ねこのめ2 羅針盤の夢
著者 小林めぐみ/イラスト 加藤洋之&後藤啓介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)羅針盤《らしんばん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|φ《ファイ》ベクトル
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)宇宙船[#「宇宙船」に傍点]
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目次
第二章 時計の無限
第三章 羅針盤《らしんばん》の夢
あとがき
[#ここで字下げ終わり]
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第二章 時計の無限
[#改丁]
その衝撃波《しょうげきは》は不意打ちだった。おかげでジゼルは頭からケーキに突《つ》っ込《こ》むし、アスラはアスラで、顔をお茶まみれにしてしまった。
「なにごと!?」
生クリームべったりの顔を振《ふ》りながら、ジゼル、コクピットエリアを見る。|E《イー》・|R《アール》・|F《エフ》の一級|操縦士《そうじゅうし》さん以下五名も、ごろごろと床を転げ回っていた。うーむ、無重力状態だったら良かったのにねえ。
なーんて、落ち着いている場合ではない。
「なんだあ、まだ磁気圏《じきけん》も離脱してないのに。まあ、磁気圏離れたら|φ《ファイ》ベクトルで移動するから、適当な場所か。やはり、専用機は目立ったな」
ふむふむと、一人|悠然《ゆうぜん》と頷《うなず》いているアスラ。落ち着いてる場合じゃないってば!
「なんだよアスラ、これ!」
「どっかの惑星《わくせい》の、お国が大事な大事なあんぽんたんが、歓送してくれてるんだろう」
「防御シールドはあ!?」
「お世話になった人の家から出るのに、鉄板入りの背中を見せるのか?」
そう応《こた》えて、アスラはたった今離陸してきたばかりの小さな白い惑星を、窓から一瞥《いちべつ》した。この貧困に苦しむ星はE・R・Fグループの経済|援助《えんじょ》なしでは生計を立てられない。どこか別の星の奴《やつ》らだ。
「だって!」
言い立てるジゼルを手で制する。呑気《のんき》に生クリームを濡れタオルで拭《ぬぐ》ってくれ、自分の顔のお茶も拭《ふ》き取りながらアスラはにっと笑ってみせた。そして、立ち上がりざまに、
「よーし、迎撃《げいげき》態勢に入れ。シールドは張ったな、E・R・Fの専用機を襲撃《しゅうげき》する意味を、ちゃんと教えてやろう」
「アスラさん、第二波が来ます! |α《アルファ》軸《じく》モードです!」
ポテンシャルチェックをしていたマルイさんが、驚愕《きょうがく》を孕《はら》んだ声を上げた。えっ、と誰《だれ》もが状況を把握《はあく》できずに振り返った、その瞬間《しゅんかん》。
どん、という底を突き上げるような音。
まるでマグニチュード8級の大地震が襲《おそ》ったかのように、機体はもみくちゃに荒れた。機器が一斉《いっせい》にがなりだし、照明は狂《くる》ったように光度を変化させた。
視界が歪曲《わいきょく》する。直交座標は意味をなさなくなり、身体を引き延ばされる不快感と、ぐにゃりとねじれる苦痛。さらに床《ゆか》や壁《かべ》や天井《てんじょう》に強く打ち付けられたショックで、ジゼルはぷつんと意識を失ってしまった。
空間そのものが転覆したとしか考えられなかった。
そもそも、今回のお出かけにはあまり乗り気ではなかった。なぜって、アスラの公的な用のついでで、E・R・Fの専用宇宙機で行くのだから。しかも、銀河世界でもかなりの僻地《へきち》だ、狙《ねら》ってくださいとでも言わんばかりの設定じゃないか。宇宙機には文句ないけれど、そんなのに出くわしたら、あああ、またなつめに言われる。もうやめてって。
でも、結局アスラについてきたのは、最近、なつめがジゼルの人工知能を交換《こうかん》しようと計画しているためだ。やだやだ、なつめのことだから、ジゼルの記憶野《きおくや》に手を加えるつもりだろう。そして、この『お出かけ』の記憶をも消してしまうつもりなんだ。いくらそんなことしても、ジゼルは絶対やめないもんね。
それに、それだけじゃないことも知っている。
その交換にどんな意味があるかも知っている。いくらなつめが隠《かく》していても、ちゃんとアスラに教えてもらったもの。理研の企画案も見せてもらったもの。
なつめ。ジゼルはこのままがいいよ。
なつめ。それがわがままだって知っている。解っている。でも、もう少しだけ、あとちょっとだけ、このままでいさせて。もう少し、なにも知らない幸せを味わっていたい。
だから、なつめから逃げるようにしてアスラにひっついてきた。きたというのに、これはいったいなんなんだ、なんの冗談《じょうだん》なんだ。いきなり攻撃《こうげき》なんかしてきてーっ。
E・R・Fの専用機がやられるなんて、そんなばかな!
どれくらい時間が経過したか判《わか》らなかった。ジゼルがようやく目を開けると、戦闘《せんとう》は終了していた。あれほどむちゃくちゃにひっくりかえっていた機内は整然としていて、振動《しんどう》もなにも感じられない。エマージェンシーの音も色もなかった。
やけに静かだった。森閑《しんかん》としている。
やっぱり、E・R・Fグループ最新攻防システム搭載《とうさい》の宇宙機に、敵《かな》うものはいなかったか。ほっとしながら首を巡《めぐ》らし、部屋の中央に据《す》えられた立体星図に視線をやってドキンとした。
なにみんな、集まってるんだ?
昏倒《こんとう》する前に聞いた『|α《アルファ》軸《じく》モードです』という言葉を思い出しながら、そろそろとジゼルはみんなの中に割り込んだ。とん、と台の上に飛び乗り、
「……どうかしたの?」
眉間《みけん》にしわを寄せて、青ざめた面持《おもも》ちで星図を凝視《ぎょうし》している職員五人。まるで睨《にら》めっこしているような怖《こわ》い形相《ぎょうそう》だ。その態度にすっごーくいやな予感を抱いて、ジゼルはアスラを仰《あお》いだ。果たして、アスラだけはその大変な面相《めんそう》の職員の中にあって、一人、いつもと変わらぬ自信に溢《あふ》れたまなざしでいる。そして、答えるには、
「うん、少しばかり見《み》きわめを間違《まちが》えた」
「す、少しばかり?」
どきどき。心臓の鼓動《こどう》が速い。この男の飄々《ひょうひょう》とした言葉にごまかされてはいけないぞ。
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「相手は国粋《こくすい》主義者ではなく、金持ちだった」
「金持ち――だと、どうなるの?」
アスラの説明の先が見えなくて、ジゼル、おっかなびっくり促《うなが》した。アスラはこともなげに、こう言ったのだ。
「無駄《むだ》でエナジイ効率の悪いα軸走行を強制されたんだ。おかげで宇宙の彼方《かなた》にすっとばされた」
それは、つまり、いわゆる【ワープ】と呼ばれるα軸走行を外から仕掛けられて、この宇宙機は空間移動させられた、ということだ。では、あの時の広がるような不快感は、四次元から五次元へ拡張される感触《かんしょく》だったのか。気持ちわるーい。
ワープというしろものは、原理的には次元を上げることで成立する。次元を下げて図的に説明すると、まず一本の線を引き、二点A、Bを適当に置いてみる。線、これは一次元の世界であって、一次元の住人は線上でしか移動できない。つまり、AB間の距離《きょり》をlとすると、lだけ移動しなければならないというわけだ。ところがこの線を、平面上に持ってきたとすると、様子は変わってしまうのである。平面とは即《すなわ》ち二次元、一次元から二次元への拡張だ。紙面上に糸を置く。無論《むろん》、直線でなくてもいい。|Ω《オメガ》形にすれば、A点B点は接触《せっしょく》する。そして距離lを通らなくても瞬間に移動できてしまうという理屈《りくつ》だ。最初は聞いた時、別に平面に持ってこなくても、糸をたわませればいいことじゃないかとジゼルは考えたけれど、一次元の世界にはたわませるという概念《がいねん》はないんだって。たわませること自体、既《すで》に二次元での作用らしいけれど、ジゼルにはよく解《わか》んない。こういう理論はアスラにでも考えさせておこう。この考え方はワープという名前が出始めたはるかな昔から、変わらぬものらしいから、大体の人がなんとなく知っているものである。
ついでに簡単《かんたん》にいえば、|φ《ファイ》ベクトル移動は次元の圧縮《あっしゅく》、この四次元を三次元に潰《つぶ》すことによって成立する現象だ。根本的に違うんだね、潰す方が楽なのに。
とりあえず、その原理を四次元に持ち込んだのがワープで、糸に当たるものをα軸と呼《よ》ぶからα軸走行というのである。現在、銀河人類文明に一般的に普及《ふきゅう》している奴《やつ》で、ごく普通に製造され使われている。φベクトル移動と異《こと》なり、特殊《とくしゅ》な知識も技術も要《い》らないので、宇宙機一つ一つに備えられているのだ。φベクトルは科法使い人員の都合上、外部から仕掛けるのが普通であるが、α軸走行を外から仕掛けてきただって? そんなこと、聞いたこともない。
「強制なんて、そんなことできるの?」
「まあな、理論的には可能だよ。でも、通常α軸走行の百倍近いエナジイが必要だし、余程《よほど》の金持ちしかできない。だいたい、やる意味がない。敵を攻撃《こうげき》するにも、ちゃちな宇宙機相手ならば、衝撃波《しょうげきは》を受けた時点でグラム単位に機体を粉砕《ふんさい》できるほどのエナジイだ。普通に攻撃をしかけた方が効率がいい。でも、連邦《れんぽう》の新鋭《しんえい》軍機でさえα軸の機体を貫いた瞬間に七割の確率でこの世から消滅《しょうめつ》するが、この宇宙機には効《き》かないよ」
ぎょっとするようなことを、アスラは淡々《たんたん》と説明する。α軸の百倍といえば、φベクトル移動の場合の一万倍じゃあないか。あーん、E・R・F専用機に乗っていてよかったよう。それだけの衝撃とエナジイに耐《た》えたこの宇宙機を見よ、傷一つない外壁《がいへき》をっ、微塵《みじん》の狂《くる》いもないコクピットをっ。
安心したらどっと不満が湧《わ》き上がってきたぞ。じんじろりんとアスラを睨《にら》みつける。
「もう、アスラと一緒《いっしょ》だとこれだからイヤなんだ。今度は誰になに恨《うら》み買うようなことしたのさ」
「残念だったな、ジゼル。推察力《すいさつりょく》が足りない」
「え?」
「この宇宙機の性能は津々浦々《つつうらうら》に知れ渡っているんだ。特に金持ちにはな。だからこれを攻撃することはまったく無意味だ。だからこそ、強制走行をさせたんだ。これだけ凝《こ》った仕掛けを準備したということは、俺《おれ》の代だけで買った恨みじゃあない。裏に連邦かそのレベル近くの大物がいるな」
なにを言っているんだと、怪訝《けげん》な顔を作るジゼルに対して、アスラはくいっと指で窓を示した。その先を追って、シースルーになっている壁の向こうの宇宙空間が視界に入った途端《とたん》、ジゼルははっと息を呑《の》んだ。
【サルガッソー】だ。
宇宙の墓場《はかば》、サルガッソー。まさか、本当に在《あ》るとは知らなかった。ばかばかしい空想の産物かと思い込《こ》んでいた。初期宇宙|開拓《かいたく》時代の遺物《いぶつ》のはずだった。
窓の外に広がるのは、静かな光景だった。宇宙を飛翔《ひしょう》する乗り物の残骸《ざんがい》が、ゆっくりと流れていく。死んでしまった空間。金属の巨大《きょだい》な塊《かたまり》に過ぎない物体が、こちらの発光を反射して黒く死の輝きを放つ。暗い冷たい空間にわだかまる。
あたかも小|惑星《わくせい》群の中に迷い込んでしまったような、戦慄《せんりつ》の光景だった。おびただしいまでの死んだ宇宙機が、真空内をところせましと浮遊《ふゆう》している。活動のある反応は皆目《かいもく》見当たらない。あるものは金属片となり、あるものはぐちゃぐちゃに潰《つぶ》れて原型を留《とど》めず、あるものは今にも動き出しそうな完全な形を保って。
自分が動いているのか、向こうが流れているのか。ゆっくりとした、忘却《ぼうきゃく》の時間。
【サルガッソー】。宇宙の墓場。一度迷い込んだら、二度と外には出られない。
外には出られない?
「完全に計算された空路です」
リーマン軌道《きどう》計測士の苦い声に、ジゼルは跳《と》び上がりそうになった。計算された? ここは【サルガッソー】。二度と出られぬ死の魔法陣《まほうじん》。強制走行。
いろいろなパスワードが電光のごとく脳裏《のうり》を走る。つまり、これは。
「やられたな」
アスラは肩《かた》をすくめた。その様子がやけに現実的だった。
その言葉を合図に、沈思黙考《ちんしもっこう》のていだったみんなから、どっと堪《こら》えていた不安と当惑《とうわく》と恐怖《きょうふ》が噴《ふ》き出した。
「わ、若旦那《わかだんな》あーっ」
「どうなっちゃうんです、私たち!」
いつもならいっとう先にジゼルがアスラにつっかかるのに、今日は職員の皆さんにお株《かぶ》をとられてしまった。
つまり、『莫大《ばくだい》なエナジイでもぶっ壊《こわ》れない宇宙機は、二度と出られぬ宇宙の墓場にでも送って、封じ込めてしまえーっ』、という策略《さくりゃく》にものの見事引っ掛かってしまった、というわけである。冗談《じょうだん》にもならないことをやりやがって!
パニックを起こした顔をして、号泣《ごうきゅう》の勢いでアスラにしがみつく五人。こっちはなんか拍子《ひょうし》抜《ぬ》けしてしまった。みんな、三十過ぎの大人なのに、二十二歳の若造《わかぞう》に頼《たよ》る姿ははたから見てなんとも情けない。
でも、これは当然の現象。彼は【惑星エルシを統《す》べるE・R・Fコーポレーションのアスラ】だから。彼はそうされなければならない義務と権利の持ち主だから。
クルーの一心の期待を集めてもなお、アスラは平常と変わらない表情で、
「なにを脅《おび》えているんだ? ここがかのサルガッソーだとしても、四次元空間であるなら|φ《ファイ》ベクトル創造は可能だろう。ほら、目先のことに捕らわれず、座標を割り出して、ポテンシャルチェックして」
指示をてきぱきと出しながら、ぽんぽんと背中を押して行動を促《うなが》す。人間って、なにかやることがあると、とりあえず悩《なや》みごとは後回しにできる奇特《きとく》な性格らしい。皆さん、複雑《ふくざつ》な表情ながらも顔を見合わせると、若旦那[#「若旦那」に傍点]のたいしたことなさそうな素振《そぶ》りにほっとした様子で、自分の持ち場へと戻《もど》っていった。アスラ、人間の使い方がうまい。
「デリス、どのくらいで座標を割り出せる」
「はい、通常モードの感知機が作動しないので、φベクトルモードにしてから自前の脳《のう》で計算します。ちょっと時間がかかりますが」
申しわけなさそうにデリス女史は答える。アスラは笑った。
「どうせみんな同じさ。ゆっくりやってくれ。俺《おれ》は創造機の調子を見てから、ちょっと探検《たんけん》に行ってくる。こんな機会、滅多《めった》にないぞ」
喜色満面で子供みたいなことを言って、みんながなにか非難の声をぶつける前に、アスラはキャビンから消えていた。無論《むろん》、ジゼルも後についていく。
専用機は特別にφベクトル創造機を搭載《とうさい》している。専用機だから当然なんだけれども。科法使いもちゃんといるし。
ハッチに向かう廊下《ろうか》で、アスラはジゼルに気づくと、
「なんだ、ジゼルも行くのか」
「当たり前だよ。こんな機会、めったにないもの」
「流されてもしらないぞ。ほら」
そう言って、左手を差し出す。ひょこいと軽やかにジゼルは飛び乗ると、アスラの左肩にしがみついた。
途中《とちゅう》、創造機の据《す》えられている部屋を見て、異常がないことを確認する。そして、ハッチの手前の閉鎖室《へいさしつ》で対真空中コーティングを全身に施《ほどこ》して、いざいざゆかん、【サルガッソー】の版図《はんと》へ!
宇宙空間に放り出されると、そこがまったく異様な空間であることがはっきりと分かった。はるか彼方《かなた》の星雲の綺羅《きら》めきが、ぐにゃりと歪《ゆが》んでいる。四方八方、遠くの背景となるものはぼわっと脹《ふく》らんでいて、まるで、そう、硝子《ガラス》球《だま》の内部から外を覗《のぞ》いたような、強い屈折《くっせつ》がある。強力な重力場でも取り囲んでいるのかな?
ここは、閉鎖空間だ。
「ほら、ジゼル。残骸《ざんがい》がゆっくりだが一か所に向かって動いている。中心があるんだ」
そう言うと、アスラは機体を蹴《け》って携帯《けいたい》推進《すいしん》システムを作動させた。
「中心に行ってみよう」
「大丈夫なの?」
「俺、特級ライセンス持ってるんだぞ」
「違うよ」
ジゼル、むっと口を尖《とが》らせて言い返す。
「本当にここから抜《ぬ》け出せるの? φベクトル移動は可能だって言ってたけれど」
「分からん」
あっさりと答えるアスラ。ぎょっと見返すジゼルに、あくびをしながら、
「こんなところ来たの初めてだからな。お前さんやみんながおねんねしている間に、感触《かんしょく》を確かめてみたんだ。|α《アルファ》軸《じく》走行はだめだ、はじき跳《と》ばされる。通常走行でも直進コースがとれない。なにかが遮断《しゃだん》しているんだな、ここは完全な閉鎖空間だ。入り易《やす》く逃げがたい」
「じゃあ、出れないの!?」
「それがだな、ほら、見てみ」
愕然《がくぜん》となりかけるジゼルに、アスラは目の前を流れていく宇宙機の残骸《ざんがい》を指し示した。
これは完全に形が留《とど》まっているタイプだ。きっと、偶然《ぐうぜん》に飛び込んでしまって、どうにもならずに機能を停止してしまったのだろう。
じゃあ、中にクルーの死体が累々《るいるい》?
「うひゃあーっ、死体があるっ、逃げよう!」
慌《あわ》ててアスラの肩《かた》でばたばたするジゼルを、待て待てとアスラは宥《なだ》めてきた。
「あっちも見てみ」
戦々兢々《せんせんきょうきょう》、アスラにしがみつきながら示された方を見る。今度は見る影もなくなった、金属の塊《かたまり》が浮かぶ姿があった。酷《ひど》いありさまである。まるで爆撃《ばくげき》を受けたように、あちらこちらばこぼこ穴《あな》を機体に空けて、ぐにゃりとひん曲がっている。すごい衝撃《しょうげき》があったんだな。
やっぱり、あの中にも死体が?
「わあーんっ、死体がいっぱいだよお」
「死体のことは考えるなっていうの、臆病《おくびょう》なんだから。ほら、見てみろ。あれは宇宙船[#「宇宙船」に傍点]だ」
どうしてもすべてをそちらへ考えてしまうジゼルを叱《しか》りつけ、アスラは憮然《ぶぜん》と言った。その聞き慣れない言葉に、死体のことをころりと忘れ、キョトンとなる。
「……宇宙、せん?」
「そう。知らないか、愚鈍《ぐどん》な旧世界の遺物《いぶつ》だよ。宇宙機の前身ってところだ。α軸走行が完成した頃《ころ》までの呼称《こしょう》だ。コンピューター大暴走《だいぼうそう》時代よりもずっと昔、人類文明|華々《はなばな》しい分裂《ぶんれつ》時代の代物《しろもの》だ」
「分裂時代……?」
ジゼルは呆然《ぼうぜん》とその過去の遺産を凝視《ぎょうし》した。分裂時代。昔々のこと。
「三千年以上昔の話だよ。当時は文明も衰退《すいたい》していなかったし、いろいろな勢力が銀河文明史を形成していて、絶えず戦争が起きていた」
「その頃、連邦はどうしていたの?」
「連邦は人類が宇宙に出た頃から存在しているさ。でも、さまざまな状況《じょうきょう》に置かれていた。今のように人類を統一する機関であったこともあるし、単なる登録《とうろく》機関であったこともある。分裂時代においては、人間がすべて同じ一つの星から発生した生物であることを記録しておく、星系登録機関でしかなかったはずだ」
「ふうん……」
その時代の話はあまりメジャーなものではない。なんといっても、一千年前のコンピューター大暴走時代の傷跡《きずあと》は人間社会に深く根づき、それ以前の歴史を霞《かす》ませてしまっているのだ。ジゼルも漠然《ばくぜん》とした知識しか持っていなかった。
「それで、その旧世界の遺物がどうかしたって?」
「宇宙船は被弾《ひだん》している」
端的《たんてき》にアスラは答えると、傍《かたわ》らを亀《かめ》の歩みで流れていく宇宙機の機体を蹴《け》りつけた。
「そして、宇宙機は被弾していない。解《わか》るかあ? んじゃあ、もうちょっとヒントな。ここにある宇宙機のタイプは広範囲の時代の代物だ、たぶん、宇宙機が登場した当初から今日までのタイプが揃《そろ》っている。が、宇宙船に関しては、記憶《きおく》違《ちが》いでなければ、一時代のものしかない。分裂時代|終盤《しゅうばん》、【ワープ】からα軸走行に移行した時代の最後の宇宙船だ」
ああ、そうか。
ジゼルは納得《なっとく》した。別に、アスラの言わんとするところを理解したわけではないけれど、|φ《ファイ》ベクトル産業を一手に引き受けるE・R・Fの息子《むすこ》は、そういうところに常に目が行くわけだ。飛行技術で年代を判断している。すっごく納得してしまった。
でも、奴《やつ》が意味深《いみしん》に語る言葉の意味は、皆目《かいもく》分からない。うーむ。ジゼルが苦い顔をして考えているのを見たアスラ、失礼にも吹《ふ》き出して、
「判《わか》らないかあ。つまり、それ以前のものはないのさ。どういうことだろうねえ」
「……それ以前にはこのサルガッソーは存在していなかった?」
自分でもまったく自信なく、ジゼルは呟《つぶや》くように応《こた》えた。でも、そういうものだろうか? いきなり出現したり、あるいは消滅《しょうめつ》したり?
アスラを見上げると、にやにや笑っていた。
「見てみな、この比率を。宇宙船の方が断然《だんぜん》多数を占《し》めるじゃあないか。どういうことだ、どういうことだあ」
「アスラ、趣味《しゅみ》悪い」
喜々として語るアスラを、ジゼルは軽蔑《けいべつ》のまなこで見た。それから、そんなジゼルの頭をぐりぐり押さえながら、続けるには、
「ばかだな、ジゼルは。ここに俺たちが脱出する鍵《かぎ》があるかもしれないんだぞ」
「え……?」
きょとんと見返すジゼル。
「それ以前のものはどこに行ったんだ? もともとなかったのか、長い年月の間にどうにかなってしまったのか。『どうにか』ってなんだ。ゆっくりだが渦《うず》は中心に向かう。台風の目は案外|穏《おだ》やかなのさ」
あ、そうか。ジゼルはようやくアラスの言葉が腑《ふ》に落ちた。
もともとなかった場合。それ以前、このサルガッソーは存在しなかった。じゃあ、なぜ、いきなり湧《わ》いてでたんだ?
どうにかなってしまった場合。中心でなにかが起きている。起こしている。
どちらにせよ、この閉鎖《へいさ》空間の中心にはなにかがある。そこにここを抜《ぬ》けだす鍵があるはずだ。特異点《とくいてん》は特異なのだから、台風の目は静かだから。そうアスラは言っているんだ。
ジゼルは感動してしまった。当て推量《すいりょう》なら誰にでもできるけれど、ちゃんと理屈《りくつ》までつけてくれると、なんか、すごおーく真実味が出る。
「アスラ、すごーい。屁理屈《へりくつ》のめいじーん」
「『へ』だけ余分だよ。だてに法人税を人より払《はら》ってないさ。法人税と言えば」
自分の言葉にふと思いだしたか、アスラはひどくいやあな顔を作った。
「この派手なプレゼント[#「派手なプレゼント」に傍点]は法人税のせいだな、きっと」
「なあに、それ」
「今、エルシの企業《きぎょう》主義が間違ってると、他の企業主義国家の企業からクレームがついてるんだ。なんだと思う? 法人税を払うな、だとさ!」
さもばかばかしそうに、アスラは笑いながら言った。どうでもいいけれど、中心に近づくにつれ、金属体の密度は高まっていくぞ。危うく機体にぶつかりそうになり、アスラの腕《うで》の中に慌《あわ》てて飛び込む。それからジゼルは聞き返した。
「法人税を払うなって、じゃあ誰《だれ》が払うってんだい。E・R・Fコーポレーション本社だけでもエルシの国家予算、三十パーセントも担《にな》ってるのに」
「エルシは他の企業主義とは違うんだよ。うちは法人税で国家予算のすべてを賄《まかな》って、その支払う割合で主導権を決定するよなあ。他の星は個人|所得《しょとく》から税を取って、その上に企業が台頭《たいとう》するんだ。解《わか》るか?」
「知ってるよ。それで文句がきて、この『現実』は警告《けいこく》の一種だと?」
「そういうこと。今、連邦《れんぽう》はうちには手が出せないし、となれば、マニカのミラージュ重工あたりかなあ、相手は。新しい総裁《そうさい》はばかそうだったし」
マニカ星系のミラージュ重工ならジゼルも知識がある。基幹《きかん》産業が宇宙機で、一つの惑星《わくせい》をまるごとプラントにしているという、南東銀河では随一《ずいいち》の企業だ。それを捕まえて、ばかとは、まったくアスラも偉《えら》くなったもんである。
「エルシとは結構近いし、同じAブロックだし。法人税のことを考えれば邪魔《じゃま》だったかもしれないが、早まったことを。あのミラージュがなあ……」
アスラはやけに残念そうな口振《くちぶ》りだった。昔、エルシの鎖国《さこく》状態が解けた頃《ころ》、飛行技術の提携《ていけい》をしたことがある企業である。それを惜《お》しんでいるのだろうか。
「ばかだな、こんなことしてもどうにもなりゃあしないのに。うちにはまだ、なつめもいるのに。あの企業ももうおしまいだな。俺が継《つ》ぐ前に潰《つぶ》れる」
「その割には嬉《うれ》しそうじゃあないね。敵が一つ減《へ》るのに」
「ライバルと言ってくれ。こうやって、どんどん銀河を相手にできる巨大企業が崩壊《ほうかい》していく。生存競争がなくなった企業社会なんて、衰退《すいたい》はあれど発展はないんだ。銀河を席巻《せっけん》した企業主義もまた、文明衰退のあおりを食って滅《ほろ》ぶのさ。六百六十一ある星系で、企業主義を名乗るのは今や三十を切った。俺の孫の代にはエルシを除いてすべて消滅《しょうめつ》するだろう。その時、エルシはどうなってしまうのかな。まだ、銀河に出て七百年しか経っていないというのに」
それから、アスラは黙《だま》ってしまい、ジゼルも返す言葉が見つからなかった。
人間はこうしてどんどん滅んでいく。もとある姿へ。それが正しいかどうかなんて、ジゼルには解らない。だって、ジゼルは生体機械なのだから。まだ、白とも黒とも[#「白とも黒とも」に傍点]ついていない身だから。
その決着をつけるのは、もうすぐ。
とりあえず、渦《うず》の中心へと辿《たど》りついた。
ここ、なに?
金属密度が漸増《ざんぞう》していったのはいいとして、そのうち這《は》うように進まなければならなくなり、ついにはがらくたで築きあげられた壁《かべ》に前途は遮《さえぎ》られてしまったのだ。冗談《じょうだん》じゃあないと上の方(流れに対して垂直方向。下と言っても同じこと)上の方へと、破片を蹴飛《けと》ばし機体をよじ登り、やっとの思いで密集地帯を抜《ぬ》けだした。まあ、全部アスラの苦労だけれど。いきなり空白地帯に出て、そうして見下ろしてみれば、なんと、それは巨大《きょだい》な天然|要塞《ようさい》じゃあないか。
「流れ集まってきた宇宙船が形成したんだな。かなりの数だぞ」
感嘆《かんたん》してアスラは言う、ジゼルはごくんと唾《つば》を呑《の》んだ。これだけの数の犠牲《ぎせい》がどこかに――また死体の方に頭が行きそうになって、慌《あわ》てて首を振《ふ》る。
振った視野の中に、不自然な動きが入ってきた。あれは……!?
「四方八方から集まるわけではないんだな。水面波みたいな……」
「アスラ、危ない!」
きょろきょろ見回すアスラの言葉を遮って、ジゼル、叫《さけ》ぶ。でもだめ。反応が鈍《にぶ》い。要塞から光線が一条放たれる。思わずアスラにしがみつく。恐怖《きょうふ》さえ湧《わ》かない、わずかな瞬間。
貫く! そう観念した刹那《せつな》、ぱあっと光が肢体《したい》寸前で四散した。音はない。【斥力《せきりょく》】だ、そう判断する間もなく、今度は反作用でアスラごと後ろにふっとんだ。
真空の中をぐるぐる回転してどこまでも飛んでいく。ひーっ、気持ち悪ーい。こんなところでも慣性の法則が成り立つなんて、実験したくないよーっ!
ようやく、アスラが推進《すいしん》システムで身を立て直した頃《ころ》には、ジゼルの目玉はすっかりぐるぐる回っていた。世の中が魚眼《ぎょがん》レンズを通したように見える。お星さまも回ってる。
「なんだ、今の。泥棒《どろぼう》除《よ》けシステムでも生きてたかな?」
「誰《だれ》かいたよ。ほら、あの脹《ふく》らんだお腹の機体のハッチに。ひどいな、もう。いきなり攻撃《こうげき》するなんて」
「人間がいるのか」
そりゃあ、いても不思議はないだろう。これだけの宇宙機があれば、一人や二人。
アスラはしばし考え巡《めぐ》らすていだったが、
「よし、行こう」
「え!? 攻撃されたらどうすんの!」
「あれくらいのビームなら科法でどうにかなる。なんか情報が得られるかもしれない。それに彼らを捨ておくわけにもいかないだろう、難民《なんみん》だ」
ジゼルが反対するのも聞きやしないで、アスラは指し示したハッチへと飛び込んだ。当然、すでにもぬけのからという奴《やつ》で、人の気配はなかった。
「ふん、この宇宙船の中に逃げ込んだな。死ななかったんで亡霊《ぼうれい》とでも思ったか。宇宙服も着てないし」
「対真空コーティングも酸素剤を呑《の》み込むのも知らないの?」
「エルシを中心に考えるなって。どこの星系の奴らかな」
とりあえず、アスラは道となる場所を歩きだした。機内――船内というべきかな。そこへの廊下《ろうか》はすぐに見つかり、怖《こわ》いもの知らずに進んでいく。ジゼルは肩《かた》にしがみついて、
「ねえ、ここ、重力があるよ」
「あいつらがシステムを作動させているか、中心への引力が強いんだろう」
内部は結構、破損《はそん》を免《まぬが》れていた。要塞と合体した時の衝撃《しょうげき》と、今なお縮《ちぢ》まろうとする力による被害《ひがい》の方が大きい。人間が住んでいるならできるだけ良い奴を選ぶのは当然か。
それにしても、なんて無気質なところなんだろう。機能性だけを追ったような、味気ない造り。部屋と廊下、それだけだ。部屋の中は得体《えたい》のしれないものがごちゃごちゃしてる。
「軍艦《ぐんかん》だな、これは」
興味なさそうにアスラは言った。
「食糧庫《しょくりょうこ》を覗《のぞ》いてみよう。人間がいるならそこだ」
「どこにあるか分かるの?」
「被弾《ひだん》しないような場所さ」
かくして、ジゼルたちは食糧庫に足を向け、宇宙船の奥へ奥へと入っていった。
目的の場所は航行システムの隣室《りんしつ》だった。ジゼルには読めない言葉のプレートが掛かっている。真空内だから当時のまま、どこも酸化されることなくそこにあった。中に収められている食糧も、あればの話、腐敗《ふはい》の気配も見せず、そこにあることだろう。三千年以上も昔の食べ物を口にできるかどうかは、その人の精神に左右される。でも、こんな閉鎖《へいさ》空間に閉じ込められていたら、いかなるものでも口にするしかないだろうな。
(いかなるもの?)
あ、いけない。このままではとんでもない考えに辿《たど》りつく。それ[#「それ」に傍点]から気をそらすため、慌《あわ》ててジゼルはアスラに話しかけた。
「ねえ、人がいるなら酸素のある密閉室じゃあないの? 食糧庫に酸素を充満《じゅうまん》させるなんて、あまりにも愚《おろ》かだよ」
「そりゃあそうだ。ジゼル、これは間抜《まぬ》けな罠《わな》さ。向こうから出向かせてやる」
そう言うと、アスラは食糧庫に警戒心《けいかいしん》も見せずあっさり侵入《しんにゅう》し、わずかに積まれたコンテナの一つを開けた。中にはパックされた緑色の流動食が詰《つ》め込《こ》まれていた。見るからにまずそうな代物《しろもの》である。
「やや、ひどく合理主義な食いものだな。どれだけ積めるか、栄養面は万全か。こんなものを食い続けたらストレスが溜《た》まりそうだ。きっと、イメージセンサーをつけながら兵士は食事をしていたにちがいない」
うんうん、と断定するアスラ。まったく不用心である。こっちはいつ襲撃《しゅうげき》されるか、気が気でないというのに。
ジゼルの心配にも気づかず、アスラはパックの一つに手を伸《の》ばすと、なにを考えているのかそれをひっちゃぶいたのだ。当然、中身がどろりと流れ、小さな玉がわんさか漂いだす。
「うわっ、なにすんだよ、アスラ!」
「なかなかきれいだなあ。もう一つやってみよう」
はしゃぐ子供のように、アスラは次々と封を切ってみせた。流体は小さな重力に負けて、ゆっくりと漂って、足元へふんわりわだかまる。緑のどろどろ。うーん。
そこでジゼル、はたと気がついた。ものを手に取れるということは、アスラ、【斥力《せきりょく》】を消しているじゃあないか。
そんな、無防備《むぼうび》な――そう言いかけて、なにやら白いものが床《ゆか》をごろごろ転がってくるのが目についた。
「……たまねぎ?」
違う。これはにんにくだ。アスラの足で回転を止められた物体を凝視《ぎょうし》する。なんで、こんなところに生のにんにくが? アスラもそれに気づいて、にんにくを手に取り、転がってきた方向に視線をやった。
ドアに隠《かく》れるように、二つの人影。ぴちりとした白色の防護《ぼうご》スーツで全身を覆《おお》い、顔の部分はシースルーになっている。中はよく見えない。
あいつらだ、そう判断した瞬間、にんにくが無音のまま炸裂した。その内部から白煙が噴《ふ》き出す!
「なんだ、いぶりだす気か?」
あっという間に室内に充満《じゅうまん》する気体。目に染《し》みて涙がぼろぼろ零《こぼ》れた。なんだあ、これ。アスラを見上げると、げほげほと咳《せ》き込《こ》んでいた。視界がほとんど効《き》かなくなる。
びくんと毛が逆立《さかだ》った。背後に気配。アスラ!
でも、今度は間に合わなかった。アスラの頭になにかが降ってきて、脳天《のうてん》に激突《げきとつ》した。ぐらりとアスラの身体が傾《かし》げる。ゆっくりと倒れる、昏倒《こんとう》する。
「アスラ!? アスラ!」
呼《よ》べど叫《さけ》べど、アスラは瞼《まぶた》を閉じたきり、微動だにしなかった。白煙に紛《まぎ》れての襲撃者《しゅうげきしゃ》をぎっと睨《にら》み、爪《つめ》で引っ掻《か》いて噛《か》みついてやろうかと、どんなに思ったことか。だけど、ぎゅっと抱《だ》き込んだアスラの腕《うで》が、ジゼルを頑《かたく》なに放さなかった。ジゼルがその気になれば、そんなスーツ、ひっちゃぶけるんだからな!
アスラが動く気配を見せないのを確認すると、奴《やつ》らは拘束《こうそく》リングで束縛《そくばく》して、ジゼルごと担《かつ》ぎあげた。どうやら、ジゼルがいることには無頓着《むとんちゃく》らしい、コーティングの外だからこの声も届かないし。ええいっ、アスラさえ手を弛《ゆる》めれば、こんな束縛!
奴らはそのまま食糧庫《しょくりょうこ》を出、長い廊下《ろうか》を歩き始めた。歩き方が覚束《おぼつか》ないのでふらふらしている。中途半端な重力に慣れていないようだ。こんな奴にアスラがやられるなんて、ジゼルが買いかぶりすぎていたのか、それともなにか、アスラには考えがあるのか。
だいたい、こいつら、なんでジゼルたちを攻撃《こうげき》したんだ? 同じ迷い人じゃあないのだろうか。こんな奴ら、頼まれたってうちの宇宙機には乗せてやるもんか!
アスラが一向に気づく気配もないまま、コクピットへと辿《たど》りついた。気圧調整室に入って、一気圧が表示されると、二人の襲撃者は防護《ぼうご》スーツを脱ぎ捨てた。
一人は黒髪《こくはつ》碧眼《へきがん》白い肌《はだ》の、三十前半といった感じのいかつい風貌《ふうぼう》の男だった。わざとらしく頬《ほお》に傷があるけれど、どういう医療《いりょう》システムの星から来たんだ? まるで開拓《かいたく》時代劇の風来坊のようじゃあないか。見れば見るほど、細面《ほそおもて》の痩《や》せて頬骨《ほおぼね》の出た顔、がっしりした体躯《たいく》、爛々《らんらん》と光る双眸《そうぼう》、絵に描いたようだ。かぶれた奴かな? そして、もう一人は、そういう風来坊に憧《あこが》れてなんでも真似《まね》したくて、奴について回るかぶれ少年。年は十五、六かな、淡《あわ》い砂色の髪に碧色の瞳《ひとみ》、よく日に焼けた肌。よいところのお坊ちゃんが、不良っぽくみせかけている、と感じるのは、テレビの見すぎだろうか。
あああ、まるで作られたセットの中にいるようだ。呆然《ぼうぜん》とジゼルは彼等を眺《なが》めていた。なんにせよ、空気があるということは言葉が通じるということである。でも、アスラがこんな状態じゃあ話しかけても責任が持てない。しばらく様子を見よう。
「捕まえてきたぞ」
奴らはそう言って、次の部屋へ入っていった。これは驚いた、二人だけかと思ったら、中にはさらに三十人ほど人間がうようよいたのだ。なんなんだ、この人たち。ジゼルたちを遠巻きに眺めて、こそこそと囁《ささや》きあっている。全体的に脅《おび》えている感じと、当惑《とうわく》の雰囲気《ふんいき》。
「ね……ねえ、その人、亡霊《ぼうれい》には見えないわ。亡霊なら、そんなもので捕獲《ほかく》できるとは思えないもの」
手前にいた痩せっぽっちの娘が、おどおどしながら言った。だけど、開拓男の剣呑《けんのん》な一瞥《いちべつ》に、萎縮《いしゅく》して口ごもってしまう。
コクピットは必要以上に広かった。いや、軍艦《ぐんかん》ならこんなものかもしれない。いろいろな装置は片づけられて隅におしやられている。どこから運び込んだのか、代りに簡易ベッドが並んでいた。かなりの生活の臭《にお》いがあって、彼らはここに長いようだった。
「真空中でスーツも着ずにか? 高エネルギービームにも耐《た》えるような奴《やつ》が? たとえ人間だとしても、食いものを粗末《そまつ》にする奴は許さねえ。これ以上、口数が増えてもらっちゃあ困るのも、あんたたちはよく知ってるはずだ」
侮蔑《ぶべつ》するような口調で開拓男が言い立てると、みんな、しんと黙《だま》り込《こ》んでしまった。どうやらこいつが牛耳《ぎゅうじ》っているらしい。隣《となり》に佇《たたず》む少年の得意げな表情ったら。情けなくて見ていられない、虎《とら》の威《い》を借る狐《きつね》ってね。
「待ちたまえ、殺す前にここから出れる方法を知ってるかもしれん。亡霊《ぼうれい》だったらあの子たちのことも……」
うすら汚れてぐんにゃりとしてはいるが、仕立てのいいスーツを着た老紳士《ろうしんし》がそう口にした。少年はわざとらしい嘲笑《ちょうしょう》を浮かべて、
「けっ、そんなこたあ先刻承知だぜ。だからこうして連れてきたんじゃねーか。てめえたちのような腰抜《こしぬ》けに指図されるいわれはねえよ」
「だ、だったら、そいつを起こして聞いてくれっ。わ、わたしは早く家に帰りたいんだ」
また別の男が声を上げた。
いったい、このグループはなんなんだろう。偶然《ぐうぜん》居合《いあ》わせた、スペースラインの搭乗者《とうじょうしゃ》ってところだな。|α《アルファ》軸《じく》走行の失敗、偶然にここに飛んでしまった。そんな設定が頭をよぎる。
「大事な大事なベンジャミンの心配か? くだらねえ」
鼻で笑って二人はどさりと床にアスラを転がした。それから足蹴《あしげ》にして、
「おい、起きろ」
「起きてるさ」
意外にも、ひょこいとアスラの身体が飛び起きた。自分たちのリーダーの行き場がなくなった足を見つめ、それから唖然《あぜん》と人々は気絶していたはずの男を凝視《ぎょうし》する。
「アスラ、起きてたの?」
ジゼルも少しは考えていたものの、同じように驚いて声を上げた。すると、彼らはますます仰天《ぎょうてん》して、開拓男までもが一歩後ずさる。そんなに猫《ねこ》が話すことが珍しいかな。ちょっと得意になってしまうぞ。にやって笑うアスラの顔に、気絶は嘘《うそ》だったことを悟った。
「ああ。ジゼル、袖《そで》の飾りボタンを拘束《こうそく》リングの接合部に付着してくれ」
ジゼルは頷《うなず》くと、ひょこいと腕《うで》から抜《ぬ》け出、指示されたとおり金色のボタンをリングにくっつけた。ワンテンポ置いて、ぽんっと小さな気抜けた音とともに、煙が一筋立つ。すると光のリングは消滅《しょうめつ》した。カラカラと発生装置が床に落ちて音を立てる。
「てっ、てめえ!?」
「案内ご苦労さん。これでも俺は特級ライセンスの持ち主でね、無重力状態でも自在に動けるんだ。あんたみたいな素人《しろうと》の一撃《いちげき》は役に立たないというわけさ。さてと」
ジゼルを抱《だ》き上げると、アスラは動揺《どうよう》もあらわな人々をぐるりと眺《なが》めた。
「私は人間です、皆さん。宇宙服なしでいられたのは、対真空コーティングという最新技術のおかげなのです。私もおそらく皆さん同様、この閉鎖《へいさ》空間に紛《まぎ》れ込んでしまいましてね、なにかないかとここまで赴《おもむ》いたんですよ。そうしたらいきなり、狙撃《そげき》されましてね、ああ、それを避《さ》けられたのも技術のおかげでして、その歓迎の意味するところをお尋ねしたくてやってきたんです」
慇懃無礼《いんぎんぶれい》にアスラは語る。面々、ばつが悪そうだった。それが当然というものだ。話も聞かれてしまったのだから、彼らの立場はますます悪くなる。
「聞いてたなら判るはずだ」
開拓男《かいたくおとこ》が目にも止まらぬ早業《はやわざ》で、こっち目がけてなにかを投げてきた。が、所詮《しょせん》、彼らの科学程度では【斥力《せきりょく》】の相手は勤まらない。呆気《あっけ》なく弾《はじ》き飛ばされて、かたんと床に落ちる。見ると、なんてことはない、ぴかぴか光る大きなナイフだった。
アスラは顔色一つ変えず、反対に友好的笑みすら浮かべて、
「まあ、やめたまえ。君たちには私を捕らえることも殺すことも無理だよ」
この、相手を逆撫《さかな》でするような言い草ったら! 本当にアスラはいじめっこだ。でも、見てて気持ちいい。なんといっても今のところは天下無敵だもの。ざまあみろっ。
開拓男は歯ぎしりをして、怒りに顔を赤くしていたが、隣《となり》の少年はぽかんと口を開けて、アスラを見つめていた。他の人はというと、
「失礼した、お客人。わたくしはフラブラーン星系のガタルダから来たジェネリ・マリノスキという者です。そこのガードナーとイーリィのあなたへの振舞《ふるまい》を免《めん》じてください、彼らにはちゃんと理由があって行ったことですから」
さきほどの初老|紳士《しんし》が間に割ってきた。どうやら話し合いを重視する種類の人間らしい。アスラは彼と交渉《こうしょう》することに決めたようだ。穏和《おんわ》そうな老人に頷《うなず》きかけると、口調を改めてアスラ、
「まあ、こんな状況下ですから、いたしかたないかと思います。あなたがたはフラブラーン星系の方ですか、私はオールト星系エルシの、E・R・Fコーポレーション会長の長男で、アスラといいます。以後は襲《おそ》わないでください」
へえ? アスラ、E・R・Fの人間として交渉する気なんだ。ほら、みんながざわめきだした。連邦《れんぽう》に知られていない銀河世界の末端《まったん》まで、E・R・Fの名は広まっているのだから。驚いて、もの珍しそうに見つめて、ある種の畏怖《いふ》のまなざしでかすかな期待を持って。
「あの、E・R・Fグループの、次期|総裁《そうさい》と?」
「はい」
老人は幾度《いくど》もしばたたいて、穴の空くほどアスラを観察した。次の言葉が出てこない、というか、喋《しゃべ》ること自体を忘れてしまったていである。敵意は開拓男ガードナー以外は感じられない。良かった、グループ圏内《けんない》の星の人だ。アスラは促《うなが》した。
「あなたがたはどうしてこのサルガッソーへ?」
「えっ? あ――ああ、わたくしどもはTSL(Tブロック宇宙航空)公社のコムサ行きB382便の乗客です。といっても、一年近く昔の話ですが。実はこんな羽目に追いやられたのも、盗賊《とうぞく》に襲われまして、走行回路がやられてしまったせいなのです。パニックに陥《おちい》ってワープしたものの、出現点が狂《くる》ってこんな地の果てに迷い込んでしまったというわけです。いろいろ脱出方法を試しましたが、すべての手を尽《つ》くしてもだめでした。ついには機体は他の機体と衝突《しょうとつ》して、乗客のほとんどは死亡、生き残った者はこうして、ここに避難《ひなん》しております。幸い、ここには食糧《しょくりょう》もありますし、空気発生装置もちゃんと作動してくれますから、こうやって、ずっと救援《きゅうえん》を待ち続ける毎日でした」
老人は熱っぽく語った。彼に限らず、背後の三十人ほどの期待、E・R・Fの技術ならここから抜けだす術《すべ》があるかもしれない、その願いがジゼルにさえ痛切に感じられる。
一年近くもこんなところにいたって? よくまあ、我慢《がまん》ができたと思う。退屈《たいくつ》でしょうがなかったんじゃないかな、身動きも取れずに、ただ、助けを待って。二人だけじゃなくて、三十人ぐらいいればなんとかなるもんなのか。ところで、今、『ワープ』って言ったぞ。|α《アルファ》軸《じく》走行と呼ぶのはあまりメジャーじゃないのかしら。
「あなたは、なぜ?」
「ちょっとトラブルがありまして。強制的に」
それ以上はアスラは説明しなかった。きらきらとみんなの目が光る。
「して、あなたの乗ってきた宇宙機は」
「じじい、やめときな。そいつらも俺たちと同じよ、ここから抜《ぬ》けだせなくなってやってきたんだよ。みっともねえぜ、金の亡者なんかにしっぽ振《ふ》って」
口を挟《はさ》んだのは開拓男ガードナーだった。やっぱり。こういう奴《やつ》は必ず企業《きぎょう》主義に反感を持っているもんだ。アスラの法人税の話じゃあないけれど、他の企業主義とエルシのは全然違うのにーっ。悔《くや》しいっ。
奴の言葉にどっと失望の気配が湧《わ》きでる。がっくりと、皆さん本当に肩《かた》を落としてしまった。人間の言葉ってちゃんと現実を表現しているんだあ、といまさらながら感心するジゼル。
「私は興味本位でここにきたんです。中心になにがあるかってね。確かに、今は檻《おり》に閉じ込められていますが、脱出できる可能性がないわけではありません」
「えっ!?」
全員が疑いと非難の声を上げた。なんだ、この反応は。それを期待していたんじゃあないの? 人間ってよく解《わか》らない。
「そ、そんなこと言って、糠喜《ぬかよろこ》びじゃすまされんぞっ」
誰かが震えた声で口早に言った。なるほど、そういうことか。みんなの決して好意的とは言い難《がた》いまなざしを受けても、専用機でクルーがパニックを起こした時と同じようにアスラは平然としていて、
「ご安心ください、可能性は充分にあります。それだけの科学を我々は持っています。E・R・Fグループをよろしく」
にっこりと営業スマイル。この非常事態でなに考えているのか。でも、皆さん、落ち着いたようだった。ようやく訪れた救援《きゅうえん》の手に、ほっと安堵《あんど》の息をついて、へなへなと座り込んでしまったおばさんもいる。緊張《きんちょう》の連続だったんだろうなあ。あの開拓男がリーダーじゃあね。
そこでジゼルは初めて、彼らに憐憫《れんびん》を感じた。一年。長い日々。ジゼル、なつめと別れ別れに一年も過ごせるだろうか?
「ふん、うまいこと言って」
開拓男はリーダー権を奪われて、ムッとしていた。でもジゼルには分かる、ちゃあんと自分も乗せてもらえるかどうか、不安で堪《たま》らないんだ。アスラは言葉を続けた。
「ですが、それにはしばらく時間が要《い》ります。私が声をかけるまで、ここで待機していてください。それから、聞きたいことがあります」
「な、なにかね?」
「あなたがたがここに来てから、他にも宇宙機が迷い込んだことがありますか?」
アスラの実に淡々《たんたん》とした言葉に、老人は絶句した。それに気づいて素早く見回すと、みんな、顔を見合わせて困惑《こんわく》の表情を浮かべている。老人の視線が開拓男へ向いたのも、ジゼルは見逃さなかった。
「ありません」
「そうですか」
あっさりアスラは引き下がった。でも、あれはどう見ても、嘘《うそ》をついている感じだ。それを気づかないアスラじゃあないけれど、なにか考えがあるのかな?
「じゃあ、私はもう少し、探検《たんけん》してみたいので」
「ま、待って!」
アスラがとっとと出ていこうとすると、人垣を割って一人の少女が飛び出してきた。ほっそりとした華奢《きゃしゃ》な、砂色の髪《かみ》が目につく少女だ。あ、判った、イーリィと呼ばれた少年と同じ色だからだ。顔の造りは似てないけれど、大きな青い目も一緒《いっしょ》だった。白い手でアスラの腕《うで》をきっちり握《にぎ》り締《し》めると、
「あたし、ローズ・シェルドンっていいます。あなたならきっと助けてくれます。どうか、お願い。セズンたちを助けて!」
「セズン?」
「みんな、早くおうちに帰りたいから、厄介《やっかい》ごとだと思って言わないの。みんな、ひどいわ。セズンはあたしの従兄《いとこ》でそこのイーリィの従兄でもあるの。年は二十五歳よ、とってもかっこいいの。鳶《とび》色の柔らかい髪がステキなのよ。あなたももちろん、ステキだけれどね。あたしたち三人、コムサに住むおばあさまのところへ行く途中だったわ。こんなことになっちゃったけど、あたしは学校に行かなくていいから満更《まんざら》でもなかったわよ。でも、ちょっと退屈、三つ上のイーリィはやくざごっこに夢中で遊んでくれないし、ガードナーはうるさいし。でも、セズンはちゃんとあたしの相手をしてくれたわ。一人前のレディとしてね!」
ローティーンの彼女が一気にまくしたてるのを真剣に聞いていたら、ジゼル、頭がくらくらしてきた。一体、この子はなにが言いたいんだーっ。
「ローズ!」
イーリィ少年が顔を赤らめてたしなめたけれど、まったく効果なし。鬱憤《うっぷん》ばらしのように彼女はぺちゃくちゃ喋《しゃべ》りまくる。聞いてるアスラもアスラだっ。開拓男ガードナーはにやにや感じの悪い笑いを口端に乗せ、他の人は少女のお喋りには慣れた様子で苦笑している。
それでなにが言いたいんだ、とジゼルが割り込もうかとも思ったが、喋る猫《ねこ》に話題の矛先《ほこさき》が回ってきそうなので、ぐっとこらえた。代りに促《うなが》すようにアスラを睨《にら》みつける。
そんなジゼルにようやく気づいて、アスラも苦笑すると、
「それで、ローズ嬢《じょう》、あなたは、なにを、助けて、もらいたいんですか?」
「まあ! あたし、すっかり忘れていたわ。ちゃんと始めにお話したつもりでいたのね。ごめんなさい」
おおげさに驚いて、ローズはぽんと手を叩《たた》いた。アスラの子供相手に茶化す口調にも気づかず、意気込んで続けるには、
「セズンたちを救出してほしいの」
「救出? どっかに落ちたかな」
ませた少女はめいっぱい首を振《ふ》り、そして、
「セズンは亡霊《ぼうれい》に魅入《みい》られたのよ」
「亡霊?」
ジゼルとアスラは顔を見合わせた。
【サルガッソー】には大抵《たいてい》、亡霊がいるものである。幻《まぼろし》の怪獣《かいじゅう》でもいいや。
少女ローズが手振り身振りをつけて、かくかくしかじかと語ってくれたのは、つまりこういうことだった。彼らがこの宇宙船に移ってからしばらくして、一人、また一人と行方不明になった。いろいろと捜《さが》した末、彼らは幻影《げんえい》を見たのである。自分たちの会いたかった人々の形をした幻を。それは手を振り、彼らを誘惑《ゆうわく》した。思わずついていくと、そこには巨大《きょだい》なドラゴンが横たわって、いきなり攻撃《こうげき》をしてきたのである、と。何人かが犠牲《ぎせい》になり、みんなは食われてしまったのだと判断したが、自分はドラゴンの背後に透明なものの中で眠っている人々を見たんだ、そうローズは力説した。それからも人は消え、その中に彼女の従兄《いとこ》のセズンもいた。
これだけのことを説明するのに、一体何分かかったことか!
えらい剣幕《けんまく》に、さすがのアスラも少々押され気味で、ついには、
「まあ、じゃあできる限り」
と承諾《しょうだく》してしまったのだ。アスラーっ。アスラがいないと実質的にあの専用機は動かないんだぞっ。そのことを自覚してよう。危険はできるだけ避《さ》けてちょうだい!
というわけで、形ばかりの捜索《そうさく》へ出たジゼルとアスラである。ローズは自分も行くと言い張ったが、うまいこと置いてきた。あのお喋りに付き合っていたら、体力より精神力の方が消耗《しょうもう》しきってしまう。ところがどっこい、代りにイーリィが勝手についてきた。どっちも頭痛い。だって、イーリィ少年の興味と尊敬の対象が、はっきり開拓男からアスラに移っているのが分かるんだもの! こんな奴《やつ》を尊敬したら人生踏みはずすぞ、この子。
「かっこいいなあ、アスラさん。さっきのバリアーですか? 個人用なんて見たことも聞いたこともありません、ぼく。E・R・Fコーポレーションの宇宙機はすばらしいんですよね。ニュースで見ました。ぼく、コクピット見たいんです。いいですか?」
「企業《きぎょう》秘密だからだめ」
「で、でも、E・R・Fグループのラインはワープを使うんじゃないんですってね。すごいなあ、エルシってすばらしい科学の持ち主なんですね。早く体験したいや、その走行システムは見せてもらえるんでしょう?」
「企業秘密だから、だめ」
従兄って性格が似るものだろうか!? こうるさいったらありゃしない。ジゼルは苛々《いらいら》した。だいたい、こいつだってジゼルたちを攻撃《こうげき》したんだぞ。この、掌《てのひら》を返すような態度、ジゼルは気に食わない。アスラが『企業秘密』の一点張りだったのが嬉《うれ》しいけれど、あああ、電波受信機を外してしまおうかな。送信機は持ってないし。でも、それじゃあ人間の言葉、判らなくなっちゃう。うーん。
ジゼルたちは宇宙船から次の宇宙船へ渡り、通り抜け、どんどん中心へと向かっていった。しかし、亡霊だって? ジゼルはそんなものをついぞ見かけたことがない。大体、猫《ねこ》は夢は見るけれど、亡霊も見るって報告は聞かないぞ。人間には残留エナジイとかなんとか説明されているけれどさ、そのエナジイの波長と共振《きょうしん》した頭が勝手に作用して、水晶体《すいしょうたい》に人物像を描かせるって、研究されているじゃないか。猫の頭が共振するとは限らないし、同族しか共振しないかもしれないじゃない。第一、ジゼルは生体機械なんだぞ、人工知能も埋《う》められている。普通じゃあないんだからな。亡霊が見えたら、理研に成果を持ち込んでやろうじゃあないの、そうしたらCPU交換も伸びるし。
「なんだ、ジゼル。むくれてるな」
アスラが小声で囁《ささや》いた。送信機を通さないので対真空コーティングでつながっているジゼルにしか声は伝わらず、イーリィ少年には聞こえていない。
「だって、こんなのばからしいんだもの」
「まあ、暇《ひま》つぶしになっていいじゃないか。ははあん、解った。お前さんは怪談《かいだん》が嫌《きら》いだったよなあ」
ぎくり。や、やばい。
「テレビの怪談特集は一人じゃあ見れないもんな。なつめと一緒《いっしょ》の部屋で寝起《ねお》きできて、幸せだなあ、ジゼルは」
アスラがばかにする。ええいっ、こいつとなんか、テレビ、見るんじゃなかった。かといって、図星なのでなにも言い返せない自分が悔《くや》しい。
はっきり言って、ジゼルは怪談がきらい。いいじゃないか、別に。
「ねえ、アスラさん。そのねこ、サイバマシンでしょ? すごく精巧《せいこう》にできてるんですね、本物のねこかと思ってました。ぼく、ねこが好きなんです。触ってもいいですか?」
またイーリィ少年が邪魔《じゃま》をした。まさか、企業《きぎょう》秘密とは言えず(実際のところ、現時点では最高の企業秘密[#「最高の企業秘密」に傍点]なんだけど)、苦笑してアスラは【斥力《せきりょく》】を切る。弾《はじ》き返されないかとおずおず手を伸ばしたイーリィ少年、ジゼルの背中の毛に触れると、喜色満面になった。
「うわあ、きれいな毛並。手入れがゆき届いてますね」
だろう? なつめが毎朝ブラッシングしてくれるし、なんといってもジゼルはお風呂《ふろ》が好きだもんね。なーんて、ジゼルが得意げになっていると、ひゅっと少年の片方の手が動いた。えっ、と反射的に視線をやる。
「うっ!?」
アスラが呻《うめ》き声を上げた。しまった!
少年の拳《こぶし》は深々とアスラのみぞおちに食い込んでいた。アスラ、不意をつかれて、身体を屈《かが》めてうずくまる。えーん、アスラあ、しっかりしてよ!
「よくやったぞ、イーリィ」
太い、聞き覚えのある声が。ガードナーだ。その言葉にイーリィ少年は顔を上気させる。やっぱり裏があったのか。
果たして、廊下《ろうか》の陰《かげ》から姿を現した開拓男を、ジゼル、睨《にら》みつける。
「アスラになにすんだよ!」
けれど、ジゼルの声は届かない。悪党どもの会話は耳に入ってくるというのに! 悔しい! アスラ、起きて!
苦しげに呻くアスラの顔も見えない。不安と怒りが交錯《こうさく》して、ジゼル、どうしていいか判らない。どうしよう、どうしよう!
「へっ、ばかどもの戯《ざ》れ言《ごと》にこっちは付き合ってらんねーんだよ。行ったとこでてめえも食われちまうがオチさ、だったらここで死ぬのもおんなじだろう? 俺はもう一分だって待ってなんかいられねーんだ!」
防護《ぼうご》スーツの中で確実に唾《つば》が飛んでいるだろう。怒号《どごう》に似た言葉がアスラに投げかけられた。そんなこと言って、あの宇宙機はアスラがいなければ|φ《ファイ》ベクトル移動できないんだから! なんにも知らないくせに!
「アスラ、アスラ、しっかりして!」
まるでジゼルの声なんか聞こえていないていだった。
「イーリィ、こいつに宇宙機の特徴は聞いたか?」
「いいえ、ガードが固くて」
「まあいいさ。探査《たんさ》センサーは立派に作動する。さて、どうするかな、こいつ。また、さっきみたいに演劇《えんげき》ごっこをしてるかもしれんしな」
にやあと、男は笑った。はっと息を呑《の》むジゼル。悪魔《あくま》の嘲笑《ちょうしょう》。直感した、こいつ、アスラを殺したがっている!
「俺は、こいつを最初に見た時から、気にくわなかった」
腰《こし》に下がる旧式の銃《じゅう》に手を伸ばす。
「こういう、金にものを言わせていばり散らす奴《やつ》らなんぞ、人間の屑《くず》だっ」
銃口がぴたりとこちらに向く。心臓《しんぞう》が凍りつく。全毛が逆立《さかだ》つ感触。ひげがぴくぴく痙攣《けいれん》する。必死になってアスラの名を呼ぶ。
「アスラ、アスラ! しっかりして! 【斥力《せきりょく》】を張って!」
ぴくんと、アスラの肩《かた》が震えた、その時。
「企業《きぎょう》主義者、くたばりやがれ!」
閃光《せんこう》。平行光線に視界がふさがれる。瞬間、タンパク質を刹那《せつな》的に蒸発させる強力なエナジイが、まるで花火のように涙の形で飛び散った。
間に合った!? 安心する間もなく、反作用によってもの凄《すご》いスピードで壁《かべ》に叩《たた》きつけられた。新たに生じた壁との【斥力】が激突を妨げる。それでも及ばず、壁が大きくへこむ。衝撃波《しょうげきは》。背中に激痛《げきつう》。悲鳴。
「ちっ、例の奴か!」
「でも、凄い勢いですっ飛びましたよ。ほら、あんなに壁がへこんでる」
「当分は立てまい。その間に俺たちはとんずらさ。はは!」
耳障《みみざわ》りで野卑な笑いを飛ばしながら、悪漢《あっかん》は振《ふ》り向きもせず、勝ち誇《ほこ》ったように去っていった。ジゼルは衝撃波のショックに頭と全身がふらふらして、しばらくぐったりしていた。だけど、自分の下に仰向《あおむ》けに横たわるアスラが、ぞっとするほど微動だにしないのに気づいて、ぎしぎしいう身体をむち打って、顔を覗《のぞ》く。瞼《まぶた》を閉じて、気持ち悪いほど顔色が悪い。
[#挿絵(img/compass_052.jpg)入る]
「アスラ!? 死んじゃったの!?」
「か――勝手に殺すな。参った……うーむ、痛い」
拍子《ひょうし》抜《ぬ》けするほどはっきりした口調でアスラが返事をしたので、ジゼルはほっと胸を撫《な》でおろした。脂汗《あぶらあせ》がにじんでいるけど、大事には至らなかったみたい。よかったあ。
「大丈夫? すごくへこんでるよ、壁。骨折った?」
「ああ、平気だ。そいつは【斥力】と反作用の衝撃波の戦いの跡だ。俺の生身が叩きつけられていたら、あっさり死んでる」
「怖《こわ》いこと言わないでよ。動ける?」
「痛い。十五分待ってくれ。あー、失敗したなあ。あの子の一発なんか避《よ》けられたけど、壁が近すぎた。ん? ああ、どうせこうなることは最初から判ってたさ」
廊下《ろうか》に手足を投げだし、アスラはゲームに負けたような調子で喋《しゃべ》る。顔色も徐々《じょじょ》に元に戻《もど》ってくると、それが痩《や》せ我慢《がまん》でないと判ってようやくジゼルは腰《こし》を下ろした。
「あいつらは放っておいても大丈夫だ。そのうち、悔《くや》し顔で俺を捜《さが》しに来るよ」
「でも、あんな風に大見栄切ってたけど、本当に|φ《ファイ》ベクトルで脱出できるかどうか、判らないんでしょう?」
「ジゼル、リーマンの言葉を覚えてるか。完全に計算された軌道《きどう》、って言ったんだぞ。つまり、計測可能な空間内なんだ、どういうことか解るか? ここは亜空間でもないしφベクトル空間でもない。平常の空間と連続している場所なのさ。ただ、なにかに包まれている。【閉じた空間】でないのなら、φベクトルは創造可能なんだよ」
「本当? だったら、なんで早く……」
「どうせ計算に時間がかかるからな。それより、気になることがあった」
ジゼルはぱちぱちと瞬《またた》いた。気になること? そりゃあ気になることはわんさかあるだろうけど、脱出するよりも気になることってあるだろうか?
「恨《うら》みを買って|α《アルファ》軸《じく》走行を強制されたのはいいとして、じゃあ、なぜ相手はここの存在を知っていたんだ? 星図にも記載《きさい》されていない。ブラックポイントリストにも指定されていないここを」
「うーん? それは、誰かがここに迷い込んで、偶然出てこれたことがあって、そいつの話を聞いたとかなんかじゃない?」
自分でもまったく自信がない可能性を、ジゼルは口にした。アスラは天井《てんじょう》を見つめて言った。
「この、不自然なまでの時代の偏《かたよ》り。一時代の宇宙船だけがこんなに迷い込む? 偶然飛び込んできたというより、まるで誘《さそ》い込まれたようじゃないか」
「あ! 分裂《ぶんれつ》時代に使われた作戦!?」
「たぶんな。古い文献《ぶんけん》でも引っ張りだしてきたんだろう。でも、そうすると、分裂時代の人間はどうやってここを知り得たか、が問題だ。ま、昔には今に残されていない技術もあったっていうし、どうにか見つけたんだろうよ」
ははあ、とジゼルは深く納得《なっとく》してしまった。昔の人間っていうのはえらく気前のいいことを、平気でかましていたらしい。軍事需要でお金持ちが多かったのかな? 銀河|開拓《かいたく》史のもっとも華々《はなばな》しい時代だったというから、星系を股《また》にかけて戦争するなんて今じゃあ考えられないことも考えちゃうわけだ。野蛮《やばん》だなあ。
「じゃあ、中心に行かなくても……」
「いや、亡霊《ぼうれい》のことを抜《ぬ》きにしても、中心には興味がある。どうも、この空間にはα軸走行に失敗した宇宙機を強く引き寄せるものがあるらしいな。年に二回ぐらいは飛び込んでいるみたいだし」
「なに、その数」
どこから出てきたのか判らない数に、ジゼル、顔をしかめる。
「ジゼルたちとあの人たちっていうの?」
「いや、俺たちは特殊だから。あの、マリノスキとかいうじいさんに聞いただろう」
「でも、他には宇宙機は飛び込んできてないって」
「来たさ。お前も気づいたはずだ。少なくとも一機は来ている。そして、殺した」
端的《たんてき》にアスラが言ったので、やけに現実ばなれして聞こえた。殺した? 乗客を? なんのために? 小首を傾《かし》げるジゼルに説明するには、
「間引きだよ。これ以上人間が増えると、自分たちの分の食糧《しょくりょう》が減るから。いつ来るとも判らない救助なんか当てにならない。少しでも長く生き延びねば。だからこそ、俺たちも殺そうとしたんだ」
「そんな……!」
「人間、追い詰められるとなにやるか解らないぞ。ねこは真っ先に食われる。次に靴《くつ》とか服とか。人間以外なにもなくなったら、同族|喰《ぐ》いだ。まず赤ん坊、子供、弱いもの。自分しか残らなくなったら、自分の手足さえ食うってもんだ」
「うわーんっ、やめてよ!」
蛸《たこ》の足じゃあるまいし! 想像したら胸がむかむかしてきた。オカルトもホラーも、ジゼル、だいっきらいだーっ。えーん。
あははとアスラは笑って、笑いすぎて痛くなったらしく胸を押さえて顔を歪《ゆが》めた。ふん、ジゼルをいじめた罰《ばち》が当たったんだい。
「さあてと、笑ったことだし、そろそろ行くか」
「あ、アスラ、誰か来る」
ジゼルの視界に人の影が入った。悪漢《あっかん》が戻《もど》ってくるには早いなと思えば、ローズではないか。従兄《いとこ》の所業《しょぎょう》を謝罪《しゃざい》しに来たのだろうか?
少女は両手で銀色の棒《ぼう》を抱《だ》きしめ、こちらを見つけるとぱっと笑って走ってきた。アスラも身を起こす。彼女はかんだかい声で、自分の勝利を誇《ほこ》るように、
「良かった! やっぱり無事だったのね。イーリィがあっさりやっつけられたなんて言ってたけど、帰りがあまりにも早いんで変に思ったのよ」
「あっさりやっつけられたのは本当だな」
どうやら従兄の所業は知らされていないようなので、アスラ、嫌味《いやみ》っぽく応《こた》える。が、少女は微塵《みじん》もそれに気づいた様子はなく、
「まあ、案外弱いのね。セズンはもうちょっと勇敢《ゆうかん》で強かったわよ」
「俺も勇敢なんだけれどね、君の従兄が不意打ちをしてこなければ」
今度ははっきりと言うアスラ。少女だからといって手加減しないのがこの男の性格だ。ローズはひどく驚いたようで、まあぁ、と口をぽかんと開けたきり、その場で固まってしまった。傷ついたのかなあ、とジゼルが少々心配になった頃《ころ》、彼女は唐突《とうとつ》にぽんと手をあわせて、
「まあ、どうしましょう。イーリィがあなたを? えっ……と、どうすればいいのかしら。困ったわ、こういう時、どうすればいいか教わらなかったんですもの。あら、いやだ。えーと、そうだわ、お礼をしなくちゃあ!」
お礼? この頓珍漢《とんちんかん》な間違《まちが》いにジゼルがアスラを仰《あお》ぐと、声を殺して笑っていた。もしかしてこの子、マニュアル人間? 身内のやったことに対してはてんで無頓着《むとんちゃく》で、自分がどういう対応をとればいいかに必死である。
「あたし、イーリィに代ってあなたにお礼をします。あら、でもなんのお礼かしら? まあいいわ、あたしが今度は一緒《いっしょ》に行くわ」
「え? 冗談《じょうだん》にしておきなさい、足手まといだ」
「失礼ね、女だと思って。こんなこともあろうかと、ほら」
女という問題以前なのだが。ジゼルも笑いたいのを我慢《がまん》していると、少女は携《たずさ》えていた棒《ぼう》を突《つ》きだした。ぼわっと先が輝いて、光の剣が出現する。アスラは口笛《くちぶえ》を吹《ふ》いた。
「これはこれは、たいそうな代物を」
「いいでしょう、この船の中で見つけたのよ。さあ、行きましょう!」
了解も待たずに、ローズはすたすた歩いていった。肩《かた》をすくめるアスラに、ジゼル、
「いいの? まだ子供だよ」
「しかたないさ、道案内もいないし。なにかあったら真っ先に逃げださせればいい」
でも、あのお喋《しゃべ》りにつきあわなくちゃあならないなんて。考えただけでもげんなりしてくるジゼルだった。
かくして、新たなメンバーで冒険の旅に出発したわけであるが、結果は予想通りだった。
まあ、少女のやかましいことったら! ジゼルは完全無視を決め込んだ。向こうも猫《ねこ》の対応マニュアルはないらしく、話しかけてこないからいいんだけれどさ。だいたい、ジゼルはお喋りというものにあまり慣れていない。なつめがあまり喋らない方で、夏離宮には人がほとんど訪れないから、必然と口で話すよりも頭で考えることの方が多くなる。アスラとはよく話すけれど、ローズみたいに必要性のないお喋りという奴《やつ》は苦手。緊張《きんちょう》の緩和《かんわ》? 暇《ひま》つぶし? なにか意味があって喋るの? 同じようなことを何回も?
ともかく、彼女の一族についてジゼルが数えている限り五回は説明したところで、
「あのね……イーリィのこと、怒ってもいいわ。失礼にもほどがあるわよね。でも、どうかお願い、イーリィを置いていかないで。ちゃんと宇宙機に乗せてやって。あの子、ここに来てからちょっとおかしいのよ、ガードナーなんかに唆《そそのか》されて。優等生コンプレックス、っていうの? それを持っていた反動で、箍《たが》が外れたんですって。セズンが教えてくれたの、イーリィは頭の病気なのよ、お願いね。ねっ」
不意にそんなことを切り出して、真剣な目で懇願《こんがん》するローズ。でも、悪いけど、ジゼルもアスラも笑いだす一歩手前だった。いきなり頭の病気にされた少年が憐《あわ》れというものだ。
「とりあえずはね。ガードナー氏ももちろん、乗せるよ」
「あら、あたしはガードナーの心配なんかしていないわ。置いてっちゃっても構わないわよ。でも、ありがとう。イーリィには必ずお礼させるわ」
「返礼はするよ」
にやにや笑うアスラ。ローズは言葉の額面通り受け取ったみたいだけれども、それって、どう考えてもお礼参りだろう。あっさりした顔でアスラはけっこう執念《しゅうねん》深い。
にっこり微笑《ほほえ》んだローズの顔がそのまま強《こわ》ばっているのに気づいたのは、すぐ後だった。なんだろうとローズの視線が向く方へ首を巡《めぐ》らす。
そこに。
見たことのない人間の、若い男の幻影《げんえい》があった。
砂色の長めの髪《かみ》、白い肌《はだ》、青い双眸《そうぼう》。どこにでもいるような、ごく平凡《へいぼん》な顔立ちの青年。ピンクの頬《ほお》、血色のいい唇《くちびる》。砂色の髪がローズとイーリィ少年を連想させる。まるで、本物の人間がそこに佇《たたず》んでいるような、肉質感、現実感。
その目は遠く、どこも見ていないようだった。
防護《ぼうご》スーツを着ていたら、一瞬では生身の人間でないと判断できなかったにちがいない。靴《くつ》の下はびろんと広がり、まるで床《ゆか》から生えてきたような印象を受けた。
「セズン!」
呪縛《じゅばく》を吹《ふ》き飛ばすように、少女は悲鳴を上げた。
「来たわ、来たわよ! 亡霊《ぼうれい》よ! 亡霊がセズンの格好《かっこう》をしてる!」
見入っていたジゼルも我に返った。なんてことだ、ジゼルにも見える。本物だろうか? ちゃんとした人間であるとは思えない。目は虚《うつ》ろで、生きた匂《にお》いはまったくないけれど、存在感がちゃんとある。そこにいる。
これは、なに?
ぞくっと背筋に戦慄《せんりつ》が走った。なんなのこれーっ、なに、どうしてジゼルにも見えるのーっ、えーん、やだあ、怖《こわ》いよ、なつめ! なつめえ!
「ジゼル! なつめのことは考えるな!」
パニック状態に陥《おちい》ったジゼルの耳に、鋭いアスラの叱責《しっせき》が飛んできた。えっ、と顔を上げたその視野に。
亡霊の広がった足元がぶよぶよ蠢《うごめ》きだして、透明ななにかが大きく波打った。それは唐突《とうとつ》に成長し、男の傍《かたわ》らにそそりたった。見る間に蠕動《ぜんどう》しながら形が整えられ、さまざまな彩りが現れ、そして。
「あっ、ばか! やめろって言ったのに!」
なつめ。
そこに、なつめがいた。
漆黒《しっこく》の髪。柳の眉。ぬばたまの双眸《そうぼう》と透きとおる肌《はだ》。優しい微笑《びしょう》。
なつめ。綺麗《きれい》ななつめ。誰よりも綺麗ななつめが、そこにいる。佇《たたず》んでいる。
「ちっ」
陶然《とうぜん》と見つめるジゼルの前を、舌打《したう》ちしたアスラが横切った。金縛りにあったように動かない少女の手から棒《ぼう》を奪いとり、ひょんと光の刃を唸《うな》らせる。
にっこりとなつめが笑った。
はっと気がつく。
これは、なつめではない。なつめはこんな笑い方、しない。
瞬間、光の剣が振《ふ》りおろされ、それは一刀両断にされた。ずるりと斜《なな》めに身体がずり落ち、それは形が保てなくなって、色槌《いろあ》せ、崩《くず》れ落ちる。
「きゃああっ!」
ローズは再び悲鳴を上げた。なんてことだ。なんてこと。あれがジゼルの心を読みとったなつめだって? 冗談《じょうだん》じゃあない。
キッとアスラは唇《くちびる》を噛《か》みしめると、
「なつめを、ばかにするな……!」
それは屈辱《くつじょく》だった。一瞬でもあんな似ても似つかぬものをなつめと呼《よ》んだなんて! ジゼルの心は後悔《こうかい》と情けなさでいっぱいだった。ごめんね、ごめんね、なつめ。
男の亡霊は傍らの惨事《さんじ》を気にしていない様子だった。非人間的な笑みを浮かべると、おもむろに手招《てまね》きをする。そして足も動かさずに、すすすと後退し始めた。
「ついてこいだと? 上等だっ」
アスラの笑いが引きつっている。よほどなつめをコケにされたのが悔《くや》しいのだろう。冷静さが半減しているぞ。そりゃあジゼルも悔しいけれど、調子が変なアスラの方が怖《こわ》い。
「アスラ、落ち着いて」
「落ち着いてるさ。あのやろー、人の心をなんだと思ってるんだ。読みとるならもっと正確に読みとれってんだ」
「アスラーっ、興奮してるよ!」
「あたり前だっ。斬《き》れる亡霊《ぼうれい》がどこにいやがる。親玉、出てきてみやがれっ」
だ、大丈夫かな? 日頃《ひごろ》、冷静沈着な奴《やつ》がぶつりと切れると、無鉄砲《むてつぼう》になるっていうからなあ。ジゼル、一抹《いちまつ》の不安。
半《なか》ば駆《か》けるようにしてジゼルたちは亡霊の後を追った。びくびく震えながらもローズがついてくる。もう道案内は不要だから追い返してもいいはずだけれど、肝心《かんじん》のアスラが一心不乱の状態でいて、彼女のことを気にする様子もなかった。困った人たちである。
亡霊はそれからいろいろ姿を変え、二、三体|増殖《ぞうしょく》しながら招いた。しかたないからジゼルは現|連邦《れんぽう》大統領に会いたい! と必死に願ったので、なつめの姿は現れなかった。もしそんな兆《きざ》しでも見えたら、アスラがさらに切れる[#「切れる」に傍点]だけなので、それは想像しただけでご免《めん》だった。
そして、ある宇宙船を抜《ぬ》けでたところで、ジゼルたちの足は停まった。
そこは、寄せ集められた宇宙船が作る、巨大な空洞《くうどう》だった。どのくらいの空間か、高さも五、六百メートルはある。完全な閉鎖《へいさ》空間。
そこが中心だ。
サルガッソーの中心。
その金属|屑《くず》の壁《かべ》に、びっしりと透明《とうめい》なものが張りついているのが、ぼんやりと見えた。あの亡霊と同じもの。暗闇《くらやみ》の中で、こっちが投げかけたわずかな光を反射させている。ハッチの側の壁を見ると、それがゼリーというか、あんかけのようなどろどろしたものであることが判った。かなり厚みがあり、微細に蠕動《ぜんどう》している。これ、なんなの? 生き物? ここが亡霊の巣?
「この中だ」
外とも中ともつかないが、アスラは胸に手を突《つ》っ込《こ》むと、小さなビー玉を取りだした。それを空洞の中心向かって投げつける。すぐさま閃光《せんこう》がほとばしり、空洞は目映《まばゆ》い光に包まれた。照明玉か。
あっと誰もが息を呑《の》んだ。
部屋の奥に、サルガッソーの主は首を腹に突っ込んで眠っていた。
「あれか……!」
押し殺すような声がアスラの口から洩《も》れる。ローズが長々と説明した言葉がよみがえった。中心には巨大《きょだい》なドラゴンが横たわっていて。
(……あれ?)
ジゼルは、しかしながら、拍子抜《ひょうしぬ》けしてしまった。
ドラゴン。龍《りゅう》である。龍っていうのは、蛇《へび》のような長い身体を全身|鱗《うろこ》で覆《おお》われて、五色の鬣《たてがみ》をはためかせ、矮小《わいしょう》な手に美しい玉を掴《つか》んでいるんじゃあなかったっけ? ジゼルがサルガッソーの中心で見たものは、巨大な四つ足の獣《けもの》で、確かに全身は鱗で覆われていたけれど、鷲《わし》のような翼《つばさ》と後ろ足を持っていて、前脚《まえあし》はぷっといライオンの足、そしてアルマジロのしっぽを持っているという、素晴らしくちぐはぐな生き物だった。美しい想像の聖獣《せいじゅう》、というイメージはない。立派な髭《ひげ》だってないし、これではかぐや姫に求婚《きゅうこん》した男がかわいそうじゃあないか。
ただ、照明に輝く青銀の鱗が、とても幻想的《げんそうてき》で、きれいだった。
突然《とつぜん》の光に、眠っていたそれは頭を起こした。長い首を巡《めぐ》らし、なにごとかと怪訝《けげん》な調子で見回す。口の突きでた鰐《わに》のような、親しみのない顔に光るのは、鮮やかな紅《くれない》の双眸《そうぼう》。
アスラは凝然《ぎょうぜん》とそいつを見ていた。昂《たかぶ》っていた気が静まっているのは分かるけれど、その顔に浮かぶ表情は、畏怖《いふ》? 顔が強ばっているけれど、我を忘れて見入っている。少女の方は、一向に震えが止まらないようで、蒼白《そうはく》になりながらやはり見つめていた。拍子抜けしているのはジゼルだけかな。ジゼルには怖《こわ》いという感情が湧《わ》いてこなかった。別に襲《おそ》ってくるでもなし、剣呑《けんのん》な雰囲気もない。近寄りたくはないけれど、そうむやみやたらに戦《おのの》き恐《おそ》れることもないのではなかろうか。
とりあえず、アスラを我に返そう。
「アスラ、ねえ、これは龍じゃないの?」
「え? ああ、ジゼルは東洋龍しか知らないのか。西洋龍の伝説だよ。参ったな、あれも幻覚《げんかく》と踏んでいたんだが、こうも存在感があっちゃあ」
苦笑するアスラ。それでも視線はドラゴンから離れない。西洋龍ねえ。龍に二種類あるなんて知らなかった。どこに対する西洋と東洋なのだろう。
あれ? でも、ここ、真空中じゃあない? なんで生きてるの?
ジゼルがその疑問を口にしようとした時、彼の紅《あか》いまなざしがこちらに向けられた。
思わず目が合う。
(……あれ?)
こいつは……?
「きゃあああ!」
絹《きぬ》を引き裂《さ》くような絶叫《ぜっきょう》に、ジゼルの思考は吹き飛んだ。こっちが仰天《ぎょうてん》してぺたんと尻《しり》もちをつく。それは後ろに控《ひか》えていたローズの、突発的《とっぱつてき》衝動《しょうどう》だった。
「いやあっ!」
ローズの手が床《ゆか》に落ちていたなにかをひっ掴《つか》んだ。恐怖《きょうふ》と興奮、そして怒りがないまぜになった表情で、ほとんど無意識的に、銃《じゅう》を構え、発砲《はっぽう》する。
「あ、ばか!」
アスラの声かと思ったら、それはジゼル自身の叱責《しっせき》だった。銃口から青白いビームが一条、それから立て続けに乱射する。反動で少女は後方にふっ飛んだ。
ドラゴンの鱗《うろこ》はなにでできているのだろうか、ことごとく、ビームは弾《はじ》き飛ばされた。でも、彼の逆鱗《げきりん》に触れるには充分だった。
大きく裂けた口を開く。
「キ――ッ!」
うわっ、なんだ、これ! 真空を貫いて、直接に脳を突《つ》き刺《さ》す怪声《かいせい》。痛い、頭が割れそうだ! ジゼルたちは耳をふさいだ。でも、効果なし。身体が金縛《かなしば》りにあったように動けない。音波を受信する翻訳機《ほんやくき》をとればいいのだけれど、そんな余裕《よゆう》は――
不意に、ぴたりと音が止んだ。呪縛《じゅばく》が一方的に解かれて顔を上げると、ドラゴンは首をぐんと伸《の》ばして、鋭い突きをかけてきたのだ!
「逃げろ!」
アスラがローズを宇宙船の中に突き飛ばし、ジゼルを拾いあげて飛び退く。鋭い巨大な牙《きば》がジゼルのしっぽを掠《かす》めた。ひーっ、きわどい!
アスラは推進《すいしん》システムを上に下に操り、ドラゴンの死角に飛び込んだ。
不意に視界から敵が消えて、奴《やつ》はギギと低い唸《うな》りを洩《も》らして動きを止めた。ワンテンポ遅れて、細長い首がうねり、ジゼルたちを紅の双眸《そうぼう》が捕らえる。
ジゼルは気がついた。今のは、まるで、眼球で姿をキャッチしたというよりも、存在を感じとってから目を向けた、そんな様子だった。第二の『眼』を持っているということだろうか? それじゃあ、死角なんかないも同然じゃあない!
「アスラっ、あいつ、ジゼルたちを感じとって見つけてる!」
ジゼルの悲鳴よりも早く、二回目の突きが猛然《もうぜん》と襲《おそ》ってくる。避《さ》けきれず、鼻づらがアスラの足元に接触して、反作用でふっ飛んだ。その腕《うで》の中、またもやくるくる回って一直線に飛んでいくジゼルたち。
壁《かべ》を間近に感じた。いけない、あんかけに呑《の》み込まれる!
ところが、ジゼルの危惧《きぐ》をよそに、あんかけはあっさりと斥力《せきりょく》に負け、潮《うしお》のごとく引いた。柔らかなクッションの役割を果たし、衝撃《しょうげき》をほとんど吸収して、ぽんっとジゼルたちを弾《はじ》き出す。水に落ちた時と同様、始めは斥力で退くが、衝撃が弱まるにつれて斥力の効果も弱まり、そのまま埋没《まいぼつ》してしまうことを予想したのに、意外だった。アスラも同じようで、あんかけを凝視《ぎょうし》し、斥力を切ってそっと触れてみる。思ったよりも弾力のある表面だった。指先を押し込めば、どこまでもめり込んでいく。離せばすぐさま元通りになる。
「これ、いったい……」
ジゼルの言葉をアスラは遮《さえぎ》った。腰に携帯《けいたい》していた【斥力】の源を、ちゃっかり握《にぎ》っていた剣の柄に付着させながら、
「ジゼル、お前はとりあえず逃げろ。邪魔《じゃま》だ」
「え!? アスラはどうするのさ! アスラがいないと帰れないんだよ!?」
「無駄《むだ》死《じ》にはしないって。確認したらすぐ脱出する、ほら」
非難するジゼルの首に、反重力システムを下げたリボンを手早くアスラは巻きつけた。懸命《けんめい》に思いとどまらせようとするのを完全無視して、アスラ、でいやっとジゼルを入り口向かって投げ付ける。
うひゃー、等速直線運動だーっ。
中心に引きつけるわずかな引力を相殺し、いつまでも減速しない遠投によって、ジゼル、だだっぴろい空間をわたわた進んでいった。アスラのばかっ、そりゃあジゼルは邪魔だけれど、一人でなにしようっていうんだい。まさか、ばかばかしいヒロイズムに酔《よ》ってあいつを倒そうなんて魂胆《こんたん》じゃあないだろう!? いくらアスラでも、こんな得体の知れないもの、無茶だよーっ。大体、この龍になんの恨《うら》みがあるのさ、そりゃあ攻撃《こうげき》されたけど、それはローズが意味もなく手を出したからだもの。こっちが喧嘩《けんか》売ったんだもの。平穏《へいおん》無事《ぶじ》にひっそりと隠遁《いんとん》生活している生物を、むやみやたらに……
(え?)
ジゼルは眼を疑った。あいつの赤い瞳《ひとみ》、こっちを見てない?
アスラと正面きって対峙《たいじ》しているけれど、なんか、視線がこっちに。円くて、白目なんかなくて、突き出た半球の視線なんかあるかないかも判らないのに、き、気のせいか、焦点《しょうてん》がジゼルにあるような、ないような。えーんっ、怖《こわ》いよう。
ジゼルの考えを裏切るように、その焦点のまま、奴《やつ》は歯を向いてアスラに喰《く》いかかった。
「アスラ、危ない!」
対真空コーティングはどこまでも長く細く伸びるツワモノである。だからこの声は、アスラに届いているはずだ。そして、向こうの声も当然。
掛け声一つ。光の剣が振《ふ》り下ろされ、牙《きば》と激突《げきとつ》する! 細い剣に集中した斥力《せとりょく》が、いやというほど龍《りゅう》の首をひっぱたいた。ギイッ! と真空を渡る悲鳴が上がり、奴の方が今度は吹《ふ》っ飛んだ。
やったね、アスラ。
剣を振りかざしてアスラがこっちを向く。褒《ほ》めるべきかな、無茶して、と怒るべきかな。なあんてことをジゼルが考え巡《めぐ》らした、その時。
「ジゼル、後ろだ!」
「え?」
アスラの唐突《とうとつ》の声に、きょとんとなる。振り返る暇《ひま》もなかった。
右足になにかが絡《から》まり、もの凄《すご》い力で牽引《けんいん》された。抗《あらが》うこともできず、べたんとそのままあんかけに衝突《しょうとつ》する。慌《あわ》てて足に絡みつくものを見ると、それは蔓《つる》状に伸びたあんかけだった。
(なんで、こいつが!?)
ピン、と閃《ひらめ》く。これだ。こいつらが亡霊《ぼうれい》の正体。間違《まちが》いない。
こんな、あんかけともゼリーともつかない奴が、心を読みとるなんて高度な技を!?
「アスラ、こいつら――うわあ!?」
辺《あた》りのあんかけが一斉《いっせい》に色めきたったように、ざわざわと蠕動《ぜんどう》して、ジゼルに忍び寄ってくる! なにこれ、なにこれーっ!
足がずぶずぶめり込んでいく。触手が伸びて身体に巻きつく。這《は》い上がる。逃けようと焦《あせ》って飛び上がれば、すぐさま捕獲《ほかく》され引き戻《もど》される。逃げられない。埋《う》まる。底なし沼《ぬま》にはまったよう。助けて。助けて!
「アスラ、助けて! 呑《の》み込まれちゃう!」
やけに温かいあんかけ。粘《ねば》りもないし、べとべとしないけれど、こいつらの意図ははっきりしている。ジゼル、食べられてしまう!
「ジゼル、そいつらは――」
アスラの声が途絶《とだ》えた。コーティングが切れた? まさか、と愕然《がくぜん》とするジゼルの目に、ぽろりと耳から落ちる、薄い、小さな膜《まく》。ナノコンピュータを組み込んだ、鼓膜《こまく》をぴったり覆う翻訳機《ほんやくき》だった。すぐにもう一方の耳からも引き出される。耳に侵入《しんにゅう》された!
「アスラ、アスラ、人語翻訳機が外された、解析《かいせき》できない! 耳から中に入るーっ」
うわーっ、うわーっ、もう、パニック状態。なんで、なんで、こいつらなにしようっていうんだっ。だからこんなことやりたくなかったんだ、あーん、なつめ、ごめんなさいっ、もうしません、もうお出かけしませんっ、だから、こんなのなしにしてーっ! えーんっ。こんな、あんかけに食われるなんて、あまりにもひどいっ。こんなあんかけなんかに……
はっと我に返る。視界に入った情報がジゼルを現実に引き戻した。信じられないものを見た気がした。
[#挿絵(img/compass_074.jpg)入る]
じっとあんかけの奥を覗《のぞ》き込《こ》む。屈折の向こうに、半《なか》ば溶けかかった金属の塊《かたまり》が見えた。ジゼルにかまっている傍《かたわ》らで、宇宙船やら宇宙機に接した部分では、今もなお、せっせと溶かし続けて同化する作業が繰り広げられていたのだ。
こいつら、金属|喰《ぐ》い?
ジゼルの考えは当たっていたようだった。にょろにょろと伸びた手が引っ込んで、まるでうろたえるかのようにジゼルの近くで揺《ゆ》れている。生体は溶かさない性質なんだ。そう判断すると、一気に力が抜《ぬ》けた。まさか、生の脳《のう》に侵入してコンピューターを溶かすわけにもいくまい。レコーダーレンズがバイオテクノロジーの産物で良かった。だいたい、よく考えてみれば、コーティングが破れるはずないんだ。絹のような翻訳機だって溶ける様子はない。でも、あんかけの中に沈み込んでしまって、もう使えないだろうけど。
でも、こんな生物、ジゼルのデータバンクには入ってないぞ。アスラも知らないみたいだし。
余裕《よゆう》ができて振《ふ》り仰《あお》ぐと、向こうの方で性懲《しょうこ》りもなくアスラたちはぶつかっていた。なんてこと、ダメージがまったくないじゃないか。
龍《りゅう》の双眸《そうぼう》と目が合う。
えっ!? これは確かだ、あいつ、ジゼルを見た! アスラと激突《げきとつ》しているのに!?
仰天《ぎょうてん》するジゼルに、またもやあんかけが手を伸ばしてきた。一瞬にしてジゼルを絡《から》めとるが、ほどなくするりと解け、逡巡《しゅんじゅん》している。おかしいなあ。そう言っている感じ。
あ。そうか、こいつらに指示しているのはあのドラゴンなのか。
でも、なぜ? どうしてジゼルを? 自分はアスラで手一杯だから? いや、違う。あの動き。あの視線。まるで目標をトレースする機械のような。
(人工知能をトレースしている?)
反重力システムの対象を『中心』にして、ジゼルはあんかけの上を駆《か》け出した。さざなみがジゼルの通るたびに立つが、やはり躊躇《ちゅうちょ》して手を伸ばしてこない。アスラを横目で見る。隙《すき》を作ろうと、一合、二合、斥力《せきりょく》をぶつける。そのたびに、強力な電磁波《でんじは》の変化で、斥力に包《つつ》まれた剣の光が大きくぶれ、時に目映《まばゆ》い閃光《せんこう》を全天に放射した。けれど、敵はひるむどころか、まったく疲れを知らぬ様子で、アスラに喰いかかる。対応が少しでも遅れたら、斥力を剣に集中させているため、自分は剥《む》き身のアスラはただでは済まない。アスラのあんぽんたん、もっと自分の立場を弁《わきま》えろっ。
「アスラ、確認はジゼルに任せて!」
なにかアスラが言っているようだけれど、全然解析できないもーん。ふんっ、自分だけ格好《かっこう》つけるなんて許さないから。ジゼル、謎《なぞ》が少しずつ、解けてきた気がする。
わたわたとあんかけの上を走りぬけ、ぐるりと回って反対側へ出る。途中、幾度か触手に絡まれたけれど、生体機械には手を出してこれなかった。間違いない、龍はジゼルの脳に仕組まれた人工知能を狙《ねら》わせているのだ。なぜ、人工知能を? 問題はそこにある。
カッと目も眩《くら》む光が空間に充満《じゅうまん》した。なにかアスラが爆発させたらしい。ビリビリと空間が震撼《しんかん》した。視野が一遍《いっぺん》に真っ白に染《そ》まり、物体が識別できなくなる。
ようやく目が落ち着き、ぴたりと足を止めたジゼルの双眸に映ったものは。
「アスラ!」
反射的な上擦《うわず》った、悲鳴に近い声を上げる。
「アスラ、こいつ、機械だ!」
裏に回ったジゼルが見たものは、もう一つの龍の頭だった。二匹目? と目を疑えば、もう一方の頭と同じ付け根を持っている。双頭の龍だったのだ。
二つ目の首は、じっとうなだれて微動《びどう》だにしなかった。片方の闘《たたか》いなど気にかける様子もなく、ただ、同じ紅《くれない》の大きな双眸《そうぼう》を綺羅《きら》めかせて。
犬歯がくわえているものは、比較するにはあまりにも矮小《わいしょう》な人間の頭部だった。噛《か》み砕《くだ》かない程度に、しっかりと固定するようにくわえ、そして、その咽喉《のど》から無数の細い触手のようなものを伸ばして、頭部に吸いつかせている。人間は気を失っているのか、死んでいるのか判らない。頭は剥《む》き身になっているけれど、破裂《はれつ》していないところを見ると龍の周囲には空気があるらしい。あ、白目をむいている。顎《あご》はだらしなく下がり、痴呆《ちほう》のようだ。正体が抜《ぬ》かれた、そんな感じかもしれない。これが、ローズの言っていた、行方不明者? その龍はジゼルには皆目|頓着《とんちゃく》しなかった。そろりそろりと近寄る。食べている? 違うな、長いことこの状態が続いているらしい。あの管から精神を抜き取っている。そうかもしれない。
歯の数が何本か数えられるまで、ジゼルは近寄った。好奇心は猫《ねこ》を殺す、ジゼルは好奇心が旺盛《おうせい》すぎるんだ、変なことにならないうちに、早く戻《もど》ろう。
戻ろう戻ろうと念じながら、あともう一歩と足が勝手に動いた。そして、そのまま凝固《ぎょうこ》する。
ジゼルは愕然《がくぜん》とした。
髪《かみ》を分けて吸いつく触手――違う、あれは――あれは、チューブだ!?
自分の記憶のうちにある光景が、鮮やかに脳裏によみがえった。
無数の細いチューブ。生体の生命活動を維持《いじ》させる。命の綱。自我の存在に関係なく、生命を操る糸。
あれをつけていた自分。
あれをつけていた、みんな。
あれは、あれは、機械のあかし。
気がついた時は、ジゼルは声を上げていた。
「アスラ、こいつ、機械だ!」
アスラが向こうでなにか返事をした。多分、なんだって? それならそうと早く言え、とかなんとか喚《わめ》いているに違いない。大体のことは判る。
見上げると、アスラが懐《ふところ》からなにやらカードを取り出した。掛け声と共にドラゴンに突《つ》っ込んでいき、攻撃《こうげき》を素早くかわして眉間《みけん》のど真ん中にカードを貼《は》りつける! うまい!
ぱっと飛び離れたアスラ、なにを考えたかジゼル目がけて一直線に飛んでくるじゃあないか。なんだなんだっ、こっち来るなって。あ、またあいつがジゼルを睨《にら》んだ。ひーっ。
ジゼルの傍《かたわ》らに着地しざま、いきなり耳の中になにかを押し込める。痛い、痛いっ。
「なにするんだよ、アスラはあ!」
「攪乱波《かくらんは》攻撃する、落ち着いてろ、お前にも来るぞ」
アスラの声が、不鮮明だけれど耳から頭に通り抜けるようになった。あ、簡易|翻訳機《ほんやくき》を押し込んでくれたのか、と納得《なっとく》。
納得したその瞬間、頭の中に火花が飛び散った。
「ぎゃっ!」
目から星が飛び出る。スパークが走る。
脳裏を掠《かす》める集積回路の設計図。
それが視《み》えた。
回路がズームアップ。マイクロの単位、ナノの広がり、ピコの幻想《げんそう》。
流れるイオン。電子の囁《ささや》き。光の空間、回転するクォーク。十次元の呼び声。
おいで。
オ・イ・デ。
ぶつんッ
まるで、テレビを消したようだった。
「ジゼル、しっかりしろ」
その声をきっかけに、頭が急回転し始める。現実が脳の中で構築される。
(……今のは?)
まるで、言葉遊びのようだった。ふしぎな感触。どこまでも広がる空間にいたような。
「大丈夫か、斥力《せきりょく》でかなり追い払ったつもりだが」
アスラがジゼルを抱《かか》えて覗《のぞ》き込《こ》んでいた。ぱちぱちと瞬《またた》いて、ジゼル、
「今のは?」
「対コンピューター攻撃《こうげき》システムの一環《いっかん》だ、破壊はしないが攪乱《かくらん》して一時|沈黙《ちんもく》させる。シールドがあればよかったんだが、大丈夫か、ジゼル」
アスラは心配そうにジゼルを見ていた。そうか、その攪乱波にジゼルも攻撃されたというわけだ。いつもながら乱暴なやり方をする、アスラは。見れば、ドラゴンはぐったりと首を下ろし、まるで死んでしまったかのていでいた。もう一匹は前からそうだけれど。
「機械だな、本当に。始めから判ってれば苦労せずにすんだものを。ジゼルはどこで判ったって?」
「うん、ほらこっちの頭の口の中。チューブが見えるでしょう」
「双頭《そうとう》の龍《りゅう》だったのか。どれ」
ジゼルが指し示した龍の頭へと近寄って、アスラ、口の中を隙間《すきま》から覗き込む。ぴくりともしないから、もう怖《こわ》くも痒《かゆ》くもなかった。
「あー、なるほど。これは生身の生物は持ってない代物だ」
「それ、なに?」
ぐいとチューブをたぐり寄せるアスラに、少々|躊躇《ちゅうちょ》しながらジゼルは尋ねる。なんとなく、正体は判っているのだけれど、口にするのが憚《はばから》れた。
「おそらく、記憶|抽出《ちゅうしゅつ》のスキャナーだろうな。これで人間を捕まえては『勉強』していたと見た。もう、こいつは腑抜《ふぬ》けだろう」
あっさり淡々《たんたん》とアスラは答えながら、犠牲者《ぎせいしゃ》の頭を叩《たた》く。よく見ると、若い女性じゃあないか。チューブをむりやり剥《は》がしたら死ぬかな。
アスラ、龍の頭に上り、輝きの薄れた眼球を覗き込む。
「ふうん? 攻撃専門屋じゃあないな。どこかがいかれているか、それとも自己判断……」
少し、考え込むように双眸《そうぼう》を凝視《ぎょうし》して、それから、思い立ったように、
「よし、更正《こうせい》させるか。物騒《ぶっそう》でたまらんし」
「アスラにできる?」
「なつめのようにはできない[#「なつめのようにはできない」に傍点]がな、俺にはエルシの科学がついている」
なにを自慢《じまん》げに言っているのやら。ジゼルが呆《あき》れながら見ていると、アスラ、先程のカードへと手を伸ばして、なにやら指先を動かした。
「なにしてるの?」
「俺の声紋《せいもん》に服従するようにしているのさ。さっきの攪乱波《かくらんは》、お前さんもいるから、強度を最小レベルにしたんだ。それでこのざまとなれば、乗っ取りなんてちょろい、ちょろい」
「そうなの? 防御システムがないのかな」
「というより、設計|基礎《きそ》が根本的に違うんだろう、俺たちと。もともとエルシは他の星と比べて異質な科学だからな。それに加えて、こいつはかなりの年代ものみたいだから」
解ったような解らないような。専門的なことは判らないジゼルは、質問を変えてみた。
「アスラはどう思う? このドラゴンの存在。このあんかけも、こいつに支配されているみたいだよ」
「なにっ、そんなこともしていたのか。面白い、面白すぎるぞ。うーむ、これは起こして当人に聞くしかないな」
興味|津々《しんしん》の表情で、アスラは靴底《くつぞこ》からナイフのようなものを取り出した。攪乱波を取り除く、いわばアースのようなものだと説明する。しかし、いつ見ても感心するけれど、アスラってどこになにを、どれくらい隠《かく》し持っているんだ!? この人たち[#「この人たち」に傍点]って、みんなこんなものなのかしら。いや、奇術師|紛《まが》いのことをしているのはこの男ぐらいだろう。便利な奴《やつ》。
取り出したナイフの刃先を眼球のヘリに突き立てる。数秒後、白い煙がナイフから湧《わ》きたち、刃を取り囲んで、あっけなくすっと掻《か》き消えてしまった。
紅《くれない》の眼球に一条の光の軌跡《きせき》が走る。しばらくして、目に輝きが戻《もど》り、ドラゴンはゆっくりと首をもたげた。ぎょっとして、ジゼル、アスラの後ろに回って様子を窺《うかが》う。
アスラ、首に下げていたペンダントタイプの送信機を口に持っていき、ゆっくりと、
「私の声が聞こえるか? 認識できるな」
「ギギ……?」
躊躇《ちゅうちょ》するように首をめぐらすドラゴン。そして、アスラが目に入り、そこから指示が出されていることを認めると、そのまま身動きしなくなった。すぐに、もう一つの龍《りゅう》も頭を起こし、人間を放り出して、行儀《ぎょうぎ》よくアスラの前にかしこまる。手なずけは成功したみたいだった。うーん、エルシの技術って凄《すご》い。でも、女の人、どっか漂っていっちゃったぞ。いいのかなあ、アスラはそれには無関心だし。死ぬぞー、死んでるのかな? やだあ、見ないふりしよう。
「正気に戻ったな。私の名はアスラ、今からお前たちの新しいマスターだ。認めるなら、首を縦に振《ふ》れ」
端的にアスラは指示する。しかしながら、二つの頭はぴくりとも動かなかった。あれ? 変だな、アスラの言葉が矛盾《むじゅん》している。マスターだって言い切ったのに、認める認めないもないでしょう。そういう中途半端な態度は機械に良くないって、アスラ自身、言っていたのに。龍だって、まるでためらっている様子じゃない。それも、アスラの言い方に戸惑《とまど》っているわけでなく、認める認めないを決定しかねているようで。なにを逡巡《しゅんじゅん》している? マスターの言葉には従うはずなのに。
……あれ?
「オ前ガますたーニナルト、ナニガ起コル?」
一頭が、聞き取りにくい言葉でそう話しかけてきた。聞き取りにくいというよりも、翻訳《ほんやく》しにくい言葉が混じっているんだ。
「お前たちの望むことを可能な限り適《かな》えてやろう。俺にはそれだけの力がある」
二頭が同じ頭を突《つ》き合わせる。相談しているのだろうか。
なんか、すごい違和感。へん。このやりとりはどこかおかしい。なんで、こんな、機械がマスターと取り引きするなんて……
「分かった!」
思わず叫《さけ》んでしまった。アスラがきょとんとしてこっちを見ている。でも、分かったぞ。この違和感の正体が。意気込んで、
「この機械は、コンピューター大暴走時代以前のものなんだね?」
「今頃《いまごろ》なに言ってるんだ、ジゼルは。この非効率な巨体を見ろ、中にぎっしりモノが詰まっている。今ならマイクロ単位でこんなもの動かせるぞ。だいたい、自分の意思で人を襲《おそ》う機械がどこにある、そんなもの、【ロボット】しかないだろう」
憮然《ぶぜん》と、囁《ささや》くようにアスラが言う。確かに、現在製造された機械は人を襲う意思は持たないように設計されている。狂《くる》っていない限り、命令されない限り、実行はしない。
ロボット。
コンピューター大暴走時代以前の遺物。
今までに二、三回、目にしたことはあったけれど、こうして目の前で作動して、口をきいて意思を持っているものは初めて見た。
ロボット。あまりに人間的な機械。人間的であるがゆえ、徹底的《てっていてき》に破壊し尽《つ》くされた。このドラゴンはコンピューター大暴走時代より前の代物らしいけれど、設計|基礎《きそ》は同じなはず。人間の敵と化したものたちの、前身。
「ワカッタ。認メヨウ。ますたー・あすら」
二つの声がシンクロして耳に入ってくる。アスラは頷《うなず》いた。
「よし、始めに二、三、質問がある。お前たちは【ロボット】だな?」
「ソウダガ?」
訝《いぶか》るように返事をする龍。彼らにはアスラの言葉に込められた意味が理解できない。現代の人工知能ならば、ロボットと呼ばれることを否定する。それは、大暴走時代以前の設計思想を持った人工知能に対する名称で、蔑称《べっしょう》だからだ。
「じゃあ、なぜそんな姿をしている? それはドラゴンという空想動物の姿だ」
しばらく沈黙《ちんもく》。それから、突然《とつぜん》、わはははという人間|臭《くさ》い笑いが飛び込んできた。
「失礼した。いや、なにを聞くかと思えば。時代は想像以上に進んでいたらしいな。サー・アスラ、あなたを警戒《けいかい》していた。あなたは今までの人間とは異質だ。質問に答えよう、我々の姿はカルゲイ星系連合の紋章《もんしょう》を象《かたど》ったのだ。カルゲイ連合は知っているか?」
声の調子が、今までの機械音ではなくて、ひどく人間的に変わる。やだあ、なんか怖《こわ》いよう。笑う。質問を笑う。マスターと認めたくせに? 人間を試した。自分の意思で。やだ、変。違和感。怖い。
ジゼル、そっちこそ異質な人工知能に不安を感じて、無意識の内にアスラの足にしがみついた。それを見つけて、アスラが抱《だ》き上げてくれる。彼はドラゴンに応《こた》えて、
「ひどく昔の話だ。分裂《ぶんれつ》時代のミドルクラス勢力だった。今、銀河は連邦《れんぽう》の下に一つになっている。そのような勢力関係は星系範囲を越えない」
「それは知っている。ここに来た人間から知識を得た。群雄割拠《ぐんゆうかっきょ》の時代は終った。しばらく、自動防衛モードにして眠っていたが、時代は流れた、そして我々は過去の遺物と化した。連合は消滅《しょうめつ》して久しい。我々は永い間、孤独《こどく》だったのだ。マスター・アスラ、我々の素性《すじょう》を聞きたくはないか?」
「気前がいいんだな、昔の人工知能は。聞かしてもらおうじゃないか」
アスラの言うとおり、彼らは気前よく語り出した。マスターと認めたからかな? でも、なんかヤな予感がする、押しつけるように喋《しゃべ》るのは。
「カルゲイ連合は戦っていた。相手は、複数……あの頃《ころ》は珍しいことではなく、どれを相手になにを目的とするのか混沌《こんとん》としていた。あるのは味方、それも攻撃《こうげき》前線にいる同士だけ、他は敵だった。母星は始めから敵に等しく、味方を振《ふ》り回した。攻撃できないだけ、質《たち》の悪い敵だった。連合|暦《れき》を言っても分かるまい。そして、我々は生まれた。目的は連合の象徴《しょうちょう》、士気|鼓舞《こぶ》、お情け程度に情報収集の役目を担《にな》い、そして、最終兵器クリQQUTRRRBの制御を司《つかさど》った」
翻訳《ほんやく》機が変換し切れない単語が飛び込んでくる。クリク……? 名詞かな。なんにせよ、このあんかけのことだろう。そう訳《やく》すことにしよう。
「『あんかけ』はカルゲイが最後に創造《そうぞう》した生物兵器だ。愚鈍《ぐどん》で不形態の下等生物だが、金属物――単純な分子構造の結合を破壊する酵素《こうそ》を含み、真空で生存し、更に耐火性《たいかせい》に優れている兵器だ。地道だが確実に敵を破壊していった」
「耐火性に優れていると言ったが、どれくらい?」
「連合の人間には『あんかけ』を焼却《しょうきゃく》できなかった。軍の主砲《しゅほう》でも効《き》かない。繁殖力《はんしょくりょく》はない分、自己防衛力が高かった。だからこそ、戦争が終わると、人間たちは我々をここに閉じ込めたのだ。『あんかけ』を抹殺《まっさつ》する手段は当時にはなかった」
なんか、どこかで聞いた話である。まるでうちの宇宙機のようじゃないか。
でも、ここに閉じ込めただって? どういうこと? |α《アルファ》軸《じく》をやっぱり強制されたのかしら。でも、α軸走行が完成されたばかりの時代に、そんな高度なことができたなんてことは考えにくい。
「カルゲイ連合の人間は、このサルガッソーを知っていたのか?」
アスラがジゼルの疑問を尋ねると、龍《りゅう》は四つの双眸《そうぼう》をまっすぐ向けて、不思議そうに、
「彼らがこの閉鎖《へいさ》空間を作ったのだ。兵器として開発の途上にあったものだ。我々を実験台にした。マスター・アスラ、あなたにはこの技術がないのか?」
「お前たちの科学は崩壊《ほうかい》した、その技術は今に残っていない。私たちは新たな科学を持っている。そうか、これは人間の作り出したものか……」
アスラは得心したように頷《うなず》いたけれど、ジゼルは愕然《がくぜん》としてしまった。このサルガッソーが人間の手で造られただって? |φ《ファイ》ベクトル空間、とまではいかないけれど、α軸を遮断《しゃだん》するような妨害壁《ぼうがいへき》を、三千年も昔の人間が造れたなんて信じられない。
昔の科学が現在を凌駕《りょうが》していたことを、エルシに生きているとつい、忘れてしまう。時代が逆行していることを忘却《ぼうきゃく》してしまう。後退する人類文明。進歩するエルシ。それでも過去の頂点にはまだまだ達していない。同じ道は辿《たど》っていないから。
やはり、今は人類文明史における黄昏《たそがれ》なのだろうか。
「戦争は突然《とつぜん》に終わった。いつ終末を迎《むか》えてもいい、意味のない戦争だったが、決着をつけるきっかけは皆無《かいむ》状態だった。永遠に続くかと思われた。銀河|開拓《かいたく》が安定し始めた直後からの戦いだ。数え切れないほどの勢力の勃興《ぼっこう》、壊滅《かいめつ》。進歩、停滞《ていたい》、戦乱、つかの間の安息。繰り返し、繰り返し、どこまでも紡《つむ》がれた歴史。それが、唐突《とうとつ》に、なんの前触れもなく訪れた。少なくとも我々にとってはそうだった。最前線にいた我々は母星に味方の人間もろとも見捨てられた。人間にみす・す・み・MMM……」
ドラゴンがいったん押し黙る。キィワードで狂《くる》いの方向に流れそうになったのを、アスラが貼付《てんぷ》したカードが妨害して正軌道《せいきどう》に戻《もど》したのだろう。【人間に見捨てられた】、それが彼らの禁句だ。
「その理由は判っている」
アスラが彼らの機能を回復させるかのように言った。
「分裂《ぶんれつ》時代は歴史的にも突然、終結した。なぜなら、その次に迎えた時代のために、人間同士が分裂している暇《ひま》はなくなったから」
意味深なアスラの言葉に、ジゼルはキョトンとした。だって、コンピューター大暴走時代はもっと後の、分裂時代が終結してから一千五百年も後の話じゃない。それとも、その間にあった時代のこと?
「後世の人間が銘打《めいう》った、【生命科学暗黒時代】だ」
あ。
「長い分裂時代に生まれた、生命科学の落とし子たちの増殖《ぞうしょく》、侵略《しんりゃく》、反乱。飼《か》い犬に手を噛《か》まれた人間は、戦争をやめ、いくつもの星系を放棄《ほうき》し、昨日までの敵とともに彼らに対抗した。お前たちのあんかけも、その徴候《ちょうこう》を危惧《きぐ》した人間が、事前に封じ込めたに違いない」
生命科学暗黒時代、銀河統一ライフ・サイエンス規制法のきっかけ。
コンピューター大暴走時代の陰《かげ》に隠《かく》れて、あまり目立たない歴史だけれど、それは確かにあった。
|α《アルファ》軸《じく》走行が完成して、無制限に一瞬|距離《きょり》移動が可能になった頃《ころ》、距離というものの感覚が変化した。なわばりの意味も消失して、宇宙的規模の戦国時代はあっけなく終末を迎えた。
そして、新たなる戦いの時代。
どちらが早いかなんて問題ではない。暗黒時代のために戦国時代が終わったのか、はたまた、戦国時代が終わったので暗黒時代が来たのか。因果律は必然と偶然《ぐうぜん》で引っ繰り返ることができる。でも、どうして、次から次へと人間ってのは戦っているんだ? それが終わればコンピューター大暴走時代の五百年が訪れる。現在の統一されて平和な一千年はなんだというの? まるで、戦争をしなければ衰退《すいたい》するんだぞとでも言いたいかのように。
ジゼルには、人間の文明史がこれから先、どうなるかなんて興味がない。でも。
「お前たちはこの閉鎖《へいさ》空間を造りだした機械を知っているのか?」
「いや、知らない。どこにあるかも判らない。おそらく、連合|消滅《しょうめつ》とともに破壊《はかい》されてしまっただろう。マスター・アスラ、あなたもここからは出られない。一度とて、さまよい込んだ人間が出られたことはなかった」
「その心配は無用だ。あんかけは宇宙船や宇宙機を消化し続け、お前たちは人間を襲《おそ》って知識を吸収してきたみたいだが、その人間はどうした?」
「……だめだ、その記憶の引き出しには妨害《ぼうがい》が入る。おそらく、あんかけに埋没《まいぼつ》しているに違いない。分解はしないが、窒息《ちっそく》して死に至る」
狂《くる》いのキィワードにつながるから妨害が入ったんだろう。それにしても、あんかけで窒息なんて、ジゼル、体重が軽くて良かったあ。あれ、無重力だから、体重の問題じゃないのかな。なんにせよ、これで役目は果たしたというわけだ。
「私にはこの空間から脱出できる手段がある。お前たちは知らないかもしれないが、私の星はエルシという、異質の科学が発展した星だ。α軸は使用しない」
「エルシ……聞いたことがない」
ドラゴンは顔を見合わせて言った。それはそうだろう、エルシの宇宙進出はおよそ八百年前、名称も正した。彼らの本来の時代には霞《かすみ》の彼方《かなた》の惑星《わくせい》だったはず。
アスラは腕を組んだ。そして、
「気は済《す》んだか、さあ、要求を聞こう。外に連れ出してほしいなら、その巨体《きょたい》は捨ててもらわねばならないが」
しかしながら、ドラゴンは首をおもむろに振った。全身から漂うのは倦怠感《けんたいかん》。疲《つか》れきった人間のまとう雰囲気《ふんいき》がある。
なんか、すっごくヤな予感。
「話すことはすべて終わった。もう、いい。誰《だれ》かに話したかった。話せる人を待っていた。マスター・アスラ、あなただ。我々は永く生きすぎたよ。もう、いい、疲れた。願いは一つ、我々をデリートしてくれ」
[#挿絵(img/compass_094.jpg)入る]
ジゼルは息が詰まる思いだった。
人間的なドラゴンは、最期《さいご》まで人間的だった。
人間に裏切られたと感じ、生きるのに疲れたと感じて、死ぬことを願った。どこまでもどこまでも人間に近づけたプログラム。ロボットの感情。
望まれるまま、アスラはドラゴンの中枢《ちゅうすう》コンピューターに手を入れて、全機能を停止させた。約束《やくそく》ではデータメモリーも消去するはずだったのだけれど、なぜか手をつけずにそこを離れた。あれじゃあ、『死ぬ』ことにならない。
宇宙機に帰る道すがら、そのことをアスラに尋ねた。すると、おおげさに首を振って、
「冗談《じょうだん》じゃあない。あれに手を入れたら、このサルガッソーが潰《つぶ》れるぞ。見つからないはずだ、サルガッソーを発生させたのはあのドラゴン自身だ。中に装置《そうち》が詰まっていた」
「本当に? じゃあサルガッソー自体を解除《かいじょ》できないの?」
「ここを解放するのか? 多分できるが、やったところでどうする。旧世界の厄介《やっかい》ものを引きずり出して、ゴミをまき散らすだけだ。また連邦《れんぽう》に睨《にら》まれる要因を作るだけじゃないか。説明もせにゃあならんし。管理を任された日には最低だ。他にもいろいろ面倒なんだよ。ここはこのまま、奴らの望みどおりにするのがいいのさ、少なくとも俺たちには」
アスラは割り切っていた。そう。彼の肩《かた》にはE・R・Fコーポレーションが、惑星《わくせい》エルシがのしかかっているのだ。ほんのちょっとの正義心なんかで厄介は持ち込めない。
「とりあえず、こっちが脱出したら自爆するようにセットしておいた。それでこのサルガッソーは消滅《しょうめつ》する。時空の歪《ゆが》みに呑《の》み込《こ》まれてな。まったく、偶然《ぐうぜん》とはいえ、とんでもない装置を造ったもんだ」
アスラが憮然《ぶぜん》として語る。
「どういうこと?」
「そういうことさ。そういう原理の発生装置だったんだ。偶然となぜ判るかって? そりゃあ、そんなことができると知っていれば、あんかけをわざわざ閉じ込めたままにしないで、呑み込ませてしまえばいいだろう? 最後まで責任取って」
肩をすくめるアスラ。そんなことを、わずかの間調べただけで判ってしまうなんて、アスラってもしかしたら天才なの? そっちの方がびっくりだ。
「もっと詳《くわ》しく調べたかったが、お遊びもここまでだな、みんなが待ってる。約束は守らなくちゃあならんし」
ジゼルは頷《うなず》いた。強く、頷いた。
そして、回廊《かいろう》の向こうに、心細げにこちらを窺《うかが》っている少女の、華奢《きゃしゃ》な身体が見えた。
フラブラーン星系の御一行様を積み込み、ジゼルたちは離脱《りだつ》した。
「|φ《ファイ》ベクトル創造、実行」
移動はあっさりと成功した。α軸対策はなされていても、第六の飛行手段は考えも及ばなかったのだろう。ほど近い空間に出現して、サルガッソーが存在したと思しき方向を見やる。肉眼では全《まった》く変化は認められなかったが、マルイさんがわずかな三次元の歪みをチェックした。それっきりだった。多分、破壊も成功し、アスラの言うとおり、四次元の断層《だんそう》に呑み込まれたに違いない。そうでなければ困る。そうでなければ、あのロボットが可哀想《かわいそう》だった。
フラブラーンの皆さんは茫然《ぼうぜん》としていた。歓喜《かんき》にうち震えるとか涙をこぼして喜ぶとか、なんでもいいから感動するかと思えば、どうしたものか、押し込められた廊下《ろうか》やクルーの部屋で、誰一人、押し黙ったままだった。茫然自失、そんな表現がぴったりな、虚脱《きょだつ》したていでいる。あまりにも簡単に脱出できて拍子《ひょうし》抜《ぬ》けしているのかな。それとも、これから戻る現実に対して、一年近くのブランクがあることに戸惑《とまど》っているとか。でも、悪いけれど全然ジゼルは同情できなかった。だって、あれだけいろんなことされて、それでもなお、親切でなんかいられないよ。アスラだって同感に違いない。
「アスラ、どうお礼参りするの?」
意地悪く聞いてみる。すると、
「企業《きぎょう》の威信《いしん》をかけて、丁重《ていちょう》に対処してやろうじゃないか。なにからなにまで世話をしてやる。金と権力を湯水のごとく使ってな。企業主義の恩恵《おんけい》を受ける、それがあの反企業主義者には一番の薬じゃあないか」
にやにやと笑って言うアスラ。本当にいじめっこなんだから。でも、ジゼルも面白そうだと思う。どういう反応をあの男が示すのか楽しみだ。
「アスラさんっ、そういう無茶なことはやめてくださいっ。あなたは自分の立場というものを全然、把握《はあく》していません!」
悶々《もんもん》と帰りを待っていたクルーの皆さんは、アスラを見るなり文句と叱咤《しった》と説教をまくしたてた。しかも、包み隠《かく》さずわけを話すと、さらに非難の度を高めてきゃいきゃい騒ぐ。アスラの遊びには慣れている彼らだけれど、本当に、なにかあったら今回は冗談《じょうだん》ではすまされなかったのだ。彼がいないとφベクトル創造ができないのだから。
「もう、破壊《はかい》するだなんて。仮にも遺跡ですよ、また連邦《れんぽう》から叩《たた》かれますけど。どうします?」
「俺がじかに報告するよ。さ、さ、早く用を済《す》まして帰ろうじゃあないか」
「若旦那《わかだんな》、本当に自覚してるんですか? あなたには社員一同の生活がかかっているんですから。なにかあったらどう責任とるんです。これに懲《こ》りて、もっと大人しく……」
「わははは! さあ、移動するぞ。それから減速空域でお茶にしようじゃあないか、諸君」
笑ってごまかすアスラだった。みんな、しょうがないなあ、といった面持ちで、苦笑していた。二十二歳の若者にはそんな忠告、するだけ無駄《むだ》だと知っているのだろう。
そして。
「ジゼル、覚えておけよ」
コクピットから自室に引きこもって、お茶の続きをしていたアスラが、不意にジゼルにそんなことを言った。
「今は人工知能の規制に銀河を挙げてやっきになっているが、コンピューター大暴走時代の前に生命科学が引き起こした戦争があったことを。今のライフ・サイエンス法はそこからの教訓だ。お前は二重にがんじがらめになっている。でも、人工知能にしろ、生体機械にしろ、あのドラゴンの時代とは呼名も違うし設計思想も違う。お前が引け目を感じることはなにもない、いいな」
アスラがちょっと怒るような口調で言ったのは、ジゼルの気のせいだろうか。
ライフ・サイエンス法。人工知能規制法。
どちらに縛られるのかも決まらないこの身。異質の存在。
「なんの引け目だい」
むっとしてジゼルは言い返した。引け目なんて感じたことはない。生体機械だということを隠したことはない。たとえ、そこから密告されても。そんなことは痛くも痒《かゆ》くもない。
でも。
でも……
「……アスラ、ジゼルはサイバマシンじゃあないよ」
ぽつんと呟《つぶや》く。そう。サイバマシンだったら人工知能の自我規制が施されている。
「ジゼルの感情は、【ロボット】に近いよ。人間的だよ」
「ジゼル」
アスラが覗《のぞ》き込む。あ、だめ。視界が潤《うる》む。涙が溢れる。
いつだって持っていた、不安。恐怖《きょうふ》。
「ジゼルは、ひっく、ジゼルは【ロボット】なの? 『人間的』だよ、あまりにも。ねえ、アスラ。ねえ」
困惑《こんわく》したような面持《おもも》ちで、アスラはなにか言いかけたが、途中でやめた。代りに、
「俺に聞くな。俺は公平な判断をする立場にあるんだ。中立していなくちゃあならないんだ。泣くなって。ジゼル」
「ジゼル、なんなの? 【機械】なの? 違《ちが》うと信じていた。全然、サイバマシンの思想設計と違う感情を持っていたから。でも、これは【ロボット】に近かった。【機械】でありえる存在なんだ。ねえ、そうなの?」
「それを見《み》きわめるためにレコーダーシステムがあるんだろう? 泣くなよ、ジゼル。またなつめに怒られちまう」
「なつめ、なつめ」
ロボットになんて会わなければよかった。自分が異質ということを、再認識させられた。ジゼルは、あまりにも人間的だ。今の世の中で、それはありえない、あってはならないこと。
異質は排除《はいじょ》される。
「なつめえ……」
なつめだけが味方。アスラはどちらか判らない。なつめに会いたい。なつめの膝《ひざ》の上で寝ていたい。それだけなのに。この感情が擬似《ぎじ》感情なのか、それとも本当のジゼル自身の感情なのか、それさえも判断できなくて。
決着をつけなければならない。その結果、どうなるのかが怖《こわ》い。でも、どちらともつかない現状も怖い。
アスラがハンカチでジゼルの目もとを拭《ぬぐ》ってくれた。じっと彼のダークブラウンの双眸《そうぼう》を凝視《ぎょうし》する。
「ねえ――もっと、他に行くところ、ある?」
「まだ逃げるのか? 逃げても同じことだ。いつかははっきりさせなければならない。それに、時間が延びるだけ、プレッシャーがかかるんだぞ」
「……アスラと一緒《いっしょ》だと、いつもそういう[#「そういう」に傍点]状況に陥《おちい》るんだから。故意にやってるきらいもあるよ」
「しかたないだろ、俺は中立するって言っただろう。プラスマイナス、ゼロにしなければならん。なつめに有利な時は理研にも有利にする」
断定的にアスラは言った。ジゼル、ちょっとすねて上目使いに見る。割り切っている男だ。合理的にものごとを考える。初めて会った時から印象は変わらない。
「ジゼル、これだけは言っておくが、俺は、最後にはなつめの方につくぞ」
「本当に?」
「愛するなつめ姫《ひめ》のためだからな、お前は守る。なつめに関することは傍観《ぼうかん》する気は皆目ないから。心配するなよ、な、ジゼル」
そう言って、アスラはぐいぐいとジゼルの頭を押さえつけた。ちょっぴり、気が安らぐ感じがして、目を細める。
「それって、ぎりぎりまで手助けはしないってこと?」
「まあ、そういうことだ。あははは」
アスラは笑って応《こた》えた。もう、頼りがいのない奴《やつ》。
でも、本当にもう少しだけ。あと少しだけ、待ってほしい。心の整理ができたら、きっと――そう考える頃《ころ》、窓の向こうにフラブラーン星系の恒星《こうせい》の姿が見えた。
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第三章 羅針盤《らしんばん》の夢
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ACT.1
あの日以来、なつめとアスラの仲はすこぶる良くなかった。
あの日、浜辺に駆《か》けだしていったジゼルは、身体《からだ》中に潮《しお》の香りが染《し》み着くまでそこにいた。それから、どうしようもなくなってとぼとぼ夏離宮《なつりきゅう》に戻《もど》ったのであるが、その時にはすでにアスラはいなかった。なんでも、本社から緊急《きんきゅう》の呼び出しがかかって、飛んで帰ったそうである。本当か嘘《うそ》か、確かに今まで夏離宮の側にある社員荘へ避暑《ひしょ》に来ていた人たちも、一人残らず帰ってしまったという事実はある。けれど、あれはどう考えたって、なつめとアスラの兄妹|喧嘩《げんか》の結果、としか思えないじゃないか。うん。
突然《とつぜん》に静まりかえった離宮は、日常に戻ったを通りこして、不気味なまでに静閑《せいかん》としていた。見慣れたはずの廊下《ろうか》がどこまでも続いている錯覚《さっかく》に襲《おそ》われたり、部屋の天井《てんじょう》がやけに高く見えたり、さまざまな孤独《こどく》感を演出してくれる。落ちつかないったらありゃしない。
だいたい、この離宮の主たるなつめが、まったく口を開かないっていうのだから。そりゃあ、元々、おしゃべりな方ではなかったし、どちらかというと寡黙《かもく》だったけれど、ここまで徹底《てってい》はしていなかったぞ。話しかければ返事はしてくれるけれど、必要以上には喋《しゃべ》らない。それに、いつだって絶やしたことのなかった微笑《ほほえ》みが、その顔から消えて、ぴりぴりとした雰囲気《ふんいき》さえ感じられるんだもの。
なつめ、怒っている。
今までに見たこともないくらい、怒っている。
……やっぱり、あの喧嘩が原因だろうな。あの時からだもの。
でも、喧嘩の理由は?
なつめとアスラはしょっちゅう喧嘩していた。アスラが夏離宮にくるたびに、兄妹喧嘩はしていたけれど、ジゼルから見ればそれはじゃれあっているだけだったし、当人たちもそれを自覚していた。本気で喧嘩なんかしたことなかった。喧嘩はいつだってアスラが折れて、二人はとっても仲がよかったんだ。ジゼルがムッとなるくらい。アスラが訪れてくるのが癪《しゃく》に触るくらい。
それが、どうだ。この現状。
なつめとアスラが喧嘩する。それは、確かになつめを独《ひと》り占《じ》めできるという点で、いいかもしれない。でも、ジゼルが無視されたらなんにもならないじゃないか! もーっ、アスラのばか!
この苛立《いらだ》つ状態を解除するには、まずアスラを呼び出して仲直りさせる以外はない。ジゼルはそういう結論に達した。それが今朝の話。ここまで来るのに一週間。その間のみじめなジゼルを想像して憐《あわ》れんでもらおう。不満をぶちまけよう。そう思った相手はおとーさんだった。|E《イー》・|R《アール》・|F《エフ》コーポレーションの会長であるおとーさんにコンタクトをとるのは、なかなかどうしてスムーズにいった。驚くなかれ、今、銀河のトップに立つE・R・Fグループの会長室に、ジゼルの声紋《せいもん》が登録されていたんだぞ。アスラの部屋から回り道してつなげる計画だったのに、一発でおとーさんが出てしまった。
それって、なんか嬉《うれ》しい。
えへ。
えへへ。
なーんて悦《えつ》に入っている場合じゃあない。通信口に出たおとーさん、開口一番、
「どうしたね、またなつめが消えたかい?」
だって。なるほど、あの時以来、ジゼルの声紋が登録されていたんだ。あの時はおとーさんが捕まらなくて、相手構わず通信しまくったっけ。結局、アスラが来てくれたけど。
そうして、ジゼルはおとーさん相手に一週間、この身に降りかかった悲劇をせつせつと語って聞かせた。そして、自分じゃあ効果がないから、おとーさんに仲裁役を買ってでてほしいと切願した。おとーさん、曰《いわ》く、
『うーむ、ジゼルには同情するがねえ、あいにく当人が外に出ているんだよ。しばらくしたら帰ってくるから、それまで待っててくれ』
「じゃあ、じゃあ、おとーさんでもいいよ、こっちに来てよーっ。一人でこの現場を乗り切るのは辛《つら》いと思わない?」
『辛そうだねえ。おじさんは同情しちゃうよ。でも、おじさんは手が離せないんだな。困ったねえ、もうちょっと一人で頑張《がんば》ってほしいと心から願うよ。健闘《けんとう》を祈る、ジゼルくん』
「おとーさんっ」
役にたたないおじさんである。いつもあんな調子だ。のらりくらりと、味方をしてくれるのか敵に回るのか、曖昧《あいまい》に答える。ぐちを聞いてくれる相手には最適だけれどさ。いつだって笑ってばかりで切羽《せっぱ》詰《つ》まったことなんてあるのかしら? ああいうところ、アスラにそっくりだ。二人は容姿なんか全然似ていないのに。あれはなんだろうね。トップに立つ人ほど穏和《おんわ》で曖昧な人間になっていくのだろうか。
でも、知っている。その飄々《ひょうひょう》とした表情の奥に、呆《あき》れるほどいい[#「いい」に傍点]性格が潜んでいる事実を。おとーさんは滅多に見せないけれど、アスラは随時《ずいじ》本性を表すので、証明|済《ず》みだ。そんなところまでよく似ている。変な親子。
それに反して、いかにもそれらしい、というのはおかーさんの方だ。E・R・Fグループの会長の片割れらしい、ハイキャリアウーマン。仕事は迅速《じんそく》で的確、有能で社交的、自分にも他人にも厳しく、かつ、人を使う人間に欠如《けつじょ》しがちな暖かな配慮《はいりょ》もしてくれる、誰《だれ》が見てもその地位にふさわしい女性。それが夏離宮に訪れる社員さん全員一致の、おかーさんのイメージである。でも、ジゼルにしてみれば、ちょっと取っつきにくい感じがあるんだ。仕事に関しては有能だけれども、家庭人としては少々失格かな。おかーさん、一人では夏離宮に来ないもの。娘を放っておいた引け目があるらしくって、おとーさん、もしくはアスラと一緒《いっしょ》でないと来ない。だから、おかーさんには頼めなかったのだけれど。
まあ、そうそう完璧《かんぺき》な人間なんていないし、しかたないかもしれない。完璧な人間、そんなのはおとーさんだけで充分でしょう。
おとーさんは解らない。ジゼルの思考能力範囲を超《こ》えている。なにを考えてどう行動するのかてんで掴《つか》めない。会社のことは当然だけれども、なつめへの言動ぐらい、理解したいものだ。その点に関してはアスラは違う。やることは突飛《とっぴ》だけれど、一緒にいればなんとなく納得《なっとく》できる性格の持ち主だ。なにを考えているのか解らないのは、なつめの方。今だって、そう。本当に、まったく。
おとーさんとなつめは似ているんだ。姿形も似ている。漆黒《しっこく》の髪《かみ》、深遠な双眸《そうぼう》。透明に近い肌《はだ》の感触。なつめに感じる【綺麗《きれい》】が、おとーさんにも感じられる。二人は親子なんだ。理屈|抜《ぬ》きで言える。
じゃあ、アスラとなつめは?
ずっと考えていた。アスラとなつめ。
二人は、本当に、兄妹なの?
髪の色やなんかの色で判断はできない。でも、顔かたちにまったく類似点《るいじてん》が見つけ出せない兄妹なんているのだろうか? ジゼルという猫《ねこ》の目から見ているから、としてもだ。とても兄妹なんて思えない。いや、思えなくなってしまった。
あんな場面を目撃《もくげき》してしまったから。
あんなキスシーンを見てしまったから。
兄と妹で、なんて、ジゼルは考えたくないよーっ。
なんか泣きたくなってしまう。
なんで、なにも言ってくれないの?
なんで、教えてくれないの? 二人の仲はなんなの、ただの兄妹じゃあないのだったらどういう関係なの。
どうしてジゼルに教えてくれないの。さみしいよー、えーん。
そんなこと、まさか今のなつめに聞けないし、ジゼルは黙《だま》って考えるしかなかったのだ。おかげで、先週帰ってきた時から聞こう聞こうと思っていた、ジゼルに関する事柄《ことがら》さえ尋ねられない始末。
ボーヴォール王国でのことは鮮明に記憶している。忘れようにも忘れられない、あの記憶。蘇《よみがえ》った断片的な記憶。あれから新しく思いだしたことはいくつかある。でも、ジゼルが知りたいことは全然出てこない。なにか、きっかけがないと駄目《だめ》なのかな。だったら、夏離宮に閉じこもっているんじゃあ埒《らち》があかないぞ。
待てよ。
もしかしたら、忘れているのかもしれない。
交換前は知っていたかもしれない。
なつめとアスラの関係。
そうだ。仮にも三年も一緒《いっしょ》に暮《く》らしてきた。気づかないはずがない。なつめのこと、そんなに長く気づかないはずがない!
でも、そうなると新たな疑問が湧《わ》いてくる。
じゃあ、どうして忘れてしまったのか。どうしてなつめはそのことの記憶について介入《かいにゅう》したのか、が問題になってくる。ジゼルが二人の関係を知っているとまずい理由があるはず。どこに?
…………
あーっ、考えても判るわけないじゃないか。ジゼルには二人の関係さえ定かじゃないのに!
ジゼルはパニック状態だった。もういやっ、考えてると頭が痛い。やめやめっ。でも、知りたい。うーっ、仲間外れはやだよーん。
あああ、こんな不幸なジゼルに愛の手を。誰か助けて、ばかアスラ、早く帰ってこいってんだ。
こうして夏離宮の夏の一日は、ジゼルの悲痛の叫《さけ》びで過ぎていくのであった。助けてくれーっ。
一週間の悲惨《ひさん》な日常にピリオドを打ってくれたのは、他でもない、悲惨を創造して逃げ去った張本人、アスラだった。
おとーさんに電話をしたその晩、そっと部屋に入ってくる人間の気配を感じた。うつらうつら瞼《まぶた》を閉じたまま、なつめかな、と考える。彼女は最近、隣《となり》のオペレーションセンターに遅くまで閉じこもっている。あそこは彼女の聖域《せいいき》で、滅多《めった》なことで他人を寄せ付けない。今日もまだ、そこにいるはずだった。
「おい、ジゼル。起きているか」
しかしながら、耳に飛び込んできた声は男のもので、よく聞き知っているアスラのものだった。
「アスラ!?」
仰天《ぎょうてん》してぴょんと籠《かご》の中から飛び起きる。仰《あお》ぐと、月明りに見えるのは確かにアスラだ。なんだってこんな夜中に、草木も眠《ねむ》る丑三《うしみ》つ時に現れるんだ? 前言|撤回《てっかい》、やっぱりこいつの考えることが一番解らない。
おとーさんの話によれば、アスラが外国から帰ってくるのは二、三日あとのはずなのに。そう訝《いぶか》りながらジゼルはアスラを睨《にら》みつけると、
「今時分、なんの用さ。こそこそ忍《しの》び込《こ》んだりして、まるで泥棒《どろぼう》じゃない」
「ばか、ここは俺《おれ》の家でもあるの。なつめはオペレーションセンターだろう? 明りが見えた」
こちらの安眠《あんみん》を妨害《ぼうがい》したことなんかちっとも悪いと思ってない調子で、アスラは言う。なにしに来たんだろう。喧嘩《けんか》のことが気になってきたのかしら。予定が早く済《す》んで、おとーさんに窘《なだ》められたので早速《さっそく》来たとか。うん、感心な奴《やつ》だ。
「アスラ、なつめとのこと……」
「ジゼル、面白《おもしろ》いものに見に行かないか?」
二人、同時に言う。ジゼルは目をぱちくりさせた。面白いものを見にいく? なんだ、それ。ちょっと待て、喧嘩はどうなったんだ、続行中なのか、それともきれいさっぱり、漂白したように覚えていないのか。アスラの場合、どちらも考えられることだ。
「……アスラ、おとーさんからなつめのこと、なにか聞かなかった?」
「いや、まだ親父さんには会ってないけれど。なつめがどうかしたか?」
こ、こいつ。ジゼル、絶対後者にかけるぞ。なつめを無視しているんじゃあない。忘れている。なつめとの喧嘩を忘れている! 無性《むしょう》に腹が立ってきた、この、この、ジゼルのこの一週間の苦衷《くちゅう》はなんだったというの、どうしてくれるの、まったく無意味になっちゃうじゃないかーっ。
「アスラ、なつめと喧嘩した?」
ずばり言ってやる。すると、この道楽息子、眉《まゆ》をひそめて顎《あご》に手を持っていき、しばらく考えていたが、
「うーむ。どの喧嘩のことか分からない。あれかな、ジゼルを池に落とした時のことかな。はたまた土足で上がった時のことか、それとも甘酒《あまざけ》をジゼルにぶっかけた時のことか、いや、それとも……」
次から次へと、まあ下らない喧嘩の原因が飛び出してくる。アスラはともかく、なつめまでそんなことの相手しないでよっ。
「でも、池の時は俺も突《つ》き飛ばされて落ちたし、大掃除《おおそうじ》を一人でやらされたし、甘酒の時なんか、寒い一月の夜に外に放りだされて野宿だったからなあ。全部、報復は受けてるぞ。いまさら、なんのことだ?」
そう。あの仙女《せんにょ》のような微笑《びしょう》を浮かべたまま、なつめは平然と報復する。やっぱり、なつめは強かった。うん。ジゼルは頷《うなず》きながら、この男、自分の都合のいいことしか覚えない記憶|野《や》の持ち主ではなかろうか、と疑う。本当に忘れているのか、いや、待てよ、一方的に喋《しゃべ》って、ジゼルをケムに巻くつもりではなかろうか。きっとそうだ。
「そんな昔のこと聞いてないよっ。この間、ジゼルが帰ってきた日だよ」
そうはさせてなるものかと、ぶつぶつ続けるアスラを遮《さえぎ》って、ジゼルはきっとなって言った。すると、奴《やつ》はボンッと手を叩《たた》き、まったく動揺《どうよう》も見せずに、
「そうだ。あの日も喧嘩したぞ。決着がつく前に呼び出しがかかって、中途半端に終わったんだ。まずいな、報復が来る。見つかる前にとっとと戻《もど》ろう。ジゼル、よく知ってるな。なつめになにか聞いたのか?」
しれっとした顔で言うアスラ。この、やけに日常的な雰囲気《ふんいき》はなんなのだろう。微塵《みじん》のやましさも感じられない。ジゼルがあの場面を目撃《もくげき》したなんて夢にも思っていないから? いや、こいつなら、平静を保ち続けてジゼルを惑《まど》わそうとしている、とも考えられる。ジゼルが見たものは夢だった、そう思わせるような態度。開き直っているのかしら。ありえることだ。でも、考えてみると、本当に怪《あや》しくなってきたぞ。現実だったのかな、あれ。論理的に考えても、あれは夢だったと思った方が都合いい。自分の記憶が信じられなくなりそう。だいたい、ジゼルは今、記憶野がごちゃまぜ状態だからなあ。
あ、いけない。ますます奴の術中にはまってしまうところだった。用心しなくちゃあ、と心に言い聞かせて、
「なつめはなんにも言わない。言わなくて困ってるよ、ずーっと怒《おこ》ってるんだから。アスラが帰った次の日から」
「なつめが怒ってる?」
口を尖《とが》らせてジゼルが言うと、今度は意外そうに驚いて、アスラは黙《だま》り込んでしまった。信じられない、そんなていである。信じられないのはこっちの方だ。あんなことしておいて。いや、それはともかく、喧嘩をしておいて怒っていないなどと、よく考えられるものだ。ジゼルは呆《あき》れてしまった。なんてご都合主義な人間だろう。
「なつめが怒ってる? いや、それは……うーん? あの喧嘩の決着はついたはずなんだがな。報復ができなくて怒るなつめでもあるまい。と、なると……」
ぶつぶつアスラは呟《つぶや》いている。なんか、怒っている原因が判らないらしい。ジゼルも段々不安になってきた。喧嘩の決着はついている? さっきは。中途半端に終わったって言ったくせに。となると、なんでなつめは怒ってるの?
「……ねえ、いつ決着なんかつけたの。今、中途半端に喧嘩は終わったって言ったじゃない」
心無し、声が低くなる。
「ああ、結果的にだけれどな。うーん」
「アスラ、結局|喧嘩《けんか》の原因はなんなの?」
「お前さんだよ、ジゼル」
隠《かく》すところもなく、アスラは端的《たんてき》に言った。きょとんとなるジゼル。
「ジゼルのレコードを見て、なつめは怒ったの。編集《へんしゅう》しなかったからなあ。色々危険な目にあっただろう? 俺がスポンサーになったせいだ、ってね。せめて、ココリなんかに任せないで俺がついていけばよかったんだ。最後にはお決まりの文句、もうやめて、ジゼルを連れていかないで、と言う」
「……本当に?」
本当にそれだけ? ジゼルはアスラの言葉を鵜呑《うの》みにできなかった。それだけなら、どうしてジゼルの判らない言葉でなんか喧嘩していたの。それくらいの喧嘩ならしょっちゅうじゃあないか。いつもジゼルは聞いていたじゃあないか。
しょっちゅう?
ジゼルは自分の想念を反芻《はんすう》した。
(そうだ)
(思いだした)
ジゼルのことで二人はよく言い合いをしていた。外にでかけることで? そう。なつめは反対していた。でも、なんで反対していたんだっけ? 危険だから? それもあった。
でも、もっと別に、他に反対する理由があったような、なかったような……
「俺は連れていく。これだけは譲《ゆず》れない。なつめも解っているはずだ」
きっぱり、アスラは断定した。なんだろう、この決心したような口ぶりは。
外に出かけることを肯定《こうてい》する理由?
なつめと反目する原因、外に行くこと。理由、なんだろう、それは。思い出せない。昔の自分は知っていた気がする。いや、確かに知っていた。そして、それは、この記憶|喪失《そうしつ》と深い関わりがある。
(…………)
「で、どこに連れていってくれるって?」
「来るか?」
ジゼルは頷《うなず》いた。なつめと喧嘩している相手と一緒《いっしょ》にいたくない。でも、解った。原因は、外に行くこと自体ではない。
なつめはジゼルに記憶を取り戻《もど》してほしくないんだ。
だから、なつめはアスラと喧嘩した。連れていくと言い切るアスラに、反対した。アスラといると記憶が蘇《よみがえ》るから。蘇る要素をアスラが持っているから。きっかけを無意識にしろ故意にしろ、作ってくれる。今がいい例だ、一週間なに一つ思い出せなかったのに、アスラと話す内に記憶が蘇った。そして、この男は記憶を取り戻すことに賛成している。
ジゼルは思いだしたい。
なぜ、生体機械なのか。どうして自分を説明する時に、反射的に【生体機械】であると言ってしまうのか。
生体機械。医療《いりょう》用人工|細胞《さいぼう》組織。身体の一部、もしくは大部分を失った生体のために、元の生体と寸分《すんぶん》違わず製造される、生粋《きっすい》の人工細胞の集団。クローンのように生体の細胞から分裂《ぶんれつ》培養《ばいよう》したものではなくて、原子一つから人間が組み立てた、人工有機物。
デイニは言っていた。猫《ねこ》にも生体機械を適用するのは珍しいと。なつめがジゼルを愛してくれているから。それは説明がつく。E・R・Fの娘《むすめ》なら、簡単にできることだろう。本社には理研もある。
じゃあ、どうしてそんなことになったの。この身が生体機械を使用しなければならない状況《じょうきょう》に陥《おちい》った原因は、なに? 生まれつきの奇形だった? それとも事故で負傷した?
問題は、どうしてそのことをジゼルが覚えていないか。そして、どこが生体機械なのか、全然判らないこと。エルシの医療技術は銀河でもトップクラスだもの、後者はしかたがない。でも、自分を【生体機械】と説明してしまうからには、以前の自分は確かに知っていたのだ、原因を。
それさえも、なつめは隠《かく》している。記憶喪失として消してしまった。それを一番に隠したいのかもしれない。
ジゼルは知りたい。思いだしたい。
どうしてジゼルの記憶を消したの、なつめ。お願い、嘘《うそ》をつかないで。ジゼルを裏切らないで。
アスラと一緒《いっしょ》に行く。記憶はその方が蘇る。
「それで、面白いものって?」
「トラック諸島《しょとう》の惑星《わくせい》フェルドワント・コルソさ」
にやにや、楽しげにアスラは言う。ジゼルは息を呑《の》んだ。惑星コルソだって? トラック諸島はUブロックにある、恒星《こうせい》イセの小惑星群のことだ。七つあった惑星の六つまでが崩壊《ほうかい》して、たった一つ残存しているのがコルソだった。原因は戦争。例のコンピューター大暴走時代の傷跡《きずあと》だ。惑星なんて、核を破壊《はかい》すれば一発で崩壊する。あっけないものだ。当時はそうやって戦争をしていた。距離《きょり》が意味をなさないから、基地を破壊する、それでおしまい。今はそんなことはしない。いや、できる技術が廃《すた》れたというか、星々を席巻する戦争なんかできる状態じゃあないというか。
ともかく、フェルドワント・コルソは立入禁止区域のはずだ。ジゼルだって知っている。そこへ行くだってえ? この酔狂《すいきょう》がっ。
「アスラ、あそこは立入禁止だよ」
「一般人はな。幸か不幸か、俺は一般人じゃないんだよなあ。面白いものが見れるぞ、フエルドワント・コルソの封鎖《ふうさ》原因をジゼルは知らないだろ?」
素直に頷《うなず》くジゼル。そんな、銀河の星一つ一つの事柄《ことがら》を覚えていられるものかい。この夏離宮は世俗《せぞく》とは切り離されたところだし、暇潰《ひまつぶ》しで見るテレビニュースの知識しかないというのに。そりゃあ、学習すればいくらだって知識は得られるけどさ。
「今回は俺がずっと一緒だから心配するなって。危険はなにもない、俺といれば」
随分《ずいぶん》大口を叩《たた》くじゃない、アスラ。この自信をへし曲げる方法はないかなと考えたけれど、それは自分の身の危険につながることなので、やめておいた。もう危険はこりごりだよ。
「大丈夫、ジゼルは俺が守る」
(……あれ?)
(今のせりふ、どこかで聞いたような)
…………?
「さ、行こう」
そう言って、アスラはジゼルを抱《だ》き上げた。えっ!? ちょっと待てっ。
「い、行くって、こんな夜中に!?」
「善は急げだな。ほら、なつめに見つかる前に行くぞ」
「そ、そんな! どこが善なんだ、そんな、なつめを裏切るようにして行くなんて」
「前もそうだったろう、なつめにはちゃんと言うよ、出発してから。すぐに|φ《ファイ》ベクトルが来る、支度《したく》はいいな。そうだ、ちょっと用があるから先にカヌーア星に寄るぞ」
「えーんっ。なつめーっ」
まるで誘拐《ゆうかい》でもされるかのように、ジゼルはアスラに担《かつ》がれて部屋を出た。オペレーションセンターの明りが窓の向こうに見える。あーん、ごめんなさい、なつめ。裏切らないでって頼んでいる側からこっちがこんな真似《まね》して。えーん、なつめに嫌《きら》われちゃうよう。アスラのばかーっ。
ジゼルの一日は、やっぱり悲痛《ひつう》の叫《さけ》びで終わりを迎《むか》えるのであった。ひーんっ。
[#改ページ]
ACT.2
「ほら、あれがカヌーアだ」
そう言ってアスラが指し示す眼下の星は、青の惑星《わくせい》というよりも緑に染《そ》まった球体だった。|φ《ファイ》ベクトル空間から磁気圏《じきけん》外に出現したばかりで、走行姿勢に入る宇宙機。これから二時間半かけて着陸する。エルシの技術なら、そのまま宇宙港《うちゅうこう》の着陸ポイントに空間移動できるのだけれど、安全面、|α《アルファ》軸《じく》走行を使用する宇宙機《うちゅうき》との折り合い、独立国家としての尊重と保護《ほご》、その他諸々の関係で、こうやって減速空間と称して足止めを食らう。距離《きょり》間が失せた代りに、時間で領土《りょうど》を保とうというのだから、ご苦労なことである。
「変な色の星」
憮然として、ジゼルは応《こた》えた。
「しかたあるまい、カヌーアの異常植物|繁殖《はんしょく》は有名だからな。テラフォーミングの第一段階で失敗したって話だが、沙漠《さばく》を創《つく》るよりはましだったさ。行き場に困ったH2Oは地下に流れ込んで、巨大《きょだい》な海を形成している。ここもなかなか面白《おもしろ》いぞ」
「カヌーアって、連邦圏《れんぽうけん》とグループ圏の折衝《せっしょう》の星でしょう。緊急《きんきゅう》の用って、連邦相手の騒ぎだったの?」
「過去形にするなって。騒ぎは続行中、まあ、こっちが有利な立場だからな。どうってことはない。危険もない、向こうが泣きついてきたんだ」
「なにかあったの?」
連邦がグループに泣きついてくる? 半信半疑でジゼルは尋ねた。そりゃあエルシは連邦の一員だけれども、連邦当局が目の敵《かたき》にするので仲が悪いんだ。よっぽどのことがなければ、E・R・Fに頼るなんてことは起きない。
「まあな。いろいろ」
アスラは曖昧《あいまい》に答えた。この男が言葉を濁《にご》すなんてめったにないことだ。少し、不満。そして、不安。探り出すように質問を変えて聞いてみる。
「おとーさんは出てこないの? おかーさんも?」
「この件は俺に任されてるんだ。昔から」
「…………?」
ジゼルは首をひねった。昔から? なんなんだ、それ。連邦相手に一人で気張れるほどアスラは偉《えら》くなったのか。もう、猫《ねこ》相手の悪がきじゃあなくなったというわけか。なつめがどんどん取り残されていくようで、ジゼルはたまらなく不安を感じた。E・R・Fの娘としての義務と権利をなつめは放棄《ほうき》している。このままじゃあ、E・R・Fにとって、完全に不必要な人間になってしまう。お願い、なつめを忘れないでね、アスラ。
(かといって、妹に恋愛《れんあい》感情なんか持たないでよ、この不埒者《ふらちもの》)
なんのかんのといっている内に、条例で定められた時間は過ぎ、専用機シュレディン号はカヌーアの第百十四宇宙港に無事着陸した。ナンバーネームとは味気ないけれど、聞いたところによると、最初の五つくらいまではちゃんと個別の名称があったそうである。でも、次から次へと宇宙港が植物に呑《の》み込《こ》まれてしまうので、面倒《めんどう》くさくて番号で呼ぶようになったそうだ。大体五十年に一個の割合で整地するそうだが、今降り立った百十四宇宙港はまだ新しい。クリーム色の壁《かべ》や床《ゆか》がまだぴかぴかしていて、とてもきれいだった。機器も新品ぞろいで、まるでエルシのようにハイテクを駆使《くし》した宇宙の玄関口《げんかんぐち》。さすが、連邦との折衝地《せっしょうち》。本来ならば見捨てられる『失敗の惑星《わくせい》』が、どこよりも文化水準の高い星となっている。失敗だからこそ、折衝地として成り立つのかな。位置的なもの以上に。
「とりあえず、俺は折衝会議に顔を出してくる。お前も行くか?」
「いいよ、難しいことは解らないもの。そこら辺を散歩してくるよ」
「それはだめだ」
びくっとなるほどアスラが断定的に言った。そして、そのまま宇宙港と回廊《かいろう》でつながれているシティを凝視《ぎょうし》する。その表情は、ジゼルが見知っている道楽《どうらく》息子《むすこ》のものではなかった。思わずたじろぐジゼルに、
「お前は俺の指示したところにいろ。不用心に外に出るな。いいか、この星は普通《ふつう》の星とは違うんだ。さまざまな機関やミレでは対応しきれない事象を、公然の秘密として処理する役割を果たしている。折衝とは名ばかり、対立しているはずの連邦政府とグループが協同じている、一つの機関なんだ。もめごとは起こせない。いいな」
[#挿絵(img/compass_128.jpg)入る]
有無《うむ》を言わせぬ強い口調。ジゼルは黙《だま》って頷《うなず》くしかなかった。まるでジゼルがもめごとの原因であるかの言いように、腹がたたないわけでもなかったが。
ジゼルたちは回廊の流れに乗って、シティへと赴《おもむ》いた。この街の構造《こうぞう》はなかなか面白い。宇宙港が新しくなるたびに遷都《せんと》するわけにもいかないので、宇宙港の方がシティにあわせて放射状にぐるぐる整地される。それが満杯《まんぱい》になったらいよいよ遷都というわけだ。カヌーアにシティはここしかない。他の場所にもう一つ都市を建設するのは、植物|侵入《しんにゅう》を防ぐための維持《いじ》費が高くつくだけで、あえてする必要もないのが現実だ。人口は少ないし、ここの豊かな生活を捨てて冒険する気に、誰《だれ》もならない。厄介《やっかい》な植物らしい。おもしろそうだなー、探検《たんけん》してみたいなー。
宇宙機から見たカヌーアシティは、緑の絨毯《じゅうたん》の中に咲《さ》いた白い花のようだった。滑《なめ》らかな曲線を持ったドームが、外壁《がいへき》に蔦葛《つたかずら》を這《は》わせながらも懸命《けんめい》にそこにあった。いざ、中へ来てみると、意外にもそれはドームではなく、一つの建物だった。カヌーアシティは、このドームの形をした建物一つで成り立っていたのだ。無駄《むだ》のない、効率的な都市である。この中に住んでいるのは、無論、連邦《れんぽう》やグループ関係者の他に一般人もいる。彼らはこの星の植物を改造して、人間に適した大気組成を維持できなくなりかけている惑星《わくせい》に植林する、ということをやっている。結局、連邦の下請《したう》けであるが、需要が多いわけでもなさそうだ。テラフォーミングの第二段階がしっかりしていれば、空気が足りなくなるなんてこと、起きないもの。
それにしても、なんだか周囲の人々の視線が全部こっちに集まっているような気がするぞ。なんだろう。ちょっと怖《こわ》いなあ。ボーヴォール惑星の時みたいに猫《ねこ》なんか見たこともないなんて言わないでよ。それとも、もしかしてジゼルが生体機械であると判るのかしら。いや、そんなはずは――
いろいろ考えている内に、後から本社のセネガラさんが追いついて、アスラになにかを渡して喋《しゃべ》りだした。あっ、そうか。見ていたのはジゼルじゃあなくて、アスラの方だったのか。どこかしら見たことがあるような顔なんだけれど、誰なんだろう。そんな好奇心だったのだ。これだけの大物が一人で猫連れて闊歩《かつぼ》しているなんて、誰も考えないものね。そう判断したあと、ジゼル、照れる。まったく、これじゃあアスラの自信|過剰《かじょう》がうつっちゃったみたいじゃあないか。いけない、いけない。世の中が自分を中心に動いているように考えるなんて。もっと気楽に考えよーっと。ちょっと神経が過敏《かびん》になっているんだ。
それから、どこから湧《わ》いたのか、知ってる人も知らない人もあわせて五、六人がアスラに寄ってきて、早口に話しかけてきた。ジゼルにはちんぷんかんぷんの内容だったけれど、ハイブリッドがどうの、人権|擁護《ようご》が云々《うんぬん》、燐酸《りんさん》がなんたら、という言葉が耳に入ってくる。聞いているアスラ、どうやったらこの支離滅裂《しりめつれつ》な単語をつなぎあわせることができるのだろう。そう妙なところでジゼルは感心してしまった。いったい、なんの会議なんだ?
そのままアスラはシティの上へ上へと昇《のぼ》り、最上階へと出た。どうやらここに会議室があるらしい。
広大な【街中】を動く道に乗って、ある区域へと入る。ゲートをくぐって扉《とびら》を開くと、そこはいわゆる協同機関の建物の中だった。建物の中に建物がある。不思議な感覚。巨大《きょだい》なドームなんだな。どのくらいあるんだろう。それをアスラに尋ねると、
「そうだな、延《の》べ面積がネオトキオシティの十分の一弱、ってところかな」
などという。ネオトキオシティは平べったく、世界でも一、二を争う面積の都市なのに。二十階程度の建物の中に、本当に都市がまるごと入ってるんだ。これはたまげた。
扉の中は、外の喧噪《けんそう》とはうってかわって、水をうったように静まり返っていた。細く長い廊下《ろうか》を抜《ぬ》け、ロビーのようなところへ出ると、人間が大勢、くるくると行ったりきたりしている。なんとなくほっとしてしまう。夏離宮の続きじゃあるまいし、人間がいっぱいいるところは騒がしい方がいい。
……でも、なんか騒がし過ぎない? 上を下にの大混乱《だいこんらん》をきたしているような雰囲気《ふんいき》なんだけれど。大丈夫《だいじょうぶ》かなあ。
アスラを仰《あお》ぐと、彼はすでに話す相手を見つけて、手で合図していた。すぐに、スーツ姿の似合う、壮年《そうねん》男性が寄ってくる。
「アスラさん、待っていましたよ。さ、こちらへ早く」
胸のネームプレートを見ると、連邦《れんぽう》政府の職員だった。うひゃあ、本当に手を組んでいるんだ。ジゼルの、連邦とE・R・Fは犬猿《けんえん》の仲だ、という観念は、テレビで植え付けられただけのものだったのかしら。むむむ。
二人と五人はそのまま奥の通路へと進んでいく。こざっぱりした空間だ。機能的でかつ落ちついている。いくつも扉《とびら》が並ぶ横を通って、彼らは一番奥の、一際《ひときわ》大きな扉の前まで来た。
「ジゼルは隣《となり》の部屋にいな。誰もこない、会議用の休憩室《きゅうけいしつ》だから。なあに、すぐ終わる。テレビでも見て待っててくれ」
「ここまで来て、テレビなんか見たくないやい」
それよりも眠《ねむ》いよ。と言うと、そりゃそうだな、とアスラは大笑いした。連邦の人がばか笑いに戸惑《とまど》いと一抹《いちまつ》の不安を感じた表情をつくっていたけれど、そんなこと、ジゼルには関係ない。
かくして、ジゼルは休憩室に閉じこめられ、三時間前に中断された安眠《あんみん》の世界へと入った。ちぇっ、クッションが軟《やわ》らかすぎるや。
夢を見た。
走っている夢。
ジゼル自身が走っているわけではない。目線が普段《ふだん》より高い。抱《かか》えられている。なつめだ。なつめ以外いない。他には誰もいない。ジゼルを守ってくれるただ一人のヒト。
走る。長い廊下《ろうか》を。マーブルの床《ゆか》。無数の扉の並ぶ壁《かべ》。高い、高い天井《てんじょう》。追いかけられている。無数の手に。
(助けて! 助けて!)
のっぺりした壁がのしかかってくる。扉は幼稚《ようち》な絵だった。壁に描かれた、幾何学線《きかがくせん》。後方はどんどんつぼんで点の中に凝縮《ぎょうしゅく》されていく。空間は、なつめの動きを止めようと、追いすがるように生えてきた手に埋《う》められる。床から、壁から、天井から、手が伸びる。
(なぜ追いかけるの、どうして捕まえようとするの)
手はなつめに触れることができない。だが、彼女が振《ふ》り返るたび、一歩前進するたび、確実にその数を増《ふ》やしていった。前にしか進めない。まるで袋《ふくろ》に追い込まれる鼠《ねずみ》のよう。
前方に扉が現れる。廊下は遮断《しゃだん》された。
だんだん!
「助けて! ここを開けて!」
なつめが扉を叩《たた》く。しかし、扉はうんともすんとも言わない。
だんだん!
「開けて! 中に入れて!」
手が周《まわ》りを囲む。生白い手が肩《かた》に伸びる。腕《うで》に伸びる。足元を這《は》いずりまわる。段々空間は狭《せま》くなる。手で密閉《みつべい》されていく。
「お願い、この子を助けて!」
なつめはノブをガチャガチャ回した。だが、やはり扉は応《こた》えてくれなかった。
「お願い、ここを開けて……」
なつめの声が小さくなる。ジゼルはぼんやりノブを見つめていた。彼女の白い手は既《すで》にノブから離れ、自分自身を包んでいる。なのに、どうしていつまでも、ガチャガチャ音をたてているのだろう。
「お願いよ、アスラ……」
アスラ?
それは、誰?
キィ、という微《かす》かな音で目が覚めた。
(…………?)
変な夢。なんかどこかで見たような夢だった。前に見た夢の続き?
今の音は扉が開くような音だったな、そう思いつき、ソファから身を乗り出すと、案《あん》の定《じょう》、部屋の扉が半開きになっている。そうか、あのガチャガチャいう音は、現実にノブを回していた音だったんだ。なるほど。
会議が終わってアスラが迎《むか》えにきたのかしら。中に入ってこないのはなぜだろう。そう怪訝《けげん》に思い、ソファから飛び降りて扉の外を覗《のぞ》く。それにしても、このドア、オートシステムじゃないんだな。へんなの。
そっと辺《あた》りを見回す。左隣《ひだりどなり》の会議室の扉は閉じたまま。じゃあなんだったんだ、L字|廊下《ろうか》の右手を見る。
隣の部屋の前に人がいる。こちらに背を向け片膝《かたひざ》ついて、扉のところでなにかやっていた。どうもノブの辺りを触っているみたいだけど、細かいところまではここからは見えない。他には誰もいなかった。
なにやってんだろう? 見るからに怪《あや》しい。格好《かっこう》も、ここの雰囲気《ふんいき》にまったくそぐわない。あの人がここのドアも開けたのかしらん。泥棒《どろぼう》かも。
ジゼルがしばらく見守っていると、廊下の向こうの方から女性が一人、歩いてきた。さっきの連邦の人と同じ名札を付けている。連邦職員さんだ。怪しい奴《やつ》は熱中していて、人間が近づいているのに気づかない。彼女は足早に寄ってきて、そして歩みを止めた。
「あなた、そこでなにをしているのかしら」
廊下によく響《ひび》く声で、鋭く質問する。ようやく気づいた怪しい人、ここからでもあたふたしているのが手に取るように分かった。なんだあ、スパイか? でも、あんな間抜《まぬ》けなスパイがいるはずはないし。
「いや、その」
「連邦の職員ではないわね。E・R・Fコーポレーションの人? 失礼ですが、身分証明書を」
手を差し出され、返事に窮《きゅう》した相手、やにわに彼女を突《つ》き飛《と》ばし、走りだした。床《ゆか》に倒《たお》れ込んだ女性は、すぐさま体勢を整え、壁にはめられた内部通信システムに飛びつく。
「警備部《けいびぶ》、不法|侵入者《しんにゅうしゃ》を中央会議室の付近で見つけたわ。第八ゲートに向かって逃走中。え? 登録外信号が表示されていない? ばかね、機械に頼ってばかりいるんじゃないわよ!」
これだからエルシの人間は……という彼女の呟《つぶや》きが聞こえた。
ジゼルは侵入者が走り出すと同時に、ドアの影から飛び出してその後を追っていた。
ちらりとしか見えなかったけれど、あれはデイニだ。
金色の髪《かみ》、碧色の双眸《そうぼう》。間違《まちが》いない。ボーヴォール惑星《わくせい》王国で、共に探検《たんけん》をした彼女だ。なぜ彼女がここにいるのか、ちっとも疑問に思わなかった。彼女なら、あの剛毅《ごうき》なデイニなら、目的のために連邦|中枢《ちゅうすう》でもどこでも飛び込んでいくだろう。そんな確信があった。
ここは連邦では対処しきれない問題の処理機関だ。彼女の捜《さが》している恋人《こいびと》は、ここが乗り出してくるほどの事件に巻き込まれた。そうデイニは判断したのだ。ジゼルも、あれがちゃちなマッドサイエンティストの遊びだけで済《す》む事件でないと睨《にら》んでいた。もっと、大きな裏がある。そう直感したんだ。そして、彼女は実行に移した。それを、偶然《ぐうぜん》にもジゼルが目撃《もくげき》してしまったのだ。それが現在。
この偶然を放っておくなんて、ジゼルにはできなーいっ。
「デイニ! デイニ、待って!」
おそろしくすばしっこく、デイニは廊下《ろうか》を駆《か》け抜《ぬ》けていぐ。その内、警備《けいび》の人が来るだろう。デイニが幸運だったのは、ここが完全なオート警備システムを使用していなかったことだ。でなかったらものの十秒で隔壁《かくへき》で封じ込められている。でも、忍《しの》び込《こ》むならもっと巧《うま》くやれってんだ。あんな堂々と鍵《かぎ》を開けようとするなんて。ボーヴォールではもっと手際《てぎわ》よかったぞ。
逃げ回る内に、周《まわ》りがざわざわしてきた。やばい、ゲートを抜けて街に出る前に、このままじゃあ捕まっちゃう。アスラの顔を頼るしかないな、こりゃ。
必死になってデイニに追いつこうとして、ダッシュをかけた途端《とたん》、なにを思ったか彼女、急に横手に飛んだ。慌《あわ》ててジゼルも飛び込むけれど、いくらドアが開いてたからって、こんな小部屋に隠《かく》れても袋《ふくろ》の鼠《ねずみ》じゃないか!
あまりに急で、焦《あせ》って飛び込んだので、ジゼルはデイニに突《つ》っ込んでしまった。
「うわあっ?」
そのまま一緒《いっしょ》に倒れ込む。あれ、今の声――?
むわっ、と緑の匂《にお》いが鼻をついた。
「な、なんだ? どうしてこんなところにねこが……」
男の声。仰天《ぎょうてん》して顔を上げる。
確かに、その容貌《ようぼう》はデイニによく似《に》ていた。だが、どう見ても、どう考えても、間違いようもなく、これは男じゃないかーっ。
混乱《こんらん》する頭を一生懸命《いっしょうけんめい》整理する。いや、本当にそっくり。でもデイニは女だった。あ、もしかして、兄弟か? そうだ、アスラと同い年の兄がいるって、話していたっけ。でも、でも、ショックーっ、ジゼル、目が悪くなっちゃったよーっ。えーん。それとも人間との感覚がズレてきたのかしら。どっちにしろ、ショックーっ。
いや、今はそんなことを悲観している場合ではない。本当にデイニのお兄さんなら助けなくちゃ。そう決心すると、ジゼル、キョロキョロしている青年に向かって、声をかける。
「あなた、デイニのお兄さん?」
「うわっ!? ねこが喋《しゃべ》った!? え? デイニだって? 確かに、デイニは俺の妹だが――あ、もしかして、君、ジゼルか!?」
ジゼルは何回も頷《うなず》いた。よかった、すんなり受け入れてもらえたぞ。彼はひどく感嘆《かんたん》した様子で、嬉《うれ》しそうに、
「ああ、妹から話は聞いてるよ。世話になったようで、と言うのも変だなあ。いやあ、奇遇《きぐう》だな、こんなところで会えるなんて。君、サイバマシンかい?」
「そんなこと言ってる場合じゃないよ、追われてんだよ、あなた。デイニとは友達だからあなたを助けたいんだ。えっと」
「カイ。それは大丈夫、さっきは動転して逃げちまったが、俺は証明書を持ってたんだな。部屋に忍《しの》び込《こ》もうとした理由は説明できないけどさ。安心してくれ」
にやっと笑うカイ。ジゼル、ほっとして気抜《きぬ》けするとともに、なんか嫌《いや》な予感がした。証明書を持ってることを忘れるなんて、この人って、もしかして、とんでもない間抜《まぬ》けなんじゃない? 当人にそんなこと聞けないけど、やっぱり。
ばたばたと人が走ってくる音。人間が来る。融通《ゆうずう》のきかない警備《けいび》マシンじゃなくてよかった、とジゼルはひとごとながら安堵《あんど》した。
「そこに誰かいるな」
ドアを開けて仁王だちになる警備員。三人連れだ。カイの顔がわずかに引きつったのを見逃さなかった。
「そこでなにをしている!? 身分証明書を提示《ていじ》しなさい」
緊張《きんちょう》して声の出ないまま頷いたカイ、胸の奥からカードを取り出す。警備員は頭を突《つ》き合わせて、照合プレートのスリットに通して確かめた。騒がないところを見ると、どうやら正規のものだったみたい。でも、警備員はしかめた顔を崩《くず》さないで、疑わしくじろりと睨《にら》むと、
「こんなところに、なぜ?」
「い、いや、変わった植物だなあと思って、つい」
「好奇心|旺盛《おうせい》は結構ですが、ここは閉鎖《へいさ》されるのですぐに出るように。それと、今、挙動不審者が逃走中なので、間違われないよう注意してください」
そう言うと、彼らは次の場所へと向かった。どっと疲《つか》れが出る。
「ひゃあ、ばれるかと思った」
「なんか高飛車《たかびしゃ》な奴《やつ》だったな。ちっ、教育がなってねーぜ」
今までの緊張した面《おも》もちとは打って変わって、態度がでかくなるカイ。ジゼルはそれを見て吹《ふ》き出した。こんな奥の手があったなら、心配無用だったな。
それにしても、この部屋はなんだろう。人間の背丈ほどもある、ひょろひょろっとした植物が、鉢植《はちう》えになって何十個もひしめき合って並んでいる。細い茎《くき》には似つかわしくない巨大《きょだい》な葉をつけて、ジゼルの知っている植物で例《たと》えるなら、ひまわりのような感じだ。これがカヌーア星の植物なのかしら。間近で見るのは初めてだった。
[#挿絵(img/compass_142.jpg)入る]
「ねえ、カイ。デイニはどうしたの? まだ、恋人を捜《さが》している?」
「いや、今は大学の特別講義期間で出てこれないんだ。だから、俺が代りに来た。巧《うま》くいくわけないとは思ってたけど、案の定、このざまだ。俺はデイニと違って器用じゃないからなあ。しょっぱなからこれじゃ、参ったなあ……」
そう言って、カイは頭を掻《か》く。なんか、デイニの話で聞いたイメージと違うぞ。こんな間抜けにあのデイニがコンプレックスを持っているなんて、信じられない。
「でも、デイニの恋人は俺の親友でもあるんだ。高校時代からの親友でさ、あいつが家に来た時、デイニに捕まっちまったって経緯《いきさつ》なんだ。あいつらがつき合ってたなんて、とんと知らなかったんだけどさあ。だから、俺も一緒《いっしょ》に捜索《そうさく》しなきゃな。君はどこまで話を聞いたんだい?」
「あ、多分、おおよそのことは。謎《なぞ》のサークルに入ってて、今回の失踪《しっそう》はそれが関係しているんじゃないかって。あの変態《へんたい》科学者もそのサークルに入ってたみたいだし……なんか、やばい研究に関わってるんじゃないかってことぐらいかな」
一週間前のあの不快なできごとを、できるだけ客観的に考えようと努力しながら、ジゼルは途切れ途切れに答えた。カイは頷《うなず》くと、
「じゃあ、粗方《あらかた》知ってるわけだ。ここまで関わりを持たせてしまったからにゃあ、その後の経過を知らせないわけにはいかんな。実は、俺たちはその後の調査で、ここに例のサークルの動きを調査したデータがあることを突《つ》き止《と》めたんだ。ここがどんな機関か知ってるか。やばいぜ、これは。こんなところに目をつけられちゃあ。なにやってんだ、あいつ」
憮然《ぶぜん》としてカイは言う。それは確かにまずい。こんな機関に目をつけられるということは、とんでもないことをしてるんじゃないか。
事実、あの人工脳の培養《ばいよう》でさえ、たいそうな問題なのに。
「ところで、君、どうしてここに……」
カイが言い終わらない内に、ピシャン、という音が背後でした。なにごとかと振《ふ》り返ると、それは入り口のシャッターが閉まる音だったのだ。突然《とつぜん》の封鎖《ふうさ》に驚愕《きょうがく》する。なんでこんなところだけオートシステムなんだ!?
「あっ、やべえっ!」
慌《あわ》ててカイが駆《か》け寄って叩《たた》いてみても、もう遅い。さっきの警備員が言っていた、ここは封鎖すると。
「うわわっ、どうなってるんだ!? 閉じこめられた!」
「大丈夫《だいじょうぶ》だよ、どこかに内部通信システムがあるから」
とは言ったものの、ジゼルの視野で認める限り、それらしきものは見当たらない。まあ、どうせアスラが捜《さが》しにくるだろう。そういえば、言いつけを守るの忘れてた。うひゃ、またいじめられるな、これは。
なーんて高をくくっていたら、ガクンと部屋が横に揺《ゆ》れた。地震!? かと思いきや、なにやら身体《からだ》が重くなる。なんだ、これ。
「な、なんだ、重力がかかるぞ」
カイも感じているらしくて、部屋の高いところにある窓を覗《のぞ》く。
「げっ、飛んでる!?」
「えっ!?」
仰天《ぎょうてん》してジゼルもカイに飛び乗って外を見ると、確かに、窓の向こうでは景色が流れ、シティの白い建物、宇宙港の平面、緑の森林がズームアウトしていく。
飛んでいる。しかも、宇宙に向かって。
「な、なんで!? これ、部屋じゃあなかったの!」
「シティに取り付いてた小型機だったのか。ああっ、またドジってしまったーっ」
宇宙港での審査を省《はぶ》いて飛んでいくところを見ると、連邦《れんぽう》の所有機だろう。部屋の入り口かと思っていた場所は、実は小型機用の連結開口部だったのだ。そういえば、E・R・Fの本社にも同じようなハッチが幾《いく》つもあったっけ。そんなことが頭をよぎる。
現実を認めたジゼル、頭がくらくらした。
(冗談《じょうだん》じゃない!)
どうしてなのっ、どうして、また、こんな、どことも知れぬ場所へ連れていかれる羽目に陥《おちい》るなんて! どういう星の巡《めぐ》り合わせなんだっ、あーんっ、どうしてジゼルだけがこんな目に二回も。またアスラにばかにされるーっ、なつめに怒《おこ》られるーっ。
あああ、どうか無事に帰れますように。もめごとになんか巻き込まれませんように。すぐにアスラが迎《むか》えに来てくれますように。
そう祈《いの》りながら、ジゼルは隣《となり》で悄然《しょうぜん》としているカイを思いっきり睨《にら》みつけた。どうしてくれるんだ、この始末!
カイは情けなさそうな面《おも》もちでいたが、現実は現実として受けとめたようだった。
「ええい、こうなったら後は野となれ山となれ、だ。ま、落ちつこう、ジゼル」
なんて無責任なことを言っている。
ああ、今回は全然頼りになりそうにない奴《やつ》が相棒《あいぼう》なのか。ジゼルは気が重くて潰《つぶ》れそうだった。
[#改ページ]
ACT.3
着陸はとてもスムーズにいった。外部からしかけられた|φ《ファイ》ベクトル移動を抜《ぬ》けて、すぐ様、突然《とつぜん》に接地したのだ。これにはジゼルもカイも唖然《あぜん》としてしまった。条例で定められた減速空間がない? どういうこと? 移動先の座標が星の表面にとれるということは、ここは人間の住む星じゃあないかしら。
音もなくシャッターが開いた。不意のことだったので隠《かく》れる暇《ひま》もなく、二人で身を堅《かた》くする。外の目映《まばゆ》い光が差し込んだ。逆光の中、一つの人の陰《かげ》が浮かび上がる。
「あら、変わったお客さんが乗り込んでいるわ。お久しぶりね、カイニス・オーセン」
「その声は、シェーン!?」
驚きと感嘆《かんたん》をはらんだ声をカイは上げる。どうやら知り合いみたいだった。
タラップから部屋に入ってきたのは、黒い肌《はだ》に大きく澄んだ目と白い歯のコントラストが印象的な女性だった。年は二十代後半ってところかな。軽快なスーツで身を固めている。理知的な顔立ちと人当たりのよさそうな雰囲気《ふんいき》が、ジゼルをほっとさせた。とりあえず、有無《うむ》を言わさずに云々《うんぬん》、という第一の危機は免《まぬが》れたようだ。
「シェーン、シェーン、どうしてここに!?」
「それは私のせりふよ、カイ。もしかして、挙動不審な侵入者《しんにゅうしゃ》ってあなたのことだったの? まったくあなたらしいわ。しかも、隠れたはいいけど、不運にもこんなところに連れてこられるなんてね、これは傑作《けっさく》だわ!」
そう言うと、シェーンと呼ばれた女性、けらけらと笑いまくる。カイは少々照れた様子で、頭に手をやっていた。
「しかたないわね、情報を流したのは私なんだし。いいわ、いいように取り計らってあげる」
「本当かい、シェーン。助かるよ」
気にしないで、とシェーンは手をひらひらさせ、いったん外に出ていった。おそらく仲間のところに話をしにいったのだろう。ジゼルはカイを見上げると、
「カイ、今の人、誰《だれ》?」
「え? あ、ああ、彼女はエルドガ・シェーン。大学時代の先輩《せんぱい》で、今は連邦《れんぽう》の特殊|倫理《りんり》委員会に勤めているんだ。実は今回の情報を提供してくれたのは彼女なのさ。それにしてもなんてラッキーなんだ。俺たち、ついているぞ」
喜々としてカイは答える。確かに、これはついてるぞ、すぐに強力な味方を得るなんて。うん、これでトラブルに巻き込まれないでちゃんと帰れる。よかった、よかった。本当によかった。
「ところで、ここはどこなんだ。外に出てみようぜ」
不安が除去されると、俄然《がぜん》好奇心が湧《わ》いてきて、二人で外に出てみた。そして、そのまま呆然《ぼうぜん》と立ち尽《つ》くしてしまった。
この世界は一体。
ジゼルの視野に入ってきたのは、一面の瓦礫《がれき》の山々だった。宇宙機が着陸した辺りは、確かに整備され、小さな建物まで建っている。だが、それ以外は一つとして元がなんだったかも判別できない、破壊《はかい》され、錆《さ》び付いたガラクタだった。それが大地を埋め尽くし、三百六十度えんえんと広がっている。
減速空間がなかったのは当たり前だ。ここには保護すべき人間の生活環境はない。ここは、見捨てられた土地だったのだ。
「いったい、この星は……」
愕然《がくぜん》とした言葉がカイの口から洩《も》れる。崩壊《ほうかい》した文明の跡地。それこそ、草一本生えていない。ここはゴミ捨て場のなれの果て、なのだろうか。
「カイニス・オーセン? 私がこの先行調査隊のリーダー、柴《さい》旋舟《せんしゅう》だ。シェーンから話は聞いたが、事情はどうであれ、ここでは私に従ってもらう。聞いてるか?」
機首の方からシェーンとともに五人の人間がやってきて、うち一番|年嵩《としかさ》の男がカイに話しかけた。ようやくジゼルたちは呪縛《じゅばく》から解放されて、それでもまだ唖然《あぜん》としたまま彼らと向き合う。
「お、おいっ、ここはどこなんだ? この星はどうなっちまった星なんだ!?」
「ここはフェルドワント・コルソだよ、知っているだろう、トラック諸島の」
「フェルドワント・コルソだーっ?」
さらに仰天《ぎょうてん》した声を上げるカイ。ジゼルもたまげたぞっ。なんという奇遇、フェルドワント・コルソこそ、当初のアスラの目的地じゃあないか。これはどういうことなんだ? ジゼルがとても幸運なのか、それとも必然なのか。
「フェルドワントは立入禁止区域だぜ、なんでそんな」
「我々は調査委員会の先行隊なんだ。後から本隊がやってくる」
「本隊?」
「E・R・Fコーポレーションのアスラさんの一行だ。ここの実質的な管理は彼らが行っている。我々の仕事は下見といったところか。一|企業《きぎょう》にここの実態を捏造《ねつぞう》させないよう、監視《かんし》の役目も果たす」
柴旋舟さんは事務的な調子でカイに答えた。なんだ、必然的だったということか。ちょっと安心したりもするジゼル。あまり偶然というものは続いてほしくない。でも、E・R・Fグループがこんなところまで進出していたなんて知らなかったなあ。『人類文明の末端にまで名が普及《ふきゅう》している』という謳《うた》い文句は満更《まんざら》でもなかったというわけだ。ジゼルは改めて感心してしまった。
「じゃあ、E・R・Fの人間も……」
「いるわよ、ほら、あそこに立っているブラウンの髪《かみ》の人。アド・シースさん」
シェーンが指し示す人物を見ると、痩《や》せて、ひょろりと背の高い男性が、少し皆さんから離れて佇《たたず》んでいた。ジゼルには見覚えがない顔だけれど、どうやら向こうは知っているみたい。冷静でなに食わぬ表情でいるけれど、しっかりジゼルを凝視《ぎょうし》している。目だけは驚きが隠《かく》せていない。うむむむ、ジゼルも有名人だったんだ。
でもよかった、エルシの人がいて。やばくなってもなんとかごまかしてもらえるだろう。ちゃんとアスラのところへ帰してもらえるだろう。
カイは彼に一瞥《いちべつ》を与えると、興味深げに、
「なんで彼らが関わってくるんだ? 連邦《れんぽう》の技術では対処できないところなのかい、この星は」
それを聞くと、シェーンと柴さんは顔を見合わせ、それから彼女は吹《ふ》き出し、おじさんは露骨《ろこつ》に呆《あき》れ顔になった。そこへ、
「おお、なんたることか! 我らがカイニス・オーセンが、こんな初歩的な知識さえその輝かしい金色の頭の中に収まっていないなんて! おお、神よ、この愚《おろ》かな若者の行く末を見守りたまえ――なんてな」
な、なんだあ? えらく芝居《しばい》がかった口調で、腕《うで》を振《ふ》り回しながら二人の間から現れた男を、ジゼルは唖然《あぜん》と見つめた。それは、雀《すずめ》の巣が作れそうなもじゃもじゃの金髪と灰色の瞳《ひとみ》を持った、筋肉もりもりの偉丈夫《いじょうふ》だった。この繊細《せんさい》な学術調査団にはまったく適していない、どこかのボディビルダーが紛《まぎ》れ込んでいるような感じだ。この人も連邦の職員さん? そりゃあ見た目で決めつけるのはナンだけれど、納得《なっとく》できないぞ、ジゼルは。
「え……ええ? クリーク・タナ? 先輩《せんぱい》!?」
「よう、久しぶりだなあ、カイ。卒業以来だ」
ジゼルがキョトンと見上げる中で、わははと豪快《ごうかい》に笑いながら、彼はカイに抱《だ》きついた。どうやらこちらも知り合いらしい。シェーンといい、この筋肉マンといい、どういう偶然なんだ?
「なんだ、君たちは既知《きち》の仲なのか」
「はい、隊長。こいつは大学時代の後輩《こうはい》だったんっすよ。相変わらずまぬけたことをやらかしたなあ、カイ」
「そうか、君たちはデテール大学の人間だったな。オル・シンくんもそうだった。ふむ、このチームの半分はデテールの出というわけか」
柴隊長の少し嫌《いや》みっぽい言葉で、ジゼルは納得した。デテール大学を出ていれば最低でも連邦の職員にはなれるんだもの。必然と知り合いが集まるわけだ。でも、それって、なんか怖《こわ》くない? 一種の閉鎖《へいさ》状態だ、なあなあの世界は公的集団にはよくないと思う。
まるでたくまれたような必然の重ね合わせに、ジゼルはちょっと興醒《きょうざ》めした。本当にたくまれているんじゃないかしら。そこら辺でアスラが見ていたりして。うーむ、ありえそうだから怖いなあ。
「く、くるしい。先輩、助けて」
「おっと、すまん、すまん」
クリーク・タナの筋肉に埋没《まいぼつ》していたカイは、ようやく解放されて、ぜいぜいと肩《かた》で大げさに呼吸していた。
「相変わらずバカ力なことで。でも、どうして先輩がここにいるんです? 確か、サイバネティックス規制委員会に採用されたんじゃあ」
なんだって!? ジゼルはぎょっとして筋肉マンを食い入るように見つめた。別に、その人事がひどく意表を突《つ》く、彼にはまったく似《に》つかわしくないものだから、というわけではない。
サイバネティックス規制委員会。人工知能に対する最高の権限を有する機関。彼らが事細《ことこま》かに決定した基準に従い、すべての人工知能を備える機械、及び人工知能を必要としない単純|精密《せいみつ》機器でさえも、一律一様に製造される。
【必要以上の知能を持たせない。自我・感情を持たせない。人間とは異質であることを明確にさせる】。これが機械に対する、第一。基本規制だ。すべてはあの時代を繰り返さないための、結果。
コンピューター大暴走時代のための。
……デイニの言葉が耳について離れない。
(生体機械であると、あまり言わない方がいいわよ)
(ライフ・サイエンス法にもサイバネティックス規制法にも引っかかるから)
あれは、どういうこと?
「なあーに、俺はまだ下《した》っ端《ぱ》だけれど、ちゃんと委員会の用で来たのさ。ここはそういうところなんだ」
「?」
「はっはっはーっ、内緒《ないしょ》にしておいてやるよ、ここがどんな星か。さあ、行こうぜ」
「行くって?」
「我々は先行調査隊だ。本隊が来る前に下検分をせねばならん。部外者は立ち入らせたくないんだが、ここに一人置いていくわけにもいかない。同行してもらうよ」
柴さんがきょとんとしているカイに説明した。みんな、にやにや笑っている。
いったい、ここはどういう星なんだ? あのアスラに面白《おもしろ》いと言わせた星だ、なんかある、絶対へんなものがあるに違いない!
一抹《いちまつ》の不安。心細いなー。アドさんをすがるように見ると、彼はみんなに気づかれないようにウインクしてみせた。
「ところで、カイ、さっきから気になっていたんだけれど、そのねこちゃんはなんなの? あなたのペット?」
ようやくジゼルに話の矛先《ほこさき》が向けられた。身体《からだ》が嫌《いや》でも硬直《こうちょく》する。無意識にクリーク・タナに視線がいった。カイの説明|次第《しだい》では、奴《やつ》にとっ捕まるかもしれない。喋《しゃべ》る猫《ねこ》。サイバマシンの可能性。なのに、感情規制されていない。違法。連行。解体。次々と恐《おそ》ろしい言葉が連想され、ジゼルは自分が震えているのに気がついた。
ジゼルは、自分がなにものなのかも知らないのに。サイバマシンであるかどうかも知らないのに。
間延《まの》びしたカイの声。
「こいつはデイニの、妹の友達さ。ジゼルって名前で、クリフォード・ステイシィ捜索《そうさく》の仲間なんだ」
「あら、こんなねこちゃんが? 頭がいいのねえ」
近寄ってきたシェーンがジゼルを抱《だ》き上げようとするので、とっさに身を翻《ひるがえ》し、たたと走って上手《うま》い具合いにアドさんの足元に隠《かく》れる。彼に素直に抱《かか》えられると、彼女は、まあ、と不満げに言ったけど、それだけだった。でも、クリーク・タナのどこに焦点《しょうてん》があるのか判らない色の瞳《ひとみ》が、常にジゼルを追っているようで、絶対的な味方の腕《うで》の中にいても落ちつかなかった。
「さあ、皆さん、そろそろ行きましょう」
それまでひっそりとしていたアド・シースが声をかけた。みんなは頷《うなず》くと、建物の方へ歩き出す。カイはシェーンと話しながら先に行ってしまった。少し彼らとの間隔が空くと、アドさんは初めてジゼルに向かって口を開いた。
「君はなつめお嬢《じょう》さまのところにいるジゼル君だね。アスラさんと来ることは予定に入っていたけれど。このことはアスラさんは承知している?」
「ううん、手違いでここに来ちゃったの。アスラに連絡《れんらく》とれる?」
「それは僕がやるから安心して。いいかい、ここでは口を開かない方がいい。普通《ふつう》のねことして振舞《ふるま》ってほしいんだ。解るね、サイバネティックス規制委員会に目をつけられては困るだろう」
ジゼルは頷いた。でも、この人、ジゼルのことをどれくらい知っているのだろう。ふとそのことを思い付き、声をかけてみる。
「あ、あのっ……」
「カイニス・オーセンもまだ気づいてないようだな。彼には注意するんだよ」
早口に伝えると、アドさんは元の控《ひか》え目で目立たない人物に戻《もど》ってしまった。他の人に追いついたせいでジゼルも質問ができなくなったが、カイに注意しろだって? どうして? どこを
……カイはもう知っているんだけれどな、ジゼルが喋れるってこと。どうしてさっき言わなかったんだろう、こいつはサイバマシンだよ、って。面倒《めんどう》を起こしたくなかったのかしら。
それから、一行は建物の中からいくつかの荷物を運びだし、車に乗せた。オープンカーは結構大きく、十五人用と表記されている。ジゼルはカイの手に渡された。それが自然だった。全員が乗り込み、アドさんが運転席に座る。すると、なにやら薄紫《うすむらさき》の光を帯びたシースルーのバリアが車を覆《おお》った。【隔壁《かくへき》】だ。詳《くわ》しいことは知らないけれど、薄紫色を帯びているというのは、なんか特殊な奴《やつ》じゃなかったっけ? なんとか電磁波《でんじは》を遮断《しゃだん》するとかしないとか。それとも病原菌《びょうげんきん》だったか。紫外線《しがいせん》だったかな。
反重力システムが作動して、すっと浮上する。
「面白いものが見られるわよ」
シェーンがアスラと同じことを言った。ジゼルは黙《だま》り続けて、車が加速するにつれて流れていく、ごみ一色の景色を眺《なが》めていた。
車はしばらく単調に走っていた。目的地はまだまだ先らしい。みんなはとりとめがない話をしている。カイはシェーンと、デイニの恋人《こいびと》について語っていた。
「あいつは昔からヘンな奴だったのさ。なんというか、コンプレックスを持っていてね」
「どんな?」
「自分が非積極的であることに対してのコンプレックス。自分はなんかやらなくっちゃいけないんだ、って思い込みがあって、いつも義務感を持ってるんだ。ハイスクールの時、学生大会にクラスから出す代表を選んだことがあってさ。そんなもの、面倒くさくって誰もやらなかったんだな。そこへクリスが立候補した。誰もが知っていた、奴はそういうタイプの人間じゃないと。代表者なんてクリスの柄《がら》じゃないんだ。大人しくって、学者|肌《はだ》で、人を引っ張ってく能力があるとはお世辞《せじ》にも言えないんだよ。当人もそのことをよく自覚していた」
「でも、そのコンプレックスが彼を立ち上がらしたのね。すばらしいことじゃない。やる気を起こすのはいいことだわ。挑戦《ちょうせん》は進んでするべきよ」
「結果はうちのクラスは散々だった。六月祭の支給金を勝ち取れなかったのさ。俺たちはみーんな赤字だった」
「そんなこと。不満を言うなら、どうして自分が代表にならなかったのよ。文句は言えないわ」
「それだよ、問題は。奴は後からくる『なにもしなかったから』の責任から逃れたいために、立候補したんだ。クリスはそうやって小さい頃《ころ》から生きてきた。融通《ゆうずう》のきかない人間なんだ。ちょっとでも安全パイがないといけない、そういう観念で生きている。この考えは奴から聞いたんだ。俺みたいにへらへら生きているのが信じられないってさ」
「それはそうね。あなたは行き当たりばったりの人生ですもの。どちらがいいとは言わないけど、神経質そうな人だわ、クリフォード・ステイシィ」
「俺は、実はデイニもクリスにとってはただの安全パイだったのかもしれない、と疑ってる」
「やめなさいよ、そんな風に考えるの」
「ああ、そうだな……クラスのみんなのためになにかしなくちゃならない、この故郷のためになにか、世界平和のために、社会のために、人類のためになにか、おお、この世の中のために――! がんじがらめさ、奴は。その考え方は立派だし、正義で、誰もが声を大にしてやれと、するべきだと言うことだ。シェーンも言ったろう。でも、クリスは一番|肝心《かんじん》な、自分のために、ってものを間違《まちが》えているんだ」
その会話を聞きながら、ジゼルは以前アスラに見せてもらった、世にも末な教育ドラマ、【道徳】を思いだしていた。どこかの閉鎖《へいさ》的な惑星《わくせい》で、理想的な子供を育てるために作られたドラマだそうだけれど、あまりに非現実的なので、ばかばかしかった。アスラはけちょんけちょんにけなしていたっけ。
クリフォード・ステイシィという人は、まるでそのドラマに出演していた『理想的な』人間のように思える。正義感の強い、それでいていい子でいることにコンプレックスを持ったまま大人になった人間。そんなイメージがジゼルの心の中に描かれた。
「いつだってクリスは辛《つら》そうだった。自分は正しいのになにか理不尽《りふじん》な気がする。疲労《ひろう》と倦怠《けんたい》。なぜここまでしてやらなくちゃあならないのか。でも、辞めていい理由もない。奴《やつ》が苦しむのは、その理想を貫くのに自分が向いているか向いていないか解っていないからなんだ。俺は、今回の失踪《しっそう》、そこら辺に原因があるような気がする」
「どういうこと?」
「妹が見たという、ストーンサークルの教授の研究は、立派な大義名分があったんだ。もしかして、あいつはその大義名分に動かされて――」
「なんだ、なんだ。しばらく会わない内に理屈《りくつ》っぽくなったじゃないか、カイよう。いろいろ詮索《せんさく》してるみたいだが、人間のココロなんて、理屈で理解できるほど機械じみてねーよ。特に、男と女の気持ちなんて、犬も食わぬなんとやらだ。部外者のおめえがとやかく理詰《りづ》めで納得《なっとく》しても無駄《むだ》だよ、ムダ」
不意に脇《わき》から口を出してきたクリーク・タナが、細いカイの肩《かた》をはたいた。痛いなあ、とぼやきながら、カイが応《こた》えるには、
「でも、時として、なんとか理屈をつけて納得しないとやりきれない場合がありますよ。男と女の仲はともかく、俺はあいつの数少ない親友でいたつもりなんだ。その親友になんの相談も言葉もなく、いきなり失踪するなんて、こっちが情けないじゃないですか。暇《ひま》になると人間、いらぬことまで考えるんですよ」
「おうおう、さすが半学生は暇だねえ。でも、あの美人の妹をフる、たわけた野郎ってのは誰なんだ?」
「クリフォード・ステイシィ、大学の院生よ。ほら、例のストーンサークルの一員だったの」
「ははあ、あれか。やっと話がつながったぞ」
「俺には解らないよ、あいつが単に事件に巻き込まれただけなのか、それとも進んで失踪したのか。捜《さが》して見つかるものか、見つけてからどうなるかも。でも、もし、あいつが自分で見つけた道ならば……」
カイは言葉|半《なか》ばに沈思黙考《ちんしもっこう》のていになってしまった。みんなもいたわるように口を閉じる。カイはデイニのためだけでなく、自分のためにもクリスを捜しているんだ。自分が親友として認められていなかったという事実を打ち消すために。
それにしても、とジゼルは首を傾《かし》げた。大義名分だって? なんだろう、それ。ジゼルは覚えていないぞ。少なくともジゼルの聞いていた限りでは、知らない。後から得た情報なのかしら。
(…………)
あんなマッドサイエンティストに与える大義名分なんかないやいっ。
あの科学者のことを考えると、無性《むしょう》に腹がたってきて、ジゼルはぷいと視線を外に向けた。
見ると、いつの間にか瓦礫《がれき》の山は消えていて、黒々とした土の小山がなだらかに、地平線の彼方《かなた》まで続いているのが目に入った。瓦礫はあそこら辺だけだったのかしら。そう考えていると、車が不意に減速して停止した。
前方を覗《のぞ》くと、驚いたことに唐突《とうとつ》にゲートがあった。なんの前触《まえぶ》れもなく、土の大地に突然《とつぜん》設置されたゲート。置き去りにされたみたいだ。一体、なんの意味があるんだろう。そう訝《いぶか》っていたら、
「ここから先は隔壁《かくへき》の中です。皆さん、必要以上に周《まわ》りを刺激《しげき》しないでください」
アドさんが説明してくれた。なるほど。見えないだけで、ちゃんとゲートは本来の役割を果たしているのだ。隔壁の入口である扉《とびら》をよーく見ると、E・R・Fコーポレーションの社章が入っているじゃないか。本社が手をつけている、ということは、この隔壁の中にあるものはかなりの代物だぞ。
ゲートが観音《かんのん》開《びら》きに開かれる。車はその中に静かに滑《すべ》り込《こ》んだ。かなり大きな隔壁。カイがごくんと喉《のど》を鳴らすのが聞こえた。
隔壁の内部が眼前に広がった。
ところが、大方の期待を裏切って、中は、再びガラクタの世界だった。なんだ、なんだ、拍子《ひょうし》抜《ぬ》けしたぞ。確かに、今までの黒々とした大地とはうって変わった世界になったが、単にフリダシに戻《もど》っただけじゃないか。むき身の風景が地平線まで続いていると錯覚《さっかく》したのは、隔壁に反射した鏡像を見ていたせいだったんだ。期待して損《そん》した。
カイの方も、隔壁による世界の変化に驚いていたが、結局、前となんら変わるところはない世界だと気づいて、憮然《ぶぜん》としている。
でも、これでゲートのどちら側が隔壁でくくられているのか判らなくなったぞ。どっちも差がないのだから。ガラクタをしまいこんでおくのが目的とも思えないし。なにが面白《おもしろ》いところなんだ? ジゼルの代りにカイがその疑問を口にする。
「なあ、これが面白いものなのか? このガラクタの山が」
「まだまだ先よ。焦《あせ》らないで」
くすくすと、シェーンがあやすように応《こた》えた。
車は再び単調な景色の中を走った。隔壁はこちらの景色も反射しているだろうから、どこからどこまでが領域《りょういき》なのかてんで判らない。どのくらい巨大《きょだい》な規模《きぼ》でくくられているのだろう、これはかなり広大だぞ。車はどんどん先に進むが、それらしき面白いものは一向に見あたらない。まだまだ、地平線の彼方ということか。惑星《わくせい》の半分も隔壁でくくられていたりして。まさかね。
退屈《たいくつ》な地平を眺《なが》めるのは諦《あきら》めて、今度は青空へと視線を投げかける。
雲一つない、乾いた青空である。
(あ)
思わず声を上げるところだった。
なにかが空を飛んでいる。遥《はる》か遠くの空に、なんだか黒いものが見える。形も大きさも掴《つか》めない、ただの点だけれど、なにかある。なんだろう。
と、にわかに異様な音が耳に飛び込んできた。キーン、と空気を裂《さ》くような鋭い音。黒い点とは別の方向から。これは……?
首を回し、じっと音の入ってくる方を見据《みす》える。そんなジゼルに気づいたか、
「おい、どうしたんだ、ジゼル……」
カイが言い終わらない内だった。
頭上高く、恒星《こうせい》を背にした一点が、突然に輝きを強め、惑星の中でコロナを放出した。
カッと世界が反転した。
黒いものは白く、白いものは黒く、そして、彩りは透き通った。無彩色の空間には光子が充満《じゅうまん》し、ガラクタを、人体を、大地を貫く。
[#挿絵(img/compass_166.jpg)入る]
一瞬のちに、視界は閃光《せんこう》で真っ白に塗《ぬ》りつぶされた。質量を持たない光が、物理的な痛みを持って眼球に突《つ》き刺《さ》さる。
そして、遅れて轟音《ごうおん》。衝撃波《しょうげきは》。
大気の津波に襲《おそ》われて、あっさりと車は転覆《てんぷく》した。乗員はすべて放り出される。もちろん、ジゼルも。パニックも生じない、一瞬のできごと。遠くで甲高《かんだか》い悲鳴。
びりびりと大気の振動《しんどう》が肌《はだ》で感じられ、突風《とっぷう》が身体をもみくちゃにする。視界がきかない。なにも見えない。
大地に叩《たた》きつけられる前に、ジゼルは木の葉のように舞《ま》いながら失神した。今の閃光で、多分、レコードは破壊《はかい》されちゃっただろうなあ、なんて呑気《のんき》に考えながら。
[#改ページ]
ACT.4
まただ。
ジゼルには確信があった。これは『夢』だ。また『夢』を見てしまった。
ジゼルの隠《かく》された記憶の内から引きずり出される、過去の『夢』。
視線を巡《めぐ》らすと、そこは幾《いく》つもの巨大《きょだい》な瓶《びん》の並ぶ空間だった。ほの暗く、でも、視界はきく程度の明るさを持っている。幾何学模様《きかがくもよう》。直交座標の格子《こうし》が、四方八方を取り囲む。まるで|φ《ファイ》ベクトル空間の中にいるようだ。座標の観念で成立した空間。瓶は一列に直立している。
瓶?
瓶も座標空間も、現実ではなかった。そういうものだったような気がする、イメージの具現化でしかない。ここのことを、ジゼルははっきりと覚えていない。でも、ここはもっとうるさかったはずだ。音があった。
どくん。
どくん。どくん。
音。そう念じると、不意に音が響《ひび》きわたり始める。どくん。どくん。これは血脈の音。まるで空間自体が血を通わせ、内部にいるものに聞かせているようだ。
瓶は聞いていた。ずっと聞いていた。
なぜ? なんのために?
そっと中を覗《のぞ》いてみる。瓶は満々と液体《えきたい》をたたえていた。そして、眠《ねむ》るように水底にあるのは、脳《のう》。
やあ。
ジゼルは呼びかける。やあ、君はボーヴォール星で会った脳だね。あれからどうしていたんだい。あのマッドサイエンティストと一緒《いっしょ》に国外退去させられたの?
脳はぶくぶく泡《あわ》を立てながら笑う。
なにを言ってるんだね。違《ちが》うよ、それはこれ[#「これ」に傍点]じゃあない。
これ[#「これ」に傍点]は、あんたと一緒にいたのに、目覚めなかった脳さ。ほら、他のも見てごらん。
促《うなが》されるままに、ジゼルは他の瓶も覗き込む。そこには、大小さまざまな脳がジゼルを見返していた。
これ[#「これ」に傍点]は、あんたと一緒にいたのに、目覚めなかった――の脳さ。
これ[#「これ」に傍点]は、あんたと一緒にいたのに、目覚めなかった――の脳さ。
これ[#「これ」に傍点]は、あんたと一緒にいたのに、目覚めなかった――の脳さ。
これ[#「これ」に傍点]は。
同じことをどの瓶も繰り返し繰り返し言う。
小さな瓶が奥の方に、ひっそりと置いてあるのに気づく。あれだ。そっと近寄って中を見る。
そこに、ジゼルが眠っていた。白い毛並を水になびかせ、瞼《まぶた》を閉じて眠っている。
じゃあ、自分はなんなのだろう。ジゼルではないのかしら。
ジゼルは水の中から答える。
あんたは一人称でなんか自分を呼べないよ。だって、あんたはあんたじゃないもの。
あんたはこれ[#「これ」に傍点]と同じ。これ[#「これ」に傍点]と一緒。これ[#「これ」に傍点]は一人称を持てなかった。あんただって持てなかったはずなのに。
あんたとすべてが同じで、いつでも一緒にいたのに、これ[#「これ」に傍点]は目覚めなかった。
これ[#「これ」に傍点]は、あんたと一緒なのに、目覚めなかった――だ。
あんただって本当は目覚めてないんだ。これ[#「これ」に傍点]は目覚めることができないんだ。目覚めてはいけないんだ。
どうして、瓶の外に居るの?
「…………」
涙がこぼれていた。夢の中のジゼルはちっとも感情なんか持っていなかったくせに。頭が痛い。寝ながら泣いていたから。
なにを暗示する夢だったのか。わからない。わかりたくもない。
ぶるっと身震いした。思考の戦慄《せんりつ》が背筋を走る。
怖《こわ》い。なんだろう、あの感触。わからない。怖い、こわい!
(なつめ、なつめ!)
繰り返し繰り返し、ジゼルは呪文《じゅもん》のようになつめの名を呼んだ。なつめがいれば怖くない。なつめがいれば不安は消える。自分のことなんか考えなくなる。なつめ、ここに来て。なつめ、ジゼルを抱《だ》きしめて。お願い、なつめ。なつめ、なつめ。
その祈《いの》りが、我《われ》知《し》らず口から洩《も》れてしまったらしかった。
「あら、気がついたの」
突然《とつぜん》に声がかかり、仰天《ぎょうてん》してジゼルは飛び上がった。ようやく目が覚めたという事実を認識し、慌《あわ》てて周囲の状況《じょうきょう》を確かめる。
そこは、全然見知らぬ場所だった。
どこかの部屋だった。こぢんまりとしているけれど、よく整理された部屋である。基調をピンクと白でまとめて、机《つくえ》と椅子《いす》、可愛《かわい》い壁掛《かべか》け、はめ込《こ》みのモニター、ソフトウェアチップの並んだ棚《たな》、幾《いく》つかのはめ込みパネル、束《たば》ねられたカーテン。どこからどこまで少女|趣味《しゅみ》で統一された部屋である。ジゼルはふかふかのベッドで寝かされていた。部屋の持ち主は、瀟洒《しょうしゃ》な椅子から立ち上がり、ジゼルに近寄ってきた。
「……ここは」
「あたしの部屋よ。よかった、内傷もないみたいだね」
にっこりと微笑《ほほえ》む。年はどのくらいだろう。十二、三? はっとするほどではないけれど、なかなかに可愛い少女だった。白い肌《はだ》に緑色の双眸《そうぼう》はいいけれど、髪《かみ》の色まで緑に見えるのはジゼルの色彩感覚がおかしくなったのかしら。それとも、そういう星なのかな。
星?
ジゼルは再び仰天して飛び上がった。そうだ、ここはどこだ!? 確か、ジゼルは見捨てられた惑星《わくせい》、フェルドワント・コルソにいたはずだぞ! こんな、文明開化の生活があるような場所じゃなかった!
「こっ、ここはどこ!?」
叫《さけ》んでからはっと息を呑《の》む。
喋《しゃべ》ってる。ジゼル、人語を喋っちゃってる。まずい、不用意に喋ってしまった。うわわ、機械アレルギーの星だったらどうしよう!
恐《おそ》る恐る少女の顔を仰《あお》ぐと、彼女はきょとんとした面《おも》もちでいた。別段、おののき恐れたり、薄気味悪がったりはしていない。それはありがたいことだったが、エルシ以外の星の人間として、当然あるべき拒絶《きょぜつ》反応がみじんも見られないとは、こっちが不安になってしまう。声を低くして、なるべく相手を刺激《しげき》しないように聞いてみる。
「……変に思わないの?」
「なにが?」
「喋れること……」
「? ちゃんと聞き取れるわよ、変な訛《なまり》があるけど通じるし。公用語は大抵《たいてい》喋れるものじゃない?」
なんだか話が食い違っている。本当に猫《ねこ》が喋ることに疑問を感じていないんだ。喋るものは喋るんだ、と納得《なっとく》している。サイバマシンがそれほど珍しくないのかしら。それとも、また魔物《まもの》だの妖精《ようせい》だの、その手合いだと信じているんじゃないだろうな。
一体、ここはどこなんだろう。
「……ここ、どこ?」
「え。ああ、覚えてないんだ。きみはトリカンサスシティの外れで気を失っていたんだよ。偶然《ぐうぜん》、通りかかったあたしが拾って。ここはトリカンサスシティにあるあたしの家なの。あたし、エリノア・コンジュゲイト。キミは?」
「ジゼル……トリカンサスシティ……」
ジゼルは口の中で幾度《いくど》かその都市名を呟《つぶや》いた。聞いたことのない都市である。そりゃあジゼルの知らない街なんか、それこそ星の数ほどあるが、フェルドワント・コルソに都市だって? 立入禁止区域に、都市。ありえるはずがない。
考え込むジゼルに、エリノアは眉《まゆ》を寄せた。
「どうしたの、ジゼル」
「ここ、どこの星?」
単刀直入に尋ねてみる。どうしても信じられなかった。ここが、あのフェルドワント・コルソだなんて。人がいること自体、異常だ。
エリノアはぽかんと口を開けていたが、急に声を上げて、
「いやだ! キミ、からかってるの? それとも、自分は異星人だなんて言うんじゃないんでしょうね」
「え? ここの星の住人ではないけれど」
「本気? しかたないわね、あたしたちはこの星をガイアと呼ぶわ。ねえ、もしかして、記憶《きおく》が混乱《こんらん》していない?」
「そ、それは、確かに記憶|喪失《そうしつ》中だけれど」
ジゼルはエリノアの言葉をろくに聞いていなかった。それどころじゃなかった。
ガイア星。ガイア。聞いたことのない星。
そりゃあ、ジゼルの知らない星など、星の数ほどあるに決まっている。でも、でも、本当にフェルドワント・コルソじゃないなんて! うひゃーっ、どうなっているんだ、どうして違《ちが》う星になんかいるんだ!? 気を失って倒《たお》れていたって? 救急|医療《いりょう》に他の星に運び込まれたということでもないみたいなのに。ジゼルの頭の中はパニック状態だった。それに、追い打ちをかけるように、
「まさか、自分は宇宙船に乗ってはるばる遠い宇宙からやってきました、なんて夢物語みたいなこと言うんじゃないでしょうね」
おかしそうにエリノアが言う。
くらり。
宇宙船[#「船」に傍点]?
夢物語?
くらり。くらくら。頭がくらくらする。身体も一緒になってぐらぐら揺《ゆ》れて、ばたんと倒れそうになった。
なんでそんなことを言うんだ?
ジゼルは飛び上がって出窓に立ち、そこから広がる街の光景を目にした。
ああ。
ここは、一体どこなんだ?
目も霞《かす》むような摩天楼《まてんろう》。バビロン。
窓から見える光景が、脆弱《ぜいじゃく》なジゼルの三半規管《さんはんきかん》を狂《くる》わせる。そこは、地上から何百メートルと離れた、高層《こうそう》ビルの一角だったのだ。ごくりと息を呑《の》む。恐《おそ》る恐る下を覗《のぞ》いてみると、下の通りを闊歩《かっぽ》しているはずの人間は、豆粒《まめつぶ》にさえ見えなかった。点としてさえ存在を判別できない。しかも、ここは建物の最上階というわけではなかった。目前にところせましと林立するビルの群れば、更に天高くそびえたち、屋上は雲霞《うんか》の中に隠《かく》れて見えない。
高い。
とにかく、高い。鬼《おに》のようにたかーいっ!
ジゼルは足がすくんでいるのに気がついた。高いところが好きな猫《ねこ》であるが、これ以上、下を見続けることはできない。なんなんだ、この高さ。どうしてこんなに高いんだ、ここはーっ。
エルシで最も高いビルはE・R・F本社の建物である。日照条件がうんたらとやかましくて、シティでは高層《こうそう》ビルがほとんど建てられない現状だ。そのE・R・F本社の最上階さえ胸元に届かないほどの高度。
無論、この位の高さなんか、宇宙機やヘリなんかに乗る際によく経験するものだ。でも、なんというか、感覚が違うのである。飛行機から鳥瞰《ちょうかん》する時と、建物から下を見る時と。
これほどの摩天楼《まてんろう》を建築・維持《いじ》ができる文明度の惑星《わくせい》はどこだ?
ジゼルは必死になって記憶をたぐり寄せた。窓の向こうに吹《ふ》き荒れる高層風、地盤《じばん》沈下《ちんか》、高度な建築技術、それらの問題に対処できる文明を持つ星は、今はもう僅《わず》か。ならば、星の名前くらい聞いたことのある可能性は高い。ガイア。だめ、思い出せない。
待てよ。
こんな高度文明を維持している星の住民が、どうして『宇宙船』などという言葉を使うんだ? それに、異星人が夢物語って?
…………
「エ――エリノア、星図、ある?」
「星図って?」
きょとんとした面《おも》もちで彼女は聞き返す。心臓がどきどきしている。ジゼル、落ちついて。次の言葉を聞いて。
「あ……連邦《れんぽう》、宇宙連邦って知ってる?」
果たして、エリノアはジゼルが予想した、しかし最も聞きたくなかった返事をしてくれたのだ。
「宇宙連邦? なに、それ。やだあ、SFの見すぎじゃない」
くらり。聞いてはいけないことを聞いてしまった。
あああ。いったい、この星はどこなんだろうか。ジゼルは頭がくらくらしてもう一回寝込んでしまいそうだった。いや、そうできたらどんなに幸せなことか。
ジゼルの不幸はまだまだ続くようだった。最近、ずっとこのせりふばっかり。ひーん、助けてーっ。
エリノアとジゼルは、彼女の部屋でしばらく話し込んだ。
彼女の説明によると、ジゼルはトリカンサスシティの郊外《こうがい》で、ぺたんと倒《たお》れていたそうである。シティ郊外は荒野が広がっていて、人はほとんど近寄らない地域だという。なぜなら、爆撃《ばくげき》に巻き込まれる可能性の高い場所だから。
「戦争しているの、隣《となり》のゴルト人民解放共和国と。シティは対爆撃バリアが覆《おお》っているから安全なんだけれど、郊外まではね。今朝も爆弾《ばくだん》が落ちたんだ、あたしはまだバリア圏内《けんない》にいたから安全だったけど、キミはきっとその爆撃に巻き込まれちゃったんだよ。それで頭が巧《うま》く回ってないだけ」
「爆弾……」
ジゼルは考え込んだ。そうだ。フェルドワント・コルソでジゼルたちは何者かに爆撃されたんだ。そして、エリノアの言う隣国《りんごく》からの爆撃。この符合《ふごう》は偶然《ぐうぜん》のものだろうか。
「それで、記憶がこんがらがって自分は宇宙から来た異星人なんて考えてるわけ。あはは、冷静に考えてよ、どうして異星人が猫《ねこ》の姿しているの。エイリアンはもっとグロテスクな化物《ばけもの》と相場が抉ってるでしょう?」
「それは違《ちが》うよ……」
ジゼルは迷った。正確には異星人なんて存在しない。現在、銀河に広く存在する人間は、すべてたった一つの星から発生した生物であり、その他の星から発生した知的生物には、宇宙|開拓《かいたく》以来、未《いま》だに遭遇《そうぐう》した事実はないのだ。植民した星の環境によって、身体の多少の変化はあるものの、グロテスクな化物になるわけない。
それを、説明してよいものだろうか。
この星が、実は見かけほど文明は高くなく、衰退度《すいたいど》9の連邦の存在|拒否《きょひ》、外宇宙の存在拒否を許してしまった惑星《わくせい》であるなら、おいそれと話していい内容ではない。言ったところでどうにかなるものでもない。でも、あのボーヴォール星でさえ衰退度7、レベル9まで達した星で、この摩天楼《まてんろう》が維持《いじ》されているとは考えにくいなあ。でも、それはジゼルの固定観念かもしれない。となれば、エリノアの言葉も態度も納得《なっとく》がいく。
ここは惑星ガイア。太陽に恒星《こうせい》マルスを戴《いただ》いた、第三惑星。星系名はなく、どこのブロックに所属しているのかも判らない。ガイア、多重国家惑星。衰退度が高くなると惑星国家の形態は崩《くず》れ、内部にいくつもの小国家が現れるのはよく見られることだ。
だからといって、これらが判ったところで、どーしてジゼルがこの星にいるのかという謎《なぞ》は、全然解決できないじゃないかっ。
ジゼル、考えるに。
その一。爆風に叩《たた》かれ失神したジゼルを、後から来たアスラが発見して、こいつは面白《おもしろ》いとこの星に秘《ひそ》かに連れ込み、放り出した。
その二。コルソでの爆発によって、空間がねじ曲がり、|φ《ファイ》ベクトル移動よろしくこの星に飛ばされた。
その三。実は、ここはフェルドワント・コルソであり、みんながみんな、E・R・Fの社員で、謎の惑星をでっちあげ、ジゼルにいっぱい食わせようとしたアスラの新しい趣向《しゅこう》の一つである。
その四。ここは夢の中で、強力な外力によってジゼルは現実と錯覚《さっかく》している。もちろん、強力な外力というのは、アスラが理研かどこかで、ジゼルの頭の中を探ろうとして強制指向|催眠《さいみん》をかけている、ということだ。
なんだかアスラが諸悪《しょあく》の根元のような気がしてきた。
まず、その二はありえないだろう。そんなSFじみた可能性は、勘定《かんじょう》にいれるだけ虚《むな》しい。そりゃあ、八百年前までのエルシの【φベクトル封鎖《ふうさ》】とか考えれば、絶対ありえない、とは言い切れないけどさ。
あとの三つはどれも恐《おそ》ろしいほど可能性がある。あのアスラのことだ、なにをやらかしてくれても信じられる。うーっ、ひどい、ひどすぎるーっ。
でも、なんのために?
アスラは突拍子《とっぴょうし》もないことをやる奴《やつ》だが、ちゃんと意味があることしかやらない。この事態にどんな裏が隠《かく》されている? 第一、フェルドワント・コルソで面白《おもしろ》いものを見よう、といったのはアスラ自身じゃないか。
(やっぱり、アスラは関わりないのかな)
不意に、ジゼルは心細くなった。ボーヴォール星の時もそうだったけれど、今回は事情を説明してくれるデイニは存在しない。エルシに戻《もど》れる手段はこちらからはない。捜《さが》し出してもらうのを待つのみの状況《じょうきょう》なのだ。
それがどんなに不安で心細いものか!
人間の身だったらまだしも、猫《ねこ》の身ではどうにも対処できない。えーん、早く捜し出して迎《むか》えにきてよう。世界線を追えば、一日で居場所が見つけ出せるって、アスラ言ったじゃないか。しくしく。
どうやらジゼルの不安は、そのまま顔と態度に出てしまったらしい。それをどうとったか、エリノア、
「大丈夫《だいじょうぶ》よ、ジゼル。記憶|喪失《そうしつ》なんて一時期のものだって。すぐ帰る家も思い出すし、自分がなんなのかも思いだすって」
その励《はげ》ましの言葉に、ジゼルはぎょっとした。自分がなんなのかを思い出す。こんな状況を考えなければ、まさにジゼルはそれを必死になって求めているのだ。
本当に、ここにきたことで思い出せればいいのだけれど、ジゼルの過去。
「ね、外に気晴らしに行こう。なにか思い出せるかもよ」
エリノアがにこやかに笑って提案する。ジゼルは素直に頷《うなず》いた。
部屋を出る。家の中には誰もいないようだった。
「家族の人はいないの?」
「ええ。出かけてるの……」
それにしても、すっごいパネルの数だ。これ、全部|操作《そうさ》パネルでしょう、どの部屋の壁《かべ》も一面覆い尽《つ》くされている。まるで機械仕掛の家みたい。キッチンを覗《のぞ》いてみても、それらしき用品は一つもなく、パネルと開口部、それからシンクがあるきり。つまり、料理はすべて壁の中に仕込まれた機械が行うということだ。そういうシステムキッチンをどこかで見たことがある。エルシではこういう完全システムははやらないな。人間味がなくなるって不評だった。
……衰退《すいたい》度9って、機械仕掛に慣れていたっけ?
そういえば、ジゼルが喋《しゃべ》ること、即《すなわ》ち機械であり人工知能を備えていることを、エリノアは厭《いと》わなかった。コンピューター大暴走時代ですっかり機械アレルギーになった、衰退度9の惑星《わくせい》で? 彼女は特別なのか? やっぱり魔物《まもの》説かしら、傷つくなあ。
とにかく、この機械たちが飾《かざ》りには思えない。ついさっきまでちゃんと使用されていて、これからも使われていく臭《にお》いがする。過去の遺物がそのまま残されている、というわけでもなさそうだ。
なんだ、この星。どういう環境の星なんだ。
玄関《げんかん》を出て、廊下《ろうか》を少し行くと中央の吹抜《ふきぬ》けに出た。円形の吹抜けから放射状に廊下が伸び、それに並んで部屋があるという構造のマンションだった。変わった建物だなー、と感心していると、不意にエリノアがジゼルを抱《だ》き上げる。
「どこ行こうかな、エアパイプで公園に行こうか。それがいいね」
「えあぱいぷ?」
ジゼルが聞き返すのを無視して、エリノアはいきなり吹抜けに飛び込んだ!
「うわっ!?」
そのまま真っ逆《さか》さまに落ちる! と思いきや、異様に大気の抵抗《ていこう》があって軽い。重力に逆らってまるでエレベーターで降りているように、ジゼルたちはゆるゆると落下していった。ほっと胸をなで下ろして様子を探ると、他にも何人かが落下している。こういう移動形式みたい。半重力システムを携帯《けいたい》しているのかとも考えたけれど、どうやら吹抜け一帯が重力軽減空間になっているらしかった。
ジゼルは唖然《あぜん》とした。元より重力が一Gのエルシでは重力調整は必要なく、よって、こういった重力を自在に操《あやつ》る機械は出回っていない。問題は、そんな技術が文明度9のレベルの惑星《わくせい》で、自家製造できるはずがないということだ。
(ここは、いったい)
「こっちよ」
吹抜けの途中《とちゅう》で、エリノアは器用に床に飛び移った。そこの階には部屋はなく、代りに大きく透明なパイプが入り乱れて何本も走っていた。
ジゼルは目を見張った。
パイプの中を、人間が運ばれていく。自走路のように人々が流れ、運ばれていく。
ここは、四方からくるパイプのターミナルなのだ。
エリノアは慣れた調子でパイプの開口部に飛び乗り、その流れに身を任せた。パイプはマンションを出、地上何十メートルの高さを走っていく。上からは判らなかったが、摩天楼《まてんろう》はこうした人を運ぶ無数のパイプで連結されていた。あちらこちらの空中に人間の列が流れているのが見える。
思いだした。
この光景を見たことがある。
この光景を、歴史ファイルで見たことがある。それはまだ、人類文明が衰退《すいたい》の兆《きざ》しも見せず、コンピューター大暴走時代も経験していなかった昔のこと。機械文明が華々《はなばな》しく絶頂を極めていた時代の都市の光景。立体写真で見ると、異様なパイプが都市を埋《う》めていたので、これはなに、となつめに聞いた覚えがある。エアパイプという過去の空中路よ。そうなつめは答えた。昔の人々はこれに乗って都市の中を移動したの。今はどこにもないわ。必要がなくなり廃《すた》れた技術なの。
[#挿絵(img/compass_186.jpg)入る]
今はどこにもない――ここにあるじゃないか!
この星はいったい。この星は。ジゼルはばかになったようにその言葉を心の中で繰り返した。
ここは、過去の世界なのだろうか。タイム・スリップしたと? まさか、そんな非科学的な現象が易々《やすやす》起こるはずがない。情報物理学に反するぞ、それは。だとしたら、まだしも異世界に紛《まぎ》れ込《こ》んでしまったと考える方がいい。
異世界?
「ねえ、なんか思い出す?」
エリノアが話しかけてくる。ジゼルは首を振《ふ》った。
どうしよう。自分はこの星の生まれではない、と彼女の誤解《ごかい》を解くべきなのだろうか。それとも、このまま爆発《ばくはつ》で記憶《きおく》の混乱《こんらん》した猫《ねこ》で押し通すべきなのだろうか。
「ごちゃごちゃした街よね。見覚えあるかな。なかったら、他の都市の生まれだろうけど」
「…………」
「やっぱり、病院に行った方がいいのかなあ」
ぽつんと呟《つぶや》いたエリノアの言葉に、思考の沼《ぬま》に陥《おちい》っていたジゼルはぎょっと振《ふ》り仰《あお》いだ。それはまずい、絶対まずいっ。
「ジ、ジゼル、病院は苦手だよっ」
記憶混乱として病院に行くなら、当然、頭を探られる。それはいけない。絶対だめ。この頭は見せてはいけないのだ、他の人に。
(他の人に見せてはいけない?)
他の人?
他って、じゃあ、他じゃない人って、誰《だれ》?
見せてはまずい。E・R・Fの人工知能技術を外に漏《も》らさないため。それもあるだろう。でも、もっとなにか違う理由で、頭の中を他人に見せるわけにはいかなかった気がする。いや、確かにそうだった。念を押されていた。
頭の中。
(さっきの夢)
瓶《びん》の底で久遠《くおん》の眠《ねむ》りに居る脳。
(ジゼルは、ジゼルは……!)
「あ、そう? よかった。どうして早く病院に連れていかなかったんだって言われるかと思ったよ。あたし、病院には行きたくないの」
「病院、嫌《きら》いなの?」
ジゼルは尋ねてみた。喋《しゃべ》る猫を連れていこうっていう病院なのだから、サイバネティックス系のセンターだろう。そんなところをエリノアが好きになるも嫌いになるもあったものではないと思うけれど。
ところが、どうしたものか、彼女は顔を強《こわ》ばらし、忙《いそが》しく前後の人の様子を探った。その態度を怪訝《けげん》に思っていると、エリノア、小声で言うには、
「あたし――今日。十六歳の誕生日《たんじょうび》だから」
「へえ? それはおめでとう」
ジゼルは素直に祝福《しゅくふく》した。でも、なんでいきなり話を変えたんだ? 病院の話はまずかったのかしら。
「……ジゼル、この街の生まれじゃあないのね。本当に」
エリノアはぽかんとジゼルを見おろしていた。どういうこと? さらに訝《いぶか》るジゼルに、彼女はこうもつけ加えた。
「ということは、ゴルトの出身でもないのか。そうか、そうなのね……」
なんだか一人で納得《なっとく》しているエリノア。ジゼルは憮然《ぶぜん》として、
「ねえ、どういうこと? 誕生日がなんか関係あるの? ジゼルはどうすればいいの? 病院には行かないんでしょう」
「うん。そうね、ここは人が多いよ、公園についたら説明してあげる」
そう言ったきり、エリノアは黙《だま》り込《こ》んでしまった。一体、この街は、いや、この星はどういう星なのだろう。せめて、どこの星域にあるのかぐらい判れば、気の持ちようもあるのに。
ああっ、もう考えたって今はなるようにしかならないんだ。いい加減《かげん》、肝《きも》を据《す》えよう。最後にはどうにかなる。今はこの運命を受け入れる時なんだ。
なんだかジゼル、二回目ということもあって、こういう状況《じょうきょう》に慣れてきたなあ。パニックに陥《おちい》るより楽観していた方が精神にいいということを、身をもって体験してきた矢先だもの。どうやったら元の世界に帰れるかを考えるより、現在の立場を理解すべき時なんだ。ジゼルったら悟《さと》りを開いた人みたい、かっこいー。
ともかく、この星の状況を少しでも多く把握《はあく》しよう。そして、それはこの間なつめのためにと決意した、外のことを見せてあげるということにつながる。なんて一石二鳥な考えなんだ、ジゼル、頭いい、すばらしい! となれば、ちゃんと景色を映していかなくちゃあ……
(あ)
そこまで思考がたどりついて、ジゼルは愕然《がくぜん》とした。
目の感触。
気づかなかったけれど、今の今まで、思い出しもしないし、ごく自然のこととして気づかなかったけれど。
レンズが入っている。
破壊《はかい》され、焼き切れたはずのレコーダーディスクがちゃんと目に収まっている。寸分《すんぶん》の異常も感じられない。
(そんなはずは……そんな)
そうだ。カイは、エルドガ・シェーンは、アドさんたちはどうなったんだ?
「エ、エリノア、ジゼルと一緒にいた人たちはどうなったの!?」
咳《せき》込《こ》むようにジゼルは尋ねた。すると、エリノアは面食《めんく》らったように、
「一緒にいた? ジゼルは一人で倒れていたわよ。あたしが最初に現場に着いたのよ、保証してあげる。周《まわ》りには誰もいなかった」
「!?」
そんな。そんなことって。
[#改ページ]
ACT.5
いくつかのパイプを渡って、あるビルでエリノアは降りると、始めと同じように落下通路を使用して、地上にたどり着いた。建物を出ると、すぐにセントラル・パークが広がる。
摩天楼《まてんろう》にぽっかりと開いた地上の空間は、緑と水に満ちていて、ジゼルはようやくほっとした。無機質な、人工物で固められた世界にこもるのは、大変なストレスなのだ。改めて感じ取った。
そそりたち、倒《たお》れ込《こ》んでくるかのような高層《こうそう》ビル。圧迫された、灰色の平面を切りとって僅《わず》かに見える空。でも、それは薄曇《うすぐも》り、濁《にご》っている。本当の空の色は何色だろう。ここから見える星空はどんな形を描くのだろう。
「少し、心配していたの。ジゼルがゴルトのスパイだったらどうしようって。でも、良かった。スパイだったら、ううん、ゴルトの生まれだったら知っているはずだもの」
沼《ぬま》の側の、林に囲まれた芝生《しばふ》を歩きながら、エリノアはそう切り出した。ジゼルは憮然《ぶぜん》とした。またスパイだって。ボーヴォール国でもそう疑われたけれど、そんな風に見えるのかしら。こんな可愛《かわい》らしい猫《ねこ》を捕まえて。
「ねぇ、どういうこと? 十六歳の誕生日《たんじょうび》にはなにか特別な意味があるの? それが病院となんか関係あるの? 知らないとどうしてスパイじゃないの?」
「うん……あのね、始めから話すけど、この国では十六歳になると、生まれ変わらなくてはならないの」
言いにくそうに、表現しにくそうにエリノアは語りだした。きょとんとしてジゼルは聞き返す。
「生まれ変わる?」
「そう。幼い躯《からだ》から成人の躯へ。子供の精神から大人の精神へ。つまり、その、人為的に大人の枠《わく》に当てはめて、理想的な人間にしたてられる、というのかな」
「それって、もしかして洗脳《せんのう》!?」
ジゼルは驚愕《きょうがく》の声を上げ、慌《あわ》てて口を押さえた。エリノアがおたおたして周《まわ》りを窺《うかが》う姿が見えたからだ。
「簡単に言えば、そういうことだね」
声を低くして、気まずそうに同意する。
「そ、そんな、洗脳だなんて。判ってるの、それ、違法《いほう》だよ」
ライフサイエンス法において。そう続けようとして、ジゼルは言葉を呑《の》み込んだ。ここでは惑星《わくせい》の外の世界は存在しないんだった。だから、ライフサイエンス法もへったくれもあったものではない。
「この国では合法で、制度なのよ。十六歳の誕生日にメディカルセンターに集められて、『成長』する。洗脳といってもね、今までの精神に一定の枠を当てはめて、はみ出たものは消去され、不足の部分は補充《ほじゅう》されるだけだから、画一的な人間ができる、ということにはならないんですって……」
淡々《たんたん》と語るエリノア。ジゼルは憤慨《ふんがい》した。そういう問題じゃあないでしょ! 洗脳だなんて、心を弄《もてあそ》ぶようなこと、許されるわけないじゃない! 許していいわけないじゃない!
「それをエリノアたちは許してるわけ!? 人権のじの字も考えてないやり方に、怒《おこ》らないの!? ねえ!」
「大抵《たいてい》の人は当然のことと思ってるの」
「そんな!」
ジゼルは次の言葉を失った。当然だって? ジゼルが聞きたかったのはそんな言葉じゃあない。みんな、否応《いやおう》なしにやられてるんだって、一部の利益のために施行《せこう》されているんだって、そういうのを期待していた。なのに、どうして。そんな、ばかな。
「な――なんで。自分の心をいじられて、嬉《うれ》しいの……? 抵抗心《ていこうしん》はないの?」
振《ふ》り絞《しぼ》るようにジゼルは言った。なにか、自分の概念《がいねん》の根底が覆《くつがえ》されたような衝撃《しょうげき》だった。必死になって抗《あらが》うが、一方でそんな社会もあるかもしれないと、消極的な納得《なっとく》が頭をもたげてくる。
そんなはずはない。そんなことはない。人間なら心は自由なんだ。枠なんかあっちゃあいけないんだ。人工知能とは違《ちが》うんだ!
ふっと一つのフレーズが心をよぎる。
(ジゼルの心は自由なのだろうか)
「大半の人は、それが理想だという意識を植え付けられた親の元で育つから、疑問に思わないし、抵抗もないの。でも、あたしは……」
エリノアはそこで言葉を区切った。
人間は育つ環境に大きく左右される。たとえそれが端《はた》から見れば残虐《ざんぎゃく》非道《ひどう》、悪徳不純であろうとも、内に入ってしまえばそれは正義となり人の道となる。そういう世界をジゼルはいくつも知っているじゃないか。見てきたじゃないか。ううん、どの世界にも、周《まわ》りには受け入れられないような独特の観念がある。世界の中にも、一つの大陸、一つの地域、一つの家庭にさえ独自の考えがあって、個人にだって他人と相《あい》いれない部分があるのだ。でも、だからこそ、洗脳《せんのう》などということは愚《おろ》かであり、無意味であり、許されないことだった。どちらが正しくてどちらが間違《まちが》っているなんて問題じゃあない。許されないこと。人は機械とは違う。許さない。
「今日、あたしにも召集の通知がきたの。あたしはいや。変わりたくなんかない。きっと、いっぱい消されるわ。パパやママのこと、みんな消されてしまう。この心は二度と戻《もど》ってこない。あたしはいや、あたしがあたしでなくなっちゃうもの!」
不意に立ち止まり、エリノアは悲痛の声を上げた。ジゼルは悟《さと》った。彼女は例外なのだ。この、許せない社会の住人にして、例外。この社会における反抗因子。そして、その言葉から察するに、多分、彼女の両親が、またはどちらかが反抗因子、即《すなわ》ちレジスタンスなのだ。
しばらく唇《くちびる》を噛《か》みしめ、沈黙《ちんもく》していたエリノアだが、なにかを振り切るように首を振った。
「ゴルトとの争点はそれよ。ゴルトの人間はその制度を非難しているわ。人間的ではないとね。だから、戦争の原因でもある事柄《ことがら》をジゼルが知らないんで、トリカンサスの生まれでもゴルトの生まれでもないと判ったの」
「なるほどね……」
ジゼルは頷《うなず》きながら確信した。エリノアは信頼していい。おそらく彼女は怖《こわ》がっていながらも、敵国ゴルトの言い分に同意し、肩《かた》を持とうとしている。だからこそ、ジゼルがスパイである可能性もあるのに、家に連れ帰り、介抱《かいほう》してくれたのだ。
彼女のためになにかしてあげたい。
急速にその考えがジゼルの心の中で収束《しゅうそく》し、固まって決意となっていった。ジゼルを助けてくれたエリノアに、なにかしてあげたい。なにかとは、多分、その洗脳の魔《ま》の手から無事逃げ通すこと。なんとかして力になりたい。
「エリノア、その洗脳から逃げる手はないの? ジゼル、助けてくれたお礼に力になりたいんだ、エリノアの」
力をこめてジゼルは言った。始め、きょとんとしていたエリノアは、みるみる泣きだしそうな表情を作った。でも、涙は見せずに毅然《きぜん》と、
「ありがとうね、ジゼル。そう言ってくれるだけで、あたし、嬉《うれ》しいよ。同意してくれる子がいるだけで嬉しい。でも、ジゼルはよそから来たんだもの、センターに見つかったら否応《いやおう》なしに洗脳されちゃう、この街に生きていくものとして。だめ」
「でも、人が嫌《いや》がることをされるのに、黙《だま》って見過ごすなんて、ジゼルにはできないよ!」
義理と人情は不滅の精神だいっ。そうジゼルは頑張《がんば》る。ジゼルは恩《おん》を忘れない。エリノアはなんとかジゼルを思いとどまらせようとしていたけれど、しまいには折れた。ありがとうと微笑《ほほえ》んだ。当惑《とうわく》の入り交じった笑顔だった。
それから逃避行《とうひこう》について語り始める。
「実は、キミを見つけた時、あたし、逃げてたの。まさかセンターの手も人が近寄らない郊外《こうがい》にまでは届くまいと思って。でも、あの攻撃《こうげき》で郊外に警備隊《けいびたい》が出回ってるから、もうだめね」
「ごめん」
「ジゼルが謝《あやま》る必要ないよ。今日一日逃げきれば、センターは諦《あきら》める。都市の中で逃げ回るしかないわね」
「そうして逃げきれた人はいるの?」
「ええ。うちの両親も成功した仲間なんだ。結構楽にできるって話よ。百人に一人くらいは『成長』を拒否《きょひ》している」
「でも、そんなに楽にできるなら、もっと拒否する人が出てもいいのに」
未《いま》だにこの街の考え方についていけないジゼルは、ぶつぶつと文句をたれた。すると、エリノアが奇妙《きみょう》なことを言った。
「でも、拒否することは『成長』できないってことなのだから。心も躯もワンパックで『成長』することになってるの、この国は。『成長』は当然の権利で、拒否することは権利の放棄《ほうき》だもの。ジゼルは自分の持っている権利を、その権利が正しいか間違《まちが》っているかに関わらず、むやみに放棄したくないでしょ」
当然の権利? 当然の義務じゃなくて? 『成長』ってどういう意味? なんだかすべての考え方がジゼルとは食い違っているような気がしてきた。この国。
「と、とにかく、目立つことをしなければ大丈夫ってことだね」
慌《あわ》てて話を戻《もど》して、ジゼルは言う。エリノアは頷《うなず》いた。
「うん。あと家にいなければね。親もその目的で出かけてるの。座ろうか」
促《うなが》されてジゼルも芝生《しばふ》の上に寝そべる。
ふっと心細くなった。
ここはどこなんだろう。
この世界は一体なんなんだろう。ジゼルにとってどんな意味があって、どういう理由でここにいなければならないんだろう。
エルシには――なつめの元には帰れるのだろうか。
「……ゴルトとの戦争ね、表向きは精神の『成長』問題の食い違いってことになってるけどね。本当は違《ちが》うんだ」
ポツリとエリノアが続けた。身体を起こして、ジゼル、見つめる。
「ゴルトの人間は肌《はだ》の色が違うから……あたしたちと違うからなんだ」
「なんで?」
ジゼルは唖然《あぜん》として聞き返した。肌の色が違う。まあ、そういうところもあるでしょう。単一民族で構成されている都市や国や星は、田舎《いなか》であればあるほど珍しくない。開拓《かいたく》時代にまとまって移住した結果なのだから。でも、それがどうして戦争の原因になるんだ?
どうしたものか、ジゼルの反問にエリノアの方がきょとんとしている。どういう意味の質問か判らない、といった風情《ふぜい》だ。仕方なく、
「肌の色が違うと、どうして戦争になるの? 民族主義の飛躍《ひやく》かなあ」
「え? あ、ああ、そうだね。うーん、なんというか、優性意識があるっていうのかな、色無しの肌は」
「どうして? どういう基準なの?」
てんでジゼルには彼女の言わんとしているところが掴《つか》めない。なにが優性だというのだろう。エリノアはまじまじとジゼルの顔を覗《のぞ》き込《こ》んだ。別に変なことを言ったとは思えないけど。
「えーっと、だから、その、色なしの方が知能が高いのよ。だからよ」
「嘘《うそ》だあ」
間髪《かんはつ》を入れずジゼルは応《こた》えた。どういう基準でどういう論理で、肌の違いで知能の優劣《ゆうれつ》がつけられるというんだ? 変な見方。変なの。
差別?
これが、時折ニュースで聞く、人種差別?
ジゼルはむっとした。大多数の中にあって少数の人種、民族が理不尽《りふじん》な迫害や糾弾《きゅうだん》にあっている映像が、ありありと頭に蘇《よみがえ》ったからだ。
でも、いろんな人種差別の話を聞いたことがあるけれど、肌の違いで知能の優劣をつけるなんて世界、初めて聞いた。大体、科学的|根拠《こんきょ》がないぞ。肌の色なんて住んでいる環境で変わっていくのだし、遺伝学的にも、ねえ。これは完全にこじつけだ。むりやりだ。ご都合主義のたまものだ。
「エリノアもそう考えてるの?」
憤《いきどお》りを抑えながらジゼルは尋ねる。うん、なんて平然と答えたらどうしてくれようと考えていたらば、彼女は困惑《こんわく》もあらわに、
「え……だって、そうじゃない。これは科学的に裏付けされていることだし、誰だって解るよ。彼らの緑の肌は酸素放出と有機物化合のためで、その行為に脳の大部分の機能が費やされているのだから、どう考えてもあたしたちより知能は劣《おと》るよ。無論、だからって優性意識を持つのは間違っているって解ってる。彼らがいなければあたしたちだけでは酸素が足りなくて呼吸できないのだし、有機物だって手に入らない。みんな解ってるんだ。でも、彼らがトリカンサスのやり方を非難して、それが周《まわ》りの他の国に認められたから、悔《くや》しいのよ。知能が低いくせに、って」
エリノアの言葉を半分しか聞いていなかった。
愕然《がくぜん》とした。
酸素放出?
有機物化合?
脳の大部分が費やされる? 光合成に?
光合成。
植物だ。ゴルトの人間は植物なのか!?
はっとエリノアを見る。うねる緑の髪《かみ》。緑の双眸《そうぼう》。あたしたちだけでは足りなくて[#「あたしたちだけでは足りなくて」に傍点]。
ここは、どこだ?
ここは、ジゼルの知っている世界じゃない。懐《なつ》かしいエルシのある、なつめのいる世界じゃない!
やだ。
やだ、怖《こわ》い。
(なつめ、なつめ!)
(怖いよ、ここ、どこ!? 助けて、早く迎えにきて!)
(なつめえ……)
不安が胸中に黒々と渦巻《うずま》く。動悸《どうき》が速くなる。解らない。なにもかもが解らない。ここはどこ。彼らはなに。自分はどうしてここにいるの、どんな意味があるの、どんな理由があるの、ここは。
ぐるぐると同じ疑問が頭の中を駆《か》け巡《めぐ》る。これが恐慌《きょうこう》なんだよ、と誰かが耳元で囁《ささや》いた。物事を冷静に見つめる、もう一人の自分が嘲笑《あざわら》っていた。
自分がなにかも判らないくせに、どうして他のことまで理解できるのさ。ちゃんちゃらおかしいね。笑っちゃうね。
「おかしいなあ。なんで知らないんだろう。猫型ロボットには教育がされていないのかな、ねえ、ジゼル。ジゼル?」
始めから判っていた。ここが異質であること。今は失われたはずの技術。都市の景観。思考回路。
ここは、異世界に等しい。ボーヴォールで感じたような、異文化の世界、ではない。異なる次元の法則が支配する、得体《えたい》の知れない世界。
迷い込んでしまった。二度と戻《もど》れないかもしれない。なつめの元に。
なつめ。
二度と会えない?
ぞくりと戦慄《せんりつ》が全身を駆け抜《ぬ》けた。いやだ。なつめと離れるなんてできない。なつめの側にいないと死んでしまう。存在の意義がなくなってしまう!
(あ……!)
存在意義。
ジゼルは、なつめのために存在する。あの繊細《せんさい》な、仙女《せんにょ》と見紛《みまご》う綺麗《きれい》な少女のために、ためだけに存在する。そうだった。確かにそういう存在だった。彼女がいなければここにいる意味を持たない、なつめにすべてをかけてある存在。
ジゼルは茫然《ぼうぜん》とした。疑惑《ぎわく》と焦燥《しょうそう》と混乱《こんらん》、それら一切が霧散《むさん》して、ぼんやりとそこに座り込んだ。
そうだ。
そうだったのだ。
思いだした。自分の存在意義を思いだした。具体的なことは不明で、ただ、抽象的な言葉しか出てこなかったけれども。
(なつめ……)
早く帰ろう。ジゼルは茫洋《ぼうよう》たる思考の海原から、それだけを見つけだした。早く帰ろう、なつめの元へ。自分は彼女の側を離れるべきではないのだ。自分はなつめを必要としている。こんなにも必要として、焦《こ》がれている。そして、なつめもまた、自分を必要としている。それがはっきりと悟《さと》れた。
なつめのために、ここにいる。
これは、真実。
どうして?
どうして、焦がれるの?
さっきの声が尋ねる。今はもう嘲笑の響《ひび》きはない。本気で疑問に感じ、うろたえさえしていた。
どうして、なつめでなくちゃあならないの? 彼女は人間なのに。猫《ねこ》でも、ましてや人工知能体でもないのに。この感情はなんなの? 恋《こい》しているの、愛しているの、アスラみたいに。彼女は人間なのに。
(違う)
ジゼルは否定《ひてい》した。恋ではない、愛ではない。多分、その感情は一生自分には持てないだろう。その原因は生まれにある。あるはず。
なつめへの想いは、言葉にならない。ただ、側にいたい。側に。それだけだ。
早く帰ろう。なつめが待っている。
なつめが。
「エリノア?」
自分が無意識の内に出した声に驚いて、ジゼルは我に帰った。どのくらい自失していたのか判らなかったが、そんなに長いことではなかったと思う。その間に、緑の髪《かみ》の少女は傍《かたわ》らから消えていた。
慌《あわ》てる前に、彼女がなにか言っていなかったか、と考える。そうだ、喉《のど》が乾《かわ》いたから飲物を買ってくるとか言って、林の向こうへ行ったんだ。なんか、他のことも言ってなかったかしら。猫型ロボットには教育が云々《うんぬん》、と。
猫型ロボット!?
ジゼルは仰天《ぎょうてん》した。ロボットだって!? いくらいにしえの技術が残っているとはいえ、コンピューター大暴走時代を経験した人間がロボットと平然と共存できるものか! いや、技術が残っているからこそ、だ。ならば、ロボットではなくてサイバマシンとかなんとか呼ぶはずだ。ロボットとは忌《い》まわしい過去を象徴《しょうちょう》する言葉、呪《のろ》いをこめて使うならともかく、共存している場合には使うはずがない。第一、機械自体がロボットと呼ばれることを否定する。
そうだ。ジゼルが人工知能体であることを、エリノアが平然と受けとめた時から訝《いぶか》しく感じていた。衰退度《すいたいど》の問題ではなく、銀河人類は一部を例外として、人工知能体の存在に不安を持っている。それは肌身《はだみ》に染《し》みて解っている。大暴走時代を経験しなかったエルシだけが、人工知能体を正面から受け入れる。
ここは、大暴走時代を体験しなかった、もう一つの惑星《わくせい》なのだろうか。
ジゼルは混乱《こんらん》する頭をフル回転させた。
人類文明全土を巻き込んだコンピューター大暴走時代。エルシ以外に影響《えいきょう》を免《まぬが》れた星はなかったという。すべての星の中央コンピューターが連結されていて、それは連邦《れんぽう》のグランドコンピューターに統轄《とうかつ》されていた。そこが真っ先に暴走したのである。全土を巻き込むはずだ。惑星エルシはまだ|φ《ファイ》ベクトル封鎖《ふうさ》状態にあった。外界との交流は皆目《かいもく》なかった。
ここもそうであったと?
ならば納得《なっとく》いくことが多い。このいにしえの技術だって、人工知能体を厭《いと》わないことだって。
でも、それでは植物人間の話の解明にはなっていない。
やはり、異世界なのだろうか。
ジゼルはふらりと歩き出した。足の赴《おもむ》くまま林を抜《ぬ》け、舗道《ほどう》に出て広場の方へと向かう。
判らない。なにもかもが推論《すいろん》で、立証するものがない。その推論でさえ、思考の嵐に揉《も》まれて今にも沈没《ちんぼつ》しそうな小舟の群れでしかない。ただ一つ確かなのは、なつめが待っているということ。ジゼルはなつめの元に帰る。必ず帰る。
「ねこくん。ねこくん、待ちたまえ」
不意に声をかけられて、ジゼルはびくんと身を堅《かた》くした。こんなところに知り合いはいないぞ――おそるおそる、緊張《きんちょう》しながら振《ふ》り返る。
そこにいたのは犬で、彼は路傍《ろぼう》に据《す》えられた寂《さび》れたベンチの足元にうずくまり、こちらを深遠な灰色の瞳《ひとみ》で凝視《ぎょうし》していた。いや、犬というよりも、
「……犬型ロボット?」
『ロボット』という単語に力点を置いて、ジゼルは聞いた。本物の犬と寸分違わない、どことなく哀愁《あいしゅう》を秘《ひ》めた顔つきの老犬は、おもむろに頷《うなず》いた。
「君は猫型ロボットだろう。見かけない顔だね。若いのかい?」
若いのかい。若いのだろう、ジゼルは。そして、彼は年老いている。
どうして年老いている風に見えるんだ?
年をとらないのが機械である。老朽《ろうきゅう》したら新品と取り替えが効《き》くのが機械である。それがヒトが夢みた希望、理想。自分たちの代理として、疲《つか》れを感じぬ、老いを知らぬ作業者を創造した。
なぜ、年老いた外見をしている?
老犬は茶と金の中間の色合いを見せる、短い毛並の中型犬だった。『若かった』頃《ころ》は、筋肉は隆々とし、威風堂々《いふうどうどう》とした容貌《ようぼう》をしていたのだろう、とさえ錯覚《さっかく》してしまう。それほどまでに造られた彼の『老い』はみごとで、ロボットと言うよりは、知能を高めて言語解析《かいせき》能力を生身の犬に施《ほどこ》したみたいだった。そう、まるでジゼルのように。
(ジゼルのように?)
「わたしはここに長い。ここのことは大抵《たいてい》知っているんだ。君はなにかを知りたがってるね。まあ、そう警戒《けいかい》しないでこっちに来て、少し話をしないかい」
彼は穏和《おんわ》な響《ひび》きの声で語りかけてきた。なんだろう、この馴《な》れ馴れしさは。なにか裏があるのではなかろうか。ジゼルは返事もせず、疑心を抱いてその場に佇《たたず》んだ。
「ねこくん、わたしは心理カウンセラーなんだ。この街で不安定になったヒトやロボットの心を支え直す、それがわたしに与えられた仕事なのだよ。君は不安定だ。わたしに悩《なや》みを話してごらん。聞きたいことを尋ねてごらん」
「…………」
ジゼルはどうとも答えられなかった。知りたいことは唸《うな》るほどある。でも、彼は大丈夫《だいじょうぶ》なのだろうか。安心してよいのだろうか、エリノアみたいに。それに、彼はロボットだ。もし、本物の【ロボット】なら、設計|基礎《きそ》が根本から異なる異質の機械。信頼とかの問題以前に、そのことへの不安が近寄ることさえためらわせる。
無言で佇《たたず》むジゼルを見て、老犬はひどく淋《さび》しそうな表情を作った。
「ねえ、わたしはなにもしないよ。『老い』すぎてなにもできないし、する気も起きない。ただ、喋《しゃべ》るだけでいいんだ。『老い』を迎《むか》えたものには誰も近づかない。淋しいんだよ」
その切ない言葉を聞いて、ジゼルはいたたまれない気持ちになった。と同時に、どうしてロボットが『老い』なければならないんだという疑問が、最大限に膨《ふく》らんだ。僅《わず》かに逡巡《しゅんじゅん》し、それから小さな声で、聞こえなければそれならそれでいい、と思いながら尋ねる。
「……どうして、『老い』るの? 機械の理想は永遠の機動じゃなかったの」
「『老い』は必然であるからだよ。万物生きとし生けるものはすべて老い、死んでいく。それが生きている一つの証《あかし》なんだ」
流暢《りゅうちょう》に、なんの淀《よど》みもなく彼は答えた。おそらく、それは幾度《いくど》となく繰り返されてきた質問なのだろう。でも、それは一般論に過ぎない。彼自身には当てはまらな。い。
「あなたはどうして『老いて』いるの? 最初からそう設計されたの?」
「始めから『老いて』いるものはいないよ。わたしも例外ではない、生まれ、そして『老いて』いく。それが生きるものの宿命なんだ」
「でもっ、あなたはロボットなんだよ!? 生きとし生けるものではないんだ、永遠なんじゃないか!」
ジゼルが急に怒鳴《どな》ったことに面食《めんく》らったらしく、老犬はぽかんとこちらを見つめた。おかまいなしに、辺《あた》りにはばかることもなく、ジゼルは声を上げる。
「機械は『老いる』必要なんかどこにもない、意味がないじゃないか! 新品の部品に変えていけば、永遠に動くし、『若い』ままでいられる。なのに、なのにっ」
「ど、どうしたんだね、急に。わたしたちは生きとし生けるもの、『老い』なければ生きていることにはならないのだ。ねこくん。生きている意味なのだ」
「違う!」
強くかぶりを振《ふ》った。違う、違う! 彼は根本的に間違《まちが》っている。彼は生きとし生けるものの一員ではないのだ。真の意味で『生きている』とは言えない、物質でしかないのだ。人間によって仮《かり》そめの生を受けただけの存在に過ぎない。
どうしてそのことを理解していないんだ?
そのことを誰も教えなかったのか? いや、そう思いこませたのか?
それが【ロボット】なのか?
自分が生きとし生けるものの一員であると、そう認めてしまったものが【ロボット】だったのか。
今、製造されているサイバマシンは違う。人工知能体は違う。設計の段階で自分がどんな存在であるかを明確にされる。そのような考えは持たないし、否定《ひてい》さえする。
機械が機械であることを誇《ほこ》りにしている。設計基礎の違い。
異質。
その言葉が現実の重みを持って脳裏に現れた。異質の考え、異質の行為。仮そめの命を誤解するようなプログラムを持っていて。
そこまで思惟《しい》して、はたとジゼルはあることに気づき、愕然《がくぜん》とした。
(ジゼルは?)
ジゼルは、生きとし生けるものの一員なの?
ジゼルのこの命は、仮そめのものなの?
ジゼルは、機械だったっけ?
機械だったっけ!?
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ACT.6
「いやあっ!」
鋭い悲鳴が耳腔《じこう》を貫いた。ぎょっと心臓が躍《おど》り、思惟《しい》が中断される。
今のは、エリノア?
とっさに頭を巡《めぐ》らし、ここには危険がないことを確認する。声の飛んできた方は、さらに広場よりだ。エリノアの身になにかあったのか!?
「ははあ、また、ホーライドの連中だな」
「ホーライド?」
老犬が低く呟《つぶや》いたのをジゼルは聞き逃さなかった。彼は頷《うなず》くと、
「ホーラル教の信者だよ。その昔、この世界が黄昏《たそがれ》時代を迎《むか》え、滅びかけていた時、天からやってきたという神さまを崇《あが》めているんだ」
「黄昏時代?」
「ホーライドは現政府の『成長』システムに反対していて、そういった人間がぞくぞく集まって信者になり、組織を作る。でも、日に三回、ホーラルの肖像《しょうぞう》に礼拝しなければならないから、ああやって『成長』から逃げ回る信者を、センターの人間が待ち伏《ぶ》せて捕まえるそうだよ。まあ、我々アニマルには関係ない話だけれどね。彼らが拒否《きょひ》する精神の『成長』はアニマルには適用されないから、君は安心していいのだよ」
ジゼルは頭が痛くなった。つまり、広場には神さまの肖像があって、律儀《りちぎ》なエリノアは習慣通り拝んでいるところを、あっさり捕まってしまったということだ。老犬の話しぶりだと、その捕獲《ほかく》方法はしょっちゅう行われているらしい。ええいっ、試行|錯誤《さくご》という言葉を知らないのか! これだから宗教ってのは……
なんてグチをこぼしている場合じゃない。エリノアが捕まった。助けなきゃ!
ジゼルは現場に駆《か》けつけようとした。が、一歩|踏《ふ》み出したところで留まる。
まだ、彼に聞きたいことがある。黄昏時代とはなんのことか。それが判ればこの世界の謎《なぞ》も解ける気がする。それに、さっきの話も、もっと追及したい。でも、すべてを聞いてはいられないし、本当は一つ質問するのでも時間が惜《お》しい。
でも。
「あ――あのっ、この街のロボットはみんな、『年老いて』いくんですか?」
「え? そうだよ。そうに決まっているじゃないか。君もそう『成長』していくだろう」
老犬はカウンセラーだけあって、なにごとにもちゃんと答える。それがどんなにばかばかしい質問であっても、こちらの不安を取り除《のぞ》くためなら返答をする。でも、彼はさらに面食《めんく》らった調子だった。ジゼルの感覚で言えば、「自分たちは生きているのでしょう?」と問われたような質問だったのだろう。
ジゼルは礼もそこそこに、走りだしていた。
この世界のロボットは、『成長』していく。彼らの躯《からだ》は有機機械なのかもしれない。自己成長システムが備えられているのかもしれない。でも、話の感覚から、そうとは思えない。もし、単なる無機質で構成されているならば、彼らの『成長』とは古い躯を脱《ぬ》ぎ捨《す》て、更に年老いた外見の躯に頭脳を移動させることに他ならない。
なぜ、わざわざ年老いた外見にする? それがこの星の文化? いや、それはともかく、考えたくないことだが、エリノアはさっきなんと言っていたっけ。生まれ変わる。子供の精神から大人の精神へ。幼い躯から成人の躯へ。洗脳《せんのう》のことばかり気にして、単なる比喩《ひゆ》かと思ったけれど、幼い躯から成人の躯へ。まさか、そんな。そんな面倒《めんどう》な。意味がない、そんなこと。
躯の改造。
培養液《ばいようえき》で急激《きゅうげき》に成長させる、とか? まさかとは思うけれど、人間自身がそういうことを平気でやるんだったら、わざわざロボットを老《ふ》け込《こ》ませるというめちゃくちゃな考え方も解る気がする。ならば、それは異文化なのだ。その段階で処理できる。
[#挿絵(img/compass_218.jpg)入る]
この世界において『成長』というものは、すばらしく意味のあることなのだろう。ジゼルには理解できないような。
…………
(成長)
ジゼルは成長している。普通《ふつう》に。躯は生体機械だから。躯は勝手に成長する。
心は成長するの、人工知能体は。
心は、機械なの? 人工知能で思考するならば、心は機械なの?
これは、機械の考えていることなの? ジゼル自身の考えではなく、人工知能がプログラムに沿《そ》って巡《めぐ》らしている言葉でしかないの?
ジゼルは機械なの?
ジゼル自身って、なに?
「だめっ、ジゼル、来ちゃだめーっ!」
エリノアの悲鳴でジゼルは再び我に帰った。小さな噴水《ふんすい》を取り囲む広場に、エリノアと、彼女の腕《うで》を束縛《そくばく》する紺《こん》の制服姿の男が四人。必死の形相《ぎょうそう》で彼女は叫《さけ》ぶけれど、もう遅《おそ》い。ジゼルは彼らの輪の中に飛び込んでいた。いきなりの猫《ねこ》の登場に、彼らはぽかんとし、間の抜《ぬ》けた調子で、
「なんだ、このねこは」
「やいやいっ、エリノアを放せ! いやがってんだから別にいいじゃないか、『成長』なんかしなくたって!」
今にも飛びかからんと体勢を構えて、ジゼルは怒鳴《どな》り散らした。ところが失礼にも、彼らは急に興味を失ったかのように肩《かた》をすくめ、視線を逸《そら》して、
「エリノア・コンジュゲイト、我慢《がまん》しなさい。君は今日で十六歳。『成長』しなければならない年なんだ。いつまでも子供のままでいるわけにはいかないだろう」
「躯だけならいいわよっ。でも、頭をいじられるのはいや! どうして? どうしてトリカンサスだけ頭も『成長』しなければいけないの?」
「エリノアさん、それが本来あるべき姿なのです。社会を円滑《えんかつ》に維持《いじ》するには、制御《せいぎょ》が必要なのです。我々新人類は自ら制御する機能を失っている。外からの操作《そうさ》が必要なのです」
「あたしたちは黄昏《たそがれ》時代以前のオールド・マンじゃない!」
完全にジゼルを無視して会話は続く。公園を歩く周囲の人も、別段珍しいことでも興味あることでもなさそうに、一瞥《いちべつ》を与えるだけで去ってしまう。
それにしても、黄昏時代とはなんのことなのだろう。人類文明史では幾《いく》つかの暗黒時代が展開され、その終末には常に黄昏期と呼ばれる疲弊《ひへい》の時代を迎《むか》えてきた。現在も、コンピューター大暴走時代という暗黒時代が過ぎた後の、黄昏期にいる。二度と暁《あかつき》の訪れない黄昏に。
彼らのいうのは、コンピューター大暴走時代のことかしら。でも、それでは先ほどの暴走時代を経験しなかったという仮定が崩《くず》れてしまう。
そこで、何気《なにげ》なく巡《めぐ》らした視線の先に、例の神さまの肖像《しょうぞう》を捕らえた。
ジゼルには神さまとかいう観念がよく解らない。自分たちより偉《えら》い人。自分たちを護《まも》ってくれる人。いや、人じゃあないんだけれど、そんな感じなのかしら。
アスラが言う。
「俺はエルシには絶対、この星を見護《みまも》るなにかがいると思うな。別に、済土《さいど》救世主とか創造主《そうぞうしゅ》とか、そういう誇大《こだい》広告みたいなものではなくて、星の意志を具象化《ぐしょうか》したような存在がな。俺の言語感覚はそれのことを神さまと称するよ」
解ったような、解らないような。なつめは、笑っていた。神さまってなあに、って彼女にも聞いたら、笑って、
「そうね。アスラと同じね」
そう答えた。
ジゼルには神さまの意味が解らない。でも、神さまを崇《あが》める気持ちがどんなものかと考えれば、なつめを慕《した》うのと同じ気持ちだろうと思う。
エリノアたちの神さまの肖像。プレートに収まってポールに掲《かか》げられたその姿は、どこか馴染《なじ》み深い気がした。
青い背景に後光をしょったその姿は、そう、馴染み深いもなにも、鯨《くじら》じゃあないか。鯨にそっくりじゃあないか。へんなのーっ。
「エリノアくん。残念だが君に拒否権《きょひけん》はない」
冷徹《れいてつ》な、感情のこもらぬ声がエリノアを押さえつけた。
「君のご両親は更正課《こうせいか》に回された」
「! うそ!?」
「彼らはゴルト人民解放共和国の諜報員《ちょうほういん》であり、奴《やつ》らの手引きをしていた。それが露見《ろけん》したのだ。本日中に更生|基準《きじゅん》第二種|扱《あつか》いで過激《かげき》因子《いんし》を排除《はいじょ》する。君は第五種扱いで『成長』過程に更生《こうせい》を繰《く》り込《こ》むことになっている。決定|事項《じこう》だ」
「うそ……ママとパパが、諜報員なんて、そんな……」
やばい。ジゼルは焦《あせ》った。エリノアの全身が虚脱《きょだつ》して、声が虚《うつ》ろになっている。彼女は知らなかったんだ、そんな事実。これは、罠《わな》か?
職員たちは一斉《いっせい》に目を合わせると、エリノアを連れていこうとした。
「こ、こらっ、エリノアを連れていくな! 待てーっ」
危機感と、完全無視をされた怒りがごちゃまぜになって、ジゼルはエリノアの腕《うで》を掴《つか》んでいた男に飛びかかった。きらりと爪《つめ》をたてて思いきりひっかく。
が。
「なんだ、さっきからこのねこは」
「制限無しのレクチャーアニマルだろう? 人道を説く、補正者。緩衝剤《かんしょうざい》」
およそ人間とは思えない速さで身体を掴み、男はジゼルを軽く地面に叩《たた》きつけた。鈍い衝撃《しょうげき》が全身に走り、一瞬、息がつけなくなる。
普通《ふつう》の人間の力じゃない。
(強化人間?)
でも、それはライフサイエンス法にひっかかる――と考えて、こんなロボットさえいる世界には無駄《むだ》な抵抗《ていこう》だと打ち消した。
「いや、待て。こいつはよそ者かも知れん。コンジュゲイトとともにいたとなれば、スパイの可能性もある」
さっきの無慈悲《むじひ》な男が、身動きできないジゼルを掴みあげる。身体が動かない。声が全て咳《せき》に変わる。エリノア、エリノア、助けて!
がっちりと、ジゼルの手足は男に掴まれた。すごいばか力、痛い、痛ーいっ。
「よし、センターに戻《もど》るぞ」
引き上げ命令。ジゼルは顔面を乱暴《らんぼう》に片手で覆《おお》われた。もはや、抵抗するすべはジゼルにはない。
緊張《きんちょう》に、ゴクンと喉《のど》が鳴った。
エアカーに乗せられて数分で目的地に到着した。エリノアは前席、ジゼルは荷台で男たちに囲まれてしまったので、話のとりようもなかった。それにしても、この車は反重力システムは搭載《とうさい》していないらしい。音で判る。
センター。それは巨大《きょだい》なビルだった。周囲のどんな建物よりも高い。先端が視認できない。外観はのっぺりとした緩《ゆる》やかな弧《こ》を描いて、窓は一つも見あたらなく、ところどころにスリットがあった。街の中心部にどんと構えた、ブラックボックス。ここで『成長』が行われる。
厳重《げんじゅう》なチェックを抜《ぬ》け、建物の中に入ると、エリノアを連れている男たちは不意に脇《わき》の廊下《ろうか》へ入った。ジゼルを掴《つか》んだ男だけがそのまま前進する。
「!? ふがふが!」
「きさまはこっちだ。マザーに引き合わせねばならない」
「ふがふがーっ!」
エリノアーッ、と叫《さけ》んだつもりだった。忌々《いまいま》しい口封じの手は緩む気配を微塵《みじん》も見せず、音だけが洩《も》れる。えーんっ、エリノアのばかーっ、正気に戻《もど》ってよ! じゃなかったらジゼルはどうなるの、えーんっ。
やばい。
泣いている場合じゃない。ひじょーにやばい状況《じょうきょう》だよ、これはもしかして。すっごくヤな予感がする。こいつ、誰《だれ》に会うって言った? マザーって。
洗脳《せんのう》。うーっ、やだあっ、それだけはいやだっ。絶対いや。なつめのことを忘れるなんて死ぬ方がましだいっ。
「ふがふがふがっ! ふがーっ!」
「うるさいぞ、レクチャーアニマル。俺になにを言っても無駄《むだ》だ」
「ふがふがふがっ、ふがががっ。ふがーっ、ふがーっ」
「なにが言いたいんだ、きさまは」。
冷酷な鉄仮面が少し緩んで、呆《あき》れ口調で男は片手を離した。ここぞとばかり、ジゼルは一気に捲《ま》くしたてる。
「もうっ、呼吸ができないじゃないか! 最初に言うけど、ジゼルはレクチャーアニマルとかいうのじゃないぞっ。それに、スパイでもなんでもないし、はっきり言ってこの世界のことは皆目《かいもく》知らないんだからな! もうっ、その手を放せよっ、このバカ力! エリノアは右も左も判らないジゼルを助けてくれただけなんだぞ、諜報員《ちょうほういん》なんかじゃないし、いい子なんだっ。彼女を返してジゼルも放せっ。それに、なんだい、マザーって」
最後の方は勢いがなくなって、ジゼルは純粋《じゅんすい》な好奇心から尋ねてみた。彼らの上司《じょうし》であるとは予想できるんだけれど、その人を『お母さん』などと呼ぶかしら。
男はしばらく無言で聞いていたが、一言、
「都市|制御《せいぎょ》マザーコンピューター、ハレルヤ三世だ」
「まざーこんぴゅーたー」
ばかのようにジゼル、鸚鵡《おうむ》返しに言ってしまった。
都市制御コンピューター。
……あのね、エルシにもあるの。都市管理コンピューター【森羅《しんら》】っていう、ばかでかいコンピューターが。それがネオトキオシティを調整していて、エルシ全体を管理していて、銀河世界を見張っているの。そのコンピューター、E・R・Fコーポレーションのものだから、エルシを支配しているのは実質的にE・R・Fなのね。【森羅】はすごくて、秘密なんだけれど、銀河のどんな世界にも侵入《しんにゅう》しているんだって。どんな情報でも、連邦《れんぽう》の最高機密でも手に入るんだってさ。でもって、【森羅】は意識を持っていない、物理コンピューターっていうんだからびっくりだよね。操作《そうさ》は全部人間の手で行われているんだ。そうすれば万が一の暴走は起こらないし、面白《おもしろ》いんだって、ミスがあるから。でも、【森羅】が一番すごいのは、この世の中でたった一つしかないからなんだ。都市を制御する巨大コンピューターは。
この世には、コンピューターに都市を任せる世界はエルシ以外、存在しない。それは確かなこと。いにしえの大暴走は都市コンピューターの反乱から始まった。最大の敵だった、人間にとって。記憶《きおく》違《ちが》いでなく、ない。例外もない。そしてここはエルシじゃあない。
(ここは本当に異世界なのかもしれない)
天井《てんじょう》の高く、がらんと広い玄関《げんかん》ホールには、男と同じ制服を着た人間がちらほら見えるだけで、静まり返っていた。時折視野の隅《すみ》に、光の軌跡《きせき》が飛び込んでくる。完全自動システムなのかもしれない。
突然《とつぜん》、男は、ホールの真ん中で立ち止まった。なんだろう、と訝《いぶか》ると、彼の足元の床《ゆか》が円く切り放され、ぐんと上昇した。エレベーターの一種みたいだけれど、どういう仕組みなんだろう。
この世界は、ジゼルが想像していた以上に高度な技術の持ち主なんだ。それこそ人間が最も進歩していた、いにしえの時代の復元であるかのようで。
異世界。もしくは過去の世界。そうとしか考えつかない。
個人用エレベーターはそのまま吹抜《ふきぬ》けを上昇し、最上階を目指した。下に流れていく各階の様子は、やはり人の気配を感じさせない。チカチカと光が点滅《てんめつ》し、緊迫感《きんぱくかん》が張り詰めていた。ここは機械の中だ。無機質と光子の流れが支配する空間。
かなり長い時間を経て、あと少しで天井に届く、という空中でエレベーターは停止した。途端《とたん》、台座を埋《う》め尽《つ》くすように靄《もや》がかかって、一瞬のちにはそれは床となっていた。我が目を疑うような光景に、ジゼルは唖然《あぜん》と出現した床を凝視《ぎょうし》する。幻《まぼろし》でない証拠《しょうこ》に、先ほどまで空中だったそこを、男は大股《おおまた》の足取りで歩き始めた。
「す、すごい……」
圧倒的《あっとうてき》な技術の差を見せられた気がした。
最上階は全面シースルーの壁《かべ》で、広大な一つの部屋となっていた。なにもない。床はきれいに磨《みが》かれて、塵《ちり》一つ落ちてないけれど、なにもない。静寂《せいじゃく》、そして空洞《くうどう》。窓の向こうには建物の影は一つもなく、ここは摩天楼《まてんろう》の天辺《てっぺん》だった。
床の中央付近に、不思議な幾何学《きかがく》模様を描く溝《みぞ》があるのに気がついた。男はその手前で直立不動の体勢をとると、
「マザー・ハレルヤ、グレース・アザキです。闖入者《ちんにゅうしゃ》を連行してまいりました、ご検分を」
「ご苦労」
天井から女声が響《ひび》く。と同時に溝から強烈《きょうれつ》な白光が垂直に放たれ、視野を遮《さえぎ》った。思わず目をつむり、再び開けた時には、そこには鮮やかな紅色の布をまとった大きな椅子《いす》が据《す》えられ、一人の女性が座っていたのだ。ここまでくると、科学というより大がかりな手品か魔法《まほう》でも見ているような気分になる。ここまで演出する意味はあるのだろうか。
白い面《おもて》のその女性は、豊かにうねる金色の髪《かみ》を床まで垂らし、光を帯びた双眸《そうぼう》でジゼルをじっと凝視していた。どぎまぎしてしまうほどの威圧感《いあつかん》がそこから発せられる。マザー・ハレルヤ。都市制御コンピューターの名前。では、彼女は端末《たんまつ》の一つにすぎないのだろうか。
沈黙《ちんもく》がしばらく流れた。なにかおかしい、と思ったのはジゼルだけではなかったようだ。当惑《とうわく》を抑《おさ》えた声で、男、
「マザー・ハレルヤ。どういたしましたか」
「グレース・アザキ。私にはそれが有機化合物で構成された知能体のように見えますが?」
静かな声で、ハレルヤは言った。それはそうだろう、ジゼルは人工知能体だけれど、身体は普通《ふつう》なのだから有機物だ。当然のことと受けとめたジゼルだが、彼らにはどうも当然ではなかったらしい。
「有機化合物ですと? 貴重な有機質をアニマル製造に使用する都市があるとは聞いておりませんが」
「それに、なにか不可解なパルスが出ています。シリアルナンバーも見つかりません。思考回路に異質な流れが見えます。グレース、そのものをここへ」
「はっ」
彼は当惑も見せず、たた忠実に、幾何学模様の一つの円の中にジゼルを降ろした。なにをするのかと思いきや、足が吸《す》いつけられたように動かない。どうやらここも彼女の端末らしかった。それどころか、このビル全体がハレルヤ自身ではなかろうか、そう悟《さと》っても、時すでに遅《おそ》し。
ぼんやりとした光の煙が円の溝《みぞ》から立ちこめて、ジゼルを取り囲む。なんだ、これ。焦燥《しょうそう》にかられて、必死になって四肢《しし》を動かすが、接着剤《せっちゃくざい》で足の裏を貼《は》り付けられたようにビクともしない。
「なっ、なんだ、なんだっ、これ!」
「……侵入《しんにゅう》できませんね。グレース、下がっていなさい。口頭尋問に移ります」
仰天《ぎょうてん》しているジゼルの目の前で、男は一礼するとずぶずぶ床《ゆか》にめりこんでそのまま消えていった。先ほどの仕掛けはこっちからだとそんな風に見えるのか。
光子が掻《か》き消える。なにかされるかと覚悟していたジゼルは、ほっとし、それから気を緩《ゆる》めないままキッとハレルヤを睨《にら》みつけた。彼女の口が開く。
「あなたはなにものですか。製造された年と所属都市名を答えてください」
ハレルヤがばかに丁寧《ていねい》な口調で問いかけてきたので、ジゼル、一瞬なにを言われたのか解らなかった。解ったところで答えられるものではないけれど。これはどういうことだろう。慇懃無礼《いんぎんぶれい》な態度、という感じでもないし、かといって威圧感《いあつかん》は減じていない。丁寧。客を迎えているかのようだぞ。
ジゼルはどういう態度を示すべきか逡巡《しゅんじゅん》した。ありのままを話すか、嘘《うそ》をついてこの場を切り抜《ぬ》けるか。しばらく考えて、前者に決定する。そうでなければ、この世界から戻《もど》れる僅《わず》かな可能性を、自ら握《にぎ》り潰《つぶ》すことにならないか。
ゆっくりと、一言一言確認しながら、
「……ジゼルは、この星の住人じゃあないんだ」
「それは、天の向こう、星々の世界から訪れたと言いたいのですか? 空の果ての天幕の世界から来たと?」
「この星ではどう言われているのか知らないけど、銀河の世界はちゃんとあるんだ。ジゼルは他の星から来たの。ちょっとしたトラブルでこの星に紛《まぎ》れ込《こ》むはめになっただけなんだ。ジゼルはただ、自分の星に帰りたいだけなんだ……こんなこと言って、信じる?」
気弱になって、ジゼルは説明した。別に下手に出る必要なんてないんだけれど、ことを荒立てるのは得策《とくさく》でないし、ハレルヤの態度につい調子を合わせてしまう。
彼女は『理知』的なんだ。話しあうことがプラスになるのを知っている。
「その世界には有機化合物で構成された生物が沢山《たくさん》いるのですか? 人間はいますか?」
「ほとんどがそうだよ。人間もいるよ。その、有機化合物って、ここではそんなに貴重なの?」
「私はこのトリカンサスシティを司《つかさど》るマザー・コンピューター三代目ハレルヤ。お待ちください、天幕の向こうの世界のことをハレルヤ一世に問い合わせてみましょう」
ジゼルの質問を彼女は無視した。とりあえず信じてもらえたみたいだけれど、彼女は、いや、都市|制御《せいぎょ》コンピューターは一般市民であるエリノアとは違《ちが》って、外世界のことを少しは知っているみたい。そういう現象は衰退度《すいたいど》9でよく見られる。その世界の首脳陣《しゅのうじん》のみが銀河世界のことを知っている。そういう世界。
それにしても、やけにあっさり信じてもらえたな。ジゼルは拍子《ひょうし》抜《ぬ》けした。もっとハードな展開になることを予想していたのだけれど、これは嬉《うれ》しい誤算《ごさん》である。確かに、一度触って[#「一度触って」に傍点]みて、ジゼルが自分たちの世界の機械とは異質であることが明らかになったのだろうから、理知的な彼女としては、こうするのが一番正しい判断で、的確な行動なのだろうけど……
「信じてくれるの?」
ジゼルはおそるおそる尋ねてみた。ハレルヤは静かな表情で、
「あなたは異質な波動の持ち主です。その有機化合物で構成された躯にも興味があるのです。私はハレルヤの三代目、この世界のことしか記憶にない世代です。私はあなたに聞きたいことがあるのです。あなたには危害を加えません、どうか、教えてください、未知の世界から来た生き物よ」
「じゃ、じゃあ、ジゼルとさっき連れてこられたエリノア、エリノア・コンジュゲイトの『成長』をやめさせてよ。彼女はいやがってるんだ。それからなら、教えられるかぎりのことは教える、約束《やくそく》するっ」
千載一遇《せんざいいちぐう》のチャンスとばかり、ジゼルは意気《いき》込《ご》んで言った。彼女はためらうことなく承諾《しょうだく》すると、少々高ぶった声色で尋ねた。
「さあ、教えてください、私たちは本当に人間なのですか?」
「……え」
身体が凝固《ぎょうこ》してしまったように思われた。
今、なんていった?
私たちは本当に人間なのですか、と。
私たち?
「わ――私たち、って、ハレルヤ、あなたと誰のことを、指すの?」
絞《しぼ》り出すようにジゼルは聞き返す。なあに。どういうこと。この人はどういう意味で言っているのだろう、なにかの比喩《ひゆ》なのだろうか。それとも、額面《がくめん》通《どお》りの意味なのだろうか。コンピューターの投影でしかない彼女が、人間であると自分を誤解している。まるで、あの老犬のように。レクチャーアニマルと呼ばれたロボットのように。限りある本物の命の持ち主であると、人間であると、誤解している!?
「この世界に生きる人々すべてを指します。私は最近、そのことをとみに感じます。我々は本当に人間なのだろうか、と。我々はここに、こうして、いる。それが人間としてのなによりの証拠《しょうこ》なのですが、なにか、しっくりこないのです。一世、二世の記憶《きおく》を私は引き継《つ》ぎましたが、それ以前の情報は見あたりません。人々が黄昏《たそがれ》時代以前の人間をオールド・マンと呼び、今の人間を新人類と呼ぶいわれははっきりしません。
あなたは先ほど有機化合物の貴重性について尋ねましたね。確かに、この世界のすべての住人が有機化合物を貴重物質であると考えています。自己の体内でそれを生成できる緑の肌《はだ》の人々を羨《うらや》んで、幾《いく》つかの戦争も起きています。でも、解らないのです。なぜ、貴重なのか。我々には有機化合物など必要ないのに、炭水化物など装飾《そうしょく》にもならないのに、手に入れたがるのか。あなたのように有機化合物を躯の基本としているのならばともかく。私はそこに、ずれを感じるのです。本来の人間は必要ではなかったのでしょうか。根拠《こんきょ》はありません、ただ、記憶のどこかで感じるのです。有機質のあなたならば、なにか分かるのではありませんか」
「…………」
ジゼルの頭はパンクする。そう思考のどこかで考えていた。もう、だめ。解析《かいせき》能力がついていかない。いろいろな可能性が消えていく。どうやっても一つにつながらない。一つの世界としてまとまってこない。
なにを言ったんだ、この人は、いいや、このコンピューターは、人工知能は! 自分は人間であると錯覚《さっかく》しているのはいいとして――本当は全然よくないんだけれど、現在の設計|基礎《きそ》とは百八十度異なる思考回路なんだけれど、現実として理解できた。問題はその次だ。『あなたのように有機化合物を躯の基本としているならともかく』、だって? そりゃあ、ハレルヤ自身はコンピューターなんだから、無機質で構成されているのだろう。でも、彼女は対象を自分だけでなく、この世界にいるすべての人々としたんだ。それではまるで、人々が全員有機体ではないような口ぶりではないか。
ハレルヤは狂《くる》いかけているのだろうか。それがどういう事態を引き起こすのかを考えると怖《こわ》いが、そうであってほしい。でなければ、ジゼルが他に考えうる可能性は、ただ一つしかなくなってしまう。もっと怖い状況《じょうきょう》を考えてしまう!
ハレルヤの金色の双眸《そうぼう》がジゼルを見つめる。返事を待っているのだ。
あなたは人間ではないんだよ。そういうのは簡単だった。それは事実だ。コンピューターなのだから。でも、あなた以外は?
『成長』システム。『成長』。外から『成長』させないと大人になれない。
まさか。
まさか――自分の思惟《しい》に驚愕《きょうがく》して、目が開いていくのが分かった。
ジゼルの言葉を黙《だま》って待っていたハレルヤだが、ふと、その視線をこちらから逸《そら》し、そのまま窓に投げかけた。外を凝視《ぎょうし》して、そして、
「……あなたはホーラルの使いなのですか?」
「え?」
ホーラル? 鯨《くじら》の神さま?
ジゼルもその言葉につられて顔を向ける。
摩天楼《まてんろう》の最上であるこのフロアに、くすんだ空の彼方《かなた》から黒い影がまっすぐ突《つ》っ込んでくるのが見えた。あれが、ホーラル。神さま。
しかし、どうして神さまが姿を現すんだ? 姿なきが神さまってものじゃあないの?
(あれ? あれは、もしかして……)
しばし、なにもかも忘れてそれに見入る。そして、分かった。あれは飛行船だ。ラグビーボール型の、後部に三角のヒレをつけた、飛行船。ゆっくりと、着実にこちらへ向かってくる。確かに鯨に見えないこともないが……神さまだって?
「いつもより高度が低い。あなたを迎《むか》えに来たのですか?」
「えっ!? じゃあ、いつもあの神さまはやってくるの?」
「我々の近寄れない天幕の高度から、世界を鳥瞰《ちょうかん》しています。黄昏時代が二度と訪れぬように」
へ、変な神さま。それって、神さまっていうのかしら。いや、だいたい飛行船に乗っていることからして疑わしいぞ。飛行船じゃあないのかしら。
そう訝《いぶか》って、もう一度ホーラルに目をくれた、その時。
壁《かべ》が爆発した。
突風《とっぷう》が部屋に舞《ま》い込《こ》み、爆煙と粒子《りゅうし》レベルまで粉砕《ふんさい》された窓の物質が吹《ふ》き乱れる。高層《こうそう》風が室内を揺《ゆ》るがす。
この強引な突破《とっぱ》は。むちゃくちゃなやり方は。もしかして。もしかして!
「だあーっ、ジゼル、大丈夫《だいじょうぶ》かあっ!」
ジゼルは推測《すいそく》は外れていた。アスラじゃない。でも、これは助けだ。
聞き慣れぬ男声――いや、これは、カイ!?
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ACT.7
「ジゼル、だいじょーぶかっ。おーいっ、どこにいるーっ」
白煙と粉塵《ふんじん》の向こうで、カイが叫《さけ》ぶ。ジゼルはへなへなと腰《こし》が抜《ぬ》けた。
なんでここにカイが来るんだ? アスラならまだしも、カイがなぜ。いや、どうやってこの世界に来れたんだ、彼は。
「カ……カイ!」
ようやくのことでジゼル、呼応する。すると、おうっ、と返事があって煙の中からカイの姿が現れた。
その格好《かっこう》を見た途端《とたん》、ジゼルは失礼だが吹《ふ》き出してしまった。背中に操作《そうさ》が簡単《かんたん》だけれどもかさばってしまう反重力システムと推進《すいしん》システムを背負い、手には大きな筒《つつ》を抱《かか》えて、テレビで見た特攻野郎《とっこうやろう》のような服で身を固めている。全体の物々しい雰囲気《ふんいき》と、軽そうなカイとのバランスが悪くて、つい笑ってしまった。なにをする気なんだか、この男。
「あーっ、無事だったかあ。よかった、心配してたんだぜ」
「ど、どうしてここが?」
[#挿絵(img/compass_240.jpg)入る]
助けにきてもらってなんだけれども、ジゼルは唖然《あぜん》として尋ねた。カイ――カイニス・オーセン。彼はカヌーア星で出会って、それから共に面倒《めんどう》に巻き込まれた人である。デイニのお兄さん。その彼が、どうしてここに来るんだ? 彼にはジゼルを助けにくる義務もいわれもないのに。だいたい、彼こそ今までどうしていたんだ。他の人たちはどうなったんだ。「アド・シースっていうE・R・Fコーポレーションの奴《やつ》がいただろう、あいつを問いつめたら、ここに飛ばされたらしいって教えてくれたんだ。俺が救出に行くって言ったら、すなーお[#「すなーお」に傍点]に専用[#「専用」に傍点]の武器を貸してくれて、世界線を追ってここまで送ってくれたぜ。まったく、一人でこんな遠くまで飛ばされやがって」
ストレートな笑顔で答えるカイ。ジゼルはうろたえた。ここに飛ばされたらしい? 世界線を追った? 送るって、ここは行き来が可能な場所なの?
「よっしゃ、早いとこずらかるぞ、長居《ながい》は無用だ」
「な、なんで……」
「ん?」
「なんで、助けに来てくれたの? こんな強行|突破《とっぱ》で、危険かもしれないのに。ジゼルを助ける義理もないのに……」
ばか、なにを聞いているんだ。ジゼル、自分を叱責《しっせき》する。今はそんなことより、聞かなければならない重大なことがあるだろう。
カイはなにを言われたか、一瞬理解しかねる表情をつくった。それから呆《あき》れた口調で、
「ばかだなあ、友達だからだろ。義理もへったくれもねーって。まったく、クリスみたいなこと言うんじゃないよ」
「ともだち」
「さっ、早く、面倒にならないうちに!」
カイはジゼルを抱《だ》き上げようとした。が、いかんせん足が床《ゆか》に吸《す》いついたままなので、ジゼルは悲鳴を上げる。
「いたい、いたいっ。! むりしないでよっ、足が固定されてるの」
「なんだなんだ、もう面倒に巻き込まれてたのか? どうなってんだ、これは」
その時だった。
「お前はなにものですか!?」
鋭い誰何《すいか》。それは、接客の雰囲気《ふんいき》が消え去って、殺気だったハレルヤの声だった。そりゃあ怒《おこ》っているだろう、いきなり自分の建物を破壊《はかい》されたのだから。
「なにをしたのです、私のバリアをくぐって攻撃《こうげき》できるはずがないのに。マザーコンピューターはいかなる時も不可侵《ふかしん》の聖域《せいいき》です、何ぴとも攻撃することはできないはず。おまえはなにものです!」
「けっ、俺はお前の世界の住人じゃあないんだよ。聖域もなにもあるかってんだ」
煙幕《えんまく》の向こうに見えてきたハレルヤをまっすぐ見返しながら、カイは言い放った。
ハレルヤはやはり怒っていた。怒《いか》りの表情だ、頬《ほお》の辺りがぴくぴく動いて、歯を噛《か》みしめて震えているのが、ここからでも分かる。とても人間くさい表情。これがコンピューターの作る感情。
ジゼルは身震《みぶる》いした。これが昔は当然だったという。人工知能体――ロボットは人を目指して発展してきた。人間と変わらぬほどに、人間とさえ言っていいほどに、精密《せいみつ》に、繊細《せんさい》に。人間よりも多くの機能と可能性を秘《ひ》めながら、唯一《ゆいいつ》目指すところを人間として、感情豊かに、混沌《こんとん》とした思考で、そして愚昧《ぐまい》になる道をたどった。
しまいに、彼らは暴走した。
人間を目標とする設計《せっけい》思想は絶たれた。今の人工知能体は人間を極限としていない。
機械が機械であることに誇《ほこ》りを持っていて。
(いつか)
(いつか、同じ想いをしたことがある)
あれはいつのことだったか。
「お前は……そこの小さきものと同じなのですか? ホーラルの使いなのですか?」
ハレルヤは感情を抑制《よくせい》して、それでも理知的に話を進めようとする。憮然《ぶぜん》とカイは応《こた》えた。
「ホーラルだかホラーだか知らんが、俺はあんたをどうこうする気はないんだ。ここ[#「ここ」に傍点]には傷をつけないでくれって言われてるんだよ。ジゼルさえ返してくれればとっとと退散する、だからこいつを放してくれ」
「お前はなんなのですか」
ハレルヤの声色が少し低くなった。微《かす》かな震えが聞き取れたのは気のせいだろうか。
「お前は人間の形をしている――おそらく、自分をヒトと認識《にんしき》しているでしょう。でも……でも、なぜ、有機化合物で躯が構築《こうちく》されているのですか!?」
「そりゃあ人間は有機体だから……」
質問の意味が理解できないといったていで、カイは答えた。ハレルヤの唇《くちびる》が震えている、確かにだ。
「ヒトは、有機化合物で構成されている? 我々[#「我々」に傍点]は違《ちが》うのにですか?」
「お前たち[#「お前たち」に傍点]ロボットと人間は違うんだよっ、本物の人間[#「本物の人間」に傍点]は有機質の塊《かたまり》なんだっ!」
「カッ、カイ!?」
苛立《いらだ》った声を上げたカイに、ジゼルは驚愕《きょうがく》した。それでは、まさかまさか、と思っていたことが正解だったというのか。この世界の謎《なぞ》の答えはそれだったというのか。
「なんだ、ジゼル、驚いた顔して。あ、もしかして判らないのか!? おいっ、よく聞け、こいつらみーんなロボットなんだ。この街の住人も、犬も猫《ねこ》も鳥も、植物だって精巧《せいこう》にできたロボットなんだとさ!」
やっぱり!
予感は的中した。ああ、ならばみんな納得《なっとく》がいく。エリノアのいう『成長』も、老犬が嘆《なげ》いていた『老い』も、彼らがロボットだからこそ意味を持つ。
彼らはロボット。ここはロボットの国、異質の世界。
じゃあ、ここはどこなんだ!
「じゃ、じゃあ、ここは、どういう星……どこの星なの!?」
自分で聞いても震えた声でジゼルは尋ねた。そんな世界があるはずはない。あったとしても、ロボットの存在に反感を持っている人々から徹底《てってい》攻撃《こうげき》を加えられ、今ごろは廃墟《はいきょ》と化しているはずなのだ。
カイは、しかしながら、一瞬ぽかんとした様子で、それから怪訝《けげん》に、
「なに言ってんだか、今ごろ。ここはフェルドワント・コルソだよ、一緒《いっしょ》にきただろう――おおっ!?」
カイが最後に出した驚きの声は、床《ゆか》のあちこちから湧《わ》きでるように現れた制服姿の人間たちに対してだった。それはなかなかに不気味な光景だった。あたかも床の一部から人間が生えてくるような錯覚《さっかく》に陥《おちい》る。
いや、人間ではない。
ロボット。
そして、ここはフェルドワント・コルソ。即《すなわ》ち、ジゼルは異世界に放り投げられたわけでも、タイム・トリップしたわけでもなく、一歩もこの星から外に出ていなかったということだ。
フェルドワント・コルソ。立入禁止|星域《せいいき》。E・R・Fコーポレーションが管理する惑星《わくせい》。広大な隔壁《かくへき》でくくられた世界。
隔壁でくくられた? もしかして、ハレルヤの言う天幕《てんまく》とは隔壁のことだったのかしら。隔壁で閉じられた世界。わわ、広大どころじゃあないぞ。この星そのものを覆《おお》っているのではないかしら。
「なっ、なんだなんだ、これは手品か幻《まぼろし》かっ。うーむっ、これは目の錯覚に違《ちが》いない、きっとそうだ。うわわっ、囲まれちまった!」
カイがエレベーターの秘密《ひみつ》に仰天《ぎょうてん》しまくっている間に、警備員《けいびいん》とおぼしき十数人のロボットにぐるりと囲まれてしまった。殺気が漂っている。別に武器なんか携《たずさ》えている様子はないけれど、彼らのばか力は先刻承知だ。エリノアのような一般市民ではないから、躯にどんな仕掛けがあるやもしれない。
ハレルヤを守るように、じりじりとその冷徹《れいてつ》な顔で輪を縮めてくる。
「ハ、ハレルヤ三世!」
ジゼルは慌《あわ》てて声を上げた。
「この人は本当になにもしないよ! ジゼルが保証する。そ、そりゃ、こんな風に突《つ》っ込《こ》んできたのは謝《あやま》らせるけど、すぐに出ていくよ! それから、こいつが言ったことは本当なんだ。あなたが聞きたかった、人間のような気がしない、という問題の答えなんだよ。人間は、彼のように有機質なんだ。あなたたちはロボットなんだ! 聞いてる、ハレルヤ!!」
警備員の輪の隙間《すきま》から、ジゼルは必死にハレルヤを仰《あお》いだ。
だけど。
「そのものを停止させます」
さきほどまでと異なる、少し高い、ソプラノの声。さらに感情を隠《かく》した、というよりも、感情の抜《ぬ》けた、クリアな命令。
心なしか、顔つきまで厳しく冷たいものになったのは気のせいだろうか。
「危険因子、更正《こうせい》基準《きじゅん》第一種|扱《あつか》いで強制|排除《はいじょ》します。有機質造形は一旦《いったん》、地下|貯蔵庫《ちょぞうこ》に収納するように。グランドコンピューターに支持を仰ぐまで監視《かんし》しなさい。その有機質造形は音を発しますが、コントロールされていない声帯を備えているためなので、言葉に惑《まど》わされぬよう口を封じなさい。よろしいですね」
抑揚《よくよう》少なく、事務的にハレルヤは言い渡す。その豹変《ひょうへん》した態度に、ジゼルはおろか、カイまで泡《あわ》を食ったようにぽかんとした。
「マザー・ハレルヤ、これも有機質造形ですが」
さきほどのグレース・アザキとかいう男の声がした。疑問を投げかけているというよりも、どちらの処理を選択《せんたく》するべきかの確認だ。あれ、会話の対象となっているのはジゼルなのかしら? 危険因子で、更正基準第一種扱い。エリノアの両親は過激《かげき》因子の第二種扱いだったな。エリノア自身は第五種扱いだった。
第一種ってことは、さらに重い更正ってことかしら。強制排除。停止させる。
停止だあーっ!?
「それは人工知能体です」
淡々《たんたん》と語るハレルヤ。
「なんの問題はありません。この都市の方針とかけ離れた精神に生育したようなので、これから修正します。それは単なる有機質の実験体です。それ以上でも以下でもありません」
「マザー・ハレルヤ……」
グレース・アザキはさらになにか言おうとした。が、彼女の鋭い一瞥《いちべつ》に押し込められる。
「私はマザーコンピューター、ハレルヤ。この都市の礎《いしずえ》となりしハレルヤ一世。私に逆らうことはまかりなりません」
ざわっと、警備員《けいびいん》たちにどよめきが走った。ジゼルもびっくりした。ハレルヤ一世だって? いつの間に入れ替わったんだろう。そういえば、さっき天幕《てんまく》の世界のことを問い合わせるとか三世が言っていたっけ。問い合わせるとはこういうことなのか。それとも問い合わせの内容が内容だったので、彼女を押し退《の》けて現れたとか。そりゃ、コンピューターなんだから代《だい》替《がわ》りしたからといって、前の代のが死んだ、ということにはならないだろう。だろうけど、なんか亡霊《ぼうれい》がとりついたような感があるぞ、それは。やだなあ。
なんて、のんびり構えているわけにはいかない。彼女は三世よりも理知的、合理的、そして確固たる自分の世界の形を持っている。
ジゼルたちを排除しようとしているのは、世界を崩《くず》されないため?
そこまでたどり着いて、ジゼルはハレルヤに投げかけた言葉を後悔《こうかい》した。あれが強制排除を決定させてしまったにちがいない。
でも、強制排除って、どういうことなんだろう。強制退去なら星から出ていくことだろうけど。
「お、おい、ジゼル。なんかやばい状況《じょうきょう》じゃねーかっ?」
カイが第一印象通り、頼りないことを言う。ジゼルは頭が痛くなった。この世界のことを理解して飛び込んできたかと思えば、そういうわけでもないらしい。無鉄砲《むてっぽう》というか、計画性がないというのか。
でも、ジゼルを助けにきてくれた。
(どうして?)
(友達だから)
友達だから……
「もうっ、無茶するからだよーっ。他に助けは来ないの?」
「要《い》らないと思ったんだよー。監視されているし、機械が人間を攻撃《こうげき》するなんて、ピンと来なかったからな。うわわ、こっち来るなよっ」
無表情で手を伸ばしてくるロボットに、カイは蹴《け》りをいれた。が、無駄《むだ》な抵抗《ていこう》、相手はびくともしない。
「そりゃ、俺が飛び込んで三十分で戻《もど》らなかったらE・R・Fが介入《かいにゅう》して救出してくれるって話だけどさ」
「やっぱりE・R・Fコーポレーションがこの都市を?」
「ああ。ここはシミュレーション惑星《わくせい》なんだとさ。ここにあるロボットの都市群を一手に統轄《とうかつ》しているグランドコンピューターっていうのは、奴《やつ》らが握《にぎ》ってるんだと」
「じゃあ安心していいんじゃないかな」
「奴ら、介入は極力|避《さ》けたい、三十分以内に戻ってきてくれ、って言ってたぞ」
「そんな! カイは助かるだろうけど、その間にジゼル、更正《こうせい》されちゃうよ!」
「更正ってなんだ?」
「洗脳《せんのう》だよ!」
どんどん追い詰《つ》められる会話に、悲鳴に近い声をジゼルは上げた。その途端《とたん》、ガクン、と身体が上下に震動して、視界が上に一斉《いっせい》に流れる。
「カイ!」
ジゼルの足元の円だけが、急に床《ゆか》にめり込《こ》んだのだ。身体が浮き上がりそうな下降に、うっと息が詰まる。なんだ、どこへ連れていこうってんだ!?
小さな円盤《えんばん》は、留まるところを知らず下降していぐ。流れる光景は、上昇した時と異なり、暗い、大小さまざまなコードや制御盤《せいぎょばん》、小さな光を点滅《てんめつ》させている機械が密集しているような空間だった。まるで、都市コンピューターの母胎《ぼたい》へと潜り込んでいくようだ。
まったくの無人。
低い機械の唸《うな》り声。
コンピューターの暗い翳《かげ》り。
全身が硬直《こうちょく》する。
誰もいない。
助けはこない。
(E・R・Fが管理してるんだ、大丈夫《だいじょうぶ》、大丈夫……)
最後には必ず助けに来る。ひょっこり現れて、おいしいところだけをかっさらっていく奴がいる。ここはE・R・Fが管理しているんだもの。ジゼルを見捨てるはずがない。
だって、ジゼルがどうにかなったらなつめが悲しむもの。なつめと口きいてもらえなくなってもいいわけないよね。ね。
(だから、早く来て、アスラ!)
繰《く》り返し、繰り返し、ジゼルは唱《とな》えるように呟《つぶや》いた。それから、世界線を追って位置を把握《はあく》しているE・R・Fが、助けにこないわけがない理由を片《かた》っ端《ぱし》から考え、理屈《りくつ》づけ、大丈夫、安心よと自分に言い聞かせる。
不安と恐怖《きょうふ》に打ち勝つには理屈も必要なんだと、心の隅《すみ》で理解している自分がいた。ふしぎだ。どこまでもメタ視する自分はなにものなんだろう。それとも、それが普通《ふつう》なんだろうか。自分をメタ視するのは、ごく普通のことなのだろうか。
そんなことをこの窮地《きゅうち》に考えている、それを嘲《あざけ》るまた一回り大きな自分がいる。どこまでもどこまでも自分を客観的に見つめる自分がいた。際限がない。
それがメタ視ってもんだよ。誰かがそう言う。
おかしいの。あんたは猫《ねこ》なのにメタ視ができるなんて。猫には自分を他人として考える脳《のう》はないんだよ。猫には未来を感知できる脳はないんだよ。
おかしいの。あんたは猫じゃない。
あの水槽《すいそう》を出たその瞬間《しゅんかん》から、あんたは猫であることをやめた。目覚めないはずなのに。
目覚めないはずなのに!
ガチャン、という金属音に我に帰った。いつの間にか円盤は停止していて、床《ゆか》と一体化している。どこまで降りてきたのか見当もつかない。機械群の隙間《すきま》をくぐり抜《ぬ》けてきたらしく、上を向いてもそこはパイプとコードで埋《う》め尽《つ》くされていた。ここだけ、お椀《わん》を伏せたような空間がぽかりと空いている。
最上階と同じ幾何学《きかがく》模様が、ここの床にも描かれていた。それにぎょっとなるが、足は吸《す》いついたまま、寸分も浮かばない。
ほの暗かった。周《まわ》りを囲むのがどんな機械なのかもよく見えない。空間にはなにもない。ただ一つを除いては。
「ハレルヤ……」
目前に、ハレルヤが佇《たたず》んでいた。いや、彼女の端末《たんまつ》の一つがある。ジゼルを見おろす黄金色に輝いた双眸《そうぼう》は、光とは反対に冷やかで厳格《げんかく》だった。揺《ゆ》るぎない態度。なにを言っても無駄《むだ》だ。その場で直感する。三世よりはコンピューターらしいところがあるのだろう、心のない計算機の翳《かげ》りが。それが彼女の意志を堅《かた》いものにする。融通《ゆうずう》はきかない。
それでもなにか言わなくては。時間|稼《かせ》ぎをしなくては。できれば、三十分。
(早く来て、早く!)
「……あ、あなたは、コンピューター大暴走時代を体験したの?」
ハレルヤは答えなかった。人形の顔で手を伸ばし、ジゼルの身体を鷲掴《わしづか》みにして引き寄せる。なすがままの自分が情けなかった。でも、口だけは動かし続けなければ。
「こ、ここがシミュレーションだってこと、知ってるの? ロボットは全滅《ぜんめつ》したって知ってるの!?」
だめ。声が上擦《うわず》ってくる。ヒステリックになってくる。でも、だめ、諦《あきら》めないもの。ジゼル、なつめのところに帰るんだもの、帰れるんだもの!
(早くきて、どうして来てくれないの、どうして!)
「危険因子、更正《こうせい》基準《きじゅん》第一種|扱《あつか》いで初期化します」
誰に告げるのか、淡々《たんたん》とハレルヤは言った。
初期化だって!?
すべてを消すと? 洗脳《せんのう》だけでは足りず、すべての記憶《きおく》を消去するというのか?
ジゼルのすべての記憶を。
愕然《がくぜん》とした。
記憶が失われる。すべて。ここの記憶。銀河世界の記憶。E・R・Fコーポレーションの記憶。おとーさんおかーさんの記憶。エルシの記憶。アスラの記憶。なつめの記憶。実質的な停止状態に追い込まれる。
なつめの記憶が消える?
あの綺麗《きれい》な姿も、優しい微笑《ほほえ》も、あたたかい抱擁《ほうよう》も消える? 三年間、一緒《いっしょ》に暮《く》らしてきたすべての思い出が、消える? 今みたいな記憶|喪失《そうしつ》というわけではなくて、ばらばらに崩《くず》して、跡形《あとかた》もなく流して、漂白して、真っ白になってしまう――そういうことだと言うのか?
「い――い、や、だ」
ぎりぎりと胸が締《し》め付けられながら、必死に絞《しぼ》りだした声は掠《かす》れていた。
「い、いや、いやだ。いやだっ、そんなのはいやだ! やーっ! 助けて、助けて! お願い、助けて、放して! ア、アスラ、アスラーッ! 聞こえてるんでしょ!? ほんとは近くにいるんでしょ!? 早く助けてよーっ! これ以上|怖《こわ》がらせなくてもいいじゃない、アスラのいじわる! アスラ、なつめ、なつめーっ!」
堰《せき》を切《き》ったようにジゼルは声を上げた。ぼたぼたと涙がこぼれる。怖い。怖い、怖い。怖いよう。助けて。このままじゃあ、ジゼル、ここから消えてしまう。躯は生きていても、ジゼルは死んでしまう。それが人工知能体なのだから。怖い。消滅《しょうめつ》。こんなところで、誰にも判らず、誰にも見られず消えていくなんていやだ。なつめが待っているのに。
「やだやだっ、助けて! ごめんなさい、もうなにも言わない、なにも聞かないっ。すぐに出ていくから見逃して、あなたが人間的なら聞いてくれるでしょ!」
しかしながら、ハレルヤは手の力を緩《ゆる》めず、無表情のままだった。ハレルヤはもうだめだ。諦《あきら》めがどっと徒労《とろう》感と恐怖《きょうふ》を伴って襲《おそ》う。
でも、大丈夫《だいじょうぶ》。でも、分かってる。ほんとはそこにいる。最後には絶対助けてくれるスーパーヒーロー。いつだって助けてくれた。そういう人がジゼルにはちゃんといる。ジゼルの味方だもの。笑いながら出てくる。すぐに、ほら、次の瞬間。
(早く来て、ここに来て)
ハレルヤのもう一方の手が、白い、陶器《とうき》のような手がジゼルの頭を押さえた。涙が乾《かわ》いて目が見開かれる。恐慌に神経電流が容量を越《こ》し、頭が痺《しび》れる。
(ジゼルを裏切らないで、お願い……)
助けは、ほら、次の瞬間に――
「実行します」
お願い。
思考のパルスが障壁《しょうへき》にぶつかった。
実行します。死の宣告だけがかろうじて滑《すべ》り込《こ》む。
そして。
(なつ……)
消える。
[#改丁]
あとがき連続青春小説【そして、あたしはここにいる】第四回
一巻ができあがり、さっそく友人に渡した小林さんは、彼女の無情な言葉に衝撃《しょうげき》を受けました。「あの説明、間違っているよ」。説明した当人が言うのだから、そうなのでしょう。そんな、三年も昔の会話、あたしが覚《おぼ》えているわけないじゃない……グチる小林さんに、彼女は問題の小説を貸してくれました。そして、「次のあとがきで訂正したら、なにも言うことはない」と言ってくれるのでした。三年間、ああいう小説だと信じ込んでいた(全文に渡って辞書形式で話が進んでいくという、とてつもなく高度な小説と考えていた)あたしって、なんておばかさんなんでしょう。
でも、小林さんは落ち込んだりしません。既《すで》に三巻分の原稿を渡して話を完結している身には、そんな失敗、痛くも痒《かゆ》くもないからです。
というわけで。
「ファウンデーションっていう科学者の団体が、まず宗教で支配して、経済で制覇《せいは》していくお話。百ページで三百年が過ぎるの」
そう訂正《ていせい》させていただく小林さんでありました。
さて、「なにも言うことはない」と語る友人たちですが、そんな彼女たちが必ず説明しろと責《せ》めるのは、φベクトルのことでも科法使いのことでもありません、「企業主義」のことです。
実はこの世界で一番小林さんが解《わか》っていないのは、随所《ずいしょ》に出てくるこの言葉なのでした。まったく、こんなことをばらしてよいのでしょうか。
高校三年の秋冬、最も勉学に燃えている(はず)時に、それは起きました。東西ドイツの統一です。地理学に全力投球していた小林さんは、わいわいと友人たちと騒いだものです。ソ連は一年以内に分裂するだの、東欧崩壊は近いだの、大学センター試験は大荒れだの。その中で、女王さまは言いました。「マルクスは失敗したんだよ。社会は発展すると社会主義、共産主義になるという説は間違ってたんだね」「人間の欲求は止まらないものねえ」「だから、社会が発展すると、資本主義から企業主義になるんだっ」「ほー(半ばばかにしている)」。これが「企業主義」の考え方の基本なんですもの。本当に理解しているのでしょうか。
でも、現代日本は着々と企業主義になっているようなので、造語とはいえ、詳しい説明は必要ないでしょう。
[#地から2字上げ]つづく
第五回、こうごきたい。
どこにでもあるような設定を打ち砕《くだ》け、という主旨《しゅし》の下《もと》、この二つの章は生まれました。あまりにも陳腐《ちんぷ》な世界で、書いている方が情けなくなりましたが、そこら辺の意向を汲《く》みとっていただければこれ幸い。
私は『ロボット』が嫌いです。別に、産業機械なんか排除《はいじょ》してしまえ、というわけではありません。その字面《じづら》と語呂《ごろ》が苦手と云いましょうか。そして、最初の小説における『ロボット』の観念という奴が好きになれません。
「ねこのめ」はそんな感情から生まれたといっても過言ではないでしょう。
あと、『タイムマシン』という言葉も嫌いなので、この世界にはそんなものは存在していない設定になっております。いや、良かった良かった(偏見《へんけん》で凝《こ》り固まった世界だなあ)。
平成四年十一月十三日
[#地から2字上げ]小林めぐみ
[#改ページ]
底本:「ねこのめ2 羅針盤の夢」富士見ファンタジア文庫、富士見書房
1992(平成4)年12月25日初版発行
入力:iW
校正:iW
2007年12月20日作成