小林 信彦
神野推理氏の華麗な冒険
目 次
第一話 ハムレットには早過ぎる
第二話 さらば愛《いと》しきヒモよ
第三話 コザのいざこざ
第四話 〈降りられんと急行〉の殺人
第五話 災厄の島
第六話 粗忽《そこつ》な〈恍惚《こうこつ》〉
第七話 抗争の死角
第八話 幻影の城で
第九話 殺意の片道切符
第十話 はなれわざ
第十一話 超B級の事件
第十二話 神野推理最後の事件
あとがき
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第一話 ハムレットには早過ぎる
1
まず、はじめに、私の友人である神野推理《かみのすいり》の名前の由来について、少しく、説明しておく必要があるように思う。
――なんで、そんなことするの? どうでもいいじゃない。この名前、ぼく、生れつきなのよ。
などと、彼は主張するにちがいないのだが、それが、そう単純でもないのだ。
第二次大戦中の神野《じんの》家といえば、軍需成金で、ちょっとしたものであった。もともと富山の網元で、ホタルイカの漁を専門にしていたのだが、戦争末期に異変がおこった。それまでは食用、肥料用でしかなかったホタルイカが、〈軍用物資〉に指定されたのである。
ご存じのように、ホタルイカは体の各部に発光器をもち、強烈に発光することで知られている。このホタルイカ光線(当時はH光線と重々しく呼ばれていた)を探照燈の光源に利用できないかと、追いつめられた日本軍が考えたのは、当然な成り行きともいえた。(なにしろ、木造の飛行機が本気で製作されていた時代である。)
ホタルイカの軍事利用の研究が完成したのは、一九四五年八月十六日だった。その一日まえに日本は米国との戦いに敗れ、当主の神野《じんの》善一郎は戦争犯罪人として処罰されることをおそれるあまり、割腹して果てた。かくて、厖大《ぼうだい》なホタルイカを軍に売りとばして得た金は、夫人の神野《じんの》トメのものとなった。
トメ女史についても、少し触れておきたい。
その時どきの流行にヨワいのが、トメ女史の性癖であった。トメ女史の熱狂は、そのまま、われらの戦後史といってもよい。
戦時中に、「ぜいたくは敵だ!」と叫んで、数寄屋橋のたもとで、晴着姿の若い女性の振り袖を、鋏《はさみ》でチョン切ったお節介婆あの第一号は、ほかならぬトメ女史であった。
出てこい、ニミッツ、マッカーサー、出てくりゃ地獄へ逆《さか》おとし――と歌い、竹槍訓練おこたりなく、そのくせ、マッカーサーが本当に〈出て〉きたときは、夫の割腹など眼中になく、英会話を一夜づけ、「プリーズ・ギヴ・ミイ・チョコレート」と、さりげなく言ってのけたものである。
その後、「バスに乗り遅れるな」を合言葉に共産党に入り、すぐに、とび出した。その行動の浮薄さは、戦後の日本人の鑑《かがみ》といえよう。
ぎっくり腰にもめげず、フラフープを最初にまわしたのもトメ女史だったし、ダッコチャンを腕にくっつけて歩いたのも第一号、最近は寄る年波で行動が控え目になったが、ロッキード事件発覚のときなどは、戸板に乗って、国会周辺でピーナッツをばらまいて歩いたほどである。
善一郎、トメ夫婦のあいだに生れたひとりっ子は、戦時中だったので、〈勝利《かつとし》〉と命名された。
だが、戦争に負け、民主主義万歳の時代に、〈神野勝利〉の名では出世がおぼつかぬ。おりしも、〈推理〉という言葉が流行していた。探偵小説なども、推理小説と、改名したほどである。かくて、トメ女史は息子の名前を変え、〈神野推理《じんのすいり》〉の名が生れた。
神野と私は中学いらいの友人である。だから、トメ女史のような、発作的・行動的母親の下で、彼が屈折した性格となったのもよくわかるのである。
私が大学を出て、麹町《こうじまち》のジャパン・テレビに入ったころ、神野は無職だった。トメ女史は、十四階建ての神野《じんの》マンションを青山に建て、神野はそこのペントハウスにひとりで住んでいたのだが、なにを思ったのか、まともな職につかなかった。母親がマンションを持っているから、食べるにはまったく困らず、といって、彼自身が金持ちともいえない、非常に中途半端な立場なのですな、これが。
私は、いわゆる〈ショウ番組〉のアシスタント・ディレクターになったので、彼にコントを書かないかとすすめた。
――コント? けがらわしい! ぼくは大劇作家になるの。
憤然とする神野をなだめすかして、書かせたのが、日本テレビ界のコント史上に燦然《さんぜん》と輝く「精神病院の一日」である。それから三年間に、神野は約二千のコントを書き、突然、筆を絶った。
私は彼の才能がたっぷり残っているのを知っているから、週に一度、「やらんかね、また」と突つきにゆく。
――ムダだよ、星川君。
おくればせながら、私の名前、星川夏彦と二枚目風に迫っている。
――ぼくは、いま、劇作にとりかかっているんだ。これが出来上ったら、世界演劇史上の革命なのよ。
――そのまえに、息抜きに、どう? 五分ぐらいのコント。
神野も、私も、三十代後半にさしかかっている。コントって|とし《ヽヽ》でもないのですがね。
彼の平坦な生活に、〈どんでん〉がきたのは半年まえである。
青山三丁目にある神野《じんの》マンションでおこった密室殺人事件をご記憶だろうか? (ご記憶にないことはわかりきっているけど、いちおう、こう書かないと、恰好つかないのだ。)
十二階に住んでいるドミニコ神父が背中から短刀で刺されて殺されたのだが、死後三十分ほどたって(クリーニング屋によって)死体が発見されたとき、犯人は部屋の中から蒸発していたのである。
もう少し、くわしく話そう。
神野マンションには受付があり、中に入る者はいちおうその許可を得ることになっている。(だが、そば屋やクリーニング屋は黙って出入りしている。)
クリーニング屋(外人専門の店の店員である若いアメリカ人)が、「早くワイシャツ持ってこい、このドアホ!」と怒鳴られて、あわてて駆けつけ、ドミニコ神父の部屋のチャイムを鳴らしたが、返事がない。不審に思って受付のオッサンに言うと、オッサンはドミニコ神父と四、五十分まえに話したきり、出てゆく姿を見ていないというので、マスター・キイを持ってかけつけた。
クリーニング屋談――それでな、鍵《かぎ》はあいたんやけど、あいにくチェーンロックかかってますねん。なんや、生臭い、けったいな匂いしましてな、受付のオッチャン、ガスバーナー持ってきて、チェーン、焼き切りまして、中へ入ったものの、あんた、ギャーッちゅうて110番しに行きましたわ。部屋の中はぎょうさんな血の海やさかい、ムリおまへんな。窓は鉄格子はまってるし、犯人の逃げようあらしまへん。わいもな、ドアのかげ、戸棚、浴室、いちおう調べまして……結果はゼロですわ。わい、犯人ちゃいまっせ。ま、発見者=犯人やないかちゅうて、小柄な刑事にえらくど突かれましたわ。(星川夏彦・訳)
捜査は難航した。警視庁から高名な鬼面《おにつら》警部と旦那《だんな》刑事がのり込み、ついでに、神野の部屋にも挨拶にきたのである。
「推理さんですか」
いかつい顔をした鬼面警部がきいた。
「うるさい、うるさいのよ!」
神野はヒステリックに怒鳴った。
数々の難事件を解決した天才・鬼面警部も|かたなし《ヽヽヽヽ》である。
「私、鬼面。これは助手です」
「旦那です」
小柄で貧相な刑事が凄《すご》んだ。
「犯行の時間、きみはどこにいた? アリバイがないと、しょっぴくぞ」
「きみ、もっと紳士的に」
鬼面が抑えた。
「ぼくのアリバイか」
神野は一枚のゼロックス・コピイを渡した。
「なるほど」
鬼面は感心して、
「いちいち喋《しやべ》るのが面倒だから、コピイを作っておくわけですか」
「常識よ」
「犯人はどうやって、この建物に入れたのでしょう」
「受付は、腰をかがめて通りすぎれば、見られないですむのよ。部屋を出たのは、おっかなくなったクリーニング屋が逃げ出したあとでしょう。受付の親父をはじめ、てんやわんやになってたから、逃げるのは簡単よ」
「私もまったく同じ考えでした」
鬼面は、私に向かって、頷《うなず》いてみせた。
「問題は、クリーニング屋が、どうして犯人の姿を見なかったか――ここにある。クリーニング屋のこの証言からはなにも浮んでこない」
「へえ」
神野は鬼面の手から英文タイプの紙を受けとって眺めていたが、
「なーんだ、これか……」
「え?」
「この証言に、〈壁には hawksbill turtles があった〉とある。つまり、タイマイ(海亀の一種)の剥製《はくせい》ですね。……しかし、ぼくの記憶では、あの部屋の壁にはタイマイが一つしかなかった。それが、Sがついて複数になっている………」
「なるほど! 犯人はタイマイの甲羅を背負って壁に張りついていたわけですな」
「ゴムの吸盤を手足につけていれば可能です」
「よし、都内の剥製屋でタイマイを買った奴を調べよう。しかし……なんという……ああ、|神のごとき推理《ヽヽヽヽヽヽヽ》だ!」
「こんなの、初歩ですよ、鬼面さん」
神野はゆとりのある笑いを浮べた。
神野《じんの》が神野推理《かみのすいり》に生れ変ったのは、この瞬間であった。
2
神野の〈天才〉ぶりに、だれよりも仰天したのは母親のトメ女史である。
なんの才能もないと投げ出していたわが子が探偵的・推理的才能を持っているらしいとわかったのだから、女史の喜びは、ひとしおであった。
(息子は探偵になったらよいのではないか!)
女史はそう思ったらしい。私に電話してきて、〈名探偵〉とは、そもそも、どのようなものであるかとたずねてきた。
――シャーロック・ホームズが代表格でしょうなあ。
――どこの国の人だえ?
女史は、せっかちにきいた。
――イギリス人ですが……。
――その人は弟子をとるかねえ。
どうやら、息子を留学させるつもりでいるらしい。
――昔の人ですよ。弟子入りさせるのは無理でしょう。……でも、どういう人だったかは、本で読むことができます。
女史は、文庫本で十冊もあるホームズ物語を全部読んだ。
ご存じの通り、名探偵ホームズの特徴は、天才的ひらめきを別にすれば、コカイン(麻薬ですぜ)の注射とヴァイオリンをひくことである。さすがの女史もコカインこそすすめはしなかったが、ヴァイオリンの練習を息子に命じた。
「ヴァイオリンがうまくなったからって、推理力が冴《さ》えるわけでもありますまい」
神野がぼやくと、トメ女史は、
「……戦後の、食糧のないとき、私が、どんなに苦労して、おまえを育てたか、おぼえていないのかい」
と泣き出した。
「私は、握り飯一個を手に入れるために有楽町のガード下で身を売ったのだからね。初めのうちは、男に声をかけられただけで、鳥肌が立ったよ。……でも……でもね、かわいいおまえのためを思えばこそ、私は大胆になったね。日本で最初のノー・スリーヴ、胸なんか、がっとあけちゃってね、大毎新聞社発行の『一億人のための昭和史』に、ちゃんと写真が出ていますよ。当時、『有楽町《らくちよう》おトメの告白』ってのがNHKのラジオで莫迦《ばか》受けで、取材アナの富士倉秀一が局長賞もらったはずです。……そのうち、口笛の一つも吹けば、アメリカの海兵隊がどーっと……」
「なにを言ってるんですか」
神野は呆《あき》れた。
女史の大ボラ吹き、大オーヴァー癖を知っているから、私は驚かない。トメ女史についていえば食糧不足なんて、ついぞ経験したことがなかったと思う。
だいたい、四十近い息子に、母親がああしろこうしろと迫るのが、かなりグロテスクな光景なので、これじゃ、神野と結婚した女性が三日で逃げ出したのも無理はない。また、その後、神野が独身生活を送っているのも、いたし方ない仕儀であろう。
「習ってくれなきゃいいんだよ。昭和二十年に配給された自決用の青酸カリを、私ぁ、お守りのなかに入れてるんだから」
「わかりましたよ」
神野は言った。
「習えばいいんでしょ、習えば」
「心がこもってない言い方だね。まるで、チンピラみたいな」
「じゃ、どうしろというのよ」
神野は居直った。
「むかし、おまえがお習字の塾へ行っていたころは、そんな口のきき方はしなかったと思うよ」
「わかった、わかった……ヴァイオリン、習います」
見ていた私も、うんざりするようなやりとりだった。
神野はヴァイオリンを習い始めた。先生の浅墓《あさはか》キナ子は、ときたま週刊誌のグラビアなどに写真が出るなかなかの美女である。
「参ったよ」
神野は、あいかわらずコント執筆をすすめるために訪れた私に向かって、ヴァイオリンをひきながら、こぼした。
「どうしたの?」
「ぼくが、飯のときに、うっかり、浅墓キナ子の脚の線の美しさを褒めたのよ」
「ふむふむ」
「すると、お袋、急に着物をまくり上げて、足を出し、『キナ子をえらぶか、私をえらぶか、はっきりしておくれ』と、こうだもの」
とたんに、キ、キーッと、身ぶるいするような音が出た。神野のヴァイオリンは、隣の部屋で寝ていた猫にヒキツケを起させたときいたことがある。
「きみ、このマンションを出た方がいいのじゃないか」
私は真面目に提言した。
「なぜ?」
「身体《からだ》に良くないぜ、こう言っちゃ失礼だが、あのお母さんと暮すのは」
「しかし、ここにいれば食と住が保証されているもの。外に出ると、働かなきゃならないだろ」
「当然さ」
「それがいやなのよ。……むかしみたいに、テレビの台本を書けば、そりゃ、かなりの収入にはなる。でも、芝居を書く時間がなくなるもの」
「お母さんは、どういう気持でいるんだ?」
「お袋はぼくが探偵になるものと信じ込んでいる」
「きみは、どうなんだ?」
「あまり、お袋がわあわあ言うもので、自分でもその気になってきた……」
「探偵かい?」
神野は頷いた。
「おい……そんなこと、本気でやるつもりか?」
「ぼくは、鬼面警部によって持ち込まれた事件をすでに三つ解決している。例のタイマイ事件は別にしてだ」
「それはいいんだ。趣味でやっているぶんには、いいんだよ。……しかし、日本では、刑事事件の私立探偵ってのは、あり得ない。また、金にもならん。そこら辺、わかっているのかね?」
「まったく、金にならないわけでもないよ」
と彼はパイプをくわえた。
「インスタント食品メーカー社長のひとり息子|誘拐《ゆうかい》事件の謝礼として、カップ焼そば一年分を貰っている。〈恐怖の洗剤工場事件〉を覚えているかね? あのお礼として、半年分の洗剤を貰ったよ」
「テレビのクイズの賞品みたいだな、どれも……」
「ぼくが探偵になると思っているぶんには、お袋は幸せなんだ」
「劇作家はいけないのか?」
「女優とのスキャンダルが起るんじゃないかと、すぐに想像する」
「やれやれ」
「たしかにきみの言う通りだ。ご忠告に従って、探偵は趣味にとどめておこう」
「きみのお母さんは、きみにシャーロック・ホームズの名跡《みようせき》を継がせようとしているふしがあるぜ」
「ホームズだけじゃないよ」
神野は溜息《ためいき》をついた。
「このごろ、やたらに口髭《くちひげ》をはやせというの。アガサ・クリスティーの読み過ぎで、ぼくの顔をエルキュール・ポアロ風にしようとしているのよ」
「この状況は、面白いコントになるんじゃないかなあ」
私は自分の仕事の方に誘導しようとする。
「どう。久しぶりに、いっきに書いてみない?」
「ぼくは、もう、コントとは縁がないの。ああいうことはやめました」
「そう? つまり、テレビの仕事なんか、おかしくってという心境なのか」
「ちがうと言いたいところだけれど、当ってるんだなあ。きみ、サミュエル・ベケットって知ってる?」
「知ってるとも。『ゴドーを待ちながら』の作者だろう」
「そう。二十世紀不条理演劇の代表作『ゴドーを待ちながら』――その続篇を、ぼくが書いちゃうの。もう、書きつつあるの」
「へえ! なんていう題なの?」
「『ゴドーが街にやってくる――または、ゴドーの大行進』――この題名だけで、ぴりぴりっとくるものがない?」
「べつに……」
「インテリジェンスの問題かなあ。浅墓キナ子さんは、『すごく感じる』って言ってくれた。結局、あれね。芸術に対する姿勢というか、たたずまいというか、乗り方というか、入れ込み方というか、そこらが、きみ、通俗なんじゃない?」
「どうせ、私は、しがないテレビ屋ですよ。コンプレックスの一つや二つ、立ちどころに取り出してごらんに入れられるぐらいの屈折は用意しているつもりだ。触れて貰いたくない部分だって、ちゃんと万人に見えるように心がけているぜ。そこに、|もろ《ヽヽ》に触れてこなくても、いいじゃないか、人非人!」
「古い、古い。コンプレックスさらして居直る手が使えたのは、太宰治《だざいおさむ》が限度でしょう。ぼくの今度の作品は、ああいった古典的|羞恥心《しゆうちしん》のあり方まで、積極的にとり入れてるからね」
神野推理はパイプをくわえたまま、立ち上った。
「『ゴドーが街にやってくる』――燃えてくるものがあるぞ」
だれかがドアをノックした。
3
「どうぞ」
神野は六本木の古道具屋で買ってきた安楽椅子におもむろに腰かけ、パイプを右手に構えた。〈名探偵〉としての恰好を作ったわけだが、こうなると、ドアをあけてやれるのは私しかいないことになる。
私は立って行って、ドアの把手《とつて》を引いた。
「……入ってよろしいですか……」
Tシャツにジーンズの小柄な青年が、怯《おび》えたような表情で私にたずねた。
「大新聞と保険の勧誘、NHKの集金人以外ならね」
「……神野推理先生でいらっしゃいますか」
青年はなおも私にきいた。神野がやたらに咳込《せきこ》んでみせた。
「神野先生なら、あちらに鎮座ましましている」と私は言った。「ことわっておくが、葉巻やウイスキーは出ないよ。いっぱしの推理小説の依頼人が飲むようなものが欲しかったら、〈クラウン・コース〉という、値の張る方をえらんで貰う」
「冗談ですよ、ほんの」と神野が声をかけた。
「むろん、ぼくとしても『ギムレットには早過ぎるね』(レイモンド・チャンドラー作『長いお別れ』の中の名《めい》台詞《せりふ》)ぐらいは、さりげなく口にしたいですがね。けど、いまの君の入ってくる姿が、いちじるしく迫力に欠けていて……」
「そんなこと、ごちゃごちゃ言わないで下さい!」
青年が叫んだ。
「どう入ってこようと、ぼくの自由じゃありませんか」
「つづけたまえ。どうして、ぼくの名前を知っているの」
「伯父にぼくの悩みを話したら、神野さんのところへ行くように、すすめられたのです。ぼくの伯父、このマンションの二階にいる田能久《たのきゆう》六左衛門ですが。……というのも事件はこれから起ろうとしているのですから」
「事件とな?」
神野の日本語がおかしくなった。
「ええ」
「話してみたまえ」
そのとき、完全に閉まっていなかったドアを押して、トメ女史がこっそり入ってきた。
「ぼくの家は表参道のブティック〈タンタン〉なんです。ここ数年で大きくなった店で、ぼくはその長男なのです。田能久玉夫というのですが……」
「〈タンタン〉の玉夫か……いや、悪くないぞ」
「だれかが、ぼくを殺そうとしているのではないかと思うのです。……ぼくが眠りかかる。そうすると、決って悲しげな声がきこえてくるのです」
「悲しげな声?」
「苦しむような、訴えるような声です。……これを幽鬼の叫びと形容すれば、横溝《よこみぞ》正史になってしまうでしょう。ぼくはこれをテープの仕業と見ています。つまり、テープによって|その声《ヽヽヽ》をしつこく、ぼくにきかせようという寸法です。……そうわかっていても、それなりの恐怖感はあるのです。だれが、何のために? あいにく、ぼくは心臓の具合が極度に悪いのです。ぼくを殺すのに刃物はいりません」
「だれが、きみを殺そうとして――いや、少くともいやがらせをしているのか、わかるかね」
「〈タンタン〉の経営に成功したぼくの父は、去年、死にました。メッキなし、純金|無垢《むく》の自動車事故です。……それから、父の兄――つまり、ぼくの伯父が経営者になりました。いえ、母が経営者で、伯父は後見人ですか」
「気をおつけ! その伯父さんとやらに、身代《しんだい》をそっくり持っていかれるよ!」
トメ女史が叫んだ。
「そうなりつつあります。伯父は、もう、ぼくの母を自分のものにしました……」
「そら、ごらん。これ、悴《せがれ》よ。この若者を助けてお上げ。この子を殺そうとしているのは、その伯父さんにちがいない」
「そこで騒がないで下さいよ、母さん。ぼくの気持は、もう決っているのですから」
神野は閉口して呟《つぶや》いた。
「よく言った。推理。それが男ぞ、それでこそ日本男児。死んで〈タンタン〉のネオンと輝け」
「うるさいなあ。ぼくが決心したのは、この事件を〈ハムレット殺人事件〉と呼ぶことです」
「まだ殺人は起ってないですよ」
青年が抗議した。
「状況としては、『ハムレット』と同じじゃないか。きみ、玉夫君はハムレットだよ。どうだい、オフィリアにあたる女の子が(と小突いて)いるんだろ、畜生、この色男」
「浅墓トマ子ってテレビ・タレント、ご存じでしょうか」
「うむ、浅墓キナ子さんの妹だろ」
「テレビ・タレントなど蛆虫《うじむし》じゃ!」とトメ女史がわめいた。「バカなタレントなんか恋人にすると、ろくなことがない。バカなタレント――バカタレじゃけん」
「だいたいのところは、のみ込めた」
神野は頷いた。そのとき、電話が鳴った。神野は隣室に切りかえて、手短かに話をすませ、戻ってきた。
「しかし、きみを殺そうとしている者――それが存在するとしての話だが――を、勝手にここで決めてしまうわけにはいかない。家族構成をきかせてくれたまえ」
「弟二人に妹が三人。母の妹が経理をやっています。ぼくを嫌っている番頭が二人。……とにかく、母以外の全員が――猫に至るまで、ぼくを嫌っているのです」
「ふつうじゃないぞ、それは」
神野は溜息をついた。
「どういうわけかね?」
「ぼくが友達と演劇をやっているからです。来月、渋谷のスナックで、これは冗談じゃなくて、『ハムレット』をやります」
「待て、待て。そう先走るな。つまり、きみが芝居に狂っているから白眼視されているというのか」
「そうです。伯父だけが、いくらか、庇《かば》ってくれますが……」
「ふーむ。では、わがヴァイオリンの妙《たえ》なる調べの中で灰色の脳細胞を働かすとするか」
神野はヴァイオリンをとり上げた。トメ女史はいち早く室外に脱出し、私は用意していた耳栓を耳につめた。それでもなお、かすかに「トランシルヴァニアの子守唄」のメロディーらしきものがきこえてきた。
青年の顔が蒼白《そうはく》になった。片手で胸を押えたかとみるまに、床に崩れた。
「しまった!」
神野が叫んだ。
「星川君、救急車を呼んでくれ。まだ、救《たす》かると思う」
私は電話機にかけ寄り、119番を呼んだ。一方、神野は浅墓キナ子に電話した。
「ぼくの思った通りだったよ」
神野は安楽椅子にかけた。
「さっきの電話は鬼面警部からだったのさ。彼のところに、〈私は殺される〉という手紙がきたというのだ。〈私は私を苦しめる音をテープにとってやりました〉とあって、カセットテープが封筒に入れてあった。むろん、この青年の名前でだ。驚いたよ。警部が再生してくれた音は、ぼくのヴァイオリン、しかも『トランシルヴァニアの子守唄』だったから」
「ふーむ」
「ぼくがすぐにヴァイオリンをひいてみせたのは、そのためだ。だけど、妙なる音色がこんなにひどいショックをあたえるとは思わなかった」
「どういうことだ? 説明してくれないか」
「まだわからんのか、きみは!」
神野は呆れ顔で、
「あの青年は、あちこちで――警視庁からキナ子さんに至るまで――自分が殺されそうだと言い触らしていた。……いいかい。心臓の弱っている(これは本当のことらしいがね)青年に、〈犯人〉は夜な夜な奇怪な音をきかせて苦しめていた、という〈事実〉を作っておく。〈犯人〉は、ぼくのところへ行けと青年に言ったという。身体の弱っている青年は、ここで、同じ音をきかされて、バッタリ。……いいね? こうなれば、だれだって、〈犯人〉は、ここの二階に住む田能久氏、すなわち、青年の伯父とみるだろう。ぼくのヴァイオリンの音を採るためにも、田能久氏は条件がぴったりだしね」
「つまり、彼は伯父さんを犯人に仕立てたかったわけか」
「そうとも。そのためには、死をも辞さない心理なんだ。おなじみ、〈他殺に見せかけた自殺〉の線でまとめてみようとしたのだろう」
「そんなことをして何になるのかね?」
「母親と伯父のあいだを裂くためだ。死んでまで母親を独占したかったのだ。これを深層心理的にまで解明する必要はあるまい」
私にもようやく分ってきた。
「しかし、この青年は、どこで、きみのヴァイオリンの音をテープに採ったのだろう」
「キナ子さんの家の外から簡単に採れるさ」
「しかし、ここまできて、もし、きみがヴァイオリンをひかなければ……」
「彼の方から所望したことだろうよ。とにかく、ぼくはあの曲ひとつしかひけないし、そのことは浅墓家で耳にしているはずだからね」
「いやあ、おそれ入った!」
「こんな事件は、ぼくの名を高めるより、ヴァイオリニストとしてのイメージを傷つけるから、書かないでおいてくれないか。なんたってイメージが大切だあね。だれがみても、わっ、天才だ! と思うような事件だけ書き残しておいてくれたまえ」
そのとき、救急車のサイレンが響いてきた。
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第二話 さらば愛《いと》しきヒモよ
1
私の友人である神野推理の事件簿の中でも特に注目すべきものの一つが、この〈ヒモ〉殺人事件である。だが、はじめに、事件が神野のところに持ちこまれてくるまでに、どのような経緯《いきさつ》があったかを述べておいた方がよろしいであろう。
警視庁捜査一課きっての名警部である鬼面と、その弟子である旦那刑事との心理戦は極限に達していた。――といっても、戦いを挑んでいるのは、もっぱら旦那の方であって、忙しい鬼面は部下の苛立《いらだ》ちをあまり気にしてはいなかったのが真相である。
多くの難事件を解決、突破した鬼面と、いまだかつて、〈成功〉というものを手にしたことがない旦那とはウマが合うはずがないのである。いかつい、見るからに精悍《せいかん》そうな鬼面と、一見してダメそう、よく知ればいよいよダメな旦那(小柄で貧弱で、頭髪はほとんどなかった)とは、所詮《しよせん》、犬と猿、水と油であった。
(鬼面の奴め、軽薄なマスコミのおだてに乗りやがって……)
劣等感にさいなまれている旦那刑事は、刑事部屋で呟《つぶや》いた。そして、突然、大きな声でうたい出したのである。
※[#歌記号] シャバドゥビィ……イエー……
おれがむかし鬼面だったころ
おれの親父はトンズラ
お袋はふくれっつらで
妹は泣きっつら
弟はニキビっつらだった
……分《わ》きゃるかな?
「分きゃるぞ……」
盗聴装置のヴォリュームをあげてきいていた鬼面警部は怒りをこめて頷《うなず》いた。
(おれは天才だから、嫉妬《しつと》され、中傷されるのは仕方がない。……しかし、旦那のように無能な奴にあんな風にからかわれる理由はない。あいつのクビがつながっているのは、このおれのおかげだということが分っていないのか?)
――分んねえだろうなあ……。
旦那の声がつづいた。
――もう一つ、いこうか? (いけいけ、とほかの刑事たちの声がした。)
※[#歌記号] おれがむかし警部だったころ
親父は六部(巡礼)で
兄貴は東武
弟は西武につとめていた
おれのメカケは……陰部だった
分るかな?
刑事たちが爆笑した。(もう我慢がならない)と鬼面警部は思った。
インターフォンのスイッチを入れて、
「旦那刑事、すぐ、私の部屋にきてくれ」
――はいっ!
旦那の声がした。
(よし、おれも作ってやるぞ……)
昭和の名警部、〈桜田門の明智小五郎〉として世に知られた警部は、ひとり、部屋の中でうたい出した。
※[#歌記号] ヘイヘイヘーイ……イエー……
おれがむかし旦那だったころ
弟は|そんな《ヽヽヽ》風《ふう》で、
妹は|あんな《ヽヽヽ》風だった
お袋は女で
隣の娘はマドンナだった
分るかな?
分んねえだろうなあ……
「やっておられますな」
旦那刑事が陰惨な目つきで笑いながら入ってきた。
「次は〈刑事〉をおやりになりたいのでしょう?」
「え?」と鬼面はひるんだが、「やるとも、やってやるぞ」
「では、どうぞ」
※[#歌記号] おれがむかし刑事だったころ
お袋は炊事
姉貴は恋路
妹はハイジだった
分るかな?
「分りますが、教養が邪魔しておられるようですな」
旦那刑事は冷笑した。
「おれがむかし警視庁だったころ……」と、鬼面は意地になってつづけた。「親父はコック長で弟はボーイ長 妹は人形町だった……」
「もう一つ、|どっ《ヽヽ》とくるものがないですな」と部下は評した。「こんな風にやったらどうでしょう? ……おれがむかし桜田門だったころ、親父は天安門でお袋は陽明門 メカケは陰……」
「莫迦《ばか》|もん《ヽヽ》!」
鬼面は列車の時刻表を投げつけた。
「きみに任せたマンション工事現場の殺人事件――あの報告をきこう」
「場所は西新宿でありまして……」
旦那は急に怯《おび》えた。
「そんなことはわかっておる。新宿署から報告がきている」
「マンションの基礎工事をやっているところです。まだ、地下を掘っている段階で、前面には板塀《いたべい》がまわしてあります。おれがむかし板|塀《ヽ》だったころ……」
「兄貴は平塚八|兵衛《ヽヽ》で……のせるな! つい、のっちゃうじゃないか」
「昼休みまでは死体なんかなかったと関係者がみんな言ってました」
「そんなアイマイな言い方があるか。関係者ってだれだ?」
「工事人夫ども――いえ、あれはなんというのでしょうか」
「作業員だろう。何人いた?」
「八人でしたか。とにかく、みんなメシを食いに行ってたんです。ところで、ここに感心な青年がひとりおりましてな」
「どうも、きみの日本語はおかしい。講談みたいだぞ」
「うちから弁当を持ってきていた。板塀の入口を見渡せる道端にすわって、持参の弁当を食べていたこの青年、柄の悪い男が板塀の中に入ってゆくのに気づきました」
「何時ごろだ?」
「十二時半前後とか……」
「気にしなかったのかな?」
「工事現場を覗《のぞ》きにくる人間はよくいるそうです。しかも、一見、ヤー様(やくざ)風のお兄《あに》いさん……新宿ではありきたりの風俗ですが」
「それから、どうした?」
「一時過ぎて、仕事を始めようとすると、はるか地下のコンクリートの上に男が倒れている。あっ、これはさっきの男だ! そばに寄ってみると、すでに冷たいムクロと化しておりました」
「格闘のあとはあったのかな?」
「なにしろ、工事現場、こまかいことはわかりません」
「たよりない」
鬼面は嘆息した。
「まあ、コンクリートの床に落ちたのが直接の死因だということだ。問題は何者かが突き落したのではないかという疑い、これだな」
「あやまって足を滑らしたのかも知れません」
「例の女の方はどうした?」
「え?」
「ほら、丁度そのころ、超高層ビル内の北海道料理屋で食事をしていた客の一人が、下界を眺めていて、現場に、男のほかに、もう一人、女がいたのを見たと証言していたろう。赤いブラウスを着ていたと言っていたぞ」
「忘れておりました。それも、弁当青年にきいてみました」
「なんと答えた?」
「そんな女は見たこともない。絶対、出入りしていないと……」
「おかしいじゃないか」
鬼面は図面を出して、
「道路に面した以外の三方は、どれも、いまどきにしては大きな屋敷だ。そろって、マンション建設反対の叫びをあげたときいている。……つまり、|ここ《ヽヽ》の出入り口は一つしかない。しかも目撃者がいて、被害者の入ったのを見ている。これがどういうことか、分きゃるかな?」
「密室ですな」
「密室だ。しかし、この密室は天井がスッポリ抜けている。しかも、女を目撃した人がいる。ずっと上の方からな」
「その女は、マンションの両隣、あるいは奥の家から、塀を越えてきたのではありませんか」
「それもいちおう考えてみた。調べた結果、その可能性はない。だからこそ、きみに行って貰ったのだ」
「〈女を探せ〉――古典的テーゼですか」
「どうだ、可能性は?」
「さあ。……犯人はヘリコプターから釣りおろされたのじゃないでしょうか」
「長生きをしますよ、おまえてえ人は」
「……わかりません」
旦那は途方にくれた。
「まあ、弁当を食べながらの目撃では、うっかり見過すこともあるだろう。女の出入りの可能性は放っておけ。私はリアリストだ。被害者が新宿のトルコ嬢のヒモであることはわかっているのだから、その女を調べることだ。女は、いままでの調べでは、鉄壁のアリバイがある。これを崩すのだ。あっぱれ、警視庁の旦那、デカ魂の神髄よ、と世の人を瞠目《どうもく》させてやれ」
「アリバイ破りですか」
刑事は気がのらぬ様子だった。
2
「で、女のアリバイはどうだったの?」
自称劇作家で、もとテレビのコント作家の神野推理は、ヴァイオリンをひく手を休めて、うなだれている旦那刑事にきいた。
神野にコントを書かせるべく彼の部屋を訪れていた私と、息子にお赤飯を持ってきていた神野の母親のトメ女史とが同席していた。その態度からみて、だれも旦那刑事がアリバイ破りに成功したとは思っていなかった。
「女は二十五歳、赤松かな子、容貌はふつうです。北九州出身で背が低い。ボタ山のイメージがしみついております。底辺から這《は》い上がろうとしているタイプとでも申しましょうか」
警視庁の底辺から這い上がろうとしている旦那刑事はつづけた。
「事件が起ったと推定される正午から一時のあいだに、かな子が、どこで何をしていたか? こいつを調べました。……女は西大久保三丁目のアパートで十一時近くに眼をさまし、歯をみがき、スポーツ新聞をみて、テレビをちょっとみて、ラーメンをとったというのです。ラーメンがとどいたのが正午少しすぎだそうです」
「だまされてはいけないよ! それから殺しに行ったって、間に合うんだからね」
トメ女史が叫んだ。
「まあ、きいて下さい。ラーメンがきてみると、かな子はあまり食欲がない。隣の部屋の女に声をかけて、ラーメンをすすめる。女がやってきて、ラーメンを啜《すす》りながら世間話になる。これが二時までかかったというんです」
「ラーメンの出前の人と、隣室の女と、二人がアリバイを証明できるわけですな」
神野がきいた。
「その通りです。ラーメン屋の出前の青年と、隣の部屋のホステス、どちらも、かな子の言を裏づけています」
「信用おしでないよ」
トメ女史が注意した。
「出前青年はかな子とデキていて、嘘をついた。ホステスもレスビアンで、かな子とデキていた……」
「かな子はヒモ一人にがんじがらめにされていたんです」
刑事は抗弁した。
「そんなにやたらにデキるわけはありません。青年もホステスも、まともでした」
「ラーメン屋の時計を動かすのは、どうかえ?」
トメ女史が口をはさんだ。
「推理小説によくあるだろ。じっさいは、十一時なのに、時計の針を動かして十二時と思わせる」
「だれに思わせるんです?」
「ラーメン屋の主人と、出前にだよ!」
「どうやって?」
「ラーメンを注文しに行ったとき、時計を一時間進めるのさ」
「あの……ラーメンは電話でたのんでいるのです」
刑事が低く言った。
「お母さん、しずかにしていてくれませんか」と神野が言う。「ちょっと黙っていて下さい」
「動機はどうなのです?」
私がきいた。
「これは、もう、ばっちりあります」
刑事は愁眉《しゆうび》をひらいた。
「かな子は、被害者であるやくざから逃げたくて仕方がなかったのです。殴る蹴《け》るの上、稼《かせ》いだ金は片っぱしから吸い上げられる。覚醒剤《かくせいざい》の注射で拘束される。たしかに『恐ろしくて殺したかったほどだった』と告白しています。動機は充分なのです」
「問題は方法ですな」
神野が頷いた。
「とにかく、現場で一人の女が目撃されている。……別の女が殺しに行くことは考えられないかしら?」
「これは、いまのところ、なにも浮んでいませんな」
「かな子のアリバイは動かしがたいようですね」
「びくともしません」
「かな子のアパートから現場までは、時間にして、どのくらいですか?」
「歩いて十五分……いや二十分かかるでしょうね、片道が」
「往復四十分……犯行には一時間を要しますな」
「タクシーならもう少し早いでしょうが」
「いずれにせよ、無理なようだ」
「死体移動はどうでしょう」
旦那が自信なさそうに言い出した。
「つまり、殺しておいて、現場に運ぶわけですが」
「無茶なことを言わんで下さい」
神野が言った。
「だれが、どうやって、あんなところに、昼間、死体を運び込むんです。それに、被害者が塀の中に入ってゆくところは目撃されているんでしょう?」
「私は、もう、何がなんだかわからないのです。だからこそ、神野さんのお力にすがりにきたんだ」
旦那は泣き出した。
「このまま、帰ったのじゃ、あの鬼面に侮辱されるだけです。やつは刑事部屋に盗聴装置を仕掛けて、私たち刑事の愚痴やボヤキをこっそりきいてたのしんでいる人非人です。国家権力の手先です」
「あなただって、そうじゃないか」
神野が嗤《わら》った。
「とにかく、アリバイを破る方法をもう少し、検討してみようではありませんか」
「はい、よろしく……」
「ラーメンをとり、隣の部屋のホステスを呼んできて二時まで喋《しやべ》っていた女が、|かな子ではない《ヽヽヽヽヽヽヽ》可能性はどうでしょう」
「つまり、双生児のきょうだいの片割れがいて、かな子の代理をつとめていた、なんて手だろう」
私が冷やかすと、神野は私を睨《にら》んで、
「あらゆる可能性を考えてみることだよ、星川君。……それが、かな子とそっくりな女であればいいんだ。世の中には、ふしぎに、そっくりな人間がいるものだ。その女を金でやとえばいいのさ。殺しは、やはり、かな子がやった……」
「でも、ホステスは三年越しのつき合いだと言ってましたよ。別な人間がなりすましたつもりでも、すぐに判るんじゃないですか」
「では、この可能性は棄てよう」
「むずかしいですな、アリバイ破りは」
旦那が吐息した。
「あなたが、鬼面さんに報告できない気持はわかるのよ」
神野は麦湯のコップを片手にもって、
「なにしろ、あの人は、アリバイ破りの天才だもの。あなたとくらべることじたいが間違いよ」
「どうせ、私は地味ですよ。ウドンカケ食いながら、こつこつやってゆくタイプですよ」
「そうかなあ。ちがうんじゃない? なんか、ムチャクチャで、こういうタイプと、イメージ、決められないと思うんだけど」
「いえ、社会派ミステリに出てくるタイプです。こつこつ歩きまわって、犯人を追いつめてゆく。……あるときは片目の運転手、またあるときはセムシの老人……」
「そこらから、おかしくなっちゃうのよ。リアリズム型の刑事が、どうして、多羅尾伴内《たらおばんない》になるの? せっかく社会派ミステリ風でゆくなら、それらしくして貰いたいのよ。下積みの苦悩、貧しい犯人へのひそかな同情、怨念《おんねん》の袋をつねに首にかけ、破れたら縫え、破れたら縫え、と一休さんが言ってるでしょ」
「一休さんが?」
「いいから、いいから。この〈貧しい犯人への愛憎〉ってやつが土着原点派のよりどころよ。だから、そこのところを掘り下げて欲しいわけ。……だいたい、あなたのうらぶれ方ってのは、思想的、風土的裏づけが乏しいの。それじゃ、単なる〈うらぶれ〉よ。日本の現実がもうもうと立ちのぼってくるようなうらぶれ方であって欲しいと思うのよ」
「じゃ、どうしましょう?」
「どうしましょうって、土着怨念てやつは、一週間で身につけるってわけにはいかないの。女性週刊誌でやっている〈一週間で身につくユーモア〉、あんな風にはいかないんだから。あなたのたそがれぶりってのは、そりゃあ、なみたいていのものじゃありませんよ。でも、そのままじゃ、執念のない刑事コロンボよ。いっぱし売り出せるってタマじゃないのよ」
「執念のないコロンボとは何ですか!」
「ほら、すぐ、かっとなる。土着派の刑事なんてものはね、もっと内向的でなきゃ、|さま《ヽヽ》にもなんにもならないの。あなたは軽薄ですからね、すぐ〈おれがむかし……〉なんてやって、ああいう流行にヨワいんだから」
「おれがむかしコロンボだったころ」とトメ女史が言った。「テレビでは『ゴロンボ波止場』をやっていた……」
「うまい、うまい」
「そういう風に、ほいほいと喜んじゃうところが軽薄なのよ。映画の『飢餓海峡』で伴淳三郎がやった弓坂って刑事、あれが目標よ、あなたの。あの七三に屈折した態度こそ指標です。……あなたときたら、同じ伴淳でも、新東宝時代の『名探偵アジャパー氏』よ。※[#歌記号] あなたはアジャパーで、私はパー。これじゃ屈折できませんよ。屈折十年、柿八年てぐらいだ、だれでも手軽にできるってものじゃないの」
神野は手製のパイプをくわえた。
3
「いずれにせよ、私は地味ですよ。あなたみたいな西欧派じゃありません」
「西欧派?」
神野はきき返した。
「ええ、俊敏なること神のごとき名探偵ってやつですよ」と旦那は言った。「西欧派の名探偵ってのは、ホームズいらい、独身で、生活に困らないと相場が決っているんだ。ホームズ、ポアロ、ペリー・メースン、みんな独身で、生活臭がない。まあ西欧ではいいでしょう。風土がちがうのですからね。……しかし、日本の、この湿気ムンムンの風土でですね、そういう名探偵が存在できると思いますか? 虚構としてもキツいんじゃないですかね?」
「うちの息子を批判する気かい!」
トメ女史がとび上がった。
「たしかに、この子は独身だよ。でも、私ってものが付いているからね。……それとも|なに《ヽヽ》かい、おまえさん、この子にムシを付けたいのかい? そういっちゃなんだけど、この子は二枚目さ。〈青山のロバート・レッドフォード〉って騒がれている身です。目線《めせん》一つでスタートラインにならぶ娘が一ダースはいるはずですよ。中には、この子のためなら、トルコで働いても貢ぎたいなんてのも出てくるにちがいない。いえ、ほんと、ことわってもそうなるの。で、トルコで働いて、月に三百万も貢ぐと、ホラ、欲が出る。角万《かどまん》で角隠しかぶりたいなんて、不穏な思想を持つようになる。結婚してくれ、の連発で、なんか、当人、その気になっちゃうのね。……うちの子は、親がこう言っちゃなんだけど、しっかりしたところがあるんです。だから、あんまり、うるさいと女を締め殺しちゃいますよ。そこらのことを、しっかり睨み据えて発言しているのかい、おまえさん」
「いえ……そう飛躍されても……」
旦那はあわてた。
「うちの息子が犯人になっちゃうの。あたら名探偵が犯人になっちゃうんだよ。この国家的損失だって、おまえさんの眼からみれば、市井のうす汚れた事件だ。……そのさい、女性週刊誌のインタビューは私が引き受けますよ。テレビのニュース・ショウだって、私が一手に引き受けて、他人にうしろ指一つさされないようにします。……問題はおまえさんだよ。おまえさんの魂胆ですよ。うちの息子に手錠をかけて、大見栄《おおみえ》をきろうって気持がすけて見えますよ。そんな真似までしても、おまえさんは、名探偵ってものを否定したいのかね」
「否定したいんじゃないですよ。日本において、西欧的な形での名探偵は、パロディとしてしか存在し得ないのではないかと言いたいんです」
「むずかしいことを言って、ごまかそうとしてる……」
トメ女史は唇をかんだ。
「まあまあ、およしなさい」
私はうんざりして言った。
「いまは、赤松かな子のアリバイを破ろうとしているのだ」
「その必要はないね」
神野が突っ放すように言った。
「え?」
全員が問い返した。
「刑事さんの報告が間違っていない限り、かな子が男を殺すのは物理的に不可能だ。……その男が転落死した可能性はなさそうだし、別な女の存在も考えられないとのことだ」
「八方|塞《ふさが》りなんです」
刑事はまた泣き出した。
「失礼なことを言って、すみませんでした」
「そうなれば、単純な消去法によるしかない。第二の男だ。かな子には別の男はいなかったんですか」
「……いました。昔の恋人――高校時代の恋人がさいきん彼女のまえに現れて、結婚してくれと言ったそうです」
「それだ! どうして、初めから、それを言わなかったんですか?」
「だって、ずっと〈謎《なぞ》の女〉を追っていたもので……」
「鬼面警部はその男の存在を知っていますか?」
「ひっひっひ、あいつには、こっちからは何も教えてやるもんか」
旦那の顔が歪《ゆが》んだ。
「鬼面さんが知っていれば、そこで解けたことだ。……その男の写真を持ってますか?」
旦那はしぶしぶ名刺入れから小さな写真を出した。
神野はしばらく写真に見入っていたが、
「思った通りだった」
「なにが?」
「この青年に会ったのでしょう?」
「ええ」
「この写真の髪型は短い。いまでも、こうですか?」
「いえ、長髪でした」
「もう一度、この男を調べてみることです。もっとも行方をくらましているかも知れないが。……十中八九、犯人はこの男です」
「でも、現場には女がいたというので……」
「それがこの男です」
神野が言った。
「じゃ、女装でもして……」
「いや、そんなことはしていないでしょう。……だいたい、若い人をうしろからみて、男か女かよくわからないことが多いでしょう、このごろ。まえにまわって、胸を見ないとわからない。……現場で目撃された女の服装は?」
「赤のブラウスにジーンズとか」
「それじゃ、赤いTシャツかなにかにジーンズだったんだ。優しい顔立ちだから、|遠くからは《ヽヽヽヽヽ》判別できなかった……」
「なるほど……」
刑事は大きく頷いた。
「だんだん、そんな気がしてきましたよ」
「長髪ってやつは、じっさい、まぎらわしいんだ」
神野が呟いた。
「しかし……殺すにしても、なんだって、真昼間に」
「初めから殺す気があったかどうか。……おそらく人のいないところで話をするつもりぐらいだったんじゃないかな。それが激論になって……殺人か過失か、いまはなんともいえないが、|とにかく《ヽヽヽヽ》、被害者と目される男は下に落ちて死んだ。……殺意があったら、もっとちがうところへ誘い出したと思う。……だいいち、呼び出したのは、被害者の方かも知れない」
「いろいろわかってきました」
刑事は頭をさげた。
「やはり、あなたは名探偵です」
「あたりまえじゃないかね」
トメ女史が莞爾《かんじ》とほほえんだ。
「お電話を拝借させて頂けますか」
刑事はやたらに叩頭《こうとう》する。
「どうぞ」
と言って、神野は私に眼を向けた。
「……じつに初歩的な事件で、ぼくも自尊心を傷つけられたよ、星川君。名探偵の生きにくい世の中だ」
「ところで、そろそろ、どう? テレビのコントも、気晴らしになるんじゃない?」
「コント?」
「そうさ」
私は笑いかけた。
「きみの天才的なコントがブラウン管から消えて何年になるだろう。きみがコントを書いてくれるなら、ギャラの方は大幅に値上げする、とうちのプロデューサーも言っている」
「その手には乗らないよ」
神野はうす笑いを浮べて、
「ぼくのところには、さまざまな事件の調査が持ち込まれている。これをさばくだけで手一杯だね」
「そんなに忙しいのか!」
「依頼人も左翼から右翼までさまざまだ。きみが、ぼくの存在を活字にしてくれたおかげで、ぼくの名はとみに高まった」
「それはけっこうだ」
「子猫の失踪《しつそう》から、騎手の行方不明事件、もちろんロッキード事件につながる調査もある。朝の六時に叩き起されることもあって、ふらふらだ」
「収入につながるのかい」
「それはまだまだだ。しかし、ポアロ亡きあと、ぼくが灰色の脳細胞を使わずして、だれが使うのかね。金田一耕助さんから、このあいだ電話があって、『本陣殺人事件』のころ、はいていた袴《はかま》をぼくにくれると言ってきた。神津《かみづ》恭介さんは古い万年筆を送ってくれたし、鬼貫《おにつら》警部は、満鉄の時刻表をくれたぜ」
「あの……鬼面警部がよろしく申しておりました」
刑事が口をはさんだ。
「しかし、もう一つ、腑《ふ》に落ちないことがあります」
「なんだい?」
「例の密室――仮密室でもいいのですが……犯人はどうやって出入りしたのでしょう?」
「あ、あれか」
神野は笑った。
「弁当を食べていた目撃者は別に嘘をついてはいないのよ。ちゃんと第二の男をも見ていたと思うの」
「でも、犯人は出入りしていないと……」
「〈そんな女は見たこともない〉と答えたはずだ。きみが、|女を《ヽヽ》見なかったかとたずねたからさ。しかし、被害者以外の|男が出入りしていないとは《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|ひとことも言ってないはずだよ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
そう答えると、神野は神経質そうな顔でヴァイオリンを左肩にあてた。
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第三話 コザのいざこざ
1
温度29度、湿度90%――。
バシー海峡にある熱帯低気圧のおかげで、雲が多く、にわか雨が降りやすい、とテレビの天気予報が言いおった。
梅雨が明けていないとはいえ、湿度90%とくれば、息苦しいばかりだ。おまけに、私はコザにいるのだ。
コザは、二年まえに沖縄市と名称が変った。どうでもいいことだが、〈沖縄市〉というのは、おかしくはないだろうか。どう見たって、沖縄本島の中心都市みたいな名前じゃないか。
要するに、これは基地の町だ。二十年前の横浜、立川――あの〈進駐軍の匂い〉が濃厚に残っている珍しい町だ。
私たちは胡屋《こや》のロータリーからカデナ航空隊第二ゲートに向かう通りを歩いていた。
「ポルノ・ショップがある」
神野推理が呟《つぶや》いた。
「〈観光客歓迎〉と書いてあるぞ」
「サンフランシスコやロスのポルノ・ショップと造りが同じだ」
私は思わず言った。
「入ってみようか」
変な店である。
入口に〈この店は休憩所ではありません。雑誌はすべて横文字です。ひやかしはご遠慮下さい〉と下手な日本文字が書いてある。
(どういうことだ……)と私は思った。(〈観光客歓迎〉という看板と、矛盾してるみたいじゃないか)
店の中は暗くて、ひるまなのに電燈がついている。客は私たち二人だけで、顔に傷のあるオッサンが店番をしている。
ポケットブックが沢山あるが、私は無視して、奥のヌード雑誌のコーナーへ直行した。雑誌はいずれもビニール袋に入っていて、中が覗《のぞ》けないようになっている。右側の棚には、〈ノーカット〉と日本語で書いてあり、左側の棚のは、表紙のヌードの一部がマジックで消してある。さらにまた、〈雑誌の内容についての質問はご遠慮下さい〉と、ものものしい貼紙《はりがみ》がしてある。
神野の様子をみると、ポルノ雑誌など飽き飽きしたといった態《てい》である。
「買った方がいいと思うかい?」
私は小声できいた。
「お好きなように」
と神野が答える。
私は意を決して、マジックを塗った表紙のを一冊、ノーカット版を一冊、求めた。
外に出ると、
「スナックに入ろう。ビニールの袋を破ってみたいんだ」と私は言った。
「好きだな、きみも」
神野は超然と答えた。
冷房のきいていない、バラック建ての店に入った。
「ルートビア二つ」
神野が主人に言う。
私は、われながら浅ましい手つきで、袋を破き、雑誌をとり出した。片方は、中まで、マジックがべったり。片方は――驚いたことに――すべての女が黒いパンティを身につけている。ノーカットなのは、当り前だ。
「ひっかかった!」
神野はケ、ケ、ケと笑った。
「そんなことだろうと思っていたんだ。あの意味ありげな貼紙が怪しかった」
「それなら注意してくれればいいじゃないか!」
私はかっとなった。今度の小旅行で、私は彼が中学生のころと変らぬイジワルであることを確認しつづけていたのだ。
「怒るなよ、星川君」
神野はルートビアを飲み、顔をしかめた。
「このゲート通りの商店街のうさんくささこそ、基地のあるべき姿なのだ」
「あるべき姿?」
「そう。この町では、アメリカ兵、娼婦、沖縄人、日本人観光客たちが、決して、|えせ《ヽヽ》ヒューマニズムで妥協していない。互いに相手を黙殺し、突っぱり、毅然《きぜん》としていることが、強い緊張感を生み出している。にこにこしたアメリカ兵が〈ハロー、ジョー〉などと日本の若者に呼びかける堕落ぶりは影もない。古典的な進駐軍の姿じゃないか」
「しかし、あのポルノ・ショップは……」
「まあ、ききたまえ。商店の主人の多国籍ぶり、インド人商人たちのいんちきくささ――これが基地だよ。基地ほんらいの姿だよ」
神野はパイプをくわえた。
そのとき、
「あれ、神野さんじゃないですか!」
すっとんきょうな声とともに、小柄で、禿《は》げ上がった中年男が舞い込んできた。
私はうんざりした。日本列島の南端まできて、旦那刑事に出あうとは!
「これはこれは。奇遇ですなあ!」
「松竹新喜劇の台詞《せりふ》みたいだ」
神野はボヤいた。
「こんちまた、物見遊山で?」
「仕事ですよ」
私が説明する。
うちの局が主催する音楽祭が、去年の海洋博会場でおこなわれたのだ。私はディレクターだから来るのが当然だが、神野推理は、沖縄の観光とひきかえに、番組の構成を引き受けたのである。
音楽祭はきのうおこなわれたのだが、例のバシー海峡の|なに《ヽヽ》のおかげで、スコールみたいな大雨が降り、海上のアクアポリスをようやくカメラに収められたのが奇蹟《きせき》といえた。とにかく、旧海洋博会場は、鉄骨が雨に晒《さら》され、巨大なる廃墟《はいきよ》と化しており、私たちの言葉でいえば、〈絵にならない〉のだ。大雨でかえって救われたところもあるが、観客たちはズブ濡れになってしまった。
「私も仕事です」
旦那は意味ありげに頷《うなず》いて、
「どちらにお泊りですか」
「すぐそこのコザ・グランド・インターナショナル・ロックフェラー・ヒルトン・プラザ・ホテル」
「私もあそこです」
「やれやれ」
神野がきこえよがしに言った。
「つれないことをおっしゃいますな」と、旦那は、はしゃぎ気味である。
「おい、出ようよ」
神野が私に言った。
「あれっ、神野さん、いいバッグですね」
旦那は、神野の片手のカーキ色の米軍手提げ袋に眼をとめて、
「とんとGIブルースですな」
「歳が知れるな、GIブルースとは」
「いくらで買ったんですか」
「八百円」
「欲しい、欲しい。どこで売ってるの? ね、教えて」
「教えるものか」
「じゃ、手にとらせて下さい。大丈夫、中は見ませんよ。……ええ、意地でも見ませんとも。……いいな、これ。これで八百円?」
「ひ、ひ、教えてやらないもんね」
旦那の眼が口惜しげに光った。私は、ああいう眼つきが好きじゃない。
〈コザ・グランド・インターナショナル・ロックフェラー・ヒルトン・プラザ・ホテル〉は、中ノ町大通りに面した、木造三階建てのホテルである。
そこのグリルで、安いわりにはうまいステーキを神野とたべた私は、はっと気づいた。九時に、金子プロダクションの社長と、バーであうことになっていたのだ。
「きみは部屋に戻って寝たまえ」
私が言うと、
「AFRT(駐留軍向けテレビ)をみる。ジョニー・カースンの〈トゥナイト・ショウ〉があるから」
と神野は答えて、
「閑《ひま》つぶしにヴァイオリンを持ってくるべきだったな」
私は狭いバーに入った。先にきていた金子社長の顔は照明のせいか蒼白《あおじろ》く見えた。
「社長……」
私は声をかけた。
「う?……きみか」
社長は黙り込んだ。やっぱり、怒っている、と私は感じた。
金子プロといえば、飛ぶ鳥もみずから落ちるほど上《のぼ》り坂の会社である。実をいえば、金子プロでは、目玉商品である三上輝夫を音楽祭の一位にするという条件で、参加したのだ。ところが、きのう、三上は二位になってしまった。審査員たちへの根まわしがうまくいっていなかったのか、そこいらの事情は、私にはわからない。私の上司であるプロデューサーは、ギャハハと笑って、さっさと帰京してしまったからだ。おそらく、強引な金子社長を罠《わな》にはめて、たのしんだのだろう。そして、おそらく、今後は、金子プロといっさい交際をしない方針でいるにちがいない。
その方針は、とても、よろしいのだ。よくないのは、私が〈お詫《わ》びの役〉にまわってしまったことである。
「このたびは、手違いがありまして。……いかがでしょう、那覇《なは》のクラブで芸者を総揚げしてですな」
自分でもなにを言ってるのかわからない。
「ま、飲みたまえ」
社長は落ちつかぬ声で言った。
「ありがとうございます。……ほんとうに、審査員が悪かったんですよね。あの連中に、三上のよさがわかってたまるものですか。私は怒りさえ覚えますです……」
2
翌朝はゆっくり寝ているつもりだったのに、ものすごい勢いで電話のベルが鳴った。脳天がずきずきし、眼がちかちかする。
――星川です……。
――大変です、大変です。
――あなた、だれ?
――旦那ですよ。……大変です、殺人があったんです。
――そんなこともあるでしょう。
――落ちついてる場合じゃない。
――あなたは公用とはいえ、旅行者でしょう。殺人事件は土地の警察に任せなさい。
――鑑識やなんかは、いちおう、すんだのです。
――じゃ、いいじゃないですか。
――でも、殺されたのは、山西エミですよ。
私の眼が、ぱっちりあいた。心臓はエイトビートで鳴り、鼓膜にはクェックェッという怪音がきこえる。
――待って下さい。すぐ、降ります。
――コーヒー・ショップでお待ちします。
旦那が答えた。
山西エミは、三上輝夫とともに、金子プロから音楽祭に参加したタレントだ。和製ジャニス・ジョプリンなんていう評論家もいるが、まあ、評論家ってのは、そういうことをいうのが商売だから、仕方がない。もっとも、糸居五郎先生なら、「そう、ジャニスだの、ジミヘンばかりが音楽じゃないものね、ゴオゴオ!」と、一|蹴《しゆう》するだろうけどね。
しかし、エミが殺されてたてえことになると、犯人は……。
「私は犯人の目星をつけていますがね」
旦那は、光まばゆい蒼空を眺めつつ、アメリカン・コーヒーを啜《すす》った。
明るいコーヒー・ショップの隅のテーブルである。
「死体が発見されたのは、朝の五時です。このホテルの裏に古い家をとりこわした跡がある。そこの庭の椰子《やし》の木の根もとから足が出ていたのです。死因は明瞭です。右肺を背後から刺されている。刃渡り八センチぐらいのナイフによると推定されています」
「凶器は消えているのですか」
私はたずねた。
「ええ」旦那は頷き、
「変質者の犯行とでも考えないかぎり、容疑者はきわめて限定されますな」
「ほう」
「山西エミは、那覇のキャッスル・ホテルに泊っていた。付き人《びと》のN子の証言で、ゆうべの彼女の動きがわかっているんです」
「付き人がいて、ゆうべのうちに騒ぎ出さなかったのはおかしいな」
「まあ、おききなさい」
旦那はニヤニヤして、
「N子の話では、ホテルで夕食をともにして、八時に別れています。エミは、用があるので外出するが、九時半には戻るからと言って、九時半にあそこのバーでまた落ちあう約束をしています」
「なるほど」
「八時四十分に、自分の部屋にいたN子のところにエミから電話が入って、〈いま、空港で人を待っているが、まだ現れないので、少し遅れるかも知れない〉と言ってきたのです」
「だれを待っていたのだろう?」
「八時半着の東京発最終便の荷物についてのアナウンスがきこえたそうです。足取りは、そこで、ぷっつり切れます」
「N子はどうしたんです?」
「すっぽかされて、フテ寝したようです。ただ、エミの朝帰りは珍しくないので、べつに慌ててもいなかった……」
「エミはだれを待っていたんだろう?」
「乗客名簿をチェックして、各々の行き先を調べていますが、怪しい名前はないようです」
「推理小説だと、パイロットやスチュアーデスが犯人というのがよくありますが」
「それも調べてあります」
旦那刑事としては空前の布石であった。
「エミが何のために那覇空港へ行ったかは別として、彼女の関係者を考えてみましょう」
「まず、N子ですな」と私。
「これは、まあ、白でしょう」
旦那は大ざっぱな言い方をする。
「すると、三上輝夫かな。あいつ、ゆうべ、どこにいたのだろう。このホテルに泊ることになっていたんだが」
「宵のうちはあちこちを飲み歩いていたと言って……ある程度は、本当のようですがね。しかし、いろいろある男でしょう?」
「大ありです。エミとも|キーデして《ヽヽヽヽヽ》(出来て)ましたな」
「かりに、エミが八時四十分|丁度《ジヤスト》に空港を出たとして、車で、コザ市まで、一時間はかかります。だから、九時半以後《ヽヽヽヽヽ》のアリバイが問題になる。……三上は、その辺があいまいです」
「動機もありますよ」と私は言った。「週刊誌では、三上がエミに飽きて別れたことになっているが、実際は逆のようです。それに、三上は音楽祭で一位になれなかったために、情緒不安定になっている。すぐ、かっとなる奴ですから」
「当人は、十時ごろから部屋でテレビを観ていたと言っている」
旦那は唇を歪《ゆが》めた。
「ああいう二枚目は死刑にしてもいい」
「そんな無茶な……」私は呆《あき》れた。
「あの社長はどうでしょう。あくどい稼《かせ》ぎで二億円とかの家を建てたっていうから、あいつにも首を吊《つ》らせたい」
「無理ですよ。九時から夜中の二時まで、ぼくがいっしょに酒を飲んでいた」
「本当ですか?」
「それに、金の卵を生む鶏をわざわざ殺す奴はいないでしょう」
旦那は大きく頷いて、
「すると、星川さんのアリバイも成立するわけだ」
「冗談じゃない!」
私はとび上がった。
「ぼくを疑っているのですか? どうしてぼくが山西エミを殺さなきゃならないんです?」
「星川さんはテレビ・ディレクターだ。これはもう、女性歌手をどうにでもできる立場にあるわけだ」
「週刊誌の読み過ぎだ! テレビのワイド・ショウの観過ぎだ!」
私はわめいた。
「へ、へ、冗談ですよ」
刑事は薄笑いを浮べて、
「しかし、私は神野さんを怪しいと思っている。これ、本気です。互いに〈推理〉の道に生きる者として、悲しいことですが」
「あなた、気は確かですか?」
「もちろん、確か。……だって、神野さんは山西エミのファンでしょう。彼の自宅には、エミのLPがずいぶんあったと思いますが……」
「そういえば……」
私はためらった。神野が、番組の構成を引き受けたのは、実は、山西エミの実物を見たいというミーハー心理からなのだ。
「私だって、山西エミが好きなんです」と旦那は告白した。「あの唇の形と腰の線ですね、あれは私にとってはポルノです。とりしまるべき対象です」
「だからといって、神野がエミを殺すことはない。だいいち、彼は……」
はっとした。神野とは、ゆうべ九時に別れたままなのだ。
「おそろいだな」
そのとき、ルーム・キイを片手に神野推理がアロハ姿で現れた。やせた顔は、思いなしか血色が悪く、ムクんで見える。すそを長くした長髪が寝乱れたままだ。
「きみ、山西エミが殺された」
「きいたよ。ちょっとしたショックだった」
神野は陰気に笑った。
「朝早くから失礼ですが、これを見て頂きましょうか」
旦那は大きな紙袋をあけた。中から出てきたのは、たてよこ三十センチほどの例のカーキ色のバッグである。
「これ、どこに?」
神野が怪訝《けげん》な顔をした。
「山西エミが殺されていた場所に近い、コンクリートの塀《へい》の穴に押し込んであったのです。私が発見して、他の者には伏せてある。……八百円でお買いになったのでしたな?」
旦那は気味悪く笑った。
「しかし……」
「どうぞ、中をごらん下さい」
神野は上部のチャックをあけて、
「ヘアピースが入ってますな」
「女装用のね」
旦那はつづけた。
「あなたは女装して、山西エミに近づいた。そして、ふられたので、かっとなって殺した。……わかってるんですよ」
「どうしてぼくが女装する必要があるんです?」
神野は呆気《あつけ》にとられる。
「山西エミはレスビアンだからです」
旦那は鋭く言った。「私はある週刊誌で読んだのです」
「本当か、星川君?」
愕然《がくぜん》とした神野は、ようやく、私に向かって、そうたずねた。
「本当だよ。われわれ内輪の者は、みんな、知っている」
3
私は神野が殺人を犯したなどとは、つゆ思わなかった。いつも神野にやり込められている旦那刑事が捲《ま》きかえしに出ただけだ。刑事は、心理的に優位に立てるのが嬉しいのだ。
「ヘアピースとサングラスか……」
神野はバッグに右手を入れている。やがて、バッグのチャックをしめると、
「どういうことかな、これは」
と呟いた。
神野の超人的な頭脳が働き始めたようだ、と私は感じた。
「十五分ほど失礼してよろしいですかな」
神野はバッグを刑事に返しながらきいた。
「どうぞどうぞ。このホテルから外に出なければね」
「安心して下さい」
いつもなら、〈安心してくれたまえ〉というところだ。
しばらくたってから、眉毛の太い男がやってきた。この土地の刑事らしい。
「N子が証言をひるがえしました」
と旦那に向かって言った。
「え?」
「ゆうべ、空港から電話があったと思ったのは記憶ちがいで、どこかの電話ボックスからだったというのです」
「それは大変だ。エミは、九時まえにこの近くにいた可能性もあることになる」
「そうです」
「那覇からここまでは車でどのくらいかかりますか」と旦那がきいた。
「三十五分か四十分」
「じゃエミはこの近くにきていたのだ」
そのとき、もう一人の刑事がきた。
「このホテルのコックが、果物ナイフの中に、一つだけ、ここのではないのが混っていると申し出てきました」
「果物ナイフ?」
太い眉毛の男と旦那がデュエットした。
「どうしてそれがキッチンへ行ったのだろう?……そうだ。だれかが皿にのせて、自分の手元から離そうとしたのだ」
太い眉毛が言うと、相手はにこりともせずに、
「ルーム・サーヴィス係りに調べてもらったのですが、今朝、果物を部屋に注文した者は三名――その中の一名が、金子プロダクションの社長です」
「え!?」
旦那は腰を浮かせた。
大通りの外れに近い、プラザハウス百貨店の辺りの雰囲気《ふんいき》は、なぜか、ロスに似ている。
「フローレンス」というカフェに入ると、冷房がきいているので、私はほっとした。暑くて、肩で息をしていたのだ。
「コーヒーが百円とは安い」
神野はメニューを見ながら言った。「ふつう三百円はするからな」
「アメリカ人の客が多いからだよ」と私が答える。「コーヒーは二十五セントと決ってるもの。三百円ものコーヒーを飲むのは、世界中で日本人だけさ」
私たちはアイス・コーヒーを注文した。これは百五十円である。
「ところで、今度の事件の絵解きをしてくれないか。金子社長はエミ殺しを認めたものの、毒をあおって死んでしまった。なにがなんだかわからん」
私は吐息をした。
神野は眼を細めて、ウフウフと笑った。
「あの社長がなぜエミを殺したのか、動機がわからない」
「絶対に、喋《しやべ》らぬ、書かぬと約束すれば、教えるよ」
「約束する約束する」
「よろしい」
神野はパイプを口から離した。
「まず、山西エミが、生れつき、乱れた女だとかレスビアンとかいうのは間違いだ。ぼくは三上輝夫から、すっかり、きいた。……金子は、自分の傘下《さんか》の女性タレントに、政治家や若手財界人の夜のお相手をさせていた。そうやって政財界とのパイプをつなぎ、いざとなれば相手を脅迫もできる。エミも、そうした生け贄《にえ》になって、そのために恋人の三上と|まずく《ヽヽヽ》なった。彼女が乱れたのはそれからさ」
「なるほど」
「ところで、エミだけがなぜ会場に遠い那覇のホテルに泊ったと思う?」
「あっちの方が設備がいいから」
「ちがう」神野は唇を歪めた。「金子を計画的に殺すためだ」
「金子を?」
「そう。動機はもうわかるだろう。彼女なりにアリバイ工作もした。八時四十分に、この近くの電話ボックスから付き人に電話を入れて、空港のアナウンスを入れたテープを流した。これで、彼女は九時半まえにはコザに着けぬことになる。……じっさいは、八時四十分ごろにはこの近くにきていた。ヘアピースとサングラスで変装してね」
「タクシーで来たのかね」
「そうだろう。そして、金子を呼び出して、果物ナイフで刺そうとした。金子は止めようとする。彼女の腕を背にねじ上げて揉《も》み合っているうちに、ナイフがエミに刺さった。エミは死んだ。……金子はナイフを抜いたが、きみとの九時の約束が迫っている。ナイフをハンカチかなにかにくるんで、バーに戻った。こういうわけさ」
「それで顔色が蒼く、態度が変だったのか」
「金子は動転していたはずだ。おそらく、眠れなかったろう。……が、一夜明けたら、アリバイが|自然成立している《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》ことがわかった。エミのアリバイ工作が逆作用したんだ」
「じゃ、あのバッグはエミのかい?」
「当り前だ。旦那は、バッグ欲しさに狂って、ぼくのものだと勘違いした。あれはカッコイイからね。エミは那覇の平和通り辺りで買ったのだろう」
「それでヘアピースとサングラスが入っていたわけがわかった」
「旦那はいまだにあれをぼくのだと信じているようだぜ」
「テープとレコーダーはどうしたのだろう?」
「そこだ。ぼくは変装道具を見せられて、エミの意図がわかった。彼女は金子にあうまえに、バッグを一時的に塀の穴に隠した。もちろん、犯行後は持ち帰るつもりさ。……しかし、特にテープとレコーダーは、もし、だれかの眼に触れたら、おしまいだ。きみが一時的に隠すとしたら、どうする?」
「うーむ……コイン・ロッカーを使うかな」
「ぴったんこだ。あのバッグは、内側に隠しポケットがある。ぼくはそこにロッカーの鍵《かぎ》が入っているのを見つけた。旦那の眼の前で、ヘアピースを眺めているふりをして、そいつをかすめ取り、退席した。ボーイにこの辺にコイン・ロッカーがあるかときくと、近くのスポーツ・センターにあるという。そこで、別なボーイにチップをやって取ってきてもらった。ソニーの小型テレコだ。彼女がコイン・ロッカーを使用したあと外に出るまで、変装が必要だった理由がこれで明らかになった。……テープを再生してみると、空港のアナウンスが入っていた。ぼくはすぐに、旦那の名を使って、N子を呼び出し、証言を変えさせた。N子も金子のあくどいやり口を憎んでいたから、ことは簡単だった」
「すると、果物ナイフの情報もきみの仕業だな」
「ああ」
神野は笑った。
「空港でのチェックがあるから、刃物の持ち込みはむずかしい。若い女が、怪しまれずに那覇の街で買える刃物は果物ナイフぐらいだろうと推理したわけだ。……さて、金子はナイフをどう処理したろう? 夜中に外に棄てに出れば、フロントの男に姿を見られてしまう。深夜のロビイは無人だからね。……で、結局は、あさ、ルーム・サーヴィスで果物を注文して、ナイフをすり代えたんだ」
「どうしてそこらに棄てなかったのだろう?」
「どこに棄てても、日本の警察は、たちまち見つけ出してくるよ。まあ、果物ナイフを果物ナイフの群れの中に隠そうという考えは悪くない。コックという職業人を少し|なめた《ヽヽヽ》だけだ」
「きみがコックにきいたんだろう」
「ああ、電話で問合せてみた」
「しかし、あれでは、金子は殺人罪にはならなかったはずだが」
「そうだ。エミに殺意があったとわかればね。……だから、ぼくはサングラスの指紋をそっと拭い、N子の証言を変えさせ、テープと小型テレコは処分した」
「証拠|湮滅《いんめつ》じゃないか」
「それがどうしたの? 金子みたいな奴を葬るのは社会事業だよ」
「まさか、きみ……金子を?……」
「ぼくじゃないさ。どうやらN子が奴の胃病用のカプセルに毒を入れたらしい。死んだエミの復讐《ふくしゆう》を果したんだろうが、きみ、絶対に黙っていてくれよ」
神野は私を見つめていた。
タクシーの運転手が〈ハブとマングースの死闘〉を見ろとすすめたが、私はことわった。
「空港へ行って下さい」
神野推理の道徳観念はヤバい、と私は心から思った。幼児的な面のある人物の〈正義感〉のこわさが、本当にわかった。
「今度、ヴァイオリン・コンサートをやるからね」
と彼はさらにコワいことを私に言い、空港のカウンターに近づいた。
私たちは、例のバッグを三つもさげた、米軍の迷彩服姿の旦那刑事を見かけた。子供への土産らしいバナナを植物検査で取り上げられ、旦那刑事は泣きべそをかいていた。
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第四話 〈降りられんと急行〉の殺人
1
私がもっとも苦手なのは、あの〈駅での待合せ〉というやつである。
何番線の前の方とか、うしろの方の売店の裏側とか、牛乳スタンドの横とか、ああいうのが、まったくヨワいのである。
そして八月の初め、私は新宿駅のあるプラットホームのベンチにすわって、ひとを待っていた。
体制側の下層部にも夏休みはあるらしく、鬼面警部が自分の故郷である銚子《ちようし》に私たちを招待してくれたのである。
呼ばれたのは、神野推理、その母親のトメ女史、そして私の三人。警部はごていねいにグリーン車の券まで送ってくれたのであった。
神野は漁村になんかまったく興味がない。できれば行きたくないのである。沖縄へ行ったのだって、山西エミを眺めるためであって、とにかく旅行が嫌いなのである。クーラーを入れた部屋に寝っころがって、冒険小説を読めば極楽、とほざいていた。
「親不孝者めが! 老い先短いこの私を、涼風の土地に連れてゆこうなんて気持はないのかい。私が焼けトタンの上の猫みたいに苦しんでもいいのかい!」
トメ女史のヒステリーに、しぶしぶ腰を上げたのが実状である。
そのトメ女史も、神野も、現れぬうちに、急行が入ってきた。〈くろしお2号〉という電車で、新宿駅発十一時四十一分、終点銚子着が十四時六分――約二時間半で銚子まで行ってしまうわけだ。
車内の清掃が終り、人が乗り込む。私もグリーン車に足を踏み入れた。
最後尾から二|輛目《りようめ》の二号車、というやつだが、人なんて、まるでいやしない。Tシャツ姿の若い男女がぴったりくっついて、ジュースかなにか飲んでいるだけである。
座席番号を照し合せてすわると、車輛の丁度中央である。進行方向に向かって左側の窓ぎわだ。(座席はすべて進行方向に向いていた。この点をご記憶ねがいたい。)
私は欠伸《あくび》をし、缶ビールを飲みかけた。そのとき、世にも忌まわしい、すっとんきょうな声がきこえたのである。
「これはこれは!」
小柄で、禿《は》げ上がって、気勢の上がらぬ、アロハシャツ姿の中年男である。私はがっくりきた。今度の小旅行も、ろくなことがない、と直感した。
「沖縄いらいですな」
と私は無理に笑ってみせた。
「ごいっしょのようですね」
と旦那刑事は通路の向かい側にすわった。
「私も呼ばれたんですよ。……正直いって、上司の郷里に招待されるなんざ迷惑ですよ。でも、ここで私が拒んだりしたら、どうなります? コトですよ。おれの好意が素直に受けられないのか、とかなんとかコジれちゃいますよ。それでなくたって私の足を引っ張ろうとして大変なんですから。私の手柄を嫉妬《しつと》すること、蛇のごとし。あの男、きっと巳《み》どしですぜ」
「あなたにも、手柄があるんですか」
私は言ってやった。
「洒落《しやれ》のきつい方ね」
旦那刑事は口を押さえて、オホホと笑った。暑さで身体《からだ》が悪くなったんかいの。
「星川さん……」
鬼面警部の声がきこえ、旦那は直立不動の姿勢になる。
「ようこそ、お出まし下さいました」
夏背広姿の鬼面は時刻表を片手に一礼した。
「このたびは、ありがとうございました」
と私もおじぎをする。
「旦那君、きみは窓ぎわにすわりたまえ」
と鬼面警部。
「お言葉ですが、こんなにガラーンと空いてるんですから、適当にすわりましょうや」
旦那は反抗する。
「きみは私の言うことがきけないのか!」
「は、はい」
旦那は即座に腰をおろした。
「いやあ、涼しいなあ」と鬼面は扇子を使って、「クーラーつきの電車、しかも新宿から出る。文明も進歩したなあ、わっはっは」
「警部のお若いころは」と旦那が小声で言った。「もう、鉄道馬車はありましたか?」
「なにい?」
「人力車……それとも駕籠《かご》でしたか?」
「はっはっは……この男は冗談の好きな男でしてね、星川さん」
「冗談じゃありませんよ……」
と旦那は固執する。
「それとも大八車ですか?」
「む、む、この無礼者……」
そのとき、甚兵衛さんスタイルの老人と、むかしは美人だったかも知れないような浴衣の女が乗り込んできたので、警部は沈黙した。
「グリーン車つうもんは、えかく冷えるのう」
老人がこぼした。
「浜作さんじゃありませんか、隣村の……」
警部が言った。
「あんたは……」
老人は目脂《めやに》だらけの細い眼でこちらをみて、
「おお、鬼面の悴《せがれ》か。……立派になったのう」
「こちらには、お仕事で?」
「なんのなんの。隠居した老人に何の仕事があろうかいの。孫の顔を、見っぺと思ってよ、中野のマンションさ行ってきたで。……おお、引合せよう。これが、わしの後妻のお袖じゃ。例の〈犬吠《いぬぼう》小唄〉を作ったおみきさんの妹の連れっ子でのう」
「初めまして」
鬼面はお袖さんに一礼する。
ガハハ、と旦那刑事があざわらった。
「ああ、間に合った!」
きんきん声がひびき渡る。どういうわけか、リュックサック(それも年代もの、まず第二次大戦以前の)を背負い、信玄袋をさげた神野トメ女史が登場。つづいて、サファリ・ルックの神野推理がとび込んでくる。
「お暑うございます」
トメ女史の挨拶に、一同あわてて、暑いですね、とか、あなたがくると余計暑い、などと口走る。
「死にそうだ」
ヴァイオリン・ケースを手にした神野推理は、汗だくである。あと一分たらずで発車なのだ。
若い男女を入れても、全部で九人である。国鉄が赤字というのが頷《うなず》けた。
そのとき、傍若無人な下駄の音とともに、後部乗車口からもみ上げを長くした和服の中年男が入ってきた。
男は席につかず、「やっぱり、ここでした」と叫んだ。煙管《きせる》片手に、絽《ろ》の羽織をひるがえした海坊主のような巨漢がとび込んできたとき、電車が動き出した。
「ゆんべの女よ、ありゃいいタマ……」
「そりゃ、大将……」
後ろの方の席にすわった声高な二人は、すぐに折詰をあけ、酒宴になった。
「相変らずじゃのう」
浜作老人が嘆息した。
「あの二人は何者です」
私は小声でたずねた。私たちは、ほぼ、中央にかたまっている。
「煙管を持ったのが、銚子一の網元の〈浪六〉、浪野六兵衛だ。もう一人の人相の悪いのがその子分の通称〈荒熊〉――荒川熊五郎という暴れ者だ」
そこに車掌が入ってきた。白い制服を着た大男と小男で、大男は一号車へ行ってしまい、小男が検札を始めた。
「車掌二人を入れると、全部で十三人ですな!」
旦那は嬉しそうに叫んだ。
「急行列車の中の十三人――これで思い出すことはありませんか、てんだ」
「うるさいぞ」
警部が叱る。
「まあ、そう怒らんで。……ねえ、警部、ロマンティックではありませんか。知らぬ同士が、小皿叩いてチャンチキおけさ、じゃなかった――一つ屋根の下に集って、三日間、寝食をともにし、目的地に着けば、思い思いに散っていって、二度と会うこともない……」
「想い出した、それはアガサ・クリスティーの『オリエント急行の殺人』の有名な台詞《せりふ》だ!」
私が首を向けると、
「そうですとも」
旦那刑事は大いに浮かれだした。
「急行に、十三人という不吉な人数、これで人が殺されなかったらおかしい」
「しずかにせんか」
とたしなめて、警部は寿司《すし》を口に運ぶ。
「私めが生れた土地には、こんな子守唄がありました。――十三人の少年が旅に出かけた/一人が寿司で喉《のど》をつまらせて、十二人になった……」
「オエーッ」
警部は喉を押さえて、眼を白黒させる。
「ゲボッ、ゲボッ、少し黙っておられんのか」
「莫迦莫迦《ばかばか》しい」と神野推理が冷笑した。「オリエント急行は三日間、この急行は二時間半だ。殺人なんか起ってたまるか」
「大体、刑事は、はしゃぎ過ぎるよ」
私はそう評して、大藪《おおやぶ》春彦の「マンハッタン核作戦」をひらいた。列車の旅には、大藪ものがよく似合う。しち面倒くさいトリックだの、アリバイ破りだのはまっぴらだ。
錦糸町を過ぎたあたりで私は眠り始めた。……そして、自分がスーパー・ヒーローになった夢をみた。
2
がたん、と身体が揺れたので、眼がさめた。佐倉に着いたのだ。時計をみると、十二時四十九分。一分後に列車は発車した。
私はまた眠りかけた。
「星川さん……星川さんてば!」
トメ女史の声だ。私は眠りの沼から這《は》い上がった。
「なんですか……もう少し寝かせて下さいよ」
「冗談じゃない。人が殺されたんだよ!」
「え……」
反射的に立ち上がっていた。頭はもうろう、まぶたは腫《は》れぼったい。
「浪六って男が殺された」
神野が私に言った。
「絞殺だ。首に痕跡《こんせき》が残っている」
私は後部座席を見た。大きい車掌と小さい車掌が死体におおいかぶさるようにしている。鬼面がその脇にいた。
「荒熊とかいう男が殺したのかい」
私はきいた。
「そうなら簡単なのだが……」
神野推理が珍しく困惑した顔で、
「荒熊は、ひとつ前の席で泥酔していた。あの小柄な車掌が死体を発見したのだ」
「どういうことかね?」
鬼面警部が戻ってくるところをつかまえて、浜作がきいた。
「息が絶えて、二十分ぐらいになりますかな。絞殺に間違いありません」
「首っ子、締めただか?」
「はい」
「|なん《ヽヽ》で?」
「それが判りません。凶器がないのです」
「ベルトかね?」
「手拭いみたいなものと推定されます」
浜作は顔を拭いていた手拭いを、あわてて、ふところに入れた。
「はて、どうしたこンだ?」
「二十分まえというと、千葉の辺りですな」
鬼面は、時刻表をバイブルのように重々しくひろげて、
「荒熊の言葉が真実とすると、たったひとりで席にいた――たぶん酔っていたのでしょう――その浪六の首を、外からの侵入者が絞めて、立ち去った。しかも、一分間の停車時間内にです」
「グリーン車以外の客車からくることだってあっぺ?」
お袖さんが指摘する。
「イヒヒヒ……」
旦那刑事が歯をむいて笑って、
「正直に申して、みなさん、とり乱しておられますな。私がミスを指摘しますぞ。――その1、いくらなんでも、人がひとり、絞め殺されるさわぎに、われわれがだれひとり気づかなかったのはおかしい。その2、千葉駅を過ぎてすぐ、私が後部の手洗いに行ったとき、浪六は自分の席でふつうに眠ってましたよ」
「死んでたのかも知れん」
と警部が言葉をはさんだ。
「いびきをかいてました」
旦那が言い返した。
「鼻の穴が動いてましたもの。いびきの音がテープによるものともいえますまい」
「とにかく、公安官に連絡することが先決だ」
と私が促した。
「お待ち下さい」
小男の車掌が制する。
「私どもは、ときどき、グリーン車内を観察しております。私は検札を終えて、この車輛《しやりよう》前方の車掌室におりました。ところが、まえの車輛から二号車に入った乗客、また途中で二号車に乗り込んできた乗客は一人もいないのです」
「私からもひとこと」
大男の車掌が言った。
「私は、千葉を出たとき、一号車にゆき、約二十分、そこにいたのです。料金が間違っていたお客が三人いて、指摘すると、新宿駅で買ったんだ、と逆襲されまして、言いわけと精算に、そのくらいかかったのです。――要するに、一号車からも、外からも、二号車には、だれも入らなかった。私はそれとなく見ていたのです」
だれもがショックをうけた。
「すると、この二号車は密室状態にあったというのですか」
神野推理がたずねた。
「まあね」
大男が答えた。
「密室といえば密室です」
「ごらんなさい」と旦那刑事はとくいげに頷いて、
「犯人は、ここにいる十二人の中にいるわけです。いちおう、車掌さんも含めまして」
「それはひどい!」
二人の車掌はデュエットした。
「きみは、私も容疑者の数に入れるのか?」
鬼面警部は、怒るというよりは呆《あき》れたようだった。
「さいきん、また、名探偵イコール犯人というのが流行《はや》るようで」
と旦那は、くっくっと笑った。
「公安官を呼ぶまえに、私がすべて、解決してみせます。あと、一時間少々で銚子です。銚子の駅で犯人を公安官にひきわたします」
「そりゃ、ないよなー」
Tシャツの青年がたよりなげにぼやいた。
「ぼくたち、飯岡で降りるつもりなんだ。銚子《ヽヽ》までつれてかれたら」
「調子《ヽヽ》くるっちゃう」
スヌーピーのTシャツ(私はこれを見ると、むかむかするのだ、同じ犬なら、のらくろのTシャツでも着ればいい)の女の子が、そう言って、ハ、ハと限りなく空虚に近い笑い方をした。
「きみ、名前は?」
旦那はスヌーピーの表紙のメモを出した。
(えい、また、スヌーピーめだ!)
「みんな、監獄の六っていうんです」
「洒落としても古いな。監獄ロックなんて。……おれなんか、ビートルズを子守唄に育った世代よ」
旦那は、ありえない嘘をつく。
「プレスリイは永遠ですよ」
「まあ、いいだろう。姐《ねえ》ちゃん、名前は?」
「飯岡のジュリエットと呼んで」
旦那はズッコケた。
「それは、どういう意味だ」
きみのようなブスが……と言おうとして、ためらった。ひょっとしたら、差別語ではないか。
「きみみたいに、飽きがこない、そして、ときとして、たまらなく面白く変り得ることによって、他者を刺戟《しげき》する女性が……」
「要するに、ブスって言いたいんでしょ」
ジュリエットはつけまつげを上下に羽ばたかせて笑った。
「魂胆、みえみえよ」
旦那は突然、「クワイ河マーチ」の口笛を吹き始めた。なぜ、いま、「クワイ河マーチ」なのか、だれにもわからない。
やがて、咳払《せきばら》いをして、
「……さても一座のみなさまがたよ」
「飯岡で降ろしてくれないの?」
監獄の六がきく。
「降ろさない。だって、〈降りられんと急行〉だもん、なんちゃって」
だれも笑わない。白けに白けて、空気はアイヴォリイ・ホワイトに近くなった。
「笑ってやって下さい」と鬼面が三波春夫風ににっこりした。「いまのは、オリエント急行という駄洒落でございますよ」
「おかしい、おかしい」
一同は口々に言った。
「私としては、これ以上の侮辱には耐えられませんな」旦那は歯ぎしりして、「ずばり、申し上げます。あまりにも見えすいています。引き写しというか、盗作というか、これはまさに『オリエント急行の殺人』なのです。……私を除いた十一人の、これは共同謀議です」
「むちゃ言うな」
鬼面は渋面をつくった。
「そうすると、グリーン車の券をまとめて購入した私が、さしずめ、首謀者になる……」
「さあ、どうでしょうか」
旦那はうす笑いを浮べた。
「沖縄で、ある事件の犯人が自殺した――これが〈自殺〉かどうか、妙な匂いがする」
旦那は神野推理を見つめた。
「名探偵づらして、人を殺す奴がいるかも知れない」
「なんということを……」
鬼面は蒼《あお》ざめた。
「いつもお世話になりっ放しの神野さんに向かって」
「さて、荒川熊五郎氏にうかがいますが、あなたと被害者は乗車してきたときから酒気を帯びていた」
「……ゆんべから飲みつづけで……でも、千葉に着くまえに、私は、一つ前の席に移って、ぐっすりでした」
「そのわりに眼がぱっちりしている」
と旦那は鋭くまぜ返した。
「かりに浜作さんの手拭いを使ったとして、あなたの力なら、ひと息で絞められる。その間、だれかが私の注意を脇に向けていた。それは――神野トメさんだ」
3
「私がかい?」
トメ女史は気をのまれた態《てい》である。こんなに攻撃的な旦那刑事を初めてみたのだ。
「さよう……トランジスター・ラジオを貸して下さいましたな」
「それがどうしたね? 親切心からだよ」
「私はイヤホーンを耳にさして、ニュースやなにかをきいていた。だから、後部の物音に気がつかなかった」
「なにが言いたいのかね、きみは?」
鬼面警部がいらいらする。
「筋道を立てて話したまえ」
「浜作さん、あなた、かつて非道な男に土地をとられるとか、そういったことはありませんでしたか?」と刑事は迫った。
「それは……」
「あったでしょう?」
「長い人生だ。そんなこともある」
「あなたが浪六を殺す動機はある。お袖さんは共犯だ」
「浪六とは無関係の話だ!」
浜作は叫んだ。
「次に監獄の六とジュリエットだが……」と刑事はにんまりして、
「きみらの結婚をはばむものがある。親同士の対立だ。おきまりの筋書だな。六ちゃんには、有力者の娘を、とまわりはやきもきしている。有力者の方も乗り気だ。ぜひ、うちの娘を……。その有力者が浪六だ」
「へっ」と六は笑った。
「そんな話がくれば、ホイホイ乗っちゃうよ。金がなくて、|あったま《ヽヽヽヽ》来てるんだもん。……それにしてもまあ、いまどき、よく、そんな陳腐なはなしを思いつけますなあ。せめて、〈ハーバード・ランプーン〉でも、毎月、眺めてれば、そこまで、ひどくはならなかったと思うけど。だいいち、いまの設定じゃ、おれが〈有力者〉を殺したって、事態は変んねえと思うよ」
「それより、浪六さんには娘はいねえ」
お袖さんが呟《つぶや》いた。
「そこです」と、旦那は大きく頷いて、
「正式の娘はいない。しかし、庶子がいる。兄と妹です。としが離れているせいか、恋人のような感情を抱き合っている。母親はとうのむかしに死んで、兄は東京で働き、妹に仕送りをする。妹もまた、いまどき、珍しく、夜なべをして、兄のために手袋を編むようなやさしい娘です。そこに、厚かましくも、浪六が縁談をもってくる。……〈わたし……実は……〉〈好きな男があるのかい?〉〈いえ……〉〈なら、いいじゃねえか〉――といったやりとりがあって、妹は兄に相談します。そのとき、兄の心にひらめいたものは何か? いわずとしれた殺意です。たとえ、身は警部であろうとも……」
「|おれ《ヽヽ》の話か!」
警部はびっくりした。
「おれ、庶子じゃないぞ。両親はまだ生きているんだ。いまごろ、西瓜《すいか》を井戸で冷やしてるわ」
「ぼくは、どうなのです?」
私がきいた。
「神野とお母さんも、関係ないぜ」
「鬼面警部にたのまれた。つまり、証人です。犯人は凶器ごと、煙と消えた――こう証言するために呼ばれてきた。そして、たのまれた通り、とぼけている。……荒熊氏の場合は、見ての通りです。浪六にいばられ、いじめられている。だから、この不可能犯罪が可能になる状況を作ったといえましょうか」
「ついでに、車掌さんたちの立場もきいておこうか」
神野はパイプをくわえたまま、超然と言った。
さすがの旦那も、うっと、詰まった。だが、めげることなく、
「それぞれに不幸です」と言いきった。
「その通りです」
大男が口を切ったので、私たちはびっくりした。
「あの男は鬼です。私の父は、浪六から金を借りて返せない。……あの手この手のいやがらせの末に、ネズミトリを飲んで自殺しました」
「私の家も銚子ですが」と小男が言った。「母はあの男に犯されたことがあるのです」
「うーむ」
神野が唸《うな》った。
「どうして、そう、でたらめが、つるつる出てくるのですかな?」
「わし、判っとるだ」
浜作が入れ歯の歯ぐきを見せて大笑した。
「この二人は、わしの住んどる近くのホラ吹き村の出身だでな。そこの住人たちは、いくらでも、ホラを吹く」
「じゃ、刑事と三人で勝手にやっていればいい」
神野は冷ややかに言い放ってから、
「私には、だいたいの成りゆきが読めた気がするのですよ」
とパイプを口から離した。
一同は神野を見つめた。旦那刑事さえ、そうであった。
「しかし、荒川さんが、もう少し、本当のことを言ってくれなければ話にならない」
荒川熊五郎は蒼白《そうはく》になっていた。
「ちがいますか、荒川さん?」
「へへっ、お話しします」
熊五郎は頭をさげた。
「千葉を過ぎて、すぐでした。おそらく、刑事さんが手洗いを出た直後でしょう。浪六の大将が、ふらふらしながら手洗いに立った。……十分ぐらいたっても、戻ってこないのです。不審に思って手洗いをのぞくと……」
「待って下さい。内側から鍵《かぎ》がかかっておりませんでしたか?」
「大将はいたって無頓着《むとんじやく》で。とくに小用のときは鍵をかけんのです」
「つづけて下さい」
「あけてみると、大将が便器にかぶさるように倒れていたんです。しまった、脳溢血《のういつけつ》か、と思って、みると、首を絞められている。……本当は、すぐ車掌さんを呼ぶべきでした。……私も、かっとしてしまって……便所ってのはどうも死に場所としてよくない、大網元が便所で死んだなんて新聞に出たら、お通夜のとき、どんな風に、おくやみを言ったり、言われたりするか――そんなことを考えて、こっそり遺体を席まで運んで、寝入ったふりをしていたのです」
「凶器は?」
「何もありませんでした」
一同はざわめいた。
手洗いは、一号車とのさかいの扉の内側にある。つまり、犯行の場所が代っただけで、犯人が二号車内の者であることに変りはないのだ。
「だいたいはそんなところでしょう」
神野は悪戯《いたずら》っぽい眼つきになる。
「だが、まだ、明確でない部分がある。首に巻きついていたものがあったのではありませんか?」
熊五郎の眼が凍りついた。
「それを……ここで?……」
「言って下さい。桜田門の代表が立ち合っているんだ」
「皮肉ですか」
鬼面は苦笑した。
「とんでもない」と神野が言った。「あなたは名警部です。とくにアリバイ破りに関しては天才的です。しかし、この事件は、あなた向きではない。……つまり、〈リアリズム〉ではないからです。この事件は、〈ファース〉と呼ぶべきでしょう。分野がちがうのです」
「失礼、おつづけ下さい」
鬼面は頷いた。
「首に巻きついていたのは何でしたか?」
「ここだけの話にして下さいよ」
熊五郎はおろおろした。
「それが、ふ、ふ、ふ……」
「ふんどしでしょう?」
「どうしてわかるんです」
相手は眼をむいた。
「手拭いでなければ、帯か、ふんどししかない。しかも、あなたは真相を見抜いたはずだ。|その死に方《ヽヽヽヽヽ》よりは、列車の中で、凶器不明の絞殺体として発見された方が、世間体からみて、ましだった。荒川が傍《そば》についていて、あのざまはなんだ――こう言われるのがこわかった」
「そ、そこまで……」
「神野推理の名は伊達《だて》じゃないよ」
彼はにやりと笑った。
「ぼくも、そこのトイレットを使ったのだ。そのとき、びっくりした。たとえ、垂れ流し式にしろ、ふつうの便器は下の地面なんか見えやしない。……ところが、ここの便器はこわれていて、地面がとび去ってゆくのが見える。ヤバいな、と一瞬、思ったもの」
「ふんどしは首に巻きついていました」
熊五郎は頭を垂れた。
「珍しい事故だ」と神野は言った。「六尺ふんどしを締め直しているとき、列車の揺れで倒れた。締めるとき、肩にかけるんだな」
「大将のは、六尺以上あります。派手に、ぱっと肩にかけます」
「倒れた拍子に、肩からすべって首にまきついたふんどしの端が、底なしの便器に吸い込まれた。それが車輪のどこに絡まったか知らないが、ぐいぐい絞められて、ぱっと切れた。……じゃないか?」
「顔が便器にのめり込んでおりました。首にからんでいたふんどしは私が棄てたのです」
熊五郎は悲しげに頷いた。
「では、私はこれをもちまして、事件から手を引かせて頂きたいと存じます」
神野は、急に、ポアロもどきにうやうやしく頭を下げたのであった。
[#2字下げ]この物語中のダイアグラムは〈犬吠2号〉のを使いましたが、あとはすべて現実とは関係がありません。
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第五話 災厄の島
1
腹を締めつけているベルトを外したとき、機内アナウンスが、グアム島の天候を告げた。曇ときどきスコール、なお、台風が近づいている、というのである。
「予定が変るかも知れませんな、星川さん」
私のとなりで、窓の外を眺めていた沢野が言った。電報堂第一制作部長の沢野といえば、五年ほどのあいだに売り出した広告業界の切れ者である。年齢は五十と少々、中年向き長髪(ほら、バート・バカラックの髪型よ)、キマったお洒落《しやれ》、――気障《きざ》だが、仕事のアイデアがすぐれている男だから、仕方がない。
「台風といえば、二カ月まえに、すごいやつがグアム島を襲ったでしょう」
と私が言う。
「新婚さんの部屋の窓ガラスをぶち割って、椰子《やし》の実がとび込んできたってやつ。しばらく、グアム島は観光客を受け入れませんでしたね」
「椰子の木は大半、無残なことになったらしい」と沢野は呟《つぶや》いた。「グアムは駄目です。ココス島は、なんとか、大丈夫だというのですが。……このあいだ、ある撮影隊が行ってきましてね」
「私も、そうきいております。ただし、ココス島は例の台風で二つになったそうですが」
ご存じのように、青い海、南海でたわむれる美女、といったテレビCMの多くは、グアム島南端にあるココス島で撮影されている。そして、CMをつくるには、専門家がいるのだが、私のような民放のディレクターが、アルバイトで撮る場合もあるのだ。不肖、星川夏彦は、沢野の依頼で、すでに、錦ちゃんソーメン、自転車総業、仏滅線香などのCMをつくり、仏滅線香を除いては、いずれもヒットしている。
「予定が二、三日のびても、私は、休暇をとってあるから平気ですが、ナンシー・ウォンは大丈夫でしょうか」
私はたずねた。
「大丈夫です。いちおう、一週間、おさえてあります」
沢野は頷《うなず》き、欠伸《あくび》をした。
「あと三時間ですか。私、寝ますわ」
そう言って、彼はシートを倒し、スチュアーデスのもってきた枕を受けとった。
私は退屈だ。グアム島は六回目である。仕事ででもなかったら、行くところではない。
立ち上がると、ひとつ、うしろのシートにいる友人の神野推理を見た。不精な神野が、ロケ隊に、自費で加わったのは、人気沸騰中の美女、ナンシー・ウォンを見たいという、信じがたいミーハー精神、野次馬根性からである。若者の熱い視線を浴びるポスターの中の美女、ナンシー・ウォン。香港《ホンコン》生れの米中混血のナンシーの瞳《ひとみ》が、妖《あや》しくも、ぼやけているのは、きっと、麻薬のせいだろう、と私が冗談を言ったとき、神野の口からパイプが落ちた。
――麻薬に溺《おぼ》れる美少女……ぼくの好みだ!
私には神野の女性の好み、もっとあけすけにいえば、彼の性生活が見当もつかない。女性嫌いみたいな面もあるし、色っぽいことで有名な女性タレントが、自分の身体《からだ》に触ったといって、かんかんになったこともある。
「ナンシーはどうしている?」
神野は小声で言った。
「自分で見ればいいじゃないか。きみのすぐうしろにいる……」
「だって、ぼくちゃん、恥ずかしいもの」
神野は顔を赤くした。ナンシーにあえるというので、愛用のヴァイオリンを持ってくるのを忘れたほどである。
私はナンシーを見た。アイ・シェードで眼をおおって、眠っているようだ。身長157センチのこの女の子が、どうして、今年の夏の話題を独占したのか理解しがたい。
そのとき、沢野の部下の三輪課長が、手洗いから戻ってきた。
「がら空きですな、この飛行機は」
と私に言った。
三輪は無能だが、イエスマンなので、その地位を保っているといわれる。いまは、ナンシー・ウォンのお守り役だ。席も、ナンシーのとなりである。
ちょっと、と眼で私を呼んだ。私は彼のそばに寄る。
「神野さんて、どういう人です?」
三輪は低い声できいた。
「もと放送作家ですよ」と私はささやいた。
「いまは……いろいろです」
「たしか警視庁の方の手伝いを……」
「ご存じでしたか」
私はスチュアーデスからビールを買った。
「とても推理力のある方だとか」
「ええ、それはもう」
「どうして、グアム島へ行くのですか」
「休暇ですよ」
私はビールを飲んだ。
「ははあ」
三輪は妙な顔をした。
「どうしたんです?」と私はきかずにはいられない。
「いえね……」
三輪は笑いをこらえて、
「私に、ナンシーのTシャツのお古、それも、できるだけ汗のしみたやつを、そっと盗んで欲しいっておっしゃるんです。それから……まだ、あるんですが」
「もう、けっこう」
私は苦笑した。神野がそういう趣味の持主とは知らなかった!
「ナンシーにきこえませんか?」
「彼女は日本語、わからないんです」
三輪は低い声でつづける。
「そうすると、神野さんは探偵ですな」
「ええ、名探偵です」
私はビールを飲み干した。
三輪は、なにか考える様子である。
「これはこれは!」
私の神経を逆撫《さかな》でする声がひびいた。
(まさか? そんなはずはない!)
「奇遇ではありませんか」
見覚えのあるアロハシャツを着た、見覚えのある小柄な中年男が通路に現れた。
私は死ぬ思いである。もうダメだ、ココス島は八つに割れるだろう。ロケも駄目になる。旦那刑事の出現は、私にとって、キングコング、ゴジラの登場にひとしい。
「みなさんとごいっしょできるとは嬉しいな」
刑事は浮かれて、フラ・ダンスみたいな手つきをする。
「私とおそろい、いかがかな?」
「あなた、どうして、グアムへ……」
私は絶句した。
「いけないとおっしゃるので?」
刑事はパスポートを見せた。
「この年で、生れて初めての海外旅行ですぞ。……いいですか。十五、六のガキがヨーロッパへ行く時代に、初めてグアム島へ行くんです。集団疎開、焼け跡での苦労……それから三十年たって、私は、やっとグアム島です。わかりますか、この気持が? 初めてアメリカの領土に足を踏み入れるんだ。ざまあみろ、鬼畜米英……」
「そうぞうしいな……あれ?」
ふり向いた神野は呆然とした。
「私にだってヴァカンスの権利はある!」と旦那は叫んだ。「日に灼《や》けた頬寄せて、ささやいた約束は……」
「宮川泰作曲の〈恋のバカンス〉……お古くていらっしゃる、こちら」
三輪が笑った。この男も四十そこそこだろう。
「ご紹介しましょう」
私は三輪と旦那をひき合せた。二人は名刺を交換する。
「わかっております。そこにいるのが、ナンシー・ウォン……羽田から気づいておりました。あとで、サインを頂ければ」
「銚子行きいらいですな」
神野がさえぎった。旦那は、咳払《せきばら》いして、
「本当に奇遇です」
と念を押した。
「さあ、〈偶然〉ですかな」
神野は妙なことを言い、パイプをくゆらすために、通路の反対側にうつった。
「いま、あなたは、ナンシーに羽田で気づいたと言った。だったら、いっしょにいた星川君やぼくに、なぜ気がつかなかったのだろう。……おそらく、気がついていたはずだ。では、なぜ、すぐに声をかけなかったのだろう? おかしいな」
「ナンシーちゃん以外は眼に入らなかったんでさあ」
旦那は、それとなく、三輪の顔を見る。
「向こうは天気が悪そうです」
三輪はそう呟いて、時計を二時間すすませた。一時間は時差、一時間はグアムの夏時間である。
「ホテルはどちらです?」
神野がきいた。
「トゥーモン湾のマイクロネシア・ホテルです」と旦那。
「じゃ、われわれと同じだ」
私はスチュアーデスを呼んで、やけウイスキーをたのんだ。
「あの近くのグアム・|カクエイ《ヽヽヽヽ》ってホテルは、トロピカーナと名前を変えたそうで」
と三輪が言った。
「この飛行機、映画、やらないんですか?」と旦那はスチュアーデスにたずねた。「……それから、あの、ひるめしは、まだですか? 私、洋食がダメでして、茶そばとか、おにぎりとか……」
2
翌日は、晴れたかと思うと、たちまちスコールが降るというありさまで、撮影は不可能であった。すぐ近くのグアム第一ホテルに泊っているスタッフに、私は中止を伝えた。
――晴れ間を見つけて、泳いだらどうだい?
――早いとこ、仕事を片づけて、帰りたいのですよ。
電話の向こうでスタッフの一人が言った。
――そう言わんと、夜は、ポルノ映画でも見て、もたしてえな。
と私がなだめる。
――だって、このシャンプーのCMを撮り終えても、また、化粧品のCM撮影でココス島行きですぜ。
相手はぼやいた。
――ナンシーちゃんを使ってかい?
――はいな。
――やれやれ、ナンシーの人気、来年まで保《も》つんかいの?
――そう祈ってますがね。
――じゃ、そういうことで。
私は部屋の送受器を置いた。
ピンポン――とチャイムが鳴る。ドアをあけると、神野推理が古風な柄のアロハを着て、入ってきた。
「どうなった? 90センチのバストは拝めないのかい?」
「焦りなさんな」
私はメントール入りのモアをくわえて、火をつけた。
「台風がそれたから、遅くも明後日は晴れそうだ」
「やれやれ」
神野はパイプをくわえて、
「二十年まえのアロハじゃ、さまにならん。新しいアロハを買いたいのだがね」
「このホテルの売店にもあるが、どうせなら、アメリカ人の店で買いたまえ」
「この島にデパートはあるのか?」
「デパートもあるが、スーパーマーケット風の〈ギブスン〉という店がある。あそこがいいだろう」
「ふん……とにかく、つまらん島だな」
「そう言うだろうと思ったから、くるなと言ったのだ。それなのに、きみは、ナンシー・ウォンの水着姿が見たいからって……」
「商店街というものがない。食い物屋もない」
「おい、ハワイじゃないんだぜ」と私は煙を輪に吐いた。「アメリカ軍の基地の島に、日本のレジャー産業関係者がホテルをおっ建てて、〈南国風〉のイメージをでっち上げた。食い物はぜんぶ輸入するから、日本より高い。リーフ・ホテルでやっている、いんちきポリネシアン・ディナー・ショウを見ろ。にせヴァイキング料理が一人二十ドルだぜ。これは世界にも類のない値段だよ。ニューヨークで、ちゃんとしたヴァイキング料理を食っても、一人十ドルだもの。……ジャルパックやルックでくる団体客の中の、田舎のじいさん、ばあさんを騙《だま》すにしても、タチが悪いやり方だ」
「そういえば、観光客が少いな」
「ホテルも、がらがらだ。観光客だって、一度は騙されても、二度はひっかかるまい。そういえば、JALは、そろそろ、フィリッピンに力を入れ始めたようだな」
「観光客を受け入れる態勢がない点は、このあいだ、いっしょに行った沖縄とそっくりだな。海だけがいたずらに青い」
「この島は観光地としては、もう、終ったのさ」と私は言いきった。「CMのロケにしか使えない。とにかく、米軍の基地なんだからなあ」
「ぼくにも、よくわかったよ。ゆうべ出歩いただけで」
神野は神妙に頷いた。
「雨が小やみになったようだから、出かけるか」
私は窓の外を見て、
「沢野さんといっしょに、撮影の小道具を買いにゆくことになっている。三時にコーヒー・ショップで落ち合うんだ」
「ぼくも出かけよう」
神野はヒップポケットにさしたルーム・キイを抜きとって、
「三輪さんは、どうなんだ」
「さっき声をかけたら、外に出たくないと言うんだ。あの男は、ウツ状態のようだ」
「ナンシーはどうしている?」
神野は好奇心をかくしながらきいた。
「安心したまえ。去年から彼女を知っているスタッフの一人が護衛《ガード》代りについて、町へ行っている。若い者は若い者同士さ」
私たちは廊下に出た。のろいエレヴェーターで一階に降りると、コーヒー・ショップに沢野の黄色いポロシャツが見えた。
「〈ベン・フランクリン〉へ行くんだが、帰りのタクシーがひろえるだろうか」
私はフロントの日本人(だろうと思う……)にきいた。
「大丈夫です。もし、つかまらなかったら、デパートでタクシーを呼ばせて下さい」
フロントの男は調子よく答えた。
沢野、私、神野の順で、タクシーに乗った。はじめの2分の1マイルまでは九十セントというメーターだ。
「三輪さんは、今朝から沈んでますな。どうも心配だ」
痛めつけられた椰子の木を窓ごしに眺めながら神野が言った。
「大丈夫ですかね?」
「ときどき、あんな風になるのです」
沢野は苦笑する。
ホスピタル・ロードの〈ギブスン〉には、十分ほどで着いた。帰りのタクシーは大丈夫かな、と呟きながら神野が降りる。
そこから車で五分、マリンドライブに面した〈ベン・フランクリン〉は、グアム島で最初の〈エレヴェーターのあるデパート〉だそうな。未開やのう。
沢野と私は、気のきいたビーチハットやタオルを探した。二、三の品物を買って、一階におりると、沢野は片隅のドラッグストアの電話を借りた。
「お話し中だなあ」と沢野は顔をしかめる。
「だれです?」と私。
「三輪君ですがね」
沢野は舌打ちした。
海岸ぞいに散歩をして、ビールを飲んだ私たちが、ホテルに戻ったのは、電話を借りてから二時間経ったころだった。
ぶかぶかの原色アロハを着た神野がロビイにいた。
「ずいぶん大きいじゃないか」と私は評した。
「三輪さんの様子がおかしい」
いきなり、神野が言い出した。
「どうにも気になるので、〈ギブスン〉の公衆電話から彼の部屋に電話してみた。えんえん、お話し中なんだ」
「私も、かけてみたのです」
沢野が口をはさんだ。神野はつづけて、
「戻ってきて、部屋から電話してみると、ベルは鳴るのだが、当人が出ない。フロントできくと、ルーム・キイをあずかっていないと言うんだ。……おかしいじゃないか」
「たしかにおかしい」
沢野はひとりごちた。「寝てしまったのかな」
「ドアを叩いてみたかい?」と私。
「もちろん、やってみた」
神野はうるさそうに答える。
「沢野さん、ドアをあけて貰いましょうや」
私たちががやがや言うと、フロントの男がとび出してきた。
男を先頭にして八階に登る。ドアは、マスター・キイであけられた。
三輪の部屋の中には、だれもいない。電話には異常が認められない。クーラーの音がきこえるだけである。
「キイを持ったまま外出されたのでは?」
ホテルの男が言った。
「それは言える」
神野は室温調節装置を眺めながら、頷いた。「五時半だから……めしには、少々早いが」
「ナンシーにきいてみるか」
沢野が言った。
「まてまて、電話を外部にかけていれば、記録が残るはずだ」
神野は指を鳴らした。
「フロントで調べてもらおう。……その電話機には、だれもさわらぬことだ。指紋の問題がある。彼を探すのは、それからだ」
私たちは一階に降りた。
だが、彼を探す必要はなかった。近くで泳いでいた現地人の子供が、地味な夏上着に替えズボンをはいた三輪の遺体を見つけていたのである。ルーム・キイは上着の左ポケットに入っていた。
フィリップ・S・N・レオン・ゲレロという警部がすぐに現れて、私たちに、ホテルから出てはいけないと命じた。
「これは大変だ。犯人があがらないと、仕事ができんじゃないか」
私は絶望した。人気絶頂のナンシーを事件にまき込んではいけない、とも思った。
「まあまあ、冷静《クール》になりたまえ」
コーヒー・ショップの片隅で神野はパイプをふかしている。
「調べてもらったが、外部に電話した記録はないそうだ。しかし、外部からかかってきた場合と館内電話の場合は、記録が残らない。こいつは、手がかりにはならん」
そのとき、警察に呼ばれていた沢野から私に電話が入った。
「海水を多量に飲んでいたとさ」
私は神野に報告した。
「解剖の結果、溺死《できし》と判定されたそうだ。打撲傷はまったくないって……」
3
「つまりは、ノイローゼからの自殺って線で処理されそうだな」
神野は腕時計を見た。もう九時に近い。私は晩めしを食い忘れたのに気づいた。
「ああ」と私。「三輪さんと呼べば、無能と答える、というぐらいで、デクノボーの代名詞だったからねえ。……おのれのあまりの無能さに悩んで、死をえらんだ……」
「でも、ジェット機の中では、そう無能には見えなかったが」
神野の眼つきが鋭くなる。
「なにも、グアム島くんだりまできて、自殺しなくても、よさそうなもんじゃないか」
「しかし、美しい海と太陽を見て……」
「太陽のせいにしようってのかい? 孤独な旅なら考えられなくもないが、仕事の旅じゃないか。……自殺じゃないぜ」
神野はホテルの名入りマッチで、パイプに火をつける。
「おかしいことがある。……これから自殺しようって人間が、ポケットにルーム・キイを入れておくものかね? もうひとつ。きみ、出かけるまえに、三輪さんに声をかけたと言ったな」
「うん」と私。
「様子はどうだった」
「ユウウツそうだった」
「失礼、部屋のことだ。温度はどうだった」
「べつに……」私は何のことかわからない。
「冷えていなかったか?」
「いや……むしろ、暑いくらいだった」
「おかしい」
神野はテーブルを指で軽く叩いた。
「ぼくらがあけたとき、クーラーはH(高)になっていた。ところが、ここのクーラーは、Hだと、ひどく冷える。ゆうべ、ぼくは閉口した。L(低)でも強すぎるぐらいなのだ」
「なるほど」
「これから自殺しようとする男が、なぜ、クーラーをHに調節して部屋を出たのかねえ。おかしいと思わんか」
「そういえば、そうだ」
私は考えた。
「殺されたのだろうか?」
「犯人らしい男を想定できないかね」
神野は意地悪く笑った。
「できる……ようでもある……」私は唸《うな》った。「きみが考えているのは、沢野だろう?」
「ああ……」と神野は頷いた。「犯行の方法も、見当がついているんだ」
「もう?」
「……問題は動機だ。……有能な上司が無能な部下を殺す動機が、あるものかね?」
「あまりの無能さに腹を立てて……」
「そいつは、『暗闇でドッキリ』という探偵喜劇映画にあった手だ。しかし、なにも、この島で殺すことはない」
「動機? ありますとも!」
カウンターの向こうのコックが叫んだ。こっちを向いて、白い上着をぱっと脱ぐと、旦那刑事である。
「なにをしてるんだい?」
私はびっくりした。
「あるときは片目の運転手、またあるときは香港の大富豪……」
呟きながら旦那刑事はカウンターを恰好よくとびこえようとして、どさりと床に落ちた。
「大丈夫かい?」と神野。
「ええ、大丈夫です」と、旦那は起き上がる。
「いや、アタマがさ」
「じつは、このためにこそ出張してきたんです」
ランニングシャツにGパン姿の旦那は、貧弱な肉体を誇示するかのように、のり出してきた。
「……一週間ほどまえに警視庁に電話が入りました。女の声で、ナンシー・ウォンのCM撮影ツアーで、なにが起るかわからない、と警告してきたんです。とくに電報堂関係者に注意、とね」
「関係者ったって、電報堂の人間は二人しかいないじゃないか」
「だから調べるのは、簡単でした。電話をかけたのは沢野夫人……これが、また、いい女! 沢野の三度目の女房とかで、二十八歳。許せますか、許せますか」
「むろん、許せない」と私。
「ぶっちゃけてしまいますが、ムノー、デクノボーは沢野の方でさあ。大アイデアマンは三輪だったのです。三輪は沢野の家に出入りしているうちに、夫人とデキたのですなあ。よくある話ですが」
「そんなに、よくあることかね」と私。
「沢野はそのことで三輪をキョウハクしたのです。一件にはいっさい眼をつむる――ただし、三輪のアイデアは、以後、すべて、おれのものとすると……」
「これは、よくあることだ」と私。
「五年まえからそんなことになったようで」
「む、沢野がアイデアマンとして売り出したのは、そのころからだ」
私はひざを叩いた。
「ところが、三輪も、仕事に生きる男です。ごくさいきん、居直った。バラすなら、バラしなさい。私も、あなたのアイデア盗用を会社でバラすからと。かっとなった沢野は、夫人に、この話をして、おまえも一枚|噛《か》んでいるのかと、問いただす。夫人は、まったく、知らなかった。夫は、三輪との最終的な話し合いを、グアム島でゆっくりすると言った、というわけで……」
翌日の昼食は、ホテルのグリルで、沢野、旦那、私の三人で始められた。
またしても雨である。ぶかぶかのアロハをぐっしょり濡らした神野推理は、十分ほど遅れて、グリルに現れ、雨の中でタクシーを探しておりまして、と詫《わ》びた。
「電話機の指紋は、三輪君のほかに、いろんな人のが付いていたようで」
沢野がスープを啜《すす》った。
「なるほど……」と神野は冷たく応じた。
「私は、あの事件が、他殺だという線を捨てていないのですが……」
「ほう……」
沢野は微笑した。
「実に興味深いですな」
「私が犯人なら、こうしますね」
神野は寒さにふるえながら、
「ルーム・キイを持っている三輪さんを誘って、プール側から裏庭に出る。そこで、言葉のやりとりがあって、三輪さんを殺す。……まあ長期計画的な犯行ではないでしょう。ズサンさが目立ちますからな」
「死体は海水を飲んでいたんだぜ」と私。
「海水なら、裏の生け簀《す》にたっぷりあるさ。パイプで海からひいてるんだもの」
神野は笑った。
「生け簀に首を突っ込ませて、〈溺死〉させたあと、ルーム・キイをとって、三輪さんの部屋に行く。死体は丈の高い草むらに放っておけばいい。……ここで、電話に細工する。つまり、送受器を一定時間、宙に浮かせておけばいいんだ」
「氷を使う、例のやり方か」と私。
「氷だとあとが濡れる。ドライアイスを使ったんだ。ドライアイスを積み上げて、その上に送受器を置く。ドライアイスが気化すれば、送受器が自然にかかるようにして、それまでの時間を長びかせるために、クーラーの目盛りをHに直した。……あとは、ドアをしめ、キイを死体のポケットに戻して、死体を海に入れるだけだ。それから、さっと、コーヒー・ショップに戻って、星川君と落ち合った……」
「まるで、私が犯人のようですな」
沢野は不自然に笑った。
「ホテルのアイスクリーム・ショップの小母さんは、大量のドライアイスを、二度にわたって買いにきた日本人の顔を覚えていましたよ」と神野が低く言った。
「二度だって!」と私は叫ぶ。
「そう。……一度目は、ドライアイスが気化する時間のテストをしたらしい」
「私ですか、それが?」
沢野はからかうように言う。
「ええ、顔写真を確認させました」
「私の顔写真!」
「小生が日本からもってきたのです」と刑事がにこにこした。
「あなたは、さっき、海山物産の社員と名乗られましたが……」と沢野は不審そうに呟いた。
「……いや、仮説として、面白く拝聴しました。しかし、私がドライアイスを大量に買ったことと、三輪君の死とは結びつかんですからなあ」
「〈ベン・フランクリン〉から三輪君の部屋に電話をなさったのでしたね?」
神野は念を押した。
「ええ。星川さんがそばにいましたよ」
「|そこ《ヽヽ》です!」神野が大声をあげた。「私もあのとき、〈ギブスン〉から電話した。その電話が使用可能だったもので、〈ベン・フランクリン〉の方もそうだと思ってしまった。ところが、さっき、アロハシャツを買い直すために、私が〈ベン・フランクリン〉へ行って、帰りのタクシーを呼んで貰おうとすると、電話が故障中なのです。|二カ月まえの台風いらい《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、あの一帯の電話が、|ずっと故障中《ヽヽヽヽヽヽ》ということを、ここのフロントの男は知らなかった。町の中心部のデパートの電話が二カ月もストップするなんて、日本ではまず考えられないことだから、あなたもデパートの電話が使えると信じて、アリバイ工作にかかった。そして、こわれているとわかっても、あわてずに、さも電話が通じたように、星川君に見せた」
沢野は、うっ、とつまり、蒼白《そうはく》になった。
「あの故障している電話で、どうして三輪さんの電話が〈お話し中〉と判ったのですか? そこを説明して頂きましょうか」
神野の鋭い語調に、旦那も、はったと沢野を睨《にら》みつけ、やがて、
「ムハハハハ! 役者やのーう!」
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第六話 粗忽《そこつ》な〈恍惚《こうこつ》〉
1
「弱っちゃったよ」
と、川合輝夫が、奇妙な目つきをした。
「星川さんにきいて貰いたいことがあるの」
「おたくでも困ることがあるのかね」
私からみれば、川合輝夫に〈悩み〉があるなんて、とてもじゃないけど、信じられないのだ。
川合は、私より少し年下、三十五ぐらいだと思う。
二枚目である。売れっ子の映画批評家、映画解説者で、テレビ・タレントでもある。
むかし、映画批評家は活字で名をなしたものだが、いまや、活躍の場はテレビであるらしい。
しかも、川合は、パリ、ニューヨークに留学して、むかしの映画をごっそり観てきている。吹けば飛ぶような軽薄才子に見えるが、実は、筋金入りである。硬い評論集が三冊あって、「刑務所暴動映画の系譜」、「ドン・シーゲルにおける暴力神話学」、「ウディ・アレンの歩み」、いずれも非凡社から発売され、それぞれが五万部も売れている。
よく稼《かせ》ぐのに独身である。原宿の豪華なマンションに住んで、優雅な暮し。やたらめったら女性にモテる。私としては、ヒジョーに面白くないのだ。
しかも、このたび、横浜は元町に、しゃれたサンドイッチ屋をひらくことになり、今日はその開店記念、名士招待日ときた。元町にはすでに舶来屋というセルフサーヴィスのサンドイッチ屋があり、川合の店「活動屋」はその真似だが、店内は映画マニアが喜びそうな飾りつけ(「市民ケーン」の手書きスコア、フレッド・アステアのタップシューズ等々)にみち、この方面でも成功は間違いないようだ。
私は名士じゃないが、彼をよく番組に出すテレビ・ディレクターなので、関係者として呼ばれた。その私に相談とは……?
「なんだい」
私はサンドイッチの皿をテーブルに置いて、立ち上がった。
「星川さん、甲田滑三《こうだこつぞう》っていう昔の映画批評家、知ってる?」
「名前だけはね」
と私は答えた。
「略して、甲滑《こうこつ》とかいうジイサンだろう」
「当人は硬骨《ヽヽ》のつもりで、悦に入っていたアダ名だけど、いまや、恍惚《ヽヽ》に近いんだ」
「想い出した!」
私は叫んだ。
「いちど、なにかのパーティーで会ったことがある。……ぼくが映画紹介の番組、やっていたときでね。驚いたな。よろよろしてるような老人が、出演させてくれって売り込んでくるんだよ。それも、ストレートな売り込みじゃなくて、〈きみがたのむなら、出てあげてもいいが……〉っていうようなイヤラシイ言い方でね」
「それが、コウコツ爺さんの癖だ」
川合は笑った。そして、
「ぼくだって、先輩は大切にしているよ。老人はうやまうべきものとも心得ている。彼らの知識は貴重だし、卓見もあるさ。……しかし、コウコツだけは困りものなんだ。年輩の批評家のあいだでも鼻つまみで通っている」
「あれ、いくつだい?」
「七十五を過ぎている」
「じゃ、|なんとか《ヽヽヽヽ》に片足を突っ込んでいるってやつじゃないか」
「とにかく、なんだかんだと、ぼくを攻撃してくる」
「どうしてだ。きみが売れてるためのヤキモチかね?」
「それもあるけど……じっさいは、他《ほか》に原因がある。……つまり、かつては、古い映画を観ているという点で、コウコツが一番、ということになっていて、当人、それを自認していた。ところが、ぼくはパリやニューヨーク、ロスで、その辺の映画を数千本観て、ノートをとってきた。そいつがコウコツには面白くないのだ」
「子供みたいだな。映画ジャーナリズムってのは」
「そうなんだ」
川合は、次々に入ってくる人たちに笑いかけながら、吐きすてるように言った。
「大半は子供だよ」
「放っとけばいいじゃないか、そんなジジイ」
「そうもいかない」
「どうして?」
「大学の映画研究会時代に、ぼくはコウコツのところに出入りしてたんだ。コウコツの文体を真似たこともある。いまにして思えば、植草甚一さんのところにでも出入りすればよかった」
「なるほど」
私は頷《うなず》いた。弟子に追い抜かれた師匠のアセリ、ウラミ――よくあることだ。
「厄介だな、そいつは」
「今日の小パーティーにしても、コウコツを呼ばざるをえないわけだ。ほかの先輩を呼んで、コウコツを呼ばなかったら、えらいことになる」
「で、ご用はそれだけかね? それをコボしたかっただけかい?」
「お願いだ。コウコツがきたら、ぴったり、くっついていて欲しい。……コウコツが大声で放言できぬようにして欲しい」
「なぜ?」
「コウコツは、ひとまえで、ぼくを罵倒《ばとう》する癖がある。ぼくが彼の弟子であることを大声でみんなに知らせたい――そんな、幼児的な男なのだ」
「やれやれ」
「友達と見込んで、たのむんです。……あ、噂《うわさ》をすれば影だ」
川合はびくりとした。身体《からだ》が硬くなったようだ。
白いコールマンひげを生やした、やせた老人が、サンドイッチを受けとる列に加わっている。やがて、ローストビーフ・サンドイッチの皿とビールを両手に、こちらに近づいてきた。
川合が一礼したところで、私は、甲田滑三の前に立った。
「まえにお目にかかったジャパン・テレビの星川ですが」
「ああ……」
甲田老人は、よだれを垂らしながら、しょぼしょぼした目で私を見た。おぼえているはずはない。
「ぼくに用かね」
「来年の春から、|うち《ヽヽ》で、新作映画紹介の時間ができるのですが……」と私はデマカセを言った。「その件で、先生のご高見をうかがえればと」
「テレビなら、川合のところへ行ったらよかろうが……」
せいぜい皮肉っぽく答えた。
「いえ……こう言っては|なん《ヽヽ》ですが、川合君は〈出過ぎ〉でしてね。ここは、ひとつ、オールド・タイマーにご出馬願えればと……」
「う?」
よだれが止まり、眼が光った。
「先生にご出演願えれば、もう光栄で。先生を中心にドーンと行ってみたいと……」
「中心はボクチャンなのね」
コウコツ老人は、はしゃぎ出した。
「きみ……星川君か……いいセンスしとるよ。うむ、だいたい、テレビはぼくのようなハイセンスな人間を無視し過ぎたのだ。その話、のりましょう。第一回は、シュトロハイムかエイゼンシュタインの新作でいこうじゃないの。二回目は、ぐっとモダンに砕けて、マルクス兄弟の新作はどう? これも、本当はマークスと発音しなきゃいけないってことを無知な大衆に知らせてやりましょう。……日本映画も、とり上げてやったら、どう? 小津クンのものなんか、いいんじゃないかな」
私はぶったまげた。四十年ぐらいむかしに戻ったみたいだ。シュトロハイム、エイゼンシュタイン、小津安二郎――みんな、故人ではないか。
「お仕事の方はいかがですか?」
あわてて、話題を変えた。
「むむ……」
コウコツは木製ベンチ風の椅子に腰をおろした。私も横にすわる。まえのテーブルには、ジュース、コーラ、氷を浮かした水のコップがならんでいる。
「推理小説の翻訳が、一つ、終りかけている。忙しくて仕方がない」
そんなに忙しい人間が、横浜までくるものか、と私は思った。本当に忙しいと、イジワルやイヤガラセをするひまもないものである。
川合は、のどが乾くとみえて、ときどき、水のコップをとりにくる。そのたびに、コウコツに向かって微笑し、私にウインクする。
かなり広い店内は、映画、テレビの関係者で一杯になってしまった。老人たちのだれもがコウコツと視線を合わせるのを避けようとしているのがわかり、私は孤独なコウコツを哀れに思った。なかには、私に向かって、お気の毒に、といった笑いを見せる映画ジャーナリストもおり、川合の言う〈鼻つまみ〉の度合がよく判った。人間、こんな風にトシをとってはいけないという反面教師として、コウコツを観察しておこう、と私は思った。
「いまの批評家はなっとらんよ」
とコウコツは昂然《こうぜん》と言い放つ。
「みんな文章が下手だ。ぼくが、むかし、『新青年』や『改造』に書いた批評をお手本にしろというんだ。……ところで、きみ、そのテレビ、ギャラはいくらかね? ぼくのランク、意外と、高いのよ」
2
「どうも、きみの話は、だらだらと、長くていかん」
神野推理は、あごを、母親の手編みのセーターに埋めながら、私を評した。マンションの住人たちの苦情で、ヴァイオリンをひけなくなり、ガンになるからと、母親にパイプを取り上げられてしまって、苛々《いらいら》しているのだ。そのせいか、彼の部屋は珍しく乱雑だった。
「コウコツ爺さんのイヤラシイ性格は、よくわかったよ。問題は変死事件だろう。そっちの方を、早く、話したまえ」
「これから、その話になるんだ」
私は、むっとした。推理小説における記述者の立場を無視されたからだ。
「それから、十分ほどして、川合の愛人だった篠崎《しのざき》れい子が店に入ってきた」
「あのコは、川合輝夫とは、だいぶまえに切れていたろう?」
「よく覚えているな。さすがコンピュータ的頭脳だ」
「イタリア語ができて、映画評論家志望だと、川合に紹介されたことがある。かわいい子だった。惜しいことをした」
「きみが惜しがることはない」
「若いころのテレサ・ライトに似てたな」
「抑えて、抑えて。ぼくまでが、『我等の生涯の最良の年』のテレサ・ライト、なんて、ノスタルジックに言いたくなるじゃないか」
「しかし、おかしいな」
神野推理は代理のハッカパイプをすぱすぱやりながら、
「別れた女を、川合は、なぜ、そんな場所に呼んだのだ?」
「そこだ。……ここにも、甲田滑三がからんでくる。……つまり、篠崎ってコは、甲田のところに出入りしていた。甲田は、若い女に甘い。一方、女の子たちはアサハカにも、甲田が、あの世界で相当な顔だと思い込むんだ。しかし、やがて、甲田は大したことがない、口だけだ、とわかってくる。篠崎にせがまれて、甲田はやむなく、川合を紹介した。川合の関係しているテレビ番組のどれかに出して欲しいというわけだ」
「なるほど。かなり、功利的に接近したわけだな、彼女」
「そういうこと。……まあ、番組のアシスタントとしてなら使ってもいい、と、相談されたぼくも考えた。ところが、テレビってものは、アシスタントを入れ代えるのに、明日からってわけにはいかない。少くとも三月、半年は先になる。……だが、半年先には、彼女の人相が変っていた。目がどんよりして、顔に生気がない。|葉っぱ《マリワナ》をやってると、自分から告白した。これじゃ、危《やば》くて、テレビには使えないよ」
「川合の女性問題のせいか」
「うむ。篠崎れい子は川合を独占したかったんだ」
「無理な話だな」
「川合と離れてからも、コウコツ老人のペットではあった。そうやって、なおも、マスコミに名前を売る機会を狙っていた……」
「その関係で、川合は彼女を招待せざるを得なかったわけか」
「正解だ」と私は頷いた。「しかし、本当に、びっくりしたよ。サンドイッチとコーヒーを両手に持った彼女が、こっちにくるな、と思ったら、いきなり、ぶっ倒れた。胸のあたりをかきむしっている。水、お水を、と、きれぎれに言うんだ。川合輝夫が、ぼくの眼の前のコップをつかんで、走って行った。ひとくちか、ふたくち飲んで、彼女、ジ・エンドさ」
「新聞には、青酸カリと出ていたが……」
「彼女の家は町工場だから、メッキに使うための青酸カリが手近な場所にあった」
「おかしいなあ」
神野は納得のいかぬことにぶつかったときの鋭い眼つきをして、
「かりに自殺するとしても、どうして、そんなところを選んだのだ?」
「でも、ハンドバッグの中に遺書があったからね」
と私は突っぱった。
「愛する人を失ったので生きていけない、といった意味のことが書いてあったそうだ」
「きみは、それを見たのか?」
「いや、あとできいただけだ。警察が持って行ってしまったから」
「どんな風な遺書かわからないか?」
「なんでも、原稿用紙に書いてあったというんだ」
「原稿用紙?」
神野の瞳《ひとみ》が光った。
「若い女の子の遺書ってものは、レター・ペーパーに書くのが、ふつうじゃないか?」
「さあ」と私は答える。「ぼくは、若い女の子じゃないし、まだ、遺書を書いたことがないものね」
「ハンドバッグに、どんな風に入ってた?」
「白い封筒に入ってたときいた。現物は、鬼面警部に問合せればわかるだろう」
「いろいろおかしいところがある」と神野は呟《つぶや》いた。
「川合との関係は、四年まえには終ってたはずだが……」
「そのくらい経つね」
「別れてから四年後に自殺する――ありえないことではないが、どうもぴったりこない」
「警察は自殺と断定したらしい」
「どうして、そんな店先で自殺したんだ? おかしいじゃないか」
「でも、川合にとっては大ダメージだぜ。〈活動屋〉は閉店になる。テレビと週刊誌が彼の過去の女性遍歴をアバき立てる。女の復讐《ふくしゆう》はオットロシイノウと、みんな、言ってるが……」
「しかし、川合は、また、盛りかえしてくるさ。奴は独身だし、だれに対しても、結婚しようとは言っていない。俗にいう〈猫とカナリヤ〉ってやつで、これからもカナリヤの数は減らないさ」
「けしからん男だ」
「ほら、本音が出た」と彼は笑った。「けしからん、とは、ぼくも言いたいところだ。だが、それは自分がいかに、わびしいかを語るだけさ。ぼくだって独身なのだもの」
神野はうつろに笑った。
そのとき、ソファのかげから小さな黒い影があらわれた。毛糸の覆面から眼だけ出して、けたけた笑っている。
私はうんざりした。多羅尾伴内とか二階堂卓也の変装と同じで、それは、殆ど変装の意味を持たないからである。
「あるときは片目の運転手、またあるときは曲馬団の魔術師……」
片岡千恵蔵の声色で呟きながら、旦那刑事は覆面を外した。
「どうして、そんなところに隠れていたのですか?」
私はきいた。
「旦那刑事の方が先客なんだよ」
神野は苦笑して、
「きみがきたので、あわてて、隠れたのさ」
「どうもすみません。職業的な癖になっているもので」
と刑事は詫《わ》びた。「同じ用件だったのですね」
「え?」と、私。
「私も横浜の事件できていたのでさあ」
刑事は煙管《きせる》をくわえて、
「私、あれに関しては、他殺説なのです。その話をしかけたところに、あなたが現れたので」
「つづけたまえ」
神野は促した。
「篠崎れい子は殺された、と私は思うのです」
「だれに?」
私は思わず乗り出した。
「川合輝夫にです」
刑事は凄《すご》い眼つきをしてみせ、
「よくある手です。みんなを、あっと言わせるために、女が倒れてみせた。あとで、冗談、冗談、と笑い合う約束です。川合が水を飲ませるところまで、打合せてあった。……じつは、川合は、初めから女を殺すつもりで、青酸カリの溶液をコップの水に入れて置いた」
「それはツジツマが合わん」
神野は断言した。
「まず、川合には、むかしの(と言っていいと思うが)愛人を殺す動機も、必要も、ないね。少くとも、いままでに、ぼくがきいた範囲では……。それに、かりに動機があったとしても、自分の開店パーティーの席で、そんな莫迦《ばか》な芝居を演じる男は、まず、いない。川合みたいなリコウ者が、そんな子供っぽい真似をするかね」
「川合と篠崎れい子は、さいきん、試写室で会っても、互いにそっぽを向いていた。決して、演技ではなかった」
と私は言った。
「川合がテーブルに戻したコップに、青酸カリは残っていなかったのだろう」
神野がきいた。
「そうです」
と旦那刑事。「しかし、コップをすり代えることは考えられる。あとで数えたら、コップが一つ足りないのです。みんなの眼は女に向いていたはずですから、毒のコップをポケットに隠して、もう一つの、別なコップをテーブルに戻しておけばいい」
「川合が犯人なら、毒のコップは、あとで洗えば、すむことだろう。持ち去る必要はない。川合は、まったく疑われていなかったのだもの」
と神野は首をひねった。
「とにかく、遺書を見てみよう、鬼面さんにたのんで」
「原稿用紙二枚ですよ」
と旦那が言った。「きれいな、読み易い字でした」
3
翌日の昼近くに、私が眼をさますと、妻が「神野さんからお電話でした」と言った。「今日の午後三時に、新宿ステーション・ビル八階の喫茶店にくるようにって……」
「人の都合もきかずに勝手な男だ」
私はボヤいた。
しかし――
神野は|なにか《ヽヽヽ》に気づいたのだ。それは、私にも判った。
いったん局に出てから、私は新宿に戻った。ステーション・ビル八階の喫茶店〈P〉は、マスコミ関係者、ジャーナリストたちが集るところで、私は好きじゃない。田舎文化人のたまり場だ。神野が、どうして、こんなところを指定してきたのか、納得できなかった。
神野と旦那刑事は窓ぎわの席にいた。
「遅いぞ」
神野が私に言った。私は何も言わずに、椅子にかけた。
「これが篠崎れい子の遺書のコピイです」
旦那刑事がゼロックス・コピイを私に見せた。原稿用紙二枚――|正確にいえば一枚半の長さ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》である。
「愛を失い、生に疲れ、なんて、変な日本語だなあ」
一読して、私は感想を述べた。
「もっと変なことに気づかんかね?」
神野が冷たく言う。
「もっと変な?」
「名前だよ。名前が書いてない。……自分の遺書に署名をしない奴がいるだろうか?」
「そうか!」
「篠崎れい子の筆跡には間違いないのですがね……」
旦那が言った。
「遺書としてはインチキだよ」と神野はわらった。「星川君、ずばりと言って、川合以外に、彼女を殺す動機のある男の心当りはないか」
「敵はないし、男も、川合だけ、といった、いわゆるマジメ型なのでね、あの娘は」
「とすれば、彼女に拒否された男がいるんじゃないか」
「うむ……」
マリワナを吸うと、とてもきれいな幻覚が見えると語った彼女を想い浮べた。そういう彼女を〈マジメ〉というのは、おかしいかも知れないが、こと、|葉っぱ《マリワナ》に関しても、イッショケンメイになってしまう性格を、どう表現したらよいか、私にはわからない。……そして、彼女が川合に近づいたのを〈功利的〉と断定してよいかどうかも。
「しかし……まさか、なあ」
「まさか……なんだ?」
「まさか、甲田老人が……」
「そこだよ」
神野は頷いた。
「老人といっても、その男はナマグサそうだ。篠崎れい子に言い寄って、拒まれたんじゃないかね? そうだとすると、すっきり筋が通るんだが……」
「彼が犯人かい!」
私は思わず、叫んだ。
「みてくれたまえ」
神野はスクラップブックをひろげた。
「今週の週刊誌の切り抜きだ。ゆうべ、あの事件に関係したものを集めてみた。……とにかく、甲田老人がよく喋《しやべ》っている。はしゃぎ過ぎだ。不愉快になるよ」
「久しぶりに自分にスポットライトが当ったからだろう」
「この中に、おかしいところがある。老人は〈遺書が三枚《ヽヽ》あったそうだ……〉と語っている。……原稿用紙|二枚《ヽヽ》にしたためた遺書、と警察は発表しているんだ。しかも、その現物は写真さえ公表していない。われわれがコピイを見ることができたのは、鬼面警部の特別のはからいによる……」
「三枚というのは誤植じゃないか」と私は言った。
「どうかねえ」と神野は呟き、「老人を犯人として考えてみよう。彼が〈恍惚《こうこつ》の人〉だというのは、演技くさい。きみも、そう思い込んだらしいが、いくらなんでも、シュトロハイムが生きているなどと口走ったら、気違い扱いされる。彼はみみっちい権力欲を持つ男でこそあれ、気違いではないよ」
「そうかしら」
「ふられた怒りで、かっとなって、篠崎れい子を殺そうと計った。それも、女を殺すと同時に、憎んでいる川合の店にもダメージをあたえようという、一石二鳥の作戦を考えた。……つまり、店先で女がバッタリ倒れ、あとを冗談、冗談ですませようと彼女に持ちかけた。だから、旦那刑事の推理も、一部分は、当っていたと思う。だが、コップの水に毒を入れて待っていたのは甲田なのだ」
「ぼくはその横にいたのだが」と私。
「きみは煙にまかれていたのだよ」
神野はテーブルを叩いて、
「ところが、予想外のことが起った。女が倒れると、そのコップを川合が持って行ったのだ。そして、毒を、れい子に飲ませてしまった。……だが、甲田は川合を犯人に仕立てる気はなかった。そんなことをすると、かえって自分が危《やば》くなるおそれがある。だから、川合がコップをテーブルに戻したとき、別なコップとすり替え、毒のコップは持ち帰ったのだ」
「しかし、遺書が……」と私。
「あれは遺書じゃないよ」
神野は断定して、
「ぼくの考えでは翻訳だな」
「え?」
「甲田は推理小説の翻訳をやっていると言っていたね。……英米のミステリには、一部分、フランス語、イタリア語、スペイン語を使っているものがある。若い女の子の遺書かなにかでね。その部分の翻訳を、篠崎れい子にたのんだのだと思う。れい子は、たしか、イタリア語ができたはずだね」
「なーるほど」
と旦那が口をあけた。
「電話で、どのくらいの長さになったか、と甲田がきく。れい子は六百字です、と答える。では、それは、川合の店で受けとろう、と甲田が答える。……だから、ハンドバッグの中に入っていたのだよ」
「じゃ、初めから、訳文を知ってて、たのんだのだな」
「当然さ。〈遺書〉らしく見える原文をさがし出して、翻訳をたのんだ。〈原文〉そのものも、甲田が創ったのかも知れない」
「見たようなことを言うじゃないか」
「これは、あくまでも推理だ。しかし、ヒントは、コウコツ老人の〈遺書が三枚《ヽヽ》〉という言葉にある」
神野はハッカパイプをくわえた。
「いいかい。われわれが、ふつう、原稿一枚というときは、四百字づめの原稿用紙をさす。二百字づめ原稿用紙のときは、ペラ一枚、という風に呼ぶね」
「あたりまえだ」と私。
「それが、映画ジャーナリズムの世界に限って、〈あたりまえ〉ではないのだ。映画ジャーナリズムで、原稿一枚というのは、二百字づめの原稿用紙のことなのだ。従って、その世界だけしか知らぬ人間は、二百字を単位とする枚数計算しか知らずに、としをとってゆくわけさ。コウコツ老人が三枚といったのは、だから、〈二百字づめで三枚〉の意味だ。すなわち、六百字で、ぴったり合うじゃないか。彼は、たんに二枚と公表されているだけの遺書を、見てもいないのに、その字数まで知っていたことになる。おかしいじゃないか。六百字を頭の中で換算して、ソコツにも、三枚と口走ってしまったのさ」
「おそれ入った」
私は嘆息した。
「しかし、どうして、きみは、そんな習慣を知っているのだ?」
「まえに、『映画評論』という雑誌にテレビドラマ評をたのまれたことがある。五枚という注文で、四百字で五枚書いた。そうしたら、二百字で五枚だったのさ。半分に縮めるのに苦労したよ」
「なぜ、そんな習慣ができたのだろう?」
「さあね。……たぶん、経済的理由からだろう。映画評ってのは短いからね。たとえば、五百字という注文だったら、原稿料は二百字で三枚分払えばいい。四百字単位の計算だと、一枚半という払い方はないから、二枚分支払う。すると、割高になるね」
「どうも、みみっちいな」
「そういう特殊な環境が、甲田のような異常性格者を作った、といえるのじゃないか。〈ペラ計算の世界〉だね」
神野は時計を見て、
「そろそろ甲田がくる。星川君は、これをかけていたまえ」
と、サングラスをさし出した。
「甲田が?」
私は叫んだ。
「早くしろ。きたぞ」
神野は立ち上がった。
白い口ひげを生やした老人が、きょときょとしている。神野は一礼した。
「ゆうべ、電話をくれた『映像芸術』の編集部の人かね?」
「はい」
神野は平然と答える。
老人は近づいてきた。神野は椅子をすすめながら、
「この二人は同僚でして……」
「あ、そう」とコウコツは答え、「さいきん、テレビ番組の話やらなにやらで忙しくてねえ」
「突然で申しわけありませんでした。やはり、フェリーニの新作となると、先生に批評をお願いしたくて。三枚ですから、まあ、ひと晩で、ご無理ねがって……」
「仕方ない。やってあげたよ」
甲田が傲然《ごうぜん》とテーブルに投げ出したのは、まさに、二百字づめの原稿用紙、三枚であった。
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第七話 抗争の死角
1
私の友人で、〈名探偵〉を自称する神野推理は、秋になってから、急に、テレビのショウ番組用のコントを書き始めた。
ながいあいだ、彼はコントの筆を断《た》っていた。念願の戯曲を完成させるためだと私には説明していたが、その彼が、突然、「コントを書く」と私に宣言したとき、私は大いに喜んだ。
「そのひとことを待っていたんだ」
と私は言った。
戯曲の方は未知数、探偵だってとてもプロとはいえぬ(だってプロというからには、それでメシが食えなきゃねえ)神野は、コントに関しては大プロであった。
ひとくちに〈コント〉というが、あれは、むずかしいものなのだ。私は何十人というコント作家とつき合い、原稿を読んできたが、天才といえるのは、神野推理、ただひとりだ。
神野のコントは、読者の皆さんが読んでも、面白くもなんともないと思う。〈読んだだけでは面白くない〉――これこそ、彼のコントの特徴なのである。面白くもおかしくもない会話の羅列が、ひとたび練達の演者の手にかかると、文字通り、抱腹絶倒の弾丸となる。天性のコント作家、といえば、神野は激怒するにちがいないのだが、これは真実であった。
丁度、新番組のシーズンである。私の手がけたショウ番組は、十月の一、二週ともに好成績なのだが、どうも関西での視聴率がふるわない。いわゆる〈東高西低〉であった。
かくして、私と、構成者の神野推理は大阪に向かう羽目となった。なぜ京阪神での視聴率が悪いかを、大阪の系列局のプロデューサーと研究するためである。
「ぼくは伊丹《いたみ》空港が好きだよ」
と神野は、ジェット機の窓から、ごちゃごちゃした街並みを見おろした。
「羽田みたいに、小型バスに乗らなくても、空港の建物に入れるからね」
「それにしても、あれほど、コントを書くのをいやがってたきみが、よく決心したものだ」
着陸のアナウンスに、私はあわてて煙草を消し、シートの背を立てた。
「お袋とトラブルがあってね、金銭の援助を受けられないことになった」
「かえっていいんじゃないか、きみにとっては」
「いまさら自立ってのも遅いだろうが、とにかく、大いに稼《かせ》ぐ必要がある」
「そういっちゃ|なん《ヽヽ》だが、あのお母さんと、ひとつ屋根の下に暮すのは、身体《からだ》に良くないよ。マンションを出たらどうだ?」
「そのうち、そうなるかもな……」
神野は珍しくふさいでいた。
「そうしないとダメだ。おんぼろのアパートの一室から再出発するんだよ!」
と私は言った。
「でも、ボクって、貧乏に向いていないからなあ」と彼。
「そんなものに向いてる奴がいるかよ」
市内のホテルに入ったのが夕方で、打合せが始まるのは夜だから、二時間ほど、ひまができた。活字好きの神野はロビイで夕刊をごっそり買ってきた。
「なんだ、これ?」
私の部屋で新聞をひろげた彼は絶句した。
神野がびっくりしたのもムリはない。新聞の一面に〈第二次抗争はじまるか?〉〈ピストル乱射事件に市民の怒り〉〈須磨組幹部、姫路に集結〉などと、大きな見出しがあり、社会面にいたっては暴力団関係の記事一色だ。
「こんな記事、東京の新聞に出てたかい?」
彼は再び用い始めたパイプに火をつけるゆとりをとり戻した。
「出ていたさ」
と私は答えた。
「だけど、千葉の暴力団抗争と同じ扱いで、小さく出てただけだから」
「おどろいたな。まるでマフィア戦争じゃないか」
神野は嘆息した。「とても、日本のこととは思えんね」
「簡単にいえば、日本最大の暴力組織の須磨組|傘下《さんか》の団体が、大阪のミナミに進攻しようとして、土地の吉川組と争っている」と私は週刊誌から得た情報を受け売りした。「吉川組では、須磨組の系列の者を四人殺している。これが第一次大阪戦争だ。天下の須磨組が、じっと黙っているのが、ふしぎなのだね。これからどういう挙に出るか、みんな、興味津々なんだ」
「警察はなにをしているのかね?」
「ここに府警本部長の談話が出ている。〈府民に申しわけない。今後、怪しい者はボディーチェックしてピストルの不法所持を検挙したい〉……」
「そうすると、いままでは不法所持していてもよかったみたいだな」
神野は笑った。
「実に野蛮、下品な犯罪だ。犯罪におけるスマートネスの必要についての反省など、かけらもない。こんな殺人は〈犯罪〉の名に値いしないよ。……犯罪者の指向すべきは完全犯罪なのだ、星川君。しばしば誤解されているが、完全犯罪ってのは、バレない犯罪と同義語ではないのだ。被害者は自分がなぜ殺されるのか、だれによって殺されるのかが判らず、犯人の側も|内面的に《ヽヽヽ》、果して自分が犯罪をおこなっているのかどうかさえオボロゲで、罪の意識を殆どともなわぬ犯罪――これこそ、ありうべき完全犯罪の姿なのだ。そして、このぼく、神野推理は、こうした犯罪をかぎつけ、砂に埋れた犯罪を掘り出してゆく。そこにこそ探偵としての生き甲斐《がい》、醍醐味《だいごみ》、妙味、生きていてよかった式の感慨、明日《あした》という字は明るい日と書くのね的希望があるのだ。わかるかな?」
「わかるものか」
私は言いかえした。
「きみには血と肉が欠けているようなところがある。メイド・イン・ジャパンの怨念《おんねん》とカンケイないみたいなところがある。それは、きみが、たとえば犯罪ひとつにしても、煮つめに煮つめて、なにか抽象的なものに考えてしまう、そういう思考法にあるのだと思う。きみに必要なのは、意外に、きみがいつもせせら笑っている、〈ウドンカケ食って駈け出す刑事〉のヴァイタリティかも知れないよ」
「ぼくは黒門市場でケツネウドンを食べる気もないし、駈け出す気もない」
神野は冷徹な視線で私を貫くように言った。
「きみの言いたいのは、こういうことだろう、ぼくが涙とともにパンを食べたことがない……」
「いや、そこまでは……」
「判ってるよ。判っとる、判っとる」
神野は傲然《ごうぜん》と煙を吐いて、
「しかし、きみは、もの創る人間の内面がわかっていない。だから、そんなことが言えるのだ」
「え?」
「幸か不幸か、ホタルイカ成金だった親父の遺産で、ぼくは今まで食うのに困ったことがなかった。しかしね、いいかい。|だからこそ《ヽヽヽヽヽ》ぼくにはコントが書けるのだ。人間の苦しみ、迷惑、差別(とくに貧富の差ってやつだ)――そんなものに感情移入したり、妙にセンチメンタルになったりしたら、コントなんて書けやしないさ。コントを書くってのは、いかに抽象的かつ非人間的になれるかってことだ」
私は、しばらく、黙っていた。
やがて、
「悪かった……」
と言った。
「そういうことを言われても困る」
神野は顔をあかくした。「ゴメンとか、そんなことは、いまは問題じゃないんだ」
ドアをノックする音がした。私は走ってゆくと、ドアを細めにあけた。大淀《おおよど》テレビの海老沢《えびさわ》プロデューサーの蒼白《そうはく》な顔がそこにあった。
「ミーティングには、まだ、時間があるでしょうが」
と私は不審そうにきいた。
「ま、ま、ちょっと、入れてえな」
海老沢が低く言う。
「どうぞ」
「いやー、こりゃ、神野はん。えらい遠いところ、すんませんでしたな」
海老沢は突んのめるようにお辞儀しながら入ってきた。
「神野はんの名探偵ぶりは、いつも読ませてもろてます」
「はあ……」
神野は白けている。
「なにかあったのですか」
私はきいた。
「ボクとしても、言いにくいことになっちゃっちゃっちゃったんだけどサ」
と海老沢は妙な、つまり、〈大阪人の考える標準語〉を使った。
「ふつうの言葉で喋《しやべ》りなさいよ」と私。
「えらいこってすわ。来阪しはったのが、どないなルートで判ったのか、吉川組の舎弟頭の大田黒ちゅう男が、ぜひ、神野はんにあってお知恵を拝借したいと……」
「吉川組?」
神野は顔をしかめた。
「暴力団のですか」
「へえ。……私ら、興行社とつき合《お》うとると、どうしても、ややこし関係が生じましてなあ」
2
「大田黒、ねえ」
神野は唸《うな》った。
「むかしの日活アクション映画で、悪役というと、たいてい、大田黒、二階堂、鬼頭……そんな名前だったけどねえ」
「吉川組の舎弟頭ってのはヤバいよ」と私は脇から言った。「好んで、トラブルにまき込まれるテはないと思う」
「お気持はようわかりますが、ここは、ひとつ、私どもの顔を立てて頂いて……」
海老沢は叩頭《こうとう》する。
「実は、ドアの外まできておりますので」
「仕方がない」
神野は冷ややかに笑った。「入って貰おうじゃないか」
海老沢はドアのところまで走って行って、
「どうぞ」と声をかけた。
中背で、痩《や》せた男が入ってきた。黒の背広に黒のネクタイ、色も浅黒い、と、黒で全身を統一している。髪の毛はリーゼントで、もみ上げが長く、襟《えり》には金バッジが光っている。
「お忙しいところを」
と低い、押し殺した声で呟《つぶや》き、一礼した。
さすがの神野も、なんと返事をしたらよいかわからずに、立ちつくしている。
「無理を承知で、お願いに上がったのですが……」
「ぼくにできることがあるのですか」
「大ありで。……実は、私ら、須磨組いう悪い奴らに狙われておりまして」
「〈実は〉にもなんにも、新聞に出てるじゃないですか」
神野は困惑の態《てい》だ。
「おたくの方《ほう》が四人殺したんで、向こうはカッカしてるんじゃないですか」
「マスコミが真実を伝えてるなんて、お考えじゃないでしょうな」
大田黒はベッドのはしに腰かけて、苦りきった。
「今日にも、組長の首が危いのです。私らの組は末端まで入れても、せいぜい、三百人。向こうは大阪府下だけで、その七倍はおります。七対一では、戦争になりませんわ」
「でも、四人殺したのは、おたくで……」
神野がさえぎると、
「じゃーかしい!」
大田黒は凄《すご》い目つきをした。
「この戦争は根が深いんじゃ。おどれらに、がたがた言われることはないわい。要は、わしらの組長が、この瞬間にも、胸から血ィ吹くかどうかという問題なんよ。そういう気持で、わし、下げたくもないアタマを下げとるんよ」
「ハードボイルド風の行動は私の専門じゃないんですよ」
神野は冷静に答えた。
「ハードボイルドいうたら、カリフォルニアの陽光の下で女の子が行方不明、私立探偵がポンコツ車で、しょぼくれた椰子《やし》の木のならぶハイウェイをご出動ちゅう、あれかい」
大田黒は意外な教養を示した。
「それをイメージしとるんやったら、わしらのは、ちゃうよ。わしらの怨みは、輸入物ちゃうねんよ。土着の怨念なんて言葉で、安易に処理されたら困るんよ」
「どうしろというんですか、私に」
神野は気を悪くしたように見えた。
「わしらの事務所を見て欲しいんよ。蟻《あり》一匹|這《は》い出る隙、いや、這い込む隙のない密室に組長を入れてある。わし、完璧《パーフエクシヨン》が好きなんよ。そやけど、まだ見落しがあるかも知れんさかい、あんたにじっくり見て欲しいんや。批評して欲しいんや」
大田黒はズボンのベルトにはさんでいた拳銃を出して、脇に置いた。
天王寺区にある吉川組の事務所に着いたのは夜だった。
こうなっては、テレビの打合せもなにもあったものではない。鉄筋コンクリート製で窓のない、トーチカみたいな建物の前に立って、私はびくびくものであった。
「海老沢は無責任だよ」
私は小声で言った。「自分は逃げちまってさ。こんな話ってあるかい」
「じたばたしても仕方ないやね」
正面入口には、屈強な男が二人いた。私たちは武器の有無を調べられ、中に通された。
トーチカの中央がオフィスになっていて、組長の吉川が安楽椅子から立ち上がってきた。顔は日灼《ひや》けして、人生の重荷を背負いすぎたような、警戒心の強い目つき。痩せた身体を軽くかがめると、「東京の先生方にわざわざお越し頂いてもろて」と、チョビひげを撫《な》で、椅子にかけた。そして、色のついた老眼鏡をかけた。
「ゆっくりして下さい。あとで芸者を呼びますよってに」
「芸者ってのは困ります」
私はおそるおそる口をはさむ。
「いろいろ仕事もございますし」
「海老沢はんは、打合せを明日にしたいと言うとりました」
大田黒は脇ですまして答える。
「どうぞ、お構いなく」と神野は言った。「しかし、みごとですな。ミサイルでなきゃ、このオフィスの壁はぶち破れんでしょう。難をいえば、入口のガードは十人にふやした方がいい。それから芸者はおよしなさい。敵が女装してきたり、オカマの殺し屋をやとったりしたら、おしまいですぞ」
「さすがやな」
組長は笑った。
「海老沢が太鼓判押しただけのことはあるで」
「はあ」
大田黒は頭をさげた。
「わしの自慢のテレビ監視装置をお見せしなさい」
「はっ」
私たちは鉄梯子《てつばしご》をのぼり、テレビスタジオの副調整室《サブコン》に似た部屋に入った。
そこには三台のテレビがあり、一台が私たちの通ってきた廊下、一台が組長のいるオフィス、一台が見知らぬ廊下を映し出している。
「こちら、東京の先生《せんせ》……」
テレビを見つめている二人の若い衆に大田黒は声をかけ、
「ほらほら、眼を放したらあかんで」
「へえ」
二人は途惑ったようにみえた。
「オフィスをはさんで、向こう側にも、この装置があるんや。……組長の向こう側にガラス窓がありまっしゃろ。あこがそうですわ。私の控え室でもあって……」
私たちはテレビに見入った。
不意に組長が立ち上がり、指でVサインを作って、姿を消した。
「どうしたんです?」と私。
「小便ですわ」
大田黒は笑って、
「わし、自分の部屋に戻って外の様子を見てくる」
「へえ」
若い衆は頭を下げたが、大田黒がいなくなると、
「わたしら、こないな近代化、好かんですわ」
と言い出した。
「様式美いいますか、けじめいいますか、そんなん、好きですねん。それが、どうですか。きょうびは、コンピュータ導入するの、テレックスでどうするのいう発想でっしゃろ。極道の味、たのしみが、のうなりました」
「事務所でテレビみてて、家に帰ってもテレビでっしゃろ。ほんま、こんなもん、発明した人間、殺してやりたいわ」
「こんなん、発明したの、だれや?」
「グラハム・ベルとちがうか」
「そや。そんな奴や」
「ど突いたれ」
「テレビ局の人間も嫌いや。バーで見つけしだい、いてもたる」
私は首をすくめた。えらいところにきてしまった。
「だれや、あれ? だれや?」
片方が叫んだ。
黒っぽいトレンチコートの男が入口につづく廊下を歩いてくるのがテレビに映っている。
「見たこと、あるか?」
「ないわ」
「おかしいで」
「けど、不審な者《もん》やったら、ベルが鳴るはずや」
「ベル?」
神野がききとがめた。
「へえ。入口でごたごたしたら、見張りのどっちかが床のボタン、踏むようになっとります」
「すると、非常ベルが鳴るわけ?」
「へえ」
「じゃ、この組の者か?」
私はきいた。
「ちゃうわ、ぜったいに……」
「だれだ!?」
私たちは息をのんだ。
間もなく、男は組長のオフィスに姿をあらわした。
「どないしよ?」
どないもこないもない。
男はトレンチコートの下からサイレンサーつきの拳銃を出すと、組長の胸めがけて、二度、引金を引いた。組長の身体は吹っとび、デスクの向こうに消えた。
非常ベルが鳴りひびいたとき、男はテレビの画面から消えていた。
3
「こんなメイワクな話があるか」
私は憤慨した。
「海老沢がいけないんだ。あいつのおかげで、とんだ事件にまき込まれた」
「新聞にきみの名前を出さないように話がついたのだから、いいじゃないか」
神野は火のついてないパイプを口にして答えた。
ミナミの山王署一課の取調室は狭くて、汚れている。
一課の刑事が出てゆくのと入れ違いに入ってきた人物を見て、私は、あっ、と叫んだ。
「旦那刑事だ!」
「なんやて?」
小柄で貧相な中年男は私たちをじろりと見て、
「わいが刑事やと。警察ナメよったら承知せんで」
「わあ、やるう。役者やのう」
私は拍手した。
「ちがうぞ」と神野が私に囁《ささや》いた。「髪型がちがう。旦那刑事のは、薄いとはいえ、もっと長いだろ。それに、目つきが鋭いじゃないか」
「ごちゃごちゃ、やかましい。わいは、たしかに、旦那や。旦那ちゅう名前や。そやけど、刑事やないで。いやしくも署長や。この山王署の署長や」
「失礼ですが……」
私はおどおどして、「警視庁の旦那刑事とご親戚《しんせき》ではありませんか」
「あれは私の兄や」
署長の言葉が少していねいになった。
「兄をご存じでっか?」
「ええ」
署長は机の上の名刺に眼をやって、
「神野さんに星川さん……おお、お噂《うわさ》はうかがっとります」
「これは幸いでした」と私。
「甘えるんやないで、われ!」
署長の態度が変った。
「わいは、兄貴みたいな万年ヒラ刑事ちゃうで! 大阪府警の明日を背負って立つ、〈天王寺公園の宵の明星〉やで! 浮浪者がパチンコの玉一つひろっただけで、窃盗罪でひっくくるのがわいや。文句あるか」
「ありません」
「国家権力が、背骨、しゃんとしとらんと、右翼も左翼も生き甲斐ないやろ。おう? せやんけ、われ!」
「まあ、ね……」
「てなこと、言いたくなるのですよ」
旦那署長は、ころりと変った。
「吉川組についての情報は、刻々、入っているのですが、須磨組関係はむずかしい。今度みたいな流れ者の殺し屋となると、お手あげですわ」
「しかし、拳銃を所持した犯人をつかまえたのでしょう。山王署を見直しましたよ」
と神野がおだてた。
「なんのなんの」署長は苦笑して、「殺し屋の車が逃走中に故障したからです」
「なにか吐きましたか」
「なにも。……名前さえ言わん。わいがやったんや、ちゅうとるだけで」
「でも、筋はつかめたのでしょう」
「ナイフの鉄いう渾名《あだな》だけ、本部の者が知っとりましてな」
「ナイフの鉄?」
「ええ。ナイフで人を殺すので知られとるとか」
「それで、ああ簡単に、入口の見張り二人が殺されたのか」
神野は吹っきれぬ面持ちで呟いた。
「どうも、もう一つ腑《ふ》に落ちないな……」
「背後関係は一切しゃべっとりませんが、須磨組がぶっ放したタマであることは確かですわ」
署長はうす笑いをして、「あとの騒ぎがえらいでしょうな」
「大田黒はどうしてますか」
神野がたずねた。
「いちおう帰しましたが、うちの者が見張ってます」
「あいつは狸《たぬき》ですぜ」
神野はパイプのふちを机の角に打ちつけながら、奇妙な笑いを浮べた。
「ぼくは初めから、くさいと思っていた」
「きみ、映画の悪役によくあったからって、名前でヒトを判断しちゃいかんよ」
私は口をはさんだ。
「そうじゃないよ」
と神野はうんざりした表情で、
「いったい、われわれは、何のために、あの事務所に呼ばれて行ったと思う。殺人を目撃する証人にされるためとしか考えられないじゃないか。すべて、大田黒の計算通りなのさ。偶然じゃないよ」
「すると、あの殺し屋も、奴の計算のうちなのか?」
私は混乱してきた。
「そうとも、ぼくの推定では、大田黒が電話で呼んだのさ」
「なぜ……どうして……」
「私の推定も同じですわ」
貧相な署長は浮き浮きした調子で言った。
「大田黒は、とっくに須磨組と通じとった。私みずから、変装して、大田黒をつけまわしましたからな。あるときは片目の運転手、またあるときはテッチリ屋のおっさんに化けて……」
神野と私は眼を見かわした。血は水よりも濃し、旦那兄弟は似ているではないか!
「へ、へ、神野さんの推理と同じだったとは嬉しいわ。大田黒は殺し屋をやとって、組長を殺させ、その場面を〈第三者〉であるあなた方に見させた……」
「少しちがいますな」
神野は署長を見つめた。
「大田黒が殺し屋をやとったのは、お説の通りでしょう。それから、殺しの場面をわれわれに見せようとして、成功したのも、お説の通り。ただ、組長を殺したのは殺し屋ではない。|大田黒自身なんだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
「そんなことはない!」
署長が大声をあげた。
「殺し屋は、吉川組組長殺しを認めている!」
「完全犯罪を狙ったのですよ、大田黒は」神野はにやにやした。「殺し屋は、罪をひっかぶるためではなく、本当に、自分が殺したと信じ込んでいる。こんなに確実な話はないじゃないですか。こういうのを完全犯罪というのですよ。いまのところ、大田黒は九十パーセント成功している。だが、残りの十パーセントから、この神野推理が、事件をひっくり返してごらんに入れましょう」
「えらい自信ですな」
署長が冷やかすように笑った。
「自信というより論理ですよ」
神野の眼が鋭い光を帯びる。
「見張りの二人は、のどを刃物で裂かれていたのですね?」
「ええ」
「劇画じゃあるまいし、見張りの片方が非常ベルのボタンを踏むいとまもないほど、すばやくナイフをふるえるものかどうか。おそらく、見張りの二人は、あの男を通すように、大田黒に言いつけられていたはずです。身体検査の結果、凶器を持っていないので、男は入口を〈パス〉した。……ナイフは、大田黒によって、建物の内部(入口の近くでしょう)に隠されていた。そのナイフで、まったく油断している二人を背後から襲うのは、殺し屋にとって、容易だったでしょう。……こうして、非常ベルは鳴らないですんだ。鳴っていたら、次の〈組長殺し〉の演出が成立しないからです」
「演出?」
と私はきいた。
「そうさ。ここに大田黒の演出がある。……いいか、星川君、〈ナイフの鉄〉と言われるほどのナイフ使いが、なぜ、|拳銃で《ヽヽヽ》組長を殺したのか? また、なぜ、その光景を第三者に|見せる《ヽヽヽ》必要があったのか? ここに、ぼくはひっかかり、考えたのさ。そこから、逆に考えていった。殺し屋にたのんだからといって百パーセント成功するという確率もないわけだ。いちばん確かなのは、大田黒自身が組長を殺すことだ。……あの組長が不意に席を立ったのを、大田黒は〈小便ですわ〉と説明したね。あそこからおかしい。大田黒は時間をきめてオフィスの一角で組長にあう手筈にしていたのだ。そして、ぼくらから離れていった大田黒は、サイレンサーで組長を射殺した。空になった拳銃は、廊下の、テレビカメラから見えぬ位置にかくしておく。それから、チョビひげと色眼鏡で組長に化けて、堂々とオフィス中央に戻ってきたのさ。あの二人は背丈と痩せかげんが似ていたじゃないか。一方、ナイフをふるった殺し屋は、あらかじめ指示されていた場所で、大田黒がかくした拳銃を見つけ、ぼくらがテレビで見た通り、大田黒|扮《ふん》する〈組長〉めがけて、引金をひいた。低い発射音だけ発するようにしておけば、殺し屋は仕事がすんだと思って、さっさと引きあげる。……あとはあの大混乱だ。大田黒はチョビひげをとり、色眼鏡を外して、組長の死体をデスクのかげに置けばよい。おそらく、どういう角度で倒れ、動いたら、テレビカメラの死角に入るか、奴は計算していたのだろう」
「そういえば、非常ベルが鳴ったあと、あのテレビを見ていた者はいなかったからな」と私が言った。「組長の死体を大田黒がひきずる姿が映ったとしても、単に抱きかかえていると見えたかも知れない」
「まことにみごとな推理ですが、あくまで仮説の域を出ない。今のところ、証拠がまったくありませんからな」と署長が深く嘆じた。
「よろしかったら、ぼくが、テレビの中に大田黒の姿をちらと認めた冷静きわまる男の役を演じてもいいのですがね」と神野はさりげなく呟いた。
「しかし、名探偵ってやつは、所詮《しよせん》、体制側の手先となる運命《さだめ》しかないものなのかなあ、まじめなはなし……」
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第八話 幻影の城で
1
晩秋のある夕方、私は六本木にあるテレビ局、RTV五階の喫茶室にいた。
いまから十数年まえ……そう、私が、大学を出て、ジャパン・テレビに就職したころのはなしだが、ライヴァルであるRTVの建物は、まるで、お城みたいに見えた。東洋一の大きさを誇るマンモス・スタジオがあり、すべてがぴかぴかに輝いていた。RTVの建物にくらべたら、わがジャパン・テレビなどは木造バラックに等しかった。
それが……いまは、どうだろう。RTVの建物のいたみ方、汚れ方――まるで、往年の美女が、中年になり、くたびれ果てた姿といったところで、私の心は痛むのである。ライヴァル社が没落したなどと、手放しで喜ぶ気持にはとてもなれやしない。
「浦島太郎の心境だよ」
久しぶりにRTVにきた神野推理は、私よりも、もっと、ショックを受けたらしい。ふたたび始めたパイプを口から離して、あたりを見まわしている。
「プロデューサーのひとり、ふたりは、知っている顔がある。しかし、あとは、ディレクターだか、タレントだか、まるで見当がつかん」
「なんか、活気がないだろう」
「ないねえ。これじゃ、RTVそのものの調子が悪いってのがわかるよ」
「きみ、バイオリズムって知っているだろう」
と私が言った。
「ああ」
「会社や企業にも、バイオリズムがあるんじゃないかっていうんだよ、うちの局長は。……だって、|うち《ヽヽ》も、RTVも、以前とそんなにちがう番組を放送してるわけじゃない。しかるに、|うち《ヽヽ》の方が差をつけたのは、バイオリズムのしからしむるところで……」
「それは、違うな。ジョークとしてなら、いただけるが……」
と神野は首をふった。
「たとえば、細井忠邦プロデューサーの〈テレビ三面鏡〉なんて番組は、ジャパン・テレビでなきゃ、つくれないよ。市井の妙な、みみっちい犯罪を各リポーターが報告するあれがヒットしたもので、各局が真似をしたけれど、結局、本家に及ばず、敗退した。ああいう闇市的ヴァイタリティーが、RTVにはないもの。RTVのイメージは、東大、上品、ほどの良さ、だろう。こいつは、石油ショック後の大衆の気持にはぴったりこないよ」
「そういうものかね」
私は、そんな風に分析されると、そうか、と思うだけであった。
「なつかしい、というよりも、呆然とするだけだな、こっちは」
神野は見渡しながらユウウツそうに呟《つぶや》く。
「ところで、花田京子はまだかな」
「もう、くるころだけど」
私は壁の時計を見た。
ほかならぬジャパン・テレビ社員の小生が、ライヴァル社の喫茶室でポケッとしているのはなぜか? 答え――人気タレントの花田京子にあうためなのだ。小生のプロデュースするショウ番組への花田京子の出演OKは、すでにとりつけてあるのだが、こまかい打合せは、これからだ。そこで、彼女の仕事先であるRTVまで、構成担当の神野推理ともども現れたというしだい。
「ドラマ女優で、コントをやりたいってのは珍しいね」
と神野が言った。「台本をみて、いやがったりしないだろうか」
「時代が変ったんだよ」と私は笑った。「人がめし食ってばかりいるホームドラマより、コントの方が面白いっていうんだ、彼女は。新劇というより、アングラ演劇出身者だからねえ」
「むかしは、ふつうの女優さんに、コントをやって貰うのは大騒ぎだったがな。説得するのに何時間もかかったものな」
「その点、いまはやり易くなった」
私は欠伸《あくび》をかみ殺した。
「待っててくれないか。様子を見てくる」
私は立ち上がり、喫茶室を出た。
廊下を何重にも曲ったところにあるHスタジオの前にガードマンのデスクがある。制服を着たガードマンが何人もいる。
「もしもし」
私は声をかけられた。
「あなた、見学者ですか」
「ジャパン・テレビの者です」
むっとして、私はガードマンを睨《にら》みかえした。
「ここでは、社員でもスタジオに入るときは見学証がいるのです」
ガードマンはロボットのように言った。「見学証をお持ちですか」
「弱ったな」
私は途方に暮れた。
「星川ちゃんじゃないか!」
明るい声に、ふりかえると、RTVの実力プロデューサーの小柳がにやにやしている。
「どうしたの? ジャパン・テレビを首になったの?」
と彼は冗談を言った。
「この局は、戒厳令でも出たのかい」
私も冗談で応じた。「人気歌手でも出てるのならともかく、ホームドラマの録画にしては、ものものし過ぎやしない? スタジオに入るまでに、三段階ぐらいのチェックがありそうだ」
「うちは、局の玄関が、すごくルーズで、妙な奴が出入りしても、チェックできないだろ。だから、スタジオ入口でやるのさ」
小柳は、サンドイッチや握り飯の自動販売機にもたれて、なおも、にやにやしている。
「花田京子に用があるんだ。入れて貰えないか」
「よし、敵に塩を送ってやろう」
小柳は、ガードマンに向かって、私の身分を保証した。ガードマンは身体《からだ》を動かして、道を開いた。
スタジオのドアの前にもガードマンがいた。小柳は、私がスタジオに足を踏み入れるのを見届けて、去って行った。
録画のさいちゅうなので、私は足音を忍ばせて、モニターに見入っている京子のそばに行った。小柄な京子は首をすくめて、私に両手を合わせた。
やがて、そのロールの録画が終り、みんながざわめき出した。
「すみません。待たせちゃって」
女学生の制服を着た京子は、やや蒼《あお》ざめている。
「どうしたんだい?」
「きょう、私、どうかしてるんです。台詞《せりふ》、ロレっちゃって、そのために録画《とり》がのびてるの」
「あと、どのくらい?」
「三、四十分で休憩になると思います」
「きみの三、四十分は、一時間とみた方がいいな。作家も待ってるんだ」
「ごめんなさい」
私は、京子のそばを離れた。まわりの者の京子に対する視線も、思いなしか、冷ややかだ。ガードマンのあいだを抜けて、私は喫茶室に戻った。
「どうした?」
神野がきいた。
「申しわけない。あと一時間ぐらい、かかりそうだ」
「弱ったな」
「花田京子の|とちり《ヽヽヽ》で録画《とり》が遅れたらしい。文句をいうと、焦って、よけい、とちりそうだから、黙って帰ってきた」
「あのテの女優は、小さな劇場のスターであり、花であった方がいいんだな。テレビ向きじゃないんじゃないか」
「しかし、生活ってものがあらあね」
私は煙草に火をつけて、
「あの子も、私生活を、もう少し、きちんとしないと、ヤバくなるかも知れない」
「なんだ。麻薬《やく》でもやっているのか?」
「いや……ごくありふれた悩みだ」
「きかせてくれ」と神野はのり出した。「おれって、女性週刊誌的次元の〈タレントの悩み〉ってのをきくと、なぜか、ぞくぞくしてきちゃう」
「男だよ」
と私は、わざとさりげなく呟く。
「だ、だれだ?」
「三沢健――知ってるだろ、有名な女たらし。刑事ドラマの二枚目」
「名前だけ知っている」
「あいつが恋人さ」
「待て待て、三沢健の愛人は、歌手の上条まゆみじゃないか」
「それはこの夏ごろのはなしだ。上条まゆみは、レズの気《け》がある。彼女は、デザイナーの中川みさと|より《ヽヽ》を戻した」
「へえ。それで、花田京子が、三沢のいまの愛人てわけか」
「いや、三沢健のいまの愛人は、一ノ瀬輝子さ、ファッション・モデルの」
「そうすると、京子は、どこに入るの?」
「上条まゆみのあとで、一ノ瀬輝子のまえ。だいたい、九月ごろのはなしさ」
「くわしいな、きみは!」
神野は呆《あき》れたように言った。
「いやでも耳に入ってくるし、こういうことを知らないと、タレントを組合せるときに困るもの」と私は答えた。「三沢健は、いま、うちの局のドラマ・ロケで北海道へ行っている。京子の不調は、おそらく、その辺に原因がある……」
「まったく知らなかったな」
「三沢健の事務所では、次から次へと、スキャンダルを抑えるのに懸命さ。なんせ、三沢を〈清潔・健康〉のイメージで売り込んでいるんだから」
2
一時間たっても、花田京子は現れなかった。
夕めしの時刻である。私はともかく、神野推理にひもじい思いをさせるわけにはいかないので、京子へのメッセージを残して、喫茶室を出た。身体が空いたら、近くの中華料理屋にくるように、というメッセージだった。
中華料理屋にはたっぷり一時間はいた。鴨《かも》料理をたべながら、私たちは京子の現れるのを待っていたのだ。
「おかしいな」
私は腕時計を見た。
「あれから二時間経つぞ」
「仕方がない。泣く子と人気者には勝てんよ」
神野は珍しく悟りきった様子だ。
「むかしだって、よく、こんなことがあったじゃないか」
「妙に落ちついてるな。探偵業の方は、ひまなのか」と私。
「いや、忙しいことは忙しいのだが、どうも金にならない」
「それは初めから判っていたことだろうが」
私はレジで支払いをすませ、領収証を貰って外に出た。
坂を登ってゆくと、RTVのまえに救急車とパトカーがとまっているのが見えてきた。
「なんだろう?」
「どっきりカメラのたぐいだろう。だまされるなよ」
と神野はコートの襟《えり》を立てた。
局の入口に警官が立っていて、入ろうとする人々を追いかえしている。
「なにか、あったのですか?」
私は警官の一人にきいた。
「タレントが自殺したんだよ」
「だれです?」
「花田京子ちゅうひとだ」
「え!」
私は肝をつぶした。なんたって、彼女は、私のショウの目玉商品になるはずだったのだ。
「いよいよ、どっきりカメラだ」
神野が私に囁《ささや》いた。
「驚くんじゃないぞ。軽く受け流してやれ。うす笑いのひとつも浮べてやれ」
「へ、へ、へ」
私は笑ってやった。
「なにが、おかしい?」
若い警官はむっとしたようだ。「どんな理由があろうと、人が死んで、おかしいちゅうことはなかんべ?」
「花田京子なら、さっき話をしたばかりでさあ」と私は言った。「わかってますよ。……私があわてふためくのを狙ってるんでしょう。私と友人があわてる。ひょっとすると泣き出すかも知れない。ひとめ遺体を見たい、なんか言ったら、思う壺でしょうが。白い布をめくって合掌したとたんに、ヘルメットをかぶって、プラカードを持った男がとび出してきて、〈どっきりカメラです〉……読めてるんですから」
「いやあ、それは違う。本当に死んだのです!」
旦那刑事がとび出してきて、叫んだ。私は、また、びっくりした。
「ここで信用すると、えらいことになるんだ」
私は決して気をゆるめなかった。
「こんなに早く、警視庁の人間がきてるのは怪しい」
「私は偶然、き合せたんだ!」
小柄で貧相なわりに、中年肥りしてきた旦那刑事は怒鳴るように言った。
「大阪山王署にいる私の弟が、神野さんのおかげで、真犯人を自白《げろ》させた、と電話してきたんです。そこで、神野さんの部屋に電話すると、留守番電話がRTVへ行っていると答えたので……」
「これは本当らしいぞ」
と神野推理は無責任な呟きをもらした。「ぼくも、どっきりカメラにしては、警官の数が多過ぎると思っておったのだ」
「遺体をごらんになりますか」
旦那刑事は私たちを手招きした。
ふたたび、喫茶室に戻った私は、しばらくは、口がきけなかった。
……挫折《ざせつ》……青春……痛み……という連想が、ともすれば、……目玉商品喪失……視聴率ヤバい……という系統の連想におおわれがちなのが、われながら、あさましい。
「おれたちにしても、ショックさ」
RTVの小柳プロデューサーが真顔《まじ》で呟いた。
「変な意味じゃなくて惚《ほ》れてたもんな、あの子には」
「変な意味じゃなくて、なんて言わなくてもいいじゃないですか」
旦那刑事はムキになった。
「私なんか変な意味でも好きでしたよ。中年のイヤラシサなんて紋切り型の非難を避けるために小型黒白テレビ内蔵のジャッカル300を買って、家族の眼のとどかないところにかくれて、彼女を観てたもんです。私のいじましい行為をだれが批判できるというのですか? 神ですか」
「カミなんて言うなよ、安易に」
神野推理はパイプに煙草をつめて、
「テレビを観るたのしみが一つ失われた、と批評家風に言えないものかね」
「そんなに冷静になれるものですか」と旦那刑事は言いかえした。「RTVのあの番組の彼女を観るために、早く家に帰る。そのためには、じっくり取り組めば無罪になるとみすみすわかってる容疑者を七年の刑にしたことだってあるんでさあ」
「自殺ねえ……どうも、のみこめねえんだよなあ」と私は口をひらいた。「たしかに、さっきは蒼ざめてたけど、あの子は、内向して自殺するってタイプじゃないもんな。ひとむかしまえの言葉でいえば、フーテンだよ」
「フーテンは自殺しちゃいけないって法律でもできたんですか」
旦那刑事は私に迫った。
「そう怒るなって……」と私がなだめ、小柳がつづけた。
「担当ディレクターは警察へ行ってるがね。奴は、たしかに京子を叱りつけたけど、相手は人気者だし、限度を心得ていたと言っている」
「他殺の線はどうだろう」
神野推理が、ぽつん、と言った。
「ありえないな」
と小柳は首をふった。
「録画が休みに入ったのは、星川ちゃんがスタジオを出て、三十分後だ。みんな、ぞろぞろ、めしを食いに行った」
「ちゃんと三十分後に終っていたのだな」と私。「わかってたら、中華料理に誘って……そうすれば死ななくてすんだかも……」
「京子だけ、スタジオに残っていたんだ。ガードマンが証言している」
小柳も無念そうに言った。
「それから致死量を越す睡眠薬を嚥《の》んだってわけさ。みんなが一時間後に戻ってきたとき、セットのソファに倒れていた」
「いくら致死量を越していたって、そんなにすぐ死ぬものかね」
神野がたずねた。
「心臓がもともと悪かったんだって。だからふつうの人間よりモロかったらしい」
「だれかがスタジオに侵入して、彼女に睡眠薬をむりやり嚥ませたとしたら……」
と旦那刑事。
「ありえない。ガードマンたちが出入り口をかためている。彼らは決して休まないからね」
と小柳は答えた。
「でも……」と旦那刑事。「だれかが、ガードマンに化けたとしたら」
「その方が、よけい目立つ。うちのガードマンは複数だし、彼らは、絶対に、人が出入りしなかったと声をそろえて言っている」
「人間じゃなかったら、どうです?」と刑事はねばった。「たとえば、オラン・ウータンとか……」
「こちら、本当に刑事さんかい?」
と小柳プロデューサーはあたりを見まわした。「他局のどっきりカメラじゃないだろうか」
「すると、スタジオは密室状態ですね」
旦那刑事は溜息《ためいき》をついた。「……自殺ってことになるのかな、結局」
「フーテンだけど、勘がいい子だったからな。感受性をもて余してるというか」
「ディレクターに叱られたことでショックを受けたと仮定してみよう」
神野はパイプをテーブルのはしに軽く打ちつけた。
「そのためにビデオ録画が|押して《ヽヽヽ》(時間がのびて、の意)、彼女よりもっとえらいスターたちに迷惑をかけた――これはたしかに応えると思う、新人にとってはね。自殺につながるかどうかは別として、一つの心理的バネにはなると思う。しかし……」
神野は言葉をえらぶようにして、
「若い娘――しかも、いつも|見られている《ヽヽヽヽヽヽ》ことを意識している女優が、スタジオで自殺するのはおかしくはないだろうか。たとえば、自分の部屋とかバスルームとか、自殺の場ってものをえらぶのじゃないかね」
「一理あると思うがね」
小柳が頷《うなず》いた。
「心の余裕がなかったんじゃないかねえ」
「私は他殺の線に固執します」と旦那刑事が言った。「花田京子さんに殺意を抱く者、あるいは、その可能性のある者のお心当りはありませんか?」
3
「……考えられないなあ」
小柳プロデューサーは大きく吐息して、仕事が残っているから、と立ち上がった。
「新番組の視聴率が悪い皺寄《しわよ》せが、おれのところにくる。いやだ、いやだ。こっちも死にたいよ」
そう言って、去ってゆく。
「星川君、三沢健はどうだい?」
神野推理は独特の鋭い眼つきで、
「花田京子を殺す動機はないか?」
「ないとは言えない」
と私は答えた。
「京子はスケジュールにさしつかえが出るほど、|めろめろ《ヽヽヽヽ》になっていた。あの子は本心を隠せない。……これをいちばん恐れているのは、三沢の事務所の連中だ。週刊誌に記事が出たら、三沢の人気は暴落する。三沢の周囲の者の生活問題でもあるわけだ」
「三沢健には、少くとも、動機があるわけだ。……他《ほか》に、そういう奴はいないかね」
「思い当らんなあ。京子は、男にも女にも好意を持たれるタイプだからね」
「ふむ、三沢健を洗ってみる必要がありそうだな」
神野はかすかに笑って、
「いま、北海道にいるとか言ってたね」
「刑事ドラマのロケで、札幌《さつぽろ》へ行っている。……きみ、まさか、彼が犯人だと言うんじゃないだろうね」
「さあね」
「犯人はそいつです」
旦那が断定した。「もう、そいつに決ってまさあ」
「でも、北海道にいるのですよ」
神野が呟いた。
「ヒコウキ……ヒコウキに決ってますよ。ヒコウキで往復すれば……」と旦那。
「それはあり得ない」
と私は確信をもって言った。
「なぜです?」と旦那。
「今日、社を出るとき、部屋のテレビに、三沢の顔が映っているのを見た。三時半に、|うち《ヽヽ》の番組宣伝の時間があるんだ。札幌からの生中継で、ロケの模様を映していた。だから、三時半に、三沢は札幌にいた」
「そりゃそうだ。三沢健ほど顔が知られていては、こっそりジェット機で東京に戻るってわけにはいかん。それに、あの密室がある。奴は北海道から動いていないよ」と神野。
「では、三沢の事務所の者が……」
「芸能プロの者が、他人のために殺人を犯すことは、まず、ない」
神野は笑った。「そういうご都合主義はいけない。今までのデータでいえば、犯人はあくまで三沢本人でなければならん。星川君、夕方以降の三沢の行動をチェックできるだろうか」
「やってみよう」
私は喫茶室を出て、小柳のデスクに行き、電話を借りて、札幌のSホテルのダイヤルをまわした。Sホテルは、|うち《ヽヽ》の定宿なのだ。
|うち《ヽヽ》のディレクターが電話に出た。花田京子の死をまだ知らぬらしい。ほかの用にかこつけて、三沢のことをきくと、五時にホテルに戻り、自分の部屋に入ったという。
――抜け出して、トルコ風呂にでも行ってるんじゃないか?
とカマをかけてみる。
――いや、七時にグリルでめしを食うのはいっしょだったし、今は、部屋で仲間とマージャンだ。
――ふーむ。
――なにか、あったのか?
――まあね。九時のニュースでやるだろうが、花田京子が自殺した。
――え!?
――三沢には伏せとけよ。どうせ、わかることだが。
私は電話を切って、喫茶室に戻った。
「なるほどね」
神野は、私の報告に頷いて、
「きみがいらいらして、Hスタジオへ行ったのが、五時ごろだったな」
「ああ」
「Hスタジオへ行ってみよう」
神野は立ち上がった。
スタジオの入口には、もう、ガードマンはいなかった。
いるのは小柳と脚本家だけだ。
「セットはこのままで、京子が突如、南米へ旅立った、という風にならんかね」
「ムリです。飲酒運転による事故にまき込まれたとでもしないかぎり」と脚本家は反対した。
「そんなことは百も承知だ」と小柳が言った。
「だが、スポンサーは自動車会社と洋酒屋とカーワックス屋とタイヤ・メーカーだぞ。おれの立場はどうなる……」
「だいたいの筋書きが読めたような気がする」
不意に神野が言った。
「え?」
旦那も、私も、びっくりした。
「スタジオは密室にちがいないが、外部への窓があそこにある」
神野は、斜め上の副調整室《サブコン》を指さした。
「あそこに……窓が?……」
私は半信半疑だった。
「電話だよ。サブコンには電話がある。しかも、|0《ゼロ》をまわせば、どこにでも直通でかかる」
「どういう意味です?」と旦那は狐につままれた態度である。
「ここでの録画は、いちおう、五時半ごろ終っている。みんなが出て行ったあと、京子は札幌のSホテルに電話したんだよ、サブコンから」
「その時刻なら、三沢はホテルの部屋にいたはずだ」
私たちはサブコンへの階段を登り、電話機をとり囲んだ。
「さてと……少しでも常識のある人間が、他人のツケになる長距離電話をかけた場合、しかも話が長びきそうなとき、どうすると思うね?」
神野が私にきいた。
「相手にかけ直してもらうだろう」と私。
「そうだ。京子がいかにかっとしていたとはいえ、そのくらいの分別はあったと思う」
「ああ、そうか! こっちからSホテルにかけた記録は残らないが、SホテルからRTVのHスタジオにかけるときは、必ずRTVの交換台を通すことになるな」
「そうだ」と神野は冷たく笑った。「交換手のだれかが、三沢健の声をきいていないかどうか、しらべて貰いたい。どうせ、偽名を使っているだろうが、交換手の耳はごまかせないのさ。……おっと、この電話は使うな。京子の指紋が残っているかも知れない」
私はHスタジオの外にとび出して、赤電話で交換台を呼び出した。交換手の一人が、時間ははっきりしないが、夕方に、三沢健からHスタジオに電話が入った、と答えた。声でわかったので、三沢さんですね、と念を押すと、タナカです、と答えたという。
「間違いないですね」
と旦那刑事は感心した。「しかし、どうやって、京子に睡眠薬を飲ませることができたのでしょう? フシギですね」
「これはあくまで推測だが……」神野は口ごもった。「催眠術を使ったんじゃないかと思うんだ。テレビの中の奇術師がやる催眠術に、茶の間でテレビを見ている人がかかるのが問題になっただろう。テレビでは、禁止になったはずだ。だが、あれは、電話からの声だけでもかけられるのだよ」
「どんな風にですか?」
旦那刑事がのり出した。
「たとえば……〈あなたはバッグの中のクスリを、ぜんぶ、のんでしまう。ぜんぶ、のみ終ったら、電話機を元に戻し、セットに降りて横になって、目をつむる……〉という風にだ。睡眠薬といわないで、|クスリ《ヽヽヽ》というのは、第三者である交換手にきかれているおそれがあるからさ」
「テレビ局の交換手は、いちいち、タレントの会話に関心を持ってはいないだろう」
と私が言った。
「わかるものか。交換手の中には、三沢健の|熱烈なファン《ヽヽヽヽヽ》がいるかも知れない。げんに、その辺から女性週刊誌への情報が流れたり、プロダクションの情報|蒐集《しゆうしゆう》がおこなわれているという噂もある」
「わがジャパン・テレビに限って、そんなはしたない交換手はいないはずだがね」と私。
「残念ながら、三沢の犯行は立証できないようですな」と刑事が言った。「神野さんの推理にはいつもながら敬服しますが、今回は少々とっぴ過ぎた。電話で催眠術をかけた証拠をつかむのは不可能です。テープにでもとってない限りはね」
「それはそうさ」
神野は肩をおとして言った。「たまには、敗北があってもいい」
私はRTVの近くのスナックに神野と旦那を案内した。旦那は酒を飲むまえに、ヤキソバ三皿とガーリック・ステーキ一皿、ポーク・ジンジャーなるもの一皿を平げた。
「ところで、京子の穴をどう埋めるね?」
神野は低い声で私にたずねた。
私は、はっと気づいて、マスターに、テレビのニュースを見せてくれ、とたのんだ。もう、九時を十分ほど過ぎていた。
「……おかしな事件が札幌でおこりました」と中年のキャスターが笑いを含みながら言った。
「札幌のSホテルの交換手の一人が、仕事中に眠ってしまい、いまだに眠りつづけているのです。しかも、彼女はバッグに所持していた大量のピルを嚥んだ様子で、目下、医師が……」
私はとび上がった。旦那刑事は四皿目のヤキソバ数本を口にくわえたまま、踊り出した。
「みろ……」神野は眼を細めて、おもむろに呟いた。「熱烈なファンてやつは、こんな盗聴ぐらい平気でやるんだから……」
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第九話 殺意の片道切符
1
毎年、暮になると、私は箱根の宮の下ホテルで、一泊か二泊の休息をとることにしている。
宮の下ホテルは明治十年に開業した、格式あるホテルである。明治二十三年に作られた木造の建物が、いまだに昔日の外観をとどめているくらいだから、大したものだ。その後、コンクリートの新館を次々に増築したために、全体としては、新旧入り混り、内部の廊下は迷路のようだ。
なぜ暮をえらんで行くかといえば、十二月二十六日から三十日のあいだは特に空いているからである。温泉プールも使い放題だし、従業員が新年の準備をするのを眺めながら暖房のきいたバーでジン・トニックを飲むのは、じつになんとも気持がいい。
今年に限って、友人の神野推理がいっしょなのは、来春の企画を二人で練るためである。春からの番組の企画としては遅いのだが、主演に都はるみを予定していたドラマが、彼女の「北の宿から」の大ヒットでひっくりかえり、急に、〈安易なヴァラエティ番組〉の製作にとりかからざるをえなくなったのだ。
新宿からのロマンス・カーはがらがらだった。窓ガラスに継ぎが当っていたり、サンドイッチや弁当のたぐいが、すべて〈売り切れ〉だったりして、昼めしを食べていない私たちは大いにあわてた。
「不況色濃厚だな」
神野は手製のパイプを片手に、おもむろに車内を見渡した。
「われわれのほかには、たった三組だ。……高度成長華やかなりしころには、年末でも満席で、飲めやうたえの大騒ぎだったが」
「食べ物が〈売り切れ〉ってのは嘘だぜ」と私が言った。「客が少いから、はじめから用意してないんだ。午後一時発の電車で〈売り切れ〉って法はないだろうが」
「つい数年まえまで、ウイスキー・ティーってのが出てきたものだがな」
神野は溜息《ためいき》をついた。
「オイル・ショックとともに、メニューから消えたな。はっきりしたものだ」
「来年は、もっとシビアになるぞ」
「ロッキード事件と『北の宿から』で、一年が終ったという感じだな」
「そうそう」と私が言った。「ロッキード事件の立役者のひとり、小谷源次が宮の下ホテルを傘下《さんか》に収めたのは知っているだろう」
「ああ」
「ホテルに予約の電話を入れたとき、念のために、受けつけた男の名前をきくと、小さな声で、小谷と申します、と言うのだ。あれは小谷源次の親戚《しんせき》じゃないかと思う」
「田中角栄も、よく宮の下ホテルを利用していたそうだな」
「あの居心地のよい、静かな宮の下ホテルが、小谷の傘下に入ったとは皮肉だな。われわれは小谷に金を払うことになるじゃないか」
宮の下ホテルは箱根湯本駅からタクシーで十五分ほどの高さにある。
私たちが着いたとき、新館では各部屋の掃除のさいちゅうであったが、外人団体客を除いて、宿泊客らしいものの姿は殆ど見られない。
部屋でコートを脱ぐと、私たちはフロントに近いティー・ラウンジに戻った。ここでは、ティーバッグではない紅茶が飲める。
ブザーを鳴らすと、ボーイがきた。
私はジン・トニック、神野は紅茶とアップルパイを注文し、窓外の池の鯉の群れをぼんやり眺めた。
「かくて迎える年の暮れ、か」
私は煙草に火をつけ、
「今年も、ろくなことがなかったな」
「来年だって、べつに、どうってことはあるまい」
神野は虚無的な眼つきで言い放った。
「いつか、ニューヨーク・タイムズだったかに、〈いまは三十代半ばの人々がノスタルジックになる時代だ〉と皮肉ってあったが、日本もそうなったな。二十代の連中がノスタルジックになっている。往年の日活映画とか加山雄三のブームだって、それだろう。グループサウンズだって、もうノスタルジーの対象になっている」
「つまり、未来《さき》がないってことだな」
「そういうこと」
神野はパイプをくわえながら、
「みんな、早く老いる。二十代半ばを過ぎた女の子が自分を中年と呼ぶ時代だ」
神野は寒そうな庭にふたたび視線を向けた。けたたましい女の笑い声が響きわたった。
「ほら……あの気障《きざ》な英語のディスク・ジョッキー、なんて言ったっけ。はじめに、ボーッと霧笛が鳴るのさ……」
「ああ、大気障《だいきざ》……ケン田島の『ポート・ジョッキー』でしょ、ラジオ関東の……」
「なつかしい! テーマ曲『浪路はるかに』をバックにして、女のアナウンサーが、背筋が寒くなるようなこと、言うのよね。……〈凍《い》てついた星空の下で、ポート・ヨコハマの灯が、ひとつ、またひとつと消えてゆきます〉――なんちゃって!」
女二人と男一人が向こうのテーブルのまわりにいる。そう、私と同じ年恰好かな。三十代半ばを過ぎて、気怠《けだる》さの一つや二つ、ごく自然に身につけていてもいいのに……。
「はしゃぎ過ぎだな」
神野は紅茶にミルクを入れながら呟《つぶや》いた。
「ノスタルジーもいいが、ああ、はしゃがれるとシラケるよな」
「『ポート・ジョッキー』か。なつかしいな」
思わず、私も言った。
「ラジ関(ラジオ関東)だと、ほかに、『昨日の続き』があったな。前田武彦と永六輔《えいろくすけ》の……」
「あれは、永六輔が忙しくなって抜けて、あとに巨泉が入ったろう。ぼくは大橋巨泉て名前、あれで知ったんだ」
「そのまえに、ぼくは巨泉をテレビで観たことがある。一九六○年ごろだ」と私が言った。
「たしか、『光子の窓』だよ。伊藤|素道《もとみち》と組んで、ザ・ピーナッツの真似をしていた。〈ザ・ドーナッツ〉というコンビだった」
いつのまにか、私たちも、ノスタルジックになっていた。
「おい……」
神野の声が鋭くなった。
「あの男だが……あれ、マイク芳賀《はが》だぞ。ロカビリー歌手の」
「そうだ」
私はようやく気づいた。
マイク芳賀――平尾昌晃、山下敬二郎、ミッキー・カーチスとならぶ、第一次ロカビリー・ブームのスターである。あれは昭和三十二、三年だから……もう二十年もまえのことだ。
「マイク芳賀も、もう四十になるだろう」
私が言った。
「だろうな……」と神野。
「しかし、若いなあ」
「現役だからな。作詞作曲に転じたとはいえ」
と神野がつづけた。「そうそう、昨日、芝の郵便貯金ホールで、彼の芸能生活二十周年のリサイタルがあったはずだ」
「よく知ってるなあ」
私は驚いた。
「〈'60年代への片道切符〉という名のリサイタルさ」
「彼のデビューは'50年代じゃないかねえ」
神野推理は、つねにパイプをくゆらせて、世の動きに超然としているみたいだが、じつは、あらゆる情報に気を配っているのだ。「エコノミスト」から競馬新聞まで眼を通すのは当然として、電通報、「アドバタイジング」(電通の出している情報誌)、さらに「ヤング」(渡辺プロのPR誌)から、「ぴあ」「シティロード」「ムービー・マガジン」、はては視聴率表、われわれが〈オリ・コン〉と呼んでいる、オリジナル・コンフィデンス社のレコード売り上げベスト50まで、丹念にチェックしている。いまどんな曲がヒットチャートを上昇しているかは、神野推理にきけば、一発で解る。それに、彼には独特の予知能力があって、古くは「黒い花びら」、近くは「北の宿から」のヒットを私に予告している。
「すると、今日は、疲れ休めというところかな」
「女二人は、おそらく、昔のファンだな。……そうそう、今度のリサイタルは、往年の女性ファン三人が強力に推進した、と、まあ、PR半分かも知れないが、そんな記事を読んだことがある」
神野は興味深げに、マイク芳賀と二人の女性を眺めている。女の片方は和服、片方は洋服だが、色香が感じられないでもない。
「や、これはこれは!」
私たちはぎょっとした。まさか……まさか、このホテルに、警視庁捜査一課の旦那刑事がいるはずはない!
「ごぶさた」
旦那刑事は奇妙な笑いを浮べて立っていた。
「芦《あし》ノ湖《こ》で殺人《ころし》がありまして……帰りがけに、つい、温泉に入りたくなって……」
「泊るのですか?」
私はおそるおそるたずねた。
「初めはそんな気はなかったのですが、だんだん、その気になってきて……」
旦那刑事はズボンをずり上げて、
「湖畔で冷えたせいか、急に下痢をして……いまも、トイレにかけ込んだところです」
「イヤだね!!」
神野と私は叫んだ。
2
事件が起ったのは、その夜の十時である。
なぜ、私が正確に時刻を記憶しているかというと、このホテルの家族風呂は三十分単位で入湯《にゆうとう》するシステムになっていて、私たちは、九時半からの三十分を予約していたからである。
風呂を出た時は、十時を二、三分過ぎていた。私たちが新館のエレヴェーターで五階に登ると、そこに蒼白《そうはく》になったボーイが立ちすくんでいた。
「どうしたの?」
私は不審に思ってきいた。
「し、死んでいるのです」
ボーイは神野に倒れかかった。
「死んでいる?」
「は、はい」
「だれが?」
「あ、あの方で……」
「しっかりしろ」
神野はボーイの身体《からだ》をゆさぶった。「死体一つぐらいで、大の男がガタガタするな。だれが死んでいる?」
「あの……芳賀さんです。作曲家の……」
「何号室だ。案内しろ」
神野はきびきびと言った。彼が望むなら、〈『マルタの鷹《たか》』のハンフリー・ボガートのように〉とつけ加えてもよい。
「でも、警察を……」
「安心しろ。れっきとした刑事さんが、ぼくらの隣の部屋に泊っている。……星川君、旦那刑事を呼んできてくれ」
「よしきた」
私は旦那刑事の部屋のドアを叩いた。
「うるさい……」
旦那の声がした。
「いま、テレビを観ているところだ。山城新伍が歌っている」
「それは12チャンネルだろう。観るなら、うちのチャンネルを観ろ!」
「ああ、星川さんですか」
彼はチェーンロックを外した。
「どうしたのです?」
「シャツと浴衣を着たまえ」
パンツ一つで浮かれている様子の旦那刑事に私は言った。
「どうやら殺人《ころし》があったらしい」
「え?」
少し酔っている旦那刑事は、浴衣の裾をひきずって五一七号室に入った。
「死体はどこだ? ないじゃないか」
「きみの足の下だ」
神野は冷静に指摘した。
「どうりで足元がぐらつくと思った。……あ、しまった、踏みつぶしちゃった、舌を出している」
「きみのせいじゃない。絞殺されたんだ」
神野は、白目をむき、黒ずんだ舌をのぞかせた死体を眺めた。頸部《けいぶ》にはこのホテルのタオルが巻きついている。おそらく、浴室から持ち出されたものだろう。
「……スーツケースその他が荒らされている。物盗《ものと》り、と想わせたいのだろう。だが、果して、そうかな?」
「ちがうでしょう」
戸口で声がした。顔見知りの初老のホテル・マネージャーの姿があった。
「マネージャーの人見です」
と一礼して、
「警察には、ただいま、連絡をいたしましたが……」
「わっ、おなかが痛くなった。あ、もう、だめ。トイレをお借りします」
旦那刑事は身悶《みもだ》えしながら浴室にとび込んだ。
「きたない男だな。そこらに指紋をつけないように気をつけろよ!」
神野が怒鳴った。
「失礼して、つづけさせて頂きます」とマネージャー。
「どうぞどうぞ」と私。
「マイク芳賀さんは八時半にメイン・ダイニングを出られて部屋に戻られました。二人のご婦人……ええと(と、メモ用紙を見て)日比野弘子様と沢田武子様とはフロントの近くでお別れになりました。念のために申し上げておきますと、この滞在は日比野産業社長夫人である弘子様のご招待で、二人のご婦人は|けじめ《ヽヽヽ》をつけるために反対側の日本間の方にお泊りです」
「マイク芳賀は八時半すぎには部屋に戻ったのか。ずいぶんご清潔ですな」と神野。
「お疲れのようでした。リサイタルの翌日ですから。まあ、あのご婦人方のおかげでリサイタルが開けたので、招待に応じないわけにいかなかったのでしょう。……明朝早いから、電話その他、いっさいとりつがないでくれ、と交換手におっしゃられたのが八時四十分です。ところが、十時少しまえに、東京の芳賀さんのマネージャーから電話が入りまして、とにかく、寝てても叩き起してくれ、と大層きついおっしゃりようでした。しかし、いくらお部屋の電話を鳴らしても、ご返事がない。そこで、マスター・キイを持たせて、ボーイをよこした次第で……」
「なるほど。ここのドアは閉めると自動的にロックされるのですな」と神野は頷《うなず》いた。「すると、犯人が物盗りというのは、いよいよ、おかしい。念のためにうかがいますが、二人の女性のどちらか――あるいは両方が、従業員の眼に触れずに、ここまでこられる可能性は?」
「大いにあります」マネージャーはびくともしなかった。「明治、大正、昭和の三代にわたって増築につぐ増築で、蛸《たこ》が足を八方にひろげたような建物です。出入口もあちこちにあります。……ただ、当ホテルでは、事件をおこすようなお客様はお泊めしないという誇りがございまして、いままで、ただの一度も不祥事はなかったのです。本日、いかがわしい、小柄な男の方が、予約もなしに泊めてくれとおっしゃって、いやな予感がしたのですが……」
トイレのフラッシュの音がひときわ高く響いて、旦那刑事が浴室からとび出してきた。
「じゃーかしい、われ!」
「あっ、失礼を!」
「わいは桜の代紋頂く刑事やで。江戸前やで!」
「なんか存在論的に観て矛盾してますな」と人見マネージャーは言った。「こちら、トリックスターとでも呼ぶべきでしょうか」
「わし、トリックスター、ちゃうねんよ。ほんまもんのスターなんよ」
旦那刑事は|しな《ヽヽ》をつくった。
「ご婦人方には知らせたのですか」
と私がきいた。
「そこですな」マネージャーは首をひねった。
「いますぐ、知らせた方がよろしいかどうか……」
「リサイタルを推進したご婦人は、もう一人いたはずだがなあ」
神野は気にかかるようであった。
「さいです」
マネージャーは大きく頷いた。
「ご存じですか、そのことを?」
「それはもう。わたくしどものお得意様でございますから」
「へえ?」
「銀座のクラブ『薬痴寺』といえば有名でございますね。あそこのマダムの鳥羽輝子様が、もう一人の方です」
「くわしいですね、いろいろ」
神野は死体の脇にしゃがみ込んだまま呟いた。
「職業柄、とぼけてはおりますが、なにを隠そう、わたくし、好奇心が旺盛《おうせい》でして、人の悪口、スキャンダル、よくない噂《うわさ》をきくのが、三度のめしより好きで……」
マネージャーは、とりあえず、恥じてみせた。
「ぼくだって同じでさあ」
神野は壁から外したライトで死体の瞳孔《どうこう》を照らしながら答えた。
「すると、|なん《ヽヽ》でしょう。客の会話なんかを、|それとなく《ヽヽヽヽヽ》立ち聞きしちゃう、なんての、好きでしょう」
「好きですな。あまり、大きな声では言えませんが」
「ずばり、うかがいましょう。日本間のご婦人二人はレスビアン。マイク芳賀は|だし《ヽヽ》に使われただけ。ちがいますか?」
「ど、どうして、それを……」
「いくら昔のファンだからって、他人のために無償で働くってのがおかしい。二人とも、亭主の眼をくらますために、マイク芳賀を利用した。……あなた、『薬痴寺』のマダムがどこにいるかも、知ってるんじゃないですか?」
「お三方のロビイでの会話を、きくともなくきいたのですが、鳥羽様だけが、湯本で、故人の運転していた車を降りて、湯本ホテルに行かれたそうで、|わけあり《ヽヽヽヽ》だろう、なんて、笑っておられましたが……」
神野の眼が輝いた。それを二百ワットとすると、旦那刑事の眼なんぞは、もう、三百ワットぐらいに光ったのだ。
3
「旦那刑事はどうした?」
翌朝のティー・ラウンジ――。
弱々しい陽射しの中で神野推理がペパーミント・シャーベットを口に運びながら私にきいた。
「今朝早くチェックアウトしたそうだ」
「やれやれ」
「ぼくもバテたよ。せっかくの休息が無駄になった」
「ところで、事件のカードは出そろったかい?」
「マネージャーから大体の話はきいたが、どうも、ぱっとしない」
私は浮かぬ顔で答えた。
「日比野夫人と沢田武子――このひとのご主人は小さな出版社の経営者だ――の二人は、八時半から十時過ぎまでバーにいた。来日中のポップ・シンガー、トニー・クレイがバーにいたので、みんな、すっかりはしゃいで、トニーは自分のヒット曲をうたいまくったそうだ」
「トニー・クレイって……あのパット・ブーンといっしょぐらいにデビューした歌手か!」
神野はびっくりした。「そいつは、惜しいことをした。ぼくも、そこに加わりたかった。『ダイアナ』や『カレンダー・ガール』なんか、いまでも、歌えるんだ」
「そういうわけで、彼女らのアリバイは、バーテンが保証している」
「まあ、信用しておこう。……で、鳥羽輝子の方は、どうだ?」
「彼女はずっと湯本ホテルから出ていないそうだ。あそこは小さなホテルで、出入りが監視されている。人目をごまかすことはできない。九時ごろ、こけしを買いにゆくと言って、十分ほど外出したそうだが……」
「湯本ホテルには、ひとりで泊っていたのか?」
「ひとりだ。同伴者なし」
「よけい怪しいじゃないか。まったくひとりなら、このホテルにきてもよさそうなものだ」
「人間の好みはさまざまだからな」
「湯本からここまで車で十五分。往復三十分だ。犯行に少くとも十分はかかる。合計四十分は必要だなあ」
「無理だな。犯行推定時刻は八時半から九時半のあいだということだ。鳥羽輝子にはアリバイがある」
「犯人は彼女でないとマズいのだがな」
神野は呟いた。
「どういうことだ、そりゃ?」
「このあいだ、医者へ行ったとき、待合室で読んだ女性週刊誌に、〈『薬痴寺』マダムの華麗な男性遍歴〉って記事があって、現在の愛人としてマイク芳賀の名が出ていた。……マイク芳賀といえば、ふたむかしまえからの遊び人だ。こんなの、つづくはずがない。マダムが意外に本気になって、マイク芳賀が逃げる。予想される筋書だろうが……」
「しかし、警察は、ちゃんと、こけし屋まで調べている。彼女は前衛的な形のこけし人形を二つ買っている」
私はそう言って、サンドイッチをつまんだ。
「この犯罪は、女なしでは成立しないのだ」
神野はパイプをくわえて、
「マイク芳賀は、ルーム・サーヴィスも、マッサージもたのんでいない。……にもかかわらず、彼はドアをあけて犯人を部屋に入れている。見知らぬ人間を部屋に入れるはずはないから、まず女……それも時刻を決めてあったのじゃないか」
「うーむ」と私は唸《うな》った。「だけど、女の力であんな風に絞殺できるものだろうか。共犯者がいるんじゃないか」
「その線も考えている」
神野は煙を立てつづけに吐いて、
「補助線が一つあるのだよ」
「補助線?」
「鳥羽輝子が小谷源次の愛人だった事実だ」
「え?」
「伊達《だて》に、週刊誌、読んでんじゃないよ。こういうデータを頭に入れとくためだ」
「どういう意味だ?」
「たしかに輝子は十分しか外出していない。こけしを買ったのも本当だろう。……つまり、残りの数分で、マイク芳賀に逢うことも可能なのじゃないか」
「逢う?」
「そうとも」
神野は冷ややかに笑って、
「マイク芳賀は八時半に部屋に戻り、電話をいっさいとりつぐなと交換台に電話して、ホテルを抜け出した。こうすれば、だれもが、彼は部屋で寝ていたと思う。……マイクは、用意された車で湯本に向かう」
「〈用意された車〉って何だ?」
「自分の車を使えば人目につく。タクシー、ハイヤーでは証拠が残る」
「そんな車があるのか?」
神野はフロントの方を一瞥《いちべつ》してから、
「小谷源次の親戚の者がここで働いていると言ったのはきみじゃないか。おそらくは、その男の運転する車だ。湯本に着くと、輝子が乗り込んできて、そこで何かがあったんだ」
「なんだ、それは?」
「わからないから、〈何か〉と表現しているのだ。……ぼくの推理では、ロッキード事件関係の書類を小谷は輝子にあずけていた。マイク芳賀はその事実を知って強請《ゆす》ったのじゃないか。そこで知り過ぎた男は抹殺《まつさつ》された。死体は小谷の親戚の者に運ばれて戻ってくる。従業員エレヴェーターとルーム・キイで、死体は五一七号室に戻される」
「大胆な推理だが、ロッキード事件|がらみ《ヽヽヽ》ってのは、大げさ過ぎやしないか。とっぴな気がするぜ」
――神野さん、お電話です!
フロントで声がした。
神野は立ち上がり、送受器を受けとるやいなや、
「えっ、解決したって!」
と叫んだ。
「だれだ?」
私も立ち上がった。
「旦那刑事だ。小田原警察の湯本派出所からかけている」
「ぼくも、きけないでしょうか」
言うより早く、フロントの青年はもう一つの送受器を私にくれた。
――がはは、鳥羽輝子は自白しましたぜ!
まぎれもない、旦那刑事の声である。
――私は、初めから、あいつが犯人だと確信していましたがね。
「こっちだって、そうさ」
神野はなおも不審そうに言った。
――しかし、神野さんだって、これがロッキード事件に関係があるとは思わなかったでしょうが……。
「いや、思ってた……」
――またまた!
旦那刑事は、ひっひっ、と笑った。
――鳥羽輝子はスポンサーの小谷からロッキード事件の証拠品をあずかって、マンションの本棚に隠しておいた。マイク芳賀は彼女のマンションにしげしげとくるようになって、ある日、そいつを見つけたってわけでさあ。
「なるほど……」
――マイクってのもいいタマで、輝子を何度も強請った。輝子はたまりかねて、というおなじみの動機です。
「だけど、犯行は彼女ひとりでやったんじゃないだろう」
――いえ、ひとりです。この女が怪力無双でね、私も三、四回、殴られました。暴行傷害の前科もあるらしくて、湯本ホテルのフロントが長時間の外出はしていないと偽証したのも、女の腕力がおっかないからでさ。
「すると、彼女は宮の下ホテルまできて……」
――もちろんですよ。自分の車と運転手は、ちゃんと東京からこさせていた。それで宮の下ホテルへ行って、五一七号室でマイクを絞め殺した……。
「あなた、どうして、そんなに自分の推理に自信があったの?」
――下痢のおかげですよ(くっ、くっ)……五一七号室のトイレを借りたでしょう。あのとき、トイレット・ペーパーの端が折ってあるのに気づいた。こんなことするのは、ホステスとかそういった連中でしょう。トイレを出たとき、クラブのマダムが容疑者の中にいるときいて、ぴんときた。犯行のあとで小用かなんかして、つい、トイレット・ペーパーの端を折ったのでしょう。無意識の習慣てやつで。
「しかし……ホテルの従業員も、部屋の掃除のあとで、トイレット・ペーパーの端を折るでしょう」
――でも、もう一つ、マッチの軸の燃え残りが浴室の備えつけの灰皿にありました。こいつは、浴室に残る化粧の匂い、その他もろもろを消すために擦ったのだ、と見当をつけました。……だって、浴室はおろか、部屋のどこにも煙草の灰がない。被害者は喉《のど》を痛めるのをおそれて煙草を吸わないのではないか、と、こう考えれば、犯人はおのずと明らかでさあ。ぎゃはは……
電話が切れた。
「やれやれ」
神野推理は送受器を置いて、
「なーに、ビギナーズ・ラックさ」と負けおしみを言った。
「ちょっとお待ちを」とフロントの青年が声をかけてきた。
「なんだい?」と私。
「私が予約のお電話をお受けした小谷ですが……わたくし、姓こそ同じですが、小谷源次一族とは、まったく、無関係でして」
「こいつは大いに失礼をした」
やけ気味の神野推理はパイプを片手に深々と頭をさげた。
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第十話 はなれわざ
1
いままでに何度も申し上げたことだが、私、星川夏彦は民放テレビ局につとめている。テレビ局の仕事は、大ざっぱに分けて、報道と芸能の二つになるのだが、私は入社いらい、芸能の道を歩いてきた。
ということは、無数の芸能人、タレントの誕生と消滅を眺めてきたことにもなる。傍観者の立場に徹しなかったら、とてもじゃないが、つとまらないのである。
世間の通念として私などの仕事は、派手で、女性タレントとのつき合いなども多いだろうと思われがちだ。
まあ、そいつは、いちがいには否定できないことだ。女性タレントとテレビ局の人間の結婚、スキャンダルがしばしば週刊誌に書き立てられている以上、なにを言っても弁解になるだけだろう。
だが、じっさいのはなし、私たちと女性タレントのあいだに〈なにか〉が起る確率は、ふつうの会社における男女のトラブルよりも、はるかに少いのではないだろうか。なぜなら、タレントはまず〈商品〉であり、私たちがビジネスに徹しなければならぬシビアさは、商社と変らないからである。チョコレート会社の社員が自社のチョコレートを盗み食いしても事件にはならないが、私たちの場合、〈商品〉に手をつけたら、ほとんど破滅的なことになるか、左遷されることは覚悟しなければならない。なにしろ、〈商品〉が有名すぎるのである。
はっきりいえば、私は、あえて、自分を傍観者の位置に縛りつけてきた。
あるとき、スナックで、ひどく酔った私の友人が、次のようにこぼした。
「世間は、おれたちが、よっぽど、イイコトをしてるように見るけれど、おれなんて、入社いらい十数年、なにもなかったぜ! ほんとに悪いことしてるのはレコード会社の奴らだよな!」
だからといって、彼がレコード会社につとめたらナニカイイコトがあるか、というと、そうでもあるまい。よほどの権力者か、二枚目か、〈誠実で親切そうな人〉か、――この三つのどれでもなかったら、どんな世界へ行っても、〈なにもなかったぜ!〉ということになるわけだ。
それはともかく――
私は面白みのない事務屋としてのポーズを崩さずにきた。スタジオで接触する女性タレントとある距離を保つように自分を訓練してきたともいえる。
――つまんない人!
――草食動物!
――いっしょにお酒を飲みに行ってもタイクツ!
――芸なし! (これは奇妙な悪口なのだが、芸能局の人間はたいてい、ポッと出《で》のタレントより、はるかに芸達者なのだ。)
――居ても居なくても同じ人!
……言わせておけばよいのである。
三十代に入ってしまえば、〈商品〉を見る目も、よりシビアになってくる。
そんな私でも、ひそかに動揺したことはある。
ひとむかし以上まえにレコード大賞を得た女性歌手がそうであった。私は自分でもどうなってしまうかわからぬほど、ふらふらし、かーっとなった。運よく(?)レコード大賞を得たために彼女は私から遠ざかり、雲の上の人となった。(その後、人気|凋落《ちようらく》した彼女に何度も逢ったが、私はケロッとしていて、なにも感じなかった。)
まあ、そんなことが二、三回はあった。
恋愛めいた感情ではなく、かわいがるという感じで眺めていたのが、杉田久美である。杉田久美は十六歳だった……と書くと、
――いやらしい!
――中年趣味!
――ロリータ・コンプレックス!
――ルイス・キャロルきどり!
――うそつき!
といった読者の声がきこえてきそうだが、そのころの十六歳は、いまの十六歳の歌手とちがって文字通りの〈ガキ〉であり、私は中年ではなく二十代前半であった。
むかしの話はあとにしよう。
杉田久美は〈ガキ〉ではあったが、すでにスターであり、主演番組を持っていた。彼女は何年に一人という大型ジャズ歌手としての将来を約束されていたのである。
その彼女が、のちに、なぜ、ふつうの流行歌手になり、しかも整形手術で顔全体の造作を変えてしまったのかは私の知ったことではない。
それじたい、十年以上まえのことで、さいきん、ふたたび、ジャズのスタンダード・ナンバーをうたう歌手として地味な歩みを始めたというスポーツ紙の記事を私は気持よく読んだ。日本で〈本格的ジャズ歌手〉になるという奇妙さの分析はさておき、久美は、歌謡曲よりは、ジャズのフィーリングの人なのである。
杉田久美が自宅である麻布のマンションで飲んだコカ・コーラに毒物(カフェイン)が混っていたというニュースを、私は、夜遅く、神野推理からの電話できかされた。
私は会社を休んで、クリスティーの遺作「スリーピング・マーダー」に読みふけっていたのだが、
――え?……
と言ったまま、絶句してしまった。
――きみ、テレビのニュースを観てないのか?
神野推理は叫んだ。
テレビ屋は、テレビを観ないものである。とくに、私はそうだ。
――死んだのかい?
私はまずそうきいた。
――いや、生命はとりとめた。致死量以下だったのだ。
――自殺だろうか?
――まあ、ちがうだろうな。
ゴシップ狂の神野は面白そうな声で、
――彼女が倒れたとき、そばに男がいた。だれだか、わかるか?
――青野哲じゃないか?……マネージャーの……。
――あれ、知ってるのか?
そんなことを知らなくて、ディレクターがつとまるだろうか? これも、私たちの仕事の一部なのだ。
――その男が疑われているようだ。杉田久美とは長いのかい?
――そうだな……もう、長いな。
とうとう出た、という感じだった。杉田久美のゴシップは、外部には出ないが、ずいぶん多くて、暴力団関係もあったときく。ただ、そうした私生活と、仕事の内容を分けて考えるように、私はいつのまにか、なっていたのだった。
翌日、出社すると、また、神野から電話がきた。
――いま、おたくのそばのDホテルにいる、こないか?
――録画《とり》の日だよ、今日は。
私はうんざりした。
――どうして、Dホテルにいるんだい?
――うちの前の道で水道管を代える工事が始まって、うるさくて仕方がない。毎年、二、三月になると、予算を使いきってしまうために、ガスだ、下水だと、道を掘りかえす。水道局にも、文句をいったのだが、役所相手じゃ、のれんに腕押しだ。そこで、警視庁からも遠くないDホテルに泊ることにした。
――警視庁がきみに関係あるのか?
――杉田久美の事件がこんがらがって、旦那刑事がぼくの部屋にきている。電話に出そうか?
――けっこうだよ。
私は断った。
――青野哲は杉田久美を愛していて、殺す動機がないんだ。きみ、あの女を恨んでる男を知らないか?
――さあね。
――ゆうべ、彼女の部屋には、女友達が二人きていた。これは、どうも、関係がないらしい。……それで、鮨《すし》を三人まえ、とった。これも関係がない。女三人が鮨をつまみ、そこに青野から電話が入る。女友達二人は気をきかせて、姿を消す。つまり、帰ったわけだ。入れ違いに、青野がくる。彼女が倒れたのはそのあとだ。救急車は青野が呼んだ……。
――毒はコーラに入っていたのだろう?
――そうだ。飲むところを青野が見ている。コーラといっても、コップの中だ。ところが、そのコーラは、鮨をつまむまえから注いであり、彼女が口をつけていたのだ。……鮨のときはお茶を飲んだという……で、そのあと、コーラの残りを飲んで、ばったりさ。
――ということは青野が一服盛るか、女友達とやらの仕業か……。
――女友達はちがうんだな。もっとも、氷に毒を仕込んでおいて溶けるのを待つという定石は、すでに刑事さんとディスカッションずみだがね。
――青野の奥さんはどうだ。
――ここがネックになっている。ずっと家にいたというが、証明するものはない。夫の不在を、ジグソー・パズルやピッタンコとかいうゲームでまぎらわせていたというんだが……。
――ピッタンコじゃなくて、ペタンクだろう。
――まだ、謎《なぞ》がある。救急車がきたあと、マンションに電話が入っている。電話をとったのは警官だそうで、もしもしと言うと、向こうは黙って切ってしまったそうだ。
神野は大きく吐息した。
2
正直にいって、私は、ゴシップ好きの神野推理ほどには、事件に興味が持てなかった。
その原因は、現在の〈杉田久美〉が、私の知っていた杉田久美とあまりにもちがい過ぎることにある。〈杉田久美〉は人造美人で、すらりとしている。これは、私のイメージにあるころころした滑稽な少女とあまりにも、へだたりがあり過ぎるのだ。つまり、この二人が、どうしても私の頭の中でつながらないのである。私の記憶にあった愛すべき少女は死んでしまったといえるのかも知れない。
私が杉田久美にあったのは、むかしむかし、まだ、テレビが新しい文化と信じられていた時代である。
いまどきは、子供だって――いや、子供だからこそ――テレビを〈文化〉などとは思わないであろう。
どうしてああいう錯覚が起ったのかわからないのだが……おそらくは、私たちが戦後育ちの映画好きな世代だったからであろう。
十数年まえ、映画が斜陽化してきて、映画評論家たちのマーケットがせばめられた。(この〈斜陽化〉はテレビの発達によるものと決めつけられているが、果して、いかがなものか? 私はこの定説にも疑問を抱いているのだ。)
ともあれ、映画評論家たちはメシの食い上げという事態になった。そのショックは、若い評論家ほど大きかったようである。
そのとき、頭がいいというか、狡《ずる》いというか、セコいというか、そういう評論家がいて、〈映像論〉てやつをブチ上げたのだ。映像といえば、新興勢力のテレビだって含まれるから、ご当人は、テレビ批評家にも移行できるし、テレビ局や代理店のPR誌からもお呼びがあろう。そんな腹づもりでデッチ上げた〈映像論〉が、わりにマスコミに受けたのである。論てものにも、ときどきの流行があって、〈ナンセンス論〉(こいつは、さいきん代理店のPR誌からも引導を渡されていたが)、そろそろ飽きられてきた〈道化論〉と、まあ、いろいろある。
映画が好きだった私がテレビ局に入ったのは、その〈映像論〉のさなかで、猫も杓子《しやくし》もエイゾ、エイゾと言っていた。おかげで、私なども、〈テレビ=映画につぐ新しい文化〉と信じ込んでしまったふしがある。いまにして思えば、莫迦《ばか》なはなしだ。
私の友人の放送作家が、テレビとは体制的なものだ、と発言して、この世界から足を洗ってしまった。
そのときは、ずいぶん、ドギツイことを言いやがると思ったものだが、説明をきいてみれば、反論の余地はないのだ。
NHKが体制そのものであるのは、いまでは、まず反対する人があるまい。元会長は汚職でつかまった総理の子分だったし、毎日の放送の最後には、日の丸を見せて、君が代をきかせてくれる。半官半民というけど、要するに、お役所だ。
で、まあ、民放は野党だといえると恰好いいのだが、そうでもないのだ。一部の評論家の文章とか、大新聞には、まだ〈テレビ文化〉なんて言葉があるが、こちとら、恥ずかしくって仕方がない。
民放てのは、大中小資本が商品を売るため、人々の購買欲を刺戟《しげき》するためにあるのだ。文化なんて、まったく関係ないのよ。
どうも、番組が主体で、CMはオマケ、フロクみたいに思っている人が多いように思う。これはサカサマなのだ。主体はCMで、番組がオマケなのである。
ただ、オマケにも質のいいのと悪いのがあって、アメリカでショウ番組の良いのなどを見せられると、私もつい唸《うな》ってしまう。つまりは、質のいいオマケで、そういうものを放送することでスポンサーの企業イメージも良くなるわけだ。
こう言ってしまってはミもフタもないのだが、本当だから仕様がない。私なども、良いオマケをつくるべく努力しているんだけど、文化幻想が消えちまったあとでは、なかなか……。
ついでに、視聴率にも触れておきますか。あれは業界内でのデータでして、外に公表する筋合のものじゃないのです。
そういうのってあるでしょう? たとえば、本やレコードの今週のベストセラーってやつ。あれも公表する方がいいんですかね。……テレビだと、低俗番組が一位になって怪《け》しからんとかいうけれど、本やレコードで、低俗本とか低俗レコードって言葉、きいたことがない。アレはどうしてでしょうか?
ひょっとしたら、民放のテレビ番組は只で勝手に家の中にとび込んでくるから、叩いてやろう、なんて思ってるのかな。あれ、べつに只じゃないんだけどな。
カップうどん一つにだって、広告費はちゃんと含まれているんだから、民放の番組が只だと思ったら、えらい間違いなのです。
読者が百もご承知のことをやや感情的に書きつらねたのは、変ってしまったのは、なにも杉田久美ばかりではないと、私の内面についても若干の告白をしたかったからだ。私がチンコロ姐《ねえ》ちゃん風の杉田久美に出あったのは、〈黄金の六○年代〉と称された時代の初めだった。
「セコい餓鬼だろう、あれは……」
コメディアンの飛田羽根太《とんだはねた》が私に小声でささやいたことがある。
「星川さん、杉田久美とは、どのくらい?」
「ごくさいきん、知ったんです」
「おれは、あいつが子役のときから知ってるの。やたらに鼻紙をくれって、せびりゃがってね。鼻紙ぐらい、自分で買えてえんだよ。まあ、セコい餓鬼……やだね!」
してみると、杉田久美は子供のときから、舞台やテレビに出ていたのか。しかし、私は学生時代に、テレビで彼女を見た記憶がない。
「そんなに古いのですか」
「古い古い。テレビの主《ぬし》みたいなものさ。開局当時、鼻汁《はな》たらして出てやがって。……物真似がうまくてね。喰われちゃうんだよ、下手すると……」
「おたくが?」
私は笑った。飛田は浅草ストリップ出身のかなりアクの強いコメディアンなのだ。
「うかうかすると、ヤバいんだよ。おれ、あいつと出るの、いやなんだ。いきなり、台本にない台詞《せりふ》を言うからね」
「でも、あの子も歌手として伸びてきたから、いいじゃないですか」
「フィーリングいいんだってね。予想もしなかったよ。われわれの仲間うちの言葉で言うと、〈化ける〉ってやつさ」
忌々《いまいま》しいというよりも、とてもかなわぬような口調だった。
当時の私の給料では、タレントに大したごちそうができるはずがない。だが、そのころ流行《はや》ったお握り屋に行こうというと、杉田久美はついてきたから面白い。
「星川さん、親切だね」
と彼女は言った。
「いつまでも、親切にしてくれると、アタシ、嬉しいけど」
「おまえさん、そのうち、エラくなって、おれと口もきかなくなるさ」
「アタシ、そんな女じゃないよ」
久美はタラコのお握りに手をのばしながら言った。
「そんな風に見える?」
「見えないけど……そうなるのさ。まわりが持ち上げるからね。おまえさん、ヤブニラミだって、手術で直しちゃったじゃないか」
「だって……」
「まあ、いいよ。ヤブニラミなんてのは、いいもんなんだぜ。真中に寄ってるのはまずいけど、ロンパリはいいんだよ」
「でも、直した方が良いって人が多いから……」
「だから、いいんだよ。いまさら、元に戻すわけにもいくまい」
「いろんな人が、アタシの足を引っ張るんだよ」
「ふむ」
「アタシはいいことだと思うの。足を引っ張られるようになったら、|しめた《ヽヽヽ》ものよ」
私は唖然《あぜん》とした。十六歳の少女の言うこととは思えなかった。
「いい根性してるよ」
私は呟《つぶや》いた。
「プロになるんだもん、アタシは……」
彼女はカツブシのお握りを手にした。
「最高のリサイタルやるようになったら、星川さんにお礼するよ。ペッパー・ステーキ一皿でいい?」
「まあまあ」
私は苦笑して、
「でもよ、さっき、おまえさんが〈アレキサンダーズ・ラグタイム・バンド〉を歌うのを、フロアに坐って見てたんだよ。カメラが、こう煽《あお》る感じで、久美の頭のまわりでライトが急にハレーション風にパーッとなったわけ。そうしたら、涙が出ちゃってね。日本人がスタンダード・ナンバーうたうと、どんなにうまくても白けるものだがねえ。……スター誕生って雰囲気《ふんいき》だったよ」
「アタシは、もう、スターだよ」
「わかってるよ。でもな、いまは虚名なんだ。……おれが言ってるスターってのは、横文字のネオンで、ブロードウェイに輝くやつなんだぜ。ジュディ・ガーランドとか、メリー・マーティンとかさ。エセル・マーマンだって、そうだよ。……まあ、そんな風にはなれっこないだろうけどさ、とにかく、おれは感動したんだ」
「ありがとう……」
「これから大変だよな」
「大丈夫よ、アタシは……」
3
「事件は迷宮入りになったようだ」
私の会社のパーラーで、パイプをみがきながら神野推理が言った。
「箱根では好調だった旦那刑事も、今回は、どうも調子が悪いようだ」
「あの時は例外だろう」
と私は笑った。
「青野夫人は白になったのかい?」
「ああ」
と神野はパイプに息を吹き込み、
「旦那刑事としては、あらゆる可能性を検討したんだ」
「ぼくは、どこかに穴があると思う」
と私が言った。
「たとえば?……」
と神野。
「コップの中のコカ・コーラに毒が入っていた。しかも、初めて口をつけたときはなんでもなくて二度目に、ばったりいった。――そうだったね?」
「そうそう」
「怪しいのは、まず、杉田久美だ。狂言だろうね、自分でやったとすれば……」
「ナンセンス!」
と神野が首をよこにふった。
「自分でやるには危険すぎる」
「量を間違えたとしたら?」
と私は食い下がる。
「それに、話題の人になれる。あいつは目的のためには手段をえらばないぜ」
「彼女自身でないことは確かだ」
神野ははっきり言った。
「では、青野か、二人の女友達はどうだ」と私。「とくに青野は怪しいと思うのだがね?」
「青野が犯人だとすれば、奴はよほど悧口《りこう》かよほど莫迦か、どっちかだ。……ところが、奴はふつうの人間だ。もう若くもないし、杉田久美がいなくなったら経済的にも破滅するんだ」
「女友達の方はどうだろう。二人は、何をしている人だい?」
「以前は杉田久美のプロダクションにつとめていて、いまはそれぞれの仕事を持っているスタイリストとカメラマン――コンビで仕事をしているんだ」
「二人が犯人である可能性は?」
「旦那刑事もそこにこだわっていた。つまり、なにかを仕掛けて帰ったのだろうと……」
「そこだよ」
私は指を鳴らした。
「臭うんだなあ。たとえば、マドラーに毒を塗っておく。杉田久美がそのマドラーを使えば……」
「おい」
神野は失笑して、
「すでに口をつけて、氷だって溶けてしまっているコーラを、マドラーでかきまわすのか、きみは?」
「ふむ……」
私はつまってしまった。
「そうだ。氷を入れ直すことだってあるだろう。そうすれば、マドラーで……」
「氷を入れ直すってことが、あらかじめ、どうして分るんだ?」
神野はにやにやした。
私はむっとして、
「わらわなくてもいいだろう」
「失礼、失礼。きみの推理の脈絡のなさが、あまりにも、旦那刑事と似ているんで、つい……」
「まったく失礼だ」
私は憤然とした。
「怒るなよ」と神野はコーヒーを飲んで、
「きみの会社のコーヒーは、奥床しい味がするなあ」
「見えすいたことを言うな!」
「旦那刑事は、こうも言っていた。冷蔵庫の製氷皿に毒が仕込んであったのではないかと。……これは、犯人を青野夫人と推定しているんだ。つまり、青野は、杉田久美のマンションのキイを持っている。とすれば、夫人はそのキイで、スペア・キイを作れたはずだというわけさ。……杉田久美のコーラ好き、とくに氷をたくさん入れて飲む癖を夫人は知っていた――これは本当なんだ。しかし、夫人が久美の留守にしのび込んで、製氷皿に毒を仕込んだというのはどうかね? なるほど、氷なら、作り方によっては、外側は無害、中心に毒を仕込むことはできる……」
「それだ、それにちがいない」
私は叫んだ。
「氷が溶けるに従って、コーラは危険なものと化す。推理小説にあった手じゃないかね」
と神野はまた、にやにやする。
「だけど、この手はダメなんだ」
「なぜ?」と私。
「他の二人の女性も、同じ皿からとった氷の入ったコーラを飲んでいる。しかも、氷が溶けてしまったのをさ」
私はがっくりした。
「そうがっかりするな」
神野は声をひそめて、
「犯人の目星はまちがってはいないんだ。問題は、どうやって、久美のコカ・コーラにカフェインを投じたかだ」
「なに……」
私はびっくりした。
「きみ、犯人は青野夫人だというのか?」
神野は頷《うなず》いた。
「ここだけの話だぜ、星川君」
「わかってる……」
訳があるな、と私は感じた。
「ぼくひとりの胸におさめておく」
「それなら安心して話せる」
神野はあたりを見まわした。
「きみの言葉じゃないが、穴があるんだよ、たったひとつ。……しかも、そのヒントはきみがくれたんだ」
「ぼくが?」
なんのことやら私には分らない。
「……待てよ、きみは杉田久美の旧友だったな」
神野はためらった。
「このあとを喋《しやべ》るの、やめようかしら?」
「それはないぜ!」
私は大声を出した。
「いまの杉田久美は、ぼくとすれ違っても、気がつかないふりをしている。安心して話してくれ」
「よし。……きみは、電話で、ペタンクというゲームの名を言ったね」
「言った、言った」
「そのペタンクだ。知らないのはぼくだけで、うちのお袋まで知っていたよ。ボーリングの玉の小さいようなものを投げて、的に接近させるんだってね」
「まあね」
「そいつを室内の絨緞《じゆうたん》の上でやる、いわばミニ・ペタンクとでもいうべきゲームがある。直径三センチぐらいの玉だそうだ。青野夫人はその名人だった」
「それが?」
「まだ、わからないのか。青野夫人がやったんだよ」
「なにを?」
「……こういうことだ。夫人は、自宅の冷蔵庫の製氷皿で、毒入リのアイス・キューブをつくり、ジャーに入れて、杉田久美の食べ物に入れるチャンスを狙っていた。久美のマンションの廊下にいたのさ」
「それで?」
「鮨屋がきたんだ、おかみさんが配達をやっている。……おかみさんがブザーを押すまえに、脇からとび出した夫人は、〈ずいぶん遅いわね〉とか文句を言って、鮨を受けとる。とっさの智恵だ。鮨に毒をしたたらせようとアイス・キューブを出したところ、話し声をききつけた久美の女友達がドアをあけた。青野夫人は、すぐに鮨屋のふりをした。もともと野暮ったく変装していたし、そうでなくても、久美は青野夫人の顔を知らないのだ。夫人は鮨を手渡す。憎むべき久美がコーラをテーブルに置いて、お茶の葉のありかを友達に説明し始めている。その瞬間、夫人の右手を離れた氷は、ミニ・ペタンクなみの抛物線《ほうぶつせん》を描いて、久美のコーラのコップのなかにジャンプした……」
「見てきたようなことを言うじゃないか」
「鮨屋の配達が女だったことだけ、僕の推理と違っていた。あとは、すべて、夫人の告白とぴったり同じさ」
「告白?」
「ぼくが問いつめたら、喋ってくれたよ。もちろん、ぼくはいっさい口をつぐむと約束した」
「どうしてだい?」
「きみはテレビを観ていないな」
神野はくすくす笑った。
「この事件では、ことの善悪・理非曲直を問わず、世の主婦たちは杉田久美を憎んでいる。彼女らは青野夫人の味方だ。ぼくはこういう世論を敵にまわしたくないね。論理で説得できない相手は苦手なんだ」
「狡い探偵だな」
私は呆《あき》れた。
「ところで、事件のあとでマンションにかかってきた電話があったね」
「あれは青野夫人がかけたんだ。夫が入ってゆくのを見て、彼がコーラを飲みはしまいかと心配になったらしい」
「ふーむ」
私は唸った。いい話ではないか。
「杉田久美は春に再起のためのリサイタルをやると、プロダクションが今日のスポーツ紙に発表した。青野哲はプロダクションをやめて、生命保険の会社に入ったよ」
「でき過ぎた結末ですなあ」
私はそう言ってやった。
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第十一話 超B級の事件
1
テレビの仕事の打合せのために、私が神野推理の部屋を訪れると、先客があった。
警視庁捜査一課の旦那刑事である。
小柄で貧相なのはあいかわらずだが、いよいよ中年肥りしてきたようだ。いずれにせよ、みっともない恰好で、中華料理コックが思いきり息を吹き込んだペキンダックみたいだった。
「鬼面警部が行くべきだなあ」
神野はゆったりした部屋着のポケットに左手を突っ込んだまま、パイプを燻《くゆ》らせた。ともすれば、ホームズかファイロ・ヴァンスと見紛《みまが》う昨今である。
「要するに、助けを求めているんでしょ。〈私は殺される〉と。……だいたい、ミステリで〈私は殺される〉なんて口走った奴は、必ず殺されちゃうのよ。そういう奴が、物語の最後までおめおめと生きてたら、ミステリはミステリじゃなくなっちゃうじゃない」
「警部は、私に、行けと言うのですがね」
旦那刑事は肩をすぼめた。
「鬼面さんは忙しいのかな?」
「ええ」
と旦那は元気がない。
「何で忙しいのだろう?」
「〈赤いトランク事件〉というのが発生しましてね」
「〈黒いトランク〉じゃないのかい」
「〈赤いトランク〉なんです。……これが、どえらい事件で。……なにしろ、全国に出没する百三十五の真赤なトランクの、どれか一つに死体が入っているというわけで、日本中を駆けまわっています」
「変な事件だな」
「そのほかにも、〈まだらの猫〉事件というのがありまして……これは、一見、犬のようにみえる怪猫《かいびよう》がからむ事件で、まあ、例によってアリバイ破りに奔走しています」
「要するに、忙しいんだなあ」
神野は溜息《ためいき》をついた。
「どうしたんだい?」
と私は口をはさんだ。
「妙な話だ」
神野は浮かぬ顔で、
「旦那刑事から説明をきいてくれたまえ」
「推理作家の丸尾昌彦をご存じでしょうか」
と刑事が言う。
「ええ」
私は頷《うなず》いた。「名前だけは」
「ひとむかしまえ、ずいぶん本が売れたものだ」
神野がひとことつけ加えた。
「丸尾昌彦はうちの局にも関係があったよ……」と私。「次々にベストセラーを出していたころ、うちに〈丸尾昌彦ミステリ劇場〉っていうシリーズがあった。推理小説だけじゃなくて、妙なメロドラマ、ちっともおかしくないユーモア物も書いてたな。一時は時代物まで手を出していたんじゃないか」
「その丸尾ですが、いま、伊豆《いず》の別荘にこもって、ライフワークに取り組んでいるんです。二千枚ぐらいのノンフィクション・ノヴェルだそうです」
「なるほど」
「丸尾から突然、鬼面警部に手紙がきて、自分は狙われている、というのです。命を狙われている、助けてくれと」
「だれが丸尾昌彦を殺すんだ?」
と私はたずねた。
「恨みをもっている人間がいるのかね」
「私も少し調べてみたのですが」と旦那はうす笑いを浮べて、「丸尾と関係のあった編集者はみんな多かれ少かれ恨みをもってますな」
「どういうことかな、もう少し説明して欲しい」
「ひとことで言えば、流行作家だったころにいばり過ぎたのですな。一例をあげれば、ある書評新聞の推理小説月評が自作のミスを指摘したのにカッとなって、新聞社に圧力をかけて、その批評家をオロしてしまうとかね」
「そんなことができるのですか?」
「相手は小さな書評新聞ですからね。これが大出版社の支えによって成立していた時代があったのです。つまり、丸尾は、某大出版社を介して、圧力をかけたわけです。……流行作家ってのは大したものですな。出版社の人事を蔭《かげ》から左右したこともあったようです」
「ふーむ」
私は呆《あき》れた。
「丸尾昌彦は独身だったはずだね。いま、いくつぐらいかな」
「五十一、二ですかな。……本はがたっと売れなくなったそうで」
「それじゃ、いくら恨みを持っていても殺す必要はないように思うがな」と私は言った。
「編集者と流行作家の関係は、われわれディレクターと人気タレントの関係に似ていると思うんだ。相手が没落してくれば、われわれは冷ややかに見ていればいいのでね。殺意にまでゆくとしたら、別なファクターがあると考えねばならん」
「しかし、作家の人気|凋落《ちようらく》は、タレントの場合ほど、はっきりしないんじゃないか」
と神野推理が言った。
「つまり、落ちるカーヴがよりゆるやかだろう。そうすると、〈もう一度人気を盛りかえす〉場合も考えられるから、編集者は、硬軟というか、和戦というか、二つの態度をごちゃまぜにして、心で見棄てつつも顔では笑いかけるんじゃないか」
「変なことにくわしいね、きみ。編集者の経験があるのか」
私はからかった。
「おっしゃる通りですよ」
と、旦那は苦笑して、
「丸尾の二千枚のライフワーク、幻の作品ではありますが、これはひょっとしたら傑作かも知れないという噂《うわさ》があるのです。噂の火元はどうやら丸尾自身らしいのですがね。……とにかく、丸尾昌彦の初めての書きおろし二千枚――となると、各社の担当編集者は気になるらしい。しかも、出版する社はまだ決ってなくて、これから、ゆっくり、考えるというのです」
「いやなことをするんだなあ」私は笑った。「で、その二千枚ってのは完成してるの?」
「それも謎《なぞ》でして……」
旦那は首をひねって、
「とにかく、明日の夕方、私が伊豆へ行く旨を丸尾氏に電話で告げました」
「きみが!」
神野はパイプを口から、落しかけた。
「こりゃいかん。……丸尾昌彦は死ぬぞ」
「なんのなんの」
旦那は笑って、
「私のひとつまえの電車で、三人の編集者がゆくとかで、みんなで晩餐《ばんさん》をともにしようと」
「それは、最後の晩餐になるぜ」
と神野がまじめに言った。
「私がいれば、まあ大丈夫、と申したいところですが、あの鬼面めが、それではいかん、神野さんにいっしょに行って頂きなさい、とこうなのです」
「ぼくはイヤだよ」
神野は首をふって、
「読んだことあるよ、丸尾昌彦の推理小説。……ひどいんだよなあ、糸と針を使って密室を作るとかさ。ぼくは行かない。星川君のところの仕事もあるし……」
「実は、鬼面のアドヴァイスを丸尾氏に電話したところ、彼、びっくりしましてね。……あの大天才が我が家にきて下さるのかと……」
「なに?」
神野は椅子に坐り直した。「いまの、よくきこえなかった。なんて言ったの?」
「丸尾氏|曰《いわ》く、あの大天才が我が家に……」
「大天才? ぼくのことを?」
「はい……」
「……わかってるじゃないの、意外と」
神野は頷いた。
「……いやあ丸尾昌彦って、かなりの才能よ。まだまだのびると思ってたんだ。……〈大天才〉――わかってるんだなあ、やっぱり。……で、どう? もっとなにか言ってなかった?」
「ぼくはあの人の書くテレビ・コントのファンでもある、と言ってましたが……」
旦那刑事はにこりともせずに言った。まったくの嘘に決ってるんだが、まさか、私が〈嘘つき!〉とも言えぬ状況だ。
「ファンだって!」
「日本におけるテレビの笑いの質を向上させ得るただひとりの人と……」
「わかってる人がいるんだなあ。ぼくのコントを褒めてくれる人なんて、めったにいないもの……」
「それから自分を狙っているのはKCIAだとも彼は言ってました」
「そこで、どうして、KCIAが出てきちゃうの?」
神野はびっくりしてきいた。
「さあ」
「どういう関係?」
「よくわからないんですが、確信ありげでしたね」
「ぼくが行かないと駄目かな」
神野は考え込んだ。
「おいおい、企画書を書く仕事が二つあるんだぜ」と私は注意した。
「なに、そんなもの、向こうで書けるさ。星川君もくればいいんだ」
「ぼくは忙しくて……」
「大丈夫だよ。丸尾昌彦の別荘へ行ってみようじゃないか。いつか週刊誌のグラビアに出てたぜ、三億円かかったとかって」
「じつは」と刑事はポケットに片手を入れて、
「急行の切符、あと二枚買っておきました」
2
東京を発《た》つときは曇っていたが、なに、南伊豆へ着けば空は晴れ上がり、気候温暖であろうと、私は勝手に考えていた。なんたって、三月初めなんだ。
旦那刑事も思いは同じらしく、ワンカップ大関に柿の種で、
「もうすぐ、春《はーる》ですねエ……」
と気味の悪い声でうたい出す。
「なんか、ヤバい空模様だなあ」
と憂いに沈むのは神野推理ただひとりであった。
うーむ、と私が思ったのは、熱海を過ぎても、なおかつ空が鉛色に曇っていたことで、こうなると南伊豆も曇りだろうか、と、いささか心細くなる。急行電車は一路南下するにもかかわらず、伊東を過ぎて、白いものがチラつき始める。旦那刑事の歌声は、いつしか、小林旭の「北へ」に変っていた。
「本式に降ってきたぞ」
神野はウツ状態で呟《つぶや》くと、眼をつむった。
こんなことがこの世にあってよいのか、窓の外は一面の雪景色である。
「これじゃ向こうへ着いても雪ですな」
刑事は最後の柿の種を口に入れて、おもむろに噛《か》み、
「雪の中での夕食も、また、|おつ《ヽヽ》なもんではござんせんか」
と自分でもあまり信じていないように言った。
それでもまだ電車が動いているうちはよかった。やがて、電車はとまり、明かりが消えた。
――車掌はどうした!
と声が起きる。
――めったにない降雪のため、しばらく停車いたします。
冷たいアナウンスが車中にひびき渡る。
「こんなことだろうと思ってた」
私はボヤいた。
「あなたと旅行に出ると、いつも、ろくなことがない。グアム島のときもそうだったし……」
「それより丸尾昌彦の命はどうかな」
と神野は眼をつむったまま、のたもうた。
「犯罪は待ってはくれないからねえ」
「丸尾の別荘に電話してみたら、どう?」
私は促した。
「でも、ここは駅から外れたところですからねえ。近くに電話があるかどうか……」
「ヒーターがとまった……」
神野が絶望的に言った。
乗客たちが騒ぎ始めて一時間ほどたったとき、近くの温泉旅館の自動車、スノウタイアのジープが窓の外に見えた。どうやら乗客たちを、ひまで困っている旅館に誘致しようという策らしい。
「どこかに一泊しますか」
と刑事は悠長なことを言う。
「いいかげんにしたまえ。ぼくら二人を橇《そり》に乗せてでも、目的地に連れてゆくのがきみの任務だぞ」
私は文句を言った。放っておくと、旦那刑事は、温泉はおろか、地元芸者の総揚げも辞さぬ男なのだ。
温泉旅館のジープに乗せて貰い、若干の礼金を払って、丸尾昌彦の別荘まで届けられたのは六時過ぎだった。
ヨーロッパの田舎旅館を思わせる二階建ての建物に入ると、とにかく暖いので、ほっとした。だが、刑事が玄関の大きなベルを鳴らしても、だれも出てこない。
「どうなってるんだ」
神野はオーバーのまま、かたわらの椅子にかけた。
そのとき、背の高い青年が廊下の奥から走ってきた。
「警察の方ですか?」
「ええ、まあ……」
旦那刑事は|きな《ヽヽ》臭いような顔をする。
「きて下さい、死体はこっちです」
「なに?」
刑事はびくりとした。
「おかしいな……警察の方じゃないんですか」
「警視庁の者です」
刑事は手帖《てちよう》を出してみせた。
「土地の警察に電話したんですよ」と青年は唇をふるわせた。「雪のせいか、うまく電話がつながらないので、料理番の小母さんに警察へ行ってもらったんだけどなあ」
「死体って?……丸尾氏はすでに死体になっているのですか」
刑事はオーバーを脱ぎながらたずねた。
「こちらの二人は?」
青年はうさんくさそうな眼で神野と私を眺める。
「私の仲間です。それより、きみは何者だ?」
「失礼しました。巷談《こうだん》社の江川と申します。……先生に夕食に招かれたところが、とんだことになって……」
「死体を見よう」
刑事はいつになくさっそうと言った。
「どうぞ、靴のままで、こちらに」
青年はサロンに入った。マントルピースには薪があかあかと燃えていた。
「この奥が食堂です。六時からみんなで食事をするというので、待っていたのです。そのとき、向こうの離れで、先生の悲鳴がきこえまして……」
「また外に出るのかい」
刑事はボヤいた。
青年の案内で私たちは庭に出た。雪の上に足跡が入り乱れ、五十メートルほど先の山小屋風の建物につづいている。
白雪の舞うなかで、
「あれは書斎ですか」
と神野はたずねた。
「ええ、先生は食事と睡眠以外の大半の時をあそこで過されるのです」
私たちは小屋に入った。大きなデスクと夥《おびただ》しい書物――とくに変った書斎ではない。ただ、花瓶《かびん》がひっくりかえり、本の山が崩れ、額のガラスが割れて、乱闘でもあったように見える。
そして、むかしむかしの探偵小説によくあったさし絵風に、心臓を一突きというスタイルで洋風の短剣が刺さった死体がデスクの脇にあお向けに倒れている。あまりに型通りなので、冗談ではないかと思われるほどだ。
「死んでいる……」
死体の手首に触れた旦那は呟いた。
書斎にはバスルームがついていた。私が入ってみると、タイルの壁に、血で Pig と大きく殴り書きしてある。書いたばかりらしく、まだ、乾ききっていない。……
「この短剣は?」と神野がきいた。
「先生がスペインで買ってこられたもので、そこの壁にかけてあったのです」
「変ですな」
旦那刑事は首をひねった。
「この書斎には戸口と小さなテラスがあるだけだが、テラスのガラス戸は内側から鍵《かぎ》がかけてあって、しかも外の雪に足跡一つない。犯人は母屋に面した戸口から出たとしか考えられない」
「そのことですが……」
中年ではあるが逞《たくま》しい男が声をかけてきた。
「ごめんなさい……私、草技《そうぎ》社という出版社の野村と申します。江川君といっしょに夕食に招かれた者です」
「私らの前の電車で着いたのですか」
旦那はメモを片手にたずねた。
「はい」
「どうぞ、つづけて下さい」
「悲鳴がして、真先にかけつけたのは私でした。二分とかかりますまい。……誓って申しあげますが、雪の上には足跡がまったくありませんでした」
「足跡がないって!」
「はあ。しかも、ドアは内側から鍵がかけてあって、逆上した私は、薪割りの鉈《なた》を持ってきて、ドアの一部をこわしたのです」
「それから、私が片手を突っ込んで、鍵をまわしたのです」
と江川が言った。
「鍵は鍵穴にさしてあったわけですか」
刑事は困惑したようだった。「それじゃ、鍵と雪で二重の密室じゃないですか」
「小母さんがここにお茶を運ぶことはないのですか? その足跡が……」
私が言いかけると、野村が、
「先生は精神統一のために、仕事中は、ひとがくるのを好みません。紅茶が飲みたいときは、そこの小さなキッチンで、ジャーのお湯とティーバッグで紅茶を入れます」
「自殺じゃないのかい?」
神野推理は冷やかすように言った。
「ちがうようだぜ」
と私が声をかけた。
「なぜ?」
神野は怪訝《けげん》な顔をする。
「だって、バスルームの壁に、この男の血で豚《ピツグ》と書いてあるもの。調べてみなければ正確じゃないけど、十中九までは丸尾氏の血だ」
そのとき、電話が鳴った。
一同はぎょっとして化石になったようだ。旦那刑事がおそるおそる卓上の送受器をとって耳に当てた。「もしもし」というと、先方がガキッと切る音がした。
「妙な日本語で〈キムはいるか?〉というんですよ」
旦那は不審そうである。
「この書斎の電話は電話帳に出ていないんです」
と江川も狐につままれたようである。
次の瞬間、野村が、あっ、と叫んだ。
私は彼の視線を辿《たど》った。母屋のよりだいぶ粗末なマントルピースの中で、大量の原稿用紙が灰になりつつある。野村は火掻《ひか》き棒でわずかに残った原稿のはしをかき出そうとした。
3
母屋に戻ると、初老の老人がマントルピースの火に向かって背中を丸めていた。
頬からあごにかけて肉がだぶつき、髪は灰色のボサボサ、老眼鏡らしい眼鏡をかけている。
「白洋社の岡田です……」
老人は椅子から立ち上がった。
「料理の小母さんが戻ってきましてな。雪が深くて、警察まで行かれんかったらしい」
「申しわけありません」
小母さんは小さくなっている。
「伊豆でこんなに雪が降ることがあるのですか」
旦那刑事がたずねる。
「めったにないことです。七、八年ぶりでしょうか」
そう答えた小母さんは、おずおずと一枚のカセットテープをさし出して、
「あの……じつは、万が一のことがあったら、これを警察の方にきかせるようにと、先生が……」
「なんですか?」
刑事はおそるおそる手にとった。三人の編集者も呆然とした様子である。
「テープレコーダーを貸して下さい」
神野がてきぱきと応じた。
「ここにありますか?」
「ソニーの小型のがあったはずで」と小母さん。
「すぐに持ってきて下さい」
少し古い型の小型テレコがくると、神野はテープを入れ、ボタンを押した。
「……みなさん……私はまず、私の新作について述べておきたい……」
「丸尾先生の声だ……」
江川が囁《ささや》いた。
「……新作は完成しました。げんみつにいえば、千九百二十八枚。内容は我が国におけるKCIAの諜報《ちようほう》活動を赤裸々に描いたものであり、そのために私はKCIAの脅迫を受けております。……一例をあげれば、東京周辺の小都市におけるKCIAですが……」
「きみ、どう思う?」
二人きりになるのを待って、私は神野に低く言った。
「犯行の背後にKCIAがあるにせよないにせよ、犯人はあの三人の中の一人、または二人、ひょっとしたら『獄門島』式の三人共犯という線も考えられるんじゃないか」
「どうかねえ」
神野は考えながら、卓上のベルを鳴らした。
小母さんがきた。
「あのう……警察に電話が通じましたが……」
「それはよかった」と神野は言った。「すみませんが、熱いコーヒーを貰えませんか。それから、奥の三人のコートと手荷物を見せて下さい」
「あなた、警察の方でしょうね」
「ええ……」
神野の答えはややあいまいになる。
「じゃ、こちらへどうぞ」
旦那刑事の指令とかで、岡田、野村、江川、神野推理、私、小母さんがサロンに集ったのは七時である。じっさいは、神野が刑事を突ついてそうさせたらしい。
「作家には独特の虚栄心があります」
と神野が口を切った。
「まして、かつて流行作家だった男の場合、虚栄心はねじ曲る。……つまり、行きづまって、書きたいことなどなにもない。中間小説作家が題材に行きづまると、推理物か歴史物に逃げるといわれますが、もともとが推理作家の丸尾氏ですから、そうもいかない。いわばスッカラカンで、逃げ場がなく、そのくせ、恰好だけはつけたいと考える。……ヒステリックで情緒不安定だったというから、自殺を考えたのでしょう。読者は離れる、周囲はそっぽを向くときてはね。……あとは、せめて、大衆小説史に名を残したい。そこでひねり出したのが、KCIAに殺されるという〈栄光ある死〉ですな。あんなテープを残し、原稿を燃やして――まあ殆どが白紙じゃなかったですか――、短剣で胸を刺すという大芝居。……これじゃKCIAにさえ失礼じゃないかな」
神野は冷ややかに笑って、
「その現場を三人の編集者とぼくらに見せつけて、マスコミにひろめてもらうつもりだった。……この事件は、こうとしか考えようがない。そして、少くとも、三人がきているのを見届けてから殺人演出をやった。その〈三人〉が別人とは気がつかずにね」
「なに?」
岡田がうなった。
「ここの小母さんが判らなかったほどうまく岡田氏に変装できたあなたは……は、は、は、これでわかりましたよ」
神野はポケットから黒いアイパッチを出して、
「あなたのバッグに入ってたぜ。あるときは片目の運転手の多羅尾伴内さん(註1)……」
「ううっ!」
岡田――じつは多羅尾伴内は呻《うめ》いた。
「見破られたか……七つの顔の男の面目丸つぶれ……」
「それから、中年の編集者、野村に化けたのは、不死身の銀座旋風児こと二階堂卓也氏(註2)……」
神野は相手を指さした。
「ふっふっ、バレたかい」
二階堂卓也はにやりとして、
「どうしてわかった?」
「あなたのグッチの鞄《かばん》の中に、あなたがいつも残す〈風ノ如ク又カエリ来ル〉と書いた紙片が入っていた」
「なるほど。さすがは神野推理だ……」
「それから、きみ」
神野は江川青年を指さして、
「少しはトシとか時代とかいうことを考えたらどうですか、怪人二十面相さん(註3)」
「いや、おれはくたびれるからイヤだって言ったのよ」
二十面相はふてくさった。
「下田のホテルで開かれる〈日本変装友の会〉で講演する予定で急行に乗ってたら、うしろに三人の男がいてさ。人が殺されそうだとか、あの名探偵の神野推理がくるとか言ってるの、それに、まず、多羅尾さんが乗っちゃってさ、われわれも事件に参加しようとか、参加することに意義があるとか言って、睡眠薬入りのウイスキーを三人に飲ましたのよ、いや、マイったなあ」
「私の推理の方向を迷わせるのが、あなた方の真の狙いだったのですな」
神野は苦りきった。
「まず、うかがいますが、丸尾氏はちゃんと犯人の足跡をつけておいたはずだ。ちがいますか、二階堂さん?」
「ついてました。密室なんてぼくらがつくった嘘ですよ。ぼくらは、現場を見て、すぐに狂言自殺と判断しましたが、また、この二十面相先生が凝っちゃってね。花瓶をひっくりかえすわ、指に血をつけて Pig と書くわ」
「〈キムはいるか?〉と母屋から電話しろと、わしに言うたのも二十面相でな」
多羅尾伴内が不機嫌に呟いた。
二十面相は一向に悪びれず、
「ところで、ぼくが二十面相だってこと、どうして判りました?」
「あの古いトランクの隅に転がっていたグリコのおまけ――それも昭和初年のでね」
神野が重々しく答えた。
「丸尾昌彦氏のせっかくの壮図も、あなたがた、テレビの深夜映画の超B級ヒーローたちによってめちゃくちゃにされ、B級のものになったようです。……これを、土地の警察に、なんと説明したらよいか、わかりますか」
「そうですとも」
旦那刑事が力んだ。
「いかに嫌われた男の死といえども、人の死です。そこで変装ごっこは不謹慎じゃありませんか。だいたい、このごろ、B級映画を批評家が持ち上げ過ぎるんです。小津映画、黒沢作品あってのB級映画じゃありませんか。B級映画がA級扱いされたら、もうB級じゃなくなるんだ」
「その批判は丸尾氏の作品にもあてはまるようだな」
神野が頷くあいだに、変装三人組は力なく、しずかに姿を消した。
「やれやれ」
私は汗をぬぐった。
やがて、パトカーのサイレンがきこえ、警察官、そして、さっきの三人とそっくりな編集者たちが家に入ってきた。
「丸尾先生は?」
岡田が叫んだ。
「お亡くなりになりました」
私が答える。
「ああ、よかった」
「え?」
「いや、悲しい、悲しい」
岡田は顔をおおった。
「書斎の方はどうしたの?」
神野は小声で旦那刑事にきいた。
「血で書いた文字や乱闘の跡は片づけました。あのテープの声も消しちゃいましたよ。そうすれば、単純な自殺になりますからね」
旦那刑事は答え、東京の警視庁に電話を入れた。
「……はっ、国際的謀略ともあやぶまれたこの事件は、まことに類型的な、巨大なマスコミ産業下における一個人の才能の枯渇としての自決という形で終りをみました。もちろん、左右両翼とも、新左翼とも、三島事件とも関係のない小事件であります。しかしながら、まことにもったいぶったその自己顕示欲に、自分は……自分は、怒りを禁じ得ず……」
註1 片岡千恵蔵|扮《ふん》する変装の天才、いわゆる〈七つの顔の男〉。本名は藤村大造。昭和二十一年から三十五年にかけて十一本の映画が作られた。
註2 小林旭扮する変装の天才。本職は服装デザイナー。昭和三十四年から三十八年にかけて六本の映画がある。
註3 明智小五郎の対立者。
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第十二話 神野推理最後の事件
1
神野推理の超人的な能力を記録する最後の物語を記さなければならないのは、友人である私にとって、まことに悲しいことである。
しかも、事件のきっかけとなった旅行を彼にすすめたのは私なのだから、記述者としてはいよいよ気が重いのである。旅行ぎらいの彼を引っ立てるようにして連れ出したのは私であり、彼は珍しくも喜んで旅仕度にかかったのであった。
神野は少し――いや、だいぶ、身体《からだ》を悪くしていた。母親との神経的な戦いに疲れて麻布《あざぶ》の小さなアパートに移り、テレビのコントを量産し、探偵の依頼もことわれない。おそろしくハードなスケジュールで三月から四月初めまでを過したために、心身ともに疲れ果てていた。トメ女史との凄《すさま》じい確執はここに記すべきことではないが、おそらく、これが彼の神経を参らせた最大のものであると思う。
香港《ホンコン》のテレビ局に技術指導に出かけることになった私は、せめて一週間ほど、香港のホテルでぶらぶらしたらどうかと彼にすすめた。
いまさら香港かい、などと答えなかったのは、彼が気分を変えたいと心から願っていたせいだと思う。何度も香港へ行っている私は、香港サイドのマンダリン・ホテルは休息にもってこいだからと説明した。べつに街に出なくても、ホテルのテラスからヴィクトリア港を眺めているだけでいいではないか、と。
東京では桜が散ったばかりなのに、香港は蒸して、雨が多かった。
晴れ間をみては神野推理は近くの公園で久しぶりにヴァイオリンを弾いた。夜には、そろって九竜の裏街に盛大にひろがる露店をひやかし、スターフェリーで戻って、ホテルのラウンジで植民地らしく英国風にいれた紅茶を喫した。
やがて、私の仕事がすんで、昼間も出歩けるようになった。私は肩が凝ったので、ハリを打ってもらいたいと思い、九竜サイドのミラマー・ホテルの前を少し入ったところにあるハリ医を訪れた。
私が中国式のハリ治療を受けているあいだ、神野推理にはミラマー・ホテルのコーヒー・ショップで待って貰った。
一時間近い治療を終えたが、眠くなって、ミラマーのコーヒー・ショップに入って行ったとき、信じがたい光景にぶつかった。
「どうして、あなたが……」
私はそこにいる人物に向かって絶句した。
「気にしない、気にしない」
黄色いポロシャツを着た旦那刑事がにやにやしていた。
「大いに気にしますよ」
私は呟《つぶや》いた。
「こんなところで、なにをしてるんです」
「麻薬の運び屋の一人が東京で殺されたのだそうだ」
冷房のきいた店内で、神野はアイス・ティーを飲みながら言った。
「その殺人犯がこちらに飛んだらしい。つまり、事件の根っ子が当地にあるってわけさ」
「ご紹介します……」
旦那刑事は、すこしくたびれた二枚目だが、仕立てのいいスーツをびしりと決めた、かたわらの中国人を示して、
「香港警察の楊《ヤン》警部です。……こちら、ジャパン・テレビの星川さん」
「ジャパン・テレビ?」
楊警部の顔が思わずほころんだ。
「あの……細井忠邦さんがいる会社ですか」
「ご存じなのですか、彼を?」
私はびっくりした。
「ええ……」
と楊はにやにやして、
「お元気ですか?」
「大元気です。あの人はマスコミのスター……私は下っぱですが」
「ジャパン・テレビとはなつかしい」
中国人の警部は細長い焦茶の煙草(おそらく、「プラス」か「モア」であろう)をくわえて、眼を細めた。
「楊さんとは、むかしなじみでしてね」
と旦那刑事が言った。
「今度の事件は、鬼面警部が乗り出すべきなのですが、あの男はまだ〈赤いトランク〉事件にかかずらわってましてね。私めの出番がきました」
「で……どういう事件なの?」
神野が顔をあげて、きいた。
「いかん!」
私は思わず叫んだ。
「きみは静養にきたんだぞ。せっかく顔色が良くなり、食欲も出てきた。あと二日の滞在をたのしく過して、日本に帰る。それが大切なんだ!」
「わかってる、わかってる」
神野は苦笑した。
「それより、ハリはどうだった?」
「日本のとは、だいぶ、ちがう」と私は答えた。「見てくれ」
私は下着をめくって背中を見せた。
「どうしたんだ」
神野は驚いたような声を出した。
「紫色のや赤黒い丸がいっぱい付いている」
「色の濃い部分が凝っているんだって。水分をとり過ぎていると医者に言われた」
「どうでしょうかな……」
旦那刑事は猫撫《ねこな》で声を出した。
「せめて、話だけでもきいていただけませんか。……アドヴァイスを頂ければ……」
「アドヴァイスならいいだろう」
神野はポケットからパイプを出した。こうなったら、もう、とめても無駄だ。
「内容が内容ですから、旦那氏の部屋で」
中国人の警部は頭の上を指さした。
「ふーむ、こういう部屋か……」
神野はミラマー・ホテルの一室をじろじろと見まわして、椅子にかけた。
椅子が三つしかないので、私は茶色のカヴァーをかけたままのベッドに横たわる。
「バンコックのホテルで、ヘロイン入りのコンドーム十二個を飲んで死んだ日本人をご存じでしょう」
旦那が言うと、
「ああ、テレビのニュースで見た」と神野。
「特攻隊的運び屋です。コンドーム二個が胃の中で破裂して、致死量のヘロインを飲んだのと同じになった」
「すごいことをやるな」
「このグループの一人が、東京で殺されたのです。組織内の内輪もめでね」
「ふん」
「こんな事件はきりがないんです。巨大な組織のはじっこ、氷山の一角のできごとです。一殺人犯をつかまえてすむことじゃない。これらのできごとの背後には、一人の男がいる――そこまでは、わかっているのです。どの事件を辿《たど》ってもその男へゆく……」
「そいつが香港にいるというわけか」
「そうです」
楊が鮮かな日本語で口をはさんだ。
「シャーロック・ホームズの言葉を借りれば、そいつは〈犯罪者中のナポレオン〉です」
「なんという名前ですか」
神野は大いに興味をそそられたようであった。
「本名はわかりません。私たちは〈総統《チヨントン》〉と呼んでおります。……プレジデント、日本語でいえば〈大統領〉です」
「〈大統領〉か……」
神野はパイプを口から離した。
「どんな男だろう」
「私は素顔を見ています」
旦那刑事が言った。
「しかし、これもあまり役に立たない。彼は変装の天才だからです。しかも、例の多羅尾伴内の変装みたいに判り易い変装じゃありません」
「〈判り易い変装〉ってのは矛盾した言葉だろう」
と神野がとがめた。
「〈判り易〉かったら、それは変装とはいえまい」
「私は奴のために苦労しましたな。楊さんも同じです。……あれ、いつでしたっけ?」
「四、五年まえ。私が警部補のころでした」
楊はしずかに答えた。
「香港にいるってことは、どうして判るのですか」
「麻薬の動きです。〈総統《チヨントン》〉が香港にくると、動きが活発になる。その辺は、永年の勘で……」
「居場所は?」
「それは判りません」
「顔も、居場所もわからん犯罪者をどうしようというのです?」
神野は苦笑した。
「旦那刑事のお話では、あなたは天才的な探偵とのことで……」と楊。
「手がかりさえあればね。しかし、これでは、私の才能をもってしても、手も足も出ない。……それに私は休息中でもあるし」
「それそれ」
私はねむけをこらえながら声をかけた。
「なにもしないで眠ろうよ、ホテルで」
「いかがでしょうか」
楊は愛想よくもちかけた。
「今夜、私が、お二人をディナー・クルーズに招待するというのは……。あ、ご心配なく。事件とは関係なく、です」
「うまい誘い方ですな」
神野はつられて笑った。
「旦那刑事も入れて四人で夕食をしましょう。七時前後に私がマンダリン・ホテルまでお迎えにあがります」
楊はにこやかに一礼した。
2
シャワーを浴びて、ひと眠りした私は、神野からの電話で叩き起された。
――楊《ヤン》が下のロビイにきたよ。まだ六時半だが、急いで仕度してくれ。
――ネクタイは?
――いらないだろう。船の中だから……。
――そうかな。
私はあくびをして立ち上がった。
手荷物一つに白い靴でやってきた私は、この土地のエスタブリッシュメントたちの出迎えを受け、〈英国植民地風〉というのか、彼らの服装のまともさに、あわてて黒い靴を買い、新しいネクタイを求めたのだ。
パーティーともなれば、いまどき、ロンドンでもどうかと思うほどのフォーマル・ドレス大会で、私みたいな野蛮人は息苦しくなってしまう。
念のために、紺のネクタイをポケットにしのばせて廊下に出ると、隣室の神野推理は白背広にブルーのシャツ、それに真白なネクタイであらわれた。まるでシカゴのぺてん師である。
「えらく派手だな」
「せっかくのお呼ばれだもの」
神野は片手に持った赤いバラの茎を折って、花を襟《えり》に差した。
「その花は?」と私。
「警部から花束と果物一皿とスコッチ・ウイスキーが部屋に届けられた。抜け目のない男だよ。どうも本心がわからんな、中国人は……」
彼は呟き、エレヴェーターに乗り込んだ。
エレヴェーターの中は、このむしあついのに真紅のコートを召した西洋の老婦人、神野が平凡にみえるほど気障《きざ》でカラフルな服装のイタリア男たちで一杯だ。神野と私はどう突っぱっても、カラーテレビのセールスマンというところだ。
楊警部と旦那刑事はクリッパー・ラウンジの下で新聞を読んでいた。
「どうも……」
と警部は日本式に会釈してから、私たちに、
「スターフェリーで向こう岸へ渡って頂けますか。船が向こう側から出るので」
と言った。
私たちはマンダリン・ホテルのコーヒー・ショップの左側から地下道に降りた。
「どうした?」
神野が背後《うしろ》を気にしているのに気づいた私が小声できくと、
「しっ」
と神野は言った。
「おれたち、つけられてるんだが、黙っていてくれ」
私たちはスターフェリーで九竜サイドにわたり、オーシャン・ターミナルに近い埠頭《ふとう》に立った。
「これがその船ですか」
旦那刑事がきいた。
「はい」
と楊は頷いて、
「香港島の西側をまわって、アバディーンまで行き、折りかえしてきます。約三時間です」
「この中で食事が出るのですか」
旦那は念を押した。
「フルコースです。お酒も飲み放題です」
「酢豚は出ますか」
「どうして、そう、いじましいことをきくんですか」
私は注意した。
「だって……」と旦那刑事はつづける。「私、酢豚についているパイナップルが嫌いなんですよ。それから、モヤシ炒《いた》めがダメなんです。……餃子《ギヨウザ》ライスの方がむしろ……」
「餃子ライスが出ると思うの、ディナーに?」
私は低く言った。
「なんか、根本的な点で考えちがいがあるみたいですな、おたく」
「こういう日は、冷し中華がいいな」
旦那刑事は無神経につづけた。
「ヒヤシ・チューカ?」
楊が不審そうにたずねた。
「オオ、イエース、コールド・チャイニーズね。ウイズ・ナルトマキ」
「なにを言ってるんだ、あれは」
神野は眉をひそめた。「中国人に、あんなこと言っていいのか」
「イッツ・スターテッド・フローム・トコロテン」と刑事はつづけた。
「トコロテン?」
楊は首をひねる。
「イエース。トコロテン・アンド・コールド・チャイニーズ・アー・セーム・セーム」
「やめさせろよ、国辱だ」
神野が私に言う。
やがて、銅鑼《どら》が鳴り、私たちは乗船した。
船の中は、アメリカ人の団体さん、ドイツの青年たち、イタリアの男女たちで満席だ。〈予約〉の札が置かれた丸テーブルに案内された私たちがすわると、ボーイが卓上の小キャンドルに明かりをともした。
紹興酒が運ばれ、私たちは乾杯した。
「さっき私の部屋でうかがったことですが」と旦那刑事が口を切った。
「楊さんの部下が〈総統〉を追っては次々に姿を消しているとか……」
「はい」
楊は沈痛な表情になる。
「殺されたのでしょうか?」
「……と思います」
「死体は出ないのですか?」
「はい」
私はメニューを眺めた。東京の中級の中華料理店のフルコースの感じで、前菜の味もまずそんなところだ。
招待されたあとで、ガイドブックで調べたのだが、食事と船賃で、一人が、たしか八十香港ドル――邦貨にして五千円に充たない。安いといえるだろう。
「野暮ったくて申しわけありませんが、私にジャスミン・ティーを頂けますか」
神野がゆっくりと言った。
「お酒、だめですか」
楊がききかえす。
「少しバテてますので」
「はい」
楊はボーイを呼んで、広東《カントン》語でなにか言った。
料理は次々にきた。鶏《とり》とカシューナッツ、エビとグリーンピース、肉だんごのようなもの……。
正直に言って、びっくりするようなものはない。万人向き定食だ。まあ、ヨーロッパの人にはいいのかも知れない。
最後はチャーハンとライチーと杏仁《あんにん》豆腐で終った。フォーチューン・クッキーが出なかったのがせめてもだ。
神野はみんなの茶碗に何度もジャスミン・ティーをついだ。
3
「甲板に出てみるか」
神野はさりげなく言って立ち上がった。
私は甲板に上がって煙草に火をつけた。
まっくらで景色は殆ど見えないが、近くの黒い島影だけはうかがえる。風が強く、エンジンの音が大きい。
「アバディーンはまだらしいな」
神野がとなりで呟いた。
「きみ、紙巻煙草を吸っているのか……」
私は意外だった。
「しずかな海だな」
と神野は言い、「犯罪者を追うにはふさわしくない眺めだ」
「パイプは?」
「やめたんだ」
と彼は海を見ながら言った。
「すまないが、あずかってくれるかね」
「なにを?」
「このパイプさ」
彼はパイプを私に渡した。
「持ってると吸いたくなる」
「どうしたんだ、急に?」
「すぐに判ることさ」
神野は紙巻煙草を海に投げた。
「待て待て。なにを言いたいのだ」
私はなおもきいた。
「きみは判らんかね」
彼は謎《なぞ》めいた言い方をした。
「ぼくらはつけられていたじゃないか」
「そう言ってたね」
「彼《ヽ》はまだつけているようだ」
「なに?」
「この船のエンジンの音に混って、かすかにきこえるんだ。ボートの音が……」
「そうかねえ?」
私は半信半疑だった。
「だれがつけてるんだ。〈総統〉の一味かい」
「いや、楊警部さ。ぼくは彼がそっとつけてくるのを地下道で見かけたもの」
「えっ!」
私は仰天した。
「……じゃ、この下にいる楊警部は何者だ?」
「たぶん、〈総統〉という男だ。一時はぼくまでがひっかかったほどの変装ぶりだからな」
「途中でそこまで判ってて、どうして船に乗り込んだのだい」
私は混乱していた。
「これがぼくの知的能力に対する挑戦だからさ。受けて立つ気にもなろうじゃないか!」
「どうも判らん」
と私は言った。
「楊は初めから贋者《にせもの》だったのか?」
「初歩的な疑問を呈さないでくれよ、星川君……。われわれに知恵を貸してくれと言ったのは、本物の楊さ。おそらく、旦那刑事の部屋には盗聴装置が仕掛けてあったのだ。だから、〈総統〉はこちらの動きを把握《はあく》してしまった。本物の楊は〈七時前後〉に迎えにくると言っていたろう。そこで、贋者は先まわりして、六時半にあらわれた。ミラマー・ホテルで、旦那をピックアップした上でね」
「そこに本物もきてしまったわけか」
「われわれが服を着るのに十五分ぐらいかかったからね」
「しかし、下にいる男が本物の楊で、つけてくる方が贋者ということはないかい?」
「十中八九ないね」
と神野は言った。
「ぼくは、さっき、何度もジャスミン・ティーを彼の茶碗についだ。彼が|この土地の人間なら《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、そのたびに人さし指と中指をそろえてテーブルを二度、軽く叩くはずだ。こいつは飲茶《ヤムチヤ》のエチケットだった」
「そうか!」
「しかし、彼はそうしなかった。あれは中国人ではない――いや、少くとも広東の習慣にそまった中国人ではないね。ということは楊ではないわけさ」
「うっかりしていた。こないだから、ずいぶん、飲茶《ヤムチヤ》の店に行っていたんだが」
「おそらく、楊が助けにきてくれる。きみは逃げてくれ」
「冗談じゃない。きみは戦うつもりか」
「そんな気はないさ。ぼくは臆病だからね」と神野は笑った。
「しかし、自尊心の問題がある。短時間にせよ、だまされたってのは、ぼくにとっては自分を許せないことなんだ。ホテルのロビイで奴を見た瞬間に気づくべきだった……」
「しかし、きみは盛りかえした。もういいじゃないか」
「推理の道はもっときびしいものさ」
神野は虚無的に笑った。
「いままでのチリメンジャコ的犯罪者どもにくらべれば、〈総統〉はモリアティ教授やブロフェルド級の悪党らしい。奴をとっちめてから退散するつもりだ」
「向こうも、きみをライヴァル視しているのじゃないか」
「当然さ」
神野は自信をもって答えた。
「奴がぼくを殺す必要はない。とすれば、この招待は何だ? 挑戦さ。犯罪者中のナポレオンがぼくに挑戦してきた。天才は天才を知るでね」
「華麗なる挑戦てやつかい」
「見ていたまえ、必ず奴のシッポをつかむから」
神野はかすかに笑い、先に立って階段をおり始めた。
「丁度、明かりが消えるところです」
楊と称する男がテーブルに向かったまま、話しかけてきた。旦那刑事はブランデーを飲んでいる様子だ。
「アバディーンの灯が見えてくると、電気を消して、キャンドルの灯だけになります。ディナー・クルーズはお気に召しましたかな」
「もちろんです」
神野はにこにこしている。私は気が気ではない。
明かりが消えた。各テーブル上の赤い筒の中のキャンドルの光だけになる。
同時に船はスピードを落し始めた。
やがて、エンジンの音が小さくなり、動いているのかどうかわからなくなる。
窓の外にアバディーンの水上レストランの灯が見えてきた。全体が光に包まれて、黄金色の城である。それらが水に映って光の量は二倍になっている。
「すばらしい……」
旦那刑事が呟いた。
「うあっはっは!」
気が狂ったように笑い出したのは神野推理であった。私は、一瞬、彼の頭がおかしくなったのではないかと思った。すべては疲労した彼の頭脳のうみ出した妄想《もうそう》ではないかとさえ考えた。
「あれはどうしたわけですか、楊さん?」
彼は窓の外を指さした。
「え?」
「あの水上レストランですよ」
神野は立ち上がった。
「アバディーンの水上レストランは、太白《タイパク》とシーパレス、それにごくさいきん、〈ジャンボ〉という|でかい《ヽヽヽ》店が加わったことぐらい、日本の週刊誌にだって出ています。つまり、水上レストランは三つなければならないのだ。ところがあそこには二つしかない。……どうしたのですか、〈ジャンボ〉は沈没したのですかな」
相手は答えなかった。
「フィルムが少々古いようですな、〈総統〉……」
「わかったかね」
ふ、ふ、と相手は笑った。
「私をよほど莫迦《ばか》にしておいでだったようで……」と神野は苦笑して、「ほんの少しまえにドックのようなところに入ったようですな。まあ、香港の近くに無数にある小島の一つでしょう。……つまり、この船そのものが贋物で、はじめからアバディーンになど向かっていなかった。たしかにさっきまでは海の上を走っていたが、明かりが消えたあたりからドックに入った。しかも、窓の外にはアバディーンの夜景がうつるようにできている。きっと外の壁の映写幕に裏側から、フィルムの左右を逆にしてうつしているのでしょうが」
「よう判ったの、若僧……」
相手の声が急に老けた。
私は身体《からだ》がふるえ出していた。神野が指摘したようにこの船が贋物であるとすれば、乗客たちも船員も、ぜんぶ、〈総統〉の配下にちがいないのだ。
「よう言うた。……さすがは神野推理、名前にそむかぬ推理力じゃ」
「そんなことはありません」
神野はへり下ってみせた。
「私はころっとだまされたのですから。……それにこういう大がかりな手口も面白い。正直に言って感心しました」
「そうかの」
「ところで、この上は、大時代な活劇はやめにしたいもので……。お互いに五分で引き下がるというのではどうでしょうか?」
「わしも、ほぼ、その線で考えている。きみとお友達は目かくしをした上で、香港島まで送り届けよう」
「それはどうも」
神野は一礼した。
「ただし、この日本の刑事は返せんよ」
と〈総統〉は冷たく言い放った。
「さまざまな先例があるからのう。最終的には鮫《さめ》のえさにでもするつもりだ」
「そうですか」
と神野は言った。
「そういきますかな」
「いかないね」
ハッチで声がした。ふりむくと、本物の楊警部が自動小銃を構えていた。
「一人でも動くな。外には私の仲間がまだ二人ひかえている。……〈総統《チヨントン》〉、とうとう罠《わな》にかかったな。きさまが盗聴しているのは承知の上でやったことだ。ミスター神野のような人物が現れれば、きさまがおとなげなくも出てくるだろうと私は計算して網を張った。だから、わざわざ、旦那刑事の部屋で話をしたわけさ」
「中国人は肚《はら》の底がわからんと言っただろう」
神野は私に囁《ささや》いた。
「さあ、みんな、武器をすてろ」
警部が言った。
重いものが床に落ちる音がつづいた。
「こいつらに手錠をかけてくれ」
楊の声に、部下らしい二人の男が走って、手錠をかけてまわった。
「さあ、〈総統《チヨントン》〉……終りがきたな。旦那刑事、あなたが手錠をかけて下さい」
「やい、トンチョン」
「チョントンだ」
〈総統〉は、むっとした様子で、旦那刑事の言葉を訂正した。
「おれは、おまえのおかげで、ダイナマイトで吹っとばされ、網走《あばしり》まで行って爆薬でまた吹っとばされ、アムステルダムでは発狂したんだぞ。そのおれに鮫のえさになれとはなんだ!」
「もたもたするな。こうやるんだ」
神野推理は手錠を旦那からひったくって、〈総統〉に近づいた。
〈総統〉は両手をさし出す、とみせて、不意に前のテーブルを舵輪《だりん》のようにまわした。
すると、どうだろう。彼のいる、船尾の三分の一ほどの部分《スペース》だけが切り離され、ジェット気流のようなものを噴射して、私たちのいる部分《スペース》から急速に遠のいて行ったのである。向こうの部分には、〈総統〉のほかに神野推理もいるのだから、自動小銃を撃ちまくるわけにはいかない。
洞窟《どうくつ》の底知れぬ闇の中を遠ざかってゆく二人を呆然と見送るしか私たちのすることはなかった。やがて、楊警部はふらふらと床にひざを突き、旦那刑事はすすり泣きを始めた。
コナン・ドイル卿《きよう》の表現を借りれば、〈もっとも危険なる犯罪王と時代にぬきんでた大探偵王〉は、かくして私たちの眼に触れぬ世界に去ったのである。生死のほどは不明だが、香港警察のあらゆる手段をつくしての捜索にもかかわらず、神野推理が生きている証拠を発見するのは不可能であった。
私はホテルに戻ってから、彼からあずかったパイプをとり出して、眺めた。パイプにはメモ用紙がつめてあり、ひろげてみると、「このパイプをお袋に渡してくれ」と走り書きしてあった。
ゲームじみた語調にもかかわらず、彼は虎穴《こけつ》に入る危険性を熟知していたのであったのかと私は改めて彼の予知能力に感じ入った。こうして、世界は一人の天才を、そして私は親友と、もっとも信用できる放送作家とを、同時に失ったのであった。
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あとがき
この連作は、雑誌「太陽」(平凡社)の一九七六年七月号から一九七七年六月号まで、一年にわたって連載された。
毎回三十枚で、連作ができないかというはなしが、当時の編集長からあったとき、私はすぐに、〈名探偵もしくは探偵小説のバーレスク化〉を考えた。三十枚で毎回読み切りというのは、私としては初めてで、むずかしいことであった。幻想小説や〈日常を淡々と描く〉式の私小説であれば、シッポの部分はあいまいでもいいと思うが、いちおうのストーリーがあって三十枚で終らせるとなると、私には、そういうバーレスク形式以外は、考えられなかったのである。
名探偵のバーレスク化(パロディ化といってもいいのだが、パロディという言葉が安易に使われ過ぎているので、避けたい)には、二つのタイプがあるように思う。
一つは、カミの「名探偵オルメス」のように古風なナンセンス小説で、天井にさかさにぶら下がった象が、鼻で人間をまき上げる(象には天井と同じ色のペンキが塗ってあるので、見えない!)――といったものである。
もう一つは、ロバート・L・フィッシュの「シュロック・ホームズの冒険」のような小味な戯作で、大ざっぱにいえば、この方法が、私にはよいと思われた。「太陽」のように古風かつ真面目な雑誌で、あくどくふざけてはいけない、と自戒したのである。
しかしながら、当時、「シュロック・ホームズ」は絶版になっていて、入手できず――のちに文庫に入って容易に読めるようになったが――結局、私は素手《すで》で出発する羽目になった。第一話、第二話が、おずおずとしているのは、そのためである。
新しい人物《キヤラクター》を主人公にするのは非常に怖いもので、慣れた脇役の助けを借りなければ、作者の心理的バランスが保てない。そこで、警視庁から鬼面《おにつら》警部と旦那《だんな》刑事を借りることにした。(この二人の名は、推理作家の鮎川哲也さんの〈鬼貫《おにつら》警部と丹那《たんな》刑事〉にヒントを得ているが、キャラクターは、いまや、まったく関係がない。鮎川さん、どうも、いつも、すみません。)
「太陽」編集部で私につき合ってくれた推理小説通の編集者は、最終回は、絶対に、ホームズの失踪《しつそう》と同じパターンがいい、と力説した。私も、そのつもりだったので、第十二話では、|旧知の人物《ヽヽヽヽヽ》を二人くり出して、神野推理に有終の美を飾らせることにした。
推理小説は自分で書くべきものではなく、他人が書いた作品を読んでケチをつけるのがたのしい、というのが私の持論だが、にもかかわらず、私は、香港《ホンコン》で失跡した神野推理を日本に呼び戻して、同じ主人公による連作を、もう一冊ぶん書いた。「超人探偵」(新潮社)がそれである。ひまをもて余している読者が興味をもってくだされば幸いだが……。
[#地付き](一九八一年七月)
この作品は昭和五十六年九月新潮文庫版が刊行された。