考えるヒント 3
小林秀雄
[#表紙(表紙3.jpg、横102×縦150)]
目 次
信ずることと知ること
生 と 死
美を求める心
ゴッホの病気
ドストエフスキイ七十五年祭に於ける講演
喋ることと書くこと
政治と文学
悲劇について
表現について
私の人生観
歴史と文学
文学と自分
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信ずることと知ること
この間テレビで、ユリ・ゲラーという人が念力の実験というのをやりまして、大騒ぎになったことがありましたね。私の友達の今日出海君のお父さんというのが、もうとうに亡くなったが、心霊学の研究家であった。インドの有名な神秘家、クルシナムルテという人の会の会員でした。だから私はああいうことは学生の頃からよく知っていました。念力というような超自然的現象を頭から否定する考えは、私にはありませんでした。今度のユリ・ゲラーの実験にしても、これを扱う新聞や雑誌を見ていますと、不思議を不思議と受けとる素直な心が、何と少いかに驚く。テレビで不思議を見せられると、これに対し嘲笑的態度をとるか、スポーツでも見て面白がるのと同じ態度をとるか、どちらかでしょう。念力というようなものに対してどういう態度をとるのがいいかという問題を考える人は、恐らく極めて少いのではないかと思う。今日の知識人達にとって、己れの頭脳によって理解出来ない声は、みんな調子が外れているのです。その点で、彼等は根柢《こんてい》的な反省を欠いている、と言っていいでしょう。
その時分、私が丁度大学に入った頃、ベルグソンの念力に関する文章を読んで大変面白く思った事があります。その文章は、一九一三年にベルグソンがロンドンの心霊学協会に呼ばれて行なった講演の筆記なのです(「生きている人のまぼろしと心霊研究」)。その大体のところを覚えていますので、お話ししようと思います。ベルグソンがある大きな会議に出席していた時、たまたま話が精神感応の問題に及んだ。あるフランスの名高い医者も出席していたのだが、ある婦人がこの医者に向ってこういう話をした。この前の戦争の時、夫が遠い戦場で戦死した時、パリにいたその夫人は、丁度その時刻に夫が塹壕《ざんごう》で斃《たお》れたところを夢に見たのです。それをとりまいている数人の兵士の顔まで見たのです。後でよく調べてみると、丁度その時刻に、夫は夫人が見た通りの恰好で、周りを数人の同僚の兵士に取りかこまれて、死んだ。これに関するベルグソンの根本の考えは実に簡明なのです。この光景を夫人が頭の中に勝手に描き出したものと考えることは大変むずかしい。と言うよりそれは、不可能な仮説だ。どんな沢山の人の顔を描いた経験を持つ画家も、見た事もないたった一人の人の顔を想像裡に描き出す事は出来ない。見知らぬ兵士の顔を夢で見た夫人は、この画家と同じ状況にあったでしょう。夢に見たとは、たしかに念力という未だはっきりとは知られない力によって、直接見たに違いない。そう仮定してみる方が、よほど自然だし、理にかなっている、と言うのです。
ところがその話を聞いて、医者はこう答えたというのです。私はその話を信ずる。夫人は立派な人格の持主で、嘘など決して言わない人だと信じます。しかし、困ったことが一つある。昔から身内の者が死んだ時、死んだ知らせを受取ったという人は非常に多い。けれども、その死の知らせが間違っていたという経験をした人も非常に多い。つまり沢山の正しくない幻もあるわけです。どうして正しくない幻の方をほっといて、正しい幻の方だけに気を取られるのか。たまたま偶然に当った方だけを、どうして取り上げなければならないか、とこう答えたというのです。ベルグソンは横でそれを聞いていたのです。そうすると、そこにもう一人若い女の人がいて、その医者に、「先生、先生のおっしゃることは私にはどうしても間違っていると思われます。先生のおっしゃることは、論理的には非常に正しいけれど、何か先生は間違っていると思います」と言ったというのです。ベルグソンは、私はその娘さんの方が正しいと思ったと書いている。
これはどういうことか。ベルグソンはその講演で、こういう説明をしています。一流の学者ほどと言ってもいい程だが、学者は自分の方法というものを固く信じているから、知らず知らずのうちに、その方法の中に這入《はい》って、その方法のとりこになっているものだ。だから、いろいろな現象の具体性というものに目をつぶってしまうものだ。今の場合でも、その医者は夫人の見た夢の話を、自分の好きなように変えてしまう。その話は正しいか正しくないか、つまり夫人が夢を見た時、たしかに夫は死んだか、それとも、夫は生きていたかという問題に変えてしまうと言うのです。しかし、その夫人はそういう問題を話したのではなく、自分の経験を話したのです。夢は余りにもなまなましい光景であったから、それをそのまま人に語ったのです。それは、その夫人にとって、たった一つの経験的事実の叙述なのです。そこで結論はどうかというと、夫人の経験の具体性をあるがままに受取らないで、これを果して夫は死んだか、死ななかったかという抽象的問題に置きかえて了《しま》う。そこに根本的な間違いが行なわれていると言うのです。
なるほど科学は経験というものを尊重している。しかし経験科学と言う場合の経験というものは、科学者の経験であって、私達の経験ではない。普通の経験が科学的経験に置き換えられたのは、この三百年来のことなので、いろいろな可能な方向に伸ばすことができる、私達が生活の上で行なっている広大な経験の領域を、合理的経験だけに絞った。観察や実験の方法をとり上げ、これを計量というただ一つの点に集中させた、そういう狭い道を一と筋に行ったがために、近代科学は非常な発達を実現出来た。近代科学はいつも、その理想としての数学を目指している。
近代科学の本質は計量を目指すが、精神の本質は計量を許さぬところにある。そこで近代科学は、先ず精神現象を、これと同等で、計量出来る現象に置きかえられないかと考えたのです。そこで、十七世紀以来、脳の動きが心の動きと同等であるかのように研究は進められて来た。脳の本性は知られていないとしても、それは力学上の事実に分解出来る事は確かですから、科学は脳の事実に執着すればよかったのです。
常識は、脳と意識と密接な関係がある事を否定してはいない。しかし心身は厳密に並行しているなどとは考えていない。脳の分子や原子の運動によって表現したところを、意識の言葉によって繰返す、そんな贅沢を自然はしたろうか。無用な機能は消えて了うのが自然の傾向である。くり返しに過ぎぬ意識など、たとえ生れたとしても、宇宙から消えていた筈でしょう。私達の行動にしても、習慣によって機械的なものになれば、無意識になることを、誰でも知っています。ベルグソンは、常識に従った。常識の感じているところへ、決定的な光を当ててみる事は出来ないかと考えたのです。そして失語症の研究に這入って行った。脳の中に、判断や推理の働きの跡があると考える理由などないが、失語症という言葉の記憶の病気は、脳の或る局所の傷害に対応しているのです。彼は失語症の研究を長い間した後、身心並行の仮説は成立しないという結論を得た。脳髄の、記憶が宿っていると仮定されているところが損傷されると、人間は、記憶が傷つけられるのではなくて、記憶を思い出そうとするメカニズム、記憶を感知する装置が傷つけられるのです。そのため人間は記憶を失うので、記憶自体は少しも傷つけられてはいない。もし並行しているならば、そういう局所に損傷を受ければ、記憶そのものがなくなってしまうわけです。しかし、記憶自体はなくならない。ただそれを呼び起すメカニズムが損傷されるから、記憶がまるでなくなってしまうような状態になる。
ベルグソンのたとえで言いますと、脳は精神というオーケストラを指揮している指揮棒だが、指揮棒は見えるが音は決して聞えないという風になっている。僕等の脳髄はパントマイムの器官なのです。パントマイムの舞台で、俳優がいろいろな仕草をするのを、僕等は見ることができる。脳髄の運動はそういう仕草をしている。けれども台詞《せりふ》は決して聞えない。この台詞が記憶なのです。精神なのです。だから脳髄は精神の機能ではない。脳髄は、人間の精神をこの現実の世界に向けさせる指揮をとる装置なのだ。だから彼は、人間の脳髄は現実生活に対する注意の器官であると言っています。注意の器官だが、意識の器官ではないのです。意識を、この現実の生活につなぎとめる作用をしているのです。私達はみな、忘れる忘れると不平そうに言いますが、人間にとって忘れる事はむずかしい、生きる為に忘れようと努力しているというのが真相なのだ。例えば溺れて死ぬ男が死ぬ前に自分の一生を一度に思い出すとか、山から転落する男がその瞬間に自分の子供の時からの歴史をぱっと見るとかいう話は、よく知られている事実です。記憶が一時によみがえる。何故そうなるかというと、その時、その人間は、この現世、現実生活というものに対する注意力を失う、この現実に対して全く無関心になるからなのです。人間は脳髄というものを持っているお蔭で、いつも必要な記憶だけを思い出すようになっている。脳髄はいつでも、僕に現実の生活をするのに便利な記憶だけを選んで思い出させるようにしている。その注意の器官たる脳髄の作用が、異常な状態の裡で衰弱すると、記憶はぱっと出て来る。だから諸君はいつでも、諸君の全歴史をみんな持っている。だが、有効に生活する為には、そのようなものに顔を出されては困る。それは無意識の世界に追いやられる。諸君の意識は、諸君がこの世の中にうまく行動するための意識なのであって、精神というものは、いつでも僕等の意識を越えているのです。その事を、はっきりと考えるなら、霊魂不滅の信仰も、とうの昔に滅んだ迷信と言うわけにはいかなくなるだろう。もしも、脳髄と人間の精神が並行していないなら、僕の脳髄が解体したって、僕の精神はそのままでいるかも知れない。人間が死ねば魂もなくなると考える、そのたった一つの根拠は、肉体が滅びるという事実にしかない。それなら、これは充分な根拠にはならない筈でしょう。
私がこうして話しているのは、極く普通な意味で理性的に話しているのですし、ベルグソンにしても、理性を傾けて説いているのです。けれども、これは科学的理性ではない。僕等の持って生れた理性です。科学は、この持って生れた理性というものに加工をほどこし、科学的方法とする。計量できる能力と、間違いなく働く智慧とは違いましょう。学問の種類は非常に多い。近代科学だけが学問ではない。その狭隘《きようあい》な方法だけでは、どうにもならぬ学問もある。
ベルグソンが記憶の研究に這入っていった頃、心理学の方でも、意識心理学から無意識心理学への転換が行なわれる機運が来ていた。これはどういう事だったかというと、一と口で言えば、唯物論の上に立った自然科学の方法だけを頼んで人間の心を扱う道は、うまく行かなくなったという事です。心はそれ自体で存在するものではなく、私達の感官によって確かに知る事が出来る物的現象の現れである。そう考えるのが、心に関する空論を一切排して心を研究する唯一の道であるとする心理学者の自負が崩れて来たという事なのだ。心は物的現象の現れだというが、そういう心理学者のうち、一人として何故物が意識となって現れるのか知っているものはない。それが不問に附されているなら其処《そこ》には現れという言葉しかないという事になる。そういう反省が始まったと言ってもよいのです。大昔の人達は、誰も肉体には依存しない魂の実在を信じていた。これは仮説を立てて信ずるという点で、近代心理学者達と同格であり、何も彼等の考えを軽んずる理由はない。精神より物質を優位に据える仮説では、いろいろ不都合が生ずる事になるなら、精神は、無意識と呼んでいい近附き難い、謎めいた精神的原理の上に立つと考え直してみるのもいい事だ。新しい道が拓けるかも知れないのです。
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この間、こちらへ来る前に柳田国男さんの「故郷七十年」という本を読みました。前から聞いていたのですが、まだ読んでいなかった。この「故郷七十年」という本は、この碩学《せきがく》が八十三の時の口述を筆記したもので、神戸新聞に連載された。昭和三十三年の事です。その中にこういう話があった。柳田さんの十四の時の思い出が書いてあるのです。その頃、柳田さんは茨城県の布川《ふがわ》という町の、長兄の松岡|鼎《かなえ》さんの家にたった一人で預けられていた。その家の隣に小川という旧家があって、非常に沢山の蔵書があったが、身体を悪くして学校にも行けずにいた柳田さんは、毎日そこへ行って本ばかり読んでいた。その旧家の奥に土蔵があって、その前に二十坪ばかりの庭がある。そこに二、三本樹が生えていて、石で作った小さな祠《ほこら》があった。その祠は何だと聞いたら、死んだおばあさんを祀《まつ》ってあるという。柳田さんは、子供心にその祠の中が見たくて仕様がなかった。ある日、思い切って石の扉を開けてみた。そうすると、丁度握り拳くらいの大きさの蝋石《ろうせき》が、ことんとそこに納まっていた。実に美しい珠《たま》を見た、その時、不思議な、実に奇妙な感じに襲われたというのです。それで、そこにしゃがんでしまって、ふっと空を見上げた。実によく晴れた春の空で、真っ青な空に数十の星がきらめくのが見えたと言う。その頃、自分は十四でも非常にませていたから、いろんな本を読んで、天文学も少しは知っていた。昼間星が見える筈がないとも考えたし、今ごろ見える星は自分等の知った星ではないのだから、別にさがしまわる必要もないとさえ考えた。けれども、その奇妙な昂奮はどうしてもとれない。その時|鵯 《ひよどり》が高空で、ぴいッと鳴いた。その鵯の声を聞いた時に、はっと我に帰った。そこで柳田さんはこう言っているのです。もしも、鵯が鳴かなかったら、私は発狂していただろうと思う、と。
私はそれを読んだ時、感動しました。柳田さんという人が分ったという風に感じました。鵯が鳴かなかったら発狂したであろうというような、そういう柳田さんの感受性が、その学問のうちで大きな役割を果している事を感じたのです。柳田さんには沢山の弟子があり、その学問の実証的方法は受継いだであろうが、このような柳田さんが持って生れた感受性を受継ぐわけには参らなかったであろう。それなら、柳田さんの学問には、柳田さんの死とともに死ななければならぬものがあったに違いない。そういう事を、私はしかと感じ取ったのです。柳田さんは、後から聞いた話だと言って、おばあさんは中風になって寝ていて、いつもその蝋石を撫でまわしていたが、お孫さんが、おばあさんを祀るのなら、この珠が一番よろしかろうと考えて、祠に入れてお祀りしたと書いている。少年が、その珠を見て怪しい気持ちになったのは、真昼の春の空に星のかがやくのを見たように、球に宿ったおばあさんの魂を見たからでしょう。柳田さん自身それを少しも疑ってはいない。疑っていて、こんな話を、「ある神秘なる暗示」と題して書ける筈がないのです。尤《もつと》も、自分には痛切なものであったが、こんな出来事を語るのは、照れ臭かったに違いない。だから、布川時代の思い出は、「馬鹿々々しいということさえかまわなければ、いくらでもある」と断って、この出来事を語っている。こういう言い方には、馬鹿々々しいからと言って、嘘だとは言えません、という含みがあります。自分は、子供の時に、一と際違った境遇に置かれていたのがいけなかったのであろう、幸いにして、其後実際生活の上で苦労をしなければならなくなったので、すっかり布川で経験した異常心理から救われる事が出来た。布川の二年間は危かった、と語っている。
柳田さんの淡々たる物の言い方は、言ってみれば、生活の苦労なんて、誰だってやっている、特に、これを尊重する事はない、当り前のことだ。おばあさんの魂の存在も、特にこれをとり上げて論ずるまでもない、当り前のことだ、そう言われているように思われ、私には大変面白く感じられた。自分が確かに経験したことは、まさに確かに経験した事だという、経験を尊重するしっかりした態度を現したものです。自分の経験した直観が悟性的判断を超えているからと言って、この経験を軽んずる理由にはならぬという態度です。例えば、諸君は、死んだおばあさんをなつかしく思い出すことがあるでしょう。その時、諸君の心に、おばあさんの魂は何処からか、諸君のところにやって来るではないか。それが昔の人がしかと体験していた事です。それは生活の苦労と同じくらい彼等には平凡なことで、又同じように、真実なことだった。それが信じられなければ、柳田さんの学問はなかったのです。
柳田さんの話になったので、ついでにもう一つお話ししましょう。柳田さんに「山の人生」という本があります。山の中に生活する人の、いろいろな不思議な経験を書いている。その冒頭に、或る囚人の話を書いている。それを読んでみます。
「今では記憶して居る者が、私の外には一人もあるまい。三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、|鉞 《まさかり》で斫《き》り殺したことがあった。
女房はとくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰って来て、山の炭焼小屋で一緒に育てて居た。其《その》子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手で戻って来て、飢えきって居る小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。
眼がさめて見ると、小屋の口一ぱいに夕日がさして居た。秋の末の事であったと謂う。二人の子供がその日当りの処にしゃがんで、頻りに何かして居るので、傍へ行って見たら一生懸命に仕事に使う大きな斧《おの》を磨いて居た。阿爺《おとう》、此《これ》でわしたちを殺して呉れと謂ったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向けに寝たそうである。それを見るとくら/\として、前後の考も無く二人の首を打落してしまった。それで自分は死ぬことが出来なくて、やがて捕えられて牢に入れられた。」
「山の人生」は大正十四年に書かれているが、その当時の思い出が「故郷七十年」の中で語られている。明治三十五年から十余年間、柳田さんは法制局参事官の職にあって、囚人の特赦に関する事務を扱っていたが、この炭焼きの話は、扱った犯罪資料から得たもので、これほど心を動かされたものはなかったと言っている。「山に埋もれた人生」を語ろうとして、計らずも、この話、彼に言わせれば、「偉大なる人間苦の記録」が思い出されたというわけだったのです。
柳田さんは、田山花袋と親しくしていたが、花袋が小説のタネを欲しがっていたので、これを話した事がある。すると花袋は、「そんなことは滅多にない話で、余り奇抜すぎるし、事実が深刻なので、文学とか小説とかに出来ないといって、聞き流してしまった」と書いている。これは注意すべき言葉です。そして、「田山の小説の如きは、こういう話の内容に比べれば、まるで高の知れたものである」と言っている。柳田さんは田山花袋を決して軽蔑などしていなかった。それは花袋が亡くなった時に書かれた「花袋君の作と生き方」という情理を尽した名文を読めばよくわかるので、人間を制約する時代の力も強かったが、この真面目すぎた好人物が、後生大事に小説を書いているうちに、結局は己れが築城した自然主義の山頂に、あまりにも個人的な生活の告白のうちに、立て籠って了ったのは残念な事だと言っている。
花袋の作では、柳田さんは、「重右衛門の最後」しか認めていなかった。自分を驚かせた彼の作は、この後にも前にもなかったと言っている。そういう断言の仕方には「偉大なる人間苦の記録」という柳田さんの言葉を、何となく想わせるものがあります。周知の如く、花袋は明治四十年に、「蒲団」を発表して大変な評判をとる。柳田さんは、花袋を有名にした作品については、世評に雷同した事はない。むしろ内心の不満を隠すのに骨を折った、殊に「蒲団」に至っては、末にはその批評を読むのさえいやであったと言っている。言うまでもなく、ここでの問題は、花袋評ではなく、隠すのに骨を折ったという柳田さんの内心の不満なのだが、柳田さんにしてみても、不満は感じていたが、その性質を見極めていたとは言えまい。しかし、明治四十年といえば、やはり「山に埋もれた人生」を語った、あの「遠野物語」が、もう直ぐ現れる頃だ。柳田さんの学問の端緒は掴まれていた筈であり、それが、直輸入の新しい自然主義文学運動とは全く逆に、忘れられたわが国の古伝説に向って行く。そのはっきりした意識は、「遠野物語」の序文に現れています。
「思うに遠野郷には此類の物語|猶《なお》数百件あるならん。我々はより多くを聞かんことを切望す。国内の山村にして遠野より更に物深き所には又無数の山神山人の伝説あるべし。願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ。此書の如きは陳勝呉広のみ」と。これはなかなか烈しい言い方です。
なるほど、炭焼きの話は実話であって、伝説ではない。だが、この実話には、伝説を軽んずる人々には近附く事が出来ない含みがある。或いはこうも言えよう。この事実には、先にも言ったが、好んで、事実は小説より奇なりと言って、素材を事実に求めたがっている自然主義作家のような不徹底な態度で事実というものに臨んでも、全く歯の立たぬ性質がある。九百年前の「今昔物語」の著者が、当時に在って、既に「今は昔」と言って語らねばならなかったのに比べれば、自分がこれから語ろうとする伝説は、すべてこれ、「目前の出来事」であり、「現在の事実」だ、と「遠野物語」の著者は言うのである。これは、自分の語らんとする話は、どれも皆、わが国の山村生活のうちで、現に語られ、信じられ、生きられているという意味でしょう。
「斯《かか》る話を聞き斯る処を見て来て後之を人に語りたがらざる者果してありや。其様な沈黙にして且つ慎み深き人は少なくも自分の友人の中にはある事なし」と言う。明らかに問題は、話の真偽にはなく、その齎《もたら》す感動にある。伝説の豊かな表現力が、人の心を根柢から動かすところに、語られる内容の鮮やかな像が、目前に描き出される。柳田さんが言いたいのは、そういう意味合いの事なのです。
さて、炭焼きの話だが、柳田さんが深く心を動かされたのは、子供等の行為に違いあるまいが、この行為は、一体何を語っているのだろう。こんなにひもじいなら、いっその事死んでしまえというような簡単な事ではあるまい。彼等は、父親の苦労を痛感していた筈である。自分達が死ねば、阿爺《おとう》もきっと楽になるだろう。それにしても、そういう烈しい感情が、どうして何の無理もなく、全く平静で慎重に、斧を磨《と》ぐという行為となって現れたのか。しかし、そういう事をいくら言ってみても仕方がないのである。何故かというと、ここには、仔細らしい心理的説明などを、一切拒絶している何かがあるからです。柳田さんは、それをよく感じている。先きに引用した文でおわかりのように、柳田さんは、余計な口は、一と言も利いていない。この「山の人生」の話は、「故郷七十年」で、又繰返されているが、その思い切って簡潔な表現は、少しも変っていないのです。「小屋の口いっぱいに夕日がさしていた。秋の末のことであったという」という全く同じ文句が繰り返されている。読んでいると、何度くり返しても、その味わいを尽す事は出来ないと言われているような感じがして来ます。夕日は、斧を磨ぐ子供等のうちに入り込み、確かに彼等の心と融け合っている。そういう心の持ち方しか出来なかった、遠い昔の人の心から、感動は伝わって来るようだ。それを私達が感受し、これに心を動かされているなら、私達は、それとは気付かないが、心の奥底に、古人の心を、現に持っているという事にならないか。そうとしか考えようがないのではなかろうか。先ず、そういう心に動かされて、これを信じなければ、柳田さんの学問は出発出来なかった。これは確かな事です。民俗学の、柳田さん自身もうまく行かなかった定義など、少くともここでは、どうでもよろしいのです。
炭焼きの子供等の行為は、確信に満ちた、断乎たるものであって、子供染みた気紛れなど何処にも現れてはいない。それでいて、緊張した風もなければ、気負った様子も見せてはいない。純真に、率直に、われ知らずおこなっているような、その趣が、私達を驚かす。機械的な行為と発作的な感情との分裂の意識などに悩んでいるような現代の「平地人」を、もしわれに還るなら、「戦慄せしめる」に足るものが、話の背後に覗いている。みんなと一緒に生活して行く為には、先ず俺達が死ぬのが自然であろう。自然人の共同生活のうちで、幾万年の間磨かれて本能化したこのような智慧がなければ、人類はどうなったろう。そんなものまで感じられると言ったら、誇張になるだろうか。ともあれ、柳田さんは、其処に、「山びと」という古い言葉、まだ文字もない遠い昔から使われて来た国語が反響するのを聞いていた。「上古史上の国津神が末二つに分れ、大半は里に下って常民に混同し、残りは山に入り又は山に留まって、山人と呼ばれ」、そこに古い伝説が生き永らえる事になったわけだが、「我々の血の中に、若干の荒い山人の血を混じて居るかも知れぬということは、我々に取っては実に無限の興味であります」と「山人考」の文は結ばれている。柳田さんは、曖昧《あいまい》な比喩を弄しているわけではない。もし、己れの意識を超えた心の、限度の知れぬ拡りを、そのまま素直に受入れる用意さえあれば、山びとの魂が未だ其処に生きている事を信ぜざるを得ない、とはっきり言っているのです。山びと達は、在るがままの自然に抱かれ、山の霊、山の神の姿を目《ま》のあたりにして暮していた。そういう彼等の生活経験の、極度の内面性に想到する事が、今日の人々には、大変困難になったように見える。と言うよりむしろ、しっかりした理由もなく、困難は回避されている。物事の外部を明らめようとするので多忙になった眼は、心の暗い内側など振り向いてもみないというのが、柳田さんの考えだったようです。「遠野物語」の序は、「今の事業多き時代に生れながら問題の大小をも弁《わきま》えず、其力を用いる所当を失えりと言う人あらば如何《いかん》。明神の山の木兎《みみずく》の如くあまりに其耳を尖らしあまりに其眼を丸くし過ぎたりと責むる人あらば如何。はて是非も無し。此責任のみは自分が負わねばならぬなり」という言葉で終っています。
「遠野物語」を書いた著者の目的は、遠野の物語に心動かされたがままに、これを語ることによって、炭焼きの実話に反映している、その遠い先祖達の生活の中心部へ、責任をもって、読者を引入れるにあった。生活の中心部へとは、山びと達の生活は、山の神々との深刻な交渉なしには、決して成り立たなかったという、そういうところへという意味だ。彼等の生活は、山野にしっかりと取巻かれて行なわれていた。彼等は、自分等を捕えて離さぬ山野に宿る力、自分等の意志などからは全く独立しているとしか思えぬ、その計り知れぬ威力に向き合い、どういう態度を取って、どう行動したらいいか、真剣な努力を重ねざるを得なかった。これに心を砕いているうちに、神神の抗し得ぬ恐ろしさとともに、その驚くほどの恵みも、これを身をもって知るに到ったのである。そういう道を行って、彼等は、人生の基本的な意味や価値の味わいを、身に附ける事が出来たのであった。彼等の物語は、そういう次第を語っている。そこに読む者を動かす彼等の物語の生命がある、柳田さんはそう信じた。だが話がこういうことになれば、「遠野物語」から実例を一つ引いた方がいいでしょう。
こういう話がある。或る猟人が白い鹿に逢った。「白鹿は神なりと云う言伝えあれば、若《も》し傷《きずつ》けて殺すこと能わずば、必ず祟《たたり》あるべしと思案せしが、名誉の猟人なれば世間の嘲りをいとい、思い切りて之を撃つに、手応えはあれども鹿少しも動かず。此時もいたく胸騒ぎして、平生|魔除《まよ》けとして危急の時の為に用意したる黄金の丸《たま》を取出し、これに蓬《よもぎ》を巻き附けて打ち放したれど、鹿は猶動かず。あまり怪しければ近よりて見るに、よく鹿の形に似たる白き石なりき。数十年の間山中に暮せる者が、石と鹿とを見誤るべくも非ず、全く魔障《ましよう》の仕業なりけりと、此時ばかりは猟を止めばやと思いたりきと云う」(遠野物語、六一)
少し注意して、猟人の語るところを聞くなら、伝説に知性の不足しか見えないような眼が、いかに洞《うつ》ろなものかは、すぐ解るだろう。この伝説に登場する猟人は、白鹿は神なりという伝説を、まことか嘘かと、誰の力も借りず、己れの行為によって吟味しているではないか。そして、遂に彼は「全く魔障の仕業なりけり」と確かめる。「猟を止めばや」と思うほどの、非常な衝撃のうちに確かめる。漠然と感じていた白鹿の神への畏れが、懸命な吟味により、猟を止めばやと思うほどはっきりした形を取ったと彼は語るのである。だが、彼は猟は止めない。日常生活の合理性は自分の宗教的経験に一向抵触するところがないという、極く当り前な理由によると見て少しも差支えないでしょう。同時に、進んでこうも考えられよう。この名誉ある猟人は、眼前の事物を合理的に実際的に処理することにかけては、衆に優れていた筈だが、そういう能力は、基本的には「数十年の間山中に暮せる者が、石と鹿とを見誤るべくも非ず」とあるところに働いている感覚と結んだ知性の眼を出ない。と言うのは、この眼がいよいよ明らかになっても、これは、人生の意味や価値を生み出す力を持っていない。そういう事を、猟人は確かめたという事になろう。そういう次第なら、遠野の伝説劇に登場するこの人物が柳田さんの心を捕えたのは、その生活の中心部が、万人の如く考えず、全く自分流に信じ、信じたところに責任を持つというところにあった、その事だったと言ってもいい事になりましょう。
すると、この猟人が、本当に衆にすぐれていた所以《ゆえん》は、一っぱいに働いていた彼の個性の力にあったと考えざるを得なくなります。だが、彼の個性の力と此処で言うのには、自己を主張するという現代風の意味はない。何度も繰返すようだが、彼は自然の懐に、しっかりと抱かれて生きていた。その充実感を、己れの裡に感じ取っていたという、ただそれだけの事を言うのでして、これが素朴な人々の尋常な生き方であった事が、納得いくなら、現代の人々の愛好する自己主張という言葉は、自然との異常な断絶を背景としているのが見えて来るのではないでしょうか。猟人に、自己を主張するというような事が思い附けなかったのも、彼にはその相手がなかったからだ。己れに疎遠な外界との対立を、まるで感じていなかったからだ。言わば、自然全体のうちに、自分は居るのだし、自分全体のうちに自然は在るというのが、彼の生きて行く味わいだったのです。かくの如く、己れを取巻く自然が充分に内面化されている場所は、自己とはかくの如きものと主張する分別の如きが出る幕ではない。そういう言い方も出来ると思う。このように言って来れば、彼の個性の自由な働きを支えているのは、想像力と結んだ彼の自然感情である事は、もはや明らかでしょう。彼は、自然がその心をこちらの心へ通わせて来る、というどうしても疑えぬ事実について語るのだが、其処には、決して明瞭な言葉にはならないものがある。語りかけて来る自然の恐ろしさは、何とは知れぬ親しさを秘めているし、自然の美しい心は、異様な奇怪なものを含んでいる。彼は、言葉にならぬ自然という実在に面しているのだが、その直接な経験が、言葉にならぬというその事が、彼に表現を求めて止まないのです。言わば、実在は彼を信じ、君の信ずるところを語れと迫る。彼は心を躍らし、その最上と思われる着想、即ち先ず彼自身が驚くような着想によって、実在を語る。どうしてこのような物語が、人から人へと伝えられないわけがありましょうか。
さて、又柳田さんの文からの引用でお終いにしたいと思います。これは「妖怪談義」という文にある。少々長いが、大変面白い。
「化け物の話を一つ、出来るだけきまじめに又存分にして見たい。けだし我々の文化閲歴のうちで、これが近年最も閑却せられたる部面であり、従って或民族が新たに自己反省を企つる場合に、特に意外なる多くの暗示を供与する資源でもあるからである。私の目的はこれに由って、通常人の人生観、分けても信仰の推移を窺《うかが》い知るに在った。しかもこの方法をやや延長するならば、或は眼前の世相に歴史性を認めて、徐々にその因由を究めんとする風習をも馴致《じゆんち》し、迷いも悟りもせぬ若干のフィリステルを、改宗せしむるの端緒を得るかも知れぬ。もしそういう事が出来たら、それは願っても無い副産物だと思って居る。
私は生来オバケの話をすることが好きで、又至って謙虚なる態度を以て、この方面の知識を求め続けて居た。それが近頃はふっとその試みを断念してしまったわけは、一言で言うならば相手が悪くなったからである。先ず最も通例の受返事は、一応にやりと笑ってから、全体オバケというものは有るもので御座りましょうかと来る。そんな事はもう疾《とつ》くに決して居る筈であり、又私がこれに確答し得る適任者でないことは判って居る筈である。乃《すなわ》ち別にその答が聴きたくて問うのでは無くて、今はこれより外の挨拶のしようを知らぬ人ばかりが多くなって居るのである。偏鄙《へんぴ》な村里では、怒る者さえこの頃は出来て来た。なんぼ我々でも、まだそんな事を信じて居るかと思われるのは心外だ。それは田舎者を軽蔑した質問だ、という顔もすれば又勇敢に表白する人もある。そんならちっとも怖いことは無いか。夜でも晩方でも女子供でも、キャッともアレエともいう場合が絶滅したかというと、それとは大ちがいの風説はなお流布して居る。何の事は無い自分の懐中にあるものを、出して示すことも出来ないような、不自由な教育を受けて居るのである。まだしも腹の底から不思議の無いことを信じて、やっきとなって論弁した妖怪学時代がなつかしい位なものである。無いにも有るにもそんな事は実はもう問題で無い。我々はオバケはどうでも居るものと思った人が、昔は大いに有り、今でも少しはある理由が、判らないので困って居るだけである」
この文の含みも、なかなか深い。字面だけ辿って何が解るものでもない、少々、註釈が要るようです。先ず、柳田さんは、オバケの話を「出来るだけきまじめに存分にしてみたい」というその目的について明言しています。お化けの話は昔の通常人の人生観であった、信仰であったと言ってもいいが、この信仰の推移を窺わんとする企ては、その赴くところ、一と筋に眼前の世相の歴史性にまで届かざるを得ない。ところが、こういう考え方が、現代の歴史家には気に入らない。その気負った意識に強く影響した唯物史観は、この史観も亦《また》現代の信仰を出ないという、わかり切った真実を覆い隠して了っている。引いては、歴史を言うなら、先ず何を措《お》いても、歴史を生かしている人生観の変遷というものを言わねばならぬという、全く常識に適《かな》った考えさえ覆って了う。言葉の惑わしというものは怖いものです。
歴史家には限らない。今日の一般の人々に、お化けの話をまじめに訊ねても、まじめな答えは決して返って来ない。にやりと笑われるだけだ、と柳田さんは書いているが、これは鋭敏な表現でして、この笑いは、お化けの話に対して、現代人がとっている曖昧な態度と言うよりも不真面目な態度を、端的に現していると、柳田さんは見ているのです。お化けの話を、何故真面目に扱わねばならないかという柳田さんの考えは、其処には、これを信ずるか、疑うかという各人の生活上の具体的経験が関係して来るからだという所にありました。この各人の具体的な経験というものを見ぬふりをする。物事を正しく考えて誤らぬ為には、個性も感情も、一応見ぬ振りしなければならぬ、――そういう横着な現代人の通念に、強い反撥を柳田さんは感じている。そこで、迷いも悟りもせぬ現代俗物の笑いという烈しい言葉が出て来るのです。
ところで、お終いの文は、その最も大事な含みです。お化けというものは有るものか無いものかと頭から問う愚にも附かぬ質問はさて措き、「我々はオバケはどうでも居るものと思った人が、昔は大いに有り、今でも少しはある理由が、判らないので困って居るだけである」と柳田さんは文を結んでいる。ここで、柳田さんが露《あら》わには言わなかったところを、露わに言ってみれば、およそ次のような事になりましょうか。歴史の上で、信仰の推移というものが、まざまざと見えて来るのも、人の心に於ける信仰性の不易ということが念頭にあっての事である。今では、お化けを信ずる人は少くなったという問題は、人智の進歩と言われる流行の問題に属するが、歴史というものの実体は不易と流行とで一体をなしているという古くからの考え方に、反対する理由はないのです。専門の歴史家はさて措き、普通の歴史好きというものは、過去に生活していた全くの別人と、今日の隣人の如く親しく話し合っているものなのだ。そこでどういう事になりますか。お化けを信ずる人は少くなったが、決して無くなりはしない、そこが、柳田さんの言うように、困った事なのだ。しかし、歴史の実体というような事を言い出す以上、これに直面して、困った事だと言うのは、尋常な私達の態度を示す。証拠が無ければ信じないという今日の流行思想によって、お化けは、だんだん追い払われるようになったが、何処から来るとも決してわからぬ恐怖に襲われる事は、人間の生活がつづく限り、続くのです。それをお化けは死なないという言葉で言って悪い筈はあるまい。お化けの話となると、にやりと笑うのだが、実はその笑いにしても、何処からやって来るのか、笑う当人には判っていないではないか。という事は、追っぱらっても、追っぱらっても、逃げて行くだけのお化けは、追っぱらった当人自身の心の奥底に逃げ込んで、その不安と化するのである。人間の魂の構造上、そういう事になる。そこで、追っぱらわれたお返しに、彼をにやりと笑わせる。笑っても、人生で何一つ実質あるものが得られない、全くうつろな笑いを笑わせるのです。そんな事まで出来なければ、お化けとは言えますまい。このような次第になったのも、「自分の懐中にあるものを、出して示すことも出来ないような、不自由な教育を受けている」結果であると、柳田さんははっきり言っています。懐中にあるものとは、言うまでもなく、私達の天与の情《こころ》です。情操教育とは、教育法の一種ではない。人生の真相に添うて行なわなければ、凡《およ》そ教育というものはないという事を言っている言葉なのです。
[#地付き](昭和四十九年八月、国民文化研究会の九州霧島講演に基づく)
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生 と 死
御依頼があったので、三十分ほどお話をします。文藝春秋も、五十周年を迎えるそうですが、まことに早いもので、私などの文筆生活も、考えてみると、やがて五十周年になります。生活の必要上からでしたが、私は、ずい分早くから、物を書き始めた。文藝春秋が創刊されて、数年経った頃、まだ大学の学生だったが、毎月、匿名の埋草《うめくさ》原稿を文藝春秋に買ってもらっていた。当時は雑誌も鷹揚《おうよう》なもので、埋草原稿に、一枚二円くれました。何しろ、ライスカレーが十五銭で食えた頃だから、ずい分いい稿料だった。その他、翻訳類の下訳などやっていたから、今日の学生のアルバイトなどという半ちくなものではなく、売文で、一戸を構えて、楽に生計を立てて、かたわら、時々、学校に出向いていた。
家賃は、たしか十六円だったが、間どりなどゆったりしたもので、私は掃除なんかしないから、空いた部屋は、紙屑籠に使っていたくらいだ。要らないものは何でも、其処へ叩き込む。散らかすだけ散らかすと、或日|還《かえ》って来て、なんだ、おっそろしく汚ねえな、こんな汚ねえ家にいられるかってんで、出て行った。なに、代りの借家は幾らでもあったんです。こういう家の代り方は、私の独創だと思っていましたが、後年、「膝栗毛」の十返舎一九が同じ事をやっていた事を知りました。馬鹿々々しいお話をするようだが、どうも隔世の感に堪えませんので。私などは、愚連隊に属していたが、左翼の学生運動も漸く始まり、のんびりした時勢も、急に変って来ました。
しかし、切実に感じられるのは、何と言っても吾が身の変り方である。私も、今年は、もう古稀です。古稀も、今はもう珍しくもないなどと安心した風な事を言っている人が多いが、人工的に寿命を引延ばしてみたところで、高が知れている。私は、ゴルフをしていますので、古稀になると赤いシャツを、クラブで呉れます。赤シャツゴルフという事で、自他ともに、はっきりした仕組みになっておりますが、文壇では、赤シャツという事もない。あいつも古稀か、成るほど書くものも枯れて来た、という風な世辞も通るようなあんばいで、まことに曖昧な事だ。しかし、女房子供のような、身近なものになれば、観察は、無論、正確なものでして、近頃、親父も呆《ぼ》けたと言う。それが、間違いのないところなら、その間達いのないところを、はっきりと得心したいと思うのです。
例えば、物忘れがひどくなったのが呆けた事なら、呆けた事など大した事ではあるまい。詰らない事を、あんまり覚え過ぎたから、いっそさっぱりしているようなものだ。呆けたという特色は、そんなものではない。棺桶に確実に片足をつっ込んだという事です。人は死ぬものぐらいは、誰も承知している。私も若い頃、生死について考え、いっそ死んで了おうかと思いつめた事があるが、今ではもう死は、そういう風に、問題として現れるのではない。言わば、手応えのある姿をしています。先達《せんだつ》ても、片付けものをしていたら、昔、友達と一緒に写した写真が出て来た。六人のうち、四人はもういないのだな、と私は独り言を言います。その姿が見えるからです。棺桶に片足をつっ込むというような言葉は、決して机上からは生れなかった。経験が生んだものだ。これは面白い言葉だなどと青年が言ったら滑稽でしょうが、この言葉が味わえぬような老年は不具な老年と言っていいでしょう。
扨《さ》て、世の移り変りより、吾が身の変化の方に、切実なものがあると言ったが、そういう思想が、「徒然草」のなかに見られます。その私にとって切実なるところに、歴史の中心部はあるのであり、十五銭のライスカレーが、二百円になったという風な見易い時勢の移り変りは、歴史の上辺《うわべ》に過ぎないという考えが書かれている。
兼好法師という人は、私たち批評を書くものにとっては、忘れる事の出来ない大先輩である。彼が死んでから六百余年になるが、この人を凌駕《りようが》するような批評家は、一人も現れはしないのです。出家して自ら「沙弥《しやみ》兼好」と称していたが、何宗の何寺の坊様になったわけではない。沙弥の戒を受けたとは、官職を辞して洛北に引込み、自由に物を考え、気兼ねなく物が書ける身分を得たという事であった。「徒然草」の面白さは、其処にあるのですが、これにも若い時分には、充分に味わえぬ文章が沢山あるというわけです。
兼好の文は、「世に従はん人は、先づ、機嫌を知るべし」という言葉で始まっている。この「機嫌」というのは、時機という意味です。何を言うにも、行なうにも時機というものがある。時勢の動きに従って、事を成そうとする人は、先ず何を置いても、頃合を見定めるという事が肝腎《かんじん》である。みんなが平和について論じあっている時に、戦争の話など持ち出すような間抜けでは、事は決して運ばぬものだ、と言うのである。
世の動きを、外部から眺めていれば、そういう風にも見えもしようが、内部に這入って、奥を見よ。「生、住、異、滅の移り変り」――この世に生れ、暮し、様々な異変に会い、死滅するという人の一生を、これを生きて知る他はない当人の身になって納得してみよ。歴史の真相に推参出来るだろう。兼好は、これを「実《まこと》の大事」と呼んでいる。「実の大事は、猛き河の漲《みなぎ》り流るるが如し。暫《しば》しも|滞 《とどこほ》らず、直ちに行《おこな》ひゆくものなり」と言う。これに従わんとして「折節《おりふし》を心得る」というような、浅薄の智慧の通用する所ではない。「真俗につけて、必ず果し遂げんと思はん事は、機嫌を言ふべからず」、更に、「とかくのもよひなく、足を踏み止むまじきなり」と強く言い切ります。「もよひ」とは用意で、とやかく準備計画して、処する事が出来るような動きではないと言うのです。
四季の移り変りにしても、これを外から眺めれば、「春暮れて後、夏になり、夏果てて、秋の来る」という風に映るが、とくと見れば、「春はやがて夏の気を催し、夏より既に秋は通」うという移り具合が掴《つか》めよう。「木の葉の落つるも、先づ落ちて、芽ぐむにはあらず、下より萌《きざ》しつはるに堪へずして落つるなり。迎ふる気、下に設けたる故に、待ちとる序《ついで》甚だ速し」。この「萌しつはる」の「つはる」は、あの婦人の病気の「つはり」の「つはり、つはる」という動詞の形で、やはり内から萌すという意味である。四季の移り変りを言う場合は、まだ余裕のある見方も出来るから、「なほ、定まれる序《ついで》あり」とも言えるのだが、これが、人の一生の移り変りとなると、そうは言えない事になる。
人の一生の移り変りでは、移り変るのが我々自身なのであって、我々が、外から、その移り変りの序《ついで》を眺めるという性質のものではないのである。この意味合いから、兼好は、「死期《しご》に序《ついで》なし」と言うのです。だが、人々は、なかなか、これを納得しない。死から顔をそむけたがるからだ。「死は前よりしも来らず、かねて後に迫れり」と言う。これもずい分強い言い方である。潮干狩に行った人々は、皆、潮は沖の方から満ちて来ると思って沖の方を見る。「沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるが如し」――生が終って、死が来るのではない。死はかねて生のうちに在って、知らぬ間に、己れを実現するのである、というのが兼好の考えなのです。これが腹に這入るのが、兼好は、こういう言い方では言っていないが、人の世の無常迅速を体得する事である。そういうしっかりした思想を、兼好は持っていたと見て差支えないのです。
吾が身の移り変りは、四季の移り変りとは様子の違うところがある。まるで秩序《ついで》の異なるものだと言ってもいい。私達各自が、兼好の言うように、先ず目標を定め、「必ず果し遂げんと思はん事」に努力しないならば、この世が、しっかりした意味や価値を帯びるという事はないのである。そのように人の世の秩序を、つらつら思うなら、死によって完結する他はない生の営みの不思議を納得するでしょう。死を目標とした生しか、私達には与えられていない。その事が納得出来た者には、よく生きる事は、よく死ぬ事だろう。言葉の上の戯れではない。私達の心とか命とか呼ばれているものの在るがままの姿を、知性で捕えようとすれば、そんな風な言い方をするより他はないだけの話でしょう。
兼好は、其処に、「実の大事」を見たが、唯物論、合理主義、それに科学的技術の君臨している現代人の教養の偏向のうちにあっては、なかなか解りにくいところもあるだろう。人の心や命の在るがままの姿というようなものは、大事どころか、個人的な主観的な事実に過ぎないと軽んじられる、強い傾向があるからです。だが、「徒然草」が、今日もなお、私達を捕えるのは、その時代の通念などに囚《とら》われなかった筆者の眼力の故でしょう。それは「世に従はん人」の眼ではなかった。「真俗につけて、必ず果し遂げんと思はん事は、機嫌を言ふべからず」とあった、その「真俗につけて」という言葉で、兼好が言いたかったところは、「実の大事」ともなれば、学問の上での道理、日常の暮しの上での道理などという別があるわけはない、そういう処にあった。兼好は、「実の大事」という言葉で、言わば、人々の生存の根柢の条件を直指したのです。特に受納《うけい》れまいとするのでなければ、誰にも受取れる、全く端的な事柄を言っているのだ。
私が素直に受納れている、私の在るがままの心の姿は、個人的だとか主観的だとか軽んじられたところで、様子など、少しも変えるものではない。のみならず、私が直かに経験し、直かに知っているものは、個人的、主観的と言われている心の他には何もない事は確かでしょう。例えば、H20という水の客観的な性質は、私にとっては、間接的な知識を出ない。私が直かに知って、少しも疑わない水は、何時《いつ》か飲んだおいしい一杯の水であり、何処かで泳いだ美しい川の水である。このような受納れる者にとっては、生き生きとして切実な、観察する者にとっては、見透しの利かぬ、不安定な、人々各自の心がなければ、歴史など生れようがないではないか。兼好は、歴史という言葉は使っていないが、歴史は生き物だから、その急所があると言っているのだと解してよいと思います。
少し話を変えましょう。「論語」のなかに出て来る「未だ生を知らず。焉《いずく》んぞ死を知らん」という孔子の言葉は、よく知られています。先ず神の問題についての子路の質問がある、「季路、鬼神に事《つか》へんことを問ふ。子曰はく、未だ人に事《つか》ふる能はず、焉んぞ能《よ》く鬼《き》に事へん」。これに対し、子路が、重ねて死の問題を問うので、未だ生を知らず、焉んぞ死を知らんという事になった。普通、孔子の教えにある現実主義が、よく現れた言葉と解されている。ただ、現実主義という言葉の意味合いが、漠然としているのをいい事にして、勝手に孔子を、現代風な現実主義者に仕立てた上で、その教えに感心してみせる、そんな事は止めたがいいのです。孔子の現実主義を言うのはいいが、それは、今日普通に解されているような、合理主義と堅く結んだものではない事は、はっきりしているでしょう。
「論語」という書物は、まことに抗し難い力で、私達を捕えますが、この力の由来するところを思うと、これもやはり、主義などというものには、決して囚われない孔子の眼力を思わざるを得ない。今お話ししている子路との問答にしても、先ず、相手の人柄がよく見ぬかれている事を感じた上で、孔子の言葉を読まなければ、何にもなりますまい。孔子の言葉は子路の質問への回答ではない。むしろ子路の質問の仕方への応答である。質問をはぐらかしているのだが、質問を軽んじているわけではない。はぐらかす事によって、却《かえ》って大変微妙に答えた事にもなっている。神や死の問題を、したり顔に否定する現代風のヒューマニストなど、孔子のなかにいたわけはない。それなら、孔子は、この問題を、人間には必至の問題として、まともに、素直に受取っていたと見なければならないでしょう。
現実主義と言えば、それが孔子の現実主義だが、そういう態度が、この問答によく現れている。質問をはぐらかして、却って微妙に質問に答えたというのは、そういう意味だ。言わば態度で答えたという味わいのある趣がある。先生から明答が得られると信じ、質問をはぐらかされても、それと気付かぬ子路の無邪気な心を、孔子は、無論はっきりと感じているし、そこから発せられた問いが、全く正直で切実なものである事を信じている。これは、自分も含めて、あらゆる人々のあるがままの心の姿を、合せ感じている事ではないのか。私は、そう解する。そう解しなければ、彼の「天」を畏《おそ》れ、「命」を畏れるという思想の源泉が解らなくなるのです。
子路は、勇を好む男であったが、いかにもそういう様子をして、傍に坐っているのを見て、孔子は、「其の死を得ざらん」――お前には、尋常な死に方は出来そうもない、と言った。そういう話が、先きの文の後に続きます。果して、子路は非業の死を遂げる事になる。この孔子の予言には、弟子への深い感情が籠められていたに相違ない。努めて、この感情を想ってみる。この愛する弟子の真っ正直な生き方を考えていると、どんなに自然に、其処から、死を得るとか得ないとかいう言葉の使い方が現れて来るか、それを想ってみます。そうすると、孔子が死を得ると言うところを、兼好なら、死を迎えるとか、待つとか言うだろう、とそんな風な気がして来るのです。
死後はどうなるだろうというような子路の問いは、なるほど理性的とは言えまいが、理性の働きは、心のほんの一部の働きに過ぎまい。それなら、特に問いを理性的に制限しなければ、誰の心にも、子路の問いはあろう。理性的に質問せよというような命令には、この心の全体的な問いの姿を変える力はない。そう考えるのは、極めて自然な事でしょう。其処に、孔子が子路の問いを、そっくりそのまま素直に受取った事の、大事な意味合いがあると思うのです。孔子は、誰の問いにも応じられるような明答は用意していなかったが、神や死の問題について、自問自答はしていた。言い代えれば、彼は宗教的教義を持っていなかったが、はっきりした宗教的経験は持っていた。ある時、弟子の一人に、これを「我を知る者は、其れ天か」という言葉で言った。
先月、志賀直哉さんがお亡くなりになった。葬儀は、故人の遺志によって、宗教上の形式を一切廃して行なわれたが、今日はもう誰も怪しむ者はない。しかし、今日は無宗教の時代であるというだけの話なら、無宗教の世に従わん人は、先ず機嫌を知るべしで済むわけでしょう。志賀さんは、言うまでもなく、そちら側の人ではない。そこで、宗教的経験の方は、志賀さんの心のうちで、全く個性的な形で現れる事になる。古稀の志賀さんに、こういう文章があります。
「私は少し極端に迷信嫌ひな|せゐ《ヽヽ》もあつて、縁起の悪い事を仕たり、云つたりする事が好きだ。益子《ましこ》の浜田庄司君に骨壺を焼いて貰ひ、今、それを食堂に置き、砂糖壺に使つてゐる。最初は自家《うち》の者も余り喜ばなかつたが、習慣的に段々何とも思はなくなり、家内も浜田君に同じ物を頼み、既にそれも焼けてゐるさうだ。学校や役所の廊下にある痰壺のやうな焼場の骨壺が厭《い》やなのと、砂糖壺の必要があつて、浜田君に頼んだのである。」
然《さ》り気《げ》ない表現だが、孔子の「我を知る者は、其れ天か」という言葉にしても、然り気ない言い方でしょう。この死を得る工夫がひそかに練られる所は、この作家の全作品の歴史が創られて来たその内省の同じ場所であることを、とくと想い描いているなら、個性を捨てて、主義や綱領に従ったが為に、内省による智慧を失って了った集団や組織の運《うご》きが、どんなに上手に建設的歴史の恰好をしてみせようが、容易にごま化されるような事はないでしょう。
来月は、獅子文六さんの三回忌が来ます。この作家にも、同じような事が起っているので、それをお話ししてお終いにいたします。亡くなる年の春書かれた「牡丹」と題する短い作品があります。恐らく文六さんの絶筆でしょう。夫人が机の引出しから見付けられたもので、文藝春秋の「諸君!」誌上に、遺稿として発表された。この文章が書かれた動機は、明らかに、磯から満ちる死という暗い潮なのです。ある日、ふとした医者の言葉の端から、死期が迫っている事を、はっきりと推察する。「毎日鬱々として、愉《たの》しまない。久しく眠ってた、自殺の誘いが頻《しき》りだが、せっかくここまで、生きてきたのだから、そして、自然死も遠くないのだからと、辛抱してる。」と書かれている。そういう「憂鬱の俘《とりこ》となって、身動きできぬ」者の眺める牡丹、「花の姿に、感じ入って、ひそかに、花に向ってお辞儀する」そのような美しさが語られているのです。
文六さんの書斎は大磯にあり、牡丹畑がある。毎年、花時には、かかさず東京から出向く習《ならわ》しであった。花も今年で見納めと眺め入ると、花から話しかけられるように思い、誰にも語れなかった憂悶の心も、花が相手なら打明けられる気持ちになる。そうは書いてありませんが、文勢から察すると、そういった心の動きから、ある朝、一と息に、文は成ったと思われます。これは憂悶の情の単なる告白ではない。牡丹の花による、その処理である。語られているのは、明らかに死を得る工夫なのだが、その語り方、牡丹の花の言うところに従えばよいというような、まことに然り気ないものなのです。
[#地付き](文藝春秋祭りの講演速記に基づく。――昭和四十七年二月、「文藝春秋」)
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美を求める心
近頃は、展覧会や音楽会が盛んに開かれて、絵を見たり、音楽を聴いたりする人々の数も急に殖《ふ》えてきた様子です。その為でしょうか、若い人達から、よく絵や音楽について意見を聞かれるようになりました。近頃の絵や音楽は難かしくてよく判らぬ、ああいうものが解るようになるには、どういう勉強をしたらいいか、どういう本を読んだらいいか、という質問が、大変多いのです。私は、美術や音楽に関する本を読むことも結構であろうが、それよりも、何も考えずに、沢山見たり聴いたりする事が第一だ、と何時も答えています。
極端に言えば、絵や音楽を、解るとか解らないとかいうのが、もう間違っているのです。絵は、眼で見て楽しむものだ。音楽は、耳で聴いて感動するものだ。頭で解るとか解らないとか言うべき筋のものではありますまい。先ず、何を措いても、見ることです。聞くことです。そういうと、そんな事は解り切った話だ、と読者は言うでしょう。処が、私は、それはちっとも解り切った話ではない、読者は、恐らく、その事を、よくよく考えて見たことはないだろうと言いたいのです。
昔の絵は、見ればよく解るが、近頃の絵は、例えば、ピカソの絵を見ても、何が何やらさっぱり解らない、と諸君は、やはり言いたいでしょう。それなら私は、こう言います。諸君が、昔ふうの絵を見て解るというのは、そういう絵を、諸君の眼が見慣れているということでしょう。ピカソの絵が解らないというのは、それが見慣れぬ形をしているからでしょう。見慣れて来れば、諸君は、もう解らないなどとは言わなくなるでしょう。だから、眼を慣らすことが第一だというのです。頭を働かすより、眼を働かすことが大事だと言うのです。
見るとか聴くとかいう事を、簡単に考えてはいけない。ぼんやりしていても耳には音が聞えて来るし、特に見ようとしなくても、眼の前にあるものは眼に見える。耳の遠い人もあり、近眼の人もあるが、そういうのは病気で、健康な眼や耳を持ってさえいれば、見たり聞いたりすることは、誰にでも出来る易しい事だ。頭で考える事は難かしいかも知れないし、考えるのには努力が要るが、見たり聴いたりすることに、何の努力が要ろうか。そんなふうに、考えがちなものですが、それは間違いです。見ることも聴くことも、考えることと同じように、難かしい、努力を要する仕事なのです。
例えば、野球の選手の眼には、諸君より、遥かによく球が見えているでしょう。或る人に聞いたが、川上選手は打撃の調子のいい時は、球が眼の前で止って見える、と人に語ったそうだ。私は、誇張ではないと思う。そんなふうに、球が見えて来るためには、眼を働かせる努力と練習とがどれほど必要であったかを考えてみるべきです。画家でも音楽家でも同じ事で、彼等は、色を見、音を聴く訓練と努力の結果、普通の人には殆ど信じられないほどの、色の微妙な調子を見分け、細かな音を聴き分けているに違いないのです。優れた絵や音楽は、そういう眼や耳を持った人の、色や音の組合せなのですから、ただぼんやりとしていれば、絵は自ら眼に写って来る、音楽は耳に聴えて来るというようなことはあり得ないのです。
私達が、普通、私達の生活の中で、どんな具合に眼を働かせているかを考えてみるとよい。特になんの目的もなく物の形だとか色合いだとか、その調和の美しさだとか、を見るという事、謂わば、ただ物を見るために物を見る、そういうふうに眼を働かすという事が、どんなに少いかにすぐ気が附くでしょう。例えば、時計を見るのは時間を知るためです。だから時計を見ても針だけしか見ない。林檎《りんご》は食べるもので、椅子は腰掛けるものだ。だから、林檎が、どんなに美しい色合いをしているか、つくづく眺めた事のある人は少い。毎日坐っている椅子が、どんな形をしているか、はっきりと見定めている人など殆どないでしょう。
話は私事になるが、私は、ロンドンのダンヒルの店で、なんの特徴もないが、古風な、如何にも美しい形をしたライターを見附けて買って来た。書斎の机の上に置いてあるから、今までに沢山の来客が、それで煙草の火をつけた訳だが、火をつける序《つい》でに、よく見て、これは美しいライターだと言ってくれた人は一人もない。成る程、見る人はあるが、ちょっと見たかと思うと、直ぐ口をきく。これは何処のライターだ、ダンヒルか、いくらだ、それでおしまいです。黙って一分間も眺めた人はない。詰らぬ話をするなどと言わないで下さい。諸君は試みに黙ってライターの形を一分間眺めて見るといい。一分間にどれ程沢山なものが眼に見えて来るかに驚くでしょう。そしてライターの形だけを黙って眺める一分間がどれ程長いものかに驚くでしょう。見ることは喋ることではない。言葉は眼の邪魔になるものです。例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それは菫《すみれ》の花だとわかる。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。諸君は心の中でお喋りをしたのです。菫の花という言葉が、諸君の心のうちに這入って来れば、諸君は、もう眼を閉じるのです。それほど、黙って物を見るという事は難かしいことです。菫の花だと解るという事は、花の姿や色の美しい感じを言葉で置き換えて了うことです。言葉の邪魔の這入らぬ花の美しい感じを、そのまま、持ち続け、花を黙って見続けていれば、花は諸君に、嘗《かつ》て見た事もなかった様な美しさを、それこそ限りなく明かすでしょう。画家は、皆そういう風に花を見ているのです。何年も何年も同じ花を見て描いているのです。そうして出来上った花の絵は、やはり画家が花を見たような見方で見なければ何にもならない。絵は、画家が、黙って見た美しい花の感じを現しているのです。花の名前なぞを現しているのではありません。何か妙なものは、何んだろうと思って、諸君は、注意して見ます。その妙なものの名前が知りたくて見るのです。何んだ、菫の花だったのかとわかれば、もう見ません。これは好奇心であって、画家が見るという見る事ではありません。画家が花を見るのは好奇心からではない。花への愛情です。愛情ですから平凡な菫の花だと解りきっている花を見て、見厭《みあ》きないのです。好奇心から、ピカソの展覧会なぞへ出かけて行っても何んにもなりません。
美しい自然を眺め、或いは、美しい絵を眺めて感動した時、その感動はとても言葉で言い現せないと思った経験は、誰にでもあるでしょう。諸君は、何んとも言えず美しいと言うでしょう。この何んとも言えないものこそ、絵かきが諸君の眼を通じて直接に諸君の心に伝え度《た》いと願っているのだ。音楽は、諸君の耳から這入って真直ぐに諸君の心に到り、これを波立たせるものだ。美しいものは、諸君を黙らせます。美には、人を沈黙させる力があるのです。これが美の持つ根本の力であり、根本の性質です。絵や音楽が本当に解るという事は、こういう沈黙の力に堪える経験をよく味わう事に他なりません。ですから、絵や音楽について沢山の知識を持ち、様々な意見を吐ける人が、必ずしも絵や音楽が解った人とは限りません。解るという言葉にも、色々な意味がある。人間は、種々な解り方をするものだからです。絵や音楽が解ると言うのは、絵や音楽を感ずる事です。愛する事です。知識の浅い、少ししか言葉を持たぬ子供でも、何んでも直ぐ頭で解りたがる大人より、美しいものに関する経験は、よほど深いかも知れません。実際、優れた芸術家は、大人になっても、子供の心を失っていないものです。
諸君は言うかも知れない。成る程、絵や音楽の現す美しさは、言うに言われぬものかも知れない。これを味わうのには、言葉なぞ、かえって邪魔かも知れない。しかし、それなら詩というものはどうなのか、詩は、言葉で出来ているではないか、と。だが、詩人とても同じ事なのです。成る程、詩人は言葉で詩を作る。しかし、言うに言われぬものを、どうしたら言葉によって現す事が出来るかと、工夫に工夫を重ねて、これに成功した人を詩人と言うのです。
[#3字下げ]田児の浦ゆ打出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪はふりける
これは、山部赤人の有名な歌で、誰でも知っている。歌の意味も、読んで字の通り、誰にでもわかる。現代使われていない言葉は、「田児の浦ゆ」の「ゆ」という言葉だけだ。「ゆ」というのは、例えば東京から神戸へ、の「から」という現代の言葉に当ります。もし諸君が、この歌を読んで、美しい歌だと思うなら、諸君に美しいと思わせるものは、この歌の文字通りの意味ではないでしょう。やはり、富士を見た時の言うに言われぬ赤人の感動が、諸君の心を打つからではありませんか。歌人は、言い現し難い感動を、絵かきが色を、音楽家が音を使うのと同じ意味合いで、言葉を使って現そうと工夫するのです。成る程、詩人の使う言葉も、諸君が日常使っている言葉も同じ言葉だ。言葉というものは、勝手に一人で発明できるものではない。歌人でも、皆が使って、よく知っている言葉を取り上げるより他はない。ただ、歌人は、そういう日常の言葉を、綿密に選択して、これを様々に組合せて、はっきりした歌の姿を、詩の型を作り上げるのです。すると、日常の言葉は、この姿、形のなかで、日常、まるで持たなかった力を得て来るのです。赤人の歌が、見たところ、どんなに楽々と自然に、まるで、赤人の感動が、そのまま言葉となっているように思われようとも、実は、大変な苦心が払われているのです。苦心など表に現さぬところが、大歌人の苦心なのです。
扨て、前に、諸君が日常生活で、どんな風に、眼を働かせているかについて述べたが、此処でも、では、どんな風に言葉を使っているかを反省してみて下さい。例えば、「煙草を下さい」と誰かに言って、煙草が手に入ったら、「煙草を下さい」という言葉は、もう用はない。その言葉は捨てられて了います。いや、「煙草を下さい」という言葉が、相手に通じたら、もう、その言葉には用はないでしょう。相手も言われた言葉が理解出来たら、もうその言葉に用はないでしょう。日常生活では、言葉は用事が足りたら、みな消えてなくなる。そういう風に使われていることに、諸君は気が附かれるでしょう。言葉は、人間の行動と理解との為の道具なのです。
ところで、歌や詩は、諸君に、何かをしろと命じますか。私の気持ちが理解できたかと言っていますか。諸君は、歌に接して、何をするのでもない、何を理解するのでもない。その美しさを感ずるだけです。何の為に感ずるのか。何の為でもない。ただ美しいと感ずるのです。歌や詩は、解って了えば、それでお了いというものではないでしょう。では、歌や詩は、|わからぬ《ヽヽヽヽ》ものなのか。そうです。|わからぬ《ヽヽヽヽ》ものなのです。この事をよく考えてみて下さい。ある言葉が、かくかくの意味であると|わかる《ヽヽヽ》には、Aという言葉を、Bという言葉に直して、Aと言う言葉の代りにBという言葉を置き代えてみてもよい。置き代えてみれば合点がゆくという事でしょう。赤人の歌を、他の言葉に直して、歌に置き代えてみる事が出来ますか。それは駄目です。ですから、そういう意味では、歌は、まさに|わからぬ《ヽヽヽヽ》ものなのです。歌は、意味のわかる言葉ではない。感じられる言葉の姿、形なのです。言葉には、意味もあるが、姿、形というものもある、ということをよく心に留めて下さい。
言葉の姿と言っても、眼に見える活字の恰好ではない。諸君の心に直かに映ずる姿です。この歌の姿という事は、古くから日本の歌人が、歌には一番大切なものと考えて来たものです。西洋では詩のフォームと言い、このフォームという言葉は、今日、形式と訳されて使われておりますが、フォームという西洋でも古い言葉は、日本にも古くからある姿という言葉で訳す方が、よほどいい訳なのです。それはともかく、姿のいい人がある様に、姿のいい歌がある。歌人の歌の言葉は、真白な雪の降った富士の山のような美しい姿をしているのです。だから、赤人は、富士を見た時の感動を、言葉に現した、或いは言葉にした、と言うよりも、そういう感動に、言葉によって、姿を与えたと言った方がいいのです。感動というものは、読んで字の如く、感情が動いている状態です。動いているが、やがて静まり、消えて了うものです。そういう強いが不安定な感動を、言葉を使って整えて、安定した動かぬ姿にしたと言った方がいいのです。
私達の感動というものは、自ら外に現れたり、叫びとなって現れたりします。そして、感動は消えて了うものです。だが、どんなに美しいものを見た時の感動も、そういうふうに自然に外に現れるのでは、美しくはないでしょう。そういう時の人の表情は、醜く見えるかも知れないし、又、滑稽に見えるかも知れない。そういう時の叫び声にしても、決して美しいものではありますまい。例えば諸君は悲しければ泣くでしょう。でも、あんまりおかしい時でも涙が出るでしょう。涙は歌ではないし、泣いていては歌は出来ない。悲しみの歌を作る詩人は、自分の悲しみを、よく見定める人です。悲しいといってただ泣く人ではない。自分の悲しみに溺れず、負けず、これを見定め、これをはっきりと感じ、これを言葉の姿に整えて見せる人です。
詩人は、自分の悲しみを、言葉で誇張して見せるのでもなければ、飾り立てて見せるのでもない。一輪の花に美しい姿がある様に、放って置けば消えて了う、取るに足らぬ小さな自分の悲しみにも、これを粗末に扱わず、はっきり見定めれば、美しい姿のあることを知っている人です。悲しみの歌は、詩人が、心の眼で見た悲しみの姿なのです。これを読んで、感動する人は、まるで、自分の悲しみを歌って貰ったような気持ちになるでしょう。悲しい気持ちに誘われるでしょうが、もうその悲しみは、不断の生活のなかで悲しみ、心が乱れ、涙を流し、苦しい思いをする。その悲しみとは違うでしょう。悲しみの安らかな、静かな姿を感じるでしょう。そして、詩人は、どういう風に、悲しみに打ち勝つかを合点するでしょう。
「美を求める心」という大きな課題に対して、私は、小さな事ばかり、お話ししている様ですが、私は、美の問題は、美とは何かという様な面倒な議論の問題ではなく、私たちめいめいの、小さな、はっきりした美しさの経験が根本だ、と考えているからです。美しいと思うことは、物の美しい姿を感じる事です。美を求める心とは、物の美しい姿を求める心です。絵だけが姿を見せるのではない。音楽は音の姿を耳に伝えます。文学の姿は、心が感じます。だから、姿とは、そういう意味合いの言葉で、ただ普通に言う物の形とか、恰好とかいうことではない。あの人は、姿のいい人だ、とか、様子のいい人だとか言いますが、それは、ただ、その人の姿勢が正しいとか、恰好のいい体附《からだつき》をしているとかいう意味ではないでしょう。その人の優しい心や、人柄も含めて、姿がいいというのでしょう。絵や音楽や詩の姿とは、そういう意味の姿です。姿がそのまま、これを創り出した人の心を語っているのです。
そういう姿を感じる能力は誰にでも備わり、そういう姿を求める心は誰にでもあるのです。ただ、この能力が、私たちにとって、どんなに貴重な能力であるか、又、この能力は、養い育てようとしなければ衰弱して了うことを、知っている人は、少いのです。今日の様に、知識や学問が普及し、尊重される様になると、人々は、物を感ずる能力の方を、知らず識らずのうちに、疎《おろそ》かにするようになるのです。物の性質を知ろうとする様になるのです。物の性質を知ろうとする知識や学問の道は、物の姿をいわば壊す行き方をするからです。例えば、ある花の性質を知るとは、どんな形の花弁が何枚あるか、雄蕊《おしべ》、雌蕊はどんな構造をしているか、色素は何々か、という様に、物を部分に分けて、要素に分けて行くやり方ですが、花の姿の美しさを感ずる時には、私達は何時も花全体を一と目で感ずるのです。だから感ずる事など易しい事だと思い込んで了うのです。
一輪の花の美しさをよくよく感ずるという事は難かしい事だ。仮にそれは易しい事だとしても、人間の美しさ、立派さを感ずる事は、易しい事ではありますまい。又、知識がどんなにあっても、優しい感情を持っていない人は、立派な人間だとは言われまい。そして、優しい感情を持つとは、物事をよく感ずる心を持っている人ではありませんか。神経質で、物事にすぐ感じても、いらいらしている人がある。そんな人は、優しい心を持っていない場合が多いものです。そんな人は、美しい物の姿を正しく感ずる心を持った人ではない。ただ、びくびくしているだけなのです。ですから、感ずるということも学ばなければならないものなのです。そして、立派な芸術というものは、正しく、豊かに感ずる事を、人々に何時も教えているものなのです。
[#地付き](昭和三十二年二月、『美を求めて』)
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ゴッホの病気
今度、ゴッホの大変立派な展覧会が開かれる事になりました。オランダのクレーラー・ミューラー美術館にある作品であるが、これは、極く初期のデッサンから、死んだ年の制作にわたる二七〇点にも及ぶ大蒐集であり、ゴッホの全作品の三分の一は、そっくりここに集まっているわけなのです。大画家の遺作に関して、この様な事は、全く異例な事だ。そういう私達、ゴッホの絵を見ようとするものにとって、こんな好都合な次第になったというのも、これを裏返してみれば、この画家が、どんなに孤独な人であったかを語っているものだ。彼の絵は散逸しなかった。散逸しようにも、買い手がなかった。ゴッホの弟は画商であり、兄の絵の宣伝には、ずい分努めましたが、一枚も売る事は出来なかった。尤も、研究家によれば、たった一枚売れた事があるそうです。ゴッホの友達の、デ・ボックというベルギイの絵かきの妹が、四百フランで一枚買った。今度の展覧会で、彼の作品にかけられた保険金は十四億四千万円だそうです。なるほど、歴史を傍観すれば、歴史の皮肉は、何もゴッホの場合に限って起ってはいません。そうではない。私がここで歴史の皮肉という様な言葉を使いたいのは、そういう意味ではない。歴史の皮肉は、内側から、ゴッホに体験されていた。歴史というものは、なんと奇怪な残酷なものであるか、という切実なこの画家の経験と彼の絵は離す事が出来ない。この鋭い意識は、ゴッホの仕事の動機のうちに深く根を下している。私の言いたいのは、その事なのです。
ゴッホは、サン・レミイの精神病院に監禁され、病室の窓ごしに見える病院の石垣で区切られた麦畠を、何枚も描いています。そのなかの二枚は、今度の展覧会で、見る事が出来ると思いますが、その当時、弟宛の手紙のなかで、麦畠を死の影が歩いて行くのが見えると言っている。少しも悲しい影ではない、死は、純金の光を漲《みなぎ》らす太陽と一緒に、白昼、己れの道を進んで行く。人間とは、やがて刈りとられる麦かも知れぬ、と書いています。彼の絵も亦《また》、同じ言葉を語っているとは申しませぬ。絵は、何かもっと名状すべからざるものを現しています。併し、絵から受けた感銘から、手紙の言葉に戻ると、其処には、何か、絵に、はっきり応ずるものがあると考えざるを得ない。これは、ただ麦畠の絵だけに限りませぬ。ゴッホが彼の全人格を発揮してからの作品には、悉く、一種脅迫された動機と言おうか、制作の切羽つまった諸条件の意識と言おうか、そういうものの、明らかな反映が感じられます。彼の絵は、決して普通の意味で美しい絵ではありませぬ。だから、ルノアールの様に、普通の意味で美しい絵を描き、大家となるのが絵の大道であると信じた人は、ゴッホの作を認めなかった。絵というものは、これを見る人が、この画家は、自分の絵の機嫌をとっているという事が感じられる様なものでなくてはならないが、ゴッホの絵には、それがない。そういう事をルノアールは人に語っています。そんなものは、ゴッホの絵にはない。ないどころか、見る人を何か不安にさせる様なものがある。ゴッホの絵を、人々が容易に認めなかったのは、確かに彼の絵のそういう性質だったでありましょうが、時がたつにつれて、人々を否応なく引きつける様になったものも、この同じ性質に違いない。ルノアールの言う様に、彼の絵には、絵の世界に自足しているという感じがない。だが、それは何かが不足した、不充分な感じとは違う。この不安な感じの裡には、何か、こうでなければならぬ、という断言的な力が働いている。時のたつにつれて、人々は、そんな風に、説得されて来たものと思われます。それは何か。実は、これは、私が、ゴッホについて書き始めた時に浮んだ質問です。無論、一般的な言葉で答えられる様な性質の質問ではないでしょう。それよりも、むしろ、ゴッホの絵が、時のたつにつれて、人々を知らず知らずのうちに説得して来たのは、この質問の力だったと言った方がいいかも知れない。質問は感動の形で絶えず提出されていた。人々は、感動の性質上、言葉にはならぬ答で、これに応じて来たと言った方がいいかも知れませぬ。
ゴッホという人間の最大の不幸が、彼の精神病にあったという事は疑う余地がない。彼が、彼の真面目を発揮したと言われている作品を制作したのは、パリから南仏のアルルに定住した一八八八年の二月から、一八九〇年七月、オーヴェル・シュル・オワズで自殺するまで、三年に満たぬ期間であるが、この間に、彼が精神病院から自由だったのは合計して一年ほどしかない。これは驚くべき事実です。芸術は環境の産物であるという考え方があるが、精神病は、ゴッホの作品が生れた一種の環境であろうか。これは非常に面倒な問題でしょう。ともあれ、彼の芸術と彼の精神病とは深い関係がある事は否定出来ないのであるから、多くの学者によって、ゴッホの精神病に関する研究がなされています。私は、そういう方面の知識には暗いが、ある学者は、ゴッホの病気を精神分裂症と判断し、或る者は一種の癲癇《てんかん》と解し、又、両方とも否定する見解もある様で、要するに、各人各説という有様の様ですが、そういう研究も、これによってゴッホの芸術の理解を深めるという方向を取らないものなら、意味のない仕事でありましょう。ゴッホという人が非凡な人間であった事には間違いなく、作品に於けるその刻印が、彼の絵の価値の本質を決定している以上、彼の精神を分析して、何処にでも見られる平凡な精神病患者に、彼を還元してみせるという仕事は、ただそれだけの事なら、大した意味もない仕事でしょう。ゴッホの様な芸術家の場合に限らない。分析的心理学の発達にともない、一般に芸術を心理学の対象にする傾向が大変強くなった。それに、この心理学は、何んと言っても、神経病や精神病の異常心理の観察が、基礎となって発達したものであるし、又、幸い、優れた芸術家には所謂《いわゆる》変人が多く、従って、神経症に大変よく似た心理的条件が、芸術作品の成立に関与している事を発見するのは、少しも困難ではない。その為に、芸術作品を病的現象と混同するという極端な傾向も現れて来る。そういう非常識はともかく、精神分析によって、芸術家や芸術作品が解釈される場合、当然現れて来る方法や仮説がどんなに斬新なものと見えようと、根本の考え方は、歴史的な或いは社会的な条件によって、芸術の成立を説明するという在来の同じ考え方の延長の上にあるという事は、忘れない方がよいのです。誰の眼にも見える社会の外的な条件が、次第にしぼられて、自分の眼にさえ見えぬ、無意識界の条件に代った。個人をめぐる社会環境では、満足せず、意識をめぐる無意識の大海を、これに代えるに至った。無論、心理学者は、ただ無意識の大海ではすまされぬ。社会学者が、社会の階級的構造を考える様に、無意識界の表層とか深層とか、何等かの合理的な構造を考えざるを得ないという次第です。
ゴッホの病気が、学問的には全く曖昧なものにせよ、争う事の出来ぬのは、彼が、自分の病気を、はっきり知っていた病人だった、鋭敏な精神病医の様に、常に、自身の病気の徴候を観察していた病人だった、という事です。これは、彼の書簡集が証明している。彼の書簡集は、呵責《かしやく》のない自己批判の連続であって、告白文学と見ても、比類のないものである。又、彼は、四十点を越える自画像を遺しています。短い期間に、これほど沢山自画像を描いた画家は、他にありますまい。病的という言葉が使いたいのなら、病的に鋭い自己批評家であった、と言ってもよい。これこそ、一番大事なことと思われます。残念ながら、今度の展覧会で見る事が出来ないでしょうが、耳を繃帯した有名な自画像があります。ゴッホは、アルルで、最初の大きな発作に見舞われた時、自分の耳を切りとって、これを或る商売女に贈った。彼は、病院で意識を取戻すのですが、退院して、アトリエに還って来ると、危険人物を何故退院させたかというアルルの市民の抗議があって、再び病院に監禁されます。この自画像は、退院当時、描かれたものだ。無論、彼は、この時、自分は発作中に何をしたかを聞かされていたでしょう。弟への手紙には、弟に心配を掛けまいとする配慮が見られるし、警察の監禁命令に対しても、彼は冷静に行動した。弱い一病人に対して、市民が団結した事は、まるで眉間を割られる様な想いだったが、自分は我慢する。怒ったらいよいよ狂人と見られるだろう、自己弁解は、ことごとく自己告発と同じ事になるだろう。それどころか、感情をたかぶらせたら、自分の病気にも不利であろう、忍耐する他はない。君も、事件に立入らないで欲しい、と弟に言い送っている。ゴッホは理性を取戻している。併し、理性を取戻すという様な事は、やさしい事だ。彼が何の努力もしなくとも理性は戻って来たのだ。それは、発狂するのがやさしいのと同じくらいやさしい事だ。何故かというと、彼にとって、耳を繃帯した自画像を描くとは、そんな事とはまるで違った事だったからです。ここに、世にも奇怪な人間がいる。自身でも世間でもこの男をゴッホという名で呼んでいるが、よくよく考えれば、これを何んと呼んだらいいのであろう。それは、自我と呼ぶべきものであるか。この得体の知れぬ存在、普通の意味での理性も意識もその一部をなすに過ぎない、この不思議な実体を、ゴッホは、何も彼も忘れて眺める。見て、見て、見抜く。見抜いたところが線となり色となり、線や色が又見抜かれる。そんな事を言ってみたところで、言葉を弄しているだけの事かも知れませぬが、ともかく、そういう場合のゴッホの意識、それも意識という言葉を使ってよいとすればですが、その場合のゴッホの純粋な意識こそ、彼の自画像の本質的な意味を成すものでしょう。
当時の弟への手紙のなかに、いよいよ自分が精神病者だとはっきり知らされた時、ゴッホの頭に、電光の様に閃いた考えがあって、それを、彼は書いている。電光の様に閃いたと言うのは、私には、手紙の書き方から、そう感じられたので、そう言ってみただけの事なのですが、恐らく、彼が直覚したところには、言葉では、はっきり現せないものであった事は、手紙の文句から感じられるのです。こういう文句がある。「町の人(これは勿論、ゴッホの監禁を要求したアルルの町の人々を指すのですが)から、健康はどうかと訊ねられると、いつもこう答えてやる、君達の手にかかって、一ったん死んでから、又出直すのだ。そうすれば、僕の病気も死ぬだろう、と。死ぬのに手間がかからぬとは言わないが、一度、真剣に病気になれば、二度と病気にはならぬ事を、君は、はっきり納得する筈だ。君は健康であるか、病気であるか、どちらかだ。若いか老いているか、と言うのと同じ事だ。僕も君の様に、出来るだけ医者に言われる通りの事をしよう。果さねばならぬ義務と思ってしよう」。手紙の文面から推察すると、当時弟も病気だったと思われるが、ゴッホの言葉は、彼の独白と考えて差支えないでしょう。病気に対して、普通の意味で、冷静な客観的な立場で臨む、という事が、彼は言いたいのではない。そういう事なら医者にまかせて置けばすむ事だ。医者にまかそうにも、まかせられないものは、彼自身の生活態度である。健康であるか、病気であるか、とは、彼の場合、無論、正気であるか、狂気であるか、という意味であって、これは、全然比喩の意味ではなく、二つの異った人格の交替に、堪えて生きて行くには、如何に決意すべきかを、彼は語っているのです。狂気の時の自我も正気に還った自我も同じ自我である、という奇怪な経験に堪えて行くのが、唯一つ残された生きて行く道だとするなら、なるほど、彼の言う様に、これは一ったん死んでから、出直す道ではありませんか。彼のうちには、傍観者の住む余地はないし、普通の意味での自己反省も彼には何んの役にも立たぬ。病気が治るに越した事はない。だが、それは極めてあやしい事だし、医者の問題に過ぎない。彼の切迫した実感から言えば、問題は、寧ろ、真剣に病気になる事だと言うのです。サン・レミイの病院から、彼は弟に書いています。「人の善いペイロンさん(彼は病院の医者だ)は、君に報告することを沢山持っているだろう。蓋然性だとか可能性だとか無意識の行為だとか。よろしい。併し、彼が、それ以上正確になったら、僕はそんな正確は信じない。そうなった場合、もし彼が正確なら、何事に関して彼は正確になるかが、僕には見透しだからだ」。ゴッホは皮肉を言っているのではない。彼に、どうして、そんな余裕があったでしょうか。正確な心理分析、よろしい、だが、私に必要なのは、寧ろその逆のやり方だ、と言っているのです。病気の原因とは何か。それは意識を手がかりとして、無意識の底流を合理的に再構成してみる事ではないか。そして、そこに病気の原因という言葉を得る。言葉は正確なほどよろしい。私は、その言葉を必要なら信用もしよう。だが、それが限度だ。狂気という重荷を背負った一人の画家の生きて行かねばならない意味は何処にあるのだろう。そういう運命を進んで容認しなければ、自殺した方がよい。この苦しい意識について、ペイロンは、どんな報告も書く事は出来ない筈である。「僕は、自分に振られた狂人の役を、素直に受け容れようと思っている。ドガが公証人の役を演じた様な具合に。ところが、悪い事にはそんな役が出来るほどの気力が、全く感じられないのだ」とゴッホは書いています。アルルの病院にいた当時は、狂気の襲来という恐怖から逃れる事は、非常に難かしい事であったが、サン・レミイの病院に移り、大勢の狂人と一緒に暮さねばならぬ様になり、狂気を恐れてなぞいられない、と悟った。いや、否応なく知らされた。幾日も、夜昼の別なく、乱暴し、絶叫する男の世話をしなければならなかった。次は自分の番なのだ。ゴッホ自身の言葉を借りれば、「杏《あんず》の花を描いているうちに、突然|獣物《けだもの》の様に倒れる」、気が附いてみれば、喉は腫れ上り、食事も出来ない。自分もあの男と同じ様に、乱暴し、絶叫していたのである。見物人には地獄の世界と映るであろうが、地獄の住人達は、互いに助け合って暮さねばならぬ。振られた狂人の役を素直に受け容れなければならぬ。正気に還れば正気の役も素直に演じなければならぬ。これが、「君は健康であるか、病気であるか、どちらかだ。若いか老いているか、と言うのと同じ事だ」と彼が言う意味です。どうして、これを、単に冷静な判断とか客観的な考えとかと呼べましょうか。彼は、人間的な余りに人間的なドラマを悉く越えて行く精神を求めたのです。求めたと言うより、彼の現実の生活の必要が、彼に決意を迫ったと言った方がいいでしょう。今更、あり合せの宗教や哲学が何んの役に立とうか。問題は、彼が言う様に、「気力」にあった、意志にあった。そして、彼は、「気力」の不足を嘆くのです。「愚痴を言わずに、苦しむ事を学び、病苦を厭《いと》わず、これを直視する事を学ぶのは、眼もくらむばかりの危険を冒すのと全く同じ事である」と彼は書いている。彼の言うところに誇張はなかったでしょう。この追いつめられた人間の、強烈な自己意識が、彼の仕事の動機のうちにあるのです。それこそ彼の耳に繃帯をした自画像の視点そのものなのです。彼の手紙を読んで、狂気との戦いのあとを追って行くと、この視点を失うまいとする努力が、精神の集中と緊張とによってこの視点を得ては失い、失っては得る有様が、手に取る様に感じられるのです。絵の仕事だけが、彼の救いであった。彼は、仕事を自分の指導者と呼んでいる。絵を描くという精神の集中による行為しか、彼に、この視点を保証してくれるものはないと彼は信じた。彼の作品は、その意味でことごとく自画像であったと言ってよい。
ゴッホの精神病を研究したオランダのG・クラウスという精神病医は、広汎な文献の批判研究から推論して、現状の精神医学的研究では、ゴッホの病気を正確に決定する事は不可能だ、とした。そして、「ゴッホは、その芸術に於いて個性的であったと同様に、その疾患に於いても個性的な人間であった」と結論したという事を、私は、かつて或るゴッホ伝で読んだ事がある。伝記作者は、これが恐らく一番賢明な判断であろうと書いていました。恐らくそうでしょう。だが、もし、ゴッホがこの結論を読んだら何んと言うであろうか、と考えてみる方が、余程大事な事である。彼は、こう答えるでしょう。諸君は、私を個性的な人間だと言ってくれるが、私の個性のなかで最も個性的なものは何んであったか。私の精神病ではないか、私が戦った当の相手ではないか。私は戦ったが、遂に力尽きて自殺するに至った。正気の時の私も、まことに風変りな人間であった。私は、私の個性の烈しさ故に、優しい弟とも敬愛するゴーガンとも衝突しなければならなかった。誰ともうまくやって行く事が出来なかった。私は、自分の個性を持て余した人間だ。個性的なものなど、なければないで、どんなに済ましたかったであろう。諸君は、私が止むを得ず現したところを、私が失敗したところを言っているのだ。もしゴッホが、そう答えたとしたら、誰に反対出来ようか。実際、彼の書簡集を熟読すれば、彼がそういう人間であった事がよく解るのです。浪漫主義が流行させた、独創とか個性とかいう言葉は濫用されています。濫用しているうちに、知らず知らず、芸術作品の個性という意味が下落する。下落して単なる個人個人の相違という意味と混同されます。誰も、生れながらの人と違った自分の鼻の形を自慢するものはあるまい。ところが、この鼻が展覧会に陳列されれば、独創的作品だと大真面目に感心する人も出て来るという風な事になっている。もし芸術作品の個性という事が言いたいのなら、それは個人として生れたが故に、背負わねばならなかった制約が征服された結果を指さねばならぬ。優れた自画像は、作者が持って生れた顔をどう始末したか、これにどう応答したかを語っているのです。とすれば、この始末し、応答するものは何んでしょう。与えられた個人的なもの、偶然的なものを越えて、創造しようとする作者の精神だと言う他はないでしょう。この精神が忘れられるから、リアリズムという言葉の意味も、併せて下落するのです。今申した様な事は、優れた芸術家の仕事で、例外なく行なわれている。ゴッホの様な場合は、ある極端な場合で、同じ事が、烈しい戦いの形で現れていると見るべきだと思います。
発作のひどい時には、ゴッホは意識を失うのですが、恢復期には様々な妄想に苦しんだ。どうしようもない憂鬱が来るかと思えば、恐ろしい様な法悦がやって来る。だが、そういうものに関して、彼は一言も語っていません。語りたくない、と言っている。想像をどうしても現実と思い込んで了うのは、いかにも辛い事だ、と言っている。憂鬱が襲来する時の苦しさは、医者が二度と眼を覚さぬ様にして置いてくれたらと思うほどだと言っている。混乱した宗教的観念に襲われた時には、贋《にせ》予言者にはならぬ、という覚悟を語っています。妄想の襲来から逃れる術はないのです。それは、彼自身の言葉を借りれば、「僕を混乱させる為体《えたい》の知れぬ、強力な、万能な、一種のエモーション」であった。これに直面して、たじろぐ事なく、彼の言う様に、これを直視するより他はない。彼は、絵の仕事を、狂気に対する避雷針と呼んでいますが、避雷針は、狂気に対して、最も近い、最も鋭敏な、彼の意識の尖端を意味する筈です。内に向って目覚めていた同じ精神が、外を見るのです。アルルのアトリエで仕事を始めた当時、ゴッホは、写生をしている時に見舞われる「恐ろしい様な透視力」について語っていますが、語られているのは、肉眼というよりも寧ろ心眼でありましょう。ゴッホの精神を考えずに、ゴッホの絵のリアリズムを云々《うんぬん》しても無意味な事だ。サン・レミイの病院で書いた手紙の中に、こんな言葉があります。「君は、或るオランダの詩人が言った言葉を知っているか、『私は地上の絆《きずな》以上のもので、この大地に結び附けられている』。これが、苦しみながら、特に、所謂精神病を患いながら、私が経験した事である」、これが、諸君が、今度御覧になる麦畠の絵のモチフそのものなのです。向うに見える石垣は、彼の地上の絆だ。だが、彼を石垣の中に閉じこめた健康な社会人達も、めいめいの地上の絆から、決して逃れてはいない。併し、麦畠は違う。違った絆で自分を捕える。湿った雪が降り、彼は、夜中にベッドから起き上り、麦畠を眺めます。「自然が、こんなに心を緊《し》めつける様な感情に満ちて見えた事は、決して、決してなかった事であった」と彼は書いています。恐らく、彼は、麦畠が語る言葉を聞いたのでありましょう。「君は健康であるか、病気であるか、どちらかだ。若いか老いているか、と言うのと全く同じ事だ」。彼は、聞えたがままの声を表現したのです。それが、彼の絵のリアリズムなのです。
ゴッホは病気であったが、彼の自分は病気だという意識は病気ではなかった。「一体誰が正気なのか」と彼は手紙の中で質問していますが、本当に烈しく質問しているのは、彼の絵でしょう。正気の人間の自己意識が、ゴッホという病人の自己意識よりはっきりしたものだと誰に言えましょう。私達の通常の意識が、どれほど怪しげなものであるかは、心理学者の説明を俟《ま》つまでもない。酔った酔ったと言っている酔っぱらいは、未だ大丈夫ですが、酔ってはいないと言い張る酔っぱらいが危険な事は、誰でも知っている。酔うのはアルコールだけとは限らない。主義主張に酔う人間の心の構造も同じ事なのです。ゴッホの様に、烈しい妄想の襲来と戦わねばならなかった人は、その故にいよいよ磨《と》ぎすまされた鋭い意識を持つ様になったが、私達は、正気のお蔭で、鈍い自己意識に安住しているのではないかどうか。これは一考に価する事でしょう。成る程、分析的心理学の説くところは、現代人の常識となっています。リビドとかコンプレックスとかいう言葉は、誰の口にも上っているのです。言わば、現代人の心の間口は、途方もなく拡り、自我について、誰もが勝手な饒舌を振う様になった。それは、心理的な戯れで、はち切れそうになっている現代文学を一見しただけで、お解りでしょう。精神分析は、神経症を治療出来るかも知れませんが、精神分析の説くところに精通した教養人の、自我との戯れというノイローゼを、治す事は出来ますまい。意識と心とは別物である、人間、めいめいが暗い危険な無意識を持っている、そんな知識だけで、どうして、私達は、実際に、自分達の内的経験を豊かに出来ましょうか、自己意識を磨ぎ澄ますという様な事が出来ましょうか。いや、知識は逆の作用をするのです。現にしているのです。無意識過程の合理的説明に耳を傾ける人間が、自分の心との戦いという様な古風なやり方を放棄して了うのは当然でしょう。自分と戦う人間の数が減れば、それだけ他人と戦う人が殖える。わかり切った算術の様にも思われます。現代は心理学の時代だと言われます。それは、眼に見えぬ心の底の底まで、眼に見える現象と化さねば承知出来ない時代だという事にもなりましょう。人々は、自分自身の心の世界まで一種の外的世界に変じて了った様です。精神と心理との混同が行なわれると言ったらいいのでしょうか。それとも、心理学といういよいよ詳しくなる精神の不在証明《アリバイ》を競って信用する傾向と言った方がいいのでしょうか。ともあれ、精神という言葉は、主観的なもの、空想的なものの意味に下落した。私は、精神主義者ではない。ただ、時代思想というものは、いつの時代のものでも、決して綿密な研究や思索から発したものではない、そういうものを無視しても拡るものだ、拡った以上、必ず合理的な仮面をつけるものだ、という事を忘れたくないまでです。
文明批評をする積りなど少しもないが、ゴッホという人間を考えていて、自然と話がそんな風になった。ゴッホの絵は、表現主義絵画の先駆である、という一般に承認されている意見がありますが、そういう見方は、あまり私の興味を惹きませぬ。表現主義という概念は曖昧ですし、後世がもしゴッホの絵を模倣しなければ、ゴッホは先駆にはならなかった筈だとも考えられるとなれば、面倒臭い問題になるからです。私は、ゴッホという人間に、先ず、彼の書簡集を通じて近附きました。そういう者にはそういう者なりの考えの偏《かたよ》りもあろうと思うが、私には、ゴッホの絵は、非常に精神的な絵と映ります。現代の先駆者を想わせるものは、何もないのです。彼が遺した十九歳の時から三十七歳で死ぬまで、間断なくつづいている、執拗を極めた自己分析の記録は、現代の心理学的風潮とは、まるで逆なのです。分析出来る様な自我は、ことごとに棄てられるのです。どうしても外部化出来ない精神に行きつく為に、惜しげもなく棄てられる道を強行しているのです。そして彼が敢えて「地上の絆以上のもの」と呼ぶものが、彼の心の内部に直覚されているのです。彼の手紙で率直に語られている、そういう経験が、主観的という言葉で片附けられるものとは、私には考えられませぬ。私の実感から言えば、ゴッホの絵は、絵というよりも精神と感じられます。私が彼の絵を見るのではなく、向うに眼があって、私が見られている様な感じを、私は持っております。
[#地付き](昭和三十三年十一月、「藝術新潮」)
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ドストエフスキイ七十五年祭に於ける講演
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今年は、ドストエフスキイが死んでから、七十五年になります。七十五年にはなるが、何が七十五年祭なのか、実は、私はちっとも知りませんでした。聞いてみると、今年から、ソヴェトで、ドストエフスキイが解禁になったのだそうです。そのお祭りをやるのだそうだ。何んだか一向腑に落ちぬ話だが、私は、米川正夫さんから御依頼を受けたので、ともかく少しばかり感想を述べます。
ドストエフスキイの著作は、ソヴェトでも戦争中は出版されていた。それが、戦後禁止になった。尤も、ソヴェトでは、政府という本屋が一軒しかないのだから、発売禁止じゃない、本屋が勝手に出すのを止めただけの話だ。去年、「ステパンチコヴォ村の住人」と「罪と罰」が久しぶりで出版されたそうですが、あとがつづいて出たかどうかは知りませぬ。併し、ソヴェトで、ドストエフスキイの著作を集めて焚《や》いたという話も聞かないから、出た本は、どこかにちらばっていたわけで、従って沢山な人が、これを読んでいたに違いない。ドストエフスキイの小説は、外国人が読んでも非常に面白い小説であるから、ロシヤ人に面白くないわけがない。非常に多数の読者が、黙って、読んで、面白がっていたに違いない。ソヴェトには言論の自由はないであろうが、沈黙の自由ならある筈だ。言葉のしゃれではない。黙らされた人間は、必ず沈黙によって自己を現すものであり、この力は必ずしも言論の力に劣るものではありませぬ。ドストエフスキイの著作に関する、ソヴェト政府の出版政策が変ったという事が本当なら、これを変らせたものは、ドストエフスキイの愛読者達の沈黙の力である、そう私は簡単明瞭に考えています。
ソヴェトの政策が、スターリンの死後、いろいろ変化して来た、という事が、しきりに伝えられています。先日あるイギリスの雑誌を読んでいましたら、最近、ソヴェトでは、恋愛小説が、盛んに書かれる様になった、という記事がありました。ソヴェトの作家達は、今や性の解放の問題に逢着し、慣れぬ仕事の為に、手こずっているのだそうである。こういう事は、私達の常識では、考え難い事であるが、ソヴェトの作家は、勿論、勝手な創作をやるわけにはいかない、みな組合の方針に基づいて書くのであるから、ソシアリスト・リアリズムという、組合によって規定された従来の制作綱領が、ぐらついて来た事を示しているのである。言う迄もなく、ソシアリスト・リアリズムの方法は、先ず何を措いても、社会組織の力なり、国家の目的なりを正確に描き出す事を、旨とするものであるから、恋愛という様な生活の私事に作家が制作上の重点を置くという様な事は許されない筈のものです。だから、ソヴェトには、恋愛小説が、久しい間現れなかった。
だが、そうなったからと言って、ロシヤ人が恋愛を止めたわけではあるまいし、又、国家的な集団的な恋愛が、彼等に出来る様になったわけでもあるまい。実際の事態が、そういうものであるなら、ソシアリスト・リアリズムなどという取決めも、そういつまでも利目があるわけのものではないでしょう。一体小説というものが、もともと公の考え方や公の事件に対して、私人の考えや感情や行為をもって対抗しようとするところに発達したものであって、恋愛に限らず、人間生活の私事にわたらぬ小説が、読んで面白かろう筈がない。かくかくの小説は面白がってはならぬなどと言っても無理だ、やがて政策の方で妥協しなければならなくなる。恋愛小説が現れて来るのも当然でしょう。
前にお話ししたイギリスの雑誌の記事には、最近のソヴェトの恋愛小説について、いろいろ例があげられ、恋愛の、ことに性関係の描写は、何しろ初めての経験であるから、作家が固くなって、まことにぎごちない様子を見せているのも致し方がないと書いてあった。それについて筆者は次の様な事実に読者の注意を促している。西欧では、性の解放という事は、進歩的な政治思想と結びついて現れたものだが、ロシヤではそういう事は決してなかった。フランスの小説に於けるナチュラリスムというのも、十九世紀のロシヤ文学には無縁のものであって、十九世紀のロシヤの恋愛小説のどれを取上げてみても、露骨な描写なぞはどこにも見当らない、というのです。たしかにそういう事は、ロシヤという国の歴史の特殊な性質から来ている。二十世紀になってから出たアルツィバーシェフの「サーニン」という様なデカダンスの文学は例外であって、この国外に追放された作家は、はじめから進歩的インテリゲンチャとは結び附いていない。どこの国にも、その国の特殊な事情がある。左翼の人達が、ロシヤについて語る時に、いつもイデオロギイが先きに立って、ロシヤという国の特別な事情を閑却するのは、まことによくない事だ。例えば、ドストエフスキイ解禁のお祭りが行なわれるという事も、わが国の特殊の事情によるものであって、例えばアメリカ人には容易に理解し難い事でしょう。
ドストエフスキイの作品が、ソヴェトで評判が悪いのは、彼の小説の反動的な或いは反革命的な思想によると言われています。私は、だいぶ以前、トルストイの事で、作家の思想と実生活との問題を、正宗白鳥氏と論争した事があります。勿論、そんな事を、ここで繰返す積りはないが、何故論争がトルストイに関して起ったかという事を問題として、ここで取り上げてもいいでしょう。これは偶然の事ではない。作家に於ける思想と実生活の問題を考えさせずにはおかぬものが、まさしく、トルストイという文学者にはある。そして、又、そういう性質、大思想家でもあり大実生活家でもあり、これら二つのものが、同一の作家のうちに対立しているという性質は、トルストイのみに限らず、ロシヤの十九世紀の文学者達の著しい特色と言えるからです。
ツァアの独裁していたロシヤは、西欧のルネッサンスも宗教改革も経験しなかった。この大経験以後蓄積された西欧の教養は、十八世紀に至って、リベラリズム、ナショナリズム、ソシアリズムと言う様な政治思想として実を結んだのであるが、そういう革新的な思想が、ロシヤに入って来たのは、十九世紀半ばである。そして、これを受けとった、役人にも軍人にもなりたくなかったインテリゲンチャは、旧態依然たる独裁国家に暮していたのです。政治行動は無論の事だが、政治思想の発表にも自由はなかった。政治思想ばかりではない、あらゆる新思想が、政府の監視の下にあった。哲学さえ国家にとっては危険な学問であった。ベルリン大学で、ヘエゲルを専攻したツルゲネフが、哲学者として身を立てる事が出来なかったのも、帰国してみれば、大学の哲学科は禁止されていたが為だ、という風な有様で、外来の新思想に掻き立てられたインテリゲンチャの燃え上る想いは、もっぱら文学或いは文学批評のうちに集中されたのです。あらゆる思想問題が、文学のうちに渦巻いた。トルストイやドストエフスキイの文学が背負っている様な大きな思想の重荷は、他の何処の国の文学にも見られぬものですが、これは、両作家の天才の力からだけでは説明がつかない。彼等は、十九世紀ロシヤ文学者達に共通の重荷を負った、力が強かったから背負う分量も大きかったという事なのです。ロシヤの近代思想史とは即ちロシヤ近代文学史の事である。更に、ロシヤの近代文学史とは、とりも直さずロシヤのインテリゲンチャ史なのである。インテリゲンチャという言葉は、ロシヤ語であります。
フランス文学に於けるナチュラリスムは、教養の飽満から来る作家の懐疑と傍観或いはブルジョアジイに対する侮蔑の態度に照応したものであり、又、これは、創作上の最も優秀な本質的な技術として、文学の自律性に堅く結ばれたものでした。そんなものが、専制君主と農奴という民衆の間にはさまれて、自由を奪われ、止むなく文学のうちに憤懣を吐露していたロシヤの作家達に理解出来た筈はなかったのです。
研究による学問化も、実践による社会化もはばまれた思想の渦が文学の世界に巻いていたのであって、この場合、思想の文学化という事は、作家達めいめいが、人間いかに生くべきかという問題を、驚くほどの率直さで、文学制作の中心動機としたという事を意味するのです。彼等は、文学者という専門家でもなかったし、文学という自由職業に従事していたのでもない。小説を書いていたのではない。小説に生きていた、そういう言い方は、彼等にとって少しも比喩ではなかったのであって、彼等の生きる苦しみは、殆ど度外れの誠実さをもって、あらゆる処で、文学という枠を乗り越えた。作家が、文学の蔭に身をかくすという様な事は、夢にも考えられぬ事でした。これが、ロシヤの十九世紀文学の、他に比類のない、一種|血腥 《ちなまぐさ》い壮観の由来するところだったのです。ドストエフスキイは、フロオベルの手紙を読んで、何んという贅沢な暇人、とあきれたかも知れないし、トルストイは、アミエルの日記を読んで、悧巧そうな事をいう馬鹿と腹を立てたかも知れないのです。
ロシヤの近代文学は、プウシキンからはじまった。この作家に於いては、嵐は、未だ大きくはなかったが、十九世紀のロシヤ作家達の運命を告げるものは、既に明らかに現れていたのです。彼の教養は、フランス人やドイツ人の家庭教師により、母国語を話す機会は乳母とだけであった様な貴族の家庭で、先ず始められたのであり、彼の文学生活の出発は、十二月党の革命に同情した詩作が、政府に忌避されて、南方ロシヤに追放される事から始まったのである。彼の有り余る才能は、三十八歳の若さで消えた。決闘で彼を倒したのは、ダンテスの弾丸であったが、プウシキン夫人の真の誘惑者は、恐らく、ニコライ一世であった、と言われています。つづいて、レルモントフの文学生活は、プウシキンの死を悼《いた》む歌からはじまるのだが、レルモントフは、これが為に、コーカサスに追放され、驚くべき早熟の天才を、やはり、決闘によって殺して了う。二人が創り出したオネエギンとペチョオリンという人間のタイプは、後年、ツルゲネフによって「余計者」と呼ばれた、現実の社会に根を下す事が出来ぬ教養と才能とを抱いて身を亡ぼす、ロシヤのインテリゲンチャの悲劇的なタイプだったのであります。ドストエフスキイのシベリヤ流刑は周知の事だが、温厚なツルゲネフも若い頃には、一度追放に会っています。彼の様に完備した形式の文学を一生書きつづけた作家は、ロシヤの近代作家では珍しいのだが、これも、自らを「余計者」に仕立て、当時の暗澹たるロシヤ社会から自らを追放する事によって出来た事である。彼はパリの郊外に死ぬまで、その半生を外国生活に送ったし、彼の知己は、ゾラやゴンクウルやフロオベルだったのです。ゴオゴリは、「検察官」という有名な芝居で、役人どもをこき下した。それでよく無事でいられたと思われるでしょうが、これは、憤激した検閲官を抑えたニコライ一世の気紛れによったのです。ドストエフスキイが死刑をまぬかれたのも、同じ男の気紛れが原因だった。だが、ゴオゴリの文学生活は遂に無事ではなかった。人間いかに生くべきか、という問題が、文学を乗り越えた極端な実例が、晩年のゴオゴリに現れた事は、誰も知るところです。彼は「死せる魂」の第二部を焼きすて、断食と祈りのうちに死んだのである。ゴオゴリの悲劇が、トルストイに至って、更に大きなスケールで演じられたのも、周知の事である。
ロシヤの十九世紀のインテリゲンチャは、己れの教養や才能を発揮する社会的条件の欠如の故に苦しんだばかりではない、やがて時が経つにつれて、己れの教養が外来品である事、ロシヤの土地に育ったものではないという意識に苦しめられる様になった。プウシキンやレルモントフの悩みは、ドストエフスキイやトルストイの悩みに成長するのです。西欧から得た革新的な教養に照せば、独裁政府は、まさしく、愚劣と不正としか表現していないが、黙して語らぬ幾千万のロシヤの民衆は、何を表現しようとしているのか。これは、十九世紀も半ばになると、すべてのインテリゲンチャを襲った問題であり、当時の文学界に現れた国粋派と西欧派との大論争は、インテリゲンチャの教養の不安定を如実に語っているのです。例えば、ヴォルテエルは、フランスの百姓より教養の度が高かっただけで、教養の根が百姓と異っていたわけではない。彼はエリット(社会の選良)だったのである。チェルヌィシェフスキイの教養は、農民《ムジツク》の教養とは質を異にしていた。彼は、革命的インテリゲンチャだったのである。同じ意味で、ドストエフスキイもトルストイも、外見にまどわされずにはっきり見るなら、無政府主義インテリゲンチャだったのであります。トルストイの家出問題も、こういう事情に深い関係があります。
トルストイは、ドストエフスキイに比べれば、余程合理的な理想家の様に言われておりますが、それは見掛けに過ぎないのであって、彼の苦悩は、西欧の合理主義者とは何んの関係もないものであった。ドストエフスキイは、「私は、いつでも、何処でも、限度を踏み越えた」と言っているが、トルストイも亦、そういう極端に走る野性的なロシヤ人の魂を持っていた。
トルストイの一生の最大の問題は、周知の様に、宗教問題であり、彼はこれを能うる限り厳密に考え直そうとしたが、彼は遂にどの様な宗教哲学にも到達しなかった。ソロヴィヨフは、トルストイにもし宗教哲学というものがあるとしたら、それはこの偉大な精神の現象学である、と言っています。同じ事が、ドストエフスキイにも言えるでしょう。文学も哲学も神学も教義も彼等の絶対探求の苦痛を覆い鎮める事は出来なかったのです。
しかし、トルストイの思想の否定的な面は、一貫して明瞭なのである。彼の回心は、若い頃から用意されていたもので、それは、文明というものに対する嫌悪と不信との蓄積によるのであり、この蓄積は、「コサック」以来、「戦争と平和」「アンナ・カレニナ」と絶え間なく継続しているのです。この否定の裏に、彼独特の理想化された自然の姿が現れている。彼も亦ルッソオの様に「自然に還れ」と叫んでいるわけだが、ルッソオとはまるで違った、極端な叫びなのである。伝統的な教養に自信を持ったルッソオというエリットの「自然に還れ」とは一種のパラドックスであり、彼の否定したものは十八世紀のフランス文明であって、文明そのものではない。彼は「社会契約論」の著者である。トルストイの「コンフェッション」は、たしかに宗教的な意味でのコンフェッションであったが、ルッソオの「コンフェッション」は、自己主張、個性表現の為の口実であった。トルストイの思想の発条は、自己の教養の不安定に関する強烈な意識のうちにある。彼には、トルストイ伯という教養ある貴族がどうしても信じられなかった。彼は、この疑わしさから、一直線に、あらゆる教養の否定に飛躍したのである。彼の無抵抗主義とは、暴力にさからうなという様な不徹底な主義ではない。文化という小ざかしい人間のあらゆる活動の否定、人格や個性さえの否定が、この主義の核心になるのです。彼は果てまで突進したのである。この時、ロシヤ正教とともに古い巡礼の亡霊が現れて、彼を連れ去った。血を流すものだけが革命ではない。トルストイの革命思想はソヴェト・ロシヤに無害であろうか。ドストエフスキイが有害な作家であるというのも同じ様に滑稽な事なのであります。
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ソヴェトで評判が悪いドストエフスキイの作品のうちで、一番評判が悪い作品は、「悪霊」であるが、評判は、この作が発表された当時から既に悪かったのです。作者は、書き上げてからも、世人の誤解を解こうと試みましたが無駄だった。無論、「悪霊」という複雑な謎めいた大作の根本思想はどういうものかという様な事は、ここでは問題ではない。そういうものは、よい評判にしろ悪い評判にしろ、凡そ評判というものになり難《にく》い性質のもので、その事も作者自身よく自覚していました。作中に扱われた革命運動の扱い方が、反動的であり否定的であるという非難が、発表当時から今日に至るまでなされているわけである。一八六九年の末、イヴァノフというモスクヴァの農科大学生が殺され、死体は石に縛られて学校裏の池から発見された、という事件があった。これが端緒となって、同じ学校の学生であるネチャアエフが宰領する政治秘密結社のある事が明らかになった。ネチャアエフは逃亡したが、多くの学生が検挙されました。イヴァノフは、最高委員会に属するネチャアエフの指令に基づき、裏切者として、同志の手によって殺されたのである。イヴァノフの友人が、ドストエフスキイ夫人の弟の友人だったので、ドストエフスキイは、この学生運動の内情について多くの知識を得る便宜があったところから、この運動に非常に興味を持って、作中に採り上げたという事だったのです。
ドストエフスキイの事件の扱い方が、悪意に満ちている、事件を侮蔑的に戯化している、という非難が彼に集中された。技法の上で、作者の意識的な戯化が行なわれている事も考えられるが、又、故意に戯化しなくとも、事件そのものが、パロディーの姿をして、作者の眼前にあったという事も充分考えられる事なのです。ネチャアエフは、翌年の農奴解放九周年記念日に、プロパガンダによる大衆の蜂起を期待するという空想を固く信じていた。革命の綱領や結社の組織に関する規定は、大変厳格なものであったが、実情は、作者が義弟から聞き、作中に描いたものとさして変らぬものだったかも知れない。少くとも、組織の最高委員会なるものの存在はネチャアエフの空想のうちにあったと見られています。当時、バクウニンは、「インタアナショナル」のメンバーとしてスイスにいた。ロシヤから逃げて来たネチャアエフを、スイスの警察の眼からかばったのも彼だったし、ネチャアエフの結社の革命綱領の起草に協力したのも彼であった。バクウニンが、「インタアナショナル」の運動で、マルクスやエンゲルスと激突した最も大きな存在であった事は、よく知られていますが、当時ロシヤの革命的勢力の代表者として、「インタアナショナル」を引きずろうとしていた彼には、ロシヤの学生運動の利用は絶対に必要なものだったのである。この生れながらのアナアキストには秘密結社の組織ほど興味ある仕事はなかったし、組織の為の綱領や規約や暗号の工夫に熱中していれば、組織の実際問題などは、彼の頭から消えた。彼は、そんな人だったので、事実、彼の空想から、幽霊結社が、いくつも生れたのです。彼とマルクスとの衝突は、普通の意味で、理論や思想大系を異にしていたから起ったのではなかった。革命の為に精緻に工夫されたマルクスの経済学や唯物論哲学の武装を考えれば、バクウニンの方は、「破壊のパッションは、即ち創造のパッションだ」という有名なモットーを虎の子にしていた裸の野人だったと言っていい。まるで性格が違い、而《しか》も誰にも一歩も譲らぬ二人の人間がぶつかり合ったのです。ロシヤの大衆の茫漠たる魂を信じて、自分の背後には四万の学生の組織があるなどと豪語するバクウニンは、マルクスの眼には、新型のステンカ・ラージンに見えたし、バクウニンはバクウニンで、剰余価値だとかプロレタリアートの意識だとか言っているドイツのジャコバン党学者に、革命など思いもよらぬと思っていた。マルクスは、ロシヤ人が大嫌いであった。彼はバクウニンを軽蔑していたばかりではない、「インタアナショナル」という合法的な組織を破壊する敵と見なしていた。国際主義の名の下に、西欧のプロレタリアートの組織をかき廻して、自ら指導者たらんとする狂人の背後には、彼を革命的天才だと信じ切っている、幾万のニヒリストと称する恐るべき子供がひかえている。是が非でもバクウニンを葬り去らねばならぬ。確かにマルクスの考えは、理窟が通っていたし、彼は、実際、計画通り勝を制したのです。
ドストエフスキイの「悪霊」の主人公スタヴロオギンのモデルは、バクウニンだったという説があります。無論、俗説ではあるが、決して根も葉もない説ではない。ドストエフスキイが描き出した、スタヴロオギンとピョオトル・ヴェルホーヴェンスキイとの関係に大変よく似たものを、恐らくマルクスは、バクウニンとネチャアエフとの関係に見ていたのであります。やがて、「悪霊」の中に現れても少しもおかしくはない様な事件が、バクウニンとネチャアエフとの間に起った。ネチャアエフが、スイスに逃げて来た頃であるが、バクウニンは、ロシヤの或る出版屋と「資本論」の翻訳の契約をしていた。もともと性分に合わぬ仕事だから、バクウニンは、前金を使い込んで、仕事は直ぐ放棄した。バクウニンの様な天才が、下らぬ翻訳仕事で苦労するとは、まことに愚かな話であるというのが、ネチャアエフの意見で、後は万事俺が引受けたという事になった。併し、ネチャアエフは下訳を引受けたわけではない。翻訳は都合によって取りやめであるが、少しばかりの前貸しなぞでぐずぐず言ったら、ただではおかぬ、と本屋を脅迫した。この噂を聞いたマルクスは、ひそかにロシヤの一学生と連絡し、ネチャアエフの脅迫状を手に入れ、これを大事にしまって置いて、後年、バクウニンの「インタアナショナル」追放決議に於ける有力な証拠として利用したのである。
「悪霊」の革命家達の作者の描き方は、まことに辛辣なものであるが、これは何もこの作に限った事ではない。ミハイロフスキイは、この作者を「残酷な天才」と呼んだが、この天才は彼の作品の到る処に姿を現しているのであって、この天才は、自分自身に対して一番残酷だったかも知れませぬ。彼が「悪霊」の世評に答えた文のなかに、自らを「年老いたるネチャアエフィアン」と呼んでいる。彼は、ネチャアエフに、自分の顔を見ていたのです。ネチャアエフは、世人が云う様な白痴でもなければ、英雄でもない。良心もあり教養もあるロシヤの一青年である。それが理想を抱いて、いや、何故、高級な理想を抱いたが故に、あの様な低級な行為に追いやられるか、これは人間の永遠の問題にもなるであろうが、特に現代ロシヤのインテリゲンチャの運命的な悲劇である。自分は、一個のネチャアエフを問題にしているのではない、複数のネチャアエフ即ち私達の事が書きたいのだ、と作者は言うのです。ドストエフスキィが「悪霊」を書き始めたのは、彼の四年間の外国生活の終りであって、彼がロシヤについて、ロシヤ人について一番烈しく考えていた時期である。彼は、「ニヒリストは国産である」と言うのです。彼がニヒリストを肯定しなかったのは、徹底的な自己理解の結果であり、彼に悪意なぞあった筈がない。マルクスは、ニヒリストを外国産と理解し、これを敵に廻した、これは大変な相違です。スタヴロオギンは、ドストエフスキイが創り出した悪魔であるが、この悪魔は、メフィストフェレスではないのである。スタヴロオギンに限らず、他のニヒリスティックな人物、ラスコオリニコフにもイヴァンにも陰険な勘定高い、けち臭い、そういう性質は全然見当らない。率直で天真で、殆ど爽快なものさえ感じられる。バクウニンという人物にもそういう処がきっとあったに違いない。彼はマルクスには少しも似たところはなかったが、スタヴロオギンには、いろいろな点でよく似ていたでしょう。
ニヒリストという言葉は、「父と子」のバザアロフ以来有名になったものだが、やがて、ドストエフスキイは、ラスコオリニコフという人物を描いて、ニヒリストという言葉が正銘のロシヤ語である事を証明した。ラスコオリニコフの考え(ドストエフスキイの考えではない)には、ニイチェの思想がある、という様な事が言われるが、そんな事は語呂合せ風のしゃれを出ない。「私は、ヨオロッパに於ける、最初の完全なニヒリストだ」とニイチェは言っているが、これははっきりした話だ。ニイチェの言うニヒリズムとは、哲学上のニヒリズムであって、哲学上のアイディアリズムに対するスチルネルの反撃は、ショオペンハウエルを経て、自分に至って完成したという自負を語るものです。ヘエゲルという完全なアイディアリストを生んだドイツに、ニイチェの様な完全なニヒリストが現れるのも当然な事だ。哲学とか教養とかいう言葉を、ニイチェがどんなに嫌おうとも、彼のニヒリズムは、哲学的教養の過剰の上に咲いた妖しい花であり、彼の呪いは、詩となり、警句となった。ニイチェとラスコオリニコフとの違いは、大学教授と徒刑囚との隔りです。ラスコオリニコフが持っていたのは、言葉ではない、斧である。この何物も信じない不安定な精神を持った青年が、何者であろうとも、懐疑派からは一番遠い人間である。彼の精神にはニヒリズムの発想が充満していたかも知れないが、それがアイロニイやパラドックスとなって完成するという様な道は何処にも開けてはいないのです。この狂った魂は飢えている。全体か無かに賭けている。彼の斧は、やがて、リサックの爆弾となって、アレクサンドル二世の前で破裂すると考えても少しも差支えない。
ニヒリストはロシヤの国産である。ラスコオリニコフという、作者によって故意に選ばれた名前が、その伝統を示しているのです。ラスコオリニコフはラスコオルニキをもじったもので、ラスコオルとは正教の教会から分離した団体、セクトを言うのである。作者が、この名によって諷したかったのは、主人公は懐疑派ではない、分離派であるという事だったのです。彼は苦行者なのである。
ロシヤの正教の歴史くらい退屈なものはありませぬ。パウロもアウグスチヌスもルーテルもいないキリスト教史は、歴代のツァアの信仰史に過ぎないのであった。この単調な保守的な信仰は、まことに強固なものであって、イヴァン大帝以来、ボルシェヴィキ革命に屈従したアレクサンドル三世に至るまで、連綿として続いていたのです。それは、神のものはカイゼルに返された、という信仰であり、東ロオマ帝国の滅亡により、ツァアはモスクヴァこそ第三のロオマであるという信仰を植えつけられた。実際イヴァンは、カイゼルの後裔と信じていたし、神に選ばれた地上唯一の王である事を疑わなかった。この信仰は、ロシヤの国家の発展とともに発展し、ピョオトル大帝に至って、ツァアの教会支配は、絶対的なものとなるのです。だから、西欧に、宗教改革の運動が起った頃、ロシヤは、国教建設運動に忙しかったと言っても、これは国粋主義の政治運動であったから、忙しかったわけである。教会聖者名簿からギリシア人を追放し、ロシヤ人の聖者を捜索する、と言った様に下らぬ事務で忙しかっただけだ。
ラスコオルの発生にも、いかにもロシヤらしい特殊な事情がある。正教の歴史にはルーテルはいなかったが、強いてロシヤのルーテルを求めるなら、ロマノフ王朝になってから出たニコンという長老がいます。彼は、教権というものが政権の下風に立つとは、けしからぬ事だと、ツァアに宣言し、ツァアを手こずらせた、たった一人の学識ある坊さんだ。教会には、こういう進歩的な考えを受けつぎ成長させる様な条件は全くなかった。言わば、彼は、十七世紀のロシヤの教養ある「余計者」だったのであるが、この「余計者」が、教会の改革を断行した。当時の状態で可能な限りの改革、即ち、礼拝の形式に関する諸規定の改革を断行した。ところが、結果は飛んでもない事になりました。頭脳による、上部からの新改革は、忽ち一般の古い宗教感情と正面衝突を惹き起した。旧信者はことごとく破門され、ラスコオルとなった。ラスコオルは、先ず宗教上の反動的勢力として生れたのであり、その信仰は、古い異教の性質も交えた無智なものであったが、民衆の生活のなかでは、精神の糧としてはっきり生きていたものである。言うまでもなく、ツァアの圧政に苦しむ民衆にとって宗教だけが唯一つの嘆きの排《は》け口であったし、又礼拝の形式とは、彼等にとって、即ち信仰そのものであった。最後の望みが奪われて、彼等は反逆したのだが、軍隊警察の弾圧は徹底的であったし、彼等の反逆も徹底的だった。例えば或る地方のラスコオルには、次第に追いつめられて、「火による洗礼」と称する狂信が育ち、二万の農民が、妻子を連れて、村々の納屋にこもり、自ら火を放って焼死するという様な事も起った。ラスコオルは、山野か沙漠に逃げかくれたのだが、のたれ死も、餓え死も、殉教と信じられた。そういう人達が、どれほどいたか、恐らく莫大な数だったでしょう。強い反抗には軍隊が要る。これを提供したのがコサックである。コサックという国家辺境の警備隊は、負わされた義務の代償として、当時としては、全く例外な生活の自由を持っていた。有名なステンカ・ラージンの反乱が起ったのは、ニコンの改革から間もなくの事である。無論、反乱には政治的な経済的な事情があるが、彼の革命精神はラスコオルのものであり、ステンカ・ラージンの歌が、今日のロシヤ人に愛されている所以も其処にあるのです。十八世紀の末に起った、コサック、プガチョフの反乱も、その精神に於いて、ラージンの反乱と全く同じ性質のものである。
ピョオトル大帝の改革というものは、あんまり有名で、彼は、教会の組織の上でも、ルーテルの考えを取入れて改革を行なったという様な事は言われるが、これはアレクサンドル二世による「農奴解放」より遥かに有名無実なものであった。聖シノッドの組織は、前にも言った様に、ツァアの絶対権力の現れであり、正教は宗教として完全に死んだのであって、後は、内部からは、怪僧ラスプーチンが現れるだけだ。外部に向っては、ラスコオルの運動をいよいよ挑発しただけだ。ロシヤ人の宗教思想や宗教感情が、実際に生きて来たのは、ラスコオルに於いてである。そういうことを言うと、極端な言葉の様にとられそうだが、決してそうではない。ラスコオルの運動は一種の地下運動である。革命でも起さなければ、正史にのりはしない。それが三百年の間、間断なく続いているのです。
勿論、一と口にラスコオルというが、そのセクトの数や種類は夥しいもので、その点では、ロシヤは世界一でしょう。併し、ラスコオルの根本の信条、これは非常に早く形成された様だが、それは一つなのです。ツァアの統治するロシヤの国家、即ち第三ロオマ帝国は、偽りの国家である、サタンの国家である、という事です。ニコン長老もピョオトル大帝も反キリストなのである。ツァアがいる限り、来るべき神の国については、全然妥協の余地はない。ツァア以前にあった真のロシヤは、ツァア以後に現れるであろう。現在のロシヤは信ずるに足りぬ、という信仰である。ニコンの改革は、一六六六年の事であるが、それ以来666という数は、ラスコオル間で、サタンの象徴になったのです。
無論、ラスコオルは、教会から破門された連中であるから、彼等の間には、僧侶がいない。そこで、自分達の僧侶を作り、自分達の僧院を建てる運動が頑強につづけられる。これは一九〇五年の革命で、教会として独立を得るまでつづくのである。ドストエフスキイが、「カラマアゾフの兄弟」の中で、その宗教観上の重要な観念を託しているゾシマ長老は、アンブロシウスがモデルだ、と言われているが、彼は、ラスコオルが、非常に困難の末、十九世紀の半ばに至って、やっと戦いとった長老です。この人はロシヤ人ではない。ボスニヤの主教だったギリシア人である。ラスコオルは、近東の正教教会は、正教の最も古い伝統の護持者であると信じ込んでいたから、彼等の僧侶獲得運動は、セルビアかギリシアの僧侶に向って集中されていた。アンブロシウスの僧院も、ツァアの眼をはばかって、国境近くのオオストリヤに建てられたという有様だった。もともと実力のない、聖職者を持つ一般信徒の運動であるから、年がたつにつれて、清教徒風な精神の伝統を持ちながら、新思想にも鋭敏に応ずるという様な人々も現れてくるわけだ。彼等は何も僧院ばかり建てていたわけではない。例えばモスクヴァ芸術座などは、彼等の手によって出来たものです。トルストイの宗教となると、ラスコオルと彼との関係には、もっとはっきりしたものが見られる。コーカサスのドホボールというラスコオルが、十九世紀の末、兵役義務を拒否する運動を起した。政府は、その首謀者を投獄し、ラスコオルの人々の居住権を奪った。トルストイは、この運動に共鳴し、彼等をカナダに移住させる運動を起した。「復活」は、この運動の資金を得る為に書かれたのである。この為にトルストイは、教会から破門されています。
僧を得たり、僧院を建てたりして、ツァアの教会に対して、忍耐強く組織化の運動を行なったラスコオルは、ラスコオルのうちでも最も穏健な一派に属するもので、其の他はどうせサタンの手先きであるから、坊主なぞは要らないという連中であり、これは、その性質上、非常に多数なセクトとなって、拡った。前に触れた「火の洗礼」一派の様な狂信と反逆との傾向が強い、言わばラスコオルのうちの左翼である。例えば、カソリックの巡礼は、定められた聖地を目指して歩けばいいが、左派のラスコオルの巡礼には聖地というものがない。サタンの国にそんなものがある筈もなし、第一そんな国に居を定めて、のん気に暮しを立てるという事が、許し難い罪悪である。だから、ただ、ぶらぶら歩いているより他はない。理窟上、「ぶらぶら派」という一派が出来る。ニコライ一世は、烈しい弾圧を加えたが、ぶらりぶらりと逃げるので、手がつけられない。この大秘密結社は大きくなるばかりであった。それというのも、この結社で、ぶらぶら歩くのは正会員であり、新入りは歩けない。新入りは、結社を経済的に援助する又別の秘密結社を作っているという念入りなものだったからである。極端な例だけをあげるのではない。極端な例ならまだいくらでもあるので、ロシヤの宗教思想史そのものが極端な形式でしか存在しないのです。教会は、宗教改革の経験をしなかったばかりではない。ギリシアの哲学もロオマの法律も中世の神学も、知らなかった。極端な保守主義にツァアの権勢が集中されていただけだ。これに対してラスコオルも極端な忍従と爆発とでしか答えなかった。
十九世紀の革命的インテリゲンチャの先駆者は、デカブリストだと言えるのだが、この教養ある将校達は、フリー・メーソンだったのです。成る程フリー・メーソンは世界最大の秘密結社かも知れないが、政府顛覆の反乱を企てたのは、モスクヴァのフリー・メーソンだけでしょう。フリー・メーソンもロシヤに支部が出来れば、革命派になるのである。デカブリストの失敗は、インテリゲンチャの心に非常に大きな衝撃を与えた。その頃、西欧のロマンティシズムの文学の到来によって、ロシヤの近代文学は開かれるのであるが、花々しいロマンティシズムの文学も、彼等の暗澹たる心をどうする事も出来なかった。却って、これが為に、彼等の傷はうずいたのである。彼等はロシヤに生れた不幸を、新しい眼で見たのである。影響というものは、みなそういうものです。三〇年代、四〇年代を過ぎて、反動期が来て、リアリズムの思想が現れるのだが、これは、彼等の憤懣と絶望との産物であって、決して科学の発達や普及によって生れたのではないのです。リアリストが、ニヒリストが現れる。ラスコオリニコフというラスコオルニキが現れる。彼には、棲みつく家はない。ロシヤの様な国に居を構えるのは罪悪である。
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「ロシヤのソシアリズムは、神と無神論との問題である」とドストエフスキイは言います。こういう言葉にしても、そういう発言の歴史的背景を考えなければ、まるで意味はわからないだろうし、ドストエフスキイの独断とも見えるでしょう。ところが、この歴史的背景というものが、なかなかむつかしいものである。ドストエフスキイには、歴史というものがてんで見えていない、彼は反動派である、という風に言われる。すると、ドストエフスキイは、答えるだろう。成る程、私は諸君の様には歴史なぞ見えていない。併し進歩派だとか反動派だとかいう言葉をロシヤ人ほど愛用し濫用する国民はないという事は見えている、と。歴史に関して、最も饒舌なのは、実は歴史に押流されている人々かも知れないのである。ドストエフスキイの創造した世界は、はっきり反歴史的な、永遠なものを指しているが、そういう世界の創造は並みはずれて鋭敏な歴史感覚から発したのであった。彼は眠って夢みたのではない。彼の理想は、現実の裏まで見抜ける人だけが抱ける理想であった。この事は、彼の作品の成功にもかかわらず、彼が、生涯、世人に理解させる事は出来なかった事です。
周知の様に、彼の処女作「貧しき人々」を認めたのは、ベリンスキイであったが、この優れた評家も、次作「二重人格」となると、もう作者のリアリズムに疑惑を抱いた。ラスコオリニコフという人物が現れるに及んで、評家達の疑惑はいよいよ大きくなり、この病的に歪められた人間像は、作者の病的な神経の産物であるとされました。彼の異常な心理描写が、正確な観察の結果である事が、承認される様になったのは、心理学の発達により、彼にフロイトの先駆者を見る様になってからである。だが、ドストエフスキイは、ラスコオリニコフという、実験心理学上の症例を示そうとしたのではない。ロシヤのインテリゲンチャの悲劇が語りたかったのである。作者の洞察は、主人公の無意識の世界に達していた。当時のインテリゲンチャの歴史意識の下にとどいていたのです。ドストエフスキイは、その手紙から推察出来るのだが、「白痴」の執筆中から、「無神論」と題するロシヤの近代精神史ともいうべきテーマを考えつづけていて、この企図を半ば義理で書いていた「悪霊」の進行中にも抱き続けていた。この事について、ドストエフスキイは、「私は、現実とか現実主義とかいうものを、我が国のリアリストや批評家達とは、全く違って考えている」と言っています。彼の考えによれば、リアリズムという外来語を信じて、ロシヤの知識人はリアリストになっているが、それは、本質的な意味で、先ず言語学の問題なのである。リアリストとかリアリズムとかいう外来の言葉が現実のロシヤの人々の間で使われて、どんな意味が生じているかを何故知ろうとしないのか。精神の歴史、彼の言葉で言えば、「近代ロシヤ人の知的発展」を観察の対象とする事が、何故アイディアリズムか。「君達のリアリズムは浅瀬をわたっている」、そう言うのです。もし、ドストエフスキイの心理描写を見て、フロイディズムを言うのなら、彼の歴史感覚のうちにも、それを見なければならない。
ロシヤに於けるソシアリズムは、ベリンスキイから始まると言われるが、そう言っただけでは、殆ど意味をなしませぬ。ベリンスキイは、文芸評論家からソシアリストに転じたのではない。ロシヤに於けるソシアリズムがテロリズムとしてではあるが、ともかく政治活動と結びついたのは、七〇年代も終りに近づいた時であって、それまではソシアリズムという一種の文学があっただけなのです。これは、ユウトピアンのソシアリズムでも、次代のナロオドニキのソシアリズムでも同じ事であった。フウリエにしてもオオエンにしても、ユウトピアンとは言われているが、彼等のユウトピアは、実業家としての、経験や観察による経済制度の批判に基づいていた。ペトラシェフスキイ会のフウリエリスト達のファランステエルは、彼等の夢想のうちにしか、土台石がなかった。ドストエフスキイが、ペトラシェフスキイ会の一員として、告発された理由は、彼が会合でゴオゴリ宛のベリンスキイの書簡を読んで聞かせたという詰らぬ事だった。長いから引用しないが、一九〇五年に至って初めて公表を許されたこの書簡の内容には、危険思想めいたものなど少しもありはしない。殆ど信じ難いほどのものである。ベリンスキイが、シベリヤに行かずにすんだのも、外国生活と肺患による早世との御蔭です。ベリンスキイが、ロマンティックな文学的夢想を抱いていたのは、青年期の短い期間に過ぎず、ソシアリズムの到来によって、彼はリアリストになったのだが、このリアリストは、ソシアリズムによって、彼自身の言葉で言えば、「ロシヤは社会ではない」という事を発見したのであった。ソシアリズムは、文学による啓蒙運動とならざるを得なかったのであるが、事実、それが後続の急進的なインテリゲンチャの為に、ベリンスキイによって開かれた唯一の血路であったのです。血路というのは、誇張ではない。文学という仮面をかぶるのに苦心した彼等の言葉には、銃殺と流刑とが賭けられていたのである。従って、啓蒙家とか啓蒙運動とか言っても、西欧のものには、少しも似た所はない。第一、一体、誰の為に啓蒙するのか。「社会ではないロシヤ」では、「解放された民衆は、議会などには決して行きたがるまい。大急ぎで、酒屋に飛び込んで飲みだすだろう。窓を叩き毀し、旦那どもの首を吊し上げるだろう」。ところで、インテリゲンチャだけのソシアリズムなどという奇妙なものが考えられるか。彼は、啓蒙主義を捨てて、民衆の幸福の為には、暴力も、血も剣も必要だ、という考えに追い込まれる。ベリンスキイの思想は、考えあぐんでいるうちに、遂にそういうところに到達した様に見えます。そう見える限り、彼に、ボルシェヴィキ革命の先駆者を見れば見る事も出来よう。併し、そういう歴史の見方は、「浅瀬をわたるリアリズム」に過ぎないのである。彼に、ソシアリズムの型という様なものを発見するのは間違っていると思います。彼は、そんなものを受取って、理解した人ではない。ソシアリズムという火が彼を焼いたのである。焼死するまで、焼かれる苦痛を意識していた人だ、そう言った方が真に近い様です。シルレルもヘエゲルもフォイエルバッハも、言わば彼の望んだ発火栓に過ぎず、彼の思想の発展の段階を指すものではない。それは寧ろ思想上の危機の連続であって、彼の様に全身を以って、憑《つ》かれた様に思索したモラリストには、そういう危機なくしては、そもそも考えるという事が不可能であったと言った方がいい。ベリンスキイのヘエゲルに対する態度を見ればよくわかる。バクウニンは、どんな風にヘエゲルをベリンスキイに講義したかは解らない。が、ヘエゲルのディアレクティックほど、ベリンスキイの様な人に遠い考えはない。恐らく、理解したくなかったものはない。そうでも考えなければ、彼のヘエゲルに対する突然の熱狂と突然の幻滅とを説明する事は出来ない。それは、まるで、ヘエゲルから「合理的なものこそ現実的だ」と言われて開眼し、「現実的なものは合理的だ」と言われて首を振った様なものだ。だからと言って、どうして彼を非難出来ましょうか。彼の耳に這入るものと言っては、尤もらしいサロンの美辞麗句ばかりだったし、眼に這入るものは、ただ愚劣極まる不合理なロシヤの現実ばかりだったのであります。
孤独なるソシアリスト、そんなものはないと言ってはならない。ロシヤにはあったのです。あったばかりではない。ロシヤのソシアリズムの流れの源泉にあったのであり、以来ロシヤのソシアリストは、この流れを汲まずには生きる事は出来なかったのである。理論的にも実践的にも社会化をはばまれた思想が、内にこもって内攻する。その狂おしい苦痛を、ベリンスキイは、次の様に言います。「何か得体の知れぬ非合理性が、私の頭を見舞う。すると私は恐るべき人間になる」と。そういう辛い人だ。彼の書いたものの内容には、独創的なものは何もないのであるが、彼の文体は、独創的です。独創を強いられています。彼の様に苦しい叫びの様な文体で書いたソシアリストは、恐らく世界中、何処にもないでしょう。まるで自分は理想によって生きているのではない、寧ろ絶望によって生きている、と彼の文体は叫んでいる様だ。彼は、ニヒリズムの開祖だったのである。
ベリンスキイの死後、急進的インテリゲンチャに、最も大きな影響を与えたのは、チェルヌィシェフスキイである。彼の「何を為すべきか」は、ニヒリスト達の聖書となった。聖書となったというのは、比喩でも誇張でもない。ニヒリストという無神論者達には、彼等の神が必要だったのである。ソシアリズムは信仰告白であり、革命は必然の成行きではなく、意志の産物でなければならなかった。チェルヌィシェフスキイは、ベリンスキイに比べれば、比較にならぬ程博識な学者であり、彼の方で、マルクスの著書を読んでいたかどうかは明らかではないが、マルクスが、チェルヌィシェフスキイによるミルの「政治経済学原理」の翻訳と批判とを非常に高く評価していた事は、よく知られています。だが「何を為すべきか」は小説です。チェルヌィシェフスキイには、文学的才腕が欠けていたから、不手際な作品ではあるが、研究には関係のない彼の真実な思想や人間性は、そちらの方に、はっきり現れざるを得なかったのであって、この方は、恐らくマルクスを戸惑わせたでしょう。これは一種のユウトピア小説であるが、誰もユウトピア小説として受取りはしなかった。理想と現実との懸絶に苦しむ当時のインテリゲンチャに、ユウトピアの型なぞが面白かったわけがない。この小説は、理想を抱いて、現実に「何を為すべきか」に答えた、人間生活の解放の為に戦う闘士の道徳について答えたのです。闘士ラメトフの鉄の様な意志に、苦行僧の様な禁欲に、ニヒリスト達は共鳴した。これも単なる形容の言葉ではない。ラメトフは、苦痛に堪える意志を鍛錬する為に、釘の上に寝るのです。物語は、ヴェラ・パーヴロヴナという新生活運動を夢みる新しい女性の恋愛を中心に展開するのであり、この自由の恋愛が、当時の保守派の人々の非難の的になったのであるが、作中で謳歌《おうか》されている恋愛の自由とか、女性の解放とかいう観念は近代恋愛小説から、普通に得られる通念とは凡そ違ったものなのである。パーヴロヴナは、両親に反対して医学生ロプホフと恋愛結婚をする。やがて、ロプホフの友人キルサアノフと恋愛関係に陥るが、三角関係は、悲劇にはならない。誰も不幸にはならない。却って三人の善意と正義感と自制力とが発揮されるという事になる。逆にロプホフは、自殺とみせかけて、新しい恋人達の幸福の為に、米国に逃げる。彼は、数年後、帰国して、他の女性と家庭を持ち、二組の夫婦は仲よく新しい共同生活に踏み出す。作者は、通俗小説を書こうとしたのではない、信仰を告白したのである。男女の関係を正当化するものは、愛の絶対性だけであって、そこに妥協的な解釈の這入る余地はない。こういう主張を非難する尤もらしい理窟は、ことごとく古くさい道徳の所産であり、又、この真理の実現をはばむものは、不合理な旧制度である。例えば嫉妬の情なども、私有財産という悪制度の育成した悪感情に過ぎない。そういうわけです。これが、マテリアリストとかユティリテリアンとか言われた人の宗教なのでした。唯物論も功利主義も、彼の信仰告白の為の口実だったに過ぎない。と言っても、彼が空想家だったわけでもないし、自分をごまかしていたわけでもない。彼は、サラトフの僧侶の家に生れ、神学校で教育された人であった。彼が早くから体得した宗教的心情は、ソシアリズムの思想によって、新しい表現を見出し、反宗教的な形式で強化されたに違いないのだし、恋愛の自由に関する彼の信念も、恐らく、彼と夫人との間の教会も法律も無視した献身的な愛の経験に基づくものであった。政府は、この非常な影響力を持った思想家を、葬り去ろうとして、ある反政府運動の主謀者たる偽証を作り上げた。彼は、その壮年期の殆ど二十年間をシベリヤに過したので、「何を為すべきか」も流刑中の作である。彼の生涯は、全く聖者の生涯であった。
チェルヌィシェフスキイの後には、ドブロリュウボフが現れる。彼は、文字通り、チェルヌィシェフスキイの衣鉢《いはつ》をついだ人です。彼も亦牧師を父とした神学校出の革命家であって、そのソシアリズムが、当時のインテリゲンチャの合言葉であった「思索するリアリスト」の合理的な社会変革についてのどんな抱負を語っていようとも、烈しい宗教性が、これを貫いているのです。彼は、少年時代から、狂的な禁欲主義者であった。彼の日記は、その日その日の懺悔録であり、この少年は、例えば、今日はジャムをなめ過ぎたという様な事で、罪の意識に苦しんでいた。宗教に対する突然の疑惑は、彼の熱愛していた母親の死に始まった、と言われています。ピイサレフは、僧侶の子ではなかったが、彼が、ドブロリュウボフにつづいてニヒリスト達の指導者となったのも、極端から極端に飛躍する生活の転向によったのです。ピイサレフは、富裕な貴族の家に生れ、その教養も趣味も、全くフランス風に仕込まれ、学生時代は、優美な繊細な、風采までが女の様な優等生であった。ソシアリズムは、学説として彼に受取られたのではない。自己否定の苦行の道が、これによって開かれたのです。彼は、自虐の喜びに慄え、「思索するリアリスト」として、社会救済の為に、プウシキンを頭目とする審美的芸術という無用の長物を、徹底的に攻撃した。前にも述べた様に、そんな文芸は、広い目で見ればロシヤには一つも存在しなかったのであるが、ニヒリストのプロパガンダの秘密出版に多忙な青年に、たとえ広い目があったとしても、これも無用な長物と思われたでしょう。彼の重要な評論の殆どすべては、ドストエフスキイも這入った事のあるペトロパヴロフスク要塞の獄中で書かれた。彼もドブロリュウボフも二十代で死んでいる。長生きしたら、二人とも、いずれシベリヤ行だったでしょう。
ドブロリュウボフの夭折を悲しんだネクラアソフは、彼の墓碑銘を書いています。「貧しき少年時代、半ば飢えたる教義、張りつめた四年間の労作、そして死」。ニヒリズムは、ネクラアソフの言う様に「飢えたる教義」であったが、この民衆詩人の詩学も飢えたる詩学だったのです。彼の詩の観念は、二つに裂けていた。どうしてこんな悲惨な民衆を歌って、美しい永遠の歌が可能か。そんな企ては正義が許さない。彼のミューズは、彼の言う「復讐と悲哀のミューズ」だった。「思索するリアリスト」達は、ミューズを殺して教義を得たが、教義は孤立によって飢え、復讐と悲哀の教義となったというわけだ。彼等も亦、心底に於いては、ネクラアソフの様な追いつめられた民衆詩人だったのです。外来のドグマを抱き、やり場のない復讐と悲哀とを、彼等の意識には全く無関心だった民衆《ナロオド》の胸に託そうとしたのである。これが、所謂ナロオドニキ革命運動の心理的な根拠です。良心ある学生達は、男も女も、学業を廃し家庭を捨てて、農村に赴き、宣伝し、説教し、或は、医者となり、技師となり、看護婦となり、産婆となって、農民の生活のうちで活動した。これは、農村巡礼、農村伝道とでも言うべきものだったのであり、農民は、この新興の宗教を、どう扱っていいかわからなかった。かつて、ペトラシェフスキイは、自分の田舎の領地内に、ファランステエルの模型を建てて、農民の焼打ちにあったが、ナロオドニキの運動でも、政府の弾圧が烈しくなるにつれて、農民達は、彼等の献身的な救助者達を政府に密告するという有様となったのです。青年達の行く道は、ツァアの暗殺の名の下に結束する他にはなくなった。「人民の意志」党の、アレクサンドル二世暗殺の執行委員会の地下運動は、執拗につづけられ、遂に七回目の加害が成功するのである。ドストエフスキイが死んで間もない事である。事件後、政府の警戒は、急に厳しくなり、反動期が来る。憂鬱な所謂チェホフ時代が始まるのであるが、革命精神の伝統は、決して跡絶《とだ》えたわけではない。大学は、毎年、次の皇帝アレクサンドル三世を狙う革命家の群れを卒業させていました。チェホフとレエニンとは十ほどしか齢は違いはしないのです。レエニンの兄は、アレクサンドル三世暗殺の陰謀で、十九歳で処刑されている。チェホフにしても、ただ優しい憂鬱な人間ではない。謎の様なサガレン行が彼の作品を開く鍵だ、と私は思っています。恐らく、ロシヤの大作家で、彼ほど強い自制力を持っていた人はない、彼とモオパッサンとを比べるなどとは、とんでもない事だ。モオパッサンは、絶望した懐疑派であったが、チェホフは、胸の火を遂に隠しおおせた聖者だったのです。
マルクスは、自分の考えていた革命が、ロシヤで起るなどとは、夢にも思っていなかった。晩年、彼は、アメリカに革命の起る事を期待していたと言われている。ロシヤの様な農業国家に、何故プロレタリアートの独裁国家が実現したか、という事は、史家の間で有名なパラドックスになっている様です。図式的に歴史を眺めれば、そんなパラドックスも現れるでしょうが、人間や歴史の側から見れば、どんな理論も一片の言葉に過ぎない。レエニンは、恐らく、パラドックスなど少しも感じてはいなかったでしょう。レエニンの革命の成功は、彼が、誰にも増して、マルクシズムという言葉を、ロシヤ風に読んだ事にあったのです。そういう言い方をすると誤解されそうだが、マルクスのテキストを鵜呑みにしたのは、ロシヤだけであった。ロシヤでも、ボルシェヴィキ党だけであった、という事に注意すればよい。恐らく、レエニンは、ロシヤのインテリゲンチャの伝統に従って、西欧の原本への信頼とその直訳から事を始めたのであるが、これを頑強に押通すのが、ロシヤに於いては最も有効である事を、革命家の本能から直覚したのである。火花を燃え上らせたのは、マルクシズムであったが、この火花は「イスクラ」というデカブリストの火花だったのです。ロシヤの革命的政治思想家達は、彼等の意に反して、すべて文学者であった、文学を呪う文学評論家であった。彼等の思想は、政治運動の現実の中で訓練された事はない。社会的実践上の必要から、改良された事も改悪された事もない。革命精神の火が、ロシヤほど、汚れを知らず、純粋に燃えつづけて来た国はどこにもないのです。レエニンは、そういうロシヤの純血種的革命家として、マルクシズムを、その生れたままの純粋な形、修正を受けぬ、烈しい形で、掴みとったのです。彼とナロオドニキ革命家達との反目は、表面の反目に過ぎない。ナロオドニキが、農民へ向ったのはツァアをとるか、農民をとるか、と追いつめられた結果であって、妥協でも空想でもなかったのである。だが、メンシェヴィキとの反目はレエニンにとっては、決定的な事であり、彼には、革命方法の民主主義的な漸進主義は、ロシヤの歴史に照して有害無益と見えたのであって、これが、彼の戦闘的プロパガンダとしては、マルクス主義の改悪、ブルジョアジイへの屈服という攻撃的表現で現れたのである。ボルシェヴィキという言葉は、|多 数《ボルシンストヴオ》から来た言葉であるが、これは、大衆に対する革命的スロオガンの意味しかなく、ボルシェヴィキが多数決による多数政党であった事は一度もない。それは大衆党でも多数党でもなく、国民指導党として生れ育ち、無論、今日もその性質を変えてはいないのです。ロシヤの新興プロレタリアートは、放って置けば、為す処を知らない事をレエニンはよく知っていた。彼は自ら言っている様に、職業的革命家たらんとし、そうなった人だ。ボルシェヴィキは、職業的革命家の結社として発足したのです。レエニンの有名な言葉がある。「活動の必要から、各人が、十人の仲間の九人に対して、自分の正体を隠していなければならない時に、革命家達が集って、仲間の一人を選挙によって要職に選ぶなどという事が出来るか」、これは、バクウニン、ネチャアエフの伝統であります。
レエニンの「何を為すべきか」は、ベリンスキイ以来の、ロシヤの革命的インテリゲンチャの「何を為すべきか」の問題に終止符を打った。これは、ツァア政府の顛覆という彼等の夢を実現したという点で、決定的な終止符であったが、それは、革命は神であり、人間は、その手段に過ぎないという確信を強行する事によって成就されたのである。ネチャアエフの失敗は、レエニンの成功に比べれば言うに足りないが、この確信は同じだったのです。それはネチャアエフの「革命綱領」がはっきり語っている。彼は、革命家には、名前さえ無用だ、と言っています。レエニンは、インテリゲンチャを侮蔑し、否定したが、これは、この職業的革命家の戦術であった。又、彼には戦術とは即ち彼の目覚めた全意識に他ならなかったかも知れないが、それにも係らず、彼はロシヤの革命的インテリゲンチャの最も鋭いタイプとして終始した事に変りはない。ドストエフスキイは、ネチャアエフの子供らしい失敗を笑いはしなかったし、レエニンの堂々たる成功にも驚きはしなかったであろう。彼の関心の集中されたのは、革命の成功でも失敗でもなかった。その理論や戦術の巧拙でもなかった。革命が語る人間的な意味であった。革命家には、無用の長物である哲学的智慧であった。ネチャアエフが国産であると言った時、彼ほどロシヤのインテリゲンチャの運命的な精神構造をよく見抜いた人はいなかったのです。この極端から極端に走る構造は、中産階級という中間地帯のないロシヤの歴史の構造に密着していた。そこから、思想や行動上のあらゆるパラドックスが露《あら》わになる。聖者の様な自己放棄が、そのまま悪魔の様な自己主張となる。中間地帯はない。合理主義も、ヒュウマニズムも、見掛け倒しの取りつくろいに過ぎない。妥協策に過ぎない。ドストエフスキイはこのロシヤのパラドックスを抱いて、やはり、いかにもロシヤ人らしく突進した。単に、それがロシヤのパラドックスに止まらず、凡そ人間の存在の根元にあるパラドックスと化する地点まで。彼も亦、内的な強行突破を行なった人です。彼の芸術の創造は、この全く湿り気のない人間の危機意識の上に成り立っているのです。宗教も哲学もこれを鎮め得ない、救い得ない。寧ろ逆に、この危機意識から眼をそむけない事が、宗教や哲学を再生させるものだ、という考えを彼は一と筋に極めようとしたのです。ドストエフスキイをロシヤ革命の予言者というのは誇張である。ロシヤのソシアリスト達は、皆、革命の予感の下にあったのです。伝統的に法的秩序の感覚を欠いていた彼等は、全く革命の予感の下に生きていたと言ってもいいのです。彼等の「飢えたる教義」は、空しく対象を求めては、常に自己に還って来ていたのである。彼等は、性急な啓蒙運動の情熱のうちに、個人の善意は、真っすぐに社会の幸福に通ずるという軽信を忘れていたが、既にベリンスキイに現れていた、個人の運命と社会の調和との矛盾に関する不安の流れは跡絶えはしなかった。マテリアリズムの風潮が、高まるにつれて、個性や人格の擁護も熱を帯びて来るという有様であった。そして、最後に、そういう十字路に立ったミハイロフスキイが現れる。彼は、一九〇五年の革命の前年に死んでいるが、次の様な言葉を遺しています。「私の家には、私には貴重なベリンスキイの胸像を乗せたテエブルと私が毎夜読み耽った本の詰った食器棚がある。ロシヤ人の全生活が、その特殊な生活の流儀をあげて、私の部屋に殺到し、ベリンスキイの胸像を破壊し、本を焼く様になろうとも、又、それが農民達の手でなされようとも、私は、おとなしく見てはいまい。手を縛されては仕方がないが、手が自由な限りは、抵抗するだろう」と。文学批評の名を借りた十九世紀のソシアリズムの流れは、ここで断絶し、プレハアノフの出現とともに一変するのである。
レエニンのクー・デタは、精神の世界にまで有効だった様な外観を呈しています。何故なら、それは、新しい精神原理の名の下になされたからです。ツァアの文学弾圧には、方針が全くなかったが、ソヴェト共産党は厳格な方針の下に、文学指導の組織を作ったからです。恐らく文学は、軍隊の様に秩序整然と行進し始めたのでしょう。だが、ソヴェト文学に関する私の知識も興味も薄弱であるから、はっきりした事を言う事は出来ない。ただ、私は、時々、空想してみるだけだ。もしドストエフスキイの「地下室の男」の様な、うろんな変り者が出て来て、諸君、こんな秩序はいかにも退屈ではないか、一つぶちこわして了ったらどうだろうと言い出す事を空想する。そして、これが一片の空想に過ぎないなら、ドストエフスキイの全作品も、一片の空想に過ぎないだろうと思っている。ソヴェトには自由は全くないと言う人もあるし、程々の自由があるのだそうで、その点では日本には自由があり過ぎるという説もある。併し、人間の自由の問題は、料理の塩加減とは違うでしょう。ドストエフスキイは、自由の問題は、人間の精神にだけ属する問題であり、これに近附く道は内的な道しかない事を、はっきりと考えていた。自由は、人間の最大の憲章であるが、又、最大の重荷でもあり、これに関する意識の苦痛とは、精神という剣の両刃の様なものだ、と考えていた。もし、そういう考えが過ぎ去った人の過ぎ去った観念論に過ぎないなら、ソヴェトで、ドストエフスキイが解禁になっても、昔は、そんな寝言を言っていた作家もあった、でけりがつくでしょう。だが、そんな事はない。この問題は、外部から政治的に解決出来る様な性質のものではない。
精神というものは、まことに柔軟で不安定なものであるから、環境の変化を非常に鋭敏に反映する。そういう受身な精神の反映と、精神の自発的な表現とは、全く性質が違うものなのであるが、両者はいつも混同され勝ちです。わが国でも、戦後社会の模様が急変して、戦後の物の考え方だとか、戦後の人間のタイプだとか、文学だとかいう言葉が濫用されるが、そういうものは、確かに戦前には見られなかった姿ではあろうが、その大部分は、周囲の色に芸もなく染まった精神の色合に過ぎず、精神の自発的な努力による新しい表現は恐らく極めて少いのである。そういう事に注意する人も亦極めて少い。ソヴェトの文学も、同じ理窟で、社会反映の文学であって、精神表現の文学ではありますまい。精神は物質の反映に過ぎぬという世界観が勝利を得たわけで、文句はないわけであるが、イデオロギイという疑似精神が、精神の力を模し得るのも、イデオロギイが飢えている時だけだ。そして「飢えたる教義」はロシヤ・インテリゲンチャの伝統である。
革命前の文学と革命後の文学とを、体得し得た大作家と言えばゴオリキイ一人でしょう。又、それ故に、マキシム・ゴオリキイというペンネームが言う様に、「最大の苦痛」を味わった唯一人の作家かも知れない。伝えられる彼の最後の不幸について、正確な知識のない私には何も言えないが、「母」の時期が過ぎて、回想風な自伝的作品に閉じこもって了った彼の晩年が幸福だったとは思われない。小学校に上がる代りに、屑拾いになったのを手はじめに、彼ほどあらゆる種類の労働の経験を持った作家は恐らくあるまい。この労働者に関して博大な知識を持った人間が、作家の組織や、作品の方法論にきおい立っている新興のプロレタリア文学に取巻かれて、大先輩となっている事は、辛い事だったであろう。ゴオリキイが死んでから、もう二十年にもなります。革命があってから、四十年にもなろうとしている。ボルシェヴィキは、ブルジョアジイもインテリゲンチャも否定して来たが、国家産業の近代化につれて、ソヴェトには、労働者と農民との二階級しかないなどとは言っていられなくなって来た。国力の充実とともに、新しい型のブルジョアジイが生れて来るのも、又、その一部として、新しい型のインテリゲンチャが生れて来るのも当然な事です。この中産階級の実力は、急速に増大するでしょう。現在のソヴェトの文学者達は、前世紀の自国の不幸な文学者達に比べれば、殆ど特権階級だと言っていい様な集団を形成しているでしょう。
併し、革命による社会制度の一変も、人間を一変する事は出来ない。昔の賢人は言った。君の美徳は、他人の美徳によりも、君自身の悪徳の方に、よほどよく似ているものだ、と。レエニンもスターリンも、マルクスにもエンゲルスにも似てはいまい。十九世紀のロシヤの大作家達が、あれほど深く観察し表現した、豊富なロシヤ人のタイプの、どれかに、余程よく似ているでしょう。人間の個性にせよ、民族性にせよ、そういうものだと思います。そういう認識は、文学に於ける伝統の問題に、作家達を誘わずにはいない。社会的イデオロギイに満腹すれば、作家達は、個性とか人間とかの問題に、自ら逢着するものだ。文学の歴史は、ただ事の成行きではない。新しいものが現れるとともに古くなって行く習慣の歴史ではない。過ぎ去ったものは古典となって、新しく生き返る人間の自発的な力一杯の表現の歴史です。文学に於ける伝統の問題を、イデオロギイによってどんなに否定しようと侮蔑しようと無駄である。それは正常な文学活動自体のディアレクティックだからです。作家の誠実な自発的な表現のあるところには、必ず顔を出す問題だからです。強権は、こういう問題には、いつも鈍感なものであるが、「飢えたる教義」の時期を脱したソヴェトの文学は、そういう問題を自ら孕《はら》んでいると考えてはいけないのであろうか。新しい声は、作家のうちから、やがて、あげられるであろう。私はそういう作家の声を聞きたいので、近頃評判のフルシチョフの声明には大した興味を持たない。私は、このスターリン伝説の修正に、ロシヤ伝来のメシアニズムの傲岸《ごうがん》な顔を見ただけです。
[#地付き](昭和三十一年八月―十月、「文學界」)
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喋ることと書くこと
昔は文章体と口語体とがはっきり分れていたが、今の文学者は、皆口語体で書いているから、喋る事と書く事との区別が一般に非常に曖昧になって来ています。私は講演をずい分活字にしておりますが、本で私の講演を読まれた方は、私が余程上手な講演をしている様にお感じになるかも知れない。だけど、それはみな嘘なので、あれは後ですっかり直すんです。つまり、さも巧い講演をした様な感じをどうして読者に与えようかといろいろ文章に工夫を凝らしているわけで、工夫をしていると、ところどころに括弧をして、笑声とか拍手とか書きたくなる程である。だが、これはやらない、入れたら文章にはならない。笑声や拍手の括弧の這入った講演速記録を読むくらい退屈なものはない。人の声を耳で聞くことと、文字を目で追う事とは大変な違いがあるものです。
私は、文士の講演もずい分聞きましたが、私の聞いたなかでは、菊池寛さんの講演が一番うまいと思いました。あの人は決して所謂雄弁家ではなかった、一体リアリストに雄弁家なんというものは先ずありませぬ。菊池さんは、又、所謂話し上手な人でもなかった。あの人の講演がいつも成功していたのは、話の内容に空疎なものがなかった事にもよるが、一番の原因は、いつも眼前の聴衆の心理を捉えていた、話すにつれて、聴衆はいろいろに反応するが、その反応をいつも見てとっていたところにあった。「僕は、演壇を机の前まで歩いて行くうちに、今日の講演は受けるか受けないかわかって了う」と菊池さんは私に言った事があります。あの人が演壇を歩いて行く姿を見て聴衆は笑うのです。無論滑稽だから笑うのではない。何となく様子がユーモラスだから笑うのです。だが菊池さんの様子がユーモラスだと感ずる為には、菊池さんの作品を読んで、既にこの作家に親しみを感じていなければならぬ。つまり、この場合、聴衆は、われ知らず自分達の教養の程度を笑い声によって表現して了う。従って、講演者は、講演の成功不成功のバロメーターを机まで歩いて行くうちに与えられるというわけです。聴衆がクスリともしなければ、机に行きつくまでに話題を代える事にしていた、と菊池さんは言いました。僕の講演が受けなくって、がっかりしていると、聞いていた菊池さんは笑ってこんな事を言った事がある。「君みたいに話の筋を無理に通そうとしたって駄目だよ」。成る程、あの人の話を聞いていると、そこはもう自在なもので、例えば、暫く黙っていたかと思うと、突然、「ええ、源義経という大将は、なかなか面白い大将でして……」という様な事を言う、前の話と何んの関係もない。だが、そう言われてみれば、聴衆の方は源義経の事ばかり考え、前の方は忘れて、さきに進んでくれるから、別段仔細はない。又、話に詰まれば、「伊達政宗という人は……」とやればよい。講演者がさきへさきへと進むのに、立ち止って考え込むわけにはいかない。聴衆は自分の時間というものを持っていない。たまたま持つ者がある。彼はあたりを見廻して欠伸《あくび》をしています。実際、われに還った時、欠伸の出ない講演会なぞ先ずないと言っていいでしょう。人々が共通の目的を持って一堂に会すれば、必ずその場の雰囲気に支配される。講演を楽しもう、せっかくやって来たのだから面白がらなくては損だ、という集団心理の協力が先ずなければ、講演者は何一つ出来る筈がない。まあ講演にもいろいろあるだろうが、私の経験した文芸講演会などはみなこの手です。それで受けないのだから、よっぽど話が下手なわけだ。併し、上手だと言っても、文士の講演なぞ高が知れている。辰野隆博士などはずい分講演の上手な方だ。あんまり方々で講演を頼まれるので、種がつきた。仕方がないから、何処かで演題を少々代えて同じ話をしたところが、貴様は詐欺《さぎ》だという葉書が舞い込んだそうです。聴衆は同じ講演を二度聞く雅量を持たぬ。辰野さんくらい巧くなっても、やれば詐欺だという事になる。とても落語家の様には参りませぬ。
本を読む人は、自分の自由な読書の時間を持っている。詰らぬ処をとばして読もうが、興味ある処に立ち止り繰返し読んで考え込もうが、彼の自由です。めいめいが彼自身の読書に関する自由を持っているのであって、読者は、聴衆の様な集団心理を経験する事はない。かようなものが成熟した読書人の楽しみです。作家は自分の為に書きはしない。作品は独り言ではない。必ず読者というものを意識して書きます。だが例えばある現実の読者層というものを考えて、これに大体共通した心理とか思想とかいうものを予想して小説家が小説を書くという様な場合、これはどうも文学の問題としては扱い難いでしょう。つまり、この場合の読者層は、作家の意のままになる受身な未成熟な読書人達であるし、これを目当てにして書く作家の側からしても、書くとは商売の掛け引き上の問題になるでしょう。作家の真面目な努力は、どうしても、作品を前にして自由に感じ自由に考える成熟した読書人を意識せざるを得ないでしょう。かような読者を作家はどうして捉える事が出来るか。こういう読者の心理を予見するという事は無意味だし、彼は、こちらの言葉の綾に乗って夢を見る様な受身の人間でもありますまい。
こういう読み手を、書く人は、ただ尊重し、これに信頼するより他はないでしょう。そういう意味で、作家は、自分の裡に理想的読者を持つのです。書くとは、自ら自由に感じ考えるという極まり難い努力が、理想的読者のうちで、書く都度に完了すると信ずる事だ。徹底して考えて行くと現代では書くという事は、そういう孤独な苦しい仕事になっている様に思われます。
ここで少し話題を変えましょう。文字のない時代は、勿論、人間は皆喋ってばかりいた。成る程、文字が出来て書物は出来たが、その時代、人々は書物というものをどう考えていたかという事は、私達にはなかなか考え難い事であります。何故かというと、今日私達のいう書物とは、紙と活字と印刷機械との産物であって、これらの発明は、文字の発明に劣らぬ大発明であって、書物は、これら技術上の発明によって、その意味を大変変えて来たからであります。私達が、本を読むとは、一人で黙って眼で活字を追う事だ。こんな解り切った事も、僅かの写本を大切にしていた昔の人々には想像も出来なかった習慣でしょう。子供や読書に慣れぬ人は声を出して本を読む。黙って活字を眼で追うという事は、修練を重ねなければ、かなわぬ事です。その為には、大量の書物があって、容易にこれが手に這入るという条件が必要でしょう。書物が少かった時代には、少数の人しか読書をしなかっただろうと考えるのは大変な間違いでしょう。今日いう様な読書などは、誰もする人はなかった。文字のなかった時代の教養人とは、無論、何んでも頭で覚えていた人だ、そしてこれを上手に喋った人だ。そういう教養人の態度が、文字ができ書物が書かれると、急に変って来るという様な事は考えられぬ。学者とはずい分長い間、書物に書いてある知識ぐらいは皆空で覚えていた人だったでしょう。書物は、記憶の不確かな処を確かめる用しかしなかったでしょう。又、この知識を人に伝えようとして、著書を出版するという事も不可能だったから、人々を集めて喋るより他はなかったでしょう。詩は言うまでもないが、散文にしても物語りだった。読まれたのではない、語られたのです。本は、歌われたり語られたりしなければその真価を現す事は出来なかったのです。
田中美知太郎さんがプラトンの事を書いていたのを、いつか読んで大変面白いと思った事がありますが、プラトンは、書物というものをはっきり軽蔑していたそうです。彼の考えによれば、書物を何度開けてみたって、同じ言葉が書いてある、一向面白くもないではないか、人間に向って質問すれば返事をするが、書物は絵に描いた馬の様に、いつも同じ顔をして黙っている。人を見て法を説けという事があるが、書物は人を見るわけにはいかない。だからそれをいい事にして、馬鹿者どもは、生齧《なまかじ》りの知識を振り廻して得意にもなるのである。プラトンは、そういう考えを持っていたから、書くという事を重んじなかった。書く事は文士に任せて置けばよい。哲学者には、もっと大きな仕事がある。人生の大事とは、物事を辛抱強く吟味する人が、生活の裡に、忽然と悟るていのものであるから、たやすくは言葉には現せぬものだ、ましてこれを書き上げて書物という様な人に誤解されやすいものにして置くという様な事は、真っ平である。そういう意味の事を、彼は、その信ずべき書簡で言っているそうです。従って彼によれば、ソクラテスがやった様に、生きた人間が出会って、互いに全人格を賭して問答をするという事が、真智を得る道だったのです。そういう次第であってみれば、今日残っている彼の全集は、彼の余技だったという事になる。彼の、アカデミアに於ける本当の仕事は、皆消えてなくなって了ったという事になる。そこで、プラトン研究者の立場というものは、甚だ妙な事になる、と田中氏は言うのです。プラトンは、書物で本心を明かさなかったのだから、彼自ら哲学の第一義と考えていたものを、彼がどうでもいいと思っていた彼の著作の片言隻句からスパイしなければならぬ事情にあると言うのです。今日の哲学者達は、哲学の第一義を書物によって現し、スパイの来るのを待っている。プラトンは、書物は生きた人間の影に過ぎないと考えていたが、今日の著作者達は、影の工夫に生活を賭している。習慣は変って来る。ただ、人生の大事には汲み尽せないものがあるという事だけが変らないのかも知れませぬ。
文学者は、皆口語体でものを書く様になったので、書く事と喋る事との区別が曖昧になった、と、前に申しました。曖昧になっただけです。両者が歩み寄って来た様に思うのも外見に過ぎない。あれが文学で、あれが文章なら、自分にも書けそうだという人が増えた、文学を志望する事がやさしくなった、それだけの話で、とるに足らぬ事だ。それよりもよく考えてみると、実は、文学者にとって喋る事と書く事とが、今日の様に離れ離れになって了った事はないという事実に注意すべきだと思います。昔、歌われる為、語られる為の台本だった書物は、印刷され定価がつけられて、世間にばらまかれれば、これを書いた人間ももうどうしようもないという事になりました。今日の様な大散文時代は、印刷術の進歩と離しては考えられない、と言う事は、ただ表面的な事ではなく、書く人も、印刷という言語伝達上の技術の変革とともに歩調を合わせて書かざるを得なくなったという意味です。昔は、名文と言えば朗々誦すべきものだったが、印刷の進歩は、文章からリズムを奪い、文章は沈黙して了ったと言えましょう。散文が詩を逃れると、詩も亦散文に近附いて来た。今日、電車の中で、岩波文庫版で金槐集を読む人の、考えながら感じている詩と、愛人の声は勿論その筆跡まで感じて、喜び或いは悲しむ昔の人の詩とは何んという違いでしょう。散文は、人の感覚に直接に訴える場合に生ずる不自由を捨てて、表現上の大きな自由を得ました。この言わば肉体を放棄した精神の自由が、甚だ不安定なものである事は、散文が、自分を強制する事も、読者を強制する事も、自ら進んで捨てた以上仕方がない事でしょう。いい散文は、決して人の弱味につけ込みはしないし、人を酔わせもしない。読者は覚めていれば覚めている程いいと言うでしょう。優れた散文に、若し感動があるとすれば、それは、認識や自覚のもたらす感動だと思います。
散文の芸術は、芸術のうちで、一番抽象的な知的なものだ。活字から直接に感動に達する通路は全くない。活字は精神に、知性に訴えるものです。そして、ともすれば博学のうちに眠ろうとする知性を目覚まし、或いは機械的な論証のうちに硬直しようとする精神に活を与えようとするものなのです。散文の芸術が持っているこういうはっきりした力が曖昧にしか考えられていないというのも、こういう力を純粋に行使する散文家が稀なのにもよりますが、一方、今日、隆盛を極めている小説という散文の芸術が、散文の自由な表現力をたのんで、あんまり節制なく書き散らされているからでもありましょう。元来、センセーショナルなものに直接には無縁な散文は、センセーショナルなものに極力抵抗すべきなのだ。だが、センセーショナルな書き方をすれば、弱い頭脳を充分に惹きつける事が出来るというところが、小説家の大きな誘惑となる。やがて映画が、そういう弱い散文家を呑み尽すに至るでしょう。
[#地付き](昭和二十九年一月、「新潮」)
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政治と文学
「政治と文学」の問題は、私が文芸時評を書き始めた当時からいろいろと論じられ、一向|埒《らち》があかなかったものです。無論、私も論戦の渦中にあったわけだが、論戦から得たものは何一つなかった。とまあはっきり合点した点が一得だったでしょうか。そういう次第で、政治と文学という様な大袈裟《おおげさ》な問題を取上げましたが、結局、お話は、私には政治というものは虫が好かないという以上を出ないと思います。
私達生存の必須の条件である政治というものを、虫が好かぬで片附けるわけには行くまい。だから、片附けようとは思わないが、この虫という奇妙な言葉に注意して戴きたい。諸君はその意味はよく御承知の筈だ。或る人の素質とは、その人自身にも決して明瞭な所有物ではない。虫の居所の気にかからぬどんな明瞭な自意識も空虚である。文学者とは、この虫の認識育成に骨を折っている人種である。
扨て、政治は虫が好かぬという事も、私としては大変真面目な話になります。政治に関する理論や教説がどうであれ、政治というものに対する自分の根本の生活態度は決めねばならない。もしこれが自分の虫との相談ずくで決ったのでなければ、生活態度とは言えますまい。
ドストエフスキイに「作家の日記」という政治論文集がありますが、論じられている当時のロシヤの政治や経済の問題が無意味になって了った今日になって、これが興味ある有益な著書である所以は、文学者の政治に対する態度が、膨大な論集を通じ、一貫してまことに鮮やかに現れているという処にある。床屋政談でも政治論説でもなく、表題の示す通り「作家の日記」たる処にあります。この本に、「プウシキン論」が載っている。これは一八八○年にプウシキン記念祭で行なった有名な講演の筆記です。この講演の中心点は、プウシキンの「オネーギン」という恋愛悲劇の分析にあるのですが、ドストエフスキイの考えによれば、「オネーギン」は寧ろ「タチヤナ」と題すべき作で、オネーギンという教養ある複雑な人物より、タチヤナという単純な田舎娘の方が、実は余程高級な本当の意味で聡明な人間だという洞察に、プウシキンの天才があると言う。成る程オネーギンは聡明でもあるし、誠実でもある、自ら「世界苦の受難者」を以て任じている。併しこういう「世界苦の受難者」の心にひそむ「下司根性」を見抜くには、現代ロシヤに沢山いるオネーギン達の所謂鋭い観察などでは到底駄目である、それには全く別な何かが要る、その別の何かをタチヤナの眼が持っている、「オネーギン」という作は、そういう認識の悲劇であるとドストエフスキイは見るのであります。タチヤナは、都会から来たオネーギンに恋をする。オネーギンはこの臆病な小娘に何んの関心もない。彼女は絶望し、やがて母親の為に愛のない結婚をし、貴夫人として都会の社交界に現れる。今度はオネーギンの方が恋する番だが、彼女は拒絶する。タチヤナは依然としてオネーギンを愛しているが、貞操を破る事は出来ないと言って男を拒絶する。何故大胆に一歩を踏み出せなかったのか。ドストエフスキイは、そうではない、タチヤナは大胆なのだ、ロシヤの女は皆大胆なのだ、問題は、多くの批評家が論じた様な恋愛と道徳の相剋などにはないのだ、と言うのです。成る程彼女は古めかしい道徳をはっきり口にし、それを信じてもいる、が、彼女の心の奥の方にはもっと違ったものがある。当節の批評家は、彼女の奥の方には、彼女自身気のつかない高慢心がある、上流社会の腐った生活に感染した気位の高さがある、そんな事を言うが、浅薄な意見で、プウシキンの思想を誤解するものである。タチヤナは変ってはいない、汚れてはいない。不幸によって錬磨された毅然たる人間になっているのである。恋愛に絶望した小娘の心に、既に、「あの人はただのパロディーではないか知らん」という疑問が生れている事に注意し給え。このささやかな疑問をドストエフスキイは「道徳的|胚子《はいし》」と呼んでいるが、この疑問が、女の絶望的な愛のなかで、遂にはっきりした認識に育ち、彼女は自信あるしっかりした女性となる、と彼は考えるのです。たとえ独身でいたとしても、タチヤナはオネーギンと一緒にならなかったろう。この人には愛というものが不可能だと見抜いた人間と一緒になる事は出来ない。女の心には軽蔑の念など一とかけらもない、ただ悲しみがある、悲劇がそういう次第のものであれば、作者は理窟を言わず、女主人公を美の典型として描く他はなかったろう。そして美は肯定的なものである。オネーギンの不幸は、実は空想家でありながら、自分はリアリストと信じているところにある。オネーギンは、タチヤナという一個の人間を決して見た事はなかった。頭脳を、知的憂愁で充しているこの男が出会ったのは、女ではない。「憂愁の逃げ道」なのである。逃げ道のすばらしさに感動している。という事は、彼を動かしているのは、実は社交界というつまらぬ環境に過ぎないという事である。一見極めて内的に見えるこの憂鬱な人間が、凡そ無邪気な環境の犠牲者である事に気が附いていない。この不幸なパロディーが、プウシキンによって看破されている。ドストエフスキイの言葉通りではありませぬが、以上が、彼の意見です。
このドストエフスキイの講演後、グラドフスキイという人が、反駁文を書いた。「先日、モスクヴァで行なわれたドストエフスキイ氏の話は、お目出度い連中の間に、非常な昂奮を巻き起した様子であるが、冷静に見れば、今度の演説も、要するに、この作者がこれ迄さんざん説いて来た宗教的理想、個人の道徳的完成を言っているに過ぎないではないか。今日のロシヤの求めているものは、そんなものではない、社会的理想である、現実に新しい公民的制度を確立する為の社会的理想である。詩人に騙されてはいけない。」
「作家の日記」には講演筆記の直ぐ後に、グラドフスキイへの答弁が載っています。この答弁も長いものであるが、ドストエフスキイは「グラドフスキイ氏の様な反駁文が現れる事はとくと承知していた、自分の予感は適中したのである」と冒頭して、長々と忍耐強い弁明を試みるのであるが、だんだん腹が立って来る。それが読んでいてよく解るのが面白い。とうとう彼の憤懣は爆発して了う。「私の演説の成功は聴衆がお目出度かったからだ、近頃モスクヴァの人々にはお目出度い気分があるからだ、と君は言う。ああ君達は何という観察家だ。神に誓って自讃ではないが、私の講演の成功は講演中にある一つの動かすべからざる真理の力によるのである。君は君のスローガンを掲げて公民的団結に向って進み給え。Liberte Egalite et Fraternite(自由、平等、友愛)よろしい。だが君はもう一つのスローガンを同時に掲げている事を忘れるな。ou la mort. 然らずんば死。――ヨーロッパは、外的現象に救いを求める人に満ちている。道徳の根本の基礎が、もう崩壊しているのだから、社会的理想に関する抽象的公式が、幾つも叫ばれれば叫ばれる程、事態は悪化するのだ。一世紀も経たぬ内に、彼等はもう二十回も憲法を変え、十回近くも革命を起したではないか。総決算の時は必ず来る、誰も想像出来ない様な大戦争が起るであろう。私は断言して憚らないが、それはもう直ぐ扉の外まで迫っている。君は私の予言を笑うか。笑う人達は幸福である。神よ、彼等に長命を与え給え。彼等は自分の眼で見て驚くだろう。」
ドストエフスキイは、翌年死にました。彼は予言などというものを好まなかった人間である。かように激しい調子の文章は、彼の全作品中、他にはないのであります。注意すべきは、彼は既に一聯の大作によって言いたい事は凡て言っていたという事だ。彼は恐らく予言などはしてはならぬ、と考えていたのであり、この強い予覚を、一つの沈黙の力として、自分の創作動機のなかに秘めて来たのである。彼は自分の作品が多くの人々を動かした事を知っていたが、作品の根柢にある理想を、明らさまに語れば、お目出度いと笑われるに違いない事もよく知っていた。この難題は、今日も少しも解けてはおりませぬ。
第一次欧州大戦後の戦争文学の氾濫の中で、ジイドが何処かで、こういう意見を述べていた事を今でも覚えています。「文学者は、今度の大戦の文学者にとっての意味や影響を過大視してはならぬ、例えばフランス革命の場合などに比べると、よく解るが、今度の大戦は内的な思想的な根拠を欠いている、外的な経済的なものにその一番大事な根拠を持っている、そういう性質を忘れては駄目だ」と書いていました。
彼は戦争の影響下にある文学などには目も呉れず、ソヴェトで実験されている新しい思想に着目していた。やがて「ソヴェト旅行記」が書かれた事は周知の事である。この本はいち早く我が国にも翻訳されて、読書人の間でいろいろ議論されました。特に左翼的な批評家達は、この本に不服で、これはソヴェトの真相ではないと論じた。
当時、私も一読して書評を書いたが、私の興味を惹いたのは次の様な問題だった。ジイドは、旅行記の冒頭で「これは全く個人的感想であり、自分の観察は心理的角度から出ない」という事を断っている。批評家が掴まえたのは其処なのです。其処さえ掴まえて了えば、ソヴェトに行った事があろうがなかろうが、そんな事はもう問題ではない。ジイドというブルジョア作家の心理は、ソヴェトの新しい現実を歪めて映す鏡に過ぎまい、理窟からしてそれは疑いない、そういう考えに掴まって了う。これは、ジイドが詰らぬ断り書きをしたから、誤解された、で済ますには、余りに困難な問題でしょう。
ジイドが、自分の見方は、たとえ社会問題に触れるとしても心理的な角度を出ないという時、それは恐らく自分の立っている立場を説明し、主張しようとしているのではない。寧ろ、どんな立場に立つ事もはっきり拒絶しているのだ。作家としての無私な態度の率直な表明なのである。彼は、ただこの無私を賭けているのです。無私は一方の極限では無に帰するでしょうが、一方の極限では非常に大きな理想に触れている、だからジイドは言うのです、「自尊心などはまるで問題ではない、自分はそういう感情を持っていない、私には私自身より、ソヴェトより重大なものがある、ユマニテである。」
処で、若しジイドが、この人類的立場なるものを表向きに掲げたらどうなるか。曖昧なお目出度い立場だと笑われるだろう。ジイドは、よく承知していたから、これは個人的感想に過ぎないと書いた。そうしたらやっぱり失敗した。これは厄介な問題ではないですか。ジイドも亦「作家の日記」を書いたのであります。
もう一つ私の注意を惹いた事があった。それは、ソヴェトに旅行して落胆したジイドが、「理想的なもの」から「政治的なもの」への移行が、一種の「転落」を伴う事は避け難いのであろうか、という疑問を出している事であった。私はジイドの晩年の著作に不案内であるから、はっきりとは言えないが、この疑問は彼の死に至るまでいよいよ苦いものとなって行ったに相違ないと推察しています。「第一次大戦が思想的根拠を欠いている処に注意し給え」と彼は言ったが、第二次の大戦となると、全体主義と自由主義との思想的対立が明らかになって来る。今日の人々は第三次世界大戦が到来しやしないかという不安を感じているが、其処には、特に、経済上の衝突とか、資源の争奪とかいう外的原因があるというわけではなく、寧ろあり余る資源を擁した二大国家が、互いに妥協せぬ民主主義共産主義の思想を掲げて正面衝突をしているという処に、危機は醸《かも》されている様である。そうなると、ジイドは、考え直すであろうか。無論、そんな事はあるまい。互いに己れを主張し、攻撃と防禦の機を覗《うかが》っている様な思想は、権力のかぶった仮面に過ぎないからであります。これらの思想は各々の陣営の中に住んでいるので、人間の精神の裡にあるのではない。己れを実現する為の、最も現実的な保証なり根拠なりを、原子爆弾の数の上に置いている、さようなものを思想と呼ぶのは滑稽である。この思想としての内的根拠を全く欠き、一方、物質のシステムの明瞭性も全く欠いた怪物に、世人は、イデオロギイなどという豪《えら》そうな名を付けました。
ある外国の雑誌にこんな漫画が出ていた。酒場で二人の紳士が殴り合って、二人とものびている、介抱しているボーイさんが、こんな事を言っている、「だからあれ程申し上げたじゃありませんか、うちでは平和論だけはお断りしています」と。誰だって笑うのです、但し、二人の紳士の喧嘩ならば。併し、漫画から、政治的党派への道は、ただの一歩だ。頭数によって保証される政治的イデオロギイという制服をつけた集団の対立へ進むのに、何一つ面倒な事はない。そうなるともう笑い事ではない、平和か、然らずんば死か、そういう事になります。ところで笑いは何処に行って了うのか。何処にも行きはしない。私達の健全な判断とともに私達の心のなかに止まって、才能ある漫画家の作に出会えば、何時でも笑い出す用意はしているのである。この笑いは、イデオロギイの配分を受けて集団化しようなどとは決してしないものです。私は自分でおかしいと判断し、一人で笑えば、それで充分だからだ。さよう、確かに充分なのである、何故かというと、私は一人で笑い乍ら心の底では誰も彼もが笑う筈だと信じているからです。いや、一人で笑っているというその事が、そのまま皆と一緒に笑っているという自信の表明だからであります。笑いでもいい、涙でもいいが、要するにかくの如きものから、文学者はその思想を育てて行くのである。その点、文学者のやり方は、全く子供らしく素朴なものなのであります。自己を表現するのに、自己の体験を離れる事は出来ない、どうしたらそんな狭い道から、広い道に出られるか、その明らかな方法は誰にも、当人にも解らない。判然と解らないが、ただ力を尽してやってみるという事が、即ち思想を創り出す道だと信じているだけだ。そして、そういう信念を自ら人に抱かせる様な模範的作品が、或いはそういう作品に動かされるという一つの体験が実在するだけだ。一向取りとめのない曖昧な言い方をする様ですが、文学概論などを信用しまいとすれば、それも止むを得ない。そういう次第で、これは政治的思想とは、まるで似たところがない。
政治家には、私の意見も私の思想もない。そんなものは、政治という行為には、邪魔になるばかりで、何んの役にも立たない。政治の対象は、いつも集団であり、集団向きの思想が操れなければ、政治家の資格はない。だから無論、彼等は、思想を自ら創り出す喜びも苦しみも知らない、いや寧ろ、さような詩人の空想を信ずるには、自分はあまり現実家だという考えを抱いています。既に出来上って社会に在る思想を拾い上げて利用すればよい。利用というのは、各人の個性などにはお構いなく、選挙権並みに、思想を集団の間に分配する事だ。幸いにして出来合いの思想というものは、こういう不思議な作業に堪えますから、ここに指導したい人種と指導されたい人種との間に、馴合いが生じます。何故政治に党派というものが必至かという事も、元はと言えば、思想のそういう扱い方から来ていると思う。幾人にでも分配の可能な、社会的思想という匿名思想には、無論、個性という質がないわけであるから、その効力は量によって定まる他はない。例えば、ドストエフスキイの発明した人間の自由に関する思想は、彼のかけ替えのない体験の質によって保証された現実性によって、その効力を発揮するが、ある集団の各人に平均的な自由主義という思想は、頭数が増えるだけが頼みである。頭の寸法も計らずには帽子も買えないのが普通だが、政治思想という買物は、これは又格別である。政治家の変節を、人は非難するが、おかしな話で、政治思想というものが、もともと人格とは相関関係にはないものなのである。そういう次第で、同類を増やす事は極めて易しい。だが、それは裏返して言えば、敵を作る事も亦極めて易しいという意味になります。空虚な精神が饒舌であり、勇気を欠くものが喧嘩を好むが如く、自足する喜びを蔵しない思想は、相手の弱点や欠点に乗じて生きようとする。収賄事件を起した或る政治家がテーブル・スピーチでこんな事を言うのを私は聞いた事がある。「私は妙な性分で、敵が現れるといよいよ勇気が湧く」。ちっとも妙ではない、低級な解り切った話であります。
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アプレ・ゲールという言葉が流行しています。これは言う迄もなく、第一次大戦後に、フランスで広く使われた言葉だが、当時は未だ、この言葉が日本語として使われる現実的な条件は、わが国にはなかった。フランスのアプレ・ゲールの文学の不安な表現や解体的な形式が、好奇心の強い文学者達に物珍らし気に模倣されたに過ぎなかったのですが、今度は違う。私達の頭上にもアプレ・ゲールという共通な経験が到来したのであります。併し、話はなかなか簡単ではない。例えば、最近、ローレンスの「チャタレイ夫人」が評判になっている。これは前大戦直後の英国人の生活に材をとった所謂アプレ・ゲール文学の一傑作で、同じ伊藤整さんの訳で、早くからわが国に紹介されていたものだが、一部の人々にしか読まれなかったのである。今度出て非常な評判をとったというのも、以前の伏字が生かされて、裁判沙汰にまでなったというのが大きな原因でしょうが、この小説の傑作たる所以を合点するのには、伏字などは大した関係はあるまいと思う。まあ、大多数の読者は、恐らく読み飛ばしたに相違ないと思うから、作品の冒頭の文句を読み返してみましょう。この意味をよく理解すればいいのだ。「現代は本質的に悲劇的時代である。我々が此の時代を悲劇的なものとして受け容れたがらないのもその為である。大災害はすでに襲来し、我々は廃墟の真只中にあって、新しいささやかな棲息地を作り、新しいささやかな希望を抱こうとしている。それはかなり困難な仕事である。未来に向って進むなだらかな道は一つもない。しかし、我々は遠まわりをしたり障碍物を越えて這い上ったりする。如何なる災害がふりかかろうとも、我々は生きなければならない。これが大体に於いてコンスタンス・チャタレイの境遇であった。欧州大戦は、彼女の頭上の屋根を崩壊させて了った。その為に、彼女は、人間には生きて識らねばならぬものがあることを悟ったのである。」
ローレンスの言わんとするところは明らかな筈です。彼も亦ジイドと違ったものを見ていたのではない。彼も亦、心理的見地に立つと言えば直ぐ誤解を招きそうな、危険な無私の心を投げ出しているのであります。襲来したのは戦争というより寧ろ内的動機を全く欠いた大災害に似ている。私達が戦争中平気で使っていた人的資源という奇怪な言葉に注意すればよい。近代戦は、賢人も愚人も勇者も卑怯者も、皆一様な人的資源に変じて、戦争技術の膨大な組織のなかに叩き込む。逃れる道はない。悲劇はとことんまで行った、とローレンスは言うのです。とことんまで行くと、人々は悲劇をもう悲劇とは認めたがらない、と言うのです。これは注意すべき逆説であります。
悲劇を定義することは難かしいでしょうが、私達に経験される悲劇的感情というものはかなりはっきりしたものであり、私達は、この定義し難い感情について運命という言葉を発明し、それで万事間に合っている。それほどこの一種の感情は普遍的なものである。この感情が感得しているところが甚だ微妙なものである事は、諸君が少しでも分析的に自省なされば直ぐ気が附かれるでしょう。運命の感情は、勿論必然性の観念を含んでいるが、この観念は、生活感情の色に染められて、ただ悟性が承認する客観的事物の必然性の観念とは、まるで違ったものになっている事に気が附かれるでしょう。悟性が自然の必然的法則しか見ない所に、感情は運命の人に出会う。これらはまるで別々の事です。少しも気紛れな感情ではない。悲劇的感情ほどよく自覚された感情はない。一方に人間の弱さや愚かさがある、一方にこれに一顧も与えない必然性の容赦ない動きがある。こう条件が揃ったところで悲劇は起るとは限らぬ。悲劇とは、そういう条件にもかかわらず生きる事だ、気紛れや空想に頼らず生きる事だ。凡ては成る様にしかならぬ、いかなる僥倖《ぎようこう》も当てに出来ない、そういう場所に追い詰められても生きねばならない時、若し生きようとする意志が強ければ、私達にはどういう事が起るかを観察してみればよい。このどうにもならぬ事態そのものが即ち生きて行く理由である、という決意に自ら誘われる、そういう事が起るでしょう。まことに理窟に合わぬ話ですが、そういう事が起る。これが悲劇の誕生だ。悲劇の魂は、そういう自覚された体験の裡にしか棲んでいない。体験は個人個人によってみな違うのである。だから、悲劇は理論家や観念派には、なかなか到来しにくいのである。この理窟に合わぬ生活感情の動きが、どんなに貴重な智慧を蔵しているかは、若し、学んで知る智慧が、生きて知る智慧を覆い隠して了わなければ、誰にも容易に気が付く筈なのであります。知るとは即ち生きる事だ。これが何が格別な事でしょうか。当り前過ぎる事柄が、軽視されるだけであります。私達は皆めいめい自己流に生きている、そうであるより他はない、これは実に厄介な困難な事である。だからこそ、他人流に学んで知る事の出来る知識や学問を、生活秩序の為に援用する必要が起る。援用して巧く行っている限り、生きて知る危険な困難な智慧は、一応はおとなしくしている様に或いは無力な様に見えるだけだ。だが、言わばこの私達の生活の力学的平衡はいつ破れるかわからない。
扨て、前にあげたローレンスの逆説はもう明らかでしょう。力の平衡関係が、極端な破れ方をしたのである。私達めいめいが、悲劇というよく自覚された感情を抱くには、到来した事件はあんまり大きかった。到来する事件を人間的に理解することがどんなに困難でも、これに敢えて人間的な意味を附与する、そういう私達めいめいの生きて知る智慧もなす所を知らぬ。戦争が途轍《とてつ》もないものになり、私達を人間資源として集団的に動員し、小砂利の様にローラーでならすという様な事になっては、為すところを知らない。誰もそういう悲劇のうちにあり乍ら、これを悲劇とは思いたがらない。それは大変難かしい事だからだ。併し、大災害は天から降ったのではない。知識や学問を援用して作った社会の秩序なり組織なりを、自らの重みに堪えず崩壊する、人間の住居にはふさわしからぬ屋根の如きものにして了ったのは私達だ。責任を何処に持って行き様もない。そういう時に、コンスタンス・チャタレイは、殆ど本能的に悟る、人間には生きて知らねばならぬ事がある、と。そして、既に明らかな意識から同じ事を悟っているメローズに出会い悲劇が始まる。そこにこの小説の私達にも親しい時代的な意味があるのであって、あれは新式のヘドニストの夢想などではありませぬ。
其後事態は、更に悪化した。それは、例えば、これも最近非常によく読まれたゲオルギウの「二十五時」などを見れば明らかです。もうこうなると悲劇的作品とはいえないのである。様々なイデオロギイを掲げた集団が、真理の名の下に、あらゆる智慧をしぼって互いに殺し合う。動物どもにはこんな残酷な事は出来ない。人間なればこそであるか。まさにその通りだ、と恐らく「二十五時」の作者は答えるであろう。極端に組織化され技術化された現代社会は、これに似合いな意匠しか本当には信じなくなった。機械の様に動く論理、物的証拠、集団的利用の可能な形態としての思想、要するに個人めいめいの抱く内的な真実は、この組織に編入されるには、あまりに果敢無《はかな》いものとなったのだが、そういう組織が一ったん狂えば、どんな悪が露骨になるか、人間は自らの手で、われ知らず人間を謀殺する大規模な計画を考案して来たのではなかったか、これが「二十五時」の主題である事は多くの人が知っている。そして多くの読者は、われ知らず、この作品から面をそむけたであろう。尤もな事だ。悲劇さえ禁止された人間の苦痛は醜悪である。ただ次の事を忘れない様にしよう。成る程作者は、悲劇的人物を作中に登場させる事は断念したが、これを書くという悲劇は作者とともに作品の背後に隠れている。
戦後、戦歿学生の手記が編輯され、「きけわだつみのこえ」と題して出版されて、広く読まれた。私も一読して苦しい想いをしたが、その中の一学生の手記にこういう文句がありました。「恐ろしき哉《かな》、浅間しき哉、人類よ、猿の親類よ、最後の質問、歴史とは何か」。戦犯は処刑され、追放は解除され、講和が来たが、学生の呪いはそんな事とは関係がない、だから消え去りはしない。恐らく、この学生は、歴史的認識こそ認識の王者である事を、さんざん教えられて来たに相違ない。そして現実の人間の生活とは、歴史的認識などというものとはまるで違ったものだと悟るには死を賭さねばならなかった。痛ましい事です。実際、十九世紀は歴史主義の時代であった、そして西洋思想の輸入によってしか生きていないわが国の近代思潮に、自然主義の思想の後、歴史主義の思想ほど一般に深く浸透したものはない。
私は機会ある毎に、歴史に関する自分の考えを書いて来ましたが、歴史家としても歴史哲学者としても物を言った事はありませぬ。ヘーゲルは歴史上の一人物に過ぎず、歴史がヘーゲルのシステムのなかにあるのではない、という常識を飽きずに書いて来たに過ぎない。そしてそういう常識が、私達めいめいの生活経験のうちに、どれほど深く根ざして、貴重な意味合いを湛えているかに注意しようと努めて来ただけです。ヘーゲルの歴史のシステムのなかには、本当の人間はいない。普遍精神が己れを客観化して行く歴史の流れにこそ、本当の人間が矛盾するのであって、ディアレクティックの発条としての矛盾などというものは空想に過ぎぬ。そういう考えを、例えばケルケゴールとかドストエフスキイとかいう人々は早くも抱いていた。私は、二人の著書を読み、互いに知る事がなかった二人がどんなに相似た思想を持っていたかに驚いています。併し彼等の非難は、遥かに大きいもう一つの非難の蔭に隠れて了った。言う迄もなくマルクスの歴史主義である。ヘーゲルに対するこの二つの非難は、全く性質の異ったものです。両方とも観念は生きた人間ではないと主張するのだが、前者は、そこから各人の個性や人格、各人が内的な秘密を抱いて生きているという困難に向って歩み、遂に一般化や組織化が不可能な思想に到り着いた。処が後者は、同じ敵手からそのディアレクティックだけは保存する事によって、前者の問題を回避して了ったのである。問題とは要するに、人間が生きている理由の裡には、人間を対象化して観察する時、必ず取逃がして了う真実な何ものかがあるという事だ。かような困難を回避しさえすれば、歴史のディアレクティックは、歴史の主体が観念人から経済人に変更されても、同じ様に円滑に運動する筈である。歴史主義は、何の損傷も蒙らず、唯物論という新しい食糧を得て、いよいよ、肥大した。科学を援用し、人間を物件の如く扱うこの世界観は、一方ブルジョア社会機構の悪を鋭く摘発し乍ら、その思い上った合理主義と経済主義との弱点を、やはり当のブルジョアジイから得ていたのである。観念論への極端な侮蔑は、当然自ら別種の観念論と化したのだが、これは科学の仮面の下に隠れたし、階級の消滅は必然的に人類の幸福を齎すという感傷的な理想主義は、政治争闘の現実性という仮面の下に隠れたのである。歴史的社会の物的構造というものが、次第に絶対的な意味を帯びる様になりました。精神は脳機構の随伴現象に過ぎない。人格という様な空漠たるものをいくら集めてみても、現実の社会は出来上りはしない。さようなものに何か価値を置くという考え自体が、社会構造の何らかの欠陥を明示している。問題はそれを直す事だ。そういう考え方が勢いを得て来たが、人間の文化活動に、その内的動機を認めず、凡て外的因子からこれを理解しようとする安易な傾向は、政治主義の発展には好都合なものであった。そして、この政治主義も亦ブルジョア社会のうちで既に充分に用意され、充分に堕落していたという事を忘れてはならぬでしょう。自由、平等、友愛の思想は既に命を失っていた。「自由」は、自由主義というイデオロギイがよく似合った経済上の自由競争のうちに生き、敗者達に不自由を与えていたし、「平等」とは、社会公民としての形式的な権利を主張する事に過ぎなくなっていたし、「友愛」は、附和雷同する政治的党派のなかで死んでいたのであります。
イデオロギイという言葉は、集団化され社会化された人間にしか決して当てはまらないが、言葉がその分を守るという事は難かしい事です。ブルジョア芸術とかブルジョア文学とかいう言葉は、十九世紀の芸術や文学の本当の性格を隠してしまいます。所謂ブルジョア芸術家達は、少くとも最も著しい成果を遺した芸術家達は、例外なく反抗者であった。ブルジョア階級が強制するものと戦った人達である。彼等は個人主義者ではなかった。ただ孤独だったのである。そして大事な事は、十九世紀の芸術家達によって、芸術の意味が、あれほど熱烈に意識的に問われたのは、芸術史上空前の事であるという事です。小説という文学形式はその性質上、時代の風潮に迎合せざるを得なかったが、傑れた作品は、すべて作者の反抗的思想を深く蔵していた。それは、詩とか絵とか音楽とかいうもっと形式の純粋な芸術を観察すれば明らかである。例えばマラルメやゴッホやドビュッシイの仕事を見れば明らかである。彼等は皆非凡な批評家であった。象牙の塔は時代が彼等に強制したものに過ぎない。若し美学者の観念や唯美主義などという言葉から自由になって、彼等の仕事を見るならば、彼等にとって美とは、新しい生き方の事であり、人間の新しい意味であり思想であった事は、容易に理解出来るでしょう。美がさようなものとして自覚された事は、空前の事だ、と私は言いたいのでありますが、それは当然次の様な意味になる。古いイデオロギイを新しいイデオロギイで救うという様な欺瞞《ぎまん》は、彼等の念頭になかったのであり、ブルジョアジイが腐敗させた個人主義や自由主義を、人間の個性や精神の自由という人間に永遠な問題として、自分の責任に於いて、新しく取り上げる仕事をしたと言えると思います。
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アンドレ・マルロオは、十九世紀の絵画を論じて、クールベからゴッホに到る道は、ユーゴーからランボオに到る道と全く同じであった、と言っている。新しい絵を理解したものは、無論ブルジョアジイではなかったが、美術理論家達でもなかった、ボオドレエルやマラルメであった。ワグネルという音楽家の最大の理解者はニイチェという詩人であった。マルロオはそういう処から、十九世紀の芸術家の特色は、自ら芸術家の階級というものを、時代に抗して作ったところにある、殆ど宗教的とも言っていい情熱的な孤立したセクトを生んだところにあるとまで極言しています。artist(芸術家)と artisan(職人)という言葉は、十七世紀頃から、恐らくもうはっきり区別をつけて使われた言葉だったでしょうが、十九世紀に這入り artist という言葉は殆ど異様なと言っていいほどの意味を帯びて来た。宗教や道徳や哲学が次第に信用を失って来るにつれて、人々の形而上学的な憧れや問いは、いよいよこの言葉の裡に吸収されて行く様になったのである。この傾向は二十世紀になっても少しも変ってはいないのであります。わが国が西洋の近代文学や芸術を受け入れるに際し、例えば文学上の自然主義とか絵画上の印象主義とかが輸入されるに際し、そういう西洋の近代思潮は、ひどい歪曲を受けた或いは浅薄にしか理解されなかった、という様な反省が、今日の評家によってなされているが、この芸術家の根本の態度、文学者も画家も、各自の仕事の裡に、人生とは何かという問題を持ち込み、人間如何に生くべきかを、仕事によって明示しようという、芸術家の新しい自覚は、誤りなく受け納《い》れたのである。誤りなく受け納れて、めいめいがわが国の環境のうちで正直に生きようとしたからこそ、逆に、外来の主義主張を曲解せざるを得なかったとも言えるでしょう。生きた文化というものの難かしさです。
歴史は皮肉なものである。時代の子たる事を肯《がえん》じない動機から仕事を始める芸術家を生んだ世紀は、一方、是が非でも芸術家を時代の子と理解しようとする強い考え方を生んだ世紀でもあったのです。そこで、芸術作品を、歴史的に社会的に理解しようとする近代の方法は、本当を言えば、少くとも近代の芸術作品には甚だ不適当なのです。併し、不適当な方法であるなどと言ってもどうにもなるものではない。作家の個々の運命を洞察しようという様な努力は、作家や作品の歴史的社会的理解に関する急速に一般化する合理的な説得力の敵ではない。ここに言わば衆寡敵せずといった時の勢いが生じたのである。こういう勢いのなかに、十九世紀芸術家達の悲劇、これは私達にも受けつがれた遺産であるが、それが埋没して了った。私は繰返し言いたいのですが、芸術家達の社会的孤立という様な概念はパロディーに過ぎない。実際に演じられたものは悲劇なのである。悲劇からその内的な意味を奪って、社会的孤立というパロディーを得たに過ぎない。彼等が実際に苦しんだところを、階級意識とか或いは一般に個人主義とかいうイデオロギイで覆う事は出来ないのであるが、それよりもっと根本的な事は、彼等は、歴史や社会の動きの裡に全的に解消して了う事の出来ない人間の本質なり価値なりを信じていたところにある。従って、歴史主義というものが既に、彼等には大きなパロディーに見えていたと言えるのである。無論、これは何等理論上の発見という様なものではなく、芸術の実際の仕事が、芸術家を自らそういう自覚に誘ったのであります。十九世紀の歴史主義は、ニイチェがはっきり指摘した様に、単に現代に生活しているという理由から過去を侮蔑するという殆ど無意味な己惚《うぬぼ》れをはびこらせた。自分は空想家ではないという己惚れは、どんな未来の設計図でも、筋さえ通っていれば、現実的だと考えた。まことに歴史主義は、政治主義が蔓延《まんえん》する絶好の温床だったのであるが、かような趨勢《すうせい》に、芸術家達の仕事は、正面衝突をせざるを得ない。彼等の仕事は、設計通り決して進行しないものであるし、過去への敬意を失えば何一つ新しく価値あるものを創り出す事は出来ない。そこで歴史主義は、逆に、彼等に過去への尊敬を教えるという妙な事になった。歴史的関心が、彼等に目覚ましたものは、過去の文学や芸術の表現様式に関する嘗て知らなかった広い視野であるが、彼等がそこから得たものは、歴史的発展の図式ではなく、当然、過去の諸傑作に関する豊富な痛切な審美的体験であったし、又そういう体験は、当然傑作の現す軌範性や完璧性の感情を生命とするから、彼等は、そこから、進歩の概念などを無視し、歴史を自由に逆行し、過去の到る処に、思うままに、理想的人間を蘇らせた。芸術という仕事の本来の性質が彼等にそれを要求したからです。人間という汲み尽し難い永遠の問題に、常に立ち還る事を要求したからです。歴史主義の強い風潮のなかにあって、彼等の仕事の動機には、めいめいの個性に従って、すべて、あの戦歿学生の叫び、「最後の質問、歴史とは何か」があったと言えるのであります。近代文学、近代芸術の選良達によって行なわれた自己批判、或いは、進んで社会的孤立や不幸を賭した、即ち所謂個人主義や利己主義とは全く関係のない自己表現こそ、現代の文学者や芸術家が継承した貴重な遺産なのである。
社会の下部構造が、上部構造を支えるというマルクスの強い思想を全的に否定する事は出来ないでしょう。それは確かに多くの真理を含んでおります。ただ人間生活に関する真理は、これを上手に信じなければ、忽ち虚偽になるであろう。マルクスの予想の裡を、スターリンの影が掠めたかも知れないが、原子力の出現に至っては、彼は夢想さえしなかったであろう。マルクスは、経済上の生産技術の進歩が、思想上の進歩を保証する様に見えた時代の人である。少くとも其処に難問を見出し得なかった時代の人である。技術の驚くべき進歩は、思想の進歩を遥かに抜いて了ったのではないか、と私達が疑い始めた時には、既に、私達は社会の全構造の途轍もない紛糾のなかにあったのであります。
産業革命は、職人の手仕事を絶滅させる様に働いたが、これに照応して、思想の生産の上でも、言わば手仕事風の経過を辿って生れて来る思想は、いよいよ無力になって行く傾向を生じた。つまり個人的主観的思想は侮蔑され、客観的イデオロギイが尊重される風を生じたのであるが、主観的とか客観的とかいう言葉は、まことに曖昧であるから、思想という人間が作りだす一種の道具も、その生産過程の変革によって、大変異った形や意味を帯びるに到ったと考えた方がいい様に思うのです。近代的な機械の製作者にも、最初は人間的な曖昧な動機があっただろうが、それが、機械の全構造を規定する設計図という一観念に置換えられなければ、機械の生産は始まるまい。同じ様に、広く一般的に使用されるのに成功する近代的イデオロギイは、設計通りに製作の可能な機械を模範とする。無論、ここで科学自体の価値とか進歩とかを言うのではない。客観性という言葉が、科学が要請する一観念として、汚されもせず、濫用されもせず止まる事は如何に難かしい事であったかを言うのです。客観性とは、科学のシステムを生産する場合の生産者の設計図に過ぎない、と明らかに理解している限り、人間は科学の主人でありましょう。併し、客観性という言葉は、知らず知らずのうちに人々の人生観のうちに盗用され、その中心部に居坐る様になる。そうなっては、人生観という言葉を世界観という様な言葉に、すり代えてみた処で、何にもならない。当人は、客観的に見たり考えたりしている積りであるが、ただそんな口の利き方をしているに過ぎず、実は見ても考えてもいやしない。彼自身が客観性と化するからだ。そして注意すべき事であるが、これは、人格上の倫理的無私とは全く異るのであります。機械が運転し始めれば、技師はもういなくてもいい、まさに然るべき事であるが、観察や思索が運転し始めれば人間にもう手の付け様がないとは奇妙な事だ。ジャアナリズムが、この傾向に拍車をかける。現代のジャアナリズムに現れる夥しい論説に、輪転機の音が聞き分けられない様な耳はどうかしている。もっと辛辣な言葉を紹介して置く。第一次大戦の直後、リルケはこんな事を書いています。ノアの洪水時代に、ジャアナリズムというものがあったなら、私は断言するが、洪水は決して引かなかっただろう、と。
職人の習慣的な仕事、無意識の模倣が、芸術家の自由な創造、意識された独創となるわけだが、手仕事という伝統は、どうしようもないものであり、芸術家は職人から継承した手仕事の裡で、観念上の変革を始末しなければならなかったという事が、非常に大切な点なのであります。言ってみれば、芸術家とは自覚した職人だ、で済みそうだが、その真に意味するところは殆ど掴み難いのである。例えば模倣と独創との概念に一応区別がついたところで、芸術家は、模倣し乍ら独創を現ずるに至るかも知れぬし、独創を念じて、模倣にさえ及ばぬかも知れない。自由の観念は、自由の表現の邪魔になるかも知れないし、不自由な規律のお蔭で、自由の真意は伝えられるかも知れぬ。そういう次第で、職人の手仕事を合理化した工業の組織が、手仕事の秘密を殺して了ったところを、芸術家は、逆に、この秘密を分析し批判して、これを新しい認識の下に存続させようとする道を進んだ。手仕事は合理化されず、意識化された。それがどんなに極端なところまで行ったかは、実例をあげて言う要もあるまい。芸術家は、言わば、仕事の強度の意識化によって、職人の半ば無意識の仕事のうちに黙していた美に何とかして、口を割らせようとしたのであって、かような努力が払われるところ、文学の作品は言う迄もない事だが、音楽にあっても、絵画にあっても、音や色は、作者の想いを出来る限り表出しようという傾向を生じた。美は思想になったと言えるのである。美は、もはや文明の黙々たる装飾たる事を止め、自ら進んで文化の意味を問おうとし、出来る事なら美しいが故に、自らその解答となろうと願ったのである。
文学者や芸術家は、己れの内的な動機を、絶えず制作行為の裡に投げ入れる。動機は制作を生み、制作は又新しい動機を目覚すという具合に、彼等の思想生産という仕事は、紆余《うよ》曲折して進むのである。何等格別な事ではない。知るとは生きる事だ。かような筋道を踏んでは、いつまで経ってもイデオロギイは出来上らない。作者の人間性が解放されるだけだ。それで充分だという信念は格別なものかも知れないが、そういう筋道を通って思想を作り出すのは万人の一番素朴なやり方でしょう。様々な花が開くのが当り前な様に、彼等の個性に順じて思想の多様性が現れるのは当り前な事だ。そして例えば、ゲーテの思想がシェクスピアの思想と衝突するなどという光景は誰も見た事はないのだし、私達めいめいが個性の魅力を保持していなければ、真の友情は起り得ない事も解り切った事である。友と共感する為に己れの何かを捨てる必要はない様に、芸術作品に対しても、人々は自己流にしか共感しない。芸術作品は、各人の自己を目覚めさせる事によって、人の和を作り出す。文学者や芸術家は、こういう性質の普遍性しか本当には信じていませぬ。この信念は当然、説得や論証による人々の一致に関する疑念を蔵している。外的な証明によって出来上る思想の一般性が、人間的内容を欠いている事についての疑念を蔵しています。この様なところから、一般文化の問題に関しても、文学者や芸術家の考え方というものが自ら生じて来るのであって、彼等はどうしても文化の分析的な構造よりも、文化の持続的な生命の方を重く見る様に誘われるのである。文学者は、自分の持つ文体から、画家は己れの色調から、国民の文化という大きな作品の持つ独特な文体なり色調なりを、極く自然に、切実に類推せざるを得ないでありましょう。分析し難い文化の様式こそ、文化が人間によって生きられた明瞭な刻印であり、又そう考える事こそ文化の根本条件に触れると考えざるを得ない。何が格別な考え方でしょうか。
マルクス主義の文学運動が盛んだった頃、文学に於ける政治性の優位という問題がしきりに論じられたが、そういう児戯に類する論戦は、もはや昔の夢となった、少くとも今日の文壇はそんな様子をしている、何故だろう。文化一般に於ける政治性の優位が、誰の眼にもあんまり明らかなものになると、却ってそういう事になるのかも知れない。到来した悲劇は、あんまり大き過ぎたのか。知識人達は、文化統制の非を言い、言論の自由を言い乍ら、一方、文化国家とか国際文化とか、何処の国の辞書にもない不思議な言葉を平気で使っている。戦争中は文化は不急のものという事になっていたが、敗けてみると文化は急を要するものになった。何んのことはない、ただ、頭を圧えつけられていた文化が、今度は飴《あめ》細工の様に延ばされただけだ。国語は国民文化の生命であるという様な考えは、極く少数人の古風な趣味に過ぎないから、これも飴細工並みに改良されるといった次第である。
初めにお断りして置いた様に、私の言いたい事は極く僅かな事である。ひそかに常識だと信じているところを告白するに止まるのです。大戦直後、私は、或る座談会で、諸君は悧巧だから、たんと反省なさるがよい、私は馬鹿だから反省などしない、と放言し、嘲笑された事がある。放言なぞ嘲笑されて然るべきもので、そんな事は何んの事でもないが、当時の私の感情は、今日も変らず、これを口にすればやはり放言とならざるを得まい、と考えると、これには閉口するのである。マルクス主義文学運動の盛んだった当時、清算という言葉がよく使われたが、私はあの言葉が大嫌いであった。その大嫌いな言葉が、戦後又復活した。そういうともう放言めいて来るのが弱るのです。恐らく問題は大変微妙なのだ。前に「きけわだつみのこえ」に触れましたが、あの本を読んだ時、直ぐ気附いた事があった。が、言えば誤解されるだけと考えて黙っていた。それは学生の手記に関してではない。編輯者達の文化観の性質についての感想であった。手記は、編輯者達の文化観に従って取捨選択され、編輯者達によってその理由が明らかにされていたからである。戦争の不幸と無意味を言い、死に切れぬ想いで死んだ学生の手記は採用されたが、戦争を肯定し喜んで死に就いた学生の手記は捨てられた。その理由が解らぬなどと誰も言いはしない。理由には条理が立っているのである。ただ私は、あの本に採用されなかった様な愚かな息子を持った両親の悲しみを思ったのです。私は、そういう親を知っていた。彼は息子を軍国主義者などと夢にも思っていなかったし、彼自身も平和な人間であった。戦犯が死刑になる世の中で、戦歿学生の手記が活字の上で裁かれるなど何の事でもない。それはよく解っているが、そこに何の文化上の疑念も抱かないという事は間違っていると思います。文化が病んでいるのです。或る学生は、死に臨んで千万無量の想いを、一枚の原稿紙に託するつらさを嘆いていたが、みんながみんなそうだったであろう。遺言にイデオロギイなどを読んではいけないのである。私は編輯者達の良心を疑いはしないし、揚足が取りたいのでもない。誤解しないで戴きたい。だから問題は微妙だと言ったのです。たとえ天皇陛下万歳の手記が幾つ採録されていたところで、どれもこれもが千万無量の想いを託した不幸な青年の遺言であったという事に関して、一般読者は決して誤読はしなかったであろう。そういう人間の素朴な感覚には誤りがある筈がないと私は思う。編輯者達は言うかも知れない。私達は感情を殺さなければならなかったのだ、と。進歩的文化の美名の下に、であるか。彼等は、それと気付かず、文化の死んだ図式により、文化の生きた感覚を殺していたのである。
文化を論ずることを好む人々が、ジャアナリズムの上で、申し合せでもした様にやって来た事は、私達みんなが体験した大戦争を、ただ政治的事件として反省した事だ。これが五年間も続いては、異様な感を抱くと言っても非常識とは申されまい。失恋した男が、外交の失敗を反省していれば、誰にも異様な感を与えるでしょう。あれほど歴史の必然という言葉が好きだった知識人達が、大戦争は歴史の偶然だった様な口の利き方しか出来ないのである。日本人がもっと聡明だったら、もっと勇気があったら、もっと文化的であったら、あんな事は起らなかったのだと言っている。私達は、若しああであったら、こうであったであろうという様な政治的失敗を経験したのではない。正銘の悲劇を演じたのである。悲劇というものを、私がどう考えているかは既に述べました。悲劇の反省など誰にも不可能です。悲劇は心の痛手を残して行くだけだ。痛手からものを言おうと願う者は詩人である。そして詩人が、どんなに沢山の、どんなに当り前な人間の心に住んでいるかを知るのには、必ずしも専門詩人たるを要しないでしょう。無論、政治事件の反省者達を侮蔑しようという様な気持はない。時の勢いには抗し難いものがあるからだ。ただ私は時の勢いの或る性質をはっきりと認識したいだけなのです。文化は断絶的に反省され、計画的に設計されるものではない。文化は計算の目的などにはなり得ない。何を措いても先ず私達に持続的に生きられるものだ。この簡明な人間生活の根本の事実が、又、何と私達の意識の達し得られぬ程の深所にあるか。この事に関して畏敬の念を失えば、もう文化という様な言葉をいっそ使わぬ方がいい。処がそうなると、却って文化という言葉が濫用される。これは異様な事です。そして、これを異様な事だと感ずる文化感覚は、私達の内部の倫理感や審美感から発する他はないでしょう。これは些細な事ではない。文化を政治によって意識的に支配しようとする大国家が現れたのも、有機的な統一を欠いて組織化された大集団が政治の対象として現れて来たのも、歴史上空前の事実である。その為に、現代文化に於ける政治性の途轍もない優位が現れた。知識人の政治批評は、いよいよ華々しいイデオロギイ論議となって行くでしょう。これが、往年の床屋政談より、何か増しなものなのでしょうか。私達の常識は、こういう文化の不健全を感じている筈だ。政治のイデオロギイによる自己主張を憎んでいる筈です。政治は、私達の衣食住の管理や合理化に関する実務と技術との道に立還るべきだと思います。
[#地付き](昭和二十六年十月―十二月、「文藝」)
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悲劇について
今日は、皆さん、芝居を見にいらしているので、講演の方はつけたりでありますから、芝居について極く簡単な感想をお話しして失敬する事にします。
演劇史に於いて、最も古く、又最も立派な劇が、ギリシア悲劇である事は、皆様も御承知の事である。芸術上の或る完成された形式というものは、長い年月を経ても、及び難い範型として回顧されるもので、ロダンがギリシア彫刻を取上げた様に、近代に於ける最大の劇作家イプセンも、「幽霊」以後、その作劇の範型としてギリシア悲劇を取上げた。私はそういう作劇上の立ち入ったお話をしようと思うのではない。出来もしない。ただ極く大ざっぱに悲劇の概念についてお話ししようと思うので、それと言うのも、この概念は、今日、いろいろな理由から曖昧になっており、これを幾分でも明らかにする事は、又いろいろな意味から大事な事だと考えているからであります。
近代の思想家で、ギリシア悲劇に着目して、その精神を新しい見方によって蘇生させた人はニイチェである。彼は、ギリシア悲劇のうちに、自分の思想の深い動機を発見したのであって、彼の全思想は、「悲劇の誕生」という種から成長した樹木だと言って過言ではない。ニイチェの議論は、反語や逆説や独断に充ちているが、彼がギリシア悲劇に動かされたその異常な感動のうちには、凡そ悲劇に関する動かし難い洞察が含まれていると思います。ニイチェは、ギリシア人が立派な悲劇を書いたという事こそ、ギリシア人が厭世家ではなかったというはっきりした証拠だと言います。ちょっと聞くと反語の様に聞えますが、それは、悲劇と厭世という二つの概念を知らず知らずのうちに類縁のものと私達が思っているからでありましょう。恐らくニイチェは、その事を頭に置いて強く主張する、悲劇は、人生肯定の最高の形式だ、と。人間に何かが足りないから悲劇は起るのではない、何かが在り過ぎるから悲劇が起るのだ。否定や逃避を好むものは悲劇人たり得ない。何も彼も進んで引受ける生活が悲劇的なのである。不幸だとか災いだとか死だとか、凡そ人生に於ける疑わしいもの、嫌悪すべきものを悉く無条件で肯定する精神を悲劇精神という。こういう精神のなす肯定は決して無智から来るのではない。そういう悲劇的智慧を掴むには勇気を要する。勇気は生命の過剰を要する。幸福を求めるが為に不幸を避ける、善に達せんとして悪を恐れる、さような生活態度を、理想主義というデカダンスの始まりとして侮蔑するには、不幸や悪はおろか、破壊さえ肯定する生命の充実を要する。そういうディオニュソス的生命肯定が、悲劇詩人の心理に通ずる橋である。とニイチェは言い切るのであります。ニイチェの烈しい気性は、アリストテレスのカタルシスの思想に飽き足らなかった。併し、ニイチェの個性の事をお話しするのではない。彼の主張のうちにある真理を拾い上げようと言うのです。
ギリシア悲劇の表現する運命の思想は、ヘエゲルの歴史哲学でも大事な役割をしているが、ニイチェの所謂悲劇的智慧も、歴史の事を考えると、運命という問題に衝突せざるを得なかった。彼は、遂に運命愛(amor fati)という非常に難かしい思想に到達したのであります。必然的なものに目を覆ってはならぬし、単にこれに耐えるだけでもいけない、進んでこれを愛さなくてはならない、そういう考えに達した。勿論こういう思想には、合理的な説明は不向きである。ニイチェもやってはいない。凡そ究極的な問題は、直覚によって掴む他はないもので、直覚の率直な表現が、屡々《しばしば》逆説と見えるという事は、ニイチェの作でいつも経験する事です。真の逆説とは言わば認識に於ける極めて率直な決断なので、ひねって逆を言ってみるという様な事ではない。
ギリシア悲劇ばかりではない、シェクスピアの悲劇でも、イプセンの悲劇でも、何が私達を感動させているか合理的には説明は出来ないが、それが人間の運命という或る統一ある感情の経験である事は疑えない様に思われる。悲劇を見る人は、どうにもならぬ成行きというものを合点している。あの男が、もっと悧巧に行動したら、或いはあの特別な事件が起ったら、こうはならなかったであろう、そんな事は考えない。すべては定った成行きであったと感ずるのであるが、この時私達は、ある男の、ああなるより他はない運命に共感するのであって、決して事物の必然性というものに動かされているのではない。成る程外的な事物の必然性が、人間の内的な意志とか自由とかを挫折させなければ悲劇は起らないのであるが、悲劇の観者の感動は、この人間の挫折や失敗に共感するところに起る。これはこの挫折や失敗が必然であると感ずる事に他ならないのだが、この必然性の感覚なり感情は、理性の理解する因果必然性とは性質が全く違うのである。悲劇を見る人は、事件の外的必然性の前では、人間の意志や自由は無意味になるという考えを抱く事は決して出来ない。寧ろ全く逆の感情を味わうのである。人間の挫折の方に外的必然が順応しているという感情を、どうしようもなく抱かされるのである。不幸も死も、まさにそうでなければならぬものとして進んで望まれたものだ、という感情を抱く。悲劇ばかりではない、悲劇的な小説の傑作、例えば「ボヴァリイ夫人」を読むものは、主人公が自殺に向ってどうしようもなく追いつめられるのについて行き乍ら、それが即ち主人公の憧憬や意志の必然性に他ならぬという感情を抱く。「罪と罰」の主人公は、まさに誤るところなく又他にどうしようもなく自分自身の不幸を自ら創って行く様に見えます。つまり運命というものが描かれているのを感ずるのである。
こういうところに芸術家の詐術を見るのは間違いだ。私達は騙されているどころか、己れの本体を知らされている。自分自身に共感しているのです。私達が、緊張した意識をもって充実した行為を行なっている時には、私達は皆そうした人間ではないのか。まさしく悲劇を演ずる俳優ではないのかと考えてみればよいのであります。
合理的に考えれば、人生の事はすべて必然的に生起する。合理的な思惟の下では、自由の問題そのものが不可能になります。併し自由はある。私達が生きているとは自由を信じている事に他ならないからだ。外的必然に屈服すれば人間は一個のメカニスムとなるでしょう。内的自由が全能ならば人間は神になるでしょう。ところが人間は、そのどちらでもない。この中途半端な人間の状態を肯定するならば、進んで、この現実の状態は、必然とか自由とかという図式的な区別を超えたもっと深い状態である、と信じた方がよい様です。そしてこういう思想は、各人の生き方のうちに、各人の自覚として現れて来る他はない。充実した生は、中途半端な人間の現実の状態をそのまま純化しないか。生活の充実感とは、自由な意志が存在全体の必然関係から遊離せず、これと有機的に関係するという感覚ではないのか。個人の意欲と全体の存在との合一感ともいうべきものは、緊張した行為が否応なく人間に自覚させるものではないか。これが運命感である。昔の英雄譚は、啓示や神託によって、自分の運命を感じた人間の物語に充ちている。伝説は物の真理を語っているのではない。永続する人間的真理を語っている。神託という様な言葉に躓《つまず》く必要はない。運命という一種の必然性は、自然の法則でもなければ、目的ある方法でもない、計算や意図の必然性ではない。こういうものを、先ず強く生きてみて、自ら感得した人間が、これを神託と呼んでも一向差文えない。言葉が役に立たなければそれも仕方がない。私は英雄主義の事を言うのではない。英雄主義なぞ取るに足らぬものでしょう。注意したいのは、英雄譚の傑作で、多くの人々に愛されたものは、西洋でも東洋でも悲劇的な人間によって演じられた緊張した行動である、ただ占領したり征服したりしている人間を扱っては英雄譚は出来ない、そういう点です。悲劇的英雄とは、勝つ相手は自分自身しかない様に行動する。そういう難かしい美徳に対して、いかに多くの人々が敏感であるか、という点です。彼の行為は及び難いが、それは、人間の尋常な行為の本来の性質の強力化であり純化であるからこそ、人々は敏感にこれに応ずるのでありましょう。
ニイチェが悲劇という時、喜劇に対する悲劇の意味で言ったのではない事は、もはや申し上げるまでもない。一体、劇、ドラマという言葉は、もともと行為、行動という意味の言葉です。そういう意味合いからすると、現代使われている drame interieur 内部劇という様な言葉は、洒落に過ぎないが、そういう言葉が現れるという事は面白い事だと思います。言葉による表現は、行動による表現の一分科に過ぎない。発生的にも人間は先ず一種の言語を含む全的な行動によって自己表現を行なう。今日でも、夜は相手の行為が見えない為に、昼間通じた言葉が、夜は通じない未開人が地球の何処かにいるそうです。まあそんな事はどうでもよろしいが、肉体の構造に制約されて私達は太古以来殆ど変った行為も出来ないのですが、行為から分化した言語表現の世界は目覚ましい進歩発展をとげて、肉体ある人間の行動は、もはや碌な芝居を演じていない様に見える。心理や観念や知識の方が、これに代ってまことに興味ある複雑極まりない行動をする様に見える。drame interieur という言葉が生れて来た所以ですが、これが悪い洒落と化さんとする危険をニイチェは見た。自ら作った意匠が舞台で芝居をしているのを腑抜けの様に眺めている観客をニイチェは見た、彼は劇という本来の意味を奪還しようとした、そう言っていいと思います。若し drame interieur という言葉が洒落ならば、これに照応する drame exterieur 外部劇というもう一つの洒落を思い付いてもいいでしょう。これは技術劇です。政治技術、戦争技術、平和技術、恋愛技術、人間は魂を棚に上げて、劇即ち行動の振りをする。併しもうよろしいでしょう。この短いお話では、現代は不安の時代であるが、悲劇の時代ではなさそうである、その事が解って戴けたら充分なのであります。
[#地付き](昭和二十六年六月、「演劇」)
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表現について
私は、若い頃から、音楽が非常に好きだった。ただ好きなだけで、専門的知識なぞ一向ない。今も控室で、此処の蓄音機から、バッハの組曲が聞えて来て、大変楽しい気持ちで坐っていた。まことに嘘も冗談も災いもない、幸福な而《しか》も真面目な世界です。そういう世界が、スウィッチ一つ入れれば、ほんとうに現れる、魔術でも幻でもない。私は、そう信じているだけなのでして、音楽の専門の方々に立ち混って、専門的なお話をする資格はない。私が、これから思いつくままにお話ししたいのは、芸術の表現というものについて、平素考えている事であります。お話をするについて音楽を例にとりたい、そういう考えで参ったに過ぎない。何かを例にとってお話ししないと、表現 expression という言葉の曖昧さのなかに、道を失って了う恐れがある。ダアウィンが「人間と動物に於ける感動のエクスプレッション」を研究する時に、エクスプレッションという言葉をどう解釈していたか、二十世紀初頭のエクスプレッショニスムの芸術家達の間では、それはどういう意味であったか、というあんばいである。音楽を例にとりたいというのは、音楽という極めて純粋な芸術形式に照してお話しすると、お話がしやすいからと考えたまでで、うまく行くかどうかは、お話ししてみないとわからない。私は音楽史なぞにも暗いので、音楽史的解釈に関しては、パウル・ベッカーの音楽史に現れた考え、私はたまたま読んで大変正しい考えの様に思われたので、それを頼りとしてお話ししたい。
手短かなところから始めましょう。音楽の好きな人達で、この音楽は一体何を表現しているのだろうかという問題を、考えてみなかった人はあるまいと思う。例えば、ベエトオヴェンの作品二七番のソナタの一つは、普通、「月光曲」と言われている。これはベエトオヴェン自身が名附けたのではない。或る男が、あの有名なアダジオを聞いて、まるで湖上を渡る月の光の様だと言ったところが、いかにもそういう静かな気分の曲だという事になって了った。ある男の気まぐれが、このソナタの第一楽章の内容を決定して了ったという事になります。私は嘗てこんな映画を見た事がある。夜中に、女が一人、ピアノの前に坐っている。突然、男が闖入《ちんにゆう》して来る予感に捕えられる。女は男を憎んでいるのか愛しているのか、自分でもよく分らぬ、来て欲しいし、来られたら困る。彼女の指は、われ知らずキイの上を動く、闇の中に、じっと眼を据えて、無意識に弾き出したのは、驚いた事には「月光曲」であった。テムポは、次第に早くなる、もう疑う余地はない、それは完全に女の心の不安と動揺を表現していました。フランスの国歌の「ラ・マルセイエーズ」は、誰も知っている様に、大変勇ましい曲であるが、ゲエテは、マインツの包囲戦の時、退却するナポレオン軍が、この曲を奏するのを聞き、復讐の毒念の如き、何んとは知れぬ恐ろしい、暗い、人の心を傷つける様なものを感じて、慄然としたと言っております。音楽というものは、聞く人のあらゆる気紛れを許す、その時々のあらゆる感情を呑み込んで平気な顔をしている様に見える。ベエトオヴェンの六番シンフォニイは「田園」という表題を持っている。これは他人が勝手につけた名ではない。ベエトオヴェン自身、このシンフォニイによって、田園生活の感情なり気分なりを表現しようとしたものであり、楽章ごとに、「小川の辺」だとか「夕立と嵐」だとかいう名前がついている事は、誰も知っているところです。併し、例えば彼の八番シンフォニイを、自分は、田園と呼びたい、最終楽章は、嵐の後の喜びを現したものと解したい、と言い張る人があったとしても、ベエトオヴェンに、充分根拠ある異議を唱える事が出来たであろうか。無論気紛れで、シンフォニイは書けないだろうが、書いているシンフォニイを、田園と呼ぼうとする時は、気紛れが物を言う、少くとも田園という表題は、音楽が表現する何か言うべからざるものを暗示する記号に過ぎない、そういう次第のものではあるまいか。極く手短かな話でも、表現という問題は、もうかなり面倒な表情を呈します。
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expression の表現という訳語は、あまりうまい訳語とは思えませぬ。expression という言葉は元来|蜜柑《みかん》を潰して蜜柑水を作る様に、物を圧し潰して中身を出すという意味の言葉だ。若し芸術の表現の問題が、一般芸術上の浪漫主義の運動が起って来た時から、喧ましくなったという事に注意すれば expression という言葉のそういう意味合いを軽視するわけにはゆかぬという事が解る。古典派の時代は形式の時代であるのに対し、浪漫派の時代は表現の時代であると言えます。常に全体から個人を眺めていた時代、表現形式のうちに、個性が一様化されていた時代に、何を表現すべきかが、芸術家めいめいの問題になった筈がない。圧し潰して出す中身というものを意識しなかった時代から、自明な客観的形式を破って、動揺する主観を圧し出そうという時代に移る。形式の統制の下にあった主観が動き出し、何も彼も自分の力で創り出さねばならぬという、非常に難かしい時代に這入るのであります。ベエトオヴェンは、こういう時代の転回点に立った天才であった。青年期にフランス革命を経験した彼には、個人の権利と自由との思想は深く滲透していたのであるが、音楽を教会と宮廷から奪回して、自由な市民の公共の財産とする為には、単なる観念上の革命では足りぬ。全く新しい音楽を実際に創り出さねばならぬ。表現するとは、己れを圧し潰して中身を出す事だ、己れの脳漿《のうしよう》を搾《しぼ》る事だ、そういう意味合いでの芸術表現の問題に最初に出会い、この仕事を驚くほどの力で完成した人である。ここで忘れてならぬのは、ベエトオヴェンは、自己表現という問題を最初に明らかに自覚した音楽家であったが、自分の意志と才能との力で新しく創り出すところは、又万人の新しい宝であるという不抜の信仰を抱いていたという事です。個人の独創により、普遍的人間性を表現しようとする十九世紀理想主義の権化たる点に於いて、ベエトオヴェンは、文学の世界で言うならゲエテやバルザックに比すべき稀有な芸術家だったのであって、そういう人達が実現した具体的な範型を思わずに、芸術表現の問題を論じても仕方ないのであります。彼等が遺した芸術表現の範型は、まことに及び難い高所にあるのでありまして、その後浪漫派芸術家達は、いよいよ表現の問題に苦しむ様になったが、誰にも、これを突破して進む事は適《かな》わなかった。彼等の表現は寧ろ、この頂上から次第に顛落《てんらく》し、分裂して行った様に思われます。
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個性や主観の重視は、各人に特殊な心理や感情や思想の発見とその自覚を生む。己れの生活経験に関する、独特の解釈とか批判とかが必要になって来る。こういう仕事をやるのに最も便利な道具は、言う迄もなく言葉という道具です。従って、浪漫主義の運動は、先ず文学の上に開花したのであるが、やがて、音楽もこの影響を受けずにはいない。嘗て、音という普遍的な運動の中に溶け込んでいた音楽家の意識の最重要部が、言葉の攻撃を受けるという仕儀になった。こういう攻撃に堪えるには、余程の力が要る。今日から見てベエトオヴェンが古典派と浪漫派との間を結ぶ大天才と映るのも、音と言葉、音の運動の必然性が齎す美と、観念や思想に関する信念の生む真との間の驚くべき均衡を、私達は彼の作品に感ぜざるを得ないからであります。そしてこれがどんなに常人の及びもつかぬ力技であったかは、彼の後に来た豊かな才能を抱いた多くの浪漫派音楽家の苦しみを見れば、合点がゆくのである。ベエトオヴェンに於ける個性や主観の強調は、第九シンフォニイの「喜びへの讃歌」という信念に保証されている。ただこの信念の正しさは、ベエトオヴェンという一個の天才の力によって支えられていたのであって、嘗ての教会という社会的な組織の力によってではなかった。そういう処に、歴史というもののどうにもならぬ残酷な動きがあるのでありまして、彼の後に来たものは、既に失われたこの天才の力を再び取り上げようとして、その力の不足を歎ぜざるを得なかったという事になった。自己表現欲だけはいよいよ盛んになり、複雑なものになり、又、その表現手段としての和声的器楽の形式も豊富なものになったが、自己の行方は次第に見定め難くなり、各人が各人独特の幸福や不幸を抱いて孤立して行くという傾向を辿ったのであります。ゲエテが早くも気附いていた「浪漫主義という病気」に、芸術家達はかかった、いや、進んで、良心をもって、かかったのである。新しい芸術の表現形式が成立する為には、先ず何を措いても、己れの感情や心理の特異な使役、容易に人に語り難い意識や独白に関する自覚、そういうものが必要になって来るという事は、芸術家の仕事を大変苦しいものにします。必要は愛着を生む。人は苦しみを愛し始めます。この事は、ウェーバーやシュウベルトやメンデルスゾオンやシュウマンの早熟早世と決して無関係ではありますまい。
前に申した通り、浪漫派音楽の骨組は、音と言葉との相互関係、メンデルスゾオンが「無言歌」を作った様に、如何にして音楽を音の言葉として表現しようかという処にあった。これは、対象のない純粋な音の世界に、感情や心理という対象、つまり言葉によって最もよく限定出来る内的風景が現れ、その多様性を表現せんとする事が音楽の形式を決定する様になったと言えます。純粋な音楽の世界から、言わば文学的な音楽の世界への移行は、非常な速度で進んだ。どんな複雑な微妙な感動でも情熱でも表現出来るという、音楽の表現力の万能に関する信頼は、遂にワグネルに至って頂点に達した。彼の場合になると、シュウマンの詩的主題も、リストやベルリオーズの標題楽的主題も、もはや貧弱なものと見えた。主観の動きを表現する音楽の万能な力は、ワグネルにあっては、ある内容の表現力と考えるだけでは足らず、そういう音楽現象を、彼の言葉で言えば、音の「行為」Tat、合い集って、自ら一つの劇を演じている「行為」に外ならぬと観ずるに至ったのであります。この音の「行為」が舞台に乗らぬ筈はない。音という役者は、和声という演技を見せてくれる筈である。これがワグネルという野心的な天才の歌劇とか祝典劇とかの、殆ど本能的な動機です。彼は、これを「形象化された音楽の行為」と呼んだ。
ニイチェの死ぬ前年の作に「ニイチェ対ワグネル」というものがあります。「パルジファル」の哲学が、腹に据えかねたニイチェの苛立たしさを割引して見れば、ワグネルに於いて、空前の豊富さに達した音楽の表現力が露わにした音楽の危機について、これほど鋭い観察を下した人はない。彼は、ワグネルの達した頂に、「終末」と「デカダンス」とが、既に生れている事を看破したのである。ニイチェはワグネルを、「微小なるものの巨匠」と呼びます。彼に言わせればワグネルという人は、非常に苦しんだ音楽家だ、おし黙った悲惨に言葉を与え、苛《さいな》まれた魂の奥に音調を見出す自在な力を持っていた、「隠された苦痛、慰めのない理解、打明けぬ告別のおどおどした眼差し」、そんな音楽にもならぬものまで音楽にする驚くべき才を持っていた。要するに、これはニイチェ独特の表現であるが、「魂の持つ様々な、実に微細な顕微鏡的なもの、言わばその両棲動物的天性の鱗屑」を表現した巨匠だと言うのです。これも、いかにもニイチェらしい言い方だが、「芸術家は、しばしば自分の一番よく出来る事を知らないのである」。表現の自在を頼み過ぎたこの音楽家は、やたらに大きな壁画を作ろうとした。大袈裟な「救い」の哲学を、劇場で、腑抜けの賤民どもの前に拡げてみせた。まことに、己れを知らぬ野心家である、とニイチェは怒る。併し、ワグネルは自分には気附かず、隠れたまま、自分自身にも隠れたまま、ささやかな彼本来の傑作を、到る処にばらまいている。そして、成る程それは傑作ではあるが、決して健康な音楽とは言えぬ、そういうニイチェの観察には、非常に正しいものがある様に思われます。
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ニイチェが、「ワグネル論」を書いたのは、一八八八年であるが、ワグネルの大管絃楽が、浪漫派文学の中心地パリで爆発したのは、それより二十年も前の事であった。これは非常な事件だったので、人々はこの新音楽の応接に茫然たる有様だったが、そこに、詩の表現に関する一大啓示を読みとった詩人があった、それがボオドレエルであります。当時文学界に君臨していたのは、言う迄もなくヴィクトル・ユーゴーであって、彼の詩を音楽に譬《たと》えれば、あらゆる旋律、和声、転調を駆使した大管絃楽だったのであるが、ボオドレエルは、この浪漫派の巨匠から脱出する道を、譬え話ではない本物の大管絃楽に見附けた。ワグネルの音楽が、文学の侵入を受け、殆ど解体せんとする和声組織の上で、過剰な表現力を誇示していたという様な事は、二十年後に、ニイチェが言う事であって、ボオドレエルの関知する処ではない。音楽に於ける浪漫主義が、そこまで達した時、この先見の明ある詩人は、文学に於ける浪漫主義の巨匠の表現が、余りに文学的である事に気附いた。ワグネルの歌劇が実現してみせた数多の芸術の綜合的表現、その原動力としての音楽の驚くべき暗示力、これがボオドレエルを、最も動かしたものであって、言ってみれば、これは、音楽の雄弁によって詩の饒舌をはっきり自覚した、嘗て言葉の至り得なかった詩に於ける沈黙の領域に気附かせたという事だ。ニイチェが微小なるものの巨匠と巨大なるものの道化師を見た処に、ボオドレエルは、彼の言葉を借りれば、引力の繋縛から逃れ、強度の光の中を駆ける逸楽と認識とからなる恍惚を味わった。無論ワグネルの哲学なぞ問題ではなかった。これはまことに面白い事です。人は誰も自分の欲するものしか見ない様だ。いや、それよりも、芸術家にとって表現の問題は、単なる頭の問題ではない、音だとか言葉だとかいう扱う材料の性質に繋《つなが》る、それぞれの固有な技術の問題なのであります。
個人の自由や解放に関する主張だけでは、芸術家はどう仕様もない。浪漫派音楽家達が、大いに羽を延ばす事が出来たのも、楽器の発明改良というものが物を言ったのである。例えばピアノという楽器の急速な進歩による、その自在な表現力は、シュウマンの詩情の表現に関する喜びや苦しみと離す事が出来ない。更に言えば、ソナタ形式という、主観の運動の表現に適した動的な表現形式も、何も音楽家が頭で考え出したわけではない、単独で、数多の楽器を集合した効果が出せる様に改良されたピアノという楽器のメカニスムが齎した、音感覚の分析から生じて来るのであります。ワグネルの野心的な歌劇も、いよいよ豊富になった管絃楽の構成により、音の量感であれ、色彩感であれ、あらゆる和声の運動の実現が可能となるにつれて、この運動そのものが劇的な動きと感ぜられるに至ったという所から来ている。ある伝説を素材として、いかなる思想を表現しようかという彼の企図も、先ず基本和声が現れ、それが展開し、動揺し、不安定な状態に入り、最後に、和声は平衡を取戻さなければならぬという、和声音楽の構造の必然性に左右されるのであります。
併し、これは音楽の非常な強みであり、文学となると違って来ます。これは彼等の扱う根本の素材の相違から来る。私達の耳の構造は、噪音から楽音をはっきり区別して感受する様に出来ている。よく調律されたピアノの発する一音符は、耳に快適な音であるという理由で、既に独立した純粋な音楽の世界を表現しています。そればかりではない。物理学は、この音の計量的性質を明らかにして、音響学を可能にする、そこから、音の快感と音の計量との間に、はっきりした関係が成り立つ。ピアノという楽器は、音楽家の自己表現の道具であるとともに、物理学者の音響計量の実験器でもある。音という素材は、明瞭に分類され定義された実体として、音楽家の組合せを待つばかりである。こんな幸運には、詩人は出会っておりませぬ。音の単位というものがあるから音響学は成立するのだが、詩学を作ろうにも、詩的言語単位というものを得る事が出来ない。詩人は日常言語の世界という、驚くほど無秩序な素材の世界を泳ぎ廻っているのだが、その中から詩的言語というものを、はっきり認識するいかなる便利な能力も持っておりませぬ。音叉もメトロノームもない。詩作の一定の方法なり、詩の一定の形式なりを保証するものは、伝統という曖昧な力だけだ。詩の秩序は、常に言葉の本質的な無秩序の攻撃に曝《さら》されている。音楽の形式は変遷するが、それは音楽という固有な世界の中での秩序の移り変りである。つまり音楽は音楽たる事を止めはしないが、詩は、扱う素材の曖昧さの為に、詩でもないものに顛落する危険を自ら蔵しているものなのであります。
私達は、苦もなく自然主義に対して浪漫主義という事を言い、理性や観察を重んずる傾向に対し、情熱や想像力を尊重する傾向を考える。リアリストは、侮蔑的にロマンチストという言葉を使う。併し、音楽の上でも文学の上でも、浪漫主義の動きは、十八世紀の啓蒙思想という批評精神から生れたものであり、その性質は決して簡単なものではありませぬ。啓蒙時代の選良達は、伝統破壊者としては自由主義者であり、何を措いても理性を尊重し、信仰を否定する主知派であり、不合理な習慣による社会的権威を認めぬ点で個人主義者であり、自然主義者でもあった。かような複雑な性質が集って、自己批評、自己解放の一途を辿ったのである。外的な束縛を脱した自己が、自由に考えた処を、自由に感じた処を、そのまま表現する。従って、浪漫派文学の時代は、告白文学の時代であり、自由な告白には、約束の多い詩の形式より散文が適するから、これは又散文の時代を招来しました。文学の romantisme を宰領したのは、roman(小説)だったのであります。浪漫派の大詩人達は、すべて告白を、小説を書いた。ユーゴーの決定的な成功は「レ・ミゼラブル」によって定まったのである。つまり、これは、詩はその伝統的な形式の枠の中で、饒舌の為に平衡を失った内容で、はち切れんばかりになり、いつでも自由な散文形式に逸脱しようとする状態にあったという事であり、これが、ボオドレエルが感じた危機であります。では、彼が得た音楽からの啓示とはどんな性質のものであったか。
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もともと言葉と音楽とは一緒に人間に誕生したものである。一つの叫び声は一つの言葉です。リズムや旋律の全くない言葉を、私達は喋ろうにも喋れない。歌はそこから自然に発生した。古い民謡は、音楽でもあり詩でもある。而も歌う人は、両者の渾然たる統一のなかにあるのであるから、その統一さえ意識しませぬ。彼はただ歌を歌うのだ。ただ歌を歌うのであって、いかなる歌詞をいかなる音楽によって、表現しようかという様な問題はそこにはないのであります。
こういう問題が現れて来る為には、表現力に於いて、人声という楽器を遥かに凌ぐ楽器の出現が必要だった。人間の声にある男女の別や個人差を全く消し去って、常に同一な純粋な音を任意に発生させ、人声を使用しては到底成功|覚束《おぼつか》ない豊富な和音や、正確な迅速な転調が、易々と出来る様な楽器の出現、つまり、非人間的な音のメカニスムが発明され、それが人間に対立するという事が必要だったのであります。ここに非人間的楽器が、いかにして人間的内容を表現し得るかという問題が自覚される。勿論、一方、これに、時代思想は、個人の発見、自覚、内省という方向に動いて行き、表現すべき人間的内容に関する意識は、いよいよ複雑なものになり、到底、単純な表現手段では間に合わなくなって来るという事情が、照応しているのであります。
音楽家は、批判的精神によって複雑な自己を表現する必要に迫られた時、和声的楽器という素晴しい形式を発見した。これは前に申し上げた様に、楽音という素材に固有な性質から来たのである。これが、ボオドレエルがワグネルの音楽から直覚し驚嘆したものなのであって、彼は歌を聞いたのではない、管絃楽器の大建築を見たのだ。詩人は、長い間、同じ歌を歌っていた。彼の知っていた音楽は、人声という単純な楽器の発する音楽であった。詩の内容の複雑さが、単純な詩形に堪えられなくなった時、彼には器楽の発明の如き好都合な新しい表現形式が見つからぬままに、散文に走るより他はなかった。フランスの古典詩でも、十七世紀の後半には、もう散文化の傾向をとっていたのであります。これも前に述べた様に、言葉という素材に固有な性質から来ているのです。扨《さ》て、諸君には、もう充分御推察がいったであろうと思うが、ボオドレエルが決意した仕事は、詩形の改良という様な易しい事ではなかった。詩の世界の再建であった。音楽家の創作方法に倣って、詩という独立世界を構成する事であった。
ボオドレエルの「ワグネル論」のなかに、こういう言葉があります。「批評家が詩人になるという事は驚くべき事かも知れないが、一詩人が、自分のうちに一批評家を蔵しないという事は不可能である。私は詩人を、あらゆる批評家中の最上の批評家とみなす」。これは、次の様な意味になる。天賦の詩魂がなければ詩人ではないだろうが、そういうものの自然的展開が、詩である様な時は既に過ぎたのである。近代の精神力は、様々な文化の領域を目指して分化し、様々な様式を創り出す傾向にあるが、近代詩は、これに応ずる用意を欠いている。詩人のうちにいる批評家は、科学にも、歴史にも、道徳にもやたらに首をつっ込み、詩人の表現内容は多様になったが、詩人には何が可能かという問題にはまともに面接していない、散文でも表現可能な雑多の観念を平気で詩で扱っている。それというのも、言葉というものに関する批判的認識が徹底していないからだ。詩作とは日常言語のうちに、詩的言語を定立し、組織するという極めて精緻な知的技術であり、霊感と計量とを一致させようとする恐らく完了する事のない知的努力である。それが近代詩人が、自らの裡に批評家を蔵するという本当の意味であって、若し、かような詩作過程に参加している批評家を考えれば、それは最上の批評家と言えるであろう。恐らくそういう意味なのであります。
ボオドレエルは、こういう考えを既に、エドガア・ポオの詩論から得ていたのであるが、恐らくワグネルのうちに鳴り響いたものは、理想的詩論そのものの様に思えたでありましょう。「悪の華」には歴史も伝説も哲学もない、ただ詩という言い難い魅力が充満している。言葉はひたすら普通の言葉では現し難いものを現さんとしているのであります。音楽から影響されて、音楽的な詩を書いたという様な事ではない。音楽家が楽音を扱う様に言葉を扱わんとしているのである。言葉の持つ実用的な性質、行為の手段としての言葉、理解の道具としての言葉、そういうものから、いかにして楽音の如く鳴る感覚的実体としての言葉を掬《すく》い上げるか。そして、そういうものを如何にして或る諧調に再組織するか。それがつまりは、内的な感動を表現する諸条件を極めるという事だ。「悪の華」は、言葉に関するそういう驚くべき意識的な作業の成果であって、ボオドレエルを継ぐ象徴派詩人達の活動は、「悪の華」の影響なしには、到底考えられないのである。私は、ここで象徴派詩人達についてお話を進める気はない。ただ表現の問題で一番苦しんだのは彼等であり、この問題で、音楽はいつも彼等の仕事の範型となって現れていたという事を申し上げて置けばよいのであります。
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現代は散文の時代である。詩は散文の攻勢に殆ど堪えられない様になっている時代であるとは、皆様御承知の事ですが、この事を表現という問題から考えてみたら、どういう事になるか。これは一般に、あまり注意されていない様に思われます。前に expression という言葉は、元来物を圧し潰して中身を出すという意味合いの言葉であるという事を申し上げたが、散文では、そういう意味合いでの表現という言葉は、次第にその意味が薄弱になって来た、その代りに広い意味で、描写という言葉が使われ出したと考えてよかろうと思う。表現するのではない、描写するのである。言う迄もなく、こういう傾向は、実証主義の思想が齎した観察力の重視から来た。表現が描写に変ったという様な言い方は、まことに乱暴な様であるが、これは結局十九世紀小説の自然主義とか現実主義とかいう言葉よりは、はっきりした概念を語る事が出来るのではあるまいかと考えます。
人間を、事物を正確に観察し、それをそのまま写し出す。対象の世界は、いくらでも拡ります。観察をしている当人の主観はと言えば、これ又心理学の発達により、心理的世界という対象に変じます。観察の赴くところ、すべてのものが外的事物と変ずる。作者は圧し潰して中身を出そうにも、中身が見当らなくなる。極端に言えば、自己は観察力の中心となり、言葉は観察したものを伝達する記号となります。こういう傾向が非常に強くなった文学が、ナチュラリスムの小説とかレアリスムの小説とかだと考えると、そこで言葉というものの扱われ方が、詩人の場合とはまるで異っている事に気附く筈です。詩人は、ワグネルが音楽を音の行為 Tat と感じた様に、言葉を感覚的実体と感じ、その整調された運動が即ち詩というものだと感じている。無論言葉では音の様に事がうまくはこばないが、ともかく詩人はそういう事に努力している。従って詩では、言葉が意味として読者の頭脳に訴えるとともに、感覚として読者の生理に働きかける。つまり詩という現実の運動は、読者の全体を動かす、私達は私達の知性や感情や肉体が協力した詩的感動を以って、直接に詩に応ぜざるを得ない。これが詩の働きのレアリスムでありナチュラリスムである。対象の言葉による合理的な限定を根本とする描写尊重の小説では、言葉は実体を持っていない、専らわれわれの観念を刺戟する目的の為の記号である。小説のうちにある作者の意見や批評は勿論の事だが、小説のあらゆる描写は、直接に読者の頭脳に訴えるもので、そこに対象を見る様な錯覚を生じさせれば、それでよい。読者の頭だけが働く、肉体は休んでいます。或る人間が動いているのを見る様な錯覚に捕えられる、すると自分が動いている様な気がする、気がするだけで実際には動いていない、動いていないどころではない、息を殺して、身動きも出来ない様な状態を拵えないと、充分に自分が動いているという錯覚が得られない。小説を、夢中になって読んでいる人を、観察してみれば、直ぐわかる事です。彼は、事実、夢の中にいる。
小説家は、読者に現実の錯覚を起させる目的の為には、手段を選ばぬ様に見えます。詩語であれ、抽象語であれ、実用語であれ、何んでも構わぬ。彼は、言葉自体の魅力なぞは殆ど信用していない。言葉は彼等の対象ではない。対象は事物である。対象の錯覚を読者に与える為に、言葉という道具を動員するのである。だから、観察の深浅という事は勿論別だが、大小説も見聞を語る普通人の話と表現の上で本質的な違いはないと言えます。小説の読者は、小説の形式の美しさに心を引かれるのではない。描かれた事件や物語に身をまかせるのだ。活字が眼に這入れば、もう言葉は要らぬ。勝手に人生の方に歩き出す気になればよい。詩人は言葉の厳密な構成のなかに、人を閉じ込めようと努めますが、小説家は事物の描写や事件の演繹《えんえき》によって、文学形式という枠から読者を解放します。従って、ここに驚くほど無秩序な小説が現れたとして、作者が、無秩序は自分の責任ではない、私の忠実に描いた無秩序な社会生活の責任であると言ったとしても、彼の弁解に全く道理がないとは言えないのであります。私達が理解している近代小説には、すべてそういう強い傾向が現れている。
無論、私は極端なお話をしているので、実際には、詩と散文とがはっきり区別されて世に現れるものではない。ボオドレエルでさえ、ある自作には「散文詩」という名を与えているのですし、全く詩の性質を含まぬ小説というものもない。併し、傾向としては、以上述べた様な事は、疑いのない処なのであって、一般の情勢は内的なものに自ら形を与えるという意味での表現というものから、外的なものをそのまま写し出す描写というものに進んで行った。ゾラのナチュラリスムが現れる頃には、絵画の方でも描写の極端なものとしてアンプレッショニスムが現れると言った様なものである。そういう芸術家達が、どうして外的な真実を写し出す事に専念し、写し出す主体の問題に心を労しなかったかというと、これは当時の科学万能の思想の裏附けに依るのである。人格的意識は、事物のエピフェノメノン、附帯現象であるという科学的態度が、知らず識らずの間に、芸術家の制作態度の裡に深く滲透していたからであります。自己解放の意志が、表現という言葉を生んだのだが、解放された自己の表現は、観察力の絶え間ない導入によって、外的事物のうちに解消して行ったのである。
言う迄もなく反動というものはやって来る。科学の進歩は、決して停止しやしないが、科学の思想、科学的真理の解釈の仕方は変って来る。十九世紀に科学思想が非常な成功をかち得たというのも、科学が人間の正しい思考の典型であると考え、思想のシステムの完全な展開は、事物のシステムに一致するという信仰によったのであるが、そういう独断的な考えも科学の進歩に伴い、十九世紀末には、科学者自身の間から否定される様になりました。科学の成立する過程が、生得の観念からの厳密な演繹と必ずしも一致しないという事は、科学上の諸発見によって、次第に明らかにならざるを得なかったのでありますが、遂には、両者は本質的に異なるものだ、科学の成立条件は、人間の意志活動、或いは人間の有機的構造や環境の偶然と離す事は出来ぬ、という、例えばポアンカレの様な考えが現れて来たのであります。嘗て真理と言えば、科学的真理の異名の如き観を呈していたが、もうそんな事では駄目で、言わば、真理というものの次元が変って来る時が来た。所謂合理主義、主知主義の哲学に疑いを抱いた思想家のうちで最も影響力を持ち、又事実最も精緻な哲学的表現をした思想家は、ベルグソンであります。ここではお話に必要な事だけを申し上げるのだが、ベルグソンの哲学は、直観主義とか反知性主義とか呼ばれているが、そういう哲学の一派としての呼称は、大して意味がないのでありまして、彼の思想の根幹は、哲学界からはみ出して広く一般の人心を動かした所のものにある、即ち、平たく言えば、科学思想によって危機に瀕した人格の尊厳を哲学的に救助したというところにあるのであります。人間の内面性の擁護、観察によって外部に捕えた真理を、内観によって、生きる緊張の裡に奪回するという処にあった。そういう反動期を経た今日では、小説家も、もはや往年の自然主義、写実主義の信奉者ではなくなっている。という事は、浪漫派文学が齎した自我の問題の重みを、又新しい形でめいめいが負わねばならない仕儀に立ち至っている。科学思想は、もはや彼等を丸め込む力を失ったかも知れぬ。その代り組織化された政治思想のメカニスムが、新しい強い敵手として、現れかけているかも知れぬ。それは兎も角、歴史の上に来る反動というものは、決して過去の重荷を取除いてくれるものではない。私達は一ったん得たものを捨て去る事は出来ない様に作られている。私達は、浪漫主義の運動は、いかにも大きな運動であった、と今更の様に思うのであります。これに反抗した様に見えた様々の運動も、この大運動の生んだ子供だった。文学の世界でも、ピアノはやはり発明されたのである。科学思想も、作品を創らねばならぬ作家の側から言えば、新しい観念形態として利用すべきピアノの如きものであったに相違ない。文学に於ける科学思想のメカニスムも、音楽に於ける和声形式のメカニスムも、もともと分析の原理に発しているのであり、その拡大は当然解体による拡大であった。ニイチェは、早くもワグネルにその危機を見た。分散した音を、いかにして再び単音の充実した一元性に戻そうかという苦しみは、今日の散文家が、何処に新しい詩という故郷を発見すべきかという苦しみに似ています。一ったん得たものを、捨て去る事は出来ない苦しみである。併し、表現の問題を、そんなに広汎な範囲まで拡げるわけにはいきませぬ。
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ボオドレエル以後の象徴派詩人達の運動は、文学の散文化による自我の拡散に抗して、個性的な内的な現実を守りつづけて来た運動だと言えます。浪漫派文学は、先ず自己告白によって口火を切った。偽りの外的形式を否定して真の内容が吐露したかった。それはいい。ところが、吐露する形式はどういう事にならねばならぬか。そういう事まで考える余裕はなかったのである。ただ何も彼も吐き出して了いたかった。その自由と無秩序との裡に、せっかく現そうとした自己の姿が迷い込んで了ったのである。この告白の嵐に、一つの大きな秩序を与えたものが、合理的な観察態度なのである。ところが、この態度が齎した正確な描写という手法は、文学の新しい秩序を創り出したというより、寧ろ文学によって事物の秩序を明るみに出した。告白の嵐の中に道を失った自我は、観察機械たる自己を発見するという始末になった。これは発見とは言えまい。新しい型の紛失です。そこで、こういう問題が現れます。一般の趨勢《すうせい》に抗して、象徴派の詩人達は、内的現実を守った、つまり自己表現の問題から眼を離さなかったのであるが、彼等が詩人の本能から感得していた自己とは、告白によっても現れないし、描写の対象となる様なものでもなかった。自己とは詩魂の事である。それは representation(明示)によって語る事は出来ない、詩という象徴 symbole だけが明かす事が出来る。併し symbole という言葉は曖昧です。ヴァレリイは、サンボリスト達の運動は、音楽からその富を奪回しようとした一群の詩人の運動と定義した方がいいと言っている。強いて symbole という言葉を使うなら、その最も古い意味合いで、詩人は自ら創り出した詩という動かす事の出来ぬ割符に、日常自らもはっきりとは自覚しない詩魂という深くかくれた自己の姿の割符がぴったり合うのを見て驚く、そういう事が詩人にはやりたいのである。これはつまる処、詩は詩しか表現しない、そういう風に詩作したいという事だ。これは、まさしく音楽に固有な富である。
ボオドレエルが奪回しようと思ったのは、音楽の富であって、文学化された音楽の富ではない。音による言葉とは比喩である。浪漫派音楽は、詩的とか劇的とかいう大きな比喩の中を動いていたのだと言えます。シュウマンは古代人の歌を聞いていたのではない、この分析的な意識家はピアノの前に坐って考え込んでいたのである。詩と音楽との相互関係という思想とは、ピアノの魔術の様な表現力の計量模索の果てを形容する言葉に過ぎない。ワグネルが、舞台の上に音楽を形象化したという事も、和声的器楽の厖大《ぼうだい》なメカニスムの正確極まる絶対的な把握、そこに生じた音楽への溢れる様な信頼の情を語ると考えるのが、正しいであろう。彼は、何も形と音とを結合しようと思ったのではない。音楽は、いつも到る処で、純粋だったのであります。
最初に、音楽は、どんな気紛れな解釈でも平気で呑み込む様に思われるというお話をした。だが、最も無秩序な不純な散文という形式は、又、最も読者の気紛れな解釈に堪えるでしょう。それを考えれば、音楽が聞く人の気紛れな解釈に堪えるのは、裏返してみれば音楽の異常な純粋さを証するものだと直ぐ気が附く筈です。音があらゆる種類の感情を暗示する力があるという事は、例えばCの音はCの音ただそれだけを明示しているという事と同じ事です。人々が勝手な感情を、そのまま音楽に映し、音楽がたしかにそういう感情を表現していると考えるのもまことに自然な事です。ただ少々自然過ぎる、でなければ表現という言葉が曖昧過ぎる。犬が或る表情をする時、ダアウィンは、犬が喜びを表現したと考える。私は笑った時に、おかしさを表現したと考える。併し芸術家にとっては、それではただ生活しているだけの事であって、表現しているのではない。生活しているだけでは足りぬと信ずる処に表現が現れる。表現とは認識なのであり自覚なのである。いかに生きているかを自覚しようとする意志的な意識的な作業なのであり、引いては、いかに生くべきかの実験なのであります。こういうところで、生活と表現とは無関係ではないが、一応の断絶がある。悲しい生活の明瞭な自覚はもう悲しいものとは言えますまい。人間は苦しい生活から、喜びの歌を創造し得るのである。芸術の成立を歴史的に社会学的に解明しようとする思想は、表現という言葉の持つ意志的な意味を台無しにして了った。環境の力はいかにも大きいが、現に在る環境には満足出来ない、いつもこれを超えようとするのが精神の最大の特徴であります。
音楽を聞くとは、その暗示力に酔う事ではありますまい。誰でも酔う事から始めるものだ。やがて、それなら酒に酔う方が早道だと悟るのです。音楽はただ聞えて来るものではない、聞こうと努めるものだ。と言うのは、作者の表現せんとする意志に近附いて行く喜びなのです。どういう風に近附いて行くか。これは耳を澄ますより外はない、耳の修練であって、頭ではどうにもならぬ事であります。現代人は、散文の氾濫《はんらん》のなかにあって、頭脳的錯覚にかけては、皆達人になっております。一方強い刺戟を享楽して感覚の陶酔を求めているので、耳を澄ますという事も難かしい事になっている。黙って、どれだけの音を自分の耳は聞き分けているか、自ら自分の耳に問うという様な忍耐強い修練をやる人は少くなっている。併し、そこに一切があるのだ。例えば、私が、梅原龍三郎氏と一緒に同じ絵を黙って見ています。二人とも言葉では、いい絵だと同じ事を言います。併し、恐らく梅原氏の眼玉には、私の眼玉に映る何十倍かの色彩が現に映っている筈であるという事を考えざるを得ない。そこに一切がある。これは恐ろしい事なのであります。耳は馬鹿でも、音楽について、悧巧に語る事も出来る。つまり音楽を小説の様に読んでいる人は、意外に多いものであります。
耳を澄ますとは、音楽の暗示する空想の雲をくぐって、音楽の明示する音を、絶対的な正確さで捕えるという事だ。私達のうちに、一種の無心が生じ、そのなかを秩序整然たる音の運動が充《み》たします。空想の余地はない。音は耳になり耳は精神になる。そういう純粋な音楽の表現を捕えて了えば、音楽に表題がなくても少しも構わない。又、あっても差支えはない。音楽の美しさに驚嘆するとは、自分の耳の能力に驚嘆する事だ、そしてそれは自分の精神の力に今更の様に驚く事だ。空想的な、不安な、偶然な日常の自我が捨てられ、音楽の必然性に応ずるもう一つの自我を信ずる様に、私達は誘われるのです。これは音楽家が表現しようとする意志を或いは行為を模倣する事である。音楽を聞いて踊る子供は、音楽の凡庸な解説者より遥かに正しいのであります。ベエトオヴェンの最後の絃楽四重奏曲の最後の楽章に「困難な解決」という題が付けられている事は、よく知られています。最初のグラーヴェの主題には「そうでなければならないか」とある。彼は、次のアレグロの主題には「そうでなければならぬ」と書いた。表現するとは解決する事です。解決するとは、形を創り出す事です。グラーヴェの主題の形を創り出さねば、「そうでなければならないか」という問いさえ無意味なのであります。圧し潰して中身を出す。中身とは何か。恐らく音という実体が映し出す虚像に過ぎまい。それほど音楽家は、楽音という美しい実在を深く信じているものなのであります。
[#地付き](昭和二十五年五月、「展望」)
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私の人生観
この前ここでお話を依頼された時、「私の人生観」という課題を与えられました。急病でお約束を果せず、主催者の方に御迷惑をかけたが、私としては、講演などするより、勝手に独りで病気でもしている方が余程気が楽だった。今度は、不幸にして急病にもならず、どうも大変重ッ苦しい気持ちで、こうしてここに立たされているわけであります。
どうも私は講演というものを好まない。だから、今迄に随分講演はしましたが、自分で進んでやった事は先ずありませぬ。みんな世間の義理とか人情とかの関係で止むなくやったものばかりです。
私が講演というものを好まぬ理由は、非常に簡単でして、それは、講演というものの価値をあまり信用出来ぬからです。自分の本当に言いたい事は、講演という形式では現す事が出来ない、と考えているからです。無論これは、私の勝手な言い分である。私の人生観から割出した結論である。政治家は、演説ではとうてい己れの政見は発表出来ないなどとは考えない。ヒットラアの様な演説気違いになりますと、雄弁術というものが発達すれば書くという様な陳腐な表現形式は、将来大打撃を受けるであろうという様な事を「我が闘争」の中で言っております。人によって考えはいろいろであるが、まあ職業というものが別なのだから、それでよろしいのでしょう。私は、書くのが職業だから、この職業に、自分の喜びも悲しみも託して、この職業に深入りしております。深入りしてみると、仕事の中に、自ら一種職業の秘密とでも言うべきものが現れて来るのを感じて来る。あらゆる専門家の特権であります。秘密と申しても、無論これは公開したくないという意味の秘密ではない、公開が不可能なのだ。人には全く通じ様もない或るものなのだ。それどころか、自分にもはっきりしたものではないかも知れぬ。ともかく、私は、自分の職業の命ずる特殊な具体的技術のなかに、そのなかだけに、私の考え方、私の感じ方、要するに私の生きる流儀を感得している。かような意識が職業に対する愛着であります。
天職という言葉がある。若し天という言葉を、自分の職業に対していよいよ深まって行く意識的な愛着の極限概念と解するなら、これは正しい立派な言葉であります。今日天職という様な言葉がもはや陳腐に聞えるのは、今日では様々な事情から、人が自分の一切の喜びや悲しみを託して悔いぬ職業を見附ける事が大変困難になったので、多くの人が職業のなかに人間の目的を発見する事を諦めて了ったからです。これは悲しむべき事であります。
そういう様な次第で、私は書きたい主題は沢山持っているが、進んで喋りたい事など何《な》にもない。喋って済ませる事は、喋って済ますが、喋る事ではどうしても現れて来ない思想というものがあって、これが文章という言葉の特殊な組合せを要求するからであります。若し私に人生観というものがあるとすれば、そちらの方に現れざるを得ない。従って、私の人生観というものをまともにお話しする事は、うまく行く筈がないから、皆が使っている人生観という言葉についてお話ししたい。
人生観人生観と解り切った様に言っているが、本当はどういう意味合いの言葉なのだろうか。人生という言葉も観という言葉も、非常に古い言葉であるが、両方くっついて人生観というのは、古い事ではありますまい。少くとも、この言葉が普通に使われ出したのは、ごく近頃の事で、やはり西洋の近代思想が這入って来て、人生に対する新しい見方とか、考え方とかが起った時から、人生観という言葉も盛んに使われる様になったのだと思う。併しそれかと言って、人生観に相当する言葉は外国にはない様です。或る人の説によると、オイケンの Lebensanschauungen が人生観と訳されて以来、人生観という言葉が広く使われる様になったと言うが、Leben は人生だが Anschauung という言葉は観とは余程違う様だ。観という言葉には日本人独特の語感があるからであります。
この言葉に非常な価値をおいたのは、言う迄もなく仏教の思想でありましょう。私は仏教の専門家ではないから、常識的なお話しか出来ぬし、折に触れ読み囓《かじ》った処から判断するから、どうしても得手勝手な考えを、お話しする事になると思うが、その点は、御勘弁願いたい。
観というのは見るという意味であるが、そこいらのものが、電車だとか、犬ころだとか、そんなものがやたらに見えたところで仕方がない、極楽浄土が見えて来なければいけない。観無量寿経というお経に、十六観というものが説かれております。それによりますと極楽浄土というものは、空想するものではない。まざまざと観《み》えて来るものだという。観るという事には順序があり、順序を踏んで観る修練を積めば当然観えて来るものだと説くのであります。先ず日想観とか水想観とかいうものから始める。日輪に想いを凝らせば、太陽が没しても心には太陽の姿が残るであろう。清冽珠の如き水を想えば、やがて極楽の宝の池の清澄な水が心に映じて来るであろう。水底にきらめく、色とりどりの砂の一粒一粒も見えて来る。池には七宝の蓮華が咲き乱れ、その数六十億、その一つ一つの葉を見れば、八万四千の葉脈が走り、八万四千の光を発しておる、という具合にやって行って、今度は、自分が蓮華の上に坐っていると想え、蓮華合する想を作《な》し、蓮華開く想を作せ、すると虚空に仏菩薩が遍満する有様を観るだろう、と言うのです。文学的に見てもなかなか美しいお経でありますが、もともとこのお経は、或る絶望した女性の為に、仏が平易に説かれたものという事になっているので、お釈迦様が菩提樹の下で悟りを開いたのはこんな方法ではなかっただろう、禅観というもっと哲学的な観法によって覚者となったと言われているが、しかしこの観という意味合いは恐らく同じ事であろうと思われます。禅というのは考える、思惟する、という意味だ、禅観というのは思惟するところを眼で観るという事になる。だから仏教でいう観法とは単なる認識論ではないのでありまして、人間の深い認識では、考える事と見る事とが同じにならねばならぬ、そういう身心相応した認識に達する為には、又身心相応した工夫を要する。そういう工夫を観法というと解してよかろうかと思われます。
禅宗というものが宋から這入って来て拡った後は、禅観の観の方を略して、禅という様になったが、それ以前の日本の仏教では、寧ろ禅の方を略して観と言っていた、止観と言っていた様である。止という言葉には強い意味はないそうです。観をする為に、心を静かにする、観をする為の心の準備なのであって、例えば、法華経の行者が山にこもる、都にいては心が散って雑念を生じ易いから山に行く、平たく言えばそれが止であります。
止観の法が伝来したのは余程古い事です、天平時代である。唐招提寺に行かれた方は、開基|鑑真《がんじん》の肖像を御覧になっているでしょうが、あの人が支那から伝えたものだそうです。あの坐像は、肖像彫刻として比類なく見事な出来で、勿論日本一でしょうが、世界一かも知れぬと思われる。瞑目端坐して微笑しているが、実はこの和尚様は眼が見えない。日本の学問僧の懇望によって、日本における仏教の布教を思い立ったのであるが、暴風だとかその他いろいろの障碍の為に五回も渡航を失敗している、揚州から薩摩まで来るのに十二年もかかっている。その間に日本の学問僧も死に先方の弟子も死に、和尚も船が南方に流された時病気にかかって失明された。あの国宝の坐像は、そういう坐像であります。彼が招来した摩訶《まか》止観は、今日では、もう死語と化しているかも知れないが、坐像は生きております。あの坐像が私達に与える感銘は、私達が止観というものについて、何か肝腎なものを感得している証拠ではあるまいか。美術品というものは、まことに不思議な作用をするものです。
これは絵であるが、坊様の坐像で、もう一つ私の非常に好きなものがあります。これも日本一だと言っていいかも知れませんが、それは高山寺にある明恵《みようえ》上人の像である。御覧になった方も多かろうと思いますが、一面に松林が描かれ、坊様が木の股の恰好なところへチョコンと乗って坐禅を組んでいる。珠数も香炉も木の枝にぶら下っていて、小鳥が飛びかい、木鼠が遊んでいる。まことに穏やかな美しい、又異様な精神力が奥の方に隠れている様な絵であります。この絵は空想画ではないので、上人の伝記を読むと、ほぼこの通りの坊様であった事がわかる。この絵は高山寺の裏山を描いたものだが、木の股でも木の空洞《うろ》でも石の上でも、坐禅をするに恰好なところには、昼でも夜でも坐っていた坊様です。この裏山で、「面一尺ともある石に、我坐せずといふ石、よもあらじ」と語ったと伝記は言っております。この坊様は戯れに自ら無耳法師と言っていた如く、絵では少々横を向いているから解らないが、向う側の耳はないのです。未だ二十歳くらいの頃ですが、こんな安穏な修行をしていては、到底真智を得る事は出来ぬ、と眼を抉《えぐ》ろうとした、併し眼がつぶれたら経文を読むことが出来ぬ、では鼻にしようかと考えたが、しまりなく鼻水がたれては経文を汚すかも知れない、耳なら穴さえあれば仔細はないと考えて、耳を切りました。そういう烈しい気性の人でしたが、兼好が徒然草で書いている有名な阿字の逸話の様に、子供の様に天真爛漫な人であった。よく独りで石をひろっては、石打をしていたという、石打というのはどういう遊びかはっきりわからないが、無論石蹴りの様な子供の遊びだったでしょう。何故そんな事をするかときかれて、難かしい経文が心に浮んで来てたまらぬからだ、と答えた。若い頃から、天竺《てんじく》に行ってお釈迦様の跡を弔いたいという熱望を持っていたが、中年になってからこれを決行しようとしました。いろいろ旧記を調べて印度行の旅程を立てた。この旅程表は今も高山寺に遺っているそうですが、長安の都から天竺の王舎城まで八千三百三十三里十二町、十二町まで調べあげた、一日に八里では何日、七里では何日、五里ずつ歩けば五年目の何月何日|午《うま》の刻に向うへつく予定である、と書いてある。旅装までととのえたが、春日大明神の夢のお告げがあって、思いとどまった。まあ思いとどまってよかった。行ったら虎にでも喰われるのが落ちだったでしょう。天竺に行けなくなって口惜しいので、紀州の鷹島という島で坐禅をした時、海岸の石を一つひろって来た、天竺の水もこの海岸に通じている、仏跡を洗った水はこの磯辺の石も洗っている筈である。してみれば、この石も仏跡の形見である、と言って生涯肌身を離さず愛翫《あいがん》した。死ぬ時には、小石に向って辞世の歌を詠んでおります。「我ナクテ後ニシヌバン人ナクバ飛ンデカヘレネ鷹島ノ石」というのです。屹度《きつと》石は飛んで帰りたかったに違いなかったろうが、飛んで帰れず、今も猶高山寺に止っている。何もおかしな話ではない。考えようによっては、人間とても同じ事だ。人間は何んと人間らしからぬ沢山の望みを抱き、とどのつまりは何んとただの人間で止まる事でしょうか。専門歌人が、こんな歌はつまらぬなどと言っても作者の人格に想いを致さねば意味のない事です。この人は実に無邪気な歌を詠んでいる、序でに一つあげておきましょうか。「マメノコノ中ナルモチヰトミユルカナ白雲カカル山ノ端《は》ノ月」
石に向って歌をよむなどという事は、この坊様には、朝飯前の事で、島に手紙を出しております。これも紀州にある苅磨島という、しばらくの間修行していた島なのであるが、その島に手紙を出した、宛名は島殿とある。御無沙汰をしているが其後お変りはないか、桜の頃になったが、貴方の処の桜が思い出されて、恋慕の情止み難いものがある。物言わぬ桜に文をやれば物狂いと世人は言うだろう。ここで上人は面白い言葉を使っている、「非分ノ世間ノ振舞ニ同ズル程ニ、乍[#レ]思ツヽミテ候也」、非分というのは物の道理を弁《わきま》えぬという意味だ、どうせ理窟のわからん世間だ、仕方がないと我慢していた、というのです。処が今はもう我慢がならぬ、「物狂ハシク思ハン人」こそ本当の友達にすべきである。衆生を摂護する身で傍の友の心を守らぬとは心ないわざである、|不 取《とりあえず》敢御機嫌を伺う事とする、「併期[#二]後信[#一]候、恐惶敬白」――弟子が驚いて、誰方《どなた》にお渡しすればよいかと聞くと、何、島の何処かに置いてくればよいと答えた。そういう伝記を心に思い浮べて、明恵上人の画像を見ると、この大自然をわがものとした、いかにも美しい人間像が、観というものについて、諸君に言葉以上のものを伝える筈であります。
明恵上人の大先輩に恵心僧都《えしんそうず》という人があった。仏教の思想がわれわれ日本人の生活の表現である美術や文学のなかに本当に滲透して来たのは、平安も中期以後の事でありますが、恵心はこの頃の代表的思想家であって、この頃の日本の文化を知る為には、この人の主著「往生要集」を読む事が、どうしても必要である。仕方がないから読むには読むが、何分にも浅学であるから、この中に充満した死語を生かして読むだけの力がない。しかしそれにしても、この書に現れた地獄や極楽の有様を叙したところなどは、古い教典の引用を巧みに塩梅《あんばい》したものですが、異様に鮮明な印象を与える一種の名文であって、著者の観法というものの強さ烈しさが感じられる様に思われるものであります。又、この人は立派な仏画を遺している。申し上げるまでもないが、高野山にある、あの驚くべき二十五菩薩|来迎図《らいごうず》であります。阿弥陀様が、管絃歌舞の聖衆《しようじゆ》を引連れて、光り輝く雲に乗り、欣求《ごんぐ》浄土を念ずる臨終の人間の為に来迎する。これは所謂来迎芸術というもののうちで最も優れたものであるが、絵の構想は、微細にわたって「往生要集」の中に記されている。即ち恵心の心にまざまざと映じたがままの図に相違ないのであります。今日でも、死人は北枕に寝かすという風習はあるが、当時の人は、臨終の覚悟をする為に北枕して寝たのです。顔を西の方に向け、阿弥陀様の像を安置して、阿弥陀様の左の手に五色の糸をかけ、その端を握って浄土の観を修したのである。意識不明の患者にカンフルを注射するのと比べると余程高級な風習です。来迎図というものが盛んに描かれる様になって、仏像の代りに来迎図をかける様になった。恵心僧都は、この種の来迎図の創始者という事になっておりますが、まあこれは伝説に過ぎないかも知れない、恐らく、今はもう名も伝わらぬ傑《すぐ》れた絵仏師の作でありましょう。絵仏師というのは僧籍にある絵師をいうのですが、これは、僧でありながらたまたま画技にも長じていた人という意味ではないので、当時は僧籍にある事は絵師として大成するには大事な条件であった。又逆に密教の場合などでは、画技に長じている事は僧となる為の殆ど必須の条件だったのであります。まあ、当時の絵仏師の実際の状態がどういうものであったかという問題になると難かしい事になるでしょうが、ああいう優れた来迎図が、僧と絵師との根本的な一致、観法即ち画法であったという事を明らかに語っているところに注意したいのであります。申すまでもなく画家は、眼が生命であるから、見るという事については、常人の思い及ばぬ深い細かい工夫を凝らしているものであって、遂に視力というものが、そのまま理論の力でもあり思想の力でもある、という自覚に到達しなければならぬ筈のものである。この様な認識の性質は、観法の性質に既にある事は、前にお話しした通りでありますが、この画家の自覚というものは、絵をかくという行為を離れては意味をなさぬというところに注意すると、観という言葉に又新しい意味合いが生じて来るのである。絵かきが美を認識するとは、即ち美を創り出す事である。同様な事が観法にもある。念仏と見仏とは同じ事である。仏というアイディアを持っただけでは駄目だ、それが体験出来る様にならなくてはいけない、という事は、日常坐臥、己れの体験に即して仏を現さねばならぬ、創らねばならぬという事になる。そういう意味合いが観という言葉にはあると解してよかろうと思うのです。
源平の大乱による藤原貴族の没落は、一般の生活人にも非常に暮し難《にく》い時代をもたらしたのですが、この機に当って、法然や親鸞の宗教改革運動が起った事は周知の事である。こういう新宗教は、末法の世に生れた凡愚の身で、自力に頼って見仏に至るなどとは不可解不可能な事だとします。「もし我等当時の眼に仏を見ば魔なりとしるべし」という考えであって、この宗教運動が否定したものは、これまでの仏教の、単に審美的傾向という様なものではなく、自力を頼んだ観法そのもの、人間の自己表現そのもの、仏のなかに自己を見るという様な高級な自己表現さえも、魔道として痛烈に否定し去ったのであります。時代相を看破した天才等の頭に宿ったかような思想は、勿論、形式化した宗教に新しい生命を吹き込んだのであるが、こういう厳しい純粋な宗教的智慧は、美術の誕生には甚だ不都合なものだ。そもそもの動機の上から審美的智慧とは反目するものである。事実、新宗教は、非常な勢いで拡ったが、殆ど創始者の深い思想には関係ない勢いで拡ったが、優れた美術は今日に至るまで遂に生み出さなかったのであります。併し、文化の流れというものは、複雑なものであって、観法の伝統は、新しく宋から這入った禅宗が受けつぐ事になりました。禅宗は、御承知の様に「|直指人心見性 成仏《じきしにんしんけんしようじようぶつ》」と言って、徹底した自己観察の道を行くのであります。「不立《ふりゆう》文字」という事を強調するが、これは、言語表現の難かしさに関する異常に強い意識を表明したものであって、自己表現の否定をいうのではない。言語道断の境に至って、はじめて本当の言語が生れるという、甚だ贅沢な自己表現欲を語っているものだと考えられる。教理論として形式化したお釈迦様の菩提樹の下の禅観に、新しい命を吹き込んだこの運動は、当初の緊張状態が過ぎて次第にゆとりが出て来る様になりますと、当然その内部から芸術表現を生む様になる。それが、わが国の美術史の上で非常に大切な室町の水墨画となって完成するのであります。画家はやはり僧籍にあった。画僧といわれているのがそれである。今日から考えると、余程妙な事に思われますが、こういう画僧達は、ただただ舶載された宋元画、これを画本と言っていたが、この画本だけを虎の子にしていた。誰も支那に行った事はない。実地にモデルに出会った事はない。行ったのは雪舟くらいなものでしょう。それも僅か一年余りの旅行です。画論などというものも当時どれだけ行なわれていたか、甚だ覚束ないもので、ただめいめい勝手に画本を賞玩し、模倣して、遂にあれだけの画業をなした。これは驚くべき事でありまして、何処の国のいつの時代の風景画家にも、この様な芸当をやり遂げたものはないのであります。彼等の画業と、異国の先輩達の画業との優劣が問題なのではない。山水は徒らに外部に存するのではない、寧ろ山水は胸中にあるのだ、という確信がもし彼等になかったなら、何事も起り得なかったというところが肝要なのである。彼等には画筆とともに禅家の観法の工夫があった。画筆をとって写す事の出来る自然というモデルが眼前にチラチラしているなどという事は何事でもない。自然観とは真如感という事である。真如という言葉は、かくの如く在るという意味です。何とも名附け様のないかくの如く在るものが、われわれを取巻いている。われわれの皮膚に触れ、われわれに血を通わせてくるほど、しっくり取巻いているのであって、何処其処の山が見えたり、何処其処の川を眺めるという様な事ではない。これを悟るには、精神の烈しい工夫を要するのであって、支那に出かけて行けば、確かに、支那の山水に出会えるというだけの話であれば、日本にいれば日本の山水にしか出会えないでしょう。それは自然という「かくの如く在るもの」に出会う事ではない。要するに、室町水墨画の優れたものは、自然に対する人間の根本の態度の透徹は、外的条件の如何にかかわらず、いかなるものを表現し得るかという事を、明らかに語っているのであります。
観法というものが、文学の世界にも深く這入って行ったのも無論の事であって、その著しい例が西行であります。前にお話しした明恵上人の伝記を書いた喜海という人の伝えるところによると、或る時西行がこういう意味の事を明恵上人に語ったのを、傍で聞いた事があるという。自分が歌を詠むのは、遥かに尋常とは異っている。月も花も郭公も雪も凡そ相ある所、皆是虚妄ならざるはない。分り切った事である。であるから、花を詠んでも花と思った事もなければ、月を詠ずるが月だと思った事はない、「虚空ノ如クナル心ノ上ニオイテ、種々ノ風情ヲ色ドルト云ヘドモ更ニ蹤跡《しようせき》ナシ」と言ったという。歌を詠んでいるのではない、秘密の真言を唱えているのだ、歌によって法を得ているのだ。さような次第で歌と言っても、ただ縁に随い興に随い詠み置いたまでのものである、そう言ったそうです。
仏教の思想を言うものは、誰でも一切は空であるという、空の思想を言います。成る程、大乗仏教思想の発展の基礎となった、最も古い教典である般若経には、空観というものが説かれている。併し、仏教には、空の思想があると言ってみても、例えばキリスト教には恩寵の思想がある、というのと同じように、一向はじまらぬ事である。観という言葉の意味合いは、今迄段々お話しした通り、これは仏教者の根本の行為であり体験である。キリスト教者にとっては、祈りというものがそれに当ると考えてもよかろう。空と観ずるのであり、恩寵を祈るのである。観ずる者、祈る者の独特の体験を離れて、そういう概念を云々すると意味をなさなくなる。という処が難かしい処です。西行の歌には諸行無常の思想がある、一切空の思想がある。そういう風に言うなら、そんなものは、当時の歌に、何処にでも見附かるだろう。一切は空だと承知した歌人は、当時沢山いただろうが、空を観ずる力量にはピンからキリまであって、その力量の程は、歌という形にはっきり現れるから誤魔化しが利かぬ。空の問題にどれほど深入りしているかを自他に証する為には、自分の空を創り出してみなければならぬ。こうなると、問題は、尋常の思想の問題とは自ら異ったものになる筈である。般若の有名な真空妙有、まことの空はたえなる有であるという言い方は、そういう消息を語っていると考えてよい様に思われます。西行の言葉を借りれば、虚空の如くなる心の上において、種々の風情を色どるという事がなければならぬという事になる。
諸行無常という言葉も、誤解されている様です。現代人だから誤解するのではない。昔から誤解されていた。平家物語にある様に「おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢の如し」そういう風に、つまり「盛者必衰のことわりを示す」ものと誤解されて来た。太田道灌が未だ若い頃、何事につけ心おごれる様があったのを、父親が苦が苦がしく思い、おごれる人も久しからず、と書いて与えたところが、道灌は、早速筆をとって、横に、おごらざる人も久しからず、と書いたという逸話があります。
この逸話は、次の様な事を語っている。因果の理法は、自然界の出来事のみならず、人間の幸不幸の隅々まで滲透しているが、人間については、何事も知らぬ。常無しとは又、心なしという事であって、全く心ない理法というものを、人間の心が受容れる事はまことに難かしい事である、そういう事を語っております。私達の心の弱さは、この非人間的な理法を、知らず知らずのうちに、人間的に解釈せざるを得ない。因果話や宿命論が現れるのも、そういう理由によるものと思われます。言う迄もなく、近代の科学は、そんな曖昧な解釈を許さない。因果律は、その全く非人間的な純粋な姿で、私達の上に君臨している。という事は、私達が、まともに見る事の出来ぬものから、眼を外らして了ったという事だ。因果律という、抽象的な図式を、何処か浮世の風には当らぬところに、しまいこんで了ったという事です。これは私達の心が強くなったという事でしょうか。それとも、人間の心の弱さの反面を語るものだろうか。いずれにせよ、ここに、自然の世界と価値の世界との分離が現れた。近代文明は、この分離によって進歩した事に間違いはないが、やがて私達は、この分離に悩まねばならぬ仕儀に立ち到った。現代の苦痛に満ちた文学や哲学は、明らかにその事を語っているのであります。
釈迦は、菩提樹の下で、縁起法というものについて悟る処があったと言われている。無論、専門の学者にはいろいろと議論があるに違いないと思うが、平ったく言えば、縁起法とは因果の理法の事だ、と言ってよかろうと思います。言う迄もなく、これは、人生は果敢無《はかな》いという事について、感慨を催すという様な事ではない。人間の事業も、人間の喜怒哀楽も、更に、さようなものは果敢無いとか果敢無くないとかいう一切の尤もらしい人間の思想も、凡て、此あれば彼あり、此滅すれば彼滅すという非人間的な縁起の法に帰する。更に又、帰するところ、かような法こそ真実だと考える主体も亦、縁起の一法に過ぎないとする。諸法無我である。一切は空である。人生は春の夜の夢の如きものだが、人生という夢を織る縁起の法も亦夢の如きものだ。かような場所から、釈迦はどうして立ち上る事が出来たか。さような空を観る事によって、体験する事によって、立ち上った。
釈迦の哲学的智慧は、あらゆる哲学的智慧の例に洩れず、烈しい否定精神から始まった様である。般若経は、その見取図だと言ってよろしい様で、ただ空と言うだけでは足らず、空々だとか大空だとか畢竟空《ひつきようくう》だとか、やたらに空の字を重ねている、重ねた末、空は有に転ずると説く。成る程、釈迦の哲学的智慧の見取図と言ってもよいかも知れないが、釈迦という全人格の見取図とは言えますまい。
肯定が否定を招き、否定が肯定を生むという果てしない精神の旅は、哲学的思惟の常であり、そういう精神の運動は、恰も蚕が糸を吐くが如く、つまる処、己れを自足的な大系の中に閉じこめて了う。般若経を土台として、哲学というか神学というか、精緻な観念論の大系が、其後仏教史上にいろいろ現れた、そういうものに関する詳しい知識は、私にはないが、恐らく自足した思弁的汎神論の性質をいよいよ帯びたものになったと推察されます。だが、そういうものの中に、釈迦という人間を閉じ込める事は出来ますまい。彼は寧ろ逆の道を歩いた人だと思われます。阿含経《あごんぎよう》の中に、こういう意味の話がある。ある人が釈迦に、この世は無常であるか、常住であるか、有限であるか、無限であるか、生命とは何か、肉体とは何か、そういう形而上学的問題をいろいろ持ち出して解答を迫ったところが、釈迦は、そういう質問には自分は答えない、お前は毒矢に当っているのに、医者に毒矢の本質について解答を求める負傷者の様なものだ。どんな解答が与えられるにせよ、それはお前の苦しみと死とには何の関係もない事だ。自分は毒矢を抜く事を教えるだけである、そう答えた。これが、所謂如来の不記であります。つまり、不記とは形而上学の不可能を言うのであるが、ただ、そういう消極的な意味に止まらない。空の形而上学は不可能だが、空の体験というものは可能である、空は不記だが、行なう事によって空を現す事は出来る。本当に知るとは、行なう事だ、そういう積極的な意味合いも含まれている様であります。釈迦の哲学的思弁が、遂に空という哲学的観念を得たのではない。いや、それよりも、彼にとって、空とは哲学的観念と呼ぶべきものではなかったでありましょう。ただ、彼の絶対的な批判力の前で、人間が見る見る崩壊して行く様を彼は見たのだ、と言った方がよい様に思われる。見るとは行なう第一歩であります。諸行無常の思想が釈迦を見舞ったと同じ頃、ヘラクレイトスは万物流転という事を考えていた。釈迦を観念論者と呼ぶ事が出来ない様に、ヘラクレイトスを唯物論者と呼ぶ事は出来まい。さような区別が、どんなに囚われずにものを考える力を、現代の知識人から奪っているか、これは気が附けば気が附くほど恐ろしい事だ。二人とも、何ものにも囚われず、徹底的に見、徹底的に考える事により、当時の宗教や哲学から遥かに遠くへ行って了った人と想像されるのであって、その点では、釈迦も亦、ヘラクレイトスの様に「暗い人」だったでありましょう。ただ、彼は、ヘラクレイトスの様に「泣いている智者」とはならなかった処が異る。私の勝手な想像でありますが、釈迦の空とは、ヘラクレイトスの火の如きものではなかったかと思うのです。前者は内省から始めたかも知れぬ、後者は自然の観察から始めたかも知れぬ、いずれにしても、人間的な立場というものを悉く疑って達したところには、空と呼ぼうと火と呼ぼうと構わぬが、人間には取り附く島もない「無我の法」が現れたに相違ない、という風に思われるのである。彼等にすれば、かように思考するに到ったという事は、即ちかように知覚するに到ったという事だ。ヘラクレイトスが岸辺に遊ぶ子供に火を見た様に、釈迦は、沙羅《さら》の花に空を見たでしょう。そういう彼等の決定的な知覚が、空は教典註解者の手に渡り、火はストア派哲学者の手に渡り、どうにでも解釈出来る哲学的観念と変じた、と言えないでしょうか。無我の法の発見は、恐らく釈迦を少しも安心などさせなかったのである。人間どもを容赦なく焼きつくす火が見えていたのである。進んで火に焼かれる他、これに対するどんな態度も迷いであると彼は決意したのではあるまいか。不死鳥は灰の中から飛び立たぬ筈があろうか、心ない火が、そのまま慈悲の火となって、人の胸に燃えないと誰が言おうか。それが彼の空観である、私にはそういう風に思われます。
これも亦私の勝手な想像になるのですが、こんな風にも考えられるかと思う。縁起の法とは一応は因果の理法と言えるだろうが、近代科学の言う因果律とは、恐らくまるで違った意味を持っていた。世界は、自然も精神も、色受想行識の五|蘊《うん》、五つの言わばカテゴリイの相互依存関係に帰すると釈迦は考えた。この五蘊の運動は、ただもう無常であり、そこには何等実体的なものも、常住なものもない。そう考える考え自体さえ、この運動から離れた格別なものではない。釈迦が、烈しい内省から導いた、こういう哲学的直感は、現代の唯物論より遥かに徹底したものだと言えましょう。彼は、彼の全人格を賭けて、そういう風に直覚したのであって、彼の悟性の要請によって、さような世界理解に関する図式が現れたのではない。縁起の法は、因果の理法と呼ぶより、無我の法と言うべきものであって、凡そ真理というものは「我」を立てるところに現れる、人間的条件に順じて、様々な真理があるに過ぎない、と釈迦は考えた。最も人間臭くない因果律という真理も、悟性という人間的条件に固執するからあるのである。因果律は真理であろう、併し真如ではない、truth であろうが、reality ではない。大切な事は、真理に頼って現実を限定する事ではない、在るがままの現実体験の純化である。見るところを、考える事によって抽象化するのではない、見る事が考える事と同じになるまで、視力を純化するのが問題なのである。釈迦を画家に見立てるわけではないが、釈迦の空とは、画家の美の様に、決して現実の一般化による統一原理という様なものではないと言いたいのです。だから、現実の人間的限定の徹底した否定がそのまま、「無我」であり「不記」である豊饒な現実の体験となったと思われる。つまり諸行無常の体験であるが、釈迦は、諸行無常を又、一切諸行苦とも言っているのでありまして、無常と苦とは同じものなのだ。存在の理解と価値の判断は、彼には同じ行為なのだ。成る程、愚者にとっては、これらは同じ行為だ、そして愚者は常に誤る。賢者は、誤るまいとして、自然の世界と価値の世界とを区別し、両者の妥協を喜んだり、両者の衝突に悩んだりしている。両者は、同じ行為であって、而も誤るという事がない、そういう境地に釈迦は、どういう工夫によって、到ったか。吾が身のある苦痛を感ずるのと全く同じ様に、世界苦という観念を感ずる為に、彼はどんな修練を重ねたか。そういう事は解らぬ。が、たしかにそういう事が出来たのでなければ、認識するとは、勝利を得る事ではあるまい。覚者とは征服者ではあるまい。彼の勝利感こそ、彼の慈悲だったに相違ない。かようなものが、彼の空観であったであろうと思われます。
そういう釈迦の様な天才の宗教的体験は、格別なものとしても、仏教の心観というものの性質には、キリスト教の祈りに比べると余程審美的なものがあった様に思われます。やはり、美しい自然の中に生れた宗教と、沙漠に生れた宗教との相違からくるものでありましょう。苦行を否定した釈迦は、牛乳を飲み、美しい林の中で修行したが、飢えたキリストは、無花果《いちじく》の樹に、今より後、果を結ばざれ、と言っている。キリストは、泥棒と一緒に|磔 《はりつけ》になったが、お釈迦様が死ぬ時には、象も泣いた蛇も泣いたと伝説は語ります。余程の違いです。それは兎も角、仏教は、キリスト教の様な異教の美との争いを知らぬ。それというのも、釈迦の内証がどういうものであったにせよ、仏教者の観法という根本的な体験が、審美的性質を持っていたからでありましょう。観法はそのまま素直に画家の画法に通じ、詩人の詩法に通じた。西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休の茶における、其貫道する物は一なり、と芭蕉は言っているが、彼の言う風雅とは、空観だと考えてもよろしいでしょう。西行が、虚空の如くなる心において、様々の風情を色どる、と言った処を、芭蕉は、虚に居て実をおこなう、と言ったと考えても差支えあるまい。あらゆる思想は、通貨の様なもので、人手から人手に渡って、薄穢《うすぎたな》く汚れるものです。仏教思想も例外ではない。仏教の厭世思想とか虚無思想とか言われるものも、その汚れを言うのであります。芭蕉が、貫道する処は一なりと言った意味は、何々思想とかイデオロギイとかいう通貨形態をとらぬ以前の、言わば、思想の源泉ともいうべきものが、達人達の手によって捕えられた、という意味であろう。
扨て、観という言葉の周りをうろうろして、一向埒があかぬ様な次第であるが、もともと説明の適わぬものを持った言葉だから仕方がない。だが観は、日本の優れた芸術家達の行為のうちを貫道しているのであり、私達は、彼等の表現するところに、それを感得しているという事は疑えぬ。西行の歌に託された仏教思想を云々すれば、そのうちで観という言葉は死ぬが、例えば、「春風の花を散らすと見る夢はさめても胸の騒ぐなりけり」と歌われて、私達の胸中にも何ものかが騒ぐならば、西行の空観は、私達のうちに生きているわけでしょう。まるで虚空から花が降って来る様な歌だ。厭人も厭世もありはしない。この悲しみは生命に溢れています。この歌を美しいと感ずる限り、私達は、めいめいの美的経験のうちに、空即是色の教えを感得しているわけではないか。美しいと感ずる限りだ、感じなければ縁なき衆生である、まことに不思議な事であります。前にもお話しした通り、空観とは、真理に関する方法ではなく、真如を得る道なのである、現実を様々に限定する様々な理解を空しくして、はじめて、現実そのものと共感共鳴する事が出来るとする修練なのである。かくの如きものが、やがてわが国の芸術家の修練に通じ、貫道して自分に至ったと芭蕉は言うのだが、今日に至っても、貫道しているものはやはり貫道しているでありましょう。仏教によって養われた自然や人生に対する観照的態度、審美的態度は、意外に深く私達の心に滲透しているのであって、丁度雑沓する群集の中でふと孤独を感ずる様に、現代の環境のあわただしさの中で、ふと我に還るといった様な時に、私はよく、成る程と合点するのです。まるで遠い過去から通信を受けた様に感じます。決して私の趣味などではない。私はそうは思わぬ。正直に生きている日本人には、みんな経験がある筈だと思っています。人間は伝統から離れて決して生きる事は出来ぬものだからであります。ただ何故私達は、生きる為に、そんな奇妙な具合に伝統とめぐり合わねばならぬか、それだけが問題だ。これはたしかに、日本独特の悲劇であって、かような悲劇を見て見ぬ振りをする文化主義者など、合理的道化に過ぎぬ。何故なら伝統のない処に文化はないからです。
一体文化などという言葉からしてでたらめである。文化という言葉は、本来、民を化するのに武力を用いないという意味の言葉なのだが、それを culture の訳語に当てはめて了ったから、文化と言われても、私達には何の語感もない。語感というもののない言葉が、でたらめに使われるのも無理はありませぬ。culture という言葉は、極く普通の意味で栽培するという言葉です。西洋人には、その語感は充分に感得されている筈ですから、culture の意味が、いろいろ多岐に分れ、複雑になっても根本の意味合いは恐らく誤られてはおりますまい。果樹を栽培して、いい実を結ばせる、それが culture だ、つまり果樹の素質なり個性なりを育てて、これを発揮させる事が、cultivate である。自然を材料とする個性を無視した加工は technique であって、culture ではない。technique は国際的にもなり得よう、事実なっているが、国際文化などというのは妄想である。意味をなさぬ。最近の文部省の漢字制限或いは新仮名づかいの問題について、私は屡々人から意見を訊ねられるのですが、私は、まっこうからこれに反対する理由を持っていないから反対はしないまでだ、日本の言葉の難かしさから来る学生の負担を幾分でも軽くしようとする仕事に、反対する理由はない。併し、そういう運動の合理性の陰に、まことに軽薄な精神が隠れている事を私は嗅ぎつけている。それが、今申した technique と culture との混同である。文部省のお役人は、恐らくエンジンを直す様な手つきで、国語の修正をやったのでありましょう。恐らく、現代日本語を易しくすれば、日本歴史も易しくなると言った顔附きでやったでありましょう。多くの文学者が、尻馬に乗って、文学者たる事を止めて、エンジニアになりました。あわただしく、又憐れな敗戦国風景であります。やがて落着く時も来ましょう。歴史には歴史の摂理というものがある。
話が脇道に外れて了いました。戻りましょう。正岡子規の万葉復興運動以来、西行より実朝の方が、余程評判がよろしい歌人となった様ですが、貫道するところは一つなのだ。子規の感動したのは、万葉歌人の現実尊重であり、子規は写生と言う言葉を好んで使った。斎藤茂吉氏の「短歌写生の説」によると、子規は、写生の真意は直覚していたが、写生という言葉は、ごく無造作に使っていた。写生とは sketch という意味ではない、生を写す、神を伝えるという意味だ。この言葉の伝統をだんだん辿って行くと、宋の画論につき当る。つまり禅の観法につき当るのであります。だから、斎藤氏は写生を説いて実相観入という様な言葉を使っている。観入とは聞きなれぬ言葉ですが、やはり仏典にある言葉なのだろうと思います。空海なら目撃と言うところかも知れない、空海は詩を論じ、「須《すべか》らく心を凝らして其物を目撃すべし、便《すなわ》ち心を以て之を撃ち、深く其境を穿《き》れ」と教えている。そういう意味合いと思われるので、これは、近代の西洋の科学思想が齎した realism とは、まるで違った心掛けなのであります。やはりこれは観なのであり、心を物に入れる、心で物を撃つ、それは現実の体験に関する工夫なのである。realism は現実の observation というものを根本としているが、observation には適当な訳語がない。観察と訳していますが、仏典では観察という言葉は、観法とか観行とかいう言葉と同じ意味で使われていた様です。もっと平たい意味にとっても、私達には、観察という言葉は見抜くという伝統的な語感を持っている。observe という言葉は、もともと規則などを守るという意味である。近代科学の言う自然の正確な observation とは、自然の合法則性だけに注目する。実相の合法則性の遵奉者としての成功の道は、実相観入という様な法則を捨てる道とは別なのであります。西洋から realism という言葉が輸入されて、誰でもリアリズムという言葉を使う様になった、万葉のリアリズム、西鶴のリアリズム、という具合に。併し、人間聞きなれぬ言葉は、自分流に合点して使う他はない。realism にある observation の精神などは、自分流ではないから考えない事に致した、ここにはどうも意識するとしないとにかかわらず、日本人である私達にはどうも止むを得ないものがある様です。
徳田秋声氏が逝《な》くなられる前に、自分も今に至ってはじめてリアリズムの荘厳さというものを悟った、と人に語ったという話を聞きましたが、これも亦観であって、observation ではない。今日、徳田氏の作の様な所謂私小説というものに対して、非難の声が高い。無論これには多くの道理があります。いや、ちと道理があり過ぎる、と言った方がいいかも知れぬ。時勢の動きに乗ずる道理を言う論者は多いが、非難にかかわらず、古いものの中の何が新しいものに抵抗しているのかに注意する者は少い。いや、実際それは、こびり附いておちぬ汚れに過ぎぬか、それとも確かに抵抗している生きた何ものかであるか、そう問うてみる者さえ少いのです。併し、このささやかな問いこそ大切なのだ。本当の文化批評家が、先ず叩かねばならぬキイなのであります。誰も人間の進歩を望まぬ者はない、だが所謂進歩主義者は、最初から間違ったキイを叩く、と言うより、ピアノが違っている、と言った方がいいかも知れない。彼は culture というピアノを叩くのではない、technique というピアノを叩く。一国の文化も、一人の人間の様に生きているもので、古いものと新しいもの、変らぬものと変るものとが、その中で肉体と精神の様に結ばれている。文化は、物が変化する様には決して変って行くものではない、人間が成長する様に発展して行くものだ。もし一国の文化にも人間の様に自覚能力があれば、自分の新しい一片の感覚にも、自分の古い全過去があると言うであろう。進歩主義者の誤りは、かくの如き有機体に対する全体的直覚を持たず、文化という因果の鎖をつまぐるところにあると思う。
[#5字下げ]*
アランが、或る著名な歴史家の書いたトルストイ伝を論じたものを、いつか読みまして、今でもよく覚えておりますが、ほぼこういう意味の事を書いていた。ここに書かれた事柄は、一つ一つ取上げてみれば、どれも疑い様のない事実である。ところが全体としてみると、どうしてこう嘘らしい臭いがして来るか。三途《さんず》の川をうろついている様なトルストイが現れるか。いや、確かにアランは、三途の川と書いておりました。何故、確かな事実を描いた筈なのに影しか描けておらぬのか。トルストイの生涯は、実に烈しく長い生涯であった。先ず、己れの情熱の赴くがままに生きた。次に、凡てを自分の家庭に捧げて生きた。次には、公衆の為に。最後には、福音の為に。これらの花や実や収穫は、悉く私達の糧《かて》である。私達が食い尽す事の出来ない糧である。併し、彼自身は食い尽したのである。彼自身は、花は萎《しお》れ、実は落ちるのを見たのだ。彼の命は、もはや取返しのつかぬ里程標を一つ一つ辿ったのだ。思い出の裡にある十年とは何か。そんなものはない。十年は諸君の現在の裡に隠れているだろう。嘗《かつ》て抱いていたが、もはや知らぬ思想とは、一体何ものか。時間は、自分の歩く足を決して見せやせぬ。ところが、歴史家というものはおかしな事をする。時間のやり直しをする。時間を逆に歩こうとする。「復活」から「アンナ・カレニナ」に還って来る。「コサック」を書き乍ら、「クロイチェル・ソナタ」を予見している。トルストイには決して起らなかった思想の様々な組合せが、歴史家の頭では、苦もなく起っている。トルストイも私達と同様、常に未来を望んで掛け替えのないその日その日を前進したのだ。何故、歴史家というものは、私達が現に生きる生き方で古人とともに生きてみようとしないか。そういう事をアランは書いておりました。そういう事になるのです。歴史の見方が発達して来ますと、過去の時間を知的に再構成するという事に頭を奪われ、言わば時間そのものを見失うといった様な事になり勝ちなのである。私達が、少年の日の楽しい思い出に耽る時、少年の日の希望は蘇り、私達は未来を目指して生きる。老人は思い出に生きるという、だが、彼が過去に賭けているものは、彼の余命という未来である。かくの如きが、時間というものの不思議であります。この様な場合、私達は、過去を作り直していないとは言わぬ。過ぎた時間の再構成は必ず行なわれているのであるが、それは、まことに微妙な、それと気附かぬ自らなる創作であります。又、西行流に言ってみれば、時間そのものの如き心において過去の風情を色どる、そういう事が行なわれるのである。私達の思い出という心の動きのうちに、深く隠れている、この様な演技が、歴史家達に、過去の人達を思い出す時に、応用出来ぬわけがありますまい。併し、今日の様な批評時代になりますと、人々は自分の思い出さえ、批評意識によって、滅茶滅茶にしているのであります。戦に敗れた事が、うまく思い出せないのである。その代り、過去の批判だとか清算だとかいう事が、盛んに言われる。これは思い出す事ではない。批判とか清算とかの名の下に、要するに過去は別様であり得たであろうという風に過去を扱っているのです。凡庸な歴史家なみに掛け替えのなかった過去を玩弄するのである。戦の日の自分は、今日の平和時の同じ自分だ。二度と生きてみる事は、決して出来ぬ命の持続がある筈である。無智は、知ってみれば幻であったか。誤りは、正してみれば無意味であったか。実に子供らしい考えである。軽薄な進歩主義を生む、かような考えは、私達がその日その日を取返しがつかず生きているという事に関する、大事な或る内的感覚の欠如から来ているのであります。
宮本武蔵の独行道のなかの一条に「我事に於て後悔せず」という言葉がある。菊池寛さんは、よほどこの言葉がお好きだったらしく、人から揮毫《きごう》を請われるとよくこれを書いておられた。菊池さんは、いつも「我れ事」と書いておられたが、私は「我が事」と読む方がよろしいのだろうと思っている。それは兎も角、これは勿論一つのパラドックスでありまして、自分はつねに慎重に正しく行動して来たから、世人の様に後悔などはせぬという様な浅薄な意味ではない。今日の言葉で申せば、自己批判だとか自己清算だとかいうものは、皆嘘の皮であると、武蔵は言っているのだ。そんな方法では、真に自己を知る事は出来ない、そういう小賢《こざか》しい方法は、寧ろ自己偽瞞に導かれる道だと言えよう、そういう意味合いがあると私は思う。昨日の事を後悔したければ、後悔するがよい、いずれ今日の事を後悔しなければならぬ明日がやって来るだろう。その日その日が自己批判に暮れる様な道を何処まで歩いても、批判する主体の姿に出会う事はない。別な道が屹度あるのだ、自分という本体に出会う道があるのだ、後悔などというお目出度い手段で、自分をごまかさぬと決心してみろ、そういう確信を武蔵は語っているのである。それは、今日まで自分が生きて来たことについて、その掛け替えのない命の持続感というものを持て、という事になるでしょう。そこに行為の極意があるのであって、後悔など、先き立っても立たなくても大した事ではない、そういう極意に通じなければ、事前の予想も事後の反省も、影と戯れる様なものだ、とこの達人は言うのであります。行為は別々だが、それに賭けた命はいつも同じだ、その同じ姿を行為の緊張感の裡に悟得する、かくの如きが、あのパラドックスの語る武蔵の自己認識なのだと考えます。これは彼の観法である。認識論ではない。
武蔵は、見るという事について、観見二つの見様があるという事を言っている。細川忠利の為に書いた覚書のなかに、目附之事というのがあって、立会いの際、相手方に目を附ける場合、観の目強く、見の目弱く見るべし、と言っております。見の目とは、彼に言わせれば常の目、普通の目の働き方である。敵の動きがああだとかこうだとか分析的に知的に合点する目であるが、もう一つ相手の存在を全体的に直覚する目がある。「目の玉を動かさず、うらやかに見る」目がある、そういう目は、「敵合近づくとも、いか程も遠く見る目」だと言うのです。「意は目に附き、心は附かざるもの也」、常の目は見ようとするが、見ようとしない心にも目はあるのである。言わば心眼です。見ようとする意が目を曇らせる。だから見の目を弱く観の目を強くせよと言う。
今日、史観とか歴史観とかいう言葉が、しきりに使われているが、武蔵流に言うと、どうもこれは観というより見と言った方がよろしい様だ。歴史観という言葉は、或る立場からする歴史の批判或いは解釈という意味に専ら使われているが、観という言葉には、もともと或る立場に立って、或る立場に頼って物を見るという事を強く否定する意味合いがある。現実の一切のカテゴリカルな限定を否定して、現実そのものと共鳴共感するという意味合いがある、という事は既にお話しした通りです。歴史家というものは、物的状態を調べるのではない、歴史という人間と立会うのだとも言えるのであって、先に挙げた、アランの非難した歴史家の如きは、武蔵に言わせれば、目附之事に関する工夫がまるでない、という事になる。三途の川をさまようトルストイを見る様な歴史家は、「敵合遠ざかるとも、いか程も近く見る目」、そういう目がない。遠ざかった日のあれこれの出来事は、ただ遠ざかったあれこれの出来事と映る。丁度、敵と立会って、相手のばらばらの動作しか見えぬ様なものだ。歴史家が沢山の文献を整理する上手下手が言われるが、根本は目附之事なのだ。たった一つの文献が、叩かれたキイの様に鳴っておるかおらぬか、過去のある音《ノオト》が持続し現在の心に様々な共鳴を呼び起しているかどうか、それを歴史家の耳が聞いているかどうかによって、相手にする歴史という人間の姿がたしかに眼前にいるかいないかが定まるのです。大歴史家とは、思い出の達人であって、文献整理の名人ではない。自己を知る工夫は、そのまま歴史を知る工夫に通じなければならぬ筈のものであります。
批評眼とは、ジロジロ見る目、見の目を言う。今日は、人々が争って見の目を強くする様になった時代である。観という言葉の意味は判然と定義し難いとしても、その伝統的な語感はある筈なのであるが、歴史観と言っても、そういう語感は注意する者も殆どない。時勢が変れば語感も変ると言いたいところだろうが、どうもそんな簡単な事ではなさそうです。語感などという古臭いものは詩人にまかせて置けと小説家までが言い兼ねない様な時勢が到来したらしい。詩人にとっては、言葉の意味とは、即ち語感の事である。語感とは言わば言葉の姿だ、言葉というものが生きており実在しているその表情の如きものだ。詩人には死語も空語もない筈です。若し人間の歴史は、何を措いても言葉の歴史だと言えるなら、人間の歴史とは、広い意味での文学史に他ならぬのである。私達の共感の存するところ、古典は今もなお生きている。文献という死語が生きるか生きぬかは、同じ私達の詩的共感の深浅による、詩人の持つ観の目の強弱によるのであります。
批評しようとする心の働きは、否定の働きで、在るがままのものをそのまま受納《うけい》れるのが厭で、これを壊しにかかる傾向である。かような働きがなければ、無論向上というものはないわけで、批評は、創造の塩である筈だが、この傾向が進み過ぎると、一向塩が利かなくなるというおかしな事になります。批評に批評を重ね、解釈は解釈を生むという具合で、批評や解釈ばかりが、鼠算の様に増え、人々はそのなかでうろうろして、出口がまるで見附からぬ、という事になる。当人達にしてみれば、うろうろしているどころの段ではない。烈しく働いている積りであろう。又、確かにこの働きはジャアナリズムの上に現れて、そこに文化の花が咲いている様に見えもしよう。併し、実は、凡そ堪《こら》え性のない精神が、烈しい消費に悩んでいるに過ぎず、而も何かを生産している様な振りを、大真面目でしているに過ぎない。まことに巧みに巧んだ精神の消費形式の展覧である。何が文化活動でしょうか。文化活動とは、一軒でもいい、確かに家が建つという事だ。木造建築でもいい、思想建築でもいいが、ともかく精神の刻印を打たれたある現実の形が創り出されるという事だ。そういう特殊な物を作り出す勤労である。手仕事である。文化という観念は、作るという行為によってのみ知る事が出来るのであるが、文化人という猿は、文化というらっきょうの皮を剥いて飽く事を知らぬ。そこら中が、らっきょうの皮だらけになり、みんな非生産的不安を感じている様な次第なのですが、この不安は、政治的不安の様に、はっきり経験されるものではない。精神の奥所に隠れた、甚だ悪質なものの様であります。
文化の生産とは、自然と精神との立会いである。手仕事をする者はいつも眼の前にある物について心を砕いている。批評という言葉さえ知らぬ職人でも、物に衝突する精神の手ごたえ、それが批評だと言えば、解り切った事だと言うでしょう。現代の批評病は、いろいろな症状を現しているが、根本のところは、物に対するこの心の手ごたえを失っている事から来ている様に思われます。何かを批評している積りであるが、その何かが実は無いのである。いや対象が与えられただけでは不足なのだと言うが、対象が確かに与えられているという事は、そんなに当り前な解り切った事であろうか。そこには、何か深い仔細が隠れていやしまいか。そんな事は、思ってもみない。直ぐ批評という乗物に乗って走り出す。もう決して還って来ない。往きも還りもない世界に飛び込むのだから、仕方がありませぬ。もう出会うものと言ったら、何の手ごたえもない言葉ばかりだ。手ごたえがなければ、これはもう何かに出会うという事ではない。だから、彼は、この手ごたえのない言葉によって孤独になるのです。而も孤独感などというものはてんでない。ない筈です。自分と運命の全く異る他人という存在がいよいよはっきり見え、自己流に生きようとして、これと衝突せざるを得ないからこそ孤独感というものがあるのである。言葉のあらゆる誤魔化しや戯れが許される。抽象的議論はいけないという言葉が、そのまま現実的議論に化ける。現代の知識人は、懐疑派であると言われるが、言葉の洒落に過ぎないのであって、知識人が、これほど軽信家になったのは、空前の事であろうと、私は考えております。事に当って自らを試すという面倒を省くところに生ずる言葉に関する驚くべき軽信が、事に当って、懐疑する様な外見を呈しているだけです。事になんか実はまるで当っておらぬのだから、懐疑など起りようがない、懐疑とは、経験を尊重する者は皆持っている精神の或る活力なのであって、実験が成功するまでは、容易に言葉を信じまいとする意志であります。疑う事がもともと人間の正常な能力である以上、懐疑を精神の一つの美徳と考えなければ意味はないわけだ。能率のいい竹馬を作ろうと工夫する子供でも、この活力を行使するが、知識人が、例えば唯物史観という形而上学を信ずる為にも信じない為にも、精神の活力などまるで必要としていないとは、まことにおかしな事になったものです。懐疑するので何事も実行出来ないという精神倒錯の症例を、近代の大小説家は、侮蔑の念を籠めて幾人となく描いたのであるが、大小説家というものは、侮蔑の念など露骨に現すものではないから、残念乍ら読者はみな誤読を楽しむという結果となりました。
正常に考えれば、実行家というものは、みな懐疑派である。精神は、いつも未知な事物に衝突していて、既知の言葉を警戒しているからだ。先ず信ずるから疑う事が出来るのである。与えられた事物には、常に精神の法則を超える何ものかがある。実行という行為には、常に理論より豊富な何ものかが含まれている。さような現実性に関する畏敬の念が先ず在るのである。だから強く疑う事が出来るのです、最後の一つ手前のものまでは。理論家に事実はかくかくだと抗議してもなんにもならない、そんな事では驚かない。理論には例外があると言うでしょう。理論家に欠けているものは、もっと内的なものです。何も彼もどうしてこう思い通りになるか、これはちとおかしいという感覚、確かにこれは或る内的な感覚であるが、それが欠けている。現実畏敬の念がない事が根本なのだと思う。現実畏敬の念のない人には、決して現実は与えられない。批評の対象が確かに与えられているという事は、決して解り切った事ではないと申したのもその事であります。
私がここで、特に言いたい事は、科学とは極めて厳格に構成された学問であり、仮説と験証との間を非常な忍耐力をもって、往ったり来たりする勤労であって、今日の文化人が何かにつけて口にしたがる科学的な物の見方とか考え方とかいうものとは関係がないという事です。そんなものは単なる言葉に過ぎませぬ。実際には、様々な種類の科学があり、見る対象に従い、見る人の気質に従い、異った様々な見方があるだけです。対象も持たず気質も持たぬ精神は、科学的見方という様な漠然たる観念を振り廻すよりほかに能がない。心理的現実だとか歴史的現実だとか、何んだとか彼んだとかいう現実の合理的模像が、彼を閉じ込めている。出口が見附からぬのも一向気にかからぬのは、模像があんまりよく出来ているからだ。模像の製作家も、かような人々を俘囚にする為に苦労して来たわけではありますまい。理性の映し出したものを誰も疑いはしない。それは真理である。併し、人生が人生である所以のものは、真理も亦虚偽と同じく厄介千万なものであるというところにあります。既知の真理が未知の事物を追い払って了った世界で、知識人達は、ただ推論だけしか出来ないという状態にある。知識人は考え過ぎると言われるが、推論するとは、考えるという事ではあるまい。物体が上から下に落ちるのと同じ運動が、頭の中で起っているだけである。知識人の精神の空には、雨が降ったり止んだりする様に、観念が浮んだり消えたりしているだけなのですが、当人は批評家として多忙を極めているという次第である。これでは批評とは言えますまい。批評力とは判断力である、判断力とは未知の事物の衝撃による精神の弾性ではないか。
我が国の知識人の政治的関心というものはまことに心細い、という事がしきりに言われている。成る程そうかも知れないが、これはわが国の文明史のいろいろな、特殊な事情から出た事で、実際の政治組織の改良と一般社会常識の発達が、いずれは解決する問題でしょう。だが、この問題には、世人が注意したがらぬもう一つの側面がある様だ。私はその方が遥かに困難な根本の問題だと思うのだが、それは、近代政治というものの性質から来ている問題である。ベルグソンが、晩年の或る著述の中で、これからの世にも大芸術家、大科学者が生れるかも知れないが、大政治家というものは、もう生れまい、と言っております。つまり政治は、現在既に大政治家などいよいよ必要としない傾向を辿っているというのです。大人物というからには、及び難い人格とか、個性とかを指す筈であり、従って又、これと自ら手を下す仕事との間の完全な有機的な統一をいう筈です。ところが、政治の仕事が国際化して、いよいよ複雑なものになると、その取扱う厖大な材料に関する正確な知識などは、どんな政治専門家の手にも余る。手に余るのは知れ切っているが、あらゆる曖昧さと偶然とを追い、何んとか彼とか仕事をしなければならない。そういう事になっては、もはや大人物など用はないどころではない。化けもの染みた仕事である。チャアチルという人などは最後の人物かも知れませぬ。彼の「世界大戦回顧録」は、優れた人間が、法則を持たぬ自然の如き政治組織という非人間的な敵と悪戦苦闘する記録でもある。真の敵は果してドイツであったか。これは著者が一番よく知っているでしょう。
扱う材料に精通し、材料の扱い方に個性的方法を自覚し、仕事の成行きに関し、素人の覗《うかが》い知れぬ必然性を意識し、成就した仕事に自分の人格の刻印を読む、そういう事がどんな仕事にせよ、練達の人には見られるのであるが、そういう健全な、又極めて人間的な仕事の性質は、政治という仕事には、現れようがなくなって来ている。そこで、どうしても政治の仕事には、組織化というものが必要になって来る、組織化とは機械化を意味します。イデオロギイの上で相反目する党派も、組織化された集団という一種のメカニスムの力で、仕事の能率を上げようとする傾向では歩調を合せております。かような傾向を阻止する力は誰にもない。そんな力を空想するのは馬鹿馬鹿しい事であるが、そういう政治の傾向を、まさにそういうものだと徹底的に認識する精神は、現実の力です。政治の機械化が政治の自己防衛ならば、さようなものと認識するのは人間の自己防衛である。社会人である限り非政治的人間などというものはあり得ないが、反政治的精神というものは在り得るのだし、なければならぬと思います。そういうはっきりした次第であれば、政治は徹底的に組織化され、さっぱりと一つの能率的な技術となった方がいい。政治的イデオロギイという様な思想ともつかず、術策ともつかぬ、わけのわからぬ代物を過信する要はない。さようなものは、政治組織の円滑な運転の為の油だと思えばよい。油の成分など簡単なほどよいのである。政治家は、社会の物質的生活の調整を専ら目的とする技術家である、精神生活の深い処などに干渉する技能も権限もない事を悟るべきだ。政治的イデオロギイ即ち人間の世界観であるという様な思い上った妄想からは、独裁専制しか生れますまい。
あらゆる事において自分は正しいと思い込んだ人間、これは野心や支配欲がいつも狙っている大きな獲物であります。戦後、人民の公僕という言葉が流行しているが、政治家は相変らず大臣病にかかっているし、大臣級の人物などという曖昧陳腐な言葉が、まだ人々の頭を支配している様では、無論意味のない事だ。政治の組織化の急速な速度は、その様な迷妄を否応なく打破るかも知れぬ。だが一方で、政治の組織化は組織化された政治的イデオロギイの過信という病をいよいよ募らせている。そういう実情の中で右往左往する事が、知識人の政治的関心というものなら、こんな情けない関心もない。民主主義とは、人民が天下を取る事だなどと喚《わめ》いているうちに、組織化された政治力という化け物が人間を食い殺して了うだろう。ムッソリーニはファッシスムを進歩した民主主義と定義していたのです。
かようなものが、先きに申した問題の側面である。それなら現代の知識人は、政治に無関心どころではない、関心は殆ど完全である。精神の政治化は殆ど滑稽の域に達している様に思われます。誰もいい政治を望まぬものはないが、政治化した精神が果して政治を良くするだろうか。政治批判委員会という歯車が幾つも幾つも政治のメカニスムのなかで廻転していて、一体どうなる事であろうか。現代の政治不安は、誰にも大問題だろうが、これが政治万能主義を生んでいい理由ではないでしょう。
人間は政治的動物だとは古の賢人の洞察であった。彼は現代に生れて、人間は政治の動物性に対して警戒せよと言わぬだろうか、そういう事をくよくよ思い患っていると、貴様は政治的関心がないと叱られるという次第です。政治家は、文化の管理人|乃至《ないし》は整理家であって、決して文化の生産者ではない。科学も芸術も、いやたった一つの便利な道具すら彼等の手から創り出された例《ため》しはない。彼等は利用者だ。物を創り出す人々の長い忍耐も精緻な工夫も、又、そこに託される喜びも悲しみも、政治家には経験出来ない。政治家を軽蔑するのではない、これは常識である。こういう常識の上に政治家の整理技術は立つべきであると考えているだけなのです。天下を整理する技術が、大根を作る技術より高級であるなどという道理はないのでありますが、やはり整理家は、無意味な優越感に取りつかれるらしい。交通巡査でさえそうかも知れぬ。
先日、ロンドンのオリンピックを撮った映画を見ていたが、その中に、競技する選手達の顔が大きく映し出される場面が沢山出て来たが、私は非常に強い印象を受けた。カメラを意識して愛嬌笑いをしている女流選手の顔が、砲丸を肩に乗せて構えると、突如として聖者の様な顔に変ります。どの選手の顔も行動を起すや、一種異様な美しい表情を現す。無論人によりいろいろな表情だが、闘志という様なものは、どの顔にも少しも現れておらぬ事を、私は確かめた。闘志などという低級なものでは、到底遂行し得ない仕事を遂行する顔である。相手に向うのではない。そんなものは既に消えている。緊迫した自己の世界に何処までも這入って行こうとする顔である。この映画の初めに、私達は戦う、併し征服はしない、という文句が出て来たが、その真意を理解したのは選手達だけでしょう。選手は、自分の砲丸と戦う、自分の肉体と戦う、自分の邪念と戦う、そして遂に征服する、自己を。かような事を選手に教えたものは言葉ではない。凡そ組織化を許されぬ砲丸を投げるという手仕事である、芸であります。見物人の顔も大きく映し出されるが、これは選手の顔と異様な対照を現す。そこに雑然と映し出されるものは、不安や落胆や期待や昂奮の表情です。投げるべき砲丸を持たぬばかりに、人間はこのくらい醜い顔を作らねばならぬか。彼等は征服すべき自己を持たぬ動物である。座席に縛りつけられた彼等は言うだろう、私達は戦う、併し征服はしない、と。私は彼等に言おう、砲丸が見附からぬ限り、やがて君達は他人を征服しに出掛けるだろう、と。又、戦争が起る様な事があるなら、見物人の側から起るでしょう。選手にはそんな暇はない。
話が脇道にそれました。前にお話ししたが、仏教の観法というものは、何の無理もなく画法に通じた。西洋の画家達が、未だ聖画もろくに描けない頃、東洋の画家達は、既に自然美の驚くべき表現を完了していた。それと言うのも、もともと仏教の所謂、観の持つ審美的性質による、そういう風に申し上げたが、どうもこれは誤解を招きはしないかと思う。美の問題は、現代で不当に侮蔑されている問題の一つであって、侮蔑による誤解というものが避け難い様に思われるからです。現代の風潮を最もよく反映し、従って一番成功している芸術、これは言う迄もなく小説であるが、この自由な、と言うより無秩序な芸術様式において、美は、もう殆ど真面目には考えられておりませぬ。まあ、一種の調味料の様なもので、分析、観察、解釈、意見、主義、そういうものばかりが、雑然紛然とひしめき合っている。小説家が文学者の異名となるに順じて、詩という文学の故郷が忘れられて行く様に見えます。自然主義文学が、浪漫主義文学の虚飾に反抗して起ったのは当然であったが、その異常な発達は、ルッソオの広汎な思想の根柢にあった健全な自然主義、又その根柢にあったに違いない、言わば自然と人間との均衡に関する彼の審美的直覚、そういうものから離れて、あんまり遠くまで走って了ったというのも時の勢いでしょう。還り行くべき自然の懐は、所謂客観的事実、実証的事実、の大群で充されて了ったというあんばいだ。人々の心は、自然の美しさから自然の正確さへ、自然との共感から自然の理解へとあわただしく走った。科学によって様々な事物の計量的性質が明らかにされて行くにつれ、又、この事によって裏付けられた生活上至便ないろいろな技術の発達を享楽し、そういう事物の性質を、客観的事実の名の下に過信する風潮は、深く人々の心に染み込んだ。誤解しない様に願いたいが、私は、合理的知識自体を兎や角言うのではない。これの扱い方、これに対する態度、これに関して人々はどんな心理的通念を、知らず知らずのうちに育てているか、そちらの方を言うのである。私達は、例えば天体を理解するのと同じ具合に友人を理解する事は出来ないが、そんな曖昧な厄介な事を科学は認めない。天文学的事実も心理学的事実も、同じ理解方法によって得られる。これは科学の特権であるが、この特権は、観測とか実験とかいう実際の経験によって保証されねばならぬから、特権の濫用などという事は、余程軽薄な科学者ででもないと、実際に仕事をしている科学者の間では、先ず起り得ないのである。どこで濫用されているかは、申しあげるまでもあるまい。必要なのは、科学という、その一分科にも容易に通暁し難い具体的な学問なのであって、科学的な考え方という様な伝染病の如き通念ではないのであります。
美は、もはや真面目には考えられておらぬなどと言うと、現代の教養人達は承知しまいと思う。成る程、展覧会場は、真面目な鑑賞者の群れで溢れている。私はそれを疑いはしない。併し、先日も、安井、梅原両氏の展覧会の人混みのなかにいて、私の心を苦しくするものは、これらの人々が、現に経験しているその生き生きとした感情を、決して家まで持って還りはしまい、という考えであった。やがて覚めねばならない夢なのである。何故美は現実の思想であってはならないのか。だが、通念というものは、あらゆる疑問を封ずる力を持つものです。美という言葉が、何かしら古風な子供らしい響きを伝えるのは、誰のした業でもない。空想とか夢想とかいう感じを伴わずに、美という言葉を発言するのは容易ではない。誰のせいでもない、通念の力である。考えの落ちて行くところは一つです。夢も亦人生には必要ではないか、と。併し、夢とは、覚めてみればこそ夢なのではないか。日常の通念の世界でわれに還るからこそ、あれは美しい夢だったと言うのではないか。そして、通念とは万人の夢ではないのでしょうか。
美しい自然を眺めてまるで絵の様だと言う、美しい絵を見てまるで本当の様だと言います。これは、私達の極く普通な感嘆の言葉であるが、私達は、われ知らず大変大事な事を言っている様だ。要するに、美は夢ではないと言っているのであります。併し、この事を反省してみる人はまことに少い。それは又こういう事にもなると思う。海が光ったり、薔薇《ばら》が咲いたりするのは、誰の眼にも一応美しい、だが、人間と生れてそんな事が一番気にかかるとは、一体どうした事なのか。現に、会場に絵を並べた二人の画家は、四十何年間も海や薔薇を見て未だ見足りない。何という不思議だろう。そういう疑問が、この沢山な鑑賞者のうちの誰の心に本当に起っているだろうか。そういう疑問こそ、絵が一つの精神として諸君に語りかけて来る糸口なのであり、絵はそういう糸口を通じて、諸君に、諸君は未だ一っぺんも海や薔薇をほんとうに見た事もないのだ、と断言している筈なのであります。私は美学という一種の夢を言っているのではない。諸君の眼の前にある絵は実際には、諸君の知覚の根本的革命を迫っているのである。とすればこれは、驚くべき事実ではないのですか。
こういう考え方を、私はベルグソンに負うのですが、哲学にせよ科学にせよ、事物の合理的理解の端緒を、私達の感性というものがどれほど間違うか、私達の素朴な直接経験の世界が何んとでたらめで信用出来ぬものであるかというところで掴んだ。従って、われわれの合理的知識の発達は、簡単に言えば、曖昧な知覚を、どういう具合に巧みに正確な概念で置き代えるかという道を進む。だが、どんなに抽象的な概念でも、具体的知覚を通じて、その内容を得ねばならぬ。ところで、哲学者にとってまことに厄介な事には、実証科学が、疑いもなく万物に共通な性質、即ち量というものを引受けて了った後には、質の世界しか残っておらぬという事です。部分が決して全体を表す事の出来ぬ、あらゆるものがあらゆるものに対して異質である、そういう世界を前にして、あれこれの知覚を拾い上げたり、捨てたり、分析したり、組合せたり、要するに知覚に関する選択や工夫や仕上げ、言わば知覚の概念への変換式には、出たらめとは言えぬとしても疑いの余地あるものがどうしても這入って来ざるを得ない。これが、科学というシステムは一つでも、哲学のシステムは、これを発明した人の数だけあり、而も哲学というものの定義上、自らの合理性を主張して、互いに争わねばならぬという根本の理由だと考えられないか。そういう次第ならば、哲学者はいっそ全く違ったやり方を試みた方がよくはないだろうか。知覚の欠陥を概念によって充さねばならぬ、という考えを、若しきっぱりと思い切るならば、知覚を概念に仕上げるに際し、何か豊富な或るものが失われざるを得ないという事を、真面目に考えてみる筈である。それならば、知覚から概念に飛び上ろうとする同じ意志の力が、逆に知覚の中にどこまでも入り込み、凡そ知覚するものは何一つ捨てまい、いや進んでこれを出来るだけ拡大してみようという道がありはしないか。若しそういう道から哲学が出来上るなら、恐らくは哲学のシステムは一つで足りるであろう。何故ならそういう哲学は、感性や意識に与えられたものは何一つ捨てない、他の哲学が、これに反対しようとしても、拾う材料が残されていないからです。概念で武装して相争ういろいろな哲学のシステムは、そうなれば、皆協力して知覚の拡大という共通の仕事に向うでしょう。知覚の拡大など不可能である、眼には見えるものしか見えはせぬ、と人は言うかも知れぬ。どんなに注意力を働かせてみても、知覚の世界に、何か新しいものを生み出す事は出来ない。初めから在ったものを明らかにするだけだ。常識はそう言います。心理学は、この常識を完成しようとして精神を先ず様々な要素から再構成しておいて、そういう要素の構成が実際にわれわれの精神生活を産むと考える。知覚の拡大深化など思いもよらぬ、だが議論は止めよう。実際には、この不可能事を可能にしたとしか考えられぬ人間がいるのである。それが優れた芸術家達だ。彼等の努力によって、私達が享受する美的経験のうちには、重要な哲学的直覚がある筈である。そういう風に、ベルグソンは考えるのであります。私は、学生時代、芸術に関する彼のそういう考えに強く動かされましたが、今日に至るまで、こんな大胆な直截《ちよくせつ》な考えはどんな美学にも、見附け出す事は出来まいと思っている。先きに、観法の審美的性質と言った場合も、私にはそういう考えがあったのであります。
知覚は認識を構成する一定の要素でもないし、恰も写真でも撮る様に外物が知覚でとらえられるものでもない。私達が生きる為に、外物に対してどういう動作をとるかに順じて知覚は現れるのである。鹿を追う猟師、山を見ずで、猟師は、山なぞ知覚していては商売にならぬ。成る程鹿は知覚するが、それも狙って打つという行動に必要なだけの鹿の形を見るのだ。これは対象を見るというより寧ろ、可能的動作の外物への投影を経験するという事なのである。私達の命は、実在の真ッ唯中にあって生きている。全実在は疑いもなく私達の直接経験の世界に与えられている筈なのであるが、その様な豊富な直接経験の世界に堪える為には、格別な努力が必要なのであり、普通私達は、日常生活の要求に応じて、この経験を極度に制限しているのだ。見たくないものは見ないし、感じる必要のないものは感じやしない。つまり、可能的行為の図式が上手に出来上るという事が、知覚が明瞭化するという事である。こういう図式の制限から解放されようと、ひたすら見る為に見ようと努める画家が、何か驚くべきものを見るとしても不思議はあるまい。彼の努力は、全実在が与えられている本源の経験の回復にあるので、そこで解放される知覚が、常識から判断すれば、一見夢幻の様な姿をとるのも致し方がない。ベルグソンは、そういう考えから、拡大された知覚は、知覚と呼ぶより寧ろ vision と呼ぶべきものだと言うのです。見るものと見られるものとの対立を突破して、かような対立を生む源に推参しようとする能力である。この vision という言葉は面倒な言葉です。生理学的には視力という意味だし、常識的には夢、幻という意味だが、ベルグソンがこの場合言いたいのは、そのどちらの意味でもない。vision という言葉は、神学的には、選ばれた人々には天にいます神が見える、つまり見神という vision を持つという風に使われていたが、ベルグソンの言う意味は、そういう古風な意味合いに通じているのである、これを日本語にすれば、心眼とか観という言葉が、先ずそれに近いと思います。
そして、確かに、優れた芸術家達は、ベルグソンが哲学者達に望んだ様に、唯一の美のシステムの完成に真に協力している様に思われます。真の協力とは、めいめいが、その個性を尽して、同じ目的を貫くという事だ。つまり和して同ぜず、という古人の名言が実行されていると言うのです。梅原という画家の vision と安井という画家の vision は、全く異るのであるが、互いに牴触《ていしよく》するという様な事は決してなく、同じ実在を目指す。かような画家の vision の力は、見る者に働きかけて、そこに人の和を実際に創り出すのである。画を見る為に、人々は、めいめいの喜びも悲しみも捨ててかかる必要はない。各自が各自の個性を通し、異った仕方で一枚の画に共感し、われ知らず生き生きとした自信に満ちた心の状態を創り出す。そういう心は、互いにどんなに異っていようが、友を呼び合うものです。自分自身と和する事の出来ぬ心が、どうして他人と和する事が出来ようか。そういう心は、同じて乱をなすより他に行く道がない。
画は、何にも教えはしない、画から何かを教わる人もない。画は見る人の前に現存していれば足りるのだ。美は人を沈黙させます。どんな芸術も、その創り出した一種の感動に充ちた沈黙によって生き永らえて来た。どの様に解釈してみても、遂に口を噤《つぐ》むより外はない或るものにぶつかる、これが例えば万葉の歌が、今日でも生きている所以である。つまり理解に対して抵抗して来たわけだ。解られて了えばおしまいだ。解って了うとは、原物はもう不要になるという事です。最近、文壇で、俳句第二芸術論という議論が盛んであった。俳句という古い詩の形式を否定する、その表向きの議論が、どんなに大胆なものであろうと、さして興味あるものではないが、議論の動機は、論者もそれと気附かぬ現代人の気質の深い処から出て来ているのではあるまいかと考えると、ああいう文壇的空騒ぎの裏側が見えます。現代人の気質は、沈黙を恐れている、現代人の饒舌は、恐らくこの恐れを真の動機としている、と。俳句ぐらい寡黙な詩形はない、と言うより、芭蕉は、詩人にとって表現するとは黙する事だ、というパラドックスを体得した最大の詩人である。今日の小説家が、例えばどんなに古人の知らなかった心理学の助けをかりて、精神生活の世界を拡大してみせようと、芭蕉の vision は、心理学的可知性などを突破したものである事を感得した読者には、そう面白い見物ではあるまい。現代小説に関して、評家達は、思想性が足りぬとか仮構性が足りぬとかいろいろの註文をつけている様ですが、私が強いて註文をつければ、沈黙が一番足りまいと言うでしょう。小説がその形式上、どんなに読者の理解力に訴える部分が多かろうとも、その眼目とするところでは、読者の理解など断乎として拒絶していなければ駄目だろう。文学者の心が、時代の進むにつれて、どんなに知的なものになろうとも、言葉には知的記号以上の性質があるという文学の発生とともに古い信仰の上に、今日も文学というものが支えられている事に間違いない。言霊《ことだま》を信じた万葉の歌人は、言絶えてかくおもしろき、と歌ったが、外のものにせよ内のものにせよ、言絶えた実在の知覚がなければ、文学というものもありますまい。私は、一時、原稿も書かず、文学者との交際も殆ど止めて、造型美術を見る事に夢中になった事がある。その当時、痛感した事は、私の様に久しい間近代文学の饒舌の中に育って来た者にとって、絵や彫刻の沈黙に堪えるという事が、いかに難かしいかという事であった。ただ黙って見て楽しむのが難かしいというのではない。ある絵に現れた真剣さが、何を意味するか問おうとして、注意力を緊張させると、印象から言葉への通常の道を、逆に言葉から知覚へと進まねばならぬ努力感が其処に生じ、殆どいつも、一種の苦痛さえ経験した。そういう時、私は恐らく画家の努力を模倣しているのだが、詩人も同じ努力をしていない筈がない。顔料を言葉に代えただけです。言い得るものから、言い得ないものに至る道具が、即ち彼の言葉だ。そういう経験から、私は次の様な考えに導かれた。近代の音楽や絵や詩の形式は、目まぐるしい程の変化を重ねて来た。技法の新しさ大胆さの為に、自らを亡ぼした芸術家の数も恐らく数え切れないのである。これに比べると、小説という形式はバルザック以来殆ど動かない様に見える。それと言うのも芸術の前者の種類にあっては、さほどの天才ではないとしても、先ず何を措いても新しい独特の vision の創造に挑まなければ何事も始まりはしないから、そういう次第になるのだが、小説では、常識的知覚が社会的推移に追従するのが手一杯で、vision の創造まではとても手が廻らぬ。それに常識的知覚のこちら側にいて、それを分析したり結合したりしていれば一見芸術らしく見えるものが出来上る、そういう便利に屈服するのは誰にも楽しい事である。小説に作者の人生観という vision が現れるということは余程難かしいことでしょう。
ここで、美の問題に関するもう一つの誤解、少くとも一般にすこしもはっきりと考えられておらぬ事に触れます。それは、美は人を黙らせるという考えから、自ら出て来るのである。美は人を沈黙させるが、美学者は沈黙している美の観念という妙なものを捜しに出かけた。この美学者達の空しい努力が、人々に大きな影響を与えている事は争われぬ様に思われる。リルケにロダンを語った美しい文章がありますが、その中でリルケは、私の読み方が正しいならば、こういう意味の事を言っている。芸術家は、美について考えやしない、考えられぬものなど考える筈がない。「美」を作り出そうなどと考えている芸術家は、美学の影響を受けた空想家であり、この空想家は、独創性の過信、職人性の侮蔑という空想を生むだけである、芸術家は、物 Ding を作る、美しい物でさえない、一種の物を作るのだ。人間が苦心して様々な道具を作った時、そして、それが完成して、人間の手を離れて置かれた時、それは自然物の仲間に這入り、突如として物の持つ平静と品位とを得る。それは向うから短命な人間や動物どもを静かに眺め、永続する何ものかを人間の心と分とうとする様子をする。この様な不思議な経験は、確かに強烈なものであったに相違なく、人間はただこの経験の為に物を作ろうとした。最初の神々の像は、この経験の応用である。こういうリルケの考えは、芸術を、遊戯や想像の産物と考えるより余程正しい様に思われます。物を作らぬ人にだけ、美は観念なのである。観念は決して人を黙らせぬ、観念を呼ばぬ観念はないから。リルケは彫刻を語っているのですが、勿論、彼は詩人も亦一種の物を作る人間だと信じているでしょう。小説家もそうだ。私は、思想家さえそうだと言いたい。
リルケの言う不思議な強烈な経験、ただそういう経験をする為に、物を作ろうとする人間が現れる。そういう時この人間は、自己を超越したある有用性を充たそうとする衝動にかられるのだ、とリルケは言います。ベルグソンが、知覚の拡大とか深化とかを言う場合も、殆ど同じ様な考えを抱いているのだろうと思われる。知覚を拡大して vision を得るとは、自然が生物に望んだ社会生活の実践的有用性の制限から解放される事を意味する。さような vision もまた有用であるか。人間にそういうものに対する憧憬が存する限り、それは有用であろう。生物には無用だとしても。人間に知性を付与した自然がそれは予想外な事だと言うとしても。するとリルケはこういうかも知れない、自分の言う自己を超越した有用性を、そう解してもかまわぬが、芸術家は、vision など作る人ではない、物を作る人だ、と。併しそれは同じ事になるでしょう。若し芸術家の vision は、物を作り出すという行為のうちでしか成育しない、という事を本当に納得していれば。この事は頭で理解しようとすれば容易ではないが、物を創り出そうと仕事をしている芸術家自身は、よく自得しているところでしょう。
詩人は、人に歌ってもらえばよいが、哲学者は歌うとは何かを教えねばならぬ。二人は、一応は別の事をする筈なのだが、私がベルグソンの哲学に惹かれるのは、沢山の事を教えられたから、というより寧ろ彼の教え方が全く詩人のものだというところにある。彼の哲学に、文学的映像が多過ぎるというのは普通の非難の様だが、そういう事を言ったらプラトンも同様なのであって、そういう平俗な非難は、これら哲学の核心には、当らないと思う。彼は文学と妥協もしていないし、文学に屈服もしていないのだから。或る人が、ベルグソンの文章を評して、まるで、光線の様だと言っているが、彼の様な透明で正確な文章は、フランスでも稀有なものでしょう。彼は哲学者として、ひたすら正確に語ろうとしたので、正確に語れないところは、文学的表現で胡麻化したという様な事は考えられない。彼の天才は、先ず、哲学史などという曖昧なものは一切信用しないところに現れた様です。哲学者の使用する専門語、その正確さが、当の哲学的個人の定義如何に関係する様な言葉はことごとく避けられている。専門語を使わねばならぬ場合は、必ず科学から採られている。正確に考える為には、日常言語で足りるというデカルト的決断、先ずその決断に現れる。次に、実在の絶対性は、万人の意識に直接に与えられている、その永遠の運動は、現に私達が内観により、直覚によって掴んでいる、という信念の強さに現れる。ここから彼の思想の建築が始まる、思想という一種の物を創る仕事が。「意識の直接与件」という対象は、大理石の如く明らかに在る。在るという事は解り切っている。が沈黙している。鑿《のみ》を振り上げる外にどう仕様があるか。そういう行為が彼の思想である。最もよく切れる鑿は、科学の成果が齎した正確な諸観念に違いなかろうが、それはあんまり切れ過ぎるかも知れぬ、切れ過ぎるとはまるで切れない事かも知れぬ。要するに、あらゆる種類の言葉という道具の性質に精通しなければならぬ、彫刻家が鑿という道具に精通する様に。ここに言葉というものに対する態度の上で、芸術家ベルグソンが現れる。ただ精通の仕方が哲学者なのである。彼は言葉を生んだ知性とは何かと問う、知性を生んだものは何かと問う。かような分析の正しさを保証するものは、「意識の直接与件」に関する信念、知性と本能とは、根源の命から分岐して来たものに違いない、という信念なのである。あとは鑿の精度を大理石で試せばよい、そういう実験の連続が、ベルグソンの vision の精度を自ら現す。こういう彼の、言葉に対する詩人の態度を理解しないから、彼の哲学に反知性主義などを読んで了うのだ。彼の作品には、知性を否定するものも亦知性であるという様な循環は、何処にも見られはしない。彼は知性に使役されてはいない。知性が彼の創作行為の道具である限り、彼は知性の限りを尽す、という事は言葉の限りを尽すという意味でもある。実在の本質的な不正確さが、正確な言葉に敵対し抵抗する。少しも構わない。彼は出来るだけ正確な言葉を採り上げる。丁度、建築家が、美しい頑丈な建築を造ろうと、最も重い堅い石を喜んで採り上げる様に。
パスカルの「パンセ」のなかに、思想家にとって、まことに恐ろしい言葉があります。「ピロニスムについて懐疑的に語る人は少い。子供らしさについて子供らしく語る人は少い」と。ベルグソンが、彼の或る著書を「思想と動くもの」と題した時、動くものについて動く様に語る人は少いと断言出来ただろうと思う。思想と文体とは離す事が出来ない。私が、現代の日本の哲学者達に不満を感じているところは、論理を尽すが言葉を尽しておらぬという事である。観念の群れが、合理的に整合しさえすれば、これに言葉という記号を附ける事などわけはないと信じている様子である。論理に言葉が隷属している以上、定義という権威により勝手な言葉を発明しても一向差支えない。これは、思想家にとって極めて安易な道である。安易な道に慣れた者は、正しく考える為には、日常の言語で充分であるという決心は容易な事ではない。何故かと言うと、私達の日常の言語というものは、長年の間人生の波風に揉まれ、人手から人手を渡り歩いている内に、自らの性格を鍛え上げているものであって、凡庸な哲学者のディアレクティックなどに追従するものではないからである。詩人は専門語など勝手に発明しやしない。日常の言語を使う。永続する事を希う詩という「物」を作り上げる為には、こちらの考え一つではどうにもならぬ様な手応えある材料を欲するからです。そこに文体の問題が否応なく現れる。文体を欠いた思想家は、思想という「物」に決して到る事は出来ませぬ。
文体侮蔑の風は、哲学者ばかりでなく、一般の思想家の間に広く行き渡り、而も本当は何が侮蔑されているのかさえ気附かれてはいない。実は、これは、現実について現実的に語る人が、いよいよ少くなったという正にその事なのだ。真実な思想が現れるとは、一つのシンフォニイが鳴るのと同じである。これほど現代で解り難くなっている事はない。思想は抽象的な図式と変じ、大地に立つ足を失った。図式は、理解力という人間の一能力にしか応じる力を持たぬから、賛成と反対以外に何事も起らぬ。これは一見まことに気楽な光景であるが、実は恐ろしい事が起っている。例えば、平和だとか、人道だとか、自由だとかいう観念は、万人の望む普遍的な観念である。併し、それが単なる観念である限り、人々を沈黙させ共感させる力はない。だから、人々はそこから喋り始める。誰も彼もが合理的に喋っている積りなのだが、もともと厳密に出来上ってはおらぬ定義から出発したのだから、曖昧な系が幾つも幾つも生ずる。つまり平和という観念は、遂に論戦を生まざるを得ない。そんな道を辿るという事が、一体、人間を思索するという事なのか。例えば、ベエトオヴェンのシンフォニイは、彼の思索が実った思想とも言えましょうが、彼の思索とは、音という「物」の新しい秩序をどうして創り出そうかと苦心する具体的な技術である。彼のシンフォニイは、この彼の技術と一体となった、音という実在の世界に関する彼の vision、彼の観を現す。聞く者は、これに共感し、共感はその人に平和を齎す。論争の出発点となる様な平和の観念など現してはいません。人々は彼のシンフォニイから、空論に向って出発する事は出来ない。それは、もうその先きのない、行き着く処に行き着いているのである。一本のレールの上を反対の方向に走って来る汽車が必ず衝突する様な具合に、同じ観念から生れた様々な思想が、衝突事件を惹起しているのを眺めるのは、不愉快な事でもある。暴力に抗する知性などと平気で言っているが、そんな具合に使われていては知性も暴力の一種に過ぎませぬ。
まことに雑然とした話になったが、まあ、初めからこんな具合になるだろうとは思っていました。別段、どんな風にうまくまとまりを附けようという考えもないから、前に触れた宮本武蔵の事について言いたい事で言い残した事があるので、少々補って終りにします。武蔵の事で、私が直ぐ思い出すのは、だいぶ以前ですが、菊池寛氏と直木三十五氏との論争です。直木氏の説では、武蔵という人は、後世の通俗な感傷によって飛んだ人物に祭り上げられて了っているが、実は大した男ではない。偉い兵法家というものは、当時にすれば、例えば、上泉伊勢守の様な人物を言うので、人殺しで人気を取った様な人物ではない筈である。第一、兵法流行の世に武蔵の得た社会的地位を見ただけで明瞭だ。晩年になってやっと田舎藩主の知遇を得たくらいが、彼相応の処である、と言う。これに対し、菊池氏は、上泉某と武蔵とが仕合をしたらどちらが勝ったか、そんな事はわからぬ。ただ二人が書き遺した文章を比べてみれば、一目瞭然ではないか。独行道中の数句の如きものを、徳川時代を通じて一体誰に書けたか。確か、そんな風な論争でしたが、兎も角人気のある歴史上の人物で、近頃では、吉川英治の「宮本武蔵」が大変な読者を持っている様ですが、彼にまつわった伝説の衣をとって了えば、凡そ小説などには仕組みにくい人だという事は確からしい。
彼は、妻子もなく、仕官もせず、殆ど生涯を流浪のうちに送った人だ。晩年の五年間を細川家の客分として過した熊本も、遂に安住の地ではなかった様です。老病に見舞われるに至り、山に隠れ、人知れず死のうと決心し、世上に対しては、蟄居《ちつきよ》被仰《おおせ》|付 《つけられ》|候 《そうろう》という事にして欲しい旨、細川家の老臣に書簡を送って失踪した。併し、こういう異様な企みを、世間は承知する筈がなく、色々の取沙汰も行なわれ、細川家でも困り果て、帰邸を勧説した。体のいい捕物で、彼は千葉城まで護送され、やがて盛大な葬式など出される始末となりました。書簡の中で、武蔵は「世に逢申さざる躰、無念に存候」と書いておりますが、これを、早世した知己細川忠利の事を想っての言葉ととるのは当るまい。「末の世に拙者一人の儀は、古今の名人に候」と言っている様に、彼は、相会したものは遂に「末の世」であったと悟ったのでしょう。彼の生涯には、華やかなものも劇的なものもない。有名な巌流島の仕合にしても、冷静に工夫を重ねた兵法の、彼一人の為の最後の実験だったので、彼の眼には、恐らく敵も世間もなかったのである。相手の小次郎は、|猩 々緋《しようじようひ》の羽織に染革の立附《たてつけ》、草鞋《わらじ》穿きという出立ちで、備前長光の大業物を提げて、勝負に臨んだといわれているが、武蔵の方は、絹の袷に、紙縒《こよ》りの手製の襷《たすき》をかけ、脇差をさし、尻っ端折《ぱしよ》り、素足、手製の木刀を持って向った。相手を馬鹿にしたわけではない。相手を研究し、これが、最も能率のいい拵えであるという結論に達していたからである。仕合が終ると、武蔵は、小倉の藩主に謝礼もせず、島からすぐ下の関に帰り姿を隠した。大経験さえ味わえば、後はただもううるさい事だったのである。武蔵は、所謂英雄でも豪傑でもない。彼の人格や思想の土台は、十三歳の時から始めた、一度も遅れを取った事のなかったという、六十余回の決闘にあったに相違なかろうが、そういう経験も、皆十台、二十台の事であります。それだけの事なら何んでもない。非凡な人も、天賦の力量を、深い考えもなく試す事から始めるものである。私が、武蔵という人を、偉いと思うのは、通念化した教養の助けを借りず、彼が自分の青年期の経験から、直接に、ある極めて普遍的な思想を、独特の工夫によって得るに至ったという事です。戦国時代という時代は、言う迄もなく、教養より、もっぱら実地経験に頼るものが成功した時代で、様々な興味ある実行家のタイプを生んだのであるが、かような経験尊重の生活から、一つの全く新しい思想を創り出す事に着目した人は絶無であったと言ってよい。武蔵は、敢えて、それをやった人だと私は思っている。彼の孤独も不遇も、恐らく、このどうにもならぬ彼の思想の新しさから来たのであって、彼の方から、殊更世間を避けたという様な形跡は全くない。この徹底した現実主義者に、遁世《とんせい》の趣味などあった筈がなく、僅かな文献から推察するのだが、彼の日常生活には、豪傑風の濫費も隠者めいた清貧もない。極めて合理的なものであったらしい。
武蔵は、自分の実地経験から得た思想の新しさ正しさについて、非常な自負を持っていたに相違なく、彼は、これを「仏法儒道の古語をもからず、軍記軍法の古きを用ひず」語ろうとした。これは無論、当時としては異常な事だったし、又、厳密に言えば、不可能な事でもあった。両方とも「五輪書」が証明しています。伝統を全く否定し去って、立派な思想建築が出来上るわけはない。併し、彼の性急な天才は、事を敢行して了ったのである。だから、「五輪書」は、作者が言いたかった事を、充分に云い得た書であるかどうか疑問だが、言わばその思想の動機そのものは、まことに的確な表現を得ている。そういう文章になっている様に思われる。それでよい。それが武蔵という人物であった、という意味では、思想の動機即ち彼の思想であった、と言えるでしょう。これは極めて独創的なものであって、無論、二天一流を相伝した剣術使い達とは何の関係もないものであります。
彼は、青年期の六十余回の決闘を顧み、三十歳を過ぎて、次の様に悟ったと言っている。「兵法至極にして勝つにはあらず、おのづから道の器用ありて、天理を離れざる故か」と。ここに現れている二つの考え、勝つという事と、器用という事、これが武蔵の思想の精髄をなしているので、彼は、この二つの考えを極めて、遂に尋常の意味からは遥かに遠いものを掴んだ様に思われます。器用とは、無論、器用不器用であり、当時だって決して高級な言葉ではない、器用は小手先きの事であって、物の道理は心にある。太刀は器用に使うが、兵法の理を知らぬ。そういう通念の馬鹿馬鹿しさを、彼は自分の経験によって悟った。相手が切られたのは、まさしく自分の小手先きによってである。目的を遂行したものは、自分の心ではない。自分の腕の驚くべき器用である。自分の心は遂にこの器用を追う事が出来なかった。器用が元である。目的の遂行からものを考えないから、すべてが顛倒してしまうのだ。兵法は、観念のうちにはない。有効な行為の中にある。有効な行為の理論は、あまり精妙で、これを観念的に極める事は不可能であるから、人は器用不器用などと曖昧な事で済ましているだけなのである。必要なのは、この器用という侮蔑された考えの解放だ。器用というものに含まれた理外の理を極める事が、武蔵の所謂「実の道」であったと思う。
私は、武蔵という人を、実用主義というものを徹底的に思索した、恐らく日本で最初の人だとさえ思っている。少くとも、彼の名が、軍国主義や精神主義のうちに語られた時、私は笑わずにはいられなかった。兵法家が、夢想神伝に仮託して流儀を説く事は、当時普通の事で誰も怪しまなかった。又、沢庵の様な、禅を以て剣を説く坊さんがいた様な時代で、見識ある兵法家は、奥義秘伝の表現に、禅家の語法を借りるのも、一般の風であった。武蔵には、禅も修した形跡があるが、そういう風潮からは超脱していた。自分の流儀には、表も裏もない。「色をかざり花をさかせる」様な事は一切必要ない。ただ「利方の思い」というものを極めればよい。そういう考えから、当時としては、恐らく全く異例な、兵法に関する実際的な簡明な九箇条の方法論が生れたのであるが、その中に「諸職の道を知る事」という一条がある。又「諸芸にさはる事」という一条がある。「道の器用」は剣術に限らない。諸職の道にそれぞれ独特の器用がある。又「目に見えぬ処を悟つて知る事」という一条がある。器用という観念の拡りは目で見えるが、この観念の深さ、様々な異質の器用の底に隠れた関聯は、諸芸にさわる事によって悟らねばならぬ。武蔵は、出来るだけ諸芸にさわろうと努め、彼の言葉を信ずるなら「万事に於いて、我に師匠なし」という処まで行った。今日残っている彼の画が、彼のさわった諸芸の一端を証しているのは言う迄もないが、これは本格の一流の絵であって、達人の余技という様な性質のものではない。技は素人だが、人柄が現れていて面白いという様なものではない。彼は、自分の絵の器用が、自分の剣の器用に及ばぬ事を嘆いたが、余技という文人画家的な考えは、彼には少しもなかったと思う。それも、器用というものの価値概念が、彼にあっては、まるで尋常と異っていたからだと思うのです。
そこまで来ると、彼の考え方は、当然、次の様に徹底したものとなるのである。それは、思想の道も、諸職諸芸の一つであり、従って道の器用というものがある、という事です。兵法至極にして勝つにはあらず、というのは思想至極にして勝つにはあらずという事だ。精神の状態に関していかに精《くわ》しくても、それは思想とは言えぬ、思想とは一つの行為である。勝つ行為だ、という事です。一人に勝つとは、千人万人に勝つという事であり、それは要するに、己れに勝つという事である。武蔵は、そういう考えを次の様な特色ある語法で言っています。「善人をもつ事に勝ち、人数をつかふ人に勝ち、身を正しく行ふ道に勝ち、民を養ふ事に勝ち、世に例法を行ふに勝つ」、即ち、人生観を持つ事に勝つという事になりましょう。
武蔵の言う名人を、そういう意味に解するなら、それは決して古くならぬいつの世にも必要な人間である。歴史上の優れた人がとことんまで考えつめた事には、変らぬ真理があるものだ。十九世紀の歴史哲学が誇張したほど、人間は歴史の子ではありませぬ。今日の文化にも必要なのはそういう名人であって、指導者ではない。人を指導しようとする魂胆は、人に指導されたいという根性を裏返しにしただけのものだ。両方で思想という同じボールを投げ合って遊ぶのである。自ら欲し、働くという事を忘れ果てたかような人間関係は、人と人とのというより、寧ろ物と物との関係である。指導者は一人ではない、そして、そこでは、機械的状態に起り得る事は、何んでも起ると考えてみれば、今日のわが国の思想界という、故障だらけの途轍《とてつ》もない機械の姿が描かれるだろう。私の勝手な悪夢でなければ幸いである。併し、平均的知識だけで脹《ふく》れ上った頭脳、知性に奴隷の如く使役されればされるほど、いよいよ現実的で正しいと自負する頭脳、そういう頭脳の驚くべき増大は、現代の最大の野蛮ではないだろうか。野蛮な情熱は、今日ではもう大した事が仕出かせない。皆承知している。だから知性の仮面をかぶるのである。日本の敗戦は、封建主義の誤りであったとは知識人の定説の様だ。それほど私達の背負った伝統の荷は重いのだ、と言うならそれでよいでしょう。併し、後進国というものの特色は、板につかぬ観念が進み過ぎるというところにもある。私達は、封建主義的に戦いはしなかった。私達の出来る限りの近代的に組織された軍隊と産業とを以って戦ったのであるが、到る処で破綻を現した。戦争指導者達の頭脳も、これと照応していたと見る方が正しいと思う。戦いの意義について、好都合に自負しようが為の、近代政治的観念の空転と焦躁とがあったのである。少壮軍人達の暴挙も、「葉隠」の翻訳ではない。あれこれ機械的に読み囓った近代思想の機械的な運動が彼等の情熱に点火したのである。一流のジャアナリズムの論説は何を語ったか。封建主義的思想を語ったか。飛んでもない事です。それは、如何なる事態を説明するにも近代的なディアレクティックは万能であるという事を語ったのである。彼等は時局便乗派であった、と誰が本当に笑えるでしょうか。知性の奴隷となった頭脳の最大の特権は、何にでも便乗出来るという事ではありませんか。
思想が混乱して、誰も彼もが迷っていると言われます。そういう時には、又、人間らしからぬ行為が合理的な実践力と見えたり、簡単すぎる観念が、信念を語る様に思われたりする。けれども、ジャアナリズムを過信しますまい。ジャアナリズムは、屡々現実の文化に巧まれた一種の戯画である。思想のモデルを、決して外部に求めまいと自分自身に誓った人。平和という様な空漠たる観念の為に働くのではない、働く事が平和なのであり、働く工夫から生きた平和の思想が生れるのであると確信した人。そういう風に働いてみて、自分の精通している道こそ最も困難な道だと悟った人。そういう人々は隠れてはいるが到る処にいるに違いない。私はそれを信じます。
[#地付き](昭和二十四年十月、『私の人生観』)
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歴史と文学
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いつの時代にも、その時代の思想界を宰領し、思想界から多かれ少かれ偶像視されている言葉がある様です。仏という言葉だった事もあるし、神という言葉だった事もある。徳川時代では天という言葉がそうだったし、フランスの十八世紀では理性という言葉がそうだった、という風なものでありますが、現代にそういう言葉を求めると、それは歴史という言葉だろうと思われます。歴史とはそもそも何物だろう、という様な質問は、一っぺんもした事のない人々も、歴史的現実だとか歴史の必然だとかいう言葉を、何かしら厳めしい感じを持った言葉として受取っている次第で、これはどうやら、現代に於ける鰯《いわし》の頭と言った様な気味合いのものではないかと思われます。
歴史とは何か、という事に就いて、いろいろと思案を廻らす仕事は、通常、歴史哲学と言われているが、これは僕には一向不案内な職業で、歴史とは何か、という一見ささやかな質問に対し、現代がどんなに多種多様な史観を以って武装しているかを見て、感服の他はないのでありますが、併し、それはそれとしてそういう事であって、史観に精しい人が必ずしも歴史に精しいとは限らない、と言うよりそんなうまい話は世間にはない、と言った方がいいかも知れない。平家物語の作者は立派な歴史家であるが、彼の史観は、おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢の如しと一と言で尽せた、と言った様なものだろうと思います。
僕は歴史哲学者でも歴史家でもないのですが、偶然な機会から、学校で初歩の歴史を教えているので、まことに貧しい経験でありますが、自分の経験で、痛感しているところをお話ししようと思います。何を痛感しているかと言うと、それは学生諸君が、歴史というものに対して、まことに冷たい心を持っているという事なのであります。僕の教えている学生諸君は、皆、小学校中学校で、歴史は学んで来た筈なのだが、すっかり忘れている。出来るだけ正確に諳記《あんき》せよと言われて来た事は、要するに間もなく忘れて了えと命令されて来た様なものだから、まことに無理もない話だとは思うのですが、扨て、歴史の授業の詰らなさをもうさんざん教え込まれて、教室に這入って来る学生諸君の顔を見ては、彼等の歴史に関する興味をどうしたら喚起出来るか、非常に難儀に思います。
いつか菊池寛さんと旅行していた折、菊池さんが、慶応の大学生に福沢先生は何処の生れかと訊ねたらその学生は知らなかった、帝大の学生に、水戸学とは何んだと聞いたら答えられなかったと、いかにも残念そうに話された。僕も嘗ては、まさしくそういう大学生であった。自分の不明は勿論恥じているが、一方自分の学校で受けて来た歴史教育を省み、自分は一っぺんでも歴史は面白いものだと教えられた事はない、僕等は歴史という言葉の代りに諳記物という言葉を使っていたではないか、今日の自分の貧弱な歴史の知識は、すべてあわただしい不完全な独学によるのだ、学校の歴史教育には恨みこそあれ、感謝の念など毛頭ない。そういう事を考えざるを得ないのであります。
最近は、所謂新体制ということで、国民学校などの歴史教育に関しても、いずれいろいろな革新が行なわれる事を、僕等は期待しているわけでありますが、ただ国体観念の明徴を期するという様な事を方針の上でいかに力んでみたところで、諳記してやがて忘れよ、という実際の教え方が根本から改まらなければ、何にもなるまい。それより実際の教え方の工夫によって確実な効果を期する方が遥かに賢明だろうと思います。面倒な工夫は要らぬ、もっと歴史を面白く教えようと工夫すればそれでよいのだ。今迄面白く教えていたところを一段と面白く教えようと工夫するというのなら難かしい事かも知れないが、わざわざ詰らなく教える工夫をしていた様なものだから、ただそれを止めればよいわけだ。それに、歴史の先生の工夫と言っても、歴史という巨人がして来た工夫に較べれば物の数でもないのだから、巨人の工夫に素直に従えばそれでいいわけです。例えば明治維新の歴史は、普通の人間なら涙なくして読む事は決して出来ないていのものだ、これを無味乾燥なものと教えて来たからには、そこによっぽど余計な工夫が凝らされて来たと見る可きではないか。
歴史は人間の興味ある性格や尊敬すべき生活の事実談に満ち満ちている。そういうものを歴史教育から締出して了って、何故、相も変らず、年代とか事件の因果とかを中心に歴史を教えているか。それは、ともかくも歴史は通史の体裁をきちんと整えて教えねばならぬという陳腐な偏見が根本にあるからであろうと思われます。本当に立派で而も簡略な通史というものを書くのには、大歴史家の手腕が要るでしょうし、これを教えるには勿論、これを学ぶにも生半可な努力や才では足りますまい。従って世間に行なわれているすべての歴史教科書が、通史の粗悪なイミテーションになるのも当然な事だ。この通史のイミテーションが、現代の学生を、事、歴史に関して、諳記力ある獣と化しているのであります。
残された道は、一つだと思います。それは、建武中興なら建武中興、明治維新なら明治維新という様な歴史の急所に、はっきり重点を定めて、其処を出来るだけ精しく、日本の伝統の機微、日本人の生活の機微に渉《わた》って教える、思い切ってそういう事をやるがよい。学生の心というものは、人生の機微に対しては、先生方の考えているより、遥かに鋭敏なものである。人生の機微に触れて感動しようと待ち構えている学生の若々しい心を出来るだけ尊重しようと努める事だ。そうすれば、学生の方でも、諳記しようにも諳記が不可能になります。限られた授業時間には、自ら限られた教材しか這入らないという迂闊《うかつ》千万な考えを捨てるがよい。考えが全く逆であります。限られた学生の諳記力を目当てにしているから、時間が限られ従って教材が限られるという事になるのだ。学生の諳記力には限りがあるだろうが、学生の心は限りがあるという様なものではない筈で、そちらを目当てにしたならば、材料にも時間にも不足はあるまい。
暦史に対する健全な興味が喚起出来なければ、歴史に関する情操の陶冶《とうや》という事も空言でしょう。歴史に関する情操が陶冶されぬところに、国体観念などというものを吹き込み様がありますまい。国体観念というものは、かくかくのものと聞いて、成る程そういうものと合点する様な観念ではない。僕等の自国の歴史への愛情の裡にだけ生きている観念です。他では死ぬばかりです。
嘗て唯物史観というものが、思想界を非常な勢いで動かした事があった。歴史という言葉が、世間で急に有難がられ出したのはその時以来の事です。物を歴史的に見ない者は馬鹿だという事になったわけで、世人の歴史的関心が高まったなどとしきりに言われたものですが、歴史に対する健全な興味が、決して人々の間に喚起されたわけではなかった。いや、却って、歴史歴史という呼び声の陰に、本当の歴史は紛失して了った、と言った方がよいかも知れぬ。人々の歴史的関心が高まったという妙な言葉の実際の意味は、人々はもう歴史という色眼鏡を通さなくては、何一つ見る事が出来なくなって了ったという事であった、そう言った方がいいかも知れませぬ。
こういう逆説めいた光景は、いつの時代にもあった様で、気が附く者には気が附いていた。「其の物につきて、其の物を費し損ふもの、数を知らずあり、身に虱《しらみ》あり、家に鼠あり、国に賊あり、小人に財あり、君子に仁義あり、僧に法あり」、そういう言葉が徒然草にもある。兼好が、今日生きていたなら、「歴史家に史観あり」と書いたかも知れぬ。兼好は、利いた風な皮肉を言っているわけではない。ああいう隠者の人生を眺める眼は、よほど確かで冴えていたのであって、彼は、見た儘を率直に語ったに過ぎないのであります。一体、思想とか、主義とかを説く人間の顔附きや身振りがはっきりと見えている人にとっては、主義や思想の|からくり《ヽヽヽヽ》そのものは、一向面白くもないものだが、そういう|からくり《ヽヽヽヽ》を面白がる人、つまり主義や思想の理論上の構造を盲信する人は、主義や思想が、どういう風に説かれ、どういう風に受取られるか、その場合場合の人々の表情なり姿態なりには一向気の附かぬものです。無論、当人も自分の顔附きなどには気が附かぬ。従って自分が十五銭とふんだ思想は、他人にもまさしく十五銭で通用するという妄想から逃れにくい。又従って、そういう人には、様々なイデオロギイというものが鯛や比目魚《ひらめ》の様にそれぞれ、はっきりした恰好で、歴史の大海を泳ぎまわっている様に見える。歴史の実景に接している積りであろうが、実は、歴史の地図を読んでいるに過ぎないのであります。
唯物史観という魚は、近頃とんと釣れなくなった様ですが、本当を言えば、そんな魚は、はじめからいやしなかったのだ。魚をいろいろ料理して、いろいろに味わった人間が、実際にはいただけである。そんな事はあるまい、少くとも書物のなかには、魚はいたろう、と言うかも知れないが、書物を通して人間の顔が読める人にとっては、書物のなかにも魚はいないわけでしょう。そういう風に考えれば、魚が釣れなくなったという様な事は、何事でもない。唯物史観という魚が釣れなくなれば、釣り好きは、他の魚で間に合わすだろう。そういう釣り好きは、世間に跡を絶たぬという事の方が大事だ。いた魚が近頃急にいなくなったなどと言うのは、意味のない事だが、魚を食った人はいたし、食った魚の味が忘れられない人はいる、という事は大事だ。何故かというと、そちらの方に歴史の実景があるからです。
人間がいなければ歴史はない。まことに疑う余地のない真理であります。ところが、不思議なことには、僕等は、この疑う余地のない真理を、はっきり眼を覚まして、日に新たに救い出さなければならないのである。唯物史観に限らず、近代の合理主義史観は、期せずしてこの簡明な真理を忘れて了う傾きを持っている。迂闊で忘れるのではない、言ってみれば実に巧みに忘れる術策を持っていると評したい。これは注意すべき事であります。史観は、いよいよ精緻なものになる、どんなに驚くべき歴史事件も隈なく手入れの行きとどいた史観の網の目に捕えられて逃げる事は出来ない、逃げる心配はない。そういう事になると、史観さえあれば、本物の歴史は要らないと言った様な事になるのである。どの様な史観であれ、本来史観というものは、実物の歴史に推参する為の手段であり、道具である筈のものだが、この手段や道具が精緻になり万能になると、手段や道具が、当の歴史の様な顔をし出す。又、言い代えれば、史観の真の内容というものは、史観を信じ込んだり疑ったりする様々な人間達に他ならないのですが、史観が次第に見事な構造を持って来ると、その見事な理論の構造こそ史観の内容であるという風に思われて来るのである。そういう勢いは制し難い。それは強い惰性の様なものだ。人間のいない処に歴史はない、という解り易い真理も、常に努力して、救い出す必要のある所以であります。
その事を考えれば、今日、歴史という言葉が、あんなに有難がられ、勿体ぶって語られていながら、一方、例えば菊池寛氏の様に、現代の若い人達は、実に歴史に関して無智だ、と腹を立てる人もある、そういうおかしな事になっているわけも解らぬ事はない。現代人は、何は兎もあれ、歴史の客観性だとか必然性だとかいう言葉を、実によく覚え込んで了ったのであります。そして歴史を冷たい眼で、ジロジロ眺めている。暖かい眼でも向けたら、歴史の客観性が台無しになって了うとでも思っているらしい。そして無論心楽しんでいるわけではない、従って皮肉屋になる。而も、単なる皮肉屋に堕している事には、なかなか気が附かない、自分は歴史を正しく見ていると思い込んでおりますから。果して正しく見ているのだろうか、それとも、ただ冷淡に構えているのだろうか。
歴史は繰返すという事を、歴史家は好んで口にするが、一ったん出来て了った事は、もう取返しがつかぬという事は、僕等は肝に銘じて知っているわけであります。文字通り肝に銘じて知っているので、頭で知っているわけではない、歴史は繰返さぬという証拠が、何処かにあるというわけではないのですから。一と口に知ると言うが、僕等は、何を知るか知る相手に応じて、いろいろ性質の違った知り方を、実際にはしているものだ。己れを知ったり友人を知ったりする同じ知り方で、物質を知ったり天文学を知ったりしているわけではない。肝に銘じて知るのが一番確実な相手なら、肝に銘じて知るわけであります。
歴史は決して二度と繰返しはしない。だからこそ僕等は過去を惜しむのである。歴史とは、人類の巨大な恨みに似ている。歴史を貫く筋金は、僕等の愛惜の念というものであって、決して因果の鎖という様なものではないと思います。それは、例えば、子供に死なれた母親は、子供の死という歴史事実に対し、どういう風な態度をとるか、を考えてみれば、明らかな事でしょう。母親にとって、歴史事実とは、子供の死という出来事が、幾時《いつ》、何処で、どういう原因で、どんな条件の下に起ったかという、単にそれだけのものではあるまい。かけ代えのない命が、取返しがつかず失われて了ったという感情がこれに伴わなければ、歴史事実としての意味を生じますまい。若しこの感情がなければ、子供の死という出来事の成り立ちが、どんなに精しく説明出来たところで、子供の面影が、今もなお眼の前にチラつくというわけには参るまい。歴史事実とは、嘗て或る出来事が在ったというだけでは足りぬ、今もなおその出来事が在る事が感じられなければ仕方がない。母親は、それを知っている筈です。母親にとって、歴史事実とは、子供の死ではなく、寧ろ死んだ子供を意味すると言えましょう。死んだ子供については、母親は肝に銘じて知るところがある筈ですが、子供の死という実証的な事実を、肝に銘じて知るわけにはいかないからです。そういう考えを更に一歩進めて言うなら、母親の愛情が、何も彼もの元なのだ。死んだ子供を、今もなお愛しているからこそ、子供が死んだという事実が在るのだ、と言えましょう。愛しているからこそ、死んだという事実が、退引《のつぴ》きならぬ確実なものとなるのであって、死んだ原因を、精しく数え上げたところで、動かし難い子供の面影が、心中に蘇るわけではない。
つまり、実証的な事実の群れは、母親にとっては一向不確かなものだと言える。歴史の現実性だとか具体性だとか客観性だとかいう事を申します、実に曖昧な言葉であるが、もしそういう言葉が使いたければ、母親の愛情が、歴史事実を現実化し具体化し客観化すると言わねばならぬ筈であります。詭弁でも逆説でもない。僕等が日常経験しているところを、ありの儘に語る事が、何んで詭弁や逆説でありましょうか。先きに、歴史は二度と繰返さぬ、と僕等は肝に銘じて知っていると言いました。僕はこの言わば原理を少しばかり演繹《えんえき》したに過ぎませぬ。
僕等は、みなそうしているのです。僕は、歴史哲学という様なものには、一向不案内であるが、僕等が日常生活のうちで、直覚し体験して保っている僕等の歴史に関する智慧が、不具であるという様な事を信ずる事は出来ませぬ。勿論、母親は歴史家ではないでしょう。併し、健全な歴史家の腕というものは持っていると考えられるのであって、母親は、自分に身近かな歴史に関して、それを少しも過つことなく使っているのであります。言い代えれば、凡庸な母親であれ、立派な歴史家の健全な才能の最小限度を持っているのであり、凡庸な歴史家の不具な才能を持っているわけではない。
先きに歴史家は、歴史を繰返すと言い度《た》がると言ったが、これも無理もない話で、歴史からどうあっても歴史科学というものを編み出そうとしているのに、当の歴史の方が、どうあっても二度と繰返してくれぬ、ということは、まことに厄介なことで、歴史が繰返してくれたらという果敢無い望みを抱くのにも、同情すべき点がある。そして、この果敢無い望みが遂に近代の史学の虎の子にしている考え、歴史の発展という考えを生んだのである。歴史は繰返さぬ、併し発展はする、という思い附きであります。歴史は物の発展が土台だとする説もあるし、心の発展が本質だとする説もあり、現代は様々の史観を競っているが、それぞれの歴史現象は、どういう作用を受けて起り、どういう作用を及ぼすかという、因果的発展にせよ、弁証法的発展にせよ、要するに合理的な発展の過程だ、とする考えがなくては、凡そ現代の史学はないというほどの事になった。従って、現代人の常識も合理的発展という事を考えずには、凡そ歴史というものを知る事が出来ないという始末になった。人間の果敢無い思い附きが、だんだん繁昌いたしまして、一世を覆う妄想となった、これも筋の通った歴史の発展の然らしむる処であって、誰が責任を負うという筋のものではないとならば、まことに目出度い限りであります。
歴史の合理的な発展という考えは、将来の予想の為になくてかなわぬ考えである、と言う。そして、将来の予想というものほど明らかな文明の旗印はないと言う。尤もらしい言い分であります。併し、僕が歴史から学んだ処によれば、どんな立派な人間の運命も、どんなに美しい生活も、将来の予想というプログラムを実行しようとしたものでもなければ、実行したものでもない。つまり未だ文明が遅れていた証拠であると現代人は言います。そして、歴史の合理的発展という駑馬《どば》に跨《またが》り、自由とか進歩とか喚き乍ら鞭をくれている、行く先きは駑馬が知っている筈だ。どうも実に野蛮な光景であります。文明は現代人の利器であるか、それとも現代人が文明というものにしてやられているのか、僕には真実疑問に思われる。この疑いも僕は歴史から学びました。すると一体どういう事になるのか。僕の言い度い事は既にお解りでしょう。僕は少しも複雑な考えを抱いてはおりませぬ。
あらゆる歴史事実を、合理的な歴史の発展図式の諸項目としてしか考えられぬ、という様な考えが妄想でなくて一体何んでしょうか。例えば、歴史の弁証法的発展という目笊《めざる》で、歴史の大海をしゃくって、万人が等しく承認する厳然たる歴史事実というだぼ沙魚《はぜ》を得ます。信長が死んだのは天正十年である、これは動かす事の出来ぬ歴史事実である。何故かというと前の年は天正九年であったから、と言った類《たぐ》いの事しかだぼ沙魚には言えませぬ。もっと上等な獲物になると決してしゃくう事が出来ない。何故かと言うと、もっと上等な歴史事実になると、万人が等しく承認するというわけにはいかない、種々様々な解釈に堪えるからです。一体、歴史事実の客観的な確定というものは、極く詰らぬ事実の確定でも驚くほど困難なものだ。サア・ウォルタア・ロオレイが、或る日、窓から街の出来事を眺めていた。暫くして他の目撃者がまるで違って同じ出来事を報告したのを読み、書いていた歴史の原稿を焼いて了った。この有名な逸話も、だぼ沙魚をしゃくっている歴史家には、気違い染みた笑話に過ぎまいが、彼の驚きや悲しみは全く健康であります。それは、兎も角、目笊にはだぼ沙魚しか残らないわけですが、このだぼ沙魚もよく見れば、命ある魚ではなく、実は目笊の穴が化けたものに過ぎない。結局、真相は、空の目笊を振り廻している手附き、詰らぬ手附きですが、その手附きだけは、ともあれ何物かである、という事になるのだが、残念な事には、その時は、もう当人の頭は、はっきりと顛倒している。人間は歴史の尺度ではなく、歴史が人間の尺度であるという妄想が、すっかり完成しているのであります。
前に平家物語の事を、ちょっと申しましたが、あの「おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし」という文句、周知の如く、この文句には前後があって、人口に膾炙《かいしや》した名調をなしておりますが、そういうものは、作者の文学趣味であって、歴史家の係わり知るところではない、という考えがある。現代では、当の文学者達にまで、事の真偽の為に文の巧拙を侮蔑する風潮があるくらいですから、歴史家の間では、この考え方は非常に誇張されたものとなっている。いい文学が必ずしもいい歴史とは限らないが、いい歴史は必ず亦いい文学である、という様な事を言うと現代の歴史家に笑われます。飛んでもない事だ、歴史の学問が未だ進歩していなかったからこそ、歴史の様な文学の様なものを書いて歴史家面が出来たのではないか。歴史から文学的|欺瞞《ぎまん》を除く事こそ僕等の仕事ではないか、というだろう。一応尤もな説だ、尤も一応尤もでなければ、騙《だま》される人もないわけです。歴史家の目指すところは事の真偽にあり、文の巧拙にはない、ただそれだけの説ならば、僕も尤もな説だと思う。歴史家が、故意に嘘を書くのは許されまいし、又、事の真偽に関し、僕は、ウォルタア・ロオレイほどの懐疑派でもない。併し古典的史書が歴史か文学かどっち附かずの形をしているのは、史料の不足の為に或いは史家の頭脳が未開の為に、事の真偽が看破出来なかった故であるという様な事を言い出すなら、これはもう戯言《たわごと》に類するのでありまして、文学と歴史との混合は、その様な浅薄な理由に基づいたものではなかったのであります。では、真の理由はどこにあったか。それこそ、歴史から文学を無理に|※[#「手へん+宛」、unicode6365]《も》ぎ取った事により、現代の歴史家が紛失して了ったものに他なりませぬ。
「おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし」、してみると、平家の作者も、歴史の発展という事を承知していた。無論の事です。併し、彼にとって、それは、歴史過程の図式という様な玩具めいたものではなかった。自ら背負い、身体にのしかかって来る目方のしかと感じられる歴史の重みだったのである。その感覚と感情とのそっくりその儘の表現が、彼の名調となったので、断じて文飾という様なものではないのです。歴史過程を、空洞《うつろ》な眼で観察して、その発展過程には、確かな必然関係があるという事を見附けて現代人は安心している、歴史に出鱈目や偶然があっては、まことにわけが解らず不都合だが、必然と解れば安心なものである、と言う。安心しているとはおかしいではないか。どうにかしようとするのにどうにもならぬ、と解って安心するとはおかしいではないか。人間の歴史は、必然的な発展だが、発展は進歩の方向を目指しているから安心だと言うのですか。では、人類に好都合な発展だけが何故必然なのでしょう。歴史の必然というものが、その様な軽薄なものではない事は、僕等は、日常生活で、いやという程経験している筈だ。死なしたくない子供に死なれたからこそ、母親の心に子供の死の必然な事がこたえるのではないですか。僕等の望む自由や偶然が、打ち砕かれる処に、そこの処だけに、僕等は歴史の必然を経験するのである。僕等が抵抗するから、歴史の必然は現れる、僕等は抵抗を決して止めない、だから歴史は必然たる事を止めないのであります。これは、頭脳が編み出した因果関係という様なものには何んの関係もないものであって、この経験は、誰の日常生活にも親しく、誰の胸にもある素朴な歴史感情を作っている。若しそうでなければ、僕等は、運命という意味深長な言葉を発明した筈がないのであります。
手塚の太郎は斎藤別当実盛を殺そうとして、この鬢鬚《びんしゆ》を染め、ただ一騎残り戦う老武士に、「あなやさし」「優に覚え候へ」と呼びかけておりますが、平家物語の作者は真実歴史のなかに生きている凡ての人間にそう呼びかけているのである。平家物語は、末法思想とか往生思想とかいう後世史家が手頃のものと見立てたかった額縁の中になぞ、決しておとなしくおさまってはいない。躍り出して僕等の眼前にある。そして僕等の胸底にある永遠な歴史感情に呼びかけているのだ。併し、残念な事には、衰弱した現代人には、この呼び声は健康すぎ美しすぎるという情けない事になっているのであります。少し注意して現代の文学を御覧になるとよい。心理だとか性格だとかいう近代頭脳の発明にかかる幻の驚くべき氾濫と陳列とにより、人間の運命というものが、覆い隠されている事がお解りでしょう。
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先日、スタンレイ・ウォッシュバアンという人が乃木将軍に就いて書いた本を読みました。大正十三年に翻訳された極く古ぼけた本です。僕は、偶然の事から、知人に薦められて読んだのですが、非常に面白かった。ウォッシュバアンという人は、日露戦争当時の、シカゴ・ニューズの従軍記者で、旅順攻囲戦の陣中で、乃木将軍に接し、この非凡な人間に深く動かされるところがあったのですが、乃木将軍自刃の報が、アメリカに達した時、この事件が、アメリカの国民の間で、実にわけの解らぬ事件とされているのを見て、憤り、一気|呵成《かせい》に、この本を書き上げたのだそうです。思い出話で纏まった伝記ではないのですが、乃木将軍という人間の面目は躍如と描かれているという風に僕は感じました。乃木将軍に就いて書かれた伝記の類も、沢山あるだろうと思われるが、この本の様に、人間が生き生きと描き出されているものは、先ず少かろうと思った。
それで、直ぐ思い出したのですが、芥川龍之介にも、乃木将軍を描いた「将軍」という作がある。これも、やはり大正十年頃発表され、当時なかなか評判を呼んだ作で、僕は、学生時代に読んで、大変面白かった記憶があります。今度、序でにそれを読み返してみたのだが、何んの興味も起らなかった。どうして、こんなものが出来上って了ったのか、又どうして二十年前の自分には、こういうものが面白く思われたのか、僕は、そんな事を、あれこれと考えました。
「将軍」の作者が、この作を書いた気持ちは、まあ簡単ではないと察せられますが、世人の考えている英雄乃木というものに対し、人間乃木を描いて抗議したいという気持ちは、明らかで、この考えは、作中、露骨に顔を出している。世人は取りのぼせて英雄と考えているが、冷静に観察すれば、英雄も亦凡夫に過ぎない、という考えから、敵の間諜を処刑する時の、乃木将軍のモノマニア染みた残忍な眼だとか、陣中の余興芝居で、ピストル強盗の愚劇に感動して、涙を流す場面だとかを描いているわけだが、この種の解剖は、つまる処、乃木将軍の目方は何貫目あったか、という風な事を詮議するのと大して変りない性質の仕事だから、そういう事に、作者が技巧を凝らせば凝らすほど、作者の意に反して乃木将軍のポンチ絵の様なものが出来上る。最後に、これもポンチ絵染みた文学青年が登場しまして、こんな意味の事を言う、将軍の自殺した気持ちは、僕等新しい時代の者にもわからぬ事はない、併し、自殺する前に記念の写真を撮ったという様な事は、何んの事かわからない。自分の友人も先日自殺したが、記念撮影をする余裕なぞありませんでしたよ。作者にしてみれば、これはまあ辛辣な皮肉とでもいう積りなのでありましょう。
ウォッシュバアンの本は、簡単な思い出話で、殊更に観察眼を働かせたという風なものではないのですが、乃木将軍のモノマニア染みた眼附も、子供の様な単純さも、見逃しているわけではない。地図を按じたり、部下に命令したりする時の、将軍の鉄仮面の様な顔は、詩を讃められた様な時には、まるでポンチ人形の様に嬉しそうな顔になると書いている。ただ、芥川龍之介の作品とまるで違っている点は、乃木将軍という異常な精神力を持った人間が演じねばならなかった異常な悲劇というものを洞察し、この洞察の上にたって凡ての事柄を見ているという点です。この事を忘れて、乃木将軍の人間性などというものを弄《いじ》くり廻してはいないのであります。
旅順攻囲の開戦当初、乃木将軍の指揮する第三軍の戦闘員は、約五万人であった。処が旅順開城までに出した死傷者は殆ど六万人に上るのである。嘗て師団長として、乃木将軍が、一兵卒に至るまで一人一人の姓名を諳記していたと言われる第九師団の如きは、開戦以来二倍半の補充を受け、最後まで従軍し得た戦線将校は十一名を出なかった。十里|風腥 《かぜなまぐさし》の歌も、鉄血《てつけつ》|蔽 山《やまをおおい》 山容《さんよう》 改《あらたまる》と言うのも空想でも誇張でもなかった。ウォッシュバアンの書いている処によれば、乃木将軍の態度は、終始、冷静無類であり、二〇三高地攻撃の命令も、明日の馬の用意でも命ずる様なあんばいで、まるで彼自身戦争の一機械と化し了《おわ》ったという趣だったそうですが、惨憺たる日々が長引くにつれて、心労痛苦の皺《しわ》は、面上に拡り創痕の如く、容貌の変化は非常なものであって、見る者は、彼が胸底に圧し殺した大悲哀を、信じまいとしても信ぜざるを得なかったと言う。
歴史という不思議なからくりは、まるで狙いでも附ける様に、異常な人物を選び、異常な試煉を課する様です。こういう試煉に堪えた人が、そこいらの文学青年並みに、切羽つまって自殺するという様な事では、話が全くわからなくなります。僕は乃木将軍という人は、内村鑑三などと同じ性質の、明治が生んだ一番純粋な痛烈な理想家の典型だと思っていますが、彼の伝記を読んだ人は、誰でも知っている通り、少くとも植木口の戦以後の彼の生涯は、死処を求めるという一念を離れた事はなかった。そういう人にとって、自殺とは、大願の成就に他ならず、記念撮影は疎《おろ》か、何をする余裕だって、いくらでもあったのである。余裕のない方が、人間らしいなどというのは、まことに不思議な考え方である。これが、過去の一作家の趣味に止まるならば問題はない。僕が今ここで問題だと言うのは、こういう考え方が、先ず思い附きとして文学のうちに現れ、それが次第に人々の心に沁み拡り、もはやそういう考えを持っているという事なぞまるで意識しないでも済む様な、一種の心理地帯が、世間に拡って了ったという事であります。
最近の文学、大正以来の日本の文学は、十九世紀後半のヨオロッパ文学の強い影響というものを除いては、殆ど考えられないのでありますが、この当の十九世紀後半のヨオロッパ文学というものが、まことに奇妙な性質をもったものであった。文運は、一見したところ、前代に例しなく盛んな有様であったが、理想の火などというものは、実はとうの昔に消え果て、健康は失われ、恢復の萌《きざ》しも見えず、といった様な巨《おお》きな肉体を、少数の天才達が、異常な努力で支えていたという性質のものだったのであります。彼等は指導者としても啓蒙家としても失格者であり、失敗者であった。皆んな孤独な時勢に対する反抗者であり、不信者であった。そういう人達、合理主義と実証主義と社会主義とに満腹し、商業主義の波に乗り、徒らに果てしなく普及して通俗化する文学の危機を予感した少数の人達が、例外なく行なった事は、残忍酷薄とでも形容したい様な自他の批判、分析、解剖というものでありまして、彼等は言わば毒を以って毒を制するていの一と筋につながり、驚くほど辛い裏道を辿って天道に通じ得たのであった。
最近のわが国の文学が、喜んで輸入したのは、言うまでもなく、そういう少数の天才達の作品でありましたが、彼等が一体何を苦しんで支えていたのか、それを理解する事は、国情を異にする僕等には、実に難かしい事だったのであります。難かしかったというより、大正以来、急に発達した近代ジャアナリズムの繁栄を謳歌《おうか》し、文壇というものも漸くしっかりした形を整えて来たという様な時期に当り、そういう地獄の住人達の底を割った苦しみなどというものは、決して有難い贈物だった筈はなかったのである。
僕等は、制すべき充分な毒も胸中に貯えてはいなかったままに、彼等の毒をただ何んとはなく薄めていた。トルストイは大心理学者となり、ドストエフスキイは、極めて病的な又やや通俗味を帯びたヒュウマニストという風なものとなり、ストリンドベルクが、一幕物の達人なら、モオパッサンはコントの名人であり、チェホフは微苦笑派になれば、ボオドレエルは官能派となる、という具合で、いろいろ恰好な刺戟剤を楽しんでいたわけであります。個々の作家が、こういう恰好な刺戟剤から、結局どういうものを得たかという事は別としまして、大体の文学の風潮が、これによっていよいよどういう傾向を辿る様になったかという事は、かなりはっきりと言えると思う。つまり薄められた毒は、人々に同じ様な具合に次第に利いて来たのであります。
これを一と口に言うと、作家達による、人間性というものの無責任な濫用だと言えるのである。明治の自然主義文学運動が遺した人間性という贈物は、大正から昭和へと伝えられて、これを通貨に譬《たと》えるならば、ここに未聞のインフレーションを起したのであります。考えて見れば、当然なわけでありまして、舶来の師匠達の毒を以って毒を制した方法の、向うの文化環境に深く根ざした倫理的な意味は、うやむやに済まして来たのだから、表面の才だけが、いろいろと模倣されたわけで、彼等の縦横無尽な分析解剖の才が、人間の性質や心理の観察にも描出にも、非常な器用さで応用された結果、人間を描くという名の下に、方途のつかぬ乱雑な風景が現れた。
この人間の価値の下落に拍車をかけたのは、言うまでもなく、唯物史観の流行である。この史観による文学は、成る程、暫くの間、文学に、イデオロギイによる秩序を齎したが、それもほんの暫くの間で、忽ち、人間が描けていない、という陳腐な非難の声にぐらつき始めた。ここで妙な事が起った。イデオロギイ文学は失敗したわけですが、この精神の自律とか責任とかを侮蔑したイデオロギイは、従来の無責任な人間観察、人間描写に一種の裏打ちをする始末になったのです。どんな性格を描いていようと、どんな心理を語っていようと大きな御世話だ、僕等は人生を気儘に歪曲《わいきよく》しているのではない、そういう自信を与えた。自信だかどうだかわかりませぬ、不安の仮面かも知れない。いずれにせよ、そう言えば何んとなく安心であるといった次第になった。永遠などというものはない、真理はすべて相対的だ、人間は環境にこづき廻されて、どうとでもなる生き物だ、あまり愉快な事ではないが、僕は、人生を歪曲して眺めたくはないからな。現代人は、簡単な口の利き様を好まぬから、まあ、そんなにずけずけとものを言わないが、これに類した事を悧巧そうに言い乍ら、公園に行くと同じ様な恰好をしたベンチが、沢山ならんでいる、丁度、あんな風な恰好をした客観主義というベンチに、一と廻りして来ては腰を掛ける。今日では、革新も理想も、まず公園のベンチから、と言っております。
それは兎も角、こういう風潮の裏打ちの下に勝利を博した現代の散文芸術は、恰も糞便失禁症の如く、人間の上等下等なぞには一向頓着なく、人間の形さえしていれば、どんな人間でも紙の上にひねり出す。そして人生の妙味とやらを満喫している次第でありまして、人生の入口に立ったある女の子が、作文で親父の性格を写してみせたりしてさえ、一流の作家が、感服して了うというていたらくで、乃木将軍の記念撮影がどうこうなぞは、はや昔の夢となった。
先日、僕は「大日本史」の列伝を読みながら、こんな事をつくづく感じた。何故、こんな単純極まる叙述から、様々な人々の群れが、こんなに生き生きと跳《おど》り出すのであろうか。何故、遠い昔の彼等の言うこと為す事が、僕にこんなによく合点出来るのであろう。何んと、彼等は、それぞれいかにも彼等らしく明瞭に振舞い、いかにも彼等らしい必要な事だけをはっきり言い、はっきりと死んでいるか。それに引きかえ、現代の小説に月々新しく登場する何十人何百人の人間は、一体何処に行って了うのだろうか。作家等は、腕に縒《よ》りをかけて、心理描写とか性格描写とかをやっているわけだ。而も、描き出される人達は、僕と同じ時代に生き、同じ時代の空気を吸っている人達なのだ。それが、どうして僕にあんなに解りにくいのか。彼等は、まさしく彼等らしいと思わせる様な事を、はっきり言いもしないし、為《し》もしない。彼等には、自分の星もなければ、運命もない様に見える。若しもああいう流儀が生きるという事なら、生きるという事は、何んと白昼の幻にも似た事だろう。だが、やがて、どんな死に方にせよ、はっきりと死なねばならぬ時は来る、眉に唾して。
前に、人の性格とか心理とかいうものは近代の頭脳の発明にかかる幻だという事を、ちょっと申しましたが、僕は、幻に違いないという事を、だんだんと信ずる様になりました。少くともそんなものを探って人間の急所に到る事は出来ぬとはっきり信ずる様になった。無論、為に近代小説というものに対する興味は八割方減って了った。前にも言った通り、極く少数の天才作家達がいた。それが非常に辛い仕事をやったのである。あとは何んでもない。幻に負けたのである。どうも、僕にはそういう風に思われます。誰が、自分の性格なぞを詮議する事によって、自分の正体を掴んだでしょうか。誰が、他人の心理状態なぞを合点する事で、友を知ったでしょうか。そういう事については、僕等の実生活は、僕等に決して間違った事を教えてはいない様です。近代文学は、物質を観察して法則を得たその同じ眼差しを人間の上に落し、性格とか心理とかいう曖昧な影を得た。不都合な事には、この影は、観察者の望みに応じていくらでも複雑なものになり微妙なものになった。何故であるか。観察はしたが法則が得られないという極く簡単な理由からであります。何んという複雑な性格であろう、何んという微妙な心理であろう、と読者は驚嘆します。観察がいよいよ迷路に踏み込んで、遂に失敗に終った結果を見て、何も格別驚く事はないではないか。僕の言葉は、作家達にも笑われるでしょう。彼等は自分の仕事が、そもそもの初めから大変抽象的なものであり、メカニックなものである事にどうしても気が附きたがらないからであります。だが、そういう事が、幻に負けているという事なのだ。実に沢山な人が負けるのです、才能のある人もない人も。
わが国の現代の文学が、わが国の現代というものを正直に映し出しているかどうかは、いろいろと疑問な点があると思うし、又、一人一人の作家の意図なり作風なりを無視したいと思っているわけではありませぬが、今日の小説類の驚くべき普及は、或る一様の色で読書人の心を片っ端から染め上げて行く、そこには何か心ない物の成行きじみた勢いがある、という事は、どうも疑えぬ様に思う。小説類の今日の隆盛は、決して精神の横溢という様なものが齎したものではない。思想と詩との貧困がいよいよ深まり、その為にうつろな観察というものがいよいよ楽になり気易くなった、その現れと僕は解する。そして、そういう事は、活字から心をうつろにして他人の生活図を空想したい読者にはまことに好都合であるというところを併せ考えるならば、現代の小説類の読者に与える影響の根柢の性質が、かなりはっきりと考えられると思うのであります。立派な思想にある信念とか立派な詩にある情操とかいうものは、もはや現代の読書人には辛いのである。何故かというと、そういうものは、外に向って空想する眼を内側に向けさせますから。
読者は、人間の性格とか心理とかの迷路をさまよい、人間性に関する紛糾した知識を一杯にする。この事は、当然、人間に関する素直な価値感の紛失を伴わざるを得ないのであります。英雄崇拝という様な事が、現代にあって一笑に附される原因も、考えて行くと其処に見つかるのである。成る程、英雄崇拝というものは、誇張や感傷の衣を着たがるものだが、もともと健全な率直な人間観に根ざしたものだという事は疑えませぬ。昔の人は人間を見る眼がお目出度かったなどとは飛んだ事で、心理の分析やら性格の解剖やらを知らなかった昔の人達の方が、却って人間をしっかりと掴んでいたに相違ないとさえ僕は考えます。尊敬や同情や共感や愛情によって人間を掴むより、観察によって人間を掴む方が、勿論鋭敏な事でもあるし確実な事であるという考えが、そもそも愚かな独断ではありませんか。
ゲエテが、エッケルマンにこんな事を言っていた。実に当り前な事で、ゲエテが言っているなどと言うのが滑稽な様なものですが、僕は、まあ、あの有名な「対話」を、精神の養生訓の様な本だと思っているから、養生訓が病人に平凡に見えるのは止むを得ない、という点に留意したいわけですが、こういう意味の事を言っています。ロオマの英雄なぞは、今日の歴史家は、みんな作り話だと言っている、恐らくそうだろう。本当だろう。だが、たとえそれが本当だとしても、そんな詰らぬ事を言って一体何になるのか。それよりも、ああいう立派な作り話を、そのまま信ずるほど吾々も立派であってよいではないか。
序でですから、ゲエテの言葉をもう一つ。彼は、こう言っています。健全な時代は客観的であり、頽廃した時代は主観的なものだ、と。これも実に当然な事の様に僕には思われますが、彼の言う客観的という意味が近代科学が齎した客観主義とは似ても似つかぬものだというところが、彼の言うところを難解なものにしているのであります。自分に、過去の英雄が立派な人間だと信じられる以上、彼に関する歴史が伝説に過ぎず、作り話に過ぎなくても、一向差支えないではないか、そういう態度を、ゲエテは客観的と呼んだのでありまして、一と口に言うなら、彼の客観的という言葉は、科学の、少くとも近代の科学の世界に属した言葉ではない。其処に、現代人はつまずくのだ。
人間性を覆っている伝説の衣を取らねばならぬ、と言う。英雄は着物を脱いで裸の凡人になります。それはよい。だが、凡人という伝説はどうするつもりか。まるで、お伽噺に出てくる裸の王様のさかさまの様な話でありますが、現代が、客観主義の美名の下に行なっている事は、先ずこれを出ないのである。心を開いて歴史に接するならば、尊敬するより他に、僕等には大した事は出来ぬ、言い代えれば、尊敬する事によって、初めて謎が解ける想いのする人物が沢山見える筈なのだが、今日の歴史家はそういう事を好まぬ。尊敬出来る人物かどうか、それを客観的に確かめてみるのが先決問題であると考える。色盲が色を確かめる様なもので、ゲエテを俗物と確かめたり、家康を狸親父と確かめたりしているに過ぎぬ。現代の通念により、過去を確かめる事が、何が客観的態度であろうか。一時代の風潮に陥没し、其処から多くの遠い時代を眺める事が、何が歴史家の眼光でしょうか。
例えば、文化の進歩の一段階として封建時代というものがあったと考える。その時代の思想や道徳に、封建という言葉を冠せ、封建道徳、封建思想と呼びさえすれば、その時代の道徳や思想は理解し得るものと思い込む。封建制度の下に「葉隠《はがくれ》」の様な思想が生れたのは当然な事であるという。胡瓜《きゆうり》の蔓に、胡瓜がなったという様な事を合点すれば、歴史というものはわかるものなのか。第一、現代の歴史家が、封建主義という言葉から理解しているところは、徳川時代の人々には、何んの関係もない考えである。彼等は道徳を信じたのであり、封建道徳などというものを信じたのではありませぬ。封建制度は、人間の自由を拘束したという。だが、この拘束の下に、山本常朝が、どんなに驚くべき自由を掴んだかは、歴史家は見逃してよいのでしょうか。彼の体得した自由は、現代の講壇歴史家が、社会制度と照し合わせて考えている様な自由とは、同日の談ではない。お月様とすっぽん位の違いはあります。これは比喩ではない。お月様はいつもお月様であり、すっぽんは永遠にすっぽんであるところに、実は歴史の一番深い仔細はあるのだ。それが信じられる為には、人間は健全でなければならぬ、客観的でなければならぬ、とゲエテは言ったのであります。
では、何が頽廃した主観的な態度と言ったのか。これはもう申し上げるまでもない事だ。歴史を見ず、歴史の見方を見て、歴史を見ていると信じている態度であります。まさに今日の歴史観上の客観主義が行なっている処だ。客観主義とは全く偽名であります。而も、この偽名家を、進歩という考えが常にくすぐっております。まるで偽名が二重になったようなものです。歴史の進歩という様な事が誰の念頭にもなかった時代もあったし、人間の退歩を信じ切っていた時代も嘗てはあった。そういう時でも最善を尽した人は尽したのだし、努力家は努力家だったし、怠け者は怠け者だったのであります。歴史の変化は様々な価値の増大を齎すという考えの流行のうちにおりますと、不平を言っていても、皮肉を言っていても、人類の進歩に協力している気がしているという事になる。併し、それはまだよい。一番いけないのは、この考えに捕われたものが、しかとした理由もなく抱く過去というものに対する侮蔑の念であります。ただ単に現代に生れたという理由で、誰も彼もが、殆ど意味のない優越感を抱いて、過去を見はるかしております。単にもう死んで了った人々であるという理由で、彼等にはもはや努力して理解しなければならぬ様な謎はないのだ。彼等の価値には、歴史の限界が明らかだからだと言います。そんな事は彼等の知った事ではありませぬ。では現代の価値にも歴史の限界がある筈かと言えば、それは勿論ある、と言います。そして、将来は、自分が侮蔑される番だ、と気まり悪そうに言いそえるがよろしい。それなら、価値は、地球が充分に冷却した時に、最大となるわけですか。と言う事は、はじめから価値の問題なぞ実はどうでもよかったのと同じ事になります。何んという空想でしょうか。
「見る人の、語りつぎてて、聞く人の鑑《かがみ》にせんを、惜《あたら》しき、清きその名ぞ」と家持は歌った。何んという違いでしょうか。万葉の詩人は、自然の懐に抱かれていた様に歴史の懐にもしっかりと抱かれていた。惜しと想えば全歴史は己れの掌中にあるのです。分析や類推によって、過去の影を編み、未来の幻を描く様な空想を知らなかったのです。
歴史は、眼をうつろにしていさえすれば、誰にでも見はるかす事が出来る、平均にならされ、整然と区別《けじめ》のついた平野の様なものではない。僕等がこちらから出向いて登らねばならぬ道もない山であります。手前の低い山にさえ登れない人には、向うにある雪を冠った山の姿は見えて来ない、そういうものである。天稟《てんぴん》の詩人の直覚力を持たぬ人は、常に努力して己れの鏡を磨かなければ、本当の姿は決して見えて来ない、そういうものであります。だからこそ、歴史は古典であり、鑑なのである。
僕は、日本人の書いた歴史のうちで、「神皇正統記」が一番立派な歴史だと思っています。親房という人は、非常な熱血漢であった。結城親朝に送った烈しい文書などを読んでみると、彼の激情がどの様なものだったかがよくわかる。「神皇正統記」という沈着無類な文章も、それと同じ時に、同じ小田城や関城の陣中で書かれた。その事にしっかり心を留めないと、後醍醐天皇の崩御は申すに及ばず、愛児顕家の戦死の事実も、「心に一物を貯へず」いう筆致で描き出した立派さが、よく合点がいかないのであります。親房は、書中、心の鏡を磨く必要を繰返し言っております。悟性を磨く事ではない、心性を磨く事です。そして「心性明らかなれば、慈悲決断は其中に有り」と言っています。いかにもそういうものでありましょう。この親房の信じた根本の史観は、今もなお動かぬ、動いてはならぬ。その上を、どんなに移ろい易い様々な史観が移ろい行こうとも。その動かぬ処にこそ、歴史の伝承というものの秘義があるのであって、これは歴史変化の理論の与《あずか》り知らぬところなのであります。
今日は、革新の風が世を覆いまして、文化の新しい創造という様な事が、しきりに言われる様になった。これは、まことに結構な事だと思いますが、歴史は創造であるという様な呼び声が、どんな心性から出て来ているかを見極める必要がある。衰弱した歴史上の客観主義も、歴史の新しい創造を口にする事は出来るのであります。病人は泣くべき時に笑う事もあるのであります。日本の歴史が、自分の鑑とならぬ様な日本人に、どうして新しい創造があり得ましょうか。
[#地付き](昭和十六年三月―四月、「改造」)
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文学と自分
今度、文芸銃後運動の講演旅行に参加させて戴いたが、僕は平素考えている処と違ったお話をしようとは少しも考えておりませぬ。又、そんな事が出来るとも思いませぬ。ただ、平生文学に就いて考えているところをお話しして、それが多少でも皆さんの御参考になれば、と思っています。
今日は非常時であるから、いろいろ非常時政策というものが行なわれるわけですが、政策というものと思想というものは、自ら異るのであって、非常時の政策はなければならぬだろうが、非常時の思想という様なものがある筈はないと考えます。
成る程、政治家が思想とは即ち政策だと言っても一応尤もな事である。何故かと言うと、政治家にとって、思想の価値は、何で定まるかと言えば、それを実生活の上に実施して、成功するかしないかというところで定まる他はないからであります。そういう政治の性格は、今日の様な非常時には、特に目立って来る。例えば、戦争という事でも、これは非常に大きな政策であるが、決して巧い政策とは言えない。併し、この拙い政策も、将来実際の平和を実現する為に行なわねばならぬとあれば、行なわねばならぬ。行なって実際に平和という目的を貫く事に成功するならば、拙劣な政策も決して拙劣ではないという事になります。だから、実際の目的を達するか達しないかを考えずに、手段の善悪巧拙を云々する事はナンセンスだ、という事になるわけで、目的の為には手段を選ばぬという事は、常に必要に迫られた場合、政治の掟であると言えるのであります。
ところが、文学者には、思想というものについて、そういう風な考え方は、どうしても出来ない。政治家は極端に言えば、将来の実際の効果を狙って誤らぬとすれば、思い附きの思想であろうが、借りものの思想であろうがこれを行なうのに遅疑してはならぬとさえ言えるであろうが、文学者は、そういうわけには行かぬ。自分の身に附いた思想は、これを身に附けるにも時日を要し、これから脱却するにも時日を要する。借りものの思想を必要に応じ抱いてどうあがこうが、物の役には立たぬ。
文学者は、思想を行なう人ではなく、思想を語る人だ。今日の様に、実行の世の中になると、文学者なぞは、口説の徒ではないか、という人が増える。そんな事を言う人が増えても減っても、文学者は昔から口説の徒たる事にいささかも変りはないので、口説の徒で充分であると信ずる者を動かす事は出来ませぬ。文学者にとって、思想の価値は、それを巧く書くか拙く書くかというところで定まって了います。どう書くのが巧妙であり、どう書くのが拙劣であるか、それだけで、もう底の知れぬ大問題であって、この点で失敗して了えば、弁解の余地なぞ全然ないのであります。譬えて言えば、大工が家を建てる様なもので、家を拙く建てて了えば、人間を住まわせるという目的などナンセンスである。建て方は下手だが結構雨露は凌《しの》げるではないかという様な弁解は意味を成さぬ。それと同じ事です。
そういう次第で、文学は飽くまでも平和な仕事だ、将来の平和の為の戦でさえない、仕事そのものが平和な営みなのである。ペンの戦とか思想戦とか言うが、無論、これは物の譬えであって、戦は剣で行なうぐらいは三歳の童児も知っている。どんな大文学も蟻一疋踏潰す力は持っていない、どんな大思想も、たった一人の人間の空腹を満たすに足りない。この簡単な物の道理が、徹底して合点され、本当に心に応えたならば、言葉の力に頼って、実際の物の動きを、どうこうしようという、文学者の曖昧な感傷的な自惚れは消えてなくなるだろう、僕はそう信じております。
事変の始まった当時、戦争に処する文学者の覚悟如何というハガキ回答を雑誌社から求められた事があった。馬鹿馬鹿しかったから答えなかったが、そんな質問が雑誌から出て、文学者が頭をひねり、いろいろ尤もらしい考えを述べたという事は、いかにも不見識なていたらくで、平素、文学というものを突き詰めて考え、覚悟を決めていないから、いざとなるとあわてるのだ、とその時痛感したのを今でもよく覚えております。今日となっては、もう覚悟の定まらぬ様な文学者はおらぬ事を信じているが、その点、誤解のない様に願いたいが、当時の僕の感じから、追い追い自分の考えを述べたいと思う。
文学者は、戦にどう処するかと言うが、一体戦うのは誰なのか、自分が戦うのではないか。文学者という様な抽象人が誰と戦うわけではありますまい。では、何故そういう質問があった場合に、自分は出征する時どんな顔をするか、その顔を思い浮べて物を考えないか。常に己れの身に照らして物を考えようと努めないから、考えが空想に走る。考えが空想に走ってはならぬ、とは誰も言う。具体的に物は考えなければならぬと言う。口には言うが、実際にそういう事の出来ている人間は実に少いものです。文学者は戦争にどう処するか、そういう問題は具体的に考えてみなくてはならぬ、それには先ず嘗ての欧州大戦当時、外国の文学者はどう大戦に処したかを具体的に考察しなければならぬ。これでは何が具体的だかわからぬ。冗談と取られては困ります。この類い、具体的という言葉を提げて、空想の国に遊ぶ類いは、意外に多いものであります。
戦が始まった以上、何時銃を取らねばならぬかわからぬ、その時が来たら自分は喜んで祖国の為に銃を取るだろう、而も、文学は飽く迄も平和の仕事ならば、文学者として銃を取るとは無意味な事である。戦うのは兵隊の身分として戦うのだ。銃を取る時が来たらさっさと文学など廃業してしまえばよいではないか。簡単明瞭な物の道理である。現代の知識人には、簡単明瞭な物の道理を侮る風があるが、簡単明瞭な物の道理というものが、実は本当に恐いものなので、複雑精緻な理論の厳めしさなぞ見掛け倒しなのが普通であります。人間だってそうだ。単純率直な人間が恐いのだ。尤も、それには、所謂複雑な心の持主という様な近代文学者の愛好する人間タイプの退屈さ無力さが、身に沁みて解って来なければ駄目なのでありますが。
さて、一文学者としては、飽くまでも文学は平和の仕事である事を信じている。一方、時到れば喜んで一兵卒として戦う。これが、僕等の置かれている現実の状態であります。何を思い患う事があるか。戦に処する文学者としての覚悟などという質問自体が意味を成さぬ。そういう質問が出るという事が、そもそも物を突き詰めて普段考えておらぬ証拠だと思います。僕の言う様な考え方は、予盾しているではないかと言うかも知れないが、世の中を矛盾なく渡ろうという考えの方が余程お目出度い考えではありませんか。そしてお目出度い事だと、本当に腹に這入れば、矛盾も決して矛盾ではないのであります。実は、これがお話の眼目なのであるが、すこしお話を急ぎ過ぎた様ですから、前に戻りましょう。
文学者は、思想を行なう人ではなく、思想を語る人だと前に申しました。芸術は表現である、とは誰も言う事で、僕も誰も言う以上の事をお話し出来るとは思っておりませぬが、ただ、文学は表現であると傍人が傍観しているのと、自分の目的も手段も一切が言葉の表現のうちにあると信じて仕事に努める文学者の覚悟とは、自ら異ると思うので、こちらの覚悟の側からお話を進めたいと考えます。僕は学校にいる関係で、文学をやる学生諸君には、常に接しているわけですが、近頃は文学が普及した結果、文学に関する学生諸君の知識は、驚くほど豊富になって来ていると思う。併し、それが為に文学者の覚悟というものが掴み易くなって来ているわけではない、寧ろ難かしくなって来ている。何故かというと、元来、知識というものは、特に文学的知識というものは机の前に黙って坐っている我慢さえあれば、増やそうと思えばいくらでも増えるし、精しくしようとすれば、いくらでも細かく複雑なものになるので、そういう知識の性質は、人間の頭をどうしても空想的にする傾向があります。一方、覚悟というものは、文学者の覚悟に限らず増やそうとして増えるものでもないし、精しくしようとして精しくなるものでもない、覚悟するかしないか二つに一つという簡明な切実なものである。知識のうちには、まさしく文明人がいるが、覚悟の裡には、いくら文明が進んでも、依然として原始人が棲んでいる。知識で空想化した頭脳には、なかなか掴み難いものなのであります。
そういう事を、僕は、文学をやる学生諸君を見ていて、強く感じている次第ですが、芸術は表現だという考えにしても、これを知識の側から考えれば、この片言から、美学大系の二つ三つ忽ち膨れ上がるという様なもので、学生諸君も、文学表現の時代性とか社会性とかいろいろ精しく考えるのだが、これを覚悟の側から見れば、自分は果してこの片言を徹底して信ずるのか信じないのかという簡明切実な問題に帰して了う。そしてそれは一体どういう問題なのだ、という事にはひどく無関心で鈍感になっています。
自分は書く事は下手で、考えている事の十分の一も言えていない、それを考えて呉れず、自分という人間を判断して貰っては困る、文章は浅薄かも知れないが、実はなかなか深刻な事を考えているのだから。そういう事を言います。自分の鼻は見た処確かに胡坐《あぐら》をかいているが、実はもっと上等の鼻を何処かにちゃんと持っているのだ、そんな事を言ったらおかしいでしょう。おかしいから鼻に関しては、見られた儘で諦めているが、文章だと諦めない。文章が低級に見えるだけではないかと頑固に主張する。もっとましな自分自身というものが、姿を見せないが、恰も雲の中に龍が隠れている様なあんばいに頭の中に隠れていると信じ込んでいる。これは迷信でありまして、本当の彼自身とは浅薄な文章以上でも以下でもない、頑固に主張するその頑固さも明らかに彼の表現だとすれば、浅薄さプラス頑固さが即ち彼自身であって、その他に彼自身などというものはありませぬ。人間は誰でも見えた通りのものであります。孔子様も「人|焉 《いずくん》ゾ|※[#「まだれ<叟」、unicode5ecb]《かく》サン哉」と繰返しおっしゃった。
文学に志す人は、誰でも頭のなかに龍を一匹ずつ持って始めるものですが、文学者としての覚悟が定まるとは、この龍を完全に殺して了ったという自覚に他なるまいと考えます。僕の貧弱な経験から考えても、この仕事は口で言う程たやすいものではなく、どうすれば殺せるかという解り易い方法があるわけでもない。これは単に思索の上の工夫ではなく、意志や感情や感覚による工夫でもあるからです。殺そうと思って却って相手を肥らせるという様な事にもなりましょうし、忘れているうちに相手が死んでいるという様なうまい事にならぬとも限らぬし、まあ要するに相手は魔性であると思えば間違いない。
文章というものは、先ず形のない或る考えがあり、それを写す、上手にせよ、下手にせよ、ともかく、それを文字に現すものだ、そういう考え方から逃れるのは、なかなか難かしいものです、そのくらいな事は誰でも考えている、ただ文士というのは口が達者なだけだ、というのが世人普通の考え方であります。併し文学者が文章というものを大切にするという意味は、考える事と書く事との間に何んの区別もないと信ずる、そういう意味なのであります。拙く書くとは即ち拙く考える事である。拙く書けてはじめて拙く考えていた事がはっきりすると言っただけでは足らぬ。書かなければ何も解らぬから書くのである。文学は創造であると言われますが、それは解らぬから書くという意味である。予め解っていたら創り出すという事は意味をなさぬではないか。文学者だけに限りません、芸術家と言われる者は、皆、作品を作るという行為によって、己れを知るのであって、自己反省なぞという一種の空想によって自己を知るのではない。例えば、ミケランジェロは、大理石の塊りに向って、鑿《のみ》を振う、大理石の破片が飛び散るに従って、自分が何を考え、何を感じているかが明らかになる、遂にダヴィッドが石の中から現れ、ダヴィッドとは自分だと合点するに至る。出来上ったダヴィッドの像は彼に様々な事を教える、彼の心に様々な新しい疑問を起させる、彼は解らぬままに、又、鑿を提げて新しい大理石の塊りに向う。恐らくこれが芸術家の仕事というものの実情なのであります。彼自身の観念とか思想とかいうものがあって、それを石に託し表現したという様なわけのものではない。批評家は、或る作品の源にある観念《イデ》だとか思想だとかというものを好んで口にするが、ただそんな事を言ってみるに過ぎない。影を追う遊戯であります。尤も、影を追う遊戯とはっきり知って楽しんでおれば無害な楽しみではありますが。
以上、表現というものを徹底して考えたらどうなるか、という事に就いて早口にお話ししたわけだが、序でに早口に附け加えて置きます。文学者は形のある言葉だけを信じて、形のない考えという様なものを信じませぬ。常に形あるものの間の勝負が一切なのである。自分とは形ある作品の事であって、頭で考えた自我という様な余計なものは要らぬ。それなら自然に対しても人生に対しても、その流儀で考えて然る可きである。自然も人生も眼に見え耳に聞える、まさにその通りの姿以外のものではない。あるがままの姿こそ自然の真髄であり、人生の真髄である。あるがままの形の裏に眼に見えぬ真を考える要もなし、又、あるがままの形を構成している様々な要素の方が、あるがままの形より一層真実であるという様な主張も余計なお世話である。徳川家康が、こう人に教えたそうです、「真らしき嘘はつくとも、嘘らしき真を語るべからず」。こういう言葉を、単なる処世訓と解したら、詰らぬ言葉に過ぎませんが、僕は、この炯眼《けいがん》なリアリストの言葉には、もっと深い人生の洞察が含まれている様に思います。人生には嘘とか真とかと考えられたものがあるわけではない、そんなものは全然ない、嘘らしい言い方と真らしい言い方とがあるだけである。嘘らしく現れる真とは即ち嘘であり、真らしく表現された嘘とは即ち真である。そういう徹底した意味が隠されているのだ、と僕は考えます。そこまで徹底していなければ、神君なぞと言われてもつまらぬ男です。
さて、別の方から表現という問いを取り上げてみましょう。前に口説の徒という事を申しましたが、口説の徒で充分であると信ずるというのも亦、文学者にとって書くという事が即ち切実な実行だからであります。世人は、言葉では解らぬ、実際の事にぶつかって自得するのだ、と言いますが、文学者にとって、文章とはぶつかる実際の事なのであります。そう申しても、言葉は口先きの事だ、文学は紙の上の事だ、という感じが、どうしても諸君にはあるだろうと思うが、それは、言葉というものに対する心構えについて、文学者は余程世人と異っているという処から来るのであります。異った心構えで言葉に対しているというより、もっと深く言葉を愛している、と言った方がよいかも知れぬ、そこから来る。
例えば、煙草を持って来い、という言葉がある。煙草を持って来てくれれば、もうその言葉は用がなくなる。又、煙草を持って来させるには、必ずしも、煙草を持って来い、という言葉さえ要らぬかも知れない、顎を使っても事が足りる、という場合もあって、用が足りれば、消えて了う言葉というものが世間では一番多い。それから、もう一つは、理解に訴える言葉、例えば、二に二を足せば四になる、という種類の言葉、これを聞いて、まさしく二に二を足せば、四になると理解して了えば、その言葉は消えて了う。文学者の言葉は、そのどちらの種類でもありませぬ。一つの詩を読んで、煙草を持ってくる人もなければ、よろしい君の理窟は解ったという人もない。詩は行動のなかにも理解のなかにも消え去らぬ。最初書かれたそのままの姿を何時までも保存しております。保存している許りではなく、読む人により日に新たな味わいを生みます。恰も、自然が人間に、どんな行動の為に利用されようと、どんな形式の下に理解されようと、あるが儘の姿を保存し、例えば画家の眼に日に新たな美しさを提供している様なものだ。若し文学者が、言葉というものを、そういう風なものと信じ、そういう風なものと扱っているのなら、文学者は、言葉を何かの符牒や記号としてではなく、どこまでも、色彩もあり目方もある自然物の様に扱っているものだと言えましょう。彫刻家の扱う大理石の様な物質ではないとしても、決して色も形もない観念ではない、彫刻家が、鑿の先きに石の抵抗をしかと感じている様に、文学者はペンの先に、人間の考え次第ではどう変えようもない言葉というものの目方を感じているのであります。
海とか空とかという言葉は、悟性の約束による記号ではない、海や空という実物に繋り、海の匂いも空の色も映している。善とか悪とかという意味だけで出来ている様な言葉にしても、文学者は、長い人間の歴史の脂や汗に塗《まみ》れているそういう言葉の形をしかと感じているのであって、歴史の脂や汗を拭い去って了ったら言葉はもはや言葉ではなくなる、それはただ推理の具と化するのであります。こう考えて来れば、伝統のない処に文学はないという屡々言われる言葉の意味も根本のところからお解りだろうと思う。言葉は毎日太陽に照らされ、風に吹かれ、生活に揉まれ、人々の膏血《こうけつ》に塗れ、極めて緩慢な変化を受けつつ、生きて来た、又生きて行く。言葉をそういうものと感じ、そういうものとして日常生活の伴侶としている文学者は、伝統の秘義を眼のあたり見ているわけであります。人間は、一枚の紅葉が色づく事をどうしようもない。先ず人間の力でどうしようもない自然の美しさがなければ、どうして自然を模倣する芸術の美しさがありましょうか。言葉も亦紅葉の葉の様に自ら色づくものであります。ある文章が美しいより前に、先ず材料の言葉が美しいのである。例えば人情という言葉は美しくないか、道徳という言葉は美しくないか。長い歴史が、これらの言葉を紅葉させたからであります。近頃、道徳という言葉の代りにモラルという言葉がしきりに使われていますが、これを使う人々は "morale" という言葉が、フランス人の間では、古めかしい色で美しく紅葉して見えている事を一向気に掛けぬ。又、その感じは恐らく日本人には容易に解らぬものだ、という事も気に掛けぬ。ただ、道徳という言葉の持つ何んとは知れぬ古めかしい感じから逃れた気易さからモラル、モラルと言っている。成る程、何んとは知れぬ古めかしい感じからは逃れたかも知れないが、それは又何んとは知れぬ厳めしい感じからも逃れた事にもなる筈だ。僕等は道徳という国語の語感から離れて、一体道徳に就いて何を考えようとするのですか。それよりも先ず、道徳とは一体考えねばならぬものか、それとも感じねばならぬものか。道徳とは何かに就いて、出来るだけ正確に考え、万人の理解に訴え、何人の反駁も許さぬ様な観念を得ようと努めた人は、昔から沢山あります。そういう仕事をするのには、道徳という語感は日本人にしか解らず、モラルという語感はフランス人にしか解らぬという様な、そんな言葉を使っていては不便で仕方がない。だから出来るだけ言葉の抽象的な性質に頼って仕事を進めるわけですが、それも不徹底なやり方で、いっそ万人の正確な理解に、過たず訴える事が出来る代数学でも使って仕事をした方が、遥かに有効ではないかと思われます。だが、そんな事をした人は一人もいない。出来ないからです。結局自分の生れた国の、自分に一番親しい言葉から離れて仕事は出来なかったのである。道徳の問題は考えるだけでは、どうしても足りぬ証拠であります。
伝統も亦考えただけでは足らぬ。いや、考えて行ったら消え去るものかも知れませぬ。言葉の実用性とか抽象性とかいうものを過信せず、ささやかな一つの言葉にも、どんなに沢山な恨みを遺して、どんなに沢山な人間が死んだか、その歴史の目方が、あるが儘の言葉を掌に乗せて積れる様な文学者が、伝統について何を思い患うだろうか。彼は伝統を感得しております。近頃、伝統についての議論がやかましいが、日本書紀の中の文句を使ってラジオで国民を訓戒する政治家が、或いは、日本人にも解りフランス人にも解る様に伝統というものの概念を説く精緻な理論家が、必ずしも伝統についてよく知っているわけではありますまい。伝統とは、歴史の流れが作る現実の様式である。伝統を日に新たに救い出す為には、この流れに身を投じ、どういうやり方で生きて行くか、自力で己れの様式を編みだして行く人間が、どうしても必要だ。推理は元来様式を持っていない、或いは単一な様式しか持っていない。推理を提げて伝統についてどんなに思索を廻らした処で、現実にある伝統の中に這入って行く事は出来ますまい。単一な自分の様式から外へ足を踏み出す事はないでしょう。推理は結局、推理しか救い出しますまい。だが、幸いな事には、推理も肉体を持った人間がするのである。頭は推理で一杯で頑固一徹に構えていても、彼の肉体は現実の伝統の流れに漬《つか》っています。目が覚める機会は与えられているわけであります。
まことに雑然としたお話で恐縮ですが、「文学と自分」という演題以外の事は、何にもお話ししているわけではない、それはわかって戴けた事と思います。文学者は己れの世界から外へは出ませぬ。己れと言っても、観念の上の自我という様なものではない事は既にお話しした通りです。己れの世界とは言う迄もなく自分が直接経験する世界の事です。この世界は狭いものだ。この世界がどんなに狭いものかを、僕等が時々反省してみるのは大変為になる事であります。毎朝、新聞を拡げただけで、ドイツの事からイギリスの事からどんなに種々雑多な沢山の知識が眼から飛び込む事でしょう。而もその知識の一つ一つには、何んの確実さもないのである。見てくれはいかにも現実的な知識であるが、その曖昧さその不安定には驚くべきものがあり、その点で殆ど子供の空想と選ぶ処はない。その上、例えば太陽の廻りを地球が廻っているという誰も知っている知識にしても、ただ本にそう書いてあったからそういうものかと思っているに止まり、自分で観察し実証したわけでは更々ない、そんな知識も不確実な知識の部類に入れるならば、僕等の不確実な知識の国、つまり僕等の空想の国の広さは莫大なものでありまして、そんな途轍もない空想を背負って暮しているという事は、僕等が本当に憎んだり愛したり、腹から合点したりしている僕等の直接に経験する世界がいかに狭いかに思い到らねば、なかなか人は合点しないものであります。
この狭い世界だけを確実なものと信じ、この世界のなかで自得するより正しい道はないと覚悟する、それが文学者の覚悟だと思う。そういうのは個人主義思想だと言うかも知れないが、これが個人主義思想などという易しい事だと思うなら、自分で試しにやってみるがよい。今日は個人主義思想はもう流行《はや》らないのだそうですが、流行らなくなっても、人間いかに生くべきかは各自の工夫を要する事に変りはあるまい。何主義であれ、主義という様なものは、実を言えば思想でも何んでもない、言わば思想の影であります。これは僕の勝手な説ではない、二宮尊徳の説です。二宮尊徳は思想という言葉は使っていない、大道と言っておりますが、大道は譬えば水の様なもので、世の中を潤沢して、滞る処のないものだが、書物になって了えば水が凍った様なものだ、その書物の註釈というものに至っては、氷に氷柱《つらら》がぶら下った様なものだ。「氷を解かすべき温気胸中になくして、氷の儘にて用いて、水の用をなす物と思うは愚の至なり」と言っております。大切なのは、この胸中の温気なのである。空想の世界の広大さに比べて、確実な己れの生活の世界の狭さを知れとは、この胸中の温気の熱さを知れという事に他なりませぬ。正義を言い人道を言い日本の大使命を言う、併しそういう言葉も、氷に過ぎず、氷からぶら下った氷柱に過ぎぬかも知れないではないか。自分の胸がそういう氷を解かすほど熱いかどうか知るがよいのだ。そんな事はとうに知っている、温気ぐらい誰の胸中にもあるのだ、自分はもっと先を行く、それがもう間違いだ。間違いの一歩を踏出す事であります。
成る程、己れの世界は狭いものだ、貧しく弱く不完全なものであるが、その不完全なものからひと筋に工夫を凝らすというのが、ものを本当に考える道なのである、生活に即して物を考える唯一つの道なのであります。考えあぐむとか、思いあぐむとかいう言葉がある、思いあぐんだ末、とうとうあの女は自殺して了ったと言います。こういう言い方には深い仔細があるのであって、例えば、人類について遠大に思索している思想家は、果ては自殺して了った女なぞ眼中にはないかも知れないが、ものの考え方については、女の方が正統派かも知れませぬ。恐らく女は詰らぬ事をくよくよ思い患ったのだ、何日も水の流れを見て暮したのであるが、それは、詰らぬもの、不完全なものから、一と筋に生きる工夫を凝らした事である、過ちに過ちを重ねる様な考えの糸を辿ったかも知れぬが、もうこの先きに工夫の余地は全然ないという処まで考えを押し進めた事には間違いない。そして死ぬ事だけが生きる道だという結論を得たからさっさと死んで了ったのである。これは正しい考え方である。若し女が死ぬ間際に生について翻然として悟る処があったら、彼女は立派な思想家ではないか。これに類した経験をお持ちの方は、皆さんのうちにも多かろうと思います。生活のなかで、物を考えるとは、こういう筋道を通る他はないからであります。
しかしどの様な問題に出会っても、こういう考え方だけを信ずるという事が難かしいのである。確かに手元に掴んでいる不完全なものから工夫を積んで行くという苦しい道を捨てたがる。一足飛びに完全に考えようとする。考えが抽象に走るという事は、完全な考え方というものの気楽さに溺れる事に他なりませぬ。冒険や過ちを怖れては、事は成就せぬとは、世の実行家のよく知る処である。前にもお話しした通り、文学者が文章を書くとは実行である。完全に考える気楽さなどに興味を持っているわけではありませぬ。肯定は否定を考えるからこそ肯定である、否定は肯定あってこそ否定である、真理は両方を丸薬の様に丸めた処に存する、と言った様な完全な物の考え方を学校で教わって、皆その流儀でやり度がるから、考えるという事について堕落して了うのであります。
氷や氷柱は大変多いから胸中の温気を常に暖めているという事は、なかなか難儀な事なのである。この一片の温気が、遂に天道に達するものかどうか、そんな事は知らぬ。一事に努めているものが他は知らぬのは当り前の事ではないか。この他は知らぬという事にこそ、人間の工夫の要訣があるのだと僕は思います。ゲエテとかトルストイとかいう様な、偉い文学者も、各自の胸中の温気で溶かす事の出来た水しか考えはなかったのである。彼等は天命を待ったのであって、天命に狙いなぞつけたわけではないのであります。
空想は、どこまでも走るが、僕の足は僅かな土地しか踏む事は出来ぬ。永生を考えるが、僕は間もなく死なねばならぬ。沢山の友達を持つ事も出来なければ、沢山の恋人を持つ事も出来ない。腹から合点する事柄は極く僅かな量であり、心から愛したり憎んだりする相手も、身近かにいる僅かな人間を出る事は出来ぬ。それが生活の実状である。皆その通りしているのだ。社会が始まって以来、僕等はその通りやって来たし、これからも永遠にその通りやって行くであろう。文学者が己れの世界を離れぬとは、こういう世界だけを合点して他は一切合点せぬという事なのであります。そしてその事が客観世界とか具体の世界とか現実の歴史とかいう言葉の意味を知る事なのであって、例えば唯物史観という様な氷や氷柱が教えて呉れるわけでは決してないのであります。観念論的史観であっても、これを僕が胸中の温気で溶かし、その溶け具合が僕にしかと感じられる以上僕は現実の歴史について、客観の世界についてよく知っているわけではありませんか。氷の性質に甲乙があるわけではないのである。自然が僕を取巻いているのです。又、僕の肉体という自然が、水も洩らさぬ様に僕を取巻いているのです。この堅固な客観の世界は僕が望んだから在るものではないのだ、まして僕の望み通りにどうでもなる様な世界ではないのである。僕の望み通りに一番なる様に見える言葉というものさえ、もうくどくお話しした通り第二の自然である。人情という言葉の美しさを僕が発明したわけではなし、その美しさを醜くする術を僕が持っているわけでもない。鑿を振わねば、大理石の一とかけらも飛び散りはしない様に、言葉は考えに応じてどうにでも動く符牒ではない。これが文学者が実際に置かれている仕事場なのであります。この仕事場の事をよくお考え下されば、文学者の覚悟とは、自分を支えているものは、まさしく自然であり、或いは歴史とか伝統とか呼ぶ第二の自然であって、自然を宰領するとみえるどの様な観念でも思想でもないという徹底した自覚に他ならぬ事がお解りだろうと思う。これは一方から言えば自然や歴史を心を虚しくして受容する覚悟とも言えるのである。前に芸術家は、作品の裡に己れを見附け出すと申しましたが、作品とは自然の模倣を断じて出る事は出来ないのであって、作品とは芸術家が心を虚しくして自然を受け納れるその受け納れ方の極印であると言う事が出来る。だから、若し芸術家に己れという様なものがあるとすれば、この極印のなかにしかないと申すのであります。そういう芸術観を旧いという人が沢山ある事をよく承知しているが、それは自我という空想の濫用から来た芸術に対する考え方の堕落だと僕は思っています。併し、これに就いて語る興味はない。歴史も亦そうであります。歴史というものを眺めて兎や角言う自分という様なものを考えるのは誤りである。僕等には歴史を模倣する事以外に何も出来る筈はない。刻々に変る歴史の流れを、虚心に受け納れて、その歴史のなかに己れの顔を見るというのが正しいのである。日本の歴史が今こんな形になって皆が大変心配している。そういう時、果して日本は正義の戦をしているかという様な考えを抱く者は歴史について何事も知らぬ人であります。歴史を審判する歴史から離れた正義とは一体何んですか。空想の生んだ鬼であります。
扨て、もうお話しする事がなくなった様でありますが、歴史の流れをそのまま受け納れると言うが、歴史の流れとは必然の流れであろう。それなら人間の自由は何処にあるのか。自由は空想のうちにしかないのか。そういう疑問にお答えしないでお話を済ますわけにも参らぬ様であります。僕にお答えする資格があるかどうか甚だ疑問だし、又解って戴けるかどうかも解りませんが、お話ししてみます。
昔、大野道賢入道という武士があった。これは大坂之陣で有名な大野修理の弟であります。冬之陣の和談の際、家康が大坂城の総堀を埋めたのを見て、家康全く和談の心底にあらず、と非常に憤って、堺の町に放火した。家康はこれを聞いて道賢を憎み、夏之陣が始まると、道賢生捕りが第一番の功名とふれ、入道はとうとう生捕りになって了った。家康の前に引出され、生捕りになって恥を曝すとはたわけた奴と罵られたが、生捕りは古今の勇士にもある習い、少しも恥でない、それよりも貴公の様なものに威張られていては天下|心許《こころもと》なし、大たわけなり、と言って平然としていた。堺の町人が、そういう放火犯人は、焼跡で火あぶりにしたいから、私共にお下げ願いたいという事になり、火あぶりになりました。これも成るたけ憂目を見せる方がよかろうと遠あぶりと言って、遠くの方からあぶる事にして、七転八倒の苦しみを見物するこしらえにしたのですが、入道は柱に縛りつけられたまま少しも動かない、じっと動かないままで真っ黒こげになって了った。火あぶりでは縄が焼けて切れない様に、縄に泥を塗って置くのであります。甚だ物足らぬていで検視のものが、真っ黒こげの入道に近附いた処が、死んだと思った入道が、ムクムクと動き出し、検視の脇差を抜いて検視の腹をグサリと貫いた。その途端に真っ黒な入道の身体は忽ち灰になったそうです。諸君はお笑いになりますが、僕は、これは本当の話だと思っています。真に自由な人生とは、有りそうな話でも有りそうもない話でもないのだ。
もう一つお話しします。これは歌です。人間の真の自由というものを歌った吉田松陰の歌であります。この歌はお笑いにはなるまいと思うが、気味の悪さは同じ様なものです。松陰が伝馬町の獄で刑を待っている時、留魂録という遺書を書いた事は皆さんも御承知でしょうが、そのなかに辞世の歌が六つありますが、その一つ、
[#3字下げ]呼びだしの声まつ外に今の世に待つべき事の無かりけるかな
呼びだしとは無論首斬りの呼びだしであります。長い間御清聴を煩わして有難う存じました。
[#地付き](昭和十五年十一月、「中央公論」)
[#地付き]〈了〉
〈底 本〉文春文庫 昭和五十一年六月二十五日刊