考えるヒント
小林秀雄
[#表紙(表紙1.jpg、横102×縦148)]
目 次
考えるヒント
常  識
プラトンの「国家」
井伏君の「貸間あり」
読  者
漫  画
良  心
歴  史
言  葉
役  者
ヒットラーと悪魔
平 家 物 語
プルターク英雄伝
福 沢 諭 吉
四  季
人  形
樅 の 木
天 の 橋 立
お 月 見
踊  り
ス ラ ン プ
さ く ら
批  評
見 物 人
青年と老年
花  見
ネ ヴ ァ 河
ソヴェットの旅
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考えるヒント
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常  識
学生時代、好んでエドガー・ポーのものを読んでいた頃、「メールツェルの将棋差し」という作品を翻訳して、探偵小説専門の雑誌に売った事がある。十八世紀の中頃、ハンガリーのケンプレンという男が、将棋を差す自働人形を発明し、西ヨーロッパの大都会を興行して歩き、大成功を収めた。其後、所有者は転々とし、今は、メールツェルという人の所有に帰しているが、未だ誰も、この連戦連勝の人形の秘密を解いたものはない。ある時、人形の公開を見物したポーが、その秘密を看破するという話である。ポーの推論は、簡単であって、凡《およ》そ機械である以上、それは、数学の計算と同様に、一定の既知事項の必然的な発展には、一定の結果が避けられぬ、そういう言わば、答は最初に与えられている、孤立したシステムでなければならぬが、将棋盤の駒の動きは、一手一手、対局者の新たな判断に基づくのだから、これを機械仕掛と考えるわけにはいかない。何処かに、人間が隠れているに決っている。だが、人形が勝負を始める前、メールツェルは、人形の内部も、将棋盤を乗せた机の内部も、見物にのぞかせて、中には機械が充満し、機械のない処は、空っぽである事を証明してみせるから、半信半疑の見物も、すっかりごまかされ、立ち替り出て行く天狗どもが、負かされる毎に、大喝采という事になる。
ポーは、この機械の目的は、将棋を差す事にはなく、人間を隠す事にあるという最初の考えを飽くまでも捨てないから、内部のからくりを見せるメールツェルの手順を仔細に観察し、その一定の手順に応じて、内部の人間が、その姿勢と位置とを適当に変えれば、外部から決して見られないでいる事は可能だという結論を、遂に引出してみせる。
東大の原子核研究所が出来た時、所長の菊池正士博士が知人だったので、友達と見物に出掛けた事がある。私達素人が、核破壊装置なぞ見物しても、何の足しになるわけでもないのだが、連中の一人に、好奇心に燃えている男がいて、それが見物を熱心に主張したのである。
彼の言うところによると、研究所には、「電子頭脳」があって、将棋を差すそうだ、今のところの性能では、専門家には負けるそうだが、俺くらいなら、いい勝負らしい、一番やるのが楽しみだ、と言う。馬鹿を言え、と言ったものの、実は、みんな、半信半疑なのである。
彼は、研究所に着いて、早速、手合せを申し出たが、うちでは将棋の研究はやっておりませんと言われて、大笑いになった。大笑いにはなったが、併し、私達に、所長さんと一緒に笑う資格があったかどうか、と後になって考え込んだ事がある。ポーの昔話を一笑に附する事は、どうも出来そうもないようである。
常識で考えれば、将棋という遊戯は、人間の一種の無智を条件としている筈である。名人達の読みがどんなに深いと言っても、たかが知れているからこそ、勝負はつくのであろう。では、読みというものが徹底した将棋の神様が二人で将棋を差したら、どういう事になるだろうか。実は、今、この原稿を書きながら、ふとそんな事を考えてみたのである。ところが、解らなくなった。どう考えてみてもはっきりしないのが、不愉快になって来て、原稿が一向進まない。
丁度その時、銀座で、中谷宇吉郎に、久し振りでぱったり出食わした。この種の愚問を持ち出すには、一番適当な人物だとかねがね思っていたから、早速、聞いてみた。以下は、宇吉郎先生の発言に始まるその時の一問一答である。
「仕切りが縦に三つしかない一番小さな盤で、君と僕とで歩一枚ずつ置いて勝負をしたらどういう事になる」と先ず中谷先生が言う。
「先手必敗さ」
「仕切りをもう一つ殖やして四つにしたら……」
「先手必勝だ」
「それ、見ろ、将棋の世界は人間同士の約束の世界に過ぎない」
「だけど、約束による必然性は動かせない」
「無論だ。だから、問題は約束の数になる。普通の将棋のように、約束の数を無闇に殖やせば、約束の筋が読み切れなくなるのは当り前だ」
「自業自得だな」
「自業自得だ。科学者は、そういう世界は御免こうむる事にしてるんだ」
「御免こうむらない事にしてくれよ」
「どうしろと言うのだ」
「将棋の神様同士で差してみたら、と言うんだよ」
「馬鹿言いなさんな」
「馬鹿なのは俺で、神様じゃない。神様なら読み切れる筈だ」
「そりゃ、駒のコンビネーションの数は一定だから、そういう筈だが、いくら神様だって、計算しようとなれば、何億年かかるかわからない」
「何億年かかろうが、一向構わぬ」
「そんなら、結果は出るさ。無意味な結果が出る筈だ」
「無意味な結果とは、勝負を無意味にする結果という意味だな」
「無論そうだ」
「ともかく、先手必勝であるか、後手必勝であるか、それとも千日手になるか、三つのうち、どれかになる事は判明する筈だな」
「そういう筈だ」
「仮りに、先手必勝の結果が出たら、神様は、お互いにどうぞお先きへ、という事になるな」
「当り前じゃないか。先手を決める振り駒だけが勝負になる」
「神様なら振り駒の偶然も見透しのわけだな」
「そう考えても何も悪くはない」
「すると神様を二人仮定したのが、そもそも不合理だったわけだ」
「理窟はそうだ」
「それで安心した」
「何が安心したんだ」
「結論が常識に一致したからさ」
「一体、何の話なんだ」
「それは、来月の『文藝春秋』に書くから、読んでみてくれ」
「へえ、そりゃ読んでみてもいいがね。僕も、近々、文藝春秋画廊で、個展を開くから、見に来てくれ」
「そりゃ見に行ってもいいが、個展とはあきれたもんだ」
「失敬な事を言うな」
「いや、素人ほど恐ろしいものはないな」
さて、そういう次第で、原稿の先きを続けるわけであるが、常識を守ることは難かしいのである。文明が、やたらに専門家を要求しているからだ。私達常識人は、専門的知識に、おどかされ通しで、気が弱くなっている。私のように、常識の健全性を、専門家に確めてもらうというような面白くない事にもなる。機械だってそうで、私達には、日に新たな機械の生活上の利用で手一杯で、その原理や構造に通ずる暇なぞ誰にもありはしない。科学の成果を、ただ実生活の上で利用するに足るだけの生半可な科学的知識を、私達は持っているに過ぎない。これは致し方のない事だとしても、そんな生半可な知識でも、ともかく知識である事には変りはないという馬鹿な考えは捨てた方がよい。その点では、現代の知識人の多くが、どうにもならぬ科学軽信家になり下っているように思われる。少し常識を働かせて反省すれば、私達の置かれている実状ははっきりするであろう。どうしてどんな具合に利《き》くのかは知らずにペニシリンの注射をして貰う私達の精神の実情は、未開地の土人の頭脳状態と、さしたる変りはない筈だ。一方、常識人をあなどり、何かと言えば専門家風を吹かしたがる専門家達にしてみても、専門外の学問については、無智蒙昧であるより他はあるまい。この不思議な傾向は、日々深刻になるであろう。
ポーの常識は、機械には、物を判断する能力はない、だから機械には将棋は差せぬ、と考えた。しかし、そのような言葉だけでは、とても、この自働人形の魅惑から、諸君を解放する事は出来まいと思うから、以下、機械の実際の観察に基づく推論を述べる、と彼は断っている。
メールツェルの人形が発明されたのは、私は読んだ事はないが、有名なラ・メトリの「人間機械論」が書かれて間もなくの事である。人間も機械なら、人形の発明も現れよう。人形の興行の大成功は、十八世紀の唯物論の勝利と無関係だった筈はあるまい。
当時、人形の謎を解こうと、その純粋に機械的な構造を想像してみた無数のパンフレットや解説類が現れた事を、ポーも記している。十八世紀の科学で、現代の電子工学を論ずる事は出来まいが、ポーの常識が、今日ではもう古いとは、誰にも言えまい。ところが、「人工頭脳」と聞くと、うっかりしていれば、私達の常識は、直ぐ揺ぐのである。
先日も、漫然と教育テレビを眺めていたら、ある先生が、現代生活と電気について講義をしていたが、モートルが、筋肉の驚くべき延長をもたらしたが如く、エレクトロニクスは、神経の考えられぬ程の拡大をもたらした、と黒板に書いて説明していた。一般人に向っての講義では、そう比喩的に言ってみるのも仕方がないとしても、そういう言い方の影響するところは、大変大きいのではないかと思った。例えば、人間の頭脳に、何百億の細胞があろうが、驚くに当らない。「人工頭脳」の細胞の数は、理論上いくらでも殖やす事が出来る。ただ、そう無闇に多くのデータを「人工頭脳」に記憶させるには、機構を無闇に大きくしなければならず、そんなに金のかかる機械では実用に向かないだけの話だ。こういう説明の仕方は、これを聞いている人々を、「人工頭脳」を考え出したのは人間頭脳だが、「人工頭脳」は何一つ考え出しはしない、という決定的な事実に対し、知らず識らず鈍感にして了《しま》う。
私は、電子計算器の原理や構造について、はっきりしたところは、何も知らない。この間、宇吉郎先生に、ついでに聞いて置けばよかったが、しまった事をした。だが、私の好奇心の問題などとるに足りない。ポーの原理で間に合う話だ。
機械は、人間が何億年もかかる計算を一日でやるだろうが、その計算とは反覆運動に相違ないから、計算のうちに、ほんの少しでも、あれかこれかを判断し選択しなければならぬ要素が介入して来れば、機械は為すところを知るまい。これは常識である。常識は、計算することと考えることとを混同してはいない。将棋は、不完全な機械の姿を決して現してはいない。熟慮断行という全く人間的な活動の純粋な型を現している。
テレビを享楽しようと、ミサイルを呪おうと、私達は、機械を利用する事を止めるわけにはいかない。機械の利用享楽がすっかり身についた御蔭で、機械をモデルにして物を考えるという詰らぬ習慣も、すっかり身についた。御蔭で、これは現代の堂々たる風潮となった。
なるほど、常識がなければ、私達は一日も生きられない。だから、みんな常識は働かせているわけだ。併し、その常識の働きが利く範囲なり世界なりが、現代ではどういう事になっているかを考えてみるがよい。常識の働きが貴いのは、刻々に新たに、微妙に動く対象に即してまるで行動するように考えているところにある。そういう形の考え方のとどく射程は、ほんの私達の私生活の私事を出ないように思われる。事が公になって、一とたび、社会を批判し、政治を論じ、文化を語るとなると、同じ人間の人相が一変し、忽ち、計算機に酷似してくるのは、どうした事であろうか。
[#地付き](文藝春秋 昭和三十四年六月)
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プラトンの「国家」
プラトンの「国家」の終りのところで、ソクラテスが妙な話をする。
昔、エルという勇士が、或る戦で戦死して、十日ばかり戦場で腐っていたが、火葬場の薪の上で、突然生き返ったという不思議な事があった。この男は、その間に、ちょっとあの世に行って来たそうで、その見聞したところを、人に語ったと言う。彼が、先ず連れて行かれたのは、天の裂目と地の裂目との出合う処で、其処に、審判者が居て、続々とくり込んで来る亡者どもを、正しいものと不正なものとに振り分け、一方を天の裂目に、一方を地の裂目に追い込む。
ここまでは、仏説に言う閻魔《えんま》の庁のようなものだが、その先きはプラトンの思想になる。ともかく、ソクラテスの語る地獄極楽は、趣が変っていて、そんなものがあっても、人間には何にもならないようである。
地獄の出口から、ひどい目に会った者どもが出て来ると、天国の出口からは結構な目に会った連中が出て来て、一緒に野宿して、互いに奇怪だった旅の思い出話やその他下らぬ話をやり始める。やがて、ともども天地の心棒の傍まで連れて行かれる。「必然」と呼ばれる紡ぎ車が静かに廻転していて、彼等は、運命の女神から、将来の生活を選べと言われる。選ぶのは全く各人の自由であり、神様の関知するところではないのだから、よく考えて慎重に選べと言われるが、何しろ見せられる生活のタイプの見本は、人間から獣や鳥に至るまで莫大であって、眼移りはするし、以前の生活の習慣にとらえられた考えも捨てられぬというわけで、みんな見るも憐れな選び方をしたと言う。ここで、魂のあらゆる混合が行われるのだが、大体のところ、魂の善悪は、入れ替るそうで、それというのも、地獄で苦労した連中は、選び方も勢い慎重になるが、天国でうかうかしていた連中は、そうはいかない。それに、正しい生活をした御蔭で天国に行った事は行ったのだが、ただ几帳面に暮す習わしがあっただけで、正義とは何かについて本当に智慧を働かしていたわけではなかったのだから。
さて、めいめい次の運命を選んだもの共は、「必然」の椅子に坐らせられてから、「忘却の原」を横切るのだが、喉が渇いて、誰も彼も、「忘れ河」の水を呑んでから、めいめいの誕生に向ってはこばれるから、運命は自分が選んだとは、誰一人考えないようになる。
私は、近年、プラトンを好んで読む。話があんまり理窟ぽくなると直ぐ退屈なぞする月並みな一読者に過ぎないが、パルテノンを見物した時だって、ただ漫然と眺めて、ひどく感心する事は出来たのであって、漫然たる読書で充分であるとも考えている。プラトンの哲学は詩的であるなどと言ってみたところで詰らない事だろう。漫然と読んでさえいれば、いよいよパルテノンの姿に似て来るのに、無駄骨折って、彼を、哲学的観念論者に仕立てあげてみたところで別段面白い事ではないだろう。極めて聡明で鋭敏だが、又、一種茫漠たる大人物が、|自 《おのずか》ら思い浮べられるがままにして置くに越した事はないように思われる。恐らく、この人物は、哲学上のはっきりした大系も教説も、必要とはしなかったのだろうし、表現手段として、比喩や神話を使う趣味を持っていたわけでもなかろう。凡そ個性的な工夫や演技は一切なくて済ませた、率直純粋な考える人だったであろう。
私は、パルテノンを眺め、眼を近づけて、キラキラ大理石の結晶が光っている柱を撫でてみた時、自分のような怠慢な異国の旅行者にも、古代ギリシャ人達が、眼前に化けて出たという感じが、まことにはっきり来たのに驚いたが、「対話篇」にも同じ趣がある。
もしプラトンという人に、衆に優れた力量があったとしたら、それは、物語や神話の世界、その中で誰も彼もが昔から生きてきたし、今も生きている、その世界の明瞭化と意識化を敢行したところにあったので、彼は新しい哲学なぞ勝手に案出したりしたのではなかったと思う。それはパルテノンの形の何処にも未来を空想しているようなところがないようなものだろう。そこに彼の思想の力と真実とがある。そんな風に、私には感じられる。
エルの物語でもそうで、大昔から数知れぬ人間が、数知れぬ経験に基づき思索を重ねて辿りついたところなのである。どうしてこれを、思い附きや才能によって越えられようか。比喩だとか物語だとか言って軽蔑しない方がよい。それより、プラトンの精神には、私達現代人の精神にとっては、ちょっと歯が立たぬような強さがあるのではあるまいかと考えてみる方がよいと思う。ソクラテスは、或る考えを比喩的に語っているのではない。物事を具体的に考えようとして、おのずから比喩の中に立つのである。
比喩と言えば、直ぐただ何とはなしに学問には比喩は禁物と思いたがるが、ソクラテスには、そんな病的傾向はない。寧ろ逆で、「パイドン」の中で、述懐しているように、彼は、ひたすら比喩から逃れようとする学問には、青年時代に熱中してみたが、遂に満足する事が出来なかった。物的世界の因果性を極めようとするなら、それもよいが、この世界に人間が這入って来れば、知性というものを一っぺんも疑った事のないような弱い知性ではもう役に立たぬ。そこで彼は方向を転回し、凡そ物を考える出発点も終点も「汝自身を知る」事にあると悟った。プラトンは、青年時代に、そういう人物に出会い、生涯離れる事が出来なかった。従って、プラトンは、人間の奇怪さ、愚かさ、惨めさから、一瞬も眼をそらして、物を考えた事はない。エルの語るところは、人間の真景であり、プラトンが、物を考える時に立っていた最も鞏固な基盤である。今日になっても、石ころ一つ崩れてはいまい。
ソクラテスの語る洞窟の比喩は誰でも知っているが、プラトニック・ラヴのように有名になり過ぎて、何処でどういう風に語られているかは読みもせず、みんな空言だと思い込んでいる。だが、実際はそうではない。これは、「対話篇」という思想劇に登場するソクラテスという人物の生き生きとした科白であって、もしハムレットの科白が、今日もなお真実だと言うなら、ソクラテスのものもそうだと言わなければおかしい。人間は皆生れてから死ぬまで洞窟の囚人であって、前面の壁に向って首は固定されていて、背後にある光源が見られないから、壁に映じた自分達の影の動きだけを実在の世界と信ぜざるを得ない。そう語るソクラテス自身も、プラトンの劇作法に従って読めば、洞窟の中にいるので、神様のような口を利いているわけではないし、所謂プラトニスムを講釈しているわけでもない。もし囚人のなかに一人変り者がいて、非常な努力をして、背後を振りかえり、光源を見たとしたら、彼は、人間達が影を見ているに過ぎない事を知るであろうが、闇に慣れていた眼が光でやられるから、どうしても行動がおかしくなる。影の社会で、影に準じて作られた社会のしきたりの中では、胡乱《うろん》臭い人物にならざるを得ない。人間達は、そんな男は、殺せれば殺したいだろう、とソクラテスは言う。つまり、彼は洞窟の比喩を語り終ると直ぐ自分の死を予言するのである。
「国家」或は「共和国」とも言われているこの対話篇には、「正義について」という副題がついているが、正義という光は垣間見られているだけで、徹底的に論じられているのは不正だけであるのは、面白い事だ。正義とは、本当のところ何であるかに関して、話相手は、はっきりした言葉をソクラテスから引出したいのだが、遂にうまくいかないのである。どんな高徳な人と言われているものも、恐ろしい、無法な欲望を内に隠し持っている、という事をくれぐれも忘れるな、それは君が、君の理性の眠る夜、見る夢を観察してみればすぐわかる事だ、ソクラテスは、そういう話をくり返すだけだ。
そういう人間が集って集団となれば、それは一匹の巨大な獣になる。みんな寄ってたかって、これを飼いならそうとするが、獣はちと巨《おお》き過ぎて、その望むところを|悉 《ことごと》く知る事は不可能であり、何処を撫でれば喜ぶか、何処に触れば怒りだすか、そんな事をやってみるに過ぎないのだが、手間をかけてやっているうちには、様々な意見や学説が出来上り、それを知識と言っているが、知識の尺度はこの動物が握っているのは間違いない事であるから、善悪も正不正も、この巨獣の力に奉仕し、屈従する程度によって定まる他はない。何が古風な比喩であろうか。
プラトンは、社会という言葉を使っていないだけで、正義の歴史的社会的相対性という現代に広く普及した考えを語っている。今日ほど巨獣が肥った事もないし、その馴らし方に、人々が手を焼いている事もない。小さい集団から大国家に至るまで、争ってそれぞれの正義を主張して互いに譲る事が出来ない。真理の尺度は依然として巨獣の手にあるからだ。ただ社会という言葉を思い附いたと言って、どうして巨獣を聖化する必要があろうか。
ソクラテスは、巨獣には、どうしても勝てぬ事をよく知っていた。この徹底した認識が彼の死であったとさえ言ってよい。巨獣の欲望に添う意見は善と呼ばれ、添わぬ意見は悪と呼ばれるが、巨獣の欲望そのものの動きは、ソクラテスに言わせれば正不正とは関係のない「必然」の動きに過ぎず、人間はそんなものに負けてもよいし、勝った人間もありはしない。ただ、彼は、物の動きと精神の動きとを混同し、必然を正義と信じ、教育者面をしたり指導者面をしているソフィスト達を許す事が出来なかったのである。巨獣の比喩は、教育の問題が話題となった時、ソクラテスが持出すのだが、ソクラテスは、大衆の教育だとか、民衆の指導だとかいう美名を全く信じていない。巨獣の欲望の必然の運動は難攻不落であり、民衆の集団的な言動は、事の自然な成行きと同じ性質のものである以上、正義を教える程容易な事があろうか。この種の教育者の仕事は、必ず成功する。彼は、その口実を見抜かれる心配はない。彼の意見は民衆の意見だからだ。
もし、ソクラテスが、プロパガンダという言葉を知っていたら、教育とプロパガンダの混同は、ソフィストにあっては必至のものだと言ったであろう。言うまでもなく、ソクラテスは、この世に本当の意味で教育というものがあるとすれば、自己教育しかない、或はその事に気づかせるあれこれの道しかない事を確信していた。もし彼が今日生きていたら、現代のソフィスト達が説教している事、例えばマテリアリズムというものを、弁証法とか何とか的とか言う言葉で改良したらヒューマニズムになるというような詭弁を見逃すわけはない。事実を見定めずにレトリックに頼るソフィストの習慣は、アテナイの昔から変っていない、と彼は言うだろう。
イデオロギイは空言でも美辞でもない、その基底には、歴史の必然による要請がある、と現代のソフィスト達は、口をそろえて言うだろうが、ソクラテスの炯眼《けいがん》をごまかすわけにはいくまい。嘘をつかない方がよい、基底には、君自身が隠し持っている卑屈な根性がある。君達の自己欺瞞がつづき、君達のイデオロギイが正義の面を被っていられるのも、敵対するイデオロギイを持った集団が君達の眼前にある間だ。みんな一緒に、同じイデオロギイを持って暮さねばならぬ時が来たら、君達は、極く詰らぬ瑣事《さじ》から互いに争い出すに決っている。そうなってみて、君達は初めて気がつくだろう。歴史的社会という言葉は、一匹の巨獣という言葉より遥かに曖昧な比喩だという事に気がつくだろう。
社会は一匹の巨獣である、では社会学にはならぬ。そんな事を言って、プラトンを侮るまい。いよいよ統計学に似て来る近代社会学には、統計学の要求に屈して、人間を、計算に便利な人間という単位で代置する誘惑が避け難い。この傾向は、人間について何か新しい発見を語る事なのか、それとも来るべきソフィスト達の為に、己惚れの種を播く事なのか。一応疑ってみた方がよいだろう。
ソクラテスの話相手は、子供ではなかった。経験や知識を積んだ政治家であり、実業家であり軍人であり、等々であった。彼は、彼等の意見や考えが、彼等の気質に密着し、職業の鋳型で鋳られ、社会の制度にぴったりと照応し、まさにその理由から、動かし難いものだ、と見抜いた。彼は、相手を説得しようと試みた事もなければ、侮辱した事もない。ただ、彼は、彼等は考えている人間ではない、と思っているだけだ。彼等自身、そう思いたくないから、決してそう思いはしないが、実は、彼等は外部から強制されて考えさせられているだけだ。巨獣の力のうちに自己を失っている人達だ。自己を失った人間ほど強いものはない。では、そう考えるソクラテスの自己とは何か。
プラトンの描き出したところから推察すれば、それは凡そ考えさせられるという事とは、どうあっても戦うという精神である。プラトンによれば、恐らく、それが、真の人間の刻印である。ソクラテスの姿は、まことに個性的であるが、それは個人主義などという感傷とは縁もゆかりもない。彼の告白は独特だが、文学的浪漫主義とは何の関係もない。彼は、自己を主張しもしなければ、他人を指導しようともしないが、どんな人とでも、驚くほど率直に、心を開いて語り合う。すると無智だと思っていた人は、智慧の端緒をつかみ、智者だと思っていた者は、自分を疑い出す。要するに、話相手は、皆、多かれ少かれ不安になる。そういう不安になった連中の一人が、ソクラテスに言う。
「君は、疑いで人の心をしびれさせる電気鰻に似ている」
ソクラテスは答える。
「いかにもそうだ、併し、電気鰻は、自分で自分をしびれさせているから、人をしびれさせる事が出来る、私が、人の心に疑いを起させるのは、私の心が様々な疑いで一杯だからだ」と。
これは、「忘れ河」で水を呑んだ事を、かすかに思い出したという意味である。プラトンは、この徹底的に疑った男の最期を見とどける。懐疑主義とかシニスムとかいうものも、女々しいゼスチャーに過ぎぬ、それほど徹底して疑った男が掴んだ信仰について語る。其処に、プラトンの神秘説を読みたければ読んでもよい。併し、これは、人間の最下等の状態から決して眼を離さなかった人の得たものだという事を忘れない方がいいだろう。そういう人の強い内観が、一種の神秘説めいて、私達に映るのも無理はない、と見る方がいいだろう。人間の最下等の状態が、現在でも尚歴然としているなら、ソクラテスの信仰は死ぬ事は出来まい。ただ、それは、古くなったから捨て、見つけたから拾えるような、ドグマの姿をしていないだけなのである。彼は、狂信からも予言からも遠ざかった。何故だろう。少しばかり疑い、少しばかり信じて、でっちあげるあらゆる理想主義(現実主義と呼ばれる理想主義も含めて)から、どんなに沢山の狂信と予言とが飛び出すかを見ればわかる事だ。
お終いに、ソクラテスが、民主主義政体について語っているところ、これはまことに精妙であって、要約は難かしいが(「国家」第八巻)、附記して置こうか。言うまでもなく、この政体の最大の所有物は平等と自由とであるが、この政体に最も適した人間は、自分の内に持つ様々な欲望を平等に自由に解放している人間に相違なく、それ故、又、人間性格の様々な類型を、一人で演ずる事の出来るような人間であり、元気で敏感で、先生は生徒に媚び、老人は青年に順応し、亭主は女房を恐れ、女房は飼犬を尊敬し、というような事は一番苦もない事と言える人間達だ。政治関係にしても、為政者は、圧制者の評判をとるのが一番恐いから、まるで被治者のような治者が尊敬されるだろうし、逆に、自由の名の下に、為政者に反抗する、治者のような被治者が一番人気を集めるだろう。
政治は普通思われているように、思想の関係で成立つものではない。力の関係で成立つ。力が平等に分配されているなら、数の多い大衆が強力である事は知れ切った事だが、大衆は指導者がなければ決して動かない。だが一度、自分の気に入った指導者が見つかれば、いやでも彼を英雄になるまで育て上げるだろう。権力慾は誰の胸にも眠っている。民主主義の政体ほど、タイラントの政治に顛落する危険を孕んでいるものはない。では、何故、指導者がタイラントになるか。この諧謔を交えた仮借のない分析を辿るには全文を要するのだが、プラトンの政治思想の骨組ははっきり透けて見える。
ソクラテスの定義によれば、指導者とは、自己を売り、正義を買った人間だ。誰が|血 腥《ちなまぐさ》いタイラントなどになりたいだろう。だから、誰もなるのではない、否応なくならされるのだ、とソクラテスは言う。正義に酔った指導者が、どうして自分のうちに、人間を食う欲望のひそんでいる事を知ろうか。「狼の山」に建てられた神殿にそなえられた生贄《いけにえ》の肉の中に、子供の内臓が混っていたのを知らず食べたものは、狼になるのが運命だ。彼の運命は劇的でもあり、悲壮でもあるので、よく芝居などにも仕組まれるのさ。
政治の地獄をつぶさに経験したプラトンは、現代知識人の好む政治への関心を軽蔑はしないだろうが、政治への関心とは言葉への関心とは違うと、繰返し繰返し言うであろう。政治とは巨獣を飼いならす術だ。それ以上のものではあり得ない。理想国は空想に過ぎない。巨獣には一とかけらの精神もないという明察だけが、有効な飼い方を教える。この点で一歩でも譲れば、食われて了うであろう、と。
[#地付き](文藝春秋 昭和三十四年七月)
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井伏君の「貸間あり」
先日、街を散歩していたら、映画館で、井伏鱒二君の「貸間あり」を上映していたのではいってみた。無論、映画は、原作に忠実に作られる必要もなし、又、そんな事は出来ない相談でもあろうが、商売第一とは言え、これほど程度を下げて制作しなければならぬものか、と訝《いぶか》った。現代小説の映画化されたものを、いくつも見ているわけでもなし、近頃流行の学問めかしたマス・コミ論議に大して興味を寄せてもいない。私は、ただ、この映画を井伏君が見たら、かなり辛い気持ちになるのではあるまいかと考えた。井伏君にも久しく会わないが、もし、彼と一緒に見たら、彼はどんな顔をするだろうか。さて、どんな顔をしてみたものだろうか、暫くためらうであろうが、直ぐ気を取り直して、普段の笑顔になり、眼をパチパチさせながら、井伏鱒二という小説家は、聞きしに勝るエロだなあ、とでも言うかも知れない。
以前読んだ時には、気づかなかったが、「貸間あり」には、序言が附いている。どういう坊さんか知らないが、悠了上人という人の言葉である。「つばくらは末なき旅をば家となし更にこれをも煩ひとせず空たかく羽ばたき軽げにひるがへり候。(中略)人は軒場に佇みて目しる鼻しる垂らしつつ過ぎ越しかた身の行く末に思ひ入り臥戸に入りても且つ嘆き伏す。(中略)この嘆き故なきことにも候はじ。」
井伏君は、作品に序詞をつける趣味など持っている人ではない。惟うに、彼は、「貸間あり」の構想にあれこれ迷い、彼の語法を借りれば「一人想い屈していた時」悠了上人とか言う坊主に、何処かの横丁で、ぱったり行き合った。見れば、平凡な托鉢坊主で、抹香臭いところもない、聞いてみると、案の定、貸間を捜しているのであった。そう言った風な事ではなかったかと思われる。
勿論、序詞は、作者の中心思想であって、この古風なアパートに住んでいる妾も闇屋も文士もオフィス・ガールも、これを軸として、静かに廻転しているようだ。明らかに、これは、作家が、言葉だけで、綿密に創り上げた世界であり、文章の構造の魅力を辿らなければ、這入って行けない世界である。作者は、尋常な言葉に内在する力をよく見抜き、その組合せに工夫すれば、何が得られるかをよく知っている。彼は、そういう配慮に十分自信を持っているから、音楽からも絵画からも、何にも盗んで来る必要を認めていない。敢えて言えば、この小説家は、文章の面白味を創り出しているので、アパートの描写などという詰らぬ事を決して目がけてはいない。私は、この種の文学作品を好む。
作品評をする興味が、私を去ってから久しく、もう今では、好きな作品の理解を深めようとする希《ねが》いだけが残っている。尤も、嫌いな作品とは、作品とは言えぬと判断した作品で、判断は直ちに無関心をもたらすから、私には嫌いな作品というものもない事になる。嫌いという感情は不毛である。侮蔑の行く道は袋小路だ。いつの間にか、そんな簡明な事になった。誤解して貰いたくはないが、これは私の告白で、主張ではない。いや、いつの間にか、主張するより告白する事を好むようになったと言えば済む事かも知れない。
私が文学批評を書き始めた頃、歴史的或は社会的環境から、文学作品を説明し評価しようとする批評が盛んで、私の書くものは、勢い、印象批評、主観批評の部類とされていたが、其後、私は、自分の批評の方法を、一度も修正しようと思った事はない。何も目分の立場が正しく、他人の立場が間違っていると考えた為ではない。先ず好き嫌いがなければ、芸術作品に近寄る事も出来ない、という一見何でもない事柄が、意外に面倒な事と考えられ、この小さな事実が、美学というものを幾つもおびき寄せては、これを難破させる暗礁のように見え出し、言わばそれで手がふさがって了ったが為である。
好き嫌いと言っても、ただ子供の好き嫌いで事が済まぬ以上、必ず、直覚的な理解に細かく固く結ばれて来るものだ。そして、この種の理解は、好きな物、嫌いな物というその実際にある物との取引を措いては決して育つものではあるまい。なるたけ、色々な物に出会うのに越した事はない。私は、文学を離れて音楽ばかり聞いていた事もあったし、絵ばかり眺めていた事もある。文学批評を止めて、そういうものについて、あれこれ書いていた時期もかなり長い。
人はどう見ていたか知らないが、音楽を聞いても絵を見ても、自分としては、書くという目的に変りはない以上、批評の対象を変えてみるという極めて自然な気まぐれに過ぎなかった。こちらの都合で、文学批評から遠ざかってみる事は出来たとしても、批評から遠ざかる事は出来なかったまでの話だ。外部から強いられる理由による他、文芸批評に固執する理由は、私には、何処を捜しても見附からなかったのである。そんな事をしているうちに、どうやら得心のいった事がある。それは、詩を捨て、驚くほどの形式の自由を得て、手のつけようもなく紛糾している散文という芸術にも、音楽が音楽であるより他はなく、絵が絵であるより他はないのと全く同じ意味で、その固有の魅力の性質がある、という事だ。これは、感知による得心だから、説明に困る。だから告白だ、と断った。理路整然たる告白的思想がある筈はない。一方、今さら、何と当り前な事を得心したものだと言われるかも知れないが、小説に宰領された今日の大散文時代にあって、宣伝の為とか金銭の為とか或は学問の為とかいう目的があってならともかく、ただ散文を読む為に読むのを楽しみ、書く為に書くのを好む者が、これについて、はっきりした自覚を持たねば適うまい。誤解されなければ、これを審美的自覚と呼んでいいのだが、小説家も小説批評家も、音楽や美術には、審美的という言葉をまだ許しながら、小説については、もうこの言葉を使うのに漠然たる恐怖を覚えているように思われる。
井伏君の「貸間あり」には描写はないというような乱暴な言葉を使ったが、描写という言葉は、所謂リアリズム小説の誕生以来、小説家の意識にずい分乱暴を働いて来たのである。ハイ・ファイという言葉がある。言うまでもなくハイ・フィデリティの略語で、原物再現の効率の高さを誇る意味合に由来する語であろうが、文学上のリアリズムとは、或る作家の一種の人生観を指すのが本義であって、原物再現の技術の意味は附けたりだ。モーパッサンのリアリズムの本義に比べれば、附けたりばかりが派手に拡がって了ったものだ。ハイ・ファイという便利な言葉が出来たのなら、例えば、カメラのリアリズムというような曖昧な言葉は止めにして、カメラのハイ・ファイという事にしてはどうか。
カメラの描写力を眼のあたりに見ている現代の小説家は、なるほど描写というものについて、気が弱くなっているという事はあるだろう。人間の行動に関しては、カメラにかなわないが、心理の世界は、まだ作家に残されているというような事を言っているが、そんな事を言ってみても、描写という言葉で、知らず識らずの間に、頭がやられている事に気がつかなければ、何を言っている事にもならない。詩を離れて身軽になったと思い込んだ近代小説は、実は、いつの間にか、現実という重い石を引摺っていた。腐れ縁とはみなそういうものだろう。作品の魅力も力も真実も、すべて現実というモデルに背負ってもらって、小説は大成功を収めて来た。批評家達も、その方が楽だから、いつもモデルの側に立ってものを言って来た。実社会の分析が足りない、心理過程の描き方が不自然である、このような恋愛が今時何処で行われていると思うのか、そんな文句ばかり附けているうちに、小説読者の方でもじれったくなり、モデルを直かに見せろと言い出す事になった。ここに、視聴覚芸術の攻撃にさらされた活字芸術という観察が生れる。贋物の芸術の行くところ、遂に、贋物の観察が照応するに至ったとでも言って置こうか。
井伏君の初期作品には、極く普通の意味で抒情詩の味わいを持ったものが多かったが、恐らく、彼は、人知れぬ工夫に工夫を重ねて、「貸間あり」の薄汚い世界を得るに至った。彼の工夫は、抒情詩との馴れ合いを断って、散文の純粋性を得ようとする工夫だったに相違ない。なるほど、作の主題は、作者の現実観察に基づくものであろうが、現実の薄汚い貸間や間借人が、薄汚いままに美しいとも真実とも呼んで差支えない或る力を得て来るのは、ひたすら文章の構造による。これは、小説作法のいろはなどと言って片附けられるような事柄ではあるまい。むしろ、其処だけに作家の創造が行われる密室がある事を思うべきである。
「貸間あり」が大小説だというのではない。そんな事を言ったら、井伏君自身が笑うだろう。だが、私は繰返して言いたいのだが、これは、極めて純粋な散文なのだ。そして、この事は、あんまり解り易い事ではない。この作品には、私に、面白い小説と言わせるより、純粋な散文と言わせるような或る力がある。私は、この或る力を、作者の制作の密室の方へ私を向き直させる或る力を感じているのである。かつて、形というものだけで語りかけて来る美術品を偏愛して、読み書きを廃して了った時期が、私にあったが、文学という観念が私の念頭を去った事はない。その間に何が行われたか。形から言わば無言の言葉を得ようと努めているうちに、念頭を去らなかった文学が、一種の形として感知されるに至ったのだろうと思っている。私は、この事を、文学というものは、君が考えているほど文学ではないだとか、文学を解するには、読んだだけでは駄目で、実は眺めるのが大事なのだ、とかいう妙な言葉で、人に語った事がある。それはともかく、私が、「貸間あり」が純粋な散文だというのは、その散文としての無言の形を言う。何が書いてあるなどという事は問題ではない、とでも言いたげな、その姿なのである。この作は、勿論、実世間をモデルとして描かれたのだが、作者の密室で文が整えられ、作の形が完了すると、このモデルとの関係が、言わば逆の相を呈する。作品の無言の形が直覚されるところでは、むしろ実世間の方が作品をモデルとしていると言った方がよい。
「貸間あり」という作品には、カメラで捕えられるようなものは実は殆どないのである。だが、小説の映画化が盛んな現代には、意外に強い通念がある。それは、小説家の視力をそのまま延長し、誇張し、これに強いアクセントを持たせれば、映画の像が出来上るという通念であり、作家が、これに抗し、作家には作品の密室があると信ずる事が、なかなか難かしい事になっている。井伏君が、言葉の力によって抑制しようと努めたのは、外から眼に飛び込んで来る、あの誰でも知っている現実感に他ならない。生まの感覚や知覚に訴えて来るような言葉づかいは極力避けられている。カメラの視覚は外を向いているが、作者の視覚は全く逆に内を向いていると言ってもよい。散文の美しさを求めて、作者は本能的にそういう道を行ったのだが、その意味で、この作は大変知的な作品だと言って差支えない。小説に理窟がこねられていれば、知的な作品であると思うのは、子供の見解であろう。
「貸間あり」の映画を見ていると、画面に、長々と男女の狂態が映し出される。これには閉口したが、見物は誰も閉口しているに違いない、と思った。これは、趣味や道徳の問題ではない。もっと端的な基本的な事柄なのだ。誰もこんな画面を見てはいられないと感じているのだ。画面から来る一種の暴力に誰の眼も堪えられず、或る不安を我慢している。この不安のうちには、一とかけらの知性も思想も棲む事は出来ない。私は、しきりにそんな事を思った。なるほど、画面に現れる人々の狂態は、日常生活では、誰にも極く普通な自然な行為である。ただ、私達は、自分の行為を眺めながら行為する事が出来ないだけの話だ。実生活の自然な傾向は行為せずに眺める事を禁じている。作家の眼は、この禁制を破る。作家は、観照の世界という全く不自然な心的態度のうちに棲むものだ。この世界に居ると、実生活は、狂態で充満していると見えるのが当り前な事なのである。この言わば視覚の或は知覚の危機を経験していないような者は作家ではない。彼はひたすら言葉の工夫によって、この危機を切り抜ける。どんな工夫が行われるか。誰も作家の個性的な密室の言葉の作業を覗き込む事は出来ない。実世間を参照しなければ言葉は死ぬであろうが、一方、実世間の在るがままの姿などというものは、箸にも棒にもかからぬものだと知って置く方がよい。現実の実相を、小説にどこまで表現出来るか、というような言い方が、無反省に濫用されすぎる。
[#地付き](文藝春秋 昭和三十四年八月)
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読  者
サルトルが、こんな話を書いていたのを、読んだ事がある。ナサナエル・ウェストというアメリカの小説家に、「ローンリイ・ハート」という評判になった作品があり、サルトルは、一読して興味を覚えたので、ニューヨークのエージェントを通じ、翻訳権を得ようとした。翻訳権が取れたと思ったら、「ローンリイ・ハート」には違いないが、作者が違っていた。先方でも間違いは認めたが、当の作者は、調べたが居所がわからぬという返事であった。ニューヨークに出かけて、本の出版元に赴き、主人に当ってみたが、一向要領を得ない。ベスト・セラーだった小説の作者が行方不明とは腑に落ちぬ話なので、尚、調査を依頼すると、ウェストという男は、数年前、自動車事故で死んでいた事が、やっと判った。出版元は、何も知らずに、ニューヨークの或る銀行のウェスト名義の口座に、彼の印税を払い込んでいた。
アメリカという国は、何と広い国だ、とサルトルはあきれている。フランスでは、小説家は、本一冊出してから五年も経てば、彼のあらゆる商売仲間と握手する事が出来る。パリにやって来るアメリカの旅行者は、もしその気になりさえすれば、二十四時間で、フランス文学を代表する作家達から、文学に関する意見は勿論、ユネスコについても、原子爆弾についても、たっぷり意見が聞かれるであろう。さて、サルトルは次のように述懐する。
自分達が、作家という天職を発見したのは、中等学校の中庭で、ラシーヌやヴェルレーヌを読み過ぎた為である。自分達は、既に出来上った文学で養われて来た。という事は、未来の文学も完成した状態で、自分達の精神から、やがて飛び出すという確信を育てて来た。作品とは、めいめいの孤独を発表する手段という考えに慣れて来たが、アメリカに来てみると、事はあべこべらしい。例えば、西部で農場を経営している一人の女性が、孤独に堪えかねて、或は、自分の孤独の独創性を単純に信じ込み、これをニューヨークのラジオ解説者にぶちまけたら、どんなにせいせいするだろうと考える。アメリカの小説家達のやり方は、ほぼこれに似ているらしい。つまり、作品とは、孤独から解放されんが為の機会なのである。文学の仕事は、学校とも聖職とも何の関係もない。彼等の求めているものは、名誉ではなくて、寧ろ友愛と言った方がいいのではあるまいか。フランス文学が、まさしくブルジョア文学なら、アメリカ文学をブルジョア文学と呼べるかどうかは疑わしいと言う。私は、アメリカ文学には不案内だが、こういう観察は、何か腑に落ちる気持を起させる。
近頃、週刊誌の流行について、いろいろな事が言われている。これは全く日本的な風景である。サルトルが見たらさぞ驚くであろう。そんな事を考えても仕方がないか。仕方がないと思うが、やはり私は考えて了う。先日も、ある週刊雑誌の記者が、週刊誌ブームについて論じて欲しいと言って来た。私には、その極く当り前な顔が訝しく見えて、口ごもる。するとろくでもない会話が始まる。これは実話である――
「週刊誌ブームについて意見が聞きたい」
「週刊誌は、今、幾つくらい出ているのですか」
「五十ぐらいはあるでしょう」
「なんだ、それっぽっちか。二百ぐらいになるといいと思う」
「マス・コミによる文学の質の低下というものをどう考えるか」
「質は、逆に向上すると思う。電気洗濯機を見たまえ」
「冗談は止めてもらいましょう」
「僕は、真面目に君に聞いているのだ。君は、何故ジャーナリストとして、そんな風に、読者というものを見下しているのですか」
「僕は、文学者としての貴方の意見を聞いているだけです」
「無論、そうでしょう。私は、話をはぐらかしてはいない。文学者だって、文学の進歩が考えられる限り、売り込み競争が烈しくなればなるほど、品質もよくなると考えるべきだと思うのです。それとも、文学を向上させる、何か他に名案でもあるというのか。野球選手は何によって向上したのだ」
サルトルの経験談は、彼の「シチュアシオン」という批評集にある。シチュアシオンという言葉は、どうも日本語になりにくい言葉だが、「現に暮しているところ」とでも訳したらよいのであろうか。彼はアメリカ文学界を羨望しているわけではない。彼が、「現に暮しているところ」から物事を感じているのが、よく文に現れている。サルトルは、言わば、アメリカ文学界の風通りのよさとフランス文壇の息苦しさとの対照の中に、ふと置かれた微妙な自分のシチュアシオンの一局面をはっきり捉えている。それが、私には面白かったのである。
これは批評というものの要諦であろう。週刊誌ブームが、現代日本文化の一種の病気であると考えるのは勝手であろうが、それが、ただ医者の見立てでは詰らない。自ら患者になって、はっきりした病識を得てみなくては詰らない。批評家は直ぐ医者になりたがるが、批評精神は、むしろ患者の側に生きているものだ。医者が患者に質問する、一体、何処が、どんな具合に痛いのか。大概の患者は、どう返事しても、直ぐ何と拙い返事をしたものだと思うだろう。それが、シチュアシオンの感覚だと言っていい。私は、患者として、いつも自分の拙い返答の方を信用する事にしている。例えば、戦前派だとか戦後派だとかいう医者の符牒を信用した事はない。
文学者は口籠っている方がよいのだろう。私達はめいめい、戦争の経験を、戦前派としても戦後派としてもしたわけではない。こんな明らかな事実はないが、これを正直に語ろうとする者は、皆、拙劣な不明瞭な表現を使用せざるを得ない筈で、この自問自答による個人的証言が、一般な政治的証言の横行する中で、どんなにはかなく見えようとも、文学の塩は其処にしかあるまい。もしそうでなければ、文学などという妙なものの、一体何処が面白いのだろうか。
戦後、文壇というものが崩壊して、文士という民主的職業人が、氾濫するに至った。いかにもそんな風に見える光景である。というのは、そんな風な、物の譬えも出来よう、というだけの話なのだ。物の譬えなら、戦争が、俺達を、ローラーで平べったくしてくれたとでも言って置く方が増しだろう。全く別の光景が眼に映っても少しも差支えない。戦争というような大事件は、成るほど、いろいろと大きな事を仕出かしたが、これを経験する人間の心は、事件の大きさに準じて、大きくなりようがなかった事も忘れまい。心の受けた傷の深浅は、事件の大小公私などに何の関係もあるまい。人間の心の出来とはそういうものと観ずる知見はあるのだ。この知見が、私情を脱して、言わば純化され、一種の精神と化するところに、文学は生れると考えてもいいだろう。いや、そういう筋道から考えなければ、私には、文学が勝手に独特なものを創り出して、而も世人に訴えるという理由がわからなくなる。
人間の内部は、外部の物が規制するという考え方が、現代では非常に有力であるから、戦争と文学との関係も、もっぱらそういう展望の下に、見られ、論じられる。戦前派、戦後派という言葉も、戦争の影響という漠然たる概念から誕生したと言ってよい。それはそれでよいとして、では、戦争の影響力の最も顕著なものは何かと言えば、戦争が文学を、一時、破滅させた事だろう。戦争が、文学を殺す手つきは、人を殺す手つきと全く同じであって、それなら、戦争は、文学に対して暴力しか振えなかったと考えてよいわけだ。戦争は、文学を生む事は出来ないのは無論の事だが、文学を本質的に変化させる力も戦争にはない、何も彼も文学者たる自分の心がするのだ、そうはっきり考えて少しも悪い理由はない。歴史家には、苦手な考え方であろうが、現に、文学で苦労している人々にすれば、そういう考え方が、一番親しい筈である。めいめいが、現に物を書いているところから眺める、文学或は文学界の、一種の内的な眺めがある。これが、容易に雄弁や論理と馴れ合えないのも、この眺めは各人に余り親しく、其処には仮説的なものが、まるでないからである。これを主観的立場と言い去る事は出来ないし、気まぐれな、任意な眺めと言う事も出来ない。外的な展望は、周囲にあり余っており、これを参考品として扱う自由は、各人にあるではないか。文学の伝統の問題の難かしさも、其処にある。伝統の生態は肉眼では見えないからだ。文学者は、伝統というものは、先ず、これを内から感じてみなくては話にならないと考えるから、例えば、社会改良論者の議論の尻馬にも乗れないという事になる。又、例えば、永井荷風氏が亡くなったという事件にしても、その明らさまな、多量な報道は、この作家が、ひそかに運んでいた文学という塩の糧道については、一言も語り得なかった。
さて、前にあげた自分の放言的会話について、少しばかり補足して置く。文壇人が亡びて、文学職業人がこれに代り、文学界は、風通しがよくなった、とみんなが言う。そういうものか知らん、と私は思う。私の著作は、ベスト・セラーになった事はないが、私の著作の出版元の主人は、私の私生活の下らぬことどもにも精通していて、ナサナエル・ウェストの話なぞ、全く夢のようなものである。風通しは少しもよくなっていない。この風通しの悪さは何処から来ているのか。サルトルの言うように、私達の文学がブルジョア文学であるところから来ているのか。文士にとって文学とは、めいめいの孤独を発表する手段である、そういう文学であるところから来ているのか。そうではあるまい。多分、家が建て込んでいて、人間が多すぎる処に由来するのであろう。では、我が文学は、何文学であるかという事になると、言いように困るなら、ただ御覧の通りのものだ、と言って置くに越した事はない。生まじっかの事は言わぬがよい。例えば、わが国現代の民主主義者を、どう定義したらいいのか、言いように困るが、デモクラシイの宣伝家ほど、個人の生活を侮蔑しているものはないのは、御覧の通りなのだ。自分の私生活は、自分にとって貴重であって、自分自身にも分析の適わぬほど微妙なものだ、という強い自覚があれば、他人の私生活について仔細らしく語れもしまい。他人の私生活に関する動物的な好奇心を抑制するものも、そういう自覚の他にあるとは考えられない。それが、デモクラシイ倫理の塩ならば、塩の利かない民主主義的生活なぞ食えた代物ではない。
民主主義化した文学界に於けるマス・コミの影響を論ずる前に、民主主義の塩加減をみる方がいい。言うまでもなく、マス・コンミュニケーションの研究は、アメリカが本場だが、私が読んだ限りで、私の興味をひいたのは、研究そのものではなく、寧ろいかにもアメリカ風な研究であるという点にあった。これは、私達の眼から見ればアメリカらしい贅沢な学問と見える。と言うのは、アメリカの研究者達は、恐らくあまり自明な事なので、意識していないであろうが、研究の前提については、何の不安も感じていないという事だ。話を文学に限るなら、研究者達は、一般読者というものの歴然たる存在、その一種の統一性或は健康性を確信している。だからこそ、これに対するマス・コンミュニケーションの影響力に関し、あのように自信に満ちた、或は無邪気な研究論文が続出するのだ。
あちらとこちらが似ているのは、紙と印刷機械の性能だけである。この性能の類似が、マス・コミという新語を、これほど迅速に、生産し分配し得たというだけの話なら、これは文化現象というよりも寧ろ物的現象に過ぎない。社会学とは、物質を扱う学問ではあるまい。研究方法は借りもので済むとしても、研究の対象の吟味には自力が要る。而も、この吟味には、想像力と直覚とが要る。文学者が、必要に迫られて、いつもやっている事だ。現に、どんな人間が、何処で、自分の作を読んでいるのか。この読者の顔を、想い描くのは、外部的観察の能くするところではない。そして、日本の近代文学くらい、この事で奇妙な苦しみをなめて来た文学はないと言ってよい。逍遙の「当世書生気質」以来、文学者という書生気質は、実社会の表面を浮動して止まない。例えば、プロレタリア文学という最近の最大の書生文学は、書生という言葉を、インテリという言葉に代え、インテリの社会的浮動性を侮蔑する事によって、幻の読者という雲を掴んだ。まことに詰らぬ事に念を入れたものだが、これは、文学者なら誰にも他人事ではない。
最近、中村光夫、臼井吉見、平野謙三氏による「現代日本文学史」を面白く通読したが、私は、かねてから、この種の日本近代文学史は、誰かの手によって試みられるに相違ないと考えていた。三氏の労作の特色は、例えば、フランスの近代文学史とは即ちフランス近代社会の選良の歴史に他ならないが、わが国では、そううまい具合にはいかないところがある、或は、バルザック的な意味で、文学の社会性という概念は、わが国の近代文学界では、捕えどころのない難かしいものになっている、そういう悪条件の意識が、筆者達の仕事の動機のうちに、明らかにある、という点である。
中村氏も書いていたが、一世代を三十年として、フランスの近代文学史と日本の近代文学史とを比べてみると、大体、わが国の方は三倍以上の速力で世代が変っている。先輩作家のついこの間書いた作品が、今日の高校卒業生の特別の勉強を要する古典となっている。
もし、この目まぐるしい頭脳の変遷の大部分が、空想的なものでなかったならば、どうして人々はこれに堪え得たか。併し、不平は、何処に持って行きようもない。外部からの改良も革新も、この文学者の苦痛を鎮めやしない。それはいつも隠された流れだからだ。
戦争による文壇の崩壊という通念の底にも、同じ流れがあるのを、感じる人は感じているだろう。晩年の鴎外が、歴史物を書いていた時に、ひそかに想い描いていた理想的読者を想像してみる事は、やさしくはない。だが、多数の現実の読者を掴んだ菊池寛が、これに対して、ひそかにどんな悲しみを抱いていたかを推察してみるのも、同様に、難かしい事だ、と私は思っている。
[#地付き](文藝春秋 昭和三十四年九月)
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漫  画
かつて「のらくろ」という漫画が一世を風靡した事がある。子供相手の漫画ではあったが、大人達も覗き込んで笑っていたのだから、一世を風靡したと言っても過言ではない。「のらくろ」で笑っていた、なつかしい少年時代を思い出している壮年者の数は莫大であろう。
時勢は一変した。軍隊がなくなって了っては、「のらくろ」はどう仕様もないのである。世間には、作者田河水泡は、戦犯だと思っている人も、存外多いかも知れないが、作者に、「のらくろ」の続き物の執筆を禁じたのは軍隊であったのを知っている人は、少いだろう。「のらくろ」のあのだらしない行動は、皇軍を侮蔑するものである、まさかそんな大人気ない事も言う事は出来なかったが、その内に、情報局は、うまい口実を見つけた。それは、凡そ次のような次第であった。
「のらくろ」が書き始められたのは昭和六年だが、この新兵は大尉に昇進するのに十一年かかっている。「のらくろ」をひいきしている子供達は、「のらくろ」が早く出世すればいいと思っていた。作者にしてみれば、それは判っているが、出世させるのも考えものなのであった。上官になっては、新兵なみに馬鹿な失敗もそうそう出来ない道理だから、そこで、しぶしぶ出世させる事にして、大尉になるのに十一年かけた。さて、次は少佐という順序だが、どう考えても少佐では拙い。一方、「のらくろ」ファンの勢力は、一向衰えなかった。軍隊をしくじらせ、浅草あたりで、おでん屋でも開かせる外はあるまい、と作者は考えた。それが、大戦の盛期である。「のらくろ」大尉は、悶々として満洲に渡った。大東亜の共存共栄が、当時の政府のかかげた理想であり、「五族協和」は満洲国の憲法であった事は、誰も知るところだ。勢い、「のらくろ」も、満洲に行くと、仲間以外の附き合いもしなければならず、と言って、作者としては、漫画の構成上、人間を出すわけには行かず、ロシヤ人めいた熊や朝鮮人めいた羊や中国人めいた豚を登場させる仕儀となった。或る日、作者は、情報局に呼び出されて、大眼玉を食った。ブルジョア商業主義にへつらい、国策を侮辱するものである。特に、最友交国の人民を豚とは何事か。翌日から紙の配給がなくなった。
何故、私が、こんな事を知っているかというと、田河水泡は、私の義弟だからである。私は、弟の仕事に、大した関心も持っていなかった。洒落や冗談を飛ばしながら、楽しそうに仕事をしているのを見て、時々、うらやましい気持ちになったくらいなものだ。誰が見ても、彼の漫画家としての才能は非凡なものであったし、当人にも、充分に自分の才を恃んだ楽天家の風があったし、「のらくろ」が書けなくなった事など、大した事でもない、と私は思っていた。事実、彼は、少しもへこたれた様子も見せず、「蛸の八ちゃん」だとか「デコボコ黒兵衛」だとか何んだとか、いくらでも漫画の新主人公を発明するのであった。
ところが、間違った。兄貴は、弟に対して、恥かしい事だが、まことに浅はかな観察をしていた。外で、「のらくろ」発禁事件が起ったのと同時に、彼の内では、愛犬失踪事件が起った。この二つの画を重ねて、透して見る事は、実に難事だったのである。前の事件は、消えたが、後の事件は、彼の心のうちに、尾を引いていた。いや成長をつづけたと言ってもいいかも知れない。
彼とは、たまに会うと、酒を呑み、馬鹿話をするのが常だが、或る日、彼は私に、真面目な顔をして、こう述懐した。
「のらくろというのは、実は、兄貴、ありゃ、みんな俺の事を書いたものだ。」
私は、一種の感動を受けて、目が覚める想いがした。彼は、自分の生い立ちについて、私に、くわしくは語った事もなし、こちらから聞いた事もなかったが、家庭にめぐまれぬ、苦労の多い、孤独な少年期を過した事は、知っていた。言ってみれば、小犬のように捨てられて、拾われて育った男だ。
「のらくろ」というのん気な漫画に、一種の哀愁が流れている事は、私は前から感じていたが、彼の言葉を聞く前には、この感じは形をとる事が出来なかった。まさに、そういう事であったであろう。そして、又、恐らく「のらくろ」に動かされ、「のらくろ」に親愛の情を抱いた子供達は、みなその事を直覚していただろう。恐らく、迂闊《うかつ》だったのは私だけである。
そこで、言えるが、例えば「フクちゃん」は横山隆一自身であり、「カッパ」は清水崑その人に違いない。まことに、はっきりした話だ。これは、芸術の上での、極めて高級な意味での自己の語り方であって、そういう観点から、「のらくろ」や「フクちゃん」や「河童」を眺めると、気持のいい程、徹底した芸術家の仕事ぶりが見えて来る。小説の世界では、なかなか、こうさっぱりした事にはならない。「私小説論」が書かれる毎に、問題は紛糾して来る始末だ。尤も、漫画には、漫画の特質がある。漫画の仕事には、リアリズムは禁物だ。ああ又フクちゃんか、案の定、あんな馬鹿をやっている、という次第でないといけない。人間の類型しか描けていないと小説で非難される、その類型が、漫画家には必要である。この類型に、命を吹き込めばよいのであるから、話ははっきりして来る。例えば、横山君が、「フクちゃん」に、自己の全部を賭ける、その賭け方もはっきりしたものになる。漫画家は、自己をなし崩しに語るわけにはいかないのである。天賦ある漫画家は、みなそういう事になる。
天賦という言葉は、現代では、言うも馬鹿馬鹿しい理由から軽んじられているが、長い期間にわたって、世人を動かす、ああいう「主人公」達を創り出すのには、普通の意味の才能で、事が足りた筈がない。彼等にしてみれば、才能なぞは、あり余っているに違いない。だが、自分の勝手に使用出来る才能などでは承知が出来ないのだろう。本能的な良心に導かれて、自分でもどうにもならぬ天賦のなかで仕事をするに至るのであろう。めいめいが、自分の天賦のとりことなるのだ。
私の浅薄な見聞から推しての話だが、外国の漫画でも皆そうではあるまいか。諷刺漫画や風俗漫画は別として、天賦ある漫画家だけが、喜びをもって自分の身丈にしっくりした主人公を創案する事が出来、従って、当然な事ながら、これは掛けがえのない一世一代のものであろう。そして、同じ主人公を生涯にわたって描きつづける事の出来た漫画家など一人もいまい。長い事描いているうちには、あのあんまり鮮明な漫画人物の類型性が人々を飽きさせるからである。この力に抵抗出来るような力が、誰にあろう。
日支事変の折、戦地で、麻生豊氏に偶然会った事がある。初対面で、その後会った事もないから、今、麻生氏はどうしているだろうとは考えないが、「のん気なトウさん」は、何処に行って了ったかとは思う。もし麻生氏が、ただの才人に過ぎなかったら、未だ何や彼やと応用の利く才能で、描きつづけているかも知れないのである。田河水泡は、ひょんな事から、辛い事になって了ったが、「フクちゃん」にも、「河童」にも、未だひょんな事が起らぬだけの話だ。他に、どう仕様があろう。それが、漫画家の道であるとするならば。
近代漫画は、政治漫画から始まった。笑いというドーミエの武器は、以来、無数の漫画家の武器となった。どうあっても、他人に説得されまいと覚悟している政治家を説得する事は出来ない。笑いのめしてやるより仕方がない。成る程、これはいい思附きであった。だが、この武器の切れ味は、だんだん怪しくなって来たのである。
現代のような、奇怪に複雑な批評時代が到来すると、一体、人を嘲笑うのに漫画家という特別な才が要るのか、と訝りたくもなる。「最後に笑うものが、一番よく笑う」という言葉があるが、自分こそ最後に笑うものだ、と誰も彼もが、笑い合っているような始末では、諷刺漫画も利き目がなくなって来るわけである。
乙に澄ました男が、往来で、滑ってころんだら、見るものは、優越感をもって笑うであろうが、今日では、もはや、滑ってころんだのは我々自身の歴史という大紳士なのかも知れないのである。そんなていたらくで、自己の或は党派の優越の為に、他を笑って何が面白いのであろう。私は、真理の吟味を装った論戦に、嘲笑のやりとりしか感じない事がよくある。嘲笑のやりとりを、尚よく見てみると、両者に共通な漠然たるペシミズムが感じられて来る事がよくある。
ドーミエという人は、達人だったから、笑いという利器の危険を、はっきり知っていた。彼は、共和制擁護の為の自分の漫画の価値や効用を信じてはいたが、人を笑う悲しみも、亦よく知っていた。彼は、画家として、愛情さえあれば、敵がなくても出来る仕事を、ひそかに熱望していた。そして、彼の名を不朽にしたのは、そちらの仕事であった。尤も、不幸にして、これらを世に問う事が出来たのは、死ぬ前年であったが。
人を笑うのだけが笑いではない。子供ならみんな知っている。生きるのが楽しい、絶対的な笑いもある。いよいよ増大する批評的笑いの不安と痙攣との中で、この笑いを、恢復しようとしたのが、ディズニーの創作であったと考えてもいいだろう。子供は口実に過ぎない。大人もみんな子供である、と言いたいのが彼の真意だと思う。
ディズニーの「沙漠は生きている」という映画が評判になった時、在るがままの現実の自然を、何故、子供だましの漫画にしてみせる必要があるのか、野鼠は、決してミッキー・マウスのような芸当をするものではない、原始人のアニミズムの世界観に、たぶらかされている文明人の方がよっぽど滑稽である、そういう批評を読んだ事を思い出す。これは、浅薄な見解というよりも、批評的嘲笑の、極くありふれた現代風な型を示す。アニミズムは、もう過去になった世界観ではない。現在、世界中の人々の誰の中にも厳存している心理的事実である。唯物論的教養などで抹殺出来るようなものではない、というのが真相だと私は思っている。
かつて、ディズニーの伝記を読んだ事があるが、ミッキー・マウスは、ディズニー彼自身だ。彼は、ミッキー・マウスによって、自分を語った。では、彼は、自分を笑ったのか。まさしくそうだ、と私は考える。漫画家には、愚痴をこぼす事も、威張る事も出来ないから、仕方なく笑ったのではあるまい。彼の笑いは、自嘲でも苦笑でもない。自分の馬鹿さ加減を眼の前に据えて、男らしく哄笑し得たのだと思う。そういう、人を笑う悪意からも、人から笑われる警戒心からも解放された、飾り気のない肯定的な笑いを、誰と頒ったらよいか。誰が一緒に笑ってくれるだろうか。子供である。子供相手の漫画の傑作が、二十世紀になってから、世人の信頼と友情とによって、大きな成功をおさめたのは、決して偶然ではない。
一般に笑いの芸術というものを考えてみても、その一番純粋で、力強いものは、日本でも外国でも、もはや少数の漫画家の手にしかない、とさえ思われる。今日の文学者は、もう陰気な喜劇しか書かない。それは、皆が思っているほど当り前な事であろうか。
[#地付き](文藝春秋 昭和三十四年十月)
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良  心
嘘発見機という機械が出来たという事は、大分前に聞いていた。存外便利な機械だとみえて、其の後、警察で広く利用されるに至った事を知った。ところが、その内に、まさかと思う事が起った。数ヵ月前の事だが、或る男が、詐欺、風紀上の違反、窃盗で起訴された。彼は、窃盗の事実だけは、固く否認し、福知山の裁判所の公判で、アリバイを主張して譲らなかった。証拠があがり、有罪となったが、判決で、証拠の一部として、裁判所は、嘘発見機による検査記録を採用した。私は、「朝日ジャーナル」誌上に、そういう記事を読んだ。こうなると、もう、ばかばかしい話とも言えぬ。又、単なる嘘発見機の利用の行き過ぎという問題でもないだろう。其処には、人間の良心という深い問題の頭が現れているように思われた。
嘘発見機の構造が、どういうものにせよ、心の動揺に伴う生理的な動きだけが頼みの綱だ、という事でなければ、凡そ機械というものが出来上る筈はない。従ってこの装置が指示するものは、仮定された心的エネルギーの運動の量の変化であって、嘘か真かという心理的質の相違ではあり得ない。嘘発見機という名前は、拙い洒落どころではない。機械は嘘もつく筈だ。被疑者が、真実を答えるのが嬉しく、その為に心が動揺したら、機械の目盛は、やはりプラスを指すだろう。それよりも、機械は、被疑者の肉体から発する力に対し、この力の出発点が、心理にあるか、生理にあるかには頓着せず、全く同じように反応するであろう。
すると、すべては、機械を使用する専門家の判断にかかっているという事になる。専門家が、嘘発見機という拙い洒落と戦って、実際に、ある程度の効果を収めているかぎり、機械を軽んずる理由は少しもない。だが、問題は、もっと深いところにあるようだ。機械の性能が、どんなによくても、相手が気違いでは用をなすまい。被疑者は、常人である事を要する。言葉を代えれば、この機械は、被疑者が、嘘をついているという自覚を持っている事を前提としなければ、意味をなさない。常人ならば、嘘をついているという自覚は、心の動揺を伴わざるを得ない。では、平気で嘘をつける人間は、気違いだという事になるか。少くとも、この機械の考案者或は利用者の思想では、理窟上そうならざるを得ない。彼等が、おのずから抱いている思想の重大さに気づいているか、いないかは別として、この思想は、その昔、孟子が、これこそ最後のものと確信した思想に他ならない。この最新式の装置が立ち向っているものは、人間社会とともに古い良心という事実或は良心への人間の信頼である。
そこで、もう少し考えてみよう。この機械の利用者は、機械の性能の向上を願って止まないであろう。だが、この事は、機械がよく働けば、自分は馬鹿でも済む以上、自分の馬鹿を願って止まない事になりはしないか。「飛んでもない、私はいつも利口でいたい、ただ、手間が省きたいだけだ」。尤もな返答だ。でも、何故、君は、人間の良心の問題に関して、手間が省きたいのか。
手間がすっかり省けたとする。機械が、望み通りに、驚くべき性能を発揮するとする。裁判官は言う、「嘘をつくと、嘘発見機にかけるぞ」。被告は主張する、「嘘だと思うなら、嘘発見機を使用されたい」。たったそれだけの事を考えてみても、既に良心の住処が怪しくなって来るだろう。だが、嘘をつくつかぬという事は、良心の複雑な働きの中のほんの一つの働きに過ぎない。嘘はつかなくても、悪い事は出来る。もし、嘘発見機に止まらず、これが、人間観察装置として、例えば、閻魔の持っている照魔鏡のような性能を備えるに至ったならどうなるだろうか。この威力に屈服しない人間はいなくなるだろう。誰にも悪い事は出来なくなるだろうが、その理由はただ為ようにも出来ないからに過ぎず、良心を持つ事は、誰にも無意味な事になろう。人間の外部からの観察が、それほど完璧な機械ならば、その性能は、理論上、人間の性質を外部から変え得る性能でなければならない筈である。それなら、人間を威圧する手間を省いて、人間を皆善人に変えればよい。そうすれば彼等が、もはや人間ではない事だけは、はっきりわかるだろう。
私は、徒《いたず》らな空想をしているのではない。人間の良心に、外部から近づく道はない。無理にも近づこうとすれば、良心は消えてしまう。これはいかにも不思議な事ではないか。人間の内部は、見透しの利かぬものだ。そんな事なら誰も言うが、人間がお互いの眼に見透しのものなら、その途端に、人間は生きるのを止めるだろう。何という不思議か、とは考えてみないものだ。恐らくそれは、あまりに深い真理であるが為であろうか。ともあれ、良心の問題は、人間各自謎を秘めて生きねばならぬという絶対的な条件に、固く結ばれている事には間違いなさそうである。仏は覚者だったから、照魔鏡などというろくでもないものは、閻魔に持たしておけばよいと考えたのであろう。
考えるとは、合理的に考える事だ。どうしてそんな馬鹿気た事が言いたいかというと、現代の合理主義的風潮に乗じて、物を考える人々の考え方を観察していると、どうやら、能率的に考える事が、合理的に考える事だと思い違いしているように思われるからだ。当人は考えている積りだが、実は考える手間を省いている。そんな光景が到る処に見える。物を考えるとは、物を掴んだら離さぬという事だ。画家が、モデルを掴んだら得心の行くまで離さぬというのと同じ事だ。だから、考えれば考えるほどわからなくなるというのも、物を合理的に究めようとする人には、極めて正常な事である。だが、これは、能率的に考えている人には異常な事だろう。
この事は、道徳の問題の上にもはっきり現れている。みんな考える手間を省きたがるから、道徳の命が脱落して了う、そんな風に見える。良心というような、個人的なもの、主観的なもの、曖昧なもの、敢えて言えば何やら全く得体の知れぬもの、そんなものにかかずらっていて、どうして道徳問題で能率があげられよう。そんなものは除外すればよい。わけはない話だ。これに代るものとして、国家の、社会の、或る階級の要請している、誰の眼にもはっきりした正義がある。これらの正義の観念は、その根拠を、外部現実の動きのうちに持っているのだから、歴史や場所の変化とともに変化するのは、わかり切った事である。何故、道徳の相対性に文句など附けるのか。道徳の相対性は、道徳原理の客観性の必然の帰結ではないか。現実を直視せよ。良心の朦朧性などを信じているのは、現実逃避である。そんな事を言っている。よく出来た嘘をつくものだ。
道徳の客観的原理などに、誰が刃向えよう。みんな屈従するより他はない。一つの原理に反抗する事が出来るのも、別の原理に屈従すればこそだ。道徳が、外部から来る権威の異名なら、道徳は破壊か屈従かの道を選ぶ他はあるまい。手間を省いて考えれば、道徳の問題は、力と力との争いの問題になり下る。
人生を簡単に考えてみても、人生は簡単にはならない。道徳の問題を考えるに際し、良心の問題を除外し得ても、良心とは問題ではなく、事実なのであるから、彼が意識するとしないとを問わず、彼の心のうちに止まるであろう。例えば、あの男はスパイだと聞いて、私達は、何故一種の嫌悪の情を覚えるのだろうか。スパイのうちにも正義の士があって、弁解するだろう。「社会の正義の為なら、嘘もつこう、仮面もかぶろう。それに、一体、社会の不正と慣れ合った自己尊重などがどうして信じられよう。人格などというものは、一種の己惚れに過ぎないではないか。自分はむしろ出来るかぎり自己を軽んずる。何が悪いか」。しかし、無駄だろう。彼が上手に弁解すればするほど、私達の嫌悪の情は強くなるだろう。何やらおかしい、何かが間違っている。人間は、彼のように生きられる筈はあるまい。彼の心には平安の一とかけらもあるまい。感情の呟く言葉は、その種の不明瞭な言葉に相違なかろうが、良心の言葉とは、そういうものではあるまいか。
良心は、はっきりと命令もしないし、強制もしまい。本居宣長が、見破っていたように、恐らく、良心とは、理智ではなく情なのである。彼は、人生を考えるただ一つの確実な手がかりとして、内的に経験される人間の「実情」というものを選んだ。では、何故、彼は、この貴重なものを、敢て「はかなく、女々しき」ものと呼んだのか。それは、個人の「感慨」のうちにしか生きられず、組織化され、社会化された力となる事が出来ないからだ。社会の通念の力と結び、男らしい正義面など出来ないからだ。「物のあはれを知る心」は、その自発的な力で生きていれば、充分な何かである。彼の有名な「物のあはれの説」は、単なる文学説でも、美学でもない。それは寧ろ良心の説と呼んでいいものである。彼は、歌の道をたずねる事から始めて、はっきりと命の敬虔に到達した、徹底した思想家である。
もし、集団的良心というようなものは誰にも考えられない事なら、それは、何か社会の規約や規範以上のものに違いない。この考え方は、少しも新しい考え方ではない。どんなに現代の流行に反するように見えようとも、古くはなり得まい。ドストエフスキイは、「悪霊」という小説のなかで、ネチャアエフという青年革命家をモデルとして、何故、あのような高邁な思想を抱いて、あのような卑劣な残酷な行為が出来たか、という問題を、力を尽して究めようとした。歴史は、昔からこの同じ問題を、様々に異った形で、提出して来たが、これからいよいよ頻繁に、烈しい形で提出するようになると思われる。どうして、これが問題として映るのか。言うまでもなく、人は、其処に、思想と感情との驚くべき懸隔を見るからだ。思想の高邁を是認するものは思想であり、行為の卑劣残酷に堪えないものは感情である。良心は思想を持たぬが、或る感受性を持つ。ネチャアエフ事|件《(註)》は、もし見る人に良心が働かなければ、ネチャアエフ自身におけるが如く、問題とはなり得ない。良心の針は秘められている。
だから、私達は皆ひそかにひとり悩むのだ。それも、悩むとは、自分を審くものは自分だという厄介な意識そのものだからだ。公然と悩む事の出来る者は、偽善者だけであろう。良心の持つ内的な一種の感受性を、孟子は、「心の官」と呼んだ。これが、生きるという根柢的な理由と結ばれているなら、これを悪と考えるわけには行かないので、彼は「性善」の考えに達したのである。私には、少しも古ぼけた考えとは思えない。彼の思想を、当時、荀子の性悪説は破り得なかったが、今日の唯物論も、やはりこれを論破する事は出来ない。
[#地付き](文藝春秋 昭和三十四年十一月)
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(註)一八六九年十一月二十一日にモスクワのある公園の池でイヴァーノフという学生の惨死体が発見された。のちに、これは個人的な殺人事件ではなく、伝説的な青年革命家ネチャアエフを中心とする組織の政治的なリンチと判明し、ヨーロッパにまで大きな衝動をまきおこした。
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歴  史
近ごろ読んだ本のうちで、河上徹太郎君の「日本のアウトサイダー」が大変面白かった。中原中也、萩原朔太郎、岩野泡鳴、河上肇、岡倉天心、大杉栄、内村鑑三、そういう世に背いて、世を動かした人々の簡潔な生き生きとした列伝である。平たく言えば、変り者列伝である。河上君が、これを殊更アウトサイダーと変った呼び方をしたについては、いろいろ理由があり、その説明もあるが、私は書評をするのではない。変り者というものは面白いものだと思っているうちに、変り者という極く普通の言葉は、なかなか含蓄の深い言葉だと考え出した。
あいつは変り者で誰も相手にしないというように、変り者という言葉が、消極的に使われる場合、この言葉は殆ど死んでいるが、例えば、女房が自分の亭主の事を、うちは変り者ですが、と人に語れば、言葉は忽ち息を吹き返す。聞く者も、変り者という言葉に、或る感情がこめられて生きている事を、直ぐ合点するだろう。そういう時に、変り者という言葉は、その真意を明かすように思われる。変り者とは、英雄豪傑の事ではないが、不具狂人を指すのでもあるまい。そうかと言って、独創的人間と呼んでみても、叛逆者と呼んでみても、変り者という言葉の持っている含蓄を現わす事が出来ないのは面白い事である。もし、この言葉が、世間で、生き生きと使われる、その現場を掴まえてみれば、其処に、何か親愛の響があり、この言葉が孤独者を現わすよりむしろ社会性を現わしている事に気づくであろう。個人が社会の中に、歴史の中に微妙に生きているその姿を現わしている事に気が附くだろう。
誰も、変り者になろうとしてなれるものではないし、変り者振ったところで、世間は、直ぐそんな男を見破って了う。つまり、世間は、止むを得ず変り者であるような変り者しか決して許さない。だが、そういう巧まずして変り者であるような変り者は、世間は、はっきり許す、愛しさえする。個性的であろうとするような努力は少しもなく、やる事なす事個性的であるより他はないような人間の魅力に、人々はどんなに敏感であるかを私は考える。と言うのは、個性とか人格とかの問題の現実的な基礎は、恐らくそういう処にしかない、これを掴まえていないと、問題は空漠たる言葉の遊戯になるばかりだ、と思えるからである。
現代の文学や美術や音楽を眺めれば、個性の発揮を競うのに寧日もない有様が、誰の眼にも映っているわけだが、この外観上の多彩の下には、色が互いに干渉し、互いに色を消し合っている、やり切れないような退屈があるのが感じられる。これは無気味な事である。ローマン派文学以来、個性という言葉は濫用されて来た。濫用は、一般に、人性に関する概念の曖昧から来た。しかし、こういう事はあるのだ。近代の文学者や芸術家で、今日から見て、はっきりと歴史の上に、個性の印を捺して動かぬような人々、生き生きとした変り者達の作品なり伝記などを調べてみると、例外なく同じ事実にぶつかるのである。簡単に言って了えば、他に異らんとする意識的な欲望の行きつくところはたかが知れている、その知り方には、いろいろあったが、彼等はみなその事を、実によく知っていたという事がわかる。例えば、ボードレールは、個性とか独創とか孤独とかいう言葉を、一と手でしょい込んでいるような詩人であるが、彼が書いた近代批評の傑作「ローマン派芸術」をよく読めば、彼が、当時の画家達の新しい個性発揮の競争に、どんなに苦り切っていたかがよくわかる。彼に言わせれば、新工夫の自由を満喫した「解放された職人」達は、模倣しつつ独創に達する道を知らず、独創を言いながら、模倣ばかりしている危険人種に過ぎぬ。彼等に軽蔑されているブルジョアの方が、彼等より余程しっかりした人種であって、例えば乾物屋は、ドラクロアを充分に理解していまいが、ドラクロアに近附こうとする気持ちは持っている。「解放された職人」などは、その邪魔をしているだけだ、と言う。
個人主義の時代は去ったと言う。そうかも知れない。個人主義の思想の欠陥を突く考え方は、いくらでも出来よう。だが誰も実際生活の上で、個人という或る統一体の形でしか生きようがないという基本の事実には歯が立つわけがない。個人主義の問題と個人の問題は別であるが、両者の関係を論じていれば、知らず識らずのうちに、両者を混同して了うのである。人権の平等を主張しているうちに、人間の顔が、皆のっぺらぽうに見えて来る、そういう賢者は、現代何処にもころがっている。こういう時勢になって、さしあたり困ったのは文学者や芸術家である。個人的なものは、社会的なものの下位につかねばならぬとする時流に処する為に、仕事の上での個性をどう始末したらよいか。幸いにして、制作の漠然たる内的動機の偏重は、ローマン派文学の凋落とともに、既に時代遅れのものになっている。反省による個性の分析的な処理を、今や何がさまたげるか。そこで、作品は適当に批判的に、適当に人道的に、歴史社会の要望に答えるとともに、常識を驚かす新風も備え、と言うように、薬の効能書でも書くような頭の廻転が見られるようになった。これは、あまり注意されない現代知識人の奇妙な自負であるが、この自負は、一体、どんな土台の上に立っているのだろう。
精神分析学というものが今日、どんな分派に分れ、どんな事をやっているかは、専門家にしかわからない事だろうが、幾多の反対論にもかかわらず、その学説の大要は、抗し難い力で、現代人の教養のうちに滲透し、そこに根を下して了った事は争えない。この影響力は、私の常識にとっては、学説の部分的な真偽より、よほど大事な事のように思われる。何故かというと、私は私なりに、この影響下にさらされて来たからだ。最近、フロイトの「自伝」の翻訳が出たので、読んでみた。これは、努めて感情を避けて、自分の学説の歴史を記述したものだが、鮮かに現れていたのは、彼の並はずれて頑強な、陰気な人柄であった。それは何処から現れ出たものだろうか。これは難かしい問題だ。しかし、理性的意識の優越と支配とに対する彼の呪詛《じゆそ》が、一般に或は実際に、人々の心の上にどう作用したかという事も亦かなり陰気な不透明な性質のもののように思われる。
意識された自我とは、自我という大海の海上に、立ったり消えたりする波に過ぎない。意識と呼ばれるものは、無意識と呼んでいい心的実在に、後から附け加わったり、附け加わらなかったりする事の出来るものに過ぎない。この精神分析学が立つ基本的な考えは、フロイトの「自伝」のなかで語られているように、心的事実の、何の先入主もない、前提を廃した、忍耐強い観察に基づくものであった。彼の劃期的な発見は、理窟の上から言えば、意識の自己欺瞞を解くべき筈だったが、実際には、欺瞞の糸をいよいよ縺《もつ》れさせて了ったのではないか、と私は疑う。発見者の誠意などが、発見の勝手な利用者達にとって無意味なのは、普通の事だろうか。それとも、責めはフロイトにもあったのだろうか。
意識以前の無意識も、意識による説明をまたねばならぬ。意識から独立した心の構造も、理性的意識による再構成、それも遠い迂路を踏む、あれこれと手段を尽さねばならぬ再構成をまたなければならない。この厄介な手法にフロイトが堪えたという事は、心という実在の気味の悪い拡がりに関する彼自身の体験と離す事は出来ない。それは、「自伝」から、はっきりわかる事だ。彼には、心の世界が、物質の世界と同様に、確乎たる存在である事について、常人の思いも及ばぬ切実な経験があったのである。微量の毒物が人を殺すように、ささやかな観念が人を発狂させる。衝動の起原は、物的エネルギーの起原同様に暗い。私の心は、私の自由になるような、私に見透しの利くようなやくざな実在ではない。私は、自分の心という、或る名附けようもない重荷を背負わされている。フロイトは、この全重量の経験が、ショーペンハウアーにもニイチェにもあった事を見た。彼等の人間に関する洞察が、自分が苦労を重ねた観察の帰結に、驚くほど合致するのを見た。だが、自分は抑制した、と彼は言っている。フロイトは、彼等が敢行したように、心という怪物の全体的な直観から発言する事を抑制した。彼の科学者としての良心は、怪物の哲学的意味附けを、出来るだけ避けようとした。一と口で言えば、ショーペンハウアーやニイチェが、その全人格を現したその丁度同じ場所で、人格を隠そうと努めた人である。これが、「自伝」が、極めて単純な言葉で、私に明かしてくれた意味深長な事実である。「抑制が容易であったのは、私の体質によった」と彼は言う。ここに、彼が隠した全人格の、彼としては必要且つ充分とした直接表現がある。
現代の教養は、フロイトが、自分の人格を努めて隠したところへ、まことに狡猾につけ入ったように思われる。人格という贋物の権威は崩壊した。眼に見えぬというだけの詰らぬ理由から有難がられていた精神も、分析され分類され、物品なみに正札がつけられた。解放は到来したのである。リビドの海? もう古い、新しい心理学でも少し読んだらどうだ、心理学者まで、そんな事を言っている。現実に飛び込んでいるところが、太古以来変らぬ心の海である事には、決して気づきたがらない。自我というものが、一種の知的玩弄物と化したという安心感で手一杯だからである。だからこそ、不安の文学でも絶望の文学でも、倒錯小説も叛逆小説もわけはないという事になる。フロイトは意識の自負と戦ったのであるが、フロイディスムの挑撥したものは、分裂した意識の新しい形の自負らしい。だが、この自負は、個性を誇示しながら、全く安定を欠いているのである。
何故かというと、この自負は、新しい心理学が与えてくれる自我の不在証明《アリバイ》に、しがみ附いているだけだからだ。フロイトは、「夢判断」で、人間の心という「冥府」を動かそうとしたのだが、「冥府」を覗くには、「強い自我」が要るとは警告しなかった。恐らく、そんな事は、彼には自明な事だったし、科学者としてそんな忠告の必要も認めなかったのである。彼は恐るべき仕事の為に、自己を「抑制」した。彼はこの仕事の為の心の準備を自慢するような馬鹿ではなかったから、抑制は自分には体質的に容易であった、と言うに止めたのである。この言葉は心理学ではない。彼の良心と意志とを語っている。フロイディスムはこのフロイトという人間を欠いている。彼が自伝で語った「抑制」は無視され、彼の学説の「抑圧」という言葉だけが流行したと言ってよい。
反省が「冥府」までとどかないから、要もない「天上の神々」を作り出す。意識が意識を反省する事に甘んじていては、自我が生れて来るもう一つの自我という基盤は眼に入らぬ。意識は、様々な仮面を被る。新しい心理学が試みた仮面の破壊作業が、もし、一層真面目な内的経験に人々を誘う力を蔵していないのなら、それは全く無意味な仕事だ。フロイディスムに、命があるかないかは、その点に、ただその点だけにかかっているように思われる。だが、現代の心理的文学が、最も明瞭に示すところは、内的経験への侮蔑なのである。大した事なぞ一つもない、みんな心理の問題に還元出来る、と言っているのだ。
心理的という言葉は外的という言葉と同じ意味に使われている。観察されているのは、もっぱら心の解体現象である。そして、これをリアリズムと称している。だが、リアリズムという手法を用いる作者リアリスト達は、自分のリアリストという人格について、どのような確信を持っているのだろうか。確信を持っているなら、その確信は、どのような内的経験の統一の結果なのだろうか。どのような自己抑制の努力の結果なのか。すると、そんな事は一切知らぬと彼等は答えるだろう。そんな事に心を労しては、陳腐な私小説が出来上って了う、と答えるだろう。どうも仕方がない。心理学というものは難かしい。私の心理学から言えば、彼等のリアリズムとは、自己との戯れの直訳に過ぎない。だが、まさしく其処に、彼等の自負がある。「冥府」の合理的構造は明らかになった。それは社会の合理的構造に、同じ延長の上で直結している。従って、ここから、個性とは外部への適応能力であり、個性の育成とは、この能力の拡大以外のものではない、という考え方の強い傾向が生ずる。これでは、口先では個性を言い、自主性を説きながら、実は片足を集団のメカニズムのなかに突っ込んでいるようなものだ。商売の合い間に、バスをつらね、風船を飛ばす事が、政治的関心による個性の社会的拡張だという事にもなる。
廻り路をしたが、私が、人格とか個性とかいう、観念的に玩弄される上等な言葉より、日常生き生きと使われている変り者という平凡な言葉を選びたかった理由も、その辺にある。人格や個性を欺瞞と呼ぶなら呼んでいいし、英雄豪傑を伝説とするなら、してもよい。だが、それは解釈である。どんな解釈も平気で甘受している当の事実に眼を向けた方がよい。解釈などでは変り得ない恒常的な人間事実はあるのだ。変り者という平凡な言葉の方が、この事実を指すのに適している、と私は考えたまでだ。教養は、社会の通念に、だらしなく屈するものだが、実社会で訓練された生活的智慧は、社会の通念に、殊更反抗はしないが、これに対するしっかりした疑念は秘めているものだ。変り者はエゴイストではない。社会の通念と変った言動を持つだけだ。世人がこれを許すのは、教養や観念によってではない、附き合いによってである。附き合ってみて、世人は知るのだ。自己に忠実に生きている人間を軽蔑する理由が何処にあるか、と。そこで、世人は、体裁上、変り者という微妙な言葉を発明したのである。
誰も彼も、個人という統一した形で生きている。これを疑うものはないのだし、一方、生命と言おうと心と言おうと、それはどうでもよいが、もっと大きな或る名附け難い実体のうちに、私達が在るのを誰でも感じている。この万人に共有な実体は、各人の内的経験を通じ、各人各様に現れざるを得ないし、逆に、この実体自身の側からすれば、その全的経験を、出来る限り各人各様にして欲しいと言っているだろう。私はこの仮定に何の不自然も不合理も認める事が出来ない。世人の智慧が変り者を許す場合に感じているものは、同じ極めて自然な生の法則である。人格主義が纏う人為的な特権と、人格が形成される必然とは別の事だ。現代の思い上った教養だけが両者を混同する。
フロイディスムはフロイトの思想の否定的な或は形式的な側面を借りて、現代の教養に深く作用したという事実を動かせぬもの、と私は見る。内的経験を少しも豊かにする事のない分析的意識の解放、これがその結果である。現代の歴史意識についても同じような事が言えそうだ。歴史的意識は解放された意識である。何から解放されたか。昨日を思い、明日を目指し、二度と繰返せぬ一生を生きて育て上げた、誰も知っている歴史感情から解放された。そのような曖昧な個人的な主観性から解放された。歴史はもう他人事のようにしか書かれない。客観的と呼ばれている一種の優越感と侮蔑とをもってしか書かれない。これも亦奇妙な現代的な自負であり、これが、歴史に現れる個性的人物というやっかいな問題を片附けて了う。偉人も愚人も、歴史的展望と呼ばれる機構の単なる部分品になる。
歴史を外側から眺めて、どんな歴史図を考え出すのも、歴史家の自由だが、私達めいめいの生活は歴史の内側で行われているという万人が実感している歴史感情を忘れて、ろくな仕事が出来る筈がない。なるほどこの感情は殆ど不透明なものであるが、その実在を疑う事は出来ないし、又この感情によって直かに触れていると私達が感じている歴史が、筋の通った解釈や議論とは何か全く異る、不透明な鞏固な実体である事も充分に考えられる事である。これは、私達の合理的意識にとって、愉快な話ではあるまい。だが、それは、合理的意識の基盤には、無意識の魂があるという話と同断であろう。
河上君の「列伝」の読後感が、思わぬところまで行って了った。列伝という歴史表現の形式は大昔からある。その古さを考えていると、思わぬところに連れて行かれるようだ。淵源は人性そのものにあるとさえ言いたくなるから妙なものだ。誰も短い一生を思わず、長い歴史の流れを思いはしない。言わば、因果的に結ばれた長い歴史の水平の流れに、どうにか生きねばならぬ短い人の一生は垂直に交わる。これは歴史哲学ではない。歴史は、そのようにしか誰にも経験されてはいない。
それが、司馬遷が、紀伝体という鞏固な歴史形式を創り出した尋常な経験の基盤である。半分は本紀、半分は列伝、彼がこの十字路に立って、どんなに苦心惨憺したかは、有名な任安《じんあん》に報じた書を読めば明瞭であろう。彼が広く歴史を、「勇怯ハ勢ナリ、彊弱ハ形ナリ」と見抜く事が出来たのは、「斯ノ恥ヲ念フ毎ニ、汗、未ダ嘗テ背ニ発シ、衣ヲ霑サズンバアラズ」という自分の思い出の熟考によった。「私心ノ鄙ヲ尽サン」とする努力によった。彼のような大才だけの特権であろうか。歴史という学問の既に過ぎ去った方法であろうか。
[#地付き](文藝春秋 昭和三十四年十二月)
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言  葉
本居宣長に、「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」という言葉がある。(国歌八論斥非再評の評)ここで姿というのは、言葉の姿の事で、言葉は真似し難いが、意味は真似し易いと言うのである。普通の意見とは逆のようで、普通なら、口真似はやさしいが、心は知り難いと言うところだろう。普通の意見に別段間違ったところもなさそうであるが、意見が世に行われるという事は、意見が世人に反省されているという事とは違う。むしろ反省されないから行われるので、便利で実用的で、少くともそれで事がすむという意見なら、世に行われる充分な理由を持つだろう。本当は何を言っているのだか知らずに、意見を言うという事は、私達には極めて普通な事である。言葉というものは恐ろしい。恐ろしいと知るのには熟考を要する。宣長は言葉の性質について深く考えを廻らした学者だったから、言葉の問題につき、無反省に尤もらしい説をなす者に腹を立てた。そんな事を豪そうに言うのなら、本当の事を言ってやろう、言葉こそ第一なのだ、意は二の次である、と。
宣長の言葉はそういう言葉である。或る人が宣長に当てつけて、近頃世の才子どもが|古 《いにしえ》を学ぶと称して、古歌の姿詞を真似して歌をよんでいるが、そのよみ出すところを見れば、なるほど姿詞は古歌に似ているが、心は俗に近く、古とは大違いであり、誰にでも一見して似せ物とわかる、笑止な事であると言ったに対し、宣長は答えた。試みに私のよんだ万葉風の歌を、万葉歌の中に、ひそかに交えて置いたら、君にはこれを弁ずる事が出来まい。これが予の歌、これが万葉の歌と言って見せれば、必ず予が歌を似せ物と言わん。姿は似せ難く、意は似せ易し。併し、そう言っても、お前さんのような尤もらしい説の好きな男には、何の事やらわかるまい。「姿詞の髣髴たるまで似せんには、もとより意を似せん事は何ぞ難からん。これらの難易をもわきまへぬ人の、いかでか似ると似ぬとをわきまへん。」
宣長の片言には、その著作から推して、含蓄の深いものがあり、一と口には言えないが、彼に先ず何が気に食わなかったかは明瞭なのである。当時の学者は、大義という事をしきりに言った。宣長を難じた学者も、詩と歌とは言葉こそ異なれ、大義に於いては同じ事だと考える。古を学ぶとは古の大義を学ぶことだ。上世の大義をわきまえぬ今世の薄俗な心が、古歌の姿詞にかかずらい、古歌の似せ物をよんでも仕方がない。この種の俗論を説得するほどむつかしい事はない。その証拠には、俗論の頑強には、徳川時代昭和時代の別はないのであって、民主主義の大義を学んだものには、民主主義と言おうとデモクラシイと言おうと、そんな事は問題ではないだろう。世間がもっと利口で、大義をわきまえているなら、今すぐminshushugiと書いてよい。宣長もこれには弱ったのである。そこで冗談めいた話を考えたのだが、実は言葉について熟考した人に、初めて言える真面目な話だったのだ。いずれ論者には冗談ととられるのが落ちだ、と宣長は考えていたであろうか。試みに非常によく出来た自分の万葉風の歌を、万葉歌のうちに交えて置けば、君に弁別出来るか、という宣長の質問にはあまり易しくない意味が含まれている。
万葉の歌の調べを真似る事は難事であって、実際には先ず不可能な事であるが、理論上、この真似の極まるところ、誰にも似せ物である事を看破出来ぬような歌になる道理である。不思議な事ではないか。君はこの言葉の持つ不思議な性質に気附いているか、気附いてはいまいと宣長は言いたいのだ。何故かというと、試みにこちらは宣長の歌と名を明かしてみれば、こちらは似せ物だと君は言うであろうが、君の眼前にあるのは、全く類似した感動を君に経験させている二つの言葉の姿だけではないか。こちらが似せ物であると言うが為には、歌の姿とは直接に何の関係もない宣長という別の言葉が是非とも必要だ。君のこれは似せ物と言う言葉は、君の大義には関係しているであろうが、歌については何も語らぬ。歌は歌以外のものを語ってもいないし、意味してもいない。歌は、言わばその絶対的な姿で立って、一人歩きしている。恐らく、そんな事実は、君の眼には這入らぬであろう。這入っても、言葉をそのように見るのは、歌人の習癖に過ぎぬと言うであろう。
意は似せ易い。何故か。意には姿がないからだ。意を知るのに、似る似ぬのわきまえは無用ではないか。意こそ口真似の出来るものだ。言葉に宿ったこの意という性質こそ、言葉の実用上の便利、特に知識の具としての万能の由来するものだ。君が、言葉の姿を軽んずるのも無理はない。君の古の大義は口真似で得たものだ。さような大義から、今世の人の心の薄俗を言うのはおこがましい。今世の薄俗な心のままに、古を学ぼうと努める自分の真意が、君にわかろう筈はない。宣長の歌論が、当時として(敢えて今日でもと、私は言いたいのだが)比類なく優れていたのは、歌は言葉の粋であり、歌の発生を極める事は、言葉の本質をきわめる事だという、はっきりした意識があったところにある。彼の論証は必ずしも詳しくはないが、その直覚にはまことに鋭敏なものがあった。
宣長は、「歌は言辞の道なり」と言う。歌は言葉の働きの根本の法則をおのずから明かしている、という意味である。彼が歌で言葉を第一とする理由は、歌は情を述べるもので、先ず情があって詞があるには違いないが、詞は求めて得るもの、情は求めずとも自然にあるもの、と考えたからだ。歌の発生を考えてみると、どんなに素朴な情が、どんなに素朴な詞に、おのずから至るように見えようとも、それはただ自然の事の成り行きではない。形のないものから形が、不安定なものから安定が求められているのだ。これは生きとし生ける物の努力であって、鶯は鶯、蛙は蛙で、その鳴声にも文《あや》がある。世間には、万物にはその理あって、風の音水のひびきに至るまで、ことごとく声あるものは歌である、というような、歌について深く考えた振りをした説をなすものがあるが、浅薄な妄説である。自然は文《あや》を求めはしない。言って文あるのが、思うところを、ととのえるのが歌だ。思うところをそのまま言うのは、歌ではない、ただの言葉だ。而も、そのただの言葉というものも、よく考えてみたまえ、人はただの言葉でも、決して思うところをそのまま言うものではない事に気が附くであろう。
宣長は、理より情を重んじ、人為より自然を重んじた人だが、彼の歌論を感情主義、自然主義と言い去るのは、大きな誤解である。又、歌には歌の独立した価値があるというだけの説なら、彼の嫌った当時の儒者達も既に言っていた事だ。彼の並外れた認識は、もっと深いところを見ていた。彼に言わせれば、歌人達は歌の独立的価値を知らぬどころではない、むしろ知り過ぎて孤立している。技芸の一流と化して社会から孤立し、仲間同士の遊びを楽しみ、社会の常識も歌の事は知らぬですましている、|悲 哉《かなしいかな》と考えるのである。彼の歌の道とは、歌をこの誤った排他性から解放する事にあった。歌の道を知るとは、歌は言葉の粋であると知る事だ。言葉は様々な価値意識の下に、雑然と使用されているが、歌は凡そ言葉というものの、最も純粋な、本質的な使用法を保存している。それを知る事だ。これが宣長の根柢の考えであったと私は考えている。
自然の情は不安定な危険な無秩序なものだ。これをととのえるのが歌である。だが、言葉というもの自体に既にその働きがあるではないか。悲しみに対し、これをととのえようと、肉体が涙を求めるように、悲しみに対して、精神はその意識を、その言葉を求める。心乱れては歌はよめぬ。歌は妄念をしずめるものだ。だが、考えてみよ、諸君は心によって心をしずめる事が出来るか、と宣長は問う。言葉という形の手がかりを求めずしては、これはかなわぬ事である。悲しみ泣く声は、言葉とは言えず、歌とは言えまい。寧ろ一種の動作であるが、悲しみが切実になれば、この動作には、おのずから抑揚がつき、拍子がつくであろう。これが歌の調べの発生である、と宣長は考えている。この考えからすると、彼の歌論で好んで使われている、「おのづから」という言葉は、自然の動きにつかず離れず、これを純化するという意味合いに自然となって来る。その点で、彼の歌論には、アリストテレスの詩学にあるカタルシスの考えと大変よく似た考えがあると言える。
歌とは情をととのえる行為である。言葉はその行為の印しである。言葉は生活の産物であり、頭脳の反省による産物ではない。定義として生れたものでもなければ、符牒として生れたものでもない。これが、宣長が、「古事記伝」を書いた時の根本の言語認識である。「その意も事も言も相称ふ」とはそういう意味だ。彼は何も不明になった語義の解釈に三十年もかけたのではない。死んだ文字による記述と翻訳との裏に、生活され経験された言葉の一大組織のある事をはっきり見定めたかったからだ。
彼は、生活され経験される言葉にしか興味を持たなかったし、言葉とは本来そういうものと確信していた。一人で生活するものはない。生活するとは人と交わる事である。無論、社会という言葉は彼の語彙にはなかったが、言葉の社会性は彼には深く見抜かれていた。歌は人に聞かすものである。人に言い聞かせでは止み難きものが歌である。人が聞いても聞かなくても、そんな事はどうでもよい、むしろ真実の歌は、そのような事を考えぬ歌である、というような説を尤もらしく言う者があるが、説は、「ひとわたりは、げにと聞ゆれども、歌といふ物の真の義をしらぬ也」と言い、この問題は「かりそめの事にあらず」と言っている。秩序のないものの動きに、秩序をもたらそうとする言葉本来の働きを、歌は継承しているものだ。独りで合点している秩序とは無意味なものだろう。宣長は歌を礼にくらべている。歌は一種の礼だと言えば、愚かな事と思うかも知れないが、それはこれを考えた人の真意を解しないからだ。礼は人々の実情を導く、その導き方なのであって、内容を欠いた知的形式ではなかった。もろこしの聖人の智慧を軽蔑しないがよい。喪を哭するに礼があるとは、形式を守って泣けというのではない。秩序なく泣いては、人と悲しみを分つ事が出来ない、人に悲しみをよく感じて貰う事が出来ないからだ。人は悲しみのうちにいて、喜びを求める事は出来ないが、悲しみをととのえる事は出来る。悲しみのうちにあって、悲しみを救う工夫が礼である、即ち一種の歌である。
ここは、詳しく言う場所ではないから、言わないが、私は、宣長の片言を決して任意に解釈出来るままに解釈して来たのではない。姿は似せがたく、意は似せ易し。言葉は、先ず似せ易い意があって、生れたのではない。誰が悲しみを先ず理解してから泣くだろう。先ず動作としての言葉が現れたのである。動作は各人に固有なものであり、似せ難い絶対的な姿を持っている。生活するとは、人々がこの似せ難い動作を、知らず識らずのうちに、限りなく繰り返す事だ。似せ難い動作を、自ら似せ、人とも互いに似せ合おうとする努力を、知らず識らずのうちに幾度となく繰り返す事だ。その結果、そこから似せ易い意が派生するに至った。これは極めて考え易い道理だ。実際、子供はそういう経験から言葉を得ている。言葉に習熟して了った大人が、この事実に迂闊になるだけだ。言葉は変るが、子供によって繰返されている言葉の出来上り方は変りはしない。子供は意によって言葉を得やしない。真似によって言葉を得る。この法則に揺ぎはない。大人が外国語を学ぼうとして、なかなかこれを身につける事が出来ないのは、意から言葉に達しようとするからだ。言葉は先ず似せ易い意として映じているからだ。言うまでもなく、子供の方法は逆である。子供にとって、外国語とは、日本語と同じ意味を持った異った記号ではない。英語とは見た事も聞いた事もない英国人の動作である。これに近附く為には、これに似せた動作を自ら行うより他はない。まさしく習熟する唯一つのやり方である。
広く言語の問題を考えるにせよ、国語問題という目下の問題を扱うにせよ、言葉の機能は、大人風のものであると思い込むのは浅薄な考えである。何故かというと、言葉に関する子供のやり方は、社会に生きているあらゆる言葉に、その歴然たる印しを残しているし、誰も言葉に対し、子供のやり方を止めるわけにはいかないし、実際止めてもいないからだ。例えば、「お早う」という言葉を、大人風に定義して誰が成功するか。「お早う」という言葉は、平和を意味するのか、それとも習慣を意味するのか、それとも、という具合で切りがあるまい。その意を求めれば切りがない言葉とは即ち一つの謎ではないか。即ち一つの絶対的な動作の姿ではないか。従って、「お早う」という言葉の意味を完全に理解したいと思うなら、(理解という言葉を、この場合も使いたいと思うなら)「お早う」に対し、「お早う」と応ずるより他に道はないと気附くだろう。子供の努力を忘れ、大人になっている事に気附くだろう。その点で、言葉にはすべて歴史の重みがかかっている。或る特殊な歴史生活が流した汗の目方がかかっている。昔の人は、言霊の説を信じていた。有効な実際行為と固くむすばれた言葉しか知らなかった人々には、これほど合理的な言語学はなかった筈である。私達は大人になったから、そんな説を信じなくなった。しかし、大人になったという言葉は拙いのである。何故かというと、大人になっても、やっぱりみんな子供である、大人と子供とは、人性の二面である、と言った方が、真相に近いとも思われるからだ。これに準じて言葉にも表と裏とがある。ただ知的な理解に極めてよく応ずる明るい一面の裏には、感覚的な或は感情的な或は行動的な極めて複雑な態度を要求している暗い一面がある。
歌の言葉は、知的理解を容れぬものだ、そんな事なら誰も言うが、歌が言葉の生活のうちで、どんな位置を占めているものかを反省するものは少い。歌人にも少い。だから歌は技芸の一流に堕して了ったのだ、と宣長は言うのである。歌は読んで意を知るものではない。歌は味うものである。似せ難い姿に吾れも似ようと、心のうちで努める事だ。ある情からある言葉が生れた、その働きに心のうちで従ってみようと努める事だ。これが宣長が好んで使った味うという言葉の意味だ。宣長が、言葉というものの働きについて開眼したのは契沖の仕事によってであるが、ある人が、ろくな歌も詠めなかった坊主に、歌道のわけがわかった筈はないと言ったに対し、歌を詠んでも歌の味を知らぬ者もあるし、歌の道の味をあまり深く知ったので、歌が詠めなかった人もあった、と宣長は答えた。何々風が正風と教えられれば、いくらでも歌が詠める歌人がある。これは意から詞に、宣長の言い方では、「飛ばんとする」愚かな人々である。人々には、歴史的な言葉の姿の、めいめいの似せようがある、今世の人には今世の人の似せようがある。それが歌人の個性である。勿論、宣長は、個性という言葉を用いていない。「歌道ばかりは、身一つにあることなり」と言った。
もう止める。久松潜一博士の「契沖伝」から、契沖の手紙の一節を引いて結んで置く。彼は、世間から離れて、古い言葉の姿の吟味に没頭していた人だが、晩年、自分の家で、万葉の講義を開こうと思い立った。世事多端で、残念乍ら聴講出来ぬと言いよこした人に、言い送った。「あはれ御用事等何とぞ他へ御たのみ候而御聴聞候へかしと存事候。世事は俗中の俗、加様之義は俗中の真に御座候。」
[#地付き](文藝春秋 昭和三十五年二月)
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役  者
文藝春秋祭で、毎年文士劇をやっている。今はもう面倒臭くなったから出ないが、以前は何度も出た事がある。だから役者の経験はあるなどと馬鹿な事を言うのではないが、役者とはこんなものという一種の感じだけは、はっきり掴めたように思っている。言ってみれば、見物を瞞着《まんちやく》する快感である。この辺で笑うなと思っていると笑う。もうそろそろ泣き出すなと思っていると泣き出す。役者というものは、何と面白いものだろう、商売になったらやめられない筈だと思った。だが、そう言って了っても拙いので、やってみて初めてわかった感じはもっと微妙なものであった。
たかが文士劇だ、無論やる当人もそう思っていた。ところが、やってみると文士劇も芝居であると合点した。芝居という或るどうにもならぬ世界があって、其処へ、文士劇であろうが、何劇であろうが、這入って行く、どうもそういうものらしい。川口松太郎とか今日出海とかいう連中は実にうまいが、それは根が器用な男だからではない。私の観察によれば、彼等にはたかが文士劇と見くびる心が少しもない。彼等の身についた芝居の教養がそれを極く自然に許さない。そういう事だと思った。
菊池寛の「父帰る」をやった事がある。私が兄の賢一郎をやり、井上友一郎が弟の新二郎をやった。彼には初対面であったが、稽古をやり、東京で二回やり、大阪でやり、京都でやりしているうちに、お互いに妙に情のうつるものだ。個人的感情を越えた芝居の感情が作用するらしい。芝居がすんで、しばらくして、新二郎にぱったり出くわしたら、「今度、桃中軒雲右衛門という本を出すから、序文を書いてくれ、兄貴」と言われた。仕方がないから、中身はよく知らないが、弟が力作だというから面白いものだろう、どうぞよろしくと言った風な事を書いた。芝居がつづいているようなものである。
彼は舞台で、私とのやりとりで、感情がたかぶって来ると眼に涙をためる事があった。それが直ぐこちらに反射して、おやおやと思うほど妙に調子が合う事がある。夢中でやってはいるのだが、頭の何処かが覚めていて、しめたうまく行っていると感じている。無論こんな事は、玄人からみれば、ほんの役者のいろはに違いないが、私にはやってみて初めて感じられてひどく面白い事に思えた。舞台で役に成り切るなどという事は嘘で、何かが覚めているものだ。玄人が新二郎をやれば、眼に涙なぞ溜めなくても、もっとうまくやるに決っている。だが、私の言うのは、役者のいろはである。感情がたかぶらなければ、井上君は眼に涙を溜めやしないが、たかぶるのは日常現実の感情ではあるまい。芝居の秩序に従って整頓された感情であろう。泣いてはいるが、心を乱してはいまい。新二郎に成り切りながら、見物の眼をはっきり感じとっている。そういう時に、私はなるほど役者とはこれだなという言いようのない快感を覚えた。見物を瞞着する快感と前に言ったのはそういう意味だ。恐らく、この初歩的経験はどんな名優にも通じているものだと推察する。
「父帰る」をやっているうちに、だんだん巧くなった。大阪まで来ると、幕が下りても誰も手をたたかない。みんな泣いている。これはちと大袈裟だが、まあそう言った具合で、大阪がすむと気がゆるんだ。今までも、芝居は何も芸で持って来たわけではない、ただ一所懸命で持って来たのであるから、気がゆるんだ途端に大失敗をした。
京都には井上君の知合いが多いらしく、「友チャーン」などと出ない前から騒々しい。私はちゃぶ台の前に坐り、お燗をしながら、弟の帰りを待っている。すると弟の奴、只今ァと玄関から草履をはいたまま上って来た。あわてて脱いだが、これは幸い見物には見えない。着物に着かえる時、袖も一緒に結んで了った。今日はちょっと様子がおかしいぞ、だが、これも大した事ではない。弟は、ちゃぶ台の前に坐り、二十年前に家を出た父親らしい人物を近所の人が見たという話をする。
言わばこのせりふで芝居が始まる、そういう大事なせりふで、やってみると、その切っかけと間《ま》とが容易でない事がわかった。二人で相談の上、兄から酒をついでもらい、一杯のんでから始めるという事にし、それでまことにうまくやって来た。ところが、今日は、盃などに目もくれず、坐るや否や、兄さんと来た。こりゃ、いけねえと私は思った。弟の意外な話を聞き終り、母親と兄弟と妹と四人がめいめい違った想いに沈み、しばらく舞台は沈黙する。ここで、弟は取って置きの名ぜりふを言わねばならぬ。菊池寛の芝居は大雑把のようでいて、実は細かいので、――「おたあさん、今日浄願寺の森で、モズが啼《な》いとりましたよ。もう秋じゃ」――このせりふ一つで、急に見物は舞台に秋を感ずる。それを、弟の奴、フクロが啼いとりましたよ、とやって了った。
妙な事だが、と言って、考えてみれば少しも妙な事ではないのだが、見物にはモズでもフクロでもどっちだって構わないのである。事実、見物はフクロが啼いとりましたでは笑わなかった。せりふというものはそういうものらしい。「もう秋じゃ」というこなしがあればよい。菊池寛のような写実のせりふでも、写実主義は台本の上にあるだけなので、とぼけていれば何の事なくすんだのに、あッモズだと訂正したからどッと来た。
これが切っかけで、「父帰る」という芝居の幕は下り、「父帰る」をやる文士劇の幕が開いて了ったのである。見物は大喜びで、こんどは何を笑ってやろうかと身構えて了った。この辺りから賢一郎の深刻なせりふがつづくのだが、こうなれば見物にはもう深刻なせりふほど可笑しいものはない。芝居が進んで、父親が登場し、父親から賢一郎と呼ばれて、「賢一郎は、二十年前、築港で死んどる」と恨みをこめて発言すると、何がおかしいのか、未だゲラゲラ笑われるのには驚いた。私はこの時ほど、芝居というものの不思議さを、身にしみて味った事はない。この状態は長くつづいた。
見物が再び「父帰る」という芝居のうちに、這入り込んで来るのには、ずい分長い時間がかかった,この間の状態とは何だろう。私達素人役者の失敗によって、たまたまかもし出されたこの特別な状態とは何だろう。なるほど見物は芝居を見ることを止めたが、決して我れに還ったのではあるまい。芝居をやる文士というもう一つの新しい芝居を見る事にしたのである。これは言葉を代えれば、見物席の見物が主役となり、舞台の役者が端役となって、新たな芝居が演じられる事になった、そういう状態に他なるまい。場内全体を舞台とする、このような芝居を見る人は無論いない。だが精神の眼には見えている。という事は、この特別な状態は、普通に芝居が行われている時にも、いつも潜在的に存する状態だと考えられるという事だ。劇場内の見物も亦役者と共演する一種の役者である。芝居を見る楽しさはそこにある。私達は芝居を見に行くのではなく、心のなかで役者と共演しに行くのである。
私は、新劇というものを見に進んで出向いた事は殆どない。理由は全く簡単で且つ消極的なものだ。新劇ファンではないからだ。例えば私は相撲ファンではないが、相撲のテレビなら毎日見るので、相撲ファンへの道はいつでも開いているのだが、新劇ファンへの道となると、私にはしめ出されているという気持がしている。実際にしめ出された事もある。
いつか俳優座が「ウィンザーの陽気な女房たち」をやった時、見ていて少々退屈して来た。というのは、酒を呑んでいたので、私は上機嫌であったが、舞台も観客も一向上機嫌ではないと感じて来たからでもある。千田是也が何やらぶつくさ言うので、「もっとはっきり言ってくれエー」と声援したら、見物達が怒ったような顔で私を見た。やがて誰やらが仲々うまい仕草をするので、「その調子だゾー」と声を張上げたら、外に引張り出されて了った。新劇というものは、築地小劇場以来、相も変らず、誰にでも芝居を見せるのを目的としてはいない。新劇ファンという同志達を集める運動をしている。何もそれが悪いというのではない。少し上機嫌になったため間違えただけだ。しかし、所謂新劇運動の理論家達は、見物の役者との共演という演劇理論のいろはを、知らず識らずのうちに、おろそかにしているという事がないのであろうか。
私がここに毎月書いている感想に、「考えるヒント」という題がついている。私がつけたのではない。編集者がつけた。そう題をつけられてみれば、そういうものかなと思っているだけだ。よく考えられた文章ではないが、考えるヒントくらいは書いてあるだろうという程の意味だろう。まあそう考えて書くのは勝手だから、そう考えて書くのだが、その編集者が、今月は「がめつい奴」でも見てはどうかと言ったので、忠告に従った。芸術座の「がめつい奴」は、昨秋以来、記録的な連続公演をしていて、主役の三益愛子さんは芸術祭賞を受けた。劇評は既に無用だとしても、何処からそんな人気が出て来たものだろう。
「がめつい奴」を見たら、これは様子の違った新劇だと思った。たしかにこれは演劇運動ではない。その虚を突いたものだ。だが、さてこれを何芝居と呼んだらいいのだろう。見世物のようでもあり、芝居のようでもあり、新鮮なようでもあり、陳腐なようでもあり、要するに何か得体の知れぬものが行われていて、これに向って得体の知れぬ人気が集中している。これは私の直覚であって、悪口ではない。そういうものを大衆的なものと呼ぶなら、私には大衆という言葉も納得出来ると言うのだ。現代日本の大衆とは、何か全く得体の知れないものだと私はかねてから信じている。今日、大衆という言葉は、意味あり気に使われ過ぎた為に、中身が空っぽになって了ったのである。中身を取返さねばならぬ。取返して、中身は確かに得体の知れぬものともう一度合点し直した方がよかろうと思うのである。一歩踏み出すとは、いつもそういう事だ。好意を以て考えるなら、「がめつい奴」には、ともかく一歩踏み出してみたというところがある。気心の知れぬ客を集め、代は見てから戴こうというはっきりした処がある。
ずい分でたらめな芝居を書いたものだ。筋もなければ性格もない。私のような気心の知れぬ客からすれば、現前したのは大阪の無法地帯というよりも、まさに演劇の無法地帯であった。幕開きの簡易ホテルのセット、――みんなわけのわからぬ風来坊で、お互いに正常な人間関係を紛失して了っている。与えられた部屋割りだけが彼等の秩序だ。あの簡易ホテルのセットが、この劇の全構造そのものである。
つまりこれは劇というより、ガタピシした安物のラジオ・セットみたいなものである。ところが、このセットにスイッチを入れて電流を、物慾という電流を通さねばならぬ。それが三益愛子の役目だという仕組になっている。自分が熱演しなければ、この芝居どうなるものでもない、とはっきり承知の上での熱演であろう。他の役者も皆うまい。子役もうまいし、よっぱらいもうまいが、セットの構造上、てんでんばらばらの好演しか出来ない。劇の流れを何処で掴もうか、掴まえる手がかりがない。例えば泥酔したポンコツ屋が腹を刺される。あそこの田武謙三の演技には実に感心した。だが、ポンコツ屋の死に、何にも劇的なものがなければ仕方ないではないか。
人気は三益愛子が浚《さら》って了う。事実、この金貸しの婆さんだけが、たった一人の劇的人物なのである。何故かというとこの人物だけが合理的に生きようとしているからだ。逆説ではない。多くの人が劇的という言葉を誤解している。でたらめな事と劇的な事とは違うのだ。偶然は事故を生むが、決して劇を生みはしない。この婆さんだけが人間らしい意識を持っている。偶然は彼女をとりこにする事が出来ない。彼女は、金を溜めようと自身に誓い、その誓いのとりことなっている。彼女の性格が劇を生む。「がめつい奴」の芝居の魂は婆さんが独占している。あとは抜けがらだ。動物的な悶着と騒動とがあるだけだ。
さて誤解しないで欲しいが、私は作者菊田一夫を悪く言っているのではない。私の言った事なぞ劇評のいろはである。恐らく作者は百も承知で仕事をしたのだ。戦後の解体的な風俗図は、見世物になっても、芝居にはなりにくい。芝居の伝統的な血を通わせるスイッチを何処かに取りつけねばならない。作者がそうはっきり計算したとは言わないが、菊田という苦労人には、その点は本能的にわかっていたものと察せられる。或る友人が、芸術祭賞は主役と作者とに分割すべきであったと言った。正説であろう。
だが、私はやはりあの通りでよかったという考えである。何故かというと、私は前々から芝居では役者第一という考えだからだ。作者は芝居の裏にかくれていた方がいい。毎日新しく幕があく。役者はその日その日の出来不出来で、気心の知れぬ見物と協力して、まことに不安定な、脆弱《ぜいじやく》な、動き易く、変り易い、又それ故に生きている世界を創り出す。芝居は其処にしかない。
[#地付き](文藝春秋 昭和三十五年三月)
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ヒットラーと悪魔
「十三階段への道」(ニュールンベルク裁判)という実写映画が評判を呼んでいるので、機会があったので見た。近頃は刺戟物に慣れて、鈍磨した観客の神経を掻き立てている必要がある為か、残酷な映画がしきりに工夫されて作られる。
残虐性は今や現代人の快楽の重要な要素になった、と論ずる映画批評家の文章も何処かで読んだ事がある。しかし、「ニュールンベルク裁判」には、大ていの事には驚かぬ映画ファンも驚いた様子だ。理由は明瞭なようである。それはマイクから流れ出す一つの声にあった、「この映画のすべては事実に基づくものである。事実以外の何ものも語られていない」という声にあった。
観客は画面に感情を移し入れる事が出来ない。破壊と死とは命ある共感を拒絶していた。殺人工場で焼き殺された幾百万の人間の骨の山を、誰に正視する事が出来たであろうか。カメラが代ってその役目を果したようである。御蔭で、カメラと化した私達の眼は、悪夢のような光景から離れる事が出来ない。私達は事実を見ていたわけではない。が、これは夢ではない、事実である、と語る強烈な精神の裡には、たしかにいたようである。
家に帰って、家族のものから、映画の印象を問われた。私は見ない方がいいと答えただけであった。もし映画の印象を問われたら、見てごらんと言うか、見ない方がいいよと言うかどちらかだ、他に言葉はない、それがあの映画の特色だ、実はそんな事を考えながら家に帰って来たのである。私は一種名状出来ぬ気持ちで映画館を出た。早く這入ったから知らなかったが、出て来ると、次の映写時間を待つ人々の蜿蜒《えんえん》と続く列を見た。小春日和の土曜であった。あの世にも不快な光景に見入る為に、この人達は、貴重な土曜日の楽しみを犠牲にしようとしている。それほど私達の平和は不安なのか。或は、それほど私達の平和は贅沢なのか。だが、そんな事は空疎で無用な質問に思えた。実際、名状し難い私の気持ちに、人々の長蛇の列は、何か異様な姿で映じ、私はただその意識で一杯であった。
私の心にはまだマイクの声が鳴っていた。「事実以外の何ものも語られてはいない」――その中に、久し振りで見たヒットラーの写真があった。あのぬらりとした仮面のような顔があった。チョビ髭も附け髭に似ている。頭も頭蓋骨にぺったりと貼り附けた鬘のようだ。ドストエフスキイは、スタフローギンという悪魔を構想した時、その仮面のような顔附きを想像し、これを精細に描いて見せるのを忘れなかった。彼の仮面に似た素顔は、彼の仮面に似た心をそのまま語っている。彼は骨の髄まで仮面である。悪魔は仮面を脱いで、正体を現したという普通な言葉は、小悪魔にしか当てはまらない。ドストエフスキイはそう見抜いていた。これは深い思想である。――しかし、一体事実とは何だろう、あの一切が後の祭りの事実とは。私は幻のなかにいるような気がした。幻のなかで、チョビ髭の悪魔が、マイクを通じて言っていた。「事実以外の何ものにも、私は興味を寄せなかった男だ」と。
ヒットラーの「マイン・カンプ」が紹介されたのはもう二十年も前だ。私は強い印象を受けて、早速短評を書いた事がある。今でも、その時言いたかった言葉は覚えている。「この驚くべき独断の書から、よく感じられるものは一種の邪悪な天才だ。ナチズムとは組織や制度ではない。むしろ燃え上る欲望だ。その中核はヒットラーという人物の憎悪にある」。私は、嗅いだだけであった。以来、この人物に関して無智でいた。先年、アラン・バロックの「アドルフ・ヒトラー」(大西尹明氏訳)が出版された。私は往年の嗅覚を確める為に、沢山の事を学ばねばならなかった。もう一年以上にもなるが、未だ下巻が出版されないのはどうしたわけか。残念な事だ。これは名著であるから、やはり売行が面白くなかったのであろうか。
ヒットラーのような男に関しては、一見彼に親しい革命とか暴力とかいう言葉は、注意して使わないと間違う。バリケードを築いて行うような陳腐な革命は、彼が一番侮蔑していたものだ。革命の真意は、非合法を一挙に合法となすにある。それなら、革命などは国家権力を合法的に掌握してから行えば沢山だ。これが、早くから一貫して揺がなかった彼の政治闘争の綱領である。彼は暴力の価値をはっきり認めていた。平和愛好や暴力否定の思想ほど、彼が信用しなかったものはない。ナチの運動が、「突撃隊」という暴力団に掩護されて成功した事は誰も知っている。
暴力沙汰ほど一般人に印象の強いものはない。暴力団と警察との悶着ほど、政治運動の宣伝として効果的なものはない。ヒットラーの狙いは其処にあった。「突撃隊」に、暴力団以上の性格を持たせては事を誤る。だが、彼はその本心を誰にも明かさなかった。「突撃隊」が次第に成長し、軍部との関係に危険を感ずるや、細心な計画により、陰謀者の処刑を口実とし、長年の同志等を一挙に合法的に謀殺し去った。残る仕事、ドイツ国家の永遠の守りと己惚れて、往時の特権を夢みていた軍人達の懐柔、それは容易な事であった。
ヒットラーは、首相として政権を握るまで、世界一の暴力団を従えた煽動政治家に過ぎなかった。大臣はおろか、議員にさえなった事はなかった。一切の公職は、彼に無縁であった。政治家以前の彼も全く無職であった。彼の思想は、彼自身の回想を信ずるなら、ウィーンの浮浪者収容所の三年の生活のうちに成ったものである。彼の人生観を要約する事は要らない。要約不可能なほど簡単なのが、その特色だからだ。人性の根本は獣性にあり、人生の根本は闘争にある。これは議論ではない。事実である。それだけだ。簡単だからと言って軽視出来ない。現代の教養人達も亦事実だけを重んじているのだ。独裁制について神経過敏になっている彼等に、ヒットラーに対抗出来るような確乎とした人生観があるかどうか、獣性とは全く何の関係もない精神性が厳として実在するという哲学があるかどうかは甚だ疑わしいからである。ヒットラーが、その高等戦術で、利用し成功したのも、まさに政治的教養人達の、この種の疑わしい性質であった。バロックの分析によれば、国家の復興を願う国民的運動により、ヒットラーが政権を握ったというのは、伝説に過ぎない。無論、大衆の煽動に、彼に抜かりがあったわけがなかったが、一番大事な鍵は、彼の政敵達、精神的な看板をかかげてはいるが、ぶつかってみれば、忽ち獣性を現わした彼の政敵達との闇取引にあったのである。
人性は獣的であり、人生は争いである。そう、彼は確信した。従って、政治の構造は、勝ったものと負けたものとの関係にしかあり得ない。そして彼の言によれば「およそ人間が到達したいかなる決勝点も、その人間の獣性プラス独自性の御蔭だ」と。
この彼の一見妙な言い方も、彼の原理に照らせば明瞭であろう。人間にとって、獣の争いだけが普遍的なものなら、人間の独自性とは、仮説上、勝つ手段以外のものではあり得ない。ヒットラーは、この誤りのない算術を、狂的に押し通した。一見妙に思われるかも知れないが、狂的なものと合理的なものとが道連れになるのは、極く普通な事なのである。精神病学者は、その事をよく知っている。ヒットラーの独自性は、大衆に対する徹底した侮蔑と大衆を狙うプロパガンダの力に対する全幅の信頼とに現れた。と言うより寧ろ、その確信を決して隠そうとはしなかったところに現れたと言った方がよかろう。
間違ってばかりいる大衆の小さな意識的な判断などは、彼に問題ではなかった。大衆の広大な無意識界を捕えて、これを動かすのが問題であった。人間は侮蔑されたら怒るものだ、などと考えているのは浅薄な心理学に過ぎぬ。その点、個人の心理も群集の心理も変りはしない。本当を言えば、大衆は侮蔑されたがっている。支配されたがっている。獣物達にとって、他に勝とうとする邪念ほど強いものはない。それなら、勝つ見込みがない者が、勝つ見込みのある者に、どうして屈従し味方しない筈があるか。大衆は理論を好まぬ。自由はもっと嫌いだ。何も彼も君自身の自由な判断、自由な選択にまかすと言われれば、そんな厄介な重荷に誰が堪えられよう。ヒットラーは、この根本問題で、ドストエフスキイが「カラマーゾフの兄弟」で描いた、あの有名な「大審問官」という悪魔と全く見解を同じくする。言葉まで同じなのである。同じように孤独で、合理的で、狂信的で、不屈不撓であった。
大衆は議論を好まぬ。ドイツのマルクシズムの弱点は、それを見損っている処にある。無邪気な客観主義は、新しい理論を生み出すに過ぎず、人心の扉を開けて、そこに眠っている権力への渇望に火をつける事を知らぬ。マルクシズムの革命の成功者は、科学的教義によって成功したのではない。大衆のうちにある永遠の欲望や野心、怨恨、不平、羨望に火を附ける事によってである。これらは一階級の弱点ではない。人間の弱点だ。問題は弱点の濃厚になっている場所を捜す事だ。ドイツ共産党は、この利用すべき原動力を忘れている。
だが、マルクシズムにも学ぶべき点がないわけではない。それは、ある世界観を掲げているという事だ。ビスマルクの社会主義弾圧法以来の政治家どもの失敗は、世界観というものを粗末にしていたからだ。
では、世界観とは何か。獣物の闘争という唯一の人性原理を信じたヒットラーには、勿論、科学的であろうとなかろうとあらゆる世界観は美辞に過ぎない。だが、美辞の力というものはある。この力は、インテリゲンチャの好物になっている間は、空疎で無力だが、一般大衆のうちに実現すれば、現実的な力となる。従って、ヒットラーにとっては、世界観は大衆支配の有力な一手段であり、もっとはっきり言えば、高級化された一種の暴力なのである。暴力を世界観という形に高級化する事を怠ると、暴力は防禦力ばかりで、攻撃力を失う、と彼は明言している。もっとはっきり、彼は世界観を美辞と言わずに、大きな嘘と呼ぶ。大衆はみんな嘘つきだ。が、小さな嘘しかつけないから、お互いに小さな嘘には警戒心が強いだけだ。大きな嘘となれば、これは別問題だ。彼等には恥かしくて、とてもつく勇気のないような大嘘を、彼等が真に受けるのは、極く自然な道理である。大政治家の狙いは其処にある。そして、彼はこう附言している。たとえ嘘だとばれたとしても、それは人々の心に必ず強い印象を残す。嘘だったという事よりも、この残された強い痕跡の方が余程大事である、と。
大衆が、信じられぬほどの健忘症である事も忘れてはならない。プロパガンダというものは、何度も何度も繰り返さねばならぬ。それも、紋切型の文句で、耳にたこが出来るほど言わねばならぬ。但し、大衆の眼を、特定の敵に集中させて置いての上でだ。
これには忍耐が要るが、大衆は、政治家が忍耐しているとは受け取らぬ。そこに、敵に対して一歩も譲らぬ不屈の精神を読みとってくれる。紋切型を嫌い、新奇を追うのは、知識階級のロマンチックな趣味を出ない。彼等は論戦を好むが、戦術を知らない。論戦に勝つには、一方的な主張の正しさばかりを論じ通す事だ。これは鉄則である。押しまくられた連中は、必ず自分等の論理は薄弱ではなかったか、と思いたがるものだ。討論に、唯一の理性などという無用なものを持ち出してみよう。討論には果てしがない事が直ぐわかるだろう。だから、人々は、合議し、会議し、投票し、多数決という人間の意志を欠いた反故を得ているのだ。
ヒットラーの心理学に、何もあきれる事はないのだ。現代の無意識心理学も似たような事をやっていないと誰に言えるだろう。大事な点は、ヒットラーが、無意識界の合理的解釈などを自慢している思い上った心理学者ではなかったところにある。「マイン・カンプ」に散在するこれらの言葉のうちで、著者によって強行され、大衆のうちに実証されなかった言葉は一つもない。「マイン・カンプ」が出版された時、教養ある人々は、そこに怪しげな逆説を読んだに過ぎなかった。暴力団の団長に、常軌を逸した風来坊の姿を見て、これを侮蔑した。が、相手の、比較を絶した、大きな侮蔑の力を計る事は出来なかった。ヒットラーは、一切の教養に信を置かなかった。一切の教養は見せかけであり、それはさまざまな真理を語るような振りをしているが、実はさまざまな自負と欲念を語っているに過ぎないと確信していた。
現代の歴史は、まさしくそういう堕落の一歩を踏み出している事を、彼は看破していた。政権掌握後、次々に行われたヒットラーの外交上の大芝居は、バロックによって、夥しい資料に基づき、詳細に分析されている。ヒットラーは、戦争を覚悟して首相になったのである。戦争も場合によっては止むを得ない、そんな不徹底な考え方は、採るに足らないと考えていた。先ずフランスとイギリスとを、どうあっても征服しなければならないと覚悟していた。彼が、その侵略戦争の構想を、これは自分が死んだ場合、政治上の遺言になると言って、少数の幹部に打明けたのは、一九三七年の十一月である。
外交は文字通り芝居であった。党結成以来、ヒットラーの辞書には外交という言葉はなかった。彼には戦術があれば足りた。戦術から言えば、戦争はしたくないという敵国の最大弱点を掴んでいれば足りたのである。再軍備は進んでいる。重点は、戦術を外交と思い込ませて置くところにある。開戦まで、正義に基づく外交の成功という印象を、国民に与えて置く事にある。この期に際し、彼が、機をとらえては行った演説や声明の類いを、自分の望むものは正義と平和だという絶叫を、バロックは、ヒットラーの宣伝の傑作として、いくつも紹介している。傑作? そんな言葉が使いたくなるほど、私達の心は弱い。
専門的政治家達は、準備時代のヒットラーを、無智なプロパガンディストと見なして、高を括っていた。言ってみれば、彼等に無智と映ったものこそ、実はヒットラーの確信そのものであった。少くとも彼等は、プロパガンダのヒットラー的な意味を間違えていた。彼はプロパガンダを、単に政治の一手段と解したのではなかった。彼には、言葉の意味などというものが、全く興味がなかったのである。プロパガンダの力としてしか、凡そ言葉というものを信用しなかった。これは殆ど信じ難い事だが、私はそう信じている。あの数々の残虐が信じ難い光景なら、これを積極的に是認した人間の心性の構造が、信じ難いのは当り前の事だと考えている。彼は、死んでも嘘ばかりついてやると固く決意し、これを実行した男だ。つまり、通常の政治家には、思いも及ばぬ完全な意味で、プロパガンダを遂行した男だ。だが、これは、人間は獣物だという彼の人性原理からの当然な帰結ではあるまいか。人間は獣物だぐらいの意見なら、誰でも持っているが、彼は実行を離れた単なる意見など抱いていたのではない。
三年間のルンペン収容所の生活で、周囲の獣物達から、不機嫌な変り者として、うとんぜられながら、彼が体得したのは、獣物とは何を措いても先ず自分自身だという事だ。これは根柢的な事実だ。それより先に行きようはない。よし、それならば、一番下劣なものの頭目に成ってみせる。昂奮性と内攻性とは、彼の持って生れた性質であった。彼の所謂収容所という道場で鍛え上げられたものは、言わば絶望の力であった。無方針な濫読癖で、空想の種には困らなかった。彼が最も嫌ったものは、勤労と定職とである。当時の一証人の語るところによれば、彼は、やがて又戦争が起るのに、職なぞ馬鹿げていると言っていた。出征して、毒ガスで眼をやられた時、恐らく彼の憎悪は完成した。勿論、一生の方針が定ってからは、彼は本当の事は喋らなかった。私も諸君と同じように、一労働者として生活して来たし、一兵卒として戦って来た、これが彼の演説のお題目であった。
ヒツトラーは、十三階段を登らずに、自殺した。もし彼が縊死《いし》したとすれば、スタフローギンのように、慎重に繩に石鹸を塗ったに違いない。その時の彼の顔は、やはりスタフローギンのように、凡そ何物も現わしてはいない仮面に似た顔であったと私は信ずる。彼は、彼の部下たちのような、無罪を主張して絞殺された、目の覚めない小悪魔どもではなかった筈である。スタフローギンは、あり余る知力と精力とを持ちながら、これを人間侮蔑の為にしか使わなかった。彼は、人を信ぜず、人から信じられる事も拒絶した。何物も信じないという事だけを信じる事を、断乎として決意した人物であった。この信じ難い邪悪な決意が、どれほど人々を魅するものか、又どのような紆余曲折した道を辿り、徐々に彼自身を腐蝕させ、自殺とも呼べないような、無意味な、空虚な死をもたらすか、その悪夢のような物語を、ドストエフスキイは、綿密詳細に語ったが、結局、物語の傑作を出ないと高を括られた。作者のように、悪魔の実在を信ずるものはなかったからである。自分は、夢想を語ったのではない、また諸君の言うように、病的心理の分析を楽しんだわけでもない、正真正銘の或るタイプの人間を描いてお目にかけたのだ、と彼はくり返し抗弁したが無駄だった。
ヒットラーをスタフローギンに比するのは、私の文学趣味ではない。私はそんな趣味を持っていないが、二人の心の構造の酷似は疑う余地がないように思われる。スタフローギンが、タイラントでもプロパガンディストでもなかったのは、彼の生活圏が、ヒットラーほど広くはなかったからだ。それ以上の意味はあるまい。ザールの占領、インフレーション、六百万の失業者、そういう外的事情がなかったなら、ヒットラーは為すところを知らなかったろう。当り前な事だ。だが、それにもかかわらず、彼の奇怪なエネルギーの誕生や発展は、その自律性を持っていた事を認めないのは馬鹿気ているだろう。ヒットラーは権力だけを信じたが、この言葉を深く感ずるか、浅薄に聞き流すかは、人々の任意に属する。
彼は政治家だったから、権力という言葉が似合うのだが、彼の本質は、実はドストエフスキイが言った、何物も信じないという事だけを信じ通す決心の動きにあったと思う。ドストエフスキイは、現代人には行き渡っている、ニヒリズムという邪悪な一種の教養を語ったのではなかった。しっかりした肉体を持ったニヒリズムの存在を語ったのである。この作家の決心は、一種名状し難いものであって、他人には勿論、決心した当人にも信じ難いものであったようだ。その事を作者が洞察して書いている点が、「悪霊」という小説の一番立派なところである。恐らくヒットラーは、彼の動かす事の出来ぬ人性原理からの必然的な帰結、徹底した人間侮蔑による人間支配、これに向って集中するエネルギーの、信じ難い無気味さを、一番よく感じていたであろう。だからこそ、汎ドイツ主義だとか反ユダヤ主義だとかいう狂信によって、これを糊塗する必要もあったのであろうか。
六人の仲間で、運動を始めた頃は、彼も世間並みの悪党を脱し切れなかったかも知れない。宣伝文句など、それ自体何の意味もないのだから、どうでもよろしい。プロパガンダという仮面は、勝手にかぶったりぬいだり出来る道具である。そう考えていたかも知れない。だが、彼が成功するにつれて、仮面は鬼面の如く、彼の肉から離れぬものと化した。そこに、プロパガンダの真の意味が生じたとも言えようか。
ヒットラーが事を成し得た当時のドイツ社会では、暴力行為とプロパガンダが、極く普通のものと見なされていた。今日の日本の社会でもこんな普通なものはない。批判という言葉は大流行だが、この言葉は、われわれは既に批判の段階を越えて、今や実力行使の段階に達した、と続くのが常である。批判に段階があるとは、おかしな事である。私の常識では、批判精神の力は、その終るところを知らぬ執拗な忍耐強い力にある。私は屡々考える事がある。現代の批判精神は、人性という不思議な存在について、思いまどう、自己の日常経験に即した、直接な内省力を全く失って了ったのではあるまいか。その為に、批判精神は、その生きた微妙さを失い、想像力も忍耐力も失い、抽象化して了ったのではあるまいか、と。
もしドストエフスキイが、今日、ヒットラーをモデルとして「悪霊」を書いたとしたら、と私は想像してみる。彼の根本の考えに揺ぎがあろう筈はあるまい。やはり、レギオンを離れて豚の中に這入った、あの悪魔の物語で小説を始めたであろう。そして、彼はこう言うであろうと想像する。悪魔を、矛盾した経済機構の産物だとか一種の精神障礙だとかと考えて済ませたい人は、済ませているがよかろう。しかし、正銘の悪魔を信じている私を侮る事はよくない事だ。悪魔が信じられないような人に、どうして天使を信ずる力があろう。諸君の怠惰な知性は、幾百万の人骨の山を見せられた後でも、「マイン・カンプ」に怪しげな逆説を読んでいる。福音書が、怪しげな逆説の蒐集としか映らぬのも無理のない事である、と。
[#地付き](文藝春秋 昭和三十五年五月)
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平 家 物 語
芸予海峡の中程に、大三島という島があり、島の西海岸に、大山祇《おおやまつみ》神社という社がある。現存する甲冑《かつちゆう》で、国宝や重要文化財に指定されているものの八割はこの古い社にある。古甲冑のほん物、一流品を見ようとするなら、あそこへ行かなければ、先ず駄目な事だ。これは予《かね》てから承知していた。
私は戦争中、「平家物語」を愛読していた。誰も知る通り、「平家」の語る合戦とは、華やかに着飾った鎧武者の一騎打ちであり、先ず彼等の「其の日の装束」が慎重に語られなければ、合戦は決して始まらない。夕日のさす屋島の浦に、紅と金色の扇が、与一に射られて落ちる。海に乗り入れたこの若武者の着ていた鎧は、萌黄縅《もえぎおどし》であったと知らされる。与一に射よと下知した義経の鎧は、|紫 《むらさき》裾濃《すそご》だったと言われる。
「沖には平家、ふなばたを扣て感じたり、陸には源氏、箙《えびら》を扣てどよめきけり」。すると、此処らが「平家」のまことに面白いところだが、突然曲の転調が行われる。「余りの面白さに、感に堪へずと覚しくて」、一人の男が、舟の中から出て、扇の立っていたところに立ち、静かに舞い始める。
「伊勢三郎義盛、与一が後に歩ませ寄つて、御諚にてあるぞ、|仕 《つかまつ》れと言ひければ、与一、今度は中差とつて番ひ、よつ引いて、ひやうと放つ。舞ひ澄ましたる男の、真只中を、ひやうと射てば、舟底へ真倒に射倒す。あ、射たり、と言ふ者もあり、いやいや情なし、と言ふ者もあり、今度は、平家の方には音もせず、――」、射倒された無名戦士も、齢五十ばかりに見えて、「黒革縅の鎧著たる」とは書かれている。これに、直ぐ続いて語られるのが、「景清の錣引《しころび》き」である事は、言うまでもない。
私はその当時、源平時代のものと言われる、絵模様ある弦走《つるばしり》の革切れだとか、黒漆の小札《こざね》だとか、そんなものを、道具屋から見附けて来ては持っていた。そんな怪しげな残闕《ざんけつ》も、手元に置いて打返し眺めていると、私の空想を支える不思議な力を持っていた。たまたま、伊予の今治に行く機があったので、大山祇神社の甲冑を見ようと思った。
宿屋で、翌朝の大三島行の船の時間を調べ、心を躍らせていたところ、ふと新聞を見ると、神社の国宝館に泥棒が押入り、太刀数口が盗まれた、当分のうち休館するという記事が出ていた。私は新聞を叩きつけて、ひっくり返った。それから十余年経ち、先月講演を依頼され、四国に行った。今治は全く様を変えていた。しかし、大三島はやはり以前の通り静まり返っているだろう、と思わざるを得なかった。鎧の残闕など、今はもう何処へやらやって了ったし、「平家」に対する往年の熱も、もはやないが、それにしても、このまま還る気にもなれなかったから、他の講師達と別れ、また今治に戻って、行く事にした。ところが、島行きの船を決めてから、今度も思い掛けない事があった。
近日、松山で、神社の宝物展があるので、目ぼしい品は、もう島を出て、主催する新聞社にある筈だ、と聞かされた。仕方がないから、松山に行き、新聞社に、陳列準備中のものを見せて貰った。道後に一泊して、目が覚めたら、強風注意報で、大変な雨風だ。船が小さいから、とてもこれでは無理だ、と宿の者が言う。こうなれば、何日でも待ってやるという気になり、今治に行ったら、幸い船は風の中を出た。
さて、見るのに随分手間がかかった鎧だが、見てみれば、ははあ、なある程、ご尤もと言うより他に言葉が出ないところが、まことに面白かった。義経の鎧も、その配下で屋島や壇浦で戦った河野四郎通信の鎧兜も、所伝そのままを信じて、少しも差支えない、と私には思われた、それほど見事だったからだ。もっと私の心にはっきり来た事は、これら源平時代の甲冑の、眼の前に現じている姿は、心のうちで捕えている「平家」という文学の姿そのままだという感じであった。時代が次第に下り、甲冑の姿が変って来て、それがそのまま「太平記」という姿になる事も亦はっきりと見て取れるように思われた。「平家」の文体は、普通、和漢混淆文と呼ばれている。成るほど分析的に読めば、和文調と漢文調とが交錯した雑然とした奇妙な文体には違いない。しかし、それは、無論、私がここで言う「平家」文学の姿ではない。姿は、もっと奥の方にある。和漢混淆文という言葉は、いつ頃から使い出されたものか知らないが、「平曲」という肉声が、もはや聞けなくなり、「平家」という活字本を目で辿るようになってから、使われ出した言葉には相違あるまい。
しかし、熟読すれば、活字本に言わば潜在する肉声は、心で捕える事が出来る。今日、「平家」を愛読する者は、皆そうしている筈だ。眼の前の甲冑は、私が聴覚で失ったところを、はっきりと視覚で恢復してくれているように見えたのである。優しいものと強いものと、繊細なものと豪快なものと、どんなに工夫して混ぜ合わそうとしても詮ない事が、疑いようのない一つの姿に成就されて立っている。そんな感じがした。歴史が創るスタイルほど不思議なものはない。
わが国の古典で、「平家」ほど複雑な構造を持った文学はない。和漢混淆文どころの沙汰ではない。高度に微妙な象徴的な語法から、全く通俗な写実に至るものがある。仔細らしい説教から、理窟抜きの娯楽に至る、層々として重なる厚みある構成がある。これらに、人々の様々な類型と劇とが配分され、抒情と叙事とに織りなされ、その調べは、暗い詠歎から、無邪気な哄笑に亙る。言うまでもなく、「平家」十二巻の作者は、個人を越えた名手であって、信濃前司行長ではない。
弘安役当時、河野通有は大山祇神社に参籠祈願した。戦死した兄通時の鎧が遺っている。そんな関係から、蒙古軍の兜や弓が、分捕品として奉納されている。見れば、これもまことに見事な形をしている。だが、これは沙漠と寒風とが生んだ形である。こんな兜をかぶられては、どんな名手も「宇治川先陣」は描けまい。この角製の弓は、波間に沈んで、「弓流」も語れまい。私は、そんな事を空想しながら、ふと思った。ここに並んだわが国の甲冑や弓矢の名品を、優美だとか繊細とか呼ぶのは、どうも面白くないし、第一正確ではない、むしろ簡単明瞭に、風光明媚と呼ぶべきものだ、と。
私のような素人には、くわしく辿る事は出来ないが、源平期に完成した甲冑は、日本の工芸史上、最も複雑な構造を持ったものではあるまいかと思われる。この複雑性は、装飾化或は美化という動機から決して来ているのではないのであり、騎馬して弓を射、鐙《あぶみ》を踏まえて名乗りをあげ、馬|仆《たお》れれば、敵と組む、というような一騎打の、而も戦場の華として、敵も味方も見守らねばならぬ一騎打というものが要求する複雑な条件、これに答えねばならぬところから、きっと来ているに違いない。
すべては実際の要求から発した。その点、他の工芸品と少しも変りはない筈だ。ただ、甲冑の場合は、満たさねばならぬ条件が、多様であり、恐らく互いに相反する幾多の要求に、一挙に答えねばならなかった。長い経験と工夫とが、この疑問を徐々に解いて行ったところに、あの雑多な部分の口には言えぬ均衡が、上代の甲冑の形を思えば、頭では到底思いも及ばぬ複雑な不思議な調和が生れた。この黙した姿は、見て見飽きない。
「平家」と甲冑との間には、「平家」に扱われた最大の主題が合戦であるということだけではすまされぬ深い縁があるようだ。語り手と聞き手達との間に成立したこの文学には、本質的に、工芸品めいた性質がある。この事は、同じ頃に成った「新古今」の姿を思えば、随分はっきりと来る事で、成る程、「新古今」の作者等は、幾人も「平家」に登場しているし、両者に共通した歌も見られるが、内に向って考え込んだ極めて意識的な歌の世界は、外に向って演じられた物語の世界とは、まるで出来が違う。「平家」は甲冑のように、生活の要求の上に咲いた花だとさえ言えるようなものがある。その構造の複雑の由って来《きた》るところにも、同じ意味合いが読めるように思われる。「平家」は、人々を、専門的な文学の世界に導こうとしてはいない。人々の日常生活から発する雑然たる要求、教えられたい要求にも、笑い飛ばしたい要求にも、詠歎の必要にも、観察の必要にも、一挙に応じようとしている、そんな風な姿をしている。
「平家」という装束は、言わば私達の机上にある。面倒な補修保存の労も要らぬ。古い言葉の大組織は、成ったがままの形で在る。音曲という色は褪せて消えたが、この驚くべき統一体の姿は、私達に感得出来る。この独特な様式を創った力とは何だろう。この生きた歴史の息吹きの構造は複雑と言うより微妙と呼ぶべきものであろう。これは、歴史を語ると言いながら、実は一種の社会学しか語れない現代の歴史家達が、忘れ果てた真実ではなかろうか。
今でも、「平家」は折にふれて読むが、「源氏」となるとどうも億劫《おつくう》である。名作には違いないが、「源氏」のあの綿密な心理の世界には、何か私を息苦しくするものがある。五十四帖のうち、一巻あげるならどれが好きかと言われれば困るが、ためらわずに言えば、「野分」と答える。あそこで「源氏」という書斎の窓が開く、そういうものがある。それにしても、「明石」の雷鳴が、源氏の読経の中で鳴っているように、「野分」は、夕霧の恋情のうちを吹く。それが「平家」になると、「野分」は、はっきりと京中を吹き抜ける「|※[#「風+炎」、unicode98b7]《ひよう》」となるところが、気持ちがよい。心理の枠は外されて了う。社会の枠さえとれて了う。合戦は自然と直かにからみ合って行われる。私は自分の好みを言うので、説を成そうと思うのではないが、「平家」の語る無常観というよく言われる言い方を好まない。「平家」の人々は、みな力いっぱい生きては死ぬ行動人等であって、昔から「平家」に聞き入る人々の感動も、その疑うべくもない鮮かな姿が、肉声に乗って伝って来るところにあったであろうと考えている。
「平家」は、曖昧な感慨を知らぬとは言うまい。だが、どんな種類の述懐も、行きついて、空しくなる所は一つだ。無常な人間と常住の自然とのはっきりした出会いに行きつく。これを「平家」ほど、大きな、鋭い形で現わした文学は後にも先にもあるまい。これは「平家」によって守られた整然たる秩序だったとさえ言えよう。また其処に、日本人なら誰も身体で知っていた、深い安堵があると言えよう。それこそまさしく聞くものを、新しい生活に誘う「平家」の力だったのではあるまいか。「平家」の命の長さの秘密は、その辺りにあるのではあるまいか。
「平家」の名文という言葉は惑わしい。例えば、「海道下り」は名文だという。だがあの紋切型の文句の羅列を、長い間生かして来たものは、もう今はない検校の肉声であった。逆に、肉声を以って、自在にこれを生かす為には、読んで退屈な紋切型の文体が適していたとも言えるだろう。決して易しい問題ではない。古典の姿とは皆そういうものだ。これに近づくのには、迂路しか決して見附かるものではない。
古人の建てた記念碑は、石で出来ているとは限らない。という事は、古典文学にも、私達に抵抗する、石のように固い、謎めいた、黙した姿はあるという事だ。手応えは、手探りによるより他はない。重衡《しげひら》の「海道下り」に、我を忘れて聞き入る人々は、やがて来るのは「重衡斬られ」の事と知っている。知らないのは重衡だけだ。「平家」の語り手は、歴史家の記述では歴史を殺して了う事をよく知っている。だから、彼は俳優のように、歴史を演じてみせる。何んにも知らない重衡の道行きを語ってみせる。彼が越えて行く山か河が、お前は何んにも知らぬと告げる、そういう風に語ってみせる。
人々に聞えて来るのは、この山か河の言葉なのであり、何も語らぬ重衡の心が、漠とした予感でゆらめいているのを、聞くものは感じ取る。これが、記紀の歌謡以来の道行きの伝統の上に、「平家」が開いた新しい境地である。このような整然とした秩序のなかで、細々した自然描写は無用であろう。伊吹山が見えたら、見えたと言えば足りる。大磯小磯を打過ぎてで充分だ。動いて行く重衡の肉体は、もうしっかりと動かぬ自然に触れている。
自然の観照について、細かく工夫を凝らした夥しい文学に比べてみれば、「平家」は、まるでその工夫を欠いているように見える。あの解り切った海や月が、何とも言えぬ無造作な手つきで、ただ感情をこめて掴まれる。何処を読んでもそうだ。読んでいるうちに、いかにもこうでなくては適うまいと思われて来る。宇治や屋島の合戦とは限らない。合戦とも言えぬ「信連《のぶつら》」の戦さでも。これは私の大好きな文の一つだが、活写された彼の目覚しい働きの背景には、彼の働きなどにはまるで無関心な十五夜の月が上る。彼は月の光を頼りに悪戦するので、月を眺める暇はない。しかし、何と両者は親しげに寄添うているか。
芭蕉は義仲が好きだった。何故この優れた自然詩人が、自然を鑑賞した事など一度もなかった義仲を好んだか。この理由を彼に教えたのは「平家」以外のものではあるまい。「木曾殿と背中合せの寒さかな」は「さてこそ粟津の軍《いくさ》はなかりけれ」と続くのである。
私達は、社会は思うだけ改良できるものだし、自然は心のままに利用できるものだ、という考えに溺れて暮している。しかし、私達の心のなかで、「平家」は死んではいない。
[#地付き](文藝春秋 昭和三十五年七月)
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プルターク英雄伝
「プルターク英雄伝」は名高い本だから、数年前、河野与一氏の完訳が成って以来、一読してみたいと思っていたが、大部なものだし、読みづらいのも見当はついていたし、手が附かずいたが、先頃病気をして引きこもっていた折、暇にまかせて通読してみた。
今日では、古典という言葉の、伝統的な意味が失われ、古典を積極的に定義するのは、ひどく困難な事になったから、古くて、退屈で、読みづらい、名高い本という漠然たる意見も、消極的だが、一番いい古典の定義となったようだ。私は、古典主義者でもなし、古典研究家でもなし、こういう実状に基づいた定義を軽んじはしないが、関するところは、読書の楽しみという私事である。
相も変らぬ雑読漫読の習慣は、身について了ったが、読書の楽しみは変って来る。それも、その変り方には、年齢に深く結ばれた、何か本質的なものがあるように感じられる。「英雄伝」にしても、読みづらい平板な叙述が、何時果てるともなくつづくのだが、何も考えずに辿っていると、歴史とは、まさしくこんな様子で、単調に蜿蜒と流れて来た、その姿が思いも掛けぬ鮮度で、脳裡に浮んで来たりする。「英雄伝」とは言うが、テミストクレスもペリクレスも、アレキサンドロスもカエサルも、一向英雄らしくはない。と言って小人でもない。ただ天性と環境とのいろいろな関係上、史上でヒーローの役を演じなければならない廻り合せになった極く普通の人間である。近代の文人は、人間の見方や描き方について、様々な工夫を凝らして来たが、そういうものを全く知らなかったら、なるほどこのような普通な描き方になる筈だ、そういう普通な人間の姿が現れる。私達が、こういう古典的リアリズムを物足らなく思うのも、現代人の贅沢なリアリズムに慣れ切っている、いや、恐らくこれと馴れ合っているが為だ。精到なリアリズムを誇る現代文学も、少し読書の工夫をして読めば、刺戟的な挑撥的な迎合的な一種のスタイルと映ずる事もある。「英雄伝」のスタイルには、読者に迎合するところがまるでないから、これをはっきり容認して読めば、そんな男と附合ってみる楽しみも生れ、面白そうな話を聞かされて退屈するような心配もない。
クレオパトラは、アントニウスに会う前に、カエサルとポンペイウスの息子との情人であった。そこで、「彼女は、この二人に対する美貌に基づく交渉を経験していただけに、アントニウスを征服する希望を持つのも容易であった」。プルタルコスの文体は、終始、まずこう言った理詰めな素気ないものであって、恋愛事件などを語るには不向きなようだが、又その故に、読者の想像力を動かす力を持つから、それで別段、仔細はない。プルタルコスによれば、クレオパトラという女は、決してパスカルが心配した意味での美人ではなかったそうである。その代り、語学の天才で、土俗の言葉に至るまで自在にあやつり、非常な美声で、その会話には抗し難い魅力があったと言う。想像力さえ生き生きとしていれば、こんな説明にも、いや却ってこんな説明に、エロスは宿っている事がわかる。シェクスピアは、「アントニウス伝」に拠って「アントニイとクレオパトラ」を書いたと言われているが、尤もな事だ。いかにも尤もな事だと感じ取ったから、私には、この芝居をまた読み返してみる気は起らなかった。血だらけになった自殺未遂のアントニウスを、クレオパトラが、墓の窓から、縄で引っ張り上げる。あの場面は、シェクスピアの芝居に出て来るが、どんな名女優が引っ張り上げても、さぞ贋物くさいだろう。プルタルコスは、殆ど描写抜きで語るから、周囲の様子は、さっぱりわからないが、背景は塗り潰しでもよいわけだ。女は縄の重みで、顔を硬直させていた。宙にぶら下った瀕死の男は、女の方へ両手を差し延べていた。「居合せた人々の話によると、これより惨めな有様は見たことがなかったそうである」。これで何も不足したところはない。読書の楽しみは、精神の楽しみであるから、耳目の邪魔は這入らぬ方がよい。
先日、田中美知太郎氏と雑談した折に聞いた話だが、トインビーが歴史を書いた根本の動機は、ツキディデスの政治史を研究していて、これではギリシャ人の政治的経験は、現代人のものと全く同じである、私達がこれからする事も、彼等が既にして了った事ではないか、そう強く感じ、翻然として悟るところがあった、其処に在ったのだそうだ。又ツキディデス自身も、人間は、いずれ又同じような目にあうのだから、過去の経験を忠実に記録して置くのは無駄ではない、というはっきりした考えを持っていたと言う。私は、トインビーもツキディデスも知らないが、面白い話だと思った。
これは極めて常識的な考えである。歴史に関する哲学や理論とか主義とかに無関心な一般の生活人の歴史意識、世の中は移り変るが、人間というものは変らぬものだという感慨に大へん近いものだ。歴史は鑑であり或は鏡であるという考えは、東西を問わず、人生に深く根ざした考えと見える。現代の優秀な歴史家が、近代の歴史の諸理論に疲れ、昔ながらの鏡を磨く事で、新しい活路を見附けた。そこから、彼がどのような学問的方法を発展させたかは知らないが、根柢にあったものが、生活人の感慨或は芸術家のヴィジョンであったというところが、私には面白い。それが、学問と言っても、歴史の学問が一種特別なものである所以であろう。例えば、近代の美術の歴史を読んでいると、人為的な技巧や理論が行きつまる毎に、自然に還るという考えが、優秀な画家達に生じた事がわかる。いろいろな画家が、いろいろな時期に、還って行った自然は、それぞれ異っていたであろうが、聞いた声は、誰も同じであった。近代史学の歴史をくわしく読めば、歴史家達の間にも、同じような具合に、人性に還れという声を、又しても聞いて来た人があった事が見られるのではなかろうか。この場合の自然とか人性とかいう言葉は、決して定義ある概念を指してはいない。画家や歴史家の或る内的な経験を指す。恐らくトインビーの開眼は、人性に還れという天来の警告の如く経験された内観によったものであろう。
プルタルコスにも、同じ考えがあった事は、「英雄伝」の到るところから推察される。ただ、彼は、「アレキサンドロス伝」で、こんな事を言っている。「自分が書くのは歴史ではなく伝記である。著名な事蹟の中には、必ずしも徳や不徳は現れず、瑣細な行動や戯れの方が、幾千の屍を作る戦や布陣や攻囲よりも、しばしば人の性格を明らかにする」と。しかし、当時は、歴史家と伝記作家と言っても、その相違は五十歩百歩だっただろう。近年の著名な歴史的事件となると、それはもう必ずしも徳や不徳を現さぬどころの段ではなくなった。人間の事蹟と呼び難いような相を呈して来た事は周知のところだ。勢い、かつての五十歩百歩が甚だしい分業となって現れるという事になって、性格をよく現す瑣末な行動の解釈は、もっぱら文学者の受持ちになり、非人間的と見える大行動の合理的説明は、歴史家の仕事となった。そして、一般の傾向として、知らず識らずのうちに、一方は心理主義を、他方は唯物主義を固執するのも、専門的効果をあげる為の便宜には勝てないからだ。分業もいいが、何から分れて分業に進んだかを反省していなければ、分業は、少くとも人間生活を対象とする思想の上の仕事では、いずれろくな事にはならない。当人達の人格上の分業が始まるからである。
歴史を鏡と呼ぶ発想は、鏡の発明とともに古いように想像される。歴史の鏡に映る見ず知らずの幾多の人間達に、己れの姿を観ずる事が出来なければ、どうして歴史が、私達に親しかろう。事実、映るのは、詰るところ自分の姿に他ならず、歴史を客観的に見るというような事は、実際には、誰の経験のうちにも存しない空言である。嫌った人も憎んだ人も、殺した人でさえ、思い出のうちに浮び上れば、どんな摂理によるのか、思い出の主と手を結ばざるを得ない。これは、私達が日常行っているいかにも真実な経験である。だから、人間は歴史を持つ。社会だけなら蟻でも持つ。
現在の行動にばかりかまけていては、生きるという意味が逃げて了う。一たん死んだ積りになるのもよい事なのだ。実にいろいろな人間が、実にいろいろな生れ方をし、死に方をしたその動かせぬ有様を尊重し、静かに眺めてみるのはよい事だ、歴史が鑑であるとは、そういう本質的な意味を含んでいるように思われる。ただ生活上の単なるお手本の意味ではあるまい。そうでなければ、鑑が鏡に通ずる意味もわからなくなる。
そういうところが、「英雄伝」にはよく現れている。プルタルコスは、選んだ英雄達を論評し、いろいろ教訓めいた事を語るのだが、別段小うるさい感じを読者に与えないのは、作者が、読者に訴えるような態度を少しも示していない事によるが、やはりそれは、それぞれの人物が、いかにも人の一生とはかくの如きものという印象を与えるように語られているが為であろう。作者の言葉で言えば、「人間とは限りなく弱いものである」というところが、よく現れている。英雄達は、社会的に目立つ行動をした人達で、賢者ではない。だから、賢者達の生涯は語られていないが、たまたま登場して来ると、ディオゲネスのように甕の中で日向ぼっこしていたり、アナクサゴラスのように野たれ死したり、プラトンのように奴隷に売られたりしている。もっと賢者になると、その墓銘に、「ここに、私は重苦しい生命を絶って横たわっている。邪悪な人々よ、名を訊くな。惨めに果てろ」とあったそうだ。賢者等も英雄達と、充分にその限りない弱さを分っている。
だが、実は、この本はまことに平静であって、人間の弱さが描かれていると見る私の眼を笑うようである。恐らくプルタルコスは、他のギリシャ人と同じように、人間は運命の手を逃れる事は出来ないと確信していた、それだけの事なのであろう。それは基本的な人間の生活事実であり、宗教でも哲学でもない。思想でさえない。この絶対的な事実の邪念も屁理窟もない承認が、人間を尊重するというその事なのだ。これはパラドックスではない。プルタルコスの文体そっくりそのままの姿であって、やはり、これはホメロスの流れを汲むものであろうか。ギリシャ人の人間の発見ということがよく言われるが、近代のヒューマニズム、個性尊重の風を透して、これに近附こうとするのは、まず無謀な出来ない相談ではあるまいか。
ツキディデスの政治史が、どんな具合なものか知らないが、「英雄伝」の英雄達もみな政治家なのである。勿論、作者に、政治家タイプの人間というような現代風の考えがあった筈はなく、道徳的で精力的な行動家は政治家たらざるを得ないという、当時の社会の実状に従ったまでであろう。アリストテレスは、アレキサンドロスという「政治的動物」を特に政治家に仕立て上げようとした筈はなく、単に教育したに過ぎまい。政治は、或る職業でも、或る技術でもなく、高度な緊張を要する生活なのであり、従って、プルタルコスに描かれた人達は、どこでもどんな場所でも、各人の全体的な経験を現わしているように見える。アジアに遠征していても、ディオゲネスと立話していても、いや強迫症になっても、熱病にかかっても、アレキサンドロスはアレキサンドロスの全体を現わす。政治への参加とか、政治への無関心とかいうやかましい言葉は、「英雄伝」時代の教養人達には全く不可解な言葉であった。これは、考え直してもいい事だ。
人性は変らぬという言葉は、少しばかり割引きすれば、現代人は未だ許すだろうが、政治は変らぬと言えば、これは許すまい。しかし、政治は人性に基づくものだ。それなら、政治というものを眺める観点が、大変変って来たという事になろう。観点は、人性を離れて烈しく変る物的生産の技術や機構に、或はもっと変り易い法律や制度や党派の綱領や組織の方に移ったと言えよう。ペリクレスの時代、アテナイの民主主義国家の市民は一万五千に満たなかったそうだ。スパルタの共産主義或は社会主義国家の人民は、もっと少かったろう。これを現代の二大国家と比較するなど、一見飛んでもない話だろうが、実行に移された、根本の政治的観念は同じものだ。そう見るのを、観念論的な見方と軽視する風があるが、それは風であって、よく考えられた根拠に立つものではないのであろう。少くとも、一万五千人相手の政治が、幼稚だったとか簡単だったとかいう通俗な考えは、はっきり捨てる方がよいだろう。進歩したのはデモクラシイの理論であって、その実行の困難には進歩なぞあり得まい。プルタルコスの語り方から推察すれば、ペリクレスの成功は、彼がその事を誰よりもよく知っていたところにあったように思われる。
プルタルコスの英雄たちを一番悩ませた大問題は、いつも民衆の問題であった。ペリクレスは、ともかくこの難題を始末した優れた政治家として描かれている。作者の考えを、忖度《そんたく》してみれば、彼がこの難題を、ともかく何とか始末をつけたというところが貴重なのである。一挙に解決しようとすれば、必ず人間生活を壊して了う。「ペリクレスの言う事なぞ、聞きたくなければ聞かないでもよい。もっと利口な相談相手を待てばよい。時間である」。彼は、いつもそういう方針であった。
民衆という大問題とは何か。それをソフォクレスの羊飼が基本的な形に要約する。彼は羊の群に向って言う、「俺達は、こいつらの主人でありながら、奴隷のように奉仕して、物も言わぬ相手のいう事を聞かなければならない」。デマゴーグになるのもタイラントになるのも、この難問の解決にはならない。言葉にたよる或は権力にたよる成功は一時であろう。何故かというと、彼等は、民衆の真相に基づいた問題の難かしさに直面していないからだ。彼等の望んでいるものは、実は名声に過ぎず、抱いているものは名誉心だけである。彼等の政治の動機は必ずしも卑しくはないし、政治の主義も悪くない場合もある。だが、彼等は、この宙に浮いた名誉心にすがりつき、これを失う恐怖から破滅するらしい。民衆から受けた好意を、まるで金でも借りたように感じ、これを返さねばならぬと思う。返さないのは恥であり、不正であると思い込む。だから、直ぐ新しい有益な政策を考え、もっと大きな名誉という借金をする。止め度がない。「彼等は、民衆に負けまい、民衆も彼等に負けまいという風に、名誉心が駆り立てられる」。宙に浮いた正義心というものも、この宙に浮いた名誉心と結びやすいもので、同じ運動をするのである。
ペリクレスは、政治的イデオロギイを信用しなかった。彼が信用したのはむしろ政治心理学である。無論、当時、そんな言葉はない。プルタルコスに従えば、彼は、先生のアナクサゴラスの自然学を、赤い鉄を水に入れるように、弁論術に鍛えあげた人だ。そして、弁論術とは、プラトンが言ったように、人心収攬術に他ならず、心の琴線を弾ずる術であるとともに、性格と感情との構造を極めようとする、人性の研究でもあった。現代人も自然学を好み、いよいよ巧に人間の自然化を試みるが、自然学の方を、人間に照らして鍛え直し、人間化する途を考える人は少いのである。だから哲学が侮蔑される。だが、それは、講壇哲学の堕落ばかりを見ているからで、哲学の始まりを反省してみれば、哲学が最も人性に即した学問である、と合点し直すのは難かしい事ではない。
人民の支配、という今日流行の言葉を、ペリクレスはよく知っていた。そんな馬鹿げた事は永遠にあり得ない、と。彼が思いを凝らしていたのは、羊飼と羊との問題であった。いつも真実なこの矛盾に、どう処するかという術であった。言わば、相反する二つの力が、どこでどう折れ合うかを計る事だったが、それは、今日計れば、明日はまた計り直さねばならぬという目立たぬ努力の連続であったから、世評には到底乗り難いものであった。新聞で叩かれるというような事は、当時は、無論なかったが、その代り喜劇の合唱隊は、気位ばかり高くて、一向不得要領なこの人物を痛罵した。彼の政敵は、ペリクレスにまかせて置いては、民主制は滅びる、実状を見よ、民主制は単なる名目となり、彼一人が支配者ではないか、と非難した。民会は投票で、彼を失脚させてみるが、後釜には、口のうまい無能者を得て失望するという具合であった。
「ペリクレス伝」は、「英雄伝」のなかの傑作である。それは、作者が、ペリクレスを、アテナイの黄金時代を創った人としてではなく、むしろペストの大流行と戦った如く、黄金時代と戦った人として描いているからだ。そして恐らくそれは真相だったと思われる。作者は質問している。逆境にあって卑下し、必要に迫られて、識者の言葉を聴く国民を扱うのは、幸運に思い上り、得意になっている民衆の傲慢と威勢に轡《くつわ》を噛ませるより難かしい事か、と。国力が発展するにつれて、人心も発展する。という事は、ペリクレスの観察によれば、アテナイが豊かになればなるほど、人心の腐敗も豊かになるという事であった。彼は、この熟慮された現実主義に立ち、理想派の言にも、実際家の言にも動かされなかった。
ペリクレスの、民主主義制度を名目に過ぎぬと見るのは造作のない事だ。それよりも、彼の考えを押し進めれば、あらゆる制度は名目に過ぎなくなる筈である。彼は、いろいろな制度を越えたところに、或は制度のあらゆる革新を不断に要求されているところに、そこだけに真に政治の現実的な秩序を見ていた、と言えよう。彼の民主主義の政体のうちに、もし見ようとするなら、貴族主義的制度も社会主義的政策も、共存していた様が見えるだろう。
プルタルコスはプラトンを非常に尊敬している様子だが、「国家」は、様々な政治制度の、人間的なあまりに人間的な意味の見事な分析である。哲人政治の説教ではない。プラトンには、国家とは人間の異名であった。政治とは完結する事を知らぬ人性の鏡であった。彼が説いたのは、というより分析し記述したのは、政治史の転変に頑強に堪える深い意味での政治の日常性であった。それが、哲人政治のアイデアリズムと映らざるを得ない事は、今日の政治的リアリズムが、大きな偏向を経験しているという事ではあるまいか。政治の規模が驚くほど大きくなったのは、時の勢いだとしても、これに伴う、政治の対象の非人間化や物質化も止むを得ないとは言えまい。政治的リアリズムは事実を尊重する。それはよい。しかし、政治がかき集める莫大な事実の群が、ほんとうに人間的事実であるかどうかを反省してみる方が問題ではないのか。これほど事実を尊重する人々が寄り合い、これほど抽象的なドグマの相争う世界は、今日、政治世界を措いて他にない。横行しているのは、邪悪な贋リアリズムなのである。
[#地付き](文藝春秋 昭和三十五年十一月)
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福 沢 諭 吉
言うまでもなく、福沢諭吉は、わが国の精神史が、漢学から洋学に転向する時の勢いを、最も早く見て取った人だが、この人の本当の豪さは、新学問の明敏な理解者解説者たるところにはなかったのであり、この思想転向に際して、日本の思想家が強いられた特殊な意味合いを、恐らく誰よりもはっきりと看破していたところにある。これは私の勝手な忖度ではなく、「文明論之概略」の緒言が明らかにしているところだが、本文は緒言を隠し勝ちなものだ。彼は次のような意見を述べている。
西洋の学者が、文明について新説を唱え、人の耳目を驚かすと言っても、これは先人の遺物を琢磨《たくま》して、これを改進するという仕事であるが、今日わが国の学者の文明論という課業は全く異なる。私達は、水より火に変じ、無より有に移ろうとするが如き卒爾の文明の変化に会して、言わば新しく文明の論を始造しなければならぬ窮地に立たされている。その点で、今の学者の課業はまことに至難だと言う。
こういう処に、既にこの文明批評家の仕事の、はっきりした動機が覗《うかが》える。彼は活路は洋学にしかないと衆に先んじて知ったが、ただそういう事なら、これは天下の大勢であって、早かれ遅かれ凡庸な進歩主義者にも明瞭になった事であった。福沢の炯眼《けいがん》はもっと深いところに至っていた。洋学は活路を示したが、同時に私達の追い込まれた現実の窮境も、はっきりと示したという事が見抜かれていた。そこで、彼は思想家としてどういう態度を取ったろうというと、この窮地に立った課業の困難こそわが国の学者の特権であり、西洋の学者の知る事の出来ぬ経験であると考えた。この現に立っている私達の窮況困難を、敢て、吾《われ》を見舞った「好機」「僥倖」と観ずる道を行かなければ、新しい思想のわが国に於ける実りは期待出来ぬ、そう考えた。
西洋の学者は、既に体を成した文明のうちにあって、他国の有様を臆測推量する事しか出来ないが、我が学者は、そのような曖昧な事ではなく、異常な過渡期に生きている御蔭で、自己がなした旧文明の経験によって、学び知った新文明を照らす事が出来る。この「実験の一事」が、福沢に言わせれば「今の一世を過ぐれば、決して再び得べからざる」「僥倖」なのである。
「試に見よ、方今我国の洋学者流、其前年は悉皆漢書生ならざるはなし、悉皆神仏者ならざるはなし。封建の士族に非ざれば、封建の民なり。恰も一身にして二生を経るが如く一人にして両身あるが如し。二生相比し両身相較し、其前生前身に得たるものを以て之を今生今身に得たる西洋の文明に照らして、其形影の互に反射するを見ば、果して何の観を為す可きや。其議論必ず確実ならざるを得ざるなり。」
彼の「学問のすゝめ」は、洋学のすすめではなかった。洋学はすすめるまでもない急激な流行であった。学塾三年間三百円の元手は、月給五、七十円の正味手取の利益となる、洋学が「高利貸と雖ども、これに三舎を譲る可き」官許の商売と化さんとするのを見たから、彼は、学問の「私立」を、「学者は学者にて私に事を行ふ可き」事を、すすめたのである。
西洋者流は時流には乗ったが、自覚を欠いていた。彼等には、福沢に言わせれば、「独立の丹心の発露」というものが見られない。彼等を、俄に咎める事も出来ないのは、彼等が、世間の気風に酔って自ら知らないからであるが、この「無形無体の気風」に大事があると福沢は言う。「遽《にわか》に一個の人に就き、一場の事を見て、名状す可きものに非ざる」「所謂スピッリット」なるものを看取する事が、文明の論を成す大切な前提である、そういう考えは、早くも「学問のすゝめ」のうちに現れているのである。ところで、洋学を学びながら、この「スピッリット」に制せられ、今の洋学者流はどういう事になっているか。「恰も一身両頭あるが如く、私に在つては智なり、官に在つては愚なり、これを散ずれば明なり、これを集めれば暗なり、政府は衆智の集る所にして、一愚人の事を行ふものと云ふ可し、豈怪まざるを得んや」。そういう事になっている。
この「恰も一身両頭あるが如」き空想的な人間達には、「恰も一身にして二生を経るが如」き実情に置かれているという自覚がない。従って、「其形影の互に反射するを見」るという事がない。彼等の人格は分裂しているのだ。そういう福沢の考えを見ていると、思想上の転向問題というものが、極めて本質的に考えられている事がよくわかる。イデオロギイの衣替えでは、人間は転向出来ない。分裂するだけだ。而も転向者等はこれに気附かない。最近の転向問題にも、同じ図が繰返された事を思うがよい。
福沢は、当時の洋学者流が、「畢竟漢学者流の悪習を免かれざるものにて、恰も漢を体にして洋を衣にするが如し」と評した。悪習とは、勿論、漢学という官許の商売によって身に附いた習癖を言うのであって、日新の学に対し、古学を否定する論は、彼には見られない。のみならず、「物理原則の部分を除くときは、取る可きもの甚だ少からず」という古学の、彼の語法を借りれば「精神の密」について彼の鋭敏は、決して鈍磨する事がなかった。
既に言ったように、福沢は明治の過渡期に処する困難を、又とない「好期」、西洋人にはわからぬ「実験の一事」と見た。一方、そういう努力を払わないから、学者達は日新の学を学ぶと称して、実は所謂「スピッリット」という時代風潮に、知らず識らずのうちに、屈しているのを見た。注意すべきは、彼の言う「実験の一事」には、洋学の実験的方法の意味はなく、むしろ「学者は学者で私に事を行ふ」意味に重点がある事だ。学者に「独立の丹心」があれば、新知識を得るのと自己を新たにするのとは同じ事である筈だ。
漢書生と洋学者とは、我等の両身であり、両身相較する自己を実験台としなければ学問論も文明論も書く事は出来ぬ。彼は、「西洋文明の為に東道の主人と為り」「洋学の実利益を明にせんことを謀り、あらん限りの方便を運《めぐ》らす其中にも、凡そ人に語るに、物理の原則を以てして自ら悟らしむるより有力なるはなし」と考えていたが、「学問のすゝめ」は科学方法論ではないし、「文明論之概略」は、新文明説入門でもない。福沢諭吉という人間が賭けられた啓蒙書なのである。過渡期とは言葉ではない。保守家と洋癖家との議論の紛糾ではない。自らが、めいめいの工夫によって処すべき困難な実相である。処すべき実相を答案の用意ある問題にすり代えてはならぬ。過渡期は外に在る論議の対象ではない。「一身にして二生を経る」君自身の内的な経験そのものである。これが福沢の説いた「私立」の本義であり、彼の啓蒙が目指したものだ。これは難しい事であった。今日ではもう易しい事になったと誰に言えよう。過渡期でない歴史はない。
尾崎行雄が、初めて新聞記者になって、福沢のところに挨拶に行った時、君は誰を目当てに書く積りかと聞かれた。勿論、天下の識者の為に説こうと思っていると答えると、福沢は、鼻をほじりながら、自分はいつも猿に読んでもらう積りで書いている、と言ったので、尾崎は憤慨したという話がある。彼は大衆の機嫌などを取るような人ではなかったが、また侮蔑したり、皮肉を言ったりする女々しい人でもなかったであろう。恐らく彼の胸底には、啓蒙の困難についての、人に言い難い苦しさが、畳み込まれていただろう。そう想えば面白い話である。
彼は「痩我慢の説」を書いて、これを十年も隠していた。「丁丑《ていちゆう》公論」は二十年も隠した。彼が、「痩我慢の説」の発表を、人に乞われるままに承知した時、世人は、この進歩派の頭目の口から、封建道徳の熱烈な讃美を聞き驚いた。驚いて、彼と反目していた保守家達は、「福沢全集は焚く可きも、この一文は不朽なり」とした。彼に同調していた人々も驚いたが、まさか焚く可しとは言えなかったから、福沢の普段の聡明な言説には全く似合わぬものながら、彼の人情気骨が、機会に触れて、自ら発した「文学上の制作」「大文章と称す可し」とした。つづいて、「丁丑公論」の発表も、人に許したが、彼は発表の完了を待たずに死んだ。二件は今日を考える人々にも、生き生きとした問題を提供している。福沢の大才を以てしても、歴史の制約は免れず、幕臣の旧道徳の残滓《ざんし》は、拭おうとしても拭えなかった、そういう考え方の定式を適用してみたところで、何が面白いだろう。そんなやり方は、考えるという事とは別段関係あるまい。福沢なら、俄に咎める事は出来ないが、「スピッリット」に制約された猿の流儀と言うであろうか。
福沢は「俗文主義の志」という事を言う。「何処までも世俗平易の文章法を押通し、世俗と共に文明の佳境に達せんとするのを本願にして、初一念を変じたる」事はないと言っている。既記の如く、「洋学の実利益を明にせんことを謀り、あらん限りの方便を運《めぐ》らす」のが、彼の文章法であった。しかし、「文は人なり」で、文章の方便化などが容易に行えるものではない。個性の強い人ほど、これは難事である。福沢は、世俗啓発の目的の為に、世俗の文を作らんとして、独特の名文を書いて了った。「学問のすゝめ」や「文明論之概略」が、あれほど読まれたのは、ただ、世人の為に運らされた平易な解説だったが為とは考えられまい。やはり、世人は福沢という独特な人間を、そこに嗅いだのである。
福沢全集の緒言に、彼の自作の率直な解説を読む者は、西洋文物の一般的解説が、いかに個人的な実際経験に触発されて書かれたかを見て驚くであろう。彼の文は、到るところで、現わすまいとした自己を現わしている。「福翁自伝」が、日本人が書いた自伝中の傑作であるのは、強い己れを持ちながら、己れを現わさんとする虚栄が、まるでないところから来ていると思う。世人は、福沢の俗文に、福沢の魅力ある己れを嗅いでいた。嗅ぐという経験は確実だったが、嗅ぐという言葉は曖昧だった。それは今日とても変りはあるまい。だが、曖昧な言葉しかなければ、その経験自体まで曖昧なものと見なしたがる、そういう病気は、今日の知識人の方が重くなったであろう。
福沢全集の緒言に言及した序でに、其処に語られている一插話を挙げて置く。慶喜が東帰し、東征が定まり、官軍が富士川、箱根を越えんとし、江戸市中には、デマが乱れ飛び、人情|恟々《きようきよう》の有様であった。官軍乱暴の災を免れんとするものは、外国大使館領事館に縁ある者を頼って、争って身分証明を得ようとした。
福沢としては、慶応義塾の学生等の為に、証明券を入手するのは易々たる事であったが、友人の言を聞き、吾が意を得たりとしてこれを拒絶した。友人の言に曰く、「米大使の深切は実に感謝に堪へずと雖も、抑も今回の戦乱は我日本国の内事にして外人の知る所に非ず。吾々は紛れもなき日本国民にして禍福共に国の時運に一任するこそ本意なれ、東下の官軍或は乱暴ならんなれども、唯是れ日本国人の乱暴のみ。吾々は仮令ひ誤て白刃の下に斃るることあるも、苟も外国人の庇護を被りて内乱の災を免れんとする者に非ず、西洋文明の輸入は吾々の本願にして、彼を学び彼を慕ひ畢生他事なしと雖も、学問は学問なり、立国は立国なり、決して之を混淆す可らず」。
誰も知るように、「痩我慢の説」は、勝安芳と榎本武揚とを論じたものだ。ともに幕臣の身でありながら、官軍と妥協し或は敵に降参した腰抜けであった。勝の智謀は、多くの人々の難を救ったし、榎本は勇略の限りを尽したであろうが、主家の廃滅を他所に、新政府の朝にあって、富貴に安んじているのは、三河武士の伝統的精神を害するものだという。
なるほど、この反動的意見は、福沢の平素の進歩的意見に衝突するように見える。そう見られるのが必定であるから、彼は隠した。「痩我慢の説」は、無論、自纂の全集には取り上げられていないが、先きに挙げた、その緒言中の一插話は、「痩我慢の説」に他ならない。言葉が加減されただけである。隠そうと隠すまいと、福沢は、同じ己れしか現わしはしない。
福沢自身には、何の興味もなかった事だが、優れた思想家とその思想との間には、芸術家とその作品との間にあるような関係がある。この緊密な類縁関係について、明瞭な言葉を誰も持ち合せてはいないだけである。福沢という人間が直覚され、これが賭けられた彼の思想が直覚されれば、思想解釈上の矛盾に出会う事もあるまい。矛盾は、却って、安易な分析の結果現れるのである。
福沢は、読者の為に、言葉を加減したが、思想を加減しはしなかった。緒言の插話に現れた考え方を、そのまま押進めて考える労を読者が取ったなら、「痩我慢の説」に、つまり、利口に立廻るより、痩我慢をした方がよろしいという考えに達した筈である。福沢は、「俗文主義」を志したが、俗思想で足れりとした人ではない。一般に誤解されているようだが、彼の文中には、「最大多数の最大幸福」という有名な標語の強調は見られるが、功利主義的な考え方で何処まで行けるかが見えぬほど、彼は頭の悪い人ではなかった。彼の行文は平易であるが、よく読めば、彼の思想は平易ではない。
「痩我慢の説」で、彼は言葉を加減しなかった、というのは対象が考え尽されているという意味であって、これは感情に走った文学制作ではない。激語も奇語もありはしない。「士道」とか「三河武士の精神」とかいう言葉に躓く者は、著者がこれらの言葉を使役して、何を考えているかを見ない者であろう。封建道徳という道徳の或る形が讃美されているわけではないし、論じられてもいない。注意して読めば、読者は、福沢が面接した道徳問題の本質的な困難に、連れて行かれる筈なのだ。彼が本当に言いたかった事は、私には明らかに思われる。道徳は言葉にはない、人心の機微のうちにあるという事が、彼は言いたいのである。
勝も榎本も、この問題を尖鋭な形で発言するに恰好な素材だったに過ぎない。勝も榎本も成功者であるが、成功の衣ほど、自他の眼から、人心の機微を隠すものはない。彼等には、誰の眼にも明らかなような即ち直ちに言葉になるような不徳はない。あれば成功者になれはしない。だが、不徳がない事は、道徳的な事ではないし、況や、成功の故に、今も人々が云々する華々しい彼等の智謀忠勇に道徳はないのだ。
福沢が、読者に注目せよと言うのは、「勝氏が和議を主張して幕府を解きたるは誠に手際よき智謀の功名なれども、之を解きて主家の廃滅したる其廃滅の因縁が、偶ま以て一旧臣の為めに富貴を得せしむるの方便と為りたる姿」である。この姿をいかに感ずるか、その勝自身の心底である。榎本は、咸臨丸で戦歿した脱走士の為に建てられた碑に「食人之食者死人之事」と大書したが、彼も往年の自分の部下等の惨状を知っていた筈である。「夜雨秋寒うして眠|就《な》らず残燈明滅独り思ふ時には、或は死霊生霊無数の暗鬼を出現して眼中に分明なることもある可し」。
これを美文と間違えるのは愚かであろう。彼は、先入主なく、平静に、道徳というものを考え詰め、人の心底にある一片の誠心に行着いたまでだ。これは、普段隠れてはいるが、独り思う時には、眼中に分明たるべし、と考えたのである。
「丁丑公論」も亦福沢の肺腑より出た名文だが、ここでは、「士道」は、はっきり「道徳品行」と使われ、失敗者西郷が論じられる。道徳が言葉に移され、その是非が言われる時には、議論紛糾し、意見もいろいろに対立するが、人物のうちに発動する時は、人々に黙々たる共感と反感とを促す。その限り紛乱はない。「大義名分は公なり表向なり、廉恥節義は私に在り一身に在り」。一身の品行は破廉恥の甚しい者でも、能く名分を全うする者もあり、名分を破って始めて品行を全うする者もある。
従って、福沢は「大義名分は道徳品行と互に縁なきものと云ふ可きのみ」とはっきり考える。歴史的実社会に於ける両者の混淆、一致不一致と、両者の原理的区別とは、自ら別事である。西郷を、その自発的な「抵抗の精神」に思を致さず、賊とする者は、「恰も官許を得て人を讒謗する者の如し」「西郷は、立国の大本たる道徳品行の賊」ではない。福沢は、推論の当然の帰結として言う、「西郷は天下の人物なり。日本狭しと雖も、国法厳なりと雖も、豈一人を容るるに余地なからんや。日本は一日の日本にあらず、国法は万代の国法に非ず」。では、変らないものは、一身の道徳品行の側にあるか。それなら、何故福沢は、道徳品行学者とならなかったか。この思想家の最も興味ある点は、其処にあるように思われる。
「痩我慢の説」は、「立国は私なり、公に非ざるなり」という文句から始まっている。物事を考え詰めて行けば、福沢に言わせれば、「哲学流」に考えれば、一地方、一国のうちで身を立てるのが私情から発する如く、世界各国の立国も、各国民の私情に出ている事は自明な筈である。これは「自然の公道」ではなく、人生開闢以来の実状である。
この物事の実を先ず確めて置かないから、忠君愛国などという美名に、惑わされるのである。高が国民の私情に過ぎぬものを、国民最上の美徳と称するのは不思議である。世人は、物を考え詰めるのを嫌がるから、「哲学の私情は立国の公道」であるというこの不思議な実社会の実状が見えない。
こういう風に言うと、福沢は、現代の空疎な相対主義の風潮の先駆者のように見えるが、彼は、この不思議から「痩我慢」の道徳を導いたのである。どういう風に導いたか。
私達は、一面では、高が私情に過ぎないが、一面では立国の公道であるような厄介な或るものを抱いて生きて行かねばならない。惟うに、この人間として避けられぬ困難に対し、福沢は、「文明論之概略」を書く時に出会った困難、即ち「一身にして二生を経るが如」き困難に対するのと同じ態度を取った。進んでこれを容認する事によって、これを思想の推進力と変ずるという、この現実に即した思想家の手腕は、彼の思想の動きを一貫する電流の如きものである。晩年の「福翁百話」にもこんな文句が記されている。「浮世を棄つるは即ち浮世を活溌に渡るの根本なりと知る可し」。
「哲学の私情は立国の公道」という明察を保持していなければ、公道は公認の美徳と化して人々を酔わせるか或は習慣的義務と化して人々を引廻すのである。これは事の成行きであり勢いであって、これに抵抗しないところに、人間の独立、私立があるわけがない。
「痩我慢の説」は、「学問のすゝめ」の直後に書かれたものであり、両作に共通した発想がないわけがないのであって、これが、「学問のすゝめ」の平易な文章の壁を破って、ともすれば外に出ようとしている。
精神の自立をすすめようとする福沢の目には、「古の政府は民の力を挫き、今の政府は其心を奪ふ。古の政府は民の外を犯し、今の政府は其内を制す」という有様が見えていた。「学問のすゝめ」は「必ず我輩の任ずる所にして、先づ我より事の端を開く」事であり、「政府の能くする所に非ず、又今の洋学者流も依頼するに足らず」と考えていた。これは「痩我慢の説」と成らざるを得ないものである。「痩我慢」という言葉は俗語だが、福沢の、この言葉の使い方は「哲学流」なのである。というのは、福沢の考えによれば、例えば、「士道」という高級な言葉は、人々に有難がられて、直ぐ俗化するが、「痩我慢」と言って置けば、これ以上俗化する心配は要らない、という意味だ。
「私立」は「痩我慢」である。痩我慢は、実際には、いろいろな程度で、いろいろな内容で現れるだろうが、「哲学流」に考えれば、結局、我慢自体に価値を求めんとする心の動きになる事は間違いあるまい。痩我慢は私情に発するであろうが、我慢である限り、単なる私情ではあるまい。私情の意味とか位置とかに関する自覚であろう。従って、私情と公道との緊張関係の自覚であろう。福沢は其処に「私立」を見たのである。
「学問のすゝめ」の中に、「怨望の人間に害あるを論ず」という一章があるが、福沢の鋭い分析的な観察力がよく現れている。人間品性の不徳を語る言葉の種類は、実に沢山あるが、その内容をなす人心の動きに着目すれば、その強弱、方向に由って、間髪を容れず、徳を語る言葉に転ずる。例えば、「驕傲」は「勇敢」に、「粗野」は「率直」に、「固陋」は「実着」に、「浮薄」は「穎敏《えいびん》」に、という具合に切りがない。ところが、絶対的に不徳を現わして、徳には転じないものが一つある。それが「怨望」という言葉である。
「欺詐」とか「虚言」とか言われるものも、ずい分根本的な不徳を現わしているように思われているが、よく考えてみると、欺詐も虚言も怨望から生ずる結果であって、怨望の原因となるほど根柢的なものではない。実に「怨望は衆悪の母」であり、その「働の素質に於て全く不徳の一方に偏し、場所にも方向にも拘はらずして不善の不善なる者」と福沢は主張する。何故か。彼は、一言で片附ける。「たゞ窮の一事」にある、と。窮と言っても、困窮の窮ではない。己れに備わる「人類自然の働を窮せしむる」に在る。「怨望」は、自ら顧み、自ら進んで取るという事がない。自発性をまるで失って生きて行く人間の働きは、「働の陰なるもの」であって、そういう人間の心事は、内には私語となって現れ、外には徒党となって現れる他に現れようがない。怨望家の不平は、満足される機がない。自発性を失った心の空洞を満すものは不平しかないし、不平を満足させるには自発性が要るからだ。
そこで、彼は、他人を、自分の不平状態にまで引下げて、彼我の平均を得ようと希うだけである。「富貴は怨の府に非ず、貧賤は不平の源に非」ず。これほど、不平家にとって、難解な言葉はない。不平は、彼の生存の条件である。不平家とは、自分自身と折合いの決して附かぬ人間を言う。この怨望という、最も平易な、それ故に最も一般的な不徳の上に、福沢の「私立」の困難は考えられていた。もし、そうでなかったら、彼は、「私立」を説いて、「独立の丹心」とか「私立の本心」とかいう言葉が使いたくなった筈もなかった。「士道」が「民主主義」に変っても、困難には変りはない。「士道」は「私立」の外を犯したが、「民主主義」は、「私立」の内を腐らせる。福沢は、この事に気附いていた日本最初の思想家である。
[#地付き](文藝春秋 昭和三十七年六月)
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四  季
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人  形
或る時、大阪行の急行の食堂車で、遅い晩飯を食べていた。四人掛けのテーブルに、私は一人で坐っていたが、やがて、前の空席に、六十恰好の、上品な老人夫婦が腰をおろした。
細君の方は、小脇に何かを抱えてはいって来て私の向いの席に着いたのだが、袖の蔭から現れたのは、横抱きにされた、おやと思う程大きな人形であった。人形は、背広を着、ネクタイをしめ、外套を羽織って、外套と同じ縞柄の鳥打帽子を被っていた。着附の方は未だ新しかったが、顔の方は、もうすっかり垢染みてテラテラしていた。眼元もどんよりと濁り、唇の色も褪せていた。何かの拍子に、人形は帽子を落し、これも薄汚くなった丸坊主を出した。
細君が目くばせすると、夫は、床から帽子を拾い上げ、私の目が会うと、ちょっと会釈して、車窓の釘に掛けたが、それは、子供連れで失礼とでも言いたげなこなしであった。
もはや、明らかな事である。人形は息子に違いない。それも、人形の顔から判断すれば、よほど以前の事である。一人息子は戦争で死んだのであろうか。夫は妻の乱心を鎮めるために、彼女に人形を当てがったが、以来、二度と正気には還らぬのを、こうして連れて歩いている。多分そんな事か、と私は想った。
夫は旅なれた様子で、ボーイに何かと註文していたが、今は、おだやかな顔でビールを飲んでいる。妻は、はこばれたスープを一匙すくっては、まず人形の口元に持って行き、自分の口に入れる。それを繰返している。私は、手元に引寄せていたバタ皿から、バタを取って、彼女のパン皿の上に載せた。彼女は息子にかまけていて、気が附かない。「これは恐縮」と夫が代りに礼を言った。
そこへ、大学生かと思われる娘さんが、私の隣に来て坐った。表情や挙動から、若い女性の持つ鋭敏を、私は直ぐ感じたように思った。彼女は、一と目で事を悟り、この不思議な会食に、素直に順応したようであった。私は、彼女が、私の心持まで見てしまったとさえ思った。これは、私には、彼女と同じ年頃の一人娘があるためであろうか。
細君の食事は、二人分であるから、遅々として進まない。やっとスープが終ったところである。もしかしたら、彼女は、全く正気なのかも知れない。身についてしまった習慣的行為かも知れない。とすれば、これまでになるのには、周囲の浅はかな好奇心とずい分戦わねばならなかったろう。それほど彼女の悲しみは深いのか。
異様な会食は、極く当り前に、静かに、敢て言えば、和やかに終ったのだが、もし、誰かが、人形について余計な発言でもしたら、どうなったであろうか。私はそんな事を思った。
[#地付き](朝日新聞 昭和三十七年十月六日)
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樅 の 木
私が今住んでいる家は、鎌倉八幡宮の裏山の上にあって、こんもりと繁った山々に取巻かれ、山の切れ目に、海に浮んだ大島が見えるという大変見晴しのよいところにある。終戦直後、知人からこの家を譲り受けた時、私は、家などろくに見もしなかった。山の上に住む不便も、住んでみてから、いろいろ解って来た事で、その時は考えてもみなかった。それほど見晴しが気に入って、直ぐ決めてしまったのである。
狭い庭は、芝を植えたという他に、何の風情もないのだが、樅の木が一本あって、もし周囲の森と海も庭つづきに見立てれば、造園上、庭樹は、ここにこれ一本と決る、そういう姿で育っていた。樹齢何百年という大木である。無論、八幡宮の有名な銀杏のような名木ではないが、当時、ふと、参謀本部の地図で調べたら、独立樹として出ているのが解った。
目の前にあるのだから、毎日いやでもその姿を眺めるのだが、大木というものは、手入れもした事がないのだろうが、どうしてこうも姿のいいものかと思う。老醜という言葉がある。人間のみならず、私の家の犬も、老醜を現わすに至っているが、大木には、これが全く当てはまらず、老いていよいよ美しいとはどうしたわけか。いろんな鳥がやって来るが、夏の夜、梟が来て鳴くのが一番楽しみであった。
ところが、ある時、今年は何となく元気のない様子だ、と気附いた。その頃、毛虫で鎌倉中の松がひどくやられたので、虫であろうと思い、植木屋に相談したら、これは虫ではない、やはり、木の弱りだと言う。弱りと言っても、自分の意見では、原因は病気ではない、風だと思う、仲間と一緒で生えていればいいが、一木立ちでいては、辛い事だと言う。
樅の木のてっぺんは、古く雷にでもやられたらしく枯れていたが、植木屋は、それを見上げて、あの頭を切ってやれば、木も大分楽になるだろうと言うので、上を三間ほど切って、ブリキの蓋をして貰った。寸がつまっても、それなりに、やっぱり立派な姿に見えた。だが、やはり助からず、二年後に枯死した。
私は切り倒す気にはならなかった。そのままにして置いて見ていた。枯木は枯木で、また、なかなか美しかったのであるが、そのうちに、強い風だと枝が折れて飛ぶようになったので、仕方なく切る事にした。植木屋を呼んで、仕様がない、もう切る、と言うと、彼は、仕様がない、切るには切るが、ついては何とかいうお宮さんに行って、お伺いを立てて、水を貰って来ると言う。そんな習慣があるならあるでもっともな事と思えたから、彼にまかすと、二三日して一升瓶に水を持って来て、米と塩と一緒に供えて欲しいと言うので承知した。一昨年の事である。
恰好が附かないので、樅の木の後に、裏にあった、かなり大きなモチの木を、大騒ぎをして移した。まだ丸太が取れないが、根附いてくれた様子である。モチの木も好きな木で、眺めていると随分いいが、未だ樅の木を忘れ兼ねている。
[#地付き](朝日新聞 昭和三十七年十月十三日)
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天 の 橋 立
もう大分以前の事だ。丹後の宮津の宿で、朝食の折、習慣で、トーストと油漬のサーディンを所望したところ、出してくれたサーディンが非常においしかった。ひょっとすると、これは世界一のサーディンではあるまいか、どうもただの鰯ではないと思えたので、宿の人に聞くと、天の橋立に抱かれた入江に居るキンタル鰯という鰯だと言われ、送ってもらった事がある。先日、宮津に旅行して、それを思い出した。この辺の海に、キンタル鰯というのが居るだろうと言うと、どういうわけか、近頃は取れなくなったので養殖をしていると言われた。
私は、前に来た時と同じように、舟に乗り、橋立に沿うて、阿蘇の海を一の宮に向った。振り返ると、街には大規模なヘルス・センターが出来かかっているのが見える。やがて、対岸までケーブルが吊られ、「股のぞき」に舟で行く労も要らなくなると言う。そんな説明を聞くともなく聞きながら、打続く橋立の松を、ぼんやり眺めていた。それは、絶間なく往来するオートバイの爆音で慄えているように見えた。
わが国の、昔から名勝と言われているものは、どれを見ても、まことに細《こまや》かな出来である。特に、天の橋立は、三景のうちでも、一番繊細な造化のようである。なるほど、これは、キンタル鰯を抱き育てて来た母親の腕のようなものだ、と思った。とても大袈裟な観光施設などに堪えられる身体ではない。気のせいか、橋立は何となく元気のない様子に見えた。
キンタル鰯の自然の発生や発育を拒むに到った条件が、どのようなものか、私は知らないが、子供の生存を脅した条件が、母親に無関係な筈はあるまい。僅かばかりの砂地の上に幾千本という老松を乗せて、これを育てて来たについては、どれほど複雑な、微妙に均衡した幸運な条件を必要として来たか。瑣細な事から、何時、がたがたッと来るか知れたものではない。例えば、鰯を発育させない同じ条件が、この辺りの鳥の発育を拒んでいるかも知れない。或る日、一匹の毛虫が松の枝に附いた時、もはやこれを発見する鳥は一羽もいないかも知れない。いったん始まった自然の条件の激変は、昼も夜も、休まず、人目をかすめて作用しつづけているであろう。ケーブルが完成した時、橋立は真っ赤になっているかも知れない。観光事業家は、感傷家の寝言と言うであろうか。
大江山の、なだらかな曲線が見えて来る。「大江山生野の道の遠ければ、まだ文も見ず天の橋立」は、百人一首で誰も知っている。この歌は、金葉集の詞書で有名になった。作者小式部内侍は、幼時から歌に巧みであったが、時人は、これを怪しんで、母親和泉式部の潤色によるものと言っていた。或る歌合せで、丹後に住む母親からの使は未だか、とからかわれ、即座に、この歌を詠み、人を驚かせたと詞書は言う。よく知られた話だが、拵《こしら》え話に過ぎまい。この歌は、読人しらずでも一向差支えのない名歌であって、余計な伝説など少しも必要としていないように思われる。
大江山と言われれば、山はいかにも大江山のような姿をしているし、生野の道とは何処にあるか知らないが、京から丹波路を行く旅人は、行けども行けども大江山が追いかけて来るような道を歩いた事であろう。阿蘇の海に辿りつくと、一の宮から、白砂青松の不思議な参道が、海を延びて来ているのを見て、驚きもし安堵もしただろう。天の橋立という名は、いかにも自然に、誰かの心に浮んだのであろう。歌を思い出すだけで、もはや現代の私の心を去ったと思われる旅情が蘇る。名歌は橋立より長生きするだろう。
[#地付き](朝日新聞 昭和三十七年十月二十日)
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お 月 見
知人からこんな話を聞いた。ある人が、京都の嵯峨で月見の宴をした。もっとも月見の宴というような大袈裟なものではなく、集って一杯やったのが、たまたま十五夜の夕であったといったような事だったらしい。平素、月見などには全く無関心な若い会社員たちが多く、そういう若い人らしく賑やかに酒盛りが始まったが、話の合い間に、誰かが山の方に目を向けると、これに釣られて誰かの目も山の方に向く。月を待つ想いの誰の心にもあるのが、いわず語らずのうちに通じ合っている。やがて、山の端に月が上ると、一座は、期せずしてお月見の気分に支配された。暫くの間、誰の目も月に吸寄せられ、誰も月の事しかいわない。
ここまでは、当り前な話である。ところが、この席に、たまたまスイスから来た客人が幾人かいた。彼等は驚いたのである。彼等には、一変したと見える一座の雰囲気が、どうしても理解出来なかった。そのうちの一人が、今夜の月には何か異変があるのか、と、茫然と月を眺めている隣りの日本人に怪訝《けげん》な顔附で質問したというのだが、その顔附が、いかにも面白かった、と知人は話した。
スイスの人だって、無論、自然の美しさを知らぬわけはなかったろうし、日本にはお月見の習慣があると説明すれば、理解しない事もあるまい。しかし、そんな事は、みな大雑把な話であり、心の深みにはいって行くと、自然についての感じ方の、私たちとはどうしても違う質がある。これは口ではいえないものだし、またそれ故に、私たちは、いかにも日本人らしく自然を感じているについて平素は意識もしない。たまたまスイス人といっしょに月見をして、なるほどと自覚するが、この自覚もまた、一種の感じであって、はっきりした言葉にはならない。スイス人の怪訝な顔附が面白かったで済ますよりほかはない。
この日本人同士でなければ、容易に通じ難い、自然の感じ方のニュアンスは、在来の日本の文化の姿に、注意すればどこにでも感じられる。特に、文学なり美術なりは、この細かな感じ方が基礎となって育って来た、といえば、これはまず大概の人々が納得している事だろう。ところが、近代化し合理化した、現代の文化をいう場合、そんな話を持出すと、ひどく馬鹿げた恰好になる。何か全く見当が外れた風になるのはどうしたわけか。細かな感受性の質などには現代文化は本当に何の関係もないものになってしまったのか。それとも、そんな風な文化論ばかりが流行し、文化に関心を持つと称する人々が、そんな文化論ばかりを追っているという事なのか。
意識的なものの考え方が変っても、意識出来ぬものの感じ方は容易には変らない。いってしまえば簡単な事のようだが、年齢を重ねてみて、私には、やっとその事が合点出来たように思う。新しい考え方を学べば、古い考え方は侮蔑出来る、古い感じ方を侮蔑すれば、新しい感じ方が得られる、それは無理な事だ、感傷的な考えだ、とやっとはっきり合点出来た。何の事はない、私たちに、自分たちの感受性の質を変える自由のないのは、皮膚の色を変える自由がないのとよく似たところがあると合点するのに、随分手間がかかった事になる。妙な事だ。
お月見の晩に、伝統的な月の感じ方が、何処からともなく、ひょいと顔を出す。取るに足らぬ事ではない、私たちが確実に身体でつかんでいる文化とはそういうものだ。古いものから脱却する事はむずかしいなどと口走ってみたところで何がいえた事にもならない。文化という生き物が、生き育って行く深い理由のうちには、計画的な飛躍や変異には、決して堪えられない何かが在るに違いない。私は、自然とそんな事を考え込むようになった。年齢のせいに違いないが、年をとっても青年らしいとは、私には意味を成さぬ事とも思われる。
[#地付き](朝日新聞 昭和三十七年十月二十七日)
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私は、文筆で生計を立て始めてから、顧みると、もう三十五年ほどになる。たしかに文筆業者には違いないが、さて何を専門にやって来たかと考えると、どうもうまく答えられない。普通、私は、文芸評論家と言われているが、文芸評論家とはっきり自覚した事は、いっぺんもないし、文芸評論から遠ざかってからも既に久しい。音楽の事ばかり考えていた時期もあったし、ただ絵画についてばかり書いていた時期もあった。一定の対象も決めず、一定の方法もなく、ただ好んで物を考えて来た、そんな気質の男が、たまたま約束の少い、自由な散文という表現形式を選んだ、というより他はないようである。
そういう次第であるから、私は文学者と呼ばれていても、自分の書いて来たものの文学的価値というようなものについて、確信を抱いた事はない。今もそうである。私が自分の裡に育てて来たものは、考えるという事は実に切りのないものだ、という一種の得心めいたものだけである。もう暫くの間は、何や彼と考え続ける事が出来るだろう。そんな事を思っているだけだ。
瞑想という言葉があるが、もう古びてしまって、殆ど誰も使わないようになった。言うまでもなく瞑とは目を閉じる事で、今日のように事実と行動とが、ひどく尊重されるようになれば、目をつぶって、考え込むというような事は、軽視されるのみならず、間違った事と考えられるのが当然であろう。しかし、考え詰めるという必要が無くなったわけではあるまいし、考え詰めれば、考えは必然的に瞑想と呼んでいい形を取らざるを得ない傾向がある事にも変りはあるまい。事実や行動にかまけていては、独創も発見もないであろう。そういう不思議な人間的条件は変更を許さぬもののように思われる。
現代思想を宰領しているものが、科学的思想である事は誰も承知しているが、困った事には、現代の科学自体は、私達一般人には、手がつけられぬほど複雑に専門化している。従って、科学的思想というものの実相を痛切に経験しているのは極く限られた人々だけであり、私達は、ただ科学的思想の尊重という漠然たる通念のうちに、ぼんやり坐っているようなものである。科学的思想のモデルになるものは、勿論、数学であろう。これとても同じ事だ。それは考え方の抽象性、論理性、厳密性の理想型に違いないという通念を持っているに止まる。
私は、数学にはまるで不案内であるが、岡潔氏が、現代日本で世界第一流の数学者であるくらいな事は、人から聞いて承知している。その岡氏の「春宵十話」という文章を、この春、ある新聞で読み、大変面白かった。面白かったと言うより、文学者の名文とはまた違った一種の感銘を受け、こういうものは、書物になる期もなかろうかと思い、切抜きを保存している。この文には「数学を学ぶ喜びを食べて生きている」人の境地が語られているのだが、ひと口で言うなら、それは、やはり瞑想という古風な言葉で言うのが一番適切な境地のように私には思われた。
数学に関する私達の通念にとっては意外な事だが、数というものを考え抜いたこの思想家の言うところを信ずるなら、「職業にたとえれば、数学に最も近いのは、百姓」なのである。「種子をまいて育てるのが仕事で、その独創性は、ないものから、あるものを作ることにある。数学者は、種子を選べば、あとは大きくなるのを見ているだけのことで、大きくなる力はむしろ種子の方にある」と言う。これに比べると理論物理学者は、指物師のようなもので、そのオリジナリティーは加工にある。それは、近年急速に進歩して、わずか三十年足らずのうちに原爆を完成し、広島に落した。「こんな手荒な仕事は、指物師だから出来たことで、とても百姓には出来ない」と言う。
私は、氏の言うところを、はっきり理解したとは言わないが、これは、数式ではなく文章なのである。極めて専門的な数学的表現の生れる境地を語るのに、岡氏が何等専門的な工夫を必要としていない限り、私には、その境地の性質が直覚出来る。数という種子をまき、目を閉じて考える純粋な自足した喜びを感ずる事が出来る。数学の極意は、計量計算の抽象的世界にはないらしい。岡氏の文章は、瞑想する一人の人間へ、私を直っすぐに連れて行く。そういう人間の喜びを想っていると、ひたすら事実と行動との尊重から平和を案じ出そうとする現代の焦躁は、何か全く見当が外れているようにも思われて来る。
数学の世界で、大戦前からそうであったが、戦後著しくなったのは、仕事がいよいよ抽象化される傾向だそうである。「風景で言えば、冬の野の感じで、カラッとしており、雪も降り、風も吹く。こういうところもいいが、人の住めるところではない」と岡氏は言う。「そこで私は一つ季節を廻してやろうと思って、早春の花園のような感じのものを二、三続けて書こうと思立った。その一つとしてフランス留学時代の発見の一つを思い出し、もう一度とりあげてみたが、あのころわからなかったことが、よくわかるようになり、結果は格段に違うようだ。これが境地が開けるということだろうと思う。だから欧米の数学者は年をとるといい研究が出来ないというけれども、私はもともと情操型の人間だから、老年になればかえっていいものが書けそうに思える。欧米にも境地が深まっていく型の学者がいるが、それをはっきりとは自覚していないようだ」。
大分以前の事だが、ある時、田舎にいて、極めて抽象的な問題を考えていた事があった。晩春であった。夜、あれこれと考えて眠られぬままに、川瀬の音を聞いていると、川岸に並んだ葉桜の姿が心に浮んで来た。その時、私たち日本人が歌集を編み始めて以来、「季」というものを編み込まずにはいられなかった、その「季」というものが、やはり、私の抽象的な考えの世界にも、川瀬の音とともにしのび込んで来る、そういう考えが突然浮び、ひどく心が騒ぎ、その事を書いた事がある。私の思索など言うに足らぬものだが、岡氏の文を読んでいて、ふと、それが思出され、私の心は動いたのである。
[#地付き](朝日新聞 昭和三十七年十一月三日)
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踊  り
志賀直哉氏に、「馬と木賊《とくさ》」という小品がある。
赤城の山で、放牧されている一匹の母馬が、首を高く上げ、しきりに嘶《いなな》いて、はぐれた仔馬を呼んでいる。山の中腹にいて、これに気附いた仔馬が、夢中になって駈け下りて来る。再会した親子の馬は、暫くの間、ゴム鞠を弾ますように、一つところで跳躍していたが、急にそれを止めると、何事もなかったように、首を垂れ、草を食い始めた。「一方ならぬ喜び方をしたあと、急に常の様に還へる、この鮮かな変り方は人間の場合では却々かうは行くまいと思つた」と作者は言う。
それから七年経って、作者は、厩橋の能舞台で、梅若六郎の「木賊刈」を見ていて、不意に、この馬の事を思い出す。人さらいに連れて行かれた子供に、思いがけなく再会した老人が、――「よくよく見ればさすがげに」「親なりけり」「子なりけるぞや」、――で、「足を揃へ、すつくと立ち、黙つて両手をひろげ、袖と共に鳥の羽搏きのやうに、幾度となく、それを上下さしてゐたが、止めると、足早に子に近づき、倚添つて、右手を挙げ、自分の顔と子の頭とを袖で被ふやうにして凝然《じつ》とする」。
老人のこの不思議な表現は、見ていて自然に涙を催すものであり、それは「馬の親子が出会つた喜びに暫く跳んでゐたのによく似てゐた」と作者は言う。
この簡潔に、立派に書かれた作品から、私が、ここに右のような妙な引用をするのは、先月、沖縄に旅した折、或る夜、那覇のホテルのベッドの上で、突然、これが心に浮び、いろいろと考えたからだ。その日、私は、沖縄の踊りを見せてもらって、感動していたのである。その前日、沖縄南部の戦跡を案内されて、気が滅入っていた。幾つもある供養塔の前で、頭を下げたが、私の心は頑《かたくな》に沈黙していた。こんな猫の額のような所に追詰められた十五万の人間が、空から降る一坪平均六|噸《トン》の鉄の下で、身動きも出来ずに死んだ。このつい先だって起った事は、理解しようにも、あんまり化物じみている。化物は、人間の供養さえ拒絶している。この重い、無言の想念が、私を疲らせた。野山は、春の緑だが、焦土を、これだけ着色するのに十五年かかった、と自然は語るだけであった。
旅行すると、よくその土地の郷土舞踊というものを見せて貰うが、そう面白いと思った事はない。沖縄の舞踊も、ただ漠然とした気持で見ていたのだが、ある女性が、「花風《はなふう》」というのを舞うのを見ていて、ひどく感動して了った。情人を船で海に送り出し、独りになって寂しい、と傘を手にして非常に静かに舞う。その姿には、例えば、徳川の極く初期の風俗画に描れている女性の、はっきりした強い線が動くような感覚があって、私が見慣れている、この種の日本舞踊に、いつも附纒っている、科《しな》を作った曖昧な情感を、きれいさっぱりと捨てたものがあった。女は、殆ど直立して舞い、感情は、気持のよいリズムで動く白足袋の足にこめられた様子であった。その動きは、繰返し、不思議な形できまる。真っ直ぐにした片足が、斜にスイッと出て、踵で舞台を、トンと突くようにして、足の裏を反らせる形で、繰返しきまる。それが、いかにも美しかった。
私の踊りに関する知識は浅薄で、特に好んで見に行くという事もないのだが、折にふれて見て来たところから言えば、日本の古い舞踊は、すべて、文学的なもの或は戯曲的なものの重荷を負い過ぎている、と感じている。このどうしようもない重荷の解釈の為に、洗煉された処理の為に、名人の肉体の動きは追われて、もはや踊ることが適わぬ。六部の両袖が、鳥のように羽搏き、突然、踊りの魂が現れて消える。これに出会う為に、私達は、どれほど長い間、文学の舞踊的翻訳に附合わねばならないか。これは致し方のないものか。多分そうであろう。能好きなら、それが能の面白さだというだろう。私は、近頃は、我慢が辛くなったので、能もあまり見ない。
[#地付き](朝日新聞 昭和三十八年四月二十一日)
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ス ラ ン プ
野球で、あの選手は、当りが出ているとか、この頃はスランプだとか言う。先日、国鉄の豊田選手と酒を飲んでいて、そのスランプの話になったが、彼は、面白い事を言った。「スランプが無くなれば、名人かな――こいつは何とも言えない。だが、はっきりした事はある。若い選手達が、近頃はスランプだなどとぬかしたら、この馬鹿野郎という事になるのさ」。その道の上手にならなければ、スランプの真意は解らない。下手なうちなら、未だ上手になる道はいくらでもある。上手になる工夫をすれば済む事で、話は楽だ。工夫の極まるところ、スランプという得態の知れない病気が現れるとは妙な事である。
どうも困ったものだと豊田君は述懐する。周りからいろいろと批評されるが、当人には、皆、わかり切った事、言われなくても、知っているし、やってもいる。だが、どういうわけだか当らない。つまり、どうするんだ、と訊ねたら、よく食って、よく眠って、ただ、待っているんだと答えた。ただ、待っている、なるほどな、と私は相槌を打ったが、これは人ごとではあるまい、とひそかに思った。私はその道の上手でも何でもないが、文学で長年生計を立てて来たのだから、プロはプロである。スランプの何たるかを解しないでは相済まぬ次第であろうか。
一と昔前の芸術家は、好んでインスピレーションという言葉を使ったが、今では、ひどく詰らぬ言葉に成下って了った。芸術という極めて意識的な仕事の中に、霊感というような漠然とした観念は、はいり込む余地はない。インスピレーションに頼って仕事をするような、分析的意識の未発達な時代は過ぎた、そういう考え方が優勢であるが、芸術に関する考え方が進歩したからと言って、その道の名人上手に成り易くなったわけではない。そんな事に決してならないのが面白い。私達は、昔の人の使った言葉を、勝手に当世風に使いたがる。インスピレーションという言葉も、今日のような詰らぬ意味で、昔使われていたとは限らない。人間がこんな言葉を発明する必要があったのも、凡そ芸事は思案の外という、その道の苦労人の鋭い意識によったのであろう。
野球は言うまでもなく、高度に肉体に関わる芸である。肉体というものは、自分のものでありながら、どうしてこうも自分の言う事を聞かぬものか、スポーツの魅力は、その苦労から出て来る。今日の文学の世界では、観察だとか批判だとか思想だとかいう言葉がしきりに使われ、そういうものに、文学は宰領されているとも見えるが、文学の纏ったそういう現代的な意匠に圧倒されずに、文学の正体を見るなら、文学もスポーツとそう違った事をやっているわけではなし、その基本的な魅力も、同じ性質の苦労から発している。では、文学者にとって、その肉体とは何か。自分の所有であり、自分の意に従うものと見えながら、実は決してそうではない肉体とは何だろう。それは、彼が使っている言葉というものだ。そう直ちに返答が出来るようになれば、文学者も一人前と言える。プロと言えるだろう。
私の職業は、批評であるから、仕事は、どうしても分析とか判断とかに主としてかかずらう。従って、こちらの合理的意識に、言葉は常に追従するという考えから逃れる事が難かしかった。その点で、詩人や小説家に比べて、成育が、余程遅れたと自分は思っている。だが、やがては思い知る時が来た。書くとは、分析する事でも判断する事でもない、言わば、言葉という球を正確に打とうとバットを振る事だ、と。私は野球選手ではないから、今はスランプだとは言わない。しかし、勝負に生きる選手の言うスランプという言葉が、勝負を知らぬ文学の仕事の上に類推されれば、スランプは私の常態だと言うだろう。職業には、職業の慣れというものがあるので、その慣れによって、意識の整備の為に、精神を集中するという事は、私にはさして難儀な事ではない。さて、そういう事が出来た後には何をすればよいか。ただ、待つのである。何処かしらから着想が現れ、それが言葉を整え、私の意識に何かを命ずる。私は、昔の人のように、陣腐なインスピレーションを待っている。若い時には、その意味も解らず使っていた天分という言葉も、今はほぼ理解出来る。はっきりしたところ、自分の天分は、かなり低級なものだ、とこだわりなく言う事が出来る。
[#地付き](朝日新聞 昭和三十八年四月十四日)
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さ く ら
「さくら さくら 弥生の空は 見わたすかぎり 霞か雲か 匂ひぞ出づる いざや いざや 見に行かん」という誰でも知っている子供の習う琴歌がある。この間、伊豆の田舎で、山の満開の桜を見ていた。そよとの風もない、めずらしい春の日で、私は、飽かず眺めていたが、ふと、この歌が思い出され、これはよい歌だと思った。いろいろ工夫して桜を詠んだところで仕方があるまいという気持がした。
「しき嶋の やまとこころを 人とはば 朝日ににほふ 山さくら花」の歌も誰も知るものだが、これも宣長の琴歌と思えばよいので、やかましく解釈する事はないと思う。散り際が、桜のように、いさぎよい、雄々しい日本精神、というような考えは、宣長の思想には全く見られない。後世、この歌が、例えば、「敷島の大和心を人問はば、元《げん》の使を斬りし時宗」などという歌と同類に扱われるに至った事は、宣長にしてみれば、迷惑な話であろう。だが、この歌が日本主義の歌でないとしたら、どういう事になるか。不得要領な単なる愚歌ではないか。明治の短歌復興にともない、そういう通念が専門歌人を支配するようになった。これはおかしな話であろう。
この歌は、宣長が、還暦に際して詠み、自画像に自賛したものだ。それはよく知られているが、宣長という人が、どんなに桜が好きな人であったか、という肝腎な事が、よく知られていないのは、どうも面白くない。それを知れば、この歌は先ず何をおいても、桜が好きで好きでたまらぬ人の歌だと合点して受取れるわけで、そうすれば何の事はない、「やまと心を人問はば」の意は、ただ「私は」と言う事で、「桜はいい花だ、実にいい花だと私は思う」という素直な歌になる。宣長に言わせれば、「やまとだましひ」を持った歌人とは、例えば業平の如く、「つひに行く道とはかねて聞きしかど、きのふけふとは思はざりしを」というような正直な歌が詠めた人を言う。
宣長ほど、桜の歌を沢山詠んだ人はない。死ぬ前の年などは、三百首も詠んでいる。同じような歌が幾つでも、桜の花のように開くので、上手下手など言ってみても詰らぬ事だ。彼は、若いうちから、庭に桜を植えていたし、墓の後には桜を植えよ、|諡 《おくりな》は、秋津彦美豆桜根大人とせよ、と遺命して死んでいる。
宣長の遺言書は、実に綿密周到なもので、死装束から棺の構造から、葬送の行列まで詳しく指定しているが、普段使い慣れた桜の木の笏を、どういう具合に霊牌《れいはい》に仕立てるかが図解され、墓も図取りされている。石碑の後方に塚が、その上に、「山桜の木」が描かれている。この山桜は、山桜のなかでも、彼が最も愛した品、「葉あかくてりて、ほそきが、まばらにまじりて、花しげく咲きたる」様に描かれている。
先日、笹部新太郎氏の「桜を滅ぼす桜の国」という文を面白く読んだが、それによると、日本人が、桜に関する実際的理論や技術を、最高度に身に附けた時期は、丁度、宣長が生きていた頃と考えていいようである。宣長は、歿後、塚の上に植えさせる桜につき、「山桜之随分花之宜き木を致吟味植可申候」と言っておけば、何の心配もなかったであろう。桜への無関心と無智とが、すっかり蔓延して了った今日では、国内の桜の八割九割までが、ソメイヨシノという桜とは言えぬ桜の屑ばかりになって了った、と笹部氏は言う。桜の専門家がそう言うのなら、私達素人は返す言葉もないわけだが、やはり、それは、急激な文明の進歩の問題と桜の問題とを一緒に解く事がひどくむつかしかったという次第であって、桜を好む私達の子供らしい心に、異変が生じたという事ではあるまい。私の家の向うの山には、桜が沢山咲く。これは、とてもソメイヨシノどころの段ではないらしい。青い葉っぱを無闇に出し白っぽい花をばらばらにつける。それでも、毎年花が待たれ、咲けばやっぱり桜であって、きれいである。
[#地付き](朝日新聞 昭和三十八年四月二十七日)
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批  評
私は、長年、批評文を書いて来たが、批評とは何かという事について、あまり頭脳を労した事はないように思う。これは、小説家が小説を、詩人が詩を定義する必要を別段感じていないのと一般であろう。
文学者というものは、皆、やりたい仕事を、まず実地にやるのである。私も、批評というものが書きたくて書き始めたのではない。書きたいものを書きたいように書いたら、それが、世間で普通批評と呼ばれるものになった。それをあきもせず繰り返して来た。批評を書くという事は、私には、いつも実際問題だったから、私としては、それで充分、という次第であった。しかし、書きたいように書くと、批評文が出来上ってしまって、それは、詩とか小説とかの形を、どうしても取ってくれない。という事は、私自身に批評家気質と呼ぶべきものがあったという事であり、この私の基本的な心的態度とは、どういう性質のものか、という問題は消えないだろう。
回顧すると、と言うが、この回顧するという一種の技術は、私にはまことに苦手なのであるが、実は、ごく最近、ある人が来て、批評家として立ちたいが、これについて具体的な忠言を熱心に求められ、自分の仕事を回顧して、当惑してしまった。人が批評家たる条件なぞ、上の空で数え上げてみたところで、無意味である。空言を吐くまいとして、自分の仕事のささえとなった具体的な確実な条件を求めて行くと、自分の批評家的気質と生活経験のほかには、何も見つかりはしない。しかも、両方とも明言し難い条件である。
私は、自分の批評的気質なり、また、そこからきわめて自然に生れてきた批評的方法なりの性質を明言する術を持たないが、実際の仕事をする上で、じょうずに書こうとする努力は払って来たわけで、努力を重ねるにつれて、私は、自分の批評精神なり批評方法なりを、意識的にも無意識的にも育成し、明瞭化して来たはずである。そこで、自分の仕事の具体例を顧みると、批評文としてよく書かれているものは、皆他人への讃辞であって、他人への悪口で文を成したものはない事に、はっきりと気附く。そこから率直に発言してみると、批評とは人をほめる特殊の技術だ、と言えそうだ。人をけなすのは批評家の持つ一技術ですらなく、批評精神に全く反する精神的態度である、と言えそうだ。
そう言うと、あるいは逆説的言辞と取られるかも知れない。批評家と言えば、悪口にたけた人と一般に考えられているから。また、そう考えるのが、全く間違っているとも言えない。試みに「大言海」で、批評という言葉を引いてみると、「非ヲ摘ミテ評スルコト」とある。批評、批判の批という言葉の本来の義は、「手ヲ反シテ撃ツ」という事だそうである。してみると、クリチックという外来語に、批評、批判の字を当てたのは、ちとまずかったという事にもなろうか。クリチックという言葉には、非を難ずるという意味はあるまい。カントのような厳格な思想家は、クリチックという言葉を厳格に使ったと考えてよさそうだが、普通「批判哲学」と言われている彼の仕事は、人間理性の在るがままの形をつかむには、独断的態度はもちろん懐疑的態度もすてなければならない、すててみれば、そこにおのずから批判的態度と呼ぶべきものが現れる、そういう姿をしている、と言ってもいいだろう。
ある対象を批判するとは、それを正しく評価する事であり、正しく評価するとは、その在るがままの性質を、積極的に肯定する事であり、そのためには、対象の他のものとは違う特質を明瞭化しなければならず、また、そのためには、分析あるいは限定という手段は必至のものだ。カントの批判は、そういう働きをしている。彼の開いたのは、近代的クリチックの大道であり、これをあと戻りする理由は、どこにもない。批評、批判が、クリチックの誤訳であろうとなかろうと。
批評文を書いた経験のある人たちならだれでも、悪口を言う退屈を、非難否定の働きの非生産性を、よく承知しているはずなのだ。承知していながら、一向やめないのは、自分の主張というものがあるからだろう。主張するためには、非難もやむを得ない、というわけだろう。文学界でも、論戦は相変らず盛んだが、大体において、非難的主張あるいは主張的非難の形を取っているのが普通である。そういうものが、みな無意味だと言うのではないが、論戦の盛行は、必ずしも批評精神の旺盛を証するものではない。むしろその混乱を証する、という点に注意したいまでだ。
論戦に誘いこまれる批評家は、非難は非生産的な働きだろうが、主張する事は生産する事だという独断に知らず識らずのうちに誘われているものだ。しかし、もし批評精神を、純粋な形で考えるなら、それは、自己主張はおろか、どんな立場からの主張も、極度に抑制する精神であるはずである。でも、そこに、批評的作品が現れ、批評的生産が行われるのは、主張の断念という果敢な精神の活動によるのである。これは、頭で考えず、実行してみれば、だれにも合点のいくきわめて自然な批評道である。論戦は、批評的表現のほんの一形式に過ぎず、しかも、批評的生産に関しては、ほとんど偶然を頼むほかはないほど困難な形式である。
批評的表現は、いよいよ多様になる。文芸批評家が、美的な印象批評をしている時期は、もはや過ぎ去った。日に発達する自然科学なり人文科学なりが供給する学問的諸知識に無関心で、批評活動なぞもうだれにも出来はしない。この多岐にわたった知識は当然生半可な知識であろうし、またこれに文句を附けられる人もあるまい。だが、いずれにしても学問的知識の援用によって、今日の批評的表現が、複雑多様になっているのに間違いないなら、これは、批評精神の強さ、豊かさの証とはなるまい。
批評は、非難でも主張でもないが、また決して学問でも研究でもないだろう。それは、むしろ生活的教養に属するものだ。学問の援用を必要としてはいるが、悪く援用すればたちまち死んでしまう、そのような生きた教養に属するものだ。従って、それは、いつも、人間の現に生きている個性的な印しをつかみ、これとの直接な取引きに関する一種の発言を基盤としている。そういう風に、批評そのものと呼んでいいような、批評の純粋な形式というものを、心に描いてみるのは大事な事である。これは観念論ではない。批評家各自が、自分のうちに、批評の具体的な動機を捜し求め、これを明瞭化しようと努力するという、その事にほかならないからだ。今日の批評的表現が、その多様豊富な外観の下に隠している不毛性を教えてくれるのも、そういう反省だけであろう。
[#地付き](読売新聞 昭和三十九年一月三日)
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見 物 人
東西ベルリンの交通が遮断されているとは、かねてから読んだり聞いたりしていたが、行って見ると、やはり異様な感じを受ける。通り一つをへだてた、向う側の家々から、人間達が追い出され、その代りに家中に煉瓦が詰められた。そういう家を、セメントと鉄条網でつなぎ合せた。言ってみれば、まずそんな風なものだ。明日からでも市街戦を始めてもよい、と言った様子である。
このような陣地が、或る朝突如として出現したについては、政治上のどのような仔細があったのか、私には明らかではない。実は、その説明を、事情通から聞いている中に、面倒臭くなったのである。私は、上の空で話を聞きながら、考えた。二つの全く異質な政策力が正面衝突する。その衝突の力学は、公平で、鋭敏な分析を進めれば進めるほど不明瞭になる。そんな性質のものではあるまいか。私は陣地ばかり眺めていた。それは無言だが、何か決定的な表情をしている生き物のように感じられた。自分は陣地を写生に来た画家のようなものかな、と思った。
こんな事になっても逃げたい者は逃げる。逃げそこなった人々は、哨舎の銃眼に狙われて死ぬ。死んだ場所場所には、花環を掛けた十字架が立ち、供物の類が集っている。向うの煉瓦塀にペンキで何やら字が書いてある。何と書いてあるのか、と同行の従弟に訊ねたら「東西ドイツは一つだ」と書いてあると言った。その横の大きな字は何かと聞いたら、「人殺し!」だと答えた。
街角に中年のドイツ婦人が二人、寄添うように立っている。一人はハンケチを眼に当てて泣いている。一人は望遠鏡で、遠くのアパートの窓を見て手を振っている。私には見えないが、アパートの窓にはお袋さんの顔でも見えているのであろう。二人は、代り番こに望遠鏡を覗いて泣くのであろうか。これは、毎日、この辺りで見掛けられる、極く普通な光景らしかったが、私は、思いも掛けず、現代政治が強いた奇妙な親子会見法に接して、これをどう感受したものか戸惑った。
案内の人に導かれて、私達は或る家の屋上に登った。これは見物人等の為に、新たにしつらえた東ベルリンの一角を展望する物見台であって、西ベルリン市民は、勿論、上って見る事は出来ない。防壁の向う側は直ぐ広場になっている。この小さな広場は、戦災の跡の未だ露わな建物に取巻かれて、人影もない。やがてバスが一台やって来て止り、数人の客が降りた。そのうちの三人が、街角に立ち、物見台の見物人達を見上げて手を振った。皆、これに応じたが、三人は、手を振るのを容易に止めてはくれないのである。彼等には楽しみの種も乏しいのか。
この時、私は、直ぐ眼の下の防壁に、首一つ出る程の穴が開いているのに、ふと気が附いた。広場の番兵が、穴から私達の動静を監視しているのだが、皆、遠方を見て手を振っているので、誰もこれに気が附かない。穴ばかり見詰めている私の眼と、番兵の眼とが、ぱったりと会った。彼は私に笑いかけ、頬の辺りで、手首を、恐る恐る(と私は感じたのだが)左右に振ってみせた。私は直ちに笑顔で応じ、手を振ろうとした。ところが、振ろうとして持ち上げた私の手は、先ず隣りに立っていた従弟の肩を小突いた。「おい、あの穴を見ろ」。私の手は、反射的に穴の方を指さしていた。その途端、番兵は不快そうな顔をして横を向いて了った。彼は明らかに私の笑いを嘲笑と受取ったのである。私は彼の心事を忖度して、気が沈んだ。
東ベルリンへの関門を通過するのに二時間を要した。と言えば、関門通過の手続きが、それほど厳重と受取られるかも知れないが、それは違う。検閲官達の仕事は、決して敏捷ではなかったが、少しも厳重ではなかった。何分見物人がむやみに多いのである。観光客やアメリカの兵隊を満載したバス、打続く乗用車の列、これを手早く片附けるわけにはいかない。私は関門附近の待合所で、防壁(マウル)の非人道性について、見物人達に訴える写真や文句の類を見ていた。私の漠然たる心に、東ベルリンも、今や政治的名所であるか、という言葉が、自然に浮んで来た。私が、ソヴェットでさんざん名所見物をして来た為であろうか。
私は、こんな事を思い出していた。或る朝、キエフのホテルにいて食堂に下りて来ると、いい席には、皆、小さなアメリカの国旗が立っていた。予約済なのである。旗のない椅子に、一人の爺さんと向い合いに腰を下した。爺さんは、私に話しかけて来た。彼は、旅好きのアメリカの材木屋で、ソヴェット嫌いの細君とはアムステルダムで会う事にして、遊山に来ている、と言う。キエフをどう思うか、と言うから、大変美しい町だと言うと、自分は世界中の街を、ずいぶん沢山見ているが、この町は一流に属する、と激賞しながら、せかせかと懐中からクーポン券を取り出して私に見せた。パンは幾ら、茶は幾らと書いてあるのを示し、君、これをどう思う、高いではないか、むさぼりだ、実に不埒だ、と卓上の皿をガタガタやる。
旅行シーズンのソヴェットの大都会の大ホテルは、モスクワ観光局を通じた、この種の見物人で恐らく満員なのである。彼等は、議論などには耳もかさず、ただ自分の快不快に準じて、はっきり感じ、勝手放題の事を喋りちらして去って行く。その数は毎年急増するであろう。これは大変面白い事である。少くとも、今日まで、ソヴェットという「謎の国」は成心ある知識人達の好餌《こうじ》になり過ぎていた。この考えは、甚だ精彩を欠くのだが、関門通過を待つ間の、車の中の私には、適当なものであった。
私は、有名なペルガノンの遺跡が見たかったので、美術館に直行してもらったのだが、見ていて一向に気乗りがして来なかった。期待が大き過ぎたせいではない。ここに来るまでに、私は、街の一種の空気を充分に吸って了ったが為だ。死の街という在り来りの言葉が口に出かかるが、死の街は、見物人で、見物人だけで、雑沓《ざつとう》していた。この異様な印象に即して言うなら、私は、既に人々とともに政治的博物館の内部に在ったのだ。巨大な陳列物のように静まり返った家々の中には、市民達がひっそりと暮しているに違いない。見物人を見物に、家を出て来る馬鹿があるものか。
レストランで昼食をとる。と言っても、ここではクーポン券は通用しないのだから、所定の場所で所定の食物を当てがわれると言った方がいい。向うに黒花崗岩の堂々たる殿堂が立っている。ナチの手よりの人民の解放を記念する為のものだ。私はモスクワのレーニン廟の前の広場に、雨の中を、蜿蜒と打続く参拝者の列を思い出していた。ここのレーニン廟の支部は、訴えるべき人民を、全く欠いていた。
何も彼も退屈であった。私は今日は日曜日であるのを憶い出し、案内の人に、公園があるなら、公園に行って欲しいと言った。公園は、清潔で美しかったが、やはり博物館の一部であった。バスから吐き出され、忙し気な足どりで、戦勝記念碑を一廻りして行く団体の他には、日曜の午後を楽しむ市民の姿は、絶えて見られなかった。サイダーや菓子の類を売る売店が、たった一軒あるが、客もない。傍に、爺さんが一人、テーブルに小さな笛を並べて腰かけている。誰の為に売るのか。やがて、ソヴェット兵の一団がやって来た。シベリアのどこかの辺境から、はるばると連れて来られたのであろうか、皆、蒙古人のような顔附きをした、子供のような兵士達であった。爺さんは、笛を口に含み、小鳥の鳴き声をしてみせる。兵士等は彼を取巻く。ガヤガヤ言うだけで、なかなか買わない。公園には子供なぞ見えもしなかったが、何処から現れたか、二人現れて笛を買った。明らかに、爺さんの連れて来たサクラである。笛は忽ち売れ出した。めいめいが、大きな手で、ビニールの小袋から、笛をつまみ出すと、頬をふくらませ、ピイピイと無器用な音を出し始めた。
[#地付き](朝日新聞 昭和三十八年十一月三日と十日)
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青年と老年
「つまらん」と言うのが、亡くなった正宗さんの口癖であった。「つまらん、つまらん」と言いながら、何故、ああ小まめに、飽きもせず、物を読んだり、物を見に出向いたりするのだろうといぶかる人があった。しかし、「つまらん」と言うのは「面白いものはないか」と問う事であろう。正宗さんという人は、死ぬまでそう問いつづけた人なので、老いていよいよ「面白いもの」に関してぜいたくになった人なのである。私など、過去を顧みると、面白い事に関し、ぜいたくを言う必要のなかった若年期は、夢の間に過ぎ、面白いものを、苦労して捜し廻らねばならなくなって、初めて人生が始ったように思うのだが、さて年齢を重ねてみると、やはり、次第に物事に好奇心を失い、言わば貧すれば鈍すると言った惰性的な道を、いつの間にか行くようだ。のみならず、いつの間にか鈍する道をうかうかと歩きながら、当人は次第に円熟して行くとも思い込む、そんな事にも成りかねない。
何処かのある名高い上人が参内する姿を見て、ある人が、「あな、たふとのけしきや」と感歎したところが、それを見ていた日野資朝が、「年のよりたるに候」と言った、という話が「徒然草」にある。資朝は別段意地の悪い見方をしたのではあるまい。老年は老年で、さっぱりと健全に過すという事は、容易な事ではないらしい。「徒然草」のことを言ったからついでに言うと、兼好は、こういう事を言っている。死は向うからこちらへやって来るものと皆思っているが、そうではない、実は背後からやって来る。沖の干潟にいつ潮が満ちるかと皆ながめているが、実は潮は磯の方から満ちるものだ。
この鋭い観察を、現代風に翻訳すると、こういう事になるだろう。自然は、生物の成長の準備をするが、ある時期が来れば死の準備をするであろう。この着々と持続的に営まれる準備は、自然の準備たる点で同質のものである、と。生物学の知識をしこたま抱えてみたところで、兼好の気づいていたところに気が附くとは限るまい。死は向うから私をにらんで歩いて来るのではない。私のうちに怠りなく準備されているものだ。私が進んでこの準備に協力しなければ、私の足は大地から離れるより他はあるまい。死は、私の生に反した他人ではない。やはり私の生の智慧であろう。兼好が考えていたところも、恐らくそういう気味合いの事だ。でなければ、あれほど世の無常を説きながら、現世を生きる味いがよく出た文章が書けたはずもない。
こんな風な考え方で暮していると、近ごろ、実にしばしば受ける質問、世代の激変をどう考えるかという問いには、返答に困る事がある。自分の年齢というものの秩序の、あれやこれやの思索は言わば縦軸に属し、並列された世代の対照如何は横軸に在る問題だ。そこで、ちぐはぐになる。例えば、「君のような戦前派に、戦後文学が理解できるか」とたずねられる。「理解できる」と答える。「しかし、これは理解できぬという性質も必ずあるはずだろう」「必ず在る。だが、それはただつまらん、と言っておけば、私には足りる事だ」。
あるいはまたこんな風に聞かれる。「君の青年時代に照らして、今日の青年をどう考えるか」。どう答えたらいいのかしらん。私は、自分の失われた若さを、時として痛切に想う事はあるが、若い時代に生きた環境は、うまく思い出せない。あのころは、今に比べたら余程のん気な時代だっただろうと言われても、そうかなと思うだけで少しも実感が伴わない。どうやらはっきり言える事は、私としては、十分に不安時代であったという事だけだ。どいつもこいつも、のん気に構えているなら、おれは不安になってやる、きっとそんな気だったのだろうと思う。不安がなければ不安を発明してやる、これが青年の特権である。その成果がどんなものであったかは、私としてはあいまいな問題だが、私が、この青年の特権を出来る限り行使した事は、先ず確な事らしい。
今日の青年を見ても、ただうらやましいと思うのは、私にはもう失われてしまった、あふれるような若さの力だけである。現代の世界不安とやらいう代物なら私にだって与えられているのだ。若さの力の環境への投影力は、環境の若さへの影響力よりはるかに強いものである。もしそうでなければ、人生に青年期があるとは無意味なことであろう。
今日の世代を表現した代表的文学は何かと問われても返答はむつかしいが、今日の青年文学なら、直ちに拳げる事が出来る。堀江謙一「太平洋ひとりぼっち」である。今日のように、文学が勝手放題な形式を主張している時、こういうものが、果して文学と呼べるかどうかというような事を、考えたところで有害無益である。この青年の行動を、ジャーナリズムは、三十七年度十大事件の一つに数えたが、「太平洋ひとりぼっち」という本が現れれば、これは全く別事だ。彼のヨットは記録を作ったが、彼の本は青年を現わしたのである。私はこの本を三十七年度の文学的一事件だと思っている。
彼が、この本で、不馴れな言語的表現を用いて、恐らく期せずして現し得たものは、永遠の青年の姿である。これは、世上の経験を重ねて、面白いものに関して、どんなにぜいたくを言うようになった人々にも、面白いと言わす力である。断っておくが、面白いものについてぜいたくになった者は、面白いものを捜しているのだ。なるほど青年は皆面白い。だが、自分の力で自分の若さをしっかりつかんでいる青年は、もっと面白いはずではないか。
堀江青年の文章の発想には、だれにも見誤る事の出来ぬ一つの性質がある。それは、自分には功名心も無論あったが、それより自分はヨットが好きだったという事の方が根柢的な事であった、という主張である。彼には、どうしても、それが主張したかったというところが、まことに面白い。ヨット好きなら、何とかしてセーリングの足が延ばしたい。延ばせば太平洋横断になるのは、ヨット好きには、わかり切った事であり、そのための準備なら、忍耐なら、こんな楽しい事はない。要するに何一つ突飛な事をした覚えはない。だが、世間は、何百回、いや何千回となく、太平洋横断の動機は、理由は、目的は、と聞いた。この青年は、あたかもこう言っているようだ、世間は新事件と新理論を捜していて、青年なぞ必要としていないのではなかろうか、と。
[#地付き](朝日新聞 昭和三十八年一月五日)
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花  見
先日、文藝春秋社の講演旅行で、東北を旅した。講演旅行もずい分したものだと思う。講演は好まないが、旅は楽しいからだ。友達と一緒に、見知らぬ土地をぶらぶら出来る、そういう段取りを附けてくれるのが、私のような不精者には何よりで、毎晩、三十分ほど、何や彼やお喋りするくらい仕方がないと思っている。今度も、同行の今日出海君から、弘前のお城の桜が見頃だろうと言われ、お花見が楽しみで出向いた。
酒田の町に着いた夜、宿で、独りで酒を飲んでいた。この頃は、歳の順で、講演も後廻しにされる事が多い。待っている間、ぼんやり飲んでいるのが常である。長押の扁額に、中川一政述書として、和歌と漢詩とが書かれている。右の方から、
み山木のその梢とも見えざりし桜は花にあらはれにけり   源 頼政
馬上少年過 世平白髪多 残躯天所許 不楽復如何     伊達政宗
散り残る岸の山吹春ふかみ此ひと枝をあはれといはなむ   源 実朝
私は繰返し読んでいた。無論、歌としては、実朝のものがずば抜けているだろう。しかし、こうして三人の武将の正直な告白を、並べて眺めていると、どうも実朝ばかり贔屓にしてはいられない気持になって来る。実朝は鶴ヶ岡で殺されたが、頼政は平等院で自害した。その辞世は有名である――「埋木の花さく事もなかりしに、身のなるはてぞ悲しかりける」。乱戦のさ中に、歌なぞ詠めたとも覚えぬが、恐らく、この歌好きは、平素から案じていた一首を思い出したのであろう、あわれである、と「源平盛衰記」の作者は言っている。この弓の上手は、弓だけで出世は出来ぬと悟って、懸命に歌を詠んだが、桜は花にあらわれず終ったらしい。彼の抱いた憂悶の情は、実朝と同じように、生涯霄れる機がなかったであろう。
政宗は、大往生をとげた成功者のようだが、彼の詩には亦彼のあわれが浮んでいるように見える。彼には元服が出陣だっただろう。この片目の少年は、父親とともに悪戦苦闘して育った。父親は、帰属した敵将に謀殺された。母親は、長男政宗を好まず、弟の方を溺愛していた。秀吉が、小田原に進攻するに及び、母親は、弟を擁して、これに服属せん事を計った。彼女は、政宗を饗応して毒を盛ったが、彼は危く一命を取止めた。秀吉から参陣を迫られ、彼は母を追い、弟を殺し、斬死を覚悟して小田原に赴いた。一説には、秀吉を刺さんとしたが果さなかったと言う。関白秀次の切腹事件でも、秀吉に疑われて、死装束で上洛している。朝鮮では、秀吉の為に戦い、関ヶ原では、家康の為に戦い、野心は胸中深くかくしていた。やがて、大坂の陣が終って、死期を知った家康に後事を託される。その辺りから、政宗は、戦っていたのが実は時の流れという眼に見えぬ大敵であった事を、はっきり知ったのではあるまいか。私は、そんな事を思った。
暗い、込み入った、油断も隙もなかった生活を、彼は、「世は平かにして白髪多し」、という簡明な文句で要約してみた。一体、要約は出来たのだろうか。「残躯は天の許すところ」――彼が残躯という言葉を思い附いた時、この言葉は、彼の心魂に堪えたであろう。この詩の季を春としても差支えあるまい。残躯は桜を見ていたかも知れない。「楽まずんば復如何せん」。
中川一政さんは、ただ好きな歌を、思いつくままに書連ねたのかも知れないが、私は、この扁額を肴に飲んでいるうちに、三人の心が、互に相寄って、一幅の絵を成すような感に捕えられた。これを領するものは、飾り気のないあわれとも言うべきもので、一種清々しい感じなのだが、そのイメージは描けない。酔眼を閉じると、春が来て、斑雪を乗せ、海に臨んだ鳥海山の昼間見た姿が眼に浮んだ。やがて、会場に呼ばれたが、講演にはひどく不都合な気持であった。鳥海山が離れない。これは弱ったと思っていると、ええ、只今、伊達政宗の詩を読んでおりまして……と口に出て了った。楽まずんば復如何せんと繰返したが、もう言う事がない。仕方がないから、いい文句ですな、と言って黙って了った。聴衆は笑い出した。私は、笑われて、やっと気を取直した。
この辺の桜は、もう散っている。弘前の桜は、間に合うか知らん。一昨年は、これも城址の桜で有名な信州高遠の「血染めの桜」を見に行った。一門親族の変心や内応によって全く孤立無援になった武田勝頼の最期は、まことに気の毒なものであった。ただ弟の仁科信盛一族だけが、高遠城に拠り、織田勢を迎えて死んだ。戦は北国の花が一時に開く頃ではなかったかと思う。その時から、城内の桜は赤く染められたと伝えられる。わざわざ見に出掛けたのだが、遠い花の名所で、花の見頃にめぐり合うのはむつかしい事で、打合せはして置いたのだが、行った時には、盛りを過ぎていた。それでも、花は、まことに優しい、なまめかしい色合であった。血染めと聞いてすざまじい名と思ったのも、未だ花を見ぬ時の心だったようだ。来て眺めれば、自然に、素直に生れて来た名とも思える。人々は、戦の残酷を忘れたい希いを、毎年の花に託し、桜の世話をして来たであろう。桜は、黙って希いを聞き入れて来たと思える。
汽車は、桜に追い附こうと、ひたすら走っているようであったが、弘前近くになると、未だ浅緑の野や山に、桜が咲き出すのが眺められた。弘前城の花は、見事な満開であった。背景には、岩木山が、頂の雪を雲に隠して、雄大な山裾を見せ、落花の下で、人々は飲み食い、狂しいように踊っていた。実に久しぶりの事だ。こんなお花見らしいお花見は、私の記憶では、十二三の頃、飛鳥山に連れて行かれた時までさか上らないと見附からない。東京附近の花は、もう皆亡びた。
その夜も亦、新築の立派な市民会館で、「今日は、結構なお花見をさせて戴きまして」と言って、文化講演とやらには全くそぐわない気持になって了った。外に出ると、ただ、呆れるばかりの夜桜である。千朶万朶枝を圧して低し、というような月並な文句が、忽ち息を吹返して来るのが面白い。花見酒というので、或る料亭の座敷に通ると、障子はすっかり取払われ、花の雲が、北国の夜気に乗って、来襲する。「狐に化かされているようだ」と傍の円地文子さんが呟く。なるほど、これはかなり正確な表現に違いない、もし、こんな花を見る機は、私にはもう二度とめぐって来ないのが、先ず確実な事ならば。私は、そんな事を思った。何かそういう気味合の歌を、頼政も詠んでいたような気がする。この年頃になると、花を見て、花に見られている感が深い、確か、そんな意味の歌であったと思うが、思い出せない。花やかへりて我を見るらん、――何処で、何で読んだか思い出せない。
[#地付き](新潮 昭和三十九年七月号)
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ネ ヴ ァ 河
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ネ ヴ ァ 河
ある時、正宗白鳥氏と雑談していた。なくなる数ヵ月前のことだったと思う。何かのことでロシヤ旅行の話になったが、正宗さんは、話の中途で、ふと横を向き、遠くの方を見るような目になって、「ネヴァ河はいいな、ネヴァ河はいいな」と独語するように言った。無論、正宗さんの心中は知る由もなかったのだが、どうしてだか、私は、勝手に、ああ、この人はラスコーリニコフのことを考えているのだ、と感じた。そして、その時の正宗さんの、ふいに現代社会が眼前から消え去ったような表情から、妙に心に残る印象を受けた。ハバロフスクからモスクワに行くシベリアの上空で、私は、それを思い出していた。モスクワのホテルの大食堂で、ジャズの騒音を聞き、男女の踊るのを見ながら、ネヴァ河を見たい、としきりに思った。
ソヴェット作家同盟から招待を受けて、私の心に、ばくぜんたる旅情の如きものが動いたというまでのことで、私は、特に、ソヴェットを見たいと希《ねが》ったことはなかった。私の現代ソヴェットについての関心や知識は、全く月並で、浅薄であったし、また、そのことが気になったこともなかった。百聞一見に如かずと言うが、言ってみれば、百聞もないのに、一見もありようがない気持であった。しかし、自分が文学者になったについては、ロシヤの十九世紀文学から、大変世話になった。この感情は、私には、きわめて鮮明なものであり、私には、私なりのロシヤという恩人の顔が、はっきりと見えていたのである。ネヴァ河が見たい、というのも、言うまでもなく、ここから発する。ドストエフスキイの墓詣りはして来たいものだ、そんな事を思う。
だれも白紙で物を見る人はない。私の抱いた感情も、先入観と言えば、先入観であろうか。ともあれ、私は、自分の先入観に従い、ドストエフスキイの墓と言われる黒花崗岩に、極く自然に頭を下げ、また、極く自然に、レーニンのミイラを蔵すると言われるガラス箱を、物珍し気に見て過ぎた。
旅行の前、知人にすすめられて、ソルジェニツィンの「イワン・デニーソヴィチの一日」という作品を読み、非常に面白かった。革命後のロシヤ文学については、ほとんど無智な私は、訳者木村浩氏の言を、そのまま受納れる他はないのだが、それによると、この作は、革命後のきびしい文化統制の酷寒に閉されて、萎縮していた作者たちの芸術的才能の新しい開花だと言う。恐らくそうであろう、と私も思った。作品はスターリン時代の監獄で得た作者の経験の上に立っているとともに、明らかに、ゴーゴリやドストエフスキイの貴重な文学的遺産の上に立っていた。
「イワン・デニーソヴィチの一日」が発表されたのは去年だが、作者はよほど前に、作品を書き上げていたそうで、この異常な人生記録が陽の目を見たのは、スターリン以後のいわゆる「雪解け」のおかげであると言われる。ドストエフスキイの「死の家の記録」が出版されたのは、ちょうど百年前の一八六二年一月だ。この場合も、作者は、出獄後直ちに記録小説を書き始めたらしいが、その発表が可能になったのは、アレクサンドル二世の農奴解放という「雪解け」によったのである。「雪解け」という言葉も、歴史に照らして、慎重に使う必要があるようだ。
だが、私が、この新しく評判になった監獄小説から、直ちに百年前の高名な監獄小説を思ったのは、もっと本質的な文学の魅力に関する事柄からであった。ソルジェニツィンの作に、訳者も、「ロシヤ文学の伝統のよみがえり」を見ている。そこに、内外の読者を否応なくひきつけたこの作品の力の中心があることは疑いないように思われる。だれもこの力の現実性をはっきりと感じながら、伝統という実にはっきりしない言葉しか持っていない。それが始末に悪いだけの話だ。
私は「死の家の記録」が読み返したくなり、旅行に持って出た。独りになると、べッドの上で少しずつ読み進んだ。ソヴェットで読み、フランスで読み、ドイツで読み、ある晩、ジュネーヴの宿で、あの最後の不気味な言葉を読んだ、「足枷は落ちた――御きげんよう、自由、新しい生活、死からの復活――何というすばらしい刹那であるか」。
人間の歴史の、断絶を知らぬ持続を感受する私たちのある種の感受性にとっては、百年も刹那であろうか。
ソルジェニツィンという人は、全く根拠のない告発を受け、政治犯として、八年間の徒刑囚生活をしたと言われる。ドストエフスキイという政治犯は無実ではなかった。私が「ドストエフスキイの生活」を書いた当時、十分な証拠資料が入手出来ず、あいまいにして書いたところも、今日では、先ず確言できると言っていいのだが、彼は無実ではなかったどころか、過激派であった。ペトラシェフスキイ事件においても、彼は自分で告白しているように、「いつも限度を踏越える」人間であった。
彼は、表面では、ペトラシェフスキイ会に属していたが、ペトラシェフスキイという文学青年の性格は見抜いていた。「何一つ実行しない、口だけは達者な馬鹿者、偽善者」と呼んでいた。彼が結んでいたのは、実は文学などは歯牙にもかけぬスペシュネフという、スイスから来た、バクーニンの仲間と称する革命家であった。だれも知るように、ドストエフスキイは、後世、精神分析家の研究対象になったほど、きわめて複雑な心の持主であったが、この複雑な心の持主は、暴動とツァーの暗殺とを目がけ、他一切を意に介しない簡明なテロリストの性格に、どう仕様もなくひきつけられていた。そして、彼は、スペシュネフという首領を、「私を占領してしまった私のメフィストフェレス」と呼んでいた。
ドストエフスキイの逮捕には、判決文によれば、危険思想を抱くペトラシェフスキイ会員として、不穏な言辞を弄したという以外の理由はなかったのだが、実際には、彼は、「わがメフィストフェレス」の忠実な仲間として、極く少数の秘密結社を、別に作っていた。彼はこの結社が、ジュネーヴに、パリに、ロンドンに、本拠を有する国際的革命組織の最下部細胞であることを信じて行動していた。彼は、後年「悪霊」を書き、バクーニンの配下の、モスクワ大学生ネチャアエフが組織した革命的秘密結社の活動を扱った。だが、この種の革命的地下運動の口火を切ったのは、二十年前の作者自身であり、その苛烈な革命心理の分析も、作者の青年期の体験に基づいていたことを、だれ一人知るものはなかったのである。ちなみに、バクーニンのシベリア流刑は、このよく偽装された最初のネチャアエフ事件と本物のネチャアエフ事件との間に起った。
ドストエフスキイの任務は、秘密印刷物の配布にあったが、無論、これは当時、死刑を賭けねば出来ることではなかった。彼は、これを実行に移そうとする直前、ペトラシェフスキイ会員として捕えられた。彼が銃刑を免れたのは、ニコライ一世の気まぐれによったのではない。彼が仲間とともに証拠|湮滅《いんめつ》に成功し、決して口を割らなかったがためだ。これは容易なことではなかっただろうが、文学者ドストエフスキイにとって、むつかしいことは、それから先にあった。
オムスクの徒刑囚の生活が、ドストエフスキイの思想に、大きな転機をもたらしたについては疑う余地はない。獄中生活は、彼に何を与え、ために、彼の思想はどう転回したか。これは伝記作者の好奇心をそそる問題だったから、私もいろいろと考えたことがある。しかし、この大作家の内省や創造の世界をのぞき込むわけにはいかないのだから、明答が得られたわけもない。ドストエフスキイには、イデオロギイ上の転向作家に見られるような簡明な性質は少しもない。
私が、再び同じ想いを新たにしているのは、前に書いたように、たまたま、二つの監獄小説を、重ね合せるようにして読んだがためである。二つは、もちろん、大変趣の違った作品であるが、その中心点は重なって見える。少くとも重ね合して見ることも出来るようだ。アレクサンドル二世は、「死の家の記録」を読んで泣いた。フルシチョフは、「イワン・デニーソヴィチの一日」に感動したと言われている。読んでいるしばらくの間は、二人とも、絶大な政治的権力の所有者たることを失念したであろうか。それは、そうであるはずのものだろう。
「イワン・デニーソヴィチの一日」という作品の平静な語り口には、訳者木村氏に言わすと「底知れぬ不気味さ」がある。読む者は、皆、そういうものを感じていると言ってもいいだろう。しかしそこにこの作の魅力の中心部があるとは、だれも敢えて言いたがるまい。おもうに、作品のこの言い現わし難い力を、意識に留めておくことがむつかしいがためであろう。作品から読み取れるヒューマニズムだとか、抵抗の精神だとかいう常套語が、つい口に出て、それで安心してしまうということがあるのだろう。
作者は、何一つ主張してはいないのである。主人公イワン・デニーソヴィチ・シューホフに語らせて、自分は黙しているのだが、シューホフも何の主張者でもない。と言って、彼は何を主張しても始らぬと観念したただの囚人とも言えない。シューホフの考えによれば、勝手な主張ばかりしているのは「おえら方」という一種の人種であり、彼はそんな人種に関心も興味も持っていないし、何の価値すら認めてはいない。このような人物を創造した作者の沈黙は、外部から強いられたものではなかろう。作者自らが、進んで欲したものであり、その力が、知らぬうちに、読者を捕えてしまうのである。
私が、この作を読んでいて、「死の家の記録」が紙背から浮び上って来るのを覚えたというのは、そういうことだ。「死の家の記録」を領するものもまた、明らかに作者によって希われた沈黙の力である。ドストエフスキイの著作に対し、極めて冷淡であったトルストイやツルゲネフが、この作品だけは激賞しているのも、恐らくそのためだ。作者が、獄中で見たものは、獣ではなかった。気違いでも馬鹿でもない正銘の人間だったが、彼の言葉を借りるなら、「その全くの異常性、不可測性」であった。「白状するが、この驚きは監獄生活の全期間を通じて、私の心から離れなかった。私は、遂に、この生活に順応することが出来なかった」。
彼の全作品を読むことが出来る私たちは、彼が生涯を通じて、この驚きから離れることが出来なかったのを知っている。彼は、出獄後、流刑地で、この作のノートを取っていたのだが、そのころ、友人に送った手紙のなかで、「断乎たる大小説」を獄中で考えた、と言っている。彼の言葉を在りのままに受取るなら、驚きが沈黙のうちに反芻されて、ラスコーリニコフという人物が、そこから創り出されるには、ずい分長い時を要したということになる。
「死の家の記録」は、妻を殺し、十年の徒刑を終え、シベリアのある所で暮している流刑囚の手記の形をとっている。これを、検閲に対する作者の配慮とするのは浅薄な見解であって、作者にしてみれば、例えばそういう人物――出来るだけ人を避け、発表の当てもない手記を書き、人知れず死んでしまう無名の流刑囚を想像し、これと心を分ちたかったに相違ない。
「死の家」とは、もちろん、社会的に死んだ人々の家だが、「記録」の作者は、この別格の集団生活でもまた「死人」だった。囚人たちは、だれとも附合おうとしない、口を利こうともしない、この風変りな男を「故人」というあだ名で呼んでいた。彼は、徹底的に黙り込んだのである。
ドストエフスキイの関係した秘密結社は、普通「ドゥロフ党」と呼ばれている。彼は、そのドゥロフとともに入獄したのだが、この往年の同志とともに暮しながら、四年間、ひと言も口を利かなかった。ドゥロフは、出獄後間もなく死んだが、彼の獄中生活は、病苦と戦い、不運を笑い飛ばす不屈な精神で貫かれていた。その信念は動かなかった。ところが、ドストエフスキイには、それが気に食わなかった。彼は、ドゥロフを「滑稽な信心家」と事も無げに評している。だが、それは、何を措いても、ドストエフスキイには、既に、自分が気に食わなくなっていたがためである。例えば、ここに護送されて来る途中で、赤いルバシカと銀貨一枚とで、自分の短い刑期を売払い、未知の男の身代りに、無期徒刑に甘んじている男がいて、彼を驚かしている。自分は正しかった、今でも正しいと言っているインテリゲンチャの自負心などに、今更、何を驚こう。彼はそんなものに二度と興味を抱かなかった。「イワン・デニーソヴィチの一日」の主人公シューホフは政治犯であるが、何が政治犯なのか、当人もよく知らない。少し頭を働かせれば、つかまらなくてすんだところらしいが、あいにく頭も働かなかったという次第で、要するに、何でつかまえたか、いつ放免するかは、「おえら方」の料簡《りようけん》次第で、こちらの知ったことではないし、第一毎日の暮しで手一杯で、そんな余計なことを考える暇はない。ところで、作者は、そういう主人公の、とても人間の生活とは称し難い恐ろしい一日を語り終って、こう言う、「すこしも憂鬱なところのない、ほとんど幸せとさえ言える一日が過ぎ去った。こんな日が、彼の刑期のはじまりから終りまで、三千六百五十三日あった。閏年のために、三日のおまけが附いたのだ」。
シューホフは、「死の家の記録」に登場して差支えない人間像である。彼は、赤いルバシカが欲しかったばかりに、終身徒刑を食った男の、直ぐ傍に立つことが出来るが、現代のドゥロフたちからは、いかにも遠い地点に居る。彼は、歴史的発展や歴史的目的について何の観念も持たぬ白痴に過ぎぬ。人間をそこまで追い込んでしまったのは、一体だれの罪か。現代のドゥロフたちは、そう質問せざるを得ない。だが、作者もまたそう質問しているか。私は決してそうは思わない。作者は、むしろシューホフに寄添うて立っていると思う。
この作は、スターリン時代の「政治犯収容所」(ラーゲル)を描いたものだ、と言われているが、私はそう言われれば、そうかなと思うだけだ。ここに現れて来る人々は、政治犯というようなレッテルを、皆はがされているし、大事なことは、これは、シューホフという男の目でながめられたラーゲルだからである。リアリズムという言葉はあいまいだが、もしこの作のリアリズムを言う者があるなら、間違えない方がよい。この作のリアリズムは、作者によって採用された客観的手法ではない。むしろ、シューホフという人間の物の見方であり、生き方である。作者は、暴露小説が書きたかったのではない。シューホフの「ほとんど幸せとさえ言える一日」が書きたかったのである。作者は、心中で独語しているかも知れないのだ――「コンミュニストの一日」というものは在り得ない。コンミュニストの「一日」は、原則的に、明日のために供えられ、未来の目的によって食い荒されているはずだ、と。
シューホフの現実性は、作者の思い出の重さから来ている。シューホフの三千六百五十三日という刑期は、作者の徒刑と流刑とを合した刑期である。一と口でそんなことを言うが、この無実の罪人が耐えて来た孤独には、無論他人には通じ難いが、自身にも名状し難い異様なものが在っただろうと推察される。シューホフは、そこから生れて来た。私はそう感ずる。生れた径路は不明だとしても。少くとも、この作が発想された所は、ひどく人目に附きにくい。現代に勢力ある思想や風潮では、到底手のとどかぬ場所だ。
作家は、作中人物を、心の中で生きてみるものだ。作中人物に命を与えるものは、観察力ではない。愛情あるいは情緒と呼んでいい精神の力である。これは、現代の小説家たちには、非常に困難な道になってしまっているが、この作者が乗越えているのは、その困難なのである。作者は、ロシヤの民話から抜け出てきたようなシューホフと、その真率な優しい心を分っている。シューホフは仲間のうちで、バプチスト信者のアリョーシャが一番好きだ。信者の語る馬鹿馬鹿しい説教なぞ、少しも信用していないが、この信者が好きなのである。シューホフには「宗教は阿片だ」というような常套語は通じない。もし通じて、彼にも軽薄な口の利きようが出来るなら、「革命は阿片ではないのか」と反問するかもしれない。だが、彼は何も主張しない。アリョーシャに無器用な厚意をみせるだけである。この厚意は実に美しく独特な筆致で描かれている。ドストエフスキイのアリョーシャの雛形のようでいて、決してそうではない。
私は、ロシヤの近代絵画については、全く不案内だったが、幸い黒田辰男氏に案内していただき、モスクワの美術館で、その目ぼしい作を視ることが出来た。プーシュキンの手で開かれたロシヤ近代文学は、驚くべき高所まで達したが、絵画界はそういうものではなかった。この世界は、クールベのような画家に戸をたたかれて進んだものではない。しかし、執拗な、強いリアリズムが大河のように流れているのは、よく感受出来た。
私は、ペーロフのドストエフスキイの肖像の前で動けなくなった。この有名な絵は、本の口絵などで知っていた。一八七二年、「悪霊」を書いている頃の彼の顔である。この絵を見て、アンナ・グリゴリエヴナは言っている。彼は、小説のことで、今、頭が一杯なのだ、こういう顔をしている時には、書斎に這入って行っても、彼は、決して私に気が附かなかった、と。私は、そのこともよく承知していた。だが、眼前の生き生きとした色彩は、口絵の写真からは、到底想像出来なかったものであった。彼は、赤いネクタイを締め、特色あるその額は、頭蓋の内側が透けて見えるような淡紅色のタッチであった。険しいものも、いかめしいものもない。鋭敏な、ほとんど肉感的とさえ言える詩人の顔であった。目の表情は名状し難いが、深い哀愁と呼んでいいものだ。
私は、レーニングラードのある家の薄暗い玄関で、案内者の説明を聞いていた。「アンナ・グリゴリエヴナは、ポートフォリオを抱えて、ここに立ち、作家の部屋はどこかと聞いた。二階の十三号室と言われて、彼女はこの階段を登りました」。だが、私は、ラスコーリニコフが斧を盗んだ門番小屋と言われるものにも、ラゴージンが住んでいた家の窓だと指されるものにも同じように感動した。ペーロフが創り出した詩人の哀愁が、私に本当のものなら、ドストエフスキイ研究者等の創作も、私には嘘とは言えなかった。
空は青く晴れ、ネヴァ河は、巨きな濁流であった。私は、デカブリストの広場に立ち、ペトロパヴロフスク要塞の石のはだを見ていた。背後には、名高い「青銅の騎士」が立っている。プーシュキンが歌ったのは、この濁流だ。ニヴゲーニーをのみこんだこの同じ濁流である。それは、「青銅の騎士」という謎めいた詩に秘められている詩魂をながめるような想いであった。プーシュキンの詩魂は、ドストエフスキイに受けつがれた。彼は、ペテルブルグという都会を信用していなかった。歴史のないフィンランドの沼地に、強引に、全く人為的に築かれた街の不安定性を、プーシュキンと同じように直覚していた。「この世界中で最もファンタスティックな街」を「人々はどんな風にして捨てることが出来るか。政治的破局あるのみ」と「悪霊」を書き上げた年に書いている。レーニンは、ペテルブルグを見捨てた。私は、ドストエフスキイの予言の的中というような詰らぬことが言いたいのではない。
歴史家が、普通、ピョートル大帝の改革と呼んでいるものは、全く新しい輸入観念による、徹底的な過去の否定という点で、どこの国の歴史にも見られない革命である。この天才的な革命技術専門家の血を受けずに、レーニンは現れない。二十世紀の「青銅の騎士」は、マルクシズムの大家ではない。それが歴史の持続性というものだが、この血統のロシヤ的性格は、ソシアリズムとかコンミュニズムとかいう言葉を世界語のように使っている者の目にはいるものではない。革命的思想は、ロシヤ十九世紀文学の動脈であり、作家たちには、だれにもブルジョア文学など書く暇はなかった。革命的思想は、各人各様に、ツァーとナロードの間に孤立する「インテリゲンチャ」というロシヤ的地帯の上で生きられた。文学者に、世界語は、通用しない。この思想の歴史像が、現実的な点睛《てんせい》をほどこされて完成するのは、文学史においてである。「悪霊」は、この点睛の最も鋭いものの一つである。
ドストエフスキイの「プーシュキン講演」は、私が昔熟読したものだ。その時、彼は、贈られた月桂樹の花輪を、プーシュキンの墓に供えた。その花びらの一片が、小さなガラスの小箱に保存されているのをレーニングラードのドストエフスキイのミュゼーで見た。異国の文学者の感傷などが問題ではない。これは現代ソヴェット作家たちが、もし本物の作家たちなら、負っている拒否出来ない重荷なのである。フルシチョフ氏は、七年後には、アメリカに追附くと言っている。恐らく本当であろう。しかし、七年であろうが、七十年であろうが、文学者は、将来の目的から、新しい作品のリアリティを引出すことは出来ないのである。
[#地付き](朝日新聞 昭和三十八年十一月三十日〜十二月五日)
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ソヴェットの旅
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ソヴェットの旅
私は、此の間、ソヴェット作家同盟の招待を受けて、ソヴェットを見物して来ました。紀行文を書け、というような事も、雑誌社から言われていたし、書けたら書こうという気もないではなかったのですが、行ってみて、そんな気もなくなった。書いてもとても文章の態をなすまいと思いました。只今、お話の依頼を受けたので、まあ、おしゃべりくらいなら、と言った次第なので、これは雑談、雑然たる感想であります。
大岡昇平君が、私の前に、やはり、ソヴェットに、招待旅行で行って来ました。向うのホテルには、シャボンがないぞ、充分に用意して行けよ、と忠告してくれた。同行した安岡章太郎君なぞは、こりゃ大変だ、と洗濯用の粉石鹸まで用意して行ったところが、トランクの中で箱が壊れて、トランク中がシャボンだらけになった。シャボンだらけになったって、向うにシャボンが無ければ、これは単なる失敗だが、行ってみるとシャボンは、何処でもちゃんとあります。
食堂に行っても、先ず一時間か一時間半は待たすからな、お前のような癇癪持ちは、テーブルに坐ったら、まず観念するのが肝腎だ、と言われる。行ってみれば、何処の食堂でも十五分と待たせたところはない。トイレットの紙は硬いぞ、と言う、行ってみれば柔かい。詰らぬ事ばかり言うようだが、何も大岡君が迂闊《うかつ》なのではない、先方が勝手に変るのだ。恐ろしいスピードで変っている。日本の変りようも烈しいが、恐らくこちらの尺度で計れるようなスピートではない。
ナホトカから、夜汽車で一晩、ハバロフスクにつき、そこから大きな飛行機で、夕方、モスクワに着きます。ヘトヘトにくたびれている。飛行場から、やっと堂々たるホテルに案内されて、やれやれと思っていると、部屋がないのです。これには驚いたが、案内の人も驚いているのだから面白い。交渉二時間に及んだが、結局|埒《らち》があきません。又、自動車に乗せられて郊外のモーテルに、夜遅く落ち着いた。明日は大丈夫という事だったが、明日になると、どうしてだか一部屋足りない。事情は無論、私にはわかりません。言うまでもなく、ソヴェットでは、ホテルもサーヴィスを競う商売ではない、政府の役所の一種である。例えば区役所の窓口で、いくら交渉しても埒があかなかったという事であったろうと想像している。
「レーニングラードに行くのには、先週から新しい早い列車が出るようになったから、それに乗って戴く、出発は十一時だ」「それは有難い、時に、食堂はあるでしょうな」「それはわからない」「駅に電話で確めてもらいたい」。しかし、これも窓口で埒があかなかった。多分あるでしょうで、乗ってみると、ありはしない。腹はすく、駅弁はない。どうなる事かと思っていたら、やっと或る駅で、肉饅頭を売っている百姓が見附かった。案内の人は、プラットフォームを汗だくで駆けて、新聞紙にいっぱい買って来た。これは実にうまかった。
お断りして置くが、私は、腹が立ったから、こんな話をするのではありません。私は、世話になった事に感謝こそすれ、腹なぞ一ペんも立てた事はない。ただ、面白い事だと思うからお話しているのです。と言うのは、私は、なるほどソヴェットという国は目下建国の最中で、実に忙しい国だと合点したと申すのです。今更馬鹿気た事を合点するとおっしゃらないで下さい。オリンピックの準備などで忙しがってる国にいては、建国の忙しさというものは容易に合点のいかぬものです。私の常識からすると、ほんと言えば、ソヴェットには、文士なぞ呼ぶ暇はないと思う。
ソヴェットを旅行して、例えば、文士はこんな事を言いたがる。自分はシベリア鉄道で行きたいと言ったが許可しない。飛行機に乗せられて了って残念である。これにはシベリアを見せたくない何か訳があるに違いない、と。どうも私にはわからぬ考えである。フルシチョフ氏は、スパイは警戒しているだろうが、文士なぞ警戒する筈はない。文士にわかるような秘密は、国家の秘密ではあるまい。私がフルシチョフでも、鉄道なんか許可しません。さっさと飛行機で来てもらう。理由は簡明だ。忙しいからです。旅行前に、ある人は、こんな事を私に言った。ソヴェットに招かれても、どうせいい処ばかり見せてもらうだけだろうと。これも妙な考えです。客に悪いところを見せる馬鹿が何処にいるか。客としてもいい処ばかり見せてもらって有難う、というのが常識でしょう。
又ある文士は、ソヴェットを旅行して、ソヴェットには地図がないと言う。モスクワの街を見物しようと思っても、一流ホテルで、街の地図さえ手に入れる事が出来ない。これは、明らかに、ソヴェットの国家の秘密主義と関聯する現象である、という大論文を書いた。いかにも、わが国の知識人らしい着想である。私は、すべて他人まかせの旅だったから、地図なぞ必要としなかったが、ソヴェット国民も地図なぞ必要とはしていまい。目下、必要のないものが、在る筈はない。そう簡単に考えて置いて、どうしていけないのでしょうか。
モスクワ市民は、金があれば、自動車は買えるでしょうが、勝手に何処までもドライヴが出来るわけではあるまい。私用があるから、明日はちょっとレーニングラードまで行って来る、というわけにもいくまい。市民にとって、汽車に乗る許可が下りるかどうかが問題であるのに、食堂車があるかないかなど問題ではないわけだ。政府にしたって、地図なんぞ作る暇があったら、アパートを作らねばなるまい。
実際、アパートは、どんどん建っている。これも、こちらとは桁が違う。キエフという街があります。これは、ロシヤ国家発祥の地で、ドニエプル河の右岸の高台にある、樹木に覆われた古い実に美しい大都会です。左岸は、ドニエプルの砂が堆積した沙漠のような地帯だが、今、アパートが建っているのは、この沙漠の方だ。やがて、こちらを都会の中心部にする、と言う。旧市街はどうするんです。まあ、みんな公園にでもしちまうんだな。なるほど、これでは地図なぞ作っている暇はない。
或る朝、キエフのホテルで、食堂に下りて来ると、食卓には、皆、小さなアメリカの国旗が立っている。テーブルは予約済なのです。ソヴェットの夏は、旅行シーズンだから、大都会の一流ホテルは、旅行者で満員です。アメリカの旅行者は、ずい分多い。金と暇にまかせて、世界中を歩き廻っている人達は、先ずアメリカに一番多いでしょう。こういう人達は、世界中の名所は、もう大概見物済みで、残っているのは、ソヴェット見物ぐらいのものでしょう。モスクワの観光局が、クーポンを発行すれば、わんさと押掛けて来るのは当り前だ、と私は簡単に考えて置きます。遊山はイデオロギイには関係がない。そういうアメリカから来た材木屋の爺さんと二人で、私は朝飯を食べた。「家の女房は、ソヴェット嫌いでね、仕方がないから、アムステルダムに待たせて置いた、私は遊山客だからね」と私の顔を見て笑った。爺さんは、キエフの街は実に美しい、ずい分方々の街を見て歩いたが、これは一流だ、と激賞すると、今度は、クーポン券を取り出して、朝飯が高いと怒り出した、どうだ君は高いと思わないか、とお皿をガチャガチャやる。その様子が、私には、いかにも面白かった。
主張と宣伝とで、いつもいがみ合っている政治家より、こういう爺さんの方が、余程頼もしい気がした。そう言ってやりたかったが、英語で、面倒な事は言えませんから、君は全く正しいと言って置いた。好悪の表明は、無論、批評的判断ではないが、その代り、どれも例外なく現実的な力を持っている。批評的判断に現実的な力を持たせる為には、大手腕が要る。従って、批評的判断というものは、大体に於て空疎である。これは、私が、批評商売から得た教訓であります。材木屋の爺さんは、主張宣伝などには目もくれず、直接な見聞交際から、勝手な事をしゃべり散らして帰って行くでしょう。だが、彼が掴んで行くものは、人間的接触の確実な経験なのです。こういう観光客は年々急増するでしょう。これはよい事です。ソヴェットにも、やがて、観光客の群れをアメリカに送りこむ余裕は生ずるであろう。生じなくては話にならない。これは妙な考えでしょうか。成心ある視察団なぞ、両方からいくら繰り込んだところで、何にもなりますまい。国家間の新しい接触は、一般普通の生活人によって開かれるのではない。厄介な事だが、先ず政治力による術策で始まる他はないものでしょう。それなら、米ソ二大国民は、今日、その術策的接触を始めたばかりだ、と考えてはいけないのでしょうか。
ソヴェットという国は、目下、ひどく多忙である、という全く単純な事実を合点し直せば、謎めいて見える多くの事も、案外、氷解するのではないか。「謎の国ソヴェット」という言葉は、知識人の知的好奇心によって、玩弄され過ぎている嫌いがある、そういう事を、私は感じた。
これも、まあ似た事ですが、ソヴェットという国は、大変広い国だ、これを、私は、行ってみて合点し直した。私は酒呑みだから、ロシヤに行くとなれば、先ず何を措いてもウォツカの事を考えた。行ってみれば、葡萄《ぶどう》酒もうまい。南へ行けば、行けども行けども葡萄畠なのだからうまい筈だ。ブランディもうまい。私は、酒はわかるから、このブランディは一流品だと鑑定した。後で聞いたら、チャーチルも、ヤルタ会談の帰りには、沢山買って行ったそうです。われながら迂闊な話であります。
横浜からナホトカまで汽船で行きます。船の中で、日本を訪れたソヴェット文学者代表の人々と会った。そのうちの一人が、こんな事を言った。此の間、私の方の国で、突然遥かに見える何千米もある山が、真二つに裂けましてね、その間から氷河がせり出して来て大騒ぎになった。どうも夢のような話です。この人は、どこの連邦の代表者であったか、聞いたが忘れました。尤も、忘れるのは、私ばかりではない。私達に同行した通訳の人に、一体、ソヴェット連邦というが、何処と何処だと訊ねたら、指を折って数えていたが、後は忘れたと言いました。一と口にソヴェット文学者代表と言うが、実に、これは、いろいろあると見なければなるまい。今の氷河の詩人は、わが国で言えば、まあ、平家琵琶の歌詞のようなもの、そういう、その地方の実に古い伝統的な歌詞の作者であると聞いた。恐らく、その歌詞は、その連邦の住民の生活に必須なものであり、彼は一流の詩人に違いないだろうが、プラウダの寄稿家にとっては、夢の如き詩であろう。先刻お話したキエフという街は、ウクライナ連邦の首府である。ウクライナ作家協会は、ソヴェット作家同盟の一般的な政治的方針は、代弁出来るが、実際には、ウクライナの詩人はウクライナ語の現実性を信じなければ、いい仕事は何一つ出来ないでしょう。これはなかなかの難題です。
汽車に乗って窓外を眺めていると、行けども行けども、野っぱらと森で、一向に風景は変ってくれない。これは、狭い国に育った人間にとっては、何とも始末のつき兼ねる感じである。駅に来たから汽車が止まるのではなくて、汽車が止まったから、これは駅かと言ったようなもので、感じようと思うと感じが、逆様になる。チェホフが、或る小説に出て来る百姓に、「人間という奴を、神様が、どうしてこんなに小っぽけにお作りになったか、俺には全くわからない」という科白《せりふ》を吐かせています。これはわが国の百姓の、科白ではない。国民性とか国民感情とは何を指すのでしょうか。それは、こういう大作家達の名科白の一大集積を指す、これ以上いい定義はあろうとも思えませぬ。私は、ロシヤの十九世紀文学を愛読して来たから、この種の名科白を沢山知っています。お蔭で、ロシヤの国民性というものについて、私なりに、かなりはっきりした姿を心のなかに抱いています。ソヴェットで会う人々の顔に、私は、極く自然に、心のなかにある人物の姿を重ね合わします。この男は、あの小説で知っている。この女はあの芝居で見知り越しだ。これはなかなか楽しい事でした。
私は、特に、回顧的態度をとるという風な事をしたのではない。現在の国民性というものは、過去のうちにめぐり会って合点する他はないものです。誰でも、自分には自分の気質というものがある事を否みますまい。これについて、誰でも、はッと合点する事がある。青年には合点する暇はないかもしれないが、成熟した人間は、皆、それをやっている筈だ。何処で合点するか。それは、自分の思い出のうちより他にはありますまい。普通、文化と呼ばれている巨人の歩みにも、同じ事が起っています。過去の重荷を負って生きるという状態は、人間に極めて普通な自然な状態だからです。これを否定して生きようとは、肉体を破壊して生きようとするほど無謀な事だ。そう言えば何か過激な言葉だと思うほど、それほど、現代の人々は、こんな基本的な動かせぬ事実に鈍感になっています。文化とは将来の合理的計画建設の事だ、そちらの方ばかりに、注意が集中しているのが天下の大勢だからです。特に左翼の人々は鈍感でしょう。マルクシズムの建前から言えば過去は既に清算済みのものだからだ。だが過去とは、清算が利くようなたわいもない物かどうか、心理学の初歩でも覗けばわかる事でしょう。
私の、現代ソヴェットに関する知識は、浅薄で話にならない。ちょっと旅行したくらいでどうなるものでもありませぬ。ただ、私は、文学者になるについて、ロシヤの十九世紀文学に、非常に世話になった。ドストエフスキイという作家を読んで、私は、文学に関して、開眼したのです。実を言えば、この大先輩の墓詣りがして来たい、というのが、私の気持ちでした。私個人の感情なぞどうでもよい、そんなお話をする気はないが、ここに一つ客観的な事実があるのです。それは、十九世紀以前にロシヤ文学はないのだし、二十世紀のロシヤ文学は、最近始ったばかりである、という事だ。無論、これはひどく大ざっぱな言い方である。だが、驚くべきロシヤの歴史の特色に眼をつければ、そう申して差支えないのであります。現代ソヴェットの文化も、この特色を逃れてはいない、逃れ得ない、これが私の常識である。
日本に国民文学と呼んでいいものが生れたのは、何時ですか。言うまでもなく八世紀に現れた万葉集である。そして、これは、今日になっても、国語による及び難い詩的表現のお手本です。八世紀と言えば、ロシヤには未だ国家もありません。やがて、キエフに、ロシヤと呼ばれる最初の国家が出来たのだが、これは、スカンジナヴィアの隊商、隊商と言っても、その頃は無論軍隊であるが、この風俗も言語もまるで違う異国の軍隊の占領によって成立するので、ロシヤ国民のなかから生れた国家ではありません。御承知のように、万葉集には、天皇の歌から農民の歌まである。この基本的には共通な教養の地盤から、私達の文学史は生れ、今日まで発達して来たものだが、ロシヤには、そういう地盤は建国以来ないのです。と言うよりも、この地盤の否定によって、ロシヤは建国された。この国家権力を代弁する少数の一団と国民とが、それぞれその教養の質を異にしているという事が、以来ロシヤの歴史の最大の悩みとなったと言ってよい。それでなければ、二十世紀の大革命まで、専制政治が千年もつづいたというような不思議な事は考えられません。
ロシヤの十九世紀文学というものは、この悩みの自覚、自覚という言葉は弱い、むしろ爆発とも言うべきものであって、これを近代文学とかブルジョア文学とか呼んでみたところで、何が言えた事にもならない、ロシヤ独特の烈しい性質を持ったものです。この烈しさに、私達は勿論、世界中が驚いたのであります。
左翼の人々は、頭から、封建主義の悪口ばかり言いますが、ロシヤの専制国家は、国民の間から、極めて自然に発生して来る封建制度というものさえ、許しはしなかったのです。国民的教養の分化による普及という歴史的役目を果した封建制度というものは、ロシヤにはなかった。西欧の騎士道も日本の武士道も、ロシヤ人には、何の事やらわかりはしない。そういう国家内に生を享けて、文学者が近代的な自覚を持つとは、どういう事であるかを、ロシヤの十九世紀文学は、はっきりと語っているので、これは、言わば国民のいない国家に対する怒りと悲しみという、異様に孤独な烈しい形をとっているのです。
ロシヤの近代文学を創始したプーシュキンは言っています。「精神と才能とを持たせて、私を、ロシヤなんかに生れさせたのは、悪魔としか思えない」。ロシヤの歴史は、十九世紀に至って、はじめて真のルネッサンスを経験したと言ってよいのだが、このルネッサンスは|血腥 《ちなまぐさ》い悲劇的なものであって、プーシュキンの言葉は、この悲劇のプロローグだと言っていいのですし、追放に始まり、決闘に終ったこの人の短い生涯は、この悲劇の進行を決定して了った演出法であったと言ってもいいでしょう。
ロシヤの十九世紀文学は、一と口に言えば、本質的に革命文学である。例えば、トルストイに人道主義を読んだり、ドストエフスキイにキリスト教主義を読んだりしているのは、私達の呑気な文化環境がさせた業で、二人を裸にしてみれば、無政府主義的革命家の顔が現れるのです。文士になるとは文士という自由職業に従事する事ではなかった。そのような暇は誰にもなかった。言い換えれば、ロシヤには大衆文学というものは、発達する余地がなかったのです。ロシヤの近代思想史とは即ちロシヤ近代文学史に他ならないが、それは又ロシヤのインテリゲンチャの歴史に他ならない。ロシヤのインテリゲンチャと言いますが、インテリゲンチャという言葉はロシヤ語なのです。苛烈な専制の愚劣と無言な国民の圧力との間に挟まれて、如何に生くべきかを問う、この極めて困難な問いの吐け口を、一と筋に詩や小説や文芸批評の中に求めたロシヤにしか見られない人々を、ロシヤ語でインテリゲンチャと呼ぶのです。ロシヤの十九世紀文学ほど、恐ろしく真面目な文学は、世界中にありません。文学は書かれたというより、むしろインテリゲンチャによって文字通り生きられた。人間如何に生くべきかという文学の中心動機だけが生きられた、と言った方がよい。ゴーゴリとかトルストイとかいう大作家を、遂に、断食で死なせたり、のたれ死をさせたりしたのも、それが為だ。
インテリゲンチャに、最も強く作用した外来思想は、ソシアリズムであった。と言っていいが、ロシヤの悲劇に登場する最初のソシアリスト、ベリンスキイが口にしたのは、「ロシヤは社会ではない」という科白であった。「解放された民衆は、議会などには決して行かない。大急ぎで、酒屋に飛び込んで飲み出すだろう。窓を毀し、旦那どもの首を吊し上げるだろう」。彼も亦プーシュキンのように言えた筈なのです、「私を、ロシヤで、ソシアリストにしたのは悪魔の仕業である」と。孤独なソシアリストなどというものは意味を成さぬと言ってはならない。ソシアリズムなどという言葉は、世界語にすぎませぬ。それは、どういう現実の条件の下で生きられるかだけが問題なのです。ロシヤには、ソシアリズムを研究によって学問化する道も、政治的実践によって訓練する道もなかった。急進的なソシアリストに残されたたった一つの活路は、あのバクーニンが歩いた道でした。ロシヤの革命思想としてのソシアリズムは、アレクサンドル二世暗殺執行委員会という形に、行き着かざるを得なかったのです。この委員会の地下運動は執拗につづけられて、遂に七回目の加害が成功する。次は、アレクサンドル三世の暗殺計画である。レーニンの兄は、これに加って処刑された。一九一七年の大革命で、レーニンが、兄の敵を討ったのは、誰も知る事です。
周知のように、バクーニンは、当時のロシヤの革命的勢力の代表者であり、マルクスの「インターナショナル」のメンバーであり、「インターナショナル」の運動で、マルクスやエンゲルスと大衝突をした人物です。バクーニンの伝記というものは、実に面白いもので、いかにもロシヤの天才という印象を受けるのですが、マルクスに気に入らなかったのは、まさにこのロシヤ的なものであった。バクーニンは、ニヒリストと称する大学生達を組織すれば革命には充分だ、と豪語していた。マルクスには、そんな空想的な野人は、「インターナショナル」という合理的合法的組織をたたき壊す為にやって来たとしか思えなかった。バクーニンはバクーニンで、剰余価値だとかプロレタリアートの意識だとかと理窟ばかりこね廻しているドイツの学者などに、革命なんか出来るものかと思っていた。マルクスは、革命がプロレタリアートのいないロシヤに起る可能性なぞ、生涯、夢にも考えなかった。むしろ、アメリカで起るであろうと考えていました。
「破壊のパッションは、即ち創造のパッションである」とは、バクーニンの有名なモットーです。合理主義者マルクスには狂人のたわ言と見えたかも知れないが、バクーニンにしてみれば、これはロシヤの現実によって鍛錬された最上の革命理論だと言うでしょう。これは決して狂気ではない、インテリゲンチャの現実的な怒りであり、嘆きである、これを最も早く、又深く見抜いたのは、ドストエフスキイというロシヤ作家でした。まあ、このような事情については、私は、七八年前書いた事があるし、精《くわ》しくお話する暇もない。ただ、ここで申し上げて置きたいのは、レーニンの革命が、どうしてバクーニンの革命精神と無縁な事がありましょうか、そういう当り前な事実なのです。レーニンは、ロシヤの現実に即して事を行ったロシヤ人である。レーニンという人物は、恐らく、マルクスやエンゲルスには遠いが、バクーニンやピョートル大帝には近いのである。やがて、レーニンというロシヤ的天才の姿を、生き生きと描き出して見せてくれるロシヤ作家も現れて来るでしょう。現代ソヴェットに関心を持つ大多数の人々が、ロシヤの過去について、ひどく無関心に見えるのが、残念なのであります。
ピョートル大帝は、改革者ではない。旧を棄て新につくについては凡そ徹底していた革命家である。これはフランス革命以前の事だから、ロシヤは、どこの近代国家にも見られないような、大革命を断行した最初の国家だと言えます。だが、前にもお話したように、この国家は国民を欠いていたのです。私は、今度、レーニングラードで、ピョートルが、人間もいない、従って歴史もない、フィンランドの広漠たる沼地に、ペテルブルグという新都市を建設する為に働いたという木造の小屋を見物して、強い感慨を覚えました。ピョートルの革命は上部からの、強引な専制革命であって、国民は、これに、嫌悪と無関心とを以て対立しただけだ。ロシヤは広いのです。外来思想の有効性を信じた知識人の一団には、どんな政治的技術を以てしても、地平の果てを越え、何処までも拡がっている無言の国民の意識を目覚ます術《すべ》はなかったであろう。二十世紀の大戦で、ツァーの政府が顛覆した時、このロシヤの大勢は一変していたか。そんな事は考えられませぬ。専制政治は、ロシヤ国民の意識の糾合にかけては、ただ失敗を繰返して来ただけなのです。
レーニンが目指したものは、コンミュニズムの勝利ではない。革命の成功である。彼は、マルクシズムの理論家ではない。ロシヤは、今、何を必要としているかを、誰よりもよく知った不抜の実行家です。彼は、敗戦が、革命の最大の機会である事を、マルクシズムが、革命の最大の手段である事を見抜いた人です。レーニンの怒りには、バクーニンの怒りのようにロマンチックなものはない、全く冷静透徹した怒りだと言えましょうが、「破壊のパッションは、即ち創造のパッションである」というモットーは、バクーニン直伝のものである。彼は、破壊を目指さぬ、あらゆる改良主義、漸進主義を敵に廻して戦った。彼が、戦術上、一番頼みにしたのは、戦場から続々と引上げて来る兵士、つまり農民であって、インテリゲンチャではない。彼の革命が壊したものは、資本でも資本主義でもない、当時のロシヤ社会の上部構造一切である。私は、誇大な言を弄しているのではない。革命を美化する事など、私には真っぴらなだけです。
これを、心に入れて置けば、彼の死後の有名な「鉄のカーテン」時代も、よく理解する事が出来るでしょう。スターリンは、何も奇怪な人物ではないし、「鉄のカーテン」という政策も、少しも非常識なものではないでしょう。政治を動かしているものは、理論ではない、必要である。「鉄のカーテン」でも下さなければ、到底収拾のつかぬような事態を、革命は遺して行ったのだ。スターリンが、必要から行わねばならなかったのは、コンミュニズムの普及とか、言論の統制とかいう生やさしい事ではなかったでしょう。敢えて言えば、それは国家の設計であり、国民意識の製造である。先刻、ソヴェットという国は、目下建国最中で、大変忙しいと言ったら、諸君はお笑いになったが、私の言う意味は、そういう意味なのだ。古くから国家的観念というものが普及し安定した国に暮している人々には、ある政治理論を信仰したボルシェヴィキという政党が、前の政府に取って代り、突然狂気じみた文化統制を始めたという風に考え勝ちで、建国の大騒動などというものは合点しにくい。ボルシェヴィキとは多数党という意味だが、実際には、極く極く少数の革命専門家達を指すのです。文化統制という言葉の意味合いにしても、ソヴェットでは全く新しい国家の統一的設計の為の、極端な実証主義と実用主義との行使、この手段の必要性、積極性というところを考えなければならぬと思う。
フルシチョフ氏は、後七年たてば、アメリカに追いつくと言っている。あれだけの資源を持ち、あれだけの人々が働いているなら、恐らく、それは、文化の物質面ではその通りかも知れない。しかし、人間の精神は、決して劃一的な理論や設計に従うものではない。ナホトカに、船で着いた時に、大勢の中学生と覚しい女生徒の出迎えを受けた。或る生徒は、列車に乗り込もうと歩いて行く私に追いすがり、小さな肖像写真入りの文学史めいたものを見せてくれました。日本という野蛮国から、はるばるソヴェットを学ぶ為に来た老文学者への好意と誇りとを、私は、貧しい服装をした少女の顔に、直ぐ読みとりました。一人の生徒は、衛星打上げ記念と覚しい小さなバッジを、屋台店で買って、私の胸に附けてくれた。この時、私に直ぐ浮んだのは、次のような考えでした。未経験な人達を一面的に教育するのはいかにも易しい事だ。しかし、ソヴェットの行手に山積しているのは、恐らく精神的な難題であろうという考えでした。
フルシチョフ氏は、今「雪解け」政策を取っているという事が言われている。現実の必要が、いつも政治家の政策を変えます。「雪解け」という言葉が、特に、文学の世界で、しきりに言われるのも、文化の精神面に関し、文学が一番能弁で、表現的である為でしょう。ソヴェット文学は、政府の指導組織の下で、長い間、軍隊のように進行して来ました。そんな事が、いつまで続くわけがない。ソヴェット文学の研究者によれば、現代のソヴェット文学の作品には、十九世紀のロシヤの大作家の伝統が、生き返って来たそうです。当然の事と思われる。これは、精神の抵抗の現れです。社会的イデオロギイに満腹すれば、作家は、人間の個性だとか、自国の伝統だとかの問題に必然的に逢着する。これは作家の思い附きなどでは決してない、文学自体が生きて行く運動の必然性から来る事です。この精神の必要を押しつぶすどんな力もないのです。
ソヴェットに於いて、様々な現実的条件の為に、コンミュニズムというものは、かつて人間精神の原理たるかのような装いをした事があったが、私は、今日のソヴェットに関しては、それは単なる基本的政策になったと見て差支えないと思っている。それは、ソヴェット国民生活の健全な発展を保証する限り正しい政策であろう。ソヴェット国家は、世界の共産主義化を目指しているというような事も言われていますが、私は、いらざるお世話だ、と簡単に考えているだけだし、フルシチョフ氏が、そんな空想家だなどと考えた事もない。何処の国にでも通ずるような抽象的政策など振廻していては、自国の政治だって覚束ないではないか。
時間が来たようです。雑然たる話で恐縮です。
[#地付き](以上は、大体、昭和三十八年十一月二十六日文藝春秋祭の講演速記に基づくものである)
〈底 本〉文春文庫 昭和四十九年六月二十五日刊