ねこのめ1 天秤の錯覚
著者 小林めぐみ/イラスト 加藤洋之&後藤啓介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)天秤《てんびん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|φ《ファイ》ベクトル
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目次
ベクトルの彼方《かなた》で待ってて
第一章 天秤《てんびん》の錯覚《さっかく》
あとがき
[#ここで字下げ終わり]
[#改丁]
ベクトルの彼方《かなた》で待ってて
[#改丁]
聞こえてくるのは歯車《はぐるま》の音。電子の囁《ささや》き、光の呼び声。
この仲逗《なかず》村には昔から半径二メートル程の穴が在《あ》って、底が暗闇《くらやみ》に溶《と》けているくらい、ふかーいふかーい穴が在《あ》って、村人はそこに祠《ほこら》を建てて祀《まつ》っている。
ジゼルのデータバンクにはそれくらいしか情報《じょうほう》はなかった。
「それ、本当の話なの!?」
半信半疑《はんしんはんぎ》でジゼルは尋《たず》ねた。だって、そんなの聞いたことないもの。
ジゼルの前を、枝をかき分け草を踏《ふ》みつぶしながら山を進んでいくアスラは、振《ふ》り返りもせずに陽気な声で答えた。
「本当だとも。昔な、|φ《ファイ》ベクトル創造《そうぞう》を完成させる実験《じっけん》段階《だんかい》で、かなりの数造ったもんさ。今でも新米《しんまい》や学生がやらかすんだ」
「よく世間にばれないね」
「φベクトルの存在理論自体が難《むずか》しいからな。科法《かほう》使いのやることは大目に見られる」
ざくざくとアスラは進む。鬱蒼《うっそう》と林立するのは杉の木。無論《むろん》、最初は植林のはずのこの山林も、今じゃあ原生林と化している。木漏《こも》れ日《び》さえ差し込《こ》まなくて、昼間なのに黄昏時《たそがれどき》みたいに灰暗《ほのぐら》い。なんか陰気《いんき》な雰囲気《ふんいき》。いやだなあ、こういうの。田舎《いなか》独特の重たくてしけっぽい空気が充満《じゅうまん》しているよ。
いったい、テラフォーミング完了からどのくらいの歳月が経《た》っているのだろう。
「あちっ。小枝で腕《うで》を切った」
そう声を上げて、アスラが左二の腕を押さえた。ジゼル、呆《あき》れた声で、
「ほーらっ。だからちゃんと村に寄って、案内してもらえばよかったんだ。こんな、道なき山道を行くなんて、無謀《むぼう》だい」
「お前な、人の切り開いた後をついてくるだけのくせに、そういうこと言うのか。そうか、そうか」
非難《ひなん》したジゼルをアスラが一瞥《いちべつ》した。この視線はまずい! そう判断《はんだん》した時は既に遅く、ぐわしとジゼルは首根っ子を掴《つか》まれ、宙ぶらりん状態になっていた。いくらジゼルが猫だからって、この扱《あつか》いはなんなんだっ。
「なにすんだよーっ、アスラのおおばかやろう!」
「なーに、お前さんの言う通り、先に村に寄ろうと思ってな。但《ただ》し、ジゼルだけ」
そう言うと、アスラのおおばかやろうは、ジゼルをぶんと振り回し、麓《ふもと》目がけて放り投げようとしたのだ!
「うわーっ、うわーっ! やめて、やめてーっ!」
たとえ本気で投げるはずはないと判《わか》っていても、もし手が滑《すべ》って弾《はず》みで飛んでしまったらどうしようっていうんだ。本当に飛んだら冗談《じょうだん》にならない、ジゼルは生体機械だから杉の木に全身打ち付けて、はいそれまでよ、なんだから。人は頭のコンピューターが残っていれば再生可能じゃないかって言うけれど、そんな単純な代物《しろもの》じゃないんだぞ。
「ばか、騒ぐなって。投げるわけないだろう、そんなことしたらなつめに嫌《きら》われ……」
けらけらと笑っていたアスラが、不意に声をつぐんだ。憤慨《ふんがい》してジゼルは手足をばたつかせていたけれど、その態度に気づいて怪訝《けげん》にアスラの顔を覗《のぞ》き込む。
アスラは林のどこかを凝視《ぎょうし》していた。ジゼルも倣《なら》って視線の方向に目をやるが、視界には別段変わった物も変わったことも映らない。
「どうしたの、アスラ」
「……いや、なんでもない。さあ、行くぞ」
そうかわすと、ジゼルを肩に乗せ、アスラは再び山を登り始めた。なにかジゼルは気にかかったけれど、まあ、それ以上の追及《ついきゅう》はしないでおくことにした。いつもは二十二にもなって猫相手にちゃらかす育ちすぎた悪ガキだけど、アスラの判断力《はんだんりょく》はジゼルだって買っている。だって、あのなつめの兄貴だもの(信じられないけど)。アスラが言わないと決めたら、てこでも言わないんだから。
「なつめ、怒ってるかなあ。無断《むだん》で来て」
「まあ、これでCPU交換は確実にやらされるな」
「げーっ。やりたくないって言ってるのにー」
とやかく言ってる内に杉林は切れて、ちょっとした広場になっている場所に出た。真ん中に古めかしい小さな祠《ほこら》が建っていて、向こうの方に石段が見える。どうやら目的地に出たようだ。
「ほーらっ。向こうに階段があるじゃないか、こんな苦労して」
「浅はかだな。山は獣径《けものみち》を行くのが浪漫《ろうまん》ってもんだ」
「ふんっ、アスラのかいしょーなしっ」
「甲斐性《かいしょう》ならあるぞ。おかげでこんなところまで来て、山登りまでしちまった」
「だいたい、なんでアスラが来なきゃあなんないんだよお」
「俺《おれ》が――」
そうアスラが言いかけた時、祠の方から鋭い叱責《しっせき》が飛んできた。
「おめえ達は誰《だれ》だ!?」
ぎょっとなって、二人|一斉《いっせい》に振《ふ》り向くと、なんか野暮《やぼ》ったい服装の、顔のごついおじさんが竹箒《たけぼうき》を片手に佇《たたず》んでいた。さしずめ村人Aというところだろう。
ほら、言わんこっちゃない、とジゼル、アスラを仰《あお》ぐ。が、ジゼルが目を離した一瞬《いっしゅん》に、アスラはがらりと人を変えていた。
「仲逗《なかず》村の方ですね」
動揺も全く見せず、声色《こわいろ》も落ち着いた、ビジネスマンのそれになる。アスラの態度に拍子抜《ひょうしぬ》けたか呆気《あっけ》に取られ、おじさんはワンテンポ遅れて幾度《いくど》も頷《うなず》いた。
「私《わたくし》、|E《イー》・|R《アール》・|F《エフ》コーポレーションの会長かわな・セキの息子でアスラと申します。父の代理として仲逗の皆様に御挨拶《ごあいさつ》に上がりました」
にっこりとその端整《たんせい》な顔で営業スマイル。おじさん、こんな態度を他人に取られるのが初めてらしく、加えて『E・R・Fコーポレーションの会長』という言葉が衝撃《しょうげき》を与えたらしい、口をぱくぱくさせて、なにも言い返せずアスラを見つめていた。
こっちを見たアスラがニヤッと笑う。お見事。
銀河|随一《ずいいち》の企業《きぎょう》E・R・Fコーポレーション。基幹産業は完全専売の反重力システムと|φ《ファイ》ベクトル創造。φベクトルがあれば、今までの無駄《むだ》の多い|α《アルファ》軸《じく》走行の百分の一のエナジイで宇宙飛行が可能になるのだから、トップ企業になるはずだ。アスラはその会長夫婦の長男。ジゼルの本当の飼《か》い主は妹の方のなつめなんだけれどね。
その彼がこんなへんぴな惑星《わくせい》の田舎《いなか》にやって来た理由は、山道で話していた通り、φベクトル創造《そうぞう》の実験《じっけん》段階《だんかい》であちらこちらに空《あ》けてしまった【穴】をふさぐため、土地を、正確に言えばその【穴】を買取りに来たのだ。
「大目に見られるっていっても、そのまま放っておくわけにもいかんだろう。企業のイメージダウンに繋《つな》がるし。だから、昔から【穴】を見つけては塞《ふさ》いでいたんだ」
これはアスラの弁。なーるほどね、企業主義は律義《りちぎ》なわけだ。
この惑星|桔乃藻《きのも》の【穴】は一年くらい前に発見されて、以前から交渉《こうしょう》をしていたのだけれど、祠《ほこら》も建っていることだし、土地所有が村になっていたんで、話がこじれてなかなか進まなかったんだって。だから、アスラがわざわざやって来たんだ。
村人Aさんに連《つ》れられて、ジゼル達は【穴】を拝見《はいけん》する前に村長さんの家を訪《おとず》れることになった。全《まった》く、二度手間というものだ。
「……ええ、再三申し上げた通り、祠は村の近くへ移して、ご希望でしたら新しいものと建て替えて差し上げても結構です。先程見て参りましたが、かなり痛んでおりますね、早早に修復が必要かと存じます。むろん、費用は当社が全《すべ》て負担致します」
にこにこと、礼儀正しくアスラが説明している。あの【穴】がφベクトルに通じてることは黙っておくらしい。村の人達が村長さんの家にわらわらと押しかけてくる。あのE・R・Fの会長の息子が来たとかいって、村中てんやわんやの大騒ぎだ。
それにしても、このアスラの豹変《ひょうへん》ぶりったら! 困惑《こんわく》に頭を突き合わせている村長さんと助役さん五人に、いつものこいつの姿を見せてやりたいや。
アスラは色々と理由をでっちあげて(むろん、社の重役会議で決定したでっちあげだけど!)、三次元ディスプレイで説明している。ジゼル、だんだん飽《あ》きてきたので、一足先に【穴】見物と洒落込《しゃれこ》むことにした。
「アスラーっ、ジゼル、【穴】見に行ってくるよ」
ジゼルが不意に喋《しゃべ》ったので、村の五人はぎょっとひるんだ。なんか失礼だなあ、この惑星《わくせい》はE・R・Fの勢力圏なのに。こういう星では人工知能も宝の持ちぐされだよ。
まあ……銀河的に見れば、こういう星が圧倒的多数なのだけれど。
「あ、ああ、それならば、家《うち》の息子を案内につけましょう。一礎《かずき》!」
困惑した調子で村長さんは家の奥に向かって声を上げた。別に、猫一匹に案内なんかつけてくれなくても――と思うけど、よっぽど気が動転しているらしい。変に気まずくなって、この星とE・R・Fの関係が悪化したら一大事だもんね。
しばらくして、奥から一人の少年が顔を出した。十二歳くらいの、痩《や》せた、真っ黒に日に焼けた少年だった。いや、待てよ。日系人は実際の年より若く見えるらしいから、十四、五歳かもしれないや。
「一礎、こちらのジゼルさんを祠《ほこら》まで御案内しなさい」
仏頂面《ぶっちょうづら》の一礎君は、父親には返事もせず、じろりとジゼルを一瞥《いちべつ》すると、
「こいっ」
これまたぶっきらぼうに呼び掛け、たたっと駆《か》けていってしまった。慌《あわ》ててジゼルは後を追うが、背後で村長さんの、
「い、いや、あの年頃はなにかと親に反抗的で」
とかなんとか謝る声が聞こえた。第二次反抗期って奴《やつ》かな。
家を飛び出すと、一礎は田畑の間を風のごとく山へ向かって走っていく。さすがは田舎《いなか》の子、ジゼルがいくら走っても追いつけない。
川を挟《はさ》んだ平地には、黄金色に光る稲穂《いなほ》が揺れていた。ここら辺は米の生産地だ。
仲逗《なかず》に限らず、この惑星全体が日系人の星である。正式にはモンゴロイド系というのだけれど、日系人と称することの方が通俗的だ。どこかで見たような風景――それもそのはず、なつめの住んでいる夏離宮《なつりきゅう》は日系人街の近くだったっけ。
ああ、こんな農作業が人力で行われているなんて、人間は衰退《すいたい》していくばかりだ。人工知能を嫌い、機械化を恐れ、外に出ることを拒《こば》んでいる。田んぼの中に放置された乗車コンバインを見て、ジゼルは感傷に浸《ひた》ってしまった。一千年前のコンピューター大|暴走《ぼうそう》時代というのは、そんなに恐ろしい時代だったのかな。人間に今までの輝かしい歴史を一蹴《いっしゅう》させてしまうくらいに。
などと考えていたら、一礎に置いていかれてしまった。まあ、道は分かっているのだからいいか、とジゼル、のんびり行くことにする。
広がる田園風景。こんなの見ていたら、なんかエルシが衰退せずに成長し続けている方が奇妙《きみょう》に思えてくる。惑星エルシに田舎《いなか》がないわけではない、夏離宮は田舎にあるのだし。
でもね、なんか違う。エルシとは違う。よく解らないけど、なんか、こんな畔道《あぜみち》を一人で歩いていたら、そのまま異次元に入ってしまいそうな、なんか、振《ふ》り返りたいけど、振り返ってはいけない――そんな感触《かんしょく》がそこらじゅうに在《あ》るんだ。
考えていたら、なんか本当に怖《こわ》くなってきた。やだなあ、まだ日も高いってのに。
「…………」
やにわにジゼルは駆《か》け出した。あーんっ、あの子、どこまで行ったんだよう。やだやだ、なんでこんなに静かなんだ!?
石段を駆けのぼる。暗い蔭《かげ》が行く先を隠《かく》す。梢《こずえ》が重そうに振りかかる。えーんっ、肝試《きもだめ》しの季節は終わってるじゃないか。
ようやく石段が終わって、祠《ほこら》の前に一礎の姿が見えた! と思った瞬間《しゅんかん》。
ぼこっ。
足元が、いきなり抜けた。声を上げるまもなく、そのまま落ちる。
【穴】に落ちた! その閃《ひらめ》きが全身を緊張《きんちょう》させる前に、ジゼルは無意識の内に身体《からだ》を反転させ、底に着地した。
底があるということは、あの【穴】ではないということ。
じゃあ、これは。
「やーい、ひっかかったあ!」
上から幾人もの子供の囃《はや》し声《ごえ》が降りかかった。キッと睨《にら》んで上を仰ぐと、一礎をはじめ、五、六人の子供の顔が覗《のぞ》き込《こ》んでいる。
落とし穴だ。
「なにすんだよっ、この村じゃあお客に対してこういう失礼なことをするように躾《しつ》けてあるのか!」
「お前達なんか客じゃない!」
一礎の怒号《どごう》が飛んでくる。どうやら彼がグループの最年長、リーダーらしい。
「E・R・Fコーポレーションなんか敵だっ。帰れ、帰れ!」
「そうだ、帰れ帰れ!」
なっ、なんだあ?
「仲逗《なかず》の村はお前達のいいようにはさせないぞ!」
「リゾート地になんかさせてたまるかっ」
なんだってえ!?
それはジゼルの方が驚《おどろ》いたぞ。いくらでっちあげとはいえ、そんなリゾート計画の話なんか少しもしていないぞ。
「ちょっと待ってよ! E・R・Fはリゾート計画なんか持ち出してないよ!」
あらん限りの声でジゼルは否定する。が、純朴《じゅんぼく》そうな顔して意外と頑固《がんこ》なもので、
「嘘《うそ》! あたし、父さんたちが話してるの聞いたんだから! E・R・Fが仲逗にリゾート地を造るって!」
「それこそ嘘だい、勝手な作り話だ。だいたい、こんなへんぴな、なんにもないところにリゾート地造ったって、儲《もう》かるわけないじゃないか!」
勢いで言ってから、しまったとジゼルは口を押さえた。しかし、もう後の祭り。
「しばらくそこにいろ!」
故郷を傷つけられたと誤解《ごかい》した子供達は、顔を引っ込めるとどこかへ行ってしまおうとするじゃないか。
「ちょ、ちょっと待ってよ! 出してよ! ちょっとーっ」
慌《あわ》てて声を上げるが、もはやうんともすんとも返事はこない。行っちゃった。一気に力が抜けて、ジゼルはうずくまった。
そうだよ。リゾート計画なんてばかばかしい。だいたいそんな計画なら本社がやるはずないじゃないか。おおかた、村を活性化しようと企《たくら》む大人達の便乗《びんじょう》計画だろう。【穴】はくれてやるから、リゾート地にしてくれ、とか。きっとそうだ、そうだ。
突然、キイキイ! とヒステリックな鳥の鳴き声がこだました。びくんと緊張《きんちょう》が走る。
そうだ、どうやってここから出よう。
落とし穴は精巧《せいこう》に作られていて、足の引っ掛け場がない。アスラが探しにやって来るのが早いか、子供達が戻《もど》ってくるのが早いか。
「……なつめえ」
我ながら情けない声を上げた時、ぽとんと背中に何かが落ちてきた。
なんだろうと何気なく視線を投げかける。
半分に切れた毛虫《けむし》。
スコップかなんかで切断したのだろう、切断面がぐじょぐじょになって、中から緑色の液体と白い糸みたいなものが引《ひ》き摺《ず》り出されている。
ジゼルは猫である。
でも、生体機械だから、感覚や思考回路は人間のそれとほぼ同じに創《つく》られているのだ。
「うっ、うわーっ!」
あまりのおぞましさにジゼルは絶叫を上げて身を振《ふ》るった。途端《とたん》、ぼとぼとっと、上から何かが立て続けに投げ込まれた!
子供達のしわざだ――その判断《はんだん》はそっちのけにされた。投げ込まれたもの全《すべ》てがミミズやら青虫やらトカゲやら昆虫で、しかも御丁寧《ごていねい》に全部引きちぎって中身がどろりと出ていたのでは、ジゼル、やることは一つしかない。
「やだっ、やめて! やめてやめてーっ! アスラ助けて! なつめ、なつめ!」
必死に底の端っこにへばりつきながら、ジゼルはぼたぼた涙を流して悲鳴《ひめい》を上げた。
「なーんだ、てんで弱っちいの。本当にロボットか?」
ロボットなんて差別用語だ。そんないつもの憤《いきどお》りもなかった。少年の声が悪魔《あくま》の声に聞こえる。ぼとぼとと、異臭《いしゅう》をまき散らし死骸《しがい》攻撃は続く。
どうしてこんな目に合わなくちゃならないんだ!? こんなの理不尽《りふじん》だ理不尽だーっ。
「やめなさいよ、弱い者いじめは!」
多分、その声はそういう風に言ったのだろう。叱咤《しった》と共に拷問《ごうもん》がぴたりとやんだ。それでもしばらくジゼルは張りついていて、なにも降ってこなくなってから二分くらい経って、ようやく頭上を見上げる余裕ができた。
「…………?」
なにやら変なものが、ロープにくくりつけられた桶《おけ》が降りてくる。
「乗って。大丈夫《だいじょうぶ》、手を離したりしないから」
さっきの、天使の救いの声がした。大丈夫もなにも、一刻も早く憐《あわ》れな小動物の死骸《しがい》で埋《う》め尽《つ》くされた落とし穴を脱出《だっしゅつ》せんと、ジゼルは桶に飛び乗る。
ようやく地上に出ると、少し離れたところにバツが悪そうに佇《たたず》む悪《わる》がきと、ジゼルを心配そうに覗《のぞ》き込むおさげの少女がいた。驚いたことに、彼女は金というか、オレンジ色の髪をしていて、双眸《そうぼう》は碧《あお》く、この仲逗《なかず》の村には似つかわしくない容貌《ようぼう》をしていた。
「ごめんなさい、酷《ひど》いことをしてしまって。みんな仲逗がどうなってしまうか心配なの。リゾート計画が嘘《うそ》だって本当?」
ジゼルは無言のまま頷《うなず》いた。怒っていたわけではない、そりゃあ、あの子供たちには腹をたてているけれど、この少女がちょっとだけ、なつめに雰囲気《ふんいき》が似ていたから……
少女は立ち上がって一礎達に歩み寄ると、バシバシッと一人ずつに平手を食らわせた。
「もうっ、ちゃんと確かめもせずこんなことして! あの子に謝りなさい!」
「でも夕見《ゆみ》! あいつ、ロボットだぜ!」
一礎が反論する。すかさずジゼル、
「ジゼルは生体機械だよっ」
「謝りなさい」
厳《きび》しく夕見と呼ばれた少女は言い渡す。どうやらみんな十五歳くらいの夕見に適《かな》わないらしく、渋々《しぶしぶ》頷《うなず》くと、ジゼルに向かってふてくされた調子ながらも、
「ごーめんなさーいっ」
「あ、うん……」
なんかこっちも夕見の調子につられて頷いてしまった。この行き場のない憤《いきどお》りはどうすればいいんだろう? まあいいけどね、こうなったら。
「あなた、ジゼルっていうの? ねえみんな、お詫《わ》びのしるしにジゼルを今夜の冒険《ぼうけん》に誘《さそ》わない?」
「夕見がそうしたいなら……」
どうやらジゼルの読みは間違《まちが》っていたらしい。親分はこの夕見だったのだ。うひゃーと思う程、絶対服従をとっている。年が一番の年長のせいかな。それでも、彼女くらいの年の娘が、こんな子供子供しているグループにいるなんて、ちょっとおかしいけどね。
ともかく誤解《ごかい》もとけて、ジゼルは夕見達のグループに交ざって夕暮れまで遊んでいた。本当、のんびりしたところなんだなあ。鬼ごっこなんてエルシでは見かけたこともない。時は悠久《ゆうきゅう》、時は逆行。この一瞬《いっしゅん》だけは、時間は昔からずっと止まっていて、今も同じままでいるような、そんな錯覚《さっかく》がした。
「リゾート計画? あるわけないだろう、こんななにもないところに」
村長さんの家に泊《と》まることになったその夜、部屋に戻ってからジゼルはアスラに子供達の話を聞いてみた。果たして、アスラは冗談《じょうだん》にもならんと一笑《いっしょう》に付す。
「なーるほどな。確かに村長達の言葉にそれらしき含《ふく》みはあったよ。安心しなさいとでも言ってくれ」
「う、うん……でさあ、夕見って子、記憶《きおく》喪失《そうしつ》なんだって。半年くらい前に仲逗にふらりとやってきた時にはもう名前も家も判《わか》らなくて、今はお医者さんの家に下宿してるんだけど……ねえ、アスラ。夕見の記憶|戻《もど》すことできないかなあ」
子供達の中にいても今一つぎこちない夕見。年のせいもあるだろうけど、自分の過去がない、それが彼女を不安定にさせているのだと思う。当人は至《いた》って気にしていない様子だったけれども。
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「そのがき大将《だいしょう》の娘か」
「うん。夕見がこの村に来た時、一礎達がからかいに行ったんだって。そしたら、反対にこてんぱんにやられちゃって、だから親分になったんだ。夕見ってすごく力が強いんだよ。みんなが一斉《いっせい》につっこんでも、ぽぽーいって投げ飛ばしちゃうんだ。きっと生まれ故郷は、重力調整のしていない大きな星だったんだよ」
久しぶりに身体自身を使って遊び回ったので興奮《こうふん》して、息を弾《はず》ませ語るジゼルに、ふんふんとアスラは頷《うなず》き返した。そして、
「その子の故郷は判《わか》っている」
「……え?」
会ったこともないのに――? そのジゼルの疑問は、次のアスラの言葉で喉《のど》の奥に呑《の》み込《こ》まれてしまった。
「エルシだ」
「アスラ!?」
「一年前だ。この仲逗《なかず》に【穴】があることが判り、E・R・Fは初期調査を行うため、通常通り侵入《しんにゅう》サイバノイドを一員に加えた調査団を秘密裡《ひみつり》に送った。しかし、彼等の乗った宇宙機が異常を起こし、仲逗から遠く離れた地で墜落《ついらく》、炎上した。乗客は全員死亡、サイバノイドは機体と融接《ゆうせつ》してしまった――そう処理された」
淡々《たんたん》と語るアスラ。まさか。ジゼルの目がだんだん開いていくのが自分でも良く分かった。
(夕見はすごく強いんだ)
一礎の誇りと尊敬と淡い恋心を秘めた言葉が蘇《よみがえ》る。
「夕見はサイバノイドだよ」
「うそっ――……」
「俺《おれ》もこの目で確かめた。始めに山に登った時、夕見を見かけたんだ。すぐ逃げられたがな。向こうも俺を見てもどかしそうな顔をしていた。あれは【穴】の調査用に製造されたサイバノイド、ASアリス751だ」
「……なんで少女タイプにしたんだよ」
「連邦の規制が去年から厳《きび》しくなったんだ。戦闘及びそれに準ずるサイバノイドの輸出の禁止、宇宙航行の禁止。アリスのボディは乱流状態の|φ《ファイ》ベクトル開口部に突入するために頑丈《がんじょう》にできているから、連邦の監視《かんし》の目を潜《くぐ》るには比較的目の届きにくい子供に扮《ふん》し、しかも表層は人工知能で自我を持たせてごまかすしかない」
ジゼルはきっと唇《くちびる》を噛《か》みしめた。なつめが人間くさい表情をするのねと笑ってやまなかった悔《くや》し顔を作る。
夕見がサイバノイドなんて!
「半年かかって目的地に着いたようだな。記憶はなくとも表層下のプログラムが覚えていたわけだ」
「表層……って、それじゃあ、今の夕見の自我は」
「カモフラージュだよ。記憶を取り戻せばアリスとしてのプログラムが働く」
ジゼルは何も言えなくなってしまった。なにかしっくりいかない夕見。それでも、みんなに慕《した》われて、あんなに楽しそうに生きている夕見から、その幸せを奪《うば》ってもいいのだろうか? 連邦が一定以上の自我プログラムをサイバノイドに植えつけてはいけないと規制したのは、こういう事態を考慮《こうりょ》してなのか。
ジゼルは力を持たない。コンピューターの頭を持つだけ。だから自我が、人工知能が無制限だ。でも、夕見は……
今の夕見が幸せ?
アスラがぽんとジゼルの頭に手を乗せた。
「夕見は記憶を取り戻《もど》したいと言ってるのか?」
かぶりを振《ふ》って否定するジゼル。アスラは頷《うなず》いた。
「事故のショックでアリスプログラムは押し込められているんだな。外から治療《ちりょう》しない限り、アリスは出てこない」
「アスラ!」
「ここの【穴】にはもうアリスの仕事はないし、出てきたところで人間を攻撃するプログラムはないから、まあ放っておいても大丈夫《だいじょうぶ》だろう」
「…………」
ジゼルはアスラの配慮《はいりょ》に、嬉《うれ》しくて飛びつこうとした。でも、だめだった。頭のどこかでおかしいと思っているのだ。サイバノイドである以上、このままにしておいてはいけない。そう思っている。
だめだよ、アスラ。そういう態度は。『情』をかけちゃあいけないんだよ。きっと、アリスだってそう考える。アスラは解らない。人工知能を持つもののプライド。人間には解らない。自分の存在へのプライド。
ジゼルは、じっとアスラを見つめるしかなかった。
冒険《ぼうけん》ごっこは夜中に始まった。【穴】に十一時に集合する。こっそりと家を抜け出して、わくわくどきどきの夜中の山の探検。
ジゼルは心重いまま、一礎と一緒《いっしょ》に【穴】に向かった。初めて見る立ち入り禁止《きんし》の柵《さく》で囲まれた【穴】は、別段おかしなところもなく、なんの変哲《へんてつ》もないただの穴だった。月が真上から差しても底が見えないだけで。底は見えるはずない、不可思議《ふかしぎ》な|φ《ファイ》ベクトル空間に直通しているのだから。
「昔からこの山で神隠《かく》しが起きるんだ。みんな、この穴に呑《の》まれたって恐れている」
一礎が説明する。それは当たっている。φベクトル創造はE・R・Fコーポレーションの製造する特殊な設備を必要とし、それはエルシにしかいない科法使いにしか扱《あつか》えないのだから。【穴】に落ちた人は二度と戻ってこれない。
「さあ、出発!」
夕見の明るい声が山に響《ひび》いた。ジゼルも陽気に行こうとしたが、どうしても顔が強《こわ》ばってしまう。こんな時は自分が猫型生体機械であることがありがたい、だってよほど親しい人じゃなければ表情はバレないもの。
めいめいお菓子やらお握《にぎ》りやらジュースの入ったリュックを背負い、祠《ほこら》の裏から山道に入った。今日は大人達は集会があるので、みんな気楽なものである。
「夕見ーっ、映未《えみ》が転んだー」
「早音《そうね》、もうオムスビ食べてるー」
「ねえ、歌おうよ」
きゃいきゃいと大騒ぎ! 子供の遠足そのものだ。一礎の後にひっついていたジゼルも、彼等の天真爛漫《てんしんらんまん》なお喋《しゃべ》りに、心のもやもやが吹っ飛んでしまったよ。そうだよ、後はジゼルの考えることじゃあない、アスラの考えることなんだ。
山道はすぐ獣径《けものみち》に代わり、細く、でこぼこの径をよたつきながら歩く。みんな、昼間は何べんも通っていると言ったけれど、夜は全然|雰囲気《ふんいき》が変わって、年のいかぬ映未ちゃんなんか、半べそかいて、夕見のスカートをしっかり握《にぎ》り締めていた。
夜光性動物の低い鳴き声や、がさっと繁《しげ》みが揺れるのに、一目散《いちもくさん》で逃げたり、なんやかんやとやっているうちに、山頂へと出た。山といっても、そんなに高い山じゃないから、麓《ふもと》の村の一軒一軒が手に取るように分かる。
そこで休憩《きゅうけい》して、夜食をとった。
「ねえ、あそこの光はなに?」
祠《ほこら》の反対斜面にある建物に気づいて、ジゼルは一礎に尋《たず》ねた。
「あれは集会場だ。親父達が今頃|宴会《えんかい》している」
「話し合いじゃないの?」
「ねえ、脅《おど》かしにいこうか」
誰の提案《ていあん》だったのだろう。ともかく、その提案はスリリングな夜中の冒険《ぼうけん》で気分の高揚《こうよう》していた彼等に、すこぶる高く評価された。
「よし、行こう、行こう!」
そく行動に移ったジゼル達は、集会場の明かりを目指して山を下りた。途中《とちゅう》で各自脅かすべく材料――しだれ柳《やなぎ》に似た葉の枝や、顔よりも大きな葉っぱとか、振《ふ》り回すとじゃらんじゃらん騒々《そうぞう》しい音を立てる実のついた蔓《つる》とかを調達し、準備は万端。
「ねえ、こんな夜中にうろうろしていたのがバレたら怒られるんじゃない」
「大人が怖《こわ》くていたずらやってられるか」
だって。なーるほど、とジゼルは深く納得《なっとく》してしまう。記憶を失った――いや、記憶なんかもともとない夕見も、すっかり適応してしまっていて(これは人工知能の学習能力の賜《たまもの》だ)、ジゼルは彼女に作ってもらった草の仮面をつけて乗り込むことになった。
大人達の話し声が聞こえてくる。プレハブ小屋の集会場の裏手に回って、いつでも逃げられるように道を確保してから窓から突撃《とつげき》することになった。
「よし、行こう」
「待って」
どきどきする心臓を、夕見の小さく鋭い声が止めた。
「雰囲気《ふんいき》が変よ。宴会じゃないみたい」
「なにか話し合ってるぞ……」
宴会騒ぎにまぎれて脅《おど》かそうとしたのが、当の宴会が行われていなくて、みんなして拍子抜《ひょうしぬ》けてしまった。ちぇーっと一礎が舌打ちする。ジゼルだってがっかりだよ。
「……夕見を使おう」
ふとそんな言葉が耳に飛び込んできた。みんなも聞こえたらしく顔を見合わせる。目と目で意見は一致して、そっと窓ににじりより、聞き耳を立てた。
「……仲逗《なかず》も年々|寂《さび》れるばかりだ」
「頼《たの》みにしていたE・R・Fは当てにならなくなった。リゾート計画の実行には巨額の資金が必要だ、村起こしにはなんとしてもスポンサーが必要なんだ」
「だから夕見を使おうと言ってるではないか」
「でも、どうやって」
「先生、夕見がロボットだというのは本当なんだな」
なんだって!?
慌《あわ》ててジゼルは夕見を振り返った。みんなも同じ態度を取っている。驚きというよりも、『今なんて言ってたの?』、そんな疑問を投げかけるような表情で。耳だけが異常に緊張《きんちょう》して。当の本人は、まるでリセットした時のように目を開いて微動だにしなかった。
「ああ。最初の治療《ちりょう》の時に……恐らく、E・R・Fの最高級品だと思う……」
先生。夕見の泊《と》めてもらっている診療所《しんりょうじょ》の医者だ!
「そうだ、あの身体にはE・R・Fの最新技術がわんさか詰《つ》め込《こ》まれているはずなんだ。だから、連邦に夕見を叩《たた》き売れば、連邦のバックアップがもらえる!」
「でも、この星はE・R・Fの勢力圏内だぞ、敵対する連邦にそんなことしたら……」
その言葉も終わらぬ内に、傍《かたわ》らにいた一礎が突如《とつじょ》飛び出した。
ガシャン! と窓ガラスを蹴《け》り破って、唖然《あぜん》としている大人達の前に立ちはだかる。
「そんなことさせるもんか! 夕見は俺達の仲間だ、売らせたりするもんか!」
「一礎?」
「仲逗をリゾート地になんかさせるかあ!」
あっ――と思った時には一礎は手に携《たずさ》えていた枝を、円を組んでいる大人達めがけて投げつけていた。それに続いてぼーっとしていた他の子供達も、手の中の武器を投げつける。
「大人なんかだいっきらいだ!」
「夕見、逃げよう!」
わあっと喚声《かんせい》を上げて、子供達は山に向かって走り出した。ジゼルもとんだ展開《てんかい》になったものだと焦《あせ》りながら、夕見のことが心配で一礎に続こうとした。けど、夕見自身が動かない。いけない、記憶を取り戻しかけてるのかもしれない。
「一礎、夕見が!」
「夕見!」
戻ってきた一礎が夕見の腕を取り、有無《うむ》を言わさず駆け出す。ジゼルも走り出した。突発的なできごとに大人達は対処できなくて、すぐには追ってこなかった。でも、時間の問題だ。ジゼルが子供達をそそのかしたとでも思われたら、アスラに申しわけない。
暗闇《くらやみ》に紛《まぎ》れ、ジゼル達は山の奥へ奥へと入っていった。夜闇《よやみ》に強いジゼルが先に立って、一礎の導きで進んでいく。微《かす》かに子供達の名を呼ぶ声が聞こえてきた。
「急げ! 隠《かく》れ家《が》まで行くぞ」
一礎の連《つ》れてきた隠れ家は、枯れ木と蔦《つた》や葉が作った空洞《くうどう》のことだった。祠《ほこら》の上に位置するそこへたどりついた時は、もうジゼルはくたくただった。みんなも大きな息を吐《つ》いて、疲れたように腰を下ろす。
夕見だけが、空洞の入り口でぼーっとつっ立っていた。
そう、ぼーっとしている、そんな表現がぴったりだった。自分が機械であると知らされ、驚愕《きょうがく》しているのでも、混乱して途方に暮れているのでもなく、ましてや即座に承知して、自分の立場を悲観《ひかん》しているのでもない、ただ気力が抜けたようにぼーっとしている。
これは……
「夕見、心配するなよ。俺達は味方だよ」
一礎が戸惑《とまど》いながらもそう言葉をかけた。夕見が怯《おび》えているのだと思ったのだろう。自分は人間だと思っていたのが、いきなりロボットなんて言われて――
でも、違う。夕見は、怯えているのでも混乱《こんらん》しているのでもない。
「俺達は大丈夫《だいじょうぶ》だよ、夕見がロボットでも。ほら、ジゼルとだって仲良くやってるじゃん」
「ジゼルは生体機械だよ。それに、夕見はサイバノイドだ」
つい癖《くせ》で訂正《ていせい》を求めてから、しまったとジゼルは首をすぼめた。が、みんなの驚きに満ちた顔が一斉《いっせい》にジゼルを覗《のぞ》き込む。それは別に、彼女が『サイバノイド』だから、というわけではなかった。
「ジゼル、知ってたのか?」
「……うん。一年前この星に、宇宙機が墜落《ついらく》してサイバノイドが行方不明《ゆくえふめい》になったって聞いてたから……」
ちょっと決まりが悪く、ジゼルは説明した。みんな、そのまま黙り込んでしまった。
逃げたからって、このまま逃げ続けるわけにもいかない。今は大人達を説得できたとして、それから夕見を仲逗《なかず》に置いておけるものだろうか。そうしていいのだろうか。いつかまた、夕見を売ろうなんて話が出たら。機密《きみつ》部分になんの断りもなく、誰かが手を触《ふ》れたら自爆《じばく》システムが働くはずだから、その点はいいとして、問題は夕見自身だ。
ちらりと夕見を一瞥《いちべつ》する。とりとめのない面持《おもも》ち。本当に記憶が戻《もど》りかけているの?
チカッと眩《まぶ》しい光が隠《かく》れ家《が》に差し込んだ。反射的に背を向ける。
「見つけたぞ!」
「さあ、出てくるんだ」
見つかった!
「E・R・Fのロボットも一緒《いっしょ》だ! 聞かれたぞ!」
「捕《つか》まえろっ」
なにいっ、捕まえろだとおーっ。それで、口封《くちふう》じか!? もう、ジゼルは怒ったぞ!
タンッと飛び出しざまに爪《つめ》を出し、ジゼルは一番手前で懐中《かいちゅう》電灯を携《たずさ》えていた男の顔を、いやというほど引《ひ》っ掻《か》いてやった。それが口火となって、子供達が喚《わめ》きながら雪崩《なだれ》出る。後は月夜の下、しっちゃかめっちゃかの大乱闘になってしまった。山の中では子供の方が機敏で、なかなか大人達は捕まえられない。ざまーみろだっ。
その中で、蔭《かげ》に隠れて一礎が夕見を引っ張り、逃げ出す姿を見かけた。もう、このままなるようになれだ、頑張《がんば》れ、一礎。
その時だった。
「きゃあーっ!」
幼い悲鳴《ひめい》が夜の山を切り裂《さ》いた。ビクンとみんなの動きが瞬間《しゅんかん》凝固《ぎょうこ》する。今のは!?
「やーっ、やーっ!」
バキバキと枝が折れる音、大地の滑《すべ》る音、あれは、映未ちゃんの声。
「落ちたぞーっ」
「映未が落ちた!」
ジゼルの心臓がドクンと大きく揺れた。鼓動《こどう》が速くなる。みんなの顔が恐怖《きょうふ》に凍《こお》りつく。次の言葉を待って、誰もが動きを止めたまま、下へ降りていった光を目で追う。
「穴に落ちたぞーっ!」
やっぱり!
「映未ーっ」
「映未!?」
つんざく金切《かなき》り声《ごえ》。映未ちゃんのお母さんだろうか。
ざわざわと、【穴】の側へみんなが集まってくる。ジゼル達も呆然《ぼうぜん》と下りていった。子供達の足がすくんで、何回もよろめいていた。落ちたのは自分だったかもしれない。その恐怖《きょうふ》だ。無論、ジゼルだったかもしれない。
【穴】に光が差し込まれる。無駄《むだ》だ。光は闇《やみ》に吸収され、その奥を寸分たりとも見せようとしない。
ジゼルは|φ《ファイ》ベクトル走行なら何度でもしたことがある。でも、φベクトル空間自体に入った経験はない。
映未。
六つの、おかっぱの少女。夕見みたいに三あみにするんだと、夕見に憧憬《どうけい》していた子。
「帰って、これない……?」
知らず知らずのうちに言葉がこぼれたジゼルを、ひょいと誰かが抱き上げた。
「【穴】に落ちた者が帰ってこれないのは、座標《ざひょう》が定まっていないからだ。φベクトル自体は危険な空間じゃない。エルシでは何人も科法使いが空間内で働いているだろう」
「アスラ!」
ジゼルはアスラの肩に乗ると、ひしと抱きついた。よっかかるものが欲しかった、抱きつけるものが欲しかった。
「アスラ、アスラ、映未ちゃんが……!」
「分かっている」
ぽんぽんとジゼルの頭に手をやるアスラ。村人の視線がアスラに集中した。
「E・R・Fの……」
その誰かの呟《つぶや》さで、【穴】の縁《ふち》で懸命《けんめい》に映未ちゃんの名を泣き叫んでいた女の人が、髪を振《ふ》り乱してアスラに飛びついてきた。
「あ、あんただろう、あんたなら映未を助けられるんだろ!? 映未を、映未を助けて!」
「そ――そうだ。あんた、この穴を欲しがっていたじゃないか。学術調査がしたいんだろ? この中に入りたいんだろ!? 入って映未を助けてくれ!」
わいのわいのと、みんなアスラに向かって助けを請《こ》い始めた。ううん、半分は非難《ひなん》が入っている。口には出さないけど、アスラに責任を押しつけようとしてる!
「そんなこと、今のアスラにできるはずないじゃないか! こんななにもないところで!」
きっとこの非難には、これは夕見のせいだ、夕見はE・R・Fグループのものだから、アスラの責任だ、そういう意味も含んでいるんだ。ジゼルは悔《くや》しくって、悲しくって、涙がにじむほどだった。そりゃあ、【穴】を空《あ》けた責任はアスラにあるかもしれないけど、それをさっさと渡さなかったのはあんたたちがごうつく[#「ごうつく」に傍点]だったからじゃないか!
ジゼルはアスラを瞥見《べっけん》した。アスラが首を横に振れば、そう期待した。
けど。
「では、お約束の件は御承知いただけたということですね」
「アスラ!? こんな奴等《やつら》なんか……!」
「ジゼル、気持ちは有《あ》り難《がた》いが、今は女の子を救出することが優先だ。ぐずぐずしていると飛ばされた座標が追えなくなる」
アスラの口早に囁《ささや》いた言葉で、ジゼルははっとなった。そうだった、今は映未ちゃんが。
「し、しかたあるまい。そちらの希望の額でお譲《ゆず》りしよう。早く映未を」
村長が額に汗をかいてアスラに応《こた》える。今は一刻の猶予《ゆうよ》もないと、みんな同意を示して首を縦に振った。でも、アスラ、こんななんの設備もないところで、どうやって!?
「では」
アスラが手を伸ばしたのは、しかしながら、夕見だった。ぴったりと寄《よ》り添《そ》っていた一礎がびくんと震《ふる》えたのがよく判《わか》った。
「アリス、おいで」
ざわざわと、みんなが困惑《こんわく》に顔を見合わせる。一礎が夕見をしっかりと掴《つか》まえた。
「アリス、私を覚えているだろう。さあ、自分がなにものなのか、思い出してごらん」
「違う! 夕見は違う!」
一礎が怒号《どごう》を飛ばす。自分だってなにが違うのか解っていないだろうけど、一礎は夕見を押さえたまま、じりじりと後退した。
みんな息を呑《の》む。何故《なぜ》ここで夕見が関係するのか解らない、そんなていだ。
夕見なら、この中に入っていける夕見なら、映未ちゃんを助けられると!?
「夕見は関係ない! 夕見にはできない! 夕見はお前のものじゃない!」
「アリス。おいで[#「おいで」に傍点]」
アスラは一礎の言葉を黙殺《もくさつ》した。一礎がかぶりを振って夕見を抱きしめた時、それまで夢うつつ状態だった夕見の双眸《そうぼう》に光が宿り、一礎の手を押しのけた。
「夕見!?」
ふらりと覚束《おぼつか》ない足取りで、アスラへゆっくり歩み寄る夕見。
「さあ、自分はなにものだ?」
「……私はASアリス751。E・R・Fコーポレーション、流失|φ《ファイ》ベクトル特捜班所有サイバノイドです。サー・アスラ、照合しました」
淡々《たんたん》と質問に答える夕見――アリス。アスラは頷いた。
「じゃあ、自分の役割を果たせるだろう。映未という少女が中に落ちた、救出が最優先事項だ。映未の座標《ざひょう》を割り出し、お前の移動ポテンシャルを映未に与えろ。お前は科法使いが捜《さが》し当てるまで待っているんだ。映未は覚えているな」
「覚えています[#「覚えています」に傍点]、サー・アスラ。GOサインを」
「夕見! 行くな! 夕見が犠性になることはない」
一礎が叫んだ。映未の代わりに夕見が消えてしまう、そのことをなんとなく察知したのだろう。確かにアスラは言った。夕見は映未の代わりにφベクトル空間をさまようのだ。
「夕見……俺達のこと、忘れちゃったのか?」
一礎の言葉に、しかしながら夕見は、今までと全《まった》く変わらない笑顔を彼に向けていた。
「一礎、私はこの【穴】に入るために造られたサイバノイドなの。行くわ」
「だ、だって、夕見だって危険だ……夕見だって本当は嫌《いや》なんだろう? 仕方なしに行くんだろう? 夕見じゃなくたっていいじゃないか、夕見がロボットだからってそんなことさせるなんて!」
「私、行きたいの」
そうだ。
「変な子ね。私はここに入るために生まれてきたの、嫌じゃない。大丈夫《だいじょうぶ》、この中にいても私は平気。でも、映未は早くしないと危ない。心が危ない[#「心が危ない」に傍点]」
「アリス、行け」
「はい」
夕見は頷《うなず》くと、みんなが呆然《ぼうぜん》と佇《たたず》む間をぬって、【穴】に飛び込んだ。闇《やみ》が夕見をするりと呑み込む。
それっきりだった。
一礎がぺたんと座り込むのが見える。
「もう平気です。映未ちゃんはいったん、エルシの本社に転送されますので、すぐに連絡《れんらく》をとってこちらまで送らせます」
アスラの声が遠い。みんなが不安そうに、だけどアスラに促《うなが》されて石段を下りていく。子供達もまた、一礎も村長に手を引っ張られて。
静寂《せいじゃく》が山に戻《もど》った。
「ジゼル、ジゼル」
強く揺《ゆ》さぶられて、ジゼルは夢から醒《さ》めたように意識と感覚が一致した。アスラがジゼルを見ている。もうみんな里へ下りたようで、今は二人だけだった。
「アスラあ……」
なんだか声が泣き声になってくる。そうだ、そうなんだ。
「悪い、ジゼル。そうだったな、お前達はそうだった」
ぐしぐしと顔をアスラの肩に押しつけた。アスラも解ってくれた。ジゼルと同じ気持ち。
アスラはジゼルの背に手を当てながら、そのまま月の照る石段をゆっくりと下り始めた。
「そうだよなあ。いつだって、お前達は俺達のプログラムに従ってくれる。ちゃーんと、忠実に。最初からそうすればよかったんだ」
「……夕見は助かるの?」
「確率《かくりつ》は四十一パーセントかな。映未の飛ばされてきた座標から弾《はじ》き出して……悪いな、ジゼル。でも、俺はなつめと違って機械の気持ちなんか解らないから、ちゃんと言ってくれよ。そのためにお前とこうして出歩いてんだから」
「うん――ねえ、アスラ。コンピューター大|暴走《ぼうそう》の時も、機械はきっと忠実だったよね」
石段を下りる規則正しい弾《はず》みが、ジゼルの心を軽くする。
アスラはしばらく沈思黙考していたけれど、
「そうだろうなあ。やっぱり、扱《あつか》う人間の問題じゃあないかな。人間の心のストレスが原因だったんだよ」
「……夕見は良い子だった」
ぽつんとジゼルは呟《つぶや》いた。
「さあ、明日から【穴】埋《う》め作業だ。見ていくか?」
「早くなつめのところへ帰りたいよ」
仲逗《なかず》の大きな月は、夜も更《ふ》けた地上にオレンジ色の光を静かに降らしていた。
[#改丁]
第一章 天秤《てんびん》の錯覚《さっかく》
[#改丁]
ACT.1
ジゼルがそれを思いついたのも、決してアスラへの対抗心からではないことを、最初に断っておこう。
数日前から夏季休暇と称して、せわしいネオトキオシティのE・R・Fコーポレーション本社から、アスラがこの別邸《べってい》、通称【夏離宮《なつりきゅう》】へ避暑《ひしょ》に来ている。
なつめが喜ぶ(現在進行形)。
ジゼルは気にしない。
五つ年の離れた兄君のアスラが、久しぶりに妹に顔を見せに来たのだから、当然のことだろう。ジゼルが気にすることはなにもない。そうだろう?
だから、この閃《ひらめ》きは、決して、なつめの気を引くためとか、アスラの鼻をあかしてやりたいとか、そういう不純な動機があってのことではないのだ。だって、人間のアスラを相手にしたところで、詮《せん》なきことだ。
「いよっ、ジゼル。久しぶりだなあ」
噂《うわさ》をすればなんとやら、だ。廊下《ろうか》の角《かど》を曲がったところで、アスラとはち合わせてしまった。久しぶりって、嫌味《いやみ》な奴《やつ》だなあ。ジゼル、軽くアスラを睨《にら》みつけながら、
「久しぶりって、今朝《けさ》会ったばかりの気がするけど」
「固いこと言わない。第一、一昨日《おととい》来て以来、お前、俺《おれ》から逃げまわってるだろう」
う。気づいていたか。勘《かん》の良い奴。まあ、これくらい、アスラなら当然か。
「別に、アスラとなんか話すことないもの。じゃあ」
そのまま立ち去ろうとするジゼルを、失礼にもアスラは首根っこ捕《つか》まえて、
「なんだあ、その、非友好的な態度は」
「あっ、なにすんだよう」
「ふうん、CPU交換《こうかん》したら、瞳《め》の色が変わったな。その黄緑色はダイオードかあ?」
「ばかなこと言ってないでよね。ふん、大体、黄緑とはなんだい、もっと詩的な表現しなよ。なつめなんかなー、『まあ、若竹《わかたけ》色ね』、だよ。若竹。アスラの口からは一生かかっても出てきやしない単語だねっ」
宙《ちゅう》ぶらりんのまま、ジゼルはムッとして投げつけるように言い返した。
ジゼルは生体機械である。
銀河|随一《ずいいち》、即ち人類文明随一の企業《きぎょう》E《イー》・|R《アール》・|F《エフ》コーポレーションの最新技術をもってしても、生体機械は三年に一度はCPU交換をしなければならない。つまり、それだけ生体機械は精密《せいみつ》で、【新陳代謝《しんちんたいしゃ》】が激しいこと、そして、それだけ日進月歩《にっしんげっぽ》の勢いで、このエルシでは技術改良が行われているということ、だ。
なつめが、あの綺麗《きれい》な顔で、こう言った。
「時代遅れよ」
にっこり笑ってきついことを言う。E・R・Fコーポレーション会長|息女《そくじょ》は、その名に相応《ふさわ》しい性格かもしれない。
かくして、ジゼルもつい最近、しぶしぶながらもCPU交換を行ったのだが、それに伴ってレコードシステムの交換もやってもらったというわけである。その結果、金色だった双眸《そうぼう》はより高精度の画面処理が行えるブライトグリーンになり、なつめもさかんに『かわいい』と褒《ほ》めてくれ、我ながら純白の毛並に映《は》えてごきげんじゃないか、と自負していたのだ。それを、なんの飾《かざ》り気もない、野暮《やぼ》ったい『黄緑』なんて言葉で片づけてほしくないね。
が、相手はジゼルの言葉なんか頭にも入れず、
「なんだ、今日はやけにつっかかるじゃないか。せっかく、忙しい合間を縫《ぬ》ってやってきてやったのに」
「アスラが会いにきたのはなつめでしょう。ジゼルには関係ないね」
「そう可愛《かわい》くないことも言わない。お前、なんか変だな。CPU交換《こうかん》で接続が巧《うま》くいかなかったのかな?」
じーっとばかにした面持《おもも》ちでジゼルを覗《のぞ》き込《こ》むアスラ。むむ、なんて失礼な。
「ジゼルは変じゃないよっ。なつめが交換してくれたんだい。接続不良なんてあるわけないじゃないか」
「なつめがやっただあ?」
ジゼルの言葉におおげさすぎるほどアスラは驚《おどろ》いて、更にジゼルを凝視《ぎょうし》した。なんかおかしなことでも言っただろうか。なつめが交換してはまずいのだろうか。
しばし、アスラは思惟《しい》を巡らせているかのようで、口をへの字に結んだまま、ジゼルを睨《にら》みつけていた。始めはつられてこっちも焦《あせ》ったけれど、この失礼なしぐさにどうやって報《むく》いてやろうか、そう考え出した頃《ころ》、
「ジゼル、なつめはどこへ行ったって?」
「オペレーションセンターだよ。ジゼルも行くんだから、放してよ」
「俺も行く」
なんて言いながら、アスラはジゼルを自分の肩に乗せた。こんな不安定なところに乗せないで、下におろせってば。
廊下《ろうか》からすぐに縁側《えんがわ》に出、つっかけを履《は》くアスラ。そりゃあ、ここから屋敷の裏に構える本社直結のオペレーションセンター(センターというほどのものでもない、小さなドームである)に行くには、庭を突っ切るのが一番だけれど、天下のE・R・Fの次期会長が、つっかけなんか履いていいものだろうかねえ。
と、内心笑っていたら、安定を崩《くず》してぼてっと落ちてしまった。いててて。
「なにやってんだ、ジゼル」
「いててて。なんだい、アスラが変なところに乗せるから悪いんだろ。もおっ」
「だって、お前、肩に乗るのがお気に入りだった……」
言葉半分でアスラはやめてしまった。肩に乗るのがお気に入り?
それって。
まさか。
「ジゼル、お前……」
「ジゼルとアスラが友好的なんて知らないよ!」
「記憶が一部分|欠落《けつらく》してるぞ!」
二人、同時に声を上げる。ああ。やっぱり。
不良品。
ジゼル、不良品になっちゃったああ!
なつめは笑って、ジゼルが不良品になるはずはない、と言った。だって、生体機械じゃない、とも言った。どういうことだろう。それすらも、ジゼルは覚えていなかった。
ジゼルの記憶|欠落《けつらく》は、どうやらなつめの思惑《おもわく》が噛《か》んでいるらしい。アスラが、
「お前は昔からそういうこと[#「そういうこと」に傍点]にこだわる質《たち》だったよ」
と呆《あき》れ口調《くちょう》でなつめに言っていたのを、ジゼルは聞き逃さなかった。情けないけれど、そういうことってどういうことなのだろう。三年間、なつめと一緒《いっしょ》に暮《く》らしてきたのに、からっきし覚えていないなんて。
とにかく、生体機械は自前《じまえ》の脳と人工知能とのアクセスが、【自我】の形成においてかなり重大であるとかなんとかで、前の人工知能で理解したものを、新しい人工知能にディスクでプログラムし直しても、【自我】が受けつけないとかなんとか。
よくわかんない。
つまり、つまりだ、ジゼルは記憶|喪失《そうしつ》になっている。治す方法は【自分で思い出しなさい】、ということみたい。
なつめは、時間をかければ、自前の脳で記憶していたことが人工知能に伝達されてくるから、と言い、夏離宮《なつりきゅう》でゆっくり思い出しなさい、とも言った。
ジゼルの記憶喪失がどんな仕組みによって引き起こされているか云々《うんぬん》は、どうせジゼルには理解できないこと。それよりもどれよりも、こんな人里離れた、悠久《ゆうきゅう》の時間が流れているんじゃないかと思わせる夏離宮に、ずっと閉じこもっているだなんて!
別に、ここにいること自体が嫌《いや》なわけではない。だって、ジゼルは生まれた時から夏離宮になつめと一緒に暮らしてきたのだし、幽境《ゆうきょう》の生活も畳の生活も慣《な》れている。問題は、せっかくのジゼルの決心が、話す前から否決案となってしまったことだ。
なつめのために、一生懸命《いっしょうけんめい》考えたのに……
「…………」
かくなるうえは、しかたあるまい。
パトロンをつけよう。
「外に行きたいだって?」
その夜のことである。書斎でジゼルの話を聞いた後、アスラはそうすっ頓狂《とんきょう》な声を上げた。ちえっ、やっぱりこいつをパトロンに選んだのは大いなる間違《まちが》いだったか。
「そう」
かといって、いまさらあとに引けないので、ジゼル、少々むくれて頷《うなず》く。内心ばかにしてるな、こいつ。
「一人で、お前が、エルシの外に行きたいと」
「そうだよっ、ジゼルがそう考えたらいけない!?」
なんか喧嘩《けんか》ごしになってしまう。ところが、だ、予想に反してアスラは、
「あたり前だろう。お前、どうやったら猫にビザが下りるんだ。一人でなんか行けないぞ」
……あれ?
「……そうだっけ?」
「そうだろう。一体、俺と何回外に行ってると思ってるんだ、ジゼルは」
「何回って――ジゼル、アスラとなんか宇宙《うちゅう》に出てたの!?」
ジゼルは、仰天《ぎょうてん》して声を上げた。それこそきれいさっぱり、微塵《みじん》も覚えていなかったぞ。
「やっぱりなあ」
アスラは肩をすくめると、椅子《いす》を半回転させた。そして、机の引き出しから、細長い、青色のきれいな小箱を取り出す。
「ほれ、見てみ」
差し出された箱の中を覗《のぞ》くと、そこにはトパーズ色に綺羅《きら》めく小さなレンズが、びっしり縦に並んで収まっていた。普通《ふつう》の人には判《わか》らないけれど、ジゼルには一発で判る、レコーダーディスクだ。
「……これ、ジゼルの?」
「そう、お前さんの。こいつがなんで俺のところにあるか解《わか》るか? 解らんだろうなあ。別にいいさ、そんなこと。要は、ジゼルは俺と共に色々と出かけていたということだ」
「別によくないよっ。なんでジゼルがアスラなんかと色々《いろいろ》出かけてなきゃならないんだ」
肝心《かんじん》なところをスカされて、ぶんすか怒るジゼルに、
「それは君、考えが一致したからだよ」
「考え?」
「なつめに対してなにができるかってね。記憶|喪失《そうしつ》のお前さんが、自発的にこういうことを言い出したということは、根本は忘れなかったというわけだ」
にやりと笑うアスラ。
なつめになにができるか。
そう。
ジゼルが思いついたということ。それは、なつめに【外】を見せてやりたいということ。身体が虚弱《きょじゃく》で、この高度に医学が発達した現在のエルシでさえ治せない、人中《ひとなか》にいることができない体質《たいしつ》の、なつめ。E・R・Fコーポレーションの娘なのに、一番の機会に恵まれた立場にいるのに、一度たりともこの惑星《わくせい》エルシを出たことがない。シティにさえいることができなくて、人里離れた海岸の夏離宮《なつりきゅう》に閉じこもりきり、仙人《せんにん》のような生活。現実ばなれした生活。
ときおり、儚《はかな》く、消えてしまうような錯覚《さっかく》に陥《おちい》る。
ときおり、霞《かすみ》漂《ただよ》い、生きている実感がなくなる。
ときおり、影が薄れる。
十八の人間の少女が、そんなままでいいわけがない!
CPU交換《こうかん》してからいっそうそれが目立ち始めて、気になった。そんなのだめ、そんなの間違《まちが》っている。綺麗《きれい》ななつめ。この世で一番綺麗ななつめ。どこにも行かないで、ジゼルから離れていかないで。置いていかないで。
だから、少しでも現実に引き戻《もど》そうと、ジゼルは考えた。考えたあげく、この、高性能のレコードシステムを利用しない手はない、と辿《たど》り着き、外の光景をレコードしてこよう、どうせならエルシだけではなく、エルシの外を、ということになったのだ。
それが、前もやっていただって!?
「記憶が少しずつ戻ってきてるんだな。このディスク見るか――と言いたいところだが、地道《じみち》に思い出しなさいな」
「アスラのけちっ」
「それは理不尽《りふじん》な言いぐさだな、俺はいつだってジゼルのことを考えてるのだが。まあ、それはいいとして、どうするかな、俺は休暇中とはいえ、今エルシを離れるわけにはいかんから、誰《だれ》か手の空《あ》いてる奴《やつ》に頼《たの》むか。誰かいたっけな……」
そう言って、アスラは机上《きじょう》の小球形コンピューターに向き合って話しかけた。どうやら本社の人間を掴《つか》まえる気らしい。音声|判断《はんだん》を行うコンピューターだから、アスラがなにをしているのか足元のジゼルにもよく判《わか》る。まもなく通信モードに切り替《か》えると、
「本社の秘書課《ひしょか》へ――やあ、元気で仕事しているかい、ワーカー諸君。休暇の人間を羨《うらや》むんじゃない。ああ、そうだ。ところで、すまんが誰か、二、三日内に国外に出る奴いるか? そうか、分かった。ココリに、猫一匹頼みたいと伝えてくれ。帰ってきたら折り返し連絡《れんらく》を頼む、ココリの声紋《せいもん》照合《しょうごう》を開いておくから。じゃあ」
なんかあっという間に決まったみたい。アスラだったらE・R・Fグループ全《すべ》てのコンピューターに声紋照合が開いているから、『本社の秘書課へ』だけで済《す》むから便利だよなあ。ココリ氏。おとーさんの第七秘書だ。
「ということで、ココリがアルピア経由《けいゆ》でボグシトへ行くそうだ、それについて行きな。どうせ行き先なんて決まってなかったんだろう?」
う、鋭い。
アスラはディスクの入った小箱を元通りにしまうと、ジゼルを机の上に抱き上げた。それから喉元《のどもと》をぐるぐる撫《な》でる。うーん、くすぐったい。
「ジゼル一人で大丈夫《だいじょうぶ》かねえ。ボグシトはグループ圏内《けんない》とはいえ、機械文明への反発は顕在《けんざい》だからな。まあ、ココリがいれば……ちょっと頼りにならないなあ」
「……それって、心配してくれてんの?」
なんか不気味《ぶきみ》になって、ジゼルは尋ねた。アスラって、こんな奴だったっけ?
ジゼルの知っているアスラは、二十二――今は二十三だけれど――にもなって、猫相手にちゃらかす育ちすぎた悪ガキで、ジゼルはいつもいじめられてて、なつめのこともあって仲悪くって……
そうじゃなかったっけ?
「お前さんになにかあってなつめにとやかく言われたくはないからな。いいもんやろうか」
ばらばらと、ポケットから小さなものを取り出して、机に並べるアスラ。
[#挿絵(img/balance_058.jpg)入る]
「反重力システム?」
「うちの最新型だ。ジゼルの身体《からだ》なら一つで楽に浮かぶさ」
ジゼルはじっとアスラを見上げた。
アスラ――なつめの兄。二十三歳。E・R・Fコーポレーション会長夫婦の長男。ゆくゆくはグループの頂点に立つ人物。今は、幹事《かんじ》としておとーさんおかーさんのお手伝いをしている。なつめと全然|異《こと》なる、栗色《くりいろ》の髪と瞳《ひとみ》、小麦色の肌《はだ》。健康で、おちゃらけていて、若さの塊《かたまり》で、かなりの線をいく容貌《ようぼう》で……優しくて?
ジゼル、アスラのこともかなり忘れているみたいだ。でも、どうして?
どうして、アスラのことまで忘れる必要《ひつよう》がある?
「……どうして、そんなにあっさり味方してくれるの。なつめはここで静かにしてろって言ったのに」
なつめの言葉には逆《さか》らえない。それがジゼルとアスラの共通点だった。
「言っただろう。俺達は、以前からそういうことをやっていた。たまたま今回は俺が行けないだけの話だ。これは、なつめに譲《ゆず》れない問題だ」
アスラははっきりと語った。そうだ、ジゼルもそう思った。これは、なつめには譲れないと。
ジゼルとアスラは似ているのかもしれない。アスラも、なつめのことが心配なんだ。たった一人の妹。年に何回も会わない妹だから。
「宇宙機《うちゅうき》の出発は明日だ。早く仕度《したく》をしておいで」
「明日だって!?」
物思いに耽《ふけ》っていたジゼルは、その言葉に仰天《ぎょうてん》して変なトーンの声を上げてしまった。国外に出るならば、ここからはネオトキオシティのカサイ宇宙港を使うのだけれども、そんな、シティに出るのにも一日かかるのに、どうやって明日の宇宙機に乗れるんだ!?
そんなジゼルの疑惑《ぎわく》を感じとったかどうか、
「なんだ、ジゼル、そんなに驚《おどろ》いて――あ、まさか、それ[#「それ」に傍点]も忘れてるのか。冗談《じょうだん》にもならんなあ。全《まった》く、生体機械なんて非合理、なものだな」
などと、言いたい放題《ほうだい》言ってくれて、アスラは肩をすくめた。ふん、ジゼルだって忘れたくて忘れたわけじゃないやい。ジゼルはアスラなんかよりなつめを信じるもんねーだっ。
「明日、【どこでもドア】が来るから、一瞬《いっしゅん》で宇宙港に着くよ」
呆《あき》れ口調《くちょう》でアスラは言う。あ、なるほど、科法を使うのか。なんとなく車で行く気がしたんだよね。なつめとはいつも車で出掛けるから。
「アスラは本当便利だよね。照合はどこでも開いてるし、科法使いも自在に呼び寄せて使えるんだもの」
ちょっと嫌味《いやみ》っぽくジゼルは言い返した。科法を操《あやつ》る科法使いは、全員科法大学卒業と共にE・R・Fに所属するから、本当ならなつめも簡単に利用できるのである。でも、こんなところにいると、必要《ひつよう》ないんだよね、科法。必要ないから、移動も車とかヘリで行ってしまう。だから、ぱっと思いつかなかったんだ。
けれど、アスラはジゼルの嫌味なんか微塵《みじん》もこたえてなく、にやにやと人の悪そうな笑みを見せていた。
「そうそう、自在に[#「自在に」に傍点]科法使いが使えるからね。ほーら、さっさと行く。なつめに見つかるなよ」
鸚鵡《おうむ》返《がえ》しに言うと、アスラはジゼルをちゃっちゃっとおっぱらった。あっけなく書斎《しょさい》の扉《とびら》の前に放り出されたジゼルは、
「いきなり、なんなの?」
と首を傾《かし》げたが、アスラも気まぐれな奴《やつ》なので、それ以上は考えるのをやめた。
ということで、アスラという強力なパトロンを手に入れたわけであるが、なつめに黙って出ていくのは本当、心苦しい。でも、解《わか》って、なつめ。ジゼルはなつめのことが心配なんだ。
夏離宮《なつりきゅう》には今、アスラもいるし、随伴《ずいはん》した社員もちょっと離れた別荘《べっそう》にうようよいる。二、三日すればおとーさんおかーさんも休暇にやってくるし、その点は心配ない。
ねえ、なつめ。怒らないでね。
ジゼルには、これくらいしかできないから。これしかなつめにできないから。
ごめんね、なつめ。
そして翌日《よくじつ》、ジゼルは機上の猫と化したのであった。
エルシの宇宙港《うちゅうこう》を離陸《りりく》してから二時間後、ジゼル達は惑星《わくせい》アルピアの入国|審査《しんさ》の受付に佇《たたず》んでいた。早い早い、何ブロックも離れたHブロックの、恒星《こうせい》アランジェムンド第二惑星であるアルピアまで、たったの二時間。その所要時間のほとんどが、条例で規制された磁気圏内《じきけんない》での減速《げんそく》飛行と時差《じさ》調整に費《つい》やされた。|α《アルファ》軸《じく》航行だと二時間半、時を移動しない|φ《ファイ》ベクトル移動の方が早い。
「ねこ?」
入国審査官のおじさんは一文字にくっついた眉《まゆ》を更《さら》に寄せて、怪訝《けげん》そうにジゼルを覗《のぞ》き込《こ》んだ。見られているこちらが不快になるようなしかめっ顔だ。定期便ルートの集中するアルピアの住人らしく、特徴《とくちょう》のないぼんやりした顔立ちに見える。アルピア民族が学術分類で認められなくて、なんとか紛争《ふんそう》が最近あったという噂《うわさ》をジゼルは思い出した。
「はあ、ねこです」
おとーさんの第七|秘書《ひしょ》ココリ氏が、ジゼルの隣《となり》で間《ま》の抜けた返事をしていた。アルピアはE・R・Fグループ勢力圏と連邦勢力圏のはざまにある惑星で、位置的立場からもそれほど後退はしていないはずだけれど、やっぱり世間の波はちゃんと押し寄せているみたい。ジゼル、ココリ氏になるべく人語《じんご》を使わないでほしいと言われた。ここでも普通《ふつう》の猫で押し通すらしい。人工知能のどこが悪いんだいっ。
審査官のおじさんはねちねちと、
「なんでE・R・Fのお偉いさんが出張《しゅっちょう》にねこなんか連《つ》れてくるんだい。巧妙《こうみょう》に造られたロボットじゃないかね」
「あははは。まさか。サイバネティックス規制は知ってますよ」
あ〜あ。こんなところに来て、ロボット呼ばわりされるなんて!
なーんか、出鼻《でばな》をくじかれた感じだなあ。あーん、E・R・Fグループのライン便が早くも懐《なつ》かしい。懇切丁寧《こんせつていねい》なパーサー、優しいステュワーデス、至れり尽くせりの企業《きぎょう》主義サービス。民主主義は保てても企業主義の砕《くだ》け散ったアルピア、待遇《たいぐう》がまったく悪いぞっ。本社の専用機だったらこんな手間《てま》必要ないのに。
まあ、どうせ、アルピアはちょっと立ち寄っただけ、ココリ氏がアルピア支社に寄ったら明日には目的地ボグシトだもんね。ふんだ。
ボグシトの方がもっと悪かったりして。
「勘弁《かんべん》してくれよな。ヒューマノイド系機械の航行が規制されたから、今度は別の生物形態でくるぞと上から言われてんだから。冗談《じょうだん》じゃあないぜ」
サイバノイド規制? それは初耳な情報《じょうほう》だ。E・R・Fや他企業グループの拡大を懸念《けねん》したり、文明|衰退《すいたい》現象を憂慮《ゆうりょ》したり、連邦も大変なんだね。
審査官のおじさんとココリ氏ののらくらした対話はまだまだ続きそうだった。ジゼルは短気ではないが、じっとしていられない質で、ここは一つ、猫は猫らしく、人間事情おかまいなくぷらりと散歩してこようじゃあないか。
かくして、窓口から飛び降りたジゼルは、審査官の声を後にぷらりと歩き出した。
ビルの中は騒然《そうぜん》としていた。銀河のあちこちからやってきた人、人、人! もともとは一つの星から発生した生物だとはいえ、住む星の環境《かんきょう》でけっこう変化はあるみたい。あの人の肌《はだ》、緑色だー。ピンク色の眼? 変わってるー。
あと、手がやけに長い人とか、卵のようにつるんとした人とか、エルシには見られないタイプがうじゃうじゃ。美的感覚もまちまちで、見るもの見るもの鮮《あざ》やかで目を奪《うば》われてしまう。こうしてみると、エルシって本当にオーソドックスなんだね。
でも。
どんな人がいても、どんな変わった美しさを持った人がいても、なつめが一番きれい。黒い髪《かみ》黒い瞳《ひとみ》透《す》きとおる肌。人間の種族を越えた綺麗《きれい》さ。オーソドックスの中にこそ、本当の美を見つけだせるもんだと誰かが言っていた。なつめがその証拠《しょうこ》になる。
えへ。
なんか自分のことのように嬉《うれ》しい。なつめが一番だって改めて認識《にんしき》できて、優越感に浸ってしまう。えへへ。
優越感がなんか足取りを軽くしてしまったらしく、ジゼルはフロアの真ん中を闊歩《かっぽ》していた。そして、前方の騒ぎにもまーったく注意がいかなかったのである。
と、その時。
脱兎《だっと》がジゼルの脇《わき》を駆《か》け抜けていった。
脱兎だあ?
自分の言葉に驚《おどろ》いて、ジゼル、振《ふ》り返る。人々の唖然《あぜん》とした視線を浴《あ》びて、ぴかぴか滑《すべ》る床《ゆか》をひょこひょこよたよた跳《と》んでいくのは、紛《まぎ》れもなく兎《うさぎ》。白い毛に長い耳。うん。兎だ。
なんだろう。
ジゼルと同じクチかな?
あの長ったらしい精密機器類|検閲法《けんえつほう》か動植物検閲法に捕《つか》まったら、人間以外なら誰だって逃げ出したくなるよねえ。うんうん。
なあんて、一人で納得《なっとく》していたら、不意に誰かに抱き上げられた。
反射的に誰、と声を上げてしまいそうになる。
でも、それはすんでのところで回避《かいひ》された。なぜって、ジゼルの口は何かでふさがれてしまったのだから。
つん、と酸《す》っぱいようなむわっとした臭《にお》いが、頭を刺激《しげき》した。
麻酔《ますい》!?
そして、いきなり記憶は途切《とぎ》れた。
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ACT.2
目が覚《さ》めたら、身体《からだ》が四角にたたまれて箱詰《はこづ》めにされていた。
…………?
よく把握《はあく》できないこの事態。一体ジゼルの身に何が起きたというんだ?
ともかく、この四角にたたまれているという姿勢《しせい》は、全《まった》く絶対考えるのによろしくない。でいやっ、と身体を伸ばし、滅多《めった》に見せない爪《つめ》で紙壁《かみかべ》をひっちゃぶく。
そこは、ケージの中だった。
柵《さく》の向こうは暗闇《くらやみ》。すぐに目が慣《な》れて、積み重なるコンテナと箱の群れを捕《と》らえる。
悟《さと》る。
ここは貨物庫《かもつこ》だ。
一分ぐらいジゼルは呆然《ぼうぜん》としてしまった。頭の中をいろんな可能性が浮かんでは消える。一体、この余興《よきょう》は誰のしわざか。この檻《おり》はどこにあるのか。ジゼルの立場はどうなっているのか。
「な――なにこれーっ! 冗談《じょうだん》にしてもひどいよーっ!」
声が勝手に出ると、一気に感情が溢《あふ》れでたぞ。冗談じゃない、冗談じゃあないよ。いくらジゼルが猫だからって、ジゼルの了解《りょうかい》も得ないうちに、勝手にこんなところに押し込《こ》めるなんて! 情けない、情けなすぎる。なんのために人語《じんご》が話せると思ってるんだ。ココリさんのばかーっ。おとーさんに言いつけてやる、ジゼルの信用裏切ってえ。
「えーんっ、出してよー、ちょっと、誰かあ」
呼べど叫べど、ここは暗い倉庫《そうこ》の中。助けはこない。
そうして、ようやくジゼルはアルピア宇宙港《うちゅうこう》でのできごとを思い出した。脱兎《だっと》。麻酔薬《ますいやく》。白い身体。キィワードが次々とつながって、一つの結論に達する。
もしやして、もしやすると、ジゼルは兎に間違《まちが》えられた? まさか!
でも、他にこの状況《じょうきょう》の構図が掴《つか》めない。兎がいない星も猫がいない星も存在するのだから。どうやったらこの愛くるしい三角耳とむやみに長い兎耳を間違えられるんだ?
状況《じょうきょう》判断《はんだん》ができて、少しだけ心が落ち着いた頃《ころ》。
「やあ」
なんの前触《まえぶ》れもなく突然に声をかけられ、ジゼルは飛び退《の》いた。が、なにせ狭《せま》っくるしい檻《おり》の中、ごちんと背中を打ち付ける。
「いててて」
「大丈夫《だいじょうぶ》? どうしたの一体」
見上げると、いつのまにかケージの前に女の人が座り込んで、ジゼルをじっと凝視《ぎょうし》していた。短く切りそろえた金色の髪、アクアマリンの双眸《そうぼう》。白い肌。少女と言うほど若くないけれど、大人とも呼べない。アスラよりは年下だろう、なつめよりは上かな。はっとするような凛々《りり》しい表情が印象的だった。
この表情は、ときおりアスラが見せる、表情。
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――アスラが見せる? 見た?
[#ここで字下げ終わり]
ジゼルが? いつ見た?
「……誰?」
「デイニ。呼んだでしょう」
デイニと名乗る娘さんは、小さいながらもよく通る声でそう言い、ニッと笑ってみせた。
「ことの次第《しだい》では出してあげるよ。どうした?」
「兎と間違えられたの。早く戻《もど》らないと、ココリさんが大騒《おおさわ》ぎしちゃう」
「戻るって、パウロに?」
「え。アルピア宇宙港……」
パウロ? どこそこ。ジゼルの言葉にデイニはぱちくりと瞬《またた》いた。
「アルピア、アルピア惑星《わくせい》って、ここはボーヴォール惑星よ、ねこさん」
「ボーヴォール?」
どこそこ!? 聞いたことも見たこともない惑星だよ!
なんでそんなところに来ちゃったんだ――?
ジゼルは、怒濤《どとう》のごとく押し寄せる当惑《とうわく》と不安に、デイニをただ見つめるしかなかった。
ボーヴォール惑星。Oブロック・バイザー星系に所属する恒星《こうせい》α《アルファ》ドリームの、十八の惑星の中の第一惑星。植民歴およそ五千年。独自言語も確立している。惑星王国。
「安心して。私は外国人だから。とって食ったりしないわよ」
デイニはジゼルを檻《おり》から解放してくれると、てきぱきと要点をついてボーヴォール惑星について説明してくれた。彼女の口調《くちょう》はすっきりはっきりしていた。顔立ちはとてもきれいだけれど、なつめのように、ではなく、格好《かっこう》良いという言葉が似つかわしいというか、なんというか。態度と口調と容姿《ようし》がぴったり統一されてるようだ。
「文明|衰退《すいたい》度は七かな。封建《ほうけん》主義国家よ」
ここは連邦勢力圏。その中でも、特にガチガチな、E・R・Fコーポレーションを目の敵にしている星系の一つだった。
「機械文明は拒否《きょひ》しているけど、宇宙機《うちゅうき》の乗り入れは拒《こば》んでないから」
ボーヴォール惑星は、現在の人類文明の典型《てんけい》的な歴史を築《きず》いている。
【惑星は惑星の中へ】を合言葉に、世界は惑星一つ一つにあるべきだと、自給自足《じきゅうじそく》、つまり外交関係を徐々《じょじょ》に細くして、最後には完全に断《た》ち、独自の文明を咲かせようという自閉症《じへいしょう》な試みが、今、銀河文明史をにぎわせている。巧《うま》くいけば、何十年か後には連邦という組織は必要《ひつよう》なくなり、戦争もなくなるだろう。この考えが蔓延《まんえん》し始めてから、もう何百年と経《た》つが、これはコンピューター大|暴走《ぼうそう》時代の反省として、機械文明に頼《たよ》りきっていたのを改め、改めすぎた結果だ。
今なお、機械は敵、そう信じ込んでいる輩《やから》も少なくない。E・R・Fグループ圏内《けんない》でもそうだ。連邦圏はもっと酷《ひど》い。完全衰退、すなわち原始レベルまで文明が没落《ぼつらく》してしまったところもある。しかも、それこそかくあるべき姿だと追随《ついずい》しようとしているところも存在するのだ。連邦自身は、それをくい止めようとやっきになっているが、ままならないのが現状。そして、エルシは大暴走時代を経験しなかったのと、独自の科学のおかげで、衰退のすの字も見せず、機械文明と仲良くやって、成長し続けている。ジゼルなんかいい例だ。
さて、このボーヴォール惑星というのは、デイニの話のとおり大型機械文明を放棄《ほうき》した惑星王国だが、連邦との連絡《れんらく》を断絶《だんぜつ》するほど衰退しているわけではなく、ジゼルがこの惑星に迷い込んでしまったように、宇宙機も飛んでくるし宇宙港もある。が、やはり物質文明の毒牙《どくが》(全《まった》く不本意な表現だっ)に敏感《びんかん》な黎民《れいみん》を気遣《きづか》って、王都からかなり離れた僻地《へきち》の高原パウロに宇宙港はある。そこから汽車が出ていて、ジゼル達は今、汽車から下ろされた王都バーシンの、国際市場センター倉庫《そうこ》とかいうところに閉じ込められているそうだ。
「まあ、いうなれば外国からやってきた物品《ぶっぴん》の一時|預《あずか》り所かな」
「これからどうなるの?」
「この荷物は王宮の買い物よ。すぐにバーシン王宮に運ばれるわ」
「うーん。ジゼル、汽車が見たかったなあ」
エルシではいまや交通|博物館《はくぶつかん》の復元品《ふくげんひん》しかお見かけできない汽車が、日常的に動いて走ってるなんて、ぜひともなつめに見せたかったのに。ちえっ、惜《お》しい。
ふと見ると、くくくっとデイニが笑いを堪《こら》えているのが分かった。
「なんか変だった?」
「変わった子ね! とんだ災難《さいなん》を被《こうむ》ってるっていうのに、呑気《のんき》に汽車なんて!」
「だって。ジゼル、どうしていいかわかんないんだもん。宇宙港《うちゅうこう》への汽車は週に一回しか出てないなら、出るまで待つしかないじゃない」
悄然《しょうぜん》としてジゼルは答えた。そうでもなくちゃあやってられないよ!
「不思議《ふしぎ》だわ。ジゼルって人間ぽいかと思ったけど、やっぱりねこなのね。呑気というか、巧《うま》くプログラムされてる」
「そりゃあ自前《じまえ》の脳もついてる生体機械だもん」
人工知能のみのサイバネティック機械とは違うもんね。そこまで言おうとして、デイニが妙《みょう》な顔をしているのに気がついた。眉《まゆ》をひそめて、ちょっと躊躇《ちゅうちょ》しながら、
「生体機械……? 生体機械って、いわゆる人工|細胞《さいぼう》の?」
「え?」
ぽかんとなって次の言葉を待つジゼルに、ゆっくり、考え考えデイニは喋《しゃべ》った。
「……ジゼル、どういう事情があるのかは知らないけど、あまり生体機械って言わない方がいいわよ。多分、本当は大丈夫《だいじょうぶ》なんだと思うけど、こういう衰退《すいたい》してるところじゃあ融通《ゆうずう》きかない人間ばかりで、サイバネティックス規制委員会に捕《つか》まるから」
低い、真剣な言葉。デイニが冗談《じょうだん》を言ってるようには見えない。
サイバネティックス規制委員会に捕まる?
ジゼルはキョトンとなってデイニを見返した。だって、ジゼル、そんな話聞いていない。なにか不都合《ふつごう》なことがあるなら、なつめなりアスラなりジゼルに忠告してくれるはずだもの。ココリさんだって、その規制については熟知《じゅくち》している様子《ようす》だったし。
いったい、なんなの?
「私も専門外だから詳《くわ》しいことは言えないんだけれど……ジゼル、君、どうして話ができるの?」
それは、とてもオーソドックスな質問だった。人工知能で人間の思考回路を持ち、人工|声帯《せいたい》をつけているから。それが言葉通りの答えだった。
でも、デイニはそんなことを聞いたのではない。
どうして話をできる能力を持っているの。そう聞いたんだ。
「生体機械って、身体《からだ》の一部や大部分を欠損《けっそん》した場合、人工的に細胞を生成して補充《ほじゅう》する組織体のことでしょう。ねこにそれを適用《てきよう》するのは滅多《めった》に聞かないけど、金持ちのねこ好きとかならするかもね。でも、どうして人工知能まで備《そな》える必要《ひつよう》があるのかしら」
ジゼルはなにも言えなかった。
「まさか、全身生体機械じゃないでしょうね。全身生体機械は、サイバネティックス規制にも、ライフサイエンス禁止法にも違反《いはん》するわよ」
そんなこと。
そんなこと、全然|判《わか》らない。だって、ジゼル、なにも知らない、覚えてないもの!
「君、本当にねこなの?」
「本当って――!」
ガチャンという音がジゼルの声を遮《さえぎ》った。コンテナの奥に見える扉《とびら》から、おそらく鍵《かぎ》が外れる音が。はっとなってデイニがジゼルを抱き上げ、いきなりもとの檻《おり》に押し込める。
「デ、デイニ!」
「あ、でも、特例はいっぱいあるし、もしそうだったら、こんなところにいるはずないものね、大丈夫《だいじょうぶ》だと思う。隠《かく》れるわ、また後でね!」
早口にそう伝えると、デイニはコンテナの向こうに消えてしまった。そうか、ジゼルも消えてしまうと家《や》捜《さが》しが始まってデイニも危ないからか。
でも。
本当って――なに?
本当じゃないって、どういうこと?
ジゼルはなにも知らないの? それとも覚えていないの? 後ろぐらいことはなにもないというの? 心配は要《い》らないの? なつめもアスラもなにも言ってくれなかった。ジゼルが知らないことを二人は知らないのかもしれない。
大丈夫。なにはともかく、普通《ふつう》の猫のフリをしていれば、怪しまれない。落ち着いて。
でも。不安がよぎる。あの時、アスラがなつめに言っていた言葉――お前は昔からそういうことにこだわる質《たち》だったよ。そういうことって、どういうこと!?
[#挿絵(img/balance_076.jpg)入る]
カッと白い光が目に差し込《こ》んだ。不覚にもグレア状態に陥《おちい》る。久しぶりの太陽の光、眩《まぶし》さ。続いてどやどやと何人もの人間の気配《けはい》。
「おーい、こっちだ」
耳にはめ込んだセンサーが瞬時《しゅんじ》に分析して、ボーヴォール言語が公共語に自動|変換《へんかん》される。デイニは綺麗《きれい》な公共語を喋《しゃべ》っていたな。
そういえば、デイニが何者か聞くの忘れていた。
外国人って言ってたけれど、観光客ならこんな倉庫《そうこ》にいるはずない。隠れるだあ? ちょっと、デイニってなんかヤバい仕事の人じゃあない? 密入国《みつにゅうこく》じゃない!?
倉庫の中の荷物がどんどん運ばれていく。みんな王宮に運ばれるそうだな。兎《うさぎ》なんかわざわざ外から買い付けるところを見ると、この星には兎は存在しないみたい。いわくつきの兎だったなら宇宙港《うちゅうこう》で簡単に逃げ出せるはずないしね。
「おい、これもだ」
やや?
「なんだ、この白いの。また妙な生き物買いやがって。王女殿下の珍獣《ちんじゅう》収集もやめてもらいてえよな」
ぐらぐら檻が動いて、中でなるべく縮こまっていたジゼルはごろごろ回転した。目をちょっぴり開くと、二人の人間がわっせわっせとこの檻を担《かつ》いで外に運ぼうとしていたのだ。
「ちょっ、ちょっと待ってよーっ! デイニ助けて、王宮に連《つ》れてかれちゃう!」
と、叫びたかったけれど、まさかそんな墓穴《ぼけつ》を掘るわけにもいかない。でも、でもでも、ちょっと待ってーっ、宇宙港に戻《もど》れなくなるーっ、デイニーっ。
必死《ひっし》になって形相《ぎょうそう》でデイニに訴《うった》えるしかないが、いかんせん、当人が見ていないのではどうにもならない。
「デイニーっ」
あああ、もうどうにでもなれっ。なつめえーっ。
ジゼルは生体機械である。ただし、どの部分が人工生体材料を使っているのかとんと覚えていない。いわゆる普通《ふつう》の『機械』を使用しているのは、人工知能と水晶体《すいしょうたい》であって、あとは普通の猫となんら変わりはないのである(はず)。よって、サイバネティックス登録もしていない。『機械』じゃないのっ。レコーダーシステムはオプションだもん。ぷん。
だから、喋《しゃべ》らなければなにも恐れる必要《ひつよう》はないのだ。そうなのだ。あはははは。
「…………」
ジゼル、自分に言い聞かせようとして、なんか自分で自分に疲れてしまった。こうなったら、考えると疲れるから考えないでいこう。まあ、どうにかなるんじゃない。
というわけで、沢山の荷物と共に馬車(!)に積み込まれたジゼルは、幌《ほろ》の向こうに見えるバーシンの街並《まちな》みを拝見《はいけん》することに専念した。要は考え方、このトラブルこそ千載一遇《せんざいいちぐう》のチャンスではなかろうか、面白《おもしろ》いものが見れるのだから。目的は達成される。
それにしても、この馬車というやつは、なんて安定が悪いんだろう! 車輪の感覚は自転車とかで知っているけど、舗装《ほそう》されてない道をこんな大荷物で行くなっていうの。反重力システムのありがたみを知らないなんて、可哀想《かわいそう》な人たち。
馬車は街中《まちなか》を走っているようだった。それでもタイヤ付きの車さえ見当たらなくて、牛馬に引かせる台車がわがもの顔で行き交っている。ごく単純な生地《きじ》の衣服をつけた人々。四階以上の建物がない、無計画にごちゃごちゃ建てられた家々。道端《みちばた》でなにか売っている。赤や黄色や緑の食べ物。甘《あま》い匂《にお》い。掛け声。熱気。古《いにしえ》の光景が現世《げんせ》で繰《く》り広げられる。
うひゃあ。目がくらくらしてきた。これがかの噂《うわさ》のバザール! 異文化、異世界、異星人っ。熱気に当てられ頭がぼーっとする。くすんだ埃《ほこり》っぽい風景に、原色の人間の生活。閑寂《かんじゃく》な夏離宮《なつりきゅう》に浸《ひた》っていたジゼルには刺激《しげき》が強すぎたみたい。人間のバイタリティが肌《はだ》から感じられる。エルシでは絶対そんな感触《かんしょく》は得られなかったこと。
衰退《すいたい》しているのに?
ふと、その疑問が脳裏《のうり》を過《よぎ》った。機械文明を放棄《ほうき》して、文明衰退しているのに、なぜこんなに活気があるというの? 人間は文明との倦怠期《けんたいき》を迎えたんじゃないの?
「……衰退しているから?」
思わず口から言葉が出た途端《とたん》、馬車はなんの前触《まえぶ》れもなく停止した。当然、ケージの中で引っ繰り返るジゼル。なんて乱暴《らんぼう》な運転だっ。
それからすぐに馬車は発進した。なんのための停止だったのかなあ、と訝《いぶか》っていると、馬車は鉄門を潜《くぐ》りぬけ、庭園へと侵入《しんにゅう》した。なるほど、目的地バーシン王宮に辿《たど》り着いたというわけだ。警備隊《けいびたい》が遠ざかっていくのが見える。
これはこれは。
庭園が視野に入ってきて、ジゼルは思わず目を見張《みは》った。ここは水上宮だ。人工の。
荷台から見る風景は、白亜《はくあ》の、皿状の池が幾つも並んだ庭園だった。水深は浅く、広い池が様々《さまざま》に幾何学模様《きかがくもよう》を描いて、所|狭《せま》しとひしめきあっている。浮き草や水上花の鮮《あざ》やかな色彩が、真っ白のハンカチに縫《ぬ》い付けられた刺繍《ししゅう》のようだった。
「……へええ、こういうことに関する技術はあるんだ」
なんか衰退《すいたい》の意味がよく判《わか》んなくなってきたぞ。悔《くや》しいけれど、すっごくきれい。夏離宮《なつりきゅう》とは全く趣《おもむき》を異にしている。どちらの方が豪華絢爛《ごうかけんらん》、麗々《れいれい》しいかと問えば、やはりこちら、バーシン王宮というしかない。あそこは、静寂《せいじゃく》に包まれた、およそ絢爛という響《ひび》きから無縁なところだ。無論《むろん》、それはそれで雅趣《がしゅ》というものだろうけれど。
ジゼル、なんか誤解《ごかい》していたのかな。文明衰退っていうから、みんながみんな、倦怠《けんたい》と無気力に包まれているのかと思ってたけれど、一概《いちがい》にそうでもないみたい。新たなる発見だ。
馬車が曲がる。右手に建物が見えてきた。
白亜宮《はくあきゅう》だ。皿池と同じ、真っ白だ。大円蓋《だいえんがい》のドームを中心に、円天井《まるてんじょう》の塔《とう》がいくつも伸びている。まるで絵のようだった。円形が基調なんだな、ポーチもベランダも回廊《かいろう》も、円形、もしくはそれを連《つら》ねた様相《ようそう》。
白亜。灌木《かんぼく》の緑、花のピンク、そして紫がかった空色。幻想《げんそう》の世界。
ジゼルはぼーっとこのファンタジックな景観に見入っていた。紫の空は日差しが強いから、そのせいかもしれなかった。
馬車は再び停止して、そのまま動きだす気配《けはい》を見せなかった。どうやら終点らしい。外を伺《うかが》おうと首を伸ばすと、どやどや人がやってきて荷を下ろしだしたので、慌《あわ》てて縮こまる。ジゼルの入った檻《おり》も、当然荷台から下ろされた。
「おい、そいつはこっちだ」
おや? ジゼルだけは特別|扱《あつか》いらしい。他の荷物が裏手の一角の部屋に運び込まれるのに対して、この檻だけはそこを素通りして担《かつ》がれたまま廊下に出てしまった。なまものだからかな。
あれ、この宮殿の部屋、扉《とびら》がない。乾燥《かんそう》した暑さに、暖房の必要もないから風通しのためか。区切りの観念はないのかな? 冷房機はないだろう。
人間もその暑さに対応して、全体的に浅黒い肌《はだ》と剛毛《ごうもう》の黒髪の民族だ。服も、なるべく肌を露出《ろしゅつ》しないように、それでいて涼しいように、白系の布《ぬの》で丈《たけ》も幅《はば》も量もひじょうにゆったりした寛衣形《かんいけい》である。歩くたびに波打って、なかなか心地よさそう。思わずじゃれたくなるよなあ。みんな小ぶとりだから、よけいそれを感じるぞ。
物置宮――ジゼルが勝手に付けた名前。だって見る部屋見る部屋、物置なんだもの――を出て、次の建物に運ばれたところで担ぐ人が変わった。むむ。どこまで連《つ》れてく気だ?
ここからは本当の宮殿らしく、まあ、あるわあるわ、右を向いても左を向いても、どれをとっても呆然《ぼうぜん》としてしまうようなものばかり。だいたい、白亜の建物自体がすごくきれいで、廊下を飾りたてる手の込んだ彫刻《ちょうこく》や絵画、タペストリー、窓枠《まどわく》、床の市松模様《いちまつもよう》――目が回りそうだ。これ、全部人の手で作られたとしたら、すっごい器用な人がいたもんだっ。
回廊を歩いて見る中庭の風景も絶品《ぜつびん》だ。噴水《ふんすい》が上がっているんだ。全く、あの埃《ほこり》っぽい街並みからは想像《そうぞう》もできないほど、水がふんだんに使用されている。規格整然として衛生的。これは貧富の差? だとしたらエルシでは考えられないほどの落差がある。
色々考え、夢中で見学しているうちに、担《かつ》ぐ人夫はどんどん交替《こうたい》していき、どんどん宮殿の奥へ奥へと連れていかれた。本当にどこまで行くんだろう。
それにしても、ぐるぐるこちゃこちゃ迷路みたいな建物だ! 同じような部屋がいくつも並んで、同じような中庭がいくつもあって、あまつさえ建物と建物をつなぐ回廊《かいろう》が傾斜しているのだもの。一階だったはずなのに階段を上らぬうちに二階、また一階、今度は地下といった具合。この宮殿を全部|把握《はあく》できる人がいるのだろうか。そのうち、窓を出たらまた部屋でしたー、なんてところが現れるぞ。うん。
ジゼル、ちゃんと逃げだせるかな?
ようやくそのことを思いだして、何気なく人夫を見上げ、仰天《ぎょうてん》した。
ス、スーツ姿!? 今までの人たちと違う?
半地階を歩く。人夫、といっていいのか、その人の頭あたりに地表がある。薄暗い廊下。いつの間にか絢爛《けんらん》さは消え、雑然とした、得体《えたい》の知れないものが無造作《むぞうさ》に放置された狭《せま》い空間が長く暗く伸びていた。まるで、そう、以前連れていってもらった科法大学の研究室前の廊下のような、怪《あや》しい雰囲気《ふんいき》がわだかまっていて……
な、なあんか異様《いよう》だなあ。電車も車もない世界に、スーツ姿とこの廊下。合わない。そりゃあ一国の首相がいるところだから、スーツ姿も別にいいんだろうけれど、この誰《だれ》もいない廊下、うさんくさいじゃない。
と、廊下が壁《かべ》に突き当たった。スーツ姿の男の人は、ためらいもせず壁に手を当てると、
「グシェント・384」
そう淡々《たんたん》と言った。はたして、その声に反応して、壁がゆっくりと開くではないか。
うひゃーっ、音声照合だあ。なあにが機械文明を放棄《ほうき》しただっ。王宮がいんちきしてやがる。
中に入ると、そこには今度は真っ白い服を着た女性が待ち構えていて、ケージは手渡された。スーツ姿の男はそのまま戻《もど》って、扉は元の変哲《へんてつ》もない壁と化す。
中は眩《まぶ》しい人工灯に満ちていた。結構《けっこう》広い空間で、同じような白い服を着た人が何人もいる。唖然《あぜん》と見回すと、壁に沿ってごちゃごちゃと、まあ、あるわあるわ衰退度《すいたいど》七では御法度《ごはっと》だろう精密機器の群れ、いんちきーっ。
「なんだ、つがいで頼《たの》んだはずなのにな」
「いつものことだ。ちょうどいい、この抗体の被験体《ひけんたい》が欲しかったんだ。さっさと適性を調べてくれ」
「ラットばかりじゃあねえ」
え?
彼らの会話を考えるいとまもなく、ケージから無理《むり》やり出されて、すかさず注射を打たれてしまった。そして、白い台の上に放りだされる。
こ、これは、もしかして、もしかすると、生体実験室ーっ!?
となると、ジゼルはやっぱり、実験体ってことか?
冗談《じょうだん》じゃあない!
「おい、今日着くのは兎《うさぎ》じゃあなかったか。猫なんて……」
「冗談じゃないよ!」
誰かの訝《いぶか》る声を遮《さえぎ》って、ジゼルは声を上げた。しまった!
気づいた時はもう遅い。
「きゃっ! この猫、喋《しゃべ》る!」
「サイバマシン!?」
ジゼルの声に驚《おどろ》いて、束縛《そくばく》する腕が弛《ゆる》んだ瞬間《しゅんかん》を逃さなかった。全身をくねらし、むちやくちゃに爪《つめ》を立てて跳《と》び上がる。
なんでサイバマシンなんて知っているんだ?
「に、逃げた!」
「捕《つか》まえろっ、なんとしても逃がすな! 知られたぞ!」
喚声《かんせい》が飛び交う中、ひらりひらりとジゼルは追手の手をかわし、部屋中を逃げ回る。冗談《じょうだん》じゃあないっ。いきなりこの展開はなんなんだ。ものごとを確認してからやれ!
ぐるぐるぐるぐる、機械を蹴倒《けたお》し、布《ぬの》を引っ掻《か》き、人の頭を飛び石がわりに逃げまくるジゼル。へへんっ、そんな動きじゃあ捕まるもんか。
とはいえ、このままでは埒《らち》があかない。どこか外へ出る場所はないものか。
「あ」
あった。隣《となり》の部屋へ通じる扉《とびら》、それと天井際《てんりょうぎわ》に通気孔《つうきこう》。どちらを選ぶ?
確実に逃げ出すなら通気孔だ。瞬時に判断《はんだん》して、ひょいひょいと棚《たな》づたいに跳び上がる。
「通気孔から逃げるぞ」
「慌《あわ》てるなっ、通気孔には柵《さく》がかかってる」
と言っている人たちの前で、ジゼルは爪を使って器用に鍵《かぎ》を外すと、一瞥《いちべつ》もせずにすたこらさっさ逃げてしまった。あはは、呆然《ぼうぜん》としているあいつらの顔が目に浮かぶ!
それにしても、爪鍵で良かった。なーんて、ほっとしながらジゼルは通気孔をまっすぐ走った。通気孔なら外につながっているはず、本当、よかったよかった……
どくん。
いきなり心臓の音が耳に響《ひび》いた。なにごと!?
どくん。どくん。どくんどくん。
「あっ……はあ、はあ」
呼吸が急に苦しくなる。なにこれ。そんな、あれしきの運動でこんなに動悸《どうき》がするなんてことなかったのに。心臓が痛い。体の中で揺《ゆ》れているのがはっきり分かる。なにこれ。
「あの注射っ……!」
不意打ちを食らった注射のせいだ。そう考えついた時、出口が見えた。外鍵だ。ええいっ、体当たりーっ!
ばんっ、という豪快《ごうかい》な音と共に、柵は一発で縁《ふち》ごと弾《はじ》け飛んだ。うひゃあ、なんだこの力。この異常な動悸といい、熱っぽさといい、頭はしっかり冴《さ》えているのに。
あー、こりゃ興奮剤《こうふんざい》かっ、筋肉強化剤か?
とりあえず、勢い余って繁みの中をごろごろ転《ころ》がったジゼル、飛び上がって一気に広いところへ出た。息が苦しいー。なつめ、助けてーっ。
通気孔はどこかの中庭の繁みの中に通じていた。なるほど、普通《ふつう》じゃあ分からない場所だ。どう考えても秘密の研究室だったもんね。知られたぞ、って叫んでたし。
はあはあ、と息が洩《も》れるのが自分でも聞こえる。やだなあ、犬みたい。
側の回廊を、ぱたぱた二人の子供がサンダルを鳴らして駆《か》けてきた。目の大きい、かわいい子供だ。ジゼルがぜいぜい酸素をとりながらその姿を追うと、なにを思ったのか、うち一人がぴたりと足を止めた。
「どうしたの」
片方の子も立ち止まって、怪訝《けげん》な面持《おもも》ちで尋ねる。
「今、なんかヘンなものが……」
おもむろに振《ふ》り向く。やや、ジゼルと目が合ったぞ。もしかして、ヘンなものってジゼルのこと!? なんたる失礼な。
「な、なんだ、あれ」
おいおい。こんなかわいらしいねこをつかまえて。息を切らせているからかな。
「あんなの、見たことないよ……」
あ。そうだった。この星には猫はいないん――
「ま、魔物《まもの》の使いだーっ!」
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ACT.3
「魔物の使いだーっ、助けてー!」
「きゃああ!」
子供たちがかんだかい悲鳴《ひめい》を上げて逃げていく。仰天《ぎょうてん》したのはこっちの方だ。どうして猫がいないんだっ。人間の可愛《かわい》いオトモダチではないの!? 大体、実験体の次は魔物だって? この時代|考証《こうしょう》のめちゃくちゃな世界はなんなんだっ。どっちが時代|錯誤《さくご》なんだ!?
などと腹を立てている場合ではない。逃げなくてはっ。これは喋《しゃべ》らなければいいなんて問題じゃないぞ。
「魔物の使いはどこだ!」
話を聞いたらしい、銃《じゅう》(銃身がむちゃくちゃ長い。人の丈《たけ》はあるぞ)を携《たずさ》えた警備兵《けいびへい》がどやどや押し寄せてきた。は、早いっ。
ジゼル、一目散《いちもくさん》に逃げる。
興奮剤かなにかは知らないが、ジゼル、自分で驚くほど速いぞ。一気に抜けるぞ。
「向こうだ、捕《つか》まえろ!」
声と共に、行く手行く手に新たな追手が。むむ、数で攻めてきたな。
どんどんどんどん追手の数は雪だるま式に脹《ふく》らむ一方。なんだなんだ、たかが猫一匹にこんな大騒ぎ。猫はいなくたって、似たような生物はいるだろうに!
突然、足に何かが引っ掛かって、前につんのめった。同時にガシャンガシャンガシャンとけたたましい金属音が辺りに反響《はんきょう》しまくる。
「しまった――!」
原始的な仕掛けに捕まってしまった。上から重く大きいものが降ってきて、ばさんとのしかかった。ジゼルの四肢《しし》をがんじがらめにして、もがけばもがくほど自縛《じばく》状態《じょうたい》になる。網《あみ》だ。
「やいやいっ、ジゼルは魚じゃないんだぞ!」
だが、ジゼルの勢いはそこまでだった。急激に始まった動悸は急激に治まり、反動でどっと疲労感が全身を襲《おそ》う。こんな時にーっ。なんだなんだ、あの注射。
駆《か》けつけた警備兵たちの、篝《かが》り火に照らされた形相《ぎょうそう》は、なんとも表現しにくかった。見たことのない動物への好奇心と、魔物《まもの》伝承への恐怖《きょうふ》、そしていとも簡単に捕獲《ほかく》できた弱者への虐待《ぎゃくたい》の色を混《ま》ぜこぜにした視線、とでも言うべきなのだろうか。
ジゼル、これからどうなってしまうのだろう。
さっきの研究室よりも質《たち》が悪そう。先行きの不安と恐怖に、ジゼルは硬直した。
そのまま、網《あみ》の中でジゼルは夜を迎えた。十何人もの屈強《くっきょう》の兵士に囲まれ、逃げるもなにもあったものじゃない。太陽が沈み、夕焼けもわずかにいきなり帳《とばり》が降りると、行動は開始された。
網の中に押し込まれたまま、ジゼル棒で担《かつ》がれ、口形に築かれた宮殿の中庭から、さらに広い広場へと運ばれた。これからなにが待ち受けているのだろうと、それでもまだ、どこかしら興味《きょうみ》の心持ちで余裕《よゆう》のあったジゼルだけど、そこに設置されたものを目にした途端《とたん》、そんな気持ちはふっとんでしまった。
棒。そして、足元に薪《まき》。
この風景、なにかの絵で見たことがある。つまり、これは、火あぶり?
ピキンと心臓が凍《こお》る。
そんな。
そんな、そんな、そんなーっ!
「や――やだ、やだ、火あぶりなんかやだーっ! 放せっ、ジゼルは悪いことなんかしてない! ねこなのーっ、魔物の手先じゃない!」
ジゼル、恐怖にかられて絶叫《ぜっきょう》する。たじろぐ兵士。
「こ、こいつ、喋《しゃべ》るぞ!」
「気をつけろ、魔法《まほう》かもしれん!」
なにが魔法だ、この野蛮人っ。なつめ、なつめ、助けて!
暴《あば》れても暴れても、網はぐにゃぐにゃと絡《から》まるばかり。爪《つめ》を立てても切れない。どっと体力が消耗《しょうもう》する。あのいんちきな注射の効力が残っている。それでももがかずには、叫ばずにはいられない。
三重円の中心に据《す》えられた太い棒。夜に浮かぶ同心円の発光は、蛍光《けいこう》塗料《とりょう》? そして、円の中心と等しい重心を持つ、二つの三角が描く六芒形《ろくぼうけい》は、赤。その周りに、得体《えたい》の知れない幾何学線《きかがくせん》。そして、素焼《すや》きの皿が意味もなく放射状一列に並べられている。
これは、なんかの儀式《ぎしき》?
舞台《ぶたい》装置《そうち》に気を奪《うば》われ、ジゼルは自分の乗った網が棒の先端にくくりつけられるまで、声を上げるのを忘れていた。
「神官《しんかん》を!」
ぞろぞろと、白銀の絹布に身を包み、緋色《ひいろ》の面布《めんぷ》をつけた人間が、行列をなして兵隊の輪を割って広場に入ってきた。神官。この場の進行役だというのか。何人ぐらいだろう、一人、二人……ああ、そんな数を数える余裕《よゆう》なんかない!
兵士は引き下がって、代わりに神官たちがぐるりと陣《じん》に沿って囲む。
ええいっ、宗教が入り込んだ政治は自滅《じめつ》するのがオチなんだぞっ。
「誰《だれ》か、話のできる人を――外交官っ、連邦の人はいないの!? もーっ、人工知能が理解できる頭のいい人はいないの!」
やぶれかぶれになってジゼルは喚《わめ》いた。サイバネティックス規制もライフサイエンス法も、魔物《まもの》あぶりよりはるかにいいっ。インテリゲンチャを呼べって!
「なつめ、なつめ!」
儀式《ぎしき》はジゼルの声を全く無視して続く。ざざざかと妙な音が聞こえてきた。反射的に音のする回廊《かいろう》へ視線を投げると、幾人かの人夫が、柳《やなぎ》にさらにわさわさ葉を付けたような木の枝葉を、抱《かか》え切れないほど引き摺《ず》ってくる姿が見えた。不快な音は地面と葉々がこすれ合う音だったのだ。竹箒《たけぼうき》を引き摺っているよう。
一本一本、神官に配られる。うち一人がわけの判《わか》らぬ奇声を上げると、一斉《いっせい》に彼らは枝をかざし、誦経《ずきょう》しながら右左にリズムを取って振《ふ》り始めた。
なんだ、なんだ、なにかの儀式か?
「これへ、ディド・レオネ・ラ・ラメ」
抑揚《よくよう》のない、声ともただの音ともつかぬ中に、不意にジゼルに理解できる単語が飛び込んできた。ディド……ラ? 名前だ、えらく長い名前。なつめやアスラなんか苗字《みょうじ》もないっていうのに。
輪の一部が崩《くず》れる。現れたのは、四十半ばの太った女性に手を引かれた、十、十一歳の少年だった。明るい茶色の髪に、浅黒い肌《はだ》。周りからかわいいとちやほやされるタイプの顔立ちをしている。
だけど。
なんか、変。
どこか、変。
寝ていたところを起こされたのか、ぼんやりして、正体がないように足元が覚束《おぼつか》ない。その服、寝間着《ねまき》だろうけどその手の込んだ綾羅錦繍《りょうらきんしゅう》と、お付きの女性からいって、この子は身分の高い、王子かなんかだ。
女性が手を離して輪の外へ出ると、ペタンと少年、座り込む。
神官《しんかん》の一人が少年の前に立ち、枝をその頭にかざしてなにやら掃《は》く真似《まね》をした。なにをやっているのだろうと、危機感を忘れて覗《のぞ》き込んだジゼルを、神官いきなり面布の下から睨《にら》みつける。
「わわっ」
飛びずさったジゼル、網《あみ》の中で器用にもごろごろ回った。よく回転する日だ。
そんなジゼルに枝が突きつけられた。それを合図に他の神官ども、ざんざんと枝を振《ふ》り鳴らしながら、輪を縮めてくる。
来た!
「お願い、話を聞いて! 聞いて、ジゼルは……!」
ジゼルはエルシから来た猫だ。そう叫ぼうとして、一瞬《いっしゅん》早く気づく。ここは、E・R・Fグループを目の敵にしている星系。機械文明を放棄《ほうき》し、反重力システムさえ存在しないこの惑星《わくせい》とて、そうでないとは考えられない。それどころか、この調子じゃあグループのことも知らないかも!?
こうなったら、後は野となれ山となれ、連邦の大使のペットと言って……
「おやめ」
決して大きくはなかったが、良くとおる、張《は》りがあって響《ひび》きのよい女声が。誦経《ずきょう》がぴたりと止む。神官《しんかん》の妖《あや》しげな行動に見入っていた兵士や、宮殿のあちらこちらから顔を覗《のぞ》かせていた老若男女がざわめきだした。
「どきなさい」
[#挿絵(img/balance_096.jpg)入る]
柔《やわ》らかいけれど、完全な命令|口調《くちょう》。神官が潮のように退《ひ》いていく。
見たのは、王女だった。
一目で判《わか》る、この女性は王女、もしくは女王だ。ボーヴォールには国王が健在だ。王女、生まれた時からの上に立つ者、生まれ持った王者の天稟《てんぴん》。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――ジゼル、めったなことで天賦《てんぷ》とか生まれつきの才能なんて言葉は使うもんじゃないぞ。
[#ここで字下げ終わり]
アスラの言葉がよみがえる。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――そういうものの大抵《たいてい》は、環境が育成したものだ。努力なしに培《つちか》った能力は、環境、思い込み、つまりは人為的《じんいてき》なものの影響というわけだ。まあ、お前さんがそれを天賦と称したいのなら、それはそれでいいがな。
[#ここで字下げ終わり]
言語感覚はアスラのもなつめのも、ジゼルの感覚にぴったり一致していた。確かに、それを天賦《てんぷ》とはジゼルは呼ばないだろう。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――アスラは?
――俺《おれ》は、人為的影響と努力が半々。なつめは……
[#ここで字下げ終わり]
(……なつめは?)
今のは一体、いつ交わされた会話なのだろう。これは、記憶の思い出しなのだろうか。
なつめは……?
ジゼルは頭を振った。今はそんなことを考えている暇《ひま》はない。神官、兵士及び見物人の絶対|君臨者《くんりんしゃ》たる女性が、おもむろにジゼルに歩み寄ってきた。
きついウェーブのかかる明茶色の髪を長く下ろして、引き摺《ず》るほど裾《すそ》の広がったベージュの夜着をまとった彼女――年はどうだろう、アスラと一緒《いっしょ》、ちょっと上かもしれない。目は大きく、優しい面立《おもだ》ちだけれど毅然《きぜん》としている。王女の気品というのかな、甘《あま》やかされて育っただけのお嬢様では決してないだろう。側で居眠りをしている少年と面差《おもざ》しがそっくりだから、姉弟《きょうだい》であるのは間違《まちが》いない。
「ラージャ・ティラピア・ラーウル・ラメ」
先程から指導者的立場にある神官、どうやら祭司《さいし》というらしいが、そいつが長い名前で王女に呼び掛けた。はっきり言って、複雑《ふくざつ》で長ったらしい名前は流行の彼方《かなた》の代物《しろもの》である。
王女はにっこりと優雅《ゆうが》な笑みを作ると、
「心配は無用です。魔物の手先などとは可笑《おか》しくてよ。これは、ねこです。外の世界では普通《ふつう》の生き物、あなたがたはそれ位も判断《はんだん》できないのですね。困った人たちだこと」
穏《おだ》やかな物言いだが、反論を許さぬ威圧《いあつ》感がある。みんな、一斉《いっせい》に恐縮《きょうしゅく》してこうべを垂れた。すごい。これが封建《ほうけん》制度なんだ。しかも、彼女は次にこうフォローもした。
「それでも弟ディドを心配してのこと、このたびは免《めん》じましょう。このようなことが連邦の方に聞こえては醜聞《しゅうぶん》が立ちます。次からは勝手な真似《まね》はしないで下さいね」
「はっ」
一同、さらに深くこうべを垂れる。これでこいつらの面子《めんつ》が立っちゃった。うーん、この辺のさばき方は企業主義も王権主義も一緒なのか。
ぽかんとジゼルが繰《く》り広げられる場面を見ているうちに、網《あみ》は棒からはずされ、ジゼルは自由の身となった。王女がジゼルを見下ろす。助けてもらったものの、普通《ふつう》の猫が人語を喋《しゃべ》るわけないじゃないかと、ジゼル、警戒《けいかい》の目を緩《ゆる》めない。
不意に王女がにっこり微笑《ほほえ》んだ。でも、それはジゼルに対する友好ではなく、周りの者たちの不安を拭《ぬぐ》い去るための行為だ。
「これはわたくしが引き取りましょう」
「し、しかし、王女殿下……」
せっかくの獲物《えもの》を奪《うば》われての不満か、それともまだ魔物《まもの》の手先と信じて王女を気遣《きづか》ったか、誰かが彼女を止めかけた。しかし、
「皆の者、とく己《おのれ》の持ち場へお戻《もど》りなさい。ぐずぐずしていると、本物の魔物が現れるかもしれなくてよ」
こう言われては誰も反論することができなかった。すごすごと神官《しんかん》をはじめ、全員広場から引き下がっていく。とうとうその場で眠り込んでしまった弟王子も、侍女《じじょ》らしき女に抱《かか》え運ばれていった。
残ったのはジゼルと王女だけ。
勢いのなくなった篝《かが》り火が、ちろちろ弱く燃えている。
緊張《きんちょう》。
「うふふっ、緊張しているのが一目で分かるわ。私の名はラージャ・ティラピア・ラーウル・ラメ。このボーヴォール惑星《わくせい》王国の第一王女です。でも、あなたに敬称は求めなくてよ、よろしく」
ジゼルを見てくすくす笑うラージャ王女。あ、少女のような笑み。少し気が緩む。
この人なら頼《たよ》れるかもしれない。ジゼルが人語を喋ると知ったら態度が変わるかな。でも、彼女の言葉はちゃんと了解《りょうかい》しているような……
「あなたも心配は無用よ。私は連邦政府惑星ミレのデテール大学に在籍《ざいせき》した経験があります。あなたは人工知能体ね、こんな星だけれども、私自身は厭《いと》うことはなくてよ」
デテール大学。ジゼルの緊張は切れて、ぺたんとお尻《しり》をついた。あそこは連邦政府の指導者層養成機関の役割を果たしている。工科カレッジはE・R・Fコーポレーションの理研に迫るような実績の持ち主だ。
あー、良かったあ。インテリゲンチャだよお。どっとやってきた安堵《あんど》に、ジゼルは腰砕《こしくだ》け状態になりながら、ともかく、
「あ、ありがとう。もうダメかと思ってたんだ」
ジゼルの声を聞いて、王女、再びくすくす笑った。親しみの微笑。
「名前はジゼルっていうの。ラージャって呼んでも構わない?」
「誰も猫に非礼は問わなくてよ。でも、あなたは随分《ずいぶん》あけすけに話すのね」
そう応えて、ラージャは笑い続ける。一体、なにが可笑《おか》しいんだろう?
「ここは目立ちすぎるわ。私の部屋にいらっしゃい。お茶でも飲みながら、ジゼルの話を聞きましょう」
返事も待たずにラージャはジゼルを抱き上げた。『王女様』だね、本当に。
かくして、ジゼルはボーヴォール王国王女の客人と化したわけであるが、ちゃんとエルシに帰れるのかなあ。早く捜《さが》しにきてっ。
「不法|侵入罪《しんにゅうざい》よ」
猫に査証《ビザ》は下りないもんっ。
「動植物|検閲《けんえつ》法違反」
ジゼルは人工知能体だいっ。
「ボーヴォール惑星《わくせい》における、審議《しんぎ》された以外の精密機器の持込禁止令」
そっ、そんなの、ジゼルのせいじゃないやーいっ!
喚《わめ》いたところで、なにもかも無駄《むだ》だった。魔物《まもの》ではないと証明されたものの、喋《しゃべ》る猫、この惑星に存在すべき生物ではない。ジゼル、王女に弱みを握《にぎ》られてしまったのだ。
ラージャ王女の部屋に招かれたジゼルは、その豪華絢爛《ごうかけんらん》さに唖然《あぜん》とした。金銀をあしらった壁《かべ》の装飾《そうしょく》に、眩《まぶ》しくて目がちかちかする。こんな中でどうやって眠れるんだろうか? 出されたミルクの皿も金! ジゼルの感性はなつめと一緒《いっしょ》。シンプルイズベスト、悪趣味《あくしゅみ》過ぎるー。ベッドもテーブルもティポットも、果てはゴミバコさえ金・銀、なに考えてるんだ、この国の人は。
濃厚な生あったかいミルクを飲むと、先程までのできごとに興奮《こうふん》していたジゼルの心もだいぶ落ち着いてきた。大丈夫《だいじょうぶ》、死なない限りどうにかなるって。
この気楽さは、アスラの受け売り?
「落ち着いたようね」
自分は香り高いダークブラウンのお茶を飲んでいたラージャが椅子《いす》から立ち上がって、部屋の入り口に垂れた緞帳《どんちょう》の側でかしこまっている侍女《じじょ》たちをおっぱらった。そして、足の長い絨緞《じゅうたん》に座り込《こ》むジゼルに歩み寄って、
「さあ、言いなさい。あなた、なぜこの宮殿にきたの」
うっと喉《のど》が詰《つ》まる。言いなさいときたもんだ。これは問いかけというより、詰問《きつもん》だ。
「アルピア惑星で、兎《うさぎ》と間違《まちが》われて、気づいたらここに……」
思わず上擦《うわず》りながら説明するジゼル。慎重《しんちょう》に言葉を選ばなくては、その念が言葉を速くする。
「人工知能体はこの惑星には存在しない。入国も認めていない」
「だ、だから、ジゼルは麻酔《ますい》で気絶していたから」
「この星になんの目的があるの?」
「な、ない」
「正直におっしゃいなさい、あなたはどこから来たの[#「どこから来たの」に傍点]」
で。
でたーっ!
デイニの時も、いつ聞かれるか、いつ聞かれるか、常に緊張《きんちょう》してやまなかったフレーズ。
【どこから来た】。
エルシから。E・R・Fコーポレーションを筆頭《ひっとう》企業《きぎょう》とする、企業集合体惑星から。
なーんて、口が裂《さ》けても言えない!
「あー、えーっと、その、あそこ、ほらっ」
いっ、いけない。この場で既にジゼルは怪《あや》しい存在となっている。ラージャの怪訝《けげん》な面持《おもも》ち。そりゃあそうだ。自分の星の名を語るのに、口をついて出てこないなんて、自滅《じめつ》だあ。
「ほら、連邦の……」
ともかく、E・R・Fグループ関係からなるべく離れようと、後先関係なくつないだ言葉に、ジゼル、ピンッと閃《ひらめ》いた。
「ほ、ほら、あそこ。連邦政府のミレの近くの、アザリア星系|恒星《こうせい》シャノンの第六|惑星《わくせい》の衛星――五年前にテラフォーミングが開始されたばかりだから、まだ名前がないんだ。ラージャも知ってるでしょう、精神伝達物質がどうのこうのと騒がれて」
なんとか言葉を続ける。名前のないところを説明するのだから、言葉に詰まったってふしぎはないよね!
だが、おとなしそうな顔をして、ラージャは予想以上に鋭かった。
「その星で生まれたの」
うん。危《あや》うく頷《うなず》きそうになって、そんな開発し始めたばかりの星に、こんな高性能な人工知能体が創造《そうぞう》できるはずがないと一瞬《いっしゅん》早く気づき、焦《あせ》って首を横に振る。誘導《ゆうどう》尋問《じんもん》が巧《うま》い。でも、どうせラージャもサイバ機械としかジゼルを考えていないんだろうけれどね。
「う、ううん、生まれたのは、ミッ、ミレだよ」
「ミレの、何区域かしら」
し、しつこーいっ。ラージャの目がまともに見れない。自白を求められている罪人《ざいにん》の心地がする。ミレなんて言わなければよかった。落ち着け、落ち着け、理知的な判断《はんだん》をするんだ。
「ミ、ミレの」
「ミレの」
「デテール大学の工科カレッジ!」
としか、言い様がないじゃない? 生物学研究所だったらこんなところにいられるはずないし、政治目的があるもの。でも、叫んでから彼女がデテールに在籍《ざいせき》していたと語ったことを思い出し、まさか、工科じゃあないだろうなっ、と全身毛が逆立《さかだ》つまでに緊張《きんちょう》する。
いきなりジゼルが大声を出したことに驚いたのか、それとも嘘《うそ》がばれたか、しばしラージャはなにも言わずジゼルを見下ろしていたが、
「どうして、ミレからそんなへんぴな星へ?」
「あ……創造したプロフェッサーの一人が、調査団として派遣《はけん》されて、その人がマスターだったからジゼルも一緒《いっしょ》に……」
マスター。サイバノイドやサイバ機械なら人間のことをそう呼ぶ。絶対的な主従関係。
ジゼルは?
ジゼルとなつめの関係。飼《か》い主、飼い猫。そう。そうだったよね。それだけだよね。
頭の奥でなにかが呟《つぶや》いた。
〈そうだったっけ? なつめって、ジゼルにとってなんだっけ?〉
〈どうしてジゼルはなつめのところにいるんだっけ?〉
「ふうん。工科のねえ……」
ともかく、その場しのぎのジゼルの嘘を、どうにかラージャは信じてくれたようだ。自分の所属していた大学への信頼《しんらい》も効果あったらしい。同胞《どうほう》主義というのか、あれだ、出身が同じというだけで、むやみに応援したくなったりしてしまうような、愛国主義者の原点をつく奴《やつ》。
「あなた、スパイ?」
唐突《とうとつ》に唐突なことをラージャが尋ねたので、ジゼル、ぽかんとばかみたいに口を開けたままになってしまった。
「スパイ?」
おうむがえしに聞いてしまう。それからおもむろに首を振《ふ》った。唐突になにを言いだすのだか。
「そう。そうよね。こんな可愛《かわい》らしくてとぼけたねこをスパイにするほど、あそこは愚《おろ》かではないものね。良いわ、なんでもなくてよ」
「ふうん……?」
なにかいわくつきのラージャの言葉。猫のいない世界に猫なんか送ってもスパイになんかならないじゃない。そう口を尖《とが》らせるジゼルに、ラージャはころころ笑った。
「そうね。あなたはスパイには不向きだわ。なんの特技を持っているのかしらね」
「え?」
「サイバネティックス規制公文書は大学時代に呼んだわ。人倫《じんりん》が専攻だったから。サイバネティックス機械は産業目的を持たない限り製造をしてはならない。ね」
「産業、目的……?」
しばらく、頭の中が真っ白になるような感覚を得た。
「――新星|開拓《かいたく》の特殊物|捜索《そうさく》と、孤島状態の人間の緊迫《きんぱく》緩和《かんわ》」
自分でも抑揚《よくよう》のない、実に淡々《たんたん》とした声だった。どうせ、口からのでまかせだ。
産業目的? サイバ機械、即ち人工知能体は産業目的を持たない限り製造できない。
ジゼルは? ジゼルに産業目的なんかあるの? 思い出せない。あったのか、なかったのか、それとも忘れているのか。
サイバ機械。ジゼルは生体機械、でも人工知能も備《そな》えていて。
E・R・Fコーポレーションだから? 規制無視?
不意にジゼルが思い出したことがある。
ジゼルはどこから来た[#「どこから来た」に傍点]のか覚えていない。生まれ出たところを知らない。どうしてなつめのところに来ることになったのか、皆目判《かいもくわか》らない。
(……なつめ!)
「捜索能力? まあ、それはすばらしいことを聞いたわ」
ラージャが手を叩《たた》いた。その音でジゼル、我に帰る。王女の無邪気《むじゃき》な好奇心にキョトンとなって見返すと、
「あなたの捜索能力を買って、ぜひとも頼《たの》みたいことがあるのよ。ねえ、よろしいでしょう、引き受けて下さるわよね、ジゼル」
捜索能力? なんだそれ。問い返す前に、自分がこじつけた『産業目的』であると思い出し、ぎょっと後ずさる。
やばい。
これは、完璧《かんぺき》、やばい。
「あなたに捜してもらいたいものがあるの」
ジゼルにそんな能力あるわけないじゃない。オプションのレコーダーシステムしかないのに。しかないのに[#「しかないのに」に傍点]。
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ACT.4
次の日、ラージャ王女に連《つ》れられ、王宮に勤める者たちと顔合わせをしてまわった。これで、とりあえずは魔物《まもの》の使いだとかで追いかけ回されなくても済《す》むというわけである。
「……ねえ。ねえったら。ジーゼル」
その夜、王宮の回廊《かいろう》を一人ぼてぼてと歩いていたジゼルは、自分の名前を低く呼ぶ声に気づいた。こんなところに知り合いはいなかうたが、と怪訝《けげん》に思って、首を巡らす。
「ジゼル。上だってばさ。天井《てんじょう》」
促《うなが》されるまま天井を仰《あお》ぐと、沢山の灯籠《とうろう》の光に照らし出されたデイニの顔が、白亜《はくあ》の石の梁《はり》から窺《うかが》っていた。
「あっ、デイニ!」
「大きな声を出さないで。ジゼル、一人?」
「そうだよ。誰も周りにいない」
返事を聞くとデイニは飛び降りてきた。結構《けっこう》高い天井なのに、身軽だ――というか、落下速度が変だ、反重力システムを携帯《けいたい》しているんだな。デイニはどこの星の人なんだろう。
「こっちに」
着地と同時に、デイニ、ジゼルの首をひっつかむと、中庭の茂みの中に突っ込《こ》んだ。
「な、なにするのさ!」
「見つかったらやばいのよ」
「ジゼルはもう大丈夫《だいじょうぶ》なんだもん」
「私は一発で外国人とばれてしまう。無事《ぶじ》だったね、良かった」
親しみをこめてデイニが尋ねる。デイニ、ジゼルを追ってきてくれたのかな。
「でも、どうしてこんなところにいるの、デイニ」
「私も次の便で運ばれたのよ。最初からその予定だったから。ジゼルのことが気になってた。この星、ねこは存在しないからね。もう大丈夫って?」
なんだ、そういうことだったのか。少々がっくりしながらも、やっぱり誰かに気をかけてもらうって嬉《うれ》しい、などと考えるジゼル。そして、デイニの質問に手短く答える。
「ラージャ王女と仲良くなったの。彼女、ミレのデテール大学出身だから、人工知能体も平気なんだって」
「へえ。第一王女が味方についたのか。なら、百人力だね、彼女、この国で一番の人気者だから」
「うん。でもね、ギブアンドテイクなの」
「なにそれ」
「身の保全がギブ、王子|捜《さが》しがテイクなんだって」
憮然《ぶぜん》としてジゼルは言った。
ことは昨晩、このボーヴォール王家の第一王女、ラージャ・ティラピア・ラーウル・ラメによって、ジゼルが九死に一生を得たことより始まる。
国内不法|侵入《しんにゅう》、動植物|検閲《けんえつ》法違反、精密機器持込禁止令、追放令などなど、宗教がかっていない、ジゼルにも容易に判断《はんだん》できる事柄を羅列《られつ》し、おまけに『命の恩人』を振《ふ》られて、ジゼル、ラージャの依頼《いらい》を聞かざるをえなくなってしまった。おまけに、うそ八百の捜索能力がないと知れたら、今度こそ返答に行き詰《つ》まる。完全に。ジゼル、なつめほど切り返し巧《うま》くないし、アスラほどでたらめが口をついて出てこないもの。
王女の依頼《いらい》。弟王子を捜し出してほしい。
「弟。ボーヴォール王家には確か双子の王子がいたと思ったけど」
「うん。一人は昨日会った。ディド・レオネ・ラ・ラメ。捜してほしいのはディドの弟の、ミュセ・サ……サプ?」
「サプライ?」
「そうそう、ミュセ・サプライ・ラ・ラメだ。なんで知ってるの?」
「現国王のセカンドネームがそうなの。この国では子供が十になるとセカンドネームを与えるんだけれど、大抵は世継《よつ》ぎに父親と同じネームをあげるんだってさ」
「ふーん」
ジゼル、えらく納得《なっとく》してしまった。なつめたちは結婚すると姓――じゃあないな、家族・家系の名前じゃあないから。屋号? 称号かなあ――が、つくのだ。これはエルシ全体のではなく、なつめの家系のみでの風習だけれど、世の中似た風習はあるんだね。
「よく知ってるね」
「来る前に色々調べたから。全く見知らぬ星に乗り込むのに、無知蒙昧《むちもうまい》じゃ困るでしょ」
あはは、とデイニは笑う。デイニのことを以前|凛々《りり》しいと思ったけれど、笑いかたも豪快《ごうかい》な娘さんだった。
「で、その弟の方が消えてしまった。うーん、臭《にお》うわね」
「臭う? なにが」
「第一王位|継承者《けいしょうしゃ》の王子が忽然《こつぜん》と消えた。双子の兄はそのまま。となれば、これは兄王子を王位につかせたい奴《やつ》らの犯行に決定よ。単純明快ね、三文小説並み」
ふんふんと一人デイニは頷《うなず》く。つまり、お家|騒動《そうどう》というわけ。エルシでもよく聞かれる話だ。無論《むろん》、E・R・Fコーポレーションの会長の座には、今までそんな愚《おろ》かしいできごとは起こらなかったものねーっ、創業《そうぎょう》以来。
「それに、大体、そんなことなんでジゼルに頼《たの》むの?」
「そっ、それはっ……」
身から出た錆《さび》。情けなくて説明できないっ。ジゼルがどう答えたものやら焦《あせ》っていると、
「ジゼルが捜して見つかるなら、もうとっくの昔に誰かが見つけてるわよ。弟が行方不明《ゆくえふめい》になったのはいつのこと?」
「一か月くらい前って言ってた」
「おっかしーでしょ。いまさら、わざわざ。ということは、この話には裏があるか、もしくはジゼルでなくてはならない事情があるかだね」
「……デイニ、あの、実はね」
これ以上は隠《かく》しておけないと、情けなくてもばかばかしくてもラージャとの会話を全て説明するしかなかった。ついでに火あぶりにされかけたことも。ただ、秘密の研究室についてはジゼルもはっきり判《わか》らないので(実のところ、秘密かどうかも判らない)、黙っておくことにした。
はたして、ジゼルの話を聞き終えたデイニは、思いっきり爆笑《ばくしょう》してくれた。一体なんのために茂みの中に隠《かく》れているんだか。腹を抱《かか》えて笑っているぞ。もーうっ、そんなに笑わなくたっていいじゃないか。そりゃ、自分でもなかなかまぬけな展開だと思うけど。
「あ〜あ。生体機械のジゼルくん、見つけられる自信はあるかな?」
「全然ありませーん」
デイニの調子に乗って返事をしてから、肩の力が抜けてしまうジゼルだった。空《むな》しい。
「どうするの、ジゼル。逃げる? それだったら私、協力するけど」
「……デイニ、なにしにここに来たの?」
今度はジゼルが尋ねる番だった。デイニはちょっとひるんだように見えた。そして、ふっと淋《さび》しげな笑みを口元に浮かべると、
「そう、ね。言ってなかったね。私も人を捜《さが》しているの。突然いなくなってしまった人を」
そう意外なことを言ってのけたのだ。そんな、だったらジゼルに逃げるかなんて聞かないでよ。ラージャの心が解《わか》るんでしょう。ジゼルの心が解るんでしょう。
いつのことだったか。
いつのことだったか、なつめが消えてしまったことがあった。なんの足跡も残さず、霞《かすみ》のように。突然のことに、ジゼルは何度も何度もなつめを呼んだ。泣きながら本社のおとーさんを呼び出した。来たのはアスラで、すぐに戻《もど》ってくるから、そう宥《なだ》められても信じられなかった。
あれから? なつめへの不安を心に抱いたのは。.あの後? アスラの言う、こういうこと[#「こういうこと」に傍点]を始めたのは。
「いなくなってしまった人って、兄弟?」
「兄はいるけど。恋人よ」
照れた様子もなく、デイニは淡々《たんたん》と答えた。恋人。ジゼル、首を傾《かし》げる。
「……それって、逃げられたんじゃないの?」
「きついことを言う」
そう言ってデイニは苦笑した。だってそう考えるのが自然だもの。だてにジゼル、恋愛ドラマを見てないよ。でも、悪いことを言ったかな。デイニは気にしてないみたいだけど。
「そう、よね。それが自然な考え方だと思う。私もそうだと思うわ。でも、失礼じゃない? なにも言わず、なにも知らせず、急にいなくなるなんて。嫌いになったら嫌いになったではっきり言えばいい。私がそんなに諦《あきら》めの悪い女と思ってたのかしら。自分を想《おも》ってくれない男とつきあうなんて、私があまりにも惨《みじ》めだわ。すっぱり別れるわよ。どうしてそれが解らないのかな。はっきり言って、こんな風に消えられた方が迷惑《めいわく》だわ。新しい恋をするのに躊躇《ちゅうちょ》するじゃない。私、曖昧《あいまい》なの嫌いなのね。ジゼルもそう思うでしょう」
そこまで一気にまくしたてて、いきなりジゼルに振《ふ》られても、だ。デイニの迫力に圧倒されて、ジゼルは唖然《あぜん》としていた。こういうのを凛々《りり》しいというのか、負けず嫌いというのか。
「……もしかして、デイニ、その恋人を見つけて、別れの言葉を吐かせようとして、わざわざ外国まで?」
「そうよ。あの人の部屋にボーヴォール惑星《わくせい》の資料があったから。王家の資料もね」
けろりとした面持《おもも》ちでデイニは頷《うなず》く。デイニ、逞《たくま》しい! 一見大人しそうなラージャといい、女性は凛々しい人が多い。なつめだって、アスラに負けたことないものね。
「じゃあ、その人のこと、もう好きじゃないの?」
ジゼルがそう尋ねると、デイニはすぐには返答しなかった。困ったような苦笑いを浮かべて、小首を傾《かし》げ考え込《こ》み、
「会ってから決めるわ」
「どうして?」
デイニは笑って答えなかった。ジゼル、今好きかどうか聞いたのに、会った時のことなんか聞いてないのに。変なの。
「ともかくさあ、デイニもこの王宮で恋人を捜《さが》さなければならないんなら、ジゼルと一緒《いっしょ》にやらない? こそこそ捜すよりいいと思うけど」
「こそこそやらなきゃまた逃げられちゃうでしょ」
「あ、そっか」
「でも、付き合ってもいいわよ。夜だけなら目立たないし」
そう、この宮殿は比較的明るいけれど、それでも人工灯をほとんど使用していないので夜はうすら暗いのである。外なんか真っ暗闇《くらやみ》だ。
「ほんと?」
「私もジゼルの能力にお世話になりたいからね」
「うーん。そればかりは御期待にそえられないなあ」
二人して茂みの中でけらけら笑った。宮殿での危険は去ったし、この星を出る手段も、デイニがいてくれればどうにかなるだろう。ようやく心から安心できる状態になったわけである。あとはココリさんの連絡《れんらく》で、なつめ――アスラが上手《うま》くジゼルを見つけだすのを待って……
「ねえ、この星に星間通話機ないかな」
「宇宙港《うちゅうこう》とか国王の部屋にあるんじゃない? あと大使館とか」
ラージャの部屋にあったかなあ。でも、通話先がばれたら困るし。
「…………」
デイニが怪訝《けげん》な顔してジゼルを覗《のぞ》き込む。まあ、そのうちどうにかなるということで――と、自分でも安易《あんい》だと思うジゼルだった。
すらりと背の高いデイニを、どうやってごまかして連《つ》れ歩くか。その問題はジゼルが化粧室《けしょうしつ》を見つけたことであっさりと解決してしまった。
まだ見かけたこともない王様の私室がある本殿では、日ごと夜ごとになにかの宴会《えんかい》がある。初めてこの王宮に来た時、この騒ぎを見てなんらかの記念日かなんかかと思ったら、別に確たる趣旨《しゅし》はないらしい。建物の此処彼処《ここかしこ》で宴会は催《もよお》され、そのどれもが一つ一つ全然違う人が主催《しゅさい》しているそうな。なんでかなー、と疑問に思ってデイニに尋ねたら、
「この王宮には色々な貴族が住んでいるのよ。無論《むろん》、外にも屋敷を持ってるんだけれどね、ここにいた方がのけ者にされないじゃない。そいつらがみんな勝手に宴《うたげ》を開いているからよ。毎日、毎日、宴会ずくし。他にすることがないしね」
「ふう……ん、働かないのかなあ」
ジゼル、とっても忙しいおとーさん、おかーさんを思い出した。忙しくて娘の顔もろくに見れない毎日だけども、仕事が楽しい、そんな表情をしていた。遊びながら仕事をしているって感じ。暇《ひま》だから馬鹿騒ぎをするっていうのは邪道《じゃどう》だな、忙しい合間にこそ、どんちゃん騒ぎをするべきなんだ――っていうのは、企業《きぎょう》主義者の偏見《へんけん》だろうか。
ともかく、そんな宴会《えんかい》好きなボーヴォール貴族の皆さんのために、王宮の一角にゴージャスな化粧室《けしょうしつ》、衣装《いしょう》室が設《もう》けられていたのだ。
デイニにボーヴォール人らしい化粧を施《ほどこ》させて、まあ『仮装《かそう》大会に出ている娘』ぐらいに化《ば》けてもらった。ぴちりとした服からだぼだぼの民族衣装に着替えて、デイニは少々居心地悪そうだったが、夜中の探偵団《たんていだん》を始めてはや三日、なかなかさまになってきた。
デイニの言うとおり、この宮殿をよく知っている人々が一か月間ずーっと捜《さが》してきたものを、どうしてジゼルに捜し当てることが可能というのだろう。泣けてくる。本当にどうにかなるのかなあ。だんだん悠長《ゆうちょう》に構えていられなくなってきたぞ。
なつめに会いたい。畳の上で寝たい。ラージャの貸してくれた部屋(猫にあんな豪華《ごうか》な部屋を貸すなんて、この星の人って感覚がヘン!)はふかふかのベッドだけれど、石の床《ゆか》は冷たくて歩きにくいよう。
回廊《かいろう》の曲がり角で、ばったりと出会った洗濯《せんたく》かごを抱えたおばさんが、魔物《まもの》の使いと金髪《きんぱつ》碧眼《へきがん》を見てぎょっとなり、かごを取り落としてしまった。すぐにデイニが拾って渡すが、礼も言わず、あたふたと逃げるように去ってしまった。しかし、なんで今頃洗濯なの?
会う人会う人、みーんなこんな調子である。夜に行動してくれとラージャに言い渡された時、始めはその方が敵もしっぽを出しやすいから、そのためかと思っていた。が、実のところ、なるべく人目につかないよう、宮中の人々をむやみに不安がらせぬ配慮《はいりょ》だったのだ。でも、夜だけ歩くというのは、逆効果の気もしないでもない。うん。
そして、三日目にして、ようやくジゼルの部屋、ラージャの部屋、殿舎《でんしゃ》殿舎の配置、その回廊への道、などといったものぐらいの配置図が頭に描き収まった頃、宮殿内部の人間関係図も判《わか》ってきた。どうして判ったって? だって、この宮殿、扉《とびら》がないんだもん!
デイニの推測どおり、双子の王子を巡って対立が生じているらしい。といっても、弟のミュセを担《かつ》ぐ一派が圧倒的優位で、兄ディドの一派は歯牙《しが》にもかけられなかったのだけれども、ミュセ王子の失踪《しっそう》より、兄王子を担ぐ一派が幅《はば》をきかし始めている。これが概略《がいりゃく》だ。
「ま、失踪ていうよりも、誘拐《ゆうかい》でしょ。十歳の子供に失踪なんてね。家出かな」
デイニがけらけら笑いながら言う。ジゼルは首を傾《かし》げた。
「うーん。でも、なんかさ、妙だよね」
「そうね。こういう状況《じょうきょう》なら、もっとディド王子の派閥《はばつ》が顔をきかしてもいいわね。でも、ディド王子のことを話す人は浮かない顔だし、寝返る人もほとんどいないみたいだし。大体、当人の王子が全然姿を現さないんだから」
[#挿絵(img/balance_122.jpg)入る]
「子供だからじゃない。ジゼルが妙だと思うのは、どうして弟王子の方が第一|継承者《けいしょうしゃ》なの? 二十三歳のラージャもいるのに」
なにをいまさら、といった感じでデイニがジゼルを見下ろした。最初、ジゼルは疑問に思わなかったけれど、能力がある方が順番なんて関係ない、と思ってたけれど、噂《うわさ》を聞く限り、ミュセ王子は知能の方は平々凡々、器量もまあまあ、カリスマ性でもあるかと思いきや、それはラージャ王女の方に当てはまる、みたい。じゃあ、なんで? ディド王子はともかく、才色《さいしょく》兼備《けんび》、頭脳|明晰《めいせき》のラージャを押しのけてまで。
「この星では男子優勢なのよ。王子のいる限り、ラージャ王女にどれだけ人気があっても、王位には就《つ》けないの。双子の優位関係はねえ、きっと生まれた順が弟の方が先だったんじゃないかな。そういう風習はよくあるわ。忌払《いみばら》いかなんかで」
「ややこしいんだねえ」
融通《ゆうずう》がきかないと、企業《きぎょう》だったら潰《つぶ》れているところだ。この、しきたりにがんじがらめになって、大きなものを失うことに気づかない、それが封建《ほうけん》社会の特徴の一つだろう。世襲《せしゅう》はとりわけ選択範囲が狭《せま》いのだから、順番にこだわるなんてばかげている。
世襲。大体、公的なものに世襲化を導入《どうにゅう》するなんて、どう考えてもおかしい。だから、人類文明は没落《ぼつらく》しつつあるんだ。ミレでさえ、連邦政府内さえ世襲化が進んでいるっていうのだから、世も末だ。企業とは違うんだから。
「ジゼル、なんか人間くさいわねえ。人工知能ってここまでプログラムされていいんだっけ?」
眉《まゆ》をひそめてデイニがジゼルを覗《のぞ》き込《こ》んだ。慌《あわ》てて、
「い、いいに決まってるじゃない。ジゼルはなつめの心の友として創《つく》られたんだから」
「ナツメ? それがジゼルのご主人さま?」
「そうだよ。あはははは!」
我ながらぎこちない、乾《かわ》いた笑いを思いっきり飛ばす。なつめ、なんて変わっている名前だから、E・R・Fコーポレーションの娘ということがばれてしまうかもしれない。そう焦燥《しょうそう》にかられての笑いだった。デイニがどこの出身でE・R・Fにどんな感情を持っているか判《わか》らない今、ばれるわけにはいかない。
ジゼルの笑いにつられてか、デイニもあははと笑い出した。よくこんな味もない笑いにつられるなと、デイニを振《ふ》り仰《あお》いでぎょっとなる。
仰いで見るデイニの口もとは、ぴたりと唇《くちびる》が閉じていた。人間よりはるかに敏感《びんかん》なジゼルの聴力《ちょうりょく》は、今もなお、あはは、あははと笑い声を。
「! 幻聴《げんちょう》が聞こえる!」
「待って、私にも聞こえる。笑い声でしょ」
デイニの緊迫《きんぱく》した問いに、何度も頷《うなず》くジゼル。
その笑い声は宴会《えんかい》によるものとは異なっていた。享楽《きょうらく》に耽《ふけ》る人々が、あんな金切り声で、まるで歌劇のような笑い方をするだろうか。第一、この宮殿は騒がしいところはとても騒がしいけれど、静かなところはとことん静かだ。ジゼルたちが歩き回るところは貴族の部屋の並ぶ中であるはずがなく、本殿の外れの方で、宴《うたげ》の喧騒《けんそう》は遠く小さく……
「か、歌劇団の演習かな?」
「そんなもの、どこにいるのよっ」
「聞こえてくる方って、深殿だよね」
「後宮《こうきゅう》っていうの」
「やだなあ。耳に触《さわ》る笑い方だなあ。耳に残りそうだよ」
「ええ。あれじゃあ、まるで、気のふれた――」
デイニがそこまで言うと、二人、顔を見合わせた。考えついたことが一致したらしい。
「子供の笑い声だよね」
「王子を誘拐《ゆうかい》して、王位に就《つ》けなくなるよう」
「頭ん中、ぐちゃぐちゃに引っ掻《か》き回す……て?」
秘密の研究室。
「うひゃあああ」
あまりにエグいことを想像《そうぞう》したので、脳裏《のうり》に浮かんだ手術光景にデイニと一緒《いっしょ》に身震《みぶる》いをする。
「気色悪ーい」
「もおー、冗談《じょうだん》じゃないよお。やめよう、そういうの考えるの。誰かが宴会《えんかい》の余興《よきょう》でやってるんだよ、ばかみたい。行こ行こ」
君子《くんし》、危《あや》うきに近寄らず。ジゼル、くるりと反転して、さっさとその場を立ち去ることにした。デイニは佇んだまま、暗い廊下《ろうか》の向こうを凝視《ぎょうし》している。
「デイニーっ、外の方、見に行こうよーっ」
ところが。
どうして。
あの笑いは、けーっして余興なんぞではなかったのだ。
夜な夜な、微《かす》かに聞こえてくる哄笑《こうしょう》。意識しだすと、今まで気づきもしなかった時間、場所でも、それは確認できた。移動しているのか遠ざかったり近づいたり。不意に止んだり突発的に始まったり。
ジゼル、怪談《かいだん》はだいっきらいなんだーっ!
「あはは、猫は怪談に登場する方だからねえ」
「デイニ、顔が引きつっている」
軽口を叩《たた》くデイニの声も、いまいち凛々《りり》しさを欠く。どうやら二人とも、怪奇談には弱いらしく、むやみに近寄るのは得策《とくさく》じゃないね、と意見が一致した。無論《むろん》、正体を突き止めたいという好奇心はあったけれども。
「……ったく、灯台|下《もと》暗《くら》しなんてラージャが言ったけれど、幽霊《ゆうれい》が出るなんて聞いてないぞ」
ぶつぶつ文句を呟きながらも、ジゼルは七日目の探索《たんさく》活動を終え、部屋に戻ってきた。デイニは使われていない部屋に潜《もぐ》り込んでいる。
七日も経《た》ったのに、どうしてなんの連絡《れんらく》もこないんだろう。E・R・Fの技術だったら、もう割り出されていてもいいんだけれどなあ。やっぱり、アスラの言うとおり、ココリさんは当てにならない。待てよ、これぞとばかりにアスラが意地悪心起こして、迎えに来ない気か?
空が明けかかっている。真っ青だ。これから紫に彩《いろど》られていくのだろう。本日も、晴れ。
空が白んでくる頃《ころ》には、もう笑い声は聞こえない。あの笑い声は、しかし、なんなんだろう。他の宮中の人は知っているのかなあ。
そう考えていると、タイミングいいことに、夜食というか朝食前の一服というか、眠る前にミルクをいつも運んでくれるおばさんがやってきた。もう一週間にもなるので、おばさんはジゼルを魔物《まもの》の使いではなく、ごく普通《ふつう》の一つの生物として見てくれる。これはひとえに、彼女のラージャ王女への信頼《しんらい》のたまものであろう。ジゼルを初めて見て震えたこのおばさん、ラージャの『怖《こわ》がることないわ、これは猫という生物で、鳥や犬と同じなのよ。私の小さなお客様だから丁重《ていちょう》にね』という言葉で、ころりと態度が変わってしまったのだ。
「ジゼルちゃん、ここに置くわよ」
「ありがとー、マーヒ」
しかし、鳥や犬と同じで、自分たちと同じ言語を話せるということを疑問に思わないのだから、ふしぎだよなあ。科学的|根拠《こんきょ》を追及する概念《がいねん》がないのかな?
ぱたぱたとそこらの片づけと整頓をしているマーヒに、温かいミルクを飲みながらジゼルは話しかけた。
「ねえ、マーヒ。魔物《まもの》っているの?」
「いますとも。悪《あ》しき考えを持つ者は、魔物にしか分からない、魔物の大好きな臭《にお》いをまき散らすんですよ。それに乗って魔物は飛来してくるの。全《まった》く、誰のせいなのやら」
小太りでいかにも人が良さそうなマーヒは、今度のミュセ王子の失踪《しっそう》は魔物のせいだと強調した。弟王子がたに較《くら》べれば、ラージャ王女様は容姿《ようし》端麗《たんれい》、頭脳|明晰《めいせき》、留学の経験から外国要人との交流も広い。完璧《かんぺき》なお方よ、そう口癖《くちぐせ》のようにジゼルに言う。今、ラージヤは二十三歳。双子の王子が生まれる十年前までは、彼女が王位|継承者《けいしょうしゃ》で満場一致で決定、立太さえ行われていたのだ。
「姫様は王太女を下ろされたことを恨《うら》みもせず、弟様がたを亡《な》くなられた妃殿下の代りにお可愛《かわい》がりになられていたんですよ。ミュセ様のことでもそれは心はりさけんばかりのお悲しみようで……」
だって。美しき姉弟愛だあ。なつめとアスラの兄妹愛はどうだろう。こんな美談は成立するかしらん。そういえば、デイニもお兄さんがいるって言ってたっけ。
「その姫様を掴《つか》まえて、ミュセ様のことは位を下ろされた王女の復讐《ふくしゅう》だなどと言いたてる輩《やから》がいて、もう、私は悔《くや》しいやら腹がたつやら、情けなくて涙が出て」
拳《こぶし》を握《にぎ》り締《し》めて、マーヒはそうも言った。へえ、そんな噂《うわさ》は聞かなかったな。色々な説が流布《るふ》しているみたいだけれど、ラージャが悪く言われる話は初めて聞いた。
「大丈夫だよ、そんなことあるなら、ジゼルに捜索《そうさく》を頼《たの》んだりしないじゃない。弟|想《おも》いなんだね、ラージャは」
「そう、そう思うでしょう、ジゼルちゃん。マーヒ、嬉《うれ》しいわ」
踊りだしかねない勢いで喜々として言うマーヒ。どうもジゼルが尋ねたい方向から話がずれているので慌《あわ》てて修正にかかる。
「ねえ、じゃあさ、幽霊《ゆうれい》って信じる?」
「信じますよ。魔物と幽霊は違うものですけれどね」
「じゃあ」
ここで核心《かくしん》に入る。
「この宮殿、幽霊出るの?」
ぴたりとマーヒの、クッションをはたいていた手が停《と》まる。きたきたっ。
「へーんな笑い声が聞こえるんだよう。なーんか、気持ち悪い声でさあ。ねえ」
「し、知りませんよっ、そんな声、聞いたこともないわ」
「でもお」
「さあ、子供は早く寝なさい。目が覚めたらいつものようにラージャ様のお部屋に上がってちょうだいね」
なにかを隠《かく》してマーヒは慌ただしげに言い渡すと、そそくさ銀盆《ぎんぼん》を抱えて出ていった。
……なにか、ある。
どうも、単なる怪奇話《かいきばなし》ではなさそうだな。
ジゼル、決心したぞ。
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ACT.5
草木も眠る丑《うし》三つどき(この星の一日はエルシ感覚で二十二時間強だけれども)。
今日こそは幽霊《ゆうれい》の正体を突き止めてやるぞ、と決心したジゼル、デイニが現れるのを待って、早々に後宮《こうきゅう》に向かって歩き出した。
「? どこに行くの、ジゼル」
「幽霊の正体あばくんだい」
ジゼルの固い決心の声で、デイニは立ち止まってしまう。
「ねえ、近寄るのはやめたんじゃないの?」
「ジゼルは事実を知ってないと気がすまないの!」
レコーダーとして、ジゼルの好奇心は恐怖心《きょうふしん》に打ち勝ってしまったのだ。あのマーヒの態度、絶対なにか裏がある!
「ねえ、やめようよ!」
「じゃあデイニはそこにいたら。ジゼルは一人でも行くっ」
デイニを後目《しりめ》に、黙々《もくもく》とジゼルは進み続ける。デイニ、その場で逡巡《しゅんじゅん》していたが、
「私、後宮の外の方、見てくるね!」
すたこらさっさと逃げてしまった。まさか、本当に行ってしまうなんて考えてもいなかったので、えーっと不満の声を上げても既に本人は消えている。
デイニの消え去った薄暗い廊下《ろうか》をじっと眺《なが》めて、
「……い、いいやいっ。デイニなんかいなくたって、ジゼル一人でだって白黒つけられるやいっ」
つ、強がりなんかじゃあないもんっ。うん、武者震《むしゃぶる》いもしてきたぞ。頑張《がんば》れ、ジゼル!
後宮に入ると、そこはしーんと静まりかえっていた。ここには宴会《えんかい》の喧騒《けんそう》はない。みんな寝ているか、でっぱらっているか、どちらかだ。
後宮とは、字のごとく本殿の後ろに築かれた建物である。中には国王の御婦人がたが住んでいるそうで(一夫多妻制なんだって。男余りの世の中で、なあに考えているのだか!)、全体的にひっそりとして暗い雰囲気《ふんいき》がある。まあ、こんな広い建物に八人の妻だけが住んでいるわけはなく、その他の侍女《じじょ》や女の召使さんも同居しているとか。つまり、貴族以外の宮中に住む女性のほとんどがここで寝起きしているそうだ。ラージャは王女様なので、国王と一緒《いっしょ》の建物だ。
扉《とびら》の代わりの緞帳《どんちょう》が、暗闇《くらやみ》の向こうまで並んでいる。その一つ一つの中に人の気配《けはい》を感じとることはできない。重く暗く垂《た》れ下がり、あたかも本物の扉のよう。
ジゼルのぱた、ぱた、という足音だけがぶきみに廊下に反響《はんきょう》する。音を立てないつもりなのに。高い天井《てんじょう》、広い廊下。声一つしない。本当に誰もいないのだろうか。
「きゃーっ!」
「うわわあっ!」
突然の悲鳴《ひめい》に、ジゼル、飛び上がって仰天《ぎょうてん》した。あー、びっくりした、びっくりしたあ!
「きゃーっ、きゃーっ、きゃあーい」
悲鳴は、どうやら驚愕《きょうがく》による発声ではなく、享楽《きょうらく》によるものらしい。ま、紛らわしい。
「きゃあ、きゃあははは、きゃはは、あははは!」
いつもの笑い声!?
しかも、近い。
「…………」
一瞬《いっしゅん》、躊躇《ちゅうちょ》してから、一歩|踏《ふ》み出す。先程の驚《おどろ》きのせいかなんのせいか、心臓がどきどきしていた。
「あははははは!」
どきん。どきん。い、いやだなあ、妙に反響《はんきょう》しちゃって。怖《こわ》いな――い、いいやっ、あれは幽霊《ゆうれい》でもお化けでもなんでもないんだ。マーヒの慌《あわ》てよう、あれが証拠《しょうこ》。
それしか頼《たよ》るものがない……? だめだっ、こんな弱気は。
ふと気づくと、笑い声が消えてしまっていた。お、おやあ、これではどちらに進んでいいのか判《わか》らないじゃないか。し――しかたないなあ、今晩はここで打ち切りにしようかな。うん、無駄《むだ》な体力の消耗《しょうもう》はいけない、いけない。
すみやかに適切な判断《はんだん》を下すと、ジゼルは部屋に帰るよう、回れ右をした。した、その視界の隅《すみ》に。
白いもの。
え!?
おもむろに振り返る。廊下《ろうか》の彼方《かなた》、暗闇《くらやみ》と溶けあったそこに、白い、ぼんやりとしたものが浮かび上がっていた。
ぼわっと輪郭《りんかく》のぼやけた白いもの。
ジゼルの視力は夜闇《よやみ》でこそ、その能力を発揮する。夜行性の猫として、またレコーダーとして、ジゼルは三十メートルほど向こうの廊下に、ぼわっと浮かんだ代物《しろもの》の形を、くっきり判別できてしまった。
白い、蒼白《そうはく》といっていいほどに生《なま》っちろい肌《はだ》の、十歳の少年。
ラージャ王女に渡された写真と同じ、弟王子ミュセ・サプライ・ラ・ラメの顔!
ボーヴォール人は浅黒い肌である。→白い肌をしている。→死人の肌。
ジゼル、理知的な解釈《かいしゃく》によってそこへたどりついた時は、腰《こし》が抜《ぬ》けてその場に座り込《こ》んでしまっていた。あああ。そうだ。様々な憶測《おくそく》が飛んでいても、もしミュセ王子が本当に邪魔《じゃま》だったら、既に亡《な》き者にされているのが常道じゃあないか!
「んふふふ、ふふふ」
わ、笑い方が変わった!?
わーん、ジゼルにとり憑《つ》いたってメリットはなんにもないよう。自分の星の奴に憑いてくれっ。大体、猫にとり憑く人間の幽霊なんて聞いたことないぞ! それに、ジゼルは生体機械なんだぞ、居心地が普通《ふつう》とは違うぞ!
と、ジゼルは叫びたかった。
が、ご自慢の人工声帯が萎縮《いしゅく》して、息しか洩《も》れて出てこない。
「ふふ、うわあーいっ」
王子が暗闇《くらやみ》に溶《と》け込《こ》む身体をぴらぴらさせて、ジゼルに向かって走り出した!
「ひゃああ! 助けて!」
詰《つ》まっていた声が堰《せき》を切って飛び出るのと同時に、ジゼルの身体はひらりと宙《ちゅう》を飛んだ。
この時ほど、ジゼル、自分が猫であることを感謝したことはない。なんて身軽。なんてすばやい。あっという間に幽霊《ゆうれい》を引き離す。
でも、幽霊ならいくら引き離したところで、神出鬼没《しんしゅつきぼつ》。
「ひゃああっ、誰か助けてええ!」
幽霊は明るいところと人込みには現れないのが相場。
ジゼル、振り返りもせず、脇目《わきめ》もふらず、走って走って、走りまくって、後宮《こうきゅう》を飛び出、本殿に飛び込み、灯籠《とうろう》が光の切れ目なく並ぶ明るい廊下《ろうか》を抜け、自分の部屋に飛び込んだ。
どこかの宴会《えんかい》の音が聞こえてくる。本当ならあの輪に入りたい。でも、入ったら入ったで、今度はこっちが恐怖《きょうふ》の的になってしまう。なかなか払拭《ふっしょく》できない、魔物《まもの》の使いのイメージ。
本殿は常に明るい。人のいないところさえ明かりだけは皓々《こうこう》と照っている。薄暗い後宮と違って、幽霊も来たがらないはずだ。もう大丈夫《だいじょうぶ》。
「…………」
お、落ち着かない。ジゼルはさらにベッドに飛び込んだ。布団《ふとん》の中にもぐり込んで丸くなる。いやだなあ。たたりとかないよね。幽霊を見たら三日後に死にます、とか。いや、それならば後宮の人々が次々と死んでいる。
ひーんっ、魔物だの幽霊だの、なんなんだこの宮殿は。なつめー、なつめえーっ。
(……魔物?)
ふと、ジゼルの脳裏《のうり》に、一週間前の火あぶり事件のことがよみがえった。あそこにいたのは双子の兄のディド王子。あの時、ラージャはなんと言っていた? 弟ディドを心配しての、と。
魔物《まもの》憑《つ》き。そのワンフレーズが実に鮮《あざ》やかに現れて消えた。魔物憑き、魔物退治。
今のは、ディド王子の方? そう考えるべきだろうか。ミュセ王子の幽霊ならば、捜索《そうさく》する必要もない。そう、そうだ。だからディド派の人間は強く推せないんだ。魔物にとり憑かれている王子では、王として不適任。
でも、魔物なんて本当に居るのだろうか。この星のことは全《まった》く知らない。病気? それではあの顔の白さは説明できない。この前、広場で見た時は、暗かったし篝《かが》り火で赤く照らされていたが、ごく一般的なボーヴォール人の肌色《はだいろ》だった。それに、よく考えてみれば、あの幽霊、髪《かみ》の毛も白くなかった!?
ガチャン。
突然、金物の音。入り口の側に立てられていた香台が倒れたらしい。
あんな土台のしっかりしたものが風で吹き倒されるわけがない!
「んふふ、んふふふふ」
含んだ笑い声。ジゼルの顔面の血が引いていく。あの声だ。幽霊。
ディドか、ミュセか。ディドだったら魔物《まもの》憑《つ》き。ミュセだったら本物の幽霊《ゆうれい》。
ディドかミュセか。魔物か幽霊か。
ええいっ、考えていても詮《せん》なきことだ!
ジゼル、勢いよく羽毛布団《うもうぶとん》をはねのけた。足場を得るため床《ゆか》に下り、きっと構える。
鬼《おに》が出るか、蛇《じゃ》が出るか。
「あー、見つけたあ」
しかしながら。
「ねーね。ねーね、見つけたの」
期待に反して、それは声がわりしていない少年の、異様《いよう》にあどけなく甘ったるい声だった。唖然《あぜん》としてまなこを開くジゼルの双眸《そうぼう》に映ったのは、白い、血管が透《す》けて見えるほどに白い肌《はだ》に、人形みたいな白い髪、そして色素が抜けて血管の色をした瞳《ひとみ》を持つ、双子の王子の片割れだった。
これは。この特徴は……
色素《しきそ》細胞《さいぼう》の異常。本社の人事部にも同じ症状《しょうじょう》を持つ人がいた。日の光が眩《まぶ》しくて、カラーコンタクトレンズが手放せないと言っていた。夏離宮《なつりきゅう》に来たことがある。
魔物憑きでも幽霊でもない。
「ディ――ディド?」
なぜ、残された王子の名が出てきたのか。目だ。とろんとした、正体のはっきりしない目。どこか変だと考えていた。なにか変だと感じていた。この目だ。
「ディド。ディドだよ。ねーね、ねーね」
息を呑《の》んだジゼルに、ディド王子は頑是《がんぜ》ない子供の、こまっしゃくれた最近の子供には見られない笑い、赤ん坊のような無邪気《むじゃき》な笑いを見せて、近寄ってきた。
「ねーね、見ーつけた。ねーね、遊ぶ。ディドどあそぼ」
少年の手がジゼルに触《ふ》れる。反射的にひるむ。
あ。しまった。拒絶《きょぜつ》してしまった。差別してしまった。
見る見る間にディドの表情が崩《くず》れる。ひっく、ひっく、としゃくり上げて、ぼろぼろと声も出さずに泣き出してしまった。ジゼルを後悔の嵐が襲《おそ》う。
どうしよう。どうしようーっ。子供を泣かしてしまった。わーっ、ジゼルってば、なんてことをっ。
うろたえるジゼル。悪気があったわけじゃあない。ただ、びっくりしただけなんだ。ちょっと怖《こわ》かっただけなんだ。――わーんっ、エゴイズムだっ。こんな子供を傷つけてしまった。ジゼルのばかーっ。
大体、本社の人の時はそんな拒絶しなかったのに。おとーさんが説明したから? アスラと一緒《いっしょ》だったから? 文明人だったから? おかしくなかったから?
なんにせよ、この子ではそういう態度をとってしまった。
もう、取り返しがつかない。信用を失った。傷つけた。
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――あー、これはだめだな。どうしようもないばかだな。
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(アスラの声?)
そうだ。あれは、アスラがテレビに向かって文句を言っていたところへ、部屋に入った時の会話。あれは、いつのことだったか。
「またあ、テレビに向かって文句言ってる。変だよ、それ」
そうジゼルが冷たい目で言うと、アスラはからから笑って応えた。
「知性があり余っているのでね。まあ、見てみ、このドラマ」
「……ふつーの不倫《ふりん》モノでしょう。あ、女の人、怒っていっちゃった。どうしたの?」
「ことの展開はこうだ。最近、恋人の様子がよそよそしい。そう感じていた女は、ある日こっそり恋人の後をつけていった。すると、男はホテルに入り、別の女と待ち合わせをして、部屋へ向かっていった。女は部屋へ乗り込み、一方的にさんざん責めたて、『言い訳《わけ》なんか聞きたくないっ!』と叫んで出ていってしまう」
「それがどうしたっていうの」
「この女はどうしようもないばかというんだ」
「なんで? 恋人が浮気《うわき》してたら誰だって怒ると思うけど」
「いいかあ、女は言い訳なんか聞かなかった。なぜだ? 非常に腹がたっていたから。まあそれもあるだろう。興奮《こうふん》していたから。引っ込みがつかなくなったから。そして、悲劇《ひげき》のヒロインという自分の立場に酔《よ》って、それを崩《くず》されたくなかったから。男の態度は実際には全然変わっていなかった。男と一緒《いっしょ》に入ったのは、男の姉貴だったのさ。女は自分の中に形成された【浮気場面】の概念《がいねん》に捕《と》らわれて、真実を見失うことを自ら進んで行ったというわけだ」
「だってこれドラマでしょう。お話の展開上、こうした方が面白いからこうなってるだけじゃない。アスラ、へーん」
「ばか。メタ視すれば、このドラマを見た奴《やつ》が現実で同じ場面に出くわした時、反射的にこういう態度をとるようになるってことだろう。人の観念なんてものは恐ろしいものだからな。ちょっと考えればどれが正しいのかなんて解《わか》るのに。原因を知りたくない奴なんていないのに」
「なにそれ。ドラマの功罪《こうざい》?」
「理知的でないドラマなんかだめさ」
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
――とかなんとか言いながら、メロドラマだってきっちり見ているくせに……
[#ここで字下げ終わり]
どうして、今、こんな記憶を取り戻《もど》したのだろうか。
ぐしゅぐしゅと泣き続けるディド。見ている自分の口の中が乾《かわ》く。
つまり。
つまり、【取り返しがつかない】というのは観念による思い込みだ、ということ? 自分を悪人に仕立てて、仕立てることにかまけて、現実|逃避《とうひ》しているのは間違《まちが》っているということ? どうにかしろって言いたいんだよね、アスラ。
じゃあ、この、声もたてず涙をぽろぽろ零《こぼ》す子供の心も、取り返せるよね、なつめ。
ジゼル、多少の躊躇《ちゅうちょ》と不安を秘めながら、ディドの握《にぎ》り締《し》められた手を、ちょっぴり舐《な》めてみる。ぴくんとその腕が震《ふる》え、ジゼルも緊張《きんちょう》しながら仰ぐと、なんともいえぬ面持《おもも》ちの少年がこっちを見つめていた。
勇気、勇気を。
[#挿絵(img/balance_144.jpg)入る]
「ディ……ディド?」
刺激《しげき》しないようにそっと呼び掛ける。しばらく王子は惚《ほう》けたようにジゼルを眺《なが》め、それから突然に手を伸ばしてこの身体をひっ掴《つか》んで自分の目の前まで持ってきた。子供特有の、動物と人形の区別ができない乱暴《らんぼう》な掴み方だったが、この際、なんでもいい。
じっと見つめ合う。勇気を、勇気を出して!
「ディド、ご――ごめんね。ちょっと驚《おどろ》いちゃったんだ」
なにも返事はない。じーっとジゼルを凝視《ぎょうし》する王子。深呼吸《しんこきゅう》を一つ、そして、
「ディド、ジゼルと遊ぶ?」
「……ディド、遊ぶ! ねーねと、ジゼルと遊ぶ!」
にわかに声を上げると、ぎゅっとディドはジゼルを抱きしめた。
なつめ。とりかえし、ついたよ。ちょっと苦しいけれど。アスラ、感謝。
思い出したことは、ドラマのこと。ジゼルもアスラもドラマを見るのが好きだった。ああやって、二人で文句をつけながらよく見ていたということ。
よく見ていた。いつ? 夏離宮《なつりきゅう》には年に二、三回しか訪《おとず》れない――これは間違いだったのだろうか。そうだ、アスラは、よく、やってきた。いつの間にか、来ていた。
他の場所でも、見ていた気がする、やっぱり、一緒《いっしょ》に色々出掛けていたのかな?
とりあえず、そのおかげでジゼルはディド王子と仲好しになった。
王子は少し、精神が薄弱みたい。あの目。アルビノ症のせいかと思ったけれど、必ずしもそういうわけではなくて、どうも今まで放っとかれたから、という気がしないでもないんだ。ジゼルの言葉もよく解《わか》っているし、言葉はたどたどしいけれど発音ははっきりしている。以前、連邦に告発された星に、四歳児に一斉《いっせい》知能テストを行い、基準に達しなかった子供は知恵遅れとして施設《しせつ》に放り込む、という制度があるのをニュース番組で見た。富国強兵のため、とかいう理由だったけれど、解説者は人間には学習の速度の違いがあって、知恵遅れと認められた子供でも、ちゃんと育てていれば普通《ふつう》のレベルに容易に達するのだ、と説明していた。ディドと遊んでいて、ジゼルはその話を思い出してしまった。もし、デイドも同じ境遇《きょうぐう》だったとすれば、なんて酷《ひど》い話なんだろう。
ディドの部屋は後宮《こうきゅう》にあった。長い廊下《ろうか》を突き当たったところに緞帳《どんちょう》に隠《かく》された、この宮殿では二番目に見る扉《とびら》を開くと、そこから階段が伸びていた。螺旋《らせん》階段をぐるぐる上って、塔《とう》の最上階にそれはひっそりとあった。
部屋の中は赤い絨毯《じゅうたん》が敷きつめられていて、不思議《ふしぎ》なことに電灯が皓々《こうこう》と照ってやけに明るかった。様々な人形やぬいぐるみ、おもちゃがごったがえして、舶来品《はくらいひん》だろうものも中にはあった。きっと、ラージャ王女が贈ったんだろうな。猫のぬいぐるみもちゃんとあって、王子はジゼルとかわりばんこに指して、『ねーね、ねーね』と言った。やっぱり、頭いいんじゃないかなあ。
でも、こんな隔離《かくり》された部屋に、十歳の子供を一人で閉じ込めておくなんて。ジゼル、ばらばらにされたぬいぐるみの残骸《ざんがい》で散らかった部屋を見た時、憤慨《ふんがい》で涙が出た。当人はなんとも感じていないらしく、笑ってばかりで。
昼はほとんど部屋に閉じこもり、寝たきりで、夜になると飛び回る生活。そりゃあ、子供だもの、身体を動かして遊びたいよね。宮中には王子の行動に関して無視《むし》する、暗黙《あんもく》の了解《りょうかい》があるらしい。
結局、ジゼルは一晩中、ディドに付き合っていた。ジゼルになついて、やりたいほうだい。身体がギシギシ音をいいそう。限度というものを知らないから、こっちが生き物であろうとなかろうとお構い。なしで、ぬいぐるみ同然に引っ張《ぱ》ったり放り投げたり。
夜明けの後宮《こうきゅう》での、大かくれんぼの最中に、ディドは眠り込《こ》んでしまった。くたくたになるまで思いっきり遊んでいたんだろうな。鬼だったのに。
なんか、粗末な扱《あつか》いをされたけれど、ぬ。いぐるみ同然だったけれど、許せてしまう。
今まで誰《だれ》もかまってあげなかったから。
今まで放っておかれたから。
だからマーヒは言えなかったんだ。いずれは外に帰るジゼルに、身内の恥《はじ》とかなんとか思って。
それって、悲しい。
すごく、悲しい。
どうして隠《かく》そうとするんだろうね。どうして悲しいことを隠しておくんだろうね。
ジゼルもくたくたになって、自分の部屋に戻るとミルクも飲まずに寝込んでしまった。
デイニがどうなったかも、確かめる気さえしなかった。
そして今、ジゼルはラージャ王女と対峙《たいじ》している。
「知っていると思っていたわ」
「知らなかったよ」
何食わぬ顔で王女はジゼルにそう応えた。本当かなあ。
「色のこと? 魔物《まもの》払《ばら》いの時は染料《せんりょう》よ。なぜそんなことをするかって? 儀式《ぎしき》なの、あれは。ディドがおかしいのは魔物がとり憑《つ》いているから。ミュセが消えたのは魔物がさらったから。だから魔物をいぶり出そうとしているわけ。そう考える輩《やから》が多いのよ。ディドを『普通《ふつう》』の様子にさせて、魔物の手から解放されたと魔物にゆさぶりをかける。宗教がかった、情けない茶番《ちゃばん》だわ」
苦々しくラージャは説明する。ラージャはデテール大学の最新科学に触《ふ》れていた経験の持ち主。医学も呪術《じゅじゅつ》や魔法とごちゃまぜになっている世の中なんて、インテリゲンチャには耐えられないだろうに。ラージャもかわいそうだね。
「アルビノ症はディドだけよ、二卵性《にらんせい》双生児《そうせいじ》だから。ディドを取り出すのが遅れたらしくて、あの子の知能指数は六十前後だわ。それでなくてもこの家系は血族《けつぞく》結婚《けっこん》が多いのよ。王室だけでなくてよ、貴族は血族関係を強めることで勢力を増そうとしているわ。一夫多妻制《いっぷたさいせい》ですもの、どうしてもね。私と弟たちは十三も年が離れているけれど、もし、母が異なっていたらば結婚の対象になっていたでしょうね」
「異母兄弟《いぼきょうだい》で!?」
それじゃあ、障害児《しょうがいじ》が生まれてもしかたがないじゃないか。驚きを隠せないジゼルの表情を見てとったか、ラージャは言葉を続けた。
「そう。だから、父には私の実母を含め、九人の妻がいたけれど、子供を身ごもったのはうち四人、出産したのは三人、現在その子供が育っているのは一人。私の母だけ。母は弟たちを産んだ際に死んでいるけれど。子供はね、血が濃く、重くなりすぎてみんな死んでしまう」
淡々《たんたん》と、他人事《ひとごと》、もしくは日常|茶飯事《さはんじ》のようにラージャは語るけれども。
彼女は、苦しくないのだろうか。ジゼル、なにか、息苦しくなってきた。逃げ出したいほど重い空気の感触《かんしょく》。気が滅入ってくる。
「ディドと遊ぶ? 良くてよ、そうね、その方が良いわ。あの子、遊んでもらったことがないのよ。魔物が憑いてる、と誰も近寄りたがらないから。ミュセとも三つの時離されてしまったし」
それを聞いて、ジゼルはほっとした。それが救いだった。これでディドには二度と近づくななどと言われた日には、荷物をまとめておさらばするところだ(荷物なんかないけどさあ)。
でも、知能指数六十前後なら、ミレのメディカルセンターで長期|治療《ちりょう》を受ければ、どうにかなるかもしれないのに。ジゼル、そのことを伝えようとしたが、その前に、
「ときに、ジゼル、あなた聞いたところによると、どこかのお嬢さんと一緒《いっしょ》に行動しているそうね」
どさん! せっかく解《と》いた緊張《きんちょう》が再び背筋《せすじ》に張りついた。やっぱりばれたかっ。ど、どうごまかそう、見逃してくれる……わけないか。
「あー、彼女は、ちょっとしたことで知り合って、ジゼルの身の上に同情してくれて……」
「わたくしも見かけてよ。黄金の髪《かみ》に、白い肌《はだ》のなかなか美人な娘さん」
「あ――あ、そう? いつかなあ、彼女、仮装癖《かそうへき》があるんだーっ」
自分でもわざとらしいと認識できるほど、大きな声で応える。どうかばれないで、気づかないで、ラージャ……
あれ? 白い肌? だって、デイニはいつも肌を化粧《けしょう》してごまかしていて。
愕然《がくぜん》とラージャを見上げた。王女はいつものとおり、優雅《ゆうが》な笑みを浮かべて、そして、
「外国人ね」
断定した物言い、反論する隙《すき》がないっ。デイニのばかっ、素顔見られてーっ。
大いに焦《あせ》ったジゼル、わたわたと手を振り回して、
「そ、それは、だから、ね」
「以前からの仲間なの? 正直に答えた方が身のためだわ、あなたも、そのお嬢さんも。さもなければ、密入国工作員として国家間保安維持局に訴えてよ」
それだけは勘弁《かんべん》して! なつめにあわせる顔がなくなるっ。
しかたがない。はあ、と大きく吐息をつくと、ジゼル、促されるまま正直にデイニのことを話した。消えてしまった恋人を捜してこの星に来たこと、この宮殿にいるかもしれないから輸入品に紛《まぎ》れて忍び込んだこと、そこでジゼルと出会ったこと、などなど。
「デイニ……」
ジゼルの話を聞き終えたラージャは、なにやら沈思黙考《ちんしもっこう》のていになってしまった。うーん、大丈夫《だいじょうぶ》かなあ。恋人を追って一国の政治拠点に忍び込むなんて、ちょっと変だものなあ。でも、工作員なんてどう転んでも考えられないけれど。おばけが怖《こわ》い工作員なんて!
「……そう、恋人の名前はなんと言うのかしら。外国人はこの王宮には大使館員か招待研究者、あとは連邦の人ね。連邦公務員の方はもう少し東にある建物にいるわ。私には手の出せない領域《りょういき》だけれども」
「名前は聞いてないけど……招待研究者って?」
その言葉がひどく気になって、ジゼルは尋ねた。
「この星の生態系や気候などの調査のために、外国から招いたり申告《しんこく》して赴《おもむ》いてくる学者の方たちのことよ。どの星でもその制度があるはずだわ。デテール大学からも多く派遣《はけん》されてくるから、彼らとは顔見知りなの。色々と協力もしているから、どう、紹介《しょうかい》しましょうか?」
「ジ、ジゼルはいいよ」
ラージャの申し出に、ジゼルは大急ぎで首を振《ふ》った。そんなことしたら、嘘《うそ》がばれちゃうもの。そんなジゼルを見て、ラージャはくすくすと笑っていた。からかわれたのかしら。デイニはどうかな、紹介してもらいたいかな。
招待研究者。なるほど。あの秘密《ひみつ》の研究室は彼らのものだったのか。見るからに怪《あや》しいところに怪しそうに作って。気にかけていて損しちゃった。
「その研究者たちの部屋はどこにあるの?」
「西の宮殿にあってよ」
西の宮殿。東の宮殿も行ったことないや。目の錯覚《さっかく》による幾何学《きかがく》迷路《めいろ》だ、この王宮は。どれ見ても同じに見える。
「それでえ、デイニのことなんだけれど。彼女がいてくれると、ひどく助かるんだけど」
「ああ、そのお嬢さんのこと。良いわ、彼女のこともジゼルに免じて王女の名において入宮を許します。その代りに、二人でミュセの捜索《そうさく》を引き続き行ってもらいますよ」
「ありがとう、ラージャ。よかった」
なんでジゼルが礼を言わねばならないんだ? など訝《いぶか》りながらも、ジゼルはぱたぱたとしっぽを振ってみせた。
「ああ、でもラージャ、もう宮殿内にはいないんじゃないのかなあ。ずっと捜していたんでしょう?」
「でも、私たちが侮《あなど》って見落すところにも気づくかもしれないから。他の捜索隊は全《すべ》て外を回っているわ。あなたたちでだめなら宮殿内の捜索は諦《あきら》めます」
そんなこと言われても……だった。しくしく。
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ACT.6
「えっ、私の名前、喋《しゃべ》っちゃったの!?」
ひどく驚いて声を上げるデイニに、ジゼル、はからずも後ずさる。よく考えてみれば、こっちが悪いんじゃないのに。反対に感謝されたっていいくらいなのに。
デイニは珍しくおろおろして、忙《せわ》しく目線《めせん》をあちらこちらに動かしていた。
「ま、まずかった?」
「うーん。私、兄貴がいるって言ったことがあるでしょ。兄貴とラージャ王女、大学で同じ専攻だったのよ。その線から身元がばれるかもしれない」
「じゃあ、デテール大学の同級生? デイニも、もしかしたらデテール大学の学生?」
「まあね」
曖昧《あいまい》にラージャは返事した。デテール大学の学生なら超一流だぞ。卒業生は一国のトップクラス、もしくは連邦職員、そうでなくても必ずや学者となりえてしまうという、銀河人類史の頭脳中の頭脳集団だ。そう言えば、アスラってどこの大学だったっけ?
「ごめんね、デイニ」
「いいよ、そんな簡単に判《わか》るはずないし。私がうかつだったわ」
喋《しゃべ》っている内に、あっさりとデイニはことを消化してしまったようだ。デイニがからっとした性格で良かった。
「それでー、ラージャの話によると、招待研究者は西の宮殿にいるんだけれど、どう、心当たりある?」
「……あるわ。分かった、紹介《しょうかい》は無用よ、兄と顔が似てるからね。また逃げられたら困るし。それじゃあ、今夜は西の宮殿とやらへ行きましょうか」
しかしながら、ラージャ王女にデイニのことがばれたその晩は、とうとう西の宮殿に辿《たど》りつけなかった。だって東か西か判らないんだもの! いつも夜に行動してたから場所場所での方向感覚がないし、おまけに、どうやらこの惑星《わくせい》は、東から西に回転しているらしい。そう確信したのは、辿《たど》り着いた新たな宮殿の一室に、【国家間保安維持局】、このプレートが掛かっているのを目にした時だった。
大騒ぎして逃げ返った後、明日出直そう、ということに話はまとまった。そういえば、この星に来てから一度も街《まち》に出掛けたことがないので、早く寝て、
「明日は街の見物をしよう!」
と約束してデイニと別れた。ようやく目的|遂行《すいこう》ができるぞ。
なつめ、面白《おもしろ》いもの見てくるからねっ。
翌日《よくじつ》。目が覚めたら昼だった。迎えに来たデイニは例の変装《へんそう》はしてなく、初めに見た身軽そうな服だった。体感温度調整服だそうで、ぴちりとしていても涼しい顔でいる。
「変に化けてもおかしく思われるだけよ。普通《ふつう》の観光客で行くわ」
だそうである。その方がジゼルにも好都合《こうつごう》だな。
堂々としていると意外と人は気づかないもので、宮殿内を外国人丸出しのデイニが闊歩《かつぼ》しても、誰も答めようとしなかった。おそらく招待研究者とか連邦の人と思ったんだろう。こんなことなら初めからそうすればよかったね、とデイニと笑いあった。
てくてく歩いて門を抜け、さあ、そこから街は広がっている。
街《まち》の雰囲気《ふんいき》は、第一印象と全《まった》く変わりなかった。
すごい熱気。
すごい人、人、人。
すごいほこりっぽーいっ。
がやがやがやと、様々な音が混ざりあって絶え間なく耳に飛び込んでくる。騒然《そうぜん》とした大路。太陽の暑さだけではない熱気。
「ね、市場の方に行ってみようか」
熱射病にかかったみたいにぼーっとなったジゼルを抱き上げると、デイニは元気に歩き出した。デイニの大きな帽子《ぼうし》が作る日陰に入りながら、
「ひゃー、ジゼル、こういうとこ来たことないから、頭がぼーっとするう」
「箱入りねこなのね。私なんか珍しいものがあると面白くて面白くて。あ、ほら、市場が見える。なにか食べよう」
デイニが指し示した方向に、大きなテントが張ってある広場が見えた。人も一杯いる。
テントの中は人でごったがえしていた。売手も買手も入り乱れている。基本的に、何列かに渡って台が並べられ、そこで色々と売っているのだけれど、歩きながら売る人も沢山いて、雑然とした雰囲気《ふんいき》がある。
「あ、珍《めずら》しい西瓜《すいか》」
デイニが感嘆《かんたん》の声を上げるので、そちらを見ると、一抱《ひとかか》え以上もある西瓜が無造作《むぞうさ》に積まれている店があった。しかも、その黒縞《くろしま》は格子縞《こうしじま》なのだ。
「本当に西瓜あ?」
「割ったのが売ってるわ」
確かに、赤い実、こうるさい種、まさしく西瓜である。ところ変われば品変わる、だ。
その他にも色々な野菜や果物《くだもの》が並んでいる。ピーマンとかトマトとかオーソドックスなものもあるし、瓢箪《ひょうたん》のお化けのような林檎《りんご》だとか、葡萄《ぶどう》のような黄緑の野菜もあった。ちょっと貰《もら》って食べてみたけれど、すっごい辛《から》いの。舌が火傷《やけど》するかと思ったくらいに。口直し、と買ってもらった茄子《なす》みたいな果物は、梨《なし》みたいな味がして、水けたっぷりでおいしかった。なつめにも買っていってあげたいな。
無論《むろん》、市場は果物と野菜しか売ってないわけではない。肉も売っているし、服も売っている。向こうの方では彫刻《ちょうこく》なんかも売っていた。
「私、ここの民族衣装でも買っていこうかな」
「なんで? 衣装室にいっぱいあったじゃない。持ってっちゃっても判《わか》らないよ」
「王宮の衣装と民間人の服、違うわよ」
デイニにそう指摘《してき》されてよく見ると、なるほど、ジゼルの目から見ても粗末《そまつ》な生地を使った服である。型はもっとすっきりしていて、動きやすそう。色は極彩単色《ごくさいたんしょく》で、いっぱい人が集まっていると、まるで孔雀《くじゃく》の羽のようだった。
「おなかすいたな、ジゼル、なんか食べよう」
ジゼルがなにも言わない内に、どんどんデイニは進んでいく。この押しの強さが原因で恋人さん逃げちゃったんだろうか、などと考えてしまうが、こっちはなにもしなくてもいいので、気が楽でいいや。
さらに奥へ行くと、店は食べ物屋の区画になっていった。甘《あま》い匂《にお》いや香ばしい匂いが、あちらこちらから漂《ただよ》って胃を刺激《しげき》する。
「ジゼル、辛《から》くないのと熱くないのがいい」
「猫舌《ねこじた》ここにあり、ってね」
なにが可笑《おか》しかったのか、デイニはけらけら笑った。猫が猫舌でなにがいけない!?
屋台の前には木でできた簡素なテーブルと椅子《いす》が据《す》えられていて、そこで食べている人々が、じろじろとその浅黒い顔をジゼルとデイニに向けている。王宮の人のように魔物《まもの》の使いなんて騒がないところを見ると、こっちが外国人だとちゃんと解《わか》っているみたい。ぶしつけな視線だけれど、デイニは一向《いっこう》に気にする様子《ようす》もない。
「あ、ギョウザみたい」
ジゼルが見つけたのは、しかめっ面のおじさんがせっせと揚《あ》げている、ギョウザの皮みたいなものに色々なものを詰《つ》めた食べ物だった。揚げ饅頭《まんじゅう》かな?
「デイニ、あれがいいー」
「まあ、待ちなさいって。こういう時は、愛想《あいそう》の良い、話し好きそうな人を選ぶのよ」
デイニは片目をつむってジゼルにそう言った。こういう時って、どういう時だ?
「ねえ、あそこなんか良いと思うけどな。おいしそう」
彼女が見つけだしたものは、なにかの粉でできた細長い麺《めん》を、鉄板で炒《いた》める、いわゆる焼きそばだった。一緒《いっしょ》に炒められている、赤や黄色や金色の具が、結構《けっこう》異様だけれど、まあいいかあ。
売っているのは、『人が良いですよ』と顔面に大きく書かれているおばちゃんだった。
王宮のマーヒに似ているけれど、はっきり言ってジゼルには、この星のこの年のおばちゃんは、全員マーヒに見える。
デイニはネックレスの海色のヘッドを取り出すと、隠《かく》すように口もとに持っていった。
「おばさん、一つちょうだい」
耳に飛び込んできたのはボーヴォール言語。あのヘッドは音声|翻訳機《ほんやくき》みたい。
「ああ、もうちょっとで炒めあがるから待っててね」
おばちゃんは大きな明るい声で答えると、炒める手を速くする。
「あんた、外国人だね。この星にはなんの用で来たんだい?」
「ええ。私、ミレのデテール大学の学生なんですけれど、建築デザイン関係について学んでいて、卒論に世界の王宮を調べているんです。今見てきたんですけれど、きれいな建物ですねえ」
嘘付《うそつ》き。デイニ、二十歳《はたち》じゃない。なにを考えているんだろうか。
「デテール大学! あたしゃ知ってるよ! うちの姫様が留学《りゅうがく》なさっていたところだろう? ラージャ王女様を知ってるかい?」
「はいっ、大学で見かけたことがあります。とても美人な方で、とても頭がいい方でした」
そう力を込めてデイニが言うと、おばさんはまるで自分が褒《ほ》められたようににたにたして、喜々と喋りだした。
「そうなんだよ、あのラージャ様はとても美しくて華やかで、それでいて聡明《そうめい》で、優しくて、寛大な、姫様の鑑《かがみ》のようなお方なんだよ。ほら、見てごらん。このテントは姫様があたしたちのために、わざわざ外国から取り寄せて与えてくださったものなんだよ。雨露《あめつゆ》や埃《ほこり》の中での商売はきつかろうから、とね。あと、小農や小売商の税の引き下げを推し進めてくださったり、本当に素晴《すば》らしい王女様だね!」
ご自慢のお姫様を褒めちぎるおばちゃん。それにいちいち頷《うなず》いたり感嘆したりして聞き込むデイニ。焼きそばがなんか脹《ふく》らんでいくのを凝視《ぎょうし》するジゼル。なにこれ。
「それじゃあ、次の王位に就《つ》かれるには王女様はぴったりなお人ですね」
と、デイニ。なにいまさらそんな間違《まちが》いを、とジゼルが驚《おどろ》いて見上げると、彼女は目で声を立てるなと制した。
おばさんはぷっくり脹れた焼きそばを皿に盛りつけながら、眉《まゆ》をひそめて、
「それがそううまくはいかないんだよ。うちには弟王子様が二人もいてね、そちらが王位に就いてしまうのさ。ああ、ひどく残念なことだよ、あんな完璧《かんぺき》な姫様を。はい、お待ち」
皿を受け取ったデイニは、代金を払って隅《すみ》の方のテーブルについた。焼きそばの香ばしい匂《にお》いが口の中を唾液《だえき》いっぱいにする。うーん、おいしそう。
「どうぞ。フォークはないのかな」
「箸《はし》ならあるよ。いただきまーす」
ジゼルが麺《めん》に手を伸ばすと、デイニは鞄《かばん》の中から布《ぬの》に包まれたフォークを取り出した。
「なに、そのフォーク」
「こんなことだろうと思って、王宮から持ってきたの」
用意周到《よういしゅうとう》なことである。とにかく口に麺を含んでみると、意外にもやたら粘《ねば》り気のある麺で、まるでお餅をくちゃくちゃ噛《か》んでいるようだ。でも、おいしい。
「収穫《しゅうかく》あり、ってところね」
不意にデイニがそう言ったので、ジゼルはきょとんと見返した。
「収穫って?」
「街の人がどう王家を見てるかってことよ、まあ、もう少し聞いてみましょ」
その返事にもジゼルは首を傾《かし》げざるをえなかった。そんなこと聞いて、どうするの?
とにかく、ジゼルとデイニは焼きそばを食べ終えると、次の店へと赴《おもむ》いた。ちなみに金色の具は、めちゃくちゃ辛い香辛料《こうしんりょう》だった。ひどい。
台車でジュース売りのおじさんに聞く。
「姫さんのことかい? ありゃあ、すばらしい別嬪《べっぴん》さんだよ。おまけにオツムもえらくできがいいときたもんだ。あんな面倒ばかりおこす弟王子たちなんかより、よーっぽどええ女王様になると思うんだがね」
「面倒《めんどう》を起こすんですか?」
「おおとも。双子同士でどっちを王位に就《つ》けるか日ごと夜ごとおおもめってえ噂《うわさ》さ。俺《おれ》たちゃあ平和が一番好きなんだ。ついでに減税も好きだよ、へっへっへ」
ジュースはココナツミルクの味がしておいしかった。
あと、砂糖がらめの揚《あ》げ菓子《かし》や串《くし》焼《や》きの店などで買い物をして、デイニは色々聞き込んでいた。なかなか話のきっかけとか運びとかが巧《うま》いんだ、デイニってば。スポークスマンにでもなれるぞ。
まあ、ジゼルは色々食べられて幸せだったな。一番おいしかったのが、なんとかのミルクでできたチーズケーキ。今思い出してもほっぺたがとろけるような味だったっけ。一番まずかったのが変な煮込《にこ》みのスープ。苦いし辛いし、あれは猫の食べるものじゃあない!
とりあえず、王宮に戻ったらうがいしよーっと(虫歯に気をつけよう)。
「ねえ、この星、金が採《と》れるのね。金細工《きんざいく》がすごく安い」
指に純金の指輪を見せながら、デイニは紅潮《こうちょう》して言った。
「なつめさんに買っていく?」
「なつめ、そういうの好きじゃないから」
「ふうん、変わってるわね。でも、予想どおりだったね」
「なつめはヘンじゃないやいっ」
「違うわよ。ラージャ王女のこと」
得意げにデイニが言うけれど、ジゼルには主旨《しゅし》が把握《はあく》できない。
「予想どおり、王女は街《まち》の人に人気がある。しかも、弟王子たちよりも王位に就《つ》くことを望まれている。しかも、一度は王太女にさえなったことがあって、頭も誰よりも良いと。そんな彼女が、簡単に王位を諦《あきら》めるかしら」
そこでジゼルは、ようやくデイニの言わんとするところが判明《はんめい》できた。
王位を諦めきれないラージャ王女が、今回のミュセ王太子の行方不明《ゆくえふめい》を企《たくら》んだのだ。
そうデイニは言いたいのだ。
「そんな、ばかな。だったら、なんで捜索《そうさく》なんかさせるのさ。王子が見つからない方がいいんでしょ」
「王子が既に殺されていたら? 王太子の生死がはっきりしない限り、王位は譲《ゆず》られないのかもよ」
ジゼルの呆《あき》れ口調《くちょう》に、デイニはやけに強く反論した。その説はマーヒが嘆《なげ》いていた考えである。
「でもー、ラージャが王位に就《つ》きたがってるなんて解《わか》らないしい。ああいう職業って大変だから嫌《いや》がってるかもしれないじゃない。喜んで譲ったって言ってたよ」
「でもね、ジゼル。ああやって民衆に立てられるまでになるっていうには、王女は大変な努力を払ってきたはずよ。生まれついての天才でもね。彼女は頭も良かった。みんなに認められるために、良い子で通してきた。それなのに、その努力が全《まった》くパアになっちゃったのよ。努力がむくわれないこと、才能が認められないこと、これほど情けなくて悲しくて腹がたつことはないわ。悔《くや》しい、とか言った方が自然よ、変よ、喜んでなんて。今までの自分をけなすことになるんだから。頭の良い人はプライドも高いのよ」
「じゃあ、プライドが高いから、表面は笑って譲って、心で泣いてるんじゃない。でも、それは弟の責任じゃあないし、逆|恨《うら》みするような人じゃないと思うけど」
あくまでジゼルはラージャの味方に立った。だって、デイニの言い方は断定的なんだもの。そういう偏《かたよ》った考え方は、ジゼル、きらい。
ジゼルがむっとしているのが伝わったか、デイニは自分の偏見《へんけん》に気づいて恥じ入ったように頬《ほお》を赤らめた。それから頭に手をやり、ちょっと慮《おもんばか》るように瞼《まぶた》を閉じた。そして、
「私ね――小さい頃から一生懸命勉強したわ。色んなことも積極的にやるようにして、頑張《がんば》って。どうしてかなって考えると、どうも兄が原因なのよね。兄は勉強が嫌いで、いつだって逃げ回ってて、父の後を継《つ》ぐ努力もしてなかった。でも、みんなが期待するのはどうしても兄なのよ。誤解《ごかい》しないで、私は父の後なんか継ぐ気さらさらないの。それこそ、あんな面倒《めんどう》なもの。でも、期待はしてほしかった。デイニだって頼《たよ》りになるんだなって認めてほしかったのよ。努力しても実にならないのが、自分が情けなくて悔しくて、その反動で周りにやつあたりとかしちゃったりね。すごいストレスが溜《た》まるものよ」
「デイニ……」
「だから、ラージャ王女も相当ストレスが溜まっているんじゃないかな、て思ったの。それだけよ。私情《しじょう》に走ったわ、ごめんなさい」
最後はそっけなくデイニは言った。ジゼルと目が合うと、にこっと微笑《ほほえ》む。
ジゼルはなにも言わなかった。デイニもラージャも、兄弟のことで大変なんだな。こうみると、アスラとなつめはとても仲が良い部類なんだ。ジゼルは兄弟がいないから、そういう感情は解らないや。
(……あれ?)
兄弟がいない?
ジゼルは幾度も瞬《またた》いた。兄弟がいない。そうだったっけ? そう言えば、ジゼルの親って、どうだったっけ?
親――……?
覚えていない。
どうして?
どうして親のことまで記憶を消すの? この記憶|喪失《そうしつ》が本当に人為的《じんいてき》に施《ほどこ》されたものだとしたら、どうして?
なつめ、どうして!?
「どうしたの、ジゼル」
怪訝《けげん》そうに覗《のぞ》き込《こ》むデイニ。ジゼルは無言のままかぶりを振《ふ》った。色んな不安がいっぺんにやってきて、ジゼルにはなにがなんだか解《わか》らなかった。
「まあ、どちらにせよ、色々な可能性を考慮《こうりょ》しなくちゃね。灯台|下《もと》暗《くら》し、王女付近のことも捜そう」
ジゼルがなにも言いたがらないのを悟ったか、彼女は別のことに気を移す。その淡泊《たんぱく》さが助かった。親のこと兄弟のこと生体機械のことライフサイエンス法……あーっ、混乱!
「さあて、これからどうするかな。あら……あそこにも外国人がいるわ。やっぱり目立つわねえ」
そこまで言って、ジゼルが顔を上げる前に突如《とつじょ》デイニは駆《か》け出した。どうしたんだろう、とデイニが走っていく方向に視線をやると、明らかに外国人がその先にはいる。本当に目立つものである。服装も現代人だし、髪も肌《はだ》の色も単一民族の中では異物《いぶつ》だ。
「……あーっ!」
あいつだ!
その時、ジゼルは戸惑《とまど》いも不安も、周囲《しゅうい》の視線すら忘れて叫んだ。そして、一瞬《いっしゅん》後にはデイニを追って疾走《しっそう》する。
あいつだ。
この星にきてすぐ、ジゼルに注射をした奴! あんな奇妙《きみょう》な注射した奴を見忘れるもんか!
人々の足の間をすり抜け、テーブルを飛び、果物屋《くだものや》の前でぼーっと佇む二十代も後半の痩《や》せた、冴《さ》えない外国人に飛びかかる。が、ほんのわずかのタイミングで、デイニが先行し、男の腕をぐいっと牽引《けんいん》した。ジゼル、足元で彼女の出方を見守る。
ぽかんとした面持《おもも》ちで、なんのことか解らず、男はデイニを見返していたが、
「え!? デイニ君!? な、なんでここに!」
驚愕《きょうがく》のあまり、抱《かか》えていたオレンジ色の果物をぼたぼた落とす男。びちゃっとそれは簡単に潰《つぶ》れて、意外なほど深紅《しんく》の液体が跳《は》ね散った。
「先生! あなたたちは一体――!」
興奮《こうふん》に顔を真っ赤に染《そ》めて、デイニは噛《か》みつかんばかりの勢いで男に詰め寄る。先生? 大学の知り合いなのだろうか。
デイニの話半分で、男はさっと蒼白《そうはく》になった。見る間に脂汗《あぶらあせ》が滲《にじ》みだすのが分かる。
「ぼ、ぼくはなにも知らん! きょ、教授の指示どおりにやっただけなんだ! 法に触《ふ》れることは解ってるっ、だ、だが、これはしかたのないことで――」
先生と呼ばれた男はそこまで言い、あとは尻《しり》つぼみになった。おそらくデイニがキョトンとして自分を見返しているのに気づいたのだろう。途端《とたん》に自分で混乱して、えっ、えっ、と間抜《まぬ》けた驚きの声を上げている。焦《あせ》りに焦って、
「デ、デイニ君、君の話は……」
「クリス、クリフォード・ステイシィのことです。彼をどこにやったんですか、教えてください」
他の一切《いっさい》のくだらないことには全《まった》く眼中にない、といったはっきりした口調《くちょう》で、デイニは男に尋ねた。ふうん、恋人の名前はクリスっていうんだ。
でも、なんか方向が変。これじゃあ『デイニから逃げた』という話とは違うじゃないか。
「ク、クリスならもういない」
「いないって、じゃあここにいたんですね!」
「ああ。でも、すぐに別のところへ行った。一か月も前のことだ」
「じゃあ今はどこにいるんです!」
「し、知らん! 本当だっ、い、痛いっ、手を放してくれ!」
夢中《むちゅう》になってデイニが腕を掴《つか》んでいるのに、男は悲鳴《ひめい》を上げた。ようやく気づいてデイニが慌《あわ》てて手を弛《ゆる》めた瞬間《しゅんかん》を、男は逃がさなかった。
どん、とデイニを突き飛ばし、男、脱兎《だっと》のごとく走り出す。そう、脱兎。むかあっ、ジゼルの怒りが再び湧《わ》き出てきたぞ。
[#挿絵(img/balance_172.jpg)入る]
易々と大地を蹴《け》って跳躍《ちょうやく》し、男の目前に躍りでた。仰天《ぎょうてん》してたたらを踏《ふ》む男と目が合う。
「あっ! お前はこの間のサイバマシン!」
「やいっ、この間はよくも変な薬を打ってくれたなっ。今の法に触れるってのはなんだ!?」
まさか、ジゼルが被験体《ひけんたい》になってしまった注射のことではないだろうな、と男を睨《にら》みつける。そんなことになったらアスラにばかにされる、なつめに心配をかける。
やばい。そんな表情を男が作った時、注意をするべきだった。瞬間|早業《はやわざ》で男は胸元に手を突っ込み、小さなスプレー缶《かん》を構えたのだ。
勢いよく噴出《ふんしゅつ》された霧に、頭がくらっとなる。その隙《すき》に男はすたこらさっさと逃げてしまった。
「ま、待てーっ」
声は出るけれど、運動神経が痺《しび》れて身体が動かない。立っていることもできなくなって、ぶざまにその場でべちゃりと潰《つぶ》れてしまった。もおーっ、変な薬ばかり作りやがって!
「ジゼル! 大丈夫《だいじょうぶ》?」
遅れて駆《か》けつけたデイニが、仰天してジゼルを抱き上げた。それはそうだろう、猫の開きが道端にできあがっていたのだから。
周囲《しゅうい》の興味津々《きょうみしんしん》の視線から逃げて、ここは王宮に戻《もど》るしかなかった。
王宮への帰路、ジゼルは情けなくデイニに抱えられながら、
「デイニい、今の奴、何者なの。全く、か弱い猫になんてことをする奴だっ」
「……デテール大学医学部の助手の先生よ」
デイニは唇《くちびる》を噛《か》みしめて言った。そうか、恋人、ここにはいないって判明したもんね。がっかりしているだろうし、悔《くや》しいだろうに。
「クリス――デイニの恋人は、あの先生に師事してたの?」
「いいえ。クリスは理学部で生体|制御《せいぎょ》の研究生で、あの先生は脳部生理学の研究しているんだけれど、大学に研究生以上による先生方のサークルがあるのよ。私は畑違いでなんのサークルかよく判《わか》らないんだけれど、クリスもそのサークルに所属していた。はたから見てても楽しそうな集まりだったわ。それぞれの研究成果を持ち寄って、一つの『結果』を創《つく》りだそうという目的を持ってたみたい。色んな人がいて、色んな分野の人がいて。でも、最近、大学からの指示で解散してしまったの。会員だった人の多くが、三々五々まとまって研修に外国へ出ていって、あの人も、私の知らないうちに行ってしまった」
伏《ふ》せ目がちにデイニは語る。ジゼル、フォローするように、
「でも、それじゃあデイニがふられたとは限らないじゃない」
「一言もなにも言わないで? 仮にも恋人だったのよ、『行ってくるよ』ぐらい声をかけたって罰《ばち》は当たらないわよ」
「そ、それは、なんらかの事情があって……」
デイニは至って冷静だった。泣き喚《わめ》いたり理不尽《りふじん》な言い掛かりをつけるような人間ではない。その分、思い込んだら容易に説得できる相手ではなかった。自分が理路整然《りろせいぜん》とした解釈《かいしゃく》ができることを知っているんだもの。こっちが呑《の》まれてしまう。
デイニの帰る足取りが異様に力強かった。なにをそんなに意気込んでいるのだろう?
「私、今の先生を見つけるわ。教授の人が知ってるかもしれない、あの人の行方《ゆくえ》」
「見つける? じゃあ西の宮殿に潜《もぐ》るの? 今の先生の名前は? ラージャに聞いて部屋を教えてもらうよ」
ボーヴォール星に着いて十日目、ようやく足掛かりらしいものを手に入れることができた。ミュセ王子についても足掛かりが落ちているといいんだけれど。
[#改ページ]
ACT.7
その夜、デイニはしゃんとしたスーツ姿で現れた。西の宮殿は時代錯誤《じだいさくご》社会のオアシス、現在の時の流れるところである。この方がいい。そうデイニは説明した。もっともだ。
ラージャに教わった道を、一角一角確かめながら進んでいく。ありがたいことに、この宮殿には扉《とびら》があって、そこにルームナンバーが穿《うが》ってあった。これを辿《たど》れば確実に部屋に着くはずだ。そうでなければまた昨日の二の舞《まい》だ。
道に迷うことなく辿り着いたその部屋は、殿舎《でんしゃ》の奥の方にあった。【クラウド・バーム】というネームプレートを確認し、デイニ、ノブに手をかける。しかしながら、鍵《かぎ》がかかっていた。軽く舌打ちすると、今度は扉《とびら》を軽く叩《たた》く。が、返事はない。
「外から回ろう」
「中には誰もいないみたいだよ。多分、あの研究室じゃないかなあ」
「研究室?」
「うん。ジゼルがこの宮殿に運ばれた時ね……」
廊下《ろうか》の陰に回って、ジゼルは簡単に怪《あや》しげな『秘密の研究室』について説明した。時折、忙《いそが》しく駆《か》けていく白衣姿《はくいすがた》の人が通って、ジゼルたちは首をすくめて身を縮めた。が、相手は自分のことしか考えていないようで、誰も見向きもせず行ってしまう。好奇心の先が偏《かたよ》っているというか、自己中心的というか。
「その部屋、分かる?」
「うーん。地下室を捜《さが》せばいいんじゃないのかなあ。そんなにあるものでもないでしょ」
「そこに行けば、多分、他の【ストーンサークル】のメンバーもいるはず。行こう」
毅然《きぜん》と立ち上がると、デイニは階段を捜し始めた。慌《あわ》てて後からついていくジゼル。
カツカツとデイニの靴音《くつおと》が廊下《ろうか》に響《ひび》く。夜も更《ふ》け始めて、西の宮殿には饗宴《きょうえん》の賑《にぎ》わいは届《とど》かない。扉《とびら》の隙間《すきま》から洩《も》れてくる、ぶつぶつという呟《つぶや》きが耳に入る。やけに明るい照明。
たった十日間しかいないのに、一体どちらが現在なのか危《あや》うくなる。なんで、こんなに静かなんだろう、明るいんだろう。
「ねえ、デイニ。お兄さんのこと、好き?」
突然にジゼルが尋ねたので、デイニは目をぱちくりさせた。
「なにを藪《やぶ》から棒に。兄? 別に、どうとも思ってないけど」
「だって、昼間……」
「ああ。私が兄に対してコンプレックス持ってるって言ったから? それはそうだけど、だからといって嫌いであるわけじゃないし、かといって好きでもない」
デイニの言う意味がよく解《わか》らなくて、今度はジゼルが瞬《またた》きをする番だった。
「だから、そういう感情を持つ相手じゃないってこと。兄が認められるのは悔《くや》しいけど、兄自身には別になんとも思ってはいないわよ」
「そんなものなの?」
「そんなものよ。喧嘩《けんか》もよくするし、遊んだりもするし、普通《ふつう》の兄妹よ、うちは。他と変わらない」
「……ねえ、兄弟って――どんなもの?」
心なしか意気込んでジゼルは尋ねた。兄弟。なにか引っ掛かる言葉。
「兄弟ねえ、言うなれば、一番近い自分、かな。同じ遺伝子《いでんし》持って、同じ家族持って。親とも友達とも違う生き物。二十年も隣《となり》で生きてたんだから、空気みたいな感じがする。居ても居なくても一緒《いっしょ》、でも一番自分に似ている存在、なんて言ったら文学的かな」
声を押さえてデイニは照れ隠《かく》しに笑った。
一番自分に近い存在。
そのフレーズがやけに耳に残ってはがれようとしなかった。自分に、近い?
ジゼルに近いって?
ジゼルに近いって?
「ジゼル、兄弟はいないの?」
デイニが言った言葉を理解してはいなかった。
「同じ体内で、生まれたものを兄弟と言うなら、言うなら……」
同じ母胎《ぼたい》で発生した生き物を兄弟とするならば、ジゼルには。
ジゼルには……
二時間後(デイニの持つ時計で計れば)、振《ふ》り出しの部屋の前まで戻《もど》ってきたジゼルとデイニ、ぜいぜいと肩で息をついて、
「ど、どこにあるのよ、地下室なんて」
「おかしいなあ。地下は階段にあるはずなんだけれどお」
地下室は見つからなかった。歩いても歩いても湧《わ》き出てくる階段という階段を、しらみつぶしに上っては下がり、下がっては上る。ぐるぐるぐるぐる、同じようなところを何回何十回と巡り、緞帳《どんちょう》をめくっては隠《かく》し扉《とびら》を探し、壁《かべ》に当たればタイルというタイルを叩《たた》いてみる。二時間それを繰《く》り返した。
なのに、地下室はない。形跡《けいせき》さえ、気配《けはい》さえない。
「さ、さすがは秘密だけあって、見つからない」
半ばやけくそになって、ジゼルは感心の声を洩《も》らした。途端《とたん》、デイニがじろりと睨《にら》む。
「なにをばかな感心しているのよ。本当にここなの?」
「知ってたら秘密なんて言わないよー」
デイニが苛々しているのは、棘《とげ》のある口調《くちょう》で判《わか》る。かと言って、見つからないのではどうにもならないじゃないか。しかたなく、
「ねえ、今日は諦《あきら》めて、明日、部屋に帰ってきたところを捕《つか》まえればいいじゃない」
そう進言すると、さすがに彼女も疲れたか、うーんと唸《うな》って考え込んだ。その方が確実、手間もかからないというものである。早く恋人の消息を知りたいと、焦燥《しょうそう》にかられる気持ちも解《わか》らないでもないけれど。
そんな時、急にジゼルはぐわしと抱き上げられた。
「うわ!?」
仰天《ぎょうてん》して、反射的に爪を伸ばした四肢《しし》をばたつかせる。
「ねーね。ジーゼール」
ディド王子のがんぜない声。拍子抜《ひょうしぬ》けて振り向くと、確かに、そこに王子の無邪気《むじゃき》な顔があった。ぐいぐいとこすりつけるようにジゼルに頬《ほお》ずりする。
「あ、びっくりした。音も立てずにくるのだもの。この子がディド王子?」
デイニも今気づいたようで、胸を押さえて驚《おどろ》きを隠《かく》せない様子《ようす》だった。ジゼルもまさかディドがこんな遠くの殿舎《でんしゃ》まで来るとは知らず、訝《いぶか》しささえ感じる。
「どうしたの、ディド。こんなところまで」
「ディド、ジーゼル、追うの。ジーゼル、ミュセ、追うの。ミュセ、ディド追わない。でも、ディド、ミュセ追う。ジーゼル、ディド、追う?」
ディドはたどたどしい口調《くちょう》でそう語った。思わずデイニと顔を見合わせてしまう。なんかの暗号? くるくる図式が回る。ジゼルとディドとミュセ? ミュセ王子?
「デイニ、これは……」
「いいわよ、とにかく追うって言いなさいよ」
なげやりにデイニに促《うなが》されて、ジゼルはディドに頷《うなず》いた。
「じゃあジゼル、ディドを追うよ。いい?」
その返事を聞くと、嬉《うれ》しそうにディドは笑った。小さな歯が痛いくらいに白かった。
「じゃあね。おーにさーん、こっち」
ぱんぱんと手を打って、ディド、一瞥《いちべつ》もせず走り出す。ん? これってもしかして。
「あら、あの子、行っちゃったわよ」
「鬼ごっこのつもりなんだーっ! ちょっと、待てーっ」
唖然《あぜん》と見送るデイニを置いて、ジゼルは王子の後を追った。鬼さんこちら。ジゼルが教えたんだ。目隠《かく》し鬼。迷える鬼を叩いて引き寄せて。
あの子、最初から知ってるんだ、弟の居場所を!
なぜ、今、ジゼルに?
そうだ、昨日も今日もディドの部屋を尋ねていないからだ、だから、あの子はジゼルを捜《さが》してやってきた。ミュセ王子を捜していることを知っていたのか。知っていたというよりも、みんなが捜しまくっているからジゼルもそうだと思ったんだ。
ディドにとってはミュセの失踪《しっそう》も、『遊び』と変わらないんだ。
失踪の意味も解《わか》ってはいまい。なんで分からないんだろう、なんで見つけられないんだろう。そう不思議《ふしぎ》に思って、笑っていた。無邪気《むじゃき》に笑っていた。
じゃあ、なぜジゼルに?
答えは一つ。ジゼルがディドと一緒《いっしょ》に遊んであげたから。そのジゼルがミュセ王子の『隠《かく》れんぼ』に加わったから、自分も入れてほしくなった。一緒に遊びたかった。
(ディド……!)
走りながら、うっと胸にくるものをこらえる。
かわいそう。
かわいそうなディド。こんなにも人恋しい、人|懐《なつ》っこい。
廊下《ろうか》の前方を駆《か》けるディドの、きゃははという甲高《かんだか》い笑いが西の宮殿に反響《はんきょう》する。ぱたぱたとサンダルの弾《はず》む音がジゼルを誘《さそ》う。ここの住人も慣《な》れっこなのか、それともこの戦慄《せんりつ》さえかけぬける子供の笑い声さえ耳に届かないのか、誰も部屋から伺《うかが》おうともしない。無関心を装《よそお》う。
廊下を走り、階段を下り、回廊《かいろう》を駆《か》け抜ける。
それにしても、なんであの子、こんなに速いんだーっ!?
走る距離に比例して、ジゼルとディドの間隔《かんかく》も広がっていく。息がこっちは上がってきたぞ。たかだか十歳の人間の子供に、三歳のジゼルが勝てないなんてーっ。
なーんて悔《くや》しがっていたら、この追いかけっこの前にジゼルはたいへんな労働をしていたのだ、ということを思い出した。どうやらこっちの体力ががた落ちみたい。
「ひーっ」
心臓の悲鳴《ひめい》を聞きながら、なおも追跡《ついせき》すると、ふっとディドが掻《か》き消えてしまった。焦燥《しょうそう》にかられてよく見ると、なんてことはない、ディドは殿舎《でんしゃ》から外に出たのだ。
夜の中庭を、ディドの白いぼうっとした姿が駆けていく様が見える。白い寝間着《ねまき》に白い髪。うーん、どう見ても幽霊《ゆうれい》かお化《ば》けみたいだ。
呑気《のんき》に見守っている場合ではない。
王子の後に続こうとして、はたとジゼル、気がついた。ディドが向かうのは本殿、即ちジゼルの部屋やラージャの部屋がある、更には政務室や国賓室《こくひんしつ》まである、この王宮の中心たる建物ではないか。
やられた。
ディドは本当に逃げ回ってるんだ。
ジゼルと一緒に鬼になってミュセを捜すのではなくて、自分も追いかけられる子供の役をとったのだ。
そんな、二人も相手に隠れんぼも鬼ごっこもする気分じゃあないって。
「ディドーっ! そっち行かないで、この宮殿で、ミュセの居場所教えてよーっ」
呼べど叫べど、てけてけてーとディドは行ってしまう。そして、回廊の途中《とちゅう》から本殿に入って、ジゼルの死角に消えてしまった。あ〜あ。
憮然《ぶぜん》とジゼルはその場に立ちつくしてしまった。全《まった》く、こんな忙しい時になんて勝手な。なんかもうヤになってきたぞ。大体、デイニもデイニだ。一日ぐらい待てないのかっ。朝になれば注射野郎も帰ってくるって言ってるのに。ラージャもディドと遊んでやれっ。そうすれば、ミュセの居場所だってすぐに判っただろうに。
あーっ、もう、なにもかも、いやっ。きーっ。
とうとう、十日間|溜《た》まっていた鬱憤《うっぷん》が爆発《ばくはつ》した。こんな異邦《いほう》の地で、ここまで心|穏《おだ》やかにやってきたなんて、ジゼル、偉い。そうでなくても自分の記憶|喪失《そうしつ》のことがあって不安なのに、こんな面倒押《めんどうお》しつけられて、憐《あわ》れんで、奉仕して。もうだめ。もう押さえられない。
「もうっ、ジゼル、頭にきたぞ!」
思いっきり庭に向かって怒鳴《どな》る。むかむかむか。不安と困惑《こんわく》が溜《た》まりに溜まると、どうやら怒りに変わるものらしい。こういう状態を『神経が切れた』と表現するのだろうか。
「どうしたの、ジゼル」
ようやくやってきたデイニが、怪訝《けげん》そうに覗《のぞ》き込《こ》む。ふんっ。なんと言われようと、もう捜しになんかいかないぞ。勝手に行ってくれ。
「……なにムクれてるのよ。早く王子を追いかけなさいよ」
「だって、本殿に行っちゃったんだもん。この忙しいのに本当の鬼ごっこなんかやってらんないよ」
ジゼル、そっぽ向く。もう、なにもかも放っといて、エルシに帰ろうかなあ。なつめに会いたい、言葉が聞きたい。
ところがデイニ、ジゼルの気持ちを組み取ることもなく、呆《あき》れて言うには、
「ばかねえ、なんのために街《まち》に出掛けたのよ。灯台|下《もと》暗《くら》し、よ。本殿こそ一番怪しいわ。思い出して、通気孔《つうきこう》から出た時、どの宮殿にいたの?」
「どのって、みんな同じような中庭で……」
ジゼルは口をとがらして、そこまで言いかけた。
あれ?
そういえば、通気孔から出た時、一番最初に見たのってなんだっけ?
そう、子供だ。この星の子供が二人。魔物《まもの》の使いとか騒がれて。子供がこんな外国からやってきた、偏屈《へんくつ》な学者ばかりの建物にいるだろうか?
「…………」
ジゼルは再び駆け出した。あーっ、ドジ、間抜《まぬ》けっ。ディド、待ってーっ。
本殿に乗り込んでも、もはやディド王子の姿はそこにない。どこに行ったんだろう。地下。階段?
西の宮殿よりさらに多い階段を求めて、ジゼルは駆け出した。今宵《こよい》の宴《うたげ》はピークを過ぎたのか、食べ散らかしを乗せた大きな皿を運ぶ給仕たちが、ぞろぞろ歩いている。洗濯《せんたく》おばさんも相変わらず夜中に歩き回り、お酒の入った壺《つぼ》を抱えて走っていく少年少女もいた。そんな人たちの足元をくぐり、すり抜け、時には飛び越えながらディドを捜す。
焦《あせ》っていたせいで、お酒が入って千鳥足《ちどりあし》の女の人に思いっきりアタックしてしまった。後宮《こうきゅう》に帰る途中《とちゅう》だったらしく、二人の侍女《じじょ》が咄嗟《とっさ》に支えるが、そのまま三人して引っ繰《く》り返る。うわーっ、ご免なさい。
背後で金切り声が飛んでいたが、そんなことに構ってらんない。
階段、階段、階段。どれを見ても一階で終わっている。緞帳《どんちょう》、壁《かべ》、出入り口。扉《とびら》らしきものはない。猫の目線では判《わか》らないのかもしれない。暗くて見えないのかもしれない。
もしかしたら、地下室じゃなかったのかもしれない。
もしかしたら。
「えーんっ、ディドー」
蓄積《ちくせき》されていく不安を振《ふ》り払うように、ジゼル、走りながら首を振る。首を振った途端《とたん》。
どんっ。
またしても、ぶつかった。今度はこっちが弾《はじ》き飛ばされ、ごろごろ廊下《ろうか》を転《ころ》がってしまう。ぶつかったショックで、頭がくらくらするう。
「ご、ご免なさい、急いでいるんで」
くらくらする頭のまま、長居は無用とジゼル、駆《か》け出す。が、打ちどころが悪かったか、ひょろひょろふらふら、なんか真っ直ぐに歩けないぞ。
「なにやってんだ、お前」
その隙《すき》をついて、ぶつかった相手がひょこいとジゼルの首を掴《つか》み上げた。なにをする――そう非難しようとして、それがボーヴォール言語ではないということに、一瞬《いっしゅん》早く気がついた。
この声。この口調《くちょう》。
まさか。
「相変わらず威勢《いせい》だけだなあ、ジゼル」
「アスラ!?」
驚《おどろ》きの声と共に、ジゼルは飛びついた。顔を確かめるまでもなかった。アスラ以外に誰がいる!
「なんだなんだ、やけに感動の出迎えじゃあないか。俺《おれ》との友好は思い出したか?」
笑いながらアスラは揶揄《やゆ》する。でもそんなことは気にならなかった。会いたかった、来てほしかったよおう。
「アスラのばかあーっ、どうしてもっと早く来てくれないんだよ!」
ぱたぱたとアスラの胸を叩《たた》く。アスラはいつものように笑っていた。いつでも、焦《あせ》りも慌《あわ》てもしない、飄々《ひょうひょう》とした態度。見ているこっちまでもほっと安心する表情。
「なに言ってるんだ。ジゼルが十日後に帰るっていうから待ってたんだぞ。ばかだなあ、兎《うさぎ》に間違《まちが》われるなんて。辛《つら》いことあったか、無事《ぶじ》だったか?」
ジゼルを抱き上げ、アスラは顔を覗《のぞ》き込んだ。アスラはうまい。不安だったことも忘れさせる自信に溢《あふ》れた言葉。上に立つ人の度量。
「じゃあ、ジゼルがここにいること、判ってたの?」
「ココリから連絡《れんらく》があって、ジゼルの世界線を追ってみたんだ。結構《けっこう》すぐ判《わか》ったぞ。E・R・Fの技術確認ができてよかったな」
「ジゼル、たいへんだったのにーっ」
「お前が言い出したことだからな。まあどうにかやってると判断《はんだん》して、放っておいたんだ。なつめがうるさいから俺がわざわざ迎えに来てやったぞ」
アスラの、恩着せがましいのは無視《むし》して、なつめという言葉に、ジゼル、顔が強《こわ》ばった。なつめはジゼルの失跡《しっせき》をどう感じていたんだろう。勝手なことして怒ってるかな。慌《あわ》てて、
「なつめ、怒ってた?」
「ああ。たいそう御立腹《ごりっぷく》の様子《ようす》だったぞ」
[#挿絵(img/balance_190.jpg)入る]
「えー。どうしよう」
なつめが怒るなんて滅多《めった》にあることじゃない。どうしよう。なつめに嫌われちゃう!
ジゼルが動転していると、アスラはあははと笑って、
「嘘《うそ》だよ。本当は死にそうなほど心配していた。うちの望遠鏡で生命反応を見張っているから死んではいないって言ったけどな」
「ほんとう?」
「そうそう。ジゼルになにかあったら死にかねない様子だったよ。さあ、もう期限切れだ、帰るぞ」
そう言ってアスラはジゼルを自分の肩に乗せる。そこで、ようやく、なぜ、彼がここにいるのか、という疑問に行き当たった。
「ちょっとアスラ、どうやってこの宮殿に入れたんだよお。潜《もぐ》り込んだの?」
「潜り込むとは人聞きの悪い。|φ《ファイ》ベクトル移動して、ここまで飛んできただけだ」
「また、そういう荒技《あらわざ》をーっ」
何気なくアスラは言うが、φベクトル創造《そうぞう》のための設備をこの星に持ち込めるはずはなし、となれば、始点は宇宙《うちゅう》空間にある宇宙機だ。そんな距離から宮殿の一角に飛び込んでくるなんて、座標《ざひょう》がちょっとでもずれたら壁《かべ》の中だぞーっ。
「うちの機械と科法使いの腕を信用しなさいって。衰退度《すいたいど》七の星にいたから感覚が鈍《にぶ》ったか? やだねえ、身内に信頼《しんらい》されてないなんて」
嘆《なげ》く言葉の割には、ジゼルの頭をぐりぐり押さえつけるアスラ。いてて、こんな奴《やつ》に気を許したのは、やはり愚《おろ》かだったか。
「さあ、なつめが待ってる。φベクトルもすぐ来るぞ。気がかりはあるか?」
「ある!」
アスラが出現したことで、すっかり記憶の隅《すみ》に押し込まれてしまったディドのことを思いだす。そうだ、ディドはどこに行っちゃったんだっ。
「アスラ、ここを白い髪の男の子、通らなかった!?」
「白い髪? あー、白皮症の子供かな。向こうに駆《か》けていったぞ」
「急げーっ」
アスラの肩を踏《ふ》み台に、ジゼル、弾丸《だんがん》のごとく飛び出す。が、その足をむんずと掴《つか》まれて、バランスを崩《くず》したジゼルは宙ぶらりんになってしまった。
「なにすんだよ!」
「その子ならそこにいるぞ」
アスラが指し示す廊下《ろうか》の隅《すみ》を見ると、交差路の角に隠《かく》れるように、ひっそりとこちらを凝視《ぎょうし》する姿があった。確かにディドだ。眉間《みけん》にしわを寄せて、恨《うら》めしそうな目でむずがる表情を作る。ジゼルが追いかけなかったから怒ってるのかな。
「なんだ、あの子、怯《おび》えてるぞ。お前、なにかやったのか」
「え……」
そうか。見知らぬ人間であるアスラが怖《こわ》いんだ。デイニにはそんな態度とらなかったのに。男だからかな? 金髪《きんぱつ》緑眼《りょくがん》白い肌《はだ》のデイニより、茶色の瞳《ひとみ》のアスラの方が親しみやすいと思うけど。そういう問題でもないか。
「ディドはアスラが怖いんだよ」
「俺《おれ》? 俺は比較的人間愛の豊かな男なんだがなあ。ああ、そうか」
なにか閃《ひらめ》いたようで、アスラはジゼルを床《ゆか》に下ろすと、そのままディドに歩み寄った。咄嗟《とっさ》に踵《きびす》を返して逃げようとする王子を、素早く掴《つか》まえて抱き上げる。
「なーに怯《おび》えてるんだ、ディド。俺がジゼルを取るとでも思ったかあ。こんな奴《やつ》、俺はいらんぞ」
「ジゼルだって願い下げだね!」
憤慨《ふんがい》したジゼルの声を、アスラは無視《むし》した。ディドを真っ直ぐ見つめて、
「だがなあ、なつめがジゼルに帰ってきてって言うんだよ。大好きな子が帰ってこないのは辛《つら》いだろう。解るな」
優しい言葉で諭《さと》すアスラ。はっとジゼルは息を呑《の》んだ。初対面なのに、なに一つ、事情なんか知らないくせに、どうしてそんな言葉が言えるの。なんで判《わか》るの。胸に詰《つ》まる。
唇《くちびる》を噛《か》んで、凝然《ぎょうぜん》とアスラを見返していたディドの目が、次第《しだい》に潤《うる》んできて、ひっくひっくとしゃくりあげ始めた。ジゼルが帰ってしまうことを、いなくなってしまうことを理解したんだ。黙って、ただ涙をぼろぼろ零《こぼ》して。帰ることを認めてくれた。許してくれた。
ごめんね、ディド。
ごめんね、ともだち。一緒《いっしょ》にいられなくって。いなくなってしまって。
ごめんね、現れてしまって。別れが辛《つら》いなら、遭《あ》わなければよかった。
「なっ、め……ジゼル、待ってる?」
「そう。ジゼルの友達。ジゼルしか友達がいないんだ。ご免《めん》な、連《つ》れて帰るよ」
「ディドも、ともだちいない。ミュセ、会いたい。ミュセ、ミュセ!」
とうとう声を上げて泣きだすディド。アスラがジゼルを見下ろして尋ねた。
「ジゼル、ミュセって王太子のことか」
「よく知ってるね。ディドはミュセ王子と双子なの。でも、今、ミュセは行方不明《ゆくえふめい》で、ことの成り行きでジゼルはミュセ王子を捜してるんだけれど」
ジゼルが手短に説明する。そこへ、
「ジゼル、そこにいるの?」
デイニだ。そう悟って、はたとアスラのことに気づいても、もう遅い。灯籠《とうろう》の光の向こうから、デイニが駆《か》け寄ってきて、そこでぴたりと歩を停《と》めた。警戒《けいかい》もあらわに、
「……誰? この星の人じゃないわね」
「誰だ?」
アスラの言葉はジゼルに向かって言われたもの。まずいなあ、この展開。
「この星に恋人の消息を追ってきた外国人だよ、デイニっていうの。成り行きで一緒にいるんだけれど、彼女はミレのデテール大学の学生だから、E・R・Fのこと言わない方がいいよ」
「デイニ」
アスラが名前を復唱《ふくしょう》する。その間にジゼルはデイニに向かって、
「こいつはなつめの兄貴で、今、ジゼルを迎えに来てくれたの。安心して」
「へえ……?」
まじまじとデイニはアスラを凝視《ぎょうし》する。まずいなあ、夏離宮《なつりきゅう》に閉じこもっているなつめと違って、アスラは名も顔も知れ渡っている。気づかれなきゃいいんだけれど。
「どうも、ジゼルがおせわになって」
「いえ、たいしたことは」
気を揉《も》んでいるせいか、二人の挨拶《あいさつ》が妙にぎこちない。デイニがどうもしっくりこない様子《ようす》なのは分かるとして、どうしてアスラまで調子がおかしいんだ?
「あのう、あなた、どこかで――」
デイニがそう言いかけ、ジゼルの小さな心臓が大きく蹴《は》ね上がった時だった。
[#改ページ]
ACT.8
「ミュセに会う!」
きんきらした声でディドが叫ぶと、アスラを突き飛ばした。不意をつかれてアスラの腕が弛《ゆる》むと、ディド、駆《か》け出す。
「ディド!?」
様子《ようす》がただごとではないのに驚《おどろ》いて、反射的にジゼルは後を追った。アスラとデイニもついてくるのが分かる。
ミュセに会うって、やっぱりディドはミュセの居場所を知っている。会いたいけれど会えない。どうしてディドはミュセの居場所を知ったのだろう。ディドも連《つ》れていかれたことがある? ううん、それは意味がない。双子だから? ナンセンス?
待って。
待ってよ。肝心《かんじん》なことを一つ、忘れている。
どうしてミュセは消えてしまったか。攫《さら》われた――ミュセが王位に就《つ》いてもらいたくない人に。そう考えて、単純な継承《けいしょう》争いと思い込んで、それ以上を思案《しあん》しなかった。
ミュセがいなくなって、一番得するのは誰《だれ》だ?
ラージャだ。誰からも尊敬されて人気がある。
でも、もし、もしもミュセ自身が隠《かく》れたとするならば……?
その理由は? その意味は? だめだ、解《わか》らない。
見覚えのある階段までやってくると、ディドはくるりとその後ろに回った。そこから先は中庭に通じる出入り口だ――
「ああ!?」
ジゼルとデイニが愕然《がくぜん》として声を上げる。だって、この階段は宮殿の構造上、ラージャの部屋に赴《おもむ》くのに必ず使わなければならない階段だったのだ。なのに、こんな、死角とはいえこんな堂々と扉《とびら》があるなんてーっ。
壁《かべ》と同じ色。でも、ちゃんとノブがある。れっきとした扉だ。
ああ、灯台|下《もと》暗《くら》し……大きく嘆息《たんそく》するジゼルとデイニだった。
ディドは扉《とびら》を開くと、迷いもせずに中に入っていった。一応、周囲《しゅうい》を確かめてジゼルたちも侵入《しんにゅう》する。
暗く狭《せま》い廊下《ろうか》が伸びていた。ゆったりとしたスロープがあり、先に行くと中庭からの月光が上から差し込んでいる。中地下一階といったところだ。雑然とものが放置された廊下。まるで物置みたい。
(……あれ?)
この風景は。
「アスラ、ちょっとジゼルを持ち上げてみよ」
「どうした、見覚えでもあるか」
いつもながら鋭《するど》い男である。アスラに抱《かか》え上げられ、視点の高さが変わると、確かに、ここは見覚えのあるところだった。ここを一度、通ったことがあった。
「秘密の研究室への廊下だ!」
ジゼル、押さえながら声を上げる。デイニの驚愕《きょうがく》に満ちた視線、アスラの怪訝《けげん》な面持《おもも》ち。どんどん先に進むディドを追いながら、ジゼルはアスラに、研究室の謎《なぞ》を簡単に説明した。
「なんで招待研究者の研究室に王太子がいるのよ」
わずかな月明かりの中で、デイニが緊張《きんちょう》しているのが分かる。なんとなく、この状況《じょうきょう》が意味するものを理解してきたのだ。そしてジゼルも、疑惑《ぎわく》の池の下からうっすら見えてきた真実に、気づき始めている。
「なんで研究室がこんなところにあるかの方が問題だろう。大体、脳外科医《のうげかい》がわざわざ国外に出て研究すること自体、異様《いよう》だ。ミレにいた方が設備も整って研究自体はやりやすい。となれば、話は一つだな」
アスラはにやにや笑って言った。
でも、そんな。でも、考えたくない。
(ミレではできない、違法行為をするために)
廊下は黒い壁で遮断《しゃだん》されていた。その前でディドは佇《たたず》み、何度もそうしてきたのだろう、小さく熱っぽい拳《こぶし》を叩《たた》きつけて、胸に突き刺さるような声を上げる。
「ミュセ、ミュセ!」
ミュセはこの中だ。
ジゼルがこの中に入った時は、それらしき姿は見当たらなかった。となれば、あの奥の部屋にいるはず。
ディド。
三つの時、離されたとはいえど、みんなに隠《かく》れて二人は会っていたのだろう。双子。半身。もう一人の自分。ともだち。色んな想《おも》いがディドの中で交錯《こうさく》している。
「音声照合だよ。参った、ここで開くまでまた待つのかあ」
「しかたないわね、聞いたところで一気に突っ込むわよ」
肩をすくめるデイニ。すると、アスラがなにを考えているのだか、
「ばかだな、壁があったら突き破ればいいだろう」
ディドを押しのけて、胸から五センチ四方の小さなカードを取り出す、それから、べしっと壁のど真ん中に張りつけると、
「さ、爆破《ばくは》するぞ。指向性だが危ないから下がりな」
「えーっ!?」
キョトンとしているディドを抱き上げ、壁《かべ》から遠ざかるアスラを見て、こりゃ本気だと、ジゼルたちも慌《あわ》てて飛び退《の》く。ええいっ、唐突《とうとつ》な奴《やつ》!
どん!
天地を揺るがすかの大轟音《だいごうおん》。突風が駆《か》け抜け、白煙と塵芥《じんかい》が吹き荒れた。
こりゃ絶対、みんな目を覚ましたぞ。宮殿中、上を下にの大騒ぎになるぞーっ。
「ア、アスラのばかーっ。めちゃくちゃやりやがって!」
「待ちの体勢はいかんな。ほら、入り口ができたぞ」
舞い上がる微粒子《びりゅうし》に咳《せ》き込《こ》み、涙をいっぱい溜《た》めながら、ぽっかりと口を開けた壁《かべ》を見る。他の部分は崩壊《ほうかい》をまぬがれ、びりびりと痙攣《けいれん》していた。計算通りか、ただの偶然《ぐうぜん》か。
壁の向こうから白い人工光が煙を照らす。中で人々の叫喚《きょうかん》が飛び交っていた。そりゃあ、いきなり平穏《へいおん》な夜を爆破されたのだから、パニック状態に陥《おちい》るのは必至だろう。
黒い影がジゼルの脇《わき》を駆け抜けた。渦巻《うずま》く白濁《はくだく》で、それでデイニだと判《わか》った。
「デイニ!」
「ジゼル、俺は一時|退却《たいきゃく》するぞ。見つかるわけにはいかないからな」
アスラの声が聞こえるが、姿は判然《はんぜん》としない。もう行ってしまったのか。
「ねーね、ジーゼル、行く」
あちこちと壁にぶつかり、ものに蹴《け》つまずきながら、ディドが部屋に入っていくのも確認する。ジゼルはしばらく逡巡《しゅんじゅん》した。
なにか、嫌《いや》な予感がする。
そこに、見てはいけない、見たくないものがある気がする。
でも。
「なんだ、君は!」
「なにも見えない! クリーナーを作動させろっ」
「待ちなさい!」
怒号《どごう》が飛んだ。デイニ、ディド!
ジゼル、飛び込む。煙が充満《じゅうまん》している。視界が開けない。黒い影がうごめいて、入り乱れている。ものを倒す音、ひっくり返す音、悲鳴《ひめい》。
「わわっ、君はデイニ君!」
「先生! クリフォード・ステイシィはどこに行ったんですか!」
デイニの叱責《しっせき》するような声が響《ひび》く。ディドはどこへ。
壁に沿って、ジゼルはゆっくり進んだ。不意に現れる足に、何度もぎょっとしながら、奥の部屋を捜して、ゆっくり、慎重《しんちょう》に。
扉《とびら》は開いていた。そっと中に入る。
ここは隣《となり》の部屋ほど煙ってはいなくて、ぼんやりと霞《かす》みたいなものが漂《ただよ》っているだけだった。なにもかもがジゼルの視界に飛び込んでくる。そしてそれも、自然に目に入ってきた。
なんだろう。
茫然《ぼうぜん》と、それに吸い寄せられる感じで、ジゼルは歩を進めた。なんだろう。見たこともないものがそこにある。
(……見たこともないもの?)
ジゼルの背丈《せたけ》ほどの水槽《すいそう》の中に浮かぶそれを、見たことがない?
ジゼルは知っている。
これは脳だ。脳のかたまり。
頭が痺《しび》れていくようだった。まるでそこにあるものが自分のものであるかのようで、それを凝視《ぎょうし》する自分の存在が不確かなものに感じられる。そんな心地。
茫然自失《ぼうぜんじしつ》となる。頭が散漫《さんまん》となる。なにかに全身を牽引《けんいん》されるような、鈍痛《どんつう》が走る。
(これを、見たことがある)
(どこかで見たことがある)
どこで?
どうして? どんな風に?
それは、誰《だれ》のものだった? 誰の脳だった?
「なんだ、お前は!」
鋭《するど》い詰問《きつもん》が背中を突き飛ばした。はっと我に返って振り向くと、扉の傍《かたわ》らに初老の男が仁王立ちに佇《たたず》んでいる。白髪《しらが》混《ま》じりの黒髪、黄色の肌《はだ》、白衣《はくい》、外国人だ。防護|眼鏡《めがね》の奥で黒く鈍《にぶ》い光を放つ双眸《そうぼう》が、ジゼルを睨《にら》みつけた。
「お前はあの時の……!」
男がにじり寄ってくる。対峙《たいじ》したジゼルは、咄嗟《とっさ》に部屋の状況《じょうきょう》を判断した。
いつのまにか霞《かすみ》は晴れている。この部屋にいるのはジゼルとその白衣の男の人だけだった。部屋自体は、隣の部屋とさほど変わらない広さの、閉鎖《へいさ》空間である。隣以上に、精密《せいみつ》機械が裸《はだか》のままこちゃこちゃ据《す》えられて、赤や青のコードが床を縦横無尽《じゅうおうむじん》に這《は》っていた。パイプも大小|様々《さまざま》飛び交っており、整然たるところは一つもない。始めからここは研究室として使われていた、という向きではなかった。次から次へと急いで計画なしに詰め込んだ様子。そして、それは、この部屋で少しでも暴《あば》れたら大惨事《だいさんじ》になることをはっきり語っている。
一方の壁に鎮座《ちんざ》するあの水槽。中には少し青みがかった液体が揺れていて、小さな気泡《きほう》が下から無数に湧《わ》き上がっていた。まるで教材用の偽《にせ》もののように、ぴかぴか光る脳塊《のうかい》には、おびただしい数の電極が刺し込まれ、細い、人毛サイズのコードに繋《つな》がっている。コードは水槽の蓋《ふた》の部分に集められ、そこから大きなコードに分かれ、そして、大きなコードは床《ゆか》を這い天井《てんじょう》を昇り、色々な機械を経て、そして。
部屋の隅《すみ》に据えられた、白い、巨大なさなぎのようなものを見つけた時、ジゼルは直感で悟った。
あの中にミュセはいる。
多岐《たき》に分かれたコードの最終地点、ターミナルとなるさなぎの中に、王太子ミュセはいる。必ず。
「お前はなにものだ?」
科学者の剣呑《けんのん》な視線を跳《は》ね返しながら、じりじりと横這いに動いて、ジゼルはさなぎの上に飛び乗った。上部は透明になっており、中が鮮明《せんめい》に覗《のぞ》けた。
果たして、その中にミュセ王子は眠っていた。
小さな、ディドに酷似《こくじ》した面持《おもも》ちの少年もまた、青い液体に浸《ひた》っていて、全身に電極が刺し込《こ》まれていた。針《はり》人形のようで、見るからに痛々しい。口には太いチューブが何本か差し込まれ、鼻腔《びこう》にも耳腔《じこう》にもにょろにょろと侵入《しんにゅう》している。眼球にもコード付きのレンズが嵌《は》められて、そして、頭部はすっぽりと透明ななにかで覆《おお》われていた。
一体なにをしているのだろう。
どきどきと鼓動《こどう》が速くなるのが分かる。一体ミュセ王子になにを施《ほどこ》しているのだろう、それともミュセがなにかしているのだろうか。
この装置《そうち》。このチューブの群れ。
あの脳は、十歳になったばかりの少年の脳なのだ。
「お前はなにものなんだ? 私たちの言葉は喋《しゃべ》れたな」
科学者は再び尋ねた。からからに乾《かわ》く喉《のど》から、振《ふ》り絞《しぼ》ってジゼルは言う。
「あ――あんたたちこそ、なんなんだ。これはなんだ、ミュセ王子をどうしようというんだ!」
興奮《こうふん》して声が震《ふる》えていた。思いうきり怒号《どごう》を飛ばしたつもりなのに、呟《つぶや》きのような声しか出てこない。
「お前、委員会のスパイか?」
相手の口調《くちょう》は落ち着いていた。なんで冷静なんだ、見られたことはたいした問題ではないのか、合法なのか、それともなにか裏があるというのか。
「ジゼルはスパイなんかじゃないやい! 手違《てちが》いでこの星に来て、ラージャ王女にミュセを捜《さが》してほしいって頼《たの》まれたんだ! あんたたちはこんなところでなにしてるんだ!」
「お前に言うことはなにもない。ミュセ王子はしかるのち、戻《もど》る」
淡々《たんたん》と男は言った。隣《となり》の部屋の喧騒《けんそう》に比べて、この部屋は緊迫《きんぱく》が張りつめている。誰もこっちに気づかないのだろうか。
「ミュセの脳なんか取り出して、なにをしようとしてるんだ。やっぱり、気づかれないように弄《いじ》って、廃人《はいじん》にする気なの?」
「まさか。たかがそんなことぐらいに、これほどの大がかりなことはせんよ」
ふふふ、と男は含んで笑った。その口もとの笑いに、戦慄《せんりつ》が肢体《したい》を駆《か》け抜ける。怖《こわ》い。やだ、この人、マッドサイエンティストだ。ほんものだ。怖い!
「ジゼル!」
デイニが飛び込んできた。さすがに科学者は顔色を変えて、
「な、なんだ、君は! 他の者はどうした!?」
「そこらに転がってたスプレーをかけたら、みんな腰砕《こしくだ》けになっちゃったわよ。教授、クリスの居場所を知ってるんでしょ!」
デイニはあくまでもそのことのみに執着《しゅうちゃく》していた。立派というかなんというか、脳のことなんか気づく様子もない。教授と呼ばれた男は、怪訝《けげん》に眉《まゆ》をひそめたが、
「クリス? クリフォード・ステイシィのことか。ああ、そうだ、君はデイニ君」
「クリスはどこに行ったんです。教授なら知っているはずです」
「クリフォード君なら次の研究所へ行った。でも、もう別の場所に移っているはずだ。そこから先は私は知らん。待っていなさい、住所のメモをあげよう」
そう言って、男が胸に手を入れた時だった。
「デイニ、危ない!」
ジゼルの声に反射して、デイニが後ろを向いたその瞬間《しゅんかん》、彼女のみぞおちに拳《こぶし》が食い込《こ》んだ。声も立てず、身体が崩《くず》れるデイニを支えたのは、驚《おどろ》きにもボーヴォール人だった。
「デイニ!」
さなぎの上から思わず飛び上がったジゼルだが、科学者の思いがけず素早い行動で、薬品の噴射《ふんしゃ》をまともにくらってしまった。あー、これは、昼間の神経《しんけい》麻痺《まひ》の薬だっ。本当にろくでもないもの作りやがって!
へなへなとその場に倒れ込んでしまう。身体が動かない。金縛《かなしば》りにあったようだ。心はこんなに急《せ》くのに、ええい、役立たずな神経なんだから!
「リン教授、この騒ぎは……」
ボーヴォール人がデイニを引き摺《ず》って男に近寄る。おどおどして、忙しく周囲《しゅうい》を見回して、全《まった》くこの場に不自然だった。
あれ? どこかで見たことがあるような。
典型的なボーヴォール人の顔立ちに体型をして、特徴なんかほとんどないけれど、どこかで見たような口髭《くちひげ》……?
リン教授、頷《うなず》くと、
「大臣どのは早々に表の扉《とびら》を封鎖《ふうさ》して下さい。今、この部屋を見つけられるわけにはいきませんからな」
「ここのことは誰も判《わか》らん。ここの廊下《ろうか》を見つけるのも困難だ、入り口には緞帳《どんちょう》がかかっているしな。だ、だが、今見たら、なにもかかっていなかったぞ。この娘のしわざか?」
え? ディドに導かれて入った時、既に緞帳なんかなかったけど。
「爆発《ばくはつ》もそうです、そこの扉を爆破されました。ああ、その娘は丁重《ていちょう》に扱うように、私が責任を持って本国に送り返します」
言葉使いは丁寧《ていねい》だが、教授、高飛車《たかびしゃ》な態度だぞ。こういうのが慇懃無礼《いんぎんぶれい》という奴なんだな。根本的に科学者は、衰退《すいたい》文明の人々を見下す傾向にある、とアスラが言ってたっけ。大臣と呼ばれた人の方も教授には頭が上がらない様子《ようす》だった。こいつが結託《けったく》していたのか。でも、この人は、確か――
「し、始末した方がいいんじゃないか」
「それには及びません。その娘はそうするわけにもいかないのです。さあ」
「あーっ、思い出した! 大臣! ミュセ派の大臣!」
ジゼルが、あらん限りの音量で叫んだ。そうだ、ミュセがいなくなって一番に騒いでいたという大臣だ。派閥《はばつ》争いの概略《がいりゃく》を知った時、わざわざ顔を見に行ったんだ、覚えている!
ぎょっと二人がひるんだ。戦《おのの》きながらジゼルを見下ろし、
「ま、魔物《まもの》の使い?」
「安心を。動けやしません」
リン教授は頬《ほお》に一線の引きつりを見せながら、ジゼルをつまみ上げた。まるでゴミでも掴《つか》むようじゃないか、失礼な。
でも、なぜ?
なぜ、ミュセ派の大臣がここへ? 場所を知っていたのなら、なぜ、救いださない? あれ? でも、この二人は結託しているみたいで。大臣が裏切ったの? 誰を? 誰の味方をしているの? あれれ?
頭がこんがらがってしまった。沈着冷静になれ。よく考えて。
「お、王子の方はいつ完成するんだね」
「あとしばらくです、まずこっちの方を」
酷《ひど》いことに教授はジゼルをテーブルの上に投げ付けた。べちゃんという音が立つ。痛みは感じないが、腹は立派にたつぞ!
「やいやいっ、もうここまできたらちゃんと説明しろっ、完成ってミュセになにしてるのさ! 大体、あんたはミュセに王位に就《つ》いてほしいんじゃないの?」
「む、無論《むろん》だ、殿下にはどうしても王位を継《つ》いでいただかねばならんっ。ラージャ姫なんかに渡してたまるもんか」
脂汗《あぶらあせ》を丸々した顔にびっしり浮かべ、唾《つば》を飛ばしながら大臣は言った。
ラージャ?
ジゼル、きょとんとなる。だって、ミュセ派が対立していたのはディド派でしょう。どうしてラージャなんか……
あ。
そうか、そういうことか、判《わか》ったぞ。
キッと目だけを動かして、大臣を睨《にら》みつける。そして、
「そうか、あんたたちは最初からディドのことなんか考えてなかったんだ。敵対視していたのは、頭の良くてみんなから慕《した》われているラージャだったんだ。男子優位だからって、いつ引っ繰《く》り返されるか判らないもの。ラージャの人気はそう危惧《きぐ》するほどに高かったんだ。だから、ミュセ自身を改革しようとしたんだ。脳に直接、働きかけて!」
ジゼルの咎《とが》めに、あっというまに大臣は蒼黒《あおぐろ》くなった。図星《ずぼし》を突いたのか、ひどくうろたえて、わなわなと全身を震《ふる》わせて。
「きっ、君! こいつの口を封《ふう》じたまえ! 早く!」
泡《あわ》を吹きかねない剣幕《けんまく》で大臣は教授に命令したが、彼は至って平静だった。
「まあ、待ちなさい、こやつの言動には興味《きょうみ》深いものがある。見たまえ、この肌触《はだざわ》り。とても人工皮膚には思えない。思考回路も面白い。こいつには確たる自我《じが》がある。とてもサイバマシンとは考えられない。かといって、自然猫とも考えられない。非常に人間的だ。実に興味深い。自我規制が施《ほどこ》されていない、ロボット時代の人工知能みたいだ」
ぎらぎらとした教授の二つの目。脳天《のうてん》から爪先《つまさき》まで、震えの波が通りすぎた。怖《こわ》い。ほんとうに怖い。変質的、という以上に、科学者であるということ、科学者の視線、それが怖い。
「そんなことはどうでもいいっ。早く処分しろ!」
大臣には科学者の言っている意味が皆目《かいもく》把握《はあく》できていない。それを一瞥《いちべつ》する科学者のまなざし。侮蔑《ぶべつ》と嘲笑《ちょうしょう》に満ち満ちた、悪魔《あくま》のまなざし。
「こいつの脳を見てみよう。どこの製品かぜひ知りたいものだ」
声が出なくなる。
息が吸い込めなく、吐き出せなくなる。
すさまじい恐怖感《きょうふかん》がジゼルを襲《おそ》う。怖い、怖いよう!
昔、なつめと一生懸命走った。とても怖かった。大勢の人に追いかけられていた。
助かるの? 助からないの?
生きていいの? 死んでいいの?
「ごめんね」
泣かないで、なつめ、必死《ひっし》に逃げた。逃げ切れない。
「ごめんね、起こしてしまって。ごめんね、ずっと眠っていたかったね」
そんなことない、そんなことないよ。なつめに遭《あ》えて幸せだった。起きて幸せだった。
昔《むかし》、一生懸命走った。白い服を着た大勢の人から逃げた。
とても怖《こわ》かった。白い服の恐怖《きょうふ》が襲《おそ》ってきた。
「ごめんね、こんなに辛《つら》いなら、目覚《めざ》めなければよかったね」
謝らないで、なつめ!
「あーあ、こりゃあ違法すれすれのことをやってるな」
やけに間延《まの》びした、緊張感《きんちょうかん》のかけらもない調子。
「だ、誰《だれ》だ、きさま!」
「いつの間に!?」
アスラ。
大臣と科学者の驚愕《きょうがく》を孕《はら》んだ誰何《すいか》を無視《むし》して、水槽《すいそう》の中をまじまじ眺《なが》めているのは、サングラスをかけて隠《かく》しているけれど、アスラだった。戻《もど》ってきたんだ。
「…………」
ジゼルは言葉が出なかった。安堵感《あんどかん》が恐怖感と同じほど押し寄せてくる。
そうだ。いつだって、アスラが助けてくれた。心配はないよと笑ってくれた。
(いつだって――…?)
「でも、こいつ自体がライフサイエンス法に違反するしなあ。知らない? 生体機械技術による脳髄《のうずい》生成の禁止、これ、人工脳髄だろう」
唖然《あぜん》とジゼルは台の上からアスラを凝視《ぎょうし》した。平然と語るが、なんでそんなこと、アスラなんかに判《わか》るんだ? い、いや、人工脳髄だなんて、ミュセの脳を引き出したんじゃないの!? 科学者の面を瞥見《べっけん》すると、唇《くちびる》を噛《か》みしめ、蒼白《そうはく》になっている。当たりみたい。大臣はそこまでくると説明を受けていないらしく、当惑《とうわく》にうろうろ、アスラと科学者を見比べていた。
「きさま、なにものだ……」
押し殺す科学者の声。いきなり湧《わ》いて出てきた。素性《すじょう》も知れぬ男に秘密を明かされ、いたくプライドを傷つけられている様子が、手に取るように分かった。アスラはそんなこと、皆目《かいもく》お構いなしで、
「人工脳髄に記憶をそっくり移し変えて、更に『教育』してたんだな。でも、そんな風にしてくれとは彼らは要求していなかったんだろう? いい実験体《じっけんたい》だものな、見つかっても科《とが》を受けるのは彼らだけで、自分たちは外国人特権で国外退去で済むものなあ。委員会も衰退度《すいたいど》七の星ではめったに介入《かいにゅう》してこないし、王宮内ならうやむやにできるし、おいしい材料だもんなあ、研究材料としては」
大臣クラスなら公共語は扱《あつか》えるはずだが、内容が内容だけに、呆然《ぼうぜん》としたていでいる。
そんなことをしていたのか。
つまり、ミュセを推《お》す大臣(たち)は、ラージャの台頭を恐れてミュセの頭を彼女に負けないよう、科学でどうにかしてほしいと依頼《いらい》したんだ。ところがこの科学者たちが、いい獲物《えもの》がきたぞとばかりに、彼らが科学に対して無知なのをいいことに、好き放題|実験《じっけん》していたというわけだ。それをしても大丈夫《だいじょうぶ》な環境《かんきょう》のこの星で。
「死ね!」
拳《こぶし》を震《ふる》わせていた科学者が、突然アスラに体当たりした。が、彼に身体が触《ふ》れる前に、縮んだ空気圧に押し返され、ごろごろとぶざまに転がる。その手から、小さな注射器がこぼれた。
「きさま、一体!?」
科法だ。アスラの周囲《しゅうい》を、奴が体当たりした刹那《せつな》、【斥力《せきりょく》】が覆《おお》った。近くに科法使いがいるんだ。
「でも、無駄《むだ》だったろう」
なにごともなかったように、アスラは語り続けた。
「そこのおじさんには気の毒《どく》だが、失敗なんだよな。なぜなら、人工|脳髄《のうずい》は『学習』も『教育』もできるが、目覚《めざ》めないんだ」
「!?」
「なぜそのことを――!」
科学者は、今度こそ言葉を失うほど驚倒《きょうとう》して、愕然《がくぜん》と立ちすくんだ。そして、ジゼルもまた。
「自我を持つに至らない人工脳髄。人工知能を備《そな》えれば立派に始動するんだが、それじゃあ意味が違ってくるんだよなあ。そうだよな」
もがくような表情で、アスラの言葉を聞いていた科学者だが、不意にがっくり膝《ひざ》をついた。そして、かん高い声で、
「……なぜだ。なぜなんだっ。なぜ、覚醒《かくせい》しないんだ!」
食い込んだ爪《つめ》に皮膚が破れて血がにじんだ拳《こぶし》を、科学者はテーブルの足に叩《たた》きつけた。机上のジゼルが跳ね上がるほどの強さ、興奮《こうふん》、そして、絶望。
「全《すべ》ての問かけに反応する。高度な計算も瞬時《しゅんじ》に解《と》ける。なのに、計器を外した途端《とたん》、なぜ、機能を失ってしまうんだ! 自力で動こうとしないんだ!」
「宇宙時代一万年の最大の謎《なぞ》ってな。クローン脳はちゃんと目覚めるのに、人間が塩基配列から計画して、原子を一つ一つ組み立てていった生体機械の脳は無理《むり》なんだ。発生と分裂を経験しない脳髄は、な。周知の事実だ」
「人間の身体は日ごと入れ替《か》わっているというのにか。カルシウムも鉄もリンも、一生の間に何度となく交換《こうかん》されているというのに。脳髄とて同じことだ。原子レベルなら絶えず流動しているっ。ならば、精神なんぞ現象に過ぎん、物質の入れ替わりに過ぎないではないか。全ての記憶と信号を伝えたんだ。今までのシミュレーションではなく、本物の脳髄の信号だったのに。理論は合っている、理論通りなのに!」
だん、だん、と幾度となく拳を振り上げ、遂《つい》には自身がつっぷしてしまった。自分の研究が失敗した科学者は、あまりにも惨《みじ》めだった。惨めすぎて、怖《こわ》かった。激しい徒労感と怨憎《えんぞう》が全身から吐き散らされている。
憎しみ?
誰に対して?
「……若僧!」
科学者が悲鳴《ひめい》に近い声を上げたかと思った刹那《せつな》、ジゼルの身体は奴に鷲掴《わしづか》みにされていた。そして、呆然《ぼうぜん》と佇《たたず》む傍《かたわ》らの大臣の腰からサーベルを抜き取り、そして、
「きさまこいつの持ち主だな。ふふん、たかだか二十代のひよっ子が、私に意見するとは笑止千万。これはたまたま失敗したに過ぎない、わずかなミスのせいだ。残念なことにミスがどこに潜《ひそ》んでいるか皆目《かいもく》見当がつかん。だが」
自分の掌《てのひら》がえぐれるのも気にせず、科学者は刃をぐっと握《にぎ》り締《し》め、その先をジゼルの額に突きつけた。
息が詰《つ》まる。
「! だめだ、そいつには手を出すな!」
「こいつの中身を調べれば、その糸口が掴《つか》めるやもしれん。このやけに人間的なサイバマシン、こいつの人工知能を調べれば」
とろとろと、生暖かい血が刃を伝って流れ、ジゼルの純白の毛並に鮮《あざ》やかな紅の染《し》みを作った。押しつけられた刃先が痛い。目に血が入る。レンズを覆《おお》う緋色《ひいろ》。視界が一転する。
やだ。
やだ。怖《こわ》い。
怖い。助けて、アスラ。助けて、なつめ。
怖い怖い怖い怖い怖い怖い。コワイ。
[#挿絵(img/balance_220.jpg)入る]
コ・ワ・イ。
「規制を施《ほどこ》していないのか、それともこれが意図なのか。さあ、見てやるぞ、科学の勝利のためだ!」
「やめろ! ジゼルに手を出しては――!」
助けて、なつめ!
「ああっ!?」
アスラのめったに聞かれない怒号《どごう》も、科学者の血迷った歓喜も、誰かの驚声《きょうせい》も、遠く遠くなった。
ぐにゃんと視界は歪《ゆが》み、ただちに補正《ほせい》される。代わりに、それまで大人しく床《ゆか》を壁《かべ》を埋め尽くしていたチューブやコードが、うねり、波打ち、全ての束縛《そくばく》を解いて屹立《きつりつ》した。虫の触手《しょくしゅ》のようにそれは手を伸ばし、硬直している科学者を愛撫《あいぶ》し、そのまま絡《から》めとる。
「うああああ……」
優しく抱き込み、巻きつき、しなやかな手つきで、あたかも布《ぬの》を絞《しぼ》るようにひねりと回転を加えた。
肢体《したい》を全《すべ》て取り巻き、髪一つはみださなくなるまで絡んでも、それはとどまらず、上から下から手は伸びた。そして、しまいには天井《てんじょう》と床《ゆか》の間に宙《ちゅう》吊《づ》りになった、チューブの卵と化す。
嗚咽《おえつ》が小さくなる。真っ赤な幻想《げんそう》。一刹那の、夢とも現ともつかない、光景。
声が遠い。意識が薄らぐ。希薄《きはく》になる。
もう届《とど》かない。
もうなんにも感じない。
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ACT.9
どやどやと、大勢の足音を聞いた。そして、
「これは一体、なんの騒ぎです!」
凛《りん》と響《ひび》き渡る女声が、向こうから飛んでくる。
ああ。ラージャの声だ。人間の気配《けはい》。人が沢山押し寄せてくる。
「ジゼル!? 起きてちょうだい、これは一体どうしたの」
ゆさゆさと身体をゆり動かされ、ようやくジゼルは瞼《まぶた》を開ける気になった。ぼんやりとした視界には、ジゼルを凝視《ぎょうし》するラージャ王女の姿と、その手に引かれた弟ディド、そしてその背後に有象無象《うぞうむぞう》のボーヴォール人たちが佇《たたず》む様子《ようす》が入ってくる。
ディドが姉王女を呼びにいったんだ――そう理解して、ジゼル、再び眠りの泥《どろ》の中に引き摺《ず》り込《こ》まれそうになった。
「ジゼル、あなた怪我《けが》をしているの? 聞こえて?」
「……んー。眠いだけ」
「それなら起きてちょうだい。これは一体、どうなっているの。ミュセがあそこにいるわ、でも、むやみに蓋《ふた》を取ってはいけないのよね。そうでしょう?」
「うーん。起きる」
しかたなしに、ジゼルは身体を起こした。一回、思いっきり伸びをする。よく寝た感触《かんしょく》があるけれど、あまり時間は経過していないみたい。
周囲《しゅうい》を見回すと、もうアスラはいなかった。いたような痕跡《こんせき》さえ見せなかった。
(え!?)
自分の目を疑うのにしばらく時間が必要だった。あまりにもその場が変化なく、なにごともなかったような顔をしているので、気づかなかった。
あの、チューブとコードの反乱は?
反乱は霧散《むさん》していた。それらは元の鞘《さや》に収まり、そんなできごと存在しなかったよ、とあたかも言っているようだった。おとなしく床《ゆか》を這《は》い、壁《かべ》に掲《かか》げられて、微動だにしない。無論《むろん》、卵も消え、ただ、科学者と大臣だけが床に昏倒《こんとう》していた。警備兵《けいびへい》がいくら揺さぶっても、目を覚ます気配がない。
あれは、夢だったのか。いや、科法使いが観《み》せた【幻想《げんそう》】かもしれない。きっとそうに違いない。
デイニも頬《ほお》を叩《たた》かれて、目を覚ました様子。ミュセ王子を包んだ繭《まゆ》の側には人だかりができていて、成す術《すべ》なく、当惑《とうわく》して中を見つめていた。
「多分、どこかに電極を外すスイッチがあるだろうけど……そこの教授、起きない? じゃあ、隣《となり》の部屋で腰砕《こしくだ》けになってる人にやらして。無理やり外すと、脳障害《のうしょうがい》が起こると思う」
「分かったわ。誰か、隣に倒れていた者を連《つ》れてきなさい。ミュセにいっさい触《ふ》れぬように。それから、ケルトーナ右大臣を監禁《かんきん》して見張りを立てなさい、招待科学者の方々も本殿に軟禁《なんきん》するよう。くれぐれも丁重《ていちょう》に。いいですね。そう、誰か、父上にこのことを伝えなさい、右大臣、謀反《むほん》の疑いありと」
てきぱきと指示を下すラージャに従って、有象無象の集団は迅速《じんそく》に行動し始めた。
胃が気持ち悪いと訴《うった》えるデイニは、王女の配慮《はいりょ》でジゼルの部屋に運ばれていったし、痺《しび》れ薬を中和された科学者たちは、不本意ながらも、どこかしらほっと胸を撫でおろしたような、複雑な表情で、黙々とプラントの解体にかかった。
それを一部始終、監視しながら、ジゼルはラージャにことの顛末を語って聞かせた。もちろん、ジゼルのことやアスラのことは内緒にして。
わずかに柳眉《りゅうび》を曇らせて、無言のままラージャは聞いていた。弟王子の身体から電極が一本一本抜かれていくのを、凝然《ぎょうぜん》と見つめていた。
もう明け方になって、ようやく全ての作業が完了した時、液体が抜かれ、チューブもコードも一切取り払われた時。
漫然《まんぜん》たる面持ちで上半身を起こしたミュセ王子を、濡《ぬ》れるのも構わずラージャは抱擁した。右と左にそれぞれ弟王子を抱えて、優しく。愛情を込めて。
それを見て、みんな泣いていた。うーん、感動だあ。感動の対面。ジゼルも目頭《めがしら》が熱くなるよ。こういう話、好き。心暖まる人情話は大好き。
よかったね、ラージャ。よかったね、ディド。
茫《ぼう》たる面持ちでにこりと微笑むミュセ王子の双眸に、ディドと同じ光を見た気がした。
「お別れだね、デイニ」
「うん。楽しかったわ」
全てが終わった次の日。街外れの駅に向かう一本道で、ジゼルはデイニと別れの挨拶《あいさつ》を交わした。
あれから右大臣一派の陰謀は宮中に露顕《ろけん》した。御法度《ごはっと》の機械を使用し、王子を一存で改造しようとした罪は重い、とかで、官位《かんい》剥奪《はくだつ》、王都バーシンを追われる身となった。
「人工脳髄なんて難しいことは私には解りかねるけれど、脳を入れ換えたならば、たとえそれがミュセの記憶を持っていたとしても、それは、ミュセではないわ。そうでしょう」
ラージャの言葉。多分、それは正しいと思う。でも、その時、その人は誰になってしまうのだろう。誰であるべきなのか、誰になっていいのか。
ミュセ王子の様子がおかしい――それに気づいたのは王子の側近だった。始めは長いこと冬眠状態に陥っていた為の後遺症かと思われていたが、ぼんやりした面持ち、焦点の定まらない双眸。問かけと返事の長い間《ま》。まるで、ディドと同じ反応を示すのだ。
人工脳髄への【学習】と【教育】のせいで、オリジナルが擦《す》り減《へ》ったらしい。そう医学科学者は当惑しながら解釈していた。そんなことって。そんなことって……!
禁を犯した罪だ――人々はそう囁《ささや》いた。これで彼等の機械文明への嫌悪はさらに深まってしまった。拍車をかけてしまった。ジゼルはなにも言えなかった。機械文明の一番いやな部分を見せられて、それでも尚、機械文明は素晴らしいなんて、どうして言えよう?
ジゼルの提案とラージャの進言で、二人の弟王子はミレのメディカルセンターに送られることになった。いまさら、科学に頼るなんて――と非難されたが、こんな状態の王子を二人も抱えているわけにはいかないと押し切った。あそこは法にがっちり束縛されているから安全だ、とも。
科学者たちにはアスラの推測通り、国外退去命令が下った。それだけだった。明日にはどこか別の星へと消えてることだろう。義憤《ぎふん》を感じたが、理不尽なものを感じたが、ジゼルにはどうにもできなかった。
それから、ラージャは王太女に返り咲くらしい。弟王子が二人してあんな状態だから、また、かねてよりの人気の高さに、国王がそう判断して確定したそうである。ちょっと困ったような、それでも毅然《きぜん》と受諾《じゅだく》したラージャのきりりとした口もとが印象的だった。
そして、ジゼルもデイニもやることはやったので、晴れてこの国を出ていくのである。
ディド。笑って手を振った。遭《あ》わなければよかったなんて嘘だよ。遭えて楽しかった。嬉《うれ》しかった。ミュセと仲良くね。
ラージャ。頑張《がんば》ってね。先はこれからだから。
「また、クリスを追うの?」
「一応ね」
デイニは突風に帽子を押さえて、涼しげな顔で答えた。
「残念だね、ここにいなくて」
「ええ。でも、良かったのかもしれない。私、最近思うの。本当はあの人のこと、好きなんかじゃないのかもって」
意外な言葉をデイニの口から聞いたので、ジゼルはきょとんと彼女を見返した。
「私、あの人を初めて見た時、この人を好きになるって確信したの。それで、付き合って、好きになった。そう思い込んでいるだけかもしれない。あの人と一緒にいても心は静まっているのに、逢わない時は恋い焦がれていた。これって、恋に恋しているって状況だわ。今が一番、幸せなのかもしれない。逢えない方がいいのかもしれない」
「な――なに弱気なこと言ってるの! デイニらしくないよっ」
慌ててジゼル、フォローする。でも、そういう考え方するのも、本当はすっごくデイニらしい。
彼女はなにかを振り切るように首を振ると、にっこりと微笑んだ。そして、
「まあ、いいわ。とにかくもう少し、足取りを追うつもり。死んでるかもしれないしね、頑張るわ」
なんか引っ掛かる言い草だったけれど、いつもの強気のデイニに戻ったのでほっと安心するジゼルだった。
「行くわ。汽車の時間に遅れるから」
デイニ、足元のバッグを手に取る。
「本当に乗ってかないの?」
「ええ。正規に人国したからね、ちゃんと出ていかないと後々うるさいのよ。そういえば、あの人、なつめさんのお兄さん? あの、素敵ね。二十三歳なんでしょ、クリスと同い年なのにああも違うのね。いいなあ、失敗したかなあ」
「クリスはどんなの?」
「生っちろくていかにも学者肌って感じの子供よ。全然大人じゃないのよ、あはは」
豪快にデイニは笑い飛ばした。全く、逞《たくま》しい娘さんだった。
「また逢えるといいね。ありがとうね」
そう言って、デイニは小径を一人、いつまでも手を振りながら、小さく風景と識別できなくなるまで手を振りながら去っていった。
行っちゃった。
しばらく、ジゼルはその場に座り込んで、彼女が消えた方を見守っていた。
「いい娘さんじゃないか」
いつの間にかアスラが側にやってきていた。
「爽《さわ》やかだな、ああいうのはいい。なにより、男を見る目がある」
「なにそれ、アスラってデイニみたいのが女の子の好みなの?」
憮然《ぶぜん》として尋ねると、アスラは笑いながらジゼルを抱き上げ、そして、
「少なくとも親友に持ちたいタイプだ」
「また、遇《あ》えるといいな」
「遇うさ、絶対。さあ、帰るぞ。なつめが待ってる。宇宙機《うちゅうき》の中で今回の成果の感想でも述べようじゃないか」
「これはなつめに見せるためにレコードしてるの!」
「スポンサーに大きな口を叩《たた》かない。さあ、移動するぞ」
かくして、ジゼルは十一日ぶりに機上の猫と化したのであった。
チーッとディスクテーブルが回転して、スリットから出てくる。E・R・Fコーポレーションの専用宇宙機の中、アスラの私室《ししつ》でジゼルと一緒《いっしょ》に見ていた画面が、ぷつんと白く、そして透明になった。時間の流れない|φ《ファイ》ベクトル空間の中での壮大な上映。たった今、プレイし終えた瞳《ひとみ》大《だい》の精密《せいみつ》なレコードディスクを丁寧《ていねい》に取りはずし、アスラは小箱にしまいながら感想を述べ始めた。
「俺《おれ》が思うに、あの王女は全部知っていたと思うぞ」
「どうして?」
アスラの膝《ひざ》の上で、ジゼルは聞き返す。
「言っただろう、脳医《のうい》があんな星にいること自体、おかしいって。招待研究者というが、招待される意味がないんだよ。あの星に特定する意味がないんだ。地理学者や動植物学者ならともかく。それは即ち、誰《だれ》かが故意に引き寄せたということじゃないか。違法行為が行えることを餌《えさ》にして」
「それは、大臣たちが……」
ラージャがまた悪者にされてしまうので、ムッとしながらジゼルは反論する。だけれど、今一つ自信がなかった。だって、
「魔法《まほう》とか呪術《じゅじゅつ》に頼《たよ》って生きる彼らがか? 脳手術がどのような効果があるかもよく理解していないボーヴォール人が? それよりも、デテール大学の学生であった王女が、その時の縁を頼《たよ》りに、彼等を国に招《まね》いたと考えた方が自然じゃないかなあ」
「でもお、それはそれで、ミュセのことを依頼《いらい》したのは大臣たちだって、奴《やつ》らだって認めたもんっ」
「招く代りに大臣たちを唆《そそのか》してくれ、と頼む王女」
アスラは淡々《たんたん》と語る。ジゼル、なにか言い返したかったけれど、うまく言葉にできなかった。そんなのって、ない。そんなのって、あんまりだ。あの時、ミュセが目覚《めざ》めた時のラージャの抱擁《ほうよう》は本物だった。自分の弟をあんな目に会わせて、それであんなに平然と、捜索隊《そうさくたい》まで出させて、そんな偽善《ぎぜん》ができる人じゃなかった。
ジゼルが悔《くや》しくて涙さえ浮かべそうになるのを見たアスラ、悪いと思ったか、
「それじゃあこうも考えられるさ。反対に、王位のことをどうにかしてやるから、自分たちを国に招いてくれ、そう王女は言われた。デイニが言ってたように、彼女はあっさりと自分が切り捨てられたことに不満を持っていた。でも、弟たちは可愛《かわい》い。だから我慢《がまん》してきた。でも、そう持ちかけられ、つい魔《ま》がさして頷《うなず》いてしまう。そして弟が消えた。始めは傍観《ぼうかん》していたが、だんだん弟のことが気になって、捜索隊《そうさくたい》を出すに至る。あの王女は王位を継《つ》ぎたかったわけでも、弟たちを憎んでいたわけでもない、自分が認められなかったのが悔《くや》しかった。悔しくて、それを晴らそうとしただけさ、だから第一王位|継承者《けいしょうしゃ》に戻って、一番|当惑《とうわく》しているのは彼女だと思うよ。結果がそうなるとは考えてもいなかったのだから。事実、彼女はデテール大学に復学願を提出していたらしいしな。これでどうだ?」
アスラがジゼルを覗《のぞ》き込《こ》む。そう考えるならば、解《わか》る。解るけれど。
「……真実がどうかなんて、もうジゼルたちには判《わか》らないよ。知らない方が良い真実だってあるもの。今回の事件は、欲が深かった大臣たちの仕業《しわざ》で、ラージャは弟|想《おも》いの優しいお姫さまだったんだ。それだけだよ」
ぽつんと、呟《つぶや》くようにジゼルは言った。それが幸せだから。幸せでいたいから。
「そうかもな」
アスラは頷《うなず》くと、腕を組んでさらに言葉を続けた。
「でも、この話にはもっと裏がある気がする」
「裏? ラージャのことは……」
「そうじゃない。その、デイニ嬢の恋人の話――【ストーンサークル】か。人工|脳髄《のうずい》が彼らだけで生成できるはずがない。どこかに資金源と大規模なプラントがあるはずだ。さあて、どこがなんのためにバックについてるのかな」
そう語るアスラは楽しげだった。多分、それは政治的|目論見《もくろみ》が見えてきたからだろうけれど、ジゼルは苦い顔を作って、
「それじゃあ、まるでジゼルがスパイしてきたみたいになっちゃうじゃない。偶然《ぐうぜん》の産物なんだからね、やめてよね」
「ははは、ジゼルにスパイが勤まるくらいなら、俺は山に籠《こ》もって仙人《せんにん》になれるぞ」
笑いながらジゼルの頭に手を置いて、アスラはくりくりと撫《な》でてくれた。うーん、気持ちいい。
「アスラ、聞きたいことがあるの。どうして、ディドの時も研究室での時も、なんでも知っていたような口振《くちぶ》りだったわけ? どうして分かったわけ?」
「そりゃあお前、俺は少なくともジゼルより二十年長く生きてるし、この業界[#「この業界」に傍点]も長いからな。なんとなく分かるんだよ、どういう対応をとればいいかってね」
「……ジゼル、いっぱいアスラに聞きたいことがあるよ。でも、なんだか疲れちゃった。もう、おうちに帰りたい。早くなつめに会いたい」
本当に疲れた。もう、眠ってしまいたい。
「そうだな……」
アスラの声は遠かった。
ボーヴォール惑星《わくせい》を離れてから一時間後、ジゼルを乗せた宇宙機《うちゅうき》はエルシに到着した。面倒《めんどう》な手続きはいっさい必要なかったが、カサイ宇宙港の保健センターで健康チェックを受けて、すぐさまE・R・Fコーポレーションの本社から夏離宮《なつりきゅう》へと科法で飛んだ。
「お帰りなさい、ジゼル」
ただいま、なつめ。やっと帰ってきた。
なつめは怒っていなかった。不安な顔も見せず、ちょっとそこまで遊びに行った時と同じような微笑《ほほえ》みで、優しく、ジゼルを迎えてくれた。
本当に心配していてくれたのかな――こっちが戸惑《とまど》いと不安を感じてしまったけれど、なつめは十二日前と変わらず、なにごともなかったように振舞《ふるま》っていた。そして、それが最高の【お帰りなさい】であることに気づくのに、ジゼルはしばらく時間がかかってしまった。
[#挿絵(img/balance_236.jpg)入る]
ありがとう、なつめ。
今はゆっくり眠りたいから。
明日、今回の冒険《ぼうけん》の話をするから。
今は眠りたい。
[#改ページ]
ACT.10
その夜、ジゼルは言い争う大声で目が覚めた。
「…………?」
傍《かたわ》らで寝ているはずのなつめがいない? 布団《ふとん》はきれいに敷かれたまま。
籐《とう》の籠《かご》でできた寝床《ねどこ》から、ジゼル、飛び降りる。声は二人。なつめとアスラのものだ。床の間に置かれた時計を見ると、夜中の二時。こんな時間に、なにを喧嘩《けんか》しているんだ?
部屋を抜けだして、声の方へと赴《おもむ》く。それは書斎《しょさい》から聞こえてくるようだった。
なんか、不安。言いようのない不安がジゼルを捕《と》らえる。
この建物には夜はジゼルとなつめ、そしてアスラしかいない。おとーさんおかーさんもいったん、本社に戻《もど》っているし、一緒《いっしょ》についてきた会社の人たちは、ここからちょっと離れた社員荘で寝起きしている。お手伝いさんも住み込みの人は別棟《べつむね》だ。
誰も聞いていないとはいえ、激しい口論《こうろん》。なにを言っているのか理解できない。すごく自分が緊張《きんちょう》しているのが判る。心臓が痛いほどの動悸《どうき》。
なつめのこんな鋭《するど》い声、初めて聞いた。
書斎の明かりが暗い廊下《ろうか》に洩《も》れていた。隙間《すきま》が開いていたから、声が届《とど》いたんだ。二人が言い争うなんて、本気でぶつかるなんて、今までになかったのに。怖《こわ》い。やめて。
怖いもの見たさというのか、親の喧嘩を盗《ぬす》み見する子供のように、震《ふる》えが止まらないけれど書斎の中を垣間《かいま》見《み》る。見なくてはいけない、そんな自負も湧《わ》いてくる。
やっぱり、なつめとアスラだ。二人が――
あんなに険《けわ》しい顔のアスラを初めて見た。
あんなに感情を顕《あらわ》にするなつめを初めて見た。
なにを言い争っているのか判《わか》らない。頭がパニックしている。
はっと気がついた。違う。ジゼルに判らない言葉で喋《しゃべ》っているんだ。翻訳機《ほんやくき》が機能しない言葉で。どういうこと? 誰かに聞かれてはまずいから? それは、ジゼルなの?
困惑《こんわく》と不安と悲しみが入り乱れる。どうして? ジゼルのことで喧嘩しているの?
ジゼルのことで二人が喧嘩しているなら、おねがい、ジゼル、ちゃんと言うこと聞くから、やめて。二人が喧嘩するなんて見たくない!
飛び出していこうとしたジゼルの身体が、びくんと凝固《ぎょうこ》した。
詰《つ》め寄って声を上げたなつめの腕を、不意にアスラが掴《つか》むと、そのまま引き寄せて有無《うむ》を言わさずキスした。
ジゼル、反射的に扉《とびら》の陰《かげ》へ隠《かく》れる。
見てはいけないものを見てしまった。
どきどきと鼓動《こどう》が高鳴る。さっきまでの緊張《きんちょう》と違う種類の緊張が、ジゼルの顔を強《こわ》ばらせる。
今のは……?
そっと、いけないいけないと自分を叱《しか》りながらも、部屋を覗《のぞ》く。
始め、なつめは逆《さか》らうような素振《そぶ》りを見せていたけれど、その内、アスラの背に手を回して、自分から抱擁《ほうよう》に身を任《まか》せ、そして。
やだ。
ジゼル、駆《か》け出す。
見ていられない。
どうして? そのフレーズだけが頭を駆け巡る。どうして? 兄妹なのに? なんで? それは、許されることなの?
ジゼル専用の玄関から外へ飛び出した。駆けても駆けても、今の光景が脳裏《のうり》から離れない。どうして? 兄妹なのに。
二人は、愛しあっているの?
砂地に足を取られ、ごろごろ転がった。いつの間にか浜辺まで来ていたのだ。黒くわだかまる海。境界《きょうかい》も見せずに夜空が上に広がる。満天の夏の夜空。降ってくるような銀河の綺羅《きら》めき。
「……そんなの聞いてないよ。そんなの知らないよ。どうしてなにも教えてくれないの! なんでジゼルを除《の》けものにするの! なつめのばかあっ、アスラなんてだいっきらい!」
ジゼルの喚《わめ》き声は誰にも届《とど》かないようだった。
[#改丁]
あとがき連続青春小説【そして、あたしはここにいる】第三回
あれは、大学受験を控《ひか》えた、高校三年の冬のことでした。友人がなにやら本の話をしています。それは「ファウンデーション」という小説でした。小林さんは横から口をはさみます。「それ、どんな本?」「ファンデーションていうお金持ちの財団が、まず経済で銀河を制覇《せいは》して、宗教で支配していくお話。三ページで百年が過ぎるの」「へえ」。
まさか、その説明がこの話の基《もと》になっているとは、当人でも気づいてはいまい。
小林さんは昔から、本の題名とか粗筋《あらすじ》から話の中身を想像するのが好きです。想像がぴたりと当たったことはありません。当然、いいヒントを得た、と自分の話にしてしまいます。逆も多々あるのです。
『お金持ちの集団が経済で銀河を支配する』。これはおいしい題材じゃあない? でも、小林さんは宗教関係は苦手だし、支配していく過程を書けるほど、まだ頭はよくありません。ここは一つ、余計《よけい》なものはすっきりさせて、すでに銀河を支配している企業のお話にしてしまえーっ。ここに至《いた》ります。
こうして、この世界は生まれたのでした。同時期に【科法使い】という言葉を知ったということからの原因もあります。(出典が「チンプイ」だなんて誰が気づくのだろうか)
大学一年の夏、第一章の半ばまで書いて、小林さんは自滅《じめつ》しました。なんてこと。書くのがこんなに辛《つら》い話だったなんて。頭がくらくらした小林さんはでえいっと投げ捨てました。原因は難しく書きすぎたせい。困った話ですが、世界説明を詰《つ》め込《こ》もうとして、自分でがんじがらめになってしまったのでした。小林さんは自嘲《じちょう》します。ふっ、どうせいつものことよ。最初に書いた文章は背伸びし過ぎて倒れてしまうのがオチだったわ。今回もそう。しかたがない、これはしばらく熟成《じゅくせい》させようじゃないの。
かくして、このお話はファイルの中で、一年半、惰眠《だみん》をむさぼっていたのでした。ようやく世間さまの目に触《ふ》れることになって、小林さんはほっとします。でも、安心するのはまだ早い。なんてったって、この話は三巻まで続く予定なのですから。果たして、この話は単なるファンタジー小説で終わってしまうのか、それともSFと見なしてよいものになるのか、それとも、なにともつかぬ代物《しろもの》に変わってしまうのでしょうか。
それは小林さんにも解《わか》りません。だ。って、まだ最後まで書いてないんですもの。それなのにあとがきだなんて。しくしく。
[#地から2字上げ]つづく
第四回、こうごきたい。
この話は、最初から最後まで名前に苦しめられたお話です。私が一番最初に決めたタイトル、「考える猫」は自滅した時に捨てました。なにを考えているのだか富士見さんが雑誌に掲載してくれた時、まずつけたのが「械潮音」。勿論《もちろん》、「海潮音」にちなんで、なんですが、一蹴《いっしゅう》され、結局決まったのは「ベクトルの彼方で待ってて」でした。これは種ともこさんのアルバムタイトルをそのまま使用してしまったのですが、これの印象が強すぎて、これ以上は考え付かなくなってしまいました。本タイトルの影が薄《うす》い。
タイトル談話ですが、なにやら気に入ってしまった会話をここで一つ。
「題名……やっぱり、猫型機械ですから、「ドラえもん」に対抗して、「どざえもん」ってーのはどうでしょう。クライマックスにジゼルがビールに酔《よ》って、水瓶《みずがめ》の中に落ちて、南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》と唱《とな》えながら死んでいくというー」
「(編集者)それ、本当に使いたいの?」
「…………」
だって、「我輩は猫である」にちなんでなんて、かっこいいと思ったんだもの。でも、誰も判《わか》ってくれないんだろうなー。
平成四年六月十八日
[#地から2字上げ]小林めぐみ
[#改ページ]
底本:「ねこのめ1 天秤の錯覚」富士見ファンタジア文庫、富士見書房
1992(平成4)年8月25日初版発行
入力:iW
校正:iW
2007年12月20日作成