TITLE : 翔べ! はぐれ鳥
講談社電子文庫
翔べ! はぐれ鳥
――立ち直った崩壊家庭の子供たち――
小林 道雄 著
目 次
第一章 崖っぷちの家
第二章 拒否の暗部
第三章 羽化の土壌
第四章 反抗の震源
第五章 蹉跌《さてつ》の因子
第六章 糸をつなぐ人々
文庫版あとがき
解 説
翔べ! はぐれ鳥
第一章 崖っぷちの家
電車に乗って、二人以上の中年女性が話し合っているのを目にしたら、私はできるだけその場から離れるようにしている。が、あいにく、その日の小田急線の急行は混んでいた。次の停車駅までの被害を覚悟しながら、私は四十代とおぼしき四人づれに背を向けた。
案の定、彼女たちのおしゃべりは跡切《とぎ》れることがなかった。しばらくは、それぞれが経験している旅の話が、競《きそ》い合うように語られていたが、どこでどう変わったのか、話題はいつか子どものことになっていた。
「学校から帰って来たら、自分の部屋に入りっきり。その部屋の汚ないことといったら、すごいのよ。家の中にあんな部屋があるなんて、私は我慢ならないんだけど、掃除しなさいって言っても聞かないし、入れば怒るし、どうしようもないの。昔はよく口答えしたけれど、近ごろはしなくなってね、私が何を言っても『いいから、いいから』よ。お夕食の時話しかけても、それこそ『うん』とか『すん』程度。勉強もちゃんとやってるし、成績も良くなってるから、別に言うことないんだけれど、みんなあんなものかしら。だから、息子って言うより同居人みたいな感じよ。最近は……」
「うちの子なんか『うるせえな』よ。でも、奥さんとこはいいわよ。いい学校に入っているんだから。うちのなんか学校のランクが低いんだがら、よっぽど頑張ってもらわなくちゃ。私なんか、スンナリ行ってくれるなら、何でも我慢しちゃうって心境よ」
「でも、あんまりぜいたく言えないと思うわ、ご近所に、中三になってから問題児になったお子さんがいてね……」
「どんなご家庭?」
「一流じゃないようだけど、ご主人は商社員で、ご夫婦はちゃんとしているのよ。そういうことじゃなくて、二年生のころから落ちこぼれになったようなのね。それで悪いほうへ行っちゃったみたい」
「でもね、落ちこぼれにするっていうのは、家庭の問題だと思うわ。ちゃんと塾にやっていたのかしら。授業について行けなくなった子っていうのは、学校じゃどうしようもないでしょう。先生にはどんどんレベル上げてもらわなくちゃ、ほかの学校と太刀打ちできなくなるんだから。低いほうに足並み揃えられたら、困る家庭のほうが多いのよ」
私は、思わずその声の主のほうを振り向いていた。むろん気分のいい話ではなかったが、私の目に、格別咎《とが》めるような色はなかったと思う。それも一つの現実であることは承知しているからだ。
しかし、頬骨の高い顔に派手な枠の眼鏡をかけた当人が、その眼鏡越しに私を見上げた目は、何が悪いと言わんばかりに尖っていた。続いて、「どうしたの」「何よ!」という言葉を首の後ろで聞いた。おそらく四人の目は、集中砲火のように私の背に注《そそ》がれていたに違いなかった。
何やらうそ寒い気分だった。が、たしかに振り向いて見るということは、咎め立てる行為と映《うつ》るだろう。あんな女たちの言葉に、なぜそんな反応をしたのか。それは自分でも不思議だった。やはり、それだけ子どもたちの問題にとらわれているということだろうか。
次の停車駅で、私は車輛を移った。そして、ぼんやりと車内の広告を眺めながら、ふと、瑠美《るみ》や拓也《たくや》にまた会いたいとおもった。
多分それは、あの主婦たちの社会に対する無意識の反動だったに違いない。瑠美も拓也も、かつては落ちこぼれの問題児であり、彼らがいた“憩《いこ》いの家”を書くための、私の取材相手だったのである。
その取材で、別れた母親への気持ちを聞かれた十五歳の瑠美は、「マジなこと言わせないでよ」と目を真赤にし、十八歳の拓也は、荒れた生活の中での唯一の光明だった女友だちについて、吃《ども》りを一層ひどくして語りながら、はにかんだものだった。
甦《よみがえ》ってくるその表情は、何とも言えず美しく思えた。実を言えば私は、この時まで、彼らをこれほどいとおしく感じたことはなかった。そして、なぜか弾みがつかなかった憩いの家を書くことに、やっとひとつバネを得たような気がした。
財団法人・青少年と共に歩む会・憩いの家は、行政の側からは「自立援助ホーム」と位置づけられているが、この名称は機能の一部しか示していない。
すでに二十年近く果たしてきたその役割は、きわめてユニークな民間の養護施設であり、単なる援助などというものではないのである。
この家に入ってくる子どもたちは、一言で言えば「崩壊家庭の子どもたちと、家庭を拒否している子どもたち」と言っていい。
ほとんどは片親だが、この子たちにも家族はある。しかしその家庭は、我が子を乳児院や養護施設に預けざるを得なかった、あるいは我が子から見捨てられざるを得なかった、貧困、不和、蒸発、病苦、アル中……といった状態から立ち直っていない。
それだけに、憩いの家に来る子どもには、登校拒否、非行、家出という前歴を、なお引きずっている場合が多い。瑠美は、家出、窃盗《せつとう》、シンナーを吸うなどで補導されており、拓也は登校拒否と家庭内暴力の前歴を持っている。
しかし、そうしたことは表面にあらわれた現象にすぎない。より大きな問題は、そういう結果を生み出すベースとして、ほとんどの子が社会に対する適応性を欠いているところにある。
まともな家庭がないということの影響は、普通の家庭に育った人間の想像力ではカバーしきれないものがある。
たとえば、計画的に金が使えない、異性との付き合いに惨めな結果を招きやすいといったことが、みなここに関わってくるのだ。また、他人《ひ と》への思いやりというのは、そういう感情を抱かせる機会と教育がなくては育《はぐく》まれないようなのである。
事実、憩いの家に来る子どもには、人間として本来与えられていなくてはならないはずのものが欠落している場合が多く、彼らが起こす問題も、彼ら自身の苦しみも、みなそこに起因しているという。
しかし、そういう子どもたちであっても、中学卒業という年限を迎えた時には(高校に進学しないかぎり)、一人で生きていくことが求められる。
頼りになる保護者もいない彼らに、それが可能かどうかは誰の目にも明らかだろう。はっきり言って、求めるほうが間違っているのである。ではあるが、彼らは自立しなければならない。
つまり、憩いの家とは、その羽根にまだ飛ぶ力もない雛鳥《ひなどり》たちのための、荒海に浮かぶ止まり木のような役割を果たしていると言っていい。そして、誰からも絶望視されていたような彼らが、十分な自立はともかく、自分の羽根で翔《と》び立って行っているのである。
いったい、どうしてそこまで立ち直らせることができるのか。何とかしてそれを明かしたいというのが、私の目的だった。
私と憩いの家との関わりは、ある雑誌記事のためにインタビューした元朝日新聞社社長広岡知男《ともお》氏から、「倅《せがれ》が、こんなことをやっていてね」と聞かされたことから始まる。
印象に残っているのは、その折広岡氏が、不幸な子どもたちについて語りながら、時として目を潤《うる》ますことがあったことだった。非常に剛直なところがある人物だけに、その涙は私を驚かせた。
同時にその話は、ひどく私の興味をひいた。社会的な意義はもちろんだが、それ以上に私は、徒手空拳《としゆくうけん》のまま憩いの家を創《つく》り、たいへんな苦労をしつつも、愚直に信じるところを貫《つらぬ》いている人々に、大きな関心を抱いた。「いつか書かせていただきたい」。畑違いは意識しながら、私はそう言った。
おそらくその思いは、ともに取材に当たってくれていたG誌編集部のM氏も同じだったのだろう。それから数ヵ月後、私はM氏から憩いの家について書くよう依頼された。
自分から書きたいと言っておきながら、私の引き受けかたは、いささか歯切れが悪かった。いざとなると、怯《ひる》むところがあったのである。
憩いの家を書くということは、当然、そこの子どもたちを書くということになる。しかし、私には子どもがおらず、子育ての苦労も知らなければ、親なら身につけているはずの、子どもと付き合うノウハウも持っていない。その意味で、資格を欠いているのである。
私に子どもがないのは、単に恵まれなかったということではなかった。
おっちょこちょいと言うのが最も妥当だろうが、安保だの沖縄問題だの学園紛争だのという、いわば催涙ガスの臭うところを仕事の場とすることが多かった私は、結婚して子どもをつくるというようなことを、自分とは関わりのないことと思いなしてきた。
仲間にはベトナムの空で死んだ奴もおり、それでよかったのだと追認したこともある。が、そこには、太宰治ではないが、「家庭は諸悪の根源」と考えるところもあったように思う。つまり、“家庭”とは最も遠い人間だったのである。
その後、長い間付き合ってきた相手と結婚はしたが、その時私はすでに「子どもが成人式を迎えた時、親父が六十を過ぎていたのでは子どもに申しわけがない」と考える齢になっていた。
正直なところ、子どもが好きか嫌いかと問われても、私は返辞ができない。泥だらけになって遊んでいる腕白坊主の姿を、可愛いいと思って見ることはよくあるが、それは“好き”ということとは別だろう。
ともかく、自分の子どもと他人の子どもでは、扱いは違うはずである。そして人は、自分の子を育てることによって、子ども一般を知るのではないか。
正しいかどうかわからないが、自分の子どもを持たない人間というのは、子どもとのさり気ない付き合いは難《むずか》しいように思われる。しかも相手にするのは、過去に不幸な傷を負っている子どもたちである。
これまで対象としてきた世界とは、何とも勝手が違っていた。だいたい、書くということよりも、子どもたちを傷つけないことのほうが優先する仕事なのである。
その意味で、どんな取材よりも気が重く、その最初から、私は後悔に似た気分につきまとわれていた。が、ともあれ、昭和五十九年十一月末、取材は始まった。
憩いの家は、東京都世田谷区内の、経堂《きようどう》、三宿《みしゆく》、祖師谷《そしがや》の三ヵ所にある。祖師谷は就学児童だけが入っているが、あとの二つは就職している子どもが多い。
その中心となる経堂憩いの家は、小田急線の経堂駅から歩いて十分ほど入った、閑静な住宅街にあった。地価としてはかなり高額のはずである。まず浮かんだ疑問は、なぜこんな場所にあるのかということだった。
もっともその建物は、周囲の家とはだいぶ見劣りがした。居住スペースを優先させた、門もない野暮な感じのモルタル二階建てで、広岡知彦《ともひこ》と表札が掛かった玄関は、アルミ・サッシの引戸だった。
施設とうかがわせるものは、どこにもない。あくまで、あまり豊かでない家の一軒といったところである。予備知識からすれば、この家から、毎朝六人の子どもが、学校へ職場へと出かけて行く。事情を知らない人が、子だくさんゆえの貧しさと見たとしても、おかしくはない。
後に案内された家の中は、一階は広いダイニングキッチンになっており、奥にはピアノなどもあったが、その横に置かれたソファーの肘掛けは、無惨にもボロボロになっていた。おそらく、何代にもわたる強者《つわもの》どものしわざであろう。
子どもたちの部屋は主として二階にあり、廊下をはさんでドアのついた五畳半の部屋が並んでいた。部屋数こそ多いが、どこにでもある家庭としてのたたずまいと言える。
訪れて、まず通された部屋は、事務局とおぼしき何とも雑然たる八畳間だった。格別、こうであろうというイメージがあったわけではないが、この家のありようは意外だった。
が、さらに意外だったのは、当時はまだ東京大学理学部助手を本業としていた、リーダーである広岡知彦という人物だった。
経歴ややっていることが、これほど臭わない人というのは稀《まれ》だろう。四十三歳という年齢にしては白いものが目立つ油気のない髪、無頓着な服装、柔和な表情、まったくてらいのない淡々とした言葉。人間として“本物”であることは、一目で知れた。
それは、集まってくれたスタッフ、三好洋子、武田陽一、佐野隆、山下正範という人たちも同じだった。取材を意識するようなところはまるでなく、あくまでも当たり前のことを当たり前にやっているという口調なのである。
しかし、この人たちの、不幸な子どもに対する弁護人としての言葉には、生半可《なまはんか》な理解では追いつけない差があった。
崩壊家庭の子どもの多くは、物心つくかつかないうちから乳児院や養護施設に預けられ、まったく家庭生活を知らずに育ってきている。それが、どれほど人間としてのものを欠落させているか。
その話に、まず出されたのは、“女子大生暴行殺人事件”で、当時裁判の過程にあったN少年のケースだった。
昭和五十八年四月、東京・豊島区で、アパート住まいの女子大生が、部屋で眠っているところを襲われ、絞殺されるという事件があった。そして、十九歳のペンキ職見習Nが逮捕された。結果としては強姦のための殺人である。
しかも彼は、逮捕されるまで九件におよぶ婦女暴行未遂をくり返しており、殺人を犯してしまってからも、なお三人の若い女性を襲っていた。Nはそれ以前、住居侵入未遂で少年院に送られているが、犯行はその前からのものだったのである。
その裁判の審理で、Nは「失神させて暴行しようとしただけで、殺すつもりはなかった」と殺意は否認した。だがNには、失神させるために首を絞めることが殺すことにもなるという認識が明確ではなかった。
昭和五十九年三月の一審判決は、無期懲役。裁判長はこの少年を、「殺人を犯したあと、さらに三件も犯行を続けるなど、規範意識の鈍磨が著《いちじる》しく、少年院に収容されても何ら反省せず、その矯正《きようせい》にはきわめて大きな困難が伴う」と判断するほど、異常と見たわけである。
しかし、憩いの家のスタッフに、N自身を異常と見る者は誰もいなかった。「正常な子どもも、異常な環境で育てば異常になる」という意味で、正常、異常という言葉自体を好まないのである。
異常と言うなら、何よりもこのNの生い立ちは異常であった。生まれた場所は、母親が売春で服役中の刑務所。生後四ヵ月で乳児院に預けられ、母親の顔も知らぬまま、三歳から十五歳まで養護施設で育てられている。
しかも、私立の養護施設「K学園」での十二年間は、部屋長(部屋の責任者である最年長児童)や上級生からの、想像を絶するリンチを受け続けてきているのである。無惨にも、それは三歳児から始まる。自身、保母実習生として、その現場を垣間見《かいまみ》てきた三好洋子は、こう語った。
「子どもは、乳児院では保母さんにベッタリ甘えています。だから養護施設に移っても、同じように甘えようとします。そんな子を、小学校五、六年の子が『おい!』と呼びに来るんです。で、どこにつれて行くかと思うと、中学生が五、六人ぞろっと待っている建物の裏へ引っぱって行って、『てめえ、保母さんに甘えたろ』なんて言いながら、殴ったり蹴ったりするんです。でも、三つの子に中学生の言うことなんかわからない。そこでやはり、保母さんを見ると『先生』と甘える。そうするとまた殴られる。そういうことを一週間もやられると、保母さんを見ると逃げるようになります。一番甘えたい、また甘えなくてはいけない時期に、それがタブーになるんですから、歪《ゆが》んでくるのは当然です」
齢をとるにつれて、受ける暴力は激しくなる。殴る蹴るなどという程度のものではない。たとえば“落下傘《らつかさん》”というリンチがある。これは、畳の上にあお向きに寝かせた下級生の腹の上に、押し入れの上段から上級生が飛び降りるというものだ。泡を吹いて気絶するのはよくあることで、へたをすれば死につながる。
リンチされる理由は、必ずしもあるわけではない。部屋長の虫の居どころが悪かっただけで、バットで殴られたりもする。そこで災難を避けるため、子どもたちはなるべく上の者と目を合わさないようにし、合ってしまった時には、ニヤニヤと不得要領な表情をつくる。そんなふうに、日々怯《おび》えながら生きてきたのである。広岡知彦は言う。
「そういう環境では、子どもがまともであればあるほど、思考停止しなければやっていけないところがあるんです。ですから、正常な人間関係の結びかたができないというのは、当然のなりゆきです。問題は、そういう子どもたちをつくりあげていった体制が厳然としてあり、行政はその事実を知りながら何もしなかったということです」
子どもは母親に甘え、それに応《こた》えてもらえることによって安心し、自信の領域を広げる。また、そうした親の目差《まなざ》しや語りかけによって、人間としての情緒は育てられていく。
心理学者がいう母子依存だが、その体験がなくては自立できないというのは、事実として確かなようだ。そして四、五歳からは、最初の反抗をくり返しながら、家庭を中心とする地域の中で社会性を身につけ始め、人間としての感情を備えていく。
私は、心理学、とりわけ精神分析というのを、あまり好まないところがある。人間というわけのわからない生き物を、そんなふうに“解釈”し納得してしまっていいかという思いがあるからだ。
たとえば、自殺した子どもが描いた絵をとらえて、ここに自殺のサインがあるというような言いかたがされたりするが、それはどこまで確かなものか。
もし、そういった解釈が社会的に力をもったとしたら、その因果関係は、弁護にも援用されるだろうが論告の材料にもなるだろう。
いずれにせよ、私のような人間が、その類《たぐい》の本を一冊ぐらい読んでわかったような気になったとしたら、これほど滑稽かつ危険なことはない。
ただ、人間が教育と学習によってはじめて人間になれるということは、事実が教える常識と言っていいだろう。その昔に読んだ、『脳の話』(時実利彦著・岩波新書)を持ち出すまでもなく、子どもの脳の発達に、親や社会はいかに大切かということだ。
しかし、Nたちに与えられていたのは、園長代理の暴力的な管理だけだった。不安感が強く、考えを筋道立てて話すことができず、人間関係がつくれず、欲望を衝動的に行動化するといった“精神的未熟児”がつくられていっても不思議はない。
一審判決のあと、N側は控訴した。争点は殺意だが、そこにNの弁護士が問うたものは、失神させなければ女性に触れることもできない少年をつくってしまった国や社会の責任と言っていい。
しかし、私が取材を始めたちょうど半月後、その控訴はにべもなく棄却された。多くの支援者の願いも空しく、結局Nは、この社会から本当の教育を受けることなく終わるわけである。
なお、この事件が投げかけた問題は、共同通信社取材班による労作『荒廃のカルテ』(横川和夫編著、共同通信社刊)に詳しい。
Nの起こした事件は、児童福祉の社会に、きわめて極端なかたちで突きつけられた刃と言える。だが、広岡知彦や三好洋子が、この法廷に何度も通ったのは、Nとまったく同じ生活をしてきた子どもが、憩いの家にいたことにもよる。
浩一は、これも乳児院からK学園へと進み、Nと同級だった。彼もまた部屋長や上級生からすさまじいリンチを受け、バットで殴られ右腕を骨折している。
昭和五十五年、中学卒業とともにK学園を出て就職。大工見習として住込みで働くが、のみこみが悪い、使いものにならないと半年で追い出された。職業安定所は、その雇用主の報告から、彼を鑑定するために身体障害者センターに送り、そこで精神薄弱と判定する。
もっとも、彼にとってはそれが幸運だった。センターの紹介で、憩いの家に来られたからである。
広岡知彦は、最初の印象として、手がかからない子どもだな、と思ったという。
「まったく話をしないんです。何か聞かれれば、小声でボソッと答えるだけで、ただニヤニヤしている。けれども、すぐにこれは精神薄弱児なんかじゃないとわかりました。テレビを見ていて反応するところが、僕らとまったく同じでしたからね」
そうした判断によって、浩一は、三宿の家から製本会社に勤めることになった。センターの職員は、「精神薄弱児なんだから、センターとの話し合いの上で決めてくれ」と異を唱えたが、精神薄弱児ではないと見抜いた三好洋子は動じなかった。子どものためには一切妥協せず、ヤクザとでもやり合う寮母なのである。
こうした子どもたちの問題で、私がどうにもひっかかるのは、精神薄弱児という判定である。
いつの時点での、どんな心理状態下で計られたかわからないIQ(知能指数)の数値でも、いったん精神薄弱児とされれば、そのレッテルは子どもたちの進路に重大な影響を及ぼすのである。が、そんな疑問に、広岡知彦は目で笑いながら言った。
「あとになって彼に聞きましたらね、あの時はサボッていたと言うんです。というより拒否の姿勢ですね。おとなが、また勝手に鑑定をやっている。そんなことにまともに付き合えるか、というわけです」
そんな結果の数値を、センターの職員は、何より価値ある物指しのように振り回していたわけだ。何とも滑稽な話である。
約三ヵ月間、浩一は、ろくに話もしない状態を続けた。それは、ちょっとした反応でも、見咎められて殴られるK学園で身につけた防御の姿勢でもあろうが、信用のおけたためしのないおとなを確かめていた期間とも言える。
そしてある日、テレビドラマの『金八先生』をきっかけに、三好洋子に心を開くようになる。それは、言っていることがよく似ているということからだった。
「三好さんという人は、三ヵ月だんまりを続けている子もじっと見守っていける人で、子どもと一緒に泣ける人なんです。そういう面で、僕よりはるかに力のある人ですよ」
そう言う広岡知彦を含めて、ここに憩いの家の真髄がある。
ところが、いったん心を開いた浩一の以後の日常は、ベタベタの甘えと、生地むき出しのワルの発揮となった。自転車やオートバイのかっぱらい、無免許運転、カツアゲ、等々。こうして、三好洋子の新たな苦闘が始まった。
そんなある日のことだった。帰って来た浩一が、いかにも面白かったという表情で、こう言った。
「今朝駅前でよ、寝っ転がっていた浮浪者がいたんで蹴っとばしたらよ、ピクンと動きやがんの、面白かったぜ」
「ちょっと来い」
三好洋子は、夕食の仕度《したく》を放り出して、浩一を部屋につれていった。
「お前がやったこと、どういうことかわかってるのか」
「どうって……」
「何で蹴とばした」
「…………」
「ピクンと動いた時、どう思った」
「…………」
返事がなければ無言のまま待った。その場から逃げるための借りものの言葉を言っても許さなかった。自分を振り返って、考えてしゃべる、浩一には最も苦手な作業だった。やっと答えると、また質問がとぶ。
「どうして、構わないんだ」
「…………」
長い沈黙、短い返事。膝づめのまま、ついに夜が白んだ。こうして、生まれて初めて浩一は“他人《ひ と》の痛み”を自分のこととして考える経験を持った。三好洋子は、振り返って言う。
「蹴とばしたら面白かったということを、本当に楽しそうに話したんです。まずいことをやったんじゃないかというところが全然ない。それで、これは怖《こわ》い、このままじゃいけないと思ったんです。でも、自分のやったことをどう考えていいかわからないんですよ。考える道筋が立たないんですから。だから、誰かと言葉を交わすことによって、自分の吐いた言葉によって自分を考えるという作業をする必要があるんです。でも、こんなことは家庭があれば自然にわかることなんですよ。家族の誰かがつらい目にあわされれば、自分もつらくなる。猛烈に腹が立つ。だからやってはいけないとなります。けれど、そんな当たり前な経験がスッポリないわけです。N君の場合にしてもそうでしょう。反省がないというけれど、反省が出てくるベースがないんですから」
Nは人を殺してしまったが、その立っていたところは浩一も似たようなものだった。そうなるかならないかは「たまたま」でしかなかったとも言える。ともかく浩一は、その瀬戸際で、人間が人間であるところのものを身につけ直した。
とは言え、それを転機として浩一の素行が良くなったわけではない。施設育ちの子どもには、他人の物と自分の物を峻別《しゆんべつ》する感覚に欠けるところがあり、欲しいとなれば自分のものにして、罪の意識も薄いのである。
浩一のその面でのクセの悪さはいっこうに直らず、それを直すべく、三好洋子は涙ながらに彼を少年院に送った。
しかしそれ以前、横浜で中学生が浮浪者を襲って殺すという事件があった時、浩一は「おれ、三好さんに怒られてなかったら、同じことやったかもしれないな」と言っている。
このところ、中学生の世界では、いじめを理由として、何人もの子どもが自らの命を絶っている。ここで、教師たちが一様に戸惑っているのは、“ふざけ”と“いじめ”の区別がつきにくいということだ。
あたり前の話である。“他人《ひ と》の痛み”を感じることができない子どもに、それを分ける基準はない。しかも放っておけば、他人《ひ と》の痛みを快楽にしてしまうのが、子どもという生きものなのである。
いじめる側の子どもを育てた親に、どこまで三好洋子のような「これは怖い」という意識があったか、夜を徹して悟らせるような努力がどこまでなされたかということだ。
「蹴とばしたらピクンと動いて面白かった」という子どもに、「あら、そうお」と言う親はいないだろうが、教育的なタテマエとして「そんなことをしてはいけない」と言ったところで似たようなものである。
「家庭があれば、そんなことは自然にわかることです」と三好洋子は言ったが、残念ながらそれは違うかもしれない。度を超したいじめをやっている子どもの家の多くは、外からはまともに見える家庭なのである。
結果からすれば、かたちはあるが精神的には空洞化した家庭ということになる。こうなれば、わがままが許容されるというだけで、施設とそう変わるところはない。
最も怖《おそろ》しいのは、他人《ひ と》の痛みを感じることもできない親が、あたり前の顔をして生きている状況になっているのではないかということだ。
子ども自身のために、泣いて我が子を少年院に送るという親は、もはや望むべくもないということか。
実を言えば、以上の話は、憩いの家がどうしてこういう場所に、こういうかたちで存在しなければならないかという背景説明にもなっている。
養護施設とは、児童福祉法四十一条によって、原則として三歳から十八歳までの『保護者のない児童、虐待されている児童その他環境上養護を必要とする児童を入所させて、これを養護することを目的とする施設』をいう。
現在、その数は全国に約五百三十箇所、約三万人の児童が養護を受けている。平均収容人員は約四十名だが、中には定員百五十八名(東京都石神井学園)といった大規模なところもある。いわば集団養護である。
かつては孤児院と呼ばれた養護施設が、このような規模・形態になったそもそもは、戦後の浮浪児対策による。当時はそうするよりなく、またそれでもよかった。
昭和四十二年に発足した憩いの家も、当初の子どもたちは、戦後の混乱によって両親が生きているかどうかさえわからない子どもたちだった。しかし、広岡知彦によれば、彼らは実にしっかりしていたという。
「あのころの子どもは、それまで生きてきた時代に教育されて、善悪はともかく精神的には強いものがあり力がありました。だから当時の施設では、一人で十何人という子どもをみることができたんです。その経験が、いまだに尾を引いているわけですよ。ところが、十年ぐらい前から、子どもの質はがらっと変わりました。今は、親のない子はまずいません。その代り、豊かな社会の毒と崩壊した家庭によって、精神的な面がひどく歪んで脆《もろ》くなっています。施設が、その変化に対応していないから問題が起こってくるんです」
事実、現在の養護施設には、孤児はほとんどいない。百五十八名の児童を収容している東京都石神井学園の場合でも、昭和五十九年度には孤児は一人もおらず、十一人の棄子・置去子を含めてすべては崩壊家庭の子どもと言っていいのである。
ちなみに、東京都が都立の施設に入っている子どもの入園理由を調べた結果は、次のような比率になっている。
父または母の家出 25・8%
家庭環境の悪さ  23・0%
父または母の入院 15・2%
両親の離婚    10・5%
親の虐待     1・5%
なお、家庭環境の悪さを理由にしている子どものほとんどは、非行や登校拒否でピックアップされており、そうなる背景として、片親、貧困(サラ金)、父親のアル中、泥沼型の家庭不和といった環境の悪さが指摘され、措置を受けるにいたっている。
こうした家庭は、とかく特殊と思われ、他人事《ひとごと》のように見なされるが、はたしてそう言えるかどうか。なぜなら、一見まともに見える、いわば精神的崩壊家庭のほうが、はるかに多く非行や登校拒否の子どもを出しており、この場合には、子どもたちを施設に引き離すという措置はとられないからである。
施設の対応に、話を戻そう。
子どもが人間として育つために、最も必要なのが親の愛情であることは医学が明らかにしているが、子どもたちは相手が親でなくても愛情を求める。年齢が下がれば下がるほど、子どもたちにとっては保母さんが問題なのである。
しかし、東京都福祉局児童部に取材したデータによれば、現在の子どもと保母の比率は、全国平均で六対一、東京でも五対一でしかない。
ただし、これは頭割りの数であって、労働基準法の八時間労働を守らなければならない現在では、二十四時間を三交代でみることになる。つまり東京の場合には、担当の八時間を一人で十五人、全国平均では十八人の子どもを見なければならないということだ。
「十五人、あるいは十八人の子どもを、一人の保母がみるということはたいへんなことで、家庭でのような母子的な関係を保つことは難しいと言わざるを得ません。ですから、“家庭”であるよりは、やはり“集団生活”で、そのことが子どもたちに与える影響は、真剣に検討していかなければいけないと思います」(小谷弘夫係長)
子どもは保母さんに依存したい。しかし、朝起こしてくれる保母さんと、夜寝かしつけてくれる保母さんは違うのである。依存を求めているだけに、精神的な安定は損われる。
そして、どの保母さんが自分の面倒をみてくれる保母さんかわからないという状態は、結局自分のことは誰も真剣に考えてくれないという諦《あきら》めにつながっていく。
このような形態では、保母個人がいかに努力しても、“みるほうの集団”と“みられるほうの集団”のぶつかり合いになり、人間関係は薄くなる。皮肉にも子どもたちは、求めて充たされぬ愛情飢餓の中で、逆に人間不信を強めていくのだ。
たとえば、ある子どもが何かルール違反をしたとする。その時点で、彼は担当の保母からがっちり怒られるが、それは日誌に書かれて次の保母に引き継がれ、また一からお小言を食う。そして、ことの内容によっては、三人目の保母からも説教される。
当然、子どもはシラケて、どうにでもしろという気持ちになる。そうした日常の中で、やがて子どもは、相手の性格によって言葉を使い分けるようになる。施設出の子どもは変に人を使い分けるところがあると言われるのは、そうした集団養護の結果と言っていい。
先のNの悲劇は、性が引き金になってはいるが、本質的には人とまともに付き合うことができなかったところにある。彼にかぎらず、家庭のない子には、対人関係に自信がない、人間関係が結べないという特徴がある。
ではなぜそうなるのか。人間関係を結ぼうとする意欲や能力は、愛された経験、一対一の信頼関係を持った自信が土台になければ育まれないということなのである。
どんなに躾《しつけ》のやかましい家でも、家庭生活の日常には柔軟性がある。一日一日は決して同じではなく、子どもにも自分の裁量で処理できる自由がある。
だが、四十人、五十人という集団生活になれば、何ごともいっせいにやるという規律がなければ収拾はつかなくなる。そこで、教育的見地という側面も加味されて、さまざまな約束ごとや罰則がつくられ、管理化がはかられる。
しかもそれは、子どもたちの自治というかたちでも下におろされ、相互監視的な傾きも持つ。昨今の学校教育が採《と》り入れているのもこの方法である。家庭で生活している子どもに比べれば、息のつまるような日常であろう。
ただ、五十人、百人という数になれば、「僕がやったとしても、そういう運営にならざるを得ないでしょう」と広岡知彦も言うとおり、これはやむを得ない形態と言える。
言うまでもないが、子どもは一人一人個性も違えば生理も違う。短時間に食事できない子は必ずいるものだ。であっても、すべての子どもは規律にはまることを求められる。逆に言えば、とにかくその管理の中におさまっていれば「いい子」ということになる。
だが、施設の中では「いい子」であった子が、一皮剥いたらそうではなかったという事実は、社会に出てからのケースが数多く証明している。
この形態に避けられないのは、上から下への圧力が強く意識されるということだ。決まりとしての罰則や職員の体罰を源として、子どもの社会にも力の支配が浸透するのである。
そして、目が行きとどかなければ、年齢や体力の序列で下へ下へとしわ寄せされる暴力の秩序ができあがり、最悪の場合にはK学園のような姿になる。程度の差はあれ、強い者には従うが、弱い者には強く出るのが、施設の子に共通した性向なのだ。
集団養護のこうした弊害は、真剣に子どもと取り組んでいる人々の間では、かなり以前から自覚されていたようだ。
ミッション系の養護施設、東京育成園(東京都世田谷区上馬)では、昭和二十八年から小舎制(コッテージ・システム)への移行をはかり、三十九年からは四十五人の子どもすべてを小舎制で育てている。
各小舎は、玄関のついた独立した住宅になっており、台所、バス、トイレ、三〜四人ずつの勉強部屋を備えている。一小舎の児童数は、兄弟のような年齢に編成された八〜九名。その子どもたちを、二人の保母と一人の男子指導員が、二十四時間体制でみている。
園長である長谷川重夫氏は、その小舎制養護のもたらすものを、こんなふうに語った。
「一般に施設の子は、あまり自発的に勉強しませんが、それは施設にいるからということではありません。子どもが自分のためだけに勉強するというのは、たいへん難しいことなんです。普通の家庭の子どもは、本人は意識していませんが、親の愛情や、家族に期待されているということから、勉強する意欲をもっているものなんです」
たしかにそういうものだろう。勉強しようとしまいと誰も何も言わず、早く職に就いて自立することだけが求められている施設で、勉強する意欲は湧くはずがない。
「ちょうど期末試験だったんですな、夜中の一時ごろ、まだ各家の窓に灯《あか》りがついていたので、勉強してるようだから励ましてやろうと思って、差し入れを持って小舎を回ったことがあります。そうしたら、その時間に保母さんが起きていて、子どもの勉強につき合ってくれているんです。むろん、保母さんには深夜手当てなんかつきません。それでもやってくれている。子どもたちは、そんな保母さんの愛情を背に感じて、がんばらなくちゃという気持ちになるんです」
乳児の場合は特にそうだが、八時間労働では本当の養護はできない。それを知っている良心的な施設であればあるほど、労働基準法は守られていないのではないか。
むろん、それでいいというのではない。その事実を見据えたうえで、どのような運営、どのような待遇が望ましいかを模索《もさく》すべきだということだ。
集団養護のもう一つの問題点は、社会から隔離されたかたちの閉鎖性にある。
さほど意識されないが、少年時代をすごした故郷《ふるさと》というのは大切なものだ。子どもたちは、その地域でのさまざまな触れ合いの中で、初めての体験を重ねながら社会性を獲得し、成長していく。つまり、その故郷の営みのすべてが、社会教育だと言っていいのである。
三歳から十五歳までそこですごす施設の子にとって、故郷は施設のあるその土地になる。だが、大規模な施設の場合、子どもたちは、学校に通うためにその故郷を“通る”だけで、“生きる”ことはない。施設そのものが、完結した社会になってしまうからである。
現に、石神井学園の佐藤三郎養護課長も、
「これだけの広さと設備のある施設は、他にあまりないと思います。ただ、あまりにも完備されているので、生活のすべてがこの中で行われてしまいます。私たちはできるだけ外に出そうとするのですが、小さな子はとくに、学校から帰ると外に出ないで、中の仲間だけで遊んでしまう。これはよくないんです」
と危惧を隠さなかった。これは規模や設備だけの問題ではない。施設の子として社会的な差別を感じている子どもたちは、どうしても仲間だけで肩を寄せ合うようになるのだ。
普通の家庭の子どもは、金を稼ぐことの困難さや金の価値は、両親の会話や日常生活を通して、それなりに感得している。これに対して施設の子は、金を稼ぐことも使うことも、自分の生活が関わるかたちで認識したことはない。
そうした根本的なことを含めて、施設の子の社会に生きていくためのノウハウは、同年齢の他の子どもに比べて、驚くほど貧困なのである。それでありながら、十五歳になったその時から、自立することが求められるのだ。
憩いの家に来る子どもは、養護施設出身者ばかりではない。昭和五十九年度で見れば、施設出の子どもは約半数であった。が、いずれにせよ、まともな家庭に育っていない子どもに必要な養護は同じである。
もはや、くだくだしく述べるまでもなかろう。憩いの家に、当初私が「なぜ」と感じた疑問は、すべてそうでなければならなかったからに他ならないのだ。皮肉ではなく、その家屋が適当にくたびれていることすら必要条件と言っていいのである。広岡知彦はこう語る。
「ここに来る子どもたちは、普通の家庭に育った子どもなら備えているものを、たくさん欠いています。それを取り戻させ、社会性を身につけさせるためには、地域社会の中に融けこんだ、一般家庭と変わらない環境におかなければなりません。この場合、一人の人間が子どもの動静を心理的なところまで把握できる限界は、せいぜい五、六人までです。また、それ以上になると、子ども同士の人間関係にも集団による歪みが出てきます。そう考えれば、どうしてもこういうかたちのグループホームにならざるを得ないんです。現に、欧米の養護施設は、かなり以前からグループホーム化しています」
自立援助ホームとされてはいるが、憩いの家がやっていることはアフター・ケアだけではない。ここから中学へ通っている子も多いのである。
私は、こうした子どもの養護に、アフター・ケアとかイン・ケアという区分があること自体おかしいと思っている。イン・ケアの指導が充分でなかったからアフター・ケアが必要になるのであり、アフター・ケアの指導のほとんどはイン・ケアのやり直しに違いないからである。
それはともかく、憩いの家の実態は、非常に柔軟性のあるグループホーム養護ということだ。しかし国側は、一箇所に三十人以上の児童を収容しなければならないという規定をもって、地域分散型のグループホームを養護施設としては認めていない。つまり、経堂・三宿の憩いの家から学校に通っている子どもには、国からの養護費は一銭も出されていないのだ。
集団養護の方式で、翔べるはずのない子を社会に飛び立たせ、墜ちたらお情け型の援助をする。何とも立派な福祉行政である。
まったくおかしな図式だが、その硬直した行政のはざまで、どこからも手をさしのべられない子どもたちを、善意の資金だけで懸命に拾い上げているのが憩いの家なのである。
取材を始めて間もなく、私は事務局の山下正範から、「お宅の古新聞を憩いの家にいただけませんか」という電話を受けた。そして数日後、鼻の下を新聞のインキで汚した彼と、十三、四歳の少年が乗った小型トラックがやってきた。
どこか幼い感じを残している少年は、やはり憩いの家の子どもだった。わずかな古新聞を荷台に積み、少年は「有難うございました」と、ぴょこんと坊主頭を下げた。
憩いの家は、こうやって家をつくり、こうやって活動を支えてきた。それはいいと思う。
子どもたちにとって、この作業に勝る社会勉強はない。また、自分たちのためにスタッフがこんな苦労をしているということを知ることは、何にも増して重要なことだ。職員に対して「おれたちがいるから、てめえら給料もらえるんじゃねえか」と内心開き直っている子どもをつくる施設とは、雲泥《うんでい》の差がある。
その意味からも、こうしたありかたはいいと思う。だが、走り去るトラックを見送りながら、私はどこかに向けて腹を立てていた。
第二章 拒否の暗部
正直に言えば、取材に入る前の私が憩いの家の日常としてイメージしていたものは、もう少し穏やかなものだったと思う。問題を抱えた子どもたちだから、決して“いい子いい子”しているわけはなかろうが、自立に向けてそれなりに“わきまえた”ところはあるのではないか、と想像していたのである。
しかし、表面はともかく、その底を流れる現実は、そんなものではなかった。
ここで行われていることは、放っておけば確実に非行・犯罪に走るか、生活無能力者に堕《お》ちかねない子どもの、その因《よ》ってきたるものを解消するための闘いだった。
その意味で憩いの家というのは、「一歩誤れば」の、その手前に位置していると言ってよかった。
だが、昭和六十年春、G誌に記事としてそう書いた時点でも、私は憩いの家の現実を掴みきってはいなかった。実のところは、表面から一歩入った程度のところまでしか見えていなかったのである。
私が甘かったからではあるが、そこには、子どもたちの過去はなるべく伏せておこうとするスタッフの配慮もあったようだ。
それでも私は、この家のことはもっと書きこんだかたちで伝えなければならないと考え、友人の編集者の賛同を得て、本にするための再取材に入った。それだけに、当初の私の関心は、この家を創《つく》り支えてきた人々のドラマに向けられていたものだった。
ところが、改めてスタッフの話を聞いていくうちに、私は首をねじ曲げられるように、子どもたちに向き合わされることになった。
たとえば、私が知っている瑠美は、色白のふくよかな顔をしており、口元からこぼれる白い歯は、十五歳という年にふさわしく清潔だった。
だが、経堂の家の寮母である広岡夫人智子《ともこ》が、ふとした会話の中で漏《も》らしたのは、こんな事実だった。
「ここに来た時は、まっ黒な口をしていまして、背を丸めて、あの細い目でちらっと人を見ながら笑ったりすると、すご味があったものですよ」
「黒い口? ……」
「ええ、シンナーをやりすぎると、歯の琺瑯《ほうろう》質が溶けてしまって、まっ黒くなるんです。今の歯は、ここに来てから治したものなんですよ」
瑠美がシンナーをやっていたことは私も知ってはいたが、それほどとは想像もしていなかった。同じ知るということでも、ここには天と地ほどの差がある。
瑠美にかぎらず、ここにいる子どもたちの過去は、何気ない顔をしている現在が信じられないほど、すさまじいものがあった。しかもその過去は、一枚一枚と剥《は》ぐ毎に、息を呑むような傷痕《きずあと》を突きつけるのである。
過去と現在と、その落差がわからなくては、憩いの家のやっていることの本当の姿は見えてこない。気の重い作業ではあるが、その過去はできるだけ詳しく知る必要がある。
スタッフの承認と橋渡しを得て、私は、その年の春から夏にかけて憩いの家を巣立っていった三人の子を対象にした。
桑田拓也《たくや》、十八歳。昭和五十九年二月、経堂憩いの家に入居。六十年六月、アパートに独立。ある機械メーカーに勤務。
彼をその一人に選んだのは、「落差を一番自覚しているのは拓也でしょう」という広岡知彦の言葉によるが、どちらかといえば私は、その“落差”の意味を“憩いの家に来てからの彼の変化”と受け取っていたふしがある。
それ以前に、私が拓也について知っていたことは、登校拒否児童であったこと、家庭内暴力を見かねた地域の児童相談所が一時保護し、その依頼で憩いの家に来たこと、経堂の家では寮母である広岡智子に年上の恋人に対するように甘えていたこと、ぐらいだった。
また、その後の経過として見聞きしていることは、彼が登校拒否ならぬ出社拒否で、広岡夫妻を手こずらせていたことだが、その件は「すっかりやる気になって、最近では皆勤ですよ」という朗報として耳にしていた。
拓也に対する私の最初の印象は、「なんでこの子が……」というものだった。
尖った顎《あご》、神経質そうな顔立ちだが、目が優しいのである。身長は百六十センチ、体重は五十キロぐらいだろうか、小柄なだけに、一〜二歳幼く見えた。
かなりひどい吃音《きつおん》だが、目上の者に対する言葉遣いは丁寧で、礼儀正しい。最近の若者には珍しく、服装に流行を追うところはなく、油気のない短い髪が、真中から分かれて額にかかっていた。
その姿からは、どのような前歴も臭ってはこなかった。それだけに私は、憩いの家の中では、まあ軽症の子だろうぐらいにしか考えなかったものだった。
憩いの家の住人としての拓也に最後に会ったのは、五月末の土曜日だった。その夕食前の会話で、私は、彼が明日スタッフとともにアパート探しに行くことを知った。
憩いの家の子どもたちは、例外なくこの家を出たがらない。そこで、いざ出されるとなると、あれこれとその理由を憶測《おくそく》し、悩んだりすねたりする。精神的にはいまだに広岡智子にべったりの拓也が、心理的にどれほどジタバタしたかは想像に難《かた》くない。
「自分が希望する条件を、よく整理しておくほうがいいぞ、自炊するのと外食するのじゃ部屋も違うからな」
私は、言わずもがなのことを言った。彼は、出かかって出ない言葉を十秒ほども待ち、
「……自炊したいと……思っています」
と言った。その顔は、案じていたよりも明るかった。
七月五日、私と拓也は憩いの家で待ち合わせ、肩を並べて表へ出た。夏の夜気は肌に心地よかったが、私の気持ちは軽くなかった。
改めて取材されることは、彼はすでに承知している。だが、私が聞こうとしていることは、登校拒否や母親への暴力など、彼が最も語りたくないはずの過去である。
自分から望んでおきながら、なぜそこまでやる必要があるのかという思いが、ともすると頭をもたげてくる。
「何でもいい、君が食いたいものに付き合うから案内してくれ。この際、遠慮しないほうがいいぞ」
私はことさらそんな言いかたをした。
「……そうですか」
彼はちょっと首をかしげ、歩を速めた。
「どうだ、アパートの一人暮らしは、慣れたか?」
「ハイ、まあ……」
「たしか、自炊するんだと言ってたよな」
「それが……やっぱり……面倒くさくて」
「そういうもんだろう。山下さんは、拓也は目玉焼ばっかり食ってるんじゃないかと心配していたぞ」
「……そんなこと、ないですよ」
拓也は笑った。私は、彼の口が意外に滑らかなことにホッとした。
駅前を通りすぎ、さらに入った繁華街が切れるあたりで、「ここでいいですか」と彼は足を止めた。学生や若い独身サラリーマンが専《もっぱ》ら利用する感じの、カウンターだけのキッチンだった。
暮れきらぬ空に、照明がばかに明るく点滅しているその一帯には、しかるべき格好をつけた食いもの屋は軒をつらねている。
「寿司でも天婦羅でもいいんだぞ、遠慮するなよ」
私は慌《あわ》ててそう言ったが、彼は「いいんです」と、サンプルの並んだウインドーを覗《のぞ》きこんだ。せめてもと私は、その店で一番高い四百八十円の定食をとることにし、彼もそれにならった。
かなりの距離を歩いて、なぜこんな店に来たのか? 私にはどうにもわからなかった。
「ここにはよく来るのかい」
堅い椅子に腰を下しながら、私は聞いた。
「……前に、二、三度……」
私に金を使わせまいとする配慮か、とまず私は考えた。が、ハッと気がついたのは、案内してくれと言われた以上、知っているところでなくてはいけないと考えたに違いないということだ。
私は、思わず彼の横顔に目をやっていた。おそろしく律儀な子なのである。そして、いよいよもって私は、この子と、「どうしようもなかった」と言われるその過去とのつながりがわからなくなった。
ごちゃごちゃと量がある四百八十円の定食は、やはり四百八十円の味だった。拓也がぎごちない手つきで注《つ》いでくれたビールを飲みながら、私は訊《き》いた。
「ここの飯と憩いの家の飯は、どっちがうまい」
「……憩いの家のほうが、うまいです」
私は、危うくビールを吹き出しそうになった。
駅前の喫茶店に場所を移して、私は現在から話をたぐっていった。相手のほうがはるかにたいへんなことはわかっているが、この取材は予想以上に骨が折れた。
彼の場合、緊張しなければさほど吃《ども》らないことは、すでにわかっている。そこで私は、なるベく日常的な口調でしゃべった。が、彼の緊張はひどく、時として私は、それ以上訊くことを諦《あきら》めなければならなかった。
しゃべること自体が緊張を招いているのである。そして、うまくしゃべれないことが、さらに緊張を強めるというぐあいなのだ。
拓也の吃音は、「イ・イ・イコイノイエ」というふうな、言おうとする言葉の第一音を繰り返すタイプではなかった。専門的には強直型というようだが、しゃべろうとする言葉が喉で阻止されて、立往生してしまう感じなのだ。
ことによれば、「イ……コイノイエ」となるのかもしれないが、吃るまいとするせいか出てくるまでに時間がかかる。その代り、出てきたときは「イコイノイエ」となる。が、次の言葉まで、また立往生する。ともあれ、その彼は、登校拒否についてこう答えた。
「いじめです。吃るから馬鹿にされて、何の理由もなく言いがかりをつけられて、ひどいことを言われたり殴られたり……。先生の見ているところではやらないから、学校は何も知りません。今、いろいろ言われているけど、本当のことはいじめられている人間しかわからないですよ。自分は、いじめなんていう言葉がおかしいと思います。そんなものじゃありません。あれは殺人未遂です……」
書けばわずかだが、これだけのことを言うのにどれほどかかったか。言葉が出てこないもどかしさに、拓也は二本の指で喉を押さえ、次の言葉が出てくるまで、私は彼の顔を見つめて待った。
それにしても、殺人未遂とは激しい言葉だった。いじめが自殺を招いている現実からすれば、さほど驚くには当たらないはずなのだが、そういう言葉が出てきたことに、私は小さな衝撃を受けていた。
どんなことをされたのが、と私は尋ねた。
「それは……いろいろあったけど……もう忘れちゃいました」
彼は、顔を伏せてそう言ったが、忘れられるものではないはずだ。
「肉体的にもだいぶやられたのかい」
私はあえて傷口に踏み込んだ。
「自分は、それはあまりやられていません」
明らかに彼は、自分のいじめについての問題から逃げたがっていた。
おそらく、思い出すのも嫌なほど、その屈辱は強いということだろう。そう言えば、いじめられている子は、ほとんどと言っていいほど、その事実を人に漏らしていない。
やむなく話題は変えられた。
「勉強は嫌いじゃなかったです。歴史が好きでした。でも学校は好きじゃありませんでした。勉強しようというのは自分の問題でしょう。なんで強制されて行かなければならないんですか。そうなれば刑務所と同じです。そういってもみんな行くから、自分も行かなくてはいけないと思ったんだけど、ダメでした。学校は強制されて行くものじゃないという自分の考えは間違いじゃないと思うけど……、でも、学校へ行かない自分が正しいとは思っていませんでした」
ぶつぶつと切れる話を、そんなふうに聞きすすむうちに、私は妙にひっかかるものを感じ始めた。もっと出てきてもいいはずの直截《ちよくせつ》的な事実と、そこに関わる感情的な表現がないのである。その代りのように出てくるのは、殺人未遂、刑務所といった言葉だった。
具体的なことはあまり語りたくないという気持ちはわからないではないが、なぜそうした意表を衝《つ》くような言葉が出てくるのか? 考えられるのは、自己正当化のための論理が、時間をひっくり返すかたちで、逆に事実を律してしまっているのではないかということだ。
また、もうひとつひどく気になったのは、拓也が“自分”という言いかたをすることだった。彼が中学時代、運動部や応援部に入っていたとか、あるいは少年院暮らしを経験しているなら、“自分”も頷《うなず》けないではないが、そうした履歴《りれき》は全くないのである。
そう言うようになったのはいつごろからかという問いに、「K児相《じそう》(児童相談所)にいたころからかな」と彼は答えたが、その言いかたはひどくあいまいだった。
しかし、そのK児童相談所時代からさらに遡《さかのぼ》った彼の過去は、私が想像もしていなかったような意外な側面を明かすものだった。
「父は、自分が小学校の五、六年のころからちゃんと家に帰って来なくなりました。帰ってくるのは夜中の十二時ごろ。それがだんだんおそくなって、しまいには朝帰って来るようになりました。他に女の人がいたんです。会社のそばの社宅だから、会社に行くために帰って来るんです。
そんなことしていながら、家にいるときは母に嫌味ばかり言ってました。自分は、そんな父が嫌で許せなくて、本当に殺してやろうと思って、包丁持って追っかけたこともありました。母もつらかったと思います。でも、いつも愚痴ばかりで、あんたたちがいるから我慢しなければならないなんて言われると、たまらなく嫌だったです。
父は勝手なことしていて、母もそんな状態を何ともしないで、それで自分には学校へ行けと言うんです。だから、何もかも頭にきて、母や妹に悪いと思いながら、家の中で暴れたりしました」
私たちは再び場所を移し、裏通りの小さな呑み屋でビールを飲みながら話を続けた。かなり飲みながらも、拓也は少し顔を染めただけで、さほど酔わなかった。辛い話にもかかわらず、拓也の表情が明るくさえ見えたことは、私にとってしあわせだった。
夜の道を憩いの家まで一緒に歩き、「がんばれよ」と肩を叩いて、私は拓也と別れた。
いつになく疲れた取材だった。そして、しばらく私の目の中には、拓也が包丁を手に父親につめ寄っている暗い絵が残った。
肌にまとわりつく七月の暑さは、歩き始めた私をすぐ汗みずくにした。電話ではそう距離はなさそうに聞いたのだが、坂の上と言われたK中央児童相談所に至るその坂は、うんざりするほど長く急だった。
「子どもの個人的な事情については、お話しできませんけれど」と言われながら、私がなおそこを訪ねなければと思ったのは、そう答えた相手である特別相談員Uさんというその人と、所長に会うためであった。
それは、十日前の取材の折、拓也が、
「自分が現在こうしてやっていられるのは、憩いの家とUさんのおかげです。もしあのままだったら、今ごろはどうなっていたかわかりません」
と言ったことによる。結果がどうあろうと、会わなければ気がすまないのである。
まだ新しい鉄筋二階建の建物のその受付に、Uさんは待っていたようにいてくれた。二児の母親だということだが、齢は三十代後半というところだろうか、明るく積極的な感じでありながら、品があった。
福祉に携わっている人に特有の臭みがないことは、私にとって助かることだったが、それは所長であるI氏についても言えた。
後に聞いたところでは、「私はもともと鑑別屋として子どもたちとぶつかってきていまして、教育の世界に入り行政最後の仕事としてここに来られたことを、非常にしあわせだと思っています」という“現場”の人だったのである。
二人を前にして、私はまず、先の拓也の言葉を伝えた。
「そうですか、あれがそんなことを言うようになりましたか。でも本当のところかな?」
所長はUさんを見やりながら、どこか疑わしそうな口ぶりで言ったが、その表情はうらやましいと思えるほど満足気だった。
「たしかにUさんは、僕にやりすぎだと言われるぐらい拓也に関わってきているけど、あの子がそこまで立ち直ったのは憩いの家の力ですよ。お願いした時点では、どうなるかまるでわからない子でしたからね」
そして私は、所長から逆に問われるかたちで、拓也の近況を伝えた。
「信じられないような変わりかただね。ここに来た時は、どうしようもないくらい太っていて、暗くって、ほとんど口も利《き》かなかったんだからね」
あの小柄な拓也が、どうしようもないほど太っていたとは、私にはひどく意外だった。そんな私の驚きを察してか、Uさんが所長に言った。
「所長は、その後お会いになっていらっしゃらないからおわかりにならないでしょうが、いまはすっかりやせて、五十キロぐらいになっています」
彼女は、アパートに独立した拓也の、その部屋まで訪れていた。
「そうかね。あのころは百六十センチの身長で、七十七キロもあったんだからね。靴のヒモを結ぼうとして、前へつんのめるぐらいだったんだから」
所長という立場の人間が、子どもの身長や体重まで憶えているということに、私はある確かさを感じた。それにしても、七十七キロというのはたいへんな肥満である。
「登校拒否の子どもというのは、非行に走るのは別として、外に出られないわけですよ。いるはずのない時間にいるわけだし、行くところもありませんからね。そして、昼夜ひっくり返したような生活をしながら、おふくろを使役して食いたいものを食っている。欲求不満というのは食うんですね、だから太る。……とにかく、ここにつれて来たのも、肥満を治すというのが口実だったんだよね」
「ハイ。とにかくお母さんと引き離さなくてはといろいろやったんですが、どうしても来なくって、肥満を治しましょうということでつれて来たんです。本人も太りすぎて格好悪いと思っていたんでしょうが、お母さんも説得してくれまして……」
いったい、なぜ母親と離さなければならなかったのか? しかしその問いには、二人とも正面からは答えなかった。ただ、一般論として、所長はこんな言いかたをした。
「問題を起こしている子どもの親というのは、必ずと言っていいほど夫婦関係がうまくいっていません。子どもというのは、外で何があっても、両親の仲が良く、家の中が穏やかであれば、まずおかしなことにはなりません。ところが、父親はまともに働いている、母親も家にいるという、外から見ればちゃんとした家庭に見えても、父親が異常な仕事人間になっているとか、外に女をつくっているといった、夫婦としてのかたちはあるけど夫婦じゃないという家庭は、親子の関係もおかしくなってきます。
いわば、精神的な崩壊家庭ですね。登校拒否も非行も家庭内暴力も、根はほとんどそこにつながっています。もっとはっきり言えば、夫婦の性関係がまともであるかどうかということです。亭主が外に女をつくったりしてセックス関係が疎遠《そえん》になってしまっている夫婦というのは、感情が冷えきってしまっていますから、喧嘩が絶えません。また、母親は父親をないがしろにして、子どもを相手に父親を悪く言う。
子どもにとって、これはつらいんです。そして母親は、夫との断絶を埋め合わせるように子どもに過干渉になり、その子が大きくなると、夫の代りに我が子に仕え、子どもにもたれかかるようになる。心理的な母子相姦ですな。その状態がさらに進めば、本物にもなりかねません。そういうケースを見ているだけに、心配するわけです」
拓也の母親には、私もやはり会いたいと思っていた。だが、それに対して広岡知彦は、「母親に会うのはやめてください」と言った。私がその理由をくどく聞かなかったのは、それ以前に、拓也が家から離された理由を、「母子相姦のおそれを感じての措置」と聞いていたからだった。
しかし、現実にはそれはなかった。未然に防がれたということかもしれないが、所長が感じたおそれは、さいわいにしておそれでしかなかったのである。
にもかかわらず私は、Uさんからもまた、「お母さんに会うのはひかえてほしい」と釘を刺された。
いったい、それはなぜなのか。言い渋るUさんの言葉を、私の理解としてつないでみるなら、その母親は社会経験が非常に狭く、異常なくらい神経が弱く心理的に不安定な人だということだ。
だから、非日常的な何かにぶつかると、どう対処していいかわからないところから、それだけで頭がいっぱいになり、食事も喉を通らなくなって寝込んでしまうという。
残念ながら私は、会わないことを約束せざるを得なかった。
Uさんが拓也と関わったのは、彼が中学二年の時からだが、それは“申し送り”によるものだった。つまり、それ以前から彼はK中央児童相談所にフォローされていたわけだが、このケースはまことに重症だった。
拓也の登校拒否は、すでに小学校四年のころから始まっていたのである。
桑田拓也は、昭和四十二年五月東京に生まれた。家族は、両親と妹の四人。父親はある金属加工工場に勤め、一家はその会社の敷地内にあるアパート形式の社宅に住んでいた。
父親は、昼間の仕事は普通にこなし、経済的に妻子を困らすことはなかったようだが、“女”に関しては特殊としか言いようのないところがあった。
拓也が生まれた時にも、二ヵ月間他の女のところへ蒸発するようなことをしているが、次から次へと女をつくり、切れ目がなかったのである。
ある証言によれば、「甘えるかたちでの女の扱いに長《た》けたところがある」ようで、年上の女との関係が多く、正式に結婚はしているが、拓也の母親も父親より七歳年上だった。
二歳の時、拓也は住んでいた二階のアパートの窓から転落するという事故に遭《あ》った。さいわい落ちた場所の土が柔かく、奇跡的にたいした怪我にならずにすんだが、頭の中に内出血した血を抜くという手術を受けている。
父親は妻の不注意をなじり続け、この事故で夫婦間の亀裂《きれつ》はいっそう深まるが、神経の細い母親の自責の念は激しかった。
以後彼女は、息子が転ばないようにと片時も目を離さず、拓也が歩くときは、必ず後ろから支えるように手を差しのべてついて歩いた。そうした神経の使いかたは、拓也が成長してからも続き、結果としてこれは異常な過保護となっている。
そしてこの母子は、吃音はこの時の事故の後遺症だと固く信じてきた。後に、K中央児童相談所で脳波検査を受け、脳には何ら異常がないことが明らかになっても、母親はなおその疑いを拭いきれないでいるのである。
吃音の原因は、いまだによくわかっていない。器質的なものによるという説もあるが、その一方には「吃音は親によってつくられる」という説もある。アメリカの研究者W・ジョンソンのいう“診断原因説”だが、
〈劣等感の補償として子に完全を要求する親、感受性が強すぎる子にマイナスになるように反応する親、許容しあえない緊張のある親子関係、それらが子に過干渉や緊張をもたらし、吃音的傾向を早期に吃音の自覚の形成へ追いやる〉(梅田英彦著『話すのがこわい』太陽出版)
というわけである。もしそうだとすれば、拓也の吃音はまさしくその家庭と母親に原因があるということになる。
ひどい吃音をからかわれたこともあるが、現実にコミュニケーションがとりにくいこともあり、拓也は小学校の二年生から、教室では“緘黙《かんもく》児童”となった。
これは、格別特殊なこととは言えなかろう。自身吃音者であったアメリカの言語学者、フレデリック・P・マレーは、自分の小学校時代をこう回顧している。
〈教室で、質問に答える順番が回ってくるのを待っているのはまるで拷問《ごうもん》であった。自分の順番がくる頃までには興奮しすぎて答えを考えることができず、ほとんどの場合、自分でまったくどうにも収拾のつかないような話し方になってしまっていた。……私が悪戦苦闘している間、同情的な友だちも多かったにちがいないのだが、その時は教室中の者が皆私のことを笑っているように思えた。先生たちは私のどもりに対して“イボ”か何かのような対応のしかたをした。すなわち、どもるという問題が存在するのを認めないでいれば、そのうち消滅するだろうといったような態度である〉(『吃音の克服』新書館)
状況は、まったく同じと思われる。拓也の担任は、吃ってもいいから積極的に話すように家庭でも指導してくれと申し入れた程度だった。周囲の理解、とりわけ教師に親身な配慮がなければ、“緘黙”も自然のなりゆきと言える。
拓也にとって、わずかでも家庭らしい雰囲気を味わう時期があったとすれば、小学校三年の一年間だけだった。理由は、この時期だけ父親に“女”が切れていたからである。
それでも、あのころはよかったと拓也が回想するのは、母と妹の三人で近くの墓地で遊んだ情景であって、そこに父親の姿はない。
それまでも、靴を隠されるなどのいやがらせは受けていたが、学校でのいじめは、四年生の三学期、クラスの仲間五人から暴行を受け、体中アザだらけになって帰って来たことで顕在化する。
拓也から事実を聞き出した母親は、暴行した側の母子を家に呼んで抗議し、謝罪させた。だがそれは、拓也をいよいよ孤立させただけでしかなかった。
拓也が、日常的にどのようないじめを受けていたかは、よくわからない。おそらく、思い出すのもいやなのだろう、具体的なことは現在でも「忘れてしまった」と語らないぐらいだから、当時もしゃべらなかったに違いない。その代り、登校拒否が始まる。
むろん母親は、その原因をいじめにありと見て、教師にも相談している。しかし、それに対する教師の対応は消極的だった。
休んでいる拓也を、教師が家まで迎えに来たことはあるが、つれ立って学校へ向かう道から拓也は逃げ出した。教師の個人的な努力は、その程度で終わっている。おそらく、お荷物はお荷物のまま終わらせればいいということだったのだろう。
そして肩代りするように、拓也の問題は教育研究所に託された。だが、ここでの対応は、母親を呼んで事情を聴き、こうしたほうがいいと母親に指示するだけのものだった。
拓也が小学校五、六年のころから、父親はちゃんと家に帰らなくなった。いったん帰ってきてからも「煙草を買いに行く」などと言って出かけ、夜中はおろか朝方帰ってくるようなことが続くのである。
そんな父親を母親は激しくなじり、夫のための食事もつくらず、布団を敷くこともなかった。
子どもたちは、そうした状態が招く両親の諍《いさか》いに心を痛め、拓也の妹は「私はもうおなかがいっぱいだから、これはお父さんにとっておく」と夕食の菜《さい》を残し、拓也は母親にさからって、帰らないかも知れない父親のために布団を敷いた。
にもかかわらず父親は、「こんなものしか食わせられないのか」と母親を怒鳴り、母親も報復的な姿勢を変えようとはしなかった。
団欒《だんらん》どころか、気の休まることもない家庭だったと言えるだろう。すでにこのころ拓也は、「父がいない時のほうが気が楽でよかった。あんな父なら死んでくれたほうがいい」と思っていたという。
そしてその一方、拓也と両親の間では、「学校に行け」「行かない」のやりとりが日毎に激しくなり、彼の断続的な登校拒否は、次第に日数を増やしていった。
中学校へ入ってから、拓也の登校拒否はいっそうひどくなった。
「中一の時は一学期だけ、二年はわりによく行って三分の二ぐらい、三年の時は二ヵ月」
と彼は言うが、この日数はかなり甘く、実際にはもっとわずかしか登校していない。ともあれ、中一の時点で、彼ははっきり落ちこぼれであった。
現在の受験体制下では、一定の許容範囲内で授業についていけなければ、その子は教室の“お客さま”にならざるを得ない。教師はその生徒に関わりなく授業を進め、その子は授業に参加できないからである。
教師は、その生徒を指すことはない。彼の存在は見て見ぬふりされ、時間は頭の上をただ素通りして行く。いわば、教室に座っていながら“透明人間”になっているわけで、厳密に言うなら生徒ではなくなっている。
これがどれほどつらいものかは、当事者でなければわかるまい。どんな子どもにとっても、学校とは勉強する場であって、その本質と切れてしまうことは耐え難いことなのだ。
そしてその負い目は、すべてに対して自己主張を弱め、マイナスの循環となって自信を喪《うしな》わせる。暗くなるのは自然のなりゆきである。こうして落ちこぼれは、往々にしていじめの標的となる。
今の子どもたちの対人的な評価基準は、明るい、面白い、気が利《き》いているという、自分らが育てられたテレビそのものの性格を反映したもので、いわば久米宏氏型の能力が評価され、人気を得る。
しかも、画一化されたその志向性は、驚くほど排他的になっており、暗い、のろい、ダサイ(野暮)は、悪であるかのように見做《みな》され、蔑視《べつし》の対象となる。
傍観者の立場の子どもたちが言う「いじめられる奴にも問題はあるんだよな」という理由は、そうした彼らの共有感覚に根ざしていると言っていい。
落ちこぼれがツッパリグループになるケースが多いのは、そうでなければシカト(無視)されるかいじめられるしかないという理由にもよる。
拓也の場合は、落ちこぼれの上に吃音である。どんな扱いを受けたかは想像に余りある。何があったかわからないが、彼はこんな言いかたをした。
「百人いたら九十九人までつるむんです。そして自分には関係ないのに、脅迫したりいやがらせしたりする。つるむ人間というのは最低です。わりとしゃべっていた友だちにも裏切られて、ひどい目に遭《あ》ったこともあります。どうして裏切ったかという、そいつの事情もわかるけど、許せませんでした。友だちなんて誰も信じられなくて、学校ではいつも一人でした」
その中学一年の二学期、思いあまった母親は、自分から児童相談所を訪れている。登校拒否もあったが、直接的には家庭内暴力であった。
私もやむを得ず使ってはいるが、登校拒否という言葉は実態を誤解させるところがある。拒否という言葉には、主体的に「行かない」という響きがあるが、子どもたちは、いじめや落ちこぼれその他の理由によって、「行かれない」から行かないのである。
結果は同じでも、主体的に「行かない」のと「行かれない」のでは、たいへんな違いがある。なぜなら、行くべきところに行かれない、行っていないということは、どうしようもない精神的葛藤《かつとう》を生み出すからだ。
登校拒否の子どもたちは、少くとも今の学校には行かれないと思っている。この場合、親がそうした原因を考慮せず、あるいは気づいていたとしても、「とにかく行け」と言うことは、その葛藤をますます複雑にするだけだろう。
こうして加圧された精神的葛藤は、当然苛立ちとなって突破口を求め、最も身近かにいながらことの本質を理解せず、プレッシャーばかりかける親に向かって爆発する。
つまり、登校拒否と家庭内暴力は、必然的な線上でつながっているということだ。
拓也の場合は、その上にさらに悪い条件が重なっていた。母親は、それ以前から拓也を相手に父親の愚痴をこぼし続け、その愛人のことまで話していたが、このころから、何ごとも息子を相談相手にするようになっていた。
その結果、生来細かいところのある拓也は、あれがない、これを買ってこいと、日常の家事から家計についてまで母親に指示するようになった。その面からも、親としての尊厳は大きく喪《うしな》われていたのである。
むろん、父親の尊厳は、はるか以前に消滅していた。が、拓也が中学二年になろうとする春、父子の関係は無惨に破綻《はたん》する。
ある日、例によって午前五時ごろ帰って来た父親に母親が大声を上げ、暴力を振るわれる喧嘩になった。母親が、夫の首に巻かれた女から貰ったと思われるネックレスを、「何よこれは!」と引きちぎったのが発端だった。
そんな父親に、拓也の怒りは我を忘れさせた。「てめえなんか殺してやる!」と、彼は台所から包丁を持ち出して父親に詰め寄った。さいわいこの騒ぎは、起きてきた社宅の上司が間に入っておさまるが、以後父と子の亀裂は決定的なものとなった。
そして、拓也の登校拒否は、誰からも掣肘《せいちゆう》を受けなくなる。「てめえら勝手なことやっていて、人に言う権利があるか」というわけである。
はっきりと口に出しては言わないが、拓也は母親もよしとしてはいなかった。愚痴ばかり言いながら、そんな状態を清算しようともしない生きかたに、非難をくすぶらせていたと見ていいだろう。
母親は、「離婚しないことで苦しめてやる」と言っていたというが、そこには第三者には理解し難《がた》い夫への未練が、なおあったようなのである。
学校へ行っていないという内面の葛藤と、そうした親に対する不満は、病的と見えるほど拓也を苛立たせた。その結果、何かにつけて母親を罵倒し、ちょっと神経にさわったといっては物を投げるといった暴力沙汰が日常化する。
登校拒否児童には昼夜ひっくり返したような生活をしているケースが多いが、なぜか拓也は、夜十一時には眠るというきまりを自分でつくり、守っていた。ただしその生活スタイルは、家族の居間であるテレビの置かれた六畳間を占拠し、万年床の中でパジャマを着たまま、日がな一日テレビを見たり本を読んで暮らすというものだった。
床屋にも風呂にも行かず、着替えもしたがらないから、そばに寄れば異臭が鼻をつく状態だったが、その布団の端を踏んだだけでも怒鳴られる母親には、どうすることもできなかった。
テレビの画面だけがチラチラしているそんな部屋に、Uさんが初めて足を踏み入れたのは、彼が中学二年の二学期を迎えた時だった。何度呼び出しをかけても、出て来なかったからである。
その布団の上で、なぜ学校に行かないのかというUさんの問いに、拓也は常々用意している答えを、吃りながら語った。ノストラダムスの予言によれば、この地球は一九九九年には滅亡する、であるなら何をやっても無駄だから、その時までこうして過ごすという論理であった。
しかしそれは、相手に諦《あきら》めさせるための持論を述べただけであって、拓也の拒否の姿勢は堅かった。二度目に行った時は、いかにドアを叩いても開けず、その次からUさんは、パートタイマーとして働きに出ている母親から鍵の隠し場所を聞き、強引に鍵を開けて入っている。それに対して拓也は、ある時はトイレに逃げこみ、ある時は頭から布団をかぶって拒否を続けた。
拓也にとって幸せだったことは、そんな彼にもかかわらず、Uさんが「なぜか放っておけない気がして」、普通では教えない自宅の電話番号を教えるほど「のめりこんで」くれたことだった。こうして拓也は、ほとんど生まれて初めて、他人に心を開いて話すようになる。
そうしたこともあったからだろうが、二年生のその時期、彼は比較的よく学校へ行っている。ただしそれは、学校へ行ったのであって、教室に入ったのではない。まっすぐ図書室に入り、一人勝手に読みたい本を読んで帰るだけのことなのである。
むろんそれは、教師の“自習”としての指示あるいは諒解があってのことだろうが、驚かされるのは、そこにどのような課題も与えられてはいなかったということだ。
そして学校側は、三年生になってからは一ヵ月しか“登校”していないにもかかわらず、彼を卒業させる。
拓也が、今後の自分の人生をどう考えていたか定かではないが、卒業しても生活ぶりは全く変わらなかった。というより、学校という軛《くびき》がなくなっただけ、母親を使役しての暴君ぶりは激しくなった。
我が子の将来に、さすがに不安を抱いた母親は、その六月児童相談所を訪れ、それ以前からUさんが言っていた、拓也を児童相談所の一時保護所に預けることを承諾した。
これは児童相談所が、『保護者が児童の保護能力を失ったり、また、保護が極めて不適当であったりして、児童の生活環境が児童にとってはなはだしく悪条件である時、その児童の生活環境を変えて応急に児童の保護をする』措置による。
そして、前述したような肥満解消を口実に、拓也は一時保護所に移った。当初は、暗い表情でものも言わず、かったるそうにただ規則に従っていたが、やがて吃りながらも話をするようになる。とくに女子職員には甘えるようなところがあり、そんな時には吃ることも少なかった。
彼にとっての目的であった肥満解消は、栄養士の厳密なカロリー計算による食事と規則正しい生活、自分も積極的にやったランニングによって、三ヵ月で十キロの減量に成功した。また、入所の後半期には、与えられたリーダーの役割もこなすにいたっている。
しかし、彼が入所しているその間に、父親はサラ金に多額の借金を残したまま蒸発した。今度の相手は、母親よりさらに年上の女性だった。
サラ金の取り立てを受けて、母親は錯乱状態のようになった。そこで児童相談所が警察に事情を訴えて処理してもらい、払う必要がないことを言ったが、それでも母親はおろおろと落ちつかず、不安神経症のような状態を続けた。
なお、蒸発した父親は会社も辞め、現在にいたるまで家に戻っていない。
その年の十一月、拓也は母親が探してくれた工務店に就職することを承知し、児童相談所から家に戻って職場に通い出した。社長という人は、すべての事情を了解した上でたいへん理解を示してくれ、自ら手をとって拓也に仕事を教えた。
しかし拓也は、いく日たっても仕事を覚えず、そんな社長をして「猿の物真似よりひどい、知恵遅れではないか」とまで言わせた。
たしかに拓也の鑑定結果は、『社会性未発達、閉鎖性あり、IQ八十』ではあったが、知恵遅れではなかった。Uさんはそれを社長に説き、もう少し見てくれるよう懇願したが、いつになっても仕事はかたちにならなかった。
結局、彼は二ヵ月ほどで、「特別理由があったということじゃなく、仕事に行くのがいやだった」と、そこを辞め、再び家にとじこもった。
外で受けたダメージがあったからだろう、家での拓也の振舞は以前より悪くなった。そして母親は、彼に怒鳴りまくられ暴力を振われながらも、夫に仕えるように我が子に仕えるかたちになっていた。ただ、今度ははっきりと父親がいないのである。
年を越した昭和五十九年一月末、その状態に危険性を感じた所長は、「何としてでもつれ戻して来い」と、Uさんに男子職員をつけて拓也の家に向かわせた。
「いやだ、ほっとけ」と拓也は抵抗し、男子職員を殴ったりもしたが、ついには泣きながらUさんのあとに従った。ところが、いったん入った一時保護所から、再び姿を消した。
そして三時間後、自宅前に張り込んでいたUさんたちの前に姿を現わした拓也は、激しくドアを叩いて、中にいる母親に「開けろ!」と怒鳴った。だが母親は、ついにドアを開けなかった。おそらく、母親にも見放されたと思ったのだろう、拓也はとぼとぼと一時保護所に戻った。
しばらくはふてくされていたが、やがて拓也は職業適性検査を受けるために、横浜に通い出した。しかし、かりに職に就いたとしても、彼を家に戻すことは絶対に避けなければならない。さりとて、十五歳を過ぎた少年を迎え入れる施設はない。一時保護所は、あくまで一時のためのものなのである。
Uさんは、文字通り最後の望みをそこに託して、憩いの家にダイヤルを回した。
第三章 羽化の土壌
憩いの家に来る子どもたちの経路は、養護施設、児童相談所、家庭裁判所などさまざまあるが、いずれの場合もその子の将来を考える担当者から、「お願いできますか」と相談されるところから始まる。
年齢は十五歳以上とは限らない。最近は、少年院へ送るほどではないが家には返せないという中学三年生のケースが特に多くなっている。そういう子どもたちは、本来なら養護施設が引き取るべきなのだが、彼らを受け入れる施設はまずない。
中三の二学期以降になって入れても進路指導ができないというのがその理由だが、皮肉なことに子どもたちは、そういう時期ほど心の揺れが大きく問題を起こしやすいのだ。
そこで憩いの家となるわけだが、それは単に受け入れてくれるというだけではない。その子の将来を考える家裁の担当官などにとっては、イン・ケアからアフター・ケアへ連続している憩いの家のような存在が、最も望ましいからである。
そうした背景から、入居相談は年々数を増やし、具体的なアクションとなったものだけでも、年に五十件を超している。しかし、憩いの家三軒を合わせて、受け入れられる人数は、最大でも十八人程度にすぎない。
このようなグループホームがいかに必要かということは、この現実からも明らかだろう。
では、入居はどのように決められるか。特筆すべきは、そのための段取りである。
まず、広岡知彦とスタッフが本人のところへ行って面接し、その子が憩いの家の生活に適応できる子かどうか、すでにいる子どもたちの個性との関わりで入れてもだいじょうぶかどうかが検討される。
そこで「よかろう」となれば、子どもを見学に来させる。現実を見せて考えさせるわけである。そして本人がよしとしたら、二、三日泊めて生活させる。その上で本人が「ここでやってみたい」と言って、はじめて入居となる。
なぜそこまで慎重にやるのか。広岡知彦はこう説明した。
「施設にいた子は特にそうですが、もう十何年も縛られてきたんだから縛られるのは嫌だ、自由になりたいという思いがあります。そういう子にとっては、憩いの家にしても、ある意味で縛られることになるわけです。十五歳の子どもには、自由の意味はわかりません。一人になれば制約はない、何でもできるという思いがある。そこに落とし穴があるわけですが、社会というのはがんじがらめなもので自由にやらせてくれるところではないということを知るまでには、相当時間がかかります。それは、いくら説明してもわかるものじゃありません。
そういう子を、本人の意志を無視して入れてもうまくいきません。ここはオープンなところですから、すぐに飛び出します。ですから、見学させる、泊まらせて体験させる、自分として納得するというプロセスに手を抜いたらダメなんです。もっとも、本当に納得してはいないんですけれど……」
拓也の場合もそうであった。昭和五十九年二月七日、彼は経堂と三宿の両方の家を見学し、双方の家に二日間ずつ泊まり、二月二十四日、経堂の家の一員となった。
だが、それでも彼は押し込まれたという意識を持ち、そうさせたUさんをはっきりと恨んでいた。ただ、
「自分としては、憩いの家といっても、児相の一時保護所みたいなものだろうと思っていたんですが、来てみたら全然違いました。とても家庭的で、みないい人だというのは最初からわかりました。今まで、嘘つかれたり裏切られたりして誰も信用できなかったんですが、憩いの家には嘘がありませんでした」
という印象は本当だったろう。
拓也にとっての最初の課題は、人と交わることだった。
これまで自分の領域の中だけで生きてきた彼にとっては、他人を意識すること自体が大きな緊張となる。まして今度は、避け続けてきた同年輩の人間と付き合わなくてはならないのである。
それだけに、来た当初の吃りかたは激しく、何か言おうとしても痙攣《けいれん》するように体を震わすだけで、言葉にならなかった。
寮母、広岡智子は、みなの前で、そんな拓也に言った。
「拓也君、吃りなさい。いっぱい吃っていい。吃ることがなぜ悪いのよ。わからなかったら聞き返すから、吃るのを気にしないでしゃべりなさい」
言うまでもなくそれは、子どもたち全体に対する宣言でもあった。が、拓也は、自分の部屋に引きこもり、食事以外にはホールに出てくることもなかった。他の子どもたちは、拓也のあまりの暗さに目を見合わせて驚いていた。
その拓也のために、広岡智子は自分の部屋のドアを常に開けたままにしておき、ホールに降りて行くのが嫌だったら自分の部屋に来るように言った。拓也はモグラが顔を出すように寮母の部屋に行っては、夫妻の長男知人《ともと》君(当時六歳)と、黙ってテレビを見ていた。
当時経堂の家にいた子どもたちは、ともに中学二年の森下瑠美と深田沙織、文具問屋に勤めている十七歳の岡裕治、養護学校に通っている十八歳の佐藤昭夫というメンバーだった。
この顔ぶれは、拓也にとって幸運だった。彼がつぶされることなく自分を育てていけるという意味で、まさしく天の配剤と言える組み合わせになっていたからである。
施設育ちでない瑠美と沙織は、誰に対しても屈託がなく、とりわけツッパリながらも淋しい思いを味わい続けてきた瑠美は、人に対する思いやりが強かった。
そして男の子二人は、性格的な強さや能力において、拓也とそう差はなかった。
地方の養護施設に育ち、教護院から精神薄弱児施設というおかしなコースをたどっている裕治は、これも実は精神薄弱児ではないのだが、言葉や社会性にはかなり遅れがあった。また、拓也より二歳上ではあったが、精神薄弱児のための学校に通っている昭夫は、腕力、知能ともに十八歳のレベルにはなかった。
つまり、男の仲間二人は、さほど劣等感を意識させる相手ではなく、二人の女の子は、そんな拓也にも声をかけ、仲間の輪に誘い出してくれたわけである。
やがて、夕食後のホールで、
「児相の保護所っていうのはさ……」
などと自分の体験を語る瑠美に、生まじめに頷いたりしている拓也の姿が見られるようになった。
十六年間の拓也の人生に何より欠けていた経験、広岡智子が言う「子どもたち同士の育ち合い」の機会が、初めて訪れたのである。
拓也の場合は、たしかに特殊である。だが、現在、そうとは見えない子どもたちにも、「育ち合い」のなさは特殊とは言えないほど広がってきているようだ。そして、先のI所長によれば、そのこともまた家庭内暴力の因子となっているという。
「高校に入ってから登校拒否を始めた子がいまして、これが家の中で暴力を振うようになった。調べてみると、それまではずっといい子だった。ただ、この子には友だちがいなかった。小さい時から、あまり仲間と付き合わず訓練されてきていないんで、友だちづくりができないんです。その結果、親友という存在を一番必要とする時期に、心を打ちあける相手もなく、孤立してしまった。本人も気づいていないんですが、そういう不満が暴力となって出てくるわけです。いわゆる無友病症候群で、そんなケースは少なくないですよ」
三月三日、雛祭《ひなまつ》りの日であった。拓也は山下正範とともに、憩いの家に戻るため新宿から小田急に乗った。
山下正範が拓也をつれて、就職のための職場見学に行ったのはすでに十回を超えており、その日だけでも三度目だった。一回目も二回目も、「自分には向かないと思います」と拓也は断った。そして今回も「お願いします」とは言わなかった。
憩いの家では、就職はあくまで本人の意志を尊重し、納得するまで探される。
子どもたちは、自分の勤め先に必ずそれなりの条件を持っている。この条件は、彼ら自身にもはっきりしていないイメージから出ていることが多く、決してリーズナブルなものではない。
しかし、それが否定されればされるほど彼らはそこに固執し、腰が落ちつかなくなる。どれほど夢に等しいものであっても、やはり本人に、現実にぶつかって悟らせるよりないのである。
そうした経験から憩いの家のスタッフは、いかに自分たちがその子に適した職場だと判断しても、決して押しつけることはしない。が、それだけに、苛立ちに耐えることも多かった。
今回の印刷会社の場合もそうだった。社長という人物は、山下正範が語る拓也の状況に、自身も両親が揃っていない家庭に育った辛さを語りながら理解を示し、「力になれるものならなってあげたい」と言ってくれた。
願ってもない受け入れ先なのである。だが、拓也は嫌としか見えない態度を示した。山下正範は、毎度なじみの気持ちに耐え、拓也は何ごとか考えているふうだった。
無言のまま、いくつかの駅を過ぎたところで、その拓也が突然言った。
「自分は、あそこに勤めてもいいと思います」
「さっきはそう言わなかったじゃないか。本当にそう思うのか」
「はい」
「なぜそれが言えないんだ。学校はいやだ、働く気はしない、今の社会は狂っていると、拒否することだけは一人前に言うが、こうしたい、こうしますとは、ただの一度も言っていない。それが素直に言えなければどうしようもないんだ。まあ、いい勉強したと思って諦めるんだな」
「はい、悪かったと思います。でも、やっぱりさっきの会社がいいんです」
「そうか、本気でそう思うんなら、もう一度自分一人で行ってこい」
山下正範は、あえて拓也を突っ放し、次の下北沢駅から新宿にとって返させた。自分に責任を負わせるための、いかにも憩いの家流のやりかたである。
拓也は、なぜ最初に「うん」と言えなかったか。それは個別の条件ではなく、働くこと自体への不安だった。ここで働くという場所を眼前にした時、その不安はやにわにふくれあがり、ともかくも逃げたかったというわけなのである。
その夜、社長はわざわざ憩いの家を訪れた。拓也がどんなところで生活しているのか知りたいし、責任者からさらに話も聞きたいとのことだった。広岡夫妻を始めスタッフが感激したことは言うまでもない。そして、自分も感激したという社長は、改めて拓也に向かって言った。
「僕は、君と今日三回会った。これは、それだけ縁が強いということだ。君は僕をひきつけたんだよ、だから頑張ってやってみようじゃないか」
拓也は、ハイもウンも言えないほど緊張していたが、これで彼の就職は決定した。
三月七日、拓也はひどく緊張した面持で初出社し、緊張したそのままの顔で帰ってきた。だが三日目から会社に行かれなくなった。
「朝みんなを送り出して、さてコーヒーの一杯も飲もうかなと思っていると、玄関の戸がカラカラと鳴るんですよ。また猫でも来たかと思って見たら、拓也が行った時と同じ姿でしおれて立っているんです。こういう時、深刻に言っちゃいけませんから、柔らかく『だめよ、行かなくちゃ』と言ったんですが、思い詰めたように『行けません』と言うんです。で、その日は、会社に休むと電話させて、家の中の手伝いをさせました。
そしてあくる朝、『ちゃんと行くのよ』と言う私に、一応『ハイ』と返事して出て行ったんですが、しばらくするとまた戸がカラカラ……。そんなことが三日ぐらい続きましたね。会社の入口まで行った時もあるようですが、新宿駅の改札まで行って戻ってくるんです」
こうして、以後広岡智子は、断続的に起こる拓也の出社拒否と闘うことになる。
しかし、出社拒否自体は、拓也にだけ特徴的な症状ではない。施設出の子や崩壊家庭に育った子で、最初から勤めを休まずにいける子というのは、むしろ少ないと言っていいのである。
実に意外な気がするが、彼らには体を動かして働くこと自体がたいへんなのだという側面が指摘されている。
昔の子どもは、“自分のことは自分でする”のはもちろん、家のまわりの掃除を受け持たされたり、使いにやらされたりと、小さいころから働く習慣を身につけさせられた。
だが、施設の子や家庭らしからぬ家庭の子は、日常的な生活の一環として働かされることがない。たとえ数時間であっても、労働に耐えることを知らないのである。つまり、労働として一日八時間働くことが体になじむまでは抵抗があるということだ。
しかし、それ以上に大きいのは、対人関係の訓練を受けていないことである。施設出の子の場合は特にそうだが、言葉の使い分けができない。敬語、丁寧《ていねい》語は言うまでもなく、普通の挨拶が普通にできない子が多いのである。
対外的な言葉の適応というのは、内心どう思っているかのいかんを問わず、こう言われた時にはこう答えるものだという反応や習慣によるものが大きい。怒られた時には、とりあえず「ごめんなさい」と言う必要があるようなものである。
悲しいかな我々の感情は、このとりあえずの言葉に最もよく反応する。たとえば、怒った時に、相手がこちらの顔も見ずに黙っていたら、確実に怒りは倍加する。
だが、集団で育てられた子には、怒られている時は下を向いている癖がついていることが多い。一対一でないから、相手の顔を見て反省の言葉を口にしないでもすむのである。あとは、怒られた内容を黙って直すなり守っていればいい。
さらに言えば、目上の人間とあまり口をきく必要がないのである。だいたい目上の人間の言う言葉そのものが、「こうしてはいけない」とか「これはこうだ」といった短い命令形が多い。
家庭でのように、多くの言葉を使って懇々《こんこん》と言われるようなことは少なく、また多くの言葉を使って答えるように求められもしない。
その結果、相手の言葉から何を求められているかを察知する訓練ができず、自分の気持ちや考えを言葉を組立てて伝えることが不得手になる。
そして、普通の適応をやっている人間の間で、やっぱり自分は違うんだという意識を深め、いらざる被害者意識と劣等感を肥らせる。そこで、馴染《なじ》むよりは反発になり、ささいなことも頭に来て、粗暴な振舞いにおよんだりもする。
拓也の場合、労働することにさほど抵抗はなかったようだ。仕事に喜びを見出せるわけではないが、生来几帳面なところから与えられた仕事は黙々とこなし、その面では評価さえされているのである。
問題はやはり、広岡知彦も言うように対人関係だった。
「最初のころは、朝会社に行って『お早うございます』と挨拶し、『今日は何をやればいいですか』と言う、それがしんどかったと言っていますね。要するにコミュニケーションがうまくいかない。それまで、あまりにも社会性のない生活をしていますから……」
それにしても、その程度のことで仕事に行けなくなるものか、とは私も思った。だが、拓也自身からも納得できる答えが得られなかったその“しんどさ”について、先にも引いたフレデリック・P・マレーは、次のように書いている。
〈バンライパー博士は、彼の著書『吃音の本態』の中で、内化されたどもりについて次のように言っている。「吃音者とは障害が外部に現われることを隠すことができるかわりに、その代償として、常に用心し、回避し、不安であることを余儀なくされている者のことである」。この代償は実に高くつくものである。話すことを避けたり、話さねばならぬ場面では、どもるおそれのある言葉をまったく使わずに話を済ましたりするためには、極度の緊張と工夫が必要なため、精神的エネルギーを使い果たしてしまって、一日の終わりにはたいてい私は疲れ切っていた。私はまた、未知の環境と出合った時の吃音に対する恐怖心から、新しい経験を次々と拒絶していく結果、自分の住む世界の境界線をどんどん狭くしてしまうという代償をも支払っていた〉
要するに、不安と緊張の結果くたくたになり、最も抵抗の少ないところに逃げ込もうとするのが出社拒否というわけである。いわば、回避的態度が性格化していると言っていい。
だが私の見るところ、そこにはもう一つ“反発”もあるようだ。マレーの言をさらに引けば、
〈どもりの人は普通に話せる人と比べて、特に賢くも鈍くもない。どもりの人と普通に話せる人とについて多数の抜きとり調査をすると、IQ値やその他の能力適性の分布には両者間でまったく差が出ない。どもりの人はよく「分かりません」などと言って、話さなければならない場面を避けることがあるので、時には血のめぐりが悪いように見えることがあるかもしれない。私自身も若い頃、複雑な質問に答えることにまつわる心の葛藤に耐えられず、よくそれをやったものである。そういう時、たいてい答はよく分かっていた〉
ということなのだ。
拓也という子は、結構誇り高い子である。知能的には自分はいささかも劣っていないと思っている。しかしその対応から、人は自分を“とろい”ように思いなし、そんな扱いをする。その差に我慢がならないのである。
こう書きながら、私の眼の中には憩いの家の子どもたちの顔が次から次へ浮かんでくる。そうなのである、事情はみな同じなのだ。
先に述べたように、施設出の子ども、崩壊家庭に育った子どもは、その歪んだ育ちかたによって、おしなべて対外的な言葉の適応に難があり、対人関係がうまくいっていない。
いわば“表現力障害”によるトラブルによって、傷つき伸び悩んでいるのである。
吃音の子はたしかに多くはないが、表現力障害児の一員と考えれば、典型的ではあっても特殊ではない。
さらに言えば、普通の家庭に育った子どもでも、十五歳で就職した場合、果たして何人が出社拒否症から免れるか。言いかたをかえれば、うちの子ならだいじょうぶだと言い切れる親が何人いるかということだ。
憩いの家の子どもの問題は、決して特殊ではないのである。
我々の社会は、自分たちの秩序や常識に適応できない人間を、とかく「あいつはダメだ」と差別したがる。拓也がそうであるように、差別された者は反発する。だが、反発と回避を続けていれば、結局その人間は差別を引き受けてしまうことになる。
憩いの家の仕事というのは、つまるところその差別を受け入れさせないための指導と言っていい。そして、非行、労働拒否といった差別のボーダーラインにいた子どもの多くを立ち直らせてきた。そのためのノウハウの蓄積は少なくないはずである。何とかしてそれを明かしたいというのが、私の当初の目的であった。
しかし憩いの家では、どのような話の中にも、指導のノウハウに関するような言葉は出てこなかった。そして広岡知彦は、「そんなものがあれば苦労しません」と言った。
考えてみれば、拓也は彼固有の不安を自分で克服しないかぎり会社に行かれないのであって、彼自身にさえ判然としない不安を、第三者が解消してやれるはずはない。
では何があるのか? 三好洋子は、言下に「何もありません」と言った。
「情けないくらい何もないんです。どんなにその子が苦しんでいても、その苦しみを背負ってもやれない。その子の人生を代って生きられるわけじゃありませんから。してやれることは、本当に何もないんです。だから、何より裏切らないために、嘘のない自分を裸のままぶつけるしかない。可愛いい時には可愛いい、憎たらしい時は本当に憎たらしいと、もろに感情を出して……」
事実その通りであった。憩いの家に最も特徴的なのは、実に赤裸な自然な感情の流れと、そのぶつかり合いだったのである。
次に理由なく勤めをサボった時、拓也は早速その洗礼を受けた。いつもの智子さんではなかった。息を飲むような激しさなのである。
「この家はね、どこからかたくさんお金もらってやっているんじゃないの、みんな一生懸命働いてやっているのよ。その中で、仕事も行かずにぐうたらぐうたらしている人には、私はご飯なんかつくって食べさせてやる気ないの。一緒にテレビ見て楽しくしゃべろうなんていう気にもならないの。それでもあなたが仕事に行きたくないっていうんだったら、一人で生活しなさい。憩いの家なんかにいないでちょうだい」
むろん広岡智子には、その時々の拓也のためを考えた計算はある。が、いずれにせよ、それは怒りである。理屈でやりとりできる土俵ではない。あくまで一対一の感情の世界だから逃げることはできない。必ずケリはつけなければならないのだ。
拓也としては、自分の弱さと生きることの厳しさを天秤《てんびん》にかけざるを得なくなるわけである。考えてみれば、彼の弱さを温めないためには、これ以外の方法はないだろう。
憩いの家は、いわば一人称の世界である。それだけに、三人称型の世界である施設から来た子は、最初みな面くらう。なぜなら施設ではそれが当たりまえだった“あいまいさ”が通らなくなるからである。これは、いいかげんな家庭に育った子にも共通する。
彼らとしては「裸にされる」と感じるらしいが、嘘のない感情の世界では、すぐに自分の輪郭がはっきりしてしまう。たとえば、咎めるほどではないにしても、嘘や作意のある言動をとったり素直でない場合には、すぐに「可愛いくない」とやられるのだ。
どんな言われかたをするより、子どもたちにはこれがこたえる。付着している精神的な汚れを落とすには、これもいい方法だろう。
憩いの家に入った拓也の当初の姿勢は、児童相談所の保護所にいたころのそれと、あまり変わりはなかった。
普通の子は、良きにつけ悪しきにつけ、生地をさらけ出して伸び伸びとしてくるものだが、拓也は変に格好をつけていつまでも堅かった。敏感な子どもたちは「何か違う」と違和感を持つ。心が通じ合わぬまま、拓也はよく佐藤昭夫と喧嘩していた。
そんな拓也であるだけに、はじめの一、二ヵ月、広岡智子は「あの子には目一杯ひいていた」という。
「しゃべれない。みんなにとけこめない。自己中心的で評判悪い。そのうえ勤めに行かないで怒られている。まるでいいところないわけです。ですから、そんな拓也にもいいところがあって一緒に暮らせるんだよっていう姿勢をとらないと、その先怒れないんです。仲良く楽しい時間を過ごしたあとだったら、どんなにきつくも怒れますが……」
拓也には、寮母智子が女神のように映った。憩いの家にお定まりのパターンである。
最初は姉とも恋人とも思われるが、やがては鬼のように言われるのが、ここの寮母なのだ。三宿の家の子どもたちから、“ヒットラー”なるあだ名をたてまつられたこともある三好洋子によれば、そのプロセスはこういうことになる。
「自分でも、まるで詐欺師だと思いますよ。ここに来た子どもの生きる場はここしかないわけですから、最初はどうしても優しくなって甘い言葉をかけることになる。子どもたちはその状態に慣れて甘えてきます。これは大事なことなんです。けれど、いつまでもそれじゃいけませんから、そのうちピシャッとはねつけ、最後には『そんなことじゃだめじゃないか、しっかりしろ』といびりまくる。子どもたちにしてみれば、最初はあんなに心優しかったのに、出る時は鬼みたいだと思うでしょう」
むろん、好んで鬼になっているわけではない。自立させるための冷たさ、野生動物の母親が牙をむいて我が子を追い散らす子別れのための豹変と同じなのである。
ただ子どもたちには、胸を焼くようなこの思春期のドラマは、一回しかないということだ。
憩いの家に来た時、拓也は嘘でなく寮母智子を広岡知彦の娘と思ったようだ。そして、夫婦とわかったあとも、「とても結婚しているとは思えなかった」「智子さんはきれいだ」「二十六、七にしか見えなかった」といった言葉を口にし続けた。
三児の母である三十三歳の寮母は、あながち悪い気はしなかったようだ。だが広岡智子は、他の子どもとだったら一緒に行く買物も拓也とは行っていない。はっきりした言いかたは避けたが、その理由は彼の“うっとうしさ”にあったようだ。
「普通の子の場合には、たとえば好意を感じている女の子なんかに対して、『あの子こんなところがいいんだよな』とか『おれ好きなんだ』とか、具体的な話や感情でしゃべるものですが、あの子の場合は具体的な感覚や感情を伴わない決まりきった言葉しか出てこないんです。心に響かない言葉ばかり並べるところがあって、私に対してもそうなんです。おとくいな話といえば、変におとなびた軍隊や革命の話ばかりですし……」
彼の言うことに感情的な表現がないことは、私も感じたことだった。この不思議さは、かなり私を考えこませた。そして気づかされたことは、我々があたりまえのように考えている感情というものも、やはり育てられるものではないかということだった。つまり、拓也には感情が育つ場がなかったのではないかということである。
彼の得意な話というのは、残念ながら私は聞いていない。ただ、殺人未遂とか刑務所とか人の意表を衝《つ》くようなことを言うことについて、K中央児相のI所長はこう言ったものだった。
「あの子は、本を読んで自分が気に入ったところがあると、その情報を絶対視してしゃべるところがあって、時々びっくりするようなことを言うことがある。それほどわかっていないくせに、格好いいと思うと自分の意見にして断定的な言いかたをするんです」
それについては、広岡知彦も同じように苦笑した。
「実にちぐはぐで、左翼の話も右翼の話も同じような観点でしゃべるんです。まるで意味はつかめていないんですが、共通項を探すとすれば、権威というか力のあるものに対する憧《あこが》れみたいなものがあるようです」
私が奇異に感じた彼の“自分”という言いかたについては、子どもたちはもっと遠慮がなかった。面と向かって、
「拓也君は面白いね、自分は自分はって言うんだよね」
と言ったりしている。が、そう言われても彼は“自分”をやめていない。いわば信念をもって使っている感じなのだ。
そう言い始めたのは児童相談所にいたころから、と彼は言ったが、私が確かめたところ所長もUさんも、保護所に特にそういう言いかたをするところはないと否定した。
おそらく、この“自分”も本からのものだろう。軍隊や革命に関するものが好きで読むうちに、自分という言いかたをする人物のストイックな勁《つよ》さに惹《ひ》かれ、使うようになったのではないか。広岡知彦が言うように、彼に力に対する憧れがあるとすれば、この想像もまんざら外れてはいまい。弱い自分を意識するからこそのツッパリである。
また、さらに想像すれば、彼の力による変革への共感は、自分をいじめ続けてきた学校に、そのバネがあるとも考えられる。
ともあれ、そんなふうに格好をつけていたのでは、本当の強さを身につけることは難しい。彼の課題は、まず自分をさらけ出すことだった。
もしその立場にあったら、多分私は拓也に「おまえの着ている鎧《よろい》はどのくらいおかしいか」と説明したことだろう。だが、憩いの家ではそういう指導はしない。自分自身が脱ぐ気にならないかぎり、大人の言葉ぐらいで脱がせられるものでないことを知っているからだろう。
子どもを育てた経験がないからかもしれないが、私はこの違いを非常に大きく感じた。そしてもし、親や教師が私がしたかもしれないことを指導と考えていたとしたら、そこに問題があるのではないかとも思った。
その鎧を脱いだわけではないが、拓也が生地を出すようになったのは、ほんのちょっとしたきっかけからだった。
吃る子は絶対と言っていいくらい電話に出ない。以前からそのことを気にしていた広岡智子は、兄の家に行って憩いの家を空《あ》けたある晩、電話口に拓也を呼び出して話をした。そして最後に受話器に唇をつけて鳴らし、
「いまの音何かわかる? 電話のキッスよ。拓也君もやって」
と言った。「ええっ」と拓也は絶句し、明らかにドギマギしていたが、「どうしたの、やんなさいよ」と促されて、無器用に受話器に音を立てた。
広岡智子としては、ふとした思いつきのふざけにすぎなかった。しかし、その翌日から拓也の目は変わってきた。
「それ以後、私にまとわりつくようにべタベタし始めて、生《なま》の声を出すようになりました。そして私の部屋に来て、必ずそれが癖の『話してもいいですか』という断わりを言って、以前つき合ったことがある女友だちの話をしたりするようになりました」
ベタベタするというのは、後に述べるような“幼児返り”現象なのだが、拓也のように母親と切れることなく育てられた子どもまでそうなったのは意外だった。
最近は遅れているようだが、十七歳という年齢は、普通なら母親離れを完了している年頃である。おそらく、頼れる母親、甘えられる母親を持たなかった彼は、自分でも意識していなかった母親への依存欲求を、広岡智子に求めたのだろう。
同時にそれは、これもお定まりのパターンである、寮母に対する一種の恋愛感情と重なっていた。
ともかく拓也の寮母に対する傾斜は、瑠美や沙織から「拓也君は智子さんが好きなんだから」と囃し立てられるほど、生《なま》のかたちで噴出した。昼になれば定期便のように会社から寮母へ電話し、やがては広岡知彦を前にして、
「自分は智子さんが好きです。智子さんと話すのが生甲斐です」
と、あからさまに言うまでになったのである。
広岡夫妻には、知人《ともと》君、知之《ともゆき》君、杏子《きようこ》ちゃんの三人の子があり、ともに憩いの家の一員として暮らしている。昭和五十九年当時、長男知人君は六歳だった。
ある日、午前中取材に訪れた私は、その子どもたちの元気のいい声のないことに気付いた。聞けば、保育園に行っているとのことだった。
「保育園?」
そのことの意味がよくわからないまま、私は聞き返した。
「ええ、ここの事情を福祉事務所に話して、特別に認めてもらっているんです。そうしないと、五人の子どもたちに対して寮母として充分なことができないし、体ももちませんから」
広岡智子の、いつもと同じ明るい声を耳にしながら、私は何とも言うことができなかった。最近の母親であれば、三人の子どもを育てるだけでもノイローゼになりかねない。その上さらに寮母として五人の子どもをみているのである。それだけでも私は、感心を通りこして驚嘆していた。それが実は、我が子を保育園に託《あず》けてまで行われていたのだ。
彼女は昭和五十年春からボランティアとして憩いの家に関わり、五十二年広岡知彦と結ばれた。だからこそできるのだろうが、それにしてもなみたいていのことではない。にもかかわらず、彼女はこう言うのだ。
「経堂のほうに来る子はかわいそうだと思います。三宿の家でなら、三好さんにストレートに甘えをぶつけられますが、私の場合は三人の子の母であり妻であるわけですから、子どもたちはどうしても遠慮を感じてべタッと甘えてこられませんから」
なぜ、そういう言葉が出てくるのか。憩いの家では、他の施設では抑圧されている“甘え”を自立に必要なプロセスとして許容しているからである。
甘えというかたちでの母親への依存が、子どもの精神的自立と密接な関係にあることは前にも触れた。実を言えば私は、精神分析学者が言うその説には、いささか懐疑的ではあったのだが、事実はやはりそういうものらしい。
広岡知彦によれば、憩いの家に入って来た子どもたちは、心を開いてからの二、三ヵ月の間に、ほぼ例外なく“幼児返り”、いわゆる退行現象を見せるという。
これは、私が知っていた退行現象の意味をかなり超《こ》えていた。私が理解していたのは、幼児期、下に弟や妹が生まれ、母親がそちらにばかり手をかけた場合、その子は母親の愛情をとり戻すため、幼児に返ったような言動をとるというものだった。
そこで私は、憩いの家の子のエージにそういう言動が出るとは思われず、もっぱら精神的な動きと受けとっていた。しかし、広岡知彦が言う現実は、そうではなかった。
「十五歳なら十五歳としての甘えかたじゃないんです。手を触れたり体に触ったり、そんなかたちで甘えてくる。そういう姿を見ていると、幼い時に与えられなかったものを、そのかたちで求めているんだなと思わざるを得ません。ですから、こちらとしてはかなりしんどいところがあります。でも、それを受け止め充《み》たしてやらないと、そこから先へ進めないというドロドロッとしたものを根深く持っている子が多いんです。
この場合、やっかいなのは男の子です。なぜなら、母性への憧れと異性に対する関心が重なり合って出てくるからです。普通ならその年になると母親離れして、関心ははっきり異性に向かうんですが、家庭のない子の場合は、そこまでずれ込むんです。その面では、経堂より三宿のほうがはるかにたいへんですよ」
広岡智子が言うように、経堂の子どもにはどこかに遠慮があるが、三宿の三好洋子は独身である。事実彼女は、寝ているところを男の子に起こされ、“一緒に寝てくれ”と言われたことが一度ならずあったという。
そのベースにあるのは、“母親に抱かれて寝たい”という欲求と同じものと見ていい。そうでなければ、いかに子どもでもそんな言葉は口にできない。ただ、難しいのは、その子には“三好さんが好きだ”ということしか意識されていないということだ。その退行を受けとめてやりながら、自分でもわからない“好きだ”の本質を解きほぐし、心にわからせて卒業させる。これは大変な作業である。
退行する必要がある子が退行しなかった場合、それは必ず先へ行って出る。十五、六歳の子にベタベタされるのは何とかなるが、二十歳《はたち》を越えて退行したのでは自立どころの話ではなくなる。また、昇華されない退行は、屈折した別のかたち、非行や性犯罪として噴《ふ》き出すことも多い。
そこで、退行を必要としている子は、こちらから退行を引き出してやらなければならないというのが憩いの家の認識になっている。つまり、あえて甘えさせ、しんどい思いを引き受けているのが憩いの家の寮母なのである。
そのようなありかたは、必然的に、三好洋子なり広岡智子なりを独占しようとする子どもたちの“取り合い”の問題を生む。
三宿の家の場合は、それをストレートに出せることと、男の子の寮母に対する感情がより恋愛的な傾きが強いこともあって、かなり激しいものがある。一方経堂のほうは、ストレートに出せないことが、屈折した難しさをもたらす。
「広岡が二週間ほど入院したことがあるんですが、その時の子どもたちの甘えかたというのは、ちょっと驚くぐらいでした。瑠美と沙織が私と一緒に寝るといって、きのうはあんたが寝たから今日は私だと、布団の取りっこをするわけです。また裕治なんかも、私が布団を敷くとドタドタと入って来て、私と三人の子どもの間で絵本なんかを一緒に見ていました。ここの男の子は、私にしなだれかかってくることを自制しなければなりませんから、せめてもとそんなかたちになるんです」
そして経堂の家の場合、取り合いは仲間同士の間だけでなく、広岡夫妻の実子にまでおよぶ。
「知人や知之は、人から兄弟はと聞かれると、『お兄ちゃんやお姉ちゃんがいっぱいいる』と答えます。でも、そのお兄ちゃんやお姉ちゃんは、必ずしも彼らを可愛がってくれているわけではありません。それぞれが自分のことでせい一杯ですから、とかく『うるせえ』『あっちへ行ってろ』となります。でもそれだけじゃなく、私の愛情を最も濃く受けていると思うんでしょうね、そんな子にも嫉妬して、隠れたところで意地悪するようなことも少なくないんです」
その結果、夫妻としては肌に粟《あわ》を生じるような事件も起こっている。
昭和五十七年の初夏、先の岡裕治が入ってきて間もなくのことだった。夕方、広岡智子は、当時二歳の知之を寝かしつけ、長男知人の手を引いて買物に出た。
その途中、仕事を終えて帰ってくる裕治と会った彼女は、「知之が二階で眠っているから、泣いても放っておいていいわよ」と言って別れた。
戻ってみると、裕治はテレビを見ており、二階は静かだった。彼女はそのまま夕食の仕度を始め、一段落した八時すぎ、知之を見に二階へ上がった。が、ベッドに知之の姿はなかった。
家の中は大騒ぎになった。彼女は誰よりも先に裕治に、知之を見なかったかと聞いたが、彼は「ううん、知らない」と答え、自分も顔をこわばらせて家の中から外を探しまわった。その時、来ていたボランテイアの人が、
「そう言えば、さっき商店街でパトカーが、三歳ぐらいの子を保護していますとスピーカーで流しながら走ってましたよ」
と言った。広岡智子は自転車で駅前の交番へ走った。すでに北沢署に送られていたが、保護されていたのはやはり知之だった。近くの商店主が、ヨチヨチ歩きの子を見咎《みとが》め、抱いて交番につれて行ってくれたのだった。
「いったい、どういう母親なんだ」
彼女は警察官から、さんざん油をしぼられた。保護されたのは五時すぎ、駆けつけたのは九時近かったのである。もし交通事故にでも遭《あ》っていたら……、考えれば気が狂うような話である。警察官に怒られながら、彼女は泣きたいくらい安堵《あんど》していた。
いったい、これはどういうことだったのか? やがて明らかになった事実は、テレビを見ていた裕治が、二階から泣きながら降りてきた知之に、「うるさい」と長靴を履《は》かせて外に出したということだった。
裕治は乳児院から施設を転々として育っている。その環境がつくった他人への冷たさもあるが、やはり「いなければいい」という思いが、潜在的にあったということだろう。
そんなことを経験させられながら、なお広岡智子は、「退行現象を引き出してやれないということは、自分に力がないということになるんじゃないかと解釈している」と言うのである。
寮母へのいささか常軌を逸した甘えとしてだが、拓也は生地を出すようになった。だが、それに伴って彼の出社拒否がおさまったかと言えば、そうではない。
私が初めて憩いの家を取材に訪れた昭和五十九年十一月末、彼は四日間会社を無断欠勤していた。
しかし、朝は定刻に出かけ、昼にはきちんと寮母にラブ・コールをかけ、夕方はいつもの時間に帰って来ていたのである。誰も、サボっていると気付かなかったのは無理もない。それがわかったのは、会社からの電話だった。
その四日間、彼は小田急沿線の街や新宿周辺を、ただぶらぶらと歩いて過ごしていたのである。
そんなことが発覚しないわけはない。いったい何があって行かなかったのか、その先に何を考えていたのか? 誰しもそう思うところだが、その詮索《せんさく》はあまり意味がない。
後に私が質《ただ》した時の答には、理由と言える理由はなかった。
「仕事は全然楽しくありませんでした。でも生きていくためには働かなければならないのはしかたのないことで、それはわかっているんだけど、電車に乗って新宿へ行くまでの間に行くのが嫌になって、会社には行かずに自分の知っている場所を歩いたりして、一日つぶしました。でも、一日休むと翌日も行きにくくて、それで四日間休むことになって……。社長はとてもいい人なので、そのことはやっぱり自分の勝手というか、だらしなさです」
おそらく、仕事の上のコミュニケーションで何かひっかかるところがあったのだろうが、本人もそれを言わないのは、結局子どもじみた回避であったことを自覚しているからだろう。
むろんそれ以前にも、理由をつけては出社拒否をやっていた。そして彼は、給料が安い、仕事が自分に合わないということを、口実のように言い続けていた。だが給料の問題は、広岡知彦にきちんと計算して説明され、決して安くないと納得せざるを得なかった。
残るのは仕事が合わないということだが、これについては彼には言いづらいところがあった。その仕事に就《つ》く時、彼は「一年間は絶対に辞めません」と大見得を切っているからである。
ではあったが、この時点で広岡知彦は「本人をあまり追い込んではいけないから、辞めたいと言うのなら転職させてもいい」と、スタッフと話し合っている。
日本の社会は、とかく転職をよく言わない。ましてこういう子どもたちであれば、やはり腰が落ちつかないと言いたがる。が、憩いの家の場合、子どもたちの転職は必ずしも否定的には見られていない。
十五歳の子どもが選んだ仕事が、そのまま一生続いたとしたら、それは万に一つの幸運か、よほど意欲のない人間だったと言っていい。自分に適した仕事に就くまでには、それなりの試行錯誤は必要であり、許されて当然だろう。
その意味から憩いの家では、かたちとしては働いていても、高卒年限の十八歳までは、社会に自立するまでの実習訓練期間と見るべきだという立場をとっている。
もっとも、社会常識を欠いている彼らは、あたりまえの対応ができない自分を棚に上げ、当然の注意を誤解したりして「辞めたい」と言う場合が少なくない。つまり、慣れてみれば何でもないことが多いだけに、「辞めるな、やり通せ」と言うわけである。
ちなみに憩いの家のスタッフは、午前中に電話が鳴ると、みな反射的にびくっとするという。「また行っていないのではないか」というわけである。
そして、無断欠勤やトラブルを起こした折には、ひたすら会社側に詫《わ》び、理解を求める。その姿は、できの悪い子を持った親のそれとまったく変わらない。
私自身も、三宿の家にたまたま一晩だけ泊りをやった朝、「まだ来ていないんですが」という電話を受けた。連れて行った子はわかっている。受話器を手に、やはり何度も頭を下げていたものだった。
さいわいなことに拓也は、その週末迎えに来てくれた社長とともに出社し、また勤められることになった。
日曜日の夕食後、広岡知彦は、結局どういうことだったのか、どうしたいのかということを拓也と話し合った。はっきりとした反省の言葉は出てこなかったが、来年二月までは行き通すことを、彼は約束した。だが、おかしいのはここからだった。
彼は入社する時の約束として、毎月通常の休みの他に特別の休みを一日もらうことにしていた。そして前から、十二月三日には広岡智子と高尾山に行きたいと言っており、その許しは得ていた。しかしその三日は、四日間無断欠勤し、これからはきちんと出ますと約束した初日である月曜日に当たる。
そこで、いかに毎月もらっている休みでも、今回は事情が違う、出勤すべきだと広岡夫妻は言った。ところが彼は、社長と一緒に会社に行った日、月曜日は休むと主任に言って承諾を得ているから、やはり休むと言い張った。
広岡知彦は、なぜそうはいかないかを、噛んで含めるように説明した。要するに、
「その約束というのは、君がちゃんと勤めた場合の話であって、四日間休んだことで事態は変わっている、いわば仕切り直しになっている。社会の約束ごとというのは、約束した時点からのことが守られていなければ、生きてこない。君のほうでご破算にしてしまったのだから、それはダメだよ」
という道理を言ったわけである。どう考えてもノーと言える話ではないが、それに対して彼が言った言葉は、
「そう言われても、自分は行かないと思います」
というものだった。実におかしな言いかただが、行かないということである。
「僕の言うことが違っていると思うのか」
広岡知彦はそう尋ねた。
「広岡さんの言うことは、間違っていないと思います。でも……」
「でも、どうなんだ?」
「行かないと思います」
「いやだからいやでは通らないよ。本当に主張するんなら、こういう理由で行かないということを、自分の頭で考えてはっきり言えなければダメだ。それじゃあ社会人として通用しない」
「…………」
こうして、午前一時半まで奇妙な問答が続き、拓也は一応行くと言った。
月曜日、たしかに彼は朝八時に起きて出かけて行った。だが会社には行かず、新宿をぶらついて帰って来た。
これは、いったいどういうことか。その折広岡知彦にもほぼ同じことを言ったようだが、彼は私にこう答えた。
「広岡さんの言うことは正しいし、その通りだと思いました。でもあの時は、その通りにしたら屈服しちゃう感じで、そこで折れたら、自分は自分だとそれまでやってきたことが全部否定されてしまうような気がして、聞けませんでした」
おかしな鎧を着ている理由は、こういうことだったのである。
そのいきさつと結果には、私にはそれでいいのかと思うところがあった。しかし、広岡知彦の言葉は淡々としていた。
「子どもたちは自分を正当化しようと、妙なことを言ったり、とっぴょうしもない行動をとったり、可愛いくないことをたくさんやります。そこで、時には膝づめで話し合うことになります。その時、子どもたちはだいたい『これまでこんなに話したのは初めてだ』と言いますね。それまではみな『おまえとはいくら話してもダメだ』とか『へ理屈ばかり言う』と、途中で切られたというんです。そして、その時にはウンと言えなくても、そこで大人《おとな》の社会というのはこういう論理で動いているのか、こういうことを考えているのかということを知るわけです。反撥はしているけれど無駄には聞いていない。それが頭のどこかにでも残っているかいないか、この差は大きいと思います。まあ、言ったことがすぐに生きてくることは少ないですね。その場での効果を期待したら、フラストレーションを起こしますよ」
たしかにその通りに違いない。だが、俺にはそうはできない、と私は思った。そして、そんなふうに我が身に引き較べた時、まさしく目から鱗《うろこ》が落ちるように、「そうか」と思い知らされるものがあった。
いったい、なぜできないと思ったのか。性格的なものもあるだろうが、実のところは大人としての“面子《メンツ》”だろう。
広岡知彦があそこまで淡々と語れるということは、いかに面子と無縁であるかということだ。そこには彼の性格もあるだろう。が、大人の面子などというものは、所詮子どもに見すかされるものだと知っているからではないか。
普通の声で言って聞かない、そこで大声をあげ、さらにどうしても聞かせようと高圧的な手段をとる。それは、どこまで教育であり、どこまで面子かということだ。
他人のことを言っているのではない。もし私に子どもがあったら、やはり面子で怒鳴る父親になっているのではないかということだ。
子どもに舐《な》められるというのは、尊敬される人間性を持たないということであって、メリハリの問題などではない。彼らは不思議としか言いようのない嗅覚で、タテマエや面子を見破り、大人の質を嗅ぎ分ける。
たとえば、そうする必要があって、ある子どもを無視する態度をとっている寮母に、
「智子さん、広岡さんみたいに心を広く持たなければダメでしょう」
などという可愛いくない科白《せりふ》を吐く子がいるというのが、その証拠と言える。
遅まきながら、私がその“面子”に気づいたのは、昭和五十九年の暮れであった。そしてその頃から、日本のマスコミは、死を招くいじめの問題に明け暮れたと言っていい。
昭和六十年一月、茨城県水戸市立笠原中二年生村口江梨子さんが、自宅前の電柱で首吊り自殺した時、ある週刊誌は〈いじめがついに自殺者を生んだ〉と書いた。
しかし、六十一年二月までのほぼ一年間に、「生き地獄」の言葉を残して死んだ東京・中野富士見中二年生鹿川祐史君を含めて、五人の子どもがいじめを苦に自殺している。
つまりこの一年間、「なぜそんないじめが起こるのか」「どうしてそうなるまでわからなかったのか」と問われ続けたことは、結局無力だったということになる。要するに、教師たちに子どもが見えなくなっているということだ。
私は評論家ふうにものを言うことを好まないし、また資格もない。ただ、管理を強めたり弱めたりという策をくり返すより、教師自身が教師という面子を捨てるほうが先ではないかということだけは、憩いの家の現実から言えるように思う。
さて拓也だが、十二月三日の件以降、そんな自分自身によって、彼はだんだん追いつめられていったように思える。そして十二月末、ついに印刷会社を辞めた。一年の約束は結局守られず、九ヵ月しか続かなかったわけである。
翌年一月、彼は再び職探しを始め、今度はある電機メーカーに就職した。仕事が合わないというのが、それまでの出社拒否の理由だったわけだが、新しい職場に移っても、彼のサボりたい癖は変わらなかった。
正直に言って私は、拓也や他の子どもたちの動静を必ずしもきちんとフォローしていたわけではない。再取材を始める前はもちろん、始めてからもブランクのほうが多いのである。
『筆は一本箸は二本、衆寡《しゆうか》敵せず』ではないが、雑誌原稿などに追われていなければ生活できないというのが、私の実情であり言いわけなのである。
昭和六十年二月の半ば、広岡智子はかつてUさんが、「拓也は絶対にいつまでもいい子ではいられません。どこかで昔の癖を出しますよ」と言った言葉を、苦く想い出していた。
ついに彼は、お定まりの出社拒否から、以前自分の家でやっていたと同じ状態を憩いの家で再現したのである。いわばそれは、他の子どもたちも巻き込んだ寮母智子と拓也の戦争であった。
二月十三日、水曜日の夜だった。広岡智子は拓也から「頭が痛いのでバファリンをください」と言われた。それだけで彼女は、これは明日休む気だな、と直感した。
おかしな話で、夕食が終わるまでは元気だったのである。「それじゃあ早く寝なさい」と彼女は薬を渡し、拓也はまだ九時だというのに床に就いた。これも、休むときのいつものパターンだという。
翌朝六時、案の定拓也は寮母の部屋のドアをノックし、「熱があってぐあいが悪いから、今日は休みます」と、ことさらと見えるドロンとした目をして言った。
やっぱり、と思ったが、ことによれば本当かもと彼女は拓也の額に手を当てた。だが、事実はやっぱりのほうであって、熱があるとは感じられなかった。そんな場合でも、かつては休ませたこともあったが、もはや許すまいと思っていた彼女は、きっぱりと言った。
「たいしたことはないようね。私としては行ったほうがいいと思うけど、でも決めるのはあなたよ」
「ハイ」
拓也は、ばかにはっきりした返事をした。あの返事からすれば行ったかな、と七時ごろ広岡智子は階下へ降りて行った。ところがその拓也は、パジャマを着たまま食事をしていた。熱があってぐあいが悪いはずの人間が、昨夜の残りの豚カツの他に缶詰まで開けて、朝から健啖《けんたん》ぶりを発揮していたのである。その姿に、寮母の怒りは爆発した。
「ご飯なんて食べないでよ。ご飯食べるのはこれから仕事に行く人よ。パジャマなんか着たままご飯食べないで!」
そう言われながらも拓也は目の前のものを平《たいら》げ、ひどく乱暴に食器を洗った。
「お皿なんかに当たらないでよ。それから、ぐあいが悪くて休むんなら二階で寝てなさいよ。うろうろしないで」
拓也は足音荒く階段を上がり、ひどい音を立ててドアを閉め、なぜか鍵までかけて部屋にこもった。
その日一日、広岡智子は不愉快だった。そして、夕方帰って来た子どもたちに、その不愉快さをことさら増幅して表現した。家の中で起こったことは、すべての子どもを巻きこんだかたちで解決をはかるのが、彼女の流儀なのである。
「なあに、拓也君またやってるの、よしあたしが行ってくる」
瑠美と沙織は拓也の部屋に行き、「智子さんをあんなにイライラさせて、可哀そうじゃないの」と、拓也をなじった。
「うるせえ、バカヤロー、てめえなんか黙ってろ」
拓也は仲間にまで悪態をつき、ドアを蹴とばしたりした。これまで見せなかった家庭内暴力時代のどす黒い生地が、ついにむき出しになったと言える。
ちょうどそのころ、経堂の家は新たに三人の仲間を迎えていた。その一人、五日に入ってきたばかりの由里は、事情を知らないまま拓也の部屋に食事を運んでやろうと考え、本人のところに聞きに行った。が、その思いやりに対して、拓也はドア越しに怒鳴った。
「智子さんに言ってくれよ。よくそんな嫌味が言えるなって」
むろん広岡智子は、意図的に拓也を追い込んでいるわけである。彼女は二階に上がって行き、さらに追い撃ちをかけた。
「私はあんたのお母さんとは違うのよ。仕事も行かずに家で食っては寝食っては寝してテレビばかり見ている息子に、勝手なこと言われて物なんか投げつけられて、それでも我慢しているようなお母さんとは違うのよ。仕事にも行かず、パジャマ姿でご飯食べてるような姿には我慢ならないの」
ふてぶてしく座り、上目づかいに暗い目を光らせて拓也は吠えた。
「仕事仕事って、そんなに仕事が大事なのか。世の中に、仕事しか大事なものはないのか。もっと大事なものだってあるだろう」
「仕事の鬼みたいな人間味のない人にだったら、仕事だけが人生じゃないって言うわよ。だけどあんたみたいな人には、それしか言えないの。仕事して生きていくのが基本なのよ。仕事がそんなに大事かって言うんなら、一人で外に出てやりなさい。ここで一緒に暮らしている以上、あんたのような態度は許せないのよ」
そんな拓也の、人が変わったような顔つきや態度を見て、初めて広岡智子は「Uさんやお母さんが見ていた拓也の姿というのは、こういう姿だったのかとわかった」と言う。
その状態のまま、拓也は翌日も会社を休んだ。タテマエとしては風邪をひいていてまだぐあいが悪いということだが、もはやその理由は通用するものではない。それだけに寮母との戦争は激化し、絶縁宣言をするまでになった。
「自分は風邪をひいてぐあいが悪かった。だけど智子さんはそれを信じなかった。だから智子さんとの人間関係はもうおしまいだ」
「なに言ってるの、サボり癖はわかっているんだから。おしまいで結構。だいたい、あんな素敵なUさんみたいな人を、迷惑だ何だとボロクソに言ってたような人間なんだから、どう思われたって何とも思わないわよ」
どうもこの時の広岡智子は、拓也と感情的に対等になってやり合っていたふしがある。そんな彼女に対して広岡知彦は、「君はいまや拓也の母親になっちゃっているよ」と、この問題から身を退くように言った。
むろん、拓也の風邪は口実にすぎない。いったい、彼のツッパリは何だったのか。
彼は、会社に行かれない自分を糊塗《こと》するために、会社に行きたくない時は休んでもいいはずで、それは格別非難されることじゃないという論理を、以前から肚《はら》に持っていた。「仕事より大事なものだってあるだろう」というのは、その表現なのである。
たとえば彼は、四日間会社をサボって発覚した時でも、いつもと同じようにホールでの時間を過ごそうとして寮母に怒られている。
「よくここで新聞なんて読んでいられるわね。ふつうの人なら顔も出せないはずよ。こっそりと自分の部屋に入っているのが本当なのよ」
というわけである。この事実から彼女は、拓也はそんなことも理解できないのだと言う。しかしそれは、あながち非難されることじゃないという論理を押し通そうとするツッパリと言えなくもない。
おそらく自分の家では、絶えずそれに類した論理で我を通してきたのだろう。自分は自分だと通して来たというのは、そういうことと考えていい。そして今回、その論理をもって開き直った。広岡知彦の言うように、それは“最後の打ち上げ花火”だったのである。
金曜日のその夜、経堂の家は、新しい仲間、謙一を迎え入れていた。年は十六歳だったが、体格も人間としての力も、拓也よりはるかに上だった。来た早々のトラブルにもかかわらず、彼は拓也を部屋に訪れ、ホールに誘い出してきた。
「ひどい言いかたをしたりして、どうもすみませんでした」
拓也は寮母に頭を下げた。新入生の謙一のために、広岡智子も多くは言わなかった。
しかしこれは、食事をしたいための詫びであったようで、翌日も彼は会社を休んだ。かなりしぶとく頑張っているのである。当然、寮母智子の弾劾《だんがい》は激しく、彼はパジャマを脱ぐこともできず、シャワーを浴びることも禁じられた。
その土曜日の夕方、広岡智子が予想した通り、拓也は改めて寮母の前で反省し、謝《あやま》った。どこまで本気の反省かわからないが、これ以上は続けられないということだろう。
そして、晴れてシャワーを浴び、仲間五人が楽しく語らっているホールに顔を出した。が、いかにそのまわりをうろうろしてみても、誰からも声をかけられず、瑠美からは、
「体のぐあい悪いんでしょう、寝てなさいよ」
とあしらわれ、佐藤昭夫には、
「何してんだよこんなとこで、おまえなんか寝てりゃいいんだよ」
と挑発的に皮肉られた。結果は昭夫との大喧嘩になり、「やめてくれよ」という謙一の仲裁で、独り二階へ戻らなければならなかった。
四面楚歌《そか》のその状態は、日曜日の朝になっても変わらなかった。久しぶりに服を着てホールに降りた拓也は、つとめて日常的な態度で、「どこか遊びに行かないか」と言った。
「私たちは約束があるからね」
瑠美と沙織は顔も上げずに言った。
「誰かいないの」
上目遣いに振り向いたのは、昨夜の喧嘩のほとぼりがまだ尾を引いている昭夫だった。
「おれは予定がないよ。だけど、おまえみたいな、女みたいにグジュグジュした奴と付き合う気はねえよ」
そして今度は、表へ出てのとっ組み合いになった。
月曜日、拓也は定刻に出勤した。戦争の後遺症は一週間ほど尾を引いた。気にしないように振舞っていたが、明らかに拓也は落ちこんでいた。
彼がそれでおかしな鎧を脱いだとは、私には思えない。だが、その鎧がどんな作用をしたかはわかったようだ。以後、彼はほとんど休まずに出勤するようになり、寮母との日常も旧に復した。また、あのトラブルがあっただけに、仲間たちは彼に温かかった。
楽しいこともトラブルも、すべて子どもたちを巻きこんで展開するという広岡智子の流儀もあるが、この“育ち合い”は予期せぬ効果をもたらしたと言える。
拓也はなお「給料はいいが仕事が合わない」と言ってはいたが、従来のような出社拒否はしなくなった。その状態が三ヵ月続いたところで、広岡知彦はもうよかろうと判断した。
こうして、昭和六十年六月二日、彼は部屋代二万円の四畳半のアパートを巣に、社会に飛び立った。
幸いにして広岡知彦の判断は裏切られなかった。当初は欠勤がふえたが、尻上がりに良くなり、やがて皆勤の月も珍しくなくなった。
とはいえ、決して安心というものではなかった。アパートに出てからも憩いの家に入りびたり、これではいけないと冷たくしている寮母の心も知らずにひがんでみたり、妙にツッパッてみたりと、自己中心的な癖は残っていた。
だが、私の取材の最後に、彼はこう言った。
「ふり返ってみれば、すべて自分が弱かったからだと思います、同じ状態の中でも妹はちゃんと学校に行っていますし、瑠美ちゃんの話なんか聞けば、自分の場合なんか比べものにならないくらい厳しいところを通ってきています。憩いの家のおかげでここまで来られましたが、もっと頑張らなければと思います」
そして、昭和六十一年三月、彼は定時制高校を受験して合格。あれほど嫌っていた学校へ自らの意志でトライし、新たな社会の広がりの中へ羽根を拡げようとしている。
第四章 反抗の震源
たしか二度目の取材の時だった。話を聞いている最中に電話が鳴り、広岡智子が受話器を取った。そのやりとりに、広岡知彦の表情が動いた。彼女の口調が、それまでとは打って変わって厳しくなっていた。
「……何やっているのかわかっているんだから。そんなことだったら、入るところに入ってもらわなければしょうがないわね。とにかく、すぐいらっしゃい……」
入ってもらうとは、やはり察した通りだった。
「夏までここにいた千鶴子という子なんですが、問題を起こして、いま試験観察中なんです。それだけに、昼間の勤めはちゃんとやっているんですが、夜の生活がおかしくなっていて……」
広岡知彦の話は、その夏に溯《さかのぼ》った。
昭和五十九年七月二十一日、経堂の家から三人の女の子が失踪した。伊沢千鶴子は、自室の窓ガラスに“さがさないで”と白いスプレーで書き、「智子姉さん、私は一人でやってみようと思うのです」という手紙を残していた。
深田沙織は、鏡に口紅で“お母さんのところへなんか帰りたくない”となぐり書きし、森下瑠美の姿もなかった。
広岡智子は、主のいなくなった部屋に立ってその字を見た時の気持ちを、こう言った。
「何のために苦労してきたのかと、口惜しくて、がっかりして、誰が探してなんかやるものかって、怒鳴りたいような気持ちでした」
十六歳の千鶴子は仕事に就いていたが、瑠美と沙織は中学三年生。やがて、脱ぎ捨てられた制服が、経堂駅の裏で見つかった。そして、どこかに一緒にいるらしい三人から電話が入った。だが、その内容は、「憩いの家なんかには、もう帰らないからね」「布団も洋服も捨ててください」という、ひどくツッパッたものだった。
年頃の女の子三人がいっぺんに欠けた経堂の家は、急にガランとした感じになり、可愛がっていた中学生コンビに裏切られた寮母は、料理をつくる姿にも張りを失っていた。
そんな寮母の横に来て、桑田拓也は精一杯のなぐさめを、憤慨の口調に込めて言った。
「瑠美さんや沙織さんは絶対に許せません。智子さんがあんなに一生懸命やってきたのに、裏切って。もし平気な顔で帰って来たら、ただじゃすましません」
あの、ツッパッた電話からすれば、彼女らが帰ってくるかどうかはわからない。それでも、三人の部屋は空けておかれた。スタッフには、千鶴子はともかく、瑠美と沙織は必ず帰って来るという確信があったからだ。
誰からも、しばらくは何の音沙汰もなかった。が、八月半ばごろから、夜になると無言の電話がかかるようになった。スタッフが何と言っても答えないが、すぐには切れない。失踪組の誰かであることは間違いなかった。
どうやら、そういうことは以前にもあったらしく、広岡知彦は「いますぐ帰りたくはないが、憩いの家とは切れたくないという気持ちの揺れです」と読んでいた。
八月二十三日、またかと思うその電話が答えた。瑠美の声だった。
「何してるの、帰っていらっしゃい」
と広岡智子は言ったが、瑠美も帰って来たくての電話だった。
彼女は、二人と一緒に二十日間ばかりラブホテルなどを泊り歩いていたが、その状態の中で知り合ったヤクザの下っ端について名古屋に近いT市に行き、スナックで働いていたのだった。
翌日、広岡智子は新幹線で名古屋に向かい、打ち合わせておいた喫茶店で瑠美と会ってつれ戻した。さいわい男からの妨害はなかった。
八月三十一日、沙織からも電話があり、彼女も戻った。しかし、始業式に出たまま、再び沙織は姿を消した。
九月三日、新宿署から電話が入った。デートクラブで働いていた千鶴子が捕まったという報《しら》せだった。
一人だけ戻った瑠美は、何とかして沙織も戻そうと、沙織の仲間から情報を集めるなどして、密かに努力していた。そんな“親分肌”のところがある子なのである。
その沙織も、実は憩いの家に戻りたかった。が、彼女の場合、一人で帰るにはあまりにも敷居が高すぎた。そこで九月二十二日、沙織は登校する瑠美を校門で待ち受けた。
「瑠美が登校していません。朝校門の前で、何人かの女の子が屯《たむろ》していたということで、その連中につかまったとも思われますが……」
M中学の生活指導担当T先生からの電話で、何ごとが起きたのかとスタッフは心配したが、それは間もなくかかった瑠美からの電話で氷解した。
「心配させたかもしれないけれど、沙織と一緒にいるの、いま代るから怒らないでやって、本当に怒らないでね……」
そこまではよかったのだが、それからがいけなかった。憩いの家に帰る二人は、いわば景気づけに電車の中でシンナーをやり、運悪く補導される破目になったのである。
こうして、一緒に家出した三人は、二ヵ月後に奇《く》しくも鑑別所で再会した。
審判の結果、中学生二人は十月半ば憩いの家に戻されたが、千鶴子はそれに先立つ審判で、憩いの家を出て試験観察を受けることになった。
十月七日、千鶴子は新たな就職先であるレストランの、その寮へと引っ越して行った。彼女の場合、社会生活をしていく能力にはさして問題はない。“悪いこと”と切れさえすればいいのである。
しかし、一人になった時間に、いまもって悪い仲間やシンナーと切れていないのだ。そのままであれば、少年院行きもやむを得ない。それだけに気を揉《も》ませるわけである。
その千鶴子は、三十分ほどでやって来た。「おなかが痛い」とかで元気はなかったが、どこにでもいる十六歳の女の子の顔だった。
しかしこの子が、デートクラブで売春していたことは、まぎれもない事実なのである。
もし、この子が自分の娘だったら、俺は何と言い、どうするか……。その答は、どうしても浮かんでこなかった。
アロハ風のシャツに、だぶついた白い綿のスカート。それが流行なのだろうが、私の目からすれば変に安っぽい感じの服を着た瑠美は、「今日は」と部屋に入って来た。
「すまないね、折角の休みに」
そう言う私に、彼女は照れたような笑顔を向けた。広岡知彦の橋渡しを得て、昭和六十年七月十七日、私は憩いの家で改めて森下瑠美と向き合った。
間近かに接してみれば、暮に見かけた時の印象より、はるかに柄も大きく大人《おとな》に感じられた。身長は百六十二、三センチ、体重は五十四、五キロというところだろうか、ふっくらとした白い肌のせいか、もはやグラマーと言ってもいい女っぽさがあった。
しばらく広岡知彦を交えて雑談したあと、私は彼女を伴って街へ出た。すっかり夏の装いになった商店街に、陽差しは強かったが空気は爽やかだった。
「お店の旦那さんはとってもいい人で、それはいいんだけど、後片づけが完全に終わるのは十一時だから、自分の時間がないのがちょっとつらいんだよね」
瑠美は、そんなさばさばした口の利《き》きかたをする子だった。
その年の三月末、中学を卒業すると同時に、彼女はある日本料理店に、住み込みとして就職した。今どき十五歳の女の子が来てくれるとは、と店の主は感激したというが、彼女は立派にそれに応えて、すでに三ヵ月半になっていた。
顔を合わせた時から、私が瑠美に何より感じていたのは質としての健康さだった。天性の明るさとは違うが、明るいのである。
シンナーで溶けた黒い歯を見せ、すご味の利いた笑いかたをしながらツッパっていた冬の時代の姿は、とくにこの季節だからかもしれないが想像しにくかった。しいて名残りを探すとすれば、少し前かがみに歩く姿勢ぐらいのものだろう。
瑠美は屈託なく、気軽にしゃべった。が、そんな彼女と肩を並べて通りを歩きながら、私にはどこか戸惑っているところがあった。
私の年齢からすれば、瑠美は末の娘といった年頃である。親子と見られてもおかしくはない。だが、黄色っぽく髪を染め、あまりにも今風に派手な格好をした娘は、取材の対象なのである。
私たちは経堂駅から電車に乗った。なぜか私は、彼女のかつての縄張りである経堂の街の喫茶店で、メモ帳を出して取材するのは避けてやりたいと思ったのである。
新宿方向に一つ戻った豪徳寺で降り、私たちは駅前の喫茶店に入った。瑠美はランチ風のものを注文し、無駄な遠慮をすることなく口をつけた。そんな姿を、私はひどく可愛いいと思った。しかし、やがて彼女が語り始めた過去は、「ひとことで言って悲惨」と本人も言う通り、明るい店の雰囲気とはあまりにもかけ離れたものだった。
昭和四十五年三月、森下瑠美は横浜に一卵性双生児の妹として生まれた。兄弟は他に、三歳上の姉がいた。父親は芸能関係の仕事をしていたが、肝臓病を患って職を離れ、生活費は母親がホステス勤めをして稼いでいた。やがて父親はヤクザの世界へ入る。
瑠美三歳の時、両親は協議離婚した。子どもは父親が引き取り、祖母が育てることになったが、その翌年、三つ上の姉だけは別れた母親に引き取られた。
昭和五十年、父親が刑務所に入ったことから、祖母と二人の子どもは渋谷区恵比寿のアパートに移った。瑠美が五歳の頃である。そして昭和五十四年、知能に遅れのあった双生児の姉は、施設に預けられた。
「お父さんは出たり入ったりで、家に長くいることはあまりなかった。はじめお婆ちゃんは『出張している』なんて言ってたけれど、警察の人がお父さんのことを聞きに来たりするので、うすうすはおかしいと思っていた。そのうちお婆ちゃんも隠せなくなって、『お父さんは感化院に入ってる』なんて言ってたね。初めからしょうがない父親なのよ」
瑠美は父親の生きかたを厳しく非難する。そこにまったく甘さはない。またそれは「父親を悪く言いながら自分が悪くなっちゃしょうがないから、頑張らなくちゃ」という、崩れそうになる自分を叱咤《しつた》するものとしても作用している。が、一方こうも言うのである。
「何のかのと言っても、お父さんが一番好き。今でもはっきり憶《おぼ》えているのは小学校の五年ごろ、お姉ちゃんが入った病院に、お父さんと一緒に見舞いに行った時のこと。自動車の中でお父さんの膝で眠っちゃったんだけど、その時のお父さんのやさしさは、思い出しても泣けてきそう。それから、クリスマスのプレゼントにダンプカーのおもちゃを貰ったときも嬉しかった。そんなもの好きだったっていうのは、昔から男っぽかったんだね」
父親の実母である祖母の京子は、浪曲の曲師とされているが、瑠美は浪曲師だったと言う。彼女の話によれば、祖母は東中軒雲月や江利チエミの話などをよくしており、伴淳三郎からは、『お孫さんに何か買ってやってください』と、現金が同封された手紙がきたこともあったという。
子どもの頃から浪曲師の弟子として芸能界に生きてきただけに、祖母は負けん気の強いしっかりした人のようだったが、晩年は足を悪くしていた。
二人の生活は、生活保護によった。小学校の四年生ごろ、住まいは代官山に移り、瑠美はS小学校に転校した。
「お婆ちゃんは足が悪くて出歩けないから、外のことは全部やらされた。学校を早引きして、銀行に行ったり買物に行ったり、そんなことしている友だちはいなかったから、つらかったよね。貧乏だし親はいないし、みんなに馬鹿にされて、ずいぶんいじめられた。いじめられっ子よね。でも誰も助けてくれなくて、そのころから学校は好きじゃなかった。とにかく、よその家がみんなきれいに見えて、親子づれで歩いていたりするのを見ると、たまらなくうらやましかったね」
瑠美が小学校六年生になろうとする春、父親はまた九州の刑務所送りになった。そしてこのころから彼女は、菓子を万引きするなどの問題行動を起こしている。
足の悪い八十歳近い老人と、小学校六年生の女の子が、かつかつ食べていかれるだけの生活を二人だけで生きている。どこからも何の助けもなければ言葉もない。それがどれほど淋しいものかは、想像に余りある。
そして、いたしかたのないことかもしれないが、この二人に福祉がさしのべた手は、祖母は養老院へ、孫は養護施設へという措置だった。が、皮肉なことに、この配慮は逆に二人を追いつめることになった。
祖母は、自分が養老院へ行くことも、瑠美を手離すことも嫌だったのだろう。そこから逃れるために、奇妙な養子縁組をして保護者をつくったのである。
戸籍上祖母の養子としたその男は、瑠美の父親を「兄貴」と呼ぶ人間だった。刑務所で知り合ったということだが、おそらくはその兄貴から「お袋と娘を頼む」と依頼されたに違いない。
昭和五十七年三月、瑠美の小学校卒業を待つようにして、二人は千葉に住むその養子の家に移った。三十五歳のその人には、二十歳の内縁の妻がいた。いかに父親と信頼関係があるとはいえ、赤の他人の家である。居心地のいいはずはない。
その四月、瑠美は千葉市のT中学に入学したが、その時点で学力にはかなり差がついていた。レベルとしては小学校五年程度、とくに数学がだめだった。
そして、入学早々からツッパり始める。当時の気持ちとしては、
「とにかく家の中の生活がいやだった。外に出ても誰も知らないし、淋しくてしょうがなくて、逆にヤケになっていたね。でも、そんな自分を見すかされて追い込まれるのはいやだから、ハッタリかけてツッパって……」
ということだが、親もおらず、勉強もできず、人並みの小遣いもない状態でおとなしくしていれば、まずいじめられるしかない。子ども自身としてそれを免れるためには、ツッパるしかないとも言えるのである。
広岡知彦は、「自分をいじめ続けてきた学校に、お返しをしてやろうというところもあったでしょう」と言うが、たしかにそれもあったようだ。
頭を下げていれば、仲間も学校もどんどんつけ込んできて自分を踏みにじる。しかしツッパリは、たとえ嫌われても“力”として自分を認めさせることができる。その結果、学校や仲間の偽善は暴かれ、「世の中こんなものよ」という論理に立つこともできる。
社会の複雑なメカニズムを理解する力もない弱い立場にいた人間が、一つのイデオロギーなり教義なりを手に入れたとたんに強くなるのと、それはまったく同じと言える。
T中学での、四月から十月までの百三十七日の授業日数のうち、欠席は十七日間、遅刻、早退はあたりまえのせいか、数えられてもいない。十月の時点では、煙草は日に四十本、すでに男を知っていた。
そしてその間、家出、深夜徘徊、喧嘩、シンナー常習、洋服の万引き、バイクの窃盗など、一通りの“ワル”をすべてやり、警察に目をつけられるようになった。
教師との接触は、きわめて薄い。つまり学校はこの子をまともにするための努力をほとんどしておらず、施設に入るしかなかろうと判断していたふしがある。
「番長ってわけじゃないけど、仲間七、八人と一通りのワルはやったね。夜遊びしたり、シンナーやったり、バイクかっぱらったり、その度に補導されて、千葉のポリには睨まれてたね。男知ったのもそのころ、まだ知らないのかなんて言われちゃカッコつかないから、ツッパっただけ。本当は気が小さい自分知ってるから、強く見せようとハッタるわけ」
たしかに、弱いからツッパった側面はあろう。だが、ツッパリはともかく洋服を窃盗するなどのワルは、弁護できるものではない。そういうところは、すぐ調子に乗って雷同してしまう弱さである。ただ、そうしたワルを助長した背景もあったようだ。
父親の姿を通して瑠美はヤクザを嫌っていたが、頼って行った家の主と二十歳の「おばさん」はヤクザの世界の人間だった。本質的には嫌っていながら、彼女もいつとはなしにヤクザ的な感覚や知恵に染まっていたと言える。
しかし、その内縁の妻は、夫のだらしなさと生活苦から、やがて別れると言い出し、またしても祖母は老人ホーム、瑠美は施設という話になった。そして千葉中央児童相談所は、その十月、瑠美を施設に措置することに決めていた。
結果としては幸いだったわけだが、千葉中央児童相談所は、この問題の子と人間関係をつくって指導するという姿勢をとらなかったようだ。おそらく瑠美を、ヤクザの家にいる札つきのワルと見なしていたのだろう。そこで頭から「鬼怒川の教護院に入れるしかない」と決めつけ、彼女にもそう宣言していた。
仲間や先輩からの情報によって、瑠美は教護院に過剰とも言える嫌悪を抱いていた。が、施設送りとなれば、もはや行くところは決まっている。
「このままいれば教護院、もう千葉にはいられない」
昭和五十七年十月、彼女は何のあてもないまま東京に逃げ、代官山にいたころ付き合っていた友だちのところへ転がりこんだ。
警察にまで睨まれている問題児、いかに娘の友だちとはいえ普通の家庭なら迷惑がられる話である。しかし、瑠美の事情を聞いた友だちの母親Hさんは、「そういうことならうちにいらっしゃい。学校は転校して、ここから通えばいいじゃないの」と言ってくれた。
瑠美にとっては、まさしく地獄に仏だった。そして単に言葉だけでなく、瑠美の祖母とは顔馴染だというHさんは、千葉にまで出向いて祖母の諒承を得てくれたという。もっともそれは、Hさんがそう言ったことで、事実かどうかはわからない。
ともかく、そうした手続きを済ませて、瑠美はHさん宅に同居することになり、十一月から区立のM中学に通うことになった。
瑠美のような子に対して、そこまで親身になって保護者となってくれるような人は、まずいなかろう。何であろうと、瑠美にとっては恩人と言わざるを得ない。
しかし、そうであっていけないわけはないが、Hさんのほうにまったくメリットがなかったわけではない。
二つ学年が上のその友だちは、脳に器質的な障害があり、医者に通って薬を飲み続けていなければならない病気を持っていた。それだけに精神的な安定を欠いているところもあり、誰も友だちがいなかった。その意味で、瑠美は願ってもない話し相手というわけである。
また、バーの雇われママをやっているHさんには、娘一人の夜が無用心という面もあり、さらには家の中のことをやってくれる人間がほしかったということもあった。
最初のうちは、自発的に手伝うというかたちで、ほぼ同居人という立場でいられた。が、慣れるにしたがってタテマエは次第に影が薄くなり、やがて無給のお手伝いさんでしかない現実がはっきりした。
「立場が立場だから、言われたら何でもしなくっちゃならないでしょう。それでもう完全なおさんどんになって、友だちからも使いっ走りをさせられるんだよね。だから、内心ではずいぶん頭にきて、つらかったね。Hさんも、はじめのうちは格好いいこと言ってたけど、そのうち、誰のおかげで食べていられるのよ、なんて言うようになってさ……」
そこにはまた、店で使っているバーテンがやってきて瑠美を何とかしようとする、それを友だちが嫉妬するといった、おどろおどろしいこともあったようだ。
後に私は、M中学から瑠美の通学路を逆にたどり、彼女が同居していたその家まで行ってみた。できればHさんに会いたいと思ったのである。
脇に国電の線路、前にビール会社の敷地の崖が迫った細い坂道の途中に、その家はあった。だが、表札はすでに変わっていた。
曇り空の冬の夕方ということもあったろうが、そんな地形のせいか界隈の風景はひどくわびしい感じがした。
三十メートルほどの坂のその入口には、公衆電話のボックスがあり、三坪ほどの公園とも言えない空地には、箱型のブランコが一つだけ置かれていた。
当時の瑠美は、「不安だ」という言葉ばかり口にしていたというが、たしかに、これほど不安な境遇はないだろう。
昭和五十八年一月、ともに暮らしてきた祖母は、千葉の家で亡くなっている。もはや、頼るベき人間は誰もいない。Hさんの家はいやでしょうがないが、そこを出て待っているのは教護院しかないのである。
自分はこれからどうなるのか……、それを思うと泣けてきて、死のうと思ったこともあるというのは本当だろう。
ことによれば、ひとりこのブランコに座って、涙を流したこともあったのではないか。遠くに鳴る豆腐屋の笛の音を耳にしながら、私はそんなふうにも想像したものだった。
M中学にも問題児はいたが、昔からの住宅街という環境のせいか、ほとんどの子は真面目だった。それだけに、瑠美は一目置かれる存在になったが、当初は問題児グループとも接触せず、千葉時代のように啖呵《たんか》を切って喧嘩をするようなことはなかった。
それはひとえに、誰もが敬遠するこの子を自分のクラスに引き受けた担任、ベテランの学年主任M先生の力による。が、それにしてもなぜなのか。しごく当然という表情でM先生は言った。
「自己防衛する必要がないからです。仲間からいじめられたり排斥《はいせき》されたり、学校から白い目で見られたりする情況があるから、そうなるまいと自己防衛的にツッパったり破壊行為をやるわけで、中には刺青《いれずみ》を入れたなんていう子もいました。しかし、私たちはいじめや差別は許しませんでしたし、ありませんでしたから、示威行動をやる必要がなかったわけです。来た当初は、若干《じやつかん》ハクづけの自己PRをしていたようですが」
しかし何より大きいのは、M先生と人間関係ができたことだろう。もっとも、だからといって問題を起こさなかったわけではない。
転校して一ヵ月後には、すぐ返すからと級友から金を借りたまま返さず煙草銭にしており、二月九日には放置されていたオートバイを乗りまわし、パトカーに追われてつかまるという事件を起こしている。
そして二月十三日には、千葉のかつての仲間のところへ家出している。オートバイ事件で叱責されたことが直接の動機のようだが、同居している家がいやでたまらないということもあったようだ。
後の理由はともかく、Hさん宅へ電話もせず、二晩目も男友だちのところに泊ろうとしていたところを、警察官に“保護”された。つまり、Hさんから出されていた捜索願いの網にかかったわけである。
警察の瑠美に対する認識は、ブラックリストに載せられている札つきである。しかし、引き取りに来たHさんが語る、あまりにも奇特な話とその見識に、これほど立派な保護者がいるならばと、警察は何も言わずに瑠美を引き渡した。
「ああいう保護者がいて瑠美はしあわせだ」先生たちが等しくそう思っている状態の中で、瑠美の屈辱感は次第に耐え難いものになった。
二年に進級して間もなく、彼女は担任とともに信頼している生活指導のT先生に現状を訴え、「あの家にはいたくない」と言った。大人に悩みを打ちあけるというのは、生まれて初めてとも言えることだった。
「たしかに相談を受けました。あの子が言うんだから嘘はないと思いました。しかしHさんという女性は、非常にもっともだと思う理にかなったことを言う人で、瑠美に対する愛情も、言葉の端々に滲んでいましてね。だから、最初はちょっとわかりませんでね……」
もたつきの理由を、T先生はそう語った。
その突破口が開かれたきっかけは、意外なところでの、ほんのささいな一言にあった。
当時、品川児童相談所にいた児童福祉司Oさんは、ある日職場のケースワーカーから、
「中学生で、単身生活保護を受けている子がいるのよ」
と聞かされた。昭和五十八年四月、瑠美はHさんからの申請により、生活保護扱いになったのである。
「おかしいわね」
Oさんは首をかしげた。そのような場合、普通は児童相談所の窓口を通るものだが、そのケースは素通りしている。
Oさんは、そのケースワーカーに改めて事情を尋ねた。話によれば、世話をしているHという人は、ちゃんとした生活基盤を持ち、なかなか見識もある女性ということだった。たしかにそういう保護者がいるなら、児童相談所と関わる必要はない。が、さらに聞いてみれば、世話を受けている本人は、そこにいることに不満があるようで、家出などもしているという。
長らくその世界に打ち込んできた人の勘というべきだろう。Oさんは、話としては立派なHなる女性の前歴を調べてみる気になった。そして、資料を一瞥《いちべつ》して目を疑った。
むろん、過去は過去、現在は現在であるが、Hという三十七歳のその女性は、かつて婦人相談所で一時保護の措置を受けており、十年間にわたって生活保護を受けてきた経歴を持っていたのである。
どうもすっきりしない、とにかく瑠美という子に会ってみようと、Oさんはケースワーカーとともに、H宅に瑠美を訪れた。
「その時、玄関に出て来たのが本人で、私たちを家の中に案内してから、お茶を入れて出してくれました。今は普通の家庭の子でも、なかなかできませんよ。千葉からの書類によれば、シンナー常習、バイク窃盗など、一通りの問題行動はみなやっている子ですが、まるでそんなイメージとは違っていました。ほんとうに可愛いい、ナイーブなところのある子なんです。最初はやはり、児相の先生なんか大嫌いという感じでした。けれど、私という人間が変わっているせいか、どうもこれまでの相手とは違うらしいと心を開いてくれましてね。それ以来、私としてはいわばのめりこんで、彼女と気持ちを合わせたいと、あの子の口癖の『言っちゃ悪いけど』なんていう言葉を私も連発しながら、まずは友だちになりました」
むろん、OさんはHさんとも話し合った。だが、瑠美が率直に語った現実を聞いた耳には、立派すぎる多弁は空しかった。また、そのころOさんは、未成年のある女の子から、「Hさんから、一日一万円でうちの店で働かないかと誘われた」という話も聞いていたのである。
恩着せがましく働かせているだけでなく、そんな下心もあるのではないか、もしそうなったら瑠美の一生はメチャクチャになってしまう、そう考えたOさんは、M中学のT先生と話し合い、ひとまず瑠美を児童相談センターの一時保護所に入れることにした。
その措置にHさんは猛反対し、「これでもう瑠美の一生は終わりよ」とまで言った。また、最後になって瑠美も渋った。彼女としては、そこに嫌い抜いている施設への臭いを嗅いで臆したのである。それを決断させたのは、Oさんにつないだ一本の糸のような信頼だけだった。
こうして、昭和五十八年六月十日、瑠美は児童相談センターの一時保護所に入った。なお、ちょうどこの時、父親は刑期を終えて社会《しやば》に出てきていたが、娘の前に姿を現わすことはなかった。
朝から晩まで規則正しい生活をする、瑠美にとっては生まれて初めての経験だった。本人としてはそれなりに努力しているのだが、結果としてはあまりうまくいっていない。
まず、心理的には自分一人の生活をしてきているだけに、集団行動になじめないのである。学校でも“みなと一緒にやる”ことには、とくにかったるそうな態度をあからさまに示してきたのだ。
次に、いわば同類が集まっているということで、シンナーやかっぱらいなどの過去を口にして、ツッパったり威圧したりする振舞いを見せた。なめられまいとする自己防衛である。
集団行動でふてくされた態度をとる、過去のことをしゃべる、ルール違反として正座の罰を受ける理由は、ほとんどそれだった。
当然、評価はよくなかった。ただ、そこで面白かったのは、「急にきちんとするのもわざとらしいけれど、まあがんばって……」という彼女の言葉だった。私はそこに、こうした子どもたちに固有の美意識を見たように思った。
ここで不思議なのは、あれほどHさんの家を嫌っていたにもかかわらず、瑠美は来た当初「私はここを出たらHさんのところへ戻ってM中に通います」と、宣言するように繰り返していることだ。
一つには、養護施設や教護院送りもやむなしという不安を受け入れかけていたからだろうが、もう一つは、M中学を生きるための唯一のよすがのように考えているということだ。小学校から中学一年まで、ただ反発してきた学校が、初めて自分を認めて受け入れてくれた、その思いがどれほど強いかということである。
しかし、そう願いながらも、自分の人生を自分ではどうすることもできない。そのディレンマからだろう、「あの頃は、不安でせつなくて、夜布団に入ると涙が出てしょうがなかった」と彼女は回顧している。
瑠美は、本質的に非常に真面目《まじめ》な子である。上に馬鹿がつくほどとさえ言っていい。その意味で、今の世の中では野暮なほうに属する。
子どもの直感というのは、へたな物書きなどおよびもつかない鋭いものがある。私が唸るように感じ入ったのは、当時一緒にいた子どもたちが瑠美を評して言った言葉だった。
〈田舎《いなか》の子、面白い、冗談真《ま》に受ける、気が強そうだが弱い、口出し多い、物に当たる、嫉妬深い〉
心理学のどんな判定より、これは彼女を言い当てている。とりわけさもありなんと思ったのは〈冗談真《ま》に受ける〉という指摘だった。これこそ真面目さの証左だが、同時に彼女をツッパらせている根にあるものも考えさせる。
最近の子どもたちには、人を傷つけたり脅かしたりするようなことを言っては、「冗談だよ。すぐ真《ま》に受けるんだから」と躱《かわ》すところがある。いや、大人たちにもそういう手合いは少なくない。
そんな卑劣な人の悪さが、何ら咎められることなくまかり通っている状況だからこそ、死を招くようないじめがはびこると言っていい。
瑠美という子は、それをしない。だから、そういう汚ないことに対しては、自分をぶつけてツッパることになる。何を言いたいかといえば、そんな子どもだから、悩み、はみ出すということだ。もっと酷薄な性格なら、問題児などにはならないだろう。
ただ彼女は、そんな自分と向き合い、自分の本質を自覚する経験をしてこなかった。つまり、そうした機会をつくり考えさせる作業を、大人たちは誰もやってこなかったということだ。そこで瑠美は、常に自分という人間の認識で揺れ動き、支点のない言動を繰り返してきた。
そして、そこにもう一つ重なって問題を起こさせているのは、“自由”がわからないということだった。
普通の家庭に育った子どもは、親が口やかましく言う制限や、家庭に入ってくる社会との触れ合いで、自分に許されている自由がどの程度のものか知っている。逆に言えば、耐えることに慣らされている。
しかし、まともな家庭に育たなかった子は、制限される教育がなかったことから自由の許容範囲がわからず、それだけ抑圧と感じることが多くなり、堪《こら》え性《しよう》がない。
瑠美の場合、それが家出になるわけだが、その時の表現は必ず「面倒くさいよ」であった。
児童相談センターでも、それを持ち出した。瑠美に限らないが、不安や不満は仲間を語らい易い。七月二十七日夜、仲間二人と話しているうちに、「何だかんだと面倒くさいよ、脱走しようか」と半ば冗談で言った話にはずみがつき、実行することになった。
タオルケットを結び合わせ、ベランダから垂らして逃げようとしたらしいが、うろうろしているところを見咎められ、事前に発覚した。
当然、どういうつもりだったのかと詰問《きつもん》されたが、瑠美は「本当にやるつもりはなかった」と答えた。これは、あながち言いわけではないようだ。生来そそっかしいというか、おっちょこちょいのところがあるのだが、自分に支点がないから、その場の気分に流されるのである。
過去が過去だけに、そうした生活ぶりはよけい危惧の念をもって見られた。そして、瑠美の措置に対するセンターの意向は、やはり教護院送りが大勢を占めていた。
その中で、ひとりOさんは、所内で有名になるほど教護院送りに反対した。
「担当の先生もあの子の良さは認めてくれましたし、心理判定の結果も教護院へ入れても良くならないと出ましたので、それを訴えたわけです。だいたい教護院へ入れても、受けとめ手がいなくてはうまくいかないものなんです」
さいわいOさんの主張は認められた。いや、認めさせたと言うほうが当っていよう。そしてともかく、
「好きな先生がたがいるM中へ通えるところということで、憩いの家に無理にお願いして……、広岡先生には本当に感謝しています」
というところまで漕《こ》ぎつけた。
八月二十九日、広岡知彦と三好洋子は児童相談センターに瑠美を訪れて、面接した。瑠美は、ことさら殊勝に一生懸命しゃべった。そういうところは利口な子なのである。
そんな子どもばかり手がけてきた二人には、過去の“ワル”の本質も、殊勝ぶっているその態度も、あらかた底が割れて見えた。その時点で広岡知彦は、こんな判断を三好洋子との間で交わしている。
「なかなか感性がある子だなと思いましたね。過去にいろいろ問題を起こしているけれど、それは学校という管理の枠の中だから問題を起こさざるを得なかったのであって、ワルというのも、その摩擦から生まれたもの以上ではないという感じでした。彼女の能力と感性を伸ばすような学校であったら、この子の質としては問題児にはならなかったろうと思ったものです。そこで、憩いの家に入れたほうが生きるんじゃないかと思って、受け入れることにしました」
昭和五十八年八月三十一日、森下瑠美は憩いの家の一員となった。
「最初から問題のかたまりのような子でした」と広岡智子は言うが、精一杯いい子ぶらなければいけないと思ったのだろう、制服姿でやって来た彼女は、ひどく神妙だった。
そして、来た早々、胃痛を訴えて階段の下にうずくまり、二日間ろくに食事ができなかった。気が小さいところから、緊張やストレスがすぐ胃にくるのである。
「うちに来る子は、最初はみんなそうなのよ」
広岡智子は、そう慰めた。そんな寮母の優しさを嗅ぎとり、瑠美はすぐ寮母の部屋へ押しかけるようになった。
しかし可愛いくないのは、甘える代りに探りを入れてきたことだった。それまでやってきたことをしゃべるかたちで、煙草を吸うこと、シンナーをやったこと、喧嘩をしたこと、男を知っていることなどを小出しに出してきては、そんな自分であることを認識させ、寮母の反応をうかがったわけである。
三日にわたってそれをやられ、広岡智子はうんざりした。信頼関係ができていればぴしゃりとやるところだが、そうもならず、「これまでにも、そんな子はいっぱいいたわよ」と、あえてさり気なく受け流した。
いったい、それは何の意味なのかということだが、広岡知彦はこう読んでいた。
「私は決していい子じゃありません、これからもやるかもしれませんという伏線を張ったわけです。やった時はよろしくというアイサツみたいなものです。頭の回転が早いから、この家の中でこうしたらこうなるという先が見える。そこで、あらかじめアイサツしておく。それが彼女の生きかただったんですね。言うならば狡《ずる》いということです。その狡さはいろいろな場面で出てきました。三好さんなんか、その癖を非常に嫌っていましたね。でも、それ以上にナイーブなところを残していましたから、よくなる可能性はあると見たわけですけれど」
そして伏線を張った通り、家の外ではツッパリを続けた。経堂のすずらん通りあたりで、ガンをつけたとかつけられたとか年中喧嘩しており、中学生の男子が家の前まで追って来るようなこともあった。
煙草は本数こそ減ったがやめておらず、ワルのほうも事件こそ起こしていないが不透明だった。ことによればカツアゲぐらいはやっていたかもしれないが、表面化はしていない。先が見える頭がある子だけに、わからない部分が多いのである。
学校のほうも相変わらずだった。勉強に対する意欲はほとんどなく、一年生のうちはわからないながらノートを出して、黒板に書かれたことを写したりしていたが、やがては勝手に何かやっているか、時としては机につっ伏したりしていた。
ツッパリは、たしかに脅しや暴力行為というかたちではやっていない。しかし、学友や教師に対しては、常にツッパリとしての威圧をこめた態度の悪さがあった。
要するに、憩いの家以外の社会に対しては、私は普通の子とは違うんだということを、絶えず誇示しようとするわけである。
それはなぜか? 一言《ひとこと》で言えば自分自身に対するツッパリであろう。児童相談センターの時代をふり返って、瑠美はこう語っている。
「はっきり言って、それまで生きてきて楽しいと思ったことなんかなかった。家は悲惨だし、勉強はできないし、自慢できることなんて一つもない。これからだって、生きていてあまりいいことはないような気がした。だから、そんなこと思うと、すぐ泣けてきて死にたくなったね。でも、頑張ってきた。歯を食いしばってね」
他人《ひ と》がさまざまに非難している間にも、彼女は、ともすれば崩れそうになる自分と闘っていたのである。気弱になったら、つぶされてダメになってしまう。そこで彼女はツッパリ、そのツッパリの前科に開き直った。たとえて言えば、溺れかけている者が必死になって身を浮かすためにすがっている板きれ、それがツッパリだと言える。
ツッパリの多くは、自分をいじめ圧《お》しつぶそうとするものに対する自己防衛だが、瑠美の場合は自己のアイデンティティーを保持するための鎧《よろい》でもあった。
そのために、シンナーや煙草や校則や服装など、小さな禁令《タブー》を意図的に破り続けている。しかし、そうした子どもを社会は受容しない。自立するためには直さなければならないのである。
ただ、この問題は難しい。それについて私は、とくに広岡知彦に質《ただ》していないが、憩いの家が最も重視しているのは、社会に生き抜いていく力をつけさせることである。ここで一番困るのは、生活無能力者に堕《お》ちかねない、他者への依存と無気力なのだ。
多少ワルであっても、バイタリティーがあれば生きていかれる。角《つの》を矯《た》めて牛を殺したのでは、何にもならない。だいたい、瑠美のような子をつくり出した教育体制のほうにこそ問題があるのだから。
それかどうかわからないが、憩いの家では「そんなことでは社会は通らないよ」という言いかたはするが、人の道を説くようなお説教はあまりしない。
あくまで本人自身が生きかたを転換しなければ、将来にわたる力とはならないからである。スタッフは、ただ転換の機会をとらえ、あるいは機会を用意して助けるだけなのだ。
三好洋子は、「私たちは何もしていない、子どもたちが変わっていくだけだ」と言うが、何もしないというのはそうした認識に裏打ちされたものであって、相当の我慢を必要とする“教育”なのである。
瑠美の転換はなかなか訪れず、翌年二月には、また千葉に無断外泊して問題を起こした。
二月十三日、その日は桑田拓也が経堂の家にテスト入居した日だった。瑠美と沙織は、朝いつものように鞄《かばん》を下げて家を出た。だが、学校からは二人とも来ていないと連絡があり、その夜はついに帰らなかった。
そして、明けがたの四時ごろ、警察からの電話で起こされた広岡智子は、森下瑠美と深田沙織を補導していると聞かされ、身を切るような寒さの中を千葉へ引き取りに行った。
瑠美は沙織をつれ、例によって千葉の昔の仲間のところへ行って一日遊んだが、帰るに金もなく泊るところもないという状態になった。そこで、喫茶店のテーブルの上に置いてある占いの機械を壊《こわ》して金を盗み、深夜三人で駅前をふらついているところを、警察官に補導された。
警察官の前で、瑠美は驚くほどふてくされた態度をとり、乱暴な言葉を使った。広岡智子は、彼女がワルとしてツッパってきたしたたかな姿を、改めて見たように思ったという。
毎度のことだけに、そんな事件は彼女に何の変化ももたらさなかった。瑠美がツッパリの鎧を脱ぐためには、拓也の場合と同じくのっぴきならないかたちで自分と向き合うよりないのだが、目端《めはし》の利く瑠美はそういう機会を避け続けたのである。
外ではすごんでツッパっていた瑠美だが、家の中では明るい思いやりのある子だった。いい子ぶっているわけではなく、地がそうなのである。
また、広岡智子によれば、瑠美ほど淋しがり屋はいないという。ほとんど母親の愛情を知らず、つらい思いばかりしてきた彼女は、渇くように信頼できる相手を求め、人との関わりで淋しい思いをすることを怖がるようにさえ見えた。
「ある時、沙織の転校のことで、正面切って私を疑うようなことを言ったことがありました。その時私はひどく怒って、何でそんなことを言うのか、情けない、こんな傷ついたことはないと言って自分の部屋へ戻ってしまいました。すると瑠美は、あとを追うようにやって来て、ボロボロ涙を流しながら『智子さん、本当にそんなに傷ついた? 元には戻らない? Hさんのところにいた時は裏切られてばかりいたもんだから、あんなこと言っちゃって……、もうダメなの?』と言うんです。ああ、この子はそんなに淋しい子なのかと、私は胸を衝かれるように思いました。たかがこんなことで、これほど心を痛めている、何であんな怒りかたをしたのかと、自己嫌悪に陥《おちい》るぐらい反省したものです」
自分がそうであるだけに、瑠美は他人《ひ と》の淋しさも放っておけないところがあった。
前にも述べたように、暗くて堅くて野暮でどうしようもない拓也にも、自分から声を掛けてつき合ってやっている。後には、思いつめたように「つき合ってください」という拓也の申し入れを受け入れ、デートにも応じた。
「拓也君と歩くなんて気持ち悪い。よく瑠美は歩けるわね」
当時の仲間の一人由里は、そんな言いかたをしたものだった。もっとも、それは由里にとっても貴重な“育ち合い”になっている。やがて彼女は、反省するかのように寮母に言った。
「智子さん、瑠美は偉いね。拓也君とちゃんとつき合ってあげているんだもの」
なお、拓也はその瑠美によって、彼には訪れるとも思えなかった“青春ゴッコ”を経験し、一つ階段を上がることができた。実のところ、拓也は瑠美が好きだった。自分には過ぎた相手だと一歩退いているようだが、その感情は今も消えていないはずである。
そして、瑠美は寮母にこう言っている。
「私、初めてなの。隣に怒鳴り声や不愉快な言葉が聞こえないこんな静かな自分の部屋で、何の心配もなく寝ていられるのは初めてなのよ」
そんな状態であったにもかかわらず、夏休みに入って間もなくの七月二十一日、瑠美は千鶴子、沙織とともに家出した。
理由は何だったのか?
「特別、理由とか不満があったわけじゃないんだよね。まあ、自由にやってみたかったのかな。『毎日毎日面倒くさいよ』と三人で話していて、出ようということになってね。出てどうするなんて、あまり考えなかった」
児童相談センターでの脱走未遂の時と、まったく同じである。瑠美と沙織のコンビは、学校から遅く帰ったりして、しょっちゅう広岡智子に怒られてはいた。そうした厳しさが「面倒くさいよ」であったのはたしかだろう。しかし瑠美には、
「智子さんとは、学校のことなんかで言い合ったり喧嘩したりしたことはよくあったけど、どんなことがあってもわかってくれるという安心感はあったね」
という認識はあった。要するに「面倒くさいよ」は、漠然たる自由への憧れということだろう。
ただし、他の二人には、それなりの理由はあった。施設育ちの千鶴子は、憩いの家にも拘束を感じ、やはり自由を求めた。また彼女は、ここにいなくても生活できるという思いこみがあった。
そして沙織は、何とかして娘を家に戻そうとする母親との、うんざりするような綱引きの過程にあった。このままいたら、結局戻されてしまうかもしれないという恐れを感じていたのである。
しかし瑠美には、出なければならない必然性は何もなかった。前の場合と同じく、しっかりした自分がないところから引きずられてしまったというところだろう。
三人は、新宿でシンナーの売人《ばいにん》に声をかけ、その男のグループと関わって、感心しないその日暮らしを始めた。
女の子の家出でやっかいなのは、決定的に食うに困ることがあまりないということだ。盛り場やディスコに立っているだけで、向こうから声を掛けてきて、食うことと寝ることはできる。いわば、ガマ口を持って歩いているようなものなのである。
三人の場合もその例にもれず、売春《うり》をやったりしながら、ラブホテルなどを泊り歩いていた。そんな生活の中で、三人の間にもしっくりしないものが出てきたようだった。やがて瑠美は、十九歳のヤクザの下っ端と知り合い、その男に誘われて名古屋に近いT市までついて行った。
その男を嫌いではなかったと言うが、好きだから一緒に行ったというわけではないようだ。新宿でその日暮らしをすることが、どうなるかは見えている。それよりはまだヤバクないと思ったのだろう。八月の十日ごろから、その男と同棲するかたちでスナックに働きに出る。
「しばらくそんなことやってたんだけど、お金もくれないし、そんなところでイキがっている自分が馬鹿みたいに思えてきて、憩いの家が懐しかったね。やっぱりあそこにいるのが本当だと思って電話するんだけど、帰りたいとは言いづらくって、声だけ聞いて切っちゃったこともあった……」
おそらく、男の食いものにされるのはいやだと思ったのだろう。その見切りの早さは、いかにも瑠美らしい現実感覚といえる。
結局、広岡智子に迎えに来てもらって帰るのだが、このトライによって彼女は、自由が何か、カッコよく生きるというのが何かを、身をもって知らされたわけである。
もっとも結果からすれば、夏休みをやりたいように過ごしたとも言える。ことによれば、どこかで計算していた狡さもあるのではないか、私にはそんな疑いも残っている。
ともあれ、スタッフとしてはずいふん心配させられたわけである。が、広岡智子はあっさりと言った。
「家出されてよかったというのも変ですが、私はあの家出はよかったと思います。ここにいればああいうこともあるわけですし、そのことを通じて一つ脱皮できて、あとがよくなっていきますから」
十九歳のその男との同棲生活について、瑠美は学校のM先生に、かなり正直にしゃべっている。そんなことまで話せる師弟の信頼関係はたいしたものだと思うが、M先生の話を再編成すれば、こんなふうになる。
「男はどうだったんだ。好きだったのか」
「いけすかない男よ。にせものだったね。初めは甘いことばかり言ってたけど、調子いいだけでさ」
「甘い言葉に誘われたおまえも悪いんだろうが……」
「だいたい、あれがへたくそ。へたくそなのよ。痛いばっかりでさ」
「ざまみろだ。だいたいヤクザなんて甘いこと言って女引っかけるのうまいんだ。世の中にはそんな男もいるんだから、言葉や格好なんかで気を許したらどうなるか。いい勉強したろう。変な奴と一緒になって不幸な子どもつくらんようにせんとな。おまえは誰よりもそれわかってるはずやろが」
「そうだよね」
「そんな男や、おまえに働いた金も払わんスナックのママとか、上っ面《つら》だけというの多いんだ。それに比べて広岡先生の奥さんは、自分の子どもでもないおまえを心配して、名古屋まで迎えに来てくれた。その違いがわかるか」
「わかったよ先生、はっきりわかった」
危険なトライではあったが、瑠美はそれによって一つふっ切れたと言える。どれほど柵を高くしても、出て行く者は出て行く。憩いの家の力というのは、自由を縛る柵がないということにもあるようだ。
十五歳の女の子に酒を飲ませるのはまずいのだろうが、その後私は瑠美を飲み屋に誘って話を聞いた。格別、酒で本音を引き出そうなどと考えたわけではない。単に私が飲んべえであるというだけの話である。
瑠美は私につき合って、うまそうに日本酒を飲んだ。私はメモ帳を出さず、瑠美にしゃべりたいようにしゃべらせていたが、一つ気になっていることを訊《き》いた。
「瑠美は男が好きか」
「何の話よ」
「男と寝るのは好きかっていうことだよ」
「ああ、そういうことか。正直に言っちゃうと、セックスってあまり好きじゃないね。気持いいなんて言う子もいるけど、そう感じたことあまりないんだよね。変なのかな」
「そんなことないよ」
そう答えながら、なぜか私はほっとしていた。
そんな年頃の子どもがセックスを知っているということは、私のようなルーズな人間にも複雑なものを感じさせる。性的非行というのはおかしな言葉だが、おそらく世のまともな人たちは、どんな非行よりも性経験を重視するだろうし、その先に危惧を抱くだろう。
要するに、クセになるかどうかということである。いったい、その年頃の女の子のセックスというのはどういうものなのか。それについて、K中央児童相談所のI所長は、次のように言ったものだった。
「男は自分の性欲をもって考えるんで誤解しやすいんですが、女の子の場合は、基本的に接触欲なんです。性器結合が主じゃない。抱かれたい、優しくされたい、なんです。うちに来る非行グループの女の子に聞いてみると、ほとんどが『セックスはそんなに好きじゃない。でも、それを我慢すれば、自分を大事にしてくれて優しくしてくれて、とても充《み》たされた気持ちになれる』と言うんですね。要するに心の渇きがいやされて、安定した気分になれる。だから、家庭が不安定だったり、学校で問題があったりする子ほど、それを求めてグループから離れたがらない。
それが家へつれ戻されてガミガミやられれば、当然またグループに戻ります。そこで、セックスを知ったからだと受け取られるんですが、そうじゃないわけです。しかも中学生の場合は、セックスに対しておおらかなところがありますから、さいげんがない。
ところが、高校に入るとピタッとおさまることがよくある。自分を守るという意識が強くなるんです。しかし、高校生の子が不安定になってセックスに走った場合、これは女になっているからこわい。三分の二はずるずるといって、学校をやめて同棲するようになったりします。ですから、中学生の場合は、一度悪循環から抜け出せば、あとをひくというものじゃありません」
問題は充《み》たされない淋しさということだが、もう一つ“女”になっているかどうかということもあったわけである。さいわいと言うのもおかしいが、瑠美はまだそこにいたっていなかった。
だが、なぜ私はほっとしたのか。それは自分でもわからなかった。
瑠美が手洗いに立った時だった。カウンター越しに銚子を手渡しながら、おやじが言った。
「娘さん?」
「いや、そうじゃない」
「そうですか」
おやじは曖昧《あいまい》な顔をして離れて行った。その姿を見やりながら、私は頭の中で指折り数えていた。東京オリンピックの年だから、生ませていれば、もう二十一、二になっているはずである。
その日のことは、いまだに記憶にこびりついている。長びいた座談会の会場から駆けつけた時、不幸な私の相手は、人気《ひとけ》のない待合室に手術後の体を小さくして座っていた。言いようもない、つらい思いだった。
この世に、我が子を殺すに足る理由など、絶対にあるはずはない。おそらく、当時の私も考えたに違いない。だが、そのことの意味を本当に考えられる人間であったかどうか……。
過ぎてしまったことだから懺悔《ざんげ》もできる、そんないいかげんさがいやで、私はなるべくそのことを意識から遠ざけてきた。子どもを相手にする気の重さというのは、そうしたことが潜在しているせいかもしれないのだ。
どんな親であっても、生まれた者は生きていく。たとえつらかろうと、青春もめぐってくれば、喜びもあろう。現に、憩いの家の子はみなそうなのである。自然の大きな摂理からすれば、親の責任などということも、とるに足らぬ自己満足かもしれないのだ。
そんなふうにも考えるだけに、私は憩いの家の子の親たちを、さほど非難しようとは思わなかった。ただ不思議なのは、瑠美とまったく没交渉でいられる母親だった。
再婚しているのだからしかたがないということかもしれないが、母親というのはそんなものかということである。
瑠美の話によれば、ある時三歳上の姉が、祖母と暮らしている家に密《ひそ》かに訪ねて来たことがあったという。が、その時姉は「森下の家とは絶対につき合ってはいけない」と、母親からきつく言われていると言った。そして以後、瑠美は血を分けた姉と一度も会っていない。
そうした状態だからだろう、瑠美は父親への思慕は口にするが、母親のことは一言も口にしていなかった。いささか残酷な気もしたが、その母親に対する気持ちを、私は瑠美に問うてみた。「お母さんも責めることはできないと思うよ。いま会ってもお母さんとは呼べないと思うけどね。……でも、できることなら、家族みんなに会いたい……」
そう言って、瑠美は急に涙を溢れさせた。白い肌に、目の赤さが滲《にじ》むように広がった。その涙は、私にもつらかった。
「マジな話させないでよ」
涙を拭《ぬぐ》って、瑠美は盃をとった。
児童相談センターにいた頃、瑠美はM中に通うことに固執した。教護院行きを避けるためでもあったが、当時は淋しくならないための唯一の絆《きずな》が学校だったからである。しかし、憩いの家に来たことによって、学校は二義的なものになった。
「学校は全然面白くなかったね。昔みたいにツッパったりワルやったりはしなかったけど、それでも先生の中には特別な目で見てゴチャゴチャ言うのがいて、小突かれた時、胸ぐら取ってやったこともあった。他の先生はそうでもなかったんだけど、一人だけいやな奴がいてね。……授業は、眠ってたね」
そうは言うが、瑠美にとってM中は、それまでの学校のように不愉快ではなかったはずだ。三年からは、誰よりも彼女を理解してくれている一年の時のM先生が、再び担任になっている。
「問題のある子は特にそうですが、人間関係をどうやってつくるかです。それができれば指導は入りますが、それなしに、人間はこうでなければならないなんていくら言っても、頭の上を通りすぎるだけで、逆に偉そうなことを言うなとなります。人間関係をどう結ぶかというのは、人それぞれでしょうが、言葉だけではダメですね。相手は感じる存在なんですから、感じさせなければならない。ですから、仕草で語ったり目で語ったり、あくまで自分としての振舞いで、人間として響き合うものをつくっていくということでしょう」
時折関西弁の混じる口調でM先生はそう言ったが、こうした実践の人だからこそ、瑠美を包みこんでいけたのだろう。
また、その新学期からM中に赴任《ふにん》してきたY校長は、すべての三年生と一対一の話し合いをやり、特に瑠美とは「あまり森下とばかりやっていちゃまずいかな」と気にするほど、コミュニケーションを深めていた。
生活指導のT先生によれば、瑠美はM中では有名な存在だったという。
「とにかく、先生がたから言葉をかけられていましたね。いや、先生だけでなく、事務の職員や用務員さんまでが、彼女には声をかけていました。ですから、存在感はあったと思います。それに瑠美という子は、性格的におおらかですし、話せば面白い子ですから、他の生徒とも悪くはなかったと思います」
しかし、M区の学習院とも言われるこの学校は良家の子女が多く、瑠美の現実感覚や面白さは、とかく浮き上がりがちだった。
ともあれ、M、Tの二人の先生や校長を始め、私はこの学校のありかたに好感を持った。マスコミを通して知らされる管理と責任逃がれを専らにしている学校に比べれば、雲泥の違いがある。
だが、そうは思いながらも、私は本質的なところで、どこか納得しかねるところがあった。
先にも述べたように、子どもたちにとって学校は、やはり勉強しに行くところである。その教室に座りながら、授業に参加できず“透明人間”として存在することは、何より耐え難いことなのだ。
子どもは、授業が楽しいとは思わない。だが、深谷昌志・放送大学教授らの調査によれば、学校生活を楽しいと感じるのは、成績の良い子どもほど強いという。少なくとも、普通の生徒として教室に市民権を得ているという自負があるから、クラブ活動や友だちとのつき合いが楽しいと思えるのである。
どれほど優しく受け入れられようと、教室で寝ているしかない子どもに学校が楽しいはずはない。“お客さま”としての理解などしらじらしいだけである。「学校は全然面白くなかった」という瑠美の言葉は、その事実を言っているのだ。
M先生を非難するのではなく、今の学校のありかたを言うのだが、瑠美を立ち直らせようと思うなら、なぜ留年させてでも基礎からやり直させようとしなかったか。それができないなら、なぜ一つでも二つでも得意な学科をつくる努力をさせなかったか。
毎日学校に通っている子に、学習意欲がないなどと言うのは、教師として無能であることの表明以外の何ものでもない。授業をわからせ、自信をもたせて引き戻す、それが学校教育の王道というものだろう。
ツッパリはいつの時代にもあった。が、それが校内暴力として社会問題化した時、それを口実に教師たちは、本来やるべき努力を放棄した。私に言わせれば、そういうことだ。
義務教育の義務によって、子どもはいや応なく学校に所属させられる。当然、教育する側には、その間に履習しなければならないものを身につけさせる義務があろう。
もし、その義務がないというなら、あるいは義務はあっても果たせないというのなら、受け手の義務は外《はず》すべきではないか。
私は、何も屁理屈を言っているのではない。毎日、休まず遅刻せず、生徒手帳のうるさい決まりを守って通学し、屈辱だけを味わいながらまったく無為に時間を過ごして帰るというのは、異常以外の何ものでもないと思うからである。
今や、教育といえば学校教育になってしまっているが、生まれた時から教育され続けなければならない人間という生きものにとって、教育というのはそんなに狭いものではない。社会のどこででも学べるものであり、学ぶ必要がある。
学校が教育を独占し、資格として商品化したがために、できなくなっているだけの話なのだ。独占しておいて何もしないのであれば、すみやかに義務を外して他に委ねるべきである。
ともあれ瑠美は、十四歳という人間形成に最も大事な時期に、ただ卒業するためだけに学校に通っていた。
瑠美の立ち直りについて、私が何より大きいと思うのは、家出から戻った瑠美に、広岡知彦がとった措置だった。二学期の九月から、彼女はある給食会社にアルバイトに行き始めたのである。
「僕らはあの子を引き受けた時から、学校に通わせているだけではもたないと思っていました。教室では“お客さま”にきまっています。事実寝ていたわけですから、精神的に鬱屈《うつくつ》してワルに走るようにもなる。そのはけ口という意味でも働かせるしかないと考えていたわけです。ただ、そのためには“実習”としての校長の認可がいる。学校が乗ってくれるかどうかが問題でした。さいわい、生活指導のT先生が関わってくれて、僕らの説明を聞いてもらえる場をつくってくれまして、よかろうとなりました。校長先生がたいへん理解のある人で、要するに先生がたが偉かったからできたことです。その働くということが、非常に大きく彼女を変えた。予想した以上に、結果はよかったということです」
祖母と二人で暮らしてきた瑠美は、“生活する”ということに直《じか》に触れて生きてきた。同年齢の子で、彼女ほど生活感覚を身につけている子は、まずいなかろう。そうした現実を知っていることも、中学生生活に納まりきれない要素になっている。しかしそれは、働く場でははっきり認められるものになるだろう。それが広岡知彦の判断だった。
予測は見事に当たった。決して格好いい仕事ではない。きれいな職場ではないのである。十四歳の普通の女の子だったら、一日で逃げ出すだろう。が、その中で、長靴を履《は》き割烹着《かつぽうぎ》を着た瑠美は、きびきびと動いた。言われてやるのではない。仕事をする才能と、働くことを喜びとできる感性があったということだ。
社長のG氏を始め、職場の大人たちは、「子どもとは思えない仕事ぶりだ」と、瑠美を評価した。彼女としては初めて感じる張りのある時間だった。その上、自由になる金を稼げるのである。嬉々《きき》として仕事に出て行く瑠美には、もはや馬鹿なことなどする必要はなかった。
ところが、馬鹿なことをやったのである。
九月二十二日朝、憩いの家に戻りたい沙織に、校門で待ち受けられた瑠美は、憩いの家に電話して沙織を戻すための地ならしをしたあと、愚かにも電車の中でシンナーをやり、補導された。そして、その翌々日、鑑別所送りとなった。
「アンパン(シンナー)ぐらいで練鑑行きになるとは思わなかったから、あせったよ」
これまで、そうなる一歩手前で切り抜けてきた瑠美としては、思ってもみない誤算だった。
「今まで、よく行かずにすんだという子が、初めて練鑑送りになったわけです。そう言うのもおかしいですが、私はよかったと思いました。これが総括だという感じでしたね。瑠美という子は、いざ鑑別所、教護院となったら、絶対に狼狽《ろうばい》する子なんです。そして、そういう後のないところに放り込まれて、初めて真剣に自分と向き合ったわけです。その結果、自分が本質的には弱い人間だ、まともな人間だということが、はっきりわかったんじゃないでしょうか」
広岡智子の言う通り、それは瑠美が立ち直るための最後の仕上げというべきものだった。
鑑別所という場所には、やはりしたたかな子どもが集まってくる。そうした連中との対比の中で、瑠美は彼女らと自分の違いを再確認し、そうなった目で彼女らの姿を醜いと感じたようだ。
「私なんか来るところじゃないと思ったね。そして、自分の馬鹿さがよくわかった。だいたい、気が小さくて、本当のツッパリなんかにはなれないんだよね」
あれほどツッパっていた子が、自分の小ささを認めるのはつらいことだ。まして、それを正直に口にできるというのは、簡単なことではない。この転換は見事と言うほかない。
十月十五日、広岡智子は三人に面会に行った。
「瑠美は本当に可愛いかったですね。もう泣きに泣いて、『智子さん、これからは絶対に馬鹿なことはしない。煙草もやめる』と、絶対、絶対を繰り返していました」
審判を二日後に控え、教護院にだけは行きたくない彼女は、いわば生殺与奪《せいさつよだつ》の権を握っている寮母に、必死に懇願したところはあった。が、決意に嘘はなかったようだ。三週間の鑑別所生活を、彼女はきちんと規則を守ってやり通している。
たしかに憩いの家に来てからの瑠美は、徐々にではあるが良くなってきている。しかし、どうしてそこまで反省できたのか。ここで忘れてならないことは、彼女には、自分には帰れるところがある、理解してくれている人たちがいるという基盤があったということだ。
後に触れるつもりの“保護性”の問題だが、もしそれがなかったら、これはどの反省が出てくるかどうかということである。
審判の結果、瑠美も沙織も憩いの家に戻されることになるが、水疱瘡《みずぼうそう》にかかった瑠美は、二週間の予定で入院治療することになった。
M中の級友たちは瑠美を病院に見舞うつもりでいたが、彼女の退院が早すぎてその機を逸した。そこで、回復して登校したその日、持って行くはずだった寄せ書きをした色紙を瑠美に手渡した。
「心配かけてすみません」
瑠美はペコンと頭を下げた。色紙にはM先生からの激励の言葉も、一筆入っていた。同じ寄せ書きでも、“葬式ゴッコ”のそれとはだいぶ違う。
そしてまた瑠美は、給食会社のアルバイトに出ることになった。そんな事件も意に介さず、G社長は再び迎え入れてくれたのである。
ツッパリの鎧を脱いだこともあり、以後瑠美は急速によくなった。広岡知彦によれば、彼女は仕事の場で、自分に最も適した教育を受けたことになる。
「学校にだけ行っていたころは、自慢できること、誇れることは何もなかったわけです。ところが仕事の場では、仕事ぶりが評価されて、みんなに褒《ほ》められる。学校では噛み合わなかった会話もいきいきとできる。また、その経験から話題にもこと欠かなくなり、日に日に自信をつけていきました。学校で教わることは、いわばタテマエ論で、瑠美のような子にはその嘘が見えてしまう。しかし、仕事の場というのはタテマエ論じゃありません。本音です。怒られるにしても、本当に怒られる必然性を感じとれる怒られかたをするわけです。そういう、本音の場でぶつかり合ってやっていくことで、非常に大きく成長しましたね」
このアルバイトによって瑠美は、仕事に生きて行く卒業後の自分の道に、自信を感じ始めたようだった。実習は文字通り実習になったわけである。が、やがて、
「学校へ行ってもつまらないし、何の役にも立たないんだから、仕事だけきちんとやれば学校へ行かなくてもいいんじゃない」
と言い出した。しかし、タテマエとしては学校教育の一環である。広岡知彦は許さなかった。
そこで行くには行ったが、教室では以前にも増して寝ていることが多くなった。ただし、以前とは事情が違う。M先生は瑠美がいないところで、クラスの仲間にこう言った。
「君たちは、親もいれば家もある。小遣いももらえる。しかし、森下はそうじゃない。そこで今、森下は自分で働いてお金を稼いでいる。夜十時まで働いていれば、眠くなるのはあたりまえだ。人間にはいろんな生きかたがある。森下は今そうやって頑張っていることを忘れないでくれ」
翌六十年三月まで、瑠美は頑張り通した。馬鹿なことはもちろん、以前の彼女が信じられないほど、ツッパリは影をひそめた。その変わりかたは、誰よりも広岡智子を驚かせた。
「いつだったか街へ一緒に買物に出た時、人とぶつかったんですが、とっさに『あっ、すみません』と言っているんですよ。そんな時は必ず一悶着起こしていた瑠美を知っていますから、私は驚きましたね。本人もそんな自分に気がついて『私って変わったね』と言っていました。その前から私には『馬鹿だったね私は、ツッパリになんかなれないのに、ツッパリぶっちゃって、恥ずかしいよ』と言っていました。そこまで自分がわかっている、本当にこの子はすごいなと思ったものです」
一緒にワルをやっていた沙織は、それでも高校へ進学した。学校と就職では、やはり青春の色あいは変わってくる。そんな仲間を見るにつけ、瑠美にも一抹の淋しさはあったようだ。だが、彼女は最後まで明るく振舞い、その三月三十一日、住込みで働くことになった店へ巣立って行った。シンナーで溶けた黒い歯をして憩いの家に来てから、一年七ヵ月目であった。
「広岡さんと智子さんは、お父さんお母さんみたいなもんだったよね。もし、品川児相のOさんに会わなかったら、憩いの家に来ていなかったら、確実に少年院だったろうね」
憩いの家の価値を、私はことさら言おうとは思わない。もし言ったとしても、森下瑠美が感じていることの半分も伝えられなかろうと思うからである。
昭和六十一年二月末、M先生は朝の職員会に一通の報告書を手にして立ち上がった。
「昨年当校を卒業しました森下瑠美について、職業安定所が、その後の彼女の状態をフォローした報告書を送ってきてくれました。それによれば、本人は非常に真面目に仕事に励んでおり、店の主人は彼女の働きぶりや人間性を大いに評価しているということです。みなさんのお力ぞえによって、森下はそこまで立派に成長しました。改めてお礼申し上げます」
期せずして起こった職員室の拍手は、しばらく鳴りやまなかった。
M先生はその三月末、定年によって教壇を去ることになっていた。教育の現場で、“生涯一教師”を貫いたこの人にとって、その報告書と拍手は、何よりも価値ある勲章だったと言ってよかろう。
現在も続いている瑠美の頑張りの裏には、実は一つの目的が秘《かく》されている。
瑠美と双子のその姉は、未熟児として生まれた。おそらくその影響だろう、いわゆる知恵遅れとなった姉は、九歳の時から施設に預けられ、今なお施設にいる。
いつか姉を引き取って二人で暮らしたい、少女の肩にはあまりにも重いが、それが瑠美の夢なのである。が、それより、私がだめになったらお姉さんはどうなるか、瑠美を頑張らせているのはそれだと言っていい。
今後、どこへ行こうと、何をしようと、おそらく彼女が崩れることはないだろう。
第五章 蹉跌《さてつ》の因子
もし憩いの家がなかったら、この子はどうなっていたろうか? そう考えれば、憩いの家の子どもにはみな見当もつかない疑問符がつくが、とりわけそれを感じさせるのは寺田進一の場合だった。
昭和五十九年七月四日、三好洋子はあまり馴染《なじ》みのない六本木の街に、三河台公園という場所を探して歩いていた。それは、Mと名乗る見ず知らずの女性からの電話によるものだった。女性としては太い声のその人は、次のような事情を語って、三好洋子を呼び出したのである。
犬の散歩のため、毎日近くの三河台公園に行くMさんは、いつも浮浪者が屯《たむろ》している一角に、見すぼらしい格好をした二人の少年を目にした。今の時代に、浮浪児というのもおかしな話である。
Mさんは二人に声を掛け、腹がへっているという彼らにパンと牛乳を買ってきて与え、事情を聞いた。話によれば、二人はそれぞれ店は違うが、住み込んでいたそば屋がいやで家出してきたという。
Mさんは一応のお説教をしたあと、麻布警察署に電話して、二人の保護を頼んだ。
ところが、その翌々日、Mさんはまた公園で、その時の少年の一人に遭った。聞けば、いったんそば屋に戻されたが再び家出してきたということで、もう絶対に店には帰りたくないという。
とは言え、そのままにしておくわけにはいかず、Mさんはまた警察に電話した。だが麻布署は、そういうケースであれば本庁の少年相談室に連絡したほうがいいと言い、その少年相談室は新宿の児童相談センターを紹介した。そしてセンターの答えは、そうした子の引き取り先としては、青少年福祉センターか憩いの家しかないと、その電話番号を伝えた。
三好洋子がMさんからの電話を受けたのは、青少年福祉センターで断わられた、最後のところとしてだった。とにかく、会うだけでも会ってやらなければ救いのない話になってしまう、と三好洋子は出かけた。
だが、地理不案内の彼女は、約束の五時に間違った公園に行って待ち、それに気づいて三河台公園を探し始めたのは、すでに七時に近かった。
七月に入ってから連日うだるような暑さが続いていたが、その日の気温は三十三度まで上がっていた。彼女はぶつくさと独りごちながら、汗びっしょりになって坂を上がった。
さいわいなことにMさんは待っていてくれたが、その人に向き合って三好洋子は驚いた。声が太かったわけである、その人物はいわゆるゲイ、女装した男性だったのだ。そして「この子なのよ」と引き合わされたのが、十五歳の寺田進一だったというわけである。
「まるで戦災孤児でしたね。ひどく汚れた格好をして、汗でまだらになったまっ黒な顔をして、しかも目のわきにアザをつくって、血がこびりついているんです。ただ、そんな顔の中で、目だけ光っていました。会う前まで、私には引き取るつもりなんか全然ありませんでした。どこか喫茶店ででも話を聞いて、しっかり小言を言って帰そうと思っていたんです。でも、その顔を見たとたんに、なぜかうちの子にしようと決めちゃっていました」
こんな場合、おそらく普通の人間なら、受け入れどころか相談にも二の足を踏むだろう。それを逆に決断する。ここに三好洋子という人の真骨頂を見る思いがするが、それはそのまま憩いの家ならではの発想と言ってよかろう。
ともかく、もしMさんに発見されなかったら、もし三好洋子が「うちの子にしよう」と思わなかったら、彼の人生はどうなっていたかということである。
その場で、三好洋子は多くを言わなかった。ただ「寺田君ついて来なさい」と言って、歩き出した。“師の影を踏まず”ではないが、進一は常に三尺ぐらいの距離を保ってあとに従い、三宿の家につれて来られた。
その晩は、とにかく風呂に入れられ、食事をして寝かされた。表現力のない彼は、その時の気持ちを、ただ「ほっとした」とだけしか言わなかったが、たしかに安堵《あんど》したことだろう。
翌日、三好洋子は、この子を受け入れるための方策を広岡知彦と相談したが、東京の児童相談所が関わっていない彼の場合には、公的な措置は何も援用できなかった。つまり、憩いの家でなかったら、置いておくことはできなかったというわけである。
いったい、彼はなぜ飛び出したりしたのか。一言でいえば、社会というものをまったく知らなかったからである。どこか淋し気な翳《かげ》をひいているこの子は、典型的とも言える施設っ子だったのだ。
寺田進一は、昭和四十四年二月T県に生まれたが、生後一ヵ月にして乳児院に預けられた。夫婦仲がうまくいかず、二人の子どもをつれて生家に帰る母親には、この子まで面倒みられなかったからであろう。
満二歳の誕生日を過ぎた四月、県内U市の養護施設F園に移される。昭和四十八年三月、母親は再婚、やがて一子を儲ける。母の下に帰る望みは、この時点でなくなり、彼はまったく生母の顔を知ることなく育つ。
七歳になった昭和五十一年六月、里親委託となりF園を出るが、里親に問題があってうまくいかず、翌年二月、別の家に里子として出される。だが、昭和五十七年一月、この里親が病に倒れ長期入院となったため、再びF園に戻る。
里子としての五年間の暮らしがどんなものだったかは、まったくわからない。「あの頃のことはあまり憶えていない」。忘れるはずはないのだが、彼はそう言うだけなのである。ただ、F園でのその後二年間の生活については、施設側の不当な仕打ちに対して、わずかながら語った。
覚悟はしていたことだが、進一に対する取材は、まるで取材にならなかった。私に、子どもから話を引き出す力がなかったということかも知れないが、何を聞いても「うん」とか「ちがう」ばかりで、まともな会話にならないのである。
むろん、しゃべりたくない部分もあるだろうが、すべてがすべてそうではない。また、私を忌避《きひ》しているわけでもない。嘘がつけない子だけに、表情を見ればそれはわかる。
もともと口数の少ない子ではあるが、こちらが求めていることを理解し、自分の考えていることを組立てて話すことができないのである。要するに、前にも述べた“表現力障害児”。典型的とも言える施設育ちの病弊《びようへい》である。
もっとも、相手の求めることに筋道立てて答えられるような子であれば憩いの家になど来なくてもすむわけである。が、そう承知していても、これはやっかいな作業だった。
私には、進一という子がさほどワルをやったようには思えないのだが、やはりやることはやっていたようだ。しかし、今もその体に滲《にじ》ませている暗さや口の重さは、彼を実態以上の問題児と思わせたのではないか。
「何かあると、すぐおれじゃないかと疑われて、やってないことはやってないと言うんだけど信じてくれなくて、ずいふんひどい目に会わされた」
たとえば、下校の途中、覆面パトカーに呼びとめられて車内に引っぱり込まれ、「近所に盗難事件があった、おまえがやったんだろう」と責められたり、刑事が学園の彼の部屋に入って持ち物を調べたりという扱いを受けている。
学園側がどうしてそういう不当なことを許したのか、事実とすれば理解に苦しむ。だが進一によれば、学園の職員自身が明らさまに彼を白眼視し、何ごとにつけても槍玉に挙げて暴力を振ったという。そして、二言目には、
「おまえみたいな奴は早く出て行け、早く出て行けって言われて、卒業の前なんか、もうじきいなくなるからすっきりする」
とまで言われたというのだ。
昭和五十九年四月、中学を卒業した彼は、学園の先輩が勤めている東京中央区のそば屋に、住み込みで入った。仕事は出前だった。
店主U氏によれば、身のまわりのことはきちんとやり、仕事もまあまあだったというが、出前先のマンションで部屋がわからず、うまくしゃべれないところから非常ベルを押して騒ぎを起こしたりはしている。
その店から、なぜ三ヵ月で家出するようになったのか。はっきりしない進一の答を待ちながら、私には一つの想像があった。
店主のU氏は、施設の子に理解を持ち、その自立を助けるため、長らく彼らを自分の店に受け入れてきている。それだけに、施設出の子どもに共通する問題点を熟知しており、それを正すベく厳しく指導しているのではないか。
つまり、子どもたちにとっては施設の延長のように思えるのではないかということだ。しかし、私のその問いにも進一は頭を振り、家出の理由については、ついに明確に語らなかった。そうなれば、
「直接的には、店にいた意中の女の子に肘鉄《ひじてつ》を食って居づらくなったということです」
という店主の挙げる理由しかなくなる。
何とも意外な話だが、店に入ってきた時から進一は、これも中卒の可愛い女子店員に胸を焦がしていた。が、当初彼女は、以前からいた若い男子店員と仲よくしていた。ところが、幸いと言うべきか、そのライバルは一ヵ月ほどたって辞めた。進一は現金なほど元気になり、店主にも「がんばります」と宣言したりした。しかし、彼の想いは叶えられなかったらしい。
「私の店では出前の子にも白い上着と帽子を着用させているんですが、その帽子のかぶりかたがだんだん前に深くなってきましてね、経験から、これはもう保《も》たないなと見ていました。振られて辛かったんでしょう。そのころ、同じ学園出身で、これも赤坂のそば屋に住み込んでいるK君というのがちょくちょく遊びに来るようになって、コソコソ相談しているようなところがありました。まあ、他にもっと楽で給料のいい仕事があるといったことを話し合っていたんでしょう。ちょっと自信がついてきた頃、横のつながりで動く、これが一番多いんです」
結果として店主は、麻布署からの電話で二人を引き取りに行くことになった。
「いやなら辞めるもいいが、とにかく学園へ帰って相談してこい。そう言って、その晩は店に泊めまして、翌日F園に帰すことにしていました。ところが出る前に、店の人間の服から財布を盗もうとしましてね。ごまかしようもないのに認めなかったので、私に殴られて、出て行きました」
そして、学園ならぬ公園に舞い戻ったというわけである。
なぜ三河台公園などに行ったのか、それからどうするつもりだったのかという私の問いに、彼は「友だちのところへ行くつもりだった」と答えたが、これはあまり当てにならない。
友人のKには頼るべき姉がいたが、進一には身を寄せるに足るところはどこにもないのである。要するに、この社会に生きていくということが、まるでわかっていなかったということだ。
憩いの家だからかもしれないが、進一には格別問題視されるようなところはなかった。
外でも内でも、ワルをやったり暴力を振ったりすることはついぞなく、その反抗もさしたるものではなかった。何か気に入らないことがあると、手荒くドアを閉めて部屋にとじこもり、カセットテープの音楽を音量いっぱいに上げてかける程度のものなのである。
本質的に、おとなしい子なのである。口数はきわめて少なく、感情をおもてに出すことがない。自分のことを語る口調は拍子抜けするぐらい淡々としており、およそ自己主張することがない。良きにつけ悪しきにつけ、それが彼の性格となっているようにさえ思えるのである。たとえば、と三好洋子は、彼のやさしさをこんなふうに語った。
「あの子は別に猫が好きじゃないんですが、猫が膝に乗ってきても下ろそうとしません。膝に乗せたままテレビを見たりしていました。猫が好きじゃない子は、だいたい『うるせえなあ』と邪険《じやけん》に追っぱらうんですが、決してそうしないんです。その姿を見た時、私は、ああこの子は命を大事にできる子だなと感じたものでした」
ただ、それだけに進一は、独りぼっちになりやすい子だった。とくに、来た当初は自分の部屋に引きこもり、ホールにいる仲間が声を掛けても「ウン、ウン」と返事をするだけで出てこなかった。また、家の中の仕事を手伝えと言っても、いやな顔をしてやりたがらなかった。
施設育ちの通弊《つうへい》として、たがいに助け合うとか、期待され期待に応えるといった心の動きが、まったく育っていないのである。
そんな進一が変わってきたのは、初めに紹介した浩一が帰ってきてからだった。
生まれ落ちてすぐ乳児院に入れられ、三歳から十五歳までリンチが支配する養護施設に育ち、三好洋子に“他人《ひ と》の痛み”を教えられながら、なお少年院に行かなければならなかった彼は、その八月、再び三宿の家に戻って来たのである。
進一にとっては、似たような生い立ちをしている少年院帰りの先輩である。とくに威圧感を受けるところはなかったようだが、浩一の個性的な重みによってということだろう、進一は彼に呼ばれれば必ず顔を出すようになった。
浩一はあまりしゃべるほうではなく、言葉によって人を動かすタイプではない。他を意識する前に、その場でそれをすることが必要だと思われる場合は、自分から立って行って黙ってやる子だった。
進一には、これは何より大きな教育だったと言える。不承不承の態度が消え、やがては自分から「これくらいやってやるよ」と言うようになった。その意味で浩一は、三好洋子の実にいい補佐役になっていたわけである。
憩いの家の運営からすれば、普通の経路で入ってきたわけではない進一は、住みこみで就職させるのが本当だった。だが、施設育ちの子どもは、すでに進一が躓《つまず》いているように、最初から住込ませるのは難しいところがある。
経営上の問題がどうあれ、見えている失敗をさせるわけにはいかない。そう考える憩いの家は、特例として進一を通いで働かせることにした。もっとも、本人は最初から居すわるつもりで、「ここから通いたい」と言っていた。憩いの家だからそんな無理が許されるということなど、知るよしもないのである。
こうして、来てから一週間後の七月十日、進一はT建設の社員食堂に入っている給食会社に勤めることになった。だが、彼もまた毎日きちんと行き通すことが、なかなか難しかった。
「仕事は始めればコツコツやる子で、裏表のあるような子じゃありません。ただ、施設育ちで、人との言葉のやりとりのない生活をしてきていますから、たとえば『そういうことはだめだ』と言われたりすると、すぐカーッと反応しちゃうんです。普通の子だったら、『そうですか』ですむことも、悪意があるように受け取ってしまう。その時、どうしてなのかと言えればいいんですが、それも言えない。そこで、ひがんだように自分の中に内攻させて、勤めに行かれなくなっちゃう。仕事の問題じゃなく、人間関係がスムーズにいかないからなんです」
三好洋子のその言葉は、私が取材で得たものと同じだった。要するに、人と交わるための常識が欠落しているのである。
結局、その職場は十二月までしかもたなかった。進一の側の問題もあったろうが、ここで面白かったのは、三好洋子の言いかただった。
「無理ないところもあるんです。なにしろ十日ごとに求人募集しているような、人の居つかない会社なんですから。私にしても、あの給料でよくこき使うわと思っていたから、辞めるなら辞めても構わないと思っていました」
おそらく事実なのだろうが、口調としては、どこか身びいきが匂う進一の弁護なのである。が、そうなってしまう彼女の姿勢は、私には嬉しかった。
考えてみれば、何ら非難するには当たらない。家族というのは必ず身びいきなものなのだ。そして、どこにも味方のいなかった子どもたちにとって、こうした真情あふれる身びいきほど嬉しいものはないだろう。
逆に言えば、客観などくそくらえという“情”があるからこそ、厳しく子どもに客観が言える。憩いの家の、見えざる部分の強さというのはそれではないのか。
また、さらに嬉しかったのは、その後の進一に対する三好洋子の対しかただった。
「むろん、私は次の仕事を探せと言いましたし、本人も探すと言っていました。でも私は、ちょっとぐらいのブランクは許してやろうと思っていました。というのは、進一を見ていると、いま初めて心を休められる場を持ったという感じが、ありありとわかるんです。で、十六年目にしての初めての体験なんだから、少しのんびりさせてやれと思って、家の中の仕事をさせたりしました。そんな時、本当にいい顔してやるんですよ。そこで、しばらくは仕事探しという名目で一緒に歩いてやりましょうと思って、そうしました。ただ、『怠け者だけにはならないで』と、それだけはきつく言いましたが」
進一が、憩いの家で最も心を許してつき合った仲間は、同い年の坂本澄男だった。共通項は性格的におとなしいことだが、澄男はさらに繊細《せんさい》な感受性を持っていた。が、それだけに彼は苦しむことが多く、ともするとシンナーに逃げこむところがあった。
後に進一は、なぜ澄男のシンナーをとめなかったかと反省しているが、自身もそのシンナーにつき合ってしまい、二人一緒に補導される破目になった。
結果として、澄男は鑑別所に送られたが、進一は帰された。その措置《そち》に対して三好洋子は、「こちらの意向も聞かず、なぜ返してきたのか」と抗議したが、意味が汲み取れない調査官は、「また三好さんは、わけのわからないことを言う」と応じなかった。
なぜ入れたと言われるのならともかく、話は逆である。だが三好洋子は、前歴がつくつかないといったことよりも、彼の転換を促す機会として鑑別所送りを望んだのだった。それほど彼は、自立にほど遠い状態にいたのである。
進一は、とにかく朝がだめだった。決められた出勤時間に、きちんと行くことができないのである。これは進一にかぎらない。まともな家庭に育っていない子は、おしなべて朝に弱く、約束したことを守りきる持続力に欠ける。
そうした現実から、何より痛感させられることは、管理のための管理は決して躾《しつけ》にはならないということだ。
施設に生きている子どもたちは、さまざまな決まりと時間に、がっちりと管理されて生活している。これは学校の比ではない。
ともすると我々は、習慣化されたそうしたリズムの中に生きていれば、一人になってもその癖だけは残りそうに思いがちだ。が、それは観念的な類推にしかすぎず、事実はだいたい逆になるようだ。
自主的に納得されて守られていればいいが、その基本が空洞化し、守らなければ怒られ、罰を受ける、守ってさえいれば文句は言われないという管理のための管理になれば、ほとんどが「うるせえからよ」になるのである。
要するに、他律的な規制の強化は、自分を棚に上げたかたちの依存しか招かないということだ。
さらに悪いことは、そんな管理による秩序でも、表面的にそれが維持されていることによって、本来要求されるべき主体的な努力が問われなくなる。つまり、約束したら守る、やらなければならないことはやり通すという、自主的な意志力を育てるための教育がなおざりにされるということだ。
施設にしても学校にしても、そうした管理は必ず「教育的見地からも必要」と言うが、他律的な規制の強制ほど教育を害《そこな》うものはないのではないか。
自分自身に決まりや目標をつくらせ、励まし叱って努力させ、守りきり実現させたら誉めて自信をつけさせる。それが、子どもの将来を睨んだ教育というものだろうと思うのだが、そうした克己心を育てる教育を行っている施設は、残念ながら多くない。
だからこそ、管理の箍《たが》が外されれば反動的にルーズになり、いかに叱られようと出勤時間も守れないということになる。
昭和六十年一月二十八日、Nフードに就職したが、二日続けて遅刻して馘になる。二月二日、中華料理店N飯店に入る。ここは比較的よく続いたほうだが、九時半の出勤時間が十一時はおろか二時になることがあるほどルーズになった。
「怠け者にだけはならないでと言ったはずよ。そんなことをずるずるやっているんじゃ話にならない。お店には寮があるんだから、寮に入りなさい」
三好洋子は厳しく言ったが、結局彼はそこをやめ、四月半ばから運送会社に移る。しかし、これも五月七日までしかもたず、五月十六日からA金属に変わった。
浮浪児から拾い上げてくれた優しい「三好さん」は、二月の末ごろからはっきりと鬼になっていた。彼女によれば「絶対に憩いの家から出そうと、いびりまくった」という。その理由は、
「進一は精神的に依存するところはどこにもなかったし、その経験もなかったので、金や物だけでしかものごとをとらえてきませんでした。そして、施設で生きてきたというのは、物質的には完全依存ですから、物質的な依存をあたりまえと思っているところがある。精神的な依存なら退行現象の甘えが出てきますから、それをびしびし叩いていけばいいんですが、物質的なものしか考えていないから尻の叩きようがない。ですから、ここから出て行かせるしかない。そうした上で関わりを保っていくよりないんです」
ということなのだ。そこで三好洋子は、憩いの家を必要としている子はたくさんいる、出られる者は出て生活しろ、大人たちがバザーなんかで懸命につくった金で、ぶらぶらしている人間を養うわけにはいかない、と厳しく迫った。
「だいたい、一緒に家出したK君は、一人で生活しているわけですよ。でもそれを言うと、あいつには親がいるもん、と言うんです。つまり、自分には親がいないんだから、誰か面倒みてくれて当然だと思っている。憩いの家にいれば、きっちり働かなくてもご飯が食べられる。そこにおぶさってやろうというつもりはないんですが、おれには親がいないという開き直りの中で、結果としてはおぶさりながら、そう思わないところがあるんです。とにかく、親という言葉が出てくると、ひどい葛藤を見せて落ちこみましたね」
父親の消息はまったくわからなかった。ところが六月十四日、十六年目にして初めて、母親から会いたいという電話があった。二度目の結婚にも失敗した母親は、三度目の結婚をしてC県に住んでいたのだった。しかし進一は、「会いたくない」と断わった。
親の問題ではいつも落ちこんでいた彼が、なぜ会おうともしなかったのか、私にはまったくわからない。本人は何も言わないのである。この葛藤は、第三者にはうかがいしれないものがある。ただ、その電話以後、彼は思いなしか少し元気になったように見えた。
最近の男の子は、異常と思えるほど髪形やファッションにとらわれている。とくに学校に通っていない子は、何の規制もないところから一途《いちず》に流行を追って、すぐけったいな格好になる。
パーマをかけ、さらに染めた髪。変にルーズなデザインのアンダーウエアー。どこがいいのかわからないベロンとした上着やズボン……。もし、そのへんが気になるオールドエージが憩いの家に来たら、まずその格好に不快感を示し、ここはやはり不良の巣だと言うに違いない。
進一は、髪の前の部分を脱色したように黄色っぽく染め、安物ながら流行のシャツを着ていた。そして彼は、いつも金がなかった。
施設出の子の最大の問題点は、計画的に金が使えないことだが、彼もまたその癖が強かった。金が入れば、あとさきを考えずに使い切り、常に寮母に借金しては怒られていたのである。
たまたま私が三宿の家の泊りをやった六月十六日には、進一は五度目の就職先であるA金属に勤めていた。日曜のその夜、他の子どもたちは遅くまでホールでしゃべっていたが、進一は早く自室に引きこもった。
ところが翌朝、みな勤めに出たものとばかり思っていた私は、部屋を出てきた進一から、「二百円貸してください」と言われた。聞けば電車賃がないという。が、何より私は時間が気になった。
「なんだおまえ、遅刻じゃないか」
金を渡しながら私はそう言ったが、彼は口の中でごにょごにょと不鮮明なことを言って、慌てるでもなく家を出て行った。
前にも書いた「寺田君がまだ来ていないんですが」という電話を受けたのは、その後のことである。
つまり、かなり厳しく寮母にいびられながらも、時間と金にだらしがない彼の癖は、いっこうに改まっていなかったのである。
そんな状態の六月末、進一は家庭裁判所から呼び出しを受けた。特別何かをやらかしたわけではない。シンナー事件以後の彼の生活ぶりを検討し、措置をどうするか考えるためである。だが、同行した三好洋子は、その機をとらえて決着をつけることにした。
そこで彼女は調査官に、あえて試験観察処分にして、様子を見てくれと言ったのである。しかし、初めて進一と話し合った調査官は、
「本人としても努力はしているんだろうが、あれほどムスッとしている子を試験観察にする自信はない。鑑別所に入れて人間関係をつくった上でなら、できるけれど」
と言った。ここで初めて、シンナーで補導された時「なぜ入れないのか」と言われた意味がわかった調査官は、
「いまになってみればよくわかる、あの時入れておくべきだった」
と、遅すぎた反省をした。その言葉をとらえて三好洋子は、じゃあ今から入れてくれと食い下がった。
「また、三好さんは乱暴なことを言う」
調査官は苦笑したが、本人が納得すればいいと承諾した。だが、三好洋子がいかに噛んで含めるように説いても、進一は鑑別所も試験観察もいやだと言い張った。
こうなれば、もはや本人としても出て行くよりない。スタッフとしては、世の荒波を教師としながら見守っていこうというわけである。
七月三日、経堂の家に移った進一は職安に職を探し、その六日、大田区の中国料理店B飯店に住み込むべく憩いの家を出た。三河台公園で拾われて、ちょうど一年目であった。
B飯店の店主夫妻は、進一にとってこれ以上の雇用主は望めないと思えるほど、優しく理解ある人たちだった。何より感謝すべきは、彼の中に積極的に良さを認め、それを伸ばしてくれようとしたことである。
「仕事はよくやりますし、無口ですけどとても繊細な神経を持ち合わせている子で、この仕事には適していると思いました。たとえば、清潔にしなければいけないということを、きちんと理解してやれる細やかさがあって、主人も、長続きすればいい職人になるだろう、楽しみに育てようと言っていたものです」
とはいえ進一は、その奥さんに自分の起こし役という新たな仕事をつくった。朝の時間のルーズさは、相変わらずだったのである。なお、金に関しては三好洋子のサゼッションを容れ、風呂銭や煙草代など日々の小遣いとして、二日毎に千円渡す方法で破綻《はたん》を防いだ。
いわば、ひやひやもので出した三好洋子は、その当初こう言っていたものだった。
「せめて一年続いてくれればいいんです。そこで人間関係の持ちかたを一つでも獲得してくれればいいということです。進一は、これまでもいい人に恵まれてきています。その人たちはみな、期待をかけて励ましてくれました。でも、そういう経験がないから、それに応えることを知らない。そうなれば大人のほうもいやになりしんどくなり、そこで本人も続かなくなるというパターンだったんです。今度のご主人夫婦は、とりわけいい人たちですから、予感としては続きそうに思うんですが……」
しばらくは、その予感が当たりそうに思えた。私は彼の落ち着くのを待つようにして連絡し、会うことにした。だがその日、彼は私との約束をすっぽかして、母親に会いに行った。
実はそれ以前、進一は家庭裁判所の仲介によって母親と会っている。どうして会う気になったのか、会ってどう思ったかは後に尋ねてみたが、例によって返事ははっきりしなかった。ただ、涙は出たかという私の問いには、妙に強く「出なかった」と否定した。
そして九月初め、私が掛けた電話に出た店主は、進一が無断外泊して帰っていないと告げた。
「ちゃんと計画的に使うから、給料としてまとまったかたちで金を渡してくれと言いますので、懇々と注意して渡したんですが、昨日出たまままだ帰りませんで、連絡もありません」
ということなのだ。さいわいこの件は、本人から三好洋子のほうに連絡が入って、理由がわかった。F園があるU市に行って泊まり、帰りづらかったせいか渋谷駅から電話を入れたわけである。やはり故郷としてU市が懐しいのかと思ったが、どうやら女友だちがいるようだった。
これが一つのあらわれだが、彼の生活態度は変に弛《ゆる》んで不安定になった。その揺れは、はっきりと母親の出現による。母親だけでなく、その再婚相手も、「帰ってくるなら、いつでも帰ってこい」と言ったのである。
母親より年若い義父だが、この人物は進一に、父親の立場としての理解と愛情を示し、「息子ができることは、自分も嬉しい」という態度で臨《のぞ》んだのだった。
そのこと自体は素晴しいことだと私は思う。進一としても、さぞかし嬉しかったことだろう。だが、進一の将来と、彼とのこれからの関わりを考えた場合、「帰って来い」という接しかたは、大人の配慮に欠けていると言わざるを得ない。
母親に対する進一の感情がどんなものかはよくわからないが、依存が癖になっている彼は、とにかく寄りかかれるところができたということで、大きく安堵してしまったのだ。
十六年間もほっぽらかしておき、その結果の施設暮らしという、いわばツケによって、息子は自立に苦しんでいる。この場合、安易に依存させることは妨害以外の何ものでもない。だが、そんなことがわかる母親ではないようで、「よくも」と思われるほど母親であることを前面に押し出してきたという。
罪の意識として「苦労かけた、帰ってこい」もわからないではないが、もしそんなかたちでべったりと依存させたら、親子関係そのものもおかしくなってしまうだろう。十六年間ものブランクは、それなりに距離を置き、時間をかけていかなければ、修復されるものではないはずだ。
おそらく“常識”としてそれを案じたのだろう、それから間もなく店主夫妻と三好洋子は両親を交えて話し合いを持ち、進一のためにこのまま頑張らせるほうがいいと説得し、今後の親子関係のためにも依存させないことを確認した。
憩いの家のスタッフは、絶えずこうしたフォローを続けている。意識としては、家にいる子も外に出た子もまったく同じなのである。そして、その役割が不要になる日のために努力しながら、身元引受人として対処し続けるのだ。
こうした努力と配慮にもかかわらず、九月末、進一はB飯店を辞めた。
「あの子自身の問題ではなく、お母さんの出現でフワフワと腰が落ちつかなくなったのが原因だと私たちは考えています」
それがすべてではないかもしれないが、店主夫妻は今でもそう思っている。
進一は、精神的にきわめて淋しい人生を送ってきているにもかかわらず、いわゆる退行現象も起こしていなければ、さほど三好洋子に甘えてもいない。そして私は、彼の表現の積極性のなさに手こずった。
私は、人間関係ができているとかいないとかという言いかたを好まない。多少気心がわかりあった程度で、人間関係とはおおげさである。が、それはそれとして、付き合う、話し合うということには、どこかに相手との間に理解をつくり出そう、感情の糸をつなごうとするところがあるものだ。
むろん、相性の問題はある。どうにも虫の好かない相手には、そうは思うまい。進一にとって、私がそうであったというのなら話は簡単だ。しかし彼は、誰に対しても人間関係を結ぼうとするところが稀薄なようなのである。
先に私は、表現力障害などという言葉を使ったが、これは単に言語表現だけの問題ではない。コミュニケーションの基本にかかわる部分が、どこかスポイルされているということなのである。
そして私は、彼がなぜそうなってしまったのかということに一つの見当をつけ、東京・新宿区の二葉乳児院を訪れた。そこを選んだ理由は、かつて切り抜いておいた新聞記事による。昭和六十年四月十七日、朝日新聞のコラム“街”は、こんな話を伝えていたのである。
〈……ケイ君は乳児院で「ポヨン」というあだ名をもらった。ほとんどしゃべらないし、保母さんが笑いかけても、反応しない。ただ、ポヨーンとしているだけだった。
保母さんたちは、「お泊まり、行く?」といっては、ケイ君をよく自宅に連れ帰った。もちろん保育の規則にない。でも、親の面会がない子どもたちは、こうしないとどんどん落ちこんでいく。反対に、お泊まりから戻った子は元気いっぱいだ。自分だけの特別扱いがうれしくてしかたがない。
お泊まりを重ねるにつれて、ケイ君の表情が豊かになった。一月、ケイ君の保育の記録には「情緒不安定、あまのじゃく」とあった。四月、それは「明るい笑顔」「友だちと張り合っておしゃべりしている」に変わった。もう、ポヨンではなくなった。別の施設へ移っても、溶けこんでいける下地ができてきたのだ。……〉
若い頃はさぞがし美人であったろうと思われる梅森公代院長は、髪こそ銀色になっているが、若々しい人だった。
「いま、ちょうど子どもたちのお昼ご飯なの、ごらんになりますか」
名刺を交わしてすぐ、院長はそう言った。院長について入った、やわらかい陽差しがいっぱいに差しこんだフロアでは、四、五人ずつの子どもたちが、カラフルな低いテーブルを囲んでスプーンを口にしていた。
「ミノル君、このおじさんを君のお隣に座らせてあげて」
年長組とおぼしき中央のテーブルで、院長は一人の子どもに声をかけた。「ウン」と立ち上がったその子は、スープのカップを引っくり返しながら、私のために椅子を運んできてくれた。予想もしなかったことだが、私は二十センチほどの高さのその椅子に座って、子どもたちと同じ、きわめて塩分の薄い食事をともにすることになった。
前に座った保母さん出田《いずた》絹子さんによれば、ミノル君は間もなくここでの三年間の生活を終えて、親元に帰るということだった。その出田さんは、子どもたちの食事を手伝いながら、自分もスプーンを口に運んでいた。見れば、端に座った院長もそうしている。
「食事は、いつも子どもたちと一緒ですか」
と、私は出田さんに尋ねた。
「私たちは、あとでちゃんと食事をしますが、一応は一緒に食べます。家庭の子どもは、やはりお母さんと一緒に食べるでしょう。お母さんが、おいしいねと言って自分も食べるから、子どもも食べるところがありますから」
私は、その配慮に感じ入った。小さなことのようだが、意味するものは決して小さくあるまい。
子どもたちが食事を終えたところで、院長に案内されて、私は内部を見て歩いた。印象に強かったのは、若い保母さん二人が、背に子どもをおぶって洗濯をしている姿だった。私はずいぶん長い間そういう光景を見ていなかったような気がしたものだった。そして、浴室の入口では、体から湯気を立てたすっ裸の子どもと、危うくぶつかりそうになった。
「昼間はそうしませんが、夜は保母も裸になって一緒に入るんです。他の施設から見学に来られた人は、みな驚きますけどね」
そう言う院長自身が、子どもと一緒に入浴していることは後で知った。要するに、いかにスキンシップを保つかという努力である。
短い廊下を出てきたところで、私はさっきのミノル君につかまった。私の手をとってまとわりつく彼に、院長が声をかけた。
「ミノル君は、おじさんにだっこしてもらいたいんだよね」
私は彼を抱き上げ、小さな体を両手で高く差し上げた。彼はキャッキャッと喜んで、飽かずせがんだ。
「あの子が、知らないおじさんに抱かれて喜んでいるなんていうのは、想像もできないくらいの変わりかたなんです。誰よりも抱いてほしかった子なのに、手どころか足も動かない子だったんですから」
どうやら院長は、それを語るために私をミノルに会わせたようだった。
昭和五十八年の四月、生後四ヵ月のミノルは、母親に養育能力がないという理由によって、二葉乳児院に預けられた。
院長と出田さんがこもごも語ってくれたところによれば、ミノルは乳児の時から暗い子だったという。
「これが赤ん坊の顔かなあと思うくらい、変におとなっぽいサメた顔をしていて、子どもらしい生気がないんです。何とか笑わせよう明るくしようと、みなが手をかえ品をかえ呼びかけるんですが乗ってこない。一歳すぎまでそうでしたね」
いったい、それはなぜなのか。おそらく、生後四ヵ月の間に、正常な母子のスキンシップがなかったということだろう。その結果として、もはや安心と自信が欠けていたということだ。
出生前小児科学という新たな分野の研究は、母子関係は母親が妊娠した時から始まることを証明しているが、それは伝統的な子育ての正しさを、科学によって裏づけるものと言っていい。
子宮内の胎児は、大動脈を通って羊水に伝わる母親の心臓の音を聞きながら成育する。そこで、新生児となっても、母親の心臓音は何より安心できる音となる。一分間に七十二回のリズムを聞かせれば、むずかっている子も眠るというのは、その理由による。
一方、アメリカでの研究によれば、母親の八十三パーセントは、無意識のうちに子どもを左の胸に抱くという。
つまり、左の胸に抱いて乳房を含ませるということは、子どもが最も安心できる状態で空腹を充たしてやることになり、子どもはこれによってまず安定する。そして二、三ヵ月ごろから、母親にやさしく頭をなでられたり声を掛けられたりすることで、母親という特定の相手にだけ、安心と愛着を感じるようになる。
格別新たな発見ではない、いわゆる人見知りである。ただ、人見知りというかたちで表われる強い母子依存体験が、人間関係をつくる能力の基盤になっているということが知られていなかっただけである。
二葉乳児院での徹底したスキンシップと育児法は、むろん子育ての現実からのものだろうが、それはこの認識をはっきり裏づけるものとなっている。
私が面白いと思ったのは、院長が口にするスポンサーという言葉だった。ここでは、自ら買って出て、特定の子を個人的に可愛がる保母さんを、たとえば「ミッちゃんのスポンサー」と呼ぶ。
しかし、担当保母がこれほどスキンシップを重ねていて、なおスポンサーが必要なのだろうか。が、私の小さな疑問に対して、院長はひときわ強く「もちろんですよ」と答えた。
「子どもというのは、自分だけに目をかけて、自分だけのことをやってくれる人を求め続けているんです。どれほどよくやってくれても、みなと同じではダメなんです。子どもは、どんなに幼くても、子ども社会の中での自分の存在を意識しています。ですから、まわりの子と対等になれない、いつも負い目を感じていて見返す機会がない子というのは、ひどくつらいんです。それが一番出るのは、他の子のところにはお母さんやお父さんが会いに来てくれるのに、自分のところには来てくれないという場合ですね。ひどく落ちこんだり、他の子に噛みついたり押し倒したり、言葉で言えませんから、いろんなかたちで出ます」
みなと同じように振舞えず、いつもサメたような顔をして暗く引きこもっていたミノルは、さらに不幸なことに母親がほとんど会いに来てくれなかった。落ちこむタイプの彼は、よくじめじめと泣いていた。その彼のスポンサーになってくれたのは、出田さんだった。
「よし、お泊まり行こう、と家につれて帰りまして、それこそ、よく来たよく来た、可愛いい可愛いいと抱いて寝ました。もう、その明くる日から、私を見る目が違ってきましたね。でもミノルは、それを自慢することもできず、甘えたい気持ちも表現できなくて、相変わらずカーテンの陰に隠れたりしていました。それから何度かお泊まりして、三ヵ月ぐらいしてからですね。見ちがえるほど自信がついてきて、表現できるようになりました」
そして、その出田さんが担当してくれるようになった二歳の六月ごろからは、“僕だけの先生”として、しっかり後追いするようになった。だが、それだけではいけないと、出田さんは他の保母さんにも彼をくっつけ、ある保母さんにはご主人の郷里にまでつれて行ってもらった。かくして、私にまで甘えられるようになったのである。
スポンサーは、保母さんとはかぎらない。ボランティアのお姉さんがスポンサーになって成功している例もあると院長は言った。
「誰でもいいんです。自分だけをかまってくれる人が一人できて、通じ合えた信頼できたという体験が持てればいいんです。特定の人には表現できるというのが根っこで、その信頼関係に自信が持てれば、次の人にも表現できて広がっていきます」
私が、この乳児院を訪れた目的は、ここからである。
「自分にだけかかわってほしいのに、誰も応えてくれなかったという思いが重なりますと、誰もわかってくれない、どうせ大人なんてそんなものだと自分を閉ざしてしまって、自分を開くことに自信がなくなります。ですから、養護施設に行って、そこの先生がやさしく親身になってくれても、すれ違ってしまいます。もちろん、年をとってくれば、こうしたほうがいい、こうしなければいけないと頭の中ではわかるんです。でも、信頼の体験がないと、自信が持てないから表現できない。そういう基礎としての体験は、三歳児ぐらいまでですね。そこで根っこができなければ、なかなか入っていかないんです。ですから私は、子どもを可愛がって育てられない親は、その子のために親権を放棄してくれと言っているんです。里親でも誰でも、その子に信頼関係を体験させることができる人に委ねるべきだということです」
二葉乳児院の“お泊まり”は、単なるいい話ではない。人間としてのものを取り戻させるための、必須のプロセスなのである。
もし進一が、この乳児院で育ったら、彼は自分でもわからない苦しみを苦しむことはなかったろう。生後一ヵ月で預けられたT県の乳児院で、彼はどんな育てられかたをしたのか? ともあれ、彼が表現を取り戻すのは容易ではない。
昭和六十一年三月の、春には冷たすぎる風が吹く日、私は都下T市にある進一の職場を訪ねた。前年の十月から、彼は吹付けの左官見習としてその会社に勤め、すでに半年になろうとしていた。
「今日はまだ現場から戻っていなくて」
と社長のO氏は言ったが、その社長から話を聞くのも、私の目的だった。
進一の職歴からすれば、半年というのはこれまでの最長記録である。が、それはどこまで本物なのか、今後もなお勤まるだろうか、と私は切り出した。
「だいじょうぶだと思いますよ。いくらかやる気も出てきたようですし」
社長は、しごくあっさりとそう言った。
「一度、朝起きてこないで現場をすっぽかし、しかもすぐ詫びに来なかったことがあります。そこで厳しく言いまして、続けて勤める気があるんなら、始末書を書いて持ってこいと言いましたら、先輩に教えてもらったらしく、書いてきました。それ以後はサボっていません。憩いの家からはいろいろと話をお聞きしましたが、特別扱いしているところはありません。同じ年ごろの子が六人ほど寮で一緒に暮らしていますが、大きく言えば今の子はみな似たようなものですよ。進一の場合は特にそうですが、厳しく指導していくことが結局いいんじゃありませんか」
たしかに、彼にはそれこそが必要なのである。仕事ぶりはまあまあということだが、問題は人間関係。建築の現場では、しゃべることは関係ない。むしろ無口のほうがいいのである。だが、日常生活ではどうなのか。表現能力は、やはり相変わらずのようだった。
「とにかく暗い子ですよね。それに、どこかひがんだようなところがある。ただ、来た時に比ベれば、いくらか薄まった気はします。まあ仲間同士は、気心がわかれば無口でもなんとかなりますわね。事実、よくみなと一緒にスナックなどへ出かけているようです。それだけに、金のほうはダメですな。毎月前借りですわ。今のところは給料がいいということで続いているようですが、仕事の面白さがわかってくれば本物になります。うちの会社にいつまでいるかわかりませんが、この仕事からはもう変わらないんじゃありませんか」
そういう表現こそなかったが、社長が進一を温かい目で見ていることは、話の節々にうかがえた。この会社に勤めたということは、彼にとって非常にさいわいだったと言える。
やがて現場から戻ってきた進一は、私の顔を見てびっくりしたようだった。「ご馳走してもらってこい」という社長の言葉を背に、私たちは事務所を出た。
私が、まず彼に感じたことは、歩きかたが変わったということだった。やはり自信だろうか、胸から歩く姿勢になっているのである。私たちは近くの中華料理店に入り、何品かの菜とビールを頼んだ。以前はあまり飲まなかった彼は、酒のほうも成長したようで、いっぱしの飲みっぷりをした。
「給料二十万取ってるんだって?」
「そうです」
「おまえの年じゃ多いほうだろう」
「うん、多いと思う」
「会社はどうだ、社長はこわいか」
「きびしいけど、面倒見がいい」
「どうだ、今度は続きそうか」
「うん、続くと思う」
「どうしてそう思う」
「仕事がおれに合ってる」
「じゃあ、今までは合わなかったのか」
「うん」
「合わなきゃ合わないって言やあよかったじゃないか」
「…………」
「言わなきゃわからないぞ、これからは思ったら言えよ、そのほうが話は簡単だ」
「そうだな」
話は憩いの家に溯り、彼はかつての仲間たち、とりわけ澄男を懐《なつか》しがり心配した。そんな彼に、私はダメとわかっている質問をしてみた。
「おまえにとって、憩いの家っていうのは何だったかな。どう思ってる?」
彼はしばらく考えていたが、
「三好さんはやさしかった。いい人だった」
とだけ言った。それしか浮かんでこないのではなかろう。そこにすべてがこめられているということではないか。
「最近、お母さんと会ったか」
「ううん、会ってない」
おそらく母親の件は、彼なりに自分の中での位置づけができたのだろう。
「そうか、一人でやっていくっていうことだな」
「うん、一人でやってく」
二時間ほど話し、その店の前で私は別れを告げ、「がんばれよ」と手を出した。進一は慌てたように私の手を握ったが、その手にはまったく力がなかった。
彼にとって、人とのコミュニケーションというのは勇気である。真の自立はすべてそこにかかっていると言っていい。あの手に、もう少し力が入るようにならなければ……と、冷たい風の中を歩きながら私は思った。
すでに述べたように、養護施設の子は、十五歳という義務教育修了年限に達した時、高校進学か就職かという岐路に立たされる。進学するのであれば「措置継続」として卒業まで施設に残ることができるが、就職となれば「家庭引き取り」か「自立」しかない。
東京都の場合は、私立高校への進学も許容されているが、他府県では認めていない。つまり、公立高校に受かるだけの学力がなければ、追い出されるということである。
福祉の精神から言って、これほどおかしな話はない。結果として、能力のない者、弱い者ほど自立・自活を強制することになるからだ。広岡知彦が何より糾弾するのはそこである。
「十八歳未満お断わり、ではありませんが、一人前というのは十八からというのが社会的通念です。そして国も、進学すればということで、十八歳までの養護を認めているわけです。なぜそれを、進学しない子に認めないのか。今の世の中に、頼りになる身寄りもない十五歳の子ども、しかも施設という特殊な社会でしか生きてきておらず、その上、施設出というハンデを負った子が、本当に自立できるものかどうか、誰が考えてもわかるでしょう」
まさしく、その通りである。しかも中卒の子どもの就職は、苛酷とも言えるほど厳しくなっているのだ。
中卒は、昭和四十年代には“金の卵”ともてはやされたものだった。だが、技術革新のテンポと高校進学率の上がるのに反比例して条件は悪化した。そして現在、高校進学率は九十四パーセント。金の卵は高卒にグレードアップされ、中卒は質量ともにライン以下の特殊層になっている。
その上に、施設出身というハンデである。求人といえば、左官見習のブロック塀づくりといった労働条件の厳しいものがほとんどになり、選択の幅は極度に狭まっている。
それだけではない。採用側の子どもたちの受け入れかたも、大きく変化した。施設出の子どもが自立する場合、住込みという条件はほぼ前提と言っていい。そうでなければ経済的にやっていけないわけだが、もう一つ、いわば“社会人見習”としての指導を受けていかなければ危いという側面があるからだ。
しかし、かつては多かった職親的な存在は極端に少なくなり、金の卵時代には中小企業でも用意していた三食賄《まかない》付きの寮も姿を消している。寮はあるといっても、社外に民間のアパートを借りて当てているという会社がほとんどなのである。要するに、産業社会自体が“育てる社会”ではなくなったということだ。
ということはどうなるか。言葉も、常識も、自主的な判断も、驚くほど貧困な子どもたちである。職場で受ける心の傷は、想像以上に大きなものがある。
その子どもが、明りのついていない部屋に帰り、独りポツンと夜を過ごすのである。だが一歩外に出れば、これまでタブーであった快楽は、ありあまるほど用意されているのだ。しかも悪いことに、施設の管理の中で育ってきた子どもたちは、自分の自由になる時間の過ごしかたを知らない。
この状態の中で、なおきちんと自分を律することができたとしたら、奇蹟と言っても過言ではあるまい。現に憩いの家ですら、臍《ほぞ》を噛むようなつまずきに見舞われているのである。
十年間公立の施設で育った祥子は、中学卒業とともに家に引き取られることになった。長らく一人暮らしを続けてきた職人の父親は、娘に身のまわりの世話をしてもらうことを期待し、祥子も家から高校へ通えるということで、喜んで帰った。
しかし、家庭生活を知らない祥子には、父親が求める娘としての役割が理解できず、自由の拘束ばかりが気になった。一方、娘が期待どおりにならない父親は、苛立って酒の量をふやし、酔っては娘を殴るようになった。
当然の帰結として祥子は家出を繰り返し、家裁の処分を受けて家に戻された。だが、アル中のようになって家でグタグタしている父親の暴力はさらにひどくなり、彼女は友だちのところに泊まりこんで帰らなくなる。そして、お定まりの異性関係が生じ、友人の父親から児童相談所へ通報が行った。
その結果、性的な問題があるということで、婦人相談センターの扱いとなる。そのままであれば婦人保護施設送りとなるわけだが、幸いなことに彼女を担当したケースワーカーは、人生の裏道ばかり歩いてきたような女性が集まる施設に若い子を入れるのはよくないと、憩いの家に依頼してきた。
祥子は学校をやめ、ある会社の営業部に就職した。結局そこは合わず、後に売り子に変わったが、能力は低くないということである。また、憩いの家に来てからは、一転して生活態度もよくなり、かなりの貯金もできた。
彼女が十九歳になった五十八年秋、広岡知彦とスタッフは、この子ならだいじょうぶだろうと、近くにアパートを借りてやって独立させた。
ところが、一人になるやいなや、彼女の財政はパンクし、請求書が憩いの家にまわってくるようになった。ベッド、テレビ、洋服などをクレジットでどかっと買ってしまい、支払不能に陥ったのである。広岡知彦は、「やっぱり」と根の深さを痛感したという。
「これは、施設出の子どもの特徴なんです。管理されているうちはいいんですが、自分で金が使えるとなると、めちゃくちゃになります。家庭の営みの中で生きていないから、金銭感覚が育たず、使いかたのトレーニングができていない。だから、欲望を経済力の枠の中にとどめておくことができない。欲望のコントロールができないんです。この子なら、と思ったんですが、例外は少ないということです」
また、そのころから生活が乱れ始めて、部屋に男が出入りするようになり、その男も二人三人と変わった。そして家主からアパートを迫われ、仕事も続けられなくなり、ついには売春するようになった。
結果としては、男にだらしがない、自堕落《じだらく》だと言われよう。だが彼女は、見えているものに躓《つまず》いたのではない。見えていないから躓いたのである。
「この子は、いいボーイフレンドをつくって、一緒に努力して幸せな家庭を持ちたいという夢を、非常に強く持っていたんです。ところが、結婚につながるような相手をつくるというプロセスに、自分がどうしなくてはいけないのか、何をしてはいけないのかということが全然わかっていないんです」
これは祥子にだけ特殊なことではない。広岡知彦のこの言葉には、若干の補足が必要だろう。
普通の家庭の場合、女の子は小学生のうちから結婚を意識させられている。なぜなら親は、朝の目覚めの悪いことから、家事の手伝いをしたがらないといった日常生活の一つ一つについて、「そんなことじゃお嫁に行けないから」と言い続ける。そうは言わないにしても、意識としてはそれを考えてやかましく言う。
またその子自身も、親類や地域社会の中で結婚を見聞することから、“お嫁さんになる”ことに憧れ、何かわからぬながらそのための資格を大切に感じる。そして家庭では、近所の噂話も含めて男とのつき合いが話題にされ、ちょっと外からの帰りが遅くなれば、顔色を変えて心配される。
躾や家庭教育というものは、実はとほうもない繰り返しによって行われ、その中で子どもたちは“常識”としての情報を身につけていくのである。
しかし施設の子は、そうした将来を案じての、繰り返しインプットされる情報を得ていない。それでいて彼女たちは、つらい崩壊家庭に育った反動として、早くから結婚生活を夢見て、すぐにでも飛びこもうとする。
だが、自分を幸せにするための常識を欠いている彼女らは、往々にして、安易に同棲し、結婚し、失敗する。皮肉なことにそれは、彼女を不幸にした両親が歩いてきた道とそっくり同じことになり、さらにまた自分と同じ不幸な子をつくり出すことになる。
さいわい祥子は、憩いの家のフォローアップによって、なおも紆余曲折を重ねはしたが、現在は一応の自立に至っている。
この祥子や進一が、もし一人で社会に出ていたとしたらどうなったか。躓きは決して躓きですんではいない。彼らにかぎらず、施設出の子や崩壊家庭の子は、みな同じ危険性を抱えているのである。
憩いの家の理事でもある養護施設二葉学園の前園長村岡末広氏は、その問題点を次のように指摘する。
「普通の家庭で育った子と、施設で育った子の、一番大きな差となるのは“保護性”ということなんです。依存できる家庭のある子は、失敗しても家庭に吸収してもらえて、同時に失敗の意味を教えられ経験にすることができます。ところが、依存するところがない施設出の子どもの失敗は、ストレートに自分に返ってきて、経験となることなく傷になります。場合によっては、いきなり鑑別所だの少年院だのということになりますから。同じ一つの躓きでも、片方は経験として生かせるのに対して、もう片方は、その躓きが次の躓きにつながっていく。学習できないから社会性も獲得できない。そして、悪いほうへ悪いほうへと循環していく。ここに大きな不幸があるわけです」
そう考えてみれば、憩いの家の最も大きな存在価値《レーゾンデートル》は“保護性”ということになろう。しかもそれは、子どもを見据えてあらゆる偏見を剥ぎとり、少年院に送らざるを得ない子をも「うちの子が一番可愛いい」と言う保護性なのだ。三好洋子の次の言葉は、はっきりとそれを物語っている。
「来た時は、だいたいきつい顔してますけれど、だんだん目が垂れ下がってきますね。別に、私たちが何をしたからと言うんじゃありません。ここで暮らすだけで変わるんです。それは、やっと心が休まる場所ができたということだと思います。そうなると、今まで被害感や被差別感でばかり見ていたことが、受け取り違いだったことに気がついたりする。チクショウ、チクショウと思っていたのが、そうじゃなかったと感じた時に、一番大きく変わりますね」
たしかに、そういうものであろう。ことなかれを旨とし、何か起こったらすぐ警察という状態では、子どもたちの目はつり上がるばかりである。
しかし、「ここで暮らすだけ」のことに、どれほど大きな努力が払われていることか。スタッフの子どもたちとの格闘は見てきた通りだが、この家を創り、維持、運営してきた努力も、なみたいていのものではないのである。
第六章 糸をつなぐ人々
どんな仕事も人によって始まり、人と人との出合いによって生々発展していく。あたりまえの話ではあるが、憩いの家の歴史ほどそれを感じさせるものはない。
もし財部《たからべ》実義という人物がいなかったら、また広岡知彦に、運命的とも言えるその人との出合いがなかったら、今日のような憩いの家はあったかどうかということである。
憩いの家の運動は、昭和四十年十一月、“憩いの家設立協力友の会”としてスタートしているが、それは財部実義のやむにやまれぬ思いに発している。つまり、それに先立つ彼の半生と夢が、その母胎になっているということだ。
現在もなお、住むところを失った生活困窮者の厚生福祉事業に携わっている財部実義は、いわゆる“死にそこなった”世代の一人だった。
太平洋戦争末期、当時十七歳だった彼は、他の多くの若者と同じように聖戦の勝利を信じ、国のために殉じようと海軍を志願して死ぬことを叩きこまれた。それだけに、敗戦のショックは大きかった。
そうした若者の多くは、生きる目標を喪い、自暴自棄型の生活に走った。
しかし、その中で彼は、生き残った者として“生きる”ことの意味を考え、悩み続けた。そして一年後、心身ともにボロボロに疲れ果て、死の淵に立つ体験のなかで、初めて自分の弱さ愚かしさを自覚し、生命《いのち》と愛の尊さに気付かされた。
それを教えたのは聖書だった。生き残った者は何をすべきかという方向をやっと見出した彼は、賀川豊彦を訪れてセツルメント活動に入った。死にそこなった人間の信念は強かった。彼は連日、上野の地下道や御茶ノ水橋下の浮浪者の中に入って、救済活動に当たった。そして急速に、社会福祉への関心を深めていく。
「二十一の時でしたね。伝道していましたら、酔っぱらいの中年浮浪者から『おまえの話はわかるが、俺たちには明日のパンより今日のパンが問題なんだ』と言われましてね。そこで貧困を見極《みきわ》めよう、救貧なしには問題は片づかないと、山谷に次ぐ深川“高橋《たかばし》”のドヤ街に入りまして、六年ぐらいセツルメント活動をやりました」
その街で、財部実義が何より痛感させられたことは、弱者にほど激しい資本の搾取だった。デズラ(日当)のピンハネ、高いドヤセンだけでなく、その街に生きるよりない人間の消費生活のすべてが、業者の搾取を免れないのである。
そこで彼が考えたことは、ドヤ住民のための生活協同組合だった。とはいえ、昭和二十年代に、そんな手本はどこにもなかった。大学の図書館に通って勉強し、実現可能の目算を立てた彼は、そのプランを持って賀川豊彦を訪れ、相談した。
「そうしましたら先生は、よくやった、だけどそれは思いついただけでいい、苦労するだけだからやるなと言うんです。そして、それより自分の言うことを聞けと言われるんです。何かと聞けば、一年間宣教師のもとに住込んで秘書的な仕事をしながら英語の勉強をしろ、そうしたらアメリカの大学へ留学できるようにしてやるというんです。むろん、私のためを思ってのお話ですから、有難いことです。でも、その時私は、この先生は何を言ってるんだろうと思いました。私がアメリカへ行って勉強することと、高橋《たかばし》のドヤ街が良くなることと、どういう関係があるんだということです。もはや、ドヤの人たちと自分が分かち難《がた》くなっちゃっていて、そういう発想しか出てこないんですね。そして、やるなと言われたことをやってしまいました」
一年間、苦労に苦労を重ねて“高橋《たかばし》兄弟愛消費組合”は誕生した。ボランティアなど存在しない昭和二十五、六年当時、経営は悪戦苦闘の連続だったが、仕事そのものは軌道に乗っていた。しかし、発足して二年後、信頼していた協力者の多額の使いこみによって挫折《ざせつ》のやむなきに至った。
その後、民間の厚生福祉施設であった江東区塩浜町の塩崎荘に移る。現在は中国残留孤児が多く入所する宿舎提供施設として名を知られているが、当時は戦災浮浪者の狩り込みや、仮小屋生活を強制立退きさせられた人々を収容するための施設だった。
慎太郎刈りの太陽族が出現し、ロックンロールがブームになった昭和三十一年、経済白書は「もはや戦後ではない」と書いた。その言葉が流行語にまでなったのは、新たな時代への期待をこめて、庶民の意識にも戦後は遠ざかりつつあったということだろう。
しかし、塩崎荘には戦後は終わるどころではなかった。私自身、その事実さえ知らなかったことを恥じたものだが、国民が浮かれ始めたその時、この施設は一手に戦後のツケを負わされていたのである。
「忘れもしません、昭和三十年の十二月十三日。いわゆる狩り込みで、百六十人もの浮浪者が塩崎荘に送りこまれてきました。収容しきれませんから、応急のテント村をつくって間に合わせたものです。当時もそれ以後も、満杯なんていうものじゃありません。定員八百七十人のところへ、九百八十人も入っていた状態です」
なぜ、その日を忘れていないかといえば、後に財部実義の里子となり、憩いの家設立のために働き、入居第一号となる松田善郎が、この日の狩り込みで入ってきたからである。
当時七歳、一家離散による浮浪児であり、物乞いやら靴磨きで生き抜いてきたしたたかな子どもだった。家も学校も知らない野生児で、どうしても勉強になじめない子だったが、頭は良かった。
その能力を見抜いた財部実義は、特に彼に目をかけて養護施設に送り、中学の一年からは引き取って里子とした。後に独力で事業を起こし、現在は社長と呼ばれる立場にまでなっている松田善郎は、往時の情景をこんなふうに語った。
「今でも目に焼きついているのは、財部先生が子どもたちを風呂に入れている姿ですね。塩崎の仮設テントに入ってきた子どもなんていうのは、垢光りするぐらいひどい汚れかたをしているわけです。その子どもを十人ぐらい狭い風呂場へ入れて、自分もパンツひとつになって洗ってやるんです。『よし』とか『後ろ向け』とか掛け声かけながらね。まるでシャガイモでも洗うみたいに洗って湯船に入れるんですが、それでも湯船には虱《しらみ》が浮いとったですよ。その中に自分もじゃぶじゃぶ入って……。誰にでもできることじゃありません。そして僕もそうですが、身寄りのない子は、施設からその先までずっと面倒を見てこられたわけです」
昭和三十四年、財部実義はそんな子ども十一人を集めて、塩崎荘内に“蜂の子ホーム”をつくり、養護施設へ送ったあとも、親代りのフォローアップを続けた。
「塩崎荘で親に置き去りにされた子が、施設を出てからあとの人生がうまくいかず、今度は自分が子どもをつれて塩崎荘に入ってくる。私は塩崎荘に二十六年もいましたから、現実にそんな悪循環にぶつかるわけです。何とかして、この不幸の再生産の循環を断ち切らなければいけない。そのためには、子どもがしっかり自立できるように支えてやらなければならない。そこで、個人としてできるかぎりのことはやったわけですが、蜂の子ホーム以前の子も多いので、たとえば暮から正月にかけては、いつも八人ぐらいの子が狭い団地の部屋に押しかけてきて、押し入れの中にまで寝たものでした。他に行くところがない子たちですからね。そうした現実もあって、いよいよ痛感させられたのが、施設を出た子どものためのアフターホームです」
そして、東京オリンピックの年の昭和三十九年、自分でガリ版を切って趣意書をつくり、たった一人で運動を始める。夢は家の建設だが、当初の狙いは基盤づくりのための啓蒙《けいもう》活動だった。だが、それにしても資金はいる。そこで趣旨とともに協力を訴えたビラをつくり、世田谷の団地で廃品回収を始めた。
「ところが、いんちき臭いと思われたんですね。福祉を売りものにするクズ屋がいると、団地の自治会から区に通報が行って、民生局に呼び出されました。幸い事情を話したらわかってくれまして、そういうことなら結構だが、個人の名では問題になりがちだから、任意団体をつくってやったほうがいいと教えられたわけです」
こうして、昭和四十年十一月二十六日、発起人三十六名の名によって、“憩いの家設立協力友の会”が発足した。とはいえ、決して強力なメンバーが集まったというわけではない。実態は、相変わらず財部実義が勤めのかたわら走りまわるという姿だったのである。
ここに戦力になったのは、塩崎荘に奉仕活動に来ていた学生のボランティア組織、フレンズ国際ワークキャンプ(FIWC)の面々だった。設立からちょうど一年後の昭和四十一年十一月二十六日、神田共立講堂で催された「憩いの家第一回チャリティ、講演と映画の夕」は、彼らの協力のたまものだった。
会は予想以上の成功をおさめ、関東一円から寄附が集まった。が、それはひとえに、この運動に理解を示し、朝日新聞夕刊に紹介記事を書いてくれた岩垂弘記者(現編集委員)の筆の力による。
まだ東大の大学院生だった広岡知彦が、塩崎荘に置かれた憩いの家の“友の会”事務所を訪れたのは、その新聞記事が出た一ヵ月ほど後のことだった。
「親戚の家で『いただき物がたまっているんだけれど、どこか役に立てていただけるところはないだろうか』と言うので、それなら渡したいところがあるからと、品物を届けに行ったんです。ですから、その記事を読んだ記憶が残っていて、塩崎荘も覚えていたということです。たしかに、そういう問題には関心があって、学校のサークルにも入っていましたが、その時はただ届けに行っただけなんです。そうしたら財部先生が、一月に会合があるから出てみないかと言われましてね。顔を出したのが始まりというわけです」
宗教的なものとは関わりなく、広岡知彦は高校時代から非行少年の問題に関心を持ち、大学の二年から“少年友の会”というサークルに属していた。実践活動としては、家庭裁判所から紹介された非行少年や少女に、兄や姉のように付き合っていこうとするものである。
そして彼は、自宅近くに住む少女を紹介された。父親はおらず、母親とその情夫との三人で暮らしている子だが、母親が一晩に何万円という賭け麻雀をする家庭に生きる子には、いかに心を通わせようとしても、コミュニケーション・ギャップが大きすぎた。
当時の彼はそれを失敗と受けとめ、自分にはケースワーカーはできないと思いこんでいたところがある。そこで、非行に走ってしまった子をフォローアップするのは容易ではない、その前の段階で接したほうがいいという認識を持ち、その意味で憩いの家の趣旨に賛同するところがあった。
翌昭和四十二年一月十五日、彼は青年会館で開かれた“憩いの集い”に出席し、結果としてその時から、最も頼りとなる会員になってしまう。ただし、心づもりとしてはこういうことだった。
「当初、僕としてはここまで深く関わるつもりはなく、この運動を熱心に進めている人たちのために、とにかく拠点をつくってあげようと考えたまでだったんです。なまいきなようですが、どうもこの状態では家づくりは机上プランのまま終わりそうだ。僕はケースワーカー的な実践には自信がないが、基金づくりに関しては、みなより才能がありそうだと自惚《うぬぼ》れたわけです」
だがそれは、他のメンバーと比較すればという話であって、特に経験があったわけでも成算があったわけでもない。あったものは、そのための方法論をつくりあげる頭脳と、努力できる目算だけだった。
ともあれ、“憩いの家発足計画”は、広岡知彦を迎えて具体化し、賛助会費、寄附金集めのための会員の組織化は急速に進んだ。といっても、彼が毎日のように知り合いを勧誘して歩いた結果が大きいのだが。
その一方で彼は、さらに労の多い資金活動にも当たった。財部実義と前出の松田善郎とともに、それ以前からの廃品回収にも励んだのである。松田善郎は言う。
「毎日曜日ですよ。広岡さんと小型トラックに乗ってね。きたない格好をして、まっ黒くなって。くず屋の仕切り場から出て来た時には、いつもとっぷりと日が暮れていました。いかに意義ある仕事でも、あまり格好のいい仕事じゃない。時には屈辱的な思いもさせられます。でも広岡さんという人は、絶対に誠実に黙々とやるんです。東大の大学院生で、しかもあとで聞いたら、お父さんは朝日新聞の社長だという。びっくりしましたね。財部先生といい広岡さんといい、功利的な世の常識とは無縁な人がいたからこそ、憩いの家はできたと言えるでしょう」
こうした努力によって、会員自身が夢と思い、アパートを借りてでもスタートできればと考えられていた憩いの家は、その半年後には、世田谷の三宿に独立した家としての輪郭《りんかく》を現わし始めた。中古の家を買い、丸ごと憩いの家にできる目算が立ったのである。
だが、その実現には、思わぬ落とし穴が待ち構えていた。夏前には引き渡されるはずの家が、なぜか引き渡されない。驚いたことに、会員として家の問題に関わってきた人間の中に、名うての女詐欺師がいたのである。
会員の浄財を集めた金で、何と自分の兄名義で家を登記し、その権利書を持って姿を消し、やっとつかまえたら逆に開き直り、社会党の議員秘書が介在してきたり、大物右翼の名前まで出てくる騒ぎになったのだ。
裁判にかければ勝つだろうが、時間はかかる。そういうことは思ってもいけないはずの財部実義にして「神も仏もないものか」と思ったという。
この危機を救ってくれたのは、後に顧問弁護士となってくれる川越憲治氏と、広岡知男氏だった。広岡知彦としてはいやだったろうが、父親が百五十万円の示談金を払ってくれたのである。
「若い連中は、泥棒に追い銭じゃないかと憤慨しとったが、そんな奴に引っかかったというエラーもやっているわけだよ。だから、社会学を勉強させてもらった月謝だと思えと、百五十万円払ってやった。僕が憩いの家に関わったのは、その一回だけだよ」
なお、その間に広岡知彦は、お手伝いとして働いている家を、身に覚えのない盗みの疑いで追われていた十六歳の江川悠子を、自分の家に引きとって世話している。
こうして憩いの家は、昭和四十二年十月二十九日、正式に発足した。入居第一号は広岡家にいた悠子、それに入ってくる子どもたちの兄貴役として、松田善郎も入居した。
なお、この二人は後に結婚し、世帯を持った憩いの家出身者のための強力な相談役として尽力している。
翌年憩いの家は、悠子を含めた五人の子どもを受け入れた。いずれも施設出身の中卒で、うち二人は定時制高校に通っていた。
一般家庭を考えてみればわかることだが、五人の子どもがいる一軒の家となれば、その家事をこなすだけでも母親は忙殺される。しかし、せいいっぱい無理をしている財政では、そのための専従職員を置けるゆとりはなかった。
ボランティアの住込み寮母も昼間は仕事を持っており、他に世話をできる人間は四人しかいなかったのである。
ということで、「家ができるまで」のつもりだった広岡知彦も、週に三日は泊まりこむことになる。大学と憩いの家以外の私生活は、まったくなくなった。そして相変わらず、家の運営と金づくりは、ずっしりと肩にかかっていたのである。精神的にも肉体的にも、息つくいとまもない毎日だった。
発足一年後、彼は会報“ともしび”に、こう書いている。
〈……私たちはこの一年間、金銭的な面で追いまくられっぱなしでした。もちろん憩いの家の中の人たちは、自分たちの生活費は全部自分たちで賄《まかな》っておりますが、家を買った時の借金が大きくのしかかっているのです。このような財政的な基礎では、運動に十分な役割を果たすことができず、何とか早く公的な機関から補助を受けられるようにしないと、どこかで破綻《はたん》をきたすのではないかと心配されます〉
憩いの家のありようは、誰が考えても児童福祉事業の範疇《はんちゆう》に入る。そこでスタッフは社会福祉法人の認可をとるべく、厚生省に働きかけた。だが当局は、実績がない、規模が小さい、従来の児童養護施設の形態になじまない、という理由のもとに、首を横に振るばかりだった。
要するに、判例主義の後ろ向き行政である。そして驚くべきことに、この姿勢は現在に至ってもなお変わっていないのだ。
やむなくスタッフは、次善の策として財団法人化をはかり、昭和四十五年、名称を“青少年と共に歩む会”と改めて財団法人となり、現在に至る。
とにかく、昭和四十九年まで、公的な金は一銭も入ってきていない。財源はすべてボランティア活動――会費・寄附金と、バザー、コンサート、廃品回収による収益――で賄われてきたのである。
中でも柱となってきたのはバザーの収益だが、当初からそのすべてをとりしきってきたのは、ボランティアの主婦である松井友子さんだった。
「広岡さんのお姉さまを存じあげていたことからお手伝いさせていただくことになったのですが、正直なところ途方にくれたものでした。組織も何もない状態だったんですから」
それまで、PTAのバザーは経験していた松井さんだったが、憩いの家のバザーはそうしたものとはまったく異質だった。
だいたい、趣旨を説明して理解してもらうのがたいへんなのである。ともすれば、親のない可哀そうな子と短絡されたり、養護施設があるのになぜ、と訝しがられたりと、世間の認識の薄さが第一のハードルとなった。それだけに、まず会場探しが困難をきわめた。
組織もない、物もとぼしい、会場もない。しかし、憩いの家の必要額として目標は立てられている。
ではあったが、昭和四十二年十二月三日、世田谷区三軒茶屋の保育園で開かれた第一回目のバザーは、七万三千円の収益をあげた。その時の思いを、松井さんは“ともしび”にこう書いている。
〈七万円の収益のあとにあるもの……、私は目をつぶって首を振らないではいられませんでした。自分がどんな考えに堪えようとしているのか、それは自分でも全部はわかりません。しかし、憩いの家の七万円に課せられた必死なものを考える時、私はそれまでに経験してきたバザーとの相違に憤りを感じるのです。誰が悪いのか、何が悪いのか、それはこれからの私の勉強の大きな課題だろうと思います〉
憩いの家はスタートしてしまった。子どもたちは何も知らずに保護を求めてくる。が、どこからも金は入ってこない。かくして、“必死”のバザーは、地を這うように行われ続けた。
さらに、である。昭和四十七年、多すぎる子どもたちのために、第二憩いの家の設立が決定された。応《こた》えなければならないバザーは、その年十二回もの多きにわたって開かれ、九十二万円の収益をあげたが、松井さんは強度の貧血で倒れた。
いわば草の根型のバザーは、それが限界だった。この方法では応えきれないし、みな倒れてしまうと、彼女は新たな方法を模索し、各企業に支援を求めてデパートを会場にしたバザーにチャレンジした。
昭和四十八年、銀座松坂屋が会場を提供してくれたことによって、企画は実現した。そして五十一年からは、日本橋高島屋での年末バザーが定期的に続けられている。また、五年ほど前からは、黒柳徹子さんの好意により、そのテレビ出演用の衣装がチャリティ商品として飾られるようになった。
「何とお礼を言っていいかわからない」と松井さんは言うが、大デパートの信用がどれほどこの運動を援《たす》けてくれているか、はかりしれないものがある。
一度のバザーに、直接携《たずさ》わる主婦ボランティアは約二百人。品物を集めるその裾野は、おそらく千人は超すだろうという。憩いの家はこうした主婦ボランティアによって支えられているわけだが、それが年々収益をアップさせて二十年近く続けられているということは驚嘆に値しよう。
ちなみに、世田谷区民会館での春秋二回のバザーを含めた昭和五十九年度のバザー収益は八百三十万円。しかし、歳出合計は三千四百万円。専従職員の給与は、ここに書くのもはばかられるほど安いのである。
発足時の憩いの家の子どもたちは、それ以前に財部実義が関わっていた子どもがほとんどであり、所期の目的通りの“養護施設アフターホーム”であった。しかし数年を経ずして、憩いの家は自らの手でその限定を外《はず》していく。その経過を、広岡知彦は次のように書いている(『明治学院論叢』三三二号)。
〈私たちが最初に受け入れた子どもたちは、憩いの家に入ることに意義を見出すことができる子どもに限った。具体的には、昼間は働きに出て、夜は定時制に通う意欲のある子どもたちに力を貸すということである。当時は、勉学意欲があるにもかかわらず施設を出ざるを得ない子どもが多く存在した。また、スタッフ側が未経験でもあったので、無理をしないという意識もはたらいていた。
しかし、この基準は、実践のなかですぐ崩さざるを得ない状況になっていく。まず、養護施設出身者に限定できなくなる。教護院をはじめとして、どの児童福祉施設を出身しても事情はまったく同じである。さらに、施設出身者でなくても十五歳以上の子どもたちの養護問題は発生する。当然のことながら、定時制に通う前提もすぐに取り払われることになる。
さらに、十五歳から人間関係をつけていく難《むずか》しさに直面した結果、養護の一貫性から見ても十五歳で子どもを引き受けることがよいことなのかどうか。このような討論を通じて、徐々にグループホームの考えに移っていった〉
こうした変化の中で、昭和四十九年“経堂憩いの家”が設立されるが、それは質的転換の新たな節目ともいえる。直接的には、一時は九人にもなるなど、子どもが多すぎるというニーズによるものだが、単に量だけの問題ではなかった。
〈この頃になると、どんどん子どもたちの問題が難しさを増してきて、より密接な人間関係が要求され始めてきた。これは、東京都が私立高校への進学を認めたことと関係がある。施設での高校進学率が急速にあがってきて、いろいろな事情で進学できなかった子どもたちだけが就職する状況の変化が、子どもの質に影響を及ぼした。
さらに、施設の近代化が叫ばれ、多くの施設が通勤制、交替勤務に移行していった結果、子どもたちと施設職員の人間関係に混乱が起こり始めた影響も受けていた。この子どもの質の変化は、私たちの運営のありかたにも影響してくる。当初のボランティア主体の運営ではやりくりがつかなくなり、専従スタッフを中心にする運営に切りかえざるを得なくなった。それだけ施設の形態に近づいたわけである〉
憩いの家の特徴は、状況の変化に対応し得る運営の柔軟性にあるが、それを可能にしているのはボランタリズムの発想というものだろう。そして、そうした変化は、常にスタッフの間で討議され、納得されて行われてきた。しかしそれだけに、運営委員会はたいへんなようだった。
とにかくすさまじかった、と財部実義は回顧する。
「みんな仕事を持っていますから、会議は夜しかできない。そこで八時頃から始めるんですが、議案はたくさんある、子どもたち個々の問題はあるということで、それこそカンカンガクガクとやって、たいてい朝の四時頃になりました。ですから、委員会の翌日というのは、みな三宿から出勤したものです」
昭和四十六年、広岡知彦は東大理学部助手となった。それ以後の彼の日常は、午前中は憩いの家の仕事をし、昼頃研究室へ出かけて夜十一時頃まで研究し、深夜十二時頃帰宅するというパターンとなり、その状態はつい最近まで続いていた。
いわば完全な“二足のワラジ”だが、その本職のほうは表面化学とかで、テーマは「ペニング電子分光による表面の研究」なるものだそうだ。「要するに、励起原子で表面を叩くわけです」と言われても、私などは聞くだけ無駄というものだった。
学者には、たしかに「辺幅を飾らない」人は多いが、広岡知彦ほど着るものに無頓着な人間は珍しい。財部実義によれば、
「おそらくあの人は背広を持っていませんよ。最近は少し良くなりましたが、破れたジャンパーを着て平気な顔をしている人で、ちょっと真似のできないところがあります」
とのことなのだ。ただし本人は、背広を持っていないのではないかという私の問いに、心外と言わんばかりに、
「そんなことないですよ、持っていますよ、一着は」
と答えたものだった。もっともそれは、人の結婚式に呼ばれた時に、失礼に当たらないように着て行くだけのようで、それ以外に着られることはないらしい。
そうした無頓着ぶりと関係があるかどうか、結婚も晩《おそ》かった。すでに述べたように、夫人は憩いの家のボランティアである。ともかく、結婚は昭和五十二年。彼が三十六の時だった。
旧姓児玉智子が、ボランティアとして憩いの家の寮母をやったのは昭和五十年の春からだった。当時彼女は明治学院大学の福祉学科を卒業し、横浜市の福祉事務所に就職試験を受かりながら、自宅待機の状態にあった。
そこで、大学四年の頃から時折顔を出していた憩いの家に手伝いに行き、三宿の家の改築までの八ヵ月間という約束で寮母となった。が、結局それが、終わるメドもない寮母につながるわけである。
「はじめの頃は、やたらはしゃいでいました。自分だけ楽しんでいたといいますか。でも、そうしていながら、憩いの家が嫌《いや》だったんですね、本当に足を向けるのが重くてね」
その言葉は、彼女に人間としての嘘がないということの証だろう。
ただ、その中で彼女は、広岡知彦という人物に、福祉に携《たずさ》わっている人間とは違う新鮮なものを感じた。広岡知彦が彼女をどう感じたかは、ついに聞けなかったが、結婚を申しこんだのは彼のほうからだった。
「狡《ずる》いんですよ、全部手のうちさらけ出して、『僕は憩いの家とは切れることはできない、そういう人間だけど一緒にやっていかないか』って。正直に言って私は、そうは言っているけど、どこかで憩いの家と切れてくれるかもしれないと期待はしていましたね。でも、切れてくれてもよし、切れなくてもよしと観念して……。結局切れないで、こういう目に会っているわけですが」
その頃、広岡知彦にはアメリカのカリフォルニア大学への留学が決まっていた。以前から、「早く結婚しろ」と言っていた父親知男氏は、かなり気を揉んでいたようだ。「僕は前から、おまえが選んだ相手なら文句は言わんと言っとった。そうしたら、行く直前になって、実はと言ってきた。そこで急遽女房をつれて九州の嫁さんの実家へ行って、型通りよろしくと挨拶した。だが、その時までむこうの親は、僕が朝日の社長やっとるとは知らなかったらしいな。そこで、むこうの両親を東京へお呼びして、両方の近い親戚だけ集めて飯を食った。それが披露宴のようなものだな」
それからもわかる通り、二人は結婚式を挙げていない。届けを区役所に持って行っただけである。仲間に対する発表は、渡米の壮行会の席上だった。つまり、壮行会が披露パーティーを兼ねたことになる。
渡米の日、仲間たちの最大の関心は、「広岡も、今日は背広を着て来るだろう」ということだった。たしかに背広は着て来た。ただし、ネクタイはしていなかった。
カリフォルニア州バークレーでの二年間は、広岡智子にとっては長期の新婚旅行のようなものだった。
「夢の生活でしたね。でも、あそこで生活しながら、帰ったらまた憩いの家の生活に引っぱりこまれるだろうな、こんな生活はここだけで終わるだろうなと思っていました」
その予想通り、帰国してしばらくは広岡の家に入ったが、昭和五十六年から一家で経堂の家に住みこむことになり、寮母としての暮らしが始まった。
渡米中うまくいかなくなったスタッフの人間関係に、帰ってすぐ断を下さざるを得なかった広岡知彦は、新たに実質的な責任を負わされることになったのである。
そして、昭和五十八年の秋ごろから健康をそこねた彼は、二足のワラジを履き続ける困難さに悩み始めた。
彼は二十歳の頃十二指腸潰瘍を患い、十二指腸と胃の三分の二ぐらいを切りとっている。その後遺症ということだろう。鉄分を吸収できず血液が薄くなるという宿痾《しゆくあ》をもっていた。それがいよいよ悪化し、赤血球の数も白血球の数も限界に近いほど減っているとわかったのは、五十九年に入ってからだった。
研究生活と憩いの家を両立させていこうという理想に、いわばドクターストップがかかり、どちらかを捨てなければ体がもたないというところに追いこまれたわけである。自分が憩いの家に必要がなくなったら、いつでも身を退《ひ》こうという気持ちは今も変わらないという彼だが、状況はそうはなっていなかった。
「研究者として生きようと思ったら、ここを出て一定の距離を置いてやらなければできないでしょう。でも、あまりにも僕が中心になってやってきましたから、抜けたあとでどうなるかという問題があります。また、この家自体にも社会的責任が出てきてしまっている。だから、そう簡単には抜けられない。そこで、どちらをとるかとなったら、やはり憩いの家をとらざるを得ないんじゃないかなあと、体の調子が悪くなった去年の九月頃から、もんもんと考えているわけです」
昭和五十九年暮、彼は私にそう語ったものだった。
昭和六十一年三月、広岡知彦は東大に正式に辞表を出した。品物を届けに行き、家をつくるまでと関わったこの運動に青春のすべてをぶちこみ、ついにそこまで来てしまったわけである。運命的とも言えるが、それは大きな決断だろう。しかし、本人は振り返ってこう言うのである。
「正直に言って初めの頃は、陽の当たらない子どもたちのためにという問題意識は、さほど深くはなかったですね。僕には宗教的なものもありませんし、使命感といったものもほとんどありませんでした。それより、そういう子どもと一緒に生活するのは楽しいだろうなという気持ちのほうが強かったと思います。要するに、品物を届けに行って引きずりこまれちゃったということですよ」
憩いの家で結ばれたカップルといえば、現在事務局をとりしきっている武田陽一・久美夫妻もそうである。
武田陽一が憩いの家のボランティアに加わったのは昭和四十八年、彼が日本社会事業大学二年の時だった。
「ほとんど三宿の家から大学へ通っていたようなものですが、大学では勉強しませんでした。勉強したのは憩いの家でです」
彼にとっては憩いの家こそが大学だったというわけだが、月謝を払うほうの大学は、単にもの足りないというだけではなかったようだ。憩いの家というボランティア活動の現場に身を置いた彼は、机上の福祉論に我慢がならなかったように思われる。
昭和四十九年当時、彼は“ともしび”にこう記している。
〈手弁当で集まり、環境破壊をなんとか食い止めようと必死になっている人たちを、ボランティアと呼んだら張り倒されるだろう。自分自身の生活・命にかかわることで、他人事ではないのだから。もちろん、よそ者にとっても他人事ではないということで、支援の輪が広がっていく。ところが、“福祉”という世界では、特別な身分、奇妙な肩書きを持たされた人たちがたくさんいる。
自然を皆で守るのと同じように、あるいはそれ以上に、人権は皆で守らなければならないのである〉
そして、大学を卒業して大学に残るのと同じような感じで、彼は憩いの家に残り、昭和五十一年専従職員になった。ちょうどその頃、当時まだ立教大学の学生だった安田久美は、憩いの家で住込みのボランティアを始めていた。
彼ら二人にとって憩いの家は、志し学んできたことの実現の場であったわけだが、同時に青春の場でもあった。
翌五十二年五月、仲間たちから祝福されて結婚。そして、その六月から夫婦で経堂の家に住みこみ、寮父・寮母として子どもたちと暮らすことになった。それは、武田陽一が卒論に選び、現在もなお追っているテーマ、夫婦が市井《しせい》で養護児童を育てる欧米式グループホームの、自らの実践だった。
三年後、さまざまな理由から武田久美は寮母役を退くことになるが、いわばパイオニアとしてのこのトライは、憩いの家だけでなくグループホーム推進の上でのいい経験となっている。
貧乏しながらも理想を曲げない憩いの家では、事務局の仕事はたいへんである。その意味で武田陽一の存在は大きいが、他方彼は、福祉の現場の人間を横断的に組織した“グループホーム研究会”の、いわば事務局長も兼ねている。憩いの家のそうした積極性は、彼に負うところが大きい。
なお、事務局にはもう一人、拓也の項で紹介した山下正範がいる。
昭和五十七年からボランティアとして来るようになった彼は、東大文学部を出てある出版団体の営業部門に勤めていたが、結局は憩いの家のほうに生きがいを見出したのだろう、五十九年から専従職員となった。
黙々と廃品回収をやり、広報を担当し、なお料理に腕を振っているが、彼ならではの働きには、子どもたちの職探しがある。
前にも述べたように、憩いの家の子どもたちには、仕事の場こそが教育の場となる。どんなところに勤めるかということは、何よりも大きく自立に関わるのである。子どもの適性と企業の対応を見較べつつ、根気よく職場めぐりを続ける彼の努力は、その意味で計りしれない重さを持つ。
そうした経験を、彼は自らが編集するもうひとつの会報“歩む会通信”にまとめている。IQと自立能力、育ちかたと適応性など、養護関係者には価値ある資料と言えるだろう。そのレポートの本筋からは外れるが、私が面白いと思ったのは彼のこんな目だった。
〈どんなに頑張っても相対的なものでしかない偏差値というバケ物は、価値観の多様さをまだ身をもって体験していない子らにとっては、全智全能の神の尺度になってしまいかねないものです。それと違う尺度で子ども同士が関係をつくろうとすれば、子ども同士の遊びの場で、いわば影の社会を形成し、そこに求めていくしかないでしょう。しかし、自然の遊びの場を奪われている現代の子どもたちは、ファミコンの腕を競ったりする中で、子ども同士の暗黙の価値観の尺度をつくっていきます、万引きのグループをつくって共犯関係を確認したり、暴走族、シンナー遊び等々、いわゆる非行が一匹狼的でなく、グループ化しているのは、その表われではないでしょうか〉
グループ化が、もし影の尺度の確認であるとすれば、いじめもここに入るかもしれない。いずれにせよ、なぜ“つるむ”のかという問題は、今の子どもを考える上で欠かせないファクターと言える。
さて、憩いの家は、昭和五十七年十二月、もう一軒の家“祖師谷《そしがや》憩いの家”を発足させている。
それは、かねてから主張している地域の中での低年齢児からの養護、より家庭的なグループホームの実践だった。しかし、学校に通う子どもを入れる以上、生活費は全面的にカバーしなければならない。そこで、この家の場合は東京都の養育家庭制度に乗せて、養育里親の認定を受けた夫婦を当てることにした。
問題はそのための人だったが、さいわい佐野隆・幸子夫妻という人材が得られた。昭和五十年、日本社会事業大学を卒業した佐野隆は、東京生まれにもかかわらず、北海道美深に職を求めた。
小舎制のユニークな運営で知られる養護施設B園のありかたに、共鳴するものがあったからである。そして、同じ施設に働く現夫人と知り合い結婚。夫婦二人で一つの小舎を受け持った。
しかし五年後、思うところあって東京に戻り、ある先輩の紹介により憩いの家にめぐり合ったというわけである。
現在、祖師谷の家には、小学生一人、中学生四人、高校生一人の六人が元気に暮らしている。ここの子どもたちは、母親が交通車故で入院した母子家庭の子といった、家庭に問題があって、学校に通うことが難しくなったケースに限られている。
三宿や経堂の場合は、家庭はもちろん、本人にも問題がある子がほとんどだが、祖師谷の場合は、子ども自身にはさほど問題はない。本書に、これまで祖師谷の子が登場してこなかった理由は、そうした質の違いによる。
それだけに、祖師谷の子どもたちは明るい。五十九年の年末バザーで、私の隣で玩具を担当していた高校二年の和男は、照れるどころか楽しむように「いらっしゃいませ」と声を張っていたものだった。
天職という言葉があるが、三宿の家の寮母三好洋子ほど、この仕事のために生まれてきたのではないかと感じさせる人はいない。
自分を含めた人間に興味があってこの仕事を選んだという資質もあるが、しかしそれは、自分と向き合うかたちでの努力の結果と言うべきだろう。
高校卒業後、ある養護施設の保母となり、小柄な体を子どもたちにぶつけるようにして取り組み、しばしば鼻血を流したという。母親が広島で原爆の二次汚染に見舞われている彼女は、その病因を白血病と疑って悩んだようだが、さいわいそれは過労とわかった。
その施設を彼女は四年で辞め、改めて上智社会福祉専門学校に通う。そして、前にも述べたように、悪名高いK学園に実習に行くなど、いくつかの施設を研修して歩いた。
本物を志向する彼女には、どこかに不満があった。その中で耳にしたのが、憩いの家のありかただった。興味は抱いたが、訪ねるツテはなかった。
そんな三好洋子が、初めて納得できる施設と人にめぐり合ったのは、北海道の遠軽《えんがる》だった。施設の名は“北海道家庭学校”、日本に一つしかない民間の男子教護院である。そして、彼女が師と仰いだ人は、石上館の寮長藤田俊二氏だった。
その藤田氏に、三好洋子は憩いの家について尋ねた。さいわいなことに、藤田氏は憩いの家を知っているだけでなく、大きく親近感を抱いていた。前出の武田陽一も、昭和四十九年に氏を訪ねているのである。
「憩いの家ならよく知っているよ、紹介してあげよう」
こうして昭和五十二年五月、三好洋子は三宿の家の寮母となった。
職業柄、私はさまざまな人に会っているが、彼女ほど言葉をいきいきと話す人を他に知らない。ありきたりの言葉、おためごかしの言葉はまず使わないということはあるが、どんな言葉も偽りのない感情に裏打ちされ、驚くほど豊かな表情で語られるのだ。
広島訛《なまり》の残る、かなりの早口だが、私は彼女と話し合う度に、標準語という言葉がいかに感情のコミュニケーションに適さない言葉かということを痛感させられる。
だから、どんな子どもの胸にも彼女の言葉は入り、どれほど「めったくそ」に怒られようと心に傷として残ることが少ない。
初めて三宿の家を訪れて取材した時、三好洋子は、可愛がりながらも手を焼かされ、ついに少年院に送らざるを得なかった子どものケースを、あたかも検事席に向かって立つ弁護人のように、熱く鋭く語った。私のメモ帳には、次のような言葉が残されている。
「なんで、というような常識では考えられないことをやった子どもと対する時、いつも自分に言い聞かせるのは、現象にとらわれたらいけないということ。原因は一つではないということ。理解しがたい行為の中にも、必ず言いわけはある、弁解ということではなくて、言い分という意味での言いわけがあるはずで、それを感じとれなかったら、その子と付き合う資格はないということです」
「今はいろんな専門書がいっぱい出ているから、それを読んで納得したような顔をして、おまえの気持ちはわかるわかるなんていう先生もいるけど、子どもは見抜きますよ。本当にはわかっていないのにわかったような顔をするから、子どもは横を向くんです。わからなかったらわからんと言えばいい。わかると言うから顔が引きつる。ものわかりがよくある必要はないんで、不自然であるのが一番いけない。自分は自分であればいいんです」
「ツッパリとかいじめとか、そういう問題は昔からあったはずなんです。でも、そういうものは出てくるんだということで、親の立場、教師の立場で、昔の人は苦労する覚悟があって、苦労してきた。だからこれほど問題は出てこなかった。ところが情報が発達したせいか、心理学書片手に子どもを怒って、手に負えないとすぐ葛藤《かつとう》を避けて専門機関に預けてしまう。子どもが一番頭にくるのは避けられた時です。問題をぶつけて、大人にパッと躱《かわ》された時、一番腹が立つ。応《こた》えてやれるかどうかは別として、子どもが突きつけてきた問題には真剣に応えてやらなければいけない。間違っているかどうかは神様じゃないからわからない。それは後の問題です」
「子どもがよくなったかどうかというのは、結果ではなくて、その時にどういう心の闘いがあったかということだと思うんです。ところが、盗みをする子の前から金や物を取り除いて、ああこの子は盗みをしなくなったということをやっているわけですよ。そんな結果は何の意味もない。心の闘いのないのは怖いけど、闘って負けたのはしかたがない。そうであれば、次の時にはもうちょっと違ってくるということです」
ツッパリやいじめはいけない、絶滅しようと、文部大臣と日教組の委員長が話し合う。そんなことができるはずはないが、かりにツッパリもいじめも起こさせない管理体制を敷いて、平和な教室をつくったとしたら、そこからいったいどんな子どもが出てくるか、そのほうがよほど怖しいはずである。
憩いの家では、誰も安易な結果は求めない。事実として私は、憩いの家のスタッフから「失敗した」とか「成功だった」という言葉を聞いたことがない。「そんなことは棺桶に入るまでわからんでしょう」と広岡知彦は言うが、人を育てるとはそういうものだ。
私がここにとりあげた子どもたちは、時間はかかったがほぼ立ち直ったケースである。それは幸いそうなったのであって、そうなったからとりあげたのではない。しかし、広岡知彦も三好洋子も、そうしたケースだけ紹介されることを好まない。二人が異口同音のように言ったのは、こういうことだった。
「この家を出た子どもたちが立派に自立しているかといえば、そうは言えません。圧倒的にジグザグやっているほうが多いんです。ただ、うまくいっていない子は特にそうですが、何かあった時には相談に来ます。『お金貸してください』みたいな格好でもね。でも、それでいいと思うんです。憩いの家に、最終的に何ができたか、何が言えるかといえば、関わりの糸を切らずにいるということ、それしかないと思うからです」
今、ファミコンにまでおよぶ物質文明の中で、それに興じながら子どもたちは、自殺の数をふやしている。
「文明とは電灯のつくことではない。原爆をつくることでもない。文明とは人を殺さぬことである」
誰であったか、そう言った人がいるが、さらに言うなら、文明とは教育であろう。われわれはもう一度、子どもたちとの間の糸を確かめる必要があるのではないか。
文庫版あとがき
私がこの本を書き上げたのは昭和六十一年四月、ちょうど五年前のことである。ここに取り上げた三人の子どもたち、いずれも仮名ではあるが拓也も瑠美も進一もすでに二十歳を超えた。
本書で、たとえばその瑠美について、私はいささかカッコよく「今後、どこへ行こうと、何をしようと、おそらく彼女が崩れることはないだろう」と書いている。では、現実にどうなったか。幸いなことに、三人は三人ともそれなりに安定しているようで、その言葉は読者を裏切らずにすんでいる。
しかし私自身は以後、彼らをフォローしておらず、その消息を広岡氏に尋ねて知らされたことは、その後も憩いの家は瑠美や拓也に対して、あるいは防波堤になり、あるいは相談役になりとかかわり続けてきているということだった。スタッフの努力に心中深く頭を下げるとともに、改めて自分をいい気なものだと思わざるを得ない。
おそらくは事実の重みによってだろう、本書は意外なほどの好評を得た。それはありがたいことだったが、それによって私は一種「うしろめたさ」に似た気分につきまとわれることになった。
私は、憩いの家で行われていることを事実として紹介したに過ぎない。それが評価されるとするなら、営々と“事実”を積み上げてきた人々の努力は、それ以上に評価されて然るべきである。だが、事はそうは運ばず、私の心にわだかまるうしろめたさは一向に解消されなかった。
しかし、やはり世に光はあった。平成二年四月、憩いの家は吉川英治文化賞というその仕事に最もふさわしい賞を受賞する。広岡氏もスタッフも「当たり前のことをしてきただけ」と淡々としていたが、その当たり前のことをやり遂げるのがどれほど大変なことかということは改めて言うまでもあるまい。正直に言えば、その時の私の喜びには、これで幾分なりと心の負債が返せたという思いもあった。
本文中にも述べたように、私には子どもがいない。また、それまで警察問題などもっぱら硬いものを書いてきているだけに、その執筆時には「柄にないことをやっている」という思いが強かった。しかし、これを書いたことによって、以後私は子どもや若者の問題にかかずらうようになる。いったいそれはなぜかということだが、どうやらそれは初版のあとがきに書いた次のような思いに発しているようだ。
〈……憩いの家にかかわった当初、私には「たいへんな子どもたち」という意識が強く、よくそんな言葉を口にした。事実、この子どもたちを自立させるのはたいへんである。だが、たとえば三好さんは、
「うちの子どもたちを見ていると、世間一般のいい子というのがウソッぽく見えてしょうがない。たいへんなのは、むしろそっちの子のほうではないか」
という言いかたをしていた。正直に言って私は、いささか身びいきにすぎるのではないかと感じたものだった。だが現在、私はまったく同じ見かたに立ってしまっている。とにかく憩いの家にいる子には、ずる賢く酷薄ないじめをやるような子はいない。……〉
つまり私は、新たな目をもって世間一般の子どもを見られるようになったということである。またそこには、本書を取り上げてくれた朝日新聞の天声人語子が、その三好さんの言葉を引いて「著者は、この言葉の背後にあるものを問い続けている」と結んだことも影響しているように思う。
その後、私は二冊の若者対象の本を書いた。そして今、この本はいささか早く書かれすぎたのではないかという気がしている。たとえば、本書のとくに進一の項で、私は“表現力障害”なる言葉を使い、その因ってきたるものを養護施設や崩壊家庭など歪んだ育ちかたに見ている。しかし現在、表現力障害としか言いようのない若者はどこにでも見受けられる。それが何によるかは最近上梓した『劇団月夜果実店―喪失の世代・考』に考察しているが、一言でいえば“精神的崩壊家庭”がそれだけ増えているということだ。
因みに言えば、つい先ごろ沖縄で開かれた第一回全国児童・生徒の『心の健康会議』(日本臨床心理士資格認定協会主催)では、急増している登校拒否の背景には両親・家庭のありかたが深く投影していることが報告されている。つまり、五年前には特殊と見られたありかたが、今やまったく一般化してしまったということである。
その意味からすれば、わが子の言動に戸惑い悩む親にとって、ここに示された憩いの家スタッフの子どもたちへの対しかたは、より現実的な指針として役立つということにもなろう。
とまれ憩いの家は、現在もなお、より難しくなった子どもを相手に苦闘を続けている。読者の中にお力をお貸し下さろうという方があれば幸いと考え、巻末に憩いの家の連絡先を記させていただく。
なお解説には、本書にも登場していただいた東京育成園園長であり、養護施設協議会子どもの人権問題特別委員会委員長の長谷川重夫氏に筆を執っていただいた。重ねてのご協力を深謝する次第である。
一九九一年四月
小 林 道 雄
財団法人 青少年と共に歩む会『憩いの家』
〔連絡先〕
〒一五六―〇〇四五
東京都世田谷区桜上水一―二七―一一
(広岡知彦氏は、一九九五年十一月に他界され、一九九八年九月、遺稿集『静かなたたかい』が出版されています。)
解 説
長谷川 重夫
日本の社会福祉は、胎児から老人に至るまで、児童福祉法をはじめ社会福祉関係八法で法的には整備されている。しかし、人間生活のすべてのライフ・ステージにおいて福祉がうまく行き届いているかというと、決してそうではなく、多くの欠陥を残している。
とくに思春期児童に対するそれは、先進国に比べても大きく遅れをとっている分野である。登校拒否や学業の落ちこぼれ、非行など問題は年々深刻になってきている。なにしろ、全世代を通じ最も犯罪率の高いのが中学二年生(一四歳)というのが現状である。にもかかわらず、抜本的な行政施策は展開されていない。
本書でとりあげられた広岡知彦氏を中心とした「憩いの家」の活動は、国や地方自治体が十分に責任を果たしていない思春期児童を対象としている。行き場のない彼らのために、類いまれな深い人間愛を基盤にした福祉実践と心理臨床活動である。それはまた、世間一般の労働慣行とは無縁といってよいほどの厳しい労働をともなった、そして、私生活を犠牲にすることの多いボランティア活動である。
本書では、三人の思春期児童を中心に、それぞれがいかなる生育史を持って「憩いの家」にやってきたか、また、「憩いの家」でどのように人間性を回復していったか、そして巣立った彼らはどう生きているかを追跡している。著者は長期間「憩いの家」に宿泊取材することはもちろん、思春期児童たちと心が通うようになるまで取材を深め、強い社会正義感と鋭い感性、深い人間愛あふれる筆致で、優れたドキュメントに仕上げている。
「憩いの家」活動が始まったのは、高度経済成長期の最中一九六五年であった。本書にも記されているように財部実義氏という戦中派のヒューマニスト(氏は高い能力を秘めながら、氏自身の人生観によって出世コースは採らずに福祉領域の中でも最も困難な分野の一つである浮浪者救済等に文字通り身を挺してきた)の提唱で、エリート中のエリートともいうべき東大生広岡知彦氏が一粒の種となって活動の端緒を開いた。広岡夫人をはじめ、三好洋子女史、武田陽一夫妻、山下正範氏、佐野隆夫妻たちが加わって、世田谷区の「三宿憩いの家」から始まって「経堂憩いの家」「祖師谷憩いの家」と活動が広がり、過去も、現在も、そしてこれからも一日二四時間・年三六五日ひとときも休みなく活動が続けられる。この施設を利用した児童・青年たちは総数約二二〇人(一九九一年三月末)。驚くべき少ないスタッフで、驚くべき成果を挙げている。「憩いの家」活動に吉川英治文化賞が(一九九〇年)、広岡知彦氏に東京弁護士会人権賞(一九九〇年)が贈られたのもむべなるかなである。
「憩いの家」を最後の拠りどころとして生活した子どもたちの大半は、児童福祉法にもとづく養護施設や教護院での生活経験の持ち主であり、本書に登場する三人のうち二人もそうである。また、家庭裁判所の審判を経た非行経験児も少なくない。
歴史的には、養護施設は孤児院から、教護院は感化院から出発している。前者はいまも全国に五三四ヵ所あって約三万人が、後者は同じく五七ヵ所あって約二三〇〇人が入所している。児童福祉法は原則として満一八歳に達するまでの子どもたちに適用されるものの、その公的保障の内容には多くの不十分さを残している。高校進学もその一つであって、養護施設からの高校進学を国が実質上保障したのは、なんと児童福祉法施行後四半世紀たった一九七三年であり、一九九〇年代になっても全日制高校への進学率は五〇パーセントを割っている。教護院においては、依然として一桁のパーセンテージでしかない。一般家庭児童の全日制高校進学率が一九六〇年代に九〇パーセントを越え、高校義務教育化が叫ばれて久しい中で、施設児童の大半は高校進学ではなく、一五歳の春で年少労働者として、特にその多くが住み込み就職という苦難の道を選ばざるを得ないのである。
子どもたちの多くは知恵おくれなど生得的な障害の故に高校に進学できないのではない。環境が、至極当たり前の処遇としての高校就学の機会を奪っているのである。そして、年少労働者となる子どもたちの大半は、出生・幼少期から親と別離させられるなど不幸な生い立ちを余儀なくさせられている。子どもたちを待ちうける職場環境・社会環境には、ややもすると子どもたちを落ちこぼれ、施設育ち……という偏見のまなざしが多く、しかも、非行の温床は経済大国ニッポンに充満しているのである。そこでは、厳しい嵐に立ち向かいつつも、翼を折られ、挫折する年少労働者が生まれるのは当然であろう。また、高校卒業が完全自立のパスポートとなり得るほど、現代社会の青少年自我形成過程は単純なものではない。このことは施設児童のみの問題ではない。登校拒否および高校中退者も年々増加の一途である。つまり、一般家庭の中にも翼を折られ、挫折感にさいなまれている“はぐれ鳥”が増えているのである。
子どもたち一人一人は、かけがえのない存在であり、人権の主体者である。たとえどのような不幸な妊娠の事情であっても、重い障害をもって生まれようとも、ひとたび生命を与えられた人間としての尊厳に軽重はない。また、どのような逆境の中におかれても、あるいはどのような非行の繰り返しがあっても、子どもたち自身の中にある人間性の回復力と可能性を信じ、騙されても、裏切られても、なおかつ期待して最善の努力を傾注する人間愛――、ここに「憩いの家」活動の思想的原点をみることができよう。このことは、現代の親が、教師が、社会福祉関係者が、司法関係者が、そしてミーイズム蔓延の現代日本の大人たち総体がとかく見失いがちな課題ではないだろうか。
この思想的原点にたっての「憩いの家」の実践で、いまひとつ強調しておきたいのが、社会福祉の国際的潮流であるノーマリゼーションの先駆的実践である。ノーマリゼーションとは、社会福祉のサービスが、慈恵的なものでないことはもちろんのこと、その内実が普通の市民生活から遊離したものであってはならないとの人権尊守から発想されている理念の具現化でもある。
「憩いの家」が、建物・設備からみても一般家庭となんら異ならないし、家の中も、そして日常生活のすべてが一般家庭そのものである。すなわち、日本でも徐々に広がりつつあるファミリー・グループホームの一典型として、利用者である子どもたちに(ときに成人も……)、家庭としての憩いを与えている機能を持つ。この実践が、今後の日本の社会福祉施設の大命題ともいうべき処遇のノーマリゼーション推進に大きな指標を与えているわけである。
さらに、一九八九年より日本政府も不十分ながら「自立援助ホーム」制度を国の施策として打出し、補助金を支出し始めているが、先行している東京都に比して未だしの感が強い。施設出身児童のみでなく、日本全体の思春期社会不適応児のために「憩いの家」活動が、拡がることが望まれるのである。そのための建物・設備ももちろん必要であるが、最大の課題は、深い人間愛に根ざした意欲と能力を持った人材の養成と確保である。また、そのスタッフを支える多くのボランティアの開拓と確保である。
A・シュバイツァーは「人は、誰でも心に薪をもっている。その薪が他の人によって火をつけられて燃える」といっている。本書を読まれた人が、一人でも多く、心の薪を燃やされると共に、また一人でも多くの人の心の薪に火をつけられることを願ってやまない。「憩いの家」スタッフの実践と、著者が訴えていることも、そのことではないだろうか。
(東京育成園園長)
●本作品は、一九八六年六月、講談社より刊行されたものです。
●本電子文庫版は、一九九一年五月刊行の講談社文庫版第一刷を底本とし、一部字句を改めました。
翔《と》べ! はぐれ鳥《どり》
――立ち直った崩壊家庭の子供たち――
講談社電子文庫版PC
小林道雄《こばやしみちお》 著
Michio Kobayashi 1986
二〇〇〇年九月一日発行(デコ)
発行者 野間省伸
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二‐一二‐二一
〒112-8001
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