小林信彦
紳士同盟ふたたび
目 次
プロローグ アトランティック・シティ
第一章 ダブルショック
第二章 のるかそるか
第三章 第一戦
第四章 第二戦
第五章 ニューヨークの秋
第六章 贋作の光景
第七章 第三戦
エピローグ 延長戦
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プロローグ アトランティック・シティ
海の上を真紅のセスナ機が飛んでいる。
それだけならば、べつに珍しい風景ではない。
しかし――。
セスナ機のうしろに〈女性とつき合いたい方は当方へ……〉という広告の英文がひらめいており、ついでに電話番号もひらめいているのは珍しい眺めである。少くとも、日本人にとっては……。
大西洋ぞいの|板の遊歩道《ボードウオーク》を往来する人々の中に、二人の日本人がいた。背が低いほうの男はどうやらカメラマンらしく、海に向けてすばやくシャッターを切った。
「じつに明るい……」
サングラスをかけた背の高いほうの男は海からの風を大きく吸い込んで、
「アメリカ人はここの海が汚れているというけれど、日本の海にくらべれば|まし《ヽヽ》ですね」
と呟《つぶや》いた。
「あなたは、よく、ここに来るのですか」
カメラマンがたずねる。
「ニューヨークにきた時はね。車で三時間ですから」
三十代らしい、サングラスの男は上着を脱いで、右手の人さし指にひっかける。
「暑いですなあ、今日は」
「私は、明後日《あさつて》、日本に帰るのですが……東京もまだ暑いだろうなあ」
と、カメラマンはぼやいた。
「儲《もう》かりましたか?」
「私はスロット・マシンばかりで」
「しかし、スロット・マシンこそカジノの重要な財源なのですよ」と男は説明する。「よく調べると、一つのカジノに何台か、やたらにコインを吐き出す台があるはずです。客のコインを吸い取る一方ではいけないという法令があるらしい」
「ゆうべ、一台見つけました」
カメラマンが白い歯を見せる。
「少し儲けたので、今朝、また行ってみたのです。ところが、黒人の小母《おば》ちゃんがひとり、その台に貼《は》りついて、動かない。二時間待っても、動かないので、諦《あきら》めました」
「健全な遊び方ですな」
背の高い男は冷やかすように言った。そして、ボードウォークぞいにならぶ豪華なホテル群を眺めた。
「わずか三年で、こんなに栄えた。ブーム・タウンだな」
三年まえ、一九八〇年秋のアトランティック・シティは、町も海岸も閑散としていた。カジノを持つホテルは、歴史のあるリゾート・インターナショナルのほかに、一つか二つしかなかったと記憶する。あの当時、だれがこの繁栄を予測できただろうか。
「ラス・ヴェガスが大恐慌だそうですね」
カメラマンがしたり顔に言う。
「カジノの客が三割減ったとか」
「ラス・ヴェガスまで行く必要がなくなったからな。東部のギャンブル好きは、みんな、この町にくるんです」
アトランティック・シティは長い歴史を持つ保養地である。一八六〇年にはすでにボードウォークがあり、四十フィートの幅を持つ現在のボードウォークは一八九六年に完成している。日本でいえば、戦前の鎌倉といった感じのリゾートで、海水浴、ヨット、見世物小屋ありの賑《にぎ》わいは、狂乱の一九二〇年代に頂点《ピーク》に達した。ニューヨークの紳士淑女にとって、〈アトランティック・シティ〉の名がステータスを感じさせたのは、この時期だろう。
三〇年代、四〇年代と、第二次大戦をくぐり抜けて、アトランティック・シティは衰亡に向う。死にかけた町アトランティック・シティを救うために、ニュージャージー州では、もう一度、町を〈スーパー・リゾート〉にしようと計画した。
金をかき集めるのに確実なものは、なんといおうと、カジノである。失業者が溢《あふ》れ、ゴースト・タウン寸前まで行ったこの町にかぎり、カジノ経営が許されることになった。一九七六年、一般投票によって州法が変えられたのである。
一九八〇年、数少いホテルのカジノには大衆が溢れ、カジノが足りなくなった。
一九八三年、町はよみがえり、カジノの建設は、なおも進みつつある……。
「ホテルに戻りませんか」
背の高い男は、〈ゴールデン・ナギット〉の方に身体《からだ》を向けた。
「めしを食いましょうや。ゆうべ、ツイていたので、中華料理ぐらい、ご馳走できますよ」
「そりゃ、どうも」
カメラマンはあいまいに答える。同じ日本人というだけで、ホテルの廊下で声をかけ、そのまま、いっしょに遊歩道に出てきてしまったのだ。昼食をオゴられて、いいものかどうか。
「ツイてたのですか?」
「クラップスです」
サイコロを振る手つきをした男は歩きだした。
「ブーム・タウン、か。けっこうな話だなあ……」
カメラマンは羨《うらやま》しそうに言う。
「でも、ギャンブルがこれだけ栄えると、売春婦なんかも増えるでしょうな。それに、マフィアとか、ああいった組織がなだれ込んでくるだろうし……」
相手は答えなかった。
二人は、従業員たちがフランク・シナトラの顔のバッジをつけているホテル、〈ゴールデン・ナギット〉のドアに吸い込まれた。
こうしたホテルにしては、という条件つきであるが、けっこうな中華料理で腹が一杯になった男は、カメラマンとバーで軽く飲んだ。
もう一度、カジノへ行くというカメラマンとはエレベーターの前で別れた。さすがに疲れが出たのだ。
八階の部屋に戻る。
ラス・ヴェガスから進出してきたこのホテルは、金ピカの成金趣味で統一されている。彼は黒ずくめの洗面所に入り、ホテルのマーク入りの茶色い石鹸《せつけん》で顔を洗い、ホテルのネーム入りの茶色いタオルで顔と手を拭いた。ひと眠りしてから、カジノへ行くつもりだった。もっと勝ちつづけなければならない事情があるのだ……。
洗面所を出て、ベッドに近づこうとした男は、そのまま凍りついたようになった。
一度会ったことがある、イタリア系の小柄な男が窓ぎわの椅子に腰かけ、靴をテーブルにのせていた。
「アトランティック・シティへようこそ」
グリースで髪をかためた男はイタリア訛《なま》りの強い英語で言い、片手をあげた。
日本人は答えない。
「まあ、すわれ。おまえは良い度胸だよ。カミカゼ・スピリットってやつかな」
イタリア系の男は早口で言い、もうひとつの椅子を指さした。
「よく戻ってきた。とりあえず、ようこそと言っておくよ」
「なにか、飲む?」
日本人は弱々しくたずねた。
「ルーム・サービスで取り寄せよう」
「おれは酒を飲まねえ」と小柄な男はネクタイの位置をなおしながら首を横に振った。「ビールだってペリエで割ってるぐらいだ。……それよりも、金だ。おれを金をとりかえしにきたロボットだと思ってくれ」
小柄な男は立ち上り、立ち尽している日本人を見上げた。
「いいか。おまえはトンズラした。それだけでも、殺されて、当然なんだ。しかも、おれたちを騙《だま》した。おまえは、どうやら、メイド・イン・ジャパンの詐欺師《コン・マン》らしいな」
「まあ、きいてくれ」
「やかましい」
小柄な男は、いきなり、テーブルを蹴倒《けたお》した。
「安心しろ。このホテルの器物をこわすことはしねえ。オールド・ブルー・アイズ(シナトラ)が好まねえだろうしな。……さ、財布を出しな。早くしろ」
苛々《いらいら》した男は、日本人の上着の内ポケットから黒革の財布を抜いて、中身を数え始めた。
「……五千ドルか。こいつは貰《もら》っておく」
「待ってくれ。このホテルの支払いが……」
「舐《な》めるな! 支払いはクレジット・カードじゃねえか。フロントでカードを見せ、サインしたことから、おまえの存在《ありか》がわかったのさ」
そうだったのか、と日本人は思った。チェック・インのさいにクレジット・カードを見せたのが、まずかったのだ。カードのデータバンクと組織が、なにかの形でつながっているのだろう。
彼は投げつけられた財布の中を見た。十ドル札が数枚残っている。
「おまえはギャンブルに憑《つ》かれた人間だ。そんな奴を|ごまん《ヽヽヽ》と知っているよ」
小柄な男は初めて笑った。
「さて、おれは、あと四万ドル、おまえから取り立てねえと引き下れねえ。どうするつもりだ?」
「三日待ってくれ、必ず……」
「待てねえよ」
小柄な男は大声をあげた。
「このまえも、そう言って、日本へ逃げ帰ったじゃねえか。他の取り立て屋はともかく、このおれは騙されねえ。四万ドル返すか、冷めたくなるかだ。組織の掟《おきて》というやつがあるからな」
「……わかった。ニューヨークにいる日本人に借りよう」
「四万ドル、すぐに準備できる男がいるのか?」
「日本では一流の東京テレビという会社がある。ニューヨークに支局があって、支局長のヤノという男が親友なのだ。彼にたのんでみる」
日本人は上着の内ポケットからアドレスブックを出した。
小柄な男は黙ってアドレスブックを取り上げた。
「おまえは信用できない。おれが、直接、ダイアルしよう。ヤノ――YANOだな」
男はベッドの頭の方にある金色の電話に近づいて、アドレスブックを見ながら、ダイアルをまわした。
トーキョーTV、という交換手の声がきこえ、やがて、ヤノにつながった。
「OK、あとは、おまえがしゃべれ。ただし、英語でだぞ」
組織の男は条件をつけた。
二時間後、サングラスをかけた日本人は、アトランティック・シティとニューヨークのほぼ中間地点にある、ハイウェイぞいのカフェテリアでコーヒーを飲んでいた。
急いでニューヨークに戻り、飛行機の空席を探して、東京に帰らねば、と思う。やりかけた仕事が山ほど残っているのだ。
彼は立ち上り、外に出た。ガソリン・スタンドのボーイに声をかける。ボーイはOKのサインをした。
車の鍵《かぎ》をあけると、中は蒸し風呂のようだった。彼は窓をあけ、車をスタートさせた。
クーラーがきいてきたので、窓をしめようとした時、背後で声がした。
「このまま、運転を続けるんだ」
小柄なイタリア系の男の声だった。
「利口《スマート》な奴だと思ったがな、おまえは……」
「ど、どうやって、乗ったんだ?」
「よけいな質問をするな」
男は後部座席から乗り出して、日本人の耳朶《みみたぶ》をナイフの刃でこすった。
「妙な真似をするんじゃないぞ。まっすぐ走るんだ」
「……」
「いいか。おれたちは用心深いのだ。だから、あの電話番号をもう一度、調査《チエツク》した。ニューヨークの仲間が調べたら、すぐわかった。あの電話は個人の所有だった。日本人の夫婦ものらしい。女房が交換手の声を出し、亭主がヤノの役をつとめて、四万ドル用意しておくと、答えたのだ。あの夫婦はどっちも売れない画家で、おまえに金を借りている。だから、代役を演じたのだ。――ちがうか?」
運転席の日本人は答えない。
「つまり、おまえのアドレスブックがトリックだったわけだな。初めから、組織につかまったときの準備をしてきたのだ。ギャンブルはやりたい、命は惜しいで、ああいう汚ねえ騙し方をした」
「悪かった……」
日本人はくぐもり声で詫《わ》びた。
「あと三日、時間をくれ。必ず……」
「とにかく、ニューヨークに着いてから話そう」
マンハッタンの中心地区は建築中のビルが多い。古いビルを破壊して、新しいビルを建てるのである。
古いビルをこわすのは日本でも困難な作業とされているが、タイムズ・スクェアを中心とした人通りの多い場所での破壊作業は遅々として進まぬように見える。
四十六丁目を六番街からブロードウェイ方向に曲った左側に、古いビルをこわしたあとの巨大な穴がある。地下三階はあったであろう深さで、マンハッタン島が岩でできていることが、一見してわかる。とりこわしてはみたものの、経済的に行きづまって、新たなビルを建てそこねているのだろうか。
穴の底に、首筋を刃物で斬られた日本人の死体が転っていた。警察は麻薬患者の発作的犯行と考えた。パスポートから、日本人ツーリストの身元はすぐにわかったが、この事件を掘り下げるためには、ニューヨーク市警察はあまりにも忙しかった。
せっかくニューヨークまできていながら、これといった収穫がなかった凡庸なカメラマンは、機内に入り、シートベルトをしめると、ほっとした。これで、日本に無事かえれると安堵《あんど》したのだ。
――新聞はいかがですか?
スチュアーデスがやってきた。カメラマンがニューヨーク・タイムズに手をのばしたならば、一昨日《おととい》、賭博《とばく》の町で顔を合せた日本人の死体写真を見ることができたはずだ。食事のあとで名刺を交換しているので、名前も記憶していた。
「スポーツ紙はあるかね?」
――はい、ございます。
あくまでも凡庸な男は、一日遅れの、皺《しわ》が寄ったスポーツ紙を受けとった。彼の興味は西武と巨人の動向にしかなかった。
日本人ツーリスト殺しに疑問を抱いた男がいないわけではない。
たとえば、検屍官《けんしかん》補がそうであって、刃物の使い方がうま過ぎる、と思ったのだ。発作的なものではなく、プロによる犯行だと判断していた。
プロといっても、いろいろな種類がある。日本人ツーリストが関係するとしたら、どのようなプロであろうか。
疑問はまだあった。その日本人は、アトランティック・シティの帰りにレンタカーに給油している。それから、レンタカーを返し……深夜に殺されている。なぜ、ホテルに帰らなかったのだろう? ふつう、ツーリストは、一度ホテルに戻り、それから夜の外出をするものではなかろうか。
検屍官補は、しかし、長くはこだわらなかった。とにかく、死体の数が多過ぎるのである。
この事件は、ニューヨークにおいては、すぐに忘れられた。
しかし、日本では――。
たんに一旅行者が殺された、だけではすまなかった。とくに大きな迷惑をかけられる男が、ひとり、いた。
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第一章 ダブルショック
東京は新宿区、四谷三丁目交差点から四丁目付近にかけて、テレビ関係の小さなプロダクションが数多く存在している。
各テレビ局に近くて、ビルの部屋代が比較的安いのが、原因であろうか。番組制作会社が数ある中でも、山椒《さんしよう》は小粒でピリリと辛いと定評がある〈寺尾企画〉は、新宿通りに面した地味なビルの三階の一室にあった。
常識では考えられぬ事件で六本木テレビ(RTV)を〈依願退職〉した寺尾文彦が、いかにして自分の会社をスタートさせるにいたったかという、聞くも涙、語るも涙の経緯《いきさつ》を、作者《わたくし》は前作『紳士同盟』に書き記したのだが、あの騒ぎから丸四年たって、寺尾は業界の〈台風の目〉になっていた。
〈寺尾企画〉は、社長の寺尾を含めて全社員が五人。狭い廊下から入ってすぐの部屋には経理、営業、庶務のデスクがひしめき、その奥の社長室兼応接室に寺尾が鎮座している。北欧製のデスクに向った彼の頭上の神棚には、赤と白の大入り袋が貼られているという、なにがなにやらわからぬ眺めだ。
三台の電話がいっせいに鳴り出しても、寺尾はびくともせずに、三つの送受器を外した。
――旗本君か。すぐ、こっちからかける。
――もしもし、折り返し、おかけします。
と、二つを、とりあえず、架台に戻して、
――何でしょうか?
用件をたずねた。相手は昔の上司であった。
――いや、マイったよ。二時間ドラマの主役にビートたけしを起用したいと思ったのだけど、たけしの事務所が断りおった。
――なるほど……。
寺尾は無表情に答える。
――どうかね? きみの方から口をきいて貰えんか。
――どういう役なのですか?
寺尾はききかえした。
――たけしは大久保清を演じて好評だったろ。視聴率が三十四、五パーセント、行ったのだ。
――ええ。
と寺尾は答える。彼はだいたい二十五パーセントと読んでいたので、十パーセントも予想が狂ったのだった。
――そこで、うちも企画を立てた。たけしに小平義雄をやらせようと思ったのだ。
相手は一世一代の思いつきのように言う。
――小平、ですか。
――うむ、敗戦のころの強姦魔《ごうかんま》だ。
――それはわかってます。しかし、小平といっても、現代の視聴者は知らないと思いますが。
――いや、あれは有名な……。
――でも、約四十年前の話ですからねえ。
寺尾は遠まわしに批判した。頭の中の時計が停止したようなこうした手合いには馴《な》れている。
――たけしを引っ張り出すのはむずかしいと思いますよ。
だいたい、そう、強姦犯人ばかり演じさせるわけにもいくまいが……。
――きみ、そう思うか。
――思いますよ。
――じゃ、もう少し考えてみよう。
電話が切れた。
やれやれと寺尾は思う。社長とは名ばかり、プロデューサー兼演出家として脚光を浴びている人間につきもののこんな依頼が、一日に三件はくるのだ。
ノックの音がして、経理係の日暮かおりが入ってきた。
「あの……ご相談したいことがあるのですが……」
「なんだい?」
旗本プロのダイアルをまわそうとした寺尾は、相手の顔を見た。
容貌《ようぼう》は十人並み、小柄だがスタイルもいい。二十五歳の成熟した女性なのに、なんとも陰気なのである。
「この夏は、とうとう休みがとれなかったので、十月に入ってから休暇をとりたいのですが……」
「あ、そうか」
休暇など考えたこともない寺尾は、どうも気がまわらない。
「ロケ隊がニューヨークへ出発してからなら、かまわないよ」
「はい……」
「なにしろ、三時間ドラマの制作は初めてだ。頭の中が、そのことで一杯だった」
「どこか、海岸のホテルででも休もうと思うのですけど」
「いいだろう。十月なら、もう空いているだろうし」
「でも……」
「なんだい」
「地震があったりすると……津波が押し寄せてくるのじゃないかと思って……」
またか、と寺尾はうんざりする。
経理担当だから、性格が暗くてもかまわない、とは思うものの、なにやら|うっくつ《ヽヽヽヽ》している風情に、寺尾は、「六本木のディスコへでも行って、パーッと発散してきたらどうだい」と、すすめたことがある。その時の答えは、こうであった。――踊っているうちにハイヒールの踵《かかと》が折れて、捻挫《ねんざ》して、病院に入っている自分の姿が眼に浮かぶのです。
「じゃ、山にしたらどうだい。軽井沢だって空いてるだろう」
「直下型の地震がきたら……」
「そんな風に考えたら、きりがあるまい」
「去年、軽井沢で馬から落ちかけたのです。テニスのボールが鼻に当ったこともあるし……」
「どういう生活を送っているのだ、きみは……」
「浅間山が大爆発することだってあるでしょう?」
グアム島なら、と寺尾は言おうとして、やめた。羽田空港へ行くたびに、空港敷地内のお稲荷《いなり》さんを拝んでいる彼女の姿を思い出したのだ。成田空港へ行ったら何を想像するか、知れたものではない。
「都内のホテルで休む手もあると思うがね」
「私、京王プラザホテルの上の方に泊って、地震にあったことがあります」
「揺れたかい」
「すごく揺れました。こわいので、フロントに電話したら、揺れるからこそ倒れないのだ、と説明されました」
「理屈ではそうなのだろうな」
忙しいさなかに、なぜ、こんな話をしていなければならないのか、と思った。だが、ここで打ち切るわけにもいかない。
「安全、というのもおかしいが――横浜が良いのじゃないか。港が見えるホテルに泊るんだ。ロマンティックな気分に浸れると思う」
「そうですね」
日暮かおりは、かすかに明るい表情になった。
「港はいいわ」
「外国船が入っていることもある」
「でも……」
「え?」
「港の手前に山下公園があるわ」
「そりゃあるさ」
「あそこで罪もない浮浪者が撲《なぐ》り殺された事件がありましたね。私って、そういう過去をあっさり忘れられないのです。あり得た不幸、あり得る不幸と、平穏な現在を結びつけて考える能力があるんです」
つまらぬ能力だ、と寺尾は思った。
旗本プロダクションの社長である旗本忠敬は、たよりないエレベーターにのり、3のボタンを強く押した。
もとロカビリー歌手である旗本は、四十一歳になった今日でも、二枚目の面影をとどめている。若き日のロバート・ミッチャムに似た眠たそうな眼をレイ・バンのサングラスで隠したこの男は、四年前に一度、破滅しかかったのだが、寺尾文彦らと組んでおこなったコン・ゲーム(信用詐欺)のおかげで立ち直り、タレント・プロダクションを再建した。
彼のオフィスは〈寺尾企画〉のすぐそばなので、急ぎの場合は、歩いて、打ち合せにくる。エレベーターを出た彼は、いきなり、〈寺尾企画〉のドアをあけ、それから、うしろ手で、形だけ、ノックしてみせた。
「どうぞ、奥へ……」
デスクに向った日暮かおりが陰気な声でそう言い、ほの暗い微笑を浮べた。
旗本は軽く頷《うなず》いて歩き出し、社長室に入った。
「やあ……」
寺尾は書類から顔をあげて、
「社長みずからご出馬とはおそれいる」
「いえ……」
旗本は馴れた様子で椅子にかけた。
「すぐに電話をするつもりだったのだけど……」
「いいんです。なるべく歩いたほうが健康に良いので」
「悪かった。実は、山岸君のスケジュールを確認しておきたかったのだ」
「だろうと思いましたよ」
山岸久子は、もとは〈暗さを秘めたエロティシズム〉で人気があった脇役女優だが、旗本プロに属してから、急に主演級にのし上ったのだ。三十代後半という年齢も茶の間向きなのだが、旗本のマネージメント能力によるところ大なのは、関係者のだれもが認めている。
「三時間ドラマの主役ってのは初めてですから、当人、はりきってますよ」
「それはありがたい」
寺尾は笑った。めっきり増えた白髪《しらが》と少年のような笑顔がアンバランスである。
「本当なんです」
と旗本は念を押した。
「この一作に賭《か》けてますよ」
「わかる……」
寺尾は頷いた。
「きみが気を悪くするといけないから、今まで言わなかったのだが、正直にいえば、彼女の人気は横滑りだ。主役クラスにはなったものの、代表作がないのだ」
「そこまで見抜いて?」
「もちろんさ。今度の作品は、彼女の代表作になると思う。いや、思うだけじゃなくて、ぼくがそうしてみせる。あっというような演出をお眼にかける」
「ありがとうございます」
「日米の経済摩擦、中年男女の不倫の恋、若い男女の悲恋、と、すべてが入っているドラマだ。このドラマの要《かなめ》が山岸君の役なのだから」
「台本を読んで、そう感じました」
「山岸君が賭けるというのなら、ぼくにとっても賭けなのだ。ぼく個人のみならず、〈寺尾企画〉の将来がこれ一作にかかっている」
「金もかかりそうですねえ」
「予算は約三億だ。ここだけの話だぜ。もしも失敗したら大変なことになる」
「へえ……」
旗本は仰天したようだ。
「いま、二時間枠のサスペンス・ドラマの大半は、三千万円ぐらいで作ってますよ」
「ああいう薄っぺらな映像では、もう、駄目だ。重厚な番組にしたい。ただ、うちのような小企業の場合には、大勢の社外スタッフの協力が必要なのだ」
「わが〈旗本プロ〉にとっても大きな賭けです。何人かタレントを抱えていますが、目玉商品は山岸久子ですから」
「だろうね」
寺尾はうかがうような眼つきで旗本を見て、
「……ところで、気になるのは、きみと山岸久子が結婚するという噂《うわさ》だ。ゆうべ、ある芸能リポーターに質問されたのだよ。何も知らないと答えておいたがね……」
「……」
「よけいなお世話と思うかも知れないが、いちおう、きいておきたい。つまり、これからの仕事に響くからだ」
旗本は俯《うつむ》いたまま、頷いた。
「今まで通りなのか、それとも式をあげるのか」
山岸久子と旗本の関係は、業界では公然の秘密だった。山岸久子を〈社長夫人〉と呼ぶ者さえいる。それは一向にかまわないのだが、撮影が始まるころに、結婚|云々《うんぬん》の騒ぎが始まったりしたら、たまらない。寺尾としては、イナゴの群れのような、芸能リポーター、女性週刊誌記者の襲撃は避けたかった。
「べつに……今まで通りですよ」
「ふーむ」
寺尾は納得できなかった。二人の関係は芸能リポーターたちも承知の上である。承知の上で沈黙しているのは、彼らの仁義みたいなものであった。
「じゃ、どうして式をあげる噂が流れたのだろう?」
「さあ……」
旗本は困惑した。山岸久子がわざとリークしたように思える。〈きちんとする〉ことを希望しているのは久子の方だった。
「よし、仕事の話をしよう」
寺尾は話題を変えた。
「ドラマの中にヌード・シーンがあるが、いいかね? 山岸君は|必然性がある《ヽヽヽヽヽヽ》からOKと言っているけど」
「ぼくもOKです。数字(視聴率)に関係があるでしょう?」
「あるだろうね」
寺尾は抑えた言い方をする。
「初めてのヌードです」と旗本は強調する。「いわば、処女ヌード」
処女とは厚かましい、と寺尾はひそかに苦笑する。
「上田君が彼女のスケジュールをチェックした。彼はなかなか有能だろ?」
「いいですね。失礼ですが、ああいうディレクターが、よくRTVをやめて、こちらにきましたね」
「ぼくが呼んだからさ」と、寺尾は得意そうに笑う。「しかも、営業マンとしても抜群なのだ」
「寺尾さんの片腕ですね」
「まさに片腕。〈寺尾企画〉は、彼抜きでは動きがとれない」
「寺尾さんの演出、しっかりした台本に支えられて、久子は幸せ者です」
「ぼくと上田君の演出だ。スケールの大きい作品になるだろう」
自分こそ幸せ者だ、と寺尾は思う。どん底から這《は》い上り、齢《よわい》五十にして、すばらしいチャンスを掴《つか》んだのだ。
「皮肉なものだ。RTVのころの同僚ディレクターは、だれひとり、現場に残っていない。いわゆる窓ぎわ族だよ。ところが、追い出されたぼくが、大きな作品に取り組んでいる」
「乾杯と言いたいですね」
旗本は感動していた。山岸久子の成長は寺尾の力によるものだった、と改めて思った。
「成功しますよ、寺尾さん。まず、大丈夫でしょう。この『太平洋の果てまで』の成功によって、ぼくらの仕事は、また、ぐっと、ひろがります」
「そう願いたいね」
寺尾が冷静に応じたのは、自信があるせいだった。ドラマの内容で人々を感動させ、高い視聴率を稼いで社の力を高める。
電話が鳴った。寺尾はゆっくり、送受器をとりあげて、
――はい、寺尾です。
――「週刊ジャーナル」ニューヨーク支局の者です。
――え、ニューヨーク?
――|おたく《ヽヽヽ》の社員で、上田幸一という方がいらっしゃいますか。
――おりますが……。
――上田幸一の名刺とパスポートを持った人が、ニューヨークで殺害されました。
寺尾は後頭部をハンマーで強く叩かれたようだった。ニューヨーク・ロケの下見に行ったあの男が!
ドアの外で立ち聞きしていた日暮かおりは、大声のやりとりから事件を察して、早くも泣き出していた。
そういえば、と彼女は想いかえした。成田空港へ向う前に、彼女に声をかけた上田ディレクターは、いかにも影が薄かった。
九月も半ばというのに、戸外の温度は三十度を越えていた。喪服で身を包んだ男女にとって、この暑さはそうとうにキビしい。
事態が事態だけに、上田家の葬儀は、自宅で、ごく内輪におこなわれていた。
未亡人の横にすわっている二人の幼児が、列席した人々の涙を誘った。この不幸がなかったら、寺尾は上田の家を訪れることはなかったろうと思う。建て売り住宅らしいが、まずは上の部に入るもので、未亡人は早々に売り払って、子供の養育費にあてるのではないか、と寺尾は想像する。
上田の不幸な死に方に、寺尾は直接の責任はない。ニューヨークの麻薬患者の犯行では、怒りの持っていき場もありゃしない。しかしながら――寺尾がRTVから上田を引き抜かなかったら、こんな事件は起らなかったであろう――と、未亡人が思っているような気がする。いや、思っているにちがいない!
彼はそっと狭い庭に出て、籐椅子《とういす》に腰かけている旗本に声をかけた。
「ひどい暑さだね」
「眠いですよ」
旗本はサングラスの奥の眼をしばたたかせる。
「ゆうべ、蒸し暑かったでしょう。どうして、湿気がひどいのですかね、今年は」
「こんなに長い残暑も珍しいねえ」
中年男二人はボヤき合っている。
「上田さんもツイてなかったですねえ」
「いまさら、どうしようもない」
寺尾の思いは、仕事のほうに飛んでいる。
なにしろ、三億円の製作費の仕事である。日本映画のお正月作品の直接製作費が、ふつう二億円弱であるのを思えば、三億円がいかに破格かがわかるだろう。
「上田さんがいないのは大きいですな」
旗本は呟《つぶや》くように言った。
その言葉は寺尾の胸に突き刺さってくる。
――彼はまさにぼくの片腕。〈寺尾企画〉は、彼抜きでは動きがとれない。
そう口走ったばかりである。旗本が三時間ドラマの前途を案じているのが手にとるようにわかる。
ディレクターとしても、営業マンとしても、上田はとび抜けた才能の持ち主であった。RTVにいたころ、寺尾は上田にドラマ演出の|こつ《ヽヽ》を一から教えており、上田の吸収力に驚いたことがある。
だが――。
〈|完全な人間はいない《ノーボデイ・イズ・パーフエクト》〉もので、上田はギャンブル狂であった。競馬、競輪をはじめ、流行のポーカー・ゲーム、野球賭博まで、ギャンブルと名がつくものにはすべて手を出した。RTVをやめる羽目になったのは、関西の野球賭博の顧客名簿に上田の名があったからで、ポーカー・ゲーム喫茶でも始めたいという上田を引きとめたのが寺尾だった。二度と野球賭博に手を出さぬことを条件に、寺尾は上田を自社に引き入れたのである。
「なんとかなるさ」
と寺尾も呟いた。
「もう、手は打ってある」
じっさい、彼は半失業状態のある映画監督に声をかけていた。映画監督とは名ばかり、テレビ映画の演出を多く手がけている男なので、上田の代りに、そこそこ仕事ができそうであった。
「上田君の死は、たしかに大きな損失だ。しかし、ここで挫《くじ》けるわけにはいかない」
「やっと、寺尾さんらしくなってきた」
旗本はそう評した。
「じつは、あなたがギヴアップするんじゃないかと、心配していたのです。山岸久子はショックで寝込んじまいました」
「できれば、ぼくも寝込みたいさ」
「安心しました」
旗本はぬるい麦茶に唇をつけた。
「演出の方は、なんとかなる。問題は営業面だよ。とりあえずは、ぼくと上田君の下のA・D(アシスタント・ディレクター)がカヴァーするしかない。あのA・Dを営業マンとして育成するよ」
「寺尾さん、育成専門じゃないですか」
「仕方がない。そういう役まわりになってしまうのだ」
旗本はなにも言わないが、内心、寺尾に同情している。演出家、役者、営業マン――これらを育てようというのだから、まるで、学校の先生である。
「ぼくは、ひとを育成するなんて、好きじゃない。育てたあとで裏切られるのは、眼に見えているからね。とくに、タレントは、必ずといっていいほど、裏切って、出世してゆく。……自分が育てたタレントが出世してゆくのは嬉しいのだけど、裏切られるのはショックだからね」
「ぼくも、身に沁《し》みてますよ」
旗本は頷いた。
「寺尾さん、まだ、ここにいますか」
「ぼくは、ずっと、いる」
「そろそろ失礼していいでしょうか?」
「かまわんよ。きみだって、仕事があるだろうし。山岸久子を元気づけてくれよ」
「久子は、あのドラマが中止になると思ったのですよ。ロケ・ハン中の上田さんが、ああいう目に遭ったので」
「大丈夫だ。すぐに、うちの若いA・Dをニューヨークに行かせた。あいつも、だいぶ、しっかりしてきた」
「じゃ、ぼくは、ここらで……」
旗本は立ち上り、未亡人に挨拶をしに行った。
寺尾は日暮かおりを呼んで、
「ビールは足りてるかい」
と、きいた。
葬儀の裏方は、〈寺尾企画〉の三人が引き受けている。寺尾、かおり、庶務兼任のもう一人のA・Dの三人である。
「少し余るくらいです」
日暮かおりは消え入るような声で答える。いつもの陰気さが、この場の空気にぴったり合っていた。
寺尾は黙って頷いた。
故人のポケットにあったという手帖《てちよう》からみて、上田はアトランティック・シティなるところへ行っていたらしい。そんな町は、ロケ・ハンの対象になっていないのである。
(どうも、おかしい……)
だが、旅先で、息抜きをしたと考えれば、フシギでもない。旅行社にたずねたところ、新興のギャンブル都市だそうで、そうきけば、べつにフシギではなくなる。
(まあ、良い作品を完成させるのが、上田に対するなによりの供養だな)と寺尾は考えた。
「寺尾君……」
背後から呼ぶ者がある。
ふりかえると、六本木テレビの局次長だった。太い首を締めつける黒ネクタイをゆるめ、ワイシャツのボタンを外している。
「暑いなあ。どこかで、一杯、やらんか」
「いいですね」
寺尾は歩きながら答えた。
「上田君は惜しいことをした。きみ、がっかりしとるだろう」
「まだ、本当のことと思えません」
「そうだろう、そうだろう」
寺尾にとって良き理解者である局次長は大きく頷いた。
「人間的に癖はあるものの、仕事のできる男だった。きみや上田君を追い出したのが、六本木テレビの没落原因の一つさ」
「まさか……」
「遠慮するな。とにかく、わが社は、もう駄目だよ」
少し酔っているようだ。
「そう言わないでください。『太平洋の果てまで』を、六本木テレビのために作ろうとしているところです」
「わかっとる」
二人は青梅《おうめ》街道に出た。夕方なので、道が混み合っている。
「この歳になると、葬式が多くて、疲れる。とくに、今日のような場合は、未亡人に挨拶のしようがない」
「ぼくも困りましたよ」
寺尾はタクシーをとめた。
先に乗り込んだ局次長は、
「六本木へ行ってくれ」
と、運転手に言った。
「行きつけのクラブがある。ゆっくり話ができる店だ」
「ぼく、朝からなにも食べていないのですが……」
「じゃ、先に、鮨屋《すしや》にでも入るか。クラブとは隣合せだ」
寺尾は四谷の社に戻りたかった。局次長は善い男なのだが、アルコールが入ると、人格が一変する。
「ぼく、仕事が残っておりまして……」
「わかっとるよ。鮨屋までつき合いたまえ。店には珍しい焼酎《しようちゆう》がある」
「……」
「何年、あの店に通っとるかな。このあいだ、ふっと気がついたのだが、ただの一度も、ネタを握らせたことがないのだ」
「……」
「わずかな肴《さかな》で、ウイスキーと焼酎ばかり飲んでいたらしい。どうも良い客ではなさそうだ、わしは」
「……」
寺尾は暗い表情である。ゆうべ、三十何年ぶりに深夜のテレビで、アル中患者が主人公の映画「失われた週末」を観《み》たばかりだった。
その店の壁には、往年の東映やくざ映画の一場面らしいカラー・パネル写真が飾ってあった。鮨屋にしては異様な雰囲気である。
「へい……」
と、お絞りをさし出す主人は、色が浅黒く、眼つきが鋭い。
寺尾はビールを飲み、局次長は焼酎のオンザロックを飲み始める。
しばらくして、寺尾は気づいた。カラー写真の中央にいる高倉健の斜めうしろに、悪い側らしい若い男がボンヤリうつっている。ボンヤリとではあるが、頬が痩《こ》けているのはわかる。その輪郭の顔を、十数年、老けさせると、店の主人の顔になる。
そういうことか、と彼は納得して、
「白身の魚から貰《もら》おうかな」
と言った。
「今日は、かんべんしてください」
主人は妙に低い声を出した。
「かんべん、て?」
「お奨《すす》めできないんで」
「だって、ここにあるじゃない?」
「一応、飾ってはありますけど、気に入らないんです。ちょっと、だらしなくなっちまってて」
「おかしいな。まだ、時間が早いのに……」
「昼も営業してましたんで。ひとつ、ごかんべんを」
寺尾は納得できなかった。
「じゃ、とろ。大とろをください」
「お客さん、恥をかかせないでくださいよ」
「え?」
「大とろ、なくなっちまって……中とろでよろしいですか」
「いいよ」
疲れる店だ、と寺尾は思った。こんな気むずかしい主人の店で、酒だけを飲みつづけている局次長の度胸は|あっぱれ《ヽヽヽヽ》と言わねばなるまい。
「きみはいい時にクビになった」
局次長はしみじみと呟いた。
「クビは、むろん、災いだ。きみの受けたショックは大きかったろう」
「そりゃそうです」
寺尾は中とろを口に入れる。うまい、と、ひそかに思った。
「わしらも、きみは消えてしまうだろうと思っていた。……ところが、きみは奇蹟《きせき》の逆転劇を演じた。災いを転じて福となしたのだ。だれにでも出来ることではない」
寺尾は、もっと、どんどん食べたかった。だが、苦虫を噛《か》みつぶしたような主人の顔を見ると、どう注文したらよいか迷ってしまう。適当に握ってくれ、などと言ったら、怒鳴りつけられそうだ。
「こんな狭い国にテレビ局が乱立しているのが間違いなのだ」
局次長は根本的なことを言い出した。
「ビデオテープの質の向上では、日本は凄《すご》いものだ。おそらく世界一だろう。……問題は中身だ。番組の質だ。つまり、技術面だけ、やたらに進歩して、中身がないのさ。仏つくって魂入れず、だな」
「まさに、そうです」
寺尾はおそるおそる小鰭《こはだ》を指さした。主人は、素直に握ってくれた。
「うまい……」
と、思わず呟いたが、主人はにこりともしない。褒め方が気に入らないのだろう。
「そもそも、ビデオテープがアメリカで発明された動機には、時差の問題があると思う。アメリカの東海岸と西海岸では、たしか三時間ぐらい時差があるはずだ。だから、全国ネットの『トゥナイト・ショウ』みたいな番組が、深夜、同時刻にスタートするためには、ビデオテープなしでは不可能なのだ」
「なるほど」
と、寺尾は感心する。
「その意味では、日本で、ビデオテープがそれほど必要だったかどうか、疑問なのだ」
「北海道から九州まで、日本の時刻は同じですからねえ」
「そうさ、生《なま》番組で充分だった。ところが、新しい物はすべて良いと考えるのが日本人だ。アメリカで作られたビデオの機械をすぐに購入したのは関西の局だった」
「それがテレビをつまらなくしたと、おっしゃりたいのですね」
「うむ」
局次長は焼酎のお代りを貰って、
「しかし、わしの意見は若い連中には通じないよ。いまや、テレビ局のなかは、まるで役所だ。それも、田舎の――もう、村役場だな。夢も理想もない。ビデオテープを湯水のごとく使って、つまらない映像を垂れ流しておるだけだ……」
「わかりますよ、お気持は」
寺尾は初めて笑った。
「あなたはテレビ局の第一世代です。ぼくは第一世代のシッポでしょうね。そのうちに、テレビ・イコール・生放送ではなく、イコール・ビデオと考える第二世代が社に入ってきた。昭和三十年代後半です。……いまや、第三、第四の世代が中心でしょうから」
「わしの同世代の大半は、やめるか、自殺するかのどっちかになった。もう殆ど残っていない。わしは自分をシーラカンスだと思っている」
「自虐的過ぎませんか。蝦蛄《しやこ》……」
「わしの言わんとしとるところがわかるか。『太平洋の果てまで』では、第一世代の意地を見せて欲しいのだよ。いまのふやけたテレビ関係者にはショック療法をあたえるしかない」
「そこまで期待されると、少々、重荷ですが……」
悪い気持はしなかった。彼はビールで喉《のど》を湿した。
「口だけで励ますのではない」
局次長の態度は急に重々しくなる。
「裏づけるものは、ちゃんと渡してある。だから、こんなことが言える」
「は?……」
寺尾は相手の顔を見た。
「と申しますと?」
「なにを言うとるか。前渡し金のことさ」
「今度の、ですか?」
「なにをボケておるのだ」と局次長は苛々《いらいら》した表情で、「三億円の大作だ。製作準備金を渡さなければ、そっちも困るだろう」
「ええっ?」
「きみが上田君の死にショックを受けとるのは、ようわかる。しかし、いつまでもボケていられては、こっちが困る。製作準備金として、一億円、受けとっただろう? 契約書をつくり、領収書も貰ってあるぞ」
寺尾は蒼白《そうはく》になった。一億円なんて、受けとった覚えがないのだ。
かりに大地震に遭遇したとしても、寺尾がこれほど驚いたかどうかは疑問である。
「いえ、まだだと思いますが……」
と、あいまいに答えたものの、これでは、あまりにもナサケない。絶対に受けとっていない、と断言できる自信がないのだ。
「そんなことはない」
局次長は不審そうな顔をする。
「一億円もの金だ。きみが頭に刻み込んでいてくれなければ困る」
「いえ……それは……ぼく、いま、頭が混乱しておりまして……」
「その気持はわかる、と言うとるだろ。なにしろ、上田君があんな死に方をして……」
一億円を受けとるのは、営業マンである上田の担当だった。もっとも、金は銀行振り込みだから、上田がいなくても、日暮かおりが承知しているはずだが……。
「お気をつかっていただいて……」
寺尾はいちおう、そう言ったものの、心穏やかではない。いますぐ、社に戻っているはずの日暮かおりに電話をかけたかった。
「まあ、いいさ。こんな時に、落ちついていられたら、人間ではないよ」
局次長は言い放った。寺尾のローバイぶりを気にしないのは、薩摩《さつま》焼酎のおかげであろう。
「……あの……ぼく、まだ、片づけなきゃならないことが残っておりまして」
「いいじゃないか、きみ。故人を偲《しの》んで、杯を重ねようや」
「その故人のことで、いろいろと……」
寺尾は立ち上る。
「そうか」
局次長は納得し、寺尾の手を握った。
「たのんだぞ。『あの波の果てまで』を」
「『太平洋の果てまで』です」
寺尾は店をとび出した。
すっかり暗くなった街路で彼は電話ボックスを探す。およそ電話ボックスの見当らぬ場所で、しからばと赤電話を探すと、初老の男が左手に十円玉を幾つか持って、長電話の態勢である。
勝手知ったる町並みとはいえ、辺りはかなり変化している。電飾をやたらに灯《とも》した、ゲーム・センターと見紛《みまが》う新しい喫茶店に寺尾は足を踏み入れた。
「コーヒー一つ。電話を借りるよ」
ウェイトレスに言うより早く、彼は赤電話に手を伸ばした。
十円玉を落して、自社の番号をまわす。電話は鳴っているのだが、だれも出ない。日暮かおりも庶務係も、まだ、社に戻っていないのか。
寺尾はびくっとした。だれかが肩に手をかけたのである。
「ご、ぶ、さ、た……」
どこかで聞いた声である。
ふり返ると、金色のメタルフレーム眼鏡をかけた中背の老人が笑っていた。麻の背広を着こなしたダンディだが、金歯の数が多いぶんだけ減点される。
「お忘れですか、浜野さん。宮田です。宮田杉作ですよ」
寺尾は背筋が寒くなった。電話機の前で、寺尾です、と言わないでよかったと思う。
「いや、これは……」
忘れるどころではない。
老人の顔は、今でも、悪夢の中に出てくるのだ。しかも、いつも、刑事を連れて。
〈浜野二郎〉の名で老人を騙《だま》し、大金を奪ったのは、寺尾の暗い過去であった。そのために、顔写真をとられる時には、必ず、サングラスをかけるようにした。
が、それは気休めであった。|いつか《ヽヽヽ》、老人が寺尾のオフィスをたずねてくるにちがいない、と彼は予想していたのだ。
「ごぶさたは、ぼくの方です」
寺尾の笑いは凍《い》てついている。
「なつかしい。何年になりますかな」
老人は離れようとしない。
「すみません。ぼく、急いでいることがありまして……」
進退きわまるとは、こうした時を指すのだろう。一億円――一億円が宙に消えたのだ!
「まあ、待ちなさい。あなたに話したいことがあるのじゃ」
老人の視線はきびしかった。
寺尾はしぶしぶ、コーヒーが置かれたテーブルに向う。老人は別の席にいる若い女に(そのままでいなさい)という手つきを見せて、寺尾の正面にすわった。
「浜野さん、今はどういう仕事をしていなさる?」
老人は鋭く問いかけた。
「あいかわらず、テレビの企画です。昔と同じで……」
彼は慎重に答える。それじたいは嘘《うそ》ではなかった。
業界で有名であるとはいえ、寺尾は世間的な名士ではない。週刊誌やスポーツ紙に顔写真が出るほどではないのが、勿怪《もつけ》の幸いだった。
「山岸久子にお会いになることがありますか?」
と、老人はきいた。
「すれちがうことはあります」
寺尾はゆっくりと答える。
「しかし、もう、気軽に声をかけられる存在ではなくなりました」
「やはり……」
老人の眼が光った。
「もともと、手強《てごわ》い女でしたな。……しかし、最近は、めしのつき合いもしてくれない。東京でいちばん値段の高い懐石料理の席を用意しても、すっぽかされる」
いかにも成金らしい言葉だった。この老人は足利市にある外科病院を息子にゆずり、遊びまわっているはずである。広大な土地を持っていて、いざとなれば、山を二つ三つ売ればいい、と豪語していた。
「大スターになってからは、まったく冷めたい。男がいるのかも知れない」
そりゃ、いまさあ、と寺尾は思った。
「勝手なお願いだが、もう一度、山岸久子と会えるようにお計らい下さらんか」
「うーむ……」
なんとも返事のしようがない。
「機会を作って、ぜひ、連絡を下さい。それなりのお礼はしますよ。私の電話番号は変っておらんが……」
老人は新しい名刺を出して、
「浜野さんの名刺をいただけますか」
「ちょっと、切らしております」
「では、連絡先の電話だけでも」
寺尾は六本木テレビの代表番号を店のマッチに記し、腰を浮かせた。
タクシーをおりる時に見上げると、ビルの三階には灯がともっていた。二人の社員のどちらかが戻ったのだろう。
汚ない鳥籠《とりかご》のようなエレベーターを三階でおりると、彼は荒々しくドアをあけた。
日暮かおりは呆然《ぼうぜん》と寺尾を見る。
「妙なことをきいたんだ」
と、寺尾はわれながら不自然にきこえる声で息を弾ませた。
「RTVから、一億円、うちの口座に振り込まれたかね」
「どういう意味ですか」
相手は狐《きつね》につままれたような顔をしている。
「一億円振り込んだというのだ、RTVの局次長が……」
「いえ、振り込まれていません」
「きみ、本当に知らないか!」
思わず、大きな声を出して、はっとした。背後を見たが、A・Dの姿はなかった。
「知りません」
日暮かおりは不思議そうに言う。
「おかしいな」
寺尾は椅子に腰を落した。
「あの局次長がいいかげんなことを喋《しやべ》るとも思えない。――そうだ。契約書をつくり、領収書もあると言ってた」
「じゃ、上田さんの仕事ですね」
「そういうことになる……」
「明日、RTVで契約書を見せて貰ったらどうですか?」
かおりにそう言われると、暗い前途がさらに暗くなった。
「きみ、なにか気がつかなかったかい」
「なにを、ですか?」
「不正の臭いさ」
そう言いながら、寺尾は絶望感に打ちひしがれた。問いつめるべき上田は、すでに、この世の人ではないのである。
(金は支払われ、どこかに消えてしまった……)
寺尾は直感的にそう思った。
(一億円は、もう、出てこないのではないか)
「明日調べるしかない……」
彼は溜息《ためいき》をついた。
ようやく築き上げた立場も、〈寺尾企画〉も、これで終りだ、と思った。
「|このこと《ヽヽヽヽ》は、ぼくらだけの秘密にしよう。ほかの者に喋ってはいけない」
「でも……」
かおりは不吉な想像に耽《ふけ》るようだ。
「すべて、ぼくの責任になるから、安心したまえ。……金策もぼくの役目だ。番組制作には支障がないようにするよ」
経理係に対してはそう言わざるを得なかった。
「支払いは、いままでと同じに続けてくれ」
「えらい災難でしたねえ」
京王プラザホテル四十四階のスカイ・レストランの中央の席で、旗本が吐息をした。
新宿周辺のみならず、はるかに池袋の高層ビルまで見渡せるその席は、アベックがならんですわれるように出来ているのだが、今日は、中年男二人が、色気抜きでならんでいる。
「この件は、経理の女の子しか知らない。いま、きみに話したから、知っているのは|三人だけだ《ヽヽヽヽヽ》」
「……」
「きみに話そうかどうしようかと迷った。……あれこれ考えた挙句、やっぱり話すことにした」
「ありがたいです、その方が……」
旗本はサーモン・ステーキにナイフを入れる。
昼食時には、空いているので、話がし易かった。それでも、寺尾は、時々、辺りを見まわしてみる。
「でも、どうやって、契約書を確認できたのですか?」
「上田の急死で、いろいろ不明な点があるから、と頼んだのさ。六本木テレビはぼくの古巣だし、そういう融通はきく」
「なるほど」
「契約書は彼が勝手に作ったものだった。それから、〈寺尾企画〉の口座番号が変ったという届けを六本木テレビの経理に出していた。つまり、一億円は、奴の作った口座に振り込まれたのだ」
「よくある手ですな」
旗本は冷ややかに笑って、
「一度、その口座に振り込まれ、改めて、本当の〈寺尾企画〉に振り込まれる。その間だけ、自分が借用する」
「そういうつもりか」
「でしょう。きっと、巨額の金が必要だったのですよ。その口座には、いくら残ってました?」
「七百八十円」
旗本は口笛を吹いて、
「何に使ったのだろう」
「なんだと思う、きみ?」
「さあ……家でしょうか。ちょっとした建て売り風だったじゃありませんか」
「それとなく調べてみた。あれは借家だったよ」
「ふーむ……しかし、一億円となれば……あ、ギャンブルか!」
「どうも、そうらしい」
寺尾は白ワインを飲んだ。
「ずいぶん、手びろくやっていたらしいのだ。いまや、彼に関する情報が自然に集ってくる。アメリカへ行ってまでやっていたという」
「アメリカだからできるギャンブルもあるんですよ。フットボール賭博《とばく》とか」と旗本は笑って、「あなたはギャンブルに興味がないから、醍醐味《だいごみ》がわからないのです。九千万や一億は、あっという間に消えます。日本でも、大劇場に出ているスターが、一カ月の出演料を五分でパアにした例があります」
「そういう話はよくきくよ。しかし、上田はギャンブルを断《た》ったと思っていた」
「ご冗談を……。このあいだ、赤坂プリンスの新館で彼とお茶を飲んでたとき、正体を見ましたよ。にわかに空が曇ってきたら、十分以内に雨が降り出すかどうかに賭《か》けないか、と言いました」
「なんだい、それは」
寺尾は不審そうな顔をする。
「あの人は生れつきのギャンブラーでしたね。なにか大きな穴をあけて、埋めるために、一億円、拝借したんじゃないかな」
「ずいぶん好意的だねえ」
「彼は寺尾さんを尊敬してましたからね。迷惑をかけるつもりはなかったと思うのです」
寺尾は苦い顔をした。
「本当ですよ。拝借して、バレないうちに返すつもりでいた。――ところが、急に、ニューヨークのロケ・ハンが入った。往復込みで五日だから、なんとかなると思って、行っちまった」
「殺されると知らずに、か」
「そうですよ。帰ってきていれば、なんとか処理できたのじゃないですか」
「どうだろうか、金額が多過ぎるし」
寺尾は気むずかしい顔をする。
「死人に口なしで、なにもわからん」
「未亡人は知らないのですか」
「なにも知らない。身の上相談にきたときに、いろいろ、きいてみた」
「女性関係はどうです?」
「そのほうは、最近は無いらしい。ギャンブル一本槍のようだ。のべつ、妙な電話がかかってきていたという。関西弁だと言ってたが」
「暴力団かサラ金か……」
「未亡人も、その辺だろうと言ってた。夜中に押しかけてきた男たちがいたそうだ」
「どのみち、業務上横領ですな」
「そこなのだ」
と、寺尾は声を低めた。
「警察に届けて、金が戻ってくるのならいいよ。しかし、金が戻る確率はきわめて薄い」
「ええ」
「警察は六本木テレビだけでなく、あちこちの局へ調べに行くだろう。〈寺尾企画〉の信用は地に落ちる。金は戻らない、信用は失墜するじゃ、ぼくが困る。『太平洋の果てまで』が中止になるのは、眼に見えている」
「それは困ります!」
旗本も現金な悲鳴をあげた。
「久子のタレント生命がかかっているのですから」
「十月からの新番組で、山岸久子主演のドラマは一本だけだね」
寺尾は念を押した。
「あの激戦の時間帯で、ホームドラマは無理だよ。苦戦になると思う。ぼくの言わんとしてることはわかるだろう」
「わかります。コケるという意味ですね」
「まあ、ね。そうなった場合……」
「来年の春の新番組から、久子の名前は消えますな」
旗本は深刻な表情になる。山岸久子のギャラを吊《つ》り上げ過ぎた事情もあった。
「しかし、『太平洋の果てまで』が評判になれば、事情は変ります。久子も、ぼくも、ハッピーになりますね」
「きみとぼくは一蓮托生《いちれんたくしよう》なのだよ、このさい」
と、寺尾は囁《ささや》いた。
「どこかから、一億円、捻出《ねんしゆつ》して、『太平洋の果てまで』を完成するしか、道はないのだ。もちろん、銀行からは借りられないし、貸してもくれまい……」
「一億円、か」
旗本は頭を抱えた。
「一千万円なら、なんとかなるかも知れませんが……」
「それなら、ぼくだって、どうにか都合できるだろう。ところが、ゼロが一つ多くなると……」
「うーむ!」
不可能です、と言う代りに、旗本は唸《うな》り声を発した。
「職業柄、五千万、一億と気軽に口にするが、自分で捻出するとなると、容易ではない。しかも、アメリカ・ロケは、十月初旬と決ってるんだ」
と、寺尾は自棄《やけ》っぱちのように言う。
「とりあえず、ロケの費用を用意しなければならない」
「どのくらい必要ですか」
「そうだな。人数を減らして、小編成にしても、六千万は要るな。もう一度計算しなおさないと、正確には言えないが」
「あと二週間ですよ」
「わかってる」
コーヒー、紅茶のどちらですかとききにきたボーイに、寺尾はエスプレッソを注文する。
「ロケ隊の出発を延ばすわけにはいきませんか」
「ロケの時期は慎重に計算されたものだ」
寺尾は職業的な誇りを示した。
「とくにニューヨークは、もう少し遅れると、通行人の服装が冬仕度になってしまう。十月初めでも、日陰は寒い。スタッフが寒さに悩まされないように配慮したつもりだ」
「ありがたいです。久子はアレルギー性鼻炎で、風邪をひき易いもので……」
旗本はきわめて個人的な感想を述べた。
「とにかく、至急、金を用意しなければならん。問題はその方法だ」
「どうも、まともな方法では調達不可能なようですな」
「なに?」
「まともなやり方では……ねえ?」
「まともじゃないやり方を考えようというのか、きみは」
「おっかない顔をしないでくださいよ」と旗本は薄笑いを浮べた。「仕方がないでしょ。|あれ《ヽヽ》しかありませんよ」
「|あれ《ヽヽ》?」
「|あれ《ヽヽ》ですよ」
「|あれ《ヽヽ》って?」
寺尾は旗本の眼を見た。横にならんだ男たちが眼を見つめ合うのは奇妙なものである。
「トボケないでくださいよ」
旗本は声をひそめた。
「わかってるじゃありませんか」
「なにが?」
「いやだなあ」
旗本はかすかな笑いを浮べる。
――だれだ、あの二人をあんな席に案内したのは?
離れたところに立っているマネージャーがひそかに呟《つぶや》いた。
――それでなくても、このホテルは、悪い噂《うわさ》が多くて困っているのだ。ホモのスターがプールサイドに投身自殺したおかげで、七階のプールは涅槃《ねはん》プールなんて呼ばれて、この夏、人が寄りつかなかった。いくらホテルが四十八階だからって、四十八回転ダイヴィングの噂はひどいじゃないか。……あの二人も、真っ昼間から仕様がないな。店のど真ん中で、男同士が喋々喃々《ちようちようなんなん》されちゃ弱るぜ、ほんとに……。
「本当にわかっていないのですか」
旗本は信じられなかった。わずか四年前のあのサスペンスに充ちた日々を、この人は忘れてしまったのだろうか。
「つまり、ですな……われわれが宮田の爺《じい》さんを相手にやったようなことですよ」
「宮田……」
相手がなにを言いたいのか寺尾は初めからわかっていた。それどころか、ほかならぬ宮田杉作に町で出あったのだ、と言おうとして、喉の辺りで押しとどめた。
「宮田杉作か……」
「そうです」
「まともじゃない調達法というのは、そういう意味か」
「ええ」
「はっきりいえば……詐欺だな」
「コン・ゲームです」
旗本は昂然《こうぜん》と訂正した。
「同じことだ」
寺尾はむずかしい顔をする。
「だって、短期間に何千万という金を手に入れようとしたら、|あれ《ヽヽ》しかありませんぜ」と旗本は開き直った。「好きでやるんじゃないんです。おたくの上田さんが悪いんだ」
「まあ、ききたまえ。……四年前には、われわれは確かに巧妙にふるまった。素人としては上出来だったと思う」
「ええ」
「しかし――あの時は、長島という天才的老詐欺師の指導があった。それに、われわれも若かった」
「グループ・サウンズの歌詞みたいですな」
元ロカビリアンは悪意ある批評を加える。
「たった四年前ですぜ」
「その通り。しかし、あのときは、きみも、ぼくも、失うべきものがなにもなかった。自分たちが社会的に消滅する寸前だったからこそ、とんでもないエネルギーと行動力が湧《わ》き出たのだ。さもなきゃ、あんな、イチかバチかの冒険はできない」
「今は、ちがうと言うのですか?」
「ちがうとも。ぼくらは、小なりといえども、一国一城の|あるじ《ヽヽヽ》だ。ぼくは破滅するかも知れないが、きみは、べつに破滅につきあう必要はない」
「たったいま、一蓮托生と言ったじゃありませんか」
と、旗本は矛盾を指摘した。
「うん、言ったよ。――つまり、客観的にはそうだと思うんだ」
「で?」
「しかし、|あれ《ヽヽ》をやるとなると、話は別だ。ぼくはともかく、きみは、そんな危険をおかす必要がない。山岸久子ひとりを抱えて、なんとかやっていけるさ」
「そうもいきません。久子の人気が下っちまえば、ぼくも共倒れですから」
寺尾は答えなかった。運ばれてきたエスプレッソに砂糖を入れ、カップを口に運ぶだけだった。
自分の方からコン・ゲームをやろうと言わずに、旗本の側から持ちかけさせるようにしたのは、寺尾のある種の狡猾《こうかつ》さであった。狡猾さというより、大人の分別というべきかも知れない。しかし、やるとなれば、組む相手は旗本しかいなかった。
「きみがそこまで肚《はら》を括《くく》ったならば、ぼくも考えないわけにはいかんな」
寺尾は微妙な言い方をした。
「ただ、その……ぼくら二人で出来るものだろうか」
「と言いますと?」
旗本は怪訝《けげん》な顔をする。
「長島氏がいてくれれば、千万の味方を得たことになるのだが……あの人の噂をきいたかい?」
「いえ、まったく……」
「音信不通だな。|とし《ヽヽ》が|とし《ヽヽ》だから、亡くなったかも知れない」
「なんとも言えませんね」
「あの天才が相談に乗ってくれれば、七割方は成功したことになるんだけど。……そうだ。あいつはどうしたろう? 清水……」
「清水史郎ですか」
「うむ」
清水は、寺尾、旗本と組んだコン・ゲーム仲間の名である。
「なにをしているか知らんが、あいつが加わってくれないかな。いちおう気心も知れてるし……」
「清水は駄目です」
旗本は断定的に言った。
「どうして? きみは嫌いなのか?」
「好き嫌いの問題じゃありません。これをごらんなさい」
と、旗本は手帖《てちよう》の間から新聞の切り抜きを出した。
寺尾は受けとり、小さな活字に眼を寄せる。そこにメモされた日付は一週間ほど前のものであった。
〈三重県の漁民の町、O町で町民多数が町ぐるみで雇用保険金を不正に受給していた事件を捜査中の三重県警捜査二課とO署は、公共職業安定所から雇用保険金約三千万円を詐取していた水産業者六人と、町民三十三人を、詐欺の疑いで、津地検に書類送検した。
すでに八月に、町民十一人が同じ容疑で送検されているが、実際には同町の成人四百人のうち百人が約八千万円をだまし取っていた、と同署ではみている。(中略)
また同署の調べによると、ハマチ養殖業者六人は実際には雇っていない知人を架空の従業員に仕立てたうえ、これらの三十三人を解雇したと関係書類をO町職安に提出、失業給付の雇用保険金約三千万円をだまし取っていた疑い。
三千万円は全員で山分けしたが、この金は生活費に使ったり、住宅新築の費用の一部に充てたりとさまざま。同署の調べでは、漁村内の〈助け合い運動〉として始めたらしいが、発案者は東京からきた清水史郎(年齢不詳)とみられ、三重県警では目下、行方を捜索中である。〉
「あいかわらず、妙なことをやっている」
寺尾は苦笑を見せた。
「町ぐるみの詐欺とは不思議な手を考えたものだな」
「あいつ、実は、旗本プロに入れてくれ、と泣きついてきたのですよ」
と、旗本はためらいがちに言った。
「ほう」
「ぼくは断ったのです。サラ金に追われているというので」
旗本はシャンパンのシャーベットを口に運ぶ。
「まあ、当然だ」
「それから、このO町へ逃げたのです。〈柄にもなく人助けをしています〉という葉書を貰《もら》いました」
「人助け、ねえ」と、寺尾は首をかしげて、「……とにかく、清水史郎は使えんな」
「ぼくとしても、正直、詐欺はどうも、という気持があります。合法すれすれの線で金を掴《つか》めれば、望ましいのですがね」
「例えば?」
寺尾は先を促した。
「以前、一度、提案したでしょう。寺尾さんのタレント鑑定眼を利用した手を……」
「忘れちゃったな」
「寺尾さんに一蹴《いつしゆう》されたのです」
「それは失礼した。もう一度、きかせてくれたまえ」
「よろしいですか」
旗本は妙な眼つきをして、
「今度は、少々、手を変えましたが、寺尾さんのタレント鑑定眼を利用することでは同じです。寺尾さんの|ひとこと《ヽヽヽヽ》には、それくらい、重みがあるのです」
「どうかねえ」
「大きな番組のオーディションをやって、合格した役者――男でも女でもかまいません――|こいつ《ヽヽヽ》を、寺尾さんが最大級に褒め上げるのです。西武の広岡監督が近鉄の大石内野手を褒めたとたんに、大石の株がわっと上りましたね。ああいうものですよ」
「まさか」
と、寺尾はいちおう謙遜《けんそん》して、
「それで、どうするの?」
「スポーツ紙がいっせいに書き立てると思います。マネージメントは、ぼくの会社が引き受けます」
「うむ。まあ、いいだろう」
「これからあとは、寺尾さんにやって貰わなければなりません。その役者Aが旗本プロに不満を持っていると、他のプロダクションのマネージャーに囁いて貰うのです。給料の不満でもなんでも構わないですよ」
「ふーむ」
寺尾は腕組みをした。
「タレント不足で、どのプロダクションも焦ってますからね。絶対に引き抜きの話がきます。おそらく、内密にAとあって、交渉をするでしょう。ぼくは、全部心得ていて、黙っています」
「あ、わかった」
寺尾はかすかに笑った。
「他のプロダクションに引き抜かせて、旗本プロは移籍料をせしめるわけだな」
「まあ、そんなところです」
旗本はにやにやした。
「このやり方だと、移籍料をとったとしても、ぼくの外見は被害者です。また、寺尾さんの信用にも傷がつきません。だって、|才能はあったのに《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、引き抜いたプロダクションのマネージメントが下手だったので、Aは駄目になったと、誰もが考えますからね」
「トランプのババ抜きじゃないか!」
寺尾は声をあげて笑った。
「ババを抜いた奴が|どじ《ヽヽ》なのだ」
「その通りです。ぼく自身、これをババ抜き作戦と呼んでいます」
「面白い。話として楽しむのなら充分に面白いし、色々なヴァリエーションが作れそうだ」
「実行も可能でしょう?」
「可能だとも」と、寺尾は軽く頷《うなず》いて、「しかし、今回は駄目だね」
「駄目ですか!」
「駄目だよ。まず、このゲームの遂行には、少くとも二、三カ月を要する。その点は理解できるだろう? それに得られる金額がそう多くはない。なんといっても新人タレントだからね」
「うーむ。言われてみれば、そうだ」
「もっと時間があるときならば可能だがね」
寺尾は旗本の気分が落ち込まないように気をつかった。
「だから、話としては面白いといったのさ」
「やれやれ」
旗本はがっかりした様子である。
「そう気落ちしないでくれ。ぼくだって、これという案があるわけじゃないのだ。そろそろいこうか」
寺尾は立ち上った。
「今日は、ぼくに払わせてください」
旗本が言い張るのを押しとどめた寺尾は、会計をすませて、店を出、エレベーターのボタンを押した。
「長島の爺さんを探すのが先決かも知れない」
エレベーターを待ちながら寺尾は呟いた。
「見つかるものでしょうか」
と、旗本は怪訝な顔をする。
――お客様、旗本様でいらっしゃいますか?
レストランのマネージャーが追いかけてきた。
――お電話が入っております。
「ちょっと失礼します」
旗本はレストラン入口に向って走って行った。
エレベーターのドアがあき、外人のカップルを吐き出して、閉った。
別な、空のエレベーターがきて、ドアが自動的に閉る。旗本はなかなか戻ってこなかった。
寺尾は煙草が吸いたくなった。九カ月も断《た》っていて|これ《ヽヽ》である。
近くに煙草の自動販売器があるので、よけい、苛々《いらいら》する。ズボンのポケットから百円玉をつかみ出したとき、旗本の顔が見えた。光線のかげんか、蒼《あお》ざめている。
「すぐ、会社に戻ります」
小声で言ったが、頬が引き攣《つ》り、黒眼が真中に寄ったようにみえる。
「どうしたんだ、きみ」
寺尾は心配になった。
「は、ちょっと……」
妙によそよそしい。心ここにあらずの体《てい》である。
「なにか、あったの?」
「いえ」
軽く答えたものの、虚空の一点を凝視している。
気味が悪くなった寺尾は、それ以上、質問を重ねるのをやめた。
社に戻り、社長室に籠《こも》った寺尾は、卓上型電卓でロケの費用を計算しなおした。
(日程を短くすれば、五千万強で上るかも知れない……)
しかし、そのためには、もともと弛《ゆる》くないスケジュールを、さらに過密にし、晴雨にかかわらず、撮りまくらなくてはならない。下手をすれば、街の風景はすべて雨、という早撮りテレビ映画なみの映像になってしまう。これでは、〈安っぽいテレビ映画〉をも含めて、ブラウン管に氾濫《はんらん》している安直なドラマを、映像によって批判してやろうという寺尾の意図が成立しなくなる。
(六千万かかるな、やはり)
彼は椅子の背に凭《もた》れた。
金をどう捻出するか?
社の金庫に金がないのはわかっている。ふつうなら家を担保に借金をするのだろうが、彼の小さな家は銀行からの借金で得たものなので、すでに担保に入っている。
他《ほか》のことならば、頭の回転が早い寺尾だが、金の問題となると、まったく頭脳が働かなくなる。金に関しては、ヒトに任せたい、と、いつも思っているのだ。
日暮かおりが夕刊を持って入ってきた。
寺尾は、いきなり、社会面を見る。金融関係の強盗や詐欺事件が実に多い。不況時代のアメリカはこうではなかったか、と思うほどである。
(やってるな、みんな……)
そう呟いてから、自分が犯罪者たちを同志のように思っていることに彼は驚いた。
芸能欄に眼を転じると、山岸久子が茶の間の〈好感度タレント〉の八位に入ったと報じられていた。
これは朗報である。彼は旗本プロの社長室のダイアルをまわした。
――旗本です……。
陰気な声がきこえた。井戸の底から響く幽霊の声みたいだ。
――寺尾です。さっきは失礼。
――いえ。
旗本の声は、とんと弾まない。
――今日の夕刊を見たかい。
――いえ。
――見てごらんなさい。良いことが書いてある。
――そうですか。
気のない返事がかえってくる。張り合いがないこと、おびただしい。
――どうかしたのか、きみ?
――ええ、ちょっと。
ただならぬ気配である。
――そっちへ行こうか。
――いえ、外でお眼にかかりましょう。
旗本の口調は、いつになくよそよそしく、かつ、慎重であった。
四谷四丁目から千駄ヶ谷のガードに向う道には、気のきいた洋菓子屋や喫茶店ができつつある。
名前だけは、上に〈カフェテラス〉が付く店〈フルール〉のグリーンのドアをあけて入ってきた旗本は、サングラスのままで、寺尾の斜め前に腰かけた。
「夕刊、見たかい?」
寺尾は探りを入れた。
「ええ」
旗本は、いっこうに嬉しそうでない。
「好感度テストのことは、前もって、きかされてましたから」
「そうか……」
寺尾は輸入物のビールを飲んだ。殆ど味がない、妙なものだった。知らない銘柄に手を出すものじゃない。
「きみ、このビールはやめた方がいい」
「コーヒーを貰います」
旗本は面倒くさそうに言い、
「例の件、本気で考えなきゃなりません」
「|例の件《ヽヽヽ》?」
「えらいことになりましたよ」
と、旗本は首を横に振った。
「幸福な会社はどれも似ているが、不幸な会社はそれぞれに不幸である、というのは、アーサー・ヘイリーの言葉でしたっけ?」
「さあ」
寺尾はきいたことがない。
「そりゃ、きみ、トルストイの……」
「まあ、どうでもいいです」
旗本はうるさそうに言う。
「今日の昼までは、寺尾さんの不幸に同情していたのです。ところが、自分の足元に火がついて……」
「あの電話か?」
旗本は頷いて、
「ええ」
「どうしたんだ?」
「よくある話です。こんなによくある話はありません」
と、自嘲《じちよう》気味につづける。
「うちの経理係をご存じでしょう」
「あのお爺さんか」
「一見、実直そうな……これが一向に実直でなかったのです」
寺尾は大体を察した。まったく、よくあるパターンであった。
「やられたのか?」
「みごとに……」
「いくら?」
「明細はわからないのですが……約五千万です」
「うーむ」
芸能プロダクションの使い込みとしては、多いとも少いともいいきれない。何億というケースがざらだからである。しかし、旗本プロの規模からみれば、五千万円はショックにちがいない。
「おれたち、天中殺かな?」
寺尾は古い流行語を持ち出した。
いまや、天中殺は、ミドリガメ、ハマトラ、フィーバー、シーモンキーなどとともに、時代錯誤言葉のベストテンに入っているのだが、流行からズレた寺尾は知る由もない。
「参ったですよ。すぐにクビにはしましたが、それ以上は、ねえ……」
芸能プロが使い込みをしたマネージャーや経理係を訴えるケースはまれである。なにしろ、相手は、会社の脱税やらなにやらを知り尽しているのだ。一億円以上の金を持ち逃げしたマネージャーが、いつの間にか、「どーも、どーも」と業界に復帰してくる|からくり《ヽヽヽヽ》はここにある。
「久子を二時間物のサスペンス・アワーに、というお呼びは各局から多いのです。その気になれば、かなり売りまくれますが……」
「物理的に『太平洋の果てまで』出演は不可能になるな」と寺尾は言いきった。
「それが困るのです。『太平洋の果てまで』は本筋《メイン》の仕事ですから」
二時間枠の犯罪ドラマが流行してはいるが、一時の風潮に過ぎないのを旗本はわきまえている。久子を安売りすれば、とりあえず経済的には楽になるが、彼女のスター・イメージが低下するのは眼に見えていた。本筋《メイン》の仕事と金稼ぎの仕事の区別は、旗本の中で、はっきりしている。
「二人で一億五千万か。これじゃお手上げだな」
寺尾は苦笑しつつ、超薄味のビールを飲んだ。
「諦《あきら》めるのは早いです。ぼくは本気で|例の件《ヽヽヽ》を考えているのです」
と、旗本は小声で言った。
「ぼくだって、そりゃ考えたさ。しかし、二人では動きようがない」
「久子がいます。彼女は何でも手伝うと言っています」
「マズいよ……」
寺尾は絶句した。
「冗談ではありません。妙な言い方をするようですが、ぼくのためなら、彼女はかなりの冒険をやる気でいます。あいつはスリルを味わうのが好きなのです」
「……ありがとう、と言いたいところだが……彼女のようなスターが加わるのがプラスかどうか。お気持はありがたく頂戴《ちようだい》するとして、ほかに誰かいないかね?」
「いなくもないですよ」
旗本は遠まわしな表現を用いる。
「心あたりはあります」
「だれだ?」
「ぼくが預かっているタレントです」
「タレントはまずいよ!」
「大丈夫です。無名に近い存在ですから」
「しかし、役者だろう?」
「役者志願です。しかし、清水のようないいかげんな男じゃありません。ちょっとした過去はありますが……」
「おい、まずいよ」
「グレていたこともあるというだけで、根は真面目です。良家の子弟です」
「それじゃ、もっとも向かないじゃないか」
「大丈夫です」
と旗本は笑った。
「とても素直なのです」
「その、真面目とか素直というのが困る……」
「傷害罪で挙げられたことがあるのですから、コチコチの真面目ではありません。しかし、ぼくを裏切るような真似は決してしませんから、安心して下さい」
「なぜ、きみを裏切らないとわかるのだ?」
「それは、ですね。――いや、今は勘弁して下さい。いずれ、くわしくご説明することになるでしょう。三年間、うちで使い走りみたいなことをやらせていたのですが、ぼくに対して忠実です。実は、今度の五千万の件も、その男が|嗅ぎ《ヽヽ》つけたのです」
「へえ……」
寺尾は返事のしようがない。
「いくつなの?」
「二十九になったばかりです」
「名前は?」
「高木です。本名ではありませんが」
「高木君か。聞いたことがあるな」
「寺尾企画にも行ったことがあるはずです。顔を見れば想い出しますよ」
「その男、信用できるのか」
コン・ゲームをおこなうのに、〈信用〉の二文字は滑稽《こつけい》な気がした。
「とにかく、会ってみて下さい。五千万円使い込まれたと知って、いっそ、我々も強盗をやりますか、といったほどの男です」
「おいおい」
「心配しないで下さい、冗談ですよ。そういうジョークを吐く程度に余裕があり、不良っぽくもある……」
「どういう人間だ」
寺尾は判断ができなかった。
「会って下さるのなら、すぐに、ここに呼びます。まえから寺尾さんに会いたがっていたのですから」
「なぜ?」
「彼は俳優志望なのです」
高木と名乗る青年には見覚えがあった。
顔にもスタイルにも、これといった特徴はないのだが、なにしろ背が高い。寺尾が覚えていた理由はそれだけであった。
もっとも、百八十センチを越す背丈の青年は、当節、ざらにいるので、それだけではどうしようもない。
「きみが高木君か」
寺尾は職業的な眼差《まなざ》しを向けた。
高木は両手の長さをもて余すような姿勢で椅子にかけていた。ふつう、俳優志願の青年は、寺尾の鋭い視線を浴びると、両手をかたく組み合せたり、脂汗を浮べたりするのだが、この青年は細い眼に柔らかい笑みを浮べているだけだった。大胆なのか、たんに無神経なのか、よくわからない。
眉毛は薄く、眼は細く、鼻は小さく、といった具合で、俳優としての適性があるのかどうか、寺尾は判じかねた。旗本が、三年も売りそびれていたのがわかる気がした。
(こういった顔を、どこかで見たようだ)と寺尾は思った。
(おかしいな。ついさいきん見かけたぞ)
どうしても、想い出せなかった。
「もう、お仕事はしているのでしょう」
彼は高木に話しかけた。
「ほんの少しです。刑事ドラマの悪役で」
「こう言っては失礼ですが……二十九歳というのは、ちょっと遅いですね」
「遅いんですよ」
脇から旗本が口をはさむ。
高木は当然のように頷《うなず》いて、
「怠け者ですから」
と、呟《つぶや》くように言った。
「酒を飲み過ぎるのだ」
旗本が、また、口をはさんだ。
「それに気が多過ぎる。シナリオを書くとか、演出をしたいとか」
「俳優志望じゃなかったのか」
寺尾は拍子抜けした。
「いえ、志望はしてるんです」と高木は慌てて強調し、「ただ、二十五を過ぎてから、焦りがあって、テレビの脚本を書いてみたりしたんです」
「ふーむ」
気持はわかる、と寺尾は思う。
「どういうドラマを書いたの?」
「ミステリーですけど、駄作ばかりで」
「きみのアイデアはいいのだ」と旗本が大声で言った。「しかし、アイデアを生かすだけの技術がない」
「ミステリーといっても、いろいろ、あるね。たとえば、犯人探し、とか、倒叙物、とか……」
「いま、ぼくが書いているのは詐欺師の話です」
寺尾はあやうく椅子から落ちそうになった。
「ちがうだろ。ほら、遺産相続で女たちが殺し合う……」
旗本がとりなすと、高木は、
「あれはやめたのです」
と言った。
「今度のは面白いですよ。大会社で窓ぎわ族になった中年の紳士二人が詐欺を企むやつです。どじな二人組が銀行から三億円かっさらって……」
「結末はどうなるのだ」
旗本が先を促した。
「テレビドラマですから、最後は、紙幣が風で吹っ飛ばされるとか、紙幣の入ったトランクが孤児院の庭に落ちるとかしなけりゃまずいでしょう」
「きみはそういう犯罪の手口を考えるのが好きなのか」
寺尾はおもむろにたずねた。
「ええ。わりと……」
「この人は放送作家になるべきじゃないかねえ」
寺尾は旗本に言った。
「養成所にしばらく通えば、作家でやっていけそうじゃないか」
「寺尾さん、そうお考えですか」
「うん。作家兼俳優という人がいてもいいと思うよ」
暗に俳優としての将来はむずかしいと言ったつもりだった。
「いずれは作家になるとして」と、高木は眠そうな眼で寺尾を見て、「とりあえず、本番台本を書くつもりです」
「本番台本?」
「はい」
「どういうこと?」
「言っていいのかな。実は……わが社は、してやられたのですよ」
「その話はきいている」
「五千万円、食われました。このままでは、旗本プロは危険です。だから、だれかに噛《か》みついて、五千万円を取り戻さなければ……」
寺尾は旗本が首を横にふるのを認めた。こんなことを言うとは思っていなかった、という顔つきだ。
「そのための台本を書くというのか」
と、寺尾は確認した。
「はい。これから、考えるつもりです」
「ぼくのために、そんなことまでする必要はないよ」と旗本が牽制《けんせい》した。
「自分のためですよ。眼の前で、白ネズミが五千万|齧《かじ》ってたのに気づかなかった自分に腹が立つのです」
「面白い……」
と、寺尾は言った。
こちらの手の内を晒《さら》して、自分も台本づくりに加わろうか。
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第二章 のるかそるか
旗本、高木と別れて、社に戻った寺尾は、社長室に入り、ドアをロックした。
背後の書棚に積まれた大型のクラフト封筒を出して、デスクにのせる。封筒には鉛筆で〈情事〉とか〈殺人〉といった分類が記してある。それらの中から薄めの封筒を抜き出して、ゆっくりと椅子にかけた。封筒には〈詐欺〉と記されている。
封筒からこぼれたのは、数葉の新聞の切り抜きである。いずれも詐欺に関したそれらは、寺尾がみずから切り取ったものであった。
まさか、こんな時がくると思って保存しておいたのではない。〈詐欺〉も〈情事〉も〈殺人〉も、すべて、ドラマのための資料であった。テレビの犯罪ドラマは、原作もの、翻案ものが多いのだが、それらが、ほぼ底をついているので、オリジナル脚本が必要になってくる。そうした脚本を作家に依頼するときのアイデアの|もと《ヽヽ》が封筒の中身なのである。
寺尾は切り抜きを眺めている。どれも、コン・ゲームというよりは、ずばり、詐欺である。単純といえば単純だ。
それにしても、人間というやつは、よくもこう、ヴァラエティに富んだ、様々な詐欺を考えるものだと感心さえしてしまう。人類最古の職業は、スパイと売春だといわれるが、ひょっとしたら詐欺もそうではあるまいか。ニューヨークのマンハッタン島を、ごくわずかな金でインディアンの酋長《しゆうちよう》から巻き上げた白人詐欺師の話は有名だが、金を受けとったインディアンは酋長でもなんでもなかったという後日譚《おち》がついている。つまり、島の持ち主を自称するインディアンは部族中の詐欺師だったわけだ。
ときどきかかってくる電話に応対しながら、彼は切り抜きの記事を読み耽《ふけ》った。
〈鳥取県米子市S銀行米子支店の夜間金庫で、売上金を預けにきた近くのスーパーマーケットの店長が、夜間金庫の差し入れ口に張ってあった「故障中」の張り紙にだまされた。
午後八時ごろ、店長のUさん(三〇)がその日の売上金五十七万七千円のはいった夜間金庫専用カバンを持っていったところ、夜間金庫の差し入れ口のすぐ上に「故障中」「御用の方はこのベルを押して下さい」と張り紙がしてあった。Uさんがそばのボタンを押したところ、すぐ近くの通用門から若い男が現れ、「よくいたずらがあるもんだから故障して」といいながら、Uさんからカバンを受け取って、通用門の方へ姿を消した。
同スーパーでは、銀行から入金伝票が届かないため、不審に思い、同銀行に問い合わせたところ、初めてだまされたことに気がついた。Uさんの話だと、男は三十歳ぐらいでサラリーマン風。身長は一七〇センチぐらい。張り紙は週刊誌大で、マジックで字が書き込まれていたという。〉
なんでもない事件のようでいて、実におかしい。被害者が〈ボタンを押したところ、すぐ近くの通用門から若い男が現れ〉た、というのが、まさに絶妙のタイミングである。
しかし、不審な点がある。午後八時とはいえ、〈ボタン〉(ブザーの?)を押して、銀行の人が出てこなかったのは何故《なぜ》か。〈ボタン〉そのものがニセモノだったのであろうか。また、Uさんが〈若い男〉をまったく疑わなかったのは何故か。
おかしいところは、いくらでもあるのだが、とりあえず、おかしいと思わせなかったのは、〈若い男〉の才能である。つまり、コン・マンとしてプロなのだ。
寺尾は別な切り抜きを手にした。
〈「あなたを表彰します」――実態のない「全国優良業者表彰協会」を名乗って、全国の各種小売店に手当りしだいに「授賞通知」を送りつけ、二万五千円と引き換えに表彰状を送るという珍商売≠ェ問題化、警察当局も内偵捜査に乗り出した。〉
しかし、これは、どうやら、刑事責任を追及できぬようである。なぜなら――|被害者が不在だから《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》だ。
表彰される覚えのない店に、「授賞通知」がくる。「手数料」として二万五千円を払うのだが、店に表彰状を飾るためなら、二万五千円は高くない。商店主はニッコリし、「協会」側(二十四歳の青年ひとり)はすでに千件の注文に応じたという。約二千五百万円を得たわけだ。
(頭のいい奴だ)
と寺尾は舌を巻いた。
しかし、この真似はできない。時間がかかり過ぎるのだ。
ほかにも、ある芸能プロが税務署を相手に所得税の不正還付を一億円も受けていた、とか、千円しか出さないのに一万円出したと言い張るつり銭詐欺の男など、ピンからキリまでの詐欺の例があった。
だが――。
これらは、今の寺尾の役には立たないのである。
とりあえず、五千万か六千万の金が必要なのだ。しかも、数日のうちに――。
|それ《ヽヽ》が可能になる計画《プロツト》が、ぼんやりとしてはいるが、彼の頭の中にあった。
(いままでの映画にも小説にも前例のない手段だ。そいつは確かだ……)
しかし、人が足りない。このプロットでは、旗本が使えないので、寺尾と高木の二人でやらなければならないのだ。いくらなんでも、二人では無理だった。
(日暮かおりを使えないだろうか?……いや、危険だ。いかに会社のためとはいえ、アマチュアを使うわけにはいかない)
彼は会社の名入りの便箋《びんせん》を裏返しにして、プロットをメモし始めた。
同じころ、旗本プロの応接室のソファーに寝た旗本忠敬も、一つのプロットを考えていた。
そのプロットは、大ざっぱにいえば、寺尾のプロットと似ていた。方向が同じ、というべきかも知れない。
(これを実行すれば……五千万円はふんだくれると思うが……)
彼は貰《もら》い物のナポレオンを飲みながら空想に耽った。
(でも、危険だな……)
大きく嘆息をする。
(おれが顔を出せないのが致命的な欠点だな、こいつは……)
頭の中に描いた華麗なプロットを彼は拭き消した。
翌日の午前十一時を過ぎたころ、寺尾は足利市の宮田杉作に電話をかけた。
――おお、浜野さんか!
老人は明るい声で答える。
――お眼覚めでしたか。
寺尾はおそるおそるたずねた。
――もちろんさ。毎朝、五時か六時には眼が覚める。仕方がないから、ジョギングをして、テレビをみておる。
――お元気でなによりです。
――なにを言うとるか! それより、きみ、間違った電話番号を教えたぞ。きみに連絡をとろうとしたが、六本木テレビにかかってしまう。
はっとした寺尾は、すぐに態勢を立て直して、
――いや、失礼いたしました。あの夜は、ほかのことで動転しておりまして……。
――文句を言いたいところだが、野暮はよそう。お互い、セックス、タックス、デラックスで苦労をするなあ!
老人の言葉は理解不可能であった。セックス、税金《タツクス》はともかく、デラックスとはなんのこっちゃ? 金のかかる女とでもいう意味だろうか。
――じつは、ゆうべ、山岸久子にばったり出会いまして……。
――なに!?
老人の声音《こわね》が一変した。
――ほ、ほんとうか?
――本当にも、なにも……お噂《うわさ》が出ましたよ、あなたの。
――私の噂が?
――ええ。けっこう、気にしてました。
――ど、ど、どこで会ったのです?
――原宿のカフェバーです。三十代の有名人が集るところで……彼女、浮かれてましたよ。
――浮かれて?
――ええ。来春に放送される三時間ドラマの主役に抜擢《ばつてき》されて、ニューヨークへ行くとかで。
――うむ、それは何かの記事で読みました。……しかし、私を気にしていたとは、どういう風の吹きまわしだろう。
――気まぐれな女ですからな。まあ、貴重なお時間をついやすほどの話ではありません。ちょっと、ご報告までと思って……。
――そんなことはない。もう少し彼女の話をきかせてください。
――でも、電話ではちょっと、……。
――今夜、お眼にかかれませんかな。私は六本木の「アリゲーター」に出かけるつもりです。
宮田老人は先手を打った。
――どうですか、浜野さん?
――夜でしたら、なんとかなりますが……。
ひっかかった、と、寺尾はほくそ笑む。
――「アリゲーター」という店は知らないなあ。
――フィリピン人が経営している会員制のカジノです。防衛庁の前の星条旗通りにきて下さい。迎えの者を出します。
――でも、会員制でしょう。
――秘密クラブですが、私が紹介すれば大丈夫です。
星条旗通りのバーで、ハワイ産のビールを飲んでいると、電話が鳴り、「お客様で、浜野さん、いらっしゃいますか」と呼び出された。
寺尾が立ち上ったとき、アロハシャツをだらしなく着た青年が近づいてきて、「そのまま、そのまま」と小声で言った。店の者は電話を切ってしまう。どうやら、青年は、さっきから寺尾を観察していたらしい。
「浜野さんですね」
偏光レンズが寺尾を見据えた。
「そうだが……」
「失礼しました。こちらへ、どうぞ」
支払いをすませた寺尾は、青年のあとを追って夜の道に出た。風がいくらか涼しくなっている。
この辺りのことなら、プレイボーイクラブから矮鶏《チヤボ》がたむろしている場所まで知り尽しているはずの寺尾だが、狭い路地を不必要なまでに引きまわされ、方向感覚を失って、ようやく写真スタジオ風の小さなビルの前に立った。
「足元に気をつけて下さい」
たよりない石段をおりて、地下室に入る。
なんの変哲もない廊下を歩き、女性用手洗いの標示があるドアを青年が押すと、冷ややかな熱気とでもいうべきものが感じられた。
煙草のけむりがさほどでないのは、換気が良いせいであろうか。黒タイルを貼《は》りめぐらした部屋はそう広くはないのだが、奥の壁が鏡になっているので、少くとも倍の大きさに見える。客の三分の二は日本人だが、カジノにありがちな騒々しさはない。
寺尾は、モナコ、エストリル、ラス・ヴェガス等のカジノを知っているが、ここの雰囲気はマカオのリスボア・ホテルのそれを想わせる淋しさがあった。よくいえばシブく、悪くいえば貧乏くさい。
人々の背中をかき分けながら、彼は宮田杉作の姿を探し求めた。ルーレット、ブラックジャックに興じる男たちは、照明のせいもあって、一色《いつしよく》に見え、パチンコ屋で人を探すようなわけにはいかない。
ようやく、白ワイシャツ姿で、ネクタイを外した宮田杉作を見つけた。
「どうも……」
と、肩を叩くと、老人は、
「ツイてきたぞ!」
と叫んだ。
「浜野です」
「わかっとる。いま、ごらんの通りだ。待っていて下さい」
ごらんの通り、と言われても、ギャンブル音痴の寺尾には、なにがなにやら、さっぱりわからない。彼があちこちのカジノを覗《のぞ》いたのは、スターや上司に随行しただけなのだ。
「スロット・マシンでもやってて下さい。すぐに片をつけますぞ!」
宮田老人の眼は血走っている。十ドル札二枚を寺尾に渡し、
「遊んでて下さい」
と念を押した。
(ギャンブラーの〈すぐ〉は、早くて一時間だ)
寺尾はうんざりした。
腰のガンベルトにコインの小さな紙筒をずらりと入れた、ビキニ・スタイルの金髪女性がきた。寺尾を見ると、「ハロウ」と微笑を浮べる。
彼は二十ドルをさし出し、相手はガンベルトから紙の筒を二本抜いた。一本に二十五セントのコインが四十枚つまっている。
彼は椅子つきのスロット・マシンを探し、腰をおろした。
紙包みを破き、二十五セント玉を散らす。一度にコインを二枚ずつ入れる型のマシンは、六枚吸い込んだところで、ピンポン、と光り輝き、数えきれぬほどのコインを吐き出した。
まわりの人々が羨《うらやま》しそうに寺尾を見る。
寺尾はコインをすくって、大きな紙コップに入れた。それから上着を脱ぎ、椅子の背にかける。また、コインを二枚入れ、ハンドルを手前に引いた。
しばらくして、右腕が疲れたので、彼は周囲を見まわした。ビールを飲みステーキを食べながらハンドルを引く肥ったヤンキー、コカ・コーラを飲みながら細い腕でハンドルを倒す日本人のファッション・モデルと、さまざまであるが、だれも彼も、眼が点になったように見える。
それにしても、ステーキをナイフで切りながらスロット・マシンをやるという発想は日本にはない。スロット・マシンの下に台がついているのは、飲食物を置くためなのだ。
バニーガール風の衣裳《いしよう》の外人が飲み物の注文をとりにきた。
「カクテルハ、イカガデスカ?」
そんなものは、三十過ぎてから飲んだことがない。二十代のときには、莫迦《ばか》の一つおぼえ、レイモンド・チャンドラーの小説で知ったギムレットを、西銀座フードセンターにあった安いバーでよく飲んだものだ。
「ギムレット」
と寺尾は答え、スロット・マシンに立ち向う。
夥《おびただ》しいコインがあっという間になくなった。ギムレットが運ばれてきたのは、彼の最後の二十五セント玉が吸い取られた瞬間だった。
舌打ちした彼は、椅子から立ち上った。日本の紙幣をコインにかえるためには、郵便局の窓口みたいな所に並ばなければならない。
アタマにきている寺尾は、一万円札をポケットから引っぱり出し、おっとっと、という感じで五千円札にした。これなら、まあ、二十ドルに等しい。
グラスを片手に持った彼は、ギムレットを味わう心のゆとりもなく、自分の番がくるのを苛々《いらいら》しながら待っている。
ようやく、彼の番になった。五千円札をさし出しながら、いったい自分はこんなことをしている場合か、と思う。
窓口の老人が、不意に話しかけてきた。
「ギムレットにはまだ早過ぎないかね、|寺尾さん《ヽヽヽヽ》?」
彼は凍りついたようになった。
色白の痩《や》せた老人の眼光は、まぎれもない、あの詐欺の天才、長島のそれであった。年齢不詳のこの人物は、あいかわらず、六十そこそこにしか見えなかった。
老人と呼ぶにはいささか生臭いのだが、物語の進行上、そう呼ばざるをえないところの長島老人は、窓口を若者に任せて、ごったがえすフロアに出てきた。
「寺尾さんが現れるのじゃないかと思っておった」
洗い晒したオレンジ色のアロハシャツを着た老人は、声もなく笑った。この年輩(といっても、何歳なのか、寺尾には見当がつかないのだが)の人としては珍しく背が高く、ひとを見下《みくだ》すような印象をあたえる。
「なぜですか」
寺尾はたずねた。
「きとるじゃないか、カモが……」
老人はカジノの隅にある小さなバーに歩を運んでゆく。
「たしか宮田といったな、あの遊び人。さいきん、のべつ、きておる。毎晩、カモにされて喜んどるようじゃ」
二人は奥の方の空《あ》いている椅子にかけた。ギムレットのグラスを手にした寺尾は、なんだか莫迦みたいである。
ボーイがくると、老人は、テーブルの灰皿とグラスを片づけるように命じた。
「……そろそろ寺尾さんがくるような気がしとった」
そうくりかえして、老人は、薄い色が入ったメタルフレームの眼鏡をかけ、カジノに背を向けた。
「こうしておれば、目立たんじゃろ。なんせ、わしは店から外に出るわけにいかんのでな」
寺尾は返事ができなかった。肚《はら》の中を老人に読まれているようだ。
この老人といっしょにいるところを彼は宮田杉作に見られたくなかった。宮田杉作が、かつてのコン・ゲームの指導者である長島を覚えていない保証はない。うろ覚えにせよ、覚えている確率のほうが高かった。
「なにかあったらしいね、寺尾さん」
オレンジジュースを注文した老人は、ひとを脅かす声で言った。
「正直な人だ。顔に書いてある」
「紀子さんはどうなさいました?」
突然、寺尾がたずねた。
長島紀子――と名乗っていた女。長島の娘と称していて、実は、情婦、愛人だったあの女。
「あいつはペテン師だ……」
老人は呻《うめ》くように言った。
「ペテン?」
「うむ。このわしをペテンにかけおった」
寺尾は笑い出しそうになった。希代の詐欺師が、〈ペテンにかけ〉られたとは、どういうことか。
「じゃ――いっしょに住んでいらっしゃらないのですか」
「あの女は西ドイツにいるよ。日本の外交官と結婚した」
寺尾は息をのんだ。
「結婚?」
「金も、地位も、というやつじゃ。日本一の詐欺師になれる素質があるのに、惜しい。所詮《しよせん》は、平凡な主婦の座、ありきたりの幸福に憧《あこが》れとったらしい」
「平凡、ですか」
「やり口は、あまり平凡ではなかった。わしが心臓発作で入院しとるあいだに、わしの預金を全部持ち出して、スイス銀行にあずけてしまったのだ。ヨーロッパ行きはすでに決っておったらしい」
「ひでえな、それは」
「ひどいものだ。わしは全財産を失って、文句の持ってゆきどころがない。……このようないかがわしい場所で働いとるのも、そのためだ」
老人は噎《む》せかえった。
寺尾は老人に同情した。一瞬、嘘《うそ》ではないかと警戒しないでもなかったが、疲労の翳《かげ》が濃い表情を見ると、とても、そうとは思えない。
「いかがわしいといえば、正にそうです。明日にも、手入れがあるんじゃないですか」
「わしも、そう思う。手入れがないのが不思議なほどじゃ」
「早く、身をお退《ひ》きになったほうが……」
「金だな。要するに、金の問題だ」
老人は重い吐息をした。
「この歳になって、ゼロからの出発とは、あまりにも情ない」
「大変ですね」
「養老院――いや、老人ホームに入るつもりでおるのじゃが、それなりに金がかかる。病気になった場合も考慮しなければならんしな」
「そうでしょう」
と相槌《あいづち》は打ったものの、寺尾は、金額の見当がつかない。この老人の場合、ある程度のゼイタクは避けられないだろうし……。
「どのくらい、かかるものですか」
「ピンからキリまでさ。上を見れば、際限がない。今のところ、不況で、インフレはそれほどではないが、インフレ再燃も計算に入れておかねばならぬ」
老人はストローで、ジュースの残りを音を立てて啜《すす》った。
「数年まえなら、アメリカの銀行に五千万円あずけておけば、日本の銀行に一億円あずけたのと同じだった。金利が日本の倍近かったからな。――しかし、今は、そうはいかぬ。アメリカの金利が引き下げられた」
寺尾にはぴんとこない話だった。
「本当のことをいえば、心から安心できる金額はないのじゃ。わしの計算では、少くとも八千万は欲しい。いま住んどる小さなマンションが二千万ぐらいで売れるはずだから、足せば一億になる」
「現金で八千万ですか」
「うむ。老人ホームに入るための金を|もと《ヽヽ》にして計算したのじゃ」
「大事《おおごと》ですよ、それは」
寺尾は首をひねった。
「|その気《ヽヽヽ》になれば、掴《つか》めぬ金額ではないさ」
老人は奇妙な笑みをみせた。
「しかし、この老体が一人で踏んばっても仕方がない。一人でできるコン・ゲームは知れておる」
「お仲間がいるでしょう」
「いることはいるが、なんせ、|とし《ヽヽ》だ。ボケたり、ふやけたりしている。テキパキやれるのは、五十代までだろう」
寺尾は、自分と旗本が必要とする金額に、老人のそれを足してみた。計二億三千万――三人で、それだけ要るのだ。
「実は、ぼくも追いつめられていましてね」
と彼は告白した。
「そうらしいね」
「わかりますか?」
「わかるとも」
老人は自信ありげに頷《うなず》いた。
「堅気の寺尾さんが、こんな場所にくるのは、只事ではない」
「……で、山岸久子は私のことを、なんと申しておりました?」
四十分後に、近くのクラブの二階の広い部屋で、寺尾は宮田杉作と向い合っていた。
四面は鏡で、柱は装飾だらけ、おまけに燭台《しよくだい》があって、火がともしてある。気どり過ぎていて、かえって落ちつかない、そんな室内であった。
「そうですねえ……」
すぐに答えたのでは不自然になる。寺尾は卓上で両手の指を組み合せ、考え込む表情になった。
「この店でいちばん値段の高いシャンパンを用意させました」
宮田はおもむろにグラスをあげた。
「ひとつ、よろしく」
寺尾は黙って乾杯をする。
「久子は私を覚えておるのかな。……噂をしておったとすれば、覚えとるわけだが……」
「相談をしたい、と言ってました」
寺尾はようやく口をひらいた。
「なに、相談?」
「はい」
「なんの相談だろう? 金かな?」
「いえ、金じゃありません。今度のドラマ――例のニューヨーク・ロケのやつですが――あの中で、ヌードになるシーンがあるらしいのです。彼女は悩んでいたのですよ。脱いでいいものか、どうか……」
「裸になるのか、山岸久子が!」
老人は眼を丸くした。
「清純派じゃあるまいし、いまさら、ヌードがどうの、という時じゃないだろう、と言ってやりましたよ。身体《からだ》の線だって、二十代の子みたいにきれいじゃないでしょうしね」
「そんな言い方をしては可哀想だ」
「脱ぐことは決心したらしいのですが、さらに、|からみ《ヽヽヽ》があるので……」
「|からみ《ヽヽヽ》とは何だね?」
「ベッド・シーンですよ」
寺尾はわざと、突っ放すように言う。
「三十八になる女優が、|からみ《ヽヽヽ》をいやがっては困るのですがねえ。まあ、かなり強烈な体位らしいから……」
「体位?」
「テレビですから、そう露骨にはやれないのですが、全裸で騎乗位のファック・シーンを撮るようです。イメージダウンになるんじゃないかと当人は悩んで……宮田さんに相談したいと……」
「なぜ、私に?」
「ほかに相談できる相手がいないのじゃないですか」
寺尾は、一発、かました。
(これは効くはずだぞ)
「私のほかに、相談相手がいない?」
老人は不審そうである。
「役者にしろタレントにしろ、孤独なものでさあ」と、寺尾は言いきった。「なんともつかない遊び仲間はいても、追いつめられた時に相談できる相手や忠告してくれる人は、めったにいないです」
「この年寄りが役に立つだろうか」
「亀の甲より年の功、というじゃありませんか」
「む、む、む」
宮田杉作は唸《うな》った。
「私でできることなら、なんでもするよ。今すぐ、会ってもいい」
「今夜は、もう遅いです。明日、彼女に連絡をとってみますよ」
「そうか。では……」
老人はシャンパンを寺尾のグラスに注いだ。
「傍《はた》で見ていて、いたましい。はらはらさせられるよ。いま、山岸久子に関する記事のスクラップブックを作っておるのだが、このところ男の噂がないな」
宮田杉作と別れた寺尾は、近くの鮨屋《すしや》で待たせておいた長島老人をひろい、タクシーで四谷三丁目に出た。
サウナや焼肉屋のあるビルに入り、脂じみたエレベーターで五階に上る。ドアの曇りガラスがぼんやり明るくなっているのが旗本プロダクションだった。
ノックをすると、内側で鍵《かぎ》をあける音がし、細くあけたドアの隙間《すきま》に高木が仁王立ちになった。
「ぼくだよ」
寺尾の声に高木は身体を横にずらせる。
「長島さんがいっしょだ」
模造皮革のソファーに寝転んでいた旗本がサングラスのまま、起き上った。
「どうも……」
寺尾が電話で知らせておいたので、旗本はびっくりはしなかったが、なにやら具合が悪そうだった。動揺を抑えながら、「ごぶさたしまして」と、ソファーを指さした。
「予定外のことでびっくりしたよ」
と、寺尾は旗本に言った。
「あそこで長島さんに会うとは思わなかった」
「偶然もまた必然、という言葉があったのう」
長島老人はにこりともしない。
若い高木が紹介された。青年はテーブルにグラスをならべ、ビールを注いだ。
「乾杯といきますか」
旗本が照れながら言う。
「とにかく、再会にはちがいないのですから」
四人は乾杯をして、ソファーに腰をおろした。
「どうでした、爺《じい》さんは?」
「乗ってきたよ。すぐにも山岸久子の顔を見たそうだった」
「へえ……」
旗本の表情はフクザツだった。
「執念ですな、あれは」
「妄執、だな」
寺尾は、ぽつん、と言った。
「なんだか気の毒になってきた」
「カモに対して同情は禁物です」
旗本が冷ややかに答える。他人が山岸久子に惚《ほ》れるのを許さぬ、強い語調だった。
「われわれの計画を長島さんに話したのですか」
「いや、まだだ」
「おい、例のものを……」
旗本は高木に目配せした。高木は一通の文書を長島老人に手渡した。
「ゆうべ、寺尾さんとぼくが思いついたプランがありまして……必ずしも同一ではないので、高木君にまとめて貰《もら》ったのです」
「ほう」
老人の眼に皮肉めいた笑いが浮んだ。レンズの厚い眼鏡をかけて、文書にゆっくりと眼を通すと、「なるほど……」と言い、ポケットからライターを出して、火をつけた。そして、灰皿の上に投げる。
三人の男は呆然《ぼうぜん》とした。
「これではたんなる美人局《つつもたせ》だ。こんなことで大金を巻き上げられると思ったら、甘過ぎる」
「でも……」
と、旗本が言いかけると、長島老人は声を荒らげた。
「宮田|某《なにがし》は、|色ぼけ《ヽヽヽ》してはおるが、莫迦ではない。スターと寝られるかも知れないと空想する夜はあるだろう。しかし、のこのこと誘いに乗って、脅しに遭うほど、|どじ《ヽヽ》かどうか。下手をすれば、きみらのほうが訴えられるぞ」
「ですから、逃げ道を考えまして……」
「気の毒だが、あんなことでは逃げきれんよ。どうやら、きみらは、コン・ゲームの第一歩を忘れたらしいな」
「は?」
「いぜん、わしが言うただろう。コン・ゲームの理想は、被害者に被害に遭っていると思わせぬことにある、と。自分はこの人たちに助けられている、仕合せ者だ、と思わせるのが要諦《ようたい》じゃ」
寺尾と旗本は想い出した。だが、高木はなんのことやらわからなかった。
「つまり、人助けですな」
苦笑しながら寺尾が呟《つぶや》いた。
「夢を失った現代人に、華麗な、しかも束《つか》の間《ま》の夢を見せてやるのさ」と老人は喋《しやべ》りつづける。「ヴォランティアといっても良いほどだ」
「それは、ちょっと……」
旗本は閉口して、
「たしかに、杜撰《ずさん》な計画だったことは認めます」
「ぼくもコン・ゲーム道の教えを想い出し始めました」
寺尾もつけ加えた。
「もう一度、初歩からスタートさせる必要があるようじゃな。たとえば、寺尾さんだが――面倒かも知れぬが、〈浜野二郎〉のオフィスを作りなさい。必要経費と考えるのじゃ」
「はい」
「マンションのほうがいいかも知れん。留守番電話を置けば、すむことだ。……ところで、諸君、緊急に必要なのは幾らかね」
「寺尾さんのところです、それは」
旗本が寺尾を指さした。
「いかほどかね?」
「六千万です。これで、ニューヨーク・ロケができます」と寺尾。
「では、それを優先させることにしよう」
老人は自信ありげに言った。
「ところで、寺尾さん、空港ロケというのは簡単にできるものかね」
「え?」と、寺尾はなんの話かわからぬままに、「……そうですねえ。成田空港はうるさいですよ、いろいろと」
「そこらの説明をわしはききたい。それから、もうひとつ――これからは、みんな、わしの指導にしたがうのじゃ」
「話がちがうじゃありませんか、山岸さん!」
草鞋《わらじ》のように長い下品な顔をした芸能リポーターがいきり立った。
「あなた、小田俊彦君とのことを、渡米まえにはっきりさせると言ってたじゃありませんか」
記者会見のテーブルに向っているのは、とんぼの目玉みたいなサングラスをかけた、不機嫌そうな顔の山岸久子と、付きそいの若いマネージャーである。
「小田俊彦さんとは、たんなるお友達ですから」
久子はメンドくさそうに答える。リポーターたちはあとの言葉を待っているが、久子は沈黙したままだ。
「どうなんですか。そこら、はっきりさせて貰いたいんです」
「はっきりさせろ、って言われてもねえ」
久子はいよいよ不貞腐《ふてくさ》れて、
「べつに、なにもないんですから。ただ、ドラマでごいっしょしただけで……」
「そりゃおかしい」と長い顔のリポーターが甲高い声を発した。「おかしいじゃないですか。このまえ、ぼくには、はっきりさせると言っておいて、今は〈たんなるお友達〉――それはないですよ。なにしろ、ぼくは、あなたが小田君と六本木の料亭から出てきたところを目撃しているんですから。写真だってありますよ」
「お食事ぐらい誰とでもしますわ」
久子はムリに笑ってみせる。
「じゃ、あのとき、なぜ逃げたのですか。小田君が九つも歳下だからですか」
リポーターは挑発にかかる。
「待ってください」
と、久子のマネージャーが叫んだ。
「山岸の歳のことを云々《うんぬん》するのなら、この記者会見はとりやめにします」
「ちょっと。質問させてください」
と、別の、ひどく肥ったリポーターが手をあげた。芸能リポーター界にその人ありと知られた人物である。
「小田君は、山岸さんと|そういう《ヽヽヽヽ》関係だと認めているんですよ。この食いちがいを説明してください」
「小田さんがどう言ったのか、あたしは知りません。あたしを好きだと言ってくれるなら光栄だわ。嬉しくなっちゃうわ。だって、小田さんは二枚目ですもの、日本を代表する……」
「はぐらかさないでください」と、肥ったリポーターはハンカチで汗をぬぐった。「彼は恋人同士と認めているのです。ところが、山岸さんはちがうという」
「いや、ちがわない!」
遠くで声がした。業界の長老といわれる人物がダークスーツで久子に近づいてくる。
「山岸さん……」
と、ダークスーツが低い声で言った。
「猿芝居はいいかげんにやめなさい。酔っぱらったきみが、小田君とキスしている写真がぼくの手元にある。覚えてないかね、青山の路上で」
「あたしはキス魔ですからね」
久子は開きなおった。
「酔っぱらうと、やたらに、ひとにキスをするのよ」
「別れる時だけですよ」と、マネージャーがあわてて補足する。「西洋での日常の習慣に従っているまでです」
リポーターたちは失笑した。
「別れの挨拶にしては長過ぎるような気がしましたがねえ」
ダークスーツは構わずにつづける。
「それに――ぼくは、あなたとは長いつき合いのつもりだが、一度も、別れのキスをされたことがないなあ」
久子は、ふん、という表情で無視した。
「そろそろ、搭乗ゲートの方へ行きませんと……」
と、マネージャーが腕時計に眼をやる。
「もう、ひとつ」
長い顔の男が執拗《しつよう》に食い下った。
「小田君がパリへ行っていることは、ご存じでしょうね」
「はい」
「下司《げす》のかんぐりかも知れませんが、小田君がパリからニューヨークまで、あなたに会いにゆく可能性があるんじゃないですか」
「ほ、ほ」
久子は急に上品な笑いをつくって、
「いいですねえ、ロマンティックで」
「あり得ますか、そういう事態が?」
「ロマンティックだわ!」
久子は、のらりくらりと質問を躱《かわ》している。リポーターたちは、ようやく苛立ちをみせた。
「子供に質問してるんじゃないんだからね」と、長い下品な顔の男は大声を張りあげた。
「ロマンティックも、へったくれもないよ。ずばり、セックスについて、きいているんだ」
「セックス?」
久子はにっこり笑った。
「なんのことかしら?」
「あ、わかった。山岸さんの言う〈お友達〉ってのは、セックス・フレンドなんだね」
「ずいぶん失礼ね、あなた」
久子の態度が変った。
「どうして失礼なんですか! だって、そうでしょう。三十八の成熟した女と、二十九の男が、ただ、お食事をして、別れぎわにキス――これだけってことはないでしょ。下半身が触れ合ってないはずはありませんよ」
長い顔の男は久子に迫り、フラッシュがやたらに焚《た》かれる。マネージャーは記者会見打ち切りを宣言し、久子は小走りにゲートにつづく廊下に向った。カメラマンたちが猟犬のようにあとを追う。罵声《ばせい》とも叫びともつかぬ声がきこえる。
――カット!
その声で、一同は立ちどまり、空港のセットの中を、ゆっくりと戻ってきた。芸能リポーターに扮《ふん》した男たちは、ゆううつそうに俯《うつむ》いている。
スタジオのモニター・テレビが、いまのシーンをくりかえしている。山岸久子はテレビの中の自分を見て、くすくす笑った。
――はい、OKです。お疲れさま。
そう声をかけた寺尾は、副調整室を飛び出して、スタジオへの階段をかけおりた。彼の手には「あるスター――山岸久子の歩み」という薄い台本が握られている。
寺尾は久子の眼を見た。二人は同時に吹き出した。
このシーンの意味を知っているのは、二人だけだった。
新宿西口にできたばかりのアメリカ資本の一流ホテル――。
グッチのバッグをこれ見よがしにフロントの台に置いた旗本忠敬は、重々しく構えている。海外から一時帰国した商社マンのようであるが、よく見ると、外人タレント専門の呼び屋のようでもあった。
「ご予約は?」
と、フロントの男がたずねる。
「電話が入っているはずだが……」
旗本は名刺をさし出した。
「どうも、日本のホテルは無愛想でいかん。ポーターが荷物を持ってくれない」
「浜野畑元様ですね。失礼いたしました。デラックス・スイートを用意いたしてございます」
「パーク・サイドかね」
旗本はたずねた。
「は?」
相手はききかえす。
「失敬、失敬。つい、ニューヨークでの癖が出てね。セントラル・パークぞいの高級ホテルの場合は、必ず、パーク・サイドと念を押すことにしている」
「こちらも、中央公園が見えます。デラックス・スイートは、すべて、公園サイドで」
「なるほど。セントラル・パークを日本語に訳せば、中央公園だからな」
「お支払いは現金でございますか」
「うむ」
旗本は一万円札の束を無造作につかみ出した。
「デポジットをとってくれたまえ」
「おそれいります。こちらにご記帳ねがえますか」
さし出されたボールペンを手にした旗本は横文字で記帳する。
「では、ボーイにご案内させます」
「ひとつだけ、たのみがある」
旗本は押しつけるような言い方をした。
「は?」
「私は部屋の好みがある。まあ、値段からみても、良い部屋ばかりにちがいないとは思うが……」
「おそれいります」
「いちおう、見せてもらえんかな」
「ちょっとお待ちください」
クラークは奥へ入り、すぐに戻ってきた。
「げんざい、三つのタイプが空《あ》いております」
「では、その中から選ばせてもらおうか」
「はい。ご案内させます」
クラークはベルを鳴らした。ボーイが走ってきて、旗本が手にしているグッチのバッグとマーク・クロスのスーツケースを受けとった。
気むずかしそうな客だと、クラークは思った。うまくスイート・ルームを気に入ってくれるといいのだが……。
甲州街道ぞいの、明大前を過ぎた左側で、高木はタクシーをおりた。
めざすバーは、すぐに見つかった。店を閉じてから、そう日がたっていないらしく、閉店の貼り紙がまだ新しい。
寺尾文彦のロケハンは正確だ、と高木は感心した。そして、寺尾がメモしてくれた家主の家に足を向けた。青年はカーリーヘアの鬘《かつら》をかぶっていた。
「こちらが中央公園です」
ボーイが窓の外を指さした。
「ああ……」
旗本は興味を示さなかった。彼はテレビの位置ばかり気にしている。
「お手洗いは二つございまして」
旗本は初めて興味をひかれたようだ。
「どれどれ」
大理石製の豪華なバスルームには黒いビデがあった。
(三つの部屋の中では、これが、いちばん使い易そうだ)
旗本は計算した。とくにテレビの位置が気に入ったのだ。
「よろしい。この部屋に決めた」
「ありがとうございます」
ボーイはルーム・キイを旗本に渡して、部屋を出て行った。
ドアがしまるや否や、旗本は内側からチェーンをかけ、電話機に近づいた。送受器を外し、プッシュボタンを押した。
――寺尾です。
という声がきこえてくる。
――あ、旗本です。もう、社に戻られたのですか。
――うむ、片づいた。きみの方はどうだ?
――まあまあの部屋です。
――イケそうかね。
――と思いますが、寺尾さんも見てください。気に入らなければ、チェンジできるのです。
――よし。社の仕事を片づけてから、そっちへゆく。高木君からの連絡も、おっつけ入るだろう。
――かなり良い部屋です。今夜、泊っていいでしょうか。
――きみ、ひとりでかい?
――……え、まあ。
――山岸久子か、だれかといっしょだったら、やめてくれ。公私を混同されては困る。
――はあ。
――今夜はそれどころじゃないぜ。
寺尾の溜息《ためいき》がきこえた。
一時間半後に、寺尾はホテルのデラックス・スイートの部屋を点検してOKを出し、旗本といっしょにタクシーに乗って、世田谷区松原に向った。
「明りがついている」
タクシーをおりた寺尾が呟いた。
「なんというバーですか」
「〈渚《なぎさ》〉だ」
「むかし、ありましたね。そういうジャズ喫茶が」
「あれは有名な店だ。こことはなんの関係もない。この〈渚〉は、ぼくの友人の奥さんが、場所を借りて、やっていて、つぶれた」
「へえ……」
と応じて、旗本は店のドアをあけた。
高木の大きな身体が床に横たわっている。コーラの瓶と食べかけのビッグマックが新聞紙の上にあった。
「これは、みなさん」
埃《ほこり》だらけの高木は起き上り、にっこり笑った。ジーンズの上下とはいえ、泥や砂埃をあまり気にしないタチらしい。
「家主がOKしたって?」
旗本が念を押した。
「来年早々に取りこわすのだそうです。だから、ひと月分の家賃がとれれば、ホイホイですよ」
高木は白い歯を見せた。
「疑う様子はなかったかい」
と、寺尾が慎重にたずねた。
「ありません。こう見えても、ぼくは他人《ひと》に信用されるんですよ」
「けっこうなこった」
寺尾は高木がさし出した契約書に眼を通した。たしかに、高木には良家の子弟の匂いがあった。
「向うも正直な人です。この店で水商売をやっても駄目だって、とめられました」
「甲州街道に面してるから、かえってマイナスなのだ。明大前の駅からは外れ過ぎているし」
寺尾は店内を見まわした。
カウンターは、そのまま使えそうだった。若干の椅子とテーブル、有名人の色紙でもあればサマになるだろう。
その夜遅く、「アリゲーター」は、手入れの気配もなく、混雑していた。
日本円を二十五セント玉にかえるのに忙しい長島老人の背後で電話が鳴った。三回コールして、音はとまった。寺尾からの合図《サイン》だ。
老人はかたわらのマイクのスイッチを入れると、英語で、
――ミスター浜野、ミスター浜野、いらっしゃいましたら、至急、ミス山岸にお電話ください!
と呼びかけ、スイッチを切った。
老人の眼は、宮田杉作がブラックジャックの台から離れるのを捉《とら》えている。
宮田杉作はあたりを見まわしていたが、すぐに、こっちにやってきた。
「きみ、いまの電話は女からだったね?」
せかせかした口調で話しかけた。
長島老人は顔をあげ、牛乳瓶の底みたいな老眼鏡で宮田杉作を見た。
「あなた、浜野さんですか」
「いや、ちがうのだが……ちょっと心当りのある名前でな。山岸ちゅうのはハスキーな声の女ではなかったか」
「そうです」
長島老人は冷めたく答える。
宮田杉作は赤電話の場所に走ってゆき、アドレスブックを出して、寺尾の自称オフィスのダイアルをまわした。
――もしもし、浜野君か。
――はあ。
寺尾企画のあるビルに近いマンションで待ち受けていた寺尾は、おもむろに答える。
――宮田だ。二度電話したが、きみは外出中だったよ。
――貧乏ひまなしで。
――いま、「アリゲーター」におる。山岸久子からきみに電話が入ったようじゃ。彼女はたしかに助けを求めとるぞ。……いや、なにもいうな。すぐ、会おう。……なに、明日? 明日では遅い気がするが……ま、仕方あるまい。
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第三章 第一戦
翌日も寺尾は猛烈に忙しかった。
ロケの日程についてニューヨークにいる若いA・Dと打合せをし、他の番組の企画を検討し……という具合に、三十分刻みのスケジュールだった。夕食は、寺尾企画の社長室で、出前のカレー一皿ですませた。
「今夜も遅くなるのですか」
日暮かおりが心配そうにたずねる。
「お疲れのようですけど……」
寺尾は、かおりの眼を見つめた。疲れる理由はわかっているだろ、と、当人としてはポール・ニューマン風の苦笑を浮べたつもりだったが、かおりにはピーター・フォークの物真似(しかも、あまり似ていないもの)としか見えなかった。
彼女の眼には、やがて、本物のピーター・フォークが見えてきた。ピーター・フォークは、なぜか、縞模様《しまもよう》の囚人服を着ていた。
「七時にここを出る……」
と、寺尾は言った。
「今夜はもう連絡がとれないと思う。きみは適当に帰りなさい」
新宿御苑の脇から甲州街道に出る道が混んでいたために、寺尾が新宿西口のホテルに入ったのは七時三十分であった。
スイート・ルームに入ったのは、七時三十四分。
「さっき、電話が鳴りました。宮田の爺さんでしょう」
出迎えた旗本が報告する。
「おかしいな。八時にきてくれと言っておいたのだが……」
寺尾が首をひねると、旗本は、
「焦ってるんですよ」
と嗤《わら》った。
「さて、と――こんなセッティングでどうですか」
寺尾は部屋を見まわした。
デスクの上には、局の名入りの十五字詰原稿用紙と分厚い国語辞典、資料とおぼしき書類がつみ上げてある。ガラスの灰皿には吸い殻が山のようになっており、丸められた原稿用紙が絨緞《じゆうたん》のあちこちに転っている。テーブルの上では、ルーム・サービスのコーヒーが飲みかけの状態で冷えていた。
(型通りの光景だが……)
テーブルとソファーのあいだを抜けた寺尾は奥のベッド・ルームに入った。
ポータブル・ビデオとカセット・テープが用意されている。
「コードが目立たないかねえ」
寺尾は慎重だった。
「それに、あいだのドアをわずかにあけておかなければならんな」
「一センチ以下の隙間ですから、大丈夫でしょう。ドアが完全にしまっていなくても、こっちの部屋の明りを暗くしておけば、気がつきませんよ。かりに気がついたとしても、〈ドアが完全にしまっていない〉と思われるだけでしょう」
「暗くしておいて、きみ、平気か」
「ベッドの足元の明りを弱く点《つ》けておきます」旗本はそう答えた。
「そうやって、テストしてみましたよ」
「そうか」
寺尾はソファーのある部屋に戻った。
緊張しているせいか、喉《のど》がかわく。小型冷蔵庫をあけて、オレンジ色のダイエット飲料を出し、ひと息に飲んだ。
旗本は、ドアの下から差し込まれた夕刊を取ってきた。
椅子に腰を沈めると、新聞の社会面を眺めて、「あいかわらず、金融関係の犯罪が多いですねえ」と呟いた。
「ひとごとみたいに言いなさんな」
寺尾は苦い顔をする。いかに自分と会社を守るためとはいえ、自分たちは一人の老人を罠《わな》にかけようとしているのだ。
電話が鳴った。
寺尾が送受器を取り上げると、
――大丈夫かね?
という声がきこえた。長島老人であった。
――はあ、なんとか……。
寺尾はあいまいに答える。
――いま、どちらにいらっしゃるのですか?
――このホテルのコーヒーショップさ。ここからだと、ロビー一帯が見える。
――「アリゲーター」は?
――今夜は休むことにした。あなた方のやることが心配でたまらないのだ。
そう言われると、寺尾は胃が痛みそうになる。彼も、自信がもてないのだった。
――とにかく、できるだけのことをやります。
――アガっとるな、寺尾さん。
老人の声は笑いを含んでいた。
――これしきのことでアガってはいかん。
――なにぶんにも、馴《な》れていないので。
――深呼吸をしなさい。深呼吸を五回やれば、かなり落ちつくものじゃ。
――はい……。
――安心しなさい。プロットには穴がないはずだ……。ただ、思いがけぬアクシデントというやつがある。こいつに気をつけるこった。
――はあ。
ほかに答えようがなかった。虎の尾を踏む、とは、まさに寺尾の精神状態であった。
――わしとしても、田淵選手の守備を見ているような気がしないでもない。しかし、テキは舞い上っておる。つまり、フライじゃな。田淵選手はフライは処理できる。
――そりゃそうですよ。元キャッチャーですから。
寺尾は、はっとした。
そうだ。相手は寺尾を落ちつかせようとして、無駄ばなしをしているのだ。
――そろそろ電話を切りましょう。宮田杉作から電話が入るといけません。
――まだ大丈夫さ。
老人は低く笑った。
――宮田杉作は、少し前に玄関から入ってきて、わしの近くのテーブルでコーヒーを飲んでおる。早く来てしまって、間《ま》がもたないのだな。ぴりぴりした顔つきで葉巻を吸うとるよ。
寺尾は絶句した。
――安心しなさい。向うがぴりぴりしとるのだから、寺尾さんはリラックスしたらよろしい。とにかく、先手先手と打つことだ。あなたのペースに相手を乗せてしまえばいいのさ。……おや、カモが立ち上りかけたぞ。そろそろ、時間だな。じゃ、頑張って――深呼吸を忘れんように……。
ドア・チャイムが鳴った。
寺尾はゆっくりとドアの方に歩んだ。
ドアの前で立ち止る。右側の壁の一部が姿見《すがたみ》になっているのだ。
姿見の中の自分を見た彼は、ネクタイをゆるめ、髪の毛をくしゃくしゃに乱した。仕事に熱中し、身なりなど構っていられない男が姿見の中にいた。
また、ドア・チャイムが鳴る。
寺尾はチェーンを外し、把手《とつて》をひねって、ドアを内側に引いた。
濃紺のブレザー・コートの胸に花を飾った宮田杉作が、思いつめた表情で立っていた。金色のメタルフレーム眼鏡のレンズの奥の細い眼が、いつもよりさらに細くなっている。
「こりゃ、どうも……」
寺尾の姿に、老人はうろたえた。
「お邪魔だったのじゃないですか」
「かまいません。お入りください」
寺尾は疲れた声で答える。
「失礼します……」
老人はおそるおそる入ってきたが、デスクのまわりを見まわして、
「お仕事中でしたか?」
「ええ」
「だいぶ立派な部屋ですな。お仕事は、いつもこちらで?」
「とんでもない」
寺尾は老人に椅子をすすめた。
「そんなことをしたら、破産してしまいます。追いつめられた時に、一、二泊して、企画を練るのです」
「感じの良い部屋だ」
老人は窓の下に眼をやった。中央公園の外灯が点《とも》っている。
「眼を休めるのにも、よろしい」
「そんな余裕はありません」
寺尾は冷蔵庫からビールを出し、二つのグラスに注《つ》いだ。
「いただきます」
老人と寺尾がグラスを口に近づけた時、デスクの電話がけたたましく鳴った。寺尾は、あやうく、グラスを落すところだった。
――はい。
だれだろう、と怪しみながら、寺尾は応じた。
――わしだ、長島だ。
――いま、ちょっと……。
――そう、その調子だ。
長島老人は鋭く言った。
――うるさい、と怒鳴って、電話を切りなさい。
――どういうつもりなんだ、きみは!?
寺尾は言われた通りにした。
――緊急の電話以外、かけてはいかんと、あれほど言ったのがわからんのか。そのくらいのことは自分で判断したまえ!!
がちゃん、と送受器を置いた。冷や汗が、ひたいに滲《にじ》んでいる。
「お忙しいところを申しわけありませんな」
老人は首を縮めている。
「気がきかない奴がいるんです。わが部下ながら情ないですよ」
寺尾は語気荒く、舌打ちをする。
「いや、どうも……」
老人はひたすら恐縮している。
「つい、かっとなってしまって、失礼しました」
そう呟《つぶや》いて、寺尾は椅子に深くかけた。
「散らかっている場所に、わざわざおいでいただいて……そうだ、山岸久子の件でしたね」
「は、はあ」
「ゆうべ、うちにお電話を頂いたあとで、彼女をさがしたのですが、つかまらんのです。メッセージを彼女のマネージャーに託したのですけど、いまだに連絡がない」
「ほう……」
「海外ロケに行くと言っていたから、なにかと忙しいのだとは思いますが」
「でも、あなたを探しとったのは間違いない。ゆうべ、この耳で、はっきりと聞きました」
「なんだろう?」
寺尾は首をかしげた。
「なんせ、気紛《きまぐ》れな女ですからねえ」
寺尾は夕刊をとりあげて、|さりげなく《ヽヽヽヽヽ》、テレビ欄に眼をやった。
「芸能情報をやっておりますな。ちょっと、みてみますか」
寺尾は立ち上り、窓ぎわのテレビのスイッチを入れた。
同時に、となりの部屋で、旗本がポータブル・ビデオの再生ボタンを押した。〈ちょっと、みてみますか〉が合図《サイン》なのである。
画像がはっきりするまで、寺尾は受像機の前に立ちふさがっていた。大丈夫だ、とみて、ようやく身をひいた。
「うっ!」
老人は奇妙な声を発した。
そこにうつし出されたのは、まぎれもない、山岸久子のベッドシーンであった。髪をふり乱した、あられもない、女上位の場面である。
この映像は、「太平洋の果てまで」のために録画したもので、本物であった。テレビの倫理コードを考えて、乳首や下半身はうつさないように工夫してあるが、声だけはかなり露骨である。じっさいの放送で、こんなに露骨になるかどうかはわからない。たぶん、声は消してしまい、ラフマニノフかなにかの名曲を流して、ムードを盛りあげるのではあるまいか。
「これはいかん」
老人は歯ぎしりした。
「彼女のこんな姿を公共の電波に乗せてはいけない」
「それより、こういう映像を、八時台に茶の間に送り込むことが問題です」
寺尾は冷静に答える。
「いかん、私には刺激が強過ぎる」
老人は悲鳴をあげた。
画面はスタジオに変り、キャスターの顔が大きくうつされた。
――いやー、びっくりしましたね。問題のシーンの録画どりのあと、今日の夕刻、彼女は成田空港からニューヨーク行きの飛行機に乗ったのですが……。
「えっ!」
寺尾が叫んだ。
「ニューヨークへ発ったのか!」
――空港で取材陣とのあいだにひと悶着《もんちやく》ありました。では、その光景を録画でごらんください。
○成田空港に入ってゆく山岸久子(これは古いビデオの再使用)
○空港内の記者会見場(セット)
――話がちがうじゃありませんか、山岸さん!
草鞋《わらじ》のように長い、下品な顔をした芸能リポーターがいきり立った。
――あなた、小田俊彦君とのことを、渡米まえにはっきりさせると言ってたじゃありませんか!
「小田? 何者ですか?」
宮田杉作はテレビの画像を見つめたまま、質問を発した。
「若いタレントですよ」
寺尾はつまらなそうに答える。
ふつうの人間の眼には、古いビデオと新たに録画した部分(キャスターの喋《しやべ》り、記者会見)との|つなぎ《ヽヽヽ》がやや不自然なことがわかるまい、と考えて、彼はこのテープを作ったのである。そして、幸い、宮田杉作は、なんの疑いも持たぬようであった。|にせ《ヽヽ》芸能リポーターたちと山岸久子のやりとりを老人は息をのんで見つめていた。
「無礼者めが!」
とか、
「セックス・フレンドとは、なにごとじゃ!」
などと叫びながら。
山岸久子がゲートにつづく廊下に向うところで、「|もう《ヽヽ》、|いいでしょう《ヽヽヽヽヽヽ》」と寺尾は言い、スイッチに手をのばした。その言葉を合図に、となりの部屋では、旗本が停止ボタンを押した。
老人は肩を落していた。
「……行ってしまったのか」
「ごらんの通りで、仕方がありませんな」
と、寺尾は言った。
「ニューヨークは彼女の憩いの場です。向うでは、のびのびできるでしょう」
「小田とかいう若僧といっしょに、か」
「あれはリポーターの邪推です。下司のかんぐりというじゃありませんか」
「しかし、小田という若僧とは、実際に、なにか、あったのかね?」
「あったのかも知れませんよ。したたかな女ですから、めったに本当のことは口にしません」
「性悪女め!」
老人の妄執は憎しみに一転したようであった。
「よし、私も、あんな女のことは忘れて、べつな女をさがそう」
「その方がお身体《からだ》にいいでしょう」
「いやいや、ご迷惑をおかけした」
老人は頭をさげた。
「浜野さんにはお世話になるばかりですな。そのお詫《わ》びというわけではないのですが……どうですか、ホテルのバーで軽く飲みませんか」
「仕事が残っているので……」
「いいではないか。ほんの一杯です」
「じゃ、ホテルの外に出ますか」
寺尾は|なにげなさそうに《ヽヽヽヽヽヽヽ》言った。
「そう遠くはないところです。たまに顔を出す店がありまして」
夜の甲州街道は、ひどく混んでいる時と、思いもよらず空《す》いている時がある。この夜は混んでいるほうだった。
「どの辺りですか」
老人は不思議そうにたずねる。
「大原の交差点をご存じですか」
「存じとります」
「あの少し先です」
と、寺尾は眉ひとつ動かさずに答える。
「あそこいらに、バーのようなものがありましたかな?」
老人は怪訝《けげん》そうである。
「バーといえるほどのものではありません」と、寺尾はつまらなそうに答えた。「ご案内するほどの価値がないところかも知れませんが……」
「すると――なにか、妖《あや》しいことでもあるのかな」
宮田杉作は急に眼を輝かせた。
「あまり期待しないでください。実は、ぼくが|生れた場所《ヽヽヽヽヽ》なのです」
「生れた?」
「ええ。戦後のごたごたで、ぼくの親父《おやじ》はその土地を暴力団に騙《だま》し取られたのです。戦後も三十八年たってますから、何度も転売されたようで……今は小さなバーが、ぽつんとあるだけです」
〈渚〉という看板に灯が入っていた。
ひとむかしまえだったら、学生で賑《にぎ》わったのではないかというような気軽な店だが、当節の学生はゼイタクだから、こういうビンボーくさい雰囲気を好まない。集ってくるのはサラリーマン、それも金のない窓ぎわ族ばかり。
――というのが、寺尾の考えた背景《セツテイング》である。
ドアをあけて、寺尾と宮田老人は中に入った。
小さなカウンターには、三人の初老の男たちがいた。いずれも長島老人の昔の仲間で、現役を引退した詐欺師である。宮田杉作がホテルのデラックス・スイートを出ると同時に旗本からこの店に電話が入り、「もうすぐ行きますよ」と予告してきたので、待ち構えていたのだった。
「失礼します」
寺尾は三人に挨拶してスツールにすわる。宮田杉作も、武者小路実篤のジャガイモの絵がかかっている壁ぎわのスツールに、よっこらしょ、と腰かけた。
「部長に言ってやったんだよ、おれ!」
詐欺師の一人である源さんは大きな声を出した。
「なぜ、おれが閑職につかなきゃならないのかって……。部長の奴、説明できねえのさ」
「部長にもわからねえんだよ」
もう一人がなぐさめる。
「そんなこたァねえ」
源さんはすぐ地が出てしまう。
「あの部長は、KGBに入っても、CIAに入っても、出世しますよ。かなり、いいところまで行きますよ。奴が知らねえなんてことァ、この世の中に、ありゃァしねえ。地獄耳の化物さ」
「いえ、部長は、しみじみ、私に言ってましたよ。今度の人事異動ばかりは、正直、わからない、って」
「ポーズだよ、ポーズ」
「部長も知らないと思うよ」
と、三人目の男が言った。
「問題は、もっと上の――つまり、フロントですよ。よく、西武と巨人のフロントの差っていうけどさ。うちのフロントなんざ、ヤクルトだぜ。ヤクルトとか阪神とかロッテとか日本ハムとか、その辺ですよ」
「阪神以下だぜ」
と、源さんはぼやいた。
「冗談じゃねえてンだ。ママさん、お酒、もう一本」
ママさん、と呼ばれて、奥から和服の女が走り出てきた。
「すみません。いま、サザエ、焼けますから」
「こっちは水割りだ」
寺尾が声をかけると、女はこちらを向いて、愛想笑いを浮べた。
次の瞬間、宮田杉作はスツールから転げ落ちた。
寺尾は慌ててスツールをおり、老人を抱き上げるようにした。
「み、み、見ましたか!」
宮田老人は幽霊でも見たように蒼白《そうはく》になっている。
「どうしたんです」
寺尾は老人をスツールにすわらせた。
「あ、あのママをごらんなさい。山岸久子ですよ、あれは」
「莫迦《ばか》なことを言わないでください」
寺尾は声を低めた。
「ほかの客に笑われますよ」
「でも……あの笑顔は……」
「しっかりしてください」
寺尾は囁《ささや》き声になる。
「山岸久子はニューヨークへ発ったのですよ」
「あっ、そうか」
「だいいち、あのスターが、こんな、つぶれかけた店のカウンターの中にいるはずはないでしょう。考えられますか、そんなことが」
「そ、そう言われれば――たしかに、そうです」
「落ちついてください、宮田さん。思っていたより重症ですねえ。だれを見ても、山岸久子に見えるんだな」
ママ――本物の山岸久子は水割りを二人の前に置いて、にっこり笑った。宮田杉作の身体はこまかくふるえだした。
「たしかに山岸久子だ。――いや、彼女はアメリカへ行ったのだから、あれは、きっと、一卵性双生児だ」
「彼女に双子《ふたご》のきょうだいがいれば、われわれがスカウトしてますよ」
うんざりした口調で寺尾が囁いた。
「宮田さんにそう言われると、少しは似ている気がします。しかし、華《はな》がないというか、草臥《くたび》れた感じがし過ぎますよ」
「ふーむ……」
老人は嘆息した。
「とにかく、乾杯をしましょう。どうも!」
「ありがとう!」
老人はわけのわからぬことを呟き、ママの一挙一動を凝視している。完全に心をうばわれたようである。
「わからぬ!……山岸久子に瓜《うり》二つのような、そうでないような……」
老人は頭が混乱してきたらしい。
「考えてもごらんなさい」と寺尾は子供を諭《さと》すように言った。「あのママが山岸久子に瓜二つだとしたら――宮田さんの眼にそう見えるというのはわからなくはないのですが――この店は、こんな風に閑じゃありませんよ。中年、青年で一杯になるでしょうな。そう思いませんか」
「……む、そりゃそうだ」
自分に言いきかせるように呟き、老人は大きく頷《うなず》いた。
「私ともあろうものが、つい、分別を失ってしまった。きわめて似とるが、別人だな」
「似てますかねえ」
寺尾はなおも疑念を呈する。
「他人の空似だ」と老人は主張する。「なんというお名前ですかな」
「さあ。興味がないので……」
寺尾はあくまでも冷めたい。
「冷静に見ると、首筋のホクロがない。他人のようですな」
老人はなおも呟いている。ホクロは、このために、軽い手術で取ってしまったのだ。
「他人ですとも」
寺尾は腕時計に眼をやって、
「久子は、もう、アンカレッジを過ぎて、ニューヨークに向っています」
「ママさんよ!」
源さんが大きな声を出した。
「例の、ヌードになる話はどうなったかね!」
「まあ、いやだわ」
ママは顔を赤らめる。
「なんだ、なんだ」
他の二人は好奇心に駆られた様子だった。
「このママには、ポルノ映画の主演のはなしがきてるのさ」
本当に酔ってきた源さんは、さらに大声を張り上げる。
「本当かい、ママ」
一人が、しげしげと女の顔を見つめた。
「はい、いちおう……」
「やるのかい、本当に?」
「さあ……」
「はっきりしろよ、おい」
源さんは初老のいやらしさを丸出しにした。
「自信がないんです。三十過ぎてのヌードなんて……」
(厚かましい言い草だ)と寺尾は可笑《おか》しくなった。(三十一、二にきこえるじゃないか)
「やれ、やれ、やっちんこ」
と、源さんは下町風のスラングを発する。
「どうせ、生《なま》じゃ拝見できねえんだ。映画館の暗闇《くらやみ》で、カラー、ワイド・スクリーンで、どーんと、御開帳ねがいてえもんだね」
「大丈夫。ママなら、充分につとまるよ。だいいち、店の宣伝になるじゃないか」
「ばか言ってはいかん。ママが有名になれば、だ。こんな店にはおらんだろう。銀座のクラブに引き抜かれて、売れっ子になろうてえ寸法さ」
三人の男たちは勝手なことを喚《わめ》いていたが、源さんが立ち上ったのを機会《しお》に、一同、どやどやと店を出て行く。
その合図《キユウ》を出したのは、寺尾であった。
「ほォーっ!」
宮田杉作の吐息が響くほど、店内は静かになった。
「飲まないか、ママ」
寺尾が声をかけた。
「まだ宵の口ですから」
ママは婉曲《えんきよく》に断った。
寺尾は緊張しているのだが、山岸久子は笑いを怺《こら》えるのに必死のようだった。
無理もない、と寺尾は思う。旗本にたのまれて、引受けてはみたものの、山岸久子から見れば、これほどの茶番劇はあるまい。可笑しくて、たまらぬはずである。もともと、吹き出し易いタイプ(業界では〈ゲラ〉とか〈吹き屋〉と呼ばれる)の女が、滑稽《こつけい》な状況に置かれたのだから、笑うな、というのが無理なのだ。
笑いが破裂しそうになったため、山岸久子は奥へ引っ込んでしまった。く、く、く、と引き攣《つ》るような声がきこえてくる。さあ、困ったぞ、と寺尾は怯《おび》えた。
「どうしたのかね?」
宮田杉作は声をひそめた。
「泣いとるようだが……」
「そうですとも」
寺尾はあわてて頷いた。
「彼女がポルノ映画に出る事情を、ぼくは知っていますからね」
「事情がある?」
「そりゃそうです」
寺尾は咳払《せきばら》いをして、
「近頃の、すぐハダカになっちまう娘どもとちがって、彼女は三十八――いや、三十を過ぎたオトナですからね。好きこのんで、ハダカになるものですか。泣く泣くってやつですよ」
「ほほう」
老人はおつまみのナッツを入れ歯で噛《か》みしめた。
「どういう事情かね」
「だいぶ大きな借金を背負ってるようです。ぼくも、この店の定連に耳打ちされたので、直接きいたわけじゃないのですが……」
「なに、借金?」
「|たち《ヽヽ》の悪い金を借りたのが、雪ダルマ式に嵩《かさ》んで……にっちもさっちも行かない状態のようです」
「いくらぐらいかね?」
「さあ、そこまでは……」
寺尾の言葉は急にあいまいになる。
「ポルノ映画に出ると、いくらかでも返せるってわけか?」
「でしょうね。しかし、素人が出たところで、知れたものだと思いますよ」
「五百万円ぐらい貰《もら》えそうか」
「とてもとても。その五分の一でしょう」
「百万円か!」
老人は驚いたようである。
「わずか、百万円で……」
「宮田さんにとっては〈わずか〉でも、われわれにとっては大金ですよ」
「いやいや、私にとっても大金ではあるが……」
そう言いながらも、老人は、いまにも小切手帳をとり出しそうであった。
「彼女が泣いておるのが気になって仕方がない。浜野さん、なんとか慰めてやってくれんか。泣きやんだところで、じっくり、話をきこう」
「ぼくらが話をきいて、どうなるのですか?」
「袖触《そでふ》り合うも多生《たしよう》の縁、というではないか。前世からの因縁で、私たちは、めぐり合《お》うたのじゃ。私で役に立てることがあれば相談に乗ってやろう」
なんのかのと言いながら、精神的助平、足なが小父《おじ》さんならぬ足なが爺《じい》さんの役を演じたいのだ、と寺尾は思った。
「ひとつ、面倒をみてくだされ」
「……あとは知りませんよ」
と言いながら、寺尾はカウンターの隅をくぐって内側に入り、さらに左に曲った。
山岸久子はようやくケイレンが収まったらしく、小さなグラスで何か飲んでいる。
「どうした?」
寺尾は小声でたずねた。
「笑い死にしそうよ」
久子は髪の毛をかきあげた。眼のふちが桜色に染っている。
「きみ、何を飲んでいるんだ?」
「テキーラ」
彼女は時代劇の大悪党のようなシャガレ声で答える。それは、ただちに、寺尾の頭の中に、二十年まえの故スマイリー小原が唇を歪《ゆが》めて唸《うな》るところの「テキーラ!」なる間《あい》の手を反響させた。
「そんなもの、ストレートで飲んで大丈夫か?」
「素面《しらふ》じゃできないもん。おかしくて」
「もう少しだ。我慢してくれ」
「でも、あのヒト、あたしの正体に気づいたみたい」
「絶対、山岸久子だと言い張ってた。いまや七・三――いや、殆どちがうと思っている。きみがポルノ映画に出るのを、なんとか止めようとしている」
「親切ね、あいかわらず」
「彼は君の中に山岸久子の面影を求めているのだ」
「そりゃそうでしょ。あたしは山岸久子だもの」
「ちがうんだよ。きみは、いま、別人なんだ。えーと、なんて言ったっけ――そうそう、梅木マリだ」
「オールディーズの歌手で、そんな名前、なかったかしら」
「ぼくは知らん。旗本君が付けたのだ」
「あのヒト、梅木マリのファンだったんだわ」
「そんなことはどうでもいい。とにかく、店に出て、爺さんの相手をしてくれ。彼は梅木マリにぞっこんなのだ」
「あたし、混乱してきちゃった」
「簡単なことさ。きみは梅木マリという薄倖《はつこう》の美女なのだ。爺さんは、この薄倖の美女に大きな関心がある。それというのも、彼は、梅木マリの背後に、幻の恋人〈山岸久子〉を見ているのだ」
「芝居が、いまいち、わからないな」
「だから、簡単だと言ってるだろ。ほんらいの山岸久子より泥くさく、垢抜《あかぬ》けない演技をするんだ。わかり易くいえば、イモっぽくしろということさ」
寺尾はひたいの汗をぬぐった。頭の回転のトロい山岸久子の演技指導は、いつも、こんな具合なのだ。
改めて水割りを手にした宮田老人は、ママの顔をまぶしそうに眺めて、
「お名前は?」
と、たずねた。
「梅木マリと申します」
「ほう。スターの誰かさんに似とると言われんかね?」
ママは恥しそうに俯《うつむ》いてみせて、
「私、いろんな方に似ているらしくて」
「そうかな」
老人は金歯を見せて笑った。
「そんなこともないと思うが」
「いちばん多く言われるのが……」
「ふむふむ」と老人は身を乗り出す。
「吉永小百合さん……」
老人は前のめりにずっこけた。
「……私はちがうと思う。もっと、ずっと似とるスターがおるよ」
「よく言われます。山岸久子さんでしょ」
「あたり!」
老人は陽気に指を鳴らした。
「だいいち、声がそっくりだ」
「光栄ですわ」
「見る角度によっては、姉妹ではないかと思える」
「わ、嬉しい!」
カウンターに肘《ひじ》を突いてきいている寺尾にとっては莫迦莫迦しい限りであった。
(それにしても……)と彼は思う。(高木はもう現れなくてはいけない。あまり、だらだらやっていると、正体がバレるぞ)
「こんなことを言うと、老人のお節介と思われるかも知れぬが……いや、思われてもええ。私の言葉に耳を貸してくだされ」
老人は左手の三本の指に光る太い金の指環《ゆびわ》をさりげなく示しながら、
「あなたのように美しい人が、ポルノ映画に出るなど、以《もつ》ての外《ほか》のふるまいですぞ」
「ぼく、ちょっと、煙草を買ってきます」
寺尾はそう言って、立ち上った。老人はちらと寺尾を見たが、梅木マリと二人きりになりたい気持が眼に溢《あふ》れていた。
ドアをあけて外に出る。
とたんに、寺尾は走り出した。甲州街道ぞいに走るうちに、電話ボックスが眼に入った。
ボックスに飛び込み、ホテルの電話番号をプッシュする。交換手が出ると、デラックス・スイートのナンバーを告げた。
――もしもし。
旗本の声である。
――ぼくだ。寺尾だよ。
――あっ、調子はどうですか?
――高木君が現れない。どうなってるんだ?
――高木は、一度ここに顔を出して、そちらに向いました。もう三十分も前です。
――まだ、こないのだ。
――道が混んでるのじゃないですか。
――自分の車かい?
不吉な想像が寺尾の脳裡《のうり》を掠《かす》めた。自動車事故……。
――いえ、タクシーです。
――弱ったな。彼は、初めから、店の奥にスタンバイしてりゃよかったんだ。
――いまさら、そう言われても。もう、着きますよ。
――わかった。じゃまた。
ボックスを飛び出した寺尾は、煙草屋で軽い国産煙草を求めた。それから、心の動揺を抑えながら、〈渚〉に戻った。
ドアをあけようとして、脇の暗闇に大きな男が立っているのに気づいた。カーリーヘアにサングラス。高木だった。
「なにやってるんだ!」
寺尾は、つい、演出家の口調になっていた。
「すみません。不可抗力のアクシデントです。ぼくが乗ってたタクシーに、自家用車がぶつかってきたもので、喧嘩《けんか》になりましてね。証人として、あれこれ……」
「心配したぜ」
「幡《はた》ヶ谷《や》の高速出口です。ムチ打ち症になるところでした」
「わかった。ぼくが店に入って、五分以上経ってから、入ってくれ。疑われるおそれがある」
「本当にすみませんでした」
高木は、身体に似ず、気が弱そうである。
大丈夫だろうか、と思いながら、寺尾はドアを押した。人数が足りないとはいえ、キャスティングをあやまったような気がした。
「……私で出来ることがあれば、お役に立ちますよ」
老人は妙に乾いた声を出している。
「でも、今日お目にかかったばかりのお客様にお話しできるようなことでは……」
「遠慮なさるのはごもっともだが」
と、老人は、スツールに戻った寺尾をかえりみて、
「私がどういう人間か、浜野さんはようご存じさ。なんなら、あとで、浜野さんにきいてごらん」
ママは畏敬《いけい》の念をこめた眼差《まなざ》しで老人を見る。
「のう、浜野さん」
「宮田さんはお金持で、顔の広いお方なんだ」
寺尾は久々に煙草をくわえた。火をつけると、まるで手応えも味もない代物なので、すぐに揉《も》み消した。
「六本木、赤坂、南青山あたりのクラブ、ディスコの帝王といってもいい。女優とも交際があるし……」
その時、ドアがあいて若い男が入ってきた。
まずいぞ、と寺尾は舌打ちした。コン・ゲームの予定に入っていない、通りすがりの本当の客だった。
「ビール……」
ポロシャツ一枚の若い男は、そう言って、スポーツ紙をひろげる。
「おっ、江川の調子が上ってきたな」
看板に灯《ひ》を入れている以上、こうした客がくるのも考えておかねばならなかった。〈アクシデント〉に気をつけろ、という長島老人の言葉が頭に閃《ひらめ》いた。
ママがビールを持ってきた。
スポーツ紙に気をとられている青年だが、やがて、ママに向い、「山岸久子に似ている」というにちがいなかった。テレビ馴《な》れした若者なら、「〈どっきりカメラ〉でしょう」ぐらい言いかねない。山岸久子がうろたえ、宮田杉作がすべてを見抜くのは時間の問題だ。
「浜野さん……」
と、老人は寺尾に囁いた。
「私が山岸久子とつき合っていたことは内緒に願います。変な風に受けとられると困りますから」
まだ見栄《みえ》を張っている、と寺尾は思った。
「わかりました……」
呟《つぶや》きながら、寺尾は青年の動きを横眼で捉《とら》えている。なんとか追い出す方法はないものか。
「日本シリーズも江川しだいだな」
そう言って、ビールを飲み干した。そうして、奥に向い、
「ちょっとォ!」
と声をかけた。
「はい」
ママの声だけが返ってくる。
「食べる物は、何がありますか?」
「お待ちください」
「なんでもいいから早くできるもの。腹がへって、たまらないんだ」
と、青年はスポーツ紙をマガジンラックにかえして、要求する。
「なにィ!」
急に、捩《ねじ》り鉢巻きの角刈りの老人が奥から出てきた。
あっ、と寺尾は声を出しそうになる。板前姿で、背中を丸めてはいるが、長島老人であった。
(おれたちのシナリオにはこの役はなかったぞ……。たよりないと見て、裏口から入ってきたのだな)
あらゆるアクシデントに対応できるようにそなえるのが、長島老人のやり方である。ほっとしながらも、寺尾は老人の出方を見守った。
「〈なんでもいいから〉とは、なんてえ言い草だ。そういうゾンザイな注文をする奴に出すものは、この店にはない。帰れ、帰れ!」
あまりの勢いに、青年はスツールをおりて、
「そんなに怒ることはないじゃないか」
千円札を置いて、ほうほうの体《てい》で退散する。
「若僧め!」
怒りのやり場のない老板前は、ひっこみがつかない。
|きっかけ《ヽヽヽヽ》を作らなければ、と寺尾は立ち上り、
「まあ、まあ、小父さん、そう怒らないで。それじゃ、お客さんがいなくなっちまうよ。……|ねえ《ヽヽ》、|ママ《ヽヽ》!」
と、山岸久子に声をかけた。役者である以上は、これで、あとの|だんどり《ヽヽヽヽ》がわかるはずである。
「パパ!……」
娘である彼女が飛び出してくる。なるべく、イモっぽく、という注文をつけたので、いつもの山岸久子より動作が鈍い。
「いいかげんにしてよ。……ほんとに……こうやって、お客さんを失っていくんだから。そりゃ、パパには、深川の〈よど源〉で鳴らしたっていう誇りがあるんでしょうけど、今の時代には通じないのよ」
山岸久子は長島老人を奥へ連れて行った。それから、すぐに戻ってきて、
「すみませんでした」
と宮田杉作に詫《わ》びた。
「いつもは、あんなじゃないんですけど、虫の居所が悪かったらしくて」
「お父さんを帰したほうがいい」
寺尾は目配《めくば》せをした。〈ママの父親〉がいては、これからあとの都合が悪いのである。
「いま、帰しました」
すかさず、ママが答える。
「いや、びっくりした」
宮田杉作は絹のハンカチで眼鏡を拭いて、
「なんとなく、わかってきましたよ、ご事情が……」
「生《き》一本で、純粋過ぎるのです」
寺尾は補足する。
「ああいうタイプの人は、少《すくの》うなった。ご父君の気持は、よーくわかります」
と、宮田杉作はひとりで合点する。
「怒りっぽいだけなら、まだ、いいのですが……」
ママは語尾を濁した。
「ん? どうかしたのかね?」
宮田杉作は、つられて、問いかける。こんな小さなバーに、なぜか板前がいた、というフシギさは、ママの肉体から発散される強烈な魅力――それは、ポーカーフェースの寺尾とても感じないわけではなかった――によって吹き飛ばされている。
「友達が借金の保証人になってくれと言うと、二つ返事で引き受けちゃって……あと始末は私がするのですもの」
「ほう」
借金、と聞くと、宮田杉作はわれにかえった。
「失礼だが、どういう筋の金かね」
「そんな……初対面の方に言えるようなものじゃありません」
「言いなさい。そこまで喋《しやべ》ってしまったのだから」
宮田老人は粘る。
「そろそろ出ませんか」と寺尾はわざと言った。「どうも、陰気過ぎる。もっと、派手な店に行きましょう」
「待ちんさい」
老人はママを睨《にら》みつけて、
「読めた! 読めましたぞ! ポルノ映画に出るというのは、その線ですな。借金のために仕方なく……」
「およしなさいよ、もう」
寺尾はスツールを離れようとする。
「しつこ過ぎますよ。所詮《しよせん》は他人事《ひとごと》じゃありませんか」
「他人事ではない!」
老人は意地になった。
「ねえ、梅木さん。改めて、お話をきかせてもらうわけにはいくまいか。私が一席もうけよう」
予想していた以上の執着である。
ふと、寺尾の頭に、大きな?マークが浮んだ。
(老人は、梅木マリ、実は山岸久子であることを見抜いているのではないか……)
あり得ないことではなかった。乗せられていると見せて、乗せてしまうのだ。この老人の体当りの執着を、久子はぎりぎりで躱《かわ》してきていたのだが……。
「私の名刺をさしあげよう」
そのとき、ドアがしずかにあいた。
「いらっしゃい……」
ママは言葉をのみこみ、凍りついたようになる。
カーリーヘアの高木の頬には打撲による痣《あざ》ができていた。高木は、みるからに|やくざ《ヽヽヽ》めいた大股《おおまた》歩きでスツールに近づき、にやっと笑った。
自動車の接触による痣だとわかっていても、寺尾はぎくりとしたのだから、山岸久子の驚きはホンモノであった。老人にいたっては、口をあけているだけだ。
「元気そうだな、ママ」
高木は、また笑った。下唇もひどく腫《は》れ上っている。
「は、はい」
「ビールだよ。気を利かさねえか」
本当に喉《のど》が渇いているので、高木にしては、まずまずの演技である。
ママはビールとグラスを出した。
「どうぞ……」
瓶の口とグラスが触れ合う音がした。ママの怯えが伝わり、老人は眼を見張っている。
高木はひとくち啜《すす》るやいなや、
「ぬる過ぎらあ!」
グラスのビールをママの顔にぶちまけ、ビール瓶を壁に投げた。
「すみません。すぐ、冷やしますから」
「ばかやろ。いらねえよ」
高木は冷酷な眼で女を見た。
「いつ、あけ渡すんだ。え?」
「このお店、ですか」
「とぼけるんじゃねえ。こんなマッチ箱に価値があると思うのか」
「いえ」
「そうだろ、おい。土地だよ、土地。ここは、猫のひたいほどで七千万。親父の借金がいくらになってるか知ってるか」
「六千九百五十万円です」
「わかってるじゃねえか。早いとこ、土地をあけ渡すのだな」
「でも……父はここに小料理のお店を出して、骨を埋めたいと言ってるんです」
「言うのは自由さ。勝手にほざけばいい。……で、七千万は、どうしようというんだ?」
「もう少し待って頂いて……」
「なめるな!」
高木は重いスツールを持ち上げて、壁に叩きつけた。
「キャッシュが用意できなきゃ、おとなしくあけ渡す――そういう約束だったろうが!」
若い暴力団員――高木の立ち去ったあとは、さながら台風一過、店の内部はめちゃめちゃになっていた。
「これじゃ、明日は営業できますまい」
と、老人は同情する。
「もう二度目です。お店を修理したころ、またやってくるから同じことですわ」
「警察に話すべきだ」
寺尾が強調する。
「でも、七千万近い借金があるのは本当ですから。あの人たち流の計算で、みるみる、ふくれ上ってしまって」
「無法この上ないことだがな」
老人は腕組みして、
「梅木さん。奴らへの対策を、じっくり話し合ってみませんか」
寺尾は、まだ用が残っているから、と辞退して、表に出た。
山岸久子はあとの|だんどり《ヽヽヽヽ》を充分に飲み込んでいるはずだった。演技の才能と詐欺の才能はどこかでつながっていると寺尾は固く信じている。とくに、久子のように脇役で苦労してきた女優は、一瞬のうちに、まるで違うタイプの人間に変身できるのだ。そもそも、実物はガラッパチで、大口をあけてガハハと笑う久子が、〈倦怠《けんたい》感にみちた憂愁の人妻〉役で世間にモテハヤされていることじたい、詐欺みたいなものではないか。
彼はタクシーで四谷三丁目に戻った。
寺尾企画の二軒となりのビルに入り、エレベーターに乗る。三階から上がマンションになっていて、九階に臨時オフィスの2DKがあった。
近くの古道具屋で買った安物のソファーベッドに横になり、ホテルで買った「ニューヨーク・マガジン」のガイド欄をひらく。ニューヨークに着いたら、ミュージカルの一つや二つ観《み》なければ損だと考えるからだ。
高木の顔、あれはどこかで見かけたようだ、と、またしても思った。……どこで見たのだろう。
久子からの電話はなかなかこなかった。ホテルの旗本に連絡をとり、シャワーを浴び、缶ビールを飲むと、急に眠くなった……。
枕元の電話がけたたましく鳴り、飛び起きた。ソファーベッドの上で、クッションを枕に寝入っていたのだ。
送受器をひろいあげるようにして、
――浜野ですが……。
――終ったわ。
自嘲《じちよう》的な久子の声がきこえた。
――どうだった? 見破られなかったか?
――さあ、どうでしょう。
久子は気を持たせる。
――どこかへ行ったのかい?
――歌舞伎町。……コマ劇場の裏のあたりに土佐料理の店があるの。
――ほう。
あの辺りはラヴホテルばかりのはずだが、と寺尾は考える。
――わりにおいしかったわ。とくにお酒が……。
――酒どころじゃない。金はどうなった?
――どうなったと思う?
久子は問いかえしてきた。
――きみ、酔ってるな。
――酔いますよ、地酒をいただきましたから。
――どうなったんだ。
寺尾は当惑気味である。
――いま、どこからかけてるの?
――うちよ。
――ひとりかい?
――もちろん。
――じゃ、金は……。
――あたしを、何だと思ってるの?
久子は開き直った。
――何だとって、きみ……。
――寺尾さんも、旗本《はたもつ》ちゃんも、あたしを道具としてしか見てないのよ。あのお爺ちゃんのほうが、人間として上だわ。
寺尾は沈黙した。酔っぱらいめが、と思う一方で、久子の言葉に一理あるのを認めざるを得なかった。
――ちがう?
怒りの気配を察知した久子は、改めて、たずねる。
――旗本君を、きみのマンションへ行かせよう。
――ねえ、ちがう?
――ちがうね。
寺尾は突っ放すように言った。
――このゲームは、きみのためでもあるのだ。そこらをよく考えてくれたまえ。考えてもわからなかったら、旗本君にききなさい。われわれはいっしょに沈みかけた船に乗っているんだ。
――ん、もう、わからないのね!
久子の声が変った。泣き出しそうだった。
――あのお爺ちゃんは、山岸久子にあれだけ素気無《すげな》くされたのに、梅木マリに優しいのよ。それも、梅木マリが山岸久子に、ほんの少し似ているだけ……。
――ほんの少し、じゃない。そっくりだ。
――ほんの少し、よ。
演技力を過小評価されたと感じた久子は、かっとなった。
――ほんの少し、似ているだけなのに、パトロンになってくれるって……。
――そりゃ、きみ……。
寺尾はためらってから、
――きみの肉体を狙っているんだから。
――山岸久子ならともかく……場末のバーの女のために、七千万、ぽんと出すっていうのよ、あの人。こんなに良い人、ほかにいると思う?
寒々とした部屋で夜を明かした寺尾は、老人からの電話を待った。
せっかちな宮田杉作は、気兼ねしながらも、八時過ぎに電話を入れてきた。
――どうも……起してしまいましたかな。
――まあ、いいです。
寺尾は欠伸《あくび》をしてみせた。じっさい、眠かった。
――ホテルに電話したのですが、チェック・アウトされたようで。
――ええ。あんな部屋に居つづけたら、破産してしまいます。
――そんな……。
と、老人はためらいがちにつづける。
――どうでしょう? お忙しいなかを恐縮ですが、ちょっとお目にかかれれば……。
「七千万円!」
寺尾は、びくり、とした。演技だけではなかった。
「正気ですか、宮田さん」
赤坂のホテルの暗いバーである。昼なので、寺尾と老人のほかに客はいなかった。
「正気ですとも」
老人は沈痛な面持《おももち》である。
「私は彼女があのような境遇にあるのを放ってはおけない」
「しかし、七千万……。大変な金額ですよ」
「世間的に見れば、そういうことになる」
老人は初めて笑顔を見せた。
「だが、私の真の悩みは税務署です。税務署にとられる金があるのならば、梅木さんにあげた方がいい」
「それにしても、税金は……」
「そのために腕ききの税理士をやとっておるのです、私は」
老人は唇をゆがめた。
「税理士が処理しますよ、必要経費として」
「必要経費!?」
寺尾はびっくりした。
「必要経費として認められるんですか?」
老人は何も言わずに、うっそりと笑う。
「ま、それはいい。宮田さんがそうしたいというのを止めるわけにはいかない。……でも、ひょっとすると、これは詐欺かも知れませんよ」
「そんなことはない!」
老人は毅然《きぜん》たる態度で言いかえす。
「私は彼女の眼を見つめた。眼は澄んでおりましたぞ」
「はあ」
寺尾は恐れ入る。コンタクト・レンズを嵌《は》めさせたせいだろうか。
「これは、もう、決めたことです。お願いですから、止めんでください。瘋癲《ふうてん》老人の狂気の沙汰とお考えくだされ」
「止めないわけにはいきませんよ」と寺尾は水割りを口にして、「梅木マリを詐欺師呼ばわりしたのは訂正します。彼女はマトモな娘《こ》なのですが、つい、かーっとなって……」
「七千万ぐらいの端《はし》た金で、かっとなってはいけませんな」
と、老人は苦笑する。
「義を見てせざるは勇なきなり、と申します。私はできることをするだけで」
「ぼくも心を搏《う》たれました」
寺尾の声音が変った。
「正直に言って、梅木マリのために、なにかをしようという気持は、ぼくにはありません。他人のトラブルにまき込まれたくないという都市生活者のあるべき姿で生きているだけです。――しかし、自分の生れた土地が、暴力団のものになるのは、あまり楽しいことではありません」
「でしょうな」
「不愉快だし、許せないことです」
彼は息を大きく吸い込んだ。
「だから、私は私のやり方で解決する。金です」と老人。
「及ばずながら、ぼくもお手伝いいたします。これでも、一千万円ぐらいは銀行から借りられるでしょう」
「な、なに!」
「宮田さんは、六千万、出してください。ぼくは一千万出します。一寸の虫にも五分の魂があります」
「ありがとう、と言いたいところだが、やめてくだされ。これは、私と梅木さんの問題で、浜野さんは関係ない。ただ、あなたに立ち合って欲しいだけで……」
「いえ、ぼくも出します。こうなったら、意地でも出しますよ。なにしろ、ぼくの生れた聖なる土地ですから」
むちゃくちゃなことを寺尾は言い出す。
「驚きましたな、これは」
さすがの宮田杉作も、当惑の態《てい》である。
(これでいい)と寺尾はみた。
老人に六千万の現金を出させるのが、寺尾たちの狙いである。そのためには、寺尾もお付き合いしなければならない。受けとる相手は寺尾の仲間なのだから、一千万の現金を準備する必要はない。札束のように見せかけた紙束の上下に一万円札を置いて、帯封で巻いておけばよいのだ。
「実は、先方とは話をつけたのです」
老人は低い声でつづける。
「さっき、新宿西口にあるサラ金の雑居ビルへ行きました。部屋といえないような狭い部屋が、あの暴力団、花井組の事務所でした」
「へえ……」
寺尾はフクザツな心境である。
雑居ビルの中の空室を借りたのは、ゆうべである。長島老人の昔の仲間が暴力団に扮《ふん》しているのだが、なんせ、宮田杉作の行動は素早過ぎる。ありがたいような、困ったようなものである。
「金は明日、正午に届けることにしました」
「よろしい。ぼくも、それまでに用意します」
「浜野さんのお気持を、そのまま、頂きましょう」
と、老人は決断した。
「明日までで、大丈夫ですか」
「大丈夫です」
「ふむ。では、敵のビルの近くの喫茶店で落ち合いましょう」
老人はコースターの裏に、喫茶店の位置を描いた。
「十一時半に、ここにきてください。念のために、あなたの一千万円を数えさせてもらいます」
「え?」
「驚かないでください。万が一のためです。私はああいう手合いの扱いに馴れとりますからな。――一万円欠けていても、ぎゃあぎゃあ言う奴らですから、こちらも、そのつもりで……」
寺尾は蒼白《そうはく》になっていた。
もう少し時間があれば、六本木テレビの局次長に借金をたのむとか、方法がないわけでもない。
しかし、明日までというのでは、話にならない。サラ金業者をかけずりまわっても、一千万の金策は不可能だろう。
溺《おぼ》れる者は藁《わら》をもつかむの心理状態で、彼は、毎月、ローンを返済している小さな銀行に足を向けた。
支店長を呼び出そうとするまえに、一瞬早く、寺尾の顔を認めた支店長がとび出してきた。
「寺尾さん、お急ぎですか?」
「いえ……」
あいまいな答えをきいた支店長は、にやっと笑う。やや薄くなった髪を七・三に分け、紺の上下に茶のネクタイという典型的な銀行マンだ。
「どうぞ、こちらに」
思いがけぬ笑顔に迎えられて、寺尾は支店長室に通された。
「しばらくですなあ」
支店長は、愛想のよい中にも、品定めするような視線を混ぜる。
「このまえ、飯を食ったのは……」
「一年以上まえでしょう」
と、寺尾は硬い表情で答える。
「事業がご発展のようで」
支店長は|そつ《ヽヽ》がない。
「今度海外ロケをなさるのでしたね」
「はあ」
「大したものですな」
「まだまだです」
女子行員がお茶を運んできた。
「寺尾さんにお目にかかったら、うかがおうと思っていたことがあるのです」
と、支店長は切り出した。
「なんですか」
「実は……」
と、支店長は映画黄金期のスターで、テレビでも活躍中の中年の役者の名をあげて、
「あの人は、私が直接、担当しておりましてね。今度、家を新築するので、五億、貸してくれと言うとるのです」
「ほう」
「担保は一応とれるのですが、五億は大金ですからね。どうしようかと思案しているところです。こちらが芸能界に疎いせいもあって、彼をどの程度に評価したらいいか、見当がつかないのです」
「なるほど……」
寺尾はすぐには返事をしない。
五億円を貸したい気持は大いにあるようだった。だが、確実な相手でなければ、というのが銀行の鉄則である。スターが、かつて、自分のプロダクションを倒産させたりしているマイナスのデータは、当然、心得ているはずだった。
「ぼくも、あなたにききたいことがあるのです」
と、寺尾は逆襲した。
「どうぞ、どうぞ」
「驚かないでください。……率直に申しますが、仕事の都合で、|見せ金《ヽヽヽ》が要るのです。ぼくらの仕事にありがちなブラフでしてね。一千万円を一時間ばかり貸していただけませんか」
「藪《やぶ》から棒のお話ですねえ」
支店長は用心深くなった。
「一時間弱ですよ。なんなら、おたくの社員が見張っていてくださってもいいのです」
「当然、そうなりますな。猟犬のような男を二人つけますよ」
「長くて一時間です。危険なことはありません」
「寺尾さんの几帳面《きちようめん》な性格と手堅い仕事ぶりは、よく存じております」
「あなたが、ぼくを信用しているかどうかが、これで判ります」
と、寺尾は脅かすように言った。
「ぼくの願いを叶《かな》えてもらうのと交換に、あのスターの収入や身辺の情報を、すぐに調べて、数字にして差しあげられます。今年から来年にかけての、テレビ、映画の出演予定、レコード・セールスの状態――そんなところが知りたいのでしょう?」
「それから、黒い霧です。暴力団や暴力金融とかかわりあいがあるかどうか……」
「彼については、もっと明るい情報もありますよ……」
寺尾は口をつぐんだ。
「なるほど」
支店長は煙草をふかぶかと吸い込んで、
「大いに助かります。では、お世話になるとしましょうか。ところで、一千万円は、いつ必要です?」
「明日です」
「なに、明日!?」
銀行の車のリアシートには、寺尾を挾んで、屈強な男二人が腕組みをしてすわっている。二人はフロントグラス越しに前方を睨み据え、寺尾はといえば、萎《しお》れたパセリのような姿だ。寺尾の左側の男のひざの上のバッグには、一万円札の束がひそんでいる。
(|世が世なら《ヽヽヽヽヽ》……)と、寺尾は奇妙な腹の立て方をする。(一千万円ぐらいで、こんな思いをするおれ様じゃないのに)
しかし、今は仕方がない。銀行さまさまである。
「ねえ、きみ」
ふと、あることを思いついた寺尾は、左側の男に向って言った。
「一千万円を一時間借りて、すぐにかえした場合、利子の計算はどうなるのかね?」
相手は答えなかった。その代りに、うう、と狼男《おおかみおとこ》ふうに唸《うな》った。
新宿西口の怪しげな金融業者のひしめく一角に、喫茶店「ドガ」がある。
当然のようにそこには怪しげな男たちが集り、会話を交している。
――これだけの土地が、たったの二十億ですから……。
――だから、別な方面から借金をして、おたくにおかえしする、と言ってるでしょ。
――わしら、このプロジェクトに、命、張っとるんじゃい。
それらの喧騒《けんそう》のなかで、黙々と一万円札の束を数えているのが宮田杉作である。ふつうの喫茶店であれば、かなり人目を惹《ひ》くはずであるが、この店では、さほどでもない。他人のなすこと、取り引きには眼をつむるのが仁義なのだ。
「たしかに……」
百枚ずつの束、十個を、革のボストンバッグに入れながら、老人は一礼した。
「ありがとうございました。……いかに生れた土地のためとはいえ、だれにでも出来ることではない」
「とんでもない……」
寺尾は謙遜《けんそん》してみせて、
「宮田さんにくらべたら……」
ボストンバッグの中に札束がつまっているのを寺尾は、そっと眺めていた。
(六千万、たしかにあるぞ)
「では……参りますか」
宮田老人はチェックをつかんで立ち上った。
寺尾が歩き出すと、隅のテーブルにいた屈強な二人組も立ち上り、さっと尾《つ》け始める。
老人と寺尾は階段を上って、地上に出る。
寺尾は目ざすビルを見上げた。高木たちのいる部屋の窓ガラスには、新たに〈花井興行〉の赤い文字が内側から貼《は》られてある。これで、二人組も、納得するだろう。
花井興行のボスに扮《ふん》しているのは、長島老人ご推賞の若手詐欺師である。ごくさいきん、暴力金融にひどい目にあわされたとかで、そのせいか、演技は堂に入ったものだ。
(テレビでも使える程度だ)
と、寺尾は感心している。
その点、高木の演技は、いまいち食い足りない。育ちがいいのか、性格なのか、甘さが出てしまっている。
(まあまあか)
かつて、日本の俳優は、だれでも、兵隊と娼婦《しようふ》がうまい、と言われていた。
高度成長とともに、若者の背が伸び、恰好《かつこう》が良くなって、兵隊をできる役者が少くなった。その代り、やくざはだれでもできる、といわれたものだが、それも、もはや、怪しくなった、と寺尾は思う。
にせ暴力団二人組と宮田老人がとりおこなう儀式《セレモニー》に退屈した寺尾は、窓ぎわに寄り、路上を眺めた。
車の中に寝転んだ一人が、双眼鏡でこちらをうかがっている様子である。寺尾は、そっと、片手をあげてみせた。
儀式《セレモニー》には、ときどき、花井興行側の別な男が加わる。お茶を運んでくる女の子もいた。
(爺《じい》さんが弁護士をつれてこなかったのが、なによりだった)
寺尾はそう思った。
ドアの向う側に長島老人がいて、あれこれ指図しているにせよ、本物の弁護士がきたら危うい場面だった。
寺尾たちは、八・二で、老人が単独でくる可能性に賭《か》けていた。宮田杉作の家庭(いったい、どんな家庭なのだろう?)からみれば、六千万円の金を溝《どぶ》に捨てるに等しいこの行為は、老人の気紛《きまぐ》れであり、しかも、気紛れにしては額が大き過ぎる。だから、老人はだれにも相談していない、と寺尾は推測したのだ。
「どうなってる?」と、ウォークマンで音楽をきいている男が欠伸《あくび》をした。
「なんだか知らんが、手を振って、にっこり笑った」
双眼鏡を眼にあてた男は仰向《あおむ》けになり、両足をウォークマンの男のひざに乗せている。
「持ち逃げしそうもないか」
「わからん。あ、また、手をあげた」
「支店長は大丈夫だろうと言ってたな」
「ああ。しかし、他人を信用してはいけない」
「自分さえ信用できないのだからな」
「信用できるのは運転手だけか……」
「私を信用してはいけません」
と、温厚そうな運転手が言った。
「私の妻も私を信用してはいません」
「もう、飽きた。待ちくたびれた」
ウォークマンをとめた男は、ヘッドホーンを外して、車の外に出て、柔軟体操を始めた。
「私も妻を信用していません」
と、運転手は機械的に独白をつづけた。
「妻が売春で稼いでいるのがわかっているのです。さもなければ、ミンクのコートなんか買えるものですか」
「おれの女もミンクのコートを欲しがっている」
双眼鏡の男が言った。
「安く買う方法があるかどうか奥さんにきいてみてくれないか」
「ミンクのコートだけじゃなくて、プール付きの家も買うつもりです。ハート型の桃色《ピンク》のプールが欲しいそうで」
「プールは要らない。ミンクのコートだけでいいのだ」
「わかりました」
「おっ、奴が出てきた。妙に落ちついてるぞ。おいおい、体操なんかしてる場合じゃないぜ!」
「どうですか、浜野さん」
と、宮田杉作が声をかけた。
「喉《のど》が渇いておりませんか」
「渇いてはいるのですがね」
寺尾は腕時計を見て、
「午後いちばんの打ち合せがオフィスでありまして……」
「そうですか。ほっとしたので、ビールでも飲もうかと思ったのですが」
「じゃ、夜にしませんか」
「けっこうですな」
宮田杉作はにっこりする。
「どこで落ち合いましょう?」
「ゆっくりできるところがいいな。梅木さんを混じえて乾杯しましょう」
「河豚《ふぐ》屋はどうですか。東京一うまい河豚屋を存じておりますが……」
老人は築地にある店の名をあげた。寺尾も数回行ったことがある店だった。
「わかりました。では、七時にうかがいます」
寺尾は頭を下げかけて、はっと気づき、
「梅木さんにすぐ報告した方がいいんじゃないですか」
と、言った。
「電話をしてもええが、どうせ、近い所だ。タクシーで、あの店に行きます。正午から、店の鍵《かぎ》をあけて待っていると言うておったし」
思わず、笑みがこみ上げるのを堪《こら》えた寺尾は、「では、夜に……」と念を押した。
彼はしばらくその場に立っていた。
老人が京王プラザホテルの方向に消えると、変装を捨てた高木が黒のビニールバッグを持ってビルから出てきた。
「あとでな」
寺尾はそう言って、バッグを受けとり、二人の男のいる車に乗り込んだ。
「車を出してくれ」
寺尾の態度は急に大きくなった。
「一千万はこの中にある」
「贋札《にせさつ》にすり替えられていないかどうか、調べたい」
と、片方の男が言った。
「お好きなように。とにかく、銀行に戻ろう」
銀行の支店長に礼の挨拶をした寺尾は、すぐに〈寺尾企画〉に戻り、ほんらいの仕事にとりかかった。
昆布茶を持って入ってきた日暮かおりが、突然、
「なにか、あったのでしょうか?」
と、声をひそめた。
「え?」
寺尾の方がびっくりする。
「私の気のせいかも知れませんが、社長はとても苛々《いらいら》しているみたいで……」
寺尾はおもむろに顔をあげた。
「なにか暗い予感でもするのかい」
「ええ」
「きみも知っての通りの事情だ。苛々もするさ」
「はい」
「安心したまえ。どこからとは言えないが、六千万円融資してもらうことができた。これでロケには支障がなくなる」
「ほんとですか!」
「経理係に嘘《うそ》をついてどうする。たぶん、明日にはキャッシュで準備できる。きみも安心して休暇がとれるわけさ」
「よかったわ。あんな噂《うわさ》はでたらめだったんだ」
「噂?」
「ええ。おそば屋の小母《おば》さんが、夜中に、社長の亡霊を見たと言ったのです。すぐそばのビルの上の方の窓に、社長の姿がぼんやり、うつっていたって言うんです。それも、ブリーフ一つで……」
牽制球《けんせいきゆう》をしつこく投げられたピンチ・ランナーはこんな気分ではないかと思うのだが、寺尾は、かおりの眼を逃れるようにして、二軒となりのビルに入った。
九階の幽霊オフィスの鍵はすでにあけられていた。旗本に合鍵をあずけてあるのだ。
床の上には、古風な鳥打帽にルパシカという|いでたち《ヽヽヽヽ》の長島老人、旗本、高木があぐらをかいて、ウイスキーを飲んでいた。
「寺尾さん、どうですか」
高木がバーボンの瓶をふってみせた。
それには答えず、寺尾は長島老人に問いかけた。
「いかがでしたか」
「素人でなければ、できない冒険じゃな」
老人は冷ややかに笑った。
「虎の尾を踏む心地して、とは、あのことだ。穴だらけ、隙《すき》だらけだが、まあ、仕方あるまい。一夜にして、一千万の現金を用意するには、あれしかないじゃろ」
「参りましたよ」
寺尾は窓のカーテンをしめ、小型冷蔵庫をあけて、バドワイザーの缶を出した。
「花井組のセットと〈渚〉の大道具・小道具は、全部、ひきはらいました。この方は、ぬかりないつもりです」
と、旗本が報告する。
「山岸君はどうなった?」
寺尾は大いに心配である。
「午前の飛行機で韓国に飛びました。すぐにニューヨーク行きの便に乗りかえたはずです」
「大丈夫かね、ニューヨークの方は?」
山岸久子がニューヨークへ行くときいて、他のテレビ局が、〈久子・イン・ニューヨーク〉なるドキュメンタリー番組を作りたいと言ってきたのだ。スタッフだけがニューヨークへ行き、現地のビデオ制作プロに撮影を依頼するスタイルである。
「ディスコめぐりの三十分物です。撮りしだい、こちらで予告篇をばんばん流しますから、宮田杉作は、いやでも、彼女がニューヨークにいることを認めざるを得ないでしょう」
「飛行機には変名で乗っているだろうね」
「もちろんです。『キャッツ』の老娼婦猫みたいな恰好をさせたので、ぶつぶつ言ってました」
旗本は安っぽい大きなバッグをソファーの蔭《かげ》から引っぱり出して、ジッパーをあけた。
「六千万、確かにあります」
寺尾は缶ビールを眼の高さに上げて、
「ぼくは、これから、宮田杉作に会わねばならない。気が重いよ」
「このオフィスも畳むのでしょうね」
高木が口をはさむ。
「いや、畳まぬほうがよい」
老人が即座に言った。
「ぼくも、そう思う。そう、なにもかも宙に消えてしまったら、おかしい」
と、寺尾は相槌《あいづち》を打った。
「寺尾さんが落ちつかれたら、お話ししたいことがある。……今は、とにかく、|これ《ヽヽ》じゃな」
老人はバッグを指さした。
寺尾はバッグに近寄り、札束をつかみ出した。
「いよいよ、ニューヨーク・ロケか……」
そう呟《つぶや》いてから、床にうずくまり、札を数えだした。
「長島さんのお知り合いへの支払いは、どうしますかね?」と旗本。
「うむ、あれらは、すべてが片づいたあとで、わしの方から支払う。わしの負担でよろしい」
「しかし、うまく行くものですねえ!」
高木は感心している。
「たまたま、成功しただけじゃ。このようにラフなやり方は、コン・ゲーム道には程遠いものさ」
老人は戒めの言葉を吐いた。
「梅木マリなる女は消えておった!」
料理の注文をききにきた女が逃げ去るほどの声で宮田杉作は叫んだ。
「あの店の本当の持主は別な人物だった。問いつめたところ、梅木マリもその父親も見たことがないという。店の中は、がらんとして、コップ一つなかった」
「おかしいですなあ」
寺尾も大きな声を出した。
「あれは古い店ですよ。もっとも、ごくさいきん、代がわりして、あのママになったのですが……」
「私は急いで新宿に戻った。あの事務所も消えておりました。管理人は一カ月分の家賃を貰《もら》っていて、あとは知らない、というのです」
「変だなあ」
「大いに変です。ほかならぬあなたに、どうこう言うわけではないが、まあ、詐欺と考えるべきでしょうな。しかも、呆《あき》れるほど、手の込んだ詐欺です。梅木マリ、父親、暴力団――彼らは|ぐる《ヽヽ》でしょう。ただ、父親が出てくる|きっかけ《ヽヽヽヽ》となった妙な若者、他の客たち――彼らがすべて一味なのかどうか、私には判定できないのです。そうだとすると、ずいぶん沢山の人間が参加しとることになる」
「うーむ」
「悪夢のようですな。とても考えられんことです」
寺尾は一拍置いて発言した。
「……だから、ぼくは反対したのですよ。お忘れですか。〈ひょっとすると、詐欺かも知れませんよ〉とご注意申し上げたのを……」
「忘れるどころか」
老人は大きく咳込《せきこ》んで、
「ずっと、心の中で反芻《はんすう》しておりました。やはり、そうであったのか、と。……そればかりか、あなたにお詫《わ》びしなければならん。失礼ですが、一千万円は、あなたにとって大金のはずです。私の金は、まあ、諦《あきら》めるとしても、あなたに損失をあたえたのは、心苦しい。これ、この通り……」
老人は畳にひれ伏した。
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第四章 第二戦
翌朝、寺尾が出社すると、日暮かおりが珍しく明るい声で、
「銀行に入金がありました」
と言った。
「どこから?」
寺尾は、百も承知なのに問いかえす。
「初めてきく名前です。ええと、イナガキ・プロダクション……」
「ああ」
「ご存じですか」
「もちろんさ」
寺尾は社長室のドアをあけながら、
「ニューヨーク・ロケは、予定通り、出発できる」と言った。
「あの……金額は六千万円です」
いつもは暗いかおりの声が、今日ばかりは弾んでいる。
「ちょっと、きてくれないか」
寺尾はかおりを呼んだ。かおりはまっすぐ社長室に入ってくる。
「ドアをしめてくれ」
彼は声をひそめた。
「例の件、他の連中には気づかれなかったろうね」
「大丈夫です」
「これで、ロケは問題がなくなった。残りの四千万も、近く都合できるはずだ」
「ほっとしました」
「心配をかけたね」
寺尾はすまなそうに言った。
「もうひとつ、たのみがある。休暇をとるのは、ロケ隊が帰ってからにして欲しいのだ。ぼくは十月十日に帰ってくる」
「私、そのつもりですけど……」
かおりは当然のように言った。
「社長がお留守なのに、休暇をとるわけにはいきません」
「えらい……」
思わず、そう言った自分に寺尾は照れながら、
「今晩、あいてるかい。原宿で懐石料理をおごるよ」
「原宿で?」
「あるんだよ、穴場が……」
消滅した一億円にはまだ足りないが、とにかく六千万円が振り込まれたことによって、寺尾は気が大きくなっていた。
カウンターにならんだ寺尾とかおりは、京都のなんとかいう料亭のかんとかさんの弟子であるところの主人が出す料理を食べている。
うまいことはうまいが、量がすくない、と寺尾は思う。
こういう日は酒がうまい。かおりは殆ど飲めないのだが、気分が良いらしく、いつもより早いピッチで杯を口に運ぶ。眼のふちが赤くなった。
勘定を払うときだけ、寺尾の頭を冷ややかなものが掠《かす》めたが、外に出て、代々木公園の方に歩き出すと、また気持が良くなった。
なにしろ、九月下旬の湿気のない夜である。
「私の知ってるお店へ行きませんか」
そう言うかおりの横顔が、奇妙に美しく見える。
(む、む、ヤバいな)
寺尾はそう思った。
このまま、いっしょに浮かれていれば、ほぼ、男女のあるべき姿になるのは間違いなかった。
それじたいはまことにケッコウなのだが、あとの事態を考えるとケッコウとは申しかねた。経理係とソウイウコトになれば、社内的にフクザツなことになる。経営者としての彼は、そうしたたぐいのフクザツさを避ける必要があった。
バー一軒だけつき合って、幽霊オフィスに戻った寺尾は、どきっとした。部屋の明りがついているのだ。
おそるおそるドアをあけると、ルパシカ姿の長島老人と旗本がいた。
「さっきから、何度も電話が鳴ってますぜ」
と旗本が言った。
「わしら、とるわけにいかんのでな」
老人が不機嫌そうに言う。
「めしを食ってたんです」
と寺尾は靴を脱ぎながら言いわけをした。
「相談があるのですよ」
旗本はゆっくりと言った。
「長島さんが次の手を考えましてね」
「次の手!?」
「さよう、すぐに次なるコン・ゲームにかからねばならぬ」
老人は大きく頷《うなず》いた。
「ま、まってくださいよ」
寺尾は上着を脱ぎすて、ネクタイを弛《ゆる》めた。
「きのうの今日じゃありませんか」
「善は急げ、じゃ。つぎなるカモがおる」
老人は夕刊を投げた。
「文化欄の囲み記事を見てごらん」
寺尾は新聞をひろげて、小型スタンドの明りをつけた。
〈個人の映画|蒐集《しゆうしゆう》では世界一といわれるヒューバート・スタイナー三世が来日した。ニューヨークの自宅と倉庫に無数の名作フィルムを持つスタイナー氏は、このたび、秘蔵フィルムの一部を東京・京橋のフィルム・センターに貸し出すために自家用ジェット機で成田に着いたのだ。今年の夏、故ジョージ・キューカー監督の「スター誕生」の復原版が全米で公開されたが、失われていた二十七分のうち、二十分は映写技師ロナルド・ヘイバーによって発見され、残りの七分のうち三分は、スタイナー氏の倉庫に眠っていたものである。スタイナー氏は邦画の旧作の買い付けにも意欲的と伝えられ、すでに何本かを入手した模様。……〉
「その男を知っとるか」
「名前だけは……」
と寺尾は答える。
「『スター・ウォーズ』のフィルムを、公開まえに入手していたという伝説を持つ億万長者ですよ」
「そんなことができるのか?」
「むろん、違法です。――配給会社が試写室でフィルムを映したあと、プリントをメッセンジャーに渡します。このメッセンジャーを買収しておけばいいのです。メッセンジャーは翌朝までにスタジオの金庫にとどけるのですが、その夜のうちに、プリントを現像所でコピーしてしまうのです。コピー・プリントの販売はマフィアの財源の一つですが、おそらく、スタイナーほどの金持なら、現像所と直接取り引きをしているのじゃないでしょうか」
「あるいは自前の現像所を持っとるかも知れぬな」
寺尾には老人の言わんとしていることがわからない。冷蔵庫から缶ビールを出して手渡しながら、
「このスタイナーって男がカモなんですか」
と、たずねた。
「まあ、そうだ」
あまりに明らさまな質問に、老人は苦笑して、
「『スター・ウォーズ』云々《うんぬん》といった新しい事実は知らんのだが、億万長者のフィルム・コレクターとして、奴の名前は、わしらの業界で有名じゃった。ただ、なにぶんにもアメリカの名士だからな。手のとどかない相手と諦めておったのじゃ」
とっさには返事ができなかった。寺尾は缶ビールをひとくち飲んだ。
「専門的なことはわからんのだが、奴は世界中でフィルムを買いまくっとる。なんせ、祖父の代からの石油成金でな、金はいくらでも湧《わ》いてくるらしい。……あとは、旗本君からきいてくれ」
「ぼくは慌てて、新聞社の友人に資料室を漁《あさ》ってもらったのです。それから、フィルム・センターに勤めている友人からも知識を仕込みました」
旗本はサングラスを外して、寺尾を見つめた。
「ひとことでいえば、大変な蒐集です。世界のどこのフィルム・ライブラリーにもない映画を持っているようです。映画史の上では〈失われた〉と記述されているような作品を、ですよ」
「そんな蒐集が、どうして出来るのだろう?」
「ぼくの考えでは、入手ルートは二つあります。一つは古い映画会社の倉庫です。要するに、保管設備もいいかげんだし、在庫リストもあいまいなんです」
「そんなものかね」
「そうですとも! 日本でも、よく〈失われたはずの名作発見!〉てのが新聞を賑《にぎ》わすじゃないですか。あれは、ただ、倉庫に眠ってただけですよ。映画会社のお偉方は過去の名作だの文化遺産には興味がないですからね」
「ひでえ話だな」
「昔は、活動写真を文化などと考えなかったから、仕方がないよ」
と、老人が呟いた。
「そういう倉庫の番人を買収すれば、どんな名作が手に入るかわかりませんや」
旗本は薄笑いを浮べて、
「もう一つのルートは、巷《ちまた》の隠れたマニアから買い上げることです。三十五ミリの旧作を保存しているマニアは、日本にも、けっこういるそうです」
「それは日本映画かい?」
「いえ、アメリカ映画やヨーロッパ映画もあります」
「どうしてそんなことができるんだ?」
「寺尾さん、覚えてませんか。ぼくらが若かったころ、アメリカ映画の上映期間は、たしか、七年だったと思いますが……」
「そんなものだったね」
「一定期間を過ぎると、フィルムは〈ジャンク〉といって、捨てられるわけです。ほんらいは斬り裂かれるのでしょうが、そこはそれ、特殊なマニアに買いとられる場合もあるわけで……」
「なるほど」
「スタイナーは、そうとう抜けめのない男のようです。マニア中のマニアとでも言いましょうか、欲しいフィルムを入手するためには手段をえらばない」
「当然だろうが……」
老人は喉《のど》の辺りで笑った。
「フィルム・センターで彼のフィルムを上映しているあいだ、そのフィルムがコピーされないように、召使いに監視させているようです」
「じゃ、初めから日本に持ってこなければいいのだ」
と寺尾が評すると、老人は、
「コレクターというやつは、そういうものさ。自分のコレクションを隠しておきたい気持と見せびらかしたい気持が半々なのだ」
「資料でみる限り、ただの|ぼんぼん《ヽヽヽヽ》ではない。かなり、したたかで、眼力もあるようです」
旗本がそうつけ加えた。
「そんなしたたかな男を相手になにをやらかそうというのですか」
溜息《ためいき》とともに寺尾はそう呟いた。
「いいかげんなフィルムを売りつけようというのじゃないでしょうね」
「下手な真似はできない」
老人はかすかに笑った。
「だが、たった一つ、ある。世界一のフィルム・コレクターに売りつけられるものが……」
「へえ」
「宇田|道典《みちのり》監督の映画さ」
「ええ!?」
寺尾はわけがわからない。
黒沢明、溝口健二、小津安二郎につづいて、故宇田道典は世界的な評価を獲得しつつある映画作家だ。世界のあちこちのフィルム・ライブラリーで全作品十四本が上映されており、ニューヨークでも常時、町の名画座で、どの作品かを上映しているはずである。
「宇田道典の『最後の侍』の三十五ミリ・プリントをスタイナーに売りつけてやろうと思うのだ」
「待ってください!」
寺尾はびっくりした。老人はボケたか気が狂ったのではないか。「最後の侍」は宇田道典の代表作で、ニューヨークでも、のべつ上映されており、テレビで放映され、ビデオ屋でも売っているはずだった。むろん、日本でもビデオ化され、専門店で売られている。
「スタイナーほどの男なら、『最後の侍』を持っているのではないですか」
「持ってはいるだろうな」
と、老人は落ちつき払っている。
「しかし、それは不完全なものだ」
「不完全?……」
「さよう。きみは『最後の侍』を観《み》ておらんのか」
「観てますよ」
「いつ?」
「何度も観てます。あれは傑作ですからね。最後に観たのが……ええと……十年ぐらい前ですね」
「じゃ、忘れたのだろう。フィルムに欠落があって、説明が出たはずだ」
「あ、そうだ!」
寺尾は想い出した。
「最後の侍」は、文字通り、明治初めの最後の仇討《あだう》ちを題材にしているのだが、映画の真中あたりに欠落があるのだった。それは、たしか、主人公がおのれを鍛えるシーンで、このようなシーンが失われた、という説明が白い文字で出た記憶がある。
「あの映画を作った大東京映画は、昭和三十年代につぶれているのだが、ネガを保存してなかったらしい。しかも、殆どの映画を暴力団に差し押えられる事件があって、『最後の侍』は、たった一本、奇蹟《きせき》的に残った。現在、出まわっているプリントは、すべて、その一本からコピーしたものさ」
「なるほど」
「奇蹟的に残ったとはいうものの、六分ほどの欠落がある。上映時間を調べてみれば、すぐにわかる」
「六分ですか……」
「うむ」
老人の眼が光を帯びた。
「六分とはいえ、これが無いと、不完全商品なのだ。非常に重要な場面だからな」
寺尾は、失われた場面をかすかに記憶している。カメラが〈主人公の眼〉となって、竹藪《たけやぶ》の中を進んでゆき、主人公は刀を抜いて、竹や木を斬り倒したように想う。
「いいかね。この六分を復元させるのだ。そうすれば、世界に一本だけしかない『最後の侍』完全版《ヽヽヽ》ができあがる……」
「そりゃムリです」
寺尾は断定した。
かりに宇田道典が生きていたとしても、昔と同じパワーの画面を造形できるかどうかは疑問である。
しかも――。
「宇田道典は、十五年も前に亡くなっているのですよ」
「わかっとる」
老人は嗤《わら》った。
「しかし、本番台本が残っておる。あの映画の美術監督やカメラマンも、老いてはいるが、まだ生きておる」
「主役は?」
「あの六分間に、主役は、たった一度、ロングショットでとらえられているだけだ」
「絵コンテでもあるみたいですね」
「あるのさ、それが」
「でも、駄目ですよ。三十年前の映画とはいえ、当時、観た人がいるでしょう」
「そんなことは関係ない。これはスタイナーに売りつけるのだから」
「しかし……宇田道典は独特なフォルムの作家ですからねえ。他人があのフォルムに似せるのはまったく不可能ですよ」
「いや、できます」
ソファーベッドのうしろから顔をのぞかせた高木が言いきった。
「改めて、紹介し直します」
旗本が大まじめに言った。
「高木君こと宇田道也は、実は、宇田道典氏のひとり息子なのです」
「うっ……」
喉がつまったような呻《うめ》き声を寺尾は発した。
(これはないだろう、これは……)
彼は心の中でボヤく。
(どうして、こんな芝居じみた真似をするのだ? 初めから、そう紹介してくれりゃいいのに)
「高木君は……」
旗本が弁解するように先まわりした。
「お父さんのことに触れられるのを好まないので、ぼくも口にしなかったのです」
「しかし、きみ……」
寺尾はまだ動悸《どうき》がおさまらない。
「こういうことは、早めに言ってくれないと困るぜ。うっかり、宇田監督を批判でもしていたら、ぼくの立つ瀬がないじゃないか」
ボヤきながら、あっ、と思った。
高木の顔を、どこかで、しかも、ついさいきん見たようだ、と思っていた理由がわかった。夏に、教育テレビで、〈戦後日本映画の監督たち〉という番組を放送し、その中で、宇田道典の顔写真を見たのだ。
(なるほど。そういうことか)
寺尾は彼なりに納得した。
高木は役者に徹しきれず、妙に焦って、シナリオを書いたり、演出をしたがったりする――と、旗本は言っていた。
それらは、高木が宇田道典ジュニアであるとわかってみれば、すべて、納得がいく。〈偉大な父親の子〉に共通の悩みを、高木は抱え込んでいるのだ。寺尾には想像のつかぬ悩みではあるのだが……。
「安心してください。このコン・ゲームは、高木君みずから言い出したものですから」
と旗本が説明した。
「高木君は高校時代から八ミリや十六ミリの映画を作っていたのです。ところが、血は水よりも濃し、で、どう撮っても、お父さんの映像に似てしまうのです。いつまで経っても、宇田道典氏の贋絵《にせえ》を描いている――。それが彼の苦しみのもとだったので……」
「ふむ、それで?」
寺尾はききかえした。
「今回は、いっそ、開き直ってみる、と言い出したのです」
「なぜ?」
寺尾の追及は鋭い。
「つまり、お父さんの影から逃れるためで……」
旗本の答えでは納得できなかった。寺尾は高木の眼を見つめた。
「どうして、そんな気になったのだね?」
「お世話になった旗本さんを助けるためです。旗本プロをつぶしたくないのです」
「でも、これは罪になるのだぜ」
「わかっています」
高木は細い眼に正体不明の笑みを浮べている。
「スタイナー来日の噂を週刊誌の小さな記事で見て、思いついたのです。宮田杉作さんの件が進行中だったから、黙っていたので……」
「それだけの理由かね」
と、寺尾は冷静に応じた。
「は?」
「それだけかね、本当に?」
寺尾は両手をポケットに入れた。
「それだけ、です」
「ぼくはかなり失礼な推理をしている」
と、寺尾は室内を歩きながら言った。
「……きみは、この機会を利用して、亡くなった宇田道典氏と対決したいのだ。率直にいって、きみはお父さんを超えることはできまい。しかし、お父さんと同じ位にパワフルな映像を作り出せれば、勝負は五分だ。五分までいけば、きみとしては勝った気持になれるだろう」
「まるで『スター・ウォーズ』ですな」
旗本は、たちまち浮かれる。
「ダース・ベーダー対ルーク・スカイウォーカー――実は、親子の対決」
「……ま、それもいいだろう。しかし、原価計算が必要だ。いかに珍しいフィルムで、相手が億万長者とはいえ、売り値は……」
「三千万円が限度じゃろうな」
すかさず、長島老人が言った。
「しかも、元手がかかるよ、これは」
そういう寺尾の言葉を待っていたように旗本が発言した。
「ちょっと、耳を貸して貰えますか」
四人は絨緞《じゆうたん》に車座に坐った。
「いま、宇田道典氏の協力者、旧スタッフ、友人たちが『宇田道典の世界』というドキュメンタリー・フィルムを作ろうとしています。古い台本や絵コンテは、息子である高木君の所有物なので、当然、彼に協力を依頼してきました」
「ぼくはOKしました」
と、高木が話をひきついだ。
「資金の大半は東京テレビから出るのです。来年の春に、一時間の枠で放送したいというので、劇場版と短縮されたテレビ版と、二種類つくられるわけです」
「ここにつけ込む隙がある」
老人は生き生きとしてきた。
「高木君は、資料提供と交換条件で、テレビ版の編集を寺尾さんに任せたいと言うたのじゃ」
「東京テレビは喜んで承諾しました。ぼくが寺尾さんに根回しをすることになっています」と高木がつけ加えた。「寺尾さんのアンソロジー作りは定評がありますからね」
「認めていただいたのはありがたいが、ぼくに何をしろというのかね」
「テレビ版の方には、〈失われたシーン〉の再現フィルムが入るわけです。父に協力したカメラマンや照明技師や美術監督に話したら、大乗り気で、すぐにでも仕事にかかりたそうでした」
「ただちにかかるのじゃ」
老人の口調は命令に近かった。
「高木君が監督して、〈失われたシーン〉を再現するのだ!」
「でも、こういう仕事にはロケハンが……」
寺尾が言いかけると、
「もう、すんでます」
旗本があっさりと言いきった。
「寺尾さんは、撮影現場にきて、監修役をつとめてくださればいいんです」
「丹念に撮影した上で、そのシーンのすべてを使わないことにするんじゃ。寺尾さんには、それだけの権力があるのじゃからな」
寺尾は初めて老人の狙いを察した。使わないことにした六分のフィルムを、「最後の侍」に嵌《は》め込む。もちろん、画面は適当に古びた感じにする。――こうすれば、元手いらずで、〈完全版〉ができあがる。
老人の奸智《かんち》に寺尾は舌を巻いた。
高木がブリーフケースから出した絵コンテを寺尾はおもむろに手にとった。
今日の言葉でいう劇画に近いタッチだが、じっくり見ていると、巨匠・宇田道典の力強い描写が脳裡《のうり》によみがえってくる。巨匠は、自分が撮るべき映像を、すべて、絵に描いて、スタッフに見せていたらしい。こうすれば、〈監督だけがわかっていて、スタッフは右往左往するだけ〉という不満が解消され、スタッフは、どういう画面《え》になるかをしっかり把握できる。
「寺尾さんも、このスタイルを採用したらどうです?」
旗本がからかうように言う。
「やってみたいが、ぼくは絵が下手なのだ。現場が、よけい、混乱するだろう」
「こっちの絵も見てください」
高木が別なスクラップブックを出した。
「みごとなものだね」
と、寺尾は感想を述べた。
「おみごと、というより他《ほか》ない。宇田監督は画家になっても成功したのじゃないか」
「そう思いますか」
高木の細い眼に皮肉の翳《かげ》があった。
「ああ」
「実は……」
高木は頬の肉を弛める。
「こっちのスクラップブックの絵は、ぼくが描いたものです」
「え?」
「何年かまえに、十六ミリの短篇を作ろうとして、絵コンテを描いたのが、これです」
寺尾は呆然《ぼうぜん》とした。
「父が死んだ時、ぼくは十四歳でした。十歳ぐらいから、父は自分の絵コンテに色をつけるのをぼくにやらせました」
「ふーん」
別居している子供を想い出した寺尾は、一瞬、しゅんとなる。
「一種の天才教育だね。お父さんは、きみを映画監督にするつもりだったのだろうか」
「いえ、父は、映画監督だけはさせたくないと言っていました。理科系の学校を出して、技師にしたかったようです」
「そうだろうな……」
寺尾は溜息をついて、
「ぼくだって、子供を堅気の仕事につけたいもの。まちがっても、テレビ関係者にはしたくない」
「ぼくも、そうだな」
妙なところで旗本が同感する。
「きみは子供がいないじゃないか」
「いなくても、そう思いますよ。それに、これから出来るかも知れませんし」
「視聴率にふりまわされる商売だけはさせたくない」
「父もそう言ってました。映画の封切日まえの一週間は胃が痛くなる、こんな商売だけはさせたくないって……」
「あの巨匠が、そんなことを言ってたのかい」
寺尾はびっくりした。宇田道典ほどの人でも、そうなのだろうか?
「そんなに批評が気になるものかね」
「批評じゃありませんよ」と高木は笑った。「批評は、ラッシュや試写の段階で、だいたいわかっていたようです。要するに、客の入りですね。……封切日のまえには、家の中が暗くなって、父は帰ってきませんでした。酒を飲んでいたのでしょう」
(天才にも、そういう悩みがあったのか)
と、寺尾は感慨に耽《ふけ》った。
その時、電話がけたたましく鳴った。
寺尾は右腕をのばして送受器をとる。
――浜野さん?
忘れようもない声だった。
――宮田です。あなたをつかまえようとして、何度も電話をかけたのだが……。
――すみません、雑用に追われていまして。
寺尾は用心深く答える。
――浜野さんに、ぜひとも会いたいのだ。
宮田杉作は押し殺したような声で言う。
――なにか?
――まあ、ええ。会わなければ話にならん。
――じゃ、どうしたらいいのですか?
寺尾は肚《はら》を据えた。
――私の定宿で会えると、都合がいい。ご存じだったな?
――赤坂プリンスの新館でしょう。
――そうです。……すぐに、こられるかね?
――たぶん……。
――待っとるよ。
電話が切れた。
一同は、しばらく沈黙していたが、やがて、老人が口をひらいた。
「宮田杉作からだね」
「そうです」
寺尾は老人を見つめた。
「どうしても会いたい、と言っているのです」
「おかしいぞ」
老人は顔を顰《しか》めた。
「なにか、あったのじゃないかな」
寺尾も同じことを考えていた。
たとえば――警察が張り込んでいるとか。
「向うの宿舎へ行くのは、危険だな」
「危険です」
旗本も蒼白《そうはく》になっている。
「外で会ったほうがいいですよ、寺尾さん」
「まあ、いいさ」
寺尾は薄い上着を着ながら、
「こうなりゃ、当って砕けろ、だ」
寺尾が、どうにでもなれ、という気分になっていたのは、疲れからである。朝から晩まで頭脳をフル回転させていれば、こんな風になる。
(もとはといえば……)と、赤坂に向うタクシーの中で彼は考えた。
(部下のひとりがニューヨークで殺されたためだ。こういうのも、おれの不徳のいたすところなのだろうか)
不条理というか、バカバカしいというか、そうした感覚に身をまかせながら、彼は眼をつむった。左手で触ると、眼球がふくれ上った感触があり、ますますユーウツになる。体調が良い時は、眼球が引っ込んでおり、疲れてくると、眼球が飛び出してくるのは、いかなるわけか。ともあれ、これが、寺尾の、疲労度の見分け方なのであった。
(かなり、疲れているな)
警察でも、マフィアでも、こい、という気分である。
タクシーはホテルの前庭に滑り込んだ。
長い廊下にはだれもいなかった。警察が張り込んでいるとすれば、室内だ。
ドアの左脇のボタンを押すと、ピンポン、と音がした。
ドアがゆっくりあけられて、宮田杉作が顔を出す。
「夜分遅くに、お呼び立てして……」
宮田老人は真紅のナイトガウンのままで一礼した。
「さ、さ、お入りください」
寺尾は油断できぬ気がした。罠《わな》ではないかと疑いながら、部屋の中に踏み入る。
「非常識な時刻で、まことに申しわけない」
老人は急いでドアをしめ、|かけがね《ヽヽヽヽ》をかける。そして、窓の外を示した。
「どうです、この夜景は」
たしかに美しい、と寺尾は思う。だから、どうだというのだ?
「私は赤坂の夜景が好きでねえ。いつも同じ部屋を予約するのです」
老人は窓ぎわに腰かけた。
「車の流れが、なんともいえない。車が渋滞しておっても、ここから見れば、大したことではない。ましてや、人間など、ちっぽけなものだ」
映画「第三の男」のハリー・ライムの台詞《せりふ》みたいなことを呟《つぶや》いている。
「梅木マリとかいう女も哀れなやつです。金が必要なら、私にそう言えばいいのだ。あんな大がかりな詐欺をやるまでもない。二、三千万の金なら、貸してやるのに……」
老人は声もなく笑った。
「浜野さん、シャンパンでも飲まんですか。キャビアもあると思うが」
「けっこうです。それより、用件が……」
「お急ぎのようですな。ドムペリニョンの75年でもごいっしょしようと思ったのだが……」
老人はナイトガウンのポケットから紙きれを出して、寺尾に渡した。
寺尾はひろげてみる。一千万円の小切手だった。
「こ、これは……」
「黙って受けとってくだされ。あなたに一千万円の損失をあたえたのが私は辛《つら》くてな」
「いや……」
これはまずい、と寺尾は思った。詐欺師に身を落しているとはいえ、彼には、それなりのモラルがあるつもりだった。
(いくら無恥なおれでも、この小切手は受けとれないぞ)
「そんな、こわい顔をしなさるな。気軽に、にっこり笑うものだ」
「いえ、これは頂けません」
寺尾は小切手をテーブルに置いた。
前作『紳士同盟』をお読みになった読者は、寺尾や旗本たちが大東映画東京撮影所を舞台にして、一大コン・ゲームをおこなった過去を覚えておられるかも知れない。
そして、このたび「最後の侍」の〈失われたシーン〉を再現するために使用されるのが、同じ撮影所であることに、寺尾は因縁めいたものを感じた。
「ずいぶん、変っちまったな」
寺尾はハンドルを握っている旗本に言った。
「四年まえには、もっと撮影所が広かった。スーパーマーケットと付属の駐車場に蚕食《さんしよく》されてはいたけれど、あんなデパートはなかった」
「デパートの家具展示場ができたのです。ここらは東京都内じゃないのですが、東京のベッド・タウンですからね」
「変れば変るなあ」
と、寺尾は歌舞伎の台詞みたいなことを口にした。
四年少しまえには、新興住宅地の雰囲気だったのが、いまや、堂々たる商店街である。スーパーマーケットも三階建てになり、隣接した老舗《しにせ》のデパートと競う形になっている。
旗本はハンドルを左に切った。車は撮影所の門に吸い込まれるが、左側の受付の男は興味を示さなかった。
プレハブ作りと思われる建物の横に、小さな車が何台も駐車している。旗本は、ためらわず、その端に車をとめた。
車をおりた二人は、プレハブの建物に入る。
入口の右側には、刑事物のテレビ番組名と「宇田道典の世界」の二つの貼《は》り紙がしてある。そういえば、宇田道典は、大東京映画が倒産したあと、この大東映画で二本ばかり作品を作ったはずである。
旗本は馴《な》れた足どりで廊下を歩いてゆき、〈宇田組・スタッフルーム〉の貼り紙があるドアをあけた。
中には、粗末なデスク、テーブル、椅子、ソファーが一つずつあり、灰皿に吸い殻の山ができている。なんとも殺風景というほかない。
「〈宇田組〉とは凄《すご》いじゃないか」
あちこちに裂け目ができたソファーのすみに腰をおろした寺尾が言った。
「老スタッフとしては、ジュニアの宇田道也を盛り立ててくれているのですよ。映画屋さんのロマンチシズムで」
旗本は小さな椅子にすわり、サングラス越しに寺尾を見た。
「そういえば、このまえ、アルトンが撮るという|ふれこみ《ヽヽヽヽ》だった映画の題名が『最後の映画』、今回が『最後の侍』と、どうも、タイトルがよくありませんな」
「コン・ゲームも、もう最後に願いたいものだ」
と、寺尾は本音を吐く。
「おとといの晩は、ほんとに何もなかったのですか?」
「何もなかった。電話しただろ」
「ま、一応、安心しましたが……長島さんは不審そうにしていました」
「そうかい」
そうだろうな、と寺尾は思う。
一千万円の小切手を受けとったことを寺尾はだれにも喋《しやべ》っていない。きのうが日曜だったので、今朝、浜野二郎名義の口座を銀行につくり、小切手を入れてしまった。現金化されるのは時間の問題であるが、その金を使う気持は、現在の彼にはない。
長島老人たちに話せば、寺尾の奇妙な|筋の通し方《ヽヽヽヽヽ》は狂気の沙汰と思われるに決っている。しかし、彼は、一千万円に手をつけずに、宮田杉作にかえすつもりでいるのだ。いますぐにではないが、|いずれ《ヽヽヽ》。
「もう少したったら、スタジオを覗《のぞ》いてみましょう」
ブーツをテーブルの端にのせながら、旗本は欠伸《あくび》まじりに言った。
「スタッフは老人ばかりですが、いずれも日本映画史に残る名人・職人です」
寺尾は答えなかった。
古い男である彼は、映像文化の先駆者であるそれらの人たちを心から尊敬していた。彼らが集っているのはジュニアのためではなく、明らかに故宇田道典のためである。しかるに――。
「そういうスタッフの努力の結晶を、おれは踏みにじらなければならんのだぜ。編集のさいにカットすることは、予定されているのだから」
「寺尾さんの気持は、わかってますよ」
旗本は急に老成した口調になった。
「ぼくだって、この世界、長いのですから。……しかし生活ってこともありますからねえ……」
「生活?」
寺尾は意外だった。
「ええ。スタッフには正当な報酬が払われるのでしょう?」
「もちろん」
「そこですよ」
と、旗本は寺尾の鼻の頭を指さした。
「ギャラ、金、です」
「それがどうした?」
「寺尾さんは映画界のことに暗いな。名人だの職人芸だのといわれても、国から特別な年金がおりるわけじゃなし、みんな、生活に困っているんですよ」
「そうか……」
寺尾は胸を衝《つ》かれる思いだった。
「金だけの問題じゃありません。仕事、ですな。そっちのほうが大切なんです。仕事をしたいけど、まわってこない悩みが大きい」
「そんな状態かね」
「ええ。職人肌の老技術者とじっくり付き合う監督なんて、殆どいないでしょう。だいいち、映画そのものが作られていないんですから」
「それはそうだ……」
「たとえ三日間でも、昔の仲間といっしょに仕事ができて、良い夢が見られるってことが、彼らには必要なのです」
「うーむ。じゃ、ぼくらは天使じゃないか」
「汚い天使ですけど……」
「なに?」
「いえ、その、天使といえるかどうか」
「ある部分では天使だ。……しかし、すぐに、ぼくは悪魔になる」
映画のスタジオは、暗く、汚くて、しかも、埃《ほこり》っぽい。
(夢の工場なんて、義理にもいえない)
と、寺尾は思った。
大きなスタジオの半分近くが竹藪になっている。無数の竹と土を運び込んで作った人工の竹藪で、脚立の上から如雨露《じようろ》で竹に水をかけている男がいる。
主役(の代役)を演じる男は、浪人姿のまま、椅子に腰かけて、煙草を吸っている。役者は、この男ひとりだし、ギャラは知れている。
「寺尾さん!」
すぐ近くで声がきこえた。
ふと見ると、カメラが高い位置にあり、その横に高木がいた。
「ちょっと、カメラを覗いてみませんか」
寺尾は木箱のような踏み台を登って、カメラの傍に立った。
「ここです。ここから覗いてごらんなさい」
チェックのハンチングをかぶった、気むずかしげな老カメラマンに目礼して、寺尾は示された個所に片眼を当てた。
いかなる魔術によるのか、カメラのレンズを通して見える竹藪は、神韻縹渺《しんいんひようびよう》たるものであった。本物以上に本物らしく見え、しかも、気品をそなえている。
「なーる……」
寺尾の嘆声は、ほど、を節約した。
「旗本さんはロケハンをやったと言ってたけど、うちの親父《おやじ》は、こういう場面をロケでは撮らなかったですよ」
高木の声は笑いを含んでいる。
「さよう……」
と、老カメラマンが頷《うなず》いた。
「あの方は、日本じゅうが焼跡だらけだった時でも、決して本物の焼跡を撮らなかった。オープンセットで人工的な焼跡や闇市《やみいち》を撮影したものでした」
「それも極端ですねえ」
寺尾の語調はやや批判的である。
「極端ですとも」
と老カメラマンは熱っぽく言った。
「凡庸な写実を嫌った人です。沼でも川でも、カメラが動き易いように、造ってしまいました。だからこそ、いま、作品が世界中で愛されるのではないでしょうか」
「かも知れません」
寺尾の答えはあいまいであった。そして、カメラの傍を離れるときに、「ちょっと……」と高木を呼んだ。
「なんですか」
高木は小声でたずねた。
「きみ、あの人が言っているような極端な絵づくりができるのかい」
「やってみます」
「|みます《ヽヽヽ》、じゃ困るよ」
「やります。やれますとも」
「たのむぜ、おい」
カメラがまわり始めるまでには、まだ、時間があった。寺尾はスタジオを出て、スタッフルームに戻り、そこの電話で、日暮かおりと話した。
アメリカ行きが迫っているのだ。
撮影所からひとりで四谷三丁目に戻った旗本は、車を横町にとめて、サウナの看板の出たビルに入った。
脂じみたエレベーターをおり、自分のオフィスに入る。
さっそく、電話番の女の子が、
「正午に、ニューヨークの山岸さんから電話が入りました」
と報告した。
旗本は壁の時計を見て、
「向うは、もう、夜中だろう。あとで、ぼくが電話をする」
そう呟きながら、デスクの上の連絡メモを見た。
それから、模造皮革のソファーに腰かけて、ラーメンを啜《すす》っている長島老人に、いくつか電話をかけますから、と断った。
老人は何の表情もなく、ラーメンを食べつづけている。
電話をかけ終えた旗本は、女の子に「お茶をくれないか」と声をかけて、老人の真向いに腰かける。
「おかしい。どうも解《げ》せない」
老人はラーメンの丼《どんぶり》をテーブルに置きながら言った。
「|おとつい《ヽヽヽヽ》の夜、宮田杉作は何のために電話をかけてきたのだろう」
「なんでもなかった、と言ってました。寺尾さんは」
「さ、そこだ。用もないのに電話をかけてくるはずがない。しかも、あんなにしつこく……」
「ふーむ」
旗本は返答に窮した。
長島老人の疑問はまことにもっともである。しかし、寺尾が嘘《うそ》を言えない性質なのを旗本は知っていた。もし寺尾が隠しごとをしているのなら、彼らの信頼関係は崩れてしまう。旗本は悪い想像をしたくはなかった。
「ところで、ヒューバート・スタイナー三世の件だが」
老人は焙《ほう》じ茶を飲みながら、話題を変えた。
「さすがに防備《ガード》が固いようだ」
「向うで話しましょう」
旗本は茶碗を持ったまま立ち上り、となりの部屋に入った。女の子に話をきかれたくなかった。
水着姿の山岸久子が嫣然《えんぜん》とほほえんでいるパネル写真が飾られたその部屋は、旗本の仕事場であり、休憩室でもあった。折り畳みベッドから麻雀《マージヤン》用具、パソコンまである。
「わし自身、奴が泊っているホテル・オークラまで出かけてみた。フロントできいてみたが、一切、面会謝絶だという。どうしても、というのなら、秘書が用件をうけたまわると言うとった。アメリカ人でも、旧知の人間でない限り、会わんそうだ」
「厄介ですねえ」
旗本は腕組みをした。
今回のゲームは成立しないのではないか、と思う。とにかく、面会謝絶では話にならない。
「日本滞在は、あと幾日ですか」
「五日間じゃ。そのうち、一日は、京都へ日帰りをする」
「無理じゃないですか」
と、旗本は半ば諦《あきら》めた口調になった。
「敗北主義はいかん」
老人はおもむろに答える。
「どんな人間にも弱点がある。しかも、スタイナーの場合、弱点がおおやけになっとる」
「弱点?」
「そうじゃ。コレクターというのは、病人と同じさ。珍しいものを集めたいという意欲――それが、わしには弱点に見える」
「でも、面会謝絶で、ホテルにこもっているんじゃ、手の打ちようがないでしょう」
「そうでもない」と老人は初めて笑った。「それに、ホテルにこもってはいない。むしろ、精力的に動きまわっとる」
「へえ」
「旗本さんは、日本の映画コレクター・ナンバーワンを知っとるかね?」
「いえ」
「ナンバーワンといっては語弊があるかな。とにかく、その方面のボスでな。コレクターの会の会長をつとめている」
「よくご存じですね」
「調べたのさ。わしは美術・書画|骨董《こつとう》のたぐいなら、そこそこ知識があるが、古い映画など、とんと知らんのでな。もっとも、このボスは、美術品のコレクターとしても、ちょっとは知られた存在だ」
「で、その会長が、どうかしたのですか?」
「所沢の方に住んでいるのじゃが、今日は、東京に出てくる。新宿の小さなホールで、無声映画の上映会があるのだ」
「お会いになるのですか?」
「うむ。そろそろ、電話がくるはずだ」
「会って、どうするのです?」
「まあ、見ていなさい。すべては、今夜、決るはずじゃ」
老人はにやにやしている。
それ以上、質問しても答えそうにないと見た旗本は、浮かぬ顔をした。
「相手が完全無欠となると、いよいよ燃える|たち《ヽヽ》でな、わしは」
「しかし、手間がかかるわりに、収入《みいり》がすくないような気がします。たしか、三千万円でしょう?」
「多くて、三千万円じゃ。しかし、これは、金の問題ではない」
「え?」
旗本はびっくりした。じゃ、何の問題なのだ?
「旗本さんは、まだ、コン・ゲーム道に暗いのう」
ほっほっほ、と老人は笑って、
「これは、わしの自尊心の問題なのだ。それに、金銭は結果に過ぎないというわしの哲学を忘れて貰《もら》っては困る。まえに話したと思うが……コン・ゲームの理想は、被害者に被害に遭っていると感じさせぬことにある。自分は助けられている、仕合せ者だ、と思わせねばならない。……宮田杉作の場合がそうだった。スタイナーも仕合せにしてやろうではないか」
「その点は、同感ですが……」
旗本はまだ納得できない。
寺尾、高木、それに自分がエネルギーをフルに使って、三千万円とはすくないのではないか。当節、銀行の女子行員でさえ、三億ぐらい持ち逃げするではないか。
「欲ばってはいかぬ」
と、老人は言った。
職人肌ということでは、撮影所の老カメラマンたちも長島老人も同じだ、と、旗本は思った。仕事が好きなのだ。ところが、このおれが好きなのは、金と女と酒だ。いや、酒、女、の順か。
そのとき、隣室の電話が鳴った。
新宿の歌舞伎町入口左手にある新宿プリンスホテルは、盛り場にもっとも近い地の利で、客室がフル回転していることで有名だ。
さらにいえば、このホテルは西武新宿駅とつながっているために、西武線の利用者をも吸収する利点がある。西武新宿線の利用者、とくに埼玉県方面からの一泊旅行客は、このホテルに吸い込まれ易い仕組になっている。
ホテルのロビーがそもそも地下にあるのだが、そこにつづく〈ロビーラウンジ〉は、ふつうのホテルでいえば、コーヒーショップであろう。外の雑踏が嘘のように思える静かな空間で、アベック、ビジネス関係らしい男同士、土地の図面をひろげてみせる怪しい男たちが、意外にひっそりといるのは、高級時計、高級バッグの売り場がすぐ横にあるせいかも知れない。
「所沢の旦那、遅いですな」
撮影所から戻ってきた寺尾が長島老人に言った。
げんみつにいえば、撮影所から〈寺尾企画〉に戻り、ひと仕事すませて、新宿プリンスホテルにかけつけるという忙しさである。俗に、眼のまわる忙しさというが、じっさい、眼がクラクラしている。
「寺尾さん、お疲れのようだな」
「だいぶ、|お疲れ《ヽヽヽ》でさあ」
と答えて、寺尾は目薬を出し、顔を仰向《あおむ》けにして、点眼した。
「高木君はうまくやっておりましたか?」
「まあまあです。しかし、ぼくが付いていないと駄目ですね」
「撮影はあと二日か」
「ええ。それからすぐ、ニューヨークへ発ちます」
「ふむふむ」
長島老人はもっともらしく能率|手帖《てちよう》を眺めている。赤と青のボールペンで、おそろしく過密なスケジュールが書き込まれているのがおかしかった。
「所沢の安東氏には、寺尾さんの名を、そのまま、言うてやった。信用させるためには、それしかないて」
「うーむ」
「彼はあなたを知っておったよ。十五年ほどまえに、名画保存会のヴァレンチノ週間でお目にかかりました、と言うとった」
「そうでしたか……」
十五年も前のことでは覚えていない。しかし、当時は、草月ホールのブニュエル特集などを|まめに観《ヽヽヽみ》ていたので、多くの映画マニアと名刺を交換したものだ。
「覚えとらんかね?」
「さあ……」
「まあ、よろしい。安東氏も、ヒューバート・スタイナー三世の動きは気にしておった。安東氏は親代々の歯科医とはいえ小金持。一方、スタイナー三世は、いくら金を使っても使いきれない男だ。そんな男に、日本の隠れ名画、隠れフィルムを買い漁《あさ》られてはたまらないというとった」
「それで?」
寺尾は欠伸をこらえた。老人が何を言わんとしているのかわからないのだ。
「わしは、コレクター心理につけ込んだ。日本に一本しか残っていない名画をスタイナーに観せてやりませんか、と言うたのじゃ。フィルム・センターにもない日本映画を、安東氏は何十本も持っているはずだ」
「持ってますとも。ぼくら、よく知ってますよ」
と、寺尾はビールを飲む。
「安東氏の家をたずねれば、三十五ミリの名作映画が観られるのは有名な話です。ぼくだって観たいのが、沢山あります」
「何故《なぜ》、行かないのかね」
「こいつが、|わけあり《ヽヽヽヽ》でして」
寺尾は苦笑する。
「フィルムを上映するまえに、安東という人は、コレクター独特の苦労話、自慢話を、ながながとするのです。酒が出て、鰻《うなぎ》や鮨《すし》も出るそうですが、これが、ざっと、三時間。それで、やっと、フィルムを観せてもらえる……」
「やれやれ」
「まだ、あとがあるのです。昔の流行歌をカラオケで歌い出すと、これが、五時間あまり。つまり、一本のフィルムを観るために丸一日つぶれてしまうのです。つぶれてもいいのですけど、このカラオケが身体《からだ》に悪いのだそうで、翌日、熱が出たり、下痢をしたりする人が多い。それほどの苦痛と実害に耐えてまで観る必要があろうか、と、体験者はコボしています」
「発熱するのか」
老人は唸《うな》った。
「まずいな、それは」
「心筋梗塞《しんきんこうそく》で死んだ人もいますから、コワいです」
「死ぬのか、おい」
「ま、善人なんでしょう、安東って人は。悪意はないんです」
「あられて、たまるか」
「いいじゃないですか。今回はカラオケなしですから」
「こちらで場所を確保するからと保証したところ、二つ返事で乗ってきた」
「大丈夫ですか。三十五ミリを上映する設備がある場所はすくないですよ」
「新宿西口の大京生命ホールはどうかね?」
「あ、あそこは良いです」
「わしの昔の仲間がガードマンをやっておるから、夜中なら、いつでも使える。映写技師だけは手配しなければならんが」
「それは簡単です」
寺尾は即答した。
「ところが、安東氏は何十本かのリストの中から上映作品をえらんでくれ、と言いおる。そこで、急遽《きゆうきよ》、きみを呼び出したというわけじゃ」
「光栄なような迷惑なような」
「アメリカ人が絶対観ていないフィルムじゃないと、この作戦は成立せんのだ」
「当然ですな。しかし、スタイナー氏をどうやって招待するのです?」
「招待はしない。催し物の知らせを英文で作って、ホテルに届けるだけだ。奴は必ずくる。もしも駄目なら、別な手もあるし……」
そのとき分厚い眼鏡をかけた、バセドー氏病風のギョロ眼の田舎紳士がロビーからこちらを見ているのに気づいた。長島老人は立ち上り、寺尾も腰を浮かせる。
田舎紳士は身体をゆすって歩きながら、大声で言った。
「安東です。……スタイナーという男を口惜《くや》しがらせようという趣向が気に入りました……」
ヒューバート・スタイナー三世は、奇妙に歪《ゆが》んで、しかもそれなりにバランスのとれている器で、緑色の粉末を入れたお茶を飲んだ。
(苦い……)
と思った。
はじめから膝《ひざ》を崩しているので、上体がよろけることはなかったが、舌がおかしくなった。
急いで、かたわらの皿の上にある砂糖の粒のようなものを口に入れた。それは彼が期待したほど甘くはなかったが、異常なまでの苦さを中和させるのに役立った。
「いかがですか」
ティー・セレモニーを教える男は、狐《きつね》のような眼を細めて、笑いかけてきた。日本人特有の、心の中を覗かせないための、あいまいな笑い。
スタイナーは、にこりともせずに頷いた。いかがですか、と言われて、返事ができるようなものではなかった。
「タイム」誌八月一日号の日本特集を読んでいた彼は、日本文化について、ひととおりの知識を持ったつもりでいた。だが、じっさいにぶつかってみると、頭の中で考えていたのとは、ずいぶん違うものである。
ある種のケーキらしい甘い粒を、もう一つ、舌にのせた。そして、左手の器を、しずかに畳の上に置いた。
彼はガラス戸の外の庭を眺めた。
間もなく三十八歳になろうとするこの石油王の孫は、「タイム」誌が日本映画について書いていた印象的な記事を反芻《はんすう》した。
〈二十五年前、日本の映画産業は、もっとも健全な産業の一つであった。……ところが、現在、ソニーのウォークマンのリズムやパックマンの映像が脚光を浴びる娯楽の世界で、日本の映画は苦境におちいり、弱気になっている。……〉
その通りだった。「タイム」誌は一九五〇年代の巨人として、溝口、小津、黒沢の三人をあげ、今年の監督として「楢山節考《ならやまぶしこう》」の今村昌平と「戦場のメリークリスマス」の大島渚をあげている。
(あと、成瀬|巳喜男《みきお》と宇田道典がいるのだが……)
日本にきたのは無駄ではなかった、とスタイナーは思った。フィルム・センターの好意で、成瀬の古い作品をまとめて観ることができたのは大きな収穫であった。
しかし、現在の日本映画は……と、「タイム」誌はつづける。
〈どのジャンルをとってみても、日本映画にふたたび国際的栄誉をもたらすことはなさそうだ。日|出《い》ずる国の映画にとって、前途はなお暗い。〉
おれの前途は明るい、と、スタイナーは思った。アメリカでは上映されていない日本の中堅・若手監督の作品を買い集めることができたからだ。
「失礼します」
と言いながら、体格の良い秘書が入ってきた。
立っているわけにいかないので、畳にすわり、大きな封筒をスタイナーにさし出した。
新宿西口の高層ビル群の灯が見えてきた時、スタイナーは、思わず、嘆声を発した。
「こんなに遅い時間に、日本人はまだ働いているのか」
「あの中の二つは、ホテルのようです」
秘書はマップを見ながら言った。
「それにしても、他のビルには灯がともっている。やはり、働いているのではないか」
「かも知れません」と、秘書は、あえて反対しなかった。「このウェスト・サイド(西口)はパーク・アヴェニューに似ているとガイドブックにあります」
「似ても似つかない」
スタイナーは鼻先で嗤《わら》った。
「明日の京都行きは何時だね?」
「早朝です」
「まあ、仕方がない。日本のフィルム・マニアのパーティーを覗く機会など、めったにないだろうからな」
「やはり、気になりますか」
「案内状に印刷してあった二本の映画は、私でさえ、聞いたことがないものだ。いちおう観ておきたい」
「なるほど」
「それに、日本には、意外なフィルムが隠れているときいている。たとえば、戦前のドイツ映画だ。日本はドイツと同盟を結んでいたから、大いにあり得ることだ」
ハイヤーは高速道路をおりて、狭い道に入った。
「強いていえば……」とスタイナーは軽蔑《けいべつ》するように言った。「この高速道路はロサンゼルスを真似たのだろう」
「もうすぐです」
運転手を兼ねた日本人通訳が言った。
彼らが巨大なビルの入口に立った時、ガードマンが近づいてきた。
通訳が案内状の封筒をさし出すと、ガードマンは封筒の中身を改めて、
「スタイナー氏はどなたですか」
と、たずねた。
「この人だが、私もいっしょでないと困る」
通訳はそうつけ加えた。
「それから、秘書兼ボディガードも通してください。スタイナー氏を誘拐《ゆうかい》しようとする連中は、世界中に多いのです」
ベージュの制服を着たガードマンは、険しい眼つきで三人を見た。
「よろしいでしょう」
彼は通行許可のバッジを三つとり出して、通訳に渡した。
「突き当りのエレベーターで二十六階へ上ってください」
三人が奥に入ってゆくのを確認したガードマンは、電話機に手をのばした。そして、こう報告した。
――長島さんですか。蝶々は網に入りました。
「奇妙な気がしないかね」
狭い箱の中で、スタイナーは階数を示す数字に灯が点滅するのを眺めながら呟《つぶや》いた。
「は?」
「あの厳重さだよ。ニューヨークであれば当然のことだが……東京は、ホテルも、オフィスのあるビルも、きわめて人の出入りがルーズだ」
「東京は治安が良いですから」
と、日本人通訳が言った。
「そんなことはわかっている。敬意を惜しまない、と、いつも言っている」
「イエス、サー」
「いかに夜遅いとはいえ、警戒がものものし過ぎる気がする。なぜだろう?」
「テレビ局とか、出入りのやかましい場所は、けっこう、ありますよ」
「じゃ、ここはテレビ局かね?」
「いえ、そうではありません。ただ、上の方にラジオ局があったように思います」
「思うだけか」
と、スタイナーはこだわった。
「あります、たしかに」
「ふむ、それにしても、おかしい。私にはそう感じられる」
パーティー会場は、ちょっとした会議室ほどの広さで、二十数名の日本人がいた。
テーブルの上にはビールとジュースの瓶、形ばかりのサンドイッチが出されていて、人々は会話に熱中している。日本人だけのパーティーを初めて見たスタイナーは民俗学的興味からその場に立ち尽した。
「ニューヨーク在住の日本人たちとまったく雰囲気がちがうのが興味深い」と、スタイナーは秘書に囁《ささや》いた。「ミスター・アンドーを探したまえ」
探すまでもないことであった。諷刺《ふうし》漫画の中に登場する〈眼鏡をかけた出っ歯の日本人〉にそっくりな男が近づいてきて、ミスター・スタイナー、と大声で言い、黄色い、脂《やに》だらけの歯を見せて笑った。それから、きわめて独特な英語で、よくきてくださいました、と言った。
ここにいる日本人の大半が、長島老人の仲間であることを、スタイナーは知る由もなかった。
「いま、面白い遊びを始めたところです」
と、安東氏はスタイナーのグラスにビールを注《つ》ぎながら言った。
「あなたも、きっと興味を持たれることでしょう」
「遊び?」
「イエス。この世にあり得ないフィルムのベスト3の選出です」
「ほう……」
スタイナーはかすかにほほ笑む。狂的なコレクターの考えそうな遊びであった。
「……あり得ないといえば、『最後の侍』の完全版にとどめをさしますな」
脇からそう言ったのは長島老人である。
「|それはちがう《ヽヽヽヽヽヽ》!」
言いかえしたのは旗本であった。
「ぼくは、あのフィルムの完全版をニューヨークの或る場所で観ています!」
通訳からこのやりとりをきいたスタイナーの右腕がふるえだし、ビールが靴の上にこぼれた。
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第五章 ニューヨークの秋
〈つねづね思うのだが、十月の気候は一年でいちばんいい。その証拠がこの月曜日だ。車やバスがひしめく通りでさえ、空気はひんやりとして心地いい。空はまっ青で、建物との境界線が揺れている。まるで空を裁断し、超高層ビルのあいだにつめ込んでいるニューヨークという街に怒りをぶつけているようだ。〉
と、W・L・デアンドリアは『殺人オン・エア』の中で、ニューヨークの十月を称讚《しようさん》している。
〈生きていてよかったと思うような日〉とまで讚《たた》えられているのだが、現実に、十月初めのニューヨークに身を置いた寺尾は、心地よいとも、生きていてよかった、とも思わなかった。
ロックフェラー・センターのロゥアー広場《プラザ》には色とりどりのパラソルがならび、パラソルの下のテーブル群は客で一杯になっている。大半はアメリカのお上りさんであるが、いずれも、自分だけはちがうぜ、という顔をしている。
「風が冷めたかないか」
ダスターコートの襟を立てた寺尾は、うんざりするほど大きな生牡蠣《なまがき》にタバスコソースを落した。正午《ひる》まえから、白ワインに生牡蠣と粋がったものの、腹が冷えるばかりである。
「そりゃ冷めたいわよ、五大湖を渡ってくる風ですもの」
革のコートで身を包んだ山岸久子は平然と答える。〈五大湖〉ときいて、寺尾は身ぶるいをした。
前日は一日、雨だったので、久子はホテルの部屋で天気予報ばかり見ていた。天気予報だけをやるチャンネルを見つめていたおかげで、この寒風がどこからきたのか、彼女は理解したのである。英語などわからなくても、美男の予報官が図面と色でしつこく解説してくれるのが、日本の天気予報とちがうところだ。戸外の温度の変化も、摂氏と華氏の双方で、刻々伝えられる。
「きみは、こんなに寒いと知っていたのか」
耐えられなくなった寺尾は、熱いコーヒーをお代りした。
「もちろん」
山岸久子は毛皮に顎《あご》を埋める。
「おかしいな。きみはTシャツ一枚でケネディ空港に降り立ったときいたが」
「そうよ。でも、コートは、ちゃんと準備してきたの」
真赤な嘘――いや、ここは英語圏だから、|真白な嘘《ホワイト・ライ》というべきか。五十九丁目のプラザに入った彼女は、あわてて、|近くの店《ヽヽヽヽ》(それは|かの《ヽヽ》バーグドーフ・グッドマンであった)に飛び込み、高価な革コートを買い求めたのである。
バーグドーフ・グッドマンを知らなかった彼女は、宿泊しているプラザのことを、東京の京王プラザホテルと大阪のホテルプラザのチェーン店だと信じていたし、いまでも信じている。03をまわしても東京につながらないことだけは、さすがに思い知らされたが……。
「そんなに寒かったら、厚いヴェストを買えばいいじゃないの」
「そうだな」
寺尾はその気になった。
「どこで買おうか」
「すぐそこにデパートがあるじゃない。ええと、サック、よ」
「サックスだろう」
寺尾はにこりともしない。
「晩は熱燗《あつかん》で湯豆腐といきたいねえ。みんなも、そう思っているだろう」
ロケ隊はブルックリンへ出かけている。ブルックリンからマンハッタンの摩天楼群を撮るという、CMでおなじみの構図が必要なのである。午後は、山岸久子が馬車でセントラル・パークをめぐる場面を撮ることになっている。
「プラザは寒くないかい」
寺尾は唐突にたずねた。
「全然。暖房が入っているもの」
「ぼくのホテルは、廊下だけ暖めてて、部屋には入ってないんだ。ろくなもんじゃない」
憤懣《ふんまん》やるかたない表情である。
「ひどいホテルねえ」
と、久子は同情的な口調になったが、
「……なんて言ったかしら? 思わず、笑っちゃうような名前よね」
「アルゴンキンだ」
寺尾は吐き出すように言った。
「暖房を入れてくれと言ったら、|うち《ヽヽ》は十月のいく日にならなければ入れない、と、役所みたいなことを言いやがる。日本人の従業員がいて、そいつまでが〈こんなのは、当地では、寒さの中に入りません〉なんて吐《ぬ》かしやがるしさ」
「ホテルをかえたら?」
「荷物を動かすのがメンドくさいし、アメリカ人と打合せをするのに、あそこのバーが便利なのだ。若干の見栄《みえ》を張るのは仕方がない」
「わかった。だから、眠たそうなのね」
「そうさ。セーターを二枚着て、毛布を二枚かけて、なんとか眠っている。もう少しの辛抱だと自分に言いきかせている」
「お気の毒ね」
久子はそう言ったが、眼が笑っている。少くとも、寺尾にはそう見えた。
「どうでもいいけど、この牡蠣はなんだい、ええ」
と彼の声は、小言幸兵衛じみてくる。
「どうして、身がしまってないんだろう。どてーっと、しちゃってさ。お好み焼きじゃないんだから、もっと、こぢんまりしてみたら、どうかね。見た眼が良くないよ、だいいち。的矢《まとや》牡蠣に対して恥ずかしくないのかね、おまえてえものは」
「なにを呟いてるの」
久子は呆《あき》れて、
「|あっち《ヽヽヽ》の方はどうするつもりなの?」
「うむ、その話だった……」
寺尾はわれにかえって、
「『最後の侍』の完全版をニューヨークで観たって言葉をきいて、スタイナーはびっくりしたよ。〈ニューヨーク〉ってところが、意表外で、かえってホントくさくきこえたのだ」
「そうかしら」
久子は批判的に応じる。
「あたしなら、とてもじゃないけど、信じないわ」
「きみはそうだろう。しかし、スタイナーはちがう。疑い深いくせに、フィルムについての情報は|信じたい《ヽヽヽヽ》のだ。とにかく、ぼくらが押しつけるのではなく、スタイナー自身に発見させるのが、こっちの狙いだからね」
久子はあいまいに頷《うなず》いた。
「スタイナーは、その場で、旗本君に、どこで観たのか、とたずねた。ニューヨークといえば、スタイナーにとっては、自分の庭みたいなものだからね」
寺尾はコーヒーを啜って、
「で、旗本君は、こう答えた。――試写室のあったビルは八番街の近くだけれど、もう忘れてしまった。でも、フィルムを持っている配給会社の名は覚えている、と」
「それが、オリエンタル・フィルムね」
久子は煙草をくわえた。寺尾は店のマッチで火をつけてやる。
「このあとは、きみのほうがくわしいはずだ」
「旗本《はたもつ》ちゃんから長距離電話が入って、びっくりしたわ。四十八丁目のビルに入っているオリエンタル・フィルム・オフィスへ行け、っていうんだもの。なんでもやるつもりだけどさ、あたし、英語ができないって言ったのよ。そうしたら、受付の女の子は日本語が喋《しやべ》れるから大丈夫だって……」
「オフィスの所長《ボス》はぼくの知人だよ」と寺尾は説明した。「これは日本人。受付兼電話番の女の子はスペイン系だが、日本語学校へ通っている」
「あたし、旗本《はたもつ》ちゃんから言われた通りにしたわ。オフィスへ行って、女の子に百ドルわたして、こんな風に言ったの。〈もしスタイナーという人、または彼の代理人から電話が入ったら、こう言ってちょうだい。所長《ボス》は旅行中です、帰りしだい、こちらからご連絡いたします、って〉」
「女の子はOKしたかね?」
「百五十ドル欲しい、って言ったわ。そうしたら、ちゃんとやるって」
「で、払ったのか?」
「もちろん」
「じゃ、大丈夫だ。あの娘《こ》は口が固い」
寺尾はサックス・フィフス・アヴェニューの回転ドアを押した。
婦人物の高級品をとりそろえたこのデパートは、数年前まで奥に古風なエレベーターがあるだけだったが、いまやエスカレーターを取りつけ、客の多くを階上に運び上げている。名店にとって、ある程度の大衆化はやむを得ないのであろうか。
一階の左奥で、寺尾は毛糸のヴェストをえらんだ。
サイズが大きいのはいたし方ないとしても、色が気に入ると、値段が高い。しかし、風邪をひくよりは|まし《ヽヽ》と諦《あきら》めて、臙脂《えんじ》のヴェストを買い求めた。邦貨にして五万円余り。しかも、香港《ホンコン》製であった。まあ、日本製でないのが救いと思うより仕方がない。
サックスを出て、近くのカフェテリアに入った彼は、コーヒーを注文してから、背広の下にヴェストを着込んだ。気のせいかどうか、寒さが薄まったように思う。
熱いコーヒーを胃におさめてから、彼は手帖をとり出した。安東氏からスタイナーのアパートとオフィスの電話番号をきいていたのだ。
店の片隅にある電話では、黒人の女が長電話をしている。長話ではないかも知れないが、彼にはそう感じられた。腕時計を見ながら、寺尾は苛々《いらいら》している。
七分後に電話が終った。彼はすぐに電話のそばへ行き、スタイナーのアパートの番号をまわした。
(まちがいない。彼は絶対にオリエンタル・フィルムに電話をしているはずだ。それも、おそらくは、日本から……待ちきれなくて……)
ハロウ、と、電話の向うで、クイーンズ・イングリッシュがきこえた。鼻炎気味の声は、おそらく執事であろう。
――ミスター・スタイナーはいらっしゃいますか?
寺尾の声はやや上ずっている。
――失礼。私はオリエンタル・フィルムのホンゴーと申します。
われながら三船敏郎の英語に似ていると思った。
――ミスター・スタイナーは、きのう、旅から戻られた。日本の帰りにロスに寄られたのでな。
相手の声は重々しい。
――そうですか。まだお休みでしたら、電話を切りますが……。
――待ちなさい。オリエンタル・フィルムのミスター・トーゴー?
――ホンゴーです。
――よろしい。ちょっと待ちなさい。
寺尾は待たされた。
約三十秒後に、
――スタイナーだ。
という声がきこえた。
――オリエンタル・フィルムのホンゴーです。間違っていたら、お詫《わ》びいたしますが、私の旅行中に、オフィスに電話をなさいましたか?
――イエス、確かにかけた。どこかへ行っていたようだね。
――プエルトリコの方へ。
寺尾はかすかに笑った。
――ところで、ミスター・トーゴー。
――私の名前はホンゴーです。いま出先《でさき》なので、十二時半にオフィスに電話をいただけませんか。
――よろしい。私の方からコールしよう。
電話は切れた。
腕時計を見て、寺尾はスツールを離れた。
カフェテリアを出る。日があたっている場所では気分が良いが、日かげに入ると、急に冷えてくる。この差が東京からきた人間には応えるのだった。
肉体的にも強くなければ、ニューヨークでは生きていけないな、と彼は思う。
五番街を3ブロック下って、四十八丁目の通りを六番街の方へ入った。少し歩くと、左側に褐色砂岩《ブラウン・ストーン》のビルがある。彼はためらわずビルに入り、エレベーターで十七階まで上った。
〈オリエンタル・フィルム〉と、曇りガラスに金文字で描かれたドアの前に立った寺尾は、もう一度腕時計を見た。そして、ドアをノックする。
ガラスに人の影がうつり、濃くなって、ドアがあけられた。
「しばらく」
と、寺尾はスペイン系の小柄な娘に言った。
「オオ!」
眼を見開いて、娘は驚きを表現した。
「いつも、不意打ちですね、寺尾さん」
寺尾は重いドアをしめた。がちゃり、と大きな音がして、自動的に鍵《かぎ》がかかる。
「彼《ヽ》は外出中かね?」
充分に心得ているのに寺尾はたずねた。
「ランチです」
娘はにっこりする。
「そうだ、忘れてた」
コートを脱いだ彼は、上着のポケットから小さな包みを出した。
「ぼくからのプレゼント」
娘は白い歯を見せて、
「あけてもいいですか」
とたずねた。
「どうぞ」
彼は椅子を引き寄せながら答える。
娘は包装紙を破いて、小さな箱を出した。ふたをあけて、翡翠《ひすい》のブローチを見た彼女は眼を丸くした。
(このために、成田空港の売店で買ってきたのだ)
プレゼントの効果を確認した寺尾は、相手が感謝の言葉を述べ終るのを待った。そして、おもむろにたずねた。
「きみはランチに出かけないのか」
「だって、ボスがいないし……オフィスを空にすると、物騒で……」
「ぼくがいてあげるよ」
寺尾は笑ってみせた。
「どうせ、彼《ヽ》を待つのだから。よかったら、きみ、ランチへ行ってきなさい」
「嬉しいわ」
娘は立ち上り、翡翠のブローチや手帖を、ショルダーバッグに入れ始めた。一財産持ち歩く、という感じである。
「いま、十二時二十五分だ。外から電話が入ったら、きみは、一時半に戻ると答えておくよ」
「サンキュウ」
娘はタイプライターの前を離れたが、なんとなく、もたついている。
その間《かん》、寺尾は、壁に貼《は》られた日本、中国、インド等の映画のポスターを眺めていた。それらの映画をアメリカ国内の名画座や大学へ貸し出すのが、このオフィスの仕事の一つなのだが、じっさいによく出るのは、日本のサムライ映画、香港のカンフー映画だときかされている。
三分たったが、娘はまだデスクの上の書類をいじっている。
「安心して行ってきたまえ」
寺尾の頬は引き攣《つ》っていた。
(なにをしているんだ! いつもは、さっさと出てゆくくせに!)
「さっき、メモした電話番号が見つからなくて」
娘は困ったような顔をする。
「ランチのあとで探せばいいじゃないか」
苛々する気持を抑えて彼は声をかけた。また一分たち、十二時二十九分になった。
「悪いですね。日本からはるばるきた人に、留守番をしてもらって……」
小柄な娘はショルダーバッグを肩にかけ、ドアの把手《とつて》に手をかけた。
「じゃ、あとで……」
そう言ってドアをあけ、強くしめた。
ドアがしまった瞬間の響きに驚いたかのように、デスクの電話が鳴り始めた。
――ホンゴー君かね?
電話線の向う側のスタイナーの声は自信に充ちていた。
――はい。
――スタイナーだ。
――わかっております。
寺尾はやわらかく応じた。
――なにかお役に立てることがありましょうか。
――単刀直入にきこう。きみの会社で、「最後の侍」を配給しておったね。
――はい。ウダの名作です。
――そんなことはわかっとる。しかし、私が観たのは不完全版だった。五、六分の欠落があったと思う。
――六分間です。
――よろしい。しかし、私は不完全版は好まない。
――私どもも好ましいと思ってはおりません。しかし、私どもが貸し出せるのは、あのフィルムだけです。いま、フィルムは西海岸へ行っております。
――ハリウッドかね?
声の調子が低くなった。
――ジョージ・ルーカスの所です。
――ふむ。「スター・ウォーズ」シリーズの参考にでもするのだろう。
スタイナーの声は不機嫌そうである。
――これからの話は、食事でもしながらするのが礼儀だとは思う。しかしながら、この私、ヒューバート・スタイナー三世は気が短い。いや、時間がないのだ。……実は、私は、トーキョーに行っていた。
――トーキョー!?
寺尾は驚いてみせる。
――さよう、きみの国の首都だ。そこで、一つの噂《うわさ》を耳にした。「最後の侍」の完全版がニューヨークに存在するという、噂よりも証言に近い言葉だった。証人の言葉からみて、フィルムは、きみのオフィスから出たとしか考えられない。
――……。
――どうかね? 真実を話してくれないか。「最後の侍」の完全版がきみのオフィスにあるんじゃないかね?
スタイナーは言葉を切って、相手の出方を待った。
――弱りましたね……。
寺尾はためらいがちに言った。
――ふつうの人が相手でしたら、そんなフィルムはないと断ってしまうのですが……。
――きみは私をふつうの人ではないと考えているのだね。まことに喜ばしい。
――口の軽い日本人がいるのは悲しいことです。
と、寺尾は嘆息した。
――おっしゃる通り、完全版はたしかに存在いたします。
――やっぱり、そうか!
スタイナーの甲高い声が寺尾の鼓膜を刺激した。
――信じられん! どうしてそんなことがあり得るのかね?
――ひとことでは言えませんな。……しかし、クロサワの「七人の侍」の完全版が発見されたのもニューヨークでした。
――知っているよ。ニューヨーク・タイムズが大きく扱った。
――同じような成り行きだと思います。私のオフィスには、完全版と不完全版の二種類があって、完全版は私が秘蔵しております。めったに他人に見せないのですが、ひとむかしまえに、内輪で、一度上映したのが間違いのもとでした。
――完全版を、もう一度上映してくれたまえ。
スタイナーは命令するように言った。
――金に糸目はつけんよ。
――お言葉をかえすようですが……完全版は貸し出しをしないことになっております。
――原則的にはそうだろうが、私は変則を好むのだ。
――仕方がないですな。
寺尾は虚《うつ》ろに笑ってみせる。
――どこで上映しますか。場所を指定して下さい。
――町の試写室を借りる必要はない。私の家でうつせる。パーク・アヴェニューの……。
――スタイナーさんのアパートメントは存じております。
寺尾はデスクの上の住所録を眺めながら言った。三十五ミリ映画の設備があるとは、さすがである。
――フィルムを運ぶメッセンジャーを出そう。
――いえ、それは当方でやります。珍しいフィルムとなると、途中で、盗まれることがありますから。
寺尾の言葉をきいて、スタイナーは初めて笑った。
――クレイジーな奴が多いからな、この街には。
――貸し出し先と強盗が|ぐる《ヽヽ》ってのも|ざら《ヽヽ》です。ところで、いつ、お届けしましょう。
――すぐに、だ。
当然のことのように答えた。
――私はすぐにでも観《み》たい。
――では、二時に……。
先方が、がちゃん、と電話を切るのを待って、寺尾は送受器を置いた。それから、ホテルのブックマッチを出して、アルゴンキンに電話を入れた。
交換手が部屋に切りかえる。
――ハロウ。
――ぼくだ、寺尾だよ。
――あっ、どうも!
高木が大声をあげた。ロケ隊の手伝いをするという建て前で、一行にまぎれ込んでいたのだ。
――スタイナーの方はOKだ。フィルムを運ぶ準備をしてくれ。
――もう、ですか。
――奴が急いでるのだ。……そうだな、きみは一時四十分にアルゴンキンの前に出ていてくれ。ぼくは一時半にオリエンタル・フィルムを出て、タクシーをひろう。アルゴンキンまで戻って、きみとフィルムをピックアップして、スタイナーのアパートに向う。二時丁度には着くだろう。
――スタイナーは乗り気ですか。
――乗り気どころじゃない。待ちきれない、という感じさ。じりじりしている。
――うまくいきますかねえ。
――あとは、出たとこ勝負だ。
――でも、三十五ミリ映画では……。
――奴の家には設備があるのだよ。ぼくらとは身分がちがうのだ。
アパート、と、ひとことで言ったものの、いざ着いてみると、化物屋敷ならぬ化物ビルであって、百年近く前の建築ではないかと思われた。
入口にはガードマンがいるが、一階そのものは倉庫のようで、フットボールができるくらい広い。
エレベーターも汚い。革の長椅子が据えつけてあるが、腰かける気にもなれない汚れ方で、しかも、エレベーターをおりてからの廊下が、また汚れ放題である。
寺尾はさして驚かなかった。こんなことで、いちいち驚いていたら、ニューヨークで仕事はできない。彼が驚いたのは、廊下の広さであり、天井の高さであった。これは、もう、ケタがちがう。
だが、鉄製の扉が開かれ、中に招じ込まれた瞬間から眺めは一変する。
観葉植物がほどよく配置されたホールは、壁も柱も大理石で、フレッド・アステアが踊りながら上ってもおかしくない、幅の広い階段が、階上に向けてゆるい優雅な弧を描いている。
「コートをどうぞ、サー」
執事にサーづけで呼ばれた寺尾は、古いダスターコートを手渡し、高木はダウンジャケットを渡す。
禿頭《とくとう》、鷲鼻《わしばな》の執事は、きわめて事務的に、それらを受けとり、
「少々、お待ち下さい」
と言った。
「あの……フィルムは……」
ガードマンに取り上げられた高木が心配そうな声を出すと、
「フィルムは、もう、こちらに届いております」
執事はいやみなほど丁寧に一礼した。
「この造りは金がかかってますよ」
窓の外を眺めながら高木があたりまえなことを言った。
「みてごらんなさい。この窓は三重で、しかも防弾ガラスです」
「静かにしてろよ」
寺尾は無表情に答える。
「まいったな。円山応挙《まるやまおうきよ》の絵がありますよ」
「どうせ、進駐軍が日本から持ち帰ったものだろう」
不意に、寺尾は顔を上げた。
アステアの代りに、濃紺のガウンを着た、色白で、灰色がかった眼の、ほっそりした身体《からだ》つきの男が、階段をおりてくる。スタイナーその人に間違いなかった。
「ようこそ」
スタイナーは寺尾の手を握った。私の助手です、と、寺尾は高木を紹介する。
「早速だが、部屋に入ってもらおうか。コーヒーぐらいは用意してあるが……」
「いいでしょう」
寺尾は頷いた。なんでも早くすませてしまったほうがいい。
彼らは突き当りのドアを抜けて、小さなエレベーターに乗った。このエレベーターは、スタイナーの占拠している部分のみのものらしい。
エレベーターがとまると、ドアとは反対側の面が左右にひらき(ということは、これもドアだったのだが)、彼らをスクリーンのある部屋に吐き出した。
「ヒーターが強過ぎる」
スタイナーはガウンのポケットに手を入れたままで言う。執事はあわててヒーターのスイッチを小さくひねった。
椅子が三十ほどあり、正面にスクリーンがあった。椅子の背には小さな板が付いており、一つうしろの椅子にすわって、前の椅子の板を九十度おこすと、卓になる。小さな卓にはライトもついていて、闇《やみ》の中でメモがとれるようになっている。
スクリーンに向って左手にテーブルがあり、コーヒーが沸いていた。ドーナッツやペストリーのたぐいが皿に盛ってある。
寺尾たちはコーヒーをカップに注ぎ、そのまま、うしろの方の椅子にかけた。
スタイナーは最前列中央の椅子にかけて、
「始めてもいいかね?」
と言った。
「よかったら、左手をあげてくれ」
コーヒーカップを卓に置いて、寺尾は左手をあげた。
ただちに、執事はコーヒー沸しのスイッチを切り、壁のボタンを押した。
緊張のせいか、寺尾は咳《せき》をした。スクリーンのカーテンが左右に割れ始めた。
「さて、本当のことを話すとするか」
シャンパンで乾杯をしたあとで、スタイナーはにこやかに言った。
四時を過ぎたばかりなのに、執事はナイフとフォークを運んでくる。いったい、どういうつもりなのだろう。
「実は、日本映画専門の批評家を映写室に呼んでおいたのだ。日本に留学していた男で、とにかく、詳しい」
スタイナーは皮肉な笑いを浮べて、
「私のようなコレクターは、ときどき、とんでもない贋物《にせもの》をつかまされることがある。きみらが、そういう人間だとは思わんが、念のために、映写室の窓から覗《のぞ》かせた」
寺尾はグラスをテーブルに置いた。手がふるえだしたのである。
「気を悪くしないで欲しい。奴は、もう帰った。ジャパン・ソサエティで仕事があるらしい」
寺尾も高木も答えない。高木は殆ど英語が喋れないが、多くの日本人がそうであるように、聴きとる能力はあるのだった。
「あのフィルムがどういうものか、私にはわかっている」
スタイナーの上唇のはしがめくれた。
「私はああしたフィルムにかけてはプロだよ」
「で、批評家はなんと言ってました?」
寺尾は開き直った。
「本物《ヽヽ》だと言った」
スタイナーは急に身を乗り出して、
「さて、これからが相談だ。ホンゴー君、いくら払ったら、あのフィルムをゆずり渡してくれるかね?」
「ご冗談を」
寺尾は笑ってみせた。
「冗談ではないぞ。私はこうしたことでは冗談を言わない」
「冗談としか思えませんよ。売るわけがないじゃありませんか」
「みんな、初めは、そう言うのだ。しかし、私は必ず、手に入れてみせる」
そのころ、プラザ内の部屋に戻った山岸久子は、テーブルの上に花束があるのに気づいた。小さな花束には白い封筒がそえられている。
彼女は封筒を手にした。送り主の名前はない。
封筒の中からレターペーパーをとり出して、ひろげる。
久子は眼を見ひらいた。
窓の外は暗くなっており、テーブルの上にはブルーチーズのサラダと大きな皿に盛ったスシがあった。日本人をもてなすのにはスシがいい、とスタイナーが判断したのだろう。
「サケもあるよ」
スタイナーは愛想がいい。
「スシというのは、ダイエット・フードとして最良だな」
寺尾はおそるおそる箸《はし》をのばした。イクラの代りにキャビアをのせたものだ。小エビの天麩羅《てんぷら》をシャリにのせた、とても、スシとは思えぬものもあった。
「オスイモノだ」
スタイナーはにっこりした。
ラーメン丼《どんぶり》大のボウルが三つ配られ、執事はそれに〈オスイモノ〉を注いだ。
寺尾がこわごわ見たところ、ある種の海草が大量に入っていた。啜《すす》ってみると、塩味が強く、しかも、カレーのにおいがした。
スタイナーは、クラッカーを割って、その中に落し、スプーンでかき混ぜた。
「十三万ドルの線は崩れそうもないか」
「ええ」
寺尾は〈オスイモノ〉を啜るふりをしながら頷いた。現在のレートで、ほぼ三千万円に相当する金額である。
「それから、キャッシュが条件です。小切手ですと、万が一という場合がありますから、危険なのです」
「それはわからないでもない」
「フィルムは、いちおう、社に持ち帰ります。明日、どこかで取り引きをしましょう」
「よろしい」
この|やりとり《ヽヽヽヽ》をきく高木は吹き出しそうになっていた。
(大時代な台詞《せりふ》だ。こりゃ、上州屋、お互いにワルだのう、ぬはは――という|あれ《ヽヽ》と同じじゃないか)
「このフィルムは傑作だ。きみは心が痛むだろうが、もう一本あるのだから、いいじゃないか」
寺尾は首をすくめてみせた。
「この青年は心配ないのか?」
「こいつは英語がまるでわからないのです。日本語だってわからないくらいです」
「安心したよ」
「ところで、どこで交換しますか」
「ロックフェラー・センターの地下もいいのだが、タフト(ホテル)のロビーはどうかね? あそこは日本人が多いから目立たないだろう」
寺尾のような旅行者が外国でとまどうのは、朝食に関してである。
ホテルの朝食は味気ないから、外で食べようか、と、まず考える。ホテル内の売店で朝刊を買うにしても、どのみち、靴をはかなければならないのだから、ついでに外へ出てしまえばいい。
きのう買ったばかりのヴェスト、マフラー、コートを身にまとい、万が一のためにセーターを手にして、彼はロビーに降りた。
ドアの右手の売店で、ニューヨーク・タイムズを求めて、外に出る。
風はあいかわらず冷めたい。新聞が重いので、彼は、芸能関係の頁だけを残して、大部分を道ばたの屑籠《くずかご》にすてた。
五番街の高島屋の下にある〈グルメ〉が入り易いのだが、あいていないだろう。彼は六番街を渡って、タイムズ・スクェアに向った。たしか、四十五丁目だったと思うが、ピカデリー・ホテルのコーヒーショップがあいているはずだった。
ホテルでは食べたくないし、かといって、マクドナルドやドーナッツ屋、ピザ屋は、あまりにも……という気がする。日本からの旅行客はこうして、|うどん《ヽヽヽ》やラーメンを提供する日本式食堂に集る仕組になっている。
そうした食堂に、寺尾はスタッフとは出かけたが、ひとりで行く気はない。アメリカにきてまで、ラーメンを食うことはないじゃないか、と思う。
ここまでの心理的プロセスは、まあ、わかるのだが、このあとがぱっとしない。お上りさんの悲しさで、〈朝食向きのちょっとした店〉がわからないのである。よく考えてみれば、東京にも、そんな店があるかどうか、怪しいのだが。
寺尾は呆然《ぼうぜん》とした。
ピカデリー・ホテルが消失していたのである。
初めは、道を一本、間違えたのかと思ったのだが、どうも、そうではない。完全に取りこわされているのだった。安くて、居心地が良く、コーヒーショップでの食事がうまいことで知られていたのに!
そんなホテルがなぜ潰《つぶ》れたのか――と思うより先に、(要するに、おれは、今回、泊ろうとしなかったじゃないか)という、悔恨の念に似た感情がこみあげてきた。
花鳥風月・モノノアワレを解さないと自他ともに認める寺尾ではあったが、さすがに無常の鐘が心をふるわせ、歩道に立ち尽す。劇場地区の再開発は以前から叫ばれていたのだが、よりによって、あのホテルが消えちまうとは!
こうした悲しみは、ニューヨークには似つかわしくない。激しい建築現場の音を背に受けながら、寺尾はふらふらと歩き、ワン・ブロック先のセンチュリー・パラマウントとかいうホテルのコーヒーショップに入った。
スツールに腰かける。カウンターの向う側の女が、めんどうくさそうにメニューを突き出した。
「寺尾さん……」
高木の声である。
反射的に見ると、右はじのスツールに、ダウンジャケットで着ぶくれた高木がいた。食事を終えたところらしく、マッチの軸木で歯を|※[#手へん+弄」]《せせ》っている。
「ハンバーガーにしといた方が安全ですよ」
と、高木は注意した。
「ハンバーガーとコーヒーか」
寺尾が呟《つぶや》くより早く、コーヒーが出される。
「グレープジュースを先に貰《もら》おう」
寺尾はメニューをかえした。褐色の肌の女は無言である。
「きみは、いつも、朝めし抜きじゃないのか」
「今日は特別です」
高木はコーヒーカップを手にして、寺尾のとなりにきた。
「腹ごしらえをしとかないと。ホテル・タフトの件がありますから」
「タフトから、すぐに空港へ行くんだ。きみはホノルルに飛ぶ。ホノルルでは長島さんの友人が待っていて、ドルを円にかえてくれる手筈《てはず》になっている」
「寺尾さんはどうするのですか?」
「撮影は、ほぼ、今夜で終る。たとえ、残ったとしても、山岸久子の出番は終るから、明日、彼女といっしょに直行便で日本へ発つ」
「ホノルルで一泊していいですか」
「いいよ。――というよりも、もうホテルを押えてある。ホノルルのホテルだけは、早く、予約しておかないと、駄目なのだ」
寺尾は冷えきったグレープジュースを飲んだ。暖房が入っているのが救いだった。
「なんだか、ワリが合わない気がするなあ」
と青年はボヤいた。
「なにが?」
「だって、これだけ手をかけて、三千万円でしょ」
日本語が通じないだろうとは思うものの、高木はカウンターの中の女を、そっと見た。
「つまらんことを言うな」
寺尾もちらと女を見て、
「三千万の金を稼ぐのは大変だぞ。しかも、この金は税金がかからないのだ」
「でも、この前は、新宿辺でチョコチョコで六千万入ったでしょう」
「あれは例外的なケースだ。いつも、ああだと思ったら、とんでもない。そう甘くはない」
「はい」
「とはいうものの、ぼくも少々不満ではあるのだ」
「でしょ?」
「しかし、長島さんの哲学だからな。こちらもハッピーだが、被害者《あちら》もハッピーにする、というのは……」
「その〈コン・ゲーム道〉ですけど、建前じゃないのですか。笑っちゃいますよ、思わず」
「あの人の前で笑ってはいけない。ぼくや旗本君だけではどうしようもない時に、七千万円、入ったのだ」
「七千万?」
「いや、六千万、だ。おかげで、一息つけた」
「とらぬ狸《たぬき》の皮算用をしても、合計九千万円。全部で、いくら要るのでしたっけ?」
「二億三千万円」
「大変だ。あと一億四千万円を、どこから捻《ひね》り出すのですか!」
ハンバーガーの大きな皿が、寺尾の前に置かれた。
「あとのことは、今、長島さんが考えているはずだ」
そう答えて、寺尾はフライドポテトにケチャップをかけた。
「へえ……」
高木は呆《あき》れたように首をふって、
「ホノルルのことですが、ドルを円にかえるのは簡単なのですか」
「ブラックマーケットの両替屋の仕事だよ。まったくのビジネスだ」
「円を日本に持ち込むのは?」
「それも、ビジネスの一つだ。両替屋が〈運び屋〉を用意する」
「〈運び屋〉?」
「現金を運ぶプロだ。ハワイと日本を往復している連中で、税関|馴《な》れしている。バッグやスーツケースには入れずに、身につけているのだ」
「一人でできるのですか」
「ダウンジャケットの裏側に入れれば、一人でも可能かも知れない。ふつうは、一人が六百万円ぐらい、肌につける。三千万円だったら、四、五人か」
「へっ!?」
高木はますます呆れて、
「じゃ、手数料をとられますねえ」
「若干は、仕方なかろう。でも、彼らの本業は別にあって、旅行の|ついで《ヽヽヽ》にやるわけだから、格安だ」
「|ついで《ヽヽヽ》、ですか」
「もっとも多いのは、香港と日本のあいだだそうだ。よくは知らないが、パック旅行を利用すると巨額の金が運べるらしい」
「どうやるのですか?」
「しつこいな、きみも」
ハンバーガーを頬張りながら、寺尾はむっとした顔になる。
「具体的なことがわかってれば、ぼくがやっている」
「たしかに……」
アタッシェ・ケースの中の札束を改めた寺尾が言った。
スタイナーは何も言わない。スタイナーの脇にうずくまった秘書は、物々しい顔つきでフィルムを点検している。
ホテル・タフトの小さな部屋の中である。昨日、ロビーでは困る、と寺尾が言ったので、スタイナーは、ただちに、部屋を予約したのである。
高木はロビーにいる。フィルムの贋作《がんさく》部分がバレて、寺尾が捕まる場合を考え、高木だけは逃げられるようにしたのである。
「問題はないと思います」
秘書が顔をあげた。
「そう思うかね」
スタイナーは奇妙な念の押し方をした。
「イエス、サー」
「きみがそう思うなら、よかろう」
スタイナーは無表情のまま言った。
「これで終ったよ、ホンゴー君」
寺尾は答えに窮した。
ニューヨークでの日本文化ブームに乗じて、悪いことをしたのは確かである。ほっとする反面、みじめな気持にもなった。
「フィルムはポーターに運ばせよう。……ではまた」
スタイナーは椅子から立ち上った。握手をすべきだろうかと戸惑った寺尾は、一礼して、アタッシェ・ケースを片手に、ゆっくりと部屋を出た。
ホテルに戻ると、幾つかメッセージが届いていた。
一つはテレビの日本語番組出演の催促、一つはジャパン・ソサエティでのパーティーへの招待、もう一つは名前だけだった。それらにエレベーターの中で眼を通し、高木とともに部屋に向った。
「ぼくの部屋より、数等、立派ですね」
高木が、ぽつり、と言う。
「寒さは同じだ。それよりも、札を一枚一枚数えよう」
寺尾はアタッシェ・ケースをテーブルに置いた。
「せーの、で行こう。きみは時間がないのだ」
二人は椅子にかけて、アタッシェ・ケースの札束を数え始めた。
高木を乗せたタクシーが走り出したのを見て、寺尾は安堵《あんど》した。
(ずいぶん、手間をかけた……)
フロントの前を抜けて、エレベーターを待っていると、
「……さん」
と、日本語がきこえた。
(まさか、おれでは)
「寺尾さん」
見知らぬ女が近づいてきた。年齢は三十代の半ばか。
「寺尾さん、ですね?」
誰何《すいか》するように言った。
「はあ……」
彼はあいまいに答える。
「私、こういう者です」
ショルダーバッグから出した名刺には、寺尾が知らない通信社の名が日本文と英文で印刷してあった。
「どうして、私を?」
「ビデオ会社の方にきいたのです。日本のテレビ界のうるさ型がきていらっしゃるって」
寺尾はひそかに舌打ちをする。口が軽い奴が多くて困る……。
「私ども、小さな新聞なのですが、在留邦人には熱心に読まれております。できましたら、日本のテレビ事情を取材させていただこうと思いまして」
「ずっと、お待ちになっていたのですか?」
「はい、バーで」
「そうですか」
無下に断るわけにもいかなかった。
「あまり時間がないのですが……」
「けっこうです」
「じゃ、三十分ばかり」
「嬉しいわ!」
女は勝手にはしゃいでいる。
暗いバーは、幸い、空《す》いていた。丸テーブルに向い合せにすわると、女は小型テープレコーダーのスイッチを入れた。
「テープがまわっていませんよ」
寺尾が注意すると、女は、あら、と呟いて、テープレコーダーを叩いた。寺尾は、うんざりして、別なスイッチを動かしてやった。
「日本を出て十五年経ちますので、少々見当ちがいの質問をするかも知れません」
と、女は前置きして、
「こちらでも、日本のテレビ番組を流してはいるのですが、NHKの大河ドラマとか、そういったものばかりで……」
「そういう事情は日本でも同じです。アメリカの人気番組は一つも放送されておりません」
「でも、娯楽番組を観たいですわ。たとえば、コント55号とか……」
寺尾は、心理的に、ズッコケた。
「あの……コント55号は元気でしょうか」
「元気は元気ですが……」
「欽ちゃんは、あいかわらず、跳び上ってますか」
「もう跳び上りません。でも、彼は元気です」
「『シャボン玉ホリデー』は変りませんか」
女の表情は真剣そのものである。
これは大変だ、と、寺尾は思った。
「あの番組は、とっくに終りました。もう十年以上まえです」
「まあ!」
女はびっくりした。
「ザ・ピーナッツは、いま、何をやっていますか? グループサウンズが漫才ブームに押されているって、本当ですか」
翌朝、寺尾はプラザへ行き、山岸久子をピックアップして、ケネディ空港に向った。久子は真新しいミンクのコートを着ていた。
空港には早く着いたので、二人はカフェテリアに入った。アメリカン・スタイルの朝食がとれる最後の場所である。
ファースト・クラスの待合室に入り、名前を名乗ると、アメリカ人の接客係が、長い封筒を手渡した。裏がえしてみると、スタイナーのサインがあった。
呼吸がとまるほどのショックだった。ソファーの片隅で彼は手紙をひろげた。
〈ミスター・ホンゴー――いや、ミスター・テラオ。
B級のコン・ゲームに招待してくれて、どうもありがとう。
私が騙《だま》されなかったと主張したら、それは嘘《うそ》になるだろう。いくつかの疑問を抱きながらも、私は、途中までは騙されていた。(東京でのあの奇妙なパーティーのチェックのきびしさ、「最後の侍」の六分間の画質の変化、などが私の疑問点だ。)
きみときみの相棒が私の家から去ったあと、私は、念のために、オリエンタル・フィルムに電話してみた。日本人のボスが電話に出て、ホンゴーという名の男は知らないと答えた。その瞬間、私はすべてを察知した。
これ以上の説明は不用だろう。ホテル・タフトからきみを尾行した私の秘書が、きみの名前を調べてきた。
ところで、あの金は、あくまでも≪努力賞≫の賞金であることをお忘れなく。そして、≪珍品フィルム≫をありがとう。私はきみたちのカミカゼ的コン・ゲームに対して、私のポケットマネーの一部をあたえ、これからは、日本映画通を自称するNYのスノッブ的批評家どもに一杯くわせて楽しむことにする……。〉
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第六章 贋作の光景
一九八〇年代前半の東京で、急速に流行し、大衆化したものに、カフェバーがある。
読者《あなた》が、手元の国語辞典をひもとくと、
〈カフェ〉=@コーヒー。Aコーヒーその他の軽い飲料を主として供する店。B大正・昭和初期、酒類と女給の接待を伴った洋風の飲食店。カフェー。
――といった具合に説明してあるはずだ。
中には、〈カフェ〉という言葉がなくて、〈カフェー〉と、いきなり、和風の表記で出てくる辞典もある。
〈カフェー〉=@(西洋で)コーヒーを飲ませる店。A(日本で、かつて)女給をおき、洋酒類を飲ませた店。
しからば、〈バー〉とは何かと頁をめくると、
〈バー〉=(居酒屋の馬つなぎ用の棒の意から)酒場。居酒屋。
であり、ことのついでに、英和辞典で〈カフェ〉をひいてみると、
〈cafe〉=@コーヒー店、コーヒー。A(手軽な食事のできる)喫茶店、料理店。(米)バー。
とある。
〈カフェ〉=〈バー〉であるならば、〈カフェバー〉とは、屋上屋《おくじようおく》を架すたぐいの和製英語と見なさなければならない。
もっとも、こんなことをいちいち気にしていたら、東京では生きていけない。
カフェバー? そう、コーヒーとトロピカル・ドリンクとスパゲティが出るの。要するに、このあいだまでのパブ・レストランが、装いも新たに、少々気どって現れたわけね、と軽く納得して、新しい風俗に身をゆだねなければならない。なにしろ、全店地図つきの「東京のカフェ」なる本が出るご時世なのだから。
「いったい、どこが新しいのかね?」
長島老人はハイボールのグラスをテーブルに置いて、店内を見まわした。
青山の裏通りにあるカフェバーの一隅。
床は大理石。家具はアンティーク。壁は純白で、観葉植物が適当に置かれている。いわば、カフェバーのスタンダードであるが、満洲《まんしゆう》の広野に沈む夕陽、いや旭日《きよくじつ》高く輝けば、の旭日を想わせる形の大きな鏡は、往時《むかし》を今に、のアール・デコ調。
この雰囲気にもっとも合っているのは、古い背広を着た長島老人で、ハンチングをかぶったままのスタイルは、当世風にいえば、|もろ《ヽヽ》一九三〇年代だ。
「カフェバーというから、どんなに珍しいかと思ったら、わしの若いころのカフェーと殆ど変らん。女給がおらんだけじゃ」
「そう言われちゃ、一言もありません」
旗本は苦笑する。
「これで天井に扇風機があったら、まるで、カフェーじゃ」
「参ったな」
びっくりさせるつもりで案内してきた旗本は寺尾の顔を見た。
「そうじゃ……」
長島老人はつづける。
「窓に、ステンドグラスが欲しい。ステンドグラスを通す明りは、また、格別なものでな。あとは女給だ。女給のエロ・サービス……」
「|それ《ヽヽ》はどういうことをしたのですか」
旗本は、思わず、乗り出した。
「そういう話は、あとにしてくれ」
寺尾は旗本を制して、
「長島さんの計画通りに運びましたよ」
と、本題に戻した。
「高木君がホノルルで両替した金は、無事、手元にきました。三千万のうち、一千万はぼく、二千万円は旗本君に渡しました」
「すみません。とりあえず、必要なもので……」
旗本は頭をさげる。
「ご苦労でしたな」
老人は大きく頷《うなず》いた。
「実は、心配しとった。異国でのコン・ゲームは危険だからのう」
スタイナーに〈B級のコン・ゲーム〉と酷評された、とは、寺尾はいいかねた。自分はともかく、老人の自尊心が傷つけられるのを恐れたのである。
「おかげさまで、番組制作は順調に進行しています。三千万円ほど不足してはいますが……」
「ぼくの所も、あと三千万円ないと危いのです」
旗本は老人を見つめた。
「わかっとるよ」
「幸い、山岸久子が主役らしい|輝きを帯びてきました《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。ニューヨーク・ロケの副産物です」
旗本はつけ加えた。
「あなた方の言いたいことは、わかっておる」
老人は葉巻に火をつけて、
「あと一億四千万円を、どうやって、手に入れるか、ききたいのだろう」
二人は沈黙した。
「寺尾さんがニューヨークに行っているあいだに、わしは過去のフィルムやスクラップブックをひっぱり出して、ずいぶんと首をひねった。方法としては幾つか考えられぬこともない。しかし……言い訳ではないが、どれも、プロの仕事だ。プロが四、五人で組めば、二億円ぐらいは、なんでもない」
「アマチュアでは駄目、とおっしゃりたいのですね」
寺尾は念を押した。
「駄目とは言わぬが、むずかしい。……わしはともかく、あなた方は春秋に富む身だ。まともな道で力を合せれば……」
「それでは、六千万円調達は不可能です」
旗本が言いきった。
「まあ、ききなさい。強いて法を犯すこともないではないか。寺尾さんは窮状をテレビ局の幹部に打ち明ければよいのだし」
「長島さんは、どうするのです?」
「老人ホームを諦《あきら》めればすむことじゃ」
「まずいですよ、それは」
カウンターの人々を視界におさめながら、寺尾はしずかに言った。
「あなただけ不幸になるってのは、ぼくの方針に反します。全員が幸せにならなければいけません」
「そりゃそうだ」
と、旗本が賛意を表した。
「こうなったら、なんとしてでも頑張りましょうや」
「どう頑張るんだい」
と、寺尾がたずねる。
「それを、これから、考えようてえわけでさ」
十月半ばは東京でもっとも快適な時季だ、と寺尾は思っている。
久しぶりに時間が空いたので、彼は表参道の〈ポール・スチュアート〉に寄って、冬のジャケットを選んだ。
ニューヨークに本店がある〈ポール・スチュアート〉が、新宿の小田急ハルクの中に店を出したころからの顧客である彼は、表参道に大きな店が出た後は、ここを好んでいる。銀座にも店があるそうだが、寺尾は行ったことがない。仕事がら、六本木・赤坂・乃木坂・青山辺りが、行動範囲になっていて、銀座方面に出るのは夜、それも打合せや世俗の交際だけ、という生活だからだ。
一時間ほどかけて、ジャケット一着、セーター二枚、カーディガン一枚、さらにブルゾンを選んだ彼は、自宅あてに送ってもらうようにたのみ、クレジット・カードで支払いをした。
外に出たのは閉店まぎわだった。
どこかで食事をして、オフィスに戻らなければならなかった。日暮かおりが休暇をとったので、オフィスを任せられる者がいないのだ。
(久しぶりに和食を食べたい)
と思った。
近くに懐石料理の店があるのだが、もう少し気軽なほうがいい。
彼は青山通りを渡って、南青山五丁目の裏通りに入った。
外見がディスコのような店がある。ごく平凡な外見だが、中は入り組んでいて、入ってすぐ、大きなバーがある。天井に近い受像機でマイケル・ジャクソンが踊っていた。
かまわず、突き当りのドアを押すと、奥はイヴェント・スペースで、小さなコンサートや映画の試写ができるようになっている。今夜は、なにもないらしく、数人の男がプロモーション・ビデオを観《み》ていた。
廊下を右に折れ、鉄の階段をおりると、丸いテーブルが幾つか置かれたスペースに出あう。ふたむかしまえの草月ホール・ロビーに似たオブジェが飾られていて、これがジャパニーズ・レストランである。
寺尾は、バドワイザーと前菜をたのみ、ゆっくり、品書きを眺めた。鰤《ぶり》と大根の煮つけがうまそうだった。
(けったいな環境だが、ニューヨークの日本料理屋のようなことはあるまい)
と彼は思った。
(あれはひど過ぎた……)
女の子がくると、彼は蒸しがれいと煮つけをたのんだ。
(やはり、日本がいい。だいいち、暖い)
ニューヨークの寒さが、よほど、応えたようである。バドワイザーを飲みながら、壁のポスターをぼんやり眺めている。
「浜野さん!」
きき覚えのある声に、思わず、ビールを吹き出した。ま、まさか、こ、こ、こんな場所に……。
「奇遇ですな、これは」
徳利と|ぐい飲み《ヽヽヽヽ》を手にした宮田杉作が、ふらふらと近づいてきた。
「よろしいですか、すわっても?」
向い側の椅子を指さす。
「ど、どうぞ」
寺尾は動揺している。
「では、失礼して……」
金色のメタルフレーム眼鏡を光らせた老人は、寺尾の真向いにすわり、
「私は勝手にやらせてもらいます」
と、徳利を指さした。
「どうも、あなたはつかまりませんな。電話をかけても、いつも、いない」
「中近東方面へ行っていたのです」
寺尾はでたらめを言う。
「なにしろ、すべてを一人でやっていますので、貧乏ひまなしです」
ゆっくり、めしを食うつもりが、とんでもないことになった。
「気になさらんでください。友達がすくのうなった年寄の繰り言です」
「友達?」
寺尾は顔をあげた。
「男の友達はすくのうなった。私の歳では、あたりまえのことです。死ぬか、病気か、どちらかですな。……女たちは寄ってくるが、私相手ではない。私の金が目当てです」
「でも……」
「いや、慰めてくれんでもよろしい。わかっています。若い人で、私と付き合ってくれるのは、あなたぐらいですよ」
「ぼくが? 若い?」
「私からみれば青年です。恋も、仕事も、まだまだ可能性がある」
「そうでしょうか」
「あなたが野球選手なら別ですが……。男は、四十代の終りから、|もの《ヽヽ》が見えてくるので、なにかと面白いはずだ。ほんとうは、野球選手だって、同じことでしょうが、肉体の衰えが、もろに出る商売だから、|もの《ヽヽ》が見えても、口舌の徒になるしかない」
「はあ」
「大むかしに、『四十八歳の抵抗』って小説があったじゃないですか。|あれ《ヽヽ》ですよ」
「なるほど……」
寺尾はその小説を読んでいなかった。だから、しごく、あいまいな相槌《あいづち》になる。
「私はあなたを友達と思っています」
老人は、はっきりと言った。
「浜野さんがどう思うとるかはわからないが……」
寺尾は胸を衝《つ》かれた。
ぼくは〈浜野二郎〉ではありません、と口走りそうになった。あなたの〈友達〉どころか、〈敵〉なのです!
「宮田さんにお目にかかりたかったのです」
自分でも意外な言葉を口にしていた。
「例の一千万円ですが……あれは頂くわけにいきません。どうしても、お返ししたいのです」
もともと、寺尾は、すべてが片づいた時点で、一千万円を返すつもりでいたのだった。こんなに早く言い出す気はなかったのだが、なにぶんにも、感情に左右される男なので……。
「え?」
老人はびっくりした。
「ああ、あれですか」
「お返ししたいのです。銀行の口座番号を教えてください」
「それはおかしい」
と、老人は笑った。
「あなたは、一度、受けとったじゃありませんか」
「ええ。でも、やはり、受けとるべきじゃなかったのです」
「そう深刻にならんでください。たかが一千万円ぐらいで」
「ぼくにとっては大金なのです。返させてください」
「面白いな」
老人は酒を含みながら笑う。
「私から金を毟《むし》りとる奴は多いが、どうしても金を返したいとは……。ますます、気に入りましたぞ!」
「じゃ、銀行を教えてください」
「いや、教えない。宮田杉作、意地でも受けとれませぬぞ」
「では、現金をお宅に届けます。女の子が使いに行くでしょう」
「むむ、本気ですな」
老人は|ぬた《ヽヽ》を口に放り込んで、
「そこまで思いつめておられるなら、妥協案を考えねばならない」
「は!?」
「あなたは一千万円を返したいと言う。私は|金は《ヽヽ》受けとれないと言っている。この中間に歩み寄るのです。どうですか?」
「意味がわかりませんが」
「そう。たとえば……これは、あくまで、思いつきですが……思いつきですよ、ほんの」
「はあ」
「……山岸久子のヌードの絵ですな。しかるべき人に描いて貰《もら》えば、一千万円ぐらいかかるでしょう」
「さあ。その方面に疎くて……」
「たとえば、そういうもの――これなら、喜んで、受けとります。あなたは、一千万円を使い果せる。妥協案とは、これです」
「なるほど」
寺尾は呆《あき》れた。まだ、山岸久子にご執心なのだ。
「わかりました。ぼくの友達で、美術評論家がいますので、相談してみます」
「一流の画家でたのみますよ。なにしろ、宮田コレクションに加えるのですから」
「宮田コレクション?……」
「東京の人はご存じないかな。わが町では、有数のコレクションですよ。足利市で宮田コレクションを知らぬ文化人はおらん」
「じゃ……そこに飾るわけですか」
「もちろんです。最高の場所に飾りますよ」
寺尾は仰天した。
以前、老人の家を見、応接間まで通されているのに、美術品を蒐集《しゆうしゆう》しているなんて、初めてきいたのだ。
「はは、驚きなさるな。わがコレクションは、一般人には公開しとらんから、知らぬ人が多い」
「おそれいりました」
「お友達の美術評論家には、ぜひ、見て貰いたい。いつでもいらっしゃい……」
日暮かおりが意外なほど明るい顔で出社したので、寺尾はほっとした。
「どこへ行ってたの?」
と、つい、よけいな質問をする。
「ハワイです」
「あまり灼《や》けてないね」
「肌を灼きませんから」
と、彼女は答える。
「ホノルルじゃなかったのか」
「あんなとこ」
軽く嗤《わら》って、
「ハワイ島です」
「いつか、きみが言ってたベラボウに高いホテルか」
「ええ、火山を見ていました」
「部屋に閉じこもってかい」
「ウディ・アレンの短篇集を持って行ったのです。眼が疲れると、ときどき海を眺めました」
「海には一度も入らなかったのか」
「ええ。溺《おぼ》れるのがこわいですから」
「じゃ、永遠と死とかいったテーマについて考えていたのか」
「いえ、核戦争のことを……」
寺尾はびっくりして、口を噤《つぐ》んだ。
「太平洋の果てまで」の録画は順調に進行している。一月放送だから、時間は充分にあるのだが、年末が近づくと、タレントたちが忙しくなるので、十月いっぱいで録画を終えねばならない。
「久しぶりに呼び出されたから、美術関係の番組でも作るのかと思った」
コールマン髭《ひげ》を鼻下にたくわえた色白の美術評論家は、苦笑いを見せた。
「申しわけない」
寺尾は、さして、申しわけなくもなさそうな感じで言い、
「きみじゃなきゃ、わからないことなんだ」
「寺尾君の用というのは、いつも、つまらぬことばかりだ。ぼくだって、昔みたいに暇じゃないんだぜ」
「わかっている。講演料が、一時間四十万円だそうだね」
「よく知ってるね」
「いちおうは調べた」
寺尾は上半身をねじって、ボーイにコーヒーのお代りを命じた。
「帝国ホテルの地下に、こんな喫茶店があるとは知らなかった」
評論家は感心した様子で、
「大学時代から、きみは穴場を探すのがうまかった。ラーメン一杯が三十円か三十五円のころに、二十五円の店を探してきたじゃないか」
「いま、ラーメンが一杯いくらか知っているかね?」
「さあ……」
「三百円から五百円のあいだだ」
と、寺尾は言った。
「ところが、新宿に、一杯百円の店がある。信じられるかい? 〈難民救済ラーメン〉ていうんだ」
「なんだ、それは」
「はっきりいえば、貧乏人用ってことさ」
「なるほど。きみは、いまでも、穴場探しの名人なんだな」
「こんなコーヒー一杯で、名士にものをたのむつもりはない。今夜、『マキシム・ド・パリ』へ行かないか。よければ、テーブルを予約するが……」
「そいつはいいね」
評論家は乗り気である。
寺尾は立ち上り、電話でテーブルを予約した。
「うまく空《あ》いていたよ」
「たのしみだな」
「ところで、用件だ」
寺尾がきり出そうとしたとき、相手は浮世離れした調子で、
「そうそう……きみの奥さん、いや元奥さんというのかな――真知子さんの文章を拝読したよ」と言い出した。
「ああ……」
寺尾は生返事をする。
「ヤング向きの雑誌にずいぶん書いているじゃないか、ロスからの通信を。アメリカ文学を紹介した文章も読んだぜ」
「なんでも屋だな。とうぶん、ああやって食うつもりだろう」
「〈MACHIKOの街〉というエッセイも読んだ。リトル・トーキョーではいい顔のようだね」
「もう四年以上だから」
寺尾は感情を抑制した。
「たまには逢《あ》うのかい」
「日本に帰ってくると、電話がくる。年に、一、二回は逢うね」
「だいたい、きみらは別れる必要があったのか?」
「よく考えると、ないのだな」
「真知子さんは、かっとなる人だったな。かっとなって、突っ走ったのだ」
「しかし、いまさら、仕様がない。子供がぼくを憎んでいるし」
「お子さんはどこにいるの?」
「真知子の実家にいる。一時、ロスへ行っていたのだが、水が合わないらしく、帰ってきた」
「もう大学生だろ」
「うん、まあ」
「大変だな」
「近々、息子の将来について話し合わねばならんのだ。このあいだ、ニューヨークへ行ったのだが、スケジュールがきつくて、ロスにまわる時間がなかった」
「そりゃ、まずい。両親のどちらかが、そばに付いていなければ……」
「ぼくでは駄目なのだ。息子はぼくの顔を見ただけで、怒り始めるのだから」
「顔を見ただけで?」
「顔がぼくにそっくりなのだ。大学時代のぼくと瓜《うり》二つさ」
寺尾は溜息《ためいき》をついた。
「あそこまで似ると、問題だな」
「再婚すべきだよ、きみ」
と、評論家は断定的に言った。
「え?」
「再婚だよ」
「だれと?」
「真知子さん、さ」
「それは……」
寺尾は自分の口調に未練がましさが滲《にじ》むのをおそれた。
「むずかしいんじゃないか。自尊心が強い女だからね。その自尊心をぼくは傷つけたのだから……」
寺尾と美術評論家が足利市に向ったのは、翌々日である。
三十分刻みで動きまわる寺尾が、半日空けるのは、かなり、きついのだが、約束は約束だ。宮田杉作に対する罪の意識が寺尾をつき動かすようであった。
「遠いところを、よう来てくれた」
玄関まで出迎えた宮田老人はにこにこしている。
「お忙しい盛りでしょうに」
「たまには、眼の保養をしないと……」
と、寺尾は調子よく言った。
二人は、シャンデリアが下った古めかしい応接間に通される。かつて、明治大正文学全集と「新青年」が詰っていた本棚は、戦前版の「キネマ旬報」に占拠され、あとは初期のハヤカワ・ポケット・ミステリが数十冊、押し込まれている。
お手伝いさんがビールとグラスを運んできた。
「さ、どうぞ」
老人は早くもビールを注ぎにかかる。
寺尾は改めて、コールマン髭の評論家を紹介した。
「ほほう……」
老人は相手の名刺を見つめて、
「大学の講師をしておられるのですか」
と、感心する。
「はあ」
「結構ですな」
「は?」
「ぴちぴちした女子大生と、日夜、接触できるなんて、羨《うらやま》しい限りです。いろいろ、ありましょうな」
「へ?」
「誘惑ですよ。貞操を捧げて、単位をとろうなんて不心得ものがおるでしょうが。ひひひひひ」
「そんな。テレビドラマじゃあるまいし」と、評論家は言い、寺尾に気をつかって、「いまどき、テレビドラマにも、そんな女子大生は出てこないでしょう」と言い直した。
「そうですかな」
老人は悪い癖を出した。
「女子大生のソープ嬢とか、性《セツクス》産業への女子大生の進出は著しいものがあるじゃありませんか」
「女子大生が売春をすると考えるのが間違いなんです」
と、評論家は笑った。
「むかし、いたでしょう、インテリ風売春婦が。新宿二丁目の赤線で働いて、カフカを読んでいたりする娼婦《てあい》です。ショートタイムの終りに、マックス・ブロートのカフカ論を客とディスカッションしたりする……」
「そんな女、いたかい?」
寺尾はからかうように言う。
「たとえばの話、だよ」
評論家は大まじめで、
「ああいう娼婦が大学へ通う世の中だと考えりゃいいんです。女子大生が売春をしてるんじゃなくて、売春婦が女子大生をやってるんです」
「ほうほう」
老人は乗り出してくる。
「同様に、ソープ嬢が大学院へ通うこともあるでしょう。向うが学費を払う以上は、れっきとした生徒ですからな」
「ぼくらのころから、大学では、女のほうが強かったな」
と、寺尾は述懐した。
お手伝いさんが生牡蠣《なまがき》を運んでくる。
寺尾はその量に圧倒された。ニューヨークのとちがって、いかにも旨《うま》そうである。
「的矢《まとや》ガキです。産地から直送されたもので……」
と、老人はすすめる。
「ワインはいかがですか」
「頂きます」
評論家は頷いた。
「では、私に選ばせてください」
老人はお手伝いさんに、むにゃむにゃと囁《ささや》いた。
やがて、冷やされた白ワインが運ばれてくる。
味見をした評論家は、思わず、うまい、と呟《つぶや》いて、
「ぼくらのくる時間に合せて、冷やされたのではないですか」
「実は、そうです」
老人はにっこりした。
「この的矢ガキは、『マキシム』のより、うまいぜ」
評論家は、うっかり、口走って、
「いや、あれはあれで、旨かったけどさ」
「わざわざ来ていただくのですから、それなりの準備はいたしました」
と、老人はつづける。
「これから、二、三品、召し上っていただいて、中休みをいたします。その時、散歩がわりに蔵の中を見ていただこうという趣向で……」
「けっこうですな」
評論家はレモンを絞りながら言った。
寺尾は少しも、けっこうではない。さっさと蔵の中の絵を見て、東京に戻りたいのである。
が、もう少し、我慢しなければならない。
絵画に興味のない寺尾は、老人と評論家のやりとりにうんざりしながら、生牡蠣を食べ、仔鴨《こがも》とキノコのサラダを食べた。退屈過ぎて、眠くなりかけたほどだが、欠伸《あくび》はこらえた。
宮田コレクションを眺めてから、おもむろに、山岸久子の肖像――ヌードは彼女に断られたので――を依頼する画家を決めなければならなかった。
ようやく、老人が立ち上った。
三人は、一旦、庭に出て、屋敷の裏手の土蔵に近づく。ルノワール、モジリアニ、マチス、その他の泰西名画がそろっているという場所である。
その時、寺尾の上着の中でポケット・ベルが鳴った。
(なんだろう?)
胸騒ぎがした。よほど緊急な事態でない限り、ポケット・ベルでの呼び出しはないはずだった。
「すみません。電話をお借りできますか」
と、彼は言った。
「あいかわらずお忙しいな、浜野さん」
老人は屋敷の一隅を指さした。
宮田杉作は自分を〈浜野二郎〉というペンネームで呼ぶだろう、と、寺尾はあらかじめ、評論家に吹き込んである。とはいえ、二人だけで放置するのは危険だったが、いまや、それどころではない。
寺尾は廊下の隅の電話室に入り、自分のオフィスの番号をまわした。
――すみません!
日暮かおりの泣き声が耳にとび込んだ。
――私がぼんやりしてたんです。私が悪いんです!
――しっかりしろ。
寺尾は動転しそうになる。
――どうしたのだ、いったい?
――たったいま、銀行から電話があったのです。私がうっかりしてて、七十万円の手形を一つ、帳簿から落していたのです。
――え!?
――このままだと、不渡りになります。預金は殆どありませんから。
――待て待て。
寺尾は考えようとした。だが、じっさいには、もう、考えている余裕などなかった。
――ぼくのデスクのいちばん下の抽《ひ》き出しに、判が入っている。ハマノと彫ってあるはずだ。見てごらん。
――はい。
長い時が流れたように感じた。じっさいは、二分ぐらいか。
――ありました。
――その判と同じ袋にキイが入っているだろ。判とキイを持って、M銀行の支店へ行くのだ。そのキイと銀行側のキイの二つで地下の貸し金庫があく。金庫の中には通帳が入っている。
――どういう名義ですか?
日暮かおりは不審そうにたずねた。
――ハマノジロウ。ジロウは二《ヽ》に郎《ヽ》だ。心配することはない。怪しい金ではないよ。
――でも……。
――きみの疑問はもっともだ。帰ったら、説明する。とにかく、七十万、引き出して、手形を落すのが先決だ。
――じゃ、通帳には、七十万、記帳されているのですね。
――一千万、ある。
思いきって、寺尾は言った。日暮かおりは声を失った。
腕時計を見た寺尾は、押しつけるように、
――わかったかい。
――わかりました。でも、ショックだわ……。
電話が切れた。
寺尾は走って土蔵に戻った。
靴のままで飛び込み、評論家のそばに行く。
「どうかね?」
「予想した通りだ」
と、相手は、ルノワールらしい少女像を眺めながら言った。
「一、二点、あいまいなのがあるが、あとは、全部、贋作《がんさく》だよ」
「やっぱり……」
と言って、寺尾は窓ぎわの宮田杉作を見やった。
宮田老人は小さなソファーの背にもたれて、ロダン風の彫刻を眺めている。
「鑑定を必要とするものもある。しかし、正直にいって、贋作として有名なものばかりだ」
評論家は小声で告げた。
「有名?」
「昭和の初め、パリに日本人の贋作者がいた。石井|柏亭《はくてい》門下の洋画家だが、ヨーロッパの名画を大量に贋作したことで有名だ。当人が鑑定の才能を持っていたせいか、国際級の贋作者になって、向うの専門家さえ騙《だま》したものさ」
「ふーん」
寺尾はユトリロと記された十二号の絵を見つめた。
「そいつは、つかまらなかったのかい」
「第二次世界大戦まえに、日本に帰ってきた。贋作者ではないかという疑いは、当時でも、あった……」
「それで?」
「贋作の現場をつかまえない限り、贋作者を吊《つる》し上げることはできないのだ。少くとも、当時は、そうだった。東京の有名な美術館にも、この男の贋作が、いまだに飾られている」
「どうして、わかるのだ?」
「ご当人が、そう言っていた。十数年前に死んだのだが」
「ここに在るのは、その男のものか?」
「そうだ。贋作として世を騒がせたものが集っている。さいきん話題にならないと思ったら、こんなところにあったんだね」
「やれやれ。宮田さんは騙されたのか」
寺尾は唇を歪《ゆが》める。
「しかし、いままで、だれも気がつかなかったのだろうか」
「さあね」
評論家は複雑な表情になる。
「気づいたとしても、口に出さなかったのじゃないか。土地の権力者の機嫌を損ねてまで、真実を口にすることもあるまい」
「そういうものかね」
「厄介なことになったよ。ぼくは嘘《うそ》をつくわけにいかない」
その時、宮田老人が上機嫌で近づいてきた。
「お二人の顔色でわかります。感動以上のショックを受けられた。さあ、よろしかったら、食堂に参りましょう。鯛《たい》のレタス包みが用意してあります」
デザートを食べ終るまで、老人は絵画を話題にしない心くばりを示した。
コーヒーが出されたとき、初めて、評論家に向い、
「いかがでしたか、コレクションは?」
と、感想を促した。
「そうですな……」
評論家は言葉をえらぶ様子で、
「残念ですが、どうしても批評的に見てしまう癖がついておりますので、他の方《かた》のように手放しでホメるわけにはいきません。一種の職業病かも知れませんが……」
と、前置きした。
「ほ?」
老人は狐《きつね》につままれたような顔をした。すくなからず、意外だったらしい。
「宮田さんのためを思って申しあげるのですから、どうか、怒らないでください。良薬は口に苦し、という諺《ことわざ》もあります」
「なにを言いたいのですか」
老人は憤然とした。
「ズバッとおっしゃってください。ズバッと……」
「では、申しあげます」
評論家は馴《な》れた口調で言った。
「これは、あくまでも、ぼくの判断です。他の鑑定家の意見も求められたほうがよろしいと思いますが……」
「失礼な人だね。まるで、私のコレクションがいかがわしいもののようにきこえる」
「いかがわしい? そう言われるかも知れませんよ、識者には」
「すると、贋作が混っているとでも……」
「ぼくに判断できないのが二点あります。あとは、はっきり言って、贋作です。折紙つきといってよいものばかりで、ここまできた経路を辿《たど》れるのです」
老人は落雷にあったようだった。眼を見ひらいたまま、口をぱくぱくさせている。
やがて、救いを求めるように、寺尾の顔を見た。
「ほ、ほんと、ですか」
「残念ながら……」
寺尾は答えた。
「真実を申しあげるべきかどうか、二人で相談したのです。〈大変けっこうでした〉と、にっこり笑って帰ることもできたのですがね。……ぼくらだって、いやなことを、好んで言うわけはありません。宮田さんの名誉にかかわることですから、思いきって、申しあげたので……」
「わかりました」
老人はかすかに頷《うなず》いた。
「とり乱して、申しわけありませんでした。あなた方のお気持もわかりました」
「こうしたケースは、実に多いのです。ですから、個人のコレクションを見てくれ、とたのまれると、お断りするのが普通なのですが……ほかならぬ浜野君のたのみなので……」
評論家は言いわけするようにつけ加える。
「もはや、なにもおっしゃいますな」
老人は片手をあげた。
「あれらの絵|ども《ヽヽ》を、先祖伝来の刀で、斬り刻んでやります」
「早まらないでください」
評論家は慌てた。
「鑑定専門家の意見もきいてください。秘密は、必ず、守りますよ」
「もはや、見るも汚らわしいわい!」
「話題を変えましょう」と寺尾が口をはさむ。「山岸久子の件ですが……」
「私の前で絵の話はせんでくれ。山岸久子の肖像画も要らん!」
老人はヒステリックに叫んだ。
「鑑定家の意見はききます。その上で、燃やすか、ぶった斬るか、決めますぞ」
手がつけられぬ錯乱ぶりであった。
(若干の贋作は予想していた。しかし、大半とは……)
寺尾はコーヒーカップを受け皿に置いた。日暮かおりの動きを思うと、気が気ではないのだ。
寺尾がオフィスに戻ったのは九時近かった。他の社員の姿は見えなかったが、日暮かおりだけは残っていた。
かおりが、なぜ膨れっ面をしているか、寺尾にはわかっていたが、
「どうかしたのかい?」
と、とぼける。
「手形は無事に落ちました」
かおりは冷めたく答える。
「よかったな」
寺尾は空々しく応じた。
「ショックでした……」
と、かおりは溜息をつく。
根の暗い人間の特徴として、じわり、じわりと、イヤミを言ってくるはずだ、と寺尾は身がまえている。
「私、お金のことを思いつめると、髪の毛がまとまって抜けるんです」
相手はお岩様のようなことを言う。
寺尾は答えない。じわり、ちくり、と責められるのに馴れているのである。
「あまり、苦しめないで欲しいわ」
「え?」
そう言わざるを得ない。
「なんだい」
「預金があると知っていれば、安心していられたのです。七十万の手形を記帳しおとしたのは、私の責任ですが……」
「きみは誤解しているようだ」
寺尾はデスクに腰かけて、
「あれは、ある人から、一時的に借りたものだ。できれば、手をつけずに返したかった」
「金策のご苦労は察しています。先月から、ずいぶん飛び歩いていらっしゃったのを見てますから」
「万が一のために用意しておいたのさ」
「……でも……〈浜野二郎〉って名義はなんですか」
「それは、ぼくのプライヴァシーに属することだ。……こんな説明はしたくないが、ぼくは離婚をして、複雑な問題が生じている。寺尾文彦の名を使えない場合もある」
説明にもなにも、なっていなかった。いかに未婚のかおりといえども、説得されなかったらしく、
「へえ……」
と、不審そうな顔をする。
「〈浜野二郎〉の名は忘れてくれたまえ。二度と、口にしないでくれ」
「ええ」
「あの一千万は、なるべく早く、返さなければならない。筋の良くない金だ」
かおりが彼の顔を見つめるのを寺尾は意識した。
「じゃ、サラ金?……」
「まあ、遠くないね」
「まさか」
「本当なんだ、それが」
「そういうわけで」と、寺尾は旗本に言った。「山岸久子の肖像画は不要になったぜ」
「金持は気まぐれですな」
旗本は不快そうに言った。
寺尾、旗本、長島老人がテーブルを囲んでいるフランス料理屋は、床が真紅の絨緞《じゆうたん》、柱から天井、壁は、よくいえばバロック風、悪くいえば金ピカ、成金趣味で、寺尾はあまり居心地が良くない。ハープの生演奏も、ありがたいものではない。
それよりなにより、二日つづきのフランス料理が、寺尾は嬉しくなかった。彼は、十年まえまで、テリーヌをテリ焼きの一種だと信じていた男である。
黒い前掛けをした男がきた。
「なにか、お飲み物は?」
と、顔見知りらしく、旗本にたずねる。
この前掛け男がソムリエであるぐらいは、寺尾も承知している。寺尾はソムリエが嫌いである。ワインについての知識がなく、しかも、ソムリエがすすめるワインは高いからである。
「いつものやつ」
旗本は妙に馴れた言い方をする。いつの間に、ワイン通になったのか、不思議であった。
「かしこまりました」
ソムリエは一礼して、去ってゆく。
「よくある話じゃ」
長島老人はハープを弾く若い女を盗み見ながら言った。
「それにしても、四十点もの贋作とは念が入っている。うむ、面白い」
寺尾は少しも面白くない。
(そうだ!)
と、彼は思いついた。
(宮田杉作に一千万円を受けとらせる方法があった。はっきり贋作と決ったら、あれらを一千万円で買いとればよいのだ。これなら、宮田杉作も、いやとは言うまい)
給仕長が料理をききにきた。
寺尾は安い方のディナーを注文した。旗本の招待なので、なるべく負担をかけたくないのである。長島老人と旗本は、仔鳩のローストがどうの、鴨の胸肉がこうの、と相談している。
ようやく、話がまとまったころ、ワインがきた。ソムリエは、むにゃむにゃと説明したが、要するに、ただの赤ワインだ。
ソムリエは、鮮かな手つきで栓を抜き、湿っているコルク栓を嗅《か》いで、旗本の斜め前に置いた。よせばいいのに、旗本も、コルク栓を鼻の前に持ってきて、うむ、と頷いた。ワインといえば、メルシャンしか知らなかった男が、山岸久子の出世とともに、こうなったのだ。
次に、ソムリエは、旗本のグラスに、少量のワインを注いだ。旗本は重々しい表情で味見をし、いいだろう、と呟いた。なにが、いいだろう、だ。
三人は乾杯をした。一億四千万の|めど《ヽヽ》がつかないので、気勢が上らない。
「おかげさまで、あれは、久子の決定打になりそうです」
と、旗本が言った。
「番組の方は心配ないよ」
寺尾が応じる。
「ぼくが心配しているのは、ほかのことだ。……どうですか、長島さん」
「そうだな」
老人はワインを飲んで、
「考えが袋小路に入っていたのだが、贋作四十点余ときいて、少し元気が出てきた。真贋の不明なものがあると言ったね」
「ぼくの友人にわからんだけで、現代の技術をもってすれば、真贋は明瞭《めいりよう》になりましょう」
「それはいいのだ。専門家が見て、戸惑うものがあった、というのが、面白いのだな」
「そうでしょうか」
寺尾はどこが面白いのかわからぬ。三人寄れば文殊《もんじゆ》の知恵、というが、その知恵が、なかなか湧《わ》いてこないのだ。
「ひょっとしたら、ひょっとするかも知れんぞ、これは……」
老人は顎《あご》をなでた。
「どうかね、寺尾さん。コレクションのすべてを、五日ほど、借りるわけにはいくまいか」
「さあ……」
「無理かね」
「明日、鑑定家を呼ぶそうです。その結果しだいでしょう」
「ああ、そうか」
「贋作とわかれば、焼きすてる――と、カゲキなことを言っていましたから、たのめば、貸してくれるかも知れません」
「借りて、どうするのです?」
旗本が早口できく。
「言わぬが花だな」
老人はパンをちぎった。
翌日の夜、寺尾は、自社の二軒となりのビルの九階に入った。〈浜野二郎〉のオフィスは埃《ほこり》だらけで、電話にも、灰のようなものが、うっすらと付いている。
彼が入るのを待っていたように電話が鳴った。寺尾は送受器にとびつき、相手の苛々《いらいら》した声をきいた。
――いつも、留守、だな。ええ?
――私だって忙しいんです!
寺尾は言いかえした。
――失敬、失敬、許してくれ。
宮田杉作は、ころり、と変って、
――かっとしておるもので、つい、声に出てしまう。浜野さんにアタる筋合いのものではないのだ。
――どうかしたのですか?
老人は、美術品の真贋選別の鋭さで知られた鑑定家の名をあげた。
――宣告を下されたよ。大半は、贋作らしい。
――例の二点は、どうでした?
――|限りなく贋作に近い《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》そうだ。まあ、贋作だろう。
――やれやれ……。
寺尾は挨拶のしようがない。
――短気を起さないでください。一割でも、本物の可能性があれば、大事にしておいてくださいよ。
――全身の力が抜けてしまった。
――そうでしょうとも。
寺尾は力をこめた。
――とにかく、すぐ、お眼にかかりましょう。
――なにかというと、浜野さんに相談をもちかけてしまう。すまんですな。なんせ、たよる人がおらんので……。
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第七章 第三戦
「いつかの晩はたのしかった」
純金ぶち眼鏡に真赤な手編みカーディガン、ダンガリーのパンツという|いでたち《ヽヽヽヽ》が似合う安東氏は、かっ、かっ、と笑って、
「スタイナーちゅう男、フィルムを売ってくれと言って、小切手を出しました。金に糸目はつけんというのです」
「どうなさいました?」
寺尾文彦の代理として、所沢市の安東邸に現れた長島老人は、穏かにききかえした。
「すべてを、金で片づけようという考えが気に食わんです。ぽーん、と蹴《け》ってやりましたよ」
「痛快ですな」
一瞬、羨しげな表情になった長島老人は、応接間の壁のシャガールを、それとなく見た。
「私のような戦中派は、どうも、アメリカ人が好きになれんのです」
安東氏は、分厚いレンズのためにブキミにさえ見えるギョロ眼で、相手を見つめた。
「あなたは、いかがですか」
「私は戦前派ですから」
ジャズで踊ってリキュールで更けた過去を持つ老人は、あいまいに答える。
「アメリカ人というよりも、あの拝金主義ですな。あれが好かん」
と、安東氏は小鼻をひくひくさせる。
「私のようなコレクターは、コレクションそのものが目的なのです。金儲《かねもう》けのために集めているのではない。そこが、スタイナーにはわからんのでしょう」
「わかりませんとも」
老人は調子を合わせる。
「金なんてものは、天下の回り物です。自然に回ってくるのです」と安東氏。
さっぱり回ってこない不満を抱く老人は、答えない。回ってこないものを、ムリに回らせようというのが、今度の計画なのである。
「まだ、大丈夫です」
三時から診療が始まる。三時五分前であるが、安東氏は落ちついたものであった。
「寺尾さんは、電話で、あなたから用向きをきいて欲しいと言っておられた。また面白い趣向だと嬉しいのですがね」
「面白い――と思います」
老人は含みの多い言い方をする。
「ほほう。また、スタイナーですか」
「いえ、今度は映画ではないのです」
「ふーん」
安東氏は不満そうである。
「なにをやらかそうというのかな、寺尾さんは」
「泰西名画の展覧会です」
「展覧会?」
「ええ」
「どこが面白いのかな、そんなもの」
「面白く仕組むのです」
と、老人は相手を吸い込むような不思議な笑みをみせた。
昭和史とともに歩んだ詐欺師の魔術にひっかかった安東氏は、まばたきをして、
「仕組む?」
「一時間枠のテレビ番組です。その枠で〈批評家を批評する〉というテーマを作るのだそうで」
老人は、わざと、一息入れて、
「たとえば、本物と贋作をとり混ぜた展覧会をもよおします。その会場で、批評家、評論家の意見をきいて、録画するのです。そうすると、美術評論家がどのくらい、正確か――逆にいえば、どのくらいいいかげんかが、視聴者にはっきりとわかります。視聴者は、あらかじめ、本物か贋作かをテロップで知らされているのですから」
「……アメリカのテレビで、昔、〈キャンディッド・カメラ〉というのがあった。つまり、あれですな」
安東氏は、やや気が動いたようである。
「〈キャンディッド・カメラ〉を高級にしたものです。低級にすると、日本の〈どっきりカメラ〉になってしまう」
と、老人は念を押した。この台詞《せりふ》は寺尾に教えてもらったのである。
「なるほど。……寺尾さんは私に何をしろとおっしゃるのかな」
「番組の審査員です。つまり、〈批評家を批評する〉役ですな」
「ほう!」
安東氏の眼が輝いた。
「テレビに出ろ、と言われるのか」
「そうです」
老人は大きく頷いた。
「お願いできますか?」
「それはもう――いや、時間があいとるかな。あいてさえいれば、出演するに吝《やぶさ》かではないが……」
老人は答えない。テレビ出演ときいただけで浮足立つ相手を、じっと観察している。
「しかし、この私に、どういう資格で出ろと言うのかなあ。歯科医の肩書では、しようがないと思うがね」
「たしかに――今のままでは無理です」
「え?」
と、安東氏がきき直した時、部屋の隅の時計が三時を告げ、デスク上のインタフォンから、お願いします、と受付嬢の声がきこえた。
「わかっとる」
インタフォンに言いかえした安東氏は、咳払《せきばら》いをして、
「どういう意味です?」
と、たずねた。
「安東さんが番組に出演する必然性です。今のままじゃ、ちょっと……」
「私も、そう思う」
「そこで、第二のお願いが出てくるわけです」
「ふむ」
「本物の絵を一枚、提供して欲しいのです。もちろん、ガードマンを付けます」
「|そっち《ヽヽヽ》を先に言うべきでしょう」
安東氏は苦笑した。
「テレビ屋さんは|したたか《ヽヽヽヽ》だな。絵を借りる交渉をこうした形でやるとは」
「いや、そういうつもりでは……」
「まあ、よろしい。我が家にある数枚の絵は、父親のコレクションで、私の趣味ではない。貸し出すことに異論はありません」
「謝礼は用意してあります」
「金は要らん。私の持っていないフィルムを一本、寺尾さんから貰《もら》うことにする。いまRTVにある古い洋画が欲しいのだ」
「それは、むずか……」
「簡単さ。ポジから焼き増して貰えばいいのだから」
「そうですか」
老人は浮かぬ顔で答えた。
「たぶん、寺尾がとりはからうと思いますが……そうなると、たとえば、あの絵など、拝借できるのでしょうか」
老人は壁の絵を指さした。
さりげなくたずねたものの、それが、絶対真実正真正銘間違いなしのシャガールであることは知っている。かなり入念な下調べをおこなったのである。
「シャガールかね」
安東氏はつまらなそうに言った。
「親父《おやじ》が戦前に洋行した時に買ったものだ。しかし、どうせなら、本物であることが信じられない絵のほうが面白いのじゃないか。存在するのが奇蹟《きせき》のような絵のほうが……」
「は?」
老人は相手の言わんとすることが把握できなかった。
「今回は、こちらのシャガールで充分だと思います」
「まあ、そう言わずに……」
安東氏は立ち上り、先に立って、隣室へのドアをひらいた。
「暗いな」
そう呟いて、スイッチを入れる。天井の蛍光灯がついた。
昼間なのに、カーテンを二重にめぐらした部屋の壁に、縦が五十センチ、横が五十センチ弱ほどの油絵がかかっている。窓ぎわで楽器を手にしている女の眼の異様さに、長島老人はどきりとした。昭和の初めから絵画の真贋にかかわってきた彼は、この不気味な眼を忘れていなかった。
「わかりますか、作者が?」
安東氏は問うた。
「ヨハネス・フェルメール。一六三二年生れ……」
と、老人はおもむろに答える。
「初めて見る絵ですが、窓からの逆光気味の光線がなつかしい。それに、カーテンの濃い影も……」
老人は絵に近づき、ポケットから老眼鏡を出した。あら探しでもするように、壁ぎわにへばりついている。
ややあって、安東氏が言った。
「あなたが何を考えているか、わかりますよ。まず、これが本物のフェルメールかどうか、疑っている。ちがいますか?」
「まあ、そんなところです」
老人は後退しながら、なおも食い入るように見入った。
「一九六七年に出版された『フェルメールの全絵画』によれば、全作品は四十二点のはずだ。その中の一点が……」
「なぜ、ここにあるのか――それが、あなたの二つ目の疑問でしょうな」
「この絵のタイトルは?」と老人。
「〈リュートと女〉です。この主題では、メトロポリタン美術館にある〈リュートを弾く女〉がよく知られています」
「うーむ……」
「お疑いは当然です」
と、安東氏は微笑を浮べる。
「フェルメールときくと、天才的贋作者ファン・メーヘレンを想い出すのが、常識ですからね。メーヘレンはフェルメールと同じオランダ人ですし……」
「フェルメールその人にも謎《なぞ》が多い。不遇のうちに死んで、十九世紀末まで認められなかったのだから、二十世紀の贋作者がふるい立つわけですよ」
老人は、ようやく、ゆとりをとり戻した。
「全作品は四十二点というが、行方不明になったものまで数えると五十八点ともいわれる。だから、これも……」
「父がこの絵をベルリンで求めたのは、一九二八年でした。画家だったファン・メーヘレンが贋作に手を出したのは一九三二年ですから、ファン・メーヘレンの贋作ではありません」
自信をもって安東氏は言いきった。
「念のために申し上げておきますが、フェルメールの作品に用いられた絵具の分析で有名な、ミュンヘンのデナー研究所に鑑定を依頼したことがあります。その結果、〈贋作であるとはいえない〉という返事を貰いました。その鑑定書はあとでお見せします」
「新しく発見されたフェルメールについて、専門家は、それ以上のことは言えんでしょうなあ」
「面白いのはここです。絵の出所が当家であるのは秘密にしていただきたいのですが、この絵が公けになったら、日本の鑑定家、美術史のプロは、まず、せせら笑うでしょう。時価数億円のフェルメールが存在することじたい、信じられないでしょうからね」
数億円ときいて、長島老人の背筋が伸びた。
「面白くなってきましたね」
と彼は答えた。
「きみに心配をかけないために、明らかにしておく」
社長室のデスクに片肘《かたひじ》をついた寺尾は、日暮かおりに言った。
「〈浜野二郎〉名義の借金のうち、五百万を、これから、かえすんだ。見たまえ」
寺尾は小切手をひらひらさせた。
すべての絵を焼きすてると叫ぶ宮田杉作を説得して、それらを一千万円で買いとることにしたのだった。
もっとも、すぐに全額を渡すことはできない。とりあえず、五百万円ですべてを引きとり、ひと月後に残りの五百万円を渡す、という条件である。寺尾のしつこさに、宮田杉作は「それで気がすむなら、そうしてくだされ!」と、ついに承諾したのだった。
「ほんと……」
小切手の数字を確かめて、かおりは溜息《ためいき》をついた。
「よかったわ!」
「三十分後に赤坂のホテルで渡すのだ。安心してくれ」
その時、電話が鳴った。
送受器をとった寺尾は、相手の声をきいて、「悪いけど、外してくれ」と、かおりに言った。
バタンとドアがしまると、
――どうでした、シャガールは?
寺尾は小声で言った。
――シャガールどころじゃない。
長島老人の声である。
――とんでもないものが釣れてしまった。
――いま、どこからかけてるのですか?
――所沢の駅前だ。
――息切れしてますよ。
――ショックを受けたのだ。大変なものを見てしまった。
――なんですか、いったい?
――フェルメールだよ。
――フェルメール?
――驚かぬか。
――そんな名前の映画作家は知りませんね。
――映画作家じゃない!
老人は声をとめて、喉《のど》の啖《たん》を切った。
――……寺尾さんは知らんのか。幻の画家だよ、十七世紀の。
――は?……。
――あったのだよ、安東家に。
――そうすると、われわれの計画は変るのでしょうか。
――変らない。
老人はがっかりした声である。
――わしは急いで帰る。きみの幽霊オフィスに集ることにしよう。
――でも、ぼく、これから……。
――旗本君と高木君をつかまえておいてくれ。では……。
電話が切れた。
寺尾はなにがなんだかわからない。元来、書画や歌道に暗いのである。
(弱ったな、これは……)
彼は旗本プロに電話してみた。
電話に出た女の子が、旗本も高木も外出中だが、連絡が入るはずだ、と答える。
――じゃ、至急、寺尾あてに連絡するように伝えてください。
(宮田杉作が待っているのだ。どうしよう?)
彼は困惑した。
(仕方がない……)
彼はドアをあけながら、日暮君、と猫なで声を出した。
「あっ!」
かおりはびっくりする。
「どうした?」
「筋の良くないお金ときいてから、いつも、不幸な想像ばかりしているもので」
「きみに頼みがある。赤坂プリンスの新館を知っているね」
「ええ。このあいだ、ロケをした所ですね」
「あれはホテル・ニューオータニ。道をへだてた反対側のホテルだ」
「あの白いピカピカした……」
「あそこに宮田という男をたずねていって欲しい。この小切手を渡して、受けとりを貰う」
「社長が、ご自分で行くのだと思ってましたけど……」
「そのつもりだった。しかし、いま、電話がかかってきて……」
「怖くなったのですね。だから、私を行かせようと……」
「ちがうよ!」
寺尾はうんざりする。
五百万円の小切手を受けとった宮田杉作は、ただちに電話をかけてきて、絵をすぐにでも引き渡したい、と寺尾に言った。
寺尾は返答に窮した。絵を収納する場所をまだ決めていなかったのである。
あちこち電話した挙句、ようやく、見つかった。北青山の裏通り、某ブティックが閉店したあとが小さな倉庫になっており、そこが借りられたのである。
数日後、足利運輸と白く書かれたトラックが倉庫の前に停まった。
「これだけ、はっきりした贋作《がんさく》も珍しいな」
倉庫内の壁に立てかけられた絵を、ひととおり見終った長島老人が苦笑した。
「寺尾さんのお友達も指摘したと言うとったね。じゃが、ドガとモネは、わしにも鑑別できない。ひょっとしたら――という気をおこさせるぞ」
「そうですか」
寺尾はズボンのポケットに両手を入れたままで答える。ニューヨークで買った白いジャンパーが、早くも、灰色に汚れている。
「ヨーロッパでは、本物と贋作を対比したり、贋作ばかりを集めた展覧会が流行しとるそうじゃ。だから、わしらは、時代の尖端《せんたん》を行っとることになる」
老人は楽しげにつづける。
「わしに言わせれば、真贋不明のこの二点――ドガとモネが、|みそ《ヽヽ》じゃ。この二つのために、純粋贋作展という看板が怪しくなってくる。ひょっとしたら、本物が混じっているのではないか、と疑う人間が出てくるにちがいない……」
「そう、うまく行きますかね?」
「行くはずじゃ」
と、老人は頷く。
「わざわざ絵を見にくるほどの人間ならば、ふつうは〈贋作があるのではないか?〉と疑いのマナコで見る。……逆に、純粋混じりっけなしの贋作展、と謳《うた》えば、〈本当にそうだろうか? ひょっとしたら、本物が混じっているのではないか?〉と疑うヒネクレ者が出てくるのじゃ。そのさい、あの二点の存在が効いてくる。なるべく、入口に近い場所に、適当に配置すべきだろうね」
「なるほど」
「あの二点を見ると、戸惑うにちがいない。〈これは、ひょっとすると、ひょっとするかも知れない〉とな」
「わかります」
老人の企みを寺尾は諒解《りようかい》した。ふだんは頭の働きが鈍ったようにみえるが、コン・ゲームとなると、とたんに冴《さ》えわたるようだ。
「しかし、全体としては、ひどい贋作だ。これじゃ、只でくれるのが当然だな」
只じゃありません、と言いたいところだが、寺尾はそうも言えない。
「ところで、ギャラリーはどこにするね?」
「銀座、赤坂あたりを考えてみたのですが……結局、ここでやろうかと思うのです」
「ここ?」
「はい。有名な画廊を借りると、なんやかや、気をつかいますからね。しかも、安東氏を納得させるためには、テレビカメラを入れなければなりませんし……」
「そうか。その問題があるのだな」
「それに、長島さんが考えた|あれ《ヽヽ》が必要です」
「おお」
「|あれ《ヽヽ》のためには、当然、仕掛けが要ります。この倉庫は、もともとが洒落《しやれ》たブティックでしたから、ちょっと、手を入れれば、立派なギャラリーになります」
「ふむふむ」
老人はキャンバスの椅子にかけ、腕組みをした。
「ひとつ、心配なのは――不自然に見えんかということだが……」
「この辺も、近ごろは、ギャラリーが増えています。持ち主のOKさえとれれば、大丈夫です。新しいギャラリーの柿落《こけらおと》し、ってことにするのです」
「寺尾さんも、だいぶ、人が悪くなったな」
「ご指導の賜物《たまもの》です」
「日本にフェルメールが存在するという噂《うわさ》は、もう、業界にひろまっとるはずだ。何人かの人間に囁《ささや》いたよ。〈絶対、秘密にしてくれ〉と言うて……」
「それだけで大丈夫でしょうか」
「わしらがマークした連中には、特製の招待状を出す。九割は確実と思うが……」
そのころ、所沢市の安東邸には、RTVプロデューサーの名刺を持った高木がいた。寺尾から根回しの電話が入っているので、安東氏はすっかり信用している。
「とりあえず、これを……」
応接間のペルシャ絨緞の上に積まれたフィルム・ケースの山を高木は指さした。
安東氏はケースのふたをとり、中のフィルムを改めた。
「ほほう」
思わず、|しみ《ヽヽ》がある頬の肉が弛《ゆる》む。
「私にとっては、夢にまで見た映画でしたよ。なにしろ、戦時中のものなので」
「コピーを作るまでが大騒ぎでした」
「でしょうな。いや、ありがとう」
もとのフィルムは、寺尾がRTVの映画部に交渉して、一晩だけの約束で借り出したのだった。「太平洋の果てまで」のための参考試写という名目があったのである。一旦、借りてしまえば、こっちのもの、いわゆるポジ=ポジ方式で焼き増しをして、コピーを一本つくり、もとのフィルムはすでにRTVに返却してある。
「なによりのプレゼントです。寺尾さんに、よろしくお伝えください」
「はあ」
高木は感じの良い笑みを浮べて、
「ところで、番組の宣伝材料として、貴重な絵をカメラにおさめたいのですが」
「寺尾さんからうかがっております。どうぞ」
安東氏はにこにこしている。
「離れた位置から、二、三枚、撮らせていただくだけです、じゃ」
と、高木はカメラマンに声をかけた。絵画撮影の名手とその助手が進み出る。
「こちらです」
安東氏は隣室へのドアを右手で示した。
「電源はふつうで大丈夫ですかな」
「大丈夫です」
と、カメラマンが答えた。機材を持った助手は眼を輝かしている。
「ひとつ、きれいに撮ってください」
そう言う安東氏の心は、積み重ねたフィルムの方に飛んでいる。
豊島区|雑司《ぞうし》が谷《や》。
都内に残る唯一の都電に早稲田で乗り込み、面影橋《おもかげばし》、学習院下、鬼子母神前《きしぼじんまえ》を経て、雑司ヶ谷でおりる。
この辺りは、町名変更で、〈雑司|ヶ《ヽ》谷〉が〈雑司|が《ヽ》谷〉になったが、駅名はそのままだ。同様に、墓地の名前は〈雑司ヶ谷墓地〉で、野田洋三の崩れかけた木造西洋館は、墓地のとなりにあった。
「ごめんよ」
長島老人が声をかけると、うう、と獣の唸《うな》るような声がして、ペンキが剥《は》げかけたドアがあいた。
総白髪《そうしらが》の長髪が肩までかかり、汚い和服をまとった初老の男が、へこ帯をしめ直しながら出てくる。
寺尾は新宿の地下通路にごろごろしている男たちを連想した。これでワンカップ大関でも手にしていたら、殆ど浮浪者である。
「おう……」
ていねいなような、人を見下すような調子で、首を突き出す挨拶をしてから、寺尾をじろっと見た。
「こちらが……」
老人が紹介しようとすると、野田は片手を振って、
「いや、名乗らないでけっこう。私だって本名じゃないのだから」
「これ、ご挨拶のしるしに」
寺尾が角ばったビニール袋をさし出す。
「ほう」
野田は寺尾の顔をみつめて、
「何だね、これは?」
「お初《はつ》にお眼にかかるので……」
「そんなことはわかっとる。中身は何かときいとるんじゃ」
「こういう男なんだ、寺尾さん」
と、長島老人は少しも騒がずに、
「オールド・パー二本だよ」
「けっこうだね」
野田は無表情のまま答え、
「十年まえなら、ジョニ赤一本で魂まで売り渡したな。さいきんはグレードアップした……」
ようやく気を許したらしく、庭の方にまわれ、という手つきをした。
家の外を、ぐるりとまわると、南向きの荒れたテラスがあった。白塗りの椅子が三つ置いてある。
テラスから、ガラス戸越しに、アトリエ兼応接間のような広い部屋が見えた。きれいに片づけられているのが意外だった。
野田はグラスを三つ持って、出てきた。
「穏かな秋の日だ。ここで飲もうじゃないか」
「おいおい」
老人は閉口して、
「お咲《さき》さんに叱られやしないか」
「……」
「お咲さんは、終戦直後の大映のニューフェースで、折原啓子と同期だった人だ」
老人は、寺尾に説明する。
「それが、なんの因果か、この男といっしょになって……」
「咲子の名前を口にしないでくれ」
野田は苦々しげに呟《つぶや》いた。
「いいじゃないか、あんなにいい奥さん」
「咲子は、今朝、出て行ったのだ」
長島老人は呆然《ぼうぜん》とした。
さすがに長く生きてきただけあって、自分たちが、どのような状況《シチユエーション》にとび込んでしまったのかを察した彼は、
「本当かね?」
と念を押した。
「ああ、家の中をすっかり片づけて、出て行った。ほんの、身のまわりのものだけ持ってさ」
野田の眼に涙が滲《にじ》んだ。
「わかった、なにもきかない」
長島老人はひざを叩いて、
「わしにも経験があることだ。しかし、お咲さんも、六十になるだろうに……」
「それを言わないでくれ」
野田の頬を涙が伝《つた》った。
「家をとび出して、酒を飲みたかった。……だが、長島さんとの約束があったし、金もなかった」
「よろしい。きみは飲みたまえ。われわれは次の仕事がある」
「うむ」
野田はデパートの包装紙を破り、箱をあけ、オールド・パーのボトルをとり出した。
「頂戴《ちようだい》するよ」
グラスに三分の一ほど注ぎ、一息に飲み干してから、
「話をきこうか」
と言った。
「ここでか?」
「不安かね。まわりは墓地だぜ」
野田は、ふっ、と息を吐いた。アル中だろうか、と寺尾は思う。
「長島さんの注文なら、ほぼ見当はつく。この前は、ピカソだった」
「よく覚えとるな」
「忘れない。こう見えても、記憶力は良い方だ」
野田は涙を拭《ぬぐ》った。
「今度はだれだね?」
「これだよ」
老人は布製のブリーフケースから一枚のカラー写真をとり出した。
「わかるだろう」
「フェルメールだな」
野田の眼が輝いた。
「これは本物じゃないか」
「ああ、本物だ」
「この絵を見るのは初めてだ。日本にあるのか」
「まあ、そんなところだ。こいつをコピーして貰いたい」
「日本のどこにあるのだ」
「なにもきかないで欲しい。黙って、コピーを作ってくれればいいのだ。……やってくれるかね?」
一瞬、気を悪くしたように見えたが、ぐっと堪《こら》えた野田は、
「サイズは?」
とたずねた。
「五十二・五センチ×四十六センチだ」
「例によって急ぐのだろうね」
「そうなのだ、実は……」
「フェルメールは、一度やったことがあるが、とても手がかかる。……まず、古いキャンバスを入手しなければならない。第二に、絵具だ。フェルメールの使ったのと同じ顔料を使う。しかも、油で溶かずにアルコールで溶く」
憑《つ》かれたように喋《しやべ》る男の眼を見つめていた寺尾は、(これは狂人だ)と、ひそかに呟いた。夫人が出ていった背景がわかる気がした。
「描き上げてからが厄介なのだ。いや、面倒くさいという意味ではない。面白いのだけれど、手がかかるのだ。――絵を古びさせるために、天火に入れて、ゆっくり焼く。餅と同じでヒビ割れが起るが、これを全体におよぼすために、ローラーでこすり、割れ目に墨と灰を注入する。この手かげんがむずかしい。しまいに、絵具を少しほじくって、ひじで叩く。こうやると、全体的に痛んだ感じになる……」
「きみの良心的な仕事ぶりには敬意を惜しまない」
老人はもっともらしく言った。
「しかも、きみは、必ず、きみ自身の刻印を入れている」
「まあ、な。人物の指を六本にするとか」
「きみが天才であり、日本一の……人物であるのは確かだ」
「もちろんさ」
「しかし、だ。今度の仕事は、少々、手を抜いてくれてもいい。いや、正直なところ、手を抜いて欲しいのだ」
「なに!?」
野田の手がふるえた。グラスがコンクリートの上で砕け、ウイスキーがとび散った。
「この天才に向って、手を抜け、というのか」
「金はある」
老人は銀行のマークが入った白と緑の封筒を出してみせた。
「金のためと思って、非良心的《ヽヽヽヽ》な仕事をして欲しいのだ」
「他《ほか》へ行けよ」
と、野田は力のない声で言った。
「レベルの低い贋作者がいるだろう、そこらに」
「いや、奴らでは、フェルメールは手がけられない。少くとも、展覧会にならべられるようなものは作れないよ」
「展覧会? なにをやろうとしているのだ?」
「ノー・コメント。その質問には答えられない」
「おかしいぜ」
「わしが欲しいのは、素人が見て感心し、玄人が見て贋作とわかるような絵だ。その|微妙さ《ヽヽヽ》を出せるのは、きみだけだ。しかも、きみは口が固い。重要なことだよ」
老人は相手を睨《にら》みつけた。
野田はもう一つのグラスでウイスキーを呷《あお》ってから、
「わかった」
と、ようやく頷《うなず》いた。
「いまひとつ、納得できないが、とりあえず、私は金が要る。この注文を断るわけにはいかない」
田園調布四丁目にある和風豪邸の寝室で、森京助は朝のオナニーに耽《ふけ》っていた。かっと見開かれた眼は、壁のパネル写真、水着姿のブルック・シールズに向けられている。
七十歳を過ぎても、毎朝、この儀式を欠かせない森は、本業が判然としない人物である。世間的には美術品の輸入業者となっているが、ここ十年ほど輸入の仕事からは遠ざかっている。その時代の風向きしだいで仕事を変える彼は、オイルショック以後はファスト・フッド業に手を出し、チェーン店〈手弁当〉が大成功している。
もっとも、〈手弁当〉の経営は別な名義になっており、森の名は表面に出ていない。戦後の闇市《やみいち》で一旗あげた人間の例にもれず、森の野心は、一流の財界人とのつき合いに向けられているのである。
「NAHA!」
森は鼻にかかった声をあげた。
(ああ、ブルッキー!!……)
すぐに、現実に戻った。
バスルームに入ると、彼はもう、その日の行動を考えていた。
迎えのハイヤーは、三十分後にくる。ハイヤーの中で、〈手弁当〉の売りものであるところの〈お袋の味・山菜弁当〉を食べながら、ポケットテレビでニュースを見る。それから、新橋のオフィスにいる秘書に電話をして、一日のスケジュールを調整する。彼がポット入りの焙《ほう》じ茶を飲み終ったころ、ハイヤーはオフィスのあるビルに着く――というのが日課である。
バスルームを出た彼は、庭に出て、郵便受けから新聞をとり出した。
独身主義の森は、老女中の死後、すべてをひとりで管理していた。家の中の冷暖房・ガスの管理等はコンピューターがやってくれるし、下着は会社で着がえればいい。マンション住いをしないのは、税金対策らしかった。それに、蔵の中のドラン、デュフィ、マリー・ローランサンが気になって仕方がない、とも噂されている。藤田|嗣治《つぐはる》をも含めた数々の本物の所蔵家、というのが、森の肩書の重要な部分であった。
かつて、本物を入手する金を得るために、彼は手段をえらばなかった。いかに闇市時代とはいえ、その方法は冷酷きわまりないものであった。
そのころ、薄く色のついた眼鏡をかけた中年男――たしか長島といったはずだ――を介して、彼は一人の画学生と知り合いになった。画学生は蒸しパン一つで一日を過すほど困窮しており、森の誘いに応じて、名画を模写するようになった。初めは、岸田|劉生《りゆうせい》や岡田三郎助、やがてはゴッホ、ゴーギャンにまで手を出すようになった。
安く描かせた贋作を、森は、長島を通して画商に売り込んだ。
贋作は画商に売りつけるのが、もっとも安全である。画商を騙《だま》してしまえば、責任を逃れられるからだ。もしも画商があとで贋作であることに気づいたとしても、こわがることはなく、こう反問できる。
――私は素人です。あなたは本職で、プロではありませんか。実は、私も少々怪しんではいたのですが、あなたが折紙をつけてくれたから、安心していたのです。
贋作をつかまされた画商は、|そのことを《ヽヽヽヽヽ》口には出せない。画商としての信用にかかわるからである。贋作は廃棄してしまうか、第三者に売りつけるしかない。
当時は、画商そのものも、かなり悪質であった。森は長島をクビにして、画学生・暴力団系の画商とトリオで、盛大に贋作を売りさばいた。闇米やサッカリンで稼いだ闇成金どもが、応接間に飾るために、それらの絵を買いまくった。無名の画学生はたちまち家を建て、映画のニューフェースと結婚した。森にとっては夢のような時代であった……。
(退屈だな……)
彼は新聞の経済面を斜めに読み終えて、そう思った。
(少くとも、私に関する限り、ことはない。世はすべてこともなし、だ)
縁側に戻ろうとして、郵便受けに白い封筒が入っているのに気づいた。新聞といっしょに差し込まれていたので、新聞を引き抜いたときに、中に落ちたのだろう。
ひっぱり出してみると、大きな封筒であった。差し出し人は六本木テレビ事業部だ。縁側から茶の間に入り、封を切ると、展覧会の案内であった。
(珍しくもない)
と、彼は舌打ちする。
(もう、絵の世界にはかかわっていないのに……)
にもかかわらず、ブラジル大使館から絵の買いつけを依頼されている。さいきん、大使館を建て直したので、建物にふさわしい絵が欲しいというのだ。
(いまさら新手の会はあるまいに……)
招待状をひろげると、〈御招待〉という真赤な押印が眼に入った。
〈ピカソから円空まで――贋作大展覧会〉
(ほほう……)
好奇心が動いた。
解説を読んでみると、世界中の贋作を集めた、とある。
〈名偽作かダメな贋作か、それはあなた自身の眼力が決めるのです〉
眼力《ヽヽ》という二文字が気になった。多くの贋作を見、にせ古美術をつかまされたこともあるが、森は自分の眼力に自信があった。
(とにかく、世界中の美術館で、一流品・本物だけを見てきたからな。ことに、この二十年間は、殆ど第三者として、冷静に眺めてきた……)
彼はパジャマを脱ぎ、ワイシャツを身につけた。
(〈名偽作〉――これも面白い言葉だな)
ちらと、暗い想い出が脳裡《のうり》をよぎる。……自分が仕掛けた贋作群は、現在のレベルだとどうだろうか?
(待てよ)
贋作の中に、フェルメールの名を見た彼は、苦笑した。この天才の作品を見るためだけで、ニューヨーク、ボストン、アムステルダム、ドレスデン、アイルランドと、世界を一周したことさえあったのだ。
(ひょっとしたら、むかし、おれが仕掛けた絵があるかも知れんぞ。うむ、面白くなってきた)
ネクタイをえらびながら、思わず、にやりとする。
(いずれにせよ、もう、時効だろう。久しぶりに、きたえ抜いたわしの眼力をためすのも一興だ)
「きますかね、カモが……」
ぽつり、と寺尾が言った。
外側を白く塗り直した〈ギャラリー・デリダ〉の中には、寺尾のほかに、長島老人と旗本がいた。高木もきたのだが、エトルスク美術の出物《ヽヽ》があるときいて、日本橋の美術商へかけつけていた。とにかく怪しい物を、すべて、ならべようという試みなのである。
「くるとも」
老人は自信をもって答えた。
「狙いをつけた三人には、六本木テレビの名入りの封筒で出した。本当は、四人をマークしたのだが、あいにく、一人は外遊中だった。これはまあ、現職の大臣だから、仕方がない」
「六本木テレビの封筒?」
寺尾はびっくりした。
「なんですか、そりゃ」
「わしが個人的に二十通ばかり作ったのじゃ。急いでおったから、寺尾さんに無断でやってしまった」
「まずいですよ、それは」
「なに、封筒は手元に戻ってくる。焼きすててしまえば、すむことだ」
「大胆過ぎますよ」
狭い店内を埋めつくした絵画の群れを眺めて、寺尾は溜息をついた。
「わしが狙ったカモは三人。そのうち、二人はひっかかってくると思う」
「思う、ですか」
旗本が揶揄《やゆ》するように言う。
「確信はある」
老人は無視するような口調で、
「しかし、現実にならない限り、きみら素人は信用せんだろう。だから、謙遜《けんそん》して、〈思う〉と言うたのじゃ」
「へっ」
旗本は小田原製の〈円空仏〉の頭を小突いた。〈円空仏〉は、ほかに、京都製、岐阜製、前橋製、名古屋製があり、身長一メートルから五十センチまで、さまざまだ。
「あっ!」
寺尾は声をあげた。
「ヤバい。所沢の先生がくるぞ」
ギャラリーの前に停まったハイヤーからおり立ったのは、安東氏だった。外出用らしい鼈甲《べつこう》ぶちの眼鏡をかけた安東氏は太いステッキを突き、左手でドアを押した。
「寺尾さん!」
安東氏の声は怒気を含んでいる。
「なんということだ、え?」
上着のポケットから招待状をつかみ出した。
「贋作大展覧会とはなにごとです! 私のフェルメールが贋作だとでもいうのですか」
「まあまあ」
寺尾はにこやかに椅子をすすめる。
「とにかく、おすわり下さい。お紅茶、おコーヒー、どちらになさいますか」
「紅茶だ。ウイスキーを垂らしてください」
安東氏はうるさそうに答え、きょろきょろと見まわして、
「ことと次第によっては、フェルメールを出品するのは、とりやめにします」
「そんな殺生な!」
旗本が叫ぶのを寺尾は手で制した。
「きみは、そこの喫茶店で紅茶をたのんできてくれないか。ダージリン・ティーに、ウイスキーを入れて。あの――ウイスキーは、スコッチ、バーボン、どちらがよろしいでしょうか」
「スコッチに決っとる。トウモロコシの汁を紅茶に入れてどうするのだ」
安東氏は不機嫌に言い放ち、椅子に腰をおろした。
「明日からスタートしますので、朝には、フェルメールがこないと困ります」
と、寺尾は穏かにつづける。
「お怒りはごもっともです。説明不足だったのは、ぼくの責任です」
彼はキャンバスの椅子にかけ、両手をひざの上で組み合せた。
「あの男は」と安東氏は長島老人を指さして、「真贋対照の展覧会をやると言うとったのに……」
「彼は口下手で、よくトラブルを起すのです。お許しください」
長島老人はむっとした表情になった。
「でも、部下のミスは、ぼくのミスですから。はは」
「笑いごとではない!」
安東氏は杖《つえ》で床を強く突いた。
「まあ、おききください。初めの構想では、真贋対照展覧会を考えていたのです。しかし、そういうタイトルをつけてしまえば、批評家は、初めから、身構えてしまいます。騙されまい、として見るにちがいない。――ところが、〈贋作大展覧会〉と、見るからに、ウソっぽい、インチキくさいタイトルをつけてしまえば、彼らは、心も軽く身も軽く、口笛吹き吹き現れるにちがいないのです。マイクを向ければ、勝手な批判を喋りまくるでしょう」
寺尾の口調は立て板に水であった。
「ここで、初めて、〈批評家を批評する〉というテーマが出てくるわけです。とにかく、批評家を油断させるのが先決ですよ」
「ふむ……」
「本物のフェルメールが存在するなんて、だれが信じますか。批評家どもはクソミソに言うにちがいありません」
「わかりました」
安東氏の態度が変った。
「すると、批評家や記者、ひとりひとりにインタビューするわけですな」
「ええ、しつこくやります」
「私の出番は、どうなるのでしょうか?」
「展覧会が終ったあとです」
と、寺尾はにっこりした。
「あんなことを言うていいのかね」
安東氏が帰ったあとで、老人は心配そうに寺尾にきいた。
「大丈夫ですよ」
「しかし……テレビ番組なんて、作らんのだろう」
「作りません」
「どう説明するのだ、あの先生に?」
老人はなおもたずねる。
寺尾は、わかりきったことを、という表情で、
「テレビ局の方針が変更になるのは、のべつじゃないですか。制作中止になった、と説明しますよ。絵はちゃんと返却いたします」
「それじゃ、まるで……」
詐欺、という言葉を、老人は呑《の》み込んだ。
そこに高木が戻ってきた。
「例のエトルスクは売れちゃってました」
「どんなものと言うとった?」
老人は念を押すようにたずねる。
「ギリシャ式の絵付き陶器だそうです」
「ふむ、マフィア関係の品物だろうな」
「マフィア?」
寺尾は老人の顔を見た。マフィアとは、おだやかでない。
「さよう」
と、老人は苦い笑いを浮べて、
「エトルスク美術の贋作工場はイタリア全土にひろがっておるが、この贋作産業には、マフィアがからんでおる。たとえば――絵付き陶器に例をとれば、南イタリアの秘密工場で、本物のギリシャ陶器をもとにして、様々な研究がおこなわれている。二千年前のと同じ陶土が南イタリアで採取できるのが強みだな。絵付けは、美術館のカタログを参考にして、手描きでおこなわれている」
「しかし、どうやって古く見せるのですか?」
旗本は興味津々のようである。
「もっとも効果的なのは、堆肥《たいひ》のなかに六カ月埋めることだ。堆肥の熱で、古色がついてしまう」
「そんなものですか」
高木は殆どやりたそうな声を発した。
「うむ。マフィアが本格的にからむのは、このあとじゃ。つまり、販売ルートの問題だな」
「販売ルート!?」
「本物らしく見せるためには、スイスに運ばなければならない。まあ、スイスの美術商が一枚|噛《か》んでいるわけだ。ところが、ご存じかどうか、イタリアは古美術品の国外流出にやかましい国だ。皮肉にも、|本物に近ければ近いほど《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、アルプスの国境で警官の検問にひっかかる率が高くなる。本物か贋作かの鑑定のために、荷物が差し押えられるのがふつうだな」
「そんなことまでして、なぜ、スイスへ運ぶのですか」
「スイスの美術商とアメリカのコレクターたちがつながっているのだ。――最近は〈古色づけ〉をやらずに、アルプスを越える傾向があるらしい。生《なま》のままで、スイスに持ち込み、スイス領内のどこかで、堆肥に埋めるのだ。こうすれば、法的な問題は全くなくなる。古代の品物のコピーを何十、何百運ぼうと、取り締りの対象にはならない」
「頭《ぺてん》ですな」
と、旗本は感心した。
「ひとごとではないぞ。明朝、ガードマンが本物のフェルメールを運んでくる。その瞬間から、作戦開始だ」
翌朝、フェルメールの「リュートと女」が運び込まれた。
四人は、前夜、野田洋三が運んできた贋《にせ》の「リュートと女」とならべて、見くらべる。
「素人目にも差があり過ぎますね」
高木が感想を述べた。
「野田という人の絵も、なかなかのものだと思ったけど、ならべてみると、どうもねえ……」
と、旗本が唸《うな》る。
「それをいうてはいかん」
長島老人はきびしく言った。
「その気になれば、野田は、きみらが判別できないような凄《すご》い作品を作れる男だ。これは、わざとレベルを落すように、わしが命じたものだよ。野田の偽作の腕前を云々《うんぬん》するのはやめてもらおう」
ギャラリーの入口には、テレビカメラを抱えた男たちがいた。
この撮影隊は寺尾が手配したもので、安東氏が現れる場合に備えたのだが、別な意味もあった。
招待日である初日に、招待客を、一人ずつ、ゆっくりと中に入れる。この〈一人ずつ区切る〉のが、真の目的だったのである。テレビカメラがあれば、それは、べつに不自然な強制ではない。ごく自然に、というべきか、カメラを意識した男たちは、重々しい表情で、受付の脇に立つ寺尾の前を通り過ぎてゆく。
そして、このテレビカメラが、まったくの飾りかといえば、そうでもない。入口付近の光景は、会場裏のモニターテレビに送られ、そこでは、椅子にかけた長島老人が画面を睨んでいる。カモの顔を見分けられるのは、なんといおうと、老人だけなのである。老人にとって、これは最後の大博打《おおばくち》になるはずだ。
招待状をポケットに入れた森京助は、ちょっと出かけてくる、と言って、外に出た。自分がどこへ行き、何をしているかを、社員たちに知らせないのが、この男の流儀である。そうした方法を、彼はハワード・ヒューズの伝記から学んだのだ。
タクシーをひろうと、
「青山へ行ってくれ」
と言った。
「青山のどこですか?」
「ベルコモンズを知っとるか」
「え? は、はい」
「ベルコモンズの前を通って、千駄ヶ谷方面に向ってくれ。あとは、指示する」
運転手は、わかりました、とも答えずに、アクセルを踏んだ。
(礼儀知らずめ……)
森はむっとした。昔の運転手はこんなものではなかった。
客の数がすくないので、旗本は退屈してしまった。
持ち場を離れて、モニター前の老人のところにゆき、
「拍子抜けしましたよ」
と声をかけた。
「うーむ」
老人もいささか気抜けした体《てい》である。
「入ってきた連中も、わりに、さっと出てゆきますね」
「そりゃ……かなり、ひどい贋作《がんさく》だもの」
「失望というか、莫迦《ばか》にしている感じですよ」
「それも仕方あるまい」
「寺尾さんを呼びましょう」
旗本は壁のボタンを押した。同時にチャイムが鳴りひびく。
モニターテレビの中の寺尾がびくっとし、すぐにフレームから消えた。
息つく間もなく、会場の隅のドアを押して、寺尾が入ってくる。
「なにか、あったのですか」
「退屈でたまらないと話し合っていたのです」と旗本が答える。「旗本退屈男なんて、ありきたりの洒落《しやれ》は言わないでくださいね」
「そんなこと言うものか」
寺尾は苛々《いらいら》した様子で、
「用がなければ、ボタンを押すな」
「初めは、どどっと入ってきたのに、跡切《とぎ》れましたね」
「でも、ポツポツとは来てるからな」
「高木はどうしてますか」
「道の車の中で欠伸《あくび》をしてるようだ」
「サンドイッチとコーヒーでも届けてやろう」
「寺尾さん、カモがきおったぞ」と老人が低い声で注意する。「財界の大物だが、ひっかかるかどうか」
ギャラリーの向い側のワーゲンの中で、高木はダレきっていた。
(カモだ)というブロックサインが寺尾からきたが、それ以上のサインはなかった。カモらしい大物風の男は、やがて、黒い車に乗って、去った。おそらく、興味を示さなかったのだろう。
高木の乗っているワーゲンは旗本のものである。
(そろそろ昼だな)
と、彼は思った。
(前の車の男も、うんざりしているだろう)
寺尾たちほどの切迫感を持たない青年には、コン・ゲームは遊び半分のものでしかない。
彼は白い電話機に手をのばし、ダイアルをまわした。
恋人は眼をさましたばかりだった。
――いま、どこにいるの?
――野暮用のさいちゅうだよ。
と、高木は答えた。
作戦をあやまったのだろうか、と、さすがの長島老人も不安になった。
(そんなはずはない。打つべき手は打ったのだ……)
一億四千万円が入るかどうかの瀬戸際である。
(たのむ……きてくれ……)
祈りは信じなかったが、自分の念力は信じていた。
モニターテレビのフレームの左端にタクシーが停まった。猪首《いくび》で、下唇が突き出た、上等のスーツに身を包んだ肥満した老人が、おもむろに車からおりた。
(森京助だ……)
老人の左手がのび、壁のボタンを押していた。
チャイムをきいた寺尾は、近づいてきた老人の手から招待状を受けとった。森京助様という文字を読みとった彼は、老人が狙っていた三人のカモの一人だと了解した。
「いらっしゃいまし」
寺尾は挨拶した。
「六本木テレビの事業部の人かね」
と、森は見下《みくだ》すように言う。
「ではございませんが、関係者です」
「ふむ」
森は早くも、入口近くのモネとドガに視線を走らせている。さっと眺めて、この二点が気になったにちがいない。
ということは……。
寺尾は車の中の高木にブロックサインを送った。
ただちに、ギャラリーの表で罵声《ばせい》が湧《わ》いた。高木ともう一人の男が車から飛び出して、口論を始めたのだ。
――この野郎! 文句があったら、警察へ行こうじゃねえか!
あまりの勢いに、森は驚き、外の道路に眼を向けた。
同時に寺尾の右手の指が袖パネルをそっと叩く。すると、フェルメールの偽画が裏側のパネルごと、百八十度回転し、正真正銘のフェルメールがあらわれた。
「なんじゃい、あれは?」
「チンピラですよ」
と、寺尾はつまらなそうに言う。
「車の尻が擦《かす》ったのどうのと、のべつ、やってるんです」
「うるさいのう」
森は袖パネルの方に視線を戻した。そして、身体《からだ》を、ゆっくりと左に移動させてゆく。
(うっ!)
フェルメールを認めた森は、息がつまるほど驚いた。
(これが……贋作なのだろうか?)
彼は絵の前で立ちどまり、腕組みをした。
(おれはフェルメールの本物をしっかりと心に刻み、しかも、無数の贋作を見てきた男だ。そのおれの眼からみて、これは贋作とは見えない。……どう見ても――本物だがな……)
彼は|まばたき《ヽヽヽヽ》をした。一度、眼をつむり、しかと見開く。
(この絵がおれに強いるのは美特有の沈黙《ヽヽ》だ。たしかに、そうだ。ということは、この絵が本物である証拠じゃないか)
この事実に気づいているのが自分だけだと思うと、彼はぞっとした。しかし、だれかが気づくかも知れないと思うと、さらに、ぞっとした。
(まさか、ということがある。心を落ちつけて見てみよう)
家に持ちかえった瞬間、贋作とわかることがよくあるものだ。
しかし、|どう見ても《ヽヽヽヽヽ》、|本物であった《ヽヽヽヽヽヽ》。
(間違いない……)
残りの絵をざっと眺めてから、彼は寺尾に声をかけた。
「ここの絵は、譲ってもらえるのだろうか」
「さあて。その問題は担当がちがいますので……ちょっと、お待ちください」
寺尾は姿を消す。
やがて、ベレー帽に口髭《くちひげ》、という|いでたち《ヽヽヽヽ》の旗本が登場した。
「なにか、ご用でしょうか」
パネルを裏がえすだけの役で、大いに不満だった旗本は張り切っている。
「この中に、欲しい絵がある。ぜひ、というほどでもないが、できれば、買いとりたい」
森は駆け引きをした。
「そういうお話は……」
新たに入ってきた客を見て、旗本は言い淀《よど》んだ。
「向いのカフェバーでうかがいましょう」
この時、フェルメールの絵は、すでに、贋作にかわっていた。
「なに、まとめて、だと!」
森は大声を発した。
正午のカフェバーは、閑散としている。彼らの会話をきいているとしたら、若いマスターだけである。
「はい」
旗本は落ちついたものである。
「これは持ち主の意向です。お売りする場合、絵は絵でまとめてワンセット、と決めているようです。バラ売りはいたしません」
「持ち主の意向では仕方がないな」
と、森は独りごちた。
「全部まとめて、いくらぐらいかね」
「よろしいですか。あくまでも、持ち主の考えです。私は代理人に過ぎません」
旗本は念を押してから、
「三億円です。この値段は、一円たりとも譲れません」
「正気かね、あんな贋作ばかりで……」
森は呆《あき》れた。
「私は代理人に過ぎません」
と、旗本は、しつこく念を押す。
「ですから、価値判断はしないのです。……私の言わんとしていることがおわかりですか」
(わかるに決っとる)
と、森は肚《はら》の中で唸った。
(自分でもめちゃくちゃな値段だと思っとるのだろう。たしかに、めちゃくちゃ、かつ、法外だ。――しかし、もし、あのフェルメールが本物と考えてみたら、どうだろう。フェルメール一点が三億円なら安い。そもそも、値のつけようがないものなのだからな)
「三億円はおろか、三千万円でも、買う人はいないんじゃないかね」
「いえ……」
ペリエを飲みながら、旗本はほほ笑んだ。
「欲しいとおっしゃる方は、ほかにもいらっしゃるのです。店をあけてすぐ、そういうお申し出がありました」
「本当かね」
森は深刻な声を発した。
「信じられんな」
「この私も信じられないのです。すべて、贋作ですからね。どの程度の価値かはわかっているつもりです」
「ふむ」
「一点だけ売って欲しいとおっしゃるので、バラ売りはできないという基本方針をお話しいたしました。――正直なところ、私はバラ売りしてもいいと思っているのですが、持ち主がうるさいのです。〈贋作とはいえ、このすべてを大事にして欲しいのだ〉と、こうですから」
「それで、きみ、売るつもりなのか」
「とりあえず、半金の一億五千万円を頂いて、あとはまたご相談、と申しあげましたところ、金策をしてから、電話を入れるとのことで……」
「その男――いや、その人は、どうして、そんなに、贋作に固執するのかね?」
森はひとごとのように言った。
「さあ。それは、こちらが教えていただきたいほどで……ドガとモネは完全に贋作と言いきれない、と持ち主は申しておりますので、そのせいかも知れません」
「いや、あれは……」
(贋作だ)と言いかけて、森はあわてて語尾をにごす。
「実をいえば、私個人が欲しいのじゃない。私の知り合いに、贋作マニアとでも呼ぶべき人物がいて、膨大な蒐集《しゆうしゆう》をしているのだ。実は、その人にプレゼントしたいと思ったのだが……」
「値段が高過ぎます。私も、役目柄、三億円なんて申しますが、洒落にもなりません」
会話が途絶えた。
ややあって、
「すると……」
甲高い声で森が言いかけ、咳払《せきばら》いして、語調《トーン》を変えた。
「一億五千万で、品物は手元にくるのかね?」
「まあ、そうですが……私個人は、半金とは少々えげつない。一億四千万でもいいと思っているのです」
「一億四千万……」
(それで、あのフェルメールがおれの手元にくるのか。ブラジル大使館に渡すのが惜しくなってきたぞ)
「よし、私が……」
森は目配せした。
「個人的に申し上げますが、おやめになったほうがよろしいでしょう」
と、旗本はマスターにきこえるような大声で言った。
「よろしいですか。|あれらは《ヽヽヽヽ》、|すべて《ヽヽヽ》、|折紙つきの贋作です《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。一、二、わからぬものもありますが、あとは、どの偽作者が描いたのか辿《たど》れると、ある美術雑誌の編集者が申しておりました」
「わかっとるよ」
森はゆとりのある笑みを浮べる。自分こそは、戦後の日本贋作史上のプロであり、仕掛人なのだ、と言ってやりたかった。
「一億四千万でいいのかね?」
「そう、させます。いちおう、電話をして、持ち主の確認をとりますが」
「他の人に売らんでくれよ」
と、森は冗談めかして、念を押した。
「はあ」
旗本は狐《きつね》につままれた表情をする。
(これでよし)
と森はほくそ笑んだ。
(フェルメールが手元にきたら、残金は払わんぞ。あれこれと難癖をつけて、あとは不払いにしてみせる……)
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エピローグ 延長戦
その翌年――一九八四年の三月末のことである。
この年の二、三月は雪が多く、春がいつくるのか、わからなかった。杉並区にある寺尾の家では、屋根に厚く凍った雪が滑り落ちる時に樋《とい》をねじ切った。
暑さ寒さも彼岸まで、といわれるが、春分の日の朝の東京は雪で、午後から|みぞれ《ヽヽヽ》にかわった。春分の日を過ぎても、春は名のみで、寒風が身にしみた。
「寒いなあ」
タクシーのドアをあけて、夜の街路に立った瞬間、寺尾は呟《つぶや》いた。
北半球で異変が起っているのではないか。アメリカと日本に雪が降りつもり、ヨーロッパは暖いときいている。
青山墓地に近いそのフランス料理屋に入るのは初めてであった。店の入口の灯で、腕時計を見ると、十一時を過ぎている。
蝶ネクタイの男が、いきなり、「ご予約でしょうか」と彼にたずねた。
「旗本さんがきているはずだが……」
「あ、見えてます」
男の態度は一変する。
「もう、皆さん、おそろいです」
そう言って、男は、寺尾のカシミアのオーバーに手をかけた。
「どうぞ、こちらへ……」
探すまでもなかった。窓ぎわのテーブルに、長島老人、旗本、高木、そして山岸久子がいた。ほかには客の姿が見えない。
「お疲れになったでしょう」
と、旗本がワイングラスを挙げた。
「お先に頂いてます」
「なんやかや引きとめられちゃってね、局次長に」
寺尾は椅子を引き寄せながら、
「長島さん、いいんですか。こんな遅い時間に外出して」
「特別許可をとってある」
紫色のニットキャップをかぶった老人は、嬉しさを抑えた声を出した。
「わしがいる老人ホームは、サービスにおいて、戦前の帝国ホテルなみじゃ」
「寺尾さん。ビール、ワイン、どっちがいいですか」と旗本。
「本当は、日本茶が欲しいのだが、乾杯なら、ワインを貰《もら》おう」
「ボージョレですが……」
「なんでもいいよ」
一同は乾杯をした。
「寺尾ちゃん、恰好《かつこ》よかったよ」
と、山岸久子が言った。
「パーティーのあいだは無理してたんだ」と寺尾がコボす。「風邪ひいちゃってさ。ヒサンだぜ、中年てえのは」
「『太平洋の果てまで』が高視聴率を稼いだおかげで、寺尾=山岸コンビの第二作の製作発表会にまで漕《こ》ぎ着けたんです」
珍しく、旗本がしみじみとした口調になった。
「山岸も、〈人気が安定した〉といわれるようになりましたし、六本木テレビさんが良くしてくださって……」
製作発表会とパーティーのあと、寺尾は局次長と近くのクラブで飲んでいたのだ。旗本主催の二次会に遅れたのは、そのせいだった。
「おかげさまで」と旗本がつづける。「旗本プロのイメージが上ったらしくて、ありがたいお話が次々にきます。この四月からは、所属タレントもグレードアップいたしまして……」
みなさん、なにを召し上りますか、と給仕長がききにきた。
「寺尾さん、なんでもお好きなものを」
旗本が愛想よく笑いかける。少々、気味が悪いほどである。
寺尾は、革表紙のメニューを見ながら、
「弱ったな。……なんか、さっぱりしたもの、ったって、フランス料理じゃ、あり得ないしな」
「さっぱりしたものをお好みですか」
給仕長がたずねた。
「うん。パーティーで、フカヒレのスープとかローストビーフとか、少しずつ、食べちゃったから」
「いかがでしょう」
と、給仕長が言った。
「おなかにたまらない軽いシチューなどは?」
「いや……」
寺尾は困惑して、
「失礼なことを言うようだけど、鮨《すし》をほんの少しつまみたいって気分なんだ」
「わかりました」
給仕長はにこりともせずに言った。
「では、鯛《たい》の刺身などは、いかがでしょう」
「え?」
「当店は、魚が売りものですから、白身の魚が色々ございます。よろしければ、刺身の盛り合せを作らせましょう」
「いいのかい」
「いいもなにも、フランス料理だから、フランス料理しかお出ししないなんて、杓子定規《しやくしじようぎ》なことは申しません。正直に申せば、私だって、朝から晩まで、仔羊《こひつじ》のソテとか、そういったものを食べてるわけではないので……」
寺尾は不安になってきた。この給仕長は、どこか、おかしいのではないか。
「そいつは、ありがたい」
と、旗本が言った。
「ぼくらも同じパーティーにいて、エビフライだのバタライスだの、食べてきたんだ。刺身、いただきましょう。白ワインを抜いてくれたまえ」
「お望みなら」給仕長が言った。「ごはんをお持ちしましょうか。時間がかかりますが、コシヒカリを炊きます」
「決定!」
旗本がテーブルを叩いた。
「漬け物はない?」
「従業員が食べてる千枚漬けならございます。やや人工的な甘みが感じられるのが難点ですが」
「貰いましょう。あと、おつゆが欲しいな」
「ハマグリで作りましょうか」
「上等! それを……」
旗本は見まわした。他の四人も、メニューを投げすてて、
「五人前、五人前」
と、口々に言った。
「ぜんぶ、五人前だ。それから……食後のお茶はあるかしら?」
「従業員が飲んでいる焙《ほう》じ茶でしたら……」
給仕長は一礼して、去って行った。
「どういう店だい、これは」
と、寺尾は首をかしげて、
「気を悪くしてるんじゃないか」
「そんなことはありません」
旗本は寺尾のグラスにワインを注いで、
「ぼくは二六時中《しよつちゆう》、きてますから、気心が知れてるんです。怒っちゃいませんよ」
「しかし、変った店だね」
「ふつうじゃないです」
「こういうのが〈ふつう〉ってことになると、和食屋で中華料理が出たり、中華料理屋でメキシコ料理が出ても、あたりまえになる。便利っていえば便利だけれども、デパートの食堂みたいだな」
寺尾はフクザツな顔をした。とりあえず、さっぱりしたものを食べられるのはありがたいが、なんとなく、世の中のルールというものが崩れてゆくような気がする。
「そういえば――あの森って男、どうしました?」
旗本が囁《ささや》くように寺尾にたずねる。
「さあ……」
寺尾の表情は、ますます、フクザツになる。
「残りの金は支払いませんか?」
「あれっきり、音沙汰なしだ。まあ、一億四千万、とったのだから、いいやね」
と、寺尾も小声で言った。
「六本木テレビの事業部には調べにきたらしい。よほどはらわたが煮えくりかえったのだろう」
「|こっち《ヽヽヽ》は、全部、贋作だと、何度も念を押したのですからね。それを耳にしていた証人もいますし、文句のつけようがないはずです」
「『リュートと女』の贋作を見た時は、眼をむいて、泡をふきそうになっていた、と運送屋の若い衆が言ってたよ。そういえば、ブラジル大使館のほうは、どうなったかね?」
「そうだ! あいつに金をやるのを忘れてた!」
二人のひそひそ話を耳にした老人が叫んだ。
「|あいつ《ヽヽヽ》?」
寺尾が不審な顔をする。
「あいつだよ。ほれ、わしの昔の仲間で、ブラジル大使館員に化けた男さ。混血児《ハーフ》なので、役としては、ぴったりじゃった。五億とか十億とか、軽く言ってのける、天性のコン・マンじゃ」
「ブラジル大使館が十億円出すという伏線《うり》があったからこそ、森は、ポンと一億四千万、出したのですね」
高木が改めて感心した。
「ふっ、ふっ。わしの復讐《ふくしゆう》が果されるのと、入れかわりに金が入ってきた。三つのゲームで、計二億三千万円。これで、みんな、ハッピーになった」
老人は葉巻を出して、店のマッチで火をつけ、うまそうに吸い込んだ。
「えっと――ここらで、ご報告しておきたいことがあります」
と、高木の細い眼が、さらに細くなる。
四人は高木を見た。改まって、なにを、とたずねる風でもあった。
「皆さんにいろいろ、お世話になって……いえ、これからも、お世話になるわけですが……」
「なにをブツブツ言っているのだ」
と旗本が叱った。
「きみは、いつも、はっきりしないから、いかんのだ。結論を言いなさい、結論を」
「はい、そうします」
高木はおとなしく答える。
「本日只今をもって、ぼくは旗本プロから独立いたします。これだけを申し上げたかったので……」
「なに?」
旗本が気色《けしき》ばんだ。
「|うち《ヽヽ》をやめるというのか」
「はい」
「よかろう」
と、旗本は太っ腹なところを見せる。
「少しは、外の空気に触れてみるのもいいだろう。よその飯を食うと、タレントとして、もっと脱皮できるかも知れない」
「でも……」
「|でも《ヽヽ》――なんだ? はっきりしたまえ、はっきり」
「ぼく、会社を設立するのです。いや、もう、できているんだった。明日から、高木プロダクションとして発足するんです」
「プロダクションだと?」
旗本の眉間《みけん》に縦皺《たてじわ》が刻まれた。
「この世界、そんなに甘いものじゃないぞ」
「まあ、怒るな」
険悪な空気に耐えられなくなった寺尾は旗本を制した。
「いまの若い人は、こういうものさ。でも、やる気があるだけ立派だよ。高木君はモラトリアム人間かと思っていたが、そうではないらしい」
「いえ、やっぱり、モラトリアム人間でしょう」
高木は妙に客観的に答える。身長百八十センチ余のせいか、超俗的な面影さえみえる。
「ただ、親父《おやじ》へのコンプレックスが薄くなったのです。例のフィルムのせいかどうかはわかりませんが……」
「ええじゃろう。若い高木君の出発を皆で祝おうではないか」
と長島老人。
「なにを考えているのかわからんが」と、旗本は怒りを隠せない。「芸能プロは、タレントなしでは成立せんぞ」
「タレントなら確保してあります」
高木が断言した。
「だれだね?」
「ここにいる女《ひと》です」
「ここに……」
と、旗本は、思わず、呟いて、
「久子しかいないぞ」
「そうです。山岸久子さんです」
高木は静かに応じた。
「ま、まさか。き、き、きさまら……いや、そんなことはあるまい。おい、久子、ちがうだろ。冗談だとしたら、悪い冗談だぞ。許しませんよ、わたしは」
「冗談のはずないでしょ!」
山岸久子はぴしゃりと言った。
「待て待て」
旗本は蒼白《そうはく》になった。
「まさか、きみたち、|なに《ヽヽ》じゃないだろうな。|なに《ヽヽ》だとしたら……」
「|なに《ヽヽ》よ」
久子は挑戦的に言う。
「|なに《ヽヽ》じゃいけないの」
「ど、どこで、い、い、い、い、いつ、そういうことになったのだ?」
「ニューヨークよ」
久子は言い放った。
……プラザ内の部屋に戻った彼女は、テーブルの上に花束があるのに気づいた。小さな花束には白い封筒がそえられている。
彼女は封筒を手にした。送り主の名前はない。
封筒の中からレターペーパーをとり出して、ひろげる。
彼女は眼を見ひらいた。文字のひとつひとつが躍りあがるようだ。
〈……私が、ほんらいなら加わる必要のない中年男たちの愚行に加わったのは、久子さん、貴女《あなた》への愛情のためです。才能のとぼしい私にできるのは、貴女の番組を成功させるお手伝いをすることだけなのです。そのためだけで、私は、まともな人間なら避けるような方向に走ってしまったのですが……〉
「どういうことですか、これは」
と、旗本は矛先《ほこさき》を寺尾に向けた。
「寺尾さんの監督不行き届きですよ。こんなことがあってよいものですか」
「そういえば、高木君は、しばしば、ホテルの部屋を留守にしていたな」
寺尾はようやく想い出した。
「タイムズ・スクエア辺りのポルノ映画でも観《み》に行ったのだろうと思ってた」
「ふしだらな!」
元ロカビリアンは逆上した。
「不倫の恋ではないか。世間はきみらを許すまい」
「あの……」
高木がおそるおそる言った。
「ぼくたち、結婚するんです」
「なに!?」
「いいかげんにしてよ、旗本《はたもつ》ちゃん」
久子が煙草のけむりを輪に吐いた。
「言いたかないけどさ。おれたちの仲をきちんとする、とか言って、だらだらしてたのは誰よ。なんのかんの言ってさ、あたしを旗本プロにつなぎとめようとしてただけじゃない。はっきり言えっていうから、言わしてもらうけど、あたし、肉体関係があったからって、旗本ちゃんにいつまでも惹《ひ》かれる、なんてタイプじゃないわけ。わりに、ころっと、忘れちゃうほうよ。現在とこれからが大切なの」
旗本は黙ってしまった。山岸久子が開き直ったら、なにを言い出すかわからないからである。
「ビジネスの話になるがね」
と、寺尾はおもむろに高木に言った。
「山岸君のスケジュールに関して、これからは、きみが取り仕切るわけかい?」
「はい」
高木は内ポケットから手帖《てちよう》を出して、
「寺尾企画のお仕事は、他のスケジュールに優先させるつもりではおりますが……」
「それからあとが大変だったよ」
と、寺尾は、翌日、タクシーの中で日暮かおりに言った。
刺身をつまみながら、黙って水割りを飲んでいた旗本の怒りが、三十分後に爆発したのである。
――この恩知らず!
旗本は高木を睨《ね》めつけて、
――泥棒猫! ババ抜き野郎!
それまでの空気は、どちらかというと、旗本に同情的だったのである。オトコとオンナの問題がからんでいるので、どっちが正しくて、どっちが悪い、とは言いきれないのだが、なんとなく、高木はセコい、と寺尾は思っていたのだ。
いずれにせよ、寺尾の生きている世界はひどくセコく、ルールなどというものは、とっくの昔に破られているので、どこまでが悪くて、どこからが悪くないのか、もはや判然としないのである。
しかし、〈ババ抜き野郎〉は、まずかった、と寺尾は思う。旗本としては、トランプのババ抜きのつもりで言ったのだろうが、山岸久子は、これまた当然といおうか、〈ババ〉という言葉に拘泥する。拘泥しないほうが、おかしいのである。
――|婆あ《ヽヽ》とは何よ、|婆あ《ヽヽ》とは!
山岸久子が悲壮な声をあげた瞬間、寺尾も長島老人も、旗本への同情が薄らぐのを感じた。
――|婆あ《ヽヽ》だから、|婆あ《ヽヽ》と言ったんだ!
向うっ気の強い旗本が、即座に言いかえし、久子は灰皿を投げつけた。
「阿鼻叫喚《あびきようかん》――とめるのに、ひと騒ぎだった」
と、寺尾は溜息《ためいき》をついた。
だれも口にはしなかったが、あれは痴話|喧嘩《げんか》の一種だった、と思う。
「大変でしたね」
日暮かおりの言い方は、ひどく素っ気なかった。あまりの素っ気なさに、寺尾は、思わず、横のかおりの顔を見たほどである。
かおりは、なにかを堪《こら》えているような複雑な表情である。
「どうかしたの?」
寺尾は不審に思った。
「べつに……」
かおりの表情はいよいよ暗くなる。
「具合でも悪いんじゃないか」
「そんな……」
と、かおりは苦い薬でも飲み込むような表情をしてから、
「山岸さんと高木さんとの|こと《ヽヽ》を、寺尾さんは知らなかったのですか」
寺尾はガクゼンとした。
「……知らなかった。旗本君もだ」
「へえ」
「きみは知っていたのか?」
「漠然とですけれど……」
「どうして?」
寺尾はボーゼンとする。
「会ったのです、町で」
「二人に、かい」
「いえ、べつべつに。乃木坂の辺りでした」
「いつごろ?」
「去年のクリスマスのころです」
「べつべつだった、と言ったね」
「ええ。TBSの脇で高木さんとすれちがいました。私は挨拶をしました。乃木坂を上って行くと、数分後に、山岸さんがくるのが見えました。私、おじぎしたのですが、あのひとは無視しました。サングラスをかけて、別人のようでした」
「変装したつもりかな」
そう言ってから、寺尾は、はっとした。
「で、きみ、二人のあとをつけたのか?」
「そんな、はしたない真似はしません。私にも、連れがおりましたし」
「じゃ、どうしてわかったのだね、二人の関係が?」
「わかる、というより、|感じた《ヽヽヽ》のです」
かおりはそう言った。
「しかし、きみ、偶然ということもあり得るぜ」
「あるかも知れないけど、あの場合はちがいます。ぴん、ときました」
「超能力だねえ」
寺尾はおそれいった。
「きみの旦那さんになる人に同情するよ」
知らなかったのは自分だけか、と彼は思った。往々にして、こういうことがあるのだ。
「これで、宮田杉作に五百万円かえせば、すべてはきれいに終る。そうそう、ぼくの名前が浜野二郎であることを忘れないで」
寺尾は念を押した。
「よう来てくださった」
派手な紫のガウンにスリッパ姿の宮田杉作は、二人を窓ぎわのソファーに案内した。
赤坂プリンス・ホテル新館のスイート・ルーム。これが宮田老人の定宿であり、東京での快楽の巣である。
「道が混んでおりませんでしたか」
手まわしよく取り寄せておいたらしいルーム・サービスのコーヒーをカップに注ぎながら、老人はたずねる。
「混んでました」
寺尾は窓から、下の立体交差点を見おろした。高速道路にはトラックがつまっていて、動く気配がない。
「どうして、あくせく働くのですかな、みんな」
と老人は言った。
「働かざるを得ないのですよ」
寺尾は抗議めいた口調になる。尻に火がついたように飛びまわる人間の気持は、この老人には理解できないだろう。
「そういう風に考えるのは、浜野さんの世代だけではないですか。三十代の人たち、二十代の人たちは、ちがうようですよ」
老人は二人にコーヒーをすすめた。
「労働というものに関して、リラックスしとる。まあ、食べられればいい、という風に」
「そうでしょうね」
と、寺尾の返事は少し冷ややかだ。
「浜野さんも、もっと、生活をエンジョイすべきですよ」
老人は砂糖の紙袋を指で切りながら笑う。
「どうして、そんなに働くのですか」
「二十代のころ、あまりにも貧しかったからですよ」
「二十代?」
「一九五〇年代後半から六〇年代前半にかけてです。日本全体が貧しかったせいもありますが……」
寺尾はコーヒーを啜《すす》った。
「まあ、ええでしょう。人の考え方はさまざまじゃ」
老人は軽く受け流した。
天候の挨拶をしばらく交してから、寺尾はさりげなく、小切手入りの封筒をテーブルに置いた。
「ひと月後というお約束が、大幅に遅延いたしました。残りの五百万円です」
「几帳面《きちようめん》なこって」
と、老人は頭をさげた。
「私のほうこそ、あんなガラクタを一千万円で押しつけた形で、恐縮しております。ありがたく頂きます」
年度末の会計の中から七十万円を捻出《ねんしゆつ》し、銀行の残《ざん》と合せて五百万円を返せるのは、寺尾も嬉しかった。かおりを連れてきたのは、自分の態度がフェアであるのを、彼女に見せるためだった。
老人は小切手を改めてから、
「この金は新婚旅行の旅費の一部に加えさせていただきます」
と言った。
「新婚旅行?」
寺尾は怪訝《けげん》な顔をする。
「だれのです?」
「まず、山岸久子の新婚旅行じゃな」
老人は、大口をあけて、けっけっ、と笑った。
「ああ、今朝のスポーツ紙をごらんになりましたか」
一紙に素っ破抜かれた、と山岸久子から、朝、電話がかかってきたのだった。
「新聞を買うまでもない。テレビの朝のワイドショウをみると、全スポーツ紙の見出しを解説してくれる。山岸久子と若いマネージャーの結婚やら新婚旅行の予定やらを、ことこまかに喋《しやべ》っておった」
寺尾は何も知らなかった。いまや、一般大衆のほうが、はるかに情報通なのだ。
「新婚旅行はどこへ?」
「スペインからアフリカへ行くと言うとった」
スペインだと!? どうも、方角がよろしくない。旗本忠敬がますます怒り狂うのが、眼に見えるようだった。
「お祝いのプレゼントをしなければなるまい。現金がいちばん気がきいとるだろ」
「はあ、それは……」
寺尾は答えようがない。
「山岸久子は、もう、よろしい」と、老人は忌々しげに呟き、「大事なのは、|私の《ヽヽ》です」
「は?」
寺尾はおのれの耳を疑った。
「はは、信じられぬでしょう」
老人は小気味良さそうに笑って、
「この宮田杉作とて、ディック・ミネや上原謙に負けてはおられん。さよう、結婚をするのです。結婚しなければ、新婚旅行はできませんからな」
つまらぬ冗談を言ってから、ぐはははは、とノドチンコをみせた。
「それは――おめでとうございます」
寺尾は、つぶれたような声を出す。冗談か、気が狂ったか、どっちかではないか、と、ちらと思った。
「ありがとう、浜野さん。おかげさまで、この枯木《こぼく》にも花が咲く時がきた。老年のもの狂おしい彷徨《ほうこう》も、これで、おしまいです。理想的な結婚ができるでしょう。実は、私、古風な男でしてな」
よく言うよ、と寺尾はかすかに笑う。
「相手はどういう方《かた》ですか」
「こういう方」
老人はいきなり立ち上り、テーブルの横をまわって、日暮かおりの肩に手をかけた。かおりは、しおらしく、俯《うつむ》いている。
一瞬、寺尾は息がつまった。悪夢と呼ぶには滑稽《こつけい》すぎるし、冗談と笑いとばすには、二人の態度がシリアス過ぎる。
「……ぼくが失敗したようですね」
ようやく、彼は言葉を発した。
「去年の十月でしたか、日暮君に小切手を届けさせた。あれがいけなかったな」
「あの小切手がキューピッドでした」
老人は、にやりとして、
「浜野さんには、挙式の時、私の介添え人になっていただきます。……あ、無用の心配はせんでください。私の財産は、すべて、彼女のものになりますから」
かおりは白日夢を見ていた。
日ざしの強い異国の港の突堤である。魚が腐ったときの強い臭気があたりを支配している。髪が黒く、焦茶色の肌の男たちが、彼女にはわからぬ言葉を叫んでいる。ロープがひかれて、やがて、東洋人らしい老人の死体が海面に浮び出る……。
あり得る不幸を予知する能力を持つかおりは、大きく息を吐いた。次に、喪服を着た自分の姿が見えてきた。
「何のために、コン・ゲームをやったのか、わからないですよ」
昭和初期に、文化住宅の名のもとに建てられた古い家の玄関脇の洋間の長椅子で旗本が嘆いた。
八畳ほどの洋間は、VHSのハイファイ・ビデオデッキ、二種類のビデオディスク・プレイヤー、モニターテレビ、および何百というビデオカセットで埋っている。本もあるにはあるが、ビデオカセットが本棚を侵略し、|内田百※[#門がまえ+月」]《うちだひやつけん》全集の上にチャップリンの「巴里《パリ》の女性」がのっている有様だ。
「久子がいなくなったら、|うち《ヽヽ》はばったりです。まあ、イケそうな娘《こ》が二人ほどいるので、なんとか続けてますがね」
「再出発だね」
と、この家の主、寺尾は微笑を浮べた。
「そうそう。きみが、前途有望な新人女優を愛人にした、という噂《うわさ》をきいた」
「ええ」
旗本は悪びれずに、
「むかし、映画会社の社長が吐いた名《めい》台詞《せりふ》がありますな。〈スターを妾《めかけ》にしたのじゃなくて、妾をスターにした〉ってやつ。あれこそ、中小企業のあるべき姿でさあ。ぼくも、愛人をスターにするべく、がんばります」
「そういう面では、世の中は少しも変らんのだね」
と、寺尾はまた笑った。
「しかし、変った面も多い。ゆうべ、テレビをみてたら、リタ・クーリッジがスタンダード・ナンバーばかり歌っていた」
「リンダ・ロンシュタットの今度の公演も、スタンダード・ナンバーばかりだそうじゃないですか」
「そういえば、リンダ・ロンシュタットの単独公演は五年ぶりだ。五年まえの春を憶《おぼ》えているかね」
「忘れようもないでしょう。清水史郎とぼくらでトリオを組んで……」
「憶えていたか。……早いものだ。あれから、丸五年、経った」
「状況は少しも変っていないです。あの時のぼくは、小西ともえに逃げられて、素寒貧《すかんぴん》。今度は、山岸久子を盗まれて……」
「お互いに出直しだよ。ぼくは日暮かおりという信頼していた社員を盗まれた」
「あれっ、彼女、やめたんですか」
「三月一杯でやめた。痛いよ、これは」
「感じのいい人でしたがね」
「それがいけなかった。結婚するんだよ」
「へえ……」
旗本はさして興味がなさそうである。高木への恨みで頭の中が一杯らしい。
その時、電話が鳴るのがきこえた。寺尾は洋間を出て、廊下の電話機めがけて走る。
送受器をとり上げると、
――わたし……。
と女性の声がきこえた。
いきなり、わたし、と名乗るのは、真知子以外、考えられない。
――いま、ニューヨークかい。
――そう。なんと、雪が降ってるわ。
――元気かね?
――ええ。
そうか、と、寺尾は先まわりして、
――こっちに帰ってくるのか?
――ええ、相談したいことがあって。
――いつ、帰るの。
――日本時間で明後日《あさつて》。
――いつもの便かい?
――そう。
――じゃ、成田まで迎えに行こう。今度は、どのくらい、滞在できる?
――一週間ね。
――わかった。ところで、きみ、リンダ・ロンシュタットをききに行かないか。ネルソン・リドル・オーケストラが付いている。
――え? リンダが日本へ行くの?
――そう莫迦《ばか》にしたものじゃない。五年まえに武道館へいっしょにききに行ったじゃないか。
――あ、そうか。
――今回は、ホテルのディナー・ショーがある。一人、五万円だけどね。
――一人二百ドルは高いわ! 二人で四百ドルじゃないの!!
――なーに。
寺尾は心をこめて言った。
――ぼくのボロ家にリンダ・ロンシュタットを呼ぶことを考えれば、安いものだと思うよ。
瀬木慎一氏の『真贋の世界』(新潮社)、陳舜臣氏編の『欺し欺され――美の真贋』(日本経済新聞社)を参考にしました。[#地付き]作者
昭和六十一年七月新潮文庫版が刊行された。