じゃ……」
遠くから中年の男が走り寄って来た。男は美穂の腕をつかんだ。
「原田さんだね」
美穂はどんよりとした目で男を見上げた。男ははずんだ声で言った。
「N県警の田辺といいます。もう大丈夫です。安心してください」
「大丈夫ですって? この人殺し!」
「なんだって?」
「どうして彼を殺したのよ。私は人質なんかじゃなかった。私は望んで彼と一緒にいただけなのよ! 彼が好きだったから、一緒にいたのよ!」
田辺は目を見開いて美穂を見、次いで回りの警官たちを見た。誰も何も言わなかった。美穂は田辺の出っ張った喉仏《のどぼとけ》が、一瞬、大きく上下するのをはっきりと見た。いつのまにか、後ろに令子が立っていた。令子は泣きはらして化粧の剥《は》げた顔をつんと上げ、幾分、唇を震わせながらもはっきりとした口調で言った。
「田辺さん、私を逮捕してください」
それは舞台の上で役者が台詞《せりふ》の練習をしている時のように見えた。田辺は、美穂は、そして居合わせた多くの人々は、しんとして令子を見つめた。令子は目をうるませながら美穂に視線を移し、「美穂、ごめんね」と言った。
「でも誤解しないで。私が警察をここへ呼んだんじゃないのよ。私だって……こんなことになるなんて、全然……知らなかった」
そう言い終えると令子は田辺のほうを見た。そして、まるで貴婦人がちょっとした嘘《うそ》を告白するかのようにさりげなく「犬山を撃ったのは、私なんです」と、言い、誰にともなく深々と頭を下げた。
美穂には初め、令子の言ったことの意味がわからなかった。犬山を撃ったのは、私なんです、犬山を撃ったのは、私なんです……令子が犬山を撃った。この令子が。尾木が撃ったのではなかったのか。
美穂は茫然《ぼうぜん》として立ちつくした。それまで美穂の腕をつかんでいた田辺は、静かにその手を離した。誰ひとりとして動き出そうとする者はいなかった。警官たちの作る人垣《ひとがき》の向こうで野次馬《やじうま》が騒ぎ始めていたが、それを制する声もしなかった。
令子はほとんど無表情のままだったが、顔は紙のように白かった。田辺はその令子を見つめ、軽く鼻をすすった。美穂は田辺が聞き取れないほど小さな声で「馬鹿な」と、つぶやくのを聞いた。
彼は片手で頭の後ろを押さえ、二、三度、意味もなさそうにうなずくと、病人のように疲れきった足どりで令子のもとへ歩み寄った。
「とにかく」と、田辺は痰《たん》が絡まった声で言った。
「警察で話を伺うとしましょう」
遠くからパトカーのサイレンの音が絶え間なく聞こえている。ざわざわと動き出した警官たちの間に、倒れた尾木の姿が見えた。見開いた目は、じっと二階のレストランのほうへ注がれていた。美穂は目をつぶった。
32
『美穂。どうしていますか。電話をかけようか、それとも訪ねて行こうか、と迷っていたのだけど、結局、手紙を書くことに決めました。事件の真相は、香川のほうからあなたに話してもらったし、警察からも詳しく話を聞いたことと思います。でも、それだけじゃ足りない、どうしてもこのことは美穂に直接伝えなくては、と思い、ペンを取りました。
あの日の前夜、十二時半ころだったでしょうか。ひとりで家にいた私に尾木さんから電話がかかってきました。P新聞社に電話してうちの電話番号を聞き出した、って言ってました。すごく低い声で話すので、初めはいたずら電話か何かかと思ったんだけど、話を聞いてあの人だってすぐわかった。
美穂。あなたのために私の記憶をフル回転させて、彼が電話で言ったことを出来るだけ正確に、ここに書くことにします。彼はこう言いました。
「あんたは警察に真っ赤な嘘《うそ》を言ってるようだな。犬山を殺《や》ったのはあんただ。俺はガソリンを入れて山荘に戻った時、銃声とあんたが逃げる後ろ姿を見た。
しかし、美穂はそのことを知らない。美穂は俺が犬山を殺ったのだと思い込んでるんだ。そして俺も本当のことを言わずにいる。
何故かわかるか。別にあんたを助けたいからじゃない。そんな馬鹿がどこにいる。いいか。美穂は俺に惚《ほ》れてくれたんだ。俺が人を殺した男と知ってて、俺に惚れてくれてるんだ。俺はそれが嬉《うれ》しいんだよ。だから、俺はあんたの殺人の罪の肩代わりをしてやる。一生な。
あんたが俺に罪を着せて、悲劇のヒロインぶってると思うと反吐《へど》が出る。今だってそうだ。あんたをぶっ殺してやりたいくらいだよ。だがな、俺は今、それどころじゃない。美穂が不憫《ふびん》なんだ。俺は美穂にかわいそうなことをしてしまったと思い始めてるんだ。
俺がパクられるのは時間の問題だろう。今日、金沢駅では若い連中にハジキを見られちまったし、今泊まっている旅館の女将も俺のことに気づいたようだ。このままいくと、美穂を巻き添えにしちまいそうだ。
いいか、あんたに頼みがある。俺の頼みだ。聞けないはずはないだろう。明日、俺たちは夕方の四時から五時の間に小松空港に行く。俺は二階のレストランに美穂を連れて行ってから、ひとりでずらかるつもりだ。俺が姿を消したら、すぐに美穂のところに行き、美穂を東京に連れて帰ってくれ。何があってもそうするんだ。わかったな。
警察にはそれから報告すりゃあいい。適当にデッチ上げるんだ。好きにしていい。
美穂に何か聞かれたら、こう言っておいてくれ。俺は美穂と知り合ったことだけで満足だ、運が向いてきたら、また会おうぜ、ってな。
俺があんたの嘘《うそ》を引き受けるのは、美穂のためだ。この秘密は一生、ばらさねえよ。じゃあな」
……確か、これが正確な内容だったと思います。ほとんど一方的に喋《しやべ》って、電話を切ってしまいました。私は、正直に言って信じられない気持ちでした。美穂があの男と愛し合っただなんて、どうして信じられたでしょう。私にとっては、あの男たちは二人とも悪魔でした。
でも、彼が言ってきたことを信用するしかなかった。いたずらだとはとても思えなかった。もし「愛し合った」というのが、彼の妄想だったにしても、ともかく彼はあなたを私に託そうとしていたわけですから。
香川に相談しようかと思ったけど、結局、嘘の上塗りをすることになりそうなのでやめました。私は翌日、誰にも言わずに小松へ行きました。警察がつめていたとは思いもよらなかった。本当です。私は言われた通りにあなたを東京に連れ帰り、その足で警察に出頭するつもりでした。なのに、あんなことになって……。
尾木さんから電話を受けるまで、私にとっては悪夢のような毎日が続いていました。警察も香川も、私の証言を頭から信じ、尾木さんを凶悪犯人として扱い始めました。私の嘘がひとりの男を凶悪殺人犯にしてしまったのです。香川に真実を言う勇気もなく、美穂のことは心配だし、毎日、浴びるようにお酒を飲んでました。
あの日、あなたが犬山に殴られて気絶した直後のこと。私は床に転がっていたピストルを拾い上げ、銃口を犬山に向けました。撃つつもりなんか全然、なかった。ピストルを手にしたのも初めてだったんです。私はぶるぶる震えながら、犬山に狙《ねら》いをつけました。
犬山が異常に気づいて振り返りました。その顔の恐ろしかったことと言ったら、私は思わず目をつぶって身体を固くしました。その瞬間、指が引き金を引いてしまったんです。
目を開けると、犬山がのけぞるように倒れていました。弾丸《たま》は犬山の心臓をぶち抜いていました。
その時、玄関のほうで音がしたんです。私はピストルを放り出すと、腰が抜けたまま、這《は》うようにして部屋を出ました。美穂やトキさんを助けなくちゃ、と思ったんだけど、とてもそんな余裕はなかった。裏口から外へ出ようとした時、尾木さんが何かを叫びながら後を追って来ました。振り返った私の目と尾木さんの目が合いました。もうだめだと、思ったんだけど、私は夢中で逃げました。
外へ出てしばらく走った後、何かにつまずいて転びました。尾木さんに羽交《はが》い絞《じ》めにされるかと、じっとしていたんですが、不思議なことに何もおこりませんでした。
あたりはしんとしてました。追って来ているものとばかり思っていた尾木さんの姿もなかった。私は再び、走り出し、通りに出て通りかかった乗用車の運転手に助けられました。すぐパトカーが来て、私は警察に連れて行かれました。
嘘をつくつもりはなかったんです。本当よ。美穂、信じて。でも、いったん気を失って、意識を取り戻してみると、急にこわくなったんです。パパがなんて言うか、香川がどう反応するか、世間にどう扱われるか、こわくてこわくて……。
犬山は岸本のおじいさんを殺し、トキさんの首を絞め、美穂を殴りつけた男だけど、私に立ち向かって来たわけじゃない。たとえ無意識にではあっても、床に転がっていたピストルを取り上げ、引金を引いたのは私のほうです。果たして正当防衛に当たるのかどうか。仮に正当防衛が立証されたにしても、世間にどう騒がれるかと思うといてもたってもいられなくなったんです。
誰が信じてくれるでしょうか。私以外、あの時の状況を知っている人間はいないんです。正当防衛だという証拠は何もないんです。
咄嗟《とつさ》の判断で、私は犬山を殺したのは尾木さんだったと証言することに決めました。ひどいことをしたと思います。あの時の私はどうかしてたんです。
あの男だったらそのくらいのことやりかねない。警察も納得《なつとく》するに違いない。真実を知っているのは尾木さんだけでしたが、指名手配中の犯人が自ら警察に真相を暴露してくることはまず、考えられない。そう思って私は馬鹿なことをしてしまったんです。
美穂。私は今、弁護士さんと共に毎日、自分の罪と戦っています。弁護士さんの話では、なんとか実刑は免れそうだということですが、偽証の罪は重いそうです。パパは何かと奔走してくれました。でも、私、パパに何もしてくれなくていい、と言いました。よくあなたや香川に言われていたように、親のぬくもりから巣立ちができない私の弱さが、今回の哀《かな》しい出来事を引き起こしたのかもしれないと思って……。
香川はやさしくしてくれています。でも、一度、彼にひっぱたかれました。おかしいわね。ひっぱたかれて初めて私は、彼と夫婦だ、って思ったのだから。
美穂の大切な人を殺してしまったのはこの私です。法律上の罪よりも何よりも、私はあなたのために罪を償いたいと思っています。ごめんなさい。
もう少し、落ち着いたら会いたいね。会ってくれますね。もし、美穂が話す気があるのなら、尾木さんとあなたとの間に芽生えた恋の話を聞かせてください。きっと、美穂、あなたは、私みたいないい加減な女がどうひっくり返ったってわからない世界を知っている人なんだと思います。あなたがちょっぴり羨《うらや》ましい。
またね、美穂。必ずあなたに会いに行きます。
令子』
美穂は読み終えると、もう一度読み返し、尾木が令子に電話で伝えたという言葉を三回繰り返して読んだ。ことに、美穂への伝言にあたる個所は念入りに読んだ。
『俺は美穂と知り合ったことだけで満足だ。運が向いてきたらまた会おうぜ』
彼女はその言葉を何度も諳《そら》んじ、丁寧にそっと折りたたんで手紙を封筒に戻した。
すばらしくおだやかな秋の午後だった。透《す》き通った日差しが部屋の窓辺に差し込んでいる。
スヌーピーの漫画がついたプラスチック製のトレイから、コーヒーカップを持ち上げて口に運び、彼女はぼんやりと窓の外を見た。葉が朽ちかけた銀杏《いちよう》の木が一本見える。その細い梢《こずえ》をかいくぐって、乾いた風が入ってきた。レースのカーテンが風をはらんで大きくふくらんだ。
そしてカーテンの裾《すそ》が、部屋の隅に置かれた九谷焼きの湯呑み茶碗を音もなく撫《な》でさするのを美穂は飽《あ》きもせずに、じっと眺めていた。
あとがきに代えて
銀行強盗や誘拐《ゆうかい》犯人たちが、人質をとって監禁したり、逃亡生活を続けたりする間に、犯人と人質の間に奇妙な連帯感や情愛が生まれる……という設定の物語や映画はいくらでもある。
映画『狼《おおかみ》たちの午後』、ハドリー・チェイスの小説『ミス・ブランディッシの蘭』を映画化した『傷だらけの挽歌《ばんか》』、アルレーのサスペンス『砂の鎧《よろい》』、新しいところでは、ごく最近刊行されたアン・タイラーの『夢みた旅』などもまさしくそのタイプの小説である。
映画や小説の中では、しょっ中、お目にかかるそうした事件……犯人が人質をとって長期間、たてこもったり、逃亡したりする事件……は日本では少ない。
それはひとつには、日本は国土が狭く、住居が密集しているせいもあるだろう。追われる者が長期にわたって身を潜《ひそ》めることは、まず不可能なのである。それに加えて、日木人の犯罪者を見る目は、極度に否定的だ。
たとえば、アメリカなどでたまに見られるように、犯罪者がどこかでヒーローの役割を果たすなんてことは、なかなか考えられない。
そんな具合だから、犯罪者と人質の間に緊張関係以外の何かの感情が生まれるなど、ちょっと現実には想像しにくいかもしれない。
しかし、もし、実際にそうしたことがおこったならば、どうなるだろうか、と私はよく考える。
何日も何日も、銃を片手にした凶暴な男と過ごす女というのは、いったいどんな気持がするものなのだろうか。恐怖に慣れる時が来るものなのだろうか。そして、もし慣れたとして、その後にはどんなことを考え、どんなふうに犯人を観察するものなのだろうか。それとも恐怖に慣れることなどなく、ショックで、半狂乱になってしまうのだろうか。
……そうした素朴《そぼく》な関心が、或《あ》る晩、テレビの深夜映画を見ていて頂点に達した。ビック・モロー主演のB級サスペンスで、やはり、女の人質をとった逃亡犯の物語だった。
私は考えた。極限の状態にいながら、人質と犯人の間に、本人たちでさえ理解に苦しむ情愛が生まれるとしたら、どうなるだろう。情愛どころか、それが狂おしいまでもの愛情に変わっていったとしたら? 錯覚《さつかく》である、幻想に違いない、と冷静になろうとすればするほど、気持ちが昂《たかぶ》ってしまったら?
事件が解決すれば、ふたりは引き離されるのだ。もしかすると、男は有罪になるかもしれない。しかも、もし、逃亡中の情事、恋愛が人々の耳に入ったら、どれだけ汚らわしく詮索《せんさく》されるか知れたものではない。
なのにやっぱり、恋をしてしまったとしたら。終わりが見えていて、なお、そこにのめりこんでしまったとしたら。
そんな話を書いてみたい、と思った。そして出来上がったのがこの小説である。一応、サスペンスの形をとってはいるけれど、これはささやかな恋愛小説なのかもしれない。
尾木という男は、頭は悪いがちょっといい男で、書きながら惚《ほ》れてしまったことを告白しておく。こうした粗野で荒っぽい、しかし、とんでもなく愛情に飢えている男というものは、現実に関わるのは大変であるに違いない。でも、イメージの中では恋することが可能だった。だから、彼はこの小説の中のヒーローである。
観念や理屈で割り切れないのが恋愛である、と私はかねがね思っている。もしかしたら、こんな形の恋愛も、この世には存在するのかもしれない。そう思って、楽しんでいただけたら、作者としても嬉《うれ》しい限りである。
一九八八年一月
小池真理子
角川文庫『彼女が愛した男』昭和63年1月10日初版発行
平成10年7月10日15版発行