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二人で夜どおしおしゃべり
小池真理子
目 次
二人で夜どおしおしゃべり
男と女のつづれ織《お》り
恋のストリップ・ティーズ
人生は風をはらんで
男たちとのサークル・ゲーム
[#改ページ]
二人で夜どおしおしゃべり
贅肉《ぜいにく》賛歌
先日、久しぶりに仲間と集まって喋《しやべ》っていた時、男の色気・女の色気≠ェ話題に上った。異性のどこに色気を感じるか、という話である。
一応、出席者≠フ内訳《うちわけ》を書いておくと、男三人、女三人。全員が三十代の前半で、人並《ひとな》み以上にセックスの経験を積んでいると自負している連中ばかりだ。
そのせいか、毛深い女がいいとか、ワキガの男は最高だとか、一風《いつぷう》変わった意見も数多く出されたが、全員一致したのはただひとつ。
「やせっぽちより絶対太めのほうがいい」ということだ。
男たちいわく、やせた女はギスギスして冷淡《れいたん》。計算高くて、第一ちっともセクシーじゃない感じがすると言うし、女性軍も「やせた男は、まるで人体|模型《もけい》みたいで体にメリハリがない」と言う。
じゃあ、太っていればそれでいいのか、と言ったらそうでもなく、「体はスマートなのにお腹《なか》のあたりがこんもり太っているのがいい」(ちなみにこれは私の意見)とか、「お腹じゃなくて背中にお肉がついてるのがいい」とか、「足は細いがウエストがないおデブちゃんにコーフンする」とか、個人的趣味は異なるようだ。とはいえ、太め礼讃《らいさん》であることには変わりない。
一億総ダイエット時代≠ニまで言われる今日、人々はジョギング、エアロビクス、各種|痩身法《そうしんほう》……に明け暮れながら、案外《あんがい》、ホンネのところでは「太め=セクシー」ということを知っているのではないか。そう思って私など内心、嬉《うれ》しくなったほどだ。
そういえば、私が知っている男で「デブは死んでも願いさげ」と、豪語《ごうご》した人は一人もいない。皆《みな》、「どっちかと言うとやせてたほうがいいかな」と、前置きしながら「まあ、相撲取《すもうと》りみたいでなければいいよ」と物わかりがよかった。
十代の夢多き少年ならいざしらず、ある程度経験を積んだ男は、女の贅肉《ぜいにく》≠ノこそ安心と悦《よろこ》びと、動物的一体感を感じるのかもしれない。
女にしても同様で、男の贅肉≠ヘたくましさとどこかで一致し、多くの場合、非常にセクシーに感じたりするものである。
昔のアール・デコ調の写真に出てくる女たち、それに世界の男を魅了《みりよう》したマリリン・モンロー、ブリジッド・バルドー、皆、贅肉《ぜいにく》の美女である。
モンローなど、ひとつ間違《まちが》ったらデブだったではないか。
美的価値観は時代とともに変わっていくが、人間の性的本能は変わらない。変わったように見えるとしたら、それは表現の仕方が変わっただけだ。
欲望の方向は同じなのだと思う。即《すなわ》ち、男女ともにベッドの中では、骨≠ナはなく、肉≠愛したいと願うのだ。
白状すると私はお腹《なか》デブ≠ナある。他は全部、普通なのになぜかお腹だけがデブっていて、いくらスポーツをしたり、ダイエットをしても贅肉《ぜいにく》は消えてくれない。ずいぶん悩んだこともあったが、今はもう気にしなくなった。間食《かんしよく》さえしなければ、ブヨブヨデブになるのだけは避《さ》けられるし、第一、贅肉は私の三十代のシンボル。セクシーであることの証《あかし》でもあるのだ。熟女《じゆくじよ》と贅肉は手をつないでやって来る。それでいいではないか、と思っているのである。
友人で急激にダイエットしたため、見るも無残《むざん》にやせて体はこわす、皺《しわ》は増《ふ》えるで、さんざんの思いをした人がいたが、本人が「やせてともかく美しくなった」と思いこんでいたのには恐《おそ》れいった。
確かに彼女はスマートになっていたが、美しくはなかった。頬骨《ほおぼね》が見えるくらいやせた顔は、ギスギスした印象を与え、艶《つや》を失った肌《はだ》は老婆《ろうば》のようで、うそ寒い感じがした。
彼女を見ていて、贅肉《ぜいにく》に対する社会をあげての嫌悪《けんお》の情は大きな問題だと思ったものだ。日本人の贅肉なんて、欧米人《おうべいじん》に比べたらかわいいものである。自分の夫や妻、恋人にむかって「もっとやせたら?」などと言うのはもうやめましょう。贅肉こそエロスのかたまりなのです。
仕事人間
友人に「ウチは母子家庭だから」とこぼす人がいる。彼女の夫は某《ぼう》大企業の営業マン。朝は八時前に家を出て、夜は十二時前に帰ることは稀《ま》れ。週休二日も何のその……で、やれ接待《せつたい》ゴルフだ、マージャンだ、と飛びまわり、あげくの果《は》てに月のうち一週間は出張……というのだから「母子家庭」とこぼす彼女の気持ちも理解できる。
そういえば先頃《さきごろ》、「単身|赴任《ふにん》した夫が忙しすぎて家庭をかえり見ない」という理由で子供を道連れに無理心中した主婦がいた。世間は「気の毒だ」「いや、わがままなだけだ」とかまびすしかったが、私などは、心中するしないは別にして「夫が忙しすぎる」という理由で蒙昧《もうまい》する女性は、文句なく正当だと思っている。
もちろん、忙しい仕事をもつ人間だとわかっていて愛し、結婚したわけだから今さら何を……と言われても致し方ないことなのかもしれない。それに何といっても、妻子のためと思えばこそ、辛《つら》い仕事に汗水たらし≠ニいう男の立場に立ってみれば、妻は玄関に三《み》つ指《ゆび》ついてお出迎《でむか》えし、「ご苦労様でございました。ハイ、何の文句もございません」と謙虚《けんきよ》にほほえむくらい、当然のことなのかもしれない。
しかしウィメンズ・リブや女の自立≠ニいう問題ではないところで、私は日本の女は何故《なぜ》、かくも寛容《かんよう》なのだろうかと時折《ときおり》、驚いてしまうのだ。
私のツレアイは八年間、パリで生活をしていた男である。彼から話を聞いたり、彼に紹介されて友人になったフランス人たちを見ていたりして私がいつも思うのは、とにかく男と女が例外なく対《つい》の関係を強固に作っているな、ということだ。これは夫婦に限らない。恋人同士とて同様で、ひとたびカップルを組むと、まず間違《まちが》いなく常に二人で行動する。それが当たり前になっているので、パーティーや種々の催《もよお》し物などにどちらか片方しか招待《しようたい》しなかったりするのは、失礼にあたる。たとえ、片方としか知り合いでなかったとしても、必ずカップルで招待する。行くのがいやなら二人とも行かない。簡単なのだ。
それにたとえばカップルで招待された場所で、男ばかり円陣を組み、男同士の話=i野球の話でも仕事の話でも何でもいい。日本の男たちが集まってよく喋《しやべ》るような話だ)を始めたらもう大変。女性は十分とたたないうちに「お先に失礼」ということになる。
これまた理由は簡単で「話に加わることができないので、私がここにいる理由は何もなくなりました」というわけである。別にヒステリックにそう言うのではない。淡々と「そうでしょ。違いますか」と言って微笑《びしよう》し、何事もなかったかのように帰っていくだけのこと。女房を放《ほ》ったらかしにして日曜の午後、訪ねて来た会社の同僚《どうりよう》とマージャンを始める日本の男たちにしてみれば「何という可愛気《かわいげ》のない女」ということになるのだろうが、フランスではまったく理にかなったことなのである。
私のツレアイの友人で、フランス人女性と結婚した日本人男性のケースは悲惨《ひさん》だった。彼は、ある日突然、妻から「離婚してください」と言われた。原因はまったく思いあたらない。毎日毎日、愛する妻のために働き、金を稼《かせ》いでいる。浮気《うわき》など一度もしたことがない。
ところが理由を聞いて彼は驚いた。「働いてばかりいてちっとも私のことをかまってくれないから」というのだ。
あわてた彼は必死になって、何故《なぜ》自分が忙しく働いているのか、その理由を考えてみてほしい、と彼女に懇願《こんがん》した。「みんな君のためなんだよ」と。
だが妻はいっこうに動じる気配《けはい》がなく、ただ「もうやっていけない」と繰《く》り返すばかり。彼は仕方なく弁護士のところへ行き、離婚裁判にもちこむことにした。そして弁護士の言ってきたことを聞いて二度ビックリ。
「この裁判はあなたには勝ち目がありません。初めから諦《あきら》めたほうが無難《ぶなん》です」
つまり、「忙しすぎて妻をかまわなくなった夫は、妻から離婚をされて当然」という風潮が法の世界にもまかり通っているのである。
結局、その日本人男性は妻と別れ、傷心のままフランスに残っているが、別れてみて自分がいかに日本的なもの≠多く背負《せお》ってきたか、ということを実感したらしい。
こうしたケースはよくあることで、フランス人女性に愛想《あいそ》をつかされる日本人男性はたいてい、働き蜂《ばち》か、亭主|関白《かんぱく》でヨコのものもタテにしない男……と相場《そうば》が決まっているそうだ。
これはフランス人の女性が自分の望むことをはっきりと表現でき、理にかなわぬことはたとえ夫婦であっても冷たく退ける、という体質をもっているせいだろう。当然、フランスの男たちも同じ。要するに自分にも他者にも厳しいお国柄《くにがら》なのだ。だからこそ、逆に情熱的な恋愛が数多く生まれたりもするのだと思う。
日本の平均的男女がそうなることはあまりないだろうと思われるが、少なくともこうした違いだけは知っておいて損《そん》はないですな。
女の友達
人と人との距離《きより》を保《たも》っていくのは簡単そうで難《むずか》しい。
距離を保つのが礼儀であると知りつつも、必要以上に相手の中に入りこんであれこれ世話を焼いたり、また相手に秘密を打ち明けられたくてウズウズする……というのが人情というものだろう。
先日、地方に嫁《とつ》いだ知人から久々に便りが来た。嫁いで十年。東京生まれの東京育ちである彼女は嫁ぎ先での地元の人間関係には大いに苦労したらしい。友人らしい友人もいなかった淋《さび》しさから、近所に住む主婦と親しくなろうと努力し、同い年の主婦の一人と家を往《い》き来《き》する仲になった。
旦那《だんな》が出勤すると簡単に家事をすませ、互いにどちらかの家へあがりこんで茶菓子《ちやがし》をつまみながら他愛《たあい》のないお喋《しやべ》りをする。夕方からは一緒《いつしよ》に買い物に出かける。
そんな日々が続き、ほどなくして二人とも出産。育児に追われている間は会う回数は減ったものの、子供が幼稚園に行き出すころになると再び二人の関係は濃度を増《ま》した。
ともかく何でも打ち明けるというのである。旦那《だんな》の性癖《せいへき》から、セックスの回数、子供の教育、家計のやりくり、近くに住む 姑《しゆうとめ》 の悪口……夫に言えないようなことも含めて、二人は小学生の親友同士のように秘密≠もたないことで互いの信頼を分かち合っていたらしい。
そんなある日、いつものように彼女が自宅に招《まね》いて二人で喋《しやべ》っていると、突然、相手が怒《おこ》り出した。その原因たるや、聞いて呆《あき》れるではないか。
何でも子供の通う幼稚園の運動会で、彼女の子供が相手の主婦の子供の足をひっかけて転ばしたことを取り上げて「親であるあんたがやらせたのねッ」と誤解《ごかい》したというのだ。
私の知人は「冗談《じようだん》で、あんたんとこの子はやんちゃだから転ばされるくらいでちょうどいい、と言っただけ」らしいが、それにしてもまあ、どっちもどっち、三十歳を過ぎた女の争いとはとても思えない。
このことがあってから、その主婦は二度と彼女のところに来なくなり、彼女は天涯孤独《てんがいこどく》になったような気がしているというから、昼のメロドラマにもならない馬鹿《ばか》げた話である。
しかしそれにしても、私はこうした話を聞くと戦慄《せんりつ》を覚えるのだ。
ことに女同士の場合、親しみの表現が過度になりやすいのはどうしてなんだろう。ともかく何が何でも互いの胸の内に土足で上がりこみ、愚痴《ぐち》を言い合うことが親しいことの証《あかし》だ──と思いこんでいる人の何と多いことか。
私は「あなたの年収はいくら」とか「ご主人の年収は?」とか、言うにことかいて「セックスは週に何回?」などと聞いてくるような人は友達だと思わないことにしている。
そればかりか、恋人とケンカしたという理由でこちらの予定もおかまいなしに深夜、電話をかけて泣き事を言う人。そのくせ人を徹夜《てつや》させておいて、三日後にケロッとした顔で現われ、恋人とののろけ話を五時間にもわたって話す人。聞いてやらないと「冷たい人ね」と怒り、そっけなくなる人。みんな友達ではない。
結婚している人もしていない人も、一人で暮らしている人も二人で暮らしている人も、それぞれの生活のペース、信条というものがある。人に言えない悩みもあれば、触《ふ》れられたくない事実もある。
そうしたものに触れないように、距離《きより》を保《たも》ってつき合うのが本当のやさしさ、暖かさだと私は思っているのだが、こればっかりは通用しないことも多い。
おかしなことだが、男同士のつき合い方を見ていると感動させられる時がある。仕事上のつき合いというのは利害が絡《から》んでくるから別にして、私生活における男同士のつき合いには、たいていベタベタと相手を侵害《しんがい》してくる様子《ようす》が見られない。
「俺《おれ》、結局、ふられちゃったよ」と、一人が言えば、「へえ、そうか。まあ、今夜は飲めよ」ともう一人が言う。そして夜通し飲んでも失恋のいきさつに関する話は一切《いつさい》、しない。
帰り際《ぎわ》にぽつんと一言。
「彼女、いい女だったもんな。気持ちはわかるけど、元気だせよ」
こういうシーンに出くわすたびに、私は女に生まれたことを後悔《こうかい》する。
ただし数少ない本当の友人たちはさすがにその点をよく心得《こころえ》ていて、たまに電話してきては「どう? 風邪《かぜ》ひいてない? 元気?」と話がはずむ。もちろん立ち入った話は互いにしない。互いに暗黙《あんもく》の了解《りようかい》というわけだ。
私が倒れたりした時、まっ先にかけつけてきてくれるのは、多分こういう人たちだろうと思っている。
女の味覚
だんだん年を取ってきたせいか、食べものの好みが最近、変わってきた。
二十代の前半は、お金がなかったこともあるが、外食というと大抵《たいてい》、スパゲッティかハンバーグ……といったごくフツーの洋食が多かった。
二十代の後半となると、これにニンニク味をプラスしたもの──たとえば中華風味つけの肉や野菜、スープなど──に好みが移行。多少、サイフが潤《うるお》っている時や個人的ハタ日(自分の誕生日や恋人の誕生日など)には、ちょっとしゃれたフランス料理を予約して、美食を気取ったものだった。
もともと私は周囲の人間から「こってり料理党だね」と言われ続けていて、たん白質は魚や豆類よりも肉でとり、うどんやそばのツユなども全面的に関東風好み。薄味の料理など食べた気がせず、脂肪の多い、匂《にお》いの豊かな濃味《こいあじ》しか好まなかった。
うちの母親が夏バテしてソーメンをすすっている横で、私が赤身の肉をニンニクと共に焼いたボリュームたっぷりの食事をしている時など「気持ち悪くなるからやめてよ」と、何度、言われていたことか。
その私が、である。三十代の前半という御年《おんとし》に至って、徐々《じよじよ》に変身し、まったくの和食党になってしまったのである。これは自分でもオドロキであり、初めは何かの病気の前兆《ぜんちよう》ではないか、と疑ったほどだった。
だが、どうやらそうではないらしい。様々な先人の本を読んだり、年輩《ねんぱい》の人の話を聞いたりしたところによると、この嗜好《しこう》の変化は「民族的味覚に帰着した」証拠《しようこ》なのだそうである。
簡単に言えば、ニッポン人の味を好む純粋《じゆんすい》ニッポン人であることが証明された、ということらしい。
これはかなりナルホドとうなずける。今、私が「食べたい」と思うのは、トーフであり、ナットウであり、ネギであり、白身の魚であり、海苔《のり》であったりするのだ。これらを総合して一度に味わえるのは寿司屋《すしや》だから、最近はよく寿司を食べに行く。サイフの中が淋《さび》しい時は、家で白い御飯に海苔、ナットウ、焼き魚、あぶらげの味噌汁《みそしる》に白菜《はくさい》の漬《つ》け物……なんていう純和風旅館の朝食みたいなメニューで食事をする。
一人で暮らしていた学生時代、ちょうどカップヌードルが登場し、マクドナルドやシェーキーズが一世《いつせい》を風靡《ふうび》し始めたころだったが、あのころハンバーガーやピッツァがどれほどおいしく感じられたことだろう。まさに「世の中にこんなにおいしいものがあったのか」と思えたほどだった。あれもアメリカナイズされた食生活に味覚をごまかされていたからだったのだ、と今さらながらにつくづく思う。
ニッポン人にはニッポン人の味覚がある。アメリカ人にアメリカ人の味覚があるのと同様に。いくらハンバーガー党である若い人でも海外旅行をしていて、一度も漬け物が食べたいと思ったことのない人は珍《めずら》しいだろう。
自分がニッポン人である、ということを遅《おそ》まきながら気づいたせいでもあるかもしれないが、私はもう決して外国人の男と一緒《いつしよ》には暮らせまい、と思っている。
男と女はちょっとした共通感覚が二人を結びつける大きな要素になることが多い。音楽の趣味、本の趣味などはもちろんのこと、ビロウな話で申し訳ないが、一日にするウンチの量が同じ……というので深く深く結びついている夫婦もいる(これはホントの話だ。この二人は必ず一日に三回、ウンチをしにトイレに行く珍しいカップルなのである)。
これが味覚となると、共通感覚はさらに深まるのだ。逆に言えば味覚の不一致は男女の間に目に見えない溝《みぞ》を作ると言っていい。
たとえば音楽の趣味が一致しなくて、男は朝、バッハの「トッカータとフーガ」を聞きながら食事をしたいと思っているのに、女が森進一の演歌を聞きたい……と言い出した時は、内心互いに「何て趣味が悪いんだろう」と思っていても愛し合っていれば、何とか譲《ゆず》り合えるものである。本の場合も同じだ。純文学しか読まない女と経済評論しか読まない男でも、互いにないものを補《おぎな》い合えるという楽しみが生まれよう。
ところが味覚が一致しないと大変に困る。食事は毎日のことだ。いくら別々の食事を作って食べても、目の前で「大嫌《だいきら》いなナットウ」や「吐《は》き気《け》がするチーズの匂《にお》い」なんてのをパクパクやられていたら、理屈をこえたところで嫌悪《けんお》感を抱くようになるのは自然のなりゆき。そのうち、食事も別々にしようということになりかねない。
友人で長い間イタリアに暮らしていた人が、ダンナが風邪《かぜ》をひいて寝こんだあと、大ゲンカをやらかしたことがある。その理由は彼女が病人食としてチーズと油をたっぷり使ったパスタを作ったこと。
ダンナいわく「熱がある時は梅干《うめぼ》しのオカユに冷《ひ》ややっこでいいんだよ。パスタなんて食えるか。イタリア人じゃあるまいし。俺《おれ》は日本人なんだぞ」
死に損
一人暮らしの女性の自殺、および自殺|未遂《みすい》は、クリスマス、ゴールデンウィークの周辺に多く発生する、という話を聞いたことがある。
六年ほど前、夜中近くにマンションに帰った私はエレベーターに乗った途端《とたん》、妙《みよう》な匂《にお》いが漂っているのに気づいた。初めは何の匂いなのかわからなかった。マニュキュアの除光液のような匂いでもあり、新しく塗《ぬ》ったペンキのような匂いでもあった。
三階でエレベーターを降りると、廊下にもその匂いがしていた。私は、エレベーターの箱に引き返し、くんくんと鼻を鳴らして確かめてみた。
ガスの匂いだった。エレベーターの天井についている換気扇。匂いはそこから少しずつもれてきているようだ。
もう一度、エレベーターに乗り、二階で降りてみた。二階の廊下はガスの匂いが充満していた。
あわてて管理人室へ飛びこんだのは言うまでもない。すぐに警察が呼ばれた。野次馬《やじうま》が集まる中、警官の呼びかけでマンションの住人たちがこわごわ外に飛び出して来た。
二階の一室のドアをこじあけ、窓という窓を全開にしている警官の姿が外から見えた。
野次馬の中の誰《だれ》かが涙声で叫んだ。
「○○ちゃんよ! あの子ったら! 何も妻子ある男のために命まで落とさなくってもよかったのに!」
その○○ちゃんは、発見が早かったので大事には至らず、一命をとりとめた。ゴールデンウィークも半ばの、こどもの日¢O夜のできごとであった。
ビリー・ワイルダー監督の傑作『アパートの鍵《かぎ》貸します』は、自分のアパートの部屋の鍵を会社の上司たちに貸し、情事の手助けをして出世してきた男が、妻子ある男との恋に疲れた女に自分の部屋で自殺|未遂《みすい》をされる話である。彼女は同じ会社のエレベーターガール。彼が日頃《ひごろ》からほのかな思いを寄せていた女なのだが、彼女は恵まれぬ自分の恋に絶望して彼の部屋とも知らず、睡眠薬自殺をはかる。それも、クリスマス・イブの夜……という設定だった。
こどもの日≠竍クリスマス≠ノは、どういうわけか日頃の乱行《らんぎよう》を返上して家庭サービスにつとめる、という手合《てあ》いが非常に多い。家庭をもつ男と真剣に恋愛している女は、年に二回のこの日が近づくと不安になり、「今度もまた彼は家に帰るのかしら」と、あらぬ妄想《もうそう》に苦しめられることになる。神経がピリピリし、正常な判断ができなくなり、投げやりな気持ちで薬やガスの元栓《もとせん》に手が伸びてしまうのだろう。
私は恋愛がらみの女性の自殺(あるいは自殺願望)の七割は見せしめ≠ェ目的なのではないかと考えている。男との関係がギクシャクしている時、自分が死ぬことによって、その男に罪の意識を味わわせる──つまり自分の死後、男がどう反応するだろうか、と悪魔的に想像し、その想像を楽しめるからこそ苦もなく死を選べるというわけである。
私はそれはそれで別にかまわない、と思う。理解できるどころかものすごくよくわかるし、第一、それほどのエネルギーをもって自ら恋の花を散らそうとする女というのは迫力があってアッパレだと思えるのである。
ただ、何だろう。この世で見せしめの死≠ェ本当に効果的に作用することは滅多《めつた》にない。死なれた側は気が動転し、すまなかったと反省するだろうけど、それでオシマイだ。死のきっかけが生臭《なまぐさ》い理由(こどもの日に男が家族サービスしたから、とか、男が女房にクリスマスプレゼントを買ったから、とか)であればあるほど、残された人々に美しい思い出として生き続けるものは何もなくなる。
要するに死に損《ぞん》≠ニいう形になるのが関《せき》の山《やま》なのだ。
女は男を振《ふ》って生きろ≠ニいうのが私の昔からの持論《じろん》である。女が男を振り、男が女に振られていく図式こそ、世界が躍動するためのもっともバランスのとれた形なのである。
男が女に振られて女々《めめ》しくなるからこそ、そのみっともなさを克服《こくふく》しようとしてハードボイルド小説が生まれたり、世界をアッと言わせるすぐれた映画が生まれたりするのだ。今日ある芸術《アート》の世界は、振られた男と振った女によって構築《こうちく》されていると言っていい。
だってそうでしょう。女は振られると、すぐ腹いせや見せしめを考え、昇華《しようか》しようとしなくなるから何ものも生まなくなる。女は振っていけばいい。振った側にもそれなりの悲哀《ひあい》がある。その悲哀と誇《ほこ》りを生かすことによって、あらゆるジャンルに挑戦し、何かを生み出していけるのだ。そもそも女が恋に絶望して死ぬなんて、すごく美しくないことのように思える。どうせ死ぬなら美しく死にたい。だから私は女は男を振って……≠ニいうことにこだわるのである。男を振り、虚無《きよむ》的な気分になってガス栓《せん》を開く……なんてことがあったとしたら、不気味《ぶきみ》に美しくてなかなかいいではないか。
女の老い
自分の身体に老《お》いの兆候《ちようこう》を発見した時ほど複雑な気持ちになることはない。
春の日だまりの中、久々にゆったりした気分でコーヒーなぞ入れ、何気なくそばにあった手鏡で顔をのぞきこむ。その途端《とたん》、「ギャッ!」と叫んでしまった。
私はいわゆるドレッサー(化粧台)の類《たぐ》いを置くことがあまり好きではなく、化粧品はすべて洗面台の脇《わき》にまとめて、そこで化粧をする。そのほうが洗顔と化粧を同じ場所で行なうことができるし、第一、女の聖領≠ニ言わんばかりの白いピカピカのドレッサーなんかの前に坐《すわ》って、コテコテと顔を塗《ぬ》りたくっている薄気味《うすきみ》悪い自分を見なくてすむ(昔の三面鏡と共に、どうも化粧台の類いは私にとって薄暗いじめじめした印象があるのだ)。
我が家の洗面室はバスルームの隣。バスルームは東向きで、おまけに窓がついており、そのためそこに接続している洗面所は、まあまあの明るさを保《たも》っている。
とはいえ、やはり洗面室内の明りをつけたほうが化粧などの際には適当だ。で、化粧をする時はたいてい人工の明りの下で……というのが習慣だった。
これがいけない。そう、これが愚《おろ》かにも自分の肌《はだ》を過信した第一原因だったのだ。
人工的な光の下では、人の肌はごまかしが効《き》く。特に、黄色系統の光は、ちょうど風呂からあがったばかりの時のように肌をみずみずしく見せてくれる効果がある。
だが、自然光の中だと肌はありのままの状態を露骨《ろこつ》にさらしてしまうのだ。知らぬがホトケ……。これまで、同世代の女性と日のさんさんと射しこむコーヒーショップで会っていた時など、失礼ながら内心、『あら、この人、ずいぶん老《ふ》けたんだな。小皺《こじわ》がすごいじゃない』なんぞと思い、密《ひそ》かに自分の若さを誇《ほこ》ったりしていたのだが、とんでもない恥《はじ》知らずだった。今では床《ゆか》に額をこすりつけて、彼女たちに陳謝《ちんしや》したい。春のやわらかな日射しの中、手鏡に映された私の顔は小皺とたるみの、まさしく老《お》い≠ヨの入り口を象徴《しようちよう》した顔だったのである!
ここで漫画《まんが》だったら多分、「ガーン!」などという劇的効果音が書かれるのだろうが、本当にその通りであった。ためしにおそるおそる首筋《くびすじ》なども見てみる。ガーン! たるみ及びハリのなさを発見。
お次は歯。ガーン! タバコの吸いすぎで白さは薄れ、クリームイエローに近い。ガーン! ガーン!……の連続だ。
そういえば最近、疲れっぽくなってきたし、以前よりも肩こりがひどくなった。二日酔《ふつかよ》いもしやすくなったし、ちょっと階段をかけあがると息切れがする……等々、単なる運動不足のせいかもしれないことを並べたてては老いの始まりかも≠ニ思い、一瞬、ひどく空《むな》しい気分になった。
十七歳のころ、三十歳になったら死のう、と思っていた。理由は簡単。十七の小娘にとって三十の女は老女≠ニしか思えなかったからである。
二十歳をすぎるあたりから、四十歳までは生きてもいい、と思うようになった。適度の精神の緊張《きんちよう》とそれなりの美的センスさえあれば、四十歳でも充分に女は美しいということを発見したからである。
そしていま、四十どころか寿命《じゆみよう》をまっとうするまで死んでたまるか、という生命への執着心《しゆうちやくしん》を人並《ひとな》みにもつようになった。うちで以前飼っていた柴犬《しばいぬ》は、十三年間生き(人間年齢で言ったら八十歳くらいだったそうだ)、最後は茶色い毛が老《お》いと皮膚炎《ひふえん》のため、あちこちで固まってボロボロの毛布みたいになっていたが、それでも顔や性格は可愛《かわい》らしかった。あんなふうに人も、老いてなお可愛らしくあることは可能なはずだ。そう思えば、老いもまた美しい。
しかし、自らの老い≠フ小さな始まりを自覚してみると、ほとほとこの中途半端《ちゆうとはんぱ》さに嫌気《いやけ》がさす。若くもなく、かといって老いてもいないどっちつかずの状態。夏が終わりに向かっていく時に感じる、あの独特の淋《さび》しさみたいなものが時折《ときおり》、頭をよぎっていく……などと書くと本当に滅入《めい》ってくるからやめにするが、まあ早い話が、男も女も等しく腐《くさ》る時は腐る、ということだろう。老いてなお二十歳のように見えるとしたら、ヘップバーンもエリザベス・テイラーも薄気味《うすきみ》悪いではないか。
エリザベス・テイラーが二重アゴをさらして厚化粧し、ニッと笑ったからと言って別に非難するにあたらない。美女が年をとっただけ、と言うべきで、美男もまた同様、年をとる宿命にあるのだ(最近のアラン・ドロンを見よ!)。ブルック・シールズも松坂慶子も年をとる。ブスもブオトコも年をとる。キミもアナタも年をとる。
そう考えて春の日だまりの中、私は手鏡を放《ほう》り出し、読みかけの推理小説を再び読み始めたというわけです。
医者嫌い
大の医者|嫌《ぎら》いである。何も医師が不当に儲《もう》けているからではない。私を神経症にしたのが医者だからである。
あれは忘れもしない小学校三年の時。春の校内定期検診の際、その校医は私の胸に聴診器を当てると「ん?」と言って首をひねった。そして何度もポンポンと胸を叩《たた》き、「ふーむ」と唸《うな》った。
私の後ろに並んでいた子が不思議そうに私のことをのぞきこんだ。校医の横にくっついていた医務室のオバさんまでが、私の健康カードから目を上げて不審《ふしん》げに医者の顔を見た。校医はおもむろに聞いた。
「今まで高熱を出したことはある?」
わたしは「ない」と答えた。よく風邪《かぜ》をひいて熱は出したが、それが高熱かどうかは子供では判断がつかない。校医はもう一度、「うむ」と言って私に後ろを向かせ、背中をポンポンと叩いた。
私の後ろで校医と医務室のオバさんが何やらコソコソと話し合っているのが聞こえた。私は急に不安になった。どこか悪いんだろうか。後で入院なんてことになるんじゃないか。
「ま、いいでしょう。ハイ、次」
校医が抑揚《よくよう》のない声でそう言ったので、私は不安にかられながらも席を立った。返してもらった健康カードをこわごわ覗《のぞ》くと、「内科」の項目《こうもく》のところに「異常なし」とある。一応はホッとしたものの、それからの私は定期検診のたびに神経症≠ノなった。聴診器を当てられただけで心臓がドキドキし始める。何か自分には病気があるらしい、と子供心に思いこんでしまったせいだ。
校医は男の先生だったので、私のその心臓ドキドキが、ポッチリとふくらみ始めたオッパイを出すのが恥ずかしいせいだと思ったらしく、いやらしい声で、「さ、そんなに恥ずかしがらなくても大丈夫《だいじようぶ》」などと言う。私は「バーロー」と怒鳴《どな》ってやりたかった。あんたさえ、あの時、思わせぶりなことを言わなかったら、こんなふうにはならなかったのだ!……そう叫びたかった。何が「ま、いいでしょう」だ。説明もなしに「ま、いいでしょう」では、こちらの不安はおさまらないではないか。
以後、現在に至るまで私の医者及び病院キョーフ症は続いている。医者に自分の身体を見せたら十中八九《じつちゆうはつく》、絶望的な病気を宣告されそうな気がしてこわいのである。だから、ちょっとでも身体の調子がおかしくなると、すぐ、最悪のことを考える。頭痛が続くと脳腫瘍《のうしゆよう》を疑い、胃の調子が悪いと胃ガン、身体がだるいと白血病、喉《のど》が腫《は》れると喉頭《こうとう》ガンを疑う。笑い話みたいだが、本当のことなのだ。
七、八年前、全身がだるく食欲が失《う》せ、胃が固くなった感じがして微熱《びねつ》が出る日が続いた時、本気で胃ガンだと思いこみ、さすがに慌《あわ》てて病院の門をくぐった。バリウムを飲んでレントゲンを撮《と》り、血液検査をし、検査にさんざん金を使った。そしてこの世の終わりという顔をして結果を聞きに行くと、医者は「神経性のごく軽い胃炎」と一言。「大騒ぎすることはありません」だと。自分がバカに見えて笑いたくなった。私をこんなふうにしたのは、あの時の校医なのだ!
だいたい、医者は非情だ。診察した後、きちんと病状を説明し、不安を取り除《のぞ》いてくれる医者に私はこれまでお目にかかったことがない。たいていが「ま、いいでしょう」のクチだ。ひどいのになるとカルテに黙《だま》って横文字を並べ、「お薬を出しておきます」と言ってすませる医者もいる。「どうなんでしょうか」と聞こうものなら、面倒臭《めんどうくさ》そうな目でこちらを一瞥《いちべつ》し、「多分《たぶん》、風邪《かぜ》でしょう」などと答える。そして付け加えるのだ。
「様子をみないとなんとも言えませんが」……
「多分」とか「様子」とか言われても困るのだ。不安と猜疑心《さいぎしん》がますますつのるではないか。
去年、母が入院した時、同居人と共に見舞いに行った。六人部屋で、母のベッドの隣は糖尿病《とうにようびよう》のおバアちゃんだった。おバアちゃんは同居人を指さして私に「あの男の子、誰《だれ》?」と聞く。私がツレアイだ、と答えると、彼女は「メンコイ子だねえ」と目を細めた。三十五の男でもおバアちゃんにしてみればメンコイ≠フである。私たちは声を合わせて笑った。
その一週間後、見舞いに行くとおバアちゃんのベッドはもぬけのカラだった。メンコイ≠ニ言った二日後に亡《な》くなっていたのである。
だから私は病院が嫌《きら》いだ。不安が去ると死がやってくるとしか思えない。
この病院キョーフ症は、医者の友達ができたら治ると言う人もいるが、多分、私の場合はそれでも治らないと思っている。医者と飲んでいても、こちらの肝臓《かんぞう》を見透《みす》かされてるようで恐《おそ》ろしいではないか。
頭のおかしい男
たまに「頭のいかれた女に追っかけられて困っている男」の話を聞くことがある。
「一度、仕事の関係でお茶を飲んだだけ」なのに、退社時になると会社のまわりをうろつき、彼を見つけると十年来の恋人のように走り寄って来て、真っ赤な唇《くちびる》を震《ふる》わせながらニッタリと微笑《ほほえ》みかける。
会社には毎日電話があり、「あなたは私の理想の男性。あなたと巡《めぐ》り合えたのも神様のおぼしめし」とか何とか、新興宗教の教祖みたいなことを言い続ける。
たまりかねて外の喫茶店に呼び出し、「あなたは頭がおかしい。二度と追いかけまわさないでください。迷惑《めいわく》ですっ!」と、叫び、ついでに「一度、病院でみてもらったらどうです。あなたはビョーキだ」と付け加えると、相手はしくしく泣き出す……といったパターンである。しかし、こうしたケースはとても少ない。ないことはないのだろうが、そうしょっ中耳に入ってこないところを見ると、あちこちに転がっている話ではないようだ。
一方、「頭のいかれた男に追っかけられて困っている女」の話は非常によく耳に入ってくる。深夜の無言《むごん》電話。無記名のラブレター(しかも誤字脱字《ごじだつじ》だらけで、文章は小学生レベル)。意味不明に送られてくるバラの花束《はなたば》やコンサートのチケット。マーケットの片隅《かたすみ》で背中に感じるいやらしい視線。振り返るとあの男≠ェ、クラーイ目付きでこちらをじっと窺《うかが》っていたりなんかして、こういうのが続くとどんなに気丈《きじよう》な女でも半ばノイローゼになる。
かくいう私もそうした被害者のひとりだ。あれは五年ほど前だったろうか。或《あ》る日、突然、「某《ぼう》私立大学助教授」の名をかたってわが家に電話してきた男がいた。私の書く女性論の熱心な読者で、自分でも学術誌に女性論を書いているのだと言う。電話の感じはとても良かった。初めて電話をかける非礼を詫《わ》びるあたりなど、実に紳士的で控《ひか》え目で、「話し方教室」の先生みたいだった。
仕事|柄《がら》、私のところに突然電話をかけてきてくだらない身の上話をする失礼千万な読者は少なくない。そういう人たちの不躾《ぶしつけ》な態度と比べると、この助教授センセイの態度は好感がもてた。
センセイは「私の女性史研究論文を是非《ぜひ》、あなたにお送りしたいのですが、読んでいただけたらそれだけで光栄です」と言う。論文がわが家のポストに投函《とうかん》されるくらいなら、別に迷惑《めいわく》でも何でもない。私は承知し、電話を切った。
数日後、論文が送られてきた。助教授というのは本当らしく、有名なその雑誌にはきちんと彼のことが紹介されていた。論文は面倒《めんどう》だからよく読まなかったが、いかにも学者が書きそうな内容のまじめなものだった。
数日後、電話がかかった。前回と同様、丁寧《ていねい》な口調《くちよう》で論文についてのコメントを求められ、私は適当に答えた。少し、間あって彼は言った。「実は今度から、私の講義で女性論をやってみようかと思っています。女子大生の間でもこの分野は人気がありましてね。で、不躾《ぶしつけ》なお願いですが、一度お目にかかってお話を伺い、今後の参考にしたいのですが」
面倒だな、と思ったのは事実だが、相手は身元のはっきりしている男である。妙《みよう》な下心はあるまい、と判断し、私は「じゃあ、十五分だけ」と条件をつけて、会うことを引き受けた。
待ち合わせの喫茶店に行くと、男はそわそわして私を迎えた。三十代後半のトッチャン坊やみたいな男だった。普通の背広にバスケットシューズをはき、汚《きたな》い原稿用紙が詰まった流行遅れの手提《てさ》げカバンを抱えている。
「夢のようだ。やっとお目にかかれましたね」と男はドングリ目をぎらぎらさせながら言った。「こんなにお若いとは思っていなかったな。ますますあなたのことが好きになります」
私はここへ来たことを後悔《こうかい》した。「時間がないので手短にお願いします」と言おうとすると、男は額にうっすらと汗をかきながらゼエゼエ言い始めた。ぞっとした。何だか知らんが、コーフンして呼吸が乱れているのである。
「あの」と、男は言い、テーブルに両手を載せながら私を見た。身体中がガタガタ震《ふる》えているので、テーブルが地震の時みたいに小刻《こきざ》みに揺れている。
「ぼ、ぼくと結婚しませんか。ぼくとあなたなら、素晴《すば》らしい夫婦になれます。ふたりで理想の結婚生活が送れます」
私が呆《あき》れ果て、気分が悪くなり、すぐに帰って風呂に入り、塩をまきたいと思いつつ逃げ出したのは言うまでもない。頭のいかれた女より、頭のいかれた男のほうが度《ど》し難《がた》いと思うのは、私が女だからであろうか。
都会脱出
時々、雑誌などに「有名人の日記帳公開」とかいうページがある。そういうのを読むにつけ、自分は絶対にユーメイ人にはなれないな、といつも思う。
たとえば某《ぼう》女性ユーメイ人の或《あ》る日は次の通り。
朝、八時起床。食欲がないので、朝食はオレンジを絞《しぼ》った生ジュースだけ。メイクをするかたわら、新聞四紙に目を通し、重要な記事を切り抜いてスクラップブックにおさめる。十時、迎えのハイヤーが来る。十一時から、都内某所にて講演。十二時半に終わり、会食。二時、テレビ局へ直行。番組の打ち合わせをすませてから、本番。無事に撮《と》り終えてスタッフたちと再度、打ち合わせ。
その後、局のロビーで待っていてくれた雑誌記者のインタビューを受ける。六時、インタビュー終了。休む間もなく、少し遅れてホテルのパーティー会場へ。八時、会場を出てからタクシーで自宅に戻る。疲れ過ぎていて興奮状態がなかなかとれず、まずお風呂に入る。風呂上がりにビールを飲みながら、出版社から預かっていた自分のエッセイ集のゲラを見る。就寝、午前一時……。
ほとんど毎日、この調子なのだ。しかも、体調を崩《くず》してはならじ、と週に一度は必ず、ヘルスクラブなんかにも行って汗を流す。友達との付き合いもきちんとやる。たまにはカラオケクラブで午前二時まで歌を披露《ひろう》したりもする。センスの良さを保《たも》つために、ブティック通いも欠かさない。話題になった映画は必ず見る。すごい。まったく、すごい日々が続くのである。
人一倍、出不精《でぶしよう》で「寝るより楽はなかりけり」というのを信条としている私など、こんな毎日が続くと思っただけでもう、吐《は》き気《け》がしてくる。
私は何か疲れることを始める前とか、大変なスケジュールをこなさねばならなくなった時など、必ず吐き気がする体質なのだ。吐き気だけではなく、突発的な肩こりとが、頭痛とかが始まる。そして、バファリンと大正漢方胃腸薬を飲み、背中にエレキバンを五粒も貼《は》らねばならなくなる。背中にエレキバンを貼り、ツワリを起こしたみたいな青い顔して大都会を生き抜くユーメイ人なんて、聞いたことがない。ユーメイ人は私にもっとも向かない稼業《かぎよう》だとつくづく思う。
のんびり生きる……これは最高の贅沢《ぜいたく》だ。人生の理想は何かと問われたら、私は迷わずこの最高の贅沢を味わうことだと答える。無理はしない。マイペースでやる。それが一番だ。
なまじっか夢を持つからストレスがたまるのだ。課長になりたい、都内にマンションを買いたい、有名になりたい、資産家の息子《むすこ》と結婚したい、人から羨《うらや》まれる生活がしたい、大金がほしい(これは私にもあるが)、整形手術をしてから女優になりたい、故郷に錦《にしき》を飾りたい、息子を東大に入れたい……。
人が本当にのんびりと過ごせるのは、こうした世俗の夢……たいていの人間がもつ夢……が実は自分のケチな自己|顕示欲《けんじよく》にすぎない、と自覚した時だろう。ビジネスマン向けの雑誌によく見られるような「成功」だの「輝く未来」だのいう言葉は、考えているほど簡単に手に入るわけではない。あちらを立てればこちらが立たず、情に棹《さお》させば流される……的なやっかいな人間関係の荒波をくぐっていかなければならないのだ。そのために払《はら》うであろう犠牲《ぎせい》の代償として「成功」がある。それでも「やるぞ!」と決心する人は本当に尊敬してしまう。私にはできないだろう。主義としてやらないのではない。性格的にできないのだ。
こんな私のささやかな夢は、都会を脱出し、自然と親しみながら生活すること。それしかないと、今は思っている。まず、草や木がぼうぼう生え、かっこうが啼《な》くような山の中に小さな家を建てる。そして、威勢《いせい》がいいことだけが取柄《とりえ》の頭の悪い雑種犬と、キャットフードには目もくれず、ひたすら削《けず》りぶしとワカメの味噌汁《みそしる》をかけた御飯ばかりウマのごとく食べるデブ猫を飼い、冬は炬燵《こたつ》で、夏は庭のハンモックで好きな本を読み、夜になるとツレアイが薪《まき》を割り、私が台所に火をおこす。
半年に一度だけ東京に出て生活に便利なものを買いそろえ、読みたかった本を集め、都会生活継続組の友達に「よくこんなゴミゴミしたとこで暮らせるわね」とイヤミを言い、「まだ若いのに隠遁《いんとん》生活なんかして、あんたたちどうかしてるんじゃないの」と言う実家の親たちに、山で作ってきた切り干しダイコンを与えて黙らせ、「あーあ、東京は疲れる」と大声でわめきながら山へ戻る。贅沢《ぜいたく》、これに極まれり。
しかし、よく考えてみると、こんな生活をするには金がいる。金を稼《かせ》ぐために働かなくてはならない。今年もジャンボ宝くじを二十枚買ったのだけど、果たしてどうなることか。
水子供養《みずこくよう》
パソコンが普及《ふきゆう》し、外出先からもワンタッチでお風呂の湯を沸《わ》かしたり、戸締《とじ》まりをしたりすることができるようになったこの科学万能の時代に、迷信信仰や縁起《えんぎ》かつぎが相変わらず隆盛《りゆうせい》をきわめているのはなんとも奇妙《きみよう》なことである。
かく言う私も、たとえば元旦の朝、初もうでに行った先で「大凶」のおみくじを引いたら、相当落ち込むだろうし、厄年《やくどし》のことも気にかかる。子供のころ、神社で買ってきた厄よけのお守りをおもしろがって開封し、母に「そんなことをしたらバチが当たりますよ」と言われた時のゾッとした感覚は今だに忘れられない。
私が生まれたのは東京だが、子供のころ、よく言われていたのは「霊柩車《れいきゆうしや》を見たら、急いで親指を隠《かく》さないと不吉なことがおこる」ということだった。ところが北海道生まれの母に言わせると、「霊柩車を見るといいことがおこる」そうで、いったいどちらが本当なのか、子供心にも迷った覚えがある。そのくらい、いい加減《かげん》なシロモノであると思えば、気にもならないのだが、迷信や縁起かつぎがどこかで人間の心をとらえて離さないのもまた、事実だろう。
葬式から帰った時に玄関で塩をまくのは、習慣化されているし、料理屋や鮨屋《すしや》の店先に盛《も》り塩《じお》≠ェあるのも日常よく見かける光景である。
日本の伝統的な迷信を信じ、縁起《えんぎ》をかつぐのは決して悪いことではない。余興《よきよう》みたいなものと思えば、それなりに生活にアクセントがついて楽しいものだ。私など、鮨屋の店先などに、ちょこんとした盛り塩があるのを見つけるたびに、ニッポンの風情《ふぜい》を感じてうっとりしてしまう。あるいはまた、お正月にしめ飾《かざ》りをし、鏡餅《かがみもち》を置いてお祝いをするというのも、絶対なくしたくない風習のひとつだ。
しかし、最近、その縁起かつぎで腹のたつことがひとつ。例の「水子供養《みずこくよう》」である。
何か悪いことがおきたり、まわりで不幸なことばかり続いたりすると、女性の場合「水子のたたり」とかなんとか言われる風潮《ふうちよう》があるのは困ったことだ。
私も一度、麹町《こうじまち》のあたりを歩いていた時、何やら取り憑《つ》かれたような目をした若い女に呼び止められたことがある。彼女はつかつかと私のところへ歩み寄り、クラーイ声で「失礼ですが、あなた、水子供養はなさったことがありますか」と聞く。
「いいえ」と私が答えると、その人は眉根《まゆね》を寄せ、またまたクラーイ声で「それはいけません。一度、きちんとなさっておくことをおすすめします」と、インチキ占《うらな》い師《し》みたいな口をきいた。
自慢《じまん》じゃないが、私はこれまで避妊《ひにん》に失敗したことは一度もない。当然、中絶をしたこともない。水子霊《みずこれい》が存在するとしても、そのたたりをこうむるわけはないのである。
私が黙っていると、彼女はますます薄気味《うすきみ》悪い表情をして、「水子のたたりは恐《おそ》ろしいのです。あなたのまわりに悪いことがおこったとしたら、それはすべて水子のせいです」などとのたまう。そしてあげくの果てに、埼玉だかどこだかの水子|供養《くよう》専門の神社に行って御祓《おはらい》を受け、きちんと供養料をおさめなさい、とPRを始めた。
なんのことはない。神社の回し者の女性で、悪徳商法みたいに路上で人を勧誘《かんゆう》していたわけである。あんまり頭にきたので「私、子供ができない体質なんですよ。失礼な!」と、嘘八百《うそはつぴやく》言ってやった。彼女はむっとした顔をして引き下がったものの、すぐに別の女性のカモを物色《ぶつしよく》し始めたのだから恐れいる根性《こんじよう》としか言いようがない。
それにしても女が全員、一度や二度の中絶体験がある、と信じて路上勧誘をするとは、たいした思いこみである。なるほど、水子供養を専門的に行なう神社が増《ふ》えるわけだ。昔から「生理用品」を売る会社はどんなに不況《ふきよう》になっても決して倒産しない、と言われてきたが、これからは水子供養をやる神社は繁栄《はんえい》の一途《いつと》をたどる、ということになるのだろう。
肩がこれば「水子の霊が肩についている」だの、生まれた子が病気がちだと「水子のたたり」だの、もうばかばかしくて話にならない。中絶体験という女性の弱みにつけこんだこの手の迷信商法は、鼻でせせら笑っておくに限る。もしどうしても気になるのだったら、自分の気にいったクマのぬいぐるみか何かを「水子」に仕立てて、毎日、「クマくん、元気?」なんて話しかけてればいい。そのほうがよっぽど、かわいらしく、明るいイメージが拡《ひろ》がるではないか。
縁起《えんぎ》かつぎや迷信信仰は、楽しんでやっているうちはそれなりに意味のあることだが、度を越して不安になったり、ノイローゼになってしまうようでは困る。現代社会では羊の皮をかぶったオオカミ商人たちが、つけいるスキを狙《ねら》っているのだ。そんなものに引っかかっているようでは、たくましく生きられません。
白馬の騎士
人間は誰《だれ》でも「表の自分」と「裏の自分」とを持っている。表も裏もない人間がいたとしたらバケモノだ。
殺人者に関して近所の主婦が「子供好きの真面目《まじめ》な人でした」とか「朝、会うと必ず挨拶《あいさつ》をしてくるような礼儀正しい人でした」などとコメントをし、口をそろえ「あの人が犯人だったなんて、信じられない!」と叫んだ話などが新聞の三面記事に見受けられる。「子供好きで朝の挨拶を欠かさない青年」が人殺しをするなんて信じられない、そんなことはあってはならない、と思い込むのは人の勝手だが、当事者の犯人にしてみれば「子供好きで朝の挨拶を欠かさない」自分も「人殺しをしてしまう」自分も同じ自分であって、驚くに当たらないのである。
要するに人には表の部分もあれば、裏の部分もある、それがあってこそ一個の人間なのだ、ということなのだけど、この当たり前の事実を認めようとしない人がいるのには参ってしまう。
知人のB子さんはあと一歩で三十路《みそじ》の大台《おおだい》に上る、という年になって、結婚を焦《あせ》り出し、それまでボーイフレンドの一員だったJ君と結婚にこぎつけた。J君のことは私も昔から知っているが、テニスの腕前がプロなみの当世風《とうせいふう》スポーツマン。明るくて冗談《じようだん》がうまく、着るもののセンスはよし、連れて歩くにも安心だし、そのうえデリケートな気配《きくば》りをしてくれる気持ちのいい男であった。
普通に言ってもオススメ品であったはずなのだが、何故《なぜ》かB子女史、結婚後一年たってから「別れたい」と言い出した。彼女いわく、「彼って全然、別人だったのよ」。
初めのうちはよかった。思っていた通り、彼はやさしくて若々しく、日曜日にマーケットに買い物に行く時でもおしゃれを欠かさないし、間違《まちが》っても炬燵《こたつ》で居眠《いねむ》りなどする男ではなかった(何故か彼女は炬燵で居眠りをする男を憎悪《ぞうお》しているらしい)。
だが、暮らし始めて半年ほどたったころから、彼のだらしなさが目につくようになった。お風呂には入ろうとしない、朝起きて歯も磨《みが》かない、パジャマのズボンに手を突っ込んでボリボリお尻《しり》を掻《か》きながら、夢中になってプロ野球中継を見ている。平気でおならはする。時にはふざけてその匂《にお》いを彼女にかがせようとする。婚約していたころは毎回、着てくるものが違ってカッコよかったのに、今じゃ着たきりスズメ。会社に行く時の背広姿を除《のぞ》けばあとは全部パジャマで通す。髪の毛をまめに洗わないから抜《ぬ》け毛《げ》が多い、枕《まくら》はいつも抜け毛の山……。
「それにね」と彼女は真面目《まじめ》な顔をして言う。「トイレで大のほうをする時、ものすごい大きな声を出してきばるの。ウーン、って。そして出た後、ハーッ、って息を吐《は》くの。もう、いやでいやで……」
笑いをこらえるのに必死だった私を想像してほしい。私は聞いた。
「で、仮にあなたの言うように離婚したい、って彼に言ったとするわよね。その理由を聞かれたらなんて答えるつもりなの」
「だから、今言ったようなこと全部、言ってやるわよ。もう我慢《がまん》できないって」
「トイレでウーンとかハーッとか言うのがいやだ、って言うの?」
「当たり前でしょ。冗談《じようだん》じゃないのよ。私、本気なんだから」
冗談で言っているのではないことはわかった。彼女、確かに真剣だったのだ。
センスがよくカッコよく、颯爽《さつそう》としていてトイレでの姿など想像もできないような男であればあるほど、女と暮らし始めた後の変貌《へんぼう》の度合いは大きいものだ。何故《なぜ》か。それは女のほうが初めからその男を勝手にイメージづけてしまっているからである。彼はステキで、清潔で、いつも靴《くつ》はピカピカだし、口臭《こうしゆう》なんかしたことがない……などという白馬の騎士《きし》みたいなイメージを男に託《たく》すわけだ。
だからひとたびイメージが壊《こわ》れると絶望する。彼は私をだましていたんだ。全然、別の人間だったんじゃないか、と勝手に思い込む。困ったものである。
白馬の騎士みたいな男がいたとしたら、それは彼の「表」の部分なのである。表をずっと演じていると誰《だれ》でも疲れる。だから「裏」では水虫を掻《か》いたり、立派なおならをしてみたり、パジャマばかりを着ていたりして自由にのびのびと過ごそうとするのである。
女だって同じではないか。美人と言われる女優さんたちが家で何をしているかといったら、あなたや私と同じことをしていると思えばいい。
白馬の騎士とトイレでのふんばりとは立派に共通する。結局、先のB子さんは離婚してしまった。しばらく後で、J君がおならもトイレでのふんばりも嬉《うれ》しそうに聞いてくれる女性と結婚し、幸せになったのは言うまでもない。
心霊学の不思議
半年に一度くらいの割合で、私は必ず同じような夢をみる。
だだっ広い洋館や入り組んだ構造のさびれた旅館が舞台《ぶたい》で、私はその中にたったひとりで取り残され、忍者屋敷《にんじややしき》のように迷路《めいろ》になっている廊下や階段を恐怖《きようふ》におびえながら歩きまわる、という夢である。
別に霊《れい》と出会ったり、小部屋に死体があったり、ということはない。だが、迷路は薄暗く陰気《いんき》で、時々、どこかで人の話し声が聞こえるのにいっこうにその場所にたどりつかない。障子《しようじ》やふすまやドアを数えきれないほど開け続けても、またその先には階段や廊下が見えてくる。ぞっとしない夢なのである。
この夢を見始めたのは、二十歳を過ぎてからだったと思うが、どうして何度も同じ夢を見るのかはわからなかった。もしかすると、夢に出てくる洋館や古旅館は、前世に私が住んでいたところなのかもしれない、と思い薄気味《うすきみ》悪くなったこともある。
先日、行きつけの酒場でよく会っていた心霊学《しんれいがく》専門の先生にこの話をした。この先生は立派な髭《ひげ》をたくわえた通称「ヒゲ先生」と呼ばれる人で、科学で立証不可能なことはこの世にはゴマンとある、と主張してやまない。先生はひと通り私の話を聞いた後、即座《そくざ》にこうおっしゃったものである。
「あ、それは怠《なま》けてる時の夢だね。典型といっていい」
「前世の因縁《いんねん》とかなんとかじゃないですか」と、私。
「ぜーんぜん。怠惰《たいだ》にいい加減《かげん》に生きてて、そのことをどこかで気にしている時、必ず人はそういう夢をみるの。実力を出しきって充実してる時はそんな夢、みないもんです」
なるほど……。そう言われれば、思いあたるふしがある。私は半年に一度は必ず怠け出す人間で、そういう時は決まって遅寝《おそね》、遅起き、昼寝が始まり、仕事への打ちこみ方も半減する。好きな映画を見たり本を読んだりすること以外、何もしたくなくなる。
だが、内心では焦《あせ》っている。そしてそのことを自分でよく知っているにも関わらず、焦りを否定してかかろうとする。あの夢を見るのはそんな時だ。
この先生は、オーラの研究もしている。オーラというのは、命あるものすべてが持っている一種の生体エネルギーである。よく「あの人とはオーラが合わない」ということが言われるが、ある種の微弱《びじやく》な電波、波長、といってもいい。
通常、一般人にはオーラを見ることはできないが、特別の訓練、精神集中法を身につけると見ることができるという。私は早速《さつそく》、自分のオーラを見てもらうことにした。
「酒を飲んでるから、ちょっと時間がかかるかな」と言いながらも、先生、しばし私の顔に注目した。居合《いあ》わせた人たちは皆《みな》、しーんとして先生を見守る。ややあって、先生はこともなげに、
「あなたのオーラは黄色ですね。明るい黄色」
黄色のオーラというのは、基本的に常識はずれの生き方をしてしまう人に多い色だという。それがうまく出ると非常に個性的でインパクトのある人生を送れるし、悪く出ると協調性を欠いたひとりよがりの人生になる、まあ、普通じゃない人に多いですな、と彼は微笑《びしよう》した。当たっていないこともない。いや、ぴったしかんかん、である。
オーラの基本色は赤から紺色《こんいろ》まで七色ある。その七色がくすんだり、明るくなったり、また、怒《おこ》っている時は誰《だれ》でも赤に近くなったりする。病気の時は緑色、病気上がりは明るいグリーン、情緒《じようちよ》安定型の人や赤ちゃんなどはたいてい、きれいなブルー、哲学や思想、宗教関係者は紺色……だそうで、その時、居合わせた客のひとりが病気上がりだということも、先生はちゃんと当ててみせてくれた。
凶悪犯罪者は灰色だったり、真っ黒だったりするらしく、中にはまったく色が見えてこない人もいるのだという。命に関わる病気を持った人や、自殺を考えている人のオーラは見えないことが多いらしい。
先生は「この世界では、わかっていることなど無《な》きに等しい」と言う。科学が合理主義的に解明したものだけが真実になっている世の中では、オカルトだのテレパシーだの予知能力だのといったことはまだ、子供だましだと考えられている。
しかし、科学が証明してみせるものは、宇宙の巨大なエネルギーのほんの一部にすぎない。霊魂《れいこん》の存在も、予知能力が何なのかも、UFOだっていまだに科学で解明しきれていない。人が見る夢がその人の内面を暗示し、人のオーラがその人のコンディションを表現するのだ。不思議、奇妙《きみよう》、で片づけてしまうのはもったいない話である。心霊学という学問が社会的にもっと認められたら、人はもう少し矮小《わいしよう》な日常生活から解放されるのではないか、と私は思い始めているのだが。
聞きたくない言葉
世の中には聞きたくない言葉、聞くだけでぞっとする言葉、というものがある。或《あ》る女性は新聞で「やらせ」という文字を読んだだけで嫌悪《けんお》感を催《もよお》し、「おニャン子クラブ」という言葉を聞いただけで世も末だと思うそうである。
また別の女性は以前のセブンイレブンのCMで「夜中に突然いなりずしが食べたくなった」云々《うんぬん》、というフレーズを聞くたびにぞっとして耳を塞《ふさ》いだと言い、また或る中年の女性は、タモリが例の安産祈願をする時に発する「スッポン、スッポン」という言葉に生理的嫌悪を感じ、しばし昼食を中断しなければならなくなる、と言う。
人それぞれ、反応の対象が違っていて面白《おもしろ》いが、これは各人の趣味と感覚の違いがなせるわざ。小難《こむずか》しい理由づけもへったくれもなく、理由なくいやだ、と思う言葉は世の中に多数あるものなのだ。
最近のブームになっている言葉で「新人類」というものがある。私はこれを目にするたびに、こそばゆいような、好きにしたら? と言いたいような、イヤーな感じを受ける。別にその言葉の意味するものがいやだというのではない。もともとブームになる言葉には深い意味などないのが普通で、言葉自体を論ずるのはナンセンスなのだが、こうやたらと氾濫《はんらん》すると「旧人類」としては反発を覚えざるを得ない。
言葉にぴしっと骨が感じられないからいやなのだ。若い世代に対するやっかみじゃないの、と言われたらそれまでなんだけども。
あとは日常会話で結構よく使われる「マジ?」とか「マジで」とかいった言い方。これはぞっとする。横文字職業の人や若い人が使いたがるようだが、どうもね。
「いまっぽい」という言い方もいやだ。洋服を買いに行って、店の若い女の子(今じゃハウスマヌカンと言うのだそうだ)に「マジでいまっぽくキメるなら、これなんかいいですよぉ」などと言われると背中がぞっとして帰りたくなってしまう。
言葉ではないが抑揚《よくよう》のつけ方も問題。不必要に語尾を伸ばして「いいんですぅ」だの「わかりますぅ」なんてやられると、鋏《はさみ》でその「ぅ」の部分を切り落としたくなる。どうでもいいこととは言え、私の生理には合わないらしい。
NHKのニュース番組でアナウンサーが「五月《さつき》晴れの中、各地で行楽客がどっと繰《く》り出しました」と言う決まり文句もいやだ。「どっと繰り出す」の「どっと」とは一体、何ぞや。「繰り出す」には「どっと」がふさわしいと信じて疑わないのだろうか。別に「大勢《おおぜい》」でも「たくさん」でもいいではないか、とそれを聞くたびに思って暗澹《あんたん》たる気持ちになってしまう。
こうしたマスコミにおける決まり文句というのは「やらせ」や「いじめ」といったような言葉を含めて、実に多様にある。中でもいやなのは「ママさんコーラス」だの「ママさんバレー」だのという言葉。
なんで子供を持つ母親がコーラスグループを結成すると「ママさんコーラス」になるのか今だにわからない。ママさんであることは認めるが、「タヌキさんチーム」「クマさんチーム」じゃあるまいし、プロ顔負けに練習を積んできた人々に「ママさん」という言葉をくっつける必要がどこにあるのだろう。
子供をもつ家庭の主婦が何かの小説の新人賞を受賞したりすると、たちまち「主婦作家」なんてレッテルをはられたりする。もうこうなるとマスコミ用語というのは「センスがない」の一言だ。
あとひとつ、最近、急にいやになったのは「いい女」という言葉。かつて一世《いつせい》を風靡《ふうび》した「自立した女」という言葉同様、そろそろ手垢《てあか》がついてきた感じがする。
「いい女になるためにはどうしたらいいでしょう」などという馬鹿《ばか》げた電話取材も昨今、相変わらず多い。
一言で言えるくらいのことだったら、日本中、いい女だらけでしょうよ、とイヤミのひとつも言いたくなってしまう。
要するにこの言葉、どうも深みに欠けているのだ。
「新人類」が「自立」して「いい女」になり、結婚して家族でディズニーランドに「どっと繰り出し」、三十五歳で「ママさんコーラス」に入る……なんて考えたら、これはもうぞっとして、めまいがしそうなほどである。
女は強し
女は強い。最近つくづくそう思う。
まず若い女性。痩《や》せたいだの、いい仕事が見つからないだの、恋人とうまくいかないだの、と愚痴《ぐち》は多いが人生のエンジョイ法を男よりも数倍、熟知している。
おしゃれ、料理、インテリア、おいしいレストランやムードあるカフェバーめぐり、車、リゾートホテルへの小旅行、テニス、南太平洋でのダイビング……と、時間がいくらあっても足りないくらいの趣味の広さを持ち、そこにスパイスとしての複数の恋の悩みなんかがあればもう、鬼に金棒《かなぼう》。表情がイキイキしないわけがない。
そして結婚し、子供を持った三十代の女たち。これもまた強い。仕事をもつ人は出産後、ちょっと休んだだけでもう仕事に復帰し、出来始めた小皺《こじわ》なんかも魅力のひとつに変えてしまって、タイトスカートのお尻《しり》をプリンプリンさせながら男たちの視線を集め、子持ちだなんてとても思えないような身のこなし。
「へえ、独身かと思った」などと男に言われようものなら「うふふ」と笑って流し目のひとつも忘れない。
家庭に入った主婦たちも、これまた元気。子供たちの泣き声に髪振り乱しながら洗濯《せんたく》ものを干す、などというのは昔のことで、今は電化製品のおかげで余暇《よか》は充分。子連れで近所の奥様がたと午後のティータイムにお茶とケーキを楽しみ、あとは読書や外国語修得などに余念がない。私の知り合いの三十代の主婦は、毎日、本を読み、英会話、フランス語会話をマスターし、懐石《かいせき》料理なども本を見よう見真似《みまね》で作ってしまうものだから、夫はすっかり萎縮《いしゆく》してしまった、といつも笑っている。
そして、五十代以降の婦人たち。これはもう、元気のかたまりである。子供も手を離れ、夫は忙しくて留守《るす》がち。金銭的にも多少の余裕《よゆう》があり、時間はたっぷりある。
各種コンサート会場や劇場、昼下がりのデパートなどに行くと必ずこうした婦人たちのグループがいて、実に楽しそうに食事をしたり、果てることのないお喋《しやべ》りに興《きよう》じておられる。
聞いていると、やれ 姑《しゆうとめ》 が寝たきりで大変だとか、やれ夫が糖尿《とうによう》でどうしたこうした、とか、私、毎日腰が痛くってひどいのよ、子宮ガンじゃないかしら、あら、大丈夫《だいじようぶ》よ、私もそうだけど、それはあなた、単純な更年期障害《こうねんきしようがい》なのよ、などと年齢相応《としそうおう》の話題が多く、結構、皆さん苦労が多いのだな、と思わされるのだが、それがもう途方《とほう》もなく明るい。
無理して明るく振る舞っているのかというとそうではなく、結構、それぞれが背負《せお》いこんだ人生のお荷物を楽しんでいるのだな、ということがわかってくる。
それに五十代以降のご婦人がたのあの逞《たくま》しさといったら! うちの近所の或《あ》るオバサンなどは、八十を過ぎてボケてしまった姑さんの世話をしながら、定年退職してノイローゼ気味の夫を励まし、三人の娘たちの恋の悩み、結婚の悩みを聞くにつけ「あーんな男、やめちまえ、やめちまえ。もっといい男がいるよ」と笑いとばす。五十を過ぎてから車の免許を取り、姑さんのお昼寝の時間にドライブ。小粋《こいき》なカフェテラスで優雅なティータイムとしゃれこむのだから、まさに「ゴッドマザー」の風格なのだ。
また、或る六十五歳のオバサンは、夫と死別してから近所の骨董屋《こつとうや》で働き始め、そこで知り合った同年代のオジサマと燃えるような恋におちた。そのオジサマには妻子があるから「不倫《ふりん》」ということになるが、ご本人はオジサマとの結婚など考えてもいない。
月に二度のデートと毎日の電話、それに年末|恒例《こうれい》の温泉旅行……で恋は五年が経過し、いまに熱く燃えてるのである。そのオバサンの娘いわく、「あたしよりも若くて元気なのよ。いったいどうなってるんだろ」。
何故《なぜ》、男よりも女のほうが強く逞《たくま》しくなったのかと言うと、やはり、「うじうじ」気質が男よりも少ないからだろう。一見、うじうじしているようで、女には「えーい、ままよ」というキップの良さがある。人生、楽しまなくては損《そん》だという天性のセコさがある。
カッコつけばかり気にし、何かというと「男がすたる」という神話にびくびくしている男と比べたら、女は「いいじゃない。楽しければ」的ないい加減《かげん》さで生きられるところがある。もちろん例外もあるだろうけど、それにしても女のほうが長生きするというのは、ホント、うなずけます。
ナチュラル健康法
近頃《ちかごろ》、三十歳を越した女性たちと話していて、ほぼ決まって出る話題は「体力の低下」に関すること。
「ねえ、ねえ、あなた、最近、体力が落ちてきたと思わない?」
「あなたも? やっぱりねえ。あたしなんか、もう徹夜《てつや》がきかなくなったわよ。徹夜なんかしようものなら、二日間くらい、使いものにならなくなっちゃうんだから」
「徹夜どころの騒ぎじゃないのよ、あたしなんか。夜、十二時過ぎると眠くなって、皆で飲みに行ってても『お先に失礼』ってことになっちゃって。いやねえ。昔だったら、ディスコに行って踊り狂った後、朝まで飲んでても、翌日はケロッとしてたのに」
「それにさ、昔よりも冷房に弱くなったと思わない?」
「思う、思う。前はギンギンに冷えた店に長時間いても全然、なんともなかったのに、今じゃもうダメ。こないだなんか、映画館でぶるぶる震《ふる》えて、映画どころじゃなかったんだから」
「二十代のころはそんなことちっともなかったのにねえ」
「あのころは元気だったわ。今から思うと鉄人よ。前の晩、徹夜して、そのまま旅行に出て、着いた先でもじっとしてられなくて、歩き回って、それでもピンピンしてたんだから」
「ああ、信じられない。あのころの体力」
「ホント、信じられない。あの体力はどこへ行っちゃったんだろ」
……という具合《ぐあい》の会話がエンエンと続くのである。
かく言う私も、近頃、めっきりオノレの体力に自信がなくなってきた。
別に自慢《じまん》するわけではないが、私の二十代というのは、鉄人レースみたいな毎日だった。
目茶苦茶《めちやくちや》に仕事をし、目いっぱい人に会い、会えば必ず深酒をし、しかも帰って来てから本を読み、ギリギリまで起きていて、たまらなくなってから初めて死んだように眠る……という毎日だった。
その他にもよく地方にまで出向いて行って講演をしたし、講演が終わった後、主催者たちとまたぞろ、飲みに繰《く》り出したりしたものだ。
まったく今から思うと信じられない生活だった。仕事だけではない。遊びとなるともっと元気が出て、深夜二時前に家に帰ったことなんか皆無《かいむ》だったのではないか、と思う。
健康のことなんか、普段《ふだん》ほとんど考えもしなかった。ビタミン剤さえ飲んだことがなく、栄養のかたよりなど気にもしなかった。
それが今じゃ、ご多分に洩《も》れず、飲みに行っても十二時過ぎると眠くなるわ、冷房には弱くなるわ、ちょっと外食が続くともう胃腸の調子が狂うわ、睡眠不足の翌日は頭がボーッとして仕事にならないわ……で、もうお話にならない。
ビタミン剤はよく飲むし、手料理の栄養でバランスだって万全の神経を配るし、何があっても睡眠だけはよくとるように心がけているし、ちょっと体調が狂うと素直《すなお》に医者に走る始末。
年配の女性に言わせると「いい心がけですね」ということになるのだが、私にとってはかなりショッキングな変貌《へんぼう》ぶりなのだ。つまり、これは何を隠《かく》そう、若い若いと思いこんでいた自分の肉体が、確実に老《お》い始めているといういい証拠《しようこ》なのだから。
ただ、一般的には女のほうが男よりも自分の肉体に関して神経を配る率が高いようだ。それは女が妊娠、出産という肉体の機能をもっているせいだとも言えるだろう。女は月に一度、自分の肉体を点検するように生まれついた。今月の生理は……と月に一度、考えることだけでも相当、オノレの肉体と対話することになる。
これを十代の初めのころからやり続けてきた女と、肉体の不調なんていうものは喰《く》って寝てりゃ治る、という単純な感覚で生きてきた男とでは、おのずから身体に関する知恵も知識も異なる。
そのせいか、男は年をとっても肉体に関して鈍《にぶ》い分だけ結構、元気だが、ひとたび病に罹《かか》ると、ドドッと臥《ふ》してしまう感じがする。どっちがいいかは、個人の生き方の美学にもよるが、まあ、私などは人生、気長にやろうじゃないの、と思っているので、眠くなったら寝る、体力のなすがまま……という生き方のほうが性《しよう》に合っている。
男の中に女がひとり
男の中に女がひとり。これは女にとって、まこと楽しいことかもしれない。
例《たと》えば男が四人、女がひとり……というグループでどこかに旅行に行ったとする。男たちは、当然、張《は》り切る。やれ切符の手配だの、ホテルの予約、荷物の確認、弁当買い、果ては荷物持ちに至るまで、せっせと働き、女性にいい思いをさせてくれるに違いない。
「あら私なんか、年をとってるからとてもダメだわ」などと言うなかれ。よほどのオバアチャンでない限り、男たちは女性であるというだけで、男の男たるゆえんを見せびらかしたいがために、張り切るのが普通である(もっとも、よほどのオバアチャンだったら、別の意味で親切にしてくれるはずだが)。
そう、男は男たるゆえんを機会あるごとに見せたいのだ。女を護《まも》る、女の先を行って物事すべてを取り仕切る、女に感謝され、やさしい言葉をかけてもらい、同時に男同士の仲間から「あいつ、カッコつけやがって」と半ばやっかみの目で見られる……というのが、男の贅沢《ぜいたく》な願望であったりする。
これは即《すなわ》ち、女にとってもありがたいことだ。決して疎《うと》ましくはない。嬉《うれ》しい。女に生まれてよかった……と思う。今度、生まれてくる時もまた、女がいいかしら、なんてことすら考えてしまう。
だが、そうそう世の中、都合よくできているわけじゃない。男の中に女がひとり……の状態は長く続きすぎると、トラブルの原因になったりする。案外、簡単に解決がつきそうで、これがまた、そうでもない厄介《やつかい》なシロモノなのだ。
たとえば、男ばかりの職場に紅一点、女が所属したとする。初めのうちは、誰《だれ》も彼女に声をかけない。かけたとしても、せいぜいが世間話をする程度。お茶に誘うなんてことはしない。男同士の暗黙《あんもく》の了解《りようかい》で、互いに牽制《けんせい》し合っているからだ。
ところが、しばらくたつと女性も職場の空気に慣れてくる。自分から、隣の席の男にふざけたことを言ってみたり、「ねえ、飲みにいきませんかぁ」なんて言い出したりする。
決してそれが好意の印のつもりではないのに、声をかけられた方は有頂天《うちようてん》になる。俺《おれ》はモテているのだ、とカン違いする。で、カン違いついでに彼女を本格的なデートに誘ったりする。女は「一回くらいならいいだろう」とついて行く。これがトラブルの元。
一度、誰《だれ》かとデートしたりすると、さあ大変。他の男たちが黙《だま》っちゃいない。
「あいつが誘って彼女がOKしたのなら、俺だって……」と次から次へと申し込んでくるヤカラが現われる。中には人けのない資料室か何かで、そっと近寄り、「君を誘ったっていうあいつのことだけど、気をつけたほうがいいぞ。あいつは以前、ちょっと問題を起こしたことがある奴《やつ》なんだ」などと、いらぬ忠告をしてくる男も出てくる。身辺が騒がしくなる。
職場の雰囲気《ふんいき》が乱れ始めたことに上司も気づく。その上司自身、職権乱用して彼女に近づき、「今晩、一杯つきあいなさい」などと命令してくる。断ろうものなら、翌日から意地悪く残業させられたりする。ああ、悲劇!
これは決して誇張《こちよう》でもなんでもない。私の神経ではとても理解しがたいことなのだけど、現実にこうしたことは数多くおこっている。
男の集団の中には、男自身も気づいていない一種の不文律があるようだ。男ばかりの環境の中では、暗黙《あんもく》のうちに無駄《むだ》な争いは避けようとするのだが、ひとたび女がその集団の中に迷《まよ》いこんだら最後、オノレの強さを競うことをこれまた暗黙のうちに了承《りようしよう》し合うのである。
よく言われることだが、山の中のダムの工事現場など、男ばかりが生活をともにする状態の時には、ほとんど男同士の争いは起こらない。だが、そこに若い女が食事係として雇《やと》われたりすると、男たちの和は崩《くず》れ始める。喧嘩《けんか》が絶えなくなる。仕事がはかどらなくなる。だから、現場の責任者は、まず男だけの職場には女の匂《にお》いが入らないよう気を配るのだそうである。
これをオスの本能と言うべきかどうかはわからない。だが、現実にいくつものトラブルがおこるのは「男の中に女がひとり」の時なのだから、メスとしては心してかからねばならなくなる。ことに仕事をもつ女性たちには困った問題。女をやっていくのは、今も昔も楽じゃない。
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男と女のつづれ織《お》り
キスシーン
日本の男女というのは、ほとんど人前ではキスをしない。たとえすることがあったとしても、たいてい酒の席のおふざけか、もしくは夜の公園で他のアベックを意識しながらのチュッ≠ノすぎない。
暗い。非常に暗い。まったくいやになるくらい淋《さび》しいキスだ。
よく夜の盛り場でエレベーターを待っていると、扉《とびら》が開いたことに気づかずに中で濃厚なキスをし合っている男女を見てしまうことがある。こちらは思わず目をそらす。あちらも私に気づいてオバケでも見たような驚き方をする。こういうのは、何か淫靡《いんび》な感じがしてあまりきれいじゃない。
といって、キスの習慣のなかった日本人がいきなり人前でキスをするようになるわけもない。ここのところが、私などいつももどかしいと思ってしまうのだ。
海外へ行って感心するのは、西洋人たちのキスシーンの美しさである。彼らは実にさりげなく唇《くちびる》を合わせる。見ていてちっとも違和感がない。
ハワイのマウイ島に行った時のこと。ホテルの庭が見えるガーデンラウンジでセルフサービスの朝食をとっていると、隣のテーブルについた白人カップルがチュンチュクやり始めた。これが何ともいえずかわいらしいキスなのである。テーブルが遠かったので何を喋《しやべ》っているのかは聞こえなかったが、おそらくこんな感じだったのだろう。
「ゆうべよく眠れた?」
「もちろん」(チュッ)
「ポテトとベーコンをもう少しどう?」
「ありがと。あとでヨーグルトももらいましょうね」(チュッ)
「ボクの水泳パンツ、かわいたかなあ」
「大丈夫《だいじようぶ》よ。私がベランダに干したから」
「サンキュー」(チュッ)
朝の光をいっぱいに受けて、スズメさながらに唇《くちびる》を合わせあっているこの二人は、文句なく幸福そうで、はた目にも愛し合っている様子がよくわかった。
愛し合っていることを堂々と世間に披露《ひろう》するのが西洋人で、逆に愛の表現を性的結合に置きかえてしまい、四角い小部屋の中でのみ二人の関わりを展開するのが日本人なのかもしれない。愛に対するとらえ方の違いがキスの仕方にも表われる。これはとても興味深い。
しかし私は、一度だけ日本の男女が人前でとても美しいキスをしているのを見たことがある。
高校時代、仙台に住んでいた時。私はかつての市立病院前でバスを待っていた。真冬で激しい雪が降っていた。二十代後半くらいのカップルが私のうしろに立っている。バスが来て、私は乗った。だが私のうしろにいたカップルは乗ってこない。運転手が不思議そうに見ているので私はその視線を追った。
さきほどの男女がバス停の前でキスをしていた。雪が女の人の髪にかかり、女の人は泣いていた。バスの乗客は誰《だれ》も何も言わなかった。その光景があまりにきれいだったからだ。
あれから十五年近くたったけれど、あの時の二人はどうしただろう。別れたのだろうか。
キザ男
私はキザな男≠ニいうのが決して嫌《きら》いではない。
もちろん、ここで言うキザ≠ニいうのは何も、似ても似つかないのにハンフリー・ボガードの服装をまねるとか、アラン・ドロンの表情をまねる……といった類いの程度の低いキザ≠ナはない。そんなことをされても、女としてはプッと吹き出すのが関《せき》の山。俗世の垢《あか》のようなキザには「ばか」の烙印《らくいん》は押しても、決して憧《あこが》れたりはしないのである。
ところがホンモノのキザ男は、底の深い完璧《かんぺき》なキザを演出してみせる。それは一種の芸術と言っていいかもしれない。
先日、私は七年ぶりにイギリスから帰国してきた男友達と再会した。彼は大学を卒業してしばらくしてから渡英し、イギリス人の女性と結婚した人である。七年間というもの、たまに手紙を出し合っていたが、それでも七年ぶりに会うとなるといささか、ドラマチックな思いも無《な》きにしもあらずであった。
六本木の冬の夜、約束の時間に五分ほど遅れて行く。彼はすでに来ていて、私を見つけると満面に笑《え》みを浮かべながら人ごみをかきわけ、こちらに駆《か》け寄って来た。
〔キザ症例その1……待ち合わせの場所で、相手の女性に対し、満面に笑みを浮かべ駆け寄って≠「くというのは、簡単そうでなかなかうまくできないものである〕
私たちは互いをなつかしがり、積もる話を交《か》わしながら、予約しておいたフランス料理店に入った。彼はまず、私のコートを脱《ぬ》がせ、自分のコートと一緒《いつしよ》にしてクロークへ預けた。そして席につくかつかないか、の一瞬。彼は私に小さなバラの花束をさし出してやや、ぶっきらぼうに言った。
「これ、僕からのプレゼント」
〔キザ症例その2……女性のコートを脱がせるというのは、着せかけてやることよりもタイミングが難《むずか》しい。それにレストランで衆人環視《しゆうじんかんし》のもと、小さなバラの花束をさし出すのは相当の勇気を必要とする。歯の浮くようなセリフを言わないところもいい〕
さて、デザートのエクスプレスと共に楽しい思い出話や近況報告を終え、席を立つと、彼は手早く会計をすませ、私に再びコートを着せかけてくれる。そして店を出てタクシーを私のために拾うと、乗りこもうとする私をしばし引きとめ、右手を勢いこめて差し出したのであった。
「会えて嬉《うれ》しかった。それに君は昔とちっとも変わっていない。また会う時も今のままであってほしい」
運転手を待たせながら、彼は私の右手を握《にぎ》り、頬《ほお》に軽くキスをすると風のように去って行ったのである。
〔キザ症例その3……別れの時、ベタベタしないのはスマート、それに一言、相手をほめることも忘れないのがいい。タクシーを待たせながら、恋人でも何でもない女性のほっぺたにキスできるのは折り紙つきのキザ男の証明である〕
いつか読んだ小説の中に、関西の女が片想いの男を思って語るセリフがあった。
「ええ夢見せてもろうておおきに」
生臭《なまぐさ》い感情の泥仕合《どろじあい》ばかりが男と女の関係ではない。キザを演じる男に合わせてキザになる女がいてもいい。長い人生、「いい夢」を見て男も女もひとときの華《はな》やぎを味わっていきたいものである。
恋のかけひき
恋のかけひき≠ニいうと、どことなく不真面目《ふまじめ》、軽薄《けいはく》、単なるお遊び……と思ってしまう人が多いかもしれない。
「そんなことやってるヒマがあったら、せっせと見合いして結婚相手を捜《さが》すわよ」と言う人も多いかもしれない。
だが、私に言わせると、恋のかけひきひとつできないような人は、からだは大人《おとな》でも精神的には中学生レベルにしか見えないのである。
単に「スキ、アイシテル」だけで恋が成就《じようじゆ》する場合ももちろんあるだろう。でも本当に人生を知った大人は、恋の成就までわざと遠回りをしようとする。できるだけラブゲームを楽しんで、できるだけ回り道して、恋を人生の祭典にまで盛《も》りたてようとする。
それはたしかに無駄《むだ》な回り道、無意味な芝居にすぎないかもしれない。けれども別の見方をすれば、意志の強い人間、自分をよく知っている完成された人間でなくては、その回り道はできないとも言える。
恋のプロセスにおける粋《いき》な瞬間というのは、感情に流されていたら決してめぐってはこない。たとえば、相手が自分のことをどう思っているのか判断に困っている時、ばかのひとつ覚えのように、
「ねえ、あなた私のことどう思ってるの。嫌《きら》いなの? 好きなの? お願いだから好きだと言って」
などと騒ぎたてたりしたら、もうその恋は味気《あじけ》ない干《ひ》からびたタクアンのようになってしまう。そこはそれ、ぐっと構えてブランデーグラスなど傾けながら、謎《なぞ》めいた言い方でもって妖《あや》しく相手の答えを引き出すことができるようにならなければ、粋《いき》な大人《おとな》の女にはなれまい。
ハードボイルド小説には、よく男女のかけひきのしゃれた場面が描かれている。
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……「なぜここじゃいけないの」
「ぼくはここで夢を見たことがある。一年半前のことだ。その夢がまだどこかに残ってる。そっとしておきたいんだ」
(中略)
「出ましょうよ」
と、彼女はおちついて言った。「想い出はそっとしておくのよ。私もそんな想い出がほしいわ」……
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これは、レイモンド・チャンドラーの遺作となった『プレイバック』の一節である。女は男に興味がある。男も女に関心がありそうだ。しかし、ふとした会話の中で男が或《あ》る場所に別の女の想い出を持っていることを知る。
その時、彼女はあくまでおちついて≠「る。軽いねたみがあったとしても……だ。私は、こうした恋のできる女がとても好きなのである。言いかえれば、それは自信のある大人の女=c…ということかもしれない。
そんな女が増《ふ》えてくれたら、当然、自信のある大人の男≠熨揩ヲてくれなければ困るわけだが、「ごめんね」「許して」「僕をわかって」しか言えない甘《あま》チャン男が多い昨今、なかなか難《むずか》しそうだ。そういう男は、大人の恋を一挙《いつきよ》に中学生レベルにまで引き落としてしまうものだから。
ジェラシー{r嫉妬心《しつとしん》
フランスの作家に、アラン・ロブ・グリエというエライおじさんがいる。
このおじさんの書いた『嫉妬《しつと》』という作品は、なかなかおもしろい。夫が妻とその男友達に感じる不条理な嫉妬心がテーマなのだが、夫は彼女に対して一言もその嫉妬心を表現しないのだ。
そればかりか、彼女が男友達(彼の友人でもあるのだが)のことをどう思っているのか、実際、その二人の間で何がおこりつつあるのか、作中、考えようともしていない。
小説はただひたすら、夫が妻の動きを逐一《ちくいち》、観察するという形で進行してゆく。フランス語の嫉妬=ジャルジーには、ブラインド、日よけ≠ニいう意味もある。そしてその名の通り、彼はブラインドの陰《かげ》から妻をのぞき続けてでもいるかのように、ひっそりとひとり、妻の言動を監視し、嫉妬の炎《ほのお》を燃やすのだ。
こういうことは何も小説の中だけでなく、現実にずいぶん起こり得ることだと思う。
男と女は、二人の関係を深めようとする過程で、まったく理不尽《りふじん》な、嫉妬心や自分でも気恥ずかしくなるほどのジェラシーを持ち合うものだ。この種の嫉妬心を称して、ある作家が、
「嫉妬というのは、オレはタラコが好きだ、という男に、タラコとあたしとどっちが好きなのよ、と言い、タラコだと答えたら怒《おこ》ってタラコを投げつける類いのものである」
と書いていた。これは本当にその通りだと思う。
私だってエラそうなことを書きながら、男女関係には相当量の嫉妬心《しつとしん》を持っている人間で、いちいち相手に言わないまでも、ガマンの限界を超えると「タラコとあたしとどっちが好きなのよ」的セリフを言い出しかねない。
また、嫉妬=愛情のバロメーターであると頑固《がんこ》に信じている部分もあって、相手がちっとも自分にヤキモチをやいてくれないと、ヤキモチをやいてくれないという事実に対して嫉妬したりもする。こうなるともう、自分が恥ずかしくて、穴《あな》があったら入りたい心境になるわけだ。
ただ、ここで重要になってくるのは「嫉妬心を自分で処理《しより》する訓練」だろう。若いうちは、これができないのがふつうである。できたとしてもトンチンカンな方法をとってしまい、結果的にますます二人の関係を混乱させたりしがちなものだ。
私の知り合いの二十三歳になる女の子は、恋人がちっともヤキモチをやいてくれないことにヤキモチをやき、作為《さくい》的に他の男と飲み歩いてヤキモチをやかせようと努めた。こういうのは必ず失敗する。この種の演出が完璧《かんぺき》にできるようになるためには、まず、いくつかの経験をつんでからでないと無理だろう。二十代じゃムリだ。三十代でやっと……というところか。
案《あん》の定《じよう》、彼女の恋人は彼女を誤解し、ヤキモチをやくどころか彼女を軽蔑《けいべつ》し始めた。以来、二人の仲は険悪だそうである。
嫉妬心《しつとしん》は歪《ゆが》めて表現してはならない。と同時に処理できる嫉妬心は自分の中で処理しなければならない=c…というのが私の持論《じろん》。
ブラインドの陰《かげ》から観察し続けるというのも、処理訓練のひとつになるかも。
恋の始まり
私は平均的女性よりも、少々理屈っぽいところがある。それは理屈を云々《うんぬん》することが好きだからではない。感情過多の傾向《けいこう》があるからだ。
感情が入り乱れて混沌《こんとん》としてしまうから、少しでも整理しようとする。そのために理屈をこねて、わけのわからない感情に形をつけ、無理矢理《むりやり》、整然とさせてしまう必要があるわけだ。
しかしながら、整理ボックスに収めたはずの感情の切れはしは、知らぬうちに箱からこぼれ落ちてしまう。Aという小箱に入れたはずの感情がいつのまにかBという小箱に移っていたり、ひどい場合にはAとBの小箱の間に、ブラリとぶら下がっていたりするのだ。
そして面白《おもしろ》いことに、そうした落ちこぼれの感情≠ノこそ真実が含《ふく》まれていたりもする。だから人間はわからないものだ、とつくづく思う。ことに男と女はわからない。理屈で割りきれない感情の群れこそが、男と女を惹《ひ》きつけ合い、整理箱から落ちこぼれた感情こそが、男と女の関係を決定していく。不思議だ。
「ハンサムだから」「やさしいから」「たくましいから」「頭がいいから」、女は男に惹かれていくのではない。同時に「美人だから」「料理がうまいから」「センスがいいから」、男は女に惹かれていくのではない。
そうした言葉では表現しきれない感情が背景に多くあればあるほど、男と女は強く惹き合い、求め合う。それが何なのか、分析《ぶんせき》しようとすることほど野暮《やぼ》なことはないだろう。男と女がふとした瞬間に出会い、ふとしたことから相手が自分と同じ世界を持っていると感じ、互いに相手に働きかける。それは、意志や行動力の問題だけではなく、タイミング、情況、偶然性などあらゆる条件がそろっていて初めて生じる、運命的なものに近いかもしれない。
たとえ、サルトルとボーボワールだって、二人が出会った瞬間、恋におちた瞬間、そして恋が発展していく時の胸のときめきを理路整然と実存主義≠ネんぞを持ち出して分析することは不可能だろう。
今年の冬のこと。凍《こご》えるような寒い日の真夜中、ある女のマンションの電話が鳴った。女が受話器を取ると、かすかな雑音と共にどこかで聞いたことのある男の声が耳に飛び込んできた。驚いた女が、「今、どこにいるの」と聞くと、男は笑って「パリだよ」と答えた。
それまで単なる友人同士でしかなかった(あるいはそう思いこもうとしていた)はずの男は、仕事先のパリからの国際電話の最後にこう付け加えた。
「僕がいなくて少しは淋《さび》しい思いをしてくれてますか」
女は、ほとんど反射的に答えた。
「してるわ」
「本当かな」
「本当よ」
女は「おやすみ」を言ってから受話器を置いた。その瞬間、まったく理屈|抜《ぬ》きでその男と繰《く》り広《ひろ》げるであろう恋の予兆《よちよう》を覚えた。分析《ぶんせき》しようにもできない感情の群れが突然、女を圧倒《あつとう》した。
タネ明かしをすると、この女≠ヘ私。そして男≠ヘ、現在の同居人。二人とも人一倍、理屈っぽかったはずなのに……と、今は互いに笑い合っているのです。
死ぬほど惚《ほ》れて
「○×だから[#「だから」に傍点]あなたを愛してる」という言い方がある。
背が高いから、頭がいいから、やさしいから、社会的地位があるから、スポーツマンだから、まじめだから……だからあなたのことを愛してます、というわけだ。
人は誰《だれ》かを愛すると汗だくになって自分の気持ちを表現しようと頑張《がんば》る。その意味では、「○×だからアイシテル」と何度も繰《く》り返したところで別におかしくはない。誰だって言うことだろうし、むしろそうするのが当然と言っていい。
だが私はヘソが曲がっている。「君は○×だからアイシテル」と言われるのはあまり嬉《うれ》しくない。「○×じゃなくなったら愛さなくなるのか」と問い返したい気分にかられるのである。
猜疑心《さいぎしん》が強いからではない。人の言うことに何かイチャモンをつけたがる性分《しようぶん》だからでもない。私が、男と女の愛には計算・打算があってはならない、と考えるタイプの人間だからだ。
仮に或《あ》る男が私に「君は知的で本をたくさん読んでて、自己主張がきちんとある女だから僕はこよなく君のことをアイシテルのだよ」と言ったとしよう。そりゃあ、悪い気はしない。自己満足にうっとりするかもしれない。でも、それだけなのだ。
男と女の愛なんて、「知的」だの「自己主張」だの「まじめ」だの……といった世間的にプラスのイメージになっているファクターすべてを根こそぎ剥《そ》ぎとったところにしかないのではないか。言葉で説明しがたい情動を感じるからこそ、男と女は互いに熱情的になるのだ。
「知的だから」愛されてるなんてイヤですね。「何だかわけがわかんないけど、メチャクチャに君に惚《ほ》れてるよ」と言われたほうが、ずっと嬉《うれ》しい。「わけがわかんない」というのが、男と女の愛の本質なのだと私は思う。
死ぬほど惚れた男がたまたまヤクザだったら、あるいは前科者だったら、彼を愛することを即座《そくざ》にやめるだろうか。死ぬほど惚《ほ》れた女が、たまたま娼婦《しようふ》だったら、彼女を愛することをやめるだろうか。
相手が社会的に認められない立場にいる人間でも、悪い男でも冷たい女でも、「わけがわかんないけど惚れる」ことは大いにあり得るのだ。そしてそういう惚れ方が、私はとても好きなのである。
ひと昔前、『愛の嵐《あらし》』という映画があった。ストーリーはよく覚えていないが、たしかダーク・ボガード扮《ふん》するナチ党員が、シャーロット・ランプリング扮するユダヤ人の人妻と激しく愛し合い、他の党員に追われていくという物語だった。二人は隠《かく》れ住んだアパートの一室で、食料のないまま一つのジャムのびんに指を突っ込み合って飢《う》えをしのぐ。
結局、最後は二人で抱き合いながら夜明けの街にふらふらと出て行き、幾発もの銃弾《じゆうだん》を全身に受けて死んでいくのだが、これはまさしく「○×だから惚れ合った」のではない男女の凄絶《そうぜつ》なラブストーリーであった。
わけがわかんないほど燃える恋、堕《お》ちていく恋は、どこかでもっとも人間的な恋と言えるのかもしれない。いや、絶対そうに違いない。
恋愛気質のフランス人
先日、パリに行って来た。
今度書こうと思っている小説の舞台にパリのサンジェルマン・デ・プレを使うので、そのための取材もあったのだが、仕事らしい仕事はせず、一日中市内を歩きまわる毎日だった。
ちょうどマロニエやアカシヤの木々が花をつけ終わった季節である。そのため連日私は、花粉症《かふんしよう》に悩まされた。なにしろ市内のカフェは、ご存知《ぞんじ》の通り舗道《ほどう》に椅子《いす》とテーブルを並べてある。つまり外でお茶を飲む形になるわけで、少し風が吹くともういけない。肉眼でもはっきり、花粉が宙を舞っているのがわかるほどなのだ。
くしゃみと鼻水に目をうるませつつ、今回、私が見たパリはそのせいか、水の中の都みたいだった。
パリの市内では不思議なことがひとつある。子供の姿が見えない≠フである。
もちろんフランス人が子供|嫌《ぎら》いであるとか、子供を外出させない習慣があるといったことはあり得ない。子供は日本と同じくらいのびのびしているし、実際、私だって幾度となく見かけた。
だが何故《なぜ》かその姿が目につきにくいのである。理由はすぐにわかった。大人《おとな》と子供が同席する公共の場所および飲食店等が極端に少ないせいなのである。
フランス人は、恋愛気質の国民であるとよく言われているが、彼らは常に男女が対になった形で行動する。男同士、女同士、あるいは同性ばかりのグループがカフェにたむろしている光景は、滅多《めつた》に見かけない。必ずと言っていいほど、カップルおよび男女混合で動いている。
これはやはり、成熟した大人の意識が人々の中に浸透《しんとう》しているからである。その証拠《しようこ》に彼らは大人と子供の境界線を冷ややかと言っていいほどキチンと引く。驚くべきことに、子供禁止≠フレストランもあるほどだ。そうした場所ではたいてい、ペット(フランス人はとにかく大好きなのだ)なら入場可であるのだから面白《おもしろ》い。
ともかく、一日の終わりに夫婦や恋人たちが思い思いのおしゃれをして食事に出かけ、出かけた先では父≠竍母≠ナなく男≠ニ女≠ニして振る舞う。そのためにベビーシッター制度も十分活用できる形になっており、社会全体が父∞母≠フ文化ではなく、男∞女≠フ文化を基盤として出来上がっていることを伺《うかが》わせる。
パリから帰って来て六本木のとある串揚屋《くしあげや》に行った時のこと。そこはふだんから比較的大人ばかりが集まる静かな店だったのだが、その夜、珍《めずら》しく子供連れ客が二組いた。
私とツレアイは、その二組の客の間にサンドイッチのようにはさまれた。それからの一時間、いったい何を食べたのかよく覚えていない。子供たちは泣きわめき、騒ぎ、上等な檜《ひのき》のカウンターの上に足をかけ、親たちは叱《しか》りつけながらも似たように騒ぐのであった。
そして残念なことに、そんな親たちは私の目に男と女≠ノは見えてこなかった。子供中心文化の日本と、男と女中心文化のフランスとの差であるとしか言いようがないのだが……。
男の夢・女の夢
もう一か月以上前のことになるけれど、総理府か何かのアンケート調査で面白《おもしろ》いものがあった。
何千組かの夫婦を対象に行なわれたもので、「あなたにとって老後、頼《たよ》ろうとしているものは何ですか」というアンケートである。
これに対して結果は、
妻……@子供 A年金 B貯金
夫……@妻 A年金 B貯金
であった。
Aの年金とBの貯金は、夫も妻もまったく同じ順で並んでいる。ところが夫のほうには「老後、妻を頼りにしたい」と思っている人が圧倒《あつとう》的に多いのに比べ、妻のほうは「夫? 夫なんて頼りになんないわよ。頼れるのは子供とお金よ」と言う人がほとんどであるらしいのだ。
これには笑ってしまった。そういえば私の周囲を見ても、こう言い出しかねない妻がたくさんいる。「老後も今も、頼りになるのは夫だけだわ」と、うっとり語るのは結婚まもない初々《ういうい》しい妻くらいのもの。子育てを終えた妻ともなると、大半が夫に対して可愛《かわい》らしい甘えを微塵《みじん》も持たなくなり、ひどい場合は粗大ゴミ∴オいである。
こういった現象がいいか悪いかは別にして、私はつくづくと「女は男に比べて現実的なんだなあ」と思ってしまう。
もちろん、結婚して十年も二十年もたつと、夫婦の間に結婚当初の甘さが消え、相手に対する夢も破れてくるのが現実というものなのかもしれない。しかも、夫の女遊びや賭《か》け事狂いなどに日夜、悩まされ、その尻《しり》ぬぐいをやらされ続けてきた妻なら「老後、夫に頼《たよ》るですって!? 冗談《じようだん》じゃない。あの人の世話をするのはもう御免《ごめん》です」と言うのも無理のないことと思う。
ただ、とても興味深いのはさんざん妻を悩ませてきたことを知っていて、なお、老後はその妻を頼りにひっそりと生きたいと願う男の心理である。こうなると、腹が立つというよりは可愛らしいではないか。
男は一般的に大人になっても子供っぽさを捨て切れない。好き勝手をしてしまう代わりにひとつのささやかな夢を追い続けたりする。
他方、女は年を重ねていけばいくほど子供っぽさを失っていく場合が多い。夢と現実をはっきり区別し、かないそうもない夢はすぐ諦《あきら》める。これは子供を生み育てていく過程で、そうなっていかざるを得ないからかもしれない。
フィッツジェラルドの名作『華麗なるギャツビー』の中で、主人公のギャツビーという男は、自分を捨てて金持ち男と結婚してしまった女、デイジーに会いたいあまり、自分も金持ちになって夜な夜な自宅で大パーティーを開き、彼女が現われるのを待っていた。やっと再会できた彼女と情事の時をもったが、デイジーには最初から夫と子供とぜいたくな生活を捨てる気はなかった。にも関わらず、ギャツビーはデイジーのおこした交通事故の罪を肩代わりし、事件に巻きこまれて殺されてしまう。
命を賭《か》けて夢を追う男の愚《おろ》かさは、同じ愚かさでも、現実の損得《そんとく》を考えて行動する女の愚かさより数倍美しい。
この男と女の違いをはっきり見せつけられた気がしたアンケート結果ではあった。
香水の匂い、石けんの匂《にお》い
私が以前、住んでいたことのある都内のマンションは、銀座に出るのが便利だったせいか、暮れ方ともなると夜の蝶《ちよう》たちのご出勤で華《はな》やかな雰囲気《ふんいき》になった。面白《おもしろ》いのは、その時間帯のエレベーター。中はもう、十種類の香水|瓶《びん》をいっぺんに割って落としたかのような不思議な匂《にお》いに満ち、出前でやって来たそば屋さんが売り物のそばに匂いがつかないかと心配するほどになるのである。
香水というのは女の第二の衣装《いしよう》のようなもので、女であることを強調する役割を果たす。クラブ勤めの女性たちが、思い思いの濃厚《のうこう》な香りをぷんぷんさせて殿方《とのがた》の前に出るのは当然と言えよう。
若い男の中には、香水やオーデコロンをつける女を毛嫌《けぎら》いする人がいる。石けんやシャンプーの香りのほうが何倍も清潔で素敵《すてき》……というわけだ。だが、男も年をとり、本物のセクシーさが何であるか自分なりに理解できるほどに経験を積んでくると、逆に石けんの匂いだけの女を子供扱いしたりするようになってくる。私の知っているある中年男性は、汗と体臭と香水が混ざった香りを放《はな》つ女性が一番セクシーだ、と言う。きれいでご清潔で、鼻を近づけても石けんの匂いしかしない女性には何も色っぽさを感じない、というのだ。
そう言われてみると、匂い≠ェ男女の間で果たす役割はやはりとても重要なのだな、と納得《なつとく》する。別れた女がいつもつけていた香水と同じ香りをたとえば街の雑踏《ざつとう》の中でふと嗅《か》いだ時、男はたいてい、たとえ一瞬のことであっても別れた女のことを思い出すという。女も同じだ。私はごく若いころつき合っていた男がつけていたのと同じヘアトニックの香りを嗅ぐと、いまだにその男との記憶が甦《よみがえ》る。
まだ気持ちが残っているからとか、未練があるからとか、なつかしいからとかいう理由があるせいではない。むしろ、そんなものはとうの昔に自然|消滅《しようめつ》していて、ふだん、思い出すこともなくなっている。記憶の底に残っているかどうかすら疑問だ。それなのに私の鼻だけが何かを覚えていて反応する。不思議だ。
人工的香りのほとんどは動物性の原料で作られているという。ムスク《じゃこう》はチベットなどにいるジャコウ鹿《じか》の生殖器《せいしよくき》にたまっている分泌液《ぶんぴつえき》。発情するとオスの鹿がその匂《にお》いを発散させて、一キロ先のところにいるメスに発情を知らせるというから、匂いの激しさは想像できよう。
そうした強烈な動物的香りを原料に作られた何千種類もの匂いが、これまた千差万別《せんさばんべつ》の個々人の体臭とまじり合うことになるのだから、香りは微妙《びみよう》につける人によって変化する。それをキャッチするのが私たちの嗅覚《きゆうかく》なのだ。
幾百幾千もの記憶の断片の中に沈《しず》んでいた何かが、一つの匂いで突然、甦《よみがえ》る。ほとんど動物的、本能的に私たちはその匂いで全身に微妙な反応をひきおこすのだ。甦るのは悲しい思い出でも幸福な思い出でもない。ただ単に匂いが男と女を甘ずっぱい気持ちにさせて通りすぎていく。もっともこれは、石けんやシャンプーの芳香《ほうこう》を卒業した大人の男と女にしかわからないことかもしれないが。
パリの娼婦たち
今回は娼婦《しようふ》の話をしよう。
パリには有名な娼婦街、サン・ドニというところがある。場所はパリのどまん中。最近アンアン≠ネどのファッション誌で多く取り上げられ始めた最新流行の発祥地《はつしようち》、レアールのすぐ近くだ。
東京あたりで娼婦≠ニいうと、ソープランド嬢やマントル嬢も含めて何やら歓楽街《かんらくがい》の夜の花……といった趣《おもむ》きがあるが、サン・ドニの娼婦は全然違う。真《ま》っ昼間《ぴるま》、しかも午前中の清々しい空気の中、どこから見てもふつうの建物≠フ前に立ち、客を引くのだ。もちろん夜も立っているわけだが、私は偶然、朝≠フ彼女たちを見た。
レアールから続いている何の変哲《へんてつ》もない通りの両側に、ポツリポツリと派手《はで》ないでたちの女が立っている。近くには肉屋やパン屋、小さなカフェなどもあり、学校帰りの小学生や買い物途中の主婦たちも往《い》き来《き》している。ネオンサインもなければ、毒々《どくどく》しい看板《かんばん》の類など一切《いつさい》ない。考え事をして歩いていたら知らずに通り過ぎてしまうようなふつう≠フ通りなのだ。
ただ、気をつけて見ると娼婦ルック≠フ女はひと目でそれとわかる。黒の網《あみ》タイツにミニスカート、ブーツ、乳首《ちくび》が見えそうなくらいに大きく胸をはだけたタンクトップ。寒い日はその上にショールや皮ジャンが加わる。それにタバコだ。ほとんどの女がタバコをくわえたり、指の間にはさんだりしている。
黒人あり、白人あり、東洋系あり、やせたの太ったの……と、様々な肌《はだ》の色、体型がある。時折、観光客ふうの男が近寄り、何かを話しかける。値段の交渉《こうしよう》をしているのだろう。女はそっけないが、別に苛々《いらいら》している様子もない。交渉がまとまると、二人は建物の中にすっと消える。そしてあとには、何事もなかったかのような通りのざわめきが残るのだ。
男が女の性を金で買い、一瞬のエロティックなひとときをもつ……というのは、きわめて非日常的なことである。「そういうことは許せない!」と怒《おこ》る人もいるし、「いかがわしいから子供たちに見せたくない!」と眉根《まゆね》を寄せる人もいる。また「女房に知られるとヤバイ」と、こそこそ隠《かく》れて、そうした場所に行きたがる人もいる。だからだろうか。日本ではそうした場所≠ヘ、たいていどこか一か所にかたまってしまっている。そこは特別の場所≠ナあり、主婦や子供たちが見てはいけない場所≠ネのだ。
そうした雰囲気《ふんいき》に慣れてしまっているせいか、私にはパン屋や肉屋やカフェや小学校のあるどまん中に娼婦《しようふ》たちが立つという光景が珍《めずら》しくてならなかった。
娼婦に思いを寄せる男のロマンというのは、古今東西の文学や名作映画として一般化している。性を金で取り引きするという問題の良《よ》し悪《あ》しは別にして、サン・ドニの朝の日射しの中で見た娼婦たちは皆、美しくセクシーで魅力的だった。それは彼女たちが一般の女たちや日常の風景の中に溶《と》けこんで、堂々と(?)仕事をしていたからだろう。彼女たちがもし毒々しいワイセツなネオンの下の特別な場所≠ナひとかたまりになっていたら、やっぱりその魅力は半減するのだろうと思う。さすが、娼婦文学の最高傑作『昼顔』を生んだお国柄《くにがら》。男のロマン≠ェ心底、理解できました。
怒鳴り合いの喧嘩
私は人の怒鳴《どな》り声を聞くのが嫌《きら》いである。声を荒《あ》らげて攻撃《こうげき》しようとしてくる人、吐《は》き捨てるように罵詈雑言《ばりぞうごん》を投げつけてくる人、……皆、嫌いである。過剰《かじよう》に反応し、震《ふる》え上がり、逃げ出したくなってしまうのである。
編集者をしていたころ、同僚《どうりよう》が編集長に呼ばれて怒鳴りつけられているのを見たことがある。自分が怒鳴られているのでもないのに私は胃が痛くなり、手が冷たくなって吐き気をもよおしてしまった。
こんな具合だから、自分が怒鳴られたりしたらもう大変。カーッと頭に血が上り、怒鳴り返す以前に全身が硬直《こうちよく》してものが喋《しやべ》れなくなってしまうのだ。
私の両親は決して子供の前で喧嘩《けんか》をしなかった。声をひそめてののしり合っているのを聞いたことはあるが、大声で怒鳴り合ったりものを投げつけたりし合っているシーンにはお目にかかったことがない。
こうした一見、温和な環境で育ったせいだろう。ことに男と女の間で怒鳴り合いの喧嘩をするのは耐《た》えられないのである。
だが面白《おもしろ》いことに、これほど頑固《がんこ》に「喧嘩は声を荒らげずスマートに」という鉄則を守ろうと思っても、自らその禁を犯《おか》してしまう時がある。相手から禁を破ってほしいと思う時がある。それは他ならぬ相手を深く愛してしまった時だ。
「わかったわ。あなたの気持ちは理解できるし、私も悪かったと思うわ」なんて伏《ふ》せたマツ毛の陰《かげ》からしおらしく言っているうちは、二人の関係はまだまだ。
「わかったわよ! そんなに言うなら勝手にしたらいいじゃないッ! 自分だけが正しいと思ってるなんてお笑い草よッ!」などと声を荒《あ》らげ、目を吊《つ》り上げる。男も負けじとやり返す。
「何を言うんだ! 君こそその石頭をなんとかしろッ! 自分を何様だと思ってる!」
こうなると事態の収拾《しゆうしゆう》には時間がかかる。ひどい場合は、別れ話にまで発展してしまう。しかしこのような形で怒鳴《どな》り合いの末に始まった別れ話が、本当に別れのプレリュードになる例はほとんどない。別れたくない、相手にとことんこだわりたい、と思うからこそ声を荒らげてしまうだけだ。
現在の私のツレアイは十代だったころ、同棲《どうせい》していた。ある晩のこと、同棲相手の女性が予定の時刻に帰って来なかった。連絡もない。苛々《いらいら》し、心配し、不安になった彼は酒をあおり、灰皿を吸《す》い殻《がら》で山にして彼女を待った。
やがて機嫌《きげん》よく彼女が帰って来た。女の友人とコンサートに行って来たのだという。手には彼のために買ったポスターが大切そうに丸められていた。
にもかかわらず、彼は怒《おこ》った。連絡ぐらいできただろ、と怒鳴った。彼女も負けずにヒステリーをおこした。取っ組み合いが始まり、彼女のつけていたヘアピースがとんだ。
「今から思うとひどかったと思うよ」と彼は言う。「二人とも若くて、からだの中の激情をおさえきれなかったんだ」
私は笑いながら聞いた。
「で、彼女は朝帰りをしたわけ?」
彼も笑いながら首を横に振った。「夜の九時半だった」
三十代のおしゃれ
仕事で大阪のホテルに泊った時のこと。コーヒーショップで休んでいると、いきなりドドッと数十名の着飾《きかざ》った御婦人たちが入って来た。
多分、ホテル内で女子大か何かの同窓会があったのだろう。少しアルコールも入っているのか、上気《じようき》した顔で笑い合い、喋《しやべ》り合い、その賑《にぎ》やかなことといったら!
自然に耳に入ってくる会話の内容は、どれもこれも子供の話。他人の噂《うわさ》話。テニスやエアロビクスの話。失礼ながら、皮膚《ひふ》のたるみ具合、体型のくずれ具合などから判断させていただいて、年の頃《ころ》、三十代の終わり……と推定された。
しかしまあ、それにしても、そのめいっぱい[#「めいっぱい」に傍点]のおしゃれのもの凄《すご》さ。真珠、ダイヤ、サファイヤ……といった宝石類は当然のことながら、着てらっしゃるスーツやドレスはシロウト眼にも超一流のブランド製品とひと目でわかる。おまけに美容院から帰って来たばかりのような、できたてホヤホヤふうのパーマバッチリヘア。いやいや、正直言って、まいりました。これじゃあまるで、総額百万円近くのプライスカードを見物させてもらってるようではないか。
おしゃれというのは本当に難《むずか》しいものだとつくづく思う。二十代のうちはまだいい。体型の若さのみならず、センスの若さというのがあって、それなりに自分を主張しやすい。
だが三十歳を超えたあたりから、女性のおしゃれはグッと高度のセンスを要求される。決して若くはないが、老《お》いてもいない、成熟した女性が何をどのように着こなしてみせるかによってその人の人柄《ひとがら》がわかってしまうこわさがあるからである。
私がもっとも気をつけているのは、おしゃれというのはお金をかけることではない、ということ。そしてできるだけシンプルに、ラフに……という点である。
サンローランのドレスに八センチのラメ入りハイヒール、ホワイトミンクのロングコート、ヘビ革のハンドバッグ……てな服装が本当に似合うのは女優かモデルしかいないのだ。彼女たちは絵に描いたような女≠演じる宿命にあるわけで、それを我々|凡人《ぼんじん》がまねたところで、こっけいな猿真似《さるまね》にしかならない。
この間、友人の結婚式に招かれた時、私は思いきって黒の革ジャンと革のパンツをはいて出席した。自画自賛になるけれど、これは大成功だった。振《ふ》り袖《そで》を着るほど若くなく、かといってデパートのフォーマルドレスコーナーにぶら下がっているようなピラピラフリルのドレスを着るのも能がない……と悩んでいたらしい同年代の女性たちにも絶賛されたものである。
三十代。細身のジーンズに男物のダブダブセーター……なんていう格好《かつこう》で粋《いき》に決めてみせるのに最適の年代ではないか。ハタチの娘がその格好をしても当たり前。しかし、三十代の女がすると、にじみ出てくる色気もあろう。
蛇足《だそく》だが、マリリン・モンローが一番美しく見えた映画は『荒馬と女』であった。ヨレヨレのジーンズに男物のシャツをはおって、なおたまらなくセクシーだった彼女……文字通り最後の映画となったわけだが、当時、彼女は三十四歳だった。
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恋のストリップ・ティーズ
堕落はエロティック
近ごろ、堕落《だらく》≠ノついて考えることが多い。
もともと私は健全よりも不健全さを、上昇よりも没落《ぼつらく》を美しいと思う青くさい傾向《けいこう》があり、たとえばTVドラマなどでも、苦痛といったら歯痛と金のないこと以外経験したことのないようなピチピチ元気カップルが繰《く》り拡《ひろ》げる恋愛ものなど、まったく興味がわかない。
その種の男女は何かこう、人生を預金口座や朝に晩に飲む栄養ドリンク、そして親類|縁者《えんじや》に配る祝い事の紅白まんじゅう程度にしか考えてないんじゃないか、と思ってしまうのである。
「夜、寝る前に歯を磨《みが》いてベッドにやって来る女は抱く気がしない」
と名言(?)を吐《は》いた男がいたが、その気持ちは理解できる気がする。歯磨きのあとのあの清潔な口の匂《にお》いは、やはりどこか健全な香りであり、いままさに繰り拡げようとしている非日常のエロティックな関《かか》わり合いとはひどく無縁で異質な感じがするのだろう。
男にそう言われて、「失礼ねッ。私が虫歯や歯槽膿漏《しそうのうろう》になってもいいって言うの?!」と女が反撃した瞬間から、二人の関係はお茶の間的健全関係∴ネ外の何ものでもなくなる。男が言っていることが決して「歯を磨くな」という意味ではないことをわからなければ、二人の間のエロティシズムはそこで失われるのだ。
この種のことはよくあることで、恋愛時代は「二人の稼《かせ》ぎは二人のもの」と、どんぶり勘定《かんじよう》で金を使いまくっていた男女が、結婚するとたちまち変貌《へんぼう》。ガッチリと自分の財布《さいふ》を確保して、やれ教育資金だ、マイホーム資金だ……と各々小金を出し合っては積み立て預金につとめ、あげくの果てに女房が稼ぎの少ない亭主をなじり始めたりする。これもまた、一種のお茶の間的健全関係≠ノ近いだろう。
私はいつも、こういった健全さ(建設的・上昇志向的と言いかえてもいい)は、どこかで男女間のめくるめくエロティックな関わりを奪《うば》い取っていくものではないかしら、と思っている。
健全であるということは安定とか平和といった状態を指すのだろうけれど、皮肉なことに男女の間には完璧《かんぺき》な安定、完璧な平和などあり得ないのだ。いかに深く愛し合っている二人でも、相手がいつ別な女に、別な男に愛が移っていくか知れないというひそかな不安がある。
その愛が永遠なもの、絶対なものであってほしいと命をかけて願うからこそ、そうした不安は生まれるものだし、不安があるからこそ失いたくない相手を全存在|賭《か》けて愛そうとすることができるわけだ。
そこにこそエロティックな何かが生まれる。そしてそれは、決して建設的なものではない。むしろ日常や現実から限りなく離れていく美しい堕落《だらく》≠ネんだと私は思っている。
*
ところで先日、私はパリへ行った。
パリの夕暮れは遅い。初夏のいまごろの季節は、ほとんど夜の九時半を過ぎないと暗くならない。
朝はたいてい五時半ころから明るくなり始めるから、街が闇《やみ》に包まれるのはほんの七時間ほどの間だけだ。ふつうなら昼間が長いことで一日が長く感じられるのだろうけれど、パリの一日は本当に短い。日本と時間の流れ方が違うのではないかと思われるほど、またたく間に一日が過ぎてしまう。
滞在中、いつも何故《なぜ》なんだろうと考えていたが、帰国前になってやっとその理由がわかった。
人々の時間のすごし方が、とにかくのんびりしているのである。彼らに合わせてたとえば昼食後、カフェでエクスプレスとカルヴァドス(りんご酒)を注文し、グラスとコーヒーカップに交互に口をつけてぼんやりしていると、最低二時間はあっという間にたつ。
異国風景のもの珍《めずら》しさがそうさせるのではない。大袈裟《おおげさ》に言ってしまうと、フランス人のほとんどすべてが美しく堕落することを好む感覚を持ち合わせているからだ。
昼日中から、一目で四十代とわかる熟年カップルが冷めてしまったエクスプレスを前に熱い抱擁《ほうよう》とキスを交わしていたり、手を握り合っていつまでも見つめ合っている恋人たちがいたりする。
いったい何の仕事をしているのか。家庭はあるのか。どうやって稼《かせ》いでいるのか。
夕方ともなるとカフェは人であふれ、これから始まる長い夜をのんびり楽しもうとする人々の食前酒《アペリテイーフ》を重ねるグラスの音がこだまする。
一日中、何か飲みものか食べものを前にして語り合っているようにしか見えない彼らにつき合っていると、本当に心地よい不健全さを感じて嬉《うれ》しくなる。そのため、時間の流れが早く感じられるのだ。美しく堕落《だらく》した時間に人は、ゆるやかにそして速く巻き込まれていくものなのかもしれない。
このあたりから考えると、フランス人が総じて恋愛体質であるというのも、もっともなことだと思う。健全≠ネ時間に追われ、健全≠ネ豊かさをもってしか自己満足できないタイプの人間たちは、何かに恋い焦《こ》がれながら生き続けることができないものだ。
恋い焦がれたとしても一瞬のことであり、その後に続く健全≠ナ建設的≠ネ関《かか》わり方のためのテスト期間であったりする。
別に日本人すべてがそうだとは言わないが、時間の使い方や男女の関わり方を見る限り、どうも御健全派の枠《わく》を出ないのは日本人的体質の人間に多い気がしてならない。
それは、たとえば日本の芸能界が輩出《はいしゆつ》する多くのカワイコちゃん新人タレントなどを見てもよくわかる。
デビュー当時の松田聖子もそうだったけれど、ピラピラフリルのついたバレリーナふうのミニフレアースカートに、ピンクや黄色の乙女《おとめ》チックブラウス……というのが日本の新人歌手のいでたちとして一般的である。
一言で言うとあれは薄気味《うすきみ》の悪い幼児のいでたちだ。別に新人歌手に黒の網タイツ姿をさせてほしいと言っているのではない。もう少し純潔≠ニか、貞潔《ていけつ》≠ニか貞淑《ていしゆく》≠ニいった御健全なイメージを撤廃《てつぱい》して、くずれおちるような堕落《だらく》の美、堕《お》ちていくエロティシズムを表現できないものか、と思うのである。
ああいう形で若い女の子を売り出そうと試み、また実際に彼女たちが売れてしまうというのは、実は社会全体が幼児的で、少なくとも健全さをたてまえに成り立っているからなのかもしれない。
フランスに話をもどすと、フランスで人気のある歌手、女優、タレントは、ほとんどが大人《おとな》の女である。カトリーヌ・ドヌーブが四十を過ぎてなお、若い世代からも圧倒的人気を得ているのだから面白《おもしろ》い。先頃《さきごろ》「ラ・ブーム」で世界的人気を得たソフィー・マルソーなども、たしかにカワイコちゃんではあるが、あと二年もすればグンと妖《あや》しさを増《ま》すタイプの女であることがよくわかる。
日本ではまだまだ妖しさとか、奔放《ほんぽう》なエロティシズムとか、秩序《ちつじよ》からこぼれおちていく男女関係というものを受け入れる土台ができていない。
そういうものがもしあるとしたらポルノグラフィー的世界の中だけであり、どこかしら違う意味のものになってしまうのだから情けない話だ。
秩序からはみ出したものすべてを意識的におとしめ、性産業の枠《わく》に組み込んでしまおうとする人々の歪《ゆが》んだ健全さは、こんどは逆に実生活の男女の関《かか》わり方を無味乾燥《むみかんそう》なものにおとしめる。その好例が家庭≠ナあり、結婚生活≠ナあると私は考えている。
何も理想を高く持ち、その理想を追って懸命に夫や妻が努力することが悪いと言うのではない。ただ、理想を追うあまり、もっとも自分たちにとって大切なものを見失ってしまったとしたら、これほど残念なことはないわけだ。
或る年の年賀状に「日々是祭《ひびこれまつり》」と書いてきた人がいた。聞き流してしまいそうな、何の変哲もないパロディなれど、これは大層、意味の深い言葉ではないか、と私など感動したものだ。
どこへ行くのか、どうなるのか、まったく見通しがつかなくても、日々、その瞬間が祭りの真っただ中にいるように、ときめいていられたらどれほど素敵なことか。
確かに祭りばかりでは生きてはいけない。祭りの後の寂しさを予感すると、とてもとても、祭りに酔うことなどできなくなってしまいそうだ。
しかし、危険のまったくない、先の先までが見通せてしまう関係、落ち着き払って疑うものが何もない男と女の関係は、私を時としてがっかりさせる。退屈は堕落よりも危険だ。
もともと闇《やみ》の中を綱渡《つなわた》りしていくような男と女の関係を秩序にはめこみたいと願ったことはかつて一度もない。
私が欲《ほ》しいのは共に綱を渡り、共に綱から落ちて奈落《ならく》の底へころげおちていける相棒《あいぼう》だけだ。
そこに秩序や健全な習慣が入り込む余地のないのは明らかである。そしてそれはやはり堕落であり、実に結構なことと思っているわけだ。
愛の証《あかし》
知り合いの若い女性に、病的に猜疑心《さいぎしん》の強い人がいる。
ふだんはごく普通の女の子で、おしゃれにも食べることにも健康的な反応を見せるし、どこといって変わった点のない子だ。そればかりか頭がよく、ユーモアのセンスが抜群《ばつぐん》で周囲の人気者ですらある。
容貌《ようぼう》の点でも水準以上。家庭的にも何の苦労もなく育ったお嬢さんで、趣味がテニスとお菓子作り……とくれば、これはもう「お嫁さんにしたい人」アンケートをとっても、かなり上位にランクされるだろう。
ところが彼女は、不思議と幸福な恋をしたことがない。男にはもてるし、恋愛のまねごとのようなことを何回も繰《く》り返すのだが、結果的にその男との関係を自ら破壊してしまうのだ。その原因が、彼女の自我の強さにではなく、彼女の病的猜疑心にあったことを知って、私は少なからずショックを覚えた。
たとえば彼女は、恋人に「愛してるよ」と言われても、決して信用しない。まじめな顔をして相手に「今、愛してるよと言った言葉の裏に何があったのか、私に言ってちょうだい」と問いただすのである。
あるいはまた、恋人からの電話が約束の時間にかかってこないと、それがたった五分のことであっても相手を疑い出す。「他の女と電話中だったのではないか」と言うのである。
他にも、恋人の視線、手つき、ちょっとした言葉の言い誤《あやま》りなど、すべて悪い方へ悪い方へ考えて邪推《じやすい》し、空想して嫉妬《しつと》するのだ。
こんな具合だから、当然、男のほうも次第《しだい》に疲《つか》れてくる。男が彼女の猜疑心《さいぎしん》につき合ってきちんと弁明し(弁明することなど本当は何もないのだが)、いちいちうろたえて許しを請《こ》うのも初めのうちだけ。恋の炎《ほのお》が安定期を迎えると、あくびひとつしても愛情を疑ってくる悪魔のような恋人にうんざりしてくるのである。
彼女(仮りにA子としておこう)は、過去から現在に至るまでの男との不和を嘆《なげ》き、私の前でさめざめと泣いた。私は説教師よろしく、それがA子自身の猜疑心のせいであり、もとより男と女の間には愛の確証など何もない、何もないものをねだって相手に疑いの目を向けるのは子供のやり方だ……と言ってやったのだが、彼女は「もちろん、そんなことはわかってます」とうなずくばかり。わかっているのだが、どうしても疑ってしまうのだ、と言う。
こうなるともう、牧師も坊さんも、キリストだって治せない現代人特有の病気≠ニしか言いようがない。こちらは結局、テイのいい愚痴《ぐち》聞き屋さん≠ナしかないわけで、「勝手にしたら」と言いたいところだ。でもこの世の終わりのような顔をしてシクシク泣いている娘にそんなセリフは死んだって吐《は》けない。
そこでついつい耳を傾けてしまうのだが、気の毒な彼女の猜疑心《さいぎしん》に関しては、ずい分いろいろ考えさせられた。
絶対性とか永遠性とか言うと観念的すぎるかもしれないけれど、結局、A子の病的な猜疑心は「絶対のもの」「永遠のもの」を求めてやまない、ある意味での純粋《じゆんすい》さからきているのではないかと思う。
かく言う私も、十七、八のころだったか、絶対なものなど何もない世界≠文学少女ふうに嘆《なげ》き、感傷にひたり、当時つき合っていた男に「嘘《うそ》でもいいから永遠に君を愛するって言って」などと、今から思えば赤面するようなセリフを吐いたりしたものだ。
物質のように永遠なもの≠求め、そこに美を見出していたのはボードレールだったが、そんなものはこの世にはない。若さも幸福も、不幸ですら永遠≠ナはないし、絶対≠ナもない。
一時期、好きで通っていた静かな喫茶店が、一年後に訪れてみるといつのまにか、ロックの流れるハンバーガーショップに変わっていたりする。こんな時、妙《みよう》に年月の流れが感じられて、淋《さび》しくなるものだ。結局のところ人と人との関係もこんなものかもしれない。時の流れは否応《いやおう》なく何かを変えていくのだ。
しかし、こと男と女のことになると、人はこんなふうに達観《たつかん》した見方ができなくなるのもまた現実である。相手との恋愛関係が深まれば深まるほど相手を失いたくない、永遠に今のままでいたい、と望むのがふつうだ。
だがいくら固く抱き合っても、エロティックな行為《こうい》を重ねても、相手との一体感はその瞬間のものでしかない。一年後、五年後どうなっているかについては考えるだけで人に不安を呼びおこす。「今のままでいたい」気持ちを何とか現実化しようとするなら、まさに心中でもして物質≠ノなってしまうしかないわけだ。だが人を好きになるたびに心中していたら、命がいくつあっても足りない。
そこでたいていの人は「結婚」という形をとって、愛の成就《じようじゆ》をはかろうとする。といって、「結婚」もまた絶対的な、不動の愛の証《あかし》にはならない。はからずも先のA子は言っていた。
「プロポーズされたって相手に対する不信感は消えないんです。何か下心があるんじゃないかと疑ってしまうんです」
病的|猜疑心《さいぎしん》といえど、彼女のこのコメントには真実がある。ウェディングマーチが鳴り響く中、純白のフリルドレスを着て男と並んで歩くだけで生涯《しようがい》、二人の愛は変わらなくなる……というのなら、この私だって結婚式の一つや二つはあげたいと思っただろう。
結婚に意味があるとしたら、それは対社会的な契約《けいやく》という点においてだけのことだ。愛し合う二人の永遠性など、結婚の中で保証されるわけがない。それは単なる契約、約束事、将来、マンションを買う時の手形《てがた》みたいなものでしかない。
となると、本当に男と女の愛だの恋だのというものには、どこを捜《さが》しても何の確かな証などないということになる。どう考えたってないのだから仕方がない。ないとわかったところからやってみるしかないのだ。
A子の話に戻すと、彼女の猜疑心の裏にはもうひとつ、現代社会によって植えつけられた悪《あ》しき知恵≠ェ渦《うず》巻いているように思える。簡単に言うと、恋愛小説の読みすぎ、恋愛ドラマの見すぎ、他人のラブストーリーの聞きすぎ……である。
彼女の頭の中には、あまりにもたくさんの恋愛に関するデータがインプットされていて、それが未消化のまま作動《さどう》を続けるこわれたコンピューターの役を果たしてしまっているのだ。
「愛している」と言われたら、その場合に想定できる九つのチェックポイント……てな具合になっており、これをひとつひとつチェックしていく間に九つのポイントが複雑化して、十八にも三十六にも肥大《ひだい》化してしまう。この調子だからごく一般的な愛の表現は、彼女にかかるとすべてニセ物≠ノなる。とにかく自分でチェック機能を複雑にしてしまうものだから、愛の表現もまた、複雑かつ哲学《てつがく》めいたものにならないと気がすまない。「君に愛を語りたいと思うのだが、この場合の欲求が何故《なぜ》おこったかを説明しなければならず、そのために僕はD・H・ロレンスの本の引用を……」などと言われないと、愛された感じがしなくなっているのである。
こう書いてしまうと、漫画《まんが》みたいな話になってしまうが、A子の実体はこの通りなのだ。
彼女ほど極端ではなくても、彼女ふうに恋愛を頭で考え、回路を複雑にし、そのうえで「絶対なるもの・永遠なるもの」を子供のような地団駄《じだんだ》ふんで欲《ほ》しがるタイプの人は、男女ともに結構いる。
このタイプの人間は、ほとんどすべてが自分を単純化させることを嫌《きら》う。喜怒哀楽《きどあいらく》という四つの感情だけで人間関係が成立している世界は、彼らにとってはコミックな世界でしかないのだ。現実はもっと迷路のようなもの、複雑な感情の集合体である……と思いこんでいる。
だが、いかに複雑に矛盾《むじゆん》した感情であっても、元をただせば喜怒哀楽のどれかでしかないではないか。私など、男と女の間に生じる感情はもっとも複雑なように見えて、実はもっとも単純、かつ月並《つきな》みなものだと考えている。
愛しているから心が熱くなり、愛さなくなったから別れ、惚《ほ》れた男が他の女にいい顔を見せたからヤキモチをやき、惚れた女が昔の男との情事を嬉《うれ》しそうに話したからムッとする。
ふられたから絶望のどん底におち、浮気《うわき》されたから怒《いか》り狂う。それだけだ。謎《なぞ》ときなど必要ない。それらをわかりにくくさせてしまうのは、「自分はそんな単純な理由で怒《おこ》ったり、有頂天《うちようてん》になったりしない」と思いたがるケチなプライドだけなのである。
自分の恋愛感情を複雑にして楽しんでいるのならそれもいいが、つまるところA子をはじめとしてこの手のタイプの人間には、決定的な勇気がないのだ。自分を単純化させるには、勇気がいる。複雑な人間であることが美徳であるかのように思われがちな世の中だから、なおさらのことだ。
私はよく、熱く愛し合った二人は口がきけなくなってしまえばいい……と思うことがある。言葉を失って動物のように関《かか》わり合えたら、どんなにいいだろう。
御託《ごたく》は一切《いつさい》、並べず、喜怒哀楽《きどあいらく》という四つの感情も肉体を使って表現する。絶対なるもの≠求めて哲学チェックに悩んだりせず、保証を求めて結婚届けなども提出しない。
ひたすら舐《な》め合い、ガオーガオーと吠《ほ》え、からだを相手にすり寄せて、甘えたい時は鼻を鳴らす。腹が立ったら喉笛《のどぶえ》にかみつき、もっと決定的に怒り狂ったらそのまま喉を食いちぎる。
これほど単純な感情の表現はなく、また同時に、これほど深遠な関係性の表現は他にはない。
A子の思考回路の中に革命がおこって、自分と男がもとはといえば動物なのだ、と理解できるようになったら、彼女も猜疑心《さいぎしん》に悩まされずにすむことだろう。今度彼女に会ったら、「ためしに一日中、彼とベッドの中にいたら?」と言ってやるつもりだ。
妖婦《ヴアンプ》について
俗に言うヴァンプ型女優というと、古くはブリジッド・バルドーであり、ラナ・ターナーであり、エヴァ・ガードナーであり……といったところなのかもしれない。もちろんこれは主観的好みの問題であって、モンローやジャンヌ・モローあたりをつけ加える人もいるだろうけれど、まあ、どれを取り上げてもヴァンプ型≠ニ呼ぶに異論はない面々ばかりである。
……とか何とか書きながら、実を言うと私は、今ここにあげた女優たちの出演した映画はモンローを除《のぞ》いては観《み》た記憶がない。|B《ベ》・|B《ベ》もラナ・ターナーも、エヴァ・ガードナーも、そしてジャンヌ・モローも、活躍していたころは私はまだほんの子供で、近所の大学生のお兄ちゃんが買い集めていた『映画の友』や『映画ファン』などを見せてもらってその名を知った程度なのだ。
両親が映画好きだったおかげで、プラスアルファの知識も得たが、ともかくたとえばB・Bの映画を一本も観たことがないというのは、今から考えるととても奇妙《きみよう》である。何故《なぜ》奇妙かというと、一本も彼女たちの映画を観ていないくせに、私は彼女たちの肉体や表情をよく知っていて、それらがかもし出す雰囲気《ふんいき》をいまだに鮮烈《せんれつ》に覚えているからなのだ。
二十代の半ばころ、仲良くしていた女友達に「B・Bにどこか似ている」と噂《うわさ》されていた娘がいた。彼女はホッペタが赤くて、東北|訛《なまり》の抜けない素朴《そぼく》な女の子だったが、確かにちょっとした表情がB・Bに似ているところがあった。グラマーで胸が大きく、顔も大作り。そのうえ髪の毛を意識してB・Bのように無造作《むぞうさ》に伸ばしていた彼女は、それこそヴァンプのように生活し、男を次から次へと変え、おきゃんで可愛《かわい》いお転婆娘《てんばむすめ》といったイメージを周囲にまきちらしていたが、ある時、こっそり私に告白≠オてきたことがあった。
「あたし、実はバルドーの映画って観たことないの」
バルドーを知らない世代にもかかわらず、彼女はバルドーの妖《あや》しさを演じ、その周囲の人間たちはそれを「まさにB・B的だ」などとほめそやしていたのだから面白《おもしろ》い。考えてみればずいぶんいい加減《かげん》な話なのだけれど、ヴァンプ型女優の代表格といえるB・Bが確立した或《あ》るひとつのイメージは、これほどまで強烈だったということなのかもしれない。
ところで、私は、ヴァンプというとどうしてもセクシー≠ニいうより下品な≠ニいう形容詞を思い浮かべてしまう。もちろん妖婦《ようふ》というからには、どこかしら猥雑《わいざつ》なイメージがあるに決まっているのだが、その猥雑さが深窓《しんそう》の御令嬢や良家の奥様といった表向きお上品で実は相当の尻軽女《しりがるおんな》……という二重構造の中に生じる猥雑さではなく、もっと単純に根っからの下品さ≠ゥらくるストレートパンチのような猥雑さではないか、と思っているのだ。
そうなると、根っから下品であることが即《すなわ》ちどうしようもなくセクシーである、ともいえるわけで、これは遅まきながら最近の私の新しい発見になっている。
私がごく私的に考えるところの現代のヴァンプ型女優というと、筆頭《ひつとう》は『俺《おれ》たちに明日《あす》はない』のフェイ・ダナウェイだ。彼女は、B・Bやジャンヌ・モローたちと違って、猫のような身体の丸いしなやかさがなく、豊満なイメージとは程遠《ほどとお》いギスギスした印象を与えるのだが、下品さにおいては負けていない。
『俺たちに明日はない』の中で、W・ビーティー扮《ふん》するクライドに魅《ひ》かれて彼女が家出をし、彼ととあるレストランに入って食事をするシーンがある。彼女と向き合う形で席についた男は、彼女のことをいささか乱暴にほめ、髪形を変えたらもっとよくなる、というような意味のことを言う。
その時、フェイ・ダナウェイはたしか椿油《つばきあぶら》でも塗《ぬ》ったかのような油っぽい髪を肩すれすれのところまで伸ばし、片方の耳だけ出してそこにクリップか何かを留《と》めていた。いかにもスレッカラシという雰囲気《ふんいき》なのだが、彼女は男に指示されて照《て》れ臭《くさ》そうにそのクリップをはずす。食事中だったので口をもぐもぐいわせながら耳にかけた髪をほぐし、頬《ほお》にかかるように指でなでつける時の彼女の下品さといったら!
少女のように恥《は》じらって上目《うわめ》づかいに男をチラチラと見ながら、口元や手元には信じがたく下品な猥雑《わいざつ》さが浮かんでいてそれはもう、目をそむけたくなるほどのあばずれムードなのだ。
ところがこの下品なスレッカラシだけであるかのような娘は、男と手を組んで銀行強盗を続けながら扇情《せんじよう》的な色気を発散する。それは単にからだの線を強調したぴっちりしたタイトスカートにセーター、ベレー帽……といういかしたボニー・ルック≠フせいばかりではない。追われる身でありながら、どこか楽天的に前へ前へ進もうとする無邪気《むじやき》な好奇心。男の前でふっと弱気になって不安や淋《さび》しさを露呈《ろてい》する時の可愛《かわい》らしさ。肉体的不能者であった男に媚《こ》び続け、いくら媚びても無駄《むだ》だとわかって枕《まくら》に顔をうずめる時の悲しみの混ざった小悪魔的ムード。
そのどれを取り上げても彼女があとにもさきにも、そばにいる男と一寸先《いつすんさき》は闇《やみ》≠ニいう状態の中を手探《てさぐ》りで突破するしかない、という極限状況における妖《あや》しさなのだ。
この妖しさは、やはりラストシーンで男と共に凶弾の前に倒れていく『愛の嵐《あらし》』のシャーロット・ランプリングや、愛人と夫殺しを企《くわだ》てて最後に事故で自分が死んでしまう『郵便配達は二度ベルを鳴らす』のジェシカ・ラングの妖しさともどこか共通している。
シャーロット・ランプリングは、その私生活においても二人の男と三人で同棲《どうせい》生活をしてスキャンダルになった女優。そのせいもあってか決して美人ではない骨ばった顔に頽廃《デカダン》的に下品な色気が隠《かく》されていて、胸も尻《しり》もほとんど板のようにすら見える少年のごとき体型にもかかわらず、くねくねとからだを揺すって男を見やる目付きには、ほとんど絶望的にメスそのものといった風情《ふぜい》がうかがえる。
また、ジェシカ・ラングの若い田舎《いなか》のおかみさん%Iな色情狂《しきじようきよう》ふう下品さは、キッチンで夫の留守《るす》中、ジャック・ニコルソンに強姦《ごうかん》されるようにしてからだを求められた時も激しい抵抗の素振《そぶ》りのわりには、案外簡単に受けいれてネズミを食べたあとの猫のような獰猛《どうもう》な表情をしてみせる。この女優は、もともと意地の悪そうな角ばった顔をしているのだが、ほつれ毛を首筋にたらしながら「あたし、世の中のことすべて不満なのよ」的にうんざりした目でたばこを吸うところなど下品の極致《きよくち》といった感じで、妙《みよう》に色っぽい。
こうして考えてみると、かつてのヴァンプ型女優と現在のそれとには、多少の相違が出てきたように思える。
B・Bにしろ、モンローにしろ、ラナ・ターナーも、骨っぽさのない丸味を帯《お》びた、男が勝手にイメージする豊かな女≠ニいう雰囲気《ふんいき》にあふれているのだが、最近のヴァンプ型となると荒々しく無骨《ぶこつ》で、デカダンの匂《にお》いのする女……という感じだ。
これは体型にもそのまま表われていて、小太り、グラマー、悩殺的といったふくよかタイプのヴァンプはこのごろでは生彩《せいさい》を欠き、むしろ痩身《そうしん》型のエロティシズムがより多く人々に受け入れられているような気がする。そのせいでダイエットや痩身教室が大流行しているわけでもないだろうが、私に言わせるとヤセでもグラマーでも、本質において動物的下品さがあれば妖《あや》しいムードが出てくるに決まっているのだから、そうそう追われるようにしてヤセ続けなくてもいいように思われる。
ところで、文学の世界で有名なヴァンプというと、『マノン・レスコオ』のマノン、『昼顔』のセヴリーヌ、『危険な関係』のメルトイユ夫人などが有名である。どれもこれも天性の娼婦《しようふ》で、愛を遊戯《ゆうぎ》化したり、男を陥落《かんらく》させることに無上の喜びを覚えたり、自らもエロスの沼地に好んで分け入っていくような女たちなのだが、さらに言える共通事項というと不貞《ふてい》の感覚のなさ≠ナあろう。
私たちがふだん使う不貞≠ニいう言葉には、たいてい「一人の男と深く関《かか》わりながら別の男とも関係をもってしまう」ような、いわば団地妻のよろめき的な意味合いが濃いのだが、私は必ずしも不貞≠ェよろめき≠ニイコールではない、と思っている。
不貞≠ヘ不倫《ふりん》≠ニどこかで共通していて、簡単に言うと結婚という制度の中にいる男女の間でしかその言葉は成立しない。韓国《かんこく》で現存している姦通罪《かんつうざい》がそのもっともわかりやすい例だろう。妻が夫以外の男と関係をもつと不貞の罪になるわけで(その逆も同じだが)、これは逆に言うと結婚をしていなかったら罪にならないということになる。単なる恋人同士が浮気《うわき》をしたといって、別に不貞≠フ烙印《らくいん》は押されないのだ。
不貞≠ニか不倫≠ニいった言葉に、私がお役所仕事のハンコのようなイメージしか感じられないのはそのせいである。
ヴァンプ型の女たちが下品でセクシーで危《あや》うい魅力にあふれているのは、等しく不貞の感覚、即《すなわ》ち結婚だの、世間だのといった中にとりこまれて人の目を気にする感覚が欠落しているからに違いない。それは別に銀幕や文学の世界に限らない。私のまわりを見ても野放図《のほうず》に生き、その結果すら自分で始末をつけるタイプの女はたいてい下品で、とてつもなくセクシーだ。理由は簡単。彼女らが見ているのは自分と男との関わりであって、世間ではないからである。
女は女を嫌悪《けんお》して
最近、某《ぼう》女性誌で「女から嫌《きら》われる女・ワースト10」なんてのをやっていた。それによると、上位五人は、
@柏原芳恵 A八代亜紀 B浅野ゆう子 C池上季実子 D桃井かおり……。
他に小柳ルミ子、松坂慶子、樋口可南子などの名もあがっており、「なんだ。要するに女ってのはいまをときめく女の有名人全員が嫌いなのか」と思わせるフシもある。
当たり前のことだが、ワースト10≠ノ選ばれるというのはいかに知名度が高いか、お茶の間にカオを出す回数が多いか……ということを証明するようなもので、選ばれた人々はけっこう名誉《めいよ》なことと思っているのだろう。そのいい証拠《しようこ》に嫌いな女ワースト10≠ノ入っている人が、好きな女ベスト10≠ノも入っていたりする。人の好き嫌いなんていい加減《かげん》なもので、対象に関心が多大にあればあるほどスキ∞キライ≠ェはっきり出てくるもの。まして、キライ≠ニなると、これはもうスキ≠ニいう以上に細胞のヒダヒダから肉汁を絞《しぼ》り出しながら対象にねっとりとまつわりついたあげくソッポを向く、ということである。言ってしまえば関心|大《おお》あり≠ニいうことで、売れっ子タレントや女優の二人に一人はキライ≠ニ判定されて当然、ということになるだろう。
とはいえ、いつも不思議に思うのだが、こうした企画は何故《なぜ》女性誌ばかりに限られるのだろうか。同性が嫌う同性……ということであれば、男性誌で「男が嫌う男・ワースト10」という特集が組まれてもいっこうにおかしくないはずなのに、私の知る限り、そういった記事にはお目にかかったことがない。
先にあげた某《ぼう》女性誌では、ワースト10にあがった人についての読者のコメントを各々、列挙《れつきよ》している。柏原芳恵はべっとりした感じだからイヤ! 小柳ルミ子はセックスそのものっていう雰囲気《ふんいき》がするからイヤ!……という具合。
まさにイヤ、イヤ、イヤ……を連呼するページになっているのだが、たとえば男性誌で「男が嫌《きら》う男」に火野正平や草刈正雄が挙《あ》げられたとしても、「モテすぎるからイヤ!」「ハンサムすぎるからイヤ!」などという読者のコメントが載《の》るだろうか。
男は、本音《ほんね》のところでまさしくそう思っていたとしても、決して口には出さないというエエカッコしい≠フところがある。男が同性をけなす時、たいてい理屈っぽくなるのはそのためだ。
理屈が通用しないとなると無関心を装《よそお》ってソッポを向くだけ。万一、それでも腹の虫がおさまらなかったら深夜の決闘≠ノもちこんで、一発ポカリとお見舞いすればいい、と思っている。いずれにしても女のように生理感覚で同性をなで切りにするのははしたないことだと考えているわけだ。
別にどちらが正しくてどちらが間違《まちが》っている、という話ではないのだが、私は自分が女でありながらどうも、女の生理感覚ふうなで切り……というのになじめない。
個人的なことを言えば、私はスキキライの感情は冷酷なほどハッキリしていて、死ぬまで誰《だれ》にも言わないつもりだが私の頭の中の知人・友人リスト≠ヘ、そのすべてがスキかキライかで色分けされている。これは何故《なぜ》キライか……なんて説明できる類いのシロモノではなく、中には「あの女は私を無視したからキライ」とか「あの男はいつも暗いカオをしていて自分を不快にさせるからキライ」といったように、愚《ぐ》にもつかない幼児的エゴイズムに基《もと》づいているものもある。
このあたりは丸ごとの生理感覚であり、「セックスそのものって感じだから小柳ルミ子はキライ!」と言っているのと同じ次元だと思う。
ただ、私はズル賢《がしこ》いから決してこういったホンネを人前では表わさない。表わすとしたら、決定的にその人と縁《えん》を切るつもりでいる時だけ。といっても、決定的に縁を切るなんていうのは男と女の間でしか起こり得ない。同性同士はふつう、何だかわからないうちに縁が切れていくもので、「絶交宣言」を同性同士でやり合うのは中・高校生までだろう。となると、同性、つまり女に向かって私がロコツにいやな顔をするなんてことはないわけで、これはとてもズル賢い立ち回り方だと自分では思っている。
しかし、このズル賢さというのは時としてとても必要になってくるのではないか。
たとえばよくある話だが、友人同士の男が二人、一人の女をめぐって争ったとする。その結果、Aが勝つ。Bはどうするか、というとほとんどの場合、Aとの友人関係をボツにすることはない。
当然、人間だからしばらくの間はA、Bの関係はぎくしゃくするだろうが、それも表面化することは稀《まれ》だろう。
これは恋の闘争に負けたBが、勝ったAに対して感じる様々な生理的|憎悪《ぞうお》をひた隠《かく》しにしようと努力するからである。「Aはオレより顔がいい。足も長いし腹も出てない。それに口もうまいから歯の浮くようなセリフを吐《は》ける。チキショー。ぶっ殺してやりたい」などと、内心思っていたとしても、そんなことを当の相手になげつけるのはプライドが許さない。はしたない、と考えるのだ。
かくて敗者が勝者に握手を求め、相手の勝利を祝福する、というウィンブルドンのテニスコートのごとき美しいシーンが展開されるという寸法。これは敗《ま》けた自分を救うためのもっとも賢《かしこ》い方法といっていいかもしれない。ロコツに相手に愚痴《ぐち》や皮肉の類いを投げつけるくらいだったら、それこそ本当にぶっ殺してしまうほうがまだましで、それができないのだったら、テニスコートの美談の主を演じるしかないのだ。
一方、その逆のケースを考えてみようか。女同士、一人の男を争ったとする。A子が勝つ。A子はB子を気の毒に思う。それにB子とは元通りの友人関係を展開していきたいと考える。何度となくB子にうしろめたい思いをもちながらも電話する。誘《さそ》う。当分会いたくない、と言われてますます、うしろめたい気分になる。自分が勝者の座におちついたことを心のどこかで呪《のろ》ったりする。
しかししばらくすると、A子もB子のことを「何さ、あの女」などと思うようになる。A子にそう思われていることが通じるものだから、B子は理不尽《りふじん》に腹をたてる。A子のことを陰《かげ》であしざまにののしる。周囲の同情をかう。A子はB子を含めたグループに「美人で自信満々で、男なら誰《だれ》でもひっかかってくると思っているイヤな女」などと陰口をたたかれる。
女はコワイ……とよく言われるが、実は女自身がよく承知していることなのではないか。何かコトあると女は般若《はんにや》に変貌《へんぼう》するというのも、生理的|憎悪《ぞうお》をストレートに投げてくるからで、その禍《わざわ》いを受けるのは男ばかりではない。女もまた、女からの生理感覚ふうなで切り≠受け、満身創痍《まんしんそうい》になることが多いのだ。
この生理的憎悪をロコツに相手、もしくは周囲にまきちらすというのは、対象との距離がつかめないからだろう。私も一度ならず恋人を友人にとられた¥翌フ愚痴《ぐち》を聞かされた経験があるが、亭主を他の女に寝取られたという妻の愚痴も含めて、その寝取った相手の女に対する憎悪は聞くにたえない内容のものだった。まさに「小柳ルミ子ってセックスそのものだからキライ!」的な話がエンエンと続くわけで、自分が負けたことをいっこうに認めようとしない。対象との距離をつかめないものだから、「男が別の女に惚《ほ》れてしまったのだから仕方ない」というように素直《すなお》に諦《あきら》めることができないのだ。
この調子だから、女同士、ウィンブルドンのテニスコートのようなシーンはなかなか期待できない。
「負けたわ。彼はあなたを愛してしまったのよ」と、ニッコリ笑って握手を求める女なんてのは、女の友情を描いた正月用女性映画の中でしかお目にかかれないのである。
さて、「男のロマン」というと、サントリーのCFに出てくるように、キリマンジャロの雪を眺《なが》めながらグラスの中の琥珀色《こはくいろ》の液体を味わい、未《ま》だ見ぬ世界に思いを馳《は》せる……てな調子の風景を思い浮かべる。これがどうして「男の[#「男の」に傍点]ロマン」であって「女の[#「女の」に傍点]」あるいは「人間の[#「人間の」に傍点]」ロマンではないのか、うまく説明できなかったものだが、最近やっと少しわかりかけてきた気がする。
簡単に言うと、なれるものなら美談の主、美しいシーンのヒーローになり、カッコ悪さを徹底《てつてい》的に排除《はいじよ》して生きていたい、と熱く願っているのは女よりも男に多い、ということだ。これはあくまで「男に多い」というだけで、女にも同じようなタイプの人間はいるし、その逆も同様である。ただ、一般的に言って、女のほうが生理感覚を重んじ、男のほうがそれを過度に出すのははしたないと考えている率が高いのは事実のようである。
当世風《とうせいふう》に言いかえれば、男のほうがブリッ子≠ネのだ。カッコをつけ、負けたものは負けた、と認め、したり顔でうなずき、夕陽に背を向けて去っていく、という芝居でもしなけりゃ、とてもこの八方塞《はつぽうふさ》がりの人生を生き抜《ぬ》いていけないと思っている。これ即《すなわ》ち、ズル賢《がしこ》いわけで、これをやり続けていくことによってしか自分を美しく[#「美しく」に傍点]救う道はない、とよく知っているのだ。
一言で言うと、畳をかきむしって泣きわめいている己《おのれ》の姿を誰《だれ》にもさらしたくない、嘘《うそ》でもいいから舞台の上で光り輝いている自分しか見せたくない、というのが男のロマン≠フ源泉なのではなかろうか。他方、畳をかきむしって「あの女、くそいまいましい。あんなブス、どこがいいのよッ」とわめく姿を人々に見せ、同情をかうことによって自分を救おうとしがちなのが女であり、これはとても私の好みに合わないのである。
恋する人をどこまで変えられるか
いったい一日何本の煙草《たばこ》を吸っているのだろうか。別に名だたるヘビースモーカーではないので、一度まとめ買いをしておくと毎日、自動販売機の前で小銭《こぜに》をさがさないでもいられるが、それでもまとめ買いした煙草があっ≠ニいう間になくなってしまうのは事実である。
一日にワンパッケージ以上は確実に吸っているし、いちいち何本目の煙草か、などと気にしながら吸っているわけではないから、きっと相当量吸っているに違いない。
十年一日のごとく言われている「煙草=癌《がん》」という世界的|規模《きぼ》の警告が気にならないと言ったら嘘《うそ》になる。新聞などでよく扱われる「喫煙者と非喫煙者の癌にかかるパーセンテージ」といったたぐいの記事が、ドクロマークつきの記事に見えたりするから、けっこう気にかけてはいるらしい。
だが、友人や知人、ことに親などから「煙草はやめたほうがいい。命を縮《ちぢ》めるようなものだ」と、したり顔で言われたりすると「別にいいじゃない。あたしの命なんだから」的な幼児的反抗の姿勢をとってしまう。この反応の仕方は多くの愛煙家に共通するから面白《おもしろ》い。
先日、とあるフランス料理レストランに行った時のこと。店構《みせがま》えはどうということはないのに、ちょっと滑稽《こつけい》なほど上品ぶった店で、初めっから店の主人が五種類くらいしかないワインリストをとうとうと説明してきた。来ていた他の客たちもまるで店の雰囲気《ふんいき》に圧倒されているかのように、ひそひそ声で喋《しやべ》っている。
なんで客が借りてきた猫みたいにしてなきゃなんないのよ……とばかりに私とツレアイは大声で喋りまくり、ワインをガブガブと飲み、食事中に煙草を吸い、勝手に楽しくやっていた。ハタと気づくと小さい灰皿が吸《す》い殻《がら》の山。なのに店の連中はいっこうに替えてくれようとしない。
上品ぶってるわりにはサービスが悪いな、と苦々《にがにが》しく思いながら、店の主人に灰皿を取り替えてくれるよう頼んだ。白髪の老紳士然とした彼は、私たちのテーブルの脇《わき》に能面《のうめん》のような顔をして立ち、子供に説教するように言ったものである。
「ずいぶんおたばこの量が多いんでございますね。これほど健康をお考えにならないお客様を見るのは初めてで、さっきから手前どもは驚いております」
私たちは思わず顔を見合わせた。驚いたのはこちらのほうだ。この店の主人は、全国|肺癌《はいがん》防止協会か何かの関係者なのだろうか。ならばテーブルに灰皿が置いてあるのはどういうわけか。お上品に食後のエクスプレスなんぞを飲みながら、ほんの一本……というのがこの店にとって好ましい客なのか。
私たちはムッとして、取り替えてもらった灰皿を再びハイライトとキャスターの吸い殻の山にしてから店を出た。
こういうことは煙草《たばこ》だけに限ったことではない。酒もまた同様で、「飲みすぎるとからだをこわす」という決まり文句が世間を闊歩《かつぽ》している。
この手の決まり文句やドクロマークを連想させるような表情(不安げな、心配げな、汚《きたな》いものでも見るような)に遭遇《そうぐう》すると決まって「うるせえな。アンタには関係ないだろ」という態度をとるヘビードリンカーやヘビースモーカーの気持ちはとてもよくわかる。エゴイズムを制するには常套句《じようとうく》やとってつけたような芝居がかった口調《くちよう》など、何の効果もない。そればかりか逆効果であることを当の本人たちはよく知っているのだ。
ずいぶん昔の話だが、歌手の水原弘がアルコール漬《づ》けのようになって死亡した時、私には素朴《そぼく》な疑問が残ったものだ。
女房でも恋人でも何でもいい。ともかく彼に「飲むな」ということを「飲むな」という表現を使わずに教え、導いてやるような女性はいなかったのだろうか、ということである。
アルコールや煙草の類は、やりすぎるとからだに毒であるということは、誰《だれ》でも知っている。問題は知っていながらやってしまう精神の暴走≠ノあるのであって、そこにいくら「飲むな、吸うな」と口をはさんだって無駄《むだ》というものだろう。
硬直《こうちよく》し、頑《かたく》なになり、赤と言えば黒と答えてくるような巨大な天邪鬼《あまのじやく》を相手にするのだから、「お願い。私を愛してるならお酒をやめて」などというメロドラマ調の泣きおとしも役に立たないだろうし、「これ以上飲んだら、私はもう出て行きます」なんていう脅迫《きようはく》をしたところで無意味である。
何故《なぜ》かというと理由は簡単。何をどう言っても受け入れてもらえないのは、言っている側が愛情から言っていても、受け取る側はそう思わないからである。
別に水原弘でなくてもいいのだけれど、彼のごとき男を相手にする時、たいていの女は「お願いだからお酒をやめて。あなた、死んでしまうわ」と愛情を生《なま》に見せつつ懇願《こんがん》するものだ。そう言われると相手は「この女、俺《おれ》を愛してるから言ってるのではなく、俺が死んだら路頭に迷うから言ってるんだろう」と小児《しように》病的な反抗の姿勢をとる。
ここがやっかいなところで、つまり、男は「飲むな」と言われれば言われるほど「俺は飲みたいから飲む」というエゴイズムに走り、そうされるとますます女は「私を愛してるなら飲むのをやめるはずだ」と愛の押し売りをすることによって自分のエゴイズムを満足させようとする。
エゴイズムはエゴイズムによって逆襲《ぎやくしゆう》されるのが世の常である。子供を猫かわいがりして、テストで百点をとった時だけ数万円もするプラモデルを買ってやるような母親に、たいていの子は本当に愛されているとは感じていないはずだ。エゴイズムによって生じるその種の愛情は、反抗し、うるさがって家をとび出していくという別のエゴイズムしか生み出さないのである。
愛する人間とはいえ、所詮《しよせん》、別個の肉体でしかない相手なのだ。そう簡単に操作《そうさ》できるはずもない。むしろエゴイスティックに操作しよう≠ニ思った瞬間から、吐《は》く言葉のことごとくが相手に誤解されると思ったほうがいい。
私の友人に、結婚して五年間細腕繁盛記《ほそうではんじようき》≠ウながら、家の中のすみずみに至るまですべてを切り盛りしてきた女性がいる。早い話が女房の鏡≠ンたいな人なのだ。彼女の亭主は大のマージャン好き。それに、酒好き、ヘビースモーカーでほとんど健康を考えない。
そのことを除《のぞ》けば何の問題もない(別に私は酒やたばこをやる人間が問題のある人間とは思わないが)、ごくふつうの男だと彼女は思っていたのだが、ある日を境にして一念発起《いちねんほつき》。亭主の大改造計画なるものをうち出した。
まずマージャンをやめさせるのに、雀荘《ジヤンそう》のパイには梅毒《ばいどく》スピロヘータがくっついている場合があり、それで本当に失明した人もいる……と言い続け、煙草や酒と癌《がん》の関係資料も山ほど買いこんで逐一《ちくいち》、説明。
運動をしないと死ぬ、みたいなことまで言い出して朝な夕なのジョギングに、子供だまし程度のビールの小瓶《こびん》を一本、ごほうび≠ノつけ、青くさい生《なま》野菜ジュースを一日に二杯……という念の入れよう。
初めのうちはこの気のいい亭主も、愛妻のすすめるヘルシーライフ≠ノ従う心意気を見せていたが、やがて時折、禁断症状を呈するようになった。突然|怒《おこ》り出す、突然わめく、というような情緒《じようちよ》不安定が顕著《けんちよ》になり、驚くべきことにある日突然、プイと家を出たまま帰らなくなってしまった。
「絶対、どこかに女ができたんだわ」と、ヒステリーおこして荒れ狂う彼女を見ていて私は暗澹《あんたん》たる気持ちになったものだ。要するに「わかっちゃない」のである。彼女はエゴイスティックに彼を操作《そうさ》し、操作されることに耐《た》えきれなくなった彼が逃げ出しただけのことなのである。
青虫をとかしたみたいなドロリとした生野菜ジュースを毎日飲まされ、走りたくもないのに走らされ、やれ癌《がん》予防だの、肝臓《かんぞう》保護だの……と言われ続けていたら、誰だってうんざりしてくる。梅毒《ばいどく》スピロヘータのついたマージャンパイ相手に煙突《えんとつ》みたいに煙草《たばこ》をふかしていたほうが、どれだけくつろげることだろうか。
健康とか長生きといったことに無関心な人には二種類ある。一つは、本当に無関心で考えたこともないタイプ。そして一つは、十代のころから持ち続けた野垂《のた》れ死《じ》にの美学≠貫徹《かんてつ》しようとしているタイプである。
野坂昭如が「ベンベンと永らうるより野垂れ死にがふさわしい」と書いているが、これはすごく粋《いき》なことだと思う。からだに悪いことばかりやって、ヘルシーライフなんてのを鼻で笑って軽蔑《けいべつ》する人たちの多くはコレであろう。
かく言う私も右に同じで、だから「おたばこの吸いすぎはからだに悪いです」「毎日のアルコールは控《ひか》え目に」なんて言われようものなら、少なくともその相手とは決してレンアイなんぞしないだろう、と勝手に烙印《らくいん》を押すのである。
とか何とか言って、やっぱり心のどこかでビョーキをおそれ、表には出さねど「いつか自分も」と不安にさいなまれているのが野垂れ死に美学者たちだ。もし、そういう相手を恋人に選んだのなら、まず操縦《そうじゆう》することは諦《あきら》め、自ら野垂れ死に美学者に変身するのが一番いい。仲間ができると、この多少青くさい美学者たちはたいてい長生きを目指すようになるものだから。
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人生は風をはらんで
グラマーなのか、デブなのか
マリリン・モンローはデブだった。手元に私の気に入っている写真集『M・モンローベストコレクション』があるが、最盛期のころの彼女はまぎれもないデブとしか言いようがない。
モンローは三十歳の時、三人目の夫アーサー・ミラーと結婚。二年間の休養生活に入ったが、この間の彼女のデブぶりは感動的ですらある。仕事を離れ、アーサー・ミラーともよほど甘美な解放された生活を送ったのか、肉体ははちきれんばかりにふくれ上がり、二《に》の腕《うで》、腹、腰まわりの肉などは日本の湘南《しようなん》あたりで日光浴をするオバサンたちとそう変わりはない。ぴっちりとしたジーンズの上に盛り上がる贅肉《ぜいにく》は、この私ですら「負けそー」なくらいなのだ。
このころのモンローがデブと言われず、グラマーと呼ばれたのは、もちろん彼女独特の魅力のせいもあるのだろうが、そればかりではないと私などは思っている。
つまり、グラマーというのは「美しく太った女」の代名詞なのだ。もっと乱暴に言えば「贅肉をつけた女」と言ってもいい。
「オッパイと尻《しり》だけが大きく、あとは針金のように細い」肉体は、古今東西、理想の女の体型であった。なのに、不思議なことに芸術家たちはこの理想的肉体には大抵《たいてい》、目もくれなかった。モナリザもヴィーナスも、ルノアール描くところの女たちもマイヨールの彫像も、皆デブのオンパレード。有名画家でヤセ好みだったのはモディリアニくらいだが、あれだってモデルが果たしてやせていたかどうかは怪《あや》しいものだ。
男の美の原形が筋肉だとしたら、女の美の原形は贅肉だと言っていいかもしれない。女の美しさを作り出すのは骨にくっついた筋のような肉ではなく、ブルンブルンと揺れる余《あま》った肉なのである。
本来、GLAMOURというのは「魅力的、うっとりとした」の意味で使われる。それが日本語化した時に「デカパイムチムチ」の意味を持ったのだから面白《おもしろ》い。余剰《よじよう》の肉こそが「魅力的」なのだから、これぞデブ礼讃《らいさん》の辞、日本人はデブ好み、のいい証拠《しようこ》だ。
モンローはカメラを意識していない時の写真が一番美しい。肉体が弛緩《しかん》しているからである。カメラを向けられると、細胞をキュッと締《し》めるがごとく肉が引き締まるくせに、カメラを忘れた途端《とたん》、その肉はだぶついた余剰の肉と化す。グラマーな肢体《したい》の謎《なぞ》が解《と》けたようで、私はそうした写真を見ると嬉《うれ》しくなる。
もっとも「あのモンローですらデブだった」と思い込みたいのは、自分のデブを正当化したいためかもしれないのだが。
ベッドエイジ
古くからの同年代の友人に、ドラッグストアを経営している男性がいる。
彼、Hサンはその昔、私が勤めていた出版社の同僚《どうりよう》。当時から、何かにつけてオモロイ奴《やつ》だな、と思っていたのだが、そのオモロイ男は或《あ》る日、スパッと会社を辞《や》め、薬剤師の資格をもつ奥さんと一緒《いつしよ》に、ドラッグストアを始めた。
そしてはたと気づくと、店は大繁盛《だいはんじよう》、支店まで作っていた……という具合で、こんなに「脱サラ」が成功した人も珍《めずら》しいんじゃないか、と私などは脱帽《だつぼう》している。
そのHサンの店に数年前、初めて行って驚いた。赤い三角屋根に白い壁。清里《きよさと》あたりのペンションかしゃれたドライブインみたいで、薬局のイメージとはほど遠い。
おまけに中は、半分が小物売場で占められていて、ちまちました可愛《かわい》らしい木綿《もめん》の小物入れだの、エプロンだの、カラフルなTシャツだのが並んでいる。
店内を流れる音楽は軽いフュージョン。Hさん夫妻は白衣なんか着ておらず、フツーのジーンズ姿……と、こうくれば、若者はもちろん、気の若い中高年のオバサンたちに人気が出ないわけがない。
ことにオバアチャンたちは、意外なほど、こうした若々しい雰囲気《ふんいき》がお好みのようで、実に楽しそうに買い物をするんだそうである。
Hさんは気軽にオバアチャンの肩なんか揉《も》んでやったり、買い上げてもらったエレキバンなどを背中に貼《は》ってやったりしながら、「ねえ、オバアチャン、あそこにある赤い巻きスカートなんか似合いそうだな」なんてさりげなく、好奇心をくすぐってみるのだそうだ。そうすると「そうかしら、似合うかしら」と言いながら嬉《うれ》しそうに試着し、「思い切って買っちゃお」ということになる人が多いのだという。
「老人の愚痴《ぐち》を聞いてちゃいけない」というのが彼のモットーで、老人には明るい夢のある話をするのがいいそうだ。
若かったら着てみたいんだけど、と言うファッションを「今は年齢は関係ない時代」と言って熱心にすすめる。部屋のインテリアも、掘り炬燵《ごたつ》に座布団《ざぶとん》……などという老人くさいことを言わず、ほら、あそこにある小花プリントのシェードがかかったスタンドに、同色のクッションなんていいじゃないですか、などとアイデアを出してやる。そうすると、目を輝かせ、彼女たちは夢見る少女の顔に戻るんだそうである。
先日、そんな話を彼から聞いていた時のこと。同席していたブティックオーナーの女性が面白《おもしろ》いアイデアを出した。
「いっそのこと、寝たきり老人のためのベッドエイジファッションハウス、っていう店を出したら?」と言うのである。これには一同、身を乗り出した。
つまりこうだ。日本人の、特に女性の平均寿命はとどまるところを知らない。だが、たとえ百まで生きたとしても、肉体はどうしようもなく衰《おとろ》えていって、最後の十年くらいは、寝たきりとはいかなくても、寝床にいる時間が多くなるだろう。
十年といえば、短いようで長い。それに女性はいくつになっても可愛《かわい》いもの、きれいなものが好きであるに決まっている。それを周囲から「もう老人なんだから」と決めつけられ、ダサイ鶴亀模様《つるかめもよう》か何かの布団《ふとん》をあてがわれたりしたら、このうえない悲劇である。
かといって家人に、正面きって「原宿で売ってるクマさんのマークが入った座布団《ざぶとん》が欲しい」とか「枕《まくら》はリバティの小花模様が入ってるものじゃなくちゃいやだ」とか言い出す勇気もないだろう。
そこで「ベッドエイジのファッションハウス」なのだ。
店内は小物や寝具、パジャマ、クッション、インテリア雑貨、ペイズリー柄《がら》の男性用しびん、ハートの模様《もよう》がちりばめられた女性用オマル……などが整然と並んでいて、ついでに遺書を残す時のための各種模様入り便箋《びんせん》や封筒《ふうとう》、楽しい動物の形をしたボールペンなども取り揃《そろ》えてある。本当に寝たきりになってしまった人たちのために、カタログ販売も受けつける……。
次から次へと話はふくらんだ。人生の終わりに一時期、床に臥《ふ》すのは別に不幸なことでもなんでもない。皆が経験することなのだ。
Hサンはこのアイデアに激しく感動していた。彼の店に「ベッドエイジコーナー」が誕生する日も近そうである。
元気の文化
知人に電話をかけた時、たいてい私たちは「お元気でいらっしゃいますか?」と聞く。それに対して相手は「元気です」「おかげさまで」などと答える。それが普通なのだ。
ところが時々、「元気?」と聞くと待ってましたとばかりに「元気じゃないんです」と答えてくる人がいる。元気じゃないと言われると「どうしたんですか」と尋《たず》ねないわけにはいかない。で、尋ねる。相手は、やれ風邪《かぜ》をひいているだの、恋人とうまくいってないだのと答える。話がややこしくなる。暗くなる。受話器を置いた時、なんだかこっちまでクラーイ気持ちになる。これはいけない。「元気」は社交なのである。皆が社交のために「元気」のふりをするのが、現代社会のマナーなのだと私は思う。
話は飛ぶが、アメリカ人やフランス人は実に元気である。いつ会ってもキラキラしていて、人生バラ色、悩みのかけらもありません、これからドーバー海峡《かいきよう》を泳いでも渡れます、というような顔をしている。
去年と今年と二回、パリに行って来たが、フランス人のお喋《しやべ》りなのには本当に驚いた。カフェでもレストランでも、のべつまくなしに喋っている。そのうえ、よく食べ、よく飲み、よく笑い……で、一緒《いつしよ》にテーブルを囲むとまるで元気のかたまりを相手にしている感じになる。
時折、レストランの片隅《かたすみ》にバシッとブランド製品で身を固めた日本人旅行者が、気取ってムール貝なんかをつまんでいたりするが、おかしなことにいつもそこだけ火が消えたように静かなのだ。第一、日本人は会話が少ない。声が小さい。ハネムーンの途中《とちゆう》らしい若い女性が「あら、これおいしいわ」なんてコソコソと男に言い、男も「うん、うまいね」なんてヒソヒソ答える。あの大騒ぎして食事するフランス人から見たら、別れる寸前のカップルか何かに見えることだろう。
これは「元気」の比較文化論と言っていいかもしれないが、フランスをはじめとした西欧では、「元気」は自分で演出し、表現する社交≠ナあると考えられているようだ。彼等とて悩みは多い。悩みや不安の量は我々と変わらない。にも関《かか》わらず、人前では元気を装《よそお》う。政治への関心、ベストセラー本の感想、映画や絵画のお話、妻をいかに愛しているか、夫をいかに大切にしているか、仕事がいかに楽しいか……と、喋《しやべ》り続ける。自殺寸前の悩みを抱えていても、多分彼らは元気を装うだろう。
日本人は違う。「愚痴《ぐち》の文化」が根強くあるからである。元気ではない時、すぐに他人に元気でないことを強調する。愚痴る。甘える。元気でない者同士がつるんだりする。
元気を装っている悩み多きフランス人と、元気でないことを強調する日本人。お国柄《くにがら》の違いと言えばそれまでだが、私は前者の「涙ぐましい装い」のほうが好きである。きれいで悲しくて、好きなのである。
夏の鼻
@眠い A空腹 B鼻のアタマの汗 この三つは私を不機嫌《ふきげん》にさせる三大要素である。
@とAに関しては特に説明はいらないだろう。誰《だれ》だって眠い時やお腹《なか》が空いている時は、多少、機嫌が悪くなる。徹夜《てつや》でコーヒーばかりガバガバ飲み、空腹をおさえながら急ぎの仕事をしている時の、あの匕首《あいくち》をちらつかせたような表情は万人に共通する。とりわけ私には、その傾向《けいこう》が強いというだけの話だ。
説明を要するのはBについて。これはちょっと他人には理解されにくい。
夏、および夏に向かう季節には誰でもそこかしこに汗をかく。額、鼻、首筋、胸、背中……お尻《しり》にだって汗をかく。
中には暑いさなか、クーラーの利《き》かないラーメン屋に入ってアツアツのラーメンを汁まで飲み干し、全身に滝のような汗を流して「あー、汗は青春だ」と、森田健作みたいにつぶやきそうな人もいる。
汗に不快感をもつ人でも、「暑いんだから汗くらいかくさ」と、なかなか達観《たつかん》している人が多い。偉《えら》いな、と思う。大人《おとな》だな、と思う。そしてそういう人は大抵《たいてい》、汗のかきかたが美しい。
私はといえば、汗の全体量の八○パーセントを鼻のアタマから放出する。残りが額と首筋。胸や背中にはほとんどかかない。要するに首から上の部分に汗腺《かんせん》が集中しているのだ。この汗の不快さが不機嫌につながることは、同じ体質の人じゃなかったらわかってもらえないだろう。
朝は、顔中から蒸気が吹き出している気分で目が覚《さ》める。それは本当に醜悪な感覚で、たとえて言うならば、密閉したビニール袋に顔を突っ込んで寝ている感じ、と言っていい。まだ夜が明けきっていなくても、ひとたびこうなるとすぐにはね起きて、冷たい水で顔を洗わないと発狂しそうになる。
新しい服を買おうと、デパートなどの試着室に入るとこれまた最悪。狭所《きようしよ》においては鼻の汗が二倍に増量するのだ。せっかく気にいった服も汗みどろの顔では、買う気もおこらなくなる。試着室の鏡に、ゆでた鬼ガワラが映っているのを想像してほしい。
高原でテニスをしても、海辺で寝そべっていても、汗は鼻にばかり集中する。私は夏は毎年、鼻のアタマの汗との格闘に終わる。
不快指数一〇〇であっても、結核《けつかく》患者の流す冷たい汗のごとく、こめかみから顎《あご》に沿ってツーッと控《ひか》え目に透明《とうめい》な汗を流せる人は昔から私の憧《あこが》れであった。ツバ広の黒いストローハットの下で、そっとこめかみの汗を拭う女……なんてのに一度でいいからなってみたい。
各種雑誌の広告に「夏です! 手足の無駄毛、ワキガでお悩みの方。すぐに当美容クリニックへ」などというものは多いのに、何故、鼻のアタマの汗については放っておかれるのだろう。他の人は、鼻のアタマの汗に悩むことがないのだろうか。
サービス
最近、買い物で腹のたつことが二回あった。某《ぼう》デパートにサンダルを買いに行った時のこと。色もデザインも気に入ったものが目についた。
早速《さつそく》、右足に履《は》いてみる。ぴったり合う。よし、これに決めた、と左足のほうを探したが、不思議なことにどこにも見えない。近くにいた若い店員に「これの片方がないんですけど」と言うと、彼女は面倒《めんどう》くさそうに「ちょっとお待ちください」と、奥に引っ込んだ。待つこと十数分。彼女が、かったるそうに戻って来て「まだ探《さが》してますが、もう少しお待ちください」と言う。仕方なく更《さら》に数分待った。
彼女が更にかったるそうな顔をして再度現われた。
「ちょっと見当たらなくて」
要するにそのサンダルは、片方しか置いてないと言うのだ。
私はむっとしてイヤミを言った。「ずいぶん変わってるんですね。靴《くつ》ってのは二つひと組で売ってるんでしょ」
彼女は「はあ」と言ったきり黙《だま》ってしまった。ないものはないんだから仕方ないじゃないか、と言わんばかり。一瞬、「売り場主任を呼べ!」と叫ぼうかと思ったが、たかが靴一足のためにわめくのはみっともないと思ってやめた。
もうひとつは、友人に新築祝いの銅鍋を贈ろうと別の某デパートに行った時のこと。
値段《ねだん》も手頃《てごろ》なひとつを取り上げ、店員に「これをください」と頼んだ。彼女は言った。
「こちらは一点だけで在庫がないんです」
調べたところ、別に傷もない。私は「かまいませんから、これを包んでください」と言った。彼女は、一瞬、面倒くさそうな顔をして「でも、箱がないんですが」とのたまう。人に贈るものが箱入りでないのは困る。「なんとかなりませんか」と私が言うと、彼女は十年来、腰痛に悩まされた人がやるように腰をぽんぽんと大儀《たいぎ》そうにたたいて、「じゃあ、捜《さが》してみます」と答えた。
待つこと十数分。いや、三十分は待たされた。彼女がやって来て、「地下の倉庫を探《さが》したらありました」と事もなげに言った。それからのし紙を書いたり、包装したりで十数分。都会のどまんなかのデパートで鍋ひとつ買うのに小一時間かかったわけだ。こっちが腰が痛くなりそうだった。
しかし、冷静になって考えてみると、こうした従業員の鈍重《どんじゆう》な対応の仕方にいちいち腹をたてる私は、いかにも日本人的である。海外でひとりで買い物をした経験のある人なら誰でも知っているだろうが、「お客様は神様です」式の扱いをする国は滅多《めつた》にない。客も売り子も同等で、いやな客には売るほうもいやな顔をしてみせる。それで十分、商売は成り立っていくのである。
ハワイのマウイ島に個人旅行をした時、予約したはずのホテルがキャンセル扱《あつか》いになっていて、フロントで掛《か》け合いをやった。こちらがいくら「予約したんだから、そっちのミスだ」と言っても通用しない。「どっちのミスでもない。ここに予約が入ってないのは事実だから、あなたを宿泊させるわけにはいかない」の一点ばり。こっちも下手《へた》な英語でねばったが、ついに根負け。理論上、ホテル側の言い分は確かに正しいのだ。客だからといって、必要以上に低姿勢にはならないお国柄《くにがら》を見せつけられた気分だった。
フランスとなるともっと徹底《てつてい》している。パリはどこに行っても買い物に時間がかかる。煙草《たばこ》の自動販売機がないから、煙草ひと箱買うのに行列しなくてはならない。マーケットではレジの横に長蛇《ちようだ》の列。おまけにレジの女の子は、隣のレジの子とぺちゃくちゃ喋《しやべ》り、時折、客を放っておいたままどこかに行ってしまったりする。
驚くのは客のほうが全然、それに対して苛々《いらいら》していないことだ。のんびり自分の順番がくるのを待っている。気短かな私は初めてパリに行って、苛々せずに買い物できた例《ため》しがなかった。あののんびりムードに慣れない人は決してフランスには住めない、と言われたが私も住めるかどうか、怪《あや》しいものだ。
即《すなわ》ち彼等には「客にサービスする」という感覚がもともとないのである。サービスというのが何なのか、多分いくら説明してもわからないだろう。彼等にとっての「サービス」とは、的確《てきかく》な事務処理そのものでしかない。処理不可能な理屈に合わないことは、「できません」で済ませる。それに、自分は働いているのだ、という労働者としての自覚が彼等の意識を支えている。労働者が客にぺこぺこする必要はまったくないと考えているのだ。客もそれを認めている。サービスが欲《ほ》しい時はそれ相応の金が別途《べつと》に必要だ、と知っているのだ。
こうした考え方は日本人の感覚とはほど遠い。かくて私はサービスの悪い店でイヤミおばさんと化し、顰蹙《ひんしゆく》を買うのである。
ギャルのおしゃれ
私には八歳年下の妹がいる。現在、某社《ぼうしや》に勤める花のOL三年生。九時から五時まで会社にいれば、月々十数万円の給料が入り、ボーナスを加算すれば、結構《けつこう》な年収となるばかりでなく、親もとから通っているので、収入はほとんど全額、自分のもの。
時折、電話をかけてきては「今度の週末は高原のペンションに行くの」とか「お正月? スキーよ。もうウェアも買っちゃった」とか、やれ車の免許だのこっちが行ったこともないようなフランス料理の店だのの話がエンエンと続く。自分の誕生日には、高級ブランドのハンドバッグや靴《くつ》なんぞを御所望《ごしよもう》になり、ちょっとでもいやな顔をすると「ケチねえ。オバンになった証拠《しようこ》よ」などとぬかす。
それにいつ会っても、全身、流行のファッションで固めており、サラリーマン向け週刊誌のグラビアでよく見かける「キャピキャピギャル」を絵に描いたようないでたち。聞けば趣味は会社の帰りに渋谷や原宿などのファッションビルに寄って、服を買うこと、なんだそうな。それをさも自慢《じまん》げに「キャピってるのよ」などと言うのだ。
この愚妹《ぐまい》を見るにつけ、いつもこの世の終わりといった感じにさせられるのだが、これ、当世《とうせい》、我が国の平均的若者の実態らしい。まあ、自分で稼《かせ》いだ金をどう使おうと勝手だから文句を言うつもりもないが、いやはや、その物欲《ぶつよく》の凄《すご》さには恐《おそ》れ入る。
物欲が強いから、金の使い方は非常にうまい。私の知っている二十二歳の女の子は、一万円あれば新宿と原宿を回って、流行の服とアクセサリーを揃《そろ》え、おまけにおいしいケーキの店に入ることができる、と言っていた。
原宿あたりのコーヒーショップでのんびり外を見ていると、街はキラキラと全身を流行の衣裳《いしよう》でまとめた女の子であふれている。おしゃれに対して消費するあのエネルギーは大《たい》したものだと思う。今や、ファッションの主流はフランスでもイタリアでもなく、日本なのではないかと思えるほどだ。
たとえばの話、パリの女の子の服装は実に質素《しつそ》。ホント、信じられないくらい質素である。
女の子の十人中九人は、細身のジーンズ姿で、今日本で流行《はや》っている長めのスカート、ぶかぶかパンツをはいている子はほとんどいない。
ジーンズの上は何の変哲《へんてつ》もないセーターやシャツ。靴《くつ》もロウヒールのどうってことがないデザインのもので、傍目《はため》にも金がかかっていないことは一目瞭然《いちもくりようぜん》である。
パリからノルマンディ方面へ行くために乗った列車の中で、向かい側に座った若い女性がとてもカッコよかった。茶色の革製のショルダーバッグから煙草《たばこ》を取り出し、火をつけ、煙草を吸いながら青いリンゴをかじっている。
彼女の服装は、ジーンズにスーパーマーケットで買ったような安っぽい白の丸首セーター。それだけである。バッグは紐《ひも》がすり切れ、ひと目で古いものだとわかるし、靴はよく磨《みが》いてはあるけれどとても流行のものとは言い難《がた》い。多分、原宿あたりを闊歩《かつぽ》するわが愚妹《ぐまい》に言わせたら「ダサーイ」といった格好《かつこう》なのである。
しかし、その人は素敵《すてき》だった。大きい白のイヤリングをつけていて、窓の外を見ながら煙草を吸い、吸っては青いりんごをかじる。二十二、三歳だったろうか。着ているものではなく、自分の雰囲気《ふんいき》でセンスを表現していたのだと思う。
カフェで日がな一日、ぼんやりと行き交《か》う人を眺《なが》めていると、こういう若い女性がたくさんいることに気づく。少し寒くなると彼女たちは、唯一《ゆいいつ》とっておきの革のブルゾンをはおったりしておしゃれする。それがとても粋《いき》なのだ。
パリの若い人たちが行き交う通りには、ブティックが立ち並んでいるが、ほとんどが流行にとらわれないシンプルな品物しか置いておらず、混み合っていることはまずない。
服を新しく買うことに執念《しゆうねん》を燃やすのは、日本人が一番なのではないだろうか。パリだけではなく、アメリカ人もまた服装は質素である。サンフランシスコに長く住んでいた友人は、向こうでは服を買おうと思ってもジーンズとTシャツ程度のものしか買う気にならない、日本のものに比べるとなんとなくダサくって、と言っていた。
ともあれ、ニッポン人は金持ちでせかせかしていて、自意識が高く、他人の目が気になり、新しいものにすぐとびつき、うちの愚妹のように「キャピっているのよ」などと自認するような人間がはびこっているけれど、だからこそ、都市が繁栄し、ちっぽけな梅干《うめぼ》しみたいな国がこれほどまで大国にのし上がったのかもしれない。
物があふれ、女の子たちが店先で「キャッ、これかわゆーい」なんぞと黄色い声を張《は》り上げている街の真中に立っていると、さまざまな思いにかられるのである。
シロの話
小学生の時、近所の背の高いブロック塀《べい》で囲まれた大きな家に「シロ」という名のスピッツがいた。その家の人たちはどういうわけか、昼間、全員外出していたので、シロはどちらかと言うとほったらかしにされていた。
人恋しかったのだろう。彼は誰《だれ》かが道を通るたびに、キャンキャン吠《ほ》えた。そのため「うるさい犬」という悪評がたち、近所の子供たちは塀に石を投げたりもした。
私は学校の行き帰り、必ず塀のところで立ち止まって、「シロ、シロ」と呼びかけた。最初のうちは、ほえるばかりだったシロもやがて私には心を許したのか、ブロックの小さな穴《あな》から顔を出すようになった。
シロとは名ばかりで、薄茶色に変色した汚《きたな》い犬だったが、私に頭を撫《な》でられるのがよほど嬉《うれ》しいのか、喉《のど》を詰まらせながらも穴に首を突っ込んでくる様子はいじらしかった。
夏休みになると、私は足しげくブロック塀に通いつめ、剥製《はくせい》か何かのように首だけ出しているシロと遊んだ。パンの耳や味噌汁《みそしる》の残りなどを食べさせ、シロはそのお礼だとでも言うように、私の手を必死で舐《な》めた。
シロを抱きしめてやりたいと思ったが、その家はアリ一匹、侵入《しんにゆう》する隙間《すきま》もないほどガードが固く、はしごを持って来て塀《へい》を乗り越える勇気もなかった私は、首だけのシロを相手にするしかなかった。
小学生には小学生なりに悩みがある。何の悩みか忘れてしまったが、その後、私は或《あ》る悩み事のため、しばらくの間、シロを忘れた。でも、彼は相変わらず、私が通りかかると例の「剥製《はくせい》」ごっこをやめず、穴から首を出して、食べ物と愛撫《あいぶ》をねだった。
何か月かがたって、シロが死んだという話を母から聞いた。首の皮膚《ひふ》がすりきれて、そこからバイキンが入り、たちの悪い皮膚病で死んだということだった。
あのブロック塀の穴《あな》のせいであることは間違《まちが》いなかった。そして、シロにあの「剥製ごっこ」を教えたのは私だった。泣きべそをかきながら、塀のところに走り、穴から中をのぞくとシロの姿はなかった。穴には彼の薄茶色の毛だけが、こびりついていた。
ジェイムズ・サーバーという無類《むるい》の犬好き作家が書いた『サーバーのイヌ、いぬ、犬』という本の中で、作者は次のように書いている。
「人間を犬|並《な》みの賢《かしこ》さに引き上げようとして犬が成功したためしはめったにないが、人間はしばしば犬を人間並みのところに引きずり下ろしている」(鳴海四郎訳)
人間並みのところに犬を引きずりおろしたのは、あの場合、ブロック塀の家の人々だったのか、それともこの私だったのか。いずれにしてもはっきりしているのは、あのシロは私や主人たちより遥《はる》かに賢かったのかもしれないということだ。
犬は時として虚無《きよむ》に満ちた顔をし、また時として、或る欲望のためなら死んでもいいという決意に満ちた顔をする(そこが猫と違うところで、猫は虚無に満ちた表情はするが、決して欲望のために死のうという覚悟はみせてくれない。私が猫よりもどちらかと言うと犬のほうが好きなのはそのためだ)。
シロは愛されたくてうずうずしており、愛されるためには首を皮膚病に冒《おか》され、死んでもいいと思いながらあの穴から首を出し続けていたように思える。猫好きの人に言わせると、こうした欲望をあらわにするのは「いやしい」ということになるかもしれないが、人間は多分、それ以上にいやしい。愛されるために死を覚悟するなんてことは、ほとんどの人間にはできないのだ。犬でなくちゃできない。犬は人間より遥《はる》かに優れた生き物なのである。
ともあれ、これまで私は犬たちに何度も慰《なぐさ》められてきた。十三年間飼っていた柴犬《しばいぬ》は、私の心を読み、落ち込んでいると察すると、そっと側に来て濡《ぬ》れた目で私を見上げ、「そんなことなんでもないさ」と言いたげに小さな手を差し出したし、近所をうろついていた雑種の野良犬《のらいぬ》は、夜、私がタクシーから降りるとどこからともなく走って来て、喉《のど》を鳴らしながら擦《す》り寄った。
こんな調子だから、私の犬好きは無類のものなのだが、最近になって上手《うわて》が現われた。うちのツレアイである。彼は犬でも猫でもウサギでも、場合によってはクマの子供やライオンの子に至るまで、動物と名のつくものなら何でもベッドに入れて添《そ》い寝《ね》したいと思っている。今はマンション住まいなので動物は何も飼えないが、飼えるとしたら全部、ベッドに入れるんだと言ってきかない。で、ついつい先日、「私と他の動物とどっちと添い寝したいのよ」と怒鳴《どな》ってしまってから、はたと気づいた。こういうセリフはサーバー流に言うと、やっと私が「犬並み」になれたという証拠《しようこ》である。犬は自分以外の動物に対して、相当のヤキモチをやくものなのだ。
結婚したいのか、愛されたいのか
仕事|柄《がら》、二十歳前後の若い女性向きの雑誌で身の上相談≠フ回答を求められることが多い。内容はお定まりの恋の悩みがほとんどなのだが、中に多くの「結婚」に関する相談事があるのにはいつも驚かされる。
不倫《ふりん》の恋をしているが、ともかく彼と結婚したい、どうすればいいか、というものや、現在つきあっている恋人とは結婚してもいいと思っているが、彼には定収入がない、心配だがどうしたらいいか、というもの等々。
中には、周囲の友達が賑々《にぎにぎ》しく婚約発表したり見合いをしたりしているのを見ながら、どうして自分のところにはそういう話が持ち上がらないのか、とノイローゼ状態に陥《おちい》り、そのあげく世をはかなんで「人生がむなしくなった」と言ってくる人もいる。
繰《く》り返すが、これは三十歳を越した女性の悩みではない。たかだか二十二、三歳の女性、人生始まったばっかり、という年代の悩みなのだからどうも合点《がてん》がいかない。
まったく男っけがない、というのならまだ話はわかるが、そうでもなく、たいていがボーイフレンドの二、三人はいて、うちひとりとは深い関係を結び、残りはそれぞれ、淋《さび》しい時のウサ晴らし用、飲み友達用……とちゃっかり用途別に分けていたりする恵まれた環境にあるのだ。
だったらいいじゃないの、青春|真《ま》っ只《ただ》中で……と、こちらとしては微笑《ほほえ》ましく思うだけなのだが、当人の悩みはどうしてどうして、かなり深刻であるらしいから不思議なのである。
だいたい、私に言わせると二十二、三やそこらで生涯《しようがい》の伴侶《はんりよ》を選ぼうとするなど、危険きわまりない。
人はもともと、経験によってしか成長できない愚《おろ》かな動物だ。どれほど知能指数が高くても、経験が伴《ともな》っていないうちは人間としての成長は望めない。経験というのは、それがいかにくだらないものであっても、人に理屈ではない何かを学ばせてくれるものだと思う。
だから、二十代のうちは遊びまわったほうがいい。遊んで恋をして、傷ついて……そうやっていくことの中で初めてわかってくることは計り知れないほど多い。遊ぶ、というと軽薄《けいはく》に聞こえるかもしれないが、遊びを経験することはとても大切だ。
遊ばないで二十代を過ごし、結婚し、子供を作った人たちは、子供に手がかからなくなると、はたで見ていておかしいくらいにそわそわし始める。そして、ちょっと外に目を向けては、まるで生まれて初めて世間の楽しいことを見出したかのようにチャラチャラと遊び始める。そのあげく、まったくつまらないことで人生をダメにしてしまう、といったケースはたくさんある。
一方、二十代のうちの多くを遊んで過ごしたような人は、たいていそうならない。私の知っている三十七歳の男性は、二十代のころ、さんざん遊んで女の子を泣かせ、泣かせては「俺《おれ》ってだめなんだよな。なかなか落ち着かなくて」などとうそぶいていたものだが、三十二歳で惚《ほ》れた女と結婚して以来、ぴたりと遊ぶのをやめた。
「どうしたのよ。まじめになっちゃって」とからかうと、「まじめになったんじゃないよ。ただ、遊ぶのに飽《あ》き飽きしただけ。飽き飽きしてんのに無理して遊ぶことないだろ」と答える。遊びたくともモテなかった男たちに言わせると、実に腹だたしいセリフだろうが、彼の言いたいことはとてもよくわかる。さんざん遊んだのだから、もう、無理して遊ぶことはない……なかなか名言ではないか。
女にしても同様。二十代のうちにたいていの人にめぐってくる遊びのチャンスをことごとく消化し、時にはそれによって疲れたりうんざりしたりしながら生きた人は、その経験にふさわしい判断力を備えるようになる。自信といってもいい。自信をもつことができた女は強い。ちょっとやそっとでは、簡単に絶望したりしない。自分なりの価値基準ができるから、世間のしがらみや定型化された価値観に抵抗《ていこう》する力も強い。自分が血と涙を流した分だけ、他人の痛みを理解し、やさしくなれる。まったく、いいことずくめなのである。
だから、悪いことは言わない、二十二、三の若いうちはさんざん遊んで楽しみなさいな、とたいていの相談ごとに対して私は答えることにしている。恋愛の勲章《くんしよう》がいくつ持てるか、と自分を試すくらいの気持ちで、ね、と言っているのだが、果たして通用しているのかどうか。
今の若い女性たちに根強くある漠然《ばくぜん》とした結婚|焦燥《しようそう》感は、「結婚したい」のではなく「愛し愛されたい」という欲望ではないか、と思うことがある。
ベッドを共にする男はいるし、遊んでくれる男もいる。外を歩けば、声をかけてくる男もいるし、ちょっと誘《さそ》っただけでついてくる男もいる。しかし、そのうちの誰《だれ》ひとりとも「愛してる」「愛されてる」という実感を持ったことがない。雑誌が氾濫《はんらん》し、おしゃれの仕方や化粧の仕方と共に、他人の甘い恋物語や結婚物語を目にする機会は多いが、どれもこれも自分とはかけ離れているような気がする。このままいったら自分はどうなっていくのか、とふと思う。自分をつなぎとめてくれるものが果たしてあるのだろうか、とふと不安になる……そんな時、やみくもに「結婚」という形式に自分を当てはめて、とりあえず安心してしまいたくなるのかもしれない。
私は二十代のころ、結婚ということは考えてもみなかったが、やはり、とりとめのない混沌《こんとん》とした気持ちに何度か襲《おそ》われたことがあった。ただでさえ目まぐるしく変化していく環境に抗《こう》しきれなくなって、不安を覚え、不安だからこそ一層激しく外を出歩いたり、より多くの人間たちとの出会いを求めたりした。
男友達と飲みに行くたびに「この人たちのうち、誰がもっとも自分に合っているか」などと密《ひそ》かに考え、誰ひとりとしてそんな男がいないことに対して、傲慢《ごうまん》にも薄っぺらいプライドを満足させたりしたものだ。そのくせひとりになると、やりきれないほど淋《さび》しくて、誰ひとりとして自分に合っている男がいないことに絶望した。私の二十代は、そうした馬鹿《ばか》げた自分の独《ひと》り相撲《ずもう》の中で明け暮れていったような気がする。
そんな中で私が具体的に「結婚」ということを考えずにきたのは、ひたすら「愛し愛されたい」と願っていたからだと思う。私にとって重要なのは、あるひとりの男と結婚することではなく、ぼろぼろになるまで愛し愛されることだけだった。
昔、何かの動物ノンフィクション映画で、オオカミのつがいがいくつかの厳《きび》しい自然と戦いながら血を流し、それを嘗《な》め合いつつ片時も互いを離さないで生きた、という話に涙したことがあったが、そうした固い絆《きずな》を男と持つことが私の理想であった。もし結婚というものがそうした絆を保証してくれるのなら、私も二十代のころ早々と結婚していたに違いない。
しかし、結婚が愛の絆をこれっぽっちも保証してくれないことは、どういうわけか十代のころからよくわかっていた。結婚は、社会的な側面における夫婦の権利すべてを保証してはくれる。財産、子供、生活……法律が彼等を守り、不祥事《ふしようじ》が起こった時には、被害を受けた側により有利に法が働きかけてくれたりもする。
だが、結婚はふたりの愛情を決して保証してくれない。離婚寸前にまで夫婦の間が懐《こわ》れてしまっていても、社会は文句を言わない。夫婦に愛情があるかどうか、結婚した時と変わらない情熱があるかどうかなんて、社会の知ったことではないのである。
よく「入籍、入籍」と騒ぎ、入籍が相手の愛の証《あかし》であると思いこんでいる人がいるが、笑止千万《しようしせんばん》というものだ。社会はその機能上、国民が何かを始めたり終えたりする時に登録することを義務づけている。そうやって「形」をとっていかないと秩序《ちつじよ》が保《たも》てなくなるからである。入籍……婚姻届《こんいんとど》けもそのひとつにすぎない。したがって、入籍したかしないか、によってその男との関係の深さを計ろうというのは、あまりに馬鹿《ばか》げたことであり、あさましい感じすらする。
多くの若い結婚志願者が犯《おか》している過《あやま》ちはここにあるような気がする。
結婚というのは社会が決めたひとつの制度なのだ。それを甘い愛の保証、「愛したい愛されたい願望」と一緒《いつしよ》にして考えることは、間違《まちが》いもはなはだしい。
愛の保証なんてのは、何ものにもしてもらうことはできない。親も兄弟も仲人《なこうど》も、届けを受けつけてくれる役所の戸籍係《こせきがかり》のおじさんも、愛の保証までは確約してくれない。
その愛が続くかどうかは、賭《かけ》だ。老いて共白髪《ともしらが》になるまで添《そ》いとげるか、一年で破綻《はたん》がくるか、始まったばかりの時点では本人同士だって想像がつかない。にもかかわらず、愛したいと思うし、愛されたいと思う。悲しいけれど、まったく保証のないものを目指して日々、ふたりで関《かか》わっていくことでしか、愛情は成立していかないのである。
ただ、中には愛の保証なんかどうでもいいから、自分の生活の保証をしてほしい、楽にさせてほしい、老後を豊かに暮らさせてほしい、と言う人もいるだろう。そういう人はさっさと婚姻届けを出したほうが得である。結婚制度というのは、こうした側面では十二分に機能を果たしてくれるものなのだ。
医者と結婚して家を継《つ》ごう、とか政治家と結婚して父親を助けよう、とか思っている人の場合も同様だろう。婚姻届けは最大の切り札となる。どんどん利用すべきだ。
時々、こうした政略結婚のことを眉根《まゆね》を寄せて「いやあね。汚《きたな》らしい」と言う人がいるようだが、私はちっともそう思わない。もっとも理にかなった結婚ではないか。そもそも、結婚に愛がなければならない、という決まり事はない。愛とは無関係のところで成立するのが結婚なのである。むしろ、私には、入籍することが愛の保証だと信じている人たちのほうがよっぽど愛を冒涜《ぼうとく》しているように思えてならない。
私は三十一歳の時、現在のツレアイと暮らし始めた。二年たった今でも私たちは婚姻届《こんいんとど》けを出していない。今後も当分、出すつもりはない。
よく「どうして?」と聞かれるのだが、確固《かつこ》たる主義や思想上の合意があってそうしているのではない。簡単な話、我々はずっと恋愛をしていくつもりでいるので届けは出す必要がない、と思っているのである。
恋愛はいつか終わるかもしれない。終わらずに死ぬまで続くかもしれない。それはわからない。続いてほしいと願っている気持ちがあるだけである。恋を続けるために届けを出す必要がどこにあろうか。
私たちは子供を作らない。また、今住んでいるマンションは賃貸マンションなので、入籍していなくても名義上のややこしい話は絡《から》んでこない。
細かくなるが、生命保険だって、別に夫や妻でなくては受取人になれないということもない。現に今、私たちはふたりともそれぞれを受取人にした生命保険に入っているが、受取人の欄《らん》の続柄《ぞくがら》は「内縁《ないえん》」ということになっている。それで充分、通用するのである。
ふたりが入籍していなくて都合の悪いことは、今のところ何ひとつない。強《し》いて言えば、海外旅行をする時、飛行機のチケットの予約の際にいちいちふたり分の名前を言わなくてはならなくなることくらい。入籍していれば、パスポート通りに「ミスター&ミセスなんとか」の一言で済むのに、と思ったものだ。が、こんなことはたいしたことではないだろう。
まあ、今後、法律が変わって「婚姻届けを出していないカップルは住居を共にしてはならない」などということになったら区役所に行くと思うが、そうでもならない限り、届け出ることはないと思う。必要ないからやらない、本当にただそれだけのことなのだ。
だが、こうしたことに卑俗《ひぞく》な好奇心をもち、「別れやすいから届け出ないんでしょう。ほんとのことをおっしゃいよ」と言ってくる人がたまにいるのには閉口《へいこう》する。届け出ていたっていなくたって、人はどうしようもなくなると別れていくものではないのだろうか。婚姻届けを提出することによって人の気持ちをつなぎとめることができるのだったら、繰《く》り返しになるが、私もとっくの昔に結婚していたと思う。
私たちの周りにも、三十代、四十代で婚姻届《こんいんとど》けを出さないままに暮らしている仲のいいカップルが少なからずいる。いずれの場合もごく普通の感覚をもった人たちばかりで、自分たちのやっていることが特別なことだとはまったく思っていない。
ごくたまに、彼等とそのことについて話すことがあるが、「この間、ある人に入籍しろと言われた。どうして他人のやっていることがそんなに気になるんだろうねえ」などと笑い話にするくらいのものである。
誤解《ごかい》がないよう付け加えておきたいが、私は結婚を非難し、結婚なんかするな、と言っているわけではない。結婚なんて、してもしなくてもどっちだっていいのだ。問題は、結婚と愛の深さがまったく無関係であることを知っているかどうかだと思う。
ただ、そうは言っても届け出をしないで一緒《いつしよ》に暮らし出すと「同棲? なんて恥ずかしいことしてんの!」と眉《まゆ》を逆立《さかだ》てる親が多いのもまた事実。地方によっては、親というよりも土地の人間が寄ってたかって適齢期を迎《むか》えた娘を嫁《とつ》がせようとすることもある。
私の知っている或《あ》る地方のお嬢さんは、恋人との仲を土地の有力者である父親とその一派によって裂《さ》かれそうになった。なんでもその恋人というのは高卒で、片親だから、というのが反対の理由であった。家柄《いえがら》、学歴ともに「××家」にはふさわしくない、というのである。
結婚を申し込みに行った恋人を父親は殴《なぐ》りつけ、彼女は家で軟禁《なんきん》状態の憂《う》き目にあい、悪い噂《うわさ》が広まる前に早く嫁がせてしまえ、というので、家柄学歴ともに百点満点というのだけが取り柄《え》のブタみたいな男と勝手に結婚を決められてしまった。まさしく現代結婚|残酷《ざんこく》物語というべきだ。
彼女は最後には、親の言いなりになった。今、一児の母になった彼女は「結局、地方の封建性と闘《たたか》おうと思ったらすべてを捨てなくちゃいけなくなる」と言って自分の負けを正当化しようとしている。
こうした話を聞くにつけ、私は本当に歯痒《はがゆ》い気持ちになる。その昔、明治から大正にかけて、平塚らいてうは、時代のモラルに逆《さか》らって年下の男と入籍|拒否《きよひ》のまま同居をする宣言をし、案《あん》の定《じよう》、ごうごうたる世間の非難を浴びた。五歳も年下の男と、法律を無視した形で共同生活を始めるのは、不道徳きわまりない、というのである。ふたりの住居のふたつ並べた表札は、いやがらせから次々に盗まれた。
らいてうの相手であった、奥村博という男は売れない画家で、収入の道がなく生活のほとんどを彼女に頼《たよ》っていたことも世間の非難を招《まね》く原因であった。だが、ふたりはその関係を解消せず、結局、できた子供はらいてうの籍に入れたものの、彼等自身は入籍しないままに終生、仲よく暮らし続けた。
今からおよそ七十年前、女が酒を飲んだだけで世間がうるさかったような時代に、こうした独自の生き方をやってのけた女がいたことを考えると、父親に恋人との仲を裂《さ》かれ、「地方の封建性|云々《うんぬん》」と言い訳して、ブタ男に嫁《とつ》いで行く女がいる時代はいったい何なのかと思ってしまう。
ひとたび自分の思い通りにものごとがいかなくなると、気はすすまないがまあ、丸く収めよう、として親や世間に迎合《げいごう》し、「世の中、こんなもんよ」といっぱしのセリフを吐《は》く人が多いのは残念なことだ。そうした人に限って、後で後悔《こうかい》し、後悔しているのを他人に悟《さと》られたくないため、かつて自分の親たちがやってきたのと同じことを子供に強制するようになる。悪循環《あくじゆんかん》きわまりない。
人間はそもそも淋《さび》しい動物だ。若くても年をとっていても、朝、起きた時、カーテンの向こうをのぞいて「あら、いいお天気」というささやかな感動を共有できる相手を常に求めている。だから、人は暖め合い、身体を寄せ合い、誰《だれ》かを愛したいと願うのだ。その純粋《じゆんすい》な気持ちを結婚と同一化させようと焦《あせ》るところから、悲しいことに愛の絆《きずな》はほころびていくのだと思う。
結婚をやみくもに焦り、まずウェディングベルを鳴らすことしか考えていない人には、まず、あなたは人生でいったい何が大切だと思っているのか、と問いたい。生活の保証よ、と答えるのなら、ともかく生活力のある男を見つけて結婚するのが得策《とくさく》だ。しかし、もっと別なもの、抽象《ちゆうしよう》的なものを大切にしていきたいのなら、即刻《そつこく》、その根拠《こんきよ》のない結婚願望症を治すことをおすすめする。
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男たちとのサークル・ゲーム
マグロの中の……
数年前の話だが、ハワイに行って撮《と》った写真を帰国してから現像してみると、うち一枚に水着姿の見知らぬ女が写っていた。
ひと目で日本人とわかるが、デブでずっしりとしていて、肉がたるんでいて……なによ、これ、こんなオバサン、どこで写したっけ……と思って、よく見ると、自分であった。
あの時のショックたるや、筆舌《ひつぜつ》に尽《つ》くし難《がた》い。もともと私は海外に行くと太るたち。多分それは食べてしまう量や糖分が急激に増《ふ》えるからであろうが、それにしても、自分で自分を見間違《みまちが》えるほど太ったのは初めての経験であった。
しかし、いくら旅先とはいえ、自分がどんどん太っていくのに気がつかない、というのはなんとも不気味《ぶきみ》な話である。よく眠り、よく食べ、そのうえコーラやケーキ、ポテトチップ、ビール……とくれば太らないわけがないが、太っていくことに対して無頓着《むとんちやく》となるのは何故《なぜ》なんだろう。
で、いろいろその原因を探《さぐ》ってみて結論が出た。別にハワイに限らない。白人の女性というのは、おしなべて我々黄色人種と比較にならないくらい、お太りになっている。太っている、というのが失礼に当たるならば、「グラマー」と言い換えてもいい。
そのグラマー、迫力《はくりよく》満点、のボディーが、オッパイやお尻《しり》のあふれる肉と共に、お腹《なか》や二《に》の腕《うで》のぜい肉を波立たせつつ、水着姿で浜辺にごろごろしているのである。多少、ふと目のニッポン人女性が間にはさまったって、マグロの群れに混じったアジみたいなものだ。目じゃない。ホントに目じゃなくなるのである。
だから、必然的に安心する。なんだ、私は考えていたよりもずっと痩《や》せているではないか、と思う。気にしていたお腹の肉だって、彼女たちの間に入るとかわいらしいもんである。子供だましみたいなもんである。
で、油断《ゆだん》して食べてしまう。当然、太る。そして帰国した後、醜《みにく》さにぞっとする。毎度、そのパターンなのだ。
しかし、そのことは別にしても、日本の女性というのは、多分、世界一、デブっていくことへの恐怖心《きようふしん》が強いんではなかろうか、と思う。確かに太っていることは美しくないことかもしれない。しかし、たいして太ってもいない人が夏が来ると悩み、「ノースリーブのドレスが着られない」と言っては、仲間とエアロビクス教室に走ったり、デブだと彼にふられるから、と言っては高い金を払って得体《えたい》の知れないクスリを買い込むのは、どう考えても行き過ぎという気がする。
所詮《しよせん》、黄色人種の太めなんて、「マグロの中のアジ」だと思えばいいのだ。おおらかに年相応《としそうおう》に太り、やはり太った亭主と浜辺でゴロゴロしている光景は悪いものではない。要するに考え方ひとつなのだ。……とかなんとか言っても、やはり私も気持よく太ろうとする勇気はない。ニッポンの女なのですね。
男の欲望
時々、考えることがある。
食欲、排泄欲《はいせつよく》、睡眠欲、性欲……人間の持つ四つの欲望のうち、どれが最も強く作用《さよう》するのだろうか。
たとえばの話。健康な男を一年間、強制的に禁欲させ、その後、だまくらかして砂漠《さばく》に連れて行ったとする。特殊《とくしゆ》な薬を飲ませて、排泄できないようにし、眠ったらサソリにやられる、と脅《おど》かしてから水だけ渡して砂漠を歩かせる。
そして三日目、その男の前に忽然《こつぜん》と現われて即《そく》、排便、排尿を催《もよお》させる注射を打ち、同時に@人目につかない清潔なトイレ、Aタラコの入ったおにぎりと枝豆、冷たいビールのセット、B木陰《こかげ》の涼《すず》しそうなベッド、Cとびっきり色っぽいセミヌードの美人……の四つを用意してやったとしたら、その人は何をまず一番に選択するか。
私はいろいろな人にこのくだらない質問をしてみた。
トップは「排便排尿」で、これはもうダントツ。というよりも誰《だれ》ひとりとしてこれをトップにあげなかった人はいなかった。二番目は「食べ物」と「ベッド」がほぼ同数で互角《ごかく》。結局、最後に回すのが全員、「性欲」であった(中には、まず排便排尿し、ぐっすり眠った後で、ビールを飲みながら女を抱き、その後でおにぎりを食べる、と答えた図々《ずうずう》しい男もいたが)。
となると、ヒトの欲望の中でもっとも強いのは「排泄欲」で、次に「睡眠欲」「食欲」と続き、「性欲」はどうしたってはみ出すということになる。
考えてみれば、どんなに精力的な男とて、二日間|徹夜《てつや》した後で猛烈な下痢《げり》をおこしている時には、性欲もなくなるだろう。そんな時でも女を抱きたい男がいるかもしれないが、ちょっと論外《ろんがい》、という気がする。
性欲というのは、生命|維持《いじ》のために必要|不可欠《ふかけつ》な欲望ではない。一生涯《いつしようがい》、一度も異性と交わらなくたって、死ぬことはないのだ。
となると、よく巷《ちまた》で言われている、「性的に強い男性は即《すなわ》ち、生命力が強い」という幻想《げんそう》は崩《くず》れることになる。これは、なかなか面白《おもしろ》い。
やはり、生命維持能力に優《すぐ》れている男性、というのは、食欲、睡眠欲、排泄欲に優れている人のことを言うのだろう。こういう言い方はおかしいかもしれないが、なるほど、私の知っている人たちの中で「殺しても死なない」ふうの男性は皆、食欲|旺盛《おうせい》、ウマのごとく食べ、どこでも高いびきで眠り、かつ、お通じのほうも健康的であった。
快食、快眠、快便……これこそが、男性の強さ、たくましさの動かぬ証拠《しようこ》なのかもしれない。性的に強いの弱いの、ということは、実は生命体の強さとは無関係なのかもしれない。
……と、馬鹿《ばか》な理屈をこねまわしてみるのも、また楽しいことである。
痴漢考
もの書きをショーバイにしていて、ホントに得《とく》したな、と思うのは、混《こ》んだ電車に乗らずに生活ができることである。
私はもの書きを始める前、編集者をしていたことがあったのだが、その時はほとんど毎朝、痴漢《ちかん》の多いことで有名な某路線《ぼうろせん》のラッシュ電車に乗り、三日に一度の割合でお尻《しり》を触《さわ》られていた。あの不愉快《ふゆかい》なことといったら!
朝、眠くて、憂鬱《ゆううつ》で、ただでさえ機嫌《きげん》が悪いのに、後ろでゴソゴソとスカートをまさぐられ、「フーッ、ハーッ」なんてニンニク臭《くさ》い息を吐《は》きかけられるのは、たまったものではない。
どんな顔をした男がやってるんだろう、と後ろを振り返りたくとも、混んでいて身動きがとれない。あんまり手の動きがひどくなるようだったら、むんずとその手をひっつかみ「ちょっと、何すんのよ!」と大声で騒いでやろう、と決心するのだが、たいてい、朝のラッシュでそういうことをする男はサラリーマンばかり。図々《ずうずう》しいわりには小心で、見知らぬ女のお尻をなでまわしつつ、出世が気になるのか、大したことはしてこない。
で、こちらも騒ぐほどのことでもない、と思いなおして我慢《がまん》してしまうのだが、それがなんとも腹が立つ。結局、触られっぱなしで目的地まで行ってしまうことになるのだ。
そんな毎日が続く中、一度だけ奇妙《きみよう》な痴漢にあった。人の波に押されて、車両の真中に押しこまれ、吊《つ》り皮《かわ》につかまっていた時のこと。駅から一緒《いつしよ》に乗り込んできたダークスーツの三十二、三歳の男が横からぴったりと私にくっついてきた。
テキの顔は見えないが、かなり背が高く、スマートな男だった。彼はおもむろに腕組みをし、持っていた週刊誌を丸めて私のほうに向けた。
ヘンだな、と思ったのも束《つか》の間、その週刊誌の隙間《すきま》から長い指が現われ、我がかすかな胸のふくらみに到達《とうたつ》した。指そのものは週刊誌に隠《かく》れていたため、前の席に坐《すわ》っている人には見えない。触っているのか、いないのか、電車の振動《しんどう》とは異なった動きで指はオッパイのあたりを彷徨《ほうこう》する。しかし、テキはため息ひとつもらさない。
おかしい。もしかするとこれは偶然《ぐうぜん》なのか、とも思ったが指は明らかに運動を繰《く》り返している。やっぱり痴漢か、いや、待てよ、違ったとしたら、へたに騒いでも失礼だ……などと思いあぐねること十五分。電車は乗降客の多い駅に到着した。ドアが開いた。人波が崩《くず》れ始めた。その瞬間、男は「失敬!」と一言、私の耳に囁《ささや》いて風のごとく降りて行った。
瞬間的に垣間《かいま》見えた彼の顔は、近藤正臣ばり。さっそうとした後ろ姿は心にくいほどのカッコよさ。私、しばし、茫然《ぼうぜん》。
この世には、色男が行なう、実にスマートな痴漢行為もあるものなのだ、と妙に感心したのであるが、いい男は何をやってもキマル、などと結論するのは浅薄《せんぱく》であろうか。
女性恐怖症
医者の中には、時々、おかしな人がいる。
昔、かかっていたことのある近所の内科のお医者さんは、四十代後半の上品でハンサムな紳士。有名な愛妻家で、休日には奥さんとふたり、テニスに興《きよう》じ、ふだんでも診療《しんりよう》がすむとまっすぐ自宅に帰るような人である。
このセンセイ、腕はいいが、困るのは極度の照れ屋であること。なにしろ、女性|患者《かんじや》となると、態度が変わってしまうのだ。必要以上に会話を避《さ》けようとなさる。聴診器《ちようしんき》を当てる時など、目をつぶってしまうものだから、まるで手さぐり。ベッドの上での触診《しよくしん》ともなると、気の毒なくらいに照れてしまわれる。
私が急性胃炎か何かで診察を受けた時もそうだった。手短に症状を聞くと、センセイは「あの、すみません。横になってみて下さい」とおっしゃる。看護婦さんに連れられてべッドに横になると、センセイは周囲のカーテンをきちっと閉めて、再び、「すみません。お腹《なか》を……」。
私がジーパンのボタンを開けると、センセイはそっぽを向きつつ、小声で「あの、もう少し、シタバキを下げてくださいますか」
シタバキ! なんとなつかしい言葉! 私は言われた通り、シタバキを少し下げる。と、センセイ、おずおずと手を伸ばしつつ、おっしゃったセリフが「失礼します」。
これは私に限ったことではないのだ。近所のオバサンたちも、似たような経験をなさったという。或《あ》るオバサンなど、センセイをからかってやろうとして、触診の際、わざとセンセイの手をぎゅっと握り、乳房の下に当てがって「ここも痛いんですけど、どうしたんでしょ、センセ」と、やった。
センセイはぎょっとしたようにあわてふためき、顔を赤らめつつ急いで手を振り払《はら》ったというからもうこうなると女性|恐怖症《きようふしよう》としか言いようがない。
彼の場合、内科医で本当によかった。もし産婦人科だったら、喰《く》いっぱぐれていただろう。
だが、考えてみると、医者とは摩訶《まか》不思議な職業ではある。たとえば、まだ童貞《どうてい》のうちから女性の性器を見続けてきた産婦人科の医者もいるだろう。あるいは、恋人のオッパイも見たこともないうちから、女性患者の胸に聴診器を当て続けてきた内科の医者もいるだろう。そういう人たちは、いったい性的|幻想《げんそう》の度合いにおいて、どの程度、一般人とずれてくるのだろうか。
まあ、相手は青い顔をした病人なのだし、性的な妄想《もうそう》がおこるわけはない、と言われてしまえばそれまでなのだが、先に挙《あ》げたセンセイのような人を見ていると、お医者さんってのは相当、性の幻想が混乱しているのだなあ、と思わざるを得ない。
性の幻想は、隠《かく》されたものに向かう時が一番強くなる、と言われる。となると、医者は女の身体のどこに幻想を持つんでしょうかねえ。一度、聞いてみたいものである。
粋《いき》とは何か
たとえばの話──。
原子|爆弾《ばくだん》が落ちてくるという日に、白のタキシードを着て胸に赤いバラの花をさし、悠然《ゆうぜん》とグランドピアノに向かってモーツァルトを弾《ひ》いている男……という図を想像してみてほしい。
外では人々が逃げまどい、さながら生き地獄《じごく》といった様子なのに、男は眉《まゆ》ひとつ動かさずにピアノを弾き続けるのだ。
粋《いき》である状態を説明するとしたら、私はこれしかないと思っている。命の終わりや人生の哀《かな》しみを受け入れてなお、柔和《にゆうわ》な表情でいつもの通り$カ活できることが、即《すなわ》ち、粋《いき》なのではないか。
日本人は粋であることイコール、かっこつけ屋というように考えて「わっ。キザね」とか「気取り屋め」とか、わりと否定してかかることが多いけれど、私は粋もキザも、もう少し考え直して優雅に実践《じつせん》していくべきだと思っている。
キザ、大《おお》いに結構《けつこう》。女も二十歳《はたち》を過ぎたら立派なおとなであることを自覚して、恋にもキザを演出する心がけがほしいものだ。
恋も煮《に》つまってくると「スキ」「アイシテル」という言葉をぽんぽん発して感情を表現したくなるものだと思うけれども、「スキ」「アイシテル」を百回連発したところで、本当の気持ちは伝えようもない。
それにだいたい、いかに愛する人とはいえ、毎日毎日、「スキ」「アイシテル」の二言ばかり繰《く》り返されていたら、シラケてくるのがオチ。かといってハイネあたりの恋愛詩を朗読《ろうどく》してみせるなどというダサイ芝居をやられると、これまた、うっとうしくなってくる。
日本人はもともと、恋愛体質のお国柄《くにがら》ではないので、愛の表現が極端に下手《へた》なのだ。今でも「男が女を(その逆も可)口説き落とすためには、マメであることが一番」ということで、連日の電話|攻勢《こうせい》やプレゼント攻《ぜ》めをして相手の気をひこうとする人たちが多いのにはびっくりする。
私の知っているある女子大生は、お目当ての男のところに毎晩、電話をかけ「どう? ちゃんと栄養のあるものを食べている?」などと、おそるべきオフクロ的態度で接し続けたあげく、男が留守《るす》にしたりしているとアパートの前で夜食用に作ったタンシチューか何かをひっさげて待ち伏《ぶ》せする……という薄気味《うすきみ》の悪い攻略法《こうりやくほう》をとったため、見事にフラれてしまった。
どうしてこうも不粋《ぶすい》な迫《せま》り方をするんだろうと、あきれてしまう。
逆の立場を考えてみるといい。好きなのか、嫌《きら》いなのか、まだよくわからない状態、恋の予感はするが、この先どう気持ちが動いていくのか判断しかねる状態の時、私たち女は、相手の男にどう迫られたら弱いだろうか。
初めから土足でズカズカとこちらの生活空間に侵入してこられるより、粋《いき》に一歩|退《しりぞ》いたところで映画のような誘《さそ》い方をしてくるキザ男にマイってしまうのが常ではなかったか。
タンシチューをぶら下げて男の帰りを待つ女より、留守がちの男を二、三日|放《ほう》っておき、四日目に普段どおりの表情で接することのできる女になりたいものだ。ドロドロとした愛の感情をストレートにぶつけないということが、ひとつまた粋であることに通じるのである。
井上陽水の歌に「君に寄せる愛はジェラシー」というフレーズがあったが、恋愛にジェラシーがからんでくると、よほどの強者《つわもの》でない限り、両者の関係にある種の生臭《なまぐさ》さを生じさせてしまう。
「私のことだけ愛し続けるって言ってたくせに、あれは嘘《うそ》だったのねっ」などと、みっともなく髪をふり乱したり、恋人のあとをつけて敵≠フ女の存在を確かめたり……という、まさに無意味なことをしでかしてしまう例は多い。
でも、ジェラシーに意味などないのが現実なのであって、逆に言うと無意味で不条理《ふじようり》な感情こそがジェラシーということだろう。私も相当、ジェラシーの強い人間である。好きな男はいつも独占していたいと思っているし、独占しきれないことを知っていてなお、嫉妬《しつと》の鬼火を燃やしてしまう。
二十代だった頃《ころ》は、その感情の処理の仕方を知らずに自分を制御《せいぎよ》しきれなくなって、本当に今から思うと赤面してしまうほど恥ずかしいセリフを口にしてしまったこともあった。
「死んでやる」だの「もう別れよう」だの、心にもないことを言ってしまっては、穴《あな》があったら入りたいくらいに後悔《こうかい》し、みじめな気持ちになったものだ。
だが、年季《ねんき》が入るというのはすごいことで、三十代になるとさすがにジェラシーのコントロールが可能になってきた。
即《すなわ》ち、@言って恥ずかしくなるような言葉は死んでも吐《は》かない Aジェラシーを相手にぶつける時はできるだけ理屈っぽく説明しようと努力する Bそれが不可能な場合は、妙《みよう》な芝居をせずにストレートに「○○してほしい」と相手に要求する……等々。
面白《おもしろ》い話がある。あるフォークシンガーが若い頃、アパートに帰って同棲中《どうせいちゆう》の女が浮気《うわき》しているのを目撃《もくげき》してしまった。彼はどうしたか。
コトがすむまで、じっと隣の部屋で正座して待ち、二人がコト終えた頃、こう言ったそうだ。「あの、お茶でもいれましょうか」
あっぱれな男である。ここまで粋《いき》にふるまえる人はざらにはいない。この話の中には、私が先に挙《あ》げた「原子|爆弾《ばくだん》が落ちてくる日に白のタキシードを着てモーツァルトを弾《ひ》く男」の哀《かな》しいダンディズムがある。
粋な人間ほど、うねり狂うジェラシーや情念をもっているものだ。だからこそ粋になって自分を救うことを考えるのかもしれない。
浜口|庫之助《くらのすけ》の作詞した歌に『粋な別れ』というのがあった。十代二十代の人は記憶にないと思うけれど、この歌詞は実にいい。
生命に終わりがある
恋にも終わりがくる
秋には枯葉が小枝と別れ
夕べには太陽が空と別れる
誰も涙なんか流しはしない
泣かないで泣かないで
粋な別れをしようぜ。
誰しも別れはつらいものだ。愛し合った時間が長ければ長いほど、関《かか》わった密度が濃《こ》ければ濃いほど、別れを切り出すほうも、切り出されたほうも、等しくつらい。
だが、別れの瞬間にどんな態度をとるかで、その人の人間的成熟度がわかるものだと私は思っている。
よく「裏切ったわね」とばかりに逆上して、とても大人とは思えない幼児的な復讐劇《ふくしゆうげき》を演じてみせたり、果ては刃物《はもの》をもち出して凶暴《きようぼう》性を発揮《はつき》したりする人がいる。気持ちは十分理解できるが、「かわいそうな人だなあ」としか思えない。
ひとつの関係が終わったら、それはもう事実として受けとめるしかないのだ。つらくてくやしくて淋《さび》しくて、三日三晩、ひとりで泣き明かしたとしても、終わったものは終わったもの。刃物をふりかざし、周囲の人々を巻きこんで狂気の沙汰《さた》を演じたところで、去ったものは戻ってこないのだ。
男と女の関係はバクチのようなものである。一寸先は闇《やみ》であるにも関わらず、互いのカードにコインを賭《か》け続けていくのだ。
どちらかが先に全財産のコインを失って敗北宣言するまで、そのバクチは続く。もしかしたら同時に敗北宣言するかもしれず、また、もしかしたら永遠に両方とも賭け続けていけるかもしれない。いずれにしても先のことはわからないのだ。誰にも知ることはできないのだ。
だからこそ、予想外に早く訪れた別れには、粋《いき》な態度をとりたいではないか。つらいこと、絶望的なことをそのままむき出しに表現すると、かえって自分がみじめに思えることがある。
苦しければ苦しいほど、粋な演出を自分に課したい。
「すまない。君とは別れたいんだ」と言われて泣きじゃくり、恨《うら》みつらみを一晩中並べたてる女より、「わかったわ」とうなずいて彼との思い出に感謝し(嘘《うそ》でもいい。感謝するのだ)、冷静にサヨナラを言える女のほうが人の心に残る。泣くのはひとりになってから。相手に見せるものではない。
粋な人間というのは、つまるところ、キザで強がりでポーズ屋さんなのだ。そして私はキザで強がりのポーズ屋が大好きなのである。彼ら彼女らの徹底《てつてい》した美意識の底には、傷つきやすい豊かな感受性が見える。
粋な男と女には、自分の繊細《せんさい》さをポーズで隠《かく》し、なお美しくありたいと欲《ほつ》する愚《おろ》かな見栄《みえ》がある。でもそれでいい。その愚かな見栄がなかったら、男と女の間にエロティシズムは失われるのだ。
男のダンディズム
フランスに長く住んでいて、先頃《さきごろ》帰国した友人の話によると、
「フランスの男は四種類に分けられる」という。即《すなわ》ち、@野心家 A傍観者 B恋する男 C馬鹿《ばか》……というわけ。そこで私は言った。
「あら、日本の男には二種類しかいないじゃない」
彼は「その通り!」とテーブルをバーンとたたいて叫《さけ》んだ。彼によると、日本の男をよく知るフランス人女性も「日本の男には野心家と馬鹿しかいないみたい」と、半ばうんざり顔で言うのだそうだ。
つらつらと周囲を見渡してみても、この指摘《してき》は、相当、当たっていると言える。私たちのまわりで傍観者……つまり真の気取り屋やディレッタントは実に少ないし、まして恋する男となったらこれはもう、いたらお目にかかりたいほどだ。
仮りに「俺《おれ》は恋する男だ」と主張なさる男性がいたとしても、せいぜいがネオン街で性を商品化した商売に携《たずさ》わっている女性たちとの乱行《らんぎよう》を指して言っているにすぎなかったり、手近な女の子を口説《くど》いて温泉マークへ直行……の路線を楽しんでいるだけのことだったりする。
言いかえればわが国では、いつでもものにできる女を追うこと=恋……とカン違いしている男が圧倒《あつとう》的に多いということだ。これはとんでもない間違《まちが》いで、そんなものは恋ではなく、女に対する形を変えた野心にすぎない。
本当の恋する男というのは、いつでもものにできそうもない女に熱情を燃やす男のことをいう。ものにできそうもないから男は自分を磨《みが》き、相手の女に好かれるよう涙ぐましい努力をする。そしてさらに、涙ぐましい努力をしていることを相手に悟《さと》られたくないために、さりげないユーモアやウィット、それにセンスでもって表面を飾《かざ》りたてる。それが彼をより光らせる結果になるのである。
たとえばの話、国民総恋愛気質≠フフランスでは、概《がい》してお喋《しやべ》りの男が多い。彼らは実によく喋る。それに議論好きだ。
だが日本のお喋り男≠フように、自分の自慢話《じまんばなし》をペラペラと一晩中、女に喋って聞かせストレスを解消する、といった類いのお喋りではない。お目当ての女性を退屈させないために、彼女のお好みのジャンルの話をあらゆる角度から喋ってサービスするのだ。
これは簡単そうで実はとても大変なことだと思う。「ばかね。そんなことも知らないの」と笑われないように、彼女以上の知識とレトリックを頭の中に準備しておかねばならないのだ。彼女が推理小説の話を始めたら、すかさずローレンス・サンダースあたりを論じ、デビッド・ボウイの話を始めたら、間髪《かんはつ》入れずに『戦場のメリークリスマス』の分析《ぶんせき》をやってみせる。「今日は二日酔《ふつかよ》いで」などと言ってはいられない。そんなことをしていたら彼女をより秀《すぐ》れた男に取られてしまう。
それに会話もさることながら、デートの時に花を贈《おく》る、レストランでコートを着せかけてやるなどというごく当然のことはもちろん、ラブレターひとつにしても粋《いき》な感覚をめいっぱい表現してみせなければならない。一晩かかってしゃれた詩の一つも書けない男はダメなのである。
そうまで努力して報《むく》われなかった場合、恋する男は失った恋の悲しみをこれまた粋に演出してみせる技術も持ち合わせていなくてはならない。「どうして俺を裏切った」と彼女の住むアパートの前で大立ち回りをしてみせるなどもってのほか。パリの曇り空の下、コートの襟《えり》を立ててカフェに一人、ペルノーなんぞ飲みながら過ぎし日のことを回想して切なさをかみしめる──胸に渦《うず》巻く「てやんでえ。あのブス女」などという品のない憎悪《ぞうお》の念を殺しつつ、そんな役者を演じてこそ、彼は完璧《かんぺき》に恋する男といえるのだ。
粋であるということは生《なま》の感情を出さない≠ニいうことに尽《つ》きるかもしれない。「抱きたい」と思ってもバラの花束を贈るにとどめ、「僕を捨てないで」とすがりつきたくても一人、風に吹かれて去って行く……さあて、こんなシネマのような恋≠フできる男性と、あと何回、お目にかかれるかしら。
もてる男の条件
あの三浦和義サンにしたってそうなのだけれど、世間にはもてる男≠ニいうのがいる。この場合のもてる≠ニは、単にバレンタインデーにチョコレートを五個もらった……という類いの、サラリーマン向け漫画《まんが》風もて方とはちょいとワケが違う。
誘《さそ》えば女の子がついてくる……なんてのも、まだまだ序《じよ》の口《くち》。
「オレはかつて女にフラれたことがない。こっちがふっても、女がついて来るくらいだった」……なんて豪語《ごうご》したってダメ。
本当にもてる£jというのは、そんな通俗的な次元《じげん》では計り知れない不思議な電波をからだ中から発散しているのだ。だから、努力せずとももてる。すごいのである。
よく、「あんなにしっかりした女性が、どうしてまた、あんないい加減《かげん》な男に惚《ほ》れこんで苦労してるんだろう」と不思議がられつつ、それでも「私はあなたに決めました」ふうに尻軽《しりがる》ケイハクふわふわ男≠ノ尽《つ》くしきっているタイプの女性を見かける。
ひどいものになると、尽くして嫌《きら》われてたたき出されても、なお、その足にしがみついて「私を捨てないで。いくらあんたに女がいてもいい。とにかく私を捨てないで」などと泣きつく女性もいる。
さらに極端なケースでは、モテモテ男にうるさがられて、殺されてしまった女性だっているのだ。
そうした女たちは、たいてい根がまじめで正直、かつ、案外、育ちのいいお嬢さんだったりする。彼女たちに男を見る目がなかったとは思わない。むしろ、男を見る目があってなお、モテモテ男≠ノぞっこん惚れこみ、捨て身になってしまったと言っていい。
女の人生をここまで狂わせる男。計算や打算が通用しない男。なのに何故《なぜ》かグイグイと女を魅《ひ》きつけていく男。「あなたのためなら死んでもいい」と女に言わせる男。普遍化《ふへんか》は不可能だろうけれど、私はこのタイプのいわゆるもてる男≠フ条件とは何か……を考えてみた。
具体的に周囲にモデルにできそうな男はいないのでリアリティに欠けるが、箇条書《かじようが》きに並べてみると次の通りと相成《あいな》った。
@美男もしくは個性的な顔立ちをもち、かつ長身であること。A学歴はなくてもよい。知的センスを感じさせること。B女出入りが激しいわりには、どこか孤独な荒野の狼《おおかみ》を連想させること。Cストイックな本質をもっていること(つまり、ギンギンギラギラの欲望の鬼ではないということ)。D金がないこと。
@からCまでは、よく言われることだし、説明を加える必要はないと思う。問題はDだ。
金がない=c…これこそもてる男≠フ条件として欠かせぬものだと私は考えている。金のある男ほどもてる……というのは俗っぽい発想。女を狂わせる男に金があってはならない。
何故《なぜ》か。金がある男は、人生上のトラブルすべて(男女問題を含めて)を金で解決しようとする。反対に金のない男は、金の力ではない、自分の中の魔力を利用しながら生きのびようとする。そこにこそ、女を狂わせるほどのもて方をする要素が誕生するのである。
ほら、ちょっと周囲を見渡してごらんなさい。「美男で金のない男」って、けっこうもてているとは思いませんか。でも「それならこのオレだって」とおっしゃるなかれ。本当にもてる男≠ニいうのは、もてている≠ニいう自覚も願望もなければ、またもてる≠スめの計算や分析《ぶんせき》も一切《いつさい》、しないものなのです。
こういう手ごわい男に、一度でいいからお目にかかってみたいと思うのは、無鉄砲《むてつぽう》にすぎるのでしょうか。
わたし胸さわぎの一瞬
女はたいてい決して嫌《きら》いではない男友達≠フひとりやふたりはもっている。嫌いではないのだから、当然、好き≠フ部類に入れていい。好き≠セから、会って楽しい。腹をわった話ができるから、会話もはずむ。酒もおいしい。
そして、こいつもそれなりにかけがえのない存在だな、と痛感しながら夜の交差点で互いに別方向のタクシーを拾って帰る。間違《まちが》っても「ねえ、うちに寄ってかない?」などとは誘《さそ》いかけない。また相手から誘われたくもない。「また電話するよ」とか何とか言い合って、学生時代のように軽く手を振って別れる。要するに、同性の友達ふうの感覚《かんかく》をもって接するのである。ところが、しばしばここで問題がもちあがるのだ。決して嫌いではない男友達≠ェ、こちらに対して同次元の感情を抱いてくれないことがままあるのである。こちらがオトモダチ∴ネ上の感情を持ち合わせていない時に、テキにオトモダチ以上≠フ感情を持たれてしまうほど不快なことはない。
こちらとしては(注・この場合「こちら」というのは私を含めて私と同じ悩みをもったことのある女一般を指す)、たまに会って近況報告をし合いながら食事を共にし、食後酒の一〜二杯をつき合って仕事の話や、現在つき合っている恋人の話、果ては本や映画の話まで、テーマを無限に拡大しながら会話を楽しみたいと思っているのに、テキは違うのだ。
いつ、こちらがワイングラスなんぞ傾けてポッと顔を赤らめながら「今夜あなたと会うことを楽しみにしすぎて、ゆうべ眠れなかったほどよ」てなことを言い出すかと、ロコツにドキドキしながら待っていたりする。図々《ずうずう》しいものになると、自分のほうからこれまたロコツに口説《くど》きにかかり、こちらが本の話をしている時に「そんな話、いいじゃないか」などと肩に手をまわし、ねっとりとした目で見つめたりしてくる。
私は上質の男友達に恵まれているほうだと思っているけれど、それでも何度かこの種の辛酸《しんさん》(?)をなめてきた。同種の不快体験をしたという女はとても多い。
女は、女同士の関係の中では決して満たされない何かをもつことがある。それが何であるかは人それぞれ違うが、極端に言うとA子とは恋愛の話はできるが本の話はできない。B子とは仕事の話はできるが人生を語り合うことはできない……といったような、何か一面が欠落した関係になってしまうケースが多い。
一方、面白《おもしろ》いことに男の場合は少々《しようしよう》違うようだ。男は男同士で観念的な話から生活レベルの話まで、トータルに会話ができる相手を友人にもつ。男だけで生を送ってもけっこう楽しめるのだ。そこに欠落するのはセクシャルな関係だけ。だから真性ホモ以外は、彼らは性的な関わりだけでも女と接していける。女と拡《ひろ》がりのある会話を交《か》わせなくてもいいわけだ。セックスがあれば充分。精神面の満足は男同士で……という寸法なのである。
でも女はそうではない。女同士の関係の欠落したものを補おうとして、それを男友達に求める。「ね、聞いて。私こう考えるのよ」てな話をしたいのである。その真摯《しんし》な欲求を愛だの恋だのという次元にもっていかれると、とたんにイイ男も色あせてくる。
この淋《さび》しさ、男にはわかんないだろうな。
角川文庫『二人で夜どおしおしゃべり』昭和62年1月25日初版発行