小林秀雄
モオツァルト
目次
モオツァルト
表現について
ヴァイオリニスト
バッハ
蓄音機
ペレアスとメリザンド
バイロイトにて
モオツァルト
母上の霊に捧ぐ
エッケルマンによれば、ゲエテは、モオツァルトについて一風変わった考え方をしていたそうである。いかにも美しく、親しみやすく、誰でもまねしたがるが、一人として成功しなかった。幾時か誰かが成功するかもしれぬというようなことさえ考えられぬ。元来がそういう仕組にできあがっている音楽だからだ。はっきり言ってしまえば、人間どもをからかうために、悪魔が発明した音楽だと言うのである。ゲエテは決して冗談を言うつもりではなかった。その証拠には、こういう考え方は、青年時代にはできぬものだ、と断わっている。(エッケルマン、「ゲエテとの対話」――一八二九年)
ここで、美しいモオツァルトの音楽を聞くごとに、悪魔の罠《わな》を感じて、心乱れた異様な老人を想像してみるのは悪くあるまい。この意見は全く音楽美学というようなものではないのだから。それに、「ファウスト」の第二部を苦吟していたこの八十歳の大自意識家が、どんな悩みを、人知れず抱いていたか知れたものではあるまい。
トルストイは、ベエトオヴェンのクロイチェル・ソナタのプレストをきき、ゲエテは、ハ短調シンフォニイの第一楽章をきき、それぞれ異常な昂奮《こうふん》を経験したと言う。トルストイは、やがて「クロイチェル・ソナタ」を書いて、この奇怪な音楽家に徹底した復讐を行なったが、ゲエテは、ベエトオヴェンに関して、とうとう頑固な沈黙を守り通した。有名になって逸話なみに扱われるのは、ちと気味の悪すぎる話である。底の知れない穴が、ポッカリと口を開けていて、そこから天才の独断と創造力とがのぞいている。
当代一流の音楽、特にベエトオヴェンの音楽に対するゲエテの無理解あるいは無関心、この通説は、ロマン・ロオランの綿密な研究(Goethe et Beethoven)が現われて以来、もはや通用しなくなったようであるが、この興味ある研究は、意外なほど凡庸な結論に達している。晩年になっても少しも衰えなかったゲエテの好奇心は、ベエトオヴェンの音楽を鑑賞する機会を決して逃《のが》しはしなかったし、進歩して止まぬゲエテの頭脳は、驚くべき新音楽の価値を充分に認めた。ただ残念なことには、かつて七歳の神童モオツァルトの演奏に酔ったゲエテの耳は、彼の頭ほど速く進歩するわけにはいかなかった。耳が頭に反抗した。これが、ロオランの結論である。結論が間違っているとは言うまい、ただ僕は、この有名な本を読んだ時、そこに集められた豊富な文献から、いろいろと空想をするのが楽しく、そういう結論は、必ずしも必要だとは思わなかったのである。
メンデルスゾオンが、ゲエテにベエトオヴェンのハ短調シンフォニイをピアノで弾いてきかせた時、ゲエテは、部屋の暗い片隅に、雷神ユピテルのように坐《すわ》って、メンデルスゾオンが、ベエトオヴェンの話をするのを、いかにも不快そうに聞いていたそうであるが、やがて第一楽章が鳴りだすと、異常な昂奮がゲエテを捉《とら》えた。「人を驚かすだけだ、感動させるというものじゃない、実に大げさだ」と言い、しばらくぶつぶつ口の中でつぶやいていたが、すっかり黙り込んでしまった。長いことたって、「たいへんなものだ。気違いじみている。まるで家が壊れそうだ。皆がいっしょにやったら、いったいどんなことになるだろう」。食卓につき、話が他のことになっても、彼は何やら口の中でぶつぶつつぶやいていた、と言う。
もちろん、ぶつぶつと自問自答していたことのほうが大事だったのである。今はもう死にきったと信じたSturm und Drangの亡霊が、またまた新しい意匠を凝らして蘇《よみがえ》り、抗し難い魅惑で現われてくるのを、彼は見なかったであろうか。大げさな音楽、むろん、そんな呪文《じゆもん》では悪魔は消えはしなかった。何はともあれ、これは他人事ではなかったからである。震駭《しんがい》したのはゲエテという不安な魂であって、彼の耳でもなければ頭でもない。彼の耳が彼の頭の進歩についていけなかった、そういうこともどうもありそうもない話だ。ゲエテが聞いたら苦笑したかもしれぬ、昔ながらの無垢《むく》な耳を保存するのは、なみたいていの苦労ではない、と言ったかもしれない。おそらくゲエテは何もかも感じ取ったのである。少なくとも、ベエトオヴェンの和声的器楽の斬新で強烈な展開に熱狂し喝采《かつさい》していたベルリンの聴衆の耳より、はるかに深いものを聞き分けていたように思える。妙な言い方をするようだが、聞いてはいけないものまで聞いてしまったように思える。ワグネルの「無限旋律」に慄然《りつぜん》としたニイチェが、発狂の前年、「ニイチェ対ワグネル」を書いて最後の自虐の機会を捉えたのは周知のことだが、それとゲエテの場合との間には、何か深いアナロジイがあるように思えてならぬ。それに、「ファウスト」の完成を、自分に納得させるために、八重の封印の必要を感じていたゲエテが、発狂の前年になかったと誰が言えようか。二人とも鑑賞家の限度を超えて聞いた。もはや音楽なぞ鳴ってはいなかった。めいめいがわれとわが心に問い、苛立《いらだ》ったのであった。
大理論家ワグネルの不屈不撓《ふくつふとう》の意志なぞ問題にしなかったニイチェは、ワグネルの裡《うち》に、ワグネリアンの頽廃《たいはい》を聞き分けた。同じような天才の独断により、ゲエテは、壮年期のベエトオヴェンの音楽に、異常な自己主張の危険、人間的なあまりに人間的な演劇を聞き分けなかったであろうか。この音楽が、ゲエテの平静を乱したとは言うまい。ファウスト博士を連れた彼の心の嵐は死ぬまで止む時はなかっただろうから。しかし、彼の嵐には、彼自身の内的な論理があり、他人に掻《か》き立てられる筋のものではなかった。ベエトオヴェンは、たしかに自分の播《ま》いた種は刈りとったのだが、彼が晩年、どんな孤独な道に分け入り、どんな具合に己《おの》れを救助したかについて、おそらくゲエテは全く無関心であった。ベエトオヴェンという沃野《よくや》に、ゲエテが、浪漫派音楽家たちのどのような花園を予感したか想像に難くない。もっとも、浪漫主義を嫌った古典主義者ゲエテという周知の命題を、僕は、ここで応用する気にはなれぬ。この応用問題は、うまく解かれたためしがない。
ワグネルの「曖昧さ」を一途《いちず》に嫌ったニイチェは、モオツァルトの「優しい黄金の厳粛」を想った。ベエトオヴェンを嫌いまた愛したゲエテもまたモオツァルトを想ったが、彼は、ニイチェより美についてはるかに複雑な苦しみを嘗《な》めていた。彼が、モオツァルトについて、どんな奇妙な考えを持っていたかは、冒頭に述べたとおりである。
「人間も年をとると、世の中を若い時とは違ったふうに考えるようになる」と彼はある日エッケルマンに言う。彼は老い、若い時代が始まろうとしていた。だが、彼は若い時代とは違ったふうに考えていた。個性と時代との相関を信じ、自己主張、自己告白の特権を信じて動きだした青年たちの群れは、彼の同情を惹《ひ》くに足らなかった。歴史の「無限旋律」などにいったい何の意味があろうか。「ファウスト」は、どうしても完成《ヽヽ》されねばならぬ。やがてみずから破り棄てると知りつつ、八重の封印をしてまでも。彼は、「ファウスト」第二部の音楽化というほとんど不可能な夢に憑かれていた。彼の詩は、音楽家たちの(シュウベルトの、ヴォルフの、シュウマンさえの)罠であったが、音楽はついにゲエテの罠だったのだろうか。それはわからぬ。ともあれ、彼には、「ドン・ジョヴァンニ」の作者以外の音楽家を考えることができなかった。しかし、作者はもうこの世にいなかった。この封印は人間の手がしたのではない。ある日、この作者が、ゲエテの耳元で何事かをささやいたと見る間に、それはおよそ音楽史的な意味を剥奪《はくだつ》された巨大な音と変じ、彼の五体に鳴り渡る。死の国に還《かえ》るヘレナを送る音楽を彼は聞いたであろうか。彼の深奥にあるある苦い思想が、モオツァルトというある本質的な謎に共鳴する。ゲエテは、エッケルマンに話してみようとしたが、うまくいかなかった。むろん、これは僕の空想だ。僕はそんな思想とも音楽ともつかぬものを追って、幾日も机の前に坐っている。たくさんなことが書けそうな気がするが、またなんにも書けそうもない気もする。
もう二十年も昔のことを、どういうふうに思い出したらよいかわからないのであるが、僕の乱脈な放浪時代のある冬の夜、大阪の道頓堀をうろついていた時、突然、このト短調シンフォニイの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである。僕がその時、何を考えていたか忘れた。いずれ人生だとか文学だとか絶望だとか孤独だとか、そういう自分でもよく意味のわからぬやくざな言葉で頭をいっぱいにして、犬のようにうろついていたのだろう。ともかく、それは、自分で想像してみたとはどうしても思えなかった。街の雑踏の中を歩く、静まり返った僕の頭の中で、誰かがはっきりと演奏したように鳴った。僕は、脳味噌に手術を受けたように驚き、感動で慄《ふる》えた。百貨店に駆け込み、レコオドを聞いたが、もはや感動は還ってこなかった。自分のこんな病的な感覚に意味があるなどと言うのではない。モオツァルトのことを書こうとして、彼に関する自分のいちばん痛切な経験が、おのずから思い出されたにすぎないのであるが、いったい、今、自分は、ト短調シンフォニイを、そのころよりよく理解しているのだろうか、という考えは、無意味とは思えないのである。
僕は、そのころ、モオツァルトの未完成の肖像画の写真を一枚持っていて、大事にしていた。それは、巧みな絵ではないが、美しい女のような顔で、何か恐ろしく不幸な感情が現われている奇妙な絵であった。モオツァルトは、大きな眼をいっぱいに見開いて、少しうつ向きになっていた。人間は、人前で、こんな顔ができるものではない。彼は、画家が眼の前にいることなど、全く忘れてしまっているに違いない。二重瞼の大きな眼はなんにも見てはいない。世界はとうに消えている。ある巨《おお》きな悩みがあり、彼の心は、それでいっぱいになっている。眼も口もなんの用もなさぬ。彼はいっさいを耳に賭《か》けて待っている。耳は動物の耳のように動いているかもしれぬ。が、頭髪に隠れて見えぬ。ト短調シンフォニイは、ときどきこんな顔をしなければならない人物から生まれたものに間違いはない、僕はそう信じた。なんというたくさんな悩みが、なんという単純極まる形式を発見しているか。内容と形式との見事な一致というような尋常な言葉では、言い現わし難いものがある。全く相異なる二つの精神状態のほとんど奇蹟のような合一が行なわれているように見える。名づけ難い災厄や不幸や苦痛の動きが、そのまま同時に、どうしてこんな正確な単純な美しさを現わすことができるのだろうか。それがすなわちモオツァルトという天才が追い求めた対象の深さとか純粋さとかいうものなのだろうか。ほんとうに悲しい音楽とは、こういうものであろうと僕は思った。その悲しさは、透明な冷たい水のように、僕の乾いた喉《のど》をうるおし、僕を鼓舞する、そんなことを思った。注意しておきたいが、ちょうどそのころは、大阪の街は、ネオンサインとジャズとで充満し、低劣な流行小歌は、電波のように夜空を走り、放浪児の若い肉体の弱点という弱点を刺激して、僕は断腸の想いがしていたのである。
思い出しているのではない。モオツァルトの音楽を思い出すというようなことはできない。それは、いつも生まれたばかりの姿で現われ、その時々の僕の思想や感情には全く無頓着に、なんというか、絶対的な新鮮性とでもいうべきもので、僕を驚かす。人間は彼の優しさに馴れ合うことはできない。彼は切れ味のいい鋼鉄のように撓やかだ。
モオツァルトの音楽に夢中になっていたあのころ、僕にはすでに何もかもわかってはいなかったのか。もしそうでなければ、今でもまだ何一つ知らずにいるということになる。どちらかである。なるほど、あのころ、知らずに大事にしていた絵は、ヨゼフ・ランゲが一七八二年に書いた絵だと今では承知しているが、そんなことに何の意味があろう。してみると僕が今でも、犬のようにどこかをうろついているということに間違いないかもしれない。わずかばかりのレコオドにわずかばかりのスコア、それに、決して正確な音を出したがらぬ古びた安物の蓄音機、――何を不服を言うことがあろう。たとえば海が黒くなり、空が茜色《あかねいろ》に染まるごとに、モオツァルトのポリフォニイが威嚇《いかく》するように鳴るならば。
「――構想は、あたかも奔流のように、実に鮮《あざ》やかに心のなかに姿を現わします。しかし、それがどこから来るのか、どうして現われるのか私にはわからないし、私とてもこれに一指も触れることはできません。――後から後からいろいろな構想は、対位法やさまざまな楽器の音色にしたがって私に迫ってくる。ちょうどパイを作るのに、必要なだけのかけらがいるようなものです。こうしてできあがったものは、邪魔のはいらぬ限り私の魂を昂奮させる。すると、それはますます大きなものになり、私は、それをいよいよ広くはっきりと展開させる。そして、それは、たとえどんなに長いものであろうとも、私の頭の中で実際にほとんど完成される。私は、ちょうど美しい一幅の絵あるいは麗しい人でも見るように、心のうちで、一目でそれを見渡します。後になれば、むろん次々に順を追うて現われるものですが、想像の中では、そういう具合には現われず、まるですべてのものが皆いっしょになって聞こえるのです。たいしたご馳走ですよ。美しい夢でも見ているように、すべての発見や構成が、想像のうちで行なわれるのです。――いったん、こうしてできあがってしまうと、もう私は容易に忘れませぬ、ということこそ神様が私に賜わった最上の才能でしょう。だから、後で書く段になれば、脳髄という袋の中から、今申し上げたようにして蒐集《しゆうしゆう》したものを取り出してくるだけです。――周囲で何事が起ころうとも、私はかまわず書けますし、また書きながら、鶏の話|家鴨《あひる》の話、あるいはかれこれ人の噂《うわさ》などして興ずることもできます。しかし、仕事をしながら、どうして、私のすることがすべてモオツァルトらしい形式や手法に従い、他人の手法に従わぬかということは、私の鼻がどうしてこんなに大きく前に曲がって突き出しているか、そして、それがまさしくモオツァルト風で他人風ではないか、というのと同断でしょう。私は別に他人と異なったことをやろうと考えているわけではないのですから。――」
このヤアンによって保証された有名な手紙は、モオツァルトの天才の極印として、幾多の評家の手で引用された。確かに理由のないことではない。どんな音楽の天才も、このような驚くべき経験を語ったものはないのである。しかしまた、どんな音楽の天才も、自分にいちばん大切な事柄についてこんなに子供らしく語った人もいなかったのであって、どちらかと言えば僕は音楽批評家たちの注意したがらぬそちらのほうに興味を惹《ひ》かれる。「構想が奔流のように現われる」人でなければ、あんな短い生涯に、あれほどの仕事はできなかっただろうし、ノオトもなければヴァリアントもなく、修整の跡もとどめぬ彼の原譜は、彼が家鴨や鶏の話をしながら書いたことを証明している。手紙で語られている事実はおそらく少しも誇張されてはいまい。何もかもそのとおりだったろうが、どうも手の付けようがない。言わば精神生理学的奇蹟として永久に残るより他《ほか》はあるまい。しかし、これを語るモオツァルトの子供らしさということになると、子供らしさという言葉の意味の深さに応じて、いろいろ思案を巡らす余地がありそうに思える。問題は多岐に分かれ、意外に遠いところまで、僕を引っ張っていくように思えるのである。
自分は音楽家だから、思想や感情を音を使ってしか表現できない、とたどたどしい筆で、モオツァルトは父親に書いている(マインハイム、一七七七年、十一月八日)。ところが、このモオツァルトにはわかりきった事柄が、しだいにわからなくなってくるというふうに、音楽の歴史は進んでいった。彼の死に続く、浪漫主義音楽の時代は音楽家の意識の最重要部は、音でできあがっているという、少なくとも当人にとっては自明な事柄が、見る見る曖昧になっていく時代とも定義できるように思う。音の世界に言葉が侵入してきた結果である。個性や主観の重視は、特殊な心理や感情の発見と意識とを伴い、当然、これはまた己れの生活経験の独特な解釈や形式を必要とするに至る。そしてこういう傾向は、言葉というものの豊富な精緻《せいち》な使用なくては行なわれ難い。したがって、音楽家の戦いは、漠然とした音という材料を、言葉によって、いかに分析し計量し限定して、音楽の運動を保証しようかという方向を取らざるを得なくなる。和声組織の実験器としてのピアノの多様で自由な表現力の上に、シュウマンという分析家が打ち立てた音楽と言葉との合一という原理は、彼の狂死が暗に語っているように、はなはだ不安定な危険な原理であった。ワグネリアンの大管絃楽が口を開けて待っていた。この変幻自在な解体した和声組織は、音楽家が、めいめいの特権と信じ込んだ幸福や不幸に関するあらゆる心理学を、平気でそのまま呑《の》み込んだ。
音楽の代わりに、音楽の観念的解釈で頭をいっぱいにし、自他の音楽について、いよいよ雄弁に語る術《すべ》を覚えた人々は、大管絃楽の雲の彼方に、モオツァルトの可愛らしい赤い上着がチラチラするのを眺めた。もちろん、それは、彼らが、モオツァルトのために新調してやったものであったが、彼らには、そうとはどうしても思えなかった。あんまり似合っていたから。時の勢いというものは、皆そういうものだ。上着は、優美、均斉、快活、静穏等々のごくわずかばかりの言葉でできていたが、この失語症の神童には、いかにもしっくりとして見えたのである。そこに、「永遠の小児モオツァルト」という伝説ができあがる。彼が、驚くべき神童だったことは疑う余地がなく、したがって、いろいろな伝説もこれに付きまとうわけだが、その中で最大のもの、いちばんまじめくさったものは、おそらく彼が死ぬまで神童だったという伝説ではあるまいか。
浪漫派音楽が独創と新奇とを追うのに疲れ、その野心的な意図が要求する形式の複雑さや感受性の濫用に堪えかねて、自壊作用を起こすようになると、純粋な旋律や単純な形式を懐《なつか》しむようになる。おそらく現代の音楽家の間には、バッハに還《かえ》れとか、モオツァルトに還れというような説も行なわれているであろう。だが、僕は容易には信じない。と言うよりも、そういうことにあまり興味がない。反動というものには、いつも相応の真実はあるのだろうが、僕には音楽史家の同情心が不足しているらしい。純粋さとか自然さとかいう元来が惑わしに充ちた言葉が、新古典派音楽家の計量や分析に疲れた意識のなかで、どんな観念の極限を語るに至っているか、それは難《むず》かしいことである。たとえば、ストラヴィンスキイの復古主義は、およそ徹底したものだろうが、彼のカノンは決してバッハのカノンではない。無用な装飾を棄て、重い衣裳《いしよう》を脱いだところで、裸になれるとは限らない。何もかもあまりたくさんなものを持ち過ぎたと気がつく人も、はじめから持っていなかったものには気がつかぬかもしれない。ともあれ、現代音楽家の窮余の一策としてのモオツァルトというものは、僕には徒《いたずら》な難題に思われる。雄弁術を覚え込んでしまった音楽家たちの失語症たらんとする試み。――ここに現われる純粋さとか自然さとかいうものは、もしかしたら人間にも自然にも関係のない一種の仮構物かもしれぬ。
美は人を沈黙させるとはよく言われることだが、このことを徹底して考えている人は、意外に少ないものである。優れた芸術作品は、必ず言うに言われぬあるものを表現していて、これに対しては学問上の言語も、実生活上の言葉もなすところを知らず、僕らはやむなく口を噤《つぐ》むのであるが、一方、この沈黙は空虚ではなく感動に充ちているから、何かを語ろうとする衝動を抑え難く、しかも、口を開けば嘘《うそ》になるという意識を眠らせてはならぬ。そういう沈黙を創《つく》り出すには大手腕を要し、そういう沈黙に堪えるには作品に対する痛切な愛情を必要とする。美というものは、現実にある一つの抗し難い力であって、妙な言い方をするようだが、普通一般に考えられているよりも実ははるかに美しくもなく愉快でもないものである。
美と呼ぼうが思想と呼ぼうが、要するに優れた芸術作品が表現する一種言い難いあるものは、その作品固有の様式と離すことができない。これもまたおよそ芸術を語るものの常識であり、あらゆる芸術に通ずる原理だとさえ言えるのだが、この原理が、現代において、どのような危険に曝《さら》されているかに注意する人も意外に少ない。注意してもむだだということになってしまったのかもしれない。
明確な形もなく意味もない音の組合せの上に建てられた音楽という建築は、この原理を明示するに最適な、ほとんど模範的な芸術と言えるのだが、この芸術も、今日では、和声組織という骨組みの解体により、群がる思想や感情や心理の干渉を受けて、無数の風穴を開けられ、わずかに、感官を麻痺させるような効果の上に揺らいでいるありさまである。人々は音楽についてあらゆることをしゃべる。音を正当に語るものは音しかないという真理はもはや単純すぎて(実は深すぎるのだが)人々を立ち止まらせる力がない。音楽さえもう沈黙を表現するのに失敗している今日、他の芸術について何を言おうか。
たとえば、風俗を描写しようと心理を告白しようとあるいは何を主張し何を批判しようと、そういうわかりきったことは、それだけではなんのことでもない、ほんの手段にすぎない、そういうものが相寄り、相集まり、要するに数十万語を費やして、一つの沈黙を表現するのが自分の目的だ、と覚悟した小説家、また、たとえば、実証とか論証とかいう言葉に引きずられては編み出す、あれこれの思想、言い代えれば相手を論破し説得することによってわずかに生を保つような思想に倦《あ》き果てて、思想そのものの表現を目ざすに至った思想家、そういう怪物たちは、現代にはもはやいないのである。真らしいものが美しいものに取って代わった、詮ずるところそういうことの結果であろうか。それにしても、真理というものは、確実なもの正確なものとはもともとなんの関係もないのかもしれないのだ。美は真の母かもしれないのだ。しかしそれはもう晦渋《かいじゆう》な深い思想となりおわった。
モオツァルトに関する最近の名著と言われるウィゼワの研究(T. de Wyzewa et G. de Saint-Foix; W. A. Mozart.)が、モオツァルトの二十一歳の時で中絶しているのは残念なことだが、もっと残念なのは、著者たちのおそらく驚くほどの辛労の結果、分析され解説されているモオツァルトの初期作品が、僕らの環境ではまるで聞く機会がないことである。けれども、音楽家の正体をつかむためには、何をおいてもまず耳を信ずることであって、その伝記的事実のごときは、邪魔にこそなれ、助けにはならぬ、というはっきりした考えを実行している点で、少なくともモオツァルトに関する限り、おそらく唯一の著書であること、また、そういう仕事がどんな勇気と忍耐とを要するかということは、僕のような素人《しろうと》にも充分合点がいき、多くの啓示を得たのであった。次のような文句に出会った。
「この多産な時期における器楽形式に関する幾多の問題の、どれを取り上げてみても、次のような考えに落ち着かざるを得ない。すなわち、円熟し発展した形で後の作品に現われるほとんどすべての新機軸は、一七七二年の作品に、芽生えとして存する、と。彼にしてみれば、これは、不思議な深さと広さとを持った精神の危機である。彼は、生まれてはじめて、自分の作品の審美上の大問題に、はっきり意識してぶつかったと思われる」(vol. 1. page 418.)
一七七二年と言えば、モオツァルトの十六歳の時である。この精神の危機が、当時の姉への手紙で、駄洒落を飛ばしているモオツァルトとも、また、「ヴォルフガングは元気だ、退屈しのぎに四重奏を書いている」(レオポルドより妻へ、一七七二年、十月二十八日)というような父親の観察した息子ともなんの関係もないのは、見やすいことだが、さらに六つでメニュエットを作ったとか「ドン・ジョヴァンニ」の序曲を一夜で書いたとかいう類の伝記作家たちのどんな証言とも関係がないとさえ僕は言いたい。ウィゼワの証言には、伝説なぞ付き纏う余地はない。はっきりしている。天賦の才というものが、モオツァルトにはどんな重荷であったかを明示している。才能があるおかげで仕事が楽なのは凡才に限るのである。十六歳で、すでに、創作方法上の意識の限界に達したとはいったいどういうことか。「作曲のどんな種類でも、どんな様式でも考えられるし、まねできる」と彼は父親に書く(一七七八年、二月七日)。しかし、そういう次第になったというそのことこそ、実は何にも増してつらいことだ、とは書かない。書いてもむだだからである。彼は彼なりに大自意識家であった。もし彼に詩才があったなら、マラルメのように「すべての書は読まれたり、肉は悲し」と嘆けただろう。少しも唐突な比較ではない。彼は、楽才の赴《おもむ》くがままに、一七七二年の一群のシンフォニイで同じ苦しみを語っているはずだ。
天才とは努力しうる才だ、というゲエテの有名な言葉は、ほとんど理解されていない。努力は凡才でもするからである。しかし、努力を要せず成功する場合には努力はしまい。彼には、いつもそうあって欲しいのである。天才はむしろ努力を発明する。凡才が容易と見るところに、何故、天才は難問を見るということがしばしば起こるのか。詮ずるところ、強い精神は、容易なことを嫌うからだということになろう。自由な創造、ただそんなふうに見えるだけだ。制約も障碍もないところで、精神はどうしてその力を試す機会をつかむか。どこにも困難がなければ、当然進んで困難を発明する必要を覚えるだろう。それが凡才には適《かな》わぬ。抵抗物のないところに創造という行為はない。これが、芸術における形式の必然性の意味でもある。あり余る才能も頼むに足らぬ、隅々まで意識され、なんの秘密もなくなってしまった世界であってみれば、――天才には天才さえ容易とみえる時期が到来するかもしれぬ。モオツァルトには非常に早く来た。ウィゼワの言う「モオツァルトの精神の危機」とは、そういうものではなかったか。もはや五里霧中の努力しか残されてはいない。努力は五里霧中のものでなければならぬ。努力は計算ではないのだから。これは、困難や障碍の発明による自己改変の長い道だ。いつも与えられた困難だけを、どうにか切り抜けてきた、いわゆる世の経験家や苦労人は、一見意外に思われるほど発育不全な自己を持っているのである。
一七八二年から八五年にかけて、モオツァルトは、六つの絃楽四重奏曲を作り、これをハイドンに捧げた。献辞のなかで、「これらの子供たちが、私の長い間の刻苦精励による結実であることを信じていただきたい」と言い、「今日から貴方のお世話になる以上、父親の権利も、そっくり貴方にお委《ゆだ》ねする。親の欲目で見えなかった欠点もあろうが、大目に見てやっていただきたい」と言っている。刻苦精励による借財の返却、努力しうる才、他にどんな道があったろうか。音楽上の借財に比べれば、彼が実生活の上で苦しんだ借財のごときは言うに足りなかったのである。
この六つのクワルテットは、およそクワルテット史上の最大事件の一つと言えるのだが、モオツァルト自身の仕事の上でも、ほとんど当時の聴衆なぞ眼中にないような、きわめて内的なこれらの作品は、続いて起こった「フィガロの結婚」の出現よりはるかに大事な事件に思われる。僕はその最初のもの(K.387)を聞くごとに、モオツァルトの円熟した肉体が現われ、血が流れ、彼の真の伝説、彼の黄金伝説は、ここにはじまるという想いに感動を覚えるのである。
プロドンムが、モオツァルトに面識あった人々の記録をたくさん集めているが(J. G.Prodhomme; Mozart raconpar ceux qui I'ont vu.)そのなかで、特に僕の注意をひいた話が二つある。義妹のゾフィイ・ハイベルはこんなことを言っている。
「彼はいつも機嫌がよかった。しかし、いちばん上機嫌な時でも、心はまるでよそにあるというふうであった。仕事をしながら、全く他のことに気を取られているていで、刺すような眼つきでじっと眼を据えていながら、どんなことにも、つまらぬことにもおもしろいことにも、彼の口はきちんと応答するのである。朝、顔を洗っている時でさえ、部屋を行ったり来たり、雨足の踵《かかと》をコツコツぶつけてみたり、少しもじっとしていない、そしていつも何か考えている。食卓につくと、ナプキンの端をつかみ、ギリギリよじって、鼻の下を行ったり来たりさせるのだが、考えごとをしているから、当人は何をしているか知らぬ様子だ。そんなことをしながら、さも人を馬鹿にしたような口つきをよくする。馬だとか玉突きだとか、何か新しい遊びごとがあれば、何にでもたちまち夢中になった。細君は夫にいかがわしいつきあいをさせまいとあらゆる手を尽くすのであった。彼はいつも手や足を動かしていた。いつも何かを、たとえば帽子とかポケットとか時計の鎖だとか椅子だとかをピアノのようにもてあそんでいた」
もう一つは、義兄のヨゼフ・ランゲの書いたもので、彼の絵についてはすでに触れたが、この素人画家が、モオツァルトの肖像を描こうとした動機は、おそらくここにあっただろう。彼はこう言っている。
「この偉人の奇癖については、すでに多くのことが書かれているが、私はここで次の一事を思いだすだけで充分だとしておこう。彼はどう見ても大人物とは見えなかったが、特に大事な仕事に没頭している時の言行はひどいものであった。あれやこれや前後もなくしゃべり散らすのみならず、この人の口からとあきれるようなあらゆる種類の冗談を言う。思いきってふざけた無作法な態度をする。自分のことはおろか、およそなんにも考えてはいないというふうに見えた。あるいは理由はわからぬが、そういう軽薄な外見の裏に、わざと内心の苦痛を隠しているのかもしれない。あるいはまた、その音楽の高貴な思想と日常生活の俗悪さとを乱暴に対照させて悦に入り、内心、一種のアイロニイを楽しんでいたのかもしれぬ。私としては、こういう卓絶した芸術家が、自分の芸術を崇《あが》めるあまり、自分という人間のほうは取るに足らぬと見限って、果てはまるで馬鹿者のようにしてしまう、そういうこともありえぬことではあるまいと考えた」
二つともなかなかおもしろい話であるが、僕が特にここに引用したのは、モオツァルトの伝記は、この二つの話に要約されているとさえ思われたからだ。ベエトオヴェンも、仕事に熱中している時には、みずから「ラプトゥス」と呼んでいた一種の狂気状態に落ち入った。これはモオツァルトの白痴状態とは、趣が変わっていて、怒鳴ったり喚《わめ》いたりの人騒がせだったそうである。一人であばれているベエトオヴェンからは、逃げ出せば済んだだろうが、逃げ出すには上機嫌過ぎたモオツァルトとなると、これは、ランゲのような正直な友だちにはよほど厄介《やつかい》なことだったろうと察せられる。彼らのラプトゥスが彼らの天才と無関係とは考えられぬ以上、これはまた評家にとっても込み入った厄介な問題となろう。僕は、何も天才狂人説などを説こうとするのではない。人間は、皆それぞれのラプトゥスを持っていると簡単明瞭に考えているだけである。要するに数の問題だ。気違いと言われないためには、同類をふやせばよいだろう。
それはともかく、モオツァルトの伝記作者たちは、皆手こずっている。確実と思われる彼の生活記録をどう配列してみても、彼の生涯に関する統一ある観念は得られないからである。妹の観察した「少しもじっとしていないモオツァルト」は彼の生涯のあらゆる場所に現われて、ナプキンをよじる。六つの時から、父親の野心と監視の下に、ヨオロッパじゅうを引きずり廻され、作曲と演奏とに寧日のない彼の姿は、ほとんど旅興行の曲馬団ででも酷使されている神童と言ったようなものにしか見えない。イタリイの自然も歴史も、彼の大きな鼻と睡《ねむ》そうな眼をどうすることもできない。機械に故障のない限り動いているこの自動人形のどこにモオツァルトという人間を捜したらよいか。やがて、恋愛、結婚、生活の独立ということになるのだが、僕らは、そこに、この非凡な人間にふさわしい何物も見つけ出すことはできない。彼にとって生活の独立とは、気紛れな註文を、次から次へとおよそ無造作に引き受けては、あらゆる日常生活の偶然事にほとんど無抵抗に屈従し、その日暮らしをすることであった。
なるほど、芸術史家に言わせれば、モオツァルトは、芸術家が己れの個人生活に関心を持つような時代の人ではなかった。芸術は生活体験の表現だという信仰は次の時代に属しただろうが、そんなことを言ってみても、彼の統一のないほとんど愚劣とも評したい生涯と彼の完璧な芸術との驚くべき不調和をどうしようもない。たとえば、バッハの忍耐強い健全な生涯は、喜びにも悲しみにも筋金の通ったような彼の音楽と釣り合って見える。では、伝記作者たちが、多くの文献を渉猟して選択する確実な彼の生活記録というのも、実はモオツァルトのラプトゥスの発作とまでは行かぬさまざまな症例にすぎなかった、という身も蓋《ふた》もないことになるか。それならベエトオヴェンの場合、彼のラプトゥスにもかかわらず、と言うよりもむしろそのゆえに、彼の生涯と彼の芸術との間に独特な調和が現われてくるのはどうしたわけか。しかし、そういうことでは話は進みもしないし纏《まとま》りもしまい。
ヴァレリイはうまいことを言った。自分の作品を眺めている作者とは、ある時は家鴨《あひる》を孵《かえ》した白鳥、ある時は、白鳥を孵した家鴨。間違いないことだろう。作者のどんな綿密な意識計量も制作という一行為を覆うに足りぬ、ただそればかりではない、作者はそこにどうしても滑《すべ》り込む未知や偶然に、進んで確乎《かつこ》たる信頼を持たねばなるまい。それでなければ創造という行為が不可解になる。してみると家鴨は家鴨の子しか孵せないという仮説の下に、人と作品との因果的連続を説く評家たちの仕事は、とうてい作品生成の秘義には触れえまい。彼らの仕事は、芸術史という便覧に止《とど》まろう。ヴァレリイが、芸術史家を極度に軽蔑したのももっともなことだ。
しかしヴァレリイにはヴァレリイのラプトゥスがあったであろう。要は便覧を巧みに使うことだ。巧みに使って確かに有効ならば、便覧もこの世の生きた真実とどこかで繋《つなが》っているに相違ない。創造する者も創造しない者も、僕らは皆いずれは造化の戯れのなかにいる。ラプラスの魔を信ずるのもよい。ただし、この理論上の魔も、よくよく見れば、生命と同じように未知であろう。
批評の方法が進歩したからと言って、批評という仕事が容易になったわけではない。批評の世界に自然科学の方法が導入されたことは、見掛けほどの大事件ではない。それは批評能力がある新しい形式を得たというに止まり、批評もまた一種の文学である限り、その点では、他の諸芸術と同様に、表現様式の変化を経験しただけのことである。批評の方法も創作の方法と本質上異なるところはあるまい。たとえば、テエヌの方法を借用する人と自分の方法を発明するテエヌとは違った世界の人だ。借用した人にとっては、仕事は方法の結果であろうが、発明者には、必ずしもそうではなかったろう。むしろ逆だったかもしれぬ。テエヌがバルザックを捉えたのか、バルザックがテエヌを捉えたのか、これは難かしい問題である。少なくとも彼の有名な facultresseの方法は、彼自身の天才を捉え損なったことは確かだろう。この大批評家の裡には芸術家が同居していた。彼の方法がどこで成功し、どこで失敗するかはすでに周知のことだ。そういう口をきかないことだ。何物も過ぎ去りはしない。人間のしたことなら何事も他人事ではない。
モオツァルトという最上の音楽を聞き、モオツァルトという馬鹿者とつきあわねばならなかったランゲの苦衷を努めて想像してみよう。必要とあれば、そこにすでに評家のあらゆる難問が見つかる。と言うより評家が口づけに呑まねばならぬ批評の源泉が見つかる。ランゲが出会ったのは、決して例外的な一問題というようなものではなく、深く自然な一つの事件なのであり、彼が、この取りつく島もない事件に固執して逃《のが》れる術を知らなかったのは、ただ友人の音楽が彼を捉えて離さなかったという単純な絶対的な理由による。いちばん大切なものはいちばん慎重に隠されている、自然においても人間においても。生活と芸術とのいちばん真実な連続が、両者の驚くべき不連続として現われないと誰が言おうか。
この素人画家は絵筆をとる。そして、モオツァルトの楽しんでいる一種のアイロニイ云々《うんぬん》というような類《たぐい》の曖昧な判断をいっさい捨ててしまう。そういう心理的判断がもはやなんの役にも立たぬ、正しい良心ある肖像画家の世界に、彼ははいってゆく。絵は未完成だし、決して上手とは言えぬが、まじめで、むだがなく、見ているとなんとも言えぬ魅力を感じてくる。原画はザルツブルグにあるのだそうだが、一生見られそうもないものなど、見たいとも思わぬ。写真版から、こちらの勝手で、適当な色彩を想像しているのに、向こうの勝手で色など塗られてはかなわぬという気さえもしてくる。ともあれ、僕の空想の許す限り、これは肖像画の一傑作である。画家の友情がモオツァルトの正体と信ずるものを創り出している。深い内的なある感情が現われていて、それは、ランゲのものでもモオツァルトのものでもあるように見え、人間が一人で生きて死なねばならぬある定かならぬ理由に触れているように見える。モデルは確かにモオツァルトに相違ないが、彼は実生活上強制されるあらゆる偶然な表情を放棄している。言わばこの世に生きるために必要な最少限度の表情をしている。ランゲは、おそらく、こんな自分の孤独を知らぬ子供のような顔が、モオツァルトにときどき現われるのを見て、忘れられなかったに相違ない。どうして絵が未完成に終わったか、もちろんわからないが、惟《おも》うに画家の力の不足によるのだろう。
もう一つ僕の好きなモオツァルトの肖像がある。それはロダンのものだ。ここには一見してわかるようなものは何一つない。言われてみなければ、誰もこれがモオツァルトの首だとは思うまい。おそらくバルザックやボオドレエルの肖像に見られると同様に、これは作者の強い批評と判断との結実であり、そういう能力を見る者に強要している。僕は、はじめてこの写真を友人の許《もと》で見せられた時、このプルタアクの不幸な登場人物のように見えるかと思えば、数学とか電気とかに関する発明家のようにも見える顔から、モオツァルトに関する世間の通説俗説をおよそ見事に黙殺した一思想を読みとるのに、よほど手間がかかったのである。もはやモオツァルトというモデルは問題ではない。かつて|あった《ヽヽヽ》モオツァルトは微塵《みじん》となって四散し、大理石の粒子となりおわり、彫刻家の断乎たる判断に順じて、|あるべき《ヽヽヽヽ》モオツァルトが石のなかから生まれてくる。頑丈な頭蓋は、音楽を包む防壁のように見える。痩せた顔も、音楽のために痩せているように見える。ロダンの考えによれば、モオツァルトの精髄は、表現しようとする意志そのもの、苦痛そのものとでも呼ぶよりしかたのないような、一つの純粋な観念に行きついているように思われる。
スタンダアルが、モオツァルトの最初の心酔者、理解者の一人であったということは、なかなか興味あることだと思う。スタンダアルがモオツァルトに関して書き遺したところは、「ハイドン・モオツァルト・メタスタシオ伝」だけであり、それも剽窃《ひようせつ》問題でやかましい本で、スタンダリアンが納得する作者の真筆ということになると、ほんのわずかばかりの雑然とした印象記になってしまうのであるが、この走り書きめいた短文の中には、「全イタリイの輿論に抗する」余人の追従《ついしよう》を許さぬ彼の洞察がばら撒《ま》かれている。結末は、取ってつけたような奇妙な文句で終わっている。
「哲学上の観点から考えれば、モオツァルトには、単に至上の作品の作家というよりも、さらに驚くべきものがある。偶然が、これほどまでに、天才を言わば裸形にしてみせたことはなかった。このかつてはモオツァルトと名づけられ、今日ではイタリイ人が怪物的天才と呼んでいる驚くべき結合において、肉体の占める分量は、あたう限り少なかった」
僕には、この文章がすでに裸形に見える。この文句は、長い間、僕の心のうちにあって、あたかも、無用なものを何一つ纏《まと》わぬ、純潔なモオツァルトの主題のように鳴り、さまざまな共鳴を呼び覚ました。果てはモオツァルトとスタンダアルとの不思議な和音さえ空想するに至った。僕は間違っているかもしれない。それとも、精神界の諸事件が、どこで結ばれ、どこで解けて離れるか、そういう事柄、要するに、「裸形になった天才」というような言葉が生まれるゆえんのものは、観察するよりも空想するに適するのかもしれぬ。
多くの読者が喝采するスタンダアルの容赦のない侮蔑嘲笑の才を、僕はあまり大事なものと見ない。それは彼の天賦の才というよりむしろ大革命後の虚偽と誇張とに充ちた社会風景が彼に強いた衣装である。必要以上に磨きをかけられた彼の利剣である。彼はもっと内部の宝を持って生まれた。これは言うまでもなく、自我たらんとするきわめて意識的な強烈な努力なのであるが、ここにもエゴティスムという有名な衣装が、彼の手というよりむしろ後世のスタンダリアンの手によって発明され、真相はおそらく覆《おお》われたのである。なぜかと言うと、生涯に百二十ないし百三十の偽名を必要としたエゴティストというものを理解するのは、容易な業《わざ》ではなかったからだ。虚偽から逃れようとする彼の努力はおよそ徹底したものであり、この努力の極まるところ、彼は、未だ世の制度や習慣や風俗の嘘と汚れとに染まぬ、と言わば生まれたばかりの状態で持続する命を夢想するに至った。極度に明敏な人は夢想するに至る。ここに生まれた、名づけ難いものを、彼は、時と場合に応じて「幸福」とも「精力」とも「情熱」とも呼んだ。(これらが「原理」と呼ばれたのは、彼の理論癖が認めた便宜にすぎない)確かに、時と場合とに応じてである。この生活力の旺盛な徹底した懐疑家は、みずから得たこれらの行動に関する諸原理を、一つ一つ実地に応用してみて、確かめる必要を感じていたから。彼は、当然、失敗した、情熱人になることにも、幸福人になることにも、精力人になることにも。世間で成功するとは、世間に成功させてもらうことに他《ほか》ならなかったから。しかし、また、当然、この失敗は、一方、彼に、これらの観念に固有の純潔さと強さとを確かめさせたことになる。そこで、およそ行為は、無償であればあるほど美しく、無用であればあるほど真実であるというパラドックスの上に、彼は平然と身を横たえ、月並みな懐疑派たることをやめる。
彼は、この行為の無償性無用性の原理から、言い代えれば、この大まじめな気紛れから、幾多の人間の生まれるのを見、めいめいに名前を与えて、これを生きる必要に迫られた。本人はどうなったか。むろん、これは悪魔に食われた。気紛れな本人などというものはない。本人であるとは、すなわち世間から確かに本人だと認められることだ。そんな本人には、スタンダアルは(断わっておくが、この偽名がいちばん後世の発明臭い)我慢ができなかったとすれば、いたしかたのないことである。彼が演じたエゴティスムという大芝居は、喜劇とも見られ、悲劇とも見られようが、確かなことは、この芝居には、当然、順序も統一も筋さえないということである。こんなに伝記作者が手こずる生涯はあるまい。かつてベイルと名づけられた人物と、スタンダアルを初めとする一群の偽名を擁した怪物的天才との驚くべき結合において、肉体の占める分量は、あたうる限り少なかったといえようか。
この精神の舞台には、兵士や恋人とともに作家も登場していたことを忘れまい。むろん、これがいちばん難かしい役ではあったが。彼は当時の文学をほとんど信用していなかった。いちばん評判な文学をいちばん信用しなかった。誰も彼もが、浪漫派文学の華々《はなばな》しい誕生に心を跳らせていた時、彼はほとんど憎悪をもって、その不自然さと誇張との終末する時を希《ねが》った。そうかと言って、すでに過ぎ去ったものは、この全く先入見のない精神には、確実に過ぎ去ったものと見えた。古典的調和の世界は、できるだけ自由に夢み、新鮮に感じ、敏捷《びんしよう》に動こうとするこの人間を捉えることはできなかった。作家に扮した俳優は、自力で演技の型を発明しなければならなかったばかりでなく、観客さえ発明しなければならなかった。演技は、ナポレオンの民法のように、裸な様式でなければならず、観客は一八八〇年以後に現われるはずであった。役者は、この難かしい役を、ともかくやり遂《おお》せた。文学は、何はともあれ、この人物のいちばんまじめな気紛れだったから。だが、もし彼がどこかで恋愛に成功していたら、あるいは、ナポレオンの帝国が成功していたなら、彼は小説など書かなかったかもしれぬことを忘れまい。この純潔すぎた精神の演じた超時代的な、異様な芝居を、もしある驚くほど炯眼な観客があって、序幕から大詰に至るまで、その細部にわたって鑑賞することができたとすれば、偶然が、これほどまでに、天才を裸形にしてみせたことはなかったと嘆じなかっただろうか。
芝居は永久に過ぎ去り、僕らは、遺されたスタンダアルという一俳優の演技で満足しなければならないのであるが、こういう人の文学については、文学史家の常識となっているところさえ、疑ってかかっても、差し支えないとまで思う。世のいわゆる彼の代表作も、案外見かけだけのものかもしれぬ。数ページのモオツァルト論も、数百ページの「赤と黒」に釣り合っていないとも限るまい。僕は、この人物の裡に棲んでいた一音楽愛好者のことを言うのではない。この複雑な理智の人は、また優しい素朴な感情を持ち、不幸な時には、音楽が彼を慰めた、というふうなことが言いたいのではない。音楽の霊は、己れ以外のものは、何物も表現しないというその本来の性質から、この徹底したエゴティストの奥深いところに食い入っていたと思えてならないのである。彼が、人生の門出に際して、モオツァルトに対して抱いた全幅の信頼を現わした短文は、洞察と陶酔との不思議な合一を示して、いかにも美しく、この自己告白の達人が書いたいちばん無意識な告白の傑作とさえ思われる。「パルムの僧院」のファブリスのような、およそモデルというものを超脱した人間典型を、発明しなければならぬ予覚は、すでに、モオツァルトに関する短文のうちにありはしないか。こういう大胆で柔順で、優しくまた孤独な、およそ他人の意見にも自分自身の意見にもつまずかず、自分の魂の感ずるままに自由に行動して誤たぬ人間、無思想無性格と見えるほど透明な人間の作者に、音楽の実際の素材と技術とを欠いた音楽家スタンダアルの名を空想してみることは、差《さ》し支《つか》えあるまい。心理学者スタンダアルの名を口にするよりはましであろう。他人の欺瞞と愚劣とを食って生きたこの奇怪な俳優の名は、ニイチェ以来濫用されている。
さて、スタンダアルには、何が欠けていたか。――彼がもし、モオツァルトのように、若年のころから一つの技術の習練を強制され、意識の最重要部が、その裡に形成されるような運命に生きたなら、彼はどうなったであろうか。――しかし、空想はあまり遠くまで走ってはよくあるまい。
現在、僕らが読むことができるモオツァルトの正確な書簡集が現われるまでに、考証家たちが払った労苦はなみたいていのものではあるまい。わずか三百数十通の手紙のフランス語訳の仕事に生涯を賭した人さえある。しかも得たところは、気高い心と猥褻《わいせつ》な冗談、繊細な感受性と道化じみた気紛れ、高慢ちきな毒舌と諦めきったような優しさ、自在な直覚と愚かしい意見、そういうものが雑然と現われ、要するにこの大芸術家にはおよそ似合わしからぬ得体の知れぬ一人物の手になる乱雑幼稚な表現であった。彼らの労を犒《ねぎら》うものは、これと異様な対照を示すあの美しい音楽だけだとしてみると、彼らもまた悪魔にからかわれた組か、とさえ思いたい。しかし、音楽のほうに上手にからかわれていさえすれば、手紙にからかわれずに済むのではあるまいか。手紙から音楽に行き着く道はないとしても音楽のほうから手紙に下りてくる小径は見つかるだろう。スタンダアルが看破したように、この天才において、あたう限り少なかった肉体の部分の表現として、モオツァルトの書簡集を受け取ること。読み方はあまりやさしくはない。が、要するに頭髪に覆われた彼の異様な耳が、手紙の行間から現われてくるまで待っていればよい。例は一つで足りるであろう。
一七七七年、二十一歳のモオツァルトは、一家の希望を負い、音楽による名声獲得のために、母親と二人で、大旅行の途につく。翌年の夏、パリ滞在中母親が死ぬ。不幸のあった夜、モオツァルトは、同時に二通の手紙を故郷に書き送った。一通は父親|宛《あて》、一通は友人のブルリンガア宛である。友人に宛てた手紙では、「自分といっしょに泣いてもらいたい。一生でいちばん悲しい日が来た」という書き出しで、母親の死を伝え、母親はいずれ死ぬ運命であった。神様がそうお望みになったのだからいたしかたはない。とくり返し述べ、さて、臨終は夜の十時過ぎであったが、今は夜中の二時である。君への手紙と同封で父親宛の手紙も送るのだが、これには母親の死を隠してある、突然、悲しい知らせで父や姉を驚かすに忍びない、君からなんとなく匂わせてあらかじめ心構えをさせてやっておいてほしい、と結んでいる。父宛の手紙では、母が重態だということ、もしものことがあっても気を落とさぬように、だが、病人はやがて元どおり元気になるであろう。そう神様にお祈りをしている、いずれにせよ、神様のお計らいは人間にはどうしようもない、平常使い慣れている楽器にしてもそういうものである、云々、という主題が済むと「さて、他のことをお話しすることにしましょう」と筆は一転し、パリにおける自分のシンフォニイの大成功とその後で食った氷菓子のうまかったこと、ヴォルテエルというぺてん師が犬のようにくたばった、因果応報である、因果応報と言えば、家の女中が、給金の払いが二か月も遅れていると書いてよこしましたよ、と言った具合で、恋人のことやオペラのことやおよそ母親の死とは関係のない長話が続くのである。数日後、父親宛に、前便に嘘を書いたことを詫び、私は心から苦しみ、はげしく泣いた、父上もお姉様も、泣きたいだけお泣きになるがよい、しかしその後では、すべては神様の思召《おぼしめ》しとお考え願いたい、そういう文句が続くと、急に調子が変わり、今、この手紙を書いているのは、グリム氏の家で気持ちのいい綺麗《きれい》な部屋だ、私はたいへん幸福です、それから何やかやと雑然とした身辺の報告になる。
これらの凡庸で退屈な長文の手紙を引用するわけにはいかなかったのであるが、書簡集につき、全文を注意深く読んだ人は、そこにモオツァルトの音楽に独特な、あの唐突に見えていかにも自然な転調を聞く想いがするであろう。音楽家の魂が紙背から現われてくるのを感ずるだろう。死んだばかりの母親の死体の傍で、深夜、ただ一人、虚偽の報告とよけいなおしゃべりを長々と書いているモオツァルトを、僕は努めて想像してみようとする。そこに坐っているのは、大人ぶった子供でもなければ、子供じみた大人でもない。そういう観察は、もはや、彼が閉じこもった夢のなかにははいってゆけない。父親に嘘をつこうという気紛れな思いつきが、あたかも音楽の主題のように彼の心中で鮮やかに鳴っているのである。当然、それは彼の音楽の手法に従って転調するのであるが、彼のペンは、音符の代わりに、ヴォルテエルだとか氷菓子だとかと書かねばならず、したがってその効果については、彼は何事も知らない。郵便屋は、確かに手紙を父親の許まで届けたが、彼の不思議な愛情の徴《しるし》が、いっしょに届けられたかどうかは、はなはだ疑わしい。おそらくそんなものは誰の手にも届くまい。空に上り、鳥にでもなるより他はなかったかもしれぬ。ただ、モオツァルト自身は、届いたことを堅く信じていたことだけが確かである。僕には、彼の裸で孤独な魂が見えるようだ。それは、人生の無常迅速よりいつも少しばかり無常迅速でなければならなかったとでも言いたげな形をしている。母親を看病しながら、彼の素早い感性は、母親の屍臭を嗅《か》いで悩んだであろう。彼の悩みにとっては、母親の死は遅く来すぎたであろうし、また、来てみれば、それはあまり単純すぎたものだったかもしれぬ。彼は泣く。しかし人々が泣き始めるころには彼は笑っている。
スタンダアルは、モオツァルトの音楽の根底は tristesse(かなしさ)というものだ、と言った。定義としてはうまくないが、むろん定義ではない。正直な耳にはよくわかる感じである。浪漫派音楽が tristesse を濫用して以来、スタンダアルの言葉は忘れられた。tristesse を味わうために涙を流す必要がある人々には、モオツァルトの tristesse は縁がないようである。それは、およそ次のような音を立てる、アレグロで。(ト短調クインテット、K. 516.)
ゲオンがこれをtristesse allanteと呼んでいるのを、読んだ時、僕は自分の感じをひと言で言われたように思い驚いた(Henri on ; Promenades avec Mozart.)。確かに、モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡に玩弄《がんろう》するには美しすぎる。空の青さや海の匂いのように、万葉の歌人が、その使用法をよく知っていた「かなし」という言葉のようにかなしい。こんなアレグロを書いた音楽家は、モオツァルトの後にも先にもない。まるで歌声のように、低音部のない彼の短い生涯を駆け抜ける。彼はあせってもいないし急いでもいない。彼の足どりは正確で健康である。彼は手ぶらで、裸で、よけいな重荷を引きずっていないだけだ。彼は悲しんではいない。ただ孤独なだけだ。孤独は、至極あたりまえな、ありのままの命であり、でっち上げた孤独に伴う嘲笑や皮肉の影さえない。
モオツァルトの音楽の深さと彼の手紙の浅薄さとの異様な対照を説明しようとして、――彼は人に自分の心の奥底は決してのぞかせなかった、また、そういう相手にも生涯出会わなかった、父親に対する敬愛の情も、どこまで本気なのか知れたものではない、とどのつまり、結婚事件では、見事に父親は背負い投げをくっているではないか、その最愛の妻にも、愚かな冗談口しかきいていないではないか、つまるところ彼は、自分の芸術に関する強い自負と結びついた人生への軽蔑の念を、人知れず秘めていたのではあるまいか、――そういうふうな見方をする評家も少なくないようである。
しかし、僕はそういう見方を好まぬ。そういうもっともらしい観察には何か弱々しい趣味が混入しているように思われる。十九世紀文学が、充分に注入した毒に当たった告白病者、反省病者、心理解剖病者らの臭《にお》いがする。彼らにモオツァルトのアレグロが聞こえてくるとは思えない。彼らの孤独は、きわめて巧妙に仮構された観念にすぎず、時と場合に応じて、自己防衛の手段、あるいは自己嫌悪の口実のために使用されている。ある者はこれを得たと信じてあたりを睥睨し、ある者はこれに捉えられたと思い込んで苦しむ。
なるほど、モオツァルトには、心の底を吐露するような友は一人もなかったのは確かだろうが、もし、心の底などというものが、そもそもモオツァルトにはなかったとしたら、どういうことになるか。心の底というものがあったとする。そこには何かしらある和音が鳴っていただろう。それはたとえば恋人の眼差《まなざし》にある楽句が鳴っているのと同断であり、二つながらあの広大な音楽の建築の一部をなしている点で甲乙はない。そういう音楽を世間にばら撒きながら生きてゆく人にとって、語るべき友がいるとかいないとかいうことが何だろう。ということは、たとえ知己があったとしてもモオツァルトは同じような手紙しか遺さなかっただろうということだ。彼は、手紙で、おそらく何一つ隠してはいまい。不器用さは隠すということではあるまい。要はこの自己告白の不能者から、どんな知己もたいしたことを引き出しえまいということだ。
自己自身たらんとする意識的な努力が、スタンダアルのように、自己|勦滅《そうめつ》の強い力となって働く場合は稀有《けう》なことであり、まずたいていの場合は、自分の裡に自分自身という他人を同居させるという不思議な遊戯となって終わる。孤独と名づけられる舞台で、自己との対話という劇が演じられる。たとえばシュウマンの音楽は、そういう劇の伴奏をしたかもしれないが、モオツァルトの音楽には、これは縁のない芝居である。モオツァルトの孤独は、彼の深い無邪気さが、その上に坐るある充実した確かな物であった。彼は両親の留守に遊んでいる子供のように孤独であった。彼の即興は、音楽のなかで光り輝く。彼の気紛れもまた世間に衝突して光り輝くはずであったが、政治と社交の技術を欠いたこの野人には、それがおそらく巧《うま》くいかなかっただけなのである。メエリケが、彼の有名な「プラアグへ旅するモオツァルト」のなかで、ある貴族の客間で、自分の音楽について巧みな話題を操るモオツァルトの姿を描いているが、お伽話《とぎばなし》にすぎまい。それよりも、玉突き屋の亭主と酒を呑み、どんな独創的な冗談話を彼がしこたま発明したか、記録に遺されていないのが残念である。
誰でも自分の眼を通してしか人生を見やしない。自分をいっぺんも疑ったり侮蔑したことのない人に、どうして人生を疑ったり侮蔑したりすることができただろうか。彼には、利己心の持ち合わせが、まるで無かったから、父親の冷たい利己心は見えなかった。彼は父親を心から敬愛した。だが、したいことがしたい時には、父親の意見なぞ存在しなかった。彼の妻は、死後再婚し、はじめて前の夫が天才だったと聞かされ、驚いた。それほど彼女は幸福であった。彼の妻への愚劣な冗談が誠意と愛情とに充ちていたからである。この十八世紀人の単純な心の深さに比べれば、現代人の心の複雑さはほとんど底が知れているとも言えようか。彼の音楽に関する自負は、――これはもう、手紙など書いているモオツァルトとは、たいして関係のない世界になる。
10
モオツァルトは、ピアニストの試金石だとはよく言われることだ。彼のピアノ曲のような単純で純粋な音の持続においては、演奏者の腕の不正確はすぐ露顕せざるを得ない。曖昧なタッチが身を隠す場所がないからであろう。だが、浪漫派以後の音楽が僕らに提供してきた誇張された昂奮や緊張、過度な複雑、無用な装飾は、僕らの曖昧で空虚な精神に、どれほど好都合な隠所を用意してくれたかを考えると、モオツァルトの単純で真実な音楽は、僕らの音楽鑑賞上の大きな試金石でもあると言える。モオツァルトの美しさなどわかりきっている、という人は、自分の精神を、冷たい石にこすりつけてみて驚くであろう。
単純で真実な音楽、これはもはや単なる耳の問題ではあるまいが、正直な耳、正直なゆえに鋭敏な耳を持つだけでも、容易ならぬことである。たとえば、モオツァルトと言えば、誰でもすぐハイドンの名を口にする。二人が互いに影響し合ったことは周知のことだが、非常によく似た二人の器楽に耳を澄まし、二人の個性の相違に、いまさらのように驚くのはよいことである。モオツァルトの歌劇の美しさに心を奪われるよりも、そういうところに、モオツァルトの世界の本当の美しさにはいる鍵があるかもしれないからである。
ワグネルは、モオツァルトのシンフォニイのおそらく最初の大解説者であり、いろいろ興味ある意見を述べているが、モオツァルトのシンフォニイがハイドンのシンフォニイと異なる決定的なところは、その「器楽主題の異常に感情の豊かな歌うような性質にある」とする。この意見は、今日では定説となっているようだ。そうに違いない。「シンフォニイの父」には歌声の魅力を、うまく扱えなかった。しかし、そのモオツァルトの歌うような主題が、実はどんなに短いものであるかということには、あまり人々は注意したがらぬ。誰でもモオツァルトの美しいメロディイを言うが、実は、メロディイは一息で終わるほど短いのである。ある短いメロディイが、作者のすばらしい転調によって、魔術のように引き延ばされ、精妙な和音と混り合い、聞く者の耳を酔わせるのだ。そして、まさにそのゆえに、それは肉声が歌うように聞こえるのである。モオツァルトの器楽主題は、ハイドンより短い。ベエトオヴェンは短い主題を好んで使ったが、モオツァルトに比べればよほど長いのである。言葉を代えれば、モオツァルトに比べて、まだまだメロディイを頼りにして書いているとも言えるのである。
モオツァルトは、主題として、一息の吐息、一息の笑いしか必要としなかった。彼は、大自然の広大な雑音のなかから、なんとも言えぬ嫋《たお》やかな素速い手つきで、最少の楽音を拾う。彼は何もわざわざ主題を短くしたわけではない。自然は長い主題を提供することがまれだからにすぎない。長い主題は工夫された観念の産物であるのが普通である。彼に必要だったのは主題というような曖昧なものではなく、むしろ最初の実際の楽音だ。ある女の肉声でもいいし、偶然鳴らされたクラヴサンの音でもいい。これらの声帯や金属の振動を内容とするある美しい形式が鳴り響くと、モオツァルトの異常な耳は、そのあらゆる共鳴を聞き分ける。凡庸な耳には沈黙しかない空間は、彼にはあらゆる自由な和音で満たされるだろう。ほんのわずかな美しい主題が鳴れば足りるのだ。その共鳴は全世界を満たすから。言い代えれば、彼は、ある主題が鳴るところに、それを主題とする全作品を予感するのではなかろうか。想像のなかでは、音楽は次々に順を追うて演奏されるのではない、一幅の絵を見るように完成した姿で現われると、彼が手紙のなかで言っていることは、そういうことなのではなかろうか。こういうことが可能なためには、むろん、作曲の方法を工夫したり案出したりするような遅鈍なことではだめなのであるが、モオツァルトは、その点では達人であった。三歳の時から受けた厳格な不断の訓練は、彼の作曲上のあらゆる手段の使用を、ほとんどクラヴサン上の指の運動のごときものに化していた。
僕はハイドンの音楽もなかなか好きだ。形式の完備整頓、表現の清らかさという点では無類である。しかし、モオツァルトを聞いた後で、ハイドンを聞くと、個性の相違というものを感ずるより、何かしら大切なものが欠けた人間を感ずる。外的な虚飾を平気で楽しんでいる空虚な人の好さと言ったものを感ずる。この感じはおそらく正当ではあるまい。だが、モオツァルトがそういう感じを僕に目覚ますということは、間違いないことで、彼の音楽にはハイドンの繊細ささえ外的に聞こえるほどの驚くべき繊細さが確かにある。心が耳と化して聞き入らねば、ついてゆけぬようなニュアンスの細やかさがある。ひとたびこの内的な感覚を呼び覚まされ、魂のゆらぐのを覚えた者は、もうモオツァルトを離れられぬ。
今、これを書いている部屋の窓から、明け方の空に、赤く染まった小さな雲のきれぎれが、動いているのが見える。まるで、
のような形をしている、とふと思った。三十九番シンフォニイの最後の全楽章が、このささやかな十六分音符の不安定な集まりを支点とした梃子《てこ》の上で、奇蹟のようにゆらめくさまは、モオツァルトが好きな人なら誰でも知っている。主題的器楽形式の完成者としてのハイドンにとっては、形式の必然の規約が主題の明確性を要求したのであるが、モオツァルトにあっては事情はむしろ逆になっている。捕えたばかりの小鳥の、野生のままの言いようもなく不安定な美しい命を、籠のなかでどういう具合に見事に生かすか、というところに、彼の全努力は集中されているように見える。生まれたばかりの不安定な主題は、不安に堪えきれず動こうとする、まるで己れを明らかにしたいと希う心の動きに似ている。だが、できない。それは本能的に転調する。もし、主題が明確になったら死んでしまう。ある特定の観念なり感情なりと馴《な》れ合ってしまうから。これが、モオツァルトの守り通した作曲上の信条であるらしい。これは何も彼の主題的器楽に限ったことではない。もっと自由な形式、たとえばdivertimentoなどによく聞かれるように、幾つかの短い主題が、矢継ぎ早に現われてくる、耳が一つのものを、しっかり捕えきらぬうちに、新しいものが鳴る、また、新しいものが現われる、と思う間には僕らの心は、はやこの運動に捕えられ、どこへとも知らず、空とか海とかなんの手がかりもない所を横切って攫《さら》われてゆく。僕らは、もはや自分らの魂の他何一つ持ってはいない。あの tristesse が現われる。――
tristesse allante――モオツァルトの主題を形容しようとして、こういう互いに矛盾する二重の観念を同時に思い浮かべるのは、きわめて自然なように思われる。あるものは残酷な優しさであり、あるものはまじめくさった諧謔《かいぎやく》である、というふうなものだ。ベエトオヴェンは、好んで、対立する観念を現わす二つの主題を選び、作品構成の上で、強烈な力感を表現したが、その点ではモオツァルトの力学は、はるかに自然であり、そのゆえに隠れていると言えよう。一つの主題自身が、まさに破れんとする平衡の上に慄えている。たとえば、四十一番シンフォニイのフィナアレは、モオツァルトのシンフォニイのなかで最も力学的な構成を持ったものとして有名であるが、この複雑な構成の秘密は、すでに最初の主題の性質の裡にある。
第一ヴァイオリンのピアノで始まるこの甘美な同じ旋律が、やがて全楽器の嵐のなかで、どのような厳しい表情をとるか。
主題が直接に予覚させるおのずからな音の発展の他、いっさいの音を無用な附加物と断じて誤らぬこと、しかも、主題の生まれたばかりの不安定なみずみずしい命が、和声の組織のなかで転調しつつ、その固有な時間、固有の持続を保存してゆくこと。これにはどれほどの意志の緊張を必要としたか。しかし、そう考える前に、そういう僕らの考え方について反省してみるほうがよくはないか。言いたいことしか言わぬために、意志の緊張を必要とするとは、どういうことなのか。僕らが落ち込んだ奇妙な地獄ではあるまいか。要するに何が本当に言いたいことなのか僕らにはもうよくわからなくなってきているのではあるまいか。たとえば、僕は、ハ調クワルテット(K.465)の第二楽章を聞いていて、モオツァルトの持っていた表現せんとする意志の驚くべき純粋さが現われてくるさまを、一種の困惑を覚えながら眺めるのである。もし、これが真実な人間のカンタアビレなら、もうこの先どこに行く所があろうか。たとえばチャイコフスキイのカンタアビレまで堕落する必要がどこにあったのだろう。明澄な意志と敬虔な愛情とのユニッソン、極度の注意力が、果てしない優しさに溶けて流れる。この手法の簡潔さの限度に現われる表情の豊かさをたどるためには、耳を持っているだけでは足りぬ。これはほとんど祈りであるが、もし明らかな良心を持って、千万無量の想いを託するとするなら、おそらくこんな音楽しかあるまい、僕はそんなことを想う。
ハイドンの器楽的旋律に、モオツァルトは歌声の性質を導入した。これは、モオツァルトが、たまたまそんなことを思いつき、試みて成功したという筋のものではない。また、彼の成功が、音楽技術史上の一段階を画したとも、僕は考えない。僕には、モオツァルトという古今独歩の音楽家に課せられたある単純で深刻な行為の問題だけが見える。彼の音楽に、古典派から浪漫派に通ずる橋を見る人が誤っていると言わぬ。彼の豊富な世界には、もし望むなら、ベエトオヴェンの激情もワグネルの肉感性も聞き分けられよう。ドビュッシイやフォオレの味わいさえ感知できよう。しかし、そういう解釈を好む者が、モオツァルトが熟練と自然さとの異様な親和のうちに表現しえた彼の精神の自由を痛切に感得するかどうかを、僕は疑う。大音楽は、ただ耳のためにあるのではない。大シンフォニイも、もし望むなら、ささやきと聞こえよう、沈黙もしよう。
誰も、モオツァルトの音楽の形式の均整を言うが、正直に彼の音を追うものは、彼の均整が、どんなに多くの均整を破って得られたものかに容易に気づくはずだ。彼は、自由に大胆に限度を踏み越えては、素早く新しい均衡を作り出す。いたる所で唐突な変化が起こるが、彼があわてているわけではない。方々に思いきって切られた傷口が口を開けている。独特の治癒《ちゆ》法を発明するためだ。彼は、決してハイドンのような音楽形式の完成者ではない。むしろ最初の最大の形式破壊者である。彼の音楽のきわめて高級な意味での形式の完璧は、彼以後のいかなる音楽家にも影響を与えなかった、与ええなかった。
さて、モオツァルトの歌劇について書かねばならぬ時となったようだが、たぶん、もう読者は、僕の言いたいことを、ほぼ推察してくれているだろう。モオツァルトは、当時の風潮に従い、音楽家としての最大の成功を歌劇に賭けた。そして、確かに、彼の生前にも死後にも、最も成功したものは歌劇であったが、何もそのことが、歌劇作者モオツァルトの名を濫用していい理由とはならぬ。わが国では、モオツァルトの歌劇の上演に接する機会がないが、僕は別段不服にも思わない。上演されても眼をつぶって聞くだろうから。僕は、それで間違いないと思っている。彼の歌劇には、歌劇作者よりもむしろシンフォニイ作者が立っている、と言ってもあながち過言ではないと思う。ワグネルは、モオツァルトのシンフォニイを見事に解説したが、結局、シンフォニイ形式は、この天才の活動範囲を狭《せば》めたと断ぜざるを得なかった。狭めたことは深めたことではなかったか。いや、源泉は、下流のように広がっていないのが当然ではあるまいか。シンフォニイ作者モオツァルトは、オペラ作者モオツァルトから何物も教えられる所はなかったように思われる。彼の歌劇は器楽的である。さらに言えば、彼の音楽は、声帯による振動も木管による振動も、等価と感ずるところで発想されている。彼の室内楽でヴァイオリンとヴィオラとが対話するように、「フィガロ」のスザンナが演技しない時には、ヴァイオリンが代わりに歌うのである。
この歌劇の大家の天資には、ワグネルという大家が性格的に劇的であったようなものはないのである。モオツァルトのシンフォニイが、劇的動機を欠いているがために、作者はそこでは巧妙な対位法家以上に出られなかったと、ワグネルが論ずる時、ワグネルは明らかに自分の理論のうちに閉じこもっている。実を言えば、モオツァルトは、その歌劇においても、劇的動機を欠いている。劇的効果は劇的動機を必ずしも必要としない。モオツァルトという源泉があふれ、水は劇という河床を流れる。海に注ぐまで、この河は濁りを知らぬ。罪もなく悔恨もない精神の放蕩《ほうとう》である。ワグネルは、音楽の運動は、そのまま形ある劇の演技でなければならぬと信じたが、もちろん、モオツァルトは、そんな理論を信じていない。彼の音楽は、決して芝居をしない。芝居のほうでこれに追いすがる。したがって、台本の愚劣さなぞ問題ではなかった。ダ・ポンテは、モオツァルトに不思議なシンフォニイを書く機会を与えた。と言うのは、ここに肉声というすばらしい楽器が加えられたということであり、何も「ドン・ジョヴァンニ」という標題を有し、「ドン・ジョヴァンニ」という劇的思想を表現した音楽が現われたというわけではない。
歌劇の台本がどんなに多様な複雑な表現を要求しようと、モオツァルトが音楽を組み上げる基本となる簡単な材料は、器楽の場合と少しも変わらなかった。それは依然として音階であり、少数のハアモニイ形式であり、わずかばかりの和音の連繋であった。こういう単純な材料が、単純さのゆえに、驚くべき組み合わせの自由を許したことは、彼の器楽が証するとおりであるが、まさしくその同じ事情が、新たに加わった肉声というきわめて精妙な楽器の音色を、この別種のシンフォニイの構成の中に他の楽器との見事な調和を保って持続させたのではあるまいか。
モオツァルトが歌声を扱う手法は器楽的主題を扱う時と同様に、きわめて慎重である。登場の男女によって歌われる詠唱は、美しいメロディイに満ちているが、ワグネル以後、多くの作者によって、シンフォニイの中に織り込まれたいわゆるメロディストのメロディイは一つも見当たらぬということは、よほど大事なことなのである。モオツァルトに捕えられた歌は、単なる美しい形の旋律ではない。人間の声である。それはやはり、あの明け方の空の切れ切れな雲だ。ヴァイオリンが結局ヴァイオリンしか語らぬように、歌はとどのつまり人間しか語らぬ、モオツァルトは、ほとんどそう言いたかったかもしれぬ。旋律の形もなさぬ人間の日常の肉声の持つきわめて複雑なニュアンスが、しっかりと歌の旋律のうちに織り込まれ、旋律は、これから離れて浮き足立つことはできない。
彼の歌劇に登場する人物たちの性格描写あるいは心理描写の絶妙さについては、すでにあんまりたくさんなことが言われたようだ。確かにそう思われる人にはそう思われる。充分に文学化した十九世紀の音楽によって養われた僕らの耳の連想にすぎぬとは言うまい。その点にかけては音楽は万能なのである。モオツァルトもよく承知していたはずである。大事なのは、モオツァルトの音楽の最も深い魔術は、そういう連想というような空漠たるものを相手に戯れた所にはなかった、彼の音楽は、自然の堅い岩に、人間の柔らかい肉に、しっかりと間違いなく密着していたということだ。もし、そうでなければ、性格もなければ心理も持ち合わさぬような「コシ・ファン・トゥッテ」の男女の群れから、なぜ、あのように鮮明な人間の歌が響き鳴るのだろうか。誰のものでもないような微笑、誰のものでもないような涙が、音楽のうちに肉体を持つ。
彼にとってほんとうに肉体を持つとは、大きな鼻や不器用な挙動を持つことではなかった。そのために恋愛に失敗するというようなことでは、さらになかった。もっとも、彼は、何事も避けたわけではない。彼は、そういう肉体を提げ、人並みにできるだけのことはやってみた。しかし、大きな鼻と不器用な挙動ではたいしたことはできなかっただけである。彼は、人間の肉体のなかで、いちばん裸の部分は、肉声であることをよく知っていた。彼は声で人を占うことさえできただろう。だが、残念なことには、裸の肉体は、いつも惑わしに充ちた言葉という着物を着ている。人生をうろつき廻り、幅を利かせるのも、ひとえに、この纏《まと》った衣装のおかげである。肉声は、音楽のうちに救助され、そこで生きるより他はない。実を言えば、僕は、モオツァルトを、音楽家中の最大のリアリストと呼びたいのである。もし誤解される恐れがないならば。だが、誤解は、おそらくは避け難かろう。近代のいわゆるリアリスト小説家たちが、人生から文学のうちに、どれだけの人間を、本当に救助しえたであろうか。彼らの自負する人間観察技術が、はたして人間の着物を脱がせることに成功したか。この技術は、むしろそれに似合わしい新しい衣装を、人間のために、案出してやることに終わらなかったか。彼らの道は、ついに、「われわれは、お互いに誤解し合う程度に理解し合えばたくさんだ」というヴァレリイの嘆きに行き着かなかったであろうか。奇怪な悪夢である。いずれ、夢から醒《さ》める機は到来するであろう。しかし、夢は夢の力によっては覚《さ》めまい。
人生の浮沈は、まさしく人生の浮沈であって、劇ではない、おそらくモオツァルトにはそう見えた。劇と観ずる人にだけ劇である。どう違うか。これは難かしいことである。モオツァルトとワグネルとのクロマチスムの使用法は、形式の上では酷似している。耳を澄まして聞くより他はない。
11
三十五年の短い一生にもかかわらず、モオツァルトの作品の量は莫大なもので、彼に関するどのような専門家も、彼の作品の半分も実際に聞いたことはおそらくないだろう。しかし、さらに驚くべきことは、一般に知られている作品を聞いただけでも、およそ比類のない質の多様性に出会うことである。スタンダアルは、「ドン・ジョヴァンニ」を聞いて、「耳におけるシェクスピアの恐怖」と言ったが、そう言われれば、モオツァルトの多様性も、シェクスピアの多様性に似ているかもしれない。プラアグの人々は、未だ誰もつい先日聞いた「フィガロ」の華やかな陽気な夢から醒めきらなかった。突然、ジョヴァンニの剣が抜かれ、筋金入りのような無情な音楽に引きずられ、人々は、彼とともに最後の破滅まで転落してゆく。作者は、宴会の場面で「フィガロ」の旋律を聞かせて観客のご機嫌をとらねばならなかった。なんの脈絡もなく、小場面が次々と目まぐるしく変わってゆく台本の愚劣さは、まるでモオツァルトがそう望んだようだ。彼のキイの魔術は、この煌《きら》めくような生と死の戯れのうちに、人間の情熱のあらゆる形を累々と重ね上げ、それぞれに誰はばからず真率な歌を歌わせる。だが、誰も、叙事詩の魂のように平静に歩いてゆくモオツァルトの音楽の運命のような力を逃《のが》れられぬ。トロンボオンが鳴り、地獄の火が燃え上がるまで。ニッセンの伝えるところによれば、モオツァルトは、この歌劇の序曲を書きながらポンチを飲み、妻に、シンデレラやアラディンのランプの話をさせて、涙が出るほど笑っていたという。誰も、彼の無邪気さの奥底をのぞいてみることはできない。だが、そこにアラディンのランプは、点《とも》っていたかもしれぬ。と、するならば、やがて、最後の三つのシンフォニイが書かれ、劇はおろか、人間も消え、事物も消えた世界に、僕らが連れてゆかれるのもいたしかたがない。
モオツァルトは、ヨオロッパの北部と南部、ゲルマンの血とラテンの血との交流する地点に生を享《う》けたばかりではなく、また、二つの時代が、交代しようとする過渡期の真中に生きた。シンフォニイは形成の途にあり、歌劇は悲劇と軽歌劇の中途をさまよい、聖歌さえ教会に行こうか劇場に行こうか迷っていた。もし、彼が、なんらかの成案を提《ひつさ》げて、この十字路に立ったなら、彼は途方に暮れたであろうが、彼の使命は、みずからこの十字路と化することにあった。彼が強いられた大旅行は、彼の一物も蓄《たくわ》えぬ心を当代のあらゆる音楽形式の影響の下に曝《さら》した。どのような音楽の流れも、なんの障碍に出会わず、この柔軟な精神に浸透した。しかも、彼の不断の創造力は、彼を、すべてを呑み込んで空しさを感ずる懐疑派にも、相反するものを妥協させる折衷派にもさせなかった。彼は、音楽のあらゆる流れにすなおに随順し、逆にその上に、ゆうゆうと棹《さお》さすに至った。音楽とは、あれこれの音楽を言うのではない、あらゆる音楽こそ音楽である。そういう確信がないところに、どうして彼の音楽の多様性が現われようか。多様性とは、無理に歪められぬ音楽自体の必然の運動であるという確信は、彼の心の柔らかさとすなおさのうちに生まれ、育ち、言わば、ハイドンもきちょうめん過ぎバッハさえドグマティックに見えるような普遍性に達する。音楽から非音楽的要素をできるだけ剥ぎとって純粋たらんと努める現代の純粋音楽家たちは、モオツァルトの純粋な音楽が触発する驚くほど多様な感情や観念を、どう扱ったらよいか。それは幻であるか。残念ながら、相手は彼らのような子供でもなかったし、不信者でもなかった。
ここで、もう一つついでに驚いておくのが有益である。それは、モオツァルトの作品の、ほとんどすべてのものは、世間の愚劣な偶然なあるいは不正な要求に応じ、あわただしい心労のうちに成ったものだということである。制作とは、その場その場の取引であり、あらかじめ一定の目的を定め、計画を案じ、一つの作品について熟慮専念するというような時間は、彼の生涯には絶えて無かったのである。しかも、彼は、そういうことについて一片の不平らしい言葉も遺《のこ》してはいない。
これは、不平家には難かしい、ほとんど解きえぬ真理であるが、不平家とは、自分自身と決して折り合わぬ人種を言うのである。不平家は、折り合わぬのは、いつも他人であり環境であると信じ込んでいるが。環境と戦い環境に打ち勝つという言葉もほとんど理解されてはいない。ベエトオヴェンは己れと戦い己れに打ち勝ったのである。言葉を代えて言えば、強い精神にとっては、悪い環境も、やはり在るがままの環境であって、そこに何一つ欠けているところも、不足しているものもありはしない。不足な相手と戦えるわけがない。好もしい敵と戦って勝たぬ理由はない。命の力には、外的偶然をやがて内的必然と観ずる能力が備わっているものだ。この思想は宗教的である。だが、空想的ではない。これは、社会改良家という大仰《おおぎよう》な不平家にはたいへん難かしい真理である。彼は、人間の本当の幸不幸の在所を尋ねようとしたことは、決してない。
モオツァルトの環境が、もしもっと善かったらという疑問は、もし彼自身の精神がもっと善かったらと言う愚問に終わる。これは、およそ大芸術家の生涯を調査するに際して、僕らを驚かす例外のない事実である。ニイチェのような意識家は、その生涯の労作を終わるに当たって、この事実を記しておくのを忘れなかった、Amor fati――これが、自分の奥底の天性である、と。モオツァルトにとって制作とは、その場その場の取引であった。彼がそう望んだからである。贓品《ぞうひん》を切り売りしたわけではない。彼の多才がいかなる註文にも応じえたというふうなものでもない。彼は、自分の音楽という大組織の真只中《まつただなか》に坐っている、その重心に身を置いている。外部からの要求に応じようと、彼がいささかでも身じろぎすれば、この大組織の全体が揺らいだのである。彼は、その場その場の取引にいっさいを賭けた。即興は彼の命であったということは、偶然のもの、未知のもの、あらかじめ用意した論理ではどうにも扱えぬ外部からの不意打ち、そういうものに面接するごとに、己れを根底から新たにする決意が目覚めたということなのであった。単なる即興的才の応用問題を解いたのではなかった。おそらく、それは、深く、彼のこの世に処する覚悟に通じていた。
彼の提出するものは、なんでも、悪魔であれ天使であれ、僕らは信ぜざるを得ぬ。そんなことは御免だと言ってもだめである。彼は、いたるところで彼自身を現わすから。あらゆるものが、彼の眼に見据《みす》えられ、誤たず信じられて、骨抜きにされる。あるいは逆に、彼は、音楽の世界で、スタンダアルのように、たくさんの偽名を持っていたとも言えようか。モオツァルトという傀儡《かいらい》師を捜してもむだだ。偽名は本名よりも確かであろう。徹底して疑った人と徹底して信じた人とが相会する。あらゆる意見や思想が、外的な偶然な形式に見えた時、スタンダアルは、自力で判断する喜びのうちに思想の命の甦《よみがえ》るのを覚えた。モオツァルトは、どのような種類の音楽も生きていると信じた時、音楽の根底的な厳しい形式がおのずから定まるのを覚えた。
モオツァルトは、何を狙《ねら》ったのだろうか。おそらく、何も狙いはしなかった。現代の芸術家、のみならず多くの思想家さえ毒している目的とか企図とかいうものを、彼は知らなかった。芸術や思想の世界では、目的や企図は、科学の世界における仮定のように有益なものでも有効なものでもない。それは当人の目を眩《くら》ます。ある事を成就したいという野心や虚栄、いや真率な希望さえ、実際に成就した実際の仕事について、人を盲目にするものである。大切なのは目的地ではない、現に歩いているその歩き方である。現代のジャアナリストは、ほとんど毎月のように、目的地を新たにするが、歩き方は決して代えない。そして実際に成就した論文は先月の論文とはたしかに違っていると盲信している。
モオツァルトは、歩き方の達人であった。現代の芸術家には、ほとんど信じられないくらいの達人であった。これは、彼の天賦と結んだ深刻な音楽的教養の贈物だったのであるが、彼の教養とは、また、現代人にははなはだ理解し難い意味を持っていた。それは、ほとんど筋肉の訓練と同じような精神上の訓練に他ならなかった。ある他人の音楽の手法を理解するとは、その手法を、実際の制作の上で模倣してみるという一行為を意味した。彼は、当代のあらゆる音楽的手法を知り尽くした、とは言わぬ。手紙の中で言っているように、今はもうどんな音楽でもまねできる、と豪語する。彼は、作曲上でも訓練と模倣とを教養の根幹とする演奏家であったと言える。彼が大即興家だったのは、ただクラヴサンの前に坐った時ばかりではないのである。独創家たらんとする空虚で陥穽《かんせい》に充ちた企図などに、彼は悩まされたことはなかった。模倣は独創の母である。唯一人のほんとうの母親である。二人を引き離してしまったのは、ほんの近代の趣味にすぎない。模倣してみないで、どうして模倣できぬものに出会えようか。僕は他人の歌を模倣する。他人の歌は僕の肉声の上に乗る他はあるまい。してみれば、僕が他人の歌を上手に模倣すればするほど、僕は僕自身のかけがえのない歌を模倣するに至る。これは、日常社会のあらゆる日常行為の、何の変哲もない原則である。だが、今日の芸術の世界では、こういう言葉も逆説めいて聞こえるほど、独創という観念を化け物じみたものにしてしまった。僕らは、今日でもなお、モオツァルトの芸術の独創性に驚くことができる。そして、彼の見事な模倣術のほうは陳腐としか思えないとは、不思議なことではあるまいか。
モオツァルトは、目的地なぞ定めない。歩き方が目的地を作り出した。彼はいつも意外な所に連れてゆかれたが、それがまさしく目的を貫いたということであった。彼の自意識の最重要部が音でできていたことを思い出そう。彼の精神の自由自在な運動は、いかなる場合でも、音という自然の材質の紆余曲折《うよきよくせつ》した隠秘な必然性を辿《たど》ることによって保証されていた。アラディンのランプは物語の伝えるとおり、宙に浮いてはいなかった。このような自由を、いわゆる自由思想家たちの頭脳に棲《す》んでいる自由と取り違えまい。彼らの自由には棲みつく家がない。自由の観念を保証してくれるものは自由の観念しかない、という半ば自覚された不安が、彼らの懐疑主義の温床となる。モオツァルトにとって、自由とは、そういう少しばかり芥子《からし》を利《き》かせた趣味ではなかったし、まして、自由の名の下に身を守らねばならぬような、さらに言えば、自分自身と争ってまで、頭上にかかげねばならぬような、代償を求めてやまぬ、自由の仮面ではなかった。
ベエトオヴェンという男性的な音楽家に対して、モオツァルトという女性的な音楽家、という幾度となくくり返されてきた通俗な伝説を、僕はまじめには受け取らないが、モオツァルトの世界にはベエトオヴェンの一生を貫いた「フィデリオ」の思想はない、カタルシスの観念はないと言える。モオツァルトは「アヴェ・ヴェルム」が「魔笛」を書きながら書けた人である。キリストの歌が、モノスタトスの歌といっしょに歌われる世界である。そこに遍満する争う余地のない美しさが、僕らを、いやおうなく説得しないならば、僕らは、おそらくこの世界について、統一ある観念に至るどのような端緒もつかみえまい、そういう世界である。ベエトオヴェンは、「ドン・ジョヴァンニ」の暗い逸楽の世界を許すことができなかったが、彼の賞讚した「魔笛」は、はたして実際に、彼の好みの人生観を表現していただろうか。そこに地上の力と天上の力との争闘を読みとる解説者が、この劇に、フリイメイソンの戦と勝利とを見た当時の観客からどれほど進歩しているであろうか。疑わしいことである。シカネダアの出現は、一つの偶然にすぎなかった。ウィン人の好奇心を当てこんだ彼の着想は、全く荒唐無稽なものであった。結構だ。人生に荒唐無稽でないようなものがどこにある。よろしい、まじめくさったタミノも救ってやる、ふざけ散らすパパゲノも救ってやる。讚美歌より崇高な流行歌が現われても驚くまい。星空も歌う。太陽も歌うではないか。人間たちは、昼と夜、伝説とお伽話との間に挟《はさ》まって、日ごろの無意味な表情を見失う。
彼の音楽の大建築が、自然のどのような眼に見えぬ層の上に、人間のどのような奥底の上に建てられているのか、あるいは、両者の間にどのような親和があったのか、そんなことが僕にわかろうはずはない。だが、彼がしばしば口にする「神」とは、彼にはたいへんやさしいわかりきったあるものだったに相違ない、と僕は信ずる。彼には、教義も信条も、いや、信仰さえも要《い》らなかったかもしれない。彼の聖歌は、不思議な力で僕をうなずかせる。それは、彼が登りつめたシナイの山の頂ではない。それはバッハがやったことだ。モオツァルトというある憐《あわ》れな男が、紛うことない天上の歌に酔い、気を失って仆《たお》れるのである。しかも、なんという確かさだ、この気を失った男の音楽は。
「二年来、死は人間たちの最上の真実な友だという考えにすっかり慣れております。――僕はまだ若いが、おそらく明日はもうこの世にはいまいと考えずに床にはいったことはありませぬ。しかも、僕を知っているものは、誰も、僕がつきあいの上で、陰気だとか悲し気だとか言えるものはないはずです。僕は、この幸福を神に感謝しております」。これは、「ドン・ジョヴァンニ」を構想する前に、父親に送った手紙の一節である。
何故、死は最上の友なのか。死がいっさいの終わりである生を抜け出て、彼は、死が生を照らし出すもう一つの世界からものを言う。ここで語っているのは、もはやモオツァルトという人間ではなく、むしろ音楽という霊ではあるまいか。最初のどのような主題の動きも、すでに最後のカデンツの静止のうちに保証されている、そういう音楽世界は、彼には、少年の日から親しかったはずである。彼は、この音楽に固有な時間のうちに、強く迅速に夢み、僕らの日常の時間が、これと逆に進行するさまを眺める。太陽が廻るのではない。地球が廻っているのだ。だが、これは、かなしくつらく、また、不思議なことではあるまいか。彼は、そこにじっとしているように見える。何物も拒絶しないのが自分の意志だ、とでも言いたげな姿で――奔流のように押し寄せる楽想に堪えながら――それは、また、無心の力によって支えられた巨《おお》きな不安のようにも見える。彼は、時間というものの謎の中心で身体の平均を保つ。謎は解いてはいけないし、解けるものは謎ではない。自然は、彼の膚に触れるほど近く、傍にあるが、何事も語りはしない。黙契はすでに成り立っている、自然は、自分の自在な夢の確実な揺籃《ようらん》たることをやめない、と。自然とは何者か。何者かというようなものではない。友は、ただあるがままにあるだけではないのか。彼の音楽は、その驚くほど直《じ》かな証明である。それは、罪業の思想に侵されぬ一種の輪廻《りんね》を告げているように見える。僕らの人生は過ぎてゆく。だが、何に対して過ぎてゆくと言うのか。過ぎてゆく者に、過ぎてゆく物が見えようか。生は、はたして生を知るであろうか。おそらくモオツァルトは正しい。彼の言うほうが正しい。しかし、彼が神である理由がどこにあろう。やがて、音楽の霊は、彼を食い殺すであろう。明らかなことである。
一七九一年の七月のある日、恐ろしく厳粛な顔をした、鼠色の服を着けた丈の高い痩《や》せた男が、モオツァルトのもとに、署名のない丁重《ていちよう》な依頼状を持って現われ、鎮魂曲の作曲を註文した。モオツァルトは承諾し、完成の期日は約束しかねる旨断わって、五十ダカットを要求した。数日後、同じ男は、金を持参し、作曲完成の際はさらに五十ダカットを支払うことを約し、ただし、註文者が誰であるか知ろうとしてもむだであると言い残し、立ち去った。モオツァルトは、この男が冥土《めいど》の使者であることを堅く信じて、早速作曲にとりかかった。冥土の使者は、モオツァルトの死後、ある貴族の家令にすぎなかったことが判明したが、実を言えば、何が判明したわけでもない。何もかも、モオツァルトのほうがよく知っていたのである。驚くことはない。死は、多年、彼の最上の友であった。彼は、毎晩、床につくたびに死んでいたはずである。彼の作品は、そのつど、彼の鎮魂曲であり、彼は、そのつど、決意を新たにしてきた。最上の友が、いまさら、使者となって現われるはずはあるまい。では、使者はどこからやってきたか。これが、モオツァルトを見舞った最後の最大の偶然であった。
彼は、作曲の完成まで生きていられなかった。作曲は弟子のジュッスマイヤアが完成した。だが、確実に彼の手になる最初の部分を聞いた人には、音楽が音楽に訣別する異様なつらい音を聞き分けるであろう。そして、それが壊滅してゆくモオツァルトの肉体を模倣しているさまをまざまざと見るであろう。
(昭和二十一年十二月)
表現について
私は、若いころから、音楽が非常に好きだった。ただ好きなだけで、専門的知識なぞいっこうない。今も控え室で、ここの蓄音機から、バッハの組曲が聞こえてきて、たいへん楽しい気持ちで坐《すわ》っていた。まことに嘘《うそ》も冗談も災いもない、幸福なしかもまじめな世界です。そういう世界が、スウィッチ一つ入れれば、ほんとうに現われる、魔術でも幻でもない。私は、そう信じているだけなのでして、音楽の専門のかたがたに立ち混じって、専門的なお話をする資格はない。私が、これから思いつくままにお話ししたいのは、芸術の表現というものについて、平素考えていることであります。お話をするについて音楽を例にとりたい、そういう考えでまいったにすぎない。何かを例にとってお話ししないと、表現expressionという言葉の曖昧《あいまい》さのなかに、道を失ってしまう恐れがある。ダアウィンが「人間と動物における感動のエクスプレッション」を研究する時に、エクスプレッションという言葉をどう解釈していたか、二十世紀初頭のエクスプレッショニスムの芸術家たちの間では、それはどういう意味であったか、というあんばいである。音楽を例にとりたいというのは、音楽というきわめて純粋な芸術形式に照らしてお話しすると、お話がしやすかろうと考えたまでで、うまく行くかどうかは、お話ししてみないとわからない。私は音楽史なぞにも暗いので、音楽史的解釈に関しては、パウル・ベッカアの音楽史に現われた考え、私はたまたま読んでたいへん正しい考えのように思われたので、それを頼《たよ》りとしてお話ししたい。
手短なところから始めましょう。音楽の好きな人たちで、この音楽はいったい何を表現しているのだろうかという問題を、考えてみなかった人はあるまいと思う。たとえば、ベエトオヴェンの作品二七番のソナタの一つは、普通、「月光曲」と言われている。これはベエトオヴェン自身が名づけたのではない。ある男が、あの有名なアダジオを聞いて、まるで湖上を渡る月の光のようだと言ったところが、いかにもそういう静かな気分の曲だということになってしまった。ある男の気まぐれが、このソナタの第一楽章の内容を決定してしまったということになります。私はかつてこんな映画を見たことがある。夜中に、女が一人、ピアノの前に坐っている。突然、男が闖入《ちんにゆう》してくる予感に捕えられる。女は男を憎んでいるのか愛しているのか、自分でもよくわからぬ、来て欲しいし、来られたら困る。彼女の指は、われ知らずキイの上を動く、闇の中に、じっと眼を据えて、無意識に弾き出したのは、驚いたことには「月光曲」であった。テンポは、しだいに早くなる、もう疑う余地はない、それは完全に女の心の不安と動揺を表現していました。フランスの国歌の「ラ・マルセイエーズ」は、誰も知っているように、たいへん勇ましい曲であるが、ゲエテは、マインツの包囲戦の時、退却するナポレオン軍が、この曲を奏するのを聞き、復讐《ふくしゆう》の毒念のごとき、なんとはしれぬ恐ろしい、暗い、人の心を傷つけるようなものを感じて、慄然《りつぜん》としたと言っております。音楽というものは、聞く人のあらゆる気紛れを許す、その時々のあらゆる感情を呑み込んで平気な顔をしているように見える。ベエトオヴェンの六番シンフォニイは「田園」という表題を持っている。これは他人が勝手につけた名ではない。ベエトオヴェン自身、このシンフォニイによって、田園生活の感情なり気分なりを表現しようとしたものであり、楽章ごとに、「小川の辺」だとか「夕立と嵐」だとかいう名前がついていることは、誰も知っているところです。しかし、たとえば彼の八番シンフォニイを、自分は、田園と呼びたい、最終楽章は、嵐の後の喜びを現わしたものと解したい、と言い張る人があったとしても、ベエトオヴェンに、充分根拠ある異議を唱えることができたであろうか。むろん気紛れで、シンフォニイは書けないだろうが、書いているシンフォニイを、田園と呼ぼうとする時は、気紛れが物を言う、少なくとも田園という表題は、音楽が表現する何か言うべからざるものを暗示する記号にすぎない、そういう次第のものではあるまいか。ごく手短な話でも、表現という問題は、もうかなりめんどうな表情を呈します。
expressionの表現という訳語は、あまりうまい訳語とは思えませぬ。expressionという言葉は、元来|蜜柑《みかん》を潰《つぶ》して蜜柑水を作るように、物を圧《お》し潰《つぶ》して中身を出すという意味の言葉だ。もし芸術の表現の問題が、一般芸術上の浪漫主義の運動が起こってきた時から、やかましくなったということに注意すればexpressionという言葉のそういう意味合いを軽視するわけにはゆかぬということがわかる。古典派の時代は形式の時代であるのに対し、浪漫派の時代は表現の時代であると言えます。常に全体から個人を眺めていた時代、表現形式のうちに、個性が一様化されていた時代に、何を表現すべきかが、芸術家めいめいの問題になったはずがない。圧し潰して出す中身というものを意識しなかった時代から、自明な客観的形式を破って、動揺する主観を圧し出そうという時代に移る。形式の統制の下にあった主観が動きだし、何もかも自分の力で創り出さねばならぬという、非常に難かしい時代にはいるのであります。ベエトオヴェンは、こういう時代の転回点に立った天才であった。青年期にフランス革命を経験した彼には、個人の権利と自由との思想は深く浸透していたのであるが、音楽を教会と宮廷とから奪回して、自由な市民の公共の財産とするためには、単なる観念上の革命では足りぬ。全く新しい音楽を実際に創《つく》り出さねばならぬ。表現するとは、己れを圧し潰して中身を出すことだ、己れの脳漿《のうしよう》を搾《しぼ》ることだ、そういう意味合いでの芸術表現の問題に最初に出会い、この仕事を驚くほどの力で完成した人である。ここで忘れてならぬのは、ベエトオヴェンは、自己表現という問題を最初に明らかに自覚した音楽家であったが、自分の意志と才能との力で新しく創り出すところは、また万人の新しい宝であるという不抜の信仰を抱《いだ》いていたということです。個人の独創により、普遍的人間性を表現しようとする十九世紀理想主義の権化たる点において、ベエトオヴェンは、文学の世界で言うならばゲエテやバルザックに比すべき稀有《けう》な芸術家だったのであって、そういう人たちが実現した具体的な範型を思わずに、芸術表現の問題を論じてもしかたないのであります。彼らが遺した芸術表現の範型は、まことに及び難い高所にあるのでありまして、その後浪漫派芸術家たちは、いよいよ表現の問題に苦しむようになったが、誰にも、これを突破して進むことは適《かな》わなかった。彼らの表現はむしろ、この頂上からしだいに顛落《てんらく》し、分裂していったように思われます。
個性や主観の重視は、各人に特殊な心理や感情や思想の発見とその自覚を生む。己れの生活経験に関する、独特の解釈とか批判とかが必要になってくる。こういう仕事をやるのに最も便利な道具は、言うまでもなく言葉という道具です。したがって、浪漫主義の運動は、まず文学の上に開花したのであるが、やがて、音楽もこの影響を受けずにはいない。かつて、音という普遍的な運動の中に溶け込んでいた音楽家の意識の最重要部が、言葉の攻撃を受けるという仕儀になった。こういう攻撃に堪えるには、よほどの力が要る。今日から見てベエトオヴェンが古典派と浪漫派との間を結ぶ大天才と映るのも、音と言葉、音の運動の必然性がもたらす美と、観念や思想に関する信念の生む真との間の驚くべき均衡を、私たちは彼の作品に感ぜざるを得ないからであります。そしてこれがどんなに常人の及びもつかぬ力技であったかは、彼の後に来た豊かな才能を抱《いだ》いた多くの浪漫派音楽家の苦しみを見れば、合点《がてん》がゆくのである。ベエトオヴェンにおける個性や主観の強調は、第九シンフォニイの「喜びへの讚歌」という信念に保証されている。ただこの信念の正しさは、ベエトオヴェンという一個の天才の力によって支えられていたのであって、かつての教会という社会的な組織の力によってではなかった。そういうところに、歴史というもののどうにもならぬ残酷な動きがあるのでありまして、彼の後に来たものは、すでに失われたこの天才の力を再び取り上げようとして、その力の不足を歎ぜざるを得なかったということになった。自己表現欲だけはいよいよ盛んになり、複雑なものになり、また、その表現手段としての和声的器楽の形式も豊富なものになったが、自己の行方《ゆくえ》はしだいに見定め難くなり、各人が各人独特の幸福や不幸を抱いて孤立してゆくという傾向を辿《たど》ったのであります。ゲエテが早くも気づいていた「浪漫主義という病気」に、芸術家たちはかかった。いや、進んで、良心をもって、かかったのである。新しい芸術の表現形式が成立するためには、まず何を措《お》いても、己れの感情や心理の特異な使役、容易に人に語り難い意識や独白に関する自覚、そういうものが必要になってくるということは、芸術家の仕事をたいへん苦しいものにします。必要は愛着を生む。人は苦しみを愛しはじめます。このことは、ウェエバアやシュウベルトやメンデルスゾオンやシュウマンの早熟早世と決して無関係ではありますまい。
前に申したとおり、浪漫派音楽の骨組みは、音と言葉との相互関係、メンデルスゾオンが「無言歌」を作ったように、いかにして音楽を音の言葉として表現しようかというところにあった。これは、対象のない純粋な音の世界に、感情や心理という対象、つまり言葉によって最もよく限定できる内的風景が現われ、その多様性を表現せんとすることが音楽の形式を決定するようになったと言えます。純粋な音楽の世界から、言わば文学的な音楽の世界への移行は、非常な速度で進んだ。どんな複雑な微妙な感動でも情熱でも表現できるという、音楽の表現力の万能に関する信頼は、ついにワグネルに至って頂点に達した。彼の場合になると、シュウマンの詩的主題も、リストやベルリオオズの標題楽的主題も、もはや貧弱なものと見えた。主観の動きを表現する音楽の万能な力は、ワグネルにあっては、ある内容の表現力と考えるだけでは足らず、そういう音楽現象を、彼の言葉で言えば、音の「行為」Tat、合い集まって、おのずから一つの劇を演じている「行為」にほかならぬと観ずるに至ったのであります。この音の「行為」が舞台に乗らぬはずはない。音という役者は、和声という演技を見せてくれるはずである。これがワグネルという野心的な天才の歌劇とか祝典劇とかの、ほとんど本能的な動機です。彼は、これを「形象化された音楽の行為」と呼んだ。
ニイチェの死ぬ前年の作に「ニイチェ対ワグネル」というものがあります。「パルジファル」の哲学が、腹に据えかねたニイチェの苛立《いらだた》しさを割引して見れば、ワグネルにおいて、空前の豊富さに達した音楽の表現力が露《あら》わにした音楽の危機について、これほど鋭い観察を下した人はない。彼は、ワグネルの達した頂に、「終末」と「デカダンス」とが、すでに生まれていることを看破したのである。ニイチェはワグネルを、「微小なるものの巨匠」と呼びます。彼に言わせればワグネルという人は、非常に苦しんだ音楽家だ、おし黙った悲惨に言葉を与え、さいなまれた魂の奥に音調を見いだす自在な力を持っていた。「隠された苦痛、慰めのない理解、打ち明けぬ告別のおどおどした眼差《まなざし》」、そんな音楽にもならぬものまで音楽にする驚くべき才を持っていた。要するに、これはニイチェ独特の表現であるが、「魂の持つさまざまな、実に微細な顕微鏡的なもの、言わばその両棲《りようせい》動物的天性の鱗屑《うろくず》」を表現した巨匠だと言うのです。これも、いかにもニイチェらしい言い方だが、「芸術家は、しばしば自分のいちばんよくできることを知らないのである」。表現の自在を頼みすぎたこの音楽家は、やたらに大きな壁画を作ろうとした。大げさな「救い」の哲学を、劇場で、腑抜《ふぬ》けの賤民《せんみん》どもの前に拡げてみせた。まことに、己れを知らぬ野心家である、とニイチェは怒る。しかし、ワグネルは自分には気づかず、隠れたまま、自分自身にも隠れたまま、ささやかな彼本来の傑作を、いたるところにばらまいている。そして、なるほどそれは傑作ではあるが、決して健康な音楽とは言えぬ、そういうニイチェの観察には、非常に正しいものがあるように思われます。
ニイチェが、「ワグネル論」を書いたのは、一八八八年であるが、ワグネルの大管絃楽が、浪漫派文学の中心地パリで爆発したのは、それより二十年も前のことであった。これは非常な事件だったので、人々はこの新音楽の応接に茫然《ぼうぜん》たるありさまだったが、そこに、詩の表現に関する一大啓示を読みとった詩人があった。それがボオドレエルであります。当時文学界に君臨していたのは、言うまでもなくヴィクトル・ユウゴオであって、彼の詩を音楽に譬《たと》えれば、あらゆる旋律、和声、転調を駆使した大管絃楽だったのであるが、ボオドレエルは、この浪漫派の巨匠から脱出する道を、譬え話ではない本物の大管絃楽に見つけた。ワグネルの音楽が、文学の侵入を受け、ほとんど解体せんとする和声組織の上で、過剰《かじよう》な表現力を誇示していたというようなことは、二十年後に、ニイチェが言うことであって、ボオドレエルの関知するところではない。音楽における浪漫主義が、そこまで達した時、この先見の明ある詩人は、文学における浪漫主義の巨匠の表現が、あまりに文学的であることに気づいた。ワグネルの歌劇が実現してみせた数多《あまた》の芸術の綜合《そうごう》的表現、その原動力としての音楽の驚くべき暗示力、これがボオドレエルを、最も動かしたものであって、言ってみれば、これは、音楽の雄弁によって詩の饒舌《じようぜつ》をはっきり自覚した、かつて言葉の至りえなかった詩における沈黙の領域に気づかせたということだ。ニイチェが微小なるものの巨匠と巨大なるものの道化師を見たところに、ボオドレエルは、彼の言葉を借りれば、引力の繋縛《けいばく》から逃《のが》れ、強度の光の中を駆ける逸楽と認識とからなる恍惚《こうこつ》を味わった。むろんワグネルの哲学なぞ問題ではなかった。これはまことにおもしろいことです。人は誰も自分の欲するものしか見ないようだ。いや、それよりも、芸術家にとって表現の問題は、単なる頭の問題ではない、音だとか言葉だとかという扱う材料の性質に繋《つなが》る、それぞれの固有な技術の問題なのであります。
個人の自由や解放に関する主張だけでは、芸術家はどうしようもない。浪漫派音楽家たちが、大いに羽を延ばすことができたのも、楽器の発明改良というものが物を言ったのである。たとえばピアノという楽器の急速な進歩による、その自在な表現力は、シュウマンの詩情の表現に関する喜びや苦しみと離すことができない。さらに言えば、ソナタ形式という、主観の運動の表現に適した動的な表現形式も、なにも音楽家が頭で考え出したわけではない、単独で、数多の楽器を集合した効果が出せるように改良されたピアノという楽器のメカニスムがもたらした、音感覚の分析から生じてくるのであります。ワグネルの野心的な歌劇も、いよいよ豊富になった管絃楽の構成により、音の量感であれ、色彩感であれ、あらゆる和声の運動の実現が可能となるにつれて、この運動そのものが劇的な動きと感ぜられるに至ったというところから来ている。ある伝説を素材として、いかなる思想を表現しようかという彼の企図も、まず基本和声が現われ、それが展開し、動揺し、不安定な状態に入り、最後に、和声は平衡を取り戻さなければならぬという、和声音楽の構造の必然性に左右されるのであります。
しかし、これは音楽の非常な強みであり、文学となると違ってきます。これは彼らの扱う根本の素材の相違から来る。私たちの耳の構造は、噪音《そうおん》から楽音をはっきり区別して感受するようにできている。よく調律されたピアノの発する一音符は、耳に快適な音であるという理由で、すでに独立した純粋な音楽の世界を表現しています。そればかりではない。物理学は、この音の計量的性質を明らかにして、音響学を可能にする、そこから、音の快感と音の計量との間に、はっきりした関係が成り立つ。ピアノという楽器は、音楽家の自己表現の道具であるとともに、物理学者の音響計量の実験器でもある。音という素材は、明瞭に分類され定義された実体として、音楽家の組み合わせを待つばかりである。こんな幸運には、詩人は出会っておりませぬ。音の単位というものがあるから音響学は成立するのだが、詩学を作ろうにも、詩的言語単位というものを得ることができない。詩人は日常言語の世界という、驚くほど無秩序な素材の世界を泳ぎ廻っているのだが、その中から詩的言語というものを、はっきり認識するいかなる便利な能力も持っておりませぬ。音叉《おんさ》もメトロノームもない。詩作の一定の方法なり、詩の一定の形式なりを保証するものは、伝統という曖昧な力だけだ。詩の秩序は、常に言葉の本質的な無秩序の攻撃に曝《さら》されている。音楽の形式は変遷するが、それは音楽という固有な世界の中での秩序の移り変わりである。つまり音楽は音楽たることをやめはしないが、詩は、扱う素材の曖昧さのために、詩でもないものに顛落する危険をみずから蔵しているものなのであります。
私たちは、苦もなく自然主義に対して浪漫主義ということを言い、理性や観察を重んずる傾向に対し、情熱や想像力を尊重する傾向を考える。リアリストは、侮蔑《ぶべつ》的にロマンチストという言葉を使う。しかし、音楽の上でも文学の上でも、浪漫主義の動きは、十八世紀の啓蒙思想という批評精神から生まれたものであり、その性質は決して簡単なものではありませぬ。啓蒙時代の選良たちは、伝統破壊者としては自由主義者であり、何を措《お》いても理性を尊重し、信仰を否定する主知派であり、不合理な習慣による社会的権威を認めぬ点で個人主義者であり、自然主義者でもあった。かような複雑な性質が集まって、自己批評、自己解放の一途を辿《たど》ったのである。外的な束縛を脱した自己が、自由に考えたところを、自由に感じたところを、そのまま表現する。したがって、浪漫派文学の時代は、告白文学の時代であり、自由な告白には、約束の多い詩の形式より散文が適するから、これはまた散文の時代を招来しました。文学の romantisme を宰領したのは、roman(小説)だったのであります。浪漫派の大詩人たちは、すべて告白を、小説を書いた。ユウゴオの決定的な成功は「レ・ミゼラブル」によって定まったのである。つまり、これは、詩はその伝統的な形式の枠の中で、饒舌のために平衡を失った内容で、はち切れんばかりになり、いつでも自由な散文形式に逸脱しようとする状態にあったということであり、これが、ボオドレエルが感じた危機であります。では、彼が得た音楽からの啓示とはどんな性質のものであったか。
もともと言葉と音楽とはいっしょに人間に誕生したものである。一つの叫び声は一つの言葉です。リズムや旋律の全くない言葉を、私たちはしゃべろうにもしゃべれない。歌はそこから自然に発生した。古い民謡は、音楽でもあり詩でもある。しかも歌う人は、両者の渾然《こんぜん》たる統一のなかにあるのであるから、その統一さえ意識しませぬ。彼はただ歌を歌うのだ。ただ歌を歌うのであって、いかなる歌詞をいかなる音楽によって表現しようかというような問題はそこにはないのであります。
こういう問題が現われてくるためには、表現力において、人声という楽器をはるかにしのぐ楽器の出現が必要だった。人間の声にある男女の別や個人差を全く消し去って、常に同一な純粋な音を任意に発生させ、人声を使用してはとうてい成功おぼつかない豊富な和音や、正確な迅速な転調が、やすやすとできるような楽器の出現、つまり、非人間的な音のメカニスムが発明され、それが人間に対立するということが必要だったのであります。ここに非人間的楽器が、いかにして人間的内容を表現しうるかという問題が自覚される。もちろん、一方、これに、時代思想は、個人の発見、自覚、内省という方向に動いてゆき、表現すべき人間的内容に関する意識は、いよいよ複雑なものになり、とうてい、単純な表現手段では間に合わなくなってくるという事情が、照応しているのであります。
音楽家は、批判的精神によって複雑な自己を表現する必要に迫られた時、和声的楽器というすばらしい形式を発見した。これは前に申し上げたように、楽音という素材に固有な性質から来たのである。これが、ボオドレエルがワグネルの音楽から直覚し驚嘆したものなのであって、彼は歌を聞いたのではない、管絃楽器の大建築を見たのだ。詩人は、長い間、同じ歌を歌っていた。彼の知っていた音楽は、人声という単純な楽器の発する音楽であった。詩の内容の複雑さが、単純な詩形に堪えられなくなった時、彼には器楽の発明のごとき好都合な新しい表現形式が見つからぬままに、散文に走るより他はなかった。フランスの古典詩でも、十七世紀の後半には、もう散文化の傾向をとっていたのであります。これも前に述べたように、言葉という素材に固有な性質から来ているのです。さて、諸君には、もう充分ご推察がいったであろうと思うが、ボオドレエルが決意した仕事は、詩形の改良というようなやさしいことではなかった、詩の世界の再建であった、音楽家の創作方法に倣《なら》って、詩という独立世界を構成することであった。
ボオドレエルの「ワグネル論」のなかに、こういう言葉があります。「批評家が詩人になるということは驚くべきことかもしれないが、一詩人が、自分のうちに一批評家を蔵しないということは不可能である。私は詩人を、あらゆる批評家中の最上の批評家とみなす」。これは、次のような意味になる。天賦の詩魂がなければ詩人ではないだろうが、そういうものの自然的展開が、詩であるような時はすでに過ぎたのである。近代の精神力は、さまざまな文化の領域を目ざして分化し、さまざまな様式を創り出す傾向にあるが、近代詩は、これに応ずる用意を欠いている。詩人のうちにいる批評家は、科学にも、歴史にも、道徳にもやたらに首をつっ込み、詩人の表現内容は多様になったが、詩人には何が可能かという問題にはまともに面接していない、散文でも表現可能な雑多の観念を平気で詩で扱っている。それというのも、言葉というものに関する批判的認識が徹底していないからだ。詩作とは日常言語のうちに、詩的言語を定立し、組織するというきわめて精緻な知的技術であり、霊感と計量とを一致させようとするおそらく完了することのない知的努力である。それが近代詩人が、みずからの裡《うち》に批評家を蔵するという本当の意味であって、もし、かような詩作過程に参加している批評家を考えれば、それは最上の批評家と言えるであろう。おそらくそういう意味なのであります。
ボオドレエルは、こういう考えをすでに、エドガア・ポオの詩論から得ていたのであるが、おそらくワグネルのうちに鳴り響いたものは、理想的詩論そのもののように思えたでありましょう。「悪の華」には歴史も伝説も哲学もない、ただ詩という言い難い魅力が充満している。言葉はひたすら普通の言葉では現わし難いものを現わさんとしているのであります。音楽から影響されて、音楽的な詩を書いたというようなことではない。音楽家が楽音を扱うように言葉を扱わんとしているのである。言葉の持つ実用的な性質、行為の手段としての言葉、理解の道具としての言葉、そういうものから、いかにして楽音のごとく鳴る感覚的実体としての言葉を掬《すく》い上げるか。そして、そういうものをいかにしてある諧調《かいちよう》に再組織するか。それがつまりは、内的な感動を表現する諸条件を極《きわ》めるということだ。「悪の華」は、言葉に関するそういう驚くべき意識的な作業の成果であって、ボオドレエルを継ぐ象徴派詩人たちの活動は、「悪の華」の影響なしには、とうてい考えられないのである。私は、ここで象徴派詩人たちについてお話を進める気はない。ただ表現の問題でいちばん苦しんだのは彼らであり、この問題で、音楽はいつも彼らの仕事の範型となって現われていたということを申し上げておけばよいのであります。
現代は散文の時代である。詩は散文の攻勢にほとんど堪えられないようになっている時代であるとは、皆様ご承知のことですが、このことを表現という問題から考えてみたら、どういうことになるか。これは一般に、あまり注意されていないように思われます。前に expression という言葉は、元来物を圧《お》し潰《つぶ》して中身を出すという意味合いの言葉であるということを申し上げたが、散文では、そういう意味合いでの表現という言葉は、しだいにその意味が薄弱になってきた、その代わりに広い意味で、描写という言葉が使われだしたと考えてよかろうと思う。表現するのではない、描写するのである。言うまでもなく、こういう傾向は、実証主義の思想がもたらした観察力の重視から来た。表現が描写に変わったというような言い方は、まことに乱暴なようであるが、これは結局十九世紀小説の自然主義とか現実主義とかいう言葉よりは、はっきりした概念を語ることができるのではあるまいかと考えます。
人間を、事物を正確に観察し、それをそのまま写し出す。対象の世界は、いくらでも広がります。観察をしている当人の主観はと言えば、これまた心理学の発達により、心理的世界という対象に変じます。観察の赴《おもむ》くところ、すべてのものが外的事物と変ずる。作者は圧し潰して中身を出そうにも、中身が見当たらなくなる。極端に言えば、自己は観察力の中心となり、言葉は観察したものを伝達する記号となります。こういう傾向が非常に強くなった文学が、ナチュラリスムの小説とかレアリスムの小説とかだと考えると、そこで言葉というものの扱われ方が、詩人の場合とはまるで異なっていることに気づくはずです。詩人は、ワグネルが音楽を音の行為 Tat 、と感じたように、言葉を感覚的実体と感じ、その整調された運動がすなわち詩というものだと感じている。むろん言葉では音のように事がうまくはこばないが、ともかく詩人はそういうことに努力している。したがって詩では、言葉が意味として読者の頭脳に訴えるとともに、感覚として読者の生理に働きかける。つまり詩という現実の運動は、読者の全体を動かす、私たちは私たちの知性や感情や肉体が協力した詩的感動をもって、直接に詩に応ぜざるを得ない。これが詩の働きのレアリスムでありナチュラリスムである。対象の言葉による合理的な限定を根本とする描写尊重の小説では、言葉は実体を持っていない、もっぱらわれわれの観念を刺激する目的のための記号である。小説のうちにある作者の意見や批評はもちろんのことだが、小説のあらゆる描写は、直接に読者の頭脳に訴えるもので、そこに対象を見るような錯覚を生じさせれば、それでよい。読者の頭だけが働く、肉体は休んでいます。ある人間が動いているのを見るような錯覚に捕えられる、すると自分が動いているような気がする、気がするだけで実際には動いていない、動いていないどころではない、息を殺して、身動きもできないような状態をこしらえないと、充分に自分が動いているという錯覚が得られない。小説を、夢中になって読んでいる人を、観察してみれば、すぐわかることです。彼は、事実、夢の中にいる。
小説家は、読者に現実の錯覚を起こさせる目的のためには、手段を選ばぬように見えます。詩語であれ、抽象語であれ、実用語であれ、なんでもかまわぬ。彼は、言葉自体の魅力なぞはほとんど信用していない。言葉は彼らの対象ではない。対象は事物である。対象の錯覚を読者に与えるために、言葉という道具を動員するのである。だから、観察の深浅ということはもちろんだが、大小説も見聞を語る普通人の話と表現の上で本質的な違いはないと言えます。小説の読者は、小説の形式の美しさに心を引かれるのではない。描かれた事件や物語に身をまかせるのだ。活字が眼にはいれば、もう言葉は要《い》らぬ。勝手に人生のほうに歩きだす気になればよい。詩人は言葉の厳密な構成のなかに、人を閉じ込めようと努めますが、小説家は事物の描写や事件の演繹《えんえき》によって、文学形式という枠から読者を解放します。したがって、ここに驚くほど無秩序な小説が現われたとして、作者が、無秩序は自分の責任ではない、私の忠実に描いた無秩序な社会生活の責任であると言ったとしても、彼の弁解に全く道理がないとは言えないのであります。私たちが理解している近代小説には、すべてそういう強い傾向が現われている。
むろん、私は極端なお話をしているので、実際には、詩と散文とがはっきり区別されて世に現われるものではない。ボオドレエルでさえ、ある自作には「散文詩」という名を与えているのですし、全く詩の性質を含まぬ小説というものもない。しかし、傾向としては、以上述べたようなことは、疑いのないところなのであって、一般の情勢は内的なものにおのずから形を与えるという意味での表現というものから、外的なものをそのまま写し出す描写というものに進んでいった。ゾラのナチュラリスムが現われるころには、絵画のほうでも描写の極端なものとしてアンプレッショニスムが現われるといったようなものである。そういう芸術家たちが、どうして外的な真実を写し出すことに専念し、写し出す主体の問題に心を労しなかったかというと、これは当時の科学万能の思想の裏付けによるのである。人格的意識は、事物のエピフェノメノン、附帯現象であるという科学的態度が、知らず識《し》らずの間に、芸術家の制作態度の裡《うち》に深く滲透《しんとう》していたからであります。自己解放の意志が、表現という言葉を生んだのだが、解放された自己の表現は、観察力の絶え間ない導入によって、外的事物のうちに解消していったのである。
言うまでもなく反動というものはやってくる。科学の進歩は、決して停止しやしないが、科学の思想、科学的真理の解釈のしかたは変わってくる。十九世紀に科学思想が非常な成功をかち得たというのも、科学が人間の正しい思考の典型であると考え、思想のシステムの完全な展開は、事物のシステムに一致するという信仰によったのであるが、そういう独断的な考えも科学の進歩に伴い、十九世紀末には、科学者自身の間から否定されるようになりました。科学の成立する過程が、生得の観念からの厳密な演繹と必ずしも一致しないということは、科学上の諸発見によって、しだいに明らかにならざるを得なかったのでありますが、ついには、両者は本質的に異なるものだ、科学の成立条件は、人間の意志活動、あるいは人間の有機的構造や環境の偶然と離すことはできぬ、という、たとえばポアンカレのような考えが現われてきたのであります。かつて真理と言えば、科学的真理の異名のごとき観を呈していたが、もうそんなことではだめで、言わば、真理というものの次元が変わってくる時が来た。いわゆる合理主義、主知主義の哲学に疑いを抱いた思想家のうちで最も影響力を持ち、また事実最も精緻な哲学的表現をした思想家は、ベルグソンであります。ここではお話に必要なことだけを申し上げるのだが、ベルグソンの哲学は、直観主義とか反知性主義とか呼ばれているが、そういう哲学の一派としての呼称は、たいして意味がないのでありまして、彼の思想の根幹は、哲学界からはみ出して広く一般の人心を動かしたところのものにある、すなわち、平たく言えば、科学思想によって危機に瀕《ひん》した人格の尊厳を哲学的に救助したというところにあるのであります。人間の内面性の擁護、観察によって外部に捕えた真理を、内観によって、生きる緊張の裡に奪回するというところにあった。そういう反動期を経た今日では、小説家も、もはや往年の自然主義、写実主義の信奉者ではなくなっている。ということは、浪漫派文学がもたらした自我の問題の重みを、また新しい形でめいめいが負わねばならない仕儀に立ち至っている。科学思想は、もはや彼らを丸め込む力を失ったかもしれぬ。その代わり組織化された政治思想のメカニスムが、新しい強い敵手として、現われかけているかもしれぬ。それはともかく、歴史の上に来る反動というものは、決して過去の重荷を取り除いてくれるものではない。私たちはいったん得たものを捨て去ることはできないように作られている。私たちは、浪漫主義の運動は、いかにも大きな運動であった、といまさらのように思うのであります。これに反抗したように見えたさまざまの運動も、この大運動の生んだ子供だった。文学の世界でも、ピアノはやはり発明されたのである。科学思想も、作品を創らねばならぬ作家の側から言えば、新しい観念形態として利用すべきピアノのごときものであったに相違ない。文学における科学思想のメカニスムも、音楽における和声形式のメカニスムも、もともと分析の原理に発しているのであり、その拡大は当然解体による拡大であった。ニイチェは、早くもワグネルにその危機を見た。分散した音を、いかにして再び単音の充実した一元性に戻そうかという苦しみは、今日の散文家が、どこに新しい詩という故郷を発見すべきかという苦しみに似ています。いったん得たものを、捨て去ることはできない苦しみである。しかし、表現の問題を、そんなに広汎《こうはん》な範囲まで拡げるわけにはいきませぬ。
ボオドレエル以後の象徴派詩人たちの運動は、文学の散文化による自我の拡散に抗して、個性的な内的な現実を守りつづけてきた運動だと言えます。浪漫派文学は、まず自己告白によって口火を切った。偽りの外的形式を否定して真の内容が吐露したかった。それはいい。ところが、吐露する形式はどういうことにならねばならぬか。そういうことまで考える余裕はなかったのである。ただ何もかも吐き出してしまいたかった。その自由と無秩序との裡に、せっかく現わそうとした自己の姿が迷い込んでしまったのである。この告白の嵐に、一つの大きな秩序を与えたものが、合理的な観察態度なのである。ところが、この態度がもたらした正確な描写という手法は、文学の新しい秩序を創り出したというより、むしろ文学によって事物の秩序を明るみに出した。告白の嵐の中に道を失った自我は、観察機械たる自己を発見するという始末になった。これは発見とは言えまい。新しい型の紛失です。そこで、こういう問題が現われます。一般の趨勢《すうせい》に抗して、象徴派の詩人たちは、内的現実を守った、つまり自己表現の問題から目を離さなかったのであるが、彼らが詩人の本能から感得していた自己とは、告白によっても現われないし、描写の対象となるようなものでもなかった。自己とは詩魂のことである。それは repr(明示)によって語ることはできない、詩という象徴 symbole だけが明かすことができる。しかし symbole という言葉は曖昧です。ヴァレリイは、サンボリストたちの運動は、音楽からその富を奪回しようとした一群の詩人の運動と定義したほうがいいと言っている。強いて symbole という言葉を使うなら、その最も古い意味合いで、詩人はみずから創り出した詩という動かすことのできぬ割り符に、日常みずからもはっきりとは自覚しない詩魂という深くかくれた自己の姿の割り符がぴったり合うのを見て驚く、そういうことが詩人にはやりたいのである。これはつまるところ、詩は詩しか表現しない、そういうふうに詩作したいということだ。これは、まさしく音楽に固有な富である。
ボオドレエルが奪回しようと思ったのは、音楽の富であって、文学化された音楽の富ではない。音による言葉とは比喩《ひゆ》である。浪漫派音楽は、詩的とか劇的とかいう大きな比喩の中を動いていたのだと言えます。シュウマンは古代人の歌を聞いていたのではない、この分析的な意識家はピアノの前に坐って考え込んでいたのである。詩と音楽との相互関係という思想とは、ピアノの魔術のような表現力の計量模索の果てを形容する言葉にすぎない。ワグネルが、舞台の上に音楽を形象化したということも、和声的器楽の膨大なメカニスムの正確極まる絶対的な把握《はあく》、そこに生じた音楽へのあふれるような信頼の情を語ると考えるのが、正しいであろう。彼は、何も形と音とを結合しようと思ったのではない。音楽は、いつもいたるところで、純粋だったのであります。
最初に、音楽は、どんな気紛れな解釈でも平気で呑み込むように思われるというお話をした。だが、最も無秩序な不純な散文という形式は、また、最も読者の気紛れな解釈に堪えるでしょう。それを考えれば、音楽が聞く人の気紛れな解釈に堪えるのは、裏返してみれば音楽の異常な純粋さを証するものだとすぐ気がつくはずです。音があらゆる種類の感情を暗示する力があるということは、たとえばCの音はCの音ただそれだけを明示しているということと同じことです。人々が勝手な感情を、そのまま音楽に映し、音楽がたしかにそういう感情を表現していると考えるのもまことに自然なことです。ただ少々自然すぎる、でなければ表現という言葉が曖昧すぎる。犬がある表情をする時、ダアウィンは、犬が喜びを表現したと考える。私は笑った時に、おかしさを表現したと考える。しかし芸術家にとっては、それではただ生活しているだけのことであって、表現しているのではない。生活しているだけでは足りぬと信ずるところに表現が現われる。表現とは認識なのであり自覚なのである。いかに生きているかを自覚しようとする意志的な意識的な作業なのであり、引いては、いかに生くべきかの実験なのであります。こういうところで、生活と表現とは無関係ではないが、一応の断絶がある。悲しい生活の明瞭な自覚はもう悲しいものとは言えますまい。人間は苦しい生活から、喜びの歌を創造しうるのである。芸術の成立を歴史的に社会学的に解明しようとする思想は、表現という言葉の持つ意志的な意味をだいなしにしてしまった。環境の力はいかにも大きいが、現に在《あ》る環境には満足できない、いつもこれを超えようとするのが精神の最大の特徴であります。
音楽を聞くとは、その暗示力に酔うことではありますまい。誰でも酔うことから始めるものだ。やがて、それなら酒に酔うほうが早道だと悟るのです。音楽はただ聞こえてくるものではない、聞こうと努めるものだ。と言うのは、作者の表現せんとする意志に近づいてゆく喜びなのです。どういうふうに近づいてゆくか。これは耳を澄ますよりほかはない。耳の修練であって、頭ではどうにもならぬことであります。現代人は、散文の氾濫《はんらん》のなかにあって、頭脳的錯覚にかけては、皆達人になっております。一方強い刺激を享楽して感覚の陶酔を求めているので、耳を澄ますということも難かしいことになっている。黙って、どれだけの音を自分の耳は聞き分けているか、みずから自分の耳に問うというような忍耐強い修練をやる人は少なくなっている。しかし、そこにいっさいがあるのだ。たとえば、私が、梅原龍三郎氏といっしょに同じ絵を黙って見ています。二人とも言葉では、いい絵だと同じことを言います。しかし、おそらく梅原氏の目玉には、私の目玉に映る何十倍かの色彩が現に映っているはずであるということを考えざるを得ない。そこにいっさいがある。これは恐ろしいことなのであります。耳は馬鹿でも、音楽について、利口《りこう》に語ることもできる。つまり音楽を小説のように読んでいる人は、意外に多いものであります。
耳を澄ますとは、音楽の暗示する空想の雲をくぐって、音楽の明示する音を、絶対的な正確さで捕えるということだ。私たちのうちに、一種の無心が生じ、そのなかを秩序整然たる音の運動が充《み》たします。空想の余地はない。音は耳になり耳は精神になる。そういう純粋な音楽の表現を捕えてしまえば、音楽に表題がなくても少しもかまわない、また、あっても差し支えはない。音楽の美しさに驚嘆するとは、自分の耳の能力に驚嘆することだ、そしてそれは自分の精神の力にいまさらのように驚くことだ。空想的な、不安な、偶然な日常の自我が捨てられ、音楽の必然性に応ずるもう一つの自我を信ずるように、私たちは誘われるのです。これは音楽家が表現しようとする意志をあるいは行為を模倣することである。音楽を聞いて踊る子供は、音楽の凡庸な解説者よりはるかに正しいのであります。ベエトオヴェンの最後の絃楽四重奏曲の最後の楽章に「困難な解決」という題が付けられていることは、よく知られています。最初のグラーヴェの主題には「そうでなければならないか」とある。彼は、次のアレグロの主題には「そうでなければならぬ」と書いた。表現するとは解決することです。解決するとは、形を創り出すことです。グラーヴェの主題の形を創り出さねば、「そうでなければならないか」という問いさえ無意味なのであります。圧し潰して中身を出す。中身とは何か。おそらく音という実体が映し出す虚像にすぎまい。それほど音楽家は、楽音という美しい実在を深く信じているものなのであります。
(昭和二十五年四月)
ヴァイオリニスト
メニュウヒンの演奏会の切符をやるから、聴いてから何か書け、と新聞や雑誌から言われて弱った。聴きたいことは聴きたくてたまらぬし、不精者の私に、独力で切符を手に入れるのはまず不可能であるし、後で快楽を文章で反省してみることなど御免であるし、さて困ったことだ、と思いつつ、目の前の盃にはつい手が出る習わしで、うかうかと三度もただで聴いてしまった。金を返しゃいいんだろう、と言ってみたが、編集者はもう承知してくれなかった。
初め切符を見せびらかされた時、私は遅疑なく第一日目のを選んだ。むろん、早くききたいこともあったが、タルティニとパガニニの名が、プログラムに並んでいたからである。と言うのは、私は音楽をきくというよりむしろヴァイオリンをきくつもりでいたからだ。名器を自在にあやつる名人の演技に目《ま》のあたり接したかったからだ。エルマンというヴァイオリンの名手が、はじめて来たのは、私の中学生時代であったが、あの時にはヴァイオリンとはかくも玄妙不思議なものであるかと驚嘆した。驚いたのは中学生ばかりではなかったようである。メニュウヒンの演技に接し、人々が冷静を失うことなく、賢明な批評を試みている今日に比べると、隔世の感を懐《いだ》く。音を記憶するのは難かしいことだから、あの時のエルマンの音色は未だ耳に残っていると言えば嘘になるが、彼の特色ある左足の動きや、異様に赤いヴァイオリンのニスの色を思い浮かべると、もはや消え去った音色が、またどこからか聞こえてくるような気持ちになる。その後、ヴァイオリンの名人は幾人も来た。私は、その都度《つど》必ずききに行ったが、それはまた見に行くことでもあった。最後に来たのはチボーだったが、ラロのあるパッセージを弾《ひ》いた時の、彼のなんとも言えぬ肉体の動きを忘れることができない。それからもう十何年になるだろう。蓄音機もラジオも、私の渇を癒《いや》してはくれなかった。
ヴァイオリニストはむろん俳優ではないが、歌手についで俳優的な性質を多く持った演奏家であろう。しかし、そんなことを言っても何を言ったことにもなるまい。演奏家というものが、そもそもたいへん曖昧な存在だからである。だいぶ以前のことだが、兼常清佐《かねつねきよすけ》氏が、一種の演奏家無用論をくり返し雑誌に発表し、音楽好きの話題の種となったことがある。私は、論者が楽壇に対する皮肉のつもりで書いているのか、それとも大まじめな論なのかわからぬままに傍観していたが、氏の烈しい主張にもかかわらず、論戦めいたものも起こらなかったように記憶する。問題にされた対象が曖昧で論戦には適しなかったためであろう。なぜ、私がこんな話をここに持ち出したかというのも、同じ理由によって簡明を欠く。
メニュウヒンをきいたある人が、退屈だった、わざわざ出かけてゆくまでのことはなかった、と私に言った。その人は、非常なレコード・ファンで、メニュウヒンのレコードもほとんど集めているというほどの音楽好きである。簡単な実話だが、中身は見かけによらず豊富なのである。わが国における西洋音楽の普及発達に、レコードの演じた役割には驚くべきものがあると思うが、そんなことにはまるで無関心なところが、ファンのファンたるゆえんであろうか。私は、昔、文学青年であるとともに音楽青年でもあった。文学熱のほうが高まってきて、鋸《のこぎり》の目立てのほうを断念した後は、私の裡《うち》の音楽青年は、もっぱらレコードを最上の友とするに至った。これは、当時、実に多数の音楽愛好家たちが辿った道である。そして、蓄音機のメカニスムとレコード販売方法との急激な発達は、彼らに、わが国の楽壇の貧しさを決定的に教えてしまった。その辺が、頭からはいってくる文学とはまるで違うところで、機械で再生される音も音には違いなく、感動は知覚に直接に関係するものであるから、事は決定的だったのである。文学青年は文壇と常につながりを持っているが、音楽青年は、楽壇とのつながりをあっさり絶ってしまった。ここに、楽器もいじらず、音楽会にも行かぬ、異様な音楽愛好家たちの大集団が、急速に形成された。なんの野心もないまじめなまた批判的な集団には違いないが、また、おそらく外国には見られない不思議に孤独な集団には違いなかったのである。私が、ついにレコード・ファンとして失格するに至ったのは、むろん文学熱の昂進にもよったが、みずから楽器に親しんだり作曲したりしている友だちの雰囲気が、いつも間近にあったことによるところが多かったと思っている。
私は、レコード・ファンにはなりそこなったが、音楽は、レコードを聞いていればたくさんというレコード・ファンの心理は、よく理解できるように思う。確かにこれは、音自体の問題というよりむしろ心理の問題になるようだ。小まめで神経質なレコード・ファンは、実際、あきれるほどいい音を聞いているものである。今日の最上の蓄音機が、どんなメカニスムによって、どんなことまで可能にしているかというような知識は、私にはないが、録音室で、最上と考えられる条件の下に捕捉《ほそく》されて再現される音は、その音域にせよニュアンスにせよ、音楽の種類によっては、すでに人間の聴覚が知覚しうる以上のものとなっているだろうと思われる。この種の発達には切りがない。日比谷公会堂のメニュウヒンの音は、家の蓄音機の音には及ばない、とレコード・ファンから言われても、簡単には反対できまい。事実、私が日比谷公会堂に行った時は、三度とも雨の日で、湿ったヴァイオリンは、湿った音でしか鳴らなかったはずである。では、演奏会に出かける手間をはぶいてくれる、蓄音機やラジオの発達は、ついに演奏会というものを無用の長物と化するであろうか。そうなると問題は、もう音響学では片づくまい。たとえ演奏が下手《へた》でも音が悪くても、レコードで聞くより演奏会で聞くほうが楽しいという人も必ずあるはずである。私なども、不精者で演奏会にはめったに行かないが、どちらかと言えばそういう組である。すると、それは演奏会では、耳の楽しみに目の楽しみが加わるということなのか。どうもそんな簡単な話ではなさそうに思われる。実は、そんなことをはっきり考えてみようと思ったことはなく、今、メニュウヒンの演奏会に関して何か書くことを強いられた機会に、考えてみようとしたら意外にめんどうなことだと気づいて驚いている始末なのである。
第一日目に、タルティニの最初の音を息を凝らして待っていたら、意外に悪い音で弾きだされた。それがしだいに調子が出てきて、美しい音に変わってゆく経過が、なんとも言えず気持ちのいい運動と感じられた。次のパガニニでは、楽器がもう完全に鳴っているのを感じた。それはあたかもかつて経験したこともないような湿度の中で、どう鳴りだしたらいいか暗中模索しながら、しだいに自得し成功してゆくストラディヴァリウスの息づかいのように思われ、私に非常に美しい印象を与えた。その後聞いた二度とも同様な経験をした。あれほど技を練り、場なれた名人が、初めのうちは調子が出ないというようなことではおかしい。やはり、それは、弾いている間にしだいに克服するより他はない湿度という物理的条件によったのだろうと思っている。だが、推察にとどまるから、あえて主張はしない。それはともかく、演奏家は、演奏会で、どんな思いがけない条件の下に弾くかわからない。日によってできふできがあるどころではない。どんな名人も全く同じ演奏を二度できないはずである。一度一度が勝負であって、間違ってもやりなおしはできない。そしてこういう演奏家の性質に応ずる気構えで聞くのが、演奏会の聴衆の楽しみなのである。メニュウヒンは、ステージに上がると、日本の聴衆の敏感さというものがすぐ感じられたと書いていたが、聴衆の気構えは、また逆にただちに演奏家の心理に反映し、その時の演奏に影響せざるを得まい。こういうことは、むろん、蓄音機の場合には起こらない。いつも同じ音を発する機械に対して、人間は気構えをするわけにもまいらぬから、全く受け身な知的なかつ孤独な態度をとらざるを得ない。それはもうおよそ態度をとるなどとは言えぬことかもしれないが、ともかくそういう態度を、一方楽器を手にする楽しみも捨てて、続けていると、聴覚の性質も、音楽の観念的な解釈や理解に照応するように変化してくるに違いない。私は、頑固なレコード・ファンに会うと、音響学的に純粋な楽音にばかり鋭敏な耳が、もうこの人にはできあがっている、とよく感ずることがある。むろん、そんな人はたくさんいるわけではないが、それはレコード・ファンの言わば理想だ。まずレコードをめぐる解説者や批評家によって、ある種の音楽の観念が与えられ、次にレコードによって、あたかも本を読むごとく音楽を聞く耳の訓練をする。耳はそういう訓練に堪えるようである。聴覚とはそれほど柔軟な感覚だとも言えるであろうし、聴覚という言葉はそれほど心理学的な曖昧な概念だとも言える。
演奏会の聴衆になると、これはもうはっきりしたある態度を持って、音という事件に臨んでいると言えるだろう。常人には思いも及ばぬ芸当によって、音を演ずる一種の俳優でもあり、舞踏家でもあり、あるいは軽業師《かるわざし》でもある人間に対して、人々が一堂に会して拍手を送る時、私たちがわれ知らずとる態度は、さまざまな条件から成るたいへん複雑な性質のものであろうが、演奏会場の雰囲気という簡単な言葉が、充分にこれを象徴しうることを私たちは感じている。つまりこの態度は不純であるが、自然なのである。この自然な態度から考えると、純粋な音楽の鑑賞には、意識的に仮構された態度が必要だということになるだろう。そればかりではない、この自然な態度が、演奏会の聴衆の聴覚を決定してしまうと言っても心理学の常識には反しまい。幾何学的空間の構造は同様でも、演奏会の聴衆と蓄音機をひとりで聞く人との聴覚的空間の構造は全く違うと考えていい。そういう空間に関して、法則的なことは何も言えないが、演奏会で、私たちは、音を刻々に創り出す演奏者の動きを、知らず識《し》らずのうちに模倣する態度に出る点では、みずから楽器を扱う場合と非常によく似た音に関する知覚体制を、おのずから作っていると言えるだろう。そしてこの体制に応じて聴覚的空間の構造は定まるはずであるから、言わば、私たちは音が向こうからやってくるのをじっと待っている代わりに、進んで音を求め、音に出会おうとするように聞くと言えるのである。オーケストラの全員が、演奏前に調子を合わせているのを聞いているのは楽しいものだ。もう音楽は始まっているとも言える。相撲《すもう》が仕切りから始まっているようなものだ。演奏中に種々雑多の楽器から、金属や木材や獣皮や馬の尻尾から発する噪音《そうおん》の群れも、楽音が噪音の雲間を透して輝き生まれてくる、とそういうふうに聞く者にとっては、まことに美しいものである。たとえば下手なピアニストが安ピアノを叩きながら、自分の耳は妙音を聞いていると言っても、嘘をついているわけではない。また、たとえば、私が蓄音機の音を聞いて、音が良過ぎて不愉快だ、と言っても、私は頭脳で判断しているわけではない。ちなみに記するが、月の出に月が大きく見えるのは、人間という生物の自然な生活態度にとっては、前面の知覚空間は、頭上の知覚空間より圧縮されて存し、両者は決して等質ではないからである。この場合、錯覚という言葉は、ほとんど意味をなさない。
こんなことを考えていると、考えはおのずから演奏家の問題にぶつかるようである。今度の演奏会でパガニニのコンチェルトを二つ聞き、感動したが、以前、伝記を通じて得たこの大ヴァイオリニストに関する知識が、さまざまな意味でまた新たに考えられたのである。周知のように、パガニニの生涯には、妙な伝説がいろいろある。おそらくみんな嘘であろうが、彼を聞いた人たちにしてみれば、伝説でも作り上げねば、とても、承知ができなかったらしい。当時でもヴァイオリンの名手は、雲のごとくいたのであるが、パガニニだけが全く比較を絶していたようで、今日残っている当時の批評を読んでみても、どれも批評というようなものではない、みな茫然自失しているのである。彼が、イタリイからはじめてウィンに現われた時、全市はたちまち湧《わ》き返り、女はパガニニ式リボンを結び、パガニニ式肩掛けを買い、男はパガニニ式|煙草《たばこ》を喫《す》い、レストランでは、ヴァイオリン形のパンでパガニニ式カツレツを食い、玉突き屋ではパガニニ式に玉を寄せる、といった具合だったそうである。今日では、ヴァイオリンの技術も非常に進歩して、パガニニの奏法の謎は技術的には解かれてしまっているだろうが、それは、パガニニにしても化け物ではなかったと証明したに止《とど》まることで、さしておもしろいことではない。それよりもパガニニは二度現われないということのほうがはるかに興味ある問題だろう。私はメニュウヒンのパガニニを聞き、パガニニの伝記がおのずから思い浮かぶままに、聞いたこともない、また再び聞くことのできないパガニニの音というものをしきりに思った。メニュウヒンの健康そうな堂々たる体躯《たいく》を見ながら、グランヴィルの有名な石版画に描かれたこの世の人とは思われないパガニニの奇怪な姿態を思った。パガニニの死骸は、ある事情により、とまあ言っておく、モオパッサンも「水の上」で描いているように、彼の死骸に関してはいろいろとこみいった妙な話があるが、私には興味がないし、伝記を紹介しているのでもないから、やめにするが、ともかく、ある事情から、彼の死骸は、ガラス張りの棺《かん》に入れられて、久しい間、彼が死んだ宿屋に置かれていたが、ヴァイオリンが聞けなくなっては、せめて死に顔でもとっくり見ておきたいという見物が、毎日雲集したそうだ。実は、このとてつもない演奏家の伝記を読んでいて、そこに至り、演奏家というものは一世一代のものといまさらのように感慨を覚えたのである。他の音楽家の伝記ではそういうことはない。
たかが曲芸師パガニニと苦々しく思っていた音楽家は、もちろん少なくなかったのであるが、あたかもその代表者のごとく、非難の言葉を遺《のこ》しているのはリストである。彼は、パガニニが死んだ時、こんな意味のことを書いている。「パガニニというような男は、もう最後の芸術家だ、ということにしたいものだ、あんな利己心と虚栄心の強い芸術家を、将来の芸術家は、断乎《だんこ》として拒否すべきである、パガニニの目的は内になく外にあった、彼には技巧が手段でなく、目的であった」、と。円満な学識を備え、高潔な人格者だった大音楽家の批評に、間違ったところはなかったであろう。それに、音楽史上の重要性においても、パガニニをリストに比べるのは無理である。しかし、この生まれつきの奇人にとっては、生きるとは、言わばそういう非難を甘受することであったとも言えるし、彼がそれを意識していなかったと考えるのも愚かであろう。パガニニの現代のヴァイオリニストと非常に違ったところは、私には簡単明瞭なことに思われる。彼には師匠もなかったし弟子もなかった。彼が全く独力で行なったヴァイオリン技法上の革命は、ある流派を生むにはあんまり独得なものであった。現代のヴァイオリンの達人たちはお互いに優劣の判じ難いような技術を持ち、驚くほど広汎な演奏曲目を擁し、その解釈に心労しているが、そういうことはパガニニの考えてもみなかったことである。彼の演奏曲目はまことに貧寒である。彼は他人の作ったいわゆるヴァイオリンの古典的名曲には、ほとんど無関心だったようである。人々の魂を奪う感動を創《つく》り出すのに、彼には民謡の一旋律をヴァイオリンの上に乗せれば足りたのである。彼はベエトオヴェンを非常に尊敬していたし、有名なニ長調のコンチェルトは当時各所で演じられていたに相違ないと思うが、彼がこの名曲を演奏した形跡はないのである。これは私の推察だが、彼にしてみれば、名曲たることは理解できても、ヴァイオリンの魂に触れる曲ではないと信じたがためではあるまいか。彼は晩年、ベルリオオズを未来の音楽の鍵を開《あ》ける天才と讚美して、この不遇な作曲家を援助するために莫大な金を贈っている。パガニニの目には近代音楽の進展の方向は、おそらくはっきり映っていたであろうが、彼はヴァイオリンという奇妙な楽器を鳴らすことだけを頑固に信じていたようである。彼の名が全欧州的に喧伝《けんでん》された時には、彼の人間らしい生活はすでに終わっていた。若いころの放埒《ほうらつ》な生活で、夏でも毛皮の外套がいるような馬鹿げた身体になってしまっていたのである。ヴァイオリンの箱に金貨を詰め、誰にも読めない暗号の会計帳をつくり、間断のない病気の心配に疲れ、溺愛《できあい》した腕白小僧を一人連れ、いつも幕を下ろした馬車に乗り、ただ嵐のような喝采《かつさい》だけが目当てで、欧州じゅうをうろつき歩いていた男、そういう男を利己的だとか虚栄心が強いとか言ってみたところで始まらない。私に興味があるのは、こういう己れの天稟《てんぴん》の犠牲者だったような人間が胸底に秘めていた悲しみには、最後の芸術家という意識がおそらくあったであろうと思う所にある。リストは敬神家であった。彼の宗教は、近代音楽の和声組織や理論の合理性とよく調和していた。パガニニという宗教も哲学も信じない放蕩者は、ヴァイオリンに独特な歌を歌わせるはかない芸しか信じてはいなかった。彼にはドイツ流の音楽的観念は全く無縁であった。彼の目的は、リストの言うように、外部にあった。音楽という目的は、弓が絃に触れてはじめて実在し、またたちまち消えるのであった。
さて、快楽を分析するとは退屈な仕事だ。私は、ヴァイオリンという楽器が、文句なくたいへん好きなのである。自分で弾けないから、人の弾くのを聞いて楽しむ。楽しむ限り、パガニニの亡霊を追わざるを得ないのである。
私の友人にニコラ・ガリアノのヴァイオリンを持っているのがいて、見せてもらったことがある。同じ形をしたいろいろなヴァイオリンの中で、どれがガリアノか全く素人《しろうと》の私にも一見してわかったのが不思議であった。古い木工の美術品を見るのと全く同じ感覚から、色合いと言い、姿と言い、彫りと言い、これに違いないと教えられぬ先にわかってしまった。それは、使用の自然さが練磨されておのずから生じてくるなんとも言えぬ美しさで、私は、その時、音楽に関係なくヴァイオリンを蒐集する人があることを理解したが、ヴァイオリンの音色というものは、あの姿と同じものなのである。ヴァイオリンの構造の発達は三百年も前に止まってしまった。メカニスムに頼らず、できるだけ自然に順応するというところに、あらゆる努力が払われてきた以上、もうこれ以上を望めぬ完成というものは当然来てよいことである。だが、近代音楽の知性化を鼓舞してきたピアノと並んで、近代音楽にむしろ虐《いじ》められてきたこの古風な楽器が、独奏楽器として、今日も依然として重要な役をつとめているということは、パガニニの亡霊なくしては理解し難いことであろう。パガニニのカプリスを子供でも弾く今日になってみれば、彼の奏法がいかに自然なものであったかに気づくのである。それはヴァイオリンという生物のごとく自然な楽器の、何の無理もない歌である。私は、彼のコンチェルトを聞きながら、驚くほどの転調を知った人間の喉《のど》が、全く生理的に次々に新しい旋律を生んでゆくといったふうな美しさを感じた。バッハからバルトークに至るまでの、あらゆる異質の曲を平気で表現する現代ヴァイオリニストの頭脳のほうが、よほど曲芸を演じているとも言えるであろう。
(昭和二十七年一月)
バッハ
バッハの二度目の夫人が、バッハの思い出を書いているものがあって、先日、それを服部龍太郎氏の訳で読み、非常に心を動かされたのである。これは比類のない名著である。出典につき、疑わしい点があるという説もあるそうだが、そんなことはどうでもいいように思われる。僕にはそう考えるより他はなかった。バッハの子供を十三人も生んでみなければ、決してわからぬあるもの、そういうものが、この本にあるのが、僕にははっきり感じられたからである。読後、バッハの音楽を聞きたい心がしきりに動き、久しく放っておいたレコードの埃《ほこり》を払ったのだが、蓄音機から聞こえてくる音は、すでにこの本のなかで鳴っていたような気持ちがした。僕の心の迷いではない。これはまさしくそういう本なのだ。バッハの音楽の不思議な魅力が、こんなに鮮やかに言葉に移されることはほとんど奇蹟だと言っては過言であろうか。いずれにせよバッハの音楽に限らない、およそ音楽に関する文学的表現に通有な退屈さから、この本が見事に逃《のが》れていることが僕を驚かし、その無類の名著なるゆえんを突然悟ったように思ったのである。夫人は夫の言葉について、ほとんど片言《かたこと》のようにしか語っていないが、その片言が、僕を、バッハの音楽へ誘う。音楽を扱った最も優れた文学、たとえば、ボオドレエルのものもドビュッシイのものもまるで反対のことをしただけだ。読者は自分に耳のあることを忘れる。
「私が、少し不注意にあるいは落ち着かずピアノを鳴らしたりすると、彼は、手を、私の肩に落としました。そんなことさえ、今でもはっきり思い出せるのですから、この伝記は、ありのままに、正確に書きたいと思っています。それは、半ばやさしい半ば不機嫌な小さな揺《ゆす》ぶり方でした。私が今、わざともう一度不正確の罪を犯しさえすれば、ああ、彼の手を肩の上に感ずることができようか」。誤解しないように。この老夫人は、過ぎ去った日を惜しんでいるのではない。過去があまり目《ま》の辺《あた》りにあるのに驚嘆しているのである。こういうふうに始まった伝記は、次のように終わる。「伝記を書き終わった今となっては、私の存在も終わりに達したと思われます。この先さらに生きている理由がありませぬ。私の真の存在はセバスティアンが死んだその日に終わりを告げてしまったのですから」。こんなふうに書くためには、どれほど完全な充足した生活の思い出が必要であったか、心弱い女性の泣き言と見ず、そういうふうに思い巡らす能力を、近代人は、しだいに見失ってきたのではあるまいか。過去を漁《あさ》り、未来を空想し、現在における新しい創造などと喚《わめ》いている人たちに、そんな能力があろうとも思えない。歴史変化の理論が人々の生き血を吸い、亡者《もうじや》らは飢えている。「見事な和音効果のあるオルガンが、あたかもはるかな天の脅迫が雷のように私の上に落ちるのではないかと思われるような響きを立てて、空気を震わせていました。そして、突然やんだ時にも、なお、私は、その音楽の余韻に聴きほれて、すっかり時間のたつのを忘れていました」。彼女は、バッハにはじめて会った時のことをそう書いている。これが、この回想記のゲネラル・バスである。思いつきの比喩を書くのではない。僕はこの回想記に、バッハの和声組織をまざまざと感じえたのである。夫人は、あれこれと思いつくままに自由に書いてゆく。基礎音を信じきった歌声が流れるようだ。生活の苦しみの歌も歓びの歌も。なんという夫婦だろうと感じ入ったのである。「確かに私は、この人の前では愚かに子供らしく感じましたが、それでもこの短い間に、子供の心には起きそうもないあるものが、私の心に生じました。神様が音楽によって、私の魂を開いてくださってから、セバスティアンの演奏を聞いて以後は、この地球上で私がほかの男を望むことは不可能になってしまいました。そして彼もまた、その時、僕はこの娘をもらおうと(私だけはそれに気づきました)内心で言っていました。彼が、この世の中で、本当に望んだことは皆し遂げることができたので、彼は私に同意させることもできると確信していました。後年、彼のこの確実な不易《ふえき》な性質は、強情とさえ思われることがありました」。これが彼女の恋愛談の全部である。彼女は、バッハを見るより先に彼の言葉を聞いた、彼の人間を信ずる前に、すでに彼の言葉を信じていた。恋愛とは、結婚であり、相手を信頼し、みずから責任を感ずる幸福に他ならなかった。そういう簡潔で充実した恋愛が、失われてしまってからすでに久しい。近代文学は、人間性の名の下に恋愛について感傷と短気と獣性より他に書いたことはないのである。ドストエフスキイが、あれほど恋愛の地獄相ばかりに固執したのも、彼の独断や偏好から来たのではない。誰よりも健全だった人間の復讐だったのである。
バッハの渡った世間は、周知のように、因襲に満ちたごく狭い世間であった。そして、もちろん、夫人は、回想記を書くに当たって、何一つ風変わりな材料を持っていない。しかし、かくかくのものとして与えられた単調な日常生活の形式が、ほとんど畏敬《いけい》の念をもって究め尽くされているありさまには、強く心を打つものがある。尋常な家庭の出来事の一つ一つが、いかにも確実に経験され、熟知され、常に反復されて新鮮な意味を生じ、積み重なって深い情緒を生む。回想記は、バッハの音楽に近づく唯一の方法を明示している。僕は、久しぶりで「フーガの技法」をくり返し聞きながら、そのことを確かめた。
「セバスティアンには、子供たちと家庭とがすべてでした」。そのとおりである。その他は神の世界であることがあまりわかりすぎていたから。彼には、中途半端な思想というものは無意味であった。彼女は音楽批評家ではない。夫の音楽の精髄については、こう言って夫を笑わしただけだ、「人間がみんな聾《つんぼ》でも、貴方はやっぱりこういう音楽を書くに相違ない」。この冗談には、おそらく彼女の万感が籠《こも》っていたので、バッハの死後、彼女は同じことを非常に明瞭に書いたのである。長いから引用はしないが、それは次のようなことだ。これは早くから感じて驚いていることだが、彼はそのことについて一言も語らなかったし、私たちは幸福で多忙だったし、熟考してみる暇がなかったことなのであるが、それは、バッハは常に死を憧憬《どうけい》し、死こそ全生活の真の完成であると確信していたということだ、今こそ私はそれをはっきりと信ずる、と。
(昭和十七年九月)
蓄音機
活動写真などという言葉がなくなったように、蓄音機という言葉も、もう無くなろうとしているが、私には未だハイ・ファイという言葉は片言じみて聞こえる。
私が、小学生のころ愛玩《あいがん》していた蓄音機は、親父が日露戦争時代、アメリカから買ってきて、家にしまい込んであった代物《しろもの》で、エジソンの発明した蓄音機はどんなものか知らないが、まあそれとさした違いはあるまいと思われる機械であった。蓄音機というより、見たところ、タイプライターといったふうな恰好の丸出しの機械で、これに円筒形のレコードをはめ込んで、ネジを巻くと、丸い筒が廻転し、それにつれて、先端にサウンド・ボックスをつけたアルミニウムのラッパが、横ざまに滑っていって演奏するという仕掛けであった。レコードとは言わず、蝋管と言った。この種の蝋管蓄音機は、当時縁日や浅草公園に行くと、金をとって聞かせていた。機械をガラス箱の中に入れ、そこからゴム管を何本も出し、それを医者の聴診器のように耳にはさんで、懐手《ふところで》なぞをして、黙然と聞き入っている人々が見られたものである。聞いたことはないから、何を聞いていたか知らないが、察するところ、浪曲とか小唄とかが、蝋管に吹き込まれていたのであろう。私は、蝋管を六つ持っていた。横文字がぎっしり印刷された水色の蓋のある、丈夫なボール円筒におさまって、完全なのは六つあったとはっきり覚えているが、何を聞いていたかとなると、どれも西洋の楽隊だったというより他はない。ただその中の一つが、他の楽隊とはひどく違ったもので、低いラッパが絶えず鳴っている物悲しいような一曲で、私は特にそれを好んでいたのである。ところが、後年、モオツァルトのファゴットのコンチェルトを、レコードで聞いていた時、ああ、これは、あれだったに違いないと思い、ひどく感動した。私は、往時の旋律を再認したのではない。むしろ、忘却の底に沈んでいたタイプライターのような機械の歯車の組み合わせやアルミニウムのラッパや、当時の自分には実に貴重に思われた蝋管の艶や重みを、思いもかけず再認したと言ったほうがいい。ファゴットの旋律は、懐手をして、黙りこくった縁日の青年が、耳にはさんだ聴診器から聞こえてくるようであった。音楽は、不思議なことをする。
中学に入学したころ、親父が、今度は、コロンビアの機械とレコードを少しばかり向こうから買ってきた。親父は音楽は少しも好きではなかったが、朝顔形の大きなラッパをつけた蓄音機が時計屋に並んでいた時代で、ラッパの見えない機械は珍しく、客が来ると音を出してみせて自慢するだけであった。つまり息子をレコード・ファンに育てるきっかけを作っただけであった。小遣《こづか》いをためては、ヴィクターの赤盤を買いに行く時代から、電蓄時代の到来に至るまで、私のも型どおりのレコード・ファンの道であったが、近ごろのハイ・ファイ・ファンになると、どうも様子がよほど違うように思われる。ファンというよりも気違いと言うべきであろうか。もっとも、私は、この種の気違いは嫌いではない。五味康祐が、ある雑誌に、毎月気違いの寝言を書いているが、ある日、「柳生十兵衛」の作者のところへ、柳生十兵衛みたいな男が現われ、腕組みをして、黙ってレコードを聞いていたが、「お前んところは、まだ三十サイクルが出ておらん」と言った。それからというもの、三か月、当人は発狂状態に落ち入ったが、ある日、十兵衛から教わった秘伝どおりに、スピーカーの前にバス・タオルを垂《た》らし、息をこらして聞いていると、バス・タオルが、かすかに震動するのを発見した。「こら、女房、出たぞ」。あきれた男である。私のような凡庸なファンの、とても及ぶところではない。
今日では、ダイヤモンドの針も、すっかり普及したようだが、考えてみると、私の持っていたエジソン式蓄音機も、針を変えた覚えはないのだから、ダイヤモンドの針だったかもしれないと思っている。私の親父は、ここに書くのもめんどうなくらい、実にいろいろなことを試みた技術屋だったが、最後には、ベルギイでダイヤモンドの加工技術を覚えて帰り、ダイヤモンドの加工会社を作って死んだ。家には小さな仕事場があって、そこにはいりこんでは、彼は、いろいろなことをやっていた。万年筆の金ペンや縫い針の新工夫に凝っていたことがあったが、それが蓄音機の鋼鉄針に進み、やがてルビーやサファイヤの針にまでなったのである。親父の針の試験盤は、もっぱら桃中軒雲右衛門盤であった。私はヴィクターの赤盤を貸して、いっぺんで削られたから、二度と貸すのを拒絶した。そういう次第で、親父はレコード・ファンではなかったから、少なくとも針にかけては、私は、当時、最もくわしいレコード・ファンだったということになるだろう。
そのころ、竹針というものが流行した。レコードを痛めない、音も柔らかく、美しくなるというので、サウンド・ボックスの針穴が竹針の形に合わせて、三角形になり、竹針のカッターが売り出されるというほど流行したものだが、私は、針の専門家として、真っ向から反対し、竹針主義者たちと激論した。音は決してよくならぬ、柔らかい音なぞと嘘をつけ、音がふやけるだけだ。それに、レコードの持ちがいいなんて言うが、俺の推論に従えば俗説にすぎない、お前はダイヤモンドを何で磨くか知っているか、知るまい、ダイヤモンドで磨くのさ、つまりダイヤモンドというものは地球上でいちばん硬い物質なんだぞ。針の進歩が、ついに地球上でいちばん硬い物質を選ぶに至ったということはいったい何を証明していると思うんだ。針の硬度は、レコードの磨滅度に逆比例していることを証明しているんだ。竹針だなんてとんでもない、文明の逆行だ。私は、頑固に、親父の作ったフル・トーンのルビー針で蓄音機に耳を押しあてて聞く方法をとっていた。バス・タオルに比べれば、全く常識的な話である。それでも、あいつ少しへんだなどと言われたものだ。
電蓄時代が来て、蓄音機が、とんでもない音を出すようになり、われわれファンどもは昂奮したのであるが、蓄音機屋のあてがうセットの前で茫然とするより他、こちらから手を下す道は開けていなかったから、柳生十兵衛の出現はまだ難かしかった。
私の友だちにも、バス・タオルが一人いて、ハイ・ファイ・セットを作ってやる、作ってやる、と数年前からうるさく言っていた。むろん、作ってやるという意味は、作らせろ、という意味であり、作ったセットが、片っぱしから使いものにならなくなるのが、彼の楽しみであり、そんな男に同調しては馬鹿を見るから、レコードはもうやめだ、と断わってきた。実際、レコードはもうやめだと思ってから久しいことだ。戦争直後、モオツァルトについての考えをまとめ上げた時、もうしばらく音楽とはお別れだ、という気が、ふとしたが、事実そうなってしまった。
その後、私は絵の世界に没頭するようになった。長年使っていた電蓄も破損したまま放ってあったし、SPレコードは、書庫の一隅に、埃《ほこり》をかぶり、瓦石の小山となって、なんとかしてくださいよ、屑屋も持ってかないんですか、と家内がこぼす始末になっていた。最近になって、やっと絵画に関する積年の想いを吐露してみると、しばらく絵とはお別れだという気になった。と思ったら急に音楽が恋しくなった。いまいましいが、バス・タオルに頼むことにした。能率五〇パーセントくらいの安物でいいんだぞ、くれぐれも個人的な趣味なぞ出されては迷惑なんだぞ、というと早速取り付けてくれたが、彼の興味のなさそうな表情から察すると、註文どおりの低級品を作ってくれたらしい。が、なにしろ十年ぶりでレコードに還るのである、何を聞いてもおもしろくてしようがない。ハイ・ファイ技師がくれたシュワンのカタログを開けてみると実に壮観であるが、十年の空白のせいで、見当がつきかねるのである。生まれてはじめて、LPレコードを、銀座に買いに出かけた。可愛らしい小娘が控えている。「ラズモフスキイをくれ」「何番ですか」「三つともくれ」「演奏者は何にいたしますか」「それが、わからないのだが、何がいいんだね」「お好き好きです」「新しい奴ほど音がいいだろう」「はあ、録音はよろしくなっておりますが、演奏には少し癖がございます」「では、その癖のある奴をもらっとこう」。私は、全く満足しているのであって、皮肉な気持ちはいささかもない。誤解しないで欲しい。
そういう次第で、私のセットは、LPの録音を再生しているというより、むしろ私のうちに眠っていた、往時のレコード・ファンの印象を再生しているようなあんばいのものである。すると、私にとって、ハイ・ファイとは、結局どういう意味合いのものになるのだろう、と私はときどき考え込む。ハイ・ファイという言葉はいずれ、アメリカあたりの蓄音機屋がはやらせた新語であろうとはおよそ見当がつくが、ハイ・ファイデリティという言葉はどうなのだろう。これも新語だろうか。私にははっきりしないが、おそらくそうだろう。人間の忠実《フアイデリテイ》では間に合わぬ、超人的忠実を守るメカニズムという意味合いなのだろう。言わば人工頭脳というような言葉ができあがるのと同じ筋合いでできあがった言葉であろうか。
現代の文明にはメカニズムが君臨し、誰も彼もがこれを利用しているのであるが、その性質に通暁しているのは、ほんの言うに足りない少数の専門家たちにすぎず、あとの全人類は、その点に関しては、全くの野蛮人にすぎない。そこで、われわれ野蛮人は、大きな顔をして利用ばかりしていては気まずいから、メカニズムの超人ぶりなどとお世辞が言いたくなるのである。ハイ・ファイという言葉の成立事情のうちに、すでにバス・タオル病の種は播《ま》かれている。アンプがどうの、カートリッジがどうのと言ったところで、未開人が、最新式の風邪薬を、いろいろもらって試しているのと別段違ったことをしているわけではなかろう。
それはともかく、ハイ・ファイという言葉ができた以上、ただハイ・ファイ熱などと言っていないで、もっと広く正しく、この言葉を使ってはどうかと思う。たとえば、カメラのリアリズムなどと言うのはやめにして、カメラのハイ・ファイと言うことにすれば、元来が人間の人生観なり芸術観なりの一種を指して言うリアリズムという言葉は、その本来の意味をとり戻すであろうし、カメラのメカニズムの一種の自律的な機能を、ハイ・ファイという言葉が限定することになるだろう。むろん、リアリズムという言葉はまことに曖昧であるが、これにはハイ・ファイの意味はないことを、言葉の使用の上からはっきりさせるのは悪いことではあるまい。モオパッサンは、自分についてレアリストとかレアリスムとかいう言葉が使われることをたいへん嫌った。ということは、これらの言葉が本当のところ何を意味するにせよ、あるがままの実物の再現とか模倣とかいう意味では断じてない、と言いたかったまでのことだ。バルトークの音楽の根幹は、彼のリアリズムにあると言っても差し支えないであろうが、これを聞き分けるのはやさしくはあるまい。彼は民謡の現実性だけを確信して出発したが、模倣再現の方法を拒絶しなければ進めなかったからである。
いつか、近所の美術館で、日本の古典的名画の本物と贋作《がんさく》とを陳列した展覧があった。それはそれでおもしろく見たが、こういう試みが、一般の人々の注意をひくのも、もうしばらくの間であろうと思った。名画複製技術の進歩は、やがてホン物ニセ物の古い概念を一掃してしまうであろう。今日でも、尋常な鑑賞方法をもってしては、どんな人間にも、真偽の判別の不可能なある種の複製画はいくらでもある。この傾向が極《きわ》まれば、ホン物の価値とは、単なる歴史的資料としての価値しかささなくなるであろう。むろんこのホン物の歴史的資料を珍蔵する歴史家が、知らぬうちに、ニセ物にすり代えられたとしても、彼は珍蔵することを止めないはずである。いったい、芸術的見地から考えれば、ニセ物作りの道は、原理的には、不思議な矛盾を含んでいる。絵とは絵を描くという当人にも二度と同じことをくり返すことが不可能な自発的な自由な行為の刻印である。どうして他人が、これをくり返しえよう。したがってニセ物作りは、およそ絵かきには自明な行為を捨てねばならぬ。したがって、また、もしニセ物作りの稀代《きだい》の名人があるとすれば、彼の悩みは、己れの自在な行為をいかにして機械化するかというところにあるはずである。だが、実際には、この名人は、ニセ物作りたることをやめねばなるまい。なぜかというと、そんな名人の危機意識は、当然、模倣は創作の母なり、という芸術制作上の鉄則に衝突するであろうから。彼は模倣を完成したとたんに己れを表現しているであろう。もし、芸術上のリアリズムが、芸術家の二度と還らぬ直接な経験なり、現実に即した生活意識なりの尊重を基本とした思想を現わすものならば、リアリズムの信奉者には、厳密な意味での模倣再現の道は、超人への道であろう。つまりハイ・ファイへの道であろう。
ハイ・ファイ・システムが、私たちの耳が捉《とら》える以上の音を捉えて、これを再生している以上、蓄音機の音楽は、缶詰《かんづめ》音楽にすぎないというようなことを言ってみても無意味なのである。ある同じ演奏という歴史的事件が、くり返されるという奇蹟は起こらぬが、そこに生じた特定の音響現象は、同時に幾つでも、くり返し何度でも、起こりうる。実験上の誤差は、人間の耳では直接には感知しえない。そういう実験室的奇蹟には、言うまでもなく、録音技術家の、音響効果の再編成が加わり、消極的な事柄だけを考えても、演奏行為の失敗は訂正しうる。私たちの耳は、現に聞いている演奏が、何回目の演奏の結果であるか、全く判別できない。目前に迫った、こういうレコード・ファンの天国を想えば、バス・タオルは、はたして音楽を聞いているのか、音を聞いているのかというような、近ごろやかましい曖昧愚劣な問題も、過渡期の産物にすぎまい。それよりも、そういうレコード・ファンの天国を、はっきりと想い描き、そうなればどういうことになるかを考えてみたほうがよい。私たちは、元の木阿弥《もくあみ》になるだろう。歴史というものを全滅させたハイ・ファイ・システムを前にして、私たちは、どこで歴史を取り戻すのかがはっきりするであろう。
かつて、ゴッホについて書いた時、上野の美術館の標本室で、ミケランジェロの「夜」の石膏《せつこう》の模造品を眺めて、ひどく感動し、いつかフロレンスで、実物に接する機が自分に来ようとも、再びこんな感動を味わうことはあるまい、と書いたが、後年、私に、その機会がやってきた時、私は過去の予言の的中をたしかめた。当時の私には、ゴッホの本物の絵をほとんど見る機会はなかった。オランダの展覧会で、ゴッホの本物三百余点に接する機会が到来したおり、そのうちの一枚の本物は、「ゴッホの手紙」を書く動機となった私の持っている一枚の複製画の複製と見えた。私は誇張して物を言っているのではない。私は、自分の心のリアリズムと、自分の外部にあるハイ・ファイ・システムとの出会う極端な場を、ごく素朴に述べたにすぎない。
ここでやめれば、読者のうちには、結局、蓄音機の音などどうでもいいと私は言っていると受け取る人もあるだろう。そんなことはない。そんな結論は出ようがない。物の価値を認めるのに、その性質をはっきり分析して限定してみるより他の道があろうか。私のハイ・ファイはろくな音を出してはいないが、値段だけの音は正直に出している。金をかけたくないのは私の都合《つごう》で、他人の知ったことではない。私は、近ごろ、ベエトオヴェンが、また非常におもしろくなっている。伝説の衣が、はがれて、じかに音だけが聞こえてくるのに、ずいぶん手間がかかったものだと思っている。たとえば一三三番フーガが傑作であるとは青年時代から知っていた。だがなんにもならない。やがてベエトオヴェンくらい退屈な音楽はないなどと考える生意気な時期がやってきたからである。ベエトオヴェンの、誰もが言う浪漫主義とは、いちばん悪い伝説である。だが、このことに気がつくためには、青春を失わねばならぬ。少しも自慢になる話ではない。ベエトオヴェンは、ある日、われに還ってみると、聾になっていることを発見した。それから彼の苦しみが始まったのだそうである。そうである、というのは、実際、始まったのは苦しみであったかどうかは、確実ではないからだ。しかし、それから彼に関する伝説が始まったことは確実である。私は、目下、伝説から、聾の一音楽に至る逆の道を辿《たど》っている。記憶のシステムというものは、やはり鳴るものであるということに、大きな興味を寄せている。
(昭和三十三年九月)
ペレアスとメリザンド
ドビュッシイの音楽は、学生時代から、非常に好きであったが、メエテルリンクはどちらかと言えば嫌いな作家であった。ドビュッシイは、今日に至るまで、おりにふれては聞いてきて、いよいよ心惹《ひ》かれるのであるが、メエテルリンクの作は、流行当時、あれこれ読んだ後は、一度も読もうと思ったことはない。そういうわけでむろん、慎重な判断ではないのだが、ドビュッシイとメエテルリンクとは、私の頭の中では、とても折り合えない二人の人間になっている。要するに、一人は確かに「アンティディレッタント・クロオシュ氏」なのであるが、一人は蜜蜂とか運命とかに関するディレッタントにすぎないという頑固な先入主から逃《のが》れられなかった。今度、「ペレアスとメリザンド」の台本を仔細《しさい》に読んでみたが、漠然と抱《いだ》いてきた同じ考えを新たにしただけであった。なるほど、これは愚劇ではあるまい。非凡な才は現われているが、これは詩人の才と言っていいものであろうか。メリザンドは、どこの何者であるかわからない。彼女は、まず冠を失って泣くのだが、冠には、どんないわれ因縁があるか誰も知らない。この種のことは、すべて初めから終《しま》いまでわからない。昔からたくさんの人々が愛してきた伝説類は、そんな奇妙なことは許さなかった。子供はすばらしい夢を、なんとかして筋道を立てて語りたいと願う。子供の夢は、また、まことに子供らしい無心な合理性によって織られている。他にどうしようがあろう。だが、メエテルリンクには、それが気に食わなかったらしい。伝説を貫く、中途半端な合理性を引き去れば、伝説の神秘は、裸のままで姿を現わすであろう、と信じたらしい。少なくとも、彼の神秘劇は、そういう手法で書かれている。象徴派詩人ぶるのには好都合な方法である。他人の歴史からはむろんのこと、自分の歴史からも引き離された人形どもは、よけいなことはいっさいしゃべれない。つまり、運命につき、生命につき、象徴的に会話させられる。作者の演劇理論に追い詰められたメリザンドという定義上天使でなければならぬ主人公は、ついに、精神分析学的|科白《せりふ》さえ強いられる、「自分の言っていることを、私は知らない。自分の知っていることを、私は知らない」
ヴィヨンやマラルメやヴェルレエヌの詩を、あんなに愛した人間が、どうしてこんな説教芝居に心を躍らせたか。こんな愚問が、ふと思い浮かぶそのことが、そのまま、ドビュッシイの天才を証する。おそらく彼は、天才らしく間違えたのである。そう言って悪ければ、彼は、いつも勝手な時に勝手なものに心を躍らせることができたのであろう。「魔笛」の台本に感激したモオツァルトの場合にも、同じことが起こったであろう。私はそう考えておく。めんどうだからではない。グルックは、どう台本を扱ったか、ワグネルはどうか、要するに、音楽と言葉との関係に導かれざるを得ない議論よりはましだと思うからだ。ワグネルの雄弁術に対する、オペラ作者としてのドビュッシイの沈黙術の衝突、誰も言うことだ。「ペレアスとメリザンド」の初演を聞いた聴衆は、おそらく、ワグネルの音楽を、しこたま頭に詰め込んでいたであろう。幸いにして、私ははじめてドビュッシイに接した時、ワグネルに関しては、無知同然であった。ドビュッシイの「影像」や「版画」に感動し、「クロオシュ氏」を翻訳したのは、ランボオの「飾画」に感動して、ランボオ論を書いたのと、ちょうど同じころである。私は、ランボオがサンボリストだとも、ドビュッシイがアンプレッショニストだとも思いはしなかった。なんというなまなましい音と言葉だろうと驚きあきれただけである。その後、貯えた知識は、両者に対し、ほとんどなすところがない。
二階席から、オーケストラ・ボックスを見わたして、あの美しい序奏が鳴るのを聞き、私は満足した。家の蓄音機では、こうは鳴ってくれないからだ。こんな男に批評はできない。幕があくと、私は恐る恐る舞台を見るのだ。音楽の真実に比べれば、簡素に、簡素にと工夫した舞台も、よけいな飾りものに見える。オペラ見物というものは、私には、どうしても苦手である。私は、努《つと》めてフルネ氏ばかりを見ていた。ペレアスが、メリザンドの髪のもつれを、じれったそうに、妙な手つきで解くところなど、つんぼでもなければ、見ていられるわけがない。しかし、いまいましいが、舞台で、眼が離せなかった場面が一つ現われた。イニョオルドが、石を持ち上げようとして、羊の群れの幻を見る場面である。嫉妬に狂ったゴロオの烈しい場面が終わると、もし、メエテルリンクに耳があったら、慙死《ざんし》してもいいような、驚くべき間奏がつづく。その名乗りの中で、ティンパニと絃のピチカットで始まるレシタチーフは、まことに絶品である。おかげで、滝沢三重子さんという歌手まで好きになったくらいである。
(昭和三十四年一月)
バイロイトにて
バイロイトに行く前、ザルツブルグに数日滞在した。モオツァルト音楽祭があるので、それを聞くためであった。このモオツァルトの生まれた町は、実に美しく、彼の音楽に通ずるような表情がいたるところに見つかった。昼間は暑いので、ホテルで昼寝をし、夕方から漫然と街を歩いていた。古めかしい食堂で、ビールを飲んでいると、充実した一種音楽的な感情が湧《わ》き上がり、わざわざモオツァルトを聞きに、指定された会場なぞに出向く気は、とても起こらなかった。そういう次第で、帰りがけに一晩、「魔笛」を聞いただけであったが、私はそれで満足であった。
バイロイトも、さぞいい街だろう。私は、迂闊《うかつ》にも、そう思っていた。ところが、様子は一変した。ひどく退屈な街である。名高い祝典劇場は町はずれの森の中にある。これも全く無表情な建築であり、中にはいってわかったことだが、劇場というよりむしろ巨大な喇叭《らつぱ》なのである。全オーケストラを下に隠した舞台に向かって、扇形にぎっしりと椅子が配置されている。通路もない、柱もない、二階もない。私たちは喇叭の脇腹から、番号順に詰め込まれ、ドアを締められ、電気を消され、息を殺す。私は、バイロイトの劇場に来る者は、自分の趣味を家に置き去りにしたワグネリアンという白痴になる、というニイチェの言葉を思い出していた。
もっとも、そんなことはどうでもいい。私は、「ニーベルンゲンの指環」というはじめてする経験の前で、勝手に息を殺しただけである。ワグネリアンとかワグネリスムとかいう噂話《うわさばなし》は、よく聞かされていたが、私には合点がいった試しはなかった。街を散歩してもしかたがないので、「ニーベルンゲンの指環」の仏訳の台本を買い、下宿に引きこもって読むことにした。ワグネルは膨大な文学的作品集を遺《のこ》した。おそらくワグネリスムの発祥地はそこにある。そう見当をつけているだけで、むろん、私はそんなものに眼を通してはいない。要するに、私は、ワグネルの楽劇理論などはどうでもいい怠惰な音楽好きにすぎないのだが、それが、「ニーベルンゲンの指環」を綿密に読む仕儀になったまでのことであった。
下宿の主人は退職軍人である。ワグネルをどう思うかと聞いたら、彼は吐き出すように、奴は、なぜああ人間に槍《やり》ばかり持たすのだ、と言った。私は台本に退屈しきっていた。音楽が鳴らない限り、これは詩でも劇でもない。むろん、哲学なぞどこにもありはしない。なるほど、どうして槍ばかり持たすのか、と言ったような得体の知れぬものである。これは、「魔笛」を鳴らすのに、モオツァルトは、得体の知れぬ台本で足りたということとは、全く話が違うであろう。台本は、ワグネル自身が書いたのだし、彼は、これに作曲する以前に、この分析的な散文を「劇詩」と銘打って発表している。おそらく、この彼の不思議な自信に、その楽劇理論の正体がある。
言うまでもなく、「指環」は、ワグネルの最大の野心作であるが、彼が、この大作の完成に二十六年もかけたということよりも、なぜ、「ジイクフリイトの死」という劇詩があのように早く完成してしまったかのほうがよほどおもしろいことに思える。おそらく彼は、それでもう安心だったのである。「トリスタンとイゾルデ」というあるいは「マイスタージンガー」という道草はもう自在であった。「タンホイザー」と「ローエングリーン」を書いてしまったワグネルは、すでに完成された大シンフォニストであった。言いかえれば、俳優どもには、槍だけ持たしておけば足りるという発想が湧いた時、それは、ワグネルという精妙な和声的器楽組織のうちで、そののっぴきならぬ条件として「神々の黄昏《たそがれ》」という解決音が鳴ってしまったということに他なるまい。分析は安易なのである。何も急ぐことはない。
私には、有名な「オペラとドラマ」より「ベエトオヴェン論」のほうが、よほどおもしろい。それより、ワグネルによって演じられた第九シンフォニイが聞けないのが残念なくらいである。私は、「自分はベエトオヴェンの使徒だ」というワグネルの言を、率直に信ずる。彼のベエトオヴェンへの傾倒は、少年時代にさかのぼるし、ベエトオヴェンの音楽がなかったら音楽家になる決心もつかなかったであろう、とは彼自身の告白である。ワグネルほど早く、ベエトオヴェンの後期作品の予言的な意味を理解した音楽家は他にはいまい。ニイチェが、ディオニソスの名で、ワグネルを考えた時に看破していたのもまたそのことだ。「ベエトオヴェン論」は、いい論文ではない。だが、その理屈と説教とを打払すれば、ベエトオヴェンのダイナミックな音楽構造に震駭《しんがい》し、開眼する純粋な音楽家の表情は、鮮やかに現われてくる。
ワグネルは、ベエトオヴェンの音楽を鑑賞してはいない。ほとんどこれに強迫されている。完成したベエトオヴェンの作品が分析されるのではない。ワグネルの考えによれば、ベエトオヴェンはついにその作品という頂点に達した人ではない。器楽組織という実体を、あらゆる工夫を凝らして圧縮し、点火を待っている爆発物のごときものを書くに至った人である。ワグネルに言わせれば、そういうベエトオヴェンの「行為」が、自分には聞こえると言うのである。ベエトオヴェンの音楽は、音の巧妙な組み合わせではない。その音楽の資源は、純粋な音から引き出されてはいない。耳が聞こえなくなったベエトオヴェンには純粋音楽論など机上の空論であった。彼の音楽は、明確な観念的諸「動機」の果てしない戦いという「行為」になった。ワグネルの楽劇理論は、彼の観念的|饒舌《じようぜつ》によって秘教めいたものになったが、彼は、ベエトオヴェンの音楽に、「言葉と音との劇」を、誰よりも鋭敏に、直接に聞いたと考えれば済むことであろう。
ワグネルは、「第九シンフォニイ」の終楽章で、突然、合唱が現われる時の戦慄《せんりつ》的な経験を語っているが、語られているのは、オーケストラの表現力の万能を本能的に信じている音楽家の感性なのである。これは器楽声楽の混合音楽ではない。ベエトオヴェンが飛び移ったのは、あのバッハがよく知っていた、合唱組織というオーケストラと同質な自在な表現可能性を持った人声的楽器へである。そこに、ワグネルは、ベエトオヴェンの仕掛けた爆発物の点火点を見た。見たばかりではなく、これに点火した。合唱の旋律の極度の純化は、行くところまで行ってしまったオーケストラの複雑な力学の苦痛のなかで、天才的な力で捕捉された平衡である。それが、ワグネルの見た発火点であるが、これに点火する彼は、「音楽的受胎」という一線を画された世界で闇中模索をしていたベエトオヴェンの「動機」が、光の世界で、シラアの詩というはっきりした対象物にめぐり会うのを見た。彼は、そういうふうに聞いた、あるいは、そういうふうにしか聞けなかった。なぜそういうことになるか。彼は、ショオペンハウエルを援用して合理的説明を試みるがむだである。
彼のうちに、ベエトオヴェンという音楽家とシェクスピアという劇作家とが互いに触れ合う境界線が描き出される。目覚めて、明確な諸人物の劇行動を操るシェクスピアが、夢みようとしたら、諸人物の内奥の動機というベエトオヴェン的音楽を聞くであろうし、夢みているベエトオヴェンが、音楽的動機の激動に堪えかねて目覚めようとすれば、本質的な劇行動というシェクスピア的形姿を見るだろう。この境界線に、シラアの詩しか見つからぬ理由はないではないか。これは美学ではない。大シンフォニスト、ワグネルのヴィジョンである。彼の「劇詩」は、このヴィジョンから生まれたものであり、詩人の作でも劇作家の作でもない。「劇詩」の材料に伝説が選ばれているのも、ひとえに音楽の要請によるとしか考えられない。「無限旋律」の洪水に抵抗し、抵抗することによって「ライトモチフ」を生み、洪水の方向を決定する。劇行為は、それほど単純で強固な裸形でなくてはならない。
私は、「指環」を聞いた印象を、編集部のS君から求められたのだが、それは無理な話だ。私は、指揮者が何なのか、俳優は誰なのかさえ知りはしない。私は、ただ、あの巨きな喇叭のなかで、毎晩、神妙に、茫然として耳を澄ましていただけなのである。このオーケストラと人声とからなるシンフォニイは、ワグネルによって実に徹底的に信じられている、その表現力と形成力とが重なり合うほど信じられている、と私の耳はささやきつづけた。ホルンがラインの波を作り出し、死んだジークフリートがティンパニで叫びだすまで。私は、「ワルキューレ」の嵐が鳴り終わったころには、簡素化された薄暗い舞台も、音楽の指示に従って、ときどき適当に眺める術を覚えていた。
(昭和三十九年一月)
角川文庫『モオツァルト』昭和34年8月10日初版刊行