小池真理子
仮面のマドンナ
プロローグ
何も聞こえない。何も見えない。自分が目を覚ましているのかどうかすら、わからない。
何も感じない。痛みも何も。私は死んだのだろうか。それとも暗黒の宇宙に放り出されたのだろうか。宇宙服を着たまま。まさか! どうしてこんなに身体《からだ》が軽いのだろう。手ごたえが何もない。なさすぎる。
誰《だれ》か来て。誰か私になんでもいいから質問して。アナタハ幸セデスカ、ソレトモ……。いいえ、もっと他の質問じゃなくちゃ答えられない。アナタハドウシタノデスカ。気分ガ悪イノデスカ。気分? いいのか悪いのか、わからない。本当よ。何もわからないのよ。
遠くから微《かす》かに声が聞こえる。声? 声のような唸《うな》り声。蜂《はち》がぶんぶんと唸るような、砂がざわざわと押し寄せるような……。
私は必死で呼吸する。呼吸。どうやるのか忘れてしまわないうちに。ほら、鼻から空気を吸って。肺に入れて、また出して。
唸り声が大きくなる。何か金属の音がそれに混じる。フォークを何本もステンレスの台の上に落としたみたいな……。耳が痛い。耳からはみ出した神経に音が絡《から》みついてくるような感じがする。
「意識ガ戻《もど》ッタヨウデス」と誰《だれ》かが言った。誰? 聞いたこともない声。再び、静寂《せいじやく》。金属の音。ふいごが鳴るような音。そして、痛み。生きている証《あかし》の、私が私だということの最後の証のこの凄《すさ》まじい痛み。
アナタハ幸セデスカ。気分ハドウデスカ。コンピューターのような声。これは自分の声だろうか。私は必死の思いでこの声を繰り返し聞く。聞きながら、再び暗黒の世界に飲みこまれそうになるのをこらえる。
あなた、あなたはどこにいるの。覚えてるわ。あなたといたことを。それだけははっきり覚えてるわ。
誰かが私の髪の毛を引っ張っている。痛い。痛いからやめてちょうだい。私は悲鳴を上げる。ぶんぶん、ぶんぶん、と蜂《はち》の巣のような音が唸《うな》り続ける。
私の意識は混濁《こんだく》していく。何もわからないままに、暗黒の宇宙を再びさまよい始める。何も見えない。何も聞こえない。何も、感じない。叫んでも、自分の声が聞こえない。
列車が構内をすべり出した。見送りに来た母親が不器用に手を振っている。沿道でマラソンレースを鑑賞しながら小旗を振るおばさんみたいだ。ブラックミンクのロングコートを着た派手なおばさん。白髪《しらが》まじりの薄《うす》くなった髪の毛を目いっぱいふくらませてアップに結《ゆ》っているのが、なんとも野暮《やぼ》ったい。あれが都会的なセンスだと思いこんでいるのだ。
市原|寿々子《すずこ》は母親に向かって精一杯、機嫌《きげん》よく笑顔を作り、大きく右手を上げた。母は満足そうにうなずいて、目を細めた。
またたく間に母の姿は視界から消えた。寿々子はほっとしてシートに身を沈め、溜息《ためいき》をついた。
車内は比較的すいていて、エアコンが作動する音が聞き分けられるほど静かだった。窓の外に仙台の町並みが流れていく。
寿々子はショルダーバッグから煙草《たばこ》のパッケージを取り出すと、一本口にくわえ、ゆっくりマッチで火をつけた。隣は空席だし、煙を嫌《きら》って文句を言ってきそうな乗客はまわりにひとりもいなかった。
紫煙《しえん》はゆらゆらと窓ガラスに当たり、車内に反射する光の洪水《こうずい》の中に吸い込まれていく。彼女は腕時計を見た。
午後二時。あと二時間もすれば東京だ。三日間にわたるばかげた芝居《しばい》は終わったのだ。役目を果たしたのだから、あとはこちらの自由。両親が何を言ってこようが、かまうもんですか。だいたい、うちの連中は私のことをまだ生娘《きむすめ》だと思ってるんだから、想像力がなさすぎる。いや、もしかしたら病的多幸症なのかもしれない。二十七歳の、学生時代からかれこれ九年近く東京で独り暮らしをしている女が生娘のはずがないではないか。
両親が今回の見合いの話を半ば脅迫《きようはく》するようにして持ってきた時、彼女はもう少しで「私、男を四人知ってるのよ」と言いそうになってしまった。四人というのは正確に言うと嘘《うそ》で、三度目の男とは一緒にベッドに入りながら何もしなかった。六本木で三軒、はしごした後だったためふたりとも泥酔《でいすい》していたからだ。それでも、もし親が知ったら「はしたない!」と顔を赤くして怒っただろう。だから経験した男の数は「四人」でいいのだ。
寿々子は今回の見合い話を聞いた時のことを思い出す。突然、上京して来た母親と銀座のパーラーで会った時だ。
母親はいつもの気取った口調で「ねえ、寿々ちゃん」と太った上半身を前に突き出した。
「いいお話があるのよ。とってもとってもいいお話」
寿々子は煙草《たばこ》に火をつけ、煙を吐《は》き出した。
「何? おばさんが亡くなって予定通り、パパに遺産が転がりこんだの?」
おばというのは父親の姉で、現在|肝臓《かんぞう》を患《わずら》って入院している。死んだ夫から譲り受けた相当の財産を持っているらしく、市原家の人間が集まるたびにその話に花を咲かせているのを寿々子は知っていた。
母親はみるみるうちに顔をこわばらせ、唇《くちびる》を震《ふる》わせた。寿々子は笑った。
「冗談《じようだん》だってば。そんなに真面目《まじめ》な顔しないでよ」
「なんてこと言うの。せっかくママがこうしてあなたのために上京して来たっていうのに」
「だから、何なの、そのいい話って」
母は出てもいない鼻水をすすり上げ、ワニ革のハンドバッグからハンカチを取り出して鼻の下にあてがった。
「あなたの将来の旦那《だんな》様になる人の話よ」
「あら、そう」と、寿々子はせせら笑いそうになるのをこらえて言った。将来の旦那様の話はこれで八人目だ。二十七歳にして八人目の旦那様! 母親は紫色《むらさきいろ》のシルクの小風呂敷《こぶろしき》に包まれた一枚のキャビネ判写真をテーブルの上にうやうやしく置いた。
「この方よ。どう?」
寿々子はちらりと視線を走らせた。胃腸薬の宣伝ポスターにでも掲載《けいさい》されれば似合いそうな、痩《や》せたひょろ長い男が写っていた。紺色《こんいろ》のスーツを着て、夾竹桃《きようちくとう》の木の横に立っている。片手で夾竹桃の花の一片をいじっているのだが、その小指が女のようにぴんと立っているのを見て寿々子はうんざりした。
「北東大学の医学部を卒業された方なのよ。三十一歳。もちろん結婚歴なし。今は仙台で歯医者さんをやってらっしゃるの。玉井|一男《かずお》さんっていう名前。おとうさまも歯医者さんでね。まだ現役ですってよ。いいお話じゃないの、寿々ちゃん。パパも大喜びですよ。やっと条件がすべて揃《そろ》った方が現れたって、そりゃあ、もう……」
「ちょっと待ってよ、ママ。私、こんな人と結婚する気はないわよ」
「またそんなこと言って。いい? 寿々ちゃん。あなた、もう今年中に結婚しないといかず後家《ごけ》ですよ。東京で独り暮らししてるってだけで、パパのメンツに傷がついてるっていうのに。これ以上親不孝するのはやめてちょうだい」
「親不孝? いつ私がパパに迷惑《めいわく》をかけた? お金を借りたこともなければ、結婚|詐欺《さぎ》で新聞の三面記事に載《の》ったこともないでしょ」
「それとこれとは話が違いますよ」
「どうして? だいたい、ママはパパのことや市原の家のことをかいかぶり過ぎてるのよ。いくら一族が歯医者の家系って言ったって、それがなんなの? ただの歯医者じゃないの。人の口の中を覗《のぞ》きこんで、削《けず》ったり埋め込んだりする仕事がそんなに……」
「黙《だま》りなさい! 寿々子!」
母親の怒鳴《どな》り声で、パーラーの居合わせた客たちは一斉《いつせい》にふたりを振り向いた。寿々子は照れ笑いをしながら肩をすくめた。そこまで言うつもりはなかった。ただ、後生大事に風呂敷《ふろしき》に包んだ胃腸薬宣伝ポスターみたいな写真を持って、わざわざ仙台から出て来た母をからかってやりたかっただけだった。
「ごめんごめん。言い過ぎたわ」
母親は目をうるませながら、苛立《いらだ》たしげにオレンジジュースをストローで飲みほした。
「ママったら。ねえ、少しは冗談《じようだん》ってのを理解してよ。昔からスクエアなところがなおらないんだから」
「なんです。そのスク……なんとかってのは」
「生《き》まじめすぎる、ってことよ。もう少しリラックスして話し合いましょうよ。ママと話すとすぐこれなんだもの」
「あなたは親のことをちっとも考えていないんですよ。市原の家を継《つ》ぐのはひとり娘のあなたしかいないのよ。あなたがパパの仕事にふさわしい男性と結婚してくれなかったら、もう市原の家は終わりになってしまうのよ。それにママだって……」
また始まった、そう思いながら寿々子はガラス越しに、暮れなずむ銀座の街をぼんやりと眺《なが》めた。買物帰りの家族連れや若いカップルがコートの襟《えり》を立てて、寒そうに行き交っている。日曜日の銀座の黄昏《たそがれ》時。母はこのまま、最終の新幹線で仙台に帰ると言う。早く帰ってくれればいい、と寿々子は意地悪く思った。自由ケ丘の寿々子のアパートで、佐伯《さえき》五郎が彼女の帰りを待っていたからだ。
五郎は売れない役者である。養成所を出て劇団に入ったのはいいが、以来、大きな仕事にありついた試しがない。舞台に立つと人並みに稼《かせ》ぐことはできたが、彼に配役が回ってくることは何度もあるわけではなく、ましてTVドラマとなると、もっとチャンスがなかった。
両親がそうした収入の不安定な男との結婚を許すはずがない。たとえ百歩譲って役者との結婚を許してくれたとしても、劇団の名前すら知らない親が娘の夫をごろつき扱いしてくるのは、目に見えていた。
なんとかしなくっちゃ。寿々子は内心、焦《あせ》っていた。親をとことん裏切っていくか、それとも時間をかけて説得するか。いずれにしてもそう楽観視できることではなかったが、ともかくそろそろ結論を出していいころだった。
その夜、母親と別れ、アパートに帰ると父から電話があった。玉井一男という歯医者と頼むから見合いだけでもしてくれ、と彼は懇願《こんがん》するように言った。仙台の歯医者と結婚するつもりはないのだから、見合いなどする必要はない、と寿々子は突っぱねた。父は負けなかった。玉井一男の縁戚《えんせき》関係者とは最近、懇意《こんい》にしており、いろいろな意味で見合いだけでも承知してもらわなくては顔がたたないのだ、そう繰り返した。
その時、寿々子は五郎を見ていた。五郎は彼女のベッドに寝そべりながら、缶ビールを飲んでいた。彼は困ったような笑みを浮かべて彼女に目くばせした。彼女も微笑《ほほえ》んだ。寿々子の中に二つの選択が生まれた。
今この場で父に勘当《かんどう》されるか、さもなくば、徹底的にこの馬鹿《ばか》げた見合い話をもてあそんでやるか。ふたつにひとつの選択。
彼女は少しためらってから、後者の方法を選んだ。何故《なぜ》か。理由は簡単だった。親に勘当されるというような大時代的な、大袈裟《おおげさ》な方法をとるほど自分にセンスがないとは思いたくなかったからである。
それにもうひとつ、日頃《ひごろ》からきれいな女優たちと仕事で関わる機会の多い五郎に、たまには軽いやきもちを妬《や》かせてみたい、とするいたずら心も確かにあった。
見合いのセッティングはすぐさま整い、寿々子は仙台へ行った。繁華街《はんかがい》から少しはずれた住宅地の真中にある、フランス懐石《かいせき》料理の店で玉井一男は、首をひねられる直前の鶏みたいな緊張《きんちよう》したおももちで彼女とその親を迎えた。
母が用意した趣味の悪い総絞《そうしぼ》りの振袖《ふりそで》を着て、煙草《たばこ》が吸いたくなるのと、この情景のおかしさに吹き出しそうになるのを我慢《がまん》しながら、寿々子はうつむいて坐《すわ》っていた。玉井はうわずった声で寿々子の趣味や東京での仕事について、仙台は東京よりも緑が多くていいでしょう、といった面白くもない質問をし、「僕の趣味はボリュームをあげてマーラーを聴くことです」と誇《ほこ》らしげに言った後、ボルドーの赤ワインを舐《な》めるようにひと口飲んだ。写真に写っていた通り、グラスを持つ手の小指はぴんと立っていた。
父と母は満足げにいちいちおかしくもないことに微笑し、玉井の両親はそれに合わせるかのように「まあ、ほんとうに」とか「いやいや実に」などと意味不明のことをかわるがわるつぶやいた。
「見合い」は二時間ほどで終わった。支払いのために双方の親が席をはずすと、玉井は上気した顔で寿々子を散歩に誘《さそ》った。寿々子があんまり緊張《きんちよう》したので少々、疲れました、と申し出を断ると、玉井は素直に引き下がった。この人の目は鶏の目に似てるわ、と寿々子は思った。
両親はそれからひどく機嫌《きげん》がよかった。その機嫌のよさに適当に合わせながら、寿々子が期待していたのは玉井家のほうから仕掛けられる「身辺調査」であった。あのお上品ぶった一家が、東京で独り暮らしをしている娘の身辺を調査しないわけがない。してくれさえすれば、いっぺんに寿々子の恋人である佐伯五郎の名前も上がってくるだろうし、そればかりでなく、過去の乱行の数々も浮きぼりにされるだろう。
それが彼女の狙《ねら》いであった。結果、両親がどんなにわめこうが関係ない。あとはあとの風が吹いてくれるに決まっている。
列車は快い音をたてながら、東京へ向かって疾走《しつそう》を続けた。窓の外には三月の春めいた光があふれていた。
「そりゃあ、あちらは大乗り気なのよ、寿々ちゃん」
そうでしょうとも、と内心つぶやきながら、寿々子は欠伸《あくび》をかみ殺して受話器を握《にぎ》り直した。仙台から帰って三日目の夜のことである。電話をかけてきた母は幾分、鼻にかかる声で喋《しやべ》り続けた。
「今日、お仲人さんが正式にパパのところにみえてね。先方さんが、是非、喜んであなたをいただきたい、っておっしゃってる話を伝えて下さったのよ。なにしろ、あちらは寿々ちゃんは女らしくって、育ちがよくって、勤め先が東京の大きなスポーツクラブっていうのも健康的ですばらしい、って大変なほめようなのよ。これ以上、いい御縁はないって。そうよねえ。パパも大喜びよ。一男さんは真面目《まじめ》で頭のいい、素晴らしい男性だって。ママもそう思うわよ。パパに聞いたら、あの方の趣味だっておっしゃるマーラーの交響曲?……あれってすごく高尚《こうしよう》なんですってねえ。ママも一度、聴いておこうと思って。そうそう、それからね、将来は玉井歯科と市原歯科を合併して、新しく歯科専門のクリニックセンターを作ってもいい、なんてお話も……」
「それよりママ」と、寿々子は冷たい声で口をはさんだ。
「あちらは私を調べるんでしょう?」
「調べる?」
「身辺調査に決まってるじゃない。見合い相手の身辺調査は、たいていの親がやるんじゃないの?」
「ああ、そのことなら」と、母は嬉《うれ》しそうに言った。
「あちらは何の調査もいたしません、っておっしゃってるのよ。今さら市原のお嬢《じよう》さんを汚《きたな》い犬みたいに嗅《か》ぎまわるのは失礼だから、って。会っただけでわかりますって言うの。寿々ちゃんは玉井の家にふさわしい女性だってね」
寿々子は少し、頭がくらくらした。
「ありがたいことね」
「そうですよ。これほど信頼をしていただけるのは、親としてもそりゃあ嬉しいことよ」
寿々子が黙《だま》っていると、母はおずおずと聞いた。
「いいんでしょう?」
「何が?」
「あなた、玉井さんでいいんでしょ?」
「いやだって言ったら?」
「まさかいやだって言うんじゃないでしょうね」
寿々子は含《ふく》み笑いをもらした。
「今度という今度は」と、母は声を低めた。
「いやだなんてこと、パパも私も許しませんよ」
寿々子は溜息《ためいき》をつき、また電話すると言ってから受話器を置いた。
こんなはずじゃなかった、と思うと自分が馬鹿《ばか》に見えて腹がたった。身辺調査をしてほしいがために、わざわざ仙台まで出向き、絞《しぼ》りの着物を着たこけしみたいにじっとして、鶏のような男の相手をしたというのに。結末がこうなってしまうとは、茶番もいいところではないか。
玉井一男が自分に夢中になったことは、会ってすぐにわかった。あの痩《や》せた顔を上気させ、深夜、両親とこたつを囲んで「寿々子さんが」などと馴《な》れ馴れしく名前を呼んでいると思うだけで、寿々子はぞっとした。
三十一歳の独身の歯医者が、いったいどんな女性|遍歴《へんれき》をもつものか、寿々子にははかりかねるところがあった。ただ、玉井の場合は、これまで素人を相手に恋愛めいたことを経験したことがないのではないか、と思えた。うぶな感じがするからではない。うぶどころか、玉井はセックスを医師国家認定試験の勉強をするようにして覚え、人々の歯を削《けず》ったり埋めこんだりするようにして機械的にいくつもこなしてきた男、という言い方がぴったりだった。彼はきっと、土曜日の夜、羽目をはずしに夜の街に出掛ける。そして世間並に興奮し、世間並に興奮を鎮《しず》めてから、自宅に戻《もど》ってマーラーをボリュームいっぱいに上げて聞き惚《ほ》れるのだ。世間並のセックスとマーラー。それはおそらく彼の生活の中で、誇《ほこ》らしく美しいワンセットになっているに違いない。
ああした男が結婚にふさわしいとお祭り騒《さわ》ぎをする両親が、寿々子には愚《おろ》かしかった。彼等は、離婚歴のない独身の歯医者で、巷《ちまた》でセックス処理をした後、マーラーを聴く男なら、誰《だれ》だって娘の夫にふさわしいと思っている。そう、誰だっていいのだ。
寿々子は五郎を電話で呼び出し、自由ケ丘のいつもの小さなバーで待ち合わせることにした。五郎の住むアパートは同じ東横線沿線にある。自分のアパートに来てもらってもよかったが、何故《なぜ》かその夜、寿々子は自分の狭《せま》い部屋で、愚《おろ》かな両親の話を彼にしたくなかった。
「待ち合わせ?」
店のマスター、通称トニーは吸っていたメンソール入りの煙草《たばこ》を水道の水で消すと、別段、興味なさそうに聞いた。ロシア人の血が四分の一、混じっているというその顔は、いつ見ても白と黒のコントラストが強い。肌《はだ》は真っ白で、眉《まゆ》や睫《まつげ》、それに瞳《ひとみ》は真っ黒だった。
寿々子は黙《だま》ってうなずきながら、カウンターのスツールに腰かけた。店には他に客は誰《だれ》もいない。裏通りにひっそりとあるこの店は、一部の常連客ばかりを相手にトニーが趣味的に営業しているため、混み合ったことはまずなかった。
各種カクテルや世界のスコッチはほとんど揃《そろ》っているが、おつまみはナッツしか出てこない。
「飲ませる店で食わせる心配をする必要はない」というのが、トニーのやり方だった。
「私、この前、お見合いしたのよ」
「おやおや」と、言いながらトニーは寿々子がキープしてあるバーボンのボトルを指さした。
「いつもの? それともビール?」
「今日はビールにするわ」
トニーは、汚《よご》れて黄色くなった古い冷蔵庫から、ビールを一本取り出して、無造作に栓《せん》を抜いた。
「五郎さんを裏切ったんですか」
「違うの。親に言われてひと芝居《しばい》うちに仙台に帰ったけど、なんか雲行きが怪《あや》しくって」
「芝居がばれた?」
「ううん。ま、早い話、しつこく結婚しろって言われちゃってるわけ」
「寿々ちゃんはいくつになったんでしたっけ」
寿々子はビールの泡《あわ》をひと口、口に含《ふく》んだ後、答えた。
「二十七よ」
「まだ、いいんじゃないですかね。私なんか、最初の結婚は三十三だった」
「あら、トニーさん。そんなに何度も結婚したの?」
「三回しました。三度目の正直も失敗したから、四度目はもうないですよ」
トニーは微笑して、いつものアルミ製の大きな缶からナッツをスプーンですくい上げた。寿々子も微笑《ほほえ》んだ。古いジャズが店内に低く流れている。
店の木彫のドアが勢いよく開き、佐伯五郎が入って来た。焦《こ》げ茶色のブルゾンの襟元《えりもと》に、寿々子が去年のクリスマスにプレゼントした黒いマフラーがのぞいて見えている。
「まだ寒いな、外は。三月だってのにな」
彼は寿々子の隣のスツールに腰かけた。冷たい夜気の匂いと共に、いつもの整髪料の香りがした。
「なんだよ。君のとこに行ってもよかったのにさ」
「たまにはトニーさんのとこでデートもいいじゃない。なにしろ、私たちが出会った店なんだから」
「そうですよ」と、トニーがグラスをカウンターに置きながら言った。
「仲人役をやった人間には恩返ししないとね。何にします?」
僕もビール、と五郎が言った。
トニーはさっきと同じ仕ぐさで缶からナッツを出し、ふたを閉じると、もうこれ以上、何もすることがないという表情で、大切そうに缶をもとあった場所に置いた。
寿々子は一年前、やはりまだ寒いこの季節にトニーの店で五郎と出会った。ひとりで夜を過ごすのがやたらと淋《さび》しくなり、勤めの帰りに何気なく立ち寄ってみたこの店に、五郎はいた。カウンターの端と端に坐《すわ》り、しばらくの間、ふたりは互いに世の中のことすべてに関心がないのだ、というような顔をしてビールを飲んだ。初めての客に人見知りするトニーは、時折、五郎に話しかけるだけで、寿々子には無愛想だった。
チック・コリアのLPがかかっていた。寿々子は吸っていた煙草《たばこ》がなくなったので、パッケージを丸め、トニーに同じ煙草があるか、と聞いた。ない、とトニーは答えた。どこからともなく、煙草《たばこ》が飛んできた。横を見ると五郎が微笑《ほほえ》んでいた。
その夜、トニーの店を肩を並べて出てから、ふたりは居酒屋に入り、焼酎《しようちゆう》を飲みながらいわしのつみれを食べた。五郎は自分のとっておきの失恋話を話してくれた。役者の卵だった時、少し売れ出した新米女優に猛烈《もうれつ》な恋をした。彼女もまんざらではなさそうで、ふたりはしょっ中、デートをした。初めてのクリスマスの夜、五郎は自分の四畳半のアパートに大きな本物のもみの木を置き、デパートで買ったデコレーションセットを飾った。
クリスマスケーキもシャンペンも、フライドチキンも揃《そろ》え、彼女が好きだった水玉模様のテーブルクロスの上に並べた。
彼女へのクリスマスプレゼントは、以前、五郎が仕事でスリランカに寄った時に買っておいた天然石を加工したペンダントだった。加工してもらうのに十日もかかったが、見事な仕上がりであった。奮発して、純銀のチェーンもつけた。
彼はそのペンダントを箱に入れ、大きなもみの木に吊《つ》るした。真っ赤なオーバーを着た彼女は、やって来るなりそのプレゼントに気づいた。箱を開け、わあ、と言ったものの、すぐに表情が曇った。
「その石がエメラルドだと思ったんだ、その子」と、五郎は寿々子に言った。
「ただの加工した石だとわかると、ケーキも食べずに帰っちゃった。他に男がいたんだ。多分ね」
「何年前の話?」と、寿々子は聞いた。五郎は照れ臭そうに笑った。
「ついこの間のクリスマスの話さ」
その夜から三日後、五郎から電話があり、ふたりは自由ケ丘のフランス田舎《いなか》料理店で食事をした。五郎はよく食べ、よく飲み、よく喋《しやべ》った。寿々子は佐伯五郎という名前が本名であること、自分よりふたつ歳上であること、カラオケでカーナビーツの「好きさ! 好きさ!」を歌うのが得意であること、大学時代、演劇部にいた時、全身に金粉を塗《ぬ》って呼吸困難に陥《おちい》ったこと、両親は湯河原に住んで小さなマーケットを経営していること、などを知った。
「何、考えてるんだよ」
五郎が聞いた。寿々子は肩をすくめた。
「うん、なんでもない。ちょっとね、昔、ここであなたと会った時のこと思い出してたの」
「一年前だろ。早いな」
「ほんとに」
五郎は「俺《おれ》の気持ちはちっとも変わってないぞ。ざまあみろ」と叫んで、勢いよくビールを飲んだ。トニーが笑った。
「ところでなんだい、話って」
「笑っちゃう話よ」と、寿々子は鼻の頭に皺《しわ》を寄せた。
「仙台の鶏歯医者か?」
「あたり」
「そのトリ野郎がどうしたって?」
「ニワトリさんはお嫁さんが欲しくてたまらないらしいわ」
「だろうな。寿々ちゃんに会って、惚《ほ》れちゃったんだ」
「迷惑《めいわく》よ」
「まあ、でも男が女に惚れたり、女が男に惚れたりするのは自由だからな。別にトリ野郎が悪いわけじゃないさ。まさか、寿々ちゃんも惚れたわけじゃないんだろ」
「馬鹿《ばか》。やめてよ」
「じゃあ、いいじゃないか。オヤジさんたちに言われるままに、仙台まで行ったんだしさ。万事、終了でめでたしめでたしだ」
「そんな結構なお話じゃないのよ、五郎」
寿々子が顔をしかめてそう言うと、トニーが台拭《ふ》き用のタオルを流しで洗いながら、「五郎さん、危機ですよ」と、片目をつぶってみせた。
「危機って?」
「寿々ちゃんを取られてしまうかも」
「また、嘘《うそ》ばっかり、トニーさん。そんなんじゃないのよ」
「なんだよ。はっきり言えよ」
寿々子はさっき、仙台からかかってきた母親からの電話について五郎に説明した。そして話しながら、こんな説明はどこか間が抜けている、と思った。いくら細かく説明したところで、二十七にもなった女が、親離れできずにもがいていることを恋人相手に愚痴《ぐち》っているのと変わりがなかった。
恥《は》ずかしいと思う気持ちと、自分の無力さに対する怒りが彼女を少しばかり、饒舌《じようぜつ》にさせた。うちの両親は個人よりも家を重んじてるのよ、封建的《ほうけんてき》なイエ制度を守ってるのよ、あの人たちにとって大切なのは、形だけ、器が満足できていればあとは幸福か、不幸かなんて全然考えないでも生きていけるのよ……そういきまいた時、それが一か月前に読んだ本の受け売りであることを思い出して、ますます恥ずかしくなった。
実際のところ、彼女が五郎と生活を始めてしまいさえすれば、なんの問題もない話であったのだ。二十七歳。すべての選択は基本的に彼女の自由であるはずだった。
話し終えてから、寿々子はビールをもう一本、注文し、ひと口飲んで少し咳《せき》こんだ。五郎はじっと前を向き、グラスをのぞき込んでいた。トニーは何も聞こえないふりをして、カウンターの中で文庫本を読んでいる。
「仕方ねえな」と、五郎がひとり、うなずきながら言った。オールバックになでつけた髪の毛が、ひと筋はらりと額に垂れた。
「寿々ちゃんも僕のこと親に言いにくいだろうしな。よくわかるよ」
「あら、じゃあ私がこの馬鹿《ばか》みたいな見合い話に乗ればいいって言うの?」
五郎は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せながら、寿々子を見つめた。テレビドラマの端役に出演した時に、よくやる表情だった。彼女は、いかにも作りものに見えるその表情が決して嫌《きら》いではなかった。
「この見合いの話を受けたのはさ、寿々ちゃんにしても僕にしても、仙台の両親をぎゃふんと言わせるためだっただろ」
「そうよ。でも、身辺調査を向こうがやってくれないとなると……まったく逆効果だったわけじゃない」
「そうでもないよ」
「どうして?」
「たとえばさ、この際だから徹底的にこの話に乗ってやったらどうだろう」
「徹底的って?」
「聞きたい?」
「聞きたいわ。何?」
五郎はおもしろそうにセーターの袖《そで》をまくり上げ、煙草《たばこ》に火をつけると「つまりさ」と話し始めた。唇《くちびる》の端に笑みを浮かべたトニーが、ふたりを見ている。寿々子はトニーを手招きした。
「彼が名案を出すのよ、トニーさん。一緒に聞きましょうよ」
「悪知恵? 名案? どっちなんです」
トニーが自分のビールグラスを持って、身を乗り出してきた。三人は銘々《めいめい》の煙草《たばこ》をくわえ、トニーがジッポーのライターで三本の煙草に火をつけた。
「ねえ、トニーさん。こういうのってどうかな」
五郎がやや低い声で話し始めた時、店のドアが開いた。サラリーマン風の男が三人、ふざけあいながら中に入って来た。
「賑《にぎ》やかなのが来ましたよ」
トニーはビールの入ったグラスを流しに置きながら言った。
「三人ともジャズファンでしてね。時々、新しいLPを持って来てはここでかけていくんです」
トニーはカウンターの端まで行き、三人に向かって何かを話しかけた。男たちは機嫌《きげん》がよさそうに、どっと笑った。
寿々子と五郎の話し声は、新しく入って来た客の喧噪《けんそう》の中で、完全に誰《だれ》にも聞き取れなくなった。
五郎のたてた計画は、実際のところ、ひどくふざけた計画だった。
「寿々子の素行調査」をどこかの興信所に依頼する、というのである。当然、調査が行われている間は、寿々子は五郎とあちこちの店を飲み歩き、五郎のアパートに泊まったり、五郎を自分の部屋へ泊めたりする。
二、三日の間、そうしていれば、それだけで調査員も立派な報告書を作ることができるだろう。たったの二、三日だ。費用も安くてすむ。その報告書を差し出し人不明のまま、仙台の玉井一男の家に送りつけたら、後は言わずと知れたこと……と、五郎は言った。
初めのうち、寿々子は冗談《じようだん》と思って聞いていた。興信所などというところとは無縁だったし、第一、自分からすすんで自分の調査を頼むなど、現実味の薄《うす》い話だったからだ。
「そうできればいいわよねえ。いっぺんにケリがついちゃうのに」
「できるさ」
「え?」
「簡単じゃないか。寿々ちゃんの素行を調べさせるなんて」
「どうやるのよ」
「誰《だれ》かに代わりに興信所に行ってもらうんだよ」
寿々子は笑った。「誰がそんなことやってくれるって言うの? 馬鹿《ばか》にされるに決まってるわよ」
「僕と寿々ちゃんは行けるわけがないしな」と、五郎は耳の穴に指を差し込んで、意味もなさそうにぐるぐる回した。
「寿々ちゃんの友達で誰《だれ》かいない?」
寿々子は回りの友人たちの顔を思い浮かべてみた。学生時代からの友達がひとりいるが、彼女は結婚して札幌に行ってしまった。先日、届いた手紙には、さんざん同居している義母の悪口が書かれてあった。寿々子の縁談破りのために、上京を頼めるような状態ではない。時々、電話で他愛ないお喋《しやべ》りをする別の友達は、妊娠《にんしん》四か月。興信所と聞いただけで「胎教に悪い」とそっぽを向かれそうである。
あとは……と寿々子は頭をひねった。ごくたまに電話をかけてくる昔の男友達がふたりほどいるが、ふたりともかつてそれほど浅い関係でもなかったから、五郎がからんだ計画には参加させたくなかった。
「誰もいないわ」と、寿々子は言った。「だめよ。やっぱり」
「僕の仲間に頼んでみるか」
「よしたほうがいいわよ。恥《は》ずかしいもの」
ふたりはあれこれと知り合いの名前を上げてみた。だが、いくら名前を上げたところで、最初に思いついた友達以上に親しい人は出てこなかった。
「もうこうなったら、自分で頼みに行っちゃおうかしら」
そう言いながら寿々子が煙草《たばこ》をアルミの灰皿でもみ消すと、五郎がじっと彼女の顔を見た。トニーたちが何かの冗談《じようだん》を言い合って、笑っている。かかっているレコードは古いディキシーランドジャズだ。
「いいよ、寿々ちゃん」と、五郎が真面目《まじめ》な顔をして言った。
「何がよ」
「そのアイデア、いいよ」
「馬鹿《ばか》ね。自分で自分の調査を頼みに行ったりなんかしたら、頭がおかしいと思われるわ」
「それは方法次第だよ」
「どんな方法があるって言うの?」
「そうだな」と、彼は少しの間、考えてからナッツをひとかけら口に放り込み、腕を組んだ。
「寿々ちゃんの双子の妹とかなんとか、っていう芝居《しばい》をするんだよ。これなら市原寿々子とそっくりな女が興信所に現れたって、別におかしくないだろ」
「双子の妹なんかいないんだから、ちょっと調べればすぐばれるわよ」
「いいんだって。金さえ払えば、興信所は依頼されたことしか調査しないぜ。調査するのは、双子の妹がいるかどうかじゃなくて、市原寿々子という女の生活ぶりなんだから」
「それもそうね」
寿々子はにわかに興味を覚えて身を乗り出した。
「で、私は市原寿々子の双子の妹になるわけか」
「そう。名前は……僕の苗字《みようじ》でもとってサエコ……ってのはどう?」
「うん、いい。サエコがいい。冴《さ》えてる≠フ冴子にする。市原冴子が姉の寿々子の調査を頼むのね。さて、その理由は?」
「なんでもいいよ。たとえば、姉に縁談が来てるんだけど、どうも私生活が怪《あや》しい。縁談が進む前に事前に姉のことを知っておきたい、っていうことでもいいし」
「でも実の妹がなんでそんなことを調査したがるの?」
「じゃあ、親に頼まれたってことにしてもいいよ。親が自分の娘の実体を知りたくて調査させたとしてもおかしくないからね」
「その冴子って妹は親のスパイなのね」
「そうそう。そんな感じでいくのがいい。いかにもありそうな話じゃないか」
「じゃ、報告書が出来上がって、受け取りに行った時に、嘘《うそ》がばれてたらどうする?」
「ばれっこないさ。依頼人は寿々子の身内だぜ。今さら市原の家がどうのこうのってこと調査するわけがないよ」
「なるほど。そりゃそうね」
「連絡先は教えないんだよ。寿々ちゃんの今の電話番号を教えたって意味ないからね」
「こっちから一方的に連絡をとります、ってことにしておけばいいわね」
「充分、充分。ああいう商売をやってる人間は、依頼人のそのへんの複雑な事情には慣れっこだから、おかしく思われたりもしないよ」
「面白い! やりましょうよ!」
寿々子が大声を上げると、トニーがふり向いた。何か言いたそうだったが、客のひとりがトニーにレコードのジャケットを渡して説明を始めたため、彼は再び後ろを向いた。寿々子は軽く武者震《むしやぶる》いをした。
寿々子が勤めている会員制のスポーツクラブは、毎月の給料が手取りで十八万円弱。決して多いとは言えなかったが、女が贅沢《ぜいたく》をせずに独りで暮らしていくためには充分の額であった。そのうえ、年に二度入るボーナスもある。彼女はボーナスのほとんどを貯金してきたので、結婚前の女がよくやるちょっとした冒険や逃避《とうひ》のための出費に困ることはなかった。その貯金をこういうことに使うのであれば、本来の目的にかなっていると言える。
「やりましょう。やるのよ。実行あるのみ」
寿々子は五郎のほうを向き、その腕を強くゆすった。ビールを飲みほそうとしていた五郎は、むせちゃうよ、と言いながら笑った。
二日後の土曜日の午後、寿々子は青山にある興信所の小さな相談室の中にいた。革張りの黒い応接セットが置かれた部屋は清潔で、壁にはブラジリエの水彩画と、安っぽい額縁に入った色紙とが並んで飾ってあった。色紙には「仲よきことは美しきかな」とある。寿々子はそれを読んで、声をひそめて笑い、もう一度、ポケットから手鏡を出して自分の顔を見た。
変装≠ノはそれほど凝《こ》らなかった。双子という設定でもあるし、度を越した細工は怪《あや》しまれる恐れがあったからだ。
ショートカットの頭に乗っているのは、ボブスタイルのかつらである。五郎が昨日、劇団から黙《だま》って借りて来たもので、いかにもかつら風なところが難点だった。そのため寿々子は、かつらをかぶった頭にペイズリー柄の布をターバン風に巻いてごまかした。こうすると、かつらの人工的な艶《つや》が目立たないですむ。
選んだ服は、半年前、バーゲンで買ったクリーム色の裾《すそ》の長いロウウェストのワンピース。胸のあたりに子供っぽいボウタイがついているのが気にくわず、一度しか袖《そで》を通していなかったのだがこんな時に役立つとは思ってもみなかった。この髪型にはぴったりだったのだ。
化粧《けしよう》は多少、意識して薄《うす》めにした。なにしろ、当日はきつい化粧をして五郎と派手にデートするのだ。寿々子の濃《こ》い化粧を調査員に印象づけるためには、妹≠ニしては控《ひか》え目にしておくほうが無難であった。
部屋にノックの音がして、ドアが開いた。書類を抱えた男がひとり、入って来た。三十代の後半、といった年格好のその男は、書類をテーブルの上に置くとじろりと寿々子を見た。
「持田といいます。よろしく」
差し出された名刺には、住所も電話番号も会社名も刷られておらず、「持田|誠《まこと》」という文字が横に一列、並んでいただけだった。彼はその理由を調査を頼んだことを絶対に他人に知られないようにするためである、と簡単に説明した。寿々子は「わかります」とうなずいた。
「誠というのも偽名《ぎめい》です。本名は持田|光昭《みつあき》というんですがね、まあ、私のことはどうでもいいでしょう」
持田はルーズリーフのノートを取り出すと、初めのページを開き、ボールペンのキャップを取った。
「さきほどのお電話でだいたいのことは伺ったんですが、ええと、市原さんでしたね。失礼ですが、お名前は?」
「市原は旧姓で、今は佐伯といいます。名前はサエコ。あの、冴《さ》える、という字の冴子です」
「で、双子のお姉さんの行方を知りたい……と」
「いえ、そうではなくて、姉の素行調査をお願いしたくて」
持田はさわめて事務的な表情で「ふむ」と言った。逃げたセキセイインコの調査を頼んでも、同じ顔をしそうな感じだった。
「で、そのお姉さんのお名前は?」
「寿々子。寿≠ニいう字の……」
「市原寿々子さん……。写真か何かをお持ちで?」
「持ってきました」
寿々子はショルダーバッグの中をかきまわし、手帳の間にはさんでおいた自分の写真を取り出した。数か月前、五郎が彼女の勤め先であるスポーツクラブに遊びに来た時、、クラブの門の前で撮ってもらった写真である。制服であるカナリヤ色のスエットスーツを着て笑顔をみせている自分を見ると、寿々子はこの芝居《しばい》の面白さに胸が高鳴った。
持田は手にとってしげしげとその写真を眺《なが》め、「なるほど。よく似てますね。そっくりだ」と、感心したように言った。
「うりふたつなんです。一卵性の双生児ですから」
持田はしばらくの間、写真の中の寿々子を子細に点検していたが、やがて突然興味を失ったようにそれをノートの上に置いた。
「お姉さんの住所、勤め先、その他なんでも調査に役立つことを教えていただけますか」
寿々子は吹き出しそうになるのを必死の思いでこらえて、自分の住所やスポーツクラブのこと、日常生活、簡単な経歴を喋《しやべ》った。持田は神経質そうな小さな丸い文字で、寿々子の言うことをノートに記載《きさい》した。
そして全部を書き終えると、何度かノートを眺め、満足したように寿々子を正面から見た。
「それで、今回の御依頼の主旨というのは、何なのでしょう」
「実は私たち姉妹の実家は仙台にあるんです。父が歯科医院をやっている関係から、どうしても姉には歯科医と結婚させたいと申しておりまして。あの、私はすでに結婚して今、東京にいます。夫は会社員でして。父は私に望んで果たせなかった夢を姉に託そうとしてるんです」
面白いほど嘘《うそ》が次から次へとこぼれ出た。昨晩、五郎を相手に大笑いしながら練習した成果は上々のようだった。持田は事務的な顔つきのまま、彼女の話を聞いている。巷《ちまた》にごろごろ転がっている、世俗の垢《あか》のような話を毎日毎日耳にしてくると、こういう顔つきになるのかもしれなかった。
「で、今回、姉に縁談がありました。相手の方は歯科医で、実家の両親は是が非でも話をまとめたいと言ってます。でも、姉はさっきお話したように東京での独り暮らしが長いものですから、親としては心配らしくって。あの、これ、どういうことかおわかりですね」
「むろんです」と、持田が答えた。寿々子は微笑して続けた。
「姉にはまだこのお見合いの話はしていません。姉の生活がきれいなものかどうか、確認してから話をすすめたい、と両親が申しますもんですから。実の妹が姉の素行を調査するなんて、おかしいでしょうけど、なにしろ、姉は私生活に関してはあまり教えてくれなくって、身内としても心配しているわけなんです」
「実の親子や兄弟姉妹で、素行調査する例は結構、ありますよ」
「そうなんですか。ともかく、私としては実家から頼まれてどうしようもなくって」
「わかりました。お引き受けしましょう」
持田はそう言い、てきぱきと調査にかかる費用に関しての説明をした。ほぼ、想像していた通りの額だった。寿々子はその場で費用の全額を前払いした。こまごまとかかるであろう経費はすべてその中に計算されてあり、清算は後日行う、ということで話がまとまった。持田が領収書を書き、寿々子はそれを受け取った。
「ところで連絡先はどういたしましょうか。お宅のほうでかまわないですね」
「いえ、それはちょっと」と、寿々子は口ごもった。
「姑《しゆうと》に聞かれるとまずいんです。いろいろ事情がありまして。姑は一日中、家にいるもんですから、連絡をいただいたりするとちょっと……」
「そうですか。じゃあ、仙台の御実家に連絡するほうがよろしいですね」
「仙台?」
寿々子は慌《あわ》てた。そんなことをされたら、たまったものではない。
「仙台に連絡なんかされたら、大変なことになるわ」
「でも、御両親は調査のことは御存知なんでしょう?」
「さっきの私の説明が悪かったのね」
寿々子は時間を稼《かせ》ぐために、わざと頭に巻いたターバンを締《し》めなおすふりをした。
「つまり、その……仙台の実家では私がこういう手段をとっていることは知らないんです。両親は私に姉の私生活を聞き出してもらいたいと言っただけで、こういった形の調査は考えてもいないんです。だから、私がここへ来たことも実家には内密にしていただかないと……なにぶん、両親は神経質な人間ですので、この種の調査をしていると聞いただけでも口から泡をふきます」
「そうでしたか」
「両親はとてもいやがるでしょうけど、こうした方法をとることで真実がわかるんだったら、それにこしたことはない、って私は思うもんですから」
「我々の仕事は依頼人の事情を詮索《せんさく》することではありませんから、ご安心ください」
寿々子は少し顔が赤くなるのを感じた。持田の言う通りだった。彼女は言った。
「それでは、こちらから連絡します。毎日、一回、必ず電話しますから。それでいかがでしょう」
「なるべくでしたらお宅のお電話番号と御住所は教えていただきたいんですがね。決してこちらからは連絡したりしませんから」
寿々子は不承不承、五郎のアパートの電話番号と住所を教えた。そして、この持田という男はこう言いながら、必ず一回は電話をかけてくるだろう、と思った。
「それでは、この御依頼の件……」と、持田が姿勢を正した。
「確かに承りました」
寿々子は立ち上がった。そしてわざとゆっくり、ショルダーバッグを肩にかけると、もっとも聞きたかったことを聞いた。
「いつから尾行をしていただけます?」
「そうですねえ」と、持田は首すじを撫《な》でながら言った。
「明後日。月曜日の夕方からになりますね」
「持田さんが尾行するんですか」
「多分、そうなると思います。どうしてですか」
いいえ、別に、と寿々子は微笑した。今、この目の前にいる男が明後日から自分と五郎の演出したデートを追いかけまわすのだ、と思うとおかしかった。彼女は笑いをこらえながら、外へ出た。
月曜日、いつも通り六時に仕事から解放された寿々子は、すぐに更衣室に行って自分専用のロッカーを開けた。その日、六時に仕事が終了するのは寿々子ひとりだったので、更衣室に人影はなかった。
夜のための道具は全部、用意してある。両わきにいばらの模様が入った黒いストッキング。黒いニットのショートスカートにレモンイエローのセーター。セーターはVネック部分が深く開いているので、首から垂らした焦《こ》げ茶の幾何学模様のスカーフでうまく隠した。靴はトウが四角い黒のエナメル。
それらを着てしまうと、更衣室についている大きめの鏡の前に立ち、化粧《けしよう》パレットを開いた。アイシャドウはゴールドと茶色。アイラインはいつもよりも太く引き、眉毛《まゆげ》も描いた。それまでつけていた淡いピンク色の口紅をティッシュで落とし、真っ赤な口紅とつけ変える。睫《まつげ》もいつもよりしっかりと上に上げた。睫が短いため、ビューラーでまぶたをはさみそうになり、寿々子は舌打ちした。毎度のことだった。マスカラを塗《ぬ》りながら、「つけ睫というものをつけてみようかしら」と考えたのも、いつもと同じだった。
ショートカットにした髪の毛には手を加える余地はなかったが、丁寧《ていねい》にブラッシングして頭頂部に少し逆毛をたてた。セーターに合わせた黄色の大きなプラスティックのイヤリングをつける。おととい、興信所からの帰りにデパートで買ったものだ。四千円もしたわりには、安っぽく見える。
最後に携帯用の香水入れから、いつもつけているシャネルのオーデコロンを耳たぶと手首に吹きかける。それで出来上がりだった。
念入りに鏡の中の自分を点検する。なんだか、子供が母親の化粧品を使っていたずらに化粧したみたいに見えた。寿々子は太すぎるアイラインを小指の先で、少しぼやかした。
ロッカーからコートを取り出す。去年の暮れ、ボーナスで買ったバーバリのコート。男っぽいデザインのわりに、着るととても繊細《せんさい》に見えるところがいい。前ボタンをしめ、ベルトを無造作に結ぶ。思い切り襟《えり》を立て、ショルダーバッグを肩にかける。
なかなかいけるわ、と彼女は満足した。興信所で持田に渡した写真の女が、退社後、厚化粧《あつげしよう》して夜の街に繰り出すのにふさわしい姿と言えた。それにこういう化粧をするのも、たまには悪くない、と彼女は思った。
「あーら、市原さん。どうしちゃったの」
更衣室のドアが開き、寿々子がふりむいた途端、同僚の水木容子が素っ頓狂《とんきよう》な声を上げた。
「ちょっとね、今日、パーティーがあるのよ。友達のね」
容子はそばに寄って来て、しげしげと寿々子の顔を眺《なが》めた。
「いい女よぉ。あなた、こういう化粧、結構、似合うじゃない。今は塗《ぬ》りたくるお化粧も流行《はや》ってるんだから」
同期で入社した水木容子とは、寿々子は一番心おきなく話をすることができた。容子はこの会員制クラブの気取った会員たちや、時折、ビジターで訪れ、とんでもない額の金を使って帰っていく人々のことを心底、軽蔑《けいべつ》していた。
「なによ、これ。スポーツするのに百二十万円も入会金を払うのよ。信じられる? ただ走ったり、腕たて伏せしたり、レオタード着て足を広げるのに、あなた、百二十万円ですって!」
容子はしょっ中、そう言っていた。寿々子も同じ意見だった。ふたりはとてもウマが合った。気取ってレオタードを着てきたのはいいが、エアロビクスを始めたとたん、股《また》の部分が破れてしまい、脱会したいと申し出た太った社長婦人の話や、インストラクターの外人女性を口説《くど》いて張り倒された有名作曲家の話などをして、笑いころげたりした。
ただ、容子はあまりプライベートな話はしなかった。ごくたまに、夕食を一緒に食べることもあったが、ふたりとも会社の悪口か、会員たちの悪口、ファッションの話くらいしかしなかった。
寿々子としては、五郎のことや実家のことなどを話して、気のおけない夜を容子と過ごしてもいい、と思っていたのだが、容子はどこかでそういった馴《な》れ合いの会話を避けるところがあった。これが都会における人とのつき合い方なんだな、と寿々子は妙に感心したこともある。
「うーん、香水もきかせちゃって。さてはデートだな?」
容子はそう言いながらも、さして興味なさそうに自分のロッカーを開け、着替えを始めた。
「デートよりも面白いことよ」
寿々子は言った。容子に聞いてもらいたかった。きっと腹をかかえて笑うだろう。容子は笑える話、それも相当きついジョークが大好きなのだ。
「なあに? デートよりも面白いことって。まあ、そういうことは結構、たくさんあるんでしょうけどね」
「話せば長いわ」
「時間あるの? あるんだったら、コーヒー付き合うわよ」
是非、そうしたいと寿々子は思った。しかし、腕時計を見ると五郎との約束までにあまり時間が残っていなかった。それに、今、容子と連れだってクラブを出るよりも、ひとりこそこそと地下鉄に乗り、最後部車両の扉にもたれて顔を隠すようにしていたほうが、あの調査員の持田には秘密めいた印象を与えて好都合だろう。容子には後日、まとめて話すほうがいい。そう彼女は考えた。
「ああ、やっぱりだめだわ。時間がないもの。ごめんね。明日か明後日、話す」
「明日と明後日は、私、公休よ」
「そうだったわね。じゃ、その次の日にでも……」
「いいのよ」と、容子は笑いながらスエットパンツを脱ぎ、白いスキーパンツに足を通した。
「また今度、なんかの機会に聞くから。それより、急いだほうがいいんでしょ。どこに行くの?」
「六本木」
「うーん、最高。楽しんでらっしゃい」
「そうするわ。あなたは今夜、どうするの?」
「まっすぐ帰るわよ。今は緊縮《きんしゆく》財政でね。夏休みにセブ島に行くつもりだから、ケチケチとためこんでるのよ」
「あら、それは初耳。今度会ったら、セブ島に誰《だれ》と行くのか教えるのよ」
「一緒に行く相手が変わらなかったらね」
容子は黒いレースのブラジャーをつけたままの姿で、軽くウインクした。寿々子は笑いながら自分のロッカーの鍵《かぎ》をしめ、お手玉でもするようにキイを上に放り上げてからコートのポケットに入れた。
容子が微笑《ほほえ》み、ふたりの女は手を軽く振り合った。
クラブを出ると、通りに何台か車が停《と》まっているのが見えた。白いワゴン車、シルバーグレイのシビック、黒いワーゲンゴルフ、クリーム色のカローラ……。
あたりはもう暗かったので、車の中までは見えなかった。寿々子は忙しく視線を走らせながら、できるだけ車の列に近寄って歩いた。街灯のあかりから少し離れているためか、車内を確かめるためには、ガラスに顔をこすりつけなければならない。そんなことをすると不自然なので彼女はすぐに諦めた。
地下鉄の駅に向かうために大通りに出る。後ろのほうでエンジンをふかす音がかすかにした。寿々子はわざと歩調をゆるめた。振り向きたい衝動をおさえるのに苦労する。
クリーム色のカローラが静かに彼女の横の車道を走り去った。運転席と助手席に人影が見える。さっき、クラブの前に停まっていた車に違いない。寿々子は素早くナンバーを読みとった。持田というあのしかつめらしい男が、寿々子と冴子が同一人物とは知らずにきちんと職務を果たしていると思うと、おかしかった。彼女は軽快な足取りで地下鉄の駅に入った。
地下鉄はとても混雑していたので、どこに持田がいるのかわからなかったが、六本木で降りた時、寿々子はプラットホームで週刊誌を片手に自分をちらちら見ている男をみつけた。男は持田よりも少し若く、モスグレイのコートを着ていて、手には和菓子屋の印刷が入った小さな紙袋を下げている。
寿々子はわざと腕時計をのぞき、乗降客の一団が通り過ぎてから、空いているベンチに坐《すわ》った。ショルダーバッグから煙草《たばこ》を取り出して、火をつける。男は二十メートルほど離れた場所に立って、動こうとしない。
次の電車がやって来た。煙草を消すふりをして寿々子が男のほうを窺《うかが》うと、男は電車に乗る様子もなく後ろ向きで週刊誌を見ていた。
あの人と持田さんが、今夜の調査員なんだ、と寿々子は確信した。持田は車で六本木に向かっているに違いない。寿々子はもう一度、腕時計をのぞき、立ち上がった。乗降客の波に押し流されて、やっと改札までたどり着いた時、男の姿はどこにも見えなかった。
「ちゃあんと後をつけられてるわよ」
待ち合わせ場所のコーヒーショップで五郎に会うなり、寿々子は小声で言った。
「男ふたり。ふたりとも顔を覚えたわ」
「おっかしいな」と、五郎はくすくす笑った。
「寿々ちゃんの厚化粧《あつげしよう》、なかなか下品でいいよ」
「いやだ。あなた、厚化粧の女も好きだって前に言ってたじゃない」
「うん、確かに言った。目張りがはげてるあたりなんぞは、下品で色っぽいねえ」
寿々子は慌《あわ》てて、手鏡を取り出した。五郎が言った通り、右目の目尻《めじり》部分のアイラインがこすったようにはげ落ちていた。
「やだ、どうしてこんなになっちゃったのかしら」
ハンカチの先ではげ落ちた部分をこすり取ろうとした時である。手鏡の中にはっきりと持田の横顔が見えた。ちょうど、ふたりのいる席の真後ろにあたる、入口付近の席だった。たった今、入って来たところらしく、おしぼりで手を拭《ふ》いている。さっき、駅で見た若い男の姿は見えなかった。
寿々子はそっと手鏡を下ろすと、「ねえ」と低い声で言った。
「来てるわ。私がおととい会った興信所の人」
五郎が何もなかったようにコーヒーを口に運んだ。
「どこ?」
「すぐに見ちゃだめよ。入口のそばの席で、ひとりで横向きになってる人」
五郎はブルゾンのポケットから煙草《たばこ》を取り出すふりをして、素早く視線を店内に投げかけた。
「わかった?」
「わかった。ご苦労様、って言いたくなるな」
寿々子は微笑《ほほえ》んだ。まったくだった。自分で自分の素行調査を依頼する、このふざけた遊びに本気で関わってくれる彼等には、いくら礼を言っても言い足りないくらいであった。
待ち合わせのコーヒーショップを出たふたりは、必要以上に相手の身体《からだ》に触れ合いながら歩いた。
六本木は長い夜を迎えようとしていた。舗道《ほどう》に立ち並ぶ店は、思い思いのイルミネーションで夢と期待にあふれた夜を約束してくれているように見える。
時々、行きかう男女と暗黙《あんもく》のうちに興味深げな視線を交わし合いながら、寿々子と五郎はゆっくりと歩いた。持田ともうひとりの男、それに彼等の乗っていたカローラはまったく見当たらない。しかし、どこかのビルの影から、壊れた街灯の下から、抜け目なくふたりを窺《うかが》っている人間がいると思うと、緊張感《きんちようかん》が増し、気持ちが華《はな》やいだ。
ふらりと入ったイタリアンレストランでは、あさりソースのフェットチーネを食べ、温野菜のサラダを少しつついただけで、すぐに外に出た。五郎が「あまり長いこと、ひとつの場所に腰を落ち着けていると、途中で帰られてしまうかもしれない」と、言ったからである。その店に持田らは姿を見せなかった。店の外にも気配はなかった。
寿々子としては早く決定的|瞬間《しゆんかん》≠ニいうやつを持田に見せたくてたまらなかった。つまり、彼女のアパートに五郎を招じ入れ、彼を泊める瞬間のことである。その瞬間があれば、まず間違いなく報告書の一ページ目は確信をこめた調子で「市原寿々子には男あり」と、書かれるだろう。
しかし、そこに至るためにはそれなりのプロセスが必要であることも充分、承知していた。退社後、同僚と連れ立って帰ることもなく、ひとり、こっそりと派手な化粧《けしよう》をし、六本木に出て羽目をはずす毎日を送る女。男にしなだれかかり、酒を飲み、煙草《たばこ》の煙で自分の髪の毛をニコチンだらけにし、二十分に一度は口紅をつけ直すために化粧室へ飛び込む女……そんな設定に必要なのは、ちょっと秘密めいた大人のアンニュイなムードだった。世の中のことすべてにうんざりしたような表情が真似《まね》できれば、言うことはない。
どちらかというと子供っぽく、今だに学生気分の抜けない寿々子にとっては縁のないタイプであったが、そうした女を演じるのは女優になったみたいで楽しかった。
ふたりは人の流れにそってだらだらと歩き続けた。五郎が煙草をくわえたので、寿々子も思い切って煙草を取り出し、火をつけた。歩きながら煙草を吸うのは初めてのことだった。学生時代に親に頼みこんで参加したパッケージツアーで友達とハワイに行った時、ホノルルの街をくわえ煙草で闊歩《かつぽ》する白人女性を見て憧《あこが》れた。一度、やってみたいと思っていたのだ。
彼女は、ぎこちなく煙を吐《は》いた。通りすがりの驚くほど背の高い黒人のふたり連れが、彼女を見て軽く口笛を吹いた。六本木を歩いていて、男と名のつくものに口笛など吹かれたのは初めての経験だった。彼女は満足して五郎の腕にぶら下がった。
ふたりは防衛庁のあたりまで来て、左に曲がった。アダルトディスコ『クィーン・メリー』は、その通りに沿ったビルの地下にあるはずだった。
『クィーン・メリー』の評判を初めて聞いたのは、つい一か月ほど前、寿々子がエアロビクスの外人インストラクターたちと昼食を共にした時のことである。黒の編みタイツにゴールドのラメ入りレオタードを着たオーストラリア人のひとりが、『クィーン・メリー』ばシークレットのデートに最適だ、と言い出し、同席したアメリカ人たちもあそこは秘密めいた不思議なディスコだ、と同調した。身体《からだ》の何もかもが自分の一・五倍ありそうな彼女たちの言う「シークレットディスコ」なるものに、寿々子が足を踏み入れてみたいと思ったのは、好奇心というよりもあの迫力《はくりよく》負けしそうなグラマーな女たちへの対抗心からだったのかもしれない。
アイスクリーム専門店の隣に、四階建てのこぢんまりとしたレンガ作りの新しいビルが見えた。一階はチャイニーズレストランとステーキハウス。二階から四階まではオフィスになっているらしく、窓の明かりが消えている。
外から中が見えるようになっているステーキハウスは客がまばらで、チャイニーズレストランは定休日だった。そのせいか、このあたりまで来ると人通りが少なくなり、休日のオフィス街のように静かで淋《さび》しい感じがした。五郎は寿々子の肩を抱きながら、ビルの中に入った。地下へ通じる階段の踊り場のところに、注意して見なければわからないような小さな文字で「QUEEN MERRY」と書かれたプレートが貼《は》ってあった。あたりはまったく静かで、そこがディスコであるとはどうしても思えない。
「なんだか、マフィアの賭博場《とばくじよう》みたいだな」と、五郎は言いながら足を止めた。
「寿々ちゃん。やつらからここはまだ見えないだろうから、ちょっと覗《のぞ》いてみろよ。いるかどうか、確かめようぜ」
寿々子はうなずき、ビルの入り口の壁に身体《からだ》を押しつけて、そっと外を見た。路上駐車している車は三台あったが、あのカローラではなかった。向こう側の舗道《ほどう》を中年の男女が腕を組みながら歩いて行く。そのカップルの後ろは白い壁のマンションである。玄関前の植え込みのあたりで人影が動いた。逆光のため、顔はよく見えない。だが、寿々子はその人影が持田であることを確信した。クリーム色のカローラが、音もなくその人影に近づいて、木陰の下に停《と》まったからである。
「来てるわよ、ちゃんと」
「偉いな。さすがに抜かりなく尾行してくる」
ふたりは笑いながら階段を降り、『クィーン・メリー』の大きなぶ厚い木製の扉を開けた。
扉の向こうには、セクシーな喧噪《けんそう》があった。かなり暗いが、暗すぎるということはない。漆黒《しつこく》の大理石の壁に、フロアから洩《も》れてくる光が反射している。扉から真っ直ぐ右に通じている長い廊下の先にクロークがあった。ダークスーツを着て蝶《ちよう》ネクタイをしめた男がうやうやしくふたりに頭を下げた。
「いらっしゃいませ。コートとお手荷物をお預かりします」
五郎はいつものように着ていたブルゾンを預けなかった。彼のブルゾンは防寒用ではなく、おしゃれのための小道具だった。
寿々子だけがバーバリのコートを脱ぎ、蝶ネクタイの男に手渡した。男はそれを真綿でくるみこむような手つきでふたつ折りにし、クロークの中にいた女に渡した。女は赤毛で、スパンコールの入った真っ青なアイシャドウをつけ、紫色の口紅を塗《ぬ》っていた。
「こちらがクロークの番号札です」と、その女が『47』と書かれたプラスチックの黄色い札を寿々子に渡した。プラスチックみたいな声だった。寿々子はそれをショルダーバッグの中に放り込んだ。
蝶ネクタイの男が、ふたりを中へ案内した。フロアはさほど広くなく、透《す》き通ったガラスの壁に囲まれたドームになっている。中では四、五組の男女が踊っていた。
店の持つ雰囲気《ふんいき》は、寿々子が想像していた通りだった。十代の若者ばかりが群がるようなディスコとは、ひと味もふた味も違う。耳をつんざく喧噪《けんそう》はなく、音響効果のいい映画館に来ているような感じだったし、フロアとテーブル席が離れているため、席についてから隣の人に話しかけるのに喉《のど》をからさなくてもよさそうだった。
テーブル席はすべてフロアに向かい、壁を背にした半円形のソファーになっている。六、七人のグループで来ている若者たちの一団を除くと、あとはほとんどが年齢|不詳《ふしよう》、職業不詳にしか見えない着飾ったカップルばかりだった。ダークスーツとカクテルドレスの白人カップルもいる。しかし、まだ時間が早いせいか、あまり混んではいない。
寿々子と五郎はフロアからもっとも遠い、店の奥の落ち着いた席に案内された。蝶《ちよう》ネクタイの男がテーブルの上のランプに火をつけると、別の男が飲物の注文を取りに来た。ふたりはバーボンの水割りと牛タンの塩漬《しおづ》けを注文した。
隣の席では、若い女と中年の男が格別に話すことは何もない、というような表情でぼんやりフロアのほうを見ていた。女は髪の毛を今はやりのベリーショートに刈り上げた彫りの深い美人だった。襟《えり》もとが大きく空いた黒のニットのワンピースを着ていたが、アクセサリーは何ひとつつけていなかった。透《す》き通るような白い肌《はだ》が薔薇色《ばらいろ》に輝いている。自分を引き立ててくれるアクセサリーや宝石を必要としないタイプの女であった。
連れの男は仕立てのよさそうなツイードの背広を着ていて、暖炉《だんろ》の前に坐《すわ》ったセントバーナード犬のようにどっしりと身動きしなかった。
男がテーブルの上のアルマニャックを自分のグラスに注《つ》いだ。女は何か赤い色をした飲物を飲んでいた。男が女の耳元で何か囁《ささや》いた。女はふっくらした唇《くちびる》を少し開いて微笑《ほほえ》んだが、またすぐに視線をフロアに戻《もど》した。口もとには穏やかな笑みが残っていた。
「いいところじゃない」
五郎が言った。
「馬鹿《ばか》みたいに気取ってるけどさ。たまにはこういうところもいいよ」
寿々子はうなずいた。ボーイがトレイに飲物と牛タンの塩漬《しおづ》けを乗せて、やって来た。ありふれたバーボンの水割り二杯に牛タンの塩漬け一皿。いくらになるかしら。
寿々子は素早く頭の中で計算した。今夜のために多めに預金を下ろしてきたが、もしこの店がバカ高かったら足りなくなるかもしれない。自分の愚《おろ》かしい両親の持ってきた見合い話のせいで、こんなことをしているのだから、五郎に出費させる気はなかった。
しかし、十パーセントのテーブルチャージを思い出したあたりで、彼女は馬鹿らしくなって計算するのをやめた。つましく生活するのには慣れていたが、そのために小賢《こざか》しく数字を並べて足し算引き算をすることには慣れていなかった。それはおそらく、自分の育ってきた家庭環境のせいだろう、と彼女はかねがね思っていた。
音楽が変わり、スローのダンス曲になった。隣の席のカップルが立ち上がった。フロアに上がり、ふたりは寄り添《そ》った。
「チークか。随分、久しくやってないなあ」
五郎が目を細めて言った。
「あら、前にはよくやってたの?」
「誰《だれ》だってチークダンスの一回や二回、誰かと踊ったことがあるだろ。寿々ちゃんだって……」
「まあね」と、彼女は背筋を伸ばして言った。五郎と付き合う前に関係をもった男とは、新宿の安っぽいディスコでチークダンスを踊った時、キスをし合ったのがきっかけだった。その時のキスはひどく官能的だった。はすっぱな気持ちになっていた彼女は、自分から男をホテルに誘《さそ》った。だが、もちろんそのことは五郎には言わなかった。
ふたりはバーボンを飲み、牛タンをつまんだ。スローのダンス曲は二曲目に入った。隣席のカップルは軽く頬《ほお》をつけ合いながら踊っている。女が黒いワンピースを着ているせいか、そのシルエットは闇《やみ》にまぎれて、男のぶ厚い腕の中に溶け込んだかのように見えた。寿々子は本能的に、さっき入ってきたクロークの方を見た。新しい客が入った様子はない。蝶《ちよう》ネクタイの男が歩兵みたいに真っ直ぐ姿勢を正して立っている。
「あの探偵《たんてい》たちは、中には入らないのね」
「入る必要はないんだろ。ここは出入り口がひとつだし、外で見張っていさえすれば僕たちが帰るのもわかるから」
「中に入られたら困るわ」
「どうして?」
「その経費、結局、私が持たなくちゃいけないんだもの」
五郎は笑った。黒い柔《やわ》らかな髪の毛が額の上でかすかに揺《ゆ》れた。一緒に微笑《ほほえ》みながら、寿々子は幸せな気持ちになった。五郎はかけがえのない男……ほとんど唐突にそう思った。
付き合って一年。関係が深くなればなるほど、滲《にじ》み出るような人柄《ひとがら》の暖かさが伝わってくる。今度のことだって、五郎が相手じゃなかったら、こんなふうにはしなかっただろう。五郎だからこそ、できたことなのだ。
寿々子は五郎と結婚した自分を容易に頭に思い描くことができた。仕事は続けるし、五郎も今まで以上に頑張《がんば》るに違いない。つき合い初めのころは、さぞかし仕事場できれいな女優さんばかり見ているだろうから、自分のような平凡な女はいつか捨てられるに違いない、と思っていたものだが、こうして長くつき合ってみて、五郎にそんな心配をしたこと自体が今となっては恥《は》ずかしかった。
ふたりはきっと子犬がじゃれ合うように仲のいい夫婦になるだろう。料理はふたりで作り、休みの日はあちらこちらを散歩する。お金をためてバカンスをたっぷりとり、どこか海のきれいな南国の島に行こう。
朝はふたりのぬくもりの中で目覚め、夜はふたりの夢の中で眠る。お金がなかったら、住むのはモルタルの小さな平凡なアパートでいい。誰《だれ》にも邪魔《じやま》されない、静かな愛情に満ちた日々、あれほど恐ろしかった孤独も、二度と思い出すことはなくなるだろう。五郎とだったら、人生の砦《とりで》ができるのだ。
しかし、それにしても世の中の多くの女はどうして、「立派な男」ばかりを求めるのだろう。どうして銀行口座や、部下の数、女たちへの贈り物に使う金額で、その男の立派さをはかろうとするのだろう。
私はそんなことはない……と寿々子は思った。立派な男なんていらない。欲しいのは自分にとってのかけがえのない男だけだ。
「踊ろうよ」と、五郎が寿々子の手を取った。寿々子はやさしい気持ちになって彼を見上げた。何か言いたかったが、何を言ったらいいのかわからなかった。彼女は引きずられるようにしてフロアヘ上がった。
すでに五組のカップルがいた。誰《だれ》も彼も顔を相手にすり寄せているため、四本足の珍獣が五匹、蠢《うごめ》いているみたいだった。
大都会の夜。ひとつになりたがっている無数の恋人たち。様々な香水やヘアスプレイの匂いがする。男たちの手は昆虫《こんちゆう》の足のように女の背中を這《は》い、時折、痙攣《けいれん》したように丸い尻《しり》の上に来て制止した。唇《くちびる》が触《ふ》れ合う音。微《かす》かな衣《きぬ》ずれ。
寿々子は五郎の肩に頬《ほお》を寄せて目をつぶった。ガラスのドームの中で、寿々子と五郎は六組目の珍獣≠ニなった。
もしも人が自分の運命……天体の法則によって定められている運命……を知ることができたとしたら、いったいどれだけの人間がそれを知りたいと願うだろう。
愛する者の死や自分の寿命、大切なものとの別れ、挫折《ざせつ》、失敗、病気。逃れられない宿命を知りたいと本気で願う人がいるだろうか。
たいていの人は運命を予知することができないし、また、本当に自分の運命を知りたいとも思っていない。一寸先が闇《やみ》であるからこそ、人は生きていける。一寸先、はるか彼方《かなた》の先までを知ってしまったら、人生は水墨画のように色彩をなくし、興奮も期待もない、ただのゆるんだベルトコンベアーみたいになってしまうだろう。
寿々子も時々、そんなことを考えることがあった。学生のころ、仲間と箱根に行った時、友達とふたりでレンタサイクルの店に行き、自転車を二台借りた。坂道をふざけ合いながら全速力で降りていた時、突然、角を曲がって乗用車が姿を見せた。寿々子は驚いてブレーキをかけ、ハンドルを横に切った。しかし、友達の乗っていた自転車は急ブレーキをかけた途端、ハンドルが壊れ、同時に前の車輪がはずれた。彼女はそのまま車のフロントガラスに突っ込んでいった。
三か月間の病院暮らしを終えた彼女の顔は、別人のように変形していた。後遺症は彼女を悩《なや》ませ、彼女の人生の希望の大半を失わせた。七年たった今、その人は七十歳の老婆のようになって、両親と暮らしている。
同じ店で、外見上はまったく同じ自転車を借り、同じ場所を並んで走っていたというのに、寿々子だけが難を逃れたのは偶然としか言いようがなかった。
ふたりの人間がいたとすると、必ず、どちらかひとりが先に運命の扉を開けてしまう。たくさんの人間がいたとしても同じだろう。予期せぬ時に、予期しなかった運命の扉を必ず誰《だれ》かが無意識に開けてしまうのだ……。
『クィーン・メリー』は、十時近くなると少し混み出した。寿々子は時計を見て、そろそろ帰る時間だと思った。持田たちを待たせているのは何となく落ち着かなかった。
もう一杯、バーボンを飲みたかったが我慢《がまん》し、寿々子は化粧室《けしようしつ》に入った。化粧室はクロークの横にあり、ちょっとしたホテルのパウダールームのように広く清潔で、甘いフルーツボンボンに似た香りが漂っていた。中には誰もいない。用をたし終えた寿々子は、のんびりと鏡に向かって化粧をなおした。
さっき踊っていた時、五郎とキスをしたかったのに、と彼女は思った。真っ赤な口紅さえ塗《ぬ》ってなかったら、キスもできたんだけど。
彼女は口紅を塗り直し、鏡に向かって少し笑ってみせた。そして首に巻いたスカーフの形をなおし、セーターについた髪の毛をつまんで屑《くず》かごに捨て、スカートの止金がちゃんとはまっているかどうかを確かめた。
化粧《けしよう》パレットをバッグにしまう時、クロークで出す番号札が指の先に触《ふ》れた。この後、すぐに帰るつもりだったので、寿々子はそれを取り出し、手のひらの上でもてあそびながらショルダーバッグを肩にかけた。再びスローダンスタイムになったのか、静かな曲が化粧室の中に流れている。
ドアノブに手をかけた。その瞬間《しゆんかん》、勢いよく誰《だれ》かが内側に向かってドアを開けた。寿々子は額をいやというほどドアにぶつけ、思わず「痛いっ!」と叫んで両手で顔をおおった。
「ごめんなさい」と、驚いたような女の声がし、何かが床に落ちる音がした。
「大丈夫ですか」
肩のあたりに慎《つつし》み深い柔《やわ》らかな手の重みを感じた。寿々子は少し大袈裟《おおげさ》に顔をしかめ、そっと目を開けて女を見た。隣の席にいた若い女だった。形のいい眉《まゆ》を寄せて、本当に心配そうな顔をしている。寿々子は微笑した。
「平気です。ちょっとぶつけただけですから」
「困ったわ。どうしましょう。てっきりどなたもいらっしゃらないのかと思って、私ったら……」
「いいんです。気にしなくても。大丈夫ですから、このくらいのこと」
女は少し頬《ほお》を赤く染め、じっと寿々子を見つめている。並んで立つと、寿々子とほぼ同じくらいの背丈だった。年齢はわからなかった。寿々子と同じくらいか、さもなくばもっとずっと年上なのかもしれなかった。しかし、少なくとも女は寿々子よりずっと肌《はだ》がきめこまやかで、そしてずっと大人びていて、そしてどう抗《あらが》っても太刀打ちできないほど美しかった。
「お怪我《けが》はなさってないですか」
女は確かめるように聞いた。寿々子はもう一度、微笑し、額を見せ、ほらこの通り、なんともありません、と言った。女はやっと安心したように表情を和らげた。
笑みを浮かべると少し無邪気《むじやき》な顔になった。唇《くちびる》の横にコンマの形をした黒いほくろがひとつある。笑顔とともにほくろが隠れ、白い歯がかすかに見えた。
女の持っていた赤い小さなセカンドバッグが床に落ちていた。口が開いて中のもの……花模様のハンカチーフやコンパクト……がいろいろな小間物とまざって飛び出しかかっている。寿々于は急いでそれを拾い上げ、女に手渡した。
「まあ」と、女は鈴が鳴るような声で言った。
「すみません」
「このドア、両方から開くようになってるんですね」と、寿々子は言った。その女に好感をもったので、何か気のきいたことを言いたかった。女は少し大袈裟《おおげさ》すぎるほど大きくうなずいた。寿々子は続けた。
「初めて来たお店なので、ちっとも知らなくて」
「私なんか、これで三度目ですのに、気がつかなかったわ。何を見ていたんでしょうね」
ふふ……と寿々子は笑顔を作った。女も晴れやかに笑ったが、その後で「あら」と床を指さした。上品な感じの淡い紫色《むらさきいろ》のマニキュアが塗ってある指だった。
「何か落ちてるわ。あなたのじゃないかしら」
見るとそれは黄色のクローク札だった。寿々子はそれを拾い、しっかり握《にぎ》った。女は軽く会釈《えしやく》し、いささかも照れ臭そうにではなく、トイレの中に消えた。
席に戻《もど》り、「隣の席の女の人とトイレでぶつかっちゃった」と、五郎に話した。五郎は「ぎりぎりまで我慢《がまん》するからな、女は」と眉《まゆ》をしかめてみせた。ふたりは笑いながら立ち上がり、忘れものがないかどうか確認して、クロークの隣にあるキャッシャーに行った。料金は思っていたほど高くはなかった。五郎は寿々子がいいと言うのに、全額を支払った。レシートと共に釣《つ》り銭を手渡すと、キャッシャーの男は、透明《とうめい》なプラスチックにはさまれた「クィーン・メリー会員証見本」をふたりに見せた。ブロンズか何かでできている重たそうなカードだった。
「入会手続きをしていただければ、すぐにお作りいたします」
男はそう言って、印刷物を示した。入会金男性十万円、女性七万五千円……という数字だけが寿々子の目に入った。
「ここに手続きの方法がございます。特典はいろいろございまして、たとえばボトルキープの割引ですとか、各界の方々をお招きしたクリスマスパーティーヘの参加ですとか、海外旅行やテニスツアーなどもございまして……昨年は会員の方とその御家族合わせて二十三名で、ハワイのマウイ島へ……」
ディスコの会員になることと海外旅行やテニスツアーがどうして関係するのだろう、と寿々子が不思議に思った時、後ろ側に男女が立っているのに気づいた。隣の席にいたカップルだった。女は寿々子を見て軽く微笑した。寿々子は会釈《えしやく》を返しながら五郎を促し、「入会手続き」の印刷物だけ受け取って、その場を離れた。
クロークで寿々子は番号札を出した。さっきと同じ女の子が奥に入り、コートを持ってきた。寿々于はそれを腕にかけたまま、五郎と出口に向かった。
「なんだ、あれ」と、五郎は言った。
「見たか? 入会金のところ。男十万円だってさ」
「見たわ。バッカみたい。うちのスポーツクラブと同じね。お金持ちにはつきあいきれないわ」
「じじいとばばあの道楽なのさ、きっと。ワニ革のカードケースにずらずらっといろんなカードを並べるのが趣味の奴《やつ》がいるんだよ」
ふたりはひそひそと喋《しやべ》り合いながら出口のところまで歩いた。寿々子は五郎にショルダーバッグを持たせて、自分でコートを着た。前ボタンをしめている時、コートの襟《えり》のあたりから、微《かす》かに香水の匂いがたちのぼった。それが自分のつけている香水ではないことがわかるまでに、多少の時間がかかった。
寿々子は本能的にコートのポケットに手を入れ、「あら」とつぶやいた。ポケットの中で何か固いものが手に触れた。それが何なのか、取り出そうとして何気なくクロークのほうを向いた。さっきの女と目が合った。
連れの男はまだキャッシャーの前にいた。ブロンズのカードを見せながら、何かにサインをしている。女はクロークの横でコートを着て、妙な顔をしていた。
その女の着ているコートも同じバーバリのコートだと気づいた瞬間《しゆんかん》、寿々子にはすべてが飲みこめた。
女と化粧室でぶつかった時、女のセカンドバッグが床に落ち、多分、中に入っていたクローク札が外に飛び出したのだ。寿々子が手に持っていた札も飛んだ。バッグを拾って女に手渡す際に、寿々子は自分の番号札も一緒に渡してしまい、代わりに彼女の札を持って来てしまったのだ。まったく同じコートなので、クロークで手渡されてもわからず、袖《そで》を通してみて初めて自分のものではないことに気づいたのだ。
「あの、もしかして……」と、寿々子は大きな声を出して言った。女が振り向いた。彼女もコートの違いに気づいたらしく、さもおかしそうに微笑《ほほえ》んだ。その真後ろに連れの男の顔が見えた。女の白い美しい顔。首ひとつ分だけ大きい、男の顔。
寿々子が最後に見たのは、そのふたつの顔だった。四つの瞳《ひとみ》が自分に向けられていた。やさしくおだやかな視線だった。
薄暗《うすくら》がりの中で、寿々子はその四つの瞳《ひとみ》に向かって歩きだそうとした。後ろで五郎が何か言った。その最後の瞬間《しゆんかん》に五郎が何を言ったのかは、寿々子には聞き取れなかった。
クロークや壁や天井、そのすべてが突然、発光体のように激しく光ったのとそれはほとんど同時だった。
爆音が轟《とどろ》いた。明かりが消え、何も見えなくなった。床がせり上がったような感じがし、壁が荒波か何かのようにすさまじい音を立てて砕け散った。
寿々子は自分の身体《からだ》が大きく吹きとばされ、ビルの天井をつき抜けて暗黒の宇宙へ舞い上がっていくような感覚を覚えた。遠くに炎が見えた。それは炎というよりも巨大なガスバーナーに似ていた。
すべては一瞬《いつしゆん》の出来事だった。
翌朝の朝刊各紙は、一面トップの大見出しで、次のように伝えた。
六本木高級ディスコクラブ、ガス爆発の大惨事《だいさんじ》!
死者四十二人、不明多数!
あるいは全員、絶望か! 必死の救助活動に祈るまなざしの関係者たち!
「昨夜、十時四十八分ころ、東京都港区六本木の第三プラザビル地下一階にある高級ディスコクラブ『クィーン・メリー』の厨房《ちゆうぼう》付近で大規模なガス爆発が発生した。爆発当時、同クラブには七十名を越える客と十二名の従業員、合わせて八十数名がいたが、十二時現在、死亡者数四十二名を確認。爆発の規模の大きさから考えて、残った人たちもほぼ全員、絶望的とみられている。
この事故で第三プラザビルは四階を残して内部がほとんど壊滅《かいめつ》し、付近のビルや住宅にも大きな被害《ひがい》が出た。『クィーン・メリー』以外の被害者数も合わせると相当の死者、重軽傷者が出た模様だが、爆発原因など詳《くわ》しいことはまだわかっていない」
三月十七日付P新聞夕刊。
「現場付近は、粉々に砕けたガラス片や煉瓦《れんが》、コンクリートが散乱し、爆発後数時間たっているにも関わらず、まだガスの匂いが強くたちこめている。酸素マスクをつけ、ボンベを背負って捜索《そうさく》に当たったレスキュー隊の手によって次々に運び出される遺体は、どれも損傷が激しく、遺体確認は難航しそうである。
なお刑事貴任追及に乗り出した捜査本部は、重過失失火罪容疑を深めて、クラブ『クィーン・メリー』のオーナーで東西開発株式会社の取締役《とりしまりやく》でもある金森昭氏(五二)をはじめ、関係者から詳《くわ》しい事情聴取を開始した。重過失失火罪に該当《がいとう》すると見られるのは、同クラブの厨房《ちゆうぼう》におけるガス漏《も》れと、その引火原因など。事故前日から、厨房及び同クラブ付近でガスの匂いがしていた、との情報もあり、同本部では今後、広範囲《こうはんい》な捜査をすすめることにしている」
三月十八日付R新聞朝刊。
『警視庁は十七日夜、『クィーン・メリー』ガス爆発事故による被害者《ひがいしや》数を発表した。それによると、死亡者は『クイーン・メリー』の従業員十二名、客五十三名、一階ステーキハウスの客三名、の計六十八名となった。残る十八名が都内の病院に運ばれたが、全員、重体である。なお、死亡者の身元確認は難航しており、わずかに残った衣類や持ち物が最大の手掛りとなっている。現場ディスコは会員制をとっているため、警視庁では会員名簿をもとにして、身元確認を急ぐ予定」
三月十八日付R新聞夕刊。
「十六日夜におこった『クィーン・メリー』ガス爆発事故の遺体は、近くの万福寺に収容されているが、もしや家族が事故に遇《あ》ったのでは、と心配して訪れる人々で今日も一日、混乱状態が続いた。十七日設けられた警視庁ガス爆発事故対策本部では、同ディスコの会員名簿をもとに確認と遺族への連絡を急いでいるが、非会員の客も多く来ていたと思われるところから、なお一層の混乱が予想される。
また都内の病院に収容されている十八名の重傷者のうち、十四名が本日、息を引き取った。全員の意識が不明または混濁《こんだく》していたので、身元がわからず、対策本部としては今後の動きを憂慮《ゆうりよ》し、知人、友人、会社の同僚などで事故当夜、現場付近に出かけたきり消息のわからなくなった人に心当たりがある人は、すぐに知らせてほしい、と強調している」
市原寿々子の素行調査を担当していた持田光昭は、その夜、同僚の田崎と共に第三プラザビルから少しはずれた木の影に車を停《と》め、車内で遅い夕食用の幕の内弁当を食べていた。ビルの出入り口はひとつしかない。車の中でそうやって見張っているのが一番、確実でしかも楽なやり方だった。
田崎はものすごい勢いで弁当を食べながら、いつものようにイヤホンを耳につけてウォークマンを聞いていた。大学を出て丸二年間、ぶらぶらしていたという田崎は、興信所へ勤めた後もどことなく学生気分が抜けていないようだった。持田はそれにかまわず、弁当に箸《はし》を忙しく運んだ。
持田が弁当箱の中に最後に残った小さな梅干しを口に放り込んだ時である。大音響とともに車が大きく揺《ゆ》れた。地の底から突き上げられるような感じだった。持田と田崎はわけがわからずにシートにしがみついた。
何か固いものが、次から次へと車に当たった。パシッとかわいた音とともに車のフロントガラスが蜘蛛《くも》の巣状に割れた。あたり一帯に爆風がおこり、一瞬《いつしゆん》、回りが真っ白になった。
持田は初め、地震《じしん》だと思い、次に竜巻きだと思った。生きた心地がしなかった。
「なんかが爆発したんだ」と、田崎が叫んだ。持田が田崎の腕をつかんだ。
「外に出るな! 危ない!」
田崎はウィンドウを少し開け、外に首を出した。まだ何か小石のようなものがぱらぱらと降ってくる。
「見てよ、持田さん。ひでえや」
持田が田崎の指さす方向を見ると、そこにはさきほどの洒落《しやれ》た外観のビルはなく、解体工事中のようなぼろぼろの建物の外壁が見えるだけだった。火災が発生したらしく、オレンジ色の光がところどころに見える。
大通りのほうで車がクラクションを鳴らし出した。近くのマンションの住人が、壊れたガラス窓からおそるおそる顔を出している。
「大変なことになったぞ」と、持田は言った。
「あのビルの中に市原寿々子がいたんだ」
「どうします」
「俺《おれ》たちに何ができるってんだよ」そう言いながら、持田は全身が細かく震《ふる》え出すのを覚えた。何人の人間が死んだのだろう。あのひどさでは、助かっても大怪我《おおけが》だ。それに誰《だれ》でも入れるディスコだ。誰が入っていたか、確認できないではないか。
そうだったとしたら、市原寿々子は、中でも幸運だったと言える。俺たちに尾行されてたんだから。もしそうじゃなかったら、寿々子さんとやらの身元はわからなかっただろう。寿々子と一緒にいた男だって、結局は幸運だったのだ。もっとも本人たちは尾行されてるなどとは知らなかっただろうが。
持田がそう思った時、遠くに救急車とパトカーのけたたましいサイレンの音が聞こえた。彼はそっと注意して車から降り、現場から少し離れた大通りの公衆電話が壊れていないことを確かめてから、佐伯冴子に電話した。電話しないという約束を破ったうえ、不幸なニュースで申し訳ない、そう言うつもりだった。だが、コール音が何度も続くばかりで、誰《だれ》も電話に出なかった。
持田は壊れた車をそのままにして田崎とともに現場付近を見た。消防車や救急車、パトカーがばらばらにした積木のように通りに入って来た。ガスの匂いがたちこめている。二次災害の恐れがあるため、現場はただちに立ち入り禁止になった。
やじ馬は時とともにふくれ上がったが、どの顔も青ざめており、中には恐怖のあまり泣き出している女の姿もあった。
救助隊員と警官たちが怒鳴《どな》り合うようにして、壊れたビルを取り囲んだ。誰《だれ》かが「生存者はいるか」と叫んだ。「ひどい。ばらばらです」という声が響いた。
何がばらばらなのか、持田にはすぐわかった。彼は目をつぶり、バーバリのコートを着たショートカットの女を思った。楽しげに男とスパゲッティを食べていた彼女。何の因果で彼女が死ぬ瞬間《しゆんかん》に立ち合ってしまったのだろう。自分は彼女の素行を調査していただけだ。彼女の命の行く末を調査していたのではないのだ……。
持田はその夜、ずっと依頼人である佐伯冴子の電話番号を回し続け、翌日もそれを続けた。だが、電話には誰も出なかった。
彼は翌朝、いやいやながら警察に行った。警察というところは、昔から性に合わず、できたら行きたくないと思ったのだが、そうもいかなかった。だんまりを決めこむほど自分は人が悪くない、と信じていたからだ。
警察では身元を明かさなかった。警官に対してすぐに身元を明かしてしまう私立|探偵《たんてい》の出てくる探偵小説が嫌《きら》いなのと同様、彼もまた、警官になれなれしく自分の名刺を差し出すのが嫌いだった。
寿々子のことを知っていて、彼女が昨夜、あの『クィーン・メリー』に男と連れ立って入るのを確かに見た、と言うと、担当の警官はじろりと彼を見、「どういった知り合いか」と訊《き》いた。彼は一言、「昔の女なんですよ」と答えた。
「とっくに別れてるけどね。昨日、『クィーン・メリー』の前で見かけて、彼女が店から出てくるのを待ってたんです。男と一緒だから迷惑《めいわく》かな、と思ったけど、懐かしかったからね。そしたら、ドカーン、だ」
ちょって待って、と警官は言い、用紙を取り出して来てボールペンを握った。
「その女性の名前、年齢、住所をどうぞ」
「市原寿々子さん。二十七歳になったかな。住所は……」持田は持って来たメモ用紙に書かれた寿々子の住所を見せた。警官はそれを写しとった。
「勤め先はわかりますか?」
「二子玉川スポーツクラブに勤めてるはずですよ」
「緊急《きんきゆう》の連絡先か何かはご存じで?」
「さあね」と持田は鼻をすすった。「実家は仙台だ、って言ってたけど、俺《おれ》は何も知らないよ。親父さんに紹介されたわけじゃないからね。ああ、そう言えば双子の妹が東京に嫁《とつ》いでたはずですよ。佐伯冴子っていう……」
「その方の連絡先はわかりますか」
持田は双子の片割れが言い残していった連絡先を教えた。警官はそれを写し終えると、ボールペンで頭を掻《か》きながら聞いた。「当日の服装はどうでしたか。もし覚えていれば……」
「覚えてますよ」と持田は床の一点を見つめながら言った。「バーバリのコートを着てた。カッコよかったよ。襟《えり》を立ててさ、ショルダーバッグを肩から下げてた。でもあんた、バーバリのコートって知ってるのかい?」
警官は胡散《うさん》臭げに彼を一瞥《いちべつ》しただけで、答えなかった。持田は聞かれるままに、市原寿々子と一緒にいた連れの男の服装や推定年齢なども喋《しやべ》った。
「わかりました。ご協力を感謝します。ところであなたの住所氏名をここの欄に書いてもらえますか」
持田はボールペンを受け取って、用紙の下のほうに「佐藤|宏《ひろし》」と書き、でたらめの住所と電話番号をつけ加えた。
「かわいそうにね」と、持田は用紙を警官に返しながらつぶやいた。「別れた女に死なれると、どういう気分になるものか、あんた、わかるかい?」
警官は肩をすくめた。
興信所に帰ってから持田は寿々子のことを考えた。若いのにかわいそうに、と彼は思った。少し頭痛がしたのでアスピリンを飲んだ。年に数回、決まっておとずれるこの仕事に対しての憂鬱《ゆううつ》な気持ちに襲《おそ》われて、彼は深い溜息《ためいき》をついた。
突然、猛烈《もうれつ》な痛みが甦《よみがえ》ってきた。得体の知れない獰猛《どうもう》な獣に、全身を噛《か》みつかれているみたいだった。
痛みの感覚だけが肥大化し、他の感覚は麻痺《まひ》しているように思えた。にも関わらず鈍《にぶ》く周期的に襲《おそ》ってくる睡魔《すいま》があった。これまで一度も経験したことのない睡魔だった。地の底に引きずりこまれ、再び空高く浮き上がるような感じ。眠たくて仕方のない時のあの気持ちのいい睡魔ではなく、ぬらぬらとした感触《かんしよく》のある、水の中でエレベーターに乗っているような、不快な睡魔であった。
睡魔に打ち勝とうとすると、痛みがやってくる。逆に痛みをこらえようとすると、睡魔に襲われる。寿々子は喘《あえ》いだ。
誰《だれ》かが何かを言っている声が聞こえた。低い声と高い声。ぶんぶん、という蜂《はち》の唸《うな》り声にも似ている。
痛みが睡魔に勝ちそうだった。寿々子は荒い呼吸をし、喘ぎ続けた。ぶんぶん、という唸り声は次第にはっきりとし、やがて明瞭《めいりよう》な人間の声に代わった。寿々子は必死になって声のする方へ、神経を向けた。
金属の音とゴムをはじくような音、その合間に人間がたくさん、こちらににじり寄ってくるような音が聞こえた。
固くつぶった目の奥で、光を感じた。橙色《だいだいいろ》の強い光。寿々子は思い切って目を開けようと試みた。だが、まぶたは接着剤でも塗《ぬ》られたように、びくとも動かなかった。荒い呼吸に伴って、胸がずきずき痛んだ。
「点滴」という言葉と「酸素」という言葉が何度か繰り返された。そしてしばらくの間、あたりはざわざわとしていたが、やがて静かになった。さっき目の奥に感じた光はもうなくなっていた。寿々子は喘《あえ》いだまま、いつしかまどろみ始めた。
寿々子は或《あ》る朝、突然、目を開けた。まぶたは弛緩《しかん》しきっていて重かったが、どうにかまともに目を開けることができた。
光が飛び込んできて、少し目の奥がきりきりと痛んだ。彼女は目を閉じ、しばらくじっとしてから再び、まぶたを上げた。
淡《あわ》いグリーンの天井が見え、次に見知らぬ女の顔が見えた。寿々子はじっとその顔を見つめた。小皺《こじわ》は目立つが、よく太った健康そうな丸い顔だった。メタルフレームの眼鏡をかけている。頭の上にちょこんとブルーの帽子をかぶっているところを見ると、看護婦らしかった。ちょっと年をとっている。五十歳くらいか。寿々子はまばたきした。
「大丈夫ですよ」と、その看護婦は、小さな声で囁《ささや》くように言った。
「まだ痛むでしょうけど、もう峠は越しましたからね。心配は何もいりません」
その女は、自分は看護婦で、あなたがここに入院してからずっと側についていたし、これからも側にいるだろう、と説明した。それから、決して頭や身体《からだ》を動かさないように、今は安静第一ですからね、と早口につけ加え、赤ん坊をあやすように微笑《ほほえ》んで部屋を出て行った。
看護婦と入れかわるように、白衣を着た中年の男が入ってきた。テレビによく出るお笑いタレントにどこか似ていた。
男はつかつかと寿々子のベッドの側までやって来て、「お目覚めですね」と、細い目をさらに細めて言った。
「丸五日間、眠り続けたんですよ。あなたは知らないだろうけど、大変な騒《さわ》ぎでした」
男は少し毛の生えた手を寿々子の額に置き、次に右手を取って脈を計った。
「喋《しやべ》ってはいけませんよ」
男は軽く片目をつぶり、彼女の顔をのぞきこんだ。
「あなたは顔や腕に大怪我《おおけが》をしたんです。口を当分の間は動かしてはいけません。もちろん身体《からだ》もね」
男は看護婦に何かを言い、看護婦が大きくうなずいた。
「さあ、目をつぶって。目を開けていると疲れますからね。ゆったりした気持ちで、休むんですよ」
そう言いながら、看護婦はベッドのふとんをなおした。寿々子は少し吐《は》き気を覚えたが、言われた通り、目をつぶると楽になった。パシャッという音がし、室内がほの暗くなった。ブラインドをおろしたらしかった。
寿々子は再び、眠りにおちた。
夢をたくさん見た。人の顔や風景などがこまぎれになって出てきた。ばらばらにしたジグソーパズルが頭の中で飛び交っているみたいだった。
時々、ほんの短い間だったが、何かを必死になって考えていることもあった。しかし、何を考えているのかは、いつもはっきりしなかった。
何度か、昼と夜が交代して過ぎていった。ある時、目を開けると例の医者がそばにいた。あたりは明るかったが、昼間の明るさではなさそうだった。医者は微笑《ほほえ》み、満足そうに「なかなかいいですよ」と彼女に言った。彼女がじっと医者を見ていると、彼は「順調です。赤ちゃんみたいによく眠るせいでしょう」と言った。
医者は脈をはかり、聴診器を彼女の胸に当てると、うんうんとひとりでうなずき、彼女の頭に手を置いた。
「ちょっと痛いかもしれないが、我慢《がまん》してくださいよ。顔の包帯を交換しましょう」
やがて地獄のような痛みが彼女を襲《おそ》い、彼女は泣き叫んだ。が、不思議なことに叫び声は出てこなかった。涙だけが目尻《めじり》から落ちていった。
包帯を取り、薬を塗《ぬ》り、また新しい包帯を巻きつけながら、医者は寿々子の痛みなどかまわずに説明を始めた。
「あなたは奇跡的に助かったんですよ。まったく奇跡的だったんだから。幸運な人なんですよ。ただ、ちょっと顔面の傷と火傷《やけど》が深いし、両腕をひどく骨折してますからね。当分は入院しなければなりません。女性だから顔の傷が心配でしょうけど、なあに、こんな傷くらい、たいしたことはないですよ。ちゃんと治してあげますからね。ただし、元の通りの美人顔にはなれないかもしれないな。別の美人顔にはなれますけどね。前よりもっと美人になりますよ。安心してなさい」
寿々子は涙をためた目で、医者を見上げた。彼は目を細くしてにこにこしていた。
「三週間ほどで表皮ができあがります。そうしたら、植皮手術をしましょう。骨折した鼻の整形やちょっと形が変わってしまった唇《くちびる》の修復もその時にやります。敗血症や腎不全《じんふぜん》の心配もなくなりましたしね。大丈夫、大丈夫」
「さ、これでおしまい」と、看護婦が言った。「これからは、暴れないようにね。傷が拡《ひろ》がったりしたら困るでしょう」
涙を拭《ふ》いてもらうと、余計、涙があふれてきた。看護婦は少しも驚かず、こぼれたミルクでも拭き取るように、寿々子の目の回りを手際よく拭いた。医者はいつのまにかいなくなっていた。
「それだけ泣いたりできるんだから、かなり元気になった証拠《しようこ》ね。ごほうびにあなたの喜ぶ人たちを呼んであげましょうね」
看護婦はそう言いながら、涙を拭いたタオルを片づけ、カルテを抱えて部屋の外に出て行った。
しばらくして、ドアのところに人影が見えた。寿々子はそちらを見た。人影はどんどん近づいて来て、やがてふたつになった。
見知らぬ顔の中年の女と若い男だった。女は年に似合わず真っ直ぐに伸ばした長い髪の毛を肩まで垂らし、ワインレッドのブラウスに黒の毛糸のベスト、黒のタイトスカートをはいている。ゆでたまごをむいたようなつるんとした顔をしており、その口もとは神経質そうに震《ふる》えていた。
男のほうは、背が高く、彫りの深い顔をしている。綾織《あやお》りの黒っぽいジャケットにジーンズをはき、手にはあふれんばかりのピンクの薔薇《ばら》の花束を抱えていた。
女がおずおずと寿々子に近寄って来た。目の大きな、顔色の悪い女だった。後ろで若い男がそっと女の腕を取った。
女は、ためらいがちに寿々子の額に手を伸ばした。そして、こわごわ包帯の表面に指を触《ふ》れると、またすぐ引っ込めた。指先が震えていた。何か不浄なもの、不浄であって哀れなもの、に手を触れたみたいだった。
寿々子はじっと女を見ていた。女も寿々子を見た。
「こんなことになってしまって……」
女は低い声でそう言うと、寿々子に向かって呼びかけた。
「玲奈《れな》さん……」
10
三月二十二日付P新聞朝刊。
「ディスコ『クィーン・メリー』でのガス爆発事故における死亡者のうち、最後まで身元確認ができなかった一体が、昨日、事故後五日たってからやっと確認された。
東京都目黒区自由ケ丘に住むOL、市原寿々子さん(二七)で、焼死体となって発見された市原さんの遺体は損傷が激しく、身元確認は難航を極めていた。唯一《ゆいいつ》の手掛りだったコートのポケットの中の鍵《かぎ》も、見当がつかないままだったのだが、このほど警視庁捜査本部に、事故当夜、市原さんが男性と連れ立って『クィーン・メリー』に入るのを目撃した人からの情報が入った。その情報をもとに調べたところ、ポケットの中の鍵が、市原さんの勤め先である二子玉川スポーツクラブのロッカーの鍵であることをつきとめ、遺体は無事、遺族のもとに引き渡された。
仙台からかけつけた市原さんの父で歯科医の正次さん(五五)と母の静江さん(五〇)は、『しばらく連絡がつかないので何かあったか、と心配していた。それがあの爆発事故の犠牲者《ぎせいしや》となっていたなんて。つい先日、寿々子には縁談があり、これで幸せになる、と親としてもほっとしていた矢先だったのに』と、言葉少なに語り、あとは涙で声にならなかった。
なお、市原さんと一緒にいて命をとりとめたものの、意識不明の状態が続いている男性は、警視庁の調べで佐伯五郎さん(二九、劇団研究生)と判明。家族に連絡が取られた」
『レディス・マガジン』三月二十八日号。
「あの痛ましい爆発事故の犠牲者《ぎせいしや》の陰には、様々なドラマがあった。
市原寿々子さん(二七)は、事故当夜、男友達の佐伯五郎さん(二九)と共に死のディスコを訪れた。市原さんはその日、仕事先の世田谷区にある名門スポーツクラブである二子玉川スポーツクラブを出る時、さも楽しそうにしていたという。同僚で市原さんと仲のよかった水木容子さん(二七)は次のように語った。
『あの日のことははっきり覚えています。ロッカールームでばったり会った市原さんは、いつもより丁寧《ていねい》にお化粧《けしよう》をしていて、楽しそうでした。デートなの、って聞くと笑ってデートよりももっと面白いことよ、って言ってました。どう面白いのか、私に聞かせたがってたけど、時間がないから今度ね、と言って出て行きました。佐伯さんという男性のことは知りません。あまり個人的なことを話す人じゃなかったから。でも育ちのいい楽しい人でした。仕事で苛々《いらいら》した時なんか、彼女といると不思議とほっとするんです。あったかい人でしたね。
こんなことになって、ショックです。今でもロッカールームに行くと、彼女が楽しそうにお化粧している姿が見えるみたいで……。
コートのポケットにロッカーの鍵《かぎ》が入っていたんですってね。私、彼女がロッカールームを出る時、鍵をバーバリのコートのポケットに入れるのを確かに見ました。あの鍵が死体となった彼女の身元をあかしたなんて……信じられません』
市原さんと一緒に事故に遇《あ》った佐伯五郎さんは、劇団所属の俳優。ふたりは一年前に知り合い、親しくなった。ふたりがよく行く自由ケ丘のバー「トニー」の店主、相田|登仁夫《とにお》さんは、『信じられない。結婚にまでいきつくだろうな、と思うほど仲のいいふたりだったのに』と、言ったきり口を閉ざした。
佐伯さんは一命をとりとめたが、今なお意識が混濁《こんだく》しており、予断は許さない状態にある。医師団は佐伯さんが意識を取り戻《もど》したとしても、当分の間は市原さんの死を知らせないでおくつもりだ、と語っている。
なお、仙台にある市原さんの実家では、今なお窓が固く閉ざされている。父の歯科医、正次さんの経営する歯科医院もずっと人任せになっており、両親の姿は見えない。近所の人の話によると、マスコミを避けて別の土地に行っているとのことであった。事故の後遺症は深い。事故に遭《あ》った方々の周辺を調べていく間中、取材記者は涙のかわく暇もなかった。
さて、事故に遭い、助かった人たちの中でも、もっとも重傷とされていた城山玲奈さん(二八)は……」
そこまで読んで、持田は『レディス・マガジン』を机の上に投げた。もう少ししたら、新しい依頼人がやって来る時刻だった。妻の挙動が不審なので調べてみてほしいという、会社員からの依頼である。
彼は欠伸《あくび》をし、煙草《たばこ》をもみ消した。隣にいた田崎が持田の投げた『レディス・マガジン』を開き、拾い読みしながら聞いた。
「ねえ、持田さん。あの佐伯なんとかって女と連絡をとらなくていいんですか」
「連絡したっていないんだよ。おおかた、ニセの電話番号だったんだろう。費用はちゃんといただいてることだし、今さら連絡をとることもないさ」
「しかしねえ、双子といっても、冷たいもんですねえ。片割れが死んだってのに、もうちょっとはなんとかここにも言ってきたってよさそうなものを」
「バツが悪いんだろうよ。仙台に帰ってるのかもしれないし。帰ってるなら帰ってるで、こっちから連絡することもないだろう。今さら、死んだ娘の素行調査の結果なんか聞きたくもないさ、普通の親ならな。ともかく、こっちも後味の悪い思いをしたんだから、もう会いたくもないね」
「まあ、そんなところですね」
田崎がうなずくと、持田はもう一回、欠伸をし、「しかし、こりゃあ偶然かね」と言った。
「何がです」
「ここ、読んでみろよ。あの市原寿々子って女と一緒にいた男、佐伯って名だぜ」
田崎は渡された『レディス・マガジン』にちらりと視線を走らせ、「ほんとだ」と笑った。
「この間来た女は、双子の姉貴と自分の亭主が怪《あや》しい、と思って来たのかもしれませんね」
「だったら、その通り言っただろうよ。別に我々に隠しておかなくちゃいけないことじゃないし……」
「うーん、でも女ってのは変にプライドが高いですからね。たとえばですよ、あの女がこの佐伯五郎って男と同棲《どうせい》していて、自分の双子の姉貴との関係を怪《あや》しんでうちに調査依頼しに来たとしたら、謎《なぞ》も解けるんじゃないかな。だからこそ、我々からの連絡を拒否して、実家の連絡先も教えたがらなかった……。ね、辻褄《つじつま》が合うでしょう」
「かもな」と、持田はさほど興味もなさそうに言った。
「仙台の実家とやらに一度、連絡してみたらどうです。連絡先は警察が教えてくれるでしょう」
「連絡してどうする。俺《おれ》たちが詮索《せんさく》しなくちゃならないことは何もないんだぜ。俺たちは費用をきちんといただき、言われた通りの尾行をやったんだ。その相手が死んだとなっては、これ以上することは何もないさ」
「まあ、そうですね。なんてったって死んじゃったんだしな。すべてはチョンですよね」
「しかしまあ、どんな理由があったにせよ、俺たちが尾行してたからこそ、寿々子さんという女の身元確認もできたんだ。これも因縁だな。俺たちの尾行がなかったら、彼女、あの晩、ディスコに行ったかどうかも確認されなかったかもしれないぜ。下手すると、この先ずっと、行方不明扱いのままでいたかもしれん」
「まったくねえ。この商売も捨てたもんじゃないですねえ」
ふふ、と持田は笑った。捨てたもんじゃない? 馬鹿《ばか》なことを言うやつがいるもんだ。この商売を始めて十年、捨てたもんじゃないなどと思ったことは一度だってない。わからなければ、わからないままに過ぎていくのが人生なんだ。黙《だま》っていれば必ず、ものごとには結末がくる。それを暴《あば》き、ほじくり、あげくの果ては死人の身元確認だ。葬儀会社で棺桶《かんおけ》でも作ってるほうがましってもんだ。
受付から内線電話が入り、客が来たことを告げた。
「さてと」と、持田は立ち上がった。
「何の依頼です?」
「女房の浮気調査。電話でおっさん、事情を話しながら泣いてるんだ。暗い話らしいぞ」
「ま、爆発事故に遭《あ》うようなとこで浮気しなければいいですよ」
「そういうこと」と、持田は書類ケースを抱えて部屋を出た。そして廊下を歩きながら、市原寿々子に関するデータ書類は早速、処理してしまおう、とちらりと思った。
11
病室はきれいだった。ベッドの脇《わき》に点滴の機械が置いてさえなければ、ちょっとしたホテルの一室のようにも見えた。
寿々子が意識を取り戻してから初めて目にしたのは、淡《あわ》いブルーグレーの天井だけだったが、身体《からだ》の回復と共に室内のいろいろなものが目に触《ふ》れるようになった。
天井と同じブルーグレーの壁。そこにかけられたデュフィの水彩画。ガラスポットの中の赤と青のコスモスを描いたその絵は、壁の色とうまく適合していて、目にやさしかった。
ベッドの左側には窓があり、クリーム色のブラインドがかかっている。窓は曇りガラスがはめられていたので外の様子は見えなかったが、夕方になって日が入るところを見ると、西向きであるらしかった。
ベッドの右側はぶ厚いクリーム色のカーテンで、その向こうは小さな洗面台と医療器具などを置くテーブル。出入り口はテーブルの横にあった。
意識をとり戻した時には気づかなかったが、引き出しつきの立派なサイドボードがベッドの横にあった。その上には大袈裟《おおげさ》なほど大きい白い花瓶《かびん》が二つ置いてあり、ほとんど一日おきに新しい花と変えられた。薔薇《ばら》、カーネーション、アネモネ、かすみ草、蘭《らん》……。花のまわりはメロンやオレンジが入った果物の籠《かご》で埋まっている。口を動かせなくて、食事はすべてチューブを通してしか食べられないというのに、その果物の籠は花と同様、一日おきに増えていった。
ベッドの横のカーテンのところには、あずき色をしたビロードのガウンが、上等なハンガーにかけられて下がっている。見たこともないガウン。胸元に黒っぽい縫い取りで「R」のイニシャルが見える。
寿々子は時折、目を覚ましてはそれらのものを目だけ動かして観察し、考えた。考えるという行為は、彼女にとって苦痛だった。頭は常にぼんやりしていて、細かいことを思いだそうとすると、決まって吐《は》き気がした。薬のせいかもしれなかった。だが、寿々子は考えることをやめようとしなかった。考えるべきことは山ほどあったからだ。
時計がなかったので、時間の推移はわからなかったが、チューブの食事が出てくる時刻をそれぞれ朝七時、昼十二時、夕方五時……と見当をつけた。とすると、医師の回診は午前九時ころと午後三時ころのはずだった。寿々子が眠っていると、医師は様子を見ただけで帰ってしまうが、食事はいやでもチューブを使って鼻から流しこまれた。それに付き添《そ》いの看護婦は喋《しやべ》ることが大好きらしくて、食事のたびに天気の話や病院の庭に植えた芝桜《しばざくら》の芽が吹いたの吹かないのと話し続けたので、だいたいの外界の様子は判断することができた。
例の中年の女と若い男は一日おきにやって来た。来るのはたいてい夜で、それも食事のあとだった。ふたりは寿々子が眠っていない時は、ベッドの側に立ち、穏やかなまなざしを彼女に向けて二言三言、あたりさわりのない言葉をかけた。眠っている時は花瓶《かびん》の花を変え、果物を置き、ハンガーにかかったガウンの皺《ひだ》を確かめてから帰っていった。ふたりが病室にいるのは長くても十五分程度だった。
女も男もあまり喋らなかった。それはベッドの上の怪我人《けがにん》を心配しているからではなく、喋《しやべ》るということを毛嫌《けぎら》いしているせいのように感じられた。
ある時、男が女に向かって「ママ」と言った。また別のある時は、男が寿々子に向かって「玲奈」と呼び捨てにした。女は一貫して「玲奈さん」とさんづけにして彼女を呼んだ。
寿々子にとってはっきりしていたのは、自分が誰《だれ》かと間違われている、ということだった。このことを認めるまでに、彼女は三回、痙攣性《けいれんせい》の発作を起こした。恐ろしかった。人違いされている、と考えるだけでも、衰弱している彼女の身体は拒絶反応を示した。
医者は彼女が発作を起こすたびに、不思議な顔をした。看護婦は怪我のせいできっと気がたっているんでしょう、とつぶやいた。寿々子は発作がおさまると、今度はさめざめと泣いた。涙が目尻《めじり》を伝って顔の傷にしみた。その痛みで、また泣いた。看護婦は露骨にうんざりした表情をしながらも、飽《あ》きずに涙を拭《ふ》き続けた。
涙が涸《か》れると、寿々子は疲労のため睡魔《すいま》に襲《おそ》われた。眠ってしまいたくなかった。眠ってしまうとまた、何も考えられなくなる。そこで彼女は必死になって睡魔を退け、頭を働かせた。わずかの間だけ、記憶《きおく》が鮮明に甦《よみがえ》った。いつも同じシーンが甦るのだ。あの夜の、あの光景……。
女がコートを着たまま、寿々子のほうを見ている。寿々子は大声で叫ぼうとする。
「コートが違ってます。きっと、さっきトイレで落とした番号札が入れ変わっちゃったんです」
しかし声にならない。声を出す前に彼女の記憶はぷっつりと途切《とぎ》れている。
女はきれいな顔をしていた。きれいな顔で寿々子を覗《のぞ》き込み、「大丈夫ですか」と訊《たず》ねた。声もきれいだった。何もかも完璧《かんぺき》なほど美しい女だった。
女はトイレの床にセカンドバッグを落とした。赤い小さなセカンドバッグ。寿々子も手にしていた番号札を落とした。
女のコートはバーバリだった。寿々子と同じバーバリ。ポケットに何か固いものが入っていて、それで、間違いに気づき……。
そこまで考えると寿々子はいつも胸に重しを乗せられているような気分になり、暗闇《くらやみ》の中で目を見開く。私は市原寿々子。玲奈ではない。あの時の女が玲奈なんだ。私は玲奈のコートを着ていたけれど、玲奈ではない。寿々子なんだ。
いつまでたっても口を動かすことを禁じられていた寿々子は、ふたりにはおろか、誰《だれ》にも話しかけることができなかった。何故《なぜ》、口を動かしてはいけないのか、わからなかった。傷口が固まっていないからかもしれなかった。しかし、彼女にとって、間違いを正すことは、口の傷口を固めることよりも重要なことだった。
ある夜、恐怖のために夜中に目を覚ました寿々子は、決心して唇《くちびる》に神経を集中してみた。口の中には相変わらず唾液《だえき》がなく、長い間、口を動かさなかったので唇が貼《は》りついてしまったような感じがした。
「あ」という音を出したかった。「あ」の音が一番出しやすいような気がしたからだ。寿々子は痛みが襲《おそ》ってくるのを覚悟し、目を軽く閉じてからおそるおそる口を開けた。その途端、何かとてつもない吸引力をもつ物体に唇を引っ張られているような痛みが走り、彼女は呻《うめ》いた。
かまわずに唇を開け続けた。「寿々子」と言おうとした。焼けつくような痛みの間隙《かんげき》をぬって、喉《のど》の奥からひゅるひゅるという音が洩《も》れた。
もう一度、試みた。「す・ず・こ」……だが、耳には何も……ひゅうひゅうという喉の音しか聞こえてこなかった。
そう言えば……と彼女は思った。意識を取り戻してからずっと、喉の奥の痰《たん》をとろうと咳払《せきばら》いのような真似《まね》をした時も、「声」は出てこなかった。何故《なぜ》だろう。どうしたのだろう。
身体《からだ》中から冷たいものが流れ出したような気がした。声を失ったのか。もしそうだったら、私はどうやって、自分が玲奈ではないことをあの人たちに伝えたらいいのだ。全身をベッドにくくりつけられ、ミイラみたいに横たわっているしかない私に、声を発する以外、誤解を解く方法はない。
顔もばらばら、髪の毛だって焼けこげているのだ。このミイラが玲奈ではないという証拠《しようこ》はどこにもない。誰《だれ》だって疑わないだろう。きっと、あの時間違って着たコートには、玲奈を証拠づけるものがいっぱい含《ふく》まれていたのだ。
本物の玲奈はどこにいるのか。市原寿々子として病院に入っているのか。それとも、死んだ……?
寿々子は五郎を思った。あの時、『クィーン・メリー』でいったい何がおこったのか。火事? 爆発? 誰も教えてくれない。
どうして医者は「奇跡的だ」と何度も繰り返すのだろう。助かったのは私だけなのだろうか。だとしたら、五郎は……。
寿々子の目から涙が吹きこぼれ、次から次へと枕《まくら》に流れ落ちた。パパやママはどうしているだろうか。上京してきただろうか。
無理をして開けた唇《くちびる》がずきずきと痛み、涙のせいで顔中の傷口と、こめかみが一斉《いつせい》に火を吹くように痛み出した。
翌朝の検診で、医者は驚いたような顔をして寿々子を見た。
「どうしたっていうんです、これは。ゆうべ、口を動かしましたね」
寿々子はぼんやりとした目で医者を見た。医者は「悪いお嬢《じよう》さんだ」と言い、手早く口もとの傷を調べた。隣で看護婦が口をはさんだ。
「また泣いてらしたんですよ。ほら、目がこんなに腫《は》れて」
「泣くことは何もないんですよ」と、医者は幾分、説教じみた口調で言った。
「何度も言ったでしょう。あなたは手術で必ずもとの倍以上の美人になります。火傷《やけど》だって移植手術をすれば、まったく目立たなくなるんです。保証します。包帯を取る時を楽しみにしてなさい。きっとあなたは大喜びしますよ」
「それにね」と、看護婦はきびきびと動きながら医者の言葉につけ加えた。
「こんなことを言って失礼かもわからないけど、あなたのおうちは大変なお金持でしょ。お金持ということはあなたのような怪我《けが》を負った患者さんにとっては大変、重要なことなの。わかりますか。あなたを美人にして、もう一度、前と同じように海辺でビキニの水着が着られるようにするためには、費用がとてもかかります。あなたはその点でもとても恵まれてるんですよ。それに……」
「ま、ともかく」と、医者は看護婦をさえぎった。治療費に関する発言を患者の前でむやみとするのは、品が悪いと考えているらしかった。
「手術をして一週間たったら包帯がとれます。腕の骨折のギプスは二、三か月でとれます。そうしたら、退院できますよ。内臓には何も異常はないんです。あなたが美人コンテストで優勝できるくらいになるまでには、一年ほどかかるかもしれないですがね。頑張《がんば》って早く治しましょう。泣いてばかりいちゃだめですよ。わかったら目を二回、閉じてみてください」
寿々子は瞼《まぶた》を閉じ、そのままじっとしていた。涙があふれた。声が出ないことをどうやって伝えたらいいのだろう。
「ほら、また泣いて。困ったお嬢《じよう》さんだ。手術して二、三週間たったら、いくらでもお喋《しやべ》りすることを許してあげますからね。それまで、じっと我慢《がまん》するしかないんです。長い人生のうちたった二、三週間、黙《だま》っていたって別に悲劇的なことではありませんよ。生まれてから死ぬまで、一度も喋れない人もいるんですからね」
手術してから二週間。その後でないと声が出ないことをわかってもらえないのか。二週間! 自分が自分ではないまま、二週間も! 寿々子はうつろな目をして医者と看護婦を交互に見た。
その夜、彼女は原因不明の発作を起こし、医者の手を煩《わずら》わせた。
12
市原歯科医院は今や正次の手をすっかり離れてしまっていた。正次の義兄で、やはり歯科医である男が急場の助け人として福島から飛んで来てくれたのは、せめてもの救いであった。そうでなければ、正次は当分の間、医院を休業させるか、患者の口の中に大きな穴を開けてしまうか、どちらかだったろう。
静江はあれだけ太っていた身体《からだ》がひと回り細くなった。毎日、泣き暮らしたため、瞼《まぶた》がピンポン玉のように腫《は》れあがり、悲しみのあまり、微熱が下がる気配がなかった。
葬式が盛大に行われたことだけが、夫婦にとっての慰めであった。葬儀には、玉井歯科の一族はもちろんのこと、正次が個人的に親しくしていた市長や市議会議員たち、それに北東大学の医学部長なども姿を見せた。ひと目で週刊誌の記者とわかる男たちが数人、うろついていたのは気にいらなかったが、正次本人にはなんら声をかけてこなかった。
焼香には参列客の長い列ができた。誰《だれ》もが沈痛なおももちで、話し声ひとつ聞こえなかった。他人事とは思えない、と言って遺族の前で泣き伏す近所の主婦もいた。
祭壇《さいだん》の上の寿々子の遺影は、アパートにあったアルバムから持って来て引き伸ばしたものだった。どこかの湖に行った時、撮ったものらしく、水色の湖を背景に無邪気《むじやき》に笑っている顔が痛ましかった。
玉井一男は焼香の時、長い時間をかけてその写真を見つめていたが、やがて大きく鼻をすすり、皆に聞こえる声で「寿々子さん、いったいどうして……」と、つぶやいた。それを見て、静江は我慢《がまん》しきれなくなり、正次の肩にすがりついて泣きじゃくった。寿々子の婚約者、寿々子の夫、市原家の後継《あとつ》ぎになってくれそうだった男は、ポケットからハンカチを出し、目をおさえた。
葬儀を終え、荼毘《だび》にふし、遺骨を市原家の墓におさめてしまうと、最後の気力を使い果たしてしまったかのように、静江は寝床から離れることができなくなった。過度のストレスが原因の激しい衰弱、ということで、医者は当分の休養を命じた。
正次は静江とともに松島の近くにある別荘へ行った。その別荘は寿々子が上京した後で建てたもので、寿々子との思い出はあまりなく、静養にはもってこいの場所であった。しかし、夫妻にはまだやらなければならないことが山ほど残っていた。寿々子のアパートの遺品の整理、家主への挨拶《あいさつ》、寿々子の勤め先に残された遺品の処理、葬儀に駆けつけてくれた上司や同僚への挨拶……。
静江の様子を見ていると、とてもそうしたむごい「事後処理」ができそうな状態ではなかった。寿々子のアパートに行っただけで泣き崩れ、引きつけの発作を起こしてしまうかもしれなかった。
正次はひとりで東京に行き、心を鬼にして処理をしてしまおう、と決心した。いつまでもぐずぐずと夫婦そろって嘆き悲しんでいたところで、寿々子が生き返るわけではない。それに、ちょうど『クィーン・メリー』のオーナーと死亡補償金を交渉するための会があった。
死亡補償金! 今さら補償金などを受け取ったところで娘が帰るというのか。娘を殺して金ですむと思っているのか……正次はそう叫びたい心境であったが、会に出向かないわけにいかなかった。
きれいごとだけでは生きていけない、というのが正次の信念であった。ロマンス、愛、やせ我慢《がまん》の美しさ……そんなものは実際のところ、何の役にもたたない。役にたつとしたら自分のけちなプライドを満たそうとする場合だけだ。プライドだけで生きていけるのだったら、誰《だれ》も苦労はしないじゃないか。
寿々子は大切なひとり娘で、寿々子が結婚する相手が歯科医である以上、正次も静江も安泰《あんたい》な老後をおくることができたはずだった。娘の結婚をそういうふうにして考えていくことは、親のためでもあり、また娘自身の幸せにも通じる。そう決めて以来、ずっと娘の結婚相手を歯科医に限定して探し続けてきた。やっといい相手が見つかったと思った矢先、娘は死んでしまった。命は金には代えられない。決してそんなことができるわけがない。しかし、と正次は昔から持ち続けた信念を繰り返す。
きれいごとだけでは生きられない、と。
ひとたび「何故《なぜ》?」と疑問をもちだすと、人は前には進めなくなってしまうものだ。何故、歯科医をしているのか、どうして娘の結婚相手が歯科医でなくてはならないのか、何故、老後の心配をするのか……疑問を持ち出したらきりがない。その答えを探ろうとすると決まって不健康な頭の使い方をしなくてはならなくなる。それは疲れることだし、結局のところ、収拾のつかなくなる事態に自分を追い込んでいくことになる。
だから、彼は「何故?」と自問しないことにしていた。そう、なにごともきれいごとを考えようとしないで、黙《だま》って自分が満足できる道を突き進んでいけばいいのだ。補償金はできるだけ高額にして受け取るべきだし、だからといって受け取ったことを恥《は》じる必要もない。愛する娘が死んだことと、その補償金を受け取ることとは、まったく別の話なのだから。
静江の妹が静江の面倒《めんどう》を一切みる、と申し出てくれた。正次はひとりで東京へ出ることにした。出がけに静江が補償金交渉の会には行くんでしょう、と控《ひか》え目に聞いた。正次は、行く、と答えた。
「行かなければならないからな」
そうね、と静江はあいづちを打った。
「行かなければなりませんものね」
ふたりは寿々子のアパートの整理について、手短かに話をし、静江は「情けない」と言って泣いた。
上京した正次は、アパートの整理に丸半日をかけた。衣類はまとめてダンボール箱に詰め、家具とともに仙台に送るよう手配した。小物類は思い切って捨てた。歯ブラシ、ヘアーブラシ、化粧品、スリッパ、カレンダー……。アルバムと書棚の中の文庫本、数冊のノート(なにやら散文が書き込んであった)だけは、捨てずにダンボールの中に詰め込んだ。大家のところに挨拶《あいさつ》に行き、いくらか包んで荷物の発送とあとの掃除を頼んだ。十年前に夫を亡くしたというその初老の女は、自分とは対照的によく太った猫を抱いたまま、正次にお茶をふるまった。寿々子については「本当にいいお嬢《じよう》さんだったのに」と、言って涙ぐんだ。
その日の夜は疲れきってホテルで休み、翌日は寿々子の勤めていたスポーツクラブヘ行った。多くの社員たちが正次におくやみを言いに来た。水木容子に案内されてロッカールームに行き、ロッカーの中を片づけた。真新しい紙袋に、青いセーターとクリーム色のスカートが入っていた。
正次がそれを引っ張り出すと、容子が言った。
「それ、寿々子さんがあの日、着ていた洋服です」
「着ていた? どうしてそれがここに……」
「ああ」と容子は溜息《ためいき》をついた。
「御存知なかったんですね。寿々子さん、あの日、ここで着替えて行ったんです。別の服に。だから、着てきた服は置いていったんでしょう」
「そうでしたか」と、正次は言った。どんな服に着替えて行ったのか、聞こうと思ったが、ちょっと考えてからやめた。娘が死んだ時に何を着ていたのか、質問することほど、腹のたつことはなかったからだ。普通に死んでいたら、こんな質問は愚問というべきだろう。確認した時の寿々子の遺体がほとんど黒焦《くろこ》げで、着ているものはおろか、大きな炭みたいにしか見えなかったことを思い出し、正次は大きく息を吐いた。
歯科医として、娘の歯の健康に気を配っていたことが仇《あだ》となったことを彼は痛感していた。成人してから、一度も虫歯の治療を必要としなかったため、寿々子は歯根や治療状況からの遺体確認が不可能だったのである。確認の最後の決め手となったのは、血液型と身長、それに着ていたバーバリのコートの一部、その中に入って焼け残ったロッカーの鍵《かぎ》だった。
正次は額に手を当てた。
「大丈夫ですか」
容子が心配そうにのぞきこんだ。正次は顔を上げ、「大丈夫です」と答えた。容子は黙《だま》ってロッカーの中の生理用品やティッシュペーパー、ハンドクリームなどをてきぱきとビニール袋に入れ、紙袋の中に押し込んだ。あとには、埃《ほこり》がひとつもない清潔なロッカーだけが残った。
「ありがとう。あなたにやって頂いて、娘も喜んでいるでしょう。時々、娘はあなたの話をしてました。ありがとう。本当にありがとう」
正次がそう言うと、容子は目にうっすらと涙をためてうなずいた。正次はためらったが、ふと彼女に訊《たず》ねてみる気になった。
「あのう、あなたは寿々子が佐藤という名の男と知り合いだった、ということはご存じですか? 佐藤宏という男ですが」
「佐藤宏? さあ……」と容子は涙を拭《ふ》いて首を傾《かし》げた。「寿々子さん、あまり私生活のことは話さなかったから……あの、何か……」
いやいや、と正次は顔の前で手を振った。「なんでもないです。いやなに、寿々子があのディスコに入ったのをその佐藤という男が目撃して、警察に届けてくれましてね。それで警察から連絡が入ったわけなんですが、その男の連絡先が不明なものですから」
双子の妹がいる、とその男が言ったことに関しては、容子に喋《しやべ》る気はなかった。寿々子は東京で何やら嘘《うそ》の上塗《うわぬ》りをしながら生活していたらしい。そんな話は他人に聞かせたくなかったし、親として信じたくなかった。
容子は「ごめんなさい。お役にたてなくて」と言い、静かに目を伏せた。
遺品を持っていったんホテルに戻《もど》ったが、補償金の交渉のための会は、午後六時からであった。まだ時間があった。正次は思い立って、遺体確認の際、協力してくれた捜査本部に電話を入れた。
電話に出た男に、佐伯五郎という男の容体を訊《たず》ねた。
「さあ」と、彼は言った。「私はくわしいことは何も……」
電話受付だけをやっていて、捜査のことは何も知らされていない、といった口ぶりだった。
「そうですか。ともかく無事なのですね」
「そう思います」
正次は五郎の入院している病院を聞いた。男はかさかさと紙の音をたてた後、重傷者のリストをあたって、病院名を教えてくれた。彼が泊まっているホテルからはそう遠くない距離だった。礼を言うと受話器を置き、正次はすぐ病院に向かった。
佐伯という男は寿々子と深い関係だったのかもしれない、と思うと娘が死んだ後ですらいまいましい感じもした。だが、その男は寿々子の最後を知っている唯一《ゆいいつ》の人間なのだ。会ってみたい、と思う気持ちが強かった。
その病院は渋谷区と港区の境にある、鉄筋八階建ての現代的なビルだった。病院の近くにあったフルーツショップで三日後が食べ頃《ごろ》という高級メロンを買い、名刺を持っているかどうか確かめると、正次は病院の門をくぐった。
受付で教えられた通り、エレベーターに乗り七階で降りる。七一五号室のドアは少し開いていて、中にふたつのベッドが見えた。ふたり部屋らしかった。人影はない。
「佐伯五郎」と書かれたネームプレートがドアの横に見える。そのままドアをノックする勇気がなくて、正次は通りかかった看護婦に「佐伯さんの病室はこちらで?」と聞いた。看護婦は十七、八の高校生のような幼い顔に不釣《ふつ》り合いの大人びた喋《しやべ》り方で、「そうですけど、お見舞いでしたら、今はちょっと……」と、言った。
「ちょっと、お母さまの姿が見えないですしね」
「面会謝絶でしたか」
「いえ、そんなことはないんですけども、どなたがお会いになっても佐伯さんの場合はちょっと……」
正次には看護婦の言う意味がわからなかった。彼女は丸い小さな目を見開いてドアの内側を覗《のぞ》き込んだ。
「今、起きてらっしゃいますけどね。あの、失礼ですが、お身内の方で?」
「いえ、身内じゃなく、ただの……」
「じゃあ、お母さまがいらしてからのほうが……」
看護婦はそう言いかけて、「あ、いらしたわ」と大きな声を上げた。正次が振り向くと、やせた小柄の五十歳代の女が濡《ぬ》らしたタオルで手を拭《ふ》きながらこちらに歩いて来るのが見えた。
看護婦は正次の来訪をその女に告げた。女は警戒するような目付きで正次を見上げたが、すぐに目を伏せ、お辞儀《じぎ》をした。
「突然で恐縮です。私、お宅の息子《むすこ》さんと一緒にいた市原寿々子の父親です」
まあ、と女は言い、口を軽くおさえた。深く切れ込んだ二重瞼《ふたえまぶた》が、昔、美しかったころの面影《おもかげ》を残している。やつれたのか表情に張りがなかったが、人のよさそうな感じに好感をもてた。
「警察からここだと伺《うかが》ったもんですから、お見舞いかたがた来てみました。ちょうど娘の遺品を整理する用もありまして、上京したわけでして……」
「……このたびは、なんと申し上げてよいやら……」
女はふかぶかと頭を下げた。正次もそれにならった。看護婦が女を促《うなが》し、廊下のベンチに坐《すわ》るようすすめた。女と正次はベンチに腰を下ろした。
何も話すことはなかった。寿々子が死んで初めて五郎のことを知ったのだ。劇団所属の役者であることしか五郎に関しては知識がない。まさか、おたくの息子さんとうちの娘は、どの程度の関係だったのか、と聞くわけにもいかない。
正次は持って来たメロンを渡し、「こういう者です」と言って名刺を見せた。女は「まあ、歯医者さんで……」と、その名刺を珍しそうに眺めた。しかし、それきり何も言わなかった。
正次はちらりと病室のほうを見ると、「息子さんの容体はどうなんでしょう」とたずねた。女は「それが相変わらずで……」と、声を詰まらせた。
「面会禁止なんでしょうな」
「いいえ、そんなことはないんですが、今は、その……」
「大変なお怪我をなさったそうで」
「はい、火傷《やけど》は大したことはなかったんですが、足の複雑骨折と頭の打撲で……足のほうは先日、手術をいたしましたんですが、脊髄《せきずい》のほうもちょっと……」
「大変でしたね」
「いえ、そちらさまのほうが、さぞかしお力落としでしょうに」
正次は、再び病室を見た。包帯だらけの足を吊《つ》るした男がひとり、ベットに横になっている。顔はよく見えなかった。
「会わせていただけますか」と、彼は女に向かって低い声で言った。
「ほんのひと目、ほんのひと目でいいんです。娘が最後に一緒にいた人の顔を見たい。それだけの理由で図々しくやって来たのです」
女は目を細め、眉《まゆ》を少ししかめた。艶《つや》のない髪の毛が額《ひたい》の上で震えた。
「会ってやってくださいまし。どうぞ」
そう言って目を伏せ、女は立ち上がった。
「確認しておきますが」と、正次は聞いた。「寿々子が死んだということは、まだ……」
「知りません」と、女は幾分、きつい調子で答えた。
正次は女のあとについて病室の中に入って行った。正次はあとに続いた。何か強烈な薬の匂《にお》いが鼻をついた。
ベッドの上の男は、気配に気づいて目を開けた。顔のところどころにガーゼが貼《は》ってある。母親によく似た端整な顔だった。
「そのままでいいんですよ」と、正次は小声で言った。
「すぐに帰りますから」
五郎はうつろなまなざしを向け、怪訝《けげん》な表情をした。唇《くちびる》がゆっくり動いた。
「誰?」
正次は答えるべきかどうか迷ったが、嘘《うそ》をつく必要もないと思った。
「市原寿々子の父親です」
五郎の表情には何の変化も生まれなかった。
「すみませんけど」と、五郎はかすれた声で言った。
「僕はそのなんとかという名前の女の人は知らないんです。何度も何度も誰かに言われたけれど、僕はほんとに知らない。思い出せない」
正次が驚いて母親を振り向くと、母親は顔をくしゃくしゃにして泣き出した。
「この子……」と、彼女は言った。
「私のことも思い出してくれないんです」
13
矢内原家の屋敷は大田区久が原の高級住宅地にあった。屋敷というほどの大袈裟《おおげさ》な建物でもなかったが、それでも周囲の住宅の中では群を抜いて大きく、目立った。
黒ずんだ二階建ての木造の建物は、うっそうと茂る椎《しい》の木や樅《もみ》の木、それに冬になると一斉《いつせい》に葉を落とす欅《けやき》の木で囲まれており、通りからは中の様子を窺《うかが》うことができなかった。ヒノキで作られた太い門柱と、常にぴったりと閉じられたままのぶ厚い引き戸の両脇《りようわき》からは、背の低い石塀《いしべい》が伸びている。石は雨風にさらされて茶色に変色し、ところどころ苔《こけ》むして、ぼうぼうと伸びる雑草が石と石の間から顔を出していた。
滝子《たきこ》が初めてこの矢内原の屋敷に来たのは十年前。二十九歳の時だった。その前の年に矢内原の妻が死に、矢内原の妾《めかけ》であった滝子は晴れて正妻に迎えられたのである。
木々の枝がはびこり過ぎたため、ほとんど日が当たらなくなった暗い居間で、滝子は初めて玲奈を紹介された。玲奈は矢内原と先妻との間にできたひとり娘で、当時十一歳だった。
「あなたのことはママと呼ぶわ」開口一番、玲奈は言った。軽い嘲笑《ちようしよう》めいたほころびがさっと玲奈の口もとに走った。
きれいな子供だった。頬《ほお》は薔薇色《ばらいろ》で、顔は非のうちどころなく整い、スパニエル犬のように黒く濡《ぬ》れた目をしていた。
襟《えり》ぐりの大きく開いた白いTシャツの胸に、ふくらみかけた柔《やわ》らかそうな乳首が盛り上がり、視線の流し方や唇《くちびる》の開き方には、十一歳とは思えない色気があった。
花柄《はながら》模様のショートパンツからは、小麦色の長い足が伸びていた。玲奈はその足をくるっと後ろに向け、ふさふさとカールした髪の毛をうるさそうに手で振り払うと、なにごともなかったかのように居間を出て行こうとした。
矢内原は慌《あわ》てて玲奈を呼び止めた。
「なんだ、もう行っちゃうのか。まだ雅彦《まさひこ》君のことを紹介してないのに」
玲奈は一瞬《いつしゆん》、ドアの前で振り返り、「知ってるわ、もう」と、言った。
「私の弟なんでしょ」
こだわりのなさそうな言い方には、オウムが言葉を反復する時のような乾いた響きがあった。
雅彦は、滝子と矢内原との間にできた子供で、当時十歳。玲奈よりひとつ年下だった。滝子のそばで雅彦は、敵意のこもった目で玲奈を見ていた。蛇《へび》を睨《にら》み返す時のマングースのような目だった。
このふたりの異母兄弟の関係は、ふたりが成人してからもずっと変わったことがなかった。つまり、言葉を反復している時のオウムのような玲奈と、敵意を失うことのなかった雅彦と……の関係である。
矢内原が目も醒《さ》めるほどの美男子というわけではなかったことを思うと、玲奈の美しさは死んだ母親ゆずりのものであるらしかった。このことが滝子の玲奈に対する嫉妬《しつと》をかきたてた。滝子は玲奈とうちとけることなく過ごし、雅彦はそんな母に心から同情して玲奈を無視した。
滝子が矢内原と知り合ったのは十七歳の時である。戦後が完全に終わり、都会が活気づいて、華《はな》やいだ雰囲気《ふんいき》を紡《つむ》ぎ出しているころだった。矢内原建設の若手二代目社長であった矢内原は、当時三十九歳。滝子は高校を中退して、銀座のクラブでピアノを弾いていた。
店の真中にあるステージで優雅《ゆうが》なクラシックのメドレーをピアノで生演奏する、というのが店の売りものだった。彼女は借物の白いサテンの安っぽいロングドレスに赤い靴、といういでたちでグランドピアノを弾き続けた。モーツアルト、シューベルト……簡単な曲が多かった。二十分弾いて三十分の休憩。誰《だれ》も聞いていない時もあったし、妙に静かに聞き惚《ほ》れられる時もあった。けっこう神経を使うきつい仕事だった。矢内原は三十分の休憩の時に彼女に話しかけてきた。
「いくつ?」と、彼は聞いた。「二十二」と彼女は嘘《うそ》を言った。
「芸大の学生なんです」
彼は信じたらしかった。
「すごいな。とてもよかったよ。どう? 何かおごらせてくれないかな」
酒などというものは口にしたことのなかった滝子だったが、子供だと思われたくなかったので矢内原に勧められるままにカクテルを飲んだ。
その後のことは記憶《きおく》にない。激しい酔いから目をさますと彼女はクラブの控《ひか》え室に寝かされており、彼女専用の化粧台《けしようだい》の上には「矢内原」の名刺と共に、真っ赤な薔薇《ばら》の花束が置かれてあった。
「彼、あなたのこと気に入ったみたいじゃない」と、あとになってホステスのひとりが耳うちした。「誰《だれ》だか知ってた? 矢内原建設の社長よ」
ピンクのマニキュアを塗《ぬ》った長い爪《つめ》が、滝子の腕に食い込んだ。「逃がさないことね」と、女は羨望《せんぼう》からくる意地の悪い目をして滝子に囁《ささや》いた。
「一度、寝てあげれば、一、二年は食いっぱぐれないですむわよ」
両親と死に別れさえしなければ、滝子の生涯《しようがい》は変わっていたはずだった。父親は戦時中から音楽関係の文化活動をしており、滝子にもピアノを習わせようと必死だった。運よく父親が知り合ったオーケストラのピアノ奏者が滝子の教師役をかって出てくれて、彼女は戦後まもなくからぽつぽつとピアノを習い始めた。
才能があったのだろう。滝子はめきめきと腕を上げた。芸術大学に行くのも夢ではなさそうだった。
だが、そんな夢多きころ、両親が呆気《あつけ》なく死んでしまった。新潟の親類の家に遊びに行っていた時におこった大きな雪崩《なだれ》に巻き込まれたのである。ショックのため滝子は高校を休みがちになり、音楽の道が閉ざされたと知ると自暴自棄《じぼうじき》になってぷいと高校をやめた。クラブでクラシック演奏のアルバイトを募集している話を人伝に聞き、年齢を偽《いつわ》ってもぐりこんだ。大人びた顔だちの滝子が、実は十七歳であったとは誰《だれ》も気づかなかった。
滝子が酔《よ》っぱらった夜以来、矢内原はしょっ中、クラブにやって来て彼女を店の外に連れ出した。初めは近くの鮨屋《すしや》で鮨を御馳走《ごちそう》になる程度だったが、次第に行く店の雰囲気《ふんいき》が変わっていった。
見たこともなかったような料亭の個室で、鹿《しし》おどしのはねる音を遠くに聞きながら、滝子は矢内原の唇《くちびる》を受けた。煙草《たばこ》の匂いがした。生まれて初めてのくちづけだった。
音楽方面にすすむことが滝子の悲願だったことを知ると、矢内原は防音装置つきのマンションを借り、ピアノを備えてくれた。滝子は引っ越した。クラブはやめ、日がな一日、ぼんやりとピアノを弾いて過ごした。
三日に一度の割合で彼はマンションにやって来た。来るたびに滝子は彼のために下手な料理を作り、夜は彼のいくぶん締《し》まりのなくなった腕に抱かれて眠った。
翌年、彼女は妊娠《にんしん》し、矢内原によく似た男子を出産した。矢内原は即座にその子を認知した。滝子は矢内原の妾《めかけ》として生きることをごく自然に受け入れた。拒否する理由は何もなかった。
雅彦と名付けた男の子は、おおむね、順調にすくすくと育った。ただ、ひどくおとなしい無口な子供だった。何故《なぜ》、父親が毎晩帰ってこないのか、というありふれた質問もしなかった。父親の矢内原が来ると、にこにこして迎えたが、だからといって物をねだったり甘えたりすることはなかった。あまりにおとなしいので矢内原は時々、雅彦は自分にわがままを言ってくれたことがない、とぼやいた。
小学校にあがるころになると、彼は他の子供たちに比べて早くも大人じみた雰囲気《ふんいき》を漂わせるようになった。無邪気《むじやき》に校庭を駆け回る子供たちを教室からじっと眺《なが》める彼の目には、或《あ》る種の近寄りがたいものがあった。クラスメートたちは本能的に彼を敵にまわした。時にはいじめられ、額に大きなこぶを作って帰ってくることもあった。しかし、本人がそれを気にしている様子はまったくなかった。
いわゆる少年らしい遊びにはあまり興味を示さず、友達も作ろうとしなかった彼の唯一《ゆいいつ》の友達は、母親の滝子だった。日曜日など、彼は日がな一日、ピアノを弾く滝子の横に寝そべり、窓からぼんやり空を見ていた。
滝子が雅彦を連れて屋敷に来てから二年後、矢内原が急死した。五十三歳、クモ膜下《まくか》出血だった。暗く日当たりの悪い居間で通夜が行われた。玲奈は泣かなかった。通夜の客が帰ってから、滝子が矢内原の遺体のそばに床をとり、仰向けになっていると、雅彦がやって来た。
「ママ」と、彼は言った。
「ふたりきりだね」
滝子は雅彦を布団の中で抱き締《し》めた。かすかに男の匂いがした。
玲奈も雅彦も大学に進み、玲奈は卒業と共にロンドンへ留学した。屋敷には滝子と雅彦、それに家政婦が残された。雅彦は大学へはほとんど行かず、結局、三年で中退した。ほの暗く陰気な自分の部屋で、小説を読んだり、水彩絵具を使ってわけのわからない抽象画を描いたり、時には滝子に伴って外出し、あてどなく街を歩きまわったりするのが彼の生活となった。
その生活がいかに若者にふさわしくないか、充分知っていながら、滝子は文句を言わなかった。母子ふたり、ずっとこうして生きていければいい、と思っていた。雅彦だけが滝子の支えだった。
そのうち生活が目立って苦しくなった。矢内原は相当の財産を残してくれたが、子供たちの教育費や玲奈の留学費用がかさんだし、屋敷の維持費もばかにならなかった。仕方なく滝子は箱根の別荘を手離し、門扉に「ピアノ教師いたします」という看板を掲《かか》げた。屋敷の内部に興味をもつ母親たちが、こぞって子供連れでやって来た。静かな生活が妨害されるようで苛立《いらだ》たしかったが、仕方のないことだった。滝子は仏頂面《ぶつちようづら》のままピアノを教え、時には腹をたてて子供の手の甲を思いきりたたいた。
ある時、滝子に手をたたかれ、引っ掻《か》かれた子供が、みみず腫《ば》れになった手を母親に見せた。母親は日頃《ひごろ》から矢内原一家の陰鬱《いんうつ》な雰囲気《ふんいき》に不審感を抱いていたので、ただちに子供を通わせることを辞め、滝子に関して意地の悪い噂《うわさ》を流し始めた。
あの人は何かのノイローゼにかかっている。とても正常とは思えない……。
噂《うわさ》が噂を呼んで、ピアノを習いに来る生徒は激減した。滝子は夜、眠れなくなった。三日三晩、一睡もできない時もあった。薬を使うとかろうじて眠れたが、体質に合わないのか、薬を飲んだ翌日は決まって頭痛と吐《は》き気がした。
しかし、噂をはね返すためにも残り少なくなった生徒に機嫌《きげん》よく応対していかねばならなかった。彼女は血の気の失せた唇《くちびる》に赤い口紅を塗《ぬ》り、精一杯、愛想よくピアノの横に立った。
身体《からだ》は信じられないくらいにつらかった。それを我慢《がまん》するものだから、余計につらく感じられ、涙があふれた。子供のように声をあげて泣きたくなるのをこらえ、口をおさえながらそっとピアノ室から出て行く。生徒は黙《だま》って練習曲を弾いているが、一曲弾き終えてしまうとすることがなくなって手を休める。屋敷の中は森閑としており、もの音ひとつ聞こえない。庭の木の枝が時折、風に揺《ゆ》れてさわさわと鳴る。その葉ずれの音に混じって、どこか遠くから幽霊のすすり泣きのように微《かす》かに聞こえてくる泣き声。長くか細く続いてはふっと途切《とぎ》れるすすり泣きを聞きたくなくて、子供たちはやたらと力をこめて再び鍵盤《けんばん》をたたき始めるのだった。
玲奈はロンドンで実業家の城山という男に求婚され、勝手に式を挙げて帰国した。城山は滝子たちの住む屋敷を滝子たちと同様に毛嫌《けぎら》いし、一歩も近づかなかった。それは滝子たちにとってもありがたいことだった。玲奈が誰《だれ》とどうなろうが、自分たちは巻き込まれたくないと思っていたからだ。
それから三年、日当たりの悪いじめじめとした屋敷の中で、滝子と雅彦はいたわり合いながら細々と暮らしてきた。あのガス爆発事故がおこるまでは……。
14
「感情をまじえずにお話しいたしますが」と、城山恭平の顧問弁護士、野々村は表情のない声で言った。「私は自筆証書方式による城山恭平《きようへい》氏の遺言書を預かっています。氏の死亡確認と同時に家庭裁判所に行き、検認も受けてきました。ここに発表させていただきます」
野々村は居間のライティングデスクの前に坐《すわ》り、何やら書類袋をかきまわしていたが、やがて一通の封筒を取り出してそれを高く掲《かか》げた。居合わせたのは矢内原滝子、雅彦、城山の姉夫婦……の四人である。城山に姉がいたなどということは、彼が死んで初めて滝子が知ったことだった。なんでも、杉並で高級輸入家具店を経営しているとかで、夫のほうはともかく妻のほうはいかにも小ざかしげで、くるくるとよく動く視線を滝子や雅彦に遠慮会釈《えんりよえしやく》なく投げかけた。兄にしつこく言われていたのか、夫婦とも滝子母子には愛想笑いひとつしない。
野々村は封筒をていねいにペーパーナイフで開け、三つ折りになっている白い紙を取り出した。
「読み上げます」
彼の声がとどろいた。城山の姉はガーゼのハンカチを小さくたたみ、花模様のフレアースカートの上で握りなおした。雅彦は吸っていた煙草《たばこ》を静かにもみ消すと、滝子とともに野々村を見た。
「遺言。その一。私、城山恭平がもし死亡した場合、次にあげる動産、不動産はこれすべて妻、城山玲奈に相続させるものとする。その二。私、城山恭平と妻、玲奈が事故および災害等々でふたりとも同時に死亡した場合、私、城山恭平の財産はこれすべて各種施設に遺贈することとする。施設の内訳並びに財産の内訳は次の通りである……」
野々村は長い間かかって財産の内訳と施設の内訳を読み続けた。だが、それを聞いている者はひとりもいなかった。城山の姉夫妻は呆然《ぼうぜん》としたおももちで互いに顔を見合わせ、小声で「バカにしてる」と囁《ささや》き合った。姉のほうは大袈裟《おおげさ》に鼻をならし、皮肉めいた目付きで滝子を見た。滝子はできるだけその女と視線を合わさないようにしていた。さもないと唇《くちびる》のほころびがばれてしまいそうな気がしたからである。
「以上です」
野々村はそう言って、一同を眺《なが》めまわした。
「わざわざ来ることもありませんでしたわね」
城山の姉は誰に言うともなく言って、ひとりでくすりと笑った。
「ずいぶん簡単な遺言ですこと。兄らしいですわ。ひとりで財をなした分だけ、遺言も自分勝手になるんでしょうけど、それにしてもねえ。あら、いいえ、私どもはハゲタカみたいに遺産を狙《ねら》おうとして来たわけじゃありませんのよ。おかげさまでうちは、まあまあの繁盛《はんじよう》ぶりですから。ねえ、あなた」
夫は微笑してうなずいたが、目は笑っていなかった。
「まあ、ともかく、これではっきりといたしましたわね。こんなことでしたら、お電話で知らせていただいても充分でしたのに」
女は太い手首にはめた黒革ベルトのカルティエの時計をちらりと見ると、夫を促した。
「失礼いたしましょう、あなた」
「そうだな」
滝子が立ち上がろうとすると、女は手でそれを制した。
「そのままでいらしていいんですのよ。でもまあ、それにしても、玲奈さんだけでも生き残ってくれて本当にようございましたわねえ。で、その後、お加減のほうはいかがです?」
滝子はにっと笑い、興奮している時に必ずそうなるように、かん高い声で答えた。
「一応安定しましたの。でも皮膚移植の手術やらなにやらで、退院はずっと後になりそうですわ」
「そうですか。で、退院されたらどうなさるんですの? 城山の家は使用人も休暇をとっていなくなってるし、退院されたとしてもしばらくの間は静養が必要でしょうからねえ」
「ここに連れてきますわ。玲奈は私の娘ですから」
滝子が毅然《きぜん》としてそう言うと、女は目を丸くしたが、すぐに「そうでしょうとも」とやり返した。「城山の遺産と生命保険をたっぷりと背負ったお嬢《じよう》さんですものねえ」
雅彦が持っていたコーヒーカップを大きな音をたててテーブルに置いた。滝子がそっと彼をたしなめた。その様子をちらりと見ると、女は居間の出口に向かって歩き出した。夫が後に続いた。
「そのうち玲奈さんのお見舞いにまいりますわ」と、女はドアノブに手をかけたまま言った。「なにしろ、兄が玲奈さんと結婚してから、私どもは一度しか会わせてもらってないんで、あちらも覚えているかどうか……」
滝子はソファーに坐《すわ》ったまま、微笑した。
「ここは北向きなのかしらね、あなた」
夫は「さあ」と言った。
「ずいぶん、暗いお部屋ですこと」
ふたりは出て行った。家政婦の順子が玄関で客を見送る気配があった。引き戸が開けられ、そして閉められた。玄関前の玉砂利を踏む音が遠くでかすかにした。
「玲奈さんにも近々、お目にかからなければなりませんな」
野々村が滝子をちらりと見て言った。遺言を読み上げた時とまったく変わらない言い方だった。
「いつごろでしたら、会えるでしょう」
「さあ」と、滝子は興奮のためこめかみに軽くかいた汗を細い指でひと拭《ぬぐ》いすると、首を傾《かし》げた。
「顔や口のあたりに特にひどい怪我《けが》をしているので、まだ喋《しやべ》れないようですの。寝返りもうてないので、本人は苦しいらしいですわ。二時間おきに床ずれを防ぐために誰《だれ》かが動かしてやらなきゃいけませんの。でも、お会いになるだけでしたら、お医者様のお許しが出ると思いますけど」
「そうですか。じゃあ、月が変わったころにでも」
「でしたら五月の初めころがよろしいわ。そのころは自由に話ができるそうですから」
「わかりました。その時はご一緒にいらして下さい」
「もちろん、そういたします」
「ところで玲奈さんは城山さんの死亡を御存知で……?」
「いいえ。まだ伝えていません。お医者様に止められてますから」
「しかし、いつかは言わなくてはなりませんな」
「ええ、いつかは」
野々村は形ばかり眉《まゆ》を寄せながら言った。「さぞかし、悲しむことでしょう」
滝子はうなずいた。野々村は沈痛な面持ちで「それでは私はこれで」と言うと、鞄《かばん》を抱えて部屋を出て行った。
玄関の引き戸が閉められる音がすると、雅彦は人見知りしていた猫のように伸びをし、気持ちよさそうにソファーに寝そべった。遠くの梢《こずえ》で激しく鳥が啼《な》いた。
「ねえ、ママ」
滝子は愛情あふれるまなざしを彼に投げた。
「なあに」
「よかったじゃない、これで」
「そうよ、よかったのよ。とってもね」
「助かったね、僕たち」
「そりゃあ、もう」と、彼女は客が残したマドレーヌをふたつ取るとひとつを雅彦に渡し、もうひとつを口に運んだ。
「助かったわ。もうお金がなかったんだもの。ほんとになかったのよ」
「これでママもピアノの生徒をとらなくてもすむね」
「ええ。玲奈さんがここに来たら、表の看板、取りはずすわ。もう誰《だれ》も文句を言わないでしょ」
「言うはずないさ」
「順子さんを雇ったことだしね。あの子だったら、きちんと看病してくれそうだわ。ううん、ママが看病くらいやってもいいわよ。そのくらいお安い御用だものね」
「聞いた? あの財産の内訳」
雅彦は歌うように言った。滝子は微笑《ほほえ》んだ。
「聞いたわ。すごい財産。城山さんって金持だったのね。それに生命保険だっておりてくるんだから」
「そしてママは玲奈の母親だからね。この世に残された唯一《ゆいいつ》の肉親がママと僕なんだ。玲奈の怪我《けが》が治ってしまうまでは、玲奈のためと言えばいくらだってお金が使える」
「玲奈さんが元気になってからもよ、雅彦。ママ、もうお金で苦労したくないもの」
「どうやってやる?」
「どうって何が?」
ふふ、と雅彦はふくみ笑いをした。
「玲奈の怪我《けが》が完全に治ったあと、どうやって……」
「うまくやれるわ。だからこそ、今からこうやってあの子にお花を届けたり、果物を届けたりしてるんじゃないの。あの子だって人の子よ。城山さんと死に別れたと知ったら、私たちがこうやって看病していることに感謝するに決まってるわ。それに第一、あの子が全快して前みたいに優雅《ゆうが》でおりこうな生活を始めるのには、一年やそこらじゃ無理よ。なにしろ、あの子、脊髄《せきずい》をやられてるのよ」
「脊髄を?」
「そうなの。おととい、こっそりお医者が教えてくれたの。どうやら、麻痺《まひ》が残りそうだって」
「麻痺? 歩けないってわけ?」
「さあ、ママは詳《くわ》しくは知らないわ。ともかく身体《からだ》を自由に動かすことができないらしいの。本人はまだ知らないんですって」
「じゃあ、リハビリとかなんとか、手間がかかるね」
「いいわよ、それくらい」と、滝子はゆっくりとした口調で言った。
「玲奈さんと一緒にお金がこの家《うち》に入ってくるのよ。それに麻痺が続いたら、玲奈さん、きっとずっとここにいることになるわ。誰《だれ》だってそれが一番いいって言うに決まってるでしょ」
「ともかくうまくやんなくちゃな」
雅彦は上体を起こし、胸に落ちたマドレーヌのかけらをはらった。
「ずっと口がきけなきゃいいんだ。玲奈のやつ、口をききだしたらうるさそうだから」
「できるだけやさしくしてやるのよ、雅彦。玲奈さんがあの事故で城山さんと一緒に死んでたことを考えたら、ぞっとするでしょ。あの遺言じゃ、遺産はそっくりそのまま、施設行きだったんですもの。生きててくれただけでも、神様のおかげよ。ママ、どんなお世話だってしちゃうわ」
滝子はねっとりとした笑いを口もとに浮かべ、息子を見た。
「今夜からはお薬がなくても眠れそうよ、まあちゃん」
雅彦は母親の差し出す手をそっと握《にぎ》りしめると、庭に目をやった。
15
重苦しい日々が続いた。絶対安静のため、ほとんど身動きができず、板のように固くなった背中は、日毎に自分のものとは思えなくなった。検査づけ、薬づけで食欲など湧《わ》くはずがなく、食べるということがどういうことなのか、食欲というものが何なのか、忘れてしまったような気さえした。
寿々子は途方に暮れ、泣き、そして痛みと苦しみに打ちのめされては、みじめになって再び、声にならない絶叫を上げた。
「治癒《ちゆ》が考えていたよりも遅いですね」と、医者は決まり文句のように言う。
「お若いからもう少し早いかと思っていたんですが」
「もっと召し上がらなくてはね」と、看護婦も少しとがめるような口調で言う。
「こんなチューブのお食事じゃ、お気にめさないかもしれないけど、とても栄養がつくんですよ。手術がすんだら、流動食に切り換えてあげますからね、もうちょっとの辛抱。頑張《がんば》ってたくさん食べるんですよ」
「お嬢《じよう》さんは考えていたよりも少し神経質なんだ」と、医者は笑う。
「神経質で心配症。どうです。当たってるでしょう。何も心配はいらない、って何度も私は言いましたよ。今のあなたの治癒能力を遅らせているのは、あなたの怪我《けが》や火傷《やけど》ではなく、あなた自身の神経なんです。わかりますね」
「そうですよ」と、看護婦は言って顔を寿々子に近づける。昼食にそばをたべるのが習慣らしく、いつも息の中にかすかにネギの匂いがする。
「お話ができないつらさはわかりますけどもね、あとちょっとで話せますからね。そうしたら、この私みたいに一日中、ろくでもないことを喋《しやべ》っていられるようになりますよ」
「いろいろ聞きたいことはあるだろうけど」と、医者はふと目をそらす。
「今はとにかく何も心配しないで自分の身体《からだ》を治すことだけを考えることです。本当に何も心配することはないのですからね。あと、いろいろお喋りしたいことは大事にとっておいて、手術の後、お母様相手にゆっくり話したらいい。お母様もその日がくることを心待ちにしてらっしゃるんですから」
寿々子が不安に満ちた、得体の知れない恐怖と戦っているような震《ふる》えた視線を投げると、看護婦が眉《まゆ》を八の字に寄せ、再びネギの匂いのする息を吐《は》きかける。
「御主人のことが心配なのね」
寿々子はじっと看護婦を見る。私には夫なんていない。私はレナなんかじゃないのだ。私が知りたいのは五郎のこと。両親のこと。レナ? 見てよ。私はあの女みたいに美人じゃないでしょ。かわいい、とは言われたことがあっても、きれいだ、と言われたことなんか一度もない私が、どうしてレナとかいう人と間違われなくちゃいけないの。いくら包帯を巻かれてたって、私は寿々子よ。レナじゃない!
寿々子の目に憎悪《ぞうお》と苛立《いらだ》ちの表情が宿るのを見ると、看護婦はさらに慈悲深い声で「あなたの心配はわかるわ。さぞかし心配でしょう」とつけ加える。
「でもね、本当に心配いらないんですよ。ねえ、先生」
「そう、なあんにも心配はいらない。あなたの御主人は別の病院におられる。あなたと同じくらい重傷を負ってますけどね。大丈夫。御主人も一生懸命に怪我《けが》と戦っています。だからあなたも、ね」
……こうした会話はいったい何度、寿々子のベッドの横で交わされたであろう。一方的に、ほとんど毎回、同じような内容のことを医者と看護婦は繰り返し、子供をあやすようにひと通りの話をしてから帰っていく。あとは日に三度の味のしないチューブの食事、薬を何種類も一度に飲むこと、注射、そして浅い眠り、悪夢、再び医者と看護婦から聞かされる話、それだけで日々が過ぎ去っていった。
中年の女と若い男が二日に一回、やって来る習慣は変わらなかった。来るたびに少しずつふたりの口数は多くなった。ことに女の表情には明るさ、華《はな》やかさが加わり、顔にも赤みがさしてきたように思えた。
寿々子は全身の神経を集中させて、ふたりの会話を聞いた。聞いたところで寿々子が人違いされている事実には変わりなかったが、少なくともあの夜、あのディスコで何がおこり、人々がどうなったか、ふたりの会話から判断することができるかもしれなかった。
ある夜、いつものように七時ころ病室を訪れた女は、黄水仙の花束を抱えながら歌うような調子で言った。
「もう外は春ですよ。お花屋さんにもお花がいっぱい」
女はコートを着たまま、水仙の花を花瓶《かびん》に活け、寿々子を見てうっすらと微笑《ほほえ》んだ。男のほうはぼんやりと女のすることを眺《なが》めていたが、やがて寿々子に目を移し、低い声で「やあ」と言った。寿々子は目をそらした。男のこのぶっきらぼうな挨拶《あいさつ》の仕方はいつものことだった。
女はしばらくの間、コートのポケットに手を突っ込んで意味もなさそうに病室の壁をぐるりと見渡していた。壁にかかった額縁が少し曲がっていたのを見つけると、それを整え、次に洗面台の鏡の前に立って、着ていたコートの襟《えり》を直した。鏡自体は寿々子からは見えなかったが、女が右を向いたり左を向いたりしてゆっくり試すように自分の上半身を見ているのはわかった。
女の肩のあたりで髪の毛が揺《ゆ》れた。少し油っぽい髪のように見えた。
「それにしても」と、女は後ろを向いたまま、誰《だれ》に言うともなく言った。
「玲奈さんがコートを着ていてくれてよかった。イニシャルがコートについてたし、それにポケットには、玲奈さんの名前入りのコンパクトが入っていたし。あなたは爆風で吹き飛ばされて、ちょうど柱の陰に倒れていたのよ。コートが一部、燃え残っててすぐにわかったの」
女はゆっくりと向き直り、寿々子を見た。
「お医者の許可が出てお話ができるようになったら、いろいろなことを教えてね。玲奈さんはあの爆発の瞬間《しゆんかん》、きっと帰るところだったんでしょ。私はそう思うわ。クロークのあたりでコートを着た瞬間の出来事だったんでしょうね」
「コートを着てなかったら、城山玲奈だということはわからなかったな。それにいつも玲奈は金張りの豪勢なコンパクトで顔を覗《のぞ》いてた、って城山の家の使用人が証言してくれたのさ。そのコンパクトがしっかり焼け残ったんだ。幸運と言うべきだよ。そうだよね、ママ。なにしろ鼻と顎《あご》と額と……まあ、そのへんの部分が目茶苦茶で、とてもあの美人で名高い城山夫人だとは……」
「雅彦ったら」と、女が言った。
「そんなお話は今の玲奈さんの前ではしてはいけないわ」
雅彦と呼ばれた男は「ごめんよ。ママ」と言って無造作に髪の毛をかき上げた。信じられないほどの素直さであった。
「もう少ししたら手術ですってね」と、女がベッドの近くに来て話題を変えるように言った。
「その後、一週間で抜糸で、五月上旬には動かせるようになるんですってね。その時からあなたとお喋《しやべ》りもできるわ。ママ、楽しみにしてますよ」
ああ、それから、と女はわざとらしく思い出したようにつけ加えた。
「城山さんの弁護士の野々村さん。ママ、この間、あの方とお会いしたわ。初めて会ったのよ。なんだか難しそうな顔をした人ね。ううん、別に気にすることもないのよ。ただ、あなたの……いえ、あなたたち夫婦の補償問題については、ママ、ちっともわからないもんだから、お任せしようと思ってお呼びしただけだから。ほんとに助かるわ。弁護士さんがいてくれて……」
寿々子は目を閉じた。
「眠くなったのね」と女が言った。
そうではなかった。女もそして若い男も、来るたびにベッドの両側に立ってほとんど目をそらさずに寿々子を見下ろし続ける。そしてあまり意味のなさそうなことを喋《しやべ》る。そうされるたびに自分が柩《ひつぎ》に収まった死体か何かになったような気分がして、不安にかられ、彼女は思わず目を閉じてしまうのだった。
「看護婦さんが言ってたわ。玲奈さん、もっと食事をちゃんと取らなくてはね」
女が軽く寿々子の額に触《ふ》れた。最初に触れた時と同じようなためらいがちな触《さわ》り方だった。そして寿々子の耳元で囁《ささや》いた。
「何かほしいものはない? ママが持ってきてあげますよ」
本能的に寿々子は目を開けた。女の顔がすぐ近くにあった。女はくすんだ赤の口紅を塗《ぬ》った口を横に開いて微笑《ほほえ》んだ。見れば見るほど、不健康そうで陰気な顔だった。整った美しい顔だちは化粧《けしよう》ばえがする派手な作りだったが、内面からにじみ出てくる得体の知れない陰気さが、その美しさと派手さを消してしまっているように見えた。
ほしいものですって? と寿々子は心の中で冷笑した。自分が自分であることを証明してくれるもの以外、今、ほしいものなんてあるわけがない。
しかし、当然のことながら、そう女に伝えるすべもなかった。寿々子は再びゆっくり目を閉じた。
「眠いんでしょ。じゃあ、ママ、行くわ」
ぽんぽんとベッドの端を叩《たた》くと、女は男を促し、連れだって部屋を出て行った。病室には黄水仙の香りがかすかに残った。
寿々子は目を閉じたまま考えた。爆発、コートのポケットのコンパクト、城山さんの弁護士……。その三つの単語が頭の中を飛び交った。わかってきたものもあったし、依然として意味不明のものもあった。城山というのが玲奈の夫で、あの時、一緒にいた紳士だというのはもうわかっている。ずいぶん、年の離れた夫。子供はいそうになかった。あの男は玲奈と再婚したのかもしれない。
玲奈。いまいましい名前。何度、聞かされたことか。玲奈。れな。レナ。レ・ナ。唇《くちびる》の横にほくろがあったっけ。そう、コンマみたいに見えたほくろ。薔薇色《ばらいろ》をした頬《ほお》が笑うとほくろが隠れる。きれいな玲奈。
あの時、コートのポケットに手を入れて何か固いものに触《ふ》れたのは、あれはコンパクトだったんだ。玲奈が自分の美しい顔を飽《あ》きずに眺《なが》めるためのコンパクト。
爆発。あのおぞましい瞬間《しゆんかん》は、爆発だった。ガス? それとも爆弾? どっちでもいい。今さら、原因なんか考えたって何かが変わるわけでもない。いっそのこと、あの時、死んでいればよかったのだ。もう生きていたくなんかない。私が私でないまま生きていくなんて、信じられない……。
……しかし、彼女は立派に生きていた。皮膚は再生のための静かな運動を続けていた。これだけ身体《からだ》中がぼろぼろだというのに、心臓は脈打ち、血をみなぎらせて、勝手に機能しようとしていた。彼女の肉体は、痛々しく命の火を燃やし続け、いかなる神経の錯乱《さくらん》もそれを阻止《そし》することはできなかった。
四月六日、手術が行われた。顔の整形手術と皮膚移植のための手術で、移植用の皮膚は寿々子の臀部《でんぶ》の健康な皮膚が使われた。
出血量がことのほか多かったことを除けば、手術はおおむね順調に終わった。寿々子は丸三日間、回復室に入れられ、そこで意識を取り戻《もど》してからしばらくの間、痛みと戦う大騒《おおさわ》ぎを繰り返した後、四日目にはまたもとの病室に移された。
「成功しましたよ」と、四日目の夜になって医者は言った。
「あとは化膿止《かのうど》めのお薬をきちんと飲んで、栄養をつけてさえいれば無事に包帯がとれますからね」
極度の疲労感に目を開けるのも億劫《おつくう》だった彼女も、手術後六日もたつころから、目に見えて元気を回復し出した。ひとつには包帯が取れて、医者と話をすることが許されるようになれば、自分が声を失っていると知らせることができる、という期待があったからだった。
医者は多分、慌《あわ》てて声を失った原因を探してくれるだろう。そして同時に、声を出さなくてもなんとか会話ができるよう、サインを決めたり、何らかの方法を編み出してくれるだろう。そうすれば……と寿々子は期待に胸がふくらんだ。そうすれば、私が玲奈ではないことをこの人たちにも伝えることができる。
手術後、ちょうど八日目、抜糸が行われた。泣かずに我慢《がまん》したが、さらに二、三週間の辛抱《しんぼう》を言い渡されだ。彼女は言われた通り、我慢し、きっちり二十日間、じっと寝ていた。
五月初め、医者が看護婦をふたり引き連れてやって来た。彼は看護婦に命じて寿々子の枕《まくら》をずらし、上半身をおこさせるようにした。看護婦は軽々と寿々子を抱き上げ、やせて軽くなった身体《からだ》を起こした。腰が痛み、彼女は目をつぶった。
「さあて」と医者は言った。「美人の登場かな」
手品師のような器用な手付きで、医者は彼女の顔からガーゼの山をゆっくり切り取りにかかった。
「うーん、いいぞ。痛くないね」
寿々子はうなずいた。痛くはなかった。
ガーゼをすべて取り終え、医者は満足げな表情を見せながら、軟膏《なんこう》を少し、塗《ぬ》ってくれた。医者の生あたたかい指が顔を這《は》いずりまわる感触《かんしよく》があった。だが、自分の皮膚がそこにあるという自覚はなかった。
「さあ、おしまいだ」
「きれいだこと」と、看護婦が口々に言った。三人とも微笑《ほほえ》んでいた。寿々子ひとりが黙《だま》っていた。黙っているしか方法がなかったのだ。
「ごらんになるでしょう。はい、待望の鏡ですよ」
看護婦が、トラベルセットについてくるような四角い手鏡を寿々子の目の前に掲《かか》げた。初め、彼女はその手鏡を持っている看護婦の親指にある大きな紫色の痣《あざ》を見ていた。鏡の中の自分を正視する勇気はなかった。
「どうしました?」と、看護婦は半ばからかうように言った。「感想はいかが?」
心臓がどきどきし、冷汗が背中ににじんだ。寿々子は視線をずらすつもりで少し顔を傾《かたむ》けた。その瞬間《しゆんかん》、鏡に映っているものが目に飛び込んできた。
てらてらと桃色に光る薄《うす》い肌《はだ》。高くも低くもない、形のいい鼻。唇《くちびる》と顎《あご》のあたりはまだ傷跡が生々しかったが、それでも傷の腫《は》れがひいたら、おそらくはぷっくりとした女らしい口もとになるであろうと予想できた。
瞼《まぶた》はかなり腫れてはいるが、まつげは元気よく生えかけているし、眉毛《まゆげ》もうぶ毛程度には確認できた。
きれいな顔だとも醜《みにく》い顔だとも言えなかった。つぎはぎだらけではあったが、少なくとも、顔としては目をそむける必要のない顔だった。
寿々子は放心したように鏡に映る顔を見ていた。以前の自分の面影はまるでなかった。同時にあの夜、ディスコのトイレで鉢合わせした玲奈という女の面影もなかった。要するにそこにあったのは、誰《だれ》もが知らない、誰もが見たこともない、まったく新しい顔だったのである。
「いいでしょう」と、医者が言った。
「抜糸の跡はしばらく残りますが、じきにきれいに消えます。髪もすぐに生えてきますしね。おやおや、どうして黙《だま》ってるんです。もう、お喋《しやべ》りをしてもいいんですよ」
寿々子は黙って医者を見た。医者は子供相手に英語の発音を教えるような口をして「あ、って言ってごらん。あ」と言った。寿々子はかすかに口を開けた。「あ」という口の開け方は容易にできた。もう、痛みもなかった。
「さあ、声を出して。あー、って」
目にいっぱい涙がにじんできた。寿々子は喉《のど》の奥から空気が洩《も》れるような音を発してみせた。誰も何も言わなかった。医者が寄って来た。
「かすれてるのかな。さあ、もう一度、喉をしめらせて言ってごらん。あー」
寿々子の頬《ほお》に涙が伝った。「あ」という形に口を開けたまま、彼女は泣いた。医者は彼女の喉に手を当てながら首をひねった。看護婦たちの四つの目が寿々子に向けられている。
「多分、一時的なものですよ。ショックが強すぎると、時々、こうなる人がいますから」
医者が弁解がましい口調で言った。なんとかして! と寿々子は心の中で叫んだ。しかし、その声は医者には届かなかった。医者は自分の担当患者が、思いもよらなかった後遺症をひとつ背負ってしまっていることに対して、医師としてのプライドを傷つけられたような不機嫌《ふきげん》な顔をした。
「改めて検査してみましょう。声帯には異常はなかったはずだったんだが……」
寿々子は泣き続けた。泣いても泣いても声が出ないのを見て、看護婦のひとりが言った。
「そういえば、これまでよく泣いてらしたけど、声を聞いたことはなかったわねえ」
未練がましい目付きで寿々子は医者を見た。手足のきかないダルマさん。声も出なくてこれからどうしたらいいの?
「明日、早速、精密検査をしましょう。でも心配しないで。声を一時的に失うケースはよくあります。お母様にもそのように伝えておきますよ。言いたいことが言えなくて悲しいでしょう。でも、泣かないで。検査の結果を見たらすぐになんとかするから」
寿々子は首を大きく左右に振った。それだけのことをするのにも、全身が痛んだ。それでも構わなかった。彼女は泣き、首を振り続けた。ヒステリーの発作を起こしていることを伝えようとして必死で暴れた。
そうしながら、自分の姿は今、見るもおぞましいことだろう、と彼女は思った。焼けてしまった髪の毛。包帯とギプスに固められた身体《からだ》。薄皮《うすかわ》一枚を貼《は》りつけたような顔の皮膚。硬直したつぎはぎだらけの顔が歪《ゆが》み、目とは名ばかりのふたつの穴から水があふれる。
二本のソーセージのように腫《は》れた唇が醜《みにく》く震え……。みっともない、醜い、人間とは言えない姿……。
「どうしたっていうんです。さあ、静かにして。熱が出るじゃないですか」
医者と看護婦は暴れる彼女を支え、ベッドに寝かしつけようとした。寿々子は喉《のど》をふりしぼって空気を発し続けた。
人違イヨ。私ハ市原寿々子ヨ。間違ッテイルノヨ。ネエ、ワカッテ。
「静かに。静かにするんです。黙って。無理に声を出したらだめだ」
顔の手術の跡がひきつれて、火がついたように痛んだ。皮膚が張り裂けてしまうのではないかと思われた。だが、寿々子は負けなかった。ふた目と見られない顔になってもいい、と思った。彼女は口を大きく開け、喉から声にならない声をしぼり出した。
ワカッテチョウダイ。アナタタチハ人違イシテイル……。
だが、自分では確かにそう言っているつもりでも、洩《も》れてくる空気は別の発音、別の言葉になって空しく意味不明のまま、歯の間から消えていった。
看護婦が注射器に何か薬液を注入し、それを急いで医者に渡した。医者は撫然《ぶぜん》とした顔をしたまま、寿々子のパジャマをめくり、肩に針を突き刺した。寿々子が暴れていたので針がなかなか皮膚に刺さらず、医者は舌打ちした。
「どうしたって言うんです。さあ、これで少し眠りなさい。気持ちを落ち着けて!」
それから一分とたたないうちに、意識が朦朧《もうろう》としだした。不快な、沈みこむような眠りが寿々子を襲った。彼女は口を開け、目を見開き、最後の空しい抵抗を試みた後、銃殺刑にあった直後の罪人のように、枕《まくら》の上にがっくりと頭を落とした。
その夜、滝子と雅彦はいつもの時間よりも少し早くやって来た。寿々子は注射のため、深い眠りから覚めていなかった。ふたりはベッドの横に立ち、何か相当珍しい生き物でも見るような目でそこに横たわる見知らぬ顔を見下ろした。
滝子が白い長い人差し指を伸ばして、寿々子の頬《ほお》に触れた。
「猫の赤ちゃんみたいな顔ね」
雅彦はうなずき、しばらく黙ってベッドの中の奇怪な顔を眺めていた。
「これがあの玲奈だなんて信じられないよ。あの、美人で、自信たっぷりな玲奈だなんて……」
「かわいそうに。声も出ない、喋《しやべ》れないし動けない、赤ちゃんみたいになっちゃったのよ」
母のすることを真似《まね》て、雅彦も寿々子の頬に指を伸ばした。
「やわらかいな」
「ぐっすり寝てるのね。見て。まつげが少し伸びてるわ」
「ああ、ほんとだ。なんか動物のまつげみたいだ」
「私たちがいてよかったわね。玲奈さん。もしいなかったら、あなた、死んだご亭主の親戚とやらに城山さんの遺産を狙《ねら》われてたわよ」
「僕たちだったら大丈夫。君の財産は取りゃしないよ。ただ、少しだけお手当てをいただければいいんだ」
「そう、お手当て」と、滝子は微笑《ほほえ》んだ。
「ママが昔、玲奈さんのおとうさまからいただいてたお手当てと同じでいいのよ」
親子はふと顔を見合わせ、肩をすくめ合った。
「赤ちゃんダルマさん」と、雅彦は寿々子に呼びかけた。
「君はただ、生きてればいいのさ。動けなくても喋れなくても、生きてさえいればいいんだよ。楽なことだろう?」
16
寿々子を玲奈だと思いこんでいる人たちによって、玲奈の夫、城山が死亡していた事実を寿々子が知らされたのは、それからまもなくのことだった。
病室には滝子と雅彦、それに城山の弁護士、野々村、担当医師、看護婦……の計五人が集まった。暖かい日で、窓を閉めきった病室は少し空気がむっとしていた。
「玲奈さん」と、滝子が幾らか目をうるませて言った。灰色で縁に黒のトリミングがしてあるスーツを着ている。その日の口紅はオレンジ色だった。
「今日はね、あなたにお話したいことがあって、皆さんがここにいるのよ。あなたの喉《のど》の検査結果が、異常なし、ということを知って、少し安心して皆さんに来ていただいたんだけど……」
滝子はちらりと後ろを振り返って、助けを求めるように自分の息子と弁護士の顔を交互に見た。医者がわざとらしい咳払《せきばら》いをひとつした。
「とっても言いにくいことだけど、言わなくちゃいけないことなの」
寿々子はぼんやりと女を見た。女は目を伏せた。
「城山さんのことなんだけど、玲奈さん、ママたち、嘘《うそ》をついてたの」
全員が一時、申し合わせたかのように目を伏せた。滝子はうつむいたまま、消え入るような声で続けた。
「彼、ほんとはあの事故で亡くなって……」
居合わせた者のうち、寿々子だけが表情を変えなかった。看護婦が後ろのほうで鼻をすすった。誰《だれ》もが、誰かが先に何か気のきいたことを言ってくれるだろうと期待して黙《だま》っていた。
寿々子はまったく無表情のまま、視線をはずし、天井とベッドとの中間にあたる宙を眺《なが》めていた。まるでそこに、天井から糸を伝って降りて来た小さな蜘蛛《くも》でも見つけたような様子だった。
神経質で泣き虫でそのうえヒステリー気味だと判断されていた彼女が、涙ひとつ見せなかったことが、逆に医者や看護婦の同情を誘《さそ》った。看護婦が鼻をすすりながら、そっと部屋を出て行った。医者も寿々子の様子に変化がないことを確認すると、看護婦の後に続いた。
「ママ、なんて言っていいか」と、滝子はベッドの横に膝《ひざ》まずいて寿々子の枕《まくら》に手を置いた。
「あなたの身体がこんなになってる時に打ち明ける話じゃなかったかもしれないけど……でも……」
「いつまでも隠しておくより、お知らせしたほうが玲奈さんのためだと思いました。玲奈さんこそがもっとも早く城山さんの死を知ってしかるべき方だったのですが」と、弁護士がしんみりとした口調で、横から口をはさんだ。その、どこと言って特徴のない平凡な顔の男は、以前から城山家に足しげく出入りしていた分だけ、少なくとも滝子母子よりは病人に対して同情的であった。
「お気の毒です。しかし、いつかは本当のことを知る時がくる。私はあなたの気丈さを信じています。克服してください。城山さんもあなたにそうされたほうがお喜びになるでしょう」
それでもベッドの中の患者が顔色ひとつ変えなかったので、野々村は控《ひか》え目につけ加えた。
「それから……まだ申し上げてなかったことですが、御主人には遺言がありました。それによりまして、御遺産は、全額あなたのものとなりました」
寿々子は視線を元に戻《もど》した。野々村と目が合った。彼はしばらくの間、寿々子を哀れむような、それでいて穏やかな表情で見つめていたが、やがて目をそらした。
「退院なさるまで、さらに大変でしょうが、気を落とさないで頑張《がんば》って下さい。後のことは私にお任せを。ご心配にはおよびませんから」
滝子が枕《まくら》に置いた手を自分の額に当て、髪の毛を後ろにはらった。中指にはまっている大きな黒真珠の指輪がどんよりと光った。
「ママたち、とうとう最後まであなたの御主人には嫌《きら》われていたわねえ。こんなことになるとわかってたら、もっとママも積極的に仲よくする努力をしてたのに。お葬式、盛大でしたよ。たくさんの方がみえてね。皆さん、あなたのことを心配してくだすって……」
自分の言っている言葉に酔《よ》ったのか、滝子は声を震《ふる》わせた。雅彦が滝子の肩にそっと手を置いた。野々村弁護士が軽く深呼吸をした。誰《だれ》もそれ以上、何も言わなかった。
三人はベッドの中の哀れな若い未亡人が涙ひとつ見せなかったこと、何ひとつ取り乱さなかったことに深い同情と微《かす》かな安堵《あんど》を覚えながら、病室を出た。廊下で看護婦が三人を待ち構えていた。看護婦は「どんな様子でしたか」と、好奇心を隠せない様子で聞いた。
「知ってたのかしら、あの子」と、滝子はつぶやいた。
「泣かなかったですわ」
「御存知のはずはないですよ。私ども、毎日のように御主人の話をしてたんですから。それを支えにしていたところもありましたしね。多分……」
「多分? 何です」
「いえね、かなり神経が参ってらっしゃるようで、このところ、ほとんど感情的な反応がなくなってしまったんです。脊髄《せきずい》を損傷しているという話をちょっとしたら、すっかりふさぎこんでしまわれて。麻痺《まひ》が残るとしてもリハビリや装具をつけることなんかで、かなり改善できるんですけどねえ。ショックだったんでしょうねえ」
「そう」と、滝子は言った。野々村が聞いた。
「放心状態なんですか」
「ええ、多少、そういった面が見受けられます。先生がおっしゃるには、あくまでも一時的なものだ、ということですけどね」
「玲奈さんはもっと強い方のはずだったんだがな。いろいろ複雑な問題を乗り越えてきた方なのに。これだけのショックに見舞われると、さすがの玲奈さんでも克服は難しくなるのかもしれないですな。そうじゃありませんか、矢内原さん」
滝子は野々村を見上げた。野々村は皮肉っぽく唇《くちびる》を歪《ゆが》めた。城山が生前、弁護士を初めとして回りの人間に矢内原の家のことをどう悪く言いふれまわっていたか、滝子には見当がついていた。
「あの子が強い子だと、どうして野々村さんにおわかりですの?」
「強い女性ですよ」と、彼は繰り返した。「実のおとうさまが亡くなられてからは、自分はみなし子同然だった、といつもおっしゃってました」
「そうですの」と滝子はぼってりとした唇を突き出して言った。どれだけこの城山のお抱え弁護士が、玲奈に残された遺産を守ろうと頑張《がんば》っても、法律上の母は滝子だった。母が娘の看護のために娘の金を使って咎《とが》められるわけはない。
「ほんとにお気の毒に」と、看護婦が少し大袈裟《おおげさ》すぎるほど顔をしかめてつぶやいた。
「誰《だれ》でもこんな目にあったら、神経がおかしくなってしまいますよねえ。せめて御主人だけでも無事でしたら、もっと回復するのも早いんでしょうけど」
近くのナースステーションの電話が鳴った。看護婦は一礼をすると、足早にそちらに駆けて行った。
顔の手術跡は日毎にきれいになり、獣の赤ん坊を思わせる不自然な肌《はだ》の突っ張りもなくなりつつあるというのに、寿々子の身体《からだ》の回復は思わしくなかった。医者は思いつく限りの内臓の疾患《しつかん》を疑って念入りに調べた。だが、脊髄《せきずい》損傷からくる四肢の麻痺《まひ》以外、何ひとつ、これといった異常は認められなかった。
ただ、医者が本当に案じたのは、治癒《ちゆ》が遅いことではなかった。そうした肉体的な欠損なら、時間さえかければ確実に治る。だが、精神の奥深いところで根を張りつつある、巨大な憂鬱《ゆううつ》だけは治しようがなかった。それは眩暈《げんうん》のように彼女の意識を攪乱《かくらん》させ、理性を失わせ、そして同時に身体《からだ》の機能を鈍《にぶ》らせていたのである。
彼女は喋《しやべ》ろうと努力することをやめてしまい、終日、食事の時以外は口を開けようとしなかった。目は日毎に生気を失っていき、焦点《しようてん》が定まらない視線を空しく宙に向けていることが多かった。全身の筋肉の緊張《きんちよう》が極度に緩《ゆる》み、そのせいで骨折の治療の効果もなかなか得られなかった。滝子の呼びかけや看護婦の話などにも、まったく反応しなくなった。
医者が時折、彼女の我儘《わがまま》や過剰《かじよう》な猜疑心《さいぎしん》や治ろうとする努力をしないことを咎《とが》め、叱《しか》りつけると、患者はうんざりした諦《あきら》めきったような目を向けてじっと医者を見た。その目は医者を苛々《いらいら》させた。医者はある時、ついに「あなたみたいな強情な女は見たことがない」と怒鳴《どな》った。それでも寿々子は黙《だま》って身動きひとつせず、医者を見返した。
顔の傷跡が癒《い》え、髪の毛もかろうじて生え始めた彼女の顔はロウでできた人形のようだった。その薄《うす》い皮膚の下に赤い血が流れているとは信じられないくらいに白く、おしろいをつけ過ぎたように乾き、病人というよりは死人のように見えた。
目だけが大きく見開かれ、濡《ぬ》れていた。そしてその目は誰《だれ》かが「玲奈」と口走った時だけ、決まってわずかに反応を示した。だが、怒ったような、いまいましげな光を放つその目に気づいた人は誰もいなかった。
両腕のギプスが取れてから、医師は早速、ベッド上での訓練を始めた。上肢機能にはわずかながら改善が見られ、肩の周囲筋が残っていたため、将来はスプリント(副子)を使用して、大まかな手の機能を甦《よみがえ》らせることが可能であると考えられた。
しかし、電動|車椅子《くるまいす》を使用したとしても、車椅子への自力移動はまったく不可能な状態で、この問題は当分、続きそうだった。
春が過ぎ、初夏の日差しもろくに味わえないまま、梅雨に入った。例年になく早い梅雨入りだった。毎日、灰色の雲がたれこめ、雨足の細い雨が間断なく降り続いた。もうすぐ七月になろうという時、医者は寿々子にリハビリテーション専門施設への転院をすすめた。だが、矢内原滝子は自宅でリハビリを行わせる、と強硬に主張した。その決意のほどが、信頼に足るものであることを充分、確認した上で、病院側は寿々子の退院を認めた。
退院の日、寿々子はサーモンピンク色の袖無《そでな》しワンピースを着せてもらい、看護婦や滝子に助けられて車椅子に移った。二、三センチばかり伸びた短い髪には、滝子のアイデアで白いレースのネッカチーフがターバンふうにかぶせられた。
長い間、寝ていたべッドの上には青いスーツケースが置かれ、入院中に使った身の回りの小物などが詰められた。とうとう一度も腕を通さなかった「R」のイニシャル入りの室内着、専用のコップ、花瓶《かびん》、フルーツ盆《ぼん》、下着、タオル、芳香|石鹸《せつけん》、オーデコロンや豚毛のヘアブラシ……。
全部を詰め終えると、滝子は楽しそうにハンドバッグを開け、ピンク色の口紅を取り出すと車椅子《くるまいす》の前に立って彼女の唇《くちびる》に塗《ぬ》った。
「頬紅《ほおべに》もつけましょうか」
白いというよりは青に近い寿々子の頬は、紅をさせばさすほど、青味が目立った。だが、滝子は気にかけた様子もなく「きれいよ、玲奈さん」と言った。
医者が来て、今後の自宅治療の確認を行なった。リハビリ専門の医師が一週間に一度、矢内原家に往診に行くこと、食事の注意、ベッドで行える限りのリハビリに励むこと、家族が協力するべきこまごまとした注意点……。滝子はいちいち、大真面目《おおまじめ》な顔をしてうなずき、その間中、看護婦は赤ん坊をあやすようにして車椅子に乗った寿々子の肩を撫《な》でていた。
「やんちゃなお嬢《じよう》さん」と、医者は最後に寿々子に声をかけた。
「こんなに痩《や》せてしまったのも、あなたが我儘《わがまま》を言って食べなかったからですよ。これからはおうちで、きちんと御飯を食べ、無理をしてでも身体《からだ》を動かすこと。いいですね」
寿々子はいつもと変わらない目つきで医者を見た。
「相変わらずだな。私は嫌《きら》われていたのかもしれないなあ」
医者は不器用に笑い、つられて看護婦も微笑《ほほえ》んだ。滝子が医者に向かってふかぶかとお辞儀をした。雅彦が車椅子《くるまいす》を押し始めた。何人かの看護婦が、病室の前の廊下に立ってぱちぱちと何やら心もとない拍手を寿々子に送った。寿々子はじっと、自分の膝《ひざ》にかけられた毛布の茶色の幾何学模様を見つめていた。
17
病院の玄関前に、黒塗《くろぬ》りのリムジンのハイヤーが停《と》まっていた。雨が強かった。寿々子は雅彦とハイヤーの中年の運転手に助けられて車椅子のまま、後ろの席に乗った。後ろの席はシートがはずされていて、車椅子はぴったりとはまった。滝子と雅彦は運転手と並んで、前の席に坐《すわ》った。
若い看護婦が透明《とうめい》のビニール傘をさしながら駆け寄って来て、半ば開いた窓から真紅のカーネーションとかすみ草の花束を差し出した。「ありがとう」と、滝子が礼を言った。
看護婦は後ろに乗っている寿々子にぎこちなく笑いかけると、次に前の席の雅彦に視線を移し、何かを言いたげにしばらくもじもじしていた。雅彦はきょとんとした顔で看護婦を見ていたが、やがて低い声で「さよなら」と言った。看護婦は腫《は》れぼったい目尻《めじり》を下げ、もう少しで泣き出しそうに見えた。
車がゆっくり動き出した。滝子だけが愛想よく、玄関前の看護婦たちに手を振った。
車内は静かで、フロントガラスの水滴を拭《ぬぐ》い取る規則正しいワイパーの音がはっきりと聞こえた。時折、滝子が後ろを振り返って、寿々子の様子を窺《うかが》った。「眠りたかったら寝てていいのよ」と、そのたびに彼女は言った。
しばらく走ると、窓の外に見覚えのある広々とした公園が見えた。公園に沿って緑|濃《こ》い街路樹が立ち並び、石畳の舗道《ほどう》がまっすぐに伸びている。赤い傘をさした小学生の女の子が、大きな黒いリムジンを珍しそうな目で見つめた。
寿々子は、そのあたりに関しては詳《くわ》しかった。地下鉄の駅はどこで、商店街はどこか、すべて知っていた。自分のアパートヘ帰るためのタクシー乗場、受話器をかけるとおかしなことに必ず十円玉が戻《もど》ってくる公衆電話、南向きでコーヒーがおいしい静かなカフェテラス、日曜日になるとラケットを抱えた人たちで一杯になるテニスコート……。
四か月の間に季節は変わり、夏になった。五郎は死に、自分は市原寿々子ではなくなってしまった。たった四か月。たった四か月の間にこれだけ何もかもが変わってしまうなんて、想像した人がいるだろうか。
リムジンが角を曲がり、国道に出るための交差点のところで信号待ちをした。五郎と来たことのあるカフェテラスが見えた。店の中は涼しげで、何組かの客が談笑しているのが遠目にも微笑《ほほえ》ましかった。雨にも関わらず、舗道を大きな白い犬を連れて散歩している男がいる。犬が街路樹のひとつの前で立ち止まり、木の根元に尻《しり》をつけた。大きなねじりドーナッツのような糞《ふん》が出た。小学生の一団が通りかかり、犬を指さして大騒《おおさわ》ぎを始めた。若い飼い主は自分のことのように照れくさそうな顔をし、ねじりドーナッツを急いでスコップで取って待っていたゴミ袋に入れた。小学生たちは何かを大声で喋《しやべ》り合いながら、犬にむかって小さな手を振った。
なんということのない風景。寿々子は涙ぐんだ。泣くのは久し振りのことだった。彼女は前の席の男女に気づかれないように、鼻をすすった。
病院で原因不明の失声症と診断されて以来、自分でも不思議になるくらい、感情的な反応を失ってしまった。それは明らかに絶望からくる一種の神経系統の麻痺《まひ》だった。彼女は鏡の中の自分の顔が、まったく見覚えのない、ショウウインドウの中の平凡なマネキン人形みたいになっていくのを見るたびに、気が狂いそうになったのだった。
よく狂わずにいられた……そう寿々子は改めて思った。目も鼻も口も顔の輪郭も、声も名前も、およそ人が或《あ》る特定の人物であると判断されるために必要なものすべてを失ったのだ。そしていつのまにか、矢内原玲奈、いや、城山玲奈にされてしまっている。今さら、玲奈は死んだのではないかと、どこの誰《だれ》が疑ってくれるだろう。そんな根拠《こんきよ》のない疑問をもつこと自体、不謹慎《ふきんしん》な冗談《じようだん》だと非難されるに決まっている。
顔の包帯がとれ、鏡を見せてもらった日以来、寿々子は、この偶然《ぐうぜん》がもたらした罠《わな》が想像していたよりもずっと脱出の難しい罠であったことに気づいて、絶望した。顔。彼女の顔のほんの一部でもいい。あの腫《は》れぼったかったまぶたか、下がり気味の眉毛《まゆげ》か、あまり形のよくなかった大きめの唇《くちびる》か、さもなくば小鼻のわきにあった茶色いほくろ……。寿々子らしい特徴、非の打ちどころなく美しかった玲奈とは似ても似つかない寿々子だけの特徴のどれかひとつでもよかった。何かが残されていたら、いつか誰《だれ》かがそれに気づいてささやかな疑いを抱いてくれる可能性があった。
だが、皮肉にも顔の損傷は完璧《かんぺき》で、同時に修復のための手術も完全だった。折れた鼻には形のいいシリコンが埋めこまれ、皮膚と共に焼けた眉毛には植毛手術が施され、ほくろはおろか、寿々子だけが自分で知っていた小皺《こじわ》や小さなそばかすに至るまで、まるで魔法にかかったみたいにきれいに消えてなくなっていた。
寿々子の面影は、どこをどう探してもなかった。身体《からだ》の特徴も探してはみた。身体のどこかには、探そうと思えば寿々子の特徴を見出せたに違いない。しかし、考えてみると、たとえ自分が玲奈ではないという証拠《しようこ》に、何かの身体的欠点……たとえば玲奈より足が短いとか、玲奈よりウエストがたるんでいるとか…を数え上げたところで、それを証明してくれるものは何もなかった。見知らぬ赤の他人同士であった人間の間に、数センチの身体的差があったなどということをいったいどうやって証明できるだろうか。
いや、仮に証明できたとして、いったい、両腕両足が不自由で、おまけに喋《しやべ》れなくなった人間はそのためにどんな方法をとったらよかったのだろう。まばたきを繰り返すだけの伝達方法で、これだけのことを伝えるのはどう考えても無理だった。口は完全に麻痺《まひ》し、ものを食べるためにある程度開くことはできても、言葉を形づくることはできなかったのだ。
彼女は絶望し、抵抗するエネルギーを失った。彼女は誰《だれ》の目から見ても、事故で夫を失い、自分も全身に大怪我《おおけが》をしてショックから鬱《うつ》状態に陥《おちい》った哀れな若い未亡人でしかなかった。彼女は運命の仕組んだ罠《わな》に取り敢《あ》えず屈伏した。そうすることが最善の結果をもたらすからではなく、ただ、そうしか出来なかったからである。
リムジンは雨の降りしきる国道を疾走《しつそう》し、いくつかの交差点、いくつかの繁華街《はんかがい》を通り抜けて閑静な住宅地に入って行った。だいたいどのあたりなのか、見当はついたが、詳《くわ》しくはわからなかった。一度も寿々子が来たことのない場所であることだけは確かだった。古くからある住宅地らしく、大きな家が多かった。どの家も立派な堂々とした垣根や塀《へい》に囲まれていて、きれいに舗装《ほそう》された通りに面している家もあれば、未舗装の小径《こみち》の奥に何やら秘密めいて佇《たたず》んでいる家もあった。
人通りは少なかった。どの家もぴったりと門を閉ざし、石のように押し黙《だま》っている。
リムジンは古びた石塀の前に来ると速度を落とし、ゆっくりと吸い込まれるように静かに停車した。後部シートの窓ガラスの向こうに、雨や埃《ほこり》で薄黒《うすぐろ》くなった表札がかかっている門柱が見えた。
矢内原。
運転手が二回、クラクションを鳴らした。滝子は寿々子を振り返って、いつものねっとりとした微笑《ほほえ》みを浮かべた。
「お疲れさま。やっと着いたわ。懐かしいでしょ、玲奈さん」
雅彦が先に車を降り、滝子のものと思われる紫陽花《あじさい》の花の絵がついた紫色《むらさきいろ》の傘をさした。黒ずんだ引き戸が勢いよく開けられ、若い女が飛び出して来た。ポニーテールに髪を結い、灰色の膝下《ひざした》まであるスカートに真っ白のフリルのついたエプロンをつけている。女はおどおどした様子で車の中の寿々子に形ばかりの会釈《えしやく》をし、次に雅彦と共に傘に入っている滝子に向かってお辞儀をした。
「手伝ってね、順子さん。雨に濡《ぬ》れないように、ちゃんと傘をさしててあげてちょうだい」
「はい、奥様」
運転手と雅彦が後ろのドアから車椅子《くるまいす》を降ろしにかかった。順子と呼ばれた女は、自分が雨に濡れるのもかまわず、一生懸命になってクリーム色の大きな傘を寿々子の身体《からだ》の上にさしかけた。滝子が寿々子の全身を毛布でくるんだ。
門を入るとうっそうとした木々が目についた。玄関のまわりは、昼間だというのに、薄墨色《うすずみいろ》に染まって見える。濡れそぼった玉砂利からは、かび臭さにも似た湿っぽい匂いがたちのぼっていた。
玄関の中に車椅子を運び終えると、運転手はてっぺんにビニールがあてがわれた制帽を脱ぎ、滝子たちに向かって一礼した。
「ご苦労さま」と、滝子が言ってハンドバッグの中を片手でかき回し、白い小さな封筒を運転手に渡した。
「ほんの御礼よ。受け取って」
「こりゃあ、どうも」
運転手が何か礼の言葉を言おうとしているのは誰《だれ》の目にもあきらかだったが、滝子は見て見ぬふりをし、さっさと玄関の戸を閉めてしまった。
「順子さん、玲奈さんの病室は用意ができているわね」
「はい、奥様。できております」
「そう。じゃ、雅彦、とりあえず、病室のほうへ運んでちょうだいな。車に乗って疲れたみたいだわ。少し、休ませないと」
滝子は車椅子《くるまいす》のほうへ身体《からだ》を傾《かたむ》け、寿々子の顔を覗《のぞ》きこんだ。
「どうしたの? 玲奈さん。落ち着かない様子ね。ここはあなたが生まれたおうちですよ」
雅彦が車椅子を押し始めた。長い暗い廊下だった。清潔そうではあるが、どこもかしこも湿っぽく、玄関前の玉砂利と同じようにかび臭かった。右側にドアがいくつか並んでいる。左側は浴室、洗面所、そしてその奥がキッチンになっているらしかった。
車椅子は廊下の突き当たりまで来て止まった。雅彦が片手でドアを開けた。
十畳ほどの洋間だった。真中にセミダブルサイズのベッドがひとつ、左側に作りつけのクローゼット、焦《こ》げ茶色で艶《つや》を失った小振りのライティングデスク、窓は正面と右側にひとつずつあり、そこからは庭の木立がよく見えるようになっている。木目の床はワックスで磨《みが》きをかけられているようで、車椅子《くるまいす》が入るとガラガラと派手な音が響いた。
「もと、あなたがいた二階のお部屋は、車椅子の移動が大変だからってやめにしたの。ここのほうが眺《なが》めもいいし、それに日当たりもいいわ」
滝子はそう言うと、雅彦に目配せして寿々子をベッドに運ばせた。少し乱暴に抱き上げられたので、痛みを覚え、寿々子は顔をしかめた。
「ごめんよ」
抑揚のまるでない言い方だった。彼は彼女を仰向けに寝かせ、毛布をかけた。毛布だけは乾いた太陽の匂いがした。
「あのう」と、戸口のところで若い女がエプロンをもみしだきながら、おずおずと言った。
「お嬢様《じようさま》は私のことをまだ……」
「ああ、そうだったわね」と、滝子はレースのハンカチで顔をあおぎながら寿々子に近づいた。
「玲奈さん、紹介しとくわ。こちら、順子さん。うちのお手伝いさん兼あなたの看護婦さんよ」
順子はベッドのそばまで来て顔を赤らめながら、ぺこりとお辞儀をした。太ってはいないが、骨の太いがっしりした体格の娘だった。人のよさそうな小さなアーモンド型の目、太い眉《まゆ》、きれいなピンク色をした大きな口。あさ黒い肌《はだ》はなめらかで、健康そうに光っている。
「よろしくお願いします。順子です。一生懸命、やらせていただきます」
感じのいい娘だった。滝子が説明した。
「まだうちに来て三か月くらいだけど、看護学校を出てるし、お料理もうまいし、いいお手伝いさんですよ」
順子は一層、顔を赤くしてうつむいた。額にぽやぽやとした金色のうぶ毛が光って見える。まだ、若い。自分よりもずっと若いのかもしれない、と寿々子は思った。住み込みの手伝いをすることにまだ慣れておらず、張り切りすぎている感じもしなくもないが、少なくとも人を安心させる暖かい雰囲気《ふんいき》を持っている女であった。
「早速だけど、順子さん。玲奈さんの服をパジャマと着替えさせてやってちょうだい。それから、お薬よ。お薬のことはわかってるわね」
「はい、わかっております」
滝子たちが部屋から出て行くと、順子はこれから生まれて初めて赤ん坊を取り上げる産婆のような真面目《まじめ》くさった顔をして、寿々子の服を脱がせた。身体《からだ》のあちこちに残る傷やだらりと垂れた手足を見ると、彼女は一瞬《いつしゆん》、目を伏せ「お気の毒に、お嬢様《じようさま》」とつぶやいた。
そのつぶやきは、不思議な威力をもって、寿々子のそれまでのかたくなさを刺激した。何かが奔流《ほんりゆう》のようにこみ上げてくる……そう思った途端、寿々子は自分が初対面の娘に身体《からだ》を預けながら、声の出ない嗚咽《おえつ》を上げているのを知った。
18
矢内原の家での療養生活は、寿々子が恐れていたほど不快なものではなかった。
どんなに晴れた日でも、暗くじめじめとした匂いが屋敷のあちこちに漂っている気がしたが、少なくとも病室にあてがわれている部屋は風通しがよく、時折木々の梢《こずえ》から洩《も》れてくる筋状の光をベッドの中から眺《なが》めることもできた。
庭はちょっとした森のようだった。クスノキや杉の大木、樫《かし》、クヌギ、椎《しい》などの枝ぶりのいい木々が生い茂り、不思議なことにどの木々も屋敷全体を包みこむような形で枝を伸ばしていた。屋敷が薄暗《うすぐら》い感じがするのも、そのせいだった。ちょうど家全体が巨木の伸ばす枝のドームにすっぽり収まった形になり、どの場所からも木々の梢を通してでなければ空を仰ぐことができないほどであった。
長く続いた雨のせいで、窓から入ってくる風には土の匂いがした。晴れた日には草いきれがし、活動を始めたあぶら蝉《ぜみ》の鳴き声が枝のそちこちから響き渡った。野鳥が時折、姿を見せ、シダの生えた庭や小さな池の睡蓮《すいれん》の葉の上を飛び回ることもあった。庭に色鮮やかな花を見ることはできなかったが、その代わりにクチナシやツユクサ、あじさいなどの湿地を好む植物の咲かせる花が見えた。それらの花は、奇妙に屋敷の佇《たたず》まいと調和して、幻想的な感じを寿々子に与えた。
屋敷の一日は、たいてい午前七時ころの、寿々子の洗顔から始まった。順子がベッドの上にほんの少しだけ寿々子を起こし、大きなたらいとぬるま湯の入ったやかんを持ってくる。豚毛の歯ブラシで軽く歯を磨《みが》き、口をゆすぎ、湯を絞《しぼ》ったタオルで顔と身体《からだ》の汗を拭《ふ》いてもらうのに二十分はかかる。それから、病人用の食事を済ませ、六種類の薬を飲む。そうこうしているうちに、滝子たちが起き出して来る。順子は病人とわがままな女主人を抱えながらも、実にこまめによく働いた。
矢内原の屋敷には、居間を除くと全部で八室あった。一階にはキッチンとダイニングルームと浴室、メイドルーム、広々とした居間、和室、寿々子が病室として使っている洋間。二階には滝子の部屋、雅彦の部屋、それに以前、玲奈が使っていた部屋とその他にベッドルームがひとつ。そのひとつひとつを寿々子が見て知ったわけではない。だが、毎朝、順子が一階の和室から順番に掃除機をかける音で、部屋の数やだいたいの広さは推測できた。
順子は毎日、決まって午前中いっぱいかかって屋敷内を丁寧《ていねい》に掃除し、その後、寿々子の手足をマッサージしてくれる。よくコツを心得たマッサージだった。
午後は滝子か雅彦が病室を時折、訪れた。雅彦は、ぼんやりとベッドの横に長|椅子《いす》をひっぱりだして来て、小説を読んでいたりした。まるで、寿々子など部屋に存在しないかのような安心しきった表情で、小一時間ほど昼寝をしていくこともあった。
夕方になると居間からピアノの音が聞こえてきた。滝子が弾いているらしかった。ショパンのワルツ、幻想即興曲、ベートーベンのポロネーズ……寿々子にはピアノのことはわからなかったが、そのどれもがプロ級の腕前であることは聞くだけでわかった。
ピアノは二時間にも三時間にもわたることがあったが、ほんの十分程度で終わってしまうこともあった。弾き手がヒステリーを起こしたように、鍵盤《けんばん》が目茶苦茶に叩《たた》かれて終わることもあった。
屋敷に来客があることはなかった。勝手口のチャイムが鳴るのは、酒屋や米屋などの配達がある時だけだったし、小包や速達が届くこともなかった。
電話のベルも滅多《めつた》に鳴らなかった。人づきあいをまったくしていない家であることは間違いなかった。
ただ、中でもとりわけ寿々子を不思議がらせたのは、雅彦だった。彼はまず間違いなく、一日中、家の中にいた。雨が小やみになった時など、庭に出て何やらぼんやりと木々の梢《こずえ》を見て回ることはあったが、それ以外にどこか外へ出かける気配はなかった。
彼と同じくらいの年頃《としごろ》で、定職を持たずにぶらぶらして親のすねかじりを続けている男を寿々子は知らないわけではなかったが、彼の場合は少し常軌《じようき》を逸しているところがあった。
初めは、少し健康状態が悪いせいだと思った。だが、よく観察してみると、別に異常はなさそうだった。肉づきは悪く、顔色も青白かったが、しなやかで若々しい身体《からだ》つきをしており、目の光や顔の艶《つや》にも、年齢相応の若さとエネルギーを裏切るものを見つけることはできなかった。
ほとんど喋《しやべ》ることはなかったが、決して知能が低いとか、生まれつき精神を病んでいるとかいった感じはしなかった。外見上は、あくまでもごく普通の良識ある若者にすぎなかったし、見ようによってはニヒルを売りものにする若手の俳優のようにも見えた。
だが、雅彦という男は何かが違っていた。外界に対するあらゆる興味を失った脱け殻《がら》、屋敷の中にひっそりと生息する正体不明の動物。そんな感じだった。
雅彦と滝子はたいてい、一緒に行動していた。滝子が外出する時は、必ず順子を呼んで大騒《おおさわ》ぎをするのでそれとわかるのだが、玄関を出て行く時、雅彦が影のように後に従っているのをベッドの中からも容易に想像することができた。
どこへ、何をしに行ったのか、寿々子に知らされることはなかったが、明らかに買物に行ったとわかる時もあった。滝子は抱えきれないほどのデパートの包みを抱えて帰って来ると、嬉《うれ》しそうに病室に入ってくる。流行を取り入れたドレスや、シルクの下着、それに「玲奈さん用に」と買ってきた袖《そで》の通しやすいワンピースや上等のTシャツなどを寿々子に見せ、頬《ほお》を輝かせて「いいでしょう」と自慢《じまん》する。雅彦はその後ろに立って、にこりともしないで母親を眺《なが》めているのだが、その目には常に滝子に対する忠実な愛情が光っていた。
これだけぴったりとくっついて生活をしている親子が喧嘩《けんか》をしているのは見たことがなかった。稀《まれ》に滝子が荒れている時は、ふたりは死んだように息をつめて生活をし、順子でさえ、キッチンから出てこようとしないことがあったが、それ以外はふたりはすこぶる仲がよかった。ダイニングルームのテーブルにつく時もふたり一緒のようだったし、寝る時間も一緒のようだった。
夜、ふたりが外出することもなければ、どちらかが単独で外出することもなかった。夜はふたりは家にいて、長い時間をかけて夕食をとり、居間で夜中までテレビを見て、二階に上がって行く。静かな、そしてどう考えても異様な生活であった。
だが、ベッドの上の寿々子の生活はそれ以上に静かなものだった。病院での生活に比べれば、天国と言ってもよく、うるさい看護婦や医者のお喋《しやべ》り、何度もうんざりするほど聞かされる病状説明を聞かなくてすむ分だけ幸せだった。初めのうちは、一日中、五郎のことやなつかしい幼年時代、友達の顔、両親のことなどを思い出し、相変わらずの絶望の淵《ふち》をのたうちまわったが、次第にそれも和らいできた。
彼女は声を失い、表現する能力を失ってはいたが、二本の腕、二本の足だけは残されていた。脊髄《せきずい》を冒《おか》されてはいても、医者の話では完治しないことはあり得ないという。根気よくマッサージを続け、自分でもできるだけ手足を動かすよう努力しよう。手の指の一本くらいは動くようになるかもしれない。そうすれば堂々と滝子たちを前にして、自分が玲奈ではないこと、いろいろよくしてもらったが、自分は別人だったことを理解させるための筆談を行うことができるだろう。
そう考えると、寿々子は心から救われる思いがした。声なんか出なくたっていい。しばらくの間、仙台に帰ろう。両親はいい医者を探してくれるだろう。ちゃんと歩けるようになるまでおとなしく両親のもとにいよう。五郎のこと、五郎の墓参りのことはしばらく忘れて……。
五郎……そう思っただけで寿々子は、再び絶望の呻《うめ》きを発しそうになる。あの、少し気取った表情、人間の心の痛みを知りつくしたようなやわらかな視線、おどけたピエロのような冗談《じようだん》。いつも一緒にいよう、いつまでも一緒に暮らそう、そう思うことのできた唯一《ゆいいつ》の人だったのに。
彼女が人生に光を感じ、期待と夢をもつことができたのは明らかに彼のおかげだった。彼は彼女に安心と信頼と、揺《ゆ》らぐことのない大地のような世界を与えた。少なくとも、寿々子はそう信じていた。五郎といると、これまで心のどこかで馬鹿《ばか》にし、せせら笑っていたような安手の恋愛映画のハッピーエンドが、まさに自分たちの上におこりつつあると感じざるを得なくなるのだった。
彼女は心の中で月並な言葉を繰り返し続けた。彼ハ私ノ人生ソノモノダッタ。愛、情熱、光、誠実、信頼……。彼ハ私ノ世界ダッタ。その手垢《てあか》のついた、何の想像力もない言葉の群れだけが彼女の中の真実だった。
彼ハ私ノ全テダッタ……。
そして「ダッタ」と過去形にして言葉を反復してしまう自分が、たとえようもなく惨《みじ》めになり、寿々子は飽《あ》きもせずに泣き続けた。人間がもつ最大の悲しみとは、実は愛する者をうしなうことではなく、うしなった後に残る思い出を抱えて生きること、その思い出そのものが悲しみなのではないか、と彼女は思った。
だが、寿々子はすでに起こってしまった現実と闘おうと努力した。歯科医との見合い結婚を強要してくるような両親をもって生まれたことも、その見合い話に乗り、あげくに自分の調査を頼むという馬鹿《ばか》げた計画を実行してしまったことも、あの夜、こともあろうにあの地獄の鬼火が隠されていた店に出かけたことも、玲奈と同じコートを着ていたことも……すべてそれは抗《あらが》い難い運命の結果としか言いようがなかった。
そして五郎は死に、自分は生き残った。事実はそれだけなのだ。冷酷《れいこく》な事実。だが、それを認めてしまわないと、生きていけなくなる……。
生きていたかった。とにかく今は何よりも生きていたかった。両手両足を失っても、生き、呼吸し、窓の外に季節の脈打つ息吹を感じていたかった。
あの手術室での苦しみ、手術後の想像を絶する痛み、意識が混濁《こんだく》していた時のたとえようもない不安。もうあんなことは二度といやだった。死にたくない。玲奈でもなんでもいい。生きていたい。そして今、幸福なことに私は生きている……。その実感が寿々子の唯一《ゆいいつ》の慰めであった。
矢内原家に来てから、彼女は旺盛《おうせい》な食欲を見せるようになった。そのせいか、自分でも身体《からだ》がどんどん回復していくのがわかった。身体の痛みも薄《うす》れてきた。火傷《やけど》のひきつれも気にならなくなった。
三日に一度、順子は頭を洗ってくれた。洗うたびに彼女は「ずいぶん、伸びてきましたね」と、寿々子の髪をいとおしそうに撫《な》でた。洗ってもらうと、頭からシャンプーの匂いが立ち上ってきて、気持ちがよかった。
シャワーを浴びて、柔《やわ》らかいスポンジにいっぱい泡《あわ》をたて、身体《からだ》中をごしごし洗うのが寿々子のささやかな夢だった。蒸し暑い日には、身体中がどことなく匂ってくるようで不愉快だった。毎日、起きた時と寝る前に順子が身体を拭《ふ》いてくれたが、それでも気分はすっきりしなかった。事故に遭《あ》う前、ぴかぴかに洗い上げた身体にオーデコロンをふりかけたころのことがなつかしかった。
時々、思い出したように順子が鏡を見せてくれることがあった。
「おきれいですよ」と、彼女は言った。周囲にひいらぎの葉の模様がついている丸い鏡には、相変わらずマネキン人形みたいな顔が映っていた。
「こんなにきれいなお顔。とてもあんな大事故に遭われたなんて信じられないくらいです」
そう言いながら、順子は豚毛のヘアブラシでやさしく寿々子の生えかけた髪を梳《す》き、人形の髪にリボンを結びたがっている少女のように、とても握《にぎ》れそうにない短い髪を指でつまんでは、嬉《うれ》しそうにうなずくのだった。
順子は病室のライティングデスクの上に大きな白い花瓶《かびん》を置き、庭のあじさいの花をいっぱいに盛ってくれた。軒下には風鈴《ふうりん》を下げ、シーツや枕《まくら》カバーをきれいな小花のプリント模様のものに替え、最後に茶色い大きなクマのぬいぐるみを持ってきて照れ臭そうに笑った。
「子供っぽいでしょうか。もしそうだったらごめんさい。私が田舎《いなか》から持ってきたぬいぐるみなんです。玲奈さまのお慰めになると思って」
寿々子が目を細め、軽くうなずくと順子は嬉《うれ》しそうにぬいぐるみを椅子《いす》の上に置いた。順子のおかげで病室が華《はな》やいだ雰囲気《ふんいき》になり、そのことが一層寿々子の気分を和らげた。彼女は心から順子に感謝した。
往診してリハビリのための指導をしてくれる医者は、寿々子に車椅子での生活に徐々に慣れるようにという指示を出した。医者の言う通り、寿々子の足は長い間使わなかったため、筋肉が萎《な》えてしまっていた。
「できるだけ動かすんですよ」と、医者は言った。
「車椅子に乗って、たまには外にも連れて行ってもらうこと。いつまでも病人でいてはいけません」
矢内原家に来て二週間後、寿々子は苦心の末に両方の肩をほんの少し動かすことができるようになった。知覚障害はなく、運動障害があるだけだったから、今後の治癒《ちゆ》はおおいに期待できる、と医師は言った。
寿々子は目を輝かせた。飲む薬は六種類から四種類に減った。
梅雨が明けようとしていた。暑い夏が始まろうとしていた。
19
寿々子は毎日、時間を決めて身体《からだ》を動かすリハビリに励んだ。腕も足も、そしてかつてあんなに大きく肉付きのよかった尻《しり》も、ひとまわり縮み、衰えきった筋肉は数年前に死んだ田舎《いなか》の祖母の身体に似ているような気がした。その身体を動かそうとするのは、考えていた以上に辛《つら》かった。が、彼女は試練に立ち向かった。微《かす》かではあるが希望の光が見えているのだ。
医者が車椅子《くるまいす》の利用をすすめたので、日に一度は車椅子に乗せてもらい、廊下や居間の中をぐるぐると回る散歩≠励行した。車椅子を押すのは、たいてい順子だったが、時には雅彦が押してくれることもあった。
病室以外の場所を回るのは、寿々子にとって気晴らしになった。矢内原の家は見れば見るほど陰気で古くさく、だだっ広かったが、夏の暑さの中では涼しげで気持ちがよかったし、第一、ベッドにいるよりはずっと退屈しのぎになってよかった。
居間は驚くほど広く、典型的なバロック調でインテリアが統一されてあった。ゴブラン織りのソファーセット、幾つか点在しているサイドテーブル、リクライニングチェアーに、足付きの大型ガラスキャビネット。部屋の中心にある古めかしい暖炉《だんろ》の横にはグランドピアノがあり、その脇《わき》にはいつでも楽譜が散乱していた。
壁ははめこみ式の煉瓦《れんが》模様で、床の地味な色合いの柄《がら》ものカーペットとは調和していたが、ただでさえ日当たりの悪い部屋を一層、暗く見せるのにも役立っていた。
暖炉の上の壁には、大きな鹿《しか》の首がかかっていた。そのほかにも剥製《はくせい》の類《たぐい》が多く、サイドテーブルの上には、埃《ほこり》だらけのマングースや野鳥などがひしめいていた。婦人雑誌や表紙がぺらぺらになった文庫本などがオーク材の大きな四角いテーブルの上に散らかっており、たくさんのレコードが、テーブルの下に山と積まれていた。
荘重な感じのする部屋ではあったが、どこかにかび臭さがあった。それは、屋敷の持つ拭《ぬぐ》いようもない陰気さと共通する、矢内原家独特の匂いであった。
順子や雅彦はその居間を三度か四度、ぐるりと回り、庭に面した大きなフランス窓の前に車椅子《くるまいす》を止めるのが習慣になっていた。窓から入ってくる湿気を帯びた風が、身体《からだ》にかいた汗をなでて通り過ぎた。健康だったころに比べると、汗はまだねっとりとした油のようだったが、それでも全身の毛穴から汗が出るのを感じるのは嬉《うれ》しいことだった。
城山の弁護士の野々村が突然、予告もなしに矢内原家を訪ねて来たのは、暑さも本格化したそんな或《あ》る日の昼下がりである。
寿々子は居間で順子に冷たい飲物を飲ませてもらっていた。野々村は入って来るなり、「ああ」と、嬉《うれ》しそうに溜息《ためいき》をついた。
「お元気そうだ。玲奈さん、本当によかった」
寿々子はじっと彼を見た。野々村は今にも頬《ほお》ずりをせんばかりに近づいて来て、彼女の頭、顔、唇《くちびる》、首、そしてやせてはいるがほんの少し肉づきが戻《もど》った胸のあたりに目をやっては、まるで子供の成長を確かめる父親のように目を細めた。
彼はひと通り彼女を見終えると、今度は薄《うす》いレースのブラウスの袖《そで》のあたりに手を置き、そっと撫《な》でた。
「すっかり玲奈さんらしくなられて」
「どうです? 少し太ったとお思いになりません?」
滝子が聞いた。彼は聞こえなかったかのように、寿々子を見つめ続けた。
「早く完全によくなられて、城山の家に戻《もど》られる日を待ってますよ。使用人たちはもちろんのこと、あなたのお友達たちも皆、そうなる時を楽しみに待ってるんです。そうそう、忘れてました」
野々村が立ち膝《ひざ》をしたまま、書類ケースから一通の葉書を取り出した。裏にひと目でアルプスの山々とわかる写真が写っている。
「どうです。おわかりでしょう」
彼はその絵葉書を宝ものでも見せびらかすかのように、寿々子の目の前に掲《かか》げた。どう見ても平凡な、どこにでもあるアルプスの絵葉書でしかなかった。寿々子はそのまま、野々村を見た。
「わからないんですか。スイスに行かれた千鶴《ちづる》さんからの葉書ですよ。ほら」
裏面には、細く小さな文字で玲奈の病状の心配や、自分のスイスでの結婚生活、今後の玲奈への励ましの言葉などが書かれてあった。千鶴とサインしてあるだけで、苗字《みようじ》はなかった。結婚してスイスに行った、玲奈の女友達からの葉書らしかった。寿々子が目をそむけると、野々村は一瞬《いつしゆん》、暗い表情をしたが、すぐに明るい声で言った。
「ご安心ください。あなたのお友達のどなたにも、詳《くわ》しいことは知らせてありません。気にしないで、養生することです。全快祝いのパーティーで皆さんをお呼びするのを楽しみにして……」
「ちょっと、順子さん」と、滝子が苛々《いらいら》したように言った。
「玲奈さんをお部屋のほうへ連れて行って。お薬の時間ですからね。それから野々村さんに何か冷たいものでも」
順子は「はい」と返事をし、すぐさま車椅子《くるまいす》を押そうとした。野々村がそれを止めた。
「いやいや、ちょっと玲奈さんのいる前でお話ししたいことがあるんです。おかまいなく」
滝子が長い髪をゴムで後ろに束ねながら、じろりと野々村を見返した。
「なんでしょうかしら」
「実は……大変、言いにくいことではあるんですが」野々村は立ち上がり、おもむろに開け放したフランス窓から外を見渡した。生暖かな風が吹き込んで来て、庭の木々で単調な鳴き声を上げていた蝉《せみ》たちの声がひときわ、激しくなった。
「玲奈さん名義になっている預金の引き出し額について、ちょっと……」
「それがどうかしまして?」
順子が一礼をしてそそくさと居間を出て行った。雅彦は滝子に背を向けてロッキングチェアーに坐《すわ》り、煙草《たばこ》をふかしていた。野々村は頬《ほお》のあたりをたるませて、軽蔑《けいべつ》をこめた微笑を滝子に投げた。
「率直に申し上げて、少し、お使いになられる金額が多すぎるかと危惧《きぐ》しているんですが」
「多すぎる? 何を基準に多すぎるとおっしゃるんですの?」
「どうも、ここのところ異常な出費がおありになるようで……。何か特別な理由でもあるんでしょうか」
「玲奈さんはこんな状態なんですよ。お手伝いの順子さんには病人付き添《そ》い費として、毎週、特別のお給金を支払ってますしね。この車椅子《くるまいす》だって簡単に手に入ったわけじゃありません。特別に作らせたのですから。リハビリのための医者の往診も、そこらの患者の往診とはわけが違うんですよ。そのために、どれだけの費用がかさむか、ご存じでしょうに。それにしてもずいぶん失礼な言い方をなさるんですのね、野々村さん」
「これは失礼。ただ、私としては亡くなった城山氏から遺産の管理を任された立場である以上、玲奈さんに残された財産を……」
「私は玲奈の母親ですのよ」
滝子は暑苦しそうに額の汗を手の甲で拭《ぬぐ》った。厚ぼったい唇《くちびる》の奥で白い舌がちろちろと動くのが見えた。
「玲奈の看病のために、どうお金を使おうが、あなたにとやかく言われることはないと思いますけどね」
「そうおっしゃられると、何も言うことはなくなるんですがね。ただ、滝子さん、あなたは先日、玲奈さんの口座から定期預金五百万円を引き出しておられる。むろん、城山氏の遺産を私が操作して振り分けておいた分ですが……。いったい何にお使いになるつもりだったんでしょう」
「ああ、あれですか」と、滝子はうすら笑いを浮かべた。
「玲奈のために箱根の別荘を買い戻《もど》そうと思いましたの。養生するにはあそこは最適ですから。そのための一部ですわ」
「別荘? 以前、お売りになった別荘ですか」
「ええ。狭い別荘ですが、環境はいいところなんですよ。矢内原も気に入って、生前はよく利用していました」
「そうでしたか。結構なことですな。玲奈さんの同意のもとに買い戻《もど》されたんでしょうね」
「同意も何も……。別荘があって玲奈が困るわけがないじゃないですか」
ふむ、と野々村はもっともらしくうなずいた。
「しかし、玲奈さんはもうじき城山の家にお連れするつもりですよ。別荘で養生するなんてとんでもない。使用人を戻す手筈《てはず》も整ってますしね。腕のいい付き添《そ》いの看護婦にも話をつけてあります。城山氏の残された事業のためにも、妻である玲奈さんに家に戻っていただかないとね。当然のお話でしょうが」
滝子の顔色が変わった。雅彦がゆっくりと振り返って母親を見た。寿々子はじっとしていた。
「もうじき、っておっしゃいますけど、いつのことですの? 玲奈はすっかりこの家の生活に慣れて、のびのびとしているんですのよ」
「いつまでもこちらのお世話になっているわけにはいかないでしょう。そうですね、玲奈さん。もう少ししたら……そう、その腕と足がある程度、動かせるようになったら、城山の家に戻りましょう」
野々村は寿々子を見た。滝子が笑い出した。
「玲奈さん、どうなの? あなた、城山の家に戻りたいと思う? まさかねえ。ママたちとここでのんびり暮らしてたほうがいいでしょ。お友達だって呼んでもいいのよ。ここはあなたのおうちなんですもの。城山さんの事業のことは、ここにいたってできるじゃないの。ママだって協力するわ」
寿々子が困り果てて目をそらすと、野々村がけわしい口調で言った。
「失礼ながら、滝子さん。あなたは法律上は玲奈さんの母親ではありますが、実の母親ではない。玲奈さんのお母様はとうの昔に亡くなっている。母親の権利を振り回すのはやめて、最後の選択は玲奈さんご本人に決めていただくことですな。それに、城山氏の遺産相続の際、多額の現金を玲奈さんは税金として支払わねばならなかった。今後は玲奈さんのためにも、むやみやたらと口座から現金を引き出すのはやめていただきたい。私はまた来ます。その時に、改めて玲奈さんの意志を聞き、今後どうすべきか話し合うとしましょう」
「玲奈は渡しませんよ」
「それはあなたではなく玲奈さんが決めることです」
「玲奈は私の娘です。実の娘と思ってますわ」
野々村はゆっくりと滝子を凝視《ぎようし》した。
「その言葉は十年前におっしゃるべきでしたな。でも遅すぎますよ、滝子さん。誰《だれ》の目から見ても、あなたは玲奈さんに入った財産を狙《ねら》っている継母《けいぼ》でしかない」
滝子はわなわなと口を震《ふる》わせた。涙が汗とともに目尻《めじり》ににじみ、こめかみには青い静脈が浮き出した。
野々村は寿々子に向かって、愛情と敬愛をこめた一礼をすると、そのまま部屋を出て行った。
その瞬間《しゆんかん》、寿々子は矢内原親子の抱えてきたどうしようもない運命を垣間《かいま》見たような気がした。城山玲奈と矢内原親子の関係もわかった。複雑な家庭の複雑な蜘蛛《くも》の巣に滝子も雅彦もそして玲奈もひっかかっていたようだった。
その夜、滝子は夜中過ぎまでピアノを弾いていた。狂ったような、何かに取り憑《つ》かれたような弾き方だった。つっかえながら乱暴に弾くリストのハンガリア狂詩曲が終わった直後、鍵盤《けんばん》の上に力まかせに突っ伏す音がとどろいた。雅彦が廊下を走って居間に飛び込んだ。しばらく静寂《せいじやく》が続き、その後に気味が悪いようなすすり泣きが始まった。そしてそれは、明け方近くまでおさまることなく続いた。
寿々子は眠れなかった。
野々村の一件があってから、精神的に混乱し鬱《うつ》状態におちいったせいか、滝子は風邪《かぜ》をひいて寝込んだ。ひどい風邪らしく、近所の医者が呼ばれた。二日たっても三日たっても、起き出してくる気配はなく、二階の滝子の寝室からは時折、激しい咳込《せきこ》みが聞こえてきて、そのたびに順子が二階に駆け上がって行くスリッパの音が屋敷中にとどろいた。
「奥様のお加減が悪くて」と、順子は食事を寿々子の口に運びながら言った。
「何も召し上がらないんです。私の作るものがお口に合わないのかもしれません」
ふたりの病人を抱えて、さすがに順子も憔悴《しようすい》しているようだった。目の下にできた隈《くま》が気の毒で、寿々子は申し訳ないような気持ちになった。
この娘はいったい、矢内原の家のことをどう思っているのだろう。気丈夫で従順な、お手伝いとしては百点満点の優等生タイプではあるが、少なくとも年若い娘である。滝子のエキセントリックな物腰や雅彦の異様な日常生活、それに玲奈との関係などを見て何かを感じ、不思議に思っているに違いない。
ここはあなたのような女の子が長くいるところじゃないのよ、寿々子はそう彼女に言ってやりたかった。自分もそろそろ、出て行くつもりよ、あなたもいっしょにどう? そう誘《さそ》ったら順子はどんな顔をするだろう。
滝子が寝込《ねこ》んでから、屋敷の中には一層、沈みこむような陰鬱《いんうつ》な空気が漂うようになった。寿々子の日課自体は変わらなかったが、疲労のためか、順子は夕食の後片づけもそこそこに部屋に引き籠《こ》もってしまったし、雅彦もいるのかいないのか、姿を見せなくなった。
寿々子は独りでいることが多くなった。不安と恐怖が交互に襲《おそ》ってきた。夏の夜の息苦しいような暑さの中、彼女は何度も恐ろしい夢を見た。屋敷中に白い得体の知れない亡霊がうろつきまわっている夢。夢の中では寿々子は大声で叫ぶことができた。叫び声を自分の耳で聞くこともできた。声はよく通り、澄んでいた。聞きなれた自分の声。恐怖心も忘れて、彼女は自分の声に聞き入り、声を取り戻《もど》した喜びに酔《よ》う。
だが、目を覚まし、試みに喉《のど》を唸《うな》らせてみるたびに、彼女は深い失望を味わうはめになった。闇《やみ》の中に発せられる音は、二度と聞きたくない獣のような空気の洩《も》れる音でしかなく、その音は彼女の置かれた状態を意地悪く象徴していた。
しかし、時間は確実に流れ、肉体はそれに伴ってまた確実に回復していった。運命の日は、彼女が予想していたよりもずっと早くやってきた。
長く待ちこがれたその日、彼女は奇妙な感覚に襲《おそ》われた。不思議なことに、今さら自分が玲奈とは別人であることを宣言するのが、どことなく気恥《きは》ずかしいような気もした。無理もない、と彼女は思った。人間はどんな環境にもいずれ慣れる。今では慣れてしまった矢内原の家での生活、矢内原の親子や順子との静かな関係を自分のたった一言が破壊させるのだと思うと、申し訳ないような、かすかにうしろめたいような、もったいないような、そんな感じがするのだった。
その日は朝から天気が悪く、風が強かった。順子の持って来た食事を食べ終え、いつものように薬を飲ませてもらおうとした時である。右手の親指がかすかに動き、順子の支えているコップに吸盤のように張りついた感じがした。
薬を飲み終えてから、寿々子はもう一度、右手を見た。親指に神経を集中してみる。動かす。親指は静かに、ぎこちなく、まるで長い間、油をささなかった機械のように小刻みに動き出した。
寿々子はそれを順子が見つけてくれることを祈った。見つけてくれれば、なんとか筆談のための鉛筆と紙を持ってきてくれるよう伝えることができるかもしれない。だが、順子は何も見ないで部屋を出て行ってしまった。親指はその日の午後もずっと動かすことができ、次第に残る四本の指もわずかながら動くようになった。寿々子は左腕をやっとの思いで右手の親指に当てがい、自分でできる限りマッサージをした。腕は痛み、指には感覚がなかったが、それでも以前とは比べものにならないくらいに動くようになった。
夕方から風雨が強まり、庭の木々は不気味な唸《うな》り声を上げて枝を揺《ゆ》すり続けた。台風が近づいているとのことだった。雨が屋敷の窓という窓をたたいて通り過ぎていった。
夜、食事を済ませ、横になっていた時、部屋の明かりが消えた。停電だった。順子が慌《あわ》てて飛んで来て、懐中電灯で中を照らした。
「大丈夫ですか。停電になっちゃったみたいです。ロウソク、おつけしますからね」
怖いのか、順子の声は幾分、震《ふる》えていた。いぶし銀の燭台《しよくだい》の三本のロウソクにマッチで火をつけると、順子はそれをライティングデスクの上に置き、ぶるっと動物のように身震いをした。
部屋の中がほんのり明るくなった。壁に順子の巨大な影が映っていた。廊下で雅彦が順子を呼ぶ声がした。順子が返事をする前に、彼は部屋に入って来た。
「懐中電灯、もうひとつある?」
「あいにく、これ一本しか……。ただいま、ロウソクをお持ちしますから」
「いいよ。ママはぐっすり眠ってるし。僕はこの部屋にいるから」
順子は自分もここにいさせてほしい、と言いたげであった。寿々子にはその気持ちが痛いほどわかった。こんな幽霊屋敷のような家で嵐《あらし》の夜、暗がりにひとりでいることを好む人間など、いるわけがない。
すきま風が入るのか、ロウソクの明かりが左右に揺《ゆ》れた。雅彦はライティングデスクの前に坐《すわ》り、デスクの上の雑誌や小物類をぼんやり眺《なが》めていた。
所在なげに部屋の中に立っていた順子は、ちょっと鼻をすすると、照れ臭そうな顔をして出て行った。
風が唸《うな》り、時折木々の枝が折れて飛び散る音がした。雅彦はデスクの上の何かに気をとられながら、ぽつんと言った。
「君も罪な女だな」
彼は寿々子のほうを見なかった。
「ママはすっかり神経をやられてるよ。初めは君が生きてたことでいろんなことがうまく回転するようになって、ママも元気だったけどさ、最近はだめだね。城山一族の守り神みたいな顔をしたあの弁護士が来てから、一挙にだめになった。弱い人だから……」
デスクに向かっているとちょうど寿々子に背を向ける形になり、寿々子からは彼が何をしているのかはわからなかった。右手が緩慢《かんまん》な動きを見せている。
「僕もそうだけど、君も不幸だよな。でもママを悪く思うのは筋違いだよ。ママは最高だ。だから君のパパもママに夢中になったんだ」
そう言いながら、ゆっくりと振り返った彼の手には、一本のボールペンが握《にぎ》られていた。寿々子はそれを凝視《ぎようし》した。黒い、なんの変哲もないボールペン。どこにあったのか。彼が持って来たのか。いずれにしても、雅彦の長い指には黒いボールペンが握られていた。寿々子は思い切り身体《からだ》を揺《ゆ》すった。腰が痛んだがかまうことはなかった。ベッドがかすかにきしんだ。首を左右に振り、鳥か何かのように前に突き出してはボールペンのほうを顎《あご》で示した。息が荒くなった。汗が背中に吹き出してきた。
雅彦がじっと寿々子を見た。わけがわからないといった感じだった。
「どうした?」
寿々子はまた身体を揺すり、やっとの思いでわずかに上に上げた右手をボールペンのほうに差し出した。雅彦は黙《だま》っていた。長い、途方もなく長い時間が過ぎたように思われた。雅彦が視線を自分の持っているボールペンのほうに投げた。
「これがどうしたって?」
寿々子の目に涙があふれてきた。右手を差し出し続ける。肩が痛い。
「これが欲しいの?」
寿々子は首を縦に振った。雅彦はふっと微笑した。
「わかった。何かを書きたいんだね。筆談できるようになったんだね」
涙が頬《ほお》を伝った。顔が火照り、いつものひゅうひゅうという音が喉《のど》から洩《も》れた。早く! 早くして! でないとまた動かなくなってしまうかもしれない!
雅彦はそれまで自分が何かいたずら書きをしていたらしいメモ用紙と、ボールペンをベッドに持って来たが、「ちょっと待って」と言いながら再びデスクに戻《もど》った。彼はしばらくの間、引き出しをかき回していたが、やがて数本の鉛筆を手に、戻った。
「鉛筆のほうが書きやすいよ」
彼は寿々子の背中に手を入れ彼女を起こすと、持ってきた鉛筆の中から一番長い、色の濃《こ》いものを選び出して、右手に握《にぎ》らせた。鉛筆は彼女の手に弱々しく収まった。彼女の手は震《ふる》えていた。さあ、書くのよ! 寿々子に戻るのよ!
思い切り強く親指を動かしてみる。親指と人指し指の間にはさまった鉛筆は、ゆらゆらと揺《ゆ》れながら紙の上をすべった。
寿々子は泣きじゃくりながら、黄ばんだ紙の上に手首を押しつけた。三回、書いてみて三回とも失敗した。力が入らないので文字にならなかったせいだ。
だが、四度目には成功した。子供のいたずら書きのような乱れた文字が紙の上に並んだ。
『ワタシ ハ レナ デハナイ』
20
初め、雅彦はまったく表情を変えずにそのメモ用紙を見ていた。庭に出て木々の梢《こずえ》を眺《なが》めている時の目と同じだった。寿々子は嗚咽《おえつ》をこらえて彼の顔をじっと見た。一瞬《いつしゆん》、突風が吹き、屋敷全体がみしみしと音をたてた。ロウソクの炎が左右に大きく揺《ゆ》れ、壁に映るふたりの影も揺れた。
雅彦がつと目を上げて寿々子の顔をじっと見た。その目は疑い深い、それでいて好奇心をそそられている目だった。彼は低い声で聞いた。
「玲奈じゃないって?」
寿々子はうなずいた。再び涙があふれた。
「じゃあ、誰《だれ》なんだ、君は」
寿々子は震《ふる》える手で、もう一度メモ用紙にエンピツを押しつけた。イチハラスズコ、とだけ書くのに、彼女は二度ばかり手を休めねばならなかった。
雅彦は、紙を手に取りつぶやくように読んだ。
い・ち・は・ら・す・ず・こ
わけがわからない、とでも言うように彼は寿々子を見つめた。わかって! わかってちょうだい、と寿々子は心の中で叫んだ。雅彦はしばらくの間、彼女の頭や顔や胸のあたりをにらみつけるようにしていた。だが、それは敵意のあるまなざしではなかった。
街中の電線が不気味な唸《うな》り声を上げている。屋敷の外壁のどこかに、雨を吸い込んだ重たい木の枝々が当たっては、はじけ飛ぶ音が繰り返された。窓を閉めきった部屋の中は湿気でむっとしていたが、寿々子は暑さを感じなかった。むしろ、身体《からだ》の芯《しん》が震《ふる》えてさえいた。彼女はもう一度、鉛筆を紙の上に置いた。
コート ノ マチガイ
片仮名で書いたほうが楽だった。『チ』という字が何度か失敗したが、平仮名で書くよりはましだった。
雅彦がそれを読んで動揺したのは明らかだった。彼は全身を硬直させ、次に溜息《ためいき》をつき、二、三度部屋の中をぐるぐる歩き回ると、椅子《いす》を一脚引きずって来てベッドの側に坐《すわ》った。
「ゆっくりでいい。教えてくれないか。僕にはまだよくわからない。整理してみよう。君は玲奈ではなくイチハラスズコという名前の別人で、コートを間違えたために人違いされた……そう言いたいんだね」
寿々子はうなずいた。雅彦がこれほど彼女に興味を持って話しかけてきたのは初めてのことだった。彼の目はいつもの、あの白昼夢を見ているような、眠たげな、投げやりな目ではなく、何かに熱中している子供のようにきらきら光り出していた。
「いいかい? まだ、書くことができるね。まだ、疲れてないね?」
寿々子はうなずいて、鼻をすすった。正直なところ、腕や指は感覚を失うくらい痺《しび》れていたし、さっき激しく身体《からだ》を揺《ゆ》すったために腰が鈍《にぶ》い痛みを訴えていたが、そんなことはどうでもよかった。待ちこがれていたこの一瞬《いつしゆん》。再び、回復の見込みのない麻痺《まひ》が腕を襲《おそ》ってこようとも、今、この一瞬だけ動いてくれればいい。あとはもう、腕を切り落とされたっていい。そう、思った。
雅彦は寿々子に鉛筆を強く握《にぎ》らせると、紙の上に置いた。
「まず、イエスかノーで答えてほしい。君はあの夜、クラブ・クィーン・メリーに行ったんだね」
寿々子はうなずいた。
「ひとりで?」
首を横にふる。
「そうか。誰《だれ》かと一緒だったんだね。それはいいとして、君は玲奈を知っていたんだろうか」
首を振る。
「知らなかった。じゃあ、偶然《ぐうぜん》、君は玲奈に会ったんだ。で、そのコートを間違えたってのはどういう意味なんだろう。書いてくれるね?」
寿々子は握った鉛筆に力をこめて「オナジコートダッタカラ」と、書いた。
雅彦は額に手を当てた。汗がうっすらと光っている。
彼は椅子《いす》から立ち上がり、額に手を当てたまま、ベッドの横を何度も何度も歩き回った。何かをぶつぶつ言い、時折、立ち止まって彼女の顔を見、そしてまた歩き始めた。
長い間、彼はそうしていた。寿々子は待ちきれなくなって、身体《からだ》をよじった。
「わかったよ。君が着ていたコートと玲奈のコートが同じで、互いに間違えて着てしまったんだね。その時、爆発がおこったんだね。そうなんだろ」
寿々子は懸命にうなずいた。
「君は顔をやられ、誰《だれ》だか判別できなかった。玲奈は君のコートを着たまま、やっぱり顔や頭をやられて死んだ。いや、もしかすると黒焦《くろこ》げだったのかもしれない。生き残った君のほうは玲奈のコートを着ていたから、城山玲奈だとされてしまったんだ。そうだね」
寿々子は首振り人形のように首を振り続けた。雅彦の呼吸は荒かった。
「じゃあ、玲奈は死んだことになる。君の名前で玲奈は埋葬されてる。そうなんだね」
寿々子はおそるおそるうなずいた。雅彦がじっと寿々子を見て、咎《とが》めるように言った。
「どうして今まで、そのことを黙《だま》っていたんだ」
寿々子は大声を上げて泣きじゃくりたかった。黙っていた? 黙っていたですって? どうやって私はこの事実を伝えたらよかったの? 手も足も固定されて、声も出ない、口も思うように動かせないダルマのような私が!
彼女は紙の上に大きな文字を書きなぐった。
「デキナイ。テ・アシ・コエ・クチ」
雅彦は目を伏せた。溜息《ためいき》が聞こえた。
「煙草《たばこ》、吸ってもいいかい?」
寿々子がうなずくと、彼はジーンズのポケットから煙草のパッケージを出して一本、口にくわえた。ロウソクで火をつけると、彼は深々と煙を吸い込み、そのままじっとしていた。
「ママにも順子さんにも言うんじゃないよ」
視線が鋭く寿々子に向けられた。
「今は言ってはいけない。玲奈が死んだとわかったら、ママは気がふれる。いいね」
寿々子は、うなずくべきか、それとも拒否すべきか迷った。やっと真実を伝えることができたというのに、何か別の問題を抱えこまされそうな気がしたからだ。彼女が考え込むような仕種《しぐさ》をしていると、雅彦は煙草を指にはさんだままでベッドの横に立った。
「君が他人だと信じて言うけど、ママと僕は玲奈が受け取った遺産をあてにしているんだ。このうちには金なんか残っちゃいない。ほんとだよ。みっともない話だけどさ、玲奈に遺産が入ってくれなかったら半年もたたないうちに餓死《がし》するところだった。君が玲奈でないとわかったら、ママがどうなるか、君にだって想像がつくだろ。今だって少し神経がおかしいんだから。もちろん、僕だって困る」そして彼はいきなり、ふふっ、と笑った。
「でも、君が玲奈じゃないなんて信じられないな。僕はてっきり玲奈だと思ってた。ママもだよ。身体《からだ》つきだってそっくりだ。ちょっと神経質っぽい感じがするところまで、玲奈そのものだ」
寿々子は息を荒らげた。そんなことはどうだっていい。早くなんとかしてほしい。彼女は渾身《こんしん》の力をこめて鉛筆を握《にぎ》った。
「ウチ ヘ カエリタイ」
「必ず帰してやるよ」と、雅彦は彼女の手首を撫《な》でた。
「ただし、君は今後、誰《だれ》にもこのことを喋《しやべ》ってはいけない。当分、このままでいるんだ。僕がなんとかする。わかったね」
いったい、どう、なんとかしてくれるんだろう。寿々子は雅彦を信用する気にはなれなかった。彼は確かにこの事実を知って驚いてはいたが、大してそのことを気にしているふうでもなかった。玲奈が死に、別の女が玲奈としてここにいる、ということよりもむしろ、そのことがわかった時の滝子のことを案じている様子だった。
雅彦はしばらくの間、寿々子の顔を見ていたが、やがてそっと彼女を寝かせ、「おやすみ」と言った。
「今夜は眠るんだ。明日から、僕はなるべく君の側を離れないようにする。また明日、話そう」
二階から滝子が激しく咳《せき》こんでいる音がした。メイドルームにいたらしい順子が、二階に上がっていく音が聞こえた。風が部屋の窓を叩《たた》くようにして通り過ぎていく。
「玲奈が死んだとはね」雅彦は寿々子が筆談をしたメモ用紙を乱暴に破って丸め、ジーンズのポケットに入れながらつぶやいた。その後にも何かを言ったようだったが、寿々子には聞き取れなかった。嵐《あらし》はその夜、ひと晩中続いた。
翌朝、重苦しい眠りから覚めると、窓|硝子《ガラス》に影絵のようにくっきりと木の影が映っていた。世界中の光という光が、あふれ、満ち、こらえきれずにこの陰惨《いんさん》な屋敷の中へも侵入してきたという感じだった。
庭で雀《すずめ》たちがさえずり、梢《こずえ》から落ちる水滴が、池の水面を打っている。登校途中の小学生たちが吹いているらしい笛の音が、壁の外でのどかに響き渡った。
部屋に軽いノックの音がし、雅彦と順子が朝食用のワゴンを引きながら入ってきた。ネイビーブルーのTシャツにジーンズをはいた彼は、いつもよりずっと若々しく清潔で生き生きして見えた。
「おはようございます」と、順子が笑いかけながら窓を開けた。湿った土の匂いとともに乾いた風が部屋に入ってきた。
「昨夜はよくおやすみになれなかったんじゃないですか。ひどい嵐でしたねえ。でも、今日はこんなにいいお天気」
「後で外に行こう」
雅彦がぼそっと言った。順子が「それはいいですね」と、屈託なく言った。
「もう外に出られても大丈夫だ、ってお医者様もおっしゃってますし。それから、お嬢様《じようさま》。今日から私……」
「いいよ、僕から言う」と、雅彦がさえぎった。
「今日から僕が玲奈の世話をすることにしたんだ。ママにはまだ言ってないけど、順子さんが忙しすぎてかわいそうだからね。食事と散歩、それに場合によっちゃリハビリの手伝いも全部、僕がやる」
「申し訳ありません、お坊っちゃま。私がいたらないせいで……」
雅彦の提案が自分の働きの悪さのせいだ、とすっかり思いこんでいるらしい順子は、頬《ほお》を赤く染めてぺこりと頭を下げた。雅彦は何も言わずにワゴンの上で冷たいオレンジジュースをグラスにつぎ、自分で飲みほした。順子が寿々子に向かって微笑した。
「弟さんですもの。きっと私などよりも、お嬢様のかゆいところに手が届くお世話をしてくださいます」
順子は矢内原家の複雑な関係をよく知らないらしかった。彼女が部屋を出て行くと、彼は寿々子を抱き起こし、ベッドの背もたれに枕《まくら》を当てがって洗顔の用意をした。ライトブルーの透明《とうめい》なジェリーが歯ブラシと共に寿々子の口に入れられた。
「案外、難しいな」と、彼は彼女の口のまわりを真っ白にしながら言った。
「もう少し、口を開けて。そうしないと、全部はみ出してきちゃうよ」
寿々子の顔のすぐ近くに雅彦の顔があった。寿々子の中に、何か恥《は》じらいに似た気持ちが湧《わ》きおこった。昨日まではこの若い男に身体《からだ》のどこを触《ふ》れられても、なんとも感じなかったのに、と思うと不思議だった。
彼に玲奈だと思われている間は、彼の前でリハビリの訓練中、どんなに醜《みにく》いポーズをとっていても平気だった。車椅子《くるまいす》からベッドに移動する時、抱き上げられ、パジャマの裾《すそ》が大きくめくれ上がって痩《や》せたウェストがのぞいて見えても、まったく気にならなかった。なのに、今は違う。私は玲奈ではない、と彼が知っている。そう思うと、寝起きの顔をさらして歯を磨《みが》いてもらっている自分が恥ずかしく、哀れで、泣き出したいような気持ちにかられるのだった。
だが、雅彦のほうはいっこうに気にしていない様子だった。彼は自分の手を歯磨き粉だらけにして寿々子に口をゆすがせると、次にぬるま湯で絞《しぼ》ったフェイスタオルを持って来て軽く顔を拭《ふ》いた。
「君のこと、なんて呼ばうか、イチハラスズコさん。スズコっていうのは、多分、鈴という字を書くんだろうから、ベルってのはどう? かわいいだろ。ベル。いい響きだ」
漢字が違うが、寿々子は黙《だま》っていた。雅彦はワゴンからジュースを持ってきて、グラスにつぎながら言った。
「ゆうべ、考えたんだ。玲奈の世話はしたくないけど、君の世話なら構わないってね。なんでもするよ。それから、ゆうべの約束は守ってくれないと困るよ、ベルちゃん。今、騒《さわ》ぎをおこされると困るんだ。その代わり、君には不自由させない。今まで以上の看護をするよ。ママがいない時には、筆談をしよう。君も言いたいことがたくさんあるだろうしね」
彼はストローを使ってジュースを寿々子に飲ませた。庭で蝉《せみ》が鳴き出した。オートミールをスプーンですくって彼女にひと口、食べさせた後、雅彦は嬉《うれ》しそうに笑った。
「ちゃんと差し出したものを食べるんだね。小鳥の雛《ひな》みたいだ。かわいいよ」
寿々子はじっと雅彦を見つめた。何も考えられなかった。どうしてこの若い男が、何事もなかったかのように笑えるのか、わからなかった。玲奈ではないということをわかってくれた初めての人間が、一夜明けた今も昨日までと大して変わりのない平静さを保っている。その平静さには、名状しがたい危険な匂いがあった。
二口目のオートミールを口の前に差し出された時、寿々子はぎゅっと口を閉じ、ライティングデスクのほうへ目をやった。そこには昨夜、使った鉛筆が転がっていた。雅彦が彼女の視線を追い、うなずいた。
「わかったよ。後で好きなだけ筆談をさせてあげるってば。君がいくつで何をしていた人なのか、こうなる前はどんな生活をしていたのか、いろんなことを聞かせてくれよ。僕はずっと側にいるから」
そう言ってスプーンを差し出す雅彦を見つめながら、寿々子はふと、一切の意志を失ったような気持ちになってだらしなく口を開けた。口の中に生暖かいオートミールが放りこまれた。
雅彦は目を細めて彼女を見ていた。
21
滝子が一週間ぶりに寿々子の部屋に顔を出した時、雅彦は窓辺で車椅子《くるまいす》の寿々子の、うぶ毛のように生えそろってきた髪の毛をブラッシングしている最中だった。
「いいの? 起きたりして」
雅彦がそう聞くと、滝子はけだるい調子でうなずいた。薄《うす》い夏物の青いネグリジェは、上のボタンがはずれていて、襟《えり》がだらしなく垂れ下がっていた。
「久し振りね、玲奈さん」と、滝子は寿々子に向かって力なく微笑《ほほえ》んだ。雅彦がヘアブラシを床に置き、椅子を母親の前に持ってきた。滝子は愛情と感謝をこめた目で息子を見ると、だるそうに椅子に腰を下ろした。
「この部屋も暑いのね。どこもかしこも暑くって、いやになる」
「起きられるんだったら、少し庭でも散歩したら? 気分がよくなるよ、きっと」
「そんな元気ないわ」
滝子は乾いた咳《せき》をしながら、額のほつれ毛をかき上げた。一週間の間に目は落ちくぼんでさらにひと回り大きくなり、隈《くま》が激しくなった感じだった。
風がまったくない日で、開け放した窓のカーテンはそよとも動かなかった。滝子は気分が滅入《めい》っている時、いつもそうするように、眉間《みけん》に細かい皺《しわ》を寄せ、床の一点をじっと見つめていたが、やがてぽつりと言った。
「いつから玲奈さんの世話係をあなたがするようになったの、雅彦」
「昨日からだよ。順子さん、忙しすぎて大変だろ。どうせ僕は暇なんだ。少しくらいのことは協力できるし、そうしたほうがママのためにもなる」
「順子さんがあなたにそう言ったの?」
その聞き方にはかすかな苛立《いらだ》ちがこめられていた。雅彦はゆっくりとヘアブラシをケースに戻《もど》し、寿々子が顔にかいた汗をフェイスタオルでひと拭《ふ》きすると「何? ママ」と訊《たず》ね返した。滝子は息子を凝視した。
「聞こえなかったの?」
「聞こえたさ。でも順子さんがそう言ったのか、ってどういうこと?」
「順子さんがあなたに玲奈さんの世話を頼んだのか、って聞いたのよ」
「全然。ただ、ひとつの家にふたりの病人がいたら、いくら順子さんだってまいっちゃうよ。そう思って手伝うことにしただけさ。いけなかった?」
「別にいけなくはないわ」と、滝子は吐《は》き捨てるように言った。唇《くちびる》の端がぴくぴくと神経質そうに痙攣《けいれん》した。
「いけなくはないけど、なんだか変ね。雅彦が玲奈さんの世話をしてるなんて」
「玲奈は人形みたいでかわいいよ。おとなしくってその上、頑張《がんば》り屋だ」
「でも、あなたが玲奈さんの髪まで梳《と》かす必要はないと思うわ。身の回りの世話は順子さんにやらせなさいな。女の世話は女同士のほうがいいのよ。あなたはもっと力のいることで協力してあげればいいじゃないの。なによ。ママの髪は梳かしてくれたことなんかないのに。玲奈さんにはやけに親切なのね」
雅彦は滝子の側に来て肩に手を置いた。
「どうしたんだい? ママ。こんなことで突っかかったりして」
「別に」と、滝子は言った。痙攣《けいれん》はさらに激しくなり、油が垂れるようにして汗がゆっくりとこめかみから流れ落ちた。
「気分がすぐれないのよ。部屋に戻《もど》るわ。雅彦、一緒に来て」
「ママ、また、あれを飲んだほうがいいよ。少しは落ち着くよ」
「いやよ。あれを飲むと眠くなるのよ。この暑いのに眠るなんてうんざり。眠ってると、汗だけが冷たいのよ。脇《わき》の下にもお尻《しり》にも足にも冷たい汗をかくの。ぞっとするのよ」
「クーラーをいれればいい」
「クーラーですって?」
滝子は声を荒らげた。
「ママがクーラーにどれだけ弱いか、知ってるでしょ。どうしてそう意地悪を言うの。優しくしてくれてもいいじゃないの。ママはおかしくなってるのよ。ええ、そうよ。でもだからと言って……」
「しーっ」と、雅彦が滝子の唇《くちびる》に人差し指を当てがい、片手で彼女の背中を軽く撫《な》でた。
「さ、二階に行こう。薬を飲んで、少し眠るんだ。僕の言うことがきけないの? ママ」
滝子はしばらくの間、肩で苦しそうに呼吸をしていたが、雅彦が背中を撫で続けるとおとなしくなった。
放心状態のような顔をしたまま滝子は、日だまりの猫のように身体《からだ》を雅彦に預けて、気持ちよさそうにしていた。シルクのネグリジェの背中が丸く輪を描いて撫でられている。そのかすかな衣《きぬ》ずれの音は、どこかしら奇妙にエロティックだった。
「やめないで、まあちゃん」
滝子が甘えたような声を出した。
「気持ちがいいわ。もっと続けて」
寿々子の車椅子《くるまいす》と滝子の坐《すわ》っている椅子とは、一メートルほどしか離れていなかった。片手で雅彦の足につかまり、椅子の背もたれから身体《からだ》を浮かせてじっとしている滝子の目に、悦楽《えつらく》の光が走った。椅子《いす》と椅子を向かい合わせにした形で、寿々子は滝子を見ていた。滝子も寿々子のほうに目を向けていたが、その目は明らかに何も見ていなかった。
雅彦が手を止め、無言で促して滝子を立ち上がらせた。息子と向かい合って立つと、滝子は首ひとつ分だけ背が低かった。雅彦は母のネグリジェのボタンが外れているのに気づき、両手を使ってそれをはめた。滝子が彼をうっとりと見上げた。
その瞬間《しゆんかん》、雅彦が滝子の大きく開いた胸元に音もなく手をすべりこませたとしてもおかしくはない、と寿々子は思った。その白昼夢は、なぜか寿々子をぞっとさせた。
買物に出かけていたらしい順子が帰って来た気配がした。
「お薬、飲むわ。まあちゃんの言うとおりに」
「それがいいよ。目が覚めたらきっと気分がよくなってるから」
「ママのベッドのそばにいてちょうだい。ひとりで眠りにつくのはいやだから」
雅彦はうなずき、母親の背中に手を当てた。ドアのところで滝子は振り返った。
「玲奈さん、あなた、しばらく見ないうちにとてもきれいになったのね。ママの顔を見て。こんなに汚《きたな》くなっちゃった。ひどい顔よね」
寿々子はにこりともしないで、ネグリジェ姿の滝子を見つめた。「ふふ」と滝子は笑い、油じみたような長い髪を一筋、口にくわえた。寿々子は再び、ぞっとした。
その日は一日中、暑かった。庭の木々の梢《こずえ》はそよとも動かず、蝉《せみ》たちはいつにも増して狂ったように鳴き続けた。順子がベランダに打ち水をした。車椅子《くるまいす》からそれを眺《なが》めていると、乾いて立ちのぼっていく蒸気が目に見えるようだった。
六時ころになって心もち風が出てきたころ、雅彦が夕食をワゴンに乗せて部屋にやって来た。彼は上半身裸で、緑色のショートパンツをはいていた。筋肉があまりついていない少年のような平らな胸は、汗で光っていた。
「暑いね。三十五度もあったんだってさ。食欲のほうはどう?」
寿々子は静かに首を横に振った。暑さと身体《からだ》の自由がきかない不満が消化機能を衰えさせたようで、胃の中にはまだ昼に食べたそうめんが残っている感じがした。
「こう暑くちゃね。無理もないけどさ。でも食べたほうがいいよ、ベルちゃん。君はもう少し太る必要がある」
彼は冷やした冷たい茶碗蒸《ちやわんむ》しをスプーンですくって寿々子の口に運んだ。寿々子は素直にそれを食べた。
「冷たくておいしいだろ」
雅彦は微笑《ほほえ》んだ。きれいな歯がのぞいた。遠くで花火が鳴る音がした。
二口目のスプーンを口に運ぶと、雅彦は言った。
「ママは眠ってるよ。調子がひどく悪いんだ。時々、こうなる。わかるだろ。ちょっとね、昔から神経がおかしくてさ」
冷たい茶碗蒸しは喉《のど》の通りがよかったが、もう食べたくなかった。三口目を飲みこんでしまうと、寿々子は「もういらない」と言う印に首を横に振った。
雅彦は野菜ジュースをすすめた。仕方なく寿々子はそれをひと口飲んだ。少量のジュースが胸元にこぼれた。雅彦は白いナフキンを使ってそれを拭《ふ》いた。
「僕が高校のころ、クラスの連中に『おまえ、おふくろさんとデキてるんじゃないのか』ってよく言われた。そのたびに頭にきてさ、喧嘩《けんか》したよ。そう思われても仕方なかったんだろうけどね。いつも僕はママと一緒だったし、ママは僕のこと恋人みたいに扱ってたし。でもママの神経を守ってやれるのは僕しかいないんだよ。ママも僕にしか心を開かない。仕方ないんだ」
雅彦はそう言いながら、野菜ジュースをもうひと口、すすめた。寿々子はかぶりを振った。
彼は「しようがないな」と言いながら、ワゴンを横に片づけ、椅子《いす》にふかぶかと坐《すわ》ってショートパンツのポケットから煙草《たばこ》を取り出した。夏のとばりがただでさえ暗い庭をおおい始めていた。部屋の中は薄暗《うすぐら》かった。雅彦はライターで煙草に火をつけ、深く吸い込んだ。
「僕のことやママのこと、知りたいかい?」
寿々子が黙《だま》っていると、彼はもう一度聞いた。
「知りたくない? この家のこと。玲奈と僕との関係。ママと玲奈の関係。死んだパパのこと。教えてあげてもいいよ」
そうしたことを知りたいと思っているのかどうか、寿々子にはわからなかった。どうでもいいことのような気もしたし、同時に知りたくもあった。どのみち、自分の運命はこの若い男に託されているのだと思うと、少なくともこの男のことは知って損はないような気もした。
灰皿代わりに茶碗蒸《ちやわんむ》しの容器の中に煙草《たばこ》の灰を落とすと、雅彦は話し始めた。簡潔なわかりやすい話し方だった。その淀《よど》みのないひんやりとした口ぶりには、まるでそれを話すことを何度も練習してきたかのような響きがあった。寿々子は聞き入った。考えようによっては、どこにでも転がっていそうな話ではあったが、それを話し続ける雅彦を見ていると、月並な過去の話とは到底、思えなかった。
途中、順子が蚊取り線香をつけるため部屋に入って来た時と、二階で滝子の咳《せき》こみが聞こえた時だけ彼は話を中断した。全部、話し終えた時、外はほとんど暮色に包まれ、部屋の中は薄墨《うすずみ》を流したように暗くなっていた。
寿々子は目をこらして雅彦を見ていた。こんなに人の話を熱心に聞いたのは久し振りのことだった。雅彦は三本目の煙草に火をつけ、「少し涼しくなったな」と誰《だれ》に言うともなく言うと静かに目を閉じた。
「パパが死んだ時だったよ。通夜が終わり、玲奈が自分の部屋に引き籠《こ》もったのを見計らって僕は階下に降りたんだ。ママは居間の棺桶《かんおけ》の前に布団を敷いて寝ていた。布団が小刻みに揺《ゆ》れていたので、僕は『泣いてるの?』と聞いた。ママは黙《だま》って僕に布団に入るよう、言った。僕がためらってると、ママは僕を手招きした。ママが裸だったことはその時、知ったんだ。僕は吸い寄せられるようにしてママの横にもぐりこんだ。どうしてそうしたのか、よくわからない。ママの身体《からだ》は柔《やわ》らかくてきれいだった。僕はこわいのと恥《は》ずかしいのとで、なんだか泣きたくなって、ママに背を向けたまま泣いた。ママは僕を後ろから抱きしめてくれた。気がつくと朝だった。僕たちは裸で抱き合っていて、そばに玲奈が立ってた」
遠くで花火をうちあげる音がした。雅彦は目を開け、じっと寿々子を見た。
「それ以来、玲奈は僕やママから決定的に離れていったんだ。そのほうが玲奈にとっては幸せだったんだろうね。結婚してから僕やママを毛嫌《けぎら》いするよう、城山さんを仕向けたのも玲奈だよ。あの夫婦はただの一度だってうちに寄りつかなかった。当たり前だよね。今から思うと。玲奈のしたことは多分、とっても人間的で当たり前のことだったと思うよ」
その時、あの滝子と肉体的な交わりがあったのかどうか、寿々子は知りたいと思った。だが、雅彦はそのことには触《ふ》れずに続けた。
「僕は玲奈のことを憎んでいた時期もあった。でもそれは、腹違いの姉に対する意味のない憎しみだったんだと思う。玲奈はきれいな女だった。きれいできれいで、ほんとに人をうっとりさせるところがあった。ベルちゃん、君も見たから知ってるだろ。僕やママ以外の人には誰《だれ》からも好かれてたよ。パパがママと出会ってママをかこったりしなければ、玲奈は一生、矢内原のお嬢《じよう》さんとして幸せに生きていけたんだと思う。醜《みにく》いこととか汚《きたな》いことを何も知らずにね。でも、玲奈は知ってしまったんだ。僕やママを通じて」
輪郭以外、ほとんど相手の顔が見えなくなるほど部屋が暗くなった。雅彦は、つと立ち上がり、スタンドの紐《ひも》を引いて明かりをつけた。庭のどこかで虫が鳴いた。
「どうして僕やママが金も底をついたというのに、働かずに怠惰に生活してるか、君は不思議がってるだろうね。説明してあげたいけど、僕にもよくわかんないんだ。働くってどういうことなのか、わからない。僕もママも金ってのが、いつも知らないところで動いてて、知らないところで僕たちのためになっているような環境で生きてきただろ。つまりママはもともと死んだパパに飼われてたペットなんだよ。自分はペットだっていう意識がママの中にずっとあった。だから、主人が死んだ後は主人の残した餌《えさ》を少しずつ食べて命をつなぐ以外、どうやって生きていったらいいのか、わからないんだ」
雅彦は大きくふーっと溜息《ためいき》をついた。
「僕はさ、そんなママを守るために生きてる。こんなこと言うと頭がおかしいと思われるかもしれないけど、ほんとなんだ。ママは僕のこと、ペットだと思ってるかもしれないけど、ほんとはママが僕のペットなんだ。お互いにお互いのこと、そう思ってるわけでさ、ずっとふたりでこんな馬鹿《ばか》げた陰気な暮らしをしてこられたのも、そのせいだと思うよ。他に楽しいことなんか何もないもの。何かあるかい? 楽しいことって。何もないよ。ペットを相手に静かに暮らすことが、一番、いい。わかるかい」
寿々子は雅彦に見つめられたが、黙《だま》っていた。頭の中に、その日の午後、雅彦にネグリジェのボタンを止めてもらってうっとりとしていた滝子の、ぬめぬめとした肌《はだ》が浮かび、同時に、その肌を布団の中でまさぐっている雅彦の裸体が浮かんだ。その光景は、吐《は》き気を催すほど隠微でありながら、或《あ》る不思議な官能を寿々子に呼びおこした。それは寿々子の知り得なかった世界だった。こうして別人のような姿になり、大きく陰気な屋敷で夏を過ごす前の彼女には、夢にも想像できなかった世界であった。
雅彦はつと立ち上がり、窓辺に立って微《かす》かな夕暮の風を求めるようにして外を見た。
「君のことは全部、調べたよ。今日の午後、図書館に行った。ママが眠ってる間にね。古い新聞とあのころの雑誌をほとんど全部、見てきたよ」
彼は振り向いて、面白そうに続けた。
「二十七歳。独身。仙台出身。市原正次、静江夫妻のひとり娘。親父《おやじ》さんは歯医者。しかもかなり羽振りがいいらしい。君は仙台市内の女子大を卒業すると、親の反対にもめげずに上京。有名人の多く来るスポーツクラブに勤めた。部署は総務部。現住所は世田谷。東横線の自由ケ丘駅から歩いて十分の平凡なアパート住まい。駅の近くにあるスナックバー『トニー』の常連。どう? 大したデータだろう」
寿々子は目を見張った。あまりに突然のことだったので、息が詰まりそうになった。彼は目を木の実がはじける時のように正確に瞬《またた》かせながら、軽く微笑し、立ったまま腕を組んだ。
「君には結婚を約束していた恋人がひとりいた。佐伯五郎。二十九歳。役者。といっても全然、有名じゃなかったみたいだけどね。君たちは、さっき言った自由ケ丘のバー『トニー』で知り合った。写真も見たよ。なかなかハンサムな男だった。誠実そうで、君にお似合いだと思ったよ。ああ、それから君の写真も見た。怒らないで聞いてほしいけど、君は今のほうがずっときれいだ。ほんとさ」
雅彦は何かいとおしい哀れな動物でも眺《なが》める時のような目付きで寿々子を見ると、再び、窓の外に目を向けた。
「君のことはかわいそうだと思ってるよ。でも君が玲奈と入れ換わってしまったことや、君の大切な恋人が死んだことは誰《だれ》の責任でもない。偶然《ぐうぜん》なんだ。ただの偶然。あの大きな事故で君だけが生き残ったのも偶然さ。そして君が僕しか頼りにできない境遇に陥《おちい》ったのも、全部、偶然の成り行きなんだ。そう思ってほしい」
透明な鼻水が音もたてずに寿々子の唇《くちびる》の横を通り過ぎ、胸にこぼれ落ちていった。自分が泣いていることに気づくまで、永い時間がかかったような感じがした。彼女は嗚咽《おえつ》し、目をつぶった。あれだけ五郎を諦《あきら》めたはずの自分が、実はまだ一抹《いちまつ》の希望を抱いていたと認めることは辛《つら》かった。
花火の音が何度も連続して響いた。雅彦はつと窓から離れ、疲れ切ったように椅子《いす》にもたれかかると、それから何も喋《しやべ》ろうとしなかった。
22
滝子の様子は日を追うごとにおかしくなった。雅彦がそばにいる時はおとなしくしているが、彼の姿が見えなくなると屋敷中を探しまわり、「まあちゃん、まあちゃん」と死にかけた猫のような弱々しい狂おしげな声をあげた。
風邪《かぜ》をこじらせたことと、何年ぶりかの猛暑《もうしよ》が彼女の精神状態の悪化に拍車をかけていた。ものを食べている様子はなく、ただ、冷たくした生ジュースばかりを欲しがり、夕方になると決まって微熱を出して苦しんだ。
きちんとした病院に行ったほうがいいのでは、と順子が雅彦に何度もすすめたが、雅彦は「いつものことだから」と言って受け合わなかった。
屋敷に住みこんだことを三上順子が後悔し始めたのはこのころからだった。
中学卒業後、実家のある長野の看護学校に入り、十八で准看護婦試験に合格した。長い間小さな町医者のところで働いていた彼女が、一念発起して上京したのは三年前。しばらくの間、生活費にも困っていたので親戚《しんせき》の口ききで寝たきり老人をもつ家庭の住みこみ家政婦をした。料理や家事はもともと好きだったし、身体《からだ》もひと一倍丈夫だったから、寝たきり老人の世話一切を任されたうえ、その家の雑事を引き受けても別に大変だとは思わなかった。
給金はよかったのか、悪かったのかわからないが、ボーイフレンドもさしたる友達もいるわけではない彼女は出費する機会もあまりなく、貯金は増える一方だった。休みの日は月に二度と決められていて、その日は老人の世話を家の主人に任せ、東京見物を楽しんだ。映画を見て、デパートを回り、疲れるとデパートの屋上でソフトクリームを舐《な》めながら小鳥売場などをひやかす。バーゲンをやっていると必ずのぞいて見て、安い下着やブラウスなどを買うのもまた楽しかった。
住み込み先の家族たちは皆、親切だった。あまり礼儀というものを知らなかった彼女は、その家で随分、いろいろなことを教えてもらった。もともと飲み込みが早かったので、一度、教えられたことはすぐに覚えた。
高校生と大学生の女の子がふたりいたが、ふたりとも恋人がいて、しょっ中、家に連れてきては遅くまで騒《さわ》いでいた。明るくて楽しそうな家庭だった。
その家の寝たきり老人が死ぬと、主人は家を売って鎌倉に引っ越すことになった。順子にはついて来てもらいたいような口ぶりであったが、彼女は丁重に断った。もっと貯金を増やして生活のベースを作った上で、大きな病院の看護婦として働きたかったからだ。
そんな折り、新聞広告に大きく矢内原家の看護婦兼お手伝い募集の件が載《の》っていたのを見つけた。何よりも魅《み》せられたのは、給金の額だった。それまで住み込んでいた家の倍近くもある。それだけもらえれば、生活ベースはもちろん、辞めた後、就職先を探すまでにのんびり海外旅行ができる分くらい、楽に稼《かせ》ぎ出せそうだった。
滅多《めつた》にないこのいい話を他の人に取られないよう、彼女は慌《あわ》てて矢内原家に電話した。品のよさそうな女が出てきて、ともかく面接したい、と言ってくれた。五月も半ばを過ぎた、汗ばむような陽気の日、順子は初めて矢内原家を訪れ、その屋敷の大きいことやいかにも本物らしい金持ぶりに圧倒《あつとう》された。
「あなた、こないだおきたガス爆発事故知ってる?」と、女に聞かれた。知らないわけはなかった。それまで住みこんでいた家でも、寄るとさわるとあの大事故の話でもちきりだったし、週刊誌が書きたてる悲劇の数々がいやでも目に飛び込んでくるような毎日だったからだ。
女は自分の娘がその事故の被害者《ひがいしや》であることを言葉少なに語った。脊髄《せきずい》をやられて身体《からだ》が完全に不自由な上、言葉も喋《しやべ》れなくなってしまったこと、看護をするのは多分、考えている以上に大変であること、などを説明し、それでもいいか、と聞いた。
喜んでやらせていただきます、と順子は即座に答えた。男並に腕力だって自信がある。それに寝たきりの人を世話した経験もある。病人食もかなり勉強した。任せてください……そう言う順子を女は気に入ったようだった。あまり順子の身元を案じる様子もなかった。あれこれと条件をつけられることもなく、その一週間後、順子はそれまでいた家を出て、矢内原家にやって来た。
自分と同年代の若い男がいるのはいささか緊張《きんちよう》したが、すぐに慣れた。男は母親べったりで順子のことなど見向きもしなかった。
最初から変わった家だ、と思わないでもなかった。何の事情があるのか、親子はほとんど片時も離れずにひっそりと暮らしている。客が来ることも滅多《めつた》になく、郵便物や電話の類も極度に少なかった。それに、家の中は磨《みが》いたことなど過去に一度もないように、どこも薄汚《うすよご》れ、埃《ほこり》がたまり、庭は雑草だらけであった。
だが、何の事情があるにせよ、それは順子には関係のないことだった。女主人は少なくとも品があり、基本的に親切で、やたらと掃除や食事のことでケチをつけてくることもなかったし、その息子も別に意地悪くはなかった。給金も当初の話どおりにきちんと支払ってくれたし、食事のための買物にしてもすべて順子に任せてくれたので、マーケットで好きな材料を買える楽しみもあった。
玲奈という気の毒な娘が退院して来てからは、特別に休みは与えられなかったが、それでもよかった。ここで思う存分、稼《かせ》いでおけば、後で好きなだけ遊べる。そう思うとバーゲンセールなどに出かけなくてもどうということはなかった。
娘の世話は覚悟していたせいか、きつくはなかった。皮膚移植をしたとかで、顔はどこかしら不目然に見えたが、それでもきれいな娘だった。きれいなものならなんでも好きな順子は、娘の世話をするのが楽しかった。とりわけ髪の毛が少しずつ伸びてくるのを確かめるのは、赤ん坊の成長を楽しむような感じがしてうっとりさせられた。
喋《しやべ》れない、手足も動かせない、というのはいったいどんな気持ちがするものなんだろう、と順子は時折考えた。そして考えれば考えるほど、娘が哀れになった。一日も早く、娘がせめて自分で車椅子《くるまいす》を動かし、喋れるようになることを順子は他人事とは思えずに願った。
おおむね屋敷での生活が順調にいっていたのが崩れ始めたのは、主人の滝子が風邪《かぜ》をこじらせてからである。それまで鷹揚《おうよう》に構えていたはずの女主人は、順子の作る食事に難癖《なんくせ》をつけ、わめき、そのうえ夜になると咳《せき》こんで時間におかまいなしに順子を呼びつけた。睡眠は否が応にも妨げられ、自室にいてもいつ呼び出されるかと神経の休まる暇がなかった。
雅彦が娘の世話を引き受けると言ってくれたのは、本当に嬉《うれ》しかった。そうでもしてもらわなければ、例年にない暑さも手伝ってバテていたことだろう。
だが、滝子の様子を見ていると、とても尋常の状態ではないと思えて仕方なかった。病院で正式に看護婦として働いたことがなかったからよくわからないが、順子程度の医学知識でも滝子の精神状態が相当、悪いことはひと目でわかった。ものを食べないために身体《からだ》は衰弱し、うつろな、しかし気味の悪いどんよりとした光を放つ瞳《ひとみ》は、不安、絶望、倦怠《けんたい》、疑惑《ぎわく》、といった叫びをあげ続けていた。
深夜、屋敷の廊下をネグリジェの胸をはだけた滝子が音もなく歩きまわっていたのを発見した時は、さすがの順子も薄気味《うすきみ》悪さにぞっとした。その姿は、昔、祖母に聞かされたことのある田舎《いなか》の女幽霊の話を思い出させたからだ。
母親がこんな状態にいるせいか、車椅子《くるまいす》の娘はどことなくそわそわしているようだった。順子がそばに寄ると何かを言いたげにじっと顔を見つめてきたりした。「おかわいそうに」とそのたびに順子は心の中で思った。
屋敷の中は暗く、湿っぽく、陰気だった。いつまでここにいればいいのだろう、と順子は先のことを考えた。やめたい、と思うのだが、なにしろまだ来てから三か月弱。給金もそれほどたまっていない。今やめたら、また次の仕事を焦《あせ》って探さなくてはいけなくなる。それに、娘のことも心配だった。まだまだ人の世話を受けないと生活していけない状態の娘を神経のおかしい母親に任せることはしのびなかった。といって雅彦ひとりに任せきれるものでもない。今出て行くのは、何か娘を見捨てることになるような気がして仕方なかった。
それに順子はもともと楽天的な性格であった。今さらここに来たことを後悔したって始まらない。給金は支払われているのだし、滝子のことは、いずれなんとかする時がきたら身内である雅彦が命令を下すだろう、自分は一介の使用人、その時までは黙《だま》って見ているしかない……そう思った。
ただ、一度だけ、どうにも気持ちがおさまらなくなって、マーケットに出かけた際、公衆電話を使って実家の母に電話をしたことがあった。父を病気で失ってから、母はずっと果樹園を切り盛りして生活している。順子の上の兄夫婦が二組、手伝ってくれているものの、収入はいまひとつといったところらしかった。
母には矢内原家の様子を時々、手紙に書いて教えたりしていたから、すぐにわかってくれた。
「こわいよ、あんた」と、母は言った。
「きっと暑さのせいで頭がおかしくなったんだよ。家に火でもつけかねないよ、そういう人は」
あはは、と順子は笑った。そこまで言われると滝子の肩を持ちたくなる。
「考えすぎよ、かあさん。きっと旦那《だんな》さんに死なれた人だから、淋《さび》しいんでしょ。そのうえお嬢《じよう》さんまで事故にあって、神経が疲れたんだと思うわ。お薬も飲んでるようだし、少し涼しくなったらよくなるんじゃない?」
「だったらいいけどさ。でもいやだね、そんなとこで住み込みをしてるなんて。やめてこっちに帰って来たらどうなの。兄さんに頼んでいいお見合いの話でも探してもらってさ、そろそろあんたも……」
「わかった、わかった。そのうちね」と、順子は笑ってごまかした。母や兄たちが自分を結婚させたがる気持ちはわかる。でも、彼女は結婚する気は毛頭なかった。結婚を焦《あせ》るなんて、もっとも時代遅れの生き方なのよ、と以前、住み込んでいた家の大学生の娘がよく言っていたものだ。せっかく東京の生活に慣れたのだから、少しは時代遅れではない生き方がしたかった。
「ほんとに、あんた大丈夫?」と母親は受話器の向こうで心配そうな声を出した。
「何が?」
「だからさ、その矢内原さんの奥さんよ。こないだも新聞で読んだけど、頭がおかしくなって自分の家に火をつけた男の人がいたのよ。こわいよ、気をつけないと」
「大丈夫よ。それまでおかしくなってないんだから」
母親に大袈裟《おおげさ》に心配されると、順子はかえって反発して矢内原家を離れる気がなくなった。それは将来を夢に描いている順子自身にとっても、都合のいいことであった。
そんな或《あ》る日の夕方のこと、順子は居間にいた滝子に呼ばれた。少し具合がいいのか、風呂《ふろ》上がりの浴衣《ゆかた》に着替え、髪を結い上げていた滝子は、いつになく顔色がよかった。
「順子さん、うちに花火あったかしら」
「花火?」と、順子は聞き返した。滝子は桔梗《ききよう》の花模様がついたうちわで顔をあおぎながら、おっとりとうなずいた。ここしばらく決して見せなかったような静かな満ち足りたような表情を目の前にして、順子はほっとした。やっぱりやめるなんて考えないでよかった。奥様はちょっと普通の人よりも繊細《せんさい》な神経をしているだけなんだ……。
「花火よ。子供がよくやる花火。あったかしら?」
「さあ、私は買った記憶《きおく》がございませんけど。お入り用ですか」
「どうしても、ってわけじゃないんだけど。なんだか急にお庭で花火をしてみたくなったの」
滝子は鈴を転がすような声でころころと笑った。
「では、すぐに買ってまいりましょうか。駅前のおもちゃ屋さんでたくさん売ってましたから」
「そう? 買ってきてもらえる?」
滝子は少女のようにはしゃいで聞いた。順子は「はい、もちろん」と答えた。滝子が機嫌《きげん》のよさそうな顔をしてくれるなら、なんでもするつもりだった。
「嬉《うれ》しいわ。じゃね、線香花火とか静かなおとなしい、きれいな花火ばかり買って来てちょうだい。ねずみ花火はだめよ。あれは私、昔から大嫌《だいきら》いなの。どこまでも人を追いかけてくるみたいなんですもの。でもオバケ花火だったらいいわ」
「オバケ花火?」
「そう。あなた、知らない? 火が出ないでただ、もくもくと煙が出ていも虫みたいに縮まっていくだけの花火よ」
「ああ」と、順子はうなずいた。
「知ってます。子供のころ、よくやりました」
滝子も嬉しそうにうなずいた。
「ところで、雅彦はどこ?」
「お嬢様《じようさま》とご一緒かと思いますが」
「そう」と、滝子は目をそらした。
「ずっと一緒だったの?」
「さあ、午後はご一緒だったようです。涼しくなったらお庭を散歩なさるとかで……。さっきまではおふたりでお昼寝をされていたようです。本当に仲がよろしいんですね。なんだか、私の子供のころのことを思い出してしまいます。近所の子供たちと、夏休みは決まって一緒にお昼寝してましたから。花ゴザの上で並んでタオルケットをかけて……」
滝子の目が光った。何故《なぜ》、そうした光り方をするのか、順子にはわからなかった。少し、余計なことを喋《しやべ》り過ぎてしまったのかもしれない。奥様は余計なお喋りがお嫌《きら》いなのだ。彼女は、すっかり恐縮して話をやめ、うつ向いた。
「雅彦を呼んでちょうだい」
滝子は庭のほうを見ながら、そう命じた。
「は、はい」
「今すぐよ」
彼女は返事もそこそこに居間を出て、雅彦を呼びに行った。雅彦は玲奈を庭に散歩に連れ出そうとしているところだった。涼しげなパイル地のワンピースを着た玲奈は、動かぬ人形か何かのように見えた。
雅彦に母親が呼んでいる旨を伝え、順子はエプロン姿のまま花火を買いに屋敷を出た。
駅前のおもちゃ屋の店先で、「安全花火」と書かれた花火のパッケージを二種類買い求め、ついでに何か果物でも、とフルーツショップに立ち寄って赤くておいしそうなスイカを半切れ買った。この分だと多分、お嬢様も入れて三人で花火をするつもりなのだろう、スイカのおやつはきっと喜ばれるに違いない……。
さっき余計なことを喋《しやべ》ってしまった責任を感じて、そのスイカ代は順子の手持ちの金から支払った。
屋敷に戻《もど》ると、おかしなことにさっきまでついていた居間のスタンドの明かりが消えていた。滝子の姿も雅彦の姿も見えなかった。順子はスイカを冷蔵庫におさめると、花火のパッケージを手にして、玲奈の部屋に行った。ノックの音に反応して玲奈が振り返ったが、中には誰《だれ》もいなかった。
「失礼しました」と、順子は言った。
「奥様がいらっしゃるかと思って」
玲奈は車椅子《くるまいす》の上で何かおびえたような顔をしていた。スタンドをつけようとして側によると、玲奈が小さく震《ふる》えていることに気づいた。順子は肩に手を当て、「どうなさったんですか」と、聞いた。訊《たず》ねても返事のないことはわかっているが、最近では玲奈の表情ひとつでたいていの要求は理解できるようになっていた。
玲奈は目を大きく見開いて、順子を見上げた。口を開けたり閉じたりして、何かを必死になって言おうとしている。
「え? なんですか。何かがあったんですか」
今までにない玲奈の様子に順子がかすかな不安を覚えたその時、屋敷中に細く長い悲鳴が響き渡った。断末魔といっていいような悲鳴であった。
順子は咄嗟《とつさ》に玲奈の顔を見た。玲奈はぶるぶる震《ふる》えている。
「奥様のお加減が悪いんでしょう。ちょっと行って見てきます」
玲奈を安心させねば、という心理が働いて順子は懸命に笑顔を作って見せたものの、内心では二階に行くのが怖かった。
悲鳴が途切《とぎ》れ途切れに続き、やがて何も聞こえなくなった。順子はそっと車椅子《くるまいす》のそばを離れ、長い廊下をわざとゆっくり歩いて階段の手すりに手をかけた。雅彦の声がした。ひそひそと喋《しやべ》っているようにも聞こえたし、懸命に母親をなだめているようにも聞こえた。
順子は階段を上り、二階の踊り場のところで立ち止まった。滝子の寝室はドアがぴったりと閉じられていた。
「さあ、深呼吸して」と言う雅彦の低い声が聞こえた。その後に地の底から吹いてくる風のような、深い溜息《ためいき》がした。そして咳《せき》。いかにも苦しげなその咳は、長い間続き、しゃっくりをしている時のように喉《のど》を詰まらせる音が混じった。
「ママ」と雅彦が繰り返した。
「何も考えないで、ほら、ゆっくり息を吸って」
呼吸が止まる寸前のように激しく気管支が震《ふる》える音がした。順子は決心して滝子の部屋のドアの前に立った。あの息子に任してはおけない。私は看護学校を出ている。今日こそ医者に見せるべきだ。こんなにひどい発作はこれまでもなかったではないか。
ノックしようとして順子が手を上げたその時、場違いなほど冷静な雅彦の声がした。
「玲奈だと思っていればいいんだよ。あの子はどこへも行けやしないんだから」
「いやよ、いや、いや!」と、滝子のかすれた声が続いた。くぐもったような衣ずれの音。聞き分けられないほどかすかな囁《ささや》き声。
順子はそっとドアから離れた。何故《なぜ》、そうしたのか、彼女は自分でもよくわからなかった。
23
順子は寿々子の部屋に戻って来て、「なんでもありませんよ、お嬢様《じようさま》」と、ひと目で作り笑いとわかる笑顔を見せた。
「軽い発作をおこされたようですけど、雅彦様がついてらっしゃいますから。ご心配なく」
落ち着きを失った足取りで、順子はレースのカーテンを閉め、次にスタンドの明かりをつけた。丸い光の輪が室内をおおった。
ついさっきまで、雅彦はこの部屋で昼寝をし、寿々子の腕をマッサージしたり、とりとめもない話をしたりしていた。滝子が雅彦を呼んでいる、と順子が伝えに来ても、彼はぐずぐずしていてすぐに居間に行かなかった。まもなく順子がどこかへ出かけて行った。雅彦は庭の池の回りをこれから散歩しよう、という話を寿々子にしていた。何かのきっかけに彼が「ベルちゃん」と二度ほど繰り返して彼女のことを呼んだ。戸口が半開きになった。風で開いたものとばかり思っていたが、そのドアの陰には滝子が立ってじっとこちらを見ていた。
滝子は蒼白《そうはく》というよりも、透明《とうめい》なとらえどころのない顔をしていた。濃紺《のうこん》の浴衣《ゆかた》からのぞく首すじに、爪《つめ》でかきむしったような赤い筋が二本あった。
「雅彦さん」と、彼女は抑揚のない冷やかな声で言った。
「ママはあなたを呼んだんですよ」
「ごめん、ママ」と、雅彦は素直に母親のほうへ歩いて行った。
「今、行くところだったんだ」
滝子は部屋の中に入るでなく、かといって立ち去るでなく、棒切れか何かのように戸口のところに立ちつくしていた。
「何? ママ。なんか用事だったの?」
「忘れたわ」と、滝子は言い、雅彦の肩越しに寿々子をぬめりのある目でじろりと見た。
「雅彦。ベルちゃんていうのは、いったい誰《だれ》のことなの? いつから玲奈さんがベルちゃんになったの?」
「僕、そんなこと言った?」
「ええ、言ったわ」
「なんのこと? ママ。なんかの聞き違いじゃないのかい」
いいえ、と滝子は激しく首を横に振り、きっぱりとした口調で唸《うな》るように言った。
「あなたは確かにそう言った。どうして嘘《うそ》をつくの」
「いやだな。ママったら。いったい何が……」
そう雅彦が言いかけると、突然、滝子の唇《くちびる》の両端から細かい泡《あわ》のようなものがあふれ出てきた。目はこれ以上開かないくらい大きくなり、むき出された白目はあまりに出っ張りが激しくて、茹《ゆで》たうずらの卵か何かを乗せているように見えた。
呼吸が乱れた。雅彦は母親の身体《からだ》を両手で支えた。
「さ、寝室に行こう。僕がいるよ、ママ。ベッドに行くんだ」
ふたりは部屋の外に出て行った。寿々子はひとり取り残された。静かに音もなく階段を上がって行ったふたりは、滝子の部屋に入ってもしばらく声ひとつたてなかった。
どうしたらいいのか、寿々子には見当がつかなかった。雅彦は取り繕《つくろ》うつもりなのだろうか。それとも、真実を母親に告白してしまりつもりなのだろうか。
このことをきっかけにして、滝子に真実が知られてしまえばいい。滝子が事実を知って暴れようがどうしようが、こちらの知ったことではない。そう思いながらも、寿々子にはどうしてもこれが絶好のチャンスだとは思えなかった。
滝子が正常な人間であったら、雅彦から事実を聞いた途端、警察を呼び、驚いた警察の手によって寿々子は今夜中にも仙台の両親に引き取られることだろう。
この予想もしなかった顛末《てんまつ》をマスコミが騒《さわ》ぎたてるだろうが、騒ぎたてたとしても、もともと誰《だれ》かが責任を負わねばならないような問題ではない。不思議な偶然《ぐうぜん》、死んだはずの娘が生きていた、という明るいニュースとして扱われるだろう。むしろ矢内原家の親子は、同情さえされるかもしれない。
だが、滝子が正常な状態ではないとなると、話はまったく別になる。今、もし滝子が玲奈の死を知らされたら、雅彦の言うように何かとんでもないことが持ち上がるかもしれない。どう、とんでもないことなのかは予測もつかなかったが、ともかくあの異様な神経の状態では、滝子が冷静にこの重要な問題に対処してくれるとは到底、思えなかった。
寿々子の世話をやき始めて以来、すっかり寿々子のそばから離れなくなった雅彦に対して、滝子が嫉妬《しつと》を覚えていることはわかっていた。その嫉妬がただでさえささくれ立っている神経を逆撫《さかな》でし、彼女から理性というものをかなぐり捨てさせているのだ。雅彦さえ、元通りになって母親についていてくれればいいのに、と寿々子は思った。そうすれば滝子は随分、冷静になり、仮にこの問題を耳に入れたとしても寿々子に悪いような結果にはならないに違いないのに……。
だが、寿々子は雅彦がそばにいてくれる環境に慣れるに従って、雅彦との静かな生活を楽しんでさえいる自分を感じ始めていた。それは本当に不思議な感覚だった。朝の洗顔から、夕食後のデザートのひととき、それに時には深夜眠りにつく前まで、ずっと一日中、雅彦は一緒にいた。離れるのは、順子に手伝ってもらってリハビリをする時と風呂《ふろ》に入る時、そしてトイレを使う時のわずかな時間だけ。筆談はあまり長い時間しているとまだ身体《からだ》にこたえたので、そうそう何度もできなかったが、雅彦はぽつりぽつりとよく、いろいろな話をしてくれた。
何も話さない時は、黙《だま》ってふたりで庭を見ているか、昼寝をしているかしていた。庭の木々は暑さの中でぐんぐん枝を伸ばし、東京中の蝉《せみ》が集まっているのでは、と思わせるほどたくさんの蝉の声が庭から途絶《とだ》えることはなかった。蝉の声と木漏《こも》れ日の中で一日はあっという間に暮れていく。不思議と飽《あ》きることはなかった。退屈が当たり前になってしまうと、人はもうそれ以上、何も求めなくなる、という話を昔聞いたことがあったが、本当にその通りだ、と彼女は思った。
人が訪ねて来るでもなし、電話がかかって来るでもない、過去とも未来とも訣別《けつべつ》したかのような静かなもの悲しい日々。悲しみも絶望も退屈も何もかもが失われたような感じを自然に受け入れてしまうと、どこか気持ちが楽になることを寿々子は知った。雅彦が口の中にすべり込ませてくれる食事、雅彦と一緒にまどろむ夏の午後、雅彦が話してくれるとりとめもない話、滝子との危なげな関係の空想、そんなものが寿々子の心に日々、新鮮な喜びとして感じられるようになった。
とにかく雅彦はいつも傍《かたわ》らにいた。雅彦の言う「ペット」の意味が寿々子にもわかるような気がした。猫や子犬やオウムのように、「逃げる」という概念を持たないで生きているペット。主入のもとでしか安らげない彼等は、逃げるなどという感覚は理解できないに違いない。彼等の家は常にひとつであり、そこに始まり、そこに終わる。そのこと自体がいいの悪いのと考えてもみずに、彼等はその運命を素直に受け入れる。絶望や退屈や不満は、多分、ないのだ。彼等にとっての幸福は主人とともにいる、ということだけ。
雅彦にとっては自分は、母親に代わる新しいペットなのかもしれない、と寿々子は思った。
順子が帰って来た時、震《ふる》えが止まらなかったのは、二階でおこっているであろうことを想像して怖くなったからではなかった。自分の運命が今、今夜を境にして変わるかもしれない、という重要な時に、雅彦との静かな満ち足りた生活のことなどを考えている自分が怖くなったから震えていたのだ。
市原寿々子に戻《もど》りたい気持ちはもちろん変わってはいない。戻って両親を安心させてやりたいし、第一、別人として生きるなんて今もまっぴらだと思っている。
ただ、市原寿々子に戻れないのならそれでも仕方がない、と心のどこかで思い始めている自分が怖かった。確かに彼女はそう思い始めていた。そして、そんな馬鹿《ばか》げたことをどうして考えられるのか、頭がおかしくなったのか、と自分を責めた。
その夜、夕食は順子が持って来た。手には花火のパッケージが握《にぎ》られていた。雅彦は階下に降りてくる気配もなかった。二階では、あの悲鳴が聞こえて以来、もの音ひとつしなくなった。
大きな白い木綿のナフキンを寿々子の胸に当てると、順子は少しずつ箸《はし》を使って冷たくした豆腐を口に運んでくれた。順子に食事させてもらうのは久し振りのことだった。順子の食べさせ方は丁寧《ていねい》で、そのうえ順序を心得ており、雅彦のように一度に大盛りの御飯を口に突っ込むなどということもなかったし、寿々子の様子を見ながら時折、ぬるくした麦茶を飲ませて喉《のど》を湿らせることも忘れなかった。
気分のいい食事ではあったが、寿々子は雅彦に食べさせてもらう、あの乱暴な、順序など無視した食事のほうがいい、と思った。そしてそう思ってしまう自分がまた、ひどく恐ろしくもなった。
「たくさん召し上がってくださいね。お嬢様《じようさま》までお身体《からだ》を壊されては大変です。奥様ももっと栄養のあるものを召し上がって下さればいいんですが」
順子はそう言いながら、しその葉でくるんだ小さな赤身の肉をひとつ、寿々子の口に入れた。赤ん坊が食べてもいいくらい柔《やわ》らかく調理されたその肉は、とろけるようで舌ざわりがよかった。
「花火を奥様に頼まれて買って来たんですが、奥様のご様子じゃ今夜はご無理ですね。お嬢様、楽しまれますか? もし楽しまれるようでしたら、私がお供いたしますけど」
寿々子は曖昧《あいまい》にうなずいた。順子は困ったように笑った。
「危なくない花火ばかりです。ごらんになりますか。ほら、線香花火ばかりでしょう。奥様がこういうものをやりたいとおっしゃって。せっかく御家族で楽しまれるはずでしたのに……」
柔らかく炊《た》いた御飯をほんの少し、寿々子の口に運びながら、順子は「奥様も……」とぽつりとつぶやいた。
「お気の毒に」
その言い方は、初めてこの屋敷に来て寿々子の着替えを手伝った時の言い方に似ていた。
寿々子は、もし今、自分がこの娘に筆談の用意をさせ、あの嵐《あらし》の夜、雅彦を相手に書いたことと同じことを紙に書いたらどうなるだろう、とふと思った。寿々子が接することのできる唯一《ゆいいつ》の正常な神経の持ち主である順子は、どんな手段を取ってでも、今夜かあるいは明日には必ず、警察に連絡してくれるに違いない。玲奈が死んでいようがいまいが、順子には何の関係もないことだ。迷わずに警察を呼ぶに違いない。
だが、寿々子は自分が決して順子を相手に真実を明らかにしないことを知っていた。雅彦がいないこのチャンスを自分は喜んで逃すだろう、と知っていた。そう。喜んで。
食事を終え、順子が後片づけをするころになっても雅彦は部屋に現れなかった。二階はしんとしていた。寿々子はふたりが滝子のベッドに横たわって眠っている様を想像して、胸が悪くなった。想像の中で、おかしなことに滝子はいつも裸だった。四十代にしては白く若々しい張りのある乳房をさらし、粘《ねば》りのある目付きで息子を誘《さそ》っている滝子。その両の乳房の間に鼻を押しつけている雅彦。ふたりは官能とも邪淫《じやいん》とも呼べない、甘い吐息《といき》を吐き合いながら絡《から》まり合っている。
その想像図は寿々子の中でとどまることなく拡《ひろ》がっていった。ついには、ふたりが二階のベッドで、激しく性行為にふけっている光景を頭に描いて胸苦しくさえなった。汗にまみれたふたりの肉体の匂いが漂ってくるような錯覚《さつかく》も覚えた。
滑稽《こつけい》だわ、と寿々子は心の中で自嘲《じちよう》した。雅彦が話してくれた通夜の後の一件は、もしかすると彼の思いつき、彼の創作だったのかもしれない。そればかりか、この屋敷にまつわる陰気な人間関係、玲奈とのことなども全部、嘘《うそ》八百だったのかもしれない。滝子が矢内原の二号から後妻の座におさまったというのは本当だったにしても、あとのことは彼が退屈しのぎにでっち上げた物語だったと言えないこともない。寿々子がものを喋《しやべ》れないのをいいことに、彼が日頃《ひごろ》から夢に描いていた奇怪な話をモノローグのように話して聞かせただけだったのかも……。
とても創作であるとは思えない部分はあったが、そうでも思わないと寿々子はいてもたってもいられなかった。頭の中は混乱しきっていた。もし声が出るのなら、今すぐ雅彦を大声で呼びたかった。
十時過ぎ、順子に手伝ってもらって寿々子はパジャマに着替え、車椅子《くるまいす》からベッドに移った。順子は二階の様子について何も言わなかった。
昼間の暑さで疲れていたのか、寿々子はうとうと眠った。夢の中では、滝子が雅彦と海で泳いでいた。ふたりとも裸だった。
どのくらい眠ったころだったろうか。物音がして寿々子は目を覚ました。窓が開け放され、雅彦がうずくまるようにしてひとり線香花火に火をつけている。少し動くようになった右腕で寿々子がぽんぽんとシーツをたたくと、彼は振り返った。
「起こしちゃったね、ベルちゃん」と、彼は言った。暗くて顔は見えなかったが、白い歯が闇《やみ》の中でかすかに光るのが見えた。
「ごらん。きれいだよ。小さな菊《きく》の花だ」
雅彦の手元で、パチパチと頼りない音をたてながら線香花火が束《つか》の間の閃光《せんこう》を描いている。光の絵はすぐに終わり、後に残った火玉がぽとりと地面に落ちた。雅彦はすぐにパッケージから三本花火を取り出し、全部まとめてライターで火をつけた。大きな火球ができ、より大きな菊の花が彼の顔を照らし出した。手を動かさないように注意しながら、雅彦は再び、寿々子を振り返った。
「ママ、君が玲奈じゃないこと、知ったよ」
庭には真夏の夜のざわめきがあった。雅彦は視線を戻《もど》すと、光の菊の花が次第に小さくなり、やがてひと粒の火玉となって地面に落ちるのをじっと眺《なが》めていた。火玉が消えると部屋は真っ暗になった。彼は一番近くにあったスタンドをつけ、窓枠《まどわく》を背にしてもたれかかった。長い間、彼はその姿勢で寿々子を見下ろしていた。
「ベルちゃん。君はそろそろ出て行く時がきたな」
寿々子は雅彦を見上げた。仄暗《ほのぐら》い部屋の中で彼はうっすらと笑った。
「ママは何がなんだか、わけがわからなくなっている。それにどっちみち、君が玲奈じゃないのなら、いつまでもここにいられるはずもないしね」
白い袖《そで》なしのTシャツが彼の深呼吸と共に大きくふくらんだ。
「どう? 嬉《うれ》しい?」
皮肉めいた言い方ではなかった。寿々子はじっと動かなかった。カナブンが飛んで来て、窓のどこかに当たる音がした。雅彦はベッドの横にやって来て、片手を彼女の額に当てた。かすかに指についた火薬の匂いがした。
「あと一週間で帰してやるよ」
何故《なぜ》、一週間なのかわからなかった。雅彦は多くを説明しようとはしなかった。ただ、滝子が落ち着くのに一週間はかかるだろうから、と言っただけだった。
寿々子は筆談をしたかった。その欲求を伝えるために、いつものようにライティングデスクのほうを顎《あご》でしゃくって示した。が、雅彦はゆっくり首を横に振った。
「いいのさ」と、彼は言った。
「もう、何も話すことなんかない」
冷たく突き放すような言い方だった。寿々子は彼を見上げた。彼は疲れきった顔をしていた。耳の下あたりに何かに引っ掻《か》かれたような細く赤い傷が見えた。
スタンドの明かり目指して飛んで来た蛾《が》が網戸《あみど》に当たる音がした。雅彦はしばらくの間、その大きな一匹の蛾が狂ったように羽ばたき、網戸の網目に沿って大量の銀粉を落とすのをうっとりした目で眺《なが》めていたが、やがてけだるそうに「さてと」と言った。
「僕はもう寝よう。君もだ。おやすみ、ベルちゃん」
彼は不器用な手付きでベッドのタオルケットを直し、汗ばんでいる彼女の額をそばにあったタオルで拭《ふ》いた。
「君と別れるのはなんだか辛《つら》いよ」
そう言うと雅彦はタオルをサイドテーブルの上に置き、静かに寿々子に顔を近づけた。彼女のまつげに暖かい吐息《といき》が当たった。まぶたに唇《くちびる》が当てられ、寿々子は目を閉じた。みぞおちの当たりに微《かす》かな嵐《あらし》がおこった。唇は這《は》うようにして寿々子の頬《ほお》をかすめ、唇の端にきて躊躇《ちゆうちよ》するように止まった。心臓が止まったような感じがして、寿々子は息を殺した。麻痺《まひ》と軽いひきつれの残っている自分の唇はどれだけ醜《みにく》いだろう、と思ったが顔をそむけるのはためらわれた。
雅彦の唇はしばらくの間、同じ位置で静止していたが、やがて何事もなかったかのように離れていった。スタンドの明かりが消され、彼が部屋を出て行く足音がした。
寿々子は闇《やみ》の中で目をこらした。雅彦が廊下を歩き、階段の一段一段をゆっくりと上っていくどんな微《かす》かな音も聞き逃さないように耳を澄ました。
網戸《あみど》の蛾《が》は、雅彦が部屋を出て行くと急におとなしくなった。池の回りのシダの茂み、庭の叢《くさむら》という叢で盛んに虫が鳴いていた。背中が少し痛んだ。寿々子は目を閉じ、そして少し泣いた。
24
寿々子の担当医が定期検診に訪れたのは、その二日後だった。たっぷり一時間かけて身体《からだ》のすみずみまで調べた医者は、寿々子の回復ぶりがまるで自分の手によるものだと言わんばかりに自信たっぷりにうなずいた。運動機能の回復はめざましい、栄養状態もおおむね良好で、顔面の手術跡もほとんど問題なく、リハビリの効果は今後も期待できる、ともかく、喜ばしい状態だ、と医者は何度か繰り返した。
だが、失った声と、今だに思うように動かない唇《くちびる》に関してはコメントを慎《つつし》んだ。
「そのうちにね」と、医者は冷たい麦茶をストローで飲みほしながら言った。
「声のほうはゆっくり、大きな病院で気長に治療を試みてみましょう。なにしろ、あなたの場合は器質的|疾患《しつかん》ではないのですから」
順子と雅彦が医者を玄関まで見送った。玄関先で医者はふたりに対し、もっと屋外へ連れていくように、と軽く注意した。自分で車椅子《くるまいす》を動かせるようにするためにも、あまり世話を焼きすぎてはいけません、とも言った。滝子が二階から降りて来て、いつもの湿り気を帯びた声で「ご苦労様でした」と言った。医者が「よかったですね。よくなられて」と言うと、滝子は「おかげさまで」と、場違いなほどころころと笑った。
あれだけの発作を繰り返し、青白い顔をしてベッドに横たわっていた滝子は、あの狂乱の夜が明けてから、人が違ったように元気になった。彼女は朝起きるとまずシャワーを浴び、髪をていねいに洗って少女のような可愛《かわい》らしいサマードレスに着替え、庭に出て草をむしったり、ピアノをひいたりした。
午後は暑いにも関わらず、よく外出をし、夕方遅くなって帰ることが多くなった。屋敷の前にタクシーを横づけにし、彼女は大声で順子を呼ぶ。タクシーの中はリアウインドウが見えなくなるほどたくさんのデパートの包みが積みこまれており、思いもよらずに多額のチップを受け取ったらしい運転手は上機嫌《じようきげん》で荷物を玄関に運ぶのを手伝った。
居間で寿々子がぼんやりしていると、滝子は「玲奈さん」と、まるで寿々子を玲奈だと信じきっている口ぶりで包みをひとつひとつ開け、中のものを見せた。大きな包みからはブランドもののスーツや食器セット、小さな包みからは高価そうなアクセサリーや香水、腕時計などが現れた。
それらをひとつひとつ大切そうに抱えこみ、滝子は汗だくになった顔をほころばせて笑った。雅彦と寿々子が一緒にいても、文句を言うこともなかった。夜は寿々子も交えて楽しそうにテレビを見て、そして早くベッドに入った。順子はキツネにつままれたような顔をしながらも、女主人に手がかからなくなったことに対して心からほっとしているようだった。
野々村からは再三にわたって電話がかかってくるようになったが、そのたびに滝子は笑顔で応対した。
「ええ、ええ、そりゃもう」と彼女は寿々子のほうをちらりと見ながら言うのだった。「元気でおりますわ。お医者も定期的に来てくれますし。ごはんもよく食べますしね。ご心配なく。え? ええ。また、いずれそのうちにお目にかかりましょう。もちろんですわ。はい、是非、そういたしましょう」
滝子の声には張りがあり、誰《だれ》が聞いても娘を案じて精一杯の看護を尽くしている母親の力強さがみなぎっていた。野々村が何を言っているのかは寿々子にはわからなかったが、滝子のこの鷹揚《おうよう》な応対の仕方に態度を和らげてきていることは確かなようだった。
しかし、野々村がどういう態度で出てこようが、寿々子には関係のないことだった。彼女は日一日と近づいてくる「運命の日」を黙《だま》って受け入れるためだけに生きていた。
受け入れる?…と、寿々子は何度も自問した。市原寿々子に戻《もど》ること。市原寿々子として仙台の両親のもとに帰り、親のそばで安心してぬくぬくと眠り、治療に専念し……とそこまで考えて彼女はいつもぞっとした。その先のことはどう考えても何の想像も湧《わ》いてこなかった。
車椅子《くるまいす》の生活、治療。そしてまた車椅子の生活。寿々子が考えられるのはそれだけだった。
実家の日当たりのいい自分の部屋で目を覚まし、雅彦の代わりに母親が手伝ってくれるのに感謝しながら食事をし、ラジオやテレビや目の疲れない程度に読む本だけを心の慰めにしながら送る毎日。時折、周囲で囁《ささや》かれるであろう同情と憐《あわ》れみの言葉。それらをまとめて投げかけるつもりで、大挙しておしかけて来るであろう、昔の知り合いや友達。
何か趣味を持ったら? お手伝いするわよ。ええ、喜んで。ねえ、街に出ましょうよ。買物もいいわよ。素敵な服でも買って、その後、ケーキを食べるの。気分が晴れるわ。仕事を持つ気はない? もちろん、あなたにもできる仕事。あのことはもう忘れて。頑張《がんば》ってね。頑張るのよ。皆、あなたの協力者なんだから……。
誰《だれ》も「事故以前」の話には触《ふ》れないだろう。「事故以前」の市原寿々子は死んだのだ。東京で独りで暮らし、結婚を約束した恋人を持ち仕事に励んでいたごく普通の女。美人とは言いがたい平凡な、会ってもすぐに忘れられてしまうような顔をしながら、様々なことに悩《なや》み、喜び、感動して生きていた市原寿々子はもういないのだ。自分は寿々子という名前の別人。誰もがいぶかしげに、そして憐れみをこめて彼女の変貌《へんぼう》ぶりを見、慌《あわ》てて目をそらすだろう。車椅子のその女を「寿々子さん」と呼ぶことに慣れるまで、人々は檻《おり》の中の珍しい動物を眺《なが》めるような目つきで、彼女を見るだろう。
それくらいなら、と彼女は思った。今のままでいるほうがよっぽどいいかもしれない。だが、そう思うことは同時に寿々子を苦しませた。この陰気な屋敷にいるほうがいい、と彼女に思わせてしまうものが何なのか、寿々子はよく知っていたからである。
雅彦はふたりきりになっても、ほとんど「運命の日」に関する話をしてこなかった。表面上は穏やかな時間が流れていった。滝子は一度も発作をおこさなかったし、また、おこすような翳《かげ》りも見せなかった。ただ、一度だけ順子が、花火を買って来てありますから御家族でいかがですか、と言った時だけ、滝子の顔つきが変わった。何度か見慣れたそのどんよりとした表情に、順子は慌《あわ》てて「申し訳ありません」と謝った。滝子は何も言わずにダリアの模様のついたサマードレスの裾《すそ》をひるがえしてどこかへぷいと姿を消したが、小一時間後に戻《もど》って来た時は機嫌《きげん》を取り戻していた。その小さな事件はそれだけで終わった。
雅彦は元気を取り戻した母親のことが嬉《うれ》しくて仕方ないらしく、頼まれもしないのに滝子の相手をするようになった。滝子がつばの広い麦わら帽をかぶって庭の草を取っていると、雅彦もサンダル履《ば》きで庭に降り、並んで一緒に草をむしった。蚊にさされた、と言って滝子が大騒《おおさわ》ぎすると、雅彦は軟膏《なんこう》を塗《ぬ》ってやった。
滝子がピアノを弾き始めると、そばで聞き入り、褒《ほ》め、滝子が買ってくるものには絶大な興味を示した。時折、ふたりは何がおかしいのか、くすくすと笑い合った。寿々子の見ている前で、じゃれ合うように互いの背中を叩《たた》いたり抱きしめたりすることもあった。
滝子の態度は、寿々子が入院中、病室で見せていた態度と変わりがなくなった。雅彦も同様だった。ふたりは元通り完全なツガイの動物のように見えた。
ただ、変わったことがひとつだけあった。滝子と雅彦は寿々子をひとりにしておくことが決してなくなったのだ。どこにいる時も、何をしていても、寿々子の乗った車椅子《くるまいす》は親子のそばにぴったりと置かれていた。食事ももちろん一緒だった。寿々子は親子のすることを終日、眺《なが》めて暮らした。自分がぬいぐるみか、何かの置物にでもなったような感じがした。
それが何を意味することなのか、寿々子にはわからなかった。あれだけ玲奈に対して嫉妬《しつと》を燃やしていた滝子が、玲奈の死を知って心が安らいだのかもしれなかった。玲奈名義の金を使えなくなることに対しても、別段、不安を覚えている様子もなかった。自分たちの今後の生活を考えて玲奈を引き取ったはずなのに、そして今後の生活のことを考えて神経を病んでいたはずなのに、滝子は今、まるでそんなことはどうでもいい、と言わんばかりに陽気でゆったりとしていた。その変貌《へんぼう》ぶりに寿々子は危険な匂いを感じないでもなかったが、同時に、滝子という女の魅力《みりよく》はもしかしたらこんなところにあるのかもしれない、とも思った。十年一日のごとく変化しない女は多分、魅力がないのだ。ひんぴんと変化し、周囲をとまどわせる女であるからこそ、雅彦は彼女をペットとして慈《いつく》しみ、愛しているのかもしれなかった。
のどかに牧歌的に夏の日は過ぎて行った。雅彦は滝子に対して優しく落ち着いた愛情を示していたが、寿々子に対してはどこか無関心を装うことがあった。それは滝子の狂気を誘《さそ》わないための演出だろうと寿々子は判断していた。その証拠《しようこ》に、滝子が外出した時など、雅彦は待っていたと言わんばかりに寿々子の頭を撫《な》で、髪を梳《と》かし、時々は以前と同様にベッドにふたりで寝ころがって昼寝をすることもあったからだ。
だが、滝子のいる前では決して必要以上の親しさを見せなかった。そのことが寿々子を思いがけず苛々《いらいら》させた。寿々子は彼を挑発《ちようはつ》したい誘惑《ゆうわく》に駆られた。彼の前で訴えるような眼つきをすることもあった。だが、彼は滝子のいるところではほとんど寿々子を無視した。その冷淡さは寿々子を孤独にさせたが、かえって寿々子を矢内原の家に執着させる結果にもなった。
「君は仲間なんだよ」と、或《あ》る時、雅彦がさもおかしそうに言った。三人はベランダに出て冷たくしたメロンジュースを飲んでいた。滝子は雅彦のほうを向いて微笑《ほほえ》んだ。
ずっとそうなの? と、寿々子は心の中で聞いた。庭は蝉《せみ》しぐれだった。足もとのコンクリートの上では、蟻《あり》が列を作って昆虫《こんちゆう》の死骸《しがい》を運んでいた。
ずっと仲間でいさせてくれるのだったら、と寿々子は雅彦と滝子の顔を交互に見ながら思った。
私はそれでもかまわないわ。
「楽しいわ」と、滝子が伸びをしながら言った。ドレスの胸もとが緩《ゆる》み、大きくて白い乳房の谷間がのぞいた。
「とってもいい気分。こんなに気持ちがいいのは久し振りだわ」
雅彦は眼を細めて庭の木々を眺《なが》めた。木もれ日が彼の顔と白いTシャツの胸にだんだら模様を描いた。
「さあ、玲奈さん。ジュースをもう一杯、いかが?」
滝子が大きな水差しから寿々子のグラスヘ、ジュースを少し注ぎ足した。ストローを寿々子の口に持っていきながら、滝子は何度も目をぱちぱちさせ、赤い口紅を塗《ぬ》った口をすぼめて「きれいな子」とつぶやいた。
「ね、まあちゃん。きれいよね、この子。本物の玲奈よりずっときれいだわ」
滝子は白っぽいマニキュアを塗った長い爪《つめ》で、寿々子の頬《ほお》や唇《くちびる》を軽く撫《な》でた。爪がひんやりとした感触《かんしよく》で皮膚に触《ふ》れるたびに、寿々子の背中に悪寒が走った。
「この子猫ちゃんにキスしてごらん、雅彦」と、滝子が唇の端を上げながら言った。
「キスしたくなるような顔をしてるじゃないの」
雅彦はただ、微笑《ほほえ》んでいるだけだった。
「雅彦、キスするのが恥《は》ずかしい?」
「そうじゃないさ」と、彼は咳払《せきばら》いをしてジュースを飲んだ。
「してよ。ねえ、して。まあちゃん。ママ、興味あるわ」
寿々子は身体《からだ》をこわばらせた。雅彦はちらりと寿々子を見ると、目を伏せ、次に母親のほうを見た。滝子はじっと息子の口もとに目をやっていたが、やがてその口が自分の頬に近づき、軽く撫でるように通り過ぎて唇の横のあたりで静止したのを知ると少女のように顔を赤らめ、鼻の下に透明《とうめい》な汗の玉を浮かべた。
「やだわ、まあちゃん。ママにキスしてって言ったんじゃないのよ」
「いいじゃないか」と、雅彦は唇《くちびる》を離し、母親にウインクした。
「ママにキスしちゃいけない?」
滝子は顔をほころばせ、微笑《ほほえ》み、大袈裟《おおげさ》に恥《は》じらっている犬のように濡《ぬ》れた目で息子を見つめた。
かすかに風が吹いて来て、木々の梢《こずえ》を揺《ゆ》すった。寿々子は今、目の前に見た光景に驚くことなく、別のことを考えていた。胸に突き刺さるような不可解な感情のナイフが、彼女を動揺《どうよう》させていた。それが月並な嫉妬《しつと》と呼ばれるものであることを認めるのが怖くて、寿々子は親子から視線をはずし、庭の木々や梢を渡る雀《すずめ》たちに興味を示しているふりをした。
一週間がまたたくまに過ぎ、さらにまた三日が過ぎた。屋敷の中に変化はなかった。滝子の外出と買物は減り、その代わりに屋敷の中のインテリア改造が始まった。いつどこで注文したのか、次から次へと新しい個性的な家具が運び込まれ、滝子と雅彦は終日、額を寄せ合ってその家具の配置を話し合っていた。
家具の移動が済むと、夜は疲れきった手足を伸ばし、親子は夕食の前に何杯ものシェリーを飲んだ。寿々子もほんのひと口飲まされた。途端に背中の痛みを覚え、そのことを訴えるとふたりは笑って「子猫ちゃんにはまだ無理ね」と言うのだった。
雅彦はあの夜の花火をした日の約束を忘れてでもいるように、警察へ連絡する素振りも見せなかった。筆談の機会は結構与えられていたが、寿々子は自分からもその話を切り出さなかった。そんなことはもう、どうでもいいような気がしていた。寿々子は終日、親子のすることを眺《なが》め、会話をひとつ残らず聞き取り、雅彦が滝子の身体に触《ふ》れるたびに、その指先がどのような意図をもって動くのか知りたいと願った。
時間が止まったような静かな、しかし孤独な日々が繰り返された。季節だけが速度を早めて秋に向かっていた。
だが、破局の前ぶれは、唐突にやってきたのである。或《あ》る日の午後、お茶の時間を済ませた時のこと。滝子は寿々子を外に連れて行こうと言い出した。三人でピクニックの相談を始めるような、気軽な感じだった。
「連れて行くって、でもどこへ?」と、雅彦が訊《き》いた。
「近所の人の目にベルちゃんをさらすのはどうかな」(彼らはもう、順子がいない時は平然と寿々子をベルと呼んでいた)
「人がいないところに行くのよ。ほら」
滝子は寿々子の知らない神社の名前を言った。雅彦は「いいね」とうなずいた。
「車を呼ぶ?」
「ううん。歩いていくの。そのほうが気持ちがいいわ、きっと」
話はすぐにまとまった。寿々子はどぎまぎした。ここに来て以来、屋敷の外に出るのは初めてだった。怖いような嬉《うれ》しいようなくすぐったい感じがあった。
滝子が着替えをするために二階に上がっていくと、雅彦は寿々子の車椅子《くるまいす》のそばに膝《ひざ》まずき、「散歩だよ、ベルちゃん」と言った。「君には鎖《くさり》をつける必要がなくなったみたいだな」
彼がどういう意味でそれを言ったのか、寿々子にはよくわかった。彼は少し日に焼けて、たくましくなった感じだった。彼が寿々子に頬《ほお》ずりしてきたので、あんまり嬉しくなった寿々子は唇《くちびる》を雅彦の顎《あご》に押しつけた。麻痺《まひ》が完全に治っていない唇は不器用に彼の顎のあたりを動きまわった。
ふふ、と彼はくすぐったそうに笑った。寿々子はこのまま滝子がまた病にかかり、寝込んでしまえばいい、と思った。散歩もふたりきりで行けるのだったら、どんなに楽しいだろう。
二階から降りて来た滝子は、麻のギャザースカートにインド更紗《さらさ》のオーバーブラウスを着て、髪の毛をターバンでまとめ上げ、耳にいぶし銀の大きなイヤリングをつけていた。きつめの香水が匂った。レーリュ・デュタンだろう、と寿々子は思った。
「きれいだよ、ママ」と、雅彦がうっとりとした口調で言った。滝子は微笑《ほほえ》み、視線を流すようにして息子を見た。成熟した女の自信が視線の中に現れていた。寿々子は激しい嫉妬《しつと》を覚えた。滝子はくせのある顔立ちをしていたが、当然、今の自分の状態とは比較にならないくらい美しく見えたし、実際、美しかったからだ。
寿々子は子供がかぶるような何の変哲もない麦わら帽子をかぶせられ、紫外線から皮膚を守るために首まである厚手の長袖《ながそで》の白いシャツ、手にはレースの手袋、という恰好《かつこう》をさせられた。
順子が門のところまで送りに来た。まだ日は高く、気温も下がっていなかった。道路には人影がまったく見えなかった。誰《だれ》かが打ち水をしたらしい路面は、早くも水をはじきとばし、かえって暑苦しく見えた。
「暑いわ」
「暑いね」
親子は当たり前のことを何度か口にしながら、車椅子《くるまいす》を押し続けた。雅彦が大きな白いパラソルをさしかけた。路面に映る丸い影の中に、三人はすっぽりとはまった。
信号待ちで止まると、滝子は自分の使っているハンカチで寿々子の汗を拭《ぬぐ》った。レーリュ・デュタンの香りが寿々子の敵愾心《てきがいしん》をそそった。
大通りを横切り、しばらく続く急な坂道を上り終えると古ぼけた小さな神社があった。木立がうっそうと繁った境内に人影はなく、玉砂利を踏みしめる音がうるさく感じられるほど静かだった。
滝子はベンチを見つけて坐《すわ》った。ゆでた卵をむいたような白い顔には、しっとりと汗が光っていた。雅彦はぶらぶらと境内を歩き回り、変色して黒ずんだ賽銭箱《さいせんばこ》をのぞいたりしていたが、やがてそれに飽《あ》きると、石造りの狛犬《こまいぬ》にもたれかかりながら煙草に火をつけた。
あぶら蝉《ぜみ》が、終わりに近づく夏をあざけるようにして、けたたましく鳴いていた。滝子が「ねえ」と、寿々子に向かって言った。
「あそこに階段があるのねえ。きっと近道なのね」
言われた場所を見ると、滝子の言う通り、神社の境内の一角から急な階段が下に向かって伸びていた。滝子は立ち上がり、ちらりと雅彦のほうを見ると車椅子《くるまいす》を押し始めた。
「気持ちがいいでしょう? 外に出るのは何か月ぶり? ほうら、砂利の音がきれいだこと」
幼児をあやすような言い方だった。寿々子は目で雅彦の姿を探した。雅彦は狛犬の脇《わき》から動こうとしないで、滝子のすることをぼんやりと眺《なが》めていた。
滝子は何度か狭《せま》い境内をぐるぐると車椅子を押して回り、階段のところに来て立ち止まった。
「ほら、やっぱり」と、彼女は言った。
「ごらんなさいよ。ここから下に降りれば、さっきの交差点にすぐ出るのね。いい見晴らしだこと。うちが見えるかしら」
そう言いながら、彼女は車椅子に身体《からだ》をおしつけ、白い手を額にかざして遠景を窺《うかが》った。車椅子がかすかに動き出した。急斜面の階段がわずかずつだが、寿々子の足下に近づいてきた。
レーリュ・デュタンが一瞬、強烈な匂いを放った。得体の知れない恐怖が寿々子を襲《おそ》った。今、これから起ころうとしていること、その恐怖をどうやって雅彦に伝えたらいいのだろう。
身体《からだ》が固くなり、喉《のど》が締《し》めつけられるような感じがした。渾身《こんしん》の力をこめて首を後ろに曲げると、滝子の身体がすぐそこにあった。ふくよかな腹部がぴっちりと車椅子に押し当てられている。
「見えるわ。見える。あれがそうじゃない? お庭も見える。屋根も……」
滝子は歌うような調子で言った。その時、寿々子は見た。滝子の手が、車椅子《くるまいす》の背もたれにかけられ、やさしくそれを前に押し出そうとしているのを。
目の前には階段しかなかった。そのはるか下にある道路で、小さな女の子がふたり、草を摘《つ》んでいるのが見えた。カラスが一羽、頭上で鳴いた。
喉から激しく空気の音が洩《も》れた。車椅子の前車輪はもう、階段の初めの段すれすれのところまで来ている。身体が宙に浮くような感じがした。寿々子は目をつぶった。
「ママ」と、後ろで雅彦の声がした。背もたれから滝子の身体が素早く離れたのがわかった。
「何してるの? そんなところにいちゃ、あぶないよ」
雅彦が走り寄って来て、車椅子のハンドルをつかんだ。寿々子はあまりの恐ろしさに、首を動かすこともできなくなっていた。雅彦は彼女の変化にいち早く気づき、顔を近づけて訊《き》いた。
「どうしたの? ベルちゃん。なんだかおかしいな」
寿々子は瞳《ひとみ》をこらして彼を凝視《ぎようし》し、心の中で叫んだ。
私ハ殺サレルトコロダッタ。アノ女ニ、確カニ殺サレルトコロダッタ。
雅彦は不審げに寿々子を見たが、すぐに歯を見せて笑った。
「ほらほら、そんなに無理して口を開けるとよだれが出ちゃうぞ」
彼は二本の指で軽く寿々子の顎《あご》をつついた。冷たい汗が寿々子のこめかみを流れていった。
「帰るわ」と、滝子が金属をたたいた時のような冷やかな声で言った。蝉《せみ》がひときわ声を張り上げて鳴き出した。
「何してるの、雅彦。帰るのよ」
「もう?」
「ええ、今すぐ。なんだか疲れたわ。日に当たり過ぎたのよ、きっと」
雅彦は母親を見て、次に寿々子を見た。寿々子は皺《しわ》の寄ったゴムのような唇《くちびる》を懸命に動かしながら、彼にショックを伝えようと努力した。雅彦は何も言わずに車椅子《くるまいす》の向きを変えると、黙《だま》って母親の後に従った。
25
雅彦は筆談用に新しくおろした白いノートを長い間、見つめていた。まるでそこに書かれてある文字が、見ているうちに消えてくれるかのように。
ノートには乱れた文字が次のように並んでいた。
アノオンナニ、コロサレカカッタノ。サッキ、カイダンノウエデ。
順子は自室に引き取っていたし、滝子は雅彦に飲まされたいつもの睡眠薬でぐっすり眠っていた。薬がなかったら、今夜の彼女はまたいつかのような興奮状態に陥《おちい》りそうだということは雅彦にもわかっていた。
風はないでいたが、昼間の暑さと比べたら、夜はずっとしのぎやすかった。庭で虫が鳴き始めた。彼はノートから目を上げ、寿々子を見た。
「本当?」と、彼はつぶやくように訊《き》いた。
寿々子はうなずいた。ショックは遠のいていたが、身体《からだ》の芯《しん》にまだかすかな震《ふる》えが残っているような気がした。
彼は目を閉じ、首を振り、微笑《ほほえ》ましい話を聞いた後の大人のような笑顔を作って「気のせいさ、ベルちゃん」と言った。
「そんなことがあるわけがない。ママは君に景色を見せようとしたんだよ。そのために階段のところまで行ったんだ。外に出るのが久し振りだった君は、階段のてっぺんに車椅子《くるまいす》を持ってかれたので、ちょっと神経質になっただけさ」
違う、違う、と彼女は心の中で叫んだ。明らかに殺意を感じたのよ。もし錯覚《さつかく》だったとしたら、どうして、あの女はあれから様子がおかしくなったの? 失敗したんで神経が混乱したんだわ。そうに決まってる。
「いいかい、ベルちゃん」と、雅彦は彼女と並んでベッドの背もたれにもたれかかった。
「ママは相当、病んでいるけど、人を殺せるような女じゃないよ。君の間違いだ。それに第一、ママは君のことを可愛《かわい》がっている。君が好きなんだ。玲奈じゃないから好きなんだよ。今日、突然、調子が悪くなったのは君のせいじゃないさ。日に当たりすぎたんだ。時々、そうなるから僕にはわかる」
寿々子が激しく身を震《ふる》わせると、雅彦は片腕で彼女の肩をくるみ、あやすようにしで強く抱き寄せた。
「お馬鹿《ばか》さん。考えすぎだよ。君をこれ以上傷つけたいと思う奴《やつ》なんかいないってば。ここは安全だし、世界一、静かなところだよ。もうすぐ秋が来て、冬が来る。でも、僕らは同じ。変わらないでいられるんだ。素敵なことだろ?」
汗の匂いがするシャツに鼻が押しつけられた。慣れ親しんだその匂いを深く吸い込んでいると、次第に気持ちが落ち着いてきた。まるで滝子自身になったような感じだった。滝子も発作をおこすたびに、おそらくこうして彼に抱かれ、なだめられていたのかもしれない。
雅彦に言下に否定されてしまうと、寿々子はあの時の恐怖があやふやなものになっていくのを感じた。あの時、滝子はただ単に車椅子《くるまいす》の後ろ側で、遠くを見ていただけだったのかもしれない。高い場所から下を覗《のぞ》き見たことで、自分の中の馬鹿げた恐怖心が突然、噴出《ふんしゆつ》しただけなのかもしれない。
……僕らは同じ。変わらない。
そう思いたい。自分だってそう思っていたい。しかし、自分が滝子に説明しがたい嫉妬《しつと》を感じているのと同じように、滝子も自分に激しく嫉妬している。それはわかるのだ。この男、このひとりの珍しい獣のような若い男を間にはさんだ形になってから、三人の関係は変わった。それまで二等辺三角形を描いていた三人の関係は、自分が玲奈ではないことを告白してから、吐《は》き気がするほど通俗的な正三角形となったのである。滝子が自分に殺意を抱いたとしてもおかしくないではないか。
だが、寿々子は胸の中に巻きおこっている嵐《あらし》をそれ以上、雅彦に訴えることは避けた。うまく伝わらないことは忘れて、時間の波に身体《からだ》を委ねる方法を学んだのは皮肉にもこの屋敷に来てからのことだった。
「君に言わなくちゃいけないことがあったな」と、彼は寿々子が落ち着いたのを確かめてから、ぽつりと言った。
「君の恋人の佐伯五郎のこと」
寿々子は首を起こした。彼は半ば、いたずらを告白する時のような冗談《じようだん》めいた口調で続けた。
「僕は君に彼の生死について知らせてなかったよね。彼は生きてるよ。大怪我《おおけが》をしたらしいけど、でもちゃんと生きてるよ」
そう言うと雅彦は腕をはずして寿々子の顔を正面からまじまじと見た。
「ごめんよ。教えなくて」
寿々子はじっとしていた。じっとしながら、いま自分の顔はデスマスクのようにこわばっているに違いない、と思った。何をどう考えたらいいのか、わからなかった。五郎が生きている。生きている……。
雅彦も動かなかった。彼は息をこらすようにして彼女を見つめた。ふたりは永い間、同じ姿勢で見つめ合った。どちらかが何かを言うのを互いに拒絶しているかのように。
彼の腕にはめた時計の秒針の音が聞こえた。寿々子の耳の中に熱い砂が流れていった。
「顔色を変えなかったね」と、しばらくたってから雅彦は唸《うな》るように言った。
「それでいいんだよ」
彼は目をそらし、ふふっ、と自虐的《じぎやくてき》に笑った。
「君が顔色を変えていたら、僕は傷ついたに違いない」
寿々子は鼻の奥が熱くなるのを感じた。彼女は不器用にノートに文字を書いた。
ドコノビョーインニイルノ?
「知っても無駄《むだ》だよ」
雅彦は他人を見るような慎《つつし》みのこもったまなざしで彼女を見つめた。
「彼は完全に記憶《きおく》を失ってるから」
寿々子は目を上げ、鼻をすすり、二、三度まばたきをした。他人事を聞いているか、さもなくば「あの時計は完全に故障している」とでも聞き違えたかのような感じがした。
完全に記憶《きおく》を失っている。完全に記憶を記憶を……。
鼻の奥の熱さが喉《のど》と目に広がり、寿々子は嗚咽《おえつ》した。だが、どうして泣くのか、よくわからなかった。望んでもいないこと、諦《あきら》めきったことに再度、絶望している自分が哀れに思えた。
「泣くなってば。もう済んだことさ、ベルちゃん。僕はあの日、図書館で調べてすぐに君の恋人が記憶を失っていることを知った。つまり、彼が生きてることを君に正直に知らせたところで、同じだってことさ。そう思わないかい。黙《だま》っておいたほうが、君のためになると思ったんだよ」
彼の言い方はことのほか優しく、正直で、その上、誠意にあふれていた。彼は諭《さと》すように続けた。
「君も彼も昔には戻《もど》れないんだ。君がここにいることを知っている人間は誰《だれ》ひとりとしていないんだ。彼が記憶を失ってる限りは、君が生きてるかもしれない、誰か他の女と間違われて生きているかもしれない、と一瞬《いつしゆん》でも考える人は誰もいないんだ」
寿々子は彼の言うことを認めた。五郎が記憶を失っていなければ、あの夜、コートを間違えて着てしまった寿々子のことをいつかは思い出してくれたかもしれない。いや、それだけではない。少なくとも自由ケ丘のバーのトニーがあの晩、ふたりの計画を聞いていてくれたら、寿々子が調査を依頼した興信所を当たってくれただろう。調査員の持田は、あの晩、寿々子がバーバリのコートを着ていたことを知っている。唯一《ゆいいつ》の女の生存者がバーバリのコートを着ていたのだから、トニーはもしかするとそれが寿々子でないか、と疑ってくれた可能性もある。
しかし、五郎は記憶《きおく》を失い、そしてトニーはあの馬鹿《ばか》げた計画のことを知らなかった。水木容子は彼女がバーバリのコートを着てオフィスを出たのを知っていたが、唯一《ゆいいつ》の女の生存者がバーバリのコートを着て発見されたことは知らないだろう。そんなことは警察と病院しか知らないことだ。それにトニーと違って、容子に寿々子の死を疑ってかかる理由は何もない。
初めから運命は決まっていたのだ。寿々子がこの屋敷に来て、常軌《じようき》を逸《いつ》した人間関係の中に溶け込み、さらに雅彦に対して信じがたい感情を抱いてしまったことも含《ふく》めて……。
「泣くなよ。頼む、ベルちゃん。僕がついてるよ。どこにも君をやりたくないんだ。もう警察にも連絡しない。約束は取り消しだ。ひどいと思うかい? でも仕方ないよ。僕は君を手放す気がなくなったんだ。君はずっとここにいるんだ。いなけりゃいけない」
寿々子は嗚咽《おえつ》をこらえながら、彼を見つめた。雅彦はちょっとだけ笑い、ウインクをし、噛《か》んで含めるようにゆっくりと「いなけりゃいけない」と繰り返した。
寿々子はノートを引き寄せると、デッサン用のエンピツを握《にぎ》りしめた。
ドウシテ?
雅彦は寿々子の涙を人差し指で拭《ぬぐ》った。そして彼女の顔をじっと見つめると、その指を自分の口に持っていった。半ば開きかけた彼の唇《くちびる》と白い形のいい歯との間に、涙で濡《ぬ》れた人差し指が差し込まれた。彼は彼女の涙を嘗《な》め、味わい、満足そうに微笑《ほほえ》んだ。
「どうして、だって? お馬鹿《ばか》さん。君が好きだからだよ」
寿々子の顎《あご》、頬《ほお》、鼻、唇《くちびる》に彼の長い指が順番に触《ふ》れた。彼は彼女の髪の毛の匂いを嗅《か》ぎ、耳たぶに唇を寄せた。そうやっていくつかの儀式を終えた後、唇がゆっくりと塞《ふさ》がれた。彼の唇は柔《やわ》らかく、なめらかだった。寿々子は閉じていた自分の唇が彼の吐息《といき》によって徐々に開かれ、その間に暖かい舌がおずおずと差し込まれるのを感じた。
耳の中で血液が音をたてて流れていった。自分の唇が麻痺《まひ》していたなんて信じられなかった。彼の舌を噛《か》み切りたいという奇妙な衝動《しようどう》が彼女を襲《おそ》った。
彼は唇を離すと寿々子の首すじに沿って小鳥のようなキスをし、それからまた唇に戻《もど》った。彼の心臓が信じられないほど早く鼓動《こどう》している音を聞き、寿々子は感動した。彼女は思うように動かない腕を精一杯動かし、彼を抱きしめようとした。彼の手が彼女の胸元にすべりこんだ。
「かわいいよ、ベルちゃん」彼が囁《ささや》いた。「マシュマロみたいだ」
数秒の間、彼の手は寿々子の乳房を玩《もてあそ》ぶようにしていたが、やがて動きを止めた。彼は急に矢で射止められた動物のようにがっくりと寿々子の肩に首を預けた。ベッドのきしむ音やシーツのかさかさという音が途絶《とだ》えた。スタンドの明かりがぼんやりと部屋を照らし出し、家具の後ろの壁に大きな影を作っている。庭からはいってくる風には、荒れた夏の土の匂いがあった。
寿々子の痩《や》せた小さな肩から胸にかけて、微《かす》かな振動がおこった。雅彦の背中が揺《ゆ》れた。あえぎのような嗚咽《おえつ》が彼の口から洩《も》れた。彼はライトブルーのシーツを片手で握《にぎ》りしめながら、鼻をすすり、軽く咳《せき》をし、「笑ってくれ」と低い声で言った。
「笑ってくれよ。僕はもう後もどりできない。誰《だれ》も僕を助けられない」
寿々子はわけのわからない衝動《しようどう》を覚え、超人的な力をこめて腕を彼の背中の上に乗せた。彼はふと目を上げ、寿々子を見上げた。大きな目が濡《ぬ》れて光った。
「僕はどうすればいいんだろうね、ベルちゃん。一生、ここにいて、一生、こんな馬鹿《ばか》げた堕落《だらく》した生活を続けるしかないんだろうか」
寿々子は目を細めて彼を見た。口がきけないことを不自由に思わなかったのはそれが初めてだった。たとえ、口がきけたとしても、彼女はその時、雅彦に何と答えていいかわからなかったろう。
彼はしばらくの間、寿々子を見上げていたが、やがてうっすらと目を閉じ、彼女にしがみついたまま動かなくなった。庭の絶え間ない虫の声を聞きながら、寿々子も目を閉じた。そのままの姿勢で消えてしまえれば、どんなにいいかと思いながら、彼女は人間の不幸の形が、これほどまでに多様に存在することをおよそ生まれて初めて知った。
26
順子が、玲奈の寝室を掃除していて、ベッドマットレスの下に一冊の真新しい大学ノートをみつけたのは、その翌日のことだった。
玲奈は雅彦と共に居間にいたし、滝子は二階で何やらクローゼットの中の整理をしていたから、部屋には誰《だれ》もいなかった。
故意にのぞき見るつもりはまったくなかった。屋敷の中のこと一切を任されてはいたが、彼女はこれまでも一度としてプライバシーに関するものを盗み見たりしたことはない。それは彼女の中の一種の生真面目《きまじめ》さの現れというより、むしろ、幼児のころからの環境のせいだった。彼女は母や祖母に「他人様のものをやたらと盗み見たりすると神様がちゃんとご覧になっていて、死んでも天国に行けなくなる」と、言われ続けながら育ったのである。
昔、順子と同じ中学校に通っていた子が地主の家に遊びに行った時、その家に来た郵便物をいたずら半分に開封し、地主の妻に当てられた恋文であることを発見してその内容を自分の親に喋《しやべ》ったことがあった。親が興味を持ち、噂《うわさ》を広めたために地元のつまらないスキャンダルとなり、地主の妻は離縁された。
その後、一か月ほどたってから突然、いたずらした張本人が原因不明の病気にかかり、苦しんだあげく死亡した。祖母は「ほらごらん。あれは神様がご覧になっていて、そのこらしめを受けたのだ」と言った。順子にはとてつもなく恐ろしいことに思えた。以来、どんなことがあっても、他人のプライバシーだけはのぞくまい、と固く心に誓ったのである。
だからそのノートの間に太いデッサン用の鉛筆がはさまれていなかったら、順子がページを開くことは決してなかったと言える。
鉛筆が転がり出て来たため、彼女はそれを拾い、元通りにしようと思ってページを開けた。何やら細かい文字がびっしりと詰まっていたのだったら、彼女はすぐにページを閉じるつもりだった。だが、はらりと開いたノートの最初のページには、太く、それでいて弱々しい震《ふる》えたような文字が見えた。読んだのではない。見えたのだ。
『アノオンナニ、コロサレカカッタノ。サッキ、カイダンノウエデ』という文と『ドウシテ』という文がそれぞれ、離ればなれに斜めに書かれてあった。
順子はすぐにノートを閉じ、本能的にあたりを窺《うかが》った。手が冷たくなり、汗がにじみ出てくるのを感じた。
二階からも居間からも物音ひとつしなかった。野鳥が一羽、けたたましい声を張り上げて庭の梢《こずえ》から飛び去った。
彼女は目をつぶり、「神様」と心の中でつぶやいた。ごめんなさい。でも、もしかするとこれは大変なことかもしれないんです。
再び目を開け、ノートの最初のページを見た。「コロサレカカッタ」という文字が彼女を震え上がらせた。急いで元通りに鉛筆をはさみ、ノートをマットレスの下に隠した。心臓がどきどきして、顔に血がのぼってきた。彼女は放心したまま急いでベッドメイキングを済ませた。慌《あわ》てていたので、床に転がしておいたクリーナーのノズルにつまずき、つんのめった。
不意にその瞬間《しゆんかん》、先日、二階の滝子の部屋の前で聞いてしまった話を思い出した。
「玲奈だと思ってればいいんだ。どこへも行けやしないよ」
あの時は何のことかよくわからなかった。多分、顔も姿も変わってしまった玲奈に、彼等がどうしても家族としての親しみを持てないからそう言ったのだろう、と思っていた。
そもそも、順子は矢内原の親子には秘密があって、多分それは玲奈に関係することなのかもしれない、とは薄々《うすうす》気づき始めていた。時折電話をかけてくる野々村という弁護士が、玲奈を城山家に引き取りたい、と申し出ていることに滝子が動揺《どうよう》しているのもわかっていた。
どこの家にも多少は他人に知られたくない秘密があるものだ。以前、住み込んでいた家にだってあっただろう。自分の実家にだってある。そうした秘密がひとつもない家のほうがおかしい。
そう思えば、この矢内原の家の秘密がどんなに複雑なものであったとしても、順子には所詮《しよせん》、関係のないことだった。滝子さえ神経を病まないで元気でいてくれればよかった。家の事情に首をつっこむつもりは毛頭なかったのだ。
だが今、彼女の中には様々な疑問が芽生え出した。
あのノートに文字を書いたのは玲奈だ。どうして、玲奈は看護人でもある自分に筆談ができるようになったことを隠していたのだろう。隠す必要があったのだろうか。雅彦はゆうべ、ずっとこの部屋にいたようだから、この文章は雅彦に向けて書かれたものに違いない。だとしたら、雅彦も玲奈とぐるになって筆談の件を医者にも隠していたことになる。医者は、そろそろ手のスプリント(副子)にアタッチメント取り付け具をつけ、書字や食事など、身のまわりのことを自力で行うための訓練を始めたい、と言っていた。もし、スプリントなしに書字ができるようになったのなら、真先にそのことを医者に報告していたはずなのだ。
それに階段の上……というのはどこだろう。ここの屋敷の階段であるはずがない。車椅子《くるまいす》で玲奈が二階に上がったことはかつて一度もないからだ。階段……と、順子は考えてぞっとした。
昨日、外へ出かけた時の話に違いない。どこへ行ったのかはわからないが、多分、どこか階段のある場所に行き、そこで玲奈は誰《だれ》か女の人に……。
玲奈だと思えばいいんだ……という雅彦の声が甦《よみがえ》った。あの気の毒なお嬢《じよう》さまが玲奈さんではないとしたら……。
死亡した玲奈の夫は、彼女に多額の遺産を残したらしい。その遺産欲しさに誰かが矢内原の家族と組んで、玲奈とすり代わっているのだろうか。
まさか、と順子は首を振った。そんな馬鹿《ばか》なことがあるはずがない。あのお嬢様《じようさま》が玲奈さんではないなどということはあり得ないではないか。あのディスコの爆発事故は正真正銘の事故だった。生存者のひとりは玲奈さんである、と確認されたのだ。それに、仮に玲奈さんと間違われて生存者扱いになっていたとしても、少なくとも、そんな人がこの屋敷に来てあんなに居心地のいい様子で暮らせるわけがない。
あれは玲奈さんだ。そして誰か、誰か女の人が玲奈さんを殺そうとしているのだ。理由? 理由などわからない。ともかく玲奈さんは殺されかかっているのだ。
順子はぶるっと身震《みぶる》いをした。その女というのは滝子に間違いない、と思ってしまったからである。順子が知っている限りでは、玲奈が屋敷に来て以来、女の来客があったことは一度もない。この家の中で女というのは、自分を除くと滝子だけなのだ。
どうしよう、母さん、と順子は小声でつぶやいた。警察? こんなことを聞いてくれるだろうか。
「順子さーん」と、二階の踊り場から拍子抜けするほど明るい滝子の声がした。順子は慌《あわ》ててエプロンで手の汗を拭《ふ》くと、部屋の外へ飛び出して行った。
27
どこかで蜩《ひぐらし》が鳴き始めた。
「カナカナカナ……」と、雅彦がその鳴き声を真似《まね》た。
「どうしてあれが別名、カナカナというのかわかんないな。どう聞いてもカナカナとは聞こえないよ。キキキキ……って聞こえる。僕には」
車椅子《くるまいす》の中で寿々子は微笑した。西の空には目も醒《さ》めるような鮮やかなオレンジ色の大きな太陽が沈みかかっている。いつか見た線香花火がくすぶって燃えつきる寸前の火球に似ている、と寿々子は思った。
その日、四時を過ぎてから滝子は黒っぽい絽《ろ》の着物を着込んで、どこかへ出かけて行った。行き先は雅彦にも順子にも告げなかった。
散歩に行こうと誘《さそ》ったのは雅彦のほうだった。その誘い方は明らかに滝子の留守を狙《ねら》っていたという口ぶりだった。滝子に対するそうした露骨な排除の姿勢を寿々子に見せたのは初めてのことであった。雅彦の心のどこかで何かが音をたてて崩れていく、その瓦解《がかい》の音がはっきりと寿々子に聞こえるような感じがした。
夏が終わりかけている夕暮の住宅街は、あちこちに蚊柱が立ち、空気がもやいでいるように見えた。雅彦はゆっくりと車椅子《くるまいす》を押し、通りを抜け、坂道を上った。空気は昼間の暑さの名残をはらんで、湿っぽく生ぬるかったが、坂の上に行けば行くほど風が立ち、汗ばんだ肌《はだ》に心地よかった。
坂の多い土地だった。雅彦の話によると、古い住宅地なので区画整理が現在のようにきちんと行われないうちに家が建ってしまったせいであるらしい。先日、寿々子が滝子の殺意の幻影を見た神社とは真反対の坂をふたりは上った。とても急な坂だった。坂の回りは地ならしをした駐車場や空き地になっており、最近、建ったらしい新築の小ぢんまりとした家がその後に何軒か続いていた。
「僕が中学生のころ、大雪が降った時、この坂でスキーごっこをして遊んだことがある。プラスチックの板をお尻《しり》の下に敷いて、滑ったんだ。よく滑れたよ。あとでお尻に青あざができて一か月間、消えなかった」
雅彦はくすりと笑い、寿々子の顔をのぞきこんだ。
「お尻《しり》で滑るんなら、ベルちゃんにもできるね。冬になって、雪が降ったら一緒にやろう」
寿々子は微笑《ほほえ》み、大きく息を吸った。説明がつかないくらい彼女は幸福だった。分析したり、推理したり、方法を練ったりすることをやめてしまった後の幸福感だった。世界の中にふたりきりしか人間がいないような気さえした。もし、本当にそうなったとしても雅彦とだったら幸福に生きていけるだろう、と彼女は思った。
あたりに人影はなかった。夕暮が迫《せま》り、薄墨色《うすずみいろ》の陽炎《かげろう》のような空気が街を覆《おお》っていた。雅彦は近くの空き地に入って行き、そこで車椅子《くるまいす》を止めた。ぼうぼうと伸びた草の根元で虫が鳴いている。
雅彦は寿々子の腰の下に手を入れ、彼女を軽々と抱き上げた。萎《な》えた手足がだらりと垂れ下がった。ひどく醜《みにく》いのではないか、と寿々子は恥《は》ずかしく思った。
「こうして味わう外の雰囲気《ふんいき》もいいだろ。ほら、ここは眺《なが》めもいい」
彼は彼女を抱いたまま、空き地のはずれまで行き、街並みが拡《ひろ》がる景色を見せた。遠くの国道をひっきりなしに走る車の音がする。世界が動いていた。宇宙が躍動《やくどう》していた。あの車の一台一台に、あの家々の一軒一軒にささやかなドラマがある。そして誰《だれ》もが息づき、今の自分と同じく幸福の予感を信じて生きているのだ、そう思うと寿々子は胸が熱くなった。
雅彦は頬《ほお》を寿々子に寄せ、じっとしていた。彼の唇《くちびる》が彼女の唇を求め、ふたりは長い間、少年と少女のように恥《は》じらいながらキスを続けた。
「君がいてくれて嬉《うれ》しいよ」と、彼は言った。
「君がいなくなることは考えられない」
寿々子はうなずいた。泣きたいと思ったが、泣くのはこらえた。これまで、あんなに何度もみじめな涙を流したことを思うと、感動の一瞬《いつしゆん》には涙など流したくなかった。
「これまで女といったらママしか知らなかったし、ママ以外の女に触《ふ》れる気もしなかった。でも君は違う。君はなんだか、僕を変えそうな気がするよ。多分、僕は変わると思う。君といると、ものすごくエネルギーが湧《わ》いてくるのを感じるんだ」
彼の顔は若々しくつややかで美しかった。若駒《わかごま》のような獰猛《どうもう》さすら垣間見《かいまみ》えた。寿々子は胸が一杯になり、息苦しい喜びに包まれていくのを感じた。
またどこかで蜩《ひぐらし》が鳴き出した。寿々子は不意に五郎を思った。微《かす》かな罪悪感がさざ波のように押し寄せたが、不思議なことにすぐに泡《あわ》となって消えた。五郎も自分もあの時、死んだのだ、と彼女は胸の中で何度か繰り返した。顔や姿が別人となり、四肢の麻痺《まひ》と失声症を背負いこんだ自分と、完全に記憶《きおく》を失った彼とが再び、生きて会ったとして、何の意味があるだろう。
死んだのだ。私も彼も。私は玲奈の仮面をかぶって、過去を消し、新しく生きる。それでいい。
「ベルちゃん、少し前より重たくなったな。太ったんだ」
雅彦は子供を抱いて空に放り上げる時の父親のような顔をして寿々子の身体《からだ》を揺《ゆ》すった。
「もっともっと太るんだよ。僕を包んでしまうくらい太ったマシュマロになってくれ」
彼は笑いながら彼女の頬《ほお》にキスをした。彼女も出ない声を喉《のど》の奥からしぼり出して笑った。
「君を離さないよ、ベル。僕はもうあの家にいたくない。ほんとだ。これまで取り返しのつかないような生活を送ってきてしまったけど、君がいてくれたら僕はもう一度、生きられそうな感じがする。不思議だよ。ほんとに不思議なんだ。あの家を出たいと本気で思ったのは初めてなんだ」
彼の目がきらめきを帯び、そして薄《うす》い透明《とうめい》な膜《まく》が瞳《ひとみ》をおおった。
「ほんとさ、ベルちゃん」
後ろで草を踏みしめる音がした。まず雅彦が振り返り、次いで寿々子が振り返った。
ダークブルーの空とくすみかけた夕焼けを背にして、絽《ろ》の着物を着た滝子が立っていた。着付けが胸元のあたりで少し乱れ、結い上げた髪がほどけかかって危なげに額に垂れていた。無表情のまま、滝子はうふふ、と笑い、目を細めた。
「びっくりしたよ、ママ。どうしてここがわかったの」
雅彦は明らかに動転していた。だが、滝子はそんなことはどうでもいいとでもいうように、小首を傾げた。
「楽しそうね」
雅彦は黙《だま》って車椅子《くるまいす》に寿々子を坐《すわ》らせ、「どこに行ってたの?」と、平静さを装って訊《き》いた。
「ちょっと用があったの」と、滝子は微笑《ほほえ》んだ。寿々子が何度か訊いたことのある、ねばねばした口調だった。
「三人で散歩しようと思ってたら、急にどっかに行っちゃうから、心配したよ」
「そう」と、滝子は言った。
「心配してくれたわりには、まあちゃんはこの娘《こ》とやけに楽しそうだったじゃない? ママ、さっきからずうっと見てたのよ」
「さっきからって?」
「さっきからよ。教えてあげましょうか。あなたがたが、この空き地に入りこんでキスを始めた時からよ」
雅彦は答えなかった。滝子の目が車椅子の中で小さくなっている寿々子に注がれた。滝子は中腰になって寿々子の顔をのぞきこんだ。
「雅彦のキス、よかった?」
おそろしくやさしい声だった。寿々子は目をそらした。
「ねえ、聞いてるのよ。雅彦のキスはよかった?」
「やめろよ、ママ」と、雅彦が滝子の腕をつかんだ。
「あら、どうして?」
「馬鹿《ばか》げてるよ」
「そう」と、滝子は言って立ち上がった。「確かに馬鹿げてるわよね。息子がキスをした相手に母親がどうだった? なんて聞くのは、やっぱり馬鹿げてるわね。ママ、頭がおかしいから」
「やめてくれよ」
雅彦の声は苛立《いらだ》ちを含《ふく》んでいた。滝子は着物の袖《そで》で顔をあおぐと、「おお、こわいこと」と笑った。口元に、引きつれが小さな蛇《へび》のように拡《ひろ》がった。
「そんなこわい顔、ママに見せるのは初めてね」
笑顔がみるみるうちにこわばり、能面のように冷やかになった。寿々子はぞっとした。
「さあ、帰ろう、ママ。ここは蚊が多いよ」
「帰って何するの」
「何って、夕食をとるのさ。それからシャワーも浴びるよ」
「夕食をとってシャワーを浴びて、それから何するの」
「何をしてもいいよ。テレビを見てもいいし、本を読んでもいいし、ママのピアノを聞いてもいいし、それから……」
「それから? それからどうするのよ」
「いったいどうしたんだい、ママ」と、雅彦は苦笑しながら言った。だが、滝子は笑わなかった。
「それからあなたはこの娘《こ》の部屋に行くんでしょ。そしてベッドにもぐりこんで、一緒に寝るんだわ。そうじゃないこと? ママは知ってますよ。この間の夜、ママにいつもの薬を飲ませて眠らせた後、あなたはこの娘の部屋にひと晩中、いたんだわ。わかるのよ、私には。カンでわかるのよ。今日もそうするつもりなんでしょ。ママに薬を飲ませて、頭のおかしい母親の悪口を言いながら、あなたは……」
「やめろってば。いったい何が言いたいんだ」
滝子は黙《だま》って深呼吸をし、ひとりでうんうんとうなずき、空を仰ぐようなふりをして目をしばたたかせた。
「なんでもない」と、かさかさした唇《くちびる》が言った。「悪かったわ。ますます、まあちゃんに嫌《きら》われるわね。ママがこんなだから、あなた、家を出たいなんて言い出したのよね」
「そんなことないよ」と、雅彦は言ったが、その口調には或《あ》る種のうっとうしさが含《ふく》まれていた。
「さあ、帰ろう。もう、食事ができてるころだし」
滝子は寿々子の車椅子《くるまいす》のハンドルを握り、「そうね。帰りましょ」と、言った。
「カラスが鳴くから帰りましょ……だわね。ねえ、ベルちゃん。あなたはきれいよ。若いし。雅彦が夢中になるのも無理ないわねえ」
車椅子《くるまいす》を押す滝子の顔が寿々子の顔の上に被《おお》いかぶさった。吐《は》く息は生臭かった。
寿々子はいやな予感がした。滝子の足さばきは奇妙に軽やかだった。車椅子はぐいぐいと押されながら、またたく間に空き地の外に出た。雅彦が後を追う気配があった。
空き地を出ると、滝子はますます歩く速度を早めた。卵色をした坂道が目の前に拡《ひろ》がった。誰《だれ》もいなかった。はるか下で一台の大型トレーラーが左折して坂を上がりかけているのが見えた。
寿々子は全身の汗腺《かんせん》が一度に開くのを覚えた。目をつぶろうとするのだが、まぶたが痙攣《けいれん》して閉じてくれない。
耳の横で滝子の絽《ろ》の着物が激しく擦《す》り合う音がする。蛇《へび》の抜け殼《がら》を擦り合わせるような音。コンクリートの上を走る草履《ぞうり》の乾いた音。
後ろで雅彦が「ママ!」と叫ぶ声がした。
その声を耳にした瞬間《しゆんかん》、すべり台の上から、誰かに背中を押されたような感じがした。車椅子のハンドルの上に、滝子の手が乗っていないことは明白だった。
車椅子は、初めはごろごろと不安定にすべっていたが、次第に驚くほどのスピードで坂を落ち始めた。寿々子は口を開け、叫ぼうとした。喉《のど》がぜいぜいと鳴った。手足は硬直の限りを尽くしてびくとも動かなかった。
トレーラーが道幅いっぱいに坂を上がって来た。警笛が何度か激しく鳴らされた。急ブレーキの音と共に、運転手がドアを開け、飛び下りる姿勢をとったのが見えた。寿々子の目の前にトレーラーの壁が迫《せま》った。巨大な、鋼鉄の壁に「冷凍食品」と書かれてあるのがはっきりとわかった。
彼女は目をつぶった。終わりだと思った。今度こそ本当の終わり……。
雅彦が猛《もう》スピードで走って来て、タックルでもするかのように寿々子の身体《からだ》ごと車椅子《くるまいす》を支えたのと、トレーラーの運転手が両腕を広げて寿々子を守ろうとしたのはほぼ、同時だった。
車椅子は不気味な軋《きし》み音をたてて、トレーラーの壁の直前で停止した。雅彦にぶつかって、運転手がよろめいた。ごつん、と何かを打った音がした。
「馬鹿野郎《ばかやろう》」
顎《あご》に真っ黒な髭《ひげ》をはやした上半身裸の運転手が怒鳴《どな》った。「いったい何だってんだよ。こんな坂で車椅子から手を放すなんてよ。すべり台ごっこでもやろうってのかい」
雅彦は喘《あえ》ぎながら姿勢を起こし、「すみません」と言った。
「手がすべってしまって……」
「あとちょっとで、俺《おれ》の車に飛び込むとこだったんだぜ。なあなあ、お兄さん、頼むぜ。気をつけてくれよ。心臓が止まりそうだったよ」
「申し訳ありません」
雅彦は寿々子を抱きしめ、ショックで胃液を吐《は》き戻《もど》していた彼女の口の回りを手の平で拭《ぬぐ》った。
「大丈夫かい? え? 家まで送ろうか」
「大丈夫です。ありがとう」
彼はそう言って、運転手に頭を下げた。
坂の上に滝子の姿はなかった。
28
順子は、居間にあるクラシック調のけばけばしい電話機を前にして床に正座し、エプロンを両手で握《にぎ》りしめた。公共機関専用の電話帳は、さっきから同じページが開かれている。なんとなく恐ろしくて、窓を閉めきってしまったため、部屋の中は熱気がこもり、息苦しいほど暑かった。
警察署に電話したことなど、かつて一度もなかった。かねがね、ダイヤルを一一〇と回すだけで本当に警察が呼び出せるのだろうか、と不思議に思っていたほどである。
だが、そんなことは言っていられない、と彼女は大きく息を吸った。二日前に見てしまったノートの文字が彼女の頭から離れなかった。どうしよう、どうしたらいいんだろう、と思いながら時間が過ぎていく。表面上はいつもと何ら変わりなく過ごしている矢内原家の人々も、そうした目で見てしまうせいか、どうも様子がおかしいように思えてならなかった。どこが、と聞かれてもうまく答えられない。ただ、何かがおかしかった。不自然だった。
その日の朝、掃除の時に順子はそっとマットレスをめくってみた。あのノートにまた別の筆談がなされているかもしれない、と思ったのである。しかし、ノートは太い鉛筆と共になくなっていた。
いけないこととは思いながらも、彼女は玲奈の部屋の隅々《すみずみ》まで調べてみた。ライティングデスクの引き出しも開けてみたし、額縁の裏も覗《のぞ》いてみた。だが、ノートはおろか、メモの類《たぐい》も見つけることはできなかった。
雅彦がノートを持っているに違いないことはわかっていたが、彼の部屋まで調べまわる勇気はなかった。そんなことをして、もし咎《とが》められたら、と思うと怖くて震《ふる》えが走った。今や順子は矢内原の屋敷にすむ人間全員が恐ろしかった。大きな秘密を抱えていながら、何事もないかのように生活していける彼等の神経が恐ろしかった。心を病む滝子も、仕事もせずに家の中でぶらぶらしている雅彦も、そして身体《からだ》が不自由でありながら妙な色気を感じさせる玲奈という娘も、皆、恐ろしい悪魔に思えてならなかった。
彼女は受話器をそっと取り上げた。耳元に当てるとツーッという音が軽やかに聞こえた。もう一度、深呼吸をし、順子は頭の中で言うべきことをまとめ、復唱した。
すみません、ちょっとご相談したいことがあるんです。実は私は、ある家の住み込み手伝いをしている者なんですが、ここのお嬢さんがせんだってのガス爆発事故に遭《あ》われて、口もきけない状態で……。そのお嬢さんが筆談したと見られるノートを見てしまったんです。そしたら、そこには……。
ああ、だめだ、と順子は吐息《といき》をついた。こんなことに警察は真面目《まじめ》に相談に乗ってくれるだろうか。それにうまく喋《しやべ》れそうにない。何の証拠《しようこ》もない。確認したわけでもない。妄想《もうそう》だと言われてしまうだろうか。それともただのいたずら電話だと思われてしまうだろうか。
大きな古い掛け時計が七時を告げた。順子は首を伸ばして外の様子を窺《うかが》った。あの人たちが帰ってこないうちに、相談だけでもしてしまわないといけない。何と思われたっていい。馬鹿《ばか》にされてもともとだ。ともかく相談すべきことなのだ。
彼女は意を決して同区内にあるI警察署の電話番号を回した。心臓がどきどきして破裂しそうな感じがした。一回コール音が終わるか終わらないうちに、若い男が出て警察署の名を早口で言った。そのテンポの早さに順子はどぎまぎし、口ごもった。
「あのう……」
「どうしました?」
「ご相談が……」
「相談? どういった内容ですか」
心臓はますます鼓動《こどう》を早めた。順子の生々しいほどの恐怖心とは裏腹に、男の声はどこか金属的で、テープに吹きこまれた声のような、ものみなすべて他人事といった感じがした。順子が黙《だま》っていると、相手は抑揚を変えず少しだけ声を大きくしながら「もしもし、どうしました」と訊《き》いた。
「はい、あのう……」
「どういった内容のご相談ですか」
「どう、って、何て説明したらいいのか。一言じゃ言えないんですが」
「交通違反関係ですか?」
「いいえ、そんなんじゃ……」
「捜索願いですか?」
「いえ……」
「じゃあ」と、言って男はかすかな苛立《いらだ》ちをこめながら続けた。
「とりあえず生活課に回しますから、そちらでお話ください」
順子の返事も待たずに回線を変える音がし、新たな呼び出し音が鳴った。二回ほど鳴ってから受話器を取る音がし、男が出た。
「はい、生活課です。もしもし」
事務的な機械的な声だった。順子はゆっくりと受話器を置いた。話をする勇気は失われていた。昔、田舎《いなか》に、子供たちの話をどんなくだらないことでも聞き、お茶と海苔《のり》せんべいをふるまってくれた巡査がいたことを彼女はなつかしく思い出した。あの巡査だったら聞いてくれたに違いないのに、と彼女は悲しくなった。
今、こうした不安や恐怖心を打ち明ける親しい友達がひとりもいない自分が惨《みじ》めにも思えた。恋人と呼べる人でなくてもいい。せめてボーイフレンドのひとりでもいれば、慰めになったのに……。
順子がそうした俗っぽい孤独感にさいなまれたのは、それが生まれて初めてであった。東京に出てきたことが悔やまれた。信州にいて、田舎《いなか》の町医者のところで働いていたほうがよかったのかもしれない。平凡な幸せとは、順子の場合、そういうことを言うのかもしれない。
少し鼻の奥が痛み、目がうるんでくる自分を感じて彼女はひとり、照れくさそうに笑った。
ほどなくして滝子は雅彦、玲奈とともに帰って来た。滝子は着物の胸をはだけ、抱えバッグをぶらぶらと手に下げながら放心した表情で真っ直ぐに二階に上がって行った。玲奈は真っ青な顔をしていた。
「玲奈は気分が悪くなったんだ」と、雅彦がいくらか弁解がましく言った。
「少し休ませるから、食事はあとでいい」
「何かお薬でも」と、順子が言うと、雅彦は彼女を見ずに首を振った。
「必要ないよ」
「でも、お顔がこんなに青くて……。どうなさったんでしょう」
「なんでもない」
雅彦はそう言い放つと、車椅子《くるまいす》を押して玲奈の部屋に入って行った。そしてそれきり、雅彦も滝子も部屋から出て来る気配はなくなった。
29
雅彦は寿々子の寝室でしばらくの間、車椅子《くるまいす》の中の彼女を抱きしめていた。彼の呼吸は荒く、時折、吐《は》く息の中に嗚咽《おえつ》とも溜息《ためいき》ともつかぬ微《かす》かな呻《うめ》き声が混ざった。
彼は何も言わなかった。外は薄暗《うすぐら》くなり、蜩《ひぐらし》の嗚き声も途絶《とだ》えた。
寿々子は落ち着きを取り戻《もど》し、さっきおこったことをもう一度、考えてみようとした。だが、いくら考えても、答えはひとつだった。滝子は自分を殺すだろう。今日、失敗しても、明日、失敗しても、いつか必ず、その目的を遂《と》げるだろう。閉塞《へいそく》された状況の中で、滝子の執念は雅彦を取り戻すことだけに向けられてしまっている。
昔の自分だったら、その邪悪《じやあく》さと闘ったことだろう。あるいはまた、徹底して逃げ出したことだろう。しかし、寿々子はもはや自分も同じ穴のむじなと化してしまっていることを認めざるを得なかった。
寿々子はゆっくりと首を落として、自分の膝《ひざ》に絡《から》みついたままじっとしている雅彦の背中を眺《なが》めた。この人は……と彼女は思った。この人は、とうの昔に現実の壁の向こう側に自分を塗《ぬ》りこめてしまったのだ。塗りこめた後の静かな閉ざされた空間の中で、ひ弱な母と共に現実から目をそむけ、互いの歪《ゆが》んだ欲望を舐《な》め合っていたのだ。
そしてその中に、いつのまにか、この私も紛《まぎ》れこんでしまった。二度と出られない壁の中で、私は雅彦だけを見つめながら生きていく方法を学んでしまった。どうしようもなく、知ってしまったのだ! この堕落《だらく》しきった親子の、生きていく知恵を!
雅彦が顔を上げ、まじまじと寿々子を見つめた。薄暗《うすくら》がりの中で、瞳《ひとみ》が濡《ぬ》れた黒曜石のように光って見えた。彼は黙《だま》って身体《からだ》を起こし、寿々子を抱き上げた。
「ふたりでベッドに入ろう」
声というよりは、微《かす》かな軋《きし》み音にしか聞こえない声でそう言うと、彼はベッドのタオルケットを剥《は》ぎ取り、その上に寿々子の萎《な》えた身体をそっと寝かした。
枕元《まくらもと》の明かりはつけなかった。開け放されていた窓にレースのカーテンを引き、雅彦はデスクの引き出しからいつもここで飲んでいたシェリーの瓶《びん》を取り出した。蓋《ふた》を開け、瓶に口をつけたまま、ごくごくと喉《のど》をならしてそれを飲む。
咳《せき》こみはしなかった。飲み終えて軽く溜息《ためいき》をつくと、彼は瓶を床に転がし、ベッドの中の寿々子を見おろした。淡《あわ》い闇《やみ》の中で、彼の姿はぼうっとした扁平《へんぺい》な影にしか見えなかった。
「君を抱きたい」
低い聞きとりにくい声がそう言った。寿々子はベッドの中で、観念したように目を閉じた。
庭先で鈴虫が鳴き出した。微《かす》かな風にレースのカーテンが揺《ゆ》らぎ、床を這《は》う音がした。雅彦が着ているものを脱ぎ出す気配があった。乱暴な、怒ったような脱ぎ方だった。ジーンズが床に投げ出され、乾いた音をたてた。
彼は巨大な鳥のようにベッドの中に舞いおりてきた。舞いおりる、という言い方がぴったりだった。彼の身体《からだ》は柔《やわ》らかく、ほんのりと暖かく、そして信じられないほど軽く感じられた。
彼は寿々子の首の下に手を当てがいながら、彼女の唇《くちびる》に唇を合わせた。仄《ほの》かにシェリーの匂いがした。
長い長い愛撫《あいぶ》だった。寿々子はそうされている間中、一度も目を開かなかった。かつて、健康だったころに知っていたあの甘い恍惚《こうこつ》が、次第に身体の中に生まれていった。それはさざ波がたつようにして、おし寄せ、柔らかな煙のように皮膚をくるみこんでいった。雅彦は何も言わなかった。呼吸をしている気配すら感じられなかった。ベッドシーツのこすれる音だけが繰り返された。
寿々子は地獄がこれほど甘いものであることを初めて知った。涙が目尻《めじり》から流れ落ちた。もう、死は怖くない、と思った。このまま死んでしまえれば、どれほど幸せか、とも思った。
果てしなく続くと思われた愛撫の最後のとどめを刺すようにして、雅彦は彼女の脇腹《わきばら》の当たりに熱いものを大量に流した。微《かす》かな喘《あえ》ぎ声が続き、そして途絶《とだ》えた。
闇《やみ》の中で、寿々子は目を開け、この屋敷をくるみこんでいる木々の群れが、さらに自分たちに一歩近づいたような幻覚を覚えた。いや、巨木のドームはすでにもう、このベッドの真上にまで迫《せま》ってきたのかもしれない。外部から自分たちを遮断《しやだん》させるために。すべての光を断ち切るために……。
しばらくの間、じっと動かずにいた雅彦は、つと身体《からだ》を起こすとノートと鉛筆をライティングデスクの裏側から取り出し、枕《まくら》もとの明かりをつけた。光の輪の中に、汗ばんだ彼の顔が見えた。彼は落ち着いた、和やかな顔をしていた。
ノートに彼は鉛筆をすべらせ、それを彼女に見せた。
愛してる。
寿々子は彼に鉛筆を握《にぎ》らせてもらい、ノートに苦心して文字を書いた。
ワタシモアイシテル。
ふたりは顔を見合わせて、ふっと微笑《ほほえ》んだ。邪悪《じやあく》で、優雅《ゆうが》で、そして悲しい微笑だった。
外で風が起こり、木々の枝がさわさわと鳴った。鈴虫の鳴き声は、いつのまにか止んでいた。
30
夕食用に下ごしらえをした海老《えび》の蒸し煮を前にして、順子はずっとキッチンを動かなかった。八時を過ぎ九時を回っても、誰《だれ》も食堂に入って来なかった。そればかりか、二階も玲奈の部屋もしんとして物音ひとつしなかった。
たまらなく空腹を感じたので、彼女は自分用の食事を手早く済ませた。デザートにバニラアイスクリームをほんのひと口食べ、コーヒーを沸《わ》かして飲んだ。食器を洗い、丁寧《ていねい》に拭《ふ》いて、元あった場所にしまい、生ごみが匂わないようにディスポーザーの中できちんとポリ袋にくるんだ。
ガス台と流し台とを柔《やわ》らかい雑巾《ぞうきん》で拭《ふ》き、拭き終わってから雑巾を殺菌剤入りの石鹸《せつけん》で洗った。固く絞《しぼ》って、物干し台へ行くために勝手口から裏庭に出た。外は少し涼しかった。よそ見をしていたので、石油の入ったポリタンクにつまずいた。しこたま足の小指を打ち、彼女は顔をしかめた。雑巾を洗濯用ロープに吊《つ》るし、風で飛ばないよう二か所を洗濯ばさみできちんと留めた。
またポリタンクにつまずかないよう足もとに注意して歩き、勝手口に戻《もど》って鍵《かぎ》をかけた。冷蔵庫の中を点検し、翌日の朝食に何を出すか考え、それから家計簿用のノートを広げた。家計簿をつけることを滝子に義務づけられていたわけではない。ただの順子の習慣だった。電卓を叩《たた》きながら、細かい計算をし、ノートに黒のボールペンで数字を書きこむ。そうしていると気持ちが幾らか楽になった。
ノートをつけ終え、棚にしまうと、そっと廊下に出てあたりを窺《うかが》った。相変わらずしんとしていた。得体の知れない不安に襲《おそ》われながらも、順子は家族の夕食にラップをかけ、冷蔵庫に入れた。それから塵《ちり》ひとつなく整頓されたキッチンをぐるりと見渡し、ふと思いたってワゴンの上に簡単なお茶漬《ちやづ》けの用意を三人分整えた。そうしておけば、誰《だれ》かがお腹がすいた時に喜ばれる、といういつもの順子の心配りだった。
十時をまわってから彼女はキッチンの続きにある自室に引き取り、部屋の引き戸に鍵《かぎ》をかけてからテレビをつけた。音楽番組をやっていた。半分うわの空でそれを見、引き出しから預金通帳を取り出して眺《なが》めた。
まだまだ、予定した分の金はたまっていなかった。海外旅行くらいはできるかもしれなかったが、屋敷を出てアパートを探し、家財道具を揃《そろ》えて次の就職口を探す間の生活費を考えると、倍以上の金が必要だった。
でも、いいよね、母さん……と彼女は心の中でつぶやいた。
やめるよ、あたし。もう薄気味《うすきみ》悪くって。皆、いい人たちだし、あのお嬢《じよう》さんはとっても気の毒だけど。どこかおかしいもの。すごく大変な秘密があるのよ、この家には。
彼女は通帳を引き出しに戻し、テレビを消してから小さな一人用のテーブルに向かい、便箋《びんせん》を開けた。
以前住み込んでいた家の娘から「お別れに」とプレゼントされたお古のモンブランの万年筆で「前略」と書いた。
「母さん、元気ですか。皆も元気ですか。こちらは毎日、暑い日が続いています。実は私、今度……」
そこまで書いた時、二階で物音がした。耳をすませた。階段を降りて来る足音がする。順子はペンを置き、そっと部屋を出た。初めは滝子が風呂を使いに降りて来たのかと思った。風呂は沸《わ》かしてあるが、時間がたってしまっているので沸かし直さなければならない。順子はあわてて風呂場《ふろば》に行こうとしてキッチンの前で滝子と鉢合わせになった。いきなり目の前に亡霊を見たような感じがして、彼女はあやうく叫び出しそうになった。
滝子はさっきと同じ絽《ろ》の着物のままだった。前合わせがほどけ、夏用の麻の襦袢《じゆばん》もだらしなく開いて、帯がなかったら、もう少しで乳房が見えるほどだった。
順子は口を抑え、驚きを隠しながら不器用に笑みを浮かべてみせた。
「失礼しました。奥様、お風呂ですか」
滝子は答えなかった。びい玉のような目は確かに順子を見ていたが、何も見ていないのと同じだった。
順子はどぎまぎし、何か言わねばならないと思って続けた。
「あのう、お食事のほうはいかがされますか」
「食べないわ」
「お茶漬《ちやづ》けを用意しておきましたんですけど。もし……」
「いらないの」
「あの、お風呂は?」
滝子は順子の顔など見ていなかった。その目はじっと廊下の先の仄暗《ほのぐら》い宙に注がれていた。順子はいやな気分になり、「お風呂を見てまいります」と言うなり、小走りに風呂場のほうへ行った。
矢内原家の風呂場《ふろば》は死んだ主人の好みだったのか、そこだけ純和風の総檜《そうひのき》になっていたが、年月がたっているため、風呂桶《ふろおけ》は朽《く》ち始め、湿っぽくて黴臭《かびくさ》かった。
順子は風呂場の湯気の中で風呂の湯加減を確かめながら、自分が小刻みに震《ふる》えていることを知った。
あれじゃあ、本当の狂人だ、と彼女は思った。風呂の湯はぬるくなっていた。ガスをつけなおし、そこに立ったまま長い間、湯が暖まるのを待った。
誰《だれ》かに相談しなくちゃ、というのがその時彼女が考えていた唯一《ゆいいつ》のことだった。殺人、というのが何かの間違いだったにしても、ともかく滝子の様子は尋常ではなかった。どこか病院の先生に相談しよう。いつか滝子が風邪《かぜ》をひいた時に来てもらった医者がいい。気軽に電話できるのはあそこしかない。明日、朝、早速、電話しよう。そのことで怒られ、クビになったっていい。どうせ、もうやめるつもりなのだから。
湯加減がちょうどよくなったのでガスを止めた。石鹸《せつけん》があるかどうか確かめ、新しいタオルを出して洗い桶の上に置いた。玲奈のための入浴用の椅子《いす》を外に出し、ぐずぐずと脱衣室の小間物を整頓したりした。廊下は静かだった。彼女はそっと脱衣室を出て、廊下を見た。滝子はいなかった。
一応、「奥様」と小声で呼んでみた。返事はなかった。二階に上がって行って、滝子の部屋をのぞくつもりは毛頭なかった。怖かったからだ。
キッチンヘ行くと、風で勝手口のドアがパタンと閉まった。順子は震《ふる》え上がった。さっき、確かきちんと鍵《かぎ》をかけたはずなのに……。彼女はおそるおそるサンダルをつっかけて、ドアから顔だけ出し、外を見た。自分が干した雑巾《ぞうきん》が一枚、物干し棹《ざお》のところで揺《ゆ》れているだけである。
「奥様?」
そう呼んでみたのは、別に深い意味があったからではなかった。何故《なぜ》か滝子が外にいるような気がしたから呼んでみただけなのだが、当然、返事があるはずもなかった。
順子はドアを閉め、またきちんと鍵をかけてノブを何度か回してみた。開かない。ひとりでに開くわけがない。さっき、滝子が開けたに違いない。でも、どうして?
もう寝よう、と彼女は思った。これ以上、いろいろなことを想像すると、余計に怖くなってくる。ぐっすり眠って朝になったら、皆が起き出す前に医者に電話する。もし、会ってくれるようだったら、その後、直接、医院まで出向いて行き、詳《くわ》しく説明したっていい。それで何もかもが解決してくれるに決まっている。
自室に戻《もど》る前に、彼女は玲奈のところにいる雅彦にお茶漬《ちやづ》けの用意があることを知らせるべきかどうか、考えた。少なくとも彼は正常だった。若い男が夕食を抜いたりしたら、当然お腹が空くことだろう。それに夜中に台所をごそごそされて眠りを妨げられるのもいやだった。彼女は決心して廊下を歩き、玲奈の部屋の前に立った。
ノックをしようとしてほんの一瞬《いつしゆん》、ドアのところで立ち止まった。中は静まりかえっていた。軽くノックしてみた。耳をすませたが、やはり物音は聞こえてこなかった。
静かにドアノブを回した。カチリと微《かす》かな音をたててドアが開いた。中はスタンドの明かりがついているだけで薄暗《うすぐら》かった。ベッドの上に目を転じて、順子は思わず目をつぶった。
雅彦が全裸で横たわっている。正真正銘の男の裸体というものを彼女が見たのはそれが初めてであった。青いタオルケットが、かろうじて陰部のあたりを被《おお》っている。贅肉《ぜいにく》も筋肉もない、のっぺりとした痩《や》せた体で、子供服売場にある少年のマネキン人形のように見えた。
玲奈も上半身裸だった。まだ傷跡の残った小さな乳房を露《あら》わにした彼女は、雅彦の両腕に抱かれて眠っていた。
順子は慌《あわ》ててドアを閉じようとしたが、或《あ》る種の抗《あらが》いがたい好奇心が彼女をその場所に釘《くぎ》づけにした。ふたりは中世の宗教画に描かれたニンフと牧神のように神々しく見えた。玲奈の身体の傷痕《しようこん》は、古い細密画のかすかな染みのようにしか見えなかったし、萎《な》えた手足は細く白い優雅《ゆうが》な蛇《へび》のように美しかった。
雅彦は軽く口を開け、幸福そうな寝顔で玲奈をかき抱いている。ふたりの呼吸は示し合わせたかのように見事に一致していて、息を吸い込むたびに玲奈の乳首が雅彦の胸に当たるのがはっきりと見えた。
息を飲み、順子は立ちつくした。床に雅彦がいつも飲んでいたシェリー酒の瓶《びん》が転がっていた。そしてベッドの足もとのあたりに、いつか見た大判のノートが見えた。開いたままになっている。
順子は本能的に後ろを振り返ってきょろきょろした。それから生唾《なまつば》を飲み込むと、意を決して部屋に足を踏み入れた。床がみしりと音をたてた。はっとして全身を硬直させたが、ベッドのふたりに変化はなかった。
視力には自信があった。ノートに一メートルほど近づいた時、そこに書かれている大きな文字……つい先日、順子が見たのと同じ筆跡の文字が目に飛び込んできた。
『ワタシモアイシテル』
順子は目をそらし、ゆっくりと部屋を出た。そして自室に戻《もど》ってから、暑いにも関わらず、タオルケットを頭からかぶってじっとしていた。
夢の中で順子は、巨大な猫に追われていた。猫は虎毛《とらげ》で、恐ろしく走るのが早い。山の中の一本道はクマザサに覆《おお》われていて、何度も足を取られた。息が切れ、胸苦しい。あんまり長く走り続けたので、喉《のど》の奥からは血の味のする粘液《ねんえき》が這《は》い上がってくる。
目の前に二本の分かれ道があり、彼女は左を選んだ。しばらく走ってから後ろを振り向くと、怪物の姿は見えなかった。ほっとして速度を緩《ゆる》めようとしたその瞬間《しゆんかん》、笹《ささ》の茂みの中に巨大なペンペン草が現れ、葉の部分すべてが子猫の顔になった。彼女は叫び、再び走った。心臓がとまりそうだった。呼吸ができない。気が遠くなる……。
はっとして目を覚ますと、あたりはもうもうとした煙に包まれていた。わけがわからずに、彼女は飛び起きた。煙をいやというほど吸い込んで激しく咳《せき》こんだ。
その数秒後、ぱちぱちと火の粉がはじけ飛ぶ音があちこちで聞こえた。
「火事!」
順子はそう叫んだが、咳のために言葉にならなかった。咳こみながら、台所に出て行くとそこも煙に包まれており、ほとんど何も見えなかった。
彼女は流し台のところまで這《は》うようにして行き、手さぐりで布巾《ふきん》をつかむとそれを口に当てた。濡《ぬ》れた布を口に当てるのがいい、ということはわかっていたが、水道の蛇口《じやぐち》までは手が届かなかった。
何度かテーブルやキッチンカウンターなどにつまずき、順子は呻《うめ》き声をあげながら廊下に飛び出した。
「火事です! 奥様! 雅彦様!」そう叫ぼうとして、順子は愕然《がくぜん》とした。廊下は火の海だった。
めらめらと燃える巨大な炎がすでに居間やその他の部屋のドアを焼き尽くしていた。どこかで女の悲鳴が聞こえたような気がした。
「奥様!」
順子は布巾を口に当てたまま叫んだ。叫び声は空しく炎の中にかき消され、あげくに彼女は呼吸ができなくなって咳こんだ。階段のところまで逃げ、上を見た。階上は炎に包まれてはいなかったが、白い不気味な煙で何も見えない。
「どこ? どこなんですか!」と、順子は叫び、階段を二、三段上りかけて足を止めた。白煙はひゅうひゅうと音をたてながら階下に舞い降りてくる。
どうしようもなかった。順子は泣きながら玄関の三和土《たたき》に降り、手さぐりで鍵《かぎ》を探した。手がぶるぶる震《ふる》えているため、鍵のある場所がなかなかわからない。目がちりちりと痛み、鼻の奥から喉《のど》にかけて焼けつくような感じがあった。
その時、彼女の後ろのほうで何か声がした。女の声なのか、男の声なのか、わからなかった。順子は目を少し開けて振り返った。
廊下のずっと先のあたり、多分、キッチンの入り口のあたりで、白煙に包まれた大きな黒いシルエットがぼうっと浮かんだ。そのシルエットはまるで荷物を放り出すかのように、何かをドサリと廊下に投げ出した。
その勢いでミルクのような白い煙の群れが、一瞬《いつしゆん》、消え、ライトブルーのシーツの切れ端のようなものが見えた。その中で何かが動いた。子猫が喉を涸《か》らした時のような奇妙な声が轟《とどろ》いた。
順子は目をつぶって無我夢中で廊下に飛び出した。火の粉が飛び、髪の毛が焦《こ》げる匂いがした。床を這《は》うようにしながら、手探りでシーツの端を探し、死に物狂いでそれを手前に引っ張った。ごろりという感触《かんしよく》があり、順子の両手にやわらかい、まだ火に屈していない身体《からだ》が飛び込んできた。
順子は咳《せき》こみ、息ができなくなりそうになって、パニックに襲《おそ》われた。頭の中が朦朧《もうろう》とし、身体中の血が耳の穴から噴出《ふんしゆつ》してしまうのではないか、という錯覚《さつかく》にとらわれた。
だが、彼女の手の中にあった子猫の悲鳴が彼女に力を与えた。子猫はギャーギャーともミューミューとも言えない不思議な声を上げて、助けを求めながら順子の胸に顔を押しつけた。その生暖かい顔が玲奈の顔であることを順子は確かな感覚の中で悟《さと》った。
順子は超人的な力をこめて、玲奈の身体《からだ》をシーツごと引きずった。しばらく息をしなくたって死ぬことはない、と彼女は思った。昔、よく近所の友達と父親のストップウオッチを前にして、誰《だれ》が長く息を止めていられるか、競争し、負けた試しがなかったではないか。
だが、再び頭の中が朦朧とし、手から力が抜けたような気がした。がらがらという音がして、さっき玲奈がいた廊下のあたりに焼けた柱が落ちた。
誰かが屋敷の玄関を激しく叩《たた》いた。「助けて!」と叫ぼうとして、彼女はむせかえり、喉《のど》から得体の知れない液体を吐《は》き出した。シーツにくるまった玲奈の身体は信じがたく重たかった。「もうダメだ」と、彼女は思った。玄関まであと二、三メートルだろう。なのにその二、三メートルをこうして引きずって行く力はもうない。
気が遠くなった。死ぬ時はこうなるものなんだな、と彼女は思った。
玄関が蹴破《けやぶ》られた。誰《だれ》かが大声で叫びながら入って来た。いくつかの混じり合った咳《せき》が聞こえた。順子の伸ばした腕を誰かが力一杯踏んだ。その痛みもほとんど感じなかった。
「いるぞ!」と、男が叫んだ。
「ふたり、いる。女だ」
シーツをつかんだ手が離された。身体《からだ》が宙に浮いた。意識は急激に薄《うす》れていった。
31
八月三十一日付A新聞夕刊。
「三十一日未明、大田区久が原にある矢内原滝子(四五)宅から出火。木造二階建て住宅約三百八十平方メートルを全焼して同日午前四時半ころ鎮火した。この火事で矢内原滝子と長男、雅彦さん(二七)の二人が焼死体となって発見された。長女の玲奈さん(二九)と同家のお手伝い、三上順子さん(二五)は玄関付近で消防隊員に救助され、命をとりとめた。
I警察署の調べによると出火原因は一階にある玲奈さんの寝室にまかれた大量の石油で、そばにライターがあったことから、日頃《ひごろ》から病気がちだった滝子が発作的に火をつけたものと見られる。滝子は十数年前に夫と死別し、雅彦さんとふたり暮らし。夫と先妻との間にできた玲奈さんは、今年三月の六本木ディスコガス爆発事故の生存者だったが、身体《からだ》が不自由なため、六月下旬ころから滝子が引き取って看護をしていた。
なお、玲奈さんの夫はやはりガス爆発事故で死亡した実業家城山恭平さん(当時五〇)。城山さんが多額の遺産を玲奈さん名義で残していたこと、及び日頃《ひごろ》から滝子と玲奈さんの関係が悪かったことなどから、滝子は遺産目当てに玲奈さんを引き取り、殺害する計画があった可能性も強いとみて、警察は玲奈さんの回復を待って事情を聞くことにしている」
32
急を聞いて信州の実家から順子の母親が飛んで来た。病院のベッドの脇《わき》で、母親は「それごらん」と言った。
「かあさんの言った通りになった」
精密検査の結果、呼吸器系統の異常もなく、足に負った火傷《やけど》もたいしたことがなかったため、順子は二日後には退院した。だが、同じ病院にいた玲奈は彼女が退院する日もこんこんと眠っていて意識が戻《もど》らなかった。野々村が付き添《そ》っていた。彼は何度も順子のところにやって来て礼を述べた。そればかりか、順子が退院する時は、見たこともないほど大袈裟《おおげさ》な薔薇《ばら》の花束を贈ってくれた。火事のことや滝子の様子については別になにも聞いてこなかった。
滝子の死体は一階の玲奈の寝室で、雅彦の死体は廊下のキッチンの入り口付近で発見された。雅彦は全裸で、頭部に打撲症があり、鑑識はそれが生前、何か鈍器《どんき》状のもので殴られた跡であることを発表した。滝子の胃からは、少量の睡眠薬が検出された。
順子は警察でいろいろなことを根掘り葉掘り聞かれたが、質問に答えることと自分が本当に聞いてもらいたいと思うことが時々、ごちゃまぜになってしまい、訂正しようとすると頭が混乱してますます何を言っているのかわけがわからなくなった。
矢内原の家に雇われたのはいつか、給金はきちんと支払われていたか、滝子の日常生活、家の中で交わされた会話、滝子の病状、何故《なぜ》早く医者に見せなかったのか、雅彦はいったい何をして暮らしていたのか、事件当夜の様子……。
はい、私が雇われたのは五月からで、もちろんお給料はきちんといただいてましたし、奥様もやさしくしてくださいました。奥様は毎朝、早く起きてお元気な時は庭の掃除などなさって、あとはピアノをひいたり……ええ、奥様は以前、ピアノの先生をなさってたそうです、でもお加減が悪い時は部屋にこもってらして、泣いたり叫んだりして……雅彦様がずっとそばについてらしたんですが……お医者様に見せたらいいのではないですか、って雅彦様にも何度か申し上げたこともあったんですけど、大丈夫だ、っておっしゃって、私もそれ以上強くおすすめするほどの立場じゃありませんでしたし……雅彦様はたいてい、奥様と玲奈様と御一緒でした、何かしてたかですか? 何って言っても、別に何も、この間までは楽しそうでしたけど、あの花火のことがあった夜から奥様のご様子がちょっと……え? 花火のことですか、それはそのう、私にもよくわからないんですが、実は私、警察に相談しようと思ってたこともあって、あの、私、見てしまったんです、玲奈様の筆談用のノートに「殺されそうになった」って書いてあって……もうびっくりして……あの、玲奈様はどうしてだか、私に筆談ができるようになったことを教えてくださらなかったんです、わかりません、そんなこと、どうしてかだなんて、とにかくノートにはそう書いてあって、それに雅彦様と玲奈様はなんだか、そのう、いえよくわからないんですが、ちょっと……。
順子の答え方はこんな具合で要領を得ず、結局、数時間にわたる質問の中ではっきりした推測が成立したのは、当日の夜、閉めておいたはずの勝手口の戸が開いていたことから、滝子は順子が風呂場《ふろば》にいる間に石油のポリタンクを持ち出してどこかに隠しておいたのではないか、ということだけだった。
玲奈のリハビリのために時折、矢内原家を訪れていた整形外科の医師にも協力を求めたが、たいした証言は得られず、玲奈が入院していた病院の担当医師も滝子に関しては何も気づいていないに等しかった。
ただ、野々村弁護士だけは違った。彼は、順子の説明不足のしどろもどろした話を見事にまとめあげ、逐一《ちくいち》、裏づけるように、矢内原滝子の異常性格について証言した。
野々村は、滝子が玲奈を引き取ったのは、明らかに玲奈が引き継《つ》いだ遺産目当てであると主張し、その証拠《しようこ》に玲奈の看護費という名目で滝子が実に莫大《ばくだい》な金を玲奈の口座から下ろしていた事実を提示してみせた。野々村が玲奈を城山の家に連れ戻《もど》す手筈《てはず》を整えてからは、一層口座利用が多くなった、とも言った。
「あと、二、三日たってから玲奈さんを連れ戻しに行くはずでしたのに」と、野々村は警察で唇《くちびる》をかみしめた。
「この八月いっぱい、私のほうが大きな訴訟問題を抱えていて忙しく、アメリカ出張などもあって一時期、矢内原家に注意を怠ったのがいけなかったんです。もっと早く手をうっていればこんなことにはならなかったのに」
城山家の玲奈の部屋には、玲奈が爆発事故に遭《あ》う前、滝子から受け取った手紙が二、三残っていて、そのいずれもが金の無心だったことも明らかにされた。
城山が生きていたころの使用人、城山の姉夫婦なども口をそろえて滝子が玲奈の金をずっと以前から狙《ねら》っていた、と証言した。ここにいたって、警察はほぼ間違いなく、滝子が玲奈に対する殺意を持っていたと断定。そのことが原因で神経を錯乱《さくらん》させた滝子が、玲奈の部屋で眠っていた雅彦を鈍器《どんき》で殴《なぐ》って気絶させた後、部屋に石油をまき、火をつけて無理心中をはたった可能性が強いとして、とりあえず、滝子を書類送検した。滝子の心身耗弱《こうじやく》が立証できるかどうかが最大の問題として残ったものの、事件はこうして案外、すんなりと決着の方向に向かったのである。
順子は頭のおかしい継母《けいぼ》とその娘の不幸な遺産争いに巻き込まれた気の毒な家政婦、ということでたいそう、警察から同情された。いくつか残った質問に答えると、もう彼女の用はなくなった。刑事たちは気軽にぽんぽんと彼女の肩をたたき、お母さんとまず実家に帰って都会の垢《あか》を落としてくるんだね、と言った。
「帰っていいんですか」
「もちろん。御協力をありがとう。疲れただろうから、ゆっくり休んでね。こんないやなことは早く忘れて、また、いい仕事をするようにね」
彼女はとまどっていた。結局、雅彦と玲奈の怪《あや》しげな関係、あの夜、ふたりが裸で抱き合って眠っていたことに対する疑問は、うまく説明しきれずに終わった。彼らはこういった話に格別の興味は示さなかった。大切なのは証拠《しようこ》であり、裸で異母きょうだい同士が眠っていたとしても、それは捜査の展開に影響をもたらすことではない、と言いたげであった。
「近親|相姦《そうかん》もどきってのは、最近、多いからねえ」と、刑事のひとりは言った。
「ま、複雑な関係にあった家族が遺産を争ったあげくの悲劇というとこだな。後味、悪いよ、まったく」
いえ、違うんです、と順子は何度か言いかけてやめた。どう違うのか、わからない。ただ、なんとなくこんなに簡単にケリがつけられる事件ではなかったような気がしたからだ。
心の中に何か割りきれないものがあり、それが絡《から》み合った毛糸玉のように彼女を悩《なや》ませた。思い出せそうで思い出せない記憶の糸をたぐっている時のような、不快な苛立《いらだ》たしい惨《みじ》めな気持ち。このまま帰ってしまうと、それが頭に残ってしまいそうでいやだった。
「あのう」と、順子は迎えに来た母親の前で二、三の刑事たちに言った。
「私、こんなバカなこと言っておかしいと思われるかもしれないんですけど……」
「何?」と刑事たちは訊《き》いた。順子はうつむき、顔を赤らめた。こんなにたくさんの男たちに囲まれて、話をするのは初めてのことだった。
「あの、変なことなんですが、そのう……」と、彼女はおそるおそる顔を上げた。
「私が火事の夜、助け出した人は本当に玲奈さんなんでしょうか」
一瞬《いつしゆん》、居合わせた誰《だれ》もが絶句し、互いに顔を見合わせた。
「何言ってんの、順子」と、母親がとりなした。「バカなこと言って」
「だから、バカだと思われるかもしれない、って言ったでしょ」
「まあまあ」と刑事のひとりが微笑して言った。
「どうしてそう思ったんですか」
「別に何もないんですが。ただ……」
「なんとなく?」
「ええ、まあ。だって玲奈お嬢様《じようさま》は爆発事故でお顔が変わってしまったから、本当の玲奈さんじゃなくても他の人はわからないでしょう」
「そりゃあ、そうだけど」と言って刑事たちはくすくす笑った。
「そのことに関しては、例の六本木の事故の後で確認済みだからね。そりゃあ、犠牲者《ぎせいしや》の中には遺体確認に手こずったのもあったけど、結局は全員、はっきりしたんですよ。それに、城山玲奈さんじゃなかったとしたら、どうして今まで黙ってたか、ってことになる。いくら、口がきけなくても、筆談できるようになってたんだし、第一、その前の段階でなんとかして自分が別人だと主張できたはずでしょ」
「でも、どうして、あの夜、雅彦さんと玲奈さんは裸でベッドの中にいたんでしょう」
「暑かったからじゃないの? そう思うけどね」
「奥様が焼きもちを焼いてらしたような気もします。そのくらいおふたりは仲がよくて……」
「だから火をつけたって? 玲奈とすり代わった女とその弟の恋に実の母親が腹をたてて無理心中を?」
ひとりがくすくすと笑った。
「テレビの見すぎ」と別の刑事が言って豪快《ごうかい》に笑った。
「テレビの推理ドラマの中ではおこるかもしれないけどね。現実ではなかなかそんなことはおこってくれないんだよ。あなたの言うとおり、雅彦と玲奈との間に何か特別な感情はあったかもしれない。でもだからといって玲奈別人説を立証するのは困難だな。警察はなんでもはっきりさせてしまうからね。ともかく城山玲奈はあの爆発事故で生還したことだけは確かなんだから。まあいいでしょう。玲奈さんが意識を回復させたら、そのあたりをあなたから聞いてみたらどうですか」
順子は恥《は》ずかしくなって下を向いた。そう言われてしまうと言葉が出てこなくなった。母親が丸い短い指で彼女の腕をとった。
「ほら、あんまりおまわりさんたちにご迷惑《めいわく》なことを言うんじゃないよ。お世話になったんだからね。テレビばっかり見てると、ろくなことはないって、かあさんも言ったでしょ」
笑い声がはじけた。その笑い声に送られて順子は母親と共に警察を出た。母親は待たせておいたタクシーに順子を押し込み、自分も重そうな尻《しり》をシートの上でバウンドさせると張り切った声で「さあ、うちに帰ろう」と言った。
「信州はもう秋だよ。兄さんに言ってあんたの部屋も用意させといたから、ゆっくり腰を落ち着けてさ、うちの仕事を手伝っておくれ」
順子は聞いていなかった。あの夜の雅彦と玲奈の美しい寝姿が目の前にちらついた。そしてほとんど何の脈絡《みやくらく》もないままに、彼女はあの時の玲奈は本物の玲奈ではない、別人だ、と再び思った。
33
矢内原滝子と雅彦の葬儀は、野々村がとりしきってごく内輪に行われた。順子は葬儀に出席せず、またその後、野々村から何の連絡もなかったので玲奈の状態に関してもわからないままだった。
一、二の週刊誌が「現代版|継母《ままはは》物語」と題した短い記事を掲載《けいさい》し、滝子の行状を揶揄《やゆ》してみせたが、大した反響はなかった。ただ、どこから聞きつけてきたのか、雅彦と玲奈、雅彦と滝子それぞれの間には近親|相姦《そうかん》らしき行為があったのではないか、と順子の実家に電話をかけてきた週刊誌記者がひとりいた。執拗《しつよう》な様子だったが、順子の兄が電話口で「馬鹿野郎《ばかやろう》! これ以上くだらん電話で妹を困らすな!」と怒鳴《どな》ると、案外、索直に引き下がった。
全焼した矢内原家跡地には、しばらくの間、片半分だけ焼け焦《こ》げた樫《かし》の木や杉の木の枝を垂れたままの姿がさらされ、近所の人々は気味悪がって近づこうとしなかった。中でも、骨組だけ残った車椅子《くるまいす》が、いつまでも片づけられずにあるのが不気味で、夜、車でそばを通りかかった酒屋の配達員が奇妙な泣き声を聞いた、という噂《うわさ》まで拡《ひろ》がった。
だが、やがて業者がやって来て、木々は伐採され、焼け跡はきれいに片づけられて整地された。広々とした跡地に白い砂がまかれてきれいになると、時折、近所の人がやって来て花束や線香を手向けるようになった。下校途中の小学生たちは、線香を二、三本くすね取って火遊びに使っては、母親に叱《しか》られた。
夏が終わり、秋になろうとしていた。順子の実家の果樹園では、りんごがたわわに実をつけた。
事件のことは誰《だれ》も口にしなくなった。それは、順子への思いやりというよりは、むしろ事件の話はあまりに忌《い》まわしく、口にしたくもないとする家族の気持ちのほうが強かったからだった。
順子自身も、忙しくりんごの採り入れや果樹園の手入れを手伝うことによって、何か記憶《きおく》の底に淀《よど》み続けている恐ろしいことを忘れようとしていた。夜、眠ろうとして電気を消すと、決まってめらめらと燃える炎が闇《やみ》の中に幻影として見える。それに滝子の顔や雅彦の顔が白昼夢のようにしてまぶたの裏に浮かんで見えることもあった。
しかし彼女は忘れようと努力した。何を? 何を忘れたいのか、彼女は自分でもよくわからなかった。ともかく、あの屋敷でおこったことすべてを忘れたいと願った。
実際、十月初めの或《あ》る午後、果樹園の裏木戸の向こうで、若い男が順子に向かって手を振ったその瞬間《しゆんかん》まで、事件のことを忘れようとする彼女の努力も功を奏していたのである。
「こんにちは」と、その男は屈託のない笑顔を見せながら言った。
「僕を覚えていますか」
順子は頭にまいていた姉さんかぶりをはずし、ジーンズからはみ出していた長袖《ながそで》の黄色のTシャツを急いで中に押し込むと一気に顔を赤らめた。男の顔には見覚えがあった。見覚えがあるどころか、名前も覚えていた。事件後、警察で事情聴取を受けた時、もっとも若くてもっとも気が合いそうだと感じていた寺尾刑事だった。
寺尾は裏木戸を開けて果樹園の中に入り、ひとわたり見渡すと「やあ、いい眺《なが》めだなあ」と言った。
順子はどぎまぎし、顔が紅潮するのを覚えた。何故《なぜ》、顔が赤らんだのか、彼女はそれを刑事と名のつく人間がやって来たということに、何か不吉な匂いを感じたせいだろう、と勝手に思い込もうとした。
寺尾は白いワイシャツの袖《そで》を暑苦しそうにたくし上げ、細い紺色《こんいろ》のネクタイを緩《ゆる》めると、「今日はなんだか暑いですね。夏がぶりかえしたみたいだ」と言って順子に近寄り、歯並びのいい白い歯を見せた。風に乗って彼のつけていたヘアトニックの香りがかすかにした。
順子は不器用に笑顔を返し、自分でも驚くくらいに冷やかな声で訊《き》いた。
「このへんで何かあったんですか」
「いや、あなたにお会いしに来たんです。駅でお宅の果樹園の名前を言ったら、駅長さんがすぐに教えてくれたんですけど、歩いてこんなに時間がかかるとは思ってなかったなあ」
「田舎《いなか》ですから……」と、順子は言って目を伏せた。
「私に何か……」
「大したことじゃないんです。ただ、ちょっと気になることがありまして」
「事件のことですか」
「ええ。ただし、僕が今ここに来てあなたに話を伺うことに関しては、デカ部屋の連中は誰《だれ》ひとりとして認めてくれていません。僕ひとりが勝手にやってることですから、あしからず」
彼は少しおどけた調子で笑った。額に健康的な汗が光った。
「どういうことですか」
「早い話が、僕の言うことを誰もまともに受け取ってくれない、ということですよ。孤立無援ってところかな」
順子は首を傾《かし》げて彼を見上げた。寺尾はおそろしく背が高く、見上げていると肩が凝《こ》りそうだった。彼はなんでもなさそうにくすりと笑った。
「わかりませんか。城山玲奈についてですよ」
順子は身体《からだ》中の汗が急速に乾いていくような感じを覚えた。寺尾は順子のそうした反応を予想していた、と言わんばかりにうなずいた。
「あなたは署を出る時、妙なことをおっしゃった。城山玲奈はもしかしたら、別人ではなかったか、って」
順子は唾《つば》を飲みこみながらうなずいた。寺尾はかすかに目を光らせた。
「実は僕ひとりだけなんですよ。あなたの推理を支持したのは。皆から馬鹿《ばか》にされましたけどね。誰《だれ》も相手にしちゃくれません。で、こうやってここに来たわけです。あ、もしよかったらそのへんに坐《すわ》りませんか」
裏木戸の横に切り株があった。大きな蠅《はえ》が唸《うな》り声を上げて飛んでいる。寺尾は順子を切り株に坐らせ、自分は木戸によりかかった。
遠くで兄たちが働いているのが見えたが、兄たちからはこちらが見えないようだった。寺尾は近眼の人がよくやるように目を細めてりんごの木々を眺《なが》め、ふーっと息を吐《は》いた。
「考えれば考えるほど恐ろしい推理です。恐ろしいことはよくわかってます」
「ほんとのことを言うと、私、もう思い出したくないんです」
「わかりますよ。とっても。しかし僕は興味を持ってしまった。協力してください」
「でも、いったいどうやって……」
「まず、玲奈がディスコのガス爆発事故に遺《あ》った直後に入院していた病院を調べます。カルテを徹底的にチェックし、担当医に訊問《じんもん》し、その後であの事故の犠牲者《ぎせいしや》をひとり残らず調べます。もし、身元がはっきりしないまま引き取られた可能性のある遺体があれば、その遺族からどんな小さなことでもいいから犠牲者の身体的特徴を聞き出します。あと、生前の城山玲奈に関する身体のデータを集められるだけ集めて、そして……」
寺尾は淀《よど》みなく話し続けた。蠅《はえ》がのんびりした午後の風に乗って、あたりを飛びかう音がした。順子は説明しがたいそら恐ろしい気持ちになって、彼を制した。
「あの、ちょっと待ってください」
彼はゆっくりと順子を見た。邪気《じやき》のなさそうな目だった。
「私が警察で言ったことは、私の考えすぎだったかもしれないんです。どこにもそんな証拠《しようこ》はないし、それに今さら調べまわっても亡くなった方が戻るわけでもないし……。困るんです。ほんとに。私、世間知らずだし、東京に出てからもお手伝いの仕事ばかりで、あまり世間のことを勉強しなかったし……」
「あなたが言いたいことはわかります。でも、僕は単なる職務上の好奇心からこんなことをあなたに言いに来たんではないんですよ。うまく言えないけど、刑事としてではなく、個人的関心から僕はあなたの立てた仮説を調べてみたいと思ったんです。あれから頭にひっかかって離れないんだ。不思議なことに」
「どうして……ですか。どうしてそういう気になったんですか。他の方は皆、考え過ぎだよ、って言ってたのに」
「わからない。でも、あなたが言っていた矢内原雅彦と玲奈のただならぬ関係を聞いてから、僕はずっとあの事件のことを考えていたんです。仕事|柄《がら》、人の異常さにはいやというほどつき合わされてきましたけど、どうしてだか、あの屋敷でおこったことに関してだけは、そのまま放っておく気にならなくてね」
「でも、私が警察であんな馬鹿《ばか》なことを言い出さなかったら、そんな気持ちにならなかったでしょう?」
「そりゃあ、そうですよ。あなたが言ったことを聞いたからです。すべてあなたの観察は聞き流すにはあまりにもリアリティがありすぎた。これは不思議な、怖い事件です。多分、僕たちが想像する以上にずっと怖い事件だったような気がする」
寺尾はそう言った後、ゆっくりとズボンのポケットから煙草《たばこ》のパッケージを取り出し、順子に一本、すすめた。彼女が断ると彼は黙《だま》って自分のために火をつけ、ふかぶかと吸った。順子は手にしていた姉さんかぶり用の布巾《ふきん》を小さく折りたたみながら訊《き》いた。
「玲奈さんとは会ったんですか」
「まだです。意識はとうに戻《もど》ったらしいんですが、放心状態が続いているらしくて、病院側が警察の人間と会わせたがらないんだ。あの弁護士の何て言ったっけ……」
「野々村さん?」
「そう、野々村という男もがっちり玲奈さんをガードしてて、結局、一度も会わずにここまできてしまったんです。どう考えたって異常ですよ」
「放心状態、って、そんなに具合がお悪いのかしら」
「らしいですよ。看護婦から聞き出したところによると、やつれ果ててるそうです。微熱が下がらず、何を聞いても黙《だま》ってるだけで、眠るとわけのわからないうわごとを言い続けるらしいし……」
「うわごと? じゃあ、声は……」
「ええ、皮肉なことに、失声症とやらは治ったみたいですね。あの火事のショックで」
「そうですか。そうなんですか」
順子は名状しがたい感慨にとらわれて自分の頬《ほお》をなでた。あの時、廊下の片隅《かたすみ》から聞こえた子猫のような声が思い出された。あれは火事のショックで声を取り戻《もど》した玲奈の発した、最初の声だったのだ。
順子は急激に玲奈に一歩近づいたような気がした。唐突に今すぐ会いたい、とさえ思った。ほんの一言でいい。彼女と会話を交わしたいと思った。別に本当のことを話してくれなくてもかまわない。そんなことはもう、どうだっていい。ただ、一言、「よかったですね。お互いに命拾いをして」と言いたかった。あの恐ろしい夜を記憶《きおく》の底から消し去るためにも彼女と手を握《にぎ》り合ってみたかった。
「会ってみたいです。玲奈さんと」
「会わせてくれるかどうかわかりませんが、あなたが一緒だったら野々村さんもOKするでしょう。なにしろ、あなたは玲奈さんの命の恩人なんだから」
「私だけが助けたわけじゃありません。警察でも話しましたけど、あの時、廊下に雅彦さんがいたんです。雅彦さんが玲奈さんを抱いてあそこまで来てくれなかったら、私だって助けられなかった……」
そう言いながら、順子は胸が詰まってくるのを感じた。もうもうたる白い煙の中にかすかに見えた黒いシルエット。シルエットは何も言わなかった。唸《うな》り声ひとつ、悲鳴ひとつあげなかった。ただ黙《だま》って、玲奈の身体《からだ》を順子に預けた。そしてそのまま黒い枯木のようになって死んでいった。少年のマネキン人形、宗教画の中の牧神のような彼の裸体が思い出された。嗅《か》いでもいない彼の肉体の淡《あわ》い匂いまでが鼻腔《びこう》の中に甦《よみがえ》ったような気がした。
順子は深呼吸し、地面の上を這《は》う小さな虫が、しきりと乾いた土を二本の前足で丸めているのを見ながら訊《き》いた。
「病院に行ったらいろいろ、玲奈さんから聞き出すつもりですか」
「もちろんですよ。多分、あなたの推理が当たっていたとしたら、彼女、声が出るようになってから自分が城山玲奈ではないことを告白したんだと思いますしね。だとしたら、野々村さんが慌《あわ》てふためいて当然でしょう。今後の遺産相続問題や、残された城山氏の事業の継承《けいしよう》問題もあるんですから。野々村さんが病院側と組んで、警察に対して時間|稼《かせ》ぎをしている、とも考えられる」
「時間稼ぎ?」
「そう。場合によっては、別人である玲奈を本物の玲奈に仕立てるために何か工作をするかもしれない」
「どうしてそんなことまで……」
「野々村という男は城山氏のおかかえの弁護士であると同時に、城山家にくっついて甘い汁を吸ってきた寄生虫のような男なんですよ。玲奈がとうの昔に死亡していたとなったら、野々村の利益はゼロになる。彼が城山家から受けている顧問料は相当の額でしてね。玲奈が生存している限りはそのお手当てが今後も受けられるわけだ。彼にとっちゃ、玲奈は金の成る木なんです」
「おや、順子。お客さんかい?」と木戸の後ろで声がした。一番、上の兄だった。彼女が寺尾を紹介すると、兄はぺこぺこしながら寺尾を母屋に招じ入れた。
その後、寺尾は数時間というもの、順子から矢内原家で見聞きしたことすべてを聞き出し、手帳に書きとめた。それは暮れ方になってやっと一段落ついた。母親が夕食をすすめたが、彼は丁重に断って東京へ帰って行った。
二日後、順子は上京し、寺尾と落ち合って城山玲奈が入院している病院へ出向くことにした。だが、それは玲奈に会うためであり、寺尾と共に何かもやもやとした恐ろしい計画の渦巻《うずま》く事件を明らかにするためでないことは、彼女が自分でよく知っていた。
34
年若い看護婦がコーヒーを持って入って来た。順子は彼女の着ている白い制服と頭のてっぺんにかわいらしく乗っている帽子を羨望《せんぼう》をもって眺めた。
「先生と野々村さんはただいま参ります」
そらで覚えたセリフのように看護婦はそう言うと、白いゴム製のサンダルをぺたぺたとならしながら部屋を出て行った。
古いが、小ぎれいな病院だった。応接室というよりは待合室に近い簡素な作りの部屋は、薬局部に隣接していて、時折、薬を調合する薬剤師たちの話し声が筒抜けに聞こえてきた。
ほどなくしてドアにノックがあり、ふたりの男が現れた。順子は野々村に向かって丁重に頭を下げた。野々村は「その節はどうも」と会釈《えしやく》した。彼は少し痩《や》せたようだ、と順子は思った。寺尾は警察手帳を見せ、ふたりに向かって簡単に自己紹介をした。医師は「まあ、お楽にどうぞ」と言った。ふさふさとした白い毛が耳のあたりで小さな渦《うず》をまいている。全体的に羊のような印象を受ける男で、小児科の医者になったら似合いそうなおっとりとした風貌《ふうぼう》であった。
「城山玲奈さんへのご面会をご希望と伺いましたが」
羊医師はいかにもわざとらしくニコニコとしながら訊《き》いた。寺尾と順子はうなずいた。
「まだお加減が悪いんですか」と、順子は野々村と羊の両方を代わる代わる見た。野々村が答えるより早く、羊が「いいえ」と満面に笑みを浮かべた。
「お元気になりましたよ」
「そうですか。よかった。よかったですね。野々村さん」
野々村は微笑した。誰《だれ》も彼もが口もとに笑みを浮かべてはいたが、そのどれもがぎこちなかった。野々村が椅子《いす》の上で足を組み直しながら言った。
「順子さんもお元気そうで。お母様もご安心でしょう」
「ええ、おかげさまで」
「りんごの収穫はいかがですかな」
「まあまあです」
「そうですか。今は忙しい時期なんでしょうな」
「そうでもありません。人手は多いほうですから」
そう答えながら、順子は横にいる寺尾の顔をちらりと見た。りんごの収穫の話をするためにわざわざ上京して来たのではなかった。だが、ひと目で世間の汚《きたな》い部分と渡り合って来たことがわかる、この男たちを前にして、順子には何をどう切り出したらいいのか、わかりかねた。
寺尾は唇《くちびる》に笑みを浮かべてはいたが、鋭い刃物の先端のような視線をふたりの男に交互に投げかけていた。順子は、もう飲みほしてしまったコーヒーカップを手に取り、所在なげにそれを口に持っていった。冷たくなったコーヒーの残りがひと雫《しずく》、口の中に流れた。
「玲奈さんとは会わせていただけますね」
寺尾が単調な声で訊《き》いた。羊は目を細め、「むろんですとも」と答えた。野々村は腕組みをしながら、じっとテーブルの上の一点を見ていた。
「今すぐ。よろしいですか」
「いいですとも」
羊は大袈裟《おおげさ》にうなずいた。
「それはありがたい」と、寺尾が皮肉っぽく言った。
「被害者《ひがいしや》のひとりである玲奈さんには、是非、伺いたいことが山積みなのです。お手間はとらせません。何度か、今後、寄らせていただくことになると思いますから。それに三上さんのほうでも、是非、玲奈さんと話したいことがあるとおっしゃってますしね」
「玲奈さんも喜ぶでしょう」と、羊はごく自然に言った。病気の娘を訪ねて来たボーイフレンドにでも言うような言い方だった。
「では早速……」
立ち上がりかけた寺尾を最初に制したのは野々村だった。野々村は腕を組んだまま、じっと法廷の被告《ひこく》を見るような目で寺尾を見た。
「会っても無駄《むだ》だと言ったら、どうなさいますか」
「は?」
野々村は外国人に日本語を教える時のようにゆっくりと正確な発音で繰り返した。
「会っても無駄だと申し上げたら、どうなさいますか、と伺ったのです」
「どういうことです」
野々村はふっと気を緩《ゆる》めたようにして組んでいた腕を解き、羊のほうをちらりと見た。
「まあ、いいでしょう。先生、私がおふたかたをご案内しますよ」
「そうして下さい。私はこれからオペがあるので、これで」
羊は悠然《ゆうぜん》と立ち上がった。寺尾が「ちょっと待って下さい」と言った。
「いったい何のことですか。会っても無駄だというのは」
「無駄、というのは大袈裟《おおげさ》かもしれませんな」と、羊はにこやかに言った。
「お会いになるだけなら、もういつお会いになっても大丈夫ですよ」
「また、失声症が始まったんですか」
「いいえ。ちゃんとお話しもできます。きれいな声ですよ」
「じゃあ、どうして……」
「ともかく」と、羊の代わりに野々村が言った。「参りましょう」
順子と寺尾は、野々村に従って廊下へ出た。羊は廊下で看護婦と何やら喋《しやべ》っていたが、すぐに忙しそうに去って行った。
三人はエレベーターに乗った。旧式のエレベーターは、まるで歯車のこわれた滑車のような音をたてながら動いた。エレベーターの中で、寺尾は再び訊《き》いた。
「どうもよくわからないな。いったい何があったんです」
「まあ、会ってやってください」と、野々村は背広の前ボタンを留めながら静かに言った。
「玲奈さんは生まれながらにして不幸を背負ってしまった女性なんです」
野々村の言い方に芝居《しばい》がかったものは感じられなかった。順子は矢内原の屋敷に何度か訪れたことのある野々村を思い出していた。野々村は常に玲奈を気づかい、自分の実の娘か妹のようにして愛情を傾《かたむ》けていた。その彼が寺尾の言うような「金の成る木に住みついた寄生虫」であるとは、順子にはどうしても思えなかった。
エレベーターは建物の最上階である五階で大きくバウンドしながら止まった。五階は特別病棟らしく、他の階に比べて静かだった。左側にナースステーションとトイレ、浴室、炊事場があり、「特別室」と書かれてあるドアが二つ、右側に並んでいる。そのドアとドアの間の白い壁には、籐《とう》で編んだ花籠《はなかご》に金木犀《きんもくせい》の小枝が飾られて芳香を放っていた。
野々村はふたりを奥のほうのドアヘ導いた。木製のドアは黒ずんでいた。ネームプレートに、「城山玲奈」と書かれたカードが入っているのが目に入った。
野々村がドアを小さくノックした。中で物音がし、中年の看護婦が顔を出した。制服を脱いで和服を着せたら、いっぺんに華道《かどう》の教師か何かに見えそうな真面目《まじめ》くさった顔の女だった。
「面会のお客様なんです」と、野々村が囁《ささや》いた。「眠ってますか」
「いいえ、今、おやつにビスケットをさしあげたところです」
看護婦はじろりと寺尾と順子を一瞥《いちべつ》すると、ドアを大きく開けた。小さな風がおこり、中からストロベリークリームのような甘い匂いがした。
広い部屋だった。小さな冷蔵庫や洗面台がセットされている予備室の向こうにモスグリーンのカーテンが半開きになっていて、その影にセミダブルサイズのベッドが見えた。ピンク色の羽布団がきちんと四角にたたまれており、同色の大きな羽枕《はねまくら》がふたつ、クッションのようにしてシーツの上に転がっていた。ベッド脇《わき》のテープルには白いシェードの小ぶりのランプが置いてある。そのまわりには何やら手紙や小箱、リボンなどが散乱していた。
「玲奈さん」と、野々村が呼んだ。ベッドの横の後ろ向きになっていた車椅子《くるまいす》の中で、ショートヘアの女の後ろ頭がかすかに揺《ゆ》らいだ。看護婦が近寄り、車椅子をゆっくりとこちら側に向けた。
玲奈がいた。そこにいたのは……車椅子《くるまいす》の中で淡《あわ》いクリームイエローのネグリジェを着、膝《ひざ》に暖かそうなあずき色の膝掛《ひざか》けをかけていたのは、確かに玲奈だった。化粧《けしよう》を何もしていないはずなのに、玲奈の頬《ほお》は薔薇色《ばらいろ》に染まり、ぷっくりとした唇《くちびる》はつややかに光っていた。
そのきらきらとした輝きは彼女の取り戻《もど》した健康を強く物語っていた。ただひとつ、見開かれた両の目が順子を見ても何の反応も示さないことと、やわらかそうな唇《くちびる》の端からひと筋の唾液《だえき》が糸を引いて流れていることを除けば……。
「お嬢様《じようさま》」と、順子は言って口に手を当てた。すべてが明らかになった。車椅子の中の若い女は、パントマイムのように右手を少し上げて宙に何か文字でも書くような真似《まね》をし、それから「ビスケット」と言った。「ビスケット、ちょうだい。いちごのビスケット」
看護婦がどこからか豪華《ごうか》な布張りの箱を持って来て、中から桜いろのクリームがはさまったビスケットを一枚、取り出した。玲奈……いや、寿々子はそのビスケットを不器用に受け取ると口に運んだ。食べるというよりも、前歯で砕く、といった感じだった。かけらがぽろぽろと膝や胸にこぼれ落ちた。ストロベリーの匂いが部屋にたちこめた。
看護婦はそっと部屋を出て行った。野々村はドアが閉まる音を確認すると、「おわかりになりましたかな」と、単調な口振りで言った。
「玲奈さんは何かの強烈なショックで、赤ちゃんに戻《もど》ってしまわれたのです」
「そんな馬鹿《ばか》な」
寺尾が低い声で言った。
「これが現実なのです。ですから警察の方にも、どなたにも会わせることはできなかったのです。玲奈さんの名誉のためにも」
そう言いながら、野々村は車椅子《くるまいす》に歩み寄り、膝《ひざ》まずいて寿々子のこぼしたビスケットのかけらをていねいに取り除いた。寿々子はされるままになっていた。
「私の常識を超えた玲奈さんへの看護を不思議に思われるでしょうな。この特別室の費用はすべて私が支払っています。それに、今、私は事実上、弁護士としての仕事を放棄《ほうき》してもいます。玲奈さんにつきっきりなのです。どうしてこれほどまでにお世話してしまうのか、誰《だれ》が見てもおかしく思うに違いないでしょう」
彼はそばにあったタオルで寿々子の口もとを拭《ふ》いた。寿々子は「ビスケット」とつぶやいた。
「何なのでしょう。私はひとりもので、五十を超える今まで、仕事一筋に生きてきました。その間、城山さんには世話になり、無二の親友にもなりました。玲奈さんとも家族のようにつき合ってまいりました。玲奈さんは今もお美しいが、かつてもまた違った意味で美しい、本当に美しい方でした。気の強さと弱さが混じり合った美しさ、とでも言うのでしょうか……おわかりですね。私は玲奈さんをあらゆる世間の敵から守りたいと思っていました。玲奈さんは人をそうした気持ちにさせてしまう方なのです。死んだ城山もそう思っていました。玲奈さんに辛《つら》く当たったのは、矢内原の親子だけです」
彼は深く息を吸い、しばらくそのまま呼吸を止めて、ひと息に吐き出しながら言った。
「もう、この先は言わせないでください。他人様に聞かせるような話ではありませんから」
「では」と、寺尾が言った。
「この先はあなたが玲奈さんの面倒《めんどう》を……」
「私以外、誰《だれ》ができますか。玲奈さんは赤ん坊に戻《もど》ってしまったんです。玲奈さんのお世話ができるのは、私だけです」
「回復の可能性はないんですか」
「今のところはまったく。二度も恐ろしい目に遭《あ》われたんですから。ただ、四肢の麻痺《まひ》だけは、時間をかけて治せるそうです。それだけが救いです」
「お気の毒に」と、順子はつぶやいた。それ以外、言うべき言葉はみつからなかった。
「もうすぐ退院させます。城山の家に連れて帰り、私はすべての生活を玲奈さんと共にするつもりです」
そう言う野々村の表情には、或《あ》る種の静かな満足感のようなものが窺えた。順子は彼の顔、彼の目付き、彼の表情のどこかしらが、矢内原の屋敷で何度も目にしたものと酷似《こくじ》している気がして、戦慄《せんりつ》を覚えた。今、ここで車椅子《くるまいす》に乗っている女を見る野々村の目は、明らかに滝子が雅彦を見る時の目、雅彦が当時の玲奈を見る時の目そのものだった。
「いちご」と、寿々子は言った。澄んだきれいな声だった。
「いちごのビスケット。きれいね」
狂気の中にいる寿々子には、もう、いかなるときめきも思い出も夢もない代わりに、不安、絶望、恐怖……もないのだった。彼女は静かに狂い、刹那《せつな》の満足だけを求めて生きていた。過去は消え、体験も消えた。彼女の脳は永久に働くことをやめた。
子供っぽい無邪気《むじやき》な顔で彼女は順子を見、寺尾を見、そしてつと寺尾の着ていた茶色のジャケットの裾《すそ》をぐいと引っ張った。
彼女は寺尾を見上げ、晴れやかに言った。
「ま・さ・ひ・こ?」
その顔のどこかに、なつかしいような、何かを必死で思い出しているかのような翳《かげ》りと躊躇《ちゆうちよ》がよぎったが、すぐにそれも消えた。
エピローグ
十月十一日付仙台新報朝刊、仙台トピックス≠謔閨B
「十日、一人の男性が体育の日で賑《にぎ》わう仙台駅で初老の夫婦に出迎えられた。去る三月十六日夜、東京港区六本木の高級ディスコクラブ『クィーン・メリー』でおきた大規模なガス爆発事故で重傷を負いながらも奇跡の生還を果たした佐伯五郎さん(二九)である。佐伯さんは事故のショックから完全に記憶《きおく》を失い、現在も回復の見込みがない状態が続いている。
大事故で佐伯さんと共にいた婚約者の市原寿々子さん(当時二七)―仙台市出身―は、死亡したが、佐伯さんは今だに寿々子さんのことも思い出せないでいる。そんな佐伯さんを見て『せめて天国の娘を喜ばせたくて』と、寿々子さんの両親で歯科医の市原正次さん・静江さん夫妻が、今回、佐伯さんを仙台に招いた。佐伯さんが入院中、十日に一度の割合で上京し、励まし続けていた正次さんは『五郎さんは息子のような気がしています。東京の寿々子のアパートから引き取ってきた遺品の数々を彼に見せたり、夫婦で寿々子の思い出話をしたりすることで少しでも記憶回復のお役に立てれば、と思っています』と語った。
まだ松葉杖《まつばづえ》を手放せない佐伯さんであるが、記者の質問に答えて『もう体のほうは大丈夫です。僕の婚約者であったという寿々子さんの墓参りもしたくて、ご厚意に甘えました』と言葉少なに語った。佐伯さんは来春から、静岡県の実家が経営するマーケットの手伝いを始める予定という。
亡き愛娘《まなむすめ》の婚約者で、記憶《きおく》を失った青年に寄り添《そ》う正次さん夫妻の姿に、事情を知る人たちは、遠くから三人の姿を見守りつつ、目頭を押さえた」
あとがき
ミステリ……ことに広くサスペンスと呼ばれるジャンルに胸踊らせるようになってから随分、時が流れたように思います。
もともと、私はよく言えば凝《こ》り症《しよう》、悪く言えば偏狭《へんきよう》な人間なので、ミステリというと好んで読むのは翻訳サスペンスばかり。映画などはサスペンスに限らず、私立探偵《しりつたんてい》ものやギャング映画も見るのですが、読むとなるとどうしてもサスペンスに目がいきます。偏執狂《へんしゆうきよう》と言っていいかもしれません。
こんな具合ですから、サスペンスタッチのミステリはあらかた読んでしまいました。こうなると、読んでいるだけではつまらなくなってきます。読むことの楽しみばかりではなく、書くことの楽しみも味わってみたいと思い始めたのが運のつき。我が身の恥もかえりみず、ここ二年あまりの間に長編を四作も書き下ろしてしまいました。
二年間に四作……というと、今の日本のミステリ界では「なんだ、それっぽっち」ということになるのかもしれません。人気作家ともなれば、二か月に一作の割合で精力的に書き下ろしを続けている人もいます。二か月に一作だとすると、年に六作。二年間にはなんと十二作も作品が発表される計算で、それは少なくとも私にとっては驚異以外のなにものでもありません。
私はかつて浪人中、人が四時間睡眠で受験勉強をしている時でも、しっかり八時間睡眠を守ってきたという頑固《がんこ》なまでものんびり屋です。焦って何かをやると、必ず失敗する不器用な人間なので、いまのところ書き下ろしは年に二作程度がちょうどいいかな、とも思っています。
さて、本書『仮面のマドンナ』は、ミステリとしては四作目の書き下ろしにあたります。
自分で自分の作品を解説するというのもおかしな話ですが、ここでは私が昔から好んできたテーマ……日常に潜《ひそ》む恐怖と異常……を扱っています。
人はたとえ、人里離れた山小屋で孤独に生きている時でさえ、食べる、飲む、歩く、知恵を使う、といった、生命体としての基本的な営《いとな》みを繰り返します。そしてその営みは無数のささやかな選択の上に成立します。
たとえば大袈裟《おおげさ》な話、食べ物ひとつとっても、選択次第では運命が変わるかもしれないのです。赤い実を食べるか青い実を食べるか、迷ったあげく、赤い実を食べ、毒に当たって死にかけた男は、青い実を食べればよかったと後悔します。しかし、ひとたび自分から開けてしまった運命の扉は二度と閉じてはくれないのです。
ここに登場する主人公たちも同様です。みずから扉を開けた結果、抱え込んだ運命に嘆き、苦しみつつ、また別の運命の扉を開けていく。そうしながら、そこには苦痛ばかりではない、何か途方もなく甘美な危《あや》うい悦《よろこ》びも生まれることを知るのです。
この世界には「あり得ないこと」などない、と私は考えています。なんでも起こり得るのです。不思議な符合《ふごう》、想像を絶する偶然……考えられなかったことすべてが、現実の微小な歪《ゆが》みの中に生じます。
その怖さと、綱渡りをする美女のような、死と隣り合わせの悦楽とを描いてみたかった、というのが正直なところです。
登場してくる矢内原滝子にはモデルがあります。私が小学校時代、まだ十かそこらの頃《ころ》だったでしょうか。大きな古い家に住む未亡人にピアノを習いに通っていました。その女性は、世の中のことすべてに絶望している、と言いたげな暗い表情の人で、木々に囲まれた北向きの陰気な部屋で、私にピアノを教えながら、突然、意味もなく泣き出したりすることが度々《たびたび》ありました。夫と死別したことで神経がささくれだっていたのでしょう。気の毒な方でした。
むろん、その人には雅彦のような息子《むすこ》はいません。それどころか母親を力づけてやまない、明るい活発なお嬢さんがいらっしゃいました。だから、あとのことはすべてフィクションです。
脳味噌《のうみそ》が腐らない限り、今後もこうした日常の選択からおこる恐怖や甘美な陶酔《とうすい》を描いたものをひねり出し続けていきたいと思っています。物語の中に、それぞれの思いを馳《は》せてくださる読者がひとりでも増えてくれれば、作者としてこれほど嬉《うれ》しいことはありません。
一九八七年五月
小池真理子
角川文庫『仮面のマドンナ』昭和62年5月25日初版発行
平成10年6月10日14版発行