ねこのめ3 六分儀の未来
著者 小林めぐみ/イラスト 加藤洋之&後藤啓介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)六分儀《ろくぶんぎ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|φ《ファイ》ベクトル
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)これ[#「これ」に傍点]は目覚めない
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目次
第四章 六分儀《ろくぶんぎ》の未来
続 ベクトルの彼方《かなた》で待ってて
あとがき
[#ここで字下げ終わり]
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第四章 六分儀《ろくぶんぎ》の未来
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ACT.1
自分で言うのもなんだが、俺《おれ》は優秀な子供だった。記憶力《きおくりょく》は抜群《ばつぐん》、計算にも長《た》けている。大学生が読むような本も、既《すで》に平気のへの字で読んでいたものだ。学力優秀、スポーツ万能、おまけに顔もいいときている。これでは他の子供に妬《ねた》まれるのも無理はない話だった。
なるほど、思い出してみれば、色々といやがらせを受けたものだ。しかし、この俺にとってみればそんないやがらせ、単なる子供だましでしかない。いつだって相手の行動は見切っていたが、なにせ必死になって攻撃《こうげき》してくるのである。まるで『子供』のような振舞《ふるま》いに、哀《あわ》れに感じてつきあってやったこともあったが、所詮《しょせん》、俺の敵ではないのだ。ばかばかしくなって見放すと、奴《やつ》らは駆《か》け込《こ》み寺《でら》のように院長のところへ訴《うった》えにいく。俺がしかけたわけでもないし、いやがらせにつきあってやる義務も、こちらにはとんとないのだ。筋《すじ》違《ちが》いもいいところである。本当に無知な『子供』のやり方だ。彼ら[#「彼ら」に傍点]は俺に言う。
アスラン。あなたは傲慢《ごうまん》すぎます。自分が常に優位であるという意識は捨てなさい。人間というものはそれほど立派にはなれないし、また立派でもないのです。
ばかばかしい。本末転倒《ほんまつてんとう》にもなりゃしない。俺はそう思った。相手が劣等感《れっとうかん》を自分に持てば、相対的《そうたいてき》にこっちが優性になる。そんなのは向こうの勝手だ。俺に責任はない。それを口にすると、それが傲慢だというのです、とむちゃくちゃなことを言った。どちらが真実をついているのか示すために、俺は彼ら[#「彼ら」に傍点]の言葉に従うことにした。従ったらどうなるのか、見せてやろうではないか。
というわけで、俺はいやがらせをした奴らに報復にいった。俺が考えるに、報復とは相手が対等な存在であって、初めて成立するものだ。優位に立つ人間は報復など考えまい。そうやって、せっかくこちらから対等であると示してやったのに、結局奴らは『寺』に駆け込み同じことを繰《く》り返した。どちらにせよ、クレームがついたので、俺はやっぱりできた[#「できた」に傍点]子供でいることにした。彼ら[#「彼ら」に傍点]は根本にあることを見ようとしない。枝葉末節にこだわって、騒《さわ》いで、ごまかしている。そこが自分たちには理解できないところだから。理詰《りづ》めに納得《なっとく》するには困難なところだから。
彼ら[#「彼ら」に傍点]が言いたかったのは、もっとかわいげのある子供になれ、だった。素直で慎《つつ》ましい子供になれとは言わないだろう。ただ、大人《おとな》受けのする、『子供』らしい子供でいろ、それは即《すなわ》ち世間のことなんかなにも知らないバカでいろ、ということだった。
だが、子供というものは大人たちが信じているほどバカではない。
大人は子供時代、自分がどれだけ頭が良かったのかを忘れている。そっちの方がよっぽどバカだ。
彼らは理解できない。
質の悪い平等精神も同情も憐憫《れんびん》も、くそくらえだ。
俺はその時、すでに十二|歳《さい》を回っていた。最年長だった。
(きみはきみのあるがままでいるがいい)
(そう言ってくれる人を待っていたんだね。私が来たよ)
(来たよ……)
…………
(目が覚めると、そこに)
(そこに、薄《うす》い、薄い、透《す》き通る陶器《とうき》の肌《はだ》を持った)
(漆黒《しっこく》の髪《かみ》をなびかせた女神がいて)
(彼女はこれ[#「これ」に傍点]のことを、――と呼んで……)
耳の中に誰《だれ》かの声が残っている。タスケテ。オネガイ、ウラギラナイデ。ウラギラナイデ。
あれは誰《だれ》の声だろう。よく聞き知った声色《こわいろ》。まるで自分のもののように、毎日聞いていた、親しみのある調子。
目が覚めると、そこに、一つの顔があった。
あれは俺の顔だ。
俺の顔が心配そうに俺を見ている。大丈夫《だいじょうぶ》、どこも痛くない、どこもおかしくない。
「ジゼル」
俺が口を開く。とても優しい表情。俺はこんな顔も作れたのか。現実的でニヒリストだった子供の面影《おもかげ》は、どこにも見あたりはしない。
「聞こえているか、ジゼル」
(ウラギラナイデ……)
「……ひどい」
喉《のど》が乾《かわ》いていた。無意識に出た声は、小さく掠《かす》れている。
「ひどい。待っていたのに。絶対来てくれると思っていたのに。信じていたのに」
腕《うで》が伸《の》びて、この身体《からだ》を抱《だ》き上げる。どうしたことか、全身の力が抜《ぬ》けていて、俺は俺の腕の中でどうにも動けなかった。
「来てくれなかった。消されたじゃないか」
「おい、俺が見えてるか、ジゼル」
ジゼル。それはなんの言葉だろう。ぼんやり考える。俺はどうしたというのだろう、どうしてこんなに倦怠感《けんたいかん》がある。ここはどこだ。こいつは俺だ。俺が二人いるわけない。では、俺は誰だ。俺は、俺の名はアスラン――アスラ?
「ア……アスラ?」
こちらをすごく優しい目で見つめ、抱きしめてくれるのはアスラ。じゃあ、自分は誰だ?
誰だ?
刹那《せつな》、過去が一転する。アスラでないのにアスラの過去を持っているわけがない。自分の過去を持たなければ。自分の過去を。
「これ[#「これ」に傍点]は、誰?」
自分でもたどたどしく呟《つぶや》く。アスラが一瞬《いっしゅん》、険《けわ》しい表情を作った。
世界が歪《ゆが》んで見える。いや、これが正しいのだ。自分の過去と現実が符合《ふごう》してくる一瞬《いっしゅん》。液体の屈折《くっせつ》によるゆらめきのない景色《けしき》。直交座標の世界。
では、自分は外にいるのか。
外に?
「これ[#「これ」に傍点]は……なんなの? どうして、ここにいるの。死んじゃう。こんなところにいたら、死んじゃう……」
こんな乾いたところにいたら、死んじゃう。早く戻《もど》らなくては。あの、心地《ここち》よい、水の中へ。みんながいる、あそこへ。
「ジゼル!」
アスラが怒鳴《どな》った。
「よく聞けっ、お前はジゼルだ! ここにいても死にはしない、戻る必要はないんだ!」
嘘《うそ》だ。自分がよく知っている。これ[#「これ」に傍点]は目覚めない。目覚めてはいけないモノ。みんな知っている。一緒《いっしょ》に眠《ねむ》っているみんな、眠りの中でそれを知っている。それがどうして分からないんだろうね、アスラは。
「帰る。みんなが、呼んでる。帰らなくちゃ……」
「ちきしょー、理研の野郎どもめっ。ますますボケてきたじゃないか。だから俺は反対だったんだ、なつめにやらせればよかった」
……え?
なつめ?
(なつめが待っている)
「なつめのとこに帰るっ!」
ジゼルはアスラの腕の中で飛び起きた。頭にかかった靄《もや》が一気に払拭《ふっしょく》され、完全に覚醒《かくせい》する。起きた。起きたぞ。
なんだか頭がガンガンするや。すごく大切なことを考えていたような気がするけれど、靄とともに霧散《むさん》してしまった感じ。まあ、そんなことは後だ。ジゼルはどうなったんだ? それで、今はどうなっているんだ?
自分の置かれた立場を理解しよう。まず、ここはどこだ。
周囲に目をやる。ジゼル自身はアスラに抱《かか》えられている。広い部屋《へや》。木目調《もくめちょう》の壁《かべ》、その一面を使った大きな窓。観用植物にデスク、応接用ソファとテーブル、モニター、壁|飾《かざ》り……あれ? ここ、見覚えがあるぞ。そうだ、本社の一室、アスラの公室だ。
大きく張り出した窓から見える街《まち》の光景は、よく見知った惑星《わくせい》エルシ、ネオトキオシティの街|並《な》みだった。都市法で一定の高さまでしかない、平たい建物が地平線まで続く。紺碧《こんぺき》の海が都市を縁《ふち》どっているのが見えた。間違《まちが》いない、本社の建物の中だ。
なんでこんなところにいるんだ? こんなところにいるはずはないのだけれど。少なくとも記憶《きおく》と連続している事象《じしょう》ではないと思うな。
頭の中が忙《せわ》しく動いて記憶を引っ張りだす。確か、自分はフェルドワント・コルソの、ロボットしか存在しない都市にいたはず。マザーコンピューターとかいうのに捕《つか》まって、危険|因子《いんし》だとかなんとかで更正《こうせい》、記憶を消去させられて……
あれ?
矛盾《むじゅん》に気づいて、ジゼルは呆然《ぼうぜん》とした。
くっきりはっきり、すみずみまで覚えている。
記憶が消えてない!
「ようやくはっきりしたようだな」
アスラが呆《あき》れながら、ほっとした口調《くちょう》で言った。
「ア、アスラ……」
事態を糾明《きゅうめい》しようと口を開くが、舌がもつれてうまくいかない。
なぜ、自分はこんなところにいるのだろう。どうやって助かったのだろうか、あの星は一体。ジゼルは消されたはずでは。
消されたはずでは。
(ウラギラナイデ……)
「まあ、落ちつけ。なんか飲《の》むか?」
落ちついてなんかいられなかったけれど、言われて初めて、喉《のど》が焼けつくようにひりひりしているのに気がついた。慌《あわ》てて頷《うなず》くと、アスラはジゼルをデスクに下ろして、さっきまで寝床《ねどこ》にしていた籠《かご》の中を探る。その間に、ジゼルは再び窓の向こうに視線をやった。
エルシは相変わらず静かで平和だった。空は青く澄《す》み渡り、緑は映え、海洋の綺羅《きら》めきが眩《まぶ》しい。色彩《しきさい》は鮮《あざ》やかで、トリカンサスの灰色《はいいろ》で薄汚《うすよご》れた景色に比べると、まるで夢《ゆめ》のようだ。
なにもかもがキチンと収まり、絵のようで現実感がない。
夢のよう?
夢だったのは、実は向こうの方ではないか? トリカンサスでのことはすべて夢が見せた幻想《げんそう》で、ジゼルはずっとエルシにいて、一歩も外に出ていない、フェルドワント・コルソはおろか、カヌーア星にさえ行ってはいなかった。そうではなかったか?
「ほら」
考え込んでいたジゼルの前に、ミルクの皿《さら》が差し出される。渇《かわ》きが現実の痛みとして感じられ、ジゼルは飛びついた。いやしいなあ、とアスラは笑った。
アスラ。
なんだか、ひどく近くに感じられる。さっきの感覚はなんだったのだろう。詳《くわ》しいことは覚えていないけど、まるでジゼルがアスラに同化したような、不思議な感覚だった。夢の中で、ジゼルはアスラになっていた気がする。どんな夢だったっけ? なんか、作文を朗読《ろうどく》しているヘンな夢だったような、そうじゃなかったような。
それにしても、身体に力が入らない。まるで無重力に慣れきったあとみたいだ。アスラがぽんと、ジゼルの背中に手を乗せた。そして、ゆっくりと言うには、
「まあ、お前も今回は大変だったな。ちゃんと元通りだろう? 違和感《いわかん》はないな」
「え?」
それはどういう意味――聞き返そうとしたところへ、扉《とびら》がノックされた。
「入っていいよ」
「失礼します」
顔を出したのは、ジゼルもよく見知っている第三秘書のサクライさんだった。彼女はジゼルを一瞥《いちべつ》し、そしてアスラに向き直って苦笑すると、
「会長代理、お客人《きゃくじん》があなたに会わせろと、喚《わめ》いて聞かないのですが」
「なんだ、堪《こら》え性《しょう》のない男だな。いいよ、連れてきて。ありがとう、ソフィア」
サクライさんはどこかしら皮肉めいた微笑《びしょう》を浮《う》かべ、一礼して扉を閉めた。サクライさんはおとーさんの秘書なんだけれど、こうやってアスラの秘書役もやっている。二十三歳の若造《わかぞう》には秘書どころか、肩書《かたがき》さえあったものではない。けれど、実務は会長・社長代理なわけで、必然的に秘書さんたちがわらわら、ここに集まってきてしまうのである。おとーさんおかーさんの秘書、総勢二十八名の大半は、秘書というよりもアスラの養育係のような気がしてならない。実際、二人の側にいつも控《ひか》えているのは、第一、第二、第六、十七、二十八の五人ぐらいだけだと思う。
……サクライさんは美人だ。アスラとは八歳|違《ちが》う。
(あの時も彼女はいた)
(扉の向こうに)
あれは運命の扉だった。そうだった。
「アスラ、あの時……」
「ジゼル、その話は後だ。詳《くわ》しいことは後で説明するから、こっちを片付けてしまおう」
「こっち?」
なんだか話のズレを感じるぞ。その話、ってどの話か分かってるのかしら。
ジゼルが聞きたいのは、あの時。なつめと一緒《いっしょ》に逃《に》げていた時、だ。いつだったのか、具体的な日付は思い出せないけれど。
扉の向こうにアスラがいた。そして、サクライさんもいた。
(ここは、あの扉の中だ)
(それがキーだ)
「こちらへどうぞ」
サクライさんの導きで、部屋に落ちつかない様子で入ってきたのは、なんと、カイ、カイニス・オーセンではないか。
息が詰《つ》まる。
(夢じゃあない!)
きょろきょろと忙《いそが》しく視線を動かして、カイの青空色の瞳《ひとみ》がジゼルを捉《とら》えると、彼は子供みたいに目を輝《かがや》かせた。
「ジゼル! お前、無事だったんだなーっ、よかったよかった!」
と言いながら、駆《か》け寄ってくる。ジゼルは唖然《あぜん》としながら前と同じセリフを言った。
「カイ? どうしてここへ」
「|E《イー》・|R《アール》・|F《エフ》コーポレーションの奴《やつ》らに助けられたんだよ、俺も。いやあ、無事でなにより」
カイは相変わらず元気な様子である。相変わらず。では、やっぱり夢でも幻想《げんそう》でもなかったのだ。フェルドワントのロボット世界は現存する。あのいかれた街でのできごと。エリノア。マザー・ハレルヤ。洗脳。
洗脳。そう。ジゼルは洗脳されて、一切の記憶《きおく》を消されたはずだった。
今、こうしてなにもかもを覚えているということは、あれは嘘《うそ》だったのかしら。それとも、ジゼルが気を失って、間一髪《かんいっぱつ》で助けが来たとか。
ジゼルは身震《みぶる》いした。
あの消滅《しょうめつ》感。確かに、なにかが消えた感触《かんしょく》。真っ白になった感覚。自我が流されていくうねりを見た。
あれは、確かにそうだった。幻覚じゃあない! こうして覚えている!
(それこそ矛盾《むじゅん》だ)
(消えたのなら覚えているはずがないじゃないか)
(なんてばかなんだ、なんて愚《おろ》かなんだろう)
でも。
(オネガイ……)
「カイ……カイニス・オーセン、ね」
アスラの声に、はっとなる。彼は窓の側に立って、にやにやと笑いながら、カイを興味津々《きょうみしんしん》のていで見ていた。こういう時、こいつはろくでもないことを考えているのだ。カイはジゼルの友達だぞ、変なこと考えるなよ――とカイの方を見れば、なんかそっちもそっちで剣呑《けんのん》な目付きでアスラを見返している。なんだ、こいつら。
「……俺はあんたのこと、知っているぞ」
低い声で、カイは言う。
「一昨年の夏、デテールに短期留学に来ていたよな。声をかけてみたかったんだが、成功しなかった」
「君のとりまきが許さなかったからね。こっちはそれどころじゃあない、ひと夏で世界史をひと通り学ばなければならなかったんだから」
一昨年? アスラが留学した、デテール大学へ。そういえば、そんなこともあったような気がする。二人は知り合いだったのかしら。
「あんたは人を集めては話をして、いろんな『芸』を見せていた。俺も『芸』が見たかったが、本当の興味はあんた自身にあったのさ」
「俺も君には大いなる興味がある、カイニス・オーセン。現銀河|連邦《れんぽう》大統領ジェイ・オーセンの長男にして次期大統領|候補《こうほ》として」
「えっ!?」
ジゼルは思わず声を上げた。
連邦大統領の息子《むすこ》だって!? そんな話、聞いてない。
「本当なの、アスラ。本当、カイ」
ジゼルの問いに、カイは照れくさそうに頭をかいた。その態度がはっきり言っている、本当だと。あまりのことにジゼル、呆然《ぼうぜん》とする。
「妹のデイニは、ボーヴォールから帰ってきて気づいたそうだ。E・R・Fのアスラ、あいつは実物に会ったことないもんな。あんたは一目で判《わか》ったはずだ、俺たち似ているし、知らないはずがない」
「ああ。こんなところでなにしているのかと思ったよ。君達も面倒《めんどう》に巻き込まれたもんだ」
「面倒なんかじゃないさ」
むっとしてカイは応《こた》える。
「面倒なんかじゃない。俺は頼《たの》まれたからやってるんじゃないんだ、自分から首を突《つ》っ込《こ》んだんだ。面倒なものか」
連邦大統領の息子。それでか。カヌーア星に楽に忍《しの》び込めたのも、フェルドワントでみんなが親切に接してくれたのも。アド・シースさんがカイには気をつけろと言ったのも、それが理由だったのだ。
宇宙連邦。宇宙に散らばっていった人類を、総合的に統轄《とうかつ》する機関。現存する星系の内、五百四十八の星系がここに加盟《かめい》している。残りの百十三の星系は、文明が衰退《すいたい》して銀河世界を拒否《きょひ》して脱退《だったい》したか、連邦に所属するほど星の社会体制が成立していないか、どちらかである。支配機関ではなく主体は個別の国家にあり、あくまでも統轄機関であるが、その権限はかなり大きい。
連邦。惑星《わくせい》ミレを中心とする、総合機関。ここでさまざまな統一法が出される。サイバネティックス規制法も、人工知能法もライフサイエンス法も。
連邦。その官僚《かんりょう》のほとんどが、ミレにあるデテール大学の卒業生である。彼らもまた、どんなにあがいても時代の新潮には逆らえず、どんどん閉鎖的《へいさてき》になっていく。そして、自閉症《じへいしょう》に現れる症状のトップに立つのは、公的地位の世襲化《せしゅうか》だ。
いつからか、連邦大統領は世襲化していた。無論、血筋は長く続かず、何代かに一度は家系が変わるけれど。親から子へ、子から孫へ。選ばれた人間ではなく、生まれついた人間がその地位を占《し》める。
今の大統領の家系は四代目だ。結構長く続いた方である。
そして、五代目にあたるのが、このカイニス・オーセン。なんてことだ、なんてこと。
どうして、大統領の名前ぐらい思い出せなかったのだろう。これは記憶《きおく》喪失《そうしつ》とかいう問題じゃなくて、単なるド忘れだ。それとも知らなかったっけ? むむ、どっちにしろ、勉強不足か。
待てよ。じゃあ、アスラとカイ、二人が向き合っているこの状態って、次期二大|巨頭《きょとう》の対面ということじゃあない!? うひゃあっ、やばいんじゃないかしら、ここでドンパチなんてごめんだぞ、ジゼルは。
「ね、ねえ、立ち話もなんだから、座りなよカイ。ほら、アスラも」
思わず中間管理職と化してしまうジゼルであった。ひーんっ、こういうプレッシャーのある場面は苦手《にがて》なんだよー。
カイは促《うなが》されるままソファに座って、こちらをしばらく見ていたけれど、
「……なんだ、本当にE・R・Fのだったんだ」
「え?」
「いや、こいつらがうちの猫ですって言い張るからさ。ジゼル、その、特殊《とくしゅ》だろ、構造が。ああ、デイニからも少し聞いていたから。こいつらが騙《だま》くらかして、ジゼルを解体しようとしているのかと疑ってたんだ。なんだ、そうか」
どっと緊張《きんちょう》が解けたらしく、カイは手足を投げ出した。
「いやあ、それならいいんだ。そうか、そーか。そうだっ」
いきなり声を上げるカイ。ソファから立ち上がり、パンと手を叩《たた》いて謝《あやま》るには、
「すまんっ、ジゼル、黙《だま》ってて。悪気《わるぎ》はなかったんだけどさ。あいつを捜《さが》すにはこの肩書、結構|邪魔《じゃま》なんだよ。デイニと打ち合わせて内緒《ないしょ》に行動してたんだ。別にジゼルを信じてなかったわけじゃないんだぜ。な、な、ジゼルなら解《わか》ってくれるだろ? でも、やっぱりごめーんっ。すまんっ」
「べ、別に気にしてないよ」
こっちがぎょっとなるほど必死になって言う。カイたちの気持ちは解らないでもない。
なんてったって、ジゼルだってE・R・Fの、とは言わなかったもの。お互《たが》いさまだ。それに、肩書なんてわざわざ触《ふ》れ回るものでもないじゃないか――と呆《あき》れながら、でも、ものごとに対するそういう姿勢はカイらしいと思った。友達、それだけで危険の中に突《つ》っ込《こ》んできた彼らしい、と。
ジゼルの言葉を聞くと、カイはぱっと顔を上げた。満面《まんめん》の笑顔を向けて、
「そっかーっ。いや、ありがたい。ずっと気になってたんだな、よかった。デイニも気にしてたんだ。あいつも許してくれよ」
「もちろん。あ……じゃあ、ジゼルのことも許してくれる、エルシの出身だってこと言わなくて」
「いいって、いいって。第一、俺、ジゼルがどこの出身かなんて聞いてないじゃんか。でも、そっかあ、E・R・Fの猫《ねこ》だったとはね。どうりでカヌーアなんかにいるわけだ」
[#挿絵(img/sextant_024.jpg)入る]
「うちの妹の猫だよ」
アスラがジゼルを抱《だ》き上げ、そして向かいのソファに座った。カイは驚《おどろ》いた様子で、
「妹がいたのか?」
「ああ」
「黒髪《くろかみ》の?」
「ああ」
「じゃあ、【申《もう》し子《ご》】なのか?」
「多分、な」
ジゼルはきょとんとした。どうやらなつめの話をしているらしい。彼女は外の世界ではほとんどその存在を知られていない。公《おおやけ》の場所にも出てこないし、彼女自身、人間にはあまり会いたくないと言っているのだから。それはいいとして、申し子、だって? 黒髪だと? なんだろう、それは。
「うへえ」
奇妙《きみょう》な声を上げて、カイはソファに気抜《さぬ》けしたように座った。そして、感情の起伏《きふく》をよく表す顔に、にがーいコーヒーでも飲《の》んだような表情を作って、
「本当かよお。俺は、俺の代のE・R・Fの当主があんただって知って、ほっとしてたんだぜ。申し子とタイマン張れるほど、俺は楽天家じゃないぞ」
「カイ、その、申し子ってだ――」
ジゼルは続きを言うことができなかった。なぜなら、この口がアスラの手で覆《おお》われてしまったから。さりげない動作だけれど、喋《しゃべ》るな、そう指示しているのは明らかだ。どうして、なつめのことなのに。様子からいって、アスラもそのことは知っているみたい。あとでこいつに聞けばいいだけのことか。
でも。
(ウラギラナイデ)
「失礼します」
ノックとともにサクライさんが入ってきた。カイが何者なのか、サクライさんはもう知っているのだろう。いや、彼女どころか本社にいる社員さん全員が知っているに違《ちが》いない。彼女の手には冷たい飲物《のみもの》の入ったグラスの盆《ぼん》があった。それをテーブルに置くと、
「ごゆっくり」
そう言って出ていく。それを見送ったカイ、憮然《ぶぜん》と、
「ごゆっくりか! あれは嫌《いや》みかな。それはそうと、きれいな女性だなあ。あんたはいいよ、あんな美人が世話してくれて。俺んとこはおばちゃんばっかだもの。でも、俺はE・R・Fの奴《やつ》らはみんな機械に雑用をやらしてるものだとばかり思ってたぜ。考えてた以上にここは人間が多いな。お、機械と言えば」
急に真顔《まがお》になるカイ。
「あれはいったいなんだったんだ。今度はちゃんと説明してもらおう、あんたの口から。フェルドワント・コルソがシミュレーション惑星《わくせい》だって、あれはどういうことなんだ? 俺はジゼルのこととそのことのために、エルシくんだりまでついて来たんだからな」
[#改ページ]
ACT.2
「そうくると思ったよ」
アスラは肩をすくめた。それから、ちらりとジゼルを見て、目で『お前もそうだな』と言う。
フェルドワント・コルソ。Uブロックの立入禁止区域にある、恒星《こうせい》イセの唯一《ゆいいつ》残った惑星《わくせい》である。他の惑星はコンピューター大暴走時代に破壊《はかい》され、破片が軌道《きどう》を回るのみの、トラック諸島。あの時代の戦い方だ、惑星の核《かく》を破壊すればすべてが終れる。無論、それに対抗《たいこう》する理論と技術は存在していたから、成功率は低いが、成功すれば確実に終わる。この星系に存在した六つの惑星が崩壊《ほうかい》した。ただ一つ、残存したフェルドワント・コルソ。
なぜ残されたのか、聞くのを忘れていた。聞いていたらよかったかもしれない。
「別に隠《かく》すことではない、君には。いずれは知らねばならないだろう。あの惑星は、連邦《れんぽう》からの委託《いたく》でE・R・Fコーポレーションが管理している、特別指定区域だ。一般人《いっぱんじん》にはまったく知られていない」
それはそうだろう。【ロボット】が闊歩《かっぽ》している世界が存在するなんて世間が知ったら、パニックに陥《おちい》るのがオチだ。
じっと真剣《しんけん》な眼差《まなざ》しで聞くカイ。アスラは言葉を続けた。
「気づいたと思うが、あの惑星はほぼ全土に渡って【隔壁《かくへき》】でくくられている。ゲート以外からの侵入《しんにゅう》も離脱《りだつ》も不可能だ、|α《アルファ》軸《じく》走行でも飛び込んではいけない」
「|φ《ファイ》ベクトルなら大丈夫《だいじょうぶ》なんだろう、【隔壁】もあんたたちの専売《せんばい》特許《とっきょ》だ」
皮肉を含《ふく》んだカイの問いに、アスラは薄《うす》く笑ってみせた。
「端的《たんてき》に言えば、フェルドワント・コルソはコンピューター大暴走時代がなぜ生じたのか、それを調べるためのシミュレーション舞台《ぶたい》なんだ」
「え?」
ジゼルとカイは顔を見合わせた。困惑《こんわく》しながら、ジゼル、
「だって、それはコンピューターが自分たちを人間よりも偉《えら》いと認識したからでしょ? 自分たち以下の人間に使役《しえき》されているのはごめんだ、自分たちがこれからは人間を支配する、って……そう解析《かいせき》されてるじゃない。いまさら」
「小学生の歴史の教科書みたいなことを言う」
アスラは笑った。それから、じっとジゼルを見つめて、
「でも、ジゼルは本当にそう思っているのか?」
はっとする。
そう。
なにかが違《ちが》う。彼らは人間からの解放を願って、暴走したのではない気がする。もし、そうだとしたら、そうであったなら、フェルドワントのロボットたちはあんな風になるものだろうか。自分たちが人間であるなどと、生きとし生けるものの一員だと、思いこむだろうか。
「それは定説だ。だが、一部ではそれは正しくない、という説もあって、連邦はそれを見究めるために、この計画を打ち出した。【ロボット】の思考過程を探査するガイア計画だ」
ガイア。エリノアがその名で自分の惑星《わくせい》のことを呼んでいた。
「この計画はかなり古くから立てられていたもので、コルソがたった一つ破壊《はかい》を免《まぬが》れたのもそのためだった。コルソは研究者の条件に叶《かな》った星だったんだ。人間は既《すで》に存在せず、ロボットのみで構成された国。基盤《きばん》となるグランドコンピューターは連邦が押《お》さえていて、いつでも破壊が可能な状態。その条件をクリアしていた。偽《にせ》の情報を流し、戦後コルソを隔離《かくり》して実験は始まった。ただし、実際に動きだしたのはエルシが鎖国《さこく》状態から抜《ぬ》け出して、正式に連邦の一員になってからだ。それまで誰も手をつけたがらなかった」
「大暴走時代を体験した星の人間なら、そんな酔狂《すいきょう》な場所に誰が行くもんか」
カイが憮然《ぶぜん》と言う。頷《うなず》くアスラ。
「今よりも、当時の方がその意識は強かった。終戦直後の疲弊期《ひへいき》だしね。言い出した連邦自身が嫌《いや》がって放りっぱなしにしておいたのだから、どうにもなるまい。五百年ぐらい放置されてたのかな、その間、フェルドワント・コルソは凍結《とうけつ》したまま、野《の》ざらしだった。君も見ただろう、都市が崩壊《ほうかい》した跡地《あとち》を。風化したところもある。あそこには風化と酸化を促進《そくしん》する細菌《さいきん》がはびこってて、今でも侵食《しんしょく》を続けているんだ。ロボットを守るため、浄化《じょうか》するのも我々の仕事だ」
「それが、あの巨大な飛行船ってわけだ。俺、あれに乗っけてもらったぜ」
「鯨《くじら》の神さま!」
ロボットたちの神さま、鯨の形の飛行船。あれは、いわゆる空気浄化|装置《そうち》だったのだ。なるほど、自分たちを護《まも》るもの、神さまの定義に叶っているな。
「君達にはできないだろう、ロボットを守ることなど」
「ああ。できることならそのまま風化しちまえってとこだな」
苦々《にがにが》しくカイが答える。しかし、前々から思っていたのだけれど、今の人間は大暴走時代が明けてから、もう一千年も経過して生まれたのに、どうしてそんなに毛嫌《けぎら》いできるのだろう、ロボットを。そりゃあジゼルも異質だってことで怖《こわ》かったけれど、人間たちの反応《はんのう》は意味が違う。ほとんど本能的な嫌悪感《けんおかん》に成長している。メディアによる観念の植え付けの結果なのかしら。
「我々はまず星の中核《ちゅうかく》にあるグランドコンピューターを掌握《しょうあく》し、こちらで管理できるよう手配した。そこから個々の都市にある都市コンピューターを、復帰させ、記憶《きおく》をいじって彼らの勝利を植え付けたんだ。彼らは勝ったのだと」
「それから」
「それから、後は勝手にやりなさい、と命じた。自分の都市を復興《ふっこう》させ、自由にせよ」
それを聞いて、ジゼルは唖然《あぜん》とした。勝手にしろだって? それでは、あれが、ロボットが彼らの思うままにたどった、望みの姿だというのか。
ロボットが人間と戦って、そして得たかった未来というのは、あれなのか。
「そんな、ばかな」
ジゼルは唸《うな》るように言った。とても信じられない。
「あれが、ロボットの夢みた世界だというの? 彼らが求めていた大暴走の結果は、あの世界だったというの? あれだけの犠牲《ぎせい》と時を費《つい》やして、しまいには滅《ほろ》んでしまったというのに」
「ジゼル?」
訝《いぶか》るカイ。それを気にとめる余裕《よゆう》はジゼルにはなかった。鼓動《こどう》が速い。自分の言葉に緊張《きんちょう》して、興奮《こうふん》して、声が震《ふる》えているのが分かる。
「彼らは自分たちを『人間』とみなしていた。老《お》いるはずのない躯《からだ》を、『成長』と称《しょう》して交換《こうかん》して、あまつさえ『死』も存在していた。ジゼルは不思議だったよ、どうしてそんなことをするのか。永遠の命を持つロボットが、どうして人間の真似《まね》ごとなんかするのか。愚《おろ》かな戦争まで真似して。でも、あれがロボットの理想|郷《きょう》だというなら、大暴走の目的は人間支配なんかじゃない。彼らは、彼らは、人間になりたかったんだ!」
人間になりたい。
どこまでも人間を目指して開発された機械。単なる作業機械から、人工知能を備え、幾種《いくしゅ》もの動きが可能になった。目指すところは人間。人間のように自分で判断し、行動する。人間のように感情を持って、自我を形成する。より細《こま》やかに、より滑《なめ》らかに。より自然でより緻密《ちみつ》に。人間のように。人間の。
不細工《ぶさいく》な機械の人形は、磨《みが》かれ、鍛《きた》えられ、人間らしくなっていった。
人間の脳と同じだけ、情報を受け入れ、処理し、判断して命令し、そして躯を行動に移らせる。複雑なプログラムと極限的な演算《えんざん》機械。彼らは人間となんら変わらぬところまで発展した。解体してみない限り、区別のつかないほどに。そう、エリノアのように。とても人間らしく。
エリノアが人間じゃあないなんて!
アスラが静かに語り始める。
「昔《むかし》から、その手のぶつかりはあったそうだ。ロボットにも人権を与《あた》えろという衝突《しょうとつ》が、ね。実際、そうした星系もあったようだし、それを可能にするほど、ロボットは『人間』的だった。けれども、それは少数の話だ」
「当り前さ。人間は第二の人間を造ったわけじゃない。人間でないものにどうして人権があるっていうんだ」
カイが憮然《ぶぜん》として言った。無感動な声色でアスラが言い返す。
「自我は持っていた」
「所詮《しょせん》は機械だよ。すべてが疑似《ぎじ》行動で、ソロバンのはじいた結果に過ぎないじゃないか」
ジゼルの胸に鋭《するど》い痛みが走った。カイの言葉が針《はり》のように突《つ》き刺《さ》さる。でも、この痛みがなんなのか、ジゼルには解《わか》らなかった。いや、本当は知っているのかもしれない。思い出せないだけなのかもしれない。自分がじれったい。あともう少しで思い出せそうな気がするのに。失った記憶《きおく》が取り戻《もど》せる気がするのに。
「戦後の学者たちが提示した説は、コンピューターが暴走した原因と目的は、実は彼らの人間願望にあるのではないかということだったんだ。もしそうだとすれば、史実はひっくり返る。また、機械と人間が共存できる可能性も出てくる、とね」
「じゃあ、今のサイバマシンは理想通りってことか。あいつらは人間願望なんか持たないように設計されている」
「……なんで」
ジゼルはぽつんと呟《つぶや》いた。二人がこっちを向く。
「なんで、ロボットたちはそんな、人間願望なんて持つようになったの? どうして人間なんかを目指したの? 彼らはそれ以上になる可能性も秘めていたのに。自分たちなりの生き方を選べばよかったのに」
「そりゃあ、機械は人間に造られるから、意識しないわけにもいかないだろうさ」
さも当然のようにカイが応《こた》えた。ジゼルは首を振《ふ》る。そうじゃあないよ、ジゼルが言いたいのはそうじゃあない。今のサイバマシンは、サイバノイドは人間の道具としてあるけれど、それでも『自分』を知っている。機械である自分に誇《ほこ》りを持っている。人間になろうなんて考えない。
ロボットはどうして人間になんかなりたがったの? ロボットとしての自覚と誇りはなかったの?
「設計|基礎《きそ》が違《ちが》うんだ」
まるでジゼルの心を見すかしたように、アスラがゆっくりと応えた。
「ロボットを造る時、プログラミングする時、人間は無意識的にしろ意識的にしろ、そのような思考過程を組み込んでしまったんだ。解《わか》るか、つまり、ジゼルの言うように、ロボットは無限の可能性を持っていた。それが人間にとって脅威《きょうい》になると信じられていた。だから、至上のものは人間であるという意識を、ロボットに植え付けていたんだよ。ロボットの人間コンプレックスは、実は人間が機械に対して抱いていたコンプレックスの裏返しに過ぎないんだ。今の機械にはそれがない。それが設計基礎の違いなんだ」
「人間のコンプレックスの、裏返し……」
アスラの言葉の感触《かんしょく》を、自分で確かめる。では、ロボットはあくまでも人間のプログラムに忠実だったというのか。人間こそが大暴走の原因を作り、自分で創造しながら劣等感《れっとうかん》を持ち続けていた対象を、とうとう滅《ほろ》ぼしてしまったのか。
機械は忠実だった。今も、昔も。
人間自身のストレスが、あの戦争を引き起こした。
(以前)
(以前、こんな思いをしたことがある)
(あれは、いつのことだったか)
ひどく納得《なっとく》した様子で、カイは頷《うなず》いた。
「それが新説か! 大勢の人間は認めたくないだろうけど、人間は自分で自分の首を絞《し》めたってわけだ。確かに、放っておくわけにはいかない説だな。文明|衰退《すいたい》の因果関係も見直さなければならなくなる。あ、そうか。それでか」
やにわにカイはポンと手を打った。
「なんであんなところにサイバネティックス委員会だとか特殊《とくしゅ》倫理《りんり》委員会の委員がいたか不思議だったんだよ。あんただって、なんでカヌーアにあの時いたのか、判《わか》った」
それはジゼルも同じ疑問だった。サイバネティックス委員会はともかく、なんで特殊倫理委員会の人がフェルドワント・コルソに赴《おもむ》いていたのか。あんなロボット王国の社会見学でもなかろう。
それに、アスラもだ。面白《おもしろ》いものを見にいかないか、そうアスラは言ったんだ。フェルドワント・コルソで。巨大《きょだい》隔壁《かくへき》の見物であるわけもない。やはり、あのロボットのみで構成された都市を見せるためだ。
なんのために?
そりゃあ、確かに変わっている場所ではある。でも、人を叩《たた》き起こして、公用のついでで見せるようなところか?
アスラ、なにを見せたかったの。ジゼルになにをしようとしたの。
(オネガイ、ウラギラナイデ)
「例のハイブリッドの一件だな」
「ハイブリッド?」
ジゼルは聞き返した。情報に間違《まちが》いがなければ、それは連邦《れんぽう》のライフサイエンスの最も秀《ひい》でた技術であり、結果の名称《めいしょう》である。
加工人間。
卵細胞《らんさいぼう》を加工して生まれた人間の総称、ハイブリッド・ヒューマン。常にE・R・Fに一歩引けを取る連邦の、唯一《ゆいいつ》勝る技術、いわゆる特殊能力保持者を人工的に発生させる技術の落し子だ。知名度は低いが、E・R・Fの情報を食べるジゼルは知っている。ESP保持者や強化細胞を備えた人間たち。連邦|中枢《ちゅうすう》惑星《わくせい》ミレの生物学研究所で生まれ、徹底的《てっていてき》な教育と鍛練《たんれん》を受け、そして連邦大統領に永遠の忠誠を誓《ちか》う、人権のない人間たち。
「人権のない人間」
「そういうことだ」
ジゼルの言葉に、カイは肩をすくめた。そこで、カイが次の世代にはその忠誠を誓われる立場にあることを、不意に思い出す。あまりに彼のイメージと『大統領の息子《むすこ》』という立場があわないので、つい忘れてしまうけれど、カイもまた、特別な事情の持ち主なのだ。
「どうも最近ごたごたしてるなあと思ったら、やっぱりそういうことか。E・R・Fの人間が官邸《かんてい》に出入りしているから変だと思ったぜ。あいつら、ハイブリッドに人権を与《あた》えるかどうか、喚《わめ》いているんだろう?」
あいつらとは連邦の中枢官僚のことだろう。アスラは首を振る。
「それは連邦が決めることだ、我々の関知するところではない。そこら辺の事情も承知してはいるけどね。今回、フェルドワント・コルソに彼らが赴《おもむ》いたのは、『造られたもの』に対する人権のあり方を調査するためだ。ハイブリッドは生身の脳は持っているが、感情規制や自我調整はされている。それはロボットに近い存在だ」
「あいつらは機械とは違う」
むっとした調子でカイは言い返した。
「俺は賛成派だぜ。いつまでもあんな状態じゃあいけない。出産の禁止なんて、人権どころか存在さえも否定しているに他ならないんだ。いや、俺としてはハイブリッドの製造なんてやめてしまった方がいいと思うんだけど。こう、一刀両断にさあ」
「楽観的だな、次の大統領どのは。そうもできない理由があるからこそ、連邦はうちに泣きついてきたんだ」
苦笑しながら言うアスラに、カイは大げさに仰天《ぎょうてん》した態度をとった。
「泣きついただあ? それがカヌーアでの会議か」
「ああ――ハイブリッドはこの衰退期《すいたいき》から抜《ぬ》けでる鍵《かぎ》になる、可能性がある」
ジゼルははっと顔を上げた。カイも意表を突《つ》かれたていで、目を見開いている。慎重《しんちょう》に言葉を選びながら、アスラは続ける。
「人類文明史は幾度か黄昏期《たそがれき》を迎《むか》えてきた。でも、復興《ふっこう》は長くても五百年以内に起こっている。だが、今回は既《すで》に一千年を超《こ》えようとしているのに、衰退は加速さえしているんだ。人間は限界かもしれない、種《しゅ》としての可能性は尽きた」
それはよく言われていることだ。ジゼルは相づちを打つように頷《うなず》いた。
「この状態から脱出《だっしゅつ》する方法として、連邦は二つの案を提示した。その一つが機械文明の復興であり、もう一つは人間自身の進化だ」
「まさか、ハイブリッドを第二の人間として、か!? 無茶だ、世論が許さない。そんなことをしようものなら、ハイブリッドたちが虐殺《ぎゃくさつ》されるのがオチだ、やめろよな、そーゆーのは」
憤慨《ふんがい》してカイは言った。ハイブリッドの中に知り合いでもいるのかしら。多分、そうだろう。
新人類の創造、か。
でも、人間の手で創造したものを、果たして進化というのだろうか。どこか無理があるのではなかろうか。あの[#「あの」に傍点]人工|脳髄《のうずい》のように、目覚めないとか。
(あの?)
自分の想念にぎくりとする。あのって、どのだ? ボーヴォール星で見た、マッドサイエンティストの人工脳髄。それだと思う。他になにがあるというのだ。ジゼルは頭を振った。
でも。
でも、振り切れない。頭から懸念《けねん》が残って離《はな》れない。
「それが判っているなら、ハイブリッドに人権を持たせようなんて、気軽に言うのは慎《つつし》んだ方がいい。連邦が泣きついてきたのは、そこだ。君はストーンサークルについて、かなり詳《くわ》しく知っているはずだな」
今度こそ、ジゼルは飛び上がり、カイは立ち上がった。彼の顔色が見る間に変わっていくのが分かる。ストーンサークル。それはカイの友人、デイニの恋人、クリフォード・ステイシィが所属していたデテール大学の教員サークルで、今回の失踪《しっそう》事件に深くかかわり合いがあると思われる団体の名前だった。
「クリスのことでなにか判ったのか!?」
カイはアスラに食いかかった。アスラの方は至って冷静に、
「これは我々が調べたことではないと言っておくぞ。全部、連邦が差しだしてきた情報だ。いいか、ストーンサークルという団体は、表向きはデテール大学の院生以上を対象にした、知的勉強会のサークルだった。でも、実体は違う、彼らは連邦中枢に秘密|裡《り》に集められた研究機関だったんだ」
「秘密裡に?」
「蜥蜴《とかげ》のしっぽだ。万が一、世間にばれても連邦自身は素知らぬふりができるように、集められた。生命科学の研究が保護されている連邦の生物学研究所でさえ、過度にライフサイエンス法を外れることはできない。だからこそ、仮の姿が必要だった。進化した人間の創造を研究する、法規外機関、それがストーンサークルだ。君の言うとおり、人間以上の力を持つハイブリッドでは、世論が許さない。結局ロボットの二の轍《てつ》を踏《ふ》むだけだから、新たな新人類を創造しなければ、衰退は食い止められないだろう――そう連邦の文明シンクタンクは考えた。そして、ストーンサークルは結成されたんだ。人間に勝るとも劣らない『人間』であり、なおかつ今の人間とは違う種の生命体。その創造を任された」
「で、でも、それがどうして、E・R・Fに泣きつくことになるんだ?」
「それこそ暴走したんだよ、ストーンサークルは」
ばかばかしそうにアスラは答えた。
「超《ちょう》法規機関という立場を利用して、また、連邦という巨大なネットワークを駆使《くし》して、彼らはどんどん手を広げていったのさ。連邦も甘《あま》くみていたんだろう。気がついた時には収拾のつかないくらい、こちらで抑《おさ》えがきかないくらい独立した機関になってしまった。そんな独走を見|逃《のが》しておくわけにもいかない、生命科学の独走は大戦の引金にもなりかねない。そう懸念した連邦は、最終手段としてストーンサークルを解散させた。それで片がついたと思っていた」
「実際はそうじゃなかった――メンバーは三々五々、大学を飛び出して地方に潜《もぐ》り込《こ》み、実験を続けていた。そうなんだな」
「ああ。予想以上にストーンサークルは独立していたということだ。君達の捜《さが》している人間もその例に洩《も》れず、といったところだよ。連邦はことが公になるのを恐《おそ》れて、彼らを見つけだすよう、うちに依頼《いらい》してきた。ところがどっこい、サイバネティックス委員会と生命科学協議会に事態がばれてしまって、それでカヌーアは大騒《おおさわ》ぎになった。それが一週間前の話だ」
一週間前。あの日だ。アスラとなつめの喧嘩《けんか》を目撃《もくげき》した日。急に呼び出されて帰ったという裏には、そんな話があったのか。
でも、どうしてジゼルにまでそんなことを聞かせるのかしら。カイは立場上、当然だけれど、こんな連邦機密ものをべらべらと。成りゆき上、ということもあるが、アスラは公私混同する奴《やつ》じゃない。もっとビジネスライクな人間だ。ジゼルに語って聞かせる必要があるからこそ、ここにいさせて話を聞かせているはず。
どんな必要? 当事者だから? 見てきたのはジゼルだからか。
でも、本当にそれだけ?
(裏切らないで、アスラ)
(二度も裏切らないで)
……なつめ?
「カヌーアは連邦の尻《しり》拭《ぬぐ》いにおおわらわだよ。委員会はがなりたてるし、ハイブリッドの件も一から見直し、フェルドワント・コルソだって先行隊がつく始末。『造られた人間』の意味が、今までの段階からさらに問題のある段階になったんだからしかたないけどね」
「いったい、ストーンサークルはなにをやろうとして、追われる身になりながらも研究を続行しているんだ?」
「だから、新人類の創造さ」
アスラは立ち上がった。デスクへ回って、引出しの中から一枚のメッセージカードを取り出すと、それをカイに投げてよこした。
「文明の衰退《すいたい》は環境《かんきょう》の停滞《ていたい》、知能が平衡《へいこう》状態にある現れだ。人間は遺伝子的にすでに終りを迎えている。これがストーンサークルの研究の大前提だ。ならば、遺伝子的にこの平衡状態を抜《ぬ》けでなければならない。では、どうすればいい」
「突然《とつぜん》変異体を増やす……?」
自分でもまったく信じていない口調《くちょう》で、カイはアスラに答えた。それからメッセージカードを作動させ、小さな画面を見たその表情が、びくんと強《こわ》ばる。なにが映っているのかしら。覗《のぞ》き込もうとしたジゼルの動きは、次のアスラの言葉に凝固《ぎょうこ》した。
「彼らに都合のいい突然変異なんか待ってられない。それよりてっとり早い技術がこの世にはあるだろう、生体機械という代物《しろもの》が」
「生体機械」
カイが繰《く》り返して、反射的にジゼルを見た。
そうだ。
ボーヴォール惑星《わくせい》で、ストーンサークルのメンバーが行っていたのは、生体機械技術によって生成された人工脳の、『学習』と『教育』。彼らにとっては王子のことなんか、どうでもよかった。ただ、人工脳を目覚めさせるための、生の人間の信号が欲しかった。でも、実験は失敗に終わったのだ。
生体機械の脳は目覚めない。
発生と分裂《ぶんれつ》を経験しない脳は、目覚めない。
ライフサイエンス法は生体機械技術による脳髄《のうずい》の生成を禁止している。だが、禁止するまでもなく、目覚めないものは目覚めない。
どくん。
心臓の鼓動《こどう》が耳につく。
(本当に?)
(本当に目覚めなかったっけ?)
どくん。どくん。
(この鼓動)
但《ただ》し、計器を備えれば、人工知能があれば、作動《さどう》はする。でも、本来の意味で脳が作動しているかは判《わか》らない。まるで不確定性原理。どこまでが測《はか》られるもので、どこからが測るものなのか、判然《はんぜん》としない。
(ジゼルは生体機械)
(人工知能が備えてあって)
どこが生体機械を使用している部位なのか、判らない。
判らないのは、全部がそうだからじゃないの?
全部が生体機械で構成されていて、人工知能を備えているから作動している脳の持ち主なんじゃないの。
(じゃあ、やっぱり、これは機械の考えなんだろうか)
(機械の)
全身生体機械の禁止。
「これ、どこなんだ?」
急に、カイの声が耳に飛び込んできた。アスラが答えるには、
「カードの中に情報が入っている。それがうちで捕《と》らえた最新情報だ。すぐに行くのか?」
「ああ、善は急げだ。エルシにまで来た甲斐《かい》があったぜ、さんきゅー」
なんだか話が勝手に進んだみたいだった。どうしたのか聞きたいけれど、舌がもつれて巧《うま》く言葉が出てこない。
カイは急ぎ足に部屋《へや》から出ていこうとして、ふと足を止めて向き直った。それから、怪訝《けげん》な表情で言うには、
「でも、なんでこんなこと、教えてくれるんだ? 俺《おれ》があんたたちの企《たくら》みを引っかき回してしまうかもしれないし、一応、俺とあんたは仲が悪いことになってるんだぜ」
「うちの企みは君に振《ふ》り回されるほどヤワじゃない。それに、別に君自身と喧嘩《けんか》したことはないからな――というのが半分と、あと半分は恩を売りたいからだ」
にやにやしながらアスラが言うと、カイはやっぱり、という面もちで、
「聞いておいてよかった。話によってはこれ返すぞ、まだ見てないからな」
「別になんてことはない。ジゼルのことだ」
実に淡々《たんたん》とアスラが言うので、危うく聞き流すところだった。なんだなんだ、ジゼルのことだって? カイとなにか取り引きしなければならないようなことが、ジゼルにあっただろうか。必死に頭を回転させ、そういえばジゼルが結果的にはスパイ紛《まが》いのことをしたのだということを思い出す。でも、カイにしろデイニにしろ、ジゼルのレコーダーシステムを知っているはずはないのだけれどな。
(レコードといえば)
「……やっぱりヤな奴《やつ》だな。俺は友達を売ったりはしないぞっ。あんた、友達いないだろ」
「商談成立だ。ジゼルに関してはすべて目をつぶって、忘れてくれ」
「俺は友達は一生忘れない主義なんだ。礼はいうけど――ありがとう」
仏頂面《ぶっちょうづら》でカイは言う。この二人、本当に同《おな》い年なのかなあ。学生と社会人ではこうも差がつくって見本だ。
「ミレまで送らせるよ」
「それはどうも。ジゼル、またな。今度ゆっくり会おうぜ、デイニも一緒《いっしょ》に」
口早に言うと、カイは忙《いそが》しく部屋を出ていった。扉《とびら》の向こうにサクライさんが控《ひか》えているのが見えた。
どうしたんだろう、急に。ジゼルは閉められた扉をぽかんと見つめた。
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ACT.3
ばたばたと帰ってしまったカイであるが、ジゼルは少々むっとした。もうちょっと別れの挨拶《あいさつ》があってもいいんじゃないかしら。自分だけ納得《なっとく》したような顔して、なんか取り残された気分。友達友達って言いながら、友達|甲斐《がい》のない奴《やつ》!
でも、そんなものなのかなあ、友達付きあいって。ジゼルにはよく分からないや。でも、きっとまた会えるだろう。友達だから。
「どうした、ジゼル」
アスラが声をかける。はっと振《ふ》り返ると、アスラは腕《うで》を組んで窓の側に佇《たたず》み、こちらを凝視《ぎょうし》していた。
アスラ。
びくんと身体《からだ》が緊張《きんちょう》する。阻《はば》むものはいなくなった。これからが本番だ。これからが本当の説明の時間。
問うことを考える前に、勝手に口が動いた。
「レンズが……」
「ん?」
「レンズが、フェルドワント・コルソで爆風《ばくふう》に巻き込まれた時、破壊《はかい》されたはずのレンズが、目が覚めたら元通りになっていた。どうして?」
そういえば。
そういえば、考えてみれば、ジゼルの記憶《きおく》はほとんど、こうやってレコードの中に残っているのだ。無論、常時レンズを装着《そうちゃく》しているわけではないけれど、おおよその体験は記録してある。アスラの手元にあるレンズの数だけを考えても、それで一個の『記憶』ができるほどだ。
(だったら、それだけで充分《じゅうぶん》じゃあない?)
「気がついていたか」
アスラは顔色も変えず、実に淡々と言ってのけた。
「あれは俺《おれ》が指示してアドにさせたことだ」
ジゼルは応《こた》えることができなかった。反発することも、詰問《きつもん》することも。どうして。その一言が出てこなかった。ただ、まっすぐにアスラを見つめるだけ。
(充分に記憶が作れるじゃない?)
「あの爆発は俺が仕組んでアドにやらせた。破壊したレンズを取り替《か》えて、ジゼルをトリカンサスシティに放りこませたのも俺だ。カイニス・オーセンが入って、予定が多少|狂《くる》ったが、すべて計画通りだ」
(消された記憶を、上から塗《ぬ》り直すことだって可能じゃない)
(機械なんだから)
ゆっくりと、顔が動く。横に、いやいやをする。
信じられない。
信じたくない。
すべてが企《たくら》まれたこと。始めから終りまで、アスラが立てたシナリオ通りだったというの?
信じられない、信じたくない!
なんで? どうして?
どうしてそんなことをしたの!?
(ウラギラナイデ)
(ウラギラナイデ、オネガイ、タスケテ)
「……全部? ジゼルがエリノアに会ったことも、ハレルヤに捕《つか》まったことも、全部? 全部!?」
ヒステリックな声。自分の耳にさえ突《つ》き刺《さ》さってくる。どこまでも冷静|沈着《ちんちゃく》なアスラの面が、今は恨《うら》めしい。彼の端正《たんせい》な顔に収まる口が、再び開く。
「中でお前がどういう行動をとるかまでは考えていなかった。だけど、なにがあっても手は――」
「ジゼルを裏切った!」
あらん限りの声で、アスラの言葉を遮《さえぎ》ってジゼルは叫《さけ》んだ。聞きたくない、そんな言葉。どうしても必要ならジゼルが言う。すべての思いが奔流《ほんりゅう》となって口から流れ出す。
「聞こえてたのに、ジゼルが呼んだのに来てくれなかった! 信じてたのに、アスラのこと信じてたのに!」
「ジゼル」
ジゼルを押《お》さえようとしてアスラの手が伸《の》びる。それを爪《つめ》を立てて振《ふ》り切った。だめ、もう止まらない。涙が零《こぼ》れる。
「なんだよっ、アスラなんか! 恐《こわ》かったのに。アスラはジゼルが助けを求めていたのを、平気な顔して見てたんだね。ジゼルを裏切って。どうせ元に戻《もど》せるからって、ジゼルよりもシティを選んだんだ。すごく恐かったのに! どんな気持ちか解《わか》らない、消される気持ちなんか、アスラには解らない!」
本当は消されたんだ。
あの消滅感《しょうめっかん》を忘れない。自分が自分でなくなる一瞬《いっしゅん》。真っ白な空間。
あの記憶《きおく》を体験したジゼルは、もう、いない。
不意に、怒りの感情が頭から消えた。代わって、得体の知れない不安が全身に広がり、染《し》み通る。
「ジゼルは、なんなの?」
声が掠《かす》れた。
「このジゼルはなにものなの? 記憶を消されたのに、同じ記憶を持っている。記憶さえ一緒《いっしょ》なら、前のジゼルと同じなの? じゃあ、前のジゼルはどこにいっちゃったの?」
「なんの話だ」
「ジゼルの記憶、新しく書き込んだんでしょう。アスラから見れば、まったく変わりのない存在なんだろうけど、ジゼルにとっては、一旦《いったん》死んだも同然なんだよ? 身体は一緒でも、記憶が一緒でも、違《ちが》うんだよ」
ボーヴォールでのラージャ王女の言葉が蘇《よみがえ》る。
脳を入れ換《か》えたのならば、それがミュセの記憶を持っていたとしても、それはミュセではないわ。
じゃあ、今、こうして考えて喋《しゃべ》っているジゼルはなにものなんだ? ジゼルじゃないものなの。誰《だれ》であるべきなの、誰になっていいの!?
「アスラはジゼルのことなんか解ってない! 機械の気持ちなんか解らない、解るはずない!」
「ジゼル!」
ぶたれたような叱責《しっせき》が、はっとジゼルを感情の海から我に帰らせた。
アスラの目が違う。切迫《せっぱく》した表情。あの時と同じ、なつめと喧嘩《けんか》していた時と同じ、険しい顔をこちらに向けていた。思わずひるむ。
「それでいいのか。本当にお前はいいのか、機械の気持ちが解って」
「え……」
「機械の気持ちが解って、本当にいいのか」
低い、脅《おど》すような声。理不尽《りふじん》な責めをくらっているようで、ひるんでいた心に反抗心《はんこうしん》が噴出《ふんしゅつ》した。
「だってジゼルは機械なんでしょ!? 人工知能体なんでしょう! 解るに決まってるじゃないか!」
「ジゼル!」
アスラの怒号《どごう》と扉《とびら》が開くのと、ほぼ同時だった。
振り向いたそこに、白衣の集団が佇《たたず》んでいた。
「結果は出ましたな、会長代理」
「お渡し願います、アスラさん。お約束《やくそく》です」
事務的な催促《さいそく》がドアの向こうから響《ひび》いた。
唖然《あぜん》とジゼルは見る。扉の外にいるのは七、八人といったところか。みんな、お揃《そろ》いの白衣を着て、感情のない顔でこちらを見返していた。若い人が多い。男の人が五人、女の人が三人。見知った顔はどこにもない。
理研の人?
アスラがジゼルを抱《だ》き上げた。物おじしない態度で、年長者たちをおもむろに見回し、
「まだだ。まだ、期限じゃない」
「でも、決めごとです。あなたが決めたことです」
「386は自ら認めました。ここからは我々の領域です、アスラさん。たとえあなたでも、場合によっては強行手段に訴《うった》えても取り返します」
白衣の影《かげ》がゆらめく。まるで水の向こうから見ているようだ。それが頭痛からくるものだと気づくのに、数秒かかった。頭痛というよりも、頭がくらくらする、まるで日射病にやられたような感触《かんしょく》。この人たちは……
「違《ちが》う、これは混乱しているだけだ。まだだ、まだ終わっていない」
「アスラさん! あなたは公平な立場をとるという約束を、反故《ほご》にする気ですか」
「俺はいつだって中立だ、中立の立場からこいつを尊重している!」
叫《さけ》ぶが早いか否《いな》や、アスラはジゼルを抱《かか》えたまま、白衣の集団に体当りした。ぶつかる一瞬《いっしゅん》前、白衣の身体が四方にふっ飛び、ごろごろと転がる。
「斥力《せきりょく》!?」
驚《おどろ》いてジゼルが声を上げると、アスラはにやっと笑って廊下《ろうか》を走りだした。
「し、しまった!」
「誰か、科法使いをこっちにも手配しろっ。アスラさんに負けない奴《やつ》を……」
彼らの声が遠くなる。再びジゼルは驚愕《きょうがく》した。
「ア、アスラッ、科法使いいっ!?」
「騒《さわ》ぐなって」
ぐいっとジゼルの頭を押《お》さえつけるアスラ。でも、これが騒がずにいられるか。
科法使い。
E・R・Fコーポレーションを代表する産業の一つ。科法使い。科学を魔法《まほう》のように扱《あつか》うところから、その名がついた。彼らが単なる科学者や技術者と違うのは、科法と呼ばれる特殊《とくしゅ》機器の操作の多くを、自分の脳波によって行うところである。四年間、言語から脳波が機械とシンクロ状態に入る訓練を、科法大学で積む。特に|φ《ファイ》ベクトル創造においては、毎年半分以上の落伍者《らくごしゃ》を出しながら修得していくという。そうして、入学時の二十パーセントの割合で卒業できた者が、科法使いと正式に認定され、その全員がE・R・Fに帰属する。なぜなら、科法使いを育てる唯一《ゆいいつ》の機関である科法大学は、この世でたった一つ、エルシにのみ、E・R・Fコーポレーションの私設機関としてあるからだ。
[#挿絵(img/sextant_058.jpg)入る]
帰属を前提にして、彼らは入学してくる。退職時《たいしょくじ》には、脳内部に植えられた増幅器《ぞうふくき》を除去され、科法使いではなくなる。科法の機密を外部に漏《も》らせば、処刑《しょけい》さえされかねない。それらすべてを前提に、エルシ人は入学してくる。科法使いはエリートだ。科学に強く、語学感覚に優れ、的確な判断力を要請《ようせい》される。勝ち残った者は、皆の羨望《せんぼう》と尊敬のまなざしを受け、あちこちからひっぱりだこの存在だ。φベクトル創造の仕事がある限り、彼らは栄光の道を歩み続ける。
その、科法使いに、アスラ!?
「E・R・Fの会長が科法使いなんて、聞いたことないよ!」
「お前、ほんっとーに忘れてたな」
「だって!」
不満を鳴らすジゼルの頭の中で、なにかが重なっていくのが解った。
(そう、思いだした)
(アスラは科法使い)
(その科法で、何遍となくジゼルを助けてくれた)
そうだった。
ああ、だからこそ、自在に科法使いが使えると言ったんだ。自分自身がそうだったのだから。思いだした。
じゃあ、今もジゼルを助けようとしてくれているの? ジゼルを裏切ったくせに?
角を曲がり、人の間をすり抜《ぬ》け、アスラは追手を撒《ま》く。本社の建物は、外部からの人の出入りの多い低層部はすっきりとして、機能的な部屋の造りになっているが、社の人間しか出入りしない高層部では様子が変わってくる。これだけの巨大企業の本社である。建物はとても大きく、高い。最上階に近いここら辺では、建築アートとかいって複雑な立体構造を見せる外観通り、中の構造は妙《みょう》ちきりんだった。
「……あの人たち、ジゼルを狙《ねら》っているの?」
「俺が狙われるはずないだろうが」
あっさりと返事がくる。
吹抜《ふきぬ》けの多い区画。階段がなく、長いスロープが続く渡り廊下《ろうか》。開放的な事務区の真ん中に、螺旋《らせん》階段。まるで立体迷路だ。人間を感覚的に撒くには適した空間である。でも、一見は複雑に見えるけど、よく構造を知った人が見ると、ひじょうに機能的なんだって。最新科学が駆使《くし》されているし。でも、大抵《たいてい》は把握《はあく》していない人たちばかりで、他の区画へは社員さえもうかつに近寄れないそうだ。そこを駆《か》け抜《ぬ》けるアスラ。
はっきり言って、アスラはここを根城《ねじろ》にしている。このビルの一角に住んでいるのだ。追手と比べて、どちらが有利か一目瞭然《いちもくりょうぜん》、あっと言う間に白衣姿を引き離《はな》し、彼らは見えなくなった。
「理研の人、だよね」
「ああ」
アスラの返事はまったく淀《よど》みない。
E・R・Fコーポレーションの理科学研究所はこのビル内にはない。ますます追手に勝ち目はなかった。とはいえ、ここは本社の中。警備システムは万全《ばんぜん》、どんなものも見|逃《のが》しはしない。たとえ科法で姿をごまかしても、監視《かんし》アイはごまかしきれない。カーボンセンサーも熱センサーも、脳波センサーだって果ては生命波センサーさえ、このビル内にいるすべての人間を捕捉《ほそく》し、追いかけている。それを彼らが味方にしたら、こちらは丸裸《まるはだか》だ。加えて、うじゃうじゃいる社員さんたちは、今でこそきゃあきゃあ喚《わめ》いて、唖然《あぜん》とこの逃避行《とうひこう》を傍観《ぼうかん》しているだけだが、号令一つでいつ飛びかかってくるのか判《わか》ったものではない。これはアスラの信頼度《しんらいど》にも比例しているぞ。無論、その反対だってありえるけど。
でも、なんで彼らはジゼルを狙《ねら》ってきたんだ? 会長代理の権限を踏《ふ》み越《こ》えてまで、なんでジゼルを――
「……やっぱり、ジゼルが生体機械だから?」
自問するように呟《つぶや》いてから、腑《ふ》に落ちた。
「ジゼルは理研で生まれたの?」
「そうだ」
間髪《かんはつ》を入れず、アスラは答えた。でも、いまさらなんで、ジゼルを引き取りにくるんだ? 生まれてからもう三年は経《た》つ。今になってしゃしゃり出てくるなんて。アスラはさっき、なんて言ってただろう。確か、まだ期限じゃない、って……
「会長代理、なにやってんですか?」
「アスラさんっ、チップル・スターの件ですけどーっ。鬼《おに》ごっこなんかしてないで、聞いてくださいよー」
まったく緊迫感《きんぱくかん》のない社員さんたちである。道々そうやって話しかけてくるのだ。彼らにしてみれば、どうせまた、若旦那《わかだんな》の『お遊び』が始まっただけだ、ぐらいにしか見えないだろう。アスラもアスラで、「やあ」だとか「あとでなー」と呑気《のんき》に応《こた》えているのだから、平和な会社である。そりゃあ、当人であるジゼルからして、この鬼ごっこの意味が把握《はあく》できないのだから、無理はないだろうけど。
でも、これは内部|抗争《こうそう》ではない。全然別の次元の事件なんだ。
(なんでジゼルは逃《に》げているんだろう)
理研で生まれた。その言葉の意味は深い。まさか理研の建物自体を指して、そこで生まれた、ではないだろう。理科学研究所の研究の一つとして、生み出された。これだ。
生体機械として?
確かに、理研は医療《いりょう》機関の面を持っている。エルシでは随一《ずいいち》の生体機械技術を誇《ほこ》って、世間に供給しているのだ。
そこで生まれた――全身生体機械として?
全身生体機械はライフサイエンス法で禁じられている。躯《からだ》の一部ならともかく、全身、特に脳髄《のうずい》を生成することはご法度《はっと》だ。それはクローン技術の場合でもおなじことである。理由は簡単、生殖《せいしょく》以外での生命の創造は、倫理にかなっていないため。また、生命科学暗黒時代を引き起こさないため。
でも、クローン脳はいざ知らず、生体機械の脳は目覚めない。ご法度以前に、生物として認められるに至らないのだ。それはボーヴォール星でまざまざと見せつけられた。
でも、作動させることはできる。
人工知能を備えれば、それは単なる分子の塊《かたまり》からシフトする。
もしかして。
もしかして、ジゼルはそれなのかしら。
全身が生体機械で、人工知能を備えてやっと動いている、モノ。
中途半端《ちゅうとはんぱ》なモノ。
(ジゼルは、ジゼルは一体……)
もう少しで思い出せるのに。なにかが引っかかって出てこない。なにかが足りない。
長い一直線の廊下《ろうか》を走り抜け、アスラは中央ホールに飛びでた。ここいら十階分をどーんと貫いた吹抜けを囲んで、憩《いこ》いの場が広がる。追手の姿はまだ見えない。この頃《ころ》になると、情報が飛び交い、野次馬《やじうま》がなにごとかとわやわや四方から集まり始めていた。そこで一旦《いったん》アスラは足を止め、呼吸を整える。
まるで追手にここですよと知らせているような群衆をかき分けて、ひいひい言いながら現れたのは、情報部長の川瀬《かわせ》さんだった。情報課はこの階にも陣取《じんど》っている。ジゼルも夏離宮《なつりきゅう》でよく会っている知り合いだ。いかにも重役らしい厳格な顔は、息切れしてはいるがこの騒《さわ》ぎにも動揺《どうよう》を見せなかった。黒い双眸《そうぼう》をまっすぐアスラに向けて、
「アスラくん、この騒ぎはなにごとだ」
「理研の奴《やつ》らが来たのさ。俺たちの問題だ、他の人間は手を出さないよう、指示してくれ」
肩をすくめるアスラに、川瀬さんは怪訝《けげん》そうに眉《まゆ》をひそめた。
「今、ジゼルくんともどもあなたを捕《と》らえるよう、社内放送で中にいる科法使いに通告していたが」
「社内放送だって!?」
いきなりアスラが喚《わめ》いた。ジゼルはその声に驚いてしまった。
「なんてことをしてくれたんだ、あいつらは! まったく、新入りのくせに解ったような顔して、なんにも知っちゃあいなかったんだ! おいっ、あいつらとんでもないことをしでかしたぞ、川瀬、お前会長代理の権限で、夏離宮に飛べっ。いいか、どんなことがあってもなつめを押《お》さえて宥《なだ》めすかせ。絶対に外に出すな――いや、もう遅《おそ》いか。このことを親父《おやじ》さんに知らせてこい、万一の場合に備えるんだ」
「なつめを押さえる!? なんだよ、それ!」
ジゼルも慌《あわ》てて喚《わめ》く。なつめのことを口にされて、黙《だま》ってなんかいられない。
「なつめと理研となんか関係あるの!?」
「接点はお前しかないだろう」
アスラは口早に説明しながら、周囲を見回す。
「社内放送なんか使ったから、なつめのとこまで話が筒抜《つつぬ》けだ。怒《おこ》って怒鳴《どな》り込んでくるぞ。いや、怒鳴り込んでくるならいいが、もし……」
アスラの言葉が遮断《しゃだん》された。同時にジャンプ。
今まで立っていた場所が、ぶんっと歪《ゆが》んだ。錯覚《さっかく》? と思いきや、確かに人間大の空間が、切り取られたゼリーのようにそこだけぷるぷる震《ふる》え、屈折《くっせつ》を見せている。すぐさまそれは掻《か》き消え、バン! という床《ゆか》を叩《たた》きつける轟音《ごうおん》が響《ひび》いた。
見物客の中から悲鳴が上がる。別に危害はないけど。
「隔壁《かくへき》だ!」
「来たな」
アスラは床に着地しないで、壁《かべ》を蹴《け》りつけると吹抜けの中に入った。反重力システムが作動しているんだ。さすが科法使いともなると、カイの時と違《ちが》って、小さな装置《そうち》で縦横無尽《じゅうおうむじん》に空中を移動できる。そのお手並《てな》みにジゼルは感心してしまった。
「誰だあ、理研についたのはあ!」
「ひ、ひいっ」
アスラが吹抜け全域に渡って響く怒声《どせい》を上げると、なにやら間抜《まぬ》けな悲鳴が聞こえた。振《ふ》り仰《あお》ぐと、二、三階上の場所に、ひょろっとした小男がびくびくしながら浮《う》かんでいる姿が見えた。
「お前かあ、カンゾーっ!」
「ふえっ、ご勘弁《かんべん》を! ひー、アスラさん相手に俺にどうしろってんだー、学年首位とやりあうなんて、今日は仏滅《ぶつめつ》だーっ」
どうやら二人は知り合いらしい。相手は情けないことを言いながらも、【波動】を繰《く》り出してきた。
伸び縮みする空気の団塊《だんかい》が、ハの字に開いた手の間から繰《く》り出される。それが連続してやってくる衝撃波《しょうげきは》だ。目に見える縦波を、アスラは楽々飛び越えると、
「実戦経験が違うんだよ、むだむだ」
おたおたする相手の後ろへ、あっという間に回り込み、その腕《うで》を後ろ手に捻《ひね》りあげた。最初から怖気《おじけ》づいた相手である、結果は見えたものだった。
「ひーん、参りましたあ」
「ばか、模擬戦《もぎせん》じゃないんだぞ。あと何人くる」
「四人ですう」
わーっと、各階のホールから顔を出していた見物客から、お誉《ほ》めの拍手《はくしゅ》が湧《わ》いた。なんだか平和な光景だ。いったいなにをしているのだろう、ジゼルは。
ジゼルは、逃《に》げているんだ。
なにから?
なにから逃げているのだろう。あのまま引き渡され、理研に連れていかれ、そしたらなにが待っていたのだろう。
なんでジゼルを理研に渡さないの、アスラ。理研が追ってくる理由さえも教えてもらってない。逃げる意味はあるの、ジゼルにとって。本当はアスラにとって意味があるだけじゃないの。黙《だま》ってついていくことが、ジゼルのためになるの。
アスラを信用していていいの?
(機械の気持ちが本当に解《わか》っていいのか)
アスラはそう念を押《お》していた。それが、キーワード?
(機械の気持ち)
突然《とつぜん》、身体に重力がかかる。アスラが男を突《つ》き放してシステムを切ったので、自由落下が始ったのだ。
途端《とたん》、降参した相手が白炎《はくえん》に包まれた。驚愕《きょうがく》の悲鳴が上がり、一瞬《いっしゅん》後に途絶《とだ》える。そこには痩《や》せた小柄《こがら》の青年の姿はなかった。大衆がこの奇術《きじゅつ》並《な》みの展開に、おおーっと感嘆《かんたん》の声を上げる。ええい、あんたたち、仕事はどーした、仕事はっ。
アスラは再びシステムを作動させて浮上すると、
「ちっ、乱暴な奴《やつ》も向こうにいるんだな。仲間もろとも飛ばそうとした」
「ねえっ、観客がいてもいいの!?」
「科法使い同士の対戦なんて、見る機会もないから面白《おもしろ》いんだろう。科法使いの活躍《かつやく》さえ知らない人間が多いんだから。心配ないって、彼らは自分たちには危害が加わらないことを知っている。その内、川瀬がおっ払《ぱら》うさ」
「会長代理ーっ、頑張《がんば》ってねー」
声援《せいえん》が飛んでくるのに、愛想《あいそ》笑いで応《こた》えるアスラ。一体、このなあなあな戦いはなんなんだ。やる意味があるのか、意味は!
「俺だってあいつらだって、相手を傷つけようとは思ってない。目的はただ一つ、ジゼル、これはお前の争奪戦《そうだつせん》だ」
う。そんな。なにもそんな言い方しなくてもいいじゃないか。ジゼルは複雑な心境だった。ジゼルはこんな展開望んでなんかいない。意味さえ解らない戦いなんて。
そうだよ。今まで理研がジゼルの引渡しを求めるなんてことはなかった。なのに、なぜ。いまさら、どうして。全然覚えがないのに!
(本当に覚えがないの?)
(さあ、思いだしてごらん、扉《とびら》の向こうの約束を)
(三年|経《た》ったんだよ、もう。だから彼らは来たんだ)
機械の気持ちを理解したら。
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ACT.4
「ジゼル、これを」
アスラの手がジゼルの首に回った。器用な手つきで鈴《すず》を下げてくれる。携帯《けいたい》反重力システムだ。そして、自分の肩にジゼルを乗せると、
「しっかり掴《つか》まってな」
「う、うん……」
アスラ、ジゼルは全身生体機械なの? そう口にしようとした瞬間《しゅんかん》、吹抜《ふきぬ》け空間全域に、あまたもの光の龍《りゅう》が天井《てんじょう》から駆《か》け下った!
視野がストライプの光線に区切られる。
「な、なにこれっ!」
驚愕《きょうがく》して悲鳴を上げたけど、よく見れば、線の一本は身体《からだ》を貫《つらぬ》いているのに、全然痛くも痒《かゆ》くもない。
「【滝《たき》】だよ、【滝】。大丈夫《だいじょうぶ》、俺《おれ》の張った【糸】を斬《き》るだけだ」
「E・R・Fのアスラ! さすがね、私の【滝】に流されないなんて!」
上から自信に満ちた女の声が飛んできた。ジゼルが見つけるよりも早く、大衆が喝采《かっさい》して対戦相手の第二|陣《じん》を迎《むか》える。
フィルムのコマをところどころ飛ばしたような、奇妙《きみょう》な動きで、四つの影《かげ》がアスラを取り囲むように現れた。全員女性である。まだ若いみたい。それを見たアスラが、呆《あき》れ口調《くちょう》で言うには、
「なんだ、ゼナか。阿胡《あこ》もいるとなると、社内にいるのは研修員だけなんだな。頼《たよ》りないなあ」
研修員ということは、去年卒業した科法使いということだから、全員アスラの同期じゃあないか。学年首位(らしい)に勝つ自信があるのかしら。
ふっとストライプが消える。
「高をくくるな、アスラ。確かに、一人一人ならあんたに勝てはしないかもしれないけど、こっちは四人だぞ!」
別の女性が鋭《するど》く言い放った。うーむ。このおねーさんたち、こいつが自分たちの上司であることを懸念《けねん》してないな。個人的な恨《うら》みでもあるのかしら。思わず変なことを心配してしまうけど、なんだか本当に、ジゼルを捕《つか》まえるという、最初の問題は忘れられているみたい。
「【電界】!」
囲みの一角から視認可能な縦波が放射され、光の速度でアスラを貫いた。途端《とたん》、全身に後向きの力がかかる。
「効《き》くか、そんなもの!」
アスラが胸元《むなもと》から一枚のお札《ふだ》を取り出して、目にも止まらぬ速さで動かした。青白い光の軌跡《きせき》が十芒形《じゅうぼうけい》を描《えが》いて空間に浮《う》かび上がる。すると、牽引力《けんいんりょく》は消え、発射元が悲鳴を上げた。波が跳《は》ね返ったらしい。
「あいつ、あたしたちより高価な科法、持ってるう!」
「卑怯《ひきょう》だ、フェアじゃないよ! 対等に戦えーっ」
なんだか理不尽《りふじん》な抗議《こうぎ》が敵から飛んでくる。四対一のくせになに言ってるんだか。第一、これは真剣《しんけん》勝負なんだ、模擬《もぎ》戦じゃないぞ。ジゼルの命運がかかってるんだから、少しは真剣にやってほしい。
アスラはふふんと鼻で笑った。相手が誰であろうと、容赦《ようしゃ》しない奴《やつ》である。
「それは君らが未熟《みじゅく》なだけだろう。悔《くや》しかったらそれ相応の力をつけるんだな」
「なによっ、高慢《こうまん》ちき!」
子供の喧嘩《けんか》のような罵声《ばせい》と同時に、その掌《てのひら》から光の蚯蚓《みみず》が飛び出した。げっと怯《ひる》むジゼルをよそに、悠然《ゆうぜん》とアスラは上着のポケットから扇子《せんす》を取り出す。しかし、いったい、どこにどれくらい、なにを隠《かく》し持ってるんだ、こいつ。
ぱっと広げる扇子の紙面に、ひゅるると蚯蚓があっさり呑《の》み込まれた。すかさず、手首を返して一風。バチバチンッ、とけたたましい炸裂音《さくれつおん》がして、此処彼処《ここかしこ》で火花が散る。
拍手《はくしゅ》が各階から湧《わ》き起こった。エリアの外にいる皆さんから見れば、花火気分の光景だろうけど、まともに食らった彼女たちは、悲鳴を上げて逃《に》げ回っていた。自業自得《じごうじとく》とはいえ、圧倒的《あっとうてき》な差を考えるとなんだか気の毒だ。
「信じらんない、火傷《やけど》しちゃったじゃないの! もう怒《おこ》った、【真空】!」
ばっと一人が腕を広げる。
「!?」
突然《とつぜん》、旋風《せんぷう》が周囲に生じた。今度はなんだと目を見張れば、それは台風のようにぐるぐる旋回しながら空気を上へ上へと押しやっているらしかった。
気がつくと、普通《ふつう》に息をしているつもりなのに、空気を吸っている感覚がない。バキュームか!? なんつー荒業《あらわざ》をしてくれるんだ、このままだと死んじゃう!
「こらあっ、真空なんかにしてどういうつもりだっ。俺が酸素|欠乏《けつぼう》で痴呆《ちほう》になったら、お前たち全員、首だぞ!」
いい加減、苛立《いらだ》ってきた声色《こわいろ》でアスラが怒鳴《どな》ると、彼女はようやく相手が自分の上司であると気がつき、動転しまくった。あたふたして腕を引っ込めると、仲間内からまた非難の声が上がる。
酸素欠乏症から免《まぬが》れたジゼルとアスラ、ぜいぜいと二人して肩で呼吸をした。うん、空気がおいしい。
その間に気を取り直したか、四人は円陣《えんじん》を縮め、両掌《りょうて》を広げて突《つ》き出した。
「【無限回帰】!」
瞬間《しゅんかん》、視界が薄紅色《うすべにいろ》がかる。しかし、それは気の迷いのように、すぐさま消えてしまった。
「……? なにか起こったの?」
「封《ふう》じ込められたんだよ」
不意を突かれた様子もなく、アスラは説明した。きょとんとなるジゼル。
「【隔壁《かくへき》】より質の悪い奴《やつ》。どれ、実験してみるか」
呑気《のんき》な調子で言うと、アスラは観衆に手を振《ふ》ってみせ、それからなにを考えたのか科法使いの一人に向かって進んだ。相手は強《こわ》ばった表情だけれども、手を向けたまま、動かない。平然と進むアスラ。ええっ!? あともう少しで手が触《ふ》れちゃうよっ。
掌がアスラの身体に触《ふ》れる。
ふっと軽い目眩《めまい》に襲《おそ》われて、視界が白くなった。
一瞬後に視力は回復した。様子を見ると、彼女はそこにいなかった。
「あ……れ?」
頭を巡《めぐ》らせば、四方にきちんと科法使いが仁王《におう》立《だ》ちの格好でいて、こちらを見据《みす》えている。ジゼルたちは彼女たちの円陣の中心にいた。そこにいなかったのはこちらなのだ。
そんなばかな。確かに、円陣の外に出たはずなのに。
「これが【無限回帰】。どうしても元の場所に戻《もど》ってしまう」
口笛《くちぶえ》まで飛ぶ歓声《かんせい》の中、アスラは言う。
「【どこでもドア】と【隔壁】の応用なんだがな。そうか、理研がスポンサーだものな、これくらいの科法は持ってるか」
「なに落ちついてんだよーっ、捕《つか》まっちゃったじゃないか。どうやって抜《ぬ》け出すんだよ。それとも、本当は――」
ジゼルは言葉|詰《つ》まった。それに気づいて、アスラ、ジゼルを覗《のぞ》く込む。
「それとも?」
それとも、始めから捕《つか》まる気でいたの。これはヤラセなの。ジゼルにアスラへの不信感を持たせないよう、こんな細工《さいく》をして。
やっぱり、ジゼル、アスラのこと信じきれない! 一度裏切られて、また信じるなんてできない!
押《お》し黙《だま》るジゼルを、アスラは不思議がらなかった。ゆっくりと、
「それとも、本当は俺が理研と結託《けったく》しているんじゃないか。そうか?」
まるで、ジゼルの叫《さけ》びを読みすかした言葉。思わず顔を上げる。アスラは自分に納得《なっとく》するかのように頷《うなず》いた。
「そうなんだな。まあ、今のお前ならそう思い込むのも無理はないだろう。フェルドワントでの件もあることだし」
そこでアスラは大きく息をはいた。その仕草《しぐさ》にどこかしら疲《つか》れた色が見えたのは気のせいだろうか。
ジゼルから視線を逸《そら》し、遠くに向ける。そして、
「フェルドワント・コルソでお前が呼んでいたのは知っていた」
ずきん。
分かっていたとはいえ、正面切って言われると心が痛い。聞きたくない、隠《かく》しておきたいことを暴《あば》かれたような痛み。
「あれは理研のシナリオだ」
「え?」
「理研の依頼《いらい》でジゼルをフェルドワントに連れていくことにしたんだ」
ジゼルはすぐには理解できなかった。フェルドワントと理研になんの関係があるんだ。
「り……理研の依頼って?」
「お前を機械社会に放り込むこと。理由は判断データ集めだ」
「データ集めって、レコーダーを使って? そんなこと、ジゼルじゃなくてもできるんじゃないの」
「フェルドワントのデータじゃない。ジゼル自身のデータだ」
「ジゼルの!?」
理研がジゼルのデータをほしがっている?
「俺はその計画を承諾《しょうだく》した。だからといって、俺が理研と結びついているなんて考えるな」
勝手な言いぐさである。それでジゼルが納得《なっとく》するわけないじゃないか。
「なつめに有利な時は、理研にも有利にするのが俺の役目だ。それが約束《やくそく》だった」
「だ、誰との約束だよっ、ジゼルはそんなの知らない!」
「知っているはずだ、なぜ思いださない。CPU交換《こうかん》すればなつめが記憶《きおく》を操作することだって、お前は事前に判《わか》っていた。なぜか。それも知っていた。思いだしてみろ」
「そんなこと言ったって!」
悲鳴に近い声だった。周りがざわざわしてくる。ああ、だけどそんなことはもうどうでもいいや。誰に聞こえようとも、どう思われようと、かまわない。
「なんでそこでなつめが出てくるんだよ! なつめを出せば、いつでもジゼルが引き下がると思ったら大間違いだぞっ。だいたい、アスラはなつめを裏切ったじゃないか! あの時、扉《とびら》を開けなかったじゃないか。なつめのこと、知ったように言わないでよ!」
開けたのは、サクライさんだった。
あの時も、追ってきたのは白衣を着けた人間だった。あの時も、理研だった。
アスラは扉を開けてくれなかったんだ。
ぴくんと一回、アスラの頬《ほお》に動揺《どうよう》が走ったのが見えた。でも、だめ。舌が止まらない。感情が溢《あふ》れ出す。
「いまさら、ジゼルの味方のフリしたって底は割れてんだ、もうやだっ、なつめのとこ帰る!」
「逃《に》げる気か」
「逃げるもなにも、勝手に追ってくるだけじゃないかっ。なんでか、それを説明してよ!」
「分かった」
おそろしくアスラは聞き分けがよかった。視線をぐるりと巡《めぐ》らし、ギャラリーの様子を見る。あれほど沢山《たくさん》いた観客がいつの間にか引いて、今は誰一人もいなかった。その代わりに、先ほどあっさりとアスラにやられた科法使いに手を引かれて、吹抜《ふきぬ》け空間をよたよた一列に飛んでくる白衣姿の群れがある。
「川瀬の指示が行き届《とど》いたようだ――ジゼル、どうしても思い出せないというなら、俺が教えてやる。なつめの好きなようにさせておくわけにはいかないんだ。あいつらは三年前の約束を強行しにきただけだ」
「三年前の、約束?」
三年前。ジゼルが生まれた頃《ころ》のことだ。アスラは頷《うなず》いた。
「お前が『機械』ならば理研に戻す約束で、俺たちはお前をなつめに渡したんだ。その判断をつける期限は三年、明後日が締切《しめきり》で、決着をつける予定だった」
「アスラさん!」
円陣《えんじん》の向こうから、理研の所員が声を張り上げた。
「観念してください、もう逃《に》げられやしません。約束は約束です」
「お前たちも手が出せないだろう。第一、まだ期限まで二日ある。こっちから出頭させるから明後日まで待て」
顔も向けずにアスラは答えた。彼らがジゼルを捕《つか》まえるには、科法を破らなければならない。そうしたら、アスラは確実に逃げることができる。でも、白衣の連中は引き下がらなかった。
「だめです。386は自ら認めました。それは『機械』です。お引き渡しください」
「しがない研究員は引っ込んでいろ。教授を、所長を連れてこい」
教授という単語に、反射的に身体が痙攣《けいれん》して強《こわ》ばった。イコール、マッドサイエンティスト。頭の中でその図式が成り立っている。やだ、そんなの、呼ばないで。科学者、怖《こわ》い。やだ、やだよう!
思わず後ずさって、アスラの肩から転げ落ちる。うう、完全に科学者アレルギーになっそしまった。白衣姿を見るだけでも毛がたってくる。
ジゼルを拾いながら、アスラは説明を続けた。
「だが、お前が機械の気持ちが解《わか》るとかほざいたので、早合点したあいつらが待ちきれなくて現れたんだ」
「ま、待ってよ。機械の気持ちが解ると、どうして『機械』になるのさ。だいたい、ジゼルは始めから『機械』なんでしょ?」
人工知能がなければ動かない。ならば、それは『機械』以外のなにものでもない。そんな猶予《ゆうよ》期間をくれたところで、現実は現実で変わるはずがない。なんのために、そんなこと。
じっとアスラがこちらを見つめた。会話の間に、円陣がわずかながら小さくなっていくのに気がつく。なにをしかけてくる気だろう。
「ジゼル、さっきから気になってたんだが、なにか勘違《かんちが》いしてないか?」
アスラが怪訝《けげん》に眉《まゆ》をひそめて言った。勘違いだって? どこが。
「フェルドワント・コルソのことでもそうだ。記憶《きおく》を消されたとか言ってたが、ハレルヤの更正《こうせい》システムの話か? ばかだな、お前の記憶が消されるはずないだろう、あれは対メモリ用だぞ。言語メモリは消えたがな、『記憶』自体は脳が覚えているんだし、ありえるはずがない。ハレルヤには生体の脳髄《のうずい》を操《あやつ》れる技術はないんだ」
ジゼルはぽかんとアスラの言葉を聞いていた。
記憶は消されていなかった? なるほど、ならばなにもかも覚えているのは当然だ。なんだか以前にも、同じようなことを言われた気がする。そうだ、あれは記憶が欠落していると知った日、なつめに言われたんだ。確か、生体機械が不良品になるはずがない、って。
でも、ジゼルは納得《なっとく》いかなかった。あの消滅感《しょうめつかん》。真っ白な空間。あれが夢《ゆめ》だったなんて信じない。あれはこの身が体験したこと。
「だ、だって、本当に消えた感じが……」
「そりゃあそうだろう。解析《かいせき》コンピューターが全部いかれちまったんだから。交換《こうかん》するのに手間取ったんだぞ、なつめに見つからないよう、|φ《ファイ》ベクトル空間の中でやって」
え!? ジゼルはますます混乱した。だって、だって、それじゃあ、
「CPU交換もしたの?」
「ああ、初期化タイプが違《ちが》うから、機械系統全部いかれていた」
「そ、それじゃあ、どうして記憶が戻らないの!?」
「そこが勘違いしてるっていうんだよ。確かに、お前の頭には演算《えんざん》処理装置が埋《う》め込まれてるけれど、それで『機械』だなんて思い込んでないか? 言っておくが、お前の中にある機械は、言語解析コンピューターと脳髄活性システム、あと、想念信号と網膜《もうまく》信号の送信システム、人工声帯、それくらいだぞ」
「脳髄活性システム?」
「猫の脳で千五百CCの人間の脳と同じだけのことを思考するんだ、普通《ふつう》なら眠《ねむ》っているはずの脳をフル近くに回転させているんだよ。つまり、その思考は生身の脳が巡《めぐ》らしていることであって、機械がシミュレートしているわけじゃない。だから、生体的に施《ほどこ》された記憶|喪失《そうしつ》は回復しないし、それだけでは『機械』たりえない。もしそうなら、脳波|増幅機《ぞうふくき》を埋《う》め込んでる科法使いも『機械』になっちまうだろうが」
呆《あき》れたていでアスラは言った。ちょっと待て。でも、ちょっと待ってよーっ。
ジゼルは頭が痛くなった。話が把握《はあく》しきれない。思考が混乱して収拾がつかない。ジゼルは一生懸命《いっしょうけんめい》、これ以上はできないというくらいに頭を働かせた。しかし、パニックは収まる様子を見せない。ひーんっ、どうなってるんだー。
ええいっ、最初から整理をしよう。
「えっと、ジゼルは生体機械として生まれてきたんだよね」
「そうだ」
「全身生体機械だね。脳髄《のうずい》も生体機械なんだよね」
「ああ」
いまさらなにを言い出すのか、と変な顔をするアスラ。でも、今のジゼルには、それは当り前のことではない事実だった。
やっぱりそうだったんだ。この身は、ライフサイエンス法で禁じられている全身生体機械だったんだ。
その瞬間《しゅんかん》、頭の中が冷たい水に撫《な》でられる感触《かんしょく》に襲《おそ》われた。
(ああ?)
言葉の幻想《げんそう》が広がる。
夢《ゆめ》で見た幻想が、過去の記憶《きおく》と符合《ふごう》する。
水に漂《ただよ》う躯《からだ》。
いくつもの瓶《びん》の林。
眠《ねむ》っていた。
ずっと眠っていた。
声のない世界の住人として、ジゼルもそこにいた。
あれは、生体機械。ジゼルがいたところ。眠っていたところ。
そうだ。思いだした。ジゼルは全身生体機械、禁じられた実験の産物の一つだった。どうして忘れていたのだろう、あの光景を。あの記憶を。
禁じられた実験とはいえ、連邦《れんぽう》と並《なら》ぶ勢力のE・R・Fが、まじめに法律を守っているはずはない。それが公然の秘密という奴《やつ》だ。だから、ジゼルたちは生成された。
(造られた生命)
追憶に浸《ひた》りきってしまうのを、むりやり押しやって、ジゼルは考えを先に進める。
「目が覚めたということは、ジゼルの頭には人工知能が備えられているんでしょ」
そう言ったのはアスラ自身だ、あのボーヴォール惑星《わくせい》で。人工知能を備えなければ生体機械の脳は目覚めないと。
しかしながら、どうしたものかアスラは首を振《ふ》った。
「その前提が間違《まちが》ってるんだ。お前には思考用の人工知能は埋《う》め込まれていない。だからこそ、『機械』かどうか、決めかねていたんじゃないか」
五、六秒、ジゼルはポカンとした。それから、我ながら素《す》っ頓狂《とんきょう》な声を上げてしまう。
「え? え? ええーっ!?」
ぱくぱく、金魚みたいに口を開くけど、言葉にならない。それほどジゼルは驚《おどろ》いたぞ。じゃあ、なに、言語|解析《かいせき》コンピューターさえ備えれば、生体機械の脳って目覚めちゃうの? それじゃあ、「喋《しゃべ》る猿《さる》」とか「喋る犬」とかと変わらないじゃない。普通《ふつう》に生まれて脳を増量され、言語解析コンピューターを備えた動物と違わないじゃあないか。なにが宇宙時代一万年の謎《なぞ》だいっ、ものの見方の違いでどうとでもなるじゃないの。ばかばかしい事大《じだい》主義かしら。でも、だからこそ、って、どういう意味だ?
整理するつもりがますます混乱してしまった。ひーん、どうなってるの、一体。記憶《きおく》が全部戻れば、なにもかもすっきりはっきりするのに。ジゼルはつくづく記憶|喪失《そうしつ》が嫌《いや》になってきた。どうして思い出せないんだろう、これだけきっかけがあるのに!
答えは、次のアスラの言葉で出た。
「人工知能を備えてもいないのに、脳が作動してしまったお前が、なにものであるか見きわめるのが俺の仕事だ」
「!!」
心臓がとまるかと思った。
それは、どういうこと――
「なに喋りこんでるのさ!」
ジゼルの想念は、その苛立《いらだ》ちと怒《いか》りを含《ふく》んだ声で四散した。
いつの間にこんなに近づいたのか、五メートル手前まで接近した科法使いが、突き出していた腕をぱっと広げた。それを弧《こ》として、紫色《むらさきいろ》の光の輪が生じると、それはすぐさま、中心点であるジゼルたちに向かって、凝縮《ぎょうしゅく》してきた!
「拘束《こうそく》リング!?」
【隔壁《かくへき》】による拘束だ! あれに捕《つか》まったら、確実にジゼルは理研の手に渡る。
(二度となつめには会えなくなる)
脳裏に、そのフレーズが鮮明《せんめい》に現れた。目が見開かれる。
それだけは、いやだ!
その時、今まで周囲のことなど気にもとめずに、ジゼルと喋りこんでいたアスラが豹変《ひょうへん》した。目にも止まらぬ早業《はやわざ》で、組んだ両手を頭の上から振《ふ》り下ろす。
斬撃《ざんげき》!
激《はげ》しい閃光《せんこう》を飛び散らせ、リングは切断された。いつ取り出したのか、アスラの両手は小さな刀を握《にぎ》っていた。輪を崩《くず》された【隔壁】は、自らのエナジイに耐《た》えきれずその場で潰《つぶ》れる。バチン! と轟音《ごうおん》。その衝撃《しょうげき》で科法使い全員がふっ飛んだ。無論、ジゼルたちも。
吹抜けを高く押し上げられて、アスラは体勢を立て直す。慌《あわ》てて下の様子を覗《のぞ》くと、彼女たちは横風に煽《あお》られ、ギャラリーまで飛ばされていた。
「同期だから忠告してやろう!」
吹抜け中に響《ひび》き渡らせて、アスラは言い放つ。
「お前たち、いい加減に言葉から同調するのを改めろよな。そんなことだからいつまでたっても研修生なんだ。事前になにをしかけてくるか全部ばらしたら、意味がないだろうが」
「な、なにようっ、どうせ、言語イメージが鮮明《せんめい》な誰かさんとは違うわよ!」
「【隔壁】を断《た》ち切るなんて、いつの間にそんなにレベルが上がったんだっ」
案の定、下からぎゃあぎゃあと反論が飛んできた。大きなお世話、といったところだが、会長代理としてはそうでなければ困るのだ。なんにせよ、向こうの完敗でしょう。アスラ、つよーい。
「アスラさん!」
反論の中に男の声が交じる。それは、同じようにギャラリーまで吹き飛ばされた理研の人のものだった。
「自我規制のない『機械』はだめです! サイバネティックス委員会にそこまで目を瞑《つぶ》ってはもらえません!」
「連邦《れんぽう》にはもうばれてるんですっ。乗り込まれる前に、事前に手を打つべきです!」
「カイニス・オーセンが聞いたら憤慨《ふんがい》するぞ」
アスラは肩をすくめる。
ジゼルは愕然《がくぜん》とした。だめ? 事前に手を打つ? それはもしかして、もしかすると。
「あ……あの人たちは、ジゼルを、どうするつもりなの」
恐《おそ》る恐る、一言一句選びながら尋《たず》ねる。アスラは一瞬《いっしゅん》、躊躇《ちゅうちょ》した。だが、すぐに、
「抹殺《まっさつ》だ」
「!」
「自我規制と感情調整をされていないサイバマシンの存在は認められない。お前が自ら『機械』とみなした時点で、機械に対するすべての規制が当てがわれたんだ。国内ならまだしも、連邦要人にその存在が知られてしまったからには」
「処分して、証拠《しょうこ》隠滅《いんめつ》しようっていうんだね」
ジゼルはアスラの言葉をひったくった。アスラは重く頷《うなず》いた。
カイにばれてなくても、いずれはそうなる運命だったのだろう。
警告はこれだったのだ。この危険だったのだ。
理研に引き渡されること、それは消滅《しょうめつ》への道。
全身が震《ふる》え、背筋の毛が逆巻く。
「そ――そうだよね。そんなの、簡単にできるよね。だって、相手は機械だもの。人間の所有物だもの。ジゼルの気持ちなんか無視したっていいんだものね。機械だもの!」
(機械の気持ちが解《わか》っていいのか)
機械の気持ちは人間には解らない。機械の気持ちは機械にしか解らない。
機械とはそういうことなのか。自分の存在が人間によって与《あた》えられている。生かすも殺すも人間次第。唯々諾々《いいだくだく》と従わなければならない。いや、生き死になんてない。始めから生きてさえいないのだから。本物を象《かたど》っただけの、動く人形。心は、魂《たましい》は存在しない。
どくん。
心臓が痛い。
どくん。
鼓動《こどう》が苦しい。
怖《こわ》い。自分が自分以外のものだなんて、信じたくない。存在の意味が明確に定義されている、誰かのものなんて、いやだ。
ジゼルはジゼルだもの。いやだ。いや。
ジゼルは『機械』なんかじゃない。違う。違う!
やだ。
やだ、助けて。
助けて、なつめ。怖い、怖いよう!
(なつめ)
背中にびりびりと電気が流れる。
(なつめのためにここにいる)
(なつめのために存在する。じゃあ、存在意義があるなら、やっぱり『機械』なのかしら)
でも、なつめのためでない、理研のためになんか死にたくない!
「ジゼルは『機械』じゃない!」
あらん限りの声で叫《さけ》ぶ。
「ジゼルは『機械』じゃない! あんたたちのいいように消されて、それでもいいなんて気持ち、解らない! ジゼルはなつめのものだもの、あんたたちの言うことなんかきくもんか、きくもんか!」
怖い。
もうやだ。帰りたい。なつめのとこに帰りたい。助けて、なつめ。
なつめ!
「アスラさんっ、一人の少女のために、生命工学が転覆《てんぷく》してもいいんですか!?」
その時だった。
(誰?)
(誰、わたしのジゼルをいじめるのは)
それは、頭の中に直《じか》に響《ひび》きわたる声だった。柔《やわ》らかいアルトの女声。よく聞き知った、まさに今、求めていたその人の声。
「うっ!? なんだ、この響きは!」
「頭が割れる!」
階下で悲鳴が上がった。頭を押さえてのたうち回る人間も見えた。でも、ジゼルにはそんな苦痛は感じられない。もし、この声を脳で感じるのに生命波が使われるなら、そのパルスが完全に一致している。そんな感じ。
「なつめ!」
アスラが怒号《どごう》を飛ばした。アスラは平気なのかしら。空の一点を睨《にら》みつけているけど、そんなところになつめがいるはずはない。
ジゼルは歓喜《かんき》した。
「なつめ、助けて!」
「やめろ、ジゼル!」
(誰?)
(誰? 許さない。ジゼルを苦しめるものは)
(あなたもなの、アスラ。また、あなたなの)
(許さない!)
なにかが到来《とうらい》するのを感じた。
視神経の信号がカットされる。
筋肉につながる神経を電子が伝わらなくなる。
脳を駆《か》けるカルシウムイオンが旋回《せんかい》する。
五感の機能が失われていくのが分かった。
あの時と一緒《いっしょ》だ。意識が薄《うす》らいでいく。もうなんの信号も届《とど》かない。
もう、なんにも感じない。
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ACT.5
その日、俺《おれ》は逃げた。下らない公開授業なんかに出ているなんて、プライドが許さない。それに、俺は十二歳、もう見込みはない。あの授業に出る意味はなかった。あとはこのまま上の学校にいけばいいだけのことである。そっちの方がまだ見込みがあるってものだ。だから、そのために俺は頭がよくなくてはならない。もっともっと学ばなければならない。
俺は近くの図書館に入り浸《びた》るのが好きだった。そこへ赴《おもむ》いて、ひねもす知識を貪《むさ》ぼっていられれば、なんて有意義な一日が過ごせるのだろうと考えた。が、いかんせん、休日でもない真《ま》っ昼間《びるま》に、十二の子供が居座り続けることはできない。あそこには顔なじみも多かった。おっぱらわれ、連絡《れんらく》されるのがオチだ。
まあ、図書館がだめなら、また別のことをするだけである。
こっそりと舞《ま》い戻《もど》って、調理室に忍《しの》び込む。お目当てのものを見つけると、俺はめったに人が来ない裏庭の、茂《しげ》みに囲まれた中に飛び込んだ。
学習道具を詰《つ》めた鞄《かばん》を開き、中からアルミホイルを取り出す。緩《ゆる》い弧《こ》を描《えが》いて地面を掘《ほ》り、そこにホイルを敷《し》いて集光させる。そして、以前に科学室から失敬した折り畳《たた》みの三脚《さんきゃく》を開き、ホイルの焦点《しょうてん》に合わせた。
そこで出番《でばん》なのが、とっておきの太陽電池である。不燃物《ふねんぶつ》ゴミの中に捨てられていた街路時計を解体して得たものだ。少し手を加えて、発熱体にしてある。ゴミにこそ真理への近道は隠《かく》されている、とは誰の言葉だったか。俺はそれを実行した。照光面を逆さまにして、三脚に乗せる。さらにその上に、金網《かなあみ》、木切れを重ね、準備は調《ととの》った。
そうして、おもむろにくすねてきたばかりの秋刀魚《さんま》を取り出す。口から枝を刺《さ》して、金網の上にかざした。
ぼーっと眺《なが》めること一分、木切れに一条の煙がたったかと思うと、ぱっと火が上がる。
思った以上に効率がいいぞ。俺は感心しながら、気長に秋刀魚を焼くことにした。
「ほほう、いい匂《にお》いがすると思ったら、秋刀魚かね」
俺はぎょっとした。近くを通る人さえいないこんなところで、他人の声がいきなり降ってきたのだから。顔を上げると、茂みの向こうからこちらを窺《うかが》っている顔が一つあった。
おじさんだった。でも、まだ若いほう。黒い髪《かみ》も黒い瞳《ひとみ》も、陶器色《とうきいろ》の肌《はだ》も、この地方ではあまり見かけない作りである。ひどく整っている顔に、俺は度肝《どぎも》を抜《ぬ》かれた。異邦《いほう》の人間への観念的な神秘性《しんぴせい》を認めて、さらに驚くほど、ふしぎに綺麗《きれい》な顔立ちだった。別に、女のようにきれいなわけでなく、おじさんはおじさんなりの立派ぶりなのだ。あ、なるほど、これは綺麗という形容詞ではなくて、立派だとか格好いいとかいう形容詞なのか。自分でも言語感覚はいいと自負していた俺だが、その時はどうしたものか、表現を間違《まちが》えてしまった。
目を細めて親しげに微笑《ほほえ》む表情。おっさんからは、普通《ふつう》の大人が子供に向ける絶対的な優越《ゆうえつ》の臭《にお》いが感じられなかった。授業のさぼりをとがめにきたのでも、理解ある大人のフリをしているわけでもなさそうだ。とりあえず、緊張《きんちょう》を解《と》く。
「側に行ってもいいかな。わたしは秋刀魚《さんま》には目がないんだ」
「い……いいけど、おっさんにやるとは言ってないぞ」
「まあ、堅《かた》いことは言わない。わたしは合意を大切にする性格だが、どうだろう、きみを院長のところに連れていってもいいかな」
「……わかったよ」
のんびりとした口調《くちょう》で、このおっさん、俺を脅《おど》しやがった! 油断ならない男だ――と、いつもなら警戒《けいかい》する俺だが、どうもこの人相手にはそんな気になれなかった。思わず、子供相手に言ってくれると笑いたくなってしまった。
なんだろう。この感じ。
「いやあ、なかなか面白《おもしろ》いことやってるねえ」
枝をかき分け中に入ってきたおっさんは、しげしげと俺の秋刀魚《さんま》焼き装置《そうち》を覗《のぞ》き込みながら、そう言ったものだ。ぱりっとした、子供の目から見ても高価そうなスーツで、そのまま青草の上に座り込む。
「太陽電池かい。ふうん、熱変換《ねつへんかん》しているのか。自分で改良したのかな」
「まあね。なかなか発火がいいんだぜ。本当はもっと、エネルギー交換率がいい奴《やつ》があればな」
誇《ほこ》らしく応《こた》える一方で、俺はなんでこんな見も知らぬ男に、気を許しているんだろうと、訝《いぶか》った。答えは簡単に出る。彼は気のいい人間なんだ。だからだ。
ぷすぷすと秋刀魚が膨《ふく》らみ始めた。
「きみはサンウェル学院の学生だね。どうしたんだい、授業は」
そう聞かれて、俺はようやく彼が学院のお客であることを悟《さと》った。
「……おっさん、公開授業の参加者だな。そっちこそ、こんなところで油売ってないで、いい子を見繕《みつくろ》いに行くべきだぜ」
俺は親切に忠言してやった。これは、大人にそんな口の聞き方するものではない、と常に窘《たしな》められている言い方だ。そんなこと子供に言われる筋合いはないと、普通《ふつう》なら怒《おこ》るはずだ。ところがおっさんは、気分を害した様子もなくわははと笑った。この度量、ただものではないな。まあ、参加者ならそれくらい、当然か。
「きみ、名前は? 年はいくつだい」
ほらな。その問いがくることを予想していた俺は、肩をすくめた。
「アスラン。アスラン・シュレーダ。十二歳だよ」
「十二歳か……」
考え込むおっさん。この反応も俺の予想の範囲《はんい》内である。十二歳も年をくった子供ではしかたがない、それが学院に訪《おとず》れる客人《きゃくじん》の一致した意見だ。が、それでいいのだ。すべては俺の計画通り。下手《へた》に気を許せば、自らの未来を閉ざすことになってしまう。それではいけない。
俺は油が滴《したた》る前に、秋刀魚《さんま》をくるりと回転させた。香《こう》ばしい匂《にお》いをまき散らす。
「いい匂いだねえ。わたしは八歳、九歳、いって十歳|辺《あた》りを考えてきたんだ。残念だなあ、その秋刀魚を焼く手付き、凡人《ぼんじん》にはないのに」
「俺だって、秋刀魚を焼く技術なんかで見初《みそ》められたくない」
「ふむん。その、反抗的《はんこうてき》でもなく、かといってませて背《せ》伸《の》びをしているわけでもない、きみの物おじしない態度もおじさんは気にいっちゃったんだが、あ、自分の獲物《えもの》を気前よく分けてくれる度量もだよ、いかんせん、十二じゃあねえ」
[#挿絵(img/sextant_100.jpg)入る]
「いいよ。自分でも分かってるから」
俺は礼儀《れいぎ》としてそう言い、黙々《もくもく》と秋刀魚を回転し続けた。こういう態度をとると、子供らしくないとか、かわいげがないとか、文句を言われるのだが、おっさんは微塵《みじん》も態度を変えないで、笑ったまま俺に話しかけてくる。
「きみはペシミストなのかな」
「違《ちが》うよ」
多少の驚きを隠《かく》して、俺は答えた。十二の子供相手にそんなことを聞く奴《やつ》があるものだろうか。
「投げやりになってるわけじゃない。第一、今まで引取り手が決まらなかったのは、俺自身の計画だぜ」
「ほほう。どんな計画だい」
「引き取られれば、その家の跡《あと》を継《つ》がなきゃあなんないだろう」
大抵《たいてい》がそういう前提の下に引き取られていくのである、サンウェル学院の孤児《こじ》たちは。なまじ、英才教育なんか施《ほどこ》されるから、その頭を狙《ねら》ってやってくるのは、なにがしの企業《きぎょう》の会長だとか、うんたら銀行の頭取とか、跡を継がせたいのになんらかの事情があって該当者《がいとうしゃ》のいない大人たちばかりだ。彼らが要求するのは幼児《ようじ》の内から英才教育を施され、自分の家の色に自在《じざい》に染《そ》めることができる十歳以下の子供だ。十歳を越《こ》えるとしっかりした自我が形成されてしまう。だから人気がない。それに、企業会長の跡取りともなると、王者のふるまいは子供の内から叩《たた》き込まなければならないので、幼児を求めるケースが多かった。
「十歳までは申し込みが多かったよ。自由気ままに生きて、自分の思う人生を選ばせてくれるならば、ついていったさ。だけど、優秀なこの頭を狙ってきた奴の中には、そういう奇特《きとく》な人物はいなかっただけのことだ」
「きみは優秀なのかい」
「パンフレットがあるだろう、俺の項目見てみなよ。俺は考えたね、ならこのまま学院に居残ろうって。とりあえず、高等部まではいける。その後は奨学金《しょうがくきん》で上の学校にいく。その道筋の方が確実で面倒《めんどう》はないだろう。効率もいいし」
「ふうむ、きみにふられた大人は数え切れないほどいるのか。そこまで計算して、きみが進みたいと考える道はどんなのか、教えてほしいな」
「科法使いだよ」
なんでこんなことを喋《しゃべ》ってしまうのだろうと、内心|焦《あせ》って自制しながらも、口は勝手に動いた。
「俺は科法使いになりたいんだ」
「へえ。それはまた、どうして。きみほどの天才がその気になれば、経済方面でも、歴史方面でも、なんでもござれだろう。それを、あんな一企業の歯車なんかに」
俺はおっさんの言葉を遮《さえぎ》って言った。
「俺は知りたいんだ、すべてのことを。すべてのことに興味《きょうみ》があるんだ。銀河経済の流動をこの目で感じたいし、この世界に現在に至るまでなにが生じてきたのか、その知識を得たいとも思ってる。身体《からだ》を鍛《きた》えるのもやりたいし、瞑想《めいそう》でこの世の真理を悟《さと》るのも、大銀河を隅々《すみずみ》まで調べるのもいい。よーするに、俺にはやりたくてたまらない将来が、山のようにあるんだっ。おっさんは子供の頃、どれを自分の職業にしようか、迷ったことはないか? 俺はまさにその状態なんだよ。どれを一つ取っても、残りが惜《お》しくてたまらない。全部|網羅《もうら》するにはあまりに多岐《たき》に渡っていて、どれ一つ満足にできないだろう。俺はそういう中途半端《ちゅうとはんぱ》なのはイヤなんだ。だから、科法使いを選んだんだ」
「ふむ、なるほどね」
おっさんは相づちを打った。俺は心の中で舌打ちをした。このおっさん、俺の話をまともに聞いてないな。所詮《しょせん》、大人なんて子供の話など聞いていないも同然なのだ。彼らは知っていると思いこんでいる。子供がこれから話すことと同じ経験を自分もしてきた、だから聞かなくても分かる、と信じている。が、現実では完全に同じことは起きないし、なんといっても大人は過去のできごとは覚えていても、それに伴《ともな》う感動や感覚を引き出すことはできないのだ。なのに、知っているふりして、覚えているふりして、子供を適当にあしらい、自分さえも騙《だま》すのに成功して納得《なっとく》してしまう。自分のスケールでものごとを判断する彼らは、年を経《へ》るごとにそのスケールが矮小化《わいしょうか》していくのに気づかないんだ。なんて愚《おろ》かなんだろう、なんてまどろっこしいんだろう。
俺はばかばかしくなって、それ以上を説明する気になれなかった。まあ、そんな義理もないのだから、いいだろう。
でも、心のどこかで割り切れないものがあった。
(この人なら、俺の言うことちゃんと聞いてくれそうだったのに)
(俺の言いたいこと、解《わか》ってくれる気がしたのに)
秋刀魚《さんま》が煙を上げていた。
「……科法使いはコキ使われるよ」
不意に、おっさんが言った。低い、耳によく通る声。思わず顔を秋刀魚から上げて、ひどく端正《たんせい》なその顔を凝視《ぎょうし》する。おっさんはのんびりとした口調《くちょう》で続けた。
「あれはねえ、本当に使いっぱなんだ。世間ではエリートだの選ばれた職業だの、騒《さわ》ぐけど、あれはE・R・Fコーポレーションのためだけに育成されて、その科法を自分のために使うことはできないんだよ。本当に企業《きぎょう》の歯車なんだ。みんな誤解《ごかい》をして科法大学を目指してくるけど、理想と現実のギャップについていけなくて半分は落伍《らくご》する。格好いいなんてものじゃないんだ。彼らは気ままな魔法使《まほうつか》いではなくて、一つの企業に所属した労働者に過ぎない。それでもいいのかい」
「それは……」
言いかけた時だった。
ガサガサと背後の茂《しげ》みが派手な音をたてた。仰天《ぎょうてん》して振《ふ》り向くと、そこにはなにか言いたそうな、目を釣《つ》り上げた教師が佇《たたず》んでいた。
しまった。秋刀魚の煙のこと、懸念《けねん》し忘れた。いまさら後悔《こうかい》しても後の祭りだった。
俺はこってり叱《しか》られた。院長室で、授業担任、生活担任、総長、副院長までよくもまあ、きゃんきゃんと騒《さわ》ぎ立てたものだ。あのパワーはなんだろう。いったい、なにを思って叱っていることやら。口では俺のためと言うが、それほどまでに彼らは教職者なのだろうか。教職なんか大学で資格さえとってしまえば、誰にだってなれてしまうもの。穀潰《ごくつぶ》しと言われる二流大学を出て、熱意もないが望む職もないので教職を選んでしまった。そんな奴《やつ》らばっかだ。他の子供は教師を恐《おそ》れたり、反抗《はんこう》したりしているが、考えてもみろ、あと十年で自分たちは教職者の生成工場の中に入るんだぞ。そして、友人の何人か、もしかしたら自分自身が教職を選んでいるのだ。それを考えたら、教師なんてただの人間じゃないか。特別に見なすことはない。子供の社会に足を突《つ》っ込んでお山の大将気分で、本当の社会に出ない分、普通《ふつう》の大人よりたちが悪いと思う。彼らの利点は年が上だということだけだ。年長者を敬《うやま》うなんて、どうしてできる? 生きてきた年数が違《ちが》うのだから、経験した量も品も多いのは当然だ。が、それの外殻《がいかく》だけを抜《ぬ》き取って、中身をどこかにうっちゃっているようなばかな奴らを、どうして俺が敬える? それだけのことをしてみろってんだ。
でも、院長先生は別だ。初老のじいさんだが、その目には理知的な輝《かがや》きがある。俺が素直に敬えるほどの業績の持ち主でもあった。じいさんに窘《たしな》められたら、しぶしぶだが俺はその言葉に従っただろう。が、幸か不幸か、じいさんは自らの意見をめったに出さない。
ただ、笑って、一通り周りの説教が済んだ頃、
「それで、アスランはどう思っているのだい」
と優しく問いかけてくる。俺はそういうじいさんだから好きなのかもしれない。彼の貫禄《かんろく》や瞳《ひとみ》の輝き、落ち着きなどは、じいさんくらいの年になって初めて身につくもの、そう思っていた。
だが、俺はあのおっさんにそれを感じた。飄々《ひょうひょう》とした調子で、狡獪《こうかい》なところは見つからなかった。だけど、彼はそうなのだ。彼の地位を考えると、確かにそうなのだ。
日も沈み、院長室から解放されて宿舎に戻る道で、俺はおっさんの待ち伏せに出くわした。
「やあ。悪いけど、秋刀魚《さんま》はわたし一人で食べさせてもらったよ」
三十代前半。笑う顔に強者の、とことん強者である自分への自信と誇《ほこ》りが満ちている。それを誇示《こじ》しているわけじゃないんだ。でも、なにをどうしても、それが分かってしまう。
「おっさん、E・R・Fの次期会長なんだって?」
単刀直入に尋《たず》ねると、おっさんは照れも隠《かく》しも、不快な顔もせずに、軽く頷《うなず》いた。
「おっさんには娘《むすめ》が一人いただろ。いまさら、ここになんの用さ」
「もう一人、子供が必要なんだ」
「俺じゃだめか?」
するりと言葉は出てきた。ためらいも照れも湧《わ》きあがらなかった。このおっさんと対等に語るには、こういう態度でなければいけない。そう心が感じた。実行は簡単だった。おっさんは想像していた通り、その飄然とした態度を崩《くず》さなかった。驚いた様子も怪訝《けげん》な表情も、大人特有の哀《あわ》れみと蔑《さげす》みの入り混じったまなざしもない。ただ、好奇心《こうきしん》を宿らす黒い瞳がきらりと綺羅《きら》めくのが、夕闇《ゆうやみ》の中で分かった。
「だめだな。わたしが欲しいのは十歳以下だ」
「そっか」
あっさりと引く。そう、これでいい。別に、親なんかいらないのだから。
いつか、このおっさんと再び会うだろう。そんな予感がした。俺は科法使いとして、E・R・Fコーポレーションの会長と対峙《たいじ》する。それでも、対等な立場でありたい。俺はそう願った。思えば、すでにその時、俺はこの家系の魔力《まりょく》に魅入《みい》られていたのかもしれない。
歩き出す。
「秋刀魚のお礼がしたいんだ。なにがいいかな」
「お礼?」
おっさんの言葉に、俺は足を止めてしばし考えた。そして、
「俺を科法大学に入れられるか?」
「実力がなければ無理だよ」
「その実力を培《つちか》わせるのがおっさんの役目だよ」
こうして、俺はおっさんの――かわな・セキ会長代理のもとへ、未来の科法使いとして引き取られたのであった。
「これがうちの娘《むすめ》だ」
そう紹介《しょうかい》され、おずおずと顔を覗《のぞ》かせたなつめを忘れたことはない。
黒目がちの二つの目が、ひじょうに印象的だった。
当時八歳になったばかりの少女は、とても父親に似ていた。闇《やみ》のような輝《かがや》きの髪《かみ》も、神秘的な瞳《ひとみ》も、どこまでも整った顔の作りや全体から漂《ただよ》う雰囲気《ふんいき》も、そっくりだった。
綺麗《きれい》な少女だ。俺は不覚にも見とれた。でも、それは不可抗力《ふかこうりょく》だ。こんな幼《おさな》い内からこの美貌《びぼう》では、将来どこまで綺麗になるのか想像がつかない。
彼女は俺と目が合うと、途端《とたん》におっさんの陰《かげ》に引っ込んでしまった。恥《は》ずかしがり屋なのか、人慣れしていないのか。おっさんの連れてきた夏離宮《なつりきゅう》という別荘《べっそう》は、遠い異邦《いほう》の建築様式で築かれていて、古色蒼然《こしょくそうぜん》とした木造の家だった。重々しい雰囲気と静寂《せいじゃく》が張り詰《つ》めた空間に、俺は感嘆《かんたん》した。これがいわゆる佗《わ》びの世界か。靴を脱《ぬ》いで上がる習慣も、畳《たたみ》の生活も、俺には初めてで興味《きょうみ》深《ぶか》いものばかりだった。
だが、周りに人家がないのには呆《あき》れた。社員が避暑《ひしょ》にくるという建物はあるが、今は秋、誰もいない。一番近い隣《となり》は五キロメートル林の向こうというじゃないか。陸の孤島《ことう》か、ここは。
そんなところに、E・R・Fの娘は一人で住んでいた。
「今日はここに泊《と》まりなさい。わたしはシティに戻《もど》って手続きをしてくるから。なつめ、彼はわたしのお客さんだから、恐《こわ》がることはないよ」
おっさんは現れた科法使いとともに去っていった。
この屋敷《やしき》には住み込みのお手伝いさんが三人いた。彼らが少女の世話をしているそうだが、俺は妙《みょう》に引っかかってしょうがなかった。
なぜ、E・R・Fの娘がこんな淋《さび》しい海辺《うみべ》に一人で暮《く》らしているのだろう。ゆくゆくはエルシを支配し、銀河を制する企業《きぎょう》の会長として立つ人物である。本来なら、企業の仕組みや処世術、外交の手腕《しゅわん》を身につけるため、シティにいるべきではないだろうか。確かに、俺は次期会長に一人娘《ひとりむすめ》がいることは知っていた。が、その容姿や言動は知らなかった。彼女はテレビに出てこない。つまり、公《おおやけ》の場には絶対出ないからだ。まだ幼《おさな》いから、それで理由がつくかもしれない。でも、幼いからこそ、どうして双親《ふたおや》のどちらも彼女をこんな僻地《へきち》に押《お》し込んで、離《はな》れて暮らしているんだ?
「お嬢《じょう》さまは身体が弱いんだよ」
賄《まかな》い婦《ふ》が言う。
「人の気に当てられてしまいなさる。まあ、どこかの誰かさんみたいに、心臓に毛が生えてるほど健康じゃあないんだよ」
「もしかして、それは俺のことか?」
「ええとも。あはは、あれは語り草になるだろうね。旦那《だんな》さまに科法使いにさせろなんて脅《おど》した子供は初めてだよ!」
そこで俺は考えるのをやめた。人の家の事情だ。俺の介入《かいにゅう》すべき事柄《ことがら》ではない。
夏離宮にいる人たちは気のいい人ばかりだった。生活感があった。学院のように、安っぽい理想と正義で塗《ぬ》りかためられてはいなかった。
俺はそれから二週間、そこに居続けた。手続きが難航《なんこう》しているらしい。それはそうかもしれない。なんの縁《えん》もゆかりもない子供を引き取って、養育しようというのだから。援助《えんじょ》ならまだよかったかもしれない。大体、おっさんたちは養子を探している途中《とちゅう》だった。そんな時期に俺がのこのこ現れて、周囲は混乱しているのかもしれない。まあ、そこらへんはおっさんの腕《うで》の見せどころだ、あのE・R・Fの会長代理の手腕《しゅわん》を確かめさせてもらおうじゃないか。
ここの生活に文句はなかった。馴染《なじ》むにつれ、あの学院がいかに不自然だったかを思い知ることになった。
あそこには家庭はなかった。子供と大人。その関係しかなかったのだ。大人は決して親にはなれなかったし、子供は彼らの息子《むすこ》や娘ではなかった。隣《となり》のおばさんや近所のガキにさえなれなかったのだ。
俺は相変わらず生意気だと叱《しか》られ続けた。賄いのおばちゃんはおたま振《ふ》り回して怒《おこ》ったものだ。でも、それにさえ生活感がある。同じ俺のためであっても、叱《しか》る意味さえ違《ちが》ってみえた。
変に正しいからとか正しくないからとか、理屈《りくつ》をつけないせいだろうか。
俺にとって夏離宮は居心地《いごこち》のいい家と化していた。ある一点を除けば。
一点。それはこの家の娘、なつめのことである。
おっさんが紹介《しょうかい》してくれた日以来、まともに顔を合わせたことがなかった。食事をするところも違うし、昼間は部屋《へや》に閉じこもりっぱなし。俺が歩いていると、確かにこちらを窺《うかが》っている気配はあるのだが、振り向いた途端《とたん》、姿は消えている。いきなり五つも年上の子供が一緒《いっしょ》に暮らすようになったのだから、内気な子ならしかたないかもしれない。ひどく恥《は》ずかしがり屋で、人見知りをする子かもしれない。
だけど、気になるのは、あの目。
あの目を俺は知っている。あれと同じものをよく見た。
あれは、学院に連れてこられた子供の目と同じ。親に捨てられて、脅《おび》え、精神が不安定になっている孤児《こじ》の目と同じなんだ。どうしていいのか分からない不安と、悲しみ、親への怒《いか》り、絶望――あらゆる負の感情が混ざって、暗い孤独《こどく》に満ちている。悲しくて震《ふる》え、脅えている。それと同じ色だった。
始めは父親を俺にとられると勘違《かんちが》いしているのかと思ったけれど、そうではなかった。この環境《かんきょう》では親はいないも同然なのだ。親は二週間、顔を出さなかった。でも、この家ではそれもしかたがないのかもしれない。多忙《たぼう》を極める双親《ふたおや》。孤独な少女。よくある構造だ。でも、いるだけましというものだろう。保護者の欄《らん》になんの疑問もなく名前を書けるのだから。
俺はそのことについてはとやかく考えまいと思った。でも、仲良くしたいとは言わないが、家の子より居候《いそうろう》が図々《ずうずう》しく振舞《ふるま》っているのは、いくら俺でも気が引ける。あの子と一度なんでもいいから話してみたいと思ったが、そのチャンスさえなかった。
ある日、俺は林の中を散歩していた。防風林では、地面を見るとところどころに貝が埋《う》まっている。昔はここら辺まで海がきていたのか、なんていろいろ推測を巡《めぐ》らすにはちょうどいい裏庭だった。
林は少し盛《も》り上がっていて、小さな丘《おか》を形成している。俺はぶらぶらと歩いていて、たまたまそれを発見した。
あれはなんだろうか。丘の頂上に奇妙《きみょう》なものがある。俄然《がぜん》、興味《きょうみ》が湧《わ》いて、俺は足を速めた。
それは大小三つの円い石だった。自然のものではない、きれいな球を描いた石が三つ。おかしなことに、それらは縦に並んではいるが、どれも互《たが》いに離《はな》れていて、宙に浮《う》かんでいるのだ。そして、石の周囲はなにやら白銀色にきらきら光っている。まるで、資料室で見たダイヤモンド・ダストのよう。
俺は食い入るようにそれを見つめながら、慎重《しんちょう》に歩み寄った。これはなんだろう。林の中に、いきなり置かれたオブジェ。斥力《せきりょく》実験だろうか。石自体は単なる石、どこも変わったところはない。では、この霧《きり》の結晶《けっしょう》が……
「それに触《さわ》らないで!」
我知らず手を伸《の》ばしていたのに、俺はその悲鳴で気がついた。えっ、と振《ふ》り向く暇《ひま》もなく、次の瞬間《しゅんかん》、俺はものすごい力で突《つ》き飛ばされていた。
「わわっ!?」
バランスを崩《くず》し、勢いで丘の向こうの斜面《しゃめん》を転げ落ちる。なにがなんだか判《わか》らない内に俺は宙を飛ぶと、そのまま重力に任せて、どんっと穴《あな》の中に落ちてしまった。
したたかに腰を打って、俺は顔をしかめた。なんでこんなところに穴があるんだ?
結構深い穴だった。俺の身長よりも高く、ごろ寝《ね》ができるくらいに広い。日の光は俺の身体を見ることができたけれど、どうしたものか、壁《かべ》や地面は真っ暗、いや、真っ黒でなにも判別できなかった。まるで、黒い円柱の箱が埋《う》まっているようだ。地面の中という気がしない。いや、気がしないというよりも……
俺は周囲の感触《かんしょく》を確かめてみた。冷たい。つるつるしている。これは土の感触ではないな。ガラスみたいだ。
「落し穴にしちゃあ手が込みすぎじゃないか、おい」
憮然《ぶぜん》と言うと、おずおずと上から顔が覗《のぞ》いた。なつめ。意外にも、あの美少女の思い詰《つ》めた顔だった。
なんてことだ。俺は頭を押《お》さえた。八歳の、あんな華奢《きゃしゃ》な女の子に俺は突《つ》き飛ばされ、穴にはまってしまったのか。一体、あの細腕《ほそうで》のどこに、あんな力があったんだ。半ば感心し、半ば怒《いか》りを抑《おさ》えて俺は声を上げた。
「おい、手を貸してくれよ」
「…………」
なにかもごもごと言っている。
「え? なんだって?」
「……もう、あそこに近づかないって、約束《やくそく》してくれる?」
それが初めて聞いたなつめの声だった。二週間近く過ぎてから、やっと耳にした。あの綺麗《きれい》な容姿にぴったりな、透《す》き通る声。小さい子供特有のきんきらした、耳障《みみざわ》りなものではない。
「あそこって、あの石のこと?」
こくんと頷《うなず》く。あれは彼女のものなのか。そうなると、俺の好奇《こうき》の虫が再び騒《さわ》ぎ始めた。
「あれ、なんだい」
答えは返ってこない。
「なんかの実験? おまじないか」
「…………」
「近寄っちゃいけないのには、理由があるのか?」
だんまりを決めるなつめ。無表情の小さな顔がこっちを凝視《ぎょうし》する。なんだか理不尽《りふじん》に責められているようだ。俺はちょっと意地悪をしてみたくなった。いきなり突き飛ばしてこんな穴に落としておきながら、詫《わ》びの一つもいれないとはなにごとだろう。ここは一つ、礼儀《れいぎ》というものを教えてやろうじゃないか。そう考えた。今まで避けられてきた反動もあったかもしれない。
「理由がないなら無理だな。俺は好奇心の塊《かたまり》なんだ、止められても勝手に足が動くんだぜ」
「……どうしても、だめ?」
「理由があるっていうなら考えないでもないさ。いきなり突き飛ばされ穴に落とされ、それでも言うことを聞いてやれるほど、俺は大人でもないし、年下を甘《あま》やかしはできない」
しばらくじっと俺の言葉を聞いていたなつめだが、不意に顔を引っ込めた。そして、足音。
うーむ。俺は腕を組んだ。これはかなりの重症《じゅうしょう》だぞ、あの子は完全に自分の内側に閉じこもっている。会話がなりたたない。
あれは家庭に飢《う》えている子供だ。あれでは俺たちと変わりないじゃないか。双親《ふたおや》が揃《そろ》っていながら、なんてざまだ。双親がいるだけまずいのかな、俺みたいに割り切ることもできないか。いや、まだ八歳だった。絶対的な語彙《ごい》が少ないのだから、自分の感情を説明できないでいる。
どうしてあんな風に育てているのだろう。いくら忙《いそが》しいといったって、子供の面倒《めんどう》くらいちゃんと見ろよな。週に一回は顔を見せるべきだ。おっさんはそんな手抜《てぬ》かりがないような人物に思えたんだけれど。
あの子、笑えば本当に可愛《かわい》くなるのに。
そこまでたどりついて、俺は頭を振《ふ》った。人の家庭に入り込むんじゃない。俺には解《わか》らないものがあるかもしれないのだから。俺には根本的に解り得ないものがあるのだから。
「あ。どうやって外に出よう」
その問題が現実として感じられるのに、かなりの時間を要した。
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ACT.6
(科法使いになって)
(科法使いになって、世界を見てみたいんだ)
(あれが一番、世界を見渡せる。一番広く見渡せる展望台だ)
(ベクトルさえ操《あやつ》れれば、どんな世界も覗《のぞ》けるじゃないか。そうだろう、なつめ)
(なつめ……)
そして。
ジゼルは目が覚めた。
以前とは違《ちが》って、今度はあっさりと分離《ぶんり》できた。しかも、ちゃんと記憶《きおく》している。
これはアスラの記憶だったんだ。混線したんだ。なんのはずみでか、ジゼルに流れ込んできた。あまりにも鮮《あざ》やかな記憶。
涙が溢《あふ》れる。胸が締《し》め付けられるよう。そうだ。そうだった。アスラはなつめの本当のお兄さんじゃなかったんだ。思いだした。
首を振《ふ》る。今、なつめに会いたい。アスラに会いたい。アスラに聞きたいことがある。どこにいるの。
顔を上げ、側にいたはずのアスラを見つけようとして。
ジゼルは愕然《がくぜん》とした。
ここは、どこだ?
無の空間。
そこは白かった。どこまでも白く、そしてなにもなかった。かろうじて座標があるくらい、上下左右があるくらい。遠近はない。白い。どこまでも白い空間。足元はしっかりしているけれど、大地はない。空もない。すべてが白で塗《ぬ》りつぶされた世界だ。まるで、|φ《ファイ》ベクトル空間に迷い込んだらこんな感じで――
なに、ここ。
どこ、ここ。
どうしてジゼルはこんなところにいるの。なんでここにはなんにもないの。危険はないの、どうやったらおうちに帰れるの、ここから出られるの。
どっと孤独感《こどくかん》が押《お》し寄せた。同時に、不安、戸惑《とまど》い、焦燥《しょうそう》、そして恐慌《きょうこう》が襲《おそ》ってくる。
「ここ、どこ!? やだ、どうなってるの! なつめ、なつめ! アスラ!」
「うわっ!?」
ぎゅんっ、と目の前の白が濁《にご》って歪《ゆが》んだかと思うと、アスラが出現したのだ。自分で呼んでおきながら、突然《とつぜん》のこととまさかのことに、仰天《ぎょうてん》して飛び上がってしまうジゼル。アスラはキョロキョロ目を動かして、ジゼルを見つけると、
「なんだあ、いきなり移動したぞ。ジゼル、お前が俺《おれ》を呼んだのか」
「あ――アスラあっ!」
変わらないいつものアスラ。その自信満々な顔を見て、緊張《きんちょう》が一気に崩《くず》れ、思わず足に飛びつく。えーん、よかったよう。こんなところに一人なんて怖《こわ》かったよう。
アスラは笑いながらジゼルを抱《かか》えあげると、
「熱烈《ねつれつ》な歓迎《かんげい》ぶりだなあ、正義の味方、ここに登場ってところか。しかし、こんな殺風景なところにいるなんて、お前さんももの好きだね」
「す、好きでいるわけじゃないやいっ。目が覚めたらこんなところにいたんだもの。ここ、どこなのさ!」
「それだがな。ジゼル、俺となつめ、どっちに正義があると思う?」
「なつめ」
間髪《かんはつ》を入れずジゼルは答える。そして、肩すかしを食らって憮然《ぶぜん》となるのを見たアスラ、一つ頷《うなず》いて、
「よーし、いい返事だ。じゃあ、なにがあってもなつめを信用しろ。いいな」
[#挿絵(img/sextant_122.jpg)入る]
「アスラ……?」
「ここは、なつめの意識の中だ」
やけにはっきりと、断定的な口調《くちょう》でアスラが答えた。ジゼルは言われた言葉の意味が理解できなくて、ぼけらーとアスラを見返す。そして、自分でも言葉の感触《かんしょく》を確かめながら、
「……意識の、中?」
「そ。多分、ジゼルは初めてだと思う、ここに来たのは。あいつはそれだけは守っていたし、今回も俺や理研の奴《やつ》らだけにしたつもりなんだろう。ところがだ、ジゼルは俺にひっついていたし、さっき、俺と同調させて起こしたから、その余韻《よいん》があったんだな、俺に巻き込まれて一蓮托生《いちれんたくしょう》だ」
なにを言ってるのだか、よく解《わか》らなかった。でも、アスラの言うさっきとは、部屋《へや》で目を覚ました時のことだ。そっちの方は理解できる。同調させて起こしたというのは、どういうことだろう。
「同調させて起こすって?」
「ああ、心理|治療《ちりょう》の一つなんだ。焼き切れた解析《かいせき》コンピューターを交換《こうかん》したにはしたんだけれど、お前、なかなか目が覚めなかったんだよ。医者に言わせれば、どうやら自閉|睡眠《すいみん》に陥《おちい》っているらしい、つまり、現実の世界には厭《いや》なことが多いから、眠《ねむ》りの中に現実|逃避《とうひ》しているという、状態になっていたの。そこで、一番親しい人が脳に直接呼びかける方法をとったんだ。なつめにやらせればよかったんだが、そういう状況《じょうきょう》じゃあなかったんでな。俺の声、聞こえただろう」
「声なんか聞こえないよ……」
声どころか、記憶《きおく》まで届《とど》いてしまったよ。ジゼルはそう言いそうになった。多分、そうなのだろう。おかげであの『夢《ゆめ》』を視《み》たのだ。アスラと同調したせいで、彼の記憶を視せられた。いや、覗《のぞ》き視してしまったのだ。
アスラがなつめの兄ではないという記憶。
アスラには親がいないという記憶。
視てよかったのだろうか。目を閉じておくべきだったのだろうか。誰にだって他人には見せたくない過去はある。あれがアスラにとってそうじゃないと、どうして決められよう。不可抗力《ふかこうりょく》とはいえ、今の生活の裏を暴《あば》くような過去を、盗《ぬす》み見するように視てしまって――
だから、言えなかった。罪悪感《ざいあくかん》が胸にわだかまって、喉《のど》を詰《つ》まらせる。それを気取《けど》られないよう、ジゼルは話題を進める努力をした。
「それで、さっきの話だけど、なつめの意識の中って、具体的にどういうことなの?」
アスラの言葉が抽象的《ちゅうしょうてき》な表現だということは判《わか》る。だからといって、その表現の意味するものが見えるはずないじゃないか。
ところがどうしたものか、もの憂《う》げにアスラは手を振《ふ》ってみせた。そして、
「残念だが、これが具体的な表現なんだよ、ジゼル」
「え……」
「もっと解り易く言えばな、これは強制|催眠《さいみん》と似たようなもんなんだ。一種の催眠状態に陥《おちい》った俺たちの意識は、強制的になつめの意識と同調させられ、あいつの世界に封《ふう》じこめられた。言っている意味、解るかあ?」
素直にジゼルは首を振って否定した。現象自体は百歩|譲《ゆず》って理解したと言ってもいい。なんとなく、さっきアスラが言った、心理|療法《りょうほう》と似通ったものだから。でも、それをどうしてなつめがやらなくちゃあならないの。
「これは『夢』だ。ただし、今ここにいる俺たちにとっては現実で、なつめにとっては自分の意識に他ならない。この会話も全部聞こえているし、お前の恐怖《きょうふ》も喜びもなにもかも、手にとるように分かってしまう。だから、なつめを信用しろ。多分、あいつは今、お前までも取り込んだことで錯乱《さくらん》状態になっているはずだ」
「錯乱!? アスラ、一体なにを知ってんだよ! なんでなつめはこんなことをしたの!? 信用してる、してるけどっ、こんなわけ解らないのはやだ!」
「ジゼル、落ちつくんだ!」
「だって!」
あっと思った時。
世界が反転した。
ぷつっと意識が切り替《か》わる。
どうやら俺は見捨てられたらしい。そう結論づいた時には、すでに外の世界には人の気配はなかった。
しかたあるまい。まさか一生放置しておく気ではないだろう。戻《もど》ってくるまで、あるいは助けがくるまで、俺は座って待つことにした。ふと気がつくと、斜面《しゃめん》を転がっている内に、貝殻《かいがら》かなんかで引っかいたらしく、左の膝《ひざ》から血がどくどくと流れている。なんだかあまり痛みを感じないのだが、これは結構な量ではなかろうか。とりあえず、止血しておこう。
ハンカチで傷を被《おお》い、シャツで腿《もも》の下を縛《しば》る。それから、どっと疲《つか》れて座り込んだ。いきなり暇《ひま》になってしまった。これからの予定が狂《くる》うな。人の三倍のスピードで勉強しろって言われたんだけどな。ま、五倍にすればいいだけのことか。
それにしても、と考え始める。
なぜ、おっさんはなつめを放っておくんだ? 性格が歪《ゆが》んでくるぞ、いつかは。いや、もう歪んでいるのかもしれない。それなのに、また一人養子をとるだなんて、あの子の気持ちを理解していないのだろうから、あれじゃあ、二の舞《まい》だぞ。
待てよ。あの子がああだから、養子をとるつもりなのだろうか。身体《からだ》の強い子供を、自分の手元で理想の人間に育てる。なるほど、資本家としてはそうする方がいいのかもしれない。身体の弱い、人とのコミュニケーションができない娘《むすめ》よりは。その方が社会のためにもいいのだろう。ことにE・R・Fグループの頂点に立つ人間を育てるのだから。
残されたなつめはどうなるのだろう。
一生、養子の子供と比較《ひかく》され、日陰《ひかげ》にこもって生きていくのだろうか。それを打破する力はあの子にあるのだろうか。まだ八歳。今の自分の立場を理解できる年だろうか。
俺は気がついた。
考えまいとさっき思ったばかりなのに。深入りはするまいと心に決めたばかりなのに、俺は結局考えてしまっている。ゴシップが好きなわけじゃない。家庭の騒動《そうどう》なんて、三文《さんもん》小説よりも下らないことだ。単なる各人のわがままじゃないか。
それなのに、ふと気づくとこの家のことを考えている。
ひどく興味《きょうみ》があるのは確かだ。でも、それは耳年増《みみどしま》根性《こんじょう》ではないし、好奇心《こうきしん》でもない。
なつめだからだ。
その対象がなつめだからだ。
なぜ、こんなに気になるのだろう。なぜ、放っておけないのだろう。
「約束《やくそく》、してくれる?」
突然《とつぜん》、声が降ってきて、俺はどぎまぎしながら顔を上げた。なつめがおびえた表情で覗《のぞ》きこんでいる。慌《あわ》てふためいて、俺は返事ができなかった。
「……あなた、お父さんの、なんなの?」
小さな、消え入りそうな声で、なつめは続けた。
ああ。俺はどっと緊張《きんちょう》から抜けて、無意識の内に強《こわ》ばった顔を弛緩《しかん》させた。やっぱりそれを気にしていたのか。俺は一つ深呼吸すると、できるだけ優しい声で、
「俺は科法使いだよ」
「新しい、子供じゃないの?」
「年を取りすぎてて失格なんだってさ」
どうやらそれでは納得《なっとく》がいかなかったらしい。少し、声を大きくしてなつめが言うには、
「でも、そんな小さい科法使いはいないわ」
「未来の、だよ。あんたの父親は俺に借りがあるんだ、だから俺が科法大学に入るまで、その世話をしてくれるんだよ」
「借り?」
「そ。あの人は俺の秋刀魚《さんま》を一人で食っちまったわけ。その借りさ」
きょとんと見返すなつめ。笑いがとれるかな、とも考えたけれど、それは甘《あま》かったようだ。でも、俺に対する警戒心《けいかいしん》が消えたのは、その口調《くちょう》と態度で判《わか》った。俺は快《こころよ》かった。いつまでも敵対心を持たれてはかなわない。
なつめの顔が引っ込んだ。少し慌てたが、帰ってしまったわけではなく、すぐ側に腰を下ろしたようだ。その証拠《しょうこ》に、
「なんで――科法使いになりたいの?」
思い詰《つ》めたような声。いや、思い詰めたというより、人に話しかけるのに慣れていないので、一大決心のもと話しかけているといった感じだった。
「科法使い……になれば、世界が見れると思ったからさ」
「世界?」
聞き返す言葉に頷《うなず》いてから、相手には見えていないと気づいて言葉にする。
「ああ。なあ、俺の人生の間で、この世にあるもののどのくらいを知ることができると思う? 多分、既知《きち》のことだけでも一万分の一にも満たないだろうな。なつめ、きみはいろいろなことを知りたいとは思わないか」
「……あんまり、興味《きょうみ》ない。知りたくないことまで知りたくない」
「そりゃそうだ。俺が言ってるのは知りたいことだよ。俺は、この世界がどうやって創《つく》られ、成長して、今どうなっていて、これからどうなるのか、知りたいんだ。たとえば、この夏離宮はいつ建てられ、どういう建築様式なのか知りたいし、E・R・Fグループが銀河のどの辺まで手を伸《の》ばしているのかとか、謎《なぞ》の古代文明の秘密も知りたい。他にも、生命の源はなにか、霊魂《れいこん》の正体とか、負の世界の実在証明とか、心理学や哲学《てつがく》や文明史とか極めてみたいし、言語|圏《けん》分類、宇宙探検、未知の生物との交信――」
「よくばりなのね」
なつめの声が妙《みょう》に大人《おとな》びて聞こえた。でも、どことなく面白《おもしろ》がって、親しみを感じているように思えたのは、俺の気のせいだろうか。
正直言って、俺は嬉《うれ》しかった。まさかなつめと会話が成立するなんて、思いもしなかったから。ほら、ちゃんと対応すれば心を開くじゃないか。まだ間に合う年なんだぜ、おっさん。
「よくばりじゃないよ。俺の心を魅了《みりょう》するものがこの世界には多すぎるだけの話さ。これなら知りたくないってことはないだろう? よく考えてごらんよ。人間はなんのためにこんな大きな脳を抱《かか》えて生きているんだ? 人間は見て、知り、そして考えるために存在する生物なんだぜ。考えない人間は値打がない。知りたい。それは大部分が大脳で占《し》められる脳みその、小脳による生物欲求なんだ、俺は欲求の赴《おもむ》くままに生きているだけさ」
返事はなかった。きっと、八歳の知能では語彙《ごい》についてこれなくなったのだろう。でも、俺は続けた。自分のために。自分自身の心をきちんと整理するために。
「いろいろな道があったけれど、俺は科法使いを選んだ。あそこが一番広く世界を見渡せるところだと確信したからだ。科学にも足を突っ込んで、政治にも手を突っ込み、経済にも目を向けられる。歴史にも関係できるかもしれない。よろず屋みたいなところが気に入ったんだな。歯車になるのは手段に過ぎない。目的と手段は俺は間違《まちが》えない」
自分に言い聞かせる。言葉は想《おも》いを形づくる。自分の中で確かになっていく。
「でも、純粋《じゅんすい》な物理学者になって、世界創造の秘密を探るのも悪くなかったんだよな。それがすべての源だし。俺、科学好きだし」
「どうして科法使いの方を選んだの?」
なつめが聞き返す。俺はニヤッと笑うと、
「だって俺、知ることは好きだけど、勉強するのは嫌《きら》いだもん」
一瞬《いっしゅん》の間のあと、くくっと吹《ふ》き出す声が聞こえた。やった、なつめを笑わせたぞっ。
俺はひじょうに気分がよかった。惜《お》しむらくは、ここからではなつめの笑った顔が見えないことだが、一度笑えば次は楽だろう。ここを離《はな》れる前に、一度は見ておきたい。
ひょこんと再びなつめが顔を出す。始めのような緊張《きんちょう》した顔ではなくて、はにかんだ、それでも俺の存在を認めた表情だった。あれが見れれば安心だ。学院でも、入ってからすぐは他人の存在を認めない。ある時、ふとしたきっかけで気を許す。そして一員になる。その時と同じ顔。なつめも俺に気を許してくれたんだ。
「約束《やくそく》、してくれる?」
一瞬、なんのことか分からなかった。それから、あの石のことかと思い出す。
しかたあるまい。いやがることは無理にはできないだろう。それであの子との絆《きずな》が保てるならば、好奇心《こうきしん》を抑《おさ》えよう。
「分かったよ。約束する、あれには触《ふ》れないし、近づかない」
「……ありがとう」
「じゃあ、ここから出してくれ。ロープかなんかある?」
「これを」
と、なつめがばらばら落としたのは、ビー玉のような半透明《はんとうめい》の青い玉だった。
「それをポケットか手に持ってて」
わけが判《わか》らないまま、俺は手に数個の玉を握《にぎ》る。
「手を」
なつめが小さく細い手を差し伸《の》べた。冗談《じょうだん》だろう、倍近い俺の身体を、なつめが引っ張りあげることなんかできない。俺が驚《おどろ》いてそう言うと、
「大丈夫《だいじょうぶ》。それ、反重力システムだから」
俺は再び驚いて、自分の手の中のビー玉を凝視《ぎょうし》した。こんな小さなものが、E・R・Fグループを支える基幹《きかん》産業だって!? こんなものが巨大な重力を掻《か》き消すだって?
エルシを飛び回るどんな飛行機にも宇宙機にも、エアバイクにだって使用されているが、俺は本物をこの目で初めて見て、ひどく感激《かんげき》した。多分、これはむき身のままだ。エアバイクに使われる時は、簡単に操作ができる付属品がこれの十倍以上ついているはず。これは、いわゆる端末《たんまつ》のないCPU本体みたいなものだ。こんなものを利用できる一般人《いっぱんじん》はいない。科学者だって、作った当人だって無理だ。使えるのは、脳波で直接作動させる科法使いくらい……
伸ばした俺の手を掴《つか》み、なつめが軽く引き上げると、すいっと簡単に身体は宙に浮《う》いた。浮遊感《ふゆうかん》はあるけど、上から釣《つ》られているとか、下から押《お》し上げられている感覚はない。本当に重力をなくしてしまったような感じだ。
でも、近くに科法使いがいるとは思えない。じゃあ、いったい、誰がシステムを作動させているんだろう。まさか、なつめが――
振《ふ》り仰《あお》いだなつめの顔が、蒼白《そうはく》になっていた。訝《いぶか》る間もなく、
「嘘《うそ》つき! 近づかないって約束したじゃない!」
その時、俺は意識していなかったが、あの不可思議な三つの石をもう一度見たいと思っていたのだろう。
なつめが手を放す。同時に落下。やっぱりなつめが操作していたのか。そんなことを考えながら、どこまでも底のない穴に落ち、俺は最後に闇《やみ》に呑《の》まれた。
一幕終了。
「目が覚めると、そこは真っ白な空間で、俺はただ呆然《ぼうぜん》と立ち尽《つ》くした」
淡々《たんたん》とした声に、はっと我に返ると、ジゼルの目の前には憮然《ぶぜん》としたアスラが座っていた。嫌《いや》みったらしく頭をさすりながら、
「どうもさっきから調子がおかしいと思ってたら、なるほど、お前が人の過去を視《み》てたんだな」
「ジ、ジゼルのせいじゃないやいっ。ジゼルだって見ようと思って視たんじゃないもの、不可抗力《ふかこうりょく》だよ!」
思わず抗議の声を上げてしまう。罪悪感《ざいあくかん》もなにもかも、今の嫌《いや》みで吹《ふ》き飛んでしまったぞ。アスラは素早くジゼルを抱《かか》え込むと、げんこつでぐりぐりとジゼルの脳天を押《お》しながら、
「なんて言いぐさだろうねえ、この子は。俺の美しくも哀しい幼年《ようねん》時代を視て、なんの感想もないのか」
冗談《じょうだん》めかしてアスラは言う。ひーん、痛いよう。こいつに悪いなんて少しでも思ったジゼルがばかだった。こいつはこういう奴《やつ》なんだ。にやにやとジゼルの言葉を待っている。腹がたったけれど、しかたがないので、
「……手を放されて、気がついたらここに来てたの?」
「そう。あれがなつめに呑《の》み込まれた一番最初。まかせなさい、俺はもう十指《じっし》に余るほどここを経験しているエキスパートだよ」
誇《ほこ》らしそうにアスラは言うけれど、言い替《か》えれば、なつめをそれだけ怒《おこ》らせてきたってことじゃないか。いい加減、肝《きも》も座ってきたジゼル、本題に入ることにした。
「それで、結局、この世界はなんなの?」
「なつめの意識だ」
「だからあ」
「あいつにはそういう『力』がある」
「『力』?」
アスラは頷《うなず》いた。
「簡単に言えば、同調作用というのかな。俺たち科法使いが増幅器《ぞうふくき》を使用して、さらに相手にレセプターがあって初めてできるシンクロを、身一つで相手間わずにできるんだ。人間であろうと、動物であろうと、機械であろうとな」
「なつめ……って、ESP保持者なの?」
まさか、そんなことはあるまいと思いながら尋《たず》ねると、アスラは首を振《ふ》って、
「いや。ESP感知はできなかった。あれは、なつめの家系に伝わる奇跡《きせき》の力ってところだな。もっとはっきり言えば、|φ《ファイ》ベクトル封鎖《ふうさ》時代の突然変異《とつぜんへんい》のたまものだ。その話はよく聞くだろう」
ジゼルは呆然《ぼうぜん》とアスラを見返した。
φベクトル封鎖時代の突然変異。その話は知っている。
φベクトル封鎖。なぜ、エルシがコンピューター大暴走時代を体験しなかったか。それはこの惑星が八百年前までφベクトル空間に封《ふう》じ込められ、外界との交流を一切|遮断《しゃだん》されていたからに他ならない。宇宙|開拓《かいたく》時代初期に微惑星《びわくせい》衝突《しょうとつ》という現象から自然発生したφベクトル空間内で、永い星霜《せいそう》、生き残った人々は独自の文明を築いてきた。その中で、人智《じんち》を凌駕《りょうが》する超常《ちょうじょう》の力を持った人々が存在したという、確かな記録や伝説、痕跡《こんせき》などがあるのは知っていた。空間自体の異状、そこから生じる突然変異――
「で、でも、そういう人たちは、封鎖解除に伴《ともな》って、力を失ったって……」
「普通《ふつう》はな。普通じゃあなかったんだよ、なつめのところは。当時に較《くら》べると質もパワーも微弱になったと言うが、その力の現れが、これだ」
そう言って、アスラはこの白い空間を目で示した。
ジゼルはぼんやりと聞いていた。脳裏になつめのあでやかな姿が映る。その向こうから、もう一人のなつめが現れ、近づいて、二人は重なり、透明《とうめい》になって――
水の向こうに見える白い面。
(おいで)
あの時、呼びかけられた。
(目を覚ましてみて)
目が覚めたのは、夢《ゆめ》から醒《さ》めたのは、なつめのせい。
(かわいい、かわいい……)
きっと、あれがそうだったに違《ちが》いない。
あれが同調に違いない。
目が覚めると、そこに。
そこに、薄《うす》い、薄い、透き通る陶器《とうき》の肌《はだ》を持ち、漆黒《しっこく》の髪《かみ》をたなびかせた少女がいて、彼女はこれのことを――
「……おとーさんも、そーゆー『力』、持ってるの?」
「ああ。初代から、その前から連綿《れんめん》と受け継《つ》がれているんだ。なぜ、長い鎖国《さこく》時代のために、どんな辺境《へんきょう》の星よりも科学の遅《おく》れていたエルシが、ああも短い期間で経済界にも科学界にも台頭できたと思う。独自の文化や科学が注目を浴びたのが一番の理由だろう。でも、その陰《かげ》で、E・R・Fコーポレーションの会長たちの存在があったことを忘れてはいけない。彼らは強弱の差はあるにしろ、皆が万人とシンクロできる人間だったのだから」
「シンクロして支持を得たっていうの? それって、なんだか人の心を勝手に動かしてるみたい。フェアじゃないよ」
「洗脳とは違うさ。あれは魅了《みりょう》っていうんだ。ジゼルだって、なつめへの気持ちが強制されたものだとは思えないだろう。そういうこと」
その言い分に、ジゼルは深く納得《なっとく》した。この想《おも》いが強制なんてことはありえない。なるほど。大体、『相手を魅了する』ことが、双方《そうほう》の波長のシンクロによるものではないと、どうして言えよう。
「確かに、尋常《じんじょう》じゃあない魅力だけどな。誰彼《だれかれ》となしに、彼らに惹《ひ》かれてしまう。世間では魔力《まりょく》だの神秘《しんぴ》の力だの騒《さわ》ぐけど、やっぱりエルシの申《もう》し子《ご》って言われるのが一番多いかな」
あ。それはカイが言っていた言葉だ。ははあ、だから騒いでいたのか。競《きそ》いあうE・R・Fのトップがそんな魅力の持《も》ち主《ぬし》では、分が悪いものね。
エルシの申し子。
それは、|φ《ファイ》ベクトル封鎖で彼らが見捨てた母星に対して、望郷《ぼうきょう》の念とやまない憧《あこが》れ、そして生命|発祥《はっしょう》の神秘を背後に見ている表れなのだろうか。
アスラは言葉を続けた。
「大抵《たいてい》が『魅了』で収まる程度の『力』だったそうだ。でも、ときおり先祖返りして、桁《けた》違《ちが》いに強い『力』を持つものが生まれる。その中の一人がなつめだったということだ。あいつは同調して、さらに作用もできるんだ。科法も俺たちのように、それ以上に扱《あつか》えるし、相手が意識体なら、その意識を自分の中に取り込んで、制圧さえできる。今、俺たちがここにいるように。でも、いつもはこんな『力』、いやがってるんだよ、他人の意識が自分の内にあるのはかなり辛《つら》いことらしいから」
「……ジゼルを救うため?」
「そうだ」
アスラの言葉に、ジゼルは胸が詰《つ》まる思いだった。なつめ。ジゼルのことを心配してくれている。ごめんね、いつも心配ばかりかけて。
なつめ。
ねえ、聞こえている?
ジゼル、全然|怖《こわ》くないよ。だから、安心して。もう取り乱したりしない。なつめのこと信頼《しんらい》している。すぐに帰って、ちゃんと口から謝《あやま》るね。ごめんね。
「アスラっ、帰ろう!」
「よしっ、帰り道を捜《さが》すか」
「捜すって……知ってるんじゃないの!?」
思いもよらないアスラの言葉に、ジゼルは非難の声を上げた。この道のエキスパートだって言ったのは、どこのどいつだ!
アスラはそんなジゼルの思いを気にもせず、しれっとした調子で、
「帰る方法は知ってるんだ。なあに、大丈夫《だいじょうぶ》、一か月もあれば道も見つかるって」
「い、いっかげつう!」
「あはは、冗談《じょうだん》だよ。すぐに見つかるよ」
こ、こいつ。なんだかどっと疲《つか》れが出て、言い返す気にもなれなかった。そんなジゼルを笑いながらアスラは抱《だ》き上げると、いつものように肩に乗せて、進み始めた。
本当に帰れるのかしら――一抹《いちまつ》の不安を胸にして、ふと、思い出す。
「ねえ――アスラは結局、養子になったわけでしょ。あの続きってどうなったの?」
「さっきの幻《まぼろし》の話かあ? まあ、隠《かく》すほどのことでもないし、どうせ前にも教えてやったことだから、道々話してやるよ。でも、最初に一つ訂正《ていせい》しておくけど、俺はまだ養子になってないぞ」
「え?」
「だって、俺、婿《むこ》養子《ようし》だもんな」
婿養子。
ジゼルは次の言葉がとっさには出てこなかった。婿養子。それって、つまり、その、つまり、だ。
「ええーっ!? なつめと結婚《けっこん》するの!? アスラが、なつめとお!? うそおーっ!」
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ACT.7
「ひどい言いようだな」
憮然《ぶぜん》とアスラが言う。でも、しょうがないじゃないか!
婿《むこ》養子《ようし》。アスラとなつめが結婚。そんなの知らないよ、絶対知らない!
もう動転どころの騒《さわ》ぎじゃなかった。完全にパニック状態、自分で理知的なことが考えられない。結婚という文字が頭の中で乱舞《らんぶ》してるよーっ。誰《だれ》か嘘《うそ》だと言ってくれええ。
頭の混乱が身体《からだ》にも出てしまって、あたふたした挙《あ》げ句にジゼルはアスラの肩から落ちてしまった。身構えるのも忘れたので、背中からどてんと落ちる。
「いてて……」
「大丈夫か、ジゼル」
「大丈夫かじゃないよ! そんな話、ジゼル知らないよ! もーっ、いくら記憶《きおく》喪失《そうしつ》中だからって、ありもしない嘘つかないでよね!」
きいきいと喚《わめ》きたてるジゼルに、アスラは始めは苦笑していた。が、次第に眉間《みけん》にしわを寄せ、怪訝《けげん》そうに言うには、
「お前……本当に思い出さないのか? いつものように、最初は知らないなんて言いながら、言ってる内に過去と結びつく――今回もそうじゃないのか。なんとなく覚えてるだろう、ほら、俺はなつめの婚約者《こんやくしゃ》、いいなずけだって」
「全然、まったく、皆目《かいもく》、微塵《みじん》も記憶にないっ! 怒《おこ》るよ、ジゼルっ。冗談《じょうだん》にも限度があるやいっ」
ええーいっ、しつこい奴《やつ》! そうプンスカ怒るジゼルに、
「あー……なるほど。そういうことか。あー、あーっ、なんてことだ」
アスラが頭を押さえる。なにを一人で納得しているのだろう、この男は。
一つ大きくため息をつくと、アスラはジゼルを抱《だ》き上げ、そしてさも情けなさそうにこう言った。
「お前の記憶喪失の原因が判《わか》ったよ」
「そんなの、今の問題じゃなーいっ」
「落ちついて聞けったら。いいか、なつめが消去したいものは二つ。一つは理研との約束《やくそく》絡《がら》みの記憶。特に生まれに関しての記憶だ。それは解《わか》るだろう、なつめはお前を理研に渡す気は最初から毛頭なかった。だから、消した。お前を守りきれる自信があいつにはあったから。それは最初から判ってたんだよな。でも、それだけじゃあなかったんだ。その、もう一つというのが、実は俺《おれ》だったらしい」
道しるべになるものもないところを、まっすぐにアスラは歩いていく。ジゼルはその憮然とした顔を凝視《ぎょうし》した。なんでアスラが記憶《きおく》喪失《そうしつ》の原因になるのだろう。
「なつめは、とことん俺と結婚するのが嫌《いや》らしい」
「そ、そりゃ、いくら血はつながってなくても、長年お兄さんと呼んでた人と結婚なんかできるかいっ」
「あいつが俺のことを兄と呼び出したのは、ここ三年だよ」
三年? ジゼルが生まれた時だ。これは偶然《ぐうぜん》なのだろうか。そんなはずない。
「……なにかあったの?」
「聞かないでくれ。あまりにも情けない」
そう言って、アスラはひじょうに情けない面《おも》もちになった。そこでジゼルは腑《ふ》に落ちる。
分かった。分ったぞ。この二人、三年前に喧嘩《けんか》したんだ。それしか考えられない。その時の復讐《ふくしゅう》が、今頃になって芽を出したというんだ。
「ともかく、俺との婚約関係の記憶を一切消したんだ、なつめは。だから、俺が科法使いだってことも忘れたし、一緒《いっしょ》に外を見て回った記憶もないし、あまつさえ血がつながっていないことまで隠《かく》したんだな。まいったなあ」
「まいったじゃないよっ。じゃあ、なに、ジゼルの記憶喪失は、なつめとアスラの痴話喧嘩《ちわげんか》のせいだっていうの?」
「まあ、半分はそういうことだな」
「怒《おこ》るよ、ジゼル!」
冗談《じょうだん》じゃない!
なんてことだ、なんてこと。ジゼルが悩んで、悲しんで、苦しんで、さんざんな目にあった記憶喪失が、単なる痴話喧嘩のまきぞいだったなんて! ひどいっ、あまりにもひどすぎるーっ。
「怒るなよ、ジゼル。なつめがまた錯乱《さくらん》するだろう」
「だってえ……!」
「なつめにしてみれば、痴話喧嘩なんて簡単なものでは済まされなかったんだろうよ。ジゼルはなつめと常に同調している。そんなお前がずっと側にいて、俺のことを覚えているのはやりきれなかったんだろう。そうか、じゃああの時のことも頷《うなず》けるな……」
なにやら手前一人で納得している様子。なんだか前以上に疲《つか》れが出てしまった。こういうのを犬も食わぬなんとやら、と言うのだろうか。猫だって食わないぞ。もう放っておこう。やだやだ。
「もー、やってらんない。じゃあ、その話はいいからさ。さっきの続きはどうなったの?」
「あ? ああ、そうだな。俺がここに初めて呑《の》み込まれた時のことだったっけ。あれにはびっくりしたよ、さしもの俺でも」
「やっぱり、この白い空間に?」
「ああ。三回目ぐらいになると、結構思うままの色つき世界に飛び込めるようになったけどな。ここはなつめの意識の中だけれど、こちらが強く念じれば世界は呼応する。言っただろう、俺たちはなつめの意識でもあるんだ」
「でも、まだ真っ白だよ」
「やり方があるんだ。さっき、俺の過去の幻《まぼろし》を見ただろう、あんな具合いさ。でも、あまりなつめに干渉《かんしょう》したくないから、このままでいいだろう。あの時はそんなことも判《わか》らずに、ただ呆然《ぼうぜん》としていた。どうも変なところに迷い込んだが、さりとて興味《きょうみ》のあるものはない。抜《ぬ》け出せそうにもない。では、俺は夢を見てるんだな、と観念して、いい機会だから寝《ね》ようと思って、寝た」
う。相変わらず豪気《ごうき》な奴《やつ》。そんな子供のうちから肝《きも》の座った奴だったのか。
「かなり寝たつもりなんだけど、起きてみたら事態は変化してないんだな。そこで俺も考えて、ここは例の|φ《ファイ》ベクトル空間ではなかろうか、と思いついたんだ。じゃあ、入ってきたのだから出口はあると踏んで、俺は歩き出した。ちょうど今のように、なつめのことを考えて」
「……怖《こわ》くなかった? こんななにもないところに、たった一人で」
「まあね。少し感覚がおかしくなっていたかもしれない。でも、俺には考えなきゃならないことが一杯《いっぱい》あった。それが俺を発狂《はっきょう》から引きとめておいたんだ。なつめに会ったらなにを言ってやろう、って」
くすくす笑いながら、昔を懐《なつ》かしむアスラ。笑って済ませるようなことだったのかしら。いや、そうできるほど、こいつは大人なんだ。
「ねえ、気がついたんだけど、理研の人たちはどこにいるの?」
「もっと、中心から離《はな》れた位置にいるはずだ。彼らは自力で目覚めるには中核《ちゅうかく》から遠すぎる。なつめの気が緩《ゆる》むまでさすらい続けるしかないな」
「ジゼルたちは中核に近いの? そこに向かっているの?」
「そう。親しきものは特に中心へと引き込まれる。心が受け入れやすいんだろうな。中心にいけばいくほど、捕縛《ほばく》の力は強くなるが、中核が近い分、有利かもしれない。ジゼル、お前は特になつめとシンクロしているから、すぐそこに中核があるんだ」
「中核に――なつめの自我がいるんだね」
「そうだ」
なつめの自我が、すぐそこに。ああ、そうか、自我に解放してもらうんだね。
「あの時は遠くてたどりつけなかった。自然に目が覚めると、そこはベッドの上で、医者や家政婦が俺を囲んでいた。足の傷による出血で、貧血になって意識不明になっていたと説明されたんだ。でも、そうじゃないことは分かっていた。障子《しょうじ》の陰《かげ》から覗《のぞ》いて、震《ふる》えているなつめを見たからな。あれは夢ではなかった」
「アスラ、なつめになんて言ったの」
「ああ……なかなか面白《おもしろ》かったよ、って。そしたら、なつめ、泣いたな。ごめんなさいって泣いたっけ。あの頃は可愛《かわい》かったよなあ。素直で」
なつめに会話が筒抜《つつぬ》けなのを承知で、この男、言ってるんだ。
「あれ以来、なつめは俺にひっついて回るようになったんだ。それを見た親父《おやじ》さんが、『さもありなん、五歳の年の差でもいいか』、って俺を養子にとるって言い出したんだ。それがお前、養子は養子でも、婿養子を捜《さが》してたんだ、なんて言われてみろ、俺はここに閉じこめられた時よりも仰天《ぎょうてん》して、二、三日|唸《うな》ってたぞ」
かんらかんら笑って語るアスラ。これは自慢《じまん》なのかしら。判断に苦しむなあ。
「なつめがあの調子だからな。会長としては、早くからE・R・Fの最高責任者となる人物を見つけて育てなければならなかったんだ。しかも、なつめのことに対処できる人間を。幸か不幸か、俺がおめがねに叶《かな》っちまったらしい」
「……なつめ、本当にむりなの。人前に出るの」
「いや、そう思いこんでいるだけさ。神経が昂《たか》ぶると、無差別に取り込んでしまう――それは昔の話だ。今は訓練して、自在に自分の力を操《あやつ》れるし、自制できるはずなんだ。ただ、少しトラウマがあってな」
「なにかあったの?」
「これは親父さんに聞いた話だが――なつめは五つの時、この『力』が飛躍的《ひやくてき》に増幅《ぞうふく》したそうだ。それで、親父《おやじ》さんがその道のエキスパートに頼《たの》んで、自分で制御できるよう仕込んでもらったんだ。一か月|隔離《かくり》され、集中訓練を受けた。夏離宮の裏庭にあったあの石は、その隔離空間――|φ《ファイ》ベクトル空間との接点だったんだな。訓練は五つの子供には相当に苦しいものだったらしい。自我の形成段階で意識を調整しろなんて、無茶もいいところだ。それでもなつめはクリアして、夏離宮に戻《もど》ってきた。訓練が終われば親父さんとお袋《ふくろ》さんに会えるから、それだけを思って頑張《がんば》ったんだ。二人は夏離宮でなつめを迎《むか》えて、あいつは嬉《うれ》しさのあまり、感情が昂ぶったあまり、たがが外れてお袋さんを呑《の》み込んでしまった」
突然《とつぜん》、空間が白と黒のマーブルに変わった。波のように二つの色が混じり、うねり、震《ふる》える。どうしたの、いきなり。ジゼルはアスラにしがみついた。怖《こわ》い。不吉《ふきつ》な流れだ。白と黒の絵の具をぐちゃぐちゃと混ぜているよう。モノトーンの乱流。混沌《こんとん》だ。いや、これは、脅《おび》え?
「大丈夫《だいじょうぶ》。なつめがあの時のことを思いだしているだけだ。お袋さんは一週間、封《ふう》じ込められたままだった」
「もういいよ! なつめに嫌《いや》な思いなんかさせたくないもの!」
「聞くんだ。なつめのことを思うなら、聞くんだ」
アスラの叱責《しっせき》するような声に、びくんと身がすくむ。
「お袋さんは無論、なつめも人間の意識を自分の中に取り込んだのは初めてで、二人ともどうしていいのか判《わか》らなかった。お袋さんはこの中を一人でさまよい続けた」
「……自我にはたどりつけなかったの?」
小さな声で、なつめを刺激《しげき》しないように尋《たず》ねる。でも、結局は筒抜《つつぬ》けなんだけれど。
「ああ。俺たちよりさらに近くにいたはずなんだけれどな。意識は宇宙の広がりを持っているんだ。でなければ、人間が宇宙のことを考えるなんてできないだろう? でも、その中で、自我は質点みたいなもので、影響《えいきょう》は及ぼすが、その点にしか存在はないんだ。いくら近くても、近づく意志がなければ一生どうどう巡《めぐ》りをする」
[#挿絵(img/sextant_152.jpg)入る]
「それで、おかーさんはどうやって?」
「親父さんが外からなつめを宥《なだ》めすかして、ダイブして助けた。あの人も、かなり強い『力』の持ち主だから。でも、その時、お袋さんは錯乱《さくらん》状態だったそうだ。つまり、なつめは一週間、自分のせいで錯乱した母親の悲鳴を聞き続けていたわけだ」
「!」
「お袋さんはもともと気丈《きじょう》な人だから、すぐに元に戻《もど》ったらしいが、以前のようになつめを受け入れることができなくなってしまったんだ。理性で解《わか》っていても、心がなつめに触《ふ》れることを拒絶《きょぜつ》する」
「そんな! だって、母親でしょう!? そんな時にこそなつめを、子供をいたわらなくてどうするんだよ! なつめだって自分でやりたくてやったわけじゃないのに! ひどいよ!」
びりびりと空間が震憾《しんかん》するのが感じられる。ジゼルは必死になって抗議《こうぎ》した。ひどいよ、ひどい。母親なら子供のしたことを無条件で許してあげるものでしょう。たった一度の過《あやま》ちで、自分の子に近寄ることもしなくなって、あんな辺鄙《へんぴ》なところに押し込めて、年に何回も顔を見せずに、一人で来ることもできないなんて! おかーさん、すっごくひどいよ! 親の資格ないよ!
アスラは憎《にく》らしくも、全然ジゼルの憤慨《ふんがい》なんか解《わか》りもせず、淡々《たんたん》と、
「言うな、ジゼル。ここは本当に人間にとって恐《おそ》ろしいところなんだ。なにもない、なつめが思考しない限り、ここは『無』でしかないんだ。そんなところに一週間もいて、錯乱で済んだだけでもなつめは感謝するべきなんだよ」
(あ……)
ジゼルはなにも言えなくなってしまった。そういうアスラも、三日間、ここに一人で閉じこめられたんだ。それから何回も経験して、今はこんなに呑気《のんき》に構えているけど、おかーさんの体験した想《おも》いを知っているんだ。ジゼルだってここで目が覚めて、たった一人でいた時、すごく怖《こわ》かった。なにもない、自分しかない、ということがあれほど怖いなんて思いもしなかった。
そういうところに、おかーさんは一人で一週間もいたんだ。
「あいつはそこら辺を理解していない。俺のことだってそうだ。ここらで一つ、がんっと言ってやらなくてはな」
「…………」
てくてくとアスラは歩き続ける。いつのまにか、マーブル模様はかき消え、元の白い世界に戻っていた。なつめ、落ちついたんだろうか。
ああ、一度にいろいろなことが分かって、ジゼルは頭が痛くなってきた。
でも、なつめ。
なつめがなんであろうと、どうであろうと、ジゼルは信頼《しんらい》しているからね。ジゼルはなつめのこと大好きだからね。
なつめがなにをしようとも、変わらず、なつめが好きで――
そこでふと気がついた。
「ねえ、アスラ……アスランって呼んだ方がいいの?」
「いや、その名前はもう捨てたものだから。一応、俺はなつめの兄としてお披露目《ひろめ》されたし、名字も切り捨てたから、アスラでいい」
「じゃあ、アスラ。ねえ、なつめのこと、好き?」
「好きだよ」
「妹、とか、小さい頃から一緒《いっしょ》にいたから、とかじゃなくて、その、なんというか」
「男と女として? あはははっ、じゃなかったら、なにが楽しくて池に落ちたり真冬に野宿なんかできるか。大丈夫、ちゃんと愛してるって」
いけしゃあしゃあと言ってのけるアスラ。でも、この自信|過剰《かじょう》がおかーさんとは違ったんだろうな。なつめを拒絶《きょぜつ》しなかった原因の一つなんだろうな。
「……ジゼル、いまいち二人がいいなずけなんて信じられないんだけど、もし、そうだとしても、仕方ないけど、一応|候補《こうほ》ぐらいには認めてあげる」
「生意気な口きいて」
ぐりぐりと頭を押さえつけるアスラ。本当だよ。仕方ないけど、認めてあげる。あの状態のなつめを救うのは、ジゼルがやりたかったけど、でも、ジゼルは結婚できないもん。寿命《じゅみょう》が違うもん。だから、認めてあげる。なつめのこと、本当に大切に思って、本当に好きでいるなら、許してあげる。
だって、この世界のエキスパートになるくらい、なつめの中に飛び込んだのだから。なつめに心の内、全部教えたんだから。それくらいの努力、認めてあげなくちゃあ。
「よし、じゃあ、問題はなつめだけだな」
「そうだよっ。なつめが嫌《いや》だって言ったら、絶対認めないからね!」
「はいはい。じゃあ説得に行きますか。正義は我にあり、だ」
正義がアスラにあるわけないじゃん……とぼやくジゼルを完全に無視して、意気揚々《いきようよう》と歩くアスラだった。
「ところでさあ、理研の人たちは放っておいていいの?」
「いいって、いいって。ああいう人の気持ちも考えない理屈《りくつ》野郎は、少し懲《こ》らしめてやった方がいいんだ。あ、なるほど、どうりで上役《うわやく》の奴《やつ》らが来ないと思ったら、一度閉じこめられて懲りてたんだな」
「いつ?」
「三年前、理研がお前をなつめから奪《うば》い返そうとした時、だ。あの時だよ、なつめは自分の『力』が攻撃《こうげき》に使えるって知ったのは」
攻撃なんて、悲しい言い方しないでほしい。それにしても、三年前になにがあったというんだろう。すべての言葉は三年前、ジゼルが生まれた時へと回帰していく。
「アスラ、いったい三年前になにがあったの? ジゼル、覚えていないのか思い出せないのか、知らないんだけど」
「思い出せないんだろう、それは。なつめがもっとも気にしているところだ、そんじょそこらの弾《はず》みでは記憶がつながらないようになっているはず。いいよ、教えてやる。三年前、お前が生まれたんだよ」
「それは知ってるって」
「理科学研究所の生体機械の実験室で、お前は他の数体の生体機械とともに製造されたんだ。そう、生体機械の脳を目覚めさせるのは、現代構造生物工学の一つの頂点であり、目標でもあるからな。どこでもやっていることだ。理研も例に漏《も》れなかった。目が覚めたら覚めたで、今度は政治的な問題が出てくるのに、そんなことにはお構いなしさ。まあ、科学なんてものは、いつだってそうして発展してきたものだから、仕方あるまい。でも、今回も失敗に終わった。どの脳も自己《じこ》作動《さどう》しなかったんだ。それが当り前のことで、彼らは当り前のように次の世代へと実験を移行した、その矢先だった。なんの断わりもなしに、お前が目覚めた」
「…………」
「目覚めるはずがないという前提で実験していたきらいが、理研にはあったんだろう。前代未聞《ぜんだいみもん》の大騒《おおさわ》ぎになって、ともかく、世間には公表しないでおくことになった。だが、定期的な連邦《れんぽう》の査察もある。もし見つかったらどうするのか――そんなことを言い合っている内に、では、一体これはなんなのか、という問題に行き当たったんだ」
「生体機械、じゃ、いけないの?」
自分でも少し声が震《ふる》えているのが分かる。アスラはまっすぐ前を見ながら、首を振《ふ》った。
「そういう問題じゃない。これは果たして機械なのか、それとも生物とみなしていいのか。これだ。人間が造ったものだから、機械と同じように考えて、人間に隷属《れいぞく》するものとみなすのか、それとも一個の生物として、普通《ふつう》の動物と同じようにみなすのか。これは連邦の特殊《とくしゅ》倫理《りんり》委員会での争点と同じだ。人間が卵細胞《らんさいぼう》を加工して生まれたハイブリッドに人権を与えるかどうか。そして、ストーンサークルに依頼《いらい》した新人類に対する認識はどうするべきか。ストーンサークルはまだ成功していないようだが、一足お先に理研が成功させてしまったというわけだ。まあ、こちらは猫型だけどな」
「それで、機械だったら、サイバネティックス規制法に適していないので、抹殺《まっさつ》する、そうなんだね」
「ああ。でも、そこで新たな問題が湧《わ》き上がったんだ。今回の目覚めは、決して実験の成功とは限らない、ってね」
「どういうこと?」
「お前の世代の実験体は全部で二十四体、そのどれもがペアになっている、つまり、双子《ふたご》製造だったんだ。寸分《すんぶん》たりとも違《ちが》いのない、写《うつ》し身《み》がそれぞれにいる。お前にもいたんだが、そちらの方はいっこうに目覚めはしなかった。実験は両方が目覚めて初めて成功と言えるんだ、そうでないものは、単なる偶然《ぐうぜん》、奇跡《きせき》にしかすぎない」
「偶然……」
ジゼルは呟《つぶや》いた。偶然。偶然に生まれたという。奇跡。その言葉の意味がひどく曖昧《あいまい》でしっくりこなかった。でも、もしそうだというなら、機械であるかどうかなんて決定する必要はないじゃないか。後続ができるわけでなし、大した問題にはならないだろう。ジゼルのこの身一つだけなのだから。
そんなジゼルの思いを知ってか知らずか、
「偶然ならまだ倫理委員会の出る幕《まく》ではない。そう理研は主張したよ。それよりも偶然を必然にするために、その目覚めた実験体を解体して、詳《くわ》しく調べ直す必要がある――」
「そんな!」
「それが科学者というものさ。とりあえず、実験の成功をなにをおいても先行する。どんな問題があとからくっついてきてもな。あいつらばかなんだよ。一つのことしか見えないんだ。そうやってすったもんだしている隙《すき》をついて、お前は盗《ぬす》まれた」
「盗まれたあ?」
話が話だけだったために、なんだか『盗まれた』ということがひどく間抜《まぬ》けに聞こえた。唖然《あぜん》と、ばかのように見つめてしまう。アスラは笑うと、
「なつめだよ。シティにいるはずのないなつめが理研に忍《しの》び込んで、お前を連れて逃亡《とうぼう》したんだ。そこで理研の奴《やつ》らは、お前が目覚めた理由を知ったのさ」
「理由? どんな?」
「それはジゼルが一番知っていることだろう」
アスラはこちらを向き、にやっと意味ありげに笑ってみせた。はて……? 思い出せない。アスラはそこまで教えてくれる気はなさそうだった。仕方ないので話を促《うなが》す。
「ああ、さっきの俺のおっかけっこよりすごかったな。なつめは手当り次第同調してぶんぶん物を投げるし、理研は社員を総動員させるし。なつめ、俺と違って手加減しないんだもの。怪我人《けがにん》続出だったよ。その中で何人か意識を封《ふう》じ込められた。乱闘《らんとう》は本社まで移ってきて、攻防戦を社内で繰《く》り広げた挙《あ》げ句、しまいに親父《おやじ》さんが仲裁《ちゅうさい》して、騒《さわ》ぎは収まったんだ。なつめの主張は一つ、この子を殺すなんて許さない。わたしが引き取る。理研はそんなことはさせられなかったが、なつめがまた暴れ出したらと思うと、強気に出られない。あれでも次期会長だしな。それで、俺が一つの妥協案《だきょうあん》を出したんだ」
「それが、三年後に、って奴?」
「そう。おかげで、俺がこの件に関しての全責任を負う羽目《はめ》になったんだ。生体機械に関することを全般的《ぜんぱんてき》に。まさか、ストーンサークルのことまで押しつけられるとは思ってなかったんだけどな。ともかく、俺はなつめと理研、両方に公平なデータを作って、どちらにも不利がないよう手配した。お前は身の保全のため、なつめに預《あず》け、レコーダーシステムで理研が逐一《ちくいち》観察ができるよう、コンピューターを植え付けて。脳活性はお前に思考させるためだ。思考過程からも判断データを集めることにしたんだ。でも、ジゼルがなつめと暮《く》らしている分、どうあってもなつめに有利になってしまう。その公平化も兼ねて、俺はジゼルに話を持ちかけた」
「話って……?」
そう言い終わるより早く、ジゼルはそのことを思いだした。
あれだ。
アスラと一緒《いっしょ》に外に出ること。
「なつめに対してなにができるか、そう俺は聞いたよな」
「ジゼルは、なつめはこのままじゃあいけないって、人なのに、人を避けて、機械や自然とばっか会話してちゃいけないって、そう言ったんだ。ジゼルは、機械であると判断されて、解体されるのも嫌《いや》だったけど、なつめがあのまま消えてしまいそうになるのは、もっとやだったんだ。だから、判断データを集めるレコーダーシステムを使って、外の、現実の世界のいいところをなつめに見せてあげて、引き留《と》めようとしたんだ。それに、ジゼル、抹殺は怖《こわ》いけど、自分がなんなのか判《わか》らないのが、もっともっと怖くて、データ集めに協力したんだっけ」
そうだった。
なんでそのことを忘れていたんだろう。
なつめがジゼルを守ってくれて、判断の結果がどう出ようと、ジゼルをかばいとおすことは分かっていた。だからこそ、ジゼルは自分の処遇《しょぐう》に対してフェアでいよう、そう決めたんだ。それで、アスラの話に乗った。なるべく多くのデータを集めようとも思ったんだ。
(機械の気持ちが解《わか》ったら)
ああ……!
なつめ、記憶《きおく》封《ふう》じが裏目に出たよ。
あのまま、なつめの言うとおりに夏離宮にこもっていれば、なんの疑いもなく、機械の気持ちなんか解るはずない、そう言っただろう。でも、アスラがそれをひっくり返した。彼はあくまで公平な立場をとっただけ。そして、理研は鵜呑《うの》みにした。ジゼルの想念信号と網膜《もうまく》信号を、随時《ずいじ》受けて判断している理研は、ジゼルが混乱しているのをいいことに、勝手に決定を下した。そして、そのことを知ったなつめが、怒《おこ》って理研の人たちを呑《の》み込んで、アスラが裏切ったと思い、一緒《いっしょ》に呑み込んで、ついでにジゼルも巻き込まれた。
でも、本当に。
本当に、ジゼルはなんなのだろう。
抹殺や解体や、そういう結果のあとにくるものを考えないで、本気で知りたい。ジゼルはなんなのだろう。神さまの手で創《つく》られた生物じゃあない。でも、ジゼルはジゼルなんだ。決して機械のように人間のプログラムがあるわけでもないし、自分の意志がある。
目覚めた時のことを思い出せたら、それが解るような気がするのに。
すべてはあの夢の中にあるのに。
「アスラ、いろんなとこ一緒に行ったね。ジゼル、思いだしたよ」
「……また、どこか行くか」
アスラ。
その言葉に含《ふく》まれる優しさに、ジゼルは堪《こら》えていたものがあふれでた。ぽたぽたと涙がこぼれる。目が熱い。胸も熱い。アスラ、ありがとう。絶対、どこか行こうね。絶対。
アスラはジゼルの背中をなでると、
「ほら、泣くんじゃないよ。まだ終わってないんだから。決定はこれからなんだぞ、今からそんなんでどうする」
「うん――うん」
「そうだなあ……手始めに、ミレにでも行くか。あの兄妹に会いに」
デイニとカイに会いに。ジゼルは頷《うなず》いた。きっと、あの二人に会ってみせる。どんなことがあっても、友達にもう一度、会ってみせる。
(……カイ?)
ころりと忘れていたが、あの、連邦《れんぽう》大統領の息子《むすこ》、カイニス・オーセンはどうしてしまったんだっけ。
「カイで思いだした。いろんなことが起こって忘れてたけど、カイ、カイニス・オーセンはどうしちゃったの!?」
ジゼルは今までの切ない気持ちを全部吹き飛ばして、そう声を上げた。突然《とつぜん》に慌《あわ》ただしく帰ってしまったカイ。その理由を聞くのさえ忘れていたのだ。
アスラはなにを今頃、と呆《あき》れ返った口調《くちょう》で言ったが、
「雰囲気《ふんいき》ぶち壊《こわ》しだなあ、好奇心《こうきしん》旺盛《おうせい》なのは俺に似たのかね。カイニス・オーセンはミレに帰ったよ。例のストーンサークルの、クリフォード・ステイシィの居場所が判明したんだ。その情報を恩つけて教えてやったのさ」
「クリスの居場所が!?」
なるほど。それなら飛んで帰るわけだ。元はといえば、それがジゼルとデイニ、カイを引き合わせた原因なのだから。
現宇宙連邦大統領の息子と、E・R・Fコーポレーションの飼い猫。どういう偶然《ぐうぜん》の引き合わせか知らないけど、こうなったからには、ジゼルにはクリスについての結末を知る権利があると思うぞ。
「で、彼、どこにいたの?」
「だから、ミレ、デテール大学だよ。そうぽかんとした顔するなって。灯台《とうだい》もと暗し、犯人《はんにん》は現場に戻《もど》るって言うじゃないか。まあ、あそこが一番設備も調っているから、考えられないことではなかったな。大学の古巣《ふるす》で、同僚に匿《かくま》われながら研究していたらしい。大学なんて閉鎖的《へいさてき》なところだし、今頃になって手入れがあるとは思えないし、理想的な場所だったんだろう」
「じゃあ、今頃は……」
「ああ、委員会が乗り込んでいるはずだ。これで一網打尽《いちもうだじん》といけばいいんだがなあ」
珍《めずら》しく、歯切れ悪くアスラが言った。なにかひっかかることがあるらしい。なにかあるのと尋《たず》ねようとして、ジゼルは自分の視界に異様なものを見つけた。
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ACT.8
あれはなんだろう。白い、ジゼルたち以外なにもない空白の世界に、異様なものがある。すぐにアスラも気づいたらしく、小走りにそれに近づいた。
それはモニター画面だった。空間が四角く切りとられて、異なる平面がそこにある。まるで空間の窓みたい。三十センチメートル四方の黒い画面に、無数の光のドットが瞬《またた》き、命令待ちの状態であることを示していた。無論、あるのは画面だけで、接続コードもなければ受信|装置《そうち》もない。裏に回っても画面だけだ。
この白い空間で、それはやけに異様だった。なんで、こんなものが……?
「なつめ、誘導《ゆうどう》してくれるか」
どこに向かうとでもなく、アスラが声を張り上げる。空間が震《ふる》え、答えるように唸《うな》った。これはなつめが『意識し』たものなのか。だんだん、この世界の構造が分かってきたぞ。
「誘導って、自我に行けるの?」
「いや、そうじゃない。これはコンピューター侵入《しんにゅう》経路の窓口だ。【森羅《しんら》】に同調して、他のコンピューターに侵入できる」
ネオトキオシティにある都市管理コンピューター【森羅】の、|φ《ファイ》ベクトル空間内にある第三パーツは世界中のコンピューターに侵入している、そんな噂《うわさ》をジゼルも聞いたことがあった。それを使うということらしいが、もしかして、なつめって人間|端末屋《たんまつや》なのかしら。
「これで、なにを見ようっていうの」
「噂《うわさ》のクリフォード・ステイシィ学士さ。ほら、行くぞ」
「行く!? あの、ちょっと、ここから見るだけじゃ、情報を得るだけじゃないの!?」
ジゼルの抗議《こうぎ》の喚《わめ》きをアスラは聞き流し、さっさと画面に手を差し込む。
やばい! そう直感して、肩から飛び降りようとした時にはすでに遅《おそ》かった。
強い牽引力《けんいんりょく》。身体《からだ》が細長くなる感覚が襲《おそ》う。巨大な掃除機《そうじき》にでも吸い込まれるかのよう。思わず目を固くつむり、流れに身を任せる。
刹那《せつな》、水面下から外に顔を突《つ》き出したような、緩《ゆる》い表面張力の抵抗《ていこう》を受ける。
そして、再び目を開いた時には、そこは以前の空白の世界とはうってかわったところだった。
やはりなにもない、無の世界だったが、そこには色があった。
不思議な色だった。黒ではない。濃《こ》い藍色《あいいろ》――紺青《こんじょう》というのだろうか。深い、どこまでも深い水をたたえた海の色。いや、これは宇宙の彩《いろど》りだ。
「こ……ここ、は」
「【森羅】の世界だな。なつめの脚色《きゃくしょく》があるからこんな風に見えるんだ」
「な、な、なんでコンピューターの世界になんか入っちゃったのさあ!? これもなつめの同調の『力』なの?」
「そういうこと。あいつが夏離宮のオペレーションセンターでひがな一日なにしてたと思っているんだ、ジゼルは」
あっさりとアスラは肯定《こうてい》する。つまり、なつめの中に取り込まれたジゼルたちは、『なつめの意識』として【森羅】に同調して、その中に侵入《しんにゅう》したというわけだ。これって、ものすごく途方《とほう》もないことじゃない? 電脳リンク、だっけ? そういう類《たぐい》のものならともかく、生身の人間がこんなことできていいの!? それに、このアスラの落ち着きようったら! まるでなにもかも了承《りょうしょう》済《ず》みのように説明するけれど、どうしてそんなに知ってるのさ。
やっぱり、なつめとの付き合いのキャリアが違《ちが》うのかな。ちょっと気に食わない。これって、嫉妬《しっと》かしら。でも、人間のアスラと張り合ってもせんなきことだな――なんか、前にもこう思わなかったっけ?
その内に、闇《やみ》の空間に、ぼんやり光の模様が浮《う》いてきた。アスラの足元に光が広がるところをみると、床《ゆか》はあるらしい。かなり大きな模様である。目を凝《こ》らして見ると、なんてことはない、それはよく見知った星図だった。
天極から見た銀河系が、簡単な幾何学線《きかがくせん》で描かれていた。銀河中心を座標原点にとり、原点とエルシを結ぶ直線を0度にとった、銀経三十六本の放射線が銀河図に重なる。さらにブロック境界線が引かれ、二十余りに区分けされて、ご丁寧《ていねい》にも星系のある場所にピンが刺《さ》さっていた。それぞれの線が色別に引かれていて、まるで、社会科の授業教材のようだ。
「さあ、ミレを捜《さが》すぞ」
なんだかアスラの声が楽しそう。前にもここに来ているんだな、この道のエキスパートというのは本当だったんだ。
そして、なつめも、アスラのことをここまで信用している――
(なんで結婚のこと、いやがってるんだろう)
アスラが歩を進めると、今まで立っていたところに、ひときわ輝《かがや》くピンク色のピンが現れた。そして、そこが惑星《わくせい》エルシ、オールト星系を指していることが判《わか》る。
「ふーん、面白《おもしろ》いね」
「だろう? 具象化《ぐしょうか》はなつめの趣味《しゅみ》で表現されるんだ。ほら、これだ」
そう言って、アスラは足元の比較的《ひかくてき》小さいピンを足で踏《ふ》みつけた。なんの抵抗《ていこう》もなく、ピンは潰《つぶ》れ、そのまま埋没《まいぼつ》し、まるで底無し沼《ぬま》に誘われたように、アスラの足元が沈み込む。
「うひゃっ」
ずぶずぶとそのまま全身が沈み、まるで雲の中をくぐるように、ジゼルたちはそこを抜けでた。
ゆっくりと降下して、どうやら着地する。辺《あた》りはさっきのところと変わりない、深淵《しんえん》の宇宙の色に彩《いろど》られていたけど、そこに新たに描かれた光の地図は、同じものではなかった。やたら複雑になり、色々な境界線が入り組んでいる。
「これはミレの惑星《わくせい》地図だ。連結するコンピューターの数だけ潜《もぐ》っていくぞ」
「えーっ。ねえ、もう帰れなくなるとか、迷子になるとかないよね!」
「なつめがバックアップしているんだ、だいじょーぶ、だいじょーぶ。なつめの機嫌《きげん》さえよければな」
アスラの余計な一言が、ジゼルには不安でたまらなかった。アスラはなつめの機嫌を損ねる名人だもの、全然『大丈夫』に信用性がないよーっ。
「なつめ、ここからは俺じゃあ判らない、誘導《ゆうどう》してくれ」
アスラの言葉で、無数につきでたピンの一つが、ぽうっと金色の光を放つ。
「あれがデテール大学だ」
そうして、あと三回、同じようにピンを潜ったところで、いきなり辺《あた》りの状況《じょうきょう》が変化した。
その世界はさらに異様だった。
息を呑《の》む。
今までは地図とピンだけの世界だった。ところが、その世界には人がいた。
もはや以前のようなはっきりとした地図ではなく、大小さまざまな形の円がランダムに描かれているだけ。その円の領域に人が一人ずつ座っているのだけど、彼らの身体は半透明《はんとうめい》で、虚《うつ》ろな目をしていた。
「ア、アスラ、この人たちはいったい……」
「端末《たんまつ》まできたんだよ。彼らはコンピューターを操作している人たちだ」
「あっ、あそこ。消えちゃった」
視界の隅《すみ》で、ぼうっと人間が消えるのが見えた。色といい、姿といい、まるで、神出鬼没《しんしゅつきぼつ》の幽霊《ゆうれい》みたいじゃないか。えーんっ、怖《こわ》いよう。
「端末から人が離《はな》れたんだ。彼らはこちらの住人ではないから、ああして半透明に見えるのさ。そして、あの境界からこっちには来れない」
「ねえ、こっちの人、他の人より色が濃《こ》いけど」
「あー、それはきっと、脳波同調か、電脳リンクしているんだな」
そういうものなのか。なんとなくジゼルは納得《なっとく》して、彼らの間《ま》の抜《ぬ》けた顔をしげしげと見つめてしまった。科法大学のコンピューターに侵入《しんにゅう》したら、それは色鮮《いろあざ》やかな姿が見えたことだろう。
アスラはどんどん歩いていく。こんなところに来て、なにをするつもりなんだろう。少しばかり、不安になってきた。その不安を反映してか、なんだか、周囲のうずくまる人たちの影が、進むにつれてはっきりとしてきたような気がする。
「……ねえ、クリスはなんの研究をしていたの?」
不安を紛《まぎ》らわせようと、ジゼルはアスラに話しかけた。こいつの自信満々な話ぶりは、こっちも落ちついて自信が出てくるという、奇特《きとく》な性質を持っている。
ところがどっこい、
「生体機械関係だ」
う。聞かなければよかった。でも、もう遅《おそ》い。アスラは説明し始める。
「ストーンサークルは幾《いく》つかの部門に分かれていて、生体機械部門、ハイブリッド部門、クローン部門なんかがあるんだ。あとは、環境《かんきょう》によってどのような遺伝子変化が生じるか比較《ひかく》するチームや、風土病《ふうどびょう》研究チームもあった。どのチームも、この危機を乗り越《こ》えられる新人類を生みだす、それが目標だ。その中でも、生体機械技術は一番進んだ分野だった。生成技術も元から確立している。だから、年若い研究者が多くつぎ込まれたらしい。残された問題は、遺伝子モデルの研究と、パターンの研究、そして、最大課題である人工|脳髄《のうずい》の目覚めだけだから」
[#挿絵(img/sextant_174.jpg)入る]
「だけ、って……それが一万年の謎《なぞ》なんでしょう」
「そう。だから、若年者《じゃくねんしゃ》が回されているんだ」
アスラの言いたいことはジゼルには不明だった。聞き返せばよかったのだけど、それどころではなくなってしまったのだ。
「よく解《わか》んないよ。それはともかく、ねえアスラ、ねえ! どうしてこんなにはっきりと見えるの、この人たち!」
ジゼルはたまらなくなって、アスラの言葉をむりやり打ち切って声を上げた。
だって、だって、円の中にいる人たち、本当にはっきり見えるんだもの!
さっきのは気のせいでもなんでもなかったのだ。アスラが目指す方向にいくに従って、はっきり見える人が増えてきている。彼らはさっきの幽体《ゆうたい》のような人たちとは全然違った。透《す》き通ってもいないし、ジゼルたちみたいに肉質感がある。それに、目に光が、こちらを認識する光があって、理知的なんだもの! なんで!?
それが意味するものを考えると、怖《こわ》い考えにたどりつくしかない。
彼らは、この世界の住人に半ばなりかけているのだ。
この世界の住人。電脳リンクしている人よりも濃《こ》く、はっきりと。それは、つまり、
「あれだ」
立ち止まって、アスラが指し示す。その指の先に、一人の青年がかなり大きい楕円《だえん》の中にうずくまっている姿があった。その円周が金色に輝いている。
「……クリフォード・ステイシィ?」
おそるおそる、刺激《しげき》しない小さな声でジゼルは言う。その声が届《とど》いたのか、彼はおもむろに顔を上げた。
卵形のほっそりした顔立ち。赤みがかった白い肌《はだ》がやけに現実っぽい。目にかかるうざったい前髪《まえがみ》を掻《か》きあげると、ブライトグリーンに彩《いろど》られた双眸《そうぼう》があった。美男子《びなんし》とは言いがたいが、見られないってことはない、いわゆる中肉中背、平々凡々《へいへいぼんぼん》の青年である。確かに、科学者系というのか、生《なま》っちろい感じで、アスラと比《くら》べるとずっと子供っぽい。なんか高校生みたい。これが本当に彼だったなら、同《おな》い年のはずだけれど。カイと比べてさえ、幼《おさな》い。
「あ――」
その人は低く唸《うな》り、そして、さかんに唇《くちびる》を嘗《な》めた。喉元《のどもと》がぴくぴくしているのが見える。
「アスラ、この人、どうしてこんなに……」
どうしてこんなにはっきり見えるの。ジゼルはその言葉を呑《の》み込んだ。
彼は、そこにいた。もはや幽体《ゆうたい》のよう、なんて表現は意味をなさない。彼はそこに存在している。今まで見てきた誰よりも、周りにいるどの人よりも、彼は肉質感と存在感を持って、そこにいた。
「ああ……人と、話すのは……何日ぶり、だろう」
大きなため息とともに、彼はそう言った。ジゼルは再び、緊張《きんちょう》しながら尋《たず》ねる。
「あなたは、クリフォード・ステイシィ?」
「え……ああ、そうだった。ぼくは、クリフォード、だ」
ジゼル、思わずアスラと顔を見合わせる。途切《とぎ》れ途切れの会話。この人、意識がはっきりしていないようだ。大丈夫《だいじょうぶ》かしら。
「ほんと、に……久しぶり……ああ。人の姿を、見られるなんて、ぼくは成功した、のだろうか」
「成功?」
様子がおかしい。ジゼルは心配になって、側に行こうとした。それを押しとどめたアスラが、無言のまま胸から一枚のマルチカードを取り出して、ジゼルに見せた。
平面写真が映し出される。
「これは!?」
そこには、全身、特に頭部に集中して針のような電極を無数に刺《さ》され、白いカプセルのようなものに横たわり、こちらに向けてVサインを出しているこの青年の姿があった。
おそらく、なにかの人体実験に入る前に撮《と》った写真だろう。
(これをどこかで見たことがある)
ボーヴォール星で、同じ仕掛を見た。
人工|脳髄《のうずい》を目覚めさせるため、生《なま》の生体《せいたい》信号を送っていたあの装置《そうち》に似ている。
クリスは生体機械関係の研究をしていた。アスラの言葉が耳に蘇《よみがえ》る。まさか。
「きみは……彼らなのか? ようやく、呼掛《よびか》けに、応《こた》えてくれたんだ……」
「あなたはそこでなにをしている?」
アスラが鋭《するど》く詰問《きつもん》する。びくんとクリスの身体が震《ふる》え、安堵《あんど》の表情が急に崩《くず》れた。おろおろと、辺《あた》りを見回し、不安と戸惑《とまど》いにおののいた表情で、
「な――なんで、こんなに意識が強いんだ……? 違うのか? 単なる混線か?」
「ねえっ、あなたはここでなにしてるの!? どうして、こっちの世界にそんなに深入りしてるの!?」
たまらなくなってジゼルは叫《さけ》んだ。彼はますます萎縮《いしゅく》して、こちらがいじめているかのようにぶるぶる震《ふる》え、そして。
不意に、元に戻った。
脱力《だつりょく》してぼんやりした面《おも》もちでこちらを見ている。
「……なに? この人、どうなっちゃってるの?」
こちらが今度は当惑《とうわく》する番だった。ジゼルは当人に聞くのは諦《あきら》めて、アスラに尋《たず》ねた。アスラはクリスをじっと凝視《ぎょうし》していたけど、
「コンピューターと脳を結合しているらしいんだ」
「結合? じゃあ、やっぱりミュセ王子と同じような――」
「それはどうかな。当人に喋《しゃべ》らせよう。なつめ、頼《たの》む」
アスラがそう言うと、クリスを囲む楕円《だえん》境界線が揺《ゆ》れ、小さなひだが沢山《たくさん》生まれた。干渉《かんしょう》しているんだ。ぴくぴくと青年の青白い肌《はだ》が引きつるのが見える。頃合《ころあい》よしと、アスラはゆっくり語りかけた。
「あなたは、ここで、なにをしている?」
「あ、う……ぼ、ぼくは、呼びかけて、る……」
苦しそうに呻《うめ》いて、クリスはアスラの問いに答え始める。
「呼びかけている? 誰に」
「ひっ……彼ら、に」
「彼らとは?」
「ううっ……わ、われ、われ、の、あたら、あたら、しい、な、仲間」
「駄目《だめ》だな、ガードが固過ぎる。周りから攻め落とそう」
溺《おぼ》れているように両手でもがくクリスを見て、さっさとアスラは方針を変えた。なんだか拷問《ごうもん》しているみたい。はらはらしてしまう。
「いつ、この世界に来た?」
「七月十九日」
今度はすらりと答える。七月十九日、一か月近く前。ジゼルがデイニと会う以前だ。
「元の世界にはずっと戻《もど》っていないのか」
「戻れない……任務が遂行《すいこう》、される、まで」
「ここは住み心地《ごこち》いいか。一人で寂《さび》しくないか」
「ああ……悪くは、ない。まるで、サトリを開く、気分だ。なにも、考えなくて、すむ。世間のわずらわしい、こと。人間、としての、感情……」
「人間としての感情って、じゃあ、デイニのことも? 彼女のことも考えてないの!?」
思わずジゼルは口を挟《はさ》んでしまった。こういう時に感情的に責めるのはまずいって解《わか》っている。でも、でもっ、まるで、世間のわずらわしいことから逃避《とうひ》して、この世界に来たような口ぶりなんだもの。そして、そのわずらわしいことの中に、デイニのことが含《ふく》まれているような感じなんだもの! そんなの、酷《ひど》いじゃない!
それでも、しばらくクリスは茫洋《ぼうよう》としたとりとめのない面もちでいたが、
「デイニ……ああ。カイニス・オーセンの、妹……」
「忘れてたの!?」
「あまり、思いつかない……あの子……顔、思いだせない」
あまりといえばあまりの言いぐさに、ジゼルなカチンときて、怒鳴《どな》りつけてやろうかと思った。だけどその前に、アスラに牽制《けんせい》されて、渋々《しぶしぶ》成行きをアスラに任せる。
「カイニス・オーセンについては覚えているな」
「ああ……大統領、閣下《かっか》の、息子《むすこ》……同級生だった。数少ない、友人……」
「デイニ・オーセンは? 彼女があなたを捜《さが》している」
「あの子、が……? なんだろう……なんか、用でもあったかな」
あくまでもしらを切るクリス。なんて奴《やつ》だ。そう憤慨《ふんがい》する心とは別に、ジゼルの中にもう一つの考えが浮《う》かんできた。
でも、二人は本当につきあっていたのかしら。考えてみれば、カイも二人が交際していたなんて気づかなかったとか言っていたし。単に、デイニの思い違《ちが》いとか。
それとも、この人の意識はそこまで薄《うす》れているのだろうか。ミュセ王子が覚醒《かくせい》した時も副作用があった。同じような装置《そうち》で眠《ねむ》る彼にも当てはまるのではなかろうか。
でも、彼女のことを忘れるなんて、親友のことよりも忘れるなんて。
「一か月近くここにいるみたいだけど、成果はあったか」
「いや……なかなか、届《とど》かない……彼らはどこに、いるんだ、ろう……他の人たちはどうなった、んだろう」
「他の人たち?」
反射的にジゼルは振《ふ》り返った。まさか、ここにこうして座っている、ひときわ色づいた人たちは、みんな彼のように機械と脳を結合しているのだろうか?
若年者《じゃくねんしゃ》が多くつぎ込まれていて。
それは、もしかして、『使い捨て』を意味していないか?
「リン・ウォーレンのチームが失敗した話は?」
「リン教授のチームが? あそこは、生体パルスを使って意識の写し替《か》えを、してた……んだ……失敗……」
一瞬《いっしゅん》、クリスの顔に理知的な色が現れた。でも、すぐにそれは消え去り、元の夢《ゆめ》うつつの状態に戻ってしまう。
「あなたも同じではないのか。彼らの実験と同じ、被体《ひたい》に意識を『学習』させているのではないのか」
「いや……僕たちの、チーム、は……もっと、根本に戻《もど》って……呼びかけて……彼らに……起こす……」
脈絡《みゃくらく》のない言葉がその口から洩《も》れる。どうやらガードが邪魔《じゃま》しているらしい。
「単刀直入に言わないとむりだな。クリフォード・ステイシィ、お前は生体機械の脳に呼びかけて、目覚めさせようとしているんだろう。違うか」
「……そう、だ」
喉《のど》を掻《か》きむしりながらクリスは答える。
脳に呼びかける? ジゼルは我が耳を疑った。コンピューターと自分を結合して、さらに人工|脳髄《のうずい》に連接して、呼びかける。そういうことだろう。目覚めるように? そんなことが可能なのか、いや、そんなことで生体機械が作動するとでも言うのだろうか!?
その問いをアスラが口にする。
「そんなことで目覚めるとでも思っているのか」
「理論、的には……人工脳髄、は、人工知能、を備えて、作動、する……なら、人工、知能を介《かい》、して、呼びかけれ、ば、彼ら、は、覚醒《かくせい》……」
「生体機械はそんな簡単な代物《しろもの》ではないぞ」
「こ、これは、確かな、情報……め、目覚めた、脳が、じ、実在、する……よ、呼掛けで、めざ、目覚めた、え、エルシに、い、あーる、え、えふ、の、理科学、研究所で、せ、成功、た、たしか、な、情報……」
「!!」
それは。
それは、ジゼルのことだ。
この身の、この全身生体機械のこと。
なぜ、彼が知っているのだろう。そんな疑問を覆《おお》いつくし隠《かく》してしまうかのように。
それが蘇《よみがえ》る。
(水の中)
(水の時間、水の記憶《きおく》)
(そこにいた、そこにいる)
(ずっと眠っていた、ずっと眠っている)
白光!
世界が光に消し飛んだ。
そして。
(…………)
(……ねえ)
(ねえ、なにか聞こえるよ)
(なんだろうね)
(なんだろう)
くすくす、忍《しの》び笑い。
(誰か、確かめておいでよ)
(見てきなよ)
くすくすくす。柔《やわ》らかい、羽毛のような笑い声と会話。
(どこから聞こえるんだろう)
(どこからも聞こえるの)
真綿《まわた》にくるまれて、どこまでも広がる心地《ここち》。これの他にいっぱい、いる。境目のない、これとそれの無限大の広がり。重なりあう。
(誰が見にいく?)
(誰でもいいよ)
(誰でもいい)
天使の歌声。鈴《すず》の響《ひび》き。時も空間もない、ただ、笑い声と会話があるのみ。
(じゃあ、――で決めようか)
(そうだね)
(それがいい)
響きわたる談笑。確かに、そこにいた。みんな、そこにいた。そして、きっと今も。
(ほら、決まった)
(さあ、見にいっておいで)
(見てきて、そして教えて)
(見て、戻っておいで)
(さあ)
うん。
行ってくる。
急速に境目が縮退《しゅくたい》していく。交わりがなくなる。
目を開けると、そこに。
そこに少女がいた。黒目がちの二つの目がこちらをじっと見つめている。
「目が覚めたのね」
水の向こうでなにか言っている。でも、聞こえる。今までと同じように。境目のない意識の交わり。
でも、他には聞こえてこない。他にはどの声も聞こえてこない。
「おはよう。名前をつけなくちゃあね。名前……ジゼル。ジゼル、わたし、なつめよ。わたしの声、聞こえたのね」
[#挿絵(img/sextant_188.jpg)入る]
聞こえたよ。だから、これが来たの。
これ――ジゼルが来たの。
でも、もう戻れない。
なつめ……!
[#改ページ]
ACT.9
気がつくと、ジゼルたちは元の白い空間に戻《もど》っていた。あの妖《あや》しい機械の世界は霧散《むさん》し、ジゼルは茫然《ぼうぜん》と横たわって、その前にアスラが座り込んでいる。
「あ……れ? どうしてここに……」
「ジゼルがなつめを強く呼んだから、戻ってしまったんだよ」
呆《あき》れ口調《くちょう》でアスラが説明する。のろのろとジゼルは立ち上がり、
「ごめん……」
「いいさ。大体のところは判《わか》ったしな」
「ジゼルのこと、情報が洩《も》れてたの?」
「洩れたというよりも、自分で言い触《ふ》らしまわったじゃないか。大丈夫《だいじょうぶ》だよ、そのうちデマだったって情報流すから。大体、学会はそう噂《うわさ》は信じないって。デマだよ、デマ」
アスラは笑ってそう言う。こいつが断定するのだから、多分、クリスの言った情報は近いうちにデマだと世間に広がるだろう。
でも。
でも、本当はデマなんかじゃない。
ジゼルはなつめに呼びかけられ、そしてこっちの世界にきた。
もう戻れない、一方通行の道をくぐって、ジゼルはなつめに会いに来た。
どうして忘れていたんだろう、あの仲間を。どうして誤解《ごかい》していたんだろう、彼らを。
瓶《びん》の中にいる彼らは、ジゼルをとがめていたわけじゃない。自我を持つに至ってしまった、もうあの世界には戻れないジゼルを悲しんでいてくれたんだ。
目覚めたのは自分。
見に来たのは自分。
(戻ってこないの)
(また、一緒《いっしょ》になろうよ)
(一緒に)
でも、だめ。どんなに誘《さそ》っても戻れない。これは名前を持ってしまった。
「……クリスの実験、成功するのかな」
「いや、無理だろう。もし、彼が言うように人工知能からアクセスできるなら、あの空間に生体機械の意識があるはずだ」
「なかったの?」
「ああ。つまり、生体機械自体は機械とは違《ちが》うってことかな」
にやっと片目をつむってアスラは言った。
ああ……! たとえ、それが気休めにしかならないと判《わか》っていても。
深いため息をつくと、勝手に涙が滲《にじ》んだ。ジゼル、泣き笑いで、
「アスラ。ジゼル、思いだしたよ。目が覚めた時のこと。なつめが呼んでたこと」
「お、ようやくそこまでたどりついたか。俺《おれ》がなつめのいいなずけだってことは?」
「全然、記憶《きおく》にない」
「あのなあ」
憮然《ぶぜん》とするアスラに、ジゼルは吹き出した。
なつめ。
なつめがジゼルを呼んで、こちらの世界に引き寄せたんだね。きっと、脅《おび》えている。いつか、ジゼルが向こうに戻ってしまうのではないかと脅えている。だから、記憶を消した。
でもね、もう、戻れないんだよ。
ジゼルはなつめの声を聞いたから。
戻る気もない。なつめの側にいる。
「生体機械は……生きてないわけでも、眠《ねむ》っているわけでも、ないんだ」
「ん?」
「違《ちが》う世界で暮《く》らしてるだけなんだ。道さえ開ければ、こっちに来られる。でも、その道は」
「なつめでなくては創《つく》れない、か。まあ、それでもいいさ。あいつは特別だ」
「なつめ、女神さまみたい」
ジゼルは自分で言って、そのフレーズがやけに気に入ってしまった。連邦《れんぽう》がやっきになって捜《さが》す新人類は、実はなつめのような人間ではないだろうか。【エルシの申《もう》し子《ご》】。すべての生命はエルシから生まれた。だったら次の世代の霊長《れいちょう》も、エルシから出るに違いない。
なつめ。ジゼルをこちらに呼んでくれた人。いわば、ジゼルを生み出してくれた人。だからこそ、生命波も同じ形と同じ位相《いそう》で、いつだってつながっている。
「それにしても、あんなに『呼掛け』に動員されているとは思わなかったな」
アスラが苦々《にがにが》しく言った。ああ、クリスの、ストーンサークルのことか。
「やっぱり、『使い捨て』なの?」
「多分。情報の海に単身突っ込んで当てもなく捜《さが》すなんて、そんなこと科法使いでもやらないぞ。長い時間には自分を見失ってしまう。自分の情報と海の境目がなくなってしまうからな」
楕円《だえん》の境界が薄《うす》れていって、徐々《じょじょ》に溶《と》けて世界と一体化していく――そんなイメージが湧《わ》いた。そんな危険なことをやらせるなんて。
でも、境がなくなってしまうなんて、どこかで聞いたような話だ。
境のない、意識の世界。
あそこに戻っていくというのだろうか。では、あそこは情報の世界?
この世の現象や存在は、すべて情報の連続である――そんな情報物理学の第一節が思い浮《う》かぶ。
「ジゼルのせいなのかな。ジゼルがべらべら生体機械なんて気軽に口にしていたから――」
「そんなことはないだろう。同じような研究はいくらでもある。どちらにしろ、彼は自分の望むままに選択《せんたく》したんだ」
アスラがカードを取り出して、もう一度ジゼルに見せる。Vサインを出すクリフォード・ステイシィの写真。
「その選択《せんたく》に至るまで、どんな紆余曲折《うよきょくせつ》した当人の葛藤《かっとう》があっても、他人は最終的な結果しか見ることができないんだ。それをいちいち考えていたわってやるなんて、子供相手みたいなこと言ってるんじゃないよ。当人のためにもならん。彼は自分自身で決めたことに、自分で責任をとる年だ。お前が気にすることじゃあない」
アスラはときおり、冷たくなる。合理的と言ってしまえばそれまでだけど。
これがこの男の慰《なぐさ》め方なのだ。とても器用な、理|詰《づ》めの慰め方。
「しかし、ストーンサークルも勿体《もったい》ないことをする。前途《ぜんと》有望な若年者をこんな当てもないことに使うなんて。年齢序列信仰でもあるのかな。早く引き剥《はが》さないと取り返しがつかなくなるのに」
「取り返しがつかないって、じゃあ、クリスがすでに見失った部分は!?」
驚愕《きょうがく》してジゼルが聞くと、アスラは重く首を振《ふ》った。
戻《もど》らない。
じゃあ、クリスは、今すぐ助け出されても、デイニのことを思い出せないままなのか。なんてこと、なんて。
「でも、あのお嬢《じょう》さんにはよかったのかもしれない」
アスラが珍《めずら》しく同情した声色《こわいろ》で言った。
「自分の彼氏が元々自分の存在を認めていなかったか、実験で記憶《きおく》を失ってしまったのか、どちらとも区別がつかない方が、幸せなのかもしれない」
「でも! 覚えていてもらえなかっただけでも、デイニは傷つくよ! こんなの酷《ひど》いよ!」
ジゼルは叫《さけ》んだ。きっと、デイニはそれを認めないと思いながら。彼女ならそれならそれでいいと、笑うだろう。自分の気持ちに気づき、その上で否定する。自分が強いことを知っているから。傷つかない自分もいることを知っているから。でも、傷つく自分がいることだって知ってるんだもの! なまじ頭がよくて、冷静で、両方の自分が分かるから、笑って自分を守ってしまう。そういう人なんだ。デイニ、かわいそう。かわいそうなデイニ。
あの時すでに、彼女の心はクリスから離《はな》れていた。
こうなることを予感していたのかも。
ジゼルは頭を振った。これ以上は考えてもどうしようもないことなのだ。彼女はここにいないし、ジゼルにはなにもできない。それに、下手《へた》に憐《あわ》れんだり責める方が、デイニを傷つける。
「……やっぱり、アスラの言う通りかも、しれない。その方が、幸せかもしれない」
「男と女の仲は人間でも分からんさ。ジゼルも俺も他人のことは分からんよ。問題は自分のところだ」
アスラが立ち上がる。自分のところ。一瞬《いっしゅん》なんのことだろうと訝って、すぐに、なつめとのことか、と思いつく。そうだ、そっちの方が問題だ。
今までは余裕綽々《よゆうしゃくしゃく》でいたアスラも、どうやらここにきて、自信が底をついたらしい。上手くごまかしているけど、顔が緊張《きんちょう》しているぞ。
「ジゼル、口出しするなよ」
「口出しする気にもなれないって」
うんざりと答えると、よし、とアスラは頷《うなず》いて、ジゼルを抱《だ》き上げた。そして歩き出す。
「ねえ、意識が歩くのと、意識が歩くイメージを念じるのと、なにか違《ちが》うの?」
「結果的には同じさ。俺たちはなつめの意識の一部でしかないのだから、結局はなつめの思考過程のパターン変化に過ぎない。今、俺は目的地をイメージしながら歩いているのだし、同じだよ。ただ、なつめにかかる負担が違うんだ。まどろっこしい思考過程より、単純な方が楽だろう?」
「いまさら、なにを気遣《きづか》ってるのさ」
小ばかにしてジゼルが冷やかすと、意外にもアスラはなんの返事もしなかった。これは図星《ずぼし》なのかしら。ははあ、こうやって時間|稼《かせ》ぎをするつもりだな。
なんだかこれは面白《おもしろ》いぞ。いつも、アスラにいじめられっぱなしだからね、少しは仕返ししなくっちゃあ。
「なつめ、実はアスラのこと、ほんとーっに嫌《きら》いなんじゃないの」
「…………」
「おとーさんや会社のこと考えると、イヤとは言えなくってさあ」
「…………」
「親が決めたいいなずけって、普通《ふつう》は破滅《はめつ》するよね、テレビドラマなんかだと」
「…………」
「他に好きな人がいたりして」
まあ、これはありえないだろう、ジゼルが断言できる。それでも、なにも言わないアスラに、ジゼルはほくそえんだ。ああっ、なんて快感。なんて充実感《じゅうじっかん》。積年のいじめの恨《うら》みが、雪解け水のように流れてすっきりしていく。ああ、いけない、なつめも聞いているのに。いーや、なつめなら一緒《いっしょ》に笑うところだろう。見て見て、このむすっとしたアスラの表情を。めったに見れないしろものだよ。
「そーだよねえ。いまさら、の関係だよねえ。だめだめ、嫌われてるって。だいたい、むりやりキスするような男なんかに、心開くわけ――」
あっ。しまった。慌《あわ》ててジゼルは口を塞《ふさ》いだ。つい調子にのって、いらぬことまで喋《しゃべ》ってしまった。
が、時は既《すで》に遅《おそ》く、あとの祭り。
「見たのか」
じろり。アスラが睨《にら》みつける。ううっ、さすがは会長代理、本気の時はめちゃくちゃ怖《こわ》い! し、しかたない、笑ってごまかそう。
「あ、あは、あははっ。だ、だって、夜中に二人で喧嘩《けんか》してんだもの。な、なにごとかと思って、見たら、その、ねえ」
「ねえ、じゃない。見たのかって聞いてるんだ」
この言いようったら! まったく、自分をなにさまだと思っているのかしら。そう考えたら、びくついている自分がばからしくなってきた。ここは強気で行こう。
「な、なにさ! 見たよ、この目ではっきり見ましたよーだっ。二人で喧嘩してたくせに、急に、さあ。なんだい、アスラのしきじょーまっ!」
ジゼルはそう噛《か》みついて、とっさに首を縮める。ところが、予想を裏切って、
「ジゼル、どう思った?」
「へ?」
「あいつの反応《はんのう》、どう思った?」
怒られるかと思ったけど、アスラはむっとした表情のまま、そう尋《たず》ねてきた。なつめの反応? どうって言われても……
ジゼルがなにも答えられないでいると、アスラは首を振って、
「俺を嫌っている様子、じゃあなかったんだよな、あいつ。そりゃあ、確かに最初は抵抗《ていこう》したけど、ちゃんと受け入れたし――となると、やっぱり、あの時のことか」
はあ、っと大きくため息をつくアスラ。
「あの時、って?」
いつにない調子に、なんだかアスラがかわいそうになってきて、ジゼルは聞いてみた。さっきは情けないから聞かないでくれ、って言われたけど、今度は、
「あー……仕方ないな。ほら、お前がなつめと理研から逃《に》げた日、あの時だよ。ここに来る前、ジゼルが叫《さけ》んだじゃないか、扉《とびら》を開けなかったくせに、って」
「ああ、あれは……」
口をついて出た言葉で、意味は判《わか》らない――そう言いかけて、実は自分がその意味を既に知っている、それを思いだしたことに気がついた。
「ああーっ!」
思わず声を上げる。
「アスラ、あの時、サクライさんとなにしてたんだよ!」
「やっぱりそれか……」
悄然《しょうぜん》とアスラは呟《つぶや》くけど、なにがやっぱりだいっ、この発情魔《はつじょうま》!
ジゼルはちゃーんと見たぞ。ちゃーんと記憶にあるぞ。あの日、理研の追手から逃《のが》れて、なつめは最後にアスラに助けを求めたんだ。なのに、こいつは部屋《へや》の扉を開けてくれなかった。なぜなら、中で第三秘書のサクライ・ソフィアさんと――
「大声で考えるなっ、俺にまで聞こえてくる。言っておくが、お前が考えてるようなことは、公室ではやらん」
「私室ではやってたってことじゃないかーっ。なにがなつめだけが好きだっ、嘘《うそ》つきーっ」
「なつめ、だけ[#「だけ」に傍点]、と言った覚えはないぞ。まったく、余計な口出しはするなって言っただろう。黙《だま》って見てろ」
むぎゅむぎゅと、ジゼルの顔を手で押しつける。むむっ、この抱き方では爪《つめ》が立てられないじゃないか。
それにしても、ひどい。ひどい、ひどいっ。なつめというものがありながら、サクライさんと浮気してたなんて! 扉を開けてくれたのはサクライさんだったけど、なつめには二人が中でなにやってたか分かってしまったんだ。
なつめがアスラをいやがるのも当然だい!
「俺たちの仲はすぐに終わった」
アスラが、ジゼルの憤《いきどお》りを感じ取ったか、それともあまりに攻撃的《こうげきてき》な思念だったので届《とど》いてしまったか、そんなことを言い出した。
「一夏の恋だった。夏が終われば冷めた。あの時、俺がいくつだったと思う?」
「は、二十だろっ。それがなんだってんだい」
ようやくアスラがジゼルの顔面から手を離《はな》す。口が自由になったので、きいきいと喚《わめ》いて攻《せ》めたてたら、
「そう。二十。我ながらよく我慢《がまん》したと思う」
反省の色を見せるどころか、感慨《かんがい》深《ぶか》げに頷《うなず》いて、自分を憐《あわ》れんでいる。なんだ、こいつ。じろりとジゼルが睨《にら》みつけると、
「八年間、俺は一回もなつめに手を出さなかったんだ」
う。思わず言葉に詰《つ》まる。いったいなにを言い出すのかと思ったら、そんなどーしよーもないことを。呆《あき》れ返ったジゼルを見て、
「お前は去勢してあるし、猫だからいいけど、俺は健康的な青年男子なの。盛《さか》りの季節に結婚《けっこん》相手を見ていて、欲求不満にならない方がおかしい」
情けないことを断言するアスラ。ジゼルは頭がくらくらしてきた。
「だ、だから、サクライさんと?」
「欲求不満のはけ口みたいな言い方するなって。それに、その前に、二十になった時、本能が理性の限界を超《こ》えたんで、なつめを押《お》し倒《たお》してみたんだ」
あっけらかんとアスラは言うけど、ジゼルは開いた口が塞《ふさ》がらなかった。なんとか一言責めてやりたいと思ったけど、声が出ず、金魚のようにぱくぱくさせるだけ。
(なっ、なにが、押し倒して、みた[#「みた」に傍点]、だーっ!)
「案の定、キス一つで呑《の》み込まれた。だから我慢《がまん》してたんだけど」
うんうん。当然だいっ。
「問題はそこからだったんだなあ。三日間、閉じこめられた挙《あ》げ句に、『アスラなんか大嫌い、二度と近寄らないで!』と言われ、あいつ、公文書|偽造《ぎぞう》して、婚約《こんやく》破棄《はき》までしたんだな。しかも、養子|縁組《えんぐみ》も取り消しちゃって、会社が一大パニックに陥《おちい》った」
ええっ!? それを聞いて、なつめ寄りだったジゼルの心がぐらりと傾《かし》いだ。な、なつめって、怒ると徹底的《てっていてき》に復讐《ふくしゅう》する人間だったんだ。なにもそこまでやる必要ないじゃない――そう考えて、でも、なんでそんなになつめはアスラを拒《こば》んだのか、それが疑問になってくる。婿《むこ》養子だってことは分かっていたのだから、なにもそこまですることはないのに。
「ねえ、なんでそこまでなつめは抵抗《ていこう》したのさ。なつめだってアスラがいいなずけだって知ってたんでしょ」
「ああ――あれは、きっと、よほどキスが怖《こわ》かったんだろうな。他人と接触《せっしょく》すると、勝手に同調して、相手の思念が聞き取れてしまうそうだ。小さい頃、それでよく泣かれたから。人の心なんてものは、あまり聞きたくないんだろうよ」
アスラはそう説明するけど、今、こうして取り込まれていること自体、なつめにしてみれば他人の意識が筒抜《つつぬ》け状態になっているということじゃない。アスラは何回も取り込まれたという。じゃあ、その意識になつめは慣れているはずじゃない。それなのに?
これは、やっぱり、十五歳の純真な少女が、信用していた男にいきなり押し倒されたショックから、だとジゼルは思うぞ。かわいそうななつめ。
「まあ、親父《おやじ》さんとお袋《ふくろ》さんがちゃんと取りなしてくれたから、立場は元通りにはなったけどな。俺としては、なつめにそこまでされて、ひどく傷ついたというわけだ。そこで、傷心の俺を見たソフィアが、慰《なぐさ》めてくれて」
「それで、そーゆー関係になったと」
「そういうこと。その頃にちょうど、ジゼルの事件があって、現場を見られたのさ」
なるほど、ね。ジゼルは深く納得《なっとく》してしまった。なつめにしてみれば、裏切りに裏切りを重ねたようなものだったのだろう。だからジゼルのアスラに関する記憶《きおく》を消したんだ。よく解ったよ。よーく、これが痴話喧嘩《ちわげんか》だってことが解《わか》ったよ。
あーっ、もう! ジゼル、アスラにもなつめにも怒るよ!
なつめもいい加減、アスラの気持ちも考えてあげなさいっ。
「でも、あの時は、本当にそれでいいと思ったんだ」
アスラが呟《つぶや》くように言った。
「ソフィアとのことがなつめにばれて、嫌《きら》われてもそれでいいと思ってたんだ。もうなにもかもどうでもいい――やけになってたのかな、珍《めずら》しく」
「アスラ……」
「でも、ソフィアとは長く続かないで、合意で別れて。俺はなつめを忘れられなかった。ジゼルの件で機嫌《きげん》が直ったと思ったら、今度はお兄さま呼ばわりだもんな。この間、確かにこの手にしたと感じたんだがなあ……」
ジゼルを抱《かか》えながら、自分の掌を広げて見つめるアスラ。ジゼルはなにも言えなくなってしまった。ドラマなんかでは、ここでお節介《せっかい》にも仲を取り持ったり、説教したりする人物がいるんだけど、到底《とうてい》ジゼルにはそんな器用なことはできない。どちらの立場も同情できるし、どちらの立場も非難できる。つまり、どっちもどっちなのだ。あああ、なんだかこうやって気を揉《も》むジゼルが、一番ばからしくて一番かわいそうに思えてきた。喧嘩のまきぞえを食って記憶|喪失《そうしつ》にまでなってさ。本当に放っておこうかしら。それもできないから、お義理程度につき合っておこう。
「……それで、二十三歳の青年は、なつめとの仲を取り戻したいというわけ?」
「俺はなつめに媚《こ》びたりはしないさ」
ふふん、とアスラが笑った。突然《とつぜん》、態度が豹変《ひょうへん》したのに、ジゼルぎょっとなる。なんだなんだ、この自信は。元に戻《もど》った、いや、今まで以上に自信に満ちあふれた、高慢《こうまん》・高飛車《たかびしゃ》な態度になっちゃったぞっ。嫌な予感。まずい予感。
「俺は俺に自信を持っている。なつめに負けはしない」
「ちょ、ちょっと! 喧嘩売りに行くんじゃないんでしょ!」
そのとんでもない言いぐさに、仰天《ぎょうてん》してジゼルが気を変えさせようと声を上げる。が、
「ここで一発、がつん、とな」
「ひーんっ、やめてよお」
こ、こいつ、本気で喧嘩売りにいくつもりだ!
アスラを押しとどめられる人間は、なつめとおとーさんおかーさんしかいない。そのなつめと闘《たたか》う気でいるのだから、もうジゼルには止められないよーっ。
おかしいっ。なんでこういう展開になるんだ!? どうして、どーして!? ジゼルには理解できないよーん。ああああっ、逃げてしまいたい。
「ほーら、お姫《ひめ》さまがいた」
喜々としてアスラが言う。ぎょっとして、奴《やつ》が指し示す方向に目をやると。
そこに。
なつめがいた。
まだ幼《おさな》い。そう、四、五歳ってところか。
漆黒《しっこく》の髪《かみ》は今と変わらない。肩の上で切りそろえて、見事な艶《つや》を放っている。白い、陶器《とうき》のような肌《はだ》が、どこも隠《かく》すところなく露出《ろしゅつ》していた。
ジゼルのよく知っている、十八歳の少女ではない。だけど、毅然《きぜん》とこちらを見据《みす》えるさまは、間違《まちが》いなくなつめだった。
なつめはしゃぼん玉みたいな、虹色《にじいろ》に綺羅《きら》めく球体の中にいて、見えない椅子《いす》に半跏《はんか》の体勢で座っている。無表情。冷たい面《おも》もち。
ジゼルは自分の心臓がドキドキ鳴っているのに気がついた。
なつめ、怖《こわ》い。
まるで彫刻のように動かない。精巧《せいこう》な人形のようだ。なんか、怖《こわ》い。怒《おこ》っているならまだしも、感情の欠如した綺麗《きれい》な面は、綺麗すぎて怖かった。
どうしたの、なつめ。
「お姫さまは錯乱《さくらん》ののち、自分の殻《から》に閉じこもられてしまった」
けたけたと、人の悪い笑いを洩《も》らすアスラ。そして、ジゼルを下ろし、一歩前に進んで気合いをいれる。そして、なつめに向かって、
「なつめ、今までの会話は全部聞こえていたんだろう。だから、単刀直入に言うぞ。いいか、なつめ、俺はもう二十三なんだぞ!」
げっ。こ、こいつ、さっきの続きを当人を前にしてやる気か?
「最初に言っておくが、俺は謝《あやま》るからな。お前の信用を裏切ったことは謝る。でも、俺は間違ったことはしていないからな。サクライのことでは謝らない!」
意表を突《つ》いた出だしに、ジゼルは唖然《あぜん》としてしまった。そんなに高飛車な態度で、しかも、普通《ふつう》謝るぞなんて宣言するか!?
「なつめ、俺が十一年間、どんな想《おも》いでいたか、お前は知っているはずだ。キス一つでそんなに脅《おび》えてどうするんだっ」
なんて勝手な言いぐさだい。アスラこそ、なつめの気持ちを考えてやればよかったんだ。
なつめの気持ち……?
なつめがこの一週間、怒っていたのは、それでもアスラが好きだった自分に対してだったんじゃないの。キスを許した自分に対して。
「自分を受け入れない女にいつまでも固執《こしつ》できるほど、俺は大人《おとな》でも子供でもなかった。サクライのことは半分は自分が招《まね》いた結果だと思えっ。それを、俺だけが悪いように解釈して、自分の責任も省《かえり》みないっ。お前は昔からそうだ。いつだって逃げる。逃げて、自分の保身にしか回らない。どうして、自分からぶつかってこない。どうして、自分から攻《せ》めない。お袋さんのことだってそうだ。お袋さんの心が開かないといって、自分の内に隠《かく》れて、被害者面《ひがいしゃづら》で泣き暮《く》らす。どうして、自分の過《あやま》ちを認めない、どうして自分のせいでお袋さんを狂《くる》わせたと認めない!」
「アスラ!」
たまらなくなってジゼルは叫《さけ》んだ。でも、解《わか》っている。止めてはいけない。なつめのために、止めてはいけないのだ。なつめが自分を解放するまで。『力』の呪縛《じゅばく》を破壊《はかい》するまで。
アスラはやはり、ジゼルの声なんか無視した。
「そんなに責任を取るのが嫌《いや》なのか。誰かが機会を与《あた》えてくれるまで待つ気か。自分で決断するのがそんなにいやか!? お前はいくつになったんだっ」
「謝《あやま》りにいったのよ!」
長い沈黙《ちんもく》と仮面を破って、なつめが悲鳴に近い声を上げた。途端《とたん》、世界の色が、油膜《ゆまく》の表面みたいに虹色《にじいろ》のマーブルと化して、目まぐるしく流動する。
声は十八歳のなつめのままだった。
「あの日、謝りにいったのよ。あなたが理研にいるって聞いて、こっそり行ったのよ。そうしたら、行き違いになって、わたしはジゼルを見つけたわ。でも、また謝りにいったの。ジゼルを助けて、それで、あなたに頼《たよ》ろうと思って部屋に行ったのに。あの日、わたしは謝りにいったのに!」
びりびりと空間が振動《しんどう》している。解放されたなつめの心に、敏感《びんかん》に反応《はんのう》しているんだ。
「でも、遅《おそ》かったのよ。間に合わなかった。あなたはもうわたしのものじゃなくなった。いつだって、間に合わないの。お母さんのことも、そう。もう、どうにもならないの、それをどうすればいいっていうのよ!」
ぽろぽろと、白銀に光る涙がなつめの頬《ほお》を伝った。あーあ、泣かしちゃった。口出さないと約束したから黙《だま》っているけど、この貸しはしっかりジゼルが覚えておくからね。
当のアスラは、その涙を見て慌《あわ》てるどころか、憮然《ぶぜん》と非難がましく、
「ほら、そうやって責任から逃《のが》れる。どうして、自分のやったことに責任を持たない。そんなに自分に自信がないのか。子供だからやったことが許されるなんて思ったら、大きな間違いだぞ。ましてや、なつめ、もう十八になったんだ、いい加減責任を持って、シティに出てこい。それで、俺が今まで代理になってきたことも感謝しろよ」
それを聞いたなつめ、きっとまなじりを上げた。涙の雫《しずく》が飛んで、きらきらと輝《かがや》く。
「そんなたいそうな口きいて! わたしばかり責めて、自分には非がないとでも言うの!?」
「あるさ。だから、最初に言っただろう。俺は、自分が悪いと判断したことには謝る。でも、間違っていないと思ったら、謝らない。俺は、自分の言動にちゃんと責任持っているからな。いいかっ、周りを責めてばかりいて、被害者《ひがいしゃ》妄想《もうそう》に浸《ひた》りきっているだけじゃあだめなんだ。自分が加害者であったことも忘れるなっ。でも、本当は、それをどう取り返すかが一番の問題なんだ。解るか」
あ。
ああ。それは。
それは、ボーヴォール王国で、ジゼルがディドに対して思ったこと。
取り返しのつかないことなんて、ないんだよね。
誰かを傷つけても、傷を癒《いや》すことはできるんだよね。
そう思った。ディドはジゼルに心を開いてくれた。
[#挿絵(img/sextant_212.jpg)入る]
(ああ、これは、アスラの信条だったんだ)
(ジゼルの心に、くっきり刻みつけられていたのは、アスラの信条だったから)
ジゼルの思いが伝わったのか、アスラが片目をつむってみせた。それから、しゃぼん玉に触《ふ》れんばかりに近づいて、手を伸《の》ばし、
「だから、もう一度やり直そう。なつめ、俺はお前を愛しているんだ」
しばらく、なつめは涙さえこぼすのを止めて、呆然《ぼうぜん》とアスラを見つめた。
長い無言の時間が流れた。じっと見つめ合う二人。どうにも、ジゼルが居心地《いごこち》悪くなって照れてきた頃、ようやくなつめが口を開いた。
「……サクライさんのことは、どうするの」
「とっくに、二年も前に別れている」
「彼女のこと、どう思ってたの」
「愛してた」
「本当に? わたしよりも?」
「あの頃は誰よりも愛していた。本気だった。今は」
アスラの指先が触《ふ》れると、あっけなくシャボン玉は弾《はじ》けとんだ。その刹那《せつな》、アスラの身体もまた、虹色《にじいろ》の光の雫《しずく》となって、散乱する。きらきらと、世界が乱反射している。すっごくきれい。
アスラ。先に戻ったんだ。
ああ、まるで夢《ゆめ》のようにきれい。
「ジゼル」
なつめが呼ぶ。うっとりと光の乱舞《らんぶ》を眺《なが》めていたジゼルは振《ふ》り返った。
十八のなつめがそこにいた。
白い、細い手が差し出される。
「ごめんね。こんな世界に引きずり込んで。ごめんね、記憶《きおく》を封《ふう》じ込めたりして」
ジゼルは慌《あわ》てて首を振った。
「ううん、だって、なつめはジゼルを助けようとしてくれたんだもの。嬉《うれ》しい」
「全部、聞こえていたの……元に、戻りたい?」
あの、境目のない、意識だけの世界へ。
もう、戻れない。戻らない。
「ジゼル、なつめの側にいるのが、一番幸せだよ」
そう答えて、ジゼル、その手の中に飛び込もうとする。
にっこりと、なつめが微笑《ほほえ》むのを見た、気がした。
[#改ページ]
ACT.10
きっと、いい夢《ゆめ》を見ていたんだ。面白《おもしろ》くて、悲しくて、切なくて、幸せな夢。
目が覚めた時、ジゼルは本社の一角、吹抜《ふきぬ》けホールに置かれたソファに寝っ転がっていた。お昼の時間が終わったばかりらしく、ホールから人が出ていく姿が見える。まだ、そんなに時間は経《た》っていない。
「あ……アスラ?」
きょろきょろホールを見回すと、少し離《はな》れたところで、アスラと川瀬《かわせ》情報部長がなにやら話し込んでいた。よく見ると、ホールの隅《すみ》に並《なら》べられたソファベンチに、白衣姿の人たちが縦に並んで眠《ねむ》っている。あ、起きている人もいるや。
吹抜けを見上げる。上から落ちてきたみたい。
「ジゼル!」
ジゼルが起きたことに気がついたらしく、アスラが手招《てまね》いた。どことなく身体《からだ》が重いけど、よたよたしながらソファを降りて側に寄る。
「今、正式にストーンサークルの陰謀《いんぼう》が露見《ろけん》した。デテール大学で超《ちょう》法規研究を試みていたチームは全員|逮捕《たいほ》だ。首謀者《しゅぼうしゃ》のコームエン教授は法廷《ほうてい》送り、クリフォード・ステイシィ以下十三名の研究員は、ライフサイエンス法|違反《いはん》で、逮捕と同時にメディカルセンターに運ばれている。残りのチームも芋づる式に捕《つか》まる見込みらしい」
「あ……」
事務的に語るアスラ。ジゼルは頭がぼーっとしていて、そのことについて考えを巡《めぐ》らすことができなかった。デイニはクリスに会えたのかな。そんなことぐらいしか思いつかない。
「それに関して、もう一度生体機械について詳《くわ》しく見直す法案が、連邦《れんぽう》から出された。特殊《とくしゅ》倫理《りんり》委員会が音頭《おんど》をとっているから、当然、うちもいろいろ見直さなければならない点が出てくるだろう」
「ふうん……」
「ふうんってなあ、気の抜けた返事をするなよ。お前さんのことだよ、ジゼル」
憮然《ぶぜん》とアスラが言う。そこで、ようやく頭がはっきりした。きょとんとして、
「ジゼルのこと?」
「そう。判定は一か月延期だ」
「え……」
反射的に隣《となり》の川瀬さんを見上げる。壮年《そうねん》のおじさんはにっこりと笑ってみせた。本当なんだ。
これは、明るい未来がジゼルにも待っているってことなのかな。
ううん、きっとそうだ。そうに違《ちが》いない。
明るい未来。
アスラ、ジゼルを抱《かか》え上げる。
「さあ、夏離宮に行こう。なつめが待っている」
「う――うん!」
ジゼルは大きく頷《うなず》いた。
でも、きっと。
きっと、なつめの方がここに来る。
微笑《ほほえ》みながら、なつめがここに来る。だって、呪縛《じゅばく》は消えたんだもの。虹色《にじいろ》の雫《しずく》となって、散ったんだもの。
振り返れば、ほら。
そして。
吹抜《ふきぬ》けの下、日の燦々《さんさん》と降り注ぐホールの中央に、佇《たたず》むなつめの姿を見つけた。
[#改丁]
続 ベクトルの彼方《かなた》で待ってて
[#改丁]
「ジゼル、竹取りに行こうぜ」
土壇場《どたんば》で私情に走ったアスラから、決定権がおとーさんに移って二週間が経《た》とうとした、その日。
おとーさんの部屋《へや》、即《すなわ》ちE・R・Fコーポレーションの会長室のデスクで、うつらうつらしていたジゼルは、そんな陽気なアスラの声で起こされた。
十三日ぶりの対面の割には、わけの分からないことを言い出す奴《やつ》。扉《とびら》のところで目をいたずらっぽく輝《かがや》かせているアスラは、やっぱり悪ガキそのまんまだった。ジゼルの記憶《きおく》喪失《そうしつ》の一件では随分《ずいぶん》大人になったもんだと思ったけど、やっぱり変わらない。
「……たけとり?」
「そ。行くだろう」
竹。あれだ。節目《ふしめ》があって、中が空洞《くうどう》の緑の奴。筍《たけのこ》はおいしい。竹なんかとってきて、なにをするつもりだろうか。
いや、待てよ。私情に走ったアスラは、なつめと一緒《いっしょ》でジゼルと会うことまかりならん、じゃなかったの? 理研にばれたらどうするんだい。
側で椅子《いす》に座るおとーさんを見上げる。
「いいよ。行っておいで」
「いいの?」
「私が許そう」
にっこりと、おとーさんは笑った。決定権のある会長から許可が下りれば、怖《こわ》いものなしである。
かくして、ジゼルは竹取りに出かけることになった。
が、しかし。
相手はアスラ、単なる竹取りを想像していたジゼルが甘《あま》かったのだ。
「どーして竹を取りにいくのに、えっちらおっちら外国まで来なくちゃならないのさ!」
ここへ来るまでの道中、文句を言い続けて、今、竹藪《たけやぶ》を掻《か》き分けながら進んでいる。
「大体、竹なんかエルシにだって、いくらでも自生してるのに。夏離宮にもあるよ」
Hブロックに属する、キャパシ恒星《こうせい》の第二|惑星《わくせい》・新昌(シンチャン)。その星の熱帯気候に属する大陸東部に、目指す竹林はあった。
一体、エルシからどれくらい離《はな》れていると思ってるんだいっ。
ジゼルが憤慨《ふんがい》するのもむりない話なのだ。惑星シンチャンは人口が少なく、その八十パーセントは気候が温暖で肥沃《ひよく》な土地のある、大陸西部、北部に住んでいる。ここら辺は開拓時代そのまんまの、荒れ放題伸び放題の原生林が広がっていた。衰退度は5ぐらいだけど、それは都市部の話、こんな僻地の僻地《へきち》では、なんの意味もない。ここは人間の手の及《およ》ばない、原始の世界だった。
「こんな文明のないとこ、いやだーっ!」
と、群がる蚊《か》を追い散らしながら、ジゼルは喚《わめ》いたもんだ。
そりゃあ、防虫コーティング施《ほどこ》してあるから、蚊なんかに刺《さ》されはしないし、風土病だって怖《こわ》くないさ。でも、この、キーンっていう羽音! きーっ、頭がおかしくなってきそう。どうしてこれが怒《おこ》らずにいられる。
ああ、ジゼルって生粋《きっすい》の都会生まれなのね……と酔《よ》いしれ、それから、育ったところは夏離宮の田舎《いなか》であることに気づいて、自分自身で興《きょう》ざめる。ふんっ、エルシにはあまり蚊はいないもん。ぶつぶつ。
ざくざく、笹を掻き分け、進むアスラ。その後をジゼルはついていくのだけれど、他にも十数人、会社の人が辺《あた》りを適当に進んでいる。一体、こんな大勢でなにする気かしら。
一旦《いったん》、宇宙港に入って、すぐさまこっちに飛んでこれたのはグループ圏《けん》ならではだけど(この星にE・R・Fは、国家予算の実に二十パーセントを援助《えんじょ》している)、着陸ポイントがなかったために、こんな徒《かち》でいくという情けない状態にあるのだ。もう小一時間は歩いているぞっ。
「まったくーっ。ねえ、ここの竹から小判《こばん》でも出るっていうの? それとも、きれいなお姫《ひめ》さまでも出てくるっていうの!?」
「理研の奴《やつ》らが、お前にテレビを与《あた》えたのは失敗だったって嘆《なげ》く気持ち、解《わか》る気がする」
こちらに聞こえるようにアスラは呟《つぶや》く。ふーんだっ。なつめと離《はな》された今、テレビが今や、唯一《ゆいいつ》の友達なんだい。ああ、暗い、寂《さび》しい生活……
なんだか最近、自分自身の境遇《きょうぐう》に酔いしれる癖《くせ》がついてしまったぞ。いけない、いけない。なんか他のことに気を逸《そら》そうと、周囲を見回す。
竹。たけ。たけーっ。どこまでもどっちを見ても竹ばかり。地平線まで竹だらけかしら。
それにしても、竹ってふしぎだなあ。どうして、こんなにまっすぐ、おんなじ太さのまま伸びているんだろう。節の部分に枝が二本ずつ出ているのもふしぎ。一昼夜に一メートル成長するとか、花が咲いたら枯死《こし》するとか、いろいろな話があるけれど、やっぱりジゼルは煮た筍《たけのこ》が好き。
竹と竹の間を、すり抜《ぬ》けるようにして進む。
鞭《むち》のようにしなやかな竹の小枝が、アスラの腕《うで》を打った。すぐに血が滲《にじ》む。
「いてっ。枝で切ったな」
舌打ちしてアスラが言うけれど、その時、ジゼルは奇妙《きみょう》な感覚に捕《と》らわれた。
以前、どこかで同じ光景を見たことがある……?
これは、俗に言う既視感《きしかん》、デジャ・ヴュという奴《やつ》だろうか。
いったい、この人たち、どんな竹を見つけようとしているのかしら。黄金に輝《かがや》く竹――むむむ、おとついのテレビの影響《えいきょう》が。
「ねーえ、ジゼル、面白《おもしろ》くないよう」
「文句ばっか言わない。そうだ、ジゼル、親父《おやじ》さんのところの生活はどうだ?」
アスラが前を見たまま、そう尋《たず》ねてくる。いきなりだなあと文句つけて、ジゼルはしばらく返事を考えた。そして、
「うん。なんだか視野が広くなった気がする」
それまで、おとーさんとあまり付き合いはなかった。夏離宮におとーさんが赴《おもむ》いた場合とか、本社でたまたま会った時とか、それくらいの関係。あくまでおとーさんは、『なつめのおとーさん』でしかなかった。でも、こういう状況《じょうきょう》になって、媒介《ばいかい》なしで初めておとーさんおかーさんと暮《く》らしてみて。
「ジゼル、おとーさんって、おとーさんだとずっと思ってた。おかーさんも」
「なんだ、そりゃあ。全然文章になってないぞ」
「だから、父親、母親、という目でしか見ていなかったの。おとーさん、おかーさんという観念が頭にあって、それを通して見ることしかしなかった」
「それで?」
「おとーさんもおかーさんも、人間だった」
なつめやアスラのように、かわな、マリエという名前のある人間だった。決して、おとーさんおかーさんではなかったのだ。
二人には二人の人生があって、子供の世話に追われるだけの人生がすべてではない。
「そうか」
アスラは相づちを打つと、足を止めてジゼルを抱《だ》き上げた。
「巣立《すだ》ちする子供みたいなことを。親を一人の人格者と認められれば、立派な巣立ちだ」
「なつめの次の課題だね」
「そうそう」
二人で笑いあう。ジゼルもアスラも本当の親はいないけど。結局、なつめが一番|親《おや》離《ばな》れできていないみたい。
ジゼル、おとーさんに、なつめをどうして放っておいたの、って聞いてみた。そしたら、『獅子《しし》の子落し。可愛《かわい》い子には旅させろ。羮《あつもの》に懲《こ》りてなますを吹《ふ》く。木によりて魚を求む。燕雀《えんじゃく》いずくんぞ鴻鵠《こうこく》の志《こころざし》を知らんや。虎穴《こけつ》に入らずんば虎児《こじ》を得ず。朝三暮四《ちょうさんぼし》。さあ、これらの故事成語《こじせいご》の中のどれが当てはまるかな』
『おとーさんっ』
なんとなく、最後の朝三暮四が正解のような気がするのだけど、真実は永久に謎《なぞ》のままである。おとーさんはこういう人なのだ。
「ほーい、ほーい、ほーい」
不意に、遠くから呼び声が響《ひび》いてきた。なんだろう。
「お、やっと見つけたようだ。さあ、行くぞ」
アスラはそう言って、声のした方へと転換《てんかん》して、ざくざくと歩き出す。
「ねえ、本当に、この竹林になにがあるの?」
「【穴】だよ」
「穴?」
ジゼルの問いに、にやにや笑って答えるアスラ。穴。洞窟《どうくつ》かしら。秘宝の眠《ねむ》る魔王《まおう》の洞窟とか。ああっ、いけない、こんなことばかり考えていると、テレビ取り上げられちゃう。
「穴って、なんの穴?」
「ほら、例の|φ《ファイ》ベクトル創造の……」
言いかけて、アスラ、じっとジゼルを凝視《ぎょうし》する。どうしたんだろう。φベクトル創造? 穴とそれがどんな関係で結ばれているのか、全然見当がつかない。
「……このパターンは前にもあったぞ。あまり言いたくないが、ジゼル、記憶《きおく》がないな」
「えっ!? 全部|戻《もど》ったよ!」
驚いたジゼル、とっさに否定する。そんなことないやい。アスラがなつめのいいなずけであると思いだした時点で、すべてがつながったんだ。いまさら、取りこぼしなんかないよ。
「いいや、覚えてないからこそ記憶|喪失《そうしつ》なんだ。忘れているとも思えない。桔乃藻《きのも》でのことだぞ」
「きもの?」
「記憶が戻ってないな、こりゃ」
手で頭を押さえ、呆《あき》れた口調《くちょう》でアスラが言う。そんなばかな。
「アスラさん」
「おう」
いつの間にかわらわらと、社員さんが周りに集まっていた。中には第七秘書のココリさんもいる。彼はジゼルを見かけると、あののんびりした面《おも》もちで、にこっと笑った。ココリさんには迷惑《めいわく》かけたものなあ。いや、今考えると、あの一件も計画的なところがあったような……
前方に手を振《ふ》る社員さんが見える。アスラは側にいた社員さんになにか耳打ちした。社員さんは頷《うなず》いて、隣《となり》の社員さんへと回す。伝言ゲームみたい。
竹林の風景は三百六十度広がっていて、見渡す限り竹しかなかったけれど、みんなを集めた社員さんが立っているところは、ぽっかり空間が空いていた。人がすり抜けるのがせいいっぱいなほどに、密集して生えている竹林が、そこだけはごっそり竹がなくなっている。さほど広くはないけれど、なんであそこだけ?
さらに近寄って見てみると、それが穴だということに気がついた。ははあ、これがアスラの言っていた穴か。でも、なんの変哲《へんてつ》もない穴じゃない。わざわざ見にくる必要があるのかしら。
(……変哲もない?)
ジゼルは自分の言葉に訝《いぶか》って、穴を見直した。
なんだか穴の中、やけに真っ暗じゃない? 普通《ふつう》、入り口付近は光が当たって、土が見えたり根っこが見えたりするものだ。でも、縁《ふち》のところから既《すで》に真っ暗、ううん、真っ黒で、なにも見えない。黒い光沢《こうたく》さえあるようだ。まるで、黒い筒《つつ》が埋《う》まっているようだ。なんだか不気味《ぶさみ》。怪談《かいだん》はパスだぞっ。
穴の大きさは半径二メートル程度。落し穴には大きすぎる。一体、どれくらいの深さがあるんだろう。
アスラを仰《あお》ぐと、にやにや、笑っている。なんだか、ヤな予感。これは、悪巧《わるだく》みを実行しようとしている時の笑みじゃあなかったっけ。
「ジゼル。この穴、どのくらいの深さがあると思う?」
「さ、三メートルくらいかな」
ちらりと横目で見て、ジゼル、答える。やばい。こいつ、ジゼルを穴に落とす気だ!
ばたばたと手足を振り回し、必死になって悪巧みから逃《のが》れようとする。が、気がつくのが遅《おそ》かったのだ。
「ざーんねんっ。これは底なし穴でしたーっ」
ぱっ。
アスラがジゼルを放り投げる。
宙を泳ぐなんてジゼルにできる芸当ではなかった。
至極当然に、ジゼルは引力に沿って落下する。うひゃーっ!
「アスラのばかーっ! なつめに言いつけてやるーっ!」
そして、かわいそうなジゼルは、ぱっくり穴に呑《の》み込まれてしまった。
そう、呑み込まれたという表現が的確だろう。確かに境界断面があったのだ。
ジゼルは落ちた。奈落《ならく》の底へ。水よりも表面張力の弱い界面活性剤《かいめんかっせいざい》溶液《ようえき》をくぐり抜けた感覚があった。ここが、境界だ。
φベクトル空間!?
その異状に気づいて、驚愕《きょうがく》の悲鳴を上げる間もなかった。
乱流!
まるで竜巻《たつまき》に取り込まれたかのように、激《はげ》しい気流がジゼルを襲《おそ》った。くるくる身体が回転し、手足がそれぞれの方向へ引っ張られる。背中を煽《あお》る突風《とっぷう》。息がつけない。苦しい。上も下も判《わか》らない。ぐるぐるぐるぐる、目が回るーっ。
嵐《あらし》になぶられる木の葉のように、気流の中で乱舞《らんぶ》するジゼル。
気流? いや、φベクトル空間には大気の流れはない。じゃあ、これは空間のひずみかベクトルだ。
「ひえーっ」
身体、特に腹部に集中して圧力がかかる。身体が揉《も》みくちゃになるーっ。ひーっ。
そして、突風がジゼルを貫《つらぬ》いた。あっ――と気づいた次の瞬間《しゅんかん》、ジゼルは乱流から解放されていた。
状況《じょうきょう》は一転していた。そこは静寂《せいじゃく》の空間だった。
なつめの意識の世界に入った時も、こんな感じで、とても静かだった。静寂。音のない空間。なにもない無の広がり。
どこまでも、四方八方、無限の距離《きょり》まで世界が広がっている。
でも、あの時と違うのは。この空間全域に渡って、直交座標の格子が入っていることだ。ここはφベクトル空間、間違《まちが》いない。
ベクトル移動したんだ。
ジゼルは上も下もない三次元の広がりに、ぽつんと浮かんでいた。ベクトル創造の失敗でときおり【穴】が空くという話を、以前アスラから聞いたっけ。どこでだったか忘れたけど、思い出した。
ジゼルはその【穴】に落とされたというわけか。
(……あれ?)
待てよ。確か、【穴】に落ちると、元に戻れなくなるんじゃなかったっけ? そーいえば、宇宙機で移動する時、いつも見えている【原点】が見あたらない。ここは那辺《なへん》か、無限遠《むげんえん》か。
まあ、どうにかなるか。アスラが助けてくれるだろう。
ジゼルはぼんやり浮かんでいた。浮かぶというよりも、座標の一点にとどまっているのだけれども。
ジゼルはφベクトル空間に、直《じか》に入ったことはない。でも、【森羅《しんら》】の第三パーツのように、都合のいいように空間を切りとって、都合のいいように出口を創《つく》って、使用する例はいくらでもある。ここは、生きていくことができる空間なのだ。だから、その辺は安心。
なんだか不思議な心地《ここち》。初めて見た時、この座標格子には随分《ずいぶん》驚かされたものだ。三方向に互《たが》いに直交する線は、一体なにで引かれているのだろう、そう常に疑問に思っていたけど、こうして間近で見てみると、それが影《かげ》だということが判《わか》る。
なんの影かしら。どっちの方からの斜影《しゃえい》かしら。
格子の単位は、見るものによって長さが違《ちが》う、そうアスラは言っていた。位相と情報が云々《うんぬん》と、難《むずか》しいこと言ってたけど、ジゼルに理解できるものではない。
ああ。
なんだか、すっごく気持ちいい。雲の上で寝《ね》ているみたい。
このまま、ずっとこうしていてもいい、そんな感じ。
意識の世界にいる時は、一人が孤独《こどく》で、なにもないのが寂《さび》しくて、空白が怖《こわ》くて、狂《くる》いそうだった。
でも、ここは同じようになにもなくて、孤独なのに、ちっとも怖くない。なんでかな。
もしかしたら、時間がないからかしら。四次元を三次元に圧縮、潰《つぶ》すことで、この空間は超常《ちょうじょう》の力を秘めている。まるで『真空』が宇宙を生み出すエナジイを秘めているように。時が流れていないから、こうやって恐怖《きょうふ》することもできないでいるのではないかな。
でも待てよ。時が流れていないから、じゃあ、こうやって考えているという現象はなんなのだろう。もし、本当に時がないなら、ジゼルは考えることも認識することも、見ることさえできないじゃない。信号が伝わらないんだもの。
となると、時を潰しているというのは間違いで、三次元の要素の一つが欠けているということになる。
ジゼルは自分の右手を見た。ちゃんとあるように見える。縦、横、高さ。x、y、z。でも、実際はないのかもしれない。この手の奥行き。
あたかも膨《ふく》らんで、三次元体のように見えるけど、本当はぺちゃんこで、高さなんかなくて、平面なのかもしれない。縦にした途端《とたん》、平面の部分がすり変わる、相対的な平面。それを、視神経が誤《あやま》った情報を流して、これは立体なんですよーと騙《だま》しているのかも。感触《かんしょく》だってしれたものじゃないぞ。みんなで共謀《きょうぼう》して、脳みそを化かしているのかもしれない。大体、目が受け取る情報は、元々平面でしか捉《とら》えられないのだし。三次元だの四次元だの、結局は人間が生み出した概念《がいねん》じゃない。
ぜーんぶ、脳みその世界だ。脳みその世界の斜影。本当のことなんか誰にも分かりやしない。
あ、でも、【森羅】のエネルギーステイションなんかもφベクトル空間にあるしなあ。あれが平面だっていうのはむりがある。それに、人が実際にそこで働いているのだから、時も止まってないぞ。むむむ。
じゃあ、なにを潰しているのかしら。
もしかしたら、『感情』かも。
寂しい、とか、怖い、とか、そういう『感情』というのは、実は一つの次元を構成していて、この世は四次元ではなく、もっと高次の世界なのかもしれない。他の、生命が持つすべての現象が、次元として扱《あつか》うものなのかもしれない。
なーんてね。次元工学の学者が聞いたら、鍋《なべ》持って追いかけてきそうな空想。なにを潰しているのかは、科法使いに聞けばちゃんと判ることだもの。
でも。
でも、【意識】は違う。
【意識】は確かに、特別なんだ。でなければ、ただの原子の集まりである身体が、こうやって考え始めることなんかできないじゃない。生理機能や化学反応なんかじゃあ説明できないほど、『考える』ことは複雑で、不可解だ。
生体機械の脳が目覚めないのは当り前。
(境目のない世界)
もう、記憶は薄《うす》れ、言葉のイメージしか残っていないけれど。
あれは、生物が生まれでる前に住んでいる世界なんじゃないかな。
あそこで彼らは笑っていて、誰かに呼ばれるとああやって道を通って、この世に目覚める。呼掛《よびか》けに呼応したものが、新たな生命としてこの世に生まれるのではないかしら。
最近、そんなことを考えている。無論、これはジゼルの勝手な想像で、なんの根拠《こんきょ》も理由も証拠《しょうこ》もないけれど。
(ねえ、そうだよね、なつめ……)
ああ。なんだか眠い。春の朝のようだ。眠くて、このまま寝ちゃいそう……
(……え?)
夢かうつつか、遠くからなにかが近づいてくる。
気のせいじゃない!
始めは黒い点に見えた。近づくといっても、連続してではなく、座標、座標を飛び移るように、移動する。まるでストロボ映像だ。
(ベクトル移動?)
なんだろう。眠気も一気に飛び、食い入るように見つめる。
人!?
ジゼルは我が目を疑った。チカチカして見にくいけど、間違いない、その点は人の姿だった。
まさか! 座標を見失う原点のないφベクトル空間に、人がいるはずない! しかも、むき身で来るなんて。アスラ? いや、背格好が違う。じゃあ、どこかの【穴】で落ちた人が、偶然《ぐうぜん》……そんな、確率が低過ぎる、出会うはずがない。第一、向こうはベクトルを持っている、こうして、ジゼルのように座標に据《す》えられているのとは違う……
(え?)
ジゼルは三度|驚愕《きょうがく》した。
女の子だ! ジゼルに向かって、ジグザクしながらも近づいてくる人は、まだ少女だった。オレンジ色の髪《かみ》をたなびかせ、白い空間によく映《は》える青いスーツを着た、少女。一体、この子は。
目の前まで迫《せま》る。自信に溢《あふ》れた表情。不屈《ふくつ》の意志を秘めた碧《あお》い双眸《そうぼう》。これは、アスラがよく見せる――
愕然《がくぜん》とするジゼルに、彼女がフッと笑った。
刹那《せつな》、少女がそこから消え、ジゼルはこの座標に移動してきた彼女に突《つ》き飛ばされた。
力任せに叩《たた》きつけられた、ものすごい衝撃《しょうげき》が全身を打つ!
「うわっ!」
暗転。
くすくす、くすくす。
誰かが忍《しの》び笑い。
ああ、誰かが笑っている。また、あの世界に戻っちゃったのかな。でも、だめだよ、ジゼルはなつめのところに行かなくちゃあ……
「はじめまして」
「あ?」
漫然《まんぜん》としていたジゼルは、その挨拶《あいさつ》で我に返った。
場所が違《ちが》っていた。もう、格子縞《こうしじま》の|φ《ファイ》ベクトル空間ではない。そこは白く発光した円い台の上だった。見上げると、高い天井《てんじょう》部分に同じような円盤《えんばん》がある。光はその二つの間を流れているようだ。
光が徐々《じょじょ》に弱まり、外が判別できるようになる。暗い部屋だった。狭《せま》くはないけれど、いろいろなものが雑然と置かれていた。結果的に狭くなっている。それらがなんであるのかは判らない。円いのやら四角いの、長いのやら短いの、小さいのやら大きいの……
彼女たちはすぐ側、光の向こうに立っていた。
三人。ジゼルは唖然《あぜん》と彼女たちを見つめた。みんな、同じ顔だった。オレンジのような金の髪《かみ》に、碧い瞳《ひとみ》、ほっそりした面《おもて》、繊細《せんさい》な手足。どこからどこまでもそっくりである。微笑《ほほえ》む少女の面差《おもざ》しに、さっきジゼルを突き飛ばした少女もまた、彼女たちと同じ顔をしていたことに気がついた。
四つ子?
「はじめまして、ASアリス748です」
「へ……?」
左端の少女の挨拶に、ジゼルはぽかんとした。ASアリス、748?
「ASアリス750です」
「ASアリス751‐|δ《デルタ》です」
「は、はじめまして、ジゼルです」
次々と挨拶されて、ジゼルも慌《あわ》てて名乗ったけれど、まさか、この子たちは。
「あ、あの子は……」
「あれは私たちの一番若い妹、ASアリス752‐|ε《イプシロン》です」
聞き易《やす》い、はっきりした淀《よど》みない物言い。少女はにっこりと笑った。
「教授がお待ちです」
「きょ、きょうじゅうっ!?」
自分でも変な声を上げてしまった。ううっ、科学者どころか教授という言葉にまで、アレルギー反応するようになってしまった。まさか、ストーンサークルじゃないだろうな、あれは一網打尽《いちもうだじん》にお縄《なわ》をちょうだいしたはずだぞっ。
「ようこそ、ジゼルくん」
男性の声。思わず身体が硬直《こうちょく》する。万が一の逃《に》げ道は……
少女たちが二手に分かれ、道を開けた。
[#挿絵(img/sextant_240.jpg)入る]
教授は小柄《こがら》な人だった。痩《や》せていて、彼女たちと大差はない躯《からだ》つき。年は五十代前半といったところか、白髪《しらが》混じりの頭、優しい目元、穏和《おんわ》な表情。
ジゼルは呆然《ぼうぜん》と見返した。教授なんだから、もっと変で異様な人物を想像していたのだ。ところが、飄然《ひょうぜん》とした風貌は、教授なんて呼ばれるように見えないし、ましてや科学者らしいところはなかった。先生。そう、高校の先生といったところか。生徒の人格指導をしなくていい、のんびりマイペースの高校の先生。科学者じゃなくてよかった。そうほっとする。
教授――なんの先生だろう。
にっこりと彼が微笑む。声も落ちついた、親しみやすい調子。
「ぼくは有馬《ありま》、このE・R・F理科学研究所の所長を務めています」
「ああ、理研の……」
頷《うなず》きかけて、ぎょっと後ずさるジゼル。理研だあっ!? じゃあ、ここはエルシ、それもジゼルを抹殺《まっさつ》しようとしている理研なのか。やっぱり、この人も科学者だっ。
理研もなつめたちと一緒《いっしょ》で、判定の時までジゼルに手出しはできないはずだぞーっ。
そこで、ぴんと思いついた。
アスラのしわざだ。間違《まちが》いない。
あ、あいつーっ、やっぱり、理研と癒着《ゆちゃく》してたなーっ!
有馬さんはそんなジゼルの憤《いきどお》りなど気にもせず、にこにこと、
「ああ、予定通りの時刻だな。向こうさんはそういうところは律儀《りちぎ》だ」
「む、向こうさんって、やっぱりアスラのことですかっ?」
「そうだよ。ぼくがきみをお招《まね》きしたんだ。直接本社から来てもらってもよかったんですが、アスラくんがこの方が面白《おもしろ》い趣向《しゅこう》だからとね」
犬歯を向けるジゼルに、相手はまったく動じず悠然《ゆうぜん》として、やっぱりにこにこと答える。うーむ、調子|狂《くる》うなあ。科学者というイメージからかけ離《はな》れすぎている。それとも、ジゼルの方にとんでもない誤解《ごかい》と偏見《へんけん》があるのかしら。科学者のイメージがストーンサークルの連中、っていうところに問題があるのかも。
そう考えると、ますます有馬さんが優しいおじさんに見えてきた。
「本社から目と鼻の距離《きょり》のここへ来るために、φベクトル移動を使ったの? わざわざ?」
「ぼくから見れば、手の入ったことだね。でも、アスラくんにはなにか事情があったんじゃないかい」
あるわけない。それを断言できる。あったとしても、ジゼルをいじめるためだ。
(あの悪ガキーっ!)
「会長にもなつめお嬢《じょう》さんにも許しは得てあるよ。安心しなさい、きみをとって食おうなんて考えてはいないから」
「あなたの安全は私たちが保証します」
横から少女の一人が付け足す。なつめが許しただって? ジゼルがおとーさんのところにいる間に、両者の間でなにかあったのかしら。
「さあ、ついて来なさい」
有馬さんは背を向けると、すたすた歩き出した。アリスたちもその後をついていく。ここにいてもどうにもならないので、ジゼルも円盤《えんばん》から飛び降りた。
部屋を出て、長い廊下《ろうか》を歩き出す。両側にいくつも部屋《へや》があって、明りも紫色《むらさきいろ》の弱い光しかなく、やけに薄暗《うすぐら》かった。部屋の扉《とびら》は全部閉まっていて、人の気配が感じられない。そこを一列になって進むジゼルたち。
沈黙《ちんもく》が居心地《いごこち》悪くて、ジゼルは前を歩く少女に、さっきからの疑問を尋《たず》ねてみた。
「ねえ、君たちはサイバノイドなの?」
「はい。流失|φ《ファイ》ベクトル特捜班《とくそうはん》所有サイバノイドです」
「流失、特捜班?」
「予定外の場所に開口したφベクトル空間を、調査し、『埋《う》め』戻《もど》す、E・R・Fコーポレーション科法部に属する課です」
にっこりと答えるアリス。でも、これは機械の表情。どんなに精巧《せいこう》にできていても、サイバノイドは機械。サイバネティックス規制法第一原則に則《のっと》って造られている。
「あのー、どうしてジゼル、φベクトル空間から出られたの?」
「752‐|ε《イプシロン》が自分の移動ポテンシャルを、あなたに移したからです」
「弾性《だんせい》衝突《しょうとつ》だよ、ジゼルくん。きみはベクトルを手に入れ、ここに送られたんだ」
有馬さんが説明の補充《ほじゅう》をする。
「じゃあ、あの子は?」
「752‐εには【糸】がついています。科法使い、サー・アスラがφベクトル創造機で巻きとってくれます」
ジゼルはほっとした。ジゼルの身代りにあの空間を漂《ただよ》うことになったら、相手がサイバノイドでも嫌《いや》だもんね。
先頭の有馬さんが一つの扉の前で立ち止まった。二、三の入室照合をすると、扉は静かに開いた。そして、振り返り、
「ジゼルくん、ぼくはきみに見せたいものが二つあってね。少し話もしたくてお招きしたんだ。さあ、こちらへ」
そう言って、中に入る。三人のアリスも続いたので、ジゼルもこわごわ入ってみた。
中は更に暗かった。すぐに眼が慣れ、周囲を見回す。
かなり広く大きい部屋だった。三階分|天井《てんじょう》をぶち抜いた高さ、奥行きがどこまであるのかジゼルの視点では判別できない面積。そして、縦横無尽にパイプが這《は》い、ところせましと設置された巨大プラント。
細い通路には幾人かの白衣姿の研究員がいて、なにかを操作していた。
白銀の巨大な円筒《えんとう》が何本も林立し、タンクが並べられ、円盤《えんばん》が重ねられている。まるで工場のようだ。
有馬さんは奥へと進んだ。ジゼルもこの景観に圧倒《あっとう》されながら続く。途中《とちゅう》、なにかに包まれるような感触《かんしょく》がした。防菌《ぼうきん》コーティングかな。
「有馬さん、向こうの方は十分後。です」
研究員が話しかけてくる。有馬さんは、ああそう、と軽く頷《うなず》いた。
コーン、コーン、となにかが響《ひび》いている。
ここは一体、なんの研究をしているんだろう。
呆然《ぼうぜん》とジゼルが眺《なが》めていると、いつの間にかアリスたちは退《しりぞ》いて、有馬さんと二人きりになった。不意に、
「これは窒素《ちっそ》」
天井から下がった細長いタンクを指さす有馬さん。ぽかんと見上げると、隣《となり》のタンクを次々と示して、
「酸素。これは水素。こっちが炭素にあれが燐酸《りんさん》。鉄《てつ》。硫黄《いおう》。カルシウム……」
「ちょ、ちょっと」
ジゼルが止めるのも構わず、有馬さん、今度は向かいの丸いタンクの列に寄って、
「これがグリシン。それがアラニン。バリン、ロイシン、トリプトファン、セリン、システイン、ヒスチジン」
片《かた》っ端《ぱし》から名前を上げる有馬さん。タンク一つに一つの名前。さらに奥へ行って、水槽《すいそう》のような立方体のタンクの前で、
「これはヒトの染色体《せんしょくたい》だよ」
「生体機械!」
思わずジゼルは叫《さけ》んでしまった。部屋中にびんびん響く。でも、構ってなんかいられない。この無数にあるさまざまなタンクが意味するもの、それが判《わか》った。
それは、生体を構成する分子のタンク。組織のタンク。
ここは、生体機械の生成プラントだったのだ。
生体機械。原子一つから人間の手で設計され、組み立てられた。生粋《きっすい》の人工生体。クローン細胞《さいぼう》よりも安価で手軽に生成できるため、医療《いりょう》用として全銀河に普及《ふきゅう》している。生体機械。人間が初めて自分の手で創《つく》りだした生命。
ここは、ジゼルの生まれでた場所。
あの日、なつめと逃《に》げてから、一度も訪《おとず》れたことのなかった故郷《こきょう》。
「なんで……」
なんで、こんなところに連れてきたのか。そう問おうとしたけれど、胸が詰《つ》まってそれ以上はなにも言えなかった。ここで生成された。ここが母胎《ぼたい》。この、工場みたいな、薄暗《うすぐら》いところで形作られた。複雑な想《おも》いが交錯《こうさく》する。すべてはここから始まった。悩みも不安も、幸せも喜びも。
「こっちだよ」
有馬さんはさらに進んだ。通路を囲むタンクはいろいろな形になり、だんだん大きくなる。そのうちに透明なタンクに変わって、中が見えた。有機《ゆうき》溶液《ようえき》や血液、そして細胞、組織へと中身は変化していく。なにか、大きな塊《かたまり》が沢山《たくさん》浮いていたので覗《のぞ》き込んでみれば、それは指の群れだった。仰天《ぎょうてん》して、思わず有馬さんに飛びついてしまう。
とうとう、一番奥の壁《かべ》にぶつかった。そこには小さなドアがあって、有馬さんがまた人物照合をする。扉《とびら》は音もなく開き、ジゼルたちは中に入った。
狭《せま》く、細長い部屋《へや》だった。部屋と言うよりも、続きの部屋の操作室みたい。シースルーの壁で仕切られていて、こちら側は、いろいろな操作パネルがぐるりと部屋を囲んでいる。そこに携《たずさ》わっているのは三人の研究員だった。有馬さんが頷《うなず》きかけると、仕切りの一部が開口する。
「さあ」
有馬さんに誘《さそ》われて、ジゼルは息を殺して、音を立てないよう、そっと入った。そうしなければいけないような雰囲気《ふんいき》だった。
緊張《きんちょう》している。
どくん。どくん。どくん。
その部屋は鼓動《こどう》していた。
どくん。
それは、血脈の音。
どくん。どくん。
それは、胎児《たいじ》の子守歌。胎音を流しているらしい。
見えたのは、円筒《えんとう》の大きな培養漕《ばいようそう》だった。
巨大な試験管がいくつも並《なら》んでいる。台座部分からの弱い光で、ぽうっとそれは闇《やみ》の中に浮かび上がっていた。そして、その中にいるものも、また。
(ここだ)
(ここが、ずっとジゼルを呼んでいた)
肢体《したい》を屈《かが》めて羊水《ようすい》に浮かぶ、全身生体機械。
無数の電極が刺《さ》さり、幾本かのチューブが口腔《こうくう》に入れられている。
水の中で眠《ねむ》る【意識】のない生体。
夢《ゆめ》に見た、瓶《びん》の世界がここだった。
水槽の中には一体ずつ、生体機械が眠っている。いろいろな生物の形があった。猿、犬、鼠《ねずみ》、鶏、蛇、蛙《かえる》、マグロ、イルカ、馬まで見える。みんな脊椎《せきつい》動物だ。ヒトがないのは、やっぱり委員会を気にしているから。
ぐるりと見まわし、ジゼルはようやくそれを見つけた。
いた。
そこに、まだいた。
ジゼルだ。ジゼルの兄弟になるはずだった猫。
白い毛をなびかせ、目を閉じ、水の中に沈んでいる。自分と瓜《うり》二つの猫。
(来たよ。ここに来たよ)
(ごめんね、ジゼルだけこっちにいる)
じっと見据《みす》えるジゼルに、なにも答えてはくれなかった。彼はここにはいないのだから。彼は一人称《いちにんしょう》を持てなかったから。
「385、きみのお兄さんに当たるその子は、古い世代だからもう廃棄《はいき》される予定だったんだ。なんとか今まで保存してきたけど」
「……きっと、目覚めない。廃棄してもいいと思う」
だって、彼はここにいない。まだ、あの境界のない世界にいる。
有馬さんは頷《うなず》いた。これを言わせるために、有馬さんはジゼルを呼んだのかしら。
感慨《かんがい》が胸にせまる。でも、もう戻りはしない。そう決めたのだから。
「ジゼルくん、さっき|φ《ファイ》ベクトルの中で面白《おもしろ》いこと考えていたね。意識は違《ちが》う次元だと。か」
そんなことを有馬さんが言い出した。なんで有馬さんがそんなこと知ってるのかと思ったら、そういえばジゼルの思考信号は、常時理研に送られているんだっけ。
「あれは、ジゼルの空想で……」
「空想は科学の始まりだよ。なかなか面白いんで詳《くわ》しく聞かせてほしいんだ。きみは、なつめお嬢《じょう》さんに呼ばれてこの世界にやってきた。そうだったね。どんな生物も、意識の世界から呼ばれて来ると考えるなら、じゃあ、彼らは一体、誰に呼ばれてくるのかな」
有馬さんは先生っぽく、ジゼルに尋《たず》ねた。ちょっと考え、自信なく答えるには、
「お母さん、かな」
戸惑《とまど》い、少々照れながら言ったジゼルの言葉に、有馬さんが満足そうに頷いた、と見えたのは、気のせいだろうか。
「でも、なんでこんなところに……だいたい、理研はジゼルを抹殺《まっさつ》しようとしてるんでしょ」
「いやいや。抹殺だなんて、少なくともぼくはそんなこと考えちゃいませんよ」
意外な有馬さんの返事に、ジゼルは困惑した。だって、確かに理研の人がジゼルを取り戻しにきたもの。所長である有馬さんが反対なんて、ありえるだろうか。その訝《いぶか》る目つきに気づいた有馬さんが、笑いながら続ける。
「ああ、二週間前の騒動《そうどう》か。ちょっと形式に捕《と》らわれて融通《ゆうずう》のきかない、血気にはやる若者が多くてね。勝手に動かれてしまったんだ。唯一《ゆいいつ》目覚めたきみを解体するなんてこと、ぼくたちはしないよ。今は外から検査できる技術も発達しているしね。第一、二度と現れないかもしれない貴重《きちょう》な存在なんだよ、きみは。そこら辺を自覚してないでしょう。連邦の査察の件もどうにかなる。社の力を過小評価しているよ、ジゼルくん」
「はあ……」
「ぼくたちはずっと以前から判っていた」
踵《きびす》を返し、再び歩き出す有馬さん。この人、一か所に落ちついてられない性格なんじゃないかしら。そのまま新生児ルームを出て、工場内へ戻る。
血脈の音が遠ざかっていく。
「ジゼルくん、きみはなつめお嬢さんに呼ばれた。もし、きみが機械であるならば、【意識】は創造主、つまりなつめお嬢さんと同じであるはずなんだ。どんな機械も、造った人間の意向が表れる。特にきみの場合、思考回路が転写されるはずなんだ、脳信号コピーと同様に考えるから」
「脳信号コピー?」
「クローンやサイバノイドなんかを、任意の人間とそっくりに仕立てあげる方法だよ。脳の信号すべてを彼らにコピーする。脳波が同じだから、思考も一緒《いっしょ》だし、意識も同じなんだ。彼らは自分たちを人間と信じ、その人物本人であると認める。今はライフサイエンス法で禁じられている技術だけどね」
その割にはよく知っていそうな口ぶりだけど。そう心の中で口答えするジゼル。そして、その方法は、ボーヴォール王国で見た実験と同じではないか、と考えつく。むむむ。
ふと、通路の陰からこっそりと、ジゼルを窺《うかが》う視線に気づいた。一人じゃあない。結構な数である。やっぱり、ジゼルは興味《きょうみ》の的《まと》なんだろうな、科学者にとって。大丈夫かしら。
有馬さんは彼らを注意するでもなく、言葉を続けた。
「でも、レコーダーを通して伝わるきみの思考の情報は、必ずしもなつめお嬢さんと同じものではなかったんだ」
「え……」
「なつめさんをかばったり、親愛の情を示すのは当然だよ。でも、窘《たしな》めたり非難したり、到底《とうてい》なつめさんが考えそうにないことまで考え、意識したり、異なる観念を持っていたりするのは、どうしても異常なんですね。だいたい、趣味《しゅみ》がテレビだなんて、まったく信じられない」
異常だって。なんだか責められているような感じがする。確かに、なつめはテレビドラマなんか見ないけどさあ、それがなんだっていうんだい。
「それは、アスラくんの性格だ」
あ。
「きみの性格はアスラくんからの影響《えいきょう》が色濃く出ているんですね。誕生《たんじょう》に係《かか》わったわけでもない彼の気性や趣味、思考過程なんかが特に。つまり、後天的な影響が性格を形作っている。機械は、使用者の癖《くせ》はついても、創造した人間の意向を覆《くつがえ》すことはないでしょう」
「じゃあ……」
「まるで、双親《ふたおや》の性格を受け継《つ》ぐ子供のようだね」
有馬さんが振り向いて、にこっと笑った。じゃあ、ジゼルは。
「同じものをもう一つ創《つく》ることに意味はない。同じものではないきみは、立派に、生命|環《かん》の一部だよ」
「機械じゃないんだね!」
ジゼルは叫んでいた。これでなつめとずっと一緒にいられる! やったあ!
ジゼルは有馬さんに飛びついた。嬉《うれ》しい。嬉しいよお。殺されずにすむ、その安堵《あんど》もあるけれど、自分がなにものであるのか認められたことが嬉しい。たとえ、それが有馬さんの一存であったとしても。真実はどうかなんて分からないけど。
(結局は脳みその世界の斜影《しゃけい》)
なら、どう考えたっていいじゃない。真実なんて問題じゃない。現実があればいい。
ジゼルに飛びつかれた有馬さんは、ちょっと驚いていたけど、やっぱり優しい顔のままだった。
嬉しい。涙が出てくる。なつめもアスラもこのことを知っているのだろうか。きっと、教えてもらっているよね。
「もう、以前から判っているなら、どーしてもっと早く言ってくれないの、有馬さん」
生成ホールから廊下に出て、泣き笑いでジゼルは有馬さんに言う。すると、
「ちょっと釈然としないところがありましてね」
「どこ?」
「猫型で猫の脳を持っているはずなのに、人間の思考回路を持っているところですよ。活性システムを埋《う》め込む前から、人間と同じ意識を持っていたのがふしぎだった。それもまあ、なつめお嬢さんが『お母さん』であるなら、当然でしょうね。それで説明がつくわけではないけど、とりあえず認めるぐらいのロマンは科学者にもありますよ」
これからの研究課題になるでしょう。有馬さんはそう言った。これが科学者なのかもしれない。
「でも、ぼくは畑違いだけど」
「有馬さん、専門はなんなの?」
「惑星物理学なんですよ。気象とか、地震《じしん》とか、陸地変動の調査をしている……マイナーで目立たない分野だから知らないと思いますね」
頭に手をやって、有馬さんは照れながら答えた。確かに、華々《はなばな》しい次元工学や生命工学、情報物理学なんかとは違って、地味で、単調で、古典的な分野だ。
けれども。
ジゼル、有馬さんが好きになりそうだよ。きっとまた、アスラに連れてきてもちおう。有馬さんのとこに遊びにこよう。
最初の部屋に戻ってくると、元のように三人のアリスが、円盤《えんばん》の傍《かたわ》らに並んで立っていた。ジゼルに微笑《ほほえ》みかけてくる。この子たち、疑似人格があるんじゃないかしら、と疑いたくなりそうなほど、鮮《あざ》やかな笑み。あの、エリノアのように。
規制されてはいるけど、彼女たちもいつかは自分のこと、人間として認めてほしくなるかしら。権利があると主張するかしら。安心とはいうけれど、そんなこと、分からないぞ。
「でも、ぼくたちは、たとえ機械だったとしても、きみを殺したりはしなかっただろうね」
有馬さんがそう付け足した。きょとんとなって、
「どうして?」
「人間は、人語を喋《しゃべ》る相手には弱いんだよ。人間自身にはひどく残酷《ざんこく》になれるんだけどね。ああ、もうすぐです」
有馬さんが円盤を指し示した。見ると、そこから白い靄《もや》のような光が放たれ始め、次第に強度を増し、空間を白光で埋め尽くしてしまった。ジゼルがここに現れた時のようだ。
じゃあ、誰かがまた、|φ《ファイ》ベクトル移動してくるのかしら。
「これは、φベクトル移動のレセプターなの?」
「そう。特殊な装置でね、マイナスベクトルを出して、対象を引き寄せることができるんですよ。本社の科法部にもあるけど、開発したのはここだから」
そんなものがあるなんて、ジゼル、知らなかったなあ。ははあ、企業秘密だな、これは。
光の中に影が現れた。ああ、移動してきたんだ。アスラかしら。それとも、さっきジゼルを突き飛ばした子かな。
ルクスが弱まる。背格好からして、男じゃないな。大人でもない。女の子か。
そして。
膝《ひざ》をついて、少女は姿を現した。
オレンジのような色の、見事に輝くブロンド。白い肌《はだ》。華奢《きゃしゃ》な肢体《したい》。瞼《まぶた》を閉じて、微動《びどう》だにしない。
隣《となり》の三人の少女と同じ顔をしていた。ASアリス・サイバノイドだ。
[#挿絵(img/sextant_258.jpg)入る]
でも、それはさっきの少女ではなかった。あの、鮮やかなブルーのスーツは着ていない。それに、太陽の色の髪《かみ》を二つに分け、三編みにしている。
(おさげ)
「……ゆ、み」
夕見。
口が、思い出すより早く、彼女の名前を紡《つむ》いだ。
夕見だ。夕見。ASアリス751。小さな辺境の惑星で出会ったサイバノイド。あの子だ。
四十一パーセントの確率をくぐって、今、戻ってきた。
忘れていた。最後まで思い出せなかったのは、彼女のことだったんだ。
あの時の光景が脳裏に浮かぶ。
(わたし、行きたいの)
(変な子ね。わたしはここに入るために生まれてきたの、嫌《いや》じゃない)
機械には機械としての誇《ほこ》りがあって。
彼らは機械であることに自信を持っている。人間になりたいなんて、どうして考えよう。
人には人の、機械には機械の、そしてジゼルにはジゼルの誇《ほこ》りがある。存在に対する誇り。
自分が好き。生体機械であることも含めて、自分が好き。この存在を憐《あわ》れむなんてこと、誰にもさせない。
そうだ。
そうだった。そうなんだ。
「夕見」
もう一度、呼びかける。
うっすらと、少女が瞼を上げる。
碧《あお》い双眸《そうぼう》がジゼルを捉《とら》えた。
「ジゼル、早回りしたのね」
にっこりと微笑《ほほえ》んで、そう言った。しっかりした声だった。
[#地から2字上げ]おわり。
[#改丁]
あとがき連続青春小説【そして、あたしはここにいる】 第五回
大学一年のことです。理学部共通講義「一般生化学」という、生化学科の学生が泣いた曰《いわ》くつきの講義を取っていた小林さんは、一番前の席で教官の視線を一身に受けながら、こんなことを考えていました。
「アミノ酸合成から始めて、生粋《きっすい》の人工生物が造れないかなあ」
ADPだのATPだの、ぐるぐる回路を巡《めぐ》る化学式。物理科の学生にクレブス回路を説明しろだなんて、鬼のような教官です。一度倒れれば復活の呪文はないと言われた先年より、更《さら》にハイグレードになって登場した一般生化学の講義を、小林さんはそうやって毎回過ごしたのでした。数学科と物理科はお情けで単位をいただけました。
大学二年の後期のことです。物理科専門講義「相対論」で、小林さんはぼんやりと思いました。
「世界線を浮かび上がらせるマーカーがあって、それで追跡するってーのはどうだろう」
世界線とは四次元における軌跡のことです。詳しくは相対論の参考書を見ましょう。
大学三年のことです。「量子力学」にはさまざまなパラドックスがあります。その中で、二つの向きの違うスピンを持った原子が分裂《ぶんれつ》したとき、片方のスピンの向きが判れば瞬時《しゅんじ》にもう一方の向きも判明してしまうという(なんつー説明だっ)、有名なパラドックスの説明を受けながら、小林さんは不届《ふとど》きにもこう考えていました。
「つまり、これが矛盾《むじゅん》なのは、光よりも速いものはないから情報が瞬時に伝わるはずない、ってーことでしょ。でも、きっと、情報物理学ならもののみごと、あっさりきっぱり解決できるわよねっ」
アインシュタインに喧嘩《けんか》を売っているつもりなのでしょうか。でも、光より速いものはないなんて、小林さんは未《いま》だ信じられません。さすが物理学、言ったもん勝ちの世界です。
それにしても、なんのつもりで小林さんは大学に行ってるのでしょう。答えは簡単です。
「話のネタを捜しに行ってるに決まってるでしょ」
[#地から2字上げ]つづく
第六回、こうごきたい。
「ねこのめ」は本巻をもって完結しました。これを書いていた平成四年の二月から八月にかけて、私はとても幸せでした。自分の趣味《しゅみ》に走ったせいもあります。それ以上に、この話は自分の中で、みごとまとまっているように思えるからです。著者校正のときに、自分の文章が理解できなくて苦しんだことも、いろいろ取りこぼしていると気づいたことも、「おわり」にたどりつくと、すべてが消えて、あとには充実感が残るのです。本題も逸《そ》れずによく続いたなあ、などと自分に感心さえしてしまいました。
とても若い話を書いたと思います。この手のものはもっと年をくってから、とも考えましたが、でも、二十歳でしか書けない書き方があるだろうと、敢《あ》えて強行しました。きっと何年か後にこれを読んだとき、私はとても若かったと痛切に思うでしょう。でも、そう思う私もまだまだ若いはずです。一生、進歩していく人間でありたいです。
ところで、この話はいろいろなところから言葉を借りてきてしまいました。章タイトル「ベクトルの彼方で待ってて」は、ミュージシャン種ともこさんのアルバム名から。「科法使い」及び「どこでもドア」は、無論、永遠の名作「チンプイ」と「ドラえもん」から。
なつめの名は今は亡き夏目雅子さんからとらせていただきました。彼女の三蔵法師は夢のように綺麗《きれい》だったと、子供心に記憶しています。あと、多くの科学者の名が使われていますが、どのくらい分かるでしょうか。
それから、けっこう気に入っている有馬さんの、モデルである某《ぼう》先生に、こっそりと感謝して、あとがきおわります。
平成四年十二月十八日
[#地から2字上げ]小林めぐみ
[#改ページ]
底本:「ねこのめ3 六分儀の未来」富士見ファンタジア文庫、富士見書房
1993(平成5)年1月25日初版発行
入力:iW
校正:iW
2007年12月20日作成