小林 信彦
夢の砦
目 次
序章 1960秋
第一章 袋小路《デツド・エンド》
第二章 会社というもの
第三章 同調者
第四章 ザ・ヒットパレード
第五章 創刊
第六章 カレンダー・ガール
第七章 夢の砦《とりで》
第八章 巨大な玩具《がんぐ》
第九章 夏の果て
第十章 逆転
第十一章 正月まで
第十二章 阻《はば》むもの
第十三章 同時代連盟
第十四章 花冷え
第十五章 巻き返し
第十六章 衝撃
第十七章 暗雲
第十八章 猶予《ゆうよ》のとき
第十九章 幻滅
終章 1964秋
あとがき
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序章 1960秋
新宿駅前といえば、なにかしら明るい気分が漂わぬでもない昨今だが、ここでいう〈新宿〉は、副都心などと気焔《きえん》をあげ始めるはるか以前《むかし》、――〈学生とサラリーマンの町〉と自称して、銀座にくらべれば所詮《しよせん》二流の盛り場であることをひそかに認めていたころである。
新宿駅前、角筈《つのはず》一丁目で「こけし」といえばすぐにわかる、と仲間に言われた宮島が、その飲屋を見つけるのに、意外に時間がかかったのは、木造の店がひどく小さかったせいもあるが、灰色モルタル塗りの建物にはさまれ、しかも道からやや凹《へこ》んで、汚れたのれんが竿《さお》に巻きついていたからだった。
一、二度、突っかかって、ようやく戸があいた。暗い店内は奥に向って細長く、小料理屋らしいカウンターがのびて、正面に、割烹着《かつぽうぎ》姿のおかみらしい女が立っている。不機嫌《ふきげん》とまではいえぬものの、迷惑そうな気配があり、宮島は時間を間違えたのだろうか、と思った。
「あの……」
「松川さんの関係のかた?」
女は先手を打った。
宮島が、ええ、と頷《うなず》くと、女は黙って二階への階段を指さした。暗いので、すぐにはわからなかったが、上り口の下に何足かの靴《くつ》が脱いであるのが見える。
宮島が靴を脱ぎかけていると、女は、
「皆さん、おそろいですかねえ」
とたずねた。店が混《こ》み始めるまえに、料理を出してしまおうという魂胆であろう。
「松川さんにきいてみて下さい」
そう答えて、宮島は、人ひとり、やっと登れる、狭い、急な階段を登った。
ガラス障子をあけると、三人の男がいっせいに顔をあげた。宮島がそうであるように、三人はいずれも若くはなく、とくに、形ばかりの床柱にもたれた松川は髪の毛に白いものが混っている。
「すぐにわかったかい?」
松川がきく。
「少し、まごつきました」
あぐらをかいた宮島は、グラスにビールを注《つ》いで貰《もら》いながら笑った。
「ほら、松川さん以外は、みんな、まごついたんだ」
眼鏡をかけた男が言った。
「いつもの、成子坂下《なるこざかした》の店にすればよかったのに」
と、もうひとりが言う。
「そう言ってくれるな」と松川は苦笑して、「この店は涼しいだろう」
「今日が涼しいのですよ」
眼鏡の男がまぜっかえした。
「お彼岸を過ぎて一週間も暑かったんですから」
「宮島君、よくこんなに早く会社を退《ひ》けたねえ」
「スポーツ新聞記者の特権です」
宮島は枝豆をつまんだ。
「予定だと、あと二人くるはずですが、そろそろ始めませんか」
眼鏡の男が促した。
「でも、もう、くるんじゃないですか」
宮島がやんわり反対すると、
「始めよう。あの連中は当てにならない」
松川は床柱から背中を離し、三人の顔を一瞥《いちべつ》した。
「じつは、ゆうべ、城戸《きど》先生に会ってきたのだ」
眼鏡の男の表情が変った。くわえた煙草《たばこ》に火をつけるのをやめて、
「どうでした、具合は?」
「血圧は、殆《ほとん》ど正常《ノーマル》に戻《もど》っていると言ってた。酒だって、ふつうに飲んでいたしね。奥さんの言うには、自宅で飲んでいるぶんには問題はない、バーの梯子《はしご》さえしなければ、と……」
「言いますね、あの奥さんも。まるで、われわれが悪いみたいだ」
障子があいて、おかみが、お料理どうしましょう、ときいた。あと三十分ほどしたら出してくれ、と松川は答えて、
「夜中まで話をしたのだがね。先生が悩んでおられるのは、やはり、雑誌のことだ。江戸川乱歩が『宝石』の編集に乗り出したとき、対抗意識で『黒猫《くろねこ》』を発刊してみたものの、毎号が赤字で、お荷物になっている。『黒猫』を存続するかどうか、年内に結論を出したいといっていた」
「廃刊と決ったわけではないのですね」
「本音は、すぐにでも廃刊にしたいのだろうがね。先生は、『きみたち、作品の発表舞台がなくなるだろう』と真顔で心配しておられた。しかし、城戸先生の江戸川乱歩に対するライヴァル意識はなみたいていのものじゃないからな。『黒猫』を廃刊にするのは、白旗を掲げるようなものだ」
つまらない争いだ、と宮島は思った。城戸|草平《そうへい》が江戸川乱歩に対抗するのは勝手だが、自分が巻き込まれるのは真平であった。
(客観的にみれば、城戸草平は創作的才能の枯渇《こかつ》した老名士にすぎない。それにひきかえ、乱歩は推理文壇の中心にいて、つぎつぎに新人を発掘している。佐野洋や大藪春彦《おおやぶはるひこ》を世に送り、鮎川哲也《あゆかわてつや》を蘇《よみがえ》らせ、劇評家の戸板康二に推理小説を書かせて成功させた……)
「先生は、われわれも『宝石』に原稿をのせて貰うように動け、とおっしゃったよ。『黒猫』だけにこだわるな、と」
「しかし、ぼくらは〈城戸派〉と見られてますからね」
と、宮島は感情を抑えて言った。
「『宝石』の編集長が、ぼくらを何と呼んでいるか、ご存じですか。〈城戸新人〉ですよ。もう新人て|とし《ヽヽ》でもないのに」
「『宝石』を読んでいると、こわくなってくるよ」と沈黙がちのひとりが言った。
「星新一なんて、とてつもない新人だ。ああいう作家のものを読むと、自分が|ずれた《ヽヽヽ》と思う」
(そこだ)と宮島は思った。(ここにいる四人の不安の根源はひとつなのだ。現在の異常とも思われる推理小説ブームに乗り遅れるのではないか、いや、すでに乗り遅れたという恐怖、焦《あせ》りから、こんな風に集っているのだ……)
城戸草平が門下生である松川たちを集めて江戸川乱歩打倒の座談会を催したのは、ひとむかしも前のことである。野間宏《のまひろし》や武田泰淳《たけだたいじゆん》を愛読する文学青年だった宮島は、その時代の推理小説界には、なんの関心もなかったし、座談会の内容も知らない。友人の紹介で、昨年、松川たちのグループに接近したのは、なんとか自分の書く小説を活字にしたかったからにほかならない。
じじつ、〈推理小説〉と名がつけば、単行本さえ容易に出せる状況があり、とりあえず推理小説を書いて世に出てしまう風潮すらあった。あとはまた、あとのこと、というわけだ。そして、宮島はそうした風潮に浮き足立った作家志望者のひとりであった。
「『宝石』は、推理小説よりもっと枠《わく》をひろげようとしているんじゃないですか」
眼鏡の男が暗い声で言った。
「どういう意味だ。ふつうの文壇作家に原稿を依頼することか?」
「そうじゃないですよ。この号をお読みになってないのですか」
防水布の黒いバッグから月遅れの「宝石」を出してみせた。
「しばらく『宝石』は見ていないのだ」
開襟《かいきん》シャツの胸ポケットから老眼鏡を出した松川は、ゆっくり目次を眺《なが》め始める。
「どこが変っている? いつもと同じ顔ぶれがならんでいるだけじゃないか」
「ここですよ」と眼鏡の男は、目次の中央のあたりを指さして、「SFがならんでいるでしょう」
「どういうことだ、これは」
松川は不機嫌そうな声を発した。
「ひとりの作家が三|篇《ぺん》も発表している」
「よく見て下さい。別人ですよ」
宮島も首をのばして覗《のぞ》き込んだ。筒井康隆《つついやすたか》、筒井正隆、筒井|俊隆《としたか》と、よく似た名前がならんでいる。
「兄弟です。一家で同人誌を作っているのです」
「ふむ」
松川はいよいよ不機嫌になって、
「乱歩は何を考えているのだろう。……たんに珍しい一家だから取り上げたのか、それとも、SFにまで誌面を開放してゆくつもりなのか」
「SFは乱歩の好みではないでしょう。しかし、枠をひろげようという姿勢は感じられます」
四人は沈黙した。SFを載せるほど誌面にゆとりがあるならば、自分たちの作品を掲載してくれてもいいじゃないか、という思いが各々《おのおの》の胸にある。しかし、「宝石」編集長の返事はきまっている。――これじゃ、まだまだだよ。努力して、次の作品を見せてくれたまえ。
(おれの原稿が断られるのは〈城戸派〉だからではないのかも知れない)と宮島は怯《おび》えた。(「宝石」の新人の水準は、かなり高い。その水準に達していないだけのことかも知れない!)
眼《め》の前が昏《くら》くなった。ここにいる者たちは、そうした事実に気づいているのだろうか。あるいは、気づいていながら、直視する勇気がないのかも知れない。そして、小さな徒党の中で縮こまり、すべてを、ボスである城戸草平と、徒党の機関誌である「黒猫」の不振のせいにする。
(おれは、一生、スポーツ紙の芸能記者で終るのかも知れない)
宮島はグラスに残るビールを呷《あお》った。
階段を登ってくる音がして、おかみが顔を覗かせた。遅れている二人のうち、ひとりが、あと二十分で駆けつけると電話してきたというのだ。
「あいつがきてからにしよう。けっこう、出版界の情報に詳しいからな」
重苦しくなった空気を救うように松川は言い、もう少しビールをくれないか、とおかみに注文した。
「われわれも、もう少し高級な店に集れるようになるといいんですが」
ガラス障子がしまってから、眼鏡の男がもらした言葉には実感があった。
「六本木辺のステーキ・ハウスとかね」
「小説など書かずに、実直に会社づとめをつづけていれば、可能なんじゃないかい」
松川があまり信じていない口調でわらった。
「池田内閣は、十年後に国民の所得を倍以上にすると、|ほら《ヽヽ》を吹いている。所得が倍になったとしても、インフレが進めば同じことだ。よくも、ああ、ぬけぬけと言えるものだ」
「今日の夕刊に経済学者が書いていた随筆をお読みになりましたか」
突然、宮島がきいた。
「なんの随筆だ?」
「〈レジャー〉という題のです」
「〈レジャー〉? 何のことだ?」
宮島は夏上着のポケットに刺し込んであった夕刊を抜き出して、ひろげる。
「われわれに関係があることなのか?」
「あるらしいんです。ちょっと、読んでみましょうか」
「ああ」
「よろしいですか。……『ちかごろ、〈レジャー・インダストリー〉という新語を耳にする。〈レジャー〉とは〈ひま〉のことだが、〈レジャー・インダストリー〉は、〈ひまな産業〉の意味ではない。一般大衆がひまになってきた……』」
「ひまじゃないぞ、全然」
松川が呟《つぶや》いたが、宮島はかまわずにつづけた。
「『その大衆に|ひま《ヽヽ》をつぶさせるためのメディアをあたえることを目的とする産業という意味である。|ひま《ヽヽ》どころか、繁盛する産業とみていいだろう。さて、〈レジャー〉とは、一体、何であろうか。しかとした定義はあたえられていないが、労働組合の力が強くなり、オートメーションが行きわたり、家庭電化が進むにつれて、ますます増えてゆくことはまちがいない。私が株価を調べてみたところ、一応、〈レジャー・インダストリー〉とおもわれるもの、たとえば、スポーツ施設、競馬、オートレース、娯楽施設、映画、レコード、電蓄、テレビ、オートバイ、モーターボート、カメラ、トランジスターラジオなどの会社の過去二年間の株価の足どりは、八・一八倍――ものによっては三〇倍の値上りを示している。同期間中における東証のダウ平均株価の値上り率は、二・四八倍でしかないのだ。自動車運転の教習所は、押すな押すなの盛況で、なかなか順番がとれない。プロ野球のテレビ中継一時間半は傍若無人のきわみだが、さらに輪をかけて〈スポンサーのご好意により〉ほかの番組の時間を平気で食っている。推理小説ブームはどうか。マイナーなジャンルが、これほどはびこるなどと、一体だれが予想していたであろう。純文学などと、オツにすましていられる時代ではないのだ』」
「なるほど」と松川が頷いた。「いまの推理小説ブームには、それだけの必然性があったわけか」
「まだ、いろいろ書いてあります。おわりの方を読みますと、『こういう生活においては、人間は考えるということを、とかく忘れがちになる。|ひま《ヽヽ》の時代には、ひとのやっていることを、ヤジ馬的に見ていればよいのだから、自分の行動に責任を負う態度が消滅するのではないだろうか?』」
「そんな風になってみたいものだね」
松川は苦笑を浮べて、
「推理小説ブーム云々《うんぬん》の部分は、わかる気もするが、日本人が|ひま《ヽヽ》になれるのは、今から何十年も先だろう。おれが生きているうちではあるまい」
「なにしろ、われわれは、ステーキ・ハウスで会がやれないのですからね」
と、眼鏡の男は、やけに食い物にこだわる。
「要するに、このブームは、一時的なものではない、と考えていいのだろう。それだけ聞かせて貰えば、おれは満足だよ」
だが、宮島は、経済学者や松川のように楽観的には考えられなかった。ブームと名が付く以上、いつかは、下火になるのではないか。それは、意外に早いのではないか。
「その点は、城戸先生も安心しているようだった。だからこそ、『黒猫』にもっと力を注ぎたいというわけだ」
「『黒猫』は編集が下手だと思うのです。のっている作品は、『宝石』より弱いけど、ほかの推理小説雑誌よりは上ですよ」
宮島は言い、やや、ためらってから、
「編集長が悪いのです。やり方によっては、もっと、ひろがるはずですよ」とつけ加えた。
「どうやったらいいんだ?」
松川の声には切実な響きがあった。
「わかりません。でも、もっと売れるはずだということはわかるんです」
「ぼくもそうなんだ」
と、大出版社の週刊誌デスクである眼鏡の男が言った。
「たとえば、百万部の週刊誌の作り方は、ぼくにはわかっているつもりだ。しかし、小雑誌となると、まったく、見当もつかない……」
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第一章 袋小路《デツド・エンド》
「これを、いやだと言ったら、もう仕事はないよ」
古めかしい黒ぶち眼鏡越しに、職業安定所の男は前野辰夫《まえのたつお》の顔を睨《にら》んだ。
「文学部を卒業した男向きの仕事なんて、まず、ありっこない。それは、わかっているだろう。しかも、英文学科だ。これは、いちばん数が多い。たいていが英文とくる。それもだ、教職課程でもとっていれば、高校の英語教師という手がある。ところが、きみは、なぜか、教職課程をとっていない……」
男は書類をデスクに置いた。
「このまえ、きみは浜松の航空自衛隊の英語教師の口を拒否した。収入面からいっても、あれは良い仕事だった。……まあ、過ぎたことは仕方がない。いまの話に戻《もど》ろう。私立とはいえ、この高校は悪くない話だと思う。東京から電車で一時間半あれば行ける町だ。通勤も不可能ではない……」
男は一度眼を伏せてから、
「どうします?」と口調を改めた。
中背で痩《や》せこけた辰夫は、じっと考えている様子である。それは、あくまでも〈様子〉であって、結論はすでに出ている。ただ、あまり早く結論を口にしたのでは、相手にすまない気がするので、考えるふりをしている。
「決心したほうが賢明だと思うがね」
と男は促すように言った。
「間もなく、きみの失業保険は切れる。それから、と――遠からず、二十八になるじゃないか、きみは」
大きなお世話だ、と、辰夫は思った。
「どうするかね? きみが断れば、ほかの人がこの職につく。教職課程なしで教師になれる口なんて、そう、ざらにはないぞ」
そりゃ、そうだろう、と辰夫は心の中で呟く。しかし、うまい話というのは、たいてい、危険なしっぽが付いている。その私立高校は、卒業式のあとで、生徒が教師をバットで殴り倒す事件で有名だった。新聞で何度か読んでいる。
「せっかくですが……」
彼は語尾をにごした。
「そうか、断るのか」
と男は念を押して、
「きみは、こういう職業につきたい、という強い希望があるのか」
勤めそのものがいやなのだ、と答えたら、相手はひっくりかえるだろう、と思った。
大学を出てから、辰夫は、三度、会社勤めをした。
最初の会社は化粧品のセールスで、一年間つとめたが、醜い女がいくら化粧しても無駄《むだ》だ、と社内で口走ったことから、問題が起った。そういう考えを持っていては、セールスマンとして失格だというのだ。美人なら、それほど化粧をしないですむのじゃないですか、そんなことはあなただって心の中では思っているのでしょう、と上司に言ったところ、「私は夢にも思っていない。女性を美醜で区別したことなどない」という。これには恐れ入った。「ぼくだって心の中で思っているだけです。たまたま内輪の席だから口に出したのです」と言いわけしたのだが、社のイメージを汚《けが》すとかで、首になった。社員十数人の会社で、イメージも糸瓜《へちま》もあるものか。
次の会社は、アメリカ人の数の方が多い貿易会社だった。この会社には三年いたし、信用もされていたのだが、社の機密書類が紛失したことからトラブルが起った。社長は辰夫の犯した失策だと言い、辰夫はアメリカ人の中の不良社員の仕業とみて、自分の過失ではない、と主張した。
「そこまで自信を持って言えるのは神だけだよ」
と社長が達者な日本語で皮肉ったので、少し言い過ぎかな、とも思ったが、辰夫は、
「じゃ、ぼくは神かも知れませんね」と冗談を言った。
これがいけなかった。機密書類を持ち逃げしたのが眼の青い不良社員と判明してからも、社長は辰夫を狂人を見るような眼つきで眺めて、「彼は自分を神だと信じている」と呟くのだった。辰夫にとって〈神〉とは、台所の隅《すみ》に貼《は》ってある煤《すす》けたお札のたぐいだったが、社長は違う考えを持っているらしく、やがて、辰夫を首にした。
三つ目の会社は、小さな広告業で、なかなか居心地が良かったが、今年の初夏に具合がおかしくなった。会社が終ってから安保反対のデモに行くのを、重役が気にしたのである。初めは「怪我《けが》をするなよ」と遠まわしに止めていたのが、だんだん高圧的になり、デモに加わってはいけない、と言い出した。アメリカからの輸入品の広告を作っているのに、反米的な行動は好ましくない、という。辰夫は驚いた。彼は岸内閣が嫌《きら》いなだけで、反米などという感情はない。むしろ親米的である。アメリカ民主主義を手本とする戦後の教育を受けて育ったのだから、完全な反米になりようがない。
だが、非政治的人間である彼は、どうも、うまく反論できない。ただ岸内閣は嫌いなので、シュプレヒコールとともにデモ隊が窓の外を通ると、血が騒ぐ。生れつき、〈忍耐〉とか〈我慢〉とかいった文字と縁が薄いので、血が騒ぎだすと、とまらないのである。樺美智子《かんばみちこ》が殺された雨の夜は、ひとりでダイナマイトを持って国会に突っ込んでやろうかと思った。
熱病にかかったような毎日であった。新安保条約が成立し、瘧《おこり》が落ちた時、彼は首になっており、しかも、連日の〈座り込み〉で身体《からだ》を悪くした。医者の診断は軽い痔瘻《じろう》だった。色気のない病気である。
(もう、勤めはいやだ)
というのは切実な想《おも》いだった。
(あれは堪《こら》え性《しよう》のある人がやることだ。それに、どうも、おれは、ひとこと多い)
「希望の職種があるのかね?」
相手は焦《じ》れったそうに言った。
(自由な職業だ、底抜けに自由な……だが、そんな職業があるはずはない)
「きみは頑固《がんこ》なようだな」と男は言った。「それを捨てない限り、どんな職についても成功はむずかしい」
師走《しわす》のせいか、国電はいつもより人が多かった。
新宿駅のプラットホームでは新聞紙が寒風に舞っているが、それでも、ここまでくると、ほっとする。池袋とか高田馬場といった駅は好きじゃない。
辰夫のいる下宿は、池袋三丁目にあって、池袋、目白の二つの駅から等距離の場所である。会社を馘首《かくしゆ》されてすぐ、代々木のアパートから、二食つきの四畳半に越したときは、われながら手際《てぎわ》がよいと思った。ふつうの周旋屋を探さずに、母校の早大へ行き、学生専門の下宿|斡旋所《あつせんじよ》を通したのである。新築の部屋で、二食ついて七千五百円は、とにかく安い。不幸中の幸いといわねばならなかった。
二十七歳で学生下宿とは厚かましいのだが、下宿のおかみには、〈一度、職についていたが、改めて大学院に入ろうとしている〉と、ことわってある。斡旋所の用紙をあっさり信用したおかみは、払うべきものさえ払っていれば、いまのところ、文句を言う気配はなさそうであった。
ともあれ、週に一度、失業保険金を受けとった日だけは、辰夫はやや自由な気分になる。
とりあえず、昭和館の前のドイツ料理屋で、アイスバインといわぬまでも、厚いハンバーグに目玉焼きをのせたやつを食べて、新宿日活で肩の凝りようもない二本立てを観《み》て、それからジャズ喫茶で時間をつぶすのが、いいのではないか。
駅前の時計を見ると、正午に近かった。ドイツ料理屋は満員にちがいない。彼は武蔵《むさし》野館《のかん》につづく道に入り、「ボン」でコーヒーを飲むことにした。もとの会社は四谷《よつや》にあったので、この辺りには馴《な》れている。
「ボン」のドアを押すと、暖房がかなりきいていた。彼はダフルコートを脱ぎ、小さいテーブルを探した。店内はあいかわらず一杯で、売り出し中の喜劇役者や|孤高の《ヽヽヽ》作家、学生のカップルたちがコーヒーを啜《すす》っている。
彼は二階に上った。通りに面した、増築したらしい部分がわりに空《す》いていて、静かだった。会社にいたころは、よくこの片隅で打ち合せをしたものだ。
(|もう《ヽヽ》、|そろそろ《ヽヽヽヽ》だな)
武蔵野館まえの人通りに視線を向けながら、そう呟いた。
(保険金は、あと三週で終りだ。ひと月、ないわけだ)
そのあとを考えるのが恐ろしかった。彼なりに求職の手は打ったのだが、香《かんば》しい反響はまだない。いずれにせよ、あと三週では、間に合うまい。
(|そろそろ《ヽヽヽヽ》どころか、首にロープが巻きついて、秒読みに入っている……)
わずかにあった貯金は底をつき、本棚《ほんだな》の本は大半消え失《う》せ、冷蔵庫と夏のスーツは質に入っている。
(駈《か》けまわらなければいかんのだ。コーヒーを飲んだり、映画を観たりしている時ではない……)
だが、どうしたら、いいのだ? もう、〈ふつうの勤め〉につくのは、耐えられない……少くとも、おれには無理だ……。
コーヒーがきた。厚手の、床に落したぐらいでは割れそうもないカップに、あまり濃くない、熱いコーヒーが入っている。彼は砂糖を入れずに、ミルクを多く入れた。実質的という感じのコーヒーであった。〈どうせ待ち合せかなにかのために飲まれるのだろうが、だからといって、手は抜かない〉といった気構えが感じられた。
ひとくち啜って、下宿で飲むインスタント・コーヒーのまずさを想い浮べた。会社にいたころ、チェース・マンハッタン銀行につとめる知人からよく貰《もら》ったマクスウエルのはまだしも、いま、彼が使っている国産のインスタント・コーヒーは、なんとも頂けないものだった。
彼はハイライトの封を切り、袋のはしを破いて、一本抜きとった。
(なにが〈|黄金の六〇年代《ゴールデン・シクステイーズ》〉だ……)
けむりをゆっくり吐きながら、そう呟《つぶや》いた。
新聞や雑誌は、一九六〇年代を〈人類が空前の繁栄を謳歌《おうか》する黄金の時代〉という風に書き立てている。日本に限っても、高速道路や東海道新幹線なるものが計画されており、四年後には東京でオリンピックが開かれるという。
スポーツにまったく関心がない辰夫は、それがどうした、と反問したくなる。無事に開催されたとしても、それは政治家と一部スポーツ関係者の自己満足と売名とデモンストレーションのためであろう。新幹線は、車輛《しやりよう》の基礎研究は完成したものの、用地買収の六割が残っているということだ。
この国が、黄金色に輝くとは、とうてい思えなかった。戦争に負け、無条件降伏をして、わずか十五年で、そんな時代がくるはずがない。政府が国民に夢を持たせるための、きわめて大がかりな宣伝であろう。
百歩ゆずって、そういう時代がくるとしても、それは大企業のサラリーマンのためのもので、中小企業で働く者には関係があるまい、と、中小企業しか知らない辰夫は考える。ましてや、失業保険の切れかかっている失業者にとっては、まったく、関係のない話だ。これから、どうやって食いつないでゆくか――それが、おれの問題なのだ。
とりあえず、当てにしていることが二つあった。
一つは、あるテレビ局が募集しているスリラードラマの原作に応募したことだ。これは一位になると五万円、佳作でも二万円は貰えるはずだ。二万円といえば、大会社の初任給を上まわる額である。
もう一つは、ラジオ局につとめる友人が、夜遅いDJ番組の台本書きに推薦してやると言ったことである。ただし、調子の良い男の言うことだから、信用はできない。
よく考えてみれば、どちらも、雲をつかむような話である。辰夫の叔父のひとりは、よく、「おまえは虚業家だ」と、叱《しか》るともなく、辰夫に言った。「おまえは地道な実業という考えがない。下町の商家の子供で、おまえのような人間は珍しい」
虚業家とはひどいことを言う、と、当時、辰夫は思った。しかし、今になってみると、まんざら当っていなくもないようだ。
文科の学生のころ、ほかの者が小説の習作を書いたりしているのが理解できなかった。一攫千金《いつかくせんきん》を夢見た彼は、ジャズコンサートを企画したが、大隈《おおくま》講堂が超満員になったにもかかわらず、帳尻《ちようじり》は赤字だった。どうして、そうなったのか、わからない。それから、落語家になろうとして一週間で破門されたり、翻訳の会社をつくろうとして失敗したりした。
まともな就職ができなかったのは、まともな連中でも職につけなかった不運な年だから仕方がないとして、面接まで行っても落とされた。もっとも、ダブルの背広で赤い蝶《ちよう》ネクタイをしていたのだから――どうして突然そんなネクタイをしたのか自分でもわからない――いたし方あるまい。
(せめて、アイデアマンと言って欲しかったな)と彼はコーヒーの残りを飲み干しながら思った。スリラーの原作も、いちおう小説の形にはしたが、アイデアをならべたものに過ぎなかった。
新宿日活の封切は、赤木圭一郎《あかぎけいいちろう》の「明日なき男」と小林旭《こばやしあきら》の「都会の空の用心棒」の二本立てだが、入るには、時間が|はんぱ《ヽヽヽ》だった。
彼は通りを渡って、伊勢丹《いせたん》で時間をつぶすことにした。失業していらい、このデパートに足を踏み入れるのは初めてだ。
半年見ないうちに一階の売り場はかなり変化していた。クリスマス・セールのせいもあるのかも知れない。輸入品が増え、ネクタイの形や色が垢抜《あかぬ》けてきた気がする。
エスカレーターに乗る。失業保険一カ月ぶんの値段の特製革ベルトのたぐいが遠ざかってゆき、別の商品の世界が近づいてくる。デパート特有の匂《にお》い――なにから生ずるのかわからぬその匂いが彼は好きだった。死んでしまった叔父なら、たぶん、〈ハイカラ〉と呼ぶであろう匂い。……こんなに物資が溢《あふ》れているという喜びと、おれとは関係がないという絶望のあいだで彼は揺れていた。
「明日なき男」を二度観てから、外に出ると、暗くなりかけていた。赤木圭一郎と宍戸錠《ししどじよう》の対決は、また、次回に持ち越された。
風がいっそう冷えてきている。下宿に戻《もど》って、まずい夕食をたべるしかなかった。
新宿駅に近づくと浮浪者の姿が目立った。人々が立ちどまっているのは、宝くじ売りのボックスに貼られたビラがカーバイトランプの火で燃えているためだった。
池袋までひきかえした辰夫《たつお》が、東口にある大きな書店であれこれ立ち読みをした挙句《あげく》、西口につづくガード下の地下道に向ったときは、すっかり夜になっていた。
地下道を抜けた右手に、鰻《うなぎ》を焼いている小店《こみせ》があって、煙を通行人のほうに流している。裸電球の下の〈うな丼《どん》百円〉の貼紙が辰夫の足を止めさせた。もし失業中でなければ、彼の足は、安いうな丼のほうへ向くはずだ。
(これ以上金を使うと、あとで困るに決っている……)
諦《あきら》めるしかなかった。
十二月の下宿代は、カメラとプレイヤーを売り払って、ようやく工面できたのだが、もう、売れるものはない。もっかの唯一《ゆいいつ》の財産はラジオであるが、これは型が古いから、換金は不可能だろう。
彼は歩きながら煙草《たばこ》をくわえた。ポケットをさぐると、マッチがない。
「小父《おじ》さん、火を貸して」
闇《やみ》の中で煙草を吸っているバタ屋風の男に声をかけた。男は黙って、短くなった煙草を突き出す。
ハイライトの先端を押しつけて、二、三度、強く吸い込んだ。
「どうも……」
ありがとう、という間もなく、足もとの抵抗がかき消され、右肩に大きな衝撃を受けた。穴のようなものに落ちたらしい。
分厚いダフルコートのおかげで、怪我はなかった。煙草を探したが、見つからない。それより驚いたのは先客があったことだ。暗闇の中なので、はっきりとはわからないが、男の大きな鼾《いびき》がきこえる。
「小父さん……」
辰夫は地上のバタ屋に声をかけた。
「きこえますか……」
「きこえるよ」
バタ屋の顔が穴の上に見えた。
「上りたいのか」
「もちろん」
「お願いします、と言え。そうしたら、上げてやる」
どういうことだ、と怪訝《けげん》に思った。まるで、他人《ひと》が落ちるのを待っていたようではないか。
「……お願いします……」
怒りを抑えながら辰夫は言った。
「ほらよ」
手が差し出された。がっしりして、ささくれ立った指だった。
辰夫の身体《からだ》は軽々と宙に浮いた。驚くべき力である。
「もうひとり、いますよ、この底に」
コートの土を払いながら彼は初老のバタ屋に言った。
「酔っぱらいだよ、サラリーマンの」
バタ屋は悪意のこもった笑い方をみせる。
「お願いしますと言わねえから放《ほ》っといたら、寝ちまった」
「放っとくと、凍死しちゃうぞ」
辰夫はかっとなった。
「大丈夫だよ。……落ちたのは、おまえで五人目だ」
彼はバタ屋を穴に突き落とそうかと思った。喧嘩《けんか》は嫌《きら》いではないほうだ。しかし、力の差があり過ぎるとみて、やめにした。
面白《おもしろ》くなかった。今日は仏滅にちがいないと思いながら、彼は闇市の入口に足を向けた。
げんみつにいえば、それが|闇市だった《ヽヽヽヽヽ》のは、十年以上むかしで、げんざいは、ただのマーケットに過ぎない。敗戦直後の雰囲気《ふんいき》を残す木とベニヤ板の迷宮《ラビリンス》は、都内では、渋谷の恋文横丁と、荻窪《おぎくぼ》駅のそばと、あと一つ二つ残っているだけといわれるが、巨大さではこの西口マーケットに及ばない。
もっとも、この中でなければ手に入らない品物は、いまどき、ありゃしない。流行の衣服、輸入品は、すべて、マーケットの外に存在する。マーケット内の商人たちは、たんに行き場がないからというだけの理由で留《とど》まっているのであり、日常生活品を市価より少し安く提供しているだけである。その中に、なぜか、パンアメリカン航空のショルダーバッグや、イタリア直輸入と札のついた靴《くつ》が混っているのが、かえって胡散臭《うさんくさ》い感じをあたえる。高校生のころ、辰夫は、闇市だったここに迷い込んだことがあったが、あれにくらべれば、もはや、熱気も狂気もなく、いってみれば、闇市の博物館、保存館といった佇《たたずま》いで、これで商いが成立するのかと心配になるほど閑散としている。わずかに活気があるのは、赤提灯《あかちようちん》、台湾料理屋、ラーメン屋のたぐいで、そこだけは電灯がひときわ明るく見えた。
部屋の明りをつけると、辰夫はもう一度、廊下に出て、ドアの右|脇《わき》の小戸棚から、自分用の食事を取り出した。
アルマイトの盆にのっているのは丼《どんぶり》めし、がんもどきの煮つけ一つ、たくあん二切れ、それに冷えた味噌汁《みそしる》と冷えたお茶だった。
これで文句があったら、外で何か食べろ、というのが、下宿のおかみの理屈である。辰夫がたまに、今夜の食事は要りませんから、と断ると、おかみは露骨に喜ぶのだった。そのぶんだけ得をした気持になるのだろう。
毎晩、がんもどきで、辰夫は閉口していた。がんもどきを安く、大量に仕入れるルートでもあるのか、月に二十日はがんもどきである。残る十日は、大根の煮つけであった。たまに食べ残したりすると、おかみは、あら、と、わざと眼《め》をむいてみせ、「あたしの手料理を……」と言うのだ。まあ、〈手料理〉にはちがいないが。
辰夫は冷えた味噌汁を半分ほど啜《すす》り、とりあえず、がんもどきを食べてしまった。味噌汁のみならず、がんもどきも、充分に冷えている。
彼は戸棚から小型電熱器をとり出した。電熱器の使用は禁じられているのだが、このさい、やむをえない。スイッチを入れて、アルマイトの小薬缶をのせた。さらに机のひき出しから、お茶漬《ちやづ》けのりの袋を出した。お湯が沸いたところで、丼めしをいっきに食べてしまおうという戦法である。
(耐えられないな、こんな生活は……)
そう思ったとたんに、明りが消えた。上下で七つある部屋のあちこちで、電熱器やら電気|炬燵《ごたつ》やらを使ったのだろう。使うのは、一向に構わないのだが、|かち合う《ヽヽヽヽ》と、こういうことになる。
小薬缶はまだ温まっていなかった。おかみが調べにきても、これなら平気だ。彼は電熱器を戸棚に隠し、たくあん二切れで飯を食い始めた。
「だれ!」
おかみの声が母家《おもや》のほうから近づいてくる。
「だれか、電熱器を使ったでしょ!」
辰夫は丼を盆に置き、廊下を覗《のぞ》いた。
驚いたことに、前の部屋のドアの隙間《すきま》から女性の呻《うめ》き声がきこえてくる。この下宿は女人禁制のはずである。
なるほど、と辰夫は、ひとり頷《うなず》いた。電気を消して励んでいるから、ヒューズが飛んだのに気づかないのだ。
やがて、おかみは階段を登ってきた。
辰夫の姿に気づいて、
「前野さん……」
と、きびしい声を出す。
「ロウソクを買っておかなきゃ」
辰夫は先制攻撃をかけた。
「こう停電されたんじゃ、めしも食えませんや」
「あなた……使ってなかった?」
言葉よりも早く、懐中電灯の明りが、辰夫の部屋のなかを照し出す。
「ちがうのねえ」
おかみは首をかしげた。
「ロウソクが要りますね、ここでは」
「よしてよ、ロウソクなんて、火事のもとだから」
おかみの声が大きくなったとき、
「しーっ」
辰夫は人さし指を唇《くちびる》にあてた。
「めしは食えないわ、|これ《ヽヽ》はきこえるわで」
「あらっ……」
おかみは愕然《がくぜん》とした様子である。呻き声は、ひときわ高くなり、男性を要求する気配になった。
「まさか……」
「いいじゃありませんか」
彼は低く言った。
「で、でも、これは、まずいわ。絶対に、まずいわ……」
しどろもどろになったおかみは、足音を忍ばせて、階下に去った。五分ほどたって、明りがついた。
彼が食器を戸棚《とだな》にしまっていると、
「うまく逃げましたな」
と、階段の途中から声をかけてきた者があった。他の下宿人たちがキザだと言って、顰蹙《ひんしゆく》している男で、辰夫は口をきいたこともない。
「なにが?……」
「だって、あなた」
男はにやにやして、
「この下宿には、いま、三人しかいないのですよ。ひとりは(と小指を立てて)|こっち《ヽヽヽ》に夢中でしょう。ぼくはテレビを観《み》ながら、コーヒーサイフォンを使ってた。……あなたは――そう、電熱器じゃないかな。ぼくがテレビのスイッチを入れた直後とぶつかったら、ヒューズが切れますよ」
辰夫は少なからず驚いた。下宿人が許されているのは、電気スタンドとラジオぐらいのもので、電力を食うテレビなど、とんでもないはずである。
「テレビを観ているのですか」
「ごらんになりませんか。『ララミー牧場』をやってますよ」
男は辰夫がついてくるものと決めたように階段をおりてゆく。テレビそのものよりも、男の生活に彼は興味を抱いた。
階下の廊下に面した三つの部屋の中央が男の部屋であった。
「どうぞ」と、男はドアをあける。
これは、と辰夫は眼を見張った。薄暗い四畳半いっぱいに、ソファー兼用のベッド、冷蔵庫、テレビ、ラジオに接続したプレイヤー、本棚、仕事机などが詰っている。美術大学の五年生で、アルバイトが本業になりつつあるという噂《うわさ》だから、余裕があるのだろうか。
男は辰夫にソファーをすすめながら、
「テレビのスイッチを入れてください」
と言った。
「けっこうです」
辰夫は答える。
「では、コーヒーでもいれましょうか」
男は勿体《もつたい》ぶった口調でたずねた。首を斜めにして、パイプをくわえた姿を見ると、下宿人たちが〈殿様蛙《とのさまがえる》〉と渾名《あだな》をつけた理由がわかり、また、彼らが近寄らないのもよくわかった。
「お構いなく」
と、辰夫は軽く断って、
「これだけ電気製品があったら、ヒューズが飛ぶはずだ」
「ふ、ふ、電気毛布なんかもありますよ」
殿様蛙は動じる気配がない。
「小母《おば》さん、知らないんですか、これを?」
「そりゃ知ってますとも」
「よく文句を言いませんね」
「言いたいところでしょうがねえ」
殿様蛙は薄笑いを浮べて、
「ぼくは妙な信用があるのですよ」
意味ありげに笑い、けむりを輪に吐く。
「どういうことですか」
辰夫はさらにたずねた。おそるおそる電熱器を使う自分が莫迦《ばか》に思えてくる。
「この家の長男が受験勉強をしとるでしょう。あれは、ぼくの大学を受けるつもりなのですよ、よせばいいのに」
「なるほど」
「美術とかデザインなんてものは、本当は大学を出てどうなるってものじゃない。持って生れた才能ですから」
男は本棚から函入《はこい》りの薄い本を抜いて、辰夫に見せた。
「ぼくが装釘《そうてい》した本です」
「ははあ」
辰夫は感心した恰好《かつこう》をしてみせる。
「なんとか大学に入れるように教授にたのんでくれ、と、小母さんにたのまれてるんです。一次試験をパスしたら、と答えておきましたがね」
「あとは、あなたがどうにかできるという意味ですか」
「どうにもならんでしょう」
男は無責任に言い放った。
「ぼくにそれだけの力があれば苦労しませんよ。でも、そう言っとけば、とうぶんは、あの女も文句を言わんでしょう。いまどき、テレビのない生活なんて、ぼくには考えられない。各部屋ごとに検針用のメーターを取りつけて、電気は使い放題ってことにすりゃいいんです」
辰夫《たつお》はあいまいに頷いた。基本的には殿様蛙の意見に賛成だが、電気代水道代をひっくるめて七千五百円ですむのは、やはり魅力である。
「ぼくは部屋に電話を引こうと思ってるんです」
と男はいよいよ気勢をあげる。
「呼び出し電話で、いちいち母家まで行くのは面倒だし、仕事が忙しくなると世間体《せけんてい》も良くない。あの女は嫌《いや》がってますがね」
〈小母さん〉が、いつの間にか、〈あの女〉になっている。
「でも、そんな風に忙しくなったら、ふつうのアパートに入ったほうがいいんじゃないですか」
辰夫はそう言った。この男は、いったいなんのために、莫迦安い学生下宿にいるのか、その根本の部分が訝《いぶか》しかった。
「まだ忙しくなってませんからな」と男は苦笑した。「しかし、忙しくなっても、ぼくは、しばらくは、ここに踏みとどまっているつもりです。成功間違いなし、とわかってから、ぽーんと高級アパートに移るつもりです」
「はあ……」
「こんな話をするのは、あなたに対してだけです。田舎出の学生どもなんか、ぼくは相手にしていません。前野さんだけは語るに足る人だ、と、ひそかに睨《にら》んでいましたから」
おやおや、と辰夫は思った。
「ぼくは大学院に入ろうとして勉強中の身ですよ」
「それはないでしょう。嘘《うそ》ですよ、それは」
男は笑い出した。
「前野さんのように、のべつ外出していたら、勉強なんかできるはずがない」
この男はおれを観察しているのか、と辰夫は慌《あわ》てた。ただ気障《きざ》なだけかと思ったら、気持の悪い鋭さがある!
入口で、おかみが、けたたましい声で辰夫を呼んだ。
「ちょっと、失礼」
辰夫は廊下に飛び出した。
小さなおかみはエプロン姿のずんぐりした身体を反らせるようにしていた。辰夫を見ると、速達スタンプのある葉書を突き出して、
「忘れてたのよ、これ」と、大儀そうに言った。
いまの自分に葉書がくるとすれば、職安からだけだがと辰夫は思いながら、太い万年筆で書かれた差出人の名を見た。
城戸草平《きどそうへい》――例のスリラードラマの原作の審査員のひとりだった。
あ、と思った。当選したのだろうか。
葉書を裏がえすと、大きな字で、
「甚《はなは》だ残念ですが、貴方《あなた》は落選しました。アイデアは悪くないのですが、小説の体《てい》をなしていません。しかし、小生、貴方の名前を記憶しております。年内にお眼にかかれればと思いますので、小生の秘書あてに電話して下さい」
と、あった。
原宿駅には殆《ほとん》ど人影がなかった。
城戸草平の女秘書は、原宿で国電を降りて、青山の電車通りのほうに歩け、と電話で教えてくれたのだ。
表参道を下りながら、彼は、どこかで、そばでも食べておこう、と思った。午後一時にこい、というのでは、めしは出ないだろう。
セントラル・アパートのある交差点まで歩き、辺りを見まわした。住宅街の中なので、気楽な食べ物屋はあまりないのだ。
渋谷方面に向って右側に、大衆食堂とラーメン屋がひっそりとある。腕時計を見ると、一時二十分前なので、約束の時刻に遅れる可能性があった。彼は昼食を諦《あきら》め、横断歩道を渡った。
しばらく歩いてから、区分地図を出して、城戸の住所番地を確認した。穏田《おんでん》というところだ。左に曲ってから、ゆっくりと歩くことにした。
その屋敷はすぐにわかった。コンクリートの塀《へい》がつづき、鉄の門の脇《わき》に〈城戸〉という大きな木の表札が出ている。
庭木が多いので、なかの様子はわからないが、雀《すずめ》の声がうるさいほどである。郵便受けの下のブザーを押すと、女中らしい人が出てきて、門をあけた。
有名人の家を初めて訪れた辰夫は興味|津々《しんしん》であった。庭が広いのは、たぶん、そうだろうと思っていたのだが、深い川が敷地の中を流れていて、小さな橋がかかっているのには驚いた。
驚いてはいるが、表面は、少しも驚いていない顔をしている。こんなことで驚いたのでは沽券《こけん》にかかわるだろう。無表情を装った彼は、丸太を組み合せて作った凝った橋を渡った。
橋の向うは洋風の庭園になっていて、二階建ての白い洋館がある。それが城戸草平の家らしい。
辰夫はいま通ってきた道の途中にあった日本家屋が気になった。
「あちらは何ですか」
思いきって女中にきいてみると、
「先生のご両親のお家です」
という答えがかえってきた。城戸草平の両親といえば八十代、ひょっとしたら九十代かも知れない。化け物みたいなもんだ。
洋館の玄関を入ってすぐ右が応接間だった。三十畳はゆうにある部屋の、マントルピースの前の椅子《いす》に、古風な丸い眼鏡をかけた、銀髪の男がいた。銀髪ではあるが、面長《おもなが》で、むかしは端正な二枚目だったろうと思う。いまだに端正ではあるのだが、皮膚が弛《たる》んできているのが残念だ。
「わざわざ……」
和服姿の城戸草平は立ち上った。
辰夫はまた驚いた。相手の顔の長さからみて、背丈がこのくらいはあるだろう――と予測した位置よりも、ずっと低いところに相手の顔がある。バランスを失して顔が長いのだ。
これは相手が悪いのではない。目測を誤った辰夫が悪いのである。しかし、滑稽感《こつけいかん》が湧《わ》いてくるのは抑えがたい。
「すわって下さい」
城戸草平はにこりともせずに、黒い革製の椅子を示した。
辰夫はおそるおそる腰をおろす。
「きみの小説については、あの葉書に書いた通りです。ぼくの見たところ、きみは小説家志望ではない。ちがうかね?」
「はあ……」
辰夫の声は掠《かす》れ気味だった。
「じゃ、この問題は、もう、いいね?」
「ええ、いいです」
辰夫は頷いた。
「よろしい」
城戸草平の唇に、かすかな笑いがあらわれた。微笑なのか、苦笑なのかは、判然としない。
「きみの名前は覚えている。一年ぐらい前かな、ぼくが出している『黒猫《くろねこ》』をむちゃくちゃにケナした投書を編集部あてに出さなかったかね?」
辰夫はまたしても驚いた。よく覚えているものだ、と思った。
「はい……」
「ただの悪口だったら破りすてるだけだ。しかし、あの批判は、『黒猫』の弱点を、みごとに突いていたので、はっきり記憶している。あれは、レターペーパーで四、五枚はあっただろう?」
「は……」
と答えたが、辰夫はこまかいことを忘れていた。「黒猫」のみならず、「エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン」日本版からラジオの深夜放送にいたるまで、発作的《ヽヽヽ》に、批評および改革案を書いて送る癖があったのだ。彼自身は先方に良かれと思ってするのだが、返事はおろか、まともに相手にされたことは、ついぞ、なかった。
「無責任な批評や冷やかしは多いが、あんなに熱心で、こまかい意見は珍しい。それで覚えていたのだ」
どんなことを書いたっけ、と辰夫は考えた。
もちろん、いいかげんな意見を書いたつもりはなかった。雑誌の編集、ラジオ番組の構成――そういったことが一つでも頭にひっかかると、それだけが気になって、ほかのことがまるで考えられなくなる|たち《ヽヽ》だった。自分が手がければ、こうするのだが、といった様々な妄想《もうそう》が頭に充満し、我慢できなくなってくる。それらの妄想から解放されるために、彼は熱心にペンを取るのだ。
だから、無責任な意見を記すはずはなかった。少くとも、書いている間は、〈全身全霊をかたむけて〉という形容がふさわしいほど、神経を集中させ、熱中する。書き終えると、がっくりするほどである。
ただし、一度、文字にして、送ってしまうと、きれいさっぱり忘れ去るのも辰夫の特徴であった。だから、二、三カ月まえに、どんなことを書いたかさえ覚えていない。ましてや、一年前のことなど、論外である。それを無責任といわれれば、そうですか、と答えるしかない。
「きみは生意気だ!」
城戸は大声を出した。
辰夫はびくっとする。幸い、そのとき、女中が紅茶を運んできた。
「実に生意気だと、ぼくは、あのとき思った。しかし、良い点もある。どっちを取るべきか、ぼくは迷っている」
城戸は背中を丸めて洟《はな》を啜《すす》った。急に老《ふ》けこんだように見える。六十を少し過ぎたくらいだろうか。
辰夫には、この人物が何を考えているのか、さっぱり、わからない。そもそも城戸草平に対して興味を持っていないのである。
高名な推理作家であることは知っている。作品も、幾つかは読んでいる。しかし、近年はテレビのクイズ番組のレギュラー解答者としてのみ著名であり、本業はおろそかになっているようだ。週に一度のテレビ出演と講演だけで虚名を保っている、という皮肉を、どこかの週刊誌で読んだように思う。
「秘書の話では、きみは失業しているそうだが、本当かね?」
「ええ」
辰夫は頷《うなず》いた。
「すると、時間は余っているのだろう」
「まあ、そうですが……」
「うむ、こういうことはどうかな」
城戸は眼鏡のレンズ越しに辰夫を見つめた。
「『黒猫』の編集会議は週に一度おこなわれる。きみは、そこに出席して、忌憚《きたん》のない意見を述べるのだ。会議は二時間ぐらいなものだから、月に四回として、八時間を割いてもらえばいい……」
辰夫は相手の眼《め》を見た。奇妙ではあるが、面白《おもしろ》い申し出だった。
「謝礼についても、はっきりさせておこう。月に手どりで七千円を支払う。なぜ七千円かときかないで欲しい。これ以上は支払えないからだ」
冗談じゃない、と辰夫は思った。七千円といえば、彼の下宿代とほぼ同額である。月に四回、会議に出て、それだけくれるなら、こんなありがたい話はない!
「どうかね」
「はい」
辰夫は喜びの色を顔に出さぬようにして、
「私でお役に立てるかどうか……」
神妙に眼を伏せてみせる。
城戸はあいまいに頷いて、
「次の会議の日時が決ったら、秘書に連絡させる。とにかく、一度、出席して、だな、編集会議そのものについての感想をぼくにきかせて欲しい」
辰夫はまたわからなくなった。
「……先生は、出席なさらないのですか」
と、彼はたずねてみた。
「月に一度ぐらいは出るが、毎週というわけにはいかん。それでなくても、雑用が多くて、『黒猫』関係の打合せは、なるべく、減らしたいのだ」
さらに、不機嫌《ふきげん》そうに、
「あの雑誌の資金面の面倒を見ているから、放《ほ》っておけないのだよ」とつけ加えた。
辰夫は返事のしようがなかった。なにか面倒なことに巻き込まれそうな予感がした。
「最近の『黒猫』を読んでいるかね?」
「は、まあ……」
「四号ぶん、あげよう」
辰夫が読んでいないのを見抜いたらしく、城戸はライティング・ビューローの上に積みあげた雑誌をとり、テーブルに運んだ。
「この表紙からして不満なのだ。色が暗いし、感覚も古い」
そして、マガジンラックから「宝石」の新しい号をとり上げて、
「これをどう思う?」ときいた。
「あまり、読んでいないのです。……きらいではないのですが、百五十円が痛いので」
城戸は椅子の背にもたれて大きく吐息をした。
「経営がだいぶ苦しいらしいが、江戸川乱歩は頑張《がんば》っている。敵ながら、あっぱれだ。毎月の赤字を埋めるために、もう一つ、雑誌を出している。知っているか」
「『ヒッチコック・マガジン』でしょう。いつか葉書で批評してやりました」
「軽薄きわまるものだ」
城戸はわが意を得たように言った。
「しかし、あんなものが、この夏ごろから売れ始めたらしい。世の中、どうなっているのかわからん」
「乱戦状態ですね」
「『エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン』『マンハント』があって、『SFマガジン』がある。日本の推理小説雑誌が、まだほかに二誌ある。この乱立の中で『黒猫』をさらに拡張しなければならんのだ。頭が痛いよ」
城戸は眼鏡を外して、鼻当てのあかくなった跡を二本の指で強く押えた。
「『黒猫』は、『宝石』に対抗すべき性格の雑誌なのだ。心得ておいて欲しいのは、それだけだ。とにかく、まず、編集部を観察して欲しい。……そうだ、七千円を先払いしておこう」
辰夫《たつお》は狐《きつね》につままれたような気分だった。
城戸草平のような名士に招かれたことじたいが、現在の彼の身の上から考えると、不思議だった。そして、城戸の申し出たるや、編集に知恵を貸せというのか、編集部の様子を観察して報告しろというのか、よくわからない、不可思議なものである。
これが現実だろうかと考えるうちに、地下鉄の神宮前(現・表参道)駅の入口まできていた。
まあ、どうでもいい、と彼は思った。城戸草平がくれた七枚の千円札が財布に入っている。これだけは確固とした現実であり、木の葉ではない。城戸草平は、明日にでも考えを変えてしまうかも知れないが、まさか金をかえせとは言わないだろう。かりに言ったところで、かえす気は、毛頭ない……。
地下鉄に乗り込む。電車は、すぐに闇を出て、渋谷の街を見おろしながらゆっくりと終着駅に向った。
千円札が七枚あるだけで、街の眺《なが》めが変るのであった。この街の何分の一かが、自分のものになったような気がする。人生はバラ色ではないが、灰色でもない。いわば、バラ色と灰色が|まだら《ヽヽヽ》になっているのだ。
改札口を出ると、パンテオンのほうへと歩いた。急にコーヒーが飲みたくなったのである。
勤めていたころは、日に十杯は飲んでいた。それが、いまでは、週に一回しか飲めないのだ。
パンテオンの右どなりの喫茶店「ユーハイム」が、渋谷での、人と待ち合せる場所だった。ガラス張りで、外がよく見えるためである。店は、少しも変化していず、繁盛しているようである。
いちばん奥のテーブルにすわった彼は、コーヒーを注文した。
「驚いたわ」
彼の横のテーブルで向い合った娘二人の会話がきこえてくる。
「さっき、別なお店に入ったら、六十円のコーヒーが二百五十円もするのよ。変なケーキが付くんだけどさ」
「イヴだからでしょ。特別料金なのよ」
クリスマス・イヴだったのか、と、辰夫はようやく気づいた。道を行く人々が浮き浮きしている理由がわかった。
よし、ケーキを食ってやろう、と彼は、発作的に思いついた。
クリスマス・イヴ、孤独、恋人がいない――こうした暗くなりがちな思い、不満が、突然、ケーキに向って短絡してしまうのである。
「ショートケーキ、たのむ」
と彼はウエイトレスに声をかけた。
三十分ほどで、彼はコーヒーを三杯飲み、ケーキを五|皿《さら》平らげた。
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第二章 会社というもの
暮も押しつまった三十日に、城戸草平《きどそうへい》の女秘書から母家《おもや》に電話が入って、「黒猫《くろねこ》」を発行している文化社は、新年の五日から始まり、六日に編集会議がある、と伝えてきた。文化社とはおそれいった名前である。
――なにか、下調べしておく必要があるでしょうか?
という辰夫の問いに、相手は、
――べつに……。
と答えた。なんだか、莫迦《ばか》にされたような気がした。
いずれにせよ、年が改まるのはありがたい。辰夫にとって、一九六〇年は面白くない年であった。
母家のおかみは井戸端で障子の桟《さん》を洗っている。下宿している学生たちは、殿様蛙《とのさまがえる》を残して、みな、郷里に帰ってしまった。殿様蛙と顔を合せたくない辰夫は、終日、万年床の中でラジオをきいていた。
ラジオは恒例の〈今年の回顧〉をやっている。安保反対闘争、樺美智子《かんばみちこ》の死、アイゼンハワー訪日中止、ハガチー事件、岸内閣崩壊、浅沼稲次郎暗殺、三井三池スト解決などについて、評論家どもが、どうでもいいようなことを喋《しやべ》っている。
社会現象では、ダッコチャンブームとファンキー族の登場が代表だそうだ。浩宮《ひろのみや》誕生、裕次郎の結婚といった|おめでた《ヽヽヽヽ》から、雅樹《まさき》ちゃん誘拐《ゆうかい》殺害事件といった陰惨なものまである。外国のことだが、ケネディという男がアメリカの大統領になった。
失業者にとって、ラジオは心の友である。慰めてくれるのはラジオだけだ。局を変えると、今年のヒットパレードのベストテン発表が始まっていた。
ベストテンの一位は「死ぬほど愛して」である。たしか、「刑事」という映画の主題歌だ。二位は「太陽がいっぱい」で、以下、「黒いオルフェ」「月影のナポリ」「月影のキューバ」「悲しき16才」「悲しきインディアン」「ビキニ・スタイルのお嬢さん」「メロンの気持」「ムスターファ」(別名「悲しき60才」)の順である。これらの歌は、辰夫の生活のある瞬間と微妙にからみあっている。たとえば、馘首《かくしゆ》されて、街をさまよっていたとき、耳に入ってきたのが「太陽がいっぱい」、ニーノ・ロータのあの哀切なメロディであったという風に。この夏はどこを歩いても、「太陽がいっぱい」が流れていた。失業しなかったら、あんなに身に滲《し》みることはなかっただろう。だから、ニーノ・ロータの曲に象徴される年と別れられるのは、まことにありがたい。
一九六一年の三個日《さんがにち》は、殆《ほとん》ど、万年床の中にいて、気がむいた時に、冷えた雑煮を食べた。
雑煮の冷えたのほど始末に終えないものはないが、おかみが戸棚《とだな》に入れるのが早朝で、辰夫が起きるのが昼近くだから、致し方ない。おかみにしてみれば、辰夫と殿様蛙だけが正月に残っているのが面白くあるまい。
さすがに、三日になると、辰夫は近くの神社に初詣《はつもう》でに出かけた。下宿に戻《もど》ると、おかみが縁側に出てきて、
「前野さん、ごらんよ。土人がピアノひいてるよ。よく、ひけるわねえ」
と声をかけた。
辰夫が茶の間のテレビを覗《のぞ》いてみると、アート・ブレーキーが演奏しているのだった。
文化社の小さな看板を見つけるまで、辰夫は田村町寄りの新橋|界隈《かいわい》の細い道を十五分ほど歩きまわった。松の内とはいえ、中小企業の人たちはもう働いており、屠蘇《とそ》きげんの男がふらふら歩く姿も見られた。
会議は二時からだが、初めてなので、早く着くようにしたのである。小さなビルの三階にある編集部のドアをノックしたときは、一時四十分だった。
二、三度、ノックしたが、返事がない。思いきって、ドアを押すと、デスクを詰め込めるだけ詰め込んだ狭い部屋の左|隅《すみ》にいた眼鏡の男が、「なに?」と、押売りに対するように言った。
辰夫が立ち尽していると、
「なんだい?」
と、嘲笑《あざわら》うように、また、言った。
「前野と申します。二時からの会議に出るように言われまして」
「きいてないな」
眼鏡の男は妙な顔をする。
「城戸先生からそう言われたもので」
「だからさ。城戸先生から何もきいとらんと言ってるのよ」
男は長い足をもてあます恰好《かつこう》で、回転|椅子《いす》を左右に動かしている。
「困ったな」
辰夫は、思わず、呟《つぶや》いた。
「ここにいても、よろしいでしょうか」
「いるのは、構わんよ。……そうそう、編集会議は三時からに変更になったんだ」
それで、だれもいないのか。
「あの……失礼ですが、あなた、『黒猫』の編集長ですか?」
「おれは、ちがうよ」
と、男は厚い唇《くちびる》を歪《ゆが》めた。
「そうですか。じゃ、ぼく、三時まで待たせて頂きます」
「それは、まあ、おたくの自由だけどねえ」
中年の男はポマードをつけた髪をかきあげて、
「おれ、これから出なきゃならんのだよ。べつに、きみを疑ぐるわけじゃないが、ドアに鍵《かぎ》をかけて出たいんだ」
少し、意地が悪いようだ、と、辰夫は思った。
「じゃ、ぼくは外で待ちます」
「そうかい」
男は回転椅子から腰をあげた。背がひょろりと高い。
「とにかく、出ようや」
タートルネックのセーターに古びた茶の上着を着た男は、オーバーを持たずに部屋を出て、ドアに鍵をかけた。
街路に出ると、風が強くなっていた。首をすくめた。長身の男は、いかにも寒そうだ。主義だかなんだか知らないが、オーバーを着ればいいのに、と辰夫は思う。風が吹くたびに身体《からだ》を半回転させるのが、糸の切れた奴凧《やつこだこ》のように見える。
「きみ……どこで時間をつぶすつもりだい?」
「どこかそこらの本屋で……」
「喫茶店で待ったらどうだ?」
「ええ……」
辰夫は生返事をする。
「コーヒーは嫌《きら》いなのか」
妙にお節介な男である。意地悪かと思ったら、お節介だ。もっとも、この二つは根が同じなのかも知れない。
「嫌いじゃないですよ」
辰夫は開き直った。それでも、
「金がないんです」
と言った時は、耳朶《みみたぶ》があかくなっていた。
「なんだ、そうだったのか」
奴凧は急に親愛の笑みを見せて、
「おれはコーヒーが飲みたいんだ。つき合ってくれないか」
「いいんですか」
辰夫はためらった。城戸草平に貰《もら》った金の大半は、下宿代として、十二月末に、おかみの手に渡っている。地下鉄の霞《かすみ》ケ関《せき》からここまで、都電代を節約して歩いてきたのだが、だからといって、初対面の、名前も知らない男にコーヒーを奢《おご》られていいわけでもあるまい。
「いいとも」
男は馴《な》れた足どりで木造の喫茶店のドアを押した。
窓ぎわのテーブルに向うと、
「きみ、昼めし、まだじゃないのか」
「はあ……」
「顔色が悪い。サンドイッチでも食べなさいよ」
「でも……」
「いいから、食えよ」
男は笑って、注文に、サンドイッチを追加した。そう悪い人間ではないのかも知れない。
「ぼく、名刺を持っておりませんので……」
と、辰夫が言うと、男は、「おお」と気づいて、ポケットから定期入れを出し、名刺をつまみ出した。〈文化社編集部 二宮五郎〉と野暮《やぼ》ったい字体で印刷してある。
「前野君と言ったね」
男はわけのわからぬにやにや笑いを浮べている。
「おれが、なぜ、ここに誘ったかというとだな。うちの会議は、三時からといっても、ぴったりには始まらない。だいたい、三十分から一時間は、遅れるのだ」
「は……」
辰夫は意味がわからなかった。
「はは、不思議そうな顔をしているな」
「どうしてですか」
「きみが編集会議に出てみればわかる」
奴凧は気を持たせる言い方をして、
「だから、あと一時間半はかかるというわけだ」
「はあ」
「きみは編集部に入るのかね?」
「いえ、城戸先生が会議に出るようにとおっしゃられたので……」
「そういえば、以前《まえ》にも、そういう人がきたっけ。……二、三回で、こなくなった」
コーヒーとサンドイッチがきた。ポテトサラダと胡瓜《きゆうり》のサンドイッチだが、辰夫《たつお》はコーヒーで流し込むように平らげて、そえられたパセリまで食べてしまった。
「量が足りないんじゃないか」
奴凧は怪訝《けげん》な表情になって、
「ホットドッグでも貰ったらどうだ」
「けっこうです」
と、辰夫は答えた。
小鳥の餌《えさ》のようなサンドイッチだった。こんなものなら、あと二皿食っても、まだ足りないだろう。
「さーてと、会議が始まるまでに、ひと仕事するか」
奴凧はふらりと立ち上り、支払いをすませると、「この近くを散歩しないか」と言った。
行き場のない辰夫は、否《いや》も応《おう》もない。まさか、自分だけ、喫茶店のだるまストーヴで暖まっていたい、とは言い兼ねた。
風が冷えていた。奴凧は身体をまわしながら、「寒い」と呟いた。
どうしてオーバーを着ないのだろう、と辰夫はまた考えた。まさか、質に入れたわけでもあるまい。
「すぐそこのビルだよ」
奴凧は大股《おおまた》に歩き出した。風が背後から吹きつけてくるせいか、意外に足が早い。うっかりしていると、とり残されそうになる。
大きな鮨屋《すしや》と床屋にはさまれて、申しわけなさそうに建っている細いビルがあり、五階の窓の〈JP企画〉という金色の文字が薄れかかっている。
「あそこさ」
と言って奴凧は、戦火をまぬがれたらしい暗いビルに入り、磨《す》り減った階段を登り始めた。
年齢不詳だが、中年であることはまちがいない奴凧は、おいしょ、おいしょ、と言いながら、登ってゆく。五階の廊下に立つと、さすがに疲れた様子で、いやいや、と妙な独りごとを言った。
「どういう会社ですか、これは」
「うん。ひとくちでいえば、雑誌や週刊誌の記事の下請け会社だな」
そう答えてから、奴凧は〈JP企画〉のドアを黙って押した。
内部は文化社編集部と同じ位の広さだが、乱雑さは一枚|上手《うわて》である。スチルデスクの上は原稿の山で、部屋の真中に紐《ひも》が張ってあり、クリップでとめられたネガフィルムが何本もぶら下っている。辰夫はこんな光景を初めて見た。
文化社と違うのは活気が漲《みなぎ》っていることだ。ネガフィルムを調べている男、大きな枡目《ますめ》の原稿用紙に鉛筆で文字を殴り書きしている男、蛍光《けいこう》スタンドに向って首をひねっている男――この三人しかいないのだが、なんとも形容できぬ熱気が感じられる。その中の、スタンドに向っていた男がボールペンを手にしたまま、奴凧に気づいて、「明けまして……」と言った。
「お忙しそうだねえ」
奴凧は気圧《けお》されたように笑った。
「相も変らずよ」
と男は愛想のない声で言って、
「宮さん、煙草《たばこ》を吸うなら、こっちのほうで吸ってくれ。ネガに引火したらたまらねえ」
「わかってるよ」
奴凧はおとなしく頷《うなず》いて、
「この人、今度、文化社の手伝いをする前野君。よろしく、たのむ」
「ああ、そう」
男は辰夫をじろじろ見て、
「若い身空で文化社に入るとは、ご奇特だ。……ヌードのネガでも見ますか。いや、こっちのほうがいいかな」
デスクの引き出しから、ホルダーに入ったカラーポジを三枚出して、辰夫に渡した。
「蛍光ランプのほうに向けてごらんなさい」
「これは……」
辰夫はショックを受けた。ファッション・モデルで売り出し、さいきんは映画にも出演している人気女優の全裸の写真である。首をすげかえたものではない。|ぼかし《ヽヽヽ》なしのカラーヌードなのだ。こんなものが、どうして、存在するのだろうか?
「驚いたかい」
と、男は辰夫に声をかけた。
「ええ」
辰夫はまだ信じられない面持《おもも》ちである。岩の上で両足を大きく開いた姿を仰角《ぎようかく》で捉《とら》えた一枚が強烈であった。
「若い人は、たいてい驚くな」
「何ですか、この写真?」
「種も仕掛けもない本物だ」
「でも……」
「二年ぐらい前のものだ。その写真を撮ったカメラマンが彼女の恋人だった。カメラマンに妻子がいたので、|こう《ヽヽ》なったがね」
男は右手を、ぱっと開いて、
「善《い》い娘《こ》だったが、ツイていなかった。もっとも、それ以後、開き直って、いっきに出世したな」
「その写真、どこかの週刊誌に売りつけたらどうだい」
と、奴凧は冗談ともつかぬ口調になる。
「そんなことはできない」と、男はきっぱり言った。「このカメラマン、おれたちの仲間だからな」
「そういうことか」
奴凧は首をすくめる。
「ところで、宮さん、暮に貰ったあの原稿だけど、ちょっと使えないな」
男は奴凧を直視して、
「こう言っちゃ悪いけれど、おたく、手を抜いてるよ。いくら芸能ゴシップだって、もう少し鮮度と正確さってことを考えてくれなきゃ困る。新年早々、こんなこと、言いたかないけどさ」
「わかった……」
奴凧は閉口気味である。
「わかってないんだよ。新宿あたりのバーで、芸能記者が与太をとばしてるのを脇《わき》で小耳にはさんで書いた――そういう感じがあるんだ。原稿を書くってのは、そんな甘いもんじゃない……」
「わかった、わかったよ」
奴凧は片手で制した。
思うに、奴凧は自分の顔の広さを誇示するために、辰夫をここにつれてきたのであろう。ところが、案に相違して、文化社以外の仕事をしていることが露見したばかりか、いいかげんな原稿を書いている事実を辰夫の眼《め》の前で指摘され、立つ瀬がなくなっている。もともと良くない顔色が、さらに悪くなったようだ。
「宮さんは、いつも、わかったって言うんだ。わかってないんだよ、ほんとは」
と、男はなおも粘る。
「わかったよ、もう」
奴凧は小声でくりかえす。
「いや、わかってない。おたくは、所詮《しよせん》、城戸草平《きどそうへい》という名士に庇護《ひご》された身なんだ」
ほうほうの体《てい》で〈JP企画〉を出た奴凧は、階段をおりながら、
「もう一つ、寄るところがある」
と、辰夫に言った。よくよく油を売りたがる性格のようである。
奴凧は、三階のフロアで立ちどまり、ドアをノックした。
どうぞ、と元気の良い声がかえってくる。いるいる、と陽気に呟《つぶや》きながら、奴凧はドアの把手《とつて》に手をかけた。
唖然《あぜん》とするほど、なにもない部屋の窓ぎわにデスクがあり、三十歳を少し過ぎたかと思われる男がいた。頭髪はいわゆるスポーツ刈りで、紺の三つ揃《ぞろ》いに、きちんとネクタイをしているのが、かえって、胡散臭《うさんくさ》く見える。デスクの上には、ラジオと若干の書類。そして、床には石油ストーヴがあるだけだった。
奴凧は三つ揃いの男と新年の挨拶《あいさつ》を交してから、「電話を貸してくれない?」とたずねた。
なんのことはない、電話を只《ただ》でかけるために入ってきたのだ。
「お初《はつ》にお眼にかかります。わたし、こういう者です」
三つ揃いの男は辰夫に名刺をさしだした。名刺には〈国際プロダクション常務取締役 井田実〉とあった。
「どうぞ、おすわり下さい。女の子がまだ田舎から帰らないので、お茶を出せませんが」
チョッキのポケットに左手の親指をかけて、愛想の良い笑みを浮べている。八重歯が目立つ、妙に人なつこそうな男である。
「こちらは、どういうお仕事を?」
辰夫がたずねるやいなや、井田はいっきに喋《しやべ》りだした。
「現在のところ、ラジオ番組の企画が主になっております。いま好評の『アメリカン・ジュークボックス』なども、わたしが企画したものです。しかし、この程度でしたら、わたしが手がけるまでもないことで、わたしの本当の計画は、もっと大きい。いわゆる呼び屋と混同されるおそれがあるので、あまり口にしたくないのですが、海外のアーティストで呼びたい人が二人おります。ひとりは、そのものずばり、エルヴィスです。エルヴィス・プレスリーは、どの呼び屋も狙《ねら》っていて、しかも、みんな、失敗している。ギャラが高過ぎるからです。彼は去年の春に除隊したのですが、入隊中もまったく人気が落ちなかった、珍しいスターです。いや、もはや、スーパースターというべきでしょうが、わたしは、ある方法でエルヴィスにアプローチしつつあります。……もう一つの的は、シュヴァイツァー博士です」
「シュヴァイツァー?」
辰夫は思わず、ききかえした。
「あの医者のシュヴァイツァーですか」
「医者で、哲学者で、神学者ですよ」
井田は謎《なぞ》めいた笑みをみせた。
「二十世紀を代表する天才の一人です。もし来日したら、大事件になりましょう」
「そうですかね」
辰夫はぴんとこなかった。
「そう思いませんか」
相手はあくまでもにこやかに問いかけてくる。
「哲学者を呼ぶというと……講演会でもやるのでしょうか?」
「それは普通人の発想です。新聞社に任せておけばいいことですよ。わたしは、違います。――いいですか。シュヴァイツァーはオルガンの演奏でも世界の第一人者なのです。彼はオルガン史上に重要な足跡を残す演奏家であり、その方面の著書もあります。わたしは、ここにポイントを置きます。|あの《ヽヽ》シュヴァイツァーが三越でパイプオルガンのコンサートをひらく――これでマスコミは乗ります。|あの《ヽヽ》シュヴァイツァーがバッハから『黒い花びら』までを演奏する、ってのは、どうです?」
「『黒い花びら』?」
「お気に障ったら、『潮来笠《いたこがさ》』でも、なんでもいいのです」
「シュヴァイツァーが『潮来笠』を弾くのですか?」
「おかしいですか」
「いえ、おかしいというよりも、シュヴァイツァーがOKしますかね」
「日本に古くからある民謡だと言えばいいでしょう。まさか、橋幸夫のヒット曲とは知りますまい」
「それはそうですね」
辰夫はいささか辟易《へきえき》して、
「でも、あの人は、アフリカの奥地で病院を経営しているのでしょう?」
「ええ」
井田は大きく頷く。
「そんな奥地から、果して、出てきますかね?」と、辰夫は疑問を呈した。
「わたしも、その点については、いろいろ考えました」
井田は生真面目《きまじめ》な表情になって、
「わたしの調査に間違いがなければ、シュヴァイツァーのいる土地では、電報は石を使っているのです。大きな石に電文を刻み込んで土人が運ぶわけです。――時期がきたら、わたしは、シュヴァイツァーあてに、招聘《しようへい》の電報を、一日に三回、送ります。つまり、土人は電報用の重い石を、二人がかりで、野越え、山越え、鰐《わに》のいる深い谷を越えて、シュヴァイツァーの病院まで運ぶわけです。シュヴァイツァーは、日本に来たくないかも知れないけど、炎天下、一日三回、石を運ぶ土人に同情するでしょう。一日に五回、電報を打てば、日射病で倒れる土人が出るでしょう。『これでは、あまり、ひどい!』と、シュヴァイツァーは思うでしょうな。なんといっても、慈悲深い人ですからね。『いっそ、わたしが日本へ行こう!』と……」
二人が文化社の入口まで戻《もど》ったとき、鼈甲《べつこう》ぶちの眼鏡をかけた、がっしりした体格の男が、「二宮君……」と奴凧《やつこだこ》を呼びとめた。
「今まで、どこにおったのだ。きみがこないので、みんな待っているのだぞ!」
頭ごなしに怒鳴りつけられて、奴凧はむっとした顔つきをしたが、形勢われに利あらずと判断したのか、「すみません」と詫《わ》びた。「前野君に、文化社の仕事の内容を説明しておいたほうがいいと思いましたもので」
遅刻は辰夫《たつお》のせいになった。いい面《つら》の皮である。
「前野君?」
雄牛のような体格の男は、ようやく、辰夫の存在に気づいた。
「こちら、専務の黒崎《くろさき》さん……」
奴凧の言葉に、黒崎は紺のダブルのボタンをはめ直しながら、う、う、と唸《うな》り、細い眼で辰夫を見た。
「うむ、城戸先生から話をきいておる。今日の会議に出るのだね」
「はあ」
「ま、よろしく、たのむ」
黒崎は冷たさの感じられる眼で、辰夫を睨《にら》んだ。
粗雑なようで、けっこう抜け目がなさそうなこの男の風貌《ふうぼう》は、専務というよりは、時代劇に出てくる悪役に向いている。それも代官まではいかない。せいぜい代貸《だいがし》という格である。寒風に股《また》を開いて立つ姿は、さしずめ、さびれた宿場の代貸だ。
「わしは挨拶まわりに出るから、失礼する。前野君とは、また、会うじゃろう」
いよいよ時代劇である。代貸は肩を張って、入口の左手の部屋に戻った。
「ここは営業の部屋だ」
と、前を通り抜けながら、奴凧が説明した。
「黒崎さんが大きな顔をできるのは、ここだけさ」
奴凧は先に階段をあがり、二階のドアを押した。
石油ストーヴのおかげで、室内はかなり暖かい。大きな薬缶が盛大な湯気を上げていて、窓には水滴が一杯ついている。ろくに外が見えぬその窓ぎわに、髪を七三にわけた中年男と若い娘のデスクが並んでいる。
「経理の西さん」
奴凧の声に、中年男がこちらを見た。細長い顔で、顔色が青黒い。|こめかみ《ヽヽヽヽ》に血管が浮き出ていて、眉《まゆ》のあいだに皺《しわ》が寄っている。期日に手形を落とすために、のべつ神経を張りつめている人間の顔である。
「前野と申します」
辰夫が頭を下げると、中年男は「よろしく……」と、腰をあげた。ワイシャツには|しみ《ヽヽ》一つなく、ズボンの筋まで几帳面《きちようめん》そのものである。
「どうぞ、かけて下さい。会議は、ここでやるのですから」
西はそう言って、スプリングがとび出しかけている擦《す》り切れた花模様のソファーを示した。
「お役に立てるかどうか……」
辰夫が呟くように言うと、
「城戸先生からうかがってます。遠慮なく発言して下さいよ。ぼくは期待しているのです」
西は眉間《みけん》の縦皺をそのままにして、デスクの引き出しから太田胃散をとり出した。
女の子が立ち上ろうとすると、「いいから、いいから」と制して、湯呑《ゆの》みに薬缶の湯を注ぎ、
「今ごろの時間になると、胃が痛むのですよ」
と、たのまれもしないのに説明した。
「胃拡張じゃないかな」
奴凧が冷やかす。
「冗談じゃない。神経性の胃炎だよ」
西はいよいよ苦い顔をする。一見して、胃弱と判断していた辰夫は、べつに意外ではなかった。
「気で病むってやつでしょう」
奴凧は、あくまで、からかう口調である。
「そうじゃないよ。雑誌の売れ行きが向上してくれれば、たちどころに癒《なお》るさ」
「すると、ぼくら編集部の責任なんですね」
「そこまでは言いませんがねえ」
西は小さな匙《さじ》で薬をすくい、口の中に入れて、白湯《さゆ》で一息に飲んだ。
数人の男女が入ってきた。
白髪の初老の男、若い男、中年の女、と、さまざまである。奴凧に紹介されて、辰夫はひとりひとりに頭をさげたが、名前まではとても覚えきれない。
それにしても、静かな人たちであった。よく言えば和気|藹々《あいあい》、悪くいえば無気力である。天候の話をしたり、どこそこの|そば《ヽヽ》がうまい、といった当り障りのない会話を交している。日本アルプスで遭難した学生たちが心配だ、などと言う奴《やつ》がいる。
十分ほど、がやがやしているのをきいているうちに、辰夫は苛々《いらいら》してきた。これで会議が始まるのだろうかと思う。シュヴァイツァーを日本に呼んで日本橋三越のパイプオルガンを弾かせよう、などという破天荒な計画も困るが、この無気力さにくらべれば、まだしもであろう。
「津田さんはどうしたのですか!」
突然、西が甲高い声で叫んだ。
「編集長がこなきゃ話にならん!」
そうだ、そうだ、と辰夫は心の中で拍手する。奴凧が〈三十分から一時間は遅れる〉と放言したのも、もっともである。
「今までいたんです。手洗いでしょう」
と若い男が言った。
そうじゃないという声がきこえて、アパッチ族の娘みたいな髪型の女の子が、階下へ探しに行った。
「会議というと、姿が見えなくなるのがおかしい。率先して席につかなければいけないのに……」
西の顔は、熊《くま》の胆《い》でも舐《な》めたようである。胃が痛むのは当然だ、と辰夫は大いに同情した。
アパッチ娘が登ってきて、どこにも見えない、と言った。
追うようにして、オーバーを着た代貸の黒崎が入ってくる。
「出かけるのはやめた。わしも会議に加わる。津田君の態度がおかしいからな」
「がつん、と言ってやって下さいよ」
西の|こめかみ《ヽヽヽヽ》がかすかに痙攣《けいれん》した。
それから、なおも十分以上待たされて、辰夫は呆《あき》れかえった。
彼がいままでに経験した会社は、どれも小さなもので、ずいぶんいいかげんなところもあったが、会議が始まる時刻に、中心となる人物が姿を消してしまうなんてことは、ついぞなかった。小さな会社なりに、いや、小さいからこそ、緊張している、といった空気があったものだ。
「困りますな、こういうことが、くりかえされるようでは」
西は渋面《じゆうめん》のまま、黒崎に言った。
「わしは何度も注意しておるのだよ」
黒崎はそう答える。社員たちの前で、恰好《かつこう》がつかずに困っているようでもあった。
その時、ドアが音もなくあいて、背広姿の男がしずかに入ってきた。
その男の陰気な音なしの構えには、猫《ねこ》を思わせるものがあった。としは四十過ぎであろうか。顔色は、悪いという段階を通り越して、黄色く変色している。眼が細く、顔がむくんでいるので、ゴム製の仮面をかぶっているように見える。ひょっとしたら、もう、五十近いのかも知れないが、ゴム仮面のおかげで、としの推定が不可能だった。
ゴム仮面の男は、髪をオールバックにしている。あいている椅子《いす》にすわると、足を組み、無表情のまま、煙草《たばこ》をくわえた。まわりの者の遠慮がちな態度からみて、津田編集長であるのは明白であるが、「遅くなりました」でも「失礼しました」でもない。黙りこくって、つまらなそうに煙草をふかしている。
「津田君……」
と、黒崎が言った。
「みんな、待っとったのだよ」
一拍置いて、ゴム仮面は、ゆっくりと黒崎に顔を向け、細い眼で相手を見た。
が――何も言わない。
「津田君!」
黒崎の声が荒くなる。
「は?」
ゴム仮面はあくまで、とぼける。黒崎の代貸風の脅《おど》しも、糠《ぬか》に釘《くぎ》である。
「会議のときは、あなたが率先してくれなければ困ると話していたのですよ」
脇《わき》から、西が説明した。
ゴム仮面は、他人《ひと》をかっとさせるような笑みに唇《くちびる》をゆがめて、「急に電話で呼び出されたのだから、仕方がないでしょう」と言った。「この建物に入りたくないという作家もいるんですよ」
「それなら、それで……」
黒崎は息を切らせて、
「だれかに、ひとこと、断って行けばいいじゃないか。会議の時刻は決っているのだから……」
ゴム仮面は、ふたたび、声もなく笑って、
「二宮君に言っておこうとしたのですが、いなかったから……」
ついに奴凧のせいになった。奴凧は抗議しようとして、唇を噛《か》む。
「それは、狡《ずる》い逃げ方だぞ!」
黒崎は鋭く言った。
「二宮君が不在だったとしても、だれかがいたはずだ」
「電車通りの向うの喫茶店へ行って、新年の挨拶《あいさつ》をしただけですよ。気むずかしい作家ですからね、あちらは……」
ゴム仮面は、黒崎を無視するようにこう呟《つぶや》いて、煙草をふかした。編集部の苦労が、営業マンに理解できるものか、といった陰性の自尊心が感じられる。
辰夫は、ゴム仮面の態度に反撥《はんぱつ》をおぼえたが、しかし、この世界では、あるいはゴム仮面的人物がふつうなのかも知れないと考えた。そうだとすれば、これは、あまり居心地のよい場所ではなさそうだ。
「あまり、時間もないことですから、そろそろ始めましょうや」
がつん、と言って下さい、と力んだわりに、西は弱腰になり、黒崎の顔を宥《なだ》めるように見た。
「うむ……」
代貸は威厳をとり戻して、
「そうそう。先に、ここにいる前野君を、紹介しておこう。城戸《きど》先生のご推薦でな。今後、定例の編集会議に出席して、意見を述べる、アイデアを出す。そんな役を果して欲しいと、わしは希望しておる。城戸先生から相談されて、わしは大いに賛成と答えた……」
「歓迎します」
と、西が頷《うなず》くと、
「ぼくも歓迎します」
奴凧が片手をあげた。みんなが、同じ意味の言葉をがやがやと述べた。
「ぼくは……」
ゴム仮面はおもむろにライターをとり出して、煙草に火をつける。
「なにもきいておりませんよ……」
一瞬にして、空気が白けた。
「それは、おかしい。城戸先生は真先に津田君に相談したとおっしゃったぞ」
代貸は色をなした。ゴム仮面が遂《つい》にひとことも詫びなかったせいもあるのだろう。
「そういうお話はききましたが、ぼくは、まだ返事をしておりません。素人《しろうと》のアイデアで雑誌ができるならば、ぼくら、苦労しませんからなあ」
「なにを言うか!」
黒崎は唾《つば》をとばして怒鳴った。
「だいたい、きみがぼんやりしとるから、わしらが、あれこれ、余計な面倒を見んけりゃ、ならんのじゃないか!」
ゴム仮面は答えず、代りに、分厚いゴム製の皮膚を動かして笑った。それが、どれほどの不快感をあたえるか、当人は思いいたらないのかも知れない。
「なるほど」
銀髪の城戸|草平《そうへい》は、かすかに笑った。
庭に面した和室は暗く、卓の上には刺身や酢の物があった。辰夫は正座したままで、杯を口に運んでいる。
「黒崎専務から、いちおうの報告は貰《もら》ったがね。……そんな険悪な空気だったとは知らなかった。黒崎君も、だいぶ、苦労しているのだな」
辰夫は答えずに刺身に箸《はし》をのばした。中とろらしい鮪《まぐろ》の食い溜《だ》めをしておこうという気持が強いのだった。
「で、問題の編集会議だが、率直なところ、どう思う? 活溌《かつぱつ》な討論がおこなわれないのが悩みの種なのだが……」
城戸草平は和服の袂《たもと》を気にしながら徳利をさし出す。自分のような失業者に、貴重であろう時間を割くところに、この名士の悩みの深さが感じられた。
「生意気なことを申しあげますが、お気を悪くなさいませんか」
城戸は笑い出した。
「げんざい、ぼくの関係している仕事は、すべて、うまく運んでおる。文化団体、テレビ番組、すべてが好調だ……」
それはそうだろう、と辰夫は思った。
城戸草平が若いころに書いた捕物帖《とりものちよう》は、年に三回、映画化されて、多額の原作使用料が入る、と、奴凧が噂《うわさ》していた。それどころか、古くからの堅実な投資家として、城戸の資産は億単位にのぼる、とも、辰夫は教えられている。
「うまくいかないどころか、重苦しくのしかかってくるのは、文化社の問題だけなのだ。これは、気を悪くする、なんてものじゃない。精神的に大きな負担なのだ」
「わかりました」
辰夫《たつお》は杯を置いて、
「では、はっきり申しあげます。――討論など、まったく、おこなわれておりません。……討論にもなにも、推理小説についての初歩的な常識を知らないのですから、会議そのものが成立しません。正直に言って、あれほど、ものを知らない人たちが『黒猫』を作っているとは思いませんでした」
「そのぶんの知識は、ぼくが支えていたのだ」
城戸は唸《うな》るように言った。
「きみは知っているかどうか――文化社は、終戦後に無数にできた新興出版社の一つだ。文字さえ印刷してあれば、なんでも売れた時代だよ。……この種の出版社は、二、三年で潰《つぶ》れてしまったものだが、文化社はなんとか十数年生きのびてきた。黒崎《くろさき》君の才覚といってもよかろう。エロ雑誌を出したり、性科学の単行本を出したりして、とにかく、細々と食いつないできた」
辰夫は頷いたが、心は食べかけの中とろに飛んでいる。
「ぼくが『黒猫』を発刊するために文化社に乗り込んだのは数年前だが、以前からいる社員を首にすることはできなかった。津田君を外部から連れてきて、編集長に据《す》えただけだ。ある作家が推薦したので、ぼくは喜んで迎えたのだが、まあ、きみが見た通りだ。あんなアル中と知っていたら、雇わなかったのだが……」
「アル中ですか」
辰夫はようやく納得がいった。
「私は、意地悪なのかと思ってました」
「アル中で意地悪なのだ」
城戸は念を押した。
「このぼくにさえ意地悪をすることがある。無能な人間の唯一《ゆいいつ》のたのしみなのだ。しかし、そうだからといって、妻子のある人間を路頭に迷わせるわけにはいかん。……津田君ひとりならまだしも、『黒猫』発刊と同時に、全社員の生活が、間接的に、ぼくの責任になってきた……」
大きく息を吐いて、
「もちろん、ぼくの側にも、計算違いがあった。――これでも、若いころは、名編集者などと騒がれたことがあったのでね。ぼくも、うぬぼれていたのだ。ぼくが編集に乗り出せば、それだけで大きな話題になり、雑誌も売れると思ったのさ。実状は、きみが見る通りだ」
城戸は酒を呷《あお》った。
「いまのままでは、『黒猫』はどうしようもない。資金繰りも苦しいので、黒崎君が、別冊を出す案を持ってきた。去年の秋のことだ。しかし、いまの編集部員では、とても、もう一冊、隔月刊の雑誌を作るなんて不可能だ。物理的には可能だが、企画を立てられる者がいない」
「はあ……」
「きみに文化社へ行って貰ったのは、そのためだ。きみに文化社の内部を観察して貰う代りに、こちらもきみを観察した。黒崎専務と経理部長の西君は、きみをみて、合格だと言っていた。つまり、きみにその気持があれば、別冊の編集者としてだな……」
「待ってください」
辰夫は遮《さえぎ》った。
「私のような者に、いろいろお気をつかって頂いて恐縮ですが、私は他人《ひと》の言うなりにはなれない人間です。自分でよくわかっているのですが、組織の中でおとなしくしているなどという真似《まね》ができないのです」
「そんなことは、わかっとる」
城戸は不機嫌《ふきげん》そうに言った。
「ひと目みれば、わかることだ」
「会社づとめは気がすすみません。編集会議に出て、意見を述べるだけでけっこうです」
「まあ、きけよ」
城戸は酒をすすめながら、
「ぼくや黒崎専務が買ったのは、きみの〈協調性のなさ〉なのだ。黒崎君も、頑固《がんこ》そうな青年だと言っていた。|それこそ《ヽヽヽヽ》、ぼくらが求めていたものなのだ。頑固さと元気だな。右顧左眄《うこさべん》せずに遮二無二《しやにむに》突撃してゆく力、やる気、そういったものが文化社ではもっとも不足しているのだ」
「それは、もう、いやというほど感じました」
辰夫は笑った。
「しかし、私は、やはり辞退させて頂きます。外部でのコンサルタントのほうが性《しよう》に合っておりますので……」
「ほう。この城戸草平が頼んでも、いやだというのか」
城戸は脅すように辰夫の眼《め》を見て、
「ことわるのは、きみの自由だ。その代り、月に四回のコンサルタントの話は打ち切らせて貰う」
ひどいですよ、それは、と、辰夫は口走るところだった。
だが、考えてみれば、月に八時間だけ働いて、手取り七千円などというウマい話が、世の中に、そうあるものではない。そんなウマい話を疑わなかった自分がおかしいのだ。
「でも……」
辰夫は必死だった。七千円が打ち切られるのならば、文化社に入社するより仕方がないではないか!
「私は、編集者としての経験が、まったく、ないのですよ」
「充分、承知の上だ。技術的なことは、すぐに覚えられる」
「こうしたら、どうですか」
辰夫は、なんとか、逃れようとする。
「どなたかが編集長になるのです。私はその人の下で、いろいろ案を出します」
「駄目《だめ》だ」
城戸の答えは|にべ《ヽヽ》もない。
「さっきも言った通り、文化社の内部には、編集長たり得る資格の者はいない。だから、外部の人を探しているのだ。きみの言う通りにしたとすると、きみともう一人、都合、二人やとわねばならない。そんな金はない。すべて、ぼくのふところから出るのだから」
「そうか……」
辰夫は、思わず、呟いた。
二度と会社づとめはしたくないという決意が崩れてゆく。出版社はふつうの会社とはちがうと思わぬでもないが、あのアル中のゴム仮面の下で働くのでは、あまり、たのしくはないようだ。
またしても、〈ふつうの勤め〉か……。
彼はひそかに嘆息した。城戸草平は、外見よりも、はるかに老獪《ろうかい》な人物らしい。
「いいね、きみ?」
そう念を押した城戸は、辰夫が頷くのを待って、徳利を手にした。
「新しい雑誌は、一見して、『黒猫《くろねこ》』とは違わなければいけない。その点では、『エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン』や『ヒッチコック・マガジン』が参考になるだろう。ぼくと黒崎君が考えているのは、ああいう中綴《なかと》じの雑誌だ。軽快で、都会感覚が溢《あふ》れていなければいかん」
機嫌が良くなった城戸は、舌が軽くなり、定価のことや、初めは二カ月に一冊だが、好評ならば月刊にしたいといった希望を口にした。
「とにかく、次の会議までに、簡単なデザインをした見本を作って欲しいのだ。デザイナーの心当りがあるかね?」
すべてが急テンポだった。
「さあ?」
辰夫は首をかしげたが、あ、と思った。
下宿にいる殿様蛙《とのさまがえる》――あいつは、たしか、デザイナーの卵だったはずだ。
「もう、いいでしょう」
殿様蛙は、もったいぶった口調で呟くと、コーヒーサイフォンのアルコールランプを消した。
焦茶色《こげちやいろ》の液体が下るのを待って、馴《な》れた手つきで、カップに注《つ》ぎわける。ベッドや仕事机でいっぱいの四畳半には、さらに電気|炬燵《ごたつ》が持ちこまれている。
「さあ、どうぞ」
砂糖と缶《かん》入りミルクを机の隅《すみ》におくと、首を斜めにして、パイプをくわえた。
「では、お話をうかがいましょうか」
「これが束《つか》見本です」
辰夫はバッグから、これから作ろうという雑誌と同じ大きさ、同じ厚さの紙を束ねたものを取り出した。黒崎専務と相談して作ったもので、針金で中綴じされている。
「薄いものですな」
と、殿様蛙は感想を述べた。
「これで約百三十|頁《ページ》あります。二百頁ぐらいまで厚くできるのですが、それ以上、厚くすると、針金が支えきれなくて、頁がばらばらになってしまうそうです」
「良い紙ですね。じっさいに、この紙を使うのですか」
「それほど良くもないようですよ」
辰夫はコーヒーを啜《すす》りながら答える。
「ぼくも専門的なことはわからないのですが、他の中綴じの雑誌とくらべてみると、紙質は落ちます。ちょっと見ただけでは、わかりませんがね」
「じゃ、この紙を使うのですね?」
「ええ」
「ふむ……」
殿様蛙は紙の束を丸めてみて、
「これだと、ダスターコートのポケットに入れられるんだ。これからの雑誌は、ぶ厚くては駄目ですな」
「A5判で、このくらいの頁数がいいと思うのです」
「で、ぼくは何をやればいいのですか」
殿様蛙は、おもむろに、本題に入る。
「この紙の束を、雑誌らしく見えるようにして欲しいのです」
と辰夫は相手の眼を見た。
「ほう……」
「具体的にいえば、表紙をつけて頂くことと、小説の頁のレイアウトです。それから、鉛筆で、適当にカットを描き入れて下さい」
「カット、ですか」
と、殿様蛙は笑って、
「いま、ぼくらは、あまり、カットなんて言わないですよ。イラストレーションと言いますが……」
「じゃ、イラストレーションです。とにかく、アメリカの雑誌風にやってください」
「向うの雑誌というと、『ニューヨーカー』ですか」
「あれでは高級過ぎます。もっと大衆的でいいのですが……」
「つまり……」
殿様蛙は、スケッチブックをひろげて、横に長い風景を簡単に描いてみせ、
「こういう絵が、頁の上段に、左右ぶち抜きであったりするやつでしょう」
「そうです、そうです」
辰夫は話が通じ易《やす》いので驚いた。気障《きざ》な男だが、餅《もち》は餅屋である。
「|らしく見える《ヽヽヽヽヽヽ》ものは作れると思います」
殿様蛙は無表情に言いきった。
「お願いします」
「作れると思うのですがねえ」
パイプを片手に気を持たせて、
「先にうかがっておきたいのですが、この仕事のギャラは、どうなっているのですか?」
辰夫は、つまった。その辺のことは、まったく考えていなかったのだ。
「これが同人誌の表紙とかいうのでしたら、ぼくも、こんなことは申し上げないのですが……前野さんの場合は、商業誌でしょう。テスト版のそのまた見本、ぐらいなところでしょうが、ぼくのほうは、このために、幾日か働くわけですから」
「当然です、それは」
と、辰夫は言った。
「考えさせて頂きます」
「どういう風に考えるのですか」
殿様蛙が追い打ちをかけてきたので、辰夫は、むかっとした。
「どういう風に考えるかを考えるのさ」
と彼は低い声で言った。
「あなたは、よく観察しているらしいから、ぼくが、どういう立場にあるか、わかるんじゃないか」
「え?」
殿様蛙は気味悪そうにききかえした。
「さっきも話した通り、雑誌一冊をひとりで作れと言われたんだ。その段どりとして、社内を説得するための見本を作ることになった。見本を作るための予算なんて、ありゃしない。……だけど、他人に只《ただ》で仕事をたのむつもりはない。ぼくのほうの作業が進むにつれて、謝礼なり、なんなりを支払うことは、当然、考えます。ただ、いまは、掛け値なしの一文なしなんだ。だから、あなたが、いやだというのなら……」
「そうは言っていませんよ」
殿様蛙は驚いたように言った。
「怒らないで下さい」
「怒ってやしない。説明してるんです」
「……先に、そう説明して下されば……」
まだ、ぐだぐだ言っている。
この男は駄目だな、と辰夫は判断した。友人の弟でデザイン事務所につとめている男がいるので、そっちで、もう一冊つくっておこうと思った。
説明のための会議は一月半ばの月曜日の夕方からだった。
会議の前に、わしのところにきてくれ、という電話が、黒崎《くろさき》から入ったので、辰夫《たつお》はまず、一階の営業部に入って行った。
外部から送られてくる現金を数えている若い娘が顔をあげて、
「黒崎さん、すぐ、きますから」
と言った。
保利さんというその娘は、社内では、もっとも綺麗《きれい》だが、言葉に訛《なま》りがあるので、必要最小限のことしか口にしない。色が抜けるほど白いのに、惜しいことである。秋田だかどこだかの出身で、自分の中に閉じこもりつづけているというのだ。
「どこかへ行ってるの?」
辰夫がきくと、保利さんは、
「ちょっと……」
と答えた。ちょっと、では、話にならない。
すぐに、厚い、毛布みたいなオーバーを着た黒崎が、どこかから戻《もど》ってきた。
「いや、忙しい、忙しい」
ガスストーヴの横の椅子《いす》に股《また》をひろげてすわる姿は、まさに代貸である。
「できたかね」
「ええ」
「わしに見せてくれんか」
あれ、と辰夫は思った。城戸草平《きどそうへい》が真先に見るものと思っていたのに。
彼はバッグから見本をとり出して、黒崎に渡した。殿様蛙に手伝って貰《もら》ったほうである。
「おお……」
なんともつかぬ声を発して、黒崎は表紙を眺《なが》め、中をぱらぱらと見る。
「どうでしょうか?」
辰夫は不安になった。
黒崎は感想を言わずに、「まあ、すわりたまえ」と言った。
辰夫はこわれかけた椅子に腰をのせて、「どうですか?」と、もう一度、きいた。
「『黒猫』とは、だいぶ、ちがうなあ」
黒崎はあいまいな感想を口にしてから、
「実は、話が少し変ってきた」
と、秘密めかした言い方をした。
「なんですか?」
「わしが憂《うれ》えておるのは、『黒猫』の別冊を出したとしてだな。そこに掲載される小説が、『黒猫』の水準以下になるのではないかということだ」
「疑問形にする必要はありませんよ」と、辰夫は遠慮なしに言った。「まちがいなく、水準以下の作品ばかりが載ることになります。津田さんが、水準以上の作品を、こちらにまわしてくれるはずはないです。――これは誹謗《ひぼう》で言うのじゃありません。ぼくが津田さんの立場だったとしても、同じことをしますよ」
黒崎は歯茎まで見せて、〈大人の笑い〉を笑った。
「きみは、はっきり言うなあ」
「ええ」
「それなら話が早い。じつは、『エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン』、『マンハント』、『ヒッチコック・マガジン』――いわゆる翻訳三誌の売れ行きを調査してみた。これが、思っていたより良いのだ。……そこで、わしが相談したかったのは、小説を、翻訳で埋められないかということだ。版権の切れているものを中心にして、三割ぐらいは版権を取った短篇《たんぺん》を入れる。どうかね?」
……むずかしい、と言いかけて、辰夫はやめた。原作を選ぶのが、面倒といえば面倒だが、日本の作家の原稿をとることを思えば、まだしも楽ではないか。幸い、英語なら、なんとか読めるし……。
「考えてみます」
彼は含みを持たせた。
「そうなると、誌名はまったく新しくしたほうがよかろう。城戸先生も、七・三ぐらいで、こちらの考えに傾いておられる」
実に、どうも、勝手なものだ、と辰夫は思った。知らぬ間に、話がころころ変ってゆく。
「四匹目の泥鰌《どじよう》がいるかどうか」
辰夫は呟《つぶや》いた。
希望が出てきた。これでゴム仮面の下働きはしないですみそうだ。
城戸草平が出席する日には、特別に、新橋駅近くの小料理屋の二階が会議の場となる習慣があるらしい。
城戸草平を正面にして、左右が黒崎専務と西経理部長、さらに津田編集長、奴凧《やつこだこ》という順で、編集部員が居流れる。
成人の日を過ぎて、新年の挨拶《あいさつ》には少し遅いとはいえ、出資者がまったく挨拶をしないのもおかしいのだろう。背広姿があまり似合わぬ城戸草平は、少しも照れずに、「おめでとう。今年もよろしく」と一同を睨《ね》めまわし、全員がビールのグラスをあげて乾杯する。さらに、「今年こそ、わが社の飛躍の年にしたいものです」と黒崎がつけ加えたのが白々しかった。
「料理が出る前に、別冊の内容について、前野君の説明をきこう」
城戸草平が口を切った。
「そんな端《はじ》っこにいては、仕様がない。前野君、こっちにきてくれ。西君、席をゆずってくれんか」
黒崎が西に言うと、西はゴム仮面に、一つずつずれてください、と頼み、ゴム仮面は唇《くちびる》を|への字《ヽヽヽ》にしたが、城戸草平の手前、いやとも言えずに、重い腰を動かした。
城戸草平の脇《わき》の座布団《ざぶとん》にすわった辰夫は、殿様蛙とデザイン事務所の青年にたのんだ二冊の見本を回覧して貰うことにした。前者のはやや野暮ったく、後者のは垢抜《あかぬ》けている。二種類作っておけば、たぶん、野暮ったいほうに賛成して貰えるだろうというのが、辰夫の|読み《ヽヽ》であり、賛成さえ得られれば、あとはどうにでも変えられる、と考えていた。
「ふむ……」
丹念に両者を見くらべていた城戸草平は、鼻を鳴らした。
「どちらも及第点に達しているが、ぼくの好みは、こっちだな」
ヨットと水着の少女をデザインした、アール・デコ風の垢抜けた表紙のを指さしたのは、意外だった。
「私は……」
一冊と思っていたのが、二冊出てきたので、面喰《めんく》らった黒崎は、しばらく考えていたが、
「まあ、どちらでも」
と言って、西とゴム仮面に一冊ずつ渡した。
やがて、
「いいじゃないですか、ねえ?」
と西は言い、ゴム仮面はつまらなそうな表情で黙っている。
「津田君、どう思う?」
と、城戸草平が問いかけた。
「はあ……」
ゴム仮面は言葉をえらぶ様子で、
「悪くはないと思うのですが、翻訳小説の雑誌になるとすると、全体の構想も変ってくるのじゃないでしょうか」
「なるほど」
黒崎は大きく頷《うなず》いて、
「前野君、どうかね?」
と促した。
「誌名が変れば、表紙の感じは、当然、変ります。ですから、表紙に関しては、このさい、なにも言えません。小説を翻訳物にする可能性があるとうかがったのは、ついさっきですから……」
ゴム仮面はわが意を得たりという態度で城戸草平を見て、
「雑誌の性格が大きく変化するのですから、前野君には、さらに案を練って貰って、来月にでも、もう一度……」
「それでは遅い!」
黒崎は大声を発した。
「創刊号は六月末発売と決めているのだ。それから逆算すると、きみのように悠長《ゆうちよう》なことは言っておれん」
ゴム仮面は、殆《ほとん》ど無表情でいながら、嘲笑《ちようしよう》的にみえる、微妙な笑いを唇のはしに漂わせて、
「だからといって、前野君のように編集の経験がまったくない若い人に、重荷を負わせるのは、むりですよ。やはり、ぼくが、相談に乗って、ディスカッションを重ねた上で、決めていかなければ……」
「ちょっと……よろしいですか」
辰夫は片手をあげた。
「いいよ」
黒崎が応じた。
「今日、ご説明しようとしたポイントは四つです。表紙の件を除きますから、三つになるのですが……この三つに関しては、小説が翻訳物になっても、考えは変りません。ぼくが考えている雑誌作りの構想がくつがえるようなことはないのです」
「それは変じゃないか」
ゴム仮面の眼《め》が、にわかに冷ややかになる。
「日本の推理小説を主体にするのと、翻訳推理小説誌では、|作り《ヽヽ》がまったくちがうのだぞ」
「ぼくは初めから、他の翻訳小説誌を参考にして発想してますし、実は、小説は二の次といってもいいのです」
「なに!?」
ゴム仮面は色をなした。
「小説の雑誌を作る話をしているのに、小説など二の次だとは穏当ではない……」
と、ゴム仮面は苦々しげに言った。
「きみの発言をきいていると、小説というものを非常に軽視しているように感じられる。ぼくは不愉快だ」
「言葉が足りませんでした」
辰夫はすぐに詫《わ》びた。
いかに説明しようと、ゴム仮面が自分に好意を持つはずはないと彼は観念していた。ゴム仮面の楽園《パラダイス》である編集部の空気を強引に変えようとしているのだから、致し方あるまい。
しかし、ゴム仮面以外の編集部員を敵にまわしてはならない。そのためには、頭をさげることなど、なんでもなかった。
「ぼくが申したかったのは、こういう意味です。どんなにすぐれた短篇小説でも、それらを集めただけでは、雑誌は売れないと思うのです。玄人《プロ》に向って何を言うかとおっしゃられるといけませんから、ぼくの立場を申しますが、ぼくは読者のひとりとして発言しているのです。それも、たまたま、機会をあたえられたからであって、ふつうの読者は、批判をしない代りに、さっさと雑誌を見すててゆくわけです……」
「するとだな」
敏感に反応したのは黒崎だった。
「きみは、どういう雑誌なら買うのだ? ええ?」
「質の良い短篇ということでは、『エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン』がいい例です。あれは過去の無数の秀作の中からクイーン氏が厳選したものを、さらに日本でセレクトしているのですから、駄作《ださく》は殆どないです。――でも、それらを、ただ翻訳しただけでは、一年も続かなかったと思うのです。あの雑誌は、器《うつわ》が良かった。抽象画の表紙と、紙質と、レイアウトの鮮かさで、推理小説のイメージを一変させました。中綴《なかと》じで、薄いのも、かえって新鮮でした。あとの雑誌は、結局は、あれを真似《まね》ています。ぼくが手がけるとしたら、やはり、あれをお手本にしますね」
「真似だけじゃ困りますよ」
西が釘《くぎ》を刺してみせる。
「でも……」と、辰夫はつづけた。
「あの雑誌の場合、器だけが良かったんじゃありません。|おかず《ヽヽヽ》です。|おかず《ヽヽヽ》が良かったと思うんです」
「|おかず《ヽヽヽ》って何だ?」
城戸草平が、ぼそっと言った。
「あそこに載っている小説を米の飯と考えます。飯だけじゃ食事にならないわけで、|おかず《ヽヽヽ》が要ります。雑誌の真中に色頁があって、見開き(左右二頁の意)で、いろんな人が面白《おもしろ》い読物を書いていますね。あれが、ぼくのいう|おかず《ヽヽヽ》です。それから、短篇のひとつひとつに解説やコラムがついています。あれは、いってみれば、お新香です」
「小説以外の要素が必要ってことですな。それはぼくも痛感していますよ」
西の口調が好意的になった。
「それで? 三つのポイントってのは何だ?」
黒崎が矢継ぎ早にきく。
「一つは、色頁の|おかず《ヽヽヽ》です。西さんのおっしゃった小説以外の読物ですが、なるべく、幅を広くしたいのです。モダンジャズからテレビまで含めてもいいと思います。色頁は、少くとも三十二頁は要ると思いますが、その部分を特に充実させたいのです」
「テレビは記事にならんよ」
ゴム仮面が嗤《わら》った。
「一瞬にして消えるものだ。とりあげるに値しない」
「考えてみます」
辰夫はあいまいに逸《そ》らして、
「これが第一のポイントです」
「いいだろう」
城戸《きど》は頷いた。
「わしも、基本的には賛成だ。ただ、金がかかると困る。色頁にはクリーム上質紙を使いたいだろうが、贅沢《ぜいたく》を言われたら、きりがない」
と、黒崎《くろさき》は条件をつけて、
「第二のポイントは、金がかからんのだろうね?」
一同が笑った。笑わないのは辰夫《たつお》だけである。
「少しは、かかります」
と、辰夫は顔をあからめた。
「小説から色頁まで、統一したレイアウトが欲しいのです。外部の専門家に、すべて、任せることができれば幸いです」
「ふつうの割り付けではいかんのか」
黒崎の表情が険しくなる。
「いけないとはいえませんが、新しい雑誌という感じが薄れます」
「それは金額の問題だ。了承できる額なら相談に乗ろう」
「わかりました。……それから、三つめですが――折り込みのヌード写真を考えているのです」
「ヌード?」
ゴム仮面は、呆《あき》れ果てたようだった。
「それは大変だ」と西が言った。「カラーのグラビアでしょう?」
「ええ」
「あなたはわかっていないのだ。それは、とんでもない金がかかります。モデルやカメラマンも探すのでしょう」
「そのつもりです」
「わしは反対だ。金がかかり過ぎる」
黒崎はきびしく言った。
「どういう考えから出たのか知らないが、この件は見送ろう」
と城戸|草平《そうへい》が区切りをつけた。
「他の点は、だいたい、納得できた。方針としては、ぼくも、良いと思う。とにかく、これですすめて貰《もら》って、もし売れなかったら、三号目で、きみを首にするよ……」
会議が終ったのは八時過ぎだった。
ヌード写真を除けば、辰夫の提案はあっけないほど容易に受け入れられた。強硬な反対意見を予期していただけに、彼は拍子抜けした。掲載する小説は、翻訳物を主とすることに、|なんとなく《ヽヽヽヽヽ》決ってしまった。
「誌名を、至急に考えてくれ」
黒崎は慌《あわ》ただしく辰夫に言う。
そんなに、なにもかも、ひとりでできるものかと思いながらも、辰夫は、
「わかりました」
と答えた。
「月刊ということになれば、なるべく、『黒猫《くろねこ》』とかけ離れている誌名がいい」
小料理屋を出ながら、黒崎は辰夫の肩に手をかけて、
「たのむぜ」
「ちょっと待ってください」
ダフルコート姿の辰夫は、ふり向いて、
「ぼくは隔月刊という風にきいておりましたが……」
「そう|だった《ヽヽヽ》のさ、『黒猫』別冊の場合には。――しかし、雑誌の性格が変ったから、城戸先生とわしは月刊に考えを変えたのだ。つまり、イケるのではないかと踏んだのだよ。きみも、そのつもりで、頑張《がんば》ってくれなければ困るぞ」
実に勝手でムチャな注文だと辰夫は思った。
「ぼくひとりで、月刊の雑誌を作るのは無理ですよ」
「もちろん、校正その他の実務は、他の者が協力する。きみは無理というが、『エラリイ・クイーン』を調べたら、専任の編集者は二人だぜ」
辰夫は意外だった。なんとなく、五、六人で編集しているように思っていたのだ。
「小出版社というのは、そんなものだ。その代り、自分の思い通りの雑誌が作れる……」
それはそうだが……しかし……。
「……本当のことをいえば、ぼくは怖いのですよ」
「そんな――きみらしくもない」
黒崎は笑った。いったい、〈きみらしい〉とは、どういうことか?
「なにが怖いのだ」
「責任ですよ」
闇《やみ》の中で辰夫の吐く息が白い。
いままで、彼は、自分の提案が支持されたように思っていたのだが、本当は違うのではないか? 編集部の人たちは、自分と深くかかわりあいたくなかっただけではないだろうか?
「きみがそんなに深刻に考える必要はないよ」
黒崎は辰夫の眼を凝視して、
「なんと言おうと、|こと《ヽヽ》の責任は、わしにある。きみには結果だけしか伝えないから、いいかげんに感じたかも知れないが、城戸先生とわしは、充分にディスカッションして、月刊の線を考えたのだ。翻訳雑誌にしたのだって、その方が堅実な商売ができると計算したからだ。……きみは存分に好きなことをやりたまえ。それから、身体《からだ》に注意してくれ。創刊号が店頭にならぶまでには、無数の雑用がある。ハードルレースのようなものだ。身体をこわしたら、きみの負けだぞ」
そう言って、辰夫の肩を叩《たた》くと、黒崎は身体を揺すって去って行った。
「前野さん……」
入れかわりに声をかけてきたのは、編集部のひとりだった。
やたらに背が高く、肉体労働者風のごつい体格の男は、ひたいが禿《は》げ上っているので、年齢がわからない。会議のあいだも、殆ど発言をしないので、凡庸な男だろうと辰夫は思っている。たしか、金井と名乗ったはずである。
「お茶でも飲みませんか」
男は寒そうな顔で言った。
「いいですね」
辰夫は答えた。三号で首と宣告され、心細くなっているので、だれかと話をしたかったのだ。
「ぼく、津田さんに報告することがあるもので……先に、喫茶店に行っていてくれますか」
金井は新橋駅のほうを指さして、
「すぐ先の左側の店です」
と説明した。
木造の山小屋風の喫茶店「ボストン」は、天井が低く、暗いが、かなり奥深い。
辰夫がコーヒーを注文し終ったとき、
「前野さん!」
と、大きな声で呼ばれた。
仕切りのホンコンフラワーの向うに、紺の三つ揃《ぞろ》いを着た井田が立っている。辰夫が手をあげると、井田は素早く近づいてきた。
「よろしいですか?」
と念を押して、辰夫の向い側に腰かける。
「お元気なようですね。お噂《うわさ》はよく耳にします」
井田は、なんとなく、にやにやする。
「ろくな噂じゃないでしょう」
辰夫はそう呟《つぶや》いた。
井田は答えずに、右の掌《てのひら》を辰夫の前でひらいたり、閉じたりする。そのたびに、掌に赤い玉が増えてゆく。
「うまいものですねえ」
辰夫は感心した。
「初歩ですよ」
つまらなそうに言って、井田は赤い玉をポケットに収めた。
「シュヴァイツァー博士に『潮来笠《いたこがさ》』を弾かせる計画はどうなりました?」
「あれはまだです。エルヴィスのほうが先です」
井田は考え深そうに言った。
「ただ、スカラ座のロードショウで除隊後第一作の『GIブルース』を観《み》たのですが、画面のプレスリーにも、客席にも、以前のような熱気はありませんね。プレスリーは、相手役の踊りに食われっぱなしだし」
「|あく《ヽヽ》が抜けちゃったという評判ですね」
「プレスリーは|ぎんぎん《ヽヽヽヽ》じゃなきゃいかんですよ」
井田は独断的に言いきった。
「ところで、前野さん、お仕事のほうはいかがですか」
「これからです……」
と、前置きして、彼は、今日の会議の結果の差し障りない部分を話した。
「なるほど……」
井田はまじめな顔で軽く頷《うなず》き、
「わたしなどが余計なことを申しあげては|なん《ヽヽ》ですが、一にも二にも、編集権を握ることですな」
「え?」
「わたしも、かつて出版社にいたことがあるので、若干、思いあたる節があります。とにかく、あなたがまったく独自な編集をしていいかどうか、もう一度、念を押しておいたほうがいい」
「その点は……」
「わたしがきいているところでは、津田さんはあなたを部下の一人としか考えていないようです。悪いことは言いません。もう一度だけ、上のほうに念を押しなさい」
「ありがとう」
辰夫は、いちおう、礼を言って、
「あなたはどうして、ぼくにそんなことをおっしゃるのですか」
「二宮さんからきく限りでは、あなたが世間知らずのようだからです」
井田は上着のボタンを外した。ちらっと見えた裏地は真赤であった。
「誤解しないでください。世間知らずが悪いというんじゃないです。世間知らずで成功してくれれば、それに越したことはない。端的に言って、あなたには成功して欲しいのですよ」
「なぜですか」
「わたしは、雑文、コラムのたぐいを書き散らしておりますので、得意先が一つ増えるのです。――いや、これは冗談です。もう少し、まともに答えましょう。わたしは、数年前に、雑誌を二号だけ出して、つとめていた会社まで潰《つぶ》してしまった男です。『ニューヨーカー』の日本版を出すなんて大それた考えで……」
「想《おも》い出しました。ものすごい宣伝をして……なんていう雑誌でしたっけ?」
「きかないでください。若気の至りではすまされません。会社にとんでもない迷惑をかけた上に、先輩や同僚を失業させたのですから」
「怖いなあ」
思わず、そう言った。ひとごとではなかった。
そのとき、金井が入ってきた。
辰夫の様子から察して、腰をあげた井田は、「また、お目にかかります」と、慇懃《いんぎん》に一礼して、遠ざかって行った。
金井は「どうも」と言って、無造作に椅子《いす》に腰かけた。
「コーヒーだ」
とウエイトレスに声をかけると、両肘《りようひじ》をテーブルに突いて、にっこり笑った。
「前野さん……ぼくは、あなたより、一つ、歳下《としした》です。そうは見えないかも知れませんけど。実は、あなたのような人が現れるのを待っていたのです……」
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第三章 同調者
辰夫は、おのれの耳をうたがった。
まず、金井が自分より一つ下というのが、すぐには飲み込めない。三十代――それも、三十五歳より下には見えないのである。
次に、自分のように無茶な人間が現れるのを待っていたというのが、にわかには信じられなかった。
「待っていたって?」
ゆっくりと辰夫はききかえした。
「ぼくがあの編集部の雰囲気《ふんいき》をどう思っているか、わかるでしょ?」
金井は妙に馴《な》れ馴れしく言った。
「前野さんの受けとり方と、そうはちがわないと思います。退嬰《たいえい》的といいますか、ぼくら若者には耐えられないです」
言わんとしているところはわかる。わかり過ぎるほどわかるのだ。
しかし、禿げ上ったひたいと〈ぼくら若者〉という言葉が結びつかないのである。むろん、ひたいが禿げ上って、かなり後退している毛髪を七三に分けているからといって、〈ぼくら若者〉と名乗っていけない法はない。それはまあ、個人の自由である。それにしても、〈ぼくら若者〉という言葉を発するにあたって、一瞬のためらいが欲しい、と辰夫《たつお》は思った。少くとも、自分だったら、〈ぼくら若者〉などという言葉は使わないだろう。
「そう思ってはいても」と金井はつづけた。「ぼくひとりでは、どうにもなりません。どうしたらいいのか悩んでたところに、きみ、いや、あなたが現れたのです」
辰夫は答えに窮した。
この男を信用していいのかどうか判断がつかない。ゴム仮面の手下でない保証はなかった。
「評判が悪いでしょう、ぼくは」
辰夫は探りを入れた。
「価値|紊乱者《びんらんしや》が、かんたんに受け入れられるはずはないです」
金井は、は、は、と軽く笑って、
「前野さんには知識とエネルギーがあるから、うらやましい」と言った。
「下らない知識ですよ。推理小説にまつわることだから」
辰夫が謙遜《けんそん》してみせると、
「そう、たしかに下らない」
と金井は、まともに受けとった。辰夫は面白《おもしろ》くなかった。
「ぼくは文学好きですから、推理小説の大家とかベストセラー作家といった連中は、通俗的に見えて仕方がないです。ああいう連中をありがたがっている推理文壇の狭さも厭《いや》ですね」
文学青年か、と、辰夫は納得がいった。それでは、少々、アナクロニズムなのも仕方あるまい。
「それじゃ、ぼくとは話が合わないな」
辰夫は、はっきり言った。
「どうしてですか」
金井はひたいをあげ、オタマジャクシのそれのような小さな眼《め》で辰夫を見つめる。
「ぼくは推理小説しか読まない人間とは、とてもつき合いきれないが、といって、|たかが推理小説《ヽヽヽヽヽヽヽ》といった態度をとるインテリともつき合いたくない。ちゃんと理解した上で、|たかが推理小説《ヽヽヽヽヽヽヽ》というのなら、わかるけど……」
「まあ、そう怒らんで下さい」
金井は軽い咳《せき》をしながら笑って、
「その率直さが、あなたの良いところです」
「だいいち、推理小説に関する知識を〈下らない〉という人が、推理小説専門誌の編集をしているのはおかしいじゃないですか」
「そりゃ、そうですが……ぼくだって、勉強してはいるのです」
「勉強?」と、辰夫はいぶかしむ。
金井は某大出版社の名をあげて、
「ぼくは、あそこの臨時雇いだったのです。いつまでも臨時雇いではいやなので、文化社に正式に雇って貰《もら》ったのですよ。入って、まだ二年です」
それから、金井は、共稼《ともかせ》ぎの身であることを打ち明け、世帯を持ったころ、いかに貧乏していたかを話し始めたが、げんざいただいま貧乏のさいちゅうである辰夫はあまり興味が持てなかった。
「たしかに、ぼくと前野さんとは、立場もちがうし、教養体系もちがうと思います。しかし、|ぼくら若者《ヽヽヽヽヽ》が、あの会社の中で、やりたいことをやってゆくためには、手を組まなければ駄目《だめ》です。ぼくはよく知っているのですが、賛成意見が一つあるのと無いのでは大ちがいです。一つ賛成の手があがると、全体のムードが、たちまち変ってしまいます」
「なるほど……」
二度目の〈ぼくら若者〉でがっくりした辰夫も、あとの説明には、心を惹《ひ》かれた。これから具体的な作業に入るというのに、彼は孤立している。このままでは、津田の思う壺《つぼ》である。
「失礼ですが、前野さんよりはぼくのほうが、いくらか編集のキャリアがあります。なにかのお役には立つと思います」
「で、ぼくはあなたに何をすればいいのですか?」
「そうですね、先ゆき、知識を借りることがあるかも知れません。……でも、とりあえずは、前野さんを支持する方向で動きたいと思います。ぼく自身にとっても、そのほうがプラスなのです」
辰夫は相手に煙草《たばこ》をすすめた。
煙草も酒もやらない、と金井は答えた。
気が遠くなるほどの量の仕事が辰夫の眼の前にあった。とりあえずは、週に二日、出社して、二月一日からは、一日置きに、社に出ることになった。
会議の数日後、文化社に顔を出すと、辰夫のために用意された机の上に彼あての封書がのっていた。差出人は井田実だ。
封を切ると、手紙と原稿が入っていた。
〈先日は失礼しました。あの際、小生、雑文を書き散らしていると申しましたが、貴兄にはなんのことか判らなかったと思います。同封した原稿は、昨年の暮に、某週刊誌で没《ぼつ》になったものです。おひまな時に、ご一読頂ければ幸いです。〉
辰夫は興味を抱いた。朱色の罫《けい》の原稿用紙をひろげる。
〈宍戸錠《ししどじよう》
日活のB級作品の仇役《わるいほう》だった宍戸錠《せいけいほつぺ》が面白くなってきたのは、今春の「海を渡る波止場の風」あたりからである。人気が上昇するにつれて、彼のキャラクターは、単なる悪役ではなく、主人公《あきら》とのあいだに友情《こころ》が通い合う=Aたとえば、「ヴェラクルス」のバート・ランカスターみたいな役に変ってきた。その宍戸錠で筆者が感心したことが二つある。
1 彼は本当《ものほん》の殺し屋なんてえものが日本《わがくに》に存在していないと、くりかえし語っている。無いと承知していて|殺し屋《ぱたーん》を演じるのだから、これは必然的《いたしかたなく》に、外国映画《とつくに》の殺し屋の真似《にばんせんじ》、いや、宍戸はインテリだから、パロディに近くなってくる。この態度《やりかた》は知的《りこう》であり、失敗作《とんでもない》「悪い奴《やつ》ほどよく眠る」でチンケな殺し屋を出した黒沢明《えらいひと》なんかより頭《ぺてん》が良い。
2 一作ごとに、必ず新しいアイデアを一つ入れること。
これも、彼がみずから語っているところで、大ヒットした「|南海の狼火《ありえないおはなし》」では破戒僧《やぶれかぶれ》の殺し屋に扮《ふん》してあらわれた――と思っていたら、≪渡り鳥シリーズ≫中の最新作《おおあたり》「大草原の渡り鳥」では、ドック・ホリデイそっくりの扮装《いでたち》で、往年の|西部劇「高原児《らおーる・うおるつしゆ》」のデニス・モーガンばりのカードさばきを見せ、好事家《ものずき》を喜ばせた。「大草原の渡り鳥」は、ラストにいたって、正真正銘《にほんとはおもえない》の銃撃戦《どんぱち》をくりひろげ、金子信雄《いつもわるいひと》をやっつけるのだが、そこまでゆく筋の運びに余裕《あそび》があり、陸橋の上での小林旭《すーぱーまん》と錠との会話《やりとり》など、実際《ほんまに》、ゾクゾクするような嬉《うれ》しさであった。殺し屋のくせに、「どうも雑用が多くていけねえ」と呟《つぶや》くあたりも笑わせる。
マンネリ化した小林旭《まいとがい》の≪渡り鳥シリーズ≫≪流れ者シリーズ≫は、宍戸錠の快演怪演《おもうぞんぶん》によってよみがえったというべきであろう。とにかく、こんなイカす活劇俳優《からだだいいち》が日本《わがくに》に出現するとは思いもよらなかった。……〉
原稿は、なおも、数枚つづいていた。
|できるな《ヽヽヽヽ》、と辰夫は思った。
ルビで笑わせるこの方法は、辰夫の知っている限りでは、戦前のモダニズム雑誌「新青年」のコラムで始まったものである。この手は、だれにでもできそうで、じつは非常にむずかしい。漢字とルビが不即不離で、あるときはルビが一つの批評になっていなければならない。「南海の狼火《のろし》」に〈ありえないおはなし〉とルビをふった井田は、明らかに、|こつ《ヽヽ》を心得ている。
辰夫が頭に描いている新雑誌は、「新青年」の現代版といってもいい。
「新青年」を懐《なつか》しむ編集者たちは、「新青年」を模倣して、必ず失敗する。彼らは雑誌が生きものであり、同時代の空気を呼吸していることに気づかないのだ。「新青年」の再生が辰夫の狙《ねら》いではなかった。彼の頭にあるのは、諷刺《ふうし》とパロディが狙いの「マッド」や、一流作品のみをのせる「プレイボーイ」のようなアメリカの雑誌である。むろん、金にものをいわせる「プレイボーイ」の足元にも及ぶはずはないが、しかし、元をただせば、「プレイボーイ」だって、資本力を持たぬ白面の青年がアパートの一室で始めたものではないか。少くとも、夢はその辺りに置かねばなるまい。
とはいえ、「新青年」の残した遺産をそのままにしておく手はないだろう。古本屋で眼の玉が飛び出るほど高い「新青年」が、社の二階には、ほぼ完全にそろっている。社員のだれもが興味を持っていないのが、辰夫には、不思議に思われた。
ああでもない、こうでもないと揉《も》めたあげく、雑誌名は「パズラー」に決った。辰夫はあまり良いとは思わなかったが、城戸草平《きどそうへい》がそれに固執し、また、辰夫も、これという代案を思いつけない以上、致し方ない。
誌名が決まりしだい、辰夫は名刺を作らねばならなかった。翻訳ひとつ依頼するにしても、必要なのは肩書であり、具体的には名刺であった。黒崎《くろさき》にたのむと、二日で、名刺の箱が届けられた。
城戸草平の力であろうか、二つの週刊誌に、新雑誌「パズラー」創刊の小さな紹介記事が出て、新聞記者が辰夫の話をききにきた。なんであれ、紹介記事が出るのはありがたいので、辰夫は会社の近くの喫茶店で、編集の意図や対象とする読者のイメージを熱っぽく語った。
黒髪にポマードをつけた新聞記者は急にメモを閉じると、
「ほう、都会人を対象とする雑誌ですか。じゃ、六大都市の人たちが対象で、田舎に住んでいる人間は関係がないのですね」と、悪意のある冷笑を浮べた。
「そんなことはありません」
辰夫は否定した。
「だって、いま、そう言ったじゃないの」
相手はからむように言う。
「〈都会人〉てのは感性の問題ですから……。ぼくの言い方が悪かったら訂正しますが、要は、ソフィスティケーションが通じるかどうかです。ソフィスティケートされた感性を対象として……」
「へえ、高級なんだね」
ふたたび、冷笑を浮べた。
「おれは長野の出身だから、ソフィスティケートされた感性なんて縁がないね。だいたい、粋《いき》なんてものは、保守的、いや反動的な人間がありがたがるものだ。――若い人が新雑誌を編集するというから、どんな新しい考えを持っているのかと思ったら、期待外れだった……」
新聞記者はメモをポケットに入れた。
「青年が前向きの姿勢を失ったら終りだ。悪いけど、この雑誌は失敗だね」
辰夫はひどく傷つけられた。
「推理小説がお嫌《きら》いなのでしょう」
ややあって、彼はたずねた。
「社会悪を摘発する推理小説は認めんでもない」と新聞記者は髪をかきあげて、「一般論としていえば、下らないものだ。あれは、人生で驚きを感じなくなった不幸な人間の読み物さ」
辰夫は愕然《がくぜん》とした。
編集部に戻《もど》ると、ゴム仮面ひとりが生《なま》原稿を読んでいた。
「新聞記者がきたというじゃないか」
おもむろに仮面をあげた編集長は、ぼそっと言った。
「ええ」
妙な男だった、とは言いかねた。
「二宮君がそう言ってた。どこにいるのかね?」
「もう帰りました」
辰夫は自分の机に向った。
「帰った!?」
ゴム仮面は珍しく大声を発した。
「なぜ帰ったのだ?」
「ぼくが応対したのです」
「どうして?」
ゴム仮面の細い眼が奇妙な光を帯びた。
「『パズラー』の編集方針のことでしたから……」
辰夫は答える。ゴム仮面は彼を凝視して、離さなかった。
「……きみは大きな誤解をしているようだ」
ゴム仮面は粘りつくような言い方をした。
「は?」
「素人《しろうと》はこれだから困る。こんなABCをぼくの口から言わせないでくれよ」
辰夫はきょとんとしている。
「いいかね……誌名は、いちおう別になったとはいえ、『パズラー』は『黒猫《くろねこ》』から派生したものだ。まず、これを頭に入れておいて貰おう。――いままで、見て見ぬふりをしてきたのだが、いかに寛容なぼくといえども、今日のことは見逃せない。新聞記者のインタビューには、編集長のぼくが応ずるのが当然だ。とにかく、すべて、ぼくに報告し、ぼくの許可を得ること……」
ゴム仮面は、はっと気づいたふりをして、
「そうそう、だれかが、きみが〈『パズラー』編集長〉という名刺をひとに渡していると言っていた。まさかとは思ったが……」
「いえ、本当です」
「それはいかん。部内の規律が乱れる。その名刺はすぐに焼きすてなさい。……うむ、肩書は〈編集主任〉にするといい。そうすれば、問題があるまい。それから、『パズラー』の企画と訳者・執筆者は、事前に、すべて、ぼくに報告することだ。すべて、だよ。ひとつひとつ、細かく、ぼくが眼を通してあげる……」
いきり立つ心を抑えて、辰夫は社を出た。
津田が辰夫の独自な編集を許さないのではないか、という井田の心配は、どうやら適中していたようである。津田に〈ひとつひとつ、細かく、眼を通〉されれば、独自性など吹っ飛んでしまう。仕事がやり辛《づら》いばかりでなく、辰夫《たつお》の性格では、もう、初めから、やる気が起らない。
とにかく、適当に、とか、ほどほどに、とは、いかない性格である。すべてを自分の思う通りにするか、まったく、投げてしまうか、のどちらかである。
下宿に帰って、万年床に入ってしまいたかったが、そうも行かない。銀座四丁目の輸入洋書屋に寄らねばならないので、新橋駅から電車通りを歩きだした。
「前野君!」
と呼ぶ声がした。
ふり向くと、例によってオーバーを着ていない奴凧《やつこだこ》が、走ってくるのが見えた。底冷えのする日なので、マフラーを首に巻いている。
「そこの喫茶店にいたら、きみが通るのが見えたんだ」
奴凧は強い風に身体《からだ》を半回転させながら笑った。
「打ち合せですか?」
辰夫の声は沈みがちである。
「なーに、ソトゲンさ」
「ソトゲン?」
「外部《そと》の原稿を書くことをソトゲンていうんだ。きみもすぐにそうなる」
辰夫は答えなかった。原稿を書いていれば、自分の姿が眼《め》に入るはずはないから、奴凧はぼんやり外を見ていたのだろう。
「きみ、どこへ行くんだ?」
「洋書屋のイエナです」
「じゃ、いっしょに歩こう。ぼくはフードセンターで人に会うのだ」
奴凧は先に立って歩きだす。よく風邪をひかないものである。
「津田さんに厭味《いやみ》を言われたんだろ、顔に書いてあるぜ」
と奴凧は言い、う、寒い、と呟いた。
「きみが新聞記者に会いに行ったと話したら、奴さん、苛々《いらいら》してたもの」
「厭味なら平気ですが、命令ですよ」
「はいはい、と言って、勝手なこと、やってりゃいいんだよ。編集者仲間で、津田さんが何て呼ばれてるか知ってるかい。昼行燈《ひるあんどん》さ。あんな者の言うこと、気にする必要はない」
そうも行かない、と辰夫は思った。
副編集長格の奴凧と、新入りの自分では立場がちがう。奴凧に許されることでも、自分には許されないのだ。
「なにを言われたか、およその見当はつくよ」
しばらく歩いてから、奴凧が言った。
「おれは、こんな男だが、いざとなったら、きみを支持するな」
おや、と辰夫は思った。
「どうだい、コーヒーを飲まないか」
「ええ」と、答えざるを得ない。
二人は「ウエスト」という喫茶店に入った。
「ここは電通の向い側だから、放送作家が多いのだ。原稿用紙をひろげている奴《やつ》はそうだと思っていい」
小綺麗《こぎれい》な店内の隅《すみ》に身を置きながら、奴凧は煙草《たばこ》をくわえる。
「きみを支持するよ」
奴凧はけむりを手で払って、
「ところで、きみ、『パズラー』の実務をどう進行させるつもりだ? ひとりで雑誌はできないぜ」
「よく、わかってます」
辰夫はそう答えたものの、具体的な方策を持っているわけではない。
「いや、わかってないぞ」
奴凧はにやにやした。
「かりに、原稿を集めるのはひとりでできるとしても、ゲラが出てきたとき、校正をどうするつもりだい? 雑誌一冊分だったら、校正のプロが少くとも二人は要る。――わかるかね?」
「はあ」
「いまのところ、うちには校正のプロはひとりしかいない。ということは、ぼくら『黒猫』のスタッフが手伝うことになる……」
「なるほど……」
「ご存じの通り、文化社は給料が安い。ぼくはアルバイトをしているが、だれもがそうとは限らない。むしろ、残業手当をあてにしている者が多い。――といっても、『黒猫』と増刊号の仕事で、夜中まで手一杯なんだ。……よくきいてくれよ。そこに、『パズラー』の仕事が入ってくる。早とちりしないでくれたまえ、おれたちが手伝わないというんじゃないよ。お手伝いします。無理をしても、手伝わせて頂きますよ。ただね、裏づけるというか、そのぶんの金が別に欲しい」
「いまの給料プラス・アルファということですか」
「わかりが早いな、きみは……」
奴凧は煙草を唇《くちびる》のはしにくわえて、
「きみの口から、黒崎さんにたのんで欲しい。会社がいやだというなら、おれたちはきみに協力しないだけさ」
そう言って、けむりに眼を細めた。
「なるほど……」
厄介《やつかい》なことがもうひとつ増えた。
奴凧とは西銀座の交差点で別れた。
腹が立ってたまらない辰夫は、不二家の前に立っているペコちゃん人形を殴りつけた。人形は笑いつづけながら、首をぐらぐらさせた。
「それがどうしたというのだ?」と、城戸草平《きどそうへい》は不機嫌《ふきげん》そうに言った。「ひとの家をたずねてくるときは、電話で都合をきいてからにするものだ」
「すみません」
と辰夫は詫《わ》びた。
「気持の余裕がなかったもので」
「子供みたいなことを言っては困る」
城戸は腕を組んで、
「津田君がそういう人間であることは、いつか、ぼくが話しただろ」
「うかがいました」
「ぼくにすら意地悪をする。ある流行作家に原稿を依頼するというので、ぼくがついて行ったことがある。――ところが、断られた。売れ出したばかりの作家だから、この城戸草平への仁義の切り方を知らんのだ。ぼくは、当然、面白《おもしろ》くなかった。……そのとき、津田君は、にやっと笑って、『先生、やっぱり、駄目《だめ》でしたね』と嬉《うれ》しそうに言やがった。ぼくは、かっときて、奴を道端の泥溝《どぶ》に突き落してやった……」
辰夫は思わず笑った。
「だから、きみが『やめたい』と思うのもわからんではない。しかし、事態はもう動き出している。ぼくも、黒崎君も、努力しておるのだ。いまから、そんな気弱なことでは困る」
「……でも、これでは、私の思う通りの雑誌はできません」
「だから、どうした?」
「津田さんが容喙《ようかい》するのは困ります。いつか、突撃しろとおっしゃいましたが、これでは、とても無理です」
「新入りのくせに、津田君と争う気か」
城戸は逆上しかけて、思いとどまり、
「……ともかくだな、喧嘩《けんか》はしないでくれ」
「喧嘩なんてものじゃありません」
と辰夫は言った。老人は、どうも、話が通じにくい。
「ぼくはわかっとるつもりだ」
城戸は唸《うな》るように言う。
「津田君は狡《ずる》い男なのだ。消極的な狡さだがね。ぼくも身にしみている。……しかし、ただちに首にするわけにはいかない。はっきりと眼に見える落ち度があったわけではないからな」
「いえ、首だなんて……」
「|おれが《ヽヽヽ》首にしたいのだ!」
城戸は大声を発した。
「雑誌の売れゆき不振で、おれの顔に泥《どろ》を塗りおった。これでも、我慢しておるのだ」
辰夫はおそれをなして沈黙した。
「……こういうことでは、どうかな。きみの肩書は、とりあえず――|とりあえず《ヽヽヽヽヽ》だ――〈編集主任〉とする。その代り、『パズラー』の内容については、いっさい、津田君には容喙させない。これは、ぼくのほうから、津田君に申しわたす。きみとしては、名をすてて、実《じつ》をとるわけだ」
辰夫は、すぐに、はい、とは言いかねて、
「うまくゆくでしょうか。先生の言葉をきき流されて、私の編集権は無になるような気がするのですが……」
「そんなことはさせん!」
城戸は力んだが、どうも、たよりない。
「〈編集主任〉では、外部に対して、やりにくいかも知れんが、そこはよろしくたのむ。機会を見て、〈編集長〉に戻《もど》すよ」
「自由にふるまえれば、肩書など、どうでもいいのです」
辰夫ははっきり言った。
「やりたいことがやれないまま、雑誌が世に出る。売れないから、三号目で首じゃ、泣くに泣けません」
辰夫は忙しかった。
池袋の下宿は、会社に遠い上に、夜の十一時になるとおかみが門の鍵《かぎ》をかけてしまう。門を乗り越えようとして落ちかかった彼はアパートを探すことにした。
青山四丁目の周旋屋にたのんでおくと、すぐに電話がきた。青山北町のアパートの二階に空室ができたというのだ。
それは地下鉄の外苑前《がいえんまえ》駅から歩いて五分ほどの便利な場所だった。北町四丁目(現・北青山二丁目)の寺の境内にある粗末な木造アパートだが、日当りの良い四畳半で、月五千円である。敷金二つ、権利金一つは会社から借金して、引越しをすませた。不用な本は下宿のおかみにやってしまい、電気釜《でんきがま》やタイマーのような世帯道具を買うと、部屋がいっぱいになった。辰夫は自分で味噌汁《みそしる》を作ってみたが、けっこう、うまくできた。
しかし、気分の良いことばかりではなかった。
二月一日には、中央公論社社長宅を右翼少年が襲い、社長夫人は刺されて重体、女中は殺された。警察は右翼テロを取りしまる声明を出したが、辰夫はあまり信用していない。
世の中が好ましくない方向へ動いてゆく気がした。そのような流れの中で、モダニズムの雑誌を作るのはいかがなものかという疑問が辰夫にないわけではない。
しかし、自分の生理にしっくりくるのはモダニズム(という言葉は好きではないのだが)だという確信が彼にはあった。しっくりくるというより、彼の生理そのものかも知れない。去年の安保反対の季節には、粋とか都会性といった感覚を磨《みが》くことは、〈反動的〉で、〈いけないこと〉とされていた。そして、辰夫の世代において、それは今も依然として、〈通人趣味〉であり、〈いけないこと〉なのだった。
だが、戦前の日本橋区で生れ、二十歳まで、そこで育った辰夫にとっては、生きることは、即《そく》、感覚を磨くことであった。そう教えられて育ったのだ。人間は、粋《いき》に遊んで暮すのが、生き方としてベストだ、という考えが根本にある。そして、いかに遊ぶか、が、求道《ぐどう》といえば、いえた。その考え方、発想は、辰夫の血そのものであった。
(こんな発想が世間に通じるだろうか?)
彼は不安だった。
それが受け入れられるかどうかは、あと四カ月少しで明瞭《めいりよう》になるのだ。
編集部に、やたらに煙草をふかす三十代の女性がいる。
のべつ鼻からけむりを出しているので、辰夫は心の中で〈火吹き竹〉と呼んでいる。彼は女が煙草を吸うのが、あまり、好きではなかった。
よくよく見ると、色が白く、整った顔立ちなのである。ただ、不規則な生活をつづけているので、身体《からだ》に|がた《ヽヽ》がきているようだ。
「どうかね、彼《ヽ》は?」
と、となりの席の奴凧がからかうように言う。
「元気よ」
火吹き竹女史は答える。
「すると、とうぶんは、いっしょにいるのかね?」
「もちろん」
「いくつ歳下《としした》かね?」
「そんなこと、きかないでよ」
はしゃいだ声で答える。どうやら若い男と同棲《どうせい》し、養っているらしい。
「今度は骨までしゃぶられないようにするんだね」
「ご冗談を」
女史は軽く受け流す。
ふだんは冷静であるが、たった一度、かっとなったところを見た。
黒崎《くろさき》が、「編集部の出社時間が遅い」と文句を言いにきたとき、
「あたしたち、徹夜つづきですからね!」
と女史が怒鳴りかえし、黒崎はほうほうの体《てい》で退散した。
辰夫はのちに知ったのだが、女史は、|敗戦直後に《ヽヽヽヽヽ》、文化社のお茶くみとして働いていて、黒崎に犯され、ずっと愛人関係にあったのだという。
十五年もむかしの話で、激動の昭和史みたいなものである。二十歳前後の娘を、黒崎は「結婚するから……」と騙《だま》したと、奴凧は語った。
なるほど、十五年まえだったら、かなりの美貌《びぼう》だったろう、と、辰夫《たつお》は思った。いまは、肌《はだ》がパサパサで、中性のようである。フランス映画に出てくる、物わかりのいい中年女みたいにふるまっている。編集部の主《ぬし》といった感じさえあり、なんだかこわい。
「前野さん……」
新橋で地下鉄を降りたとき、女史に声をかけられて、辰夫は、どきっとした。
「あたし、前野さんを誤解してたわ」
地上への滑り易《やす》い階段を登りながら、女史が言った。
「え?」
「生意気で、感じが悪かったのよ。だから、津田さんに同情したの。みんな、そうだったと思うわ」
否定も肯定もできずに、辰夫はおそれいっている。
「前野さんは無邪気過ぎるのよ」
「ぼくが、ですか?」
「ほら、そんな調子だもの」
女史は笑って、
「津田さんは、あなたの肩書を剥《は》ぎ取っただけじゃなくて、あなたを走り使い程度の立場に追いやろうと考えているのよ。もっとわかり易くいえば、あなたを追い出すつもりなの」
辰夫は眠れなくなった。
それは津田編集長との神経戦に敗れつつあるしるしでもあった。
よく考えてみれば、津田は、まだ、具体的な妨害行為に出たわけではない。いや、出ていなくはないが、明らさまな厭《いや》がらせや、第三者の眼《め》にもはっきりと見える行為はしていない。
城戸草平のいう〈消極的な狡さ〉、〈眼に見える落ち度がないための苛立《いらだ》たしさ〉が辰夫は身にしみてわかった。大きな落ち度がなければ、だれも津田を批難することはできない。これが会社というものである。黒崎や西が苛立てば苛立つほど、津田は落ちつき払い、わずかに相手を挑撥《ちようはつ》してみせる。基本的には〈大人の態度〉であり、かっとなるのは子供だ、と言わんばかりだ。
こうした人間に対して辰夫はきわめて弱いのである。彼にとって、他人は敵か味方かの二つしかない。敵なら敵らしく憎々しげにふるまってくれればいいのだが、ゴム仮面はきわめてあいまいな、敵だか味方だかわからない態度をとっている。ここで、辰夫が攻撃的な態度に出れば、彼の方が悪役になってしまう。陰険なゴム仮面は、じっと、その時を待っているのだ。
眼には眼を、歯には歯を、陰険さには陰険さをだ、と辰夫は思った。
下痢が始まり、とまらなくなった。医者にみて貰《もら》うと、神経性のものだという。それでは、治るはずがない。あっという間に三キロほど目方が落ちた。
井田実の事務所に電話を入れると、待っていたように、明るい声がきこえ、「今夜、いかがですか?」と言った。井田は材木町の「アントニオ」を指定した。
「アントニオ」は、都内の数少いイタリア料理屋の代表格だそうだ。ピザが食べられるのは、ほかに「ニコラス」があるが、井田の説明では、ピザにおいても、「アントニオ」の方が本格的であるという。「ニコラス」のに比して、「アントニオ」のピザは固い――そこが本場風なのだ、と井田は電話口で説明した。いったい、井田は、イタリアへ行ったことがあるのだろうか。
その夜、赤と白の格子縞《こうしじま》のテーブルカバーをはさんで井田と向き合った辰夫は、まず、その疑問を口にした。
「ええ、まあ」
井田はためらわずに答える。
「イタリアのどこですか?」
辰夫はなおも追及する。
「フィレンツェです」
井田はワインを味見しながら言った。
「わたしは建築と絵画に興味がありますので……」
「いつごろ、行ってらしたのですか?」
「一九五七年でしたかな」
それ以上たずねると、怪しくなりそうな気配なので、辰夫は質問を思いとどまり、
「お原稿、拝見しました」
と、話題を変えた。
「恥ずかしいもので……」
「いえ、非常に感心しました。ああいう芸のできる人はすくないです」
「そうですかな」
井田はとぼけてみせたが、自信のほどがうかがえた。
野菜スープ、ピザパイ、スパゲティ、サラダなどを注文してから、井田は、「やりにくいでしょう、あの会社は」と言った。
「お聞きになりましたか?」
辰夫は探るような眼つきになる。
「二宮さんが、二六時中《しよつちゆう》、遊びにきますからねえ」
井田は苦笑いをみせて、
「うちの編集部の空気がおかしくなっている、といって楽しんでるんです。津田さんが困っても、あなたが困っても嬉《うれ》しい人ですよ」
「わからんな、ああいうタイプは」
辰夫は吐息をした。
「わかり易いじゃないですか」
井田はパンをちぎりながら、
「あれだけの人ですよ。せめて津田さんのポストを狙《ねら》う、ぐらいの野心があれば、救われるんだけど、それも、ない。津田さんのあとは、彼が編集長になる順でしょうが、おそらく、逃げるでしょうな。責任をとるのが、いっさい嫌《きら》いなのだから」
「独身らしいですね、まだ」
「あの人がマスターベーションをすると、軽い音といっしょに白い煙が出て、終り、というのが、わたしたちの冗談です」
無邪気な口調で井田はひどいことを言った。
「前野さん、お痩《や》せになったのじゃないですか?」
「腸を悪くしたもので……」
「じゃ、イタリア料理はいけなかったかな」
「大丈夫。お粥《かゆ》やうどんを食べてりゃ治るってものでもないのです」
「レントゲン検査をしましたか?」
「ええ」
「医者はどう言いました?」
「仕事をやめろと言われました。ストレスでこうなるのだそうです」
「神経的なものか」
「うどん、きしめんだけで、二、三日やってみたのですが、気力がなくなるのです。だから、グラタンを食べるようにしています」
「眼の光がおかしいと思った。隈《くま》ができて、頬《ほお》が痩《こ》けたからだ」
「そんなに目立ちますか」
「思いつめた右翼少年みたいですよ」
「まずいな、それは」
辰夫はかすかに笑った。
「ピザはやめた方がいい、油が強いですから。スパゲティもおやめなさい。……海老《えび》を貰いましょう。海老と野菜スープにしておきなさい」
井田はボーイを呼んで、白身の魚がないのを確認してから、海老のオルガノ・ソースを注文した。
「ピザとスパゲティが余りますな」
辰夫が心配すると、
「なに、わたしが食ってしまいます。スパゲティなんて、あなた、イタリアでは前菜です。スパゲティのあとで、ゆっくり肉を食うのです」
「本当ですか?」
「ローマのエクセルシオールというホテルで、うんざりするほど、スパゲティを食わされました」
井田は笑ってみせて、
「……わたしにご用があるというのは、何でしょうか?」
「あなたが注意して下さった編集権――これが危くなっているのです。ぼくにあるような、ないような、妙な形になって……」
「だろうと思ってましたよ」
「いちおう、内容はぼくの自由という形になっているのですが、なし崩しにされそうです。ぼくとしては、津田氏の眼につかないところで仕事をしたいのです。だから……」
井田の眼は、辰夫がこれから口にする言葉を見抜いたようだった。
「おたくのオフィスの机を一つ、貸してくれませんか。あそこなら文化社に近いし、なにかと便利なのです」
「なるほど」
井田の眼が笑った。
「大胆な考えですね」
「ぼくは、いちおう文化社に出勤して――夕方か夜におたくで仕事をします。津田氏が報告を求めたら、最小限、どうでもいいことだけを報告します」
「わたしは構いませんよ、今は空室同然ですから」
そう答えて、井田はやや鋭い眼つきになり、
「問題は二宮さんだな。用もないのに、突然、ふらっと入ってくるのでねえ」
「それは、ぼくも気にしてたのです。……まあ、大目に見てくれるとは思いますが……」
「それは甘い。そんな考えじゃ駄目《だめ》だ」
井田は首を横にふって、
「わたしは二宮さんとは、仕事のつき合いはない。あの人が、勝手に電話をかけに入ってくるだけです。しかも、電話代を払ったことがない……」
「むちゃだな」
「こうしましょう。――明日にでも、彼に、いままでの電話料金を請求します。なにしろ、鎌倉《かまくら》や横浜にかけてるんですから、ばかにできない額ですよ。……これをやれば、まず二度と、わたしのオフィスには足を踏み入れないでしょう」
「ありがとうございます」
辰夫は頭をさげた。
「むろん、電話代は払います。貸し机の料金は、少し待って下さい」
「いいですよ、そんなことは」
井田はクールをくわえて、火をつけた。
「……前野さんのその着想は、悪くないと思うのです。しかし、それを実行するためには、あなたの片腕になってくれる人間が、文化社の中に、一人はいないと、むずかしいと思いますよ」
そう呟《つぶや》いて、けむりを吐きだした。
「いないこともないのです」
辰夫はゆっくりと答える。これ以上、井田に話してもいいのだろうか、と思わぬでもなかったが、手の内を明かさないと、相手は態度を決めかねるだろう。
井田は辰夫を凝視したまま、あとの言葉を待っている。運ばれてきた野菜スープには手をつけない。
「少くとも、一人はいます」
と、辰夫はつけ加えた。
「金井といって――ほら、このあいだ、喫茶店で、あなたとすれ違った男ですよ」
「顔を覚えていないな」
井田は首をかしげた。
「その人は信用できますか」
「と思います。まじめな男です」
「そうですか」
井田は頷《うなず》いて、
「では、よろしいでしょう。あなたの眼を信用するしかない」
「このさい、井田さんに会って頂いたほうがいいな」
スプーンを手にした辰夫は、反射的にそう言った。
「待って下さい。その人は、文化社の外で実務をやるというあなたの案を知っているのですか?」
井田は心配そうにたずねる。
「知っている、というよりも、二人で考えたことなのです。割り付け用紙、その他、会社の備品は、彼が持ち出すことになっています。そのさい、どこで仕事をするかが懸案《ペンデイング》になっていました……」
そう言って、辰夫は腕時計を見た。金井は「黒猫《くろねこ》」の増刊号の残業をしているはずだった。
「井田さんがおいやでなければ、金井君をここに呼びます。タクシーなら、二十分でこられるでしょう」
「わたしは構わないですが……まあ、スープをお飲みなさい。|せっかち《ヽヽヽヽ》過ぎますよ、あなたは……」
「善は急げ、です」
辰夫は立ち上っていた。
金井が現れたのは、ふたりが食後のコーヒーを啜《すす》っている時だった。
テーブルごとにキャンドルをともした薄暗い店内を、金井は好奇心にみちた眼差《まなざ》しで眺《なが》めまわし、辰夫に気づくと片手をあげた。
ボーイが慌《あわ》てて、ナプキンを用意する。辰夫が井田を紹介すると、
「どうも……」
金井は軽く頭をさげて、椅子《いす》にかけ、コーヒーを注文した。
井田は珍しい動物でも眺めるような眼《め》で金井を観察している。鑑定している、というべきであろうか。
「井田さんのお噂《うわさ》はあちこちでうかがってました……」
そう言った金井は、ふっと気がついたように辰夫《たつお》をかえりみて、
「前野さん、赤木|圭一郎《けいいちろう》のニュース、きいた?」
と、たずねた。
「いや、知らない……」
「瀕死《ひんし》の重傷だって。さっき、教えられたんだ」
「どういうことだい?」
辰夫の声音が変っていた。
「撮影所の中で、オートバイかなにかに乗ってて、コンクリートの壁に激突したんだって……」
「もったいない……」
辰夫は、思わず、そう呟いた。
「本当ですか」
井田も衝撃を受けていた。
「本当です。ラジオのニュースをきいた奴《やつ》が知らせてきたのです」
「助かる可能性はあるのかな……」
井田は気むずかしい表情になった。
「実は、おととい、ラジオの仕事で、赤木に会ったのです。想像していたより大きくて、感じの良い青年でしたがね」
「『紅の拳銃《けんじゆう》』を日活本社の試写で観《み》たばかりですよ」
と、辰夫も熱に浮かされたように言った。
「これは、かなりの出来でした。初めて、赤木のもつ暗い甘さを生かした映画だと思ったのに……」
「撮影中の事故でしょうか」
井田がたずねた。
「直接、ニュースをきいたわけじゃないから、はっきりしないです」
「もう、次のを撮ってたんだ。『激流に生きる男』とかいう題だった」
井田は大きく溜息《ためいき》をついた。
「とにかく、日活はオーバーワークなんだ、みんな」
「大変なことになるぞ」
辰夫はコーヒーの残りを飲んでしまって、
「……裕次郎がぼくらの世代の代弁者だった時代がありましたね。三、四年前ですか。……いまや、彼は源氏鶏太の立身出世物語の主人公をやるようになって、ぼくらからみれば、エラくなり過ぎた。小林|旭《あきら》はコミックストリップです。こうみてくると、赤木圭一郎しかいないんだ、夢を託せるスターは……」
「心情的にもそうでしょうが、ビジネスとしても、まったく同じようです。撮影所の連中が、そう言ってましたよ。『紅の拳銃』で、ようやく、本当の一本立ちをしてくれたって」
ビジネスと断りながらも、井田の言葉には哀惜の念が溢《あふ》れていた。
「まだ亡《な》くなったわけじゃないんだから」
と、辰夫は自分を元気づけるように言った。
「今夜の最終ニュースをきいてみよう」
井田はボーイを呼んで水割りを注文した。外見よりも繊細な男のようだ、と辰夫は判断した。
赤木圭一郎が乗っていたのは、オートバイではなく、ゴーカートであった。(大新聞の中には、スポーツカーと報じて、のちの死亡記事の中でさえ訂正しなかった社があった。)
好意的に考えれば、これは、ゴーカートなるものを、マスコミ関係者が知らなかったための誤りであろう。辰夫も、ゴーカート運転中の事故と、ラジオの最終ニュースで知って、なおかつ、ゴーカートという乗物のイメージがつかめなかった。また、〈コンクリート塀《べい》に激突〉との報道も間違っていた。
この事故は、「日活五十年史」の記述にある、
〈二月十四日十二時二十分ころ、この赤木圭一郎はゴーカートに試乗中、大道具工作場の扉《とびら》に激突、慈恵第三病院に入院……〉
が、正確なようである。
「日活五十年史」は、一九六二年(昭和三十七年)九月に非売品として発行された社史であるから、赤木の死や裕次郎の怪我《けが》による損失は、意識的に小さく扱われている。
〈順風満帆の勢いで昭和三十六年を迎え、今年こそは名実ともに映画界の王座に君臨せんと、撮影所一、五〇〇人が決意を新たにしたのも束《つか》の間《ま》……〉
という書き出しの文章は、赤木の死をわずか五行で扱い、今村昌平《いまむらしようへい》の活躍と新人監督|浦山桐郎《うらやまきりろう》の登場にスポットをあてたあと、次のように終っている。
〈いくたびか襲い来《きた》り、そして去って行った試練の嵐《あらし》。そしてその嵐にたえて日活にはいつも一本にまとまった芽吹きがいっぱいだった。萌《も》えいずる若いエネルギーと、燃えたぎる情熱。――それは、映画担当常務江森清樹郎及び山崎所長を頂点とする日活全製作陣の一致団結のたまものである。日活は、これからも、つねに映画界のパイオニアであるにちがいない。またそうでなければならない。〉
威勢よく見えながらも、なにやら悲壮感が漂う文章である。赤木の死が、ひとりのスターの事故死を超えた、暗い未来の象徴であることは、社史の執筆者には視《み》えていたはずだ。
そのことは、辰夫にとっても同じだった。
これで日活は衰退に向うだろう、と、辰夫は直感した。アナウンサーは頭蓋《ずがい》内出血で昏睡《こんすい》状態にあるといったが、助かる可能性があるのだろうか、と思いながら、ラジオのスイッチを切った。
彼はベッドに身を投げた。麻布《あざぶ》の外人宅のガレージ・セールで三千円で買った駐留軍用の折り畳みベッドのマットは、適当な堅さで彼を受けとめた。ベッドの頭のライトを消すと、身体《からだ》を丸めるようにする。うっすらと涙が出てきた。
自分がなぜ泣くのか、彼はわからなかった。
彼は赤木圭一郎に会ったことはなく、霧笛の中を遠ざかってゆく日活好みのヒーローにも、特に興味はない。時間つぶしのための娯楽としても、赤木が主演するプログラム・ピクチュアは、満足をあたえてくれるものではなかった。
にもかかわらず、赤木は|なにか《ヽヽヽ》であった。哀愁とか、黒人の悲しみを表現している(?)とかいった、マスコミの表現では言いあらわせない、なにかがあった。彼の主演する映画は二流の活劇であり、演技も決してうまくはないのだが、この役者は、|それだけではない《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》と思わせるなにかを備えていた。スクリーンにうつっている赤木は、ときとして滑稽《こつけい》であったとしても、その向うに存在しているのは、はるかに大きく、輪郭を見定められぬ人物で、しかも、ある重み、手応《てごた》えを感じさせた。
主演作品を撮るようになってまだ一年とたたないのに、辰夫にとって、赤木は、存在していてくれなければ困る役者になっていた。べつに演技がどうのという問題ではなく、ただ、いてくれればよいのである。
二十一歳の頑健《がんけん》そうなこの役者は、半永久的に存在しつづけるであろう、と辰夫は信じていた。だからこそ、事故の知らせに大きなショックを受けたのだ。井田もまた、似たような精神状態と見受けた。
事故というものがあったのか、と、辰夫は改めて思った。少年時代に父親を結核で失った辰夫は、ひとの死といえば病気を連想する傾向がある。……そう、ひとは病気だけで死ぬのではないのだ。
それから一週間にわたる容態報道のあいまいさは、辰夫を含めた一般大衆を戸惑わせるに充分だった。
事故の翌々日――十六日に、今夜がヤマだという報道がなされた。一夜あけて、十七日になっても、赤木は|まだ生きていた《ヽヽヽヽヽヽヽ》。
「ヤマを越えたってのは、回復に向うことかしら」
机のすみにポケット型のトランジスターラジオを立てた火吹き竹女史が呟いた。
おそらくは日活側からであろう、赤木はすぐに立ち直れる、という噂が流れた。じじつ、上層部の一人は、
――アクション・スターだから、少々、頭が悪くなっていても活躍できる。
と放言した。
まさか、と思いながらも、そのような光景を映画でしばしばみせられているために、血まみれの赤木圭一郎がゆっくり起き上る姿を辰夫は想《おも》い描いた。あの体格なら、そのような奇蹟《きせき》が起るかも知れなかった。大爆発のあとの黒煙の中から、かすり傷一つ負わずに歩み出てくる不死身のヒーロー。……十八、十九、二十日と、不幸な知らせがなかったので、辰夫は、しだいに、あり得ない夢に深入りしていった……。
二十一日の朝、出社した辰夫は、まず一階の営業部に足を踏み入れた。
黒崎《くろさき》さんは?――と声をかけると、机に向っていた青年が充血した眼で辰夫を見た。
「死にましたよ」
青年は泣きそうな顔をした。
「え?」
「赤木ですよ」
照れたように眼を細めて、
「今朝、七時五十分です」
と正確に言った。
力が抜けた辰夫は椅子に腰をおろした。
「おととい意識をとり戻《もど》したんですがね。だから、つい期待しちゃって……」
高卒の青年は泣き出した。
おれも、そうだったよ、と辰夫は声をかけてやりたかった。だが、喪失感に襲われながらも、感情に溺《おぼ》れきれない、青年との年齢差を意識しないわけにはいかなかった。
「莫迦《ばか》なおとなが、寄ってたかって、赤木を殺したんです」
と、青年は泣きじゃくりながら続けた。
「休む暇もなく、仕事、仕事、でしょう。……だから、昼休みに、売り込みにきたゴーカートに乗っちまったんですよ。あいつは子供みたいな奴だから、そんな風にしかエネルギーの発散方法を知らなかったんです」
辰夫は答えようがなかった。ダフルコートにあごを埋めたままで沈黙している。
「いいかげんにしてよ!」
色の白い保利さんが仮借ない調子で言った。
「朝からこればかりだもの、いやんなっちゃう。そんなに悲しいなら、明後日の告別式に行ってらっしゃいよ」
「女にはわからねえんだよ」
青年は日活映画の作中人物の口調になって、涙をセーターの袖《そで》でぬぐった。
「こんな天気の良い日は、おれ、オートバイでどこへ行っちゃうか、わかんねえぞ」
正午を過ぎても、辰夫は食欲が湧《わ》かなかった。
編集部の中年以上の者は弁当をひろげ、若い連中は官庁の食堂や近くのそば屋へ足を向ける。
「出ませんか」
と、金井が声をかけてきた。食事だけではなく、話をしようという含みがあるようだ。
「サンドイッチぐらいなら胃に入るかも知れない」
「情ないことを言わないで下さいよ」
金井はズボンのポケットに両手を入れたままで笑った。
「とにかく、コーヒーを断とうと思ってる。コーヒーのせいだけとも思えないんだけど」
「これから戦争を始めようというのに、リーダーがそれじゃ困るなあ」
ふたりは社の斜め前の喫茶店に入った。夜はバーになる、奇妙な店である。
「野菜サンドとトマトジュース。ジュースには氷を入れないで」
辰夫はそう注文して、煙草《たばこ》をくわえた。
「煙草もやめたらどうです?」
金井が真顔で言った。
「身体に良くないですよ」
「やめられるものなら、とっくにやめてるよ」
「気持しだいじゃありませんか。ぼくは、大学時代は吸ってて、やめました。経済的な事情もありますが……」
「経済的な事情、ねえ」
「前野さんは家庭を持たないから、足元に火がつくように金が要る感じがわからないんですよ」
「そうかなあ」
「そうですとも」
「……しかし、そんなに逼迫《ひつぱく》しているのなら、きみ、津田さんに逆らうのはヤバいんじゃないか」
「あれとこれとは別です。編集部の空気を変えないかぎり、ぼくは救われませんよ」
金井は健康な口調で言いきった。
「じつは、こういう話があるんだ」
と、前置きして、辰夫は、奴凧《やつこだこ》が「パズラー」の校正を手伝う条件として、金を要求した事実を打ち明けた。
「ひどい、それは!」
金井は|すっとんきょう《ヽヽヽヽヽヽヽ》な声をあげた。
「ぼくら、そんなこと、まったく知らないですよ。二宮さんが思いついただけでしょう。いかに金に困っていても、そんな要求は出せません。非常識です。黒崎さんに話したほうが良いですよ」
「そうしよう」
辰夫は頷《うなず》いた。
「ゲンゴドウダンです」と金井は文学青年にあるまじき言い間違えをして、「前野さんの食欲不振は、それが原因ですか?」
「原因の一つかも知れない」
「ぼくだって金に困っているけど、やって良いことと悪いことがある。二宮さんは、けじめのない人です……」
軽食をすませて、社の三階に戻ると、雰囲気《ふんいき》が異様だった。
京都に旅行中の流行作家、佐伯一誠《さえきいつせい》から電話が入って、原稿は旅先で書くからと津田君に伝えてくれ、と言ったというのだ。
「佐伯さんはこっちを安心させるために、わざわざ、かけてきたのさ」
と奴凧が説明した。
「だけど、津田さんは佐伯邸につめているはずなんだぜ。おかしいじゃないか」
「佐伯さんの自宅に電話してきいてみれば?」
金井がはっきり言った。
「もちろん、きいたよ。津田さんは、一日も行っていないというんだ」
「おかしいな、そりゃ」
金井は首をかしげる。
超の字がつく流行作家、佐伯一誠の連載小説の原稿は、毎月、津田編集長がみずから受けとりに行っている。三日、四日と、佐伯邸に足を運ぶのも、ざらである。
「津田さん、宙に消えちゃったんだよ」
奴凧は、心配しているような、煽《あお》るような口調で言った。
ゴム仮面の消失は、たしかに興味深い事件であったが、面白《おもしろ》がっているゆとりは辰夫にはなかった。
翻訳の依頼、版権の問題、エージェントとの交渉などを独りで片づけなければならない。それだけでも重荷なのに、表紙をどうするかが、なかなか決らない。まず、「エラリイ・クイーン」のような抽象絵画風を狙《ねら》ってみた。これだと無難だが、「エラリイ・クイーン」に似てしまうのはまずい、という意見が営業部から出た。
活字以外のことになると途方にくれる辰夫は、井田に相談してみた。
「さいきん、ポップアートっていうのが出てきたんですがね。これは、一つの手ではあると思うのです」
博識な井田はアメリカの雑誌をひろげてみせてくれた。
もはや、タイムリミットにきていた。ポップコーンだかなんだか知らないが、もう、それしかない。
その種の絵を描いている若い画家を井田に紹介され、辰夫は、明るくて強烈なのにしてください、とたのんだ。若い画家は張りきって、何枚か描いてみましょう、と答えた。
数日後に、ゴム仮面は、ひょっこり姿を現した。
黒崎をはじめとして、西や二宮は苛立《いらだ》っていたが、ゴム仮面が佐伯一誠の原稿を持ってきた以上、深く追及はできなかった。
「京都の佐伯さんから電話がありましたよ」
と、奴凧が皮肉を言っても、
「うむ、知っている」
ゴム仮面は落ちつき払っている。
「ぼくがお宅につめているのを忘れたらしい」
「佐伯先生のお宅にも電話したのです」
「そうらしいね。女中さんがトンチンカンな返事をしたようだ」
糠《ぬか》に釘《くぎ》である。どう連絡をとったのか知らないが、佐伯一誠の原稿を入手してきたのは事実だから、文句のつけようがない。
出社したゴム仮面は、殆《ほとん》ど、机の前を離れない。そして、夕方になると、いつの間にか、姿を消している。
「きみ、なにしてるんだい?」
ゴム仮面が帰ったあと、外から戻った二宮が辰夫に声をかけてきた。
「え?」
「え、じゃないよ。城戸先生からきみに電話で、至急、赤坂の料亭《りようてい》にきてくれと言ってきたんだ。ぼくは出かけるんで、津田さんに伝言をたのんどいたが……」
「津田さんはなにも言いませんでしたよ」
「しょうがねえなあ。時間は――おい、もう十五分過ぎてるぜ!」
辰夫は立ち上った。料亭の名を確認して、社をとび出す。
ゴム仮面の本質はこれだ、と思った。文句を言えば、きみがきき落としたのだ、と、おもむろに答えるにちがいない。
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第四章 ザ・ヒットパレード
辰夫《たつお》は嫌気《いやけ》がさしてしまった。
もともと変則的な形で入社してきたのだから、この程度の嫌がらせは、じっと我慢するのが、勤め人の常だとは思う。それは、そうに決っている。
しかしながら、辰夫は、一度は、勤め人失格を意識した男である。どんなに小さな会社にもある、派閥とか人脈のたぐいにはうんざりしているし、上役に頭をさげたりするのも面倒くさい。上役に叩頭《こうとう》するのがなんでもない人間からみれば、辰夫は、一種の精神的不具者だろう。
一度は本気でゴム仮面と争うつもりになったものの、アパートに戻り、アーミー・ベッドに横たわると、ひどく莫迦莫迦《ばかばか》しい気がしてきた。
……ゴム仮面と|むき《ヽヽ》になって争うのは、自分をゴム仮面と同じレヴェルの人間と認めることである。いかに自分が下落したといえども、アルコール中毒で真っ昼間から赤い顔をしている男と同じとは思いたくなかった。
では、どうしたらいいか? 表面的にでも、ゴム仮面に媚《こ》びて、いままでの無礼の数々を反省してみせるのか?
それは、おれにはできない、と辰夫は思う。できるくらいなら、初めから、そうしている。
いっそのこと、あっさり身を退《ひ》いたらどうか?
もっとも魅力があるのはこの考えだ。また失業保険で食いつなぎ、井田実の手伝いでもして、将来の道を探す。井田は放送界にコネクションを持ち、ラジオやテレビの番組構成で生計をたてているらしいから、余ったこまかい仕事をまわして貰《もら》えるかも知れない……。
下痢がいっこうにとまらない辰夫は、肩凝りを覚えるようになった。
マッサージにかかりたいと思っても、引越したばかりの青山では、どこにマッサージ師がいるのかわからない。
日曜日の午後、天気が良かったので、彼はぶらぶら歩き、トロリーバスに乗って新宿に出た。歌舞伎町《かぶきちよう》の裏のほうに、マッサージつきのスティーム・バスがあったのを記憶していたからである。
伊勢丹《いせたん》入口から丸物《まるぶつ》デパート(現・伊勢丹新館)に向う道にはアベックの姿が目立った。広い電車通りひとつ渡れば、同伴喫茶が多く、さらに歩けば、さまざまな旅館が犇《ひし》めく地帯に入る。
辰夫は面白《おもしろ》くなかった。
去年の夏の終りに失職していらい、女とは縁がないと思い込んでいる。じっさい、コーヒー一杯飲む金がなかったのだから、女どころではない。
現在はどうかといえば、機会に乏しいのは別にしても、やはり、それどころではない気がする。……落ち込みがちな気持をみずから引きあげて、とにかく、創刊してから三号までは苦労してみよう、と彼は思い定めたのだった。三号目を世に出して、辞任する――これなら、城戸草平《きどそうへい》も〈逃げた〉とは言えまい。
三号目が世に出るのは、八月末である。要するに、|あと半年《ヽヽヽヽ》だ。そのあいだは、とにかく、我慢しよう。
これは、一種の開き直りである。だが、そう思い定めてから、辰夫は気がラクになった。
ラクにならないのは肩の凝りである。これも、どうやら、ストレスによるものらしい。
めざす建物はコマ劇場のさらに奥にあった。一階の大衆浴場風のスティーム・バスには一度きたことがある。しかし、そこにはマッサージがない。辰夫はマッサージのある個室の料金を払った。「ご指名は?」という問いには、首をふった。
すぐに、短かめの白いガウンを着た女が階段を降りてきて、「どうぞ」と無愛想な口調で言った。ひどく不細工でもないが美人でもない、昔でいえば下女の顔である。
辰夫は階段をあがり、個室に入る。女はガウンを脱いだ。ブラジャーとパンティーだけになり、ガウンをドアの内側にかけた。
部屋の床《ゆか》の三分の一ぐらいがタイルになっていて、その隅《すみ》に木製の蒸し風呂《ぶろ》があった。
辰夫が珍しそうに眺《なが》めているので、女は、「入る?」とたずねた。
あたりまえである。ほかにスティーム・バスらしい装置はないではないか。
裸の腰にバスタオルを巻いた辰夫は、蒸し風呂の中に入った。女が蓋《ふた》をすると、辰夫の首だけが外に晒《さら》されている形になり、どうにも珍妙である。首のまわりにできた隙間《すきま》に女はタオルを詰めて、肉体を密封してしまい、スティームの栓《せん》をひねった。
「出るときは言ってちょうだい」
女はつまらなそうに言うと、掃除を始めた。掃除といっても、ひどく不精ったらしいもので、足の指に雑巾《ぞうきん》をはさんで床を拭《ふ》いている。
こんな女にまともなマッサージができるはずはない、と辰夫は思った。そう思うと、すぐにでも帰りたくなった。帰りたくはなったものの、新たにマッサージ師を探すことを考えると、なんとも大儀である。下手なマッサージでも、とりあえずは、やって貰ったほうが利口なようだ。
きゃっ、と、声がして、別なマッサージ女がとび込んできた。
「どうしたの?」
「あの外人、ヘンなのよ」
とび込んできた女が言った。
「いろんな道具持ってて、縛ってくれって言うの」
「縛ればいいじゃない」
「あたしにも裸になってくれって言うんだもの。カメラもセットしちゃってさ。ノーって言ったら、つかみかかってきたの」
「マネージャーに話そう」
女ふたりは出て行った。
辰夫の身体《からだ》はスティームのおかげで、ぼつぼつ、汗が出はじめている。
これはまずい、と思った。女が早く戻《もど》ってこないと、自分は完全に蒸されてしまう。それでなくても、ギロチンの板に首を突っ込んだ思いなのに……。
女が戻ってきたとき、辰夫はふらふらになっていた。汗が眼球の前を滑るのが見え、尻《しり》がひりひりしている。
「もう、出る……」
やっと、そう言えた。声が掠《かす》れていた。
女は蓋をあけ、つまらなそうな顔でマッサージのベッドの脇《わき》に立った。
予想した通り、粗くて下手なマッサージだった。二十分ほどで、「おしまい」と女は言った。
まだ汗にまみれている辰夫は、ようやく起き上り、ベッドに腰かけた。
水を貰おうとして見ると、女はベッドの端に胡座《あぐら》をかいている。
「本当に凝っているんなら、この店じゃ治らないわよ」
と、女は嗤《わら》った。
察しの悪い辰夫も、これが、赤線廃止以後に登場した新商売であることに気づいた。
「週刊誌に出てるようなことをするわけか、きみは」
彼は憮然《ぶぜん》とした。
「あったりまえよ」
女はせせら笑った。
「あれをやらなきゃ、あたしたち、食っていけないもん」
「大胆だな、こんな場所でやるなんて」
「いまに表通りまで進出するわよ」
と、女は自信ありげに言いきった。
半年後に辞表を出すと決心したとたんに、辰夫はあまり突っ張った態度をとらなくなった。
それに、辰夫の決心とは関係なく、辞表は現実のことになりそうでもあった。
城戸草平が、推理小説評論家、翻訳家を含む関係者五名に、新雑誌の成否をたずねたところ、確率七割という答えがかえってきたという。
――ぼくに向って七割というくらいじゃ、本音は六割か五割……つまり、失敗と予想してるんだ。
電話の向うの城戸草平の声は暗かった。新雑誌の敗北は、もはや決ったかのようであった。
陰々滅々たるムードの中で、ゴム仮面だけが陽気だった。それだけではなく、辰夫に声をかけてくることさえあった。
「佐伯一誠《さえきいつせい》さんの家へ行くんだけど、きみもこないか?」
ゴム仮面はなんともいえぬ笑みに唇《くちびる》を|への字《ヽヽヽ》にしている。
「こわい人なんじゃないですか」
辰夫は気がすすまなかった。
「そう言う編集者が多いんだが、ぼくに対しては違うのだ」
と、ゴム仮面は、さらに、にやにや笑って、
「きみも、ここらで挨拶《あいさつ》しておいたほうがいい。なにかと世話になるだろうから」
「でも、原稿を引き受けてはくれないでしょう」
「それはわからんさ。佐伯さんは苦労人だ。気に入った編集者のためには、ずいぶん、無理をしてくれる」
「原稿料が安くても、ですか?」
「あのくらいのベストセラー作家になると、原稿料にはそれほど拘《こだわ》らんよ」
「そんなものでしょうか」
辰夫は半信半疑である。
佐伯一誠の家は渋谷区|笹塚《ささづか》の焼け残った一劃《いつかく》にあった。場所を覚えるために、辰夫は地図を見ながら歩いたが、中野区に隣接した地域で、陰気な感じの日本家屋に、佐伯という表札が出ていた。
雑木が繁っているために庭は暗い。その庭に面した和室が佐伯の書斎である。畳に絨緞《じゆうたん》を敷き、洋風の机を置いて、編集者は机の向い側にある小さなソファーに腰かけるようになっている。忙しい主人が、腰をあげて応接間に足を運ぶ手間が省けるのだろう。
ゴム仮面が、
「新しく入社しました前野君です。『パズラー』という雑誌を編集します」
と紹介する。
辰夫はぴょこんと頭をさげた。
「どうも……」
着流しというより、まるで寝巻き姿の佐伯は軽く頷《うなず》き、机の上に積まれた現金封筒をわずかに横にずらした。流行作家にしては小さな家だし、態度も気さくだと辰夫は思った。
ゴム仮面は、いい歳《とし》をして、甘えるような語調で馴《な》れ馴れしく話しかける。佐伯もまた、ゴム仮面には気を許している風である。
「先生も、ますます、ご発展のようで……女性が三人いらっしゃるという噂《うわさ》がもっぱらですが……」
「うふふ、そんなものじゃない。もっと多いよ」
「どうも情報ルートが甘いようですな」
ゴム仮面はわざと恐縮してみせる。
「甘い、甘い。おれの動きは、そう簡単にはつかめんよ」
辰夫は莫迦莫迦しくなってきた。会話の俗悪さたるや、彼が化粧品セールスマンだったころ、よく耳にしたのと同じである。そういえば、佐伯一誠には、中小企業の俗物社長みたいなところがあった。
「そうそう……」
ゴム仮面はわざとらしく辰夫の顔を見て、
「きみ、お願いすることがあったんじゃないの?」
|おかま《ヽヽヽ》風の優しい口調になった。
「はい。実は……」
辰夫は咳払《せきばら》いをして、
「『パズラー』に、短いエッセイの連載をお願いできないかと思いまして……」
この忙しいのに冗談ではない、と叱《しか》られるのを覚悟して、おそるおそる言った。
佐伯はまじめな顔できいていたが、
「そうだねえ。内外の推理小説の技法、テクニック、だな。これについて、少しずつ書いてみたいとは思っていた」
「ほんとですか!」
辰夫の声が弾んだ。
「待ちたまえ。まだ、引き受けたわけじゃない。テクニックの分類を書いてみたいと、漠然《ばくぜん》と考えていただけだ。……一回、何枚ぐらいかね?」
「六枚か六枚半です」
「月に六枚か。それなら、きつくはないな」
「大丈夫ですか、先生」
ゴム仮面が口をはさんだ。
「そのために『黒猫《うち》』の連載が遅れると、困るのですが」
「月に六枚として、一年で七十二枚。四年やれば、一冊の本にまとまるな。『推理小説作法』という題をつける……」
「売れますよ、先生」
ゴム仮面は秘密めかした声で言った。
「売れ行きなどどうでもいい。たぶん、売れるだろうがな。それより、このおれが、固い長篇《ちようへん》評論を一冊出すことに意義があると思う」
佐伯の口調は妙に荘重になる。
「あります、大いにあります」
ゴム仮面は慌《あわ》てて相槌《あいづち》を打つ。
「ブームだというので、あまりにも安易な推理小説が横行しておる。新人の作品でも、推理小説と銘打てば、すぐに活字になる。こうした風潮に対して、推理小説のあるべき姿を示さねばならぬ。警鐘を鳴らさねばならぬ」
「そうです、そうです」
ゴム仮面は頷いてみせる。
「なにが、そうです、だ」
佐伯は苦りきった顔で、
「安っぽい新人を世に送った罪は、『黒猫《くろねこ》』にもあるのだ。いや、『黒猫』の罪は重い。ろくな小説を書かずに、社交と文壇政治に専念する城戸草平《きどそうへい》の責任でもある!」
当るべからざる勢いだ。矛先《ほこさき》が自分に向いてきたので、ゴム仮面は首をすくめている。
「考えておく。たぶん、執筆は可能だと思う」
そう言ってから、佐伯は、お手伝いさんの運んできたコーヒーを二人にすすめた。
「こちらのコーヒーはおいしいの」
ゴム仮面は見えすいたお世辞を口にして、
「ところで、先生、懸案の津和野行きは、どういたします?」
「必要だよ。『鯉《こい》のいる土地』という題名は津和野のことだから。……しかし、おれは、一日も、余裕がない。きみのとこの編集部で、おれが指定する場所をカメラに収めてきてくれればいい。途中の温泉も取材しなければならんから、まあ、二、三泊の予定で行って貰《もら》いたい。この若い人はどうだ?」
「いえ、私が参ります。他人には任せられません」
「ほう、意欲的だね」
佐伯は機嫌《きげん》が良くなる。
「先生の代表作になるお仕事ですから」
ゴム仮面は無表情に言った。
「ということは、私にとっても記念になる作品です。それにプロットや犯人、結末を知っているのは私だけですから」
「まあ、そうだな」
佐伯は満足そうであった。
井田のオフィスの模造皮革の黒いソファーに腰かけた辰夫《たつお》は、壁ぎわにある回転台式脚付の新型テレビの画面に見入っていた。
ザ・ピーナッツの二人にはさまれて、司会のミッキー・カーチスが、あまり面白《おもしろ》くない冗談を言っている。番組は、フジテレビの「ザ・ヒットパレード」だ。
……ゴム仮面が、流行作家に代って取材旅行に出てしまったので、編集部の空気は、開放的になった。
辰夫にとっては願ってもない機会である。辰夫と金井は編集に必要な備品のたぐいを井田のオフィスに運び、第二の編集室を作った。「絶対に成功させましょう!」と金井は眼《め》を輝かせて言い、また、確信もあるようだが……。
「金井君は?」
夜に入って、たった一人の女子社員を送り出した井田は、煙草《たばこ》をホルダーにはさみながら、辰夫にたずねた。
「『黒猫』の仕事をしに社へ戻ったんです」
と辰夫は答える。
「編集部でオートバイに乗れるのは、あの男ひとりですから、忙しいのですよ」
「たしかにタフそうだ」
井田はそう呟《つぶや》いて、テレビに眼を向けた。
「前野さんは好きなんですか、テレビが?」
「しばらく観《み》ていなかったので、もの珍しいのです。そろそろ、新型のを買わなきゃ」
「わたしは、めったに観ません。自分の関係している番組だけは観ますが……」
「あ……」
辰夫は気がついた。
「TBSのボクシング、ごらんになるのでしょう」
「いや、いいです。この時間は、ときどき、『ザ・ヒットパレード』を観るのです。『ガンスモーク』から、つい、つづけて観てしまう」
「ぼくは久しぶりだなあ」
辰夫はソファーの背にのんびりともたれる。ゴム仮面が社に居るのと居ないのでは、あとの神経の緊張がまるでちがうのである。
「こうやって観ると面白いのです。とくに、スマイリー小原が……」
と、井田は笑って、音量のつまみをひねり、音を消した。
時代劇の悪役のような大時代な顔立ちの指揮者、スマイリー小原は、腰をおとすと同時に両手をひらく。音楽があれば、それなりに|さま《ヽヽ》になるのだが、無音では、狂人のようにしか見えない。
「ポーズが決ったところで、にやりと笑うのが、なんともいえず、不気味でしょう」
井田は意地悪くつけ加える。
そういわれてみると、白塗りの長い顔の厚い唇が歪《ゆが》むのが、サイレント映画のドラキュラのようでもある。
「テレビは、こうやって観るのが、いちばん面白いのですよ」
いかにも玄人《くろうと》らしく井田は言った。
九時になり、「ザ・ヒットパレード」は終った。
辰夫は、そのあとの、シャーリー・マクレーンが出る「スター千一夜」も観るつもりだったが、井田はテレビを消し、ラジオのスイッチを入れる。S盤アワーの音楽が流れた。
「プレスリー除隊一周年記念特別番組なんです」
井田は安楽|椅子《いす》に腰をおろす。
「もう、一年たったのですなあ」
すぐに、「|本命はおまえだ《スタツク・オン・ユー》」が流れ出た。いかにもプレスリーらしい、快テンポの曲である。井田は腕を組んだまま、じっと耳を傾けている。
ドアをノックする音がした。
井田は立ち上る気配がない。辰夫は、そっとソファーを離れて、ドアの方に歩いた。
どうぞ、と呟きながらドアをあけたのと、相手がドアを押したのが同時だった。
あっ、という声がして、ハンドバッグが床に転がった。
辰夫はゆっくりとハンドバッグをひろい上げる。ハイヒールのせいもあろうが、彼よりも背が高い若い女が顔をあからめていた。
「ごめんなさい……」
「いいんです」
辰夫は無表情のまま、小声で言った。
チェックの長いマフラーを首に巻いた女は、辰夫には、ファッション・モデルのように見えた。〈ファッション・モデルのように〉というのは、|当時としては《ヽヽヽヽヽヽ》、最上級の形容である。
「井田さんの原稿をとりにきたんです」
女は辰夫に言った。
辰夫は井田の様子をうかがった。井田は、(わかってる……)というように、入口|脇《わき》の壁に画鋲《がびよう》でとめた紙袋を指さした。
「これをお渡しするだけでいいのかな」
紙袋を外しながら、辰夫はそう言った。なんだか心許《こころもと》ない気がするのだ。
「いいんです」
と、女は笑った。歯並びは良いとはいえなかった。
「いつも、こうなのですから。疑問があったら、明日、お電話します」
紙袋の中をちらと覗《のぞ》いてから、女はもう一度笑ってみせ、廊下に出た。ファッション・モデルにしては足が少し太いか、と辰夫は思った。
ドアをしめて、ソファーに戻《もど》ると、
「花見音楽事務所のアシスタントですよ」
と、井田が説明した。プレスリーの歌は、新曲「|今夜は一人かい《アー・ユー・ロンサム・トウナイト》」にかわっていた。
ゴム仮面の取材旅行は一週間に及んだ。
「佐伯さんの金で行ったんだから、さぞや潤沢だろうよ」
と、奴凧《やつこだこ》は編集部じゅうにきこえるような声で言った。
「温泉の取材とは羨《うらやま》しいですね」
校正係りの戸田が遠慮勝ちな微笑を浮べる。銀髪にポマードをつけている戸田は、戦前から校正専門で通してきた温厚な人物で、自分から発言しない限り、存在しているかどうかもわからぬほどである。机の上に積み上げられた原稿とゲラ刷りと分厚い辞書の山の向うに埋もれていて、わずかに黒いものを残す銀髪しか見えないせいもある。実家は東京近郊の大地主だそうで、だからこそ、引き合わぬ仕事に打ち込めるのだろう。
「三月の裏日本は、観光シーズンには少し早い。日本海を眺《なが》めながら、風呂《ふろ》の中で一杯やってるんだろう」
奴凧はアジるように言う。
「莫迦莫迦《ばかばか》しくなるよなあ、仕事をするのが」
「羨しがってるだけじゃ駄目《だめ》ですよ」
と、金井が言った。
奴凧と火吹き竹女史と戸田は、驚いたように金井を見た。金井が積極的な発言をするのは珍しい。
「いや……」
慌てた金井は、癖である軽い咳払いをして、
「ぼくらも、もう少し、会社に対して要求していいんじゃないかな」
「たとえば?」
奴凧は面白そうに問いかえす。
「執筆者に原稿を依頼する時のコーヒー代、軽食の代金ですね。これは経理に要求してもいいんじゃないですかね」
「え?」
辰夫はびっくりした。
「この会社は、そういうペティ・キャッシュまで、個人の給料から払うのかい?」
「そうですよ」
知らなかったのか、というように、金井は奇妙な笑いを浮べた。
「そんなの、初めてだ」
辰夫は気が重くなった。
彼が正式に給料を貰うのは、今月末からである。いままでは、城戸草平の懐《ふところ》から出るコンサルタント料と、準備費の名目の下に黒崎《くろさき》がくれた金で、なんとかやってきたのだが、これからは、毎日、何人もの人に会うだろう。そんな時のコーヒー代まで自己負担では、たまったものではない!
「どうでしょうか。認めてくれるでしょうかねえ」
戸田は諦《あきら》めた口調である。
「駄目だろうね」
奴凧はにやにや笑う。
「食事はともかく、お茶代は、請求しましょうよ」
金井は気が弱くなったようである。
当然の要求じゃないか、と辰夫は思った。こいつら、どういう考えなんだ?
いつもと少しも変らぬ、ゆっくりした足取りで、ゴム仮面は、昼過ぎに出社した。
「いかがでしたか?」
奴凧が冷やかすように声をかけると、
「疲れたね……」
と、軽くいなした。
それから卓上に散乱している電話メモを眺め、おもむろにダイアルをまわし始める。
辰夫が食事に出て、戻っても、ゴム仮面はえんえんと長話をつづけていた。
さらに三十分ほど喋《しやべ》ったゴム仮面は、送受器を置いて、
「前野君……」
と、声をかけてきた。
「ちょっと、いいかね?」
「はあ」
ゴム仮面は、自分の脇の椅子を指さした。辰夫は従うしかなかった。
「これは相談なのだがねえ」
念を押すように辰夫の眼を見つめて、
「松川寛という作家を知っているだろ」
「ええ、お名前だけは……」
「城戸先生の一番弟子で、なかなか書ける男なのだが、マスコミ的には、いまひとつなんだ。ぼくも、彼を押し出すべく、いろいろ努力している」
辰夫は黙っている。
「松川君がかなり長い小説を書いてきた。良い出来なのだが、なにしろ二百枚近くもある。『黒猫』には、誌面の余裕がない。わかるだろ」
辰夫が答えないので、ゴム仮面は煙草をくわえた。
「これからが相談なのだが、『パズラー』に、日本作家の頁《ページ》を作ったらどうかと思うのだ。松川寛とか宮島正平といった、不遇ではあるが、実力のある作家がいる。そういった人たちの作品を、毎月、一|篇《ぺん》、とりあげてゆく。意味があると思うがねえ」
読めた、と辰夫は思った。
松川寛、宮島正平といえば、〈城戸新人〉と呼ばれ、城戸草平主宰の「黒猫」においてさえ、持て余し気味の存在である。「黒猫」を売れる雑誌にしようとすれば、流行作家、話題の新人の作品をのせることになり、中途|半端《はんぱ》な〈城戸新人〉は切りすてざるを得ない。
編集部内でさえ迷惑がっている〈城戸新人〉たちを、自分に押しつけようとしている、と辰夫は見た。初めから危惧《きぐ》していた事態が、遂《つい》にきたのだ。
「今のところ、日本作家の頁は考えておりませんが……」
と、辰夫は婉曲《えんきよく》に断りにかかる。
「ほう、反対するのか、きみは?」
ゴム仮面は粘りつくような言い方をした。
「反対ではありません。考えてもみなかったのです」
「じゃ、考えたまえ」
ゴム仮面は急に居丈高になる。
「松川君は城戸《きど》先生と密接な関係にある。きみも、城戸先生の|つて《ヽヽ》で、ここに入ったのだ。そういう人間関係を、少しは考えたほうがいい……」
「どういう意味ですか?」
辰夫は、相手の黒いガラス玉のような小さい眼《め》を見た。
「説明しなければならんのかねえ」
ゴム仮面のあごの肉が、少し、動いた。
「城戸先生の覚えをめでたくしておいたほうが、きみの将来のためだぞ」
「将来もなにも、雑誌が売れなかったら、三号で|これ《ヽヽ》じゃないですか」
辰夫は右手で首筋を掻《か》き切る真似《まね》をして、
「はっきり、おっしゃってください。これは、城戸先生の命令ですか?」
「命令ではない……」
ゴム仮面は不快そうに、ぼそっと言った。
「では、考えさせてください」
「いいだろう。善処してくれたまえ」
まるで役人のような言葉を使うと、ゴム仮面は立ち上り、奴凧に声をかけた。
「ぼくは帰る。家にも寄らずに、直行してきたので、くたびれた」
日が暮れてから、辰夫は井田のオフィスに移動した。
先にきていた金井が片手をあげて、
「井田さんは帰りました。ドアのスペアキイを二つ作らせて貰《もら》いましたよ」
と、デスクにキイを置いた。
「厄介《やつかい》なことが多くて……」
辰夫は思わず、ぼやいた。
「なにか、あったのですか」
「いや……」
まだ口にすべきではない、と辰夫は思った。
「うまいことに、創刊号予告を作る役がぼくにまわってきました」
金井は白い歯をみせた。
「『黒猫《くろねこ》』に挟《はさ》み込みの予告を入れるんです。ついては、佐伯一誠《さえきいつせい》さんの連載を大きく広告したいのですが……」
「まだ確定したわけじゃないんだ」と辰夫は答えた。「ぼくが念を押してみる」
椅子にかけるや否《いな》や、彼は佐伯一誠宅のダイアルをまわした。
――おお……。
佐伯がじかに出たので、辰夫は、ひやっとした。
――先日、おうかがいした文化社の「パズラー」編集部の者ですが……。
――……想《おも》い出した。なにか、用かね?
――創刊号の予告を作っておりまして、先日、おっしゃっておられたエッセイの件を……。
――なにを言うとるんだ?
流行作家は激昂《げつこう》した。
――忙しいところに、莫迦な電話をかけるな! 文化社は横のつながりがないのか!
――は?……。
――あのエッセイなら、翌日、津田君から電話で断ってきた。先生にあまり負担をおかけしては申しわけない、涙をのんで辞退します、と言うとった。わしは、かなり、乗り気になっておったのだが、腰を折られた。考えてみれば、無理に引き受けるまでもないことだ。とにかく、津田編集長にきいてみなさい。
佐伯はわらいを含んだ声でそう言うと、電話を切った。
辰夫《たつお》は蒼白《そうはく》になっていた。「どうかしたのですか?」と金井に問われても、すぐには答えられなかった。
いくらかでも気を晴らすために、辰夫は衝動買いをした。
とはいえ、物が高価なテレビであるから、全額を支払うわけにはいかない。頭金だけを渡したのだが、財布は空っぽになった。
テレビは、十四インチの標準型で、各社とも六万円台であった。辰夫は店頭で、某社が発売した、十四インチで四万八千円という安い新製品を見かけたが、警戒心が働き、結局は六万三千円の品を求めたのである。
狭い部屋にテレビを置いてからわかったのだが、観《み》るべき番組は、意外にすくなかった。一週間、チャンネルをまわしてみて、「ヒッチコック劇場」と一時間番組「ペリー・コモ・ショー」のみが、まともな鑑賞に耐え得るという結論に達した。(「ペリー・コモ・ショー」はカラー放送だが、辰夫が観るのは、もちろん、黒白である。)
辰夫はテレビを持つのが初めてではない。大学を出てすぐに、そのころまだ生きていた母親のために、GIが置いていったアメリカ製のテレビを安く入手したことがある。当時はアメリカ製の番組が多く、それなりに、かなり面白《おもしろ》かったと記憶する……。
さて――財布を空っぽにしたわりには、彼はテレビのスイッチをあまり入れなかった。アパートに帰るのが、毎晩、遅かった事情もある。
もし辰夫が、やがて、自分がテレビ界と接触することを知っていたならば、もう少し熱心に十四インチの画面を凝視したにちがいないのだが……。
日本でテレビ放送が始まったのは――もっと、げんみつにいって、NHKが東京地区でテレビの本放送を開始したのは、昭和二十八年(一九五三年)二月一日である。同じ年の八月二十八日には、初の民間テレビとして、日本テレビが本放送を開始した。
初期のテレビは、プロレス中継によって有名になった。プロレスに熱中して、茶の間でショック死した老人がいた。テレビ放送そのものの珍奇さとプロレスのいかがわしさが、相乗効果を発揮して、電気屋の店頭のテレビに人々がむらがった。
昭和三十一年秋、全国のテレビの台数は三十万を突破。
昭和三十二年六月、五十万突破。
昭和三十三年五月、百万突破。
そして、皇太子結婚パレード、安保反対闘争といった超スペシャル・イヴェントのおかげで、昭和三十五年八月、テレビは五百万《ヽヽヽ》を突破する。電気冷蔵庫、電気洗濯機とともにテレビは、家庭の〈三種の神器〉として珍重されたのである。
そして、この物語の〈現在〉である昭和三十六年三月は、わが国のテレビ史における一つの転換点と見るのが妥当であろう。この年から約十年つづく〈国産番組の黄金時代〉を担《にな》う人々は、おりしも、春からの新番組の企画に忙殺されていた。たとえば、日本テレビでは、ザ・ピーナッツとクレージー・キャッツを中心とする六月からの新番組が、題名に「シャボン玉」なる文字を入れることを条件に、進行しつつあった……。
城戸草平に会わなければ、と、辰夫は思った。
新雑誌の内容についてはゴム仮面に容喙《ようかい》させない、という城戸の約束は、崩されつつある。
ゴム仮面の奸智《かんち》なところは、そのために、〈城戸新人〉を持ってきたことである。〈城戸新人〉を重用《ちようよう》するといえば、城戸草平としても、ノーとは言えないだろう。心の中では、むしろ、喜ぶのではないか。
しかし、この一線を崩してはならない、と辰夫は思った。一つ前例を作ったら、ゴム仮面は次々に容喙してきて、辰夫を居たたまれなくするだろう。それこそは、ゴム仮面の狙《ねら》いなのだから。
そう思いながら、ぐずぐずしていたのは、城戸草平の社会的地位の高さが、文化社に在籍することによって判《わか》ってきたためである。一社員が気軽に電話できる相手ではなかったのだ。編集長のゴム仮面さえ、よほどの事態でない限り、軽々《けいけい》にダイアルすることはないようである。
機会は向うからきた。
城戸草平の旧作がTBSでドラマ化されるので、局の近くのレストランで打合せをする。打合せが終るころ、そこにきて貰いたい、と城戸は指定した。
約束の時間に辰夫が入ってゆくと、北欧風の作りの店内の奥に、城戸草平と新劇役者数人がいた。食後の雑談らしく、役者たちは大きな声で笑っている。
辰夫に気づくと、城戸は重々しく、腕時計に眼をやった。
ディレクターらしい男が気をきかせて、「じゃ、ここらへんで……」と言う。「犯人の動機が変るかも知れませんが、そのさいは、もう一度、お目にかかって……」
「任せますよ」
城戸草平はつまらなそうに言った。
「そちらもプロなのだから、大衆が観て満足できる改変なら、それでいい。打合せは一回で充分だ」
「ありがとうございます」
ディレクターは嬉《うれ》しそうに笑った。
「先生は、気むずかしい方ときいていたので……」
「伝説だよ」
城戸草平は退屈そうである。
名士のいる光景だな、と、辰夫は思った。
ディレクターや役者たちは立ち上り、城戸に頭をさげた。城戸は、ふむ、ふむ、と鼻を鳴らしながら応じていたが、やがて、右手をふって、辰夫を呼び寄せた。
「すわりたまえ」
辰夫は役者のひとりがすわっていた椅子《いす》に腰をおろした。ボーイが皿《さら》やナイフ、フォークを片づけにくる。
「夕食を注文しなさい」
そう言ってから、城戸は、コーヒーのお代りをたのんだ。
「けっこうです」
「どうした? 具合でも悪いのか」
相手は怪訝《けげん》そうな顔をして、
「黒崎《くろさき》君は、きみが、やたらに胃散を飲んでいると言うとった。二十年早いぞ」
「なにか、すっとするもの……レモンスカッシュにしよう」
辰夫はボーイに言った。
「身体《からだ》に気をつけてくれ。きみには期待しているのだから」
城戸草平はゆううつそうに喋《しやべ》り始めた。
「黒崎君から報告は受けておる。正直に言って、きみが、これだけ頑張《がんば》るとは思わなかった。初めは突っ張るだろうが、すぐに逃げ出すと予想した。……順調に進行しているようじゃないか」
「なんとか、です」
「あの会社の中で牽引車《けんいんしや》の役目を果すのは容易ではない。ぼくにはわかっているよ」
辰夫は涙がこぼれそうになった。見るところは見ているのだ、と思った。
「黒崎君からぼくにたのんできたことがある。肩書が〈編集主任〉では、きみがやりづらそうだというのだ。〈編集長〉に戻《もど》してくれ、と、はっきり言ってきた」
城戸は、急に、にやっとして、
「黒崎君は津田君が嫌《きら》いなのだ。――それはそれとして、申し出は正しいと、ぼくも認めざるを得ない。この次の会議のときに、全員の前で、ぼくの口から申し渡そう。名刺は、明日にでも、作り直したまえ」
「はい……」
「どうした? 浮かない顔をしているじゃないか」
城戸は不審そうだった。
「肩書をちゃんとしていただけるのは嬉しいのです……」
辰夫は城戸を不必要に刺戟《しげき》しないように気をつかった。
「とても、嬉しいです。……それによって、他の人が私のやり方に容喙してくるのが防げれば、もっと、ありがたいのですが……」
「きみらしくもない。なぜ、そんな、もってまわった言い方をするのだ」
城戸はきびしい表情になって、
「津田君が、まだ、なにか、言ってくるのか?」
「おききになっていないのですか」
「なにを?」
「松川寛さんのことです」
「松川がどうかしたのか?」
城戸は狐《きつね》につままれたような顔をする。本当に知らないのだろうかと疑いながら、辰夫はゴム仮面のした〈相談〉を、城戸に話した。
「ぼくのあずかり知らぬことだ」
城戸の眉間《みけん》に縦皺《たてじわ》が刻まれた。
「松川から原稿が持ち込まれたのは本当だ。ぼくが眼を通したのだからな。可もなし不可もなしの出来だが、いままでの作品よりはましだった。一度手を入れさせて、良かったら、『黒猫』にのせると、津田君は言っていた。ぼくも、その方針で進めてくれ、と答えた。……『パズラー』にのせろ、などと、ぼくが言うはずはない。もし、そう考えたとしたら、きみに直接、電話をする……」
「はあ……」
「まあ、ぼくには、だいたい読めている。――作品の直しがうまくいかなかったのだ。津田君としては、原稿を返すしかない。それができないから、そんな妙な思いつきを口にしたのだ」
「なぜ、できないのですか? 知り合いだからですか?」
「親しいことは親しいのだが、それだけじゃない」
城戸の唇《くちびる》がかすかに歪《ゆが》んだ。
「酒だ。津田君は松川に酒を奢《おご》って貰っている。|たかり《ヽヽヽ》といってもいい。だから、断れんのだ」
最低の人間関係だ、と辰夫は思った。推理作家の卵の中には、原稿を採用して貰いたいために、津田を酒場に案内する者がいると聞いてはいたが……。
「ゆうべ、あるパーティーで佐伯一誠に会ったら、こぼしていた。夜中に、酔った津田君が佐伯一誠の家の門を叩《たた》いて、『この家の酒を飲み干してやるぞ!』と吼《ほ》えていたそうだ」
酒を飲んだら虎狼《とらおおかみ》、という言葉があるが、ゴム仮面の場合、酒を飲んだら狼男、である。
「いろんな障害があるだろうが、挫《くじ》けないでくれたまえ」
城戸は無表情に言った。
「『パズラー』が成功するかどうかは、ぼくにとっても大事な賭《か》けだ。思うぞんぶん、やりたいことをやってくれ」
辰夫はその足で新宿に向った。
たずねる喫茶店は三越の裏手にあり、ほとんど人のいない薄暗い店内にはナット・キング・コールの艶《つや》のある歌声が鳴り響いている。
奥の正面に二人の男がいた。
こちら向きになって、缶《かん》入りピースを手にしている混血児風の風貌《ふうぼう》の人物が、辰夫が名前だけ知っている翻訳家らしかった。年齢は辰夫とほぼ同じはずだが、落ちついて老成した態度に見えた。
辰夫が近づいて行くと、翻訳家は顔をあげ、おもむろに立ち上った。
彼は名刺を出した。相手は、名刺を切らしていて失礼します、と言った。
「いつも、ここで、仕事をしていらっしゃるのですか?」
「そうですな」
長身の翻訳家は長い腕をもて余すようにして、
「夜中近くまでおります。めしは、すぐ前のお握り屋で食べられますし」
と答え、はっとした様子で、斜め脇《わき》の椅子にすわっているベレー帽をかぶった小柄《こがら》な男を紹介した。
「福島正実さんです、『SFマガジン』の」
辰夫は驚いて、名刺をもう一枚出した。
福島正実は色が黒かった。悪戯《いたずら》っぽい眼《め》つきで辰夫を見ると、
「また、競争相手がふえるのか」
と笑った。
「そちらとは競合しないでしょう」
辰夫が言うと、福島は、
「そう単純でもないぜ、あなた」
身体に似合わぬ大きな声を出した。
三人は椅子に腰をおろした。
「横町の煎餅屋《せんべいや》が一軒、ふえるわけですな」
翻訳家は低い声でそう呟《つぶや》き、意味ありげに笑った。
「ああ、|あれ《ヽヽ》か」
福島正実は大声で笑った。
「|あれ《ヽヽ》ねえ」
「なんですか」
辰夫《たつお》は気になった。
「こいつは説明を要するんだがねえ」
福島は愉快そうに言った。
「こういうことですよ……」
翻訳家はピースのけむりをうまそうに吸って、
「丸二年まえですか。『ヒッチコック・マガジン』を創刊するにあたって、編集長の中原弓彦《なかはらゆみひこ》さんが、飛ぶ鳥もおとす勢いだった『エラリイ・クイーン』編集長の都筑道夫《つづきみちお》さんに、後輩として仁義を切ったのです。そのとき、都筑さんはこう教えた。――大出版社の雑誌を大量販売の菓子だとすると、われわれが作る雑誌は、たかだか、横町の気むずかしい親父《おやじ》が、手焼きで、ほんの少し作る煎餅のようなものだ。だから、醤油《しようゆ》のつけ方、焼きかげんの個性で、勝負するしかない、と……」
「都筑道夫らしい言い方だ」
福島はまた笑って、
「中原君は、これを、もろに信じたんだな。……むずかしい問題だよ。自分の個性を、どれだけ強く打ち出すかってことは。ぼくなんか、いまだに迷いっぱなしさ」
「なるほど……」
辰夫は感心した。良い時に良い話をきいたと思った。
「手焼きの煎餅ですか」
「やっぱり、一軒、ふえそうだぜ」
福島は白い歯を見せた。
「週刊平凡」一九六一年三月の第一週と第四週の号にのった〈ジュークボックス・ベストテン〉の曲を列挙してみよう。
[#1字下げ]〈第一週〉
[#1字下げ]1 GIブルース(プレスリー)
[#1字下げ]2 夢のナポリターナ(ザ・ピーナッツ)
[#1字下げ]3 遥《はる》かなるアラモ(ブラザース・フォー)
[#1字下げ]4 日曜はダメよ(メリナ・メルクーリ)
[#1字下げ]5 グリーン・フィールズ(ブラザース・フォー)
[#1字下げ]6 グッド・タイミング(坂本九/原曲はジミー・ジョーンズ)
[#1字下げ]7 有難《ありがた》や節(守屋浩《もりやひろし》)
[#1字下げ]8 無情の夢(佐川ミツオ)
[#1字下げ]9 潮来笠《いたこがさ》(橋幸夫《はしゆきお》)
[#1字下げ]10 小雨の丘(井上ひろし)
(11 じんじろげ/森山加代子)
[#1字下げ]〈第四週〉
[#1字下げ]1 日曜はダメよ(当時の題は「日曜はいやよ」)
[#1字下げ]2 遥かなるアラモ
[#1字下げ]3 GIブルース
[#1字下げ]4 今夜は一人かい(プレスリー)
[#1字下げ]5 グッド・タイミング
[#1字下げ]6 グリーン・フィールズ
[#1字下げ]7 夢のナポリターナ
[#1字下げ]8 東京ドドンパ娘(渡辺マリ)
[#1字下げ]9 アラスカ魂(ジョニー・ホートン)
[#1字下げ]10 無情の夢
これらの歌は、おおむね、衛生無害なものであるが、守屋浩の「有難や節」だけは、歌詞が頽廃《たいはい》的との理由で、〈有識者・インテリ〉の攻撃にさらされた。
この時、「有難や節・考」という、屈折した擁護論を朝日新聞朝刊に書いたのは、学習院大学教授、清水幾太郎である。(ちなみに、一部の特殊な人々――たとえば「思想の科学」一派――を除けば、代表的知識人が、流行歌を論じる風潮は、当時は、まだ、なかった。また、大新聞の権威も大したものであって、スポーツ欄とテレビ欄だけが読まれるようになったのは、はるか後年である。)
清水幾太郎はまず、
近頃《ちかごろ》地球も人数がふえて
右も左も満員だ
だけど行くとこ沢山ござる
空にゃ天国地にゃ地獄
有難や有難や 有難や有難や(作詞・浜口庫之助《はまぐちくらのすけ》)
――という歌詞を覚えてしまった、と告白し、この歌に、多くの批評家が指摘している〈ニヒリズム、ヤケクソ、不満〉があることを認める。そして、これは、〈暗い不満の軽快なお化けであるように思う〉と、卓抜な表現をしている。
清水の擁護の主旨は、この歌を批判するのは、戦前戦中の体験をもつ中年以上のインテリであって、じつはそれほど不健全なものではない。戦後の民主主義や平和を|当然の前提とした《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》若い人たちの心に不満があるのは当然であり、その不満にこそ〈進歩〉の原動力がある――というものである。
〈流行に弱い体質〉とみずから認める清水が、上・下二回のエッセイ風の文章で指摘した〈戦前戦中の体験をもつ人々と、平和を当然の前提とした若い人たちの乖離《かいり》〉が顕在化するのがそれから約二十年後であるのを思えば、清水個人への好悪《こうお》を超えて、彼のジャーナリスティックな嗅覚《きゆうかく》の鋭さには舌を巻かざるをえない。
間もなく、多くの知識人が流行歌や大衆芸能を論じ始め、一種の流行にさえなるのだが、清水幾太郎の「有難や節・考」は、その先がけの一つだった。(付言すれば、このタイトルは深沢七郎のベストセラー小説「楢山節考《ならやまぶしこう》」の|もじり《ヽヽヽ》である。)
「有難や節・考」の下を掲載した日の朝日新聞には、また、電通が発表したテレビ視聴率調査の結果が大きく扱われている。時代の相貌《そうぼう》を示すために、紹介してみたい。
[#1字下げ]〈東京地区人気番組ベスト20〉
[#1字下げ]1 「ジェスチャー」(NHK)
[#1字下げ]2 「ララミー牧場」(NET/現・テレビ朝日)
[#1字下げ]3 「お笑い三人組」(NHK)
[#1字下げ]4 「私の秘密」(NHK)
[#1字下げ]5 「ディズニーランド」(NTV)
[#1字下げ]6 「ローハイド」(NET)
[#1字下げ]7 「事件記者」(NHK)
[#1字下げ]8 「ライフルマン」(TBS)
[#1字下げ]9 「名犬ラッシー」(TBS)
[#1字下げ]10 「土曜劇場」(一時間ドラマ/フジ)
[#1字下げ]11 「それは私です」(NHK)
[#1字下げ]12 「パパは何でも知っている」(NTV)
[#1字下げ]13 「ザ・ヒットパレード」(フジ)
[#1字下げ]14 「モーガン警部」(NTV)
[#1字下げ]15 「日真名《ひまな》氏飛び出す」(TBS)
[#1字下げ]16 「ダイヤル110番」(NTV)
[#1字下げ]17 「ビーバーちゃん」(NTV)
[#1字下げ]18 「アニーよ銃をとれ」(フジ)
[#1字下げ]19 「ホップステップお嬢さん」(TBS)
[#1字下げ]20 「スポーツ芸能ルポ」(NTV)
[#1字下げ]〈阪神地区〉
[#1字下げ]1 「源平芸能合戦」(ABC)
[#1字下げ]2 「ララミー牧場」(MBS)
[#1字下げ]3 「ローハイド」(MBS)
[#1字下げ]4 「一心茶助」(KTV)
[#1字下げ]5 「ジェスチャー」(NHK)
[#1字下げ]6 「やりくり三代記」(ABC)
[#1字下げ]7 「アニーよ銃をとれ」(KTV)
[#1字下げ]8 「土曜劇場」(KTV)
[#1字下げ]9 「番頭はんと丁稚《でつち》どん」(MBS)
[#1字下げ]10 「道頓堀《どうとんぼり》アワー」(ABC)
[#1字下げ]11 「上方劇場」(NHK)
[#1字下げ]12 「部長刑事」(ABC)
[#1字下げ]13 「らくがき横丁」(YTV)
[#1字下げ]14 「日曜お笑い劇場」(MBS)
[#1字下げ]15 「モーガン警部」(YTV)
[#1字下げ]同位「波の塔」(KTV)
[#1字下げ]17 「パパ起きて頂だい」(YTV)
[#1字下げ]18 「指名手配」(MBS)
[#1字下げ]19 「それは私です」(NHK)
[#1字下げ]20 「スポーツ芸能ルポ」(YTV)
ジョン・F・ケネディ大統領が軍縮委再開を提議し、元外相有田八郎が三島由紀夫の「宴《うたげ》のあと」を〈プライヴァシー侵害〉で訴えた日の夕方、新橋駅近くの小料理屋の二階では、文化社全員による会議がひらかれていた。
形ばかりの床の間を背にした城戸草平《きどそうへい》は、世界中の苦虫を口に含んだような顔で、ビールのグラスを手にしている。その右どなりにすわった黒崎《くろさき》は、柔道できたえたと称する巨体を揺すりながら、
「耳に|たこ《ヽヽ》ができたといわれるかも知れませんが、『黒猫《くろねこ》』の売れ行きは、ますます悪くなったと言わざるを得ません」
と、前置きした。
「赤字を埋めるために出しておる増刊号も、このところ、返品がふえる一方です。もちろん、これは、私ども全員の責任なのですが、雑誌の内容については、私にはいかんともなしがたい。読者にもっとアピールするような内容を盛り込むべく、可及的速《かきゆうてきすみ》やかな改良をお願いするしだいです」
〈可及的速やか〉というのは、軍隊用語だろう、と辰夫は思った。妙に当りが柔らかかったり、急に威《おど》したりする黒崎の変幻ぶりに、辰夫は軍隊の臭《にお》いを感じとっていた。
「どうしたらいいのかなあ……」
城戸は苦笑しながら言った。金主としては、黒崎よりもっと過激な言葉を吐きたいのだろうが、雑誌の表紙に〈城戸草平編集〉と刷り込んである以上、そうはいかない。編集を叱《しか》るとすれば、自分に向って文句を言う形になるからだ。
ほんらいならば、もっと嵩《かさ》にかかった態度をとるであろう黒崎が、ずいぶん遠慮した言いまわしをするのは、編集部を批判するのが、そのまま、城戸草平批判につながることを心得ているためだった。しかしながら、黒崎の視線をよく見ていれば、批判の矢は、すべて、ゴム仮面に向けられているのが明らかである。
「城戸先生を煩《わずら》わせるまでもなく、編集部内で討議し、積極策を打ち出すべきです」
黒崎は鼈甲《べつこう》ぶちの眼鏡の奥からゴム仮面を見つめて、
「先生には、ほかの面で、なにかとお世話になっているのですから」
編集部員たちは沈黙している。いずれにせよ、ここは、ゴム仮面が、おのれの意見を開陳する場面だ、と、だれもが思っていた。
だが、ゴム仮面も然《さ》る者《もの》である。不用意な発言をして、しっぽを掴《つか》まれるような真似《まね》はしない。うつむきかげんで煙草《たばこ》をふかしている。われ関せず、といわんばかりの姿勢だ。
「やれるだけのことはやったよ」
と、城戸は黒崎に言った。
「ぼくには、もう、案がない。疲れた。ぼくの感覚が古いという投書が多いが、たぶん、そうなのだろう」
黒崎は当惑した表情になった。
「先生に、すべての面倒を見て頂くのは無理なはなしです」
と、西が慌《あわ》てて助け船を出した。
「これは津田さんのほうで考えるべきことです。そうでしょう、津田さん?」
「は?」
ゴム仮面は初めてきこえたふりをした。
「話をきいていないのですか!」
西は|こめかみ《ヽヽヽヽ》に青筋を立てて、
「『黒猫』の責任者は、あなたなのですよ! もっと真剣に考えてくれなきゃ困ります」
「考えてますよ」
当然じゃないか、という風にゴム仮面は答えた。
「じゃ、それを、喋《しやべ》って下さい」
「案は、いろいろ、あります」
と、ゴム仮面は無表情に言う。
「ただ、思いきった案を実行に移そうとすれば、金がかかります。黒崎さんがいやなお顔をなさるでしょう。ぼくらとしても、そういう案は口にしにくいので……」
「かまわん。言ってみたまえ!」
黒崎が叫んだ。
「いえ……」とゴム仮面は薄笑いを浮べて、「実行できない案を口にしても仕方がないですよ。実行し易《やす》い案を、部内で、もう少し練りまして……」
「また、そういう逃げ方をする!」
黒崎の表情が険しくなる。
「いつも、もう少し、もう少し、と引きのばすじゃないか。きみは、卑劣だぞ!」
空気が緊迫した。まあ、昂奮《こうふん》しないで、と西が止め、「津田さん、かわいそう」と保利さんが呟《つぶや》いた。
ゴム仮面は、うつむいたまま、両掌《りようて》を膝《ひざ》の上で組み合せている。完全に被害者のポーズなので、黒崎も追い打ちをかけるのをためらうほどである。
「そうか。そんなに悪化しているのか」
城戸はだれにいうともなく呟いた。
「はあ、年を越してから返品が急にふえました」
と黒崎が応じた。
「テレビのせいもあるのかね?」
「は?……」
「テレビでスリラーや推理ドラマを、よく、やっとるだろう」と城戸は唸《うな》るように言った。「ぼくも、企画に噛《か》んでいるが」
「はあ」
「ああいうものは、小説の宣伝になると、いままで考えてきたのだが、逆かも知れん。推理ドラマを観《み》て、原作の小説は読まない事態がおこっているのかも知れん。たかが電気紙芝居と舐《な》めておると、ひどい目に遭いそうだな」
「将来は別として、現在は、関係がないと思います。売れ行き不振は、あくまで、雑誌じたいの問題です」
黒崎は話題が拡散しないように予防線を張る。
「思いきって、表紙から変える必要があるかと心得ます」
「表紙、ですか!」
奴凧《やつこだこ》が頭のてっぺんから声を出した。
「ちょっと、それは……」と戸田。
「極端じゃないかしら」
割り台詞《ぜりふ》風に決めた火吹き竹女史は、軽蔑《けいべつ》の眼差《まなざ》しで黒崎を見た。
「いまの表紙は愛嬌《あいきよう》がなさ過ぎるぞ」
黒崎は、かっとなって、
「かりに内容が充実していたとしても、あの表紙では売れんよ。表紙ちゅうのは、人間でいえば顔だ。たとえばのはなしだが、どんなに気立てが良い娘がおったとしても、顔が不細工だったら、二宮君は結婚に踏みきらんじゃろうが……」
「いやあ、それは……」
とてつもない比喩《ひゆ》に、奴凧は眼《め》をパチクリさせたが、
「この人は、どんな美人で気立ての良い人がいても、結婚しないわよ」
火吹き竹女史が一蹴《いつしゆう》する。
黒崎の旗色ははなはだ悪い。とくに火吹き竹女史がぽんぽん言い始めると、退却を余儀なくさせられるのが常である。
その形勢を見て、ゴム仮面がおもむろに発言した。
「……ごくさいきん、執筆者に会ったさいのコーヒー代などを会社が払ってくださるようになりました。これには感謝いたします。……しかし、ごく一部の者が、ぼくの判なしで、会社に請求しているのは、どうかと思われます」
きたな、と辰夫《たつお》は思った。
「これは編集部の統制を乱す行為で、ぼくとしては面白《おもしろ》くありませんな、黒崎さん」
「ほう、その〈一部の者〉というのはだれかね?」
黒崎の眼が輝いた。
ゴム仮面は、ためらうふりをしてから、
「前野君です」と言いきった。
「それなら、いいのだ。前野君は、もう、きみの部下ではない」と黒崎が言いきった。
「は?」
ゴム仮面は大きなショックを受けたようである。やがて、不審そうに城戸草平の顔を見る。
「先生と相談して決めたことだ。前野君の肩書は〈編集長〉になる……」
「慎重に考えて決めたのだよ」と城戸草平が重い口をひらいた。「津田君を軽《かろ》んじるわけではない。ただ、前野君を動き易くしてやるためだ……」
「それはそれとしてだ」
黒崎は肚《はら》に据《す》えかねたように問いかけた。
「きみは、いま、前野君を批難したが、きみ自身はどうなのだ? 作家との飲《の》み代《しろ》として、経理から金を持っていっている。そのさい、わしの判を貰《もら》ったことが一度でもあったかね、ああ?」
「よかったですねえ……」
井田は、女子社員が運んできたインスタント・コーヒーを啜《すす》りながら、頷《うなず》いた。
「前野さんがファイトを燃やしてたのはわかりますが、わたしのオフィスでこっそり仕事をつづけるのは無理だと思ってましたよ」
辰夫は苦笑をかえした。
……黒崎とゴム仮面の応酬は、きりがなかった。たまりかねた城戸草平が「津田君が|まめ《ヽヽ》に会議を開かないから、こんなことになるんだ」と口をはさんだ。「きみは会議が嫌《きら》いなのだろうが、たとえ、いやでも、会議を開きたまえ」と言われ、ゴム仮面は、やむなく、しぶしぶ城戸に詫《わ》びた。
雑誌の赤字を少くするためには、定価を上げるか、頁《ページ》を減らすか、どちらかをえらばねばならない。黒崎は、「黒猫」を三十二頁減らす案を出し、若干の反対を押しきって、決定してしまった。ゴム仮面は、珍しく、深刻な表情になっていた……。
「明日にでも、事務用具は文化社に戻《もど》します。ぼくらの雑誌が成功するかどうかわかりませんが、ご恩は忘れません」
「まあ、堅いことは言わんでください。じつは、シュヴァイツァー招聘《しようへい》のほうが駄目《だめ》になったので、わたしは、エルヴィスを呼ぶ計画に力を入れようと決心したのです。そうなったら、あなた方に、立ち退《の》いてもらうつもりでした」
「シュヴァイツァー、うまくいかなかったですか」
「惜しいですよ。日本橋の三越に話を通して、あそこのパイプオルガンが使えるはずだったのです」
井田は本当に残念そうである。思いなしか、いつもほど元気がない。辰夫は相手をはげますつもりで言った。
「でも、商売としては、プレスリーの方が、ずっと上ですよ。がんばって下さい」
「奴《やつ》のマネージャーがしぶといらしくて……」
こぼすように井田は言って、
「あ、いかん。今日は、わたしの構成した番組の日だ。フジテレビへ行かなきゃ……」
辰夫は立ち上った。
「じゃ、ぼくは、ここらで……」
「テレビのスタジオをごらんになりませんか。別に珍しくもないでしょうが」
「ぼくにとっては珍しいです」と、辰夫は応じた。「映画を観てから、かけつけます」
「狂った果実」のエンドマークが出ると、辰夫は席を立った。もう一本の「太陽の季節」を観る気はなかった。
狭いテアトル三原橋は、満員で、煙草のけむりで噎《む》せかえらんばかりである。旧作二本立てで、これだけ観客が入るのは珍しい。身体《からだ》をぶつけ合いながら、彼は橋の下の映画館を出た。
「狂った果実」を観るのは五年ぶりだった。
このまえ観たのは封切の時だ、と彼は歩きながら思った。その映画は彼の青春のシンボルだった。
映像の鮮烈さは変っていないが、作中の風俗はすでに古びていた。具体的にいえば、登場人物のズボンが太過ぎた。
だからといって、マイナスの印象をあたえるわけではなかった。古びた風俗、流行語において顕著である|ずれ《ヽヽ》――それらが奇妙に面白かった。ノスタルジックな感情に溺《おぼ》れきれない性格だからかも知れないが……。
しかしながら、この五年間の変化の凄《すさ》まじさはどうだろう!
映画の中で、主人公たちの生活が一般大衆より豊かなことを示すために、テレビ受像機がさりげなく置かれているのだが、いまでは、頭金さえ払えば、だれでも、手に入れられるのだ……。
テレビ局前の食堂に入ってから、夕食をとっていなかったのに気づいた。彼は八十円のチャーハンを注文し、テーブルの下の|しみ《ヽヽ》だらけの夕刊を引き出した。
チャーハンを食べ終えたころ、井田が姿を現した。
「行きましょう、すぐ始まります」
井田は|せっかち《ヽヽヽヽ》に促した。
「『スター千一夜』が九時十五分に終ると、わたしのが始まるんです」
そう言って歩き出した。支払いをすませた辰夫は慌てて、あとを追う。
テレビ局の入口に、村田英雄と五月《さつき》みどりがいた。村田英雄は頭が大きく、五月みどりは画面で観るよりも小柄《こがら》で美しかった。
井田は、局の中を、勝手知ったる他人の家のように歩いてゆく。何人ものタレントに軽く挨拶《あいさつ》しながら、歩みを弛《ゆる》めない。
何度も曲ったり、階段を上ったりして、天井の低い、暗い部屋に入った。前がガラス張りで明るいスタジオを見おろせる。ガラスの手前にはテレビが何台もあって、スチールの椅子《いす》にかけた男たちが食い入るように見つめていた。
「お邪魔じゃないでしょうか」
辰夫は井田に囁《ささや》いた。
「平気です」
井田は答える。しかし、決して歓迎される雰囲気《ふんいき》ではなかった。部外者を弾《はじ》き出すような緊張感がみなぎっている。
「だれが出るのですか」
と、辰夫はスタジオを覗《のぞ》き込みながら、小声でたずねた。
「有名なのは佐川ミツオだけです」
井田も小声になった。
「あとのタレントは、ご存じないでしょう」
「女性は出ないのですか」
「有名なひとは出ません。モデルが数人出ます」
地味な番組のようであった。
「明日だと、『ザ・ヒットパレード』があるんですがね」
かすかな音がして、辰夫の背後のドアが開いた。
ふり向くと、先日、井田のオフィスで顔を合せた女性だった。かすかに色のついた眼鏡をかけているのは、テレビ局という場所柄のせいであろう。ずいぶん大きなフレームで、高い、形の良い鼻がなかったら、ずり落ちてしまうところだ。
「井田さん、いるかしら?」
妙に馴《な》れ馴れしく、きいた。辰夫は黙って右手の暗がりを指さした。
「原稿、受付の人に頂きました、とお伝えください」
「あなたの名前は?」
辰夫は、むっとして、ききかえした。失礼な女だと思った。
「岩崎《いわさき》です。そう言って下されば、おわかりになります」
防音ドアがしまった。
井田が台本を担当しているらしいその音楽番組は、辰夫には面白くもおかしくもなかった。
そう思ったのは辰夫だけではないらしく、本番が終って間もなく、スタッフと井田は、喫茶室で落ち合った。帰るきっかけを失ったまま、辰夫は井田の横にくっついている。
「仕方がないよ。ペギー葉山が出られなくなったのは、こっちのチョンボだもの」
と、スタッフのひとりが言った。
「ペギーと江利チエミが出られなくなって、慌《あわ》てたんだけど、あとの祭りさ」
「いくら歌がヒットしてるったって、佐川ひとりじゃ、どうしようもない」
みんな、言いたいことを言っている。タレントの〈仕込み〉に問題があったということらしい。渡辺マリが空《あ》いてたんだけどなあ、と呟く者もいた。
井田は沈黙したままである。いかにも居心地が悪そうだが、脇《わき》に小さくなっている辰夫はさらに居心地が悪い。
「まあ、こういうこともあるさ」
どういう立場の男かわからないが、プロデューサーじみたひとりが、とりなすように言って、コカ・コーラを飲んだ。
「たまにあるんだけど、この番組では、二度と、あってはならないんだ」
「井田さんを責める気は、毛頭ないけどさ」と、オレンジ色のセーターにジーンズ姿の若い男が言った。「この失敗は、おれたちのせいってことを承知の上で言うんだけど、佐川にコントやらせたのは、ちがうんじゃないかなあ。メイン・ゲストだもの。コント役者が要るのなら、浅草に出てた軽演劇の残党に声をかけるよ」
井田は依然として沈黙を守っている。おれだったら、てめえ、莫迦《ばか》野郎、と怒鳴るところだな、と辰夫は思う。客観的に見て、井田には、責任がないではないか。
すっきりしない反省会は、なおも三十分ほど続き、一同は、当時としては〈気のきいた〉飲み物であるコカ・コーラをしきりに飲んだ。
因《ちな》みに、コカ・コーラの製造・販売に関する制限が日本で解かれたのは、この年の十月である。
しかしながら、都内の主な飲食店・喫茶店には、すでにコカ・コーラは出まわっていた。前年の十月、外貨割当が自動承認制になったため、一般に市販されていたのである。
では、それ以前には、コカ・コーラが飲めなかったかというと、必ずしも、そうとは言いきれない。〈もはや戦後ではない〉というフレーズで有名になった「経済白書」が発表された昭和三十一年(一九五六年)秋に、農林省は、販売対象を〈在留外人、ならびに外人観光客〉に限定して、コカ・コーラ原液の輸入を許可している。
昭和三十二年ごろ、横浜中華街入口付近にかたまっていた外人船員相手のバーでは、コカ・コーラやウイスキー・コークが出されていた。それらのコカ・コーラが、本牧のPXから流れてきたものか、東京の芝浦工場からきたものかは知る由《よし》もないが、昭和三十五年(一九六〇年)十月以前に、かなりの量の隠れコカ・コーラが東京近辺で動いていたことは間違いない。物珍しさ、新しい物好きが、それだけいたわけで、国会議員を先頭にした反対勢力(国産清涼飲料水業者の団体)の圧力にもかかわらず、コカ・コーラの滲透《しんとう》は静かにつづいていたのである……。
「じゃ、また……」
井田は恭々《うやうや》しく一礼して立ち上った。
なんとも後味の悪い散会ぶりである。
テレビ局の前にいるタクシーに乗り込むと、井田は六本木へ行ってくれ、と言った。
「妙な雰囲気でしたね」
と辰夫が口をひらくと、
「あんなものですよ」
井田はつまらなそうに言った。
「肚《はら》の中では、みんな、わたしの台本《ほん》が悪いと思ってるんです。わたしも、自分の台本《ほん》が良いとは思いませんが、あれほど、ひどい出来になるとは予想しなかった。していたら、あなたを呼びやしません」
辰夫は答えなかった。
「ショウ番組の台本《ほん》を書くなら、日本テレビです。だけど、向うがわたしを呼んでくれないから、他の局の仕事をしているので」
「日本テレビが良いのですか?」
「ショウ番組で名をあげるつもりなら、日本テレビの仕事をしなければ駄目ですね」
井田はシガレット・ホルダーをとり出しながら答える。
「忘れてた!」
辰夫は大声を出した。
「さっき、岩崎さんというひとが、原稿を、たしかに頂いたと伝えてくれ、と言ってましたよ」
「わたしに、直接、言えばいいんだ」
井田は唇《くちびる》のはしから声をもらした。
「花見音楽事務所の連中は、わたしをこわがっているらしい。うるさい男と誤解しているんです」
うるさいかどうかは別にして、辰夫も、井田実という人物が理解できなかった。プレスリーを呼ぶ大計画と、小さな番組で失敗している現状が、結びつかない。どういう欲望に基づいて行動しているのかが、把握《はあく》できなかった。
「しかし、あの子は、もう、わかってくれてもいいはずですがねえ」
茶っぽい色のついた眼鏡と、マニキュアした白い指を辰夫は想《おも》い出した。ドアをしめた瞬間、意外なまでに濃厚な香りの触手が彼の鼻腔《びこう》をかすめたのだった……。
「あのひとは、お使いさんですか?」
思わず、そう、きいた。
「いや、ちょっとしたラジオ台本も書いているはずですよ。小さな会社だから、使いもやらされるけれど……」
「失礼ですが、井田さんの放送関係の仕事は、ぜんぶ、そこを窓口にしているわけですか?」
「ケース・バイ・ケースですがね」
井田は、タクシーの窓を細めにあけて、けむりを吐いた。
「……さいきんは、花見音楽事務所を通しての話が多くなったかな。テレビ局に対して、個人で営業するのはむずかしいですからね。どこかに所属したほうが楽だし、有利になりつつあります」
羨《うらやま》しい、と辰夫はひそかに思った。
一億総白痴化などと批判されようとも、テレビが急成長産業であるのは確実であった。辰夫がしがみつき、売れなかったら免職だ、などと嚇《おど》かされている小さな世界とは、スケールが違うのである。向うは辰夫には見定めにくいほど華やかであり、こちらは暗く、重苦しく、貧しい。
「雑誌を成功させることですよ」
井田は辰夫の心を見抜いたように言った。
「あなたの今後は、その成否にかかっています。成功すれば、たとえば、さっきの連中などがあなたの傍《そば》にすり寄ってきて、知恵を貸してくれ、とか、いろいろ調子の良いことを言います。あの連中には、活字コンプレックスがありますからね。とにかく、印刷された文字に弱い……」
辰夫は途中までしかきいていなかった。
長い失業生活と、その後の不安定な状態の中で、ずっと肉体の奥に抑制してきた欲望に、あの香りが火をつけたのだ。
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第五章 創刊
それから三カ月後の六月十九日、新雑誌の発刊を祝うパーティーが、帝国ホテルの広間でおこなわれた。
雑誌が店頭にならぶのは六月二十五日であるが、PRその他の効果を考えると、発売日の前におこなう必要があった。出版関係のパーティーがまだ珍しいころだから、新聞や週刊誌にとりあげられる可能性があったし、同業者に威圧感をあたえる効果も計算されていた。
三時の開会までには百三十人ほどがつめかけた。この種の小雑誌のパーティーとしては空前の人数だそうである。
会が始まる前に、辰夫《たつお》は城戸草平《きどそうへい》に、江戸川乱歩を紹介された。
小柄な城戸とは対照的に、乱歩は大入道の印象をあたえる。地味な茶の背広を着た乱歩は、ベレーをかぶったままで、「あんまり、張り切らんでくれ」と、辰夫に冗談を言った。
もうひとりベレーをかぶったままの男がいた。「SFマガジン」の福島正実である。
「創刊おめでとう。これからが大変だぜ」
と笑った福島は、横にいる小柄な、病的に痩《や》せた男に声をかけた。
髪の毛をスポーツ刈りにしたその男は、ウェリントン型のがっちりした黒ぶち眼鏡をかけて、アイヴィーのブレザーを着ていた。眼《め》つきが鋭いだけでなく、頬《ほお》が痩《こ》けていた。
「紹介しておこう」と、福島は響きの良い声で言った。「『ヒッチコック・マガジン』の中原君だ」
「どうも……」
中原|弓彦《ゆみひこ》はぶっきらぼうに言って、頭をさげた。
「よろしくお願いします」
と、辰夫は丁寧に一礼する。
「お手柔らかに」
中原は複雑な笑いを浮かべて、
「盛会ですね」と言った。
「そうでしょうか?」
辰夫はよくわからない。
「そうですとも。ぼくのとこの創刊は、二年前だけど、パーティーには九十人しか集まらなかった……」
「人数が、なにかのバロメーターになるのでしょうか」
「ザ・モア・ザ・ベターでしょうが」
中原は神経質な手つきで煙草《たばこ》の灰を落とした。
「しかし、あの時は、MGMの代表がきたりして、けっこう派手だったじゃないか」と福島がからかう。
「ヒッチコックの『北北西に進路を取れ』の公開とぶつかったからですよ。それでなきゃ、MGM代表がくるはずがないです」
中原は突っ撥《ぱ》ねるように答えた。
「『マンハント』編集長の中田雅久《なかだまさひさ》さんを紹介しよう」
中原は素早くあたりを見まわした。
「おかしいな、いま、そこらにいたんだけどな」
「都筑道夫《つづきみちお》と話をするとか言ってた。コーヒーハウスへ行ったのかな」
福島はそう言ってから、足早に去って行った。知人でも見かけたのだろう。
「きみ、なにをしているのだ?」
ゴム仮面が珍しく大声で辰夫を呼んだ。
「司会役のアナウンサーが到着したのだ。簡単な打合せをする」
「じゃ、いずれ、また……」
辰夫は中原に頭をさげて、正面奥の壇の近くに戻《もど》った。
メモ用紙を手にした色白のアナウンサーを中心にして、城戸草平、黒崎《くろさき》、ゴム仮面らが集っている。
「もう始めなければいかんです」
腕時計を見ながら黒崎が言った。
「東日販の代表も見えてますし、挨拶《あいさつ》をお願いした来賓もほぼ、そろいました」
「まだ、きてないのはだれだ?」
城戸草平がたずねる。
「佐伯一誠《さえきいつせい》先生です」
「仕方ない。始めよう。ぼくらのあと、会場《ここ》を、また使うのだろう」
「夕方から、結婚|披露宴《ひろうえん》があります」
「すぐ始めなさい」
城戸草平は苛々《いらいら》している。
「佐伯一誠は、そのうちにくる」
辰夫は壁ぎわの客の中に井田実を見出し、軽く会釈した。
「あっ、佐伯さん、見えました!」
ゴム仮面が嬉《うれ》しそうに叫んだ。
派手な背広姿の佐伯一誠は、周囲の視線を意識しながら、まっすぐ、こちらに歩いてきた。古風な長髪、朱色のネクタイ、よく光るコードバンの靴《くつ》と、地味な部分が微塵《みじん》もない。
「先生、はらはらしてましたよ!」
浮かれるゴム仮面を佐伯は黙殺して、「ごぶさたいたしております」と、城戸に頭をさげた。
「いや、こちらこそ……」
城戸は硬い表情で応じる。
佐伯はゴム仮面の方を見て、
「実は、時間がないのだ」と言った。
「え?」
「講演旅行で羽田空港へ行かねばならない。あと十分でハイヤーに乗る。だから、すぐ、挨拶をしよう」
「でも……」と、ゴム仮面は声を低めて、「まだ、会が始まっておりませんので」
「いいじゃないか。すぐ、開会を宣言したまえ。ぼくが祝辞を述べる。――それとも、ぼくの挨拶は要らんのか」
「いえ、そんなことは……」
さすがのゴム仮面も困惑の態《てい》である。
超流行作家の気まぐれによって、挨拶の順序が大きく変った。
ゴム仮面の開会の挨拶のあとは、城戸草平が登場することになっていたのだが、突如、佐伯一誠がマイクの前に立ったのである。
じろりと会場を見まわした彼は、
「佐伯一誠です」
と言い、会場の隅《すみ》がなおもザワザワしているのに気を立てて、
「佐伯です!」
と声を荒らげた。
会場は水を打ったように静まりかえる。
「本日は、おめでとうございます。雑誌の数が増えるのは、作家にとっても嬉しいことです。――げんに、私は『黒猫《くろねこ》』に『鯉《こい》のいる土地』という長篇《ちようへん》を連載しておるのですが、これなど、既成の雑誌では、とても連載できなかったでしょう。なんとなれば、この長篇は、導入部が、純文学的とでも申しましょうか、かなり堅い。ですから、大衆的な週刊誌や新聞では、あまり歓迎されなかったと思うのであります。これは私の狙《ねら》いでもありまして、従来は、低い読物とされておった推理小説を文学にまで高める。これが、不肖、佐伯一誠、この佐伯一誠の狙いであり、志であります。――しかも、推理小説的趣向も充分に考えてありまして、結末で明かされるトリックは、前人未到の意外性と工夫を持っていると信ずるしだいです。『鯉のいる土地』という題名、これはまあ、尾崎一雄さんの私小説とまぎらわしいタイトルと皆さんの眼には映ずることでしょう。……む、む、む、むは、むは、むはははは! いずくんぞ知らん、この題名に、トリックと犯人の動機が隠されているのです。どうです、皆さん。連載は、すでに、全体の三分の二を終えておりますが、犯人がおわかりになりましたかな? わからんでしょうが――いやさ、わかってたまるものか! もしも、ですな。探偵役《たんていやく》の鬼熊《おにくま》警部にかわって、犯人と動機を推理できた人がいたら、この場で申し出てください。私は、いさぎよく、その方に、十万円さしあげましょう。(と言って、ふくれ上った黒革の財布を内ポケットからとり出し、右手で振ってみせた)……さあさあ、遠慮なく申し出てくださいよ。……あれ? ひとりもいないのですか?……ぬはは、そうでしょう、そうでしょう。『鯉のいる土地』の独創性たるや、これほどのものです。意外性において『獄門島』の横溝正史《よこみぞせいし》をはるかに抜き、リアリティーにおいて『点と線』の松本清張を凌駕《りようが》し、サスペンスにおいて『三十六人の乗客』の有馬頼義《ありまよりちか》を超えている。いずれ完結したさいには、日本推理小説史上の金字塔と、江戸川乱歩先生や城戸草平先生に認められるはずと、不肖、佐伯一誠、かたく信じて疑わぬしだいです。そもそも、『鯉のいる土地』がどのような動機から執筆されたかと申しますると……」
「先生、先生……」
ゴム仮面が小声で注意した。
「先生、十分でご出発になるのでは……」
「おっ、そうだ。……皆さん、私はこれから講演会に出発しますぞ。講演の内容は〈『鯉のいる土地』について〉というもので、いずれ、テレビで放送されるはずです。では、また……」
佐伯は慌《あわ》ただしくマイクの前を離れ、城戸草平に挨拶し、さらに左手の奥に立っている江戸川乱歩に頭をさげて、会場を出て行った。
笑顔だけが売り物のアナウンサーが、白けきった会場の空気を浮き立たせようと、つまらぬ冗談を言って、さらに白けさせ、城戸草平を紹介した。カメラのフラッシュが、いっせいに焚《た》かれる。
城戸草平は短く、新雑誌発刊にいたる経緯《いきさつ》を、きれいごとで述べ、辰夫を紹介した。
辰夫は別に喋《しやべ》ることがない。頑張《がんば》ります、のひとことを、三倍ぐらいに水増しして、決意のほどを示した。
あとは、来賓の祝辞である。江戸川乱歩、評論家、詩人、東販代表、日販代表などが、かわるがわる壇上に立ち、パーティーは、ようやく熱気を帯びた。
「よく、ここまで辿《たど》りつきましたね」
新しいネクタイを締めた金井が辰夫に話しかけてきた。アルコールが苦手な金井は、オレンジジュースのグラスを手にしている。
「おかげさまで」
辰夫はかすかに笑った。
ここまできたについては、金井の協力によるところが大であった。雨の中でもオートバイで原稿をとりに行く金井に辰夫は心から感謝している。編集者として才能があるかどうかはわからないが、なにしろ体力があった。ある種の無神経ささえ我慢すれば、まずは、〈善い人間〉の部類に属する、と辰夫は考えている。
「でも、勝負はこれからだから、よろしく、たのみます」
「それはぼくのいう言葉です」
金井は笑った。
「パズラー」の編集を手伝うのを公に認められたために、金井は、「パズラー」と「黒猫」の両方を兼ねる形になっている。連日、深夜まで動きまわらねばならないのだが、いまのところ、平気なように見える。ゆうべも遅くまで、パーティー参会者に渡すための新雑誌を、誌名入りの紙袋に入れていたのだった。
売れてくれればいいのだが、と辰夫は心の中で呟《つぶや》く。いまや、それだけしか頭にない。
これが単行本であれば、かりに売れ行きが悪かったとしても、十年後、二十年後の評価を待つ、といった捨て台詞《ぜりふ》が吐けないでもない。
しかし――雑誌は違うのである。後世、評価されるなんて可能性は、九十九パーセント、ない。戦前の「新青年」のように、年々、評価が高まる雑誌は、例外中の例外といえよう。
こと雑誌に限っていえば、〈内容は良いのだが売れない〉というのは泣き言に過ぎない。売れない雑誌は、遅かれ早かれ、廃刊の憂《う》き目に遭う。廃刊になっては、内容の良さも、ヘチマも、あったものではない。
採算がとれること――これが、第一条件である。大いに売れて、会社に利益をもたらせば、これに越したことはないのだが、辰夫は、それほど、自惚《うぬぼ》れてはいない。とりあえず、採算がとれる状態であって欲しい、と願っている。それも、かなり危険ではないか、というのが、彼の|読み《ヽヽ》であった。
「おめでとう」
井田が水割り片手に近づいてきた。半月ぶりぐらいだ。
「どうでしょうか、雑誌のできは?」
おそるおそる、辰夫はきいた。
「良いと思いますよ、ぼくの文章を除いては」
井田はユーモラスに答えた。
「ほんとですか!」
辰夫の声が弾んだ。
「レイアウトが斬新《ざんしん》ですね、ぱっと見たところ……」
井田は声を低めて、
「さっき貰《もら》ったばかりだから、そのくらいしか言えない。ただ……」
「ただ、何です?」
「あまり気にしないでください。無責任な感想なんだから」
と、井田は前置きしてから、
「表紙の絵が暗いですね。店頭効果の点で、どうでしょうか? 他の雑誌のあいだで沈んでしまうのじゃないかな」
そうか、と辰夫は思った。
こういう意見を言ってくれた人はいなかった。社内での評判は、なかなかスマートな絵だ、というだけで、それ以上の注意はなかった。だれもが、絵そのものの枠内《わくない》でしか考えていないのだ。
「明るいほうがいいわけですか」
辰夫《たつお》は念を押した。
「常識じゃないでしょうか」
井田は水割りのお代りを貰って、
「売れ行きを度外視している文芸雑誌でさえ、暗い表紙は嫌《きら》われると言ってますからね。明るくて、ぱーっと浮び上って見えるような表紙がいいのじゃないですか。ぼくが、あなただったら、二号目から、そうしますね」
二号目なら、まだ、間に合う、と辰夫は頭の中で計算する。今夜、すぐ、画家に会って、もっと明るい色に変えよう。
それにしても、文化社の人は、なぜ、だれも忠告してくれないのだろう。
はっ、と気づいた。
そうだ! 黒崎も、西も、井田実が指摘したような、おそらくは雑誌づくりの初歩に属することを知らないのではないか。文化社の雑誌は売れない、と嘆いているが、売れないのではなく、売る|こつ《ヽヽ》を知らないのではないか。表紙は〈人間でいえば顔だ〉などと解《わか》ったようなことを言うが、たんに言ってみるだけであって、基本を理解していないのではないか……。
辰夫はぞっとした。黒崎、西、津田、いずれも長い年月、同じ仕事をしてきたにちがいないのだが、にもかかわらず、ひとりとしてプロではない。基本的なことを上司に教えられた経験がないのだ。
文化社は、探偵小説好きの闇成金《やみなりきん》が物好きで始めた、ときかされている。出版社として伝統がない、とは、具体的にはこういうことだ、と彼は思った。
「気にしないでください。素人《しろうと》意見ですから」
井田は柔らかく笑った。
「素人じゃないですよ、あなたは……」
気が沈んだ辰夫はそう呟いて、濃い水割りを手にした。
パーティーはことなく終って、城戸草平《きどそうへい》は、黒崎、ゴム仮面、奴凧《やつこだこ》、辰夫の四人を築地《つきじ》の料亭《りようてい》に招いた。
「金井君はいけませんか?」
と辰夫がたずねると、城戸は、
「そうすると、西君や編集部全員も呼ばなければなるまい」
些《いささ》かうんざりした顔で答えた。
ずっと、ろくなものを食べていない辰夫は、料亭ときいただけで心が躍ったが、ハイヤーがとまったのは、ぱっとしない日本家屋の前である。
「これが料亭ですか」
と辰夫が呟くと、
「懐石料理では東京一だよ」
黒崎《くろさき》が憐《あわ》れむように言う。
三和土《たたき》に水を打った玄関は暗いが、ある重みを感じさせた。靴《くつ》を脱ぎかけたゴム仮面は、大きくよろけた。大丈夫ですか、と女中が声をかけたほどである。
思えば、今日のパーティーで、ゴム仮面は開会の挨拶《あいさつ》をしただけである。そのあと、出番は気の毒なほど、なかった。おそらくは、水割りを、がぶ飲みしたのだろう、と辰夫は思った。
長い廊下を抜けて、二階の座敷に通される。
部屋はさほど広くはないが、いかにも老舗《しにせ》らしい雰囲気《ふんいき》で、床の間の花瓶《かびん》が、なにやら由緒《ゆいしよ》ありげなものに見える。江戸時代からの謂《いわ》れ因縁故事来歴を一身に背負って耐えているかのようだ。
「いや、ほっとした。とりあえず、ビールでも貰おうか」
城戸草平は、やや明るい表情になった。
「あちこちのパーティーに呼び出されるが、今日のはリラックスした、良い会だった。自分で言うのはおかしいが、客種《きやくだね》も良かった。黒崎君の人選がうまかったのだろう」
城戸は黒崎に花を持たせる。
「とんでもない。先生に頂いた招待客リストに、ほんの少し、手を加えただけでして」
黒崎は巨体を縮めてみせた。
「成功ですよ、先生」
奴凧は無責任に言った。
「ホテルでは感じなかったが、蒸し暑いな。この部屋は冷房が入っておるのか」
城戸は挨拶にきた女将《おかみ》にきいた。
「いえ……冷房を入れると、寒くなるので……」
「かまわん、入れてくれ。梅雨時《つゆどき》は不便だな」
「ぼくの知り合いの週刊誌記者が二人きていましたので、書いて貰うように頼んでおきました」
奴凧は調子よく言い、女中が運んできたビールを手にした。
「ありがとう。記事が出ないことには話にならん」
と、城戸は浮かぬ表情でグラスを突き出す。
「……乾杯とまいりましょうか」
ゴム仮面がうつむきがちに言う。かなりの酔いを抑えようとしているらしい。
「ご苦労様……」
城戸はグラスをあげ、一同が和した。
「どうだ、商売は忙しいか?」
脇息《きようそく》にもたれた城戸は女将にきいた。
「まあまあです」
「まあまあ、ってのは、良いわけだな」
「でも、作家の先生方ほどではありませんわ」
「なにを言うとる。作家など、時代遅れだ。いまの若い者は本など読まない。もっぱら、|あれ《ヽヽ》だ――ほら、新しい言葉があるだろう。なんと言ったかな」
「え?」
「ほら、酸素ボンベを背負って海に潜ったりするやつ」
「スキン・ダイヴィングですか」
辰夫が口を出す。
「うむ。そういうのをひっくるめて、なんとか言うだろう。ヨットとか、水上スキーとか、ゴムボートとか……」
「わかった!」と女将は手を叩《たた》いて、「レジャー、でしょ」
「物知りだな、きみは」
城戸は感心して、
「このあいだ、三浦半島を車で一周したが、若い連中のレジャー一色だった」
「いいわね、若い方は……」
「ぼくらには、よくない。むかしは、二八《につぱち》といって、二月、八月は雑誌が売れない魔の月だった。それがだ、レジャーなどというものが流行《はや》ると、夏は、六月、七月も、売れなくなるおそれがある。つまり、夏じゅう、ずっと売れないのだ」
「心配のし過ぎよ、先生」
女将は笑ってみせた。
「夏はもう駄目《だめ》だ」
と、城戸は、かまわず、つづける。
「秋になる。いままでは〈読書の秋〉というておったが、若い奴《やつ》らはハイキングや古寺巡礼をやりおる。どうせ、いままでになかった遊びを考えるだろう。奈良《なら》の大仏にザイルで登るとか、鹿《しか》をオートバイで追いかけまわすとか……」
「まさか、先生」
「冬は雪山だ。春になると、もう海だろう。ゴムの薄いやつを着て、水に潜ったりするじゃないか。これじゃ、いつ、本や雑誌を読むのだ? しかも、テレビで、ボクシング中継や半裸の女のショウをやりおる。暴力とセックスだ。肉体を使うレジャーとテレビで、あっという間に、一年たってしまうぞ。レジャーは、われわれの敵だと、ぼくは睨《にら》んどる」
「まさか……」
と、女将は、まさか、を連発して、
「だって、いまは、推理小説ブームじゃありませんか」
「世間ではそう言うとるようだな」
「うちの娘なんて、読む本といえば推理物ですよ」
「ふむ」
城戸は白けた口調で、
「ぼくの本は売れないようだ。もっとも、ぼくのは探偵《たんてい》小説だからな」
「あら……ちがうんですか?」
「推理小説ちゅう呼び名は、戦後のものだ。そのまえは、ずっと探偵小説だったのさ」
黒崎が説明に苦労する。
「ブームというけどさ、売れる作家は、ほんの一部なのよ」
と、よせばいいのに、奴凧が口を出した。
「本当に売れる作家は、松本清張。それから、高木彬光《たかぎあきみつ》さんかな。新人で水上勉――ほら、このあいだ、探偵作家クラブ賞を貰った人。そんなところよ」
「いや、佐伯《さえき》さんがいるよ。若者に人気があるのは、なんといっても、佐伯|一誠《いつせい》さんだ」
黒崎は営業的見地から力説した。
「テーマが現代的なのだな。広告代理店出身のせいか、若者の関心のリサーチがうまい」
「佐伯一誠先生でしたら、奥の部屋できれいな女優さんと対談をなさってます」と女将が言った。「もう終られたころかしら……」
「え?……」
黒崎は大声を出しかけて、城戸草平の顔を見る。城戸は、眼《め》で黒崎を制した。
「これはひどい。羽田へ行くからって、あんなに急《せ》かせといて……」
思わず、ぼやく奴凧に、
「やめんか」
城戸は低く言った。
それから、女将に向い、
「われわれのことは佐伯君には内緒にしといてくれ。たのむぜ」
「私、なにか、まずいことを申しましたかしら」
女将は不安げな顔になる。
「いや、いいのだ。とにかく、|これ《ヽヽ》」
城戸は唇《くちびる》に人さし指をあてた。
女将が去ったところで、奴凧は、
「いかに流行作家とはいえ、これは城戸先生に対して無礼です。一社員ではありますが、ぼくは怒りを禁じ得ません」
と、妙に、眦《まなじり》決した態度になる。
「なにか都合があったのだろうさ」
城戸は軽く言ってのけたが、唇のはしがこわばっていた。
「二宮君、口を慎しみなさい」
黒崎が睨《にら》みつけた。
「きみは、すぐ、大袈裟《おおげさ》なことを言い出して、ことを、ややこしくする。佐伯さんは事情があったにちがいない。たとえば、愛人に会うとか……」
「おいおい」
城戸は苦笑いを浮べて、
「まあ、本が売れているときは、なんやかや、威張ったり、無理難題を吹っかけてみたりするものさ。このぼくが、そうだった。昭和初年のはなしだがね」
「お若いころでしょう」
奴凧はそう念を押して、
「でも、佐伯さんは、もう、四十過ぎだと思います。いわば、おとなのはずです」
「こっち、だよ」
黒崎は小指を出してみせて、
「粋《すい》を利《き》かせなさい、きみ」
辰夫はひたすら莫迦莫迦《ばかばか》しかった。佐伯一誠も、こちらのグループも、茶番劇の登場人物ではないか。
それよりも、食い物だ。食い物はまだか。
卓上には、日本酒と、小さな四角い皿《さら》にラッキョウの親玉のようなものと南蛮|漬《づ》けのシッポがのったのが、あるだけだ。ラッキョウの親玉には味噌《みそ》をつけて食うらしいが、一口で終ってしまうだろう。こんなものでは駄目だ。
肉が食いたい。肉なら馬肉でもいい。馬肉の刺身を生姜《しようが》入りのたまり醤油《じようゆ》で食いたい、いや、それは一種の贅沢《ぜいたく》だ。こうなれば、ユッケでいい。生肉に刻みニンニクと黄身をまぜて、ずるずると啜《すす》り込みたい。
「……佐伯がいるって?」
半ば眠っていたゴム仮面が、とんでもない大声を発した。
「……佐伯一誠なら、ぼくが面倒を見ましょう」
腰を浮かそうとする。
「まあまあ、津田さん……」
奴凧が津田の手を押えると、
「オシッコ、行くんだよ」
ゴム仮面は片手をふった。
「二宮君、ついて行ってくれ」
黒崎が心配そうに言った。奴凧は、よろけるゴム仮面を抱えて廊下に出てゆく。
「ひとつ、どうだ?」
黒崎は、ようやく辰夫の存在に気づいたらしく、徳利を手にした。
「大変な騒ぎですね」
辰夫は小声で言った。
「困ったものさ」
黒崎は辰夫の杯に酒を注《つ》いで、
「慣れっこになってはいるがね」
城戸草平はつまらなそうな顔で杯を口に運んでいる。前途|暗澹《あんたん》という気分が丸い眼鏡の奥の眼にあらわれていた。
食い物は、とうぶん、こないようだ、と辰夫は諦《あきら》めた。
めしの時間には少々早いから、仕方がないだろう。パーティー会場で、サンドイッチ一つつまめなかったのが、いまになって、響いてくる。
やがて、ばたばたとスリッパの音がして、
「すみません。お客さんがひとり、階段から落っこちました」
と、女中が言った。
「津田君だろう」
黒崎は首をふって、辰夫に、
「きみ、見てきてくれるか」
「はい」
と、立ち上ったものの、腹が減っているので、辰夫の身体《からだ》は宙を泳ぐようだ。奴凧はなにをしているのか。
廊下の外れから見おろすと、狭く急な階段の下に倒れているのは、なんと奴凧である。これは、驚くなというほうが無理だ。
階段をかけ降りた辰夫は、大丈夫ですか、と奴凧に声をかけた。
片眼をあけた奴凧は、身体を起そうとして、あ、あっ、と叫び、
「やられたよ」
「やられたって?」
「津田さんに突き落とされたんだ。酔ってるわりに、莫迦力がありやがる」
「大丈夫ですか、頭は?」
「腰だ。腰を打った。いま、救急車を呼んで貰《もら》ったから、おれのほうはいい。佐伯さんに気をつけてくれ」
「ええ!?」
「津田さんが絡《から》みに行ったんだ。止めようとしたら、この始末だ。きみも注意したほうがいいぞ……」
「じゃ、佐伯さんの部屋へ?」
「早く止めてくれ。あとが厄介《やつかい》なことになる」
辰夫は階段を登った。ゴム仮面が襲いかかってくるような気がして、あたりを見まわした。
敗戦後の普請《ふしん》とはいえ、十数年を経て、かなり痛んでいる。それでいて、広いことは広いので、かなり不気味であった。
大声が響いた。城戸草平の部屋の方角だ。辰夫は走り出した。
「津田君、その手を離せ!」
黒崎《くろさき》の声である。
辰夫《たつお》は立ち竦《すく》んだ。
背広姿の佐伯一誠に馬乗りになったゴム仮面がいる。ゴム仮面の左手は佐伯の長髪を握りしめている。
「ええ、やめんか!」
城戸草平《きどそうへい》が叱咤《しつた》した。
「とにかく、それ、それを離せ!」
佐伯一誠がおとなしくしている理由が、やっと、わかった。ゴム仮面は、右手に生け花用の剣山を持って、佐伯の耳に押し当てているのだった。
ゴム仮面の眼は死んだもののように見える。そして、呪文《じゆもん》のように呟《つぶや》いた。
「この子――悪い子……」
だれも身動きできなかった。佐伯は脂汗《あぶらあせ》を顔に浮べたまま、じっとしている。
「悪い子ね……」
ゴム仮面は、長髪を思いきり、引っ張った。
「あ、つ、つ!」
佐伯は悲鳴をあげる。
黒崎は背後からとびかかろうとして、剣山が動いたので、やめた。
「悪い子の髪を梳《と》かしてあげる……」
ゴム仮面は、卓上のビール瓶《びん》を持つと、中身を佐伯の髪にぶちまけた。
「う、う、げほっ、ぐ、ぐ、ぐ」
佐伯は奇妙な音を発して、城戸草平を仰ぎ見た。
「わかった。わかったから、もう、やめなさい」
城戸は幼児を宥《なだ》めるように声をかける。
「この子――悪い子……」
ゴム仮面は呪文のように繰りかえしながら、剣山を佐伯の髪にあてて、ブラシのように動かし始めた。
「いた、いた、つ、つ、つ!」
佐伯が逃れようとすると、剣山の太い針がさらに食い込んだ。
一九五〇年代のジャーナリズムで流行した愚行の一つに〈文学散歩〉がある。
戦火にあったとはいえ、東京の道幅や都電の路線は変っていなかったから、明治・大正の文士の行動の跡を辿《たど》るのはなんとか可能であり、ここで、|だれそれ《ヽヽヽヽ》が弟子を叱《しか》ったとか、|なんとか《ヽヽヽヽ》が立ち小便をした、といった解説書が、けっこう読まれ、そのとおりに散歩する者もいた。
その発案者ともいうべき野田宇太郎は、六〇年代初めに、全十二巻の「文学散歩全集」(!)を出版しているが、その第二巻「下町」(上)において、島崎藤村《しまざきとうそん》と北村透谷《きたむらとうこく》の出会いを記している。
すなわち――
明治十四年、十歳の島崎|春樹《はるき》(藤村)は、故郷の信州|馬籠《まごめ》から上京し、銀座四丁目西側の高瀬家に落ちついた。
一方、十四歳の北村門太郎(透谷)は、父母弟の四人で故郷の小田原を立ち、京橋|弥左衛門町《やざえもんちよう》(銀座西四丁目)の銀座|煉瓦館《れんがかん》の一つである丸山|煙草店《たばこてん》に腰をすえた。
二人が泰明小学校に通い、のちに「文学界」同人として交りを結ぶ――といったことは、このさい、大きな問題ではない。
問題は、透谷の移り住んだ丸山煙草店が、八十年後の一九六一年に、どうなっているかである。なにしろ、透谷が有名な自殺未遂事件を起した家である。
野田宇太郎は、苦々しげに、記している。
〈……今では服地屋の新しい建物が出来ていて、透谷の思い出とは全く無縁になっている。〉
|服地屋の新しい建物《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》――これこそは、一九六一年の男性ファッションのメッカともいうべき、銀座のテイジン・メンズショップなのである!
創刊記念パーティーは、袖口《そでぐち》が摺《す》り切れた背広できり抜けたものの、辰夫は、衣類を買う必要に迫られていた。
サマージャケット、トラック・ストライプのスポーツシャツ、ベージュのスラックスを、テイジン独特の大きな袋に詰めてもらい、外に出ると、気分が良くなっていた。横断歩道を渡り、タクシーをとめると、
「赤坂のTBS」
と言った。
……雑誌創刊と同時に、辰夫は二つの顔を持ち始めた。
ひとつは、金井や営業の青年と組んで、都内の主要な書店を歩き、創刊号が何部入荷して、どれだけ売れたかを調べる、地道な仕事向きの顔である。大きな出版社なら、営業部が引き受ける仕事だろうが、文化社では、そうはいかない。
五日目の調査の結果では、売れ行きが七割を越えていた。池袋の芳林堂では、三十冊入って、売れ残ったのは四冊だった。
「この数字だけみれば、成功だ」
と黒崎は言った。
「ただ、創刊号は、いちおう買ってみるという人が多いのだ。問題は、次の号だな。……それから、地方が問題だ。そもそも、都会向きの雑誌なのだから、地方でヨワいんじゃないか」
これでは、成功か、不成功か、わかりゃしない。
それでも、自分が作った雑誌を見知らぬ人が読んでいるのを見ると、嬉《うれ》しさがこみ上げてくる。地下鉄の中で「パズラー」を手にしていたチンピラ風の若者に、辰夫は、発作的に握手を求め、悪い眼《め》つきで睨《にら》まれたほどである。
もうひとつの顔は、辰夫自身にもよくわからないものである。
創刊号が巷《ちまた》に出た翌日、TBSの者ですが……という電話がかかってきた。
――前野さん、お忙しいでしょうねえ。
返事のしようがない問い方をする。
当りまえだ、と辰夫は腹を立てた。ひまなはずがないじゃないか。
――忙しいです。
――そうでしょうねえ、そうだと思っておりました。思ってはおりましたが、ちょっとご相談したい件がありまして、早速、いや至急に、いえ、今日じゅうにお眼にかかりたいのです。
――でも、今日は……。
――昼間はご無理でしょう。いかがですか、夜? 銀座で、軽く一杯……。
――すみません、アルコールが駄目《だめ》なのです。
創刊の日まで、殆《ほとん》ど毎晩、接待のための酒席が、二次会、三次会とつづき、辰夫はへとへとになっていた。酒はまったく、一滴も飲めないことにしてしまわないと、命にかかわる。
――じゃ、あなたはコークでも召し上ったらどうですか。アルコールは私が引き受けます。
――ご冗談を……。
辰夫は、いなした。
――明日の昼はいかがですか?
男は、しつこく食いさがる。
この種の電話が、一日に三本は入った。いずれも、辰夫を〈推理小説の通〉と見込んでの頼みだ、という。
翻訳推理小説の雑誌を編集しているから〈通〉にちがいない、というのは、ずいぶん雑駁《ざつぱく》で、短絡的な思考であるが、相手がテレビ局というのが興味があった。
……いまに、知恵を貸してくれとか、調子の良いことを言ってきますよ。
という井田の言葉が脳裡《のうり》によみがえった。
――七月に入ってからならば、なんとか……。
と、辰夫は答えた。
「どうも……お忙しいところを……」
局の受付に現れた超|面長《おもなが》な男を見て、辰夫は、あっと思った。
いつか、城戸草平に会うために、この近くのレストランに足を運んだとき、見かけた男だ。たしか城戸草平の旧作のテレビ化の打合せをしていたのだ。
男は、辰夫をまったく覚えていないばかりか、意外そうな顔で、
「失礼ですが、ずいぶん、お若いですね」と言った。「編集長というから、もっと貫禄《かんろく》、いや、恰幅《かつぷく》のいい方を想像していましたよ」
痩《や》せこけていることは確かだから、辰夫は黙っていた。
「ここじゃ話ができません。寮のほうにおいでください」
男は歩き出した。大きな紙袋をさげたまま、辰夫はあとに続く。
少し離れたところに日本家屋がある。寮と呼ばれるわりには立派で、風通しの良い部屋に通された。畳はきれいではないが、彼のアパートにくらべれば、数等ましである。
「アルコールが駄目とおっしゃいましたが、ビールならいいでしょう」
お茶を運んできた中年の女性に、男はビールを注文し、
「ところで……」
と、気忙《きぜわ》しなく言った。
「うちのドラマでは、『日真名《ひまな》氏飛び出す』が抜群の人気です。視聴率もいい」
辰夫は頷《うなず》いた。
「日真名氏飛び出す」は土曜の夜に放送されている推理ドラマで、名探偵と|どじ《ヽヽ》な助手のコンビが大衆に好まれているらしい。捕物帖《とりものちよう》の現代版であり、構成は謎解《なぞと》き仕立てで、トリックも考えられてあった。週末の夜、プロ野球中継につづく時間帯で、TBSの目玉商品の一つである。
「ああいう推理ドラマを、もう一つ作る方針になりましてねえ。頭を痛めているんです」
男は夏上着の内ポケットから企画書らしい書類を出した。
「『日真名氏』は、右門捕物帖、銭形平次の線ですから、この手は使えないんです。で、いろいろ知恵を絞った挙句《あげく》、若様侍の線がイケるんじゃないか、と。つまり、働く必要がなくて、ぶらぶらしている男が、毎週、事件に巻きこまれるわけです。どうでしょうか」
どう、といわれても、辰夫は返事のしようがない。あまりにも凡庸、陳腐なアイデアで、〈いろいろ知恵を絞った挙句〉とは思えないのである。
「現代で、ぶらぶらしてる男ってのは無理でしょう」
辰夫は気のない感想を述べる。
男はそれには答えず、
「池部良の身体《からだ》が空《あ》きましてね」
と、いきなり、スケジュールの話になった。
「半年は空けてくれそうなんです。そこで、こんなものを作りまして……」
辰夫は企画書に眼を通した。
アイデア提供者のところに、幾つかの名前があり、末尾に、辰夫の名がボールペンで書き加えてある。油断も隙《すき》もならない。生き馬の眼を刳《く》り貫《ぬ》くような世界である。
「まあ、ひとつ……」
男はビールを注ぎながら、
「主人公は三十七、八歳。独身で、私立大学の美学の講師です。焼け残った大きな西洋館に独り住い。父親の残した株やなにかで月収が七万五千円ほどです」
辰夫は、ひそかに口笛を吹いた。彼の給料の五倍近い収入である。
「リアリティなんて言われると困るのですが、『日真名氏』だって、嘘《うそ》っぱちの設定だから、かまわないと思うのです。……主人公の家庭教師だった書生が、いまや警視総監になっていて、さまざまな難事件を持ち込んでくる――だいたい、そんな設定です。私らが困っているのは事件のほうでしてね。もっとはっきりいえば、トリックです。トリックを、少くとも六つぐらい考えておかないと、脚本にかかれない。脚本家は、脚本を書く職人であって、ミステリのトリックは考えられません。ここは、ひとつ、前野さんにご出馬いただいて」
「待って下さい」
辰夫はグラスをテーブルに置いて、
「ぼくは、そういう専門家ではありません。ここに名前が出ている人たちが……」
「名前だけですよ」
男はあっさり言った。
「こうやってならべておくと、企画が通り易《やす》いのでね。みなさん、お忙しくて、かかりっきりになってくれない。そこで、あなたにお願いしているのです」
ずいぶん、軽く見やがったな、と辰夫は思った。おれだって忙しいのだ、と立ち上ってしまえば恰好がいいのだが、そうはできなかった。なんらかの方法で稼《かせ》がなければ、月の後半の生活が怪しくなる。
「はっきり申しあげましょう」
と男は言った。
「明日の午前十時までに、六本ぶんのトリックが要るのです。池部良は脚本を読んでから考えると言ってますので、大変に急ぐのです。申し遅れましたが、あなたには、トリック一つにつき、一万円――企画が実現するしないにかかわらず、お支払いします」
これは凄《すご》い、と辰夫はびっくりした。六本だから、六万円の金がポケットに入ることになる!
彼の給料は、手どりが約一万五千円である。そのうち、五千円はアパートの部屋代だから、残りの一万円で、三度の飯を食い、衣類を買い、光熱費を支払わねばならぬ。これは不可能な話であり、文化社の他の連中どうように、別途の収入を計らねばならない。
「どうです、できますか?」
男は念を押した。
「やってみます」
辰夫は答えざるを得なかった。
メンズショップの紙袋をTBSの寮に置いたままで、彼は文化社に戻《もど》った。
首脳部は、佐伯一誠《さえきいつせい》事件を収拾するために不在だった。
築地《つきじ》での事件の翌日から佐伯は中国へ行ってしまい、数日前に帰ってきたのだ。ゴム仮面は黒崎につきそわれて詫《わ》びに行き、〈酔った挙句の行為〉として、いちおう許されたものの、連載小説を続ける気がなくなった、と佐伯に申し渡された。
――私は辞任しますから、小説の方は続けてください、と、津田君が言えばよかったのだ。
黒崎は怒りをこめてボヤいた。
――佐伯先生は苦労人だよ。論外の非礼を許してくださった。しかし、先生の小説を貰《もら》えなくなるのは困る。非常に困るのだ……。このさい、城戸先生が断乎《だんこ》たる処置をとってくれればいいのだが、どうも強腰に出ない。津田君のあとを継げる者が社内におらんせいもあるが……。
「今日も、お偉方は佐伯邸ですか」
辰夫《たつお》は奴凧《やつこだこ》にきいた。
「城戸先生みずから、詫びに出かけた。人騒がせな話さ。ふつうの会社なら、即刻、くびだぜ。こんな風に庇《かば》うから、津田さん、過保護になっちゃうんだ」
楽天的な奴凧も、渋面を作っている。
「津田さんの酒癖は、一段と悪くなっているようですよ。ゆうべも、新宿で、週刊誌記者の耳に噛《か》みついたそうです……」
金井が辰夫に囁《ささや》いた。
「狂犬だな、まるで」
辰夫は苦笑する。
「佐伯さんも身の危険を感じたのかも知れませんよ」
にこりともせずに金井が言った。
どうもわからん、と辰夫は思った。あれだけの暴挙が、〈酔った挙句の行為〉ならば、と許されてしまう日本社会の慣習は、彼の理解を絶していた。
七時までに仕事を片づけると、彼はTBS赤坂寮に戻った。
面長の男は待っていて、いっしょに鰻重《うなじゆう》を食べ、それからTBSの名入りの原稿用紙をとり出した。
「お忙しいところ、恐縮です」
同じ言葉をくりかえした。
辰夫は推理小説のトリックに関する研究書二冊をとり出して、「むずかしいですね」と、呟《つぶや》くように言う。
間もなく、男は帰って行った。
凄《すさま》じい半鐘の音で辰夫はとび起きた。すぐ、窓の外で鳴っている!
汗ばんだ寝巻のまま、廊下に出ると玄関に走った。
「おめざめですか」
小母《おば》さんが声をかけてきた。
「火事はどこですか?」
辰夫は息を切らせている。
「え?」
「半鐘が鳴ったでしょう」
「あれは寺の鐘です。ちょっと変ってるもので、みなさん、慌《あわ》てて起き上るんですよ」
「やられましたな」
コーヒーカップをテーブルに戻した井田は、視線を都電の線路に向けた。
ホテル・ニュージャパンの右側に開店したばかりの自称カフェテラス――店の名は、なんと「シャンゼリゼ」というのだが、奥の方はレストラン、通りに面したかなり広いフロアがカフェテラス風である。とはいえ、まるっきりの野晒《のざら》しではなく、頭の上は日除《ひよ》けでおおわれている。俄《にわ》か雨の時には、日除けの継ぎ目から雨水が流れ落ちたりもするのだが、ほんの数年前まで自動車修理工場がならぶ土地だった赤坂が、六本木とともに、新しい盛り場になった証拠の一つがこの店といえなくもない。
自動車の往来のはげしい場所にカフェテラスを作ったのが、そもそも無理で、すぐに排気ガス除けの透明な幕が張られ、やがては店そのものが潰《つぶ》れてしまうのだが、それは後《のち》のはなし。物語のこの時点での「シャンゼリゼ」は、新しいもの好きの集る巣だったといっても過言ではない。
「失礼ですが、今日はぼくに任せてください」と、辰夫は言った。「井田さんにご馳走《ちそう》になることが多くて、心苦しかったのです」
井田が創刊号に書いてくれたコラムは周囲の評判がよろしく、そのあと貰った原稿もまた面白《おもしろ》い。こういう執筆者を充分に接待できないのを、編集者として口惜《くや》しく思っていたのだった。
「気にしないでください」
シガレット・ホルダーを口のはしにずらして、井田は、けむりを夏の風に溶かした。
「あなたに関しては、わたしの予言が当ったな」
「大当りです。あちこちのテレビ局からやたらに電話がかかってきます」
「アイデア不足でね、どこも」
井田は貶《さげす》むようにわらって、
「前野さん、あなた、無邪気過ぎますよ。相手は海千山千ですから、用心に用心を重ねないと……」
「大丈夫です」
「いや、そうでもない」
と、井田は苦笑して、灰皿《はいざら》の脇《わき》の名刺をつまみあげた。
「この男に原稿を渡したあとで、TBSに電話をしましたか?」
「いえ。おとといの今日ですから」
「電話してごらんなさい。絶対につかまりませんから」
「居留守を使うんでしょうか?」
辰夫の声が心細げになる。
「こいつは、六月いっぱいで、TBSを首になってます」
井田は名刺をテーブルに投げた。
「え?」
「いいかげんな奴《やつ》で、作家に支払う金を博打《ばくち》で摩《す》ったのがバレたんです。たしか、城戸草平《きどそうへい》の原作料も使っちまったはずですよ」
「でも……局の受付まで迎えに出てきて……」
「受付のところなら、わたしだって迎えに出られます」
と、井田は冷笑した。
「しかし……寮に泊ったんですよ、ぼくは」
辰夫が力なく反論すると、
「首になってすぐだから、寮の小母さんは、なにもわからなかったんでしょう。首になって、翌日から出入り禁止ってことはないですから」
「……おかしいなあ……あんな企画をどうするのだろう?」
「どこかの代理店に売り込むつもりでしょう」
辰夫は沈黙した。これでは、井田にご馳走するどころではない。
「追いかけて、つかまらないわけじゃないけど、まず、金は払わないでしょう。諦《あきら》めたほうが利口です」
井田はボーイを呼んで、コーヒーのお代りを命じた。
日暮れが近づいたせいか、店内には外人男女の姿が目立った。ここで食前酒《アペリチフ》を飲んで、近くのナイトクラブへ出かけるのだろうか。
「おいしそうな話が持ち込まれたら、ひとこと、ぼくに相談してください。良い筋か悪い筋か、すぐわかりますから。……あなたは焦《あせ》り過ぎるのです。もっと、ゆっくり待つべきです」
「焦ってやしないですよ」
「そう思っているなら、それでいい。今日は、ぼくに任せてください。ラジオのスタジオへ行ったことがありますか?」
辰夫が案内されたのは、日比谷《ひびや》交差点に近い古いビルだった。
エレベーターをおりたフロアに、公開録音用のホールがあり、その外に、ビデオホール事務所と記されたドアがある。
井田がドアをあけ、声をかけると、愛想の良い男が出てきた。ワイシャツの腕をまくって、いかにも忙しそうである。
「こないだ、話した前野さん」
井田は無造作に紹介する。男はプロデューサーの肩書のある名刺を出した。
「今日は、前田武彦《まえだたけひこ》さんはくるの?」
と、井田がきく。
「こない……」
プロデューサーは答える。
「永六輔《えいろくすけ》は?」
「彼もこない」
「前田さんはどうしたの?」
「テレビに出ると言ってた」
プロデューサーは、事務所の前の汚れたソファーを指さした。
「放送作家が、こういう形で忙しくなっちゃ、仕様がねえな」
と、井田は呟いた。
「井田さん、食事は?」
「してきたよ」
「じゃ、コカ・コーラを……」
プロデューサーは、みずから売店の中に入って、アイスボックスをあけた。
「ラジオ関東の『昨日の続き』は、よくつづいてるねえ。あれも、ここで作ってるんだろ」
「前田さんは、あれ、休んだことがない。永さんは、ときどき抜けるけど」
プロデューサーはそう言いながら、コカ・コーラを両手で運んできた。
「前田さん、こないとすると、どうやるの? ぼくひとりじゃ喋《しやべ》れないぜ」
「中原さんに声をかけたら、かけつけるって言ってた。あの人もいたずらが好きなんだ」
「話題が映画とミステリにかたよるぞ」
「今日は、ほら、例の企画物ですから」
プロデューサーはにこにこして、
「いかがですか。前野さんも出演なさいませんか」
「え……」
あっさり言われて、辰夫は驚いた。
「……ぼく、まったく、経験がないから……」
「適当でいいんですよ。夜遅い番組だから、どうせ、おとなはきいてやしません」
「それはいい考えだ」
井田はゆっくり頷《うなず》いた。
「喋りの練習のつもりでやりゃいいのです。失敗したって、だれも笑いませんよ」
「どういう番組ですか?」
「いちおう、パリ祭用の特別番組なのですがね」と、プロデューサーは眼《め》を細めて、「台本はないんです」
「台本がない!」
「『昨日の続き』だって、台本なしですよ」
と、井田が説明する。
「あれはフリートーク番組の|はしり《ヽヽヽ》になると思う。台本があって、タレントやアナウンサーがそれを朗読するのは、いまに、時代遅れになるよ。ディスク・ジョッキーってのは、演《や》る人の個性の問題だもの」
「ぼくも、そう思ってますよ」
プロデューサーは唇《くちびる》の茶色い液体をぬぐって、
「ただ、現在のところ、台本なしで喋れるタレントはいないのです。前田さんや永さんは、台本作家ですからね。台本作家で、かつ、喋りも面白い人でなければ、つとまらない。だから、フリートーク番組は稀少《きしよう》価値なのです」
「それに、ギャラが安い……」
井田がはっきり言った。
「少くとも、ぼくの場合、ラジオ出演は、台本作家の余技としか考えられていないもの。たまに、こういう所で喋るより、台本のほうが、はるかにギャラが良い」
「すみません」
プロデューサーは頭をさげた。
「いいのよ、好きでやるんだから。その代り、やりたいことをやらせて貰う」
「前野さんも、軽く遊ぶつもりで加わってくださいよ」
プロデューサーは立ち上った。
「中原さんも、もう、くるでしょう。……要するに、糸居五郎さんの物真似《ものまね》だけしなければ、問題は起きないんです。これはニッポン放送の番組ですからね。いつか、糸居さんのDJの時間のまえの番組で、前田さんと中原さんが糸居さんの真似をやったために、ぼくが叱《しか》られました……」
スタジオに入った三人が、すわる位置を決めかねているところに、イタリアンプリントの派手なシャツを着た中原弓彦《なかはらゆみひこ》がきた。
「暑いですねえ」
旧知の仲らしく井田に挨拶《あいさつ》すると、シャツの裾《すそ》をひっぱり出して、ズボンの外にたらした。
「そのシャツは輸入物?」
井田がたずねる。
「ご冗談を……」
「冷房がないスタジオですみません」
プロデューサーは詫《わ》びてばかりいる。
「扇風機を使うと、音がマイクに入るもので……」
「中原さん、前野君は?」
と、井田が気をつかう。
「知ってる、知ってる」
中原は辰夫《たつお》に笑いかけて、
「で、今夜はどういう趣向なの、井田さん?」
「パリ祭」
「パリ祭?」
「季題だよ、七月十四日の放送だもの」
「やりようがないじゃないの。ルネ・クレールの『巴里祭《パリさい》』の話をしたって、いまさら、どうってことないしさ」
「こういうことよ」
井田はざっくばらんな口調で、
「七月十四日になると、戦前にパリで暮してた画家とかシャンソン歌手が、パリそのものとパリ祭の想《おも》い出《で》を語る番組が、よく、あるじゃない? 本当は革命記念日なのに、|お《ヽ》フランスの庶民の祭りでした、なんて、気障《きざ》な声で語るのが……」
「今年も、けっこう、ありますよ」
と、プロデューサーが薄笑いを浮べる。
「ああいう下らない、まやかしの文化人番組のパロディを作りたい。だから、ここにいる三人が、まず、職業とパリにいた偽《にせ》の過去をでっちあげるわけ……」
「面白い!」
中原はテーブルを平手で叩《たた》いた。
「ただ、三十分、もつかね? 前田さんはこないんでしょう」
「なんとかなると思う」
井田は強引に決めてしまう。
「ぼくはフランス帰りの画家になろう。|お《ヽ》フランスは太陽光線からして日本とはちがいます、てなことを言えばいいんだ」
「じゃ、ぼくは映画監督|挫折者《ざせつしや》だ」
と中原が言った。
「ヌーヴェルヴァーグの影響を受けたコマーシャル・フィルム・ディレクターってのは、どうだろう。日本に帰ってきて、CMの演出を即興でやって、やたら、まわりに迷惑をかけてる男って設定」
「あ、それ、いい」
井田は右の親指と人さし指で丸を作ってみせ、
「前野さん、どうしますか?」
「困ったな……」
辰夫は考え込んだ。
その間に、プロデューサーは、パリの地図を三人に配る。
「これ、全部、フランス語じゃない!」
中原は悲鳴をあげた。
「フランス語、やらなかったですか」
「初歩は習ったけど、地名なんて読めねえや」
「適当にやってください」
プロデューサーは無責任に笑った。
「じゃ、ぼくはシャンソン歌手になりましょうか」
辰夫は言った。
「うまくできるかどうか、わかりませんけど……」
「ぼくらがカヴァーしますよ」
地図から眼をあげた中原が笑ってみせた。
「まともな人間がきいてる番組じゃないんですから。ジルベール・ベコーの愛人だったとか、でたらめを言えばいいんです」
「たったひとつ、発音に注意してください」
と井田が言った。
「いかにもフランス帰りらしいデフォルマシオンを心がけること。それから、ときどき、日本語を忘れてみせることです。畜生《メルド》、なんて言葉を入れてくださると、企画者として嬉《うれ》しい」
中原は軽く頷いた。いざとなれば、井田と二人で三十分もたせる自信があるらしい。
「よろしいですか」
プロデューサーが辰夫にたずねた。
よろしいもなにも、あったものではない。他の二人の〈乗った〉気分を害するのをおそれて、辰夫はかすかに頷き、プロデューサーはスタジオを出て行った。
興味本位でついてきて、とんだことになった、と辰夫は思った。番組がうまくいかなかったら、井田に対して、どう詫びたらよいかわからない。
「始まります……」
秒読みをききながら井田が呟《つぶや》いた。
急に、映画「巴里祭」のテーマ曲が流れた。その音が絞られたところで――。
井田「本日はお忙しいところを各界の名士にお集まりいただき、われわれの心のふるさとであるうるわしのパリ、そして、あのパリ祭を偲《しの》ぼうというわけです。中原さん、あちらでは映画の方で?」
中原「ルイ・マルの助監督で、セミ・マルと名乗っていました」
井田「日本人の渡航が非常に制限されていた時代に、どうやって?」
中原「は、あの、シルクロードを歩いて行きました……」
すべてが冗談のようなラジオ番組出演が辰夫にあたえた刺戟《しげき》は大きかった。
井田や中原のように自在に喋りまくることが出来ない辰夫は、それでも、〈良い線を行っている〉と評された。〈良い線……〉とは、当時の流行語で、かなり有望の意味である。
「また、お願いしますよ」
というプロデューサーの言葉は、お世辞半分にしても嬉しかった。
こんな番組を作ってみたらと辰夫が夢想していた、まさにそういうものを、現実に作っている人たちがいるのだ。今のところ、彼らは少数派であり、その仕事は話題にさえなっていない。番組が聴かれているかどうかも、はなはだ心許《こころもと》ない。
「聴取率なんてどうでもいいでしょう」と中原は過激な言い方をした。「遊びだもの、これは」
「それはそうですが……」
プロデューサーは脂《やに》で黒ずんだ歯をみせて、
「遅い時間にしては、よく聴かれてるんです。番組のファンクラブができそうなんですよ」
「それは凄《すご》い」
井田が感心すると、
「どうだっていいじゃないですか」
つまらなそうに中原が言う。
「どうして?」
「ファンクラブなんて、いいかげんなものですよ。ぼくの経験から言うのですけど、要するに、大学生や高校生は集って騒ぐきっかけが欲しいのです。関係者は不愉快な思いをするのが|落ち《ヽヽ》ですよ」
「そう言ってしまったら、なにもできやしない」
井田はやんわりと反対する。
「ファンクラブができると、番組のPRにもなるよ」
「そうなると、番組の質が落ちる。ぼくは、日の当らないところで、勝手にやらせてもらうほうがいい」
「中原さんの言う意味はわかるんだ」
と、プロデューサーは頷いた。
「でも、少しは、日を当てないとねえ。これからは、井田さんと中原さんで番組をやってゆくことになると思うのですよ」
録音が終ったあとで、そんな会話が一時間ほどつづいた。
方法論の違いはあっても、新しい道を切り開くのは自分たちだという前提を彼らは少しも疑っていない。べつに気負っているわけではなく、ごく自然に、そう思っているのだ。
自由に生きている人間が発散する独特の空気があそこにはあった――と、翌朝、めざめた辰夫は思った。
それは遠いむかしのことのように想われた。彼は起きあがり、ささやかなエゴが犇《ひし》めきあう会社に出かけなければならないのだ。
同じ道。地下鉄駅前で飲む一本のフルーツ牛乳。ラッシュアワーを過ぎた空《す》いた地下鉄。――なにもかも陳腐だった。
編集部の部屋に入ってゆくと、珍しくゴム仮面が早く姿を見せていた。さいきんは、正午まえに現れることがなかったのだ。
辰夫は違和感をおぼえた。室内の空気はこわれ易《やす》い硝子《ガラス》のようだった。硝子をこわさぬために他の者は沈黙を守っている。
彼は一時間ほど仕事をした。金井に用があるのだが、作家の家をまわっているらしく、現れない。
「前野君……」
と、ゴム仮面が声をかけてきた。
「はい」
「きみ、新聞をとっているの?」
「いえ……アパートにはとってません。ここで読めますから」
「そうか……」
ゴム仮面は唇をへの字に結んだ。
やがて、正午になり、辰夫は部屋を出て階段をおりた。井田のオフィスに寄ってみようかと思ったのだ。
「ちょっと、前野君……」
黒崎《くろさき》の声がした。
ふり向くと、黒崎が険しい眼でこちらを凝視している。初対面のときの冷たい視線を想いおこした辰夫は、なにか、あったな、と思った。
「ここに入りたまえ。みんな、昼めしを食いに行っている」
半袖《はんそで》の開襟《かいきん》シャツ姿の黒崎は、古風な扇風機を自分に向けながら言った。
「まあ、かけたまえ。今日は、特別、蒸し暑いな」
「はあ」
辰夫は言われた通りにした。
「顔に脂《あぶら》が浮いてかなわん」
黒崎はハンカチで顔をこすり、自分の椅子《いす》にかけた。
「……きみ、|あれ《ヽヽ》を読んだかね?」
「|あれ《ヽヽ》って?」
辰夫は何のことかわからない。
「知らなかったのか」
黒崎はかすかに嗤《わら》い、デスクの上の新聞をさし出した。当時、〈三大新聞〉と呼ばれたものの一つである。
「その隅《すみ》のところだ。読んでごらん」
雑誌評のコラムであった。辰夫は反射的に眼を近づけた。
[#1字下げ]〈ちかごろ、細いネクタイ、細いズボン、桃色のシャツを着た若者をよく見かける。なんでもアメリカ東部の若者の服装の模倣だそうだ。模倣が悪いとは言わない。良いことなら、どんどん模倣すべきだろう。ただし、これが知性の領域に及ぶと、筆者のような旧弊な人間は、不快をおぼえる。
[#1字下げ] 翻訳推理小説誌「パズラー」は、アメリカの短篇《たんぺん》推理小説を紹介するのが目的の雑誌である。それはそれでけっこう。しかし、小説以外に、自動車やらスポーツ記事やらパロディと称する悪ふざけの読物が沢山あって、編集者はその辺に力を入れているようだ。これらが筆者には、「桃色のシャツ」のようなアメリカかぶれに見えて仕方がないのだ。ひとことでいえば、この雑誌はくだらない。先も見えている。そのくだらなさを象徴するのは、編集後記である。青臭い、下手な文章で、しかも気どっている。知性、理性のかけらもない。もし、こんなものが若い世代に支持されるとしたら、ゆゆしき事態である。レイアウトその他でしきりに新しがっているが、これも、「桃色のシャツ」のたぐいであろう。〉
脳天を殴りつけられたようだった。こみあげてくる怒りで唇《くちびる》が動かない。辰夫は、そのまま、じっとしていた。
「どう思う?」
黒崎は抉《えぐ》るように言った。
「どうって、これでは……」
「感情的な文章だ。それはわしにも分る」
眼鏡の奥の細い眼《め》は動かない。
「いやしくも大新聞の雑誌評で、これだけ感情をむき出しにしたのは珍しいぞ。どうだ、書いた人間の心当りはないか」
「……なくもないです」
いつかインタビューにきた、長野県出身と自称する記者だ。たしかにこの新聞社の学芸記者だった。「この雑誌は失敗だね」という決めつけ方までそっくりであった。
「しかし、ここで、あれこれ推測しても仕方がないでしょう」
「うむ。まあ、こういう見方も世の中にはあるということだ。わしが心配しとるのは、城戸《きど》先生のお考えだよ。さっき電話をしたが、まだ、おやすみだった」
なんだ、と辰夫は失望した。ゴム仮面は気落ちした辰夫を観察するために常より早く出社し、黒崎は城戸|草平《そうへい》の意向に怯《おび》えている。なんという会社だ!
五カ月間の辰夫の努力を認めると言っておきながら、悪意にみちたコラム一つで、この騒ぎだ。それにしても、心身ともに磨《す》り減らした挙句《あげく》の反応が、このようなコラムでは、まったく引き合わない、と思った。
戦中派と呼ばれる知識人の多くはアメリカ嫌《ぎら》いであり、安保闘争に参加した辰夫と同世代の者もアメリカによる植民地化を憂《うれ》える傾向がある。そのどちらが筆をとったとしても、こうした内容になるだろう。
淋《さび》しいものだな、と彼は思った。アメリカの占領下に育って、なおかつ、安保闘争に参加した自分の、アメリカ文化への屈折した想《おも》いなど、だれにも理解されまい。
やがて、腕時計を見てから、黒崎は城戸邸に電話を入れた。
城戸草平は起きていたらしく、少し話した黒崎は、送受器を辰夫に渡した。
――黒崎君は慌《あわ》てとるようだ。
城戸の声は嗤いを含んでいた。
――ぼくも、記事に眼を通したが、気にする必要はない。
――は?
辰夫は自分の耳を疑った。
――あんな記事を書くのは年寄りだ。年寄りに反感を持たれるのは、むしろ、プラスだよ。きみの感覚に本当の新しさがある証明になる。悪口を言われるようになったら、一人前になってきたわけだ。……いいかね、まちがっても反論など投書してはいかん。いっさい無視して、雑誌の売れ行きで沈黙させるのだ。だいたい、あんな時代錯誤の批評でアタフタするのは、おかしい。社内の動揺も、すべて、無視したまえ。
城戸草平は吐息をして、
――しかし、創刊号の編集後記が叩かれるなんて、前代未聞だぞ。
数日後に、ラジオのプロデューサーから電話が入った。
――ご無理かと思うのですが、今夜十一時からお願いできませんか? このあいだと同じメンバーでDJ番組のパイロット(テスト版)を作ろうと思いまして……。
――今夜ですか。
辰夫はためらった。夕方から「パズラー」のための座談会が予定されていた。
座談会は遅くも七時には終るだろう。食事と二次会を計算に入れても、ほぼ十時にはお開きになる。
――行こうと思えば行けますが……ぼくでお役に立つのですか?
――もちろんです。
相手はあっさり言った。
――そんな風に簡単におっしゃっていいのですか?
辰夫はしつこくたずねる。
――パリ祭の座談会、改めて聞いてみたら、面白《おもしろ》いんですよ。あなたはプロじゃないから、井田さんたちの軽妙な話術とくらべて、どうこう言うことはできません。ひとつだけ言えるのは、声の質がマイクに向いているのです。
プロデューサーはそう説明した。
――こちらの依頼がむちゃなのですから、どうしても、とは言えません。気分転換のつもりで寄って頂ければ……。
――わかりました。十中八九、うかがえると思います。
辰夫《たつお》は答えた。
日比谷《ひびや》の蚕糸会館《さんしかいかん》に着いたのは、十一時十五分前だった。
裏の通用口から入り、ひとけのない階段を登る。エレベーターはすでに停止している。
五階のホール前には人影がない。ホールの明りも消えていた。
事務所のドアをあけると、下着一枚になったプロデューサーが立ち上った。
「ごめんなさい……」
右掌《みぎて》で拝むようにした。
「井田さんが姿を消したもので、急遽《きゆうきよ》、とりやめになったのです」
冷房がないせいか、下着が肌《はだ》に貼《は》りついていた。
「とりやめ?……」
辰夫は憮然《ぶぜん》とした。新宿からタクシーをとばしてきたのだった。
「井田さんから連絡が入ったのが七時でした。金沢にいると言ってましたから、間に合うはずがない。中原さんには、なんとか連絡がとれたのですが、前野さんの会社は、みなさん、帰られたようで……」
「ああ、今日は校正の残業がなかったのかも知れない」
「すみません。勝手なお願いをして、勝手にキャンセルする形になって」
辰夫はかたわらの椅子に腰をおろした。酔いを抑えているためか、気分が悪くなった。
プロデューサーは冷えたバヤリース・オレンジジュースを出してきた。
「姿を消したってのは何です?」
煙草《たばこ》に火をつけながら辰夫は低い声でたずねる。
「井田さんの|いつものやつ《ヽヽヽヽヽヽ》ですよ」
プロデューサーは手拭《てぬぐ》いで首筋を伝う汗をふきながら答えた。
「|いつものやつ《ヽヽヽヽヽヽ》?」
「ご存じなかったですか」
プロデューサーの眼に奇妙な色があった。
「知りません」
「ぼくからきいたことは内緒にしておいてください」
そう呟《つぶや》いて、プロデューサーは辰夫の向い側にすわった。
「ほんらいなら、井田さんは、前田さんや永さんのような売れ方をして当然な人なのです。多才であるのは間違いないですからね」
辰夫は相手の眼を見た。
「それがそうならないのは、あの人自身の問題です。自分では田舎者だからと言ってますが、そんなことじゃない。内面的なアンバランス、情緒不安定――そういったものが激しくなると、どこかへ失踪《しつそう》してしまうのです」
「ぼくは、いつも冷静《クール》な人だとばかり思っていた」
と、辰夫は言った。
プロデューサーの言葉が真実だとすれば、井田は、辰夫の前では、ずいぶんと無理を重ねていたことになる。
「それでいて、完全には失踪できず、金沢から電話してくる気の小ささがある。才能が必ずしも電波に向いていないのかも知れませんな。もともと活字の世界の出身ですから」
相手は結論づけるように言った。
「じゃ、ぼくは帰ります……」
煙草をもみ消して、辰夫は立ち上った。
その時、ドアがあいて、フレームの大きな、薄茶色のサングラスをかけた女が入ってきた。フジテレビの薄暗い場所で岩崎《いわさき》と名乗った娘だと彼は想い出した。
「井田さんなら、姿を消しましたよ」
辰夫はからかうように言った。
サングラスの奥の眼が辰夫を見つめた。自尊心を傷つけられたようだ。
「井田さん?」
女の声には嘲笑《ちようしよう》の響きがあった。
「私は関係ないわ。もう、うちは井田さんにお願いしてないし……」
女はクラフト封筒から自分のものらしい放送原稿をとり出した。
蚕糸会館の外の暗闇《くらやみ》に出たが、涼風のきざしはなかった。街全体が重い蒸気の底に沈んだようであった。
タクシーは通りそうもない。皇居の堀端《ほりばた》まで、ほんの一足歩けば、つかまえられるのだが、それが面倒なのだ。|夏ばて《ヽヽヽ》というやつだろう。
家に帰って寝ればよかった、と後悔した。予定より早く、二号目を校了にしたばかりだが、急いだぶんだけ、疲れが激しかった。
依然としてタクシーはこない。辰夫は堀端に向って歩きだした。
背後の舗道で軽い靴音《くつおと》がする。ふりかえるまでもなかった。歩速を弛《ゆる》めて、相手が追いつくのを待った。
「蒸し暑いですね」
生意気な女はあたりまえな言葉をかけてきた。
「のどが渇いてたまらないわ」
「ジュースを出してくれなかった?」
「差をつけられたんだわ、駈《か》け出しの放送ライターだから」
自嘲的に言った。
「そんなことはない……」
「あるんです。雑誌の編集長となれば応対の仕方がちがいます」
彼は驚いた。おれを知っているのだ!
「そう僻《ひが》みなさんな」
「僻みますよ。原稿を届けにきて、どうも、のひとことで|おしまい《ヽヽヽヽ》なんだから」
「なにか飲もうか――と言ったって、もう、どこも開《あ》いてないだろうなあ」
「大丈夫ですよ。ナイトクラブなら」
「ナイトクラブ?」
「つき合ってくださいます?」
彼は返事をしかねた。ポケットの中の金ではとても足りないだろう。
「小さな店です。会社で使っているから、私のサインですみます」
「……でも、奢《おご》られるのはなあ」
「私の財布が痛むわけじゃなし、それに、ご相談したいこともあるんです」
女はタクシーをとめ、先に乗り込んで、「六本木から飯倉片町《いいぐらかたまち》の方へ行ってください」と、運転手に言った。
ナイトクラブは活劇映画の安っぽいセットのようであった。
フロアショウが終ったあとらしくボーイがマイクを片づけている。
壁ぎわの席に案内されたふたりは、フロアに向う形で、ならんで椅子《いす》にかけた。
「涼しいなあ」
辰夫は辺りを見まわしている。これからアパートの狭い部屋に戻《もど》るのを思うと、うんざりする。
水割りとカカオフィズがきて、ふたりは形だけの乾杯をした。
「お忙しいんじゃないですか」
「忙しいけど、月のうち、十日から一週間ぐらいは、わりに楽なのです」
「あんなところにいらっしゃったから、びっくりしたわ」
「面白いじゃないですか、ラジオの仕事は……」
そう言って、彼はタクシーの中で貰《もら》った小型の名刺を胸ポケットから出し、
「この暎子《えいこ》ってのはペンネームでしょう」
「わかりますか!」
「本名は、トメとかトキとかいうんでしょうが……」
岩崎暎子は笑いだした。
「トメじゃ売り出せないから、漢和大字典をひっぱり出して、目立ちそうな名前を考えたんでしょう? なるべく、インテリっぽく見えるやつを」
暎子は笑いがとまらなくなっていた。
「本名をきかせてくれ、なんて言いませんよ」と辰夫はつづけた。「あなたを傷つけたくないですから。でも、一点、うしろめたいでしょう? うしろめたさをサングラスの翳《かげ》に隠しているんでしょう?」
「……もう、やめて……」
暎子は胸の下を押えていた。
「そういうのは、トーク番組だけにして……」
「そのトーク番組ですけどねえ」
辰夫は真面目《まじめ》な口調に戻って、
「潜在的なファンが多いそうじゃないですか。それも熱狂的、狂信的なファンが……。ぼくが一聴取者だったとしても、台本を読むDJよりは、トーク番組のほうが、ずっと面白い。どうして、あれをテレビで企画しないのですか。もう、準備にかかるべきじゃないかな」
暎子はサングラスをかけ直しながら、「これ、度が入ってるんですよ」と説明した。
「前野さんはテレビをご存じないから、そんなことをおっしゃるんです。フリートークは、ラジオだから面白いので、テレビでは絵になりませんよ」
「そうだろうか」
辰夫は納得できなかった。
「喋《しやべ》りが面白い、というのは、喋る人が面白いことだと思う。その顔が絵にならないものだろうか」
「絵が動かなければ駄目《だめ》です」
暎子は断定的に言う。
「そうかなあ。絵になる、ならないについて、固定観念があるような気がするけれど……」
「少くとも、いまの常識では、通用しない考えですね」
「そうだろうか」
辰夫は首をふった。
バンドが「パトリシア」を演奏し始めた。話がしにくくなる曲なので、暎子は左手のブレスレットの位置を直している。
「新聞に出てた批評のことですけど……」
え、と辰夫は顔をあげた。
「私、|あれ《ヽヽ》を書いた人は〈わかってない〉と思います」
「ああ、|あれ《ヽヽ》か」
辰夫は顔を顰《しか》めた。
「〈わかってない〉よ、だれもかれも。そう諦《あきら》めなかったら、やっていられない……」
「諦めが早いんじゃありません?」
暎子の声の芯《しん》に暖かみが感じられた。
「どうして?」
「うちの事務所の人は、みんな、若いのですけど、六人のうち、四人が創刊号を買いました。四人とも、あの批評はひどいと怒ってます」
「それは、どうも……」
辰夫はまじめに頭をさげた。
「失礼な言い方かも知れませんが、私、前野さんの編集方針は正しいと思っています」
「失礼じゃないですよ。どうして失礼なのですか」
と彼は言った。
「それどころか、読者の生の声をきくのは初めてです」
「あの雑誌を批判する〈大人〉の声は、これから、もっと大きくなると思うの。ところが、支持する層は、若くて無名だから、前野さんの耳に彼らの声が届かないんだわ」
サングラスの奥の大きな眼《め》が彼を見つめていた。
「ありがとう」
辰夫は心を打たれた。
「それで充分だ。ぼくにとっては、ほんとうに充分です」
「これからじゃないですか、前野さん……」
「そうなんですがね、ほんとは」
彼は俯《うつむ》きかげんになって、
「それは、よくわかってるんです。……ただ、映画のヒーローならともかく、ぼくは生身《なまみ》の人間ですからね。どんな莫迦《ばか》げた攻撃だろうと、確実に傷つけられるし、応《こた》えます。声なき声の支持があるだろうとは思うけど、あくまで思うだけであって、形をなさないかぎり、力にはならないんです」
「そんな……前野さんらしくもない……」
「……今日初めて会ったのに、なぜそんなことが言えるのですか。|ぼくらしい《ヽヽヽヽヽ》とか|らしくない《ヽヽヽヽヽ》なんて、どうして決められるの」
「だって、そうよ。耐えられるはずよ。あんな批評、小犬に噛《か》みつかれたと思えばいいのだから」
「小犬でも、狂犬かも知れない。ぼくは、それほど、強くないですよ」
「いえ、強いわ、強い」
「弱いですよ」
「そんなこと、ない。強いわ」
辰夫は、かっとなった。
「ぼくが自分で弱いと言ってるんだから、こんな確かなことはない!」
暎子は吹き出した。
「そんな大きな声を出さなくてもいいでしょう」
「バンドがいけないんだ。うるさ過ぎる」
演奏が「マンボNO5」にかわり、会話は不可能に近くなった。
「あなたの励ましには感謝します」
「とんでもない」
「踊りますか」
「マンボ、苦手なんです」
「いいじゃないですか。すかっとしますよ」
「いえ、駄目なんです」
いちいち、逆らう女だと彼は思った。面白《おもしろ》くないので、煙草をくわえ、店のマッチで火をつけた。
この女は、二六時中《しよつちゆう》、こういう場所に入り浸っているのだろうか。真面目なような、人を小莫迦にしたような妙な女だ。外見は〈|とっつきにくい美人《クール・ビユーテイー》〉だが、口調から察するに、あまり冷静《クール》ではなさそうである。
バンド演奏が終ると、辰夫《たつお》は煙草を揉《も》み消して、
「相談てのを伺いましょうか」
と、促した。
「よろしいでしょうか」
相手は改まった口調になる。
「よろしいですとも」
「私どもの会社で、〈スリーMジョッキー〉というのを企画中なのです。これは五十五分のワイド番組なんですけど」
辰夫は黙って、新しい煙草に火をつけた。
「スリーMっていうのは、ムーヴィー、ミュージック、それにミステリです。構成は私が任されているのですけど、ミステリの部分をどうしたらいいか、見当がつかないんです」
「それで?」
「前野さんに相談に乗っていただこうと考えました。井田さんに紹介して貰おうかなと思ったのですが、私、井田さんが苦手で……」
「そうらしいですね」
「今日はチャンスでした。運が良《い》いんだわ」
無邪気そうに笑って、
「お手伝い願えますか」
辰夫はすぐには答えなかった。
結局は、おれを利用しようとする魂胆だったのだ、と思った。抜け目ない顔をした男たちの代りに女が現れた。それだけだ。
「どうでしょう?」
暎子はさらに言った。
「そうだな……」
彼は鼻をこすった。
「ぼくではお役に立てません、と答えるところだけど、少しでも奢られた以上、そうもいかない。……本当をいえば、あなたが口にしたような企画は、毎日、きかされている。テレビ、ラジオの関係者ときたら、ふたことめには、ミステリ、ミステリ、ミステリです。活字の世界にミステリ・ブームがあるのは確かだけど、だからといって、即、それを電波の世界に持ち込むわけにはいかない。ああだこうだと話し合った挙句《あげく》の結論が、そんなところです……」
暎子は納得しかねる顔で頷《うなず》いた。
「いま、あちこちの局でやっているでしょう。音楽と音楽のあいだにショートショートの朗読を流したり、外国の作家の短篇《たんぺん》をドラマ化したり……。あの程度じゃないですか、可能なのは」
「じゃ、ディスク・ジョッキーでは……」
「どうしようもないでしょう。べつに活字を神聖視する気持はないけれど、水と油だもの」
「そうですか」
平静を装ってはいるが、がっかりしているのがわかった。強気なだけに、落胆も人一倍なのだろう。辰夫は気の毒になってきた。
「新手は、もう、ないです。それはそうなんだけど……」
「なにかありますか?」
暎子は藁《わら》をもつかむ様子で問いかけた。
「意外に目をつけられていないのが外国の作家のショートショートだ。これは、ディスク・ジョッキーの彩《いろど》りになると思う」
「版権が高いのじゃないですか?」
「版権の切れたものを使えばいい」
と、辰夫は即答した。
「幼稚な質問でごめんなさい。切れてるとか切れてないとか、どうしてわかるんですか」
「それを説明すると、長くなる。要するに、ぼくは判断できるのです。なんたって、ぼくの仕事なんだから」
「あっ、そうか」
暎子は笑みをとり戻した。
「予算の関係で版権料は支払えないと思うのです。その場合、版権の切れた作品を教えていただけますか」
「もう一杯、貰っていいですか」
辰夫はグラスを指さした。
「どうぞ」
「乗りかかった船だから、仕方がない。ぼくにできることはやりましょう」
冗談めかして言ったが本気だった。
「嬉《うれ》しいわ。じゃ、私も水割りを貰おうかしら」
暎子は別人のように陽気になった。
「忘れないうちに申しあげておきます。お礼は、些少《さしよう》ですが、きちんといたします。うちは、そういう主義なんです」
水割りがきたところで、ふたりは乾杯をした。
「〈スリーMジョッキー〉が成功するかどうかに私の将来がかかってるんです。認められる絶好のチャンスだわ」
辰夫が思わず、かすかに笑ったのを暎子は見逃さなかった。
「軽蔑《けいべつ》されたみたいね」
「どうして?」
と、彼はたずねたが、原因はわかっていた。世にも軽薄な〈スリーMジョッキー〉という命名を彼は嗤《わら》ったのだ。〈パズラー〉だとか〈スリーMジョッキー〉といった軽薄な名前の代物《しろもの》にしがみつき、遮二無二《しやにむに》、浮上しようと足掻《あが》いていることでは、この女も、自分も、隔たりがないと思う。
「……井田さんは私を莫迦にしてるのよ」
酔ってきた暎子は、急に、顔を寄せるようにして囁《ささや》いた。
「あたしがヴァージンかどうか、賭《か》けたんですって。……最初に|もの《ヽヽ》にした人がわかるっていうんだけど……失礼しちゃうわ」
彼は笑おうとしたが、顔がこわばっていた。
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第六章 カレンダー・ガール
辰夫は会社の近くの中華料理屋で定食のランチを食べていた。昼食時に、いつも、薄暗いその店を利用するのは、味が良いといった積極的な理由からではない。社の近くで冷房がきいている店は、そこしかないのである。
「いいですか、前にすわって?」
頭の上で声がした。われにかえった辰夫が見上げると、金井がなんとなく笑っている。
「いいとも」
「はっきりしない天気ですな」
金井は椅子に腰をおろすと、Bランチ、と大声で注文する。
「ゆうべ、ラジオ、ききましたよ。パリ祭を語る、ってやつを」
あれ、と辰夫は思った。
……どうして知っていたのだろう? だれにも話さなかったし、新聞にも名前が出ていなかったのに。
「軽い遊びでね」
辰夫はいなした。いかに〈給料では食えない〉とはいえ、本業以外で名前が出るのは、社内的にまずい、と思っている。
「面白かったですよ、あれ。だれのアイデアですか?」
「井田さんだ」
「冴《さ》えてますな」
金井は頷きながら、たずねた。
「あれで、出演料はいくらぐらい貰《もら》えるのですか?」
辟易《へきえき》した辰夫は、ちょっと間《ま》を置いて、
「素人《しろうと》だから、本当の車代さ」
「そうですか。ぼくは、何万円も貰えるのかと思った……」
「そうだと良いけれど」
辰夫は散り蓮華《れんげ》で卵スープを啜《すす》ってから、
「ふつうの人は、テレビやラジオに出演するというと、よほどの金を貰うと思うんだな。タレントが三十分のテレビドラマでいくら貰う、なんて、週刊誌が書くのを、鵜呑《うの》みにするからさ。……出演料にはタレント・ランクと文化人ランクの二通りがあって、高いのはタレント・ランク。文化人ランクってのは、只《ただ》みたいなものだぜ」
井田から仕込んだ知識である。
「相手が文化人の場合、テレビ局側に、出してやるって気持があるのかも知れない。じじつ、テレビで顔を売ることによって得をする文化人が出演するのだろうからね」
「そういうシステムですか」
金井はジャスミン茶を飲んで、
「じゃ、タレントとすれすれの文化人は、自分をタレントとして登録すればいいじゃありませんか。そうすればタレント・ランクになるでしょう。駄目《だめ》ですか?」
「可能かも知れないね。ただ、そうすると、番組をえらべなくなるんじゃないか。白痴番組といわれているものにも出たりして、イメージダウンするだろう」
「なるほど」
金井は感心している。
「出演料に二通りあるのは知らなかった」
定食がきた。金井は箸《はし》を二つに割って、こすり合せている。
「海へ行かないか」
辰夫は唐突に言った。
「海?」
相手は怪訝《けげん》そうな顔をする。
「ある女の子と知り合って、誘われたんだ。会社の海の家が葉山にあるんだって。ぼくは行くつもりだけど、一対一ってのはヤバいだろ」
「ヤバいといえばヤバいし、絶好といえば絶好でしょう」
金井は、にやにやする。
「そういえば、そうだけどさ……知り合ったばかりなんだ。だからさ……」
「だから、何です?」
「向うは一人でくる。ぼくは友達と二人で行くって言っちゃったんだ。だから、具合が悪いよ」
「あなたにしては珍しく見栄《みえ》を張ってますな」
と、金井は評して、
「ああ、そうか。自分が暴走するのがこわいのですね」
「こわいことはないけどさ。分別を失う時があるからね、ぼくは……」
「同じことですよ」
「二十二、二十三日が、土、日なんだ。一泊つき合ってくれないか」
「困ったな」
金井は苦笑を浮べて、
「前野さんは独身だから、わからないんだ」
「なにが?」
「結婚してる者の生活、ですよ。独身のころとちがって、そう簡単じゃないんです」
「そうかしら」
「そうですよ。とくに、うちなんか、共稼《ともかせ》ぎでしょ。女房《にようぼう》のほうが収入が多い月もあるんですから、気をつかいます。……ぼくだけ、海へ行くなんて言ったら大変なことになりますよ。それでなくても、どこにも連れて行ってくれない、と、ぶつぶつ言ってるんですから」
女性週刊誌記者である金井の妻とは、喫茶店で、すれ違うように会ったことがある。才走った、活溌《かつぱつ》そうな女性で、しかも魅力的な眼《め》をしていた。失礼ながら、ひたいが禿《は》げあがった野暮ったい金井とは、釣《つ》り合いがとれないと辰夫はひそかに思ったものである。
「なるほどねえ」
世帯《しよたい》じみた話に馴染《なじ》めぬ辰夫は、溜息《ためいき》をついた。
「ヤキモチヤキですからね、うちのは」
金井は、は、は、と笑ってみせる。これはまた、意外な話といわねばならぬ。
「ヤキモチヤキ?」
辰夫は不審そうにききかえした。
「ええ……」
「ふーむ」
女房の妬《や》くほど亭主《ていしゆ》もてもせず、という古川柳を、辰夫は想《おも》い浮べた。
金井は、名前通りの石部金吉《いしべきんきち》で、細君が初めての女性だった、と、いつか話していた。女性に興味がなくはないが、まず、並みの男以下である。
「ヤキモチって、なにか、あったの?」
「ないですよ。ぼくはそっちのほうは淡泊ですし、女房だけで、こう、です」
金井はテーブルに両手をついて、蛙《かえる》のような恰好《かつこう》をしてみせた。
「それでも、妬くの?」
「凄《すご》いです」
「もし浮気をしたら?」
「殺されますな」
「じゃ、一泊も駄目だな」
辰夫《たつお》は反射的に言った。どうも、夫婦の問題になると、苦手である。
さしあたり、思いつく相棒がいないのだ。井田だけは困る、と、暎子《えいこ》に釘《くぎ》を刺されている……。
「弱ったぞ。二十三日を過ぎると、仕事のほうが、きつくなる。丁度、いいんだがな。二十二日には江ノ島の花火が見られるそうだし……」
「行きたいですよ、ぼくも」
麻婆《マーボ》豆腐をご飯にかけながら金井は眼を光らせた。
「六畳一間の暮しで息がつまりそうですからね」
「じゃ、行こうよ。奥さんもくればいいじゃないか」
「そうできればいいのですが、女房が七月いっぱい休みなしなんです」
「きみだけ出かけるわけにはいかないな」
辰夫は諦《あきら》めた。
「井田さんはどうなんですか」と金井が言った。「あの人は、時間を作れるんじゃないですか」
「だろうね」
「井田さん、帰ってきたのですか」
「戻《もど》って、もう仕事もしているよ」
辰夫は距離を置いた言い方をした。
「うちは三号までの原稿を貰ってたから問題ないけど、あちこちに、だいぶ穴をあけたらしい。怒ってるプロデューサーがいるようだ」
「あの人には世話になったから、いままで言わなかったのですが、雑誌関係でも評判が悪いですよ」
唇《くちびる》に飯粒をつけたまま、金井は声をひそめる。
「プレスリーを呼ぶ計画だって、果して、どの程度、本気なのか、疑ってる人が多いです」
「いかにも山師風の|はったり《ヽヽヽヽ》だものな。地道に原稿を書いていれば、自然に尊敬されるのに……」
「前野さんが、わかって付き合っているのなら結構ですが、ちょっと心配してたんです。気をつけたほうがいいと思って」
「大丈夫だよ。ぼくは彼の才能の良い部分だけをピックアップしてるんだもの」
辰夫は立ち上った。
金井も立ち上り、二人は別々に支払いをして外に出た。
「書店に寄って、雑誌が何部残っているか調べてみるか」
と辰夫は呟《つぶや》いた。
コニー・フランシスが甘ったるくうたう「ボーイ・ハント」が、湿り気を含んだ風に乗って流れてくる。
社に戻ると、テレビ局からのメッセージが机の上にあった。至急、電話が欲しいというのだ。
相手がTBSの人なので、いやおうなしに先日の出来事を想い出したが、とにかく、電話を入れてみた。先方はていねいな口調で、新しく始まるアメリカの探偵《たんてい》ドラマの第一回に出演して貰えないか、と言った。
放送そのものが夜九時台なので、社の仕事にはさしつかえなかった。しかし、だれが聞いているのかわからないラジオとちがって、大勢が観《み》ているテレビに出るとなると、会社の許可が必要であろう。
辰夫は一階におりて、黒崎《くろさき》に、こういう依頼があったが、と話した。
「そうか」
黒崎は自分の考えを隠すかのように眼を細めて、
「無制限にそういうことをやられては困るが、雑誌のPRになるのなら、話は別だ。テレビの宣伝効果たるや、桁《けた》がちがうからな。……どうだ、いくらかでも、PRになりそうか?」
辰夫は答えようがない。
「きみの肩書は出るのだろうな、画面に?」
「それはそうです。前野辰夫ったって、何者か、一般の人には通じませんもの」
「『パズラー』という誌名が出さえすれば、よろしい。とにかく、『パズラー』の名を、もっと広めなければいかん」
「誌名を決めるとき、もっと慎重にやるべきでしたね」
と辰夫は言った。
「きみも、そう思うか」
「思います。つくづく思っています。軽率でした。もっと、判《わか》り易《やす》いものにする知恵と時間の余裕が欲しかった……」
「『パズラー』という名は、読者の範囲を、おのずから限定するな。推理小説ファンの一部しか相手にしない感じをあたえる」
「誌名の変更は、もう、できませんか?」
「それは無理だ。一つの誌名を定着させるのの三倍のエネルギーを要する。強引に『パズラー』で押し切るより仕方がない」
「城戸《きど》先生の発案でしたね。先生は、いまでも、『パズラー』を良《よ》しとしているのでしょう?」
「うむ……」
「これでいくしかないですね」
「カタい、特殊な感じをあたえるのだ。いろいろな面で、損をしておるな」
ディレクターは意味ありげな笑みで辰夫を迎えた。あなたは私について何も知らないでしょうが、私のほうはちがいますよ、という笑いである。あなたのことならよく知っておりますぞ、という、おそらくは好意的な、しかし、辰夫にしてみれば快くない笑いである。
「趣向がありましてね」
ディレクターは秘密めかした声で説明した。
「『私立探偵ジョニー』って題名なのですが、ピストルを派手にぶっぱなす話じゃなくて、意外に、犯人探しができるような推理物なのです。そこで、とりあえず、十三本入った中から、もっとも犯人探しゲーム向きのを一本えらびまして、前野さんに犯人当てを試みていただこう、と考えたわけです」
「犯人当てですか……」
辰夫は当惑の色をみせた。
「いやですか」
ディレクターは問いつめてくる。
「いやというんじゃなくて……とにかく、活字でも、ぼくは犯人を当てられたためしがないのです。そういう才能がなくて……」
「面白《おもしろ》い!」
ディレクターは乗り出してきた。
「『パズラー』編集長の肩書を持つ人が、推理が苦手というのは面白い。非常にテレビ的です」
辰夫はドラマの内容を解説する役だろうと思っていたのである。初めてテレビに出演するのだから、いくらかは恰好《かつこう》よくありたいと願っている。だが、ディレクターの狙《ねら》いは逆のようである。辰夫が追いつめられ、不様な真似《まね》をするほど面白く、テレビ的だというのだ。
「そういうわけですから、予備知識はいっさい差しあげません。冒頭《あたま》で、アナウンサーが趣向を解説して、前野さんをご紹介します。それから、すぐ、『私立探偵ジョニー』のフィルムを流して、五分の四ぐらいのところで止めます。犯人探しのデータは、そこまでで、すべて、提示されています。――それから、スタジオになって、前野さんの推理と犯人指摘の時間が、三分。そのあと、すぐに、ドラマの結末を流します。これで、前野さんの推理が当ったかどうかが、視聴者に明白になります。当っても当らなくても、アナウンサーが前野さんと若干のやりとりをして終ります……」
ディレクターは腕時計を見て、
「あと三十分で始まります。メークをしといて貰いましょうか」
とんでもないことになった、と辰夫は思った。これでは恥をかきにきたようなものではないか!
スタジオに案内され、安楽|椅子《いす》にすわると、足がふるえた。彼の斜め前では中年のアナウンサーがにやにやしている。あがらないでくださいよ、とか、あなたなら一発で当るでしょう、とか、心にもない言葉を辰夫にかけてきた。
土曜日は、幸い、快晴であった。
アロハシャツにバッグ一つで出社した辰夫は、午前中に仕事を片づけ、正午には有楽町のジャーマン・ベーカリーにいた。
相棒は、ついに見つからなかった。暎子が現れたら、言い訳をするつもりで、アイスコーヒーをストローで吸っている。
強い陽射《ひざ》しの下を歩く白ワイシャツ姿のサラリーマンを眺《なが》めながら、こんな日に働く奴《やつ》は莫迦《ばか》だ、と思った。……レジャーという語が合言葉のように飛び交っているにもかかわらず、だれひとりとして遊んではいない。忙しく動きまわることによって、自分が無能ではないと信じ込みたいのだろう。
その点、辰夫は気が楽である。夜中まで働く自分の姿は仮初《かりそ》めのものだと思っている。雑誌の二号、三号を世に送れば、今の彼の姿は終るはずだ。
すぐに廃刊になる雑誌を、俗に〈三号雑誌〉と呼ぶが、「パズラー」がそうなる可能性はかなり大きい。かりに、四号、五号とつづくとしても、彼はもう、やる気を失っている。もしも、そうなったら、金井にでも引き継いでもらう腹づもりだ。金井はずいぶん助けてくれたから、たとえ一時的でも、編集長をつとめさせてやりたい。
自分がどうなるかについて、彼はそう悲観的ではなかった。わずかなあいだに、井田をはじめとして、何を本職としているのかわからない人間に数多く出会ったし、そんな風な生き方が存在することもわかった。すべては、急速に膨張しつつあるテレビ産業のおかげであるらしい。それなら、自分だって、どうにかなるのではないか、と、彼は厚かましくも考えている。
……約束の時刻を三十分過ぎても、暎子は姿を見せなかった。
先日のテレビでの醜態が記憶によみがえった。辰夫が指さした人物は犯人ではなかったのだ。だからどうというわけでもないのだが、彼は屈辱感を噛《か》みしめていた。あれが大勢の眼に触れたとしたら――触れているにちがいないのだが――頭の悪さを天下に晒《さら》したのと同じである。こればかりは、仮初めの姿です、と、逃げるわけにいかない。
翌日、暎子から、からかい半分の電話がかかってきたので、恥をかいたとコボすと、「マスコミ、マスコミ」と、励まされた。
そんなことで、くよくよしているようでは、マスコミの中で暮してゆけない、という意味である。
彼は立ち上った。パンの売り場の奥にある赤電話で暎子のオフィスを呼び出した。
――岩崎さんはお休みです。
電話線の向うで女性がつれない返事をした。
もう少し待ってみよう、と彼は思い、ビーフカレーとサラダを注文した。
どちらも、すぐに、できそうなものである。フレンチ・ドレッシングをかけたレタスを頬張《ほおば》っているところに、暎子が現れる。相手は興味|津々《しんしん》という眼《め》つきで彼を見るはずだ。その視線に、ふっと気づいた態《てい》で、「独りだとビタミンCが不足するので……」
――これが彼の頭の中にできている絵柄《えがら》である。映画の中の一場面のように、暎子のたたずむ位置、彼の台詞《せりふ》は決っている。台詞はもっと洗練されていなければならないのだが、この状況《シチユエーシヨン》では仕方あるまい。
ビーフカレーとサラダがきた。のろのろと食べても、十五分とはかからない。
暎子は依然として現れない。サラダを食べ終えた辰夫は、暎子の遅刻そのものよりも、頭の中の絵柄を壊されてしまったことに苛々《いらいら》していた。
なぜ、電話の一本も入れないのだろう、と彼は思った。
暎子のアパートの電話番号を知っていればよいのだが、きいていなかった。こんなにルーズな女だと知っていれば、きいておくのだった。
オフィスにたずねてみようと思い、彼は赤電話の前に立った。
「その電話、通じませんよ」
売り場の女の子が彼に注意した。
「さっき、よそへかけて、通じたよ」
彼は答える。
「いま、電柱をとりかえてるんです。あと一時間半は不通です」
彼は溜息《ためいき》をついた。これでは、彼女が外からかけていたにしても、通じまい。
なにか、あったのだ、と思った。
とりあえず、どうするか。
蒸し風呂《ぶろ》のような、アパートの部屋に戻る気はしなかった。それに、岩に腰かけた自分が海を眺めている確固たる絵柄が、頭の中に出来上っているのだ。日数がかかっているだけに、この絵柄はそう簡単に壊すわけにはいかない……。
そうだ! 海の家に、ひとりで行けばよいのだ!
突如、そう閃《ひらめ》いた。
常識的に考えて、海の家を使用する予約はしてあるはずだった。|それなら《ヽヽヽヽ》、|おれがひとりで使用してもいいはずだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
葉山の御用邸から岬《みさき》に向って五、六分、という暎子の呟きの記憶を頼りに、左右を見てゆくと、左手の山の下に〈花見音楽事務所・海の家〉の札が出ていた。
石段を登ってゆくと、大きな日本家屋があった。広い、手入れのゆきとどいた庭に、松の木が数本あり、とても、ふつうの住宅とは思えない。門の表札は二つあり、どうやら花見音楽事務所は、半分を使用しているらしい。
ブザーを押すと、しばらくして、麦藁《むぎわら》帽子をかぶった老人が出てきた。草むしりのさいちゅうだったようだ。
音楽事務所の関係者だ、と辰夫《たつお》は自己紹介して、岩崎さんから申し込んであるはずだが……といった。
「きいてるよ」
陽灼《ひや》けした老人は疑い深そうな眼で辰夫を眺めて、
「あんた、ひとりか?」
「岩崎さんは、あとからきます」
彼は平然と答える。
「ずいぶん広い家ですね」
「戦前は貴族さんの茶室だもの」
自分の家のように老人は誇ってみせた。
「あんたに鍵《かぎ》を渡していいかどうか……」
「バッグだけでも置かしてください。濡《ぬ》れ縁を使えば、鍵をあける必要がないでしょう」
「じゃ、そうしといて貰《もら》おうか」
老人はなおも疑わしげに辰夫の一挙一動を眺めている。番人としては当然であろう。
彼は濡れ縁にバッグを置き、バスタオルと海水パンツを出した。アロハシャツはそのままで、ズボンを脱ぎ、海水パンツをはく。数枚の札と小銭をアロハシャツの胸ポケットに入れると、サングラスをかけて、裸足《はだし》で歩き出した。
老人は呆然《ぼうぜん》としている。
辰夫は平気だった。悪いのは自分ではなく、暎子《えいこ》である。
「それでは足の裏を火傷《やけど》する。縁の下のゴム草履を使いなさい」
みかねた老人が声をかけてきた。
しめた、と辰夫は思った。夜になれば、家の中に入れてくれるだろう。
岬につづくハイウエイには自家用車とバスがつながっていた。数年まえにも、かなり渋滞していたものだと辰夫は想起する。海からの風がなかったら、排気ガスで気分が悪くなってしまうだろう。
のどが渇いたので、岬のレストハウスに入り、ビールを注文した。店内は水着姿の男女でいっぱいで、食べ物はカレーライスとハヤシライスしかできないと断りの札が出ている。
次々に入ってくる客に押し出されるようにして、彼は店を出た。
ハイウエイを横切って海に向う。排気ガスの臭《にお》いが薄れて、純粋な潮の香りが漂い、波の音と競うような喧噪《けんそう》がきこえてくる。
海を見渡せる位置で辰夫は立ちどまった。肺のなかを清めるように深呼吸をくりかえした。彼が自然に触れるのは、めったにないことだった。
サングラスを通しても、光線はかなり強かった。日盛りは、とっくに過ぎているのだが、肌《はだ》を灼かれるのが感じられた。
ヨットの数が多い。逗子《ずし》のヨットハーバーからきたものだろうか。
人のいない場所をえらんで一時間ほど泳いだ辰夫は、一色《いつしき》海岸にあがって、アロハシャツを着た。
夕方になったので、家族づれの人々は、引き揚げ始めている。たぶん、別荘や、それぞれの海の家、寮のたぐいに戻《もど》るのであろう。
彼は面白くなかった。意地になって、ここまできてしまったものの、ひとりで海岸にいるなんて、|どじ《ヽヽ》なはなしである。とはいえ、戻って、あの老人の顔を見るのも辛気臭《しんきくさ》い。
大学のキャンプ・ストアがスピーカーで客寄せをしていた。
キャンプ・ストアといえば、広告代理店にいたころに、若干の関係があった。私立大学の広告研究会にスポンサーをつけて、あちこちの海岸に店を出させるのである。人が集る海岸に、宣伝用の店を出すのは戦前からあったことだが、経営やデザインを学生に任せるのは戦後の風潮であろう。
辰夫はキャンプ・ストアに入り、コーヒーフロートを貰った。スポンサーとの関係でアルコール類はないのである。
学生のハワイアンバンドの演奏が終ったところで、お義理の拍手をしていると、
「前野さん……」
と、女の声がした。
辺りを見まわすと、知った顔はない。空耳だったのかも知れない。
「前野さんじゃないですか?……」
彼は声を呑《の》んだ。
気づかなかったはずである。眼の前のウエイトレスだ。そろいの紺のブラウスで、店名入りのエプロンをしているから、つい、数に入れなかったのだ。
「お忘れですか?」
と、ウエイトレス、実は女子大生がきいた。
「あ、いや……」
辛うじて想《おも》い出せた。広告の初歩を学ぶといって、彼がいた会社でアルバイトをしていた娘だ。
名前が泛《うか》ばないので、
「きみ……」
と、彼は言った。
「まだ、卒業しなかったの?」
「やだ。いま、四年ですよ」
「すわらないか?」
「ウエイトレスはすわれないんです」
「うるさいのだな」
「外のベンチなら大丈夫です」
「じゃ、出よう」
辰夫はレジで煙草《たばこ》を買い、マッチを貰って砂浜に出た。
店名入りの大型ビーチパラソルの蔭《かげ》に白塗りのベンチがある。風が強くなってきたので、パラソルの柄《え》は激しくふるえている。
「どちらにお泊りですか」
「この近く」
彼はあいまいに答える。
「こないだ、テレビを拝見しました」
辰夫はがっくりした。案の定、ろくなことはない。
「前野さんがクビになったとき、みんな、不当解雇だって言ってたんです」
「まあ、な……」
辰夫は煙草に火をつけようとしたが、風で吹き消された。恰好《かつこう》がつかないこと、おびただしい。
「あまり想い出したくないな……」
「あれ、去年の夏の終りでしたか?」
「そうだ」
頷《うなず》いてから、彼は、はっとした。
|まだ《ヽヽ》、|一年しかたっていないのだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。毎日があまりにも充実しているので、過去を顧みる余裕がなかった……。
「テレビにうつっているのが前野さんだとわかって、びっくりしたわ。画面の下に白く出るでしょう、名前が……」
「テロップか」
「あそこに名前が出なかったら、とても信じられなかった」
「そうだろうな。自分でも信じられないほどだもの、身の変転が……」
「雑誌を作ってらっしゃるの、いま?」
やれやれ、と、辰夫は思う。この娘は、おれが何をしているのか、よく知らないのだ。雑誌の名前も知らないようだ。ということは、一般大衆もまた、そうなのだ。
「『パズラー』という雑誌だ。……知らない?」
「きいたことはあるわ。古くからある雑誌でしょう」
「新しいんだよ」
これはダメだ。全然、知らないのだ。
「薄い雑誌だ。外国の推理小説をのっけている」
「ああ、早川書房の……」
「あれは『エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン』だ」
うんざりした。
「とにかく、テレビに出るようになったのは凄《すご》いわ」
むちゃくちゃである。テレビ出演をステータス・シンボルと考えているらしい。
「まさか、お眼にかかれるとは思っていなかったから……。お眼にかかったら、相談したいと思ってたことがあるの」
「なんだい」
辰夫はにわかに警戒の色を見せた。
「就職よ。私の才能を生かせる職場が、なかなか見つからないの……」
「才能、か」
「もうすぐ、交代になるのよ。話をきいてくださる?」
「話って、ここ、抜け出せるのか」
「あとは自由よ。寮の門限さえ守ればいいんだから。夜ぐらい遊ばなかったら、とても、たまらないわ」
「全然、遊べないのかい」
となりでハンドルを握っている娘にたずねた。
「ひどいものよ」
辰夫がどうしても名前を想い出せない娘は、正面を見つめたままで言った。研究会の車だという緑色のシトロエンは、ひどい|おんぼろ《ヽヽヽヽ》で、ブリキを貼《は》りつけたように見える。
「四年だったら働かないですむと思ってたら、大間違い」
「下級生をこき使う役じゃないのか?」
「三年の子が、二人倒れたのよ、下痢で」
汚いことを言う、と辰夫は閉口する。飲食物を扱う店員としてモンダイではないか。
「今朝、ちょっと波乗りをやっただけよ」
「サーフィンと言って貰いたいね」
舌を噛《か》みそうになった。車が跳ね上ったからである。
「急がなくてもいいよ」
スピードを出すな、とも言えないので、辰夫は遠まわしな言い方をする。この娘の運転では、事故が起きないほうが不思議である。免許証を取っておかなかったのが、いまさらのように悔やまれた。
娘は答えない。機嫌《きげん》を悪くしたのか、運転に絶大な自信を持っているのか、よくは判《わか》らないが、おそらく後者であろう。
十分と走っていないのに、酒屋の看板にぶつかり、床屋の前の植木鉢を割り、赤信号を二度、無視している。それも、意識的ではなく、うっかり、だ。
「あ……」
娘は低く言った。三つ目の赤信号の下を、シトロエンは通り過ぎていた。
「どこへ行くつもりだい」
「逗子よ」
当然のように答える。
「逗子のどこ?」
「なぎさホテルよ」
「この恰好じゃ入れまい」
辰夫は疑問に思った。彼はアロハに濡れた海水パンツ、娘は派手なブラウスにデニムのショーツという姿だ。入口のところで廻《まわ》れ右させられても、文句はいえない。
「グリルなら大丈夫よ。水着にビーチウエアで入ったことだってあるんだもの」
「そうかねえ」
のどが渇いていた。願わくは、バドワイザーが欲しかった。アメリカ人の多い会社で働いていたときに身についた習慣で、大きな袋いっぱいのポテトチップスとバドワイザーがあれば、いうことはない。
「なぎさホテルは、まえは、米軍に接収されてたはずだけど……」
「そう? 私は知らないわ」
古いはなしを……というように、娘は嗤《わら》った。
ホテルの入口を見た時、駄目《だめ》だ、と辰夫は悟った。
白い夏背広を着て、かんかん帽をかぶった老人が、太いステッキを手にして、ドアボーイと話をしている。もうひとり、白のヘルメットを頭にのせた戦前派らしい肥《ふと》った紳士の姿も見え、自分たちが足を踏み入れる場所ではないと思わざるをえなかった。
娘は、それでもなお、ドアボーイのそばに寄り、なにやら話しかけて、戻ってきた。
「おかしいなあ。いつかは入れたんだけど……」
「いつか、って、いつだい?」
「高校のころよ」
「外から入ったのか」
「ううん、泊ってたの」
「泊ってれば、水着でも許されるだろうさ」
辰夫は歩きだした。どうやら良家の娘らしい。いまから数年前に、家族づれでなぎさホテルに泊ったとすれば、そういうことになる。
「どうする?」
「心当りがあるわ。車は、もう少し先でとめよう……」
ずいぶん暗い店だな、と思った辰夫《たつお》は、サングラスをかけたままなのに気づいた。
サングラスを外しても、暗さはさほど変らなかった。マリー・ラフォレがたよりない声で歌う「赤と黒のブルース」が流れる店内は、外見から想像したよりは奥行きがあった。たぶん、平日は生演奏があるのだろう。
テーブルの大半は、海水を洗い落さずにきた水着姿の男女で埋められていた。潮と汗の臭いがまざった湿った空気は好きではないが、このさい、贅沢《ぜいたく》はいえないだろう。天井の大きな扇風機がわずかな風を送ってくる。
「よく、くるのかい」
「そうね……」
と、娘は考え込んで、
「逗子では、ここしかないのよ。もう少し遅くなると、横須賀《よこすか》からくるアメリカ兵で混むの」
「海兵隊《マリーン》か。ヤバいな」
「ここにくる連中はおとなしいわ」
バドワイザーはなかった。国産のビールとフライドポテトを貰《もら》うことにした。
「どのテーブルにもケチャップがある。アメリカ兵が多い証拠だな」
「そういうものなの?」
娘は細い眼《め》で辰夫を見た。
「きみ、あまり、飲まないでくれよ」
「どうして?」
「車、運転するんだろ、おい」
「いいじゃない。酔ったら、タクシーで帰るもの」
「あの車、どうするつもりだい」
「あんなポンコツ、どうでもいいのよ。もう、スクラップ行きよ」
「だからって、置きざりにはできないぜ。だいたい、広告研究会の車なんだろ」
「大丈夫よ。ちょっとぐらい酔ってたって、ここから葉山までなら平気よ」
「平気じゃないぜ」
辰夫は煙草をくわえた。唇《くちびる》のすみにひっかける、ジャン・ポール・ベルモンドのスタイルだ。
「相談てやつをきこうか」
けむりに眼を細めた。
会社にいたころは、殆《ほとん》ど意識したことがなかったのだが、改めて眺《なが》めると、小柄《こがら》ながら均整のとれた躯《からだ》だった。細い眼がアイシャドウのおかげで鋭くみえる。顔全体が小さいので損をしているのだが、十人なみ以下というわけでもない。
眉毛《まゆげ》が薄すぎるな、と、ビールのグラスを手にしながら、ひそかに呟《つぶや》いた。もう少し形をつければいいのにな。
「就職といわれても、お役に立てるかどうか、疑問だけどね」
相手は黙っている。
「だいたい、どういう方向にすすみたいの?」
「ずっと、デザインのほうをやってたんだけど、自分でものたりなくなって……なんか、もっと自分を表現できる道があると思って……」
「ふむ」
もっともらしく頷いてみせたが、辰夫は、内心、くすぐったい思いだった。〈自分の才能を生かす〉とか〈自分を表現できる〉とか、よく言えるものである。〈自分〉とは、いったい、なにか? 表現するに値するような大層なものなのか? かりに、表現すべき〈自分〉があったにせよ、そうした表現行為が、無愛想きわまるこの社会と、どうやって結びつくというのだろう?
長い失業生活を経験する以前の辰夫だったら、
――きみは、自分、自分と言ってるだけで、社会の側がなにを要求するかを考えてないよ。
と、突っぱねるところだった。
いまの彼がそうしないのは、彼自身、〈自分〉の興味が赴くままに動いてきて、外部の要求と結びついた、偶然ともいうべき機会を持てたからに過ぎない。
「それで?」
「イラストレーションの勉強をしているんです、私。自分がイラストレーターに向いてるように思えるもので……」
「なるほど」
方向としては悪くないな、と思った。昔風の挿《さ》し絵画家は数が多いが、イラストレーターと呼べる人は実にすくない。とくに、女性となると、すぐには思い浮ばない。
「どうかしら?」
不安の色を残す眼が輝いた。
辰夫は煙草をもみ消して、
「きみの才能をまったく知らないんだから、無責任な感想を言おう。かりに絵を見せられても、ぼくには鑑定できないしね」
「ご謙遜《けんそん》を……」
「いや、ほんとだ。ぼくは自分で自信がもてないことは口にしないやり方だから。……こう前置きしておいて答えると、方向としては、いい。かなり、いいんじゃないかな」
「よかった!」
「喜ぶのは早いぜ」
と、辰夫は制した。
「かりに、というのは失礼だけど、きみに才能があったとしても、職場とか会社を探すとなると……」
「いいんです、それは!」
「どうして?」
辰夫は腑《ふ》に落ちぬ表情になる。
「就職先を探してるんだろ」
「とりあえず、いいの」
娘は笑って、ビールを飲み干した。
「だけど……相談て、就職なんだろ?」
「それはそうだけど、たったいま、役に立てないって言ったでしょ」
「そりゃ、きみ……」
久しぶりに顔を合せて、いきなり職探しの話をされてもな、と彼は口に出さずに呟いた。そんなに急に言われても……。
「いいのよ。方向としていい、と言って貰えれば、満足だわ」
「そういうものかね?」
「就職をたのむほど、私、非常識じゃないわ。私の着眼が正しかったかどうかだけ、判定して欲しかったの」
「へえ……」
「あの会社で働いてたころから、私、前野さんの勘を信用してたのよ。勘だけは鋭いでしょ」
「|だけ《ヽヽ》とは、ひでえことを言う」
辰夫は苦笑した。
……店内は満員になり、アメリカ兵たちは缶《かん》ビールを飲みながら陽気に歌った。彼らがくりかえし歌うのは、ニール・セダカの「カレンダー・ガール」だ。カウンター脇《わき》の狭い一角に陣どった日本人のアマチュア・バンドが伴奏をしていた。
何曲か騒ぐと、店内が闇《やみ》に近くなり、静かなバンド演奏に合せて、男女が躯を密着させる、というスタイルだ。
「踊ろう」
と辰夫は言った。
娘は形だけのためらいを見せて、踊りの闇に入った。
辰夫は「カレンダー・ガール」の英語の歌詞がききとれない。カレンダーの、一月ごとに変る女の子を称《たた》えているようでもあるが、本当のところは、よくわからない。……ビールと水割りでぼんやりした彼の頭は、まったく自己流に、暎子《えいこ》が駄目なら、この娘がいるさ、という風に、「カレンダー・ガール」を解釈している。この娘――まだ名前が想《おも》い出せない!――も、話をしてみれば、けっこう面白《おもしろ》い感覚を持っている。花火を見て、たのしい夜を過す相手が、暎子でなければならぬ法はない。
そうだ、花火があった!
辰夫はそっと腕時計を見たが、暗くて文字盤が読めない。おそらく、花火の時刻は過ぎただろう。
どうでもいい、と思った。花火などは、いつだって見られる。しかし、この|いま《ヽヽ》――一九六一年夏という時は、二度と戻《もど》ってはこない。こうしている間にも、刻々、過ぎ去ってゆくのだ。
「こわくないか……」
辰夫は娘に囁《ささや》いた。
「なにが?」
「時間だよ」
われながら気障《きざ》な台詞《せりふ》だと思う。まじめに考えたことを口にすると、どうして、違う感じになってしまうのだろう?
「え?」
「きみにはわからない。二十五を過ぎると、時間が経《た》つのがとても早くなる。……いま、二十八だけど、三十を過ぎた自分の姿がまったく想像できない……」
彼は沈黙した。ぬるぬるした軟らかいものが彼の唇の動きを封じていた。
逗子《ずし》の駅まで歩かないと、タクシーを拾えなかった。
土曜の夜なので、駅前のタクシー乗り場には長い行列ができていたが、車の数が多いので、さほど待たずに乗れた。
「御用邸の少し先……」
言い終らぬうちに車はスタートする。運転手にとっては自分の庭先のようなものだろう。
一色《いつしき》海岸までは、あっという間だった。
酔ってはいるが、歩けぬほどではない娘と浜に出た。
キャンプ・ストアはしまり、真暗になっていた。浜辺のところどころに焚《た》き火《び》が見える。
「花火は終ったな」
彼は呟いた。
「王子様は帰る時間ね」
と、娘が呟いた。
「私も帰らなきゃ。馬車が南瓜《かぼちや》になっちゃうわ」
シンデレラのつもりかよ、と彼はおかしかった。そして、〈南瓜の馬車はオンボロ車……〉と、でたらめな歌をひそかに歌った。
「帰らなくてもいいだろう、まだ」
「駄目よ。私、寮の風紀をとりしまる役なんだから」
頭に血がのぼったままで、彼は長い石段を上った。
名前のわからぬ娘の躯の軟らかい感触が、彼のなかに残っていた。彼の肉体に火をつけただけで、娘は闇に消えて行ったのだ。
花見音楽事務所の海の家には、淡い灯《ひ》がともっていた。
濡《ぬ》れ縁に置いたバッグが見えなかった。老人が片づけたのだろうか。
玄関のガラス戸に手をかけると、簡単にあいた。三和土《たたき》には、革のサンダルが脱ぎすててある。
「だれ?」
鋭い声がした。暎子だ、と、彼は身ぶるいをした。
……激しい雨音で眼を覚ました。
トタン板に当っているような音だ。古い家だから、屋根のどこかにトタンの部分があるのだろう。
カーテンがしめてあるにせよ、部屋の中は暗過ぎる。紺色のカーテンのわずかな隙間《すきま》から、雨滴が窓ガラスにあたるのが見えた。弾《はじ》けては流れ落ちる無数のくりかえし。窓枠《まどわく》が揺れているのは、海からの風が強いためだ。
折り畳み式とはいえ、米軍払い下げのシングル・ベッドは、マットが堅く、辰夫が身動きしたぐらいでは、びくともしない。堅くはあるが心地よくもあるそれは、辰夫を、もう一度眠りの海に潜らせようとする……。
視線をとなりのベッドに向けた。白いシーツと長い黒髪が彼の視界を占め、寝息がきこえた。
物憂《ものう》く、和らいだ気分が彼のなかでつづいていた。信じられないようなことが、次々に起る、と彼はぼんやりと考える。
……猛《たけ》り立った辰夫の顔を見て、暎子は、弁解を口にした。事務所を通さない仕事が急に入ったので、連絡をしようとしたが、ジャーマン・ベーカリーに電話がつながらなかったというのだ。
辰夫も、ひとりできたことを弁解しなければならなかった。が、話しかける代りに、彼は暎子を抱き寄せようとした。発作的な行動だった。怯《おび》えた眼が彼を凝視した。……強く抱き締めると、暎子の腕が彼の背中にまわった。彼女の下唇はふっくらして、快かった。歯を閉じているのは、馴《な》れているせいだろうか……。
とにかく、あれは、本当だったのだ、と彼は想いかえした。アラビアン・ナイト物語の中でしか起り得ないようなことが現実になったのだ。そして、自分がどれほど不自然な禁欲生活を続けていたかを彼は改めて痛感した。
暎子の寝息に呼吸を合せていると、すぐに、眠くなってきた。この雨では、どうせ、家から外に出られまい……。
ふたたび、眼覚めたのは、十一時過ぎだった。雨音の激しさは変っていなかった。
キッチンのほうで何かを刻む音がしている。
落語家の名入りの寝巻の前を合せて、彼はキッチンを覗《のぞ》いた。
男物のパジャマを着た暎子が調理台に向っている。
「そのパジャマは、なに?」
彼は声をかけた。ふり向いた暎子は声もなく笑った。
「……なにがおかしいんだ?」
「寝巻よ」
まっすぐな高い鼻梁《びりよう》と驚いたように見開いた眼のせいもあって、他人《ひと》を小莫迦《こばか》にしていると思われがちな彼女の態度だった。だが、彼は、それが悪意から出るものではなく、他人《ひと》に見縊《みくび》られまいとする背伸びに発しているのに気づいていた。
「寝巻がどうかしたかい?」
「意外なときに役に立ったと思って。名前入りの浴衣地《ゆかたじ》を貰《もら》って、どうしようかと考えたの」
「不思議なのは、きみのパジャマだよ。どういうわけ?」
「雨漏りしたのよ」
トマトの端《はじ》をつまんで、口に含みながら答える。
「衣裳戸棚《いしようとだな》をやられちゃった。着る物が、ぜんぶ、びしょ濡れ……」
「一日、降りだろうな」
彼は小さなソファーにすわり、煙草《たばこ》に火をつけた。
「トマトジュース、冷えてる?」
「あるわ」
暎子は小型冷蔵庫をあけて、
「レモンをひと切れ入れて、タバスコを垂らしましょうか」
「そのままで、けっこう」
彼はけむりを吐き出しながら答えた。
トマトジュースは歯に染《し》みるほど冷えていた。
「食料品を、いつも、そろえとくのは、大変だろうな」
「管理人のおじいさんが買っといてくれるの」
折りかえした袖《そで》を気にしながら、暎子は立ったままで、トマトジュースを飲んだ。長い髪がゆれ、唇《くちびる》に赤い汁《しる》がついた。
「大丈夫かね、あのじいさん?」
「なにが?」
「ぼくがここに泊ったことに気づかないかな?」
「気づいてるでしょうね」
と、他人事《ひとごと》のように言う。
「まずいじゃないか」
「どうして?」
「ぼくはいいけど、きみが……」
「よけいなことは喋《しやべ》らないのよ、あの人」
「そうかねえ」
「彼は買物のお金をごまかすの。それを見ないふりをしてる限り、大丈夫ね」
自信ありげな言い方だった。
「大変な管理人だな」
「この辺の邸宅が米軍に接収されてたころからの管理人だから、|すれてる《ヽヽヽヽ》のよ」
グラスをテーブルに置いて、
「煙草、一本、くださる?」
と、たずねた。
「何を作ってるんだい」
「サラダ。嫌《きら》い?」
「べつに嫌いじゃない」
「そう? よかったわ」
近づいた暎子は、ソファーの肘掛《ひじか》けに腰をのせ、彼に、顔を寄せてきた。薄いパジャマの布越しに乳首が彼の腕に触れた。
あわてて、けむりを吐き出そうとする辰夫《たつお》の唇を彼女の唇がこすった。
「ゆっくり吐いて」
彼は言われた通りにした。けむりを吸い込んだ彼女は、やや苦しそうだったが、やがて、鼻孔から少しずつ出した。
こいつ、と思いながら、彼は相手のパジャマのボタンを外し始めた。
「サラダは、どうするの?」
「戦地から帰ったアメリカ兵に、奥さんがたずねる言葉を知ってるかい」
「知らない。あたし、何も知らないのよ」
「そんなことはない。きみは二十三にしては、いろんなことを知り過ぎている」
「皮肉な言い方ね。軽蔑《けいべつ》してるんでしょう?」
「どうして?」
「あなたは他人《ひと》を軽蔑してるのよ。いつも、からかわれてるような気がするわ」
「そいつは心外だ。こんなに不器用に生きていて、そんな見方をされたんじゃ、わりが合わない」
「ちがうの。不器用に生きてても、他人《ひと》を心の中でからかってるのよ」
「まあ、いいや。かりにそうだとしても、きみは例外だ」
「本当? 信用するわよ、私」
「本当だとも」
「その、戦地から帰ったアメリカ兵の話……」
「もう、いいよ。あとで説明する」
乱れた黒髪のかげの悪戯《いたずら》っぽい眼《め》が歓《よろこ》びを湛《たた》え、彼の唇のあいだに舌を差し入れてきた。その動作は淫《みだ》らというよりは、きわめて自然であり、健康な人間ならこうするはずという自信さえ感じられた。
一旦《いつたん》、小降りになった雨は、二時過ぎから、また軒を叩《たた》き始めた。気のせいか、雨滴が大粒なように感じられる。
熱いシャワーを浴びたあと、火照《ほて》った躯《からだ》を冷ますために、バスタオルを腰に巻いた彼は、玄関の戸を細くあけて、海を眺《なが》めた。浜辺には人影がなく、沖合は霞《かす》んで、正面にあるはずの江ノ島も見えなかった。
冷蔵庫には、コンビーフ、アスパラガス、鮭《さけ》などの缶詰に、ビールやインスタント・ラーメンの袋があったが、パンがなかった。食パンを買うためには、山を降りなければならず、そうすると、ずぶ濡れになってしまう。
「ご飯を炊《た》きましょうか」
と暎子が言ったが、彼は首を横にふった。あらわな拒否の意志に、暎子は驚いたようだった。密閉された、二人だけの空間に、生活の臭《にお》いが漂うのを、彼は嫌悪《けんお》した。
パジャマの上着だけを羽織って床《ゆか》に寝た暎子は、不意に、不自然な笑い声をあげた。
「どうした?」
ポケット・トランジスターで天気予報をきこうとした彼は、顔をあげた。
「今日、逗子で美人コンテストがあるはずなの。出るつもりできたのよ、私」
「コンテスト?」
「事務所の人が冗談のつもりで写真を送ったの。これでも候補になりまして……」
「どういうコンテストだ?」
「よく知らないけど、現代の美は昔とは規準がちがう、とかいう趣旨よ。新聞社の主催なの」
「ファニー・フェースってやつかね。あの言葉も、オードリー・ヘプバーンに使われたころからみると、下落したけどね」
「すみません」
「そういう意味で言ったわけじゃない。むしろ、きみには失礼なコンテストだろ」
「まあ、嬉《うれ》しい」
「どのみち、中止でしょうが、この降りじゃ」
「そうねえ」
彼女は考えに沈んだ。
「……友達がこられなかった、と、あなたが言う可能性は大きいと思ってたわ」
「まだ、信じないのか。本当なんだよ」
「でしょうね」
「本当だってば」
「どうでもいいでしょう、こうなったら」
彼は答えなかった。
「お友達がきたとして、みんなでコンテストへ行くことを予定してたのよ、あたくしとしては」
「きみの会社の人たちは、どうなってるんだ?」
「今日から三日間お休みで、全員、蓼科《たてしな》行き。ある作曲家の山荘を借りるの」
「いいのか、きみは……」
「私、団体行動が好きじゃないのよ」
彼女はしばらく沈黙していたが、
「でも、これでいいのかとは思うわ」
彼は答えなかった。下手な答えをすると、話が拗《こじ》れそうだ。
「心配しないでいいのよ。責任をとってくださいなんて、言いはしないから。それほど莫迦でもないわ」
さらに返事がしにくくなった。
「……そうね、あなたは心の負担が軽くなっているはずね」
「そんなことはない」
「そうよ。少くとも、ほっとしたはずよ」
半年まえに(と彼女は言ったのだが)別れた男の存在を彼女はベッドの中で口走っていた。それによって、辰夫の内心の〈負担が軽くなっ〉たのは事実だった。
事実だからこそ、彼はその辺りにこだわって欲しくなかった。いわれるまでもなく、想像できたことでもあった。にもかかわらず、それを喋らずにいられない奇妙な律儀《りちぎ》さには、なにかしら自分にあい通ずるものがあった。喋っておいて、〈幻滅感をあたえたにちがいない〉と悩むのは、自虐に近いのではないか。
「蒸してきた……」
彼は立ち上り、冷蔵庫から缶ビールを出してきた。
「飲まないか」
「うん」
暎子《えいこ》はわざと蓮《はす》っ葉《ぱ》な態度で缶ビールを手にした。
「あまり考え込まないほうがいいぜ、こんな気分の良い日に」
「気分がいい?」
「ああ」
辰夫はソファーにうずくまり、かたわらの小型扇風機のボタンを押した。扇風機は唸《うな》りを発し、首を左右に振り始める。
「まず、モーターボートの音がきこえないのが嬉しい。昨日は、ずっと、モーターボートがうるさかった。……つぎに、この雨だ。天の底が抜けたというか、まさに南の島の雨だね。これだけ降られると、いっそ、壮快じゃないか」
「私はビーチウエアを濡《ぬ》らされたわ」
暎子は缶ビールを辰夫にさし出して、
「それだけ?」
「きみがいる。それがいちばんの理由だ」
「ほんと?……」
と、信じきれぬように言った。
「自信がないわ。あなたが退屈しているような気がして」
「退屈?」
彼は意外だった。
「どうして?」
「なんとなく、よ。そんな風に思われてる気がして……」
「なぜ退屈するんだい。きみの話は面白《おもしろ》くて、退屈しようがないじゃないか」
「そうかしら」
声音が明るく響いた。こんなに極端に変化するものだろうか。
「ぼくのほうこそ、きみを退屈させてるんじゃないか」
と、彼は相手の不安を鎮《しず》めるために言った。
「話が、すぐ仕事に逸《そ》れてしまう。自分が疲れている、と言う。……何年かまえに、つき合ってた女の子に指摘されたことがある。二人だけで食事をする時に、疲れてる、なんて口にするのは、愛情を持っていない証拠だって」
「そんなものかなあ」
暎子は首をかしげた。
「逆じゃないかと思うわ、私は」
「……とにかく、そう言われた。二十代の初めだったから、ショックを受けた。いらい、女性との会話には自信を失っている」
「相手が悪かったのね。悪いというより性《しよう》が合わなかったんだわ、きっと」
起き上った彼女は、恥毛を見せる姿勢になっているのにも気づかずに、真剣に言った。
「あなたの話は面白過ぎるほどよ。ひとによっては、それを欠点と思うでしょうね」
いくぶん間の悪い思いとともに彼はソファーを離れ、彼女の手を握った。つきあげてくる性の衝動に抗することができず、ベッドに向って歩く彼は、もはや、何も考えられなくなっている。相手に身支度をさせるゆとりをあたえられぬまま、彼女のパジャマのボタンが弾《はじ》け、シングル・ベッドが激しく軋《きし》むのを意識する……。
「私を軽蔑してる?」
「よせよ、もう……」
「ねえ……どうなの?」
「するはずがないじゃないか。きみは自分を傷つける趣味があるのか」
「かも知れないわ」
「それじゃ、ぼくも考え直さなきゃならない」
「私、マゾかも知れない……」
「裸にして、鞭打《むちう》ちをしてやろうか」
「もう、なってるもの、裸には」
「心理的なマゾかね」
「ねえ、本当のところ、どうなの?」
「どう、って?」
「軽蔑していない?」
「その質問がおかしい。軽蔑している相手と、こんな風に閉じこもっているはずがないじゃないか」
「そうかしら」
「ちがうかい?」
「頭が悪いから、わかんないわ」
「きみは、ちっとも悪くないよ」
「ありがとう」
「こういう話はやめよう」
「短大しか出てないコンプレックスがあるのよ」
「自分で説明できるコンプレックスは、コンプレックスのうちに入らないそうだ。それに、放送関係なんて大学中退者ばかりで、なまじ卒業してるために少数派《マイノリテイー》になったりする」
「コンプレックスじゃないわ。屈辱感よ。屈辱の歴史だわ」
「激動の昭和史」
「また、茶化した」
「ごめん。ちゃんときいている」
「きいてるとは思えないわ」
「きいてるよ。屈辱の歴史だろ。ぼくを、アメリカでも有数の精神分析医と思って話したまえ」
「なんだか、不真面目《ふまじめ》な気がするわ」
「真面目だよ。きみをリラックスさせるために冗談を混《まじ》えている」
「……高一のときに、野球部のキャプテンに唇《くちびる》を奪われたの。そいつったら、煙草《たばこ》を吸いながら、にやにや笑ってた」
「それが最初のキスか」
「すごい屈辱だったわ。……屈辱ばかりなのよ」
「わかるよ」
「わからないわ、あなたには」
「きみは論理的矛盾を犯している。きみの喋《しやべ》ることがわからないと思う相手にきみは喋っているのだから。……まあ、落ちつきたまえ。ぼくは、なにをかくそう、フロイトの十三番目の弟子のヒューゴー・Z・ハッケンブッシュ博士だ。ぼくがみるところでは、きみの心の傷は、きみ自身が考えているほど、大きなものではない。たとえば、マリリン・モンローだ。彼女が九歳のとき、見知らぬ男に犯されかけた話は有名だろ。あれも、真相は、男性のものを少女の口にくわえさせようとしたのだそうだ。それいらい、彼女は吃《ども》りになってしまい、今日のモンローの自我の混乱のもとになった。……不謹慎な言い方だが、彼女こそ、ミス屈辱だ。残念だけど、きみはミス屈辱コンテストの予選にも入れないよ」
「また、冗談ね。いいわ。もっと、喋って……」
「……ちょっと、のどを噛《か》むのは勘弁してくれないか。たのむから……ほかのところにしてくれ」
「首を絞めるわよ」
「よせよ。きみはマゾのはずじゃないか。それとも、両方か」
「莫迦《ばか》だと思われてもいいわ。なんでも喋っちゃう」
「その方がいい。なんなら、そっちのソファーに寝たらどうだい? 精神分析医の患者は、たいてい、カウチに寝ているから」
「また、茶化すんだから」
「茶化してないよ。告白の気分が出るんじゃないか」
「……さっきも話したように、家にお金がなかったのよ。こういう話、嫌《きら》い?」
「嫌いじゃないよ」
「赤坂のホテルでクリスマスの飾りつけをするアルバイトがあったの。高三だったわ。……飾りつけがすんで、外人ばっかりのパーティーが始まったとき、私たちに紅茶とケーキが出たの。友達はケーキに夢中だったけど、私はパーティー会場の三階の回廊のすみから、踊りの輪を見おろしてたわ。お酒を飲んだわけじゃないのに、眼がくらくらして、それでも、とっても気持がいいのよ。良い匂《にお》いがして……」
「お父さんは会社をやめてたの?」
「脳溢血《のういつけつ》で寝たきりだったから。雑誌の編集者よ、もとは」
「ふーむ」
「私は雑誌の編集者になりたかったのよ」
「ならないでよかったよ」
「え?」
「これだけは冗談じゃない。中小出版社の雑誌だったら、かかわらない方がいい。きわめて非文化的な仕事だから」
「せっかく、憧《あこが》れてるのに」
「憧れているうちが花。となりの芝生は緑に見えるってやつ」
「シニックなのね」
「シニックになる余裕なんてないね。放送界の方が文化的なんじゃないかと思えるぐらいだ」
「それこそ、となりの芝生よ。ひどい世界なの。私なんて、本当に、人間扱いされてないんだもの。……だめだってば……だめ、そこ、ヨワいんだから……」
――あ、金井です。どうしたんですか?
――ひどい目にあってね。身体《からだ》を悪くしちゃった。
――海はどうでした?
――どうって、東京も雨だったろう。
――もしもし……この電話、なんだか遠いのですが。
――葉山も豪雨だった。
――彼女はきたんですか。
――こない。……面白くないから友達の別荘に転り込んだら、雨になった。ゆうべ遅く帰ってきた。
――いま、東京ですか?
――アパートの近くの公衆電話。ビールで腹を冷やしたらしい。今日一日、休みたいんだけど、大丈夫だろうか。
――大丈夫ですよ。明日は二号の発売日ですから、前野さんがいないと困りますがね。
――明日までには回復するよ。いま、注射を打ったので、ふらふらしている。
――大事にしてください。
――申しわけない。
辰夫《たつお》は古風な受話器を壁にかけた。葉山の電話は、いまだにハンドルをまわす形のもので、東京までは、局に申し込んでから、二、三十分もかかるのである。
充分に眠ったにもかかわらず、頭がずきずきした。外は曇天だが、蝉《せみ》が鳴き、海水浴客たちの叫ぶ声が響いている。海へ行く気は、二人ともなく、げんに暎子は毛布をかぶったまま深く寝入っている。
快く意識がかすみ、肉体の底部が疼《うず》くような脱力感が彼の全身をひたしている。夜になると、また、くぐもるような陶酔感に酔いしれるのだろうか。何もかもが忘れ去られ、数分のつもりが数時間になり、やがて、窓の外が白んでくる。……もう、自制しなければいけない。明日は、いくらなんでも、出社しなければ……。
暎子が眼覚める気配がないので、彼はひとりで山を降りた。空になった冷蔵庫に食料を補給しなければならなかった。
天候は回復に向っているらしく、雲の流れが速い。数羽の鳶《とび》が山側で舞っているのが彼には珍しかった。御用邸前のバス停で止ったバスから夥《おびただ》しい若者が吐き出され、釣道具を持った男たちが最後に出てきた。
〈皇室|御用達《ごようたし》〉と看板に書いてある肉屋の右どなりの薬局に入ろうとして、ためらった。べつに恥ずかしいことはない、と自分に言いきかせるのだが、にもかかわらず、うしろめたさが残る。
――大丈夫だと思うけど……。
夜中に暎子はそう答えた。
――思う、だけじゃ、あぶないぜ。
――大丈夫よ。
暎子は気怠《けだる》そうに答えた。
彼は信用しきれなかった。没入すると、女はどうでもよくなってしまうのではないか。
かねがね、辰夫は映画や小説で同衾《どうきん》する男女が、妊娠の恐れを抱くそぶりを見せないのを不審に思っていた。映画でいえば、ヌーヴェル・ヴァーグ以後、セックスの描写が大胆になったが、しかし、主人公たちが、どのように予防をしているかは、一向に明らかでない。だいたいにおいて、〈欲望の赴くがままに〉交り、しかも妊娠の気配もない。どうでもいいことかも知れないが、|きれいごと《ヽヽヽヽヽ》過ぎる気がする。おそらく、厳粛さが失われ、滑稽感《こつけいかん》をあたえるのを避けるためであろう。
しかしながら、性交にはおそろしく滑稽な側面があるのが事実だ。少くとも、辰夫はそう信じている。ここまで進展すると予想できなかったから、何も用意してこなかった。だから、彼は怯《おび》えながら彼女の中に入ってゆき、夢中になり、果てると直ちに怯えるのだ。
薬局に入ったが、どこに何があるのかわからない。とりあえず、ジレットの替え刃とシャンプーを求め、間《ま》がもたないので、必要のない蚊取線香まで買った。
「これだけですか」
主人がたずねた。
彼はスキンの箱を重ねたケースを見つけた。どれがいいか、とっさに判断できないので、横眼《よこめ》で値段表を眺《なが》めている。
複数の男女が入ってくる気配がした。これだ、これだ、と大きな声がしたので、主人は店先へ行ってしまった。
肩に軽く触れるものがある。
ふり向くと、一昨夜の娘が立っていた。それも、白のビキニ・スタイルである。陽灼《ひや》けした肌《はだ》がオイルで光っている。
「どうしたの?」
と娘は問いつめるように言った。
「きのう、キャンプ・ストアにきてくれなかったでしょ」
「雨だったじゃないか」
彼の声には力がなかった。
「雨が降ってもくるって言ったじゃない?」
「言ったかな、そんなこと……」
記憶がなかった。昨日どころか、十分前のことも怪しいほど、頭がぼんやりしている。
「東京に帰ったのかと思ってたわ」
「お茶でも飲もうか……」
他の学生たちにきこえないように低く言った。なるべく逆らいたくないのだ。
「喫茶店なんかないわよ」
「このとなりにあるだろ」
「食堂よ、そこは」
「いいじゃないか。すぐ行くから、先に行ってて」
娘は出て行った。
「よろしいですか」
主人が声をかけてくる。
「これ、ください」
ふと、眼についたので、ついでに買っておくか、といった口調で言った。
「こちら、ですか」
「ええ」
「黒ですよ。よろしいですか」
「え?」
「黒いスキンです。新製品でして……」
「いえ、ふつうのにしてください」
辰夫は慌《あわ》てた。
紙袋にまとめて貰《もら》って、薬局を出た。となりの食堂に入ると、風通しのいい窓ぎわで、カレンダー・ガールが、ふて腐った顔をしている。
「氷あずき、たのんだわ」
「ああ」
彼はあいまいな返事をした。
ふて腐っているとはいえ、相手の肢体《したい》は充分に魅力的であり、彼女自身、それを承知しているらしい。オイルを満遍なく塗ったために、文字通り、光り輝いている。
「ゆうべ、この先の別荘で大騒ぎしたのよ」
「……へえ」
「ゼスチャーをやってさ、下手な人は一枚ずつ脱いでいくの。もう、乱れちゃって……」
「ほう」
辰夫は脱俗の微笑を浮べている。若々しい肢体も、ストリップごっこも、超えてしまった表情だ。
店の女が注文をききにきた。
「チャーシューメン、できる? じゃ、それとシューマイ」
「暑くないの?」
娘は呆《あき》れ顔だ。
「きみ、ビール、飲まないか」
「駄目《だめ》よ、昼間は」
「じゃ、よそう。ぼくも、眠くなるといけない」
「変なの!」
「キャンプ・ストアは忙しいかい」
と、彼はおもむろにたずねる。
「前野さん、おととい、酔ってた?」
「いや」
「私、酔ってたわよね」
「ああ。シトロエン、置いてきちゃったじゃないか」
「本当に覚えてないの? 私が帰るって言ったら、いいだろう、いいだろうって、漁船のかげで押えつけたのを?」
「覚えてるよ、それは」
「とにかく、明日、また会いましょうって言ったら、必ずくる、雨が降っても、と言ったわ」
「それは比喩《ひゆ》だよ」
彼は落ちついている。
「ぼくがいるのは山の上だからね。雨が降ると、殆《ほとん》ど外に出られない」
「変だわ」
娘は首をかしげた。
「別な人みたい」
娘をキャンプ・ストアまで送り、食料を買いととのえて戻《もど》るのに、一時間半ほどを要した。
長い石段の上の家に戻ると、部屋の中が片づけられ、二つのベッドは元通りに引き離してあった。テーブルの上には、放送局の便箋《びんせん》が残されていた。
――夕方までに放送局へ行かなければならないので帰京します。風変りな女の子のご感想はいかがですか?
E・I
それだけだった。
大切にしていたなにかが、不意に翔《と》び去ったような衝撃を、辰夫は受けた。
「パズラー」の二号が書店の店頭にならんだのは七月二十五日だが、数日後に、辰夫と金井は池袋・新宿・渋谷の主な書店を歩いて、売れ行きを調べた。銀座・日本橋方面は、営業の青年が担当した。
これは決して楽な仕事ではない。書店の店員たちにとって一雑誌の入荷部数を調べて教えるのは、いわば余分な作業であり億劫《おつくう》がる者もいた。入荷部数を教えて貰った辰夫は、つぎに、何部売れたか(何部残っているか)を調べなければならない。店頭に三冊しか残っていないからといって喜ぶわけにはいかない。店員に問い合せると、店のどこかに十冊ぐらい残っていたりする。がっかりする一方、店員には「お手数をかけてすみません」と必ず詫《わ》びなければならない。歩きまわるのは平気だが、店員に気をつかうので疲れるのだった。
新宿の紀伊国屋《きのくにや》書店に辿《たど》りついたとき、辰夫は入口|脇《わき》のベンチに腰をおろしてしまった。
「少し休もうよ」
と、彼は金井に声をかけた。
「ここを片づけてしまいましょう」
金井はいたって元気である。
「前野さん、顔色が悪いな。じゃ、ぼくがひとりで調べてきます」
「悪いな」
辰夫はすまなそうに言う。
肉体よりも精神が参っていた。二号目の売れ行きは創刊号よりも悪いのである。
――東京で悪いということは、だな。地方では、もっと、ずっと悪い可能性が大きい。
黒崎《くろさき》の声がきこえるようである。三号目で辞任するつもりとはいえ、やはり、応《こた》えるのだった。
辰夫も、金井も、目先のことに追われて気づかなかったのだが、この時、新宿の紀伊国屋は大きく変貌《へんぼう》する直前だったのである。――辰夫の背後にある|木造二階建て《ヽヽヽヽヽヽ》の店舗は、敗戦直後の昭和二十二年五月に建てられたものであるが、戦後出版文化の象徴ともいうべきこの店が、やがて取りこわされることは決定していた。
辰夫が悩んでいる現在は八月初めであるが、九月十日、紀伊国屋書店は、裏側の仮営業所(現在、アドホックビルがある場所)に移転する。そして、十二月七日、旧店舗を取りこわし始めるのである。地上九階の紀伊国屋本社ビルが完成するのは、三年後の昭和三十九年である。
変貌しつつあるのは紀伊国屋書店だけではなかった。東京じゅうの道路、建物が、原形をとどめぬまでに、変りつつあった。辰夫が気づかなかったのは、仕事と私生活の混乱の中にいたためと、あまりに身近過ぎて、かえって見えにくかったためである。
「まあまあ、ですよ」
慰めるような笑いを見せながら、金井が出てきた。
「どこかで休みますか」
「ここの喫茶室は文化人が多くて閉口だ」
辰夫は立ち上り、一つ裏の通りの喫茶店に足を向けた。
冷房のきいている店内に入ると、ほっとした。
「大丈夫ですか?」
「まあ、なんとか……」
辰夫は数字に眼を向けた。
「まずまず、だけど、紀伊国屋でこれじゃ困るな」
「仕方ないですよ。二号目はどうしても落ちるんです。勝負はこれからです」
「ぼくもそう思いたい。しかし、短期決戦だからな、この雑誌は」
メモ用紙をテーブルに置いて、アイス・ティーを注文した。
「また、社内での風当りが強くなるだろうなあ」
「……前野さんはずいぶん好意を持たれるようになったのですがね。まえは、あなたが、あまりにも、苛々《いらいら》してたから」
「……そうかね?」
「そうですとも。すぐ、かっとなったでしょう」
「いまは、ちがう?」
「ソフトになりました、いくらか」
「そんなものかな」
彼は嘆息した。
自分の苛立ちは、性的な不満にもとづいていたのではないか、と、今にして思うのである。そうした欲求不満を、仕事の世界に持ち込んだとすれば――たぶん、そうだと思うのだが――大いに反省しなければならない。
「例の、女の子と海へ行く件は、どうなりました?」
「あのままさ」
辰夫は嘘《うそ》をついた。あれから一週間たつが、暎子《えいこ》も彼も夜中まで忙しくて、電話で話すだけだった。
「どういうひとですか」
金井の眼は好奇心に充ちている。
「べつに……ふつうさ」
「結婚まで行きそうですか」
「え?」
辰夫は相手の眼を見た。
「どうして?」
「いえ、なんとなく……」
「知り合ったばかりだよ、まだ」
「へえ」
金井はあまり信用していない顔で、
「結婚するなら、金持ちの娘がいいですよ」
「いやだよ、金持ちの娘なんて!」
ふり払うように辰夫は言った。
「ぼくの趣味じゃない」
「趣味とか好みじゃないです」と、金井は奇妙な自信を秘めた声で言う。「苦い体験から出た言葉ですよ、前野さん」
――Yeh, yeh, my heart's in a whirl
I love I love I love my little calendar girl
Everyday, everyday of the year
氷が溶けたアイス・ティーのグラスを眺める辰夫《たつお》の耳に、ニール・セダカの歌声がきこえてくる。ヒットチャートの上位の曲だから、どこの喫茶店にいても、きこえてくるのに不思議はない。
……それから、わずかな時間、まどろんだらしい。気がつくと、店内に流れているのはオスカー・ピータースン・トリオの演奏らしかった。絶対に、とはいえないが、十中八九、オスカー・ピータースン・トリオだ。
耳もとで男が囁《ささや》きかける声がした。
「はっ……」
辰夫は居住いを正した。金井は会社に戻っているはずだし……。
黒っぽいスーツを着た、ダンディともいえる初老の紳士が横の椅子《いす》にいた。頭髪はほぼ銀髪で、この暑いのに、グレイのネクタイを締めている。
「失礼ですが……前野辰夫さんではありませんか」
「はい」
辰夫は何事かと思った。
「たったいま、紀伊国屋で、『パズラー』を買ったところで。……表紙の裏にサインしていただけますか?」
「は、はい」
「息子がこの雑誌のファンでして」
「お名前は?」
彼は胸のボールペンを抜いた。
「大塚《おおつか》ハジメです。ハジメは一という字で」
「わかりました」
表紙裏のウイスキーの広告の脇に、大塚一の名を記し、前野辰夫とサインしてから、はっと気づいた。
「あの――むかし、『想望』の編集をやってらした大塚公一さんでは?」
相手の白い顔が、一瞬、硬くなった。
間違いない、と辰夫は確信した。敗戦直後に無数に発刊された文芸雑誌の中で、志の高さと編集のうまさで抜群と評価されたのが、「想望」であり、大塚公一編集長であった。白鳥、荷風の短篇《たんぺん》から、若くは太宰治《だざいおさむ》、ときとして坂口安吾《さかぐちあんご》の探偵《たんてい》小説まで、のせた。……他誌が潰《つぶ》れたあとまで生き残り、昭和二十五、六年まで、つづいたはずである。
「ある時期、そんなこともやっていました」
大塚公一は重い口調で言った。
「……前野さん、どうしてご存じなのですか? まだ、お若いのに」
「『想望』が評判になっていたのは、ぼくの中学時代です。実物を手にしたのは、大学の図書館ででした。『想望』は、もう潰れてました」
「なるほど」
「大塚さんに向って、こんなことを言うのは僣越《せんえつ》ですが、大変なお仕事だったと思います。現在、大家とか中堅と見られる作家の初期の作品は、『想望』にのったのが多いでしょう。つまり、新人の将来性を見抜く能力が、凄《すご》かったのですね」
「勝ち馬を見抜くのは、そこそこ、いけました」
蒼白《あおじろ》い顔が、初めて弛《ゆる》んだ。
「しかし、潰れてしまった雑誌を褒《ほ》められても仕方がないのです。……気を悪くしないでください、あなたに言ってるんじゃない。世の有識者に対して、時として腹を立てるのです。おとなげない話ですが」
大塚公一はコーヒーを注文した。
「あの……いまも、やはり、出版のほうを?」
「失礼。名刺を出すのを忘れてた」
大塚は黒革の名刺入れから名刺を抜きとって、辰夫に渡した。肩書は、関西のラジオ局の東京支社・営業部とあるだけだった。「想望」が消えて間もなく、出版社そのものが倒産していた。だが、大塚公一の名は、そのまま消えてしまうほど、弱いものではなかった。にもかかわらず、彼が出版界から姿を消したのは、当人の強い意志によると考えるほかない。
「やくざ稼業《かぎよう》という点では、雑誌も放送も、同じですな」
相手はつまらなそうに言う。
「サインをありがとうございました」
「大塚さん……」
と、辰夫は思いつめた声を出した。
「は?」
「その雑誌、目次だけでも眺《なが》めていただけましたか」
「少し読みました」
「創刊号は、どうでしたか」
「拝見しております。高校生の息子が買ってきたのです」
「大塚さんが編集しておられた雑誌とは種類がまったく違うので、ご興味が薄いと思いますが、もし、できましたら――批評といいますか、ご意見を、うかがわせてくださいませんか」
「意見なんて、とんでもないことです。無責任な感想ならば、ございますが……」
辰夫は相手を見つめたまま、手帖《てちよう》をとり出した。
「なんでも、けっこうです。おっしゃってください」
「私が読んでいたのは、ここですがね」
大塚は雑誌の真中をひらいて、
「〈'61 サマー・レジャーのすべて〉という特集ですね。正直に言って、はじめは面喰《めんくら》いました。かりにも推理小説の雑誌ですからね。……しかし、狙《ねら》いは、わかりました。モーターボート、水上スキー、ヨット、スキン・ダイヴィング、スピヤー・ハンティング、リゾートでのファッション、トロピカル音楽、とあって、とくにモーターボートとスキン・ダイヴィングが異常にくわしい。プラスチック製ボートをメーカー別に調べたり、スキン・ダイヴィングの道具や場所がこまかく記されていて、うちの息子が喜ぶのが納得できました」
「そうでしょうか」
「私どもの若いころはHow to liveですな――人生いかに生くべきか、が問題だった。しかし、あなたが、というか、あなたの雑誌が提起しているのは、How to play――いかに遊ぶべきか、だと思うのです」
辰夫は愕然《がくぜん》とした。彼の編集のポイントを、これほど、短い言葉で適確に指摘した人は初めてだった。
「そのポリシーは、ファッションやモダンジャズの頁《ページ》にまで一貫しています。つまり、雑誌そのものがレジャー化しようとしているのです」
「ちょっと、待ってください。ぼくはそれだけを意図しているのでは……」
「そうは思っていません。編集後記を読んでますからね、私は。あなたは、レジャーをたのしむのと程遠い人間です。そんなことは、こうやって話していればわかることです。――ただ、ジャーナリスティックな感度が良過ぎるから、ご自分がお好きでもないスポーツを特集してしまう。そういう先取り感覚も、よくわかります。雑誌の編集なんて、それで良いのです。……ぱらぱらっと見ましてね。こう言っては|なん《ヽヽ》ですが、内容も感覚も充分です」
「ほんとですか!」
「喜ぶのは、少々早いです。内容、現代感覚、ともに優れていても、それだけでは雑誌は売れません。買ってくれるのは一部の玄人《くろうと》ではなく、大衆ですからね。……はっきりいえば、これでは鋭過ぎて、大衆がついていけません。一歩踏み間違うと、編集者の自己満足に終ってしまいます」
「わかります」
「たしかに、水上スキーやスキン・ダイヴィングを求める大衆は存在するでしょう。しかし、それは近未来の大衆です。一九六一年の日本の大衆は、まだ、そこまで行っていないのです」
「そうかなあ」
「そうですよ。私があなたなら、自分のやりたいことを、六、七十パーセントに抑えます。もう少し鋭さをなくします。そうしたほうが、今の世の中の波長に合う、と、私は思います」
「はあ……」
「私は雑誌を売るための方法を話しているのですよ。紀伊国屋《きのくにや》の売り場で見たかぎりでは、これはそう売れていませんから……。雑誌は売れなければ話になりません。売れなかったけど良い雑誌だった、なんてのは敗者の繰り言です。私自身、〈良心的だけど売れない〉といわれた雑誌で苦しみ抜きましたからね」
辰夫は深く頷《うなず》いた。
「雑誌が消え失《う》せて、名編集者という架空のバッジを貰《もら》うのは、私にとっては屈辱的なことです。十年たって、いまだに〈『想望』の大塚さん〉と言われるのは、私の気質からすると不愉快です。……ラジオの仕事は、すべてが数字で出るから、そのぶん、快適ですよ。まあ、私は、編集者になったのが間違いだったのでしょうな」
そう言って、大塚は立ち上った。
「失敬なことを口にしたとしたら、お許しください。あなたは仕事に没入し過ぎそうなタイプなので、少々、水をかけたきらいがあります。……お元気で」
伝説上の人物が出て行ったあと、辰夫は、しばらく、椅子から動けなかった。自分より腕のたつ人物に初めて出会った、と、彼は吐息を漏らした。
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第七章 夢の砦《とりで》
「よろしいですか」
辰夫は戸口に立ったままで念を押した。
おもむろに顔をあげた黒崎《くろさき》の眼《め》にかすかな狼狽《ろうばい》の翳《かげ》があった。辰夫の語調に只《ただ》ならぬ気配を感じたのだろう。
「いいよ」
と、黒崎は動揺を抑えながら答える。
「みんな、昼食に出ている……」
だからこそ、辰夫はきたのだ。
「まあ、そこにすわりたまえ」
辰夫は黒崎の正面の椅子にかけた。
「どうした? なにか、あったのか?」
「会社をやめようと思うのです」
いきなり、そう言った。
煙草《たばこ》をくわえかけた黒崎は、唇《くちびる》をひらいた。煙草が床に落ちたのにも気づかぬようだった。
「どういうことだ、それは……」
「やめたいのです。それだけのことです」
「ちょっと待ちたまえ。なんだか、さっぱり、わからん」
「わからなくてもいいのです。ぼくは決心したのですから」
「決心したといっても、きみ……」
「二号目の売れ行きはガタ落ちです。正直にいって、がっくりきました。ですから……」
「まあ、ききなさい。きみはガタ落ちというが、本当の結果は、まだ、わかっておらんのだ」
「その言い方はないでしょう、黒崎さん」
と、辰夫は言った。
「いや、そうさ。返品がくるまで、本当のことはわからん」
「でも、創刊号より悪いのは確かでしょう」
「それは、当り前だ。二号目は創刊号よりも落ちるものと決っている。三号目以降で盛りかえせればいいのだから」
「ぼくが編集している限り、その可能性はありませんよ」
「そんな風に決めてしまってはいかん」
「いえ、そうです。――ある人に、ぼくの編集の欠点を指摘されました。その人は、やりたいことを六、七十パーセントに抑えろ、と、ぼくに言いました。自分が面白《おもしろ》がることは読者も面白がるはずと思っていたぼくにとって、ショックでしたし、痛い批判でした。その批判は正しいと思うのですけど、ぼくは、そういう、ほどほどのやり方っていうのが、できないのです」
「だれが何を言ったのか知らんが、聴く必要はないよ。今のきみのやり方でいい」
「そう言って頂けるのは嬉《うれ》しいのですが、これ以上、会社に迷惑をかけるのは、ぼくにとって耐えられません。睡眠薬がないと、寝つけないような精神状態です」
黒崎は眼鏡を外して、目蓋《まぶた》をこすった。
「そりゃ、良《よ》くないな。睡眠薬は、健康に良くない」
辰夫は答えない。彼なりに考え抜いた挙句《あげく》の結論を口にしたのだ。
「……きみの気持は、よく、わかった。しかし、わしの立場として、きみの申し出を受け入れるわけにはいかない。それどころか、きみを慰留する必要がある……」
眼鏡のレンズをハンカチで拭《ぬぐ》いながら、黒崎は呟《つぶや》くように言った。
「雑誌がスタートする前に、城戸《きど》先生が、売れなかったら、三号目で、きみを首にする、と、威《おど》かした。先生は、相手によって、ときどき、ああいうブラフを口にされるのだが、わしは、少々、どぎついように感じた。――きみは、あの言葉にこだわっているのではないか」
「それは、こだわりますよ。こだわらないわけがないでしょう」
「やっぱり、そうか」
「でも、それだけではありません。……素人《しろうと》が、と笑われるかも知れませんが、ぼくは、かなり、自信があったのです。盲蛇《めくらへび》におじず、ってやつです。――その自信が打ち砕かれたのが、やめたい、と思った理由です」
自尊心の問題、とまでは言い兼ねた。
「わかっとる、それは……」
黒崎は煙草をホルダーにさして、ライターで火をつけた。
「きみは会社に迷惑をかけると心配しとるようだが、出版社というのは妙なものでな。雑誌一つよりも、二つのほうが、|やりくり《ヽヽヽヽ》がし易《やす》い。――『パズラー』にしても、まるで売れなければ話は別だが、いまのところ、見通しは悪くない。城戸先生も、わしも、希望を持って見ておる。それに、なによりも良いのは、編集部に活気が出てきたことだ。これは大きな収穫だ。きみの――気を悪くしないでくれよ――きみのむちゃくちゃな性格がプラスに働いた。津田君以外の者は、みんな、やる気になっている。……迷惑|云々《うんぬん》をいえば、ここで、きみに仕事を放《ほう》り出されたほうが、われわれとしては迷惑するのだよ。きみにしても、ゼロから育ててきた雑誌を放り出したくはないだろう」
「それはそうです……」
「こんなものだよ、雑誌は。奇蹟《きせき》でも起らんかぎり、初めから順調にゆくはずはない。わしは、もっとひどい状態を想定しておった……」
「そうでしたか」
「それはそうさ。ずぶの素人に新しい雑誌を任せたのだもの。きみが売れ行きに神経質になるのは当然だが、わしはわしで、営業の力が弱いのを痛感しとる。責任は、きみだけにあるのではない。……どうかね? 元気を出してくれんか」
一般書店で売れ残った雑誌は、〈返品〉として、出版社に戻《もど》されてくる。文化社の一階奥には、昼間でも電灯をつけなければ何も見えない小さな倉庫があり、返品が山をなしていた。
月に何度か返品を処分する業者が訪れてくる。正式になんと呼ばれる職業かはわからないが、彼らの仕事は雑誌の表紙を剥《は》がし、中身を解体し、断裁することにある。背広姿で現れる主人はただちに作業衣に着がえ、数人の若者を指導しながら、倉庫の中でまる一日を解体に費すのである。
鎌《かま》のようなもので、創刊号の表紙が裂かれるのを、辰夫は呆然《ぼうぜん》と眺《なが》めていた。すでに断裁されたものは荒縄《あらなわ》で括《くく》られて倉庫の隅《すみ》に積み上げてある。それらは純然たる屑紙《くずがみ》として目方で換金され、断裁業者のトラックで運び去られるのだ。
こうした光景に馴《な》れなければいけないな、と辰夫は思った。半年間の苦労の結晶も、こんな有様だ。企画や原稿集めにどれほど苦労しようと、売れなければ、こうして処分されてゆく。
「前野さん……」
作業の手を休めた主人が声をかけてきた。
「なかなか好評じゃないですか、雑誌」
空々しい、と辰夫《たつお》は思った。かりに好評だったとしても、それだけでは仕方がない。売れない限りは、どうしようもないのである。出版が文化事業だなどと吐《ぬ》かすある種の文化人には、こういう光景を眺めさせてやればよいのだ。短い期間に勝負をする雑誌が売れないのは、まったく最悪なのである。〈売れない雑誌〉とは、鼠《ねずみ》をとらない猫《ねこ》――いや、猫はそれじたい価値がないわけではないから、この譬《たと》えは適切ではない。そう、たとえば、踊れないダンサー、といった矛盾した存在なのである。
「慰めて貰ってるみたいですね」
と、辰夫は答える。
「いや、お世辞じゃありません。あちこちの出版社でそう言ってます」
|一部の玄人《ヽヽヽヽヽ》という大塚公一《おおつかこういち》の言葉が脳裡《のうり》によみがえった。大塚は、|一部の玄人《ヽヽヽヽヽ》に持て栄《は》やされるのは危険だ、と暗に警告していたのだ。内輪で好評ではいかんのじゃないかな、と彼は思った。〈あんな妙なものを作りやがって〉とか、〈ああいう雑誌は理解できない〉といった悪評、反感が業界内で沸き起らないのは、かえって、まずいのではないか。売れるためには、反感が四割ぐらいは必要な気がした。そうなれば、なったで、また、辛《つら》い思いをするわけだが……。
「そういう気分に落ち込むのは、わかりますよ」
と、井田は、しきりに頷いた。
「参りましたね」
と呟いて、辰夫は女中に、料理の追加をたのんだ。日比谷《ひびや》に近い、ビルの地下にある中華料理屋で、珍しく、文化社の|つけ《ヽヽ》がきく店である。
「自信喪失ですよ」
彼は老酒《ラオチユー》を飲みながらつけ加えた。
井田に会うのは久しぶりだった。想《おも》っていたより屈折した人間であるのがわかったが、それだけ相談し易くもなった。いまのところ、仕事の上の苦しみを話して、アドヴァイスを貰えそうなのは、この男しかいないと彼は思っている。
井田は唇を歪《ゆが》めて、
「じつに、文化社らしくもありますな。つまり、赤字ではあっても、雑誌がよぶんに出ているほうが、自転車操業がやり易い。ずばりといえば、そういうことでしょう」
「そうです」
辰夫は認めざるを得ない。
「なにを悩んでいるのですか。――だって、会社が自転車操業のために新雑誌を出したことは、だれよりも、あなたが心得ているはずだ……」
「ええ」
「どうも、おかしいな」
と、井田は首をかしげて、
「新しい雑誌が、初めから、そう調子良くゆくものじゃない。そう思ってたとしたら、甘いですよ」
「そう思ってたんです」
辰夫はあえて言った。
「だから、がっくりきたんです」
「そりゃ、ずいぶん、正直な言い方ですな。相手がわたしだからいいけど、ほかの人に、そんな言い方をしちゃ駄目《だめ》ですよ。頭がおかしいと思われる……」
「おかしいんじゃないかな」
「自分で認めちゃいけない」
井田は笑いだした。
「疲れてるんだ、あなた。自信喪失したと、みずから言うわりには自信がある。ただ、たんに、疲れたのでしょう」
「疲れて、自信がなくなったのです」
「箱根辺りで、二、三日、休むといいのに」
「時間も金もありません」
「ボーナスは?」
「少し貰ったけど、夏服一着でパアです」
「少いのですなあ」
「雀《すずめ》の涙です。それでも、ぼくが、大学を出てから今までに貰ったボーナスの中ではいちばん多いのですよ」
「よほど、ひどい会社にいたのですねえ」
「小企業専門ですから」
「おかしな人だな、前野さんは……」
と、井田は呆《あき》れた様子で、
「あなたがやめたいと言い出した時、会社の人はびっくりしたでしょう」
「びっくりしてました」
「でも、あなたは嚇《おど》かすつもりじゃなかったのでしょう?」
「とんでもない。本気で、やめるつもりでした」
「でしょうな……」
井田はビールを飲んで、
「しかし、それは、かなり変った行為ですよ、世間一般からみれば」
「そうでしょうか」
辰夫はよくわからない。
「そうですとも。あなたのような立場の人が、自分から、やめたいなんて、ふつう言いませんよ」
「だって、成績が悪いのですから」
「そうだったとしても、やめるなんて言いませんよ」
「そうかな。……気が短かったかな」
「気が短いなんてものじゃない。飛躍があり過ぎます」
「そうでしょうか」
「創刊号は売れ行きが良かった。二号目も、まあまあってとこでしょう。その二号目が店頭に出て間もなく、やめたいなんて言えば、人はびっくりしますよ」
「ぼくは責任を感じているのです」
「それはわかってます。でも、まだ早いですよ。三号目、四号目の成績が出なきゃ、成功・不成功なんて、だれも口にできませんよ」
「でも、よく、三号雑誌っていうじゃありませんか」
「あれは、創刊号からして売れていない場合ですよ」
井田は笑いだした。
「この店は器《うつわ》がチャチなので損をしていますが、味はいいでしょう」
と、辰夫は前菜をすすめた。
「安い原稿料で、いろいろお願いしてるのですから、埋め合せをしないと……お好きなものを注文してください」
「じゃ、ウイスキーを貰うかな」
辰夫は床の間わきのブザーを押して、女中を呼んだ。
「文化社の人は、だいたいにおいて、あなたに好意的になったのじゃないですか」
「わかりませんよ、まだ」
「津田さんだけは、明らかに違いますがね。これは仕方がないですな、追われる立場だから」
「なにか、言ってましたか?」
辰夫は顔をあげた。
「このあいだ、虎《とら》ノ門《もん》のジャーマン・ベーカリーですれ違ったので、挨拶《あいさつ》したのです。そうしたら、例の、きこえるかきこえないぐらいの声で、こんな風に言うのですよ。――どうも、『パズラー』の売れ行きが香《かんば》しくなくてね、困ってるんだ……」
「へえ……」
辰夫は感情の爆発を抑えた。
「気にしないでください。津田さんの性格は、あなた、よくご存じのはずだから、つい、喋《しやべ》ってしまったのですが」
「気にしてませんよ」
そう答えたが、辰夫の心は穏かではない。
嘘《うそ》なら、そう神経には障らなかったろう。遺憾ながら、〈売れ行きが香しくない〉のは本当であった。だから、正面きって津田に抗議するわけにはいかないのだ。自分のなかで、津田への反感が、よりいっそう捩《よ》じれてゆくのが、自分でも、はっきりわかった。
「なにを考えているの?」
暗がりで暎子《えいこ》の声がした。
「なにも……」
けむりを吐き出しながら辰夫は眼《め》を細める。
「こわい顔してるみたい」
彼は大きく息を吸い込んだ。短くなった煙草《たばこ》を枕元《まくらもと》の灰皿《はいざら》で揉《も》み消す。
「幸せじゃないの?」
「さあ……」
辰夫の語調は奇妙に閉鎖的である。
自分の悩みを他人に打ち明けるのを彼は好まなかった。信用している井田にさえ、すべてを話しているわけではないのだ。他人への警戒心からというより、それは過剰な自尊心のためであった。自分が苦しんでいる事実を、他人に気づかれる想像をしただけで、耐えられなかった。
「後悔しているんじゃない?」
「後悔?」
辰夫は意外に感じた。
「ちがうの?」
「まったく、ちがうね」
女の発想は理解できない、と思った。いったい、なにを後悔するというのか。
「だって、黙っているから……」
「殺してやりたい奴《やつ》がいる」
彼は押し殺した声で言った。
「まあ、こわい」
「でも……そうもいかないしな」
彼は右手で煙草の袋をさがした。指が畳に触れ、袋はなかった。
電気スタンドを指でさがし、紐《ひも》を引いた。桃色の安っぽいシェードを通す光が、袋のありかを照し出した。
煙草は残っていなかった。間の悪い時はこんなものだ。
「あら、ここ、動くわ」
砂ずりの壁の下の、一見、ふつうの板が横にスライドする。あらわれたのは横長の鏡で、暎子の陽灼《ひや》けした躯《からだ》が映っていた。
「私、きれい?」
鏡に向って横になったまま、暎子がたずねた。
「ああ」
と彼は答える。
彼女はなおも鏡の中の裸身に見入っていた。
昼休みに、新橋の外れのこのような旅館で逢《あ》うことに辰夫は抵抗があった。だが、暎子は次の休日までまったく時間が空いていず、辰夫は時間も金もなかった。
お互いに夢をこわさないために休日まで待とう、と言うつもりだったのが、喫茶店で話しているうちに、彼のなかで欲望がふくれあがり、なにかに憑《つ》かれたように、「二人きりになれるところに行こう」と口走ったのだ。暎子は大きな眼で、せつなそうに彼を見つめ、かんかん照りの街路に出た……。
「あなたがわからないわ……」
暎子はそう言ってスタンドの紐を引いた。闇《やみ》が戻ってきた。
「わからない?」
「うん、わからないのよ」
「どういうところが?」
彼は興味なさそうに言った。
「いたって単純だと思うけどね、おれは」
「そういうことじゃないのよ」
「じゃ、どういうことだ?」
「目的よ」
「目的……」
「なにを目指しているか、よ。私みたいにシンプルじゃないわ」
「シンプルかね、きみは」
「シンプルよ。ごくふつうの放送ライターになれれば満足なのですもの」
「そういう言い方をすれば、ぼくだってシンプルだ。雑誌が売れればいいのさ」
「夢のないおっしゃり方」
「そうかね?」
「だって、もっと、いろいろ、あるでしょう? 良い雑誌を作りたいとか」
「良い雑誌は、げんに作っているもの。あれ以上、内容を良くするのは不可能だ」
「呆れた自信ね」
「だって、本当だもの。あとは泥臭《どろくさ》い部分を洗練させるだけでね。……問題は、一般大衆、ピープルに売りつけることだ。そこが、どうも、むずかしい」
「そこを突破したら?」
「え……」
「雑誌を売ることで頭を痛めているのでしょう。もし、それが成功したら?……」
辰夫はしばらく言葉を探していたが、
「……そんな先のことは考えてないな」
と、ためらいがちに答えた。
「先のこと、かしら?」
「だろうな」
「案外、早いかも知れないわね」
彼女の声は暗い響きを帯びた。
「どうして?」
「なんとなく、よ。私の勘も莫迦《ばか》にできないのよ」
「莫迦にしてやしない。でも、この件に関しては、たぶん、外れだぜ」
「そうだといいわ」
「え?」
「あなたが成功すると、逢えなくなると思うから」
彼は答えなかった。枕にあごをのせたまま、沈黙していた。
男に対する誤解と錯覚の連続にもかかわらず、要点の把握《はあく》は適確だ、と彼はおそれを感じた。状況に絶望したときや、激しく傷つけられたとき、彼は彼女に逢いたい渇きを覚えた。彼女を抱くことによってのみ、安堵《あんど》を得られる気がしたのだ。
「殆《ほとん》どあり得ない状況を仮定しての話にはついていけない」
と彼はようやく口を開いた。
「どうして? 男の人は、ワンステップずつ、将来を考えていくのじゃないの?」
闇の中で暎子が自分を見つめているのが感じられた。
「オトコノヒトという括《くく》り方に無理がある。少くとも、ぼくには当てはまらないよ。はみ出した人間なんだから」
「でも……」
「まあ、きけよ。ぼくは、自分の人生を綿密に計算して、抜け目なく、布石をしてゆくタイプじゃない。長期の展望がない、というか、立てられないのだ。――具体的にいうと、明日のことしか考えられない。明後日のこととなると、あまり興味がないんだな」
「ほんとう?」
「……だから、とりあえず、雑誌を売るべく努力している。新聞や週刊誌の記者にも、そのためなら、頭をさげ、一行でも記事にして貰《もら》うようにしている。もう、なりふり構わず、なんでもやるつもりだ。そのまた先に、自分がなにをやるかなんて考えてるゆとりは、ありゃしない」
暎子は溜息《ためいき》をついた。
「やっぱり、夢がない話だったわ」
「そうかな。そうでもないと思うのだが……」
「だって、それじゃ、たんなる商業主義じゃないの」
「そりゃそうだ。しかし、どんな理想を掲げたって、売れなけりゃ、ひとが相手にしてくれない。……商業主義でもなんでもいい、まず売れ行きを軌道にのせる。それからだよ、やりたいことをやるのは」
「私がききたかったのは、それ」
彼女の躯が彼の脇《わき》に密着してきた。
「あなたは、そういう野心を秘めていると思ってたわ」
「野心というほどでもないだろう」
彼は相手の乳首を唇《くちびる》ではさみ、舌の先で愛撫《あいぶ》した。
「左右の大きさが違うような気がするんだけど……」
「よしてよ」
「舌のつけ根が痛い。さっき、きみがあまり強く吸ったせいだぜ」
「よしましょうよ。あなたの夢をききたいの」
「|こんなところ《ヽヽヽヽヽヽ》で話したくない」
「|こんなところ《ヽヽヽヽヽヽ》に連れてきたのが悪いのよ」
「待ってくれよ。いま何時だい?」
「ええと……三時十分まえ」
「冗談じゃない。三時から会議だ。ぼくは、たぶん、吊《つる》し上げられるんだ」
「大丈夫よ、少しぐらい遅れたって」
暎子はふてぶてしく言った。
「でも、よかった。よそで、あなたの雑誌が潰《つぶ》れそうだってきいて、心配してたの」
辰夫《たつお》は眼を見開いた。
「どこで、きいた?」
「はっきり覚えてないわ」
「想《おも》い出してくれよ。どこで、だれが言ってたのか」
彼は固執した。社の外部の人間のほうが正確な情報を掴《つか》んでいる場合が多いのだ。
「……虎ノ門の中華料理屋。暗くて狭いところがあるでしょう。隅《すみ》でハンコなんか売ってる……」
「晩翠軒《ばんすいけん》かな」
「そうそう。――あそこでお昼を食べてたら、となりで話してたの」
会議は、いつになく退屈だった。
黒崎《くろさき》の報告では、「パズラー」第二号の売れ行きは楽観を許さず、皮肉にも「黒猫《くろねこ》」が、わずかではあるが、上昇したという。
辰夫が辞意を表明したせいか、黒崎は、「パズラー」について、それ以上は触れなかった。ゴム仮面は、腕組みをして、考えに耽《ふけ》るポーズをとりながら、居眠りをしている。
メモをとる姿勢を作りながら、辰夫は、さきほどの暎子との会話を頭の中でつづけ始めた。
――ぼくの夢なら、初めから話さなければならない。
――聴いてるわ。
――大学生のころ、ぼくは、人間不信でノイローゼになっていた。親父《おやじ》の死によるショックと、親父の弟妹たちの背信行為のためだ。
――よくある話ね。
――ぼくのノイローゼは長かった。治療法の一つとして、ぼくは大学の図書館にこもったまま、人間性に関する本を読みつづけた。嗤《わら》うなよ。とくに、フランスのモラリストの書いたものだ。
――モラリスト?
――間違えるな。モラルを説く人じゃないぜ。人間性の探究家、研究家だ。……だれの本だか、もう忘れてしまったが、〈オネットム〉という言葉があった。辞書をひくと、〈誠実な人、正直者、紳士〉などとある。つまり、人間の醜悪さ、滑稽《こつけい》さ、愚かしさなどを観察しつくしたモラリストが、理想としてあげる人間像だ。ぼく流にいえば、人間のあらゆる欠点を知り尽した上で、なおかつ、自他に誠実であり得る人間。この上なくきびしい人間批評の眼を持ちながら、それでもなお、他人にやさしくなり得る人間。――そんなところだ。ぼくは〈|本当の紳士《オネツトム》〉という文字を見ているだけで、涙が滲《にじ》んできたのを記憶している……。
――でも、そんな人が現実にいるのかしら?
――いると思う。ごく少数ではあるけどね。きみは嗤うにちがいないが、ぼく自身、そういう人になろうと思った。そういう、天によって選ばれた人間だけが住む小さな村を、東京の郊外に作れたら、と本気で考えた。――これがぼくの夢だった。
――大した夢ね。
――大学を出ると同時に、こんな甘い考えは砕け散った。……いま、見ている夢は別なものだ。これも、たぶん、甘いにちがいないけれど、ぼくは本気なのだ。
――それが聴きたかったの。
――ヒュー・ヘフナー神話ってやつを知っているだろ。シカゴのアパートの一室で「プレイボーイ」という雑誌を作った白面の青年が大成功した。いまや、自分の出版社を持ち、ヌードのカレンダーを大量販売し、ナイトクラブを持っている。
――なにかで読んだわ。アメリカの夢。
――ぼくの構想は、ヘフナーとはまったくちがうけど、雑誌から出発するところは似ている。いや、明らかにヘフナーの行動にヒントを得ている。……「パズラー」を完全に成功させてから、ぼくはスポンサーを探して自分の雑誌を作る。アパートの一室から出発すればいいのだ。
――スポンサーが見つかるかしら?
――「パズラー」が成功すれば、なんとかなると思う。
――それで?
――まず、理想の雑誌を作る。基本的には、いまの「パズラー」から推理小説を消したものと思ってくれればよい。ぼくらの世代の作家の小説三つぐらいと詩が重要な構成要素になる。これは精選しなければならない。それから評論とユーモア・エッセイが必要だ。もちろん、外国の短篇《たんぺん》小説やエッセイ、パロディの良いものが見つかれば、その都度、翻訳権をとって、邦訳する。
――まさに理想ね。
――雑誌は一つの母体だ。ぼくの狙《ねら》いは、同世代の作家、詩人、評論家、映画監督、テレビプロデューサーが自由な発言をなし得る文化圏を作ることにある。大新聞や既成の総合雑誌がたよりにならないことは、去年の安保闘争で、いやというほど、わかったからね。おそらく、総合雑誌はこれから衰退の一途を辿《たど》ると思う。
――わりに硬い雑誌になるのね。
――おれが硬い雑誌を作ると思うのか。基本的には遊びの精神よ。ことと次第では、硬派にもなるがね。使い分けた方が、読者にショックをあたえて、効果的でもある。
――エリート集団にならないかしら。
――その危険性はある。……そこがプロデューサーたるおれの腕の見せどころでね。アカデミック・フールは排除する。それから反動的文化人もごめんこうむる。保守はいいが、反動は困る。なにしろ、自由な発言のための、ささやかな砦《とりで》を作ろうというのだからね。
――でも、大変だわ。
――いまのうちにビジネス面のプロを探しておく必要がある。営業、経理のプロが、どうしても要るからね。……ぼくの構想では、映画の製作まで予定されている。企業を追い出された同世代の映画監督たちをバックアップしたいんだ。
――才能のある人だけが、あなたの文化圏で自由にふるまえるのね。
――まあね。それは、仕方ないだろう。
――……けっこうな話だわ。でも、あなたの夢の世界で、私はどこにいたらいいの? 私のいる場所はないんじゃない?
辰夫の夢想は、現代の読者の眼《め》に、あるいは誇大|妄想《もうそう》とうつるかも知れない。奇矯《ききよう》な人間であることは否定できないにせよ、彼が誇大妄想狂でないことを理解して貰《もら》うためには、少々、時代の空気を説明する必要があろう。
――大ざっぱにいえば、それは、二十代の人間のエネルギーが世の中の仕組を変え得ると信じられていた時代であった。一人の若い映画監督が会社を不当解雇されたことに対して、同世代の批評家が編集していた映画評論誌が過剰なまでの抗議キャンペーンをおこなっても奇異に見られなかった。また、若者にもっとも人気があった別の映画会社では、企画者、主演者がいずれも二十代半ばであり、批評する側もほぼ同じ歳《とし》ごろで、意図的に掩護《えんご》射撃をおこなった。決して幸せでも、豊かでもなかったが、戦後の解放的な空気がまだいくらかは残っていた。
微細に見れば、こうした〈若さのエネルギー神話〉は、前年の六〇年安保の敗北によって崩れていたはずである。編集者、映画関係者、作家といった、敗北の現場に立ち合った若い人々は、少年時代に吹き込まれたデモクラシーの夢が消えてゆくのを、いやでも確認したにちがいない。
辰夫がいまだに壮大な夢を抱いているのは、いささか季節外れの感があるのだが、これはおそらく、〈六〇年安保〉の意味について深く考えなかったせいであろう。政治的敗北は認めたにせよ、自分のエネルギーによって変革できることはいくらでもある、と信じて疑わぬ様子である。もう一年早く、編集者になっていれば、彼は、好むと好まざるとにかかわらず、味方と信じていた人々の転向、裏切りのドラマを目撃して、たじろいだはずなのだが、現実には、寄せ集めのデモ隊の末端にいたに過ぎなかったので、眼先のきく同時代者がそろそろ衣替えを始めているのにも気づかずに、自分の夢の育成に余念がないのであった……。
城戸草平《きどそうへい》が遅れて出席したこともあって、会議は七時まで続いた。それからビールと酒と食事が出されたので、一同が外に出たのは、八時過ぎだった。
「金井君、時間があるかい」
と辰夫は小声できいた。
「すみません。十時に画家と会う約束があるんです」
「じゃ、またにしよう。急ぐことじゃないから」
「ぼくも前野さんと話したいのですが……」
「明日にしようや」
辰夫は片手をあげて、新橋駅に向って歩きだした。
小料理屋がならぶ路地に入る。酒飲みにとっては、まだ宵《よい》の口らしく、大きな声があけ放した戸口から溢《あふ》れ、よろけ出てくる奴《やつ》がいる。店ごとにある換気扇が、路地に煙を吐き出している。
だれかが同じ速度でつけてくる、と感じた。靴音《くつおと》がきこえるのだから、つけられているのではないかも知れないが、そういう感じなのだ。
辰夫はふり向いた。
ゴム仮面が立ちどまり、かすかに笑って、
「急ぐの?」
と、さりげなく、辰夫にきいた。
「は、まあ……」
「たまには付き合うものだよ」
ゴム仮面は、柔らかく諭《さと》すように言った。
新宿駅前でタクシーをおりた二人は、武蔵《むさし》野館《のかん》側に渡ろうとした。
「ちかごろのタクシーは道を知らなくてねえ。店の前につけられんのだ」
陰気な声でゴム仮面は呟《つぶや》いている。
「行きつけの店が三軒あるが……うむ、電話をしてみよう」
駅前の赤電話に近づいたゴム仮面は、手帖《てちよう》を出し、ダイアルをまわした。
「……『こけし』に空席がある。きみ、『こけし』へ行ったことがある?」
「いえ」
「よろしい」
その店は、歩いて、三分ほどの距離にあった。電話をかけるほどでもないのに、と辰夫は思う。
奥に向ってのびたカウンターには、編集者らしい中年の男どもがならんでいた。
「よう……」
声をかけてくるのに対して、ゴム仮面は答えず、割烹着《かつぽうぎ》姿のおかみに、
「いいかい?」
と階段を指さした。
「どうぞ……」
おかみは無愛想に応じる。
狭い、急な階段を、ゴム仮面は慣れた足取りで登ってゆく。辰夫は靴を脱いで、ゆっくり、あとを追った。
粗末な床の間がついた六畳のテーブルは、少しまえまで客がいたらしく汚れている。ゴム仮面は、顔を出したおかみに、「拭《ふ》いてくれないか」と言った。「ビールと、いつものやつだ」
「御作りはどうしましょう」
「適当に持ってきてくれ」
ゴム仮面はつまらなそうに言う。
ビールと枝豆はすぐにきた。
「お注《つ》ぎしましょう」
この野郎、と思いながらも、辰夫は気が弱くなってしまう。
「お疲れさま。今日の会議は参ったな」
ゴム仮面は苦笑した。
「は?」
「いや、眠くてさ」
「そうでしたか」
「おい、そんなに警戒するなよ。――と言っても無理か……」
ゴム仮面が剥《は》がれかけたようだった。
「どうだい。ぐっといかないか」
「ビールは弱いんです。腹が張ってしまうので」
「こんなもの、きみ、水と同じだよ」
津田は唇をへの字にして、
「……きみはいいんだぜ。売れ行きがどうのこうの言われても、きみ自身は上り坂だ。その点、ぼくは、たとえ、雑誌が上昇したとしても叩《たた》かれる。構造的にそうなっているのだから仕方がない」
「構造的?」
「そりゃそうさ」
若い女の子が小鉢《こばち》を二つ運んできた。
「これはなんだ?」
「突き出しです」
「ほう、突き出しね。突き出しに、遊女って意味があるのを知ってるかい」
「知りません」
ジーンズの女の子は引き下ろうとする。
「ちょい待ち草。ちょい待ち草のやるせなさ……」
と呟きながら、津田は女の子の左手を軽くおさえて、掌《てのひら》を開かせた。
「いやだ!」
「いやよ、いやよ、も、好きのうちってね。……うむ、この手相は男を苦しめる」
手相を見るにしては掌をもてあそび過ぎるようである。
この男はセックスに興味があったのか、と辰夫は半ば感心した。奴凧《やつこだこ》などは、蔭《かげ》で津田を不能者呼ばわりしていたのだ。
女の子は逃げて行った。
「……構造的なものだ」
と、津田は急に、話を続ける。いったい、この男の頭の構造はどうなっているのだろう。
「『黒猫《くろねこ》』が好評な場合は城戸先生の功績になる。さすがは城戸草平と言われるのだ。――一方、売れ行きが落ちた場合は、ぼくの責任になる。周囲がそう見るだけではなく、城戸先生も同じことを考える」
津田はふたたび仮面をかぶってしまい、ぶ厚い唇《くちびる》だけを動かす。会話というよりは、モノローグのようである。
「そんなことは……」
と辰夫が口をはさむと、
「ないと言いきれるかね」
不機嫌《ふきげん》な象のような眼が辰夫を一瞥《いちべつ》した。
「無理をしなくてもいい。ぼくは子供ではないから、わかっている。まあ、大した才能もないし、なにを言われても構わんのだが、不満があるとすれば、先生の古さ、古い感覚を押しつけられることだ」
男の店員がオンザロックを運んできた。
「日本酒だよ。この店は、夏には、こういうものを出す」
日本酒のオンザロックなどというものを辰夫は初めて見た。
「珍しいですねえ」
「やってみるかね」
「頂きます。日本酒は嫌《きら》いでないので」
辰夫《たつお》はひとくち飲んでみた。口当りがよかった。
「……城戸先生の古さには困るのだ。そもそも、作家の人選から、新聞広告にいたるまで、先生が眼を通している。『黒猫』の古臭いカラーは、城戸先生のカラーなのだ。――ちがうかね?」
「さあ……」
辰夫は警戒して、
「しかし、先生はそういった古い材料を、編集の技術で、現代的にして欲しいのじゃないですか」
「そりゃ、そうだろうさ」
ゴム仮面はブザーを鳴らして、酒と氷をもってこいと命じた。
「……だけど、きみ、あれを現代的にできると思うか」
「むずかしいでしょうね」
城戸草平の感覚が古いのは、年齢からみて致し方ない。とはいえ、古いものは古いのである。辰夫自身、「黒猫」を編集しろと命じられたら、即刻、会社をやめてしまうだろう。
「きみみたいに好きなことをやれたら羨《うらやま》しいよ」
「好きでもないんですよ、ほんとは」
「羨しいね。ぼくのような老兵は消え去るべきだろう」
それから、ゴム仮面はねちねちと、城戸草平の〈古さ〉をならべたて始めた。城戸草平のおかげで首がつながっているのに、親の心子知らずとは、よくいったものだ……。
「ゆうべは、かなり飲んだのですか?」
社のデスクに向ったものの、なにも考えられない辰夫に、金井が声をかけてきた。広いひたいに汗をにじませた金井は、暑さにめげる様子がまったくない。
「|そこ《ヽヽ》といっしょさ」
辰夫はゴム仮面のデスクを指さした。ゴム仮面はまだ出社していない。
「災難でしたな」
金井はにやにやしながら、辰夫の右のデスクにバッグを置いた。あいかわらず、二誌を掛け持ちしている金井は、辰夫の横にすわるようになったのだ。
「ぼくはサンドイッチでも食べるつもりですが、どうです? 出ませんか?」
「トマトジュースぐらいなら飲める」
辰夫は立ち上った。金井に〈夢の砦〉の構想を話すつもりだったが、この状態では、とても無理だ。
……決して酒が強いほうではない辰夫だが、ゆうべのようなことは初めてだった。ゴム仮面とどのくらい一緒にいたか、はっきりしないのであるが、手洗いに立ったとき、突然、頭の中で火花が散った。思考回路がショートした感じで、あとは何も覚えていないのだ。
「おかしいじゃないですか」
喫茶店の片隅《かたすみ》で、サンドイッチをコカ・コーラで流し込んでいる金井が顔をあげた。
「じゃ、どうやって、アパートまで戻《もど》れたのですか?」
「アパートのドアに向って歩いたことだけ覚えている。歩き方がジグザグだった……」
「タクシーで送られたのですね」
「だろう、な」
「なんていう店でした?」
「こけし、だったと思う。二階の小部屋に上った」
「それは、宮島とか松川といった連中が津田さんに酒を奢《おご》るので有名な店です。なんか、おかしいな」
「なにが?」
「前野さんには関係がない世界の話なので、いままで話さなかったのですが、松川、宮島たちには、妙な趣味があるらしい。人の会話をテープに録音するのです。それを編集して、いやがらせをしたりしているという噂《うわさ》ですが……」
「テープ?」
「ぼくの想像ですが、前野さんが飲まされたのは、おそらく焼酎《しようちゆう》でしょう。あなたに|なにか《ヽヽヽ》を喋《しやべ》らせるためです。……店へ行くまえに、津田さんが、別なだれかにテープをセットさせる合図みたいな真似《まね》をしませんでしたか」
「すぐ近くから電話をしたけど……」
「それです!」
金井は大声をあげた。
「あなたが小部屋に通されたときは、もう、テープがまわってたんだ!」
辰夫はすぐには飲み込めなかった。いや、信じられなかった、というのが正確である。
「いいですか」
金井は紙ナプキンの上にボールペンで小さな丸を書いて、
「ここが『こけし』です。ここの二階の小部屋で、だれかが待機していたと考えられます。マイクをテーブルの裏かどこかに貼《は》りつけて、レコーダーをどこかに隠します。戸棚《とだな》がありませんでしたか?」
辰夫は顔を顰《しか》めて想《おも》い出そうとした。
「……そう、床の間の左下の隅に、小さい戸棚があったような気がする」
「その辺に隠したのでしょう。……津田さんが店に電話を入れるのをきっかけにして、テープをまわしたのです」
「そういえば、気にはなっていたのだ。あんな近距離なのに、なぜ、わざわざ電話を入れたのか……」
「テープをまわしておいて、その人物は姿を消します。あるいは、カウンターにさりげなく腰かけていたのかも知れませんが」
「だれだろう、それは?」
「松川寛、じゃないかと思います。いつか、あなたが原稿を断ったでしょう。ほら、二百枚くらいあったのを……」
「断ったんじゃないよ」と辰夫は強く言った。「ぼくは日本の作家の頁《ページ》そのものを作る気がなかったのだから」
「向うは断られたと思っているでしょうね。津田さんは原稿を返すとき、そう言わざるを得なかったでしょうから」
「迷惑千万だ」
「松川は屈折した男ですからね。なにをしでかすか、わかりませんよ。あまり原稿を返されつづけたので、編集者そのものを憎悪《ぞうお》しています」
「おれは関係ないぜ!」
「そうはいきません。前野さんも、作家を敬遠するときは、もう少しうまくやらないと……」
「まあ、その話はいい」
「津田さんは『こけし』に入ってすぐ、あなたより先に部屋に入ったでしょう?」
「先に二階へ上った」
「その時、マイクとレコーダーを点検したのでしょう。これで、準備は終りです」
「準備って、なんのための?」
「たぶん、あなたを酔わせて、暴言を吐かせるためです」
「暴言?」
「城戸《きど》先生に対する悪罵《あくば》です」
「待てよ。城戸先生を批判してたのは津田さんだぜ。ぼくは黙ってきいていた」
「意識を失ってからはどうです?」
金井の語調は鋭かった。
「……それは……なんとも、言えない」
辰夫は自信がなかった。
「酔っぱらっていても、記憶がある、という俗説は嘘《うそ》だね。ぼくは、まったく覚えていないもの」
「注意したほうがいいです」
金井は落ちついた声でつづける。
「前野さんが城戸先生を批判しなかったとしても、相手の誘導に乗ることはあるでしょう」
「だろうね」
「その部分だけを編集すれば、とんでもない、悪口のアンソロジーができあがります。それを城戸先生にきかせるのが、津田さんの目的でしょう。城戸先生の心証を悪くして、前野さんを追放できると計算したのじゃないかな」
嵌《は》められたか、と辰夫は思った。自分は城戸|草平《そうへい》を批判していない、とは言いきれない。記憶が空白なのが、なによりも不気味であった。
足もとの土が見る見る崩れてゆくようである。〈夢の砦《とりで》〉どころか、それ以前に、すべてが瓦解《がかい》してしまいそうだ。
「ぼくも、そんな風に思えてきた」
と、辰夫は言った。
「あり得ることだ」
ゴム仮面が妙に〈しみじみと〉語りかけてきた時に疑うべきだったのだ。それほど弱い人間でないのは判《わか》っていたはずではないか!
「どうしたらいいだろう……」
金井が頼みの綱であった。凡庸ではあるが、社の内外の人間関係にもっとも委《くわ》しいのはこの男だった。
「そうですね」
金井は紙ナプキンで口を拭《ぬぐ》って、
「ぼくの推測だけのはなしですから、しばらくは、黙視しているのがいちばんでしょう」
「しかし、きみ……」
「下手に動くと、見透かされます。……もし、すでに城戸先生の手にテープが入って、呼び出しでもきたら、開きなおって、実際にあったことを喋ってしまうしかないです」
「……まあ、そうだろうけど……立場としては、だいぶ苦しくなる」
数日後に、三号目が校了になった。
日が経《た》つにつれて、罠《わな》にはまった確信がいよいよ強くなり、校了あけになっても、辰夫の精神状態は良くなかった。八月半ばの陽光、街の騒音、性の衝動などが、いっせいに彼を苛《さいな》んだ。
どこか海岸に行かないかと、暎子《えいこ》を誘ったが、彼女は彼女で、「スリーMジョッキー」の構成がうまくいかないことに苦しんでいた。殆《ほとん》ど哀願のような彼の誘いに対して、電話線の向うの暎子はヒステリックに叫んだ。
――ご自分が忙しいときは、私のことなんか思い浮べもしないのだから、あなたは勝手よ。あなたが忙しいのと同じぐらい、私も忙しいんです!
――悪かった……。
と彼は暗い声で言った。
――思い浮べなかったなんてことはない。ただ、行動が時間単位で束縛されているものだから。
――あら、私なんか分単位だわ。
――そんな言い方、しないでくれよ。会って話したいことがあるんだ。
――良いお話かしら?
――ぼくにとっては良くない。
彼は沈みがちな声でつづける。
――良くないどころか、首になるかも知れない。本当の危機《ピンチ》なんだ。
――ほんと?
彼女の声はやや親切になる。
――ほんとだとも。
――ちょっとだったら。……そう、二時間ぐらいなら。
赤坂のカフェテラスで待つうちに、雷が鳴り出した。
やがて、強い夕立が沛然《はいぜん》と降り始めた。屋根代りのカンバスから流れ落ちる雨水は滝のようである。
タクシーがとまり、暎子が降り立った。用心深く、ブルウの傘《かさ》を持っていたが、舗道から跳《は》ね上る飛沫《しぶき》に、たちまち、靴《くつ》を濡《ぬ》らされ、流れる雨水の上を跳《と》ぶように、カフェテラスに近づいてきた。
「ひどい雨……」
呟《つぶや》きながら暎子はそっと椅子《いす》にかけた。
「スカートが濡れちゃったわ」
「ちょっと前に、近くに落ちたようだ。稲妻が光って、すぐに、ばちーん、と大きな音がした」
「近くかしら」
「そう感じたけどね」
ボーイがくると、暎子は、コーヒー、アメリカンで、と言った。
「こんな目に遭ってまでうかがうほど重大な悩みかしら」
「そうなんだ」
辰夫は浮かぬ顔をしている。
「……どうしたの?」
「話しづらいような莫迦《ばか》げたことだ」
彼は煙草《たばこ》をくわえてから、小料理屋での体験と金井の推理を話した。
「たしかに莫迦げてるわね」
暎子はそう批評した。
「それから?」
「ぼくの勘では、津田はそのテープで、ぼくを脅かすつもりだと思う。ぼくを追い出すよりも、ぼくを目下《めした》にして、縛ってしまいたいのだと思う」
「あなたの勘では、ね」
「そう、勘だけのはなしだ。でも、これでも、かなり良い勘をしてるんだぜ」
「だと思うわ」
暎子は冷ややかに言った。
「でも、それは仕事の上だけとも思うのよ」
「仕事の?」
「そう。仕事の勘は良いと思うわ。とくに、攻めるときの勘は冴《さ》えてるわ。私、自分が、苦手だから、つくづく、そう思う。……でも、守りは弱いのね。今度みたいなことで悲鳴をあげるのは、守りが弱いからよ」
辰夫《たつお》は黙っていた。ひとつひとつ、当っていると思えた。
「……子供がお化けをこわがるのと同じよ。影に怯《おび》えてるんだわ。津田という人が何をするか、まだわからないのに、ただ神経質になっているだけじゃない」
そう言われればそうである。すべては想像の中だけなのだから。
稲妻が鋭く閃《ひらめ》き、雨はいよいよ激しくなった。
やめどきかも知れない、と辰夫は、アパートの狭い部屋で温気《うんき》に苦しみながら考えた。雨が上ったのに、温気は増してくるようだ。
もう、放っておいても、「パズラー」の三号は世に出る。恰好《かつこう》よくやめるなら、今ではないだろうか。
かりに、例のテープ云々《うんぬん》が、彼や金井の被害|妄想《もうそう》だったとしても、ゴム仮面が、このまま彼を放置しておくとは思えなかった。次から次へと罠を張って、辰夫を陥《おとしい》れようとするだろう。
この点において、暎子の指摘は当っていた。
いわく――「守りが弱い」。
そうしたトラブルを予想しただけで、彼は面倒臭くなってしまう。次元の低い争いの世界から身を遠ざけたくなる。弱点といわれようとなんだろうと、いやなものはいやなのだ。
だから、会社づとめは苦手だと初めから言っていたのだ、と、彼はひとりごちた。
にもかかわらず、すっきりとやめられないのは、彼が雑誌作りの面白《おもしろ》さ、魅力に呪縛《じゆばく》されてしまったからだった。まだまだ、やりたいことは山ほどあり、それらを実現しないで辞職してしまうのは口惜《くや》しい気がする。
前野さん、お電話ですよ、と階下の管理人の声がした。
辰夫は起き上り、パジャマのズボンをはいて、階段を降りた。黒い送受器が架台に縦の形でのせてある。
――前野です。
――夜分遅く、どうも……。
金井の声であった。
――吉報といってよいかどうか……、テープが入手できたのです。
――えっ!
思わず、声が高くなった。
――どうやって?
――松川寛が新しい原稿をもってきたのです。例によって津田さんが眼《め》を通して、城戸先生あての紙袋に入れました。雑誌にのせるかのせないかは、城戸先生が決めることですから。
――いま、どこから電話しているの?
――会社です。大丈夫ですよ、ぼくしか残っていないのですから。
――それで?
――城戸先生のお宅に原稿を届けるのは、いつも、ぼくか、二宮さんの役目です。で、今日は、ぼくが渡されたわけです。……いつもとちがうのは、ぼくが封代りのテープをはがして、袋の中を見てしまったことです。平べったい箱に入った茶色いテープがありました。松川寛の名入りの便箋《びんせん》がついてまして、こう書いてあります。いいですか?……〈このようなものが手に入りました。若い人を謗《そし》る気持はございませんが、なにかのご参考までに。松川寛〉……。
辰夫は身ぶるいするほどの怒りを覚えた。
――再生してみたの?
自分を抑えながらたずねる。
――機械がないんですよ。
と金井は答える。
――このテープをどうするか、です。遅くも、明朝には城戸先生のお宅へ持って行かなければならないので……。
――心当りが、ある。これから、きいてみて、すぐ、そっちに電話するよ。
ビデオホール事務所か、暎子のオフィスか、どちらかは、まだ、あいているだろう。どちらにも、当然、テープレコーダーはあった。
――わかりました。
金井は陽気に応じた。
――そうそう。前野さん、このあいだ、大塚公一《おおつかこういち》氏に会ったと言ってましたね。
――大塚?
――ほら、むかし、『想望』の編集長をしていた……。
――あ、会ったよ。
――今日の夕刊、ごらんになりましたか?
――いや……。
辰夫はアパートに新聞をとっていなかった。
――じゃ、切り抜いときましょう。
――なんだい?
彼は緊張した。
――自殺したんですよ。
辰夫は、いきなり、後頭部を殴りつけられたようだった。
――どんな風に書いてある?
――毒を嚥《の》んだんです。競馬に狂って、会社の金を二百万以上、使い込んだのだそうです。
――いつのこと?
――ゆうべ、夜中ですね。奥さんが、朝、遺体を発見したのです。
――信じられないな。
彼は首をふった。
ラジオの方が、出版界より快適だ、と言っていたが、実は、そうでもなかったのかも知れない。大塚公一にとって、放送界は余生に過ぎなかったのではないか。
――とても、自殺する人のようには見えなかったけど……。
しかし、あのときは、すでに死を決意していたはずである。
――雑誌が消え失《う》せて、名編集者という架空のバッジを貰《もら》うのは、私にとっては屈辱的なことです。
という大塚の言葉が、彼の脳裡《のうり》を掠《かす》めた。
地下鉄の外苑前《がいえんまえ》駅で、辰夫は夕刊を求めた。
三面の死亡記事は、中小とりまぜて四つほどあり、大塚公一のは末尾にあった。その夕刊のは、七、八行の記事で、自殺の理由には触れず、〈終戦直後、文芸誌「想望」の編集長をつとめた〉とだけ記していた。葬儀の日どりは未定になっている。
辰夫が大塚の葬儀に足を向ける理由は殆どなかった。ただ、彼の編集方針、態度について、歯ごたえのある批判を加えた唯一《ゆいいつ》の人として大塚公一に敬意を抱いている辰夫は、葬列に加わらぬまでも、遠くから一礼すべきではないか、と思った。
ビデオホールの事務所のドアを押すと、つぶれかけたソファーに金井がうずくまっていた。
「事務所の人は、めしを食いに出ました」と金井は言った。「テープレコーダー、使っていて良いそうです」
「彼はプロデューサーなんだ」
辰夫は注意した。
「そうですか! ランニングシャツ一枚で、首に手拭《てぬぐ》いを巻いてたから……」
「気さくな男なんだ」
「……しかし、暑いですねえ。夕立が降ったから、少しは涼しくなるかと思ったら」
金井はハンカチで、しきりに首のまわりの汗をぬぐった。
「申しわけない。ここは前近代的で冷房がないんだよ」
「最尖端《さいせんたん》の職業なのに、うちの社と変らないですねえ」
金井は、半分、安心したようである。
「じゃ、再生してみますか」
「やり方がわかるかい」
「やってみましょう。まえに、軽井沢で作家の談話をとるために、友人のを使ったことがあるのです」
「ぼくは駄目《だめ》だ。メカニズムにまるで弱い」
そう呟いて、辰夫は窓を押し上げた。かすかに風が入ってくるが、涼しいとは義理にもいえない。
仕方なく、扇風機の風を〈強〉にした。
金井はバッグから平べったい箱を出し、茶色のテープをとり出した。それから、馴《な》れぬ手つきで、テープをレコーダーにかけようとする。
「このタイプは初めてです」
手を休めて金井は考え込んだ。
「本職の使うメカは複雑なものですな」
「その四角いのがマイクだろ?」
「そんなことは、わかってます」
金井は、また、汗をふいた。
「蒸し風呂《ぶろ》ですね、ここは」
「急ぐことはないよ。プロデューサーが帰ってきてから、いじって貰おう」
「そうしますか……」
閉口した金井はソファーにもたれた。
「この種のものは、日進月歩ですね」
「テレビとステレオが一体になったのが発売されたろ、さいきん」
「本当ですか!」
「本当だとも。ぼくは実物をデパートで見た」
「どういう形をしているんですか」
「ふつうのテレビの横はばのあるやつさ。画面の両側にスピーカーが付いている」
「プレイヤーは、どこに付いてるんです」
「画面の上の左奥の部分が蓋《ふた》になっている。蓋をあげると、電蓄がはめ込んである」
「電蓄は、ないでしょう」
と、金井は吹き出した。
「つまり、テレビの上に、プレイヤーがはめてあるのですね」
「そうそう」
「高いでしょうな」
「八万五千円ぐらいだ」
金井は眼を丸くして口笛を吹いた。
「贅沢品《ぜいたくひん》だよ」と辰夫は笑って、「応接間に、どーんと飾って、客を驚かすためのものさ。とにかく、でかいからね。ふつうのテレビにくらべたら、戦艦|大和《やまと》みたいな存在《もの》だ」
「エスカレートする一方ですねえ。ついこのあいだまで、ぼくらがテレビを買えるなんて思えなかった」
プロデューサーは、二十分ほどで戻《もど》ってきた。
使用法がわからない、と辰夫が言いわけをすると、相手は笑い、いとも簡単にテープをリールに巻きつけた。
「なんですか、このテープは?」
辰夫は即答しかねて、
「機械を使わせて頂いて申しわけないのですが、ちょっと、それは……」
「エロテープ?」
プロデューサーは無遠慮にきく。
「ちがうんです」
「じゃ、ぼくは関係がない。スタジオで仕事しています」
気をきかせて、部屋を出て行った。
「まわしてみますか」
金井が緊張した表情で言う。辰夫が頷《うなず》くと、スイッチを入れた。
数秒間、音が出なかった。じっさいは二秒ぐらいかも知れないが、長く感じられた。
やがて、流れ出た声は辰夫のそれだった。辰夫の耳にいつもきこえているのよりは、ずっと鼻にかかった声で、そのことに彼はまず驚かされた。
――もともと古臭い発想を、新しくすることなんか、できやしませんよ。
声は跡切《とぎ》れる。息をのむ辰夫に、金井は、「酔ってますな」と小声で言った。
――……ぼくの本音を言えば、古臭い発想を、現代に通用させようとするのは不可能です。しかし、城戸先生の発想だから、仕方がないですね。仕方がないと諦《あきら》めて……なにしろ、オーナーなんだから……ぼくですか? 「黒猫《くろねこ》」を手がけるんだったら、死んだ方がましですよ。
「編集してありますね」
と、金井が頷いた。
「うまく、抜いてある」
辰夫は唸《うな》った。
「しかし、喋《しやべ》ったことは事実だ。誘導尋問にひっかかった」
――……古臭いというけれど、しょうがないと思うな。なにしろ、昭和初年の流行作家でしょう。……いや、戦争の末期には、軍に協力した作品を書いてます。ぼくは子供のころに読んでますよ。戦後の全集からは外してありますが……あれは汚点ですね、どう見ても。
これはまずい、と、辰夫は思った。城戸草平《きどそうへい》は、あの作品に触れられるのを、極度にいやがっているのだ。ほかのことは、酔っぱらいの戯言《たわごと》と許したとしても、あの作品――「亜細亜《アジア》の果てまで」に触れたのは、絶対に許さないだろう。なにしろ、日本軍がアジア全土を支配し、さらにアメリカ占領を果すという、誇大妄想的な小説で、城戸草平はその小説の存在を、ずっと隠しており、隠し果《おお》せた、と思っているらしいのだ。
――……ご存じないですか?……単行本にはなっていません。戦争末期に雑誌にのったものです。ぼくは、たまたま、疎開先でその雑誌を読んで……いえ、話は面白いですよ。冒険小説の一種です。ルーズベルト大統領を軍事裁判にかける場面があります。(けたたましい笑い声)……いま、ですか? 珍品として、かえって、受けるかも知れない。
駄目だ、自分は喋り過ぎている。
――いまとなってみれば、SFでしょうねえ。もし日本が勝ったら、という空想にもとづいて、あのころの日本人の夢を書いてるんですから。……資料としての価値はありますよ。ニミッツやマッカーサーを処刑するところまで書いてあるんですから。……国会図書館へ行けば、あるでしょう。ありますよ、あの時代の雑誌は。ぼくも、もう一度、読んでみたい……。
辰夫はスイッチを切った。
「ひでえことをしやがる」
憤懣《ふんまん》を抑えきれずに口走った。
「奴《やつ》が城戸さんを批判する。酔ってきたぼくが同調する。その、同調した部分だけをつなげたから、こういうものができた」
「わかってますよ、前野さん」
金井はチューインガムを噛《か》みながら言った。
「この程度のことは、みんな、蔭《かげ》で口にしています。もっとひどいことだって言ってますがね。――ただ、城戸先生を批判するのは、社の建て前としてタブーです」
辰夫は頷いた。ゴム仮面に気を許したことじたい、自分の失点なのだ。
「問題は、どういう手を打つかです。このまま放っておくことはできません」
「え?」
「驚いていてはいけません。こっちはこっちで、対策を考えなきゃ」
「だって……」
まさか、テープを消してしまうわけにもいくまい。
「眼《め》には眼を、です。このさい、思いきった方法が必要ですよ。諦めては駄目です」
「どうすればいいんだ?」
辰夫は途方に暮れた。
「ぼくには見当がつかない」
「それじゃ困ります。あなたが敗北するってことは、ぼくも敗北することですから」
「しかし、逃げようがないぜ」
辰夫は爪《つめ》を噛んだ。
「……かりに……いや、駄目だ。テープを焼却するとしても、松川寛の手紙がある。手紙は、まさか、焼却できない」
「そりゃそうです。ぼくの責任になります」
金井は辰夫を見つめて、
「それに、テープの音を消そうと、焼却しようと、松川たちはマスターテープを握っているわけですからね。いくらでも、また、作れます。効果がないと思えば、城戸先生に、あのテープをきいてくれたか、と、問合せの手紙を出すでしょう」
「マスターテープを入手できないものだろうか」
「常識で判断してくださいよ」
金井は呟《つぶや》き、チューインガムを噛みつづけたが、
「あっ、そうか!」
と大きな声を出した。
「なんだい?」
「ひとつ、手がありますよ。松川たちの裏をかく手が……」
金井はチューインガムを吐き出し、銀紙に包んで、窓の外に投げた。
「どうするんだ?」
辰夫は藁《わら》をも掴《つか》む心境だった。
「このテープの中の言葉を生かすのです。戦争中の小説の件はカットするとして、ほかの批判はそのまま使うのです」
「使う、って?」
「もう一本、テープを作るのですよ。ここにはスタジオがあるから可能でしょう」
「それは可能だ。プロデューサー兼ディレクターもいることだし」
「そうしましょう。ほかに手はないですよ」
「まだ、よくわからない。もう一本、テープを作るって意味が……」
「すみません。説明不足でした」
余裕をもって金井は頭をさげた。
「城戸先生の感覚が古いとか、そういう言葉を、同じ口調でならべるのです。テープの中のと|そっくりに《ヽヽヽヽヽ》やってください」
「それで?」
「最後で、論旨をひっくりかえすのです。|実は《ヽヽ》、その古い感覚こそ、すばらしいのだ。だからこそ、城戸草平の存在理由がある。軽薄で、移り気な大衆文壇の中で、城戸草平の古さは貴重なもの、不易《ふえき》なるものであり、それゆえに彼の小説は現代にも通用するのだ、と……」
「いいアイデアだけど、なんだか、詭弁《きべん》くさいな」
「詭弁ですからね」
と、金井は明るく笑った。
「この詭弁を本当らしくきかせるのがあなたの舌先三寸です。あなたなら、きっと、うまくやれます」
「どうかな、それは」
「あなたの今後がかかっているのですよ。それに、論理の辻褄《つじつま》が合っている必要はないんだ。嘘《うそ》と見抜かれたっていいんです。嘘とわかっていても、お世辞を言ってくる人間は可愛《かわい》いものですから。要は、熱っぽければいいんです」
「少し飲まなきゃできないね」
「飲めばいいじゃないですか。ウイスキーでも日本酒でも、買ってきますよ」
辰夫は金井の勢いに押し切られた。金井の態度には、有無をいわさぬ迫力があった。
「わかった……」
と、辰夫は言った。
「しかし、それだったら、そのテープの途中から吹き込めばいいんじゃないか」
「音質が違ってしまいますよ」
金井は説明した。
「もう一本のテープができたら、このテープは処分します」
「松川たちが収まるかね、それで?」
「保証はできませんが、まあ、もう一度、テープを編集することはないでしょう。その時はその時で、向うのテープの胡散臭《うさんくさ》さを突くことができます」
「そうか……」
もうひとつ、割りきれぬ気分だったが、ほかに道はなさそうだった。
「よし、やってみるか」
彼は立ち上った。
「プロデューサーに録音をたのんでみよう」
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第八章 巨大な玩具《がんぐ》
台風が接近しているせいか、湿度の高い日がつづいた。
こんなに長い夏は生れて初めてだ、と辰夫《たつお》は感じた。さまざまなことが起り、なおも、起りそうであった。日比谷《ひびや》公園辺りで蝉《せみ》時雨《しぐれ》に包まれると、この夏は終らないのではないかという気さえした。
一週間ほどたっても、城戸草平《きどそうへい》からは、なんの沙汰《さた》もなかった。辰夫は警戒心を弛《ゆる》めなかったが、金井は「大丈夫でしょう」と楽観的だった。
「城戸先生は、かっとなると、黙っていられない人ですからねえ」
TBSのディレクターと称する男から電話が入った。
――ちょっと、お眼にかかれませんか。
相手は気忙《きぜわ》しい口調で言った。
――どういうご用件でしょうか。
辰夫は用心深くたずねる。いつか騙《だま》されていらい、TBSは鬼門である。
――「ティーン・ショウ」という番組を作っている者です。……できれば、会ってお話ししたいのですが……。
――わかりました。夕方までは会社におります。
――赤坂の方にお出になるついではありませんか。
と、相手は言った。
こんなに近くなのに、足を運ぶのを億劫《おつくう》がっているのだな、と彼は思った。相談か依頼かは知らないが、傲慢《ごうまん》な態度だと腹がたった。
――住んでいる所が青山ですから、赤坂は通りますが……。
――では、ご都合のよろしいときに、お寄りくださいませんか。
――はあ……。
辰夫は生返事をした。
テレビ局の様子に疎《うと》い彼は、よほどの相手でない限り、出向いてくることがないのを知らなかったのである。
TBSの受付に現れたのは、ウェリントン型の黒ぶち眼鏡をかけた、几帳面《きちようめん》そうな青年だった。軽薄さが感じられず、むしろ官僚めいた印象をあたえる。
三階の、応接セットのあるフロアに辰夫を案内すると、いきなり、
「前野さん、台本をお書きになる気持はありませんか」
と言った。
「台本ですか」
辰夫は意外だった。企画の相談だろうと、高を括《くく》っていたのだ。
「ええ。『ティーン・ショウ』の台本です」
「テレビの台本は、書いたことがないですよ」
「存じてます。いちおう、調べましたから」
相手は平気だった。
「試みてみる気はありませんか」
辰夫は返事をためらったが、
「興味はあります」と答えた。
「どうですか」
相手は促した。
「……|ずぶ《ヽヽ》の素人《しろうと》ですからね。経験がないし……」
「ない方がいいんですよ。変に擦《す》れているのは困ります。……前野さんのラジオでの喋《しやべ》りとか、短文とか、週刊誌でのコメントは、知っています。あの発想を、テレビの台本に持ち込んで頂ければ、と思うのです」
「そう言って貰《もら》えるのは嬉《うれ》しいです。……しかし、テレビ局の原稿用紙の書き方も知らないのですから。あれは、四百字づめのふつうの原稿用紙と、まったくちがうでしょう」
「そんなことはどうでもいいのです。なんなら、ふつうの原稿用紙を使って頂いてもけっこうです」
「いえ、やるからには、テレビ局の原稿用紙に書きます。……でも、お役に立てるかどうか、自信がないなあ」
「|いける《ヽヽヽ》と睨《にら》んだから、お願いしているわけですよ」
太い黒ぶちの奥の眼がかすかに冷ややかになる。
「『ティーン・ショウ』はごらんになってますか」
「ときたま、ですが」
「どう思います」
「面白《おもしろ》いけど、ギャグが弱いです。まあ、TBSの音楽番組は、だいたい、ギャグに力を入れてないから」
「じゃ、あなたが力を入れてください。今の批評は、私個人の感想と同じです。……ただし、前野さんは批評家ではないのだから、実践してくれなければいけません」
「実践たって、ぼくは編集者ですから」
辰夫は呟《つぶや》くように言った。
「十月から番組内容を一新したいのです。そのためのお願いです」
相手は強く言った。
「タレントも手直しします。作者はまったく入れかえます。いまの二人の作者は、やめて貰うことになるでしょう。新しい作者は、ひとりだけ決っているのです。川合寅彦《かわいとらひこ》さんです」
川合寅彦という名はどこかで見た。たぶん、テレビの画面でだろう。
「ご存じですか」
「いえ……」
「実は、前野さんを指名したのは彼なのです」
「どういうことかな」
辰夫は不審に思った。
「なにか、ぴんとくるものがあったのじゃないですか」
「あの人は放送作家ですか」
「ラジオのDJの台本を書いていて、雑誌や週刊誌のコラムも書いてました。テレビにはごくさいきん進出してきたのですが、これから出てくる人です。大変な才人ですね」
「そういう人といっしょだと、|きつい《ヽヽヽ》なあ」
「たのしい人ですよ。人の足を引っぱるような真似《まね》はしません」
「才能が溢《あふ》れてる人に足を引っぱられちゃたまらない」
辰夫は苦笑した。
「でも、指名してくれたのは光栄だな。作家は、川合さんとぼくの二人だけですか」
「そんな風に考えています」
ディレクターは初めて煙草《たばこ》をくわえた。
川合寅彦は、テレビ界では、半素人といっていいだろう。|ずぶ《ヽヽ》の素人の自分が組む相手としては、楽かも知れない。
「世間的には無名ですが、川合さんは伸びる人です。先物《さきもの》買いの気味があるかも知れませんが、ぼくは、前田武彦《まえだたけひこ》、永六輔《えいろくすけ》、青島幸男《あおしまゆきお》のご三家のあとは、川合さんと見ています」
「そうですか」
辰夫は頷《うなず》いた。
あれこれ考えても仕方がない。ディレクターには言えないが、失敗してもともと、という気持もある。自分には本業があるのだから、うまくいかなければ、さっさと撤退すればいい。
「では、やってみます」
と彼は答えた。
「明日の夜、本番があります。そのあとで、川合さんが局にくるのですが、前野さんもいかがですか。タレントも紹介できますし……」
「何時ですか」
「十時に受付までおいでください。会合の場所は考えておきます」
翻訳権についてのささやかなトラブルがあったために、辰夫は会合に三十分ほど遅れた。だが、TBSに近い、小さな鮨屋《すしや》に向ったときは、トラブルに伴う不快な気分は殆《ほとん》ど消えて、新しい仕事、新たに出会う人々への好奇心が彼を充たしていた。
辰夫の場合、編集者としての彼と、ラジオやテレビに深い関心をもつ彼とは、同一の人格とは言いきれぬところがあった。編集者としての彼は神経質であり、気むずかしくもある。だが、もう一人の彼は、好奇心が強く、おっちょこちょいの面があった。――もちろん、全体として、ひとりの人間である以上、二つ、あるいはそれ以上の人格が、相互に影響し合うのは当然であるが、かなりちがった個性が、幸か不幸か、ひとつの肉体に宿ってしまったという感は否《いな》めない。そして、これから先、編集以外の仕事が活溌《かつぱつ》化するにつれて、分裂状態はいよいよ烈《はげ》しくなるのだが……。
「遅くなりまして……」
と言いながら、鮨屋に入って行ったとき、カウンターには、ディレクターと、赤いアロハシャツを着た男しかいなかった。
ディレクターは、高い椅子《いす》を降りて、「こちら、川合さん」と、紹介する。
「どうも……」
髪の毛をスポーツ刈りにした童顔の川合は、軽く頭をさげた。顔色が悪く、視線をそらさぬ態度は、辰夫には太々《ふてぶて》しく見えた。
ディレクターは、辰夫を川合のとなりにすわらせ、自分はとなりの椅子に腰かける。
「ま、いこう」
アロハ姿の川合はビールを辰夫のグラスに注《つ》いで、
「あんた、遅いから、女の子、帰っちゃったよ」
「ごたごたがあったもので……」
「まあ、いいさ。今度、レギュラーにしようっていう、いい子だよ」
「そいつは惜しかった」
辰夫は語調を相手に合せた。
「なんか貰いなよ。時間が遅いから、|ねた《ヽヽ》が切れちゃうよ」
「じゃ、とろ」
「どんどん貰った方がいいよ。どうせ、局が払うんだから」
川合は大声で言った。ふつうだったら、いやらしくきこえる言葉が、川合が口にすると、おのずと、ユーモラスな雰囲気《ふんいき》を漂わせる。
「テレビの台本《ほん》を書くのは初めてです。よろしくお願いします」
「こちらこそ」
川合は首を突き出すようにして、
「あんたの喋り、ラジオできいたよ。おれ、受けたね。あんな面白《おもしれ》え喋りをする男が、面白え台本《ほん》が書けなかったら、詐欺《さぎ》ってもんだよ」
「そうですか。ぼくの喋り、硬くないですか」
「硬いって言や硬いけど、おれは面白いね。株で言や、|買い《ヽヽ》だね」
「仕事の話はどうなってるんですか」
辰夫は小声でディレクターにきく。
「今夜は顔合せですから。お二人の話が合えばいいんです」
「あんた、独身だって?」
川合は辰夫の顔を覗《のぞ》き込むようにしてたずねる。
「ええ」
「結婚しなさいよ。いい娘《こ》、紹介するよ」
辰夫は辟易《へきえき》した。〈あんた〉という呼び方も気になった。
「どうしてですか?」
「独身を楽しんでいる男を見ると、腹が立つんだ。結婚させて、苦しみを味わわせたいんだな」
川合は初めて、かすかに笑った。
太平楽みたいに見える男だが、屈折したものがあるのだな、と辰夫は思った。
「あんた、まだ、気がつかねえかな。……おれたち、英文科で同級なんだよ」
「えっ」
辰夫は驚いた。
「無理ないよ。英文科は、やたら人数が多くて、AクラスとBクラスに分れてたろ。だから、顔を知らねえんだ。川合はカだからAクラス、おたくはマだからBクラスだった」
「じゃ、一九五五年卒業ですか」
「そうよ」
「ひどい年だったな」
「ひどかったなんてもんじゃないよ。不況のどん底だろ。卒業までに就職が決ったのは、全体の十パーセントだった。あとは、散り散りばらばらで消息もわかんない」
「あなたは、どうしてたんですか」
「失業の上に、結婚が重なったんだ。同じ高校の娘《こ》でさ。そこの家も食えないんで、娘をエリートのサラリーマンと結婚させようとした。それを、おれが、横からさらったんだ」
「大変だな」
「大変よ。おれは戦前の軽演劇の研究をやってたから、そのコネで、ある劇作家の秘書というか、実際は電話番をやってた。民放が大きくなるにつれて、劇作家はラジオドラマの仕事が多くなる。おれは、原稿を届ける係りよ。そのうちに、ラジオの人と顔なじみになってさ、こまかい仕事はおれがやるようになった」
「先生から見れば、軒を貸して母家《おもや》を取られたわけだな」
「今は、そう思ってるだろうな。おれの方が売れちゃったから」
川合の顔は赤みを帯びていた。
「あなたは、もっとも有望だそうですよ」と、辰夫は声を低めた。「来年は、寝るひまもなくなるんじゃないですか」
「だれがそう言った?」
「そっちのディレクター……」
「自分じゃわかんないけど、そんな風に言われてるらしいな」
川合はビールを呷《あお》った。
「……悪い風向きじゃないけれど、困るんだよな」
「どうして?」
辰夫《たつお》は意外だった。
「あまり言いたくねえことだけど、まあ、もと同級生だから、いいか」
と自分を納得させて、
「おれ、小説を書いてるんだよ」
「小説?」
またしても意外である。現代の尖端《せんたん》を行く男と小説という取り合せが、どうも、理解できない。
「どういう小説ですか?」
「純文学よ。それも、長いやつ。書く時間をつくるのが大変なんだ」
「へえ……」
辰夫は返答に窮した。
「こういうこと、言っちゃいけねえんだけど、いまのおれは、仮の姿よ。だから、どんな注文されても、へえへえって聞いてるんだ。……仕様がねえだろ。いつ出来るか、あてのない小説抱えてさ、完成したからって出版の見込みもないしな。二間のアパートで、西日はさすわ餓鬼は暴れるわで、放送作家っていう新しげな部分をはがしちまえば、昔の私小説家と大して変りばえしないぜ」
このころ、さまざまな才能の持ち主がテレビ界に蝟集《いしゆう》した事情については、若干の説明を要するように思う。
川合寅彦や辰夫のような昭和ひとけた後半に生れた人たちが二十歳になってすぐ、テレビ放送なるものが始まった。それが、彼らにとって、大きなカルチュア・ショックだったことを、特筆しておきたい。
NHKと日本テレビが本放送を開始した昭和二十八年(一九五三年)|以前には《ヽヽヽヽ》、当然のことながら、|テレビ放送は日本には存在しなかった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
テレビがこの世にない、という状態は、もはや、想像できないにちがいない。しかし、それは事実であり、テレビは、一九五三年に、忽然《こつぜん》と、世に現れたわけである。
NHKはともかく、民放テレビが送り出す映像は、きわめて自在で、良くいえば、ノンシャラン、悪くいえば、いいかげんであった。とくに、発足当時の日本テレビは、映画界を脱落した人間とジャズ関係者の混成軍だったと伝えられるが、そうした体質は番組にも反映していた。そのでたらめさ、リラックスした気分は、現在の〈管理されたテレビ〉からは、想像しようもない。既成のマスメディア(新聞、ラジオ)に飽き飽きしていた若者たちが、この新しいメディアに魅せられたのは自然の成り行きだった。
だからといって、|彼ら《ヽヽ》がただちにテレビ界を志す、というわけでもなかった。テレビが日本において産業たり得るかどうか、まだ不明であり、そして、川合寅彦がそうであるように、所詮《しよせん》は活字文化のシッポを引きずっていたからだ。はっきりいえば、テレビ局はまともな就職先ではなく、そこで働く人間はやくざめいた印象を世間にあたえていた。
彼らをテレビ界に吹き寄せたのは、一九五五年前後の不況だった。大学を出ても、仕事はなく、なんとかして食いつながなければならない、と思ったとき、射程距離に入ったのが、急速に成長しつつあるテレビ産業であった。
いや、不況のせいだけではない。川合寅彦も辰夫も、大きな新聞社や出版社の入社試験に応募して、落とされている、いわば、はみ出し者であった。
「腹が立ったぜ」
と、ビールをウイスキーにかえた川合は言った。
「面接試験で落っことしやがってさ。きみは写真の方が二枚目だな、なんて吐《ぬ》かしやがる。我慢したけどよ」
どこか、はみ出した部分がある、既成の産業によって拒まれた連中を吸収するゆとり、あるいはいいかげんさを持っていたのが草創期のテレビ界だった。身を寄せていく側も、受けとめる側も、いいかげんだったのである。
「このごろ、映像文化なんて言葉があるじゃない」
と川合が言った。
「そろそろ、テレビ評論家なんて奴《やつ》が出てきたらしいけどよ。おれに言わせりゃ、ちゃんちゃらおかしいよ。……テレビは文化なんてもんじゃねえんだよ。こいつは、おれたちの世代にあたえられた、すばらしい、どでかいオモチャなんだ。いいかい。台本《ほん》を書いてるおれも、演出してるディレクターも、出てる奴も、みんな、同世代だぜ。……おれは、いつも局のどっかにゴロゴロしててさ、昼間からビール飲んだりして――これは、〈働いてる〉なんてもんじゃないよ。すばらしいオモチャと戯《たわむ》れているんだ。そう考えれば、これはこれで、けっこうたのしいやね。このオモチャで、いかに楽しむかってことにだけ、おれはエネルギーを費してるんだ」
当るべからざる勢いであった。
「おれが、おたくと組みたいと言った理由がわかるかい」
「わからない」
と辰夫は答える。
「番組に出るためだよ」
「出る?」
「そうよ。テレビってのは、出るものさ」
断定的な言葉を辰夫は解しかねた。
「そうかねえ」
「裏方を半年もやってごらん。たいがい、いやになるぜ。局の都合と、タレントの言いたい放題、わがままにふりまわされて……」
「耳が痛いですね」
ディレクターが大声で応じた。
「気にしない、気にしない」
川合も大声で応じる。
「ストレスが溜《たま》るんだよな。それで、ノイローゼになったりする奴ぁ古いんだ。ストレス解消のためには、自分《てめえ》が書いたショウやドラマに自分《てめえ》が出るのが、いちばんよ。こっちがタレントになっちまえばいいのさ。それも、あわよくば人気者に、ぐらいの気持がないと駄目《だめ》だ。おれは、そういう気持でいる」
「あまり張り切らないでください」とディレクターが牽制《けんせい》する。
「大丈夫だよ。番組がスタートして、好調だったら、ぱっと画面に出る。不調だったら、局から姿を消すから」
「それも、困りますよ」
「で、画面に出るとき、だけど、おれひとりじゃ、まずいんだよな。作者の片方だけ、出て、もう一方が出ないんじゃ、洒落《しやれ》に見えねえだろ。だから、初めから、画面に出そうな人を指名した」
「冗談じゃない」
と辰夫の表情が硬くなる。
「まあ、落ちつきなよ。こんな値の張るオモチャで、たのしく遊ばない手はないぜ」
「もう一軒、寄ってかない?」
鮨屋《すしや》を出てから、川合は辰夫を誘った。
「いいね」
と答えながら、辰夫は、この男の才能の一部を、雑誌に活《い》かすことはできないだろうか、と、職業的考察を働かせている。
「行きつけの店があるんだ。新宿でもいいかね」
タクシーをつかまえにくい時間だったが、川合は踊るような恰好《かつこう》で、うまく、一台、つかまえた。
「新宿――区役所辺でおろしてよ」
そう運転手に告げると、
「あーあ」と溜息《ためいき》をつき、「おたくが承知してくれて、よかったよ」
「どうして?」
「ショウの構成屋にも、いろんなタイプがあってさ、冗談わかんない奴がいるんだよ。ギャグのわかんねえ作家って、困るんだ」
「そういう奴が多いのかい」
「多い多い。莫迦《ばか》じゃないかと思うね。……だから、もう、テレビは、なるべく、出るだけにしたいんだ。言いたいことを言うのは活字だな」
テレビで全国に顔を売って、やりたいことは活字でやる、と、川合は言っているのだ。
よく似た言葉を、辰夫は、さいきん、ある女性歌手からきいていた。
――テレビは|おつき合い《ヽヽヽヽヽ》で、PRです。顔を忘れられないようにしておくのですよ。私の歌をききたい方は、クラブや地方公演に足を運んで貰《もら》います。
テレビを積極的に利用するこうした発想は、当時はまだ珍しいものであった。全国の視聴者に向けてこそ、もっとも熱唱するのではないか、と思っていた辰夫は、意外な感に打たれたのである。
「テレビの構成は初めてかい」
川合は窓の外を眺《なが》めながら言った。赤坂プリンスホテルの灯《ひ》が右に見える。
「まったく、初めて」
と辰夫は答える。
「ジャーマネは?」
「え……」
「マネージャーだよ」
「いるはずないじゃない。勤め人だぜ、ぼくは」
「テレビの仕事を始めたら、そうも言ってられないぜ。じゃ、ランク申請《しんせい》は、おれのジャーマネにやらせようか」
「ランク申請、って?」
「本当に知らねえらしいな」
川合は呆《あき》れた様子で、
「ギャラのランクだよ。放《ほ》っといたら、ひどく低いランクになっちまうぜ。……腹が立つのは、映画の脚本を書いてた奴らは、もう、それだけで、ギャラが高いんだな。三流映画の脚本を一本でも書いてると、ギャラが、どーん、と高くなる。劇作家、映画の脚本家は、テレビ一筋の作家より、ずっとギャラが高い。この不公平は、タレントの場合も同じよ。テレビ一筋の人気タレントより、人気が落ちてテレビに移ってきた映画スターの方が、ギャラが高いんだ。――これは、映画界に対するコンプレックスの現れだね。ふたことめには、落ち目の日本映画め、なんて、テレビ人は言うけどさ、コンプレックス持ってるんだ」
「でも、ぼくは、映画のキャリアもないし、何もないよ」
「あるんだよ、それが。……雑誌の編集長って肩書は、おたくが思ってる以上に効くんだ、テレビ屋には。活字に対する根深いコンプレックスがあるからね。だから、忙しい編集長がテレビにタッチする、って謳《うた》えば、かなり良いランクまで、持っていけると思うよ」
「お願いします」
「やってみるよ」
川合は無表情に言い、
「ランクをしっかり決めとかないと、あとで大損するからねえ」
「なるほど……」
「おたくにとって迷惑かも知れない仕事を押しつけるんだから、できるだけのことはする。ショウ番組の構成は、安いからね。|六がけ《ヽヽヽ》だ」
「どういうこと?」
「三十分(当時はほとんどの番組が三十分単位)のドラマ番組を書いて、かりに三万円貰えるとしよう。同じ作家がショウ番組を書けば、その六十パーセント――つまり、一万八千円しか貰えねえんだ」
「へえ……」
「まあ、ショウ番組にはいいかげんな台本《ほん》が多い。それは認めざるを得ないね。歌詞を書いてさ、ギャグの部分は、〈ここのところ、ギャグ、よろしく〉なんて、出演者任せにしてある台本《ほん》がある。……オーバーにいえば、小便に血が混るほど苦労してギャグを考えた台本《ほん》も、手抜きの台本《ほん》も、ギャラは同じなんだ。おれが〈いやになる〉って言ったのは、そこら辺のことよ」
「ギャグっていえば、ディレクターはギャグをわかっているのですかね」
「これまた、少いわ。各局、一人か二人じゃないかね」
「むずかしいな、個人差があるから。Aにとって面白《おもしろ》いギャグが、Bにとって面白いとは限らない」
「堅く考えたら、やってけないよ。遊ぶつもりで、と、おれが言ったのは、そこのところさ」
どのようなジャンルにも、〈盛り〉というものがある。
この物語が進行しつつある一九六一年は、日本のテレビ史上、たぶん、もっとも活気がある、面白い時代であったはずである。テレビというメディアは、ようやく、草創期の模索を脱して、脂《あぶら》が乗ってきた。関係者は、この新しいメディアを使いこなす|こつ《ヽヽ》を把握《はあく》した。
そして――なによりも、番組の大半が生《なま》であった。ビデオテープはすでに存在していたが、編集に費用がかかるために、あまり、使われなかったのだ。
つまり、朝から夜まで、生放送だったのである。人気者が集る番組の場合、視聴者は、各々《おのおの》が親近感を抱いているタレントたちが、|まさに《ヽヽヽ》、|その時刻に《ヽヽヽヽヽ》、テレビ局のスタジオにいるのを自分の眼《め》で確認することができた。
一方、タレント側から見れば、日本中のあちこちに飛び散っていた、忙しい出演者たちが、番組当日のリハーサル、本番の時間だけ、行動をともにすることによる奇妙な連帯意識が生れた。
生放送であるための珍事件は数えきれない。――もっとも驚くべきものは、プロデューサーの勘違いから、三十分番組を十五分で終らせてしまったケースだ。残りの十五分は、ディレクターが漫談をやって埋めた。
やり直しがきかないための緊張感は、生番組の醍醐味《だいごみ》であった。ビデオテープのおかげで番組づくりはラクになり、ミスもなくなったが、そのぶんだけ、テレビは味気ない缶詰食品のようになった。そして、一九六一年は、こうした生番組が終る年でもあった。
ちなみに、当時、人気のあったタレントの名の一部を記しておく。――ジェリー藤尾《ふじお》、坂本九、森山加代子、ザ・ピーナッツ、中田ダイマル、中田ラケット、渥美清《あつみきよし》、大村|崑《こん》、ハナ肇《はじめ》とクレージー・キャッツ、永井|智雄《ともお》、山田|吾一《ごいち》、滝田|裕介《ゆうすけ》、藤山寛美《ふじやまかんび》、スリー・バブルス、朝丘雪路、水谷|良重《よしえ》、松尾|和子《かずこ》、こまどり姉妹、佐藤英夫《さとうひでお》、白根一男、森川信、島田妙子、ダニー飯田《いいだ》とパラダイス・キング、楠《くすのき》トシエ、徳川夢声、松島トモ子、守屋|浩《ひろし》、安井|昌二《しようじ》、アイ・ジョージ、坂本スミ子、市川和子、横山エンタツ、平《たいら》凡太郎、ジョージ・ルイカー、etc……。
タクシーは、新宿二丁目の角を、都電の線路ぞいに、大きく右折した。
さらに左折すると、右手に花園神社が見えた。
「ここらでいいよ」
川合は運転手に声をかけた。区役所通りに車を入れると、運転手が迷惑だろうと気をつかったらしい。態度は繊細さに欠けてみえるが、意外に、神経のこまかい面があるようだ。
かりにも、ジュンブンガクを書こうというんだからな……。
辰夫《たつお》は滑稽《こつけい》さを感じた。
図々《ずうずう》しいような、小心なような、しかし、とにもかくにも、マスメディアを利用して、自分の存在を世間に示そうとしている男と、ジュンブンガクという古風な用語が、辰夫の頭の中でつながらなかった。
大久保《おおくぼ》車庫につづく都電の線路を踏み越えて、区役所通りに入る。
連れ込み宿、夜中まで営業している鮨屋、気軽に総菜ものが食べられる食堂などが狭い道の両側にならんでいた。
「急ぎの仕事をするときは、ここの温泉マークに入るんだ、おれ」
と、川合が指さした。
「うるさくないかい」
「温泉マークぐらい静かな所はないさ」
川合は左に曲った。少し入ると、小さなバーや飲み屋がつづく一画がある。
「なんか、食えるとこがいいだろ。腹減ってないか」
「減ってる。あんな小さな鮨、いくら食っても仕方がない」
「肉が食えるとこへ行こう」
川合は早足になった。
提灯《ちようちん》が出ている、おでんや風の外見の店に入る。
店内には、肉や野菜を炒《いた》める煙が立ちこめていた。バターか、オイルを使っている匂《にお》いで、辰夫は元気が出てきた。
この辺りの店にしては、広いほうだろう。カウンターの横にもう一つ部屋があって、そこはバーのようである。飯も食えれば、バーもある、という一石二鳥らしかった。
「肉さし、ある?」
カウンターにひじをついた川合は、主人にきいた。
「ありますよ」
「じゃ、二つ――。おれは、ポン酢《ず》や胡麻《ごま》だれじゃなくて、ほら、胡麻油に塩を入れたやつね」
「いつものやつ、ですね?」
「そうそう、いつものやつ。覚えてるんだねえ、ちゃんと」
「覚えてますとも」
「良い心がけだ。この店の将来は明るいね。いまに、赤坂、六本木に、チェーン店が出るね」
「またまた。川合さんにはかなわない」
主人は悪い気持ではなさそうだ。
「おれは、旅館の女中、手懐《てなず》けるのが、うまいんだ。意外だろ?」
「ちっとも意外じゃない」
と、辰夫は笑った。
「一見《いちげん》でも、すぐ、仲良くなれる。夜中に、握り飯とタクアンとお茶をたっぷり持ってこさせるんだ。赤ん坊の頭ぐらいの握り飯を用意させとくと、安心して仕事ができる」
辰夫は世代的共感を覚えた。鮨屋からずっと観察しているのだが、川合は酒飲みのくせに大食いという珍しいタイプだった。そのくせ、痩《や》せているのは、どこか悪いのだろうか。
「あなた、生れは東京ですか」
「生粋《きつすい》だよ。鍛冶町《かじちよう》だもの」
「あ、どうも、言葉が近いと思った」
「おたくは?」
「浜町」
「わりに近いな。――じゃ、こういうの、知ってるだろ」
川合は割り箸《ばし》で小皿《こざら》を叩《たた》きながら、
――神田《かんだ》、鍛冶町の
角《かど》の、乾物屋の
勝栗《かちぐり》、買ったら
かたくて、かめない
「知ってるさ」
辰夫も小皿を叩きながら、かの字尽しをくりかえした。
「じゃ、疎開《そかい》先はどこ?」
「よせよ。話が湿っぽくなる。イモのツルを食ったとか、飢えてました、とか、ああいうの、嫌《きら》いなんだよ、おれ。十五年後に疎開先にお礼に行きました、とかいう、えせヒューマニズムな。お礼に行くこたぁねえだろ。お礼参りで、百姓、ぶん殴ってやるんなら、話は別だけどよ」
「失礼ですけど……」
川合のとなりでビールを飲んでいる男が声をかけてきた。甘さが漂う顔立ちで、二枚目といってもいい。
「川合|寅彦《とらひこ》さん、ですね?」
「ええ、まあ……」
「あなたが書いたラジオ番組を、よく、聴いてました。あれがたのしみでね」
妙に熱っぽい口調に、川合は途惑《とまど》った様子で、
「そうですか……」
当り障りのない返事をする。
「冷たいなあ。私はファンなのですよ」
男はしんみりと呟《つぶや》いてみせた。
「あの……どちらさんで?」
「そうか! 自己紹介を忘れてた!」
と男は大声で叫び、ヒップポケットから名刺入れを出した。
「こういう者です」
「どうも」
川合は名刺に眼をやって、
「この週刊誌、よく、読んでます」
「本当ですか! とても本当とは思えないな」
と、週刊誌記者は、あいかわらず、大声を発した。外見は、さほどでもないのだが、酔っているようである。
「私は……いいですか、勝手に話しかけて?」
「どうぞ、遠慮なく」
辰夫が促した。
「私、結核で入院してましてね。早朝のあの放送をトランジスターラジオできくのがたのしみだった。……一年半ぐらい前ですかな」
「そうです」
川合は水割りを手にしながら答える。
「……トラヒコって名前は珍しいから。……本名ですか?」
「本名です」
「川合さんを、トップ記事でとりあげる日が、もうすぐ、きます。――うちの週刊誌、巻頭《あたま》の記事は、人物論でしょう。だれがなんといおうと、大衆が好むのは、ヒューマン・インタレストですから。……私は、ずっと機会を狙《ねら》っているのです。そうですね、いまの川合さんの勢いでゆくと、この年末か、来年早々、じゃないかな。そのときは、協力していただけますか」
「もちろんです」
呆気《あつけ》にとられた顔で川合は答えた。
「キャッチフレーズは、もう、できているのです」
記者は一方的に話をすすめる。
「〈人生の最短距離を行く男〉というのです。ご不満かも知れませんが」
「不満じゃありません。名誉です」
川合は体勢を立て直した。
「……でも、不思議だな。どうして、おれに眼をつけたのかな」
辰夫も不思議だった。
TBSのディレクターの評価をきき、当人と若干の会話を交したからこそ、川合が有望と信じられてきたのだった。そうでなければ、そんな名前の男がいたかな、ぐらいの認識しか、自分にはないはずだ。テレビ界の外の人間が――いかにジャーナリストとはいえ――それほど、川合に注目しているのは、どう考えても不思議だった。
「本当のブームは、来年の春からでしょうね」
独りごとのように、記者は淡々と言った。
「そうですか」
川合は完全に気を呑《の》まれている。相手の口調は、占いよりも、神託に近いものを感じさせた。
「まあ、うちでは、そのまえに、取り上げさせていただきます。……川合さんは、放送作家としてより、タレントとして飛躍するんじゃないですか」
「そう思いますか」
川合の眼から笑みが消えていた。
相手は獅子唐《ししとう》をつまんで、
「一時、ご自分で朗読をなさってたでしょう。ほんのちょっとでしたが……」
「よく覚えてるなあ! あのときは、タレントが倒れて、ピンチヒッターでした」
「六日間でしたね。ベッドに寝て、イヤホーンでききながら、思いましたね。この人こそ、タレントだって……」
「まいったな、どうも」
川合は大きく息を吐いて、
「おたくは、どういう人ですか? じつは、おれが、タレントとしてもやれるんじゃないか、と、自信を持ったのは、あのときからなんです」
「そうでしょうね」
記者は静かに頷《うなず》いた。
「あのときは――|乗って《ヽヽヽ》ましたもの。感じられましたよ、私にも」
風変りな週刊誌記者が気に入ったらしい川合は、スイングドアで形だけ仕切られたバーに席を移した。
足元は薄暗かったが、テーブルの脇《わき》に、酔漢がうずくまっているのが見えた。それも、一人ではない。二人だ。
よくよく眺《なが》めると、酔いつぶれているのではないことがわかった。猫《ねこ》が喧嘩《けんか》するときのように、床《ゆか》に低く伏せて、じっと睨《にら》み合っているのだ。両者ともに、歯のあいだから押し出すような、しゅーっ、という音を立てている。掴《つか》み合いをするだけの体力がなくなり、互いに敵意を示し合っているらしい。
「飲んだくれは困ったもので……」
自分もかなり酔っていそうな記者が言った。
「お互い様だあね」
川合は壁ぎわにあった古いウクレレを抱えると、音を出してみる。
眼が慣れてきた辰夫は、床に伏せているのが、売り出し中の推理作家であるのに気づいた。辰夫より二つほど歳下《としした》のはずだ。
もう一人の男が顔をあげた。冴《さ》えた感覚の持ち主と定評がある若手映画監督だった。
「なにやってんだ」
辰夫は呟いた。
「映画化の件で揉《も》めているんです。あの監督は原作をズタズタに改変して、自分の作品《もの》にしたいんです」
記者はわらうように言う。
「極端にいえば、原作の題名だけが欲しいのですよ」
「放《ほ》っとけよ」
川合は小声で制して、
「前野さん、なんか、うたわない?」
「ハワイアンか」
「うん。この店は、ウクレレしかないんだよ」
「ハワイアンは、好きじゃないんだ」
と、辰夫は答えた。
一時間ほど飲むうちに、川合は有名人の物真似《ものまね》をするわ、都々逸《どどいつ》はうたうわ、同じ小咄《こばなし》を、志ん生、可楽、文楽のスタイルで演じ分けるわで、ただならぬ才気をみせた。
流しのアコーディオン弾きが入ってくると、
「スタンダード・ナンバーは、いけるかね」と、たずねる。
「ぼくの本来の仕事ですよ」
流しが答える。
「じゃ、やって貰《もら》おう。とりあえず、盛り上るやつからいこうか」
二十曲以上うたって、なおもうたおうとする川合を、辰夫《たつお》は店の外に連れだした。
辰夫も酔っていたが、川合ほどではない。
川合の足どりが危いので、片方の肩を、週刊誌記者が支えた。
「私の責任です。乗せ過ぎたようで」
と記者がゆったりした口調で言う。
「弱ったな。ぼくは、今夜が初対面で、この人の住所を知らない」
辰夫はタクシーを探しながらぼやいた。
「ろ、ろっぽんぎ……」
川合の唇《くちびる》が動いた。
「六本木らしい」
「私、だいたい、わかってます」
と記者は自信ありげである。
ファンとは凄《すご》いものだ、と辰夫は思った。これほどのファンを持つ川合が妬《ねた》ましくもあった。
車はすぐにつかまった。大木戸(四谷《よつや》四丁目)から慶応病院脇を通って信濃町《しなのまち》に抜け、青山一丁目、乃木《のぎ》神社前を過ぎて、竜土町《りゆうどちよう》の狭い道を右に入った。奥まった場所にある瀟洒《しようしや》なアパートの二階が、川合の住処《すみか》だった。階段を担ぎ上げて、ドアチャイムを鳴らすと、薄いガウンをまとった女性が出てきた。ドアに崩れかかる川合を見ても、驚かずに、「いつものことです」と言った。
電車通りに向って戻《もど》りながら、ああいうアパートに住まなければいけないな、と辰夫は思った。
「ぼくは外苑前《がいえんまえ》です。あなたは?」
「新大久保《しんおおくぼ》に住んでます」
と記者は答え、
「お送りします。外苑前は近いから、乗車拒否されますよ」
「実は、そうなんです」
「おい!」
記者はタクシーを呼びとめた。
「新大久保――途中、外苑前で、ひとり、おりる」
車が動き出すと、辰夫はほっとした。これで、ようやく、ひとりになれる。
深夜に、竜土町から外苑前までは、ほんの一息であった。
「ありがとう……」
と辰夫が言いかけると、記者もいっしょにおりようとする。どこか、もう一軒、などと呟いている。どうやら、抑えていた酔いが噴き出たらしい。
「この野郎」
と、運転手が凄んだ。
「いいかげんなこと言やがって。……新大久保までの料金を払え」
「うるさいぞ、雲助!」
記者は怒鳴りかえした。
「ほう、やる気か、面白《おもしれ》え」
運転手は降り立った。
「死んでもいいのか、てめえ」
辰夫は呆然《ぼうぜん》と立ち尽した。
翌朝、川合から会社に電話が入った。
――ゆんべ、迷惑かけたんじゃないかね?
川合は明るい声でたずねた。
――そうでもない。週刊誌の人が、あなたの住所を、良く知ってたよ。
――そうか。……あの人の名刺、なくしちゃったんだ。弱ったな。
――まあ、いいだろう。
と、辰夫は笑って、
――あなたの奥さんが綺麗《きれい》なので、びっくりした。
――ああ、美人だよ。羨《うらやま》しいだろ。
川合は当然のように答える。
――まっすぐ帰ったのかい?
――いや、大変だった。あの記者がタクシーの運転手と喧嘩しそうになった。なにしろ、向うは、トランクをあけて、モンキーレンチかなにか持ち出したからね。
――で、どうした?
――ぼくが運転手に謝った。ごらんの通り、酔ってるんですからって。
――納得したかね、向うは?
――そりゃ、そうさ。向うだって、止めに入るのを待ってたんだ。あんな道具で一撃したら、殺しちゃうもの。
――あの記者も、けっこう、酒癖は悪いんだな。
川合は愉快そうに笑った。
――悪いというより酒乱だ、あれは。
――はは、とにかく、事故がなくてよかった。ところで、今日は、忙しいかね。
――夕方からは空けられる。なにか、あるの?
――おたくが、意外に、テレビの内側を知らないからさ。おれが関係してる番組が、どうやって作られるか見せようか、なんて考えてね。……忙しかったらいいんだよ、べつに。
――いや……それは、覗《のぞ》かせて貰った方がよさそうだな。
日本テレビの向い側の喫茶店で、辰夫は川合を待っていた。
レジの上の古ぼけたテレビ受像機には、カウボーイの恰好《かつこう》をした川合がうつっている。テンガロンハットを、わざと|あみだ《ヽヽヽ》に被《かぶ》り、それだけで、もう、滑稽感《こつけいかん》が漂う。既成のコメディアンにはない、知的な可笑《おか》しさが、そこにあった。
この可笑しさは、どこからくるものだろう、と辰夫は考える。
川合は、インテリであり、常識人の面もあるが、その可笑しさは、〈インテリがふざけてみせる〉ことからだけ発しているのではなかった。ゆうべの芸でもわかるように、川合には、かなりの蓄積がある。決して玄人《くろうと》芸ではないが、素人《しろうと》芸とも言いきれない。強《し》いていえば、上質の素人芸である。玄人になりそうでならない、|すれすれ《ヽヽヽヽ》のところのような気がする。
しかし、芸がどうのこうのと論《あげつら》ったところで、川合の面白さはとらえきれないように思う。げんに、辰夫が眺めているテレビの画面には、川合よりはるかに年期の入った、練達のコメディアン、タレントが出演している。彼らは視聴者を笑わせるプロフェッショナルであるが、それらのプロよりも、鮮かなガンプレイを見せている川合のほうが面白いのはなぜか?……。
むずかしい問題だな、と辰夫はアイスコーヒーをストローで吸いながら、思った。
面白さの一つは、意外性であろう。――一般視聴者にとっては馴染《なじ》みのない顔があらわれる。幸い、川合の顔は二枚目のそれではない。もう少しで二枚目になるのだが、どこか崩れていて、親しみ易《やす》いお兄さんといった感じをあたえる。|親しみ易そうに見える《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のは、テレビにおいては、重要な武器である。
しかしながら、彼は〈番組の作者〉として現れ、その旨《むね》がテロップで伝えられている。この男は、少くとも、タレントではないことが示されたわけである。
ところが、男は、腰の拳銃《けんじゆう》を抜いて、タレントよりも見事なガンスピンを見せ――それも、|ぼろ《ヽヽ》が出ないように、ほんの少ししかやらない――最後には、わざと拳銃を足の上に落として痛がってみせる。そして、あっという間に画面から消え、カメラは別な歌手の顔をうつし出している。
効果的な登場ぶりだ、と辰夫は感じ入った。
どんな名優でも、子供と動物には勝てない、というが、テレビでは素人が目立つのである。どうしてそうなるのか、辰夫は考えたことがないが、|とにかく《ヽヽヽヽ》、そうなのである。
おそらく、ショウの出演者たちは、川合を|出たがり《ヽヽヽヽ》の素人ぐらいにしか考えていないだろう。だからこそ、川合に好き放題を演じさせて、せせら笑っているのだ。しかも、わずか、一分ほどの出演なのだから、食われることはない、と安心して。
ここに計算がある、と辰夫はみた。――いやしくも、川合は、番組の構成者であり、ギャグ・ライターである。ただの素人ではないのだ。たとえ、三十秒か一分でも、自分の登場が視聴者にあたえる衝撃《インパクト》は充分に計算ずみのはずである。
つまり、三十分番組の冒頭《あたま》から終りまで、ずっと出ているタレントよりも、わずか一分しか出ない〈素人〉が強い印象をあたえることが大いにあるのだ。そして、その衝撃《インパクト》は、異った形でくりかえされることによって一つのパワーになるのではないか。……いま、全国の茶の間で、「あの男はだれだ?」とか「なんていう人?」といった声が飛び交っているのが、辰夫の耳にきこえるようだった。
……やがて、
「お待たせ」
と言いながら、赤いアロハシャツをだらしなく垂らした川合が入ってきた。
「ずいぶん、早いね」
「あ、観《み》てたのか」
川合は笑って、
「莫迦《ばか》なこと、やっちゃってさ」
「そうだろうか」
辰夫はあいまいに答える。
「利口な人間のやるこっちゃないよ」
そう呟《つぶや》きながら、ベルトを弛《ゆる》め、アロハシャツの裾《すそ》をズボンにたくし込んだ。
番組は、ようやくエンディング・テーマが流れ、クレジットが次々に現れては、消えている。
「いいのかい、もう?」
「いいんだ、今日は」
川合は辰夫の真向いにすわって、カレーでも食うか、と言った。
ウエイトレスがくると、川合はカレーライスを注文し、
「悪いけど、テレビ、消してくれない? おれ、テレビ、嫌《きら》いなんだよ」
と、たのんだ。
顔馴染みらしいウエイトレスは、はい、と答えて、テレビのスイッチを切った。一階に、ほかの客がいないから、できることでもあった。
矛盾して見える川合の態度が、辰夫には理解できるような気がした。川合は自分自身が関係し、戯《たわむ》れている部分においてのテレビが好きなのであって、その他の、彼自身が関知しないテレビ番組は嫌いなのだ。そのように割り切っているからこそ、常識的な眼《め》から見れば、破廉恥《はれんち》、軽薄きわまる行動がとれるのではないか。
カレーライスは、すぐにきた。
川合はスプーンでかき込み、冷たい水を飲んで、
「おたくと知り合いになれて嬉《うれ》しいよ」
と、さりげなく言った。
「どうして?」
辰夫は、思わず、ききかえした。
「違う世界の人だからさ」
「そんなに違うかねえ」
「そりゃ違うよ。恰好《かつこ》つけるわけじゃないけど、おれは、活字がないと、生きていけねえ人間だ。良かれ悪《あ》しかれ、そうなんだ。――ところが、おれが、いま、生きてる世界じゃ、週刊誌に眼を通してる奴《やつ》がいれば、〈勉強家〉ってことになる。まず、週刊誌も読まないね」
「そんなものかねえ」
辰夫は信じられなかった。川合の話は、大袈裟《おおげさ》過ぎるようだ。
「そうだよ。東大でラディゲだのサルトルだのを卒論にした奴だって、そうなっちゃうんだ」
「週刊誌も読まないのかい?」
「忙し過ぎるってことがある、ひとつの理由として」
唇のまわりのカレーを紙ナプキンで拭《ぬぐ》った川合は、辰夫の眼を見て、
「だけど、それだけじゃない。おれの思いつきだけど、|ここ《ヽヽ》は、一種の悪所《あくしよ》なんじゃないか。――ほら、大学のとき、習ったろ。江戸時代の悪所ってのは、社会のルールとか、身分制度と、まったく別なルールで支配されてるってのを。ぶっちゃけた話、|ここ《ヽヽ》に総理大臣がきたって、だれも、珍しく思わないで、笑っちゃうぜ。|ここ《ヽヽ》では、十八、九のアイドル歌手のほうが、総理大臣より序列《ランク》が上なんだ。おれには、そこが面白え。……ただ、いやなのは、中の人間が|ここ《ヽヽ》のルールのみを絶対だと信じていることよ」
「信じているから強いんだ。閉鎖社会って、みんな、そうだろ」
「まあ、新興勢力だからな」
川合は頷《うなず》いて、カレーを口に運び始める。
大声で話し合いながら二階から降りてくる一団があった。テレビでよく顔を見る、コミックなコーラスグループだ。先頭の丸々と肥《ふと》った男が川合を見つけて、
「川ちゃん」
と声をかけた。
「よお……」
川合は左手をあげる。
肥った男は、近寄ってくると、いきなり、川合の肩に手をかけて、
「おれたちが中心《メイン》の番組が始まるんだよ。川ちゃん、書いてもらえないかな」
声を低めるのが誠実さの証拠であるかのように語りかけた。
「……考えとくよ。うちの事務所に話しておいて」
「たのむよ。作家が決らなくて、ごたごたしてるんだ」
「わかった、わかった」
男たちが店を出てゆくのを見送ってから、川合はきびしい表情になり、
「あいつら、自分の番組持つの、十年早いな」
独りごとめいた言い方をして、食後のコーヒーを注文した。
川合が自分の車でNET(現・テレビ朝日)へ行き、自分が台本を書いた番組のリハーサルに少し立ち会い、さらにフジテレビに行き、本番に立ち会うまで、辰夫《たつお》は行動をともにした。
約三時間のあいだに、川合が台本執筆を依頼されたのは十一件――そのすべてを川合は婉曲《えんきよく》に断っていた。〈考えとく〉という表現が拒否を意味するのが、辰夫にもわかってきた。
「ラジオのころ、むちゃくちゃに引き受けて、身体《からだ》を悪くしたよ。そうしたら、みんなおれに背を向けやがった。病院にきたのは、いまの女房《にようぼう》だけだった。――だから、さいきんは、極端に絞ることにしたんだ」
フジテレビに向う車の中で川合は述懐した。
「でも、あんなに断って平気かい」
辰夫はひとごとながら心配だった。
「平気だよ、おれが上り坂のあいだは。いくら断っても、注文はつづくね」
「上り坂のあいだは、か」
「そう。いま、おれが愛想よくふるまっても、ふるまわなくても――下り坂になれば、どのみち、見捨てられるのさ……」
苛酷《かこく》な世界だ、と辰夫は痛感した。|なみ《ヽヽ》の神経では生き抜いてゆけまい。人生を茶化したような、まじめなような川合の態度は、一種の開き直りであろうか。
本番は十時半からである。
「あと十分だ。着かえようか」
川合は辰夫に囁《ささや》いた。
「着かえる?」
「出るんだよ、|おれの番組《ヽヽヽヽヽ》なんだから」
昂然《こうぜん》と川合は言う。
「ここまで、つき合ったんだ。おたくも、道化役をつき合いなよ。――心配ない、ごく簡単なことさ。とにかく、シャツだけでも着かえなきゃ」
辰夫は川合のあとから化粧室に入った。メークアップの女の子が辰夫の顔に薄茶色のものを塗り、髪の乱れを直してくれた。それから、川合と|おそろい《ヽヽヽヽ》のグリーンのアロハを着た。
「おれは、椅子《いす》に腰かけて、ハワイアンをうたう。いい気分になってると、プロレスラーが、椅子ごと、おれを持ち上げて、ビニールの水槽《すいそう》に叩《たた》き込む」
「大丈夫かい」
背骨でも折りはしまいか、と心配になる。
「大丈夫。そのために、プロレスラーが出るんだ。絶対に怪我《けが》をさせないようにやってくれる。それに、水槽の底に布団《ふとん》の分厚いのが沈めてある。これで、もう、安心だね」
「ぼくはどうするの?」
「おれが水槽から立ち上ったら、おれの顔をビール瓶《びん》でぶん殴る。ご存じだろうけど、ビール瓶は松脂《まつやに》で出来ているんだ」
「それなら怪我はさせないな」
しかし、これでは、番組の面白《おもしろ》さは、川合の独り占めになるのではないか、と思った。
――どうも不思議だ。あんなに仕事を断るあなたが、なぜ、「ティーン・ショウ」を引き受けたのか?
そう言おうとして、辰夫ははっとした。おそらく、〈タレント〉川合|寅彦《とらひこ》が、より溌剌《はつらつ》と動きまわれる番組になると読んだのだろう……。
十五分番組は恙《つつが》なく進行した。
番組の終り近くで、ウクレレを手にした川合は粗末な椅子に腰かけ、「小さな橋」を軽くうたった。お世辞にも上手《うま》いとはいえないが、ムードが良い。天賦《てんぷ》の才というべきであろう。
二人のプロレスラーが背後から近づき、椅子ごと川合を持ち上げる。はっと気づいた様子の川合は、揺さぶられて、水槽に転落した。
だれかが辰夫の背中を押した。出《で》の合図だった。グリーンアロハの即席|道化師《クラウン》は、まっすぐに水槽に向って歩き、立ち上りかけた川合の頭を、隠し持ったビール瓶で一撃した。
あとは、もう、なにがなんだか、わからない。だれかが白い塊《かたまり》を辰夫の顔に押しつけた。鼻孔が完全につまり、口で呼吸しようとすると、甘さが舌に触れた。パイ投げのパイらしかった。
くすくす笑う声がきこえる。どうやら川合の声のようである。
辰夫は引越しを決意した。給料以外の収入が増える形勢なので、人並みのアパートに入っても、なんとか部屋代が支払えそうである。
思い立ったが吉日、と、彼は、地下鉄・外苑前《がいえんまえ》駅に近い不動産屋に部屋探しを依頼した。
「風呂《ふろ》つきで一万五千円は、ちょっと無理ですよ」
と不動産屋は言った。
「ここらは、さいきん、急速に値上りしていましてねえ」
「どうしてだろう」
「道路が拡張されるんですよ。表通りの店や家には、国から補償が出ましてね。どえらい金額だから、みんな、ほいほいと立ち退《の》いてます」
「景気が良いのだね」
辰夫の声には力がない。
「どうして道を拡《ひろ》げるのだろう?」
「東京でオリンピックをやるでしょう。あのためですよ」
「オリンピック、本当にできるのかねえ」
「やるんじゃないですか」
「道路と、どういう関係があるのかなあ」
「なんか、あるんでしょうねえ」
不動産屋は曖昧《あいまい》に呟《つぶや》き、
「でも、青山を離れたくない人も多いですから、裏のほうの土地を買おうとするわけです。国から貰《もら》った莫大《ばくだい》な補償金で。だから、土地はもちろんのこと、アパート代まで高騰《こうとう》するわけで」
「一万五千円がぎりぎりだな、ぼくは」
「それだと、二間で、風呂・電話なし、ですよ。電話は要らないですか」
「要るよ」
「無理な注文だと思いますが、探してみましょう」
翌朝、出社すると、不動産屋から電話が入っていた。値段に問題があるが、〈めったに出ない物件〉が出たという。帰りに、そちらに寄る、と彼は答えた。
アパートのある町名は、渋谷区神宮|通《どおり》だった。中流といいきるには心細い住宅街の奥にあって、モルタル塗り二階建ての二階、三畳の板の間に六畳の和室、小さなバスルーム、電話がついて、月額二万円、と、不動産屋は説明した。
一目で辰夫は気に入った。予定を五千円オーバーしているが、それは川合との仕事でなんとか捻出《ねんしゆつ》できるのではないか。確信があるわけでもないが、パイの二つ三つ、顔にぶつけられてすむことなら、それでもよい、水の中に放《ほう》り込まれて五千円貰えるのなら、これまた辞さない、といった、自棄《やけ》のような気持で、不動産屋に目配《めくば》せした。もうひとつ気になるのは、表参道をへだてて、城戸草平《きどそうへい》の邸宅が近いことだが、そんなことまで気にしていたら、際限《きり》がない。
わずかな貯金を全部おろして契約をすませ、運送屋をたのんで、日曜日に引越しをすることにした。辰夫にしてみれば、文化的な生活への第一歩であった。
本を除けば、これといった家具もないので、引越しは半日で終った。伊勢丹《いせたん》で買った小さなダイニングテーブルと二脚のウインゾル・チェア、茶箪笥《ちやだんす》と細い洋服箪笥がさらに運び込まれると、とにかく、自分の城ができた、という気分になった。
黒塗りのウインゾル・チェアに腰かけて、インスタント・コーヒーを啜《すす》っていると、電話が鳴った。
――終ったかい。
川合の声であった。
――この番号、どうしてわかった?
辰夫は不審に思った。
――そう言うだろうと思った……。
川合は笑い声を発して、
――おれがつき合ってた女の子の電話だったのよ。もう、結婚しちまったけどさ。そのあとに、あるジャズ歌手が住んでた。落ちぶれたけどね。――で、そのあとが、おたくってわけさ。
――でも、ぼくがこの部屋に入ったことを、どうして知ってるんだ?
辰夫は薄気味悪かった。
――はは、今日、ロカビリーで一時売れてた歌手とラジオでいっしょになって、きいたのさ。おたくの部屋の斜め前に、そいつが住んでるんだ。だいたい、そのアパートは、上も下も、タレントか歌手だぜ。
――ヤバいなあ!
辰夫は思わず歎《たん》じた。
――どうかね? わりに気分いいんじゃないか?
――そうでもない。
――嘘《うそ》つけ!
川合は笑っていた。
――気分いいはずだよ、一戸を構えたって感じで。ひとり静かに茶を啜ったりするんだな、これが。
経験者の談である。辰夫は黙って聴いていた。
――ここまでは、いいんだ。つぎで間違うんだよ、たいてい。……女の子がいたら、もっと素敵なんじゃないか――と、思うんだよ。差し向いで飯を食ったらなあ、なんて考えるんだなあ、たいていの男が。
辰夫は驚いた。川合の言った通りのことを、漠然《ばくぜん》と考えていたからである。
――いやあ、悪い悪い。実は、急用があって、電話したんだ。一時間の特別番組の司会をたのまれてさ。もしできたら、おたくにも付き合って貰いたいと思って……。
どういう事情でそうなったのかはわからないが、いわゆる雨傘《あまがさ》番組を作る必要があるらしかった。〈雨傘番組〉とは、プロ野球が雨で流れてしまった場合を想定して、局側が事前に作っておく番組で、少くとも一時間の長さは必要なのである。
辰夫は知る由《よし》もなかったが、〈雨傘番組〉を作るにしては、時期的に少々遅いのだ。もっとも、雨が多かったシーズンなら、〈雨傘番組〉が不足する場合もあるだろうし、また、必ずしも、野球中継の穴埋めのためだけとは限らないのだった。
――構成は、おれがやっているのだから、安心してよ。おたくは、ただ、身体を運んできてくれればいいんだ……。
先日のパイ投げの例を考えても、川合の言葉には安心して乗れないのであるが、これでまた、ある額のギャラが支払われるであろうと思うと、辰夫は心が動いた。ディレクターが、この秋からいっしょに仕事をする人であるのも、気が楽になる原因だった。
翌々日、社での仕事を終えた辰夫は、タクシーでTBSへ向った。すでに、時間はぎりぎりだ。虎《とら》ノ門《もん》、溜池《ためいけ》、と過ぎたタクシーは、山王下を左折した。
すぐに、どーん、と大きな音とショックがあり、辰夫の身体はシートの左|隅《すみ》に叩きつけられた。右手の細い道から飛び出してきた自家用車が、タクシーの横腹に衝突したのである。
「この野郎!」と叫んで、タクシーの運転手は外にとび出し、自家用車の男に掴《つか》みかかった。
「てめえ、警察までこい!」
辰夫は、怒るよりも、時間が気になった。メーターを見てから、運転手のポケットに金を押し込み、テレビ局めがけて走り出した。
「お客さん! 証人になってください!」
運転手の叫びを後に、彼は走りつづけ、ほんらいならば、タクシーで悠々《ゆうゆう》と登っているはずの坂道を、みっともなく駈《か》け登り、受付を通り越して、局内の階段を二段ずつ登った。
〈東洋一の広さ〉を誇るGスタジオの入口に、ポロシャツと洗い晒《ざら》しのジーンズをさりげなく身につけた川合が立っていた。
「こないかと心配してた」
ポーカーフェースでそう言うと、おそろしく分厚い台本を辰夫に手渡した。
辰夫はたじろいだ。ぶっつけ本番で、これだけの台本をこなせるだろうか。
「平気だよ。おれが動く通りに動いてくれりゃいいんだから」
川合はつまらなそうに答える。
「ざっと眼《め》を通してよ。一流の歌手は出てないぜ。二流コーラスグループとか、そういうのばかり。お笑いもなし」
「それで、一時間、もつかね」
マジックインキを借りて、表紙に〈前野辰夫〉と記すと、辰夫は台本を読み始めた。
「お笑いはおれにやらせようってのが、ディレクターの魂胆さ」と川合は低く言った。「しかし、そうはいかんよ。いくら自惚《うぬぼ》れの強いおれでも、そこまで過信してはいない。まあ、適当にユーモラスに、|そつ《ヽヽ》なく終れば、いいんだ……。なんたって、セミプロまでも行ってないんだからな、おれは。本音を言えば、絶句するのが怖い。だから、おたくを呼んだのさ」
「絶句?」
辰夫は不安になった。
「本当に絶句したりするのかい」
「おれは、生《なま》(放送)には強いけど、今日みたいな録画に弱いんだ」
「録画だと、なんか、違うのかい?」
辰夫は心細くなってきた。
「要するに、だな」
川合は煙草《たばこ》に火をつけて、
「生《なま》だと、ちょっとやそっと失敗があっても、時間がくれば終るわけだな。失敗したら、おれがドジだった、で済むわけさ。――ところが、ビデオってやつは、撮り直しができるから、失敗したら、もう一度、最初《あたま》から撮り直しってことになる。一時間番組の四十五分ぐらいのところで失敗したら、眼もあてられない。おれの失敗のために、出演者、スタッフが、まったく同じことをくりかえさなきゃならないんだぜ。謝ってすむことじゃない」
辰夫《たつお》はいよいよ心細くなった。
「ビデオテープって不便なものだな」
「使い方しだいさね」
川合はけむりを輪に吐いてから、ストローをくわえて、けむりをもう一度、口のなかに戻《もど》してしまった。なんとも器用なものだ、と、辰夫は呆《あき》れる。
「とにかく、出たとこ勝負さ」
改めてけむりを吐き出しながら川合は呟いた。
「中では、なに、やってんだい?」
辰夫はスタジオの扉《とびら》を指さした。
「いま、ライトをいじってる。ちょっと押して(遅れて)るんだ。もう一回、リハーサルやって、本番だ。まだ、時間がある」
川合は先に立って、Gスタの扉を押した。
暗いスタジオの中ではセットの直しがおこなわれている。ライト群は低く下げられて、照明係りが調節をしている。
「うろちょろしてると、邪魔になりそうだ。上へ行ってようよ」
暗がりの中の司令塔じみた副調整室への階段を、足音を忍ばせて登る。階段の途中から壁ぞいに続く鉄板の回廊に移った。スタジオの全貌《ぜんぼう》を見渡せる位置である。
「面白《おもしろ》いと思わないか」
川合は、いつもと違う真面目《まじめ》な口調で言った。
「この下にいる技術スタッフは、まあ、プロと言っていいだろう。技術屋はいやでもプロにならざるを得ない存在《もの》だからね……。ただ、ディレクター、アシスタント、タレント――こういった連中は、みんな、アマチュアなんだ。そう言うぼくも、アマチュアのひとりさ」
「そんなことはないだろう」
「いや、アマチュアさ」
「あなたはプロだ。ラジオから叩《たた》き上げてきたのだもの」と、辰夫は反論した。
「この程度のキャリアじゃ、プロとは言えんよ。おれが玄人《くろうと》っぽく見えるとしたら、まわりがあまりにもアマチュア、ど素人《しろうと》だからさ。こんなアマチュアばかり集っている産業がほかにあるかい?」
辰夫は答えられなかった。川合は切実な問題を口にしているのだ。
「メイド・イン・USAだからな、この産業は」
と川合は続けた。
「アメリカにテレビジョンてものがある、てんで、敗戦国|風情《ふぜい》が、負けてから八年目に、とにもかくにも、テレビジョン放送なるものを始めちまった。建物やスタジオが先に出来て、なにを、いかにして、放送するかってことは、後まわしになった。技術はともかく、企画だの、演出だのは、後から泥縄《どろなわ》でやった。……みててごらん。プロデューサーも、ディレクターも、自信がないんだから。プロデューサーは映画の独立プロ崩れで、ディレクターは東大卒の秀才だ。秀才ではあるけれども、テレビの演出をしたくて入ってきたわけじゃない。この産業の成長を見越して、株を買っただけだ」
「文字通りのアマチュアか」
「そうさ。だから、自分の腕に自信がない。自分が正しくことを運んでいるかどうか、絶えず、不安なんだ。そこを指摘すると、ものすごく怒るらしい。痛いところを突かれるわけだからね」
「でも――たとえば、歌手はプロだろう」
「本当に人気がある歌手はアマチュアさ。歌がうまくなって、プロと呼べるようになると人気がなくなっている」
そういうものか、と辰夫は思った。
「まあ、むずかしいところでね」
と、川合は噛《か》みしめるように言う。
「この産業が盛り上ってるのは、アマチュアどもが、目一杯、頑張《がんば》っているからじゃないかって気もするんだ。大衆ってのは、うまい役者の練れた芸を見るよりも、素人っぽいタレントが、下手なりになりふりかまわず熱演するのを見るのを好むんじゃないかと思う。その意味では、アマチュア、必ずしも悪いとはいえない」
本番は順調に進んだ。
リハーサル中の川合は、台詞《せりふ》がしどろもどろで、これで本番に入れるのかと案じられたが、カメラに赤ランプがつくと同時に、特殊な電流が身体《からだ》に通ったように、舌と身体の動きが自由になった。いわゆる〈本番に強い体質〉なのであろう。
川合の横に控えている辰夫は、われながら惨《みじ》めに感じられてならなかった。タレントたちが自分をどのように見ているかと思うと、とても、やりきれなかった。しかも、川合が、辰夫を〈立て〉ようとして、急に感想を求めたとき、声がつまってしまった。あわてた川合は、マイクを歌手の一人に向けた。
自分にはアドリブの才能が殆《ほとん》どない、と辰夫は思った。しかし、アパートの部屋代・光熱費などを、毎月支払うためには、需要がある限り、タレント業も続けなければなるまい。
それに――これが大事なポイントなのだが――自分は、テレビに出るのが嫌《きら》いではないのだ!
録画《とり》が終ったのは九時だった。
メークアップを落として貰《もら》った辰夫が、蒸しタオルで顔をこすっているところに、若い男が謝礼《ギヤラ》を届けにきた。袋には現金と領収証が入っている。
「判が要るのかしら」
と辰夫がきくと、
「いえ、イニシャルを書いて頂けばけっこうです」
謝礼《ギヤラ》は、辰夫の月給の三分の一強だった。ほんの数時間で、会社で十日間働いて得る報酬(それも、社内のゴム仮面や、社外のライヴァル誌と血みどろの戦いを重ねた結果である――)に等しい金額を手に出来るのだ。世の中、どこかおかしいと思いつつも、天にも昇る心地だった。
だが、この報酬を得るために、自分がなにをしたかと考えれば、忸怩《じくじ》たるものがある。漫才のボケ役といえば、きこえがいいが、「そうそう」とか、「次へいこうか」などと、つまらないことを呟《つぶや》いている、ぱっとしない役である。いや、せっかく、川合が花を持たせようとしてマイクを向けてくれたのに、うっ、と、つまってしまった、あれがいけない。そして、困ったことに、こういう番組に限って、友人知己が観《み》るものなのである。
あれこれ想《おも》い患《わずら》ううちに気が滅入《めい》ってきた。アパートに戻ってベッドに入るか、と考えているとき、川合が陽気に現れた。
「どうした? 沈んでるじゃないか」
「お役に立てなかったからさ」
辰夫はお通夜のような声で答える。
「え、どうして?」
川合は驚いて、
「おれは助かったんだぜ。一時間番組の司会なんて初めてだしさ。終ったら、ふらふらっとして、ソファーに倒れちまった」
「大丈夫かい」
「もう平気だ。ビールを飲んで、落ちついた」
川合は煙草をくわえて、
「助かった。おたくが傍《そば》にいてくれなかったら、もたなかった」
「……おれ、つまっちゃっただろ」
「悪かった。前もって、予告しておくべきだった。……おたくには悪いことしたけど、実は、あれで、おれ、立ち直れたんだ。あ、この男、|あがってるな《ヽヽヽヽヽヽ》、と思った。とたんに、|あがりかけてた《ヽヽヽヽヽヽヽ》おれは、常態に戻った」
「あなたでも、|あがる《ヽヽヽ》ことがあるのか」
「おれは、|あがる《ヽヽヽ》んだよ。かーっとなっちゃうんだね。で、他人が、もっと|あがってる《ヽヽヽヽヽ》の見ると、急に冷めるの。酔っぱらいと同じじゃないかね」
六本木の交差点に近い穴蔵のような中華料理屋は川合の行きつけの店らしかった。十時を過ぎたというのに、店の中は一杯で、新興の盛り場にふさわしい賑《にぎ》わいをみせている。
ボーイは奥の隅のテーブルにある予約の札を取り去った。
つづいてさし出す大判のメニューを、川合は無視して、
「とりあえず、ビール。それから老酒《ラオチユー》だ。……料理は、豚肉と白菜を味噌《みそ》で炒《いた》めたやつがあるだろ。あれと、青菜のクリーム煮な。で、鳥そば、と、こう行こう」
ボーイが立ち去ったあと、辰夫はたずねた。
「足りるかい、あれだけで?」
「ここんちの鳥そばを知らないだろう」
「知らない」
「でかい土鍋《どなべ》で煮込んでくるんだよ。ふつうだと、二人でも食いきれないんだ」
辰夫は安心した。
ビールがきた。軽く乾杯してから、川合はぼやくように、
「九月の|あたま《ヽヽヽ》までに、コマーシャル・ソングを十七作らなきゃならない。これだけ仕事を断ってても、ごちゃごちゃあるんだ。でも、CMの作詞は、一つ五万と決ってるから、まだいい……」
それだけで八十五万円か、と辰夫は度胆《どぎも》を抜かれる。月額二万円の部屋代を払えるかどうか心配している彼にとって、八十五万円は殆ど天文学的数字に近い。
「この春、映画の主題歌を作詞したんだ。これなんか、一円もくれないし、連絡もない。夏向きの青春映画だったんだけど、映倫のコードに触れたとかで、映画そのものがお蔵入りしちゃったらしい。アホな話さ」
「なんていう映画?」
「忘れた」
「監督は?」
「忘れた」
「ということは、三流映画だな」
「想い出したくもないね」
川合は苦り切って、
「日本の映画会社ってのは、礼儀を知らんよ」
溜息《ためいき》をついて、南瓜《かぼちや》の種を吐き出した。
――川合君!
近くで声がした。
ふりかえると、紺のブレザーコートを着た男たちがいる。テレビ放送が始まったころの放送作家たちで、いまでは時代遅れになりつつある人々だ。揃《そろ》いのブレザーを着ているのは、なにか、会合でもあったのだろう。
川合は立ち上って、一礼した。
――店が一杯だから、よそへ行くよ。お元気で、ご活躍ください。
と、ブレザーの一人が言った。
「ご活躍どころか、火の車ですよ」と川合は愛想よく応じる。
一団は店を出て行った。
「なんだい、あれは」
辰夫は見送りながら言う。
「大きなヨットを共有してるんだよ。ヨットに乗った帰りだろう。みんな、元海軍なんだよな」
と、川合は言った。
「いわゆる戦中派だね」
「戦争の話が好きなんだよ。そういう話になると、夢中だよ。この人たち、本当に戦争に反対なのかな、と思っちゃうね」
川合は辛辣《しんらつ》な言葉を吐いた。
「ところで、仕事の話になるけどね」と辰夫は前置きして、「原稿料が安いので、たのみにくいんだ」と言った。
川合は真面目な顔つきになって、
「稼《かせ》ぐのは他でやってるから……」
と、原稿料にこだわらぬ態度をみせた。
「それはそうだろうけど、ぼくとしては、安い原稿料にこだわっている。小さい雑誌だからといって、稿料が安くていい、なんてことはないんだ。しかし、いまは仕方がない事情がある。だから、あなたの気が向いたら、お願いしたい、としか言いようがない」
「わかった。ずばりと言って、なにをやらせようというの」
「そこらも、ご相談なんだけど、まず、パロディの頁《ページ》をたのみたい気持がある。しかし、いまのあなたの仕事とパロディじゃ、付き過ぎる感じがあるんだな。むしろ、ショートショートのほうが、意外性があるかもしれない」
「意外性ったって、活字の世界では、おれは無名だろう」
「いまは、そうかも知れない。しかし、時間の問題だよ。ぼくはそう見ている」
「嬉《うれ》しいね、話半分としても」
「ショートショートを書いてみる気はないか」
「あるよ。……だけど、書けるかね、おれに?」
「そう見てるんだけどね」
「そうか。こういう注文は初めてだから、考えちゃうな」
「べつに急がないから、アイデアを練ってよ。必要なら、参考になりそうな本をお宅に送る」
「よし、やってみる。そうまで言われちゃ、引き下れない」
「なんなら、アイデアの段階で聞かせて貰《もら》ってもいいよ。そんなことは恥でもなんでもないんだ。流行作家がこれから書こうとする推理小説のトリックをぼくに相談してくることがある。ぼくは自分の意見をはっきり言うタイプだ。相手が有名だから口ごもるとか、そういう遠慮はない。これは、ぼくにとって、ビジネスの一つなんだ」
自信喪失の新人タレントは、いつのまにか、ほんらいの姿に戻《もど》っていた。
「おれは、いつか、おたくに話した純文学の長篇《ちようへん》を書いてるんだけど、時間がなくて、なかなか進まない」
「そりゃそうだろう」
「完成してもだ、出版してくれるところがあるかどうか疑問だな。そう考えて、三分の一ぐらいで止っちゃってるんだ。……ショートショートとなると、別なジャンルだと思うけど、挑戦《ちようせん》してみたいな」
「あなたの気持しだいだ」
「やってみよう。前野|辰夫《たつお》に誘われたってことだけでも名誉だものな」
「大丈夫、アイデアが勝負だから」
辰夫は老酒を相手の杯に注《つ》いだ。
「おれは天才じゃないかね」
川合は急に元気になった。
「初めての長い司会はうまくいくわ、敏腕な編集者には口説《くど》かれるわで……」
三号目が発売になったあとのエアポケットめいた空白の中で、辰夫は翻訳の原稿を原文と照合していた。大きな誤訳が二つほど見つかると、不安になってきた。これでは、こまかい誤訳がいくつあるかわかったものではない。
いまごろ、川合は、何をしているだろうか?
昨夜、六本木で別れてから、辰夫は、ある作家の家にエッセイの原稿を貰いに行った。夜中にきてくれ、といわれていたので、丁度よかったのである。
同じころ、川合寅彦は、銀座のバーで代理店の接待を受けていたはずである。
年齢から、大学の学部まで同じでありながら、この開きはどうしたものか。才能の差といわれればそれまでだが、気持の上では納得できないものがある。才能もさることながら、川合は強い星の下に生れたのではないか、と思った。
辰夫はゆううつになってきた。川合が飛びまわっている環境と、辰夫の会社では差があり過ぎる。
地味な今の仕事が好きであることは変らなかったが、光り輝くようなテレビ局で動きまわる人々への羨《うらやま》しさが彼のなかで募っていた。
昼になった。金井と昼食をともにし、それから裏通りの喫茶店へコーヒーを飲みに行った。
「コマソンて、あるだろ。CM用の歌――あれ、一つ作詞すると、五万円だってさ」
辰夫は自嘲《じちよう》気味に言う。金井は、ひぇっ、というような声を発した。
「ぼくの給料、三カ月ぶんだ!」
「かなわんね、単位が一桁《ひとけた》ちがうんだから」
「ぼくもやってみたいなあ、作詞を……」
と金井はとんでもないことを言い出した。
「コマソンの作詞なんて、簡単だと思うんです。商品名をならべて、あと、ちょっと、味つけすればいいんだから」
「そうでもあるまい。修羅場《しゆらば》を踏むというか、かなりのキャリアが要るものだよ」
「そうですかね。歌詞だけ見てると、安易みたいだけど」
そのとき、白の夏背広を着た井田実がおもむろに店に入ってくるのが見えた。
「あの人は苦手なんです。ぼく、先に帰ります」
金井は立ち上り、井田に黙礼して、大股《おおまた》で出て行った。
井田は辰夫の傍までくると、
「あなたの前にすわってよろしいでしょうか」
と、慇懃《いんぎん》な口調でたずねる。
「その言い方はないでしょう」
辰夫は笑った。
井田は腰をおろすと、真新しいシガレット・ホルダーをとり出した。
「お忙しいようで……いろいろ、噂《うわさ》をうかがっております。川合|寅彦《とらひこ》と親しくお付き合いになっているとか」
厭味《いやみ》を含んだ口調だった。
「知り合ったばかりですよ」
と辰夫は言った。
「利口な男ですからな、あれは」
井田は煙草《たばこ》をホルダーに差し込んで、
「非常に利口です」
「面白《おもしろ》いですよ」と辰夫は言った。「面白いから、ぼくは好きです」
それは本音だった。川合に連れられて行ったところは、すべて、面白かった。パイを顔にぶつけられても、面白いのだった。そして、〈面白さ〉と反対の生き方――なにかを忍耐するとか、人生とは退屈なものだといった訳知《わけし》り風の生き方は、辰夫の好まぬところだった。
「あなたがそう思い込むことを計算して行動する男ですよ」
井田は執拗《しつよう》に言った。
「かも知れません」と辰夫は受け流して、「どっちにしろ、面白ければいいわけですから」
「どうも感覚がちがうんだな。川合寅彦やあなたの世代とわたしとは……」
辰夫は黙っていた。井田とは、せいぜい五つぐらいしかちがわないはずだが、この差は大きい。井田は戦中派の末尾に属するはずだ。
「あなた方は、どうも冷たい感じがする」
そうだろうな、と辰夫は思った。短期間ではあるが、井田のオフィスを借りていた身として、井田よりも川合と付き合いを深くしつつあるのは、疚《やま》しい感がないでもない。井田としては、もっと深い交渉を辰夫と持ちたいと思っているのかも知れなかった。
辰夫にしてみれば、失踪《しつそう》事件によって、井田に大きな幻滅をあたえられたのだった。
いや、失踪そのものよりも、屈折した、情緒不安定な性格に、なにかしら危険なものを感じて、足が遠のいた、というべきであろう。大ざっぱにいって、辰夫は暗い性格の人間が好きではなく、明るく、はっきりした人間に魅了される傾向があった。
「世代論で括《くく》られては仕方がありませんな」
辰夫はゆっくりと言った。
「わたしの僻《ひが》みですよ」
井田は態度を変えた。
「あなたが川合君のあの才気に心を惹《ひ》かれるのは、当然です。わたしは本気で転業を考えてるんです。ああいう男が出てきたら、こちらは食われっ放しですからね。お手あげもいいところです」
よくわかる、と辰夫は苦笑した。
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第九章 夏の果て
九月になるというのに、台風はおろか、雨の降る気配もなく、残暑が続いた。
三号目の売れ行きは、二号目よりもさらに悪いようだ。発売後五日間の数字を見る限り、そんな気がする。こういう小さな雑誌は、スキャンダラスな記事がのらぬ限り、売れるはずがない、と、斯界《しかい》の有能な編集者が呟《つぶや》いていたという噂が頷《うなず》ける気がした。たかだか二万人ほどの読者を相手に、「エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン」「マンハント」「ヒッチコック・マガジン」「SFマガジン」の四誌が鎬《しのぎ》を削っているのだ。二年遅れて、そこに割り込もうとすることじたい、無理なのだろうか。
あと十日ほどで校了になる四号目(十一月号)は、思いきって、誌面を変えてやろうと考えた。意欲的といえばきこえがよいが、半ば自棄《やけ》である。
まず、井田が書いてくれた戯文・パロディのたぐいに大はばな頁を割くことにした。パロディの頁は、社内でも、読者のあいだでも、賛否両論あるのだが、このさい――どうせ雑誌がつぶれるならば、やりたいことをやったほうが気持がすっきりするから――まとめて載せてしまうことにする。
川合は、辰夫が依頼して三日後に、ショートショートを五篇、届けてきた。一篇七枚として、三十五枚あるから、かなりの筆力だ。
「実は、この方面《パート》は、割り込む余地があると思って、まえからアイデアを練っていたのさ」
川合の言葉は辰夫を驚かせた。そのうち、二篇は、|落ち《ヽヽ》が弱いので、手を入れて貰《もら》った。これで、〈大型新人のショートショート一挙五篇掲載〉という柱ができ上った。
ほかにも、〈チャンドラーの未訳の中篇〉とか、〈テレビ西部劇への招待〉〈なつかしの禁酒法時代〉といった小特集があった。小説群のほかに、売り物が五つばかりあることになる。一冊わずか百五十円の雑誌の中に、これだけ詰め込んで、それでも売れないようなら、もう、やめてしまったほうがいい!
夜遅くアパートに帰ると、電話が鳴っていた。あわてて鍵《かぎ》をあけ、送受器をとると、暎子《えいこ》からだった。
――ごぶさたをいたしまして……。
ユーモラスな言い方に余裕が感じられた。
――お引越しのお祝いを贈ろうと思いながら、なにがいいか、わからなくて。
――とんでもない。
「スリーMジョッキー」の台本が成功したのだな、と辰夫は感じた。
――電話をかけるのを遠慮してたんだ。このまえ、怒られたから。
――怒った?
――ほら、赤坂のカフェテラスで会うまえさ。電話で、怒鳴りつけられた。あなたが忙しいのと同じくらい、私も忙しいって……。
――あら……。
暎子は明るく笑った。
――そんなこと、言ったかしら?
――本当に忘れたのかい。
――言ったかも知れないわ。忘れちゃった。
――ぼくのエゴイズムを指摘したんだよ。痛いところを突かれたから、ぼくも自粛していたのさ。
――忘れっぽいのよ。私って、怨《うら》みが持続しない|たち《ヽヽ》なの。
――それだけかな?
辰夫は揶揄《やゆ》する口調になる。
――忙しさが一段落したんじゃないかね。
――まあ、そんなところ。十月からの新番組に間に合ったわ。
――そりゃよかった。
――助かったのよ。いつか送って下さった版権切れのショートショートのリストと原書のおかげで。
――ああ、あれか。古い話だ。
――私にしてみれば、このあいだのことよ。いまでも、使ってるんですもの。
――そういえば、川合寅彦が抜群のショートショートを五つ、書いてきた。これは、ラジオでも使える。もしよかったら、川合に話してみる。
――むずかしいんじゃないかしら。
――大丈夫だと思うけどね。さすがは元ラジオ作家で、音の効果をよく計算している。脚色し易《やす》いんじゃないかな。
――お親しいの?
――知り合ったばかりだけど、感じの良い男だ。うじうじしたところがなくてね。
――よかった。タレントとしての川合さんにアプローチしたいと思ってたところなの。
――ショートショートが活字になった段階で、彼にきいてみよう。
暎子は黙ってしまった。辰夫も沈黙した。ややかん高く響くときもあるが、ひとことでいえば舌足らずのように甘くきこえる彼女の声によって刺戟《しげき》された欲望で彼の男性ははちきれそうになっている。
――しばらくね。
彼女の声の調子《トーン》が低くなった。
――幾日ぶりか覚えている?
――さあ……。
――二週間と三日、いえ、四日ね。
辰夫は答えなかった。彼の男性は、彼女の中へ入ってゆくときの感覚、内部の熱っぽい感触を記憶していた。
――どうしたの?
――なにを考えているか、わからないか……。
辰夫は熟睡した。雑誌の売れ行きの不安も、未知の世界への野心も、どこかに消え去り、彼は眠りの沼の底に沈んだ。
浮上して、意識が戻ってきたとき、なにかが焦《こ》げる臭《にお》いを感じた。
「なにか、燃えてないか」
彼は闇《やみ》の中で暎子に声をかけた。
返事はない。
手さぐりでスタンドを探し、紐《ひも》を引いた。となりのベッドは空になっていた。
立ちあがりざま、ベッドの脚に、左足の小指の爪《つめ》をぶつけた。ひどく痛かった。片足を引きずったまま、彼は居間に出て行った。
暎子の友達の亭主《ていしゆ》である米軍将校の所有するこの別荘は、葉山のハイウェイ沿いにある。白塗りの洋館で、だれもがスペイン風と呼ぶが、もともとは平凡な建物であったのを、ラテン系の主人が改築したらしい。その将校は、目下、米本土《ステーツ》に帰っていた。
「どうしたの」
白いショーツ姿の暎子が怪訝《けげん》そうに現れた。
「焦げてるような臭いがしないか」
「カレー、作ってるけど」
「カレーの匂《にお》いじゃないね」
辰夫《たつお》は白く塗ったバルコニーへ出てみた。そこからは長者ケ崎の一部が見える。
臭いは戸外からきていた。
「枯草を燃してるのかな」
「わかった。海草よ」
と暎子が言った。
「去年の今ごろ、ここにとまったの。こういう臭いで大変だった」
「海草を燃すのか」
「海岸でやってるのよ。夏の終りの行事みたいなものよ」
「安心した」
彼は暎子の腰に手をまわして、抱き寄せた。
「駄目《だめ》よ。山の上の家から見えるわ」
すばやく見上げながら暎子は笑った。
「花見音楽事務所の海の家も近いしな」
と辰夫は言った。
「とてもおいしいカレーを作ったのよ」
暎子は事件のように言う。
「カレーなら、よく、ひとりで作っている」
彼はからかう口調で、
「国産のカレーの缶詰も向上しましてね。サンタのなんか、ちょっとしたもんだよ」
「そういうのと違うの!」
暎子の眼《め》つきは真剣そのものだった。
雨が降りだしそうなせいか、海には人気《ひとけ》がなかった。堤防で釣《つ》りをする人々のみが目についた。
打ちあげられた黒い荒布《あらめ》の山に羽虫がたかっている。ほかにも、茶、朱、緑、さまざまな海草が渚《なぎさ》沿いに列をなしていた。
「砂の城のあとがあるわ」
暎子が大声で言った。
「子供が砂の城を作ったあと、波が崩したのね」
「でも、崩れたあとがよく残っているものだ」
辰夫は肩が痛かった。ゆうべ、使い慣れぬ筋肉を使ったせいだろう。
鳶《とび》の影が二人の頭を掠《かす》めた。
浜辺より一段高い石垣《いしがき》の上にある各会社の寮は、いずれも雨戸を閉ざしている。おそらく、来年の春までは開けられることがないだろう。
「海が濁っている」
と辰夫は言った。
「葉山なんて地名のイメージだけでね。もう五、六年まえから、汚れた海になっていた。町の住民が増える一方で、汚水をたれ流すからね」
「夢がないのね」
暎子は評した。
夕食は岬《みさき》にあるレストランですませた。盛夏にはカレーライスとハヤシライスしかできないレストハウスだが、九月になると普通のメニューに戻《もど》るのである。
別荘に戻ってから、辰夫は川合に電話を入れた。日曜日のせいか、電話は十分ほどでつながり、会話は三十分に及んだ。「ティーン・ショウ」の開始が近づいているのだ。
古風な受話器を壁にかけて、居間に戻ると、暎子はテレビを観《み》ていた。大きなテレビセットにうつし出されているのは、NHKの番組で、若いタレントたちに混って戦前の喜劇役者が出ていた。
暎子はテレビを観ながら、柿《かき》の種をつまんでいるらしく匂いが漂っている。
|駄目だ《ヽヽヽ》、|これは《ヽヽヽ》!
辰夫はそう感じた。
「終ったの?」
暎子はそうたずね、辰夫が柿の種の袋を見つめているのに気づいて、
「食べない?」
と言った。
辰夫は首をふった。
「嫌《きら》いなの?」
「嫌いじゃない」
彼は答えた。
|そろそろ終りかな《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、この女とは……。
彼は漠然《ばくぜん》と予感しながら、ソファーにもたれた。
暎子とは、出逢《であ》いからして、ドラマティックであった、と彼は思う。その後、惹起《じやつき》することも、偶然とはいえ、すべて、超ドラマティックであった。少くとも、〈淡々とした〉とか〈なんとなく〉といったものではなかった。衝動的とか、意外性、強烈な刺戟を好む点では、ふたりは似通ったところがあった。
暎子は、彼にとって〈日常〉の外にいなければならない女性であり、じじつ、彼のイメージの中では、ずっとそうであった。かりに汚れた境遇にあったとしても、高貴で、謎《なぞ》めいた部分を持っているはずだった。
しかし、安楽|椅子《いす》にもたれて、レベルの低いテレビ番組を眺《なが》めながら、柿の種の匂いを撒《ま》き散らしている女は、|日常そのものであった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。――とにかく、この匂いがたまらない!
辰夫がもっと包容力のある人間であれば、そこにこそ女性の愛らしさを見出《みいだ》すといったこともあったであろう。しかしながら、日常性それじたいのごとき柿の種の匂いへの嫌悪感《けんおかん》が先に立ち、その感覚ですべてが塗り込められてしまうところに、辰夫の感受性の特異さがあった。
その夜、彼は黙って、煙草《たばこ》を吸いつづけた。暎子がバーボンの水割りをつくると、黙って飲んだ。
「淋《さび》しかったから、なんて口実は口にしないわ」
突然、暎子が言った。
「私、エチオピアの男と寝たの」
辰夫は心臓を撃ち抜かれたように感じた。ソファーの上ではねるようにして、
「いつ?」
「つい、このあいだよ」
暎子は形のいい鼻を彼に向けた。
「エチオピアの男?」
「びっくりした?」
暎子の顔が蒼白《あおじろ》く見えた。
「どこで知り合ったんだ?」
「あなたに関係あることかしら」
「あると思うがね」
「ご親切ね」
彼女は水割りを呷《あお》った。
「デパートで絵の展覧会を見てたの。そうしたら、背の高い、色の黒い人が話しかけてきて、自分のアパートに絵を見にこないかっていうの」
「日本語でかい」
「そう。大使館の人ですって」
嘘《うそ》ではない、と直感した。しかし――エチオピアという国は、いまもあるのだろうか?
「で、アパートへ行ったわけか」
「親切な人だったわ。ちゃんと名刺をくれて、エチオピアへいらっしゃいって言ったの。いちおう大使館に電話してみたら、その名前の人はちゃんといたわ」
「きみは……」
辰夫の声は乾いていた。
「エチオピア人と寝て、平気なのか」
「あなたは差別してるのね、エチオピア人を!」
暎子《えいこ》の語気は鋭かった。
「してやしないよ」
「してるわよ。差別よ、平気か、なんて。エチオピア人て、とても紳士なんだから」
辰夫は紳士ではないと言いたいらしかった。
いずれにせよ、エチオピア人というのが具体的なイメージを結ばず、ただ、突飛なものとしか感じられないために、辰夫は返答のしようがなかった。
「……で、また、会ったのか」
「そう考えたけど、やめたの。つきまとわれるのが面倒くさいから」
電話をすべきだった、と彼は思った。彼が川合|寅彦《とらひこ》とはしゃいでいるころ、自尊心の強いこの女は孤独の底にいたのだ。
その年の九月、東京で雨が降った日は、二日しかなかった。
大型の台風が日本に接近したが、関西地方に逸《そ》れた。
不快指数が高いなかで、辰夫は会社に出勤し、アパートに戻って一度眠り、夜の十時に起きて雑文を三つほど書き、翌朝早く起きて、ラジオに出演する、といった生活が続いた。深夜に、暎子や川合からの電話で起されるのも、しばしばであった。
暎子は、彼が想《おも》っていたよりは、脆《もろ》く、愚かしいところがあった。その愚かしい部分に彼は惹《ひ》かれていた。放っておくと、なにをするかわからない女だった。
彼岸のころに、社の一泊旅行があり、全員が西伊豆《にしいず》の温泉へ行った。宿に入ると、黒崎《くろさき》と西は風呂《ふろ》にも入らずに碁を打ち始めた。ゴム仮面も風呂を無視してビールを飲んだ。これでは、なんのために温泉にきたのかわからない。奴凧《やつこだこ》と営業の青年は、湯を浴びてから、町に一軒だけあるという怪しげな女のいるバーへ出かけた。
「こんな夕方にバーが開《あ》いているのかい」
宿の浴衣《ゆかた》を着て下駄《げた》を突っかけた辰夫は、同行の金井に言った。
「昼間は喫茶店になっているというのですがねえ」と、金井はわらう。
「だいたい、今度の旅行は清遊の地を、と主張したのは、二宮さんなのに……」
「好き好きだな」
鄙《ひな》びた、感じの良い町であった。町の外れに穏やかな海があり、辰夫は葉山の海の色を想い出した。
翌朝、残暑がぶりかえした。午前十時発の汽船で沼津に向い、東海道線に乗ると、午後四時に東京に着いた。土曜日ではあるが、深夜のビデオ撮りがあるので、辰夫はその足でテレビ局に向った。ようやく、自分の日常に戻れたという実感があった。月曜日には、十一月号が発売になるのである。
「前野君……」
社の玄関でレインコートを脱いでいると、黒崎が声をかけてきた。
台風が沖縄《おきなわ》付近で停滞しているために、ひどく蒸し暑い。湿度は八十二パーセントだそうだが、それよりも微熱があるのが応《こた》えた。
「いやな天気ですね」
と辰夫は黒崎に言った。
「いやだな」
黒崎は調子を合せたが、本当はどうでもよい口調である。
正午近くに出勤したので、皮肉や厭味《いやみ》を言われても仕方がなかった。遅くも、十時半までにはくるように、と、たびたび注意されているのだ。
「飯でも食わんか。たまには、むさ苦しい男と飯を食うのも、いいだろう」
黒崎の鋭い一瞥《いちべつ》を浴びて、辰夫はたじろいだ。
「どうかね? ここらは大してうまいものもないが……」
「いえ、べつに……」
うまいものを探す気もない、と言おうとしたのだった。暑さで胃腸の具合が悪くなっていた。
「すぐそこに新しいビルができた。まだ、ひとが知らないから、めしどきでも空《す》いているよ」
断るわけにはいかなかった。辰夫はレインコートを着て、傘《かさ》をさした。
そのグリルは、たしかに空いていた。黒崎はステーキのレアを注文し、辰夫は野菜ジュースと蟹《かに》サラダをたのんだ。
「鶏《とり》の餌《えさ》みたいなものを食っとるんだな。もっと精のつくものを食わんと、仕事ができんぞ」
と、相手は冷やかすように言う。
「ひど過ぎましたよ、この夏は」
「夜の遊びが過ぎたのじゃないか」
黒崎は声を立てずに笑った。俗っぽい表現だが、それなりに当っている面がないでもない。
「十一月号の話だがな」
黒崎は辰夫を見つめたままで、
「都内の主な書店の店頭から無くなってしまったのだ。都内と、京都、大阪だな。まるで蒸発してしまったようだ……」
辰夫は相手の眼を見た。冗談ではなさそうだった。
「とりあえず、返品の状況を見るつもりだったが、在庫が切れた。しかも、各書店からの追加注文がきている。追加注文に対してノーと答えるか、増刷をするか、目下、西君と検討している。――自慢にはならんが、こういう事態はわが社としては初めてだな」
「でも、ぼくのアパートの近くの小さな本屋にはまだありますよ」
と辰夫《たつお》は慎重に言う。
「そうなんだ。こわいのは、増刷したぶんが、まるまる残ってしまうことだ。雑誌の増刷そのものが異例だからな」
黒崎は灰皿《はいざら》を引き寄せて、煙草をポケットから出した。
「小さな書店に残っているのを集めて、需要に応じさせるわけにはいかないのですか」
弾みそうになる気分を抑制しながら辰夫はたずねた。
「ある程度はそうするつもりだが、これも、言うは易《やす》く、おこなうは難《かた》しでなあ」
「増刷はこわい気がしますね」
「こわい。非常に危険だ」
「その辺は、ぼくのような素人《しろうと》には、まったくわかりません」
「わしにもわからんのだ。初めてのことだからな」
「そうすると……」
辰夫は、なおも信じ兼ねる気分だった。
「十一月号は〈売れた〉と考えてよいのですね」
「〈売れた〉というより、いまの感触だと、完売に近い――いや、完売といってよかろう」
それで、おれを飯に誘ったのか、と辰夫は合点がいった。
野菜ジュースを飲み終えた彼は、煙草をくわえた。店のマッチで火をつけ、ふかぶかと吸い込んだ。
とうとう、やった! 売れなかったら、三号目で首にすると宣告されたのに、四号目で完売を果したぞ!
彼は立ち上って、大きな声で叫びたかった。叫びながら、外の通りに走り出たかった。雨の中だろうと、台風の中だろうと、かまやしない。
「わしはきみの苦労がわかっておる。よくやってくれた……」
黒崎は煙草をもみ消して、
「いずれ祝杯をあげることになるだろうが、先に、ひとこと言っておきたかった」
「不思議だな」
と辰夫は噛《か》みしめるように言った。
「どうも、わからない」
「なにが?」
「雑誌ってものは、|どうして《ヽヽヽヽ》売れるのですか」
「そりゃ、きみ、編集によってだよ」
「ちがうんです。そういう意味じゃなくて……具体的にみて、十一月号が、なぜ売れたのかってことです」
そう言いながらも、辰夫の内部に解答がないわけではなかった。
半ば自棄《やけ》になり、どうにでもなれ、と開き直ったから、という答えである。しかし、これも、われながら、いいかげんなものに思えた。開き直ったからといって、雑誌が売れるわけでもあるまい。あえていえば、開き直り方が良かった、ということだが、これとて自信はない。
「きみの努力だろう」
黒崎の答えは抽象的であった。
「努力は、みんな、しているわけでして……努力しても売れないから問題なのです」
「それは、そうだ」
「ぼくは当事者ですから冷静に見られないのですが、内容としては、創刊号と二号のほうが良かったと思うのです。三号は、少しパワーが落ちているかも知れませんが。……はっきり言って、四号の内容はかなり偏《かたよ》っています。ぼくの好みが強過ぎると思うのです」
「成功したからといって、そう卑下することもあるまい」
黒崎の言葉は、どこか食いちがっている。
「卑下してるんじゃありません。読者の好みをさぐり兼ねているのです。もっと言えば、読者が百五十円を投じる魅力がどこにあったのかを考えています。そこを押えておかないと、次号から、また赤字になってしまうでしょう」
「そこまで考えているのか」
「そりゃそうです」
「次号のはなしか……」
黒崎は遠い先のことのように呟《つぶや》いた。
「きみが言うとる問題は、わしらが、永年にわたって考え、討議してきたことだ。十数年やってきて、結局、わからんのだ。……結果論はどうとでも言えるよ。しかし、それは、あくまで結果論でな。一つの雑誌が、なぜ売れて、なぜ売れなくなるかは、だれにもわからんのだ。いや、ごく数人の天才的経営者、天才的編集者にはわかるのかも知れん。しかし、わしにしろ、西君にしろ、ふつうの人間だ。|どうして《ヽヽヽヽ》と言われても、返事はできない」
そうだろうな、と辰夫は思う。
自殺した〈名編集者〉は、きみのやりたいことをもっと抑えれば雑誌が売れる、と教えてくれた。しかし、辰夫は、まさに、逆のやり方で、とりあえず、雑誌を売ったのだ。
社に戻《もど》った辰夫は、狭い階段を登ろうとして、営業の青年のけたたましい声をきいた。気は良いのだが、騒々しいのが欠点だ。思わず、倉庫の入口をふりかえって見る。
薄暗い場所に、紺のジャンパーを着た若者が立っていた。
「汚れていてもいいんですよ」
「いや、まずいです。不良品をお売りするわけにはいきません」
と営業の青年が大声を出す。
「どうしたんだ?」
辰夫は声をかけた。
「あ、前野さん」
青年はあわてた。
「きこえましたか」
「きこえるよ、そんな声を出せば」
「こちら、大宮から十一月号を買いに見えたんです。でも、ほら、一冊もないもので」
「きみの手に、一冊あるじゃないか」
「倉庫の隅《すみ》に一冊だけあったのです。表紙が汚れてて、とても売れないですよ」
「頭が固いな、きみも」
辰夫はうんざりした。
「それでもいいとおっしゃってるんだから、お渡しすればいいじゃないか」
「でも、これでは、商品として……」
「差し上げればいいだろう」
「あっ、そうか!」
青年はまた大声を出す。
「遠い所をわざわざ、ありがとう」
辰夫は近づいてゆき、髪を短くカットした面皰《にきび》だらけの若者と握手した。自分が編集する雑誌の読者の顔を確認するのは初めてである。たとえば、こういう若者なのか、と彼は肝に銘じた。
十一月号は、五千部増刷が決った。小出版社の悲しさで、黒崎が陣頭指揮をしても、迅速とまではいかない。刷り上った雑誌を手に取ると、表紙のオレンジ色の刷りがかなり薄くなっていた。
辰夫は不満だった。それでも、五千部は、あっという間に無くなった。
城戸草平《きどそうへい》から電話が入って、今夜、赤坂の料亭《りようてい》にくるように、と指定してきた。
政治家が使うことで有名な料亭に足を踏み入れるのは初めてであった。門から玄関までは、野趣を感じさせるべく、わざと雑草を繁らせてあるらしい。
どこが高級なのか、よくわからないが、広いのは確かだった。都心であるにもかかわらず、山の中か武蔵野《むさしの》の外れででもあるかのように騒音がまったくきこえなかった。女中の酌《しやく》で酒をくみながら虫の音《ね》をきいていると、いかにも、〈俗塵《ぞくじん》を避けた〉気分になる。
「まえにも言ったが、ぼくは、きみがたちまち逃げ出すと思っていた」
城戸草平は含みのある笑いを浮べて、
「四号で増刷なんて、まず、きいたことがない。いったい、何が原因なのだ」
と、たずねた。
「それがわかれば苦労しません」
辰夫は苦笑した。
「おい、きみは狡《ずる》いぞ」
城戸はからかうように続ける。
「手の内を明かしたまえ。きみは、何かを掴《つか》んだはずだ」
まったく掴んでないとは言えなかった。しかし、それは、現代を息急《いきせ》き切って走っているごく少数の同時代者にしか伝わらないたぐいの直感であった。
「きみという男は、単純なのか狡いのか、ぼくにはさっぱりわからん。とにかく、新時代の感覚だと思う」
〈新時代〉とは古めかしい表現であったが、辰夫は神妙な表情できいていた。
「その感覚が本物であることは、もう、わかった。ぼくとしては、それを、『黒猫《くろねこ》』のほうにも生かして欲しいのだ。『黒猫』は関係がないという態度では困る」
冗談じゃない、と辰夫は首をすくめた。ようやく、「パズラー」が|ものになってきた《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》のである。それだって、次号はどうなるかわからないという危うさなのだ。
「関係がない、なんてことはありません。同じ会社のものですから」
辰夫は弁解した。
「でも、いま、ぼくが『黒猫』の編集方針を云々《うんぬん》したら、無用の摩擦が起ると思うのです」
「うむ……まあ、そうだな」
「それでなくても気を悪くしている人がいるはずですから」
「わかっておる」
軽く頷《うなず》いた城戸は、急に、声を荒らげた。
「しかし、あれは、ぼくの雑誌だからな。最終的には、ぼくが、やりたいようにするのだ……」
語尾に力がなかった。城戸草平の体力が衰えている、と黒崎が心配しているのは本当らしい。
「とにかく、よくやってくれた。これからも、よろしく、たのむ。飽きたから、やめたい、なんて言わないでくれよ」
辰夫は深く頭をさげた。
「一時間後に御供《おとも》を一台たのむ」
城戸は女中に命じた。
「銀座へ行こう。銀座には久しく足を向けとらん。今夜は徹底的に飲むことにしよう」
意外に早かった、というのが、辰夫の実感であった。六号目ぐらいからエンジンがかかれば上々だと思っていたのだが、事態は一挙に好転した。どうも、この世界は、|ほどほど《ヽヽヽヽ》ということがなく、非常に売れるか、あまり(あるいは、まったく)売れないかのどちらかであるようだ。
書評専門の新聞の記者が話をききたいと電話してきたので、彼は社の近くの喫茶店で会うことにした。
業界の内部に通じた様子の眼鏡をかけた温顔の記者は、「面白《おもしろ》い雑誌ですね」と、まず言った。
「しかし――面白ければ売れるとは限らないのですから、売れる原因は何でしょうか。それを教えてください」
自分の口調が紋切型過ぎると思ったのか、はは、と笑ってみせた。
「売れるといったって、『英語に強くなる本』みたいにはいかないのですから」
と辰夫は答える。
「英語に強くなる本」は、一橋大教授が書いた新書判の本で、週刊誌が特集でとりあげたせいもあって、発売後六十日で七十五万部を突破したと喧伝《けんでん》されている。
「ああいうものは別格です」
記者は首を横に振った。
「あの種のハウ・トゥ物は、これからもベストセラーになるでしょう。ただ、大学生の読書の第一位になるなんてことは、少しまえだったら考えられなかった。大学生の知的水準が下った証拠です。……雑誌に話を戻しますが、たとえば週に九十万部刷ってる女性週刊誌があります。さっき、そこの編集長に話をきいてきたのですが、『自分は九十万の週刊誌を作ることはできる。しかし、三、四万部の月刊誌の編集となると、どうしたらいいかわからない』と言うわけです」
「ぼくだって見当がつきません」
辰夫は言った。
「そこですよ」
記者は力を入れて、
「比較することじたいナンセンスなのですが、その週刊誌の場合には、マーケット・リサーチが行き届いています。読者の年齢、職業、いま何に興味を持っているか、といったデータが、たえず、更新されています。それらを参考にして企画を立て、資本力にものをいわせて大宣伝をするわけです。これは、他の商品、口紅や石鹸《せつけん》を売るのと、実は、変りがないわけです。……これにくらべると、前野さんがなさっているのは、家内工業に近い線ですね」
「ええ、完全にそうです」
「失礼ですが、資本もない、マーケット・リサーチもままならない、と思うのです」
「おっしゃる通りです」
「そうした中で、どうして完売なんて離れ技をやってのけたのか――うかがいたいのは、その一点です」
城戸草平にきかれたのと同じ質問だった。
「わかりませんね」
辰夫《たつお》は溜息《ためいき》をついた。
「結果論はどうとでも言えます。それは、あとで申しあげます。このままでは、記事にならないでしょうから。……ただ、本当のところは、なんとも言えません。こっちが読者にプレゼントしたものと時代の波長が、たまたま、合ったということかな」
辰夫はかすかに笑って、
「それに……かりにぼくが原因を把握《はあく》していたとしても、口にはしないと思います」
文化社には大工が入り、崩れかけた壁を直し始めた。壁だけではなく、あちこちの手入れがおこなわれた。いままで、再三にわたって出されていた要望を、黒崎《くろさき》がようやく受け入れたのだ。
黒崎は辰夫の要求をも呑《の》んだ。辰夫の下で働く編集者ひとりと、校正係りをひとり増やすことである。
辰夫と金井は、駅とは反対側の裏通りにあるカレー屋に足を向けた。飯が食べきれないほど出るのが取柄《とりえ》の店である。
「昼めしが、ラーメンか、カレーに決っているのは侘《わ》びしいですなあ」
金井は大声で言う。
大盛りのカレーを食べ終えて、コーヒーを飲み始めたとき、「十五分ばかりいいですか」と金井がきいた。
改まって何の話だ、と辰夫は思う。
「いちど、前野さんとゆっくり話したかったんですよ」
「どうぞ、どうぞ」
辰夫はおどけた調子で答える。
「時間なら、たっぷりある」
「前野さんは口が固いから、安心して喋《しやべ》れるのです」
「ぼくは、なんでも喋っちゃう方だよ」
「ちがいます。一見、そうですが、秘密は守ってくれる人ですよ」
そう言って、金井は軽く咳込《せきこ》んだ。
「莫迦《ばか》らしいと思いませんか、いまのわれわれの在り方を」
「え……」
辰夫は意味が掴めなかった。
「ぼくはともかく、前野さんは損をしてますよ。絶対にそうです」
「待ってくれ、なんの意味だ?」
「……つまり、ですね。あなたは、編集者として抜群の才能があると、ぼくは思うのです。いや、初めから思っていたからこそ、あなたに味方したのです」
「ありがとう」
と、辰夫は答えた。
金井に対して、彼は礼らしい礼をしていなかったが、彼の夢が実現に向ったとき、金井は重要な地位《ポスト》につくはずであった。また、夢が実現しない場合にも、自分の力で、金井を「別冊・黒猫」の編集長に引っぱり上げるつもりだった。
「よく考えてくださいよ。われわれ、と言いたいところですけど、実際は、あなた、です。あなたは、奇蹟《きせき》に近いことをやったんですよ。その力は、そばで見ていたぼくが、いちばん知っているんです。摩訶不思議《まかふしぎ》というのは、あなたのためにある言葉です。三十分まえに頑固《がんこ》に主張していた意見と正反対のことを急に言い出すんだから」
「申しわけない。|つけ《ヽヽ》はそっちに行くわけだからね」
「そんなことはどうでもいいのですが、面喰《めんく》らったですよ、馴《な》れないうちは」
「ぼくは、その瞬間瞬間においては、誠実な発言をしているんだ。ただ、アイデアが刻々変るんでね。客観的にみれば、いいかげんな奴《やつ》に見えるだろうね」
「もう、馴れましたから」
「皮肉を言うね」
「皮肉じゃないですよ。ぼくみたいな凡人は、アイデアが湧《わ》くのを待っているんです。結局、なにも湧いてこないのですがね。――あなたの場合は、次から次へとアイデアが湧いてくる。それは、あなたにしてみれば当然なのですね。むしろ、アイデアをいかに棄《す》ててゆくかが勝負だってことが、身をもって、わかりました。あなたにとって詰らないアイデアを棄てていって、最後に残したアイデアを、最大限、有効に使う。その使い方というか、博打《ばくち》でいう張り方が凄《すご》い。ぼくは、ずっと観察していたから、わかるのです」
「大げさだよ、それは」
辰夫はコーヒーのお代りを頼んで、
「しかし、アイデアを使わないで、なにを使おうというんだ」
「そこですよ。前野さんはよく、どこどこの雑誌が他誌のアイデアを盗んだって怒るけれども、世の中にはアイデアが湧いてこない人間が圧倒的に多いのです。とすれば、よそのアイデアだろうとなんだろうと、使わざるを得ないでしょう」
「それじゃ泥棒《どろぼう》だ」
「生活のためには、やむを得ないですよ」
「〈生活のため〉で、すべてを正当化されちゃたまらないよ。――いいかい。ぼくは、きみがいうほどのアイデアマンじゃない。ない知恵を絞って苦労しているんだ。しかし、どんなに苦しくても、他人《ひと》が一度でも使った手は使わない。もっとも、外国の雑誌からは、いろいろ拝借しますがね。……要するにだな、アイデアを大事にしない奴は編集者になってはいかんのよ。そういう奴は職業の選択を誤ったとしか思えないね」
「きびしいなあ!」
「絶対にそうだよ。商社につとめている友達の仕事ぶりをきくと、もっときびしいぜ。ブレーンストーミングの連続で、のべつ頭がくらくらすると言っている」
「でしょうね。津田さんや二宮さんは、仕事がきついとぼやいていますが、同じ出版社とはいえ、他社は、うちみたいに呑気《のんき》じゃありませんもの」
「きみは特別だ。身体《からだ》を動かして飛び歩いていることでは、いちばんだろう」
「そんなことはないですけど、ぼくは人に会うのが好きなのです。何人会っても、全然、疲れません」
「特技だね、それは」
「ぼくは父親から物質的には何も貰《もら》っていないのですが、肉体だけはタフなのをゆずり受けました。肉体だけってのも、淋《さび》しいはなしですがねえ」
「貴重な財産だよ」
と答えながら、いったい、この男はなにが言いたいのだろう、と辰夫は思った。
「へへ、顔の広さでは|ひけ《ヽヽ》を取りません」
金井は自信ありげに笑う。たしかに、金井は流行作家、時流に乗っている評論家などに、臆《おく》するところなく、声をかけ、挨拶《あいさつ》をする。そばで見ていて、はらはらするほどである。
「前野さんの尽きることのないアイデアと、ぼくの顔の広さが結びつけば、鬼に金棒だと思いませんか」
辰夫は相手の顔を直視した。白いひたいに汗が滲《にじ》み出ている。
「どういう意味だい?」
「莫迦らしいと思うのですよ」
金井はまた軽く咳をして、
「雑誌が売れたといって、会社ははしゃいでいます。建物を修理したり、備品を新しくしています」
「いいじゃないか、やらしとけば」
辰夫は嗤《わら》った。社内の人間が彼に接する態度が柔らかくなったことで彼は満足していた。
「それに、次の号も売れるとは限らないしさ」
「いや、売れます。当分は大丈夫です」
金井は断言した。
「首を賭《か》けてもいいですよ」
「きみとぼくの給料も、少しは上るらしいぜ」
「欲がないんですな、あなたは」と金井は呟《つぶや》いて、「実は、黒崎さんと西さんの会話を、つい、立ち聴きしてしまったのです。これからは、前野さんにもっと働いて貰おう、と話してました」
「働いてるつもりだがね、これでも。社の仕事以外、いっさい禁じると言われたら、困るけれど」
「そんなことは言いませんよ。黒崎さんから見れば、あなたは金の卵を生む鶏ですもの」
突然、辰夫は大声で笑い出した。
「なにがおかしいんです!」
「金の卵がキンタマと聞えたんだ。キンタマを生む鶏がおれ、ってのが、すごくおかしい」
「笑ってる場合じゃないですよ」
金井は|顳※[#「需+頁」]《こめかみ》に青筋を立てて、
「文化社は、前野さんひとりに頼ろうとしてるんです」
「そうしたいなら、勝手にすればいい。ぼくにそんな力がないことは、すぐにわかるはずだ」
「あなたは自分の置かれている状況とか能力をまるで考慮してないんだ!」
金井は怒鳴るように言った。
それがどうした、と辰夫は思う。彼の頭の中には、今後二、三号の編集内容、「ティーン・ショウ」の視聴率、暎子《えいこ》がまたエチオピア人と寝ているのではないかという不安などが、渦巻《うずま》いている。さらに、もっと、いい女がいないか、という怪《け》しからぬ考えも、頭の隅《すみ》にある。こんなに様々な野心や欲望がつまっていては、|どうでもいいこと《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》を考える余裕なんかありゃしない。
「前野さんには、ジャーナリズム内部の視線が集っているのです。つまり、あなたの才能の売りどきなんです」
「売りどき?」
「まだ、わかりませんか」
金井は焦《じ》れったそうに、
「あなたとぼくとで出版社を作るのです。出版社なんて、部屋一つと電話一本あれば、簡単にできますからね。スポンサーとの交渉とか、法的手続きは、全部、ぼくがやります。前野さんは社長で編集長というわけです。あなたがアイデアに専念してくれれば、原稿依頼とか、そういう雑用は、ぼくが引き受けます。これは、絶対に成功すると思うのです。あなたの頭脳を、みすみす、黒崎たちのために浪費する手はありませんよ」
この男、本気らしい、と辰夫は思った。しかも、これは、辰夫の抱く〈夢の砦《とりで》〉構想にどこか似ていた。あえていえば、理想主義のかけらもない、〈夢の砦〉構想の醜悪でグロテスクな戯画《カリカチユア》であった。
「しかし、二人だけでは雑誌も本もできないぜ」
「場合によっては、文化社の編集部から、使える人間を引き抜くんですよ。どうでしょう?」
おそろしいことを口にしているのに、この男は気づいているのだろうか、と辰夫は疑った。
それに、黒崎が辰夫を〈利用〉しようとしているのとまったく同じように、金井も辰夫を利用しようとしているのであり、それらが同一の発想であることに、金井は気づいていないらしい。
「|われわれ《ヽヽヽヽ》の会社では、儲《もう》けの大半は、あなたとぼくが取るのです。どうでしょう?」
金井の口調には切羽詰《せつぱつま》った響きがあった。なぜそんなに焦《あせ》るのか、辰夫には理解できない。
そもそも辰夫には、会社の経営などという志向がなかった。他人《ひと》を雇って、動かすなど、思うだに面倒である。他人《ひと》を雇えば、その他人《ひと》の扶養家族のことまで考えねばならぬ責任が生れよう。
だれにも面倒をみて貰わず、だれの面倒もみたくない、というのが、辰夫の主義である。日本では通じにくい主義だが、生れつき、そう考えているのだから、仕方がない。自分が日本の社会に向いていないことも、いちおうは解《わか》っている。こと志に反して、城戸草平《きどそうへい》の世話になってしまったが、もう少し文化社のために働けば、借りを返したことになるだろう。
「考えてくれませんか?」
金井は返事を促した。
「儲けなんて言い方をしたので、気を悪くされたんじゃないですか」
まあ、それは……と辰夫は口籠《くちごも》った。無神経な喋り方は金井の癖だから、いちいち気を立てても始まらない。
金に興味がない、などということはなかった。ただ、会社を設立して、どうこうする、といった発想が辰夫にはないのだ。とりあえずは、独身者として快適な生活ができれば満足なのである。
金井は焦り過ぎている、と思った。なんらかの個人的事情があるのかも知れないが、いまの金井が出版社を作ったとして、成功の確率は十パーセントもあるまい。
しかし、明らさまに「ノオ」と言うわけにはいかなかった。精神的に、金井には若干の借りがある。大胆ではあるが穴だらけの金井の企画を、正面から論破するのは避けたかった。
「編集の面では、|いける《ヽヽヽ》かも知れない」
辰夫はゆっくりと言った。
「大丈夫ですよ、絶対!」
金井は自信過剰気味に叫んだ。
「だけど、営業マンはどうするの?」
「営業マン……」
「それが問題じゃないか」と辰夫は声を低める。「素人《しろうと》じゃあるまいし、営業マンのしっかりしたのがいるかいないかが、成否の分れ目だってことは、きみの方が、よく知ってるはずだ」
「そうか」
金井は唇《くちびる》を噛《か》んだ。
「うちの営業部が弱いのは有名だろう。そこから飛び出したとして、また営業部の弱い会社を作ったのでは、同じことだ」
「それはそうです」
金井は表情を曇らせて、
「どういう手を打ったらいいでしょうか?」
「まさか、ぼくらが営業マンを育成できると思ってはいないだろうね。他の出版社の辣腕家《らつわんか》を引き抜くよりないぜ」
辰夫《たつお》は念を押すように言った。金井の夢がどれほど無謀なものか、金井自身が気づくように仕向けるしか方法がない。
「弱りましたな。だれか、心あたりがありますか」
と、金井は吐息を漏らした。
「たとえばさ……」
辰夫は、ベストセラーを立てつづけに世に送ることで知られた出版社の営業マンの名を口にした。三十代半ばのその男とは金井も面識があるはずだった。
「しかし、あの男が動きますかね」
「たとえば、の話さ。でも、あのレヴェルの男じゃなければ、引き抜いても意味がない」
「そうですねえ」
「そこらの見通しが立ったら、ぼくも改めて考える」
辰夫は打ち切るように言った。
「城戸先生にはご内聞に願います」
「わかってるよ」
「あなたの計画の第一段階は通過したじゃないの」
キャンティのグラスで乾杯した暎子が言った。
キャンドル・サーヴィスが売り物の「アントニオ」は、時間が早いせいか、まだ空《す》いている。テーブルの三分の二は、客がいなかった。
「どうかねえ」
「とにかく、おめでとうございます」
暎子はもう一度くりかえした。
「きみの方こそ」
「私のは、ささやかなものよ」
そう答えたが、暎子は気分が良さそうだ。
「とにかく、疲れた。もっとラクな仕事につきたい」
「ゼイタクな悩みですよ。まだ、これからじゃないの」
「さあ?」
「いつか話してた計画は、どうなるの? スポンサーを探して、自分の雑誌を作るっていう……」
「あ、あれは、やめた」
辰夫の唇に苦い笑いが浮んだ。
「どうして?」
「むずかしいってことがわかったんだよ。くわしく説明しなくてもいいだろ?」
「うかがいたいわ」
「アパートの一室にしろ、会社を作るってのは大変だってことが、|あること《ヽヽヽヽ》からわかったんだ。今みたいに、編集に専念できなくなる懸念《けねん》もある。――で、考え直したわけさ」
「どんな風に?」
「よく考えてみれば、いまの『パズラー』だって、推理小説雑誌として売れているわけじゃないんだ。むしろ、そうじゃない部分が読者を惹《ひ》きつけているのだと思う。読者カードによれば、そういう声がかえってきている。……そこで、考え直した。なにも、新しい雑誌を創《つく》るまでもないのさ。『パズラー』を理想の雑誌に改造してしまえばいい、とね」
「なるほど」
暎子は予想したほどは驚かなかった。
「コロンブスの卵ね」
「会社が欲しいのは、〈売れる雑誌〉であって、べつに翻訳ミステリの雑誌じゃないんだ。売れさえすれば、なんでもいいってところもある」
「ちょっと口をはさんでもいいかしら」
「どうぞ」
「あなたの考えはわかるわ。でも、そうなると、『パズラー』という誌名と内容が合わなくならない?」
「合わないよ。そこが問題なのだ」
辰夫はキャンティで喉《のど》を潤《うるお》した。
「『パズラー』という誌名は、初めから気に入らなかった。もっと幅の広い誌名にすべきだったのだ。……しかし、誌名変更となると、大騒ぎになるからね。ぼくは、このまま、押し切ってしまうつもりだ。毎号、翻訳ミステリを三|篇《ぺん》ぐらい載せればいい」
「苦しいわね、ちょっと」
「非常に苦しいよ、辻褄《つじつま》を合せようとすれば」
「……ねえ」
「だから、いっきにはやらない。少しずつ変えてゆく。――或る日、会社の上層部が気づいたら、目次に翻訳ミステリが三つしかなかった、っていう風に持ってゆくよりないね」
「強引というか、むちゃくちゃね」
暎子は批評する。
「むちゃくちゃといえば、ぼくみたいな素人を編集責任者にしたことじたい、すでに、むちゃくちゃなのだ」
と、辰夫は開き直るように言い返した。
「でも、一つの文化圏を作るとなると、むずかしいんじゃない? あなたは、所詮《しよせん》、サラリーマンなのですもの」
「まあ、雑誌の売れ行きしだいだな」
さすがに喋《しやべ》り過ぎたと反省したのか、辰夫は口をつぐんだ。彼の肚《はら》づもりでは、売れ行き良好が続いたら、黒崎《くろさき》にたのんで、近くのビルの一室を借りてもらう予定なのだ。そこなら、同世代の人々の出入りが自由になるはずである。
オリーヴの実を入れたサラダがきた。辰夫はオリーヴの実だけを口に入れて、
「きみの仕事はどう?」
「『スリーMジョッキー』が成功したおかげで忙しくはなったわ。ちっともお金にならないけれども」
「どうして?」
「あなたと同じよ。お金は事務所が吸い上げちゃうの」
「ひでえなあ。独立したらどうだい?」
「まだまだ、とても、よ。でも、いいの。自分の好きなことをして生活していけるのですもの」
「そりゃ謙虚過ぎるぜ。よその事務所に移ったら?」
「私ふぜいがそんな真似《まね》したら、干されちゃうわ」
「ぼくには内情がわからないが、ずいぶんひどい世界なんだな」
「そうよ。せめて、あなたひとりだけでも優しくしてよ」
「待てよ。話が混線しちゃうじゃないか」
食事のあと、ふたりは霞町《かすみちよう》(現・高速3号下の西麻布《にしあざぶ》交差点)から青山一丁目まで歩いた。それでもなお、別れがたい気分の辰夫は神宮|外苑《がいえん》の暗がりを銀杏《いちよう》並木ぞいに絵画館の方へと足を向けた。
編集の仕事となると、辰夫の頭脳の中でのものごとの方向づけはきわめて判然としている。なにを生かし、なにを棄《す》てるかの判断が素早いのだ。しかし――暎子に対する態度はいまひとつ煮えきらない。そろそろ終りかな、と思ったのは事実だが、いままでにこれだけ自分を理解してくれた女はいなかったと感ずることもあり、結局、アタマが悪いのではないかと腹立たしく思うときもあったりして、揺れ動いている。メロドラマ小説の惹句《コピイ》に〈揺れ動く女心〉というのがよくあるが、男心だって〈揺れ動く〉のである。
おりしも秋である。しかも、一雨きたあとの夜となれば、濡《ぬ》れた道路が光っている。花鳥風月に縁遠い辰夫といえども、虫の音に耳を傾け、自分が夜霧の空港に佇《たたず》むハンフリー・ボガートででもあるような錯覚を起すのだった。
暎子は、突然、
「私、妊娠したのよ」
と言った。
辰夫の足は凍りついた。ハンフリー・ボガートの亡霊は瞬時に消え去った。
「え……」
一拍遅れて、不自然に驚いてみせる。
――そんなはずはない、と思うものの、記憶が不確かである。
「例の、あれか。あのエチオピアの……」
「あなたの子供よ」
彼女ははっきりと言った。
「待ってくれよ。えーと……」
どうも納得できなかった。あれは……いや、そんなことは……。
「どうする?」
断乎《だんこ》とした口調である。
動転した辰夫は、しばらく、声が出なかった。
「子供といったって……きみは仕事を持っているじゃないか」
われながら愚かしい言葉だった。しかし、ほかに、どう言ったらいいのだ?
「間違えないで。結婚して欲しいと言ってるんじゃないの。あなたが子供が欲しいかどうか訊《き》いてるの」
辰夫は沈黙した。返事のしようがない質問であった。
「やっぱり……」
水銀灯のせいか、彼女の顔は蒼《あお》ざめていた。涙ぐんだ眼《め》が彼を睨《にら》みつづけている。
「嘘《うそ》よ」
と彼女は言った。
「あなたがどう答えるか、試してみたの」
「本当なんじゃないか」
彼は深刻な表情を変えなかった。試す口調ではなかった、と感じた。
地下鉄の外苑前駅まで暎子《えいこ》を送ったあと、彼は近くのボウリング場の喫茶店に入った。
彼女は飽くまで嘘だと言い張った。辰夫が処置しろという方に、ひそかに賭《か》けていたというのだ。
混乱した辰夫は、なにがなんだかわからなくなっていた。ただ、彼の計算では、日数が合わないのである。
コーヒーを注文して、マガジンラックから新しい週刊誌を抜いた。グラビアから眼を通し始めたが、活字が頭に吸い込まれてこない。
嘘だ。あれは、おれを試しただけだ。――そう思いたかった。
しかし、嘘だったとしても、自分の心は見抜かれたわけである。
熱いコーヒーをブラックで飲んだ。読む気がないままに、週刊誌の頁《ページ》を荒っぽくめくった。
川合|寅彦《とらひこ》が笑っている大きな写真が眼にとび込んできた。
驚いた辰夫はコーヒーカップをテーブルに置き、写真の下の記事に眼を寄せた。
[#1字下げ]〈放送作家――というより、いまや、可ならざるものなしの多才な男。タレント、コラムニスト、そして、さいきんはショートショート作家と活躍の場をひろげた川合寅彦(二八)が、今度は作詞に挑戦《ちようせん》! とはいうものの、ご当人は、「あれは、とっくにすんだ仕事。おれにとっては過去に属する」と平然たるもの。しかし、ヒットチャートの十位内に入ってくれば、業界が放ってはおかない。しかも、この歌、「夏の果て」は、お盆興行用に製作され、オクラ入りした映画の主題歌とくるから、ふるっている。主題歌のヒットにびっくりした製作会社は、オクラ入りしていた「檻《おり》の中の青春」を公開するかどうか、あわてて検討中。「そんなことやってるから、日本映画は観客が減るのさ」と川合寅彦は意気軒高たるものである。……〉
冷静にみれば、わずか一頁の記事なのだが、辰夫は叩《たた》きのめされるように感じた。いつか、タクシーの運転手に喧嘩《けんか》を挑《いど》んだ記者が書いたのだろう。揶揄《やゆ》的な文体の底に川合への好意が滲《にじ》んでいた。
おれは何をやっているんだ!
握りこぶしでテーブルを叩きたい気持に駆られた。
ジャンルが違うといえばそれまでだが、リヤカーを引っぱっている自分の脇《わき》を、川合が乗ったスポーツカーが轟然《ごうぜん》と走り抜けたようだった。
[#改ページ]
第十章 逆転
デスクに置かれた十二月号の見本に、辰夫は手をのばした。
見本といっても、書店にならぶ雑誌と外見が異《ことな》るわけではない。店頭に積み上げられる数日まえに、製本されたばかりの雑誌が、編集者の手元に届けられる。それが、業界用語でいう〈見本〉である。
見本を手にするのはもう五回目なのに、辰夫は胸のときめきを抑えられない。ビニールを貼《は》った表紙は、文字通り、光っている。撫《な》でると、すべすべして、とても気持が良い。十月下旬に出る雑誌が十二月号というのは違和感があるのだが、慣習だから仕方がない。こんな雑誌がほかにあるかという誇らしい気持と、頁をあけたらとんでもない失敗《ミス》を犯しているのではないかという惧《おそ》れが、胸中を交錯する。
彼のデスクの電話が鳴った。
――わしだ、黒崎だ。
――たったいま、見本を貰《もら》いました。
――しっ、なにも言うな! わしがかけていることがわかってしまう。
――はあ……。
――すぐに第一ホテルまできてくれ。入ってすぐのコーヒーハウスだ。
辰夫《たつお》は送受器を戻《もど》し、見本を一冊、手にして、立ち上った。
第一ホテルは、都電の線路をわたってすぐの位置にあった。中級ホテルとはいえ、弱小出版社の社員が出入りする場所ではない。経費節約を叫びつづけている黒崎が好んで利用するとも思えず、なにかしら秘密めいたものが感じられた。
紺のダブルをいかめしく着た黒崎は、代貸《だいがし》然とした苦い表情でコーヒーを飲んでいた。辰夫を見ても、にこりともしない。
「どうしたんです」
辰夫は向い側の椅子《いす》にすわった。
「なにか注文したまえ」
辰夫は、女の子に、紅茶と言って、「なにか、あったのですか」と改めて、たずねた。
「いろいろだ。どこから話したらいいか、わからない」
唸《うな》るように黒崎は答える。小さく細い眼が動かないのが、気味が悪い。よほど肚《はら》に据《す》えかねたことがあるようだ。
「津田君のことだが――作家たちの中に彼をボイコットする動きがあるのを知っとるか」
「ええ」と辰夫は頷《うなず》いた。
「編集部にいれば、自然に耳に入ってきます」
「そうじゃろうな」
「黒崎さんは、どうして知ってらっしゃるのですか?」
その方が不思議だった。
「わしは西君からきいた。西君は二宮君からきいたらしい」
「なるほど」
「酒癖がいちだんと悪くなったらしいなあ」
黒崎は大きく溜息《ためいき》をつく。
辰夫はテープの一件を話そうか、と考えた。しかし、話をややこしくするおそれがあった。ここでは黒崎の話に耳を傾けているだけのほうがよさそうだ。
「『黒猫《くろねこ》』の売れ行きが、秋に入って、また悪くなった。城戸《きど》先生も、わしも、その件で津田君に文句を言うとる。そのせいかも知れんが……」
「ボイコットの動きは、もっと前からですよ」
「わかっとる。若い作家たちが一致して、津田君が編集長のあいだは『黒猫』には執筆しないと言うとるのだろ」
「あの人たちは、城戸先生に義理も借りもないのですから、当然です」
「そりゃそうだが、わしは困るのだ」
黒崎は意味ありげに口を噤《つぐ》んだ。どうやら辰夫の内部に蟠《わだかま》っている不満を誘い出したいらしい。
「若い作家たちが執筆しないために、誌面がどんどん老化してゆく。読者は離れる一方だ。経営者として黙って見とるわけにはいかん」
辰夫が沈黙しているので、黒崎は念を押した。
「手を打たねばならんのだ」
いまごろ、何を言っているのか、というのが辰夫の気持である。すべて、我慢しろ、と命じられて、今日まで耐えてきた。テープ事件の時は、ゴム仮面を殺してやろうか、と思ったほどであった。……今では、ゴム仮面が存在しなくなるなど思いもよらない。とにかく、ゴム仮面の権力意志に触れぬようにして、仕事をしてゆくより道はない、と諦《あきら》めている。
「城戸先生にお願いするしかない。わしの力では、どうにもならんからな」
「待ってください」
と辰夫は言った。
「どうも風向きがおかしい。なにか、あったのですか?」
「うむ?」
「黒崎さんが、そこまで思いつめた原因があるんじゃないですか」
辰夫は相手の細い眼を見た。
「そりゃ、きみ、『黒猫』の売れ行きの極度の落ち込みだな」
「それだけですか」
辰夫はなおも追及した。
「ほかにも、まあ、なくはないさ」
黒崎の眼が当惑に似た色を帯びた。
「実につまらんことだが……」
「きかせてください」と辰夫は促した。
「莫迦《ばか》なことだ。まったく莫迦げたことだが、津田君はわしの名誉を傷つける風聞を触れ歩いているらしい」
黒崎の眼が怒りに燃えた。
辰夫にとっても意外だった。もし本当だとすれば、ゴム仮面は悪意の塊《かたまり》ではないか。
「他社の編集者に教えられたのだよ。わしが用紙の購入で、紙屋から高額のリベートを貰っている、と、奴《やつ》は言うとるのだ。それも〈不愉快な噂《うわさ》がある〉とか、〈不明朗な人物〉といった、妙な表現をしとるようだ。三つの社できいたから、間違いない」
辰夫は二の句がつげなかった。黒崎が自分をこんな場所に呼んだのは、結局、これが言いたかったのだ、と納得した。
「わしの性分からすれば、半殺しにしても飽きたらんのだ。しかし、立場上、そうもいかん。殴ったら、わしが、悪役というか、加害者になってしまう」
「津田さんはそこまで計算してるんですね」
「そうさ。鉄拳《てつけん》をふるわれないと読んでいるからこそ、あちこちで喋《しやべ》りまくっておるのだ。実に、なんとも、陰険な奴だ」
「そりゃもう陰険です」
辰夫は保証した。
「間違いなく陰険ですが、手の打ちようがないでしょう」
「わしは我慢がならん! 城戸先生に処分をお願いする!」
「処分、ですか」
「本当はクビにしてやりたい。しかし、無理だろう。――閑職につける、という風にしたいのだ」
「閑職なんて、うちの社にありますか」
「ないけれど、作ってやる。ゆうべ、わしは、口惜《くや》しくて眠れなかった」
「お気持は、よく、わかります」と辰夫は言った。「しかし、後任をどうするのですか。キャリアからみて二宮さん、人格的には戸田さんですが、二宮さんが津田さんより有能とはとても思えません。ますます、トラブルが多くなるでしょう」
「戸田君は、善人だが、校正一筋できた人で、編集部をまとめてゆく力はない」
黒崎《くろさき》はそう言いきった。
「あと、キャリアでいえば、女性がいますな」
辰夫は思わず笑い出した。
「女はいかん」
黒崎はあっさり片づけて、
「金井君では若過ぎるしな」
「二宮さんしかいませんね」
「あの男は人の上に立てない。きみの言う通り、トラブルが多くなるだろう。だいいち、二宮君がまともな男なら、いままでに津田を追い出せたはずだ」
こうして消去法を用いると、ゴム仮面しか残らないのである。
「外部から人を呼ぶしかありませんね」
「わしは、きみにやって貰いたいのだが……」
さりげなく黒崎は口にして、
「しかし、『パズラー』の調子が出てきたところだからな。つまらぬごたごたに巻き込んで、きみの意欲を削《そ》ぎたくはないのだ」
「ぼくは勘弁してください」
辰夫は念を押した。
「津田さんも困った人ですが、変な後任者がくるのは、よけい困ります。かっとなるお気持はわかりますが、あとのことを考えて行動してください」
「よう言うてくれた。しかし、わしは、このさい、津田の尻《しり》を、思いきり、蹴《け》とばしてやりたいのだ。こんなに苦労していて、不正行為を云々《うんぬん》されては、わしの立つ瀬がないではないか……」
「すっかり、スターだね」
赤坂の肉料理屋で久しぶりに会った川合を辰夫は冷やかした。
「ものの弾《はず》みってやつさ」
派手なブレザーコートを椅子の背にかけた川合|寅彦《とらひこ》は、「おれ、テキ丼《どん》だ」と言った。
「それから、ビール」
「ぼくも、テキ丼」
テキ丼とは、丼《どんぶり》めしの上にステーキをのせたもので、見るからに元気が出てくる、この店特有の品だった。
「『ティーン・ショウ』の視聴率は、まあまあだ。悪くはないが、良いとも言えない」
川合はサングラスを中指でもてあそびながら言った。
「それで、画面に出ずにおとなしくしているのか」
「それもあるけど、とにかく、忙しくなった。『夏の果て』のおかげだ」
「けっこうじゃないか」
羨《うらやま》しさが顔に出そうなのを辰夫は堪《こら》えた。
「あの歌は人気上昇中だろ」
「もう一位だって。こんなケースは珍しいそうだ」
「凄《すご》いねえ」
「実状は、もっと凄《すげ》えよ。映画の脚本を書けって申し出を断ったら、アパートの階段に、毎晩、映画会社の奴がすわってるんだ。OKするまで通ってくるんだって。要するに、『夏の果て』ってタイトルの映画を作りたいだけのことさ」
ビールがきた。
「一口、どうだい」
「ぼくは駄目《だめ》だ。社に戻るから」
「じゃ、おれひとりで飲む」
川合はビールをうまそうに飲んだ。
「画面に出るまでもないや。テレビの司会をやれという話が殺到してる。……ときに、おれのショートショートの評判はどうだった?」
「いいよ。初めてにしては、かなり、いいね」
「おたくも成功のようで、よかった」
「あのショートショートのおかげだよ」
「そうだろうそうだろう――いや、これは冗談。なんたって、この世界、売れて|なんぼ《ヽヽヽ》だからなあ」
「本当だよ」
辰夫は唇《くちびる》を歪《ゆが》めて、
「現金を絵に描《か》いたようなものだ。利用できる限り利用しようとしやがる」
「凄えよ。もう、ハイエナだね。放っといたら、おれの肉を食いちぎって、骨をしゃぶって、その骨でスープをとろうって魂胆だ。それはそれで仕様がねえと思うが、ひと騒ぎすんだら、なんとかしねえとなあ」
「|なんとか《ヽヽヽヽ》って?」
「最終目標は小説だからな。〈『夏の果て』を作詞した才人〉てイメージを消すのには、かなりの時間とエネルギーがいるだろうなあ」
辰夫は居場所を絶えず編集部に連絡している。黒崎から電話が入っていたので、彼はテキ丼を早々に平らげて、タクシーで第一ホテルに向った。
「社の近くで、人目につかない場所はここしかないのでな」
黒崎はゆううつそうにぼやいた。
「なにか、飲まんか」
「日本茶を貰います」
テキ丼の脂《あぶら》が舌や口腔《こうこう》に残っている辰夫は、そう答える。
「城戸先生には、二度、お目にかかった。先生はわしの主張を認めてくださったが、問題は方法だ。先生は苦労人だから、津田君を閑職につけるのはクビを切るのと同じだ、と言うのだ」
そうか、と辰夫は落胆した。しかし、まあ、そんなところだろう。
「つまり、根本方針は、先生も賛成なのだ。ただ、早急《さつきゆう》にはいかん、とおっしゃる。時期を見て、という条件つきだ。津田君は先生が他社から連れてきたものだから、慎重になられとる」
「持久戦になると思ってました。津田さんは、アル中という弱点はあるにせよ、手強《てごわ》い相手ですよ」
「なんとかならんかな」
黒崎は巨体をもて余すように言った。
「大きな過失がない、と言われれば、そうなのだ。しかし、このまま、放置しておくわけには絶対にいかん」
雑誌の編集者ほど、小説の主人公《ヒーロー》にふさわしくない職業はないのではなかろうか。
主人公《ヒーロー》にうってつけの職業といえば、科学者、医師、建築技師、革命家(これが職業といえるとしてのはなしだが)、警察官などが、そうである。なぜなら、これらの人々は、|行動をする《ヽヽヽヽヽ》。作家は、彼らの行動《ヽヽ》を描いて、読者の興味を惹《ひ》くことができる。
その点、編集者はまったく不向きである。編集者も行動することはするのだが、ひどく地味であり、ぱっとしない。少くとも、読者を惹きつけるだけの魅力には乏しい。テレビドラマには、たまに、男性的魅力を有する雑誌編集長が現れ、知的な笑顔を見せたりするが、なぜか、仕事をしている場面はなく、たいていはバーのカウンターに肘《ひじ》をついたりしているだけである。
現実の編集長の行動のパターンは、それほど多くはない。怒っているか、謝っているか、苛々《いらいら》しているか――極論すれば、この三つである。これでは、主人公《ヒーロー》はおろか、脇役《わきやく》の座も危ないであろう。
辰夫《たつお》は苛々していた。月末が近くなると、胃がもたれるようになる。依頼してある原稿が無事に集るかどうか、気を揉《も》むからである。
今月は、それが一段とひどい。黒崎の苛々が、いくらか、感染《うつ》ったのかも知れない。
「困りましたねえ」
金井が憂《うれ》い顔で話しかけてきた。
「え……」
と、辰夫はききかえした。
「マフィアの翻訳ですよ。訳者の宮川栄が法事かなにかで岡山に帰っちゃったんです」
「本当かい」
辰夫はがっくりした。頭痛の種が、またひとつ、増えた。
「ぼくは、なにも、きいてないぜ」
「ぼくも、ですよ。他社《よそ》の連中からきいたのです」
「それは困った。あの翻訳は、〈マフィア特集〉の目玉なんだ」
「昨日、帰ったらしいんです。さっきから杉並《すぎなみ》の自宅に電話してるんですけど、返事がありません」
「身内に不幸でもあったのかしら」
「親戚《しんせき》の法事のようです。十日間ぐらい帰ってこないとか……」
「困ったな。岡山の家の電話番号が調べられないか」
「無理です。宮川って、ペンネームだったんですよ」
「ペンネームか。生意気だな」
なにが生意気なのか、わからない。
「お手あげです」
「じゃ、だれか、手が空《あ》いてる翻訳者に、至急、訳してもらおう。あれ無しじゃ、特集が成立しない」
「でも、原書は、一冊しか、ないんですよ」
「それが、どうした?」
辰夫は気色《けしき》ばんだ。
「まさか、あの原書を抱えて帰郷したわけでもあるまい。杉並の自宅にあるはずだ」
「そりゃそうです。でも、杉並の自宅ってのが……」
「アパートか」
「アパートじゃないです。古い屋敷の庭の隅《すみ》に建った貸し家です」
「それなら簡単だ」と辰夫は言いきった。「家主にたのんで、貸し家の鍵《かぎ》をあけて貰《もら》えばいい。書斎か仕事場か知らないけど、原書があるはずだ」
「そりゃあるでしょう。でも、宮川栄の承諾なしに、鍵をあけてはくれないですよ」
「事情を話しても無理だろうか」
「無理ですよ」
当然じゃないか、と言わんばかりに、金井は笑った。
ふつうならば、話はここでおしまいになるのだが、辰夫は、なおも、こだわった。
「宮川栄の本名をだれか知らないかね。岡山の生家の電話をつきとめて、家主に電話して貰おうじゃないか」
「本名は、ぼくも調べてみましたよ」と金井はただちに応じた。「五、六人あたってみましたが、わからないんです。わけがあって、本名を隠してるのかも知れません」
「恰好《かつこう》つけてるだけじゃないかねえ。根っから陽気な男で、秘密を抱えてるとは、とても思えない」
辰夫はいよいよ苛々する。どんなことがあろうとも、今日中に、原書を手に入れてやるぞと、意地になった。
「仕方がない。その家のドアをぶちこわしてでも、取ってこよう」
「冗談じゃないですよ」
金井は眼《め》を見張った。
「もちろん、冗談じゃないさ」
と辰夫は答えた。
「本気だよ。あの原書は、ぼくの私有物なのだ。だから、とりかえす権利がある!」
そう言い放ってから、ヤバい、と思った。彼にも理性がある以上、他人の家のドアをぶちこわすことができないぐらいは、重々わかっている。わかってはいるが、一旦《いつたん》、口にしたからには、その愚行を演じなければ、おさまりがつかない自分の心の動きもまた、彼にはわかるのだった。
日常的な次元での怒りが、ある瞬間から、演技になってしまうのを彼は意識していた。今のところ、観客は金井ひとりであるが、いずれ、文化社の全員がびっくりし、辰夫の非常識を笑って――いわば、|うける《ヽヽヽ》はずである。些細《ささい》なことにも自尊心を傷つけられがちな彼が、それほどまでに他人に笑われたいと願うのは、一見、矛盾しているようだが、必ずしも、そうではない。愚行が、どっとうけた瞬間、彼の傷だらけの自尊心は癒《い》やされ、この上ない至福の時が訪れてくるからだ。もはや走り始めた彼にとって、価値の規準は、|うける《ヽヽヽ》か、|うけない《ヽヽヽヽ》かの二つしかなく、他のことは、どうでもよいのだった。
金井の視線を意識しながら、彼は一階におり、倉庫に入った。断裁用の手斧《ておの》を持ち出し、新聞紙で刃の部分を包んだ。
「参ったな、こりゃあ」
金井は立ち尽している。
この世の常識に洋服を着せたような金井の存在が、辰夫を、よりいっそう狂気に近い方向に駆りたてた、といえなくもないのである。
適当に止めてくれて、びっくりしてくれる人間がいなかったら、辰夫としても、暴走のしようがないだろう。勝手にしなさい、と見すてられたら、その瞬間から、辰夫は行動をやめたに相違ない。
「やめた方がいいんじゃないですか」
と、金井は、杉並区に向うタクシーの中で、くりかえした。
その言葉とは裏腹に、辰夫の愚行を見たいという野次馬的な微笑が薄い唇《くちびる》にあらわれている。このさい、「やめた方がいいんじゃないですか」という言葉は、「やった方が面白《おもしろ》いですよ」と唆《そそのか》すに等しい。本当にとめる気ならば、タクシーをUターンさせればいいのだから。
天沼《あまぬま》一丁目の古風な洋館のまえで車をとめると、金井は、
「とにかく、家主に話してみますよ」
と言い、門を入って左手の、母家《おもや》の方に走った。辰夫は手斧を片手で振りながら、ぼんやりしている。
金井はなかなか戻《もど》らなかった。家主の許可が得られないのだろう。
じりじりした辰夫は、斧を包んである新聞紙を破いた。それでも、いきなり、洋館のドアめがけて手斧を振るのはためらわれた。左手でドアの把手《とつて》を掴《つか》んで、乱暴に引いてみた。
「何をしとる!」
灰色の毛糸のカーディガンを着た老人が走ってくるのが見えた。金井もいっしょに走ってくる。
老人は辰夫の右手にある物を見て、ぎょっとしたようだった。
「物騒なものは捨てなさい!」
老人は命令口調で叫んだ。
「ドアをこわしたらどういうことになるか、わかっているはずだ。ラバウルの激戦で生きのびたわしに、そんな脅しは通用せんぞ」
「お願いです。ドアをあけてください」
と、辰夫は懇願した。
「わけは、こちらの人からきいた。一理はあると思うが、わしの立場では、鍵をあけて、あんた方を入れてあげることはできない」
凛然《りんぜん》とした言葉だった。なにしろラバウル生き残りである。下手な真似《まね》をすると、片腕ぐらい、へし折られそうだ。
「どうしても、と言うのなら、考えがある」
白髪の品の良い夫人が、背後から杖《つえ》をさし出した。
「こんなもの、使いたくないがの……」
老人は杖を左手に持ち、握りの部分を右手で引いた。刃が見える。仕込み杖だった。
生れて初めて、本物の仕込み杖を見た辰夫は、愕然《がくぜん》とした。
「黙って帰りなさい」
老人は杖の先で門の外を示した。
「家宅侵入その他は、眼をつむってやる。さあ、庭の苔《こけ》を踏まないようにして……」
――浮かない顔してるじゃないか。
顔見知りの若い週刊誌記者が辰夫に声をかけて過ぎた。
手斧を入れた紙袋を片足で押えながら、辰夫は、今日は仏滅にちがいない、と思った。予想外の成り行きは、金井によって皆に伝えられ、|うける《ヽヽヽ》にちがいないのだが、肝腎《かんじん》の原書をとり戻せなかった一点で、はなはだ恰好が悪いのである。
「元気を出してください」
と言いながら、金井は店内を見まわした。このジャズ喫茶「汀《なぎさ》」は、新宿駅中央口に近く、昭和館の真向いにあって、作家、編集者、モダンジャズ好きの若者たちの巣になっている。金井とモダンジャズは、どうにも結びつかないのだが、時代遅れと思われたくないのか、金井はこの店や、黒人客の多いジャズ喫茶「きーよ」によく出入りしているらしい。
「このレコードは、マイルス・デヴィスだな」
「『リラクシン』ていうんです。よくきいてると、コルトレーンの声がきこえますよ」
金井は得々と説明する。
辰夫は高校のころはポップス一辺倒で、ジャズマニアの級友の顰蹙《ひんしゆく》を買い、大学に入って、折から来日したジーン・クルーパ等の演奏に接してジャズが好きになった。ただし、日本人によるジャズブームは、二、三年で衰微して、ロカビリーにとってかわられた。いらい、適当な距離を置いて聴いているが、自称文化人どもが称揚するモダンジャズというやつにはいまひとつ乗りきれない。むしろ、ボビー・ダーリンあたりのポップスの方が好ましいと考えている。
トリスバーで酒を飲み、中村屋で焼そばを食べてから辿《たど》りついたのが、この「汀」だった。
自分のやっていることが、われながら、莫迦莫迦《ばかばか》しく思える。「汀」には、辰夫より十歳下のハイティーン連中が現れるが、いずれも辰夫よりはるかに冷静《クール》なように見えた。いまどきのハイティーンは、辰夫のような歪《ゆが》んだ自虐趣味とは縁遠いだろうし、それがあたりまえだろう。
――金井さん、お電話です。
ボーイの声がした。
「どうして、ここにいると、わかったんだ?」
と辰夫は怪訝《けげん》そうにきく。
「ここか、『きーよ』にいると、会社に電話しといたのです」
立ち上りながら金井が答えた。
しかし、もう夜中が近いのに、と辰夫は思った。コーヒー二杯で、三時間も粘っていたことになる……。
数分後に金井は戻ってきた。
「戸田さんからです。話がこみいってるので、出てくれませんか」
「なんだい?」
辰夫は只《ただ》ならぬ気配を感じた。金井の表情は硬く、思いなしか蒼《あお》ざめている。
「なにがあったんだ?」
「とにかく、受話器をとってください」
辰夫は立ち上り、レジの方に歩いた。ビート族風の髭《ひげ》を生やした青年が電話をかけており、もう一つの電話の送受器が外れている。
――前野ですが。
――戸田です。お休みのところをお呼びたてしまして。
校正一筋の紳士の声は、あくまで、丁重であった。
――私の判断に余ることが起ったので、電話したしだいです。もう、私ひとりしか残っていないので。
――ぼくでお役に立てますか。
辰夫は念を押した。
――筋からいえば、黒崎《くろさき》さんの判断を仰ぐべきなのです。
と戸田は柔らかい語調でつづけた。
――でも、黒崎さんは大阪へ出張中ですから……前野さんにご相談したいと思いまして。
――どういうことでしょうか?
思わず、緊張した口調になる。
――津田さんが血を吐いたのです。それで、救急車を呼ぶべきかどうか……。
――そりゃ呼ぶべきでしょう。
――そこのところなんですが……津田さんが倒れた場所が自宅じゃないもので。
――飲み屋ですか。
――それが……どうも申しにくいのですが、保利さんのアパートなのです。目白のアパートの一室で喀血《かつけつ》したのです。
――保利さん、て……。
辰夫は混乱した。
――営業の保利さんですか?
――ええ、まあ……。
戸田はさらに柔らかい口調になって、
――少しまえに、保利さんから電話があったのです。彼女も、どうしたらいいか、わからなくなって……。
――とにかく、救急車を呼ばなければ。命にかかわることですから。
――私も、そう思ってました。では、すぐに保利さんに電話します……。
こんなことがあるのか、と辰夫《たつお》は信じ兼ねた。自閉的で色白のあの娘と、不能と噂《うわさ》されていたゴム仮面が、抜きさしならぬ関係にあったなんて!
――もしもし……。
――あ、きこえてます。
辰夫はわれにかえった。
――もう一つ、ご相談したいのです。
――はあ。
――津田さんの奥さんへの連絡を、彼女にたのまれたのです。救急車を呼んで、病院に収容してから、連絡すべきでしょうねえ。しかし、すぐに連絡すべきかとも迷いまして……。
ミステリの中に、本格推理小説というジャンルがある。一九二〇年代から三〇年代にかけて全盛を誇った小説形式で、英国の古い館《やかた》とか海浜のホテルに十数名の客が集り、バッタバッタと殺されてゆく。なぜか、名探偵《めいたんてい》がその場に居合わせるが、名探偵であるにもかかわらず、物語の終り近くまで殆《ほとん》ど為《な》すすべを知らない。(もっとも、途中で、殺人を止《や》めてしまったら、一|篇《ぺん》の小説が成立しないのだが。)名探偵は、エピローグの近くで、やっと、意外な犯人を指摘し、こうして、読者をあっと言わせようというのが、作者の魂胆であり、趣向でもある。
英米の本格推理小説の黄金時代には、犯人がひとりではなく、ふたり、それも〈もっとも関係がなさそうな二人が実は結びついていた〉というのが多かった。そして、このような設定は、活字の上だけで、現実にはあり得ないものと、辰夫は決めていたのであった。
ゴム仮面と営業部の保利さん、という取り合わせは、辰夫にとってはショック以上のなにかであった。人間という生物がいかに奇々怪々かという深淵《しんえん》を垣間見《かいまみ》せられたのである。
辰夫は保利さんには好意的に接していた。保利さんは、笑ったときに歯茎が見えるという弱点があったが、美人であり、先方が方言コンプレックスの中に閉じこもらなければ、良い仲間になれたと思うのである。
一階から動かない保利さんが、三階に閉じこもっているゴム仮面と親しくなる機会は、酒席のあとの二次会、三次会を除いてはあり得ない。酒癖の悪いゴム仮面を送ってゆくのは、編集部のだれもが厭《いや》がったから、仕方なく、人の善い保利さんが送ってゆき、途中で、結ばれてしまったのではないか。陰性で内向的な保利さんと、同じく陰性なゴム仮面が結びついたのは、辰夫にはわからないでもなかった。
そうか……と、彼は想《おも》い出した。春ごろの会議で、ゴム仮面の責任が追及されたとき、激怒する人々の中で、保利さんだけが「津田さん、かわいそう」と呟《つぶや》いたのだった。その言葉を辰夫は、若い娘のセンチメンタリズムと解したのだが、今になってみれば、意味はまるでちがってくる。それにしても、ゴム仮面に同情する人間がいるのか、と奇妙に思ったからこそ、辰夫は、彼女のひとことをジグソー・パズルの気になる小片のように覚えていたのだが、これで、ようやく、どうしても埋まらなかった、頭の中のパズルが完成したことになる。孤独な保利さんは、孤立しているゴム仮面に心から同情したのだろう。ゴム仮面の敗残者的ポーズには、辰夫も一杯食わされたのだから、男性を知らぬ保利さんが、ひっかかったのは無理ない仕儀だった。
翌々日の夕方、辰夫は営業部の部屋に呼ばれた。
保利さんの机の上には、早くも埃《ほこり》が白く見える。
「どうも、ご苦労様」
黒崎は眼鏡の厚いレンズをハンカチで拭《ふ》きながら苦笑した。
「どうですか、津田さんは」
辰夫は椅子《いす》にかけながらきいた。
「うむ、思っていたほどではない。一週間ぐらいで退院できそうだ。きみらの処理が適切であった」
「病院に運んでから、奥さんに連絡するようにしたのですが……」
「わしは、ゆうべ、津田君の奥さんに会ったのだ。だいたい、知っとったよ」
「なにをですか」
「保利君のことだ。わしにしてみれば、部下の不祥事だから、言葉もなかった」
黒崎は面目まるつぶれの態《てい》である。
「津田君の奥さんは女性雑誌の編集者で、しっかりしたひとだ。津田君と交代してもらいたいぐらいだよ」
「しかし、あとが大変でしょうね」
「この春だったか、津田君が、佐伯一誠《さえきいつせい》先生の代りに、津和野へ取材旅行に行ったのを覚えとるかね」
「ええ」
忘れるはずがなかった。佐伯が、辰夫が行ったらどうだ、と言うのに、ゴム仮面が、私が参ります、と答えたのだった。
「わりに、のんびり行っとったな」
「佐伯さんは、二、三泊と言ったのに、一週間ぐらい行ってました」
「あの旅行に、保利君も行っておったのじゃ」
「えっ?」
辰夫は声を詰まらせた。
「でも、保利さんは……」
「ちゃんと休暇をとっておった。親戚《しんせき》で不幸があったので、秋田へ帰るというてな。あまり沈んどるので、若い者が上野駅まで見送っとるほどだ」
驚きのあまり辰夫は何も言えなかった。現実は小説よりも奇である。
「つまりだな、保利君は上野駅《ヽヽヽ》へは行ったが、東北本線に乗ったのではない。信越《しんえつ》本線に乗ったのだ。一方、津田君は、佐伯先生の秘書の買った切符で東京駅《ヽヽヽ》を発っているのだが、東海道線を名古屋でおりて、中央本線に乗りかえている。これを篠《しの》ノ井《い》線とかいうのに乗りつぐと、長野県の篠ノ井に出る。信越本線が篠ノ井を通るのは知っとるだろ」
「ええ」
「だから、篠ノ井で落ち合ったのさ。落ち合う時刻から逆算して、別々に出発したのだな」
「推理小説の実習ですね」
辰夫は溜息《ためいき》をついた。どちらがこんなことを思いついたのだろうか。
「あとは、ふたりで、直江津、富山、金沢、宮津、鳥取と、裏日本の旅さ。取材は半分で、あとは温泉につかっとったらしい。保利君だけが一日早く帰ってきたというわけさ」
「気がつきませんでしたね、これは」
「しかし、こわいものだ」
黒崎はひとごとではない顔つきで、
「直江津で、津田君が、お茶を買いに降りたところを、津田夫人の知り合いの女性が目撃しておるのだ。いっしょに若い女がいたと報告したらしい。保利君が社を休んだ期間は控えてあるから、いま話したような推理が成り立つ」
「待ってください。偶然、目撃したってのはおかしい。奥さんか私立探偵があとをつけたのじゃありませんか」
「このさい、どうでもよいことだ」
「保利さんにお会いになりましたか?」
「いや。……まあ、二度と、ここには現れんじゃろう」
因循《いんじゆん》な、という形容がぴったりくる保利さんは、会社に顔を見せなかった。退職金その他は彼女のアパートあてに郵送された。
「津田さんは、病気が治れば出てくるだろうからな。妙なもんだよな」
と、奴凧《やつこだこ》がぼやけば、火吹き竹女史は、
「結局、女性が泣きを見るようにできてるのよ、日本の社会は」
と、悲憤|慷慨《こうがい》する。
ことの成り行きは、社員全部に伝わっていて、保利さんへの同情の気持が強かった。
辰夫はまた第一ホテルのコーヒーハウスに呼び出された。
待っていたのは、黒崎だけではない。眉《まゆ》のあいだに皺《しわ》を寄せた、神経過敏気味の西のラッキョウ型の顔があった。
「大変なことでもあったみたいですね」
緊張した空気を弛《ゆる》めるために辰夫はおどけた口調で言った。
「ゆっくり話をしたい。きみ、ビールでも貰《もら》わんか」と黒崎が言った。
「眠くなると困ります」
「テレビの仕事は忙しいのか」
黒崎はずばりと言った。
辰夫はいくぶん、うろたえて、
「それほどでもありません。週一本ですから」
「だいぶ、忙しそうじゃないですか」
西は皮肉っぽく言う。
「そうでもないですよ」
「まあよろしい。きみはそういう才能もあるのだから仕方がない。社の仕事のみに集中せよ、などと野暮は言わない」
黒崎は鷹揚《おうよう》なところを見せて、
「どうかね、このあいだのはなしは?」
「こないだの……」
辰夫にはさっぱりわからない。
「『黒猫《くろねこ》』の面倒を見てもらうことさ」
「あれは……」
勘弁してください、と断ったはずである。いまごろ、そんなことを言われても……。
「肚《はら》を割った話をしなければ駄目《だめ》ですよ、黒崎さん」と西が脇《わき》から言った。「前野さんには話してしまいましょうよ」
「そうして良ければ、そうするがね」
黒崎は含みのある言い方をする。
「ぼくから話しましょう」
眉間《みけん》の皺を深くして、西が乗り出した。
「いいですか、前野さん? これからぼくが話すことを、絶対に口外しないと、誓えますか」
ずいぶん大袈裟《おおげさ》だな、と、辰夫はひそかに驚いたが、
「はあ……」
「ちょっと面倒なことになりましてねえ」
西は黒崎の横顔を一瞥《いちべつ》して、
「まずいのですよ。保利君が使い込みをしていたのです」
「社の金を?」
辰夫はききかえした。金があるとも思えぬ会社で、使い込みなんて、あり得るのだろうか?
「読者から送られてくる予約購読の現金だよ」と黒崎は不快げに言った。「彼女は現金封筒をあける係りだった」
「額は大きいのですか」
「小さくはないです」
西が唇《くちびる》をとがらす。
「彼女がいなくなったので、われわれが帳簿を整理したのです。穴があいてるのは、すぐに判《わか》りました」
「どうして、そんなことを……」
辰夫は理解できなかった。化粧さえ殆どしていなかった娘の顔を想い出した。
「わしの監督不行き届きだ」
黒崎は声を低めて、
「今朝、故郷《くに》に帰る直前の保利君をつかまえて問いただした。初めは、自分個人のために使ったと言い張っていたが、刑事事件になると言うたら、態度が変った。ぜんぶ、津田君の飲み代《しろ》になった、と白状した」
「保利君は津田さんに貢《みつ》いでたってわけです」と西が言った。
「わしは踏んだり蹴《け》ったりじゃ」
黒崎は眼《め》を不気味に細めて、
「こうなった以上、津田君にはやめて貰わねばならん。その点で、西君もまったく同意見なのだ」
辰夫は唖然《あぜん》としていた。一時的にせよ、保利さんに同情して、損をした気分だった。
「黒崎さんが頭にきているのは当然です。……しかし、保利さんが使い込みをしたからって、津田さんが責任をとらなければならないものですか」
「なに!?」
「怒らないでください。ぼくの津田さんに対する気持はご存じでしょう。……ただ、法的にどうなるのでしょうか? 津田さんが突っ撥《ぱ》ねたら、どうします? 保利君の使い込みは自分の関知したことではない、ぐらい言いかねませんよ」
「法的なことなど問題ではない!」
と黒崎は感情的に叫んだ。
「保利君との関係が露見した時点で、城戸《きど》先生は津田君を擁護するのを投げた。大きな会社なら、左遷《させん》になるところだろうが、わが社では、やめて貰うしかないのだ。津田君に引導を渡す場合は、城戸先生がみずから引き受けると言うておられる」
「先生も大変ですねえ」
辰夫は嘆息した。ボスなどになるものではない、と、つくづく思う。
「しかし、営業部では、だれも気づかなかったのですか、保利君のことに」
「遺憾ながらな」
黒崎は開き直った態度である。
「非常に真面目《まじめ》な子だった、去年までは。初めて男を知って狂ったのじゃ」
週刊誌の見出しみたいな言い方をする。
「前野さんの言いたいことはわかりますよ」
と、西はネクタイの位置を直しながら、しずかに言う。
「責任はわれわれ二人にあるのです。ぼく自身も、知らなかった、じゃ、すまされないのです」
こう出られては、辰夫《たつお》はなにも言えない。
「行き掛かり上、われわれの方の不始末をお話ししましたけれど、これは、われわれ二人とあなたしか知らないことです。城戸先生の耳には入れられません」
そういうことか、と、辰夫は合点した。城戸|草平《そうへい》がこの〈不始末〉を知ったら、あまりのひどさに、文化社の経営から手を引く可能性が大であった。
「なぜ、ぼくにだけ話したのですか」
辰夫はなおも不審だった。
「そこが、今日のはなしのポイントなのです」
ふたたび、西は黒崎の顔を見て、言葉を促すようにした。
「つまり、城戸先生は津田君を見離している。わしらは、もっと醜い面まで知らされて、津田君を切りたくて、うずうずしている。――にもかかわらず、踏みとどまる形になっておるのは、『黒猫』の編集長をつとめられる人材がいないからだ。俗な言い方をすれば、受け皿《ざら》がないちゅうことさ」
辰夫は黙っている。迂闊《うかつ》な返事はできぬ雰囲気《ふんいき》であった。
「どうかな。次の編集長が決るまで、一時的でいいから、二誌の編集長を兼任するというのは?」
「そうなれば、津田さんは解任されます。これ以外に、編集部の沈滞を救う道はないと思うのです」
そう言ってから、西は、
「前野さんにしても、彼がいない方が、仕事がやり易《やす》いでしょうが……」
それはそうに決っている。決ってはいるが、このはなしには、容易に乗れない気がする。
「たのむ。わしは、もう、津田という男を許せんのだ。営業部までも、めちゃめちゃにしおってな。しかも、あいつは平気で出勤するつもりでおるらしい。奥さんが、そう言うとった」
「どうして、そう、ややこしく考えるのか、おれにはわからんな」
アル・カポネ風の服装をして、火がついていない太い葉巻をくわえた川合|寅彦《とらひこ》が呟《つぶや》いた。
「ティーン・ショウ」で、アイヴィー特集をやることになり、台本を書いた辰夫は、アル・カポネ風の役を川合に|ふった《ヽヽヽ》のである。べつに、アイヴィー即《そく》一九二〇年代と考えているわけでもないのだが、この時代の風俗は映像にし易いのだ。
だいたい、日本人である辰夫たちが、生れてさえもいなかった一九二〇年代のアメリカの風俗を懐古することじたい、奇妙なのであるが、流行とはおそろしいもので、二〇年代を懐《なつか》しむのが、最尖端《さいせんたん》のファッションなのであった。その根本には、和風アイヴィー・スタイルの流行があるが、〈二〇年代〉については、ドロシー・プロヴァイン扮《ふん》する踊り子のチャールストン・ダンスが魅力のテレビ映画「マンハッタン・スキャンダル=The Roaring Twenties」とロバート・スタックが主役エリオット・ネスを演じる「アンタッチャブル」が、流行の震源であった。
スタジオには、すでに、本物のT型フォードが運び込まれ、デキシーのバンドがスタンバイしていた。ダンサーたちは、もちろん、当時のファッションで、チャールストンを踊ることになっている。
「もう少し、単純に考えたらどうかね」
秘密酒場《スピークイージー》のセットの片隅《かたすみ》で、ウイスキーならぬビールをコーヒーカップで飲みながら、川合は言った。
「単純に?」
縞《しま》の背広で、帽子を目深《まぶか》くかぶった辰夫は、小道具のマシンガンを操作しながら、ききかえした。巻頭《オープニング》で、彼は川合扮するカポネ風親分を蜂《はち》の巣にし、そのマシンガンの響きとともにショウが始まるという趣向である。
「そうだよ。おたくはフクザツに考え過ぎるんだ」
「フクザツな問題だもの、じっさい」
辰夫は腕時計を見た。本番まで、まだ四十分近くあった。
「いや、考え過ぎだ」
「そうかねえ」
「要するに、その津田って人にやめて貰いたいんだろ」
「うん」
「じゃ、とりあえず、会社側の申し出をOKするんだな。自分がやります、と言わなきゃいいんだ。――わかるだろ。あいまいな、〈だいたいOK〉みたいな返事をしときゃいい」
「それじゃ片づかないよ」
「じゃ、勝手に悩め。津田って人は、きっと、戻《もど》ってくるぞ」
「当人、そのつもりらしいんだ」
「ほらみろ。一旦《いつたん》、戻ってきたら、もう動かないぞ」
「そうだなあ……」
「つまりだ。とりあえず、なにが目的かってことさ。この場合、とりあえず、津田って人を首にするのが目的だろ」
「そうだ」
「だったら、まず、そうするのさ。あとは、あとで考えれば、いい。とりあえず、OKするのさ」
「そうか……」
辰夫はコーヒーカップのビールを飲んだ。
「|とりあえず《ヽヽヽヽヽ》、か」
「世の中、すべて、|とりあえず《ヽヽヽヽヽ》、さ」
川合は嗤《わら》うように言った。
「とりあえず、引き受けて、とりあえず、謝ったり、笑ったりしてりゃいいのさ。そのうち、とりあえず、歳《とし》をとって、とりあえず、死んじまう」
辰夫は帽子を|あみだ《ヽヽヽ》にかぶり直して、
「まるで禅僧の境地だね」
「禅僧はないだろう」
川合は明るく笑った。
「病気をしたせいかな。この世界で、女房《にようぼう》を持ってから病気するってのは地獄よ。われながら、よく食いつないだと思う。アメリカのテレビ番組の吹き替え用の翻訳をやってたんだ」
「とりあえず、食いつないだわけだな」
「そうだよ。とりあえず、さ」
川合はけたたましく笑った。この陽気な男に、辰夫は、ニヒリズムに似たものを感じるのだった。
「会社もいいけどさ、フリーになる気はないのかい」と川合は言った。「おたくみたいな人が雑誌をやってるのは、こっちには、ありがてえんだよな。ただ、くだらねえ人事で苦労してるのを見てると、おやめなさいと言いたくなる。そういう苦労は、なんのプラスにもならんからね」
辰夫は頷《うなず》いた。
「ただ、もう少し、粘りたいんだ。二年とか三年とか、そのくらい」
「好きなんだな、仕事が」
川合は慨嘆した。
「そうでもないんだけどね」
「いや、そうだ。好きなんだよ。――好きなのはいいんだが、淫《いん》してる気がするんだ、おれには……」
出番が終ると、ふたりは服を着替えて、外に出た。打合せのために築地《つきじ》の料亭《りようてい》へ行くという川合は、自分のフィアットに辰夫を乗せて、帝国ホテルまで送ってくれた。
指定された帝国ホテルのバーは初めてであった。アメリカの建築家フランク・ロイド・ライトが設計し、大正十二年に竣工《しゆんこう》したという旧館は、堅固ではあるが、重苦しい雰囲気の建物である。外人好みの朱塗りの橋を渡り、ショッピング・アーケードをさまよった末、ようやく、バーに辿《たど》りついた。
「すぐに、わかったかね?」
落ちつかぬ表情の黒崎《くろさき》は、ほかに適当な言葉がないかのように、そうたずねた。
「はあ」
辰夫はあいまいな返事をする。
「わしは初めてだが、暗くてよろしい。第一ホテルは、がちゃがちゃしておるのでな」
ビールがくると、黒崎は水割りらしいグラスをあげて、お疲れ様、と言った。なにがお疲れ様だか、よくわからない。
「どうかね」
乾いた声が催促した。
「……考えはまとまったかね」
「待ってください」と辰夫は自分に言いきかすように言った。
「十二月号の成績はどうですか。もう、だいたい、わかったでしょう?」
黒崎は機先を制された形で、やや途惑《とまど》ったが、
「いいよ」
と答えた。
「完売とはいかない。刷り部数を増やしたからな。しかし、非常に良い。落ちる気配は、今のところ、ない」
「安心しました」
「わしらも安心した。一号だけの奇蹟《きせき》かと思っとった」
「ぼくがテレビ局やラジオ局に出入りしたりしているのが無駄《むだ》じゃないとわかって貰《もら》えましたか」
「認めざるを得んだろう」
「それなら、ありがたいです。勝手な真似《まね》をさせていただいている、その自由な気分が、誌面から失われると、ヤバいのです」
「わかっとる」
「毎日、朝から夕方まで、デスクワークに縛りつけられていたら、ぼくは干《ひ》からびてしまいます。いろんな世界を飛び歩いて、自己流の吸収の仕方をしているから、案が出てくるのです」
「そこらは、わしも、西君も、諒承《りようしよう》しとる。きみを編集室内に閉じこめるつもりはない。ただ、いかに順番とはいえ、二宮君が編集長では、どうにも心細いのだ。……結局、二宮君の肩書は〈編集主任〉とする。形としては、城戸先生が〈編集長〉になるわけだが、先生が実務をやることはあり得ないし、不可能だ。二宮君の後見役は、きみだ。きみは、実質的には、総編集長とか、編集局長ということになる」
満足だろう、という眼つきで、辰夫をまっすぐに見た。
「お考えはよくわかりますが、二宮さんがぼくの言葉に耳を傾けてくれるはずはありませんよ」
「いや、わしの命令で……」
「命令だけで、人を動かすことはできません。でも、ぼくには考えがあります。この考えは、城戸先生や西さんにも聞いて貰いたいのです。苦肉の策ですが、ぼくなりに、ベストと思われるものです……」
「きみ、本気で言うとるのか!」
黒崎は革椅子《かわいす》から飛び出さんばかりの姿勢になった。
深夜に近い城戸邸の応接間は、ガスストーヴのかすかな音がきこえるだけだった。
女中が紅茶とケーキを置いて退出するのを待って、和服の城戸草平は、「まずいよ、前野君」と、不快そうに話しかけた。
「金井君は正社員になって、まだ三年ぐらいだろう。大手の出版社でアルバイトをしていて、黒崎君に泣きついてきた。それで、うちの正社員にしたのだ」
「そうです。いかに仕事熱心とはいえ、キャリア不足ですよ」
と、西も脇《わき》から言う。
「でも、キャリア不足といえば、私など最《さい》たるものです」
辰夫は言いかえした。
「きみは、変った、いや、特殊な人間だから、別だ。金井君と同日の論ではない」
黒崎は辰夫を睨《にら》みつけながら、
「編集部の連中は、きみに関しては、〈別格〉と考えているようだ。だれも、きみを、競争相手と思っていないのだ。……しかし、金井君はそうではない。お使いさんに毛がはえたもの、ぐらいにしか、考えておらんのだ。彼を『黒猫《くろねこ》』の編集主任にしたら、みんな、黙っておらんだろう」
「そこらは、黒崎さんに、うまく処理していただきたいのです」
「まあ、待ちなさいよ」
西の片手が辰夫を制した。
「前野さんにしてみれば、金井君が使い易い、というのはわかります」
「使い易い、という意味ではないですよ」と辰夫は言った。「金井君は、けっこう、癖のある男です。ただ、基本的に、堅実なやり方をします。手堅い、と形容してもいいでしょう」
「それは、もう、わかりきっています。ただ、手堅いだけでも困るのですよ」
西は先まわりをする。安い給料で、こう、いろいろ要求されたのでは、たまったものではない。
「しかし、ですね」
と辰夫は粘ろうとする。
「かりに、二宮さんなり、だれなりが、やったとして、〈手堅い編集〉までも、いかないですよ。それは、黒崎さんも西さんも、ご承知の上で、発言してらっしゃるのでしょう?」
「やってみなければ、なんとも言えないよ」と、黒崎はとぼけた。
「金井君が、あまりにも若い、というのが、問題の一つです」と西は要点を整理しようとする。「もう一つのネックは、彼が、文学青年だか詩人だかで、ミステリの知識がないことです」
「そういう弱点は、ぼくが補います」
すかさず、辰夫《たつお》が言った。
金井の長所は、まず、謙虚さにある、と辰夫は思っていた。「パズラー」の、川合流にいえば、|とりあえず《ヽヽヽヽヽ》の成功によって、辰夫は人々の注目を浴びたが、金井はさして報われるところがなく、しかし、不満をもらすでもなかった。
その借りをかえすとすれば今だ、と辰夫は思う。金井には話していなかったが、かなりの抵抗を承知の上で、彼は強引に、金井をひき立てているのだ。社内で、組むにあたいする相手は、金井のほかには見当らなかった。
「金井君でやれると思うか」
城戸草平《きどそうへい》は黒崎にたずねた。意外に柔軟な応対ぶりである。
「正直に申しまして、私は不安です」
黒崎はゆっくりと答えた。
「自信をもって、是《ぜ》とは申せません」
「西君はどう思う?」
「黒崎さんと同じです。しかし……」
「なんだね。言いたまえ」
「前野さんが金井君を推す気持は、一考にあたいすると思うのです。二宮氏というのは、決して、最良の選択ではないのですから。編集部内にトラブルを起さない程度の人物という、まことに消極的な理由からでして、よく考えてみますと、彼は、津田さんとは別種のトラブルを起しそうなのです……」
「そんな……ぼくを裏切るのか」
黒崎は狼狽《ろうばい》した。
「二人で決めたことじゃないか!」
「そう昂奮《こうふん》するなよ」
城戸草平はにやにやした。
「感情的にならんようにして、もう一度、考えてみよう。前野君、もう少し説明してくれんか」
「ミステリの知識がないのは、二宮さんも、金井君も同じことです。だから、この問題は無視しましょう」
「知識があるのは、きみだけというわけかい?」
黒崎が揶揄《やゆ》した。
「現在の編集部内に限定すれば、ぼくだけです」
と辰夫は平然と答える。
「しかし、そんなことはどうでもいいのです。どう考えても、矛盾していると思うのは、新しい編集方針を打ち出せ、と言いながら、若い者には任せられない、と、おっしゃることです。金井君は、今の編集部内では、新しいことが理解できる唯一《ゆいいつ》の人物です。はっきり言って、ベストの選択ではありません。ベターという線でしょう。でも、ぼくは彼を支持しますし、助言もするつもりです。……どうしても不安でしたら、三カ月だけ、とか、そんな風に区切って、テストしてみたら、いかがですか」
「……臨時代理という手があるな」
黒崎は考え深げに呟《つぶや》いた。
「このさい、考えてみるか……」
翌日、ゴム仮面が出社してきた。あいかわらずの無表情で、自分の回転椅子にすわるとき、やれやれ、と呟いた。入院中、迷惑をかけて――と挨拶《あいさつ》をする代りらしい。
昼近くに、ゴム仮面のデスクの電話が鳴った。ゴム仮面は緊張した応対を続けていたが、送受器を置くと、うす汚れたダスターコートを手にした。
「二宮君……」
「はあ」
奴凧《やつこだこ》がからかうような返事をする。
「ちょっと、出かけてくる。城戸先生のところだ」
夕方になっても、ゴム仮面は戻《もど》らなかった。
辰夫は、一階の黒崎に呼ばれた。
「城戸先生から、たったいま、電話があった。津田君に申し渡しをしたそうだ」
黒崎は満足感が顔に出そうになるのを抑制しながら言った。
「一段落というところだ、前野君」
「だろう、と思っていました」
「城戸先生の心中は複雑だと思う。ご自分が連れてきた人に馘首《くび》を宣告したのだから。……よく、踏み切ってくださった」
辰夫は沈黙している。
「金井君は、しばらく、〈編集主任〉とする。編集部内には、〈一時的な連絡係り〉と説明するつもりだ。金井君や二宮君は、まだ、何も知らない。わしが、今夜、個別に話す。ところで、きみのことだ」
黒崎はにわかに重々しい口調になって、
「実質的には、二誌の編集長なのだから、くれぐれも、軽挙|妄動《もうどう》を慎んでくれたまえ。城戸先生も、きみをたよりにしておられるし、心配してもおられる。大丈夫です、とは言ったものの、わしも心配しておるのだ。若いから仕方がないと言えば言えるが……」
「なにが心配なのですか?」
辰夫は心外であった。
「べつに、なにもないでしょう」
「そうかね」
黒崎は、やや、ためらってから、
「よその家のドアを手斧《ておの》でこわそうとしたのは、きみじゃなかったか」
「あ、あれですか」
金井は口が軽くて困る、と思った。もう喋《しやべ》っているのか。
「あれは冗談です。『アンタッチャブル』ってテレビ番組があるでしょう?」
「禁酒法のやつかな」
「そうです。あの番組の冒頭《あたま》で、FBIのエリオット・ネスが悪役側のバーのドアを斧でぶち破るでしょ」
「そうだったかな」
「あれを演《や》ってみたかっただけです。どうってことはないですよ」
「しかし、向うの家から電話があった。責任者を出せ、と言うてな」
辰夫はぎょっとした。
「ほんとですか」
「本当だ。もう一度、敷地内に入ったら、パトカーを呼ぶと言うとった」
「しょうがないな」
「しょうがないのはきみだ」
黒崎は呆《あき》れたように言う。
「津田君のごたごたで、わしも言いそびれておった。軽挙妄動とは、たとえば、そういうことだ」
「どうも、すみません」
「わしに謝られても困る。これから、少し、気をつけてくれ。冗談じゃすまされなくなる」
「はい」
「二、三日うちに、もう一度、城戸先生のお宅に行こう。改めて、きみに話したいことがあると、おっしゃっていた」
辰夫がどれほどの解放感に浸ったかは、その夜の彼の足取りを見れば、明瞭《めいりよう》である。
会社の仕事が終ったあと、彼は新橋駅の近くで安い鰻《うなぎ》を食べ、広告代理店の男に指定された銀座のバーに出かけた。招待されたのは、川合、辰夫、それに初対面の放送作家であった。
その接待は、当時の広告代理店の接待の多くがそうであったように、得体の知れぬものであった。招待した男は「たのしく飲んで頂いて、自由なご意見をきかせて頂ければ……」と、調子の良いことを言っていたが、要するに、面白《おもしろ》いアイデアが出たら、|只で《ヽヽ》頂戴《ちようだい》いたします、という了見であるのが、辰夫にもわかった。大人である川合はにやにやしてブランデーを飲んでいるだけだったが、こんなことで貴重な時間を費やしてはいられない、と辰夫は思った。驚いたことに、辰夫の頭のヒューズがショートするまえに、もう一人の放送作家が怒り始めたのである。
――あなたの言葉を黙ってきいていると、要するに、テレビの企画のアイデアを教えてくれということじゃありませんか。アイデアに金を払わない今の日本のシステムそのものが悪い、といえば、それだけなのだけれども、酒で誤魔化そうとしているのが不愉快です。それでも、まあ、酒が飲める人はいいですよ。ぼくは飲めないから、コーラ一杯で、さっきから我慢してるわけです。で、すでに二時間、我慢したから、もう、いいでしょう。ぼくは帰ります。ただし、この二時間について金銭的補償をしていただきたい。明日の朝、八時までに、家の方に届けてください。そうでない場合は、日本テレビとTBSで、|おたく《ヽヽヽ》がいかに卑劣なやり方をしたかを言い触《ふら》します。よろしく。
代理店の男は、「まさか」とか、「そんな、あなた」と、弱々しく抗弁していたが、どうやら、〈金銭的補償〉をすることに決めたらしい。
座が白けたので、辰夫たちも席を立った。帰りのタクシーの中で、「おれたちにも、補償がくるのかね?」と辰夫が呟くと、「そこだよな、目下の疑問は」と川合が受けて、「まあ、こねえだろう。おれは、ナポレオン飲んじゃったから、いいけどね」と高笑いした。
原稿を受けとるために、辰夫が新宿の喫茶店に寄ると言うと、川合はついてきた。辰夫が翻訳家から原稿を貰《もら》っているあいだに、川合は水割りを二杯飲み、腹が減った、と言い出した。
喫茶店のまえには、お握り屋があった。川合はシシャモを噛《かじ》りながらウイスキーを飲み、辰夫は鮭茶漬《さけちやづ》けを食べた。
そこまでは記憶がはっきりしている。お握り屋の地下にあるバーに入ってから、辰夫の記憶は怪しくなる。
もともと、辰夫はそのバーに集る客どもが醸《かも》し出す空気が嫌《きら》いなのであった。ママと呼ばれる女は妙に高飛車な口調で|もの《ヽヽ》を言い、客どもはそれを喜ぶ様子さえあった。客の大半は、あまり有名でないことを誇りにしている評論家とか、屈折した編集者であり、なにかというと〈挫折《ざせつ》〉とか〈視座〉といった言葉を口走る傾向があった。雲脂《ふけ》だらけの頭髪を指一本でかき分けながら陰気な声でぼそぼそ話す男たちが厭《いや》でたまらない辰夫は、ふつうだったら、間違っても足を踏み入れないのだが、川合が入ってゆくので、強引に止めるわけにもいかず、あとから、仕方なく入って行ったのだ。
川合は生理的|嫌悪《けんお》を感じる様子がない。もともと争いごとを好まない男だが、それより、かなり酔っているのだろう。「人気者でも、こういう所にくるのかね」と厭味を言われても、は、は、と笑うだけだった。
相手が応《こた》える様子がないと、やめてしまうものだが、スポーツ紙の記者で、ひとり、しつこいのがいた。
――あれだけ、テレビの画面で、自分を売り込めば、いやでも有名になるよ。
とか、
――テレビの方が二枚目にうつるな。案外、老けてるねえ。
などと、いつまでも、厭味をならべている。どうやら、ラジオ・テレビ担当の記者らしいのである。
「よう、出ないか」
辰夫は川合を突っついた。
「変なバーだな、ここは!」
川合は大声で言った。さっきまでいた銀座のバーと較《くら》べていることは、辰夫にしかわからない。耐えられなくなった辰夫は、ジントニックを飲み始めた。あとで考えると、かなりのピッチで飲んだようだ。
それからあとは、記憶がとぎれとぎれになる。――というよりも、大半を忘れているのだ。忘れたふりをしているのではなく、記憶喪失に近い。
帰りのタクシーの中での川合の顔を覚えている。車を降りてから、いつもなら難なくのぼれる階段が、ひどくのぼり辛《づら》かったのを記憶している。
あとで、川合に説明されたところでは、辰夫はスポーツ紙記者を怒鳴りつけたのだそうだ。記者は立ち上り、辰夫を殴った。(道理で、下唇《したくちびる》が切れ、腫《は》れあがっていた。)そのあと、辰夫は相手の頭に、こともあろうに、味の素を振りかけたという。なぜ、味の素の小瓶《こびん》を掴《つか》んだのか、あとで考えてもよくわからない。数人が止めに入り、川合が辰夫を外に連れ出したらしい。
酔っぱらいは、みんな、〈一時的|莫迦《ばか》〉なのだから、そんな者の言葉に、いちいち、気を立てるのは、おとなげない、と川合は諭《さと》した。
二日酔いに近い状態の辰夫が出社したのは、正午過ぎだった。
他人《ひと》と口をきくと頭が痛くなるので、編集部の全員が食事に出ているといいと思っていたのだが、金井が残っていた。濃紺の背広上下に地味なネクタイと、とんと冠婚葬祭のいでたちである。
「どうも……」
立ち上った金井は、妙に叮嚀《ていねい》に頭をさげる。
「ゆうべ、黒崎《くろさき》さんから、うかがいました。前野さんの推挙だそうで……」
「いや、まあ」
辰夫は照れて、視線を斜め下に向けた。
「嬉《うれ》しいと思うより、びっくりしました」と、金井は立ったままで続けた。「あまりにもダラけた雰囲気《ふんいき》の中にいるので、自分がやれば、という自惚《うぬぼ》れは、ありました。――でも、それは、五年も、十年も、先のことと諦《あきら》めていました」
辰夫には金井の気持がはっきりとわかった。これで、妙な形で気が散ることもなくなるだろうと思う。
「今後とも、よろしくお願いします」
金井は、もう一度、頭をさげ、デパートの包装紙のかかった、平べったい箱をさし出した。
「つまらないものですが、お納めください」
「なんだい、こりゃ?」
「そう言われると思ってました。まあ、どうぞ」
こういう時、どうふるまったらいいか辰夫にはわからないのだった。物を貰うのが嫌いなわけではないが、場合が場合なので抵抗があった。
「この中には、何が入っているの?」
辰夫は警戒する気持で言った。自己に忠実なのは結構だとしても、結果として、ひどく無礼な発言になる。金井は、一瞬、びっくりした顔をした。
「……英国製のネクタイです」
「高いものだろうね?」
「いえ、ぼくが買える程度ですから」
金井は小声で言う。
「じゃ、喜んで、貰います。ありがとう」
「よろしく、ご指導のほどをねがいます」
金井は、さらに頭をさげた。
金井が昼食に出て行くのと入れ違いに、ゴム仮面がのっそりと入ってきた。ゴム仮面の顔色はいよいよ黄色く、黄疸《おうだん》ではないかと思われるほどだ。
辰夫を認めると、「や……」と、かすかに頷《うなず》いた。そして、自分のデスクに近寄り、椅子《いす》にかけた。
気詰りなので、辰夫は仕事をするふりをする。本当に頭が痛くなっていた。
「前野君……」
ゴム仮面は陰気な声で言った。
「はい」
思わず、辰夫は緊張する。
「このあいだ、倒れてから、どうも調子が悪くてね。内臓ががたがたになっているらしい」
「それはいけませんですね」
「老兵というには、まだ、早いかも知れないが、本当に消える時がきたようだ。頭の回転が鈍ったとは思わないけど、なんせ、身体《からだ》が、いうことをきかない」
「そんなことはないでしょう」
そう言わざるを得なかった。数々の怨《うら》みはあるにせよ、この男の未来に殆《ほとん》ど希望がないことを思えば、哀れであった。どのみち、こうした結末が待っているにしても、辰夫や金井の若さと行動が、辞任の時期を早めたことは、間違いなかった。
「今月一杯でやめさせてもらうことにした。事務の引き継ぎがあるから、あと、一、二回は社にくる」
ゴム仮面はわらうように言って、引き出しをあけた。中のものを整理するつもりなのであろう。
「あとは二宮君がうまくやってくれるだろう」
ゴム仮面は、ぽつり、と言った。してみると、金井があとを継ぐことをまだ知らないのだ。
「だれがやっても、大した違いはない雑誌だ。そもそも、小説専門の雑誌という存在《もの》が、時代とズレてきたのではないか、と思うのだよ。復員してから十六年間、ぼくは幾つかの雑誌を手がけてきた。小説雑誌、戦記物の雑誌、と、いろいろ、やったが、現在《いま》ほど雑誌を作りにくい時はない。……そうだな、なんといったらよいか――読者が活字を鬱陶《うつとう》しく思っているのじゃないかという気がするんだ。……まあ、何を言っても、負け犬の遠吠《とおぼ》えとしか、思われないだろうが」
数日後、辰夫は黒崎と城戸草平の家に出かけた。
タクシーの中で、「津田君の身辺が大変だよ」と、黒崎が言った。
「なにか、あったのですか」
辰夫がききかえす。
「奥さんが離婚すると言っている。それは、わしには関係がないのだが、奥さんは、津田君が子供の養育費を支払うはずがないとみて、文化社の退職金を自分によこせと言うとる。こうなると、わしは板挟《いたばさ》みになってしまう」
辰夫は未来だけを考えていた。彼の夢が実現するとすれば、これからであった。
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第十一章 正月まで
「黒猫《くろねこ》」の〈編集主任〉になった金井に代って、辰夫《たつお》の仕事を手伝う者が必要になった。
男女ひとりずつ採用するというので、辰夫は、一般から公募して、自分で面接試験をしたいと言い出した。が、「きみは自分の好き嫌《きら》いで|こと《ヽヽ》を決めるから……」と、黒崎《くろさき》は乗り気ではなかった。
十一月後半から十二月にかけては、雑誌編集者のもっとも忙しい時期である。新年号を世に送るのと殆《ほとん》ど同時に、二月号、三月号をいっしょに進行させなければならない。ほんらい、三月号は、翌年の一月十日ごろに片づければよいのだが、正月休みが入るために、すべてを年内に終らせねばならないのである。
いかにも小企業の経営者らしく、黒崎は、高校卒の青年を、なんらかの|つて《ヽヽ》で連れてきた。
「石黒君だ。可愛《かわい》がってやってくれたまえ」
辰夫に劣らず痩《や》せ細った石黒は、途方に暮れた顔をしている。気はきかないかも知れないが、親孝行で律儀《りちぎ》なのだ、というのが、黒崎の推薦の弁である。
「話がちがうじゃないですか」
と、辰夫は、あとで、黒崎に言った。
「親孝行は結構としても、英文が、ある程度は読めないと、勤まらない仕事ですよ」
「そこはひとつ」
黒崎は片手拝みをして、
「あれの母親が知り合いで、以前《まえ》からたのまれておったのだ」
やれやれ、と、辰夫は思った。
「その代り、というわけでもないが……」
と、黒崎はチョッキのポケットをまさぐる姿勢になって、
「女性があとひとり入ると、今の編集室では、机が入りきらんだろう。向いのビルの五階の小さな部屋が新年から空くそうだ。『パズラー』の編集部をそこに移すという考えはどうだろう」
映画「ウエスト・サイド物語」の試写会が、五階建ての東劇でおこなわれたのは、十一月二十八日の朝であった。
大作映画に限って、大劇場で早朝試写をおこなう慣習は、映画興行界でいまだにつづいているが、きわめて日本的なこの慣習が、最大限の威力を発揮したのは、「ウエスト・サイド物語」の時を措《お》いてほかにはなかった。〈ひどく眠かったが、感動したあの朝〉は、この映画にまつわる語り草の一つである。
辰夫にとって、早朝の試写会は初めてであった。夜中まで「黒猫」の無署名の原稿を書いていたので、早起きは苦痛であったが、川合寅彦《かわいとらひこ》夫人から再三、電話が入るので起きざるを得なかった。もっとも、電話は辰夫が依頼したものである。
寒い朝だった。表参道には人の姿がなく、タクシーはすぐにつかまった。
映画について、辰夫は、予備知識を持っていなかった。
「ロミオとジュリエット」の物語を現代のアメリカに置きかえた舞台ミュージカルがあること、そして、その映画化が完成したらしいこと――これだけしか知らなかった。
途中、車の渋滞はなかったものの、東劇についたのは、上映開始時刻ぎりぎりだった。彼の車の前にとまったタクシーからは、テレビの画面でなじみの女性ダンサーたちがとび出して、入口のほうへ走った。辰夫も走りながら、紺のダフルコートのポケットから試写案内の封筒をとり出した。
場内は、すでに暗く、序曲が始まっていた。客席のあちこちで咳払《せきばら》いがきこえる。
序曲が終ると、巨大で鮮明な七十ミリの画面いっぱいに、マンハッタンの摩天楼群が俯瞰《ふかん》され、カメラは、ゆっくりとウエスト・サイド地区に近づいてゆく。あたかも低空飛行中の飛行機から見おろしているかのような臨場感に辰夫は眩暈《めまい》をおぼえ、足を踏んばった。
多くの若者を熱狂させたこの映画の魔力に、彼も呪縛《じゆばく》されつつあった。
映画の昂奮《こうふん》がさめやらぬ状態で、人を探すのは奇妙なものである。
試写会場から吐き出される人々の横に立って、彼は川合の姿を探した。いっしょに昼食をとる約束になっていたのだ。
肩を叩《たた》かれて、ふりかえると、茶の革コートを着た暎子《えいこ》が立っていた。
「お茶飲む時間、ありません?」
彼女の声は弾んでいた。
「どうだった?」
と彼は感想をもとめた。
「痺《しび》れちゃったわ」
「ぼくも」
彼は初めて笑った。
「ちょっと、待ってて。川合寅彦をつかまえるから」
ベージュ色のダフルコートを着た川合はゆっくり出てきた。
「眠いなあ」
しょぼしょぼした眼《め》つきの川合はなんともいえぬ笑い方をした。
「おれ、飲み屋に朝までいたから、そこから駈《か》けつけたんだよ。かみさん、電話した?」
「してくれた。ぼくも三時間しか寝てないんだ」
そんなことはどうでもよかった。川合が昂奮しているかどうかが知りたいのだった。
「どう思う?」
「いいよ。かなり、いいんじゃないかね」
冷静な返事だった。辰夫のように昂揚してはいないようだ。
そのとき、辰夫の顔見知りの映画批評家が近づいてきた。マフラーにあごを埋めた銀髪の批評家は、「忙しそうだね」と声をかけてきた。
「いかがでしたか、映画は?」
「うん。初めから三分の一ぐらいまでが良いね。げんみつにいえば、警官がかけつけてくるところまでだな」
そう答えて、去って行った。
爺《じじ》いにわかってたまるか、この映画の感覚が!
辰夫は心の中で罵言《ばげん》を吐いた。もし川合が昂奮していないのならば、昼食をともにするのはよそう、とさえ、彼は思った。頭の中では、ニューヨークの不良少年たちのフィンガースナップが、まだ、続いていた。
「とにかく、朝めし抜きで、こんな大作を、どかーん、と観《み》せられたんだからな。腹が減って、寒いぜ。そば屋かなにかで、熱燗《あつかん》を、きゅっと行きたいね」
川合は、眠さと寒さと|ひもじさ《ヽヽヽヽ》しか口にしない。
「じゃ、また。ぼくは会社に戻《もど》らなきゃならないから」
辰夫は、不意に、そう言った。
「そうか。会社じゃしようがねえな」
川合は頷《うなず》いて、
「また、ゆっくり会おうや」
辰夫は、離れた所に立っている暎子に、眼で合図して歩き出した。
「川合さんとあなたは兄弟みたいね」
近づいてきた暎子が言った。
「全然、ちがうけどね、性格は」
「外見よ。二人とも、ダフルコートでしょ。色違いだけれども」
つまらぬことを言う、と彼は思った。いまの彼は、「ウエスト・サイド物語」のことしか頭になく、「ウエスト・サイド物語」に狂喜している人間としか、口をききたくなかった。ほかの話をするのは、〈不純〉に思えた。自分の全身を占拠している〈ウエスト・サイド症候〉の純粋さを薄めにかかってくるものは――暎子といえども――すべて、敵だった。
「いま、井田さんとすれ違ったわ」
と暎子は言った。
「さいきん、あまり会わないの?」
「会うよ、仕事では」
「井田さんは、あまり、買ってなかったわ、映画を。『二流の色物ですね』と言ってた」
田舎者にわかるか、あの映画が!
辰夫は思った。
故郷《くに》へ帰ればいいのだ。そのくせ、田舎者ほど、〈都会的感受性〉とやらに憧《あこが》れ、こだわるものはないから、始末に負えない。
「まあ、さまざまだな」
辰夫はそう答えた。寒さが急に身にしみてくる。
「腹、減ってないか」
「ぺこぺこよ!」
暎子は大声で答える。
「朝、食べてないんだもの!」
「銀座で、どこか、あいてるだろう。有楽町のフードセンターまで行けば、『ブルドック』か、『大華飯店』がある」
「日活ホテルの地下のグリルもあいてるんじゃないかしら」
「じゃ、出たとこ勝負で」
そう言いながら、彼は、きわめて〈不純〉なことではあるが、あの映画、大ヒットするぞ、と興行成績を予想した。
自分がこれだけ血を沸かせたのだから、十代から二十歳前後の連中は、かっとなるにちがいないと思った。競ってこの映画を観るにちがいない。そして、その現象がピークに達するまえに、自分は熱狂が冷《さ》め、〈冷静な〉批判を始めていることだろう!
肉料理専門の店で、赤ワインを飲み、シチュウを胃におさめると、身体《からだ》が暖まってきた。
「なんだか眠くなっちゃった」
暎子は椅子《いす》の背にもたれた。
「言いたいことがあるんだろ、いろいろと」
辰夫は微妙に牽制《けんせい》をする。
「ありますよ、それは……」
彼女の眼は焦点がおかしくなっている。暖房が強過ぎるせいもあるのかも知れない。
「あり過ぎて、どれから話したらいいか、わからないほどよ。……でも、今は眠くて……こんなに早く起きることは、めったにないもの」
「ここで眠るなよ」
店が混《こ》んできたのを辰夫は気にしていた。
「どうしても眠るのなら、喫茶店へ行こう。この近くだったら、『ブリッヂ』がいいんじゃないか」
「ブリッヂ」は、西銀座デパートの地下の隅《すみ》にある喫茶店で、原稿を書くコーナーがもうけられている。そのコーナーは黒いカーテンで仕切られており、日本茶を一杯注文すれば、居眠りをするのも自由という場所で、辰夫は急ぎの原稿を書くのに、よく使っていた。
「私、うちに帰るわ」
立ち上ろうとしてよろけた暎子は、辰夫の肩に手をかけた。
「アパート、越したのよ。飯倉片町《いいぐらかたまち》に」
「そうか。じゃ、途中まで乗せて行ってもらおう」
二人はフードセンターを出て、タクシーを拾った。
「忙しそうね」
「幸か不幸か」
と辰夫は答えた。
「私のアパートにこない?」
暎子は正面を向いたまま、さりげなく言った。
黙っていたが、彼はその気になりそうだった。
「お茶ぐらい出せるわ」
「本棚《ほんだな》を見てみたいな。きみが、どういう本を読んでいるか、興味がある」
「悪趣味ね」
タクシーが新橋駅の近くにさしかかったとき、辰夫は、突然、気が変った。
「おれ、会社に行くよ。――運転手さん、ひとり、降ります」
その夜、石黒と食事をして、赤坂|界隈《かいわい》を散歩した辰夫は、ナイトクラブの外に大きなクリスマス・ツリーが飾られてあるのを見て、はっとした。
去年の今頃《いまごろ》は、池袋の職安に通っていたのだった。もう、一年|経《た》つのか、という感慨が胸にきた。
同時に、まだ一年しか経っていないのか、という想《おも》いもあった。ふつうだったら、数年間に経験するほどのもろもろを、一年足らずのあいだに経験したのだった。
カフェテラス「シャンゼリゼ」は空《す》いていた。空間が密閉されていないので、足もとから寒気が這《は》い上ってくる。
「きみはいくつ?」
「二十一です」と石黒は答える。
「これからだな」
辰夫は呟《つぶや》いて、ボーイにコーヒーをたのんだ。
「ぼくは、あと二週間で二十九になる」
「そうですか」
石黒はなんとなく笑った。
「会社がクレイジーで、ぼくがクレイジーだから、びっくりすると思う。でも、仕事の方は大したことはない。年内に女の子がもうひとり入るから、充分にやれる」
「そうでしょうか」
「そうさ。単調なものだよ」
「外から見ていると、面白《おもしろ》そうですが……」
「編集プランを立てるのは、スリリングだよ。しかし、きみには実務をやってもらうのだから」
「はあ」
「プランも、いずれは、手伝ってもらいたいが、いま、すぐと言っても、な」
「はあ」
「いままでは家業を手伝っていたのか」
「はい」
「きみは圭角《かど》がないから、ファンクラブの連中との接触をたのむ」
「やってみます」
石黒と別れてから、近くにある、川合の行きつけのバーに寄った。
「川合さん、まだですよ」
混血のマスターが声をかけてきた。
「いいんだよ、べつに」
辰夫はそう答える。
彼のほかに客はひとりしかいなかった。カウンターの奥の方で、蒼《あお》ざめた、会社員風の男が、気むずかしげに溜息《ためいき》をついている。
気になった辰夫《たつお》は、「どうしたんだい、あの人?」とマスターにきいた。
「今日が、三十歳の誕生日なのですって」
マスターは小声で言った。
凝り始めると、際限《きり》がなくなる辰夫は、十二月六日の夜におこなわれた、二度目の試写会にも出かけた。
その日の昼間、あるテレビ番組に出たとき、同席した年長の映画批評家が、小声で、
「『ウエスト・サイド物語』をごらんになりましたか?」
と、秘密めかした問いかけをした。
「ええ」
と辰夫は答える。
「今夜も、試写がありますよ」
「存じております」
「いらっしゃいますか?」
「忙しいのですが、万難を排して、行くつもりです」
「けっこうなことですが、今夜は、混みそうですよ」
「でしょうね」
「それも、ただの混み方ではないようです。ぼくは女房《にようぼう》を早めにならばせるつもりです」
嚇《おど》かされた辰夫は、開場時刻の一時間前に丸の内ピカデリーに着くようにしたのだが、すでに人が列を作っていた。
しまった、と思ったが、そのまま、ならべば、席は確保できる。生地《きじ》の厚いダフルコートを着ているとはいえ、寒さがしみてくる闇《やみ》の中に辰夫は立ち通した。
たいがいの映画は、二度観ると、がっくりくるものだが、「ウエスト・サイド物語」に関しては、失望どころか、いよいよ昂奮した。試写のあとで、辰夫は、同世代の映画批評家たちと喫茶店に屯《たむろ》して、
「どんなに苦しいことがあっても、十二月二十三日(映画の公開日)までは生きていなくてはいけない」
とか、
「二十三日までは自殺|も《ヽ》してはいけない、をわれわれの合言葉にしよう」
などと、みんなで、わけのわからぬ言葉を口にしていたのである。
批評家の中には、
「だけど、ニューヨークの実景をバックにしたミュージカル映画には、『踊る大|紐育《ニユーヨーク》』という先例がありますがね」
と正論を吐く者もいたが、
「このさい、それを言ってはいけないでしょう」
と批判され、流行、時の勢いには逆らえない。
一同、盛り上ったまま、飯倉、六本木と飲み歩き、六本木から霞町《かすみちよう》を経て、青山通りまで、「トゥナイト」、「ジェット・ソング」を歌いながら寒風のなかを練り歩いた。辰夫がアパートに辿《たど》りついたのは、夜中の二時半であった。
翌日、眼《め》がさめると、辰夫はすぐに銀座のレコード店に足を向けた。
「ウエスト・サイド物語」のサウンド・トラック版LPは、まだ出ていなかった。その代り、アンドレ・プレヴィン(ピアノ)とシェリー・マン(ドラムス)によるLPが出ていたので、辰夫は、ただちに、大枚一千五百円也を投じて買い求めた。
使用曲は、ジャケットの表記によれば、「サムシングス・カミング」、「ジェット・ソング」、「|今夜こそは《トウナイト》」、「アイ・フィール・プリティ」、「ジー・オフィサー・|クルプク《ヽヽヽヽ》」(「ジー・オフィサー・クラプキ」)、「クール」、「マリア」、「アメリカ」の八曲である。ついでに記せば、ジャケットには、ベン・シャーンの「ハンドボール」という絵が使用されている。貧民街ウエスト・サイド地区のとりこわしのあとで、色の黒い子供たちがハンドボールをして遊んでいる絵柄《えがら》である。画家といい、絵柄といい、内容にぴったり合った、すぐれた選択といわねばなるまい。
黒崎《くろさき》が連れてきたもうひとりの助手《アシスタント》は、黒いセーターに黒いスラックスで、ボーイッシュな印象をあたえる娘だった。
色が白く、顔立ちは悪くないのだが、黒子《ほくろ》が多く、長い髪の手入れがゆき届いていないために、なんだか薄汚れたような印象をあたえる。美術関係の学校の出身だろうと辰夫は見た。
「竹宮照子君だ。よろしくたのむ」
と黒崎はみんなに紹介した。
机の置き場がないので、彼女は、十二月いっぱい、石黒の机を共同で使用することになった。向いのビルの一室を借りる交渉は成立し、先方の引越し待ちの状態にある。
「きみ、学校はどこ?」
昼休みに、喫茶店に連れて行って、辰夫はそうたずねた。竹宮照子の横には、俯《うつむ》きかげんの石黒がいた。
彼女はありふれた洋裁学校の名を口にした。卒業してからは、女性週刊誌のアルバイトをしていた、と答えた。
「どういうアルバイト?」
「レイアウトの手伝いです」
「じゃ、レイアウトができるわけ?」
「簡単なものなら、なんとか」
「それは助かる」
はなはだ勝手なはなしだが、彼女が、辰夫が強く惹《ひ》かれるタイプではないことに、いささかの失望を混《まじ》えながらも、ほっとしていた。ユーモアを解する気配がないのが気になるが、たぶん、第一日で、緊張しているのだろう。
「ずっと、編集者をやってゆくつもりなの?」
「いえ」
彼女は掠《かす》れ気味の声で答える。
「ふむ」
辰夫は、ポケットから煙草《たばこ》の袋を出して、
「いずれ、やりたいことがあるわけか」
「はい」
半年ぐらいでやめられても困る、と辰夫は思った。
「本当は、どういうことをやりたいの?」
と、思いきって、たずねる。
「前野さんみたいなこと、です」
「え?」
辰夫は、なんの意味か、わからなかった。石黒も、びっくりした顔をしている。
「なんだって?」
「前野辰夫氏がやっているような多彩な活動です」
相手の顔には、ユーモアの片鱗《へんりん》すらない。
「それは、だな……」
言いかけて、辰夫はやめてしまった。
二十代の前半を、〈平凡な勤め人〉で過してしまった口惜《くや》しさ、才能を発揮すべくもない職場に閉じこめられた苦痛、その期間に蓄積された恨みと焦《あせ》り――それらを、この若い娘に伝えるのは不可能であった。それらこそは、この一年間の彼の行動力の源泉なのだが……。
「きみが見ているのは、或る|こと《ヽヽ》の結果だ」
と彼は言った。
「ぼくは――いや、ぼくの側から見れば、一つのことしかやっていないのだ。それは何かといえば、自分にとって面白いことしかやらないという考えにもとづく行動だ。さまざまな偶然から、ぼくは活字以外のメディアにも携わるようになった。だから、ぼくは、精神分裂症のように見えるはずだ」
相手が頷《うなず》いたので、辰夫はがっかりした。嘘《うそ》でもいいから、「ちがいます」と言って欲しかったのだ。
「きみが見ているのは、ぼくの表面に過ぎない」と辰夫は疲れた声で言った。「表面をなぞっても、意味がないよ。多彩なんて言うけど、たまたま、そう見えるだけなんだ」
「そうでしょうか」
信じられぬ表情で相手は煙草のけむりを辰夫に吐きかけた。
――今晩は、前野辰夫のポップス・コーナーです。黒人ヴォーカル・グループのザ・ドリフターズの日本公演は、十二月五日の日劇から始まりました。今回の日本公演は、四人のメンバーに、前のリードシンガーであり、現在フリーで活躍しているボビー・ヘンドリックスが加わっています。さらに、あの、何度も、来日が立ち消えになっていたプラターズが、いよいよ、十二月二十二日に来日します。(BGM――「オンリー・ユー」かすかにきこえる。)「オンリー・ユー」や「マイ・プレイヤー」がきけると思うと、いまから、ぞくぞくしますね。(BGM、盛り上る。)……さらに、なんと、新年早々には、クリス・コナーが、モダンジャズ・コンボのホレス・シルヴァー五重奏団とともに来日します。
今週のジュークボックス・ベストテンは、東京、大阪、ともに、デル・シャノンの「悲しき街角」がトップ。大阪で九位に入った「上を向いて歩こう」が上昇する勢いを見せています。東京でも、間もなく、ベストテン入りしてくるでしょう。あと、「峠の幌馬車《ほろばしや》」「コーヒー・ルンバ」「悲しき足音」「涙のムーディ・リバー」などが殆《ほとん》ど順位変らずですが、ヘレン・シャピロの「悲しき片想い」が東京の九位に入りました。またもや、〈悲しき〉が題名にくっついたもので、なんとか、ならんですかな、これは。東京の十位は、コニー・フランシスの「夢のデイト」。相変らずのコニー節《ぶし》とわらわばわらえ、いい曲です。――名古屋の一位は、「悲しき街角」ではありません。フランク永井のリバイバル物「君恋し」です。名古屋だけ、「悲しき街角」が二位になっているのが面白いところです……。
会社の雑用は、十二月二十九日の午後までつづいた。
ようやく解放されたのは夕方だった。解放されてみると、辰夫にはやるべきことが殆どなかった。
気分を変えるために、まず、理容室へ行った。日活ホテルの地下にある店で、ヘアカット、洗髪、ひげそり、と、値段が別々になっている。こうした高級な店は苦手なのだが、川合に勧められたのである。
「マニキュアはどういたしましょう?」
と女性がきいた。
「いえ、けっこうです」
断った辰夫は、ケチと思われたのではないか、と、おそれる。
洗髪のあとで、
「ヘアトニックは何をお使いですか?」
と、たずねられたのにも参った。鏡の奥にならんでいる輸入品らしい種々のヘアトニックの名前を一つも知らないのだった。
理容室を出た辰夫は、地下鉄で新宿三丁目に出た。
三丁目の交差点の近く、伊勢丹《いせたん》の斜め前に、安い家具屋がある。べつに何が欲しいというわけでもないが、のべつ、バーゲンをやっているために、ふらりと覗《のぞ》く気になるのだった。
とりあえず、本棚《ほんだな》が一つ、欲しくなった。値段を見ると、予想よりは高かった。
店の奥で主人と話をしている娘の髪型に記憶があった。あのようなショートカットを、つい最近、見た、と思った彼は、娘が横向きになった時、はっとした。
辰夫は彼女が出てくるのを待っていた。
品物を値切っているらしく、話がなかなか終らない。
やがて、靴音《くつおと》がした。店先の洋箪笥《ようだんす》の蔭《かげ》に隠れたまま、
「保利さん」
と、声をかけた。
辰夫の顔を認めた彼女は、ゆっくり唇《くちびる》を動かしたが、声にならなかった。
「急いでるのかい」
と彼はたずねた。
「いえ……」
保利さんは低い声で答える。
「お茶、飲まないか」
彼は先に歩き出した。保利さんは、仕方なくついてくる形になった。
近くの喫茶店に入ると、人目につかぬようなボックスを選んだ。
「故郷《くに》へ帰ったんじゃなかったのか」
辰夫は煙草に火をつけながら、眼を細めた。
「帰ったんです」
と彼女は答えて、
「煙草、頂いていいかしら」
「きみ、煙草、吸ったっけ?」
「会社じゃ吸わなかったわ」
彼女は慣れた手つきで煙草を抜き、くわえた。辰夫は喫茶店のブックマッチを擦ってやった。
「驚いたよ」
「そうでしょう」
彼女はからかうような眼で辰夫をじっと見た。
「いや、意味がちがう。きみが、あそこにいたから、びっくりしたのさ」
「ああ」
保利さんは、かすかに笑った。
「東京に戻《もど》ってきたのかい?」
「おととい……」
「元のアパートか」
「どうでもいいでしょう、それは」
急に、訛《なま》りが出た。
「黒崎さんにきいたでしょ」
「なにを?」
辰夫《たつお》はなんだかわからなかった。
「私が帰ってきた事情……」
「ぼくは知らない。黒崎さんには話したのか?」
「電話で」
「ぼくは何もきいていない」
「実家《うち》にいられなくなったのよ」
ブラックコーヒーを啜《すす》りながら捨て鉢《ばち》な言い方をした。
「なぜ?」
「手紙がきたの。父あてに。おたくの娘は、こんなに悪いことをしましたって書いた手紙が」
「ふむ」
辰夫は頷いた。
「父は頑固者《がんこもの》だから、出て行け、って……」
「手紙の差し出し人は、津田さんの奥さんか」
保利さんは眼をつむった。まぶたがかすかに痙攣《けいれん》する。
話の継ぎ穂が失われた。辰夫は黙って煙草を吹かした。
「黒崎さんは冷たかったわ」
ようやく、ぽつりと言った。
「冷たい?」
「なにか仕事がないか、きいたのよ」
辰夫は驚いた。この娘は、自分が上司にどれほど迷惑をかけたかを、あまり考えていないらしい。
「そのことで電話したのか!」
「私の話をろくにきかないうちに、いま忙しいからって、がちゃり、よ」
「本当に忙しいのさ、彼は……」
辰夫は苦い表情になる。
心臓が強い、無神経、というよりも、倫理感が欠如しているのではないか、と思われた。
「大変だったんだぜ、会社は」
「私だって大変よ」
辰夫は腕時計を見た。ほんの少しでも同情したのは、自分の内部に甘さが残っているからだと思った。
「そうだろうな」
彼は適当な相槌《あいづち》を打ち、
「津田さんによろしく」
と言いそえた。
「え?」
相手は怪訝《けげん》な顔をみせた。
「関係ないわ、津田さんは」
「そうか」
辰夫も妙な顔をする。家具屋で、卓袱台《ちゃぶだい》と茶箪笥をたのんでいたので、同棲《どうせい》するのかと思ったのだった。
「そういうことなのか」
「あの人は臆病《おくびよう》なのよ」
「そう?」
「臆病者よ。奥さんに謝ったのだもの」
「へえ……」
そういった経緯《いきさつ》を辰夫は少しも知らなかった。
「じゃ、きみはひとりでやっていくわけか」
「大変なのよ」
と、自嘲《じちよう》的に笑って、
「前野さん、結婚するの?」
「どうして?」
彼はききかえした。
「だって、家具を見てたでしょ」
「だからって、結婚には関係ないだろ」
「怪しいな」
「莫迦《ばか》なことを言うなよ」
「男の人が家具を見ているときは、なにか、あるのよ」
「暗示にかけないでくれ」
そう言いながら、彼はまた、腕時計を見た。
保利さんと別れたあと、辰夫は伊勢丹の地下の食品売り場で、コハダの粟漬《あわづ》けとクラゲウニを買った。それから鶏肉《とりにく》と餅《もち》も買った。いちおう、鶏肉で雑煮用のスープをつくるつもりだが、いざとなると、面倒臭くなるかも知れない。
そのときは、永谷園の海苔茶漬《のりちやづ》けに熱湯を注《さ》して、餅を入れればいい、と割り切っている。どのみち、正月料理には縁がないのである。
カレーの缶詰《かんづめ》を買い足したのは、結局、この辺にたよることになると踏んだからであった。カレー缶三つを持つと、荷物がにわかに重くなる。彼は、夏に、どこのカレー缶がうまいかについて、暎子《えいこ》と言い争ったのを想《おも》い出した。
大《おお》晦日《みそか》に、ひとけのなくなった盛り場をうろつくのが、彼は好きだった。
地方出身者が帰郷したあとの街は、撮影所のオープンセットのようにがらんとしている。排気ガスがすくないために、空はほんらいの蒼《あお》さをとり戻し、凧《たこ》が風に舞っている。食べ物屋の大半は店をしめ、正月用の幟《のぼり》を立てた映画館だけが営業している。
渋谷《しぶや》に出た辰夫は、喫茶店の二階から街を眺《なが》め、この一年で、自分のなにが変っただろうか、と考えた。
人間らしい生活ができるようになったこと――それは確かだった。一年まえの自分からは想像できないほど楽になったと思う。
だが、忙しくなったために、押し流され、自分を見失いがちなのも、事実だった。とくに、自分たちの世代のための砦《とりで》を作る構想は、これから練り上げていかなければならぬものである。そのためには、裏方に徹する必要があるだろう。
いままでは、ふつうの生活を営めるだけの収入がなかったのだから、表面《おもて》に出てしまうのも仕方がない。しかし、これからは、それでは、まずい。
自分が〈裏方に徹〉しられるかどうか、心もとなかった。街を歩いていて、だれも振り向いてくれないと不満なのは、川合をはじめ、タレントたちと接触することによって生じた傾向であるが、その芽は彼の性格の内側にあったとみるべきだろう。それは、絶えず、時代の脚光を浴びていなければ落ちつかない、タレントに近い発想だった。
げんに、〈裏方に徹〉しなければと思いながらも、喫茶店にある週刊誌の〈今年活躍した各界の人々〉の中に、川合|寅彦《とらひこ》の名と顔写真があるのが羨《うらやま》しかった。自分には関係のないことだと割り切ることができなかった。
これは大きな矛盾である。どちらかを切りすてることができたら、もっと落ちつけるのだが……。
彼は喫茶店を出た。
平素ならば、絶対に観《み》ないたぐいの日本映画を、しかも最終回に観るのが、貧しかったサラリーマン時代に身につけた、彼のささやかな贅沢《ぜいたく》であった。
交差点に立った彼は、もっとも莫迦莫迦しそうな映画の看板を探した。
アパートに戻った彼は、ストーヴをつけ、買ってきたそばに日本酒をふりかけた。茹《ゆ》でてから時間が経《た》ったそばは、こうすると、味が良くなる。
テレビをつけようとすると、突然、電話が鳴った。
受話孔に耳を押しあてる。相手は、築地《つきじ》警察署の者です、と名乗った。
――二十一歳の娘さんが行方不明になったのですが……。
そう前置きして、娘の名と住所を告げた。
――どうです? 心当りがありませんか?
なんのことか、わからなかった。
――どちらにおかけですか?
と、ききかえした。
――あなた、前野さんでしょう。
――前野辰夫です。
――間違いない。文化社にお勤めですね?
――ええ。
――たしかです。あなたに問い合わせて欲しい、と、両親が言っておられるのです。
――なぜだろう?
まったく心当りがなかった。それだけに不気味でもある。
――もしもし。
先方は大声を出した。
――きこえますか?
――きこえています。
――補足いたします。「パズラー」という雑誌がありますな。
――ええ。
辰夫は不機嫌《ふきげん》そうに答えた。
――あなたは、この雑誌を経営していらっしゃる。
――いや、編集しているのです。
――そうですか。……で、この雑誌には、ファンクラブがありますな。
――ええ。
――行方不明になった娘さんは、そのファンクラブに属していた。私どもでは、その線を調べているわけでして……。
想い出した。赤坂の料亭《りようてい》の娘だった。その娘の紹介で、赤坂のレストランで会合を催したことがあるので、記憶に残っていたのだった。
――その人は、たしかに、ファンクラブに入っています。熱心な会員ではないようですが……。
――あなたの眼《め》には、どういうタイプに見えましたか?
――さあ……。地味だったと思います。
――ファンクラブの中での異性関係はどうですか。心当りがありませんか?
――私のほうは、そこまで立ち入りませんので……。
大晦日の深夜に、怪しい電話がくるのは、自分にふさわしい、と思った。かりに自分が殺されたとしても、とうぶん、遺体は発見されまい。その程度に、孤独なのだった。
テレビをつけると、山寺での鐘突きが始まっていた。また、テレビの中の音とはべつに、青山周辺のどこかの寺で突き鳴らす鐘の音が辰夫の耳にきこえてきた。内外の鐘の音が呼応して、非現実的な空間をつくり出しつつあった。
福茶を飲みながら、新しいなにかが始まるのだろうか、と彼は思った。
テレビの画面に和光ビルの時計がクロースアップされ、一九六二年に入った。
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第十二章 阻《はば》むもの
一月半ばといえば、もっとも寒気のきびしい時期である。よりによって、こんな時に、屋外で、夜の録画どりとは、正気の沙汰《さた》ではない。しかも、辰夫《たつお》が立っているのは西銀座デパートの屋上である。ダフルコートのフードをかぶり、マスクをしていても、頬《ほお》が寒風に切られそうになる。
「寒い……」
風に背を向ける形で辰夫は呟《つぶや》いた。コートの裾《すそ》がズボンに巻きついてきた。
「ひでえ話だな、おい」
同じような恰好《かつこう》をしながら川合が仕方なさそうに笑った。
「こんな場所を台本に指定したのか」
「いや」
と、辰夫はマスクの奥でこもるような声を出した。
「『ウエスト・サイド物語』風のダンス、と書いただけだ。ディレクターが悪凝《わるご》りしちゃって、スタジオでは駄目《だめ》だ、と言い出した。それでも、ぼくは、局の外の階段かなにかで撮るつもりだと思ってたんだ……」
「えらいこった。夜中までかかるんじゃないか」
川合はぼやいた。問題のダンスのあとで、「ウエスト・サイド物語」についての二人の対話を録画する段どりなので、帰ってしまうわけにいかないのである。
「文句なら、ディレクターのほうに、どうぞ」
「画期的ではあるけどな。ショウ番組で、カメラを高速道路に乗せたのは初めてだろうから」
「高速道路?」
きょとんとした顔で、辰夫はあたりを眺めまわした。
「ここ、高速道路なのか?」
「なんだと思ってたんだ」
「駐車場さ」
「とりあえず、駐車場になってるんだ。未来の高速道路の一部だよ」
川合は笑いを堪《こら》えている。
高速道路とは何なのか、辰夫はわからなかった。川合にたずねるのも癪《しやく》なので、理解したような顔をしている。
ようやく屋上に据《す》えられたカメラは、地上を俯瞰《ふかん》し始めた。
西銀座デパート前の、池を含む狭い空間には、男女数名のダンサーがいて、両手をひろげたり、とび上ったりしている。地上三階の高さから、これを狙《ねら》えば、「ウエスト・サイド物語」に似た構図になるのは確かだった。
「どこかで身体《からだ》を暖めないか。バーなら、あいてるだろう」
「おれ、ここを動けねえんだよ」と、川合が答えた。
「どうして?」
「鈴鹿兵伍《すずかひようご》を知ってるだろ。あの男がくることになっている」
鈴鹿といえば、舞台のミュージカル作家として知られていた。テレビの仕事も、ときどきは手がけたが、労音その他の舞台が主であった。日本にはまだ、本格的なミュージカルと呼べるものがないが、もし成功するとしたら、鈴鹿が手がけたときだろう、と噂《うわさ》されている。
「なにしに来るのだ?」
「ダンサーの中に、使いたいのがいるらしい。下調べにくるんだ」
「ご苦労なことだ」
辰夫は思わず呟いた。
アメリカでは、どんな小さな公演でも、オーディションで、必要な数のダンサーを選べるときいている。作者みずからダンサーを探し、出演交渉をするのでは、身体がいくつあっても足りないだろう。
「六〇年安保のときのあの男の活躍は凄《すご》かったぜ」
川合はポケットウイスキーをひと飲みして、
「スタンドプレイだって言う人も多かったけどな、おれはそれでもいいと思ってる。政治的な紐《ひも》がついてなくて、アジ演説がうまいんだから、強いよ。安保反対の集会は、あの男がくると盛り上った……」
「そのころの事情は知らないんだ」
「去年は静かにしていた。『ウエスト・サイド物語』を観て、もう一回、やる気になったらしい。いま燃えてる、と、奴《やつ》のマネージャーが言ってた」
作家にマネージャーがついている、というのも、辰夫には理解できなかった。
「きたぞ」
川合は小声で注意した。
黒革のコートを着た、背の高い男が、川合に向って頷《うなず》いた。耳までおおう長髪が時代錯誤の感をあたえるが、それさえ、わざとではないかと思えた。どこか一点、流行に逆らうことをして、その異様さで自分を印象づけようとしているようである。
「寒いね、今夜は」
鈴鹿は川合の肩に手をかけた。
「こちら、前野辰夫さん」
川合の言葉に、鈴鹿は、
「お名前は、以前から……」
と愛想よく笑いかけた。
辰夫は珍しく硬くなっている。鈴鹿兵伍は、一つ二つ年長のはずだった。
「いま、おたくの噂をしてたところだ」
と川合は臆《おく》さずに言う。
「どうせ、悪口だろう」
「悪口じゃないよ」
「ダンサーを見るために、こんな所にくるなんて、大変だと話してたんです」
辰夫は説明した。
「わかってくれますか」
と鈴鹿は辰夫の顔を覗《のぞ》き込むようにして、
「そんな風に言われることは、めったにないですよ」
その口調は、意外に、感傷的だった。そして、しばらく、ダンサーたちのリハーサルを眺めていた。
「振付けがひどい!」
と、急に、怒ったように言った。
「まったく、『ウエスト・サイド物語』の真似《コピー》じゃないか」
「それは仕様がないよ」と川合は笑った。「いま、大半は、ああだぜ」
「そうでもないよ。宝塚《たからづか》だって、もう少しアレンジしてるよ」
「あまり大きな声を出さないでくれ。トラブルはごめんだ」
「わかった。小さな声で喋《しやべ》る」
意地を張った鈴鹿は、声を低くして、「『ウエスト・サイド物語』と同じアングルで撮っているだろ」と、つけ加えた。
「同じものを作ろうとしているんですよ」
辰夫は第三者のような言い方をした。
「ディレクターは踊りの専門家じゃないんです。この方面に関しては、物真似《ものまね》になるのは、致し方ないでしょう」
「へえ、そういう発想なの」
鈴鹿は嘲笑《ちようしよう》するように言った。
「でも、前野さんがそれじゃ、困るなあ」
「困るとは?」
「もう少しわかってくれないと……。ぼくがやってるのは、その先の運動なのだから」
「運動、ですか」
「そう、運動。……アメリカのミュージカルを手本にして、日本人が、どう努力したところで、まったく意味がないってところから出発したのだから。――だって、そうでしょう。われわれには、そういう伝統がないのだし、投資してくれる資本家も、タレントやダンサーもいない。むろん、劇場だってありゃしない。文字通り、ゼロからスタートするの。だけど、日本の伝統的な芸能や芝居とは、明らかに異質なものをめざしているんです」
辰夫は頷いてみせた。
「ぼくらの身のまわりの問題で、どうやって、ミュージカル・コメディを創《つく》るかという試みを二つばかりやって、行き詰ったのです。……それで、去年は休んでいたのだけど、『ウエスト・サイド物語』が非行少年たちをああいう風にとらえているのを観《み》て、やられた、と思った。暗い社会問題も扱えることがわかった。そこで、もう一度、日本の風土に根ざしたミュージカルを創ろうという気になって、まったく、一から始めてるんです。タレントのストックを頭の中に作ったり、第一歩からやり直しです」
「なるほど……」
辰夫は頷いた。
「で、どこが運動なんです?」
「ぼくの考えに同調してくれる作曲家やジャーナリストがいます。その人たちに助けられて、なんとか、やってるんです。助けがなかったら、やれません。金銭的なことをいえば、テレビの台本のほうが、ずっと、わりがいいのですから。舞台をやるとなると、収入ゼロどころか、持ち出しになるし。……ただ、そこでやめてしまっては、まずいと思って、ひとりで〈運動〉と考えているわけ……」
新しい編集室、正しくは、文化社編集部分室は、さほど広くはないが、採光が良く、部屋の一部にはソファーが置かれて、来訪者との応対に不自由はしなかった。
辰夫のほかには、石黒と竹宮照子、それに若い校正係りがひとり加わって、全部で四人だったから、川合|寅彦《とらひこ》、井田実を含む、執筆者とも関係者ともつかぬ同世代人が、のべつ、遊びにきた。川合などは、ソファーで眠ったり、空いているデスクで他社の原稿を書いたりした。このような開放された空間こそ、辰夫が望んでいたものであった。
新入りの校正係りは、なにかというと広辞苑《こうじえん》を示して、正しくはブルトーザーではなく、ブルドーザーです、などといい出すので、閉口するのだが、それも愛嬌《あいきよう》のうちで、たちまち、〈広辞苑〉と呼ばれるようになった。辰夫は、石黒には、少しでも暇があったら、試写室へ行くとか、ジャズ喫茶を覗くようにしろ、と言った。
辰夫自身は、向い側の本社で、一日に一、二時間、「黒猫《くろねこ》」編集の打合せをし、あとは新しい編集室にいた。とにかく、来客が増えたのである。はじめのうちは、訳者・執筆者との打合せは編集室で、彼個人への仕事依頼は地下の喫茶店で、と、使いわけをしていたが、鈴鹿兵伍がたずねてきたりすると、編集室に通さないわけにはいかなかった。鈴鹿はどうやら、「パズラー」が、彼の〈運動〉を支持するものと見込んだらしく、辰夫にもその気は充分にあった。
いや、充分どころではない。彼は、寒風に吹き晒《さら》されたあの夜いらい、孤立無援と思われる鈴鹿の動きをフォロウし、掩護《えんご》射撃をしなければ、と思いつめたのである。
「あなた、利用されてるのですよ」
ソファーにもたれた井田は、さりげなく注意をあたえた。
「自分のことはさておいて、他人《ひと》の身を心配するあなたの性格を、鈴鹿は見抜いたのです。敏感な男ですからね。利用できるものは、徹底的に利用して、あとはポイ、という男ですから」
辰夫は動揺しないふりをした。
「そのくらいの迫力がなかったら、金にならぬ仕事は、できんでしょう」
「〈運動〉なんて言うのは、きれいごと過ぎますよ。外見は地味な、金にならないような仕事でも、あの男は莫大《ばくだい》なギャラをとっています。辣腕《らつわん》で知られたマネージャーがついてますからね。〈運動〉なんて建て前ですよ。舞台が失敗しても、あの男は、必ず、自分の売名には成功している。歌手もダンサーも、もう、彼にはついていかなくなってます。だから、つねに新人を探すのでね。あの男の通ったあとにはペンペン草も生えないってのが通り相場ですよ」
「ご忠告は、ありがたく承っておきます」
と辰夫は答えた。「とにかく、少し、つき合ってみますよ」
井田は少々、嫉妬心《しつとしん》を抱いているようだった。
井田と川合、井田と鈴鹿が顔を合せることがないよう、彼は気をつかっていた。井田の古風な戯文、戯詩のたぐいはいよいよ冴《さ》えていたが、若い読者にもてはやされるものではなく、しかし、それはそれで、雑誌にとっては貴重なのだ。
陽《ひ》当りのいい編集室のおかげで、同世代の才能のある男女が、自然と集ってくる。グラフ雑誌がその光景を取材にくる。――という形で、辰夫の予想以上に、うまく、ことが運んでいた。
雑誌が売れている限り、黒崎《くろさき》はこの盛況を「けっこうなことだ」と見ていた。
金井をどのように扱うかは、むずかしかった。
今のところ、金井は「黒猫」の〈編集主任〉であることに満足し、多忙だった。いずれ、編集長にしなければならない、と辰夫は見ていたが、そのためには、金井が、能力で、先輩たちを圧倒する必要があった。
日々、ひろがってゆく辰夫の人脈に、金井をどう、からませるかが、さしあたり、むずかしい問題だった。人脈が、処世と金のためだけではない、という一事が、現実主義者の金井に理解されるかどうか?
そのためには、辰夫の〈夢の砦《とりで》〉構想を根本から説明しなければならなかった。たとえ理解されないまでも、説明する時がきていた。
「今夜、あいてる?」
と辰夫は金井に声をかけた。
「新宿のおでん屋で作家二人とつき合う約束があるのですが」
「飲むのかい、きみが?」
「飲めないですよ、あいかわらず。一時間もあれば、すませてしまいます」
「じゃ、時刻を見はからって、そこへ行こう」
念のために一時間半ずらせて、辰夫はその店に入った。
新人と呼ばれる二人の推理作家が金井をはさんで、カウンターに向っていた。
「金井さんが〈編集主任〉になったお祝いの席だ。万歳を三唱しよう」
「そうしよう」
二人はスツールをおりて、金井さん、ばんざい、ばんざい、と大声で叫んだ。
「いや、ありがとう、ありがとう……」
金井はおもむろに頷き、
「よろしく、たのむよ」といった。
声をかけそこなったまま、辰夫は戸口に立ち尽した。別人のような金井の姿を見てしまったのだ。
辰夫がミュージカルにまつわる動きに捲《ま》き込まれるまえに、一九五〇年代に始まる、当時の人々のミュージカルへの熱っぽい思い入れを説明しておく必要があると思う。
一九五〇年代半ばに、アメリカのミュージカル映画に知的|刺戟《しげき》を受けたのは、意外にも、純文学と呼ばれるジャンルの評論家・作家たちであって、とくに評論家の花田清輝《はなだきよてる》は、
「わたしのみるところでは、ミュージカル・コメディは――ことにシネ・ミュージカルは、二十世紀後半期におけるもっともアヴァンギャルド的な芸術で……」
といった風に、「踊る大|紐育《ニユーヨーク》」「雨に唄《うた》えば」「いつも上天気」といった作品に即して具体的な賞揚を惜しまなかった。鈴鹿や辰夫の世代が沈黙を守っていたのは、彼らがまだ学生だったり、無名だったからに過ぎない。
〈アメリカ映画は文化の泉〉のスローガンの下で少年時代を送ったこの世代にとって、アメリカ映画といえば、西部劇か喜劇かミュージカルを意味した。
一九五〇年ごろから、MGMの名製作者アーサー・フリードが創るテクニカラーのミュージカル群が日本でも公開されるようになり、大学に入ったばかりだった彼らは、それらの作品に熱狂する。
花田清輝の右の文章を丹念に読めば、〈ミュージカル・コメディ(ブロードウェイの舞台で上演されるもの)〉と〈シネ・ミュージカル(舞台のミュージカルを映画に再構成したもの)〉を分けて語っているのがわかるのだが、辰夫などは、ごく単純に、この二つを同一のものと考えていた。ミュージカルといえば、即《そく》、アメリカのミュージカル映画、という発想である。
一般の日本人がブロードウェイ・ミュージカルの日本公演に接するのは、この物語の時よりものち、一九六四年の「ウエスト・サイド物語」(日生劇場)や六五年の「ハロー、ドーリー!」(宝塚劇場、メリー・マーティン主演)においてであり、そのさい、多くの観客が失望を口にしたのは、彼らの頭の中に野放図なシネ・ミュージカルのイメージがいかに浸透していたかを物語っている。
さて、歌と踊りを武器にして、現実とちがう次元に飛翔《ひしよう》する魅力にとらえられた若い彼らは、つぎに、そうした魅力を自分たちの手で創り出せたら、と考え始めた。
ここで、一つの、しかし、重大なすれ違いがおこる。彼らのお手本であり、一九三九年の「オズの魔法使」から数々の実験をこころみてきた天才アーサー・フリードは、五八年の「恋の手ほどき」を〈白鳥の歌〉にして、引退してしまう。ハリウッド・ミュージカルのもっとも偉大な時代が終ったのである。
日本は、六〇年安保の季節に入っていた。若干の例外はあったにせよ、ミュージカルどころではない、というのが、大半の若者の気持であった。
みんな、一度は、歌を忘れた。辰夫も、その一人であった。それを想《おも》い出させてくれたのが「ウエスト・サイド物語」である。歌は、まだ終っていなかったのだ。
戸波《となみ》という三十代のプロデューサーが辰夫をたずねてきた。
戸波は有名な貸しホールのプロデューサーであるが、自分のホールで上演する作品以外のプロデュースも請け負うのだという。この種のプロデューサーが殆《ほとん》ど存在していない時代に、戸波は、業界で、ちょっとした顔であった。
「夏に京都でミュージカルを上演したいという話があるのです」
人当りの良い口調で戸波は言った。
「資金を出す団体は、しっかりしています。ある程度の金は使えるのですが、ミュージカルとなると……」
「むずかしいですね」と辰夫《たつお》は応じた。
「作者とタレント、双方の、見当がつかないのです」
と、戸波は正直に語った。
「しかし、私どもとして、引き受けられないとは言えないので」
「どうしてですか」
辰夫は好奇心からたずねた。
「プロデュースによって儲《もう》ける必要はないのです、うちは」
「そうですか」
「わずかな手数料は貰《もら》いますが、大きく儲ける必要はない。しかし、こうしたことを手がけると、私どものホールの立場が強くなるのです。また、将来、一つのビジネスになるとも考えられますので」
「どうですかねえ」
「ふつうの芝居ならともかく、ミュージカルは、どうも苦手で。前野さんのお力を拝借できればと考えました」
「企画、ですか」
「いえ、台本です。台本をお願いしたいのです」
「そりゃ、無理ですよ」
辰夫は即座に言った。
「ミュージカルがお好きとききましたが……」
「個人的には大変好きですけれど、台本を書く才能はありません」
「ご謙遜《けんそん》で」
「ぼくは不必要な謙遜はしないです。でも、できることとできないことは判別できます。……川合寅彦はどうです?」
「私どもの話をきくひまもないんじゃないですか」
戸波はおだやかに笑った。
「かなりの打ち合せを要すると思いますので、神風タレント、神風作家は避けたいのです。その点前野さんなら、徹底したお話し合いができそうに思いまして」
「話し合いはともかく、才能のほうが問題です」
辰夫は階下《した》の店からとりよせたコーヒーを相手にすすめた。
「どうなのですか。こういう場合、常識的には、鈴鹿兵伍《すずかひようご》の名が浮ぶと思うのですが……」
「まあ、そうでしょうねえ」
と、相手はわりに冷淡である。
「お考えにならなかったのですか」
戸波は困ったような顔をして、
「私どもは、おつき合いがないもので」
「これから、つき合えば、いいじゃないですか」
「鈴鹿さんとはお親しいのですか」
「何度か、会っただけです」
「そうですか、それなら申しあげますが……」
相手は安心した表情になって、
「鈴鹿さんは敬遠したいのです。いろいろなトラブルを耳にしますので」
「そうですか」
辰夫は納得できなかった。
「あの男はものごとをはっきり言い過ぎるんじゃないかな。ぼくが話をきいた範囲では、日本で、いま、なぜ、ミュージカルをやるのか、という考えがしっかりしていると思いました」
「はあ……」
と相手は乗りきれない返事をする。
「あの調子で、びしびし言ったら、軋轢《あつれき》が起るのは当然でしょう。だけど、日本人は、すべてを|なあなあ《ヽヽヽヽ》でやり過ぎる傾向があるので、ああいう才能を遠ざけてしまうのではないですか」
「そう言われると、答えに窮します」
戸波は閉口気味で、
「プロデューサーとはいえ、所詮《しよせん》は宮仕えの身ですから、揉《も》め事を避けたい気持はあります。……しかし、鈴鹿さんに関していえば、それだけではありません。ただ、それを説明するのは……私の口からは……とにかく、勘弁してください」
「どういうことですか、それは?」
辰夫は好奇心がふくらむのを意識した。
「……ですから、勘弁してください、と申しあげているのです」
「何ですか、いったい」
辰夫は不審に思ったが、これ以上、きき出すのは困難なようだった。
「台本のほう、いかがでしょうか」
戸波は妙に切羽《せつぱ》つまった言い方をする。あちこちで断られたあとではないか、と辰夫はちらと考えた。
ここで拒否すれば、話は跡切《とぎ》れてしまう。だが、せっかく、ミュージカルの台本を、という話が向うからきたのを、簡単に一蹴《いつしゆう》してしまう手はあるまい。
「なにぶんにも急な話なので――少し考えさせて頂けるでしょうか」
「けっこうです。私も、すぐ、お引き受けいただけるとは思いませんでした」
戸波は愁眉《しゆうび》を開いた様子である。
「うかがっておきたいのはタレントのことです」
辰夫はメモを引き寄せる。
「歌って踊れるタレントがいますか。いちおう、主役クラスで……」
「これがまた、頭の痛いところです」
戸波はやわらかい苦笑を浮べた。
「ひとり、候補がいることはいるのです。ロカビリー歌手だった白井直人《しらいなおと》ってご存じですか」
「テレビで観《み》ています」
「どうですか、彼は?」
甘さが感じられないせいか、人気がもうひとつ盛り上らない痩《や》せた青年の姿を、辰夫は想い浮べた。
「暗いですね、主役にするには」
「そうなんです。うちの事務所の女の子もそう言ってます」
「踊れるんですか、彼は?」
「実は、接触してみたのです。踊りのレッスンを受けていました。タップダンスも習っているようです」
「タップダンスはいいですね」
辰夫はやや気が動いた。
「譜面は読めるのかしら」
「おかしな話でしてね」
と、戸波は本当におかしそうに言った。
「この世界に入るまえに、教会の聖歌隊にいたのです。小学校から中三まで、と言ってましたが、譜面は大丈夫だそうです」
「そいつは心強い」
二十一、二歳の歌手で、譜面と踊りがまずまず、というのは、珍しい。
「私は白井でやれるとみています。白井クラスのタレントでも、夏のスケジュールを押えるとしたら、もう遅いくらいです」
「生《なま》の舞台姿を、ちょっと、見てみたいですね」
「いま、新宿のジャズ喫茶に出ています。よろしかったら、覗《のぞ》いてみませんか」
社の仕事を終えてから、辰夫は新宿で戸波と落ち合い、ジャズ喫茶で白井直人を見た。白井は若い観客を無視した態度で、マイクを斜めにし、「マック・ザ・ナイフ」を歌った。年齢より老《ふ》けてみえる顔と、しなやかな身体《からだ》の動きが、印象的だった。
辰夫たちは楽屋にまわった。こわれた椅子《いす》一つの陰惨な部屋で、手垢《てあか》で汚れた壁にマジックインキで〈飯田久彦《いいだひさひこ》を殺せ!〉と大きく殴り書きしてある。うだつの上らぬ歌手たちの怨念《おんねん》が充満しているようだった。
革のジャンパーにジーンズ姿の白井は、辰夫が挨拶《あいさつ》しても、笑顔を見せなかった。
「腰かけるものがなくて、すみません」
と、白井は、ぶっきらぼうに言った。
「すぐに、テレビ局に行かなきゃならないもんで」
「先日の件、どうでしょうか」
戸波は、いきなり、口を切った。
「やりたい気持はあります」
「それはありがたい」
「ぼくの人気を期待しないでください」
白井はそう断った。
「観客を集めるためには役に立たないと思いますよ」
「そんなことは……」
「いや、そうですよ。いまの人気はプロダクションが作ったものですからね。非常に危険なところにいるんです、ぼく」
正確な自己分析だった。こんな風にクールに自分を見つめられる人間では、爆発的人気は出ないだろう、と辰夫は思う。
「大衆に愛されないタイプなんですよ、ぼくは」
と白井はつけ加えた。
「今で、これですからね。今後も、女の子に騒がれたりすることはないと思いますね」
「そんな風に決めちゃいけない」
と、戸波はなだめ役にまわる。
「ところで、スケジュール的にはどうですか?」
「ぼくは、なんとも言えません。マネージャーにきいてください。やりたい意志はありますが、会社の方針とか、いろいろあるでしょうから」
「わかりました。正式に、おたくの会社に申し込みをします」
戸波は切り口上になった。
「じゃ、失礼します。タクシーをつかまえなきゃならないもので」
白井は長身をかすかに傾けて挨拶した。
「まだ、マネージャーがこないじゃないですか」
「ぼく程度《クラス》じゃ、マネージャーが常時ついてはくれないのです。では……」
白井は昂然《こうぜん》と去って行った。二人は、あとを追う形で、楽屋口を出た。
「どうですか」
雑踏の中で戸波がたずねた。
「生意気で、腹が立つでしょう?」
「生意気といえば生意気だけれど、いいんじゃないですか」
自分も生意気と言われている辰夫は、くすぐったく感じた。
「ハングリーな雰囲気《ふんいき》がいいですよ。肉体的にもぶよぶよしていないし」
「しかし、暗いな。前野さんのおっしゃる通りだ」
「いい素材ですよ。あなたは彼がぶっきらぼうなので気を悪くしているのでしょう」
「そうでもないのです……が、口のきき方がなんだか気に障《さわ》って」
「あんなものでしょう。良いほうじゃないですか」
「私は古いのかな」
戸波は笑った。
「白井はフランク・シナトラが好きなんですって。いまどきの歌手にしては珍しいですな」
「としをサバ読んでるんじゃないだろうな」と辰夫は言った。「シナトラは、もう、五十に近いでしょう。たしかに、変ってるなあ」
年頭に、新聞が予想した日本の前途は、決して、明るくはなかった。
〈ともかく、年は明けた。「黄金の一九六〇年代」という、ついこの間まではやされてきた言葉が、なんとなく、うつろに響く「引締め」の新春。〉――というのが、書き出しである。池田首相だけが「所得倍増計画を変えない」と宣言していたが、同じ紙面で藤山《ふじやま》(愛一郎《あいいちろう》)経済企画庁長官は、物価抑制に本腰を入れる、と強調した。日本経済の成長に楽観的なのは一部の学者だけであり、財界人は一様に不安を表明していた。
一方、冷戦の見通しも暗く、米ソ首脳会談だけが唯一《ゆいいつ》の望みであった。
ひとことでいえば、重苦しい空気の中で迎えた新年だった。
「今年は、良いことがありそうかね」
赤ワインを飲みながら黒崎《くろさき》が言った。
一月半ば過ぎの横浜のホテルは、あまり、ひとけが感じられない。夜の港を見おろすホテル・ニューグランド五階のグリルは、新年用の飾りつけが、かえって寒々と見えるほど空《す》いていた。
東京からわざわざ遠出をしたのは、黒崎が、買ったばかりの車を、自分に見せたかったからではないか、と辰夫は睨《にら》んでいた。新車の中は独特の臭《にお》いがし、黒崎は他のドライヴァーに対して妙に神経質だった。
「ぼくのほうは、相変らずですよ」
「そうでもあるまい」
黒崎はワイングラスを空にした。ボーイがすぐに注《つ》ぎにくる。
「城戸《きど》先生は、まだ、きみが『黒猫《くろねこ》』の編集長を兼ねるのを希望しておられるようだ」
「黒崎さんも、そうお考えですか」
「わしはわかっとる。城戸先生の希望を伝えたまでだ」と、黒崎はにこりともしない。
「しかし、きみにも、考えてもらわねばならない」
「は?」
パンを口に入れかけた辰夫《たつお》は、思わず、顔をあげる。
「……なにを、ですか」
「『パズラー』が、このままの売れ行きを持続させれば、いちおう、安心と考えられる。そこでだ。別な雑誌を考えてもらいたい」
なるほど、と辰夫は思った。……まず、「黒猫」を持ち出し、辰夫が断ったところで、別な企画を持ち出す。二つ続けて断るわけにはいかないからだ。
「まえにも言ったと思うが、うちのように雑誌だけで商売しておる会社は、雑誌の数が多いほど、経営が楽になる。第二営業利益が見込まれる、つまり、広告が多くとれそうな雑誌を作るはなしが持ち込まれてきたのだ」
黒崎は、おもむろに、大手の広告代理店の名をあげた。
「どういうことですか」
辰夫は腑《ふ》に落ちなかった。
「考えてみたまえ。男のファッションなんてものは、今まで、ごく特殊な雑誌にしか広告を出していなかった。それが、ここ、一、二年で、がらっと変った。男性衣料、男性用化粧品、テープレコーダー、ステレオ、ダイエット食品、電子頭脳のカメラ、自動車、オートバイ、ソファーベッド――こういった商品を、若い男性に、直接、PRする必要性が出てきたわけだ」
「なるほど」
と、辰夫は納得する。
「まさに、『パズラー』の読者向きだ、と先方は言うのだ。ただ、サイズは、もっと、大きくする必要がある。大判の雑誌になる」
「はあ」
辰夫は気のない返事をした。
「でも、そういう雑誌は、すでにあるでしょう? 『男子専科』とか……」
「ああいう専門誌ではない。なんと説明したら、いいかな。……そうそう、先方は、アメリカの『プレイボーイ』とか、そんな名をあげておった。エ、エスカ……」
「『エスカペード』ですか」
「そうだ。紙が良くて、広告が沢山入ってる雑誌だよ。都会趣味というのかな」
「ああいう良い紙を使うのですか」
「あの通りではないが、ある程度、上質紙でないといけない。これから、あの種の雑誌の需要が出てくるというのは、わたしも、そう思う。活字だけでなくて、視覚的要素が加わってくるだろう」
「へえ」
「いろんな話が出たのだが、先方は、きみの手腕を買っておった。きみが本気で取り組んでくれれば、ものになるのではないか、と……」
「さあ?」
視覚的《ビジユアル》な要素というのが気に入らなかった。辰夫は活字に固執するたちの人間である。
「まあ、内容的には、『パズラー』から推理小説的部分を抜いたもの、と考えればいいだろう」
そうか、と辰夫は、ひそかに首肯《しゆこう》するところがあった。
正直にいって、「パズラー」を彼の理想の雑誌に改造するのは無理だった。まさに、〈推理小説的部分〉がネックになっていたのだ。推理小説に対する偏見はなくなりつつあり、むしろ、〈少々|嗜《たしな》む〉ポーズをとることが、知識人の新しいスノビズムになっているのだが、それにしても、推理小説雑誌の枠内《わくない》で出来ることは知れていた。
考えてみる必要がありそうだ、と彼は思った。
アパートに戻《もど》って考えると、新雑誌の構想は、悪くない、どころか、彼の夢を実現するために、かえって良いのではないか、と思えてきた。昂奮し易《やす》い彼は、夜明けまでまんじりともせず、雨戸の小さな穴から白い光がさし込み始めたころには、ベッドのまわりにメモ用紙が散乱していた。どこまで実現可能かわからない、妄想《もうそう》めいたアイデアの数々を書き記したのだった。
アルコールの力を借りてようやく眠りに入ったが、三時間ほどで眼《め》が覚めた。頭がぼんやりしている。それでも、出社しないわけにはいかなかった。
いつもより早く出社すると、校正係りの青年だけがきていた。
「珍しいですね」
と、広辞苑《こうじえん》は笑った。
辰夫は、持ってきたメモ用紙を机の上にならべた。使えないアイデアに赤いボールペンで×印をつけ、使えそうなアイデアだけを残した。そこには、原稿を依頼したい作家、批評家、詩人、映画監督、テレビ・ディレクターの名と、三十幾つかの企画があった。世代的主張をはっきり持った雑誌を創《つく》り得る材料といっていいだろう。
石黒と竹宮が出社したあとで、井田から電話が入った。原稿を届けに寄るというのだった。
タートルネックのセーターに赤いカーディガンという軽装で現れた井田は、愛想は良かったが、沈んだ気分が感じられた。
「どうも、うまく、書けなかったのですが」
と言って、原稿用紙を封筒から出した。
辰夫は礼を言ってから、その場で原稿を読んだ。短文なので、二度読みかえして、数カ所を直してもらった。
「おかげさまで『サンデー毎日』から原稿の依頼がありましたよ」
井田は努めて明るく言った。
「あなたのおかげです。去年から、気が滅入《めい》ることばかりで、このまま、ずっと消えてゆくのかと思ってたのです」
「よかったですね」
辰夫はほっとした。井田が雑文書きとして自立してくれれば、辰夫の心の負担も軽くなるのだった。
「『サンデー毎日』にお書きになれば、ほかからも注文がくるでしょう」
「そう甘くはないでしょう。単発で、一回きりですから」
「一回きりでも、面白《おもしろ》ければ、必ず、きますよ」
「全体としては、わたしは衰運です。この春で、わたしのテレビ番組は、すべて終ります」
そう言われては、返事のしようがなかった。
「占いに見てもらったのです」
「そういうものを信じるのですか」
「占いといっても、新宿の街頭でやってるようなやつじゃありません。中国古来のもので、気味が悪いほど、当るのです」
辰夫は答えない。会社で、朝から、占いの話をされても困るのだ。
「じっとしてるより仕方がないそうです。焦《あせ》っても、すべて、もう、運命が決っているのですから……」
たしかに、|つき《ヽヽ》というものはある、と辰夫は思う。そして、彼自身は、去年の秋から|ついて《ヽヽヽ》おり、|ついて《ヽヽヽ》いるからこそ、新雑誌の企画がまわってきたのだった。この|つき《ヽヽ》を大事にして、できるときに、一挙に仕事をしてしまおう。
「そうか。乗ってくれるか……」
黒崎は、全身これ商魂といった勢いで、回転|椅子《いす》の肘《ひじ》を叩《たた》いた。
「いや、無条件てわけではありません」
辰夫は予防線を張る。そうしておかないと、黒崎は、さらに、一冊か二冊の雑誌を押しつけてきそうであった。
「検討に値するのではないかと思ったのです」
「まあ、すわりたまえ」
にわかに愛想がよくなった黒崎は、保利さんの代りに入った女子社員に向って、良い方のお茶を入れてくれ、と言った。客によって、良いお茶、悪いお茶と、待遇を変えているらしい。
「きみは乗ってくれるのではないかと、思っとったのだがね」
と、黒崎は忙《せわ》しなく言った。
「城戸先生も、どうなるか、気にしておられるのだ。先生としても、私財を投入するのは、限度がある。文化社が一日も早く、経済的に独立することを望んでいらっしゃる」
「そういう期待を背負わされると困ります」
辰夫は困惑した。
「ぼくが、やってみようかな、と思ったのは、これが、日本に、今までなかったタイプの雑誌だからです」
「うむ……」
「なんといおうと、『パズラー』は、中綴《なかと》じ翻訳推理小説誌のパターンに沿ったものです。内容は他誌とちがいますが、外見、体裁は、既成のものに則《のつと》っているわけです。しかし、今度はちがいます。判型からして独創的でなければならない。なんというのでしょうか、若い男性の……」
「兄《あん》ちゃん向きの雑誌、野郎雑誌だ」
黒崎は極端な言い方をする。
「つまり、メンズ・マガジンてやつです。外国《むこう》でいうところの……」
「メンズ・マガジンと言うのか……」
黒崎は頷《うなず》いた。
「覚えておこう」
「それを、うちのような小出版社でやるのは、大変な冒険、というか、博打《ばくち》です。『パズラー』よりも、はるかに大きな博打ですよ」
「重々、承知している」
と黒崎は、かすかな笑みを含んだ眼で辰夫を見た。
「正直にいえば、わしも重荷に思っている。ただ、いえることは、広告のスポンサー・サイドの要望が強いのだ。うちが断ったとしても、遅かれ早かれ、どこかの社が手を出すと考えられる。読者層としても、未開拓の市場だしな」
「スポンサー・サイドの要請が強いというのは、ありがたいようでいて、こわいですね。どの程度、自由な編集ができるか、不安になります」
「どのみち、無限の自由はないのだ」
と黒崎は笑った。
「重要なのは、きみの腕が高く評価されていることだ。だから、わが社に話がきたのだ」
「そうなると……」と、辰夫は口ごもった。「それはそれで、こわいことです」
「なに、今まで通りにやればいいのさ」
黒崎は無責任に煽《おだ》てる。
「やりたいことをやればいい。その点は保証するよ。金がかけられるぶんだけ、自由かも知れない」
「そうもいきますまい」
辰夫は警戒した。
「これからは、若い連中が金をつかう時代だそうだ。いままでは中年以上が高価な品物を買い、若い連中は小づかいを持っていなかったのだが、これが逆転するらしい。少くとも、その兆候は現れているそうだ。――となれば、時代を先取りしない手はあるまい」
黒崎の鋭い眼から笑みが消えていた。
辰夫が承知した報を受けたらしく、翌日の昼に、城戸草平《きどそうへい》から電話がきた。
――より多くの読者を相手にするための勉強をしなければいかんよ。
と、城戸は、相変らず不機嫌《ふきげん》そうな口調で、諭《さと》すように言った。
――そのためには、今の日本を代表する編集者に会って、話をきくことだ。湧井隆《わくいたかし》と助川文郎《すけがわふみお》がいいと思う。二人に、こういう者がたずねて行くからよろしく、と電話をしておいた。至急、会いに行ってくれたまえ。
やれやれ、と、辰夫は思った。
ジャーナリズムで〈名編集者〉と持て囃《はや》されている人たちには殆《ほとん》ど興味がもてなかった。それらの人たちは、ほどほどに良識的であり、ほどほどに退屈な冗談を言い、保守的な立場からほどほどの社会批判を述べることで人気があるらしかった。
〈ほどほど〉が嫌《きら》いな辰夫は、彼らに反感を抱くよりも、むしろ、無関心であった。しかし、城戸草平の命令とあれば、仕方あるまい。
湧井隆は、毎月、百万部近く発行されている〈国民的な〉総合雑誌の編集長で、会社の八階にあるレストランで会ってくれた。高名なフランス料理屋が社内にあるのだから大したものだ、と、辰夫はもっぱら食文化の観点から感心している。
ボーイが持ってきた大きなメニューを無視した湧井は、コーヒー二つ、と、嗄《しやが》れ声で命じた。
銀髪の小柄《こがら》な紳士である。
辰夫がおそるおそる雑誌をさし出すと、湧井は胸ポケットから老眼鏡を抜いて、眼鏡の|つる《ヽヽ》をゆっくりと起こした。
まず、表紙を見る。
つづいて、目次を見、なかをぱらぱらと見た。
「ほう……」
湧井はにっこり笑った。
「こういう雑誌が作れたら楽しいだろうなあ。いや、羨《うらやま》しい……」
そう呟《つぶや》いて、また、頁《ページ》をめくった。
辰夫は、少し、ほっとした。しかし、相手が、言いたい言葉を我慢している様子もみえるので、手放しで安心はできない。
「若い編集者の夢だろうな。うちの社では、こういう雑誌は作れない。また、私の立場として、作らせるわけにはいかない」
にわかに、声がきびしくなった。
「放っておくと、若い連中は、すぐに、自分たちのやりたいことをやる。大衆を無視して、水準をあげてしまうのだ」
依然として湧井は笑っている。笑顔を見せながら辛辣《しんらつ》な言葉を吐くのに慣れているのだろう。
「だから、若い連中に任せる雑誌は、水準を落せ、落せ、と、口やかましく言っている」
大出版社のエラい人の発想はこうなのか、と辰夫《たつお》は思い、反感を顔に出さぬようにした。
「助川君に会いましたか」
「いえ……」
「彼に会うといい。助川君はこの雑誌が好きで、面白い、面白い、と言っている。私は彼のように手放しでは誉《ほ》められない。しかし、楽しいだろうということはわかる。きみの喜びが溢《あふ》れているよ」
湧井は眼鏡を外し、コーヒーをすすめた。
「まあ、レヴェルを落せば、読者の数がどっと増えると思うが……落す気はないのでしょう?」
「ええ」
「時代が変りつつあるのかな」
湧井は葉巻をとり出し、ライターで火をつけた。
女性週刊誌で、毎週、百万部以上を売り切ったことで知られた助川文郎は、閑職にあるという噂《うわさ》だった。
どうして、そうなったのか、辰夫は知る由《よし》もない。会社をやめたわけではないが、日比谷《ひびや》の小さなビルの一室にいる、と、湧井は教えてくれた。
動きののろいエレベーターで上ってゆき、五階でおりる。助川が属する出版社の看板がかかっており、〈企画室〉と記されている。
変形の四角い部屋に、頭を職人刈りにした男がいた。ネクタイを外し、ワイシャツの袖《そで》のボタンを外した姿からは、〈女性週刊誌の元編集長〉は想像しがたい。
辰夫が名刺を出すと、
「おう……」
と頷いて、袖のボタンをかけ、上着を着た。まるで土建屋の親父《おやじ》のようで、湧井を英国風紳士とすれば、こちらは野人である。
「肩書はないようなものだが……」
助川は名刺を出した。ワイシャツの袖口から下着の袖がはみ出ているのを、辰夫は見落さなかった。
「外へ出るか」
助川はせかせかと歩き出した。
ビルを出て、国電ガード沿いの東京茶房という喫茶店に入る。三階まであがると、客の姿は見られなかった。
「きみが入ってきたとき、右翼が刺しにきたのかと思った」
と助川が笑った。
「眼《め》つきが鋭過ぎる。びっくりするぞ、たいがい」
「そうですか」
と辰夫は苦笑する。
「その鋭さが、雑誌に|もろに《ヽヽヽ》出ている」
助川はビールを注文した。
「昼間だけど、いいだろ?」
「はあ」
いよいよ、土建屋の親父である。
助川は、二つの雑誌と一つの週刊誌を成功させた男である。大衆にアピールする記事・読物を想《おも》いつく、一種の天才といわれていた。
「きみの雑誌、毎号、読んでるよ。表紙からコラムまで、ぼくぐらい丹念に読んでいる人間はいないんじゃないかな」
「光栄です」
辰夫は儀礼的な言葉を口にした。
「それだけに、いろいろ、注文がある。つまり、ぼくだったら、こうする、というアイデアだな。――まず、表紙が暗い。表紙は、もっともっと明るくなくてはいかん。こいつは、ぼくの経験から出た意見だ」
「はい」
鋭いな、と辰夫は感じた。表紙の色が気になっていたところだった。
「それから、ショートショートだな。思いきって、こういう人たちにたのみなさい」
助川は、純文学畑の短篇《たんぺん》の名手の名を、何人か、あげた。
「まず、原稿料を、きちんと用意しておくことだ」
と言って、大家でも、一篇につき、このくらい支払えば、書いてくれる、と、金額を口にした。その額は、辰夫が編集する雑誌一冊の原稿料の総額に近かった。
ここらの感覚がまったく違うのだ、と辰夫はひそかに呟いた。ここぞという時、金に糸目をつけぬ会社と、零細企業の差であった。そんな大金が払えないからこそ、毎日、苦労しているのである。
気分が良くなったらしく、助川は水割りを注文した。
「愉快だな。前野君を見ていると、ぼくの若いころを想い出す。そっくりだ」
辰夫は覚《さ》めていた。助川は頭に浮んだことを口にし過ぎるようだった。それに、組織の中の人間にしては、圭角《けいかく》があり過ぎる。
湧井と助川をくらべた場合、助川のほうが天才的な閃《ひらめ》きがある、と辰夫は思う。しかし、現場を離れている今の助川は、ひどく惨《みじ》めだった。
その点、人格円満な湧井は、現場を離れても、隠然たる存在でありつづけ、いずれ、重役になることだろう。
「アイデアは、まだまだ、いくらでもあるぞ」
助川は喋《しやべ》りつづけた。
どっちかといえば、おれは、助川のタイプだ、と辰夫は思った。助川がやたらに親近感を示しているのが、その証拠だった。動物が臭《にお》いで同類を判別するようなものだ。
考えなければいけない。助川のように大きな組織に恵まれていても、こんな風になるのだから、自分が現場を離れたら、もっと惨めな目にあうのは明らかだった。こうならないように、自分を、もっと強い存在に創《つく》り上げなければならない。
「推理作家に、なぜ、直木賞がいかないのか。――どうも、合点がいかない……」
助川は、ひごろ思っていることを、すべて、吐き出さなければ、我慢できぬようであった。銀座のバーで、流行作家をつかまえて、からむ時の勢いを、辰夫に向けていた。
「私、そろそろ、失礼いたします」
間合いをはかって、辰夫は言った。
「忙しいのだな」
助川は残念そうに笑った。
「今度、夜、ゆっくり飲もう。その時までに、『パズラー』をもっと面白《おもしろ》くするアイデアをメモしておくよ。河豚《ふぐ》はきらいかい」
「いえ、好きです」
「よし、銀座の河豚屋から始めようや。……そうそう、ショートショートの支払いの件だけは実行しなさいよ」
辰夫は頭をさげて外に出た。
一日をつぶして二人に会い、マイナスではないが、べつにプラスにもならなかった。
二月は晴れた日が続いた。
風邪をひいた辰夫がアパートに閉じこもっていると、「ティーン・ショウ」のプロデューサーから電話が入った。お休みのところを、と遠慮しているが、ただならぬ気配である。
――かまいません。熱は下っているのです。
と、辰夫は嗄《か》れた声で言った。
――結論から申しあげます。
プロデューサーは息を弾ませている。
――「ティーン・ショウ」は、三月いっぱいで終ることになりました。
――え?
寝耳に水とはこれだ。「ティーン・ショウ」は視聴率が安定し、スポンサーが長く続けてくれと言っている、と聞かされたばかりであった。
――どうかしたのですか?
辰夫はベッドに腰かけた。番組は、彼の収入源でもあったのだ。
――説明をすると、長くなります。……それに、いま、局のデスクからかけているので……。
――ははあ、上層部《うえ》が決めたことですか。
――ええ。決めざるを得なかったのです。
――そうですか。
辰夫がむっとしたのを感じとったのか、先方は慌《あわ》てて、
――四月からの番組も、やはり、ショウ番組になりますので、ご相談したいのです。
と、縁が切れないことを強調した。
――やはり、ショウ番組なのですか。
辰夫は念を押した。
それならば、せっかく、タイトルが一般に浸透し、出演者のアンサンブルが良くなってきた番組を、なぜ打ち切るのか?
――ええ、私も、ディレクターも、同じです。スタッフは変りません。
――おかしいな。視聴率が悪いのなら、打ち切りってのも、わかるけど……。
――タレントが一変します。赤星プロダクションのタレントは、全部、消えます。
わかった、と辰夫は呟いた。
――赤星プロと何かあったのですね。
――むちゃくちゃなのですよ。
先方は声を低めた。
赤星プロダクションは、ポップス系統の歌手や人気コメディアンを擁する巨大な存在であった。現在、ブラウン管の中で跳ねまわっている男女歌手の大半は、赤星プロの所属といえる。従って、ショウ番組を作るためには、いやでも赤星プロの機嫌を損じないように心がける必要があった。
――「ティーン・ショウ」を続けるためには、ものすごい要求を呑《の》まなければならないのですよ。四月からタレントのギャラを大幅にアップしろ、と言ってきたのです。さもなければ、タレントをすべて引き揚げる、と。
――脅かしじゃないですか!
――まさに脅かしです。しかし、ついこの間、ギャラをぎりぎりまで上げたばかりで、これ以上は不可能です。
――どういうつもりですかねえ。
――わかりません。だれひとり盾《たて》つかないことを心得ていて、無限に吹っかけてくるのですね。
――そんなの、通用しないでしょう。
――さあ。OKしちゃう局もあるんじゃないですか。噂ですけど、タレントのギャラ以外の金を赤星プロに支払っている番組もあるようです。もっとも、こういうのは、プロデューサーに赤星プロの息がかかっているケースだと思います。
――そういう人が、おたくにもいるのですか?
――いない、とは言いきれません。
――で、あなたは、不当な要求を蹴《け》ったわけですね。
――そんな恰好《かつこう》のいいものじゃありません。できれば、あそこのタレントを使いたいんです。しかし、今回は、お手上げです。結論は上司に任せましたが、どう考えても、支払えるわけがない。
――とんでもない話だ。
と辰夫は憤った。
――マフィアじゃないですか、まるで。
――マフィアだって、もう少し、理性があるでしょう。
プロデューサーは冷笑的《シニカル》に答える。
――そんなわけで、四月からは、赤星プロの歌手やコメディアンは、ひとりも出ません。それで、ショウ番組が作れるかどうか、という問題があります。
――作ってやろうじゃないですか。赤星プロ抜きでも、ショウ番組が作れることを、世間に示してやりましょう。
辰夫は意気込んだ。
――うまくいくかどうか……。
と、プロデューサーは悲観的な吐息を漏らした。
――いままで、赤星プロ抜きで成功したショウ番組はないのです。赤星プロが自信満々なのはそのせいですよ。
――やってみましょう。知恵を絞れば、なんとかなると思う。
――そうとう苦戦するでしょうな。核兵器に竹槍《たけやり》で立ち向うようなものだから。
――そうだ、うかがおうと思ってたことがある。
辰夫は声を高くした。
――白井|直人《なおと》って歌手は、赤星プロでしたね。
――そうです。
――あれは、どういう男ですか。
――頑固《がんこ》な奴《やつ》で、プロダクションの売り出し方針に逆らって、揉《も》めているようです。
ベッドから動けないせいもあって、辰夫の怒りは内攻する一方であった。
彼の性格からすれば、怒りを外に発散させれば、あとは、けろりと忘れてしまいがちである。〈江戸っ子は五月《さつき》の鯉《こい》の吹き流し 口さきばかり腸《はらわた》は無し〉という狂歌は、からっとした江戸っ子|気質《かたぎ》を賛《たた》えたものとも、執着のなさを嘲笑《ちようしよう》したものとも、受けとれるが、辰夫には、あとの批判の方が、より適切であろう。
いかに巨大になったとはいえ、|たかが《ヽヽヽ》芸能プロである。それが、顧客であるはずの各テレビ局に食い込み、局内の人事まで左右するようになるとはアブノーマルであった。いいかえれば、そうした暴挙を許すような隙《すき》が、テレビ局の内部にあるのだ。――が、だからといって、赤星プロダクション横暴を黙視するわけにはいかない。
しかし、いかに憤ってみても、辰夫《たつお》は無力な存在であった。竜車《りゆうしや》に向う蟷螂《とうろう》の斧《おの》とは、こういう状態をさすのだと、おのれの無力さに涙が出てきた。彼がどう突っ張っても、赤星プロはびくともしないのだ。
そもそも、赤星プロは、やくざっぽい、あるいは、いいかげんな商売であった芸能プロダクションを〈近代化する〉目的で始められた会社であり、それなりの成果は挙げていた。とくに、暴力団とかかわりを持たないのが特色で、明るく清潔というイメージを大切にしている。
これまでの芸能プロにない〈明るさ〉に眩惑《げんわく》された若い歌手たちが蝟集《いしゆう》したのは辰夫にも理解できる。しかし、ポップス歌手、コメディアン、コーラスグループ、バックバンド等、演歌を除くあらゆるジャンルのタレントが集ってしまえば、一つのプロダクションだけで番組を作れるパワーを持つわけで、それはもう権力であり、突出すれば暴力ともなる。暴力団を排除してスタートした会社が、有形無形の暴力を行使するようになったのは、皮肉であった。
涙が乾き、眠りかけたときに、電話が鳴った。
――すみません。起してしまいましたか。
知り合いの週刊誌記者の声だった。
――なんですか。
頭の重さをこらえて、辰夫はたずねた。
――「ティーン・ショウ」の打ち切りの話をききました。
――ああ。
――ひどい話ですねえ。
――ゆううつですよ。
と、辰夫はあいまいに応じる。
――うちは芸能誌じゃないから、番組の打ち切りじたいを記事にするつもりはないのですが、赤星プロそのものの解剖をやろうと思うのです。タレント王国とでも名づけて……。
――タレント帝国でしょう。
辰夫は口をはさんだ。
――そうかも知れません。いや、まさに帝国主義ですね。日本の芸能界を赤星プロ一色に塗りつぶそうというのだから。これは、われわれ新聞社系週刊誌のとりあげるべき社会的事件ですよ。
――向うは、びくともしないんじゃないかな。
と辰夫は感想を述べた。
――無料の宣伝と思うかも知れない。
――そうならないようにやります。……ところで、川合さんに趣旨をお話ししたのですが、ノー・コメントと、断られました。
――そうですか。
辰夫はさほど意外ではなかった。いまや、若手名士である川合|寅彦《とらひこ》が赤星プロを批判したとなれば、それじたい、〈事件〉になるだろう。それに、川合は、揉め事を好まないタイプだった。
――前野さんはいかがですか。赤星プロを批判できますか。
――できますよ。
自分は出版界の人間だ、もしも赤星プロによってテレビ界を追われるようになったら、それはまた、その時のこと、と彼は開き直っている。
――じゃ、これから、お目にかかって……。
――悪いけれど、電話ですませてください。熱が出てきたみたいで。
――さっき、会社の方が風邪だと言ってました。
――流感じゃないんだけど、こじらせたのです。
――電話でけっこうです。お願いします。
――ちょっと待ってください。喉《のど》を湿しますから。
辰夫はベッドを抜け出して、台所へ行った。冷蔵庫をあけて、牛乳の紙容器をとり出す。そのまま、少しずつ口に含むと、腫《は》れた喉が気持よかった。
――さあ、どうぞ。
――まず、赤星プロのタレントが「ティーン・ショウ」から姿を消すことをきいて、どう思いましたか。
――びっくりしました。スタッフ、キャストのチームワークが、実にうまくいっていましたからね。
――作者としては困るでしょう。
――困るというより、狐《きつね》につままれた感じです。
――複雑なごたごたがあって、赤星プロが伝家の宝刀を抜いたようですが……。
――しかし、われわれは、赤星プロのタレントを育てる作業もしているのですから、これは、向うのタレントたちにとってもマイナスです。こんなことがつづいたら、赤星プロは、自分で自分の首を絞めるのと同じですよ。
数日後に、「ティーン・ショウ」の後《あと》番組を検討するためのミーティングが、TBSに近い小料理屋の二階で開かれた。
プロデューサーを正面にして、川合や辰夫、二人のディレクター、局員、代理店の男などが、左右に居流れている。新しい番組企画よりは、事態収拾の色が濃いために、座の空気はまったく盛り上らなかった。
「なんか、敗戦処理内閣風だなあ」
分厚いセーターを着込んだ川合は、辰夫にだけきこえるように言った。
「そういえば、週刊誌の記者がおたくに行かなかったかい」
「きたよ」
辰夫は、|ふぐさし《ヽヽヽヽ》を箸《はし》でつまみ上げながら答える。
「けしかけただろ、赤星プロ批判を」
「けしかけるという感じじゃなかった。もっと、真面目《まじめ》だった」
「同じことさ」
川合は老成した口調で評した。
「で、喋《しやべ》ってやったのか」
「腹に溜《たま》ってたことを、洗いざらい喋ってやった。とたんに熱が下った」
ひれ酒を飲んでいるせいか、辰夫は怖いもの知らずの口調になっている。
「つまらないトラブルをおこすのは避けた方がいいぜ」
と川合は忠告した。
「ぼくが批判したって、向うは蠅《はえ》がとまったほどにも感じないだろう。しかし、だれかが、|がつん《ヽヽヽ》と言わないと、際限なく増長してくるぜ」
「いや、感じるだろう。あれで、案外、批判には神経質なのだ」
「なら、よけい、面白《おもしろ》い。ぼくは関係がない人間だから、言いたい放題を言ってやった」
「勇ましいのは結構だが、全面戦争になるかも知れない……」
「それも考えた。なったらなったで、こっちにも考えがある」
「どうして、そう、|こと《ヽヽ》を好むのだい」
川合は首をかしげた。
「たしかに、最近の赤星プロの動きは眼《め》に余る。社長の赤星ってのは、おれの古い友達だが、ついていけなくなった。やり方が、ギャングだよ、まるで」
「そう思うだろ、あなたも」
辰夫は念を押した。
「思うよ」と川合は頷《うなず》き、「思うけれども、こんな状態は長く続かないぜ。……チョコレートや洗剤を作るのなら、毎年でも、新型を発売できる。だけど、人気タレントなんてものは、機械的に量産はできない」
「してるじゃないか、あの会社は」
「たまたま、そう見えるだけだ。三年もたってごらん。若さだけで売ってる歌手は、まず、消えるだろう。消えないまでも飽きられることは確かだ。で、次の人気者を掘り出せるかというと、そうはいかない。大衆の好みは、のべつ、変るし、それに応じたタイプの人気者をたえず供給するなんて不可能だ」
「そうかねえ」
辰夫は首肯《しゆこう》できなかった。赤星プロは半永久的に栄えるように思われた。
「問題は、まだある。――というより、これが最大の問題なのだが、扱っている商品が生身《なまみ》の人間てこった。商品が恋愛をしたり、スキャンダルをおこしたり、ある日突然いや気がさして引退したりする。それだけじゃない。スキーで足を折ったり、自動車事故をおこしたりする。タレントが多くなり過ぎて、ひとりひとりを丹念に管理できないのさ。初期の赤星プロは、もっと、ちゃんとしていた」
川合の分析は、頭の中で何度も整理されたもののようだった。
「ひとことでいえば、会社がデカくなり過ぎた。わずか数年で急成長したもので、大学出の社員を、大勢、採用して、マネージャーにした。だから、大学を出てない古手の連中と、大学出の若手とのあいだに、軋轢《あつれき》がおこっている。こういうトラブルは、まあ、どこでもあることだけど、もし、いまフル回転しているタレントたちが人気|凋落《ちようらく》したら、マネージャーたちをどうする? 首にはできないだろうから、新しい仕事を作らなきゃならない。下手をすると、事務屋の社員に給料を払うために、少数のタレントがこき使われるという、所期の目的と正反対の現象がおこりかねない。芸能プロの近代化がむずかしい、っていうよりも、不可能なことがわかる」
「赤星プロの社長にきかせてやりたいな」
「奴は知ってるよ。芸能プロってのは、人気者を四人ぐらい抱えて、ビルの一部屋を借りてるのが、気楽で、儲《もう》かる、と、いつも言っている」
川合は笑った。
「もっとも効率のいいスタイルなんだ」
「じゃ、そうすればいいんだ」
と辰夫は冷ややかに言った。
「奴の野心なんだな、大きなプロダクションを作るのが……。そんなものと、前野辰夫は喧嘩《けんか》すべきじゃない」
「そうかね? ぼくは意味があると思っている」
「おたくは、かっとなると、目的を見失ってしまう」
「目的?」
辰夫はききかえした。
「そうよ。おたくの目的は芸能界やテレビ界の浄化じゃあるまい。もっと高邁《こうまい》なものだったはずだ。赤星プロなんてものは、どうでもいいじゃないか」
辰夫は胸を衝《つ》かれた。川合の言葉は辰夫の弱点を的確に指摘している。
「好奇心が強いってことはいいんだ。だけど、たのまれもしない喧嘩を自分で買って出るこたぁないだろ」
翌日の夕方、赤星プロの常務と称する男から電話が入った。辰夫に会いたい、というのだった。
口調がやくざめいていたので、編集室で会おうか、とも思ったが、辰夫自身が怒鳴りかえすおそれがあった。編集部の空気を悪くするとまずいので、ガード下の喫茶店で会うことにした。
辰夫が入ってゆくと、七三に分けた髪を裾刈《すそが》りにした、派手な背広の中年男が椅子《いす》から立ち上った。想像していた通り、やくざっぽい雰囲気《ふんいき》が感じられる。
男は上目《うわめ》づかいに名刺をさし出し、辰夫の名刺を押し頂くようにした。
「なにを召し上りますか」
と、注文をきいてから、急に、馴《な》れ馴れしい口調になった。
「先生、あまり、苛《いじ》めないでくださいよ」
「え……」
「とぼけないでください。週刊誌に喋ったでしょ、きつい言葉《やつ》を」
辰夫は返答のしようがなかった。
「そうとう、きびしいお叱《しか》りだったようで。まあ、いずれ、週刊誌で読ませていただきます。このごろ、本音の批判をしてくださる方がめったにいないので、社長なんか喜んでるくらいです」
まさか、と言おうとして、辰夫は踏みとどまった。
「正直なところ、評論家の先生がたは、うちに対して甘過ぎるのです。辛《から》い、苦いことを言っていただかないと、進歩がありません」
なにを言おうとしているのだ、この男は、と辰夫は思った。単なる脅しでもなさそうだった。
「社長が喜んでいるというのは、皮肉や厭味《いやみ》ではありません。うちの|これ《ヽヽ》(と親指を突き出して)は懐《ふところ》が深いですからね。先生の批判を記者からきいて、面白い人だな、と言ってました。当ってる部分と当ってない部分があると――まあ、気を悪くしないでくださいよ――そんな風に呟《つぶや》いてました」
辰夫は硬い表情のままだった。
「どうでしょう? 一度、社長と飯を食う時間を作ってもらえませんか。……勘違いしないでください。一回の会食で、先生の口をふさごうなんて、吝嗇《けち》な料簡《りようけん》から申しあげてるんじゃありません」
「こわいな」
辰夫はかすかに笑った。やや嘲笑《ちようしよう》気味の笑いだった。
「それは、考えさせてください。それより、ききたいことがあるんです」
「へ?」
男は上目づかいに辰夫を見た。
「赤星プロといえば、いまや、押しも押されもしない存在でしょう。それだけ強力なあなた方が、なぜ、むちゃなごり押しをするのですか。世間から見ればマフィアですよ、まるで」
「そういうことをおっしゃるのは、先生が、ひとりでやっていける、強い人だからです」
「強い? 冗談じゃない!」
「ほんとですよ」と男は被害者めいた目つきをした。「私ら、弱い人間だから、つねに身を寄せ合っているのです」
辰夫《たつお》は、一瞬、口をきけなかった。
飛ぶ鳥をおとす勢いの赤星プロの常務の口から「私ら、弱い人間……」などという台詞《せりふ》が出るとは想《おも》ってもみなかったのだ。
意外といえば意外、厚かましいといえば厚かましいのだが、その言葉にある種の実感がこもっているのは確かだった。
「弱いってことはないでしょうが……」
しばらくして、辰夫は言った。
「弱いものですよ」
と男は強調する。
「ひとりひとりじゃ何もできないんですから。だから、団結して|こと《ヽヽ》にあたるのです」
「それが、外から見れば脅威なんだ」
「かも知れません」
男は認めた。認めることに喜びを感じているようだった。
「私なんざ、教養もないし、これといった取柄《とりえ》もない人間です。こんな背広、着ているのが、場違いみたいなものでさ。それなのに、こうして、先生にお目にかかっている。これは会社の力です。赤星プロあっての私なんです」
過剰防衛ってやつだな、と辰夫は思った。被害者意識で凝り固まり、当人は被害者のつもりで、現実には加害者として振るまうケースだ。
「あなたの意識ではそうであっても、われわれにはマフィアみたいに見えるんです」
「すみません。反省すべき点は、すなおに反省したいと思ってます」
型通りに答えた男は、あいまいに笑った。
「脅かすのは勘弁して欲しいな」
「うちの社員は言葉が乱暴なので誤解されるのです。つねづね、やかましく言ってるんですが、どうも、徹底しねえんで。新興産業の悲しさですかな」
男はキャメルをくわえた。
「……どうでしょうか。社長との会食の件ですが、できましたら、先生のご予定を……」
「スケジュール表が、社に置いてあるもので、ここではわかりません」
辰夫は慎重を期した。義理や人情に縛られる性格ではなかったが、一度、顔を合せた相手は批判しにくくなる、そうした弱さが彼にはあった。
「では、日を改めまして……」
男は恭々《うやうや》しく一礼した。
「先生は、うちのタレントに、よくお会いになりますか」
「『ティーン・ショウ』で、つき合った」
「仕事以外で、ですよ」
「ないなあ」
残念ながら、と心の中で、つけ加えた。
「先生が好感を持っていらっしゃるのがいたら、会食のあとででもご紹介します。大半は、餓鬼ですが、酒席にはべらせるぐらいは、簡単ですから」
「ご親切に……」
辰夫の眼が笑った。
「そうそう。仕事以外で会ったのが、ひとりいます」
辰夫は想い出した。
「白井|直人《なおと》……」
「どうでした?」
男はにわかに険しい眼つきになる。
「どう、って……」
「先生に失礼な態度をとらなかったですか」
「べつに」
「そうですか」
男は物足らなそうに、「白井は、もう、うちとは関係がなくなるのです」と言った。
「いつからですか」
「正式には来月からです。今月までは、以前からのスケジュールが入ってますから」
「どこかに移籍するわけですか」
「それは、ないでしょうな」
男は初めて余裕を示した。
「うちと白井が、半年以上も揉《も》めてたのは、周知の事実ですからね。それを承知の上で、奴《やつ》を引きとるプロダクションがあったら、赤星プロが放っておきません」
凄《すご》みのある笑いを見せると、奥の金歯が光った。
「まあ、そんな非常識なプロダクションはありゃしません。業界の仁義ってものがありますから。うちから独立して、伸びた奴は、ひとりもいませんわ」
「白井はフリーになるわけですか」
辰夫は念を押した。
「さあて……フリーというしか、ありませんなあ」
赤星プロをやめたとたんに、仕事がなくなるはずだ、という自信に充ちた言葉だった。
「どうして、揉めたのですか」
「よくあるケースですよ」と男はつまらなそうに言った。「歌手の人気なんてものは、でっち上げるものです。三ぐらいの才能を、八とか、九ぐらいに見せるのが、私らの仕事です。――ところが、たいていのタレントは、でっち上げられた人気を本物と思い込むのです。そこから、ギャラが安いとか、扱いが悪いという不満が出てくるわけで……」
辰夫は憮然《ぶぜん》とした。
彼が出会った青年は、それほど単純な人間ではなかったはずである。少くとも、彼の眼には、屈折を秘めながらも、潔《いさぎよ》く自己のありようを分析しているように見えた。
次の瞬間、ひとつのアイデアが彼の脳裡《のうり》に閃《ひらめ》いた。
「ティーン・ショウ」の後番組は、「ポップンロール・ショウ」という仮題になった。ポップンロールという言葉は存在しないのだが、川合が、ポップスとロックンロールを結びつけて、強引にでっちあげたのである。
題名が決ると同時に、文字通り、一夜|漬《づ》けで台本を作らなければならなかった。辰夫は川合|寅彦《とらひこ》とともに、第一ホテルに閉じこもった。
川合は、映画やテレビの出演、コンサートの司会、作詞などで忙しいはずだが、大してプラスになるとも思えぬ台本《ほん》作りに協力していた。自分からはなにも説明しなかったが、現在の忙しさを〈仮のもの〉と視《み》ているのが、態度からうかがえた。この世界での浮沈を経ている川合は、自分が放送作家であるという土台《ベース》を決して忘れていないのである。
半年間、コンビを組んでいたので、一夜で作れる自信はあった。ふたりはコーヒーハウスで、全体の構成とテーマを打ち合せた。
「真中《まんなか》から二つに割っちまおう」
川合はビールを飲みながら言った。
「前半、後半――どっちがいい、おたく?」
「さいですな」
と、辰夫は、わざと妙な言葉をつかって、
「後半は歌が多いな。作詞の才能を要するようだ」
「じゃ、おれが後半を書こう」
「ぼくは、前半か。まあ、夜中までには出来るでしょう」
「おれは、いまから三時間あれば、書ける」
「三時間!」
「おたくは、ゆっくりやれば、いいんだよ」
川合は低い声で応じた。
「三時間後――七時にグリルの入口で落ち合おう。後半の原稿をおたくに渡して、いっしょに夕飯を食うとしよう」
辰夫は頷《うなず》いた。この道で鍛え上げられた相手の才能を痛感させられるのは、こうした時だ。
「申しわけない。九時から映画のロケがあるんだ。ストーリーに関係がない、賑《にぎ》やかしの役なんだけど、行かないわけにいかない」
相手は低い声でつづけた。
「どうかね? おれが消えちゃって、大丈夫かい」
「なんとかなるだろ」と辰夫は答えて、「ぼくは、いまから会社に戻《もど》る。仕事を終えて、七時にここにくるよ」
「そうか。すれ違いだな。とにかく、明日の正午までに台本が完成すりゃいいんだ」
「そういえば、あなたにききたいことがあった」
辰夫の語調がかたくなる。
「なんだい?」
「鈴鹿兵伍《すずかひようご》のことだ」
「ふーむ……」
「ぼくは、あの男のミュージカルを観《み》たことがないんだ。こんなことをきくのは変かも知れないけど――才能、あるのかい?」
川合は驚いたようだった。
「凄《すげ》え質問をするな」
呆《あき》れたように呟いた。
「だって、鈴鹿兵伍のミュージカルは、関西の舞台でしか、やってないんだろ。自分の眼《め》で見ない限り、判断ができないもの」
「でも――テレビは観てるんだろ?」
「幾つか、観てる。でも、テレビじゃ、なにもわからないよ。ぼくの台本が、なんとか通用してる世界だから」
「おれは、一度、観たぜ。大阪だったな」
「どうだった?」
「六〇年安保の夏だ。……底辺の人々っていうのかな、自由労働者の宿舎を舞台にしたものだ。大阪弁をうまく使ってた」
「なるほど」
「良い歌があった。おれも作詞をするけど、正直に言って、あの男のほうが一枚|上手《うわて》だな。とくに、叙情的な歌詞になると、やたら、うまい。泣かせるんだ、観客を……」
「あなたも泣いたの?」
「泣いたんだ、忌々《いまいま》しいけれど。ここを押せば、観客が泣くっていう|つぼ《ヽヽ》を心得てるんだよ、あいつは」
「それは大変なことだぜ。海千山千の川合寅彦を泣かせたってことは……」
「さあ、どうかな」
川合は照れた顔をして、
「あいつは、第二の菊田一夫じゃないかと思うんだ。――いまの菊田一夫じゃないぜ。『花咲く港』とか『道修町《どしようまち》』のころの、脂《あぶら》の乗ってた菊田一夫だ」
「ああ、わかる」
辰夫は当惑顔になった。
それらの芝居に、東京の下町の小学生だった辰夫は涙を流したのだった。本質的には、催涙大衆演劇なのだが、いかにも〈新しい〉装いであらわれるので、観客は心置き無く泣けるのであった。
「すると、才能があるってことになるな」
「否定できねえだろ。あの男を嫌《きら》う人間も、才能は認めざるを得ない」
「ありがとう。ちょっと、知りたかったもので」
「……じゃ、おれは部屋に入るぜ」
米軍払い下げの防寒服のジッパーを上げた川合は、模造皮革の大きな赤いバッグに手をかけた。
「えらく派手なバッグだな」
なにげなく辰夫が言った。
「衣裳《いしよう》でも入れてるのかい」
川合は、やや、ためらいの様子を見せて、「中を見るかい」と、念を押すようにきいた。
「なんだい……」
辰夫は気味が悪くなる。
「おたくに見せるべきかどうか、考えてた……」
バッグのジッパーが大きな音を立てた。
「これだよ」
川合は、原稿用紙の束を、片手でつかみ出す。百枚ずつの束が、テーブルの上に高くなった。
「なんだい、これ……」
そうききながら、辰夫は、いつか、川合が、長篇《ちようへん》小説を書いている、と言ったのを想い出した。
「まだ、第一稿の段階だ。今朝、山の上ホテルで書き上げたんだ」
「みんな、あなたを探してた。山の上ホテルにいたのか!」
「うん」
川合の顔が綻《ほころ》んだ。
「流行作家が泊ってるじゃないか、あのホテル。おれも、そんな作家になったんだ、と、自分を暗示にかけた。おかげで、終りの部分がいっきに書けて、今朝、なんとか、手を離れたってわけよ」
「凄いなあ……」
辰夫は嘆声を発した。
「全部で、何枚になった」
「六百枚を越えた。いくら書いても終らないので、ホテルに入ったのさ。五日間、完全に、外界をシャットアウトしてた」
「よくやるなあ!」
「仕方がないんだよ。いつまでも、未完成の小説を抱えてるわけにはいかない。|けり《ヽヽ》をつけたかった。……書き上げるまでは、正直言って、事故死するのがこわかった。スポーツカー運転してて死ぬのは恰好《かつこ》いいけど、小説が未完で終ると思うと、堪《たま》らなかった」
「ぼくもビールを貰《もら》おう」
辰夫《たつお》はウエイトレスを呼んだ。
ビールがくると、改めて川合のグラスに注《つ》いで、
「お疲れさま」
「ありがとう」
川合は頭をさげた。
「……ところで、どういう小説なんだい、それは」
「うーむ……ひとくちで説明しにくいんだ。マスコミの中に漂っている似非《えせ》インテリたちを嘲笑した、っていえばいいかな。うまく要約できんね」
「だから、小説にしたんだろうからな」
辰夫は心を打たれた。川合の孤独な執念に比して、芸能プロダクションとの戦いに燃えている自分はなんと浮薄なことか!
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第十三章 同時代連盟
川合|寅彦《とらひこ》に六百枚余の原稿を見せられた辰夫の衝撃は大きかった。
夜明け近くに自分のぶんの台本を書き終え、川合の台本原稿とつなげて、改めて読みかえした辰夫は、川合の書いた後半のほうがはるかに面白《おもしろ》いのを認めざるを得なかった。認めるだけではなく、カーテンをしめた部屋の中で、発作的に、げらげら笑いだした。
彼にとって、それは、予想されたことであった。この道のベテランである川合の書いた部分が面白いのは、当然なのだ。
しかし、小説となると、話は別であろう。土用波のように押し寄せるマスコミ関係の仕事依頼を掻《か》い潜《くぐ》って、長篇小説を完成させるのがどれほど大変か、辰夫にも想像はつく。――しかも、川合は、他の者には黙っていてくれ、と念を押したのである。
――どうして?
――いまのおれが小説を書いているなんてわかったら、スキャンダルじみたことになる。おれは芸能人でもあるから、芸能週刊誌が記事にするだろうな。初めから作品が好奇の眼で見られる。おたくにも言うつもりはなかったんだけど、気分が舞い上ってるんだな。つい、喋《しやべ》っちまった。
――……あと、ぼくに出来ることがあったら言ってくれないか。出版社は決ってるのかい。
――そういうあては、一切ない。
――必要なときは相談してよ。だれかに読んで貰うとか、出版社を探すとか……。
――自分で納得がいくまで直してからだな。三カ月か、半年、冷やさないと、|あら《ヽヽ》が見えてこないだろう。
――なるほど。
――物狂いだな、これは。
川合の頬《ほお》に自嘲《じちよう》の色があらわれた。演技ではなく、本音のようである。
辰夫は大きな圧迫《プレツシヤー》を感じた。
……そして、夜明けが近いいま、煙草《たばこ》を吸い終え、ベッドに入っても、眠りに入れないのだった。
羨《うらやま》しさ、嫉妬心《しつとしん》がないといえば、嘘《うそ》になるだろう。しかし、これだけ、才能の方向と実行力がかけ離れてしまえば、焦《あせ》る気も起らなかった。
彼は廊下に出て、自動販売機の缶《かん》ビールを持ってきた。
神経を鎮《しず》めるには、これしかない。
自分にできることは、例の砦《とりで》の構築だけだ、と自身に言いきかせた。
戸波《となみ》プロデューサーから社に電話が入って、改めて白井|直人《なおと》に会ってくれ、と言ってきた。
――今夜、いかがでしょう? 社の近くまでうかがいますが……。
――では、第一ホテルのバーはどうですか。
と、辰夫は答えた。答えながらも、新雑誌のアイデアをメモ用紙に記した。さまざまなことがらが頭の中で同時進行しているのだった。
狭いバーの奥で、戸波が立ち上った。
「お呼びたてして、どうも」
「白井君は?」
「電話をかけに行ったのです。すぐに参るでしょう」
間もなく、革ジャンパー姿の白井が入ってきた。天井が低いためか、このまえ会ったときよりも背が高く見える。
辰夫に黙礼して、椅子《いす》にかけた。
「忙しいんでしょう?」
と辰夫は声をかけた。
「今月は、めちゃくちゃです」
「彼は、今月一杯で、赤星プロをやめるのですよ」
と、戸波が説明した。
辰夫は初めて耳にしたふりをして、
「円満に、ですか?」
「いちおう……」
白井は細く優しい眼つきで答えた。
「珍しいですね」
「ええ。その代り、今月は、物凄《ものすご》いスケジュールです」
「同じ給料なら、働かせなきゃ損だと思ってるんでしょうな」
「はは。でも、来月からは、まったく、ぼくの自由ですから」
「オフィスは?」
「兄がマネージメントをやりますから」
白井は明るく笑った。肉体的な憔悴《しようすい》も問題にならない風で、別人のように愛想がよくなっていた。
なにも知らないのだな、と辰夫は思った。
「来月からの仕事の予定は、どうなっているのですか?」
白井はやや不安そうな面持《おもも》ちになったが、
「……できたら、少し、休みたい、と兄に言ってあるのです。赤星プロに入って三年間、まったく休日がなかったので」
「休みを要求しなかったのですか」
「社長に直接話したら、『そんなに休みたけりゃ、ずっと休ませてあげようか』って言われて……」
三人は奇妙な笑い声をあげた。辰夫は笑いながら、ぞっとした。
「いくら若くても、身体《からだ》に|がた《ヽヽ》がきます」
「当然だ」と戸波が頷《うなず》いた。「若いタレントは、みんな、粗食だしな」
「のんびり寝ていたいのです。どこかの海岸のホテルで」
白井は欠伸《あくび》を噛《か》み殺した。
「もう少し、飲みたまえ」
戸波がすすめると、白井は、
「すぐNHKへ行かなきゃなりませんから」
と辞退した。
「前野さんのいるところで確認しておきたいのです。これからの仕事は、赤星プロを通さなくてもよいのですね」
「はい」
「正式には、お兄さんの方に申し入れるとしても――きみが承諾したと考えていいのですか」
「けっこうです」
「このさい、はっきりして貰わないと……」
「はっきりしています。ぼくでよろしければ、やらせてください」
「よろしい」
戸波の自尊心は満足したらしい。
「では、話を先に進めます」
「お願いします」
頭をさげた白井は、腕時計を見た。
「ぼく、そろそろ失礼します」
白井は笑顔を見せながら立ち上った。独立するとなると、変るものである。
うしろ姿を見送ってから、
「どう思いますか」
と、戸波は辰夫にきいた。
「え?」
「赤星プロを円満にやめられると思いますか」
「無理でしょうね。ちらっときいたのですが、赤星プロは彼を許さないようですよ」
「私も、そう、きいてます」
戸波は低い声で言った。
「テレビ、ラジオからはシャットアウトされるんじゃないですか」
と辰夫も声を低める。
「ところで、京都の公演は大丈夫でしょうね?」
「大丈夫です。むしろ、揉《も》めて、白井の名が話題になってくれたほうが、プロデューサーとしては、ありがたいので……」
戸波は気味の悪い言葉を吐いた。
「あとは、何をやるかが問題です。前野さん、お考えがありますか」
「あります」
「ぜひ、おきかせください」
「いまや、ミュージカルといっても、アクチュアリティが必要だと思うのです。現実ばなれした愛の賛歌みたいなのは、もう、時代遅れです」
「同感ですな」
戸波はブランデーグラスをわずかに揺すりながら頷いた。
「時事性が必要だと信じています。『ウエスト・サイド物語』でいえば、白人とプエルトリコ人の対立、人種差別を、非行少年という極端な形で見せている。あれは、アメリカでは、大変な時事性があるわけでしょう」
「ええ」
「ぼくの考えでは、現在、もっともホットな問題をとりあげるべきだと思うのです」
戸波は用心深く頷いた。
「芸能プロダクションのタレント支配と搾取《さくしゆ》の構造をとりあげてみませんか」
「ちょっと、それは……」
戸波は絶句した。
「むろん、テーマにはひろがりを持たせます。資本主義社会における組織と個人の在り方のひとつとして、描くのです。芸能プロ批判を大胆にやれば、話題になるでしょうし、白井君も乗るんじゃないですか?」
「乗るでしょうけれども……」
と、戸波はためらいがちに答える。
自分のアイデアの斬新《ざんしん》さに疑問を抱かぬ辰夫は、「まずいですかね」と、畳み掛けた。
「そうですなあ」
なんともいえぬ笑いを浮べた戸波は、
「プロデューサーとして申しますと、芸能プロ批判は、現在、タブーなのです。正直なはなし、赤星プロを批判して、向うが怒ったとしても、私どもは、さして痛痒《つうよう》を感じません。放っておけばいいでしょう。しかし、他のプロダクションまで敵にまわすのは、どうも……。タレントの|仕込み《ヽヽヽ》ができなくなるおそれがあります」
「すると、ぼくの案は駄目《だめ》ですね」
辰夫は投げた言い方をする。白か黒か、二者択一の発想しかないのである。
「まあ、待ってください」
戸波は大人らしい苦笑いを浮べて、「あなたは気が短か過ぎる。もっと、じっくり構えてください」と宥《なだ》めた。
「もう少し具体的におっしゃってくれませんか。シノプシス程度でもうかがわないと、判断ができかねます」
「充分に練ったとはいえないのですが、こんな話です」
辰夫は周囲の様子をうかがった。
「……教会の聖歌隊にいた、ただ歌が好きなだけの少年が、芸能プロにスカウトされます。少年は子役じゃなくて、白井が演じてもかまわないと思います。無愛想な少年が大衆向けのアイドルになるまでのトレーニング――ここで、歌ありギャグありの大きなショウ・ナンバーが作れます」
「それは、イケますね」
戸波は腹のまえで両手の指を組み合わせた。
「で、どうなります?」
「あっという間に、少年は青年になります。初めてのテレビ出演。マネージャーや、ディレクターが、初出演の心得を彼に諭《さと》します。それらの心得が頭の中でゴチャ混ぜになるコミックなスケッチがあります。――それから、これは図式《パターン》通りですが、彼が、一躍、人気者になって、もみくちゃにされるナンバーが作れます。当人も、血が頭にのぼって、有頂天になる。マネージャーとの立場が逆転し、マネージャーをこき使うおかしさが生れます」
「だいぶ、実感がこもってますな」
「日々、観察してますからね、これでも」
辰夫《たつお》は水割りをもう一杯たのんでから、
「主人公があまりの人気者になり、傍若無人なふるまいを続けるので、芸能プロの社長が鉄槌《てつつい》を下します。干《ほ》してしまうのです。そうだ。休みをくれ、と要求して、ずっと休ませてやる、と言われるのも、いいでしょう」
「あの話は凄かったな」
と、戸波は笑いだした。
「この、主人公が干されている部分を、ロマンティックにしたいのです。同じプロの売り出し中の少女との禁断の恋がいいでしょう。……ふつうのミュージカルだと、これで、結末に持ってゆくわけです。青年が地道に生きる決意をして、少女があとを追うとかいう形ですね」
「そんなところでしょうな」
「ぼくはラストを、もう、ひとひねりしたい。干された青年に大衆の同情があつまり、彼の人気は、さらに上ってしまう。大衆社会のマス・ヒステリー状態を描きたいのです。この超人気に、保守党か新興宗教が眼《め》をつけて、団体のシンボルにするべくスカウトしてゆく。少女はとり残される。――だいたい、こんなプロットです」
「面白《おもしろ》いですな。上演時間に入りきらないぐらいの内容です」
相手は眼を輝かせた。
「これなら、作り方しだいで、いくらでもイメージが脹《ふく》らんでいくでしょうから……」
「でも、タレントの|仕込み《ヽヽヽ》ができないんじゃ、このプロットは捨てるより仕方がない」
「大丈夫ですよ」
戸波は態度を変えた。
「そこまで極端に誇張されていて、しかも、芸能プロだけを批判しているのではないのですからね。からかわれている側が、思わず、苦笑してしまうように台本ができていれば、さほど、問題にはならんでしょう」
「そうですか」
戸波の言う通りだとすると、赤星プロへの挑戦《ちようせん》にはならなくなる、と辰夫は思った。プロットの発想のもとは、あくまで、赤星プロへの彼の憎悪《ぞうお》にあったのだが。
「やろうじゃないですか」
戸波は積極的になった。
「そうですね」
このさい、スタートすることが先決だと辰夫は判断した。台本の色彩は、あとで、どうにでもなる。
「シノプシスを原稿用紙に書いてくださいよ。五枚――いや、三枚でも、けっこうです。私が適当にのばして、企画書をつくります」
「ひとつ、条件があるのです」
辰夫は切り出した。
「ぼくは忙し過ぎるので、台本執筆の協力者が欲しいのです。見当はつけてあります」
「けっこうです」と戸波は答える。「そういう場合も、予想しておりました」
「鈴鹿兵伍《すずかひようご》に手伝ってもらいます。当人の承諾も得てあります」
「鈴鹿兵伍!?」
戸波は蒼白《そうはく》になった。
不遇な(と辰夫が信じている)鈴鹿兵伍にミュージカル執筆の機会をどうあたえるか、策謀家にほど遠い性格の辰夫は、彼なりに、知恵を絞ったのだった。
だいたい、テレビの音楽番組の台本が書けるから、舞台のミュージカルも執筆できる、という必然性はまったくない。両者はまったく別なものだからである。
舞台のミュージカルを書きたいと願っているが、機会がなく、才能も熟していない何人かが、テレビの台本で口を糊《のり》している状態は、たしかにあった。しかし、辰夫は、そうした志を抱いている人間ではない。
では、戸波プロデューサーの人選が、軽はずみ、粗忽《そこつ》だったのかというと、必ずしも、そうではなかった。杜撰《ずさん》といえば、杜撰だが、これが六〇年代初頭の空気だったのである。〈ミュージカルが好きらしい〉という必要条件に、〈あの人は面白そうな人だから〉という要素が加われば、舞台や映画のミュージカルの仕事が持ち込まれたのだ。
なぜ、このようなことになったかといえば、〈ミュージカルとはなにか〉が、真剣に考えられていなかったからである。――いや、当事者は大いに真剣に考えたのであるが、手がかりになるのは、ハリウッド製のミュージカル映画であり、海外の資料、情報が殆《ほとん》ど無に等しい状態では、結果として、群盲象を撫《な》でるの図に近くなったのは、いたし方ない仕儀であった。
自分にミュージカルの台本が書けるとは、辰夫は思っていなかった。ただ、これからの日本文化の裏方たらんと心がけている彼にしてみれば、戸波によって持ち込まれた話を、もっとも効果的に生かす必要があったのである。そして、このさい、多少むりをしてでも、鈴鹿兵伍を押し出すのが最良と考えて、根回しをしたのだった。
「弱りましたな……」戸波は弱々しく笑った。「ご当人の内諾を得た、とは……。前もって、ちょっと、ご連絡をいただいていれば」
「そうしたら、鈴鹿兵伍は駄目、とあなたは言うでしょう」
「まあ、そうです」
戸波は恨みがましい眼つきで辰夫を見て、
「面白いシノプシスをいただけそうで、わくわくしていたのに……」
「そう敬遠することもないと思うのですがねえ。べつに、鬼でも蛇《じや》でもありませんよ、あいつは」と辰夫は言った。
「鬼や蛇じゃないから困るのですよ、前野さん」
「どういう意味ですか?」
「鬼や蛇なら対応の仕様があるのです。鈴鹿さんの場合は……」
戸波《となみ》はあとの言葉をためらった。
「大丈夫ですよ、喋《しやべ》りゃしません。こう見えても、口は堅いのです」
と、辰夫は保証する。
相手は、なおも、ためらっていたが、
「じゃ、申しましょう。鈴鹿さんの場合、こちらの常識を超えたところで、トラブルが起るのです。私ども、職業|柄《がら》、いろいろなトラブルを、絶えず、想定しているのですが、あの人のは、どこで揉めるかわからない。その上、仕事を途中で放り出してしまう。プロデューサー・サイドとしては、踏んだり蹴《け》ったりです。みんなが敬遠するのは当然ですよ」
「戸波さんは被害を蒙《こうむ》っているのですか」
辰夫は念を押した。
「いえ、私は、あまりにも悪い噂《うわさ》をきき過ぎたので、関係を持たないようにしています。どうでしょう? 他の劇作家との合作ってわけにいきませんか?」
「鈴鹿兵伍を外《はず》すわけですね」
「そういうことです」
「ぼくの方の事情を申しますと、実は、『パズラー』を中心にして、二十代後半の、さまざまなジャンルの人たちが顔を合せる会が出来つつあるのです。鈴鹿兵伍は、その会――〈遊びの会〉という名ですが――の主要メンバーなのです。そんな事情もあって、ぼくが手がけるからには、彼とやりたいのです。彼が駄目《だめ》なら、ぼくも降ろして貰《もら》います。そのさいは、シノプシスも引っ込めます。そして、上演の別な可能性を探します」
「待ってください。もう一杯、いかがですか」
戸波はボーイを呼んだ。そして、「あまり脅かさないでくださいよ」と、柔らかく言った。
「脅かしてやしません」
そう応じながらも、辰夫は、これが一種の脅しであるのを認めざるを得なかった。
「合作者を代える余地はありませんか」
戸波は飽くまでも低姿勢である。
「あなたが鈴鹿兵伍を忌避するお気持はわかります」と、辰夫は言った。「鈴鹿のように二十代前半でショウビジネスの世界に入った人間は、|性格的に《ヽヽヽヽ》、ちょっと歪《ゆが》みを帯びていますから」
「|人格的に《ヽヽヽヽ》、じゃないですか」
相手は、やんわりと、手きびしいことを言う。
「かつては生意気だったかも知れません。いや、きっと、そうだったのでしょう。――しかし、ぼくが接した範囲では、殆ど、そういう面は見られない」
「前野さんに対して気をつかっているのですよ、唯一《ゆいいつ》の支持者でしょうからね。私の知っている範囲で、鈴鹿兵伍さんを良く言うのは、前野さんが初めてです」
「へえ、そうですか……」
辰夫は半ば意地になっている。
「それでも結構です。|あく《ヽヽ》が強い性格であるのは、ぼくも認めます。その部分を押えるのは、ぼくが責任を持ちましょう」
「うーむ……」
戸波は、思わず、唸《うな》った。
「若いころは、わがまま一杯にふるまっても、愛嬌《あいきよう》ですむところがあった。鈴鹿はそういう幼児性を、青春後期のいまでも、変えようとしていない。あの男の欠点は、そこだと思います。ぼくは、そういうわがままが通用しないことを、徐々に教えていきます。できるだけの努力はします。――その結果、台本が失敗すれば、ぼくの責任です」
「わかりました」
これ以上、話し合っても、事態は変らない――そう判断したらしい戸波は、次善の策を口にした。
「かりに、その方向を取るとすれば、お二人が同格では駄目です。いまは、おとなしくしているとしても、共同作業となれば、鈴鹿さんは強《したた》かですからね。前野さんを出し抜くでしょう。つまり、あなたが鈴鹿さんを押えつけるだけの権限を持っていなければ、うまくいかないわけです」
「その辺は、信頼関係で……」
「冗談じゃない。もう、ビジネスの方法論に入ってるんですよ」
プロデューサーはにこりともしない。
「前野さんがプロデューサーになってしまうのです。この公演に関していえば、私との共同プロデュースですな。プロデューサーの名前が二人ならぶわけです。ただし、台本の企画・原案はあなたです。この場合、クレジットで、〈原案〉が前野辰夫であることが大事なのですよ」
「なぜですか」
辰夫は腑《ふ》に落ちなかった。
「この〈原案〉にもとづく限り、鈴鹿さんは、そう、勝手にプロットを変更することはできない。しかも、プロデューサーとしての前野さんは、台本の内容に、ある程度、立ち入ることができる。いま、考えられる範囲で、もっとも良いと思われるのは、この方法ですな」
戸波は言いきった。
「私としては、前野さんにひとりで執筆して欲しいのです。その気持は、いまでも、変っていません」
「すみません、どうも……」
辰夫は素直に頭をさげた。
「ぼくには職人的技術がないのです。だから、腕のある脚本家が、ぼくの着想を生かすのがベストなのです」
「理想をいえば、そうでしょう。ただ、そこに鈴鹿さんが登場したのがモンダイでして……率直にいえば、いざこざが起るのは、自然の成り行きです。私としては、あなたと鈴鹿さんの間に入って、うろうろするのは厭《いや》ですからね」
「ぼくは争いごとを好まないですよ」
「わかってます。あなたはそう信じておられる……」
「本当に好まないです」
「お言葉を返すようですが、赤星プロの件があります。週刊誌で、あなたが赤星プロを批判したのは、業界では驚天動地の事件なのですよ」
「そうですか」
辰夫は呆気《あつけ》にとられた。
「どうしてだろう?」
「私はあなたの発想が解《わか》るつもりですが……」と戸波はつけ加えた。「世間は、あなたが、争いごとを好まない人とは思わないでしょう」
この物語を読んでいる読者は、主人公がテレビの仕事をしたり、赤星プロに対する闘争心に燃えていたりするために、「会社の仕事はどうなっておるのだ?」と思われるかも知れない。「手を抜いたり、サボったりしているのではないか?」
そのような疑いは、もっともである。作者《わたくし》の悩みも、まさに、そこにあるのだが、まず、申し上げておくと、主人公は、雑誌創刊のころほどではないにせよ、けっこう勤めに精を出しているといってよいだろう。
「では、なぜ、そのような姿を描かないのか?」
と、読者は詰問《きつもん》されるにちがいない。
作者《わたくし》の悩みを理解していただかねばなるまい。雑誌社で働く人間の姿なんてものは、書く側も退屈、読む側も退屈するようなシロモノなのである。病院、銀行、大空港、ホテル、政界、財界といった業種ならば、ドラマが存在する。新聞社でも、ドラマは成立する。――しかし、雑誌社、ことに文化社程度の小会社では、ゴム仮面がやめてしまったあとは、和気|藹々《あいあい》、表立《おもてだ》ったドラマはないのである。作者《わたくし》が、主人公の会社での仕事ぶりを、思いきって割愛しているのは、右のような事情による。
二月末におこなわれた、新橋駅近くの小料理屋での会議に、城戸草平《きどそうへい》が出席した。
肝臓が悪いという城戸草平の、会議への出席率は、めっきり落ちている。少し見ぬ間に猫背《ねこぜ》になり、身動きが大儀そうである。無表情なのは、不機嫌《ふきげん》からではなく、病気のせいと思われる。
「酒はいかんのだ。焙《ほう》じ茶をくれ」
城戸はぼそぼそと言う。
この状態をもっとも案じているのは黒崎《くろさき》だろう。城戸草平が見離したら、文化社は、即日、倒産するからだ。
「『パズラー』の売れ行きは、ほぼ、同じ状態です。月によって、多少の上下はありますが」
と、黒崎が説明した。
「ただ、遺憾ながら、『黒猫』の赤字をカヴァーするまではいっておりません。『黒猫』も、徐々に回復しつつあるのですが、なかなか……」
「『黒猫』が時代に合わんのなら、いっそ、やめてしまうか」
城戸は極論を吐いた。
「いや、それは……。金井君の努力で、清新の気が誌面に漲《みなぎ》っておりますから」
「わかっとる。しかし、そうそうは待てんぞ」
「赤字面を補うべく、先日、お話しした新雑誌を企画中です。とにかく、スポンサー・サイドの要求が強いもので」
「ふむ」
城戸は鼻を鳴らした。
「悪い話ではないが、内容が探偵《たんてい》小説から遠ざかる一方だな」
淋《さび》しげな言い方だった。
「城戸先生のお身体《からだ》が心配ですね」
会議のあとで、近くの喫茶店『ボストン』に入った金井が辰夫《たつお》に言った。
「入院でもするようなことになったら、お手挙げですよ。先生のご家族は、文化社の面倒を見るのはいいかげんにしたら、と言ってるようですし」
「当然だと思う」
と辰夫は言った。
「ああいう面倒見の良さは、ぼくらの世代にはないものな。ぼくら、もっと個人主義的だよ」
「文化社が潰《つぶ》れたら、ぼくは、おしまいだ」
金井は嘆息した。
「前野さんが羨《うらやま》しいですよ。『パズラー』が無くなっても、あなたは充分にやっていけるでしょう」
「そう思う?」
「ええ」
「ぼくは、思わない。世の中、そう甘くはないよ」
「ところで――例の〈遊びの会〉ですが、ぼくも入れて貰えるそうで……」
金井は嬉《うれ》しそうだった。
「下働きでも、根回しでも、やりますよ」
「そこらは、きみの独壇場だね」
「どうなのかな……」と金井は気を持たせて、「井田さんを入れるというのは。あの人は性格的に暗いし、妙なところがあるでしょう」
「きみは嫌《きら》いらしいね」
「どうも合わないのです」
「井田さんには世話になった。外すわけにはいかない」
「そういうものですか」
金井は不満そうであった。
「川合さんはどうですか」
「あの男は徒党が嫌いなのだ。根っからの個人主義者だな。少くとも、第一回の会合にはこない」
「そりゃ残念です。紹介していただこうと思ったのに」
「なぜ?」
「ここだけの話ですが……」
金井は具合の悪そうな顔をして、
「編集主任にはなったものの、会社の基盤が危いでしょう。前野さんにも隠していて申しわけなかったのですが、ぼくは、ラジオ番組の下請け会社を作ったのです」
辰夫は唖然《あぜん》とした。よくよく会社を作りたがる男である。
「ところが、素人《しろうと》の悲しさで、タレントがつかまらないのです。川合さんに会って、DJ番組をお願いしたいのですがねえ」
まずいな、これは、と辰夫は、ひやりとした。
金井は、おれの〈派手に見える面〉を真似《まね》ようとしているのだ。ついに、おれの悪影響があらわれてきた……。
三月に入ると、陽射《ひざ》しは、こころもち暖かくなったが、夕方には底冷えがした。
辰夫は元気だった。元気ばかりではなく、今年の春は、特別に自分のためにプレゼントされたものだ、と感じていた。すべてが好転してゆく予感があった。
「ポップンロール・ショウ」の準備台本はできたものの、赤星プロ所属のタレント抜きで、ショウ番組をつくるのは、至難のわざであった。中心《メイン》になる十代の人気ポップス歌手の風間ユカだけが押えてあり、他のタレントが一向に決らない。これでは、四月からの放送が危《あや》ぶまれた。
三月に入ってすぐに方針が変り、風間ユカ中心の喜劇的なホームドラマに切りかえられた。風間ユカには喜劇的才能もある、とプロデューサーは苦しい説明をした。
ドラマを書く習練をしていない辰夫は、降りてしまう気になった。収入を考えたら、あっさりとは降りられないのだが、いかんせん、何の技術もないのだから、やむをえない。
「大丈夫だよ」と、川合は慰留した。「ドラマといっても、あの歌手とこのタレントを立てて、という風に書くのだから、ヴァラエティに近い。それに、ドラマだと、ギャラが高くなる」
「ドラマの初歩のお勉強か」
辰夫は自嘲《じちよう》的に呟《つぶや》く。いまの彼の生活水準を下げるのは避けたかった。
「ト書きを原稿用紙の上の方に書く。会話は下に書く。ここまでは、ショウの台本と同じだ。ちがうのは、原稿用紙一枚が約一分ということ。それだけ覚えとけば、あとは軽いぜ」と川合は言った。
辰夫は銀座の大きな書店へ行って、ドラマ関係の本を探した。「テレビドラマ入門」という翻訳書を求めた彼は、ええい、駄目《だめ》でもともとだ、と開き直った。
赤星プロの常務から再度、電話が入ったとき、辰夫は声で相手がわかった。
――いかがですか、先日お話しした社長との飯の件は? お忙しいのは重々承知してますが、社長が是非と望んでるので……。
丁寧なようでいて、高圧的でもあった。社長、社長と、たいそうな人のように言うのも、面白《おもしろ》くない。
――少しは、他人《ひと》の気持を考えてみたらどうです。
辰夫はなるべく柔らかく応じた。
――おたくの強行策のおかげで、こっちはてんてこ舞いです。そういう気持になれると思いますか、ぼくが?
――そう言われると思ってましたよ。
相手の声は笑いを含んでいた。
――風間ユカでドラマをやるそうですな。そうとう苦しい策だ。十三回《ワン・クール》つづけば、御《おん》の字ですな。
辰夫は答えなかった。
――うちには、色々な考え方がありましてね。テレビ局と決裂したからといって、作家の先生方と喧嘩《けんか》する気はないのです。うちの方針は有能な先生方と仲良くしてゆきたいということです。はっきりいえば、先生が、あのタレントを貸せとおっしゃれば、考えさせて頂きますよ。こちらも商売ですからね。スケジュールがあいてさえいれば、ご協力いたします。
本当だろうか、と辰夫は思った。ホームドラマにしても、赤星プロの若い娘がひとり必要なのだった。
――とにかく、社長に会ってみてください。それでも、先生が気に入らないのなら、仕方ないじゃないですか。
指定された時刻に、辰夫は赤坂の料亭《りようてい》の門を潜《くぐ》った。
外見はまったくの日本料理屋であるが、玄関の脇《わき》に老酒《ラオチユー》の大きな甕《かめ》が置いてあり、さりげなく中華料理を出すことを示している。お座敷中華なるものができた噂《うわさ》はきいていたが、見るのは初めてだった。
ズボンの型が崩れたり、皺《しわ》がよったりするという、つまらぬ理由から、辰夫は畳にすわるのが好きではなかった。妙な風に皺ができると、独身男性としては、はなはだ困惑する。この季節のズボンを二本しか持っていないので、畳の席での会がつづいたあとは、自分で下手なアイロンをかけ、ズボンの筋が二本できたりして、悲惨なことになる。
「社長さんは、もう、見えてます」
と、女中は言い、辰夫を二階に案内した。
十畳ぐらいの部屋の中央に朱の円卓があり、窓ぎわの壁に凭《よ》りかかった大男が足を円卓にのせていた。いくら靴下《くつした》をはいているといっても、あまり気持の良い図ではない。少し離れた位置に、スエードの上着を着た常務が控えている。
「前野です」
辰夫は頭をさげた。
「やっと、きてくれたか」
大男は足を円卓からおろして笑った。破顔一笑といいたいところだが、眼《め》だけが笑っていない。笑わないだけではなく、辰夫を、じっと観察している。
色が白く、肥《ふと》り気味の大男は、むかしの中国の高官のような謎《なぞ》めいた印象をあたえた。態度の気さくさは、表面的というよりは、職業的なものに見えた。
「中国の酒はよくわからん。適当にえらんでくれ」
常務に向って、そう命令した。
「はい……」
常務の眼に、納得できぬような色が漂った。
「でも、社長のお好みが……」
「いいから、適当にえらべ!」
赤星はうるさそうに言った。常務は、挨拶《あいさつ》にきた女将《おかみ》と相談し始める。
エディ赤星とジョーカーズといえば、ひとむかしまえは、一流のジャズバンドだった。辰夫はジョーカーズを何度も観《み》ているはずだが、エディ赤星がドラムを叩《たた》く姿を記憶していないのである。ドラマーたちが花形だった時代の人物で、しかも、これほどの大男が、かくも印象が薄いとは、それじたい、尋常ではない気がする。当時から裏方に徹しようと振る舞っていたのだろうか。
「暖かくなると、助かるね」
と、赤星はきわめて月並みな言葉を呟いた。
「ぼくは春が好きだ」
辰夫は答えようがなかった。自分の出方を見ているのかも知れないと思った。
「たまには、仕事を離れて、清談をしないと、身体を悪くしてしまう。今夜は、仕事の話は抜きにしよう」
常務がビールを注《つ》いだ。
なんとなく乾杯をしたが、仲直りのつもりだろうか、と辰夫は思い惑う。
「社長は、いつも、そうおっしゃってて、仕事の話になるんです。しょうがない、根っから好きなんだから」
常務が口をはさむ。
「きみらが取り仕切れないからだ。おれは、もう、すべて、任せたい。事務折衝など、面白いものではない」
赤星は苦い顔で空のグラスを見つめている。
「それはないでしょう。株式会社を九つもこしらえて、そりゃないですよ。学校法人が五つ、契約タレントが二百人以上です。こんな大世帯を、私がきりまわせるはずはありません」
「ひとりでやれ、とは言ってない。しかし、数人ならできるはずだ」
「で、社長は、なにか、やらかすのですか」
「まえから言ってるだろ。テレビ番組を自主製作する。タレントだけを抱えてるから、〈近代的置き屋〉などと批判されるのだ。二百人のタレントを駆使して番組を作れば、文句のつけようもあるまい」
おれを牽制《けんせい》しているのだろうか、と辰夫は疑った。初対面の人間のまえで社長と常務が交す言葉ではなかった。そうだ、そうにちがいない。
牽制球とわかりながら、辰夫は圧倒されていた。赤星が自分の眼で確かめて契約したタレントが二百人とは、充分な脅威であった。
「おれの名前が悪いのかな」
と、赤星は辰夫に言った。
「楽隊屋は、みんな、目立ちそうな名前をつけたものでね。まさか、こんな風になるとは思わなかったから、楽隊屋の名前のままで会社を始めた。赤字の星という洒落《しやれ》もあったな。本名の木下で始めるべきだったかな」
は、は、と笑ったが、眼はまったく笑わず、義眼のようにみえた。
「そのせいもあるかも知れません」と、辰夫は柔らかく答えた。「でも、それだけではないでしょう」
「出る杭《くい》は打たれる、ってやつでさあ」
常務は下品な声で笑った。
「それだけでもない……」
赤星ははっきり言った。
「マスコミに対する態度が良くないのだ。もっと、PRをうまくしなければいかん。数年まえには味方だった人たちが、わが社のやり方を批判している。誤解にはちがいないのだが、誤解を招く部分があったと考えるべきだ」
責任は常務にある、と言わんばかりだった。常務は不満そうに口をとがらせる。
「彼らを抱き込め、と言っているのではない。オーソドックスな企業PRが足らんのだ。誤解は、少しずつ、解いていくしかない。そういう努力が欠けていた」
「なんせ、走りっぱなしでしたから」
常務はふて腐ったような笑みをみせた。
赤星の眼の下の辺りがかすかに赤らんだ。色が白いので、赤みがよけい目立ったが、表情は少しも変らなかった。
「ぼくが本当に好きなのは、無名の新人をスカウトすることなんだ」
常務を無視して、赤星はこう言った。
「これだけは自信がある。たとえば、舞台に踊り子が十人いるとしよう。ぼくは、二、三分で、どの子が伸びるか、判定できる」
「生意気にきこえるかも知れないですが、私にも、そういうところがあります」
「ほう……」
義眼めいた眼に、弱い光が宿った。
「本当かね?」
「ええ、まあ」
「具体的に言うと、どういうことだ?」
「日劇でも、新宿辺りのストリップ小屋でも、いいです。プログラムの名前に私がマルをつけた踊り子は、十中八九、名をなします。ストリップ小屋のコメディアンでも、そうです。私がマークしていた男は、だいたい、世に出ます」
「大した自信だね」
中国の高官は皮肉っぽい言い方をした。
「そうだとしたら、編集者をやっているのは、もったいないじゃないか」
「いえ、編集者にも、そういう眼は必要なのです。新しい才能をどれだけ発掘できるかという問題ですから」
「じゃ、白井|直人《なおと》も、そういった着眼で、ひろい上げたんですかい」
常務は斬《き》りつけるように言った。辰夫は思わず身をかたくした。
細い眼で常務を制した赤星はゆっくりと口をひらいた。
「面白い。もし、そうだとすれば、きみとぼくには共通する部分があることになる」
辰夫は答えなかった。
「じゃ、どうかね。たとえば、うちのクローバーズは? あの中で、だれが残ると思う?」
四つ葉のクローバーのつもりらしい、四人の娘たちからなる〈クローバーズ〉は、可憐《かれん》さが売り物で、若手歌手たちの中でも人気がとび抜けていた。出すレコードは、必ず、ヒットチャートの十位内に入っている。
辰夫が口にした名は、四人の中でもっとも評判が悪い娘のそれだった。生意気、礼儀知らず、厚かましい、と、蔭《かげ》で、ひそかに囁《ささや》かれているのだ。
「うむ……」
赤星の頬《ほお》が初めて弛《ゆる》んだ。
「あの子だよ、最終的に残るのは」
「やはり、そうお考えですか」
「評判は悪いがね。ガッツが違うのだ、あいつは」
「と思います。テレビ局の廊下で見かけただけですが」
「テレビ局か。……きみは放送作家になりたいのか。ずいぶん熱心にやっているようだが」
「生活問題ですよ」
「そうきいているが、アルバイトにしては熱心過ぎるようだ。どうかね? 本気でやってゆくつもりなら、少しは力になれると思う。依頼が殺到して困るかも知れない」
「いえ……とにかく、編集者ですから」
辰夫《たつお》は恐れを覚えた。いつのまにか、赤星の勢力圏内に吸い込まれてゆきそうだった。
「それならいい。放送作家になるのは、ぼくは賛成できんのだ。日本ではテレビ作家は使い捨てだからな」
〈使い捨て〉という言葉も、ほかならぬ赤星の口から出ると、迫力があった。相手は辰夫が想像していた以上に大きな存在であるようだ。
料理が運び込まれると、赤星は口をきかなくなった。ひたすら食べつづけ、食べることの快楽だけで、他は念頭にないようである。仕方なしに、という感じで箸《はし》を動かしている常務が脇にいるので、赤星の没入ぶりが、よけい、はっきりする。
デザートが出される前に、常務は、社に戻《もど》りますから、と頭をさげた。
赤星は一瞥《いちべつ》しただけで、緊急の用があったら、家の方に電話してくれ、と言った。
胡麻《ごま》をまぶして揚げた小さな饅頭《まんじゆう》とアーモンドの豆腐を食べ終えた赤星は、満足した様子で、新しい蒸しタオルで顔をこすった。白い皮膚に艶《つや》が出ている。
ようやく、辰夫の存在を想《おも》い出した様子で、
「きみの本筋は、編集者なのか」
と、たずねた。
「はい」
「じゃ、きみのだな」と言いながら、赤星は大きな身体《からだ》を横に動かして、辰夫の左手首を荒々しく掴《つか》んだ。
「きみのこの細腕を、ぼくに貸す気はないか」
「は?……」
辰夫はさっぱり判《わか》らない。判らないながらも、犯されるのではないか、という思いが脳裡《のうり》を掠《かす》めた。
「編集の技術だよ」
赤星は手を離して自分の座椅子《ざいす》に戻った。
「さっきも話していたように、わが社はPRが不足している。ぼくはPR誌を出すことを考えているのだ。おそらく、芸能プロとしては初めてだろう。問題は、ぼくが信用できる編集者がおらんことだ。きみについては色々観察させてもらったが、一種のパイオニア精神がある。わが社も業界のパイオニアをもって任じているから、この点は、ぴったり合うと思う。どうかね?」
辰夫は、やっと、判った。
「今すぐとは言わない。考えてみてくれないか。――そうそう、申しわけないが、きみの給料は調べてあるのだ。ずばりというが、いまの給料の三倍を最低保障額としよう。どんなものかね?」
会食のあと、赤星は、「家《うち》へこないかね」と辰夫を誘った。断る間《ま》もなく、大きな外車に押し込まれたとはいえ、べつに誘拐《ゆうかい》されたわけではないのだから、つまりは、辰夫の好奇心が、拒む気持を押しきったと思《おぼ》しい。
赤星の邸宅は、中目黒の、狭い道を何度か曲ってようやく行きつける奥まった場所にあった。洋風の門から玄関までは、中級の洋館であるが、迷路じみた廊下を歩むにつれて、なみの家ではないと思えてくるのだった。
赤星は廊下の途中で姿を消した。つまり、平凡な家に、来客用の建て増しを重ねたのだ、と辰夫が納得したとき、彼は歳《とし》をとった女中によって、男たちの声が響き渡る部屋に通された。
二十坪はゆうにあると思われるその部屋は、部屋というよりはクラブに近かった。高低の差があって、高い方には幾つかのテーブル、低い方にはバーのカウンターがある。カウンターのスツールは、新聞記者、週刊誌記者らしい男たちに占拠されていて、傍若無人な大声、笑い声が湧《わ》いてくるのだった。バーテンがいるわけではなく、自分たちで水割りを作って、飲んでいるのである。
「前野さん……」
肩を叩かれた。
にこりともせずに立っているのは、先日、赤星プロ批判を辰夫にけしかけた週刊誌記者だった。
「どうして、ここに?」
辰夫は驚いた。
「あなたこそ、どうしたのです?」
記者は問いかえした。なるほど、そう思われても仕方がない。
「ぼくは|仕事がらみ《ヽヽヽヽヽ》で……」
「私も|仕事がらみ《ヽヽヽヽヽ》です。赤星社長と親しい上司に連れてこられたのです」
と記者は答えた。
「あの記事は、あとで反動がきました。ゆさぶりといってもいいですがね」
どうやら〈新聞社系週刊誌〉も中立ではなくなりつつあるようである。
「おたくでも、赤星プロ批判はまずくなったのですか」
辰夫は声を低めた。
「意外な方面から電話が入ったようです。ぼくの頭上での出来事で、よくはわからないのですが」
「どの方面からですか」
「保守党の大物です」
辰夫は沈黙した。
「赤星と政財界とのつながりを、編集長も、ぼくも、考えなかったのです」
「暴《あば》いてやればいいんだ、それを」
細めた眼《め》で記者は辰夫を見た。世間知らずですね、と、いわんばかりだった。
「じゃ、詫《わ》びにきたのですか」
「話し合いは、もう、ついているのです」
記者は、それ以上、説明しなかった。また、と片手をあげて、カウンターの方へ降りて行った。
(おしまいだな……)と、辰夫は、カウンターに向って騒いでいる男たちを眺《なが》めた。(こいつらのようになっては、おしまいだ)
紺のナイトガウンをまとった赤星が、正面のドアから入ってきた。
カウンターの男たちに笑いかけた彼は、階段を登りかけて、辰夫に気づいた。こっちだ、という風に、高い方のテーブルを指さした。
辰夫がテーブルに近づくのを遠慮していたのは、そこにいる男たちが、いずれも中年から初老で、ネクタイを締めていたからである。彼にとっては苦手な人種なのだ。
辰夫のためらいに気づかぬ赤星は、紳士たちを辰夫に紹介した。四人の紳士は、映画のプロデューサーであり、それぞれ、ちがった会社の名刺をさし出した。
「社長、水割りですか」
ひとりが早くもボトルに手をのばす。
「ぼくはブランデーだ。いま、だれかが持ってくる」
赤星は葉巻をくわえた。プロデューサーたちは、われがちに、ライターをとり出して、火をつけようと焦《あせ》る。
「いかがですか、お身体のほうは?」
「べつに……」
赤星は素っ気無い。愛想のない顔で葉巻を燻《くゆ》らしている。
「おかげさまで『旋風娘』は大ヒットでした」
もっとも近代的と自他ともに認める映画会社のプロデューサーが身を乗り出した。
「うちの社長が、近々、ご挨拶《あいさつ》にうかがうと申しております」
「あれは脚本が面白《おもしろ》かった」と、赤星はひとりごとのように言う。「あの子は十代のわりには色っぽいから。しかし、芝居は素人《しろうと》だ」
「とんでもない。あれは演技賞ものです」
「もう、プロの役者の時代は終りました。大スターというものは要らんのです。お荷物になるだけです」
と、もう一人のプロデューサーが言った。
「しかし、貴社《おたく》で、うちのタレントを使った映画は、いまひとつ盛り上らないね。どうしてかな?」
赤星は鋭い質問を発した。
「監督が悪いのです」と、プロデューサーは逃げる。「なんせ感覚が古いのです。新しい世代のエネルギーを吸収することができないのですなあ」
古い感覚の監督をえらんだのはプロデューサーの責任である。そこを突くかと辰夫は息をのんだが、赤星は大人である。同業者のまえで恥をかかせるような真似《まね》はしなかった。
そのとき、「旋風娘」の主役がブランデーを運んできた。辰夫を見て、あら、と言ったのは、「ティーン・ショウ」で顔見知りだったからである。歳のわりに色っぽいのは、辰夫も大いに認めている。
「おまえの芝居は演技賞ものだそうだ」
赤星は娘に言った。
「まあ! お世辞としても嬉《うれ》しいわ」
そつのない返事をする。
「|こちら《ヽヽヽ》とクローバーズで、一本、作らせてください。『乾杯、旋風娘』というような題で」
プロデューサーが抜け目なく応じると、別なひとりが、「それは困る、クローバーズは|うち《ヽヽ》が先約ですよ」と抗議した。四人はしばらく言い合いをし、赤星は満足した表情で眺めている。
「前野さん、ブランデー? 水割り?」
旋風娘がたずねた。
「板についてるぜ、口調が」
辰夫が半ば本気で言うと、
「あたし、水商売やりたいんだもの」
凄《すご》みのある答えがかえってきた。
「きみなら、明日からでも出来るよ」
「タレントを長くやる気はないわ」
旋風娘は小声で言った。
夜が更《ふ》けてくると、テーブル群は、赤星プロの息がかかっていると噂《うわさ》される、テレビのプロデューサー、ディレクター、レコード会社のプロデューサー、作曲家たちで一杯になった。
赤星は、各番組の視聴率をたずね、注意すべき点を指摘した。誉《ほ》めるときも、叱《しか》るときも、わりに大まかであった。思いついたことがあると、秘書代りの作曲家にメモをとらせた。ただ、レコード作りのような音楽関係の問題になると、具体的で、こまかい注意をあたえた。
しばらく経《た》ってから、
「飲んでいるかい」
と、辰夫に声をかけてきた。
「賭博《ベツツ》に興味があるなら、別室に案内させるが……」
「遠慮します」
「じゃ、向うの特別席へ行こうか」
新しい葉巻を手にしたまま、赤星は窓ぎわのテーブルの方へと歩いた。
窓から外を見ると、この家が、意外なほど、高台にあるのがわかった。下界をみおろすような形になり、はるか足下に街の灯《ひ》が見えた。
「眺めがいいだろう」
赤星は卓上用のライターで葉巻に火をつけた。
「きみ、なにか頼みがあるんじゃなかったのか?」
タレントを貸して欲しい、と言う気を、辰夫は失っていた。ひとつでも頼みごとを口にしたら、赤星の勢力圏に取り込まれてしまうだろう。
「いえ……」
と答えた辰夫は、この空間にいる人々の中で、赤星と利害関係を持たないのは自分だけではないか、と思った。それは、かなり奇妙なことであった。
「言ったらどうかね? 今のぼくは、交換条件を持ち出したりはせんよ」
「本当に、ないのです」
「そうか……」
赤星は作曲家を渾名《あだな》で呼び、ブランデーを持ってきてくれ、と命じた。
「この光景に呆《あき》れたかね?」
「そうでもありません」
「誤解されても仕方あるまい。……あの映画プロデューサーたちにしても、ぼくが呼びつけたわけではない。勝手に押しかけてくるのだ。それも、毎日、だよ。十五、六の女の子を、ひとり、借りるためにだ。こんなことで、ぼくは、マスコミに叩《たた》かれる。しかし、今日まで、ぼくがどれほど我慢してきたかは誰《だれ》ひとり考えてはくれない。満身|創痍《そうい》の七年間は、まったく、無視されている」
「七年ですか」
「うむ。七年で、ここまできた」
少し酔ったらしい赤星は饒舌《じようぜつ》になっていた。
「こうしなかったら、いまだに、テレビ局からの電話一本できりきり舞いする生活がつづいていたはずだ。スケジュールを突然変えられたり、注文をキャンセルされても、泣き寝入りするしかない。……いいかい。テレビ局や映画会社と|対等に《ヽヽヽ》渡り合う立場を作るのが、ぼくの最初の夢だった。ぼくの家族も、常務も、狂気の沙汰《さた》だと反対したものだ。ぼくは完全に独断専行して、なんとか、今日までやってきた。才能よりも、気力と体力のおかげだ」
「気力も才能のうちですよ」
「今でこそ、ぼくのような経営方法がふつうになってきたが、七年まえには革命だったのだ。デスク一つと電話一本ですむといわれた芸能プロダクションを企業にするのは、革命以外の何物でもなかった」
〈革命〉という言葉が相手の口から迸《ほとばし》ったのが辰夫《たつお》は信じられなかった。赤星と〈革命〉の取り合せは、どう考えても、妙ではないか。
「テレビ局と|対等に《ヽヽヽ》渡り合う夢は、いちおう、実現した。多少の行き過ぎがあったりするのは仕方がない」
仕方がない、ですむものか、と辰夫は反撥《はんぱつ》を覚える。
「ぼくの夢は、次の段階に入っている。企画を売るユニット方式だけでは駄目《だめ》だ。番組を完全に自主製作する。いずれ、そういう番組をテレビ局が買いにくる時代がくるはずだ。いまのところは狂気の沙汰にしか思われないだろうが」
たしかに、狂気の沙汰だ、と辰夫は思った。が、外部で、悪の根源のように見られている赤星プロが、この男にとっての〈夢の砦《とりで》〉であることもまた、認めざるを得なかった。極端な理想が現実化したときの怖さ、とでもいったものが、赤星にはあった。なにしろ、〈多少の行き過ぎ〉は無視する、という確信犯なのである。
「例の件を忘れないでくれ」
垂れさがった瞼《まぶた》の下の細い眼が、正面から、辰夫を見据《みす》えた。
「きみの気持さえ決れば、明日からでもいいのだ。ドアはいつでも開《あ》いている、と思っていてくれ」
「それは……」
辰夫はかすかに笑った。
「考えさせてください」
婉曲《えんきよく》に断ったつもりだったが、相手に通じないといけないと思い、つけ加えた。
「万一、その気になったら、ご連絡いたします。電話をしない限り、私はいまの仕事から離れません」
「よろしい。ぼくのホットラインを教えておく」
赤星は辰夫のボールペンを借り、コースターの裏に電話番号を記した。
ハイヤーを呼ぶと女中が言うのを断って、辰夫は暗闇《くらやみ》を歩き出した。
意地を張らなければよかった、と、すぐに後悔した。深夜の住宅街では、道をたずねるのが不可能だった。
背後から車がきたので、生垣《いけがき》に背中を押しつけるようにして避けた。車は辰夫の前で停止した。
「どうしたのですか」
週刊誌記者の声だった。
「乗ってください。都合の良い所まで送りますよ」
辰夫はほっとした。
「会社の車ですか」
「そうです。お望みなら、社旗をひるがえします」
「表参道の方にまわってください」
辰夫は乗り込むと、制帽をかぶった運転手に声をかけた。
車が動き出しても、二人は、しばらく黙っていた。
やがて、記者が口を開いた。
「度胆《どぎも》を抜かれたでしょう?」
「大変なものですね」
と、辰夫は嗤《わら》った。
「赤星社長と話し込んでいたじゃありませんか」と、記者は不審そうに言う。
「向うが、ひとりで喋《しやべ》りまくっていたのです」
「珍しいですね、それは」
「ぼくに喋ることで、ストレスを発散できるのでしょう」
辰夫はひとごとのように言った。
「どうですかね。本心は、前野さんをスカウトしたいのじゃないですか」
「そうも言ってました」
「危険ですねえ。あの男は、欲しいものを、必ず取りますよ。もぎ取ってでも」
溜息《ためいき》をつく記者に、辰夫は不意にたずねた。
「あなたは、彼が政財界とつながりがあると言ってましたね」
「こ、これにしてください」
記者は、人さし指を唇《くちびる》に押し当てた。
「どういう意味ですか」と辰夫は小声で執拗《しつよう》にたずねた。「政財界の人間にとって、赤星とのつき合いは、どういうメリットがあるのでしょう……」
「赤星プロのマネージャーの一人が、ぽろっと喋《しやべ》ったのですが……信じられないことです。噂としても、奇怪過ぎる」
記者は首をかしげた。
「考えられないことです……」
それきり、口をひらかなかった。
辰夫は、うすうす察しがついた。|それ以外に《ヽヽヽヽヽ》、老人たちが赤星プロに接する理由は考えられないのだった。
色っぽい少女の唇を彼は想《おも》い浮べた。
風間ユカは、たしかに人気があり、十六歳とは思えぬダイナミックな歌唱力を持っていたが、青春ドラマの中心になる演技ができるとは思えなかった。
この種のドラマは、主役の周囲に練達の演技陣を配して、初めて、どうにか恰好《かつこう》がつくものである。しかしながら、脇役《わきやく》を固めるためには、準備開始が遅過ぎた。集められたのは、時代にとり残されたロカビリー歌手や二流のヴォードヴィリアンだった。
最初の回の台本は、川合が|そつなく《ヽヽヽヽ》まとめたが、本読みに顔を出した辰夫は、出演者全員が弛《たる》んでいるのにがっかりした。
「二回目の台本《ほん》は、あなたですか」
ロカビリー歌手が辰夫に声をかけてきた。
「ええ」
「次の回の台詞《せりふ》は、少しにしてください。たのみます」
辰夫は意味をとり兼ねた。出番がすくないための不満には馴《な》れていたが、逆のケースは初めてだった。
「どうして?」
彼はききかえした。
「大島へ釣《つ》りに行くので、本読みに出られないのです。だから、役を軽くして欲しいの」
辰夫は軽く笑ってみせたが、内心の失望はいよいよ大きくなった。
生計のためと割り切って始めても、しだいに本気になってくるのが、辰夫の癖であった。自分でも困った性癖だとは思うが、致し方ない。
「前野さん、やる気がなくなってるね」
風間ユカが声をかけてきた。子役上り特有の勘が働く娘で、初対面なのに、十年の知己のごとき口をきく。
「どうして?」
彼はユカの顔を見た。眼が細く、鼻は丸く、といった風で、どう間違っても、容貌《ようぼう》では売れないタイプである。
「どうして、って、顔に書いてある」
ユカは、落ちついた口調で言った。
本読みのあとで、彼は風間ユカと麻布《あざぶ》のイタリア料理屋へ行った。店は二階にあり、階下では輸入物の装身具を売っている。夜中に近かったが、店内は、歌手やタレントたちで賑《にぎ》やかで、ユカに対しては「未成年者がくる所じゃねえぞ!」という野次が飛んだ。
「あたし、こんなとこしか知らないんだ」
ユカは野次を黙殺していた。
十六歳の少女が、話したいことがあるというのは何だろう、と辰夫は考えている。
ジュースとワインで乾杯してから、
「あたしは、この世界、十年になるのよ」
と彼女は言いだした。
「テレビの初期に、ちょろちょろしてたのを覚えてるよ」
辰夫は答えた。
「たいがいのことには驚かないよ、あたし。赤星プロと局が|ごたごた《ヽヽヽヽ》したために、あたしが抜擢《ばつてき》されたってことも分ってるし……」
「いや、それはちがう」
辰夫がさえぎろうとすると、
「いいのよ。おかげで、チャンスを掴《つか》めたのだから」
ユカはぴしゃりと言った。
「このチャンスがなかったら、あいかわらず、ポップス番組に、五人一組で出てるところよ。……はっきり言って、あたしは、いま、凄い勢いで昇ってると思う。だけど、格からいって、ドラマの主役をやれるわけはない――それが常識よ。その常識が破れたのは、赤星プロのおかげですよ」
「そうなるかね」
芸能界ずれした口調に辰夫は閉口する。
「あたしは、このチャンスを逃したくないの。すくなくとも、名前を落としたくない」
「名前を?」
「ある程度の視聴率を稼《かせ》いで、さすがは風間ユカと言われたいの。わかる?」
「わかるよ」
「今日の本読みで、雰囲気《ふんいき》が読めたわ。タレントの力では、成功しそうもないと思った。あとは、台本が頼りなの。川合さんの台本は、いちおう、面白《おもしろ》いけど、いまひとつ、乗ってない気がする。だから、前野さんを頼りにしようと決めたの」
細い眼が辰夫を見つめた。
「きみを失望させたくはないけれど」と辰夫は前置きして、「ぼくは、ドラマに関しては、素人同然だ。そう期待されると、困ってしまう……」
「期待よりも、発破《はつぱ》かけてるのよ」
ユカの眼の光は変らない。
「あたしは容姿が悪いから。……のべつ、親にそう言われて、顔以外のなにかで、ライヴァルを蹴落《けおと》すよりないと思って、歌をやってきたのよ。ヒット曲が出たのも、CMの仕事がくるのも、開き直ったからよ」
「妙な風にとらないで欲しいのだけど、きみの顔はそう変じゃないぜ」
「あたしも、そう思ってる。ひとに不快感はあたえないわ」
「もちろんさ」
「でも、美人じゃない。赤星プロにいるあたしのライヴァルは美人よ。あたしと同じ歳《とし》で、あたしから見ても、色っぽいもの」
「ああ」
辰夫は苦笑した。
「あの子は凄《すご》いわよ。|受ける《ヽヽヽ》ためなら裸にだってなるって言ってるんだから」
「あり得るね」
「でも、あの子は家庭向きのCMには出られない。あたしは出られる。あたしの顔は、ご家庭向きなのよ」
辰夫は答えなかった。いかに本音好きの彼とはいえ、十六歳の娘にここまで露骨に喋りまくられるのは好きではなかった。
「ご家庭向きってことは、テレビ向きってことでしょ?」
「だろうね」
彼は言葉を節約した。
「あたしは味方が欲しいのよ、個人的に。……赤星プロとちがって、うちの事務所はブレーンもなにもいないんだもの」
「味方、か……」
「あたし、顔に自信があったら、今夜、前野さんを誘惑してるわ」
真正面から彼の眼《め》を見据えた。
「おいおい」
彼はまた苦笑した。美貌でないから誘惑できない、とは、やはり、少女の発想だった。
「きみの気持はわかったよ」
気持に誘惑されそうだった。こうしたひたむきな態度に彼は弱いのである。
「ぼくが出来ることは台本だけだが、手を抜くなんてことはしない」
「ありがと」
ユカはかすかに笑った。
「きみが話したかったのは、それだけか」
「うん」
「よし。じゃ、今度は、ぼくが意見を言おう。きみのプロダクションの方針は、どうやら、アメリカのヒット曲の日本語版を、きみにうたい続けさせることらしいが、それはそれとして、オリジナルのヒットを出すことだ」
「オリジナル?」
「そうさ。いま、ペギー葉山の名前を知ってる人は、圧倒的に『南国土佐を後にして』でだろう。ぼくは、ペギー葉山といえば、『ドミノ』だよ」
「あたしも、『ドミノ』のペギーさん、覚えてるよ」
「きみは特殊なんだ。カヴァー・ヴァージョンが当ってるうちはいいけど、当らなくなったら悲劇だぜ」
「わかる、わかる」
ユカは頷《うなず》いた。
「でも、あたし、歌謡曲、好きじゃない」
「ぼくも大嫌《だいきら》いなのだ。中学のころから、アメリカのポップスしか聞かなかったんだから」
彼の声は大きくなった。
「しかし、今は、好き嫌いの話をしているわけじゃない。きみが、いかにして生きのびるかを話してるんだから。つまり、日本人好みのヒット曲を出しておくと、あとが楽ということさ」
「そうか。このままだと、雪村いづみさんみたいになっちゃうね」
「あそこまで突っ張れればいいけれども」
「そのまえに消えちゃうわね」
「大半、それだね」
「考えなきゃ……」
彼女は頷いた。
「ぼくは、そろそろ、帰りたい。疲れた」
「あたしは、もう少し、いるよ」
「だれか、くるのか」
「あたしの歌の訳詞をしてる人がくることになってる」
「作詞家か」
「まだ、プロじゃないの。大学を出たばかりで、友達というか、きょうだいというか、そういうつき合いをしながら、訳してもらってるの」
「アマチュアだね」
「センスの良いアマチュアよ」
「そりゃよかった」
辰夫《たつお》はフルーツを注文しようとした。ボーイを呼びとめてたずねると、苺《いちご》もメロンも切れてしまったという。
「シャーベットはある?」
「ございます」
「メロンのを貰《もら》おう」
果物の代りだった。アパートの冷蔵庫は空になっているはずだ。
ユカが立ち上った。こっち、こっち、と、恥じらいもなく叫ぶ。
グレイの地味なコートを着た女性が近寄ってきた。
「ご紹介するわ。あたしが訳詞をお願いしている藤井《ふじい》さん」
辰夫は立ち上った。
「女だったのか」
照れ隠しに乱暴な口調になった。彼は、訳詞家を男性とばかり思っていたのだ。
彼は名刺入れを出したが、自分の名刺が見当らなかった。焦《あせ》って探すうちに、他人の名刺が床に散らばった。どうして、こう不様なのかと思いながら、名刺を拾いにかかる。汚れた名刺をポケットに突っ込んだとき、女二人は椅子《いす》にかけていた。
「お名前は存じてますから……」
と、まだ大学生の気分が抜けない口調で、相手は小さく言った。
「藤井さん、なにか食べない?」
「食べてきたから……エスプレッソでけっこう」
「ワイン、飲んだら? あたしも飲むわ」
ユカは未成年者らしからぬことを言う。
「じゃ、つきあう」
「ちょっと、ボーイさん!」
ボーイが近寄ってきた。
「キャンティ・ワインをグラスでちょうだい。こっち二人よ」
「承知しました」
ボーイは言い、辰夫のまえにシャーベットを置いた。どうにも、恰好が悪かった。
「遅くなりまして……」
と言って、女性は小さな名刺を出した。藤井|典子《のりこ》とあり、裏はローマ字になっている。連絡先は風間ユカの事務所になっていた。
「あなたは、この子の専属なのですか」
辰夫はきいてみた。
「そういうわけでもないのですけど、まだ、アルバイト程度なもので」
風間ユカの歌とアルバイトという言葉が結びつかなかった。彼がおかしいと思っているとき、藤井典子がかすかに笑った。
「どうしたんですか?」
「いえ、あの――甘いものがお好きなのですか」
「前野さんは、シャーベット好きで、これで、五杯目」
「莫迦《ばか》なことを言うな」
そう言ってから、藤井典子の顔をまっすぐに見た。地味なワンピース姿で、化粧をしていないために、道ですれ違っただけでは気づかないかも知れないが、よく見ると、整った顔立ちだった。とくに眼が魅力的で、北欧系の血でも混っているように感じられた。
「シャーベットはお好きなんですか」
「お好きじゃないけれど、果物がないから、仕方なく、貰ったのです」
「前野さんは、疲れてて、早く帰りたいんですって」
と、ユカが余計なことを言った。
グラスワインが運ばれてきた。ユカと典子は乾杯する。
「いちおう、できたんだけど、ユカちゃんのイメージに合わないって言われたの。もっと、子供っぽくして欲しいって」
「ほんとに莫迦なんだから、レコード会社は!」
ユカはかっとなった。
「いつまでたっても餓鬼扱いするんだからね!」
「むずかしいところではあるのよ。丁度、大人と子供の端境期《はざかいき》でしょう」
「スタンダード・ナンバーしか歌わないって宣言したいもんだよ、あたし」
「新番組はどう?」
「まだ、わからないけれども、番組のテーマ曲は失敗だったよ。あれは、絶対、藤井さんに作詞して貰うって言い張ったんだけど、局の人が決めちゃったから」
「私じゃ信用がないのよ」
典子はさりげなく言った。
「うちの事務所の力が弱いんだ。決っちゃったから仕方ないけど、ああいうフワッとした歌、あたしに向かないんだよね。パワーで押しまくるやつじゃないと」
黙ってきいていた辰夫は、ユカの耳の正しさに感心した。テーマ曲については彼も物足りなさを感じていたのだ。
やがて、ユカの運転手が現れた。どうやら、帰宅の時間らしい。
「藤井さんは、うちにくるのよ」
とユカが説明した。
「前野さんは?」
「タクシーを拾うよ」
三人は立ち上り、外に出た。
「失礼なことをうかがいますけど」と辰夫は典子にたずねた。
「あなた、純粋な日本人ですか」
唐突さに驚いた様子の典子だが、こうした質問は初めてではなさそうだった。
「ええ。純粋な国産品です」
そう答えると、彼女は迎えの車に乗り込んだ。アメリカ製らしい車は、あっという間に、闇《やみ》に消えた。
〈遊びの会〉の発会式は、赤坂の草月ホールでおこなわれた。
当時の、多少とも人目を惹《ひ》こうとするイヴェントは、このホールで開催された。三月半ばとはいえ、小雨が降る、うすら寒い日だったので、人が集らないのではないか、と辰夫は心配した。
夕刻になり、開会時刻が迫ると、辰夫のそれは杞憂《きゆう》らしいことがわかった。入口で様子を見ていた金井が、楽屋に報告にきて、客席はほぼ一杯になった、と告げた。知り合いの週刊誌やスポーツ紙の記者が、小さな記事を書いてくれたおかげであろう。
「テレビカメラが持ち込まれましたよ」
と、金井は浮き浮きした調子で言った。
「撮っていいかときくから、承知しちゃいました」
水を得た魚のようである。ホールを借りる手続きからパンフレット作成まで、金井はエネルギッシュに片づけていた。
「そろそろ、舞台にならんでください。予定通り、六時に幕をあけます」
辰夫のとなりの椅子には鈴鹿兵伍《すずかひようご》がいた。それから舞台の下手《しもて》に向って、つき合わざるをえなくなった戸波《となみ》プロデューサー、井田実、気鋭のジャズ評論家、若者の生態を描く感覚では右に出る者がいない純文学作家、次の仕事が決っていない映画監督、〈遊びの会〉の名づけ親である詩人、パンフレットをデザインしてくれた売れっ子のイラストレーター、と、まずは時代を代表すると称して恥ずかしくないメンバーがならんでいる。
トシコ・マリアノ四重奏団の演奏が急に遠のくと、幕が上った。
フットライトとテレビの照明のために、辰夫は客席がよく見えなかった。二列目に白井|直人《なおと》がいるのだけが見えた。
まばらな拍手とともに彼は椅子から立ち上り、マイクを受けとった。
「前野辰夫です。本日は雨の中をおいでいただき、ありがとうございました。きょう、ここに集った方々は、〈遊びの会〉の発起人といっていいでしょう。発起人のメンバー紹介に入るまえに、世話役、裏方である私から、会の趣旨説明をさせていただきます。疑問が生じた方は、あとで質疑応答のコーナーをもうけますから、そちらで質問してください。なお、パンフレットにあります通り、トリュフォの日本未公開の映画『ピアニストを撃て』を秘密上映いたしますので、ご期待ください」
〈秘密上映〉というところで観客は笑った。
辰夫はやや落ちついた。客席の真中《まんなか》辺に暎子《えいこ》がいるのが眼に入ったのが、その証拠である。
「〈遊びの会〉という名称は、実は、私には若干の抵抗があるのです。三十に近い大人が、遊びたかったら、ひとりで勝手に遊べばいい、と、皆さんも思われるにちがいない。しかし、あえて、こんな名前をつけた。そこの事情をご説明したいと思います。――私たちは、ずいぶん、永いあいだ、〈厳粛文化〉の支配下にあったのではないか、と思ったのが始まりです。私は『パズラー』という雑誌を編集しておりまして、雑誌じたいはアメリカの小説の翻訳が中心ですから、それに関して、外部からの批判はないのですが、小説以外の部分――日本人のエッセイとかコラムの部分に、私自身の好みもありまして、パロディ的要素を入れる。とたんに、年輩の方からお叱《しか》りを蒙《こうむ》ります。とくに大新聞などで叩《たた》かれると、こちらはひどく傷つけられます。これは、いったい、どういうことかと、腹に据《す》えかねました。なにかにつけて、『ふざけている』『真面目《まじめ》ではない』と、前後左右から突つかれまして、とうとう、開き直ったわけです。遊びの雑誌でどこが悪いのか、なぜ、そう糞真面目《デツドシリアス》でなければならないのか、と。……そもそも、というほどのことでもないのですが、私たちは、落語というすばらしい文化遺産を持っている。落語をきいて、人生の指針にしようと考える人はいないでしょう。頭からシッポまで、すべて遊び、というのが落語です。だから、日本人は遊びや笑いを解さない国民だというのは、明らかに嘘《うそ》であります。ここには、作家の方がいらっしゃるので、私がこんなことを言うのは生意気かも知れませんが、かつては、小説だって、笑いと遊びに充ちていたはずです。ところが、明治に入って、〈芸術家〉という概念が西洋から輸入されてきた。作家は〈芸術家〉でなければならぬという新しい考えそのものは、けっこうなのですが、その中心になったのは、自然主義の作家でありまして、この人たちは、だいたいにおいて、田舎者で、頭が堅い。〈芸術家〉になるためには、戯作《げさく》といった存在《もの》を否定しなければならないと考え、じじつ、否定してしまった。そんなわけで、ぼくらが、|日常的に《ヽヽヽヽ》接し得る江戸文化の遺産は落語だけ、というのが現状です。……しかしながら、〈厳粛かつ権威主義的〉文化人は、落語など問題にいたしません。なぜなら、これらの文化人は、明治時代に、〈芸術家〉という概念を間違って輸入した人々の精神的子孫だからです。この種の文化人、及び彼らが作ったと信じている文化は、ただ、ひたすら、真面目であります。にこりともいたしません。そして、私たちを攻撃してきます。その理由は、私たちが不真面目だ、というに尽きます。しかし、私たち、ここにいる者は、生き方においては、少しも不真面目ではありません。各々《おのおの》の道で真面目に仕事をしているのです。私には、真面目ぶっている文化人の方が、よほど、偽善的に感じられ、その〈真面目さ〉は、贋《にせ》の、偽りの真面目さだと見えます」
言葉がきつ過ぎた、と反省した辰夫は、間を置いて、頭をかいてみせた。
「偉そうなことを申しました。まあ〈生《き》真面目文化〉とか、〈おごそか文化〉というものも、在《あ》っていいのです。それはそれでけっこうなのですが、ここにいるメンバーは、〈おごそか文化人〉の祝詞《のりと》のごときご託宣を耳にすると、思わず吹き出してしまう体質の人間ばかりです。それぞれの分野で、軽薄だとかなんだとか批難されておりまして、少くとも今の日本では少数派であります。そうした少数派が、一夜、語らいまして、軽薄といわれるおれたちにも骨のあるところを見せてやろう、などと決意したわけです。そこで決ったことを申しあげますと、まず〈遊びの会〉の結成です。生真面目で、こわばって、冗談一つ言わない文化に対抗するのですから、ゆとり、リラックスを強調したわけでして、ほかにも、不精会《ぶしようかい》、寝てよう会、等々、案が出たのですが、こんな名前に決りました。会の連絡事務は、『パズラー』編集部が代行いたします。また、この秋には、新しい雑誌がもう一冊出まして、これは〈遊びの会〉同人が編集する予定です……」
ようやく眼が馴《な》れてきたのか、客席の顔がはっきり見えるようになった。助川|文郎《ふみお》や、あろうことか、風間ユカと彼女の母親の顔が見えた。サングラスをかけているが、どう見ても、佐伯一誠《さえきいつせい》としか思えぬ顔もあった。そのほかにも、流行作家の顔が見られるのが奇妙であった。風間ユカの近くに、藤井典子がいないだろうか、と探したが、無駄《むだ》だった。
「この雑誌を中心に、私たちの世代による新しい文化センターが生れれば、というのが、一同の夢でございます。はっきり申せば、これからの日本文化は私たちが創造するのだ、ぐらいの自惚《うぬぼ》れはあるのです」
軽く頭をさげると、意外なほど熱心な拍手が湧《わ》いた。決してお座なりではなかった。
ともあれ、若干の支持はあるのだ、と辰夫は胸が熱くなった。
「〈遊びの会〉としては、さまざまな企画を用意しつつあります」
と彼は力をこめて言った。
「ゆくゆくは映画製作といった、大それた夢もございますが、まず、手初めに、京都でミュージカル公演をプロデュースします。この件に関しては、作者である鈴鹿兵伍さんに語っていただきましょう」
辰夫は鈴鹿にマイクを渡した。
赤いセーターにジーンズ姿の鈴鹿は、ひょいと椅子《いす》を離れると、
「どうも」
と、観客に挨拶《あいさつ》した。
「ぼくは、どんなに働いても、労働という意識がないのです。無駄ごと、遊びの延長、という気がします。つまり、どんな仕事でも、遊びにしてしまうのです。その点では、この会に加わる資格があるようです……」
映画が始まってしまえば、辰夫のやることはなかった。
発起人たちは、ロビーで、テレビカメラや記者相手に各自の意見を述べているらしい。アルコール類も用意されているので、けっこう熱っぽい雰囲気《ふんいき》になっているようである。
「あなたも出てゆくべきですよ」
という金井に、辰夫は、
「いいよ、もう」
疲れた笑いを見せた。楽屋の椅子にもたれてビールを飲むのが、なによりだった。
「客がよく入りましたよ、やはり、メンバーですよ。これで川合|寅彦《とらひこ》さんがいれば、満点なんですがね」
「あの男には、〈遊びの会〉たぁなんだ、と言われた。遊びなんてものは、黙ってやってりゃいいので、口にしちゃいけない、というのさ」
「失礼ですな」
金井は気を悪くした。
「正論だと思うよ、ぼくは。垢抜《あかぬ》けねえな、と言われた。粋《いき》じゃない、とも言ってたな。ぜんぶ、正しいね」
「前野さん、認めるんですか」
「認めるよ。――だって、いかなる目的があろうとも、徒党を組むってことが、まず、垢抜けない。しかも、〈遊びの会〉だなんて、下町に生れた人間として恥ずかしいぜ。うちの親父《おやじ》が生きてたら、泣くだろうね」
「へえ……」
「だけど、仕方がないだろう。そういう、美意識というか、倫理観では、不特定多数相手の雑誌は作れない。ミュージカルも作れやしない。どっちも、集団の作業だからな」
戸波が顔をのぞかせた。
「前野さん、きてください。ロビーで写真を撮るのです」
「またですか」
「寛《くつろ》いだ雰囲気の写真を、という希望があるのです。五分ですみますよ」
「やれやれ」
辰夫《たつお》は腰をあげて、「きみもおいでよ」と金井に言った。
狭い廊下を抜けて、ホールのロビーに出る。ロビーは、一九六〇年代初頭としては最前衛のデザインで、黒一色でまとめられ、生花や灰皿《はいざら》代りの砂だけが白い。黒と白との対比《コントラスト》を極端に生かして、そこに立つ者は、おのずと、時代の最尖端《さいせんたん》にいる心地を抱かせられるのだった。英国からきた人々によって演じられた、ジェームス・ジョイスの作品のミュージカル化や、モダンジャズの実験的演奏によって伝説化したホールを選んだのは井田であり、そのジャーナリスティックな着眼は、なかなかのものと言わねばなるまい。ほかのホールだったら、こうした盛り上りは見られなかったであろう。
「こっちだよ」
鈴鹿兵伍が手招きし、黒塗りのワゴンから水割りをとって、辰夫に渡した。
「グラフ雑誌が写真を撮りたいと言ってるの」
「頁《ページ》いっぱいに大きく使うそうだ」
詩人が辰夫に囁《ささや》いた。
「成功だったよ、今夜は……」
「花束の贈呈があります」
戸波が説明した。
「女の子が花束をさし出したところを撮る手筈《てはず》になっています」
「どこが花束をくれるのだ?」と、辰夫は不審に思った。
「戸波さんの|仕込み《ヽヽヽ》だろ」と鈴鹿が笑った。「ぼくらに花束をくれる会社なんてあるはずがない」
「いや、れっきとした放送局がくれるのさ」
詩人が超然とした態度で言った。
「どうして?」
「ぼくの関係だ」
「あなた、どういう関係があるの?」
鈴鹿も不審そうである。
「ぼくは、クレイジー・キャッツのディスク・ジョッキーの台本を書いている。聴取率がいいんだよ」
一同は意外そうな顔をした。クレイジー・キャッツは、レコードのヒットこそあるものの、まだ決め手となる|当り《ヽヽ》のないグループ・タレントである。しかし、昇り坂にあることは間違いないので、反体制的な姿勢を貫いているかに見える詩人が、彼らと係《かか》わり合っているのが不思議であった。
「聴取率がいい、なんて、誇らしげに言っちゃいけないな」
鈴鹿が揶揄《やゆ》した。
「聴取率とか視聴率っていうのは、詩人の使う言葉じゃないよ」
「そういうことを言うとき、鈴鹿君の頭にある詩人の概念がいかに古いかがわかって、ぼくには興味深い。つまり、あなたは、きわめて十九世紀的な詩人を想定して、ものを言っている」
「古くてすみません」
鈴鹿は冗談めかして答える。
「すると、クレイジー・キャッツの台本を書くのが新しいのですか?」
「良くも悪くも、ぼくらは、時代を超えては生きられないし、パンを口にしないわけにはいかない。ぼくは、さいきん、自分を、資本主義社会における宮廷道化師と考えるようになった。宮廷道化師は、いわば道化やジョークで王様の機嫌《きげん》をとり、パンを得ている。しかし、ジョークには毒があり、王様を批判することもあるわけだ。いわば、皮一枚で首がつながっている存在だね」
「あなたがそんな危険な世渡りをしているとは、とうてい思えないな」
と、鈴鹿は嗤《わら》った。
戸波が声をかける。
「みなさん、グラスをお持ちになりましたか。花束は、べつに、だれにというのではなく、真中あたりにきます。ただ、笑っていてくだされば、けっこうです」
――よろしく!
とカメラマンが言った。
滑り出しとしては、成功なのだろうか、と辰夫は思った。彼にとっては、隙間《すきま》だらけの会であった。
週刊誌にのった〈遊びの会〉の記事は、おおむね、好意的であった。当時のマスメディアの中で、若者文化の世論を形成するのにもっとも力を持っていたのは週刊誌であったから、辰夫は安堵《あんど》した。
[#1字下げ]〈マスコミの中で頭角をあらわしただけの才人たちに何ができるか?〉
[#1字下げ]〈問題は彼らの才能が本物であるかどうかだ〉
といった揶揄も、若干はあったが、これらには仕事で答えるしかなかった。
辰夫にとって、とりあえずは夏のミュージカル、そして秋の新雑誌、の二つが主な仕事であった。それ以上は、丈夫とはいえない彼の体力をもってしては不可能である。
そのために、まず、テレビ出演をやめることにした。
週に二度はあったテレビ出演をやめても、辰夫は困らなかった。文化社の給料は、そのまま、アパート代に消えてしまうが、テレビドラマ「はじけるユカちゃん」の台本が月に二本、不定期の構成物、ラジオ出演、原稿料などで、ある水準の生活は可能だった。
編集部にくる読者の投書でも、テレビ出演は莫迦《ばか》に見えるからやめたらどうだ、という声が多かった。〈莫迦に見える〉云々《うんぬん》はともかく、会の存在そのものが軽薄に見られるのは避けたかった。
和服に宗匠|頭巾《ずきん》という不可思議な扮装《いでたち》の川合といっしょに、辰夫は、TBSに近い小さなお握り屋に入った。どういうわけか〈おふくろの味〉という言葉が流行《はや》りはじめており、この店の提灯《ちようちん》にも、ぬかりなく書き込まれている。
川合の顔を知っている店の女の子は笑いを堪《こら》えている。
「とりあえず、ビールかな」
と、川合は、壁の品書きに眼《め》をやって、
「魚、あるかい」
「若狭《わかさ》がれいがありますけど」
「それ、二つだ」
川合は宗匠頭巾にふさわしく背中を丸めた。
「なんか迷惑がかかったんじゃないの、おたくに」
「大したことはない」
答えながら、勘の良い男だ、と辰夫は舌を巻いた。
辰夫が書く台本には必ず、川合を出すことにしている。今日は、横千家という茶道の宗匠役にしたのだが、あまりにも面白《おもしろ》過ぎて、他の出演者から苦情が出たのだった。子供のような顔をしたディレクターが、局の権威を背負った暗い声で、その旨《むね》を辰夫に告げたのである。
「どうしたんだい?」
川合は珍しく、こだわった。
「よくある話さ。川合さんだけが光って見えるのは、チームワークの点でまずいとか、莫迦なことを言ってた」
「あのディレクターか」
「どうしようもない。東大仏文出身だから」
辰夫は疲れたようにぼやいた。
「幼児的でね」
「あの手合《てあい》が、急に、増えてきた」
と、川合はビールを注《つ》ぎながら言った。
「考えなきゃいかんな」
「どこの局でもかい?」
「ああ。要するに、サラリーマン。自分の立場しか考えてない」
「どうしてかな?」
「テレビ放送が始まって、もうすぐ十年だ。開拓時代の、どこか胡散《うさん》くさいけれども仕事のできる人たちは偉くなっちまった。代りに、第二世代が現れた。みんな、結構な大学を出ているんだが、なんとも頼りない」
「秀才なんだろうな、あれで」
「餓鬼よ。ひとなみの理屈はならべるけど、アイデアも戦略もない。給料が良いから就職してくるだけさ」
「川合寅彦が出ないと視聴率が下りますよ、と言ってやった。黙っちゃったよ」
「おたくも、出りゃいいのだ」
川合は当然のように言った。
「ぼくは出ない。才能ってこともあるけど、それだけじゃない」
辰夫は理由を説明した。川合は納得できぬ顔できいていた。
「おれは他人《ひと》の生き方に干渉しない性質《たち》だから、批判はしないぜ」
と、川合はゆっくりと口を切った。
「テレビに出ない、軽薄に見える、ってのは、まあ、正しいだろう。ただ、おれに言わせると、少し早いわ。あと、一、二年は、画面で遊《あす》んどいて、すっと消えた方が、迫力が出る」
「時間がない。新雑誌は秋に出るんだ」
辰夫は思いつめたように答える。
「気持はわかるけど、〈遊びの会〉の連中のためだったら、意味ないぜ。あいつら、自分《てめえ》のことで頭が一杯なんだ。そんな奴《やつ》らのために尽すこたぁないよ」
「あいつらのためじゃない」
辰夫は言いかえした。
「日本の文化とぼく自身のためだ。この会を、五年つづけてみたい。五年つづけば、十年はつづく。十年たつと、ぼくは三十九になる。そうしたら、やめたっていいんだ」
「気の長《なげ》え話だな」
「そりゃそうだ。日本文化の体質を変えるんだぜ。本当は、二十年、三十年単位でやらなきゃならんのだ」
「考え方の方向は、おれと似ているのだな。――ただ、やり方がちがう。おれは独りでやる」
「ひとりじゃ、なにもできないぜ」
「かも知れない。これは、性格的なものだ。その代り、失敗したって、全部、自分のせいだ。自分が間違っていたと思えば、諦《あきら》めがつく。だいいち、おれは、自分の才能やエネルギーを他人《ひと》のために使うなんて、まっぴらだ」
「他人《ひと》のためじゃないってば!」
「……最終的には、そうなる。内輪揉《うちわも》めと裏切りで、へとへとになる。人間が嫌《いや》になる」
「覚えがあるのかい」
辰夫は問いかける。
川合はとりあわずにつづけた。
「おたくが傷ついたり、病気になったからって、だれも面倒見ちゃくれない……」
「わかってるよ」
「おれは自分のことしか考えない。〈遊びの会〉の奴らも、そうだ。マスコミの中でいかに目立つか、自分をどう売り出すかって野心に凝り固まっている。おれには、手にとるように読める」
辰夫は咳《せ》き込んで煙草《たばこ》を揉み消した。
「……そんなことも、わかっている。そういう連中でも、まあ、いいのだ。会をやめる者もいるだろうし、入ってくる者もいるだろう。だんだん、色が鮮明になってくる。中でも、ぜひ入ってもらいたいのは、あなたなのだ」
「また、それを言う」
川合は軽く逸《そ》らした。
「雑誌が出るころには、メンバーが固定すると思う。本当の発足はそれからだ。あなたに入ってもらいたいのは、なんといっても、パロディに関する蘊蓄《うんちく》が深いからだ」
「ばかな」
川合は俯《うつむ》きがちに吐きすてるように言った。
「だって、あなた、『マッド』を創刊号から持っているのだろう?」
「ああ」
「凄《すご》いよ。どこで手に入れたの」
「駐留軍相手の古本屋だ。『マッド』も、創刊して、もう十年になるのだな」
「そういう人が傍《そば》にいてくれないと困る」
「個人的に、外部から、おたくを支援するよ」
そのとき、春の番組宣伝のポスターが貼《は》られたベニヤのドアを押して、風間ユカが入ってきた。
「やっぱり、ここだったね」
と、辰夫の左側の椅子《いす》にかけながら言った。
「あたしは、|おかか《ヽヽヽ》と|たらこ《ヽヽヽ》のお握り、|なめこ《ヽヽヽ》の味噌汁《みそしる》。それから、あたしの『悲しきノクターン』をかけてちょうだい」
「そうそう……」
辰夫はユカに小声で言った。
「こないだの藤井《ふじい》さん――あのひとの電話番号を教えてくれないか」
「ほら、きた」
ユカは鼻に皺《しわ》を寄せて笑った。
「そう言うと思ってた」
藤井|典子《のりこ》を|さりげなく《ヽヽヽヽヽ》引き合せたのは、風間ユカの巧妙な罠《わな》なのではないか、と辰夫《たつお》は考えた。
歳《とし》のわりに世故に長《た》けているユカなら、そのくらいはやりかねなかった。自分の番組を成功させるためには、辰夫を引き寄せておかねばならない。そのために、藤井典子の存在を示して、辰夫が離れられないようにする。
「電話番号、教えてもいいけど、明日、あの人と、晩御飯、食べるよ。いっしょにこない?」
ユカはさりげなく誘った。
「明日の晩は空《あ》いている」
「なら、おいでよ。場所は赤坂だし、さ」
「ぼくが入って邪魔じゃないのか」
「平気、平気。うちのパパがくるけど、中華料理を食べるのに、三人じゃしょうがない、と話してたところなの」
「お父さんがくるのか」
辰夫はたじろいだ。ユカの父親は中国人の血をひいている、ときいたことがある。たしか、華僑《かきよう》の子弟で、商売に失敗し、落魄《らくはく》していたのだが、ユカが売れ始めたので、ステージ・パパのごとき振る舞いをしているのだそうだ。
「パパは大喜びよ。人見知りをしない人だから」
それはよいのだが、なんとなく〈一家《クラン》〉のメンバーに入らねばならぬ雰囲気《ふんいき》になりそうなのが気にかかる。赤星プロの誘惑をはねつけて、風間〈一家《クラン》〉に加わる形になったのでは、しまらないこと夥《おびただ》しい。
こうした自制心を撥《は》ねのけかねないのが、〈中国人の招待で中華料理を食うこと〉の魅力である。しかも、場所は赤坂だ。
横浜の中華街が大したことない、というのは、もはや、東京のグルメの常識になっている。何軒かの例外はあるが、全体としては大したことがない。むしろ、新橋、赤坂、六本木に新しく出来た店の中で、腕のいいコックのいる所を選ぶのが|こつ《ヽヽ》であった。香港《ホンコン》からコックがきたばかり、というのが最上である。なぜなら、日が経《た》つにつれて、妥協的なコックは、日本人の日本的な味覚に合せて、あっさりした味つけに変えてしまうし、気骨のあるコックは香港に帰ってしまうからである。日本に来たばかりで、妥協を知らぬ中国人コックがいる店こそ、望ましいのである。
辰夫は、日常的には飢えていなかったが、この種の想像力が働き始めると、独自の飢餓感に襲われるのだった。
「かまわないかね」
彼は念を押した。
「ぜんぜん……」
ユカは|たらこ《ヽヽヽ》のお握りを頬《ほお》ばりながら言った。
「なんか、面白《おもしれ》えこと、ないかな」川合が大声を出した。「世の中が平和なのはありがてえけど、退屈もするわな。なんか、どかーん、と面白えことが起らねえかなあ」
「あたしの番組がヒットすれば……」
と、ユカが言いかけると、
「そういうのは、面白えもののうちに入らないんだよ」
川合が往《い》なした。
「自分の生き方が、百八十度、変っちゃうようなことよ。今の仕事を、すべて、捨てちゃうような事態だな。そういう気持、ないかい?」
「なくはない」
と辰夫は答える。
「ぼくは、自分の全仕事のための時間がもっと欲しい」
「そういうものかねえ」
川合は冷やかし気味に言った。
やがて、ユカは立ち上った。作者二人は、まだ、時間がある。
「ユカ、おれが払っとくよ」
辰夫が制すると、ユカは財布をひっこめて、ご馳走様《ちそうさま》、と出て行った。
「あの子のヴァイタリティにはかなわんな」
と、川合は溜息《ためいき》をついた。
「戦後十七年経ったのが、実感としてわかる」と、辰夫も感慨に耽《ふけ》る。「あいつ、戦後生れなんだな。アメリカへのコンプレックスがなくて、ひたすら明るい」
「おれたちと|ひとまわり《ヽヽヽヽヽ》以上も違うんだぜ。いやになるな」
ビール、もう一本、と川合は言って、
「……いまの話の続きなんだが、おれは、考えることがあって、テレビの仕事を減らそうと思ってる。この番組も、月に一回にしたいんだ」
「ふーむ」
「どうかね? 月に、もう一本、引き受けて貰《もら》えないかな」
「きついなあ、それは」
「無理かね?」
「ぼくは、もう、目一杯だ。だれか呼んでくるしかない」
「ひとり、入れるか?――ただ、三人になると、とかく、揉めるんだよな。おたくとおれみたいに、しっくりいくかどうか……」
「贅沢《ぜいたく》言っちゃいけない。月に一回にしたいと言い出したのは、あなたじゃないか」
「そりゃそうだけど……」
川合は、ためらっているようであった。
「仕方ない。だれか、連れてくるか」
「つまり、あなたとぼくが決めた路線の上で仕事をしてくれる作家だな」
「ほんとうですか!」
グレイの三つ揃《ぞろ》いに身を固めた井田は、必要以上にびっくりした顔を見せた。
「引き受けてもらえますか」
辰夫は重ねてたずねた。初めてテレビ局なるところに自分を連れて行ってくれたのが、他《ほか》ならぬ井田であることを思い起すと、立場が変ったものだ、と思う。
「川合さんは、承知しているのでしょうか」
井田は探る眼《め》つきになる。
「承知してます」
辰夫は短く答えた。川合|寅彦《とらひこ》と付き合うのはやめた方がいい、と、何度となく仄《ほの》めかした井田にしてみれば、ずいぶんと具合の悪い思いであるだろう。
「ただし、条件があるのです」
「は?」
「あの番組の枠組《わくぐ》み、設定は、川合が作ったのです。あと、ぼくが肉づけをした形になっています」
井田は大きく頷《うなず》き、神経質そうに煙草をくわえて、また、唇《くちびる》から離した。
「その設定をこわされるのは困るのです」と、辰夫は念を押した。「そうされると、あとが、書きづらくなりますから。……こんなことを、井田さんに申し上げるのは、釈迦《しやか》に説法でしょうが」
「とんでもない」
井田はかすかに笑って、
「ドラマを書くのは、数年ぶりですから」
「そこを了解してもらえれば、すぐにでも、お願いしたいのです」
辰夫は、あえて事務的に言った。
「ごらんの通り、暇ですから」
井田はしずかに言った。女子事務員の姿が見えず、電話が鳴らないのは、辰夫にもわかっていた。
「この事務所も、閉めようと思っていたところです。自宅に引きこもってもいいのですが、電話が十円玉でかけられない場所ですから、依頼がさらに少くなるんじゃないかと思いまして……」
「テレビの仕事をつづけるおつもりなら、都心にいないと、まずいですね」
「そうです。そこを考えて、赤字なのに、事務所を開いているのです……」
井田はさらに愚痴をこぼしたいようだった。放っておくと、えんえんと続けそうなので、
「やっていただけますか」
と、辰夫はきいた。
「わたしでよろしいのでしょうか」
井田は救いを求めるようにたずねた。
「定期的に原稿を書かせていただける上に、〈遊びの会〉にも入れていただいて……」
「待ってください」
辰夫は急に腹が立ってきた。
「一年まえに、ぼくは井田さんのお世話になりました。あなたに原稿を、初めてお願いしたときには、ぼくの中にもお礼の気持があったと思います。しかし、そのあとは、ビジネスなのです。それなのに、あなたは、そういうべたべたした発想で……」
彼は口をつぐんだ。井田の眼に涙が溢《あふ》れ、頬を伝ったのである。
どうしたのだ、と彼はわからなくなった。口惜《くや》し涙なのだろうか。
「ありがとう……」
井田は涙を拭《ぬぐ》おうともせずに言った。
「あなたはビジネスとおっしゃいますが、それだけじゃないことは解っています。照れ屋ですからね、あなたは……」
「今度の件は、純然たるビジネスですよ」
辰夫はつづけた。眼の前に、三十を過ぎた男の泣き顔があるのは、些《いささ》か閉口である。
「そうだとしても、わたしを指名なさったのは、あなたでしょう」
井田はまた泣き出した。
「あなたも、川合さんも、江戸っ子ですから……わたしのような田舎者は仲間に入れてもらえないと思ってました」
辰夫は呆然《ぼうぜん》とした。〈江戸っ子〉という言葉を昭和生れの人間にあてはめるのが、まず、どうかと思うのだが、すべてを人間関係で推し測る発想に、生れて初めて、接したのである。
「喜んでやらせてもらいます」
涙の溢れる眼で井田は辰夫を見つめた。
「それだけではありません。この世界でやってゆく気力が湧《わ》いてきました。今日は、わたしの人生のターニング・ポイントです」
「そんな大袈裟《おおげさ》な……」
辰夫は恥ずかしくなった。
「風間ユカを盛り立てるだけの番組ですから、そのつもりでお願いします」
〈しっくりいくかどうか……〉という川合の言葉が頭を掠《かす》める。
「むすめを、よろしく、たのみますよ、まえのさん」
ユカの父親は小柄《こがら》だが、精力的な印象をあたえる。髪の毛が薄く、顔全体が艶布巾《つやぶきん》でもかけたように光っている。日本語そのものは流暢《りゆうちよう》であるが、抑揚がまったく違っている。
「どんなに、むすめががんばっても、ひとりでは、だめです。サポートするひとたちによって、かがやくわけですから……」
料理を食べながら、喋《しやべ》りまくっている。なるほど、中国人はこんな風に食べるのかと、辰夫は感心している。これだけ喋れば、消化にも良いはずだ。
典子が遅れるとのことで、三人で食事を始めていた。料理そのものは、蝦《えび》のチリソース煮とか、ありふれたものばかりで、辰夫は失望の体《てい》である。〈中国人の招待で……〉という部分が、少しも生きていない。
「さあ、どんどん、たべて。たべないと、はたらけない。よい|ちえ《ヽヽ》がでない」
急《せ》かされるように言われて、辰夫はうんざりする。この父親は混血児ではなく、中国人そのものではないか、とさえ思った。
次々に出される料理に、すばやく箸《はし》を出すユカを見ていると、異人種の感がこみあげてくる。中国人は、外国語をマスターする才能に恵まれているといわれるが、ユカの英語が|それらしく《ヽヽヽヽヽ》きこえるのは、やはり、血筋であろうか。
「前野さん……」
背後で声がした。ふり向いてみると、鈴鹿兵伍《すずかひようご》が立っていた。
「どうしたの?」
ネクタイにダークスーツという珍しい姿に、辰夫は眼を見張った。
「法事の帰りなんだ。ちょっと、すわってもいい?」
「待ってくれよ」
辰夫は慌《あわ》てて、風間ユカと父親を紹介した。
「ユカなら、よく知ってるよ、ぼくは」
「すずかさん。むすめのために、いい|だいほん《ヽヽヽヽ》をかいてください」
「機会があったらね」
冷ややかに答えた鈴鹿は、典子に予定されている椅子《いす》に腰かけ、ボーイに水割りを注文した。
「良い時にあえた。戸波《となみ》さんが相手じゃ、どうにも気持が燃えてこないんだよ」
鈴鹿は、いきなり、ぶった切るように言った。
「彼はメッセンジャーではあるけれども、プロデューサーじゃないね」
「そう言ってしまったら、おしまいだ」
辰夫は辟易《へきえき》して宥《なだ》めにかかる。
「あたまから毛嫌《けぎら》いしないで、あの男の顔を立てて欲しい。もちろん、ぼくもプロデューサーだから、あなたの創作力を燃えたたせるべく、つとめる」
「ぼくは前野さんとだけ話し合いたいんだ」
鈴鹿は意地になって言い張る。戸波プロデューサーが警戒していた〈癖〉とは、この辺りを指すのか、と辰夫は思った。
「いいですよ、大いにやろう」
「今夜、どう?」
と、鈴鹿はむちゃなことを言う。
「今夜は、ごらんの通り、めしを食ってる」
「何時に終るの?」
鈴鹿は、遠慮せずに、大声できく。
「あと二時間ぐらいは……」
「じゃ、ぼくは待っている」
「おたくの方の食事は?」
「もう終ったんだ。どこかで待ってるよ。どこがいい?」
「表参道のセントラル・アパートの下のハンバーガー屋」
辰夫は自棄《やけ》気味に答える。わがままな子供につき合っているようである。
「わかった。じゃ、二時間半後に会おう」
鈴鹿は立ち上った。去ってゆくのと入れ違いに水割りがきた。
「ぼくが貰う」
辰夫は水割りを手にした。
「嫌いよ、あのひと」
ユカが言った。
「なにかっていうと、時代の先取り、とか言っちゃってさ。時代の先取り、ギャラも先取り、って、蔭《かげ》で言われてるのに」
「みんな、なかよくしなければいけない」
父親が言った。
典子から食事に間に合わないという電話が入るわ、鈴鹿をあやしに行かねばならぬわで、辰夫は散々だった。これを我慢するのも、裏方の役割の一つかと思うと、気が遠くなりそうだ。
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第十四章 花冷え
都内の桜が四分か五分ひらいたころ、寒さが戻《もど》ってきた。
桜の花びらは凍《い》てついたようになり、辰夫《たつお》のいる編集室はガスストーヴを点《つ》けた。セーターを着て丁度よいぐらいで、外出時にはマフラーが必要だった。
「これで、暖かい日がくると、満開になるのだがな」
顔をのぞかせた黒崎《くろさき》は、窓の外を眺《なが》めながら呟《つぶや》いた。
「風流を解するのですね、黒崎さん」
と辰夫が冷やかす。
「わしの歳《とし》にならんとわからぬことだ」
黒崎は、竹宮照子のいれた茶を啜《すす》って、
「寒暖の差が、足の関節に応《こた》える。いやでも、季節の変化に敏感になる」
「ぼく、風邪をひきました」
石黒が言った。
「若いからといって、むちゃをしてはいかんぞ」
苦労が多いせいか、黒崎の揉《も》み上げの辺りに白いものが目立った。
「満開になったらお花見に行きませんか」
と、石黒が提案した。
「千鳥ケ淵《ふち》の水上公園がいいですよ」
竹宮が賛成する。
「二対一じゃ、行かざるを得ないな」
と、辰夫はゆううつそうに答える。
「それは、行くべきだ」
ひとごとなので、黒崎は煽《あお》り立てた。
「前野君も人工的な環境にばかりおってはいかん。だいたい、きみは自然に親しむ気がなさ過ぎる」
「そりゃ、まったく、ないです」と辰夫は開き直る。「生れたとき、もう、道がアスファルトだったのですから。自然なんて、身辺にありませんでした」
「そう言いきってしまっては、身も蓋《ふた》もない。まあ、こっちにすわらんか」
黒崎はソファーを指さした。辰夫はソファーの隅《すみ》にすわる。
「新雑誌の誌名は、あれでよいのか。よければ、予告をし始めるが……」
「いいか、と言われると、困ります。ぼくの責任にされるようで……」
「どうも、固過ぎる気がしてなあ。『祝祭』ってのは、言いにくいし……」
「だから、『ふぉーらむ』という案を出したでしょう」
「『ふぉーらむ』は、城戸《きど》先生が反対しておられる。ひらがな名前は、終戦直後のカストリ雑誌のようだ、と、おっしゃる」
「若い人は、カストリ雑誌なんて、もう、知りませんよ」
「そういうものかな」
「ぼくは、『予感』がいいと思ったのです。三つの中では、これがいちばん好きですね」
「わしも、『予感』のほうがいいと思っとる」
「営業《そちら》の意見もあるでしょうが、『予感』の線で考え直してもらえませんか」
「城戸先生は反対ではないのだ。むしろ、営業《うち》の若い連中が首をかしげている」
「『予感』だと、鋭い感じがあるでしょう。少し鋭いほうが良いと思います。『祝祭』じゃ、抵抗がなくて、ひとの印象に残りません。それこそ、終戦直後の文芸雑誌みたいですよ」
「考えてみよう。なにしろ、社運を賭《か》ける雑誌だからな」
黒崎は、うむ、と唸《うな》った。
そこに、着脹《きぶく》れした川合が飛び込んできた。いつもお世話になりまして、と挨拶《あいさつ》して、黒崎は、慌てて、部屋を出てゆく。
「何者だい?」
ジャンパーを脱ぎながら、川合は怪訝《けげん》そうにたずねる。手編みらしい厚いセーターの下に、タートルネックの薄いセーターが見え、肩の辺りがもこもこしている。
「うちの専務だ」
「急に立ち上ったから、びっくりした」
そう言って、ソファーに腰をおろす。
「たのみたいことがあるんだ」
「なんだい、改まって?」
辰夫は足を組み直した。
「自分の口からは言いにくいけど、おれのファンクラブが発足するんだ」
川合は、瞬《まばた》きをした。恥ずかしさを堪《こら》えて、厚顔ともみえる態度をとる時の癖である。
「じつは、おれがDJをやってる番組で、冗談でそういう呼びかけをしたら、駒《こま》が出ちまったってわけだ。ほかに会場がないので、ビデオホールでやる。それも、あさってだ」
「急な話だな」
「申し込んだ人には、電話で連絡をとっている。なんとか、人は集るだろう。だけど、おれひとりじゃ、心細いし、ひとりで喋り通しても、白けるだけだと思う。おたくが顔を出してくれると大いに助かるんだ」
「夜かい?」
「六時から、となっているけど、じっさいは、七時になるだろうな」
「七時なら、なんとか、間に合うだろう。……よし、ここにいる二人も、連れてゆく」
ビデオホールは暖房が入っていた。
寒さは感じない代りに、少し動きまわると、汗が出る。上着を脱いだり、ネクタイを弛《ゆる》めたりして、調節するしかない。のどが渇くので、飲み物が飛ぶようになくなってゆく。
「ビールとコーラを補給しろよ」
舞台の上の川合は、天然パーマの若いマネージャーに注意した。
「どっと、腹が減った……」
辰夫は椅子の背に凭《もた》れた。舞台にいるのは、川合と辰夫だけで、いましもDJの実演を見せ終ったところである。
「ご苦労様。鮨《すし》でも取らせようか」
川合は気くばりをみせる。
「いや、適当につまんでくる」
辰夫は舞台を降りた。おもむろにサンドイッチとフライドチキンのあるテーブルに近づいてゆく。
「前野さん……」
胸のふくらみが目立つ赤いセーターにジーンズの娘が、彼とフライドチキンの間を遮《さえぎ》った。見覚えがある顔なので、雑誌のファンクラブの一員だろうと思った。
「これ、さしあげます」
赤いリボンのかかった小さな白い箱をくれた。
「なんだろう?」
「ハワイの香水です。男物なんです」
辰夫はありがたく頂戴《ちようだい》した。
冷たくなったフライドチキンは、ぞっとしない。彼はサンドイッチをつまみ、ビールを少し飲んだ。
川合|寅彦《とらひこ》のファンクラブと辰夫の雑誌のファンは重なっているらしく、彼はさらに、スコッチの小瓶《こびん》やイタリア製のカフスボタンを貰《もら》った。ファンクラブの若い人の顔を覚えきれない彼は、こういう時、困るのである。
やがて、場内が暗くなる。舞台にはアマチュアバンドがならび、チャビー・チェッカーの「ペパーミント・ツイスト」を演奏し始めた。観客の中の乗り易《やす》い者は、たちまち、ツイストを踊り出し、ショウタイムらしい雰囲気《ふんいき》が醸《かも》し出された。
サーヴィス精神|旺盛《おうせい》な川合は、派手なステージ衣裳《いしよう》を着ていた。素人《しろうと》らしい、無理のない歌い方で、コニー・フランシスが日本語でうたった「夢のデイト」、ニール・セダカの「恋の一番列車」、ヘレン・シャピロの「悲しき片想《かたおも》い」をうたった。熱心なアンコールに応えて、ポール・アンカの「電話でキッス」をうたったが、歌詞をまちがえ、それでも平然と誤魔化してしまうところに、もはや、セミプロと化した川合の面目が見られた。
「ちょっと……よろしいですか」
まえに顔を合せた記憶がある週刊誌の記者が慌《あわ》ただしく声をかけてきた。近年、伸びてきた出版社系の週刊誌だったはずだ。
「ご相談したいことがあるのです」
「出ましょうか」
辰夫は先に立って、ホールのロビーに出た。模造皮革の赤いソファーにならんで腰をおろす。
「さあ、どうぞ」
「|うち《ヽヽ》で、前野さんの特集をやる企画がありまして、会議も通っているのです」
と、記者は言った。
「ぼくの?……」
裏方に徹しようと考えたあとで、こうした企画が持ち込まれるのは皮肉だった。
「そうです。あなた個人の特集です」
当時、大きな週刊誌が一人の青年を特集するのは、それじたい、社会的事件であった。〈時の人〉扱いだけではなく、その人物がなぜクロースアップされねばならないかが記事の中で真面目《まじめ》に考察されるからである。
「どうかな、それは……。〈遊びの会〉の特集だと嬉《うれ》しいのですが」
「〈遊びの会〉の記事は、ずいぶん出ましたよ。私の考えでは、トップ記事は、ヒューマン・インタレストであるべきなのです。こういう面白《おもしろ》い人がいる、と報告して……」
「ぼく、面白い人じゃありませんよ」
「あなたが、そう思っているだけで……世間一般から見れば、変った、面白い人ですよ」
「そうでしょうか」
〈変った人〉とは心外であり、楽しくなかった。
「ジャーナリスティックな感覚がとび抜けているし、赤星プロには刃向うし……」
政治の季節が終り、社会が相対的安定期に入りつつあって、余暇が問題になっているときに、〈遊びの会〉というストレートな名称を押し出してくるのが凄《すご》い、と記者は熱っぽく言った。
「ぼくは経済成長率なんて興味ないですよ」
辰夫は憮然《ぶぜん》とする。
「だから、凄いと言っているのです。感覚だけで時代の動向を捉《とら》えている」
からかわれているような気がした。
「褒《ほ》めていただくのはありがたいのですが、日本文化の中での〈遊び〉の必要性というのは、ずっとむかし、高校時代からのぼくのテーマなのです」
「おっしゃる通りだと思います。流行を先取りしたとは思っておりません。だからこそ、あなたを大きく扱いたいと思ったのです」
記者は生真面目に応じた。
「光栄です。ただ、ぼくだけというのは……。鈴鹿兵伍《すずかひようご》を入れて貰えませんか」
「ミュージカルの人ですね」
気乗りのしない返事だった。
辰夫は京都でのミュージカル公演を盛り上げたかった。失敗に終ると、周囲の熱気が冷めるのが眼《め》に見えている。是が非でも成功させなければならなかった。
「つまり、ご自分よりも、会の方を中心に考えているのですね」
「いつも、そうではないのですが……」
じれってえなあ、という川合の声が、彼の耳朶《じだ》を震わせる。
会場に戻った辰夫は、高校生に求められてTシャツにサインをした。次に、雑誌にサインをさせられた。
「大変ですね、今日は」
声をかけられて、顔をあげると典子《のりこ》がいた。焦茶《こげちや》の地味なカーディガンを着て、化粧をしていない。
「どういう風の吹きまわしですか」
辰夫は動揺した。舞台の上で莫迦《ばか》なことを口走ったのを見られたのかと思い、ゆううつになった。
「ホールの事務所にお友達がいて、勧められたのです。きっと面白いからって」
典子は無邪気そうに言った。
「川合さんて、ほんとに達者ですねえ」
「一種の天才でしょう」
辰夫はなんとなく面白くなかった。
「初めからいたのですか」
「前野さんとの掛け合いのDJが終ったところでした」
「みっともないところを見られずにすんだか」
辰夫はグラスにビールを注《つ》いで、典子に渡した。
「あら、見たかったのに……。これから、なにが始まるんですか」
「川合を中心にしたファンの質疑応答のようです」
「もう、芸はなさらないのかしら」
「川合、ですか?」
「前野さんよ」
「ぼくはしません」
「つまらないわ」
典子は笑った。笑うと、歯茎が少し見えた。
舞台を降りた川合が水割りを片手に近づいてきた。
「サンドイッチとか、こんなものじゃ、物足りねえだろう」
「天才がきた」と言って、辰夫は典子を紹介した。
「ユカの訳詞をやっているひとだ」
「訳詞はやめました」と、典子は口早に言った。「レコード会社の方針が私じゃ駄目《だめ》みたいで」
「レコード会社なんて、ろくなもんじゃないですよ」
川合は冷笑するように応じた。
「ご盛会で、なによりですわ」
「綺麗《きれい》なひとにそんなこと言われると、嬉しくなっちゃうな」
浮かれた川合は、急に、手近な椅子《いす》を蹴飛《けと》ばした。
「ゆうべは悩んだ。もし誰《だれ》もこなかったら、どうしようかと思って……」
「おかしな男だな」
「取り越し苦労ってやつかね。おれ、本当に悩むんだ」
「いいところがある。満員札止めで、よかったな」
「嬉しいね。なんか、新興宗教の教祖になった気分だ。――こうなったら、お札《ふだ》を配りたいね。もっともらしく、おれの家の紋所が印刷してあって、一家に幸せと繁栄がもたらされるってやつ。聖水代りにジャック・ダニエルを撒《ま》いてやると、信者、狂喜よ。お札は聴取者にも配りたいなあ」
躁《そう》状態で妄想《もうそう》がとどまるところを知らぬようである。
熱狂的な少女ファンに手をひっぱられた川合は、肘《ひじ》で辰夫《たつお》を小突いて、「いい女だ。うまくやれよ……」と囁《ささや》いた。
「なんだか凄いですねえ」
典子は呆然《ぼうぜん》としている。
「ほっとして、酔いが出たのでしょう。さっきまでは、あんなじゃなかった」
川合をとり巻く集団の熱気から離れた位置に辰夫は身を退《ひ》いた。ついていけない雰囲気であった。
「訳詞は、もう、やらないのですか」
「ええ」
「すると、作詞家になるのかな」
「どうでしょうか……」
あいまいな笑みを浮べた。
「あの道も、大変なんだろうな」
「作詞家になるよりも、アメリカのポップスが、どんな風に生み出されて、どう広まってゆくのか、その現場を見たいのです」
「それは――アメリカへ渡って、見るのですか」
「ええ」
こともなげに答えられて、辰夫はびっくりした。
若者が渡米できるとしたら、なんとか財団の奨学資金による貧しい留学生か、非常に特殊な社用か、ほぼ、この二つに限られていた。辰夫自身は、渡米の機会は終生ないだろうと諦《あきら》めている。
「それを見て、どうするのです?」
「ポップスの評論をやれたら、と思っているんです」
恥ずかしそうに笑う。辰夫はまた、びっくりした。
高校、大学と、アメリカン・ポップスの愛好家だった彼は、ポップスは、ジャズに比して、はるかに低いものだという日本での通念を受け入れていた。数年まえからのモダンジャズ・ブームによってジャズは文化人のステータス・シンボルとなり、おかげで、辰夫は〈高級な〉ジャズを好むふりをして、ひそかにFENのポップスをきくという、いわば、〈隠れポップス・ファン〉の立場にあった。
そんなときに、ポップス評論をやりたい、と、大学出の女性が公言するのは、辰夫の理解を絶していた。
「あなたは働かなくてもすむ人らしいですね」
辰夫は真顔で言った。
「そうでもないのですけど……」
典子の答えは歯切れが悪い。
「ゆっくり、ポップスの話をしたいなあ」
「お好きなのですか」
「マニアでした、かつては」
「でも、週刊誌に〈ジャズ通〉って書いてありましたよ」
「あんなのは、出鱈目《でたらめ》です」
典子と横浜へ遊びに行く約束をしたあとで、辰夫はふと不安を覚えた。
ものごとが順調に運ぶと、かえって不安になる。こんなに順調にゆくはずはない、必ず陥穽《かんせい》がある、と心のどこかで信じている。十代の終りから一昨年まで、あまりにも順調でなさ過ぎたために、心にしみついてしまったのだろう。
翌日、黒崎《くろさき》の部屋に呼ばれて、三月末に発売された「パズラー」の出足が鈍いようだ、ときかされた時には、きたぞ、と思った。良いことはそうつづかないものだ。
「一週間目の成績だから、あまり深く考えんでくれ」
と黒崎は言いそえたが、そうはいかない。月刊誌の売れ行きが一週目のデータで判断できるのは常識である。
さして感じない風《ふう》を装ってはいたが、足元の床が崩れてゆくようであった。椅子に深く腰かけたまま、彼は黙っていた。
「深刻に考えないでくださいよ」
同席した西は、眉間《みけん》に深い縦皺《たてじわ》を寄せて、「『黒猫《くろねこ》』にくらべたら、ずっと成績が良いのですから」と、奇妙な慰め方をする。
「前号にくらべて、内容が劣るとは思えないがなあ……」
黒崎も、微妙な言いまわしをする。
「どういうことでしょうか」
こみ上げてくる不安を抑制しながら辰夫はたずねた。
「若い連中とも話し合ったのだが、これといった意見はないのだ。本当にそうなのだ」
と、黒崎は辰夫の自尊心を刺戟《しげき》しないように答える。
「私も、これといった意見はないのです」
西が乗り出した。
「むしろ、前野さんが、がっくりしてしまうのを恐れているのです。例月にくらべて、ひどく悪い、というほどでもないですからね」
だが、辰夫にしてみれば、〈ひどく悪い〉と言われたのと同じだった。
「わしの感覚で云々《うんぬん》できる雑誌ではないのでなあ。強《し》いていえば、表紙が暗い気がする。もっと明るい方がいいように思うが……」
黒崎は大きく吐息して、身体《からだ》を揺さぶり、
「編集部内で話し合ってみてくれんか」
「わかりました」
辰夫は言った。
「どうですか」
西がたずねた。
「石黒君は役に立ってますか?」
「いいですよ、彼は……」
辰夫は、より若い石黒の意見をとり入れているつもりだった。石黒は温和な常識人であるが、だからこそ頼りになる面が大きかった。
「すべてに熱心ですからね。非常に良いアシスタントです」
「そう言ってもらえると、わしも鼻が高い」と、黒崎の眼がかすかに笑う。「わしが強引に押しつけた形だったからな」
「結果として良かったです。妙に小賢《こざか》しい男では、うまくいかないでしょう」
「安心したよ」
「万が一、ぼくが倒れるようなことがあっても、留守をつとめられます」
辰夫は言いきった。彼は他人に対して寛容な男ではなかったが、部下に対しては点を甘くする傾向があった。
向いのビルにある編集室に戻《もど》ると、校正係りが、前野さん、と大声を出した。
「広辞苑《こうじえん》によりますと……」
「ちょっと待ってくれないか」
辰夫は石黒をソファーに呼んだ。そして、黒崎の言葉をそのまま伝えた。
「内容的に、どうこう言われる筋合いはありませんよ」
石黒は不愉快そうに顔を赤くした。
「内容を云々するのなら、営業部としての意見をまとめてくれなきゃ」
「意見なんてないのさ」
辰夫は低い声で言う。竹宮と広辞苑にはきかせたくなかった。
「だから、表紙がどうのとか、ぼくらにしてみれば、わかりきったことを言うのだ」
「ちきしょう、口惜《くや》しいなあ!」
石黒は五月号をぱらぱらめくって、
「内容は自信があるのですがねえ」
「内容の良し悪《あ》しと売れ行きが比例するかどうかは、わからない。手抜きとはいわないが、失敗したと思った号が売れているからね」
「比例しないのじゃないですか」
「おれの感覚が、ズレたかな」
「そんなことはありません。冗談をいえば、少しズレた方がいいと思うくらいです」
「どうして?」
「あまり鋭過ぎると、読者がついて行けないのじゃないですか。大部数を売っている雑誌って、どたーっと、鈍いでしょう」
「ああいう雑誌はあれでいいのだ。しかし、ぼくらは変則的なゲリラ戦をやっているんだぜ」
「表紙が暗くなったのは、ぼくと画家の打ち合せが食い違ったからです。今度は、白っぽくて、初夏向きになります」
「表紙のせいかどうかわかるものか。……ちょっとしたムードだよ、たぶん」
「ムードですか」
石黒は苦笑を浮べた。
「いいかげんなものですねえ」
辰夫は腰から下が冷えてくるようだった。わずかではあるが、彼の計画を阻止するものが足元に生じたのだ。今のところ、ごく小さな穴だが、拡大したら、すべての予定が崩れてしまう。
広辞苑が立ち上って葉巻を吸っているのが眼についた。葉巻を吸ってはいけないという規則はないのだが、辰夫は妙に腹が立った。
横浜市中区|本牧《ほんもく》の、東京湾を望む地にある巨大な庭園が、三渓園《さんけいえん》である。
生糸《きいと》貿易で財をなした原富太郎(雅号・三渓)が全国から集めた古建築を庭園のあちこちに配したもので、とくに内苑《ないえん》の中央にある臨春閣《りんしゆんかく》は、紀州徳川家が慶安二年に紀ノ川沿いに建てた書院を移築させたことで知られる。
毎年、桜の時季になると、横浜市民がつめかけるときかされていたが、日曜日であるにもかかわらず、人出がすくなかった。寒《かん》の戻りとまでいわれる寒さのせいだろう。
辰夫は思わず、ダスターコートの襟《えり》を立てた。
「きれいでしょう」
典子《のりこ》は自慢するように振り向いた。
「野毛山《のげやま》公園の桜は、こんなに色が鮮かじゃないわ」
そう言って、散ってくる花びらを掌《てのひら》に受けた。
「きれいだけど、寒い……」
と、辰夫は言った。
「甘酒でも飲みますか」
「元町まで戻ろう」
辰夫は寒くてたまらない。風邪をひいたのかも知れない。
「元町に戻って、どうします?」
「熱いスープでも飲みたい」
色気のない返事をする。
横浜を案内すると言い出したのは典子である。
典子がどこに住んでおり、どういう家庭の娘なのか、辰夫は知らない。何も知らぬまま、渋谷《しぶや》駅前の喫茶店で落ち合い、東横線に乗った。電車には時季外れの暖房が入っていた。
そして、いきなり、三渓園の桜見物である。この娘は寒さを感じないのだろうか、とも思った。
外人墓地を下《くだ》ったところにある元町商店街は、明治の初めから居留外人相手の商店が点在していたという。ワイシャツの仕立て屋やパン屋、洋家具屋からこの町が始まったのは当然であろう。
第二次大戦まえ、海外のファッションがもっとも早く伝わったのは元町だったそうだ。客の六、七割が外人で、残りは東京からくるお洒落《しやれ》好きな人たちだったといわれる時代を、辰夫は知る由《よし》もない。
ケーキ屋と洋品屋数軒を除いて、これといった特色のない、寂《さび》れたこの町を、辰夫は好んでいた。何カ月かに一度、近くの古洋書屋までくる彼は、麦田《むぎた》のトンネルを抜けて元町に出、「ジャーマン・ベーカリー」で、求めた雑誌類を眺《なが》める習慣があった。それらの雑誌は、駐留軍兵士が読みすてていったものである。
戦後の横浜は、居留外人の、というよりも、進駐軍、のちの駐留軍の町であり、ショッピングの中心は、本牧のPXだった。アメリカの巨大なスーパーマーケットと映画館を隣接させたそれが、外人たちの生活の中心になっていた。広々とした駐車場があり、アメリカ兵とその家族は、一週間ぶんの食料を車に積み込むのだった。
居留外人たちは、横流しされたPX物資を購入できた。すべての品物が安価であり、元町まで出かける必要はなかった。
輸入洋品や小物が東京のデパートで入手できるようになったいま、元町はいよいよ時代にとり残されていた。洋家具屋までが侘《わ》びしげだった。スチルと模造皮革による機能的な家具が流行しているからだ。骨董品《こつとうひん》じみた家具を求めるのは特殊な趣味人に限られていた。
「ご案内するまでもなかったみたい」
元町のアーケードをくぐったとき、典子が言った。
「よく、ご存じなのに……」
「表面だけです、知っているのは」
辰夫《たつお》は適当な店を探しながら答える。
「穴場は知りません」
「スープ、飲みたいのでしょう」
「コーヒーでいいです。どこか、落ちつける店を知りませんか」
「さあ……」
典子は途方に暮れたようで、
「いつもは、どの辺りに入っていらっしゃるのですか」
「『ジャーマン・ベーカリー』だけど」
「じゃ、そうしましょうよ」
「すこし、気分を変えたい。あそこは、どうかな。この先の右側の……」
彼は大きなケーキ屋を指さした。
「あそこは……」
典子はためらった。
「なにか、まずいことでもあるのですか」
「姉の嫁《とつ》いだ先なので……」
「へえ」
辰夫は驚いた。元町でも有名な老舗《しにせ》なのである。
「道理で、横浜に詳しいはずだ」
「駄目《だめ》なんです、それが」
「あれは名店でしょう。ぼくも、何度か、チーズケーキを買ったことがある」
呟《つぶや》くように言ってから、はっと気づいた。
「藤井《ふじい》さん、横浜の人だな」
典子の悪戯《いたずら》っぽい眼《め》が彼を見返した。
「そうでしょ?」
と、彼は念を押した。
「探偵《たんてい》ね、まるで」
典子は微笑《ほほえ》んだ。
「あたり。すごい勘だわ」
「山勘ですよ」
「どうしてわかったのかしら」
「なんとなく。そんな匂《にお》いがしただけです」
手近な「ジャーマン・ベーカリー」へと足を向けかけた彼は、立ち止った。
元町でも特に有名な紳士用品の店のウインドウに惹《ひ》きつけられたのだ。暗い、重苦しい雰囲気《ふんいき》の店にふさわしい、渋い造りのウインドウには、ネクタイ、アスコットタイ、この店特製のワイシャツ、初夏向きのセーター、イタリア製の靴《くつ》などが置かれている。一点しか輸入しない代りに、値段の方も格別に高いというわけだ。
正札は、概して見えないようになっているが、ネクタイのは数字が読める。いちばん安いにちがいないそれでも、辰夫が買うとすれば、眼をつむって清水《きよみず》の舞台から飛びおりる覚悟をしなければなるまい。
「入ってごらんになれば……」
典子が勧めた。
「いや、とても」
辰夫は怖《お》じ気《け》づいている。
「あなたは、入ったことがある?」
「ありますわ」
「だれかにプレゼントを買うためかな」
辰夫の質問に、典子は含みのある笑いをみせた。
「いえ」
「じゃ、どうして?」
「私の家ですの、ここ」
港を見おろすホテル・ニューグランドのグリルは、活気を帯びていた。花見にくり出した客が、外の寒気に追われて吹き溜《だま》ってしまったとも考えられる。
「緑がきれいな季節なのに……」
白ワインを飲みながら典子が呟いた。
海岸通り沿いの公孫樹《いちよう》並木が芽を吹いているために、山下公園の中がよく見えなかった。それでも、日が暮れかかっているわりには人出が多いのが感じられた。
公園前に繋留《けいりゆう》されている氷川丸《ひかわまる》のメインマストの電飾に灯《ひ》が点《とも》った。このまえ、黒崎に連れてこられた時には、窓外に眼を向ける余裕もなかったのを彼は想《おも》い出す。
「ほんとうは、横浜を歩くのに、いちばん、良いときなんです。これから、五月のみなと祭りまでが……」
「仕方がないですよ」
外科の小道具のようなもので、辰夫はエスカルゴの殻《から》を挟《はさ》もうとするが、うまくいかない。殻は、ガーリックの青汁《あおじる》をまき散らしながら、皿《さら》の外に転がり出る。
「こんなに陽気が不安定じゃ、みんな、風邪をひいてしまう」
典子は小さなフォークで、エスカルゴを口に運んでいる。
辰夫は、やっと殻を挟むのには成功したものの、フォークを入れにくい向きになっている。これでは駄目だ、と辰夫は、殻をもう一度、皿に落として、改めて、挟みにかかった。殻は、あくまでも、逃げようとする。
「氷川丸は、いつから、あそこに在るのですか」
焦《あせ》る辰夫は、それでも、あくまで、会話らしい会話をつづけようとする。
「去年の、たしか、六月からだったと思います。それまでは、太平洋航路の定期船で、戦前はチャップリンなんかを乗せて……」
典子は控え目にしか話さなかったが、藤井家は、どうやら、横浜山手の名門らしかった。
横浜におけるあらゆる出世物語の例にもれず、先祖は生糸貿易商であり、彼女の父親のきょうだいたちは敗戦にもめげず、進駐してきた米軍と、うまく折り合いをつけたという。こまかい説明をきくのはためらわれたが、フェリス女学院から東京の女子大に進んだ典子に生活の心配があるとは思えなかった。
突然、バンド演奏が始まった。どういう編成なのか、辰夫のいる窓ぎわの席からは見えないのだが、曲は「エープリル・ラヴ」である。
ほんらいなら、ここは、うまい食事と〈洗練された会話〉に終始するはずであった。いけないのは殻に入ったエスカルゴであり、辰夫ではない。もともと、彼は、栄螺《さざえ》のようなものを食べるのが苦手だった。中身を引っぱり出すのが、下手なのである。栄螺だけではない。カニやエビのたぐいも、決して嫌《きら》いではないのだが、甲羅《こうら》を割ったり、殻をむいたりする手間を思っただけで、面倒くさくなり、敬遠してしまう。典子がエスカルゴを注文したので、追随したのが、間違いのもとであった。
ようやく、最後のエスカルゴを退治した辰夫は、白ワインで喉《のど》を潤《うるお》した。バンド演奏は「ハーバー・ライト」に変っている。
暎子《えいこ》といっしょにいる時には、こうした安らぎを感じたことがなかった。面白《おもしろ》い性格ではあるが、優越感と劣等感がせめぎ合う暎子の感受性はハリネズミの針に似て、男を傷つけ、疲れさせてしまう。はっきりいえば、気分屋である。辰夫自身、気分屋であるから、手にとるようにわかる。
典子は正反対である。いっしょにいるだけで、辰夫は不思議な安堵感《あんどかん》を覚えるのだ。彼のなかにあるのは安堵感だけではないのだが、とりあえずは、ほっとする。のべつ、神経をぴりぴりさせている辰夫にとって、貴重な時であった。
アスパラガスのスープがきた。
スプーンを手にしながら、この娘には恋人がいるだろうか、と考えた。
いると考えるのが常識であろう。東京でアパート暮し――おそらくは高級なアパートだろう――をしていると、さっき、口走ったから、なにをしているか分ったものじゃない。清純そうな顔をしているが、どんなものだろうか、恋人とはどの程度まで深くなっているか、などと、辰夫の妄想《もうそう》はとめどなく拡《ひろ》がってゆく。
辰夫が払うというのを押しとどめて、典子は勘定書《チエツク》にサインをした。マネージャーが叩頭《こうとう》しているのを見れば、典子が顧客であるのが分るのである。
「私がご招待したんだもの」
典子は平然としているが、辰夫にしてみれば、女性に払って貰《もら》ったのは初めてだった。彼女が遥《はる》かに高く、遠い存在に思えた。
彼女が地味な服装を好むのも、よく考えてみれば、日常生活で、さほど自己主張をする必要がないからではないだろうか。
「働かなくてすむに越したことはないのですが、退屈しませんか」
一階でエレベーターを降りてから、彼は煙草《たばこ》に火をつけた。
「働いているんですよ、私」
心外そうに言って、典子は石油会社のPR誌の名をあげた。
「非常勤ですけれども」
「何をしているんです」
「原稿集め、翻訳、割り付け――なんでもです。だから、もっと面白い世界を覗《のぞ》いてみたくなるんです」
「でも、生活のための労働じゃない。気分的には優雅でしょうが」
「そんなことはありません。どの道、家には帰れないんだし」
「どうしてです?」
「兄が、去年、結婚しましたから。私が家に戻《もど》ったら、邪魔になるわ」
「あなたも結婚するんですな」
と、彼はさりげなく言った。
ふたりは、道を横ぎって、山下公園に入った。
中央噴水池には、瓶《かめ》をかつぐようにした女の像が立っていて、池の底からの光に照し出される。光は、赤、黄、緑と、何色かに切りかわる仕掛けになっている。
「ドイツの百姓女みたいですね、これは」
「水の女神だそうです。姉妹都市のサンディエゴから贈られたの」
「横浜とサンディエゴは姉妹都市なんですか」
「そうなんですって」
こうしているうちにも、辰夫の立場を脅かす、かすかな地崩れは続いているのだろう。砂時計の上部から落ちる、見えるか見えないかぐらいの砂でも、ふと気がついてみると、ある量になるのだから、地崩れをとめるには、よほどの手立てが必要だ。
こんなことをしている時だろうか、と彼は思った。
辰夫は熱病に罹《かか》ったようだった。
横浜から帰った夜も、翌朝も、典子《のりこ》の面影《おもかげ》が脳裡《のうり》を離れない。会社に出ても、状態は同じだった。
スタンダールは、自身の体験的覚え書ともいうべき「恋愛論」の中に、次のように記している。
[#1字下げ]〈恋が生れるには、ほんの少しの希望さえあればよい。〉
そして、さらに、次のようにつけ加えている。
[#1字下げ]〈果断で、向う見ずで、激しい性格と、人生の不幸に遇《あ》って発達した想像力があれば、希望はさらに少なくてもよい。〉
この分析は、不幸にも、辰夫の性格にそっくり当てはまるのである。
また、スタンダールは、恋愛を四種類に分けて、情熱恋愛、趣味恋愛、肉体的恋愛、虚栄恋愛としているが、「恋愛論」の中で執拗《しつよう》に語っているのは、もっぱら情熱恋愛についてである。
現代において、〈情熱恋愛〉はアナクロニズムであるばかりか、自他を不幸にする、危険きわまりないものである。われわれは、犯罪事件の中心人物の内部に、しばしば凄《すさ》まじい情熱恋愛を発見するが、狂気に近いそれは、大衆によって疫病《えきびよう》のように遠ざけられている。大衆社会に存在するのは、スタンダールのいう〈趣味恋愛〉を水で薄めたものばかりだ。
一九六〇年代初頭も、事情は同じである。十七年つづいた平和の中で、〈向う見ずで、激しい性格〉の人物は生きづらくなっていた。
会議のあとで、金井が声をかけてきた。
「お茶をつき合ってくれませんか」
編集部が別棟《べつむね》になったために、二人の会話の機会が少くなっている。
彼らは新橋駅前の小ぎれいな珈琲店《コーヒーてん》に入った。ハンバーガーやスパゲティも出せるが、あくまで〈珈琲店〉であることに固執している古風な店である。
「愚痴をきいて欲しいんです」
いきなり、金井は言った。
編集部内のトラブルか、と辰夫は思った。どうしても、年長者との摩擦が避けられないようである。金井の立ち居振る舞いが軽々しいので、苛々《いらいら》する者もいる、ときいている。
「……ラジオ番組の下請け会社を作ったことは話しましたね」
「きいた」
「まだ、二カ月にならないのに、金を持ち逃げされたのです」
あまり深刻でもない口調で言い、苦笑を浮べる。
「持ち逃げ?」
「ええ」
「いくらぐらい?」
「三十万です」
「失礼だけど、きみの会社にとっては大金だろ」
「大金ですよ」
金井は自嘲《じちよう》的に言った。
「いままでの赤字が、だいたい六十万。半分を、マネージャーに持ち逃げされたわけです」
「警察に行ったのかい」
「ええ。行方不明です。つかまえたところで、金は使い果したというだけでしょう」
「つまり、プロだな?」
「札つきだったのです。まったく、知らなかったもので……」
「会社、つづけるつもりなの?」
「友達と始めたので、すぐには手を引けないのです。あと、三月《みつき》で、黒字になる予定ですから、そうなったら……」
「きみは好きなんだな、会社経営が……」
「でもないのですが、仕方ないですよ。前野さんみたいに、あちこちからお呼びがあれば、会社なんかやりゃしません」
「そういうものかねえ」
辰夫《たつお》はぼんやりと言った。頭の中には典子のことしかなかった。
編集部に戻ると、典子から電話があったという。
嬉《うれ》しさと不安を抑えながら、辰夫はデスクに向った。翻訳の原稿を読まなければならないのだが、気が散って、いっこうに捗《はかど》らない。
一時間ほどして、典子から電話が入った。
――ゆうべはお疲れになったでしょう。
と彼女は言った。
――いま、どこにいるのですか。
彼はたずねた。
――うちです。
――こちらから、かけ直します。電話番号を教えてください。
わざと事務的な口調で言い、鉛筆を手にした。そして、言われた番号を書きとった。
やがて、エレベーターで地下の喫茶店に降りた彼は、そこの赤電話のダイアルをまわした。
電話に出た典子は、さして気にしていない様子で、
――案内のお役に立てなくて……。
と笑った。
――とんでもない。楽しかったです。
辰夫は答える。
――ただ、アメリカン・ポップスの話ができませんでしたね。あれは、寒かったからです。
――今日も寒いでしょう。私はストーヴをつけてるわ。
――ええ、寒いです。
なんと莫迦《ばか》げた会話をしていることか。
――また、お眼《め》にかかりたいですね。外出の予定がありますか。
――今週は珍しく忙しいの。法事があって、親戚《しんせき》が三日も逗子《ずし》に集るのよ。
――逗子は、べつに遠くはないです。新橋から一時間ですから。
――東京からじゃ、大変よ。
――逗子で、空いてる時間、ないですか。
――夜は空いてるけど……。
――夜なら、ぼくも、なんとかなります。……逗子で食事というと、なぎさホテルのグリルしかないな。
――でも、大変でしょう?
――なんでもないです。いつがいいですか。
――……明日なら、私……。
――じゃ、なぎさホテルに予約の電話を入れます。
辰夫は必死だった。ウェルテル型ドンファンであるスタンダールが見たら、ドンファン的要素が欠けているのを嘲笑したにちがいない。
電話番号から察するところ、典子のアパートは港区にあった。住所を調べるのは可能だが、そうなると、アパートを自分の眼で確認したくなる。だが、彼女のアパートの周囲をうろつく、といった、高校生じみた真似《まね》はしたくなかった。
どうして、こんなことになったのだろう、と反省する暇《いとま》さえなかった。もう少し余裕があれば、彼なりに、誘惑の方法をあれこれ考えられたであろう。女性についてまったく無知ともいえない彼が、妙に焦ってしまったのは、ブルジョアの娘と初めて知りあったせいかも知れない。しかも、その娘が美しく、優しく、聡明《そうめい》だと彼は信じ込んでいるのだから、これはもう、手負いの猪《いのしし》みたいなものである。
こうした精神状態に対するショック療法を、スタンダールは、さりげなく記している。
[#1字下げ]〈彼にとって、この時期に(後ではおそい、要注意)恋する女がひどい仕打で希望にとどめを刺してくれることが必要かも知れない。今後、人に顔向けができないような侮辱を人前で浴びせたりして。〉
翌日の夕方、新橋駅に出た彼は、横須賀線《よこすかせん》の時刻表を見上げて、少し早いな、と呟《つぶや》いた。
二十分ほど、時間をつぶす必要があった。気が短いので、プラットホームでぼんやりしていられないのだ。
駅の前のビルに、新しいバーができたのを思い出した。大人をくつろがせた古いバーを取り壊し、若い男女のデートの場として、その名も〈カクテル・ラウンジ〉というのができたのだ。
〈カクテル・ラウンジ〉は混《こ》み合っていた。とりあえず、ここで落ち合って、劇場街に足を向ける男女が多いのである。
カウンターはU字形になっており、二人のバーテンが多くの客をさばいている。ようやく、空いたスツールを見つけた辰夫は、すばやく腰をおろして、ドライシェリーを注文した。
向い側のカウンターを眺《なが》めながら、この種の店も大衆化してきた、と感慨に耽《ふけ》った。つい、このあいだまで、バーといえば、高級なものとトリス・バーの二種類しかなかった。大衆が気軽に入れるのは、トリス・バーだけだったのだ。――しかし、いまや、その中間ぐらいのクラスの、二十代のサラリーマンが出入りできる店が増えつつある。そうした店は、カラフルで、華やかで、小型のシャンデリアが客たちを照しているのだった。
斜め向いのカウンターに、岩崎暎子《いわさきえいこ》が三十過ぎの男といるのに彼は気づいた。暎子は先に気づいたらしく、こちらに眼を向けない。男の言葉に笑うポーズをとっても、眼は笑っていなかった。
辰夫は平静ではいられなくなった。シェリーをいっきに飲み干《ほ》し、もう一杯、と言った。向う側の二人は、明らかに、ただの友人ではなかった。
なぎさホテルのグリルに入った辰夫は、まだ平静さをとり戻していなかった。横須賀線の中で、寝室での暎子の姿態を想《おも》い出し、息苦しくなっていたのだ。
「これといって名物はないの」
海に面したテーブルでメニューを見ながら典子が言った。
「強《し》いていえば、鮑《あわび》のお料理かしら。三浦半島で採れるものだから」
蝶《ちよう》ネクタイをした男がきて、ワインは何にいたしましょう、とたずねた。
「ロゼか白ね」
典子は答え、蝶ネクタイが、|なんとかかんとか《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》がございますが、と言うと、
「どうかしら?」
と辰夫にきいた。
「なんでもいいです」
彼は殺風景な返事をする。ワインの種類など分らないし、だいたい、同じような味だろうと思っている。心配なのは値段だけだった。今夜は、自分が払わなければならない。
「あなたのアパートは港区ですか」
唐突にたずねた。
「麻布竜土町《あざぶりゆうどちよう》です」
「六本木から、ちょっと入った辺りかな」
「近いですよ」
「そうだ、川合|寅彦《とらひこ》があそこに住んでいる!」
「すぐそば――私のアパートの斜め前ですもの」
「一度、送って行ったことがあった」
「車で出かけるところを、よく、見かけます。ご家族は、よく、デリカテッセンにいらっしゃる」
「優雅な生活だな」
彼は呟いた。
会ってしまえば、安心して、アメリカン・ポップスなど、どうでもよくなるのだった。
暗い海に眼を向ける。沖の方で光るものがある。船の灯《ひ》なのか、漁師の信号なのか、わからない。
自分は相手を退屈させているのではないか、と不安になる。たとえば、暎子が相手だったら、彼は喋《しやべ》って喋って喋りまくって、絶対に相手を退屈させない自信があった。……しかし、彼を正面から見つめているこの娘のまえでは、萎《な》えてしまうのだ。
「元気がないみたいですね」
典子がそう言ったとき、オードブルが運ばれてきた。
「前野さんらしくないわ」
「どういう意味ですか、それは」
「いつも元気っていうイメージがあるでしょう」
「ぼくが、ですか」
「ええ」
「良いことなのか、悪いことなのか」
彼は考え込んだ。
ワインを飲んだせいか、辰夫は少し陽気になった。
典子はハイヤーを呼んで、森戸海岸のほうへ行ってくださいと言った。鄙《ひな》びた海岸に面した小さなナイトクラブがあるのだが、営業しているかどうか、わからない、というのだった。たしか、営業してますよ、と運転手は答えた。
松林のあいだに一九五〇年代の名残りの緑色のネオンが見えた。アルファベットの一つが消えているのは、わざとそうしたわけでもなさそうだ。
かつては米兵たちが出入りしたであろうその店には、彼らのほかに客が一組しかいなかった。
典子は青い色のカクテルを飲み、辰夫はウイスキー・コークを貰《もら》った。キャンドルの灯だけの落ちついた雰囲気《ふんいき》の中で、辰夫は、自分の〈ポップス体験〉を話し始め、それが初めて自分にとって忘れがたいものとなったのは、一九四九年の "A Little Bird Told Me" だ、と語った。典子はその曲を知らなかった。
「ヒット・パレードの一位になったのに、だれも覚えていない」
と彼はぼやいた。
「そんな歌は、本当はなかったのじゃないか、と思えてくるんだな」
「私は『ロック・アラウンド・ザ・クロック』以後です。それ以前も、きいていたのだけど、あの印象が強烈過ぎて……」
アメリカン・ポップス信仰告白の濃密な時の中に、ふたりは閉じこもった。
気がつくと、一時間半|経《た》っていた。典子《のりこ》は店のマネージャーらしい男に、ハイヤーを呼んで、と命じた。マネージャーはすぐに電話をかけ、三十分程かかるそうです、と答えた。
ふたりは海につづく庭に出た。珍しく、冷えが感じられる夜で、岩にはりついた海苔《のり》の匂《にお》いがした。
庭の外《はず》れは岩場だった。典子のハイヒールが滑り易《やす》いので、辰夫は手を握った。彼女の手の感触は、柔らかく、冷たかった。
「こわいわ」
と言ったとたんに、ハイヒールが滑り、彼は彼女の躯《からだ》を抱く形になった。|ハリウッド映画の定石通りだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、と彼は思った。
その発想の延長線上で、強引に唇《くちびる》を重ねようとしたが、彼女は顔を左右に動かして、激しくふるえた。
「いけないわ……」
小声で言った。彼は相手の首筋に接吻《せつぷん》した。
「おこして……」
辰夫は言われた通りにした。なおも、ふるえつづけながら、不安定な姿勢で、典子は彼に倚《よ》りかかった。
新宿西口にある沖縄《おきなわ》料理屋の二階の小部屋で、辰夫は鈴鹿《すずか》を待っていた。
いまや、プロデューサー業どころではないのに、と彼は思う。足元に火がついており、その火を消さなければならないのである。
鈴鹿は一時間以上遅れている。辰夫は泡盛《あわもり》を小皿《こざら》にこぼして、マッチで火をつけてみる。
……「前野さんの不良……」と、典子はひたいを辰夫のひたいに押しつけながら、呆然《ぼうぜん》と呟きつづけた。「……こんな暗いところにきた私も悪いんだけど……お友達になったばかりじゃないの……」彼はなおも耳朶《みみたぶ》やまぶたを唇で愛撫《あいぶ》しつづけた。いまどき、こんな無邪気な娘がいるのだろうか、と心をふるわせながら。彼女は眼をつむり、唇をしっかり閉じて、うずくまった。腰が抜けたように立てなくなっていた……。
おれはひどく幼稚なのだろうか、と辰夫は考えた。たとえば、川合にくらべたら、自分はすべての面で遅れているだろう。――だが、そういう人間だからこそ味わえる悦《よろこ》びも世の中にはあるのだ。そして晩生《おくて》の自分には晩生の典子が合う……。
「どうしましょうか」
心配した女中が顔を覗《のぞ》かせた。
やがて、威勢のいい足音がした。
「どうも! 言いわけはしません!」
鈴鹿が入ってきた。にっこりされると辰夫は怒る気を失った。
「料理を出して」
彼は女中に言った。
「いろいろ食い違いがあったのは謝るよ」
すかさず、鈴鹿は言い、あぐらをかいた。
「ぼくは、夜型だもので、失礼した。一度、お宅に電話したけど、留守だった」
「いつ?」
「日曜日だ」
「ぼくは横浜へ行っていた」
辰夫は答えてから、
「とにかく、もう、時間がない。五月一杯、いや、五月二十日に台本ができないと困る。作曲や振付のスケジュールがあるからね」
「大丈夫だよ。まだ、ひと月ちょっと、あるもの」
初めは、四月末までに書くと約束したのだった。願ってもない機会だ、と眼を輝かして言ったのは、どこのどいつだ?
辰夫はビールのグラスを眼の高さに挙げて、言った。
「あなたが是非やりたいと言ったからこそ、戸波《となみ》さんに一杯食わせるような真似をしたんだぜ。いま、戸波さんはぼくを怨《うら》んでいると思う。利巧な人だから、口には出さないが」
「悪い。ごめんなさい」
鈴鹿は頭をさげた。
「ただ、ぼくにはぼくなりの理由があるわけでね。……正直に言って、他人《ひと》の作ったシノプシス、原案にもとづいて台本を書いたことはないんだ」
「でも、それは、初めからの約束で……」
「まあ、きいてよ。いやだと言ってるんじゃない。納得して、面白《おもしろ》いと思ったからこそ、自分から希望したんだ。ぼくは、金を積まれたって、動く男じゃない」
ひとこと多いぞ、と辰夫は思った。
「……だけど、いざ、やってみると、芸能プロを諷刺《ふうし》した部分だけで、かなりの上演時間が食われるんだ」
「あなた、知り過ぎているからさ」
「それも、ある。知ってる世界だから、ギャグを作り易いし、アイデアがふくらんでくる」
「けっこうじゃないか」
「全体のバランスを見ると、芸能プロ諷刺が|どぎつ過ぎる《ヽヽヽヽヽヽ》んだ。観客の視線がその方向へ行っちゃって、かんじんの〈大衆社会のマス・ヒステリー現象〉諷刺が霞《かす》んじゃう恐れがある。俗にいう、テーマが割れるってやつ」
「そうかねえ」
辰夫《たつお》は半信半疑だった。
「言い方が悪かったかな」と鈴鹿は考え込んで、「……こういうことさ。芸能プロ諷刺は確かに面白い。ぼくも、つい、乗って、深入りしそうになる。――そこで、ふと気がついたのは、これは内輪《うちうち》の面白さじゃないか、ぼくらにとっては切実だけど、一般の観客にとって、芸能プロの暴虐《ぼうぎやく》なんて、ただのゴシップでしかないんじゃないか、ということなんだ」
辰夫は答えかねた。そう言われると、そんな気がしないでもない。
「できれば、芸能プロの部分を弱くしたい。プロットは殆《ほとん》ど変らないんだ。――で、ラストの、主人公が保守党のアイドルになるところを少しいじりたいの」
「どんな風に?」
辰夫は警戒的な眼《め》つきになる。
「主人公は恋人といっしょに、原水爆禁止運動にめざめる。手をたずさえて、運動に加わる。――これがぼくのやりたい結末なんだ」
「いくらなんでも、ストレート過ぎないか」
「前野さんの考えた結末は、たしかに屈折した味があるし、終り方として最高だと思う。ただ、捻《ひね》った味わいを観客が理解できるかどうかは疑問だよ。あなたのレヴェルで判断したら、ちがっちゃう。ぼくは観客については、あなたより知ってるつもりだ。単純、シンプル、ストレートじゃないと、日本の観客は駄目《だめ》です。――はっきりいえば、|より受ける《ヽヽヽヽヽ》結末を、ぼくの経験から考えたわけ。理屈じゃなくて、受ける、受けない、だからね、舞台は……」
観客の鑑賞眼を、はじめから低く見つもるのは、一種の蔑視《べつし》ではないか、と辰夫は思った。
しかし、観客については自分がよく知っているのだ、と言われてしまえば、反論はできない。いや、反論できなくはないのだが、鈴鹿の強気な出方の奥に、いつでも仕事を投げだしてみせるという気持が読みとれるのが不気味なのだった。戸波プロデューサーが、鈴鹿を敬遠したがったのは、この辺の事情があるのだろう。ダイナマイトを抱えているような気分で、辰夫は鈴鹿の案に同意したのだった。
結局は、鈴鹿の思う通りになってしまった。そのしたたかさと、戦略の巧みさは、俄《にわ》かプロデューサーの及ぶところではなかった。いいように翻弄《ほんろう》されたというのが実感である。
前途に暗いものを覚えながら、彼はタクシーを降りた。
編集部には明りがついていた。ビルに入ろうとして反対側の建物を見ると、営業部の窓ガラスにいかつい人影がうつっている。黒崎《くろさき》が残業をしているらしい。
辰夫は営業部のドアを押した。
スプリングコートを着たまま、帰り仕度をしていた黒崎は、辰夫を見て、お、と言った。思いなしか、視線が冷たい。
「ちょっと、よろしいですか」
と辰夫は遠慮がちに言う。
「いいとも」
黒崎の細い眼が笑ったが、ぎごちなかった。そのたぐいの笑いに、辰夫は遠い過去において何度か接していた。
彼は黒崎の横の椅子《いす》に腰かけた。
「石黒君と何回か話し合ったのですが、表紙以外は、とくに弱い箇所が思い当らないのです」
「ああ、その件か……」
黒崎はようやく気づいたように言い、
「二週間目のデータが出ている」
デスクの抽斗《ひきだし》から大判のグラフ用紙を抜き出した。
「どうですか」
辰夫はおそるおそるたずねる。
回転椅子に腰をおとした黒崎は、子供のように椅子を左右にまわしながら、
「一週間目のカーヴの落ち方と変らない。急に、はね上ってくれると思ったのだが……」
「そうはいかないでしょう」
デスクの上の紙に視線を向けて、彼はグラフの曲線《カーヴ》を確認した。われながら卑屈な態度に思え、惨《みじ》めだった。
「そう深刻になることはないよ。――といって、安心されても困るのだがな」
「安心するはずはないですよ」
「神経質になり過ぎるな、と、言いかえよう」
黒崎は椅子の袖《そで》を平手で叩《たた》いた。
「きみは雑誌の売れ行きに波があることを心配せずにやってきた。これは、ラッキーというものだ。逆にいえば、売れ行きに波がないなんて、異常なことなのだ。わしと西君は、きみを強運の男と呼んでいた……」
「じゃ、運が離れたのでしょうか」
「そんな風に考えてはいけない。下ったり、上ったりは、付きものだ。むしろ、本当の勝負はこれからだ。この程度の落ち込み具合だったら、回復は可能だからな」
どこまでつづく泥濘《ぬかるみ》ぞ、と辰夫はひそかに嘆じた。売り上げの回復をはかりながら、新雑誌の企画を立てなければならないとは!
「城戸《きど》先生は、なにか、おっしゃってましたか」
「この数字については、まだ、報告していない」
黒崎は腕時計に眼をやりながら答えた。
「この程度なら、どうということもあるまい。ただし、このまま、ずるずる落ちてゆくと、当然、不安を抱かれるだろうなあ」
十五日の早朝に私鉄ストが解決し、春闘の終幕が告げられた。
おりしも日曜日で、気温が上り、快晴だった。花見には最後の日曜であり、自家用車が湘南《しようなん》海岸や箱根バイパスに溢《あふ》れた。
正午のテレビニュースに次々とうつし出される行楽地の光景に、辰夫は軽侮の眼を向けた。あんな混雑しているところへ行って、なにが面白いのだろう。自家用車を持つことをステータス・シンボルと思い込み、会社の同僚よりも、少しでも良い車を入手しようとする人々の気持が理解できなかった。
つづいて、ニュースは、フランク・シナトラの来日を報じた。旅費は自弁、出演料は無料で、孤児救済のためのチャリティー・ショウを東京でおこなうというのだ。もっとも、チャリティーは名目で、自分が設立したレコード会社〈リプリーズ〉の宣伝のためのツアーの一つらしかった。
白井|直人《なおと》は、さっそく、聴きにゆくことだろう。赤坂の「ミカド」か、日比谷《ひびや》野外音楽堂へ足を運べばいいのだから。
テレビをつけ放したままで、彼は部屋を片づけ始めた。電気ストーヴを戸棚《とだな》にしまおうとして、また寒い日がくるかも知れない、と思い直した。冬の衣料の大半は、クリーニング屋へ行くことになる。
一段落したところで、冷蔵庫に入れておいた飯を出し、皿にうつして、クイックカレーをかけた。このカレーは、〈カレーの作り方を|限界まで《ヽヽヽヽ》簡単にした〉と称するものだが、それなりに、水を注いだり、鍋《なべ》で火にかけたりしなければならない。
日曜日の午後は彼にとってもっとも憩《いこ》える時のはずであった。少くとも、先々週まではそうだったのだ。それが、いまでは、落ちつかぬ、苛立《いらだ》たしいものに変じている。
彼は冷蔵庫からビールを出した。一週間まえのいまごろは典子《のりこ》と横浜にいたのだが……。
ビールを飲みながら、ふと電話をしてみようか、と思い、ためらった。さすがの辰夫も、いくらかは駆け引きを考えるようになっていたのだ。
遮二無二《しやにむに》つきすすむことによって、仕事上の成功を得た男は、異性との微妙な領域においても、つい、その癖を出しそうになる。猪突《ちよとつ》猛進の癖をみずから封じたつもりの辰夫は、つきあげてくる情熱のやり場に困り果てていた。
二時をまわったころ、彼は、遂《つい》に、ダイアルに指をかけ、思いきって、典子の電話番号をまわした。
呼び出し音が七回鳴ってから、
――藤井《ふじい》です……。
と、くぐもり気味の声がした。
――あ、起こしちゃったか!
彼は思わず叫んだ。
――いえ、起きてました。
典子はのんびりと答える。
――声が変だったけど……。
――となりの部屋で、ぼんやりレコードをきいてたから。
――邪魔をしたことには変りないな。
――でも、この程度なら……。
――どういうこと?
――首筋に絆創膏《ばんそうこう》を貼《は》って会社へ行ってたのよ、私。
柔らかい声が響いてきた。
――悪いことをした。
――本当に、そう思う?
――思うさ。
――じゃ、許してあげる。
――許す?
――キスは良くないけど、かわいいって言ってくれたから。
――それで許されるなら、何度でも言うよ。
――きのう、横浜の実家に行ってたの。タートルネックで首筋を隠してたのよ。
――悪い悪い。
辰夫は安堵《あんど》した。二度と会わない、と、電話を切られるのではないかと思っていたのだ。
――気軽に遊ぶつもりだったら、相手を間違えてるわ。
典子の口調が変った。
――え?
辰夫は愕《おどろ》いた。
――そんな……どうして、そんなこと言うの?
――馴《な》れてないのよ、私。軽く扱われることに。
皮肉のこもった口振りだった。
――それは、ちがうんだ。
――……どうちがうの?
――……電話で説明できることじゃないよ。
辰夫はベッドに横たわった。風邪をひいたわけでもないのに、頭が重く、眼をつむった。右手が習慣的にトランジスター・ラジオのスイッチを入れる。ボビー・ダーリンの艶《つや》のある歌声が流れ出たので、頭に響かぬ程度に音量を絞った。
結婚という文字が、初めて現実性を帯びて、迫《せ》り上ってきた。
奇妙なことに、辰夫が〈裏方〉に徹しようと決心したころから、マスメディア関係の依頼が激増していた。それは、波が押し寄せるようなものであって、週刊誌の特集記事を辞退したぐらいで食い止められるものではなかった。
公共放送のレギュラー出演や教養番組の解説者といったテレビ関係、週刊誌のコラム連載など、大学を出ていらい、辰夫が一度は挑戦《ちようせん》してみたいと夢見ていた仕事ばかりだった。
マスメディアは、絶えず、新鮮な才能《タレント》を欲《ほつ》しており、それらを食いつぶすことによって生きのびるわけだが、そうわかっていても、やはり魅力があった。孫悟空のように分身の術ができて、もうひとりの自分が存在すれば、と彼は口惜《くや》しかった。
「これはチャンスですからね、前野さん」
と、辰夫に好意的な公共放送のプロデューサーは笑ってみせた。
「あなたの才能が持続するかどうかは別にして――いや、まず、間違いなく持続するでしょうが――、チャンスはなかなかないものです。いま、あなたがレギュラー出演すれば、絶対、人気者になれますよ。タイミング的に絶妙なのです」
辰夫は充分に承知していた。だが、もし彼がその方面に動き出せば、停滞しつつある「パズラー」や、「予感」と誌名の決った新雑誌の準備を投げ出すしかないのだ。――つまり、いままで存在しなかったタイプの文化人タレントとして、テレビ界に乗り込む形になるのだから、これまでのような中途|半端《はんぱ》な態度ではすまないことは眼に見えていた。
「おれの言った通りだろ」
と川合は言った。
「おたくは娯楽番組向きじゃない。もう少し硬めの番組を面白く見せる独特の感覚があると睨《にら》んでいたんだ」
「アメリカに『トゥデイ』って番組があるんだって?」
「『トゥデイ』も、『トゥナイト』もあるさ。いや、『トゥナイト』は、この四月から『トゥナイト・ショウ』になったんだな」
「『トゥデイ』を手本にした番組を作りたいらしい。その司会というのかな……」
「ホストだろう」
「そう、ホストをやって欲しいというのだ」
「そりゃ凄《すご》い。全国ネットだもの」
「アメリカでは、ニュースをショウ的にみせるらしいね」
「そうだよ」
川合は身を乗り出した。
「テレビで、おれがやり残したことが二つある。ひとつは、事件の現場からの生中継レポートだ。もうひとつは、夜中のショウ番組のホストだが、そういう番組が日本にはないのだから仕方がない」
「ぼくは断ろうと思う」
と、辰夫は呟《つぶや》いた。
「なぜ?」
「基本的には、活字人間だもの、ぼくは」
「もう返事したのかい」
「考えさせて欲しいと答えた。その場で断るのは失礼だから」
「おい。そりゃ、考え直したほうがいいぜ」
「わかってるよ。ただ、これだけを引き受けて、ほかの出演依頼を断るわけにはいかないでしょうが……」
「事務所があれば、仕事を選べるよ」
「しかし、その事務所に、ある程度、拘束されることになる」
「それはそうさ」
「二つの雑誌を抱えて、本格的にテレビ出演をするなんて、物理的に無理だ。どっちかを諦《あきら》めるしかないとすれば、ぼくはテレビを諦める」
「おたくは自分がどんなチャンスを手にしているかわかってないんだ」
辰夫《たつお》は首をかしげた。〈わかっている〉つもりではいるものの、いまひとつ、把握《はあく》できぬ部分があった。
「わからないのが幸せかも知れない」
「新しい雑誌なんて、雲をつかむような話じゃないか。それより、成功の確率の高い仕事をえらぶべきだろう」
川合は不満そうだった。
「新しい雑誌にも成功の確率はあるんだよ」と辰夫は力説した。「いま、その根回しで大変なんだ。去年やったことを、もう一度くりかえしている」
新雑誌を出すまえのハードル競技にも似た修羅場《しゆらば》に辰夫はいた。予定表は真黒になっており、ゴールデン・ウイークも殆《ほとん》ど休めないのだった。
「どうして、そう、雑誌に固執するのかね」
「かかわってない人には説明できないよ。雑誌編集の面白《おもしろ》さってのは、底が知れない。悪い女にひっかかったようなものだ。こっちが必死になると、売れなくなる。ちょっと手を抜いたあと反省していると、意外に売れたりする。翻弄《ほんろう》されて、よけい、かっとなる」
「ギャンブルと同じだな」
「『パズラー』は、推理小説翻訳誌という枠《わく》があった。だから、内容に限りがあるわけだ。そう大きく枠からはみ出るわけにはいかない。――その点、『予感』は、A4判というサイズが決められているだけで、あとは、ぼくのやりたいことがやれるのだ。これは、編集者として、一生に一度訪れるかどうかというチャンスなんだよ。こんなすばらしいチャンスに、他の分野に転身するなんて真似《まね》はできない。経済的に乏しい中で、いまの日本で創《つく》り得る夢の雑誌を創ってお眼《め》にかけるよ……」
意気込みとは逆に、辰夫の体調は悪くなる一方だった。去年のこの時期も腸を悪くしたが、今年はいっそうひどかった。便に血が混ったので、癌《がん》ではないかと不安になった。
川合の紹介で有名な外科病院へ行き、レントゲン検査を受けた。癌のおそれはないが、胃腸が荒れている、と医師は、外科医特有の荒っぽい口調で言い、レントゲン写真に光を当てた。
「バリュームの流れ具合を見てごらんなさい」
辰夫はなにもわからなかった。白いものが鰯雲《いわしぐも》状にひろがっているのだった。
「このところ、酒は殆ど飲んでいませんし、食欲もないのですが……」
「食べ物のせいじゃありません。神経性のものだから」
医師は唇《くちびる》を引き締めた。
「ひとことでいえば、仕事ですよ。ストレスが強過ぎるんだ。それで、こういう結果になる」
「どうしたらいいでしょうか」
辰夫は愚問を発した。
「仕事の量を減らすことです」
「ちょっと、それは……」
「本気で考えなきゃいけませんよ、前野さん」
医師はボールペンで写真の下のほうを示した。
「ここに、なにかの痕跡《こんせき》があります。この写真ではよく見えないが、潰瘍《かいよう》じゃないかと思う。つまり、今度、初めて悪くなったのではない、ということです。腸はどのくらい悪いのですか」
「二カ月以上です」
「あなたの話をうかがった範囲では、神経性のものとしか思えませんな。会社を二週間ほど休んで、様子を見ることができるといいのですがね」
「はあ……」
辰夫は答えを保留した。
「もちろん、薬はお出ししますが、それだけで治せるとは保証できません。こちらも努力しますが、あなたも考えてください」
「はい」
いつになく神妙に答える。
「休むことはできないのですか」
「むずかしいと思います」
「そうやって、こじらせていくケースが多いんだ」
医師は険しい表情をみせた。
「とりあえず、治ったとしても、再発するかも知れない。あまり軽く見ないほうがいいですよ」
「はい」
「命にかかわることですから。病気の具合によっては、いまのお勤めをやめるとか、いろいろな問題が生じてくるかも知れませんな」
「冗談じゃないよ……」
煤《すす》に油がしみ込んで真黒になった低い天井の下で、辰夫は首をすくめた。
新宿の片隅《かたすみ》にある、大陸帰りの主人がひとりで客の相手をする小さな中華料理屋は、五、六人でカウンターが一杯になった。それでも、ジャーナリストやテレビ関係者が店の外で空席を待っているという奇妙な店だ。カウンターの斜め上の棚《たな》にある油じみたテレビ画面には古い新東宝映画がうつっていた。
「命にかかわるっていわれたって、どうしようもない」
「わかった。そう怒るなよ」
川合はギョーザをはさんだ箸《はし》をとめた。
「怒ってるんじゃないよ。しょうがない、と言ってるだけさ」
「くどいんだよ、おたくは」
と、川合は閉口気味である。
五月三日は憲法記念日だが、校了が迫っているので、辰夫は出社した。夜はテレビ関係のパーティーがあり、そのあと、流れて、この店にひっかかったのである。
「好んで病気になる奴《やつ》はいないだろ。会社を休めるなら、とっくに休んでるよ」
「脅かすんだ、奴らは」
「ぼくだって、本当は、病気がこわい。だけど、いまは休めないんだ」
「わかったよ。……おれ、ちょっと、うちに電話する」
川合は立ち上り、身体《からだ》を電話機の方へずらした。
「前野さん……」
奥の椅子《いす》にすわっている男が笑いかけてきた。この店で、一、二度会っている、たしか女性週刊誌のデスクだった。
「『パズラー』が苦しくなったって、ほんとですか」
妙に低い声を出した。
辰夫は胃に圧迫感を覚えた。不愉快になると同時に、この種の噂《うわさ》の伝わる速さに驚いた。
「いえ……」
と、腑《ふ》に落ちぬ顔で答えるしかなかった。
「そうでしたか」
男は首をひねって、
「失礼しました。さすがの前野さんも困り果てているときいたもので」
「だれからきいたのですか」
「……忘れました。いや、お詫《わ》びいたします」
男は頭を斜めにさげた。辰夫の言葉を信じていないのが読みとれた。
これが胃腸を悪くするもとだ、と思いながらも、辰夫は腹を立てていた。他人の不幸を嬉《うれ》しそうに吹聴《ふいちよう》して歩く奴が世の中には多いのだ。
「前野さんにうかがおうと思っていたのですが……」
パーティー会場からいっしょだった右どなりの三十代の男が話しかけた。
「レギュラー出演の、だいぶ、いい話がきているそうですね」
「ええ」
その件は、すでに片づいたつもりでいる辰夫は、興味のない口調で言った。
「お受けになるのでしょう?」
男は何人かのタレントを抱えている小さなプロダクションのマネージャーだった。実直さでは定評があるので、辰夫は悪い感じを持っていない。
「いえ」
「断ったのですか」
「そうするつもりです。どういう形にせよ、ぼくを買ってくれた人たちの気分を害したくないので、即座には断りにくい」
「おやりなさい。是非、やるべきです!」
男は辰夫の肩を叩《たた》いた。
「私にいわせれば、|売りどき《ヽヽヽヽ》です。乗らない手はないです。新しい展望がひらけますよ」
「おたくの事務所に入りますか」
辰夫は笑った。
「その必要はありません」
と、男は声を小さくして、
「私が|個人的に《ヽヽヽヽ》前野さんの面倒を見ます。良い仕事だけをピックアップします」
「なるほど……」
いろいろ手があるものだ、と感心した。
「私は自分のオフィスを別に持っているのです。ここだけの話ですが」
「へえ……」
「いずれ、完全に独立するつもりですが、いまはボチボチやってます。前野さんがその気になられたら、私もお手伝いします」
男は好意的に言った。
やがて、電話を終えた川合が戻《もど》ってきて、「おれ、出かけるから」と言った。
「また、仕事かい」
辰夫は怪訝《けげん》な顔をする。
「家に電話したら、女房《にようぼう》に文句を言われた。居どころを探してたらしい」
「なにか、あったの?」
「どえらい事故だ。常磐線《じようばんせん》の三河島駅で列車が衝突した。いま、わかってるだけで、五十何人、死んでいる」
「ほんとですか!」
女性週刊誌のデスクが叫んだ。
「親父《おやじ》、このテレビ、まわすぜ」
「どうぞ」
男は椅子の上に立ち上って、チャンネルをまわした。事故のニュースをやっている局はなかった。
「ラジオだ。ラジオはあるか」
男は叫んだ。
「女房がおれを探してたのは、事故の現場へ行ってくれという依頼があったんだ。ある局で、おれにレポーターをやれというんだよ」
川合は上着を左手に抱えた。
ヤバい、と辰夫は思った。いっしょに店の外に出ると、歩きながら、
「テレビかい?」とたずねた。
「いや、ラジオだ」
「そりゃまずいよ……」
「なぜ?」
川合の冷たい視線が彼を刺した。
「おれじゃ、レポーターはつとまらないというのか?」
「そうじゃない」
「じゃ、なんだ?」
「考えてみろよ。世間はあなたをギャグの王様と見ているんだぜ。あなたのまじめな意図とは別に、大惨事を茶化したという批判がはねかえってくるよ」
川合はきびしい表情のまま、答えなかった。
やがて、
「そうかな……」
と言った時には、殆ど結論を出し終えた語調だった。
「世間のイメージの問題さ」
「そうか……」
川合はひとりで頷《うなず》いた。
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第十五章 巻き返し
〈三河島事件〉の名で後世に残ることになる事故は、五月三日午後九時三十五分、東京都荒川区荒川の国鉄常磐線高架線路で、線路|脇《わき》の砂利山《じやりやま》に下り貨物列車が接触して脱線、並行して走ってきた下り取手《とりで》行き電車がこの貨車に追突して、前部一|輛《りよう》が脱線、斜めになった。そこに反対側からきた上り上野行き電車が激突した。上り電車も前部の五輛が脱線、うち三輛は高さ約十メートルの土手の上から横倒しになり、二階建て倉庫の屋根をぶち抜いた。死者百六十人、負傷者三百二十五人の大惨事である。
「えらいこった……」
薄暗いスタジオの片隅《かたすみ》で、モニター・テレビが報じるニュースを眺《なが》めながら、川合が唸《うな》った。
「国鉄の事故としては、桜木町事件以来らしい」
辰夫《たつお》が嘆息する。
「桜木町事件だって、こんなには死んじゃいねえぜ」
川合はそう言って、紙コップのコカ・コーラを飲んだ。
「ゆうべ、おたくに止められて、よかった。ここまで死者が増えるとは思わなかった」
セットのデッキチェアに腰かけて、煙草《たばこ》をくわえた。左手に持った紙コップを灰皿《はいざら》にするつもりらしい。
六月末放送ぶんの「はじけるユカちゃん」のセットは、海岸の別荘風の作りである。辰夫はもう一つのデッキチェアを川合のほうに寄せて、腰をおろした。
「硬派のレポーターをやってみたいと思いつめていたから、つい、その気になった。行ってたら、えれえことになった」
川合の代りに事故現場に出かけた人気コメディアンは、きわめて真面目《まじめ》なレポートを送ったにもかかわらず、世論の袋叩きにあい、タレントとしての生命が危《あや》ぶまれていた。
「あなたには珍しく、昂奮《こうふん》してたな」
「魔が差すってことがあるんだよ」
川合は煙を輪に吐いた。
「おれも、もうすぐ、三十になる。三十を過ぎて、テレビでもあるまい。この世界でやりたいことを、今年一杯、どっと、やっておこうと思っている」
「テレビから足を洗うのか」
「そう決めているわけじゃない」
「ぼくの希望をいえば、あなたが小説家として成功したとしても、やっぱり、テレビの画面では莫迦《ばか》なことをやっていて欲しい。そういうユーモリストが、日本にひとりぐらいいても、いいじゃないか」
「おれも、そう思っている」
と、川合は真顔で答えた。
「ただ、みっともない姿を晒《さら》したくないんだ。ドーランで皺《しわ》を隠してドタバタするなんて、悲惨だからな」
「あなたは、そんな風にはなるまい」
「わからない。三十を過ぎた自分の姿ってのが想像できないんだ」
川合は足を伸ばして、ひとけのないスタジオを見渡した。
「巨大な玩具《おもちや》で遊んでいたつもりが、遊ばれていたことになるかも知れない」
三十を過ぎた自分の姿が想像できない、というのは同感だった。おもえば、辰夫も、十二月には三十歳になるのだった。
「おたくは|ぴん《ヽヽ》とこないかも知れないけど、この世界は、格が上って、ギャラが高くなると、使われなくなるんだよ。とくに、作家の場合、アイデアが出なくなったら危機だな。過去の実績なんて関係ないんだ。その時点でアイデアが出なくなれば、おしまいなんだ」
川合は短くなった煙草を紙コップに落とした。
辰夫は耳が痛かった。川合との共同の仕事を半年つづけただけで、早くも、才能の涸渇《こかつ》を感じていたからだ。外から見ていたときには、こんな台本、だれにだって書けるだろう、と、ひそかに思ったものだが、いざ、やってみると、半年で、アイデアを使い果した感があった。ある水準のアイデアを、何年間も吐き出しつづけているのは、辰夫には理解できぬたぐいの才能と感嘆せざるを得ないのである。
「ぼくにはテレビ作家《ライター》としての才能はないね」
彼は川合に話しかけた。
「おい、そう、あっさり片づけないでくれよ」
「本音を言ってるだけだよ」
「本音というより弱音だな」
「どっちでもいい。とにかく、そう長くはやっていけないと思う」
「謙虚すぎるぜ」
川合は新しい煙草をくわえた。
「謙虚なんじゃない。自分の才能の方向は読める、ということさ」
と、辰夫は説明した。
「作家《ライター》としては大したことはない。タレントとしても、まあ、そう才能はないと思う。あなたの傍《そば》にいると痛感する。やっぱり、雑誌の編集だな。この面では、いまのところ、アイデアが湧《わ》くように出ている。涸《か》れる気配は、まだ、見えない。むしろ、アイデアを整理する必要があるようだ」
「プロデューサー業の方はどうかね」
「日が浅いので、なんとも言えない。まあ、向いているとはいえないだろう。気が短いから」
「自分に対して気むずかし過ぎるんだ、おたくは」
川合は結論づけるように言った。
「おれは、もう少し、多方面で暴れてみたいと思ってる」
「当然だよ」
「借りができたな、三河島の件で……」
「前野さん、小説のリバイバルってのは考えられませんかねえ」
営業部の青年が、打合せにきた帰りに、なにげなく言った。この青年は思いつきをすぐ口にするので、二つの編集部で快く思われていない。
また、いいかげんなことを言う、と辰夫は心の中で舌打ちしながら、
「小説のリバイバル?」
と、きき直した。
〈リバイバル〉という英語が、説明抜きで使われるようになったのは、ごく最近で、いわば、流行語である。それを、たちまち、商売と結びつけるのが、すなわち、この青年の感覚なのである。
「だって、ほら……」
青年は、たちまち、ソファーにすわり直した。話し好きで、相手がどんな名士だろうと、かまわず、ボクシングの話をしかける特技を持っている。
「いまは、リバイバル・ブームでしょうが……」
一昨日の夕刊に、大きな記事が出ていたのを、辰夫は想《おも》い出した。
ドロレス・ハート、サンドラ・ディー、パメラ・ティフィン、チューズデイ・ウエルド、ポーラ・プレンティスらの出演する青春映画は日本では殆《ほとん》どヒットしなかった。底抜けの明るさと内容のなさばかり気にして、美女がとびはねる姿を眺めるという麗《うるわ》しい習慣が日本の映画観客に定着していなかったせいである。それに、なんといおうと、生活の基盤が異《ことな》り過ぎていた。同じ青春スターが出演しても、メロドラマだと、充分に観客を集めたから不思議である。
メロドラマ中のメロドラマともいうべき「哀愁」が正月に再公開され、つづいて「駅馬車」、「シェーン」がいずれもロードショウ劇場で上映され、数多い新作映画よりもヒットした。旧作の興行収入が新作を凌《しの》いだのは初めてであり、〈リバイバル・ブーム〉なる新語が大新聞を飾ることになった。
「とりあえず、二十本ぐらいの旧作が公開されるそうじゃないですか」
青年はにやにやしている。
「柳の下に泥鰌《どじよう》が三匹いたってことさ」
辰夫は軽く受け流した。
「そうはつづかない」
「小説ではできませんか?」
「そりゃ、ちょっと……」
と言いかけて、辰夫は息を止めた。
これは穴だ、なにか出てくる、と、直感した。
「きみのいうリバイバルってのは、たとえば、なに?」
「そう問いつめられると困るのですが」
青年は歯茎を見せて笑い、
「むかしの翻訳物で『地下鉄サム』ってのがあるでしょう。たとえば、ああいうやつです」
「『地下鉄サム』は、いま、文庫で買えるんじゃないか」
「たとえば、の話ですよ。ああいうユーモア物で、軽く読めるやつです。なにしろ、レジャーの時代ですからね。小説も、レジャー用品でなきゃいけません」
青年は流行語をならべたてるが、営業部の論理とでもいうべき筋が通っているのは認めざるをえなかった。
「わかった。考えてみる」
「できれば、『パズラー』の別冊が出せると嬉《うれ》しいですね。夏の、雑誌の売れない時期に出せたら……」
「できれば、ご要望に応じたいけどね……」
「冗談ですよ。――じゃ、よろしくお願いします」
青年は部屋を出て行った。
「どう思う?」
辰夫は机の向うの石黒に声をかけた。
石黒は顔をあげて、「言いたいことを言ってますね」と顔をしかめた。
「小説のリバイバルなんて、頭がおかしいんじゃないですか」
「なにも考えずに喋《しやべ》ってるんだ、あいつは。しかし、これはイケるんじゃないかと思えてきた」
「まさか!」
「あいつの軽薄な言葉は、一つのヒントだよ。しかし、なにか、浮んできそうな気がする」
「リバイバルでですか?」
「まあ、そうだ。ちょっと、こっちにきてくれないか」
石黒は立ち上って、ソファーのそばにきた。
「雑誌が売れなくなったと言われて、いいかげん、頭にきていたのだ。いままで、『パズラー』の別冊を作ってくれと言われても、拒否してきたのだが、ここらで巻き返す必要がある」
辰夫のはげしい口調に、石黒はびっくりした顔で、ソファーに腰をおろした。
「たしかに必要です」
石黒は笑った。社内で肩身が狭くなっているはずであった。
「ぼくの話をきいてくれないか。疑問があったら、すぐに突っ込んで欲しい」
こんなアイデアが、なぜ、浮ばなかったんだろう、と彼は思った。
典子《のりこ》への想いと胃腸に気をとられて、その方面の脳細胞が働かなくなっていたのだった。無神経な青年の言葉が、眠っていた脳細胞を刺戟《しげき》して、彼を元気にさせた。
「〈リバイバル〉で、なにか、イケるのじゃないか、と言い出したのは、わしだが」
翌日の午後、営業部の部屋で、黒崎《くろさき》が口をひらいた。
「ほんとですか、黒崎さん」
西が失笑をこらえる。
「そうだったら、もっと、色々なアイデアを出してくださいよ」
「編集部の職域を侵してはいかんちゅう気持が働くのだ。謙譲の美徳というか、能ある鷹《たか》は爪《つめ》を隠すのだな」
ポーカーフェースでつまらぬ冗談を口にするのが黒崎の癖である。もっとも、新雑誌の説明会のときなどは、こうした冗談が潤滑油になるのだから、いちがいに莫迦にはできない。
「で、どういう企画なんですか。説明してください」
と西が辰夫を促した。
「ひとことでいえば、幻の雑誌『新青年』のリバイバルです」
「ほう……売れるかな」
黒崎は反射的に呟《つぶや》いた。
「ぼくらの世代から見れば、『新青年』は幻の名雑誌です。三十代以上の人にとっては、懐《なつ》かしのメロディでしょう。これだと、『パズラー』が苦手としていた四十代以上の読者を開拓できると思うのです」
辰夫は二人の顔を見た。
「なるほど」
西が頷《うなず》いて、
「社《うち》にある『新青年』のバックナンバーで可能ですか」
「ゆうべ調べてみたら、戦前のが百冊以上ありました。あれで大丈夫です」
「城戸《きど》先生のところに、全巻、あるじゃろう」
「社にあるので充分です。いまや、一冊でも希覯本《きこうぼん》扱いですから、よそから借りてきて、なくしでもしたら、大変です」
「すると、『新青年』にのった小説を集めるのですか」と西がきく。
「いえ、それなら、だれにでもできます。それに、良い作品は、だいたい、今でも、なんらかの形で出版されています」
「じゃ、どうするのです?」
「ゆうべ、じっくり眺《なが》めてみたのですが、『新青年』が面白《おもしろ》かったといわれる原因は、小説以外のナンセンス読物、コラム、座談会にあるのです。映画紹介欄で、マルクス兄弟の新作を褒《ほ》めたりして、とにかく、時代の最尖端《さいせんたん》を行っていた。ぼくが生れたころですから、大したものですよ」
「うむ。しかし、もう古いのではないか」
黒崎はわざと反対してみせる。
「そのまま、使えるものは少ないです。それに、コラム一つにしても、書いた人の承諾を得たいですから、まあ、別冊全体の半分か三分の二でしょうね」
「残りの三分の一はどうやって埋める?」
「現代のユーモア・エッセイ、ナンセンス読物を、ぼくが集めます。そうすると、昭和初年のモダニズムと昭和三十年代のユーモア感覚が、競い合う形になるでしょう」
主として、〈遊びの会〉のメンバーで可能だ、と辰夫はみていた。川合を中心にした座談会も考えていた。
「面白いじゃないですか」
西が飴色《あめいろ》の歯を見せた。
「ぜひ、やってくださいよ」
「これは『別冊・パズラー』になるわけですが、『予感』とサブタイトルを入れていただきたいのです」と辰夫は熱心に言った。「『予感』の前宣伝になるでしょうし、読者がこうしたものを求めているかどうか、|さぐり《ヽヽヽ》を入れられますから」
「よし!」
黒崎は即決した。
「その線で考えよう。たしかに、打線の|つながり《ヽヽヽヽ》は必要だからな……」
「別冊・パズラー」の発刊が会議で正式に決定されてから、辰夫は別人のように生き生きしてきた。久しぶりに新鮮な気分になったのである。
彼はまず往年の「新青年」関係者の話をきいてみようと思った。昭和初年のモダニズムを創《つく》り出したのは、明らかに「新青年」の編集者たちであり、彼らに会うことから、すべてが始まると考えられた。
「新青年」初代編集長の森下雨村は土佐に隠棲《いんせい》しているとのことだったが、四国まで行く時間はなかった。それに、森下雨村が「新青年」を手がけたのは、たぶんに青年の国粋主義を鼓舞する気持からであって、探偵《たんてい》小説をのせたのは息抜きであり、個人的な趣味であったらしい。
その〈趣味〉の部分を拡大し、明るいモダニズムとダンディズムで染め上げたのが、二代目編集長の横溝正史《よこみぞせいし》である。
辰夫が知っているのはその程度だが、なにしろ彼が生れるまえのことだから、伝聞でしかない。とりあえず、当の横溝正史に話をきく必要があった。
三年前に「悪魔の手毬唄《てまりうた》」を出版していらい、横溝正史は殆ど休筆状態にあった。もう長篇《ちようへん》が書けなくなったのではないかと噂《うわさ》され、六月にはホテル・オークラで還暦祝賀会がおこなわれるはずだった。
還暦に達する大家にどのように接触したらよいか、辰夫《たつお》は迷った。
考えていても仕方がない、と、思いきって電話してみると、意外にも、ご当人が電話口に出た。ききとりにくい、不思議な関西弁である。趣旨を話すと、たちまち理解してくれたのは、さすが、もと編集者だった。
翌日は真夏のような陽射《ひざ》しだった。梅雨《つゆ》まえなのに、と思いながら、辰夫は女性の速記者をつれて、成城の横溝邸に向った。
金井に地図を書いてもらっていたので、めざす邸宅はすぐにわかった。戦前に建てられたらしい日本家屋で、そのころの郊外ではふつうだったのかも知れないが、驚くばかりの広さの庭園があった。
時代離れした玄関に入ると、吹き抜ける風がちがう。日本家屋のこうした効用を辰夫は忘れていた。
庭を見渡せる座敷でしばらく待たされた。麦湯を飲みながら、ぼんやりしていると、着流し姿の主人《あるじ》が現れた。生《は》え際《ぎわ》がいくぶん白くなっているものの、髪は黒く、長い。
「待たせちゃったな」
と、独特の口調で言い、少年のように笑った。
伝説の「新青年」を創ったのはこの人なのだ、と思うと、辰夫は名状しがたい感動に包まれた。昭和モダニズム神話のなかの人物に、いま、自分は対面している!
「雑誌、いつも、ありがとう。やりたいことやっとるいう感じだな」
「はあ……」
辰夫は口がきけなくなった。〈名編集者〉と呼ばれる人に、ずいぶん、出会ったが、こんな経験は初めてだ。
「やりたいこと、やりゃいいのよ、若いうちは。大人に顰蹙《ひんしゆく》されてさ、叩《たた》かれるぐらいで丁度いいの」
辰夫は声が出ない。速記者はすでに鉛筆を走らせている。
「……ああいう趣旨だというからお眼《め》にかかったんだけど、ぼくが『新青年』をやったのは、昭和二年の春から翌年の十月までだからね。自慢できるような話もない。『新青年』カラーが定着したのは、だいぶあと、水谷(準)君の時代だな……」
「でも……」
辰夫の声は嗄《か》れていた。
「雑誌を拝見しておりますと、先生が編集なさったときから、突然、内容が変っております」
「軽佻浮薄《けいちようふはく》なのよ」
主人は声もなく笑った。
「先生が担当された一年半がターニング・ポイントだったと思うのです。あそこで、のちの路線が決定されたのでしょう」
「それほど、むずかしくは考えなかった。とにかく、不景気な時代だったから、明るい雑誌を作ろうとしたの。明るく、明るく、と考えて、ああいう形になったのだろうな」
「愉《たの》しかったですか」
「そりゃ愉しい。ぼくの肌《はだ》にあった仕事だったからね。怖いもの知らずでもあった。なにも知らないから、できたんだな」
辰夫は、いちいち思いあたるふしがあった。
「いまの数え方だと二十五だったんだ。まあ、強気な年ごろだわな」
一時間後、横溝邸を辞したのちも、辰夫の昂奮《こうふん》はつづいていた。
こうした気分を、なぜ忘れていたのだろう、と彼は思った。
おそらくは、雑誌に対するときの気持がマンネリズムになっていたのだろう。それは、同じことを繰り返すのが嫌《きら》いな自分の性格からきているのだ。一つの企画に、たちまち、飽きてしまい、まったく違うことがやりたくなってくる。
ところが、読者は、雑誌に、ある種のパターンを求めてくる。そのためには、送り手として、多少退屈でも、〈繰り返し〉をおこなう必要がある。〈繰り返し〉がその雑誌のパターンや色調を決めるからだ。
辰夫のやり方だと、読者が慣れるまえに、パターンが変ってしまうのだ。これは反省しなければならない。
「新青年」にモダニズムを導入したのは横溝正史編集長と助手の渡辺温のコンビであるが、渡辺温は若くして交通事故で死亡している。だから、編集サイドの取材は、横溝正史ひとりでいい、と辰夫は判断した。
残る取材は、ナンセンス読物、数々のコラムの執筆者である。「新青年」の執筆者は、のちに名をなした人が多いのであるが、それら名士ではなく、現在は他の職業についている人、という風に、的を絞った。時代の風潮に乗って、見方によっては軽薄とも見られる〈ユーモア・コラム〉を書きまくり、なんらかの事情で、正業《ヽヽ》についてしまった人のほうが本音を聞けるだろう、と考えたのだ。名士になり果《おお》せた人は、現在の立場において都合の悪い過去を隠そうとしがちだし、それでは面白い記事ができない。
じっさい、辰夫が編集者になって得たプラスの一つは、なにがしかの権威を帯びている作家、評論家、学者たちの裏側が見えてきたことであった。それは、好んで見ようとするまでもなく、ごく自然に|見えてくる《ヽヽヽヽヽ》のである。
ある種の成功者は、自分がひとつの地位《ステータス》に達したと判断するやいなや――それは、おおむね、受章とか邸宅の新築といったことが|きっかけ《ヽヽヽヽ》となる――交際する人物、人脈を変えようとつとめる。自分の不遇時代を知る旧友知己を遠ざけ、ときとして憎み始める。流行作家が、むかしの自分の姿を記憶している編集者を憎悪《ぞうお》するケースを、辰夫はしばしば耳にしていた。このように、成功者は、まず、〈現在の改竄《かいざん》〉を試みる。
つぎに、とりかかるのは〈過去の改竄〉である。筆一本でのしあがってきたことを誇示し、宣伝するために、過去の都合の悪い部分は抹消してしまい、なかったことにする。そして、自分を受動的行動者もしくは被害者に仕立てあげる。いや、仕立てあげるだけではなく、みずから、そう信じ込むのである。従って、彼の立志伝は、身辺の悪人との戦いの歴史になる。
悪玉に捏造《ねつぞう》された人々の抗議は、すべて、無視する。成功者は、自己の権力で、それが可能なのである。庶民の味方、代表、正義派といった顔をもつそれらの人々の裏側に触れた辰夫は、大きな失望をおぼえていた。
今日ならば、さしずめ、ブレーンと呼ばれるであろう人々が、「新青年」では〈院外団〉と呼ばれていたようである。
その一人だったという老人を、辰夫に紹介してくれたのは、顔だけはやたらに広い二宮である。
新橋の鰻屋《うなぎや》の二階で会った小柄《こがら》な老人は、すでに酩酊《めいてい》していた。髪は銀色で、うす汚れた開襟《かいきん》シャツを着ている。
「古いことを調べて、どうしようてんだ」
と、老人は突き離すように言った。
「『新青年』を理解しようとしたら、発行元の博文館の空気をつかまなきゃいけねえ」
「前野さんはそれをききにきているんだよ」
と、二宮が説明する。
「横溝さんにも会ってきたんだってさ……」
「横正《よこせい》に会った?」
老人は顔をあげた。
「いつだ?」
「おとといです」
「元気だったか?」
「とてもお元気そうでした」
と、辰夫は逆らわない。
「『宝石』に連載中の長篇を途中で投げ出しておったな。『仮面舞踏会』か……」
「はい」
「また、胸が悪くなったのか、と心配してた。昭和八、九年に、あの男は大病をしているんだ」
「はい」
辰夫は腫《は》れ物《もの》に触るように頷く。「新青年」関係の年表を作ってあるので、そのくらいは承知していた。
「だいたい、いまどきの編集者は、院外団を作ろうてえ洒落《しやれ》っ気がない」
老人はコップ酒を呷《あお》った。
「いや、ブレーンを作りたいのですよ」
辰夫は、話のとっかかりをつかもうとする。
「駄目《だめ》だよ」
老人は冷笑した。
「おれが担当してたのは、ファッションの頁《ページ》だった。金がなくなると、あわてて『ヴォーグ』をめくって、原稿を書く。その原稿を『新青年』に届けると、引きかえに原稿料をくれた。高くはなかったが、引きかえというのがありがたい。……いま、それができるかい?」
「とっさには、できません」
「それじゃ、駄目だ」
嘲笑《あざわら》うように言った。
二宮は、(無理だ)というように辰夫の肩を叩いた。
階下におりてから、
「悪かった。いつもは、あれほど、ひどくはないのだが……」
「わかってますよ」
辰夫は言った。
老人は照れているのだろう。若僧に心を開こうとして、その一歩手まえで拗《す》ねているのだった。
「悪い人間じゃないんだ」
「わかります。――ただ、あれだけ酔ってちゃ話はきけないでしょう」
「酔ったふりをして話すつもりだったのが、ほんとうに酔っちまった」
二宮は苦笑した。
「フリーの校正者なんだが、いまでも、エロ新聞のコラムを書いてるらしい」
「日を改めて会いましょう」
「そうしてくれるか」
二宮はすまなそうに、
「そうそう。彼の文章は再録OKだ。素面《しらふ》のうちにきいておいた」
「あの方の電話番号、知ってますか」
「電話なんかないよ。住所不定だもの」
辰夫はその足で、二宮が老人からきき出しておいてくれたもう一人の執筆者の家に向った。
東横線の菊名駅から歩いて十分程のところにある、白ペンキが剥《は》げかけた洋館である。突然の訪問であり、しかも、日が暮れかけているにもかかわらず、品の良い老婦人が快く受け入れてくれた。
玄関の左側にある広い洋間に通された。家具類は落ちついた、趣味の良いものだが、布地が色あせ、レースのカーテンは黄色くなっている。
禿《は》げ上った大きな頭をもつ老人がステッキを突きながら、ゆっくり入ってきた。戦前のものらしい、継ぎだらけの茶のナイトガウンを羽織っている。
「きみが編集長か」
辰夫の名刺を手にして、気むずかしげにたずねた。
「はい。雑誌を持ってまいりました」
「いつも買い求めているよ」
老人はつまらなそうに言い、安楽|椅子《いす》にかけた。
「いつだったか、横溝さんに会ったとき、きみの噂をした。三十年か四十年ごとに、ああいう人間が出てくる、と言うて、笑っとった」
「会社に『新青年』がありまして、バックナンバーをかなり読みました」
辰夫は、いきなり、本題に入った。
「ほう。それはまた……」
老人の顔がかすかに綻《ほころ》びた。
「いま読むと、どんな感じかな」
「非常に面白《おもしろ》いです。古びておりません」
「ぼくは、毎号、映画評を書いていたのだ」
「はい。トーキー初期のパラマウント喜劇やマルクス兄弟についての先生の紹介文を読んで、新しさにびっくりしました」
「……マルクス兄弟か。……あれは『けだもの組合』だったかな。家の片側に雨が降って、片側が晴れていたのは?」
「観《み》ていないのです。『けだもの組合』は、戦後、上映されておりません」
「ミュージカルも、喜劇も、あのころのほうが、ずっと華やかだった……」
ひとりごとのように言って、
「めったに試写室には出向けないが、感覚では若い人に負けぬつもりだ。……幸い、勤めの方も停年になったし、むかしとった杵柄《きねづか》で、いろいろ試みてみたい」
おかしいぞ、と辰夫は思った。
「失礼な言い方かも知れんが、ぼくに眼をつけたのはみごとだ。いまの編集者、しかも、若い人で、ぼくの名前を知っている人がおるとは意外だった。嬉《うれ》しい意外性だな」
どうやら、映画評を依頼にきたと思い込んだらしい。ちがいます、と言いかねた辰夫はひそかに焦《あせ》った。
東横線に乗っても、辰夫の精神状態は不安定だった。
モダニストの末路を見た思いが、頭の内側にへばりついて、離れない。アル中と老残――あの二人は、ほんの一例に過ぎないだろう。
彼が衝撃を受けたのは、未来の自分をかいま見たと感じたからだった。
あんな風には、なりたくない。そのためには、才人などと煽《おだ》てられて、浮かれていたのでは駄目だ。一年半とまではいわぬものの、早めに転業しなければなるまい。
〈三十を過ぎて、テレビでもあるまい〉という川合の言葉と、〈早めに転業しなければ……〉という思いが、頭のなかで渦巻《うずま》いている。
川合の志は文学にあるのだから、遅かれ早かれ、テレビ界を去るだろう。それが自然な成り行きである。
辰夫《たつお》の場合は、もう少し、ややこしいことになるようだ。同世代者の発言の母体になる雑誌を創刊し、軌道に乗せる作業――その手間と時間を考えただけで気が遠くなりそうなのだが――と、〈早めの転業〉という考えは、まったく矛盾している。そして、矛盾した二つが、どちらも、彼にとって切実であるのが問題であった。
とはいえ、転業して、なにをやるのだ、と問われても、答えは、まったくない。頭の中は白紙である。そんなことを考える暇などないのだ。
とっさに思いつく職業もない。放送作家やタレントは、所詮《しよせん》、副業でしかあるまい。広告代理店は経験しているが、ろくなものではない。コピーライターも、独創を重んじられるようでいて、結局は、資本の走狗《そうく》である。
あれも駄目、これもつまらない、と消去してゆくと、やはり、編集業が残ってしまう。それも、雑誌の編集者である。この道は奥深い気がする。つまりは、向いているということか。
次に考えたのは、あと、何年やれるかだった。三十過ぎての世界は、今のところ、霧に包まれているのだが、まあ、二、三年――長くて五年か。
話をききそびれた小柄な老人に、もう一度、会った。
場所は虎《とら》ノ門《もん》の小料理屋で、時は正午である。昼間なら、あまり飲まないから、と、二宮がはからったもので、老人が甘えるといけない、と、二宮はわざと、こなかった。
「どうも……」
鼠色《ねずみいろ》の開襟シャツを着た老人は、恥ずかしそうに、片手で口をおおった。
「だいぶ、いろいろ調べられたようですね」
「はあ」
今日は順調にゆきそうだと、辰夫は、ほっとする。
「いまどき、『新青年』について、お調べになるとは、奇特ですな」
「自分の生れる前のことですから、初めは途惑《とまど》いました」
「一杯いきましょう。お若いんだから、コップでおやんなさい」
老人は徳利を手にした。
「じゃ、ぐい飲みで頂きます」
「あたしはコップにしよう」
辰夫は不安になってきた。早いところ、取材してしまおうと思ったとき、老人は見抜いたように言った。
「ゆっくり、いきましょうや」
乾杯をすると、いっきにコップ半分ぐらいを飲んで、大きく息を吐いた。
「あたしは、ファッションの頁を担当してましてね。カフスとかタイピンとか、ああいった小物にうるさかったのです」
「輸入物ですか」
「もちろん、舶来品です」
「身につけてから書いたのですか。それとも、調べただけで……」
「両方だな。全部は買いきれないし、といって、調べただけてえのは癪《しやく》でね」
「よく、わかります」
「あのころは、デパートよりも、小さな店で光った所があった。一点しか輸入しないとかね」
「横浜の元町には、いまでもありますよ」
典子《のりこ》の生家を想起していた。
「ありましょうな、横浜なら」
と老人はうつむいて、
「珍しい品物が入ると、電話がきましてね。とっておいて貰《もら》ったものですよ」
「天《あめ》が下に新しき物なし、とは、よく言ったものだ、と、今度、痛感しました。服装の問題だけじゃなくて、スポーツカー、自動車レース、ヨット、モーターボート――昭和の初めにぜんぶ、あったのですね。考えさせられました」
辰夫は笑った。
「そうがっかりすることもない」
老人は片手を鼻先でふって、
「漢字に、ちがうルビをふる手があるでしょう」
「ええ」
「たとえば、三河島と書いて、〈三河島《むざんやな》〉と、ふるやつね。あの手は、江戸時代の戯作《げさく》から、あったはずだ。問題は、いかに新しい感覚を盛り込めるかてえことだから……」
その〈新しい感覚〉ほど、うつろい易《やす》いものはない、と思うと、辰夫はゆううつになった。
「予感」の創刊号は十一月発売に決った。スケジュールを逆算すると、八月、九月、十月は、寝るひまもないことになる。七月はミュージカル公演があるから、幕をあけるまでが、ひどく忙しい。ノートに予定を書き込んでみると、六月から十一月まで真黒になりそうなので、気味が悪くなった辰夫は、途中で作業をやめた。
とりあえず、目先のことだけに、神経を集中させればいい。あまり先のことを思いつめると、気が狂ってしまう。
とにかく、「別冊・パズラー」を片づけてしまう必要がある。
「別冊が八月発売になったといって、営業部はご機嫌《きげん》ですよ」
と、石黒が言った。
辰夫は、仮の目次を眺《なが》めている。内容と執筆者は、これでよいのだ。よいのだが、いまひとつ、華やかさに欠けるような気がした。
「パズラー」創刊のころから、辰夫は、流行作家、流行評論家には、意識的に背を向けてきた。高い原稿料を準備できない事情もあったが、あちこちの編集者が群がっている場に割り込んでゆくのが大儀だったのである。だいたい、苦労の多いわりには、面白い原稿が貰えない。それより、有名ではない人を発掘して、面白いものを書いてもらった方がたのしい、という考えだった。
しかし、今回は、節《せつ》を曲げる必要があった。
「どうかしたのですか」
辰夫が沈黙しているので、石黒が声をかけてきた。
「目次のアタマに、どーん、とくるものが要るな」
と辰夫は言った。
「佐伯一誠《さえきいつせい》さんの名前が欲しいな。『新青年』について書いてもらいたい」
「あの人、忙しいでしょう?」
「野暮な質問しなさんな」
「前野さん、面識があるのですか」
「一度、家へ行ったことがある。『鯉《こい》のいる土地』が連載されていたころだ。あの人は、メロドラマ、時代物、と、はばが広いけど、推理小説が心《しん》から好きなのだよ」
「可能性がありますか」
「電話して、会いたくないと言われたら、駄目だ。会ってもいい、と言われたら、なんとかなるだろう」
直接、会えさえすれば、九十パーセント、口説き落とせる、と心の中で計算している。
昼休みに、石黒たちが外に出たあと、彼は佐伯一誠宅に電話を入れた。
――む……。
不機嫌そうな声がきこえた。相手は、なぜか、荒い息をしている。
――お忘れかと思いますが、文化社の前野と申します。「パズラー」を編集しておりまして……。
――「パズラー」か。
声音《こわね》はいよいよ不機嫌になる。去年の事件を想《おも》い出したのだろう。
――いつか、うちにきた人じゃないか。
――はい……。
辰夫は薄氷を踏む思いだった。
――お忙しいのは重々存じておりますが、ほんの十分ほど、お時間を割《さ》いていただけませんでしょうか。
――ふむ、ひと月先なら、なんとかなるが……。
――もう少し早いほうが……。
――三週間先か。
――いえ、もう少し早く……。
――二週間先か。
――もう少し……。
――なにを言うとる。それでは、来週になってしまう。
――あの、今週……。
――なに!
――夜中にこい、とおっしゃれば、夜中にうかがいます。夜明けでも、けっこうです。先生のご都合に合せて、ご指定の時刻に参上いたします。
彼は必死だった。語調に計算を超えた迫力があった。
――仕方がない。明日の夜、もう一度、電話してからきなさい。断っておくが、原稿は引き受けないぞ。
「『新青年』は愛読した。わしの年代の者は、たいてい、そうだろう」
深夜の応接間で、革の椅子に身を沈めた佐伯は、重々しく言った。
「憧《あこが》れとったと言うてもいい。わしは田舎の高校生だったから、都会性というか、あの洒落《しやれ》っけに惹《ひ》かれとった」
「いかがでしょうか。そういった感想を、十五分ほど、お話しねがえませんか」
「テープレコーダーを持ってきたのだな」
「実は、そうです」
「わしは、談話というものは、いっさい、せんのだ」
「そううかがっております」
辰夫は飽くまで下手《したで》に出る。
「テープからおこした原稿を持参いたします。先生に手を入れていただいて……」
「それが面倒なのだ」
佐伯の顔は蒼《あお》ざめ、疲労の色が濃かった。
「談話原稿に朱筆を入れるくらいなら、原稿を書いたほうが、よほど早い」
「そうしていただけますか」
すぐに、つけ込んだ。
「こういうものを貰ってしまったからな」
佐伯は、テーブルの上の五冊の「新青年」を眺めた。神田《かんだ》の古書市に出たのを買いとってきて、手土産にしたのである。
「これは特別号というて、分厚いものばかりだ。外国の探偵《たんてい》小説を特集したものだな。只《ただ》で貰っていいのかね」
「もちろんです」
「想い出を書こう。〈『新青年』とその時代〉という題では、仰々し過ぎるか」
「そんなことはありません」
「よろしい。仕方あるまい」
佐伯は苦笑した。
「先生が、いつか、おっしゃっていた、内外の推理小説の技法とトリックの分析は、どこかに連載なさいますか」
と、辰夫は、突然、話題をかえる。
「まだ、決っとらん。内容が堅過ぎて、読物にならんしな。一種の研究だから」
「さっきお話しした『予感』の創刊号から少しずつ、いかがですか。一回六枚でも、十枚でも、けっこうですが……」
佐伯は答えない。
しかし、答えないのは、脈がないわけではない。
連載エッセイの承諾を、佐伯から、むりやり得た辰夫は、別冊はもちろんのこと、「予感」も|いける《ヽヽヽ》のではないか、と思った。彼は人に頭をさげるのが嫌《きら》いだったが、一旦《いつたん》、割り切ってしまえば、知的たいこもち、三百代言的行動も辞さない。それらは、彼の自尊心を傷つけるものではなかった。
しかしながら、精神的、肉体的疲労をともなうのは否《いな》めない。夏から秋にかけて、「パズラー」、「予感」を二本立てで編集してゆくためには、まず、生活を変えねばならなかった。身軽になること――はっきりいえば、収入のための労働を減らすことである。
生活を切り詰めるのは、さほど、苦痛ではなかった。六本木のレストランやホテルでの食事に慣れた彼は、それらが大したものでないことが解《わか》ってきた。快適であることは否めないが、そうした生活は、三十代になって楽しめばよいのだ。
彼はまず、月、二回執筆の「はじけるユカちゃん」を、一回にしてもらうことにした。彼のぶんは井田にゆずり、井田は、月に二本引き受けることになるのだった。
「短いあいだだったけど、おれたちのチームワークはうまくいっていたな」
薪《たきぎ》を背負い、本を手にした、二宮金次郎スタイルの川合は、いつもと変らぬ乾いた口調で言った。
「なんの恰好《かつこう》、それは?」
辰夫は眼《め》を見張った。
「もう少したつと、あのステージに、パリから来たファッション・モデルが、ずらっとならぶ。その前を、二宮金次郎が駈《か》け抜けるって寸法だ。おれのアイデアだよ」
川合は、こともなげに言った。
「凄《すご》いギャグだ。日本のテレビ史上に残るんじゃないかね」
辰夫《たつお》は感嘆した。労働勤勉倹約を|よし《ヽヽ》とする日本人の発想への諷刺《ふうし》ともいえるが、そう説明してしまってはつまらないのであって、外人モデルの群れと二宮金次郎の視覚的対比という着想が、とびきり、すばらしかった。
「ぼくも、いいチームワークだったと思うよ」
辰夫は、柄《がら》になく、感傷的な気持になっていた。弱肉強食のこの世界に友情などというものは存在しないつもりであるが、川合に対してだけは、|友情のごときもの《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》を感じるのだった。
「さぁて、いっちょう、やってくるか」
川合はゆっくり歩き出した。
ほんらいはちがう道に生きていて、会うはずがない男ふたりが、テレビという新興産業が出来たために出会ったのだ、と辰夫は思った。奇妙ではあったが、しあわせな出会いであった。
戸波《となみ》プロデューサーから電話が入って、至急、ご相談したいことがある、と切迫した口調で言われたとき、正直なところ、辰夫はうんざりした。
――鈴鹿兵伍《すずかひようご》が、また、なにか、やらかしましたか。
――ええ、ちょっと、その……。
戸波は遠慮がちに口ごもる。
おとなである戸波には、辰夫の本業を邪魔しては申しわけないという態度を示すだけの分別がある。とくに、今月は、「パズラー」と、「別冊・パズラー」で、辰夫が天手古舞になっていることを、承知しているのである。
そういう風に出られると、
――とにかく、お目にかかって……。
と、辰夫は答えざるを得ない。鈴鹿兵伍に関する責任は自分にあるのだ。
――白井|直人《なおと》も、いっしょに行きたいと申しておりますが……。
――どうぞ、何人でも。
辰夫は、半ば自棄《やけ》であった。
石黒と竹宮が帰り、広辞苑《こうじえん》だけが残っている夜の編集室に、戸波と白井が入ってきた。
広辞苑は、白井直人の顔を見つめながら、気軽に、「こんちは」といった。歌手ごときに驚きはしないぞという態度を見せたかったのであろうか。
「コーヒーでよろしいですか」
と念を押してから、辰夫は、地下の喫茶店に電話を入れる。
「どうぞ、おかまいなく……」
戸波は片手で制した。
辰夫は二人に向い合う形ですわって、
「今度は、なんですか」
「ひとつは、台本が間に合うかどうかです。締め切りまで、あと、二日しかない」
「おかしいな。そのために、第一ホテルに|かんづめ《ヽヽヽヽ》にしたのだし、ゆうべ、電話で、しつこく締め切りを確認しておきましたよ」
「|そこ《ヽヽ》なんです」
戸波は訴えるような眼つきをした。
「たしかに、前野さんから電話があったといってました。今日、私、第一ホテルに呼びつけられたのです」
「ほう」
辰夫は、わけがわからない。
「どうしたというのです?」
「ふたつ目の問題がここから生じます。鈴鹿さんは、あなたに、台本のラストを変更したいといったでしょう」
「それが、どうかしたのですか」
と、辰夫は畳みかける。
「戸波さんも私も、承知したじゃありませんか、その件は」
「はあ」
「あの男、なにを|がたがた《ヽヽヽヽ》言ってるんですか」
「鈴鹿さんは、ドラマのラストを元に戻《もど》したいのだそうです。つまり、主人公が、原水爆禁止運動に加わるのではなく、保守党のアイドルとなって、恋人と別れるラストシーンに戻したいと……」
「なにを言ってやがるんだ、あいつ!」
辰夫は、かっとなった。
「まあ、きいてください。元のラストに戻してよければ、あと一日で書きあげる、というのです」
戸波は辰夫の表情を注視している。
「どうでしょうか?」
「おかしいな。なぜ、ぼくに、直接、言わないのだろう」
「それは……」と、戸波は苦笑する。「こわがっているのですよ、あなたを」
「冗談じゃない」
「本当です。こないだ、ラストを変えたい、と言って、また、元に戻したいというのでは、あまりにも、みっともないし、前野さんが怒るにちがいない、と言ってました」
「最初のぼくの案通りになるのですから、方向じたいは結構なんです。ただ、考えが、ころころ変るのが、おかしい」
「私も、そう思います。ただ、このさい、鈴鹿さんの言う通りにしないと、台本が完成しません」
辰夫は、怒りを爆発させるのを怺《こら》えた。|こめかみ《ヽヽヽヽ》が痛み、毒が全身にまわり始めた。
「前野さんには申しわけないのですが、鈴鹿さんとかかわりを持って、この程度の被害《ダメージ》ですめば、軽いほうです。ここはひとつ、我慢してください。お願いします」
「私からもお願いします」
白井直人が突然、頭をさげた。
「今度の公演に賭《か》けているのです。京都で成功すれば、東京公演が可能になるそうですから」
「白井君は、赤星プロの圧力で、映画、テレビ、ステージ、ジャズ喫茶、すべてに出られないのですよ」と戸波が説明した。
辰夫はすぐには答えなかった。
鈴鹿の申し出を承諾せざるを得ないのは明瞭《めいりよう》だった。忌々《いまいま》しいのは、鈴鹿の思いつき、気まぐれによって、事態が変えられてゆくことである。その背後に、|なにか《ヽヽヽ》がありそうな気がした。
「ぼくだって、鈴鹿さんの態度を良いと思っちゃいませんよ」
白井は老成した微笑を浮べた。
「あんまり、自分勝手なので、ぶん殴ってやろうかと思う時もあります。……ただ、そんなことをしたら、ぼくがマスコミの袋叩《ふくろだた》きに遭いますからね。幕が開くまでは、自分を殺しているのです」
台本を受けとるまでの辛抱だ、と辰夫は思った。それまでは、とにかく、忍耐するしかない。
あくる晩は、佐伯一誠《さえきいつせい》の原稿ができあがる約束であった。
できているかどうか、電話で確認するのが常識であるが、佐伯一誠のような超流行作家に、そうした常識は通用しない。足を使って、まず、佐伯邸まで行くことが先決である。苦労に苦労を重ねて、今日の地位に到達した佐伯は、若者が苦労して、喘《あえ》ぐ姿を見るのが好きなのである。
笹塚《ささづか》の陰気な家の門の脇《わき》のチャイムを鳴らすと、女中らしい声が、
――なんでしょうか。
とスピーカー越しに答える。
おれは御用聞きか、と辰夫は情なかった。
用件を話すと、
――文化社あてのお原稿はあずかっておりませんが……。
と、つれない返事である。
――困りましたな。先生にお取り次ぎいただけませんか。
――お待ちください。うかがってまいりますが……起きていらっしゃるかどうか。
ひどいことになってきた。時間的には、充分に余裕があるのだが、佐伯の気が変ってしまうのが、なによりも怖い。
女中が門をあけてくれた。
「お目にかかるそうです」
「はっ」
辰夫は思わず、身がひきしまった。
暗闇《くらやみ》を抜けて、玄関に入る。男たちが談笑する声がきこえるのは、原稿を待つ週刊誌記者であろうか。
「こちらです」
通されたのは、このまえの書斎である。
着流しの佐伯は、寝乱れた頭をかきむしりながら、
「うとうとしとったのに起されてしまった」
と、不機嫌《ふきげん》そうに呟《つぶや》いた。
「申しわけございません」
「女中が気がきかんのだ。おれが寝とるときは、声をかけてはいかんと、きつく言い渡してあるのに」
大変なことになった、と辰夫は思う。
佐伯は、ぼんやりした顔で椅子《いす》にかけ、頭を左右に振った。つぎに、頭をぐるぐるまわして、頸《くび》の骨を鳴らした。
それから、辰夫の顔を見て、
「何の用だっけ?」
と、きいた。
「あの――『新青年』の想《おも》い出を……」
おそるおそる、辰夫が言うと、
「ああ、そうか」
佐伯はようやく想い出した。
「あれは、もう、締め切りなのか」
「いえ、締め切りは六月末ですが、先生はヨーロッパへ発《た》たれるので、だいぶ早いが、書いてしまおうとおっしゃって」
「む、そうであった」
佐伯は眼を開いた。
「忙しいので、頭の中が|ごちゃごちゃ《ヽヽヽヽヽヽ》している。……きみにそう言ったのを想い出した。六月はヨーロッパ旅行があったのだ」
女中が麦湯を運んできた。
「わかった。まあ、すわりたまえ、津田君」
「私、前野です。津田はやめました」
「失敬した。あの男の印象が強烈だったので、文化社ときくと、すぐに、津田と想ってしまう。どうしてる、あの男?」
「さあ」
「どこかで生きているのだろうな」
流行作家は、あたりまえのことを口にした。
「さて、眼が覚めてしまっては仕方がない。『新青年』の想い出を語ろう」
「ちょっと待ってください」
辰夫は慌《あわ》てた。テープレコーダーを持ってきていないので、速記者を呼ばなければならない。しかし、この時間では、速記者のオフィスは閉っている。
「どうした?」
佐伯は面白《おもしろ》そうに言った。
「私、速記ができないので」
「一時間しかあいていない」
と、佐伯は呟いた。
「一時間たつと、週刊誌を一回分、書かねばならない。それが終ると、眠って、別の週刊誌にかかる。そうやっていくと、二週間は隙間《すきま》がない。国内の取材旅行もあるしな」
「弱りました……」
辰夫は溜息《ためいき》をついた。
「なるべく、ゆっくり喋《しやべ》るから、きみ、要点を書きとりたまえ」
佐伯は命令するように言う。
「そして、明朝までに原稿にまとめなさい。たしか、十八枚だったな」
枚数は正確に記憶していた。
「はい」
「さあ、始めよう」
「やってみます」
辰夫は力のない声を出した。
「なんとか、明朝、まとめてきます」
「|きます《ヽヽヽ》、ではない。この屋根の下でまとめるのだ」
「は?」
「は、ではない。編集者のための仕事部屋が用意してある。そこで、まとめればよろしい。――わしは、週刊誌一回分を書いて眠る。明朝、九時半か十時に起きて、朝食をとる。朝食をとりながら、きみの原稿に眼《め》を通そう。わかったかね?」
翌日の正午近く、新橋の第一ホテルに向うタクシーの中で、辰夫は何度も、睡魔に襲われた。
佐伯邸であてがわれた部屋は三畳で、気兼ねしながらの原稿書きでは、すぐに夜が明けた。毛布を一枚借りたものの、寒く、眠ったのは、一時間ほどである。女中に叩き起され、佐伯がクロワッサンとコーヒーで朝食をとりつつある脇に伺候《しこう》すると、原稿を眺《なが》めた佐伯は、ただちに、誤字脱字を指摘し、「これでも、大学を出ているのか!」と罵倒《ばとう》する。それでも、さすが、超の字のつく流行作家、あっという間に、加筆を終えて、「まあ、いいだろう」と原稿を放《ほう》り出した。
第一ホテルのコーヒーハウスで、十一時に、鈴鹿《すずか》に会う約束がある辰夫《たつお》は、佐伯邸を出るや否《いな》や、赤電話を探し、戸波《となみ》に、遅れることを伝えたのだが――。
……うとうとしかけた時、タクシーは、無情にも、ホテルの前にとまっていた。運転手の心配そうな顔が眩《まぶ》しかった。辰夫は代金を払って、佐伯一誠の原稿が入ったバッグを片手に、ホテルのコーヒーハウスに向った。
サングラスをかけた鈴鹿は、日本茶を飲んでいた。
辰夫の顔を見ると、「前野さんでも、約束の時間に遅れることがあるんだね」と、皮肉を言った。
「申しわけない。説明しようもないことが起った」
「ぼくも、一日遅れたんだから、文句は言えない」
鈴鹿は笑って、パンナムの大きな紙袋をテーブルにのせた。
「見ていいですね?」
念を押してから、辰夫は、紙袋の中の原稿の束を引き出して、読み始めた。途中まではコピーを読んでいたので、後半を斜めに読みとばし、終りの部分はゆっくり読んだ。
「……なるほど」
辰夫は、サングラスの奥の眼を見つめた。
「面白そうだ。今夜、ゆっくり読んで、お宅に電話を入れる」
「結末は、ごらんの通りさ。前野さんの考えたままで、ぼく流の味つけがしてある。わりに、うまく行ったと思う」
「ご苦労様でした」
辰夫は笑ってみせた。思考能力が殆《ほとん》ど失われている。
「ぼく、次の打合せがあるんだ。じゃ、また……」
鈴鹿は立ち上り、人々の視線を意識した足どりで去って行った。
パンナムの袋に肘《ひじ》をついて、ぼんやりしている辰夫の前に、スローモーション撮影のような動きで、戸波の顔が現れた。
「一難去って――というところです」
戸波は疲れた笑いを見せた。
「台本だけで、この騒ぎですから。演出をたのまないで、よかった」
「演出も、やりたがってたな」
辰夫は冷ややかに言った。
「こんなことじゃないかと思って、演出を別にしておいたのです。頼んでおいて、断りでもしたら、キャンセル料を要求されますよ」
戸波の口調は感情的になる。
「ホテルの支払いをすませたのです。ごらんになりますか」
料金の明細書が鼻先に突きつけられた。四泊五日とは思えぬ金額だった。
「どうしてこんな額になるんですか?」
辰夫は驚いた。
「鈴鹿|兵伍《ひようご》が若いダンサーたちを呼んで、フルコースのディナーを食わせたのです。しかも、そのあと、バーで酒を飲ませています。要するに、いい顔をしてみせたかったのでしょうな。文句をいえば、貧しいダンサーの身を考えてみろ、とか、そんな屁理屈《へりくつ》が返ってくるだけです」
戸波は明細書をポケットに入れた。一刻も早く忘れてしまいたい様子だった。
月がかわると、すぐに梅雨《つゆ》入りした。
ミュージカルは、台本の直しが必要だったが、鈴鹿は、案じていたほど気むずかしくはなく、部分的書き直しの依頼に応じた。
「自分で演出ができればいいんだけどね」と、鈴鹿は不満そうだった。「戸波さんは、はじめから、ぼくにやらせる気がなかったらしい」
台本が完成してしまえば、あとは、戸波プロデューサーの腕の見せどころである。
「芸能プロ諷刺《ふうし》が薄味になったので、白井は残念がっていますがね。まあ、いけるでしょう、これで」
戸波は大きく頷《うなず》いた。
「前野さんも稽古場《けいこば》に顔を出してくださいよ」
「そのつもりです」
辰夫は答えたものの、心は本業に飛んでいた。
とりあえずの予定として――
六月十日 「パズラー」八月号校了
七月十日 「パズラー」九月号校了
七月二十五日 「別冊・パズラー」校了
という段どりになっており、これ以外に「予感」創刊号の準備をすすめなければならなかった。
編集室のソファーは、遊びにきた連中に占拠されていた。
戦闘的な映画批評家、詩人、井田、金井らが、ドン・シーゲルの戦争映画「突撃隊」について論じ合っている。試写室の昂奮《こうふん》を、そのまま、持ち込んできた感じで、こうした空気は辰夫の望んでいたものだ。
「あの監督はファシストではないかね」
と、批評家が言う。
「戦争に形を借りた暴力映画だろう。暴力を描けばファシストだ、とはいえまい」
詩人が反駁《はんばく》した。
「井田さん、ちょっと……」
辰夫は小声で呼んだ。
紺のブレザー姿の井田は立ち上り、辰夫のデスクの横まできた。
「すわってください」
と、辰夫は折り畳み椅子をすすめて、
「頂いたお原稿を読みました。面白かったです」
「それは、どうも」
赤いネクタイの位置を気にしながら、井田は鹿爪《しかつめ》らしく答えた。
「一つの短い行為《アクシヨン》をサンプルにして、いろいろな作家の文体模写をならべるという手は、初めてです。こういう手は外国にあるのですか」
「フランスで、ある作家が試みたという紹介を、なにかで読んだ気がします」
「そういうヒントだけで書けるものですか」
「ええ」
井田は首を縦にふる。戯文に関しては大いに自信があるようだった。
「とても面白いです」
と辰夫は強調しておいて、
「どうでしょうか。二カ所ばかり、直していただけると、もっと良くなると思うのですが」
「ほう……」
おれの戯文に注文をつけるのか、という揶揄《やゆ》の色が井田の眼に浮ぶ。
「気を悪くしないでください」
辰夫はつけ加えた。
彼自身、雑文を書いているので、他人に批評された上で、文章を直さざるを得ないときの――たとえ相手の注意が正当だったとしても――屈辱感は、よくわかるのであった。しかしながら、相手の気持を斟酌《しんしやく》するあまり、妥協してはならない、と思った。井田が自信を持っているように、辰夫もまた、編集者としての自信を持っているのだ。
「この部分です」
彼は直し方を具体的に示した。
「いちだんと似ると思うのですが」
「かも知れませんね」
井田は冷静さを装ったが、語尾がふるえていた。
「わたしは、このままでも、けっこう似ていると思いますが……」
「それはそうです。井田さんの才能を十二分に認めた上で、ぼくは、より高度なものを求めているのですから」
「強《し》いて|いじる《ヽヽヽ》必要はないんじゃないかな」
意地になった井田は、遠まわしに拒否の意志を表明した。
「そう突っ張られては困ります」
辰夫は粘った。
「井田さん、考えてもみてください。ぼくは意地で言ってるんじゃありませんよ。あなたのためなのですよ、すべて」
「わたしのため?」
井田の眼が辰夫を直視した。
「ええ」
「では、うかがいます。風間ユカの番組を三、四回書いただけでオロしたのも、わたしのためですか」
相手が何を言わんとしているのか、辰夫にはわからなかった。
「オロした? ぼくが?」
「前野さんのひとことで決った、という風にきいております」
「莫迦《ばか》な!」
辰夫は思わず叫んだ。
井田実の台本が、暗くて面白さに乏しい、と批判したのはプロデューサーであった。短期決戦の番組なので、作家を育成する余裕はなく、井田はオロされた。それを、おれの差し金だと思っていたのか!
怒るよりも、情なさが先に立った。いったい、どういう人間なのだろうか。
「あなたを推したのは、ぼくですよ。推したり、引きずりおろしたり、そんなややこしい真似《まね》ができますか。それに、ぼくには決定権がない……」
「そう言えばそうですね」
井田は混乱したように独りごちた。
「じゃ、前野さんを陥《おとしい》れるつもりで言ったのか」
「そう言ったのはプロデューサーですか」
辰夫は切り口上になる。
「いえ」
「だれです」
「それは、勘弁してください」
相手は、もそもそと言う。
井田がオロされた話を耳にした辰夫は、それじたい、取りなしようのない成り行きなので、沈黙していた。その後、井田に会うことがあっても、|その話には《ヽヽヽヽヽ》触れなかった。それがテレビ業界での思いやりだと辰夫は考えている。
が、その間《かん》、井田はずっと、辰夫への憎悪《ぞうお》を胸にたぎらせていたらしい。
「あなたも妙な人ですね。どうして、すぐに、ぼくを詰問《きつもん》しなかったのですか」
「それは。……いえ、もう、いいのです」
「よくありませんよ、ぼくは」
「わたしの誤解でした。この原稿、直します」
井田は大粒の涙を浮べている。辰夫は釈然としなかった。
やがて、井田たちは帰って行った。
直した原稿を眺めている辰夫の傍《そば》に金井がやってきて、「あの男は凡庸なのですよ」と評した。
「見当違いで|ひと《ヽヽ》を恨むのは困る」
辰夫は苦い表情になる。
「自分を多才に見せたいのでしょう」と金井は嗤《わら》った。「それで、うまくいかないと、他人のせいにするわけです」
戸波の執拗《しつよう》な誘いに抗しきれなくなった辰夫は、舞台稽古を覗《のぞ》きに行った。
アメリカ映画の影響で、プロデューサーといえば、オーバーを軽く羽織って、傾斜気味の通路を気むずかしげに舞台に向って歩くものと決めていた辰夫は、わざわざレインコートを携えて出かけたのだが、稽古がおこなわれているのは、なんと杉並《すぎなみ》区の幼稚園であった。戸波の苦労にもかかわらず、稽古場は、新宿西口の倉庫やら杉並の幼稚園を転々としている状態らしい。幼児が描いたお日様や象さんの絵の前で、男女のダンサーたちがはげしい動きを見せるのは、それなりに迫力があり、ある種の感動さえおぼえるのだったが、〈ショウビジネス〉という言葉から湧《わ》くイメージとは、大きな落差があった。
別冊の表紙は、創刊号いらい、ずっと続けているポップアート以外の|なにか《ヽヽヽ》にしたかった。
この号に関してのみ、表紙を、外部のデザイナーに依頼することにした。デザイナーは、人気上昇中の若手で、〈遊びの会〉の会員でもあった。
「抽象画になるのかね」
と、辰夫はたずねる。
「そういう表紙が多過ぎるのです」
デザイナーは気乗り薄だった。
「ぼくには、これという案がないのだ。どうしたら、いいだろう」
「デザイン的にいえば、やりたいことは、いろいろあります。でも、前野さんは、雑誌を売りたいのでしょう?」
「そうだ」
「書店での店頭効果を考えると、ぎょっとするようなものがいいですねえ」
と、デザイナーは言った。
「そりゃ、人目につく方がいい」
辰夫が同意すると、デザイナーはソファーの背に凭《もた》れかかって、眼《め》をつむった。
やがて、「写真でいきますか」と、言った。
「写真?」
辰夫《たつお》は問いかえす。
「ええ」
デザイナーは眼をあけた。
「写真て――たとえば、どういうの?」
「『新青年』の特集ですから、一九三〇年代調の絵柄《えがら》も考えてみたのです。たしかに品は良くなるし、ノスタルジックでもあるし、お年寄りには褒《ほ》められるでしょう」
「でも、いまは一九六二年だからな」
「若い読者は、そっぽを向くと思います」
相手は確信ありげに言った。
「前野さんに度胸があれば、やってみたいことがあるのです」
「なんだい?」
「ちょっと、ヤバいのですよ。良識的新聞や世論の攻撃を受けるかも知れません」
「気をもたせないで早く言えよ」
「拳銃《けんじゆう》の写真を表紙にするのです」
「拳銃?」
辰夫は浮かぬ顔をした。
「内容と合わないんじゃないか」
「合うようにすればいいんです。一九二〇年代――いわゆるローリング・トゥエンティースを象徴するスナブ・ノーズ式のリヴォルヴァーなら、『新青年』の時代にも合うでしょう」
「スナブ・ノーズってなんだい?」
「獅子《しし》っ鼻《ぱな》です」
デザイナーは、文化社の原稿用紙に、絵を描いてみせて、
「S&Wのチーフ・スペシャルとか、コルト社のディテクティヴ・スペシャルが、これですよ」
「そういうもので、ノスタルジックにできるのかい」
「薔薇《ばら》の花を脇《わき》にあしらうとか、手はあります」
青年の眼は異常に輝き出した。この男自身、拳銃が好きなのではないかと思えてきた。
「でも、右傾化につながるとか、批難されますよ、きっと」
「批難されてもいいけどね」
辰夫は答える。
「拳銃を表紙にするのは、ぼくの美意識に抵抗がある。〈予感〉という副題の下が拳銃の写真じゃ……」
「いいじゃないですか。ぼくら、いつも、テロリズムを夢見ているってことで」
恰好《かつこう》をつけ過ぎる、と辰夫は感じた。
「ぼくの美意識はさておいて、きみが拳銃に執着していることには興味がある。そういう若い人が多いのか」
「多いですよ」
相手はにやにやした。
「十代にも、すごく多いのです」
「ひょっとしたら、きみは、拳銃を持っているんじゃないか」
「まあまあ……」
青年はあいまいに笑って、
「趣味ではあるのです。でも、それだけじゃありません。ノスタルジーに耽《ふけ》るための雑誌ではないことを示すために、鋭さを見せたほうがいいと思うのです。ぼくらの世代の雑誌であることを強調するのです」
「その点は賛成だ。しかし、拳銃を表紙にするのは……」
「面白《おもしろ》いと思います」
と、石黒が自分のデスクに向ったままで声をかけてきた。
「痺《しび》れますよ」
辰夫は言葉を失った。温和な石黒がデザイナーの案を支持したのが意外だった。
「本気で、そう思うかね」と彼は石黒にきいた。
「いいですよ」
石黒はにやりとした。
そういうムードがあるのか、と辰夫は思った。やがて三十歳になる辰夫と二十歳前後の青年たちとのあいだに、感覚に|ずれ《ヽヽ》があるのは致し方ない。しかし、拳銃愛好症となると、精神分析の対象ではないかという気がした。
「石黒君までそう言うのなら、考えてみなければいかん。どういう写真になるのだ?」
「発砲した一瞬ですよ。オレンジ色の光を捉《とら》えなければ嘘《うそ》です」
デザイナーが主張する。
「外国の写真を買うのか」
「それじゃ駄目《だめ》です。イメージ通りにするためには、本物をぶっ放して、カメラマンに撮らせるのです」
穏やかでない話になった。
「警察が調べにくるぜ」
「そうしたら、外国の写真を使ったといえばいいじゃないですか」
デザイナーは無邪気に笑った。
辰夫はまだ抵抗を感じていたが、とにかく、写真を撮ってみることにした。
小型の拳銃はデザイナーが入手してきた。ひょっとしたら、当人のものかも知れない。撮影場所は文化社の倉庫に決った。
当日は、デザイナー、カメラマン、辰夫、石黒の四人が倉庫に入り、ドアを閉めた。夜なので、社員の大半はいないはずであった。
引き金をひく役は、石黒が買って出た。新聞紙を縦につめたミカン箱に向って、発砲するのだが、いざやってみると、凄《すさ》まじい音がした。倉庫が狭いので、音が籠《こも》るのである。
「早く終らないと、近所から文句がくるぞ」
責任者である辰夫は心配した。
ミカン箱は穴だらけになった。発射の瞬間とシャッターのひらく瞬間が、うまくシンクロしないのである。
不意にドアがあき、だれか入ってきた。
「なにをしているのですか、あなたがた!」
西の声であった。
「二階まで響いているのですよ」
辰夫は詫《わ》びた。そして、なにを試みているかを説明した。
「むちゃをしますな。一一〇番されたら、どうなると思います」
「西さん、ピストルを撃てますか」
辰夫は問い返した。
「撃てたけど、昔のはなしです。戦争中だもの」
「じゃ、撃ってみてください」
「冗談じゃないですよ」
「そうすれば、すぐに終ります」
押し問答があって、なんやかや、ためらったのち、西は拳銃を右手に持ち、二度、引き金を引いた。タイミングが正確なので、撮影はただちに終了した。
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第十六章 衝撃
典子《のりこ》の二の腕は、真新しい毛糸を束ねたように柔らかい。軽くつかんでも、親指がめり込むようで、気持がよかった。
階段をおりるときや、新しいビルの入口の滑り易《やす》い部分などで、彼は、さりげなく、彼女の腕を押えた。
〈軽く扱われた〉と皮肉を言われていらい、辰夫は、心ならずも、紳士的にふるまっていた。映画を観《み》て、食事をする、といった、きわめて健全なコースである。ただし、映画に関しては、典子の好みのヨーロッパ映画ではなく、ハワード・ホークスやジョン・フォードの作品を選んだ。彼らが会うのは、たいてい週末だったから、映画館は混《こ》んでいた。
たまには、典子の好む映画を観ることもあったが、辰夫は退屈するのが常だった。アントニオーニの「情事」に至っては、半分ほど眠ってしまい、筋がわからなかった。「情事」こそ、いままでに観た映画のベストワンです、と典子は言いきった。
「このところ、寝不足が続いているので……」
喫茶店の片隅《かたすみ》で彼は言いわけをした。
あいかわらず、化粧をしない典子は、微笑を浮べているだけで、殆《ほとん》ど口をひらこうとしない。もっとも、眠っていた男に、何度目かの「情事」の感想を述べたところで仕方がないだろう。
辰夫にとって、これは困ったことだった。彼は、できれば、典子の顔を眺《なが》めていたいのである。さらに、可能であれば、ずっと、そうしていたい。だが、相手が口を噤《つぐ》んでいるのでは、なにか言わざるを得ないのだ。
「アメリカン・ポップス愛好とアントニオーニが、どう繋《つな》がるのですか」
間《ま》がもたない辰夫は煙草《たばこ》に火をつけた。
典子の前に出ると、彼は別人のように無口になる。自分の浮薄さ、おっちょこちょい、単細胞ぶりが、すべて、見透かされている気がした。
「わかりません、私にも」
と典子は答えた。
「深く考えたことがないんです」
会話が跡切《とぎ》れる。辰夫はしきりにコップの水を飲む。
寝不足になっているのは、仕事よりも、典子のおかげである。
いままでの辰夫には、きみを軽く扱ったわけではないと女性に言いながら、さらに軽く扱って恥じない厚顔さがあった。しかし、典子に関しては、そうはいかない。そのような気配を示したとたんに、相手は殻《から》の中に閉《と》じ籠《こも》ってしまいそうである。そうした事態をおそれるからこそ、彼は自重し、挙句《あげく》は、外に向うべきエネルギーが体内を駈《か》けめぐって、彼を眠れなくするのだった。
「アントニオーニの映画って、そんなに面白いかなあ」
彼はひとりごとのように言った。
「もうすぐ、『太陽はひとりぼっち』の試写があるの。たのしみだわ」
理解できなかった。なぜ、この娘は、批評家がいうところの〈愛の不毛〉の世界に惹《ひ》かれるのか。
男同士のあいだならば、おまえはアントニオーニの世界がわからないのか、と評されても、平気だった。
――それがどうした?
と、開き直ってしまえばいいのだし、もともと、自分は、日本でいう〈インテリ〉ではない、と考えているのだから、痛くも痒《かゆ》くもなかった。
しかし、今回は、話がちがう。このさい、〈愛の不毛〉とやらを、じっくり考えなければいけないのではないか。
たまたま、「太陽はひとりぼっち」、「夜」と、アントニオーニの映画の試写がつづいた。「情事」とこの二本で、〈愛の不毛〉三部作になるのだそうだ。万障くりあわせて、辰夫は試写室に出かけた。
「太陽はひとりぼっち」のヒロインは、「情事」につづいて、モニカ・ヴィッティという、色気のない、なんだか不感症めいた女が演じていた。
ヒロインは、三年間、関係があった外交官と別れる決心をした様子である。そして、証券取引所で、仲買人の青年(アラン・ドロン)と知り合う。ヒロインと青年は、肉体的に結ばれるが、愛が生れるわけではなかった――というような、世間によくある話が、もったいぶった、意味ありげな映像で描かれる。
「夜」のほうは、結婚生活十年になる作家と妻が、自分たちをつなぐ絆《きずな》が消え失せているのに気づき、パーティーに出かける。作家は美しい娘(またしても、モニカ・ヴィッティめが出てくる!)と出会い、たわむれたりするが、結局は、空虚であり、夫婦は無理に行為をもとうと空《むな》しい努力をする――といった話で、いっしょに観た金井は、「自分のような女房《にようぼう》持ちは身につまされて、やりきれない」と感想を述べた。
辰夫には、そうした実感はなかった。彼が感じたのは、「太陽はひとりぼっち」のヒロインにしろ、「夜」の夫婦にしろ、驚くべき閑人《ひまじん》だという一事であった。べつに労働を美徳と考えているわけではないが、ここまでテッテイして閑な人々の、閑であるがゆえの〈悩み〉につき合わされると、共感のしようがない。監督自身、たぶん、閑人であって、|それなりに《ヽヽヽヽヽ》誠実であるのがわかるだけに、まさに〈やりきれない〉。しかし、率直かつ乱暴なこうした感想を、典子に語るわけにはいかなかった。
先日、撮影した拳銃の写真――これを外国のネガだと言い張るのはむずかしそうだった――と、アール・デコ風の女性の絵を持って、デザイナーが現れた。
拳銃の方は、発射時の閃光《せんこう》が色鮮かに捉《とら》えられていて、石黒は、「決りですよ、これで」と断言した。
辰夫《たつお》は、やはり、賛成できなかった。彼と竹宮照子は、「新青年」調の絵を支持した。デザイナーは、いよいよ拳銃を推すので、二対二である。
広辞苑《こうじえん》の意見をきいてみると、意外に慎重で、「甲乙つけがたい」と重々しく答えた。あとは、営業部の意見をきく必要があった。
営業部の青年は、「絵のほうもいいけどね」と、にやにやしながら、拳銃のほうを支持した。
「きみも、そういう趣味か」
辰夫がからかうと、
「営業的見地からですよ」
と、青年は答えた。
「今朝の新聞をみましたか」
「まだだよ」
「ごらんになったほうがいいですよ」
と、手元の新聞をひらいてみせる。
その記事は、リバイバル西部劇のヒットの背景にある若者の熱狂ぶりを探っていて、〈西部への道はガン(銃)に始まるといっていいだろう〉という書き出しである。銃器マニアの多いことに触れているのが、従来の西部劇ブーム記事と異《ことな》っていた。
「この写真を表紙にすれば、それだけで買う人がいますよ。それで、中身が良けりゃ、けっこうじゃないですか」
青年は力説した。
「しかし、表紙だけで、拒絶反応を起す人があるかも知れない」と、辰夫は反論する。
「そりゃそうです。問題は、どっちの数が多いかです。ぼくは、タイミングからみて、買う人が多いと見ます。若い人でしょうがね……」
「こうなったら、黒崎《くろさき》さんに決めて貰《もら》うしかないな」
辰夫は判断がつかなかった。こんなに迷ったことは初めてだ。
やがて、黒崎が現れた。
「こう蒸してはたまらんな」
と呟《つぶや》いて、上着を脱ぐと、写真と絵を見くらべる。
「意見が二つに割れているのです」
辰夫は説明した。
「どうして?」
眼鏡を外した黒崎は不思議そうな顔をした。
「この絵は古くさくていかんぞ。感覚がズレとる。まるで戦前のようだ」
「わざと、そういう風に描いたのですよ」
と、辰夫はうんざりする。
「ピストルの写真、いいではないか。国産品でないから、生々しくない。小型で、ユーモラスじゃないか」
黒崎は挑《いど》むように辰夫を見た。
「ユーモラスでしょうか」
「わしには、そう見える。戦時中に、わしが使っとったのは国産で、もっと大きい」
辰夫は呆気《あつけ》にとられた。保守的な黒崎なら反対してくれると思ったのだ。
「おい、この写真、いったい、どこで撮ったものだ?」
こまかいトラブルが絶えないとはいえ、仕事は、いちおう、順調に運んでいた。
典子とのあいだが進展しないのだけが大きな悩みだった。極めて寛容に見えながら、彼女は、ある一線から内側に、彼を入れなかった。何度会っても、ふたりは平行線を辿《たど》るだけであり、辰夫は不満を覚えた。
典子の名は伏せたまま、彼は自分が陥っている状態を金井に打ち明けた。
「気持はわかりますがねえ」
金井は明るい口調で言う。
「気が短か過ぎますよ、前野さん」
「そうかねえ」
辰夫は沈んでいる。仕事がどんなにうまくいったところで、典子が自分のものにならなければ生きている意味がない、とまで思いつめていた。
「そうですよ」
と、金井は苦労人めいた調子で続ける。
「雑誌一冊を|もの《ヽヽ》にするのに、あなたは悪戦苦闘したじゃありませんか。あのエネルギーたるや、大変なものです。まして、相手は生ま身の人間ですよ。そう簡単にすむはずはない」
「それは、わかってる」
「いや、わかってないですよ。なにもかも、あなたの思う通りにはいきません」
「きみも、結婚するまえ、大変だったかい」
「そうですねえ。まあ、いろいろ、ありました」
「たとえば?」
「経済的なこととか」
話が噛《か》み合っていないようだった。
辰夫が恐れているのは、典子との距離が、いまの形のままで、凝固してしまうことだった。
「その人の家庭は良いのですか」
「良い方だろうね」
「じゃ、むずかしいな」
金井は考え込んだ。
「家庭に|ゆとり《ヽヽヽ》があれば、なるべく長く、遊んでいたいでしょうから」
金井の発想は、まともであり、月並みでもあった。
月並みでない意見をききたいと思っているとき、あるパーティーで、久しぶりに川合に会った。パーティーのあと、新宿のバーに流れたので、辰夫は典子の話をした。もっとも、典子の名前は伏せておいたのだが。
「そりゃ、|やっちゃう《ヽヽヽヽヽ》しかないだろ」
川合はつまらなそうに答える。
「そういう風に行くものなら、相談しやしない。行かないから、きいてるんだ」
「だけど、結局、|それ《ヽヽ》だぜ」
突き放された思いで、辰夫は沈黙した。
「強引にでも、いくしかないよ。その時は声をかけてくれ。足を押えるのを手伝う」
のんびり付き合ったほうがいい、と、強姦《ごうかん》してしまえ、という二つの極端な意見のあいだで、辰夫は宙吊《ちゆうづ》りになっていた。川合の意見は、酒席での無責任な放言だが、一面の真実があるのを認めざるを得ない。
鬱《うつ》状態にある辰夫に、典子から電話が入った。溜池《ためいけ》にオープンしたフランス料理屋に案内したい、というのだった。
パリで料理修業をしてきたという人物が経営するその店は、驚くほど小さく、テーブルが少くて、これで採算がとれるのか、と首をかしげたくなる。テーブルの少なさが、格式に通じると思い込んでいるのではないか、と反感を抱くほど、マネージャーは気取っており、ヨーロッパ映画の中の人物のように、右手を派手に動かした。
辰夫は、いつかのエスカルゴいらい、フランス料理とは相性が悪くなっている。今度も、チーズを選べと迫られたのだが、そもそも、種類を知らないのだから、選びようがなく、閉口した。
「高いでしょうな、ここは」
まことに殺風景な感想を述べる。
「おいしいのよ」
と、典子は躱《かわ》した。
「開店したばかりなので、映画スターみたいなお客が多いの」
「ああいう奴《やつ》らからは、いくら取ってもいいんです」
料理がなかなかこないので、辰夫は、ワインをやたらに飲んだ。赤ワインの銘柄《めいがら》は、典子が選んだのである。
「いつか、アメリカのポップスが生み出される現場を見たい、と私が言ったの、覚えてらっしゃいますか」
典子はまっすぐに辰夫を見た。
「覚えてます」
「実行しようかと思うの」
「え?」
辰夫は首をあげた。
「日本の映画会社のロサンゼルス・オフィスが秘書を探していて、私に話がきたの。大学のころ、アメリカ人に会話を習ってた関係からなんです」
「アメリカへ行くつもりですか」
辰夫は本気にできなかった。シンデレラ・ストーリーでもきかされているようだった。
「オフィスの代表は、日本人なの。だから、会話よりもタイプライターが問題なんです。めったにないチャンスだし、東京で遊んでいても、しようがないでしょう」
「アメリカ……」
辰夫は呆《ほう》けたようにくりかえした。
彼にとって、アメリカ大陸は、スクリーンの中にしかない夢の国だった。現実感のないお伽《とぎ》の国といってもよかった。
ここで、改めて、この時期の若者にとって、アメリカがいかに遠いものだったかを強調しておく必要があるだろう。
〈この時期〉と、作者《わたくし》は書いたが、それは〈六〇年代〉を意味するわけではない。ずばり、一九六二年をさすのである。
こころみに、六二年夏の新聞をめくってみると、わずかに、デパートがデンマーク展やイタリアのファッション紹介をおこなっているだけで、海外旅行の広告は一つも出ていない。ハワイさえ、遠い遠い夢の島だったのである。
日本人の海外旅行が自由化されたのは、六四年春である。そして、――おそらくは日本経済の急成長のおかげであろう――六四、五年から、ハワイへ新婚旅行に行く若い男女が増え始める。その意味で、六二年は、まことに微妙な時だった、と見るべきであろう。
十年後の七二年には、ハワイはおろか、西海岸まで、〈農協〉の団体がパックツアーをおこなっているのだから、日本人の渡米は、もはや、日常茶飯事になっていた。
そうした眼《め》から見ると、六一年、六二年ごろの若者がアメリカに対して抱く距離感とコンプレックスは、いささか滑稽《こつけい》でさえあるのだが、冷静にみれば、大半は経済問題に帰する。アメリカについてのさまざまな情報が、歪《ゆが》んだ形であれ、滔々《とうとう》と流れこんでくるのも、やはり、数年先の話である。
六一年、六二年ごろの若い渡米者は、ジャンルを問わず、非常に〈特殊な〉人々であった。学者であれ、DJであれ、新帰朝者は、アメリカのすばらしさと、箔《はく》がついた自分を喧伝《けんでん》した。DJが、アメリカで入手してきた新しいレコードをかけることが売り物のラジオ番組さえ存在した。〈アメリカ帰り〉で箔をつける最後の時期と言っても、言い過ぎではなかろう。
「日本の映画会社が、アメリカにオフィスを持っているのですか?」
それじたい、珍しいニュースだった。
「ええ」
「何のためですかね」
「メジャーではない映画の買い付けをするのですって。大手の映画会社の力が衰えて、小さなプロダクションが活動し始めているらしいの」
典子《のりこ》は説明した。
「そうか。ハリウッドの状況を把握《はあく》するためだな」
テレビの攻勢に対して、ハリウッドは、シネマスコープ、ヴィスタヴィジョン、七〇ミリといった大画面で対抗してきたのだった。しかしながら、多数のスターたちとスペクタクルな見せ場を要する大作映画は、もはや、限界にきていた。そうした事情は、数年遅れて、日本の映画界の中心問題となりつつあり、決して対岸の火事ではなかった。
「それに、日本映画を貸し出す仕事もあるのです。ゆくゆくは、日本映画の専門館を作りたいらしいの」
「お客がいるんですかね?」
「ロスには、リトル・トーキョーがあるでしょう。潜在的な需要があるみたい」
「大きなオフィスなんですか」
辰夫が気にしているのはその点だった。
「小さいの。代表の日本人がひとりと、アメリカ人の秘書がひとりだけ。秘書が七月いっぱいでやめるので、後《あと》のひとを探しているんです」
「ペリー・メースンのオフィス風だな」
彼は、内心、気に入らなかった。そうしたオフィスで、ボスと秘書が恋に落ちるのは当然の成り行きに思える。
「英会話の能力を要求されますね」
「ええ」
「自信、あるのですか」
「ないです」
と、典子はあっさり答える。
「でも、行ってしまえば、なんとかなると思うの。楽観的なんです。英文タイプは、あわてて、習ってます」
「いい度胸だなあ」
辰夫《たつお》は感嘆した。お嬢さんの強さだけではない、とも思った。
「横浜の店を経営している兄に相談したのです」
「とめられたでしょう」
「逆です。うちは輸入ばかりしているから、家族ひとりぐらい輸出してもいいだろうって……」
「ひどい冗談だ」
彼は笑えなかった。
「だって、兄が、結婚したばかりでしょう。横浜の家には帰れないの。小姑《こじゆうと》になって嫌《きら》われるのはいやですもの」
そうだ、家庭内の事情があったのだ、と辰夫は納得した。
それにしても、ロスへ行くとは極端である。しかし、藤井《ふじい》家においては、そう極端な発想ではないのかも知れない。
「ご両親はどうなのです?」
「母は反対しています。ただ、父が、好きにしろ、と言っているもので……」
「お父さんは放任主義ですか」
「戦前に、シカゴでぶらぶらしてた人ですもの。子供にあれこれ言えない立場なの」
「シカゴ無宿か」
「本当なんです。家を継ぐのがいやで、シカゴやハワイに逃げてたのです」
「相当なものですね」
「不良よ」
と、典子は誇らしげに言った。
「戦後に、横浜の進駐軍司令部とうまくやれたのは、むかし身につけた俗語《スラング》のおかげですって。だから、若いうちは、なんでも経験しろって考えなの」
典子の渡米を止めなければならない、と思った。それも、早急に、である。
どんな方法があるだろうか?
翌日は、そのことばかり考えていた。彼が考えあぐねているあいだにも、典子はさまざまな手続きを進めているだろう。
夜遅く、アパートに戻《もど》ると、郵便受けに速達が入っていた。
封筒が脹《ふく》れ上っているのが異様だった。差し出し人を見るまでもなく、細いペン字は典子のものだった。靴《くつ》をはいたままで、彼は糊《のり》がかたまった封の部分をひきちぎった。
――ゆうべは、ありがとうございました。(といっても、この手紙は、夜明けに書いているので、本当は、|先ほどは《ヽヽヽヽ》、と書きたい気持ですが……。)もっと、いろいろなお話をするつもりでしたが、すこし酔ったので、やめてしまいました。こう書いたとたんに、ちょっとおかしいなという前野さんの声がきこえてくるような気がいたします。酔ってしまったから話せなかったのではありません。楽しい会話をつづけているうちに、話したくなくなったのです。狡《ずる》いといわれるかも知れませんが――いえ、私は正直に申して狡いタチなのです。狡いから、人を傷つけたり、友達を失ったりしたくないのです。……
辰夫は顔から血が退《ひ》くのを覚えた。レターペーパーで六、七枚もあるので、先を読むのが怖かった。
――……ロサンゼルス行きの話は、もう決ったことで、ビザもおりています。そう打ち明けたら、前野さんに怒られるのではないか、と思ったのです。……でも、ロサンゼルス行きを思いつめた理由の一つは、前野さんにあります。……
二枚読んだところで、彼は、畳に腰をおろした。頭が真空になるようだった。
――……私の自惚《うぬぼ》れのせいかも知れませんが、前野さんがなにを考えていらっしゃるか、わかるような気がいたします。いままでの私でしたら、「その返事は貸しておいてください」と答えて、逃げるところです。でも、この答えは、前野さんには通じないでしょう。あなたは、自分の欲しいものが手に入るまで、ぜったいに引き下らない方のように、私には思えるのです。そういう情熱に伴う危険な感じ≠理屈抜きで好きな女の人もいると思います。……私も、危険な感じ≠フ男性に魅力をおぼえないといえば、嘘《うそ》になります。お目にかかるたびに、あなたが少しずつ、危険≠ナないほうに変られるのではないか、と勝手な希望を抱いたことも告白しておきます。
どういうことだ、と辰夫は動悸《どうき》が激しくなった。
――乱暴な情熱がいつまで私に向けられているでしょうか。すぐ、そんな風に考えてしまうのです。ものごとを、悪い方へ悪い方へと考えるのは生れつきです。でも、いままでは、予感がだいたい当ってきたのです。
――この手紙を出すほうがいいか、黙って出発すべきかも迷いました。黙っていたほうが、あなたを傷つけずにすむ気もしました。……しかし、つい、週末の横浜行きのお約束をしてしまったので、手紙を出さないわけにはいかなかったのです。
――笑われるかも知れませんが、あなたが好きでした。ずっと、いまのような状態でいられるのなら幸せなのですが……。私はしっかりした考えも自信もないので、あなたになにか言われると、そうなのか、と考え直したりもします。そんな風ですから、とにかく、日本を離れて、新しい仕事についたほうがいいと考えたのです。
なんとかしなければ、と辰夫は焦《あせ》った。現実をハリウッド映画のように見る癖から抜けきれない彼は、どんな危機に陥っても、どんでん返しの果てのハッピーエンドがあるはずだと考えていた。
夜が明けてから、典子のアパートに電話してみた。数回かけたが、応答はない。
財布をズボンのポケットに入れて外に出た。タクシーをひろい、麻布竜土町《あざぶりゆうどちよう》に向う。彼女のアパートの前までは、何度か送って行っていたのだ。
階段をのぼり、部屋のブザーを鳴らしたが、返事はない。
青いポリバケツを持った管理人らしい中年女が不審そうに見上げているので、辰夫は声をかけた。
「藤井さん、おでかけでしょうか」
「越されましたよ」
と、女は答える。
「いつですか?」
「荷物は、四日まえに運び出して……きのう、ベッドや机を古道具屋に渡して、挨拶《あいさつ》に見えました」
「昨日までは、いたわけですね」
「夕方ごろまで」
「連絡先を教えていただけますか」
辰夫はさりげなくたずねる。女は部屋に入って行った。
計画的だな、と呟《つぶや》きながら、彼は階段をおりた。別れの食事をして、手紙を書き、姿を消したのだ。
「こちらです」
女はメモ用紙を見せた。元町の実家の番地と電話番号が細いペンで記されている。
「ありがとうございました」
彼は頭をさげた。
川合のいるアパートの脇《わき》を通って電車通りに出た。会社はまだあいていない時刻なので、タクシーで自分のアパートに戻った。
牛乳をコップ半分飲んで、典子の手紙を読みかえした。
次の横浜行きの時に――もしそういうムードになったら、のはなしであるが――プロポーズするつもりでいたのだった。典子は気配を察知し、先手を打った。言葉としては記してないが、〈あなたとでは平穏な生活があり得ない〉と、はっきり言っているのだ。危険さに魅力は感じるが、自分は平穏を好む、というわけだ。平穏を好む人間が、なぜ、ロスまで行くのか、という疑問は残るが、それはまた別の話なのだろう。
おれは、そんなに危険なタイプの人間だろうか、と彼は疑問に思う。おれほど、平穏な生活を求めている人間はいないのに、なぜか、行く先々で事件が起ってしまうのだ。
哀《かな》しくなった彼はベッドに横になった。まだ現実感が充分でないので、辛《つら》くてたまらないところまではいっていない。メロドラマの主人公のような気分がしないでもないが、それにしては|どじ《ヽヽ》だった。
すべてが、彼女のプラクティカル・ジョークだった、ということであれば、どんなに幸せだろうか。が、残念にも、典子はこうした悪戯《いたずら》をしかけるには真面目《まじめ》過ぎる性格だ。
彼は少し眠った。
眼がさめると、十時過ぎだった。電話機のまえにすわった彼は、ためらった挙句《あげく》、横浜の電話番号をまわした。
短い呼び出し音のあと、すぐに、若い男が店の名を告げた。
――前野と申しますが、典子さん、いらっしゃるでしょうか。
――ちょっとお待ちください。
店員らしい男はそう言った。
数分、待たされて、年配の女性の声がきこえた。
――典子の母でございます。娘が、いつも、お世話になって……。
――いえ……。
辰夫は、思わず、頭をさげた。
――前野さんのお噂《うわさ》は、娘からよくうかがっております。
――あの……典子さんは……。
――ほんとに、なにを考えているのか、わからない子で、みなさまに、ご迷惑をおかけいたします。
――もう、お発《た》ちになったのですか?
――は?
――アメリカのほうへ……。
辰夫の問いに、相手は絶句したようだった。
――もしもし。
――はい!
大声を出した相手は、
――では、前野さんにお話ししなかったのかしら。
――何でしょうか。
――アメリカへ発つまえに、裏日本を旅してみたいと申しましてねえ。
――うかがっておりません。
――どうしたのかしら?
相手は不安になったらしい。
――じゃ、ロサンゼルスへ行くことは?
――存じております。一昨晩、食事をご一緒した時に、うかがいました。
――ずいぶん、遅くお話ししたのですねえ。どうして、ああいう秘密主義になったのでしょう。
――裏日本て、どの辺りですか。
辰夫は、あとを追うつもりだった。
――それが、はっきりしなくて。アパートの荷物をこちらに送ってきて、身一《みひと》つで旅に出たのです。……お宅様が知らないとすると、どなたが知ってらっしゃるのかしら?
――ほぼ、どの辺りですか?
――わかりませんのよ。秘密主義の上に、言い出したらきかない子なので、困ってしまいます。
母親は溜息《ためいき》をついた。
――中学までは明るい性格だったのに、急に閉鎖的になって、ほとほと手を焼いております。
こぼし話が始まりそうだった。
電話を切ったあとで、羽田を発つ日をきくべきだった、と彼は思った。
典子《のりこ》の母親に、もう一度、電話して、羽田を発つ日をたずねることが彼にはできなかった。
見栄《みえ》というよりも、意地のせいであろうか。手紙でなければ言えないという相手の態度が、そもそも、彼には理解できないのだった。いかになんでも水臭過ぎると思い、依怙地《いこじ》になった。
妙な意地を張るのは、辰夫の癖といってもいい。
二十代の初めのころは、好きな女の子に優しくすることが、どうしてもできなかった。女の子が帰郷するので、上野駅まで送りに行ったことがある。東京に留《とど》まってくれないか、と言えば、その子は思い留まる――そうした状況《シチユエーシヨン》であった。もっとも、女の子も意地を張るタイプで、故郷《くに》に帰って、非行グループのリーダーになるのだ、と、ぎごちなく笑い、男と別れるのに慣れている態度を示した。反撥《はんぱつ》した辰夫は、けっ、こんな田舎臭い駅にいられるか、という顔をして、「見送らないよ」と呟いた。まずいな、と思ったのは次の瞬間だった。自分の身体《からだ》が半回転し、プラットホームを戻り始めたのだ。女の子を引きとめるどころか、列車が動かぬうちに、彼は、心にもなく、立ち去ってしまったのである。
若いころで、しかも、意地が火花を散らしたのだから、まあ、仕方がない。仕方がない、ですまされないのは今度のケースである。
彼の知り合いで、典子の動静に少しでも興味を持っているのは風間ユカしかいなかった。
「藤井さん、どこへ行ったか、知ってる?」
と、ユカにきいてみた。
「知らないよ。前野さんのほうが親しいのに……」
ユカは答えた。
「旅に出たらしいんだよ」
辰夫はさりげなく言った。
「あたし、もう、関係ないもん」
辰夫は、さらに知恵を絞った。
会社の経理部の女の子にたのんで、典子の家に電話をかけて貰《もら》った。
――典子さんの同級生で**と申しますが、アメリカにお発ちになるのは、いつでしょうか。
――そんなこと、どこでおききになったのですか?
典子の母は問いつめてきた。慌《あわ》てた女の子は送受器を置いてしまった。
喪失感に打ちのめされたのは数日後だった。
起きようとすると、身体じゅうの力が抜けていた。形容ではなく、ベッドから起き上れないのだった。
午後になると、石黒から電話が入った。
――ご病気ですか!
青年は驚いた様子で、
――わかりました。よほどの急用でない限り、ぼくが処理しておきます。
――たのむよ。
彼は寝たままで言った。なにが、どうなろうと、関係ない気分だった。
……いつだったか、アパートの近くまで典子を送ったあと、逆に、タクシーを拾えそうなところまで送られたことがあった。途中、暗く細い露地を抜けなければならず、彼は急に抱きしめ、接吻《せつぷん》した。典子は逆らわなかったが、唇《くちびる》が冷たかった。あの冷たさは何だったのか……。
そんなことばかり、思いかえしていた。
夕刻に、戸波《となみ》から電話がきた。
――風邪ですか?
と、まず、たずねた。
――そんなところです。
――梅雨寒《つゆざむ》ですから、気をつけてください。
――はあ。
――あれいらい、あなたが稽古場《けいこば》に見えないので、みんな、がっかりしてますよ。
――すみません。
――白井君が、とても良いです。私は、次の公演も彼でいこうと思ってるくらいです。きっと、高く評価されますよ。
――よかったな、それは。
――そんな、ひとごとみたいな言い方をして……。ところで、京都公演は、初日に、〈遊びの会〉の総見《そうけん》といきたいのです。きっと話題になって、地方紙で取り上げてくれますよ。PR効果、絶大です。
プロデューサーともなると、いろいろ考えるものだな、と辰夫《たつお》は思う。
――それから、関西のテレビ局のお昼の番組で、話題にしてもらうように交渉しています。実現のさいは、白井君といっしょに出演して、喋《しやべ》っていただかなければなりません。鈴鹿《すずか》さんには、たのみたくないので。
――わかりました。
――また、稽古場にきてくださいよ。
と、戸波はこだわった。
――順調には行ってますが、でも、現場の士気がねえ。うるさい人が顔を出してくださると、ぴりっとするんです。
――そうですか。
――全員が盛り上ってますから、面白《おもしろ》いですよ。現場で、笑いの要素を、ふくらませてます。
そういう面白さがあるのだな、と辰夫は突き離した感じ方をした。自分が好奇心を失っているのがわかった。
雨戸をしめきったまま、辰夫はベッドに横たわっていた。
湿気に敏感な体質だから、ふつうなら、とても耐えられないだろうが、いまは殆《ほとん》ど感じなかった。シャツが濡《ぬ》れたら、裸になればいいのだ。
気分を変えようとして、トランジスター・ラジオのスイッチを入れると、プレスリーの「ブルー・ハワイ」が流れた。もう、そういう季節なのか、と思った。
梅雨が明けたら、典子と海へ行きたい、と考えていたのだった。
そうした夢想をふりかえってみると、肉体的欲望が、不思議なほど、自分の内部に欠落しているのに気づく。欲望がなかったわけではないが、希薄である。これはどういうことか。
しばしば逢《あ》っていたにもかかわらず、成熟した女性の匂《にお》いを彼女から感じることが少なかった。しかも、彼女は――いつかユカに写真を見せられたのだが――水着姿になると、別人のように、危険な感じをあたえた。だからこそ、意識して、わざと少女っぽい髪型や服装をしているのかも知れなかった。
自分は、彼女のそうした部分に眼《め》をつむっていたのだった。性的欲望の対象以上のなにかとして、彼女を考えていた。
いまとなってみれば、〈夢の砦《とりで》〉計画は、立派過ぎて、なにか建て前のようにさえ思われる。そのような夢は、彼の性格に合っていなかった。彼にふさわしいのは、もっと個人的な、たとえば、典子との生活といった砦ではなかったか。意識下では、それを求めていたのではないか……。
遠くで釘《くぎ》を叩《たた》くような音がする。犬がしきりに吠《ほ》える。
彼は眠りから覚め、また、すぐに眠った。
電話が鳴った。ベッドから左手をのばして、送受器を握った。
――金井です。
元気な声がきこえた。
――いま、何時?
朦朧《もうろう》とした頭で辰夫はたずねる。
――四時二十三分です。
――夕方か。
――あたりまえじゃないですか! 大丈夫ですか?
――大丈夫……。
喉《のど》の渇きをおぼえた。声がかすれている。
――すみません、起しちゃって。
――いや……かまわない。
――前野さんが三日も休んだのは初めてだから。
――明日、出社するよ。
――いやだな。明日は日曜ですよ。
金井はかすかに笑った。
――どうですか、具合は?
――まあまあ。……何の用?
――ちょっと、ご相談したいことができまして……。
――なんだい?
――電話では、ちょっと……。
――じゃ、あさって、会社で。
――会社だと、まわりが、|がたぴし《ヽヽヽヽ》してて、落ちついた話がしにくいです。明日はいかがですか。
――いいけれど、ぼくのアパートは散らかり過ぎている。……どうしよう?
――近くまで行きます。
――ここらは、日曜は休みだからな。
辰夫は当惑した。
――喫茶店も休みですか。
――そんなものはないよ。
――青山学院は遠いですか。
――そうでもない。
――あのそばにスパゲティ屋があります。
――日曜でも、やってる?
――やってます、たしか。
金井の答えは心もとなかった。
久しぶりの外出なのに雨だった。
彼のアパートから青山学院のほうに向うためには、ゆるい坂を登らなければならない。われながら、たよりない足どりだった。
暗い店内では、金井がナポリタンを食べていた。
「痩《や》せましたねえ」
金井は気味悪そうに言った。
「髭《ひげ》を剃《そ》ってないせいだろう」
辰夫はタオルで顔をこすり、コーヒーを注文する。
「それだけじゃないですよ。眼の下に隈《くま》が出来てます」
「へえ……」
辰夫は気になった。髭を剃るとき以外は鏡を見ないのである。
「|もろ《ヽヽ》病人ですよ。熱は下ってるんですか」
「下ってる」
「びっくりしたな。まるで……」
金井は、あとの言葉を呑《の》み込んだ。
死神か、と辰夫は思った。ジュースと牛乳とビスケットだけで過していたのだから、仕方がない。
「なにか食べませんか」
「いらない」
辰夫は答えた。
相手の言葉が耳の中で大きく反響するようだった。必要なことだけ言えばいいのに、と思う。
「石黒君は、だいぶ、困っているようでしたよ」
「ルーティーン・ワークだもの。できるよ、彼は」
「竹宮君と二人で、慌ててました」
金井は面白そうに言う。煩《わずらわ》しく感じた辰夫は、「話って、なに?」と、促した。
金井は紙ナプキンで口を拭《ぬぐ》った。
「……まえにお話ししたでしょう。ラジオの下請け番組の会社を作って、赤字を出したことを」
「きいた」
「三月《みつき》で黒字になる予定が、まるで狂ったのです。いろいろ手違いがあって……」
よくやるよ、と思った。玄人《くろうと》でも一年先の傾向を読みきれないというのに、まったくのアマチュアが、時代を先取りしたラジオ番組を作れるはずはないのだった。
「ぼくも必死でやったのですけど、赤字がふくらむ一方です」
金井は吐息をして、
「こうなったら、前野さんに頭をさげるしかないと思いました」
辰夫は黙っていた。声は、あいかわらず、強く響いてくるようだ。
「とにかく、局のほうで、とびついてくる番組を作りたいのです」
「川合|寅彦《とらひこ》を紹介すればいいのかい」
辰夫は、以前の依頼を記憶していた。
「それもあります」
金井は、抜け目なさそうな眼つきをした。
「でも、川合さんをつかまえても、すばらしいアイデアが用意してなければ駄目《だめ》でしょう。川合さんほどの人は、陳腐な企画には乗ってくれないと思うのです」
「当然だな」
「|そこ《ヽヽ》です。前野さんに、わが社のブレーンになってもらいたいのです」
「ぼくが……」
辰夫は呆《あき》れた。
「ええ。実は、企画がまったく貧困なのです。新しいアイデアがなければ、なにも始まらないでしょう。――で、いっそ、前野さんをブレーンにしたら、と考えたのです。ギャラは、きちんとお払いします。どうでしょうか?」
辰夫は困惑した。会社員である金井が、もうひとつ会社を作り、目上の人間を雇おうとする非常識を、非常識と思っていないところが困るのだった。いつぞや、新しい出版社を作ろうと持ちかけてきた時と、少しも変っていない。
「赤字の会社からギャラをもらおうなんて思わないね」
と彼は沈んだ声で答えた。
「ブレーンという言い方は失礼でした」
金井は眼を光らせながら言った。
「ひきうけてくださるのなら、副社長になっていただきたいのです。そして――こんなアイデアでは笑われるかも知れませんが――川合さんとコンビでDJをやって欲しいのです……」
〈副社長〉ときいて、辰夫は、積極的に助ける気を失った。
「ぼくが、なぜ、きみの下で働かなきゃならないの?」
「あっ、かえって、まずかったか」
辰夫は黙ってコーヒーを啜《すす》った。
「ただ、川合とぼくは、もう、いっしょに仕事をしないよ」
「なぜです? 喧嘩《けんか》したのですか?」
「ちがう……」
説明するのが面倒だった。互いの才能を尊敬し合いながら、別な世界に生きていることを、この俗物にどう理解させたらいいのか。
「DJとか、そういう仕事は勘弁してくれないか。なけなしの知恵は、只《ただ》で提供するよ」
「そうですか。前野・川合のDJ番組はウケると思うんだけどなあ……」
金井は口惜《くや》しそうだった。
九月号は、七月十日に校了になった。
本当は十日過ぎでもよいのだが、辰夫は十日に仕事を終らせた。商人の子供特有の几帳面《きちようめん》さでもあるが、遅延によって、ほんのわずかでも、会社に、心理的な借りを作るのが厭《いや》なのだった。
翌日は、うす曇りで、蒸し暑かった。梅雨明けには、まだ、間があるらしい。
目覚しの音で起された辰夫は、羽田へ行き、飛行機で大阪へ向った。連日の暑さの疲れから、うとうとすると、いつの間にか、伊丹《いたみ》空港に着いていた。空港のタクシーに乗って、京都にあるホテルの名を告げた。
京都は高校の修学旅行いらいだった。道が不思議なほど空《す》いており、市電にえんえんと乗った記憶がある。
いまの京都は車が溢《あふ》れていた。伊丹からの時間測定を誤ったせいもあって、ホテルに入ったのは二時十五分前だった。
入って左側のフロント前には、苛々《いらいら》した表情の戸波《となみ》がいた。
「前野さんひとりをお待ちしてたのです」と、戸波は早口で言った。「みんな、もう、会場へ行きましたよ」
〈遊びの会〉のメンバーのためにホテルの部屋を押えてくれたのも戸波だった。
「じゃ、バッグを部屋に置いてきます」
辰夫がうろたえると、
「いや、ボーイにやらせましょう」
と、戸波は慣れた口調で言い、辰夫のバッグをとりあげた。そして、フロントの従業員に向って、「すぐ外出するから、部屋に入れておいてくれないか」と命じた。
「戸波さんのお部屋に入れるのでございますか?」
「いや。前野さんの部屋だ」
「かしこまりました」
戸波と顔馴染《かおなじ》みらしい従業員は、古風なベルを鳴らして、ボーイを呼んだ。
「会場までは、歩いたほうが早いです」
先に歩き出しながら、戸波が話しかけてきた。
「ぎりぎりで、開幕に間に合うでしょう」
「昨日は、テレビに出られなくて、申しわけありませんでした。夜中まで印刷所につめていたもので」
辰夫は、また、詫《わ》びた。
「なんとか、私がピンチヒッターをつとめました。テレビの効果は凄《すご》いです。前売り券の売れ方が、まるで、変りましたよ」
「なんにもお役に立てなくて……」
彼は小声で答えた。
場内は、すでに暗くなっていた。
案内された座席のとなりには、長髪で色の白い鈴鹿兵伍《すずかひようご》がいた。
(しばらく……)というように、鈴鹿は笑ってみせた。
「遅くなって」
辰夫《たつお》は言いわけするように呟《つぶや》き、座席にすわった。鈴鹿の向う側と前列は、〈遊びの会〉のメンバーが占めている。二階中央のもっとも観易《みやす》い場所だ。
「良いホールだね、ここは」
見まわしながら辰夫は言った。
「いま、地方都市に、良いホールが、どんどん出来ている。東京が、いちばん、遅れている」
鈴鹿ははっきりと言った。
「また、よく入ったなあ」
と辰夫は呟いた。観客が多いだけではなく、異様な熱気があった。
「ミュージカルが珍しいんだ」
鈴鹿が呟くように言う。
「でも、それだけじゃない。だから、お客はこわいんだ」
「どういうこと?」
プログラムを丸めながら辰夫はきいた。
「なにが?……」
「お客がこわい、ってことさ」
「匂《にお》いだよ」
と、鈴鹿は表現した。
「面白《おもしろ》そうなものの匂いを嗅《か》ぎつける大衆の勘は、凄いと思う。どうやって嗅ぎつけるのかねえ」
「宣伝や情報のせいだろう」
「ちがう」
鈴鹿は頭から否定して、
「初日に押しかけた客は、ストーリーもなにも知るはずがないのだもの……」
「なるほど、不思議だ」
と、辰夫は言った。
こわいものだ、と思う。同時に、これから幕をあけるミュージカルが、観客の嗅覚《きゆうかく》に応《こた》えられるものかどうか、心もとなかった。
指揮者が右腕を動かし、序曲が始まった。辰夫は身体を硬くしていた。
「聖歌隊の少年」の舞台は、幕が上ってしばらく、もたついていた。白井|直人《なおと》を中心に、新劇役者、元|宝塚《たからづか》スター、テレビのコメディアンなどを寄せ集めたので、演技のアンサンブルが欠けていた。
主人公の少年が芸能プロにスカウトされる辺りから、弾みが出てきた。ことさらな芸能プロ諷刺《ふうし》はなかったが、観客の笑いが起った。赤星プロによって〈干《ほ》されて〉いる白井の実像と重なる部分があるからだろう。
大衆のアイドルとなった青年が、同じプロダクションの中の少女歌手と恋におちる件《くだ》りは、質の良いセンチメンタリズムに彩《いろど》られて、うまくいっていた。この恋愛が原因で、青年がプロダクションを追われる破目になるのは、鈴鹿の創作であり、やや現実性に乏しい。しかし、大衆劇としては、まずまずであろう。
保守党の幹事長の娘が青年のファンであったことから、青年は保守党のキャンペーンのためのアイドルボーイに仕立て上げられる。青年に忠告して、ききいれられなかった少女歌手(彼女もプロダクションをやめている)は、別れを告げる。
この部分は、〈別れ〉をめぐっての青年と少女の歌と会話が長過ぎた。メロドラマ風の|泣かせ《ヽヽヽ》が、乾いたストーリーに合わなかった。
ふと、彼は気づいた。鈴鹿兵伍が声を殺して、泣いているのだった。暗がりでも、涙を流しているのが見えた。
靴《くつ》のままでベッドに横になっていると、ドアがノックされた。
起き上って、ドア・チェーンを外す。戸波の声がきこえた。辰夫はドアをあけた。
「ご気分が悪くなったそうですね」
と戸波が言った。
「ちょっと……」
と、辰夫はあいまいに答える。鈴鹿兵伍の涙に大きな衝撃を受けたとは言えなかった。
「短い記者会見でしたが、鈴鹿さんが捌《さば》いてくれました。馴《な》れたものです」
「そうでしたか」
「食事をしてもいいのですが、少々、早いですな。バーへ行きませんか」
戸波は陽気になっている。
キイをポケットに入れた辰夫は、戸波と地下のバーにおりた。
「ビールですか」
と、戸波がきく。
「シェリーを貰《もら》います」
「じゃ、私はブランデーだ」
戸波はにこにこしている。飲物が運ばれてくると、乾杯をした。
「成功ですね。これで東京公演が可能になりました」
「成功ですか?」
辰夫はききかえした。
「ちがいますか……」
と、戸波は自信たっぷりに答える。
「将来、日本のミュージカルが成立するとしたら、『聖歌隊の少年』は、礎石の位置を占めると思いますな」
「さあ……」
辰夫は首をかしげた。
「そんなに謙遜《けんそん》なさらなくても……」
「謙遜じゃありません。ぼくの原案の狙《ねら》いが間違っていたとは思いませんから」
「じゃ、鈴鹿さんの台本が悪いのですか?」
「そうも言えません。あの台本は、ぼくが、頭から終りまで、眼《め》を通して、OKを出したのです」
「じゃ、なにが不満なのです?」
「あなたが正しかった。ぼくが台本を書くべきだったのです。たとえ、下手でも、自分の歌をうたうべきだった」
戸波は考え込んでいたが、
「ですから、私は、あなたに固執したのですよ」
と、静かに言った。
辰夫は、本当に言いたいことを口にしていなかった。――鈴鹿にはドラマの骨格というものがまるで解《わか》っていないのだった。三時間余りの舞台が、ドラマティックな盛り上りに欠けるのは、そのせいだと思った。テレビのヴァラエティ・ショウの長いのを見せられた感じが残るのだった。
もちろん、台本の段階で、そうした欠陥を見抜けなかった辰夫に、責任があるのは間違いなかった。彼には、舞台の台本や映画のシナリオを読んで、具体的なイメージを描く能力がなかったのだ。そのことは、今日、いやというほど、思い知らされていた。
鈴鹿の才能は、センチメンタルな歌の作詞で、もっとも発揮された。そういえば、〈叙情的な歌詞はやたらうまい〉と褒《ほ》めていたのは川合だった。
|そうだったのか《ヽヽヽヽヽヽヽ》!
鈴鹿の才能について、辰夫が川合にたずねたとき、川合はそう答えて、「才能があることは否定できない」とつけ加えたのだった。鈴鹿にドラマを書く才能がある、と答えたわけではなかった。
ドラマの才能を保証されたように思ったのは、辰夫の早合点に過ぎないのだった。彼は勝手に〈不遇な〉鈴鹿に同情し、勝手に失望したのだ。自分が作詞した歌をきいて泣き出す情緒不安定なナルシストに対して!
「前野さんのご不満は、うすうす察しております」
戸波はにこやかに言う。
「つまり、舞台の出来でしょう」
辰夫は驚いた。戸波プロデューサーは、すべて、わかっているらしい。
「まあ、そうです……」
「人間像がうすっぺらですからね」
戸波は、急に、唇《くちびる》を歪《ゆが》めた。
「前野さんを責めているのではありません。あなたは、最初だから、仕方がないでしょう。……私は、台本を最初に読んだとき、すぐに、そう思った。細部は面白いのだが、ドラマツルギーがない。しかも、その面白さというのは、テレビ的な面白さなのです。劇場の空間では、生かしようがない」
ブランデーグラスを揺すりながら、つづけた。
「テレビのショウの台本から出てきた人ですからね。テレビ出身者は、だいたいにおいて、そうです。感覚は鋭いのですが、ドラマの作りが駄目《だめ》です。ただ、作詞がいいので、私はそれを生かした。|淡い恋愛《パピー・ラヴ》のところの歌は良かったでしょう」
「ええ」
「あの歌はレコードになります。曲もいいけど、作詞が抜群です。良い歌が三つあったから、ほかには眼をつむったのです」
ようやく、笑みを浮べた。
「それでも、成功ですか」
辰夫は改めてたずねた。
「前野さんと私のあいだに食い違いがあるようですねえ」
と、戸波は笑った。
「ミュージカルをドラマの一種と考えれば、あれは失敗作か、まあ、未熟なものです。前野さんは、そう、おっしゃりたいのでしょう?」
「そうです」
「私も同感です。かなり手直しはしますが、東京公演でも、眼のある批評家からは叩《たた》かれるでしょう」
「……じゃ、承知の上で?」
「ええ。承知の上で、やるのです。これは、ショウビジネスというビジネスなのですから」
「ビジネス?」
辰夫は聞き咎《とが》めた。
「ビジネスです。日本人は、ショウビジネスという言葉を恰好《かつこう》の良いもののように思っていますが、私は、本来の意味で使っているつもりです。端的に申しますが、『聖歌隊の少年』は興行としてペイします。これは数字的にわかるのですが、東京で話題になれば、各地から引き合いがくるでしょう。アメリカと違って、私は傭《やと》われプロデューサーですから、べつに儲《もうか》りませんが、私のオフィスは若干、潤《うるお》います。歌がレコードになりますが、ヒットすれば、白井君、鈴鹿さん、作曲家にとって、大変なプラスです。若い音楽評論家にテープを聞かせたら、必ずヒットすると言ってました」
辰夫は黙っていた。
「前野さんの割りきれない気持はわかります。しかし、私は、あえて、成功《ヽヽ》と言いたいのです。興行的な成功は、関係者の、それまでの不和や憎しみまで消してしまいますから」
「そういうものですか」
「鈴鹿さんも、演出について不満を持っているようです」
戸波《となみ》は溜息《ためいき》をついた。
「とにかく、今までの、〈参加することに意義がある〉式の、精神主義的なミュージカル造りを私は壊したかった。これで、いくらか、ビジネスとしての芽が出たと思うのです。ビジネスとしてペイするからこそ、一流の才能がなだれ込んでくる。――破綻《はたん》のない作品ではあるけど、客がまるで入らないケースが、いちばん困ります」
別人のように饒舌《じようぜつ》になっていた。なんらかの自信を得たのだろう。
「いかがですか。来年も、台本か原案で、協力ねがえませんか」
辰夫は答えなかった。
作品としての真贋《しんがん》を二の次にする戸波の発想にどうしても馴染《なじ》めないのだった。
とにかく、夢が、また一つ消えた、と思った。
|つき《ヽヽ》が落ちた、と辰夫は感じた。
典子《のりこ》が去ったことじたいは、冷静な人ならば、〈人生によくあること〉と受けとめるはずであった。
辰夫にしても、過去においては、そうであった。数日は塞《ふさ》ぎ込んでいるものの、気分を切り替えることができた。一女性によって大の男の人生が変ったりするメロドラマを、彼は冷笑し、揶揄《やゆ》してきたのだが、今度ばかりは勝手がちがうようであった。
嫌《きら》いです、と言われたのなら、そうですか、で済むことがある。しかしながら――自惚《うぬぼ》れを割引いても――自分が嫌われていたとは思えない。それどころか、彼女は彼の本質を見抜き、これ以上、抜き差しならぬ状態には入りたくない、と言っているのだ。
めったに性格を理解されることがない辰夫にとって、これだけ解って貰えるのは、僥倖《ぎようこう》に等しい。しかし、彼女が去ってゆくのは、一つの批評である。彼の人間性への痛烈な批判である。――そう考えたからこそ、打撃が大きかった。
日がたつにつれて、喪失感は、いよいよ大きくなった。他人にいえば、大げさ、とか、神がかり、と、からかわれるに決っているから、口に出さないが、|つき《ヽヽ》が落ちた、というのが実感であった。
が、そう思ってはいても、雑誌作りは続けなければならない。
去年だったら、会社をやめることを考えたかも知れないが、少くとも、今の彼は、三人の部下の存在を意識しないわけにはいかなかった。彼らについての責任を無視することはできない。
新雑誌を軌道に乗せた時点で身を退《ひ》くのが順当だろうと彼は思った。それまでは、全力を注がねばなるまい……。
「別冊・パズラー」を校了にした辰夫は、葉山|一色《いつしき》海岸のキャンプ・ストアにいた。
臨時の仕事は引き受けないようにしているのだが、週末の一色海岸ときいて乗り気になったのだ。キャンプ・ストアに集る学生たちとの会話を収録するのが、ラジオ局の狙いだった。
七月最後の日曜日なので、海岸は混《こ》み合っている。晴れてはいるが、台風が過ぎたあとなので波が高く、ヨットは殆《ほとん》ど見当らなかった。
「沖の岩の上で、麻雀《マージヤン》をやってる連中がいます」と、Tシャツ姿のプロデューサーが言った。「どうやって、あそこまで行ったのですかねえ」
辰夫《たつお》は黙って、煙草《たばこ》をふかしている。店のウエイトレスたちのユニフォームは去年と同じだが、いつかの娘の顔は見当らない。無事に卒業したのだろう。
店の屋根にとりつけたスピーカーからは、いずこも同じ、「ブルー・ハワイ」が響いている。
「そろそろ始めますか」
プロデューサーは促した。
「早いとこ、片づけて、鎌倉《かまくら》に移動しましょう。由比ケ浜で水上花火大会があります」
「このビールを飲み終ったら……」
辰夫は、ぼんやりしていたかった。
「今年は、もう、海にこられそうもないな」
「私もです」
と、プロデューサーは顔を曇らせた。
「休みも、とれるかどうか危い。二十代最後の夏だというのに」
辰夫は顔をあげた。まったく同じことを考えていたのだ。
「本当に残酷なものですよ」とプロデューサーはつづける。「私は、子供のころ、この近くで育ったのです。……松が減ったほかは、景色なんて、まったく変ってない。あの岩に描いてある、飛び込み禁止の赤い線だって変ってないのです。変ってゆくのは、私《こつち》だけでね。二十代の終りなんて、ひどいじゃないですか」
学生のバンドが「ライオンは寝ている」を演奏し終ったところで、テープがまわり始めた。
夏の話題といわれても、今年はキイワードがないのである。
その年の夏を象徴する流行語は、必ずといっていいほどあるもので、数年まえの〈太陽族〉を始め、一昨年の〈ファンキー〉、昨年の〈レジャー〉と、時代を浮び上らせる流行語が存在した。
「とっかかりになる言葉がないんだな」
と、辰夫は学生たちに言った。
キャンプ・ストアの店内にいる若者たちは二十《はたち》前後であろう。大学生が大半で、高校生も混っているが、総じておとなしい。視線にも突き刺してくるような強さが感じられなかった。
「そうでもないですよ」
と、いちばん前の椅子《いす》にいる海水パンツの青年が言った。妙に世慣れた笑みを浮べているので、気になった存在ではあった。
「ほう……」
辰夫は、どうぞ、という眼つきをした。あとで編集してしまうのだから、何でも喋《しやべ》らせる必要があった。
「〈無責任〉という言葉があります」
「〈無責任〉?」
「植木等の『ニッポン無責任時代』を観《み》てないのですか」
「封切られたばかりの映画だね」
と辰夫は念を押した。
「とても面白《おもしろ》いですよ。前野さんのような、時代のパイロットが観ていないのがおかしい」
「ぼくは、時代のパイロットではない」
辰夫は気分を悪くした。
「でも、ぼくらは、そんな風に見ています。流行の偵察《ていさつ》隊長ですよ」
「ぼくのことはいい。映画の話をしよう」
「植木等が、無責任に徹したサラリーマンになるんです。いっさい、責任をとらない、という……」
「植木等は、いつも、そういう役をやってるじゃないか」
「ちがうんです」
陽灼《ひや》けした青年は、得意そうに言った。しばらく、この男を喋らせておこう、と辰夫は思った。
「いつもは脇役《わきやく》で、しかも、ラストで、改心したり、破滅したりするでしょう。――今度はちがいます。主役ですし、最後まで好き勝手なことをやって、しかも、ラストで成功者になるのです。発想が百八十度ちがうのです」
「へえ……」
辰夫は興味をそそられた。
とはいえ、〈無責任〉では、キイワードにはならない。
コカ・コーラで喉《のど》を湿してから、
「この海岸にきて感じたのは、日本は平和だってことです」
と、辰夫は語調を変えた。
「あたりまえ過ぎて、笑われるかも知れないけど、つくづくそう思う。モロッコ軍がアルジェリア領に進入したとか、アメリカがジョンストン島で水爆の実験をやったとか、インド軍と中共軍が交戦中とか、火種が世界中に転がっている。――日本で、なにが起っているかといえば、池田内閣の改造と、東京オリンピックの準備だけだもの」
店内の空気が白けた。
柄《がら》にないことを言ってしまった、と辰夫は思った。実感だとしても、言うべきではなかった。若者たちが彼に期待しているのは、もっと〈面白いこと〉にちがいなかった。
「この話はやめよう」
辰夫は小声で言った。ようやく、かすかな笑い声がきこえた。
「キャンプ・ストアにふさわしくない話題だ」
「つづけてください」
真中《まんなか》辺にいる、色の白い、眼鏡をかけた青年が言った。旧式な丸い眼鏡と、殆ど動かない黒目が特徴的である。
「いや、海岸でする話じゃないよ」
と、辰夫は笑ってみせた。
「興味があります」
ラッキョウが眼鏡をかけたような青年はなおも固執した。
「どうして?」
辰夫はききかえした。ここらから、対話の糸口がほどけるかも知れない、と考えた。
「前のほうの方《かた》が、時代のパイロットと形容されましたが、ぼくが前野さんを見る見方も同じです。あなたは、つねに、読者より一歩か二歩早く、新しいこと、面白いものを掘り起してきて、ぼくたちに示す人です。そういう、レジャー時代の申し子ともいうべき人が、じつに、平凡な、もっとはっきりいえば、陳腐な感想を、つい、口に出してしまった。そこが、とても、面白いのです」
辰夫は、わざと、一拍置いて、応じた。
「ぼくは、少しも、面白くない」
大きな笑い声が起った。とりあえず、辰夫はポイントを稼《かせ》いだのだ。
「きいてください」
青年はにこりともしなかった。白いひたいの脇に青筋が浮き出ているようだ。
「マスコミ的にいえば、前野さんは若者の代表でしょう。――しかし、ほんとうは、|もう《ヽヽ》、そうではないのです」
辰夫は不快になった。こんな言葉をきくために、貴重な休日をつぶしたわけではない。
「なにを言いたいのですか」
「まあ、きいてください」
青年の表情は硬直している。
「八月十五日が近づくと、そわそわして、頭を丸坊主《まるぼうず》にしてみせる人たちがいますね。丸坊主にした頭を、新聞社のカメラに向けて、得々としている人たちが……」
戦中派を名乗る評論家たちのことだった。終戦記念日を忘れないために、頭を兵隊刈りにしてみせるのだ。
「前野さんは彼らをどうお考えですか」
「主観的には誠実なのだろうと思うけれど……」
辰夫は言い淀《よど》んだ。
「ぼくの好みではありません」
「そうですか」
青年は薄い唇《くちびる》を動かした。
「でも、心情的には、あの人たちに近いような気がします」
「あの人たちとぼくとは、世代がちがいます。年齢的にも、十歳はちがうでしょう」
「心情の問題です。日本は平和でありがたい、という発想ですね」
「いけないのですか」
辰夫は皮肉な言い方をする。
「いけない、なんて言ってはいません。ただ、あまりにも陳腐だと思うのです」
「陳腐、ですか……」
辰夫は苦笑した。
もうやめろよ、という声がきこえた。大半の者がうんざりしている気配があった。
「公共の電波に乗るものだから、あなたひとりで独占しては困る。……逆に、ひとつだけ、うかがいましょう。終戦記念日を、あなたは、どうお考えですか」
「終戦記念日……」
青年は言葉を探す様子だった。
どのみち、カットする部分だ、と辰夫はのんびり構えている。
「そうですね。キダイだな」
「キダイ?」
辰夫は、とっさに、のみ込めなかった。
「俳句の季題ですよ」
青年はあっさり言いきった。
「失礼な奴《やつ》でしたな」
人影がまばらになった店内で、プロデューサーは辰夫のグラスにビールを注《つ》いだ。
「あなたが怒り出すんじゃないかと、はらはらしました」
「いちいち怒ってたら、身体《からだ》が持ちませんよ」
辰夫はつまらなそうに答える。
「ぼくは、ほかのことを考えてたんです」
「え?」
「敗戦から十七年たつわけですね。そうすると、ここにいた連中の何人かは、敗戦のとき、せいぜい三つか四つだったわけです。高校生の女の子は、生れてなかったかも知れない。戦争の記憶のない連中に向って、あんなことを言ったぼくが莫迦《ばか》なのです」
「いや、そういうものでは……」
「初めから、与太話をしておきゃよかったのですよ」
辰夫は、ウエイトレスに声をかけてから、テレビのスイッチを入れた。「シャボン玉ホリデー」がすでに始まっている。
画面では、チョビひげ、ロイド眼鏡にカンカン帽をかぶり、毛糸の腹巻きにステテコ姿で下駄《げた》をはいた植木等が、陽気にうたっていた。
人生で大事なことは
タイミングにC調に無責任
とかくこの世は無責任
コツコツやる奴ァご苦労さん
うたい終った植木等は、じっと、こちらを見て、「はい、ご苦労さん!」と言った。
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第十七章 暗雲
八月初めのある日、アパートを出ようとすると、郵便受けに絵葉書が入っているのに気づいた。つや光りした金門橋の夜景のそれは、明らかに、日本製ではない。
裏返してみると、典子《のりこ》の細い文字がボールペンの先端を押しつけるようにして書かれてあった。
――……出発の際は、ご迷惑をおかけしました。母からもきつく叱《しか》られました。ロスに着いたばかりで、右も左も分りません。運転免許証を持っていないと、どこにも行かれない街です。(タクシーが流していないのです。)……毎日、失敗つづきですが、アイスクリームの種類が多いのと、サンフランシスコに二日いけたのが救いです。
辰夫《たつお》は絵葉書を下駄箱にのせて、ドアを閉めた。
暑くなりそうな日だった。
その日の東京は三十七度六分の猛暑になった。
連日の暑さのせいか、石黒は盲腸炎で、竹宮は腎臓《じんぞう》を悪くして、休んでいる。「別冊・パズラー」の発売を前にして、編集部は開店休業の状態にあった。
辰夫を驚かせたのは、〈睡眠薬の飲み過ぎ〉で死亡したと発表されたマリリン・モンローの最期《さいご》だった。ロサンゼルス郊外のブレントウッドの自宅で死んでいるのを家政婦に発見されたのだが、ロサンゼルス郡検視官は「自殺かも知れない」と語っていた。
驚かされはしたものの、彼にとっては、決して、ショックではなかった。彼女の最後の完成作品は「荒馬と女」であるが、共演したクラーク・ゲーブルがこの作品の完成直後に心臓|麻痺《まひ》で死んだのは、モンローの〈気紛《きまぐ》れ〉にふりまわされたせいと噂《うわさ》されていた。しかも、最新作では、六週間の契約期間ちゅう、十二日しか撮影所に現れず、しかも遅れてくるのは二六時中《しよつちゆう》だったという。スターとしての生命は、このあとの〈契約解除〉によって、殆《ほとん》ど絶たれていた。彼女の精神不安定は、すでに数年つづいており、緩慢な自殺を試みているとしか、辰夫には思えなかった。
「冷たいですね、わりに」
と、広辞苑《こうじえん》は辰夫を評した。
「平気なんですか、まったく?」
「あんな風に不安定じゃ、いつかは終りがくる。――そうわかっていても、終りがくれば、やはり、驚く。そんな驚き方をしたわけだ」
「なるほど……」
と、頷《うなず》いた広辞苑は、〈遊びの会〉の詩人の名をあげた。
「さっき、電話がきまして、あの人は一分間の黙祷《もくとう》をささげたそうです」
「どういうことかね」
辰夫は苦笑した。
「それから、マリリン・モンローを偲《しの》ぶ集いをやろう、と言ってました」
「勝手にやればいいだろ」
「〈遊びの会〉でやろうというのです」
辰夫は答えなかった。
「きみは、マリリン・モンローを、どう思っていた?」
顔をあげた辰夫は、逆に、ききかえした。
広辞苑は、一瞬、たじろいだが、
「そうですねえ。やはり、セックス・シンボルでしょう」と言った。
「セックス・シンボルというのは、マスコミ用語だ。よく考えてみれば、三十六の女優が若い人のセックス・シンボルというのも、わかるようでいて、わからない。きみみたいな若い人は、彼女について、どういうイメージを持っているのかね?」
「そう言われてみると……」
「外国の女優は、わりに肥《ふと》り易《やす》いが、彼女は色々な薬を飲んでいるせいか、ひどく肥ってしまった。だから、セックス・シンボルではないような気がする……」
とにかく、この死によって、ハリウッドの神話が一つ完成したのだ、と彼は思った。死の数日まえに、彼女がライフ誌の記者に「死は一種の救済かも知れない」と語った、と新聞は伝えていた。
「別冊・パズラー」は、十日に発売された。
売れ行きについて、辰夫は、かなり楽観的であった。佐伯一誠《さえきいつせい》をはじめとして、読者に魅力のある執筆者がならんでいるので、悪い成績ではなかろうと思った。「別冊・パズラー」であると同時に、「予感」の創刊|準備《ヽヽ》号なのであるが、世の中には、創刊号マニアといった人々がいて、新雑誌を、一号だけは、買うのである。――しかし、雑誌に関する限り、絶対《ヽヽ》はあり得ないのだ、とも警戒した。
「いかがですか、売れ行きは?」
銀座の割烹《かつぽう》料理屋の一室で、ひざを崩した戸波《となみ》がたずねた。ミュージカルの東京公演が確定したので、一席もうけてくれたのである。
「都内は、かなり、いいです」
辰夫は、東京では珍しい鱧《はも》の洗いに箸《はし》をつけた。
「地方都市も、いいですね。売り切れの書店が多い」
「そりゃ、よかった」
戸波は軽く頷いて、
「日本では、ちょっと、大胆なんじゃないか、と心配してました」
「ぼくは商業路線にしたつもりですが」
と、辰夫は、やんわりと反対する。
「結果的には成功したし、会社は喜んでいるのですが、どうも、すっきりしない。……うまく言えないのですが、なんか、贋金《にせがね》を作っちゃった感じで……」
「ご謙遜《けんそん》でしょう」
「有名人を目次にならべたのが、神経にひっかかるんです。その名前が、どこの雑誌にも出てる人たちですからね。なんだか、あざとい感じがして」
「とにかく、売れた方が勝ちです」
戸波はそう言いきった。
「増刷の話はないですか」
「ありました。……ぼくは反対しましてね。会社も踏みきれないようです。ぼくにしてみれば、読者の反応がわかったから、もう、いいのです」
「あなた、ゼイタクですよ」
「ゼイタクな気持になりたくて、なれないのです。その口惜《くや》しさは、三流、四流の出版社にいる者にしか通じないでしょう」
「そういうものですかな」
戸波は呑《の》み込めぬようである。
「当ったとなると、あとが大変ですねえ」
「『予感』ですか」
「ええ。期待するでしょう、会社が」
「まあ、そうだろうな。でも、ヴィジュアルな雑誌で、判型が大きい、と、初めて|ずくめ《ヽヽヽ》だから、どうなりますか」
「他人《ひと》ごとみたいに言う」
戸波は奇妙な笑い方をした。
「『パズラー』を成功させ、〈遊びの会〉を作ったのは、理想の雑誌のためじゃなかったのですか」
「まあ、そうですが……」
「ミュージカルも――前野さんは不本意かも知れないけど――いちおう、成功です。この勢いで頑張《がんば》ってください」
「〈遊びの会〉か……」
もう少し、人選をきびしくすべきだった、と彼は後悔していた。
例のえせ詩人などは外して――しかし、そのように、真贋《しんがん》をきびしくしたら、残る人間は、殆ど、いないのではないか。それに、辰夫自身、世間からどのような眼《め》で見られていることか。
皮肉にも、彼が入会して欲しいと願う相手は、口実をもうけて拒否するのだった。そう安易に群れ集うものではない、と遠まわしに苦言を呈する人もいた。「予感」を、現在の〈遊びの会〉同人で編集するのは危険だ、と思った。会に入らぬ気むずかしい人たちにも、ぜひ、執筆して欲しかった。いや、そうした本物の物書きにこそ、原稿を寄せてもらいたいのだ。
「祝いの席で、|なん《ヽヽ》ですが、あまりたのしくない話題があります」
戸波は声を潜《ひそ》めた。
「前野さんが気分を害されると困りますが……」
「なんですか」
「鈴鹿《すずか》さんの渡米の件です。お耳に入ってないですか」
「まったく……」
「アメリカへ行くのですって、ミュージカル研究のために」
みんな、アメリカへ行くのだな――と、辰夫はぼんやり考えた。
「ブロードウェイを中心に、いろいろ勉強するのだそうで」
「へえ」
「一年間、行きっぱなしのようですよ」
戸波は、アメリカの有名な財団の名をあげて、留学資金はそこから出るのだ、と言った。
「羨《うらやま》しいな」
と、辰夫は感想を述べた。
「ぴん、ときませんか」
戸波は意味ありげに言う。
「なにが?」
「鈴鹿さんの渡米ですよ。だいぶん前から決っていたようです」
「どうかしたのですか、それが?」
辰夫は怪訝《けげん》な顔をする。
「無邪気過ぎますよ、前野さん」
戸波はビールで喉《のど》を湿して、
「『聖歌隊の少年』の結末を直したい、と言いだしたのは、だれでしたっけ?」
「ずばっと言ってください。鈴鹿|兵伍《ひようご》がどうしたのですか」
辰夫は苛々《いらいら》した。
「あのとき、主人公が、恋人といっしょに、原水爆禁止運動に加わる結末にしたい、と鈴鹿さんは言いだして、強引に、前野さんを捩《ね》じ伏せたのでしたね」
「そうです」
「そのくせ、間もなく、元の結末にしたい、と言い始めた。その件は、私があなたに伝えて、承諾を求めたのです」
「覚えていますとも」
辰夫は無表情で言った。
鈴鹿兵伍に翻弄《ほんろう》された記憶は忘れようもなかった。その挙句《あげく》、まちがっても、他人に同情してはならないという教訓を得ていた。
「作家の内面は複雑だとは思いますが、あんな短いあいだに、二度、考えが変るのは異常に思えました。プロデューサーとしてではなく、個人として、私は、ずっと、こだわっていたのです」
「ぼくも、おかしいと思いました。本音を隠しているような気がしてね」
「お互いに、台本を受けとるのが先決という、ぎりぎりの時でしたからね」
戸波の眼は動かなかった。
「あの人も、初めは、本気で原水爆禁止運動を扱うつもりだった。たしかに、本気だったのです。……ところが、その問題を扱うと、向うの財団から資金が出なくなる。アメリカ入国も不可能になる。アメリカ側のだれかに注意されたのか、自己規制したのかは知りませんが、|そこで《ヽヽヽ》変ったのです。転んだ、と言ってやりたいですがね」
鋭い眼つきのまま、辰夫は黙っていた。
「私は自分がきれいな手をした人間だなんて思っちゃいませんが、正直なところ、鈴鹿兵伍ほど汚くはないでしょう」
「戸波さんの言葉を疑うわけではありませんが……」
と、辰夫は、ようやく、口をひらいた。
「そういう事情が、どうして、わかったのですか?」
「直接的には、白井|直人《なおと》からきいたのです」
「白井?」
「なにかの時に、鈴鹿兵伍が白井に説教したらしいのです。――反米的な言動をほどほどにしないと、将来、アメリカへ行かれなくなるって……。白井は感情的な男だから、アメリカの核実験について、なにか口走ったのでしょう」
「それで?」
「白井はおかしいと思ったようです。そのとき、舞台の結末は原水禁運動に向っていたのですからね。――それいらい、白井は、稽古場《けいこば》での鈴鹿さんの動きに注目していたようです。ある日、電話が一本入って、鈴鹿さんが妙にエキセントリックになったそうで……その直後ですね、百八十度、話が変ったのは」
「なるほど」
「『聖歌隊の少年』で原水禁運動のPRをしないのが、向う側の条件だったという噂ですがね」
噂か、と辰夫はひそかに呟《つぶや》く、いずれにせよ、それに近いことはあったのだろう。
「しかし、白井も白井だな。それを知っていて、なおかつ、結末を元に戻《もど》してくれ、と、ぼくに言いにきたのだから」
「えらそうなことを言っても、所詮《しよせん》はタレントですよ」と戸波は嗤《わら》った。「たかがタレントです。一発当てたいだけなのですから」
怒りの発散させようがなかった。コレステロールのように血管内に貯《た》め込むしかあるまい。
「予感」の創刊準備が煮つまってきたので、辰夫は、「パズラー」の編集を石黒に任せなければならなくなった。
「どうかね?」
と、辰夫は石黒の意向をきいた。
「会社側の年功序列で決められると、とんでもないことになる。二宮さんあたりにお鉢《はち》がまわると大変だ」
その可能性はなきにしも非《あら》ずだった。はるか後輩の金井が「黒猫《くろねこ》」の編集長格であるからには、二宮を、少くとも同格にしなくては、社内の均衡《バランス》が保てないのである。
「まさか……」
と、石黒は笑った。
「二宮さんが手がけたら、『パズラー』はめちゃめちゃになりますよ」
「しかし、会社ってものは、そうは考えない。雑誌のパターンが決れば――そして、ある路線に乗れば、あとは、だれが編集しても、|そこそこ《ヽヽヽヽ》はいくと思っている。雑誌が生き物ってことがわかってないんだ」
辰夫は頭をふった。
「でも、ぼくの力では……」
石黒は自信なげに言った。
「大丈夫だよ。きみに、すべてを委《ゆだ》ねるわけではない。アイデアはぼくが手伝う。きみは――いままでより、ほんの少し忙しくなるだけだ」
社の近くの喫茶店で、辰夫は西と向い合っていた。
「なるほど……」
西はあいかわらず眉間《みけん》に深い皺《しわ》を刻んで、煙草《たばこ》を神経質そうな手つきでくわえる。
「まえにも、石黒君を褒《ほ》めてましたね、たしか」
「いいです」と、辰夫は頷く。「変なプロ臭さがないですから」
「ほう」
「『パズラー』をなんとか編集できると思います」
「あなたが脇《わき》から支えてくれるのでしょうね」
西は念を押した。
「もちろんです」
「でも――大丈夫かなあ、彼で?」
「|大丈夫です《ヽヽヽヽヽ》」
辰夫は強引に言いきった。このさい、そう強調することが必要であった。
「わかりました……」
西は奇妙にそわそわしている。
「前野さんが保証してくれれば、よろしいでしょう。若い人が伸びてくれなければ、こちらとしても困るので」
なんだか態度がおかしかった。だが、気づかぬふりをして、辰夫はアイスコーヒーを飲んだ。
「黒崎《くろさき》さんは城戸《きど》先生のお宅へ行っているのです。もう帰るはずですが……」
と、西は、心ここにない態《てい》である。
やがて、開襟《かいきん》シャツ姿の黒崎が、上着を抱えて現れた。
「いや暑い。死にそうだ」
冗談ともつかぬ口調で呟くと、どっかと椅子《いす》にかけた。
「いま、石黒君の話をしていたところです」
と、西は黒崎に概略を説明した。
「前野さんは、石黒君でも、『パズラー』の編集長、いや、編集主任ですか――それが、つとまるというのです」
「そうか……」
黒崎はにこりともせずに、コーヒーフロートをくれ、と店員に言った。
「それで、『予感』に専念するというわけだな」
「ええ」
辰夫《たつお》は小さく言った。
「その気持は嬉《うれ》しい。きみの気構えがよくわかる……」
黒崎は急に辰夫の眼を凝視した。
「しかし――きみには、やはり、『パズラー』を続けてもらわなければ困るのだ」
「でも……」
「まあ、ききなさい」
黒崎の眼が細くなる。
「きみにショックをあたえるとまずい。どこから話したらいいか、わからんのだが」
アイスウォーターを呷《あお》るように飲んだ。
「言ってしまおう。結論をいえば、『予感』を出すのは中止になった」
辰夫は狐《きつね》につままれたようだった。頭のなかが混乱して、え、とか、なぜ、といった言葉も出なかった。
「今日、城戸先生と相談した上で、正式に決った。意気込んでいたきみには気の毒だが、仕方がない」
「どういうことですか」
辰夫の声はふるえていた。
「まったく同じ時期に、同じサイズで、ヴィジュアルな雑誌が出るのだよ」
黒崎は言いにくそうに、大手出版社の名をあげた。
「あそこは古い出版社だが、雑誌を出すのは初めてだ。それだけに、相当、力を入れてくる。パブリシティの費用は業界空前と噂《うわさ》されている。とても、勝負にならん」
「私の耳に入ったのは昨日です」
西が横から言った。
「あっ、と思いましたよ」
「急いで、城戸先生に相談したのだ。なんといおうと、金銭的なリスクを背負うのは、先生だからね。……先生は即決されたよ。打ち切りにすべきだ、と」
「結果論になるかも知れませんが――そもそも、うち程度の会社では、不可能な雑誌だったのかも知れませんね」
西の言葉に、辰夫はかっとなった。
「それはないでしょう。ぼくは会社の命令だから手がけたので……」
「わかった、わかった」
黒崎は疲れたような声で制した。
「いまのは失言だな」
「どうも、わからない……」
と、辰夫は噛《か》みしめるように言った。
「腑《ふ》に落ちないのは、同じサイズのヴィジュアルな雑誌というだけで、とりやめになったことです。大きな出版社の出すものと、ぼくが編集するものでは、内容がまったくちがうはずですが……」
「そう考えるのは当然だな」
黒崎は上着の内ポケットから折り畳んだアート紙のパンフレットを出した。
「広告代理店の者に入手して貰《もら》ったのだ」
それは、いわば、雑誌の自己紹介と宣伝を兼ねたようなものだった。同じようなものを、文化社でも、「予感」について作り、内輪に配布している。
コピーを見ただけで、辰夫は顔から血が退《ひ》くのを覚えた。
――六〇年代は果して黄金色《こがねいろ》だろうか? 新しい時代への予感に胸をときめかす人々に贈る新しい雑誌「世代」……。
そして、予定される執筆陣として、佐伯一誠《さえきいつせい》の小説連載をはじめ、イラストレーター、カメラマン、純文学作家、ジャズ評論家、詩人、映画評論家などの名がならんでいたが、三分の二は〈遊びの会〉のメンバーであった。――つまり、「予感」創刊号のメンバーの大半が含まれていて、さらに豪華にしたもの、といえた。
「わかるじゃろ、やめた理由が……」
と、黒崎が溜息《ためいき》をついた。
「これじゃ、まるっきり、同じ雑誌だな」
辰夫は込み上げてくる怒りを抑制しながら言った。
「その点も、ゆうべ、黒崎さんと話し合ったのです」
西の声も緊張している。
「ただ、小説と違って、雑誌の企画は、盗作のどうのと言えないのですな」
「|微妙な《ヽヽヽ》ケースだよ」
黒崎の眼《め》にかすかな笑いの翳《かげ》があった。
「うちのパンフレットのほうが、ひと月早く配られている。だから、われわれから見れば、泥棒《どろぼう》と言えなくもない。……しかし、だ。向うにしてみれば、いま伸びつつある若い執筆者をならべただけだ、と主張するだろう。|偶然の一致《ヽヽヽヽヽ》と、うそぶくだろうし、それに反駁《はんばく》はできない」
「しかし……」
これはひど過ぎる、と言いかけて、辰夫は言いきれなかった。執筆者がこれだけ共通していて、まったく気づかなかったというのは、自分の間抜けぶりを告白するに等しいではないか。
「〈遊びの会〉の人たちも、いい気なものじゃないですか」
と、西が口を尖《とが》らした。
「それを言うては、いかんよ」
黒崎は西の顔を見て、
「わしの口から言うのも|なん《ヽヽ》だが、原稿料がまるで違うと思う。噂では、一流雑誌の稿料の倍の額を出すと言うて、誘っとるそうだ。はっきりいって、戦争にもなんにもならん」
「蟷螂《とうろう》の斧《おの》ですかな」
西はひきつったような笑いを浮べた。
「まあ、真似《まね》されるちゅうのは名誉だよ。そう考えて諦《あきら》めるしかない」
黒崎は、は、は、と力なく笑ったが、辰夫はとても名誉とは思えなかった。腸《はらわた》が煮えかえり、耳の下の辺りがふくれあがって、ものを考えられなかった。
「前野君にしてみれば、たとえ執筆者は同じでも、自分が手がければ、まったく違う雑誌が作れると思うだろうな」
黒崎はレンズの奥の眼を動かさなかった。
「いや、じっさい、違うものができる、と、わしも思う。だが、世間一般の眼から見れば、この二つは類似品だ。そうこまかく、親切に見てはくれんからな。その場合、営業力がポイントになる。営業部の力の強いところが勝つわけだ。となれば、勝負は、おのずから見えている。城戸先生にしても、危険な賭《か》けに手は出せない」
「私たちも不用心でした。もっと隠密裡《おんみつり》に|こと《ヽヽ》を運ぶべきだったのです」
「それにしても、ぼくの本当の狙《ねら》いは、パンフレットには書かなかったのですから、だれか、裏切った奴《やつ》がいるのです。〈遊びの会〉のメンバーで……」
辰夫はなおもこだわった。
「だれかが向うに漏らしたにちがいない。それも、そうとう早い時期にです。そうでないと、時間的におかしくなる」
「そういうことが、あったかも知れん。が、なかったかも知れん」
黒崎は禅問答のように言う。
「レジャー時代の到来で、いままでの雑誌編集者は、どうしたらよいのか分らなくなっている。新しい読者の要望に応じられなくなったという愚痴を、のべつ、耳にする。世の中の動きが早くなり、流れが変ってきた。――そんなときに、前野君のむちゃくちゃな編集ぶりの中に、売れる|なにか《ヽヽヽ》を感じとった人がいたとしても、不思議ではない。……それに、小企業が新製品を開発して、売れるようになったとたんに、大企業が乗り出してくるのは、日本の産業界のパターンだ」
「しかし、モラルというものが……」
「そんなものはない。あるかのごとく見せているが、実はない」
打ちのめされた辰夫は沈黙した。
「すでに原稿を頂いている執筆者には、稿料をお払いしなければなりません。それから、中止のご挨拶《あいさつ》をして……」
西が喋《しやべ》りつづけている。
「うむ、終戦処理をきちんとしなければならんぞ」
黒崎が同意した。
この人たちにとっては、すべてが、事務的な問題でしかないのだ。
その夜、辰夫は、大宮に住む映画評論家に電話を入れた。
――あ、原稿、まだ、できてないんだ。
と、相手は途惑《とまど》った声を出した。
――その件なのですが……。
辰夫は冷静を装いながら言った。
――書いていただいてなければ幸いなのです。「予感」の発刊が、急に、とりやめになったもので。
――え!
相手はびっくりしたようだ。
――どうして、また?……。
――「世代」という雑誌が出るのをご存じだと思いますが……。
――ええ。
――あなたのお名前が、執筆予定者に入っていました。
――名前だけ貸してくれと言われたの。具体的なことは、まだ、決ってないんだ。
――参りましたよ。
と、辰夫は開き直った口調になる。
――どなたが、どこへ、何をお書きになろうと、まったく自由なのですが。……〈遊びの会〉の会員が、あれだけ、まとまって入っていると、競合する当方《うち》としては、お手上げです。しかも、サイズまで同じ雑誌ですからね。
――それで、とりやめですか。前野さんが、そんな弱気とは知らなかったな。
――弱気になったから中止したのじゃありません。会社が決めたのです。
――悪いことしたな、そりゃ。……予告に名前を貸してくれと言われて、つい、承諾しちゃったんだ。
――そんなわけで、とりあえず、お知らせしました。詳しくは、また、お目にかかって……。
――ちょっ、ちょっと待って。
相手は先まわりして、
――これは、あなたの耳に入れておいた方がよさそうだ。向うの編集部のなかに、ひとり、切れる男がいて、〈遊びの会〉みたいな同世代者の会を作ろうとしているのです。気をつけた方がいいですよ。
――気をつけるにも、なんにも……。
辰夫は暗い声で応じた。
――ぼくの方は、雑誌が出ないのですからね。〈遊びの会〉とも、自然に、縁遠くなるでしょう。
――ほかの連中の考えは知らないけど、ぼくは前野さんと疎遠《そえん》にはなりたくないなあ。
と、相手は言った。
――疎遠?
――だって、「パズラー」は続くのでしょう。
――ええ、続きます。
――ぼくの書いてる映画評、わりにジャーナリストに読まれているの。「パズラー」にお書きになっている調子で、という注文が多いんだ。つまり、「パズラー」に書く原稿は、ぼくにとって商品見本なので、打ち切りにされると困るんだな。
――そんなことは……。「予感」を中止するトラブルと「パズラー」は別ですから。
――それなら、いいんだ。安心した。ぼくはだれとも喧嘩《けんか》したくないし、中立主義ですからね……。
撤退は迅速におこなわれた。黒崎《くろさき》の旧日本軍人的表現によれば、〈わがほうの損害は軽微〉なのだそうである。
辰夫はそうは割り切れなかった。
まず、〈遊びの会〉の中の真面目《まじめ》な人たちに顔向けができなかった。執筆を承諾してくれていた外部の人たちに対してはなおさらである。
だが、なによりも口惜《くや》しかったのは、〈理想の雑誌〉を作る機会が消えたことである。今まで日本になかったような雑誌を、という念願は、依然として彼の内部に燻《くす》ぶっている。
辰夫は鬱《うつ》状態におちいった。
彼の場合、鬱といっても、それほど深刻なものではなく、典子からの手紙一通で気分が浮上するかも知れないのであったが、彼が長い手紙を書いたにもかかわらず、ロスからの返事はこなかった。
そうしたある日、文化放送から電話がかかり、スー・リオンという新人女優が来日するので、対談をしてもらえないか、とたずねてきた。
――何者ですか、それは?
――まだ少女です。スタンリー・キューブリック監督の「ロリータ」という新作に主演した子で……。
――想《おも》い出した。中国人みたいな名前だと思っていたんだ。
――十六歳だそうです。「ロリータ」の宣伝で来日するのですが……。
――キューブリックはこないのですか?
――きいておりません。宣伝部からは、スー・リオンだけ売り込んできたのです。
――わかりました。
――出て貰えますか。
――ええ。
気分転換になるだろう、と彼は思った。
――来日は一週間ほど先ですが、打ち合せをしたいのです。社のほうにうかがいます。
――夕方でよければ、寄りますよ。
と、辰夫は答えた。
意味もなく、四谷《よつや》三丁目裏の細い坂道を歩いてみたい、と思っていたところだった。
四谷若葉町にある文化放送は、古い区役所のようなビルで、外部の標識やポスターがなかったら、とてもラジオ局とは思えなかった。
受付から声をかけると、白いポロシャツ姿のディレクターが出てきた。
「喫茶店へ行きましょう」
ディレクターは外に出た。
「なにもないところで……」
木造の店に入ると、ひとりごとのように言う。
「酉《とり》の市《いち》が出るでしょう」
「いえ、気のきいたレストランや喫茶店がないという意味です」
「その代り、お岩|稲荷《いなり》があるでしょう」
冗談を言ってから、辰夫は首をすくめて、周囲を見た。
店の奥の窓ぎわで、放送用の原稿用紙をひろげている若い女がいた。原稿を読む姿勢でいるが、明らかに辰夫の存在を意識していた。
「びっくりしたわ」
と、暎子《えいこ》は原稿用紙を伏せて、サングラスをかけた。
「急に、立ち上って、出て行くのも、具合が悪いし……」
「そんな必要はないだろ」
辰夫はテーブルの向い側に腰をおろし、改めてコーヒーを注文する。
「そうね」
暎子は煙草《たばこ》をくわえた。
「私、仕事をしているのですものね」
「そのサングラス、新しいね」
「サングラスぐらい、買えるわ。いくら貧乏な放送ライターだって……」
と、暎子は独特のひがみっぽい言い方をした。
「ぼくも、野暮用だったんだ」
スー・リオンに会う件を話した。
「けっこうですこと。ハリウッドの若い子に会えるなんて」
「その言い方はないだろう」
辰夫は笑わなかった。
しばらく、沈黙していた暎子は煙草を何度も唇《くちびる》にはさみ、遂《つい》に咳込《せきこ》んだ。咳込むポーズまで、放送作家らしくなっていた。
「きみがきいたら、快哉《かいさい》を叫ぶようなことがあった……」
「え?」
暗いレンズの奥の眼が鋭くなった。
「いま、なんて言ったの?」
「きみが、大喜びするにちがいない話。――ざまあみろ、と思うだろうね」
「まあ!」
暎子はふざけた口調になった。
「ぜひ、ぜひ、うかがいたいわ」
「きみに、去年話した雑誌のこと、おぼえてる? 理想の雑誌を作るって言ってた……」
「おぼえてますとも。私、執念深いんだから」
「この秋に出ることが九割まで決っていて、突然、駄目《だめ》になった」
辰夫《たつお》は声を出さずにわらった。
「どうして?」
暎子の声が低くなる。
「つまらない理由さ」
辰夫はかすかに吐息をした。
「考えてみれば、そうそう物事がうまくゆくはずはない。他人からみれば、今までのぼくだってラッキー過ぎることになるらしい。……それにしても……」
「そんな話を、どうして、私にきかせるの」
暎子は煙草を灰皿《はいざら》に押しつけた。
「同情して欲しいの?」
「それを期待するのが厚かましいぐらいは承知している。ただ――だれかに話したかったのさ。仕事がらみの人間に話すと、あいつも弱気になった、とか、落ち目だとか言われるに決っている」
「私だって言うかも知れないわ」
「それは、いいんだ。きみが恋人に話して笑ったりするのはいいんだよ。きみには、その権利がある」
「変なの」
暎子は新しい煙草をくわえた。
「人の不幸を嗤《わら》う趣味がない、とは言わないけど、時と場合によるわ」
「いろいろな障害を予想したけれども、こういう|どんでん《ヽヽヽヽ》で終るとは思わなかった」
声がふるえた。
「川合さんに話したの?」
「いや……」
「川合さん、親友じゃないの?」
「信用できる男だけど、親友とはいえない。この世界に、親友なんてものはないんだよ」
「可哀《かわい》そうな人たちね」
彼女は呆《あき》れたように言った。
「人間を信じていないのかしら」
「ぼくは信じてない」
「どうして私に話したの」
「そう理詰めで迫られても困る。もののはずみってこともある」
「もののはずみで言って欲しくないことがあるのよ。恋人なんて、いないわ」
「覚えているかい」
ツインベッドの一つに、靴《くつ》のまま、横たわった辰夫がきいた。
「そこの劇場で『ウエスト・サイド物語』の試写があったのを……」
「覚えてるわ」
暎子は窓の外を見た。
東劇のネオンが川に映っている。夜目にも白い垂れ幕の赤い文字が読めた。
「『赤い靴』をやってるのね」
「古いな。十何年も前の映画じゃないか」
辰夫は大儀そうに言った。レストランでワインを飲み過ぎたらしい。
「子供のころに観《み》たわ」
「ぼくは高校生だった……」
「『ウエスト・サイド物語』の朝のことはよく覚えてるけど、このホテルは頭にないの。完成してたのかしら」
辰夫はかすかに笑ってから、
「もう、二年ぐらいになる、オープンしてから」
「気がつかなかったわ」
「ディスクジョッキー番組を構成している人がそれでは困る」
「そうかしら」
「風俗的に最尖端《さいせんたん》でなければ、まずい。――というよりも、好奇心の問題かな。新しいビルやホテルができたら、とりあえず、飛び込んでみる野次馬性が必要でしょうが」
椅子《いす》にかけたまま、煙草を吸っていた暎子は、
「あなたは、何度も、泊ってるの」
と、冷ややかな声できいた。
「泊ったことはない。このホテルで仕事をする作家をたずねて、二度ばかり、きている」
「私も好奇心は強いわ。これでも、ジャーナリスティックな勘は鋭いと言われるの」
窓の外を眺《なが》めながら、突っ撥《ぱ》ねるように言った。
相変らずだ、と辰夫は思った。
「じゃ、賭《か》けをしないか」
彼はゆっくりと言った。
「なに?」
「『ウエスト・サイド物語』だけれど、いま、東京でロードショウをやっているかどうか?」
暎子は途惑《とまど》った表情をした。
辰夫は起きあがり、フロント脇《わき》で買った夕刊を掴《つか》んで、後ろ手にした。
「狡《ずる》いわ。知ってるのね」
「うろ覚えなんだ。だから、面白《おもしろ》いんじゃないか」
「面白くない。だれにも試されたくないのよ、私は」
暎子は新聞を奪いとろうとした。強い力だった。
「私は逃げ場なのね」
突然、そう言った。
「え?」
眠りに落ちかけていた辰夫は、思わず、眼《め》をあけた。
「あなたにとって、私は逃げ場なのよ。絶対に、そうよ」
辰夫は答えなかった。彼自身、あまりにも明白に認めていたからだ。
ものごとがうまくいかないとき、窮地に立ったとき、無性に逢《あ》いたくなるのだった。
新雑誌が坐礁《ざしよう》したあとも、そうであった。すぐに電話をかけなかったのは、主として見栄《みえ》の問題である。ながく逢っていなくて、急に、話をきいてくれ、とは、言いにくかった。また、皮肉やあてこすりを言われたくない気持もあった。
「ずっと、そう思ってた。……また、逃げてきただけのことよ」
辰夫は灰皿の中の小さなマッチをとり、煙草に火をつけた。
……彼は暎子を背後から抱いたのだった。彼女は、はじめ、好まぬ様子だったが、彼は荒々しい態度を変えなかった。臀《しり》に強く押しつけると、彼女は前にのめりそうになる。やがて、電流に似たものが彼の男性の先端を走り、鬱積した怒りが迸《ほとばし》った……。
「陰気な話は嫌《きら》いだわ」
彼女の語調が変った。
「……さっきの、知りたいわ。『ウエスト・サイド物語』はどこでやってるの」
「松竹ピカデリー(現・丸の内ピカデリー)」
「なんだ。まだ、やってるの」
「まだ、さ。依然として」
「私も、松竹ピカデリーだと思ったのに」
低く笑った。
それから、急に、明るい声で、
「ねえ。私が|ついてきた《ヽヽヽヽヽ》話、きいてくれる?」
「うん」
「放送ライターじゃなくなる可能性が出てきたの。それも、あなたに関係があるのよ」
「なんだい?」
「『聖歌隊の少年』よ。東京公演、観たわ。とても、よかった」
「ぼくは観ていない」
「あの中の『ひと夏の恋』がレコードになることはご存じ?」
「きいている」
「絶対にヒットするって、レコード会社の人は言ってるの」
「たぶん、するだろうね。……確率は七十五パーセントぐらいで」
「ヒットしたら、レコードのタイトルで映画化するんですって」
「とらぬ狸《たぬき》の皮算用ってやつだ」
「まあ、きいてよ。映画化されるときは、私がシナリオに起用されるの」
「きみが!?」
「莫迦《ばか》にしないでよ」
「莫迦にしてはいない。ただ、驚いている」
「テレビのホームドラマを二つ書いただけの私が、実力で起用されるとは思わないわ。映画会社の大物プロデューサーの話では、話題度《ヽヽヽ》ですって。女性の脚本家はいるけど、若い女の子ではいないからって」
「|女の子《ヽヽヽ》」
「大物プロデューサーから見れば、そうなるのよ。私は少し生意気だったりするから、丁度いいんですって」
「つまり、容姿端麗ってやつだな」
「悪くない話でしょ」
「悪くない。しかし、レコードがヒットしたら、という仮定の上での話だろう」
「でも、白羽の矢が立っただけでも嬉《うれ》しいわ」
そう言いながら、暎子は起き上った。
「帰らなくちゃ」
辰夫は不審に思った。
「なにか、あるの?」
「いっしょに住んでいるひとがいるのよ」
と、彼女は答えた。
「え!」
「驚いてないで、口実を考えてくれませんか。夜中に帰るときの」
「どういう人?」
「きかないで」
暎子はやわらかく往《い》なした。
「なにも、きかないで。それ以上知りたがると、罰があたるわよ」
「もう、あたっていると思うけどね」
辰夫はしずかに言った。
シャワーの音をききながら、これで終りだ、と思った。彼女のいう〈逃げ場〉は失われた。
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第十八章 猶予《ゆうよ》のとき
九月の最初の日曜日に、辰夫は、川合が葉山町に買った家に招待された。
建て売りらしい小さな家は、御用邸前から山側に入った畠の中にあり、海岸にも遠くない。家族はここに住み、川合のみが東京のアパートで仕事をする形になるらしい。
「下の娘が喘息《ぜんそく》なんでね」
ガラス戸越しに畠の緑を眺められる応接間で、川合は、珍しく、しみじみとした口調で言った。
「ここに住んだら、だいぶ、違うと思う。近くに小学校があるし……」
「欲を言えば、海が見えたほうがいいな」
「それだよ」
川合は、いつもの調子に戻《もど》って、
「不動産屋にコネをつけといて、売り別荘が出るのを待つつもりさ。いまどきの別荘は、たいてい、会社所有だから、めったに売らないそうだがね」
引越したばかりで、灰皿《はいざら》が見つからないのか、川合は煙草《たばこ》の灰をテーブルの上の空き缶《かん》に落とした。
「とりあえず、ここでいいじゃないか」
「そうでもない。住んでみると、蚊が多くてかなわない」
「田舎は、どこも、そうだろう」
「おれ、田舎、初めてだもの。えらい不便だぜ」
「六本木にくらべれば、たいがいの場所は不便だよ」
川合は小型冷蔵庫をあけ、ビールをつかみ出した。
「ゆっくり、いこう。かみさんはバーベキューをするつもりで、逗子《ずし》へ買物に行っている」
「逗子は大変な人出だった」
「気のきいたスーパーマーケットは逗子にしかないんだ。娘二人がついていかないと、食品を運びきれない」
ここでの生活も厄介《やつかい》だな、と辰夫は思った。
「いつもは、おれの車で運ぶんだ。一週間ぶんずつ、買い出しをしてくる。アメリカ製のでかい冷蔵庫にぶち込んでおくのさ」
「ぼくらが子供のころ、アメリカ映画や漫画の『ブロンディ』で見た生活が、日本でも、ようやく現実化したのか」
辰夫は感慨深かった。
「|あれ《ヽヽ》だよ」
川合は脂《やに》で黒ずんだ歯を見せた。
「亭主《ていしゆ》どもが、ショッピングバッグを運ぶ生活が始まってるぜ、もう」
「ぼくは、そういう真似《まね》はしない」
「惚《ほ》れてた娘《こ》がアメリカへ行ったんだって?」
川合は素朴《そぼく》な語調でたずねた。
「え?」
「きいたよ、おれ」
「だれから?」
「ユカだよ。秘密を打ち明けるみたいに言やがるから、ほかの奴《やつ》には喋《しやべ》るな、と釘《くぎ》をさしといた」
辰夫は黙っていたが、川合の着実な生活ぶりを羨《うらやま》しく感じた。
「そうだ。あの小説、どうなった?」
急に、話題を変えた。
「ああ……」
川合はあいまいに頷《うなず》いて、
「友達が、ある出版社に持ち込んでくれたが、返事がない。まあ、なんとかなると思う」
「なるよ、それは」
「テレビタレントが冗談で書きとばしたと思って敬遠されてるんだろ」
「そんなことはあるまい」
「今のおれの状態では、そう思われても仕方がない」
川合はピーナッツを放《ほう》り上げて、口で受けた。
「おれはさておき、おたくはどうするんだい」
「ぼく?」
「そうよ。理想の雑誌はポシャった――これは、もう、みんな、知っている。あとは、おたくが、どう動くか、注目してるわけだ」
「どうすれば、いいんだい?」
「おれにきいてはいかんよ。……おれなりの考えはあるが」
「たとえば?」
「フリーになったほうがいい、と思う。あくまで個人的な意見だがね」
川合は慎重につけ加えた。
「他人《ひと》様のことを、あれこれ言える柄《がら》じゃない。おたくの生活の問題があるし、口に出せないこともあるだろうしな。――あえて言わせて貰《もら》えば、そういうことになる」
「自分でも、わからなくなっているのだ」
「だろうな」
川合はピーナッツを噛《か》み砕いた。
「予感」が中止になったために、辰夫は、周囲の者に同情されていた。だが、彼のような性格の男にとって、同情ほど耐えがたいものはないのだった。挫折《ざせつ》して同情されるよりは、悪意を持たれる方がましであろう。
「まあ、そう長くは文化社にいないだろうと思う。あなただから言うのだけど……」
川合は大きく頷いた。
「わかるよ、それは」
「だれにも言ってないんだ」
と辰夫は念を押した。
川合がクーラーを弱めると、蝉《せみ》の声が大きくなった。
「遅いですねえ」
MGM映画の宣伝部員が腕時計に視線を走らせた。
辰夫はきこえぬふりをしている。ここで彼が苛立《いらだ》ったのでは、宣伝部の人間の立場がなくなってしまう。宣伝部員としては、そうした辰夫の気持を感じて、先まわりしたにちがいない。
「彼女にふりまわされますな」
文化放送のディレクターが首をひねる。
「ロリータ」は、映画そのものの話題は、一向に盛り上っていない。ロリータという固有名詞から、|危険ななにか《ヽヽヽヽヽヽ》を連想されることは、少くとも日本では、ありえない。キューブリック監督の〈あえて危険な領域を手がける〉意図も空転しているのだろう。
そこで、話題づくりに、スー・リオンが送り込まれてきたわけだが、テレビで観《み》る限りでは、健康なアメリカ少女という感じで、中年男をのめり込ませる妖精《ようせい》のイメージではなかった。
「映画と関係のないモテ方なので、われわれは困っているのです」
宣伝部員は溜息《ためいき》をついた。
スー・リオンの三十分刻みのスケジュールの中で、今日の三時半から一時間の対談が組まれた。なぜ、辰夫のところにきたのかわからないのだが、映画雑誌の対談も持ち込まれたので、ラジオといっしょに、赤坂のレストランの個室で片づけてしまうことになったのである。
「申しわけない。ぼくは原作は読んだのですが、映画はまだ観てないのです」
と、辰夫《たつお》が言うと、宣伝部員は、
「原作だけで、対談には充分です」
と答えた。作品の出来が香《かんば》しくない、と仄《ほの》めかしているようでもあった。
「映画の出来はどうなのですか」
辰夫がききかえすと、
「それを、あなたにうかがいたかったのです」と相手は切り返した。
「ぼくは観ました」
ディレクターが救いに入った。
「アメリカ映画は倫理規定がうるさいから、ジェームス・メースンの中年男と少女の関係の深まり具合がわからない。……二時間半は、正直いって、きつかった」
「彼女に翻弄《ほんろう》されるのは、ジェームス・メースンより、ぼくらですよ」
宣伝部員は感情をあらわにした。
「日本人を莫迦《ばか》にしているのじゃないかと思うんだ」
すでに四時二分まえである。
「また、どこかで、ひっかかったのかな。うちの若いのが、ついているのだけれど」
「スー・リオンとおたくの若い方だけですか」
ディレクターがたずねると、宣伝部員は不機嫌《ふきげん》そうな顔で、
「石鹸《せつけん》ダッコちゃんがいっしょなんですよ」と小声で答えた。
「あの女か。困ったものだな」
「困りますよ」
「なんですか、それは」
辰夫はききとがめた。
「ほら、石鹸をタイルにくっつけるものがあるでしょう」
ディレクターが説明しようとする。
軟質塩化ビニール樹脂製で、一見ゴムのようなそれは、石鹸よりこころもち大きく、平べったいもので、両面が吸着力の強い吸盤状になっている。石鹸を片面に吸い着けておくと、台所の壁でも風呂場《ふろば》のタイルにでもくっついてしまう。二年まえに大流行したビニール製の黒ん坊の人形で、人間の腕や足にからみつく〈ダッコちゃん〉なる商品があったところから、〈石鹸ダッコちゃん〉と、かりに命名されたらしい。
「使ってますよ、ぼくも」
「あ、そうですか……」
中年の、というより、外見は初老に近いのであるが、外国のスターが来日するごとに、そのそばにへばりついてしまう女性通訳がおり、スターといっしょにテレビに出るわ、ときには、スケジュールにまで口を出す、その女のことだ、と言った。
「どうしようもないですよ、あの|ばばあ《ヽヽヽ》は」
宣伝部員は舌打ちをする。
「放り出しちまえばいいじゃないですか」
と、辰夫は乱暴なことを言う。
「それができりゃ苦労はないです」
「ありゃ、何者ですか?」
「化け物です」
と、ディレクターが吐き出すように言った。
「われわれ宣伝部員より情報が早いときがあります。とめる間もなく、羽田に着いたスターに密着してしまうので……」
「なるほど、ダッコちゃんだ」
そのとき、ざわめきがきこえた。ようやく着いたらしい。
真先に飛び込んできた頼りなさそうな青年は、「おい、なにをしてたんだ!」と、どやしつけられた。
「日本テレビを出たあと、どこにいるかわからなかったんだぞ」
「浅草へ行ってたんです。スー・リオンが手相を見て貰いたいというので、手相見を探しまして……」
髪がブロンドで眉毛《まゆげ》が黒い少女が入ってきた。物怖《ものお》じしない口調で、ハロウ、と挨拶《あいさつ》した。
つづいて、髪を栗色《くりいろ》に染めた、和服姿の石鹸ダッコちゃんが入ってきた。
「さあ、急ぎましょう」
女はマネージャーのような口調で言う。
「五時からテレビ出演があるのです」
スー・リオンはケーキとコーヒーを注文した。通訳の女は、あたくし、なにも要りません、と言いながら、すすめられると、水割りをたのんだ。
皺《しわ》だらけの手で煙草に火をつけてから、辰夫に向い、
「あたくし、この子とずっといっしょに行動していましたので、インタビューの答えは、だいたい、わかってますのよ。たいがいの質問には、あたくし、答えられます」
と言った。
「ラジオは、それじゃ、困ります」
「始めましょうや」
怒りかけたディレクターに辰夫は声をかけた。英会話に自信のあるディレクターが通訳をする予定である。雑誌の速記者は鉛筆を手にした。
「いま、日本のマスコミのスターは、あなたと堀江謙一《ほりえけんいち》という青年ですが……」
ディレクターが訳すと、スー・リオンは首をひねった。小型ヨットで太平洋を横断した日本人を知らないのであろう。
「スタンリー・キューブリック氏は、とても粘る監督だそうですが……」
「そうです。撮影開始のときは十四歳だったので、一日に三時間しか本番を撮れませんでした。映画全体は、一年ぐらいかかったと思いますが、私が拘束されたのは、五カ月です」
「そんな質問なら、あたくしが答えられますよ」
通訳の女が脇《わき》から口を出した。
肥大したマスコミが生んだ畸型児《きけいじ》だな、こいつは――と、辰夫は無視した。こんな者に食い込まれている配給会社もだらしがないのだ。
ケーキが気に入ったスー・リオンは、残りをホテルに持ち帰る、と言った。
編集室に戻《もど》ると、男ふたりはコーヒーを飲みに行ったとかで、竹宮照子しかいなかった。
「ひどい目にあった」
ソファーに腰かけて、辰夫はそう呟《つぶや》き、スー・リオンをめぐる騒ぎを話してきかせた。
「通訳は、仏頂面《ぶつちようづら》して、水割りを飲んでるんだ。カメラを向けられた瞬間に、スー・リオンにべったり抱きついて、にこっと笑う。まさに、石鹸ダッコちゃんだね」
竹宮照子は、珍しく、笑い声をあげた。
「キューブリックのような気骨ある芸術家の作品が、世に出るためには、俗悪な人間の手垢《てあか》にまみれなければならない。残酷なものだな」
「珍しくストレートな言い方ですね」
「腹が立ったからさ。芸術が世に送り出されるプロセスは、実に残酷だと思う。あんな女にきりきり舞いさせられている連中も含めて、俗悪千万だ」
「粋《いき》じゃないですね、前野さん」
相手はからかうように言う。
「粋?」
「ええ……」
「粋がどうした?」
「前野さんは、もっと、粋な人だと思ってました。なにもかも笑いのめして、|むき《ヽヽ》になることがないタイプ……」
「それはおかしい。ぼくは、ここで、のべつ、怒ったり、罵《ののし》ったりしているじゃないか」
「演技だと思っていたのです」
竹宮はまっすぐに辰夫を見た。
「すべて、仕事を、思い通りにすすめるための演技じゃないか、と」
「とんだ買い被《かぶ》りだね」
辰夫は唇《くちびる》のはしを歪《ゆが》める。こんな身近でも誤解されているのか。
「そういう真似ができれば苦労はしない」
「前野さんが、とても、ストレートに感情を出す人だということが、いま、わかったのです。ふつう、男の人は、私みたいな新米に向って、あんな風に|むき《ヽヽ》にはならないわ」
「そうかね」
辰夫は無愛想である。
「私の考えていた都会人とは、ずいぶん、ちがいますね」
「都会人?」
辰夫は怪訝《けげん》そうな顔つきをした。
「前野さんを、都会人の典型だと思っていたのです。――だって、江戸っ子でしょう?」
「昭和生れなんだ。どうせなら、東京っ子と呼んで欲しい」
「ご先祖は江戸でしょう?」
「いちおう、ね」
「じゃ、江戸っ子だわ」
「親父《おやじ》で五代だ。千葉や新潟《にいがた》の血が混っているけど、江戸っ子と呼ばれても、いいだろう」
「江戸っ子だから、かっとなるのですか」
「そんなことはない。ぼくの親父は温厚な男だった」
「私は田舎の生れですから、都会的な感覚とか都会人というものに、とても興味があるのです」
一瞬、からかわれているのか、と辰夫は思った。
だが、竹宮照子の眼《め》の輝きは純粋であった。夏になって短くした髪は、毛質が硬いために、タワシの毛みたいに見えなくもないが、生真面目《きまじめ》な顔は、意外なほど、きれいだった。
「……それで?」
彼は促した。ひとりの女性として眺《なが》めたのは初めてである。
「高校を出てから東京にきたので、まだ二年半ぐらいなのです」
「どこなの、故郷《くに》は?」
「高知です」
いままで、なにも訊《き》いたことがないのだった。仕事さえしてくれれば、出身地や学歴などどうでもよいという考えだ。
竹宮照子について、ひとつだけ気づいていることがあった。それは、なんでもないことがらについて、ユーモラスで気のきいた言いまわしをしようと試みることだ。あまりにも凝った表現をするので、下手な直訳文のようになり、辰夫も石黒も、意味がわからないで終る場合があった。
「前野さんは東京の下町のお生れでしょう」
「そう」
「しかも、五代目だったら、完全な都会人だと思うのですが……私のイメージにある〈都会人〉とちがうんです」
「きみの言っている都会とか都会人てものは、非常に抽象的な気がする」
と、辰夫は、ゆっくりと言った。
「たとえば、都会、だ。きみはどういうイメージを持っていたの」
「高校生のころ考えていた〈都会〉は、こうです。どこまでもつづく原っぱがあるんです。原っぱの向うに高層ビルの群れがあって、陽炎《かげろう》で揺れてるんです」
「大阪かい、それは?」
「大阪でも、東京でもないんです。要するに、〈都会〉です」
「やっぱり抽象的だ」
辰夫は言下に評した。
「そうですか」
照子は掠《かす》れた声で言い、笑った。もともとハスキーヴォイスなのだが、煙草《たばこ》の吸い過ぎで、よけい、ひどくなっている。
「そりゃそうさ。そのイメージでいけば、東京もニューヨークも同一《ヽヽ》ということになる」
「いけませんか」
「イメージを抱くのは自由だけど、現実的ではない。東京も、大阪も、きみが考えるような面がないではない。しかし、それは表面だ。なんといおうと、まず、ふつうの人間が|生活している《ヽヽヽヽヽヽ》のを、考えなければならない」
「生活、ですか」
「そうさ」
辰夫は相手の眼に視線を据《す》えた。
「いまのきみのイメージをきいていると、まるで、SFの未来都市だ。きみの考えちがいはそこにある。人口一千万の大都市といえども、所詮《しよせん》は|生活の場《ヽヽヽヽ》なのだ。それを認識しておいて欲しい」
照子はのみ込めないような顔をしている。
「わからないかね」
念を押してから、通じないかも知れないな、と思った。
東京育ちの人間にとっては、自明の理であることが、刻々、通じがたくなっている。そういう時代と諦《あきら》めるしかない。他人が理解するまで、丹念に説明する粘っこさが、辰夫にはなかった。
「わかるような気もするのですが……もうひとつ、ぴんとこないのです」
照子は正直に言った。
「でも、わかるようになりたいと思います。私、アパートが高円寺なのですが、毎日、高円寺と新橋を往復しているだけで、東京については、なにも知らないのです」
「石黒君にきけばいい」
「いろいろ教わってます」
「彼は東京出身じゃなくて、近県の出だけれども、けっこう、詳しい。いまの東京の盛り場については、ぼくより詳しいと思う」
「でも、東京が|生活の場《ヽヽヽヽ》という感覚はないと思います」
「ないだろうね」
と、辰夫は頷《うなず》いた。
「彼がどこに住んでいるか忘れたが、アパート暮しだろう。それでは生活者の感覚は持てないな。その町に根をおろしていなければならないのだから」
「私は根をおろそうとしているのですが――高円寺ですから、まわりが山の手の雰囲気《ふんいき》で……」
思わず、辰夫は吹き出した。
きょとんとした照子は、煙草に火をつけるのを忘れた体《てい》である。
「高円寺は山の手じゃないよ」
「……じゃ、何ですか」
「郊外だよ。新宿から西を山の手というのはおかしい」
照子はいよいよ解《げ》せぬ表情になる。
「……山の手は」
と、おそるおそる、言いだした。
「どの辺りを指すのでしょうか」
「ぼくは研究家じゃないから……。ただ、生活してきた感覚でいえば、麹町《こうじまち》、小石川、青山、麻布《あざぶ》あたりが山の手だと思う」
「下町はどこですか」
「日本橋、神田《かんだ》かな。いまは中央区なんて名称になってしまったが、かつては、日本橋区、京橋区、神田区、と分けられていた。これが下町だ」
「浅草はどうなのですか」
「まあ、下町に入る。だけど、そこの棚《たな》にある地図をひろげてごらん……」
照子は書棚から黄ばんだ地図をひき抜き、テーブルにひろげた。
「ぼくが生れる前、昭和の初めの地図だ」
東京市全図と記された大きな地図を眺めて、照子は途方に暮れたようだった。
「目黒村なんて書いてありますね」
「目黒は田舎だった。サンマが捕れたぐらいだから」
「渋谷、新宿が、東京市の西のはじだわ!」
「北を見てごらん」
辰夫《たつお》は地図を少しまわした。
「浅草区が北のはじなんですね」
彼女は慌《あわ》ただしい手つきで煙草に火をつけた。
「地理的には下町だろうが、浅草は下町ですか、と念を押されると、ぼくはためらうところがある。大川――というのは隅田川《すみだがわ》のことだが――の向う側の本所区、深川区についても、同じ感じを持っている。田舎くさい、とか、粗野、野暮ったい、という印象がある」
「それは前野さんだけの感じ方ではないですか」
「ちがうね」
と辰夫は答える。
「浅草生れの、ぼくと同世代の落語家と、そういう話をしたことがある。その落語家のお父さんは職人なのだが、たえず、息子にこう言ってたそうだ。『浅草に骨を埋めちゃいけない。日本橋に住むようになれ!』と」
「戦後のはなしですか」
「そうだとも。じっさいは、浅草も日本橋も、空襲のあとは大して変らないのだが、明治生れの人は、そういう発想を持っていたというわけさ」
「へえ!」
照子は煙草の灰がテーブルの隅を焦《こ》がしているのに気づかずにいる。
「どうしてそういう考えになるのでしょうか」
「それを説明するのは大変だ」
辰夫は笑った。
「喫茶店からコカ・コーラを貰《もら》ってくれないか」
「私も、いいですか」
「いいよ」
喫茶店に電話をかける照子を見ながら、やれやれ、と思った。説明に疲れることもあったが、自分の知識の大半が、二十歳まで下町で暮した、いわば生活感覚だけに頼っているのが、こころもとなく感じられるのである。
コカ・コーラはすぐにきた。
喉《のど》をうるおしてから、
「江戸時代の日本橋が日本経済の中心だったことは、わかるだろう」
と、まず、前置きした。
「ええ」
「それなら、話が早い。じつは、経済だけじゃなくて、文化生産があった。――たとえば、出版だ。版木屋も型紙生産も、日本橋、京橋に集中していた。小さな印刷所がひしめき合っていた。江戸文学や浮世絵は、そういう熱気から生れて、世にひろがった。硬い方では蘭学《らんがく》、軟かい方では寄席《よせ》まで、すべて、ここにあった。明治になってからでさえ、京橋・日本橋・神田の三区で、寄席が五十以上あったのだから」
「文化の中心ですね」
「その時代の感覚では、浅草は江戸そのものじゃなかった。そういう感覚は、大正はじめまで残っていたそうだ」
「面白《おもしろ》いですねえ」
「山の手と下町では、言葉までちがった。ほんの十年まえ、昭和二十年代には、まだ、そうだったよ」
「本当ですか?」
「本当だとも。ぼくは山の手の高校へ通っていたのだが、ある日、かっとなって、『てめえ、薄汚ねえ奴《やつ》だな!』と怒鳴った。もちろん、良い言葉ではない。相手が殴りかかってくると思っていると、げらげら笑いだした。ぼく以外の生徒は、そういう言葉が|現実に《ヽヽヽ》使われるのを初めて耳にしたのだ。つまり、落語の中で使われる架空の言葉だと思っていたのさ」
「私もそう思ってました……」
「そんなことを言って貰っては困る」
辰夫は複雑な笑いを浮べた。
「ごく初歩的な質問をしていいですか」
彼女は生き生きとしてきた。
「なに?」
「山の手と下町を区別するものは何ですか」
「さあて……」
辰夫は考え込んだ。
「子供のころから、はっきり区別していたけれども、|どうやって《ヽヽヽヽヽ》なんてことは考えても見なかった。……そうだな。思いつきで言えば、坂だ」
「坂?」
「そう」
「東京に、そんなに坂がありますか」
「いつか、みんなで、オープンしたばかりのホテルオークラへ行ったろう。きみは坂道で、ふうふう言ってたじゃないか」
「あ、そうでした」
「あの坂の上が麻布だ。つまり、山の手さ」
「……なるほど!」
明るい声を立てた。
「そう言われると、実感が湧《わ》きます」
「東京は坂の多い町なんだ」
と、辰夫は地図を示した。
「本郷は山の手だけれども、湯島の切り通しを少し下《くだ》っただけで、上野広小路に出るだろう。上野は下町だ」
「となり合っているわけですね」
「そうなんだ」
「だいぶ、わかってきました」
「関東大震災と米軍の大空襲で、二度、灰になっても、地形は変らないからね。住んでいる人間はかわったし、町そのものもかわってしまったが……これ以上の説明は、地図ではできない」
辰夫は地図を畳んだ。印刷所に電話を入れなければならなかった。
「下町へいらっしゃることがありますか」
照子がたずねた。
「中央区役所へ戸籍抄本をとりに行くときだけだ」
「おついでのときに、私を連れて行ってくれませんか」
辰夫は照子の顔を見た。
しばらくして、悪くない考えだ、と気づいた。そんな機会でもなければ、自分が脱出したつもりの町を再訪することはないだろう。
原稿集めのさなかに、穴でもあいたような空白の日があった。
土曜日でもあったので、辰夫は照子に声をかけた。
「画材屋に寄りたいのですが……」
「どこだい?」
「神保町《じんぼうちよう》です」
「いいよ」
「遠まわりにならないでしょうか」
と、照子は遠慮がちにきいた。
「きみは、どこらを歩きたいの」
「浅草です」
やっぱり、と辰夫は思った。
「それなら、神田は通り道だ」
「よろしいのですか」
「今日は身体《からだ》があいている。明日だと、うちの寺へ行かなければならない」
神保町から淡路町まで歩き、休みたくなったので、「藪《やぶ》」に入った。
まず、ビールを貰う。店員が客の注文を奥に伝える歌うような独特の調子を、照子は珍しそうにきいていた。
「この一画は戦災を免《まぬか》れたのじゃないかな」
辰夫はそう言って、|せいろ《ヽヽヽ》を注文した。本当は、てんぷらそばを食べたいのだが、汗がふきだすのをおそれたのである。
注文を終えたあと、向うで、お婆さんが汁を啜《すす》っているのを見た彼は、やっぱり、てんぷらそばを注文すべきだったのではないか、と思った。そして、埋め合せでもするかのように、そばずしを追加注文した。
客のすくない時間なので、|せいろ《ヽヽヽ》は、すぐにきた。
ひとくち食べた照子は、「おいしいですね」と感想を漏らした。神田の「藪」のそばがおいしくなかったら困ってしまう。
末広町まで歩いて、地下鉄に乗り、田原町《たわらまち》で地上に出た。
いつごろから、こんな風になったのか、国際劇場に向う〈国際通り〉には、ソース焼きそばの店が多い。それも、ただ、焼くだけではなく、ソース混りの匂《にお》いを通行人に吹きつけてくる。鉄板の上で焦げているそばをどうするのだろうか、と、よけいなことだが、心配になってくる。
通りを渡って雷門に向った。六区と呼ばれる映画館街を抜けたかったのだが、照子に地理を覚えさせるのが先だ、と判断したのである。
「浅草は初めてかい」
「一度、友達ときたと思うのですが、不確かです」
彼女の答えは心細い。
だが、戦後の浅草の、異様なまでの寂《さび》れ方を想《おも》えば、そんなこともあり得なくはなかろう。
雷門の赤い大提灯《おおぢようちん》が見えた。
「やっぱり、きているような気がします。……でも、この門はなかったわ」
「おととしの五月に再建されたんだ。まあ、観光客用だね」
「空襲で焼けたのですか」
「いや――焼けたのは、慶応元年だ。それから百年近く放ってあった」
雷門という名の山門をくぐると、すぐに仲見世である。
右側の本屋に「パズラー」が残っていないかどうか確かめた照子は、土産物屋を、一軒一軒、丹念に眺《なが》め始めた。
「婦人服のデザインや柄《がら》がなんとも言えないだろう」
と、辰夫は雑踏の中で囁《ささや》いた。
「不思議な趣味ですねえ」
「値段が安いわけでもない。これが浅草という土地のカラーなのだ」
照子は紅梅焼き屋を覗《のぞ》き、踊り子が履くような妙に安っぽい金色銀色のハイヒールをならべたウインドウに見入った。
かつて仁王門のあった辺りには靴《くつ》の露店が出ており、傷病兵士がアコーディオンで「異国の丘」を奏《かな》でていた。
信仰心のまったくない辰夫も、参道の香炉の煙を首筋のあたりにかけるのは忘れなかった。
「なにをしているのですか」
「病気|除《よ》けさ」
辰夫は真面目《まじめ》な顔で言い、観音堂《かんのんどう》に足を向けた。戦災にあい、数年まえに鉄筋で再建されたものだ。
お堂に入り、十円玉を投げた。照子も慌てて、その通りにふるまった。
「このお堂は、昔を知る人には評判が良くないんだ」
「なぜですか」
「なぜだろう……」
と答えたが、彼には理由がわかっている。
「喉が渇かないか」
「渇きました」
「どこかで休もう」
おみくじを引いてみたい、と思った。いつもは、そうするのだった。
いまの自分は、凶を引いたら、素直に信じるだろうと思う。そう考えると、やめておいた方がよさそうだった。
仲見世通りを引きかえし、右折して、甘い物屋に入った。甘い物は苦手だったが、疲れているせいか、小倉《おぐら》白玉が欲しくなったのだ。
この店では、小倉|餡《あん》に白玉をのせた皿《さら》と、かき氷の皿が、別々に出てくる。かき氷を、適当に、白玉にのせて食べるのである。
「お彼岸だというのに、暑いな」
辰夫はかき氷を含みながら言った。
「前野さんが甘い物を口にするのを見るのは初めてです」
「自分でも変な気がするよ」
店内には、シェリー・ファブレイのうたう「ジョニー・エンジェル」が流れている。甘い物屋が喫茶店と変らなくなってきた。
「外人の観光客が多いですねえ」
「彼らのイメージにあるジャパンに近いからだろう」
かき氷を小倉餡にまぜながら答えた。
「戦前の浅草は、お上りさんと下町で働く人たちの町だった。たとえば、商家の小僧さんが、たまの休みに、映画を観《み》て、散歩する場所といったら、浅草しかなかった。銀座を歩くなんて考えもしなかったろう」
「どうしてですか」
「たとえ、銀座へ行ったとしても、心からのびのびできない。そんな風に、盛り場の格というものが決っていた」
「いまは違いますね」
「小僧さんという存在がなくなった。かりに、あったとしても、いまなら、新宿で遊ぶだろうな。新宿は〈学生とサラリーマンの町〉といわれるけれど、もっと混沌《こんとん》としたエネルギーがある。だいたい、銀座と新宿の格差がすくなくなってきたもの」
「でも、銀座のほうが上でしょう」
「十年まえには、もっと、歴然と違っていた」
「そうすると、銀座は高級で、浅草は庶民の町だったのですね」
「庶民……」
辰夫は言い淀《よど》んだ。
「ぼく流の考え方だけど、庶民の町という呼び方には、なにか、うさん臭いものがある。たとえば、さ。かつて、山の手のインテリが下町に没入するのが流行《はや》ったことがあるんだ。高見順の小説を読んだことがある?」
「いえ……」
「あの人なんか、典型だな。精神的に衰弱したインテリが、浅草で、庶民のエネルギーに触れることによって救われる、というパターン。もっとも、この手の、妙な下町|憧憬《どうけい》は、江戸時代からあったらしい。気分としてはわからなくもないのだが、下町生れのぼくは反撥《はんぱつ》を覚える」
「どうしてですか」
「まえにも言っただろ。|生活の場《ヽヽヽヽ》だってことを。いまの浅草は、表面が、かなり、観光客用になってしまったが、一歩、裏町に入れば、あくまで|生活の場《ヽヽヽヽ》なんだ。とくに、戦後の下町では、人口が減って、生計を立てるのが大変だ。他の土地へ移れる人は幸せなほうで、土地を離れては生活が成り立たない。……ぼくの家は潰《つぶ》れてしまったから、逆に、自由になれたのだけど……」
「お店をやってらしたのですか」
「花柳界相手の呉服屋だった」
照子は頷《うなず》き、煙草《たばこ》をくわえた。
「ぼくの印象を言えば、こっちが地道な暮しをしているのに、山の手の人間は、まったく偏《かたよ》った〈下町趣味〉を抱いて近寄ってくる。中には、同化しようとして、下町のアパートに住む奴までいる。――ところが、これは、すべて、趣味なのだ。スノビズム、ノヴェルティ。はっきりいえば、そうだ。そのうえ、下町の人間は古い伝統を守れ、とか、古い建築物を大事にしろ、とか、お節介を焼く。けなされるのも、褒《ほ》められるのも、迷惑なのだ。だって、好んで、古い建物をこわす奴はいないもの。生活上、追いつめられて、こわすわけだ。向うにしてみれば、〈下町趣味〉から発言しているのだろうが、生活している側は、趣味で生きてるのじゃないから、批難されても困るのだ。……もっとも、本当の下町の人間てのは、反論をしないんだな」
「野暮ったくなるからかしら」
「無気力なんだ」
辰夫はかすかに笑った。
「よくいえば、つつましい生き方ってことになるけど。だって、下町の七十パーセントは武家屋敷、お寺が十五パーセント、町人の住む土地は残りの十五パーセントだったのだもの」
「へえ」
「おのれの分《ぶん》を守る、というか、押しつけがましくない生き方が身についている。これじゃ、出世だけを考えて田舎から出てきた連中には勝てない。山の手の人間は、もとをただせば、大半は田舎者だもの」
「本当ですか?」
「明治維新で出世した人間の子弟ですよ。――それは、いいんだ。ただ、下町の人間は、あまりにも簡単に負け過ぎる。戦うまえに、諦《あきら》めて、勝負を投げてしまう」
「いさぎよくて、いいわ」
「ぼくは、そうは思わない。負けるってことはよくないんだ」
彼は自戒の意味をこめて言った。
「でも、江戸っ子らしくていいじゃありませんか」
と、照子は、けむりを吐き出した。
「当って砕けろ、で」
「きみの概念は、少し、ちがってるよ」
相手を傷つけないような言いまわしで彼は注意した。
「きみの頭の中にあるのは、べらんめえ言葉を使う連中じゃないか」
「そうです」
「マスコミの概念としての江戸っ子、下町っ子はそういうものだ。テレビやラジオが、間違った像を伝えたせいだよ。〈べらんめえ〉は、ある種の職人とか、魚河岸《うおがし》のおにいさんの言葉だ。下町には、商人と職人がいてね。商人は、決して、ぞんざいな言葉など使わないものさ。ものを売って生活する人間が、汚い言葉を吐くわけがないだろ」
「ええ」
「中級以上の商家の主人は、非常にていねいな言葉を使う。表現も、江戸弁の名残りというか、独特なものだ。いわゆる標準語とはちがう。もっとニュアンスに富んだ、洗練されたものだよ」
「そうですか……」
「ラジオがいけなかったのだ。職人言葉を使う、妙な〈江戸っ子〉が出てくるドラマを、戦後、すぐに流した。NHKの責任だ」
彼らは店を出て、六区に向った。三味線を修理する看板が眼《め》をひいた。
「浅草イコール下町でないことがわかってきました」
と、照子は明るく言った。
「来た意味があった」
辰夫《たつお》は話し続けた。
「ただし、浅草にも、単なる悪趣味と評しきれない部分がある。莫迦《ばか》にしてはいけないのだ――少くとも、ぼくは」
照子は黙っている。
「いつか、浅草のお酉《とり》様へ行ったとき、そう思った。きみも、秋になったら行ってみるといい」
「はい」
「ほかの酉の市では駄目《だめ》だ。浅草だけだね、ああいう迫力があるのは」
「迫力ですか」
「凄《すご》いよ。野暮とか、泥《どろ》くさい、といった批評をはねつける、|ぎんぎらぎん《ヽヽヽヽヽヽ》のパワーがある。下町という土地柄が、洗練されたものになるまえのヴァイタリティを感じたな。ぼくらの先祖は、こうだったのだろうか、と、思わず、ぎょっとなる殺気、凶暴さがあった」
「そんなものですか」
「柄の悪さ、と言ってもいい。その|しっぽ《ヽヽヽ》が、色彩の悪趣味といった形で、浅草に残っているのだな」
六区の通りは、想ったほど賑《にぎ》やかではなく、紙屑《かみくず》が舞っている。大勝館、千代田館、東京|倶楽部《クラブ》といった古い映画館よりも、ストリップ劇場が目立つのであった。
「戦争が終るまで、右手に池があった。瓢箪池《ひようたんいけ》というのだけど、埋められてしまった」
それでも、名物の呼び込みの声は変っていない。各映画館の前で客を呼ぶのだが、通行人がすくないので、殺伐とした感じをあたえてしまう。
「昭和初年風というか、表現主義的というか……」
彼は東京倶楽部の建物を眼で示して、
「ここの三階席からスクリーンを見おろすのは、子供心にも奇妙だった。スクリーンが、はるか下の方に沈んでいるのだ。ターザン映画を見たんだ」
「ターザンですか」
照子は、なんとなく、笑った。
「六区は荒れたな」
いたたまれぬ気がした。
「大通りに出ようか」
「なぜ、六区というのですか」
「区分けだよ。観音様が第一区、仲見世が第二区――あとは忘れた。この映画館のあたりが第六区になるらしい」
「くわしいですね」
「むかし、番頭に教えられた。一銭蒸気という汽船に乗って、よく軽演劇を観にきたんだ」
辰夫が観たいもの、というよりは、番頭が観たいものに同行した気がする。そのころの六区は、身動きできぬほど、混《こ》んでいたのだった。
「世界的に、都会は、西へ、西へとひろがってゆく、というね。それが真実だとすれば、浅草は見すてられた町になる」
「もう、そうなっているんじゃないですか」
幻想をもたぬ照子は、はっきり言った。
「これが下町のとば口だ」
辰夫《たつお》は、改めて説明した。
「だれかが、下町に連れて行ってくれ、と言ったら、ぼくは、ここに連れてくる。わかり易《やす》いからだ」
彼は揶揄《やゆ》するような眼つきをしてみせて、
「本当の下町には連れていかない」
「私は例外にしてください」
人形町の交差点近くで、タクシーを降りた。
「ここは焼けていないのですか」
照子はあたりを見まわした。
「戦災を受けなかったんだ」
と辰夫は答えた。
戦前の下町の面影《おもかげ》を残す場所をと考えて、連れてきたのだが、久々に見る人形町は、くすんで、時代にとり残されるのを恐れているようにもみえた。
それでも、浅草のような荒廃を免《まぬか》れているのは、近くに小伝馬町、横山町、橘《たちばな》町の問屋街、兜《かぶと》町の株屋街、芳町《よしちよう》のような花街を控えて、通行人の大半が買物客であるためだろう。
「むかしは、人形商人が集っていたというのだけど」
彼は左側の人形町末広の看板を見た。古今亭志《ここんていし》ん生《しよう》が再起していないので、なんとなく淋《さび》しかった。
「この先の水天宮は、明治五年に芝から移転してきた安産と水難|除《よ》けの神様だ。ぼくら、小学生のとき、プールでは、必ず、水天宮の木のお札を首にかけていた。――人形町は、水天宮の門前町として栄えたのさ」
その最盛期を辰夫は知る由《よし》もない。彼の記憶にある人形町は、もはや、盛り場ではなかった。いってみれば、準盛り場であった。
生家から歩いてこられる近さという事情もあって、末広に入るか、いまはない人形町松竹で映画を観て、玉秀《たまひで》で鳥料理を食べるのが、一家の休日のコースだった。戦争の末期には、鳥鍋《とりなべ》の|ざく《ヽヽ》の中に南瓜《かぼちや》が混っていたのを記憶している。
「ミルクホールって知ってるかい」
水天宮の方に渡りながらたずねる。
「さあ……」
「あれは、何だろうな。喫茶店とも、ちょっと、ちがう。店の中がタイル張りで、鏡がある。牛乳を飲んで、トーストとか菓子を食べるんだな。そのミルクホールが、多かったところだ」
彼は道の反対側を指さした。古い店の白い|のれん《ヽヽヽ》に、右から左に、ミルクホール宝来と、書かれている。
「戦前の書き方ですね」
照子は感心した。
ミルクホールは、昭和初年の失業者の増大と関係があるといわれる。また、お店者《たなもの》がアルコール抜きで昼食を軽くすませる場所ともいわれた。失業者も、お店者も殆《ほとん》どいなくなった今日、どんな人がミルクホールに入るのであろうか。
照子は、扇子屋や和菓子屋、呉服屋のまえで立ちどまり、おそるおそる、ウインドウを眺《なが》めた。
「なかに入りなさい」
「いいんです」
「あの帯は良い」
「ええ」
「安くはないけど、本物だ」
辰夫は自信をもって言った。
ジュラルミン製のアーケードの下を二人は歩いた。
「このアーケードは殺風景だけど、都内で最初に作られた。いまでは、他の盛り場が真似《まね》をしている」
幅四メートルのアーケードは、各専門店が町の発展のために作ったものであった。
「さっき、寄席《よせ》があっただろう」
「はい」
「都内の寄席や演芸場は、どこも、椅子席《いすせき》になっている。人形町末広と本牧亭《ほんもくてい》だけが、いまだに畳席なんだ。そういう、伝統を守る一面と、こんなアーケードを作る軽薄すれすれの新しがり――下町には、この二つの顔がある。ミルクホールだって、かつては、新しがりだったわけだし、そのおかげで、町が活気づいた。よくいえば、伝統を守るために、新しいものを貪欲《どんよく》に取り入れて消化してゆく必要があるのだ。――逆にいえば、新しいものを拒否したとき、町は死んでしまう……」
彼は抽象的な話をしているのではなかった。自分が生れ、育った町について語っているのだった。その町は空襲によって壊滅したのだが、うまく復興できなかったのは、辰夫の父親のような因循《いんじゆん》な人間が多かったせいでもある。
「新しいもので活気づくという意味が、よく、わかりません」
「たとえを出そう。……下町にしかない洋食屋ってやつだ。そこの横町にもあるよ。もともとは、フランス料理なのだろうが、和食の一種になってしまった」
照子は横町を覗《のぞ》き込んだ。
「とんかつがそうだ。コートレットという料理をカツレツ、とんかつにしてしまった。オムライス、ハヤシライスも、そうだろう。コロッケも、そうだな。貪欲に、日本風に変えてしまった。こういう洋食屋があるから、古くからの鳥料理屋やすきやき屋が、かえって引き立つ」
「あ、いいお店」
肉屋を兼ねている、すきやき屋の入口を見て、彼女は呟《つぶや》いた。
「となりにコーヒー屋があるだろ。虎《とら》ノ門《もん》あたりのコーヒー専門店のつもりで入ったら、とんでもない。トコロテンからカレーライスまで、なんでもある。下町の食生活はアナーキーなのだ」
「トコロテン、ですか」
「その部分だけとり出せば、野暮ったいものさ。|生活の場《ヽヽヽヽ》と言ったのは、その意味もある……。でも、ここは浅草とは、どこか、ちがうだろう?」
「ええ。洋服はともかく、和服の趣味がちがいます」
都電の水天宮前停留所のある交差点に出た。
交差点の線路を越した左側に、水天宮は、昭和初年のままの社殿を残している。狭い境内の地面にいる無数の鳩《はと》は、人間を少しも恐れず、二人が歩むにつれて、わずかに身を動かすのだった。
安産の神様だけに、女性の参拝者はひっきりなしである。それなりに賑わってはいるものの、なにか白けた眺めであった。
東は新大橋、西は鎧橋《よろいばし》、北は小伝馬町まで露店が並んだという往時をしのぶべくもない。花電車がくり出された時代も、想像がつかなかった。
「裏通りを歩いてみようか」
と辰夫は言った。
下町生活のたたずまいが裏通りにあることを辰夫は熟知している。しかしながら、いまの場合、散歩は、ただの散歩ではなく、見物が目的である。下町の人々の生活を覗いて美的感興を味わう輩《やから》を嫌《きら》う彼が、同じような行動をとるのは、大きな矛盾である。ほんらいならば、彼は覗かれる側にいるはずの人間であった。
交差点を渡り、芳町の側に入った。
遠い記憶の中に眠っている町に似たものが、そこにあった。家の外側に黒いトタンを鱗《うろこ》状に貼《は》りつけた町並みである。たしか、震災後の防火建築の一種ときかされた覚えがあった。
洋風というか、ある種のモダニズムを感じさせる公衆浴場があった。平べったい箱のような建物である。これも、震災以後の、永井荷風をして〈醜悪〉と嘆ぜしめたたぐいのものである。
公衆浴場|脇《わき》の露地に入った。
露地とはいえ、アスファルトでかためられているのだが、玄関前に植木|鉢《ばち》を幾つもならべた仕舞屋《しもたや》があった。季節を過ぎた朝顔の鉢も混っていた。辰夫にとっては馴染《なじ》み深い眺めである。
仕舞屋のとなりは、小さな染物屋で、ガラス戸に、洗いはり、しみぬき、の貼り紙がしてある。
いくつもの露地を抜けたあとで、彼らは喫茶店に入った。
「前野さんが、|生活の場《ヽヽヽヽ》だとおっしゃった意味がわかりました」
照子は嗄《か》れた声で言った。
「すばらしい町だと思います」
「たまに訪れるぶんにはね」
彼はそう応じた。
「年に何回か、足を踏み入れるだけなら、ぼくもいいと思う」
「住むのはいやなのですか」
「ぼくは、もう、駄目だ。曲りなりに、インテリになってしまったから」
「インテリじゃ住めないのですか? ここらのアパートを借りれば……」
彼は首を横にふった。
「どうしてですか」
「ぼくは耐えられないよ、となりの家の人の声が筒抜けできこえてくるような環境は」
「ああ……」
「そういう意味さ。……アパートを借りたとしても、おそらく、ドアに鍵《かぎ》がついていないだろう。この町には個人主義という発想がないのだ。ここでは、個人主義とは、わがままを意味するのだよ」
彼は皮肉な眼《め》つきで照子を見た。
「下町から逃げ出すことが、十代のぼくの夢だった。前近代的環境ってやつは、とても、たまらない。……で、なんとか、ぼくは、やったわけだ」
「後悔してはいませんか」
「していないね。少くとも、今のほうがましだ」
「なにか、もったいない気がします」
「どうして?」
「だって、前野さんにとって、故郷じゃないですか」
「きみは故郷に住みたいかい」
「いえ」
「ぼくだって、同じさ」
「だって、これだけ伝統的な生活様式が残っていて……」
「ここらは焼け残ったから、そう見えるだけさ。残ったのは、本当に、この一角のみなんだよ。焼けてしまったところは、ひどいものだ。町の機能を失っている」
照子は、はあ、と笑った。なにか、とっかかりを見つけたらしかった。
「機能、ですか」
「そう。町ってやつは生き物だからね。まず、生きていなければ仕方がない。たとえば、外部から悪いなにかが入ってきたとする。戦前だと、町内の鳶《とび》の|かしら《ヽヽヽ》がそれに対処する。また、町内の博徒が引き受ける場合もある。排除すべきものは、彼らがやってくれた。いわば、プロだからね」
「警察は……」
「法には触れないけれども、住民にとってマイナスってことがあるだろ。今でいえば、日照権なんてものさ。そういったものは、町が解決してくれた。町が正常に機能しているというのは、そういう意味さ。機能が停止してしまえば、その町は死ぬんだ」
「よくわかります」
「人形町は生きているけれども、ぼくの生れた町は死んだのだ。だから、ぼくは山の手での生活を選んだ。――山の手の生活の取柄《とりえ》は、〈おれは勝手にやっているのだから、よろしく〉って言えることさ。すべて、独りで処理していかなければならない代りに、自由ってことだ。下町での幼年時代を記憶しながら、山の手で暮すのが、ぼくには向いている……」
人形町から隅田川《すみだがわ》に向う道は広い。
通り過ぎる町名をあげると、富沢町、久松町、浜町、で、大川端に出る。
左折すれば、川上に両国橋が見える。川岸の道も広く自動車の数もすくない。
「これが矢ノ倉|河岸《がし》だ。もう少し川下だと、浜町河岸になる」
「きれい」
形ばかりの柳が風になびいている岸に立って、隅田川を望んだ照子が嘆息した。
「だいぶ、汚れてきた。敗戦後、二、三年は、白魚がとれた。落語家が|まくら《ヽヽヽ》でよくその話を使うけど、あれは本当だった」
はるか川上の工場群が戦災にあい、川を汚さなくなった期間が、いっとき、あったのである。そのころは、両国橋の真中《まんなか》で釣《つ》り糸を垂れている姿がふつうだった。
「どうして道が広いかわかるかい」
川面《かわも》を覗き込むようにして、言った。
「空襲までは都電が通っていた。渋谷を出て、赤坂、銀座、築地《つきじ》を経て水天宮前を終点にしている、9番という都電があるだろう。あの電車は、はじめから水天宮前が終点だったわけじゃない。この道を通って、両国橋の少し手前でとまっていた。〈両国〉という終点があったのさ」
照子は興味がなさそうだった。
「……それだけじゃない。関東大震災で、あまり人が死んだために、町に避難場所を作ろうとしたんだ。だから、川の両岸に公園を造ったり、道はばをひろげたりした。そういう計画を実行した人々の中に、ぼくの祖父がいた」
「この道、そんなに広いかしら」
「現在の眼で見れば、ふつうさ。大正時代のものとして考えれば……」
「わからないわ」
「だろうね」
江戸時代からつづく料亭を左手に見ながら頷《うなず》いた。
「でも、川は広いと思います」
「ぼくの祖母はいつも、大川と言っていた。隅田川なんて言ったことがない」
「白い鳥……カモメかしら」
「さあ。冬だと、ユリカモメなんだけど……」
生れて初めて煙草《たばこ》を吸ったのはこの辺りだった、と思った。ひどく辛い煙草であった。
矢ノ倉町を過ぎると、両国である。戦火を浴びたのちも、形を保っている褐色《かつしよく》のビルが目印だった。
「ぼくが住んでいたのはあそこだ」
廃屋に近い木造の建物を指さした。汚れた日除《ひよ》けが風にはためいている。大きな喫茶店が経営に失敗してから久しいようである。
「ぼくが越してから九年になるが、ずいぶん、人がかわったようだ。どの商売も失敗してしまう」
「なぜかしら」
「夜間人口がないからだろう。中小企業の事務所ばかりで、人間が生活していない。夜になると、真暗になってしまう」
それだけではない、と、彼はひそかに思う。滅びかけた土地特有の瘴気《しようき》がひそんでいるのではないか。死にかけている土地には、それにふさわしい毒があって、商売も、人も、駄目《だめ》にしてゆくのではあるまいか。
両国橋に近い大木唐がらし店で、彼は、七色唐がらしの中辛《ちゆうがら》を、一袋、求めた。同じ土地の唐がらし屋では〈やげん堀《ぼり》〉と、上につく中島商店が有名であるが、辰夫は、地味な商いをつづけているこの店が好きなのであった。
彼岸を過ぎると、三十度を越えていた暑さが、急に、二十度を割り、辰夫はだるさを覚えた。
「田村町に新しい喫茶店ができた。チーズケーキがうまい」
女の子のようなことを言って、黒崎《くろさき》は辰夫を誘った。
田村町から虎ノ門にかけては、新しい喫茶店の建築が盛んである。裏通りには、敗戦後を想《おも》わせる店が残っていたが、表通りは様変りがはなはだしい。都内のホテル・ブームとあいまって、街の相貌《そうぼう》がみるみる変ってゆく。
喫茶店の三階に上った黒崎は、窓の下の通りを覗いてみて、「窓ぎわがいいぞ」と、白い椅子にかけた。
天井も、壁も、椅子も、真白で、喫茶店といえば〈とぐろを巻く〉暗い場所と心得ている辰夫は、なにか、居心地が悪い。
「きみ、チーズケーキはどうだ?」
「コーヒーだけでけっこうです」
「そうか」
黒崎はチーズケーキを注文した。
「ところで、だ。竹宮君のことだが……」
「どうかしたのですか?」
「きみは惚《ほ》れとるのか」
と、黒崎は開きなおるようにきいた。
辰夫は黒崎の眼を見つめた。
「どういう意味です?」
「人形町あたりを連れ歩いたというじゃないか」
「うちの社にはスパイがいるのですか」
「わしの部下に彼女が話した」
ちがう、と言うのも、おとなげない気がした。
下町行きは自分のためだった、とも言い兼ねた。あの夜、帰宅してから、一方的に喋《しやべ》り過ぎた、と軽い自己|嫌悪《けんお》を感じたほどだった。
「なんでもなかったのか」
黒崎は落胆した体《てい》である。
「|なにか《ヽヽヽ》あった方がいいのですか?」
と、辰夫は問いかえす。
「そりゃ、きみ……男は、結婚すると、腰が落ちつくからな」
「残念でした……」
辰夫は笑いかけたが、胸に疼《うず》くものがあった。
「竹宮君のことはどうでもいい。きみは好きな娘さんがおらんのか」
「病人みたいに言わないでください。いないはずがないでしょう」
「結婚はせんのか。わしで力になれることがあれば、手伝うぞ」
「ぼくをアメリカへ行かしてくれますか。『パズラー』の常連作家を訪ねるという口実で……」
「むちゃを言ってはいかん」
黒崎は取り合わなかった。
「アメリカはおろか、香港《ホンコン》取材も拒否したじゃろうが」
「ええ……」
「問題をすりかえてはいかんよ。きみの結婚の可能性を話しておるのだ。アメリカなんて、関係がないじゃないか」
辰夫は沈黙した。あちこちでアメリカへ行くためのスポンサーになってくれ、と頼むと、ほぼ、冗談としか受けとめられないのだ。
「きみはエネルギーが余っとるのだろう」
「は?……」
「アメリカへ行きたいなんて、エネルギーを持て余しとる証拠じゃ。そんな余裕があるのなら、もう一冊、雑誌をやってみないか」
このために呼び出したのか、と、辰夫は落胆した。
「『予感』が駄目になったのは、わしも残念なのだ。きみが手がけてくれるのなら、ぜひ、別な雑誌を出してみたい」
文化社のように雑誌専門の出版社は、雑誌の数が多くなるほど、資金繰りが楽になるのである。
「もう一冊、なにか、できないか。金のかからない雑誌が……」
「今だって、安く上げているはずです。原稿料が安過ぎる不満を、執筆者から、のべつ、きかされてます」
「了解しとるよ。しかし、なにか、やり方があるだろう」
黒崎はチーズケーキを頬張《ほおば》った。
「あるかも知れません。……ただ、『予感』が幻に終った痛手が、まだ、残っているのです。ぼくにとっては、水子みたいなもので……」
「女々しいことを言うてはいかん。きみらしくもない」
「参っているのです……」
「それはわかる。――しかし、きみは、これしきで、へこたれる男ではないはずだ。奇策縦横、アイデアの泉、と、わしは心得とる。……たとえば、このあいだの別冊だ。再録作品があれだけ多くて、しかも、売れた。どうだろう。再録作品ばかりの雑誌を作ったら?」
いかにも、思いついたように口にしているが、これを言いたかったのだ、と、辰夫は睨《にら》んだ。古い作品や古いエッセイを集めて、雑誌を作れば、安く出来上るに決っていた。
「あのやり方は、一度しかできません。くりかえせば、読者が怒りますよ」
「そういうものかな」
黒崎は信用していないようであった。逃げ口上ととっているのかも知れない。
「あの場合は、『新青年』の再評価というテーマがありましたからね。再録作品が多くて当然だったのです。しかし、毎号、そんなことはできません」
「そうか」
唯一《ゆいいつ》のアイデアを否定された黒崎は、うつむいて考え込んだ。
「一考の余地もないか」
「日本では無理です」
辰夫は気の毒になってきた。
「アメリカでなら成立します。だいたい、『エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン』がそうなのですから」
「わかった。では、他の手を考えてくれ」
急《せ》かせるように言う。
「考えます」
「ところで、きみ、テレビドラマを書いておったな」
相手は、まるで違うことを言いだした。
「はあ」
「威勢のいい歌手の……」
「風間ユカです」
「あれは、毎週か」
「とんでもない。月に一回です」
「原稿料は高いのだろう」
黒崎はしつこくたずねる。
「さあ……」
辰夫はあいまいな返事をした。
放送作家としては|並み《ヽヽ》のギャラであるが、文化社の月給とほぼ同額ぐらいにはなる。高い、安いは、規準を、テレビ界におくか、文化社におくかで、まったく異《ことな》るのである。
「まあまあ、です」
「一回の執筆に要する時間はどのくらいだ?」
「五時間ぐらいでしょうか」
「そんなに早く書けるものか」
「六時間ぐらいかな。そんなものです」
「では、ひと晩だな」
「ええ。あの世界は、とにかく、早く書ける者が勝ちですから」
「そうか……」
黒崎は割りきれぬ顔をしている。
「もっと、時間をさいているのかと思った」
「さきようもないのです。ゲスト出演者が決ると、すぐ台本を作るのですから」
「安心したよ」
「え?」
「いや、きみが、もう一冊やることをためらっているのは、テレビなどが忙しいせいかと、ふと思ったのだ」
「それはないですよ」
「いや、納得できた。きみは、よほど、『予感』の流産が応《こた》えとるのだな」
黒崎は頷き、チーズケーキはどうだ、と、また、奨《すす》めた。
「応えてます。いま、中綴《なかと》じの薄い小さな雑誌を考えようとしても、メンバーや内容は『予感』とまったく同じなのです。あのイメージが消えてくれないと、構想が立たないでしょう」
「想いを込め過ぎたのだよ」
黒崎は斜め下を走る都電のポールを眺《なが》めながら呟《つぶや》いた。
「今日、明日とは言わない。きみの精神状態がわかったからな。……どうかな、来月の定例会議までに考えてもらう、というのでは……」
「わかりました」
辰夫《たつお》は答えた。
「やってみます」
編集室に戻《もど》ると、辰夫は、思いつきを書き殴ったメモ用紙の束をとり出して、デスクにならべ始めた。なにか、ヒントになることが書いてあるかも知れないのだ。
黙って入ってきた者がある。
見ると、金井だった。紺の背広に茶のネクタイをしており、にやっと笑った。
「相談したいことがあるのですが……」
「そっちの椅子《いす》へ行こう」
辰夫はソファーを示した。
金井の相談は、「黒猫《くろねこ》」の来年の連載についてである。日本の作家では誰《だれ》がいいか、という具体的な問題だった。
「口で言うのは簡単さ」
と、辰夫は自嘲《じちよう》気味に言った。
「原稿料が、ねえ」
金井が嘆息する。
辰夫は金井とともに、原稿料の値上げを、再三、西に申し出ていた。要求が通る時もあり、拒まれる時もあった。最終的には、あなた方が雑誌をもっと売ってくれなければ、と言われるのが常だった。
「原稿料は、ぼくにとっても大問題だ」
と、辰夫は言った。
「どうしたのです?」
金井は真剣な顔つきになる。辰夫は新雑誌の件を打ち明けた。
「ぼくひとりで、二冊、編集しろというのだよ」
「むちゃくちゃな話じゃないですか」
「常識的にいえば、そうだ」
「引き受けるつもりですか」
「わからない。さっき、黒崎さんから言われたばかりだ」
アパートに帰ると、彼は服のままで、ベッドに横になった。
――断っちまえ。会社をやめちまえばいいんだ。
川合の声がきこえてくる。川合のみならず、辰夫の知り合いの自由業者の大半が、そう言うに決っていた。
自分は、なぜ、文化社にとどまろうとするのだろうか。
確実なのは、「パズラー」への愛着であった。ようやく歩き始めたこの子供からは眼《め》が離せない。
が、それだけではない、と思う。
「パズラー」は、石黒に預けられなくもない。石黒が英文を自由に読めない隘路《ネツク》はあるにせよ、翻訳者たちの協力があれば、なんとかなるだろう。
会社をやめたあとの生活の問題か?
考えれば考えるほど、それは不安だった。なんとかなるものさ、と、川合は言ってくれるが、辰夫はそれほど楽観的にはなれない。だいいち、川合のように多才ではないのだ。テレビでも、ラジオでも、いつ首になってもいいと、肚《はら》を括《くく》っているからこそ、自在にふるまえるのであって、放送界で生活していこう、などとは、毛頭、思わない。
おまえは何が得手《えて》なのか、と神様に問われれば、おそるおそる、雑誌の編集です、と答えるしかない、と思う。
時代の最尖端《さいせんたん》で生きる少数の人たちと遊びながら、編集のプランを、あれこれ練るのが、彼は|しん《ヽヽ》から好きなのであった。思いもよらなかったアイデアが湧《わ》く瞬間の喜び、快感は、他のどのような快楽にも替えがたいものである。
だが――それは、この国で、ふつう、編集者と呼ばれる人たちの発想とは違っているのではないか、とも思う。
読者が何を求めているかを丹念にリサーチし、その要求を充たす記事や読物を提供するのが、編集者のオーソドックスな在り方だとすれば、辰夫は明らかに〈オーソドックス〉ではなかった。
生れつき、活字好き、雑誌好きだった辰夫は、かつて、既成の雑誌のすべてに不満を持っていた。大学を出て、職を転々とするあいだにも、おれだったら、こんな雑誌を作るのだが――と、歯ぎしりし、欲求不満は脹《ふく》らむ一方であった。
だから、「パズラー」を編集する巡り合わせになったときは、|もし自分が読者だったら《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、という発想が唯一の武器になったのだ。
素人《しろうと》が編集して……という批判は、少しも応えなかった。じっさいに、素人なのだから、怒ることはない。が、素人めが、といって笑っている連中を脅かしてやろう、という意地はあった。
自分が読みたい雑誌、自分が面白《おもしろ》がれる雑誌を作る、と、ひそかに決めた根底には、自分が興味を抱くことは読者も面白がるはずだという発想がある。しかし、この発想は、一歩あやまれば、独りよがりになり、雑誌の命取りになるのは言うまでもない。
「パズラー」では、この発想が予期した以上の爆発力を示して、翻訳推理小説雑誌の枠《わく》をこわしてしまった。良かれ悪《あ》しかれ、新しい読者を掴《つか》む型破りの雑誌と評された。「予感」も、この延長線上で作られるはずであった。
しかしながら、別の線で、|ほどほどに面白い《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》雑誌を、と要求されると、辰夫は行きづまってしまう。世間並みの〈ほどほど〉がどういうものか、彼には読みとれないのである。
いかに〈好き〉とはいえ、自分の編集は、かなり、特殊なものではなかったか、と彼は今にして思う。そのような男が、|ほどほどに《ヽヽヽヽヽ》商業的な雑誌を作れるかどうか?
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第十九章 幻滅
十月の初めに発売された白井|直人《なおと》の「ひと夏の恋」は、「悲しきクラウン」や「遠くへ行きたい」を抜いて、ヒットチャートを駆け上った。
予想されたこととはいえ、辰夫は眩《まぶ》しいものでも見たように感じ、やがて、気が滅入《めい》った。白井あてに祝いの手紙を書くと、自分は関係がなくなった、と思った。
しかしながら、そうもいかなかった。
――ヒット記念のパーティーをやります。
と、戸波プロデューサーは電話の向うで意気込んでいる。
――発起人になってください。彼を抜擢《ばつてき》したのは、あなたと私ですもの。
――鈴鹿兵伍《すずかひようご》の名前も入っているでしょうね。
辰夫は念を押した。
――ご存じなかったのですか!
戸波は大きな声を出した。
――鈴鹿さんは、一週間ほどまえに、アメリカへ発《た》ちましたよ。
――そうでしたか。
辰夫は感情を抑えた。
――鈴鹿さんがいないので、レコード会社は、白井の次の曲に困ってます。一年間のアメリカ留学中は、仕事はいっさいしないというのですから。
アメリカ、か。みんな、アメリカへ行ってしまう。
――白井もツイてないですよ。そうでなくても、二曲目が危うくなっているのに……。
――危うい?
――赤星プロの圧力がかかっているのです。所属タレントを引き揚げると嚇《おどか》せば、レコード会社は縮みあがりますからね。
困ったものだ、と辰夫は思った。赤星と顔を合せてしまったせいか、憤《いきどお》りよりも、呆《あき》れる気分が強かった。それにしても、よくやるものである。
――そうそう。「ひと夏の恋」の映画化はどうなりました?
――中止のようですよ。いまから、夏の映画じゃ、季節外れでしょうが……。
戸波は明るく答えた。
暎子《えいこ》の夢は、やはり、夢で終ったのか、と思った。暎子やおれは、取り残される側にまわる運命のようだ。
同世代者のための砦《とりで》を構築する夢が、すべて消え、結果として、ヒット曲一つを生んだのは皮肉だった。
いかに辰夫が無警戒な男とはいえ、不審に感じる芽は、幾つかあったはずである。
たとえば、新しい雑誌について、まだイメージがかたまらない、と黒崎に報告したとき、相手が、妙に軽く受け流したことである。
「今日明日とは言わんが……」
とってつけたように、そう言った。
それらの些細《ささい》な反応に辰夫が違和感をおぼえなかったわけではない。それどころか、ぎくりとするようなことさえあったのだが、深く受けとめずに、片っぱしから見過したのは、ケイソツの謗《そし》りをまぬがれないだろう。
城戸草平《きどそうへい》の女秘書から電話が入って、先生が至急お目にかかりたいそうです、と伝えたとき、辰夫は、「黒猫」の編集方針の相談か、久しぶりに推理小説の話でもしたくなったのかな、と思った。アメリカでの最近の傾向といった話をするときだけは、社会的地位と歳《とし》の差を忘れることができるのだ。
和服姿の城戸草平は、相変らず、笑ったら損だといわんばかりの顔つきで、紅茶に手をつけずに、辰夫を観察している。
「なにか?……」
辰夫が言い出すのを待って、おもむろに口をひらいた。
「どうも、厭《いや》な役を引き受けさせられてしまってね」
眼鏡を外し、袂《たもと》から黄色い布をとり出してレンズを拭《ぬぐ》った。
「きみ、黒崎《くろさき》君と|なにか《ヽヽヽ》あったのか」
「いえ」
「『予感』が立ち消えになったのは残念だ。ぼくは、そう思っている。……ところが、黒崎君は、だな」
城戸は苦笑してみせて、
「きみに、別な新雑誌をたのんで、断られた、と烈火のごとく怒っている」
「断ってはいません。先日の会議までに案を出せ、と言われてまして……間に合わない、と、事前に報告したのですが……」
「やれやれ」
城戸はレンズを拭《ふ》くのをやめ、細い眼で辰夫を見た。
「正直にいえば、ぼくは、もう、うんざりしている。なるべく早く、文化社の経営から手を引きたい」
辰夫は頷《うなず》いた。城戸が健康を害している噂《うわさ》も耳にしている。
「文化社は苦しくなってきた。黒崎君も苛々《いらいら》しているのだ。単行本を手がける案を持ってきたが、ぼくが握り潰《つぶ》した」
「お役に立てませんで……」
辰夫は頭をさげた。
「やれるだけのことはやったよ、きみは。――ぼくは認めている。……こうなったのは、だれのせいでもない。強《し》いていえば、探偵《たんてい》小説がマイナーな読物からメジャーな読物になる時の流れを見抜けなかったぼくが悪いことになる」
そうか、と辰夫は改めて気づいた。
大部数の中間小説雑誌に流行作家たちによる推理小説がならぶ時代に、わざわざ専門誌を買い求める読者が何人いるだろうか。かつて推理小説の雑誌や単行本を買い求めるときには、後ろめたい思いがあり、それが一種の快楽でもあったのだが、そうした感覚を記憶しているのは辰夫の世代までであり、いまや、推理小説は、明るく、健康的な、マスセールの商品になっているのだ!
「ほんのひとむかしまえには、病的とか不健康とか批難された探偵小説が、社会的に認知されたのだ……」
と、城戸は苦々しげに呟《つぶや》いた。
「まことにけっこうなことだが、ぼく個人は、いまの風潮についていけない」
どこのデパートにも名店街が出来ているのに、わざわざ、偏屈な親爺《おやじ》が手焼きでつくる煎餅《せんべい》を買いにゆく客はすくないはずである。そういう客も、若干はいるだろうが、年々、減ってゆき、店は潰れる。こうした自明の理に気づかなかったのは、推理小説=マイナーという一点を、社のだれもが疑わなかったからである。あるいは、気づいていて口に出すのが怖かったのかも知れない。
「きみらの努力にもかかわらず、文化社の台所は苦しくなった。先行きは長くないかも知れない」
辰夫は息をつめた。城戸の話は彼の予想とはまったく違っていた。会社が苦しいという愚痴はのべつきかされているが、今日のは、もっと深刻な様子だった。
「もう一つの問題は、黒崎君ときみのことだ。はっきり言えば、黒崎君は、きみの才能を使いこなせない。ぼくはそう見ている」
「でも……」
「まあ、ききたまえ。黒崎君はきみに対して悪い感情を持っている。一方、いまのぼくには、きみらのあいだを調整したりする体力がないのだ。……きみには大変気の毒だが、ぼくとしては、ここで身を引いてもらいたいのだ」
辰夫は蒼白《そうはく》になった。ことの成り行きが、どうしても、呑《の》み込めないのである。
「正直にいうが、損得からいっても、社が潰れるまえにやめた方が得だ。いま、文化社を円満にやめれば、編集者としてのきみのキャリアには傷がつかない」
キャリアだって?
辰夫は心外であった。「パズラー」から切り離されてしまえば、もう、編集者をやる気はなかった。彼にしてみれば、〈編集者としてのキャリア〉など、なにほどのものでもなかった。
「突然のことで、びっくりしたと思うが……」と、城戸は、みずから大きく溜息《ためいき》をついて、「ぼくにしても、こんなことを申し渡すのは不本意なのだが、立場上、仕方がない。黒崎君は、来月いっぱいでやめて欲しいと言っている」
頭の中が麻痺《まひ》したようで、なにも考えられなかった。辰夫はテーブルの上の金の煙草《たばこ》入れを見つめている。
「どうかね、きみ? ぼくのたのみをきいてくれぬか?」
辰夫は不意にわれにかえった。そして、問いかえした。
「本当は、もう、決っているのではないですか」
城戸の眼《め》に陰気な笑いがやどった。
「実は、そうなのだ」
「じゃ、仕方がないじゃありませんか」
「仕方ないのだがね」
城戸は苦笑を浮べた。
「承知してくれるか」
「はい……」
納得できぬまま、頷いていた。
「悪いね」
ほっとして漏らしたそのひとことには真実がこもっていた。
「きみは幾つになる?」
「もうすぐ、三十です」
「これからだな。……生活の方はどうなるかね?」
「さあ……」
辰夫の頭の中は白紙だった。
「テレビの仕事はどうだ?」
「どうでしょうか。向いていないようです」
「そう決めてはいかん。どうも、きみは堪《こら》え性がないな」
「こうなったのですから、なるべく、堪えるようにします」
「退職金は、文化社として、できるだけのことをする。『パズラー』は、来月、つまり、十一月一杯、面倒をみて欲しい。ぼくは、十二月一杯が|きり《ヽヽ》がいいと思ったのだが、黒崎君は、ボーナスを出さなければならんでしょう、と、賛成しないのだ。だから、十一月は、適当に出社してくれればいい」
「はあ……」
そうもいくまい、と思った。
ふつうの事務引き継ぎではなく、翻訳の問題がある。アメリカの短篇《たんぺん》ミステリを原文で読み、|翻訳に値するかどうか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を決める。さらに、それらを、原文にあう訳者と組み合わせ、訳者に依頼する。こうして、毎月、十篇ほどの翻訳原稿ができあがってくるのを読み、大きな誤訳がないかどうかを調べる。
この厄介《やつかい》な仕事を、曲りなりに、辰夫は独りで片づけていたのである。ひと月で、これを石黒に托《たく》すのは、無理であり不可能でもあった。
社に戻《もど》ったのは夕方だった。辺りは暗くなり、豆腐屋のラッパがきこえた。
営業部の部屋にひとりでいた黒崎は、辰夫を見ると、やや険がある、複雑な表情を見せた。
「城戸先生から電話があった。わしの感じ方が強過ぎたのではないか、と言われた」
「こうなってしまえば同じことですよ」
納得はいかぬものの、辰夫はあえて諍《あらそ》う気持を持たなかった。「予感」の灯《ひ》が消えた時点で、黒崎は自分を切るつもりだったのだろう。組織のメカニズムというやつだ。
「それにしても、十一月一杯とは、キツいです。もう少し早く言ってくださればよかったのに」
「そりゃ、きみ……言いにくかったのだよ」
黒崎は重苦しい声で答えた。
ショックから立ち直れぬまま、石黒にだけ話しておこうと考えて、編集室に戻ったが、もう、だれもいなかった。黒崎との話が長びき過ぎたのだ。
アパートに帰って、寝よう、と思った。食欲はなかった。
不意に、彼のデスクの電話が暗がりに鳴り響いた。
送受器を外すと、
――おれだよ。
と、川合の声が耳に入ってきた。
――今夜、あいてるかい。
――なんだい?
――おれが脇役《わきやく》で出た映画の試写があるんだ。内輪では好評でね。
――よかったねえ。
お義理ではなく、そう言った。時代遅れの映画屋が、ようやく、川合の面白《おもしろ》さを認めたのか。
――おたくのきびしい意見をききたいと思ってね。
――ぜひ観《み》たいけど……。
――予定があるのだろう。
――予定はない。
――元気がないな。なにか、あったのか。
――……あなたの意見通りになったんだ。
――え?
――言ってただろ。個人的な意見として、と断って……。
――フリーになるってことか?
川合は遠慮がちにたずねた。
――フリーにさせられたのさ。
――おい、馘首《びーく》かよ。
――そんなところだ。
――いつ、決った?
――今日だ。
――会おう。
急に、相手はそう言った。
――いいよ。忙しいんだろ。
――声が変だぞ。ちがう人みたいだ。
――ぼんやりしてたからだろ。
――それだけじゃないね。とにかく、会おう。
――そうだな。
このまま、風呂《ふろ》に入って寝るのでは、あまりにも陰気だ、と思い直した。
――どうしたらいい?
――九時に、電通の喫茶室で待っている。
――わかった。必ず行く。
辰夫は電話を切った。
珍しくネクタイをしめた川合は、記者のインタビューに答えていた。おそらく、試写会で挨拶《あいさつ》でもしてきたのだろう。
辰夫がかたわらに立っていると、
「もう、いいんだよ」
と笑いかけ、記者に、お疲れさま、と言った。記者のぬくもりが残っている椅子《いす》に辰夫は腰を置いた。
「あなたには、ずいぶん、世話になって……」
「他人行儀な言い方はよせよ」
川合は怪しむような眼つきをして、
「気色が悪い。それにしても、ずいぶん、突然だったじゃないか」
「なんだか、よくわからない」
「新しい号を貰《もら》った礼を言い忘れてた。あれだって、けっこう、面白い特集、やってるけどね。だれだって思いつくってもんじゃないぜ」
「会社の連中は、そうは思わないのだろう」
「莫迦《ばか》な話だ」
真顔になった川合は呟いた。過労気味なのか、顔色が冴《さ》えない。
「まあ、世の中、莫迦の方が圧倒的に多いのだから、仕様がないけどな。寄ってたかって、天才を圧迫しやがる」
川合は、自分が出た映画のはなしに入っていた。
「映画も、本当は、脚本・主演・監督・プロデュースと、全部やらないと、駄目《だめ》なんだな。結局、チャップリンやオースン・ウェルズと同じよ。ただ、それをやるためには、全エネルギーを注がなきゃならない。片手間ってわけにはいかんな」
当るべからざる勢いであった。
「今回は、まあまあ、だけどさ。冷静に見れば、テレビでのおれの方がずっと面白いと思う。日本の映画屋は、どこがどう、と言えないくらい、駄目だよ。今回、おれに自由に演技をさせてくれたのだって、要するに、おれの名前をポスターに刷り込みたいからなんだ……」
川合は辰夫のグラスにビールを注《つ》いで、
「おたくの話をしよう。これから、何をやるつもりだ?」
「いまは、頭の中が空っぽなんだ」
「わかるよ。……だけど、雑誌の編集をやるとか、テレビの方へ行くとか、だいたいは決めておかないと、まずいぜ。テレビの方面なら、おれも、いくらか、力になれると思う」
「もう、他人に使われるのは厭だ」
辰夫は自分に言いきかせるように言った。
「おたくは、編集の仕事が向いてるように思うんだけどね。このごろは時間的にフリーな編集者がいるじゃないか、PR雑誌やなんかで」
「PR誌か……」
ごく自然に、赤星の細い眼を想《おも》い浮べた。
ドアはいつでも開《あ》いている、と、あの男は言ってくれた。
赤星プロの軍門に降《くだ》る気はなかったが、いまの辰夫にとっては、あの声さえ一つの支えであった。……本当に困ったら、赤星に直通電話をかければいい。
かなり酔って帰宅したにもかかわらず、辰夫は夜中に眼が覚めた。
茶箪笥《ちやだんす》の上の置き時計に眼をやると、二時間しか眠っていない。明りを消して、眼をつむった。すぐに寝つけると思ったのだが、そうはいかなかった。
頭が妙に冴えてきて、妄想《もうそう》に近い想念がとめどなく湧《わ》き出てくる。怒りと悲しみが殆《ほとん》ど同時にこみあげてくるので、どうにも収拾がつかない。ひどく感じ易《やす》くなっているようだ。
怒りも悲しみも、自分自身に向けられているのは確かだった。二年近い時間をかけて、なにひとつ、|もの《ヽヽ》にならなかった。夢の雑誌はおろか、「パズラー」を安定した雑誌にすることさえ叶《かな》わなかったのが腹立たしい。さまざまな制約があったなどというのは、このさい、問題ではない。
想念をどう手繰《たぐ》ってみたところで、無力、とか、非才、といった言葉しか浮んでこなかった。それを認めざるを得ないのが、いよいよ、無念である。
涙を浮べ、寝ついたのは、夜明けであった。
ぼんやりした頭のままで出社すると、社のまえに立っていた金井が、
「めしを食いに行きませんか」
と、愛想よく、声をかけてきた。
「まだ、早いですか?」
「コーヒーだけなら」
辰夫は応じた。
「ぼくも軽食ですから」
そう言って、金井は歩き出した。
新橋駅に向って左側の喫茶店「ボストン」は、山小屋風の暗いイメージを一新して、赤い日除《ひよ》けにガラス張りの建物に変っていた。昼食時には、ハンバーガーやホットドッグをコーヒーとセットで提供するようになったので、混《こ》み合うのだが、金井は空席を探すのがうまい。空席がない場合には、コーヒーを飲み終えた男女の脇に立ちふさがって、席をゆずらざるを得ないようにしてしまうのだ。
注文をきいたウエイトレスが立ち去るのを待って、
「きいたかい?」
と、辰夫はたずねた。
「なんですか」
金井は見当がつかぬようだ。
「じゃ話そう。ぼくは社をやめることになった。きのう、申し渡された……」
「本当ですか?」
相手は眼を丸くした。
「ほんとに知らなかったのかい」
「驚きました。……で、前野さんは承知したのですか」
「するも、しないもない。一方的な命令だもの」
「どういうつもりですかね」
金井は呆《あき》れ顔で、
「『パズラー』を廃刊にするつもりならともかく……」
「決ったことを、あれこれ言っても仕方がない。とにかく、創刊前後から、いちばん協力してくれたのは、きみだ。石黒君に話すまえに、きみに話すのが筋だと思って……」
「だけど、『パズラー』の作品選択はだれがやるのですか? ぼくは、英語はなんとか読めても、作品の善し悪《あ》しは判定できません。それに、別冊を定期的に出せと言われているので、時間がないし」
「きみは、別冊を出すのを承知したの?」
「ええ」
「そうか」
自分があいまいな態度だったので、黒崎は、御《ぎよ》し易い金井に押しつけたのだろう。
「問題ですな、これは」
金井は考え込んだ。
「労働組合の必要性を痛感します。いつ、ぼくが切られるか、わからない」
「それは無理です!」
石黒は悲鳴をあげた。
「大きな声を出しなさんな」
辰夫はたしなめた。
竹宮照子と広辞苑《こうじえん》にきこえてしまう、という意味である。
「きみがやらないで、だれがやるのだ? 編集長になることは、黒崎さんとのあいだで了解ずみなんだ」
「そうだとしても……」
相手はソファーの隅《すみ》で赤黒くなっている。
「このまえのお話では、前野さんがいて、その下で『パズラー』を編集するはずでした。ぼくひとり、となれば、話が違ってきます。風当りも強くなるでしょうし、自分でも自信がありません」
「そう弱気では困る」
辰夫は低い声でつづけた。
「謙虚さはきみの長所なのだが、これからは少し図々《ずうずう》しくなって欲しい。ぼくにしたって、『パズラー』は大事だ。できる限りの手は打つし、場合によっては、社外から協力する。たしかに責任は大きくなるが、遅かれ早かれ、こうなるはずだったのは、きみもわかるだろう」
「わかります。……光栄だと思う気持もあるのですが、不安の方が大きいのです」
「そりゃそうだろう。ぼくだって、初めのころは不安で眠れなかったほどだ。しかし、一つのチャンスだからね、これは。きみが拒めば、二宮さん辺りが引き受けるだろう。そうなれば、きみはまた不快な思いをするにちがいない」
石黒はかすかに頷《うなず》いた。
川合の紹介で、辰夫は、人気のある刑事ドラマのプロデューサーに会った。
背が低く、鼻が大きな男で、商社マンのように隙《すき》のない服装をしていた。辰夫がどういう仕事をしているのか知らぬらしく、自分に必要なことだけを述べた。
「川合君の話では、推理小説に委《くわ》しいそうですな。面白《おもしろ》そうな材料があったら提供してください。脚色は専門家がやります」
おれを便利屋と思っているのか、と辰夫は腹を立てた。
しかし、怒りを溜《た》め込み、反芻《はんすう》するには忙し過ぎた。
退社の挨拶状を準備し、また、親しくしていた人々には挨拶に歩かねばならなかった。その合間を縫って、とび込んできたDJの仕事をこなした。周囲の冷たい視線を精神的に避けるためにも、持ち込まれた仕事は、いっさい断らぬよう決意したのだ。
「あなたに関して、いろいろな臆測《おくそく》が飛び交ってますね」
六本木の外れの小料理屋の個室で、井田は脇息《きようそく》にもたれていた。
いつもの三つ揃《ぞろ》いではなく、赤いベストで胴をしめつけているのは、寒いからだろう。ときどき、洟《はな》を啜《すす》るのをみると、風邪気味なのかも知れない。
「ほう……」
辰夫は胡麻《ごま》豆腐に箸《はし》をつけた。井田に挨拶するための店を選ぶについては、ずいぶん神経を使ったつもりである。
「どう言ってますか?」
「新聞社が、新しい雑誌を出すので、引き抜いた、という説がひとつ。それから、あなたが、もっと活躍の幅をひろげるためにやめた、という説。もうひとつ、あなたが、むかし在籍した広告代理店が、破格のギャラで呼び戻《もど》した、という説もあります」
「どこから生れるのですかねえ」
辰夫はかすかな嗤《わら》いを浮べる。
「それにしても、よく考えてある。三つめのなんか、実にまことしやかですもの」
「わたしは笑ってしまいましたよ。あなたの性格を知っているつもりですから」
「どの話も、実に結構ですね」
「アメリカ映画の宣伝プロデューサーになるという説もありましたよ」
「そんな仕事が実在するのですか」
辰夫は初耳だった。
「どうですかね」
「本当にくればいいんだがな、面白そうな話が……」
辰夫はそう言った。
自分がどのように考えられているか、彼は、およその見当がついていた。
ひとことでいえば、マスコミの中の珍種であろう。従来、雑誌の編集長といえば、多少とも重々しい存在であったはずだ。そうあるべき人物が、好奇心の赴くがままに行動し、軽薄と批判されても仕方がない姿を、テレビカメラの前に晒《さら》す。――珍種と片づけられても、文句はいえないのである。にもかかわらず、そう片づけられずにいられたのは、毎月、しぶとく、雑誌づくりをつづけてきたからである。
しかし、雑誌づくりをやめた自分が、どのような扱いを受けるか、となると、見当がつかないのだった。
「わたしが出版社を経営する身でしたら、いますぐ、あなたを雇います。放っとく手はないでしょう」
井田がなにげなく口にした言葉は、辰夫の心に触れた。
「そんなこと言われたの、初めてです」
「本当に、そう思いますよ」
井田は噛《か》みしめるように言った。熱いものが辰夫の胸に込み上げてきた。
石黒が落ちついたのは、十一月に入ってからだった。辰夫が信用している翻訳者二人が協力を承諾してくれたのが直接の原因であろう。
辰夫は、これからの生活の基礎づくりにとりかかった。
依頼された仕事は、いっさい拒まぬ気でいたが、皮肉にも、忙しくなる気配はなかった。「予感」の創刊を見越して、前後の配慮もなく、さまざまな仕事を断ってしまったせいだろうか。
唯一《ゆいいつ》のレギュラーである「はじけるユカちゃん」は、視聴率が下っているために、年内に打ち切りになりそうだった。活字では、週刊誌の一|頁《ページ》コラムの連載が始まってはいたが、これも、急に編集長が交替したので、年内で終りそうな気がした。ラジオには、レギュラーの仕事がなかった。
「自信がなくなってしまった」
と、辰夫は、川合に言った。
出社していても、彼は友人を編集室に入れるのを避け、近くの「ボストン」で会うことにしていた。
「とても、やっていけそうにない」
「どうして?」
「だれも、ぼくを相手にしてくれなくなるような気がする……」
川合は笑わなかった。笑わないどころか、「そう思い込むんだよな」と言った。
「あなたも、そうだったかい」
「まあな……」
自己について語るのを好まない川合は言葉を濁して、
「フリーになる時は、みんな、そうなんだ」
「そういうものか」
「そういうものさ。おたくは、まだ、いい方だ。なんといっても、独りだから」
辰夫は、はっとした。
「妻子を抱えて、フリーで再出発となったら、つらいぜ。その点、独りだったら、失業保険でも、最低、めしは食えるだろう」
「さあ……」
「そういう風に考えるんだ。不幸中の幸いってわけさ」
辰夫は頷いた。
「おたくも、いずれ、わかるだろうけど、仕事ってのは波がある。ほどほどとか、丁度いい、ってわけにはいかない。ものすごく忙しいか、ものすごく暇か、どっちかだ。――だから、暇な時には身体《からだ》を休めときゃいい。本が読めれば、ベターだね。忙しくなると、週刊誌も読めなくなるぞ」
「そんな風になるだろうか」
と、辰夫は言った。
川合は、しばらく黙って、煙草《たばこ》を吸っている。
帰る頃合《ころあい》をはかっているのかと見るうちに、やがて、思いきった口調で、
「井田さんが『パズラー』をやるそうだな」と言い出した。
「え?」
辰夫は呆気《あつけ》にとられて、川合の顔を見た。
「『パズラー』の編集をやるそうだ」
川合は、言い直した。
「そんなことはあり得ない」
と、辰夫は笑った。
「石黒君が、ぼくの後任だよ」
「井田さんがやると聞いたぜ」
「間違って伝わったのだろう。石黒君には、井田さんにも、いろいろ相談するように言ってあるから」
「おかしいな。〈遊びの会〉の連中は、みんな、そう言っている」
「連中は、なにも知らないよ」
辰夫は一笑に付そうとした。
「|なにも知らないのは《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|おたくだけだ《ヽヽヽヽヽヽ》」と川合は捩《ね》じ伏せるように言った。「井田は、代理店の連中に、今度、こうなりますから、と挨拶《あいさつ》まわりをしている。おれは、その筋からきいたのだ」
思いもよらぬ話に、辰夫は蒼白《そうはく》になった。代理店経由の情報の信憑性《しんぴようせい》の高さは、認めざるを得ないのである。
「おたくを追い出す陰謀があったのじゃないか」
念を押すように川合は言った。
「できれば、こんな話は、おたくの耳に入れたくはなかった。しかし、おたくと井田の関係を知ってるおれから見れば、ひでえ話だぜ」
辰夫はまだ信じられなかった。先日、小料理屋で辞任の挨拶をしたとき、井田は優しい言葉をかけてくれたではないか。
「おたくが途方に暮れるのは無理もないけど、あの男には警戒すべきだった」
「心情的な人間のように思っていたから……」
と、辰夫は呻《うめ》くように言った。
「心情的というよりは、情緒不安定だな。放送界では、みんな、そう言ってる。男のくせに、すぐ泣き出したりする」
「ああ」
「覚えがあるかい?」
「ぼくにも、二度ばかり、涙を見せた」
「あぶない、あぶない」
川合の眼《め》に奇妙な輝きがあった。
「涙を流すのを見て、純粋な人間だと思い込むと、あとで|えらい目《ヽヽヽヽ》にあう。自分に涙を流させた相手には、ねちねちと復讐《ふくしゆう》してゆくんだ。東北人の一つのタイプだな」
「ぼくには理解できない」
「おれだって、わからんさ。危《やば》いタイプだと思っているだけだ」
「裏おもてが極端なのだろうか」
辰夫の声は重かった。
「裏おもてだったら、わかり易《やす》い。刻々、感情が変るんだ。強《し》いていえば、人間性が分裂しているのだろう」
「でも、大の男が泣くのを見ると、思わず、感動するぜ」
「東京の人間は、かくも甘いのよ」
川合は唇《くちびる》を歪《ゆが》めた。
「そういえば、井田さんは、まえに、雑誌をやって、失敗していたんだ!」
ようやく、辰夫《たつお》は想《おも》い出した。
「やっと、気がついたか」と、川合は、短い頭髪を掻《か》きむしって、「……要するに、挫折《ざせつ》した編集者なんだ、あいつは」
「待ってくれよ。どれほど野心に燃えていたとしても、あの男と文化社が、どこで結びつくのだ?」
「結びつけた人間がいるのだろう」
石黒だろうか? いや、みすみす、自分が不利になることはしないだろう。……あと、だれがいるだろう?
「あなたは知らないだろうが……」
辰夫は、ためらいながら言った。
「うちの社に金井という男がいる」
「おれは知ってるよ。会ったのだ」
川合は薄笑いを浮べた。
「いつだったか、テレビ局にきたよ。サイドビジネスでラジオの会社をやっているとかで、出演交渉にきた。前野さんが紹介してくれないから、直接、話しにきました、といってた」
「で、どうしたの?」
「よくある、胡散臭《うさんくさ》い依頼だった。その場で断ったら、前野さんにはご内聞に、と念を押して帰って行った」
「間違いない。それが金井君だ」
「おれがきいたところでは、井田を迎え入れる役を果したのは、金井という名前だったぜ……」
辰夫は、その場から、「黒猫《くろねこ》」編集部に電話を入れた。金井は留守だったが、すぐ戻るとのことである。「ボストン」で待っているから、といって、彼は電話を切った。
「おれがいても、かまわねえか」
川合はビールを飲みながらたずねた。
「いて貰《もら》った方がいい」
と、辰夫は答える。
……社内で起ることにあまり興味がない辰夫に視《み》えなかった動きがあったようだ。その根本は、編集部でトップの座に就きたいという金井の野心らしい。そうした成り行きが、辰夫の頭の中で、初めて、明瞭《めいりよう》になりつつあった……。
うだつが上らなかった時点では、金井は、世捨て人の文学青年を装っていた。辰夫が入社し、片腕になりたいと申し出てきたとき、金井の上昇志向に灯《ひ》がともったのではなかったか。
いまにして思えば、金井の上昇志向は、何度も|しっぽ《ヽヽヽ》を出しかけている。――「パズラー」が初めて売り切れたとき、二人で文化社から独立しないか、と持ちかけてきた。あの時は、辰夫に〈社長〉になれ、といったのだった。それが実現しなかったので、のちに、ラジオ番組の下請け会社を作り、念願の〈社長〉の肩書を手に入れた。
しかし、金井の野心に、本当に、火がついたのは、「黒猫」の編集主任になったときであろう。城戸草平を口説いて、強引に、金井を引っぱり上げたのは辰夫だから、皮肉な成り行きなのだが、あのとき、危惧《きぐ》の念を表明した城戸、黒崎、西たちは、やはり、|おとな《ヽヽヽ》であり、金井の〈謙虚さ〉を評価した辰夫は、人間の一面しか見ていなかったことになる。
その後、辰夫は「パズラー」の編集長をつとめながら、「黒猫」編集の相談に乗る、という立場にいた。他の小出版社における〈編集局長〉的立場であるが、辰夫は、肩書など、どうでもよかった。小さな会社の中で重々しい肩書を欲しがる人々を辰夫は理解できなかったし、心の中では嗤《わら》うべきことだと思っていた。
だが、辰夫がそうだからといって、他人も同じとは限らないのである。金井は、文字通りの〈編集局長〉になりたくなったのではないか。そのためには辰夫を追い出さねばならず、自分は「黒猫」専任のままで、自由にコントロールできるだれかを「パズラー」編集に当らせる計画を立てたのだろう。
〈編集局長〉どころか、金井は、文化社の〈社長〉になりたい野心さえあるのではないだろうか。〈社長〉という肩書へのこだわり、会社経営への異常な執着を、辰夫はもっと警戒すべきだったのだ……。
店内に入ってきた金井は、川合の存在を眼にして、動揺したようだった。
だが、表面的には、笑みをみせながら、川合に軽く会釈《えしやく》した。そして、開き直ったような笑顔で辰夫に向い、「お呼びでしたか」と言った。
「まあ、すわりたまえ」
と、辰夫は椅子《いす》をすすめる。
金井は椅子に腰かけ、習慣となっている軽い咳《せき》をした。
「川合さんから思いがけないことをきいたのだ。それで、きみの話をきこうと思って……」
「なんでしょうか」
金井は落ちつきはらっている。
「井田さんが『パズラー』の編集長になる噂《うわさ》があるそうだ。ぼくは寡聞《かぶん》にして知らなかった。本当かね?」
金井は瞬《まばた》きをした。それから、長い沈黙が続いた。
辰夫は相手の出方を待っていた。金井は言葉を探しているようだった。
「失礼ですが……」
思いきったように、金井は川合にたずねた。
「その話、だれからおききになりました?」
「代理店筋だよ」
川合が、ずばりと答える。金井の顔色が変った。
「代理店?」
「挨拶して歩いてるぜ」
「それはおかしい」
金井は首をかしげた。
「考えられないことです……」
「きみは、まだ、ぼくの質問に答えていない」
と、辰夫は冷ややかに言った。
「ぼくは、まだ、文化社の社員で、『パズラー』の編集長なのだ。噂の真偽を知る権利があると思う」
金井はまた沈黙した。
しばらくして、
「そういう話は、たしかに、あるのです」
と、禿《は》げ上ったひたいを、かすかに動かした。
「誤解されぬように申しあげておきますが、策謀じみたことではないのです。ぼく自身の不安から出た動きが、前野さんに不快感をあたえたとすれば、あらかじめ、お詫《わ》びします」
川合は、見ろ、といった視線を辰夫に示した。
「先週、あるパーティーで、井田さんに会ったとき、前野さんの辞任の噂が出たのです。前野さんがやめたら『パズラー』はどうなるだろうか、とくに小説以外の読物・エッセイの部分が心配だ、と、ぼやいたのですよ。『パズラー』の生命が、あの部分の現代性にあるのは、間違いないですからね。すると、井田さんが、自分が手伝ってもいい、と言いだしたのです」
辰夫は無表情だった。
「……翌日、すぐに、黒崎さん、西さん、ぼく、石黒君の四人が、銀座のバーで、井田さんに会ったのです。井田さんは、しっかりした人ですね。文化社の経営状態を調べたようでした。もう少し考えさせてくれ、という返事でした」
「おかしいじゃないか。井田さんは、あちこち挨拶して歩いている。〈遊びの会〉の連中は、もう、決ったことと見ている。――|ということは《ヽヽヽヽヽヽ》、この話は、かなり前から進行していたのじゃないか」
やめてくれないか、と辰夫が言われたのは、十月二十五日だった。それ以前からではないか、と辰夫はみたのである。
「そう見られるのを恐れていたのですよ」
金井は弁解した。
「筋からいえば、前野さんの了解が必要だったのです。しかし、あなたにいえば、石黒君を擁護するにちがいないし……」
石黒は何を考えているのだ? 自分に打ち明けずに、どういうつもりで井田に会ったのか?
「井田さんも困るなあ。答えをペンディングにしておいて、妙なことを言い触らして歩くとは」
金井は怒ってみせた。
「とにかく、今月いっぱいで前野さんはいなくなるんです。前野さん抜きで、どうやって『パズラー』をやってゆくか。大変なのですよ、こちらも……」
しばらくして、原稿をとりに行くから、と金井は立ち上った。よろしくたのみます、と、訳のわからぬことを呟《つぶや》いて、去ってゆく。
「|これもん《ヽヽヽヽ》、だな」
川合は、人差し指で、眉毛《まゆげ》に唾《つば》をつける真似《まね》をしてみせた。
すぐにも石黒の気持をきく必要があった。石黒自身、編集長をつとめる自信がもてず、井田の下で働きたい、というのならば、なにをかいわんやである。気の弱い石黒は、そうした気持を辰夫に打ち明けられないのかも知れなかった。
電通に向う川合のフィアットに同乗した辰夫は、西銀座の中華料理屋の前でおろして貰った。
「慎重にいけよ」
川合は声をかけた。
中華料理屋の入口には、〈文化社様御席〉の黒い札が出ていた。夕方から、「パズラー」のための座談会があるので、石黒は出席者より先にきているはずである。
案内された部屋に入ると、テーブルに凭《もた》れていた石黒が薄眼をあけた。辰夫は顔を出さぬことになっていたから、意外だったのだろう。「あっ」と言って、上体を起した。
「まだ、少し、時間がある」
辰夫は、黒いテーブルの真向いに腰かけながら前置きをした。
「つい、さっき、金井君から井田さんのことをきいた。ぼくは初耳だったが、それは、このさい、いいとしよう。川合|寅彦《とらひこ》の話じゃ、井田さんは、編集長になるといって、挨拶まわりをしているという。――いったい、きみの立場はどうなっているのだ?」
追いつめられた人間が浮べる、ひきつったような笑みが石黒の顔にあらわれた。|とりもち《ヽヽヽヽ》から身体《からだ》を引き離すようにゆっくりした、しかも苦渋にみちた口調で、石黒は答えた。
「すみません。もっと早く、申しあげるつもりだったのです」
辰夫は青年を凝視した。
「なかなか、決断がつかなくて……」と、石黒は自嘲《じちよう》的に言った。「それに、ぼく自身、どうしたらいいか、わからなくなっていたのです」
辰夫は黙っている。青年を責める気持はないのだった。
「先月の終りに、井田さんに編集を手伝ってもらったらどうか、と金井さんがぼくに耳打ちしてきたのです」
「正確にいうと、いつだ? ぼくがやめることをきみに話したのは、二十六日だったが」
「あの翌日か、翌々日です。ぼくが動転して、眼の色がおかしくなっていたころです」
「で、どう答えたの?」
「翻訳小説に関しては、前野さん任せで考えていたので、そう心配はしていませんでした。それ以外の、エッセイや雑文の筆者が心配だったのです。ぼくの力で新しい執筆者を開拓できるかどうか……」
「ベテランのライターだって、いいのさ。きみのやり易い方法でやれ、と言っただろう」
「ええ……」
石黒は息をつめて、
「金井さんは、ぼくひとりでは無理だ、と言うのです。井田さんを相談役にすればいいと……」
「よけいなお世話じゃないか」
辰夫は吐きすてるように言った。
彼が推理した通りだった。金井は〈先週〉に始まった動きだと釈明したが、先月、辰夫の辞任が決った直後に――ひょっとしたら、もっと前から――動きが始まっていたようだ。
「ところが、先週、井田さんに銀座で会ってみると、話がちがうのです」
石黒の顔が怒りで赤らんだ。
「ほう?」
「金井さんも、黒崎さんも、井田さんを『パズラー』の編集長として迎える様子なのです。西さんの態度も、そうでした。文化社側の姿勢は一貫しているのです。ぼくは何も知らされていないので、不愉快でした」
「井田さんは、どういう態度だった?」
「わからないんですよ」
と、石黒は俯《うつむ》きかげんになる。
「政治家がいう玉虫色の回答というのは、あれですね。黒崎さんが出す条件は、しっかり聞いているのです。ボーナスとか、もっとこまかいことまで、いろいろ質問していましたが、引き受けるかどうか返事がはっきりしないのです。井田さんと別れたあとで、近くの喫茶店へ行って話し合ったのですが、黒崎さん、西さん、金井さんの三人の受けとり方が、まるでちがうのです」
「なるほど、玉虫色だな」
どうやら、井田は、役者として、一枚、上手《うわて》のようであった。
「きみは、ずっと黙っていたのか」
「ええ、気分が悪くて……」
「思ってることを、井田さんの前で吐き出せばよかったんだ」
辰夫《たつお》は憤《いきどお》りを怺《こら》えた。
――どうして、先週、すぐに、いわなかったのだ?
本当は、そう問いつめたかった。
だが、気の弱い青年だけに、勢力を増しつつある金井に抵抗するようなふるまいは、とても、できないのであろう。
「ぼくのきいた範囲では、前野さんがやめさせられる噂は、だいぶ前からあったようです」
と、石黒は絞り出すような声を発した。
「……『黒猫』の若い連中の噂です。金井さんが積極的に動いたときいています」
「冗談じゃない、もっと早く教えてくれよ」
「面と向ってはいえないですよ。あくまでも、噂ですし……」
時間がたつにつれて、辰夫の怒りは凝固し始めた。それでなくても、考えねばならぬことが多いのだから、怒りを整理しなければならないと思った。
金井に関していえば、羞恥心《しゆうちしん》の欠如した俗物の一語に尽きた。そのような人間であれば、今度のようなことは、起るべくして起った、と見るべきであろう。石黒の話に耳を傾けるうちに――はじめは遠慮していた石黒も、感情が高ぶってきて思わず饒舌《じようぜつ》になった――かなり以前から、金井が社内での〈政治〉に熱心になっていた事実がわかってきた。仕事しか頭にない辰夫の寝首を掻《か》くなど、金井にとって容易な業のはずであり、それに対して|むき《ヽヽ》になるのは、自分を金井のレヴェルまで、ひき下げることにほかならない。――こんな風に考えて、怒りを鎮《しず》めようとするのは、痩《や》せ我慢の一種かも知れないが、まあ、それでも構わない。
辰夫がこだわるのは、井田に対してであった。
雑誌創刊当時、井田には、ずいぶん世話になったのだが、そのことへの感謝とは別に、辰夫は井田の才気を高く買っていた。人間的に癖はあるものの、雑文・コラム書きとしての井田は一流であり、ようやく、新聞や週刊誌で認められつつあった。当人も、放送界よりも、この方面に才能を伸ばそうと考えているらしく、「『パズラー』で好きなことをやらせてもらったおかげです」と、いつも、口にした。
辰夫は井田を他の執筆者とは別格に考えており、だからこそ、やめる時の挨拶《あいさつ》も、特別な形でしたのである。今でも、井田が、歳下《としした》の友人を平気で裏切る男とは思えないし、そう信じたくなかった。
しかも、井田は、やめてゆく辰夫に、もっとも暖かい言葉をかけてくれた男である。あのような言葉が、心にもなく出るものであろうか?
編集部に戻《もど》ると、井田からのメッセージが待っていた。仕事でホテルオークラの一室にいるので、ご連絡を頂きたいというのだ。金井からすぐに電話が行ったのだな、と辰夫は思った。連絡を入れずに、いきなり、ホテルオークラへ行ったほうがよさそうだ、と判断した彼は、ダスターコートを着て外へ出、タクシーを拾った。
井田に会っても、きけないことがあった。あまりにも根本的な疑問だからだ。辰夫は、川合のようには、井田と金井の結びつきを、あっさり信じることができなかった。彼の知る限りでは、井田と金井は、|そり《ヽヽ》が合わず、反撥《はんぱつ》し合っていたはずである。積極的に批判していたのは金井であるが、井田は敵意を感じながら黙殺していた気味があった。
しかし、こうなってくると、二人の不仲は演技だった、と見るしかないような気がする。――もともと顔見知りではあったのだから、辰夫に見えない部分で深く結びついていたのかも知れない。たとえば、金井がラジオの下請け会社を作ったとき、なんらかの形で井田が噛《か》んでいたと考えても、不自然ではないだろう。
……そういえば、と、辰夫は、急に想《おも》い出した。彼の頭のどこかにひっかかっていたジグソー・パズルの一片だった。……去年の夏に、井田たちと、〈パリ祭の想い出を語る座談会〉のパロディを、マイクの前で演じたことがあった。その番組は地味なものであり、世間的にみれば莫迦《ばか》げたものなので、辰夫は会社では口を噤《つぐ》んでいたし、新聞の番組表にも彼の名前は出ていなかった。――にもかかわらず、放送の翌日、金井は、「ゆうべ、ラジオ、ききましたよ……」と声をかけてきた。
偶然に耳にする、ということも、なくはなかろう。しかし、金井にラジオをきく習慣があるとは思えなかった。金井だけではない。いまどき、ラジオを、それも深夜近くにきくのは、病人か受験生、大学生であり、忙しい社会人のやることではない。
自分があの番組に出ることを、金井は、なぜ、知っていたのだろう、と、|そのとき《ヽヽヽヽ》、辰夫は疑問に思ったのだった。疑問は、ずっと、頭の内側にこびりついていた。……今にして思えば、答えはただひとつ――|井田が金井に話した《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のである。二人は、あのころ、すでに付き合いがあった、と見るべきであろう。
では、金井が井田の性格を悪《あ》しざまに言っていたのは、すべて演技だろうか? 辰夫には、そうとは思えなかった。〈性格が暗い〉とか、〈凡庸な人間のくせに自分を多才に見せたがっている〉といった批判は、演技にしては、毒があり過ぎた。
だいたい、金井ほど、自分自身を、〈凡庸〉、〈才能がない〉と決めつける男も珍しかった。多くの者は、そこに、いまどき稀《まれ》にみる、古風で謙虚な人物を発見して安心するのである。しかし、〈凡庸さ〉の認識こそ、金井のヴァイタリティーの源泉なのではないか。〈凡庸さ〉を認め、開き直ることによって、金井は自分を生かす道を掴《つか》んだのだ。体力と絶えざる微笑と見せかけの謙遜《けんそん》があれば、中途半端な才人などに負けない、という自信である。精神的にも体力的にも、絶対に|めげない《ヽヽヽヽ》――それも一つの才能だと辰夫は認めざるをえないのだが――金井は、自分の手の届く高さにいる(と金井が考えている)才人の井田を、自分の支配下に置こうと考えたのではあるまいか。
ホテルの浴衣《ゆかた》を着た井田は、不意の来客にうろたえた。〈ホテルオークラの一室で原稿を書く〉スノビズムを金井が見たら、鬼の首でもとったように嘲笑することだろう。
「ルーム・サーヴィスをたのみましょう。ビールにしますか」
井田は愛想よくたずねる。
「けっこうです」
辰夫は断った。
「金井さんから電話がありました」
と、井田は憂《うれ》え顔で言った。
「川合君が妙なことをあなたに吹き込んだので困っている、と言ってました」
言葉を切って、ドイツ煙草《たばこ》に火をつける。辰夫の反応をみているのだった。
辰夫は黙っていた。
「金井さんは騒ぎ過ぎるのですよ」
井田は独白めいた言い方をした。
「川合寅彦が嘘《うそ》をついたと言いたいのですか?」
急に、辰夫はきいた。
「そうは申しません。金井さんから話が持ち込まれたのは事実ですから。どうしたらいいかな、と代理店にいる友人に相談しました」
「へえ……」
「挨拶まわりなんて、とんでもない。わたしだって、二、三の友人に相談ぐらいします」
「文化社の幹部に会ったそうじゃないですか」
「金井さんが喋《しやべ》ったのですか」
相手は怪訝《けげん》そうな顔でききかえした。
「ええ」
と、辰夫は押し殺した声を出した。
「あなたは表紙をかえる案を出したそうですね。身のふり方に迷っている人にしては、|てきぱき《ヽヽヽヽ》してるじゃないですか」
「あれは……」
井田は、まぶたを、ぴくりとさせて、
「金井さんに相談されて、一つの考えを示しただけです。なんでも、そう悪い方にとられては困ります」
「ほかに考えようがないでしょう」
「……わたしが軽率だったのです。文化社の人に会うべきではなかった。これは、弁解のしようがない事実です」
石黒の気持を考えてもみてくれ、と言おうとして、やめた、そんな言葉が通じる相手ではなさそうだ。
「それに――落ちついて考えてみると、問題が多過ぎます。わたしが『パズラー』の編集長になると、多くの人を敵にまわすことになる。川合君ひとりならともかく、あなたの友人、シンパ、ファンを敵にするのは損ですからねえ」
おれにはシンパサイザーなんかいないのに、と辰夫は思った。過大評価か、幻影なのだ。
「とにかく、|今は《ヽヽ》、文化社に入る気持は毛頭、ありません。これだけは、はっきり申しあげておきます。……将来、そういう気持になったとしたら、なにをおいても、まず、あなたに話します」
そつのない返事だった。そう思いながらも、辰夫は、これはないでしょう、井田さん、と呼びかけたい衝動に駆られた。気落ちしているようにみえる相手の顔を見つめていると、つい、微笑《ほほえ》みかけたくなるのだった。
「その返事は石黒に伝えましょう」と、辰夫は気持をひきしめた。「よろしいですね?」
「けっこうです。石黒君は気を悪くしたのじゃないかしら」
「それにしても、先月、六本木でお目にかかったとき、なぜ、打ち明けてくれなかったのですか」
辰夫は鎌《かま》をかけてみた。
「あ、あの時ですか」
井田は、思わず、苦笑して、
「金井さんから厳重に口止めされていたもので……」
と答えた。
すべては、先月に準備されていた、と判《わか》った。少くとも、金井と井田は、先月の二十六日以前に、充分に打合せをすませていたのだ。
その夜遅く、アパートの辰夫の部屋に電話が入った。
――ごぶさたしております。
親しげな口調で、ぴんときた。赤星プロの常務である。
――社長が気にしているのです。また一度、会ってやってください。このまえは、えらいご機嫌《きげん》でしたよ。
――そうですか。
辰夫は意外な気がした。
――おれの話を理解できる数少い男だと言ってました。なにか、|うま《ヽヽ》が合うと感じたようで。
――光栄としか答えようがないですね。
――PR誌の編集長の椅子《いす》は、まだ、空いています。
相手は、いきなり、核心に触れた。
――私が、こんなことを申すのは、余計かも知れませんが、その気がおありになるのなら、チャンスですよ。
――考えてます。
――編集部は別会社になりますから、のびのびできますよ。建物も別です。
――魅力的ですね。
思わず、そう言った。
――社長は、内心、焦《あせ》ってます。先生からなかなか返事がないので、ご存じの井田さんに話を持っていったほどです。
辰夫は緊張した。
――一度は色よい返事をしたくせに、あの野郎、断ってきやがった。社長は、駄目《だめ》な男だ、と言ってました。むしろ、助かった、と……。
はっ、とした。なぜ、電話がきたかがわかったのだ。
――じゃ、ぼくの立場を知っているわけですね?
息をのんだ相手は、すぐに、仕方なさそうに笑った。
――実は、そうなのです。井田が、どうして断ってきたのか、調べました。独自の情報ルートで探ってみたら、とんでもねえ話だ。先生の尻《けつ》を掘ってるじゃありませんか。
きわめて上品な表現であった。
――先生のお立場はわかってますが、誤解しないでください。私ら、弱味につけこもうなんて、けちな料簡《りようけん》はないのですから。
常務はひとりで喋りまくり、喋り過ぎた。赤星プロの情報|蒐集《しゆうしゆう》能力、調べの正確さは辰夫にとって恐怖以外のなにものでもなかった。赤星に相談しようとした彼の気持を一変させて、お釣《つり》がくるほどの迫力であった。
裏の事情が判明したからといって、どうなるものでもなかった。
辰夫は、間もなく、退社する身である。しかも、十時に出勤して夕方まで働く社員たちからみれば、どうみても|まとも《ヽヽヽ》ではない。当時は、〈タレント編集長〉などという便利な言葉はなかったから、辰夫の立場は〈尋常ではない社員〉でしかなく、そのような男に対して、文化社は寛大だったというべきであろう。
数日、辰夫は「パズラー」の編集室にこもりっきりだった。片づけるべきことが多過ぎたし、部下との打合せもあった。井田の策動を石黒からきかされた竹宮照子は、落ちつかぬ空気に嫌気《いやけ》がさしたのか、年内で社をやめると言い出した。
辰夫は金井に会うのを避けていたが、金井は気になるらしく、食事をつきあってくれませんか、と声をかけてきた。
新宿|歌舞伎《かぶき》町の裏通りにある、気軽な割烹《かつぽう》料理屋に案内された。
小さな座敷に入るやいなや、二十代にしか見えない和服の女性が挨拶に出てきた。
「ここのママです」
と、金井は紹介した。
「こちら、前野さんだ。よくお噂《うわさ》してるだろ」
「ほんと。テレビで観《み》るのとそっくりですね」
わけのわからぬことを言って、女性はビールを注《つ》ごうとする。
「アルコールは駄目じゃなかったのかい」
金井がグラスを手にしているのを辰夫は驚きの眼《め》で見た。
「このごろ、少し、飲めるようになりましてね」
「へえ!」
辰夫は信じられなかった。
女性が出て行くのを見送ってから、金井は小声で、「見たことがありませんか?」と、きいた。
「なにを?」
「いまのママです」
「さあ……」
「ご存じないでしょうな。ピンク映画の女優だったのですが」
「ピンク映画?」
そういえば、新橋のガード下にある小さな映画館で、その種の映画を、三本立てで上映しているようだ。
「ぼくの|これ《ヽヽ》ですよ」
金井が右手の小指を突き出したので、辰夫は愕然《がくぜん》とした。
夫人との、週一回だかの行為で、へばってしまう、と、蛙《かえる》が這《は》う恰好《かつこう》をしてみせた男とは別人のようであった。それにしても、野暮を絵に描いたような金井とピンク女優の取り合せは、奇想天外である。いったい、どこで知り合ったのだろう!
「わりに性格がしっかりしているので、この店を任せているのです」
金井の言葉は、いよいよ意外である。
「じゃ――ここは、きみが経営しているのか」
「まあね……」
と、金井は|おたまじゃくし《ヽヽヽヽヽヽヽ》のそれに似た細い眼で笑い、グラスを挙げた。
「ラジオの下請け会社をひとに譲って、この店を借りたのです。打合せや密談を料理屋でやると、金がかかりますからねえ。ここでやるぶんには、損にはなりません」
そりゃそうだろう、自分の店なのだから、と、辰夫は恐れ入る。こうなると、会社づとめの方がサイドビジネスみたいなものである。この男も変ってしまった、と、辰夫は感傷的な気持になった。
「どうも、前野さんに誤解されているような気がして……いや、誤解されるふしがあったのは事実ですから仕方ないのですがねえ……」
口調とは反対に、金井の態度には自信が漲《みなぎ》っていた。そっちは、どうせ、やめる身じゃないか、という余裕が、言外に溢《あふ》れている。
「でもね。誤解されっ放しじゃ、ぼくも、つまらない。今後の信用にも差し障りますから。ぼくの知っている限りの経緯《いきさつ》をきいてもらいたいのです」
「もう、いいよ」
辰夫《たつお》は言った。相手を許しているわけではないが、煩《わずら》わしいことを耳にしたくなかった。
「まあ、きいてください」
押しつけるように言った金井は、辰夫のグラスにビールを注いだ。
「あれは、先月の二十日ごろだったと思います。定例会議のすぐあとでした。黒崎さんがぼくに、前野君がおれの命令に従わんから、やめさせたい、と言ったのです」
「雑誌創刊の件だろう」
「そうです。あいつはアイデアを|けち《ヽヽ》っている、とか、いろいろ言ってました。どうやら、西さんと二人で決めたことのようです。城戸先生にはまだ話してないから、内緒にしておいて欲しい、と念を押されました」
金井は溜息《ためいき》をついてみせて、
「ついては、後任者を探してくれないか、と迫られました。ぼくは非常に困ったのですが、どうしても、と言われて、井田実の存在を想《おも》い出したのです。編集の経験者となると、あの人ぐらいしか身近にいませんからねえ」
「そうだろうか……」
辰夫は言葉をはさんだ。もっと経験豊富で、仕事がない人間たちが周辺にいるはずだった。
「とりあえず、そう答えておいたのです。というのは、城戸先生が承諾なさるとは思えませんでしたから」
辰夫は答えなかった。〈おとなになる〉とは、こういうことなのか、と思った。
「金井さんがぼくに謝りました。ぼくも了解しました」
十一月の半ばに、石黒が言った。
「こだわりを捨てて、『パズラー』に取り組む気になりました」
「それはよかった……」
金井が経営する割烹料理屋と愛人を想い浮べながら、辰夫は複雑な表情をした。
「しかし、金井君には気を許さないほうがいい」
「言われるまでもありませんよ」
石黒は苦笑した。
「井田さんの件で、いやというほど、わかりました」
「きみへの引き継ぎは、だいたい、終った。これ以上、ごたごたするのだったら、やめてしまえ」
と、辰夫は短気そうに言った。
「小さな代理店が人を探している。就職先は、紹介できると思う」
自分のこともともかく、石黒と竹宮という仲間《クルー》の今後が気になった。
幸い、竹宮照子は、退社を機会に恋人と結婚する、という。あと、心配なのは、人の善い石黒であった。
「お気持は感謝します。ぼくは、やはり、『パズラー』をやってみたいのです」
「万が一、ごたごたしたときのことさ。なにか起ったら、電話をくれないか」
「必ず、します」
石黒は眼を赤くしている。
「中途半端な妥協をするなよ。きみのやりたいようにやるんだ」
温厚な石黒にできるだろうか、と思うと、心もとなかった。
辰夫は、またしても、失業した。
〈尖端《せんたん》的な雑誌の編集長〉の肩書を失うと同時に、彼の〈商品価値〉は下落した。
かっとし易《やす》いわりに、奇妙なまでに客観的に自分を眺《なが》める瞬間もある彼は、他人が自分を、いままでと異《ことな》った眼つきで見るのは仕方がない、と諦《あきら》めた。失業慣れしているせいもあるのだろう。
編集者をやめて、広い世界に飛翔《ひしよう》していった人々を、辰夫は身近に見ていた。彼は、それらの人々に似ているようにみえて、ちがっている。たしかに様々なジャンルに手を伸ばしたが、結局は面白《おもしろ》くなく、精神的満足を得られなかった。彼にとって、あらゆる冒険は、雑誌の編集に収斂《しゆうれん》されるべきものだったのである。
「パズラー」が、もっと爆発的に読者を獲得できなかったのが、唯一《ゆいいつ》の心残りだった。自分が読者に発していたメッセージは間違っていたのだろうか。
作家ならば、自分の作品に、〈幸福な少数の人へ〉と銘を打って、十年先、五十年先の読者を期待するのが不可能ではなかろう。しかし、雑誌は、即《そく》、読まれなければ話にならない。遠い未来の読者のための雑誌なんてものはあり得ないのだ。
彼が職を失うのと前後して、「はじけるユカちゃん」は打ち切りになった。
川合の活躍をテレビで眺めながら、彼は、殆《ほとん》ど毎日、ベッドに横たわっていた。アメリカのテレビ番組の大半が一時間物になっているのに改めて気づき、ヴィック・モローの「コンバット」、リー・マーヴィンの「シカゴ特捜隊―M」、「幌馬車隊《ほろばしやたい》」、「ガン・スモーク」、「サンセット77」等を、ぼんやり眺めていた。
そうしたある日、TBSの未知のディレクターから電話が入った。
――前野さん、ですね。
――はい……。
――「パズラー」の編集長|だった《ヽヽヽ》前野辰夫さんですね?
相手はしつこく念を押した。
――そうです。
――テレビの台本をお書きになるのですねえ。知らなかった。
答えようがなかった。一年以上、TBSの仕事をしていて、こんなものなのだ。
――局の中に古い台本が棄《す》ててあったので、気がついたのです。「はじけるユカちゃん」をやってらしたのですね。
――ええ。
――ぼくは、お昼の十五分番組、やってるんです。軽い構成を引き受ける気はありませんか。
この年の十二月、東京では、スモッグが社会問題になった。自動車の増加と渋滞は限界に達したと評された。
月の初めに、辰夫は文化社を訪れた。失業保険のための証明を貰《もら》うためである。
「前野さん、ちょっと」
西が辰夫を呼んだ。胃の具合がいよいよ悪そうな顔をしている。
「まあ、お入りなさい」
辰夫は、石油ストーヴをつけた経理部の部屋に入った。
「失業保険を受けとるのですか」
椅子《いす》をすすめながら西がたずねる。
「準備だけはしておこうと思いまして」
「あなたには必要ないでしょう」
辰夫は答えない。薄氷を踏む思いでいる日々を語りたくはなかった。
女の子がコーヒーをいれてくれた。西は、改まった態度で、煙草《たばこ》を差し出し、「どうですか、その後?」と言った。「どこかの出版社がスカウトにきませんか」
「きませんよ」
と、辰夫は受け流した。
「そうですか」
西は、頷《うなず》いて、
「暇があったら、文化社を助けてくださいよ。まんざら、他人でもあるまいし」
どういう意味だ、と辰夫は思った。ひとを追い出しておいて、手伝ってくれ、とは。
「石黒君が頼りなくてねえ。意外でしたよ」
相手は愚痴るように呟《つぶや》く。
「前野さんとは、だいぶ、ちがいます」
「そういうことを言ってはいけない」
辰夫ははっきり言った。会社をやめた以上は対等の身であろう。
「石黒君の歳《とし》を考えてごらんなさい。過大な期待を寄せるのは可哀相《かわいそう》です」
「わかってますよ」
西は、ますます、愚痴っぽくなる。
「だけど、あなたは、石黒君はいい、大丈夫です、と、くりかえし、言ってたじゃありませんか」
「ええ、言いましたよ」
辰夫の性格として、部下の悪口を言ったり、間抜けさを話題にしたりするのは、好きではなかった。石黒の弱点が見えないわけではないが、「大丈夫ですか」と念を押されて、「無理です」とは言えない。また、言える状況ではなかった。
西がしつこく、「大丈夫ですか」とたずねたのは、「予感」中止を辰夫が告げられた日であった。中止の事態をまだ知らなかった辰夫は、自分が「予感」に専念しても、「パズラー」の編集は石黒でできる、|大丈夫です《ヽヽヽヽヽ》、と答えたのだった。
……いま、気がついたのだが、西は、石黒で大丈夫《ヽヽヽ》ならば、辰夫がいなくても困らない、経費節減にもなるし――と、こまかい算盤《そろばん》を弾《はじ》いたのではないか。あのときの西の態度は、どこか、おかしかった。
石黒君で|大丈夫です《ヽヽヽヽヽ》、というひとことが、自分を追放する|もと《ヽヽ》になったのかも知れない。――そうだとすれば、じつに姑息《こそく》で、けちくさい世界ではないか!
「あなたが、いい、と言うから、石黒君に任せたのに……」
西は辰夫を責める口調になる。
「どうも頼りないので、また、井田さんに交渉しているのですよ」
「へえ……」
辰夫は二の句がつげなかった。
「ところが、あいかわらず、のらりくらりした返事でしてねえ」
この連中と井田は好《い》い勝負だと考えた。狐《きつね》と狸《たぬき》は、上野にしかいないと思っていたが、新橋|界隈《かいわい》で化かしっこをしている。
「金井君が、もっと、積極的に口説いてくれればいいのですが、あなたがやめたあとは、新車のカタログばかり眺めていてねえ」
「ぼくは、やめたのじゃありませんよ」
と言いながら、辰夫は立ち上った。
「|やめさせられたのです《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
コーヒーの礼を女の子に言って、部屋を出た。
急勾配《きゆうこうばい》の狭い階段を、ゆっくり下りた。二度と足を踏み入れることはあるまい。
一階におり立つと、営業部の青年が声をかけてきた。
「黒崎《くろさき》さんが、ぜひ、話したい、とお待ちになっています」
「おお……」
と、黒崎は途惑《とまど》ったような眼つきになった。自分の威厳を損なわずに、どんな風に対応したらいいか、見当がつかないらしい。
気がすすまない辰夫は、営業部の入口に立ったままだった。できれば、ここで挨拶《あいさつ》をして帰ってしまいたい。
「入ってくれんか」
黒崎は気不味《きまず》げに言い、青年に向って、「席を外してくれ」と声をかけた。青年は部屋の外へ出て行った。
「女の子が帰ってしまったので、お茶一杯だせない」
「けっこうです」
「仕事のほうはどうかね?」
股《また》を開く姿勢で椅子にかけた。
「まだ、なんとも……」
こわれかけた椅子に腰をおろしながら辰夫は答えた。
「日が経《た》っとらんからな」
黒崎はひとりごちた。
「きみと、一度、めしを食いたいと思っとる」
「お気持だけでけっこうです。お互いに暇じゃないのですから」
「そうかな……」
と、黒崎は首をかしげた。
「しかし、きみにやめて貰うように踏みきった直接の原因について……」
「金井君から、すっかりききました。もう、いいんです」
「金井君だと? なんと言うとった?」
黒崎は気色ばんだ。
辰夫は、割烹《かつぽう》料理屋で打ち明けられた経緯《いきさつ》を口にした。
「なんということだ!」
黒崎はテーブルを強く叩《たた》いた。
「話が、まるで、逆になっとる!」
憮然《ぶぜん》としたおももちになった。
すでに結果が出てしまった以上、辰夫には、もう、どうでもいいことに思えた。興味がなくはないが、彼の立場は変らないのだ。
「わしは、とんでもない誤解をしておったようだ……」
黒崎は唇《くちびる》を噛《か》んだ。
「そうか。そういうわけだったのか!」
「どうしたのです」
相手の態度が、あまりにも大時代なので、辰夫はききかえした。
「……つまり、だな」
黒崎は昂奮《こうふん》を抑えようとして、
「九月の終りだったと思うが……もう一冊、雑誌をつくってくれ、と、わしがきみに言うただろう?」
「ええ」
「きみは、あのとき、金井君に、なにか言うたか? あの件について?」
「待ってください」
急《せ》き立てられると、よけい、混乱してしまう。
「……あのあと、編集室に戻《もど》ったのです、たしか。金井君がきてました。そうだ、『黒猫《くろねこ》』の連載の件だった。……なんやかや、話していて、ぼくは、もう一冊つくるように言われた、と打ち明けたような気がします。前後の事情からみて、話した、と考えるのが、自然ですね」
「そうじゃろう。それで、話がつながる」
黒崎は声を低めた。
「二、三日して、わしのところにきて、金井君はこう言いつけた。『莫迦《ばか》らしくて、やれたものじゃない、と、前野さんは言ってました』とな」
「へえ」
呆《あき》れはしたものの、驚くほどではなかった。金井なら、そのくらいやるはずだ、と、不信感がしみついている辰夫は思った。
「わしは、かっとなった。それでも、十月の定例会議前までは我慢したのだ。あのとき、きみの態度が煮えきらないので、遂《つい》に、伝家の宝刀を抜く決意をした」
「それで、ぼくにも、わかりました。正直なところ、ぼくには、黒崎さんが、なぜ怒っていたのかわからなかったのです」
「うむ」
「城戸《きど》先生の語調に、〈とにかく、ここは黙って、言う通りにしてくれ〉というニュアンスがあったので、従ったのです。先生の病気は、要するに、心労でしょう」
「そうだ。文化社の経済問題が大きい」
「でなければ、ぼくは抵抗しましたよ。城戸先生だろうと、だれだろうと……」
辰夫は言いきった。
黒崎は大きく吐息をして、
「金井の奴《やつ》にしてやられた。わしが怒り出すように仕向けおった」
「ぼくが煮えきらなく見えたのは、真剣に考えていたからです。そう調子良く答えるわけにはいきません」
「もう、わかった。わしが短慮だった。城戸先生に話してしまったことも含めてな」
黒崎は咳払《せきばら》いをして、
「金井君は、ただでさえ社の内外に影響力の大きいきみに、二冊も編集されてはたまらない、という恐怖感を持ったのだろう。そうなったら、彼が編集部内でトップの座に就く機会は遠くなる」
「莫迦なことです」
「きみはそう言うが、わしの眼からみれば、いちがいには笑えない。金井君の行動のすべては、編集局長になるための布石だったのだ。いまは、わしに、〈編集局長〉の肩書をよこせ、と迫っている」
「肩書があっても、実力がともなわなければ、無意味でしょう」
「あの男は、割り切っとるよ。世の中に通用するのは、名刺に刷り込んである肩書だけだと」
黒崎は苦笑いした。
「世間を知っとるわけだ。彼は、ラジオ関係の会社を作って、失敗しとるだろ」
「ご存じでしたか」
「遠まわりして、耳に入ってくる。サイドビジネスで気を紛らそうとしたが、その道は閉ざされた。あとは、社内での出世しかない。……が、あの男の性格からして、きみをすぐに追い出すような工作を、おもてには出さなかった。『パズラー』が軌道に乗り、安定するのを待って、動き出している」
「そうですか……」
「計算の確かさに、わしも驚いたほどだ。――城戸先生にわしの怒りをぶちまけると、先生も、前野君への怒りを抑えたことがある、と、おっしゃる。しかも、二つある、と。どちらも、金井君が報告した――つまり、焚《た》きつけたものだった。わしは、内心、ひやっとしたよ」
「何ですか」
辰夫は狐につままれたようである。
「思い当らんか?」
「ぜんぜん」
「だろうな」
黒崎は溜息《ためいき》をついた。
「きみは不用心の|かたまり《ヽヽヽヽ》のような男だからな。……いつか、杉並《すぎなみ》だか世田谷《せたがや》だかの他人の家のドアを、手斧《ておの》でこわそうとした騒ぎがあっただろう」
「ああ……」
辰夫はかすかに笑った。
「ありました、ありました」
「笑いごとではない。あの騒ぎを、第三者がきいたら、きみを正気とは思わんぞ」
「洒落《しやれ》ですよ、あれは」
「城戸先生はそう思ってはいない。金井君が歪《ゆが》めて伝えたせいか、きみが一時的に精神錯乱したとみている。しかし、まあ、これは罪がないほうだ」
「まだ、なにか、あるのですか」
辰夫の声に翳《かげ》りが出た。
「あるどころではない。大問題だ。言い逃れのしようがないぞ」
「城戸先生を怒らせるようなことですか」
「そうだ。わしは、先生が、よく我慢しておられたと思うほどだ」
「覚えがありませんね」
辰夫の答えに、黒崎の眼《め》が笑った。
「きみは、よくよく軽率な男だなあ」
「そうでしょうか」
「そうだとも。世の中には、口に出していいことと悪いことがある」
黒崎の眼の色は、憐《あわ》れみに近かった。
「城戸先生に関して、きみが罵詈《ばり》雑言をならべたテープが、先生の家にある。あれは、まずい。とくに、戦争中に書いた小説は、先生がもっとも触れられたくない過去だ。あれを真正面から批判したのはまずいよ。やっと塞《ふさ》がった傷口に指を突っ込むようなものだ」
辰夫は黙していた。冷や汗が滲《にじ》み出る思いだった。
ゴム仮面の策略にひっかかって、彼は城戸草平を批判した。酔っていて記憶がない、と言い張っても、言いわけにはならない。
いや、おかしいぞ、と彼は気づいた。ビデオホールのスタジオでテープを録音しなおしたとき、戦時中の小説|云々《うんぬん》の部分はカットしたのだった。テープを、辰夫は二度きき直しているが、その部分は確かに無かった。
では、城戸草平の手元にあるテープは、いったい、なんだろうか?
「そうか!」
思わず、声に出した。
「そのテープが先生の家に送りつけられたのは、いつだったのですか」
「送りつけられたのではない。金井君が持っていったのだ」
辰夫は後頭部を一撃されたように感じた。あのとき、処分します、と断言していた元のテープを、金井は保存していたのだ。
「こみいった経緯は、わしにはわからん。……先生は、十月の初めと言うとった。金井君が『申しわけありません、前野さんの命令で、先生を裏切る形になりました』と詫《わ》びて、あのテープを届けにきたそうだ……」
去年の夏だったな、と辰夫は想《おも》った。ビデオホールのプロデューサーが首に手拭《てぬぐ》いを巻いていたのを覚えている。
あれいらい、いつか使うときがくるだろうと、テープを保存しておいた金井の執念に、辰夫は、病的なものを感じた。
「いまさら、黒崎さんに説明しても、仕方がないことです。ぼくなりの事情はあるのですが……」
「わしも、そう思った。テープの出てくるタイミングがうま過ぎたからな。……ただ、あの声は、まちがいなく、きみだった」
「ええ、それは……」
「先生は、きみを、狂気すれすれの男と言うとったよ」
今度は、辰夫が溜息をつく番だった。
「そう思われても仕方がないですね」
城戸草平あてに手紙を書こう、と思った。遅ればせながらではあるが、そうしなければ気がすまなかった。
「金井君の実体がわかってから、きみにすまぬことをしたと思うようになった。取り返しのつかぬことをしたと……」
「でも、いずれ、ぼくはやめてましたよ。組織の中にいられない人間ですから」
辰夫は弱々しく笑った。
「まあ、ききなさい。わしは、初めから、きみを色眼鏡で見ておった。そのために……」
「色眼鏡?」
「うむ」
「どういう意味ですか」
「これから先の話は、わしの被害|妄想《もうそう》と思ってもらってもよい。いや、そう思って欲しいのだ」
黒崎はホルダーに煙草《たばこ》をさして、
「文化社が全面的に城戸先生に|おんぶ《ヽヽヽ》の状態なのは、きみも知っての通りだ。先生は、なんとかして文化社を自立させたい――はっきりいえば、金銭的な縁を切りたいと、ずっと考えていた」
「知っています」
「しかし、そう簡単に切れるものでもない。うちの雑誌が売れに売れて、先生の援助を必要としない状態が起るのは、奇蹟《きせき》を待つに等しい。してみれば、残る方法はただ一つ――文化社を潰《つぶ》してしまうことだ」
辰夫は喉《のど》に渇きをおぼえた。黒崎は何を言おうとしているのか。
「城戸先生が、ずぶの素人《しろうと》のきみを拾い上げて、編集部に送り込んできたのは、文化社を混乱におとしいれるためではないか、と、わしは見ていた。わしだけではない。西君も半ばそんな見方をしていた」
「まさか……」
辰夫の頬《ほお》はこわばり、笑えなかった。
「先生の狙《ねら》い通り、文化社は混乱した。『パズラー』も売れなかった。あのまま赤字が続けば、文化社の倒産はすぐだっただろう。城戸先生は、何度も、わしに手をあげてしまうように示唆《しさ》しておられた」
黒崎は、ようやく、煙草に火をつけた。
「この先は、きみが、いちばん知っとるじゃろ。『パズラー』が、突然、売れ始めた。いわば、逆転ホームランだ。……城戸先生もびっくりされたと思う。文化社潰しが目的のつもりの鉄砲玉が、まるで、逆の働きをしたのじゃ。――意外な成功をみて、先生は変心された。『パズラー』が牽引車《けんいんしや》になり、文化社が立ち直れば、それもまた、よし、というお気持ではなかったかと思う」
辰夫は沈黙していた。真実かどうかは別として、きくべきところがあるようだった。
「……しかし、時間が経《た》つにつれて、『黒猫』の赤字をカバーするほどの大ヒットではないのがわかってきた。しかも、わしや西君は次の『予感』に賭《か》けていたのだ。『予感』はヒットする、と、わしは直感的に思っていた。他社に先駆けされなければ、あれは、絶対にヒットした……」
「どうでしょうか」
「あとで調べてみると、『予感』の企画は、ずいぶん早い段階で、外部に漏れている。城戸先生、わし、西君、きみ――この四人しか知らない段階でだ。ごく単純な消去法を用いれば、怪しいのは城戸先生ということになる。『予感』の発刊にともなう危険、赤字を避けるためには、他に方法がなかったのだ。なんとしてでも、止めようとして、潰す側にまわったのじゃろう」
「信じられませんね」
蒼《あお》ざめた辰夫は言った。
「わしだって信じたくはない」
黒崎は煙草の灰を床に落とした。
「あくまでも、仮説だよ。……しかし、ボスというものは大変なのだ。わしは、昨日も呼ばれて、全面的撤退の方法を相談された」
「撤退、ですか」
「先生は、今までに注《つ》ぎ込んだ金は諦《あきら》めるとおっしゃっている。全員に、わずかでも退職金を出せる方向で検討してみてくれ、というのだが、それでは、わしの立つ瀬がない。単行本を出すとかして、社業をつづけたい。先生には、抵抗する形になるが……」
黒崎は俯《うつむ》いた。頑丈《がんじよう》そうな身体《からだ》だが、疲労の色は隠せなかった。
今の話を少しでも信じるとすれば、辰夫の抱いている城戸草平の像を修整する必要があった。その必要があるかないか、いまの彼には、疑問だった。
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終章 1964秋
――Oh yes, wait a minute, Mr. Postman,
[#1字下げ]Wait, wait, Mr. Postman.
新幹線の化粧鏡に向って髪を整える川合|寅彦《とらひこ》は、「プリーズ・ミスター・ポストマン」を口ずさんでいる。ビートルズがカヴァーして、大ヒットしつつある曲だ。
小さな櫛《くし》をブレザーコートの内ポケットにおさめ、左手で髪をおさえてみる。無造作に見える髪型だが、明らさまな若作りにならぬよう、充分に計算されている。
二十代の終りにしか見えない、と、三十二歳の川合は、鏡の中の自分にウインクした。中年にさしかかる自分の姿など考えてもいなかった。しかし、体力は十年まえと殆《ほとん》ど変っていない、と心強く思う。
――……wait a minute, wait a minute. Oh yeah……
座席に戻《もど》ると、右手に日劇が見えてきた。もう、東京駅だ。
停止するときのショックは、まったく、なかった。気味が悪いほどだな、と思う。
小さなバッグをさげて、乗客たちのあとから降りる。
――川合さん!
一面識ある芸能週刊誌の記者が声をかけてきた。
「そのまま、そのまま。降りかける感じで撮らせてください」
カメラマンがシャッターを押すより早く、風が川合の髪を乱した。
ちきしょう! このために整えたのに!
「いかがでしたか、新幹線の感想は?」
記者が大声でたずねる。
「ビールを飲みながら景色を見ていたら、もう東京だ。信じられないよ。大阪から四時間か」
「これでも安全運転らしいですよ」
と記者は言った。
「いずれ、三時間になるようです」
「危険はないのかね」
人々の視線を意識しながら川合は髪をおさえた。
「そうなると、飛行機で行くよりも、時間的に確実かも知れないな」
「ところが、困ることもありましてねえ」
「ふーむ……」
「いままでは、取材で大阪へ行くと、少くとも、一泊はできたわけです。ところが、これからは、早朝|発《だ》ちの、日帰りってことになりそうで……」
「お気の毒さま」
川合は陽気そうに笑った。じっさい、気分が良かった。
「では、川合さんの初乗りの感想は、〈快適だった〉でしょうか」
「快適そのもの。また、乗るよ」
記者はカメラマンを見た。カメラマンは頷《うなず》いてみせた。
「写真のほうは終りました。もう少し、お話をうかがいたいのですけど……」
川合はホームの時計を見た。
「時間がないなあ」
「車の中ではいかがですか。お宅までお送りしますよ。たしか、新宿の方の高級マンションに越されたのでしたね」
「広いことは広いけど、高級かどうか。入居して二日目に、リヴィングルームの天井の一部が落ちてきた」
記者とカメラマンは笑い声をあげた。
川合はとまらなくなって、「客がきててさ。おれも客も真白になった。西洋のお化けだね」と、法螺《ほら》を吹き始めた。
「社の車がきています。車の中で、ゆっくり、うかがいます」
定評のある川合の話術をたのしみたい記者は、熱心に誘導する。
「それから、会話をつづけたら、口から白い粉が吹き出てとまらないの。寒い日に白い息が出るみたいにさ」
「まさか!」
記者は笑いながら、「お送りしましょう」と促した。
「じゃ、好意に甘えよう。ただし、家には帰らない。同じ新宿だけど、厚生年金会館に直行してもらう」
「次の仕事ですか」
「仕事といえば、仕事だな」
「今夜は、なにがあるのですか」
「ジャズ・ヴォーカルの夕べだ。芸術祭参加の……」
「川合さん、うたうのですか? まさか、司会だけってことはないでしょうし」
「観《み》る側だよ」
歩き出した川合は、さりげなく言った。
「いまさら、司会なんかやるものか」
「観るだけですか」
「こうみえても、芸術祭の大衆芸能部門の審査員だ。ほんとは、映画の方の審査をやりたいんだけど、ジャズとかダンスとか歌舞|音曲《おんぎよく》の方にまわされた」
「はあ……」
記者は呆気《あつけ》にとられた表情である。
物理的にも、金銭的にも引き合わぬ仕事を承諾したのは、川合の側に計算があるからだった。芸術祭の審査員をつとめたタレントなんてものは、前代|未聞《みもん》であろう。いずれ大きな話題になるにちがいない。
「こりゃ驚いた。その話をきかせてください」
記者はとびついてきた。
その催しは、ひどく退屈であった。
ジャズのスタンダードナンバーが専門の女性歌手は、声と表情の色っぽさが売り物なのだが、〈芸術祭参加〉のせいか、自分の特徴を抑えてしまい、といって、歌が特にうまいわけでもないので、結局は、虻蜂《あぶはち》取らずに終っている。
幕間《まくあい》に、廊下に出て一服した川合は、あと四十分、あの歌声につき合うのは辛《つら》いな、と思った。
審査員としての彼は、すでに、四つの催し物を観ていたが、人気映画女優のピアノ演奏やら水中レビューやらで、どうしてこれが芸術祭に結びつくのかと不審だった。参加することに意義があるのだろう、と呟《つぶや》いてはみるものの、納得できぬものが残った。
では、まったく、時間の無駄《むだ》かといえば、そんなことはなかった。
審査員を承諾したとたんに、輸入物の石鹸《せつけん》やら洋酒、皿小鉢《さらこばち》のたぐいが彼のマンションに届けられた。とくに可笑《おか》しかったのは、ロケ先のホテルに、高名な声楽家が煎餅《せんべい》の詰め合せセットを届けにきたことであった。賄賂《わいろ》にならぬよう、むりやり〈ささやかに〉なっているのが、川合にはたまらなく面白《おもしろ》く、そうした光景を眺《なが》めるだけでも、審査員になった甲斐《かい》があったと思うのだった。
あとで、妻にいわれて想《おも》い出したのだが、かつて、彼が、軽いナンセンス・ソングのレコードを出したさいに、そうした歌を吹き込むことじたい犯罪だ、と、音楽雑誌で批判したのが、あの声楽家なのだった。川合は困惑しながら詰め合せセットを受けとったのだが、先方にしてみれば、世の中、どうなっているのか、と、煮えくりかえる思いだったにちがいない。
「ごぶさたしてます」
音楽評論家が声をかけてきた。
この男が三十代後半で、他の審査員は、四十代、五十代、中には六十代もいた。
「アニマルズの『朝日のあたる家』が、プログラムの最後にあるのが、なんとも唐突だね」
評論家は苦笑した。
「今様の歌もやりますってところを見せたいのでしょう」
川合は皮肉な答えをかえした。
「『朝日のあたる家』ってのは、誤訳じゃないの」と評論家はつづける。「ニューオーリンズの娼家《しようか》の名前だろ、これは。旭日楼《きよくじつろう》とでも訳すべきじゃないかねえ」
「しかし、それじゃ、レコードのタイトルにはなりませんな」
川合は煙草《たばこ》を灰落しのふちで消し、投げ入れた。
そのとき、痩《や》せた、色の黒い青年が近づいてきて、どうも、と川合に言った。
すぐには想い出せなかった。想い出せぬまま、川合は軽く頭をさげた。
「お忘れでしょう」と青年は笑った。「以前、文化社におりました石黒です」
「おお……」
川合は無邪気に笑った。
「失礼した。しばらくだね」
「プログラムの隅《すみ》に、ぼくの名前があります。ひとつ、よろしくお願いします」
「なんだ、関係者なのか!」
川合は青年を見つめた。
石黒は顔をあからめて、「構成に名をつらねております」と、恥ずかしそうに言った。
「わかった、わかった。あとは言わないでくれ」
「なにも申しません」
石黒は妙にもじもじしていたが、思いきったように、つけ加えた。
「この夏は残念でしたねえ」
「あ、あれか」
川合の表情は微妙に変化した。
「おれが決めることじゃないからな。仕様がねえ」
六百枚の長篇《ちようへん》小説が単行本で出版されたあと、注文に応じて書いた五十枚弱の短篇が新人賞の候補になり、予想以上の騒ぎにまき込まれたのだった。
「川合さんがタレントじゃなかったら、受賞したのじゃないかって声がありましたよ」
「よく言われるよ、文芸雑誌の編集者に。新人作家として、テレビの画面で滑稽《こつけい》な真似《まね》するのは、ご損ですよ、って」
「そうでしょうね」
石黒は笑った。川合という男が、殆《ほとん》ど変化していないのが嬉《うれ》しかった。
「好意から言ってくれるんだろうけど、失礼な話だよな。滑稽な真似を|意識的にやること《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》と、小説を書くことと、どっちが上とか下とか言えるものじゃあるまい」
「川合さんは滑稽なことをやった開拓者だから、そう言えるんですよ」
「タレントであると同時に文学者で、どこが悪いんだ」
川合は調子に乗ってそう口走った。だが、長篇の評価を含めて、自分の文学的出発が不運なものであるのは否《いな》めなかった。
「おれのことは、いいよ。きみは元気でやってるのか」
石黒は名刺をさし出した。放送作家の養成所に通いながら、ラジオ番組の構成を試みているらしい。
「……文化社は、だいぶまえに、倒産したんだってな」
「倒産ていうのでしょうか」
石黒は口ごもって、
「まあ、そんなところですね」
「『黒猫《くろねこ》』って雑誌が、他の出版社から出る噂《うわさ》があるぞ」
「それは本当です。『黒猫』という誌名を欲しがる出版社が出てきたのです」
「そういうものかね。潰《つぶ》れた雑誌の名前なんて、不吉な気がするが……」
「ぼくも不思議なのです。でも、十八年つづいた誌名って、魅力を感じる向きがあるのですね。大変な金額で買いとられたのです。その金を、未払いの原稿料や社員の退職金に充《あ》てました」
「世の中は、いろいろだな」
川合は感心した。彼には理解できぬ世界だった。
「金井さんを覚えてますか……」
「ああ」
頷いてみせたが、川合は、どんな顔だったかは想い出せなかった。
「癖のある男だったな」
「誌名を売るについて、橋渡しをしたのは、あの人です。いろいろな出版社に、広く、浅く、知り合いがいるので、なにかと便利なのでしょうね」
「そりゃ、きみ、世渡りがうまいのだ」
「たしかに、そうです」
石黒は笑いを怺《こら》えた。
「譲渡の橋渡しをしたとき、『黒猫』が再刊されるさいに、自分を編集長にすることを第一条件にした人ですから」
「どういうこった、そりゃ?」
川合は腕組みをして、
「おれにはわからんね」
「ぼくにも、わかりませんよ」
「だって――相手は、かなり大きな出版社だろう?」
「ええ」
「有能な社員がいるはずだ。『黒猫』を潰しちまった男が、そこに入っていって、いきなり、編集長にしろってのは、厚かましいというか、むちゃくちゃだぜ」
「どうなりますか。ぼくも厚顔過ぎると思いますけど……」
「よく考えてみると、部下をポイして、自分だけ、より良い条件の方へ移ったってことじゃないか」
「よく考えなくたって、そうですよ」
石黒は白けた顔をした。
「ぼくらは呆《あき》れてるだけです」
「これからは、そのくらい厚かましくないと、やっていけないのかねえ」
「あの人だけは、高度成長してゆくでしょうね」
「そうかなあ」と、川合は首をひねった。「いわゆる高度成長の|ひずみ《ヽヽヽ》の体現者って気がするが……」
開幕のベルが鳴った。
「そろそろ、席につこう」
川合は歩きかけて、立ちどまった。
「きみ、知ってるかな」
「は?」
「前野|辰夫《たつお》、どうしてる……」
「前野さんですか」
石黒は怪訝《けげん》な顔つきになる。
「テレビの仕事をしているじゃないですか」
「それはわかっている。……あれっきり、顔を合せていないのだ」
「ぼくも、偶然、会うぐらいです」
「おれは、偶然にもなにも、まったく会わない。気になって、電話をしてみたが、ちがう男が出た。引っ越したのだな」
「結婚したのはご存じですか」
「えっ……」
「式は挙げなかったようです。半年もたたないうちに離婚した、と、ききました」
「なにを考えているんだ、あの男」
昼ごろに放送される、家庭の主婦向けの、十分か十五分の番組の構成をしていることは、わかっていた。そうした、はっきりいえば三流の仕事ばかり手がけているのは何故《なぜ》か、と彼は問いたいのだった。
同じ時刻に、辰夫もまた、ささやかな審査員の席にいた。
六本木に近い麻布飯倉片町《あざぶいいぐらかたまち》の小さなビルにある試写室でおこなわれているテレビCMの審査である。
なぜ、自分がここに呼ばれたのか、辰夫にはわからない。
まったくわからないわけではなかった。赤星プロの常務の推薦だと教えてくれた知人がいる。ずいぶんまえに――と辰夫は思っている――赤星プロ協力を拒否する形になった自分を、なぜ推したのか、彼には謎《なぞ》である。
暗い試写室の中で、彼はひざにのせた一覧リストに印をつけるのを諦《あきら》めた。一瞬にして消えるCMを、いちいち採点するなんて、不可能だ。
一局で、一日に約四百六十本のCMが送り出されるという。東京五局のCM放送の延べ時間は、全放送時間の十五パーセント以上だそうだ。いま、試写室の小さなスクリーンに映し出されるそれらは、今年度のCMのすべてではなく、篩《ふるい》にかけられたものであり、それだけに屑《くず》はない。屑がないというのは、審査員として、気が抜けないことでもある。
手渡される紙コップのコーヒーを飲む暇《いとま》もあらばこそ、彼はぐったりして、発作的・痙攣《けいれん》的な映像のシャワーに身を委《ゆだ》ねている。CMだけを、立て続けに観るのは、生れて初めてだが、最初の一時間で|げんなり《ヽヽヽヽ》した。思考力は失《う》せ、眼《め》がチカチカするだけであった。
だが、他の人はそうでもないようである。となりの席の漫画家は、いとも、まめに、リストをチェックしている。明りのつくボールペンを用意していることからも、意気込みのほどが感じられる。
辰夫は欠伸《あくび》をした。人間の生理的限界を心得ているらしい世話役が、「一休みしましょうか」と、審査員たちに声をかけて、明りをつけた。
中年の男たちは立ちあがり、溜息《ためいき》をついたり、うーん、と唸《うな》ったりした。
狭い試写室を出て、廊下の向うの部屋に入る。コーヒー、ジュースとサンドイッチが用意されていた。
「アルコールがございませんので……」
CM界の大御所と呼ばれる人物に向って、世話役が冗談めいた言い方をした。
「酒は絶っているから……」
大御所はにこりともせずに答える。薄いサングラスをかけ、左手は上着のポケットに入れたままで、なにを考えているのか、さっぱり、わからない。
「今年は、映画の大スターが、どっと、CMに進出しておりまして」
世話役の言葉に、大御所は、む、と、ふん、の間のような鼻音で答えた。態度がはっきりしないのが、大御所の大御所たるゆえんなのだろう。
大御所のほかには、劇作家と漫画家と小説家がいた。いずれも、売れっ子とはいえぬ人たちで、とくに、小説家は、十五年ほどまえには気鋭の純文学作家だった男で、親の財産で遊んでいると噂されている。
いってみれば、功成り名遂げた人と、盛りを過ぎた人と、働く必要のない人である。殆《ほとん》ど一日つぶしても、びくともしないのは、そのためであろう。
辰夫は、もちろん、そんな身分ではない。「遊ぶつもりできてください」と世話役は電話で言ったが、冗談ではない。その月暮しの彼は、生活費を稼《かせ》がねばならないのだ。
自分は場違いだな、と彼は思った。他の人たちと面識がないとか、世代が違う事情もあるが、そのためだけで居心地が悪いわけではない。高校、大学と、ずっと、自分は場違いで、居心地が悪いと感じてきた。社会人になってからは、感じ方が、もっと甚《はなは》だしい。
「どうですか」
と、世話役が、愛想よく話しかけてきた。
「眼が疲れますね」
辰夫は忌憚《きたん》のない感想を述べた。
「は、は」
相手はそつなく笑って、
「ご迷惑をおかけします。正直なところ、前野さんの世代の方に入っていただかないと、われわれ、困るので……」
と、大御所を眼で示した。
「あれは補聴器ですか?」
大御所の耳から細く白いものが垂れているのに、辰夫は気づいた。
「トランジスターのイヤホーンです。野球中継を聴いているのですよ」
世話役は大袈裟《おおげさ》に苦笑してみせる。
「ああいうお飾りの方もいてもらわんと、困るのです。しかし、審査員を若返らせるのが、この賞の課題でしてね」
ぼくは向いてませんよ、と、辰夫は心の中で答える。心底から、活字人間なのですから。
「これを機会に、よろしく」
相手は熱いコーヒーを紙コップに注ぎ、辰夫にすすめた。
「ぼくを推したのは、赤星プロですって?」
「まあ、それは……。まあまあ、ええでしょう」
都合よく、大阪弁になった。
「赤星プロは、ぼくを好かないんじゃないかな」
「えやないですか。あそこも、気持が大きくなったのとちがいますか。前野さんは、芸いうもんがわかってくれる、と、常務が言うてはりました」
「へえ……」
辰夫は不思議な気がした。
「この賞のパーティーは明後日ですから、そちらの方もよろしく……」
世話役は念を押した。
編集者のころから、辰夫はパーティーが好きではなかった。
文化社に入って、半年ほどは、野次馬気分も手伝って、集る名士、半名士などの生態を観察しては楽しんでいたのだが、それは彼が無名の人間だったからである。
辰夫自身が半名士になってから、パーティー出席は苦痛以外のなにものでもなかった。他人の〈毒のある冗談〉には間違いなく傷つけられたし、対抗するために、彼も〈毒のある冗談〉を口にしなければならなかった。
それでも、職業的必要から、どのパーティーにも、欠席するわけにはいかなかった。なるべく、ひとの眼につかない場所にいて、早めに引き揚げるようにした。テレビ出演を一日に三回つとめたとしても――当時はまだ生番組が多かったから時間はそうかからなかった――パーティーに、一時間、顔を出すよりは、はるかに疲れなかった。
辰夫にとって不思議なのは、ほんらい、一匹|狼《おおかみ》のはずの作家たちが、どうして、こうも群れ集いたがるのか、という一事だった。出版記念やら、なんとか記念のパーティーが、やたらにあった。もっとも、こうした傾向は、ここ数年のことで、以前は、きわめて、質素だったらしい。
――授賞式のあとのパーティー会場で、隅《すみ》の椅子《いす》にかけた辰夫は、そんなことを想《おも》い出していた。
日本CM賞のパーティーには、まず知った顔がないだろうというのが、重い尻《しり》をあげた理由の一つであった。顔見知りがいなければ、傷つけられることもないであろう。三十分も顔を出していれば、世話役への義理は果せる。
「どうも」
辰夫の横の椅子にすわった、髪をひたいに垂らした青年が挨拶《あいさつ》した。
人違いしたのだろうと思いながら、辰夫は礼を返した。
「いまひとつ盛り上りませんね」
と、青年が批評する。
何者だろう、と考えながら、辰夫は生返事をした。
公正な審査をした点で、彼は恥じるところがなかった。赤星プロ制作のCMも最終審査に残ったが、辰夫は点を入れなかった。赤星プロが自分を推したことと、採点は、別の問題だと考えた。大御所と辰夫が点を入れなかったために、赤星プロのCMは選に漏れたのである。
「前野さん……」
髪を垂らした青年が言った。皮膚が蒼黒《あおぐろ》く、頤《あご》が尖《とが》った、険のある顔立ちだ。人違いではなかったらしい。
「私をご記憶ありませんか」
辰夫は覚えていなかった。
「失礼ですが……」
「そうですか。あなたは忙しかったですからねえ」
忙し|かった《ヽヽヽ》、とは厭味《いやみ》な口吻《くちぶり》だった。
「いつごろ、お眼にかかったでしょうか?」
と、辰夫は、おそるおそる、たずねる。
「三年前――六一年の秋です。私は、絶対に忘れません」
「はあ……」
返事のしようがない。
席を離れようかと考えていると、相手は名刺を出した。一般にメンズ・マガジンと呼ばれる、若者向け雑誌の副編集長であった。
そのころ、談話でもとりにきたのだろうか、と、記憶の底を探る。が、この種の雑誌があいついで創刊されたのは、最近のことである。
「なにしろ、あの当時は、一日に十人ぐらい、人に会っていましたので」
「当然です。いちいち覚えてはいられないでしょう。のべつ電話が入って、雑誌を増刷する騒ぎをしてらっしゃいましたから」
「ああ、あのときですか」
「前野さん、どうしたのです?」
青年の眼に悪意があった。
「妙に元気がないじゃないですか。あなたは、もっと、大声で喋《しやべ》ったはずです」
「あの当時は、そうだったかも知れません」
「もっと大きな声を出しなさい。そんな、ぼそぼそした声は、あなたらしくない。私を叱《しか》った時のような声を出しなさい」
「叱った? あなたをですか?」
辰夫は驚いた。
「ええ」
「人間違えじゃないですか」
いくらなんでも、叱ったとなると、覚えていない方がおかしい。辰夫は記憶力に自信があるほうである。
「ぼくは前野さんに憧《あこが》れて、会いに行ったのです。『ボストン』という喫茶店でした」
間違いなさそうだ、と辰夫は思った。だが、この顔は想い出せない……。
「それまで勤めていた会社をやめて、ジャーナリズム関係に入りたいと思ったからです。私の話を十分ぐらいきいて、あなたは急に怒り出しました。私がアメリカの雑誌の名前を知らなかったのが|きっかけ《ヽヽヽヽ》です。いま考えれば、たしかに、恥ずかしいことでした……」
辰夫は息をのんでいた。
「きみは、マスコミに向かない、と、あなたは断言しました。叱られた、というのが実感です。ばっさり斬《き》られたような感じでした」
呆然《ぼうぜん》としながらも、辰夫は、気短かな自分が言いそうなことだ、と思った。いや、言っているにちがいなかった。舞い上っていた自分は、他人を傷つけ、しかも、きれいに忘れ去っていたのだ。
「ちょっと失礼……」
世話役が辰夫の肩に手をかけた。
「乾杯がありますから、中央のテーブルの方へ行ってください」
辰夫は立ち上った。過去のつけが、また一つ、まわってきた、と息苦しくなった。
料理がならんだテーブルに近づき、コップを手にしなければ、と思った。
そのとき、水割りのグラスがさし出された。「どうも」と言いながら顔をあげると、バンドマンのような派手な上着を着た男が笑っていた。
「あっ……」
思わず、彼は声を発した。赤星プロの常務であった。
「いつもお世話になっております」
男は恭々《うやうや》しく頭をさげてから囁《ささや》いた。
「見込みちがいしましたよ、先生を……」
「え?」
「苦労しなさったはずですがね、先生も。もう、少し、|おとな《ヽヽヽ》になったかと思ったら、相変らず、|坊ちゃん《ヽヽヽヽ》だ、と、社長が言ってました。先生がこの賞の審査員になることは、二度とないでしょうね」
辰夫は答えなかった。
「その点、鈴鹿《すずか》さんは物わかりがよかった。物わかりのいい人は、出世するんです」
と、相手は小声でつづけた。
「いつか、白井|直人《なおと》の主演で、芸能プロ諷刺《ふうし》のミュージカルをやるって企画がありましたな。あのときだって、|なんどりと《ヽヽヽヽヽ》話をつけました。鈴鹿さんは突っ張ったりはしなかった。芸能プロを諷刺した部分を削ってくれたものです」
魔日だな、今日は。
新宿|御苑《ぎよえん》に近い安いバーのカウンターに凭《もた》れながら、そう思った。こんな日は、早く終ってしまえばいい。
「浮かない顔ですね、前野さん」
「ゆううつそのもの」
「みたいですね」
頷《うなず》いた脚本家は、焼きうどんを注文した。この店のそれは、うどんのバター炒《いた》めのようなものである。
脚本家は、辰夫より四つ五つ下だが、映画産業の衰退にともなって、仕事がなくなっていた。映画化のあてのない脚本を書き、夜は酒浸りの日々がつづいている。
「元気を出してください。いつか、前野さんが言ってたような映画、実現させましょうよ」
「無理とわかってること、言いなさんな」
辰夫は苦笑した。アルコールのおかげで、脳髄がぼやけ始めている。
椅子がくるりとまわされて、見知らぬ顔が視界を塞《ふさ》いだ。髪の毛の前側が白くなっていた。
「前野辰夫さんですか」
「は……」
答えるのと同時に頬《ほお》を一撃された。
――やめなさい、松川さん!
別な男が割って入る。
「おれの小説を|ごみ《ヽヽ》みたいに扱いやがって!」
「なんだなんだ、てめえら」
脚本家が喧嘩《けんか》を買って出た。なにもわからぬうちに、辰夫は頤に二発|食《く》らい、スツールから転げ落ちた。
彼はそのまま、階段のほうへと這《は》った。血が口腔《こうこう》にひろがってくる。殴られた瞬間に、歯で切ったのだろう。
汚れた階段を這って登ろうとした。だれかが入ってきたのか、頭上のドアがあき、冷たい空気が流れ込んできた。
ヨーロッパに発《た》つ若い映画監督を、午前中に羽田まで見送った川合は、都心に向う高速道路を思いきり飛ばしていた。
明日も、こんな曇り空だろうか。東京オリンピックに積極的な関心は持っていないが、開会式の日だけは晴れたほうがいいように思う。
愛車のカルマン・ギア・クーペは快調であった。彼は、ふだんでも、むしゃくしゃすると、深夜の首都高速を当てもなく突っ走ることがある。
「事故を起したら、どうするつもり?」
助手席にいるファッション・モデルがそう言った。自分がオートバイを暴走させるのは平気なのだが、川合の車のスピードを怖がるのだ。
「事故?」
「新聞に出るわよ」
「だから、どうなんだ」
「川合さん、平気なの?」
妙に真剣な響きがあった。
「あの世へ行っちまえば、こわいもへったくれもねえだろ」
彼は冗談めかした。冗談めかさないと、話が危険な方向へ行きそうだった。
自分は自立した女だから、あなたに独占されようとは思わないし、あなたの愛情を独占しようとも思わない、と公言したにもかかわらず、女の態度は微妙に変化している。あなたのいいかげんさ、不真面目《ふまじめ》さが好きだ、といっていたので、若いに似ず、話のわかる女だと思っていたら、あなたは不誠実だ、などと、口走り出したのだ。
「死ななかった場合よ」
「半死半生か。それが、どうした?」
「新聞で叩《たた》かれるわよ」
「面白《おもしれ》え。PR費に換算すれば大変なものだ……」
「私の名前も、出るわ」
「おれといっしょじゃ、マイナスか」
「そういう問題じゃないのよ」
と、焦《じ》れったそうに言った。
言いたいことはわかっている、と川合は思った。最終的には、必ず、そこにくる。〈奥さんをどう思っているのか〉だ。この女も、外見の新しさにくらべて、中身は他の女と同じだった。
彼はラジオのスイッチを入れた。シルヴィー・ヴァルタンがうたう爽《さわ》やかな「アイドルを探せ」が流れ出た。
信濃町《しなのまち》駅の近くで、女をおろした彼は、四谷三丁目の交差点を左折した。
ヘリコプターの音がやかましい。明日の開会式に向けて、新聞社やテレビ局が撮影のリハーサルをしているのだろうが、一機や二機ではない。そういえば、このために、神宮外苑|界隈《かいわい》の家庭のテレビの映りが悪くなった、と新聞に出ていた。
問題だな、これは、と彼は思った。おれのマンションは番衆町だから、ヘリコプター公害が及ぶかも知れない。
左手の大きなスーパーマーケットの外に、〈オリンピックはテレビで見よう〉という立て看板が出ている。都内のあちこちで見かける看板であり、標語だった。
テレビでみろ、といっても、映らねえんじゃしようがねえ。
川合は嘲笑《ちようしよう》した。
四谷四丁目の交差点を突っ切った彼は、急に、車をとめた。左側にある新宿区役所特別出張所から出てきた男に見覚えがあったのだ。
「おい、おれだよ。……おい!」
大きな声を出したので、通行人がふりかえる。茶色のセーターにジーンズの男も、こちらを見た。
男は、あいまいに会釈《えしやく》した。妙によそよそしい態度だった。
川合は車を左折させて、
「どうしてるんだ」
と、男に話しかけた。
「この辺に住んでるのかい?」
「ここにとめちゃ、まずいよ」
辰夫はうろたえた。
「少しは、時間、あるんだろ」
と、川合は畳みかける。
「うん」
「おれの家も遠くはないけど……。どうする、喫茶店で話すか?」
「ここら、喫茶店がないんだ。あったとしても、まだ、あいてないだろう」
「御苑があいている」
川合は言った。新宿御苑の正門が目前にあった。
「そこなら駐車もできるし」
そう呟《つぶや》いて、川合は窓をしめ、車を、御苑入口に向って左手のスペースに入れた。
「学生の時に、一度きたかな。ふだん、縁のない所だ」
川合は可笑《おか》しそうに笑った。
「ぼくは入った記憶がないな」
と、辰夫は言った。当惑しながらも、友情とは強引で、どこか無神経なものだ、という言葉を想《おも》い出していた。
入口に〈菊〉という立て札が出ていた。馴《な》れぬ玉砂利がひどく歩きにくい。
「明日から関西へ行くつもりでね。郵便物を局止めにするとか、そういう手続きをしている」
と、辰夫は言った。
「関西に住むのか」
「いや、オリンピック疎開《そかい》だ。二十四日の閉会式のあとで帰ってくる」
二人はゆっくりと右手に続く道に入った。どこかにベンチがありそうだった。
「そんなにひどいのか、ここらは」
「気違い沙汰《ざた》だよ」
辰夫は嗤《わら》った。薄日がさしてきた。
「ぼくは小さなアパートにいるのだけど、〈オリンピックまでにネズミを殺しましょう〉と書いたドイツ製の殺鼠剤《さつそざい》が配られるんだ。……それから、新競技場付近の清掃に参加しろとか、国旗をかかげろとかさ。まるで戦時体制だぜ」
「日の丸の旗と玉と竿《さお》は、おれのマンションの事務所にも配られてきた」
と、川合が苦笑した。
「ぞっとしたね」
「開会式の予行演習の日なんて、朝からヘリコプターが頭上を旋回してて、自分の番組を観《み》られやしない。どうせ仕事にならないのなら、東京にいることもないと思ってね。関西か、もっと西の裏日本あたりを、ぶらぶらしてくる。日の丸の旗は区の出張所に返してきた」
「そりゃ過激だな」
「……いまの東京は、ぼくが育ってきた街とは、とうてい、思えないよ。外苑の芝生なんて、戦後二十年近く、手入れされたことがなかったのに、外人客に恥ずかしいからって、急に、お伽《とぎ》の国風の花壇を作ったんだぜ。そういう感覚が堪《たま》らないじゃないか」
「わかるよ。おれだって、東京の生れだもの」
川合はサルビアの花が真紅にかたまっている一角を指さした。周囲に、空色が剥《は》げたベンチが二つあり、一つがあいていた。
「よくわかるけどさ……」
となりのベンチで読書に耽《ふけ》る赤いセーターの娘に気をつかいながら、川合は言った。
「そういう発想だと、とかく、生き方が退嬰《たいえい》的になっていくんだな」
「覚悟の上さ」
「まあ、きけよ。反俗的というか、おたくの態度は、東京の下町生れの人間が落ち入り易《やす》い陥穽《かんせい》なんだ。それはそれで、立派だし、恰好《かつこう》もいいさ。世の流れに背中を向けるってやつだ」
川合は煙草《たばこ》をくわえた。
鳥の声がする。とくに、鴉《からす》が多かった。
「おれだって、決して、住み心地がいいと思っているわけじゃない。……ただ、これから、東京がどんな風に変ってゆくか、見届けてやろうと思ってるんだ。どんな醜悪なマンモス都市になるか」
鈍い砲声に似た響きが空気をふるわせた。外苑の新競技場の方角から大きな喚声がきこえてくる。
「逢《あ》いたかったんだけどね……」
川合の語調が低くなった。
「こんな狭い所にいて、意外に逢えないものだな」
「ぼくは誰《だれ》にも会いたくなかった」
と、辰夫は言った。
「おたくは、なぜ、テレビの仕事に固執しているんだ? おれは、それをききたかった」
「固執しているわけじゃないよ……」
辰夫の声は弱々しかった。
「|活字の世界から離れたかっただけだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。それだけのことさ」
頷く代りに、川合は大きく吐息をした。
「このあいだ、石黒君に偶然会って、いろいろ話をきいた。……まあ、たかがジャーナリズム、たかがマスコミじゃないか。貝みたいに閉じこもることはないと思うね」
辰夫は答えなかった。
「おれが知ってることは、表面的なことだ。おたくが私生活でどんな風に傷ついたか、なにも知らない。しかし、金井|某《なにがし》の世渡りのうまさや井田某が赤星プロのPR誌の編集長になったことが、なんだっていうのだ。ああいう手合いは、どんな世界にもいるぜ」
「ああ」
辰夫はかすかに笑った。
「たかが小悪党|風情《ふぜい》がなにをしようと構わないじゃないか。そいつらは、そいつらで生きてゆくだろう。ただな、奴らには|もの《ヽヽ》が創《つく》れないのだ」
鴉の啼《な》き声が激しくなる。都心にいるとは思えなかった。
「今年になって、急に、若い人を対象にした雑誌が出始めただろう。サブカルチュアとレジャーの雑誌・週刊誌だ。よく考えてみろよ。二、三年まえに、おたくがやりかけたことが、いまや、メジャーになりつつあるんだぜ。まだまだ、力が弱いが、いずれは、メジャーになる。おれには趨勢《すうせい》が読めるのだ。――まあ、これを言いたかったのさ、とりあえず」
川合は煙草を捨て、踏みにじった。そして、ベンチの背に凭《もた》れ、空を見た。
「おい……」
川合の声音《こわね》が変った。
「あれは何だ」
「え?」
「あれだよ」
あごで正面を示した。
辰夫は顔をあげた。神宮外苑の上空が茶っぽく染り、竜巻《たつまき》の前触れのようであった。
「砂塵《さじん》じゃないか」
と辰夫は言った。
「あんなの、初めて見たぜ」
川合は怪訝《けげん》そうである。
「どうして、あんな風になったんだ」
「わからない」
辰夫は答えた。砂埃《すなぼこり》か、スモッグか、それとも、別のなにかか。
「薄気味悪いな」
そう呟いて、川合は最後の一本をくわえ、深々と吸い込んだ。
「……あのころは、面白《おもしろ》かったな」
「え?……」
「いっしょに番組やってたころだよ。毎日がお祭りだった」
いつになく、川合は懐古的な口調になった。
「あのころ、おれは、もう、餓鬼がいたから、自分じゃ、青春が終ったと観念してたわけよ。……じっさいは、そうじゃなかった。青春前期が終って、後期に入っていただけだった。だから、|どっと《ヽヽヽ》盛り上ったんだな」
「青春後期か。そういわれると、思い当る」
「おれにとっては黄金時代だったね。〈時代と寝ていた〉って気分さ。燃焼し尽した。あんな風に全身が燃えることは、もう、ないと思うね。これからは、時代と、即《つ》かず離れず、適当に、お付き合いしていくしかないだろうな」
「燃焼し尽したのは、ぼくも同じだと思う。でも……」
辰夫は言葉を探した。
「きみとちがうのは、|あの時代《ヽヽヽヽ》という風に、過去形で語れないことだ。……青春が終ったことは間違いない。ただし、ぼくの場合は、輝かしい想い出にはなっていない」
「そうかねえ」
「輝かしい部分もある。しかし、足元に火がつくような慌《あわ》ただしさ、惨《みじ》めさの記憶が、背中合せになっている。それでも、|あの時代《ヽヽヽヽ》という風に楽しく語れるのならいいけど、ずっと、現在まで継続しているのだ。時間が|のっぺらぼう《ヽヽヽヽヽヽ》に続いている。たぶん、きみのような才能がなく、|どじな《ヽヽヽ》生き方をしてきたからだろう」
「おたくは気むずかし過ぎるんだ。他人に対してだけでなく、自分自身にも気むずかし過ぎる。もう少し、|適当に《ヽヽヽ》生きてなけりゃいかんよ」
「これでも、妥協を重ねている」
「おれは、つねに、次になにをやるかを考えて、終ったことには拘泥《こうでい》しないのだ。三つのうち、二つは失敗しているのだけど、世間は成功した部分しか見ないからね。過去など、どうでもいいんだ」
眼《め》を細めて、短くなった煙草を吸い終った川合は、吸いがらを靴《くつ》のあいだに落とした。
「ただ、|あの時代《ヽヽヽヽ》だけは別だ。つまり、おれが本気で愛して、没入した時代ってことだな。――ソ連の宇宙船が打ち上げられて、深夜喫茶で餓鬼どもが睡眠薬遊びをやって、コニー・フランシスの歌が鳴り響いていた時代。国民の所得倍増計画が実施されて、テレビの台数が爆発的に伸びつづけた時代。いってみりゃ、戦後の貧しさが一段落して、日本人が浮かれ出した時期だな。……歳《とし》をとったら、おれは、|あの時代のすべて《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》を、自伝に書き記してやる。タイトルも決ってるんだ。『抱きしめたい』。じっさい、おれは、あの熱っぽい時代のすべてを抱きしめたいのだよ」
憑《つ》かれたように語った川合は、急に白けた顔をした。熱狂的になった自分を後悔している、と辰夫はみた。
「こんな風に変貌《へんぼう》するまえの東京を書きとめるわけか」
「東京と、そこに生きた人々だな」
川合は頷《うなず》いた。
「ところで、気を悪くしないで聴いてもらいたいのだが……」
先刻から上空を旋回していたヘリコプター群の一機が、斜めに滑るように下降してきた。風が起り、枯葉が二人の頭上に降り注いだ。
辰夫は睨《にら》みつけるように立ち上った。新競技場側へまわろうとするヘリは、頭を押えつけるような響きとともに樹林すれすれの低空飛行で過ぎてゆき、さらに次のヘリが迫ってきた。
「おたくに向いていそうな仕事が……」
その声はヘリコプターの羽根が叩《たた》きつける強烈な音にかき消された。川合の蒼白《あおじろ》い顔が怒りに歪《ゆが》んだ。巨大なミキサーのような羽根が痙攣《けいれん》するように上昇してゆき、茶色く染った空めがけて去るのを辰夫は見つめていた。
本文中に引用した歌詞は、浜口庫之助作「有難や節」と青島幸男作「無責任一代男」によるものです。
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あとがき
この長篇小説の最初の構想がぼくのノートに記されたのは一九六五年十月だった。
具体的に着手したのは七一年で、中篇の形で、いちおう書き終えたものの、文芸誌のためということもあって、〈私小説〉的になり、気に入らなかった。ぼくは〈私小説〉に向かぬタイプであり、しかも、長篇型である。そういう作家が、短くて、しかも、私小説ないしは準私小説的作品を書く――これは当時の日本の〈純文学〉世界の〈制度〉であったが――それじたいが無理なのであった。中篇では、主人公と友人(「夢の砦《とりで》」の川合に相当する人物)が、小雨《こさめ》のなか、高層ビルが林立する以前の新宿西口の浄水場|跡《あと》を彷徨《ほうこう》するところで終っていた。
週刊誌から連載のはなしがあったとき、先方の依頼はもっと軽い読物風のものだったが、ぼくはこの作品の構想に固執し、幸い、容《い》れてもらうことができた。「平凡パンチ」一九八一年一月五日・十二日合併号から八二年十二月二十七日号にかけての連載のまえに、ぼくは作者の言葉として、
[#この行1字下げ]〈大ざっぱな言い方をすれば、これは、漱石《そうせき》の『坊っちゃん』の六一年度版である。時代が時代だから、『坊っちゃん』のようにカラッとできあがるかどうかはわからないが……〉
云々《うんぬん》と記している。
やがて、書きつづけるうちに、小説のヘソともいうべき自分の過去へのこだわり・怨《うら》みからだけではなく、六〇年代初期の〈空間感覚〉を|丸ごと捉えたい《ヽヽヽヽヽヽヽ》気持が強くなり、小説が予想より(非常識なまでに)ふくらみ始めた。ぼくの|もう一人の分身《ヽヽヽヽヽヽヽ》である川合|寅彦《とらひこ》が登場したあたりで、物語が六一、二年にまたがり、六四年に終ることも視《み》えてきた。
千六百枚に達した物語は、単行本化に際して、かなり書き改められた。ことに、後半の、週刊誌では書けなかった芸能プロダクション関係の部分が大幅に書き加えられている。
なお、当時のままだと理解しがたい幾つかの表記は現在のものにした。(例・カブリック→キューブリック)しかし、ウインゾル・チェア(今はウインザー・チェアというのだろうか)のように、時代の雰囲気《ふんいき》が出ているために、そのままにしたものもある。
[#地付き](一九八三年九月)
この作品は昭和五十八年十月新潮社より刊行され、平成二年六月新潮文庫版が上・下二巻本として刊行された。