小松左京
空 飛 ぶ 窓
目 次
空 飛 ぶ 窓
黄 色 い 泉
秋 の 女
旅 す る 女
歌 う 女
[#改ページ]
空 飛 ぶ 窓
1
灰色の空から、また粉雪がちらつき出したので、母親は裏口の戸をあけて、雪におおわれた野面の方をながめた。
野も山も、一面の白銀に埋もれて、あちこちの枯木の林だけが、うそ寒そうにしょぼしょぼと黒い線を刷いている。――その中を、道からかき上げられた汚れた雪が、道なりにうねった灰色の土堤を形づくりながら、遠く、県道わきの食料品店の、雪を頂いた屋根の方へのびている。
小学校三年の女の子のかえりが、いつもより三、四十分もおそい。
空から灰色のほこりのように舞いおりてくる雪をすかして、見おぼえのある、赤いフードつきのオーバーが、道のずっとむこうにぽつりとうかぶのを見て、母親はほっとした気持になり、家の中にもどって、早目の夕餉《ゆうげ》の支度にかかった。
前日から、泊りがけで五十キロほどはなれた小都市に用事に出かけた夫が、その日の夕方かえってくる。――日暮れ前に帰る、と電話で言っていたから、酒肴の支度をしておかなくてはならない。
かえってくる娘のために、電気|炬燵《こたつ》のスイッチをいれ、石油ストーブの火を強くすると、母親は台所で、鍋物につかう野菜の支度にかかった。
「ただいま……」
と玄関の戸があく音がして、娘の声がきこえた。
「おかえり……」
母親は台所から返事をする。
「おそかったね。――火鉢の鍋に、甘酒があるよ。おあがり」
うん……と、娘は答えたようだった。――とんとん、と小さな雪靴を土間でふんで雪をおとす音と、ぱたぱたと雪をはらう音がして、娘は茶の間に上りこんだようだった。
水道の水の冷たさが、ゴム手袋を通して指先にしみるのを感じながら、母親は野菜を洗い上げ、葉をはずした。――笊《ざる》にとって水切り台におくと、母親はちょっと茶の間の方に耳をすませた。
いつもならかえるとすぐつけるテレビもつけず、娘は甘酒をすすっているらしい。
母親は、水仕事をつづけながら声をかけた。
「今日は少しおそかったね……」
「うん……」と、娘は、とほん、とした声でこたえた。
「学校で何かあったの?」
「ううん……」
「のこってあそんでたのかい?」
「ううん……」
「じゃ、どうしたの? この寒いのに、道草でも食ってたのかい?」
娘は答えない。
母親は、冷蔵庫から出して溶かしておいた魚をさばきつづけた。――一通りすむと、ゴム手袋をはずして、ちょっと手の甲で、額にかかる髪をあげた。
「道草なんか食っちゃだめよ――学校で先生に言われなかったかい? どこで、何をしてたの?」
あいかわらず、答えはない。
娘の様子が、何だか変だ、とふと感じた母親は、茶の間の方をのぞいて見る気になった。――この寒さに、道草なんか食って、冷えこんでしまったのかも知れない。熱でも出しているのではあるまいか? ほんとうに小さい子供ってしかたがない。
「母ちゃん……あのね……」
茶の間で一服しようと、流しの前をはなれかけた時、娘がぽつりと言った。
「え?」
「学校のかえりにね……変なもの見た……」
「何を?」
「|まど《ヽヽ》……」
母親は、茶の間にはいって行って、炬燵に膝をつっこんだ。
「ほう、水が冷たい……」
蒲団の中で、かじかんだ指をこすりあわせながら、母親は口をすぼめて息をはいた。――それから、古い火鉢にかかっているアルミの鍋から、杓子《しやくし》で甘酒をすくって湯呑みにそそぎ、ふうふう吹きながら二口三口すすった。
娘はむかいにすわって、甘酒のはいった湯呑みを前においたまま、何やら、ぽけっ、としている。――やっぱり少し、様子がおかしい。
母親は、炬燵のこちら側から、ついと手をのばして、娘のお河童《かつぱ》の前髪をかきあげ、額に手をあてる。
別に熱はない。
少しひびのきれたまるい頬っぺたが、部屋の中の暖気で、りんごのようにまっ赤になっている。
が、眼つきが何となくうつろだ。――なにかショックをうけたのか、遠くを見ているように、焦点があっていない。
「何を、どこで見たんだよ」
「あのね、学校と尾張屋さんとの、ちょうどまん中ぐらいの所の原っぱ……」
「そこで、何を見たの?」
「だから言ったでしょ。――窓があったの」
「窓?――」母親は、眉をしかめた。
「どこの家《うち》の窓?」
「家なんてないの。原っぱだから……」
「家がないのに、どうして窓があるんだよ」
「だからさぁ、変だって言ったでしょ。――原っぱの所、通ってたら、窓だけあったの」
「何言ってるんだかよくわからないね」母親は笑い出した。「どうして、家のない原っぱに窓があるのよ。――ああ、わかった。雪の上に、窓枠か何かおちてたの?」
「ううん、そうじゃないったら!――原っぱの中の、このくらいの高さの所にね、窓|だけ《ヽヽ》あったの」
「お前、どうかしてるんじゃないかい?――家がないのに……」
「家はないの。母ちゃんだって知ってるでしょ。――あの原っぱン所にね、窓だけ浮いてたの……」
「ばかばかしい! どうして窓が、原っぱの上に浮いているのよ」
「だから、変なもの見たって言ったでしょ!」娘はいらだたしそうにお河童頭をふりたててきいきい声で言った。
「ほんとよ。ほんとに浮いてたの。だから、とも子、あんまりふしぎなんで……」
「この寒いのに、ぼやっと見てたのかい?」母親は、甘酒をもう一ぱいついで、飲む。「まぁ、原っぱの上に窓がういてる、なんて……。きっと誰かがいたずらしたんだよ」
「でもね。――その窓が半分あいていて、そのむこうに青空が見えたの……」
「いやだよ、この子は……。そんな夢みたいな事ってあるもんかね。あまり寒いんで、頭がぽーっとして……」
「そんな事ないったら!」
娘がまた疳《かん》をたてかけた時、表でエンジンの音がちかづいて来て、タイヤが雪に軋《きし》み、すべる音がした。
「あ、父ちゃんだ!」
母親は炬燵からとび出した。
ギヤをバックに入れ、凍っていた雪をざらざら鳴らし、車をさしかけだけの車庫につっこむのに苦労している様子だったが、やがてエンジンの音がしずかになると、パタンとドアがしまる音がきこえ、雪をふむ足音が表玄関へちかづいて来た。
「降りようによっちゃ、明日ァ雪おろしだな……」
と、表で大声でいう声がした。
「おかえんなさい!」
母親は玄関へとんでいった。
「ほい……」
玄関から体を入れながら、毛皮の襟つきの防寒コートに着ぶくれた父親は、手にぶらさげた、大きな塩鰤《しおぶり》をさし出した。
「卸市場まで行ってみたが、何でも彼でも高くなってるんでぶったまげた。――今夜は鍋か?」
「ええ、そうよ」と母親ははしゃいだ声でいった。「あんた、お風呂にはいる?――ちょうどわいたころよ」
「ああ、はいる。はいるけど、その前に、ちいと足をぬくめんと……」
そういいながら父親は茶の間にはいって来た。――火鉢の上の鍋の蓋をとって、
「甘酒か……」と蓋をしかけたが、思いなおしたように杓子と湯呑みをとり上げた。
傍をふりかえって、今さら気づいたように、
「お、お嬢さん。ばかにおとなしいな」
といって、大きな手でお河童頭をおさえた。
「おかえんなさい……」
と小娘は、ふてくされたように、小さな声でいう。
「どうしたんだ? また母ちゃんに叱られたか?」
「そうじゃないの……」母親は、父親のぬいだコートや、少しぬれた靴下をしまいながら次の間からいう。「この子、学校のかえりに道草くって、三十分もおくれてさ。――それで、原っぱの所で、変なものに見とれてたっていうんで……」
「ふうん、そうか。――道草なんか食っちゃいかんぞ」甘酒をがぶりとのみこんで、父親は娘の小さなお河童頭をなでる。「先生や母ちゃんの言う事、きかなきゃいかんぞ」
娘は、抗議するように頭をふって、父親の手をはずした。――父親の方は頓着もせず、甘酒をのみほすと、さあて、といって立ち上った。まもなく、湯殿の方から、にぎやかな水音と、あちち、あついあつい! あついぞ! と大仰《おおぎよう》にさけぶ声がきこえて来た。
食事の時もだまりがちで、終るとぷいと自分の机のある部屋へ行ってしまった娘を見て、さすがに父親は不審そうな顔をして、どうしたんだ、というように眼顔で妻にたずねた。
母親は、笑いながら、事情を話した。
最初のうちは、妙な顔をしていた父親も、窓が雪の野原に浮いていた、ときいて、笑い出した。
「子供ってのは、妙な事をいい出すもんだな」父親は、熱燗《あつかん》と味噌仕立ての鍋もので、赤くてらてらとほてり出した湯上りの顔をほころばせながらいった。
「だけんど、あまりさからうのはよせ。とも子にしてみたら、ほんとうに見たのかも知れん」
「浮いている窓を?」
「ああ――もちろん、幻覚って奴だわさ。子供が一人で、しばれる日に雪の野原なんか歩いていると、寒さで頭がぼうっとして来て、そういう妙な幻を見たりなんかする。おれも小学校二年の時――そりゃお前、今より、学校も家もずっと寒かったし、寒さもきびしいみたいだったな――学校から雪ン中をかえってくる途中、カウボーイとインディアンを見た事がある」
「カウボーイって……西部劇の?」
「ああ――、雪の原ン中をな、馬にのったカウボーイを、馬にのったインディアンが、ホ、ホ、ホ、ホといいながらおっかけてるのを見た。ちゃんと馬の蹄が、雪をはねるのも見えたもんだ。おれ、びっくりしちまって、しばらく眼をこすって、雪ン中でぼんやりしてたっけ」
「きっと、映画のせいよ。その前に西部劇でも見たんでしょ」
「ああ、そりゃわかってるさ――。だけんどな、おれが学校のかえり道、雪の原で、カウボーイとインディアンのおっかけっこを見た、というのも本当のことなんだ。あんまり寒いとな、子供ってもんは、なんだか酔っぱらったみたいになっちまうもんだ。ほれ、おとなでもよ、凍死しかけてる時には、眠るようないい気持になって、花が咲いたり、蝶々がとんだりする幻を見るっていうじゃないか。ロシアの、ほら、ツル……なんとかって作家が書いてたが、雪の野を、長靴だけが歩いて行き、その足あとが点々とのびて行くってのがあったが……あんな幻をみるんだな」
「でも……」母親は煮つまった鍋をさらいながらつぶやいた。「今日は、そんなに、しばれるってほど寒かなかったけどねえ」
2
翌日は雪もやんで、ぬけるような快晴だった。
午前中、町へ出かけていた父親は、かえって来てから、今年三度目の雪おろしにとりかかった。――雪が例年よりずっと多くて、この分では、春までにもう二度ぐらいやらなければならないかも知れない。
四分の三ほどおろして、ちょっと屋根の上で一服していると、やかましい音をたてながら、小型の除雪車が、雪を道わきに押しのけながら県道の方からやって来た。
「おうい……」父親は屋根の上からどなった。
「ごくろうさんじゃなあ。――一服していかんかぁい」
「ああ、この先の権藤ン家までかかにゃならんでなあ……」除雪車の男は手をふってこたえた。「夕方までかかりそうだで、かえりにでもよるわぁ……」
「今年ゃ、よう降るのう……」父親は、立ち上って、新しい雪の一塊を屋根からかきとり、どさっ、と下におとすと、また声をかけた。「新町の方じゃ、中学の体育館がゆがんじまったってなぁ」
「ああ、今臨時のつっかい棒してらぁ、この分じゃ、だいぶおそうまで降るぞ!」
除雪車の男は、ちょうど家の横までくると、ちょっとギヤをぬいて、屋根の上を見あげた。
「ああ、そういえば、あんたン所の娘のう……」
父親は雪かきの手をとめて見おろした。
「とも子がどうかしたかい?」
「いや、別にどうもせんがのう……」男は、煙草をくわえ、あちこちのポケットをさぐりながらいった。「さっき県道をトレーラーにつまれて通って来たら、持念寺にはいって行く道の横の原っぱで、一人でぽかんとつったってたぞ」
父親は急な傾斜の屋根の上に足をふんばり、腰をのばして県道の方をながめた。
風のない青空から、さんさんと太陽がふりそそぎ、空気は冷たかったが、遠い野面も山も、キラキラと銀色にかがやいて、パルプ工場の煙突から吐き出される白い蒸気が、動かない雲の団塊になって、枯れた林と岡の間にかかっている。
「はあて……」と父親も煙草を吸いつけながら首をふった。「きのうもそんな事をいっていたが……」
「マッチをやってくれんかのう」と除雪車の男はいった。
「ほいよ……」父親はマッチを投げおろした。
「ええよ。もっていてくれ」
煙草を吸いつけると、男はまた除雪車のギヤをいれ、がりがりごうごうと雪をかきながら遠ざかって行った。
父親はなお、煙草を吸いながら、屋根の上につったって、県道の方に眼をこらしつづけた。――まもなく県道に出る角の食料品店の所に、赤い、小さな頭巾がぽつんと見えると、何となくほっとしたように、短くなった煙草をすて、のこった雪をかきおとしはじめた。
雪をすっかりおとして屋根からおり、戸口の前におちた雪をわきにつみ上げている所へ、やっと娘がかえって来た。
「おかえり……」父親は、プラスチックの雪かきシャベルを、ぐっさり雪につきさし、汗をぬぐった。「こら、とも子――また、あの野っ原で道草食ったろう。除雪のおじちゃんが見とったぞ」
娘は何も答えず、手にもっていた草色の、まりつきの手まりぐらいの大きさのものを父親にさし出した。
父親は、びっくりして、そのまるいものをうけとった。――かたい、大きな、木の実だった。
「なんだ、こりゃ……」父親は、ずっしり重いその木の実を、と見、こう見しながらつぶやいた。「どうしたんだ?」
「とって来た……」と娘はぽつんといった。
「どこで?」と父親はきいた。
「あの窓《ヽ》のむこうで……」と娘は、オーバーのポケットをさぐりながらいった。
「今日も、あの原っぱを通りかかったら、きのうと同じ窓があったの。それで――窓の|むこう《ヽヽヽ》へ行ったら、それがあったの……」
「え? なに?」父親は思わず鼻の頭にしわを寄せた。
「なんだって?」
「窓のむこう、あつかったよ」娘はポケットから、小さい、うす紅色のものや白いものをちゃらちゃら音をたててとり出して、手袋の上にのせてさし出した。
「これもひろったの……」
県道からはいって来た小型車が、家の前でとまった。
「源さんよ、局へよったら、お前ン所に小包みが来てたで、とって来てやったでよ」
と、胡麻塩頭の老人が、乱杭歯《らんぐいば》をむき出して笑いながらおりて来て、小包を手わたした。
「お……」と老人は、父親の手にした木の実を見て、眼を見はった。「ええもん持ってるの。どれ……」
そういって老人は、父親の手から木の実をとり、ふしくれだった手の中でひっくりかえし、耳のそばでふって音をきいた。
「ああ、こりゃきっと汁がはいってるだ。源さん、鉈《なた》もってこいや」
「なんだね、そりゃ?」
父親は戸口から体をいれて、下駄箱わきから鉈をとり上げながらきいた。
「椰子の実だ。見た事ねえか?――だども、青いのは珍しい。誰か親戚でも、ハワイかグアムに行って来ただかね?」
|椰子の実《ヽヽヽヽ》?――と父親はあっけにとられたようにそのかたい木の実を見つめた。
「戦争で南方行ってた時にはさ、こいつのおかげでずいぶん助かったもんだ。――ほれ……ほれ……」老人は、器用に椰子の実のとがった方の端を、ちょうど杭の先端を削り出すように、鉈でもって、さくり、さくりときりとり、白い新鮮な堅皮が、ふとめの鉛筆の先のようにとがると、その頂点をちょんと切りおとした。
「ほーれ、あったあった……」と老人はうれしそうに実の中をのぞいて笑った。
「これなら甘いっぺ。どら……」
老人は唇をつけないように、とがった尖端から器用にあけた口中に透明な液体をおとしこんだ。
「あ、うめえ。――ほれ、お前もやってみろ。嬢ちゃん。のむか?」
娘がおずおずと口をつけ、父親も一口のんだ。――ちょっと青くさい、しかし清冽《せいれつ》な甘さをもった砂糖水のような液体が口中にひろがった。
「ほう!――ええ貝もおみやげにもらって。どれ、ちょいとじちゃんに見せてくれろ」
老人は、娘の手袋の中から貝の一つ二つをとり上げた。
「おや、こりゃめずらしい貝じゃ……」小さな、奇妙な形に細長い、とげとげのいっぱい出た巻貝をとり上げて、老人は眼にちかづけた。「こりゃホネガイいうてな、南の海にしかない貝じゃ。ええもんもらったのう。誰が南方へ行って来たんじゃ? 親戚の兄ちゃんか姉ちゃんが、なんとかパックで行って来たんか?――じちゃんも、もう一回、南の島へ行ってみたいもんじゃのう。さ、それじゃ……」
「あの……」
父親は、あわてたように、老人をよびとめようとした。が、老人が、何か? というようにふりかえると、急にあいまいな表情になった。
「誰が行ったか知らんが、一つ、このごろの南の島の話きかせてもらえんかのう――」小型車にのりこみながら、老人はいった。「いや、なつかしいでのう。――それじゃまた……」
老人が、小型車のスノータイヤを雪にあぶなっかしくすべらせて行ってしまうと、父と娘は、妙に気まずい表情でむきあったまま、とりのこされた。
父親は両手に、緑と白の、みずみずしい熱帯の色を凝らせた椰子の実――まだ甘い汁を、半分ものこした木の実をかかえ、娘は赤い毛糸の手袋の上に、ホネガイやコヤスガイの殻をのせて……。
「母ちゃんは?」
娘は眼をふせながらきいた。
「隣町のおばさんの所にいった……」
と父親はこたえた。
父親の眼は、娘の赤い手袋にいっぱいついている、白い、細かな砂を見つめていた。
海辺の砂だ。――そして、海はここから百五十キロもはなれている……。
「お前……」と父親はいいかけて、二、三度咳ばらいした。「……ほんとに、その……窓《ヽ》のむこうから、これひろって来たのか?」
娘はこっくりうなずいた。
「その……原っぱにういている、|窓=sヽ》のむこうへはいったのか?」
「うん……」娘はそろそろと、貝をにぎった手を後へかくした。「窓≠ェね……今日は低い所にとまってたの……」
「それで?」
「戸があいて、むこうに……とてもきれいな景色が見えたもんだから……」
「どんな所だった?」
「白い砂がずっとつづいてて……とても大きな、きれいな、青い池があって……細長いまがった木がはえてたの。それで……」
「|むこう《ヽヽヽ》へ行ってみた?」
娘はうなずいた。
「すごくあついんで……すぐかえって来たけど……」
「来な!」父親は腕をのばして娘の手をぐっとつかむと、車のおいてある方へひっぱった。「その窓≠チてのは、どこにあるんだ。父ちゃんも行って見っから……」
「もうないよ……」娘は泣きそうな顔であとずさりしながらひっぱられた。「もう、どこかへとんで行っちまったよ」
窓が=H……「とんで行っちまった」だと?……、父親は、娘を車の助手席に押し込み、冷えたエンジンをだましだましスタートさせながら、上の空で考えた。……ヘッ!……子供なんて、何を言ってるんだか……。「空飛ぶ円盤」ってなきいた事もあるけど、「空飛ぶ窓《ヽ》」なんて、初耳だ。
3
雪のもり上りをのりこえるのに、何度か車をスリップさせながら、父親は車を村道にひっぱり出し、県道へむかってハンドルを切った。――車はロウギヤでのろのろ進み、時にずるっとすべって、左右に首をふった。
「さぁ、父ちゃんに教えるんだぞ」父親は県道に出ると、ギヤをセカンドにいれてスピードをあげながら娘にいった。
「その窓≠ェあるのは、どこらへんだ?」
「あそこ……」と娘は指さした。「あの原っぱに、きのうもおりて来たの……」
県道が山裾にそってゆるやかにカーブしたむこう側に減反休耕の田がかなりひろくひろがっていて、そのむこうの丘の麓に、持念寺とよぶ小さな寺がある。――娘は、県道からその寺の方向にはいって行くうねうねと曲る小道の入口のちかくをさした。
夏は村の草刈場になるひらたい野原である。
父親は、小道の入口をちょっとはいった所で車をとめ、外へ出た。
「さぁ……」父親はあたりを見まわして娘にきいた。
「窓≠ヘどこだ?」
「もうないってば……」娘は寒そうに体をちぢめながら首をふった。「とも子がもどって来たら、パタンとしまって、どこかへとんでっちまった……」
「とんで行ったって、お前……」父親は少し雲の出はじめた青空を見わたしながら、口の中でぶつぶつ言った。
「窓≠ネんてものは……とぶもんじゃないんだ。――いったいどこらへんにあったんだ?」
娘は雪の原のまん中へんを指さした。山裾をまわって来た風の吹きつけるちょうどま正面にあたる上、ちょっと小高くなっているので、その原につもった雪は、吹きとばされてはしまり、波の紋様を一面にきざんだ固い根雪になっている。――その上に、きのう降った雪がうっすらとつもり、そこに点々と小さな雪靴のあとが、中央部へむかってつき、そこからまた道へひきかえしていた。
それが娘の足あとである事はまちがいなかった。
父親と娘は、かたくしまった雪の上に浅い足あとをのこしながら、前につけられた小さな足あとをたどって、原のまん中あたりまで行った。――先行する足あとは、そのあたりでとまり、雪がふみあらされていた。
「ここに……」父親は妙な気持におそわれながらまわりを見まわした。「その……窓≠ェあったのか?」
ふと――雪の上に二つ三つちらばる、うす紅色の小さいものを見つけて、父親は体をかがめた。
小さな貝殻と……それに小さな、ひからびた星型のヒトデの死骸が、凍《い》てついた雪の上におちていた。そのあたりの雪に、よく見れば、細かい海浜の砂がちらばり、雪の中にめりこみかけている……。貝殻に、ややかたむいた午後の陽ざしがあたり、つやつやしい肉色の肌にすべって、そこから小さな「夏」がのぞいているようだった。
父親はしばらくぼんやりと、ひろいあげた貝殻を見つめていた。
「あ!」と空のあちこちを見まわしていた娘が叫んだ。
「あそこにいる!」
え!――と父親は娘のさしている方角を見上げた。
虎刈りの頭のように、不規則にしょぼしょぼと茶色の枯木をまといつかせた白雪の山の頂きの方角に、白い雲がいくつもむれ、午後の陽ざしをあびて光っていた。
「どこだ?」
「ほれ、あそこ……」
指さす方角に、やっと灰色がかった白点がぽつりとうかぶのが見えた。――視力一・五の眼をじっと細めてその点を見つめていた父親は、それが四角い形をしてななめにかしいでいる事を発見した。
「なんだ……」と彼はつぶやいた。「ありゃあ凧《たこ》じゃないか。――誰かが凧をあげてんだよ」
「凧じゃないよ」と娘はいいはった。
「窓≠諱B――凧なら、風と反対の方にかたむくはずないもン」
いわれて見ればその通りだった。――が、父親には、どうしても凧のように思えた。彼はなお眼を細め、下にぶらさがっているはずの尾をさがそうとつとめた。
「あ……」と娘はいった。「おりてくる……」
「ほら、やっぱり凧だ」と父親はいった。「誰かがたぐってる。あ――おちた」
下へむかってさがり出した白点は、突然ひらっ、と空中でかえると、木の葉のように、くるり、ひらり、と回転しながら、風に吹きながされるように原の方にちかづいて来た。――しまいには実際の凧がおちるスピードよりずっと早く、ジェット機の急降下のようなはやさで、雪原に立っている親子の上にとんで来て、頭上を大きく旋回するようにまわり、二人の立っている場所から二十メートルほど離れた所へすうっとおりて来て、地上一メートルほどの所にぴたりととまった。
「ね……」と娘はいった。「窓≠ナしょ?」
父親は驚愕のあまり、ぽかんと口を開け、顔をこわばらせたまま、二歩、三歩とその窓≠ノむかってちかよって行った。――三メートルほどはなれた所で、彼はでくのぼうのようにこちこちになって立ちどまった。驚きと衝撃と、一種の恐怖が彼の脚を釘づけにしてしまった。
それはたしかに――どう見ても、娘のいっていたように「窓《ヽ》」にちがいなかった。――色あせた木製の窓枠と、ぴったり閉じられた、ほこりだらけでむこうも見えなくなっているガラス窓、観音開きのそれに黒ずんだ真鍮製らしい鍵がついている。よく見れば、どこかおかしい所があるのだが、ちょっと見ただけでは、何の変哲もない、古い木造洋風建築にいくらでもついているような、高さ一メートル、幅五十センチほどのふつうの窓だった。
その窓が、まるで獲物をねらう鷲のように、はるか高空から反転し、急降下して一直線に雪の野原に舞いおりて来て、地上一メートルほどの所にぴたりととまり、宙に浮いているのだ。
父親には、それが、意志を持った奇怪な生物《ヽヽ》のように感じられた。――が、いくら見ても、それは窓にすぎなかった。
と――突然、その窓≠フ鍵がまわり、二枚のガラス戸が、観音開きにむこうへ、ぱっとひらいた。
父親はびくっとして、思わずはねのきかけた。が、娘は驚く様子もなく、父親の袖をとらえた。
「大丈夫よ――ほら、砂浜が見えるわ」
たしかに、開いた窓の|むこう《ヽヽヽ》に、長い砂浜が見えた。――父親は息をのみ、眼をこすって、窓のむこうをのぞきこんだ。
夏の強い日ざしに灼けた白砂の浜が、ゆるくうねって、はるかむこうまでつづいていた。――トルコ玉のような色をしたおだやかな海が、曲汀《きよくてい》にそい、低い波が白いレースのようにその汀《みぎわ》を洗っている。濃藍色の水平線には、ぎらぎら輝く積乱雲がもり上り、岸辺から海へむかって優雅な曲線を描いてのびる椰子の木の梢で、濃緑の葉が海から吹く風にざわざわとゆれている。
父親は、窓≠ゥら吹きつける、あたたかいしめった風に、はっきりと潮の香りをかいだ。
「ね……」娘は恐れげもなく、窓≠ノちかよって、窓枠に手をかけ、|むこう側《ヽヽヽヽ》に体をつき出した。「ほら、貝がいっぱいあるわ。蟹もいる……」
「待て!」父親はあわてて、娘の体を窓≠ゥらひきはなした。「何だか知らんが……むやみに近よっちゃいかん!」
娘と一緒に、五、六歩後にさがると、父親はもう一度まじまじとその開かれた窓≠見た。
それは奇妙な光景だった。――ガスが出て来て、うすい灰色に閉ざされ出した一面の雪景色が、そこだけ縦一メートル横五十センチの大きさに四角く切りとられ、その四角い枠のむこうに、椰子と白砂と、珊瑚礁の海と積乱雲が、ぎらつく直射日光に照らされた熱帯の空間が、奥深くつづいているのだ。
父親は、娘の肩を抱いたまま、そろそろと窓≠フ横の方にまわって見た。
横にまわると、窓≠ヘ窓枠の厚みだけの、黒っぽく細長い線になった。――ただ、むこうへひろがった二枚のガラス扉だけが、反対側につき出ている。
熱帯の海が見える反対側にまわると、扉は|こちら《ヽヽヽ》へむかってひらかれており、そっちの側からのぞくと、窓の|むこう《ヽヽヽ》にまっ暗な空間が見えた。
凍てつくような星々が、またたきもせずぎらぎら光り、その中に一きわ大きく、青と白のまだらな模様に光る円盤がうかんでいる。
「あれ、なに?」と娘はその円盤をさした。
「地球《ヽヽ》だ……」父親は娘の肩をおさえながら、ふるえる声でいった。「ほれ、アポロの写真で見たろうが……」
空をおおう薄い灰色のヴェールのむこう側で、日が傾きかけていた。
その夕方ちかい冬景色の中で、|そこ《ヽヽ》だけが――その宙にういた窓≠ノ四角く切りとられた空間のむこうだけが、すでに夜《ヽ》であり、その夜は、明ける事のない宇宙の暗黒であり、その寒さは、最低気温零下二十度をこえる、この土地の冬の寒さよりはるかにきびしい、絶対零度にちかい酷寒だった。
もし……もし、反対側からでなく、|こっちの側《ヽヽヽヽヽ》から、あの開かれた窓のむこうへとびこんだら、いったいどうなるのか、と思うと、父親の体はどうしようもない胴ぶるいにおそわれた。
星々がわびしく光る暗い宇宙には、あまり興味ないのか、娘は肩をおさえた父親の手をぱっとふりはらって、反対側へとんで行った。
窓の外の、凍りつくような宇宙空間を、なおも魅入られたようにふるえながら見つめていた父親は、やっと、がたっと窓枠の鳴る音にはっとわれにかえって、娘の姿をさがした。
「とも子!」と父親は、反対側にまわりながらどなった。「これ! どこ行った。ばかなまねしちゃなんねえぞ!」
4
反対側にまわると、そちらからは、さっきと同じ、熱帯の島の砂浜が見えた。――その砂浜のずっとむこうに、赤いオーバーに着ぶくれた娘が、波うちぎわにしゃがみこんで、何かをひろっているのが見えた。
「こら! とも子!」父親は窓枠に手をかけ、むっとあつい、塩分をふくんだ空気の中に半分顔をつっこんでどなった。
「だめだぞ。早くもどってこい!」
「大丈夫よ、父ちゃん……」娘は窓のむこう、三、四十メートルもはなれた所でふりかえってにこにこ笑った。
「来てごらん。面白いよ」
あついのか、オーバーをぬぎすて、手袋もはずすのを見て、父親はもう一度どなろうと身がまえた。
「あんたーぁ……」
と、その時、背後で遠くからよぶ声がした。
ふりかえると、妻が、フード付きマントに長靴姿で、雪原をちかづいてくるのが見えた。
「そんな所で何してるの?」母親は、白い息を吐きながら言った。「市場の清吉っつぁんの車にのせてもらって、そこまで来たら、うちの車がとまってたもんで……。あら、なに? これ……」
「窓≠セ!」父親は、のどをぜいぜい言わせて、窓の向うを指さした。「さっき、三熊山の上にうかんでた。そいつが空をとんでここへ来やがった……」
「いったい何の事?」母親は、まだ事態がよくのみこめないらしく、きょろきょろ、窓とそのむこうの景色を見まわした。「あれ! これいったいどうなってんの?――あ、あれ、とも子じゃない?」
父親は、はっとして窓のむこうをふりかえった。
オーバーも、手袋も、セーターさえぬぎすてた娘は、ちょこちょこ走って、波打ち際を、もう七、八十メートルちかくむこうへ行ってしまい、珍しい景色に夢中になったように、まだむこうへと走って行く。
「こら、ばか!」父親は不安にかられてどなった。「もどってこい、とも子!」
声と一緒に、無我夢中で、父親は窓枠から中へ身をおどらせた。――ぐわっ、と強烈な直射日光が、顔をひっぱたき、しめっぽい、熱い空気がむうっと体を包んだ。雪靴で、熱く灼けた白砂をふんで娘の方に走りながら、父は全身にたちまち汗がふき出すのを感じ、帽子をとり、毛皮の襟のついたコートをぬいだ。
波のまるい舌は走る父親の足もとをたえまなく洗い、耳には潮騒《しおさい》と、風の音と、椰子の梢がざわざわ鳴る音がきこえていた。
こりゃ、夢じゃねえ……汗まみれになって走りながら、父親は頬を思いきりひねってみた。――ここは……熱帯の島だ。まちがいねえ、たしかな事だ……。
ずっとむこうまで行った娘は、急にくるりとこちらをむくと、手をふりまわしながら走ってかえって来た。
「亀だよう、父ちゃん!」甲ン高い興奮した声で、娘は叫んでいた。「すっごくでっかい亀が、浜にあがって来ているよう……」
娘がかえってくるので少しほっとして、父親は、走る速度をゆるめた。――とたんに汗がどっと滝のようにふき出し、額や顔をつたわってながれ、眼にしみた。
「ちょっと、あんた……。これ、いったい……どうなってんの?」
背後で母親の、頓狂な声がきこえた。――ふりかえると、背後三十メートルの所、入江をつくって海へのびる椰子におおわれた岬を背景に、あの窓がぽっかり浮かび、母親はその窓から半身のり出して、まわりを見まわしていた。その背後には……|むろん《ヽヽヽ》、あの雪におおわれた山国の景色がひろがっている。
「父ちゃん、行ってみようよ。こーんな大きな亀がさ……」娘は父親の手をつかんでひっぱった。――ひっぱられながら父親は、眼のすみで、母親が窓枠をまたいで、おずおずと灼けた砂浜に足をおろすのを見ていた。
「ちょいと、父ちゃん……」母親はちかよって来ながら、上ずった声でいった。「これ、いったいどうなっちゃってるの?」
「おれにわかるもんかい……」父親は汗を手の甲でぬぐいながら、しゃがれた声でいった。「どうなってるんだが知らねえが……あの窓のむこっ側は、持念寺へ行く途中の野っ原だ。それで、こっち側は……ここだ。こういうわけだ……」
「わあ、あつい……」母親はフードをはずし、コートをぬぎ、まわりを見まわした。「でもまあ、きれいな所ねえ。――まぁ、あの海の色!……あの沖の白いもの、何かしら?」
「さぁ、きっと……珊瑚礁ってもんじゃねえか?」父親は眉をしかめ、強い日ざしに手をかざしながらつぶやいた。
「珊瑚礁!――椰子の木もいっぱいあるし……じゃ、ここは熱帯かしら、父ちゃん……」
「そう……だろうな……」と父親は、眼をしょぼしょぼさせた。「どう言うわけか知らねえが……そうらしいな……」
「父ちゃん!――じゃ、ここは、ひょっとしたら、ハワイかグアムじゃないかしら……」母親は声をはずませていった。
「すごいじゃないか!――私、一度来て見たかったんだ……。まぁ、あんな窓通りぬけただけで、ひょいとグアムやハワイにこられるなんて……ほんとにすごいじゃないか!」
その時、親子三人の背後で、軽い、パタンという音がした。
三人は、はっとしたように一せいにふりかえった。
* * *
「さぁて……」駐在は弱ったように、鬢《びん》をぼりぼりかいて、本署から来た巡査部長の方をちらと見た。「どだい、何が何だかわかんねえな……」
「とにかく、親子三人、きのうの夕方ここにいた事はたしかなんだね」と巡査部長は、まわりの人たちに聞いた。
「わしゃあ、親父と娘だけです」と、尾張屋の店主がいった。「持念寺へ般若湯《はんにやとう》とどけにいってしゃべりこんで、かえる時、源さんと娘らしいのが、この原っぱン中でもそもそしてるのを見て……まぁ、あんな所で何やってんだ、と思ったですが……」
「二人だけですか?」と刑事がきいた。
「ほかに何も?」
「さぁ――何だか、二人で凧を上げようとしてるみてえでしたが……」
「凧?」と、刑事はききかえした。「娘と二人で?」
「結局三人いっしょにいたのを見たのは誰ですか……」と巡査部長はきいた。
「私だけですかね」清吉という市場の仲買人がまわりを見まわしてつぶやいた。
「源さんの女房を隣り町からのっけて来ると、あそこんとこで、うちの車があるからとめてくれって……おりた時、むこうを見たら、源さんと娘らしい大きいのと小さいのが見えたみたいです。が、なンしろ遠くってはっきりしなかったんで……娘はちょろちょろ走りまわってたみたいですが……」
「わしゃあ、源さんと嫁さんの二人だけいるのは見ました……」除雪人夫の一人はいった。
「やっぱ、なんか青い凧みたいなもの、二人で持ってましたが……」
「おら、嫁さんしか見ねえぞ……」もう一人がいった。
「おめえと一緒だったのに……」
「最初は二人いたんだって……」と最初の除雪人夫は強調した。
「おかしいこんだな……」駐在は首をかしげた。「なんのつもりか。車をこんな所におきっぱなし、家はあけっぱなし、煮かけの豆はこがしっぱなし、――家ン中のものは、なんも持ち出さんで……おまけに嫁さん、あんな野原のまン中に、買物かごおきっぱなしで、親子三人、いったいどこへ行ったか……」
「両方の親もとへも、親戚へも、知り合いン所へも、どこへも行っとらんとな……」尾張屋は清吉にささやいた。
「変な蒸発じゃ。源さん、きょうは会社の連中と猟に行く約束しとったというし」
「何かわかったか?」巡査部長は、野原をしらべている刑事たちの一人が、ちかづいてくるのをふりかえってきいた。
「いや……何も……」刑事は首をふった。「足あとは、やっぱり子供のが、あの場所まで一往復半、男と女のおとなのものが、それぞれ一組ずつ、あの地点へ行っただけで、かえったあとはありません……」
「とすると、最初子供があそこまで行ってかえって来て、その次親子三人が一緒にあの雪のつんだ野原のまん中まで行って……それから宙に消えたってわけか?」
「こら、ほんとの蒸発≠カゃな」駐在が感に堪えたようにつぶやいた。
まわりの連中はちょっと笑いかけ、巡査部長にじろりとにらまれて、首をすくめた。
「それから……あのあたりの雪の間をしらべたら、こんなものがおちていましたが……」
刑事はハンカチをひらいた。
「なんだ?」巡査部長は眉をしかめた。
「貝か?」
「はあ……それに砂がすこし、海の砂らしいですが……」
「ちょっと……」昔、南方に行っていた事のある留じいが、とげのはえた赤っぽい貝を見て手をのばした。「ああ……こりゃミサカエショウジョウガイ、つうやつだ。南洋の海にしかおらんやつじゃ、こっちのトラフザラってのも、やっぱり南方のもんだ」
「留さん、くわしいな……」と誰かがいった。
「そういや、きのうの昼、源さん所によったら、源さんなんと青い椰子の実を持っとった――娘っ子は、あったかい所にしかおらん、ホネガイなんか持ってたがな」
「それと、この失踪事件と、何か関係があると思いますか?」と巡査部長はきいた。
「さぁ……何かようわからんが……」
「ま、一応、署まで持って行け……」と巡査部長は雪がさかんに舞いはじめた日暮れ空を見上げて言った。「それから、一通り調べたら、ひきあげよう。ま、殺されたり、一家心中したんでなかったら、いずれ出てくるだろう……」
「どうかのう……」黒い塊りになって、県道の方へ動きはじめた人々の中で、誰かがつぶやくのがきこえた。
「昔から、ここいらで、何度か神かくしがあったが、出て来たためしはすくねえだ……」
その日の宵から夜中へかけて三十センチちかい大雪が降り、夜半になって雪がやむと、おそろしい寒気がやって来て、真夜中すぎ、気温は零下二十五度にまでさがった。
二十センチをこすと出動する、県の除雪班の一組は、県道を機械除雪しながら、あまりの寒気にたえかねて、小休止して暖をとった。新築校舎にうつって、解体された古い木造の中学校舎の廃材がつんであるあたりで機械をとめ、三、四人が廃材を五、六本ひっぱり出して焚火をはじめ、ウイスキーのポケット瓶をまわした。
焚火が威勢よく燃え上ってしばらくすると、廃材をつんである方で、ばたっ、と大きな音がした。
「なんだ?」
一人が立って、音のした方を見に行ったが、まもなく古ぼけた窓枠をもってかえって来た。
「どうした? 犬か?」
「いやぁ……」と見に行った男はつまらなそうにいった。「こいつがつんである所からおちたらしい」
「そいつも燃しちまえ……」と誰かがいった。「もっと燃そうや。こうしばれちゃ、たまんねえ……」
窓枠をもった男は、棒きれで灰色の汚れきったガラスをたたきわり、窓枠をもえさかる火の中にほうりこんだ。――炎はたちまち乾いた古材にまつわりつき、火の粉は一瞬、一層勢いよく凍てついた夜空へふき上げた。
「なんだ?」焚火のむこう側でウイスキーをのんでいた男が眼をむいた。「今、なんだか火の中に見えたぞ!」
「ンだ……」と隣にいた男が言った。
「なんだか海があって……浜があって人間が三人いたみてえだ」
「おめえら、もう酔っぱらってんのか? その酒もこっちで飲んでやっからまわせ」こちら側にいた男がからかうように言った。
「だけど、こっちからも何か見えたみたいだぞ……」その男の隣りにいた男が眼をこすった。「何か……青い、まるいもんが……」
男たちは考えても見なかったろう――その窓枠は、かつて古い木造校舎の、中学三年の教室にはまっていた。寒気きびしく、雪深く、暗く長い北国の冬の日、その教室で社会科の授業をうけていた少女の一人が、退屈な授業に倦《う》んで、その灰色の汚れ切った窓ガラスをながめ、その|むこう《ヽヽヽ》に、常夏《とこなつ》の熱帯の島々の、珊瑚礁にかこまれたトルコ玉色の海を、かがやく白砂に影おとす椰子の葉のそよぎを、熱いぎらつく太陽のイメージを、強い憧れをこめて思い描いた事を……。また同じ教室で、物理の授業をうけていた少年が、一方では天体の話にかぎりなく夢想を刺激されつつ、他方では数式の列に飽いて、同じ汚れたガラスの上に、果てしなく広がる宇宙の暗黒と、そこに輝くまたたかぬ星々を、絶対零度にちかい真空の空間にうかぶ青い地球の姿を、恍惚と思いうかべた事を……。
そのころこのあたりでは、機械除雪の設備もなく、カラーテレビもなく、古い校舎は寒く、家々の暖房も発達せず、冬ははるかに寒く、重苦しく、退屈で辛いものだった。――その冬の重圧に押しひしがれそうになりながら、若く熱い夢想はかえってはげしくほとばしり、外も見えないほど汚れた灰色のガラスに、つよくつよく焼きつけられた。その透明性を失った古い窓こそ、彼らの若い生命の夢が、一刻冬の重さから脱け出して、見知らぬ常夏の地へ、はるかな未知の宇宙空間へと奔出していく「門」だったのである……。が、除雪作業員たちは、そんな事を知るよしもなく、暖をとり、酒であたたまると、のこった炎にたっぷりと雪をぶちかけ、除雪機械にのって、またごうごうがりがりと、凍りはじめた雪を削り出すのだった。
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黄 色 い 泉
1
三次《みよし》市を出た時、山間《やまあい》に三つの川の出あう盆地は、名物の深い霧に閉ざされていたが、庄原市にさしかかると、あたりは嘘のように晴れ上った。
たたけばカンと音のしそうな、透明な大気の底に、冬枯れの中国山脈の、黄ばんだなだらかな起伏が、どこまでもつづいている。
「雪が全然ないのね」
前の日広島で買った西条柿の乾したのを食べながら奈美子はいった。
「案内書には、県下有数の豪雪地帯って書いてあったのに……」
「今年は新潟や富山の方だって、全然雪がないそうだよ」と、彼はいった。「スキー場は軒なみあがったりだそうだ」
「蔵王の方はどうかしら?」奈美子は掌に種を吐き出しながらいった。「あっちの方はあるでしょ?」
「さあ……」彼は、むこうからやってきたダンプとすれちがうのに気をとられながら、気のない返事をした。「今年もスキーに行くつもりかい?」
「あら、行くわよ。当然じゃない」奈美子は次の乾し柿の包み紙をひらきながらいった。「春までには、雪だってつもるでしょ?」
「医者は何ていっていた?」
「まだわからないって……」
奈美子はちょっと自分の下腹に眼をおとした。
「かえったら、結果が出ていると思うわ。――また、ちょっと不順になっただけかも知れない……」
「とにかく、今度は大事にしなきゃ……」
と、彼はつぶやいた。――前に二度もしくじっているから、とは、さすがに言わなかった。
「でも、三カ月や四カ月だったら大丈夫でしょう」奈美子は、白い美しい歯を、茶色の果肉につきたてながらくぐもった声でいった。「……さん、……カ月で、とびこみやってたわよ」
「お前、柿をあまり食べるなよ」彼は横目でちょっと妻を見ながらいった。「柿は冷えるぞ」
「うん……」
と奈美子は口をもごもごさせながらいった。
ゆるやかな起伏の間に、民家の数がふえはじめた。――藁葺《わらぶ》き屋根はもうすくなく、ほとんどが赤い石見瓦《いわみがわら》か、青い化粧瓦で屋根をふいており、それがかえって赤茶けた老年期の山々と、中国路の青い空にぴったりする感じだった。
広島県三次市から鳥取県の日野町まで、南西から東北に脊梁《せきりよう》山脈を斜めに横切って走る国道一八三号線は、三次を出てからずっと、国鉄芸備線と、建設中の中国縦貫道の盛土と平行していた。――正月明けのこの時期、観光客のマイカーの波はひき去ってしまい、仕事の方はまだ本格的にはじまっていないと見えて、山また山の間を縫って行く国道の往来は閑散として、高速道路建設用らしいダンプや、材木をつんだトラックなど、数台とすれちがっただけだった。
山内《やまのうち》の町を出はずれたあたりで、ジープらしい車がとまっていて、防寒具に身をかためた男が手をふって、二人の車をとめた。
髭《ひげ》をはやして、陽やけした、若い、学生とも見える青年が、軍手をはめた手で登山帽をとって中をのぞきこんだ。
「すみません……」と、青年はていねいな口調でいった。「バッテリーがあがっちまったんですが――電源を貸してくださいませんか?」
いいですよ、といって彼はエンジンを切り、ボンネットをあけた。
連れの青年が、ジープのボンネットをあけ、コードでこちらの車のバッテリーと、ジープのエンジンのセルモーターとをつなぎにかかった。
車をおりると、あたたかい午前の陽ざしがぬくぬくと降りそそいで、背をあたためた。風もない、物音一つしない、山間のおだやかな風景は、思わず、うん、と大きな伸びをしたくなるようななごやかさに満ちていた。
「いい天気ですね……」彼は煙草《たばこ》をくわえながら眼を細めていった。「それにずいぶんしずかだ」
「今年は雪が全然ありませんからね」髭の青年は、自分もくしゃくしゃになった煙草をくわえながらいった。「いつもなら、もうちょっと、比婆《ひば》山の方へスキー客の車やバスがおしかけてくるんですが……。おかげでわれわれの方は仕事がはかどって大助かりです。大体ここらへんは、県下でも有数の豪雪地帯で、去年あたりは三月まで雪に埋まっていましたから……」
「なにか――調査ですか?」
青年の煙草に火をつけてやりながら、彼はジープの荷台をのぞいた。――シャベルが何十か、それに小さな移植|ごて《ヽヽ》のようなものや、測量器械らしいものが、箱にいれてたたんだテントの横においてある。
「考古学ですよ」青年は煙を吐き出しながらほほえんだ。「ここらへんは、何千という古墳がちらばっていましてね――。隣の三次の市域だけで二千以上、庄原から比婆郡をふくめたら五千ちかくあるんじゃないですか」
「そんなに!」
彼は少しおどろいて、まわりの山々を見まわした。
「すると昔は、こんな所に人が大勢住んでいたんですか?」
「そうでしょうね。――古墳といっても、あまり大きいものじゃありませんが、ここらへんは、吉備品遅《きびのほんじ》という|国 造《くにのみやつこ》がおかれた地域ですからね。それに帝釈《たいしやく》峡の方からは、縄文早期から、前期、中期とずっとかさなっている遺跡が出ていますし……最近では、洪積期の帝釈原人≠フ骨がみつかったり、なかなか面白い地域ですよ。高速道路ができちまうと、また列島改造なんかであらされちまうから、今のうち何とか、できるだけまとまった調査をやりたいと思っているんですが……」
「ここらへんも、その原人≠チてのは出るんですか?」ふいに奈美子がたずねた。「今でも?」
「なにをばかな事を言っているんだ」彼は苦笑した。「原人というのは、何万年から十万年以上前に住んでいた人間だよ」
「でも、二、三年前の新聞で見たわよ。――たしかここらへんに、原人だか猿人だかが出るって……」
「比婆山の雪男≠フ事ですか?」髭の青年も苦笑しながらいった。「あれは、もっと北の比婆郡の方です。――西城町の方だったかな?」
髭の青年がジープの方をふりかえると、エンジンをかけて、コードをかたづけていた無口な青年がうなずいた。
「今でも出るんですか?」と奈美子はかさねてきいた。
「さあ――山仕事をしている人たちの中で、姿を見たとか、足あとが残っていたという人が、ちょいちょいいたようですが、今じゃその噂も、すっかり観光資源らしいですよ。――このごろはどうなんだろう?」
ボンネットをしめながら、もう一人の青年は、ききとりにくい声でぼそぼそいった。――髭の青年は、仲間の方にちょっと体を傾けて、おどろいたような顔をしたが、すぐ声をたてて笑い出した。
「彼が二、三日前に、それらしいものの姿を見たそうですよ」と髭の青年はいった。「もちろんはっきり怪物と確認したわけじゃありませんがね……」
「まあ!――どこで?」と奈美子は体をのり出した。
「ここからまっすぐ北の、比和町って所から少し山奥にはいった所です。――ぼくたち、きのうまでそこにいたんです」
「どんな恰好《かつこう》をしているのかしら? その……雪男って……」
「写真があるわけじゃありませんがね――まあ、これまでの目撃者の話だと、全身赤っぽい毛でおおわれて、大目玉で……足あとは人間よりずっと大きいそうです」
「こわいわね……」奈美子はおそろしそうに肩をすくめた。「でも、見たいわ」
「ばかばかしい……」と彼はつぶやいた。「こわがりのくせに、そういう話になるとすぐのっちまうんだから……」
「何かを見まちがえたんでしょうね……」髭の青年は、また破顔した。「調査隊も、何回か出ましたけど、見つかりませんしね。――中国山脈に、熊でものこっているなら、それを見まちがえたという事もあるでしょうが……」
「さあ、行くぞ」と、彼は運転台にのりこみながらいった。「じゃ、さよなら」
「どうもありがとうございました」
髭の青年は頭をさげた。無口な方の青年も、ジープの運転台で帽子をとった。
「これから帝釈峡へ行くんですか? ――もう少し行って、庄原の駅前に出ると、右手にまがる道があります。標識が出てるからすぐわかりますよ。それじゃ……」
2
「比婆道後帝釈国定公園」は、北の鳥取、島根、広島三県にまたがる、千二百メートル級の、道後、三国、船通《せんつう》、比婆の諸峰をつなぐ尾根の部分と、南の帝釈峡の部分との二つにわかれている。
中国山地に多い石灰台地を帝釈川が浸蝕してできあがった帝釈峡の奇観は、河水が石灰岩にトンネルをうがってできあがった、雄《おん》橋、雌《めん》橋などの天然橋や、五十メートルの岩壁に二階建の洞門が並ぶ唐門鬼の窓や、白雲鍾乳洞といった地形的なもののほかに、ダムによる人工湖、神竜湖にうつる秋の紅葉の絶景がよびもので、真冬の、それも松がとれたばかりともなれば、さすがの名勝も、観光客の姿はまばらで、人気のない冷えこむ断崖が、かえって観光地らしからぬすごみを吐いているようだった。
帝釈峡に車をとめて、断崖ぞいに下流の雌橋までくだり、そうめん滝や白雲洞をのぞきながら、二人はまた町までかえってきた。――八世紀初め、行基開基とつたえられる永明寺を見て、バス停前の食堂で早めの昼食をとった時は、二人ともかなり疲れていた。
そのせいか、一本ぐらいならと思って飲んだビールの酔いが、どうしようもなく重く、全身にまわった。宮崎へフェリーではいり、そこから九州、中国路と、ずっと運転をつづけた疲れが、突然どっとおそいかかってくるようだった。
「どうする?」奈美子は、まっかになって、頭を机につけてしまった彼を見て、心配そうにいった。「ゆうべあんなにおそくまで、本なんか読んでるからよ。――ここで一時間ばかり休んで行く?」
「いや……もう出発しなきゃ……」彼は鉛のように重い目蓋《まぶた》を、ひきずりあげようと努力しながら、もつれた舌でいった。「予定が、すこしおくれちゃってる……」
「比婆山の熊野神社なんて、別に寄らなくてもいいじゃないの。――伯母さんには、都合があってよれなかったといっておけば……」
「いや……あの伯母は、うるさいんだ。それにすぐ嘘がばれちまう……」彼はよろよろと立ち上りながらいった。「どうしても、お札《ふだ》をもらって来てくれって、くれぐれもたのまれたんだ。――紀州と同じように、熊野神社があって、那智《なち》の滝まであるのは、比婆山だけだからって……」
「じゃ、私が運転してもいいのね」と奈美子ははしゃいだ声でいった。「やっと私の腕を信用する気になったのね」
「やむを得ず……だ……」彼はよろめきながら、キイをとり出して奈美子にわたした。「腕は信用してるけど……君と来たら、無類の方向音痴だから……」
車の助手席にころがりこみ、シートをたおす前に、それでも朦朧《もうろう》とした頭を必死にふりしぼりながら注意をあたえた。帝釈峡から、もと来た道をひきかえし、雨連《あめつら》という所で、T字路を右《ヽ》にとる。そのまま山中をまっすぐ行くと、再び国道一八三号線へ出る。右へまがって、西城町の町並みを|ぬけ《ヽヽ》別所という所で、左へ川ぞいにはいって行く道をつめて行くと、熊野という所に出るから……。そこまで、もつれもつれ言った時、どうにもならない睡魔がどっとおそいかかって来て、彼は泥のような眠りに沈んだ。――眠りこむ寸前、地図をよく見ろ。わからなくなったらおこすんだ、と、言ったつもりだったが、本当に言ったかどうかあやしかった。
結局奈美子は、彼を一度も起さず、地道の動揺でひとりでに眼がさめた。――眼をこすって、まわりの景色を見ると、車は川沿いに走っている。日ざしは傾き、山々は濃い影をおとしはじめていた。
「どのくらい眠った?」
彼はあくびをしながらきいた。
「さあ――二時間半か、三時間ぐらいかしら……」とハンドルをにぎりながら奈美子はこたえた。
「そんなに?」
彼はおどろいて、一ぺんに眼がさめた。――同時に、何となく不吉な感じにおそわれた。
「じゃ、もうそろそろつくころだが……」
道はいつの間にか川をわたっており、今まで左手に見えていた川筋が、右手にかわった。――前方に山の尾根がせまってきて、けわしいのぼりにさしかかりかけている。――だが、奇妙な事に、正面に見えてこなければならない、比婆山塊最高峰の立烏帽子《たてえぼし》山らしいものが見えてこない。それらしいものは、ややガスがかかり出した空の右手にそびえている。
「いまどこらへんだ?」と、彼はややけわしい声できいた。
「さあ――峠を一つこえて、さっき、たしか比和町って所を通りすぎたけど……」
「比和町《ヽヽヽ》だって?」彼は呆然とした。「冗談じゃない。君はやっぱりまがる所をまちがえたんだ。――このまま行ったって、熊野なんかに出やしない。とんでもない所へ出てしまう」
「あら、だって、たしかにあなたのいった通り、一八三号線へ出て、西城の町から左へまがったのよ」と奈美子は口をとがらせた。
「そうじゃない。西城の町を|通りすぎて《ヽヽヽヽヽ》、別所という所で左へ曲れといったんだ」
「でもあなた、よっぱらってむにゃむにゃいって、よくきこえなかったんだもの」
「なぜ地図を見なかった?」
「途中でダッシュボードをさがしたけど、なかったの」
折りたたまれたロードマップは、寝こんでいた彼の体の下にあった。
車はもう王居峠《おいだわ》のヘアピンカーブにかかっていた。――時刻はすでに三時をまわっている。今さら西城まで、二十キロ以上の山道を、あらためてひきかえして、比婆山麓へむかっても、途中で日が暮れてしまう。熊野信仰にこりかたまった伯母には、何とかいいわけをする事にして、運転をかわった彼は、そのまま車をすすめ、峠をこえた。――その晩の泊りの予定は、算盤《そろばん》で有名な出雲横田だった。熊野神社から国道へひきかえし、備後落合で国道三一四号へはいって、比婆山の東、三井野で尾根をこえるつもりだったが、比婆山塊の西側にも、尾根をこえる山道があって、自動車通行可能になっている。尾根をこえさえすれば、どうとっても、横田町か仁多《にた》町へ出られる。
「ごめんなさい……」と奈美子は、ぶすっとした顔でハンドルをにぎっている彼に、小さい声でいった。「またやっちゃったわ」
「いいんだ」彼は表情をやわらげていった。「できた事はしかたがない」
奈美子はそっと彼の肩に頭をもたせかけた。――その小さな頭を、彼は左腕で抱いてやった。
「ねえ……」と奈美子はふと思い出したようにいった。「さっき通りすぎた比和って町ね――今朝あった学生さんたち、あの町の北《ヽ》で、二、三日前雪男≠ノあったって言っていなかった?」
「ばかな事考えるんじゃない」と彼はいった。「こわいんだろう」
王居峠をこえた上湯川から道を右にとり、車は高野山川の上流を、北の島根との県境にむかってつめていた。西の一二六八メートルの猿政山と、その連峰毛無山が渓流ぞいの道にどっぷり淡い影をおとし、東の空には比婆山塊の一峰吾妻山が、傾いた日にあかあかと照らされ、民家一軒ない、対向車の一台もやってこない、わびしい山道だった。――山間に深くはいりこみ、日も傾いて、気温が急速にさがりはじめているのが、ヒーターを入れた車の中からもわかった。――赤い日に照らされる東の峰々の、島根県側だけが、うすく雪が刷かれているのが見える。
俵原という小集落をすぎて、いよいよ県境をこえようとする時、奈美子が急にまっさおになって腹痛を訴えはじめた。
「乾し柿をあんなに食べるからだ」と彼はいった。「それに、午食《ひる》にそばなんか食べたろう。冷えるものばかりじゃないか」
「おねがい。とめて……」奈美子は顔に脂汗をうかべて、体を二つに折った。「ちょっと……出しちまえば、大丈夫と思うわ。でも、このままじゃ我慢できない……」
彼は車をとめた。――外は凍てつくような寒さだったが、幸い風はない。まわりを見まわして、右手にあるややゆるやかな斜面へ、道からほんの十数メートル、苦しむ奈美子の腕をささえて連れこんだ。中国山脈特有の、樹木のほとんどない低いつつじか何からしい灌木《かんぼく》と短い草にまばらにおおわれた斜面で、所々に大きな黒っぽい岩塊がころがっている。
「いいわ――あの岩の陰でしてくる……」
奈美子は、汗を流しながらいった。
「いや! ついてこないで……。もっとはなれててよ。はずかしいから……。道の方、見はっててよ」
「誰もきやしないよ。こんな山の中で……」
雪男《ヽヽ》が出てくるといけないから、ついていてやる、といおうとして、ふと口をつぐんだ。――奈美子をこわがらせるといけない、というだけでなく、なんとなく、その事をいうのが不吉に感じられたからである。
奈美子がまわりこんだ岩かげから、四、五メートル道の方へもどった所で、彼は待った。――妻とはいえ、やはり女だから、下痢の音などきかれたくないだろうと思って、彼は岩に背をむけて立った。
一人になると、こわいほどの寒気と静寂がまわりからひしひしと身をしめつけた。――風はないのに、山全体が、耳にききとれないような音をたてて鳴っているようだった。空には黄金《こがね》色にかがやく絹雲が幾筋か刷かれ、眼前にたちふさがる高峰の、濃藍色の影と、背後に夕陽を赤く浴びてそびえたつ比婆の山々が、東と西から、赤光《しやつこう》と暗影でもって、彼をはさみうちにしてのしかかってくるような気がした。
身をしめつける山気に対抗するように、彼は手をこすりあわせ、足踏みをし、低く口笛を吹いた。背後の岩陰から、奈美子のたてる物音は何もきこえなかった。――そのまま、三分たち、五分たった。
少しおそいな、と思いながら、彼は岩の方をふりかえった。――この寒気に、あまり長いこと肌をさらしていると、かえって悪くなるかも知れない。我慢できるようになったら、とにかく人家のある所まで行って……。
かすかな女の悲鳴を、きいたように思ったのは、その時だった。
3
最初彼は、それを空耳《そらみみ》かと思った。――悲鳴は、山のたてるざわめきならぬざわめきにうち消されるほどかすかだったし、奈美子のしゃがんでいるはずの岩陰より、|ずっと遠く《ヽヽヽヽヽ》できこえたような気がしたからだ。
はっと耳をそばだてて、反射的に彼女の名をよぼうとして、一瞬ためらい、ちょっと唇をしめらせて、小さくよんでみた。
「奈美子……」
声はかすれていた。で、咳払いを一つすると、もう一度、やや大きくよんだ。
「奈美子……まだかい?」
足は自然と、二歩、三歩、岩の方へうつっていた。
「いい加減で我慢しないと、今度は本当に冷えこんでしまうぞ」と、彼は岩にちかよりながらいった。「おい、奈美子……」
岩の後ろをのぞきこむのは、やっぱりためらわれた。――彼は岩の傍により、もう一度咳払いをして、眼をそむけながら、よびかけた。
「どうだい、奈美子――もう大丈夫かい?」
返事はなかった。
ふと、ある種の不安におそわれて、彼はもう一度、よびかけながら、岩のむこうをのぞきこんだ。
「奈美……!」
のどの奥が、一瞬ひゅっとふさがり、声は途中でとまった。
奈美子はその岩陰にいなかった。さっき、その岩からはなれる時、眼の隅に、体を二つに折り、スラックスをゆるめながらしゃがみこもうとする姿を、たしかにちらと見たにもかかわらず、その岩陰に彼女の姿はなく、排泄のあともなかった。
携帯用のピンクのティッシュペーパーの包みが、そこにおちているだけだった。
「奈美子!」
思わず彼は、眼前にひろがる、スロープにむかってさけんだ。
声は、たちまち大気に吸われて散ると見えたが、すぐ谷々にこだまして、いくつもの遠い嘲《あざけ》るような叫びとなってかえってきた。――奈美子……奈美子……奈美子……。
こだまが消えて行くと、あとはまた蕭々《しようしよう》たる山の音があたりをみたすばかりだった。
彼は、そこから一番近くに見えるもう一つの岩へむかって走り、その岩陰をのぞきこみ、そこにも彼女の姿がない事を見てとると、さらにもう一つの岩陰へむかって走った。
岩陰から岩陰へとさがしながら、時々立ちどまって、口に両手をあて、二度、三度と声をかぎりに妻の名をよんだ。
返事はない。
いつの間にか、彼はずくずくに汗にまみれ、涙さえ流しかけていた。
わずか、三、四分の間に、五メートルとはなれていない岩陰から、妻はどこへ消え失せてしまったのだ?――しかも、あのはげしい腹痛をこらえながら、排泄のあともなく……。
呼ばい、斜面を闇雲に走りまわるうちに、ふと彼は、枯れた灌木の一つの上に、何か白いものがふわりとひっかかっているのを見つけた。そこは最初の岩から、五、六十メートルもはなれた所にあるつつじの木の一むらだった。赤と黄の縁取りに、ひと目で奈美子のものと見てとった彼は、夢中で手をのばそうとした。
その時、名状しがたい戦慄が、体の芯からぞうっと湧き上り、全身の汗が、一瞬にしてひくのが感じられた。
|なにか《ヽヽヽ》が、彼を見ていた。
その気配を、ふと右の首筋あたりに感じたとたん、彼の全身は凍りついたように動かなくなってしまった。
石のようにこわばった首筋をむりにまわして、じりじりと視線を右にむけて行くと、斜め上方十メートルほどはなれた岩陰から、じっとこちらを見つめている|そいつ《ヽヽヽ》の眼と、正面からむきあった。
視線があったとたん、|そいつ《ヽヽヽ》は身をひるがえして岩の向うにかくれた。――しかし、黒っぽい、毛におおわれたのか裸の皮膚なのかわからぬ、人とも獣ともつかぬその異形《いぎよう》の姿と、ぎらぎら輝く、何ともいえぬ邪悪で凶暴な光をたたえた大きな双眼は、ほんのまばたきするほどの間に、彼の眼底にやきついた。
がん! と脳天から脊椎《せきつい》をまっすぐ下へ、たたきのめすような衝撃が、体の中を走った。
|比婆山の雪男《ヽヽヽヽヽヽ》!
ふだんなら、そう思ったとたんに、恐怖に体がひきつり、悲鳴をあげて道までころげおりただろうが、その時は、逆上していたためだろう。逆に、|そいつ《ヽヽヽ》の消えた方角へむかって、まっしぐらに突進していた。――|あいつ《ヽヽヽ》が奈美子をさらったにちがいない、という、理屈の通らない激情にかりたてられながら……。
その岩陰に、|そいつ《ヽヽヽ》の姿は、もちろんなかった。――しかし、息をあららげて走る彼の眼の隅に、もう一度、二度、そいつの黒い背中が、ひょい、ひょいと岩陰から岩陰をつたわって走るのがうつり、そのあとをおって、彼も岩陰から岩陰へ、灌木の茂みから茂みへと闇雲におった。最後にそいつの姿を見かけたあたりまで来て、彼はさすがに息が切れて、岩の一つにもたれて、呼吸をととのえねばならなかった。
|そいつ《ヽヽヽ》の姿を見失ってしまった事はたしかだった。――もう、岩陰から彼をうかがう視線の気配はなかった。
しかし、気息がととのってくると、|そいつ《ヽヽヽ》がまだ、|ちかくにいる《ヽヽヽヽヽヽ》、という感じが強くした。冷えた空気の底に、かすかに異臭がただよっていた。その異臭が、さっき|それ《ヽヽ》がかくれていた岩陰にのこっていたものと同じものだ、と気づいた時、彼は眼をぎらつかせてあたりを見まわした。
砂地の上に、一点、赤いものを見つけたのはその時だった。
|奈美子の血《ヽヽヽヽヽ》だ、と、咄嗟《とつさ》に故なく抱いた確信は、ほんの数秒あとに裏づけられた。
――数メートルの間隔をおいて、点々とつづいている血痕の一つの傍に、奈美子のパンプスが片方、おちていた。
|やつ《ヽヽ》が――いや、ひょっとしたら|やつら《ヽヽヽ》が、奈美子を殺した……と、瞬間的に彼は思って、骨が鳴るような思いを味わった。いや――、まだ殺してはいないかも知れない。傷つけ、さらって行っただけかも知れない。
「奈美子!」
と彼はもう一度叫んだ。
「どこにいる? おれだ!」
叫びながら、彼はおちていたパンプスをひろってにぎりしめ、所々草の中に消える血のあとを追って走った。
最後の血のあとを見つけてかけよった時、そのむこうに、黒々と口をあける洞穴があるのに気がついた。――山腹に露出する岩と岩との間に、斜め下方へむかってゆるい傾斜でうがたれた洞窟で、その前に、高さ一メートル半ほどの岩と、灌木のしげみがあって、入口はちょっと見にはわかりにくい。こちらの山腹に長い影をおとす猿政山の尾根からはずれた西日が、洞穴の中にかなり深くさしこみ、その赤い光に照らされた入口の土の上に、もう片方のパンプスがころがっているのが見えた。赤っぽい粘土の上には、なにかをひきずったあともついていた。
奈美子が、その洞窟にひきずりこまれたのは、まちがいなかった。
正面からさしこむ夕日をたよりに、彼は洞窟の中にふみこんだ。――獣臭いというか、硫黄くさいというか、一種腐臭に似た、いやなにおいが、奥の方からかすかにただよってくる。
「奈美子!」
と、彼は奥へむかってよんだ。
かなり深いらしく、反響はほとんどかえってこない。西日のさしこむはずれに最後の血のあとを見つけ、彼はいつの間にか右手ににぎりしめていた、太い、手ごろな長さの木の枝で足もとをさぐりながら、岩肌に照りかえす西日の明りをたよりに、奥へ奥へと進んだ。足もとはしめった粘土らしく、すべりやすく、途中から岩肌に水がしたたりはじめた。
洞窟はほとんどまがらず、斜め下方にどこまでも奥深くのびていた。もう入口からの光もとどかず、彼はライターの火をつけて明りのかわりにした。が――奇妙な事に、どこかから吹く風に、炎がふき消されても、まわりの岩肌や足もとは、ぼんやり見える。光り苔《ごけ》でも繁殖しているのだろうと思って、彼はガスの節約のためにライターを消し、さらに奥へ進んだ。洞窟は、地の底までつづくかと思われるほど果てしなく深く、進むにつれて、湿って冷たい空気の底に、いやな、腐臭に似た臭いはいよいよ強くただよいはじめた。
靴が、ポチャリと氷のように冷たい水にふみこんだ時、さすがに彼もぬれた岩肌に手をついて一息入れた。斜面を走りまわって、体は綿のごとくつかれ、のどがからからだった。肩で荒い息をつきながら、ライターをつけて足もとを照らして見ると、そこに黄色くにごった水が四、五メートルにわたってたまっていた。
粘土か何かをとけこましたらしい黄色い水は、ただたまっているだけでなく、ゆっくり動いていた。洞窟のどこかから湧き出して、どこかへ流れこんでいるらしい。泉のむこうに、また地面らしいものがのぞいているが、はっきりは見えない。
ちょろちょろと岩壁をつたう水音に、明りをさし上げると、水たまりをこえたあたりの岩肌の突出部から、澄んだ清水が、きらりと糸をひいたようにしたたりおちているのが見えた。――水たまりをわたってあの水で、からからになったのどをうるおそうと、黄色い泉の中に、杖がわりの枝をさしこんだとたん、
「だめ!」
と、低い、しかしきびしい声がした。
「その水を飲んじゃだめよ。――その水たまりをわたるのもいけないわ」
「奈美子!」
彼は思わず眼を宙にすえて叫んだ。
さらさらと湧き出し流れて行く地下の泉のむこうの暗がりに、奈美子の姿が朦朧《もうろう》と立っていた。
――ライターの炎以外の、なにか得体の知れないかすかな青白い光に照らされて、奈美子の姿は幻のように闇にぼんやりとうかんでいる。
「どうしたんだ? ――無事だったのか? あの怪物は……」
「なにもきかないで……」
奈美子は、青白い、さびしそうな顔でいった。――黒い髪が、ぬれたように土気色の頬《ほお》に粘りつき、唇の色は失せ……そして、かぎ裂きだらけのスラックスの胯間《こかん》は、したたりおちる血でべっとりとぬれているのに気がついた時、彼はぎょっとした。
「奈美子!――お前、血が……」
「ええ……でも、もういいの……」奈美子の声は低く、洞窟にこだまして、冥府《めいふ》の底からきこえてくるようだった。「こうなってしまったのは、しかたがない事だったのよ。――私、もうあなたと一緒に行けないわ……」
「なにをばかな!」彼は、奈美子の口調に、体ががたがた胴震いしはじめるのを感じながら、戦慄を吹きはらおうとするようにどなった。「早く町へ出て、医者に見せなけりゃ……」
「もうおそいわ……」奈美子はわびしそうに顔を伏せていった。「あなた、ここからかえって……。そして、私の事を忘れて……。私はずっとここにいなければならないの」
「なぜだ? なぜ、そんなばかな事をしなけりゃならないんだ?」彼は悲鳴をあげるように叫んだ。「|やつら《ヽヽヽ》が……何かしたのか? ここで|やつら《ヽヽヽ》といっしょにいるのか?」
奈美子が顔を伏せたままうなずいた時、彼の怒りが爆発した。
「そんな事させるもんか!」彼は洞窟にわんわん反響するような大声で、喉一ぱいにわめいた。
「|やつら《ヽヽヽ》がなんだというんだ! 君は俺の大事な妻だぞ。|やつら《ヽヽヽ》が行かせないというなら、腕ずくでも君をつれて行くぞ! 君は――これからぼくたちの子供をうむ体だ」
泉の中に、ざぶりと一足ふみこんだ時、奈美子が、
「待って!」
と声をかけた。低い、陰気な声だったが、その声をきいたとたん、彼の体は電気にかかったようにしびれて動かなくなった。
「私だって、あなたと一緒に行きたいわ。――いいわ、私、もう一度、|あの連中《ヽヽヽヽ》と話しあってみる。だから、ここで待っていて。絶対に……ここを動いちゃだめ。この泉をわたって、ここから奥をのぞいちゃだめよ」
奈美子の姿は、ふっ、と闇の奥に消えた。――とたんに彼の体の金縛りは解け、彼はべたりと黄色い泉の傍の、ぬれた粘土の上に尻餅をついた。
そのまま、どのくらい待ったかわからなかった。――奈美子の姿は奥の暗がりへ消えたままあらわれず、黄色く濁った泉は、ぼんやりとあたりを照らす、青白い光の中に音もなく湧きつづけ、岩肌よりおちる清水は、ちょろちょろと澄んだ音をたてつづけた。ライターの焔《ほのお》で時計を見ると、もう奈美子が消えてから、三十分以上たっていた。
しびれを切らした彼は、奈美子がとめた事も忘れて、岩壁の出っぱりを足がかりに、泉の中に杖をつきながら、地底の水たまりをこえ、奈美子の消えた奥の暗がりへと進んだ。泉のあたりをぼんやり照らしていた明りは、ものの二十メートルもすすむと、まったく消え失せ、鼻をつままれてもわからない闇があたりをおしつつんだ。岩壁を手さぐりしながら、なおも十四、五メートルもすすむと、さっきからただよいつづけていた腐臭が、たえがたいほど強くなり、吐き気がしそうなほどになってきた。
その腐臭にみちみちた闇の底に、なにかおぞましいものが蠢《うごめ》き、またかすかにうめきをあげる気配があった。
息をひそめて岩肌にへばりついていた彼は、とうとう我慢しきれなくなって、ライターを高くかかげ、石をすった。
ライターの小さな炎が、闇になれた眼には、何百|燭光《しよつこう》もの光となって、あたりを照らした。――その光の中にうき上った光景は、何ともいいようのないおぞましいものだった。
そこは、洞窟がにわかに広くなり、高くなった広間のような所で、その中央に、奈美子の細く、白い裸身が、一糸まとわぬ姿で横たわっていた。その裸身のまわりに、あのおぞましい、醜怪な姿の|やつら《ヽヽヽ》が、何頭も蠢いていた。一頭の、ひときわ大きいやつは奈美子の頭の所にうずくまり、一頭は淡雪のような胸の乳房をもてあそび、一頭はなめらかな下腹をなめ、さらにもっとも凶暴そうな一頭は、無慚《むざん》におしひろげられた奈美子の下肢の間にいて、血まみれの胯間をおかしていた。
しかも、奈美子は、単に無抵抗に|やつら《ヽヽヽ》にもてあそばれているのではなかった。左右にひろげられた彼女の腕の先には、それぞれ一頭の醜怪なものがいて、彼女の繊手《せんしゆ》は、その醜怪な|やつら《ヽヽヽ》の、胯間のものをにぎりしめ、愛撫していたのだ。おしひろげられた下肢の先にも、一頭ずつがいて、彼女の足指をなめずっていた。身をぬめぬめともだえさせ、快感のうめきをあげつつのけぞった彼女は、そのやさしい唇に、のけぞった頭の所にいる、一きわ大きく一きわ醜怪なものの胯間の一物を、のどの奥にまでくわえこんでいる。
彼が気がちがったような叫びを上げるまでもなく、ライターの光をあびて、その醜怪なものたちは、一せいにぎらぎら光る眼をこちらにむけた。――黒く、また赤っぽく、あるいは青光りする|やつら《ヽヽヽ》の姿、人とも野獣とも、またこの世のものでない妖怪とも見える|やつら《ヽヽヽ》の姿を、はっきりと見きわめる事はできなかった。全身剛毛におおわれているようにも見え、また全裸の皮膚が光るようにも見えた。口は大きく、一様に牙をむき出し、中には角があるやつもいるような気がした。はっきりと見てとる暇もないうち、|やつら《ヽヽヽ》はいっせいに唸りをあげて彼にむかっておそいかかってきた。猛烈な異臭と、凶暴な息吹《いぶ》きが、熱く臭い涎《よだれ》が、黒い渦を巻いておしよせてきた。――今まで、快感に身をよじっていた奈美子までが、怒りに鬼女のような面相になり、裸のままはね起きて彼にむかって突進してきた。
身も世もない恐怖にとりつかれて、彼はただ、闇雲に逃げた。ライターの炎を最大にして後へ投げつけ、時折立ちどまって木の枝をふりまわし、泉の中をわたり、坂道にすべり、ひたすら洞窟を出口に向って逃げつづけた。やっと出口にとび出すと、そこにあった一メートル半ほどの岩を、必死の馬鹿力でもって斜面におしころがして洞窟の口をふさぎ、中からおしよせてくる、おそろしい叫びを出すまいとするように肩でおさえつづけた……。
4
「どうもよくわからんが……」
供述書をとりかけていた、Y町警察の初老の警官は、彼の話の終りの方にくると、妙な顔をして、罫紙《けいし》から顔をあげた。
「あんた、それほんとの事言ってなさるんか? ――つくり話なんかしてもろうちゃ困るよ」
「本当です。絶対《ヽヽ》に本当です!」彼はヒステリックに叫んだ。「|あいつら《ヽヽヽヽ》が……あの|怪物ども《ヽヽヽヽ》が……ぼくの妻を、あの洞窟に連れこんで……」
「しかしのう……」警官はうたがわしそうな目つきで、罫紙の前のページをめくった。「なんぼなんでも、この土地でこんな話とくると、誰でも、こりゃつくり話じゃとすぐ思うわな」
「どうしてですか?」彼は腰をうかしていった。「|比婆山の雪男《ヽヽヽヽヽヽ》は……ぼくだけが見たわけじゃないでしょう? 広島側の、何とかいう町では、町ぐるみ観光資源にまでして……」
「さあ、それじゃから、あんたの話をきいて、われわれもああやって、山狩りまでもしてしらべとるんじゃが――肝心のあんたの話がこれではな……とても信用でけんがな」
「なぜです?」彼はあつくなって、テーブルをたたかんばかりに言った。「なぜ、つくり話だなんて思うんです?」
「あんた、いくつかな?」途中からはいってきて、彼の供述をきいていた、中年すぎの刑事が、腕を組んでたずねた。「名前は何といったっけ」
「伊豆渚《いずなぎさ》……二十六歳……」と彼は答えた。
「伊豆渚《ヽヽヽ》……それ本名か?」
「ええ、もちろん……」
「伊豆渚《ヽヽヽ》……それで奥さんの名が伊豆奈美子《ヽヽヽヽヽ》か……」刑事は眉根にしわをよせた。「妙な……因縁かも知れんな。あんた、古事記をよんだ事ないのか?」
「ええ……話の一部は知ってますけど……中学か高校の時、国語の時間に少し習ったような気がしますが、国語はあまり好きじゃなかったので……」
「戦後の若いもんは、そんなもんかも知れんな……」
そういいすてて刑事はつかつかと部屋を出ていった。
「古事記がどうかしたんですか?」と、彼は不安げに警官にきいた。
「さあ、それやがな……」警官は妙なものを見るように彼の顔を見た。「あんたが、古事記をろくに読んどらん、嘘もいっとらんとすると……いやいや、それはどうも話がうまくできすぎとる。あんた――伊弉諾《いざなぎ》、伊弉冉尊《いざなみのみこと》の事を知っとるか?」
「|イザナギ《ヽヽヽヽ》、|イザナミ《ヽヽヽヽ》?」彼は不意に胸をつかれたような気持におそわれた。「え……ええ、名前は知っています。神話で、国産みをしたという神さまでしょう」
「そうじゃ――その二柱《ふたはしら》の神様のうち、妻神さまの伊弉冉尊がなくなられた時、この比婆山《ヽヽヽ》にほうむられたという伝説がある事は?」
「え?」彼はぎょっとして、警官の顔を見た。「知りません。――ほんとですか?」
「ほれ、これ読んでみ……」再びはいってきた刑事が、手ずれのした古典文学大系の一冊を彼の前に投げ出した。「近所で借りてきたった。――はじめの方や、紙をはさんである」
彼はふるえる手で、その本をひらいた。仮名がふってあるので、文章は読めた。
[#2字下げ]……故《かれ》、伊邪那美《いざなみの》神は、火の神を生みしに因りて、遂に神避《かむさ》り坐《ま》しき。……
「もうちょっと先や、ほれ、ここの所を読んでみ……」
刑事の太い指がさすくだりを、彼はふるえながら読んだ。
[#2字下げ]……故《かれ》、其の神避りし伊邪那美神は、|出雲国と伯伎国《ヽヽヽヽヽヽヽ》との|堺の比婆の山に葬りき《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。……
「な、比婆山ちゅうのは、何もスキー場や、雪男の話ばかりやないんで……」刑事の声は、遠くできこえるようにひびいた。「こうやって、古事記にもちゃんとのってる、古い伝説がある所でな。隣の仁多町の山の中には、伊弉冉ちゅう部落までちゃんとあるしな……。ここで伊弉諾尊が、黄泉《よみ》の国に、伊弉冉尊を訪ねて行かれた時の伝説と、同じような事が起ったいうていわれても、そらあんた、な……」
刑事の言葉も耳にはいらないように、彼はなおも先を読みすすんだ。
[#2字下げ]……爾《ここ》に伊邪那美命答へ白《まを》ししく、「悔《くや》しきかも、速《と》く来《こ》ずて。吾《あ》は黄泉戸《よもつへ》喫為《ぐひし》つ。然れども愛《うつく》しき我《あ》が那勢《なせ》の命《みこと》、入り来坐《きま》せる事|恐《かしこ》し。故《かれ》、還らむと欲《おも》ふを、且《しばら》く黄泉《よもつ》神と相論《あげつら》はむ。我《あ》をな視《み》たまひそ。」とまをしき。如此《かく》白して其の殿の内に還り入りし間、甚《いと》久しくて待ち難《かね》たまひき。故《かれ》、左の御美豆良《みみづら》に刺せる湯津津間櫛《ゆつつまぐし》の男柱一箇《をばしらひとつ》取り闕《か》きて、一つ火燭《びとも》して入り見たまひし時、|宇士多加礼許呂呂岐弖《うじたかれころろぎて》、頭《かしら》には|大 雷 居《おほいかづちを》り、胸には火《ほの》雷居り、腹には黒《くろ》雷居り、陰《ほと》には拆《さき》雷居り、左の手には若《わか》雷居り……
彼の手から、本がばたりと床におちた。――|それでは《ヽヽヽヽ》……あれは……あの|彼の見た事《ヽヽヽヽヽ》≠ヘいったい……。
戸口から、若い警官がはいってきて、供述をとっていた警官と刑事にあわただしく耳打ちした。二人は、まっさおになってふるえている彼の方をふりかえり、警官の方がゆっくりちかづいてきて、彼の肩に手をおいた。
「あんたの奥さんの死体が見つかったそうや……」と警官はいった。「あんたのいうとった、最初の岩の所から、ちょっとはなれた灌木の中で――。死因は、今の所、切迫流産による出血多量という事らしい。さあ、一つ、本当の事をきかしてくれんか? あんたがなんで、あんな寒い山の中に、奥さんの死体を――いや、ひょっとしたらまだ生きとったかも知れん奥さんを、ほったらかしにしてきたか……」
[#改ページ]
秋 の 女
1
所用で山陰をまわって、山口へ出た時、湯田温泉の古い旅館の一室で、ふと下関まで足をのばして、お咲さんの顔を見たくなった。
用といっても気楽な旅で、さる旅行社の依頼をうけて、秋の山陰をまわり、パンフレットに軽い印象記をまとめる、といった簡単な仕事だった。
京都をふり出しに、城崎《きのさき》、鳥取、米子ととまり歩いて、松江、出雲《いずも》で、一応のうちどめになり、このあと忙しければ飛行機で帰阪、もし時間があるなら、石見《いわみ》大田、浜田、益田をまわって、萩、長門あたりまで、足と筆をのばしていただければ幸甚、という事だったが、松江で二日滞在するうちに、必要な原稿はできてしまい、東京の本社と電話でうちあわせをして、一緒について来た編集部の若い人は、それを持って、一足先に飛行機でかえる事になった。
もし、それから先の旅について書くにしても、二回連載にして、来月まわしという事で、私としては大変ありがたかった。――今度の旅で一応二週間の予定をおさえており、そのあとも、さしあたりこれといって、さしせまった用はなかったから、出雲から先は、仕事の連れとはなれて、ゆっくり旅をたのしむ事ができる。それに山陰の石見海岸といえば、旧友の郷里がその地方にあって、昔から何度か訪れていたので、さほど気ばってあちこち見歩かなくても、最近の変化を車窓に見ながらざっと通りすぎるだけで、短い原稿ぐらい書ける自信があった。
朝、出雲を出る時は、萩へまわるつもりだった。――が、早くも冬の気配を思わせる重苦しい灰色の雲の下に、鉛色の日本海がはてしなくひろがり、黒ずんだ岩が白い波を噛《か》む石見海岸の光景を車窓に見つづけるうちに、ふと心が重くふたがる思いがして、民家の、石見瓦の乾いた赤を見ると急に山陽へまわりたくなった。思えば京都を出てから一週間ちかく、すでに晩秋といっていい、十一月はじめの山陰を旅しつづけて来たのだ。山陰《やまかげ》の名の通り、秋の日のうつろいは、明るい瀬戸内にくらべて一きわ早く、思いかえせばいつも赤い夕映えに照らされる丈高い稲かけや、山肌の光景ばかりがうかぶ。松葉|蟹《がに》は解禁になっていたが、まだ身の入り方は本格的でなかった。山陰は、秋より雪深い冬がいい……。
そんな事を考えているうちに、益田でのりかえて、山口へ出たくなり、車掌をつかまえて山口線のダイヤをきき、行先変更を申し入れた。――益田から、山口へいく途中には、あの静かな盆地の中の眠ったような城下町、津和野がある。おりて一泊、とも考えたが、なまこ塀とつわぶきと、町中の溝にゆったり泳ぐ鯉で有名な津和野の秋は、数年前、石見の友人と訪れて見た事がある。今回は、少々車中の時間がかかるが、一気に山口までのして、そこで二日ほど滞在と心にきめたのは、この機会に、秋の山口をゆっくりと見たい、と思ったからである。
山口には以前、二度ばかり、慌《あわただ》しい日程でたずねている。――一度は梅雨《つゆ》時の、雨のじとつく日で、一夜、名物の源氏螢のとびかうのは見たものの、翌朝は雨の中を早立ちで、観光どころのさわぎではなかった。二度目は八月半ばの炎暑のさ中で、風の動かぬ中でもえ上がるような緑の木立とあつくるしい蝉《せみ》しぐれに、舌を吐く思いだった。小京都といわれるだけあって、盆地の中のこの都市は、夏暑く、冬寒い。秋がよろしいけえ、秋に来んさい、といわれた事が、頭の隅にこびりついていた。
山口の駅におりたって、市街地つづきの湯田温泉に電話すると、幸い心おぼえの一軒に空き部屋があった。――七卿落ちの碑で有名なMという古い宿屋である。その日はどうという事なく、湯にのんびりつかって日が暮れ、ふぐ刺で一杯やった。近年、内海のふぐは、博多玄界のそれにくらべて、どういうわけか味がおちたように思える。といって、やはりふぐはふぐだ。十一月の上旬、山陰の蟹はまだ早いが、ふぐはそろそろ食べごろである。が――何も、ふぐから下関へ行く事を思いたったわけではない。最初にいったようにお咲さんの事を思い出したからである。
一泊して翌日、清涼の秋|日和《びより》を朝から出かけ、常栄寺の雪舟庭も、瑠璃光寺《るりこうじ》の五重塔も、心ゆくまで鑑賞できた。――山口を知る友人は、この町を、「ざっと見るつもりならとりとめのない街」といったが、晩秋にさしかかる一日を、ゆっくりかみしめるように味わえば、国道九号線の往還もあってややほこりっぽい街路のむこうに、十四世紀から十六世紀へかけての大内氏二百年の栄華の姿が、次第にうかび上ってくるような気がする。
大内氏は、筋目正しい守護大名として、中国筋西部を中心に、近畿の紀、泉、九州|豊前《ぶぜん》をも領した大勢力だが、百済《くだら》王聖明の裔《すえ》と称するだけあって、大陸、特に朝鮮との関係が深く、当時朝鮮が日本に対して制限をおこなった貿易も、大内氏に対しては特別に無制限だったという。弘世が京都を模して山口を造営して、「西の京」とよばれ応仁の乱で京から公卿、文人多数が移住し、対|明《みん》、朝鮮貿易で最盛期明人二千を数え、その繁栄は一時期京都をしのいだ、といわれるこの都市の往時は、今では市内処々にのこる社寺、庭園のそこここにしのぶしかないのだが――それでも、大内氏のはからいで明にわたり、ついに本邦山水画を完成した雪舟のつくったという常栄寺庭の石組みのたたずまいや、紅葉を背景に、すみわたる秋空にそびえる瑠璃光寺の国宝五重塔の、息をのむような優雅荘重な姿は、奈良、京都の、幾重にも厚く国内《くにうち》にこもった中のそれらとちがって、その閑寂な石の配置の中にあるどこか日本ばなれのした力強さ、その宝輪|水煙《すいえん》のつきさす空の乾いた青さの中に、はるかな半島、大陸の、広い、開かれた空間とじかに呼びあい、ひびきあうものを持っている感じだった。
昼餉《ひるげ》は外ですませて、午後早く、休憩のために、私は一たん宿へかえった。――ほてった足を、縁先からおろして庭下駄の上におき、少々興奮を感じながら、やわらかい秋の日ざしをあびていると、女中さんが土地の銘菓「舌鼓」といっしょに茶をたててはこんで来た。
座敷に上って、茶碗を手にとると、これが山口の事とて言うまでもなく、萩焼だった。――鮮やかな黄緑の泡をゆっくりと味わい、おいしさのあまり、もう一服、今度は少し大服《おおぶく》に注文し、さて二杯目を一口吸って、庭をながめると、いま、この十一月初旬のあたたかい晴れた午後、山口にいて、大きな古い旅館の、深い庭を前にして、萩焼の茶碗で茶を喫している幸福が、しみじみとあたたかく胸にのぼってくるようだった。――旅館そのものは、車の往還のかなりはげしい表通りに面しているが、土塀が高く、建物そのものは広大な庭を前にして、奥深くひきこんでいるから、騒音はほとんどきこえない。庭は周りに亭々たる大樹をめぐらし、一方に大きな築山があり、さりげなく手入れの行きとどいた植えこみと岩組みが、深みのある陰影を形づくっている。よくついた苔と、小ぶりな玉砂利を敷きつめた間を、遠州風の幾何学的な飛石がぬい、中央にはこれもまわりを自然石でくんだ、大ぶりな池がうねっている。石橋あたりの眺めは、桂離宮の湘南亭のそれをふと思わせるものがあったが、あれほど閑寂にこもったものでなく、全体として、からりと明るい、しかもどっしりとした感じだった。池の濁った水の中には、さすが長州の事とて、尺余、二尺もの緋鯉、真鯉、まだら鯉が群れをなして悠々と泳いでいる。中に何尾か見事な錦鯉もまじり、時価何十万としそうな、尺五寸をこえる金兜が二尾、対《つい》になって、池面にそそぐ陽光に全身を金色にかがやかせながら泳ぐさまは、息がとまりそうに見事だった。
その庭に、親子の三毛猫がいた。
あたたまった庭石の上に、大小二匹のうのうと寝て、時に子が親にじゃれたり、思い出したように乳房にむしゃぶりつくのを母猫がかかえこんでていねいになめてやったり、かと思うと腹を上にして背中を岩にこすりつけたり――その二匹の上に、麦藁色のやわらかい秋の日ざしがさんさんとふりそそぎ、その同じ日ざしが、南むきの縁側に、ななめに深くさしこんでいるのが、いかにも山陽の秋らしく、あたたかな感じだった。
そういった光景をながめながら、ゆっくり茶をすすっていると、萩焼のやわらかい色と手ざわりが、何ともいえずいとおしくなってくるのだった。
――阪神間に生れ育った身としては、それまで、萩焼にあまり関心を持たなかった。もともと焼物に趣味のある方ではない。それも素人《しろうと》に|ど《ヽ》がつく程度で、手前勝手な好ききらいがあるばかりだが、茶器といえば、やはり楽焼《らく》の系統に馴染《なじ》みが深く、若いころには、織部《おりべ》などが雄渾に思えて、伊賀、志野など、荒々しい、時には八方破れのものを珍重する気持だったが、四十ちかくなって、九谷をとびこして、突然繊細華美な、京焼絵付などが好きになったりした。すぐお隣の備前焼が、あまり好きでなかったためか、西の焼物には薩摩も萩もほとんど関心をはらわず、伊万里、有田の系統でもどうせ名物なぞ入手できないのだから、見るだけならいっそ一思いにとんで正真景徳鎮ものの呉祥瑞《ごしよんずい》や、古渡り宋胡録《すんころく》をと、展覧会の目録であさってきた。
が、いまこうして、山陽も西のはずれにちかい山口の秋の日に、奥深いが明るい庭園を前にして茶を喫していると、これまで折にふれて見かけながら気にもとめなかった萩焼が、まことにこの地の風土、陽ざしにふさわしいものに思えてくる。――当時日本の最高最大の貿易自由都市堺の商家に出て、舶載唐物など「ほんもの」をいやというほど見ていたにちがいない千利休が、数千年の歴史を持つ大文明国中国の、形式内実ともに途方もない「蓄積と完成度をもつ美」に追随競合する事に真底絶望し、身辺庶民の用器や、アマチュア文人手づくりの陶器を使った侘茶《わびちや》の形式をたてて「これぞ日本独自の美」としたのは、一種絶望的な居なおりであったろうが、しかし当時中国と日本の両方《ヽヽ》が見えていた彼のこの綱渡り的エスプリは、鎖国する次代にはもう見失われ、そのかわり茶の湯は、たしかに日本|独自の《ヽヽヽ》「大衆的たのしみ」になった。――そして、そこに出てくるのは、階級文化や、地方性ではなかろうか?
遠州流の茶室に織部の茶器は、いかにも関西より東国の、「江戸武家」にふさわしい。――関西の茶室になじんだものには、関東のそれは時折びっくりさせられる事があるが、それは土の色が黒いばかりでなく、庭全体が、関西のそれよりもずっと、青黒い――時には育ちすぎた暗い木賊《とくさ》色の感じがする事があるからである。前栽《せんざい》に黄緑がすくなく、苔の色も暗緑が勝つ。武蔵野の風情をとりいれたものもあったが、それはそれであまりに荒涼として、山家を思わせた。このような土地でこそ、織部の土臭と力強さが生きる。ならば京、大阪の茶会は、すがれて楽焼《らく》、はなやげば、赤地に金の細密画を配した京焼などがあうのではなかろうか?
だが、土の色は赤白の明るみをおび、山の木さえ、春夏は黄緑、秋は鮮明な紅黄にかがやき、海をうけ、空はあくまで乾いて青く、なにもかも明るいここ山口にあっては、萩焼の明るさ、やわらかさこそふさわしいものに思えた。
地は卵色であろうか、それともすこしは赤味をおびているのか、いずれにしても軟陶のやさしい手ざわりが、|掌 《たなごころ》の中で、茶をみたした内側から人肌にあたたまるのがなつかしく、ぬるむのもかまわず、掌にその感触をたのしんでは庭を見、日ざしを見、猫の親子と鯉を見て、最後の一口を、惜しむようにゆすり上げてすすった。――何の変哲も、ひねりもなく、ただまろく、茶碗型につくり上げ、口造りもすなおに薄まっている。やや灰色をおびた乳白色の釉薬《うわぐすり》が、なめらかに、砂糖の衣のようにかかり、かなりつかいこんだと見えて、中をのぞくとその乳白の底から、ほんのりと赤味がうき出しかけている。
それを見ていると、突然、下関にいるはずの、お咲さんにあいたくなってきた。――その萩焼の茶碗の、まろさ、あたたかさ、やさしさ、明るさ、そして乳白色の釉薬の底からはじらうようにうかぶほのかな赤味が、お咲さんの事を思い出させたのである。
2
翌日の午前中、小郡《おごおり》で山陽線の下りをつかまえる前に、亀山公園のサビエル記念聖堂だけを見ておこう、と思って、宿からタクシーでそちらへまわった。――小郡まで大した距離ではないので、そのまま車でむかうつもりだった。
公園の濃い緑をつらぬいて、日本の四角い尖塔《せんとう》がそびえる聖堂は、清楚で明るい感じだった。そんな聖堂を見、亀山公園を一まわりして、また聖堂の前にかえってくると、ちょうど中から、二人の女性が出てくるのが見えた。――一人は、ベネディクト派の修道服を着たほっそりとした修道尼、もう一人は、銹朱《さびしゆ》より、もっと深みのある、若干マルーンがかった色合いの塩沢かなんかをきりりと着こなし、塩瀬らしい帯をしめた小柄な中年女性で、手に松葉色のコートを持ち、尼僧に何か話しかけながら、聖堂の方を何度もふりかえっていた。
そのとりあわせが、何となく不思議な感じがしただけで、あとは別に何の関心もなかった。――和服の女性は、家庭の主婦というよりも、着こなしや髪形など、ずっと垢ぬけしている感じで、玄人《くろうと》とまでは行かないまでも、お茶か踊りか、何か稽古事で弟子もとっている、師匠格の人と思えた。色白中高の顔に、眼の輝きがなぜか尋常でなく、すれちがうコースを歩きながら、その大きな眼と、視線があう事を反射的におそれながら、聖堂の尖塔を見上げるふりをしつつ、間隔をつめて行った。だが、こちらの顔にあたっている視線は、どうやら尼僧のものらしかった。と思ったとたん……、
「あの……」と白い手を、口の前であわすようにして、尼僧が声をかけて来た。「大杉さま……でいらっしゃいましょう?」
その声、そのしぐさで、私もやっと気がついた。
「これは、シスター……」私は少し狼狽して立ちどまった。「不思議なところで……」
シスター・マリア・小此木《おこのぎ》……同じ瀬戸内筋ながら、ずっと西にある都会の、コンヴェント(尼僧院)は女子短大だったか、女子学園だったか忘れてしまったが、なにしろそこで院長とか園長とかをやっている修道尼で、四十前後だのに、例によって三十そこそこにしか見えない女性《ひと》だった。私はそれまでに二度、彼女にあっていた。――最初はある祝賀会の席上で、知合いの神父から紹介され、それから彼女の働く学園の文化祭で、講演をたのまれた。紹介してくれた神父の話では、ある地方の、今でも所の名にのこる旧家の出だが、早く母親を失い、一夜凶賊に、父と兄とを殺され、その衝撃が大きかったのだろう、少女の時から修道女になる決心をしたという。だが、現在は長い信仰生活に洗われて、過去の暗い影など察しようもない。すきとおるような色白の所へくわえて、修道尼によくある、童女のようになめらかな頬と、清らかな眼をして、四十をすぎ、髪に白いものがまざり出しているのに、どうみても三十前後、華やいで笑う時など、どうかすると十代にさえ見える女性《ひと》だった。
「御聖堂へおまいりですの?」
シスターは小鳥のさえずりのような明るい声できいた。
「もうすませました……」
「山口へご逗留でいらっしゃいます?」
「いえ……」私はむこうの方でとまっているタクシーをさしながらいった。「おとついまいりまして――これから小郡で列車をつかまえて、下関へたちます」
「あら、下関へ?」シスターは連れの女性をふりかえった。「あなたは何時の列車か、おきめになった?」
「きめておりません……」
と、和服の女性はいった。――そのおそろしくまっすぐな視線が、射すくめるようにこちらの顔にすえられているのを感じて、私は少し狼狽した。
「あら、失礼――こちらお友だちの宇治よし子さん……」とシスターは和服の女性を紹介した。
「大杉です……」
私は、視線をそらせながら頭をさげた。
「失礼ですけど、あなたは何時の下りでいらっしゃいますの?」
宇治とよばれた女性は、視線を私の顔にすえたままきいた。
「私もきめておりませんが……」
「もしご迷惑でなければ、下関までご一緒させていただけません?」
「はあ……それは……まことに光栄ですが……」
「まあ、よし子さん、初対面の方に、そんなにたたみかけたら、びっくりなさるわ」とシスターはおかしそうに笑った。「ごめんあそばせ――よし子さんは、一人で汽車にのるのが、とてもおきらいなんですの。それで、こちらへおいでになる時、わたくし、わざわざ神戸のホテルまでおむかえにあがって、それでご一緒しましたの……」
シスターは山口に用があって、まだ滞在しなければならず、用がすめばすぐまた学園へひきかえさねばならない。が、宇治夫人――夫人だろう、と思った――の方は、どうしても下関へまわってみたい。そこで、誰かシスターの知合いで、西へ行く人が見つかるまで、もう少し滞在するかどうか、と話しあっていた所だという。
「それはたしかに……」私も知らぬ間に汗ばんでいた体が、やっと公園をふきぬけてくる風に冷えるのをかんじながら苦笑した。「一人で列車にのるということは、退屈でいやな事ですね」
だが、小郡から下関なら、特急で僅々一時間前後だろう、と思いながら、私は宇治夫人を横目で見た。――シスターとはまたちがった意味で、磨きこまれた肌の美しさをもった女性《ひと》だった。ただ、大きな、ぬれぬれした眼の輝きの、異様な強さが、私を不安にさせた。賢《かしこ》そうで、気のつよそうな顔だちだった。たとえ一時間でも、シスターをはずして、この女性と一緒になるのは、なんとなく自信が持てない感じだった。
「それでは恐れ入りますが……」と宇治夫人はもうきめた口調でいった。「ご一緒させてくださいましね。――よかったわ。じゃ、玲子さん、いろいろと……」
「あら、あなた、お宿の方にまわって、お荷物をおとりにならなくてはならないでしょう?」シスターは、夫人の気の早さに、びっくりしたように眼を見開いた。「大杉さまと、駅でおちあう時間をおうちあわせになったら?」
「市内にお泊りでいらっしゃいますか?」私も腹をきめてきいた。「よろしかったら、車を待たせてありますから、それでまわりますが……」
「ええ、そうさせて頂ければ……」
宇治夫人は、口ではそういったが、いかにも渡りに船といった感じだった。
「まあ――よし子さん、そこまでしていただくの、悪いわ」
シスターは、さすがにちょっとたしなめるように、また例のくせの、美しい、まっ白な手をしなわせるようにあわせて、口もとに持って行くしぐさをした。
「いえ――私でしたらかまいません。荷物は車につんで、もうあと、駅へ行くだけですから……」私は、あまりに対照的な感じのする二人の女性に、何となくおかしくなって、うかんでくるむずがゆい笑いをけどられないように、こちらを見ているタクシーの運転手に手をあげて合図をした。「よろしければ、シスターも、これから行かれる所へお送りしますが……」
「いえ、私は……」
「駅まで送ってくださるんでしょう?」
と宇治夫人は、シスターの腕にすがるようにしながらいった。
「ええ、――でも……」
「さあどうぞ……」私は、ちょっと芝居めかしたしぐさで、あいているタクシーの自動ドアを、さらに大きくひらいた。「おのりください。――お宿はどちらですか?」
シスターは、なおすまながっていたが、それでも根は育ちがいい人らしく、夫人が先にさっさとのりこむと、自分も一礼して、ためらいもせずシートにすっと体をすべりこませた。――小型タクシーなので、私は当然助手席にのらざるを得なかった。思いもかけず、美しい四十代の女性二人、車中の連れとなった事は、変に背中のこそばゆい感じだったが、それ以上に、後部座席の女性たちの眼に、最近とみにうすくなった顱頂部《ろちようぶ》をさらす事は少々気がひけて、車が走り出すと間もなく、体がまたもやじっとり汗ばむのを感じた。
3
山口線にのらずとも、山陽本線小郡駅までは、山口市内から、車で二十分たらずだった。――駅へついて時刻表をしらべると、幸い、二十分ほどで下りの特急があり、窓口できくとグリーン券が二枚とれた。宇治夫人は、私が買って来た切符をうけとりながら、シスターに注意されるまで代金をはらうのに気がつかなかった。
そのころになると、私も、彼女の身にそなわった「威厳」のようなものに気がついていた。それもそのはずで、彼女の宿で、荷物がくるのを待っている間、シスターにそっと教えてもらった所によると、彼女はある方面の芸事の大流派の宗家の娘で、ある事情で当主はつがなかったものの、あととりとして、幼い時から、無数の内弟子、召使にずっとかしずかれて育って来た、というのである。
それで少しはわかった。
本来なら、お付きが何人かつき、行く先々に、地方弟子の盛大な出むかえをうけるはずの所を、最近では微行《おしのび》の味をしめての一人旅だったのである。――それでも、たった一人で列車に乗るのは、やはり不安だったらしく、流派と関係のない、その土地土地の学校時代の旧友が、そのたびにひっぱり出されて「おとも」をさせられているという。
シスターは、一人気をもみ、すまながっていたが、私の方は、そうとわかれば、またおかしみも湧いて来た。――山口市などという、めったに訪れる事のない小都市で、偶然シスターにあい、その連れとして、こういった女性にあったのは、いわば軽い「事故」のようなものだった。その上、高飛車とも強引ともとれる夫人のやり方も、当初は面くらったものの、決していやな気を起させるようなものではなかった。そこはやはり育ちというか徳というか、威厳とともに、妙にさからえないような愛らしさと品があり、これは大変な女性の「おとも」をおおせつかったと思いながらも、大した大きさでもない彼女の荷物をもち、切符を買い、乗車の面倒を見ても、何となく一人旅の深窓の姫君に、行きずりの町人がつかまって、臨時の「家来」にされたような感じで、微苦笑が、とめどなくうかんだ。
それにしても、こういう奇妙な「おとも」が、短距離間でよかった。――五時間、六時間、延々とやられては、いくらこちらがのんきでも、肩がこるだろう。
これも夫人の「要請」で、笑いながら入場券を買ってホームまで送りに出てくれたシスターの姿が、車窓の彼方に消えて行くと、再びこちらは、身のおき場に困った。――座席指定は、海側の、二つならんだシートだったが、ならんですわってみると、何だか体が近すぎて、列車がゆれる度に高級そうな香水のにおいが鼻をくすぐったりしてどうもおちつかない。グリーン車ががらがらにすいていたのを幸いに、前の座席をぐるっとまわして、むかい側にすわるようにしてみると、今度は眼のやり場に困った。
宇治夫人は、背をまっすぐにして、手を膝の上にきちんとおき、相かわらずこちらの顔をまっすぐ見つめている。――私は照れかくしに煙草をたてつづけにふかしながら、眼を車窓にそらし、時折とんちんかんな事を口走っては汗をかいた。
小郡を出て、しばらくの間、夫人は私の顔を見つめたままだまっていた。――美人に、|ひた《ヽヽ》と見つめられるのは、悪いものではないのだが、どうも夫人の眼の輝きが強すぎて居心地が悪い。上ずったことをしゃべっているうちに、ふと、自分が何をしゃべっているかわからなくなってしまった。午刻《ひるどき》でもあるし、食堂車にでもさそってまぎらすか、と思って、腰をうかしかけると、ふいに夫人の視線がやわらいで、何とも艶《つや》やかな、吸いこまれそうな笑みがうかんだ。白い頬にぽつりと針でつついたような笑くぼがうかび、玉虫色の唇からちらと八重歯がのぞいて、年ごろが、にわかに五つ六つも若やいで見えた。
「大杉さんは……何か書いていらっしゃいますの?」
と夫人はきいた。
「ええまあ……」私は、ほっと緊張がほぐれるのを感じながら、言葉を濁した。「シスターから、おききになりましたか?」
「いいえ――玲子さんからは何も……」
そういって夫人は、またにこりと笑った。
「おやおや……」私はかたくなっていた体をやっとくつろがせて笑った。「人相をごらんになるのですか?」
それにこたえず、夫人はたのしそうに窓外の景色に眼をやった。――その表情は、長い間考えつづけていた問題が、やっととけた、といった感じだった。
「下関にはよくいらっしゃいます?」
「ええ、何度か――山陽路では、好きな街の一つですから……」
「そうでございましょうね――」と夫人は微笑を窓にむけながらいった。「お知合いがいらっしゃいますの?」
「はあ……」
「|女の方ね《ヽヽヽヽ》……」
私はせっかくほぐれた心の緊張が、今度は動転にかわるのを感じた。――この女性は、|人の心を読む《ヽヽヽヽヽヽ》のだろうか?
「その通りですが……」私はむりなつくり笑いをうかべて、何とか動揺をおしかくそうとした。「しかし、色っぽい相手ではありません。もう七十近い婆さんでしてね。――もと私のうちにいたねえやで、むつきの時から、私の面倒を見てくれました」
まあ、と小さい口がひらいて、くすっと小さな笑い声がもれると、夫人はすらりと向いの席から立ち上った。
「食堂車へまいりません? 私、おなかがすいてまいりました……」
またしても私は虚をつかれたような思いを味わった。――さっき自分が、気づまりのあまり、食堂車へさそおうとしたのを、|読まれた《ヽヽヽヽ》ように感じたからだった。
4
下関へつくまでの間、私たちはほとんど食堂車にいた。――はいった時はすいていたが、昼食時なのですぐたてこみはじめ、四人がけの私たちのテーブルには、地方の新婚らしい若い男女が同席した。若い二人は宇治夫人の品と美しさに気をのまれたように、言葉すくなに、夫人の方ばかりぬすみ見ていた。私としても、いきなりこちらの心を読まれたようにいいあてられたショックをしずめるために、食事の前に水割りを注文せずにはいられなかった。
下関は、ずっと昔、まだ子供の時、一度来ただけだ、と夫人はいった。――その時、ここはぜひもう一度、大きくなってから、来なくてはならない所だ、と思ったという。
「それは――どういう事で、ですか?」と私はきいた。「やはり、平家≠フ……」
「それもございますけど……」夫人は窓外に眼をやりながら、もの思わしげにつぶやいた。
「それだけではなくて、もっといろいろ……」
子供の時、一度訪れただけだというなら、ラヴ・ロマンスの思い出があるわけでもあるまい、と私は思った。――夫人には、ひどく衝動的な所があるようでもあり、私にはわからない事が多すぎた。
しかし、そんな事を穿鑿《せんさく》してみてもはじまるまい――と、二杯目の水割りに、やっと落着きをとりもどしながら私は夫人のほとんど完璧《かんぺき》な美しさをもった横顔をながめた。――美しい、不思議な女性《ひと》とはいえ、所詮、偶然出あって、一時間の旅をともにする行きずりの人だ……。
そう思うと、かえって距離をおいた好奇心が湧いて来て、私はいろいろと夫人の事をきき出す事ができた。――むろん、結婚していて、すでに二児がいる。それぞれもう大きい。何の不足もなく暮しているようだが、あまり幸福な結婚生活でない事は、言葉のはしばしにうかがえた。ふともらした言葉に、夫人が御主人と、ここかなりの間、別居同然である事も知った。そういう事を言っても、別に愚痴になるわけでもなく、ましてつけこませるような所は毫《ごう》もなく、まるで他人事《ひとごと》のように淡々という所が、やはりこの女性《ひと》らしい所だった。それ以上に、私は、夫人の中にある、何か異様にはげしいものを感じて、少し不安になった。――もとより、私には関係のない事だったが、それがいったい何であるか、ふとおしはかってみたい気になった。しかし、列車はすでに長府にさしかかっており、それに気づいた私は、彼女をうながして立ち上った。
下関駅のプラットホームから、すぐ眼の下に、関釜フェリーの発着所が見えた。白に青線、クリーム色の煙突のフェリーが、車やトレーラーをつみこんでおり、そのむこうに、秋の陽に照らされた関門海峡がひろがり、対岸に門司の山がつらなっていた。――プラットホームから見た海のちかさに、夫人は子供のような嘆声をあげた。
「お宿は?」
と夫人のトランクを、自分の荷物といっしょに運びながら私はきいた。――思った通り、西の、壇ノ浦に面した、歴史の古いS楼だった。
「お送りしましょう」
私はタクシーをとめた。
私の予約したのは、壇ノ浦より手前の唐戸の、すぐ下に関門連絡船の発着所のあるGホテルだったから、夫人を送るとひきかえさなくてはならないのだが、どうも彼女をホテルまで送りとどけないと、心もとない感じだった。――しかし、それ以上ずるずるひきずられては、それこそ彼女の荷物持ち「おとも」にされかねない。ホテルの玄関で、それでさようならだ、と私は心にきめた。
「お一人で列車にのるのはおいやでも、お一人で宿へとまられたり、観光に歩かれるのは平気なんですか?」
走り出した車の中で、私はきいた。
「ええ。――部屋で一人でおちつくのは馴れておりますし、――見物は、本当はお連れがあった方がいいんですけど、これで、私、わりと土地|かん《ヽヽ》がいいんですのよ」
「でも、列車の一人旅がおきらい、というのは――わかるような気がしますけど、不思議ですね。飛行機はいかがです?」
「飛行機は大丈夫……汽車と船がだめなんです」
「不思議ですね――」私は首をひねった。「どうしてでしょう?」
「おわかりになりません?」ふいに夫人は、いたずらっぽく眼を光らせた。「飛行機はベルトをしめますし、座席がせまくて、動きまわれないでしょう。私――とっても危ないんです……」
「|危ない《ヽヽヽ》?」私は思わずききかえした。「なにがですか?」
夫人は答えずに、白いのどをそらせて、声をたてて笑った。
唐戸の、下関中央市場の間をすぎて、行く手に巨大な吊橋がのしかかるようにせまって来た。――関門海峡と瀬戸内側壇ノ浦の間を袋の口のようにせばめている、幅七百五十メートルの、海峡最狭部を、対岸|和布刈《めかり》岬へまたぐ関門橋(自動車専用)は、もうほとんど完成しているように見えた。――橋のまたぐ、同じ海峡の海底を、関門人道トンネル、自動車専用トンネルが通っている。潮の流れは、この最狭部において特に速く、海中のブイは白い泡をかみ、潮の流れにのる船はとぶように速く進み、さからう船は、巨大なタンカーでも容易に進まない。潮流の最もはげしい時の流速は八ノットをこえるというから、海峡というより「海の河」だ。この潮の、変り目にのって、東方の海より船寄せした源氏の水軍は、一挙に平家の一族を、この海の藻屑《もくず》とした。そして、いま、その海流の下を二本のトンネルが、その空中を巨大な橋がこえる。海陸の立体交差だ。
橋を指さしながら、私は夫人にそういった事を手短かに説明した。――平家のほろんだ海をさす時、夫人の眼は、またあの異様につよい輝きをおびたようだった。
「あの、すぐ左手にそびえる山が、火の山≠ナす。低い山ですが、のぼると関門の見はらしはすばらしいですよ。――ロープウェイもありますが、いまは車でものぼれるはずです」
「このあたりにも、平家の人たちの亡骸《なきがら》が流れついたのでしょうか?」
夫人は、火の山≠フ説明をきいていないように、首をのばすようにして、船の往還のはげしい海峡を見た。
「完全にやられたのは、赤間神宮前あたりの、海峡が湾のようになった所でらしいですが……あの橋から先が、長門壇ノ浦です。――源平の合戦の時だけでなしに、ここらへんは、幕末の馬関戦争で、イギリス、オランダなどの四国艦隊に砲撃をうけた所ですよ」
そこから東へ、瀬戸内|周防灘《すおうなだ》がひらけて行く。――南に豊前の山々、東南遠く四国の島山がかすみ、カーブで満珠か干珠か、島が一方だけぽつりと海面にうかんで見えたように思った。左手に突然、明るい朱塗りの、竜宮城のような赤間神宮があらわれ、S楼はそのすぐちかくにあった。
「いろいろお世話さまでございました……」
玄関前にとめた車からトランクをおろすのを運転手にまかせ、夫人は深く頭をさげた。
「それでは、これで……」
私も、ほっとしたような、少々残念なような気持で頭をさげた。
「ここから先、一人旅は大変ですね。――下関にはお友だちがいらっしゃいますか?」
「存じよりのものが、いないでもありませんけど……」夫人は、ちょっと謎めいた微笑をうかべた。「でも――また、何とかなりましょう」
もう一度会釈して、車にのろうとすると、夫人の眼は、また最初に出あった時のように、つよい輝きをおびて、ひたとこちらの顔にあてられた。
「ほんとうに、ありがとうございました……」夫人は笑いをふくんだ声でいった。「また……|きっと《ヽヽヽ》お眼にかかると思います……」
車が西の唐戸へむかってひきかえしはじめると、なぜだか、大きな溜息が出た。――ふと気がつくと、さっきまで夫人がすわっていたシートの上に、白いものがおちていた。ひろいあげて見ると、もう数のすくなくなった懐紙だった。移り香からすると夫人がおとしたものらしい。手ざわりがやわらかい所を見ると、上等の杉原紙《すいはらがみ》のような気がした。すかすと雲形の浮くように見える所は、「杉原雲」というのだろうか?――雲形をたしかめたくて、二つ折りになったのを開くと、いきなり墨痕《ぼつこん》あざやかな二連の文字が眼にとびこんできた。
笙歌遥聞孤雲上 聖衆乗迎落日前
仏道に関係があるらしい事はわかったが、なんの事やらよくわからなかった。――彼女が自分で書いたのだろうか? どこかの碑文でもうつしたのか……そう思いながら、もう一枚下になった紙をのぞきこむと、今度は明らかに女性の手になったらしい和歌が一首、みごとに美しく散らしてあった。不得意な草書体に悪戦苦闘しながら、やっとの事でこう読めた。
いにしへも夢になりにし事なれば
柴のあみ戸もひさしからじな
はて、これは――どこかで見た事がある歌だ、と思って、私はしばらくその美しい水茎《みずくき》のあとに見とれていた。――この詩らしいものと、和歌一首を書きつけた懐紙を、宇治夫人の所に、明日にでもとどけたものかどうか、と思いながら……。
5
Gホテルにはいって、お咲さんの所へ電話してみた。――彼女は、いま長男夫婦の経営している雑貨店を手つだっているはずだった。彼女の長男は、私の名前をよくおぼえていてくれて、こちらの家族にかわりがないかどうかをきいて来た。しかし、お咲さんは、市中心部のこのあたりから、西へ車で一時間ほどはいったYという山中の町の、三女の嫁ぎ先にお店の手つだいに行っている、という事だった。
すぐ電話で知らせておきますから、明日にでもぜひ、行ってやってください、と、好人物の長男は、はずんだ声でいって、三女の嫁ぎ先の電話番号も教えてくれた。――私は少しがっかりし、Yへ電話を入れるのをあとまわしにして、ホテル最上階のバーに、のどをうるおしにいった。
バーからは、関門の海が眼下に見わたせ、対岸門司の山々に赤々と夕日が映え、やがてその下に、門司の街の灯が、停泊する巨船の舷燈や照明がキラキラかがやきはじめるころになると、東の方に、大きな、赤い月が上ってきた。そういった、黄昏《たそがれ》時への、景色のうつりかわりを見ながら、水割りをなめていると、酔いが急にまわって来て、全身がずっしりと重く倦怠《けだる》くなった。
そろそろ旅疲れの出るころだった。
朝、山口で早かったから、一寝入りして、少し醒《さ》めてから、街へ|ふぐ《ヽヽ》を――長州へんでは、「不具」にあてるのをきらって、|ふく《ヽヽ》つまり「福」とよんでいるが――食べに行こうと思って、私は重い体を持ち上げて、部屋へかえった。
服をぬぎすて、ネクタイをひきむしり、ベッドの上に身をなげて、枕もとのスタンドを消そうと手をのばすと、サイドテーブルの上の、さっきタクシーの中でひろった、懐紙に手がふれた。
もう一度とりあげて、はれぼったい目蓋《まぶた》をむりにおしあけて、そこにちらされた和歌を、ぼんやりとながめた。
そうすると、突然その歌が、平家物語最終巻「灌頂巻《かんぢようのまき》」の最後に出てくる、出家した建礼門院の庵《いおり》の障子か何かに書かれてある歌だ、という事が思い出されて来た。――漢詩らしいのもそうだ。大江貞基法師寂昭、入宗して五台山麓に往生する時に詠じた詩とかで、有名な「大原御幸」のくだりの、あの「おもひきや……」の和歌のすぐ前の所に出てくる――はずだ。
それにしても、なぜ、宇治夫人は、こんな詩と歌を、懐紙に書きつけていたのか?――長州へくる前、京都大原の寂光院でもたずねてきたのか――これは、ひょっとしたらわざとおとしたのではあるまいか?――などと考えているうちに、どうにもたまらなくなって目蓋がひとりでにおりてきた。
眠りこむ前に、頭のどこかで、遠山にかかる白雲は、散りにし花のかたみなり、青葉に見ゆる梢には、春の名残りぞ惜しまるる……と、大原御幸の一節を誦《ず》す声がきこえていた。
頬を切る風の冷たさに眼をさました。
どぶり、どぶりという波の音が、すぐ足もとからきこえてくる。
どういうわけか、足先がいやに冷たい。
正面に青白い光が見える。――焦点がさだまると、それは中天にかかった、すごいばかりの満月になった。
すぐ眼の前が海で、月光が波頭にくだけて銀色に散る。――そのむこうに黒々とそびえるのは、対岸の山らしい。
左手を見ると、夜空を背景に、関門吊橋が黒々としたシルエットを浮べている。――とすると、どうやら壇ノ浦海岸の、波打ち際らしい。
いったい夜の夜中に、何だってこんな所に立っているのだろう?――と、私はぼんやりとかすんだ頭で考えた。――夕方に、酒をのんで寝て……それからまるきり記憶がない。一眠りしてから、ふぐを食べに行くつもりだったが、それも食べたのかどうかおぼえていない。それにしても、なぜ、こんな所に、一人で立っているのか? 見まわすと、ちゃんと服を着、合オーバーを着、ネクタイも靴もつけている。寝とぼけたのか? それとも夢を見ているのか? いや――そういえば、誰かとここであう約束をしたような気もしないでもない。
空行く風は颯々《さつさつ》と夜の静寂《しじま》に鳴り、岸打つ浪音は、とうとうと地にひびく。――実際壇ノ浦の夜景なら、対岸に和布刈の灯が見え、夜をついて行き来する船の明りが見えるはずだが、月明り以外は、黒闇々《こくあんあん》として、漁火《いさりび》一つ見えない。
呆然と空を見上げていると、東天からまっ黒な雲が、空をぬりつぶしながら早い速度で進んでくる。――と、見る見る密雲は月をかくし、あたりは真の闇になった。かろうじて、あるかなきかの空明りに、海がにぶくひろがるのが見えるだけだ。
その時、海上にぼうっと一つの白っぽい光がうかんだ。
光とも見えぬうす暗さに、眼をこすると、その白い光は、たちまち左右にわれ、三つがさらに無数にわれて、無数の陰火となって、海上一面にひろがった。――闇の底を行く風の音はいよいよすごく、岸をたたく波音は、陰々滅々と地にこもる。早鞆《はやとも》ノ瀬戸をはさんで一面に燃え上った青白い燐火は、やがてすうっと動き出すと、列をなしてこちらへちかづいてくる。その先頭が、すぐちかくをすりぬけて、岸へ上って行くのを、私は舌が凍りついたような思いで見つめていた。――燐火の下に、なにやら水にぬれた、黒い異形のものの影がぼうっと見える。姿形はもちろんわからない。ただ「影」としかいいようのないものが、めらめらと青白くもえる燐火を頂きながら次から次へと海から上り、背後の山の方へ消えて行く。
そのうち、ざぶっ、と水を切る音がして、全身から、水を滝のようにしたたらせながら、女性とおぼしきものの姿が、波打ち際に上って来た。びた、びた、……とぬれた足音をたてながら、その明らかに女性と見える黒影は、前後を無数の陰火にまもられながら、岸を上って行く。――そのあとについて、私の足も、まるで何か眼に見えない強靱《きようじん》な糸にひっぱられるように、波打ち際をはなれた。足もとに、ぐしゃりとなにかをふみつぶして、思わず眼をやると、ここらあたりにはとうの昔にいなくなったという平家蟹が、青白く光る甲羅に、平家怨みの鬼面をうきぼりにして、無数に海よりはい上り、燐火の列について行くのだった。
車一つ、トラック一台通らない、まっ暗な国道二号線を横切って、陰火の列は、ぼんやり明滅し、時にはめらっ、と燃え上って宙に舞いながら、赤間神宮の石段をのぼって行った。――びた……びた……という重いぬれた足音は、森閑と静まりかえるあたりにひびき、陰火にまもられた黒影は、無数の雫《しずく》をしたたらせながらゆらゆらと門をくぐって行く。波打ち際から道をこえ、石段の上に点々とつづく、黒い水あとを見た時、私の背筋はぞうっとそそけだった。それでも足は、自分のものでないように、陰火のあとを追った。
ふと気がつくと、私は石段を上った赤間神宮の境内にいた。――闇の底をごうごうと風がわたり、神宮のまわりをうめる木立は、さかまきゆれる巨大な黒髪となってざわざわと闇を掃《は》いている。陰火の姿は、まわりに見えない。
と……。
正面左手の方から、びいん……と琵琶の糸らしい音がきこえた。耳の底、あるいは空行く風の中から、かそけくほそく、嫋々《じようじよう》と、うらむがごとく、嘆ずるが如く、「平家」の「先帝|入水《じゆすい》」の一節をうたう声がきこえた。
[#2字下げ]……このくには心うきさかゐにてさぶらへば、極楽浄土とてめでたきところに具しまゐらせさぶらふぞ、と、なく/\申させたまひければ、山鳩色の御衣《ぎよい》にびんづらゆはせたまひて、御涙こぼれ、ちいさくうつくしき御手をあはせ、まづひむがしをふしをがみ、伊勢大神宮に御いとま申させ給ひ、其のち西にむかはせ給ひて、御念仏ありしかば、二位殿やがていだき奉り、浪のしたにも都のさぶらふぞ、となぐさめたてまつつて、ちいろの底へぞいりたまふ……
境内は、正面がさらに階段を上って拝殿、左手が社務所で、さらにその奥が、長門壇ノ浦合戦掛図をはじめ、数々の文化財をおさめた宝物殿がある。――もとより、夜中のこととて、扉をしめ、鍵をかけてあるはずだが、いま、陰々たる歌声とともに、その扉が、ぎいっ……と音をたててあいた。
つづいて、扉の中の、宝物殿の闇の奥に、もう一枚の扉も、ぎぎっ、ときしんであいた。――そのむこうに陰火がむらがってちろちろと燃え上るのが見え、怨ずるごとき声は、さらにはっきりと、弾弦のひびきとともに、その奥から流れてきた。
[#2字下げ]……悲しきかな無常の春の風、忽《たちまち》に花の御すがたをちらし、なさけなきかな、分段のあらき浪、玉体をしづめたてまつる……
男女のかすかなすすり鳴き、嘆声が、空中に誦す声をぬって、地をするごとくきこえてくる。――そういえば……たしかこの宝物殿のむこうに、かつて背後の山中に散っていた平家一門の菩提《ぼだい》をとむらう塚が、あつめてあった。八雲の「怪談」で有名になった芳一の碑もあったように記憶するが……と、思いながら、私は眼に見えない糸にひかれて、宝物殿の階《きざはし》を、一歩一歩とのぼり、建物の闇をくぐりぬけて、石玉垣にかこわれた、この長門壇ノ浦に沈んだ平家一門の菩提所に足をふみいれていた。――陰火は、いまは四方にもえて私をとりかこみ、その青い火は、年ふりた五輪塔、宝篋印塔《ほうぎよういんとう》、また自然石に武将の名をきざんだ石を、ぼうっと照らしていた。
その陰火の輪の中央に、ぐっしょりぬれた重い着物をまとった黒い影がつっぷしていた。雫は影のまわりにさらに黒いしみをつくり、その肩は、すすり泣くごとく、小きざみにふるえていた。
すうっとその影は、顔をあげた。――陰火はなぜか、その顔を照らさず、ほの白いものが、ぬれそぼった黒髪の中にぼんやりうかぶだけだった。
……判官《ほうがん》どの……
地の底からはい出るような、暗い、かすれた女声が、どこからかささやきかける。
[#2字下げ]……まいらせたべ……この身は、一たび水底《みなそこ》にちりしものぞ……玉の緒の絶えて畜生道によみがえりしものなれば、いまは何条、ためらいたもう事やある……抱《いだ》きたも。これへまいられて、氷の肌、かっとばかりにあたためてたべ……。
目鼻だちもさだかならぬ、ぼんやり白い顔の中に、突如、はげしい輝きをもった双眸《そうぼう》が、ぎらぎらともえ上った。
それを見たとたん、私は、あっと思わず息をのんだ。
とたんに、墓所の背後にそびえる山腹から、どうっと、さかおとしに一団の突風が落葉とともに吹きおろし、陰火は落葉にまじって四方にちりぢりに吹きちらされ、まわりは一瞬にして真の闇にかえり、ただ、目前のぬれた女体と、炎々と燃える双眸のみがのこった……。
6
電話のベルに起されると、昨夜カーテンをしめ忘れた窓からさしこむ朝日が、顔一ぱいに当っているのがわかった。――体は、どういうわけか知らないが、こちこちに凝りたおし、頭がいやに重い。
電話は、お咲さんの長男からで、内容はお咲さんが、よければ今日の昼中、Y町の三女の嫁ぎ先にいるから、よってもらえば幸甚だ、という事、さらに、もし今日こられないなら、明日の朝には、下関旧市内へかえるから、滞在の余裕があるなら、そこであってもいい、という伝言だった。
そういう事だ、とはっきりわかったのは、顔を洗い、冷たい水を一ぱいのんでからだった。――なんだかひどく、頭がぼやけていた。昨夜、というよりきのうの夕方、飲んでいるうちに重い酔いにおそわれて、ベッドに横になって眠ってしまってから、そのままずっと朝まで眠りつづけたのだろうか? 上衣もカッターシャツも――もちろん合オーバーも――きちんとハンガーにかけており、ホテルの浴衣を着ている。やたらに腹が鳴る所を見ると、昨夜はとうとう晩飯を食いそこねたらしい。
それにしても、変な夢を見たものだ――と、その時になって、やっと思い出した。
一週間をこえる旅行が、それはそれで、結構疲れを蓄積していたのだろう。その上、昨日は宇治夫人という、まことに肩の凝る女性《ひと》と一緒だった。その刺戟が、「耳無し芳一」と「源平壇浦戦記」をごちゃまぜにしたような夢を見させたにちがいない。――夢の常として、ところどころ、いやにはっきりしていて、ほかの所はまことに曖昧に、しかも奇怪にぼやけている、昨夜の夢――一種の|悪 夢《ナイトメア》の事を断片的に思い出して苦笑しながら、私はシャツを着、ネクタイをつけた。変な夢を見たためか、その朝は全身がぬけるように倦怠《けだる》かった。
といって、腹はめちゃくちゃに減っている。時計を見ると、九時すぎで、食堂でゆっくり飯を食うためには、急がねばならない。
ズボンをはき、上衣をつけ、さて靴をはこうとすると、靴の爪先から、土ふまずへかけて、じっとりぬれ、水分が内部まで滲透しているのに気がついた。――ぎょっとして、裏をかえすと、海岸のものらしい、荒い砂や小砂利がいっぱいついている。水にぬれた爪皮のはずれは、もう乾きかけて波形に白いものを吹いている。汚なさも忘れて、私は指の腹でその白いものをこそげとり、舌先へ持っていった。
それは、|塩辛かった《ヽヽヽヽヽ》……。
下関の市街地から、Y町へむけて車をとばす間中、私はその事を考えつづけた。
いったいなぜ靴は、あんなに――中にまで水分がしみこむほどぬれていたのか?
記憶をいくらたどっても、昨日、靴があんなに濡れる場所には行っていなかった。午前中は山口、それから小郡へ出て汽車にのり、午後、下関駅におり、すぐタクシーにのって壇ノ浦のS楼へ、それからGホテルへチェックインして、部屋から電話をかけ、すこしぼんやりし、午後四時半ぐらいからバーで飲みはじめ、かなり飲んで、夕食前に一眠りしようと部屋へもどったのが六時すぎ……それからベッドに横になり――そのまま朝まで眠ってしまったとしか思えない。とすると、靴がぬれるようなひまはない。
まさか、夜中に寝ぼけて、服を着て壇ノ浦へ行ったとも思えない。――かりに行ったとしても、そのあとの馬鹿馬鹿しい夢≠フ事を考えると、やはり「行った」という事が信じられなくなる。あんなおかしな事は、|現実に起るはずはないのだから《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》……。
だが、妙な気分にさせる事は、ほかにもあった。――ぬれていたのは、靴ばかりではなかった。合オーバーも、上衣の前面も、なんとなく|じっとりと湿っていた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
考えても、結論が出るような話ではなかった。その上、肩や背中がぼきぼき言うほど凝り、頭の芯《しん》にはかたい|しこり《ヽヽヽ》ができていて、考えをつめるどころではなく、Y町までの一時間、車の中で眼をつぶって、少々の休養をとらざるを得なかった。酒に酔って眠ると、ちょいちょいこんな事がある。だが――昨日の夕方、そんなに飲んだとは思えない。水割り四、五杯……その程度で朝まで寝てしまうのは、やはり旅疲れだろうか……。
Y町は、国道二号線を東行して、小月というところから北東に折れ、川沿いにしばらく静かな山間《やまあい》をつめた所だった。
お咲さんの三女の嫁ぎ先という店はすぐわかった。――小さな建材関係の店と、ガソリンスタンド、大衆食堂といっていいような、ささやかなドライブイン・レストランを兼業する店だった。
私が訪《おとな》うと、当主の母、つまりお咲さんの娘の姑らしい人が、ころげ出るように出てきて、中へはいるように懇請した。――お咲さんは、小さい子をつれて、つい近所まで出ている、という事だった。
「すぐかえりますけえ、どうぞおはいりになって、お休みくださいまし」
と、老婆はいった。――がっしりした中年の主人も、表の店から出て来て挨拶した。お咲さんの娘は、まだ産褥《さんじよく》についているらしい。
茶を一服よばれた所で、私はお咲さんの出先をきいた。――その店から、つい二、三町先の、僧庵へ行っているだろう、という事だった。
維新の志士の墓を守るその僧庵の名は、私もきいて知っていた。――ちょっとのぞいて見たくもあったし、そちらへ行けば、お咲さんにあえるかも知れないと思ったので、私はその僧庵をたずねてみる事にして、一たんその家を辞した。
そのあたりは、まったく山紫水明としかいいようのない、静かな、美しい所だった。――中国山脈特有の、低い山が、奥へいざなうように幾重にもかさなり、谷口ともよべないような、ひらけた谷間に、取入れのすんだ田が低い段をつけて、少しずつ高くなりながらつらなっている。
さほど大きくない川は、それでもところどころに淵を淀《よど》ませたり、白い河原をつくったりしながらゆるやかに屈曲し、やや濁った水が、すんだ音をたてて流れていた。
山々は常緑樹の緑に、黄、赤の紅葉をまぜ、十数分先の幹線国道の騒音が嘘のように、あたりの物音を吸いとって、しんとしずまりかえっていた。――もとは参勤交代の本街道にそい、Y町には陣屋もあったというが、いまは幹線道路からはずれて、車もほとんど通らない。取入れのすんで、稲掛けも片づけられた野良には人影も見えず、ただ山裾の藁屋、山肌の紅葉、そしてささやくような音をたてて流れる川だけが、すみわたった秋の天地の間に存在しているような感じだった。
お咲さんの出身地は、県内でもずっと東の海べりときいたが、その静かで、あたたかくやさしい、こっぽりとした山間の姿は、お咲さんとあうのにふさわしい場所のような気がして、私は何となくうれしくなった。
お咲さんは、十七の年、つまり、私の兄がうまれた年、私の家に女中に来た。――来た当時の事は知らないが、はじめから気立ての無類にやさしい、貧しい家庭ながらしつけの行きとどいた、よく気のつく娘で、死んだ祖母にも、私の母にも、また先輩の女中たちにも大変気に入られ、かわいがられたらしい。私はお咲さんが十九の年にうまれた。二番目なので、母はしきたり通り私たちの家でうみ、お咲さんは、文字通り出産の前《ヽ》から、私の世話をした勘定になる。いよいよ予定日がちかづくと、家にだまって夜中に近所の神社へ母の安産を祈ってお百度をふみ、不良におそわれかけて、幸い警邏《けいら》中の巡査に助けられ、祖父に、そこまでせんでもいい、とこっぴどく叱られた、という。――お咲さんは大勢の兄妹だったが、末娘の下から二番目で、彼女の下には三つ下に弟が一人うまれただけであり、無類の子供好きのお咲さんとしては、いわば目のあたりに見る出産に、興奮してしまったらしい。
そんなわけだから、私の兄妹の中でも、私がお咲さんに一番かわいがられた。私も、祖母でも母でもなく「|さあや《ヽヽヽ》」でなければ、むずかりやまない事がよくあった。二年たって弟がうまれ、さらに二年たって妹がうまれたが、お咲さんは、ふえた子供たちでますます忙しくなる家の中を、もうすっかり古参の女中として切りまわしながら、私とだけは、むりな閑《ひま》を見つけてあそんでくれたり、縁日や虫取りにつれて行ってくれたりした。――五人も子供をうみながら、根が病弱で、臥せる事の多かった母にかわって、そして兄を溺愛した祖母にかわって、お咲さんは私の母がわり、やさしい姉がわりとして、たえず私をいつくしみ、面倒を見てくれた。私はお咲さんに抱かれ、おぶわれ、手をひかれて大きくなって行った。弟がうまれてうばわれた母の乳房のかわりに、お咲さんの襟えりもとから手をつっこんで、その若いふくらみにふれ、乳首をひねくりまわして眠った。――はずかしがりやで、すぐまっかになるお咲さんも、私がする分には、困ったようにくすぐったがるだけで、こばまなかった。四つ五つになると、さすがに乳房にふれるのはやめたが、そのかわりお咲さんの膝に抱かれては、お咲さんの襟もとにある大きな黒子《ほくろ》からはえている、長い毛をひっぱった。
彼女は、決して美人ではなかった。お凸《でこ》で、鼻はまるく、ふっくらした頬がすこしとび出し、うけ口で、髪の毛も少し赤みをおびてうすかった。そのかわりぬけるように色が白く、特にその細い、いつも笑っているような眼は、笑う事しかできないようにやさしく弧を描き、たしかにお咲さんが、泣いたりふくれっつらしている所は、見た事がなかった。――陽気で、はきはきしていて、身がるく動き、きれい好きで、針仕事も料理もうまいお咲さんの、ただ一つの難点は、若いのにやたらに信心深い事と、もう一つ加えれば、子供を甘やかしすぎ、とりわけ私を溺愛しすぎた事だろうか? 不良におそわれかけてから、さすがに夜中にぬけ出してやるのはやめたが、宵の口に仕事をかたづけては、何かといえばお百度をふみに行き、私が百日咳をわずらった時には、風邪気味のくせに水垢離《みずごり》までとって、自分が肺炎をおこしかけた。
小学校に上る前、私は一度だけ、お咲さんがお百度をふんでいる所を見た事がある。――もう初霜もふったさむい晩、おそい昼寝のつづきで寝こんだ私は九時ごろ起きてしまい、家に寄食していた叔父と、両親にかくれてこっそり、夜泣きうどんを食べに出た。すっかり着ぶくれて、横丁の角にとまっている屋台でうどんを食べ、近道をしようと神社の境内を横切った。その時、夜目にも白い息を吐きながら、暗い神社の境内を、お百度石から拝殿まで、石畳の上をひたひたと足音をたてて走って行き、拝殿の前でうずくまって、またひきかえしてくる、女の姿が見えた。
「お咲だよ」
と叔父が教えてくれるまでもなく、私は彼女をみとめ、凍《い》てつきかける寒空の下に、彼女が足袋もぬいだはだしなのを見ると、叔父からはなれてかけより、その裾にからみついた。――だめだよ、風邪をひくよ、足袋をはかなきゃだめだよ、と、私はお咲さんにむしゃぶりつきながら、半べそをかいていった。お咲さんはびっくりしたらしいが、その時だけは、いつも私のいう事ならなんでもきいてくれる彼女とは、ちょっとちがっていた。――はっとしたようにしゃがみこんで、あの乳臭に似た甘ずっぱい体臭と、かすかな汗のにおいの中に私をぎゅっと抱きしめてくれ、もうちょっと待ってくださいね、お咲、いま、大事な事をしている所ですからね、というと、また、たっ、たっ、と足音をひびかせて、拝殿の方へ走って行った。
私は、あのやさしいお咲さんの中に、いつもとちがった、なんとなく近よりがたいもの、はげしいものを見たような気がして、それ以上だだをこねる気にならず、ちょっとつき放されたような気持で、行き来するお咲さんの姿を見つめていたが、吐く息の白く凍るさまと、冷たい石畳の上をふむ、ほの白い素足を見ているうちに、なんだかどうしようもなく悲しくなり、とうとう泣き出してしまった。――そのまま叔父に手をひかれ、泣きながら家へかえったが、この私の涙でも、お咲さんのお百度をとめる事はできなかった。
小学校へ上る年、お咲さんは国もとへ嫁いで行った。――嫁に行きたくない、もっとこの家にいたい、と、お咲さんは私の家へ来てはじめて泣いたそうだが、その事はあとになってきかされた。それでも私が小学校へ上るまでは、とのばしにのばし、とうとう入学式へついて来た。学校へかよい出し、ある日かえってみると、お咲さんはいなかった。顔をあわせるとわかれるのがつらいから、といったという話はずっとあとになってきいたし、その二、三日前私が、お嫁に行ってもかまわない、いいお嫁さんにおなりよ、といったあと、お咲さんは裏へ来て、顔が腫れ上るほど泣いた、という話も、あとできいた。
そのお咲さんは、一番下の妹がうまれると、今度は乳の出ない母のかわりに、乳母としてわが家にあらわれた。――国もとの生活が苦しく、夫婦ともども近くの都会まで出て来て、結局彼女の夫は父の関係している会社で働く事になり、家も、私の家の近くにひっこし、彼女は、今度は自宅からかよってきた。
妹が乳ばなれして間もなく、お咲さんは、今度は決定的にわが家からはなれた。――夫のつとめていた会社が、うまく行かなくなり、しかし夫婦そろっての律義さを、誰か取引関係の人に買われて、どこか遠くの都会の、大きな邸内に住み込みで働き、お咲さんはやはり乳母としてやとわれて行った。その時、お咲さんはもう二人の子持ちになっていた。
行った先が、どんな所か知らなかったが、それでもお咲さんは、年始の時をふくめて、年に二度か三度、私の家を訪れた。祖母の死んだ時も手つだいにかけつけてくれた。――夏休みの旅行で、父と兄といっしょに、お咲さんの住む都会を訪れた時、一度だけ、父といっしょに、彼女のすみこんでいる邸をたずねた事がある。宏壮な、しかし、どこか粋な所のある一角に、ちゃんとした二階建ての一軒をもらって、彼女は三人の子供とすんでいた。――中からとび出して来た彼女と父が、まあどうぞお上りを、いや、ちょっと顔を見に来ただけだから、と、玄関の前で押し問答しているうちに、邸の方との境の垣根の木戸をおして、とことこと、小さな女の子がやってきた。――赤い被布を着て、お河童《かつぱ》頭で、色が白く、眼が大きく、ちっともまたたきせずにこちらを見つめる、かわいらしい女の子だった。お咲さんはとんでいって、抱き上げると、あの眼のなくなるような笑顔を見せ、お邸のお嬢さまです、といった。
戦争中も、お咲さんは年始にだけはかかさずわが家を訪れた。――もう五人の子福者《こぶくしや》になっており、御亭主も一度応召して、軽い負傷でかえって来ており、戦争がはげしくなるし、国のわずかな田畠も手がたりなくなったというので、一家で国もとへかえるつもりです、といった。戦後は二年たってから、亭主と一緒に、山のような食糧をもって、訪問してきてくれた。
その後もお咲さんと私の両親の音信はつづいた。しかし次々に大きくなり、独立して行く兄弟の中で、ずっととぎれず、多い時で年一、二回、少ない時で二年に一回ぐらい、顔を見に行ったり、見にこられたりしつづけて来たのは私だけだった。――私は頭のうすくなった初老の男になり、お咲さんの方は計八人の子供がそれぞれりっぱに育ち、孫の数も二十人近くになったはずだが、まだまだ元気で、やさしくて、子供好きの性分はちっともかわらず、孫のところをあちこちかけずりまわっていた。彼女ももう六十七、八、私は四十の坂をとうにこしたが、いまだにあうと、「坊っちゃん」よばわりされ、昔、おむつをひきずって歩いたり、おっぱいをひねくったりした話をされるのには閉口だが、それでも今は、私にとってお咲さんが死んだ祖母や母のイメージをつぐ女性《ひと》だったのである。
川にそう道を行くと、川は間もなく二つの山の間にはいって行き、一方の山裾に、前に見事な黄、白、赤の菊花を咲かせた花壇を配して、老杉、老松、紅葉の影から、古びた庵室の軒端《のきば》がひっそりのぞいていた。花壇の横に、枝もたわわにみのった柿の巨木があり、秋の日に珊瑚《さんご》色の実が美しくかがやいていた。――近所に小学校があるのか、大勢の子供たちが、花壇のむこう、朱黒の鯉のゆったり泳ぐ池のほとりにむらがって、画用紙をのべている。
庵室の手前に、コンクリート打ち放しの、宏壮な志士記念館ができていた。――週日の午前の事とて、客もないらしく、ひっそりとした中をちょっとのぞいてみたが、お咲さんの姿は見えない。どうせ、ここで行きちがっても、あの店へかえればあえるのだから、と思って、私は入場料をはらって中にはいり、簡単に一階二階を一巡した。
忠臣蔵の勘平どころではない、二十六歳余の若さで胸を患って夭折《ようせつ》した、長州藩の天才的志士の、天才らしい老成した趣味をあらわす遺品や書画にちょっと驚嘆し、本妻との間に子もありながら、志士隊本拠のこの地で死んだあと、愛妾が髪をおろして、一生故人の墓守《はかもり》をしてくらした、その経緯を庵設立の説明書で知って、革命とロマンスの、それもいかにも江戸末期日本らしい、品格風合いのあるからみ方に、一種の感慨を抱いた。記念館を出、隣接する庵室の方へまわって行くと、山腹の墓所へ行く石畳の道のわき、墓所下の崖をとりいれたささやかな庭先で、品のいい尼僧と立ち話する、割烹着にもんぺ姿のお咲さんの姿があった。
「まあ、お坊っちゃま!」
とお咲さんは目ざとく私の姿を見かけて叫んだ。――とたんに、お咲さんの背中で眠りかけていた幼女が声におどろいてむずかり出し、お咲さんは、何やらうたいながら、やさしくゆすって、首をちぢめた。
「今日は……」と、私も、尼僧の方へ目礼しながら、声をひそめていった。「山口まで、ちょっと用があって来たら、どうしてもお咲さんにあいたくなってね……」
「ようまあ、こんな所まで、お出でくださいました……」お咲さんは、色白の顔満面に、笑みじわをうかべて、嘆ずるように私を見上げた。「それにまあ、ますます貫禄がおつきなすって……」
両親の事、兄弟の事、家族の事をたずねられながら、私は尼僧の手前、多少照れくさい思いを味わった。――何しろ、私たち兄妹の上三人は、お咲さんにとても頭が上らない。私などは、それこそむつきのころからお咲さんの世話になって育ったのだ。話しかけながら、お咲さんは、臈《ろう》たけた、五十年配の庵主を要領よく紹介し、私もいつの間にか、庵主から、庵について、墓所について、あれこれと説明をうけていた。そういうやり方について、お咲さんは昔から実に要領のいい、かしこい女性《ひと》だった。
庵主にあいさつして、お咲さんについてかえろうとすると、墓所をごらんになりましたか? ときく。まだ、というと、それではぜひごらんなさいまし。私はちょっとこの子を家において、すぐかえってまいります、と、すっかり寝こんだ背の孫に、いとおしそうな笑顔をむけ、庵主に、どうかよろしくおねがいします、こういう所がお好きな方ですから、と頭を下げた。
お咲さんが、孫娘を背に、家へかえって行くのを見ながら、私は尼僧に案内されて、庵室の先から、ゆるい勾配の石畳をふんで、ゆっくり志士の墓所へ上って行った。――庵室に接する裏山の、やや小高い中腹にあるその墓所は、まわりを空高くそびえる数多い相生《あいおい》松にとりかこまれ、その間に、眼も綾な、真紅の楓《かえで》、黄の櫨《はぜ》などを配し、百年近く経た、古い石玉垣にかこまれていた。玉垣の前に、香華《こうげ》がそなえられ、墓所の後ろは枯れもみじ、枯松葉の落葉をふんでなお奥へとのぼる山道、ふりかえれば眼下に川が清らかに流れ、対岸の山肌にも、これは土地の人たちのものらしい墓地や、忠霊塔が、木の間がくれに見える。
見上げれば、天を摩《ま》す老松の枝ごしに、かん、と音をたてそうなすんだ青空が見え、紅葉の林は秋冷の山気をはき、どこかで落葉を焼く、なつかしい匂いがただよってくる。――風は無く、森閑としずまりかえる中に、時折ひわらしい鳥の鳴き声や、けたたましい百《も》舌|鳥《ず》の叫びがきこえるばかりだった。
「しずかですね……」と、私は思わず嘆息まじりにつぶやいた。「ここはちょっとひっこんでいますから、見物の方もすくないでしょう……」
「そうでございますね。――日曜などは、観光バスで大勢いらっしゃる事もございますけれど……」と尼僧は品よくほほえんだ。「今日は、あなたでお二人目ですわ。先の方は、だいぶ前に、奥へ上っていらっしゃいましたが……」
そういって、尼僧は墓所の裏に高まって行く斜面の奥を、すかし見るようにした。――遠く、高いあたりの林間に、ちらと白っぽく動くものの姿が見えたような気がした。
庵室の縁先でお薄茶《うす》でも、という誘いに甘えて、ふたたび石畳をふんでゆっくりおりて行く道すがら、私は庵主が、あの志士の愛人が百余年前|剃髪《ていはつ》して庵を営んでから三代目である事、幼くして両親を失って、二代目庵主に養われ、二十一歳の若さで三代目をついだ事、などをきき出していた。――もとより脂粉の気は毛ほどもなく、山間の住いとて健康そうに小麦色に陽焼けしていたが、青い頭の下の尼僧の顔は若々しく、昔はさぞやと思わせるほどの美しさで、私は、ふと、山口であったシスター・マリア・小此木の事を思った。――あのシスターといい、この庵主といい、こういった美しい女性が、若い、というより、少女に近い年ごろから、キリストや仏の道に身をささげ、青春も、女ざかりも、ただひたすら信仰の中に埋没させつづけ、このまま一生埋没させつづける、というのは、いったいどういう事なのだろうか? そこには、いったい、何《ヽ》があるのだろうか?――と、凡俗の私は、ひきこまれるように静かで、清らかな庵主の雰囲気にうたれながら、ぼんやり考えつづけた。
小さいが、山家らしいすがれた趣のある石燈籠と、侘助《わびすけ》らしい小ぶりの常緑樹をはじめとする二、三本のささやかな老木、あとは眼前の崖肌に露出する石や、苔むす崖裾だけが体裁をあたえている、簡素で、侘びた小庭を前に、尼僧が優雅な手つきでたててくれた茶をすすっていると、庵室の裏手の崖を稲妻形にはう坂道を、上の方からおりてくる人の足音と、白っぽい姿が見えた。先に来た客だろう、と気にもとめずに、茶を飲んでいると、一たん軒のむこうへ消えた人影は、今度は庵の裏手に、さくさくと砂をふむ足音をひびかせて近づいて来た。
「あら……」
と小さい驚きの声がきこえると、砂をふむ音はやみ、一呼吸おいて、庵室の角から、すらりとした姿があらわれた。
「ごめんなさいまし、庵主さま……」と、その女性《ひと》は、すまなさそうに頭をさげた。「あの裏の所、石庭風に、砂に箒目《ほうきめ》がついておりましたのね。――そうと存じ上げずに、うっかりふんでしまいましたわ」
「いえいいんですよ」庵主は、縁先から体をのりだしてのぞいた。「小さなものですし、すぐまたつけられますから……」
頭をあげた女性をみて、私は茶碗を手からすべらせそうになった。――きのうとはうってかわった、白っぽい地に秋草を大胆に配した一越《ひとこし》に、これまたひどく大胆に、紅葉した、桐の葉を刺繍した緞子《どんす》の帯、という若やいだ姿で、髪形まですっかりかわった宇治夫人が、いたずらっぽく眼を光らせて立っていた。
「これはこれは……」私はやっと気をとりなおして、縁先から腰をあげた。「ふしぎな所で、またお目にかかりましたな……」
「私は、さっきからずっと、ここにいらっしゃったのを存じ上げていましたわ」と夫人はぴしゃりといった。
「お茶をいかがですか?」と庵主は笑いながらいった。
「いえ、おかまいなく――私、記念館の方を拝見してまいりますから……。あなたもどうぞごゆっくり……」
夫人の姿が表の方へまわって消えたあとも、私は何となくおちつかない気持だった。――お咲さんも、もうひきかえしてくるころだし、と思って、庵主に礼をいうと縁先を立った。
表へまわると、記念館から夫人が出てくるのが見えた。――夫人は私を待つようにちょっとふりかえり、ゆっくり菊の花壇の方へ足をむけた。
「おどろきましたね……」私は追いついてならびながら声をかけた。「こんなに早く、再会できるとは……」
「庵主さん、おきれいな方ですわね……」まわりに咲く、見事な菊の花を見まわしながら、夫人はつぶやいた。「あなた、どうお思いになる?――私、あの庵主さん、あの志士の、三代目の愛人《ヽヽ》のような気がするの……」
「それはまあ、考えようによってはね……」私は夫人の直截な考え方に、苦笑しながらいった。「しかし、仏門にはいられている身は……」
「何代にもわたって、女性から愛されつづける男って、どういうのかしら?」夫人は私の言葉に耳をかたむけようとせず、独り言のようにつづけた。「女性が、生身の青春までささげてしまう男性って……」
「じゃ、キリストだってそうでしょう」
私はからかうようにいった。
「ええ、そう――でもキリストは遠すぎますわ。たとえば……|サビエル《ヽヽヽヽ》なんて、どんな男性だったか、興味ありますわ……」
ふと――、私の中で、|何か《ヽヽ》がわかりかけたような気がした。何がわかりかけたのかは、まだはっきりしなかったが、私はある事を夫人にたずねてみようとして、たちどまった。が、何からどうたずねていいか、咄嗟に判断がつきかねて、しばらく絶句していた。
その時、川ぞいにお咲さんの姿が見えた。――門をぬけ、記念館の前をまわって、菊の花壇のはずれ、池の傍に立っている私たちの方に、小走りに近よってくると、途中で立ちどまって頭をさげたが、私たちがならんでそちらへ歩き出したとたん、彼女の顔に、ま! という驚愕の表情がうかんだ。
「まあ、|お嬢さま《ヽヽヽヽ》!」とお咲さんは眼をまるくして、私の傍の夫人を見つめた。「どうしてまあ……」
「あら、お咲さん……」夫人もおどろいたように眼を見はった。「あなた下関の市内に住んでいるんじゃなかったの?」
「いったい……あなたたちは……」私もあっけにとられて二人を見くらべた。「……知りあいだったんですか?」
「お坊っちゃま、こちらの奥さまと、ずっとご一緒……」
「いや――」説明のむずかしさに、頭の中がきゅっと凝ったようになるのを感じながら、私は口ごもった。「山口で偶然……」
「お嬢さま、ほら、こちら、前々からお話しておりました、河野さまの……」
「わかっていたわ……」夫人は嬌然と私を見て笑った。「お名前、おかわりになりましたのね。ですからお目にかかっても、すぐはわからなくて……どこかでお目にかかった事があると思って、ずっと考えておりましたの……」
「ええ、――たしかに私は母方の姓をつぎましたから……しかし……前に……お目にかかった事がありますか?」
私は混乱しながら、夫人とお咲さんとを見くらべた。
「ええ、ずっと前に一度だけ……」夫人は謎々をするようにいたずらっぽく笑った。「あなた、私の家に住んでいた、お咲さんをたずねていらっしゃいましたわ。ずいぶん前ですから、なかなか思い出せなかったんですけど――だって、お目にかかったのは|私の二歳の時《ヽヽヽヽヽヽ》ですものね……」
7
むさくるしい所ですが、ぜひお食事を、とすすめるお咲さんに、昨夜電話がはいって、下関へ友人をむかえに行くから――といって、夫人は待たせていた車にのった。できれば、またすぐひきかえしてくる、といって……。
ガソリンスタンド横のスナックで、お咲さんとさしむかいに坐りながら、私は、いつものような懐旧談をする所ではなく、すっかり混乱して次から次へと、お咲さんに夫人の事を質問しつづけた。――昔、夫人の邸をたずねた、とすれば、あの父と一緒に夏休みにお咲さんにあった時、邸の方からとことこやってきた、赤い被布姿の童女が、今の夫人だったというのだろうか?――その通りだ、とお咲さんに教えられると、今度はまた新たな驚愕にとらえられた。――|二歳の時たった一度だけ見た小学生時代の私の顔から《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、今の、この四十半ばをすぎ、頭のうすくなった私を、それと見わける事ができるものだろうか?
「お嬢さまには、小さい時から、そういう不思議な事のある方でした……」とお咲さんは、しみじみと述懐した。「とんでもない昔の事をはっきりおぼえておいでになったり、人の心を見ぬいたり……時には、人の心を、ご自分ではそれとお気づきにならず、思うようにあつかったりなさいました。そのため、ずいぶんと、御本人、御不幸な目におあいにもなりましたけど……」
少女の時から、ずいぶんはげしい恋をしつづけて来た人で、そのため実家をつぐ事ができなかった。――美貌にくわえて、その不思議な|はげしい力《ヽヽヽヽヽ》で、彼女が恋した相手は、必ず彼女の|もの《ヽヽ》となった、という。
「お坊っちゃま、山口から、汽車の中でご一緒でした?――お嬢さまの催眠術《ヽヽヽ》におかかりになりませんでした?」
お咲さんにおかしそうに言われて、私はふたたび|と《ヽ》胸をつかれた。――列車の中で、彼女のあまりに強い眼の輝きに、一とき、ぼうっとした事があった。その時、ひょっとしたら、夫人が、お咲さんの言う「自分では全然意識せずに他人にかけてしまう催眠術」にかかったのかも知れない。しかし、かけられたとして、一体、どんな暗示《ヽヽ》を彼女にあたえられたのか?
お咲さんの話をききながらぼんやりと、床の上を見つめていた私の眼に、ふと、|まだじっとりぬれて《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|波形に塩をふいている靴先がうつった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
「でも、今の御主人様が、大変できたお方で、二人目のお子さまがおうまれになってから、だんだんにおちつかれて……」
お咲さんは、半白の髪を、ガラス窓ごしにさしこむ秋の日ざしになぶらせながら、自分の肩の荷が一つおりたように、深く、しかし幸福そうに息をつき、あの昔とちっともかわらぬ、やさしい「笑い目」をうっとりと細めた。
「あの方の中に、何かはげしい業《ごう》のようなものがおありになって――ですから、あの方が次から次へとかわった男に恋をなさっても、|それはあの方御自身の責任《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ではございませんでしたものね……。お咲には、それがわかっておりましたから、一生懸命、御信心をおすすめしたんですよ。それが甲斐があったらしくて、ある時から、あちこちお寺や神社をおまわりになるのが、お好きになられて、それ以来……」
現身《うつしみ》の男たちとの恋は、ふっつりやんだという。が――さっき、花壇でのふとした立ち話から察するに、宇治夫人は、今度はこの世のものならぬ男たちに、次から次へと、はげしい恋をしはじめたような気がする。サビエルに……この地に眠る維新の天才的志士に……そして――ひょっとしたら義経《ヽヽ》に……。
だが、それにしても、彼女の中にひそむ「業《カルマ》」も、年とともに、次第に洗われ、尽きかけているのであろう。――お咲さんの話をきいていると、次第にその事がわかってくるような気がした。夫人も、もはや中年をすぎ、あの天性の賢さ、鋭さが、徐々に内部のはげしい炎から、彼女自身を「解脱《げだつ》」させる方向に働き出しているような気配が感じられるような気がする……。
外を走りぬける車の音がして、ちょっと席をたってかえって来たお咲さんが、お嬢さまが、またかえっていらっしゃいました、と知らせてくれた。――お友だちとご一緒に、また僧庵の方へいらっしゃいました。ちょっと行ってまいりますが、お坊っちゃまも、もう一度あちらへいらっしゃいますか?
お咲さんの話からうけた衝撃の余焔が、まだおさまらぬ気分で、私は三分の一ほどのこった二本目のビールを、あけてから後を追うといって、一人でスナックにのこった。――ガラス窓からさしこむ日ざしは、ややかたむいて、時計は午後二時をさしていた。
ビールをのみおわり、やや陶然とし、きのう今日、山口から下関へかけて、夫人をめぐって起ったさまざまな奇妙な事の意味が、やや心の中におさまった気分で、私はスナックの外へ出た。――川沿いに僧庵の方へ歩いて行くと、咲きほこる菊の花壇の中に、山を背景にして、四人の女性が立ち話しているのが遠望された。そのうちの一人、夫人がむかえに行って連れて来た友だちというのは、黒い修道服を着た女性で、一目できのう山口で出あった、シスターだとわかった。日程に余裕でもできて、山口のかえり、こちらへまわる事にしたのであろう。
空はあいかわらずぬけるほど青く、白い雲がところどころにうかび、さんさんと降りそそぐやわらかい秋の午後の陽は、このしずかな、おっとりとした山間の土地を、あたたかく、隈なく照らしていた。――門をはいる手前、ちょうど川をへだてて、花壇を見る位置で、私はふと足をとめた。何やらたのしげに語らう四人の女性を、彼女らをとりかこむ背景、前景と一体になった画幅としてながめたい気になったのである。
髪に霜をおいた、子福者のお咲さんは、枝もたわわに実って、晩秋の日にあかあかとかがやいている柿の木のような気がした。宇治夫人は、霜月を前に、今らんまんと咲き、馥郁《ふくいく》と香る大輪、中輪の、黄菊白菊であろう。なにやらわからぬ業に、自分ではそれと知らず苛《さいな》まれ、人をまきこみつづけて来たとはいえ、花が開けば、それは解脱の予兆であろう。――シスターは、四季かわらぬすがすがしい緑をたたえた常緑樹、そして庵主は、やさしさの中に、濃い深みをたたえた楓の紅葉であろうか? 四人の女性、それぞれに人生の変転を経ながら、今ここに、それぞれに中年をすぎ、それぞれにことなった形で、女としての「人生の秋」をむかえている。過去はどうあろうとも、それぞれに、あたたかく、やさしく、しずかで、充実した「秋」をみのらせれば、それは女性としても、人としても、めでたい事ではあるまいか?
秋晴れのあたたかい日は、この一日二日で、もうじき冷えこみ、山間には霜がくる、と天気予報は言っていた。――だが、いまこのおだやかな山間の土地の上にある秋の日は、やさしい麦藁色の陽にぬくめられ、風一つなく、あたたかく、山も水も、緑の木も紅葉も、今をさかりと咲きほこる菊も、朱のかがやきを空の青にほこらしげにちりばめる柿の木も、そして「人生の秋」に佇《たたず》む四人の女性も、すべて一刻《いつとき》の、かぎりない充実をしずかにたのしみ、ことほぎあっているようだった。
そのすべてを、一幅の想像の画の中にとかしこみ、わが身もその中の点景と見て、私はしばらく花壇の対岸に足をとどめ、冷たく澄んだ空気を胸一ぱいに吸いながら、心ゆくまで、その画を味わった。やがて、女たちの誰彼が私の姿を見つけ、手をふり、声をかけてきた。私は門へむかってゆっくり歩き出したが、その時は、夫人にもう一度あったら、ただ一つだけ、問いただしてみたいと思っていた事――昨夜半、おそらく昼の列車の中で、夫人が、|それと知らず《ヽヽヽヽヽヽ》私にかけてしまった暗示のため、夢遊状態で壇ノ浦の海岸へ行った時、あの赤間神宮の平家墓所で、見たて建礼門院の夫人と、見たて判官の私の間に、あれから|何があったのか《ヽヽヽヽヽヽヽ》、という疑問は、もうこのまま一生問うまい、と決心していた。
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旅 す る 女
1
パペーテのファアア空港についた時は、もう現地時間で夜の十時ちかかった。イミグレーションをすませて、手荷物を待っていると、パンナムかエール・フランスか、おくれていたらしい便がついて、間もなく手荷物引きわたし所はかなりこんで来た。
まわりを見まわしてみたが、みんな白人ばかりで日本人は一人もいない。
タヒチには、中国系住民が五千人以上もいるのだが、おりて来た乗客の中には、東洋系の顔は一つもなかった。若いのもいれば、老人も壮者もいたが、みんなヨーロッパ、アメリカからの観光客ばかりらしい。この前訪れた時には、それでも四、五人の若い日本人男女のグループがいた。しかし、今回は、観光シーズンも終ったためか、あれほど世界のどこへ行っても見かける日本人観光客が、珍しい事に一人もいない。――大体、南半球は、まだまだ日本人の観光の足がのびていない領域だ。
だが、それも時間の問題だろう。いずれ、JALの国際線がパペーテまでのびれば、日本人観光客が団体でどっと押しかけ、あのハワイのさわぎのように、全島が日本の善男善女に占領されたみたいになるにちがいない。まわりの、ヨーロッパ、アメリカからの観光客――中にはいかにも金持ちらしい、初老の、品のいい夫婦もいた――を見まわしながら、にぎやかで臆面のない、日本の庶民観光客に、世界のあちこちでおしまくられている彼らが、なんとなく気の毒なような感じがした。
やっと動きはじめた金属製のコンベアにのって、トランクやスーツケースがちかづきはじめるのを眼で追いながら、彼はハンカチをとり出して旅の汗をぬぐい、上衣をぬいで腕にかけた。――彼の傷だらけのスーツケースは、最初の方に出てきた。それをとり上げて、出口の方へむかって歩き出すと、汗が全身にふき出した。
早春の南半球から来た身にとって、タヒチの夜の空気はむしあつかった。
「ホテルはおきまりですか?」
インフォメーションカウンターにいる、漆黒《しつこく》の髪の耳の所にハイビスカスの花をさした、タヒチの娘《ヴアヒネ》が英語で声をかけてきた。
「きまってるよ」と彼は歩きながらふりむいていった。
「ありがとう」
「ハヴ・ア・ナイス・ステイ……」
そういって娘は、カウンターの上の書類に眼をおとした。
ターミナルビルの外へ出ると、背後から、ヒュッ、と鋭い口笛がきこえ、つづいて声がした。
「ボンソワール・ムッシュ」
ふりかえると、赤いアロハシャツを着て、半ズボンに裸足《はだし》という恰好の大男が、茶色の顔をほころばせて、手をふりながら、ビルからもれる明りの中へ出て来た。
「やあ、シモン……」彼は荷物をおいて手をのばした。「よく私とわかったな……」
「荷物《バガージユ》……帽子《シヤポー》……」島のタクシー運転手は右手で彼の手をにぎり、左手でスーツケースと帽子を指さしながら言った。「すぐわかったさ。――パンナムで?」
「いや、|チリ航空《ラン・チレ》だ……」
「ホテルは?」スーツケースをとり上げながら、シモンはきいた。
「インターコンチネンタル……」
シモンはトランクをあけると荷物をほうりこんだ。――彼の車は、前に来た時と変っていた。まっ赤な、ま新しいダッジ・ダートだ。
「いい車だな……」彼はボディをたたいていった。「もうけたな、シモン……」
シモンは、餡《あん》パンのような顔をほころばせて、ヒヒッ、と笑った。
「まだみんな払ってないさ。――高い車だ」
シモンは、最初タヒチに来た時、空港からのったタクシーの運転手だった。フランス語と英語、どちらも片言が話せた。ホテルへ行く途中で、彼に翌日の島内観光を売りこんだ。――安くしとくよ。ホテルでたのむと高いよ。島内一周で二十五ドル……どう?
けっこう高い、と思ったが、人なつっこい所が気に入って、彼は予約した。――翌朝むかえに来たシモンの車にのると、ホテルからしばらく走った所で、いきなり道ばたから、中年のタヒチ女性と小さな女の子がとび出し、車の後部にのりこんできた。
「女房のマリアと娘のアンだ……」とシモンはニヤニヤしながら紹介した。「二人とも、まだ車で島を一まわりした事がないのでね」
なんだ、料金をまけたかわりに、家族便乗か、と彼は苦笑した。――マリアはタヒチ語以外しゃべれなかったが、気のよさそうな女だった。で、彼は島内一周の終ったあと、シモンへのチップのほかに、女房と娘に五十セントずつやった。かえる時、ホテルにむかえに来た車の中に、やはり女房と娘はいた。そして空港で、自分たちからだといって、貝殻のレイをくれた。
二度目に訪れた時、シモンはやはり空港で彼を見つけた。――その時は、島のすぐ西にあるモレア島まで、彼の弟の持っている小舟で、無料で連れて行ってくれた。彼は、弟とシモンの家族を、簡単な食事に招待し、そのあとシモンは彼を自分の家によんでくれた。パペーテ港のちかくにあって、電気冷蔵庫のある、島民の住居としてはかなりりっぱな家だった。――ただそれだけの知り合いだった。タヒチなどという島は、そうそう来るついでのある島ではない。一度はロスからシドニーへ行く途中、二度目はニュージーランドのオークランドから、メキシコシティへ行く途中で、日程調整と休養のために二、三日滞在しただけだった。島での知り合いはシモンだけであり、それで充分だった。行きずりの人間のままでいたい場所もあり、彼にとってタヒチはそういう島だった。
ファアア空港を出て、パペーテの市街を通りすぎると、しめった、濃い闇があたりを包んだ。――観光の島ではあるが、タヒチはオアフとちがって、人口もすくなく、夜は早い。舗装された島内一周道路のところどころに、常夜燈や、ホテル、バンガローの入口をしめす明りがついているだけで、通行人の姿はもちろん、行きかう車のライトさえ、ほとんどなかった。
右手に黒々とした斜面がそびえ、左手は海になっている。カーブをまがると、道をおおうようにしげる樹木の闇の一部が切れ、宙天高くのぼったぬれぬれとした満月が見え、またカーブをまがると闇がおおった。ぽつり、ぽつりと立っている水銀燈の明りに照らされた樹木の葉が、そこだけ熱帯の眼も鮮やかな緑を、夢のように浮び上らせていた。
あけはなった窓から、塩気をふくんだしめった風が吹きこんだ。熱帯の島なのに、虫も、蛙も鳴いていなかった。そのかわりシモンが次から次へとしゃべりつづけた。――アンは小学校にはいったよ。マリアは二人目が腹にはいっている。うまれるのは十一月さ。今度は男の子がほしいよ。弟? いまフランス海軍の雑用をやってる。原爆実験! いや、最近はやりそうな気配は見えないね。今度も仕事かね? チリって国はどこにあったっけ? 今度は何日滞在するんだい? このあとどこへまわる? トウキョウへかえるのかい?
言葉すくなにうけこたえしながら、彼は、自分の中に、長い神経の張る仕事を終えて帰路につく時にいつも感ずる、一種の感傷をともなった疲労が、波紋のようにゆっくりひろがって行くのを感じた。
2
インターコンチネンタル・タハラのフロントで、チェックインしている間、シモンは傍で喋りつづけた。
「明日は、タクシーはいいかね?」
部屋がきまると、シモンは手を出していった。
「そうだな、九時ごろ電話してみてくれ」
彼はルームキイの番号を示しながら、煙草をとり出してくわえた。――シモンにもすすめると、
「これで三度目だぜ、ムッシュ……」とニヤッと笑った。「吸わないんだよ」
シモンがモルモン教徒で、酒も煙草もやらない事をやっと思い出した彼は、苦笑しながらポケットをさぐり、くしゃくしゃの一ドル札と、二十五セント貨を二枚とり出し、家族に、といってわたした。
「メルシ……」とシモンはいって、片方の眉をあげた。「いつもより多いね」
「一人ふえるんだろう?」と彼は笑っていった。「タヒチのインフレはどうだい?」
ポーターに荷物をまかせて、フロントから渡り廊下をわたってエレベーターの方へ行く途中、ふと左手のプールサイドのまわりにもえているトーチの明りにひかれて、部屋にはいる前に一杯やりたくなった。プールサイドのむこうが岸になって湾にのぞみ、湾の東はゆるやかなスロープで海におちこむ岬でさえぎられている。プールのこちら側が、コーヒーショップになっていて、その奥が、ハワイなどによくある、アメリカ風とポリネシア風をミックスしたような円形のバーになっていた。
木の橋をわたり、巨大なティキ神のこしらえものの傍を通って、コーヒーショップのテーブルの間を通りぬけ、彼はバーの方へ歩いて行った。――時間がおそいためか、観光客がすくないためか、コーヒーショップは三、四組の客があるだけだった。バーの方も、カウンターに、三、四人、テーブルには、カウンターからはなれた所に女性が入口に背をむけて一人すわっているだけで、閑散としていた。
カウンターにすわろうと思ったが、かたまっているのが、島の若者たちらしかったので、テーブルの方に腰をおろした。ブルーの、プリント地の、超ミニのワンピースを着たウエイトレスが、あのポリネシア特有の褐色の微笑をたたえながらちかづいてきた。――ウイスキィを注文しようとして、この一週間、ウイスキィとワインばかり飲んでいた事を思い出して、ジン・リッキーを注文した。別に好きなわけではなかったが、何となく「機械文明の味」のするものが飲みたかったのである。
四方が吹き通しの、ほのぐらいバーの中に、海からの微風が吹きこんでいた。――この風は南東貿易風のわかれだろうか、と思いながら、彼はバーの一番奥のテーブルにすわって、海をながめた。月は、屋根にかくれて見えなかったが、バーから見おろす海は、月あかりにキラキラかがやいていた。岬が黒い矢印のように沖へむかってつき出す先に、白雲をまといつかせた濃紫の島がうかんでいる。空は明るく晴れ、月光にかがやく白い団雲がいくつかとんでいた。
風は、音をたてるほどは吹いていなかったが、バーの外や、プールサイドのまわりのトーチのオレンジ色の焔をはためかせ、海面を背景に浮び上る椰子の葉のシルエットをゆらしていた。――びっしり露をおいたタンブラーをとり上げ、淡緑色の冷えた液体を一口すすって、テーブルにもどした時、今まで窓際にすわって海の方に顔をむけていた女客が、カウンターの方に顔をむけて指をあげた。
その横顔が、カウンターからさす明りに浮び上った時、彼は、おや、と思った。――女はちかづいてきたウエイトレスに、きれいなフランス語で、マイタイと、つまみものを注文していた。色白で、鼻筋の通った、品のいい、東洋人の顔だちをした中年女性だった。年は四十をいくつかこえているだろう。
日本人かな、と思ったが、別にすぐに声をかける気にはならなかった。海外で見かける、いろんなタイプのアジア人の中で、日本人は、大体顔つきですぐ見わけがつくものだが、中にはまるきり見当ちがいをする事もある。大陸部中国、それも北支系の人たちは、日本人と見わけにくい。エジプトでは、北朝鮮の技術者二人を、日本人とまちがえた。サンフランシスコ空港で、どう見ても日本のOLか何かだと思って話しかけた色白の娘は、フィリピン人だった。
ウエイトレスが行ってしまうと、女はまた夜の海へ顔をむけた。――注文をした時、彼の姿も、眼の隅にはいったはずだから、もし、海外旅行慣れしていない日本女性なら、必ず、むこうも、おや、という顔つきになって、日本人かどうかを、それとなくたしかめようとするはずだった。海外で、ほかに日本人旅行客がいない場所で、日本人同士が出あった時、最初、おや、こんな所にも日本人がいる、という眼つきをして、そのうち大抵ちらちらと、お互いに自信なげな、同時にすがりつきたげな、視線のゲームがおこなわれるものだ。声をかけたければかければいいのに、もし相手が日本人とちがった場合、外国語の会話に自信がないのか、まるで迷い子が、おとなに話しかけるのをためらっているように、あるいはにきび面の中学生が、はじめて好きになった他校の女生徒に話しかけようとするように、何とももじもじした態度で長い間視線をちらちらさせあう。――そのゲームには、いつも苦笑させられた。だからそれがはじまると、以前はすぐ声をかけてやる事にしていた。声をかけると、今度は砂漠で水にありついたように、こまごまとした旅行の苦労や、自分の個人的な事まで、せきを切ったようにしゃべりたてる人が多かった。その顔に、やっと日本語をしゃべれるという、露骨な安堵の色があらわれるのを見ると、若干いじらしくもあるのだが、しかし、相手によっては、こちらが旅慣れしているように見られると、旅行のいろんな手つづきの世話までおしつけられたり、またべったりとくっつかれたりする事もあるので、最近ではほどほどにして、相手がよほど困っているように見える場合でなければ、こちらからは声をかけないようにしていた。
日本人は、一歩国の外へ出ると、きわめて孤独に弱いのかも知れない――と、彼は思った。――特に「言葉の孤独」に……。あまりに長い間、閉ざされた島に、大勢の、均質な言葉と文化の中にくらしつづけて来たためだろうか? 日本人にとっての「人の世」とは、いつも視野の中に、自分と同じような顔だちで、同じ言葉をしゃべる、ひと目見てどんな職業かわかるような人たちがうつっており、耳からも眼からも、たえず日本語のサインがはいってくるような、そんな環境なのであろう。
だが、一歩国の外へ出れば、そこにまったく異質の世界がある。――耳にはいってくる言葉、書かれている文字は、大部分の日本人にとって、ほとんどわからない。まわりの人は、国によっては日本人とまるきりちがった顔だちであり、その話す言葉がわからないばかりでなく、その身ぶり、表情の示す意味もほとんどわからない。すべてはノイズになってしまう。何かがあった時も、誰に、どう話しかけていいのかわからないし、言葉も通じない。一人で、外国の街へおりたったとたん、日本人は、突然異質の環境の中で、言葉を失ってしまった自分を感じるのだ。禅宗の無言の行が、やってみれば存外苦しい行であるように、「言葉が通じない」心細さと孤独感は、日本人旅行者に、大変な精神的ストレスをかけているのだろう。その苦痛からのがれるために、日本人は一部の例外をのぞいて、必ずと言っていいくらい何人かのグループで、あるいは団体で旅行するのだろう。――日本人の団体旅行は、世界の観光地で有名になっており、仕事の性質上、一人旅の多い彼は、観光地のレストランなどで、よく団体客とまちがえられたり、逆に日本人でないと思われたりした。彼もフィリピン女性を日本人とまちがえたが、彼自身、ハワイ島のレストランで、フィリピン人とまちがえられた事があった。まちがえたウエイターは、あやまるかわりに、まちがえた理由を力をこめて数え上げ、いかにもまちがえるのが当然で、まちがえさせるこちらが悪い、といった顔つきをした。――一つ、一人で旅行している。二つ、カメラを持っていない……。三つ、眼鏡をかけていない……。
夜の海をながめている女性は、その点、彼の中でいつの間にかでき上っていた「海外における日本人旅行客」の類型からはずれていた。――その視野の隅に明らかに彼を見ていながら、ちらとも視線を走らせようとしなかった。冷然としている、というより、ごく自然に、意にとめていないようだった。その様子を見て、かえって彼は、その女性にかるい興味をおぼえた。彼の知る類型からはずれているとすれば、彼女は髪も眼も黒く、日本人によく似た顔だちをしているが、日本人でないか、それとも日本人の中の「例外」に属するかだ。ひょっとして連れがいて、待っているのかも知れない。
マイタイがはこばれてきたが、女は海に顔をむけたままふりかえりもしなかった。――ウエイトレスがグラスをさげて行くのを見ると、女はすくなくとも二杯目だった。日本で飲むのとちがって、ハワイやタヒチで出される、このラムベースの華やかなカクテルは、口当りはいいが、強烈で量も多かった。それを二杯目を注文し、酔った風にも見えない所を見ると、かなり酒に強い方らしかった。そう考えると、自分も、もっと強烈で爽快な酒が飲みたくなり、彼はドライ・マティニを――それもウルトラ・ドライを、新しく注文した。
しばらく海を眺めていた女は、テーブルにむきなおると、大ぶりのグラスをとりあげた。――どういうわけか、その時、軽い衝撃が彼の中に走った。だが、旅疲れのためか、意外に早い酔いがまわり出していて、そのかすかな衝撃の原因を意識の底にさぐるために心をこらすことが、すでにむつかしくなりかけていた。そこへ、新しく、ほとんどジンばかりのマティニを一口あおったため、その事は、すぐ断念せざるを得なかった。
マイタイをすする時、カウンターからさす明りが、女の半顔を浮び上らせた。濃い眉が形よく弧を描き、その下に、光のつよい、大きな眼があった。頬骨がやや高く、意志の強そうな顎をしていて、鼻から上だけ見ていれば、ふとスペイン系かと思わせるような、大ぶりで力づよい造作だったが、頬からのど、うなじ、肩へかけての線の、何とも言えず女らしい、ふっくらとしたやさしさが、やはり日本女性――すくなくとも大陸アジア系女性以外の何ものでもない事を物語っているようだった。グラスをはなした口もとは、やや大きめではあったが、恰好よく、少しぽってりとして、やさしげだった。――二杯目のマイタイを半ば飲みほしたその女性は、今度は海の方をむかず、ただまっすぐ背筋をたてて、バーの明りに顔をさらしていた。彼は斜め横から、その顔を眺める恰好になったが、その正面にむけられた眼は、何かを考えているようでもあり、また何も考えていないようでもあった。骨組みのしっかりした、大柄な体つきと、その大ぶりの感じのする顔だちには、一種威厳のあるくつろいだ平静さがあらわれていた。
アメリカではなくヨーロッパの――特にイギリスなどの、上流階級の中年婦人によく見られる、あの世界中どこにいても、そこは自分の土地だ、といっているような、威厳のある平静さだ。
アメリカ人は、歴史や文化が新しいせいか、この「身についた威厳」を持っている人物は稀だ。概して庶民的で、人なつこいので、一歩アメリカの外へ出ると、日本人とよく似た孤独感を味わうのか、観光客も団体が多いし、自分たちだけでひどく陽気にはしゃぐし、また日本人と見ると、心細げによって来て、なつかしそうに話しかけてきたりする。
――この女は、孤独に強そうだな、と思いながら、彼はマティニをふくみ、煙草を吸った。――もし、日本人だとしたら、どんな女性だろう? 毛並みのいいエリート外交官、それも大使クラスの人の夫人、といった感じだが……。
酔いは急速にまわりはじめ、汗がふき出して来た。考えてみると、アンダーシャツは、とび立った時のまま、やや厚手の、長袖を着こんでいた。――ウイスキィの水割りばかり飲んでいて、ジンの、鋭く早い、脳髄と汗腺を内部からカッとつき刺すような酔い方を、うっかり忘れていて、早いテンポで飲んでしまった。シャワーを浴びて、寝る時間だ、と思った彼は、サインをすると立ち上った。心の中で、バーへはいって来てすぐに彼の興味をひきつけ、肴《さかな》がわりにあれこれ彼の想像を刺戟して、ホテル到着最初の一杯をたのしませてくれた、その気品と威厳のある、そしてちょっと風変りな女性に感謝しながら……。
コーヒーショップの出口にある小さな木橋の所で、煙草を吸おうとすると、いつの間にか袋はからになっていた。――部屋にかえれば、荷物の中にあるのだが、酔ったもののわがままさで、どうしても今すぐ欲しかった。売店はもうしまっていたので、彼は大またに歩いて、フロントの方に行った。
煙草を手に入れて、吸いつけながらエレベーターの方へひきかえしてくると、バーからコーヒーショップを通って、あの女性が出てくる姿が見えた。二人のコースは直角にまじわる形になって、彼の方が、十歩ばかり先になった。エレベーターをよび上げ、中にはいって、オープンボタンを押して待ったが、入口のむこうに、女の姿はなかなかあらわれなかった。ちょっとじれて、首を外へつき出すと、女は、エレベーター前の通路の手摺に手をそえて、夜の海の方をながめながら、ゆっくり歩いて来た。ドアを押えている彼の顔を見ても、別に急ぐでもなく、同じ歩度でエレベーターにちかづいて来た。――しかし、中にはいる時、その大きな眼をあげて、
「どうもすみません……」
と、日本語でいった。――ややハスキーな、静かなアルトだった。
「何階ですか?」
と、彼はきいた。
「四階おねがいします……」
彼はボタンを押し、エレベーターのドアがしまった。
「このエレベーターの標示、つけまちがえてるのね……」動き出すと、その女性は階数標示ランプを見上げていった。「のぼって行くのに、降りる矢印が点いているわ」
「これでいいんですよ……」彼は笑いをこらえながらいった。「このホテルの客室は、この下の崖の斜面にそってつくってありましてね。今いらっしゃった所がグラウンド・フロア、それから斜面を下の方へむかって、一階、二階、三階となっているんです。だから今私たちは、四階へむかって、|おりて《ヽヽヽ》いるんです……」
「まあ!」と、その女性はクスッと笑った。
「そうだったの。私、タヒチの人はのんきだから矢印の標示をつけまちがえたのかと思ったわ」
「私もはじめてとまった時、そう思いましたよ」彼も笑った。「感覚なんて、記号に簡単にだまされるものですね。スタートする時、眼をつぶっていれば、おりて行くんだという事がはっきりわかりますよ」
女はもう笑わずに、まっすぐドアの方をむいて立っていた。――大柄な女性で、背の高さも、彼よりほんのわずか低いだけだ。わずかにクリームがかった、白い、サファリ・スーツ風の、しかし本物のサファリ・スーツとはちがって、ちょっとしたパーティの席へも着て行けそうな、ひどくシックな感じの上衣とパンタロンを着ており、それが大柄な彼女によく似あった。
「お一人ですか?」
3の標示がついた時、彼はごくさりげなくきいた。
「ええ……」とその女性はうなずいた。「今夜おつきになったの?」
「そうです――ついさっき――」
4のランプがつき、エレベーターはとまった。
「おやすみなさい……」と女はいった。
「失礼します……」と彼も頭をさげた。
ドア・クローズのボタンを押した時、ドアからほんの二、三歩歩いたばかりの所で、ふいに女はくるりとふりかえり、大またにひきかえして来た。彼はあわててオープンのボタンを押した。
「およろしかったら……」と女は肩でドアを押えるようにしながら、まっすぐ彼の顔を見ていった。
「明日の朝、朝食をごいっしょにいかが?」
「けっこうですね……」彼はちょっと狼狽しながらうなずいた。「何時にしましょう?」
「八時ではおそいかしら?」
「いや……そのくらいの方がありがたいです。明日は寝坊しそうですから……」
「じゃ、八時に――コーヒーショップで」と彼女はいった。「私、滝川です」
「清原といいます……」
「おやすみなさい……」といって、女はもたれていた肩を、ドアからはなした。「ごゆっくり……」
歩みさって行く、白い後姿をドアがおおいかくすと、彼はハンカチをとり出して、顔に流れる汗をぬぐった。
部屋にはいって、シャワーをあびると、彼は明りを消し、カーテンをあけはなった。北向きのガラス戸越しのま正面に、月光に照らされた海とモレア島が見えた。――バルコニーへ出て、彼は中天の月を見上げた。月の照っている空が、実は北《ヽ》の空なのだ、という感覚が、南半球を長く旅して、やっと納得がいけるようになった。月は、明け方、モレア島の、いっぱいにひろげられて、空をつかもうとしている三本の爪のような三つの山の鋭い頂きの間へおちて行く。もし暁に眼がさめれば、すばらしい月の入りが見られる。その月の入りが見たいばっかりに、彼はこのタヒチにより、このホテルに泊るようなものだった。
ベッドへもぐると、ものすごい、ほえるようなあくびが一つ出た。あの滝川という女性、不思議な女だな……と、あくびのあとの大息をつきながら、彼はふと、思った。ついでに、さっきバーで感じた衝撃の原因の事を考えてみようか、と思ったが、横になったとたん、長旅づかれと、ひさしぶりに飲んだジンの酔いにときはなたれた睡魔が、四方八方から大波のように彼の上におそいかかり、大渦のように、たちまち彼を深い眠りにひきずりこんだ。
3
八時すこし前に、グラウンド・フロアに上って行くと、滝川夫人は、もうコーヒーショップにすわっていた。ラヴェンダー色の半袖のブラウスに、ベージュのパンタロン姿で、コーヒーショップの一番外側、プールサイドに沿ったテーブルにすわり、片肱をかるく手摺にかけ、海の方に顔をむけていた。――彼の姿を見つけたらしく、白い顔がちょっとこちらをむいたが、別に手をあげるでもなく、ほほえむでもなく、また顔を海の方にむけた。
コーヒーショップにむかって歩きながら、彼も途中でちょっと立ちどまって、湾の方を見た。――エレベーターシャフトは、グラウンド・フロアから、湾へむかってつき出した通路の先にあったから、オープンデッキ式の通路は、客室をしつらえた急な断崖に、直角につきささる恰好になっており、通路の途中からは、鉤《かぎ》の手にプールサイドや、そのむこうにあるコーヒーショップ、それに木屑《こけら》葺きで棟のはしが美しいカーブではね上るポリネシア建築風の屋根をもった、二階のダイニングルームなどが見通せた。手摺によって下を眺めれば、崖の急斜面に沿って、一階おりるごとに、階段状に湾へむかってせり出して行く客室には、どのテラスにも、ピンク、オレンジ、黄のブーゲンビリアの花がこぼれんばかりに咲きみだれていた。
陽《ひ》はすでに高くのぼっているが、岬のスロープにさえぎられて、まだ湾に直接にさしこんではいない。
海はいつものように凪《な》いでいた。
湾の水面は、かすかな小波《さざなみ》があるのみで、油のようにとろりとしており、岬をはずれた海面も、青くなめらかで、水平線にうかぶ、淡い紫藍色の島影を、さかさにうつすかと思わすほどおだやかだった。――沖合いに出れば、それでも貿易風の送るうねりがある事を知っていたが、それでも彼は、その光景を見る度に、いったいこの海は、荒れる事があるのだろうか、といつも思うのだった。
コーヒーショップは、昨夜とちがって、朝食をとる大勢の泊り客でかなり混んでいた。だが見まわした所、やはり白人ばかりで、東洋人の顔は見えない。――やがて九月で、忙しい北半球の夏休みも終ろうとしている。今ごろ東京羽田は、陽焼けした顔に、遊び呆けた一夏の疲れと倦怠感をうかべた帰国客でごったがえしているだろう。
しかし、ここの夏には終りはなく、海は常に青く、空も青く、木々は常に緑に、色鮮やかな花々はとぎれる事なく咲きつづけ、風はたえずおだやかに同じ方向から吹いている。――きらめく陽のもとに、陽気な声をたてる銅色の人々は、太古以来の「永遠の休暇」をたのしんでいるのだ……。
「おはようございます……」と彼は椅子をひきながら滝川夫人にいった。「お待たせしましたか?」
「いま、八時ちょうどよ……」と夫人は時計も見ずに、ややものうげにいった。「私の方がだいぶ早く来てしまったんです」
夫人の皿の上には、パパイアが一切れ、ベーコンが二切れ、それにゆで卵が一つ、エッグスタンドに立っているだけだった。――彼はコーヒーを注文すると、ビュッフェスタイルにいろんな食物をならべたテーブルの方にちかよった。――グレープフルーツ、パパイア、それにハムとスクランブルエッグをたっぷり皿にもりつけ、マフィンとバターロールをそえ、トマトジュースのグラスをとりあげて席へかえって来た。
テーブルにつくと、彼は早速食べはじめた。――滝川夫人の方は、コーヒーがすこしへり、ベーコンが半切れなくなっただけで、卵にはまだ手をつけていなかった。
「朝は、あまりあがらないんですか?」
ハムと卵をかたづけて、果物にとりかかりながら、彼はきいた。
「ええ……」夫人はかすかな笑いを片頬にうかべた。「それに……宿酔《ふつかよい》かも知れないわ」
「昨夜、バーで、マイタイを何杯のんだんです?」
「三杯……その前に、ダイキリ一つ……」
「おどろいたな……」彼は、赤みがかったグレープフルーツの果肉にスプーンをつきたてながら、肩をすくめた。「おつよいんですね……」
「あなたは、よく召し上るのね……」片頬のかすかな笑みを、少しも動かさず夫人はいった。
「きのうまで、文化果つる所にいましたからね……」彼はコーヒーカップに手をのばしながら、ちょっとおどけていった。
「そうなの……」夫人は、海の方に視線をむけた。「どちら?」
「ラパヌイ……」と彼はいった。「つまり、イースター島です……」
少しは興味をしめすかと思ったが、夫人はものうげな視線を海にむけたまま、ゆっくり、あまり飲みたくもなさそうに、コーヒーをすすっただけだった。
「イースターからタヒチまで……」と夫人はつぶやくようにいった。「どうやっていらっしゃったの? 船で?」
「いや、ラン・チレの国際便が、サンチァゴから、イースター、タヒチととんでいます」
「ラン・チレ?」
「Linea Aerea Nacional……チリ航空です。――週一便ですがね。……」
コーヒーを飲みおわって、彼はマールボロを吸いつけた。――夫人は、パパイアの端をフォークで小さく切って口に入れると、皿をおしやり、自分も煙草をくわえた。
「その卵、いただいていいですか?」ライターの火をさし出しながら彼はきいた。
「どうぞ……召し上って」夫人は興味なさそうにいって煙を吐き出した。
「いや、今食べるんじゃないんです。持って行ってあとで食べます」
そういうと、彼はエッグスタンドから卵をとり上げて、夏ものの背広のポケットへ入れた。
「イースターって、どんな所?」
夫人はまた視線を海にむけながらきいた。
「そうですね――火山島で……あの巨石像以外は何にもない所です。島民は千人ぐらいかな――。ホテルらしいホテルもなくて、テントに寝たり、民宿みたいな所にとまったり、それに夜はかなり寒いんです……。それでも観光客はずいぶんきますね。食物にろくなものがない。チリ自体が、国内はものすごいインフレで、肉も魚も消えてしまって、鶏ばかり食わされたような有様ですから……」
通りがかりのガルソンが、コーヒーをもう一杯ついで行った。――砂糖の袋の端をつまみ上げてふりながら、彼は食物をならべたテーブルにむらがる、アメリカ人らしい、中年、初老の女性の一団に眼をやった。
「アメリカとヨーロッパと、どちらが大文明だとお感じになりますか?」
と、彼はきいた。――どういう理由か知らないが、滝川夫人は、突然きっとなったように、その大きな、輝きのつよい眼を彼にむけ、しばらく考えこむように彼の視線をまさぐっていた。
「そうね……」しばらくして、彼女は椅子の背に体をもたせながら、視線をはずしてつぶやいた。
「いい勝負かも知れないわね」
「ヨーロッパをまわって、あのどっしりした石造建築の街を見て、――特にパリなんかで、古いアパルトマンの、ドアのない三人乗りの水力エレベーターにのったり、ギシギシなるうすぐらい階段を上ったり下りたりしていると……それはそれで、時間が生活《くらし》≠ニいう汗や垢のなつかしいにおいとかげりを持った形に変貌してすぎて行きますが――でも、時々、ステンレスとガラスとコンクリートの直線構成でできた明るい街のハンバーガースタンドで、うすいコーヒーをのみながら、野球記事ののってる新聞を読みたくなるんです……」彼は苦笑しながら煙草を灰皿に押しつぶした。「われわれ日本人は――妙な事になっちまいましたね。われわれみんな、妙な時代に住んでますね……」
「ケープ・ケネディで働いているアメリカ人たちって、不思議な人たちだったわ……」滝川夫人は、手摺に肱をついて顎をささえながら、ふいに関係のない事をつぶやいた。
「やさしくて、しずかで、まじめで、清潔で、すごく専門的で、頭がよくて、さびしそうで――まるで、私たちと同じ種類の人間じゃなくて、よその星から来て、もとの星へかえりたがっている人たちみたい……あんなにひろい所で、あんなに大きなものをつくっていると、ああなるのかしら……」
なるほど――と、二年前訪れたフロリダ半島のケープ・ケネディ基地の広大さと、その基地の地平に、まるでまっ白な幽霊のように空をさして立つ、サターン5型ロケットの事を思い出しながら、彼は、ちょっと滝川夫人の事を見なおす気になった。――たしかに、基地で彼のあった連中は、みんな、どこか滝川夫人のいったような所があった。
|拡散された人間《ヽヽヽヽヽヽヽ》――という言葉が、ふと頭の中にうかんだ。――真空と暗黒の宇宙の虚無までつづいているあまりに広大な空間の負圧に、人格を拡散されてしまった人間……、それに対して、フランスや、インド、東南アジア、中国、そして日本には、|圧縮された人間《ヽヽヽヽヽヽヽ》がうじゃうじゃいる……。
ケープ・ケネディの情景を思いうかべると、どういうわけか、それに突然オーバーラップして、イースター島の、あの謎めいた巨石像が、あおむけにひっくりかえったり、つんのめったりしながら密集しているラノ・ララク火口斜面で、フランスから来た若い技師や女づれの学生たちのテントですごした一晩が思い出されて来た。――テントの外では、火山を吹きぬける風の音がごうごうと一晩中なりつづけ、ほのぐらいランプの火はゆらぎ、テントはバタバタとはためき……そして一歩外へ出れば、すごいばかりの星月夜に、南十字をはじめ、「南の三角」「風鳥」「とびうお」「孔雀」「水蛇」「鳳凰《ほうおう》」といっためずらしい星座が見え、ラノ・ララクのまっ黒な山肌の彼方《かなた》に、ラノ・アロイの摺鉢《すりばち》型の山容がうずくまり、風の颯々《さつさつ》とわたる、腰までの草におおわれたスロープを、一歩、二歩ふみ出せば、ふいに傍にくろぐろとそびえる巨大な岩塊があり、星空をくっきりくぎる、くぼんだ眼窩《がんか》と、天にむけられた鼻のシルエットに、それがたおれた石像とわかるのだった。――石像の大部分がひっくりかえっているのは、かつてその島をおそった大地震のためだ、とか、火口でつくってはこぶ途中に何かが起って、横にしたままほうり出したのだ、とか、宗教戦争の結果、勝った島民がひっくりかえしたのだ、とか、さまざまな事がいわれているが、その時彼は、あまりに長い間、水平線の彼方を見つづけた石像たちが、海を見る事に倦き、つかれはて、あおむけにひっくりかえって、星を見はじめたように感じられた。ひっくりかえった大石像の傍に、彼も草の上に寝て、星空をながめた。――と、その時、草原をわたる風音の底に、ふと、傍の石像が、夜空を見上げたまま、語りかけるような気がした……。
「南太平洋って、|さびしい所《ヽヽヽヽヽ》ね……」
ふいに滝川夫人は、ぽつりとつぶやいた。
「ええ……」
なんとなく心の中を見すかされたような思いで、彼は滝川夫人の視線を追って、海を見た。――陽は次第に高くのぼり、海はその青さに、トルコ玉のような明るさをくわえはじめ、暗紫色の溶岩の磯をかむ波の白、岬のスロープをおおう黄ばんだ緑や断崖の裾をおおう樹木の濃緑も、一層その対比を鮮やかにしはじめていた。水平線に横たわる島影の紫には赤みがくわわり、三つの山頂にかかる白雲の団塊は、暗灰色の影にふちどられた、白銀のかがやきをつよめ出していた。
まわりには、アメリカの老婦人たちのペチャクチャというおしゃべりや、小鳥のようにしゃべりつづける若い娘のフランス語がみち、コーヒーショップ前のプールには、もう浅葱《あさぎ》色の水にとびこむビキニ姿の娘たちや、銀色の胸毛をそよがせてデッキチェアで甲羅干しをはじめた肥った初老の男の姿が見えていた。そのにぎやかでたのしげな情景の中で、滝川夫人のいった事は、とりようによってはひどくちぐはぐなものにもとれるのだが、彼には彼女の言わんとする所が、はっきりわかった。――エアラインの美しいポスターやカラーテレビのCMを通じて先入観をあたえられ、ごったがえす空港から空港への団体旅行にひょっとおくりこまれ、「アメリカ風のクーラーのきいたゴージャスなホテル」という額縁を通して、それもハワイアンの甘ったるいスチールギターの伴奏付きで眺めれば、この島も、この海も、そして沖にうかぶ島影も、胸おどるたのしさにみちみちたものであろうが……そう言ったものを一切はずして見れば、太平洋はあまりに広大で、荒涼とした、水ばかりの半球である。
「地球《ヽヽ》って、意外にさびしい星なのね……」かすれたような声で、いった。「はじめて海外旅行に出るまでは、もうちょっとにぎやかな所かと思っていたけど……」
「インドへは行かれましたか?」
と、彼はきいた。――夫人は海を見たままうなずいた。
「どちらへ?」
「ニューデリー、カルカッタ、ボンベイ――ボンベイから、アジャンタとエローラの遺跡を見に行ったわ」
「ベナレスは?」
「ええ……」
「やっぱりさびしかった?」
夫人は何かを思い出したように、かすかに眉をひそめただけで答えなかった。
「さびしいのはおきらいですか?」
「好ききらいの問題じゃなくて……」夫人は急にはっきりした、断定的な口調でいった。「どうしようもない事でしょう……」
今度は彼が沈黙する番だった。――だが、その時、また昨夜バーで感じたのと同じ衝撃が、かすかに胸もとをつき上げるのを感じた。――が、今度もその衝撃の源は、プールにとびこんだ肥った娘のあげた大きな水音と、その友人の娘たちのあげる甲ン高い嬌声に気をとられて、わからずじまいになってしまった。
「今日はこれからどうなさいます?」
コーヒーポットを持ってちかよって来たウエイトレスをことわりながら、彼は何本目かの煙草をくわえた。
「さあ……別に予定はないの……」
「いつまで御滞在ですか?」
「きめていません。――気に入ったら、しばらくいようかとも思うし、二、三日でたとうかとも思うし……」
「これからどちらへ?」
「さあ……オークランドへでも行こうかと思ってるの……」
この女性はいったい何なのだろう?――と彼はぼんやり思った。ひどく上品で、ひどく投げやりで……。
「あなたは?」自分の髪の毛をまさぐりながら夫人はきいた。
「私は――二日ほどで、あとハワイ経由、東京です」
「ハワイ……東京……」と夫人はうつろな声でいった。「そう……」
「いつからこのホテルへ?」
「二日前……その前はバハマ……」
「じゃ、島内観光はおすみになりましたか」
「いいえ……きのうは、このホテルの副支配人にしつこくすすめられたんで、ボラボラって島へ行って来たけど……。静かで、美しかったわ。――ただそれだけ」
「あの島は?」と彼は拇指《おやゆび》で水平線をさした。「モレア島です。バウンティ号の叛乱の舞台になった所です。――船で二時間、エール・ポリネジーのプロペラ機で十分で行けます――」
「行ってどうするの?」
「パオパオの港から見たロツィ山がすばらしいですよ。――あの三つならんだ真ん中の山です」
「あなた、いらっしゃるの?」
「さあ――私は一度行きましたから……」
「別にどうでもいいわ……」夫人は静かに言った。「なんなら一日中、ここで、こうしてあなたとすわっていてもいいのよ――あなたさえよければ……。どこか予定がおありなら一人でいらっしゃってもいいし、おともしてもいいし……」
彼はちょっとおどろいて、夫人の顔を見つめた。
その時、入口の方で、ヒエッ、ヒエッ、というような奇声がきこえた。ふりむくと、シモンが、餡パンのような顔をほころばせて、手をあげながらちかづいてきた。――もう時刻は九時を十五分ばかりすぎており、部屋へ電話しても彼がいないので、ホテルまでたずねて来たらしかった。
4
ま午《ひる》の熱帯の陽ざしが、垂直におちかかるゴーギャン記念館には、まるきり人気がなかった。――日本の神社の、千木《ちぎ》のようなかざりを、切妻の末端につけた白ぬりのトタン屋根の平屋が、中庭の芝生をかこんで配置され、その間をつなぐ小豆色のトタン屋根の道路が、何もかも眼のくらむように明るい光景の中に、濃い紫色の影をおとしている。――建物のむこうの椰子を配した森から吹いてくる風が、時折り吹き通しの通路をぬけて、入口の売店の所までとどいた。
彼は売店の前に立って、タヒチの民芸品に関するパンフレットをめくりながら、中庭の方を見た。――眼の痛むように明るい芝生をよこぎって、ラヴェンダー色のブラウスとベージュのパンタロンをつけた夫人が、ゆっくりちかづいてきた。サングラスはかけているが、この強い陽ざしに、帽子は手にもっている。ボラボラへ行って来たというのに、皮膚がまるきりやけていなかった所をみると、あまり陽やけしないたちらしい。
「いかがでした?」
と、彼は声をかけた。
「ええ……」と入口の建物の影にはいった夫人は曖昧《あいまい》に答えて、中庭の方をふりかえった。「ゴーギャンも、この島の観光にはずいぶん貢献したわけね」
「ここの絵は、みんな複製だ、という説もありますがね……」彼は苦笑していった。「たしかに――スティヴンスンよりも、メルヴィルやロチよりも、ゴーギャンはこの苦しい土地≠有名にしましたね。モームがまたそいつに輪をかけて……」
「ゴーギャンの後期の絵は好きよ。不器用で、ごつごつしていて……」と夫人はつぶやいた。「でも、ああやって、苦しみぬいて、ヨーロッパから一番遠い大洋の中の孤島で、光と風と青い海の中で、孤独に死んだ男が、こうやって観光化されるのを見ると変な気持ね。――だって、パリのルーヴルや、こういった施設は、|彼の見ていたもの《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》と、何の関係もないんですものね……」
その言い方が、とうとう彼に何か|決定的なこと《ヽヽヽヽヽヽ》を思い出させかけた。
そのとたんに、ずしんと重い衝撃が脊椎を貫いた。
――そうだったのか!……正午の暑熱の中で、膚《はだ》が一瞬にして氷のように冷たく冷えこんで行くのを感じながら、凝然と彼女の横顔を見つめた、――なるほど!――おれが、この女性に、最初から奇妙な関心を抱きつづけたのは……|そのため《ヽヽヽヽ》だったのか!
「ゴーギャンは……何を見ていたんだと思います?」
彼は、にわかに重くなった顎をやっと動かして、のろのろとたずねた。――思い出してしまった事を、さらにたしかめるように……。
「われらいずこよりきたりしか? われらは何ものか? いずこへ行くか?=c…」
滝川夫人は、呪文のようにつぶやいた。
「あの絵――お好きですか?」
「ええ、――題が好き……。空をわたって行く風の中からきこえてくるみたいで……」
もうまちがいようもなかった。――そうか……結局そんな事だったのか……と心の中で呟きながら、彼は衝撃のあまり、かるい脳貧血に似た症状を起して、鉛のように重たくなってしまった脚を、シモンの車の方にうつした。
「イアオラナ!」
褐色の太腿もあらわな、赤に白い大きな模様のはいった超ミニのワンピースをつけ、漆黒の髪を肩へまわして片胸へたらした、十七、八の美しい娘《ヴアヒネ》が、黄金色にかがやくようなあけっぴろげの微笑をうかべて、傍を通りすぎながら声をかけた。
「イアオラナ、マリア……」
事務所の方へ歩み去って行くはだしの足もとをふりかえりながら、彼は言った。――娘は角をまがりながら、ふりむいてにっこり笑った。
「イアオラナって?」夫人はきいた。
「タヒチ語のあいさつです……」彼は車のドアをあけながら、重たい顎を必死に動かしていった。
「ハワイのアロハ≠ニ同じ意味です」
「あの娘さん、お知りあい?」
「いいえ……」
「でも、マリアっておっしゃったわ」
「あれは――ゴーギャンのタヒチ女をモデルにした聖母子像の題にあるんです。イアオラナ・マリア≠チて……」
彼は、とうとうまっすぐ立っていられなくなって、あつくやけた車の屋根に肱をついて体をささえて、
「さて……」とつぶやいた。
「|われら《ウーヽ》|いずこへ《アロンヽ》|行くか《ヌー》?=v
と夫人は車の中に半身をいれながら、自分にいいきかせるようにいった。
「まず昼食《デジユネ》……」と彼はやっと全身に血行がよみがえってくるのを感じながらいった。
「それから……|小タヒチ《タヒテイ・イテイ》の方にでもまわって見ますか? 地つづきですから……」
――学生生活の終りちかく、彼は、年上の水商売の女性と知りあい、惚れた。戦中から戦後へかけての、荒ぶれつづけた学生時代の、最後のしあげのように、すさみ切った日々を送っているころだった。大学のある都市の、盛り場からちょっとはなれた所にある、商店の番頭クラスが常連客の小さなバーで、学生客はむしろ異分子であり、侵入者だったが、そういう事から、ある夜そのバーで客二人と喧嘩になり、友人と一緒に表で二人をたたきのめしたあと、またバーへかえって飲みつづけ、看板になって外へ出た所へ、さっき逃げた二人が、地まわり数人の加勢を得て、しかえしにやってきた。――彼より酔っていた友人は、逃げおくれてつかまり、しかし、やられるのを覚悟で「友情」のため助勢にひきかえすほど青くさくはなかったから、二、三人においかけられながら路地から路地へ逃げ、表通りに出たとたん、その女性がタクシーをとめてのりこもうとしている所に出あわせた。
出あいがしらといっていいほどの咄嗟《とつさ》の間に、彼女は一瞥《いちべつ》で状況をのみこんだらしく、
「早く!」
と叫ぶと、彼の手をとって、つきとばすようにタクシーの座席へ押しこみ、自分もつづいてのりこむと、
「頭を低くしてるのよ」
といってタクシーを発車させた。
その夜、彼は彼女のひと間きりのアパートにとめてもらった。――最初一つきりない寝台の下にころがったが、三時ごろ、彼は寒いからといって、何もしないという約束でベッドにのぼり、背中合せに寝、明け方、むりやりキスをした。――だが、その夜は何もなかった。
翌朝、彼女は文無しの彼に朝飯を食べさせ、破れた服をつくろい、医者に連れて行って傷の手当てをうけさせ、ずたずたになったシャツのかわりに新しいシャツを買ってくれた。――午になると、しゃれたレストランで昼食を食べさせてくれ、そのあともぶらぶらと街をぶらついてコーヒーなどをおごってくれ、夕刻、彼女の出勤時間がちかづくと、市電にのる金もない彼をタクシーで郊外電車のターミナルまでおくってくれた上、実家のある都市までかえる切符を買ってくれた。おまけにわかれしなに、
「吸いかけだけど」
といって、ピースの箱をポケットにつっこんでくれた。――占領解除されて、まだ間もないころの事である。しかも、彼女とは、そのバーでわずか二度顔をあわせただけで、親しく口をきいた事もなかったのだ。
惚れられた自信は毛頭なかったが、惚れた自信はあった。が――一体、何という惚れ方だったか! 彼女には、つけ焼き刃ではない、もと良家の子女らしい大らかさがあり、そんなバーにとって、決していい客ではない学生たちを姉のようにかばう所があって、学生客に人気があったのはたしかだが、それ以後も、彼は彼女におごられつづけ、とうとう彼女からアパートの鍵をあずけられ、半分ずりこむように、彼女のアパートに出入りし、彼女の部屋にある、当時は貴重品だった外国もののウイスキィを飲み、時には彼女の部屋から試験にかよい、あげく、卒業試験をうける時は滞納した授業料まで彼女にはらわせたのである。しかも、図々しくも、自分の分だけでなく、友人の分まで出してもらったのだ。――その女性が、やはり、濃い形のいい眉と大きな輪郭のはっきりした眼を持ち、色白で大柄だった。それだけでなく、滝川夫人は、いろんな意味で、その女性の事を思い出させる所があった。
彼女が、農地解放で没落した地方の素封家《そほうか》の娘だ、という事を教えてくれたのは、別のバーの、彼女と同県出身というマダムからだった。――彼女は気風《きつぷ》もいいが人もいいから、あまり甘えて迷惑をかけてはいけない、と説教されたのである。その時はもうその手のバー、飲み屋の間で噂がひろがるくらいの段階になっていた。そのことを彼女にたしかめると、あの人おしゃべりね、といっただけで、別に気にもとめない風だった。たしかに彼女には、|しん《ヽヽ》の所に、そんな商売の女性とは思えない育ちのよさと、人間関係における気品といったものがあった。――それも、育った家庭の、「格の大きさ」といったものを感じさせるような、骨太な育ちのよさである。旧制高女卒だといっていたが、彼女の同県のマダムの話では、女専中退という事だった。干支からいって彼よりは三歳年上になる。家の没落後、これも地方の財産家で、子供のない家庭に養女に行って……それから何か複雑な事情があったらしいが、あとは皆目わからない。べろべろに酔っぱらって、酔客の往来する終電前の街を歩きながら、きゅうくつだといって、いきなりスカートの下に手をつっこんでパンティをぬいでしまい、ふりまわしながら歩くといった無茶をするかと思えば、彼女の部屋のベッドで彼が目ざめると、椅子にすわって、カロッサやジュリアン・グリーンに読みふけっていたりする。時には彼の傍にならんでひっくりかえって、横文字のペーパーバックを辞書なしに読んでいたりした。――スピレーンやブロックといった作家を、彼に、面白いわよ、といって教えてくれたのは、彼女だったのである。かと思うと、彼や彼の友人などの話の中に出てくる古歌や、藤村、牧水の抒情詩などを、それはまちがってるわ、とたしなめてすらすら言ってのけたりした。彼に、歌舞伎を教えてくれたのも彼女だった。――先代|播磨《はりま》屋の弁慶の切符を手に入れて、連れて行ってくれたのがはじまりである。
彼女のアパートに泊りに行くようになってから二カ月という間、それは学生らしいダンディズムで、約束を守って、接吻はするが、それ以上の事はなかった。――が、厳寒のある夜、飲む酒もなく、彼女のベッドの中にはいって、じっと待っていると、いつもより二時間もおそく、ベロベロによっぱらって泣きながらかえってきて、彼女の方からぶっつけるように彼にかじりついた。ひどいお客がいて、店のひけたあと彼女をひっぱりまわし、言う事をきかないといってなぐったのだ、といって、片眼のまわりに黒あざをつくっていた。――あとで考えれば、その|殴られ方《ヽヽヽヽ》で、何かをさとるべきだったのだが、その時は彼は泣きじゃくる、大柄な彼女の体を抱きしめてなぐさめながら、氷のように冷え切った肌をあたためてやろう、とその事ばかりに夢中だった。――二人が裸になっている事に気づいて、はっと酔いからさめかけ、いけないわ、約束がちがう、と彼女が小さく叫んだ時は、もう騎虎の勢いだった。それから――呆れた事に、三日つづけて、二人は裸のままベッドにもぐってくらした。彼女はつとめをかえる、といい、彼は試験を二つふった。裸のまま、湯をわかしてコーヒーをのみ、かたくなったパンをかじった。便所へ行くというと、いや、はなしてやらない、といってかじりつき、
「いいから、私の中にしちゃいなさいよ」
といって笑った。
若ければこそ、そんな事もできたのだろうが、しかし、それは体力だけの話で、それまで、金で身をまかせる女たちを相手に、一方的に欲望を果すことだけしか知らなかった彼は、彼女との、それからほぼ一年にわたる生活の間、ついに彼女の体を燃焼させるつぼや技巧について、何一つ知らず、愛はたしかにあったが、ただそれによりかかって、いつも一方的な満足のみに終っており、それでいいのだと思っていた。――後年、その事に気がついた時、彼は当時の自分の、若いが故の無知と、その無知からくるひとりよがりなうぬぼれを恥じて、冷や汗をかき、身をよじらんばかりの思いを味わった。
たしかに彼は若かった。――いっぱし、おとなになったつもりで、心ばかりはとげとげと、全世界を敵にまわすぐらいのはげしさで、あらぶらせていたが、一方において、まるで物を知らず、何もわかっていない所が山ほどあった。彼女の事でも、わかっていなかった事がいくらもあったのである。彼女を以前から張り合っていた年上の学生や勤め人が何人もいた事、そういった所へ偶然とびこんで、彼女のふところにもぐりこんでしまった彼をめぐって、一時は、夜の巷の片隅に、不穏な空気がかもされかけていた事など、もうその問題がおさまったあとになってから知ったのだった。
彼の方にも、そういった方面について知らない事が多すぎたが、彼女自身も、学生の行けるようなバーの女性としては、わからない所が多かった。彼女と一緒に、すこしはなれた港湾都市にあそびに行った時、金がなくなったから、といってたずねて行った相手が、キャバレーやクラブを何軒も持っているアジア系外国人だったり……彼女のつとめているバーも、その人物の所有する一軒だという事をあとできいた――休みの日の深夜、彼とベッドにもぐりこんでいる時に、突然管理人が電話だといってよびに来て、長い間話していたあと、いそがしげに服を着て、ちょっと待っていてね、といって出て行ったまま、翌日の午ごろまでかえらないような事も何度かあった。留守に彼がアパートを訪れて中へはいると、ドアの隙間から、英文で書かれた紙片がはいっていたりした。訪ねて来たが留守だったからかえる、という簡単な文面と、イニシアルだけだったが、その手蹟と文面は、日本人のものでない事はたしかだった。
一度、道を歩いていてにわかに腹痛をもよおし、あわてて手ぢかのホテルにとびこんで用を足したあと、ロビイに出て来て、そこに彼女が、背広を着た中年の外人とすわっているのを見つけた事があった。色つやのいい外人は、彼女にむかって何か熱心に話していたが、彼女は背筋をまっすぐにして、大きな眼を正面にむけたまま、ひどくきまじめな感じですわっていた。――別に盗みぎきするつもりはなかったが、話が終ったら声をかけようと思って、鉢植の後の、二人と背中合せの椅子に腰をおろした。――あまり自信のない英語の会話をきくともなしにきいていると、その外人は、自分はもうじき帰国するから、自分と一緒にヨーロッパへ行こう、と一心に話しているのだった。話の様子から、彼はアメリカ人でない事はすぐわかった。彼女は外人の熱心な勧誘を、かるく揶揄《やゆ》するようにいなしていた。正確で、上品な英語だった。その英語が、きわめて上等なものであった事がわかったのは、これも卒業後十年以上たって海外へ行くようになってからの事である。
男は、たくみにかわしつづける彼女のあしらいに口説きつかれたのか、大きな溜息をつくと、がっかりしたような口調で、あなたには愛人でもいるのか、ときいた。――彼女が答えないと、いらいらした調子で、いったいあなたには、愛というものがわかっているのか? あなたには、何か愛するものがあるのか? とかさねてきいた。――彼女は、あとの問いに、ある、と答えて、ちょっと間をおいてぽつりと言った。
「|小さな犬《ヽヽヽヽ》……」
男が背後で絶句する気配がした。――彼も、その言葉に、|と《ヽ》胸をつかれて、思わずはっと体をかたくした。
彼女の、彼に対する愛情といったものと、もっと次元のちがった|何か《ヽヽ》が、その言葉にはあった。――彼はその時はじめて、彼女の魂が属している世界、ある種の荒涼さが感じられる世界と、そこに住む彼女の魂の孤独さを垣間見たような気がした。……a little dog……=\―かすかにハスキーがかった、独特のやわらかいアルトで言われたその言葉は、その後も長い間彼の耳底にこびりつき、彼女とわかれてからしばらくの間、折にふれてよみがえって来た。――どういうわけか、その声がよみがえると、同時に蕭々《しようしよう》たる風のわたる音がきこえるような気がし、のちには逆に、夜半、空をわたって行く風音をきくと、ふとその風音の底に、彼女の声をきくような気がした。――……a little dog……
太鼓の音が窓の外にひびきはじめ、風にゆらめくトーチの焔にとりまかれたプールサイドにライトがともって、真紅の腰蓑《バレラ》に純白のプルメリアのレイをかけ、紅と白のハイビスカスを頭にかざった褐色の娘たちが、タムレのリズムにあわせて、はげしくこまかく腰をふり、両手に持つ、茶色の房のようなテリマリマをふりまわしながら踊りはじめた。――おなじみの、今なら日本の東北でも見られる、タヒチアン・ショウがはじまった。
「おりますか?」
メインダイニングの窓際の席で、眼下に見えるプールサイドの方を指さしながら、彼はきいた。
「いいわ……」滝川夫人は、ブランディのグラスをテーブルにおくと、煙草の煙を深々とはき出していった。
「もっと、お話をつづけて……」
彼女が、日本人でない人物をボスにする、外人相手の高級コールガールの組織にはいっているのではないか、といった事を、そういう方面に何となくくわしい友人から、そのほか二、三人からにおわされた時も、その時の彼は信じなかったし、よしんばそうであっても、かまうものか、といった気持だった。そんな事を、実際にしているにしては、彼女の心も体も、少しも荒廃を感じさせなかった。――しかし、同棲同様、また|ひも《ヽヽ》同様の生活がずるずると半年をすぎ、一年にちかづき、卒論提出の時期が近づいてくるころには、彼にも彼女に、彼などのうかがい知る事のできない生活のもう一つの側面がある事は、うすうす感じられるようになっていた。――官立大学の貧乏学生などには、はいりこむ事もできなければどうしようもない、もう一つの世界に、彼女が半分属している事も……。「おとなの世界」――といっただけでは充分ではない。その時代の、その年代にとって、彼女のようなタイプの女性との三歳の年齢差は、何か決定的なものがあった。たとえ彼がいくら年齢をかさねても、ついに埋める事のできない「魂の形」のギャップのようなものが……。そういったものを、彼女との生活を通じて、おぼろげに感じられるようになりながら、なお彼は、愛の、孤独の、革命の、実存のへちまのといった、文学部学生の、青くさい観念で、そのギャップを押し切れると思っていた。そのころの彼としては、人生についてまるきり貧しい知識しか持っておらず、そういった生硬な観念しか武器にするものがなかったのであるが……。
ある日の午後、彼女の留守にアパートにはいりこみ、ベッドの上でぼんやり寝ころがっていると、突然ドアが男の手でノックされた。――狼狽して、戸口の方にしのび足で行き、靴をとり上げたとたん、もう一度強くノックされたドアが、外からいきなりあいた。棒立ちになった彼は、あのホテルのロビイで彼女とあっていた、中年の、大柄な外人と、わずか五十センチをへだてて正面から顔をあわせてしまった。むこうも仰天したのであろう。なにか、英語でない言葉を早口にわめくと、いきなり内ポケットから、小型の拳銃をとり出してつきつけた。――咄嗟にドアを相手の鼻先に思いきりたたきつけ、叫びと、なにか固いものが廊下におちる音を背後にききながら、彼はドアと反対側の窓をのりこえて外へとび出した。
二時間ほどたってから、彼はアパートへひきかえしてみた。外人の姿は――その男が、ある国の大使館につとめる外交官だったという事を知ったのも、ずっとのちになってからであるが――もちろんなく、メモも何ものこっておらず、彼女もまだかえっていなかった。――椅子に腰かけて、さっきの、まるで外国映画の一齣《ひとこま》のような、悪夢のような事件の意味をぼんやり考え、彼の胸をねらっていた拳銃の先の、ポツンと小さく丸い、暗くうつろな穴の事を思い出して、かすかな身ぶるいを感じていると、音もなくドアがあいて彼女がはいって来た。
あの事件を、どう話そうか、と一瞬ためらっているうちに、彼女はオーバーのまま、ドスンと椅子に腰をおろして、ふうっ、と甘ったるい臭いのする息をついた。まだ夕方だというのに、飲んでいるらしかった。
「私、今日で二十七になったの……」と、彼女は床の隅をみつめながらぽつりといった。
「……なるほど……」と彼はいった。――咄嗟にほかに言う事が見つからなかった。
「二十七に、なっちゃった……」
「なるほど……なるほど……」と彼はいった。短い沈黙のあと、突然彼女は身をのり出して、やわらかい手で彼の手をとると、
「ね、出かけない?」といった。「旅に行こ。――汽車にのっちゃおう」
そうだ、行こう、行こう、と彼はいった。
――三十になったら……と、夜ふけの山の温泉宿で、彼とならんで人気のない岩湯につかりながら、彼女はつぶやくようにいった。
「ありったけのお金をはたいて、お花を買ってくるの。ベッドも部屋も、お花でいっぱいに埋めて、その中にねて、お薬を飲むの……」
女の三十……というものについて、姉妹のいない、二十四歳の彼には想像のしようがなかった。ただ、その日二十七になったという彼女――ぬるい山の湯につかって、じっと三年先の自分を見つめている彼女を通じて……彼の体のまぢかにある、白く、ゆたかで、なめらかな肉体を通じ、その肉体をひたすあたたかい湯を通じて、同じ湯にひたっている彼の肉に、何かがつたわってくるような気がした。彼にとって、彼女がやがてむかえようとしている三十歳という年齢は、どうしようもなかった。そのどうしようもなさに対するいたましさが、彼の体の奥の方にうまれ、かすかにうずいた。
「……花に埋って……お薬を飲むの……」
もう一度そういって、彼女はゆっくりと岩に頭をもたせて眼をつぶり、あおむけに体を浮かせた。――透明な湯の中に、大柄な、みごとな体が、青白くゆらめきながら浮かんだ。青白い腹の下に水草のようにゆらぐ一むらの黒い恥毛が、なぜかいたいたしい感じだった。湯には流れがあるらしく、浮き上った彼女の下半身は、岩につけた頭を中心にして、ゆっくりと、彼と反対側に動いて行った。花にではなく、湯にひたされて行く、全裸のオフェリア……と、彼は湯にひたした手ぬぐいをもてあそびながら思った。
ふとその時、彼は、彼女が旅をしているのだ、という事を感じた。――流されているのではなくて、彼とある距離をおいて、彼とは絶対に行きあう事のない、わずかのちがいで、彼が絶対に足をふみ入れる事のできない世界を、旅しつづけているのだ、という事を……。今ここにこうして、彼の傍に、露わな体を開いている彼女にとって……彼は行きずりの人にすぎない……。そういえば、一年ちかくつきあいながら、二人の間には、いつも行きずり同士のような、かすかな齟齬《そご》感がつきまといつづけた。それとも……彼女にとっておれは――「小さな犬」なのだろうか?
卒業はきまったが、就職のあてはまったくない二月のある日、街の喫茶店でおちあった彼女は、そろそろ店に行く時間がせまるころになって、突然、
「アパート、見つかりそうよ……」
といった。
「なんのアパート?」と、彼はききかえした。
「あなたといっしょにくらすアパート……」と彼女は、何をとぼけた事をきくのか、といった調子で答えた。「あなた、どこも受からなかったんでしょ? 就職のあてはあるの?」
「ない……」
「私も、いよいよふんぎりをつける決心をしたのよ……お勤めもかえて、あのアパートもかわるの……」
そういうと、彼女は時計を見て、行かなくちゃ、といって立ち上った。――彼も、変に混乱した気持で立ち上った。出口の所で、今夜はお店にくる? といつものように彼女はきいた。行かない、と答えると、部屋に新しいカナディアン・クラブがあるわ、といって、キャッシャーに伝票を出した。――釣銭を彼にわたして、外へ出ようとした時、ふいに彼女は彼の顔を、ひどくきまじめな眼つきで見すえて、
「あなた、いったい……どうするの?」
その時は、ああとか、ううとか、あいまいな返事をしただけだったが、あとになって考えて見ると、その時彼女は、あなたいったい、文学《ヽヽ》をどうするの、といったか、あるいは革命《ヽヽ》をどうするの、とかいったような気がするのだった。――だが、その時は、彼女がそんな事を彼にむかっていうなどとは、夢にも思わなかったので、たとえはっきり聞いても、聞きちがいだと思っただろう。そんな具合だから、頓馬な事に、その時彼女が、卒業して職のあてのまるでない彼を、ずっと|食わせ《ヽヽヽ》書かせるつもりで、新しい部屋をかりようとしていた、などという事は、あとで友人にきいた時も、まさかといって笑いとばし、すぐには信じなかったぐらいだった。
卒業をひかえた三月は、実家にもかえらねばならなかった上、なぜかごたごたつづきで、彼女のバーに行く事も、アパートをたずねる事もできなかった。卒業式の前の日、大学の喫茶店で、彼と彼女の事を知る友人が、若干冷やかし顔で、彼女の昔の恋人が、療養所から出て来た、と告げたが、妙にあわただしい気分で、大して気にもとめなかった。彼よりも五歳も年上の大学院の学生で、彼より三年も前から、彼女と親しい仲だったが、胸を患《わずら》って、二年前から療養所にはいっていた、という。その時聞くまで、ほかの連中がみんな知っていた彼女の「昔の恋人」の事など知ろうともしなかったのだから迂闊《うかつ》な話だが、その日も、卒業式の日も、彼女はバーへ出勤しておらず、アパートに電話しても留守だった。卒業式の日、卒業証書をまっ先に彼女に見せようと思って、アパートを訪ねたが、鍵はしまっていた。彼女からもらった鍵をなくしてしまったので、「証書をもらった。ありがとう」とだけ書いておいてきた。
彼女から突然実家の方に電話がかかって来た時、母が危篤で今日明日も知れぬ、という最中だった。
「あなたのお蒲団買ったわ……」と彼女ははずんだ声でいった。「もう新しいアパートにはこんであるわよ」
「――いったい何の事だ?」彼女のやろうとしている事を、まるきり想像してみようともしていなかった彼は、びっくりしてききかえした。
「なんの事だって――これからの、あなたとあたしの事よ……」
「ちょっと待ってくれ。今おふくろがとても具合が悪いんで、手が離せないんだ。――よくなったら、そちらであって、ゆっくり話をきいて……」
受話器のむこうで沈黙があった。――あとで思えば、その時の彼の言葉を逃げ口上ととったらしかった。しかし、彼にしてみれば、その時すでに経済的に破綻していて、家政婦もやとえない家庭の中で母がたおれ、幼い弟たちの世話を一手にひきうけなければならない立場にあったのは本当だった。
「そう……それじゃいいわ、わかったわ……」と、彼女は低い声でいった。「これでもうお会いしないわね。さよなら……」
「待ちたまえ!」彼は叫んだ。「じゃ、すまないが、君の方からこちらへ来てくれないか? 駅についたら電話を……」
その時ぷつり、と電話が切れた。
皮肉な事に、母の症状は、翌日峠をこえた。
三日たって、やっと手伝いに来てくれた親類の女性に家をまかせ、彼はとるものもとりあえず、大学のある都市へとんで行った。昼間、彼女のアパートを訪ねたが、鍵はしまっていた。外へまわって窓から声をかけたが返事はなかった。――ほとんど素寒貧《すかんぴん》の上、友人たちがみんな、あるいは卒業し、休暇になって帰省してしまって、たずねる先のあてのないその都市で、深夜までの、長い長い時間つぶしがはじまった。夕方になるのを待ちかねるように、バーへ電話してみたが、彼女は来ておらず、休むという知らせがあった、と教えられた。それでもこらえ切れず八時ごろと十時ごろ電話してみたが、やはり彼女はあらわれておらず連絡もなかった。
深夜、もう一度彼はアパートにまわった。やはり鍵はかかり、はさんでおいた伝言はそのままで、中はまっ暗だった。野良犬のようにうろうろと建物をまわり、窓にふれると、鍵がかかっていなかったので、そこからあたりを気にしながらはいりこみ、明りをつけた。――室内は、片づいていたが、そのままだった。冷蔵庫の上にウイスキィの瓶があり、液体ののこったコップが二つあった。一つを薬罐《やかん》の水ですすいで、瓶と一緒にとって来て、ベッドにすわった。冷え冷えとした室内で、彼は彼女の帰りを待って、飲みはじめた。――飲みながら、ふと見ると、反対側の壁にかけられた化粧鏡に、なにか赤い字がかきつけてあった。彼はちょっと体をずらして、その文字を読んだ。
I changed my mind. Good luck.――気がかわった、さよなら。
とその文字は読めた。また彼女が酔っぱらって、ルージュで落書をしたんだな、と思って、彼は気にもとめず、飲みつづけた。翌朝おそく、彼はベッドの上で、一人で眼をさました。二度、窓から小用をたしに出ただけで、つらい一日を、じっとその部屋で待ちつづけ、夕方になって、もう一つの、長い伝言をのこしてやっと部屋を出た。それからさらに四日たち、もう一度彼女のアパートをたずね、やっぱり鍵のかかっているドアを前にして、伝言を書いていると、管理人が顔を出し、
「ああ、ひっこしましたよ」といった。
行く先は――むろん告げてなかった。
その時になって、やっと彼は、必死になって彼女の行方をさがしはじめた。たとえ、こちらのどうしようもない間抜けさのため、彼女の心がはなれてしまったにしても、どうしてもあんな形でわかれたくはなかった。友人にきき、バー、飲み屋できき、客にききさえしたが、みんなはなぜか、彼に何かをかくしているように首をふった。
「彼女はもう、この街にいないよ……」と友人の一人はいった。「彼女は、旅に出たよ――昔の恋人のあとを追ってね……」
彼女の昔の恋人というのは、どこか遠くの療養所をぬけ出して来て彼女にあいに来た、という話をきいた。――そして、しばらくいて、またどこかへ行ってしまった、という事も……。彼女を知るものは、誰も彼に、その恋人の名さえ教えてくれなかった。
――彼は、酔っぱらって、何かを教えろといって、友人の一人に殴りかかり、みんなにとめられた。それからベロベロに酔い、気がつくとあのアパートの、彼女の部屋の窓の前にいて、おいおい泣いていた。その後も、その都市で酔っぱらって飲むと、いつも足はひとりでにそのアパートの前にむかい、暗い窓の前で、低い声で彼女の名を呼んでみたりするのだった。
卒業して七、八年もたってから、彼はあの時彼女の部屋の鏡に書きつけてあった落書の意味をさとった。――あるビルの小さな劇場で、映画ファンの会をやっており、彼はそのビルに用事でやって来て、時間つぶしのために、会費をはらって、その「モロッコ」という、戦前の古い映画を見た。おさだまりの紆余《うよ》曲折のあとクーパーの外人部隊の兵士が、除隊して、ディートリッヒの扮する酒場の女と一緒にくらそうという。喜びに気も顛倒した女が、着替えに行っている間、ひとりでいるクーパーに部隊出発の太鼓の音がきこえてくる。戦死した戦友を思って、その音をきいているクーパーは、突如決心したように、女のルージュをとり上げ、そこにあった鏡に書きつける。
I changed my mind. Good luck.……
小さな部屋の闇の中で、彼は思わず高い叫び声をあげ、まわりから制された。――砂漠の砂丘をこえて行く、クーパーたちの部隊を盛装のディートリッヒがハイヒールをぬいで追って行く、あの有名なラストシーンの半ばまで待ち切れず、彼は外へとび出した。そのあと用事がある事も忘れ、彼はビルからとび出して、闇雲《やみくも》に歩きつづけた。――その時になって、彼はやっと、鏡に文字を書きつけたのが、彼女ではなくて、彼女の昔の恋人だった、という事をさとった。さとった所でどうしようもなく、また考えてみれば、その時彼があの映画をすでに見ていて、状況がその場で理解された所で、どうしようもなかったろうが、いずれにしても彼は、その事を八年もたってやっとさとった自分の間抜けさ加減、無知さ加減にほぞをかみ、胸をかきむしって大声でわめきたい気持だった……。
5
「そのあと全国紙や民放に何度もたずね人の広告を出しましたが――だめでした」と彼はチューリップグラスをゆすりながらいった。
「ずっと前、一度だけ、その恋人とは別の人と結婚した、というような噂をききましたが……」
「その方と、私が似ているの……」と夫人は、煙草をもみ消しながらいった。
「|感じ《ヽヽ》がね……」と彼はいった。「顔は――少し似てるかな。それより……どう言ったらいいか……話のし方、それに――私のとよく似ていながら、まったくちがった世界、すれちがう事はできても絶対に出あえないような世界を、一人で旅をしていらっしゃる所……」
「その方の事、奥さまは知ってらっしゃるの?」
「知っています。――結婚する前、自分がいかに頓馬な男か、という事を知ってもらうために洗いざらいしゃべりました……」
もう、すでに二十年も前の事なのだ……。結婚して十五年もたち、夫婦の間でその事がどうという事はなかった。しかし、十五年を共生してきたカップルの間にできあがってしまった珊瑚《さんご》のような共同の骨格は別にして、歳月がいつしか再びめいめいの中に孤独を育てて来た事はどうしようもなかった。そして彼自身のその孤独の底に、自分でも絶対手をふれる事のできない女性の姿がある事が、徐々に見えはじめてくる事も、どうしようもなかった。それは、追憶の中にあるのではなかった。彼の中に、次第に大きくなり出している、ある荒涼たる灰色の風景の中を、吹きすさぶ風をついて、いつも背をむけて歩み去って行く姿としてあるのだった。滝川夫人の出現は、その後姿がふとふりかえったような感じだった。やがてまた、背をむけて歩み去る事になるのはまちがいないが……。
「私も――愛するものを失ったから、旅をしつづけているのかも知れないわ……」と夫人はいった。
「ああ……」と彼はうなずいた。「なるほど……そうですか」
「誤解しないで……。主人はまだ生きているのよ。愛人がいる事はわかっているけど、別に離婚もしてないわ。私が旅をつづけられるのも主人のおかげだし、かえる所といえば、主人のもとしかないの……」夫人は、窓の外の、暗い海を見た。「四年前――子供を失くしたの。男の子……もし生きていれば、十六になるわ」
「病気は何だったんですか?」
「そうじゃないの――行方不明になったの。パリで……」
中学にはいって、はじめての冬休み――という事だった。そして、その子にとっては、はじめてのヨーロッパ旅行だった。夫が用事をしている間、母と子は、車で蚤《のみ》の市を見に行った。誰か案内をつれて行けばよかったのだが、折り悪しく、夫の会社の人間も出はらっていたので、雪の中を、二人だけで出かけた。そして、雑踏の中で母と子ははぐれ――そのまま神かくしのように、消息をたってしまった。もちろん、夫婦は半狂乱になった。大使館が動き、パリ警察から、ついにはインターポールまで動いた。が、夫人の一人息子の消息は、それっきりわからなかった。誘拐事件の線でもしらべはすすめられたが、身代金の請求はついにどこからもなかった。死体も出なかった。夫人に似て、色白で、眼が涼しく、すらりと背の高い、美しい少年だったから、考えられるのは、人身売買団にさらわれたという事だが、それにしても、女性ならともかく、東洋人の少年というケースはかつてなく、警察やインターポールのにぎっているルートにさぐりを入れても、何も出てこなかった。――そこまで聞いた時、彼はやっと四年前、日本の新聞や週刊誌にも大きく報道されたその事件を思い出した。そして夫人の夫という人の、社会的地位も……。
「一年たって、私、自分で子供を探そうと思って、旅に出たの……」と夫人はいった。
「警察がだめでも、母親の執念で、必ずさがし出して見せると思って……どんな所にでも行ったわ。伝染病患者がうじゃうじゃいるような所でも――命の危険のあるような所でも……だけど――ふと気がついたら、子供を探して旅をつづけているのか、子供を失った悲しみをまぎらすために、旅をしているのか、わからなくなっていたわ……」
彼はブランディの最後の一滴をのみほし、ゆっくりグラスをテーブルにおくと、夫人の視線を追って窓の外に眼をやった。ショウは、もちろんとっくに終っており、人気のない、暗いプールサイドのまわりに、トーチの焔が、赤黒く、くるったようにはためきながら燃えているだけだった。
「出ましょうか?」
と夫人は言った。
「ここは寒すぎるわ」
まったく、盛装客がくるためか、あるいは客に盛装を強制するためか、ダイニングルームの冷房は強すぎた。――つづいて腰を上げた彼をふりかえって、夫人は何でもないように言った。
「私の部屋にいらっしゃる? お酒ならあるわ……」さらに一呼吸おいて、これも何でもない事のようにつけくわえた。「ことわっておきますけど、私、不感症《デイスパイロニイ》よ。子供がいなくなってから、ずっとそうなの……」
四階の夫人の部屋は、彼の部屋同様、ばかでかく、ツインベッドで、一泊三十ドル以上とられる部屋だった。――言われるままに、夫人のスーツケースを戸棚から出して、中からコニャックの瓶をとり出し、バスルームからグラスを二つ持って来て、むかいあわせにすわったが、考えてみると、もうお互い話す事はほとんどのこっていなかった。
「すごいですね……」
しばらくだまって飲みつづけたあと、やっと彼はスーツケースを顎でさして言った。――世界各国の、ホテルのラベルが、びっしりとはりつめてある。
「あまり多くなったので、一つ捨てたの……」と夫人はいった。「見てたら気分が悪くなるくらい、いっぱいはられてしまったものだから……」
フェアバンクス、レイキャビク、プンタアレナス、セイシェルス……と夫人は数え上げた。あと、のこっているのは、インド、中国の奥地だけだ、と……。
「私、旅をやめる事ができるのかしら?」
額にたれかかる髪の毛をうるさそうにはらいのけながら――そんな所は、酔った時の彼女と、ぞっとするくらい似ていた。――ぶつぶつ、つぶやくようにいった。「あなた、どうお思いになる?」
彼には答えはわかっていたが、言えなかった。いや――本当は、感じる事はできても、口に出して言えるような性質の答えではなかったのだ。世界のはてからはてへの、果てしない旅をやめて、日本へかえった所で……もう彼女の心は、二度と、決して、あのごちゃごちゃとやかましく、人肌のぬくみに汗ばむほどぬくめられた、やさしく、なつかしい日本にもどってこられないだろう……。
「さっき、さびしさをまぎらすために、旅をつづけずにいられないように言ったけど、このごろはまた変ったみたい……。なんだか、さびしさを|つきつめる《ヽヽヽヽヽ》ために旅をつづけてるみたいだわ……」
そういうと、彼女は半顔に髪をたらした顔をあげ、かすかに笑った。
「私、時々、頭がおかしくなるのよ。子供がいなくなってから半年間、精神病院にいたの……。今でも……時々、全然関係のない子供が、自分の子供のように見えるの……。もう十六歳のはずなのに、やっぱり十二歳ぐらいの子供が……」
彼は、まだ指二本分ぐらいのこっているコニャックをぐいとのみほし、少し荒っぽい動作で、どくどくとかわりをついだ。――|彼も《ヽヽ》……一時期、そうだった。あの「モロッコ」という映画を見て、衝撃をうけたあと、街で行きあう女性の中で、ちょっとでも彼女に似た女性がいれば、はげしいショックをうけ、所かまわず追いついて腕をつかみ、彼女《ヽヽ》だろう、かくさないでくれ、と執拗にせまるのだった。何度も交番へひっぱられ、一度など、どうしても彼女としか思えない――その実、全然別の人物の女性の家までおしかけたため、とうとう精神病院へしばらく入れられ、そのあとも二カ月ほど通院した事があった。
「あなた、明日はホノルル?」
「そのつもりですが……」と彼は、コニャックをあおりながらいった。
「ホノルルから、すぐ東京?」
「いや――ハワイ島へまわるつもりですが……」
「ハワイか……ちょっとよって行こうかな……。でも、やっぱり、ホノルルはいやだな」
彼は、われ知らず、膝の上でぎゅっと拳をにぎりしめた。――酔った夫人の、その一人言の言い方は、まるで彼女《ヽヽ》がしゃべっているとしか思えなかった。
いかんぞ……と彼は、にぎりしめた拳に爪をたてながら、必死に自分にいいきかせた。……だめだぞ!
「オアフは湘南海岸よりひどいが、ハワイ島はいいですよ――」彼は大きく息をつきながら、つとめて冷静に言った。「コナから、ハイウエイを北東に二、三十分走った所に、百年ほど前の山腹噴火で、溶岩が斜面をキホロ湾にむけて十マイル以上、流れおちたあとがあるんです。ファラライ溶岩流《ラヴア・フロウ》というんですが――そこが好きで、必ず見に行くんです……」
「私、お風呂にはいってこよう……」夫人はふらふらと立ち上った。
「裸で出てくるから、電気消しといてね……」
夫人の姿が浴室に消えると、彼はすぐ、室内の明りを全部消した。――今夜も、すごいばかりの満月が中天にのぼって来ており、テラスに明るい月光がさし、ブーゲンビリアの赤と緑が、はっきり見わけられるくらいだった。――水音を背後でききながら、彼はガラス戸をあけて、テラスに出た。頭上の、ぬれた銀盆のような月は見上げず、海面に反射する月光や、青い空を背景に水平線にうかぶ濃藍色の島影を見ながら、海からの風に吹かれていた。もうすでに、何十遍と見ているのにどうしてこの景色に飽きないのだろう、と思いながら……。
ふいに、湯と石鹸のにおいが傍でした。頭にタオルをまきつけ、胸と胴をバスタオルでおおった夫人の、純白の肩に、銀色の月光がすべった。――手摺をつかんでいた彼の手に、無意識に力がはいった。……|裸になった体つきまで《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》……。彼は気をそらせるために空を見上げた。そこにも銀色にかがやく、ゆたかにまるい女の裸体のような月があった。
「ああ、いい気持……」と夫人はいった。
「あなたもはいっていらっしゃったら?」
妄想をもぎとるように、彼は身をひるがえしてテラスをはなれた。
シャワーをあびて出てくると、暗い室内のテラスよりのベッドの上に横たわって、こちらにむけている夫人の顔がぼんやりと見えた。月明りの照りかえしがわずかに室内にさしこみ、腹をおおった毛布の上に、ゆたかなまるい双の乳房が、かすかなぬめりをおびて浮んでいる。
「いらっしゃる?」と夫人は、かすれた、やわらかい声で、ささやくようにいった。「私、さっきも言ったように不感症だけど……それでもおよろしかったら……」
「いや……」彼は拳をかたく、かたくにぎりしめ、息あららげて、燃えあがる肉体を、残忍におさえこみながら、歯の間からおし出すようにいった。
「やめておこう――あとで、お互い、もっとわびしくなるだけだ……」
6
二日後――
彼は、宿をかしてくれた友人の家族といっしょに、オアフ島の、ホノルルとちょうど反対側にある、波静かなハナウマ湾にねそべっていた。――彼になついていた小さな子供たちが、どうしてもというので、一日つきあわされたのだが、盛夏の江ノ島なみに、日本人、アメリカ人観光客でごったがえすワイキキ海岸とちがって、こちらはまだ泳ぐ人たちがずっとすくない上、はるか沖まで、膝までぐらいの遠浅で、子供をあそばせるのにはもってこいだった。――熱い砂にうつぶせに横たわって、甲羅を干していると、突然沖の方で甲ン高い叫びがきこえた。叫びやどなり声は、だんだん多くなり、浜辺を何人もが砂をけたてて走り、沖合へむけて、船外機のエンジンの音があつまり出した。顔を上げると、遠浅の水の中を、しぶきをけたてて、何人ものおとなが沖へむかって走って行く。――友人の子供たちが、水の中で、手をふって叫んでいた。
「どうした?」と友人が、手をメガフォンがわりにしてどなった。
「誰か溺れたよう……」
という、ほそい、甲ン高い声がきこえた。
底の浅い、船外機をつけたボートが、遠浅の海につっこんできて、波打ち際よりだいぶ沖で、砂をかんだらしくとまった。中からおりたった壮漢が、白い、ほそっこい体をかかえて、彼らのいる所より百メートルほどはなれた岸辺にむかって歩き出した。――男の上ってくる地点へ、大勢の男女がかけて行く。
「行ってみよう!」
といって友人ははねおきた。
「子供らしいぞ」
ワイキキよりずっとすくないとはいえ、もうかなりの人数が、おぼれた少年の横たえられた浜辺に人垣をつくっていた。もぐりこむようにしてのぞきこむと、金髪の、九歳ぐらいの、白人の少年だった。素人らしい助けた男が、しきりに口から息を吹きこんだり、胸をおしたりしているが、もう手おくれらしい。男の汗まみれの茶色の背中が、ほそっこく、スラリとした少年の上におおいかぶさり、毛むくじゃらの手が、白い、肉のうすい胸の肋骨を、ぐい、と押し上げると、人垣の中から、オウ・ノウ! と女性の悲鳴があがる。子供たちがさけぶように説明している声をきくと、遠浅のはずれに出ていて、リーフをこえてきた大波にまきこまれたらしい。痙攣《クランプ》という言葉がしきりにきこえる所を見ると、まきこまれた瞬間、こむらがえりでもおこしたのだろうか?
パトカーと救急車らしいサイレンが近づいてきて、人垣がちょっとゆるんだ。――その時、人垣の背後から、突然、朗々たる謡の声がきこえてきた。
※[#歌記号]我もまた、いざ言問わん都鳥。いざ言問わん都鳥……
群衆は、ほとんどアメリカ人ばかりだったから、いったい何が起ったのか理解できず、一瞬気をのまれたように、歌声の方をむいて絶句した。――だが、彼だけは、その声をきいたとたん、あっ、と声をあげた。
※[#歌記号]我が思い子は東路《あずまじ》に、ありやなしやと問えども、問えども答えぬはうたて都鳥……
人垣の一隅が後にさがって、通路のような間隙ができた。その間が、橋がかりでもあるように、白いサファリ・ルックの上衣に白いパンタロン姿で、大きな椀型のストロー・ハットをかぶった滝川夫人は、手に枯れた松の枝をもち、眼を中段に据え仕舞の振りで、すり足に、しずしずと、横たわった少年の死体にむかってちかづいてきた。
謡曲「隅田川」――十二歳の息子を、都で人買いにさらわれ、わが子を思って狂女となった母が、子供をたずねてはるばる東路をくだり、武蔵国隅田川のほとりで、死んだわが子の塚を見つけ、わが子の霊が念仏を唱える声をきく、という、あの母と子の、悽愴《せいそう》と言っていい悲劇を主題とした謡の一節を、すんだ声でうたいながら……。
なんだ、あの女は――ヘイ、お前あの子のママか……といったざわめきをよそに、彼女はなお朗々とうたいつづけた。
※[#歌記号]げにや船競《ふなきお》う、堀江の川の水際《みなぎわ》に、来居つつ鳴くは都鳥、それは難波江《なにわえ》、これはまた隅田川の東《あずま》まで、思えば限りなく、遠くも来ぬるものかな……
狂った夫人の背後に、パトカーからおりた大男の警官が二、三人、大股でちかづいてきた。
ファラライ溶岩流《ラヴア・フロウ》の中腹を巻いて行くハイウエイ19号線の途中でレンタカーをとめ、彼は斜面の上と下を見わたした。海抜二千メートルの頂上から海岸まで、ワンスロープの大斜面だ。――その斜面が、見わたすかぎり、まっ黒で、なわのようにねじれまがったパアホエホエ溶岩や、ざくざくのアア溶岩におおわれている。ハイウエイからでも、眼の下の海岸線まで八、九マイル、溶岩の凸凹の斜面がつづいているのだ。斜面が海におちこむあたりに昔、溶岩流で焼かれた土民の廃村が、豆粒のように見える。――東には、太平洋地域最高峰のマウナ・ケア、その北方にはコハラの山々をのせたウポル半島が、紺碧の海につき出している。
ごつごつした溶岩の間の、平らな所をふんで、彼は斜面をおりはじめた。数十メートルもおりた所で、西側を数メートルもそびえる溶岩塊にはさまれた、平らな岩を見つけて、そこに腰をおろした。――斜面ははるか下までつづいているが、そこらあたりまでおりると、もう上の国道を行く自動車の爆音もきこえず、海と空と、陸と、風と、そしてこの荒涼の天地の間にただ一人いる自分、といったものだけが感じられるようになるのだった。
あまりに荒涼たる風景に、人間がかえってなつかしさをおぼえてしまうのはなぜだろう?――人間は、長い長い歳月をかけた、生物の盲目の意志をうけた進化の果てに、ついにかつて地球上に存在しなかったほど高度な知能を達成したのだが、それと同時に、生命がその誕生の当初から持っていた|わびしさ《ヽヽヽヽ》も、かつてないほどの深さとひろがり――宇宙の果て、星辰の末にまでおよぶほどの、深さとひろがりを、持つようにさせてしまったのではないか?
まわりは、はるか下方にまでなだれおちる、黒い溶岩の果てしないつらなりだった。そのつらなりの果てに、太古より千載かわらぬうねりをくりかえす、青い、巨大な海があった。その上には、鼠色や白銀色の雲の団塊のとぶ、蒼穹《そうきゆう》が、はるか水天の接する彼方までひろがり、その空の下を、ごうごうと音をたてて、これもまた太古より千載かわらぬ風がわたって行った。――その間に一人、ぽつねんとすわっていると、天地万物が、行方も知らずつづけている、巨大な「旅」の気配がひしひしと感じられ、身をしめつけられるような寂寥《せきりよう》感に知らず知らずのうちに涙が流れてくるのだった。常夏の緑と、陽気な文明をのせたハワイの島々は、大洋の底を行くマントルの流れにのって、はるか北西五千キロ彼方の日本列島にむかって年三、四センチのスピードで旅をつづけている。旅程がすすむにつれて、風浪は岩を削り、三千万年ほど前にこのハワイのある位置にうまれて、一足先に旅立った島々は、今は海面下二千メートルの海山となって、日本海溝の傍にまで達しているのだ。地球もまた、その地表にうみ出した一切の生ける物をのせたまま、巨大な船のごとく、太陽のまわりをめぐる何十億回くりかえされた旅をつづけ、そしてまた太陽は、その子供たちである九つの惑星をひきつれたまま、暗黒の宇宙の一点へむけて、目的も知れぬ旅をつづける……。
そして、人間は――我らはいずこより来りしか、そして何ものか、いずくへ行くか?――人間は……人の世のある事のわびしさに倦み、わびしさをいやすために旅立ったのが、いつしか、わびしさを|求める《ヽヽヽ》旅にかわり、そして――。
わびしさを|つきつめた《ヽヽヽヽヽ》果てには、何があるのだろうか? あの、ハナウマの岸辺で突如「隅田川」を舞いはじめた滝川夫人のごとく、狂気しかないのだろうか?
それとも――狂気にまで達してしまえば、そこには、狂っているとはいえ、一つの別の世界が、彼岸がひらけるのだろうか?
ふと、眼の隅に白いものが動くのを見て、彼はそちらへ視線をむけた。数メートル下の、右へ数十メートルはなれた溶岩の上に、白い、スリーブレスのワンピースを着た、黒い髪の女が立っていた。――女は、彼に背をむけたまま、しばらく立っていたが、やがておぼつかない足どりで、さらに右手へ、歩み去ろうとした。
と、女は突然、彼の視線を感じたようにふりかえった。
とたんに脳天から背骨をつらぬき、爪先にまで走ったはげしい衝撃が、どしん、と走って、彼は思わず腰をうかした。
そんな馬鹿な!――と彼は必死になって眼をこすった。――そんな馬鹿な事はない。おれの眼の錯覚で、あれはきっと滝川夫人だ。――だが、夫人はきのう、オアフで発狂して、彼女の夫の会社のものという二人の男に連れ去られた。今ごろは日本へ送りかえされているか、精神病院に入れられているはずだ。
だが、いくら眼をこすっても、それは彼女《ヽヽ》の顔だった。――あれから二十年以上たつのに、ちっとも変っていず……。
「……!」
と、ついに彼は、その名をよんだ。吹きわたる貿易風にちらされたかと思って、もう一度よんだ。
とたんに、女の顔が、陽があたったようにパッとかがやいた。
「……ちゃん!!」と、女は叫んだ。
「君だったんだね――やっぱり君だったんだね……」彼は溶岩の一つからとびおりながら声をかけた。涙が頬をつたったが、ふきもしなかった。「とうとう――あんなに探していてあえなかったのに、とうとうあえたんだね……」
「……ちゃん!」女は、溶岩の鋭い角に手をついて、彼にむかってはいのぼりながら、何度もたしかめるように、涙にくぐもった声でよびかけた。「ずいぶんさがしたのよ……世界の、果ての果てまでさがしに行ったのよ。まあ、ずいぶん大きくなって……」
ごつごつと、足場の悪い溶岩をふんで、男と女は、上と下から、おぼつかなげな足どりで一歩ずつ、一歩ずつ、ちかづいて行った。――どちらの頬も涙が滂沱《ぼうだ》とつたい、だが、どちらの顔も、喜びのほほえみに輝きわたっていた。
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歌 う 女
1
オリンピックのあと、東京の青山通り一帯、特に原宿から表参道へかけての感じが、昔とすっかり変ってしまったように、私が少年時代をすごした、人口十万ほどの地方都市も、新幹線と高速道路が通る事によって、まるでおもむきが変ってしまった。
うまれたのは、その都市から電車で四十分ほどはなれた大都市のまん中だが、もの心ついた時には、もう背後に山をひかえた、緑と坂の多いその小都市にうつっており、旧制高校以後は、またそこから汽車で数時間はなれた地方に下宿したが、しかし、その間も私の両親弟妹の家は、あちこち移転しながら、ずっとその小都市――N市の市内にあったから、四歳から二十四、五歳まで、幼年期から青春へかけてのほぼ二十年間、私はその都市に住んでいた勘定になる。
その間に例の「戦争」がある。
戦時中、私の家は、私が幼時から少年時代前半をすごした、私のもっとも好きな、緑の林や丘陵の多いしずかな住宅地をはなれ、下町の、かなり繁華な地域へひっこしたが、それも戦争の影響だった――といっても、別に焼け出されたわけでなく、大戦がはじまって、軍需関係でかなり儲けた父が、地方に疎開する人の邸を買ったのである。父にしてみれば、地方漁村で高等小学校を卒業し、東京へ出て苦学力行し、一応自分の会社をおこして以来、はじめて入手した「自分の家」であったわけだが、私の兄弟たちは、幼い時分をすごした住宅地域をはなれて、にぎやかすぎるような街道筋の繁華街にうつる事を、あまり喜ばなかった。もっとも、それまでの借家は、手広だったとはいえ、もう中学、高校へかよいはじめうそうそと大きくなり出した大勢の子供たちを収容するのには限度が来ていた、といってよかったろう。――間数《まかず》も倍ほどになり、庭のほかに、テニスコートのできそうな空地のついた家の中で、年上の子供たちはめいめい個室をもらい、まずは当座満足した恰好だった。
だが、その家は、昭和二十年夏、終戦間際の空襲で半分が焼けた。私の母と弟妹は疎開しており、兄は遠方の大学へ行っていて、天地のひっくりかえるような夏の夜の焼夷弾|絨氈《じゆうたん》爆撃の中で、何とか全焼させないようにと食いとめたのは、当時中学生だった私と父の二人だけだったが、それも運がよかったとしかいいようがない。
家屋半分を残して、私たちの一家は、それでも全焼した人たちにくらべれば土地も住む所もある幸運な終戦をむかえた。――だがしかし、それがきっかけのように家運がかたむきはじめ、父の会社が、戦後のはげしいインフレと税金攻勢のためにつぶれ、世の中に景気が出はじめる昭和三十年代の前半に、戦後修復した家屋も、ひろかった土地も、人手にわたさなければならなかった。
生活苦や学生運動、政治闘争などの吹き荒れた二十年代に、父母、就中《なかんずく》父とはげしいいさかいをした私は、大学卒業の時の滞納月謝も同棲していたバーの女性に出してもらうような有様で、職のないまま、卒業後、半年ほどは、角突きあいながらも両親のもとにいたが、お粗末ながら糊口《ここう》をしのげるほどの仕事が見つかったのを機会《しお》に、家をとび出し、それきりずっと、持家を売りはらって団地ずまいの両親のもとにかえらなかった。――という事は、それからずっと、N市に住まなかった、という事である。しかし、結婚して最初に世帯をかまえたのは、N市のすぐ隣、川をへだてて、大きな橋一つわたれば、もうN市の市域にはいるという場所にある、たった一間の文化アパートだった。それから、惨憺《さんたん》たる結婚当初の数年間、ひどい時は一年間に六度も居所をかえるという有様だったが、なぜか知らないがいつも、住居はN市から二時間とはなれた事がなかった。私自身、そんな事は全然意識しなかったにもかかわらず、心の隅のどこかで、北に緑ゆたかな山脈を背負い、南は陽光に光る波おだやかな内海に面した、美しく、あたたかく、しっとりとおちついたN市をいつもなつかしみ、自分の育った都市というよりは、まるで「母国」のようにその風景を慕い、あまり遠くへはなれたくない、という強い執着が働いていたようだった。
三十路《みそじ》をいくつかこえたころ、私は、若年の夢想や執念の全き挫折を味わうとともに、皮肉な事に生活は急速に安定にむかい出していた。――さほど深い仲でもない知人二、三人と一緒に、あまり気乗りもせずにはじめた事業があたって、収入は年毎にふえ、もう学校へ上っていた二人の子供をかかえて、妻は結婚以来はじめて、愁眉《しゆうび》をひらいた。軌道にのり出せば、しばらくの間は気のない仕事も面白く、あっという間に十年ちかくすぎたが、もともとその方面には欲のなかった事ゆえ、生活が安定さえすればそれ以上の拡大という事ものぞまず、その点について共同経営者たちと意見がくいちがって、何度目かの増資を機会《しお》に、ある分野だけをゆずってもらって私だけ独立し、名目は株式会社だが個人経営同様、職員も数人という小ぢんまりした世帯に、これは地方の堅い家の出で、育ちも悪くないが、苦労もしていれば人間も実直という定年退職者に、利益七三ほどの給料で仕事をまかせ、私は独立に際しての何がしかの積み立ての取り分でもって一応は終《つい》の棲家《すみか》と心にさだめるほどの一軒をたてたのを最後の冒険に、かなり気楽な生活にはいった。
昔から老《ふ》け気味なのにくわえて、世帯をもってからの辛酸にここ四、五年は健康もすぐれず、独立したあとはがっくり疲れ果てた感じで、鬢《びん》にも急に白いものがふえ、年以上に老けこんだ気分だったが、それはそれでおちつけて、本人はさほど不幸でもなかった。
その終の棲家が、N市に隣接する同じような小都市の郊外で、N市のあの特有の地形の連続上にある台地の上にあり、N市との境界にすぐ接している場所だった。――今はすっかり高級住宅都市になってしまったN市の市内にも、辛抱づよくさがせば適当な土地なり家屋なりがあったかも知れない。しかし、なぜか私は、N市の市内には、はじめから住まない、と頑《かたく》なに心に決めていた。そのかわり、N市になるべく近く、N市の地形、風土になるべく似た所を、やがて家が持てそうだ、という見こみがたったころから、仕事の関係で手に入るあらゆる情報をもとにして探しはじめていたのである。N市の|ような《ヽヽヽ》所に住みたい。が、N市|そのもの《ヽヽヽヽ》には絶対に住まない――この自分で自分自身に対しておこなった奇妙な「追放」の理由を説明するのはむつかしい。私は、ある時期――若年の、あの憎しみに満ちて、あらゆる事を憎んだある時期、N市を、私自身の幼少年期もろとも私の心の中から「追放」した事があった。当時もちろん、私は「幸福」をもっとも憎み、その片鱗《へんりん》さえ見れば、一切|合財《がつさい》検討する事なく断罪したから、N市の事など、本当を言えば気にもかけていなかったといっていい。
しかしある時期から――何も知らない、人生の路上で途方にくれていた小娘だった妻と結婚してから、そして妻よりももっと無垢《むく》な子供たちが生れてから、私は「生きている事の幸福《しあわせ》」に幾分かの席をあたえざるを得ず、一歩の妥協は全面的妥協――というよりも、「無条件全面降伏」への道を開く事になった。世界は、そして時代は、一人相撲をとりつづけてきた生臭い馬鹿者に、かぎりなく寛容だったが、それでもしかし最後の一点で、私自身が自分を許せない所があった。私は、自分がかつて、横柄な身ぶりで「否定」し、「追放」したN市の市民になる事を、いや、昨今のまぎらわしい「市民」などという言葉のもたらす誤解を避けるなら、N市に|住む《ヽヽ》事を、自分自身に許したくなかったのである。まったくもってお笑い草と言うほかないが、この「自罰」だけが、若くして敗残の人生に足を踏みこんだ男にとってただ一つのこった、誰に告げる事もない「不条理」な生のより所だったのである。
2
人生の奇妙な綾《あや》は、しかし、せいぜい世に棲む事の表も裏も知りつくし、その上に自分は自分なりに、人なみすぐれた知恵や洞察力を持っていると自負するころになって、またも己れの無知や愚かさを――言いかえれば「主観」と「客観」の食いちがいを思い知らされる事にある、といえるだろう。新居をえらぶにあたって、私がN市に隣接する都市の地図と番地だけをたよりに勘案し、N市側の地図をまったく見なかった、という事が一つある。それ以上に、新居の場所を、昔、N市に住んでいたころの、つまり三十年ちかく前の幼少年期の地域感覚で考えていた、という事に、大変な錯覚があった。昔ながらの土地感覚でいえば、その場所は、N市の中心地から大変はなれた場所であるはずだった。事実、郊外電車でN市のもっとも山側にある駅から二駅のり、さらにそこから支線にのりかえて三駅、そこからゆるい山道を、バスで一停留所、歩けば十二、三分はたっぷりかかる距離をのぼらなければならない。新しい造成宅地ゆえ、背後には緑深い山、そして二階から斜めに見れば、陽光ににぶくきらめく水銀色の海も遠望されもしたが、まわりは荒々しい赤松の山林やむき出しの赤土、あるいは古い山津波のおし流した岩塊がごろごろころがっている有様で、とてもN市の、あの手入れの行きとどいた景観とはくらべものにならなかった。
やはり新開地は新開地にすぎないな、と私は腹の中で思いながら、しかし、N市のついちかくの、「N市の|ような《ヽヽヽ》土地」に、終の棲家を得る事のできた、変にくすぐったい幸福を――おそらく妻にも誰にもわからない幸福を、テラスでパイプをくゆらせながらかみしめたものだった。そして、あれほど自分ではきびしく、狷介《けんかい》なまでに、「幸福」というものの一切を追放したつもりだったのに、若いという事はどこか考え方に粗雑さがあり、馬鹿馬鹿しい論理の穴がいくらもあって、その一つに、自分が「住むことの|しあわせ《ヽヽヽヽ》」は、なぜか頑固にもとめつづけた事を思って、苦い笑いもこみ上げて来た。――二昔ほど前の表現にしたがえば、これが「プチブル的」というのだろうか、今様にいえば「ミドルクラス」というべきか、かつてあれほど嫌悪したものに、いつの間にかなっていた自分を思うと、あがきつづけて、結局それにしかなれなかったその想いは一瞬苦く、自分ではどうしようもないほど苦くて、私は自分に対してパイプの脂《やに》が口にはいった|ふり《ヽヽ》をして、何度か唾をはいた。しかし、それも一瞬の事で、あとはエッジウォースを空高く、心おきなく吹き上げた。どちらにしても私は人生の半ばをとうの昔にすぎており、くだらぬ虚飾もはげおちたその時点からふりかえってみれば、結局すべてはなるようにしかならなかった。
それがどうしたというのだ?――どうという事もあるまい。
会社ははじめから週休二日を採用していた上、私は週のうち半分も顔を出せばよかったし、それもほとんどは電話連絡で用の足りる事だったから、私には充分すぎるほどの暇があった。――といって、人生のほとんどを泥沼であがきつづけた私に、何ほどの趣味があるわけでない。妻の方は、かえって稽古事なり趣味の会なり、さまざまな人生の楽しみへのつながりを持っており、長男が大学へはいったあとは、心おきなくその楽しみに磨きをかけはじめていた。
私はといえば、ひまつぶしのためには散歩ぐらいしかなかった。――この年になって、今さらゴルフや勝負事でもない。美術骨董をたしなむには、過去があらくれにすぎ、そういったものに眼をひらくべき多くの歳月が失われすぎた。――私にできるただ一つの事といえば、赤松の林や、すすきの原を、ただ闇雲に歩きまわる事だった。大学を出て間なしの頃、アルバイトのために習いおぼえた車の運転も、今さら免許をとりなおすのが億劫《おつくう》で、家にある車は長男長女の玩具になるにまかせた。
だがしかし、そうやって朝に午《ひる》に、生計《たつき》の事を思い悩む事なく、山林の中や山腹の草原を散策できるだけで私は充分幸福だった。――新居にうつった当座、私はまず自分の住む場所の周辺を歩きまわり、それから次第にコースを遠くにうつして行った。山中に、思いもかけぬ古刹《こさつ》や、ささやかな旧跡、ちょっとかわった動植物や景観を発見して行くこの「小探検」のたのしみは、六十の手習いというほどではないにせよ、人に言われぬ気はずかしいよろこびを私にあたえてくれた。
「まだ知らない道」にふみこみ、どこへ出るかわからぬコースを二本の足で歩いて行くスリルは、子供じみてはいるが、それだけにひどく正直で、純粋なものだった。
こんな事を毎週くりかえしているうち、私の「小探検」は、思いもかけぬ「発見」にぶつかった。――まだ歩いていない山裾をまわる道を、かなりな遠出になる腹づもりで歩いた時、山の端一つをまわりこんですぐ眼の下に、幅ひろい、りっぱな舗装道路が東から西へまっすぐ走っているのが見えた。山裾の道は、そのままひろい道路におりて行き、枝道は細くけわしくなって山中にはいりこんでいたが、ハイキングではなく、あくまで散策が目的だった私は、ためらう事なく眼下の方へおりて行った。おりて行く途中、東へかけておりて行くなだらかなスロープが見わたせ、その彼方の平野に、スモッグをかぶった大都市が灰色にひろがるのが望見された。
舗装道路はま新しく、両側の歩道も白々としていた。車の通りは意外にすくなく、両側もまだそれほど家がたてこんでいない。緑につつまれた谷間に高層アパートらしいものがちらほらあり、あとは新築の瀟洒《しようしや》な家屋が数軒、たばこ屋や喫茶店が沿道に二、三軒ほど見え、遠い斜面に赤土の肌がさらされて、宅地が大がかりに造成中だったが、その両側が住宅地らしくなるのは、まだだいぶ先の事になるだろうと思われた。
ゆるい坂になっているその道を、私はぶらぶらと西にむかってのぼって行った。のぼりつめた先は、くろぐろとした樹齢の古そうな杉木立の尾根を切り割って、そこからむこうはくだりになっていた。――峠というほどの事もない、その坂の頂きで、ちょっと一息いれて背後をふりかえり、やや傾いた日に照らされたスロープと平野をもう一度見わたしてから、杉木立の向う側の斜面をおりはじめた。
――おりはじめてから二、三分もたたないうちに、私の中にかすかな狼狽がまきおこった。最初のうちは、なぜ狼狽したのかわからなかったが、視線だけはかってにきょときょとまわりをかけめぐった。さらに百メートルもくだり、とある十字路――右手は大きな邸宅のつづく急な坂に、反対側は高い自然石の石垣と、黒々とした杉林にはさまれて、ゆるい傾斜で南におりて行く道になっている交叉点にさしかかった時、私は脳天から足もとへ、何かが、ずきん、とつきささったような衝撃をうけて、とうとう立ちどまってしまった。
あまりの意外さに、顎がこわばり、足が凍りついたようだった。眼をこするような思いでまわりを見まわしても、まちがいはなかった。――そこは、私が幼稚園から小学校を経て、中学の低学年時代をすごした、N市における最初の住居の|すぐ《ヽヽ》近く、もとの住居から、歩いて十五分もかからない場所だった。
私は呆然とその十字路にたちつくし、何度もまわりを見まわした。坂も、林も、そしてまっすぐな道がはいりこむ住宅街と正面を高く区切る川の土堤の松並木も何も彼も見おぼえがあった。――時計を見ると家を出てから、十数分しかたっていなかった。事態を頭の中で理解するのに、そんなに時間はかからなかったが、感覚の衝撃はなかなかおさまらなかった。電車の路線では、もとの住居に一番ちかい駅でのって二駅先から支線にのりかえ、さらに三駅という距離だったが、路線は山裾を大きく南に迂回し、さらに支線は山の尾根のむこう側を、今度は山麓を縫うように北上しており、二つの路線は、せまい鋭角を形づくっているため、私の新居から、直線に近いコースを歩けば、わずか十二、三分で、最初の住居のちかくに出てしまう。それに、私の子供時分と明らかにちがう所は、その幅広い道路が,私のたちどまった十字路の所でT字型に切れており、私が東側からこえておりて来た尾根へ上る道は、あるにはあったが、杉、松の密生した斜面を、深い下生えにかくされてうねうねとのぼって行く、粗末な山道にすぎなかったのである。
T字路から西にのびる道も、むろん当時は舗装されていなかった。そして、一方は邸町の急坂をのぼって行き、もう一方の、石垣と林の間を、はるか下町の方へおりて行く、南北にのびる道は、かつて幼かったころの私の、「|なわばり《テリトリイ》」の東の境界線をなしていた。――腕白仲間と、「探検」と称し、そこからさらに東へ、尾根をのぼる道をのぼって見た事があったが、尾根の向う側は杉林や雑木林を配した山の斜面で、民家はおろか田畠らしいものもなく、見通しの悪い木立ごしに、遠くの平野が望見されるだけで、あまり興味をひくものもなかった。郊外電車の支線が山麓をぬって北へのびたのは戦後の事だったし、もうその尾根の向うは、子供時代の私にとって「人外の地」にひとしかった。事実、N市の境界も、その尾根を走っていたのである。そこへ電車の新しい支線と、尾根を一直線に切りわって東へのびる新しい道路、さらに山林にすぎなかった東側斜面の、住宅地への大々的な改造がはじまったのである。
尾根の東側斜面は、私にとっても、まったく未知の「新開地」にすぎなかった。私の住居はずっと東の大都市の周辺を転々とし、それから、なじみのうすい山脚の東側を北上する新支線の駅からぎりぎり山側によった所に、新居をかまえた。――だが、新しくのびた舗装道路をたどってみれば、西の尾根のすぐむこうは、私にとって、幼年期からもっともなじみの深いN市の東隅だった。私はそんな事を少しも意識せずに、子供時代に住んでいた土地と、すぐ|背中合せ《ヽヽヽヽ》の場所に、居をかまえたのである。
そういう事は、すぐ理解できたものの、感覚の方は、しばらくの間、うけた衝撃の異様さからたちなおれなかった。――私は新しい棲家を中心にして、新しい「|なわばり《テリトリイ》」の探索と認識を、少しずつ遠心的にすすめて行った。その日の散策は、半径としてはもっとも遠くまで行くはずのものだった。――もっとも新しい、未知の領域へ遠くふみこんで行くと思った道をたどって行くと、突然、もっともなじみの古い「過去の世界」へ、それもその世界の書き割りの裏側《ヽヽ》からふみこんで行く事になった。……その感覚の奇妙さは、現在から異次元の断層をのりこえて、突然|三十年前の世界《ヽヽヽヽヽヽヽ》へ逆もどりしたような、なんとも奇妙な、舌の根がざらつくような衝撃を私にもたらした。――あとからわかったのだが、その地域は、N市の中でも、比較的かわっていない地域だった。たしかに、昔は春になれば|れんげ《ヽヽヽ》が咲き、秋には稲穂が黄金の波をうった小さな田には、住宅がたちならび、子供の時、遊びほうけた松林の一角には、白い高層アパートがそびえたり、角の雑貨屋が二階建てのスーパーになったり、よく見れば些細な変化はあったが、一眼見た瞬間には中学の半ばに下町へこして以来、おとずれた事のない三十年前の街が、そっくりそのまま眼前に出現したような気がした。見おぼえのある辻に、子供の時見たままの恰好で赤いポストが立っているのに出あった時は、一種の気味悪さにおそわれて思わず立ちどまった。子供の時、自分がやっと手のとどく高さに釘で書きつけた落書がのこっているような気がして、しばらく何とも言えない気持で、そのポストをまじまじと見つめていた。――そこらの辻から、やかましい声をたてながら、学校友だちと一緒に、|小学生の自分《ヽヽヽヽヽヽ》が走り出してくるのではないか、という気さえした。もしその時、本当に十歳前後の自分がかけ出してくれば、いつも落書をするポストの横に立ちつくし、妙な眼付きでこちらを見ている、背のひょろっとした半白の髪の初老の男を見かけて、何と思うだろう、と……。
三十年前がそっくりそのままのこっている過去の世界にはいりこんで、「子供にかえった気分」にどうしてもなれない奇妙な齟齬《そご》感は、単に自分がそれから三十年もたっているというだけでなく、その世界の、どうにも間尺にあわない小ささのせいだった。三十年前から、わずか|五十センチ《ヽヽヽヽヽ》身長がのびただけで、その世界の「体でおぼえていた」寸法、スケールは、何も彼もかわってしまった。――歩幅が、何ほどかわったか知らないが、子供のときはずいぶん遠いと思っていた距離が、今歩けばわずか二、三分であり、ずいぶん大きいと思っていた家が、ほんの小ぢんまりしたものであり、見上げるばかりに高いと思っていた石垣も、さほどの事はない。近所の腕白達と、こここそ自分たちの「なわばり」と、足いっぱいにかけまわり、遊び呆けた町内は、何とわずか二百メートル内外の一辺で区切られた一画にしかすぎなかった。――それでいながら、その中に、幼いころ辻から辻へ、その間をあそびまわった家屋や松林や、道路は、ほとんど昔のままにつめこまれているのだ。三十年の歳月が、自分を知らぬ間に巨人にしてしまったような、あるいは逆に、三十年前の町が、そのままの形で縮小してしまったような感じで、私は「小人国《リリパツト》」に足をふみいれたガリバーのように、無意識のうちに背をこごめ、歩度を小さくして、おずおずと歩いた。
松林の切れる辻で、私はこわごわ南の方に眼をやった。そこまでくれば、私が四歳の時から十年間住んでいた、木造二階建ての家の屋根がすぐ近くに見えるはずだった。――しかし、すぐ眼前に松林につづく古い家並みはそのままだったが、私の住んでいた家は、どういうわけか見えなかった。家のむこうは、たしか道路をへだててひろい原っぱだったはずだが、それも見えず、ただ灰色の、おそろしく丈高い塀のようなものが、視界を左右にさえぎっていた。
あの灰色のものは何だろう、と、最近やや視力のおとろえた眼をこらすと、突然轟音とともに、その灰色の塀の上を、卵色の長大な芋虫が、背に無数の青白い火花をちらしながら、左から右へ、おそろしいスピードでながれて行った。
なんと!――私の新居から、ずっと南でトンネルに入った新幹線の新路線が、こんな所に出てくるのか、と思って、私は口をあんぐりあけて、民家の屋根のむこうに消えて行く、卵色とブルーの長い線を見おくった。
3
「過去への通路」のようなその新しい道を通って、N市への散策に出かける事は、その後の私のひそかなたのしみになった。
新幹線と高速道路によって、N市がかなりかわってしまった、と初めにのべたが、大きくかわったのは、新幹線の南側の方で、これは「こだま」のとまる駅がN市の南西のはずれにできたのだから当然の事だったろう。――鉄とスモークガラスとPSコンクリートの、SFの挿絵に出て来そうな幾何学的な駅舎、そして駅前の広場、駐車場と、そのまわりに立つビル群のたちならぶ付近の光景は、ここがもと何町と名前をきいても、どうしても昔どんなところだったかよく思い出せず、かろうじて、貝の化石を一、二度とりに行った断層崖のある丘陵と、緑の丘陵の間にある、まっさおな、まるい池の事がぼんやり思い出されただけだった。――駅舎はその丘をほとんど全部けずりとり、池もきれいにうめたてて、どこに何があったか、地形もわからなくした上に、駅前ビルや、新駅前商店街、住宅街などができ上ったのだから、記憶の手がかりはまるでなくなってしまった。新幹線の高架の北側、とりわけ私が昔すんでいた北東隅は、N市の中でも、例外的に、昔のままの――といっても昭和初期のものだが――町なみがのこっている住宅街だったが、高架をくぐりぬけると、N市の感じはまるでかわってしまい、東も西も、町の境界や目じるしになったこんもりした岡や森がなくなって、変にだだっぴろく、東西にのっぺりとひろがった、無表情な街になってしまったような感じがした。
それでも、道筋をひろい歩けば、町なみのそこここには、まだ昔の風情がのこっていて、三十年前見かけた雑貨屋や文具屋が、代はかわったろうが、昔のままの屋号と店先のたたずまいでのこっていて、なつかしさに思わず立ちどまる事もあった。が――南へさがって、昔の国道筋を一本こえると、そこはもうもとのN市と別の世界だった。旧国道といっても幅員はけっこう広く、昔から舗装されていてバス、トラックが頻繁に往来し、子供の時横断するのがこわかったが、その広い国道のもう五百メートルほど南に、新しい国道が、幅員にして片道四車線だから、旧国道の倍、しかもその中央に、もう三、四車線幅の分離帯があり、巨人の列のような巨大な橋脚がずらりとならんで、その上を東の大都市と西の大都市をむすぶ自動車専用路がかかり、上も下も、数知れぬトラック、乗用車、ダンプ、バス、タンクローリーやトレーラーが、巨獣の群れのように唸りを上げ、排気ガスをはきちらしながら、ひっきりなしにごうごうと走っている。小学校の時、一日と八日におまいりした神社は、それでも新国道の北にやっとのこっていて、しかし、境内は三分の二にせばめられ、昔はずいぶん亭々とおいしげっていた社域の森も、排気ガスのせいか見るも無惨にまばらになってしまっていた。――私たち一家が、戦時中うつりすみ、戦後もしばらく半焼けを修復して住んでいた家のあったあたりは、もちろんこの巨大な国道の下になってしまい、家の近所のたたずまいなどもあとかたもない。そこからさらに南に行けば、幕末、明治以来の酒屋、回船屋の白ぬりの土蔵や煉瓦《れんが》づくりの倉庫がならび、そのひんやりと小暗い倉と倉との間の道をたどる途中から、もう魚臭い磯の臭いがして、ぬければそこはかっと眼を射るような白砂の浜であり、漁船のもやう小さな港の、石をつんだ防波堤の先で釣もできた。が――今は、酒造業はあっても、見上げるばかりの灰色の、窓のないコンクリート倉庫、そしてそのむこうは埋立てで、銀色の塔や、櫓《やぐら》やパイプ群が空つくばかりに組み上り、そこここから白い煙を吐く大工場が東西にきりもなくつづいている。――新しい長距離フェリーの発着場ができていたが、私はそのあたりに、何の興味も感懐も持つ事ができなかった。
高速道路はもう一本、これは新幹線よりずっと北を、はるか本州の西の果てまで行く予定のものが、百キロ先の都市まで開通しており、そのインターチェンジが、住宅街をまといつかせた南むきの山の斜面のさらに奥にできており、そのあたり、かつては単なる山間の、貧寒な田畠がぽつりぽつりと散在するだけの僻村にすぎなかった所が、四囲を緑の山にかこまれた中に、美しいクローバー型の模様を中心に、ひどくモダンで色彩あざやかな、モーテル兼レストランや、プール付きレストハウス、ドライブインなどができ上っていた。――そこから南の国道へのびる道を軸にして、かつてうねうねまわる地道ばかりだった道路が拡幅、直線化、舗装と整備が進み、それが、インターチェンジと岡一つへだてて接する、かつてN市のもっとも高級な住宅地だった一画に、微妙な変化をもたらしているようだった。
「過去へのバイパス」を通じてかさねられて行った私の散策は、次第にN市の、かつての高級住宅街に集中して行った。――学齢前から小学校時代にかけてかけずりまわった一画は、思い出も濃密ではあったが、その範囲があまりに小さく、二度ほどの訪《おとな》いですべてが見えてしまったからだった。小学校の高学年から中学へかけて、電車で通学するようになってからは、私の「なわばり」もかわり、交友関係もかわった。戦争がはげしくなると、中学生の生活もいよいよきびしく規制されるようになって、そんなにあちこちうろつけるわけではなかったが、友人の中に、駅の北側の深い杉と松の林でおおわれた高台につくられたその高級住宅街にすんでいるものもおり、小学校五、六年のころは、誕生日によばれたり、中学になってからは欠席の時の届け物を持って行ってやったりして、その区域にも足をふみいれるようになった。
とはいえ、当時の私にとって、その地域は最後まで馴染《なじ》みにくい一画だった。子供時代住んでいたあたりは、平地であって、閑静といっても小住宅が多く、小さな路地や抜け道があり、裏通りにはうどん屋、雑貨屋、小間物屋などが小さな店をならべ、しっとりとした陰影は深かったが、住んでいる人たちは、まあ勤め人なら課長どまりかそれに中学の先生、昔多かった個人規模の会社の経営者、といった所だった。あの巨大な石垣の上に邸をきずいた大正の船成金などは例外だったし、坂の上の邸町はこれは土地の旧家たちのもので、邸町といっても、土塀、こわれた板塀など、古めかしいものだった。
しかし、駅を中心に、特に北へともり上る急斜面につくられた住宅街は、これは大正末から昭和初期へかけて、関西の新興|「中の上」《アツパー・ミドル》の階級の人たちがつくり上げたもので、当時の和洋折衷や、「モダアン」趣味が、さりげなく、ところどころ濃厚にあらわれていた。――|褐 色 砂 岩《ブラウン・サンド・ストーン》を模した茶色の化粧煉瓦で組みあげられ、ところどころ十字型の穴のあいた塀と、同じく茶色の化粧煉瓦で外壁を組みあげた洋館は、小学校の時にも何度も見ていたが、それをフランク・ロイド・ライト風と言うのだな、という事を知ったのは、戦後東京へ行って、焼けのこった帝国ホテルを見てからだった。大谷石の塀に、唐草のような奇妙に華奢《きやしや》な感じのする紋様の鉄門と門柱がつき、中をのぞくと緑青《ろくしよう》を吹いた青銅の丸屋根ともつかず三角屋根ともつかぬ不思議な形の屋根をのせた車寄せがあって、何度も足をとめてながめたが、それがアール・ヌーヴォ様式……すくなくともアール・ヌーヴォまがいだったという事がわかったのは、もう結婚してだいぶたってからである。
人気《ひとけ》のない、両側に鬱蒼《うつそう》とした植えこみをそびえさす坂道を一人でおりて行くと、両側いたる所からピアノの音がきこえてきた。幼い手つきのバイエル、ツェルニーのエチュードもあれば、大変達者なショパン、モーツァルトがきこえてくる事もあり、ふと見上げると、白モルタル、赤瓦の見上げるばかりの大きな洋館のバルコニーに、花を一輪もった藤色のアフターヌーンの娘と、詰襟服の大学生がなにか語っているのが見えたりした。――白ぬりの金網フェンスに一面にからまる薔薇《ばら》の花が、あまり見事なので見とれていると、咲きほこる黄と赤の薔薇の中から、グレートデンがのっそり顔をつき出して、胡散《うさん》くさそうに鼻を鳴らした。このあたりでは、大きな犬がいたる所で飼われていた。見事な毛並みと、絵に描いたような斑のポインター、見ただけでおびえ、吠えられると泣きたくなるシェパード、ドーベルマン、坂の途中で、角から人につれられたマスティフがのそりと出てきた時など、あやうく叫び声をあげる所だった。――ああいった犬たちは、食糧のなかった戦時中、軍に供出されたり、殺されたりしたのだろうか?
かと思うと、見るからにしっとりおちついた、石垣と瓦をのせた白練り塀の邸から、木の香の匂うような門のくぐりをあけて、藤納戸色の和服を着たつややかな髪の娘が、桐油紙につつんだ菖蒲か何かの花をさげて、ひっそりと出てきたりした。――フェンスのむこうに、糸杉、ヒマラヤ杉の植えこみをすかして、ひろびろとした芝生が見え、蔓薔薇《つるばら》をからました白塗り木製のアーチ、噴水付きの泉水、白ぬりのブランコ、滑り台などがあり、どんな子供があそぶのかと、そうっとのぞくと、つい近くにハンチングをかぶってブライアーのパイプをくわえたセーター姿の初老の紳士が、ゴルフのパターを持って立っており、縁無し眼鏡ごしに、何の表情もうかべない眼で、こちらを見ていた。――当時、すでにアスファルト舗装だった道を、黒ぬりの三〇年代のパッカード、ビュイックがのぼってくる事はしょっ中だったし、鼻《ノーズ》の長い、すごくでかい車を、リンカーン・コンチネンタルだと知ったのもその当時だった。今でも信じられないのだが、ふしぎな感じのするスタイルの、長い、でかい車が、一軒の玄関にとまっており、あまりふしぎな感じなので、長い間見て、そのスタイルが眼に灼きついたが、後年の知識と照らしあわせてみると、あれはどう見ても「アメリカのロールス・ロイス」とよばれたピアス・アローだったとしか思えない。
テニスコートもよくそういう家についていて、ラケットのガットにボールの当る、軽い、ぽん、というひびきと、コートをふむ靴音、それにファイン・プレーに対してか、ミスに対してか、なにか叫ぶ明るい少女や少年の声が、通りすぎて行く私の耳にきこえた。一度――それは、もう大戦もはじまっており、私も中学へ上っていたころだったが――友人の家に本をかえしに行った帰途、そういった邸宅の一軒の傍を通りかかった時、植えこみのむこうから、あっ、という声と同時に、卵色のボールが低い石塀をこえて道へとんで来た事があった。かなりな急坂をころがって、溝にはいりかけたボールを一足とびにつかまえた私は、背後から、はずむような明るい声をかけられて、思わずふりかえった。
「すみませェん!――恐れ入ります……」
Vネックの所に、赤と青の細い線のはいった白いセーターと、太股の半ばほどの、短い、プリーツのはいった白いスカートをはいた、小麦色に陽焼けした、私とさまでかわらぬ年ごろの少女が、若々しく息をはずませながら石塀のむこうに立っていた。つややかな切り下げ髪が、風になぶられて汗ばんだ頬に二筋三筋はりつき、通った鼻筋と、怜悧《れいり》そうな瞳、形のよい唇からもれる白い歯と、美しい卵型の輪郭を持った頬が、いかにもそういった家に住むにふさわしい育ちのよさをあらわしていた。――とたんに、私の顔に、どっと汗が噴き出した。少女は|美しく《ヽヽヽ》汗ばみ、自分は|醜く《ヽヽヽ》汗をかいているな、と思うと、眼もあげられず、私は手にした硬式庭球用のボールに眼をおとしたまま、二、三歩石塀の方に歩みよった。ボールはまだまあたらしく、ほとんど汚れておらず、そのクリーム色の柔毛におおわれた弾力のある手ざわり、黒く瀟洒《しようしや》にカーブを描くあわせ目まで、|育ちよさそうに《ヽヽヽヽヽヽヽ》見えた。
塀のそばで、私は顔をあげずにボールをにぎった手をつき出した。――私はといえば、まだ全然型のなじんでいない、武骨な戦闘帽式の制帽をかぶり、スフのだらりとした制服を着て、ゲートルを巻いていた。私の手の上に、小麦色のふっくらとした、いかにも少女らしい手が、ひらりとおどると、ボールは消えていた。
「はばかりさま。ごめんあそばせね……」
そう笑いをふくんだ声がいうと、白いものは閃《ひらめ》くようにすばやく植えこみの陰に消え、また明るい叫びと、ボールのはずむ軽い音が、植えこみのむこうにきこえはじめた。
|ごめんあそばせね《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》……その言葉は、長い間私の耳の底にのこった。そういった言葉づかいを、幼少のころから使いなれている言い方であり、そういう言葉づかいでくらしている人たちというのは、一体どんな人たちなのだろう――と、坂道をふたたびおりつづけながら、私はぼんやり思った。そして、その言葉は、三十数年をへだてて、同じ坂を上り、昔より建物もずっと古び、植えこみも荒れ、たしかにテニスコートのあったあたりに戦後建てたらしい、いかにも間取りをぎりぎり一杯にとった新しい建物が建っている同じ邸の傍を通った時も、まるできのうきいたように鮮やかによみがえってきた。――|ごめんあそばせね《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》――といかにも自然に、さらりと言った、あの小麦色の肌の少女は、その後どうしたろう?――私はといえば、はげしくなって行く戦争の中で、殴打と、飢えと、罵倒と屈辱と、そして戦後の荒ぶれきった生活の中に足をふみこんで行ったのだが、あの育ちのよい少女は、それはそれなりに育って、戦後も幸福な結婚をしたろうか?
そう思って、その邸の門の所で、表札を見上げると、もうそこは、個人の持ち物ではなくて、どこかの会社の寮になっていた。
戦後のインフレ、財産税などで持ち切れなかったのも多かったのだろう。――その地域の住宅や邸は、昔とかわらぬ鬱蒼たる植えこみ、趣味のいい佇《たたずま》いや、しゃれたデザインのまま、会社の寮や社宅になっているものが、かなり多かった。
これは、戦後もしばらくあったのだが、住宅街が終り、松、杉、また櫟《くぬぎ》、楓《かえで》などの林が、丘陵のむこう側の斜面へむけて深まって行く中に、何でも昔あった山中の百姓家の敷地を買いとってつくったのだという、「ウインドフォール」という洒落たクラブがあった。松、杉の林の方へ行けば、一たんくだりになって、またつづきの尾根へと爪先上りに山が深まるが、しめった地道が二俣にわかれて、雑木林へおりて行く所にたつ楓の木に、古びた板を一枚、一方を長くうちつけ、それにWindfallと白エナメルで書いてあった――板切れの長く出た方へゆるい坂をおりて行くと、黒塗りで唐草模様の胸ほどの高さの鉄柵があらわれ、低い鉄柵門が八文字に中へひらかれて、中へむかって煉瓦敷の道がつづく。木造白モルタルの壁の所々に煉瓦の赤を配した、どっしりした深い黒ずんだ屋根の洋館は、正面の玄関をはいって行くと会員制のクラブ「ウインドフォール」。むかって右の裏庭に面したひろいさしかけのあるテラスと、それにつづくフランス窓の内部がティールームになっていて、そちらは、「パーシモン」という名になっていた。
小学校当時、家に寄食していたハイカラものの叔父が、そのクラブを見つけ、私も叔父と一緒の散歩の折りに、三、四度、喫茶の方へつれて行ってもらった。クリームソーダなどという飲み物を知ったのも、その店でである。――「パーシモン」の名の意味は、叔父も即答できなくて、二度目の時、英語で「柿」の意味だとおしえてくれたが、それはテラスの庭先にそびえる亭々たる柿の巨木ですぐわかった。最後に行った時は晩秋で、枝一面に朱色の実がかがやき、背後の林は、楓の紅葉と奥の松、杉の緑、風がざっと吹きぬけると枯葉が一面に表庭、つまりクラブの部屋の面している方へ吹きちり、柿の実の二つ三つは、いつもテラスの煉瓦の上にころがっていた。
クラブの方は、子供の私には用なしだったが、一度トイレに立った時のぞいてみた事がある。どっしりとした、黒びかりする木造の高い天井から、鍛鉄製の円型シャンデリアがさがり、ひろさは二十畳もあったろうか、隅に小さな白布をかけたテーブルがいくつか、マントルピースには松材がチロチロと炎をあげ、その前にサイドテーブルをいくつもおいて、茶色レザー張りのソファ、アームチェア、ロッキングチェアなどがあり、中央の床が少しあいているのは、ダンスフロアであったろうか。正面の壁には大きなターナー風の風景画がかかっていた。奥にも、まだ大小の部屋がつづき、ビリヤードの球をつく硬い冴えた音もどこからかきこえた。客は一組、初老、胡麻塩頭の紳士と、中年の緑色のワンピースの婦人、あとに二、三人ばかり緑色ラシャをはった小卓をひっそりかこみ、やっていたゲームは、あとで思えばドミノだった。――部屋の別隅にあるカードテーブル、大理石製のチェスなど、すべてあとからそれとわかったものである。――クラブの名の由来は、中学で英語をならってから、風が吹きおろしてくるからウインドフォールだろうぐらいに生半可に解釈していたが、旧制高校入試前の時、ふとそれが「風でおちて来た果物」、転じて「思いがけずころげこんで来た幸運」の意味もあると知り、あ、そうか、と思わず膝をたたいた。柿の巨木のみならず、同じく大きな無花果《いちじく》、杏《あんず》など、果樹の多い庭で、柿の実さえ、裏庭でおちて、流れ屋根をつたって表屋根へ、ころげおちたにちがいない。
だが、それだけでもまだ解釈が浅かった。――大学を卒業してからはじめて出た中学の同窓会で、当時その地域に住んでいた旧友にあって、あれこれその界隈の思い出について話をしているうち、戦争がはじまって一年ほどたった昭和十七年の秋、ウインドフォール≠ェ警察の手入れをうけて、閉鎖された話をきいてびっくりした。そこはずっと前から、その地域に住む人たちのクラブであると同時に、ひそかな密会の場にもなっていた、というのである。二階にいくつか寝室があり、そこで日々窮屈になって行く時代を一ときうちわすれようと、ものぐるおしい情事も行われたであろう。「|思いがけぬ果報《ウインドフオール》」――それがこのクラブの真の「意味」だったのだろうか? それにしてもこれほどのクラブをつくり、この名をつけた人の教養と趣味はどんなものだったのだろう?
クラブはその後一時軍関係のクラブになり、終戦で、その地域のあちこちの家屋を接収した占領軍の将校クラブにもなった。――敗戦国の高級住宅街に住む良家の子女たちは、丈高く色艶よい、石鹸のにおいのする海の向うの将校たちのダンスの相手をつとめ、時には物資とひきかえのみそかごともあったらしい、と友人は酸《す》い顔をして語った。最初の軍が交替すると、クラブは急に柄悪くなり、毎夜バンドを入れてのどんちゃんさわぎで、「高級」な米軍向けの娼婦もたち入った、という。――しかし、それも、すでに遠い、二十数年前の過去となってしまった。
ウインドフォール≠フあった、高級住宅街のむこう斜面こそ、おどろくほどのかわり方をしていた。クラブのあったあとには、高級マンションが高々とそびえ、雑木林はほとんどきりひらかれて、いやに明るくなった斜面に稲妻型のゆるい坂ができ、その両側は、ほとんどが一戸建ちの、それでも「戦後」の高級らしい、明るい、洒落た家がならび、その間に、ばかばかしいぐらいに明るい色彩で、道路に面して総ガラスの、喫茶店やスナックが配されていた。クローバーリーフ型のインターチェンジが斜面の上からすぐ下に見え、直行する道路から坂を上ってくる車も結構おおく、それもほとんどが、明るい色のクーペ、スポーツタイプだった。
表斜面の、昔ながらのしっとりした、しかし古び、くたびれ、生活の波に身をまかしたような風情にくらべ、かつてわびしい雑木林の中に、奥深い邸の中に住む人々のひそかなたのしみ、みそかごとをかき抱くようにして、あのウインドフォール≠ェぽつんと一軒だけあった裏斜面の、その目をみはるような変りように、いささか呆れ気味に私は坂をゆっくりおりて行った。――最初の坂をおりきり、ヘアピンカーブで反対方向におりて行く角まで来た時、私は、おや、という思いで立ちどまった。
ヘアピンカーブの曲り角のむこうは、背後が急斜面で、上の方は杉木立、そして下の方は、かつてこの斜面を一面におおっていた楓、櫟などの雑木林が一むらのこっている。それを背景に、木造白モルタルに、青みがかった緑色の釉薬《うわぐすり》をかけた瓦を洒落た形に頂き、くすんだ色の煉瓦塀をめぐらした、かなり大きな洋館が一軒建っていた。白壁にうき出す濃褐色の太い柱、白塗り鉄柵つきの出窓を配した、朽葉《くちば》色の木枠にふちどられた窓も、しぶく落ちついて、上ずった所が少しもない。
思わず二、三歩ちかよると、門わきの塀に「レストラン・シャトー・ドートンヌ」とフランス語と日本語で書いた青銅の板があるのが眼についた。――私は、狐につままれたような思いで、足をふみ入れて行った。
シャトー・ドートンヌというレストランは、昔、N市のずっと南の、それなりに古い街の一画にあったフランス料理屋だった。――そのあたりは、空襲で焼かれもしたし、とうの昔に、高速道路の下になっているはずだ。とすると、これは移転して来たのか? それともまったく新しいものなのか?
ぶあついガラスをはめた、重い木のドアを押すと、青と臙脂《えんじ》色の胴衣《ヴエスト》をつけ、脛まである長い、黒の前かけをしめたボーイが――ガルソンというべきかも知れないが――頭を下げた。
入口のホールは青銅とカットグラスのシャンデリアを吊り下げ、一方の厚い壁を長方形にくりぬいてクロークがある。案内されて行くと、奥はほのぐらい。白麻のテーブルクロスをかけた木のテーブルと椅子がざっと十組ほど、板張りの床には、臙脂のカーペットがしかれてある。――正面には茶色のピアノと小さなステージがあって、花瓶台に支那焼きの花瓶がのっており、庭先にも咲きこぼれていた大輪のダリアが無造作に活けてあった。
客は、私以外に二組だけだった。一組は、中年の、夫婦ものらしいカップル、それに私のすぐ近くにすわっている客は、私同様、一人できているらしい、半白の髪にバスクベレーをのせた、品のいい紳士で、この近くなのか、グレイのカーディガンにグレイフラノのズボン、メッシュの靴という軽装である。
ボーイが赤の格子縞のナプキンと、フォーク、ナイフを無造作において、一枚もののメニューをさし出した。腹はあまりすいていなかったので、私は仔牛の腎臓のソテーを注文した。
「お飲み物は?」
ときくので、あまり期待しないでボジョレの小瓶を注文した。と――突然、私の斜め前に、半分背をむけてすわっていた紳士が、
「白はどうです?」ときいた。「シャブリのいいのがはいっていますよ。'64年です。小瓶もあります」
「これはどうも――」と、私は言った。「じゃ、おすすめにしたがってやってみましょう。――もっとも、そうなると、前菜に何かもらいたくなる」
「牡蠣《かき》はどうでしょう?」紳士は相かわらず半ばむこうをむいたままでいった。「ブロムがありますよ」
「へえ!」私はおどろいて紳士の方をみた。――ブロムは、以前パリの中央市場で食べた事がある。まるい殻にはいった牡蠣だ。
「本当ですか?――日本じゃ食べられないと思ったが……」
「きのう、港にフランスの大きな客船がはいったんです」紳士は微笑をうかべているような声でいった。「ここのシェフも主人も、船のコック長と親しいので……。でも、検疫の眼をごまかしているから、一種の密輸品ですかな……」
「じゃ、半ダースいただこう」と、私はボーイにいった。「シャブリを一緒にいかがですか?――もしおつきあいねがえるなら、大瓶をもらいますが……」
「いや――折角ですが、私はこれをもう大分やっていますので」と紳士は、自分のテーブルの上のグラスをちょっともち上げてみせた。「トーケイですが――こいつはあまりよくなかった……」
「あ、ちょっと――」と、私は行きかけたボーイをよびとめた。「ここの御主人は、阿岐さんという方じゃないか?」
「はあ――今、ちょっと出かけておりますが……」
「いや、いいんだ。ちょっときいてみただけだ……」
ボーイが行ってしまうと、紳士ははじめてふりかえった。鼻下に半白の鬚《ひげ》をたくわえた、色の白い、典雅な顔だちだった。――斜め背後から見たより、はるかに年をとっているらしい。人の頭《かみ》にたって来た人物らしい威厳もある。
「阿岐さんをご存知ですか?」
「いえ、直接は……」と、私は口ごもった。
「戦前、家がこれと同じ名のレストランの近所――といっても、一キロぐらいはなれた所にありまして……」
「宮尾町?」
「いえ、隣です。境町……」
「じゃご存知でしょう。ここももとの店は空襲で焼けましてね。――阿岐さんも、先代はなくなられて、二代目です。戦時中、海軍の主計官で、戦後もずっと船にのっていた……」
「前よりも、りっぱになったようですね。――といって、前をよく知っていたわけじゃありませんが……」
「そうですね……」と紳士は気のない返事をした。「そうかも知れませんね……」
銀のアイスジャーにいれた冷えたシャブリと、かき氷と一緒にならべてレモンをそえた牡蠣が来た。――どちらも絶品で、私は小瓶と半ダースに制限したのがちょっと残念になった。しかし、腎臓のソテーもよく、安いボジョレもけっこうまるく、私はしばらくだまって食べつづけた。その間紳士もだまって、うす赤い液体のはいったグラスを口にはこんでいた。
デザートのコーヒーを飲んでいると、ふいに老人が音高く拍手をした。――反対の隅で、ひそひそ話しこんでいたカップルは、びっくりしたようにステージの方をふりむき、気のなさそうに拍手した。
暮れやすい秋の日は、もうかなりうす暗くなり、部屋の中は、いつの間にか、やわらかい黄ばんだ照明にてらされていた。その部屋の一角――ステージの所に急に強い明りがつき、ひょろひょろして顔色の悪い、つよい近眼鏡をかけた、黒いスモーキング姿の男が楽譜をもってあらわれると、ピアノの前にすわり、つづいて黒い、ベルベットのドレスを着た女性があらわれて、にこやかにお辞儀をした。
小柄な、色のぬけるように白い、かわいい感じの人だった。――すこしぽっちゃりしていたが、充分若々しい。眼が大きく、無邪気にかがやいていて、少しまるみをおびた鼻筋もよく通り、恰好のよい、やや大きめのハート型の唇には、たのしそうな微笑がうかんでいる。つやつやしい黒髪を、真ん中からぴっちりわけて後でまとめ、大きな襟ぐりからのぞく乳色の胸もとに、ダイヤらしいペンダントがきらりと光る。
顔色の悪いピアニストは、無造作にピアノをひきはじめた。スタインウェイらしかったが、すこし古めかしいひびきだった。
ステージの上の女性は、形のいい唇を、形よくあけてうたいはじめた。――すばらしい深みと、品と、張りのある声が、部屋いっぱいにひろがりはじめた。――スカルラッティの|すみれ《レ・ビオレツテ》≠セった。
4
淵田あや子女史を知ったのは、それが最初だった。
|すみれ《レ・ビオレツテ》≠フほかに、もう三曲ばかり歌ったあと、私の斜め前にすわった紳士――江坂氏が、彼女をテーブルによび、ひきあわせてくれたのだった。
最後の歌を歌いあげたあと、それまで一曲歌いおわるごとに拍手していた江坂氏はテーブルから立って、熱烈な拍手をおくった。私も、立ち上りはしなかったが、江坂氏について、長い、熱心な拍手を送った。――まったく彼女の歌は、「思いもかけぬひろいもの」といった感じだった。歌いおわったあとも、まだそのすばらしい、虚空《こくう》にはりめぐらされた無数の黄金の線が、ふれあい、ひびきあうような歌声は、耳の底から頭の中、いや、私の体全体に、鳴りつづけているようだった。
歌いおわり、深々と頭をさげると、彼女はそのままステージからさっとドレスの裾をひるがえして、黒い花びらが舞うように、私たち――というより、江坂氏の方にまっすぐかけよって来た。無邪気な光をたたえた大きい二皮眼は、うれしそうに輝き、頬が上気して、出て来たときよりももっと生き生きした感じだった。
私はそのまま二人が、――長身の江坂氏と、氏の胸もとぐらいまでしかないかわいいソプラノ歌手が、しっかり抱きあうのか、と思っていた。だが、江坂氏はとびつきそうな勢いでちかよって来た彼女の顔の前で、音高い拍手をつづけ、そのあとについて、今は立ち上った私も、心からの賞讃をこめて拍手をおくりつづけた。彼女は、私たちの前までくると、輝くような笑顔でちょっと二人の顔を見くらべ、私たち一人一人にむかって、ドレスの裾を持って、片足を後にひき、腰をかがめ頭をさげる、あのステージのお辞儀を、愛くるしく、優雅にやって見せた。その時、一瞬私の心の中に、巨大な劇場いっぱいに鳴りひびく海鳴りのような拍手と、今おりたばかりの緞帳《どんちよう》の中央にあるスポットライトの円にむかって、客席から嵐のようにわきあがるアンコール! アンコール! の叫びがうかんだ。私自身も、その幻の大オペラ劇場の客席にいて、心の中で、彼女にむかって、アンコールを叫んでいた。
顔をあげた彼女の、白い小さな手をすっととって、江坂氏は状態を折り曲げてその甲に接吻した。――実に自然な感じだった。
「先週はいらしていただけませんでしたのね?」
淵田女史は、手をとられながら、心からうれしそうにいった。
「旅行をしていてね……」と江坂氏は父親のような微笑をうかべて、私の方をふりかえった。「あなた、こちら、淵田あや子女史です。それから、こちらは……」
「茂木です……」まだ名のっていなかった紳士への自己紹介をかねて、私は頭をさげた。
「大変すばらしい歌をきかせていただきました」
「ありがとうございます」と淵田女史は、さざ波が日にきらめきながらひろがって行くような笑顔をうかべた。「今日は、自分でも大変調子がよかったようですわ。――今のお若い方のいい方ですと、何ていいますの? ほら、のってる≠ニか……」
「その通り……」江坂氏はうなずいた。「大変いいできだった。のって≠「たよ」
「こちら、お急ぎになりますの? およろしかったら、ご一緒させていただけません?」
「どうぞ……よろこんで」
私はいい年をしてわれながらはしたない、と思うような、はずんだ声でいった。
「じゃ、あたくしちょっと着がえてまいりますので――。ごめんあそばせね……」
黒いドレスの裾がひらりとひるがえって、ジョイか何からしい香水の香りがふわっと鼻先をかすめた。――|ごめんあそばせね《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》という歌うような声が、記憶の中でずきんとひびいて、一瞬、三十数年前のテニスコートのある邸の傍での情景と、植えこみへ消えた少女の明るい声がよみがえった。
「おかけになりませんか?」
やや呆然とつったっている私に、腰をおろした江坂氏が声をかけた。
「いかがでした? 彼女の歌……」
「すばらしいものですな……」と私は耳の底にまだ金線のひびきが残響しているのを感じながらいった。「きっとどこかの歌劇団の、プリマ……だったんでしょう?」
「|だった《ヽヽヽ》事もちょっとだけある……」江坂氏はみごとに琥珀《こはく》色になった、海泡石《ミーアシヤム》のパイプをとり出し、モカシンの煙草入れから煙草をつめながらつぶやくようにいった。「まあしかし、運≠フない才能《タレント》、まごう事なきプロでありながら運の悪いものもあります」
「でもしかし――彼女、幸福そうに見えます……」――と江坂氏は力をこめていった――
「人間としてはね――彼女は、|幸福でしかあり得ない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》女性です。それが……彼女のプロとしての不運とつながっていると、言えない事もない」
「しかし、あれだけの歌唱力のある人が……」
私はまだ信じられないような気分でつぶやいた。
「彼女、いくつだと思いますか?」一服、パイプを吸いつけた江坂氏は、ゆっくりと紫煙を吐きながらきいた。
「さあ――三十……そこそこという所ですか?」
「そうお思いになるでしょう……」江坂氏の眼に、かすかに笑いがうかんだ。「あれでもう、四十ですよ――幸福な人です」
四十歳――彼女が! と私は眼をむく思いを味わった。――なるほど、それで、江坂氏が彼女を紹介した時に、あのかわいらしい女性を「女史」よばわりしたのか……。
「どなたが幸福な方なの?」
ジョイの香りが、またかすかにして、枯葉色のツイードのスーツに白のセーター姿の淵田女史が、足音をしのばせて二人の後に立っていた。――小肥の体つきは、愛くるしくはあったが、やはり年齢《とし》を感じさせ、黒い、裾長のドレスをつけて舞台に立っていた時より、ずっと平凡な感じで、五つ六つもふけた感じだった。顔だちはあいかわらずいきいきと明るいが、光の加減で眼尻のしわがはっきり見えた。
「あなただよ……」と江坂氏は、笑った眼でパイプの火を見つめながらいった。「あなた以外に誰がいる?」
「まあ、あたくしが?」あいた椅子に坐りながら、胸もとをえくぼのついた手でおさえ、眼を大きく見ひらいて見せた。「そうかしら? あたくし、ちっとも幸福じゃないと思いますわ。失恋ばっかりしておりますし……。でも、あたくし、幸福な方って大好き。幸福な方を見ているだけで、自分も幸福になってしまいますの……」
「だからあなたは幸福な人だ、というんだ」
江坂氏は、半分ほどトーケイののこったグラスに手をのばしながら、くすぐったそうに笑いをこらえた表情をした。――そんな氏自身が、ひどく幸福そうに見え、氏が、淵田女史の事を、かわいくてたまらない、と思っている事がよくわかった。二人がならんですわっている情景は、愛らしくむつみあう父娘とも、年のちがう恋人同士とも見え、見ている私も、あたたかいような、くすぐったいような笑いがこみ上げて来そうだった。
「アリアはお好きでいらっしゃいます?」
ボーイのついだマデイラ酒のグラスをつまみ上げながら、淵田女史は、小鳥のように首をかしげて私の顔をのぞきこんだ。
「好きですが……、あまりくわしくはないんです……」私はある事を思い出しながら、少しどぎまぎして答えた。「でも、あなたの歌は――実にすばらしかった。偶然ここらへんを通りかかって何の気なしにはいったのですが、まったく、思いがけぬ幸運にぶつかった気持です」
|思いがけぬ幸運《ウインドフオール》=c…という言葉を、自分で言ったつもりはなかった。しかし、彼女にこたえてから、ひょっとすると、我れ知らず口の中でつぶやいていたのかも知れない。――江坂氏が、急に、おや、という顔つきになって、ちょっと鋭い眼でこちらを見た。
「ウインドフォール≠……ご存知だったんですか?」
「ええ、――この上の、今、マンションのたっている所あたりにありましたね」私は、あのどっしりした建物と、枝もたわわな柿の実を、ふと眼ぶたの裏に描いた。「子供の時、ティールームの方に、三、四度はいった事があります」
江坂氏は、だまって三、四回パイプの煙をたちのぼらせたが、やがてポツリといった。
「あのクラブは、私の父が創設したんです」
「あたくしも、おぼえていますわ」と淵田女史は、うっとりした眼つきでつぶやいた。「クラブの方へもはいった事がありますの。父に連れられて……小学生の時でしたわ。あのクラブには、いいピアノがありましたの」
「あなたが小学生の時、あのクラブで、グノーのアベマリアをうたったのをおぼえているかい?」
「おじさまはいつもそれをおっしゃるけど、どういうわけかあたくし、それをちっともおぼえておりませんの。さくらさくら≠ニ螢の光≠セったら、うたったおぼえがありますけど……」
「うたったのだよ」と江坂氏はいいきかせるようにいった。「その時ピアノを弾いたのが、前にいったように、今あなたの伴奏をしている小島くんの叔父さんにあたる人だ。そして、その晩が、私があなたの歌をきいて、はじめて涙が出た晩だ……」
「どっちにしても、遠い昔のお話ね……」淵田女史は、一ぱいのマデイラに、眼もとを桜色に染めながら、遠い所をながめるようなうるんだ眼つきをした。「あれから、長い長い月日がたって、みなさんおなくなりになられたり、どこかへ行かれたり……松ノ木台も、すっかりかわってしまって……」
私は、宵闇《よいやみ》の濃くなりつつある窓外に眼をうつした。一組の中年者が出て行ったあと、客は誰もはいってこず、がらんとひろいレストランの中には、私たち三人だけで、入口の所でボーイたちは所在なげに立ちつくし、窓の外では、日がおちて出て来た風が、山の木立をごうごうと鳴らしていた。時おり、木の間をぬってざっと吹きつける風が、窓ガラスに一群の落葉をたたきつけ、何枚かは窓にはりつき、どこからはいってきたのか、一枚の黄ばんだ朽ち葉が、かさこそと小さな音をたてて、足もとの床をはっていた。――そんな中で、おだやかに、幸福そうに語りあう中年の可愛らしい女性と、人生の長い波風を経て来たらしく見える温雅な老人を見ていると、ふと私は、チェホフの芝居の一幕にはまりこんでいるような感じがした。私は――もちろん点景人物の、とるにたらぬ端役、あるいは舞台に上りこんだ観客だった。その事を感じながら、私はチェホフの「桜の園」や「三人姉妹」といった芝居が、|なぜ《ヽヽ》日本のある階級の情緒にあれほど訴えたのか、今になってやっとわかるような気がした。――どっしりとした、古びのある家邸と、深い自然にくるまれ、まもられた、やさしい、典雅な、愛らしい人々の没落……。そういう事が、日本にもあったのだ、という事を、今になってはっきりさとる事ができた。
5
私は、それから度々、そのレストランを訪れるようになった。
下町にあった時から数えて二代目の当主にもあい、「|秋 の 館《シヤトー・ドートンヌ》」というそのレストランの名は、やはり先代が、阿岐という姓にかけてつけたのだ、という事をたしかめる事もできた。
淵田女史が、そこでうたう日は、水曜日の午後と、金曜日の夜だった。そのほかの日は、くたびれた中老楽士のアルバイトらしい弦楽四重奏や、Rの発音がうまくできない、あやしげなシャンソン歌手のシャンソンなどがあったが、私はすぐ、淵田女史の歌う時にだけ訪れる事にきめた。その二つの曜日は、きまって客がすくなく、特に水曜日の午後など来ているのは私と江坂氏だけという事が度々あり、そのほかの日でも、注意して見ていると、客は初老以上の、ほぼ常連に近い人々ばかり、したがって、ほとんどが、彼女の歌をききに来ているのだった。――いまどきは、クラシックのアリアなどはやらないのであろう。そして、ききにくる人は、趣味にしろ、好事《こうず》にしろ、何か戦前のヨーロッパ、そして「日本におけるヨーロッパ文化時代=vを――オペラを、音楽会を、夜会を、ハイカラにせよ、あるいは、伝統文化との一致点を見出していたにせよ、何か一時代の「思い出」として持っている人たちばかりのように見えた。
そのレストランへ足をはこぶようになってから、いろいろな事がわかった。――一番おどろいた事は、江坂氏が、あの「テニスコートの少女」の叔父にあたる、という事がわかった事だった。そして、淵田女史が、その二、三軒先の、とても住みやすそうないい家だが何となく影がある、和風の家の娘で、その当時すでに彼女の両親は死に、祖父母に育てられていた事、そして娘時代に祖父母が死んだあと、身よりの少ない淵田女史を、江坂氏が親がわりといっていいほど面倒を見、彼女を音楽学校にすすませ、次いで、戦後まだ経済――特に外貨事情の窮屈だったころに、フランス、イタリアに留学させてやった、という事を、レストランの主人は話してくれた。
「えらい方です……」と阿岐二世は、尊敬の念をこめて言った。「私の所も、親父の代からごひいきねがいまして――この店を出すにあたっても、ずいぶん御援助していただきました」
「なんのお仕事をやっておられたのかね?」
と、私はきいた。
「ずいぶんいろいろと手びろく、事業をやっておられました……」と主人はいった。「でも、戦後の、あの苦しい時をのりきられてから、次々と手をひかれまして……今は……」
江坂氏には娘が二人いた、というが、一人は幼くして死に、もう一人は戦後イギリス人と結婚して、ヨーロッパにいる、という。――今は夫人にも先だたれ、昔、事業をやっていた時代、住みこみの運転手をやっていた老人と、もと江坂家の女中だったその老人の老妻が、家令のような形で、同じ邸内に住み、面倒を見ているという。――事業から手をひく時、当然相当なものはのこしていた。
「でも……」といった阿岐二世はたくましい腕を組んだ。「もうあまり……と思います。奥さまがなくなられてから、ずいぶんいろいろな事につぎこまれました。――この店を開く時も、銀行融資に口をきいていただいた上、ずいぶんなお金を、無担保でポンとお貸しくださいましてね……。度々おかえししますと申し上げたんですが、何、まだいいよ、とだけで……」
「淵田さんは、ここのほかに、どこかで歌っておられるのかね?」と私はきいた。「むろんお弟子さんもとっておられるんだろう?――あの方の、リサイタルなどは……」
「いえ――前に何度かリサイタルを開かれたようですけど、この頃は……」主人はためらうようにいった。「うたわれるのもここだけのようです」
「ここだけ?」私はおどろいた。「江坂さんにうかがったが、彼女、御主人はいらっしゃらないとか……」
「ええ、そうです……」もうすっかり私と親しくなった阿岐二世は、そろそろ言ってもいいだろうか、というように、私の顔をじっと見つめた。「こんな事を申しては何ですけど……この店で、淵田さまに出演料をおいくらさしあげているかご存知ですか?」
私には見当もつかなかった。――が、主人がつぶやくようにいったその額は、びっくりするほどのものだった。
「もちろん、この店から直接そんなにさしあげては、採算がとれません。店がつぶれます……」と主人は苦笑した。「江坂さまの方から――表向きは当店の会計を通じて……」
なるほど――と、私は思った。江坂氏は娘時代からずっと、面倒を見て来た彼女の生活を、いまだに面倒を見ているのだった。二人の間に、妙な関係がどうこうなどという事は、露ほどもないだろう、と、これは年の功で、ひと目で確信がもてた。七十にとどこうという年配で、充分ひろい今の邸内に、一人住いをする老人のわびしさを思うと、かよいの家政婦と、隣のもと内弟子夫婦だけをたよりに、駅の南側のずっとはなれたマンションで心細い一人住いをしているという彼女をひきとってもいいのに、という感じがするのだが、それをしないのは、やはり、昔からの保護者として、きちんとした「距離」をおきたいからであろう。
雨の時も風の時も、というほどではなかったが、毎週水曜日、金曜日をその店にかよう事、そして淵田女史の歌をきき、江坂氏とあい、何という事のない話をし、ワインを飲みプログラムが終ったあと、小鳥のように愛らしくしゃべる淵田女史をまじえて、夜更けまで時をすごす事は、私のかけがえのないたのしみになって行った。――時には午前のおそい時、開店早々の時間に出かけて行き、午までなら何とか日のさしこむ窓際にすわって、窓外に深まり行く秋を見ながら江坂氏があらわれるまでの間、シェリーや、マデイラや、シャルトルーズ、ドラムビュイといった酒を、ゆっくりふくんでいると、ふと、名こそ|秋 の 館《シヤトー・ドートンヌ》≠セが、こここそ私のウインドフォール=\―思いがけぬ幸運≠セ、と思えてくるのだった。江坂氏と淵田女史、また、この近所からくるのであろうか、品のいい老夫婦や、おちついた感じの中年のアベックなどを、ドラマの登場人物のようにながめていると、チェホフや、森本薫、そして岸田国士の一幕物の世界が――戦後のはげしく雑然とした変化の波の中に洗い流され、消し去っていった世界が、そこに一場の幻影としてよみがえってくるような気がした。
そして、何も彼も気に入ったそのレストランですごす時間の中で、とりわけ輝きわたる一刻――時には胸をときめかせて待ちうける一刻は、いうまでもなく、淵田女史の「歌う」時だった。
まったく、彼女の歌は、すばらしい「何か」があった。
ステージに、彼女が、黒の、あるいは葡萄《ぶどう》色の、淡緑の、日によってちがうさまざまな衣装をつけてあらわれ、あのかがやくような微笑でもって、私と江坂氏、その場に居あわせた客に会釈し、偏屈もののピアニストが、前奏を無造作にひき出して、彼女の形のいい唇が開かれ、その白くやわらかいのどから歌声がとび出すまでのわずかな時間、私はいつも、それからはじまる「奇蹟」の事を思って、息苦しくさえなるのだった。
彼女がうたい出すと、突然そこに、まったくちがう世界――この世に存在しない世界が現われた。
何も彼もが金色《こんじき》の恩寵にかがやき、黄金色《きんいろ》の光が宇宙いっぱいに交錯して、その交錯する光箭《こうせん》が、たえまなくふるえ、ふれあい、妙なるひびきを前後左右にひびかせ、やがて私自身も、その金色の光箭に無数にさしつらぬかれて、歌い、鳴る黄金色の光芒《こうぼう》そのものになってしまうのだった。
時にその歌声は、水色の悲しみのリボンとなって、灰色の空の下を、ひろびろとはためきながらはてしなくわたって行った。しかし、その沈んだ水色の悲しみさえ、やはり黄金色《きんいろ》の恩寵に包まれているのだった。
歌っている彼女もまた、かぎりなく美しかった。――傍に坐った彼女も愛くるしかったが、舞台に立った彼女は、愛くるしいのにくわえて、何か、輝くような女のほこりの光背に包まれていた。そして、歌い出したとたん、もう彼女はこの世のものでなかった。
歌っている時の顔が美しい女性は少なくない。が、歌い出したとたんに、人間でない何か別のもの――天使≠フようなものに変化してしまう女性はやはり稀である。そして、ただでさえ愛らしく明るい淵田女史の相貌は、歌い出したとたん、まったく生身の一切を超えた、美しい輝きに変ってしまうのだ。
それを見ていると、つくづく西洋において完成された「歌」というものは、日本のそれとちがうものだと思う。日本の伝統的な歌は、――特に芸能的それは、なぜか声をつめる。歌い手は、歌うにつれて歌の背後にひきこみ、歌だけが前に出てきて、次第にやがてそこに一つの霊が出てくるための舞台をしつらえる。日本の芸能の主役は、能にせよ歌舞伎にせよ、そこに仮面をかぶり、衣裳をつけてあらわれる「霊」であって、歌はそれを「よび出すもの」にすぎない。
だが、ヨーロッパにおいて完成された「歌」、特に詠唱《アリア》は、まったくちがったものだ。――それを歌っている歌手そのものを媒介《メデイア》として、それによって、この世に存在しない恩寵の世界≠出現させるものだ。歌手は、全身を「恩寵の楽器」として天地に鳴りひびかせ、その時、私たちをふくむ一切の宇宙は、超越的な至福≠ノかわってしまうのだ。――歌がひびく間だけ出現し、すべてをおおい、すべてをその内部からかがやかせ、鳴りひびかせ、歌が終ったとたんに、いくつもの余韻、残響をのこして消滅してしまう無可有《むかう》の世界……しかし、歌がこの天地に黄金色にひびきわたる間は、何よりもたしかに、これよりもたしかなものはない「実在」として存在しつづける世界……もちろん数多い歌い手の中でこんな「世界」を現出させることのできる歌手は稀だが、淵田女史は、まぎれもなく、この「奇蹟」をおこなえる素質を持った歌手だった。
私のリクエストに応じて、モーツァルトのレクイエムの中からハレルヤ=\―中年、初老の男たちには、かぎりなく甘ずっぱい感傷の思い出をまといつかせているあのハレルヤ≠リクエストし、それをきいているうち、私は涙ぐんでいた。
「なぜ彼女は……」私はリクエストが終ったあと、流れた涙をこっそりぬぐいながら江坂氏にきいた。「どこか、本格的な舞台に立ち、本格的なオペラをやらないのです? あるいは、本格的なクラシック歌手として立たないのです?――彼女は……私は素人ですが……すごい素質と、本格的な技巧と、かけがえのない天才を持っていると思うんですが……。彼女は、プロ中のプロになれるはずです。日本でだめなら、ヨーロッパの本場の舞台で充分通用すると思いますが……」
「おっしゃる通りです……」江坂氏は無表情にパイプをくゆらせながら答えた。「あの娘《こ》の天才は――私が子供の時から知っています。だからこそ、私は終戦後の、あの困難な時に、あらゆる伝手《つて》をつかって、彼女を本場のヨーロッパへやったのです。もちろん、彼女の死んだ両親も祖母も、前からの知り合いでしたが、それだけで援助したわけじゃありません……」
「で、ヨーロッパでは、どうだったんですか?」
「むろんマエストロたちは、すぐ彼女の素質をみとめ、天才だ、と言ってきました、が……」江坂氏はわびしげな微笑をうかべた。「彼女の天才はまちがいないが、彼女はプロとして不適格だった。――でも、日本へかえって来て、S会にはいり、すぐプリマとしてデビューしました。でも、このデビューは、まことに不運で、大失敗でした。それからしばらくたって、今度はY歌劇団で、新作をやりました。これも……不運だった。彼女は不運な天才≠ナあるとともに、不運なプロ≠ナもあった……」
「どういう事でしょう?」私は思わず身をのり出した。「なぜ……」
「ずっとききにこられていたら、そのうちわかるでしょう――」江坂氏はパイプの煙の彼方に顔をかくしながらつぶやいた。「ひょっとしたら……|今日あたり《ヽヽヽヽヽ》おわかりになるかも知れませんが……」
舞台では、歌の前奏がはじまっていた。――そちらへ眼をむけた私は、何となく、おやという気持になった。
いつも歌い出す前、その顔にたたえられる、あの輝くようなほほえみ――新たなる恩寵の劇を予告するようなほほえみは、今夜は彼女の上になかった。いつものように中央に、手をくみあわせて立つかわりに、ピアノに片手をついて体をあずけ、その顔色はなぜかさっきとちがって冴えず、全体がだるそうだった。
しかし、やがて彼女は歌い出した。――私もよく知っている、プッチーニの歌劇ラ・ボエーム≠フミミの歌「吾が名はミミ……」だった。
ふたたび、そこに金色まばゆい「奇蹟」が出現しかけた。が、――なぜか、今度の場合、「恩寵の世界」は、あらわれようとして、あらわれかねていた。黄金色の光箭が一筋二筋、彼女の臙脂色のドレスの、白い胸もとから、空間を貫いて閃いたと思ったら、あらわれかけていた黄金色の世界は、弱々しくまたたいてふっと消えた。
彼女は、全身の倦怠《けだ》るさを追いはらおうとするように、一生懸命にうたっていた。が、その歌は、一応技巧的に、正確に、楽譜をなぞるだけで、もうその全身を「恩寵の楽器」としてひびかせ、すすけた粗野な灰色の現実世界の帷《とばり》を一挙にきりひらいて、「光り輝き、鳴りわたる超越的実在」をそこに出現させはしなかった。彼女は、唇と、声帯でうたっていた。――その声質も、あのすばらしくみがかれた深みと艶を失い、いやにざらざらして、ぼってりと厚ぼったく濁り、音域の高い所では、演歌歌手の濁《だ》み声のようにかすれもした。声域さえかわってしまったようだった。
さっきの、ハレルヤ≠ニ、今度のミミの歌の、あまりに急激なちがいに、私は呆然とし、途中であまりの事に、腰をうかしかけさえした。――何とかうたいおわると、彼女はその美しい顔を曇らせて、私たちの方に、頭をさげた。
「ごめんあそばせ――急に少し、気分が悪くなって……」
そういうと、彼女は顔をそむけたまま舞台の奥へ、急ぎ足でひっこんだ。
「やはり、今日《ヽヽ》でしたな……」江坂氏は、かすかに溜息《ためいき》をついていった。「おわかりになったでしょう。彼女は――生理《ヽヽ》がはじまると、何も彼もかわってしまうのです……」
そんな……といいかけて、私はにわかに、いたましい思いにとらわれた。
「女性歌手の場合は、大なり小なり似たような事はあるそうですが――あの娘の場合は特に極端で、はげしくてね。――医者に? むろん何人も見せました。しかし、こればかりは、どうにもしかたがない。それに、彼女の場合、短周期型で、不規則で、期間が長くて、しかも重く、前後の影響が長い……」
「で……デビューの時に……」
「はじまってしまいましてね。――舞台の上で……それもはじめの方で……」
黄体ホルモンの服用は、生理はとめたが、結果はかえって悪かった――と、江坂氏は淡々と語った。
「それは――」と、私は彼女がひっこんだ舞台に眼をやりながらつぶやいた。「彼女としてはつらかったでしょうね。ずいぶん……」
「そこが、わかっておられないようだが、あの娘《こ》はそんな事があっても、少しも|傷ついとらん《ヽヽヽヽヽヽ》のです……」江坂氏は微苦笑をうかべた。「彼女は、天才であり、天才であるが故に、|プロ《ヽヽ》としては失格する所がある。わかりますかな?――彼女が歯をくいしばって、努力した結果、ああなったのなら、その不運と挫折は、大変な傷をあの娘《こ》にのこすでしょう。自殺したかも知れん。しかし、彼女はまったく私たちが平坦な道を行くよりももっとやすやすと、あの境地に達した。天才だったからですね。――だから、岩にしがみついても、他人を押しのけてでも、舞台にたちつづけ、プリマの地位をまもりつづけようなどという気がまったくない。あの娘《こ》の母親も、育てた祖母も、何とも愛らしい、世間の苦労を知らない人だったが……あの娘《こ》は、それに輪をかけて無邪気で……また、私のやり方がさらにそれに拍車をかけたのかも知れないが……あの娘《こ》は、つまり、あれだけの天才を持ちながら、プロとして立って行くためには大きな生理的欠陥を持つと同時に、あの娘《こ》自身が、プロとして頑張る気も――多少の見栄や虚栄心も、全然ない。あの娘《こ》は、ただ|好きで《ヽヽヽ》うたっているのです。うたうのが天分だから、私たちが呼吸するように、うたうのです」
「しかし――まぎれもない天才≠お持ちの事はたしかですね……」私は江坂氏を見つめていった。「あの人は――すばらしく幸福なのかもしれません。|プロにならないですむなら《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》天才にとってこれほど幸福な事はないんじゃないですか? 私は――あの方の歌をきけて、すばらしく幸運です。あの歌をきいている時、幸福で涙がこぼれそうになります。生れて、生きて来て、こういう世にも美しいものに接する機会にめぐまれた、という事は、われながら、なんと幸運な事だろうと思いますよ。――あの方の歌をきいていると――いい年をしてもう胸がいっぱいになって――自分が今まで生きてきたのは、この歌をきく|ため《ヽヽ》だったにちがいない、とさえ思います。私はあの方が、歌いたくないなら、歌いたくなるまでいつまでも待ちます。あの方の声が変ったなら、なおるまで待ちます。私は、とにかくあの人の歌をききたいのだし、きくことができればいいのであって、何もきめられたスケジュールの日に、きかなければならないわけじゃありません」
「茂木さん……」江坂氏はパイプを卓の上におくと、少し眼をしばたたかせながら、深い、ひきこむような笑みをうかべた。「ここの地下酒《ケラー》場に、私のとっておきの、シャトー・ラフィットの逸品があるのです。いつか、どなたかと飲みたいと思っていたんだが――いま、栓をぬこうと思うんです。つきあっていただけますかな?」
「むろん……」私は恐縮しながらいった。「よろこんで……」
「あの娘《こ》にはもう一つ……」地下へボーイがとりに行ったワインを待ちながら、江坂氏は窓の外へ眼をやった。「プロとして……というよりも、女として、弱点がありましてね。――惚れっぽい、というのではないが、恋をすると――もう夢中になって、見境がつかなくなるんです。鳥のように恋をする≠ニいう言い方が、ある国にありますが、そんな感じでね……」
「結婚なさった事はないんですか?」
「一度あります――」ボーイがもって来た、蜘蛛《くも》の巣だらけの瓶にちょっと眼をやって、江坂氏は何かを思い出すようにいった。「自動車事故で、夫が死んだ時は、三カ月も寝ていました。あげく、後追い自殺をしかけて……、二度目、三度目は、フランス、イタリアの色事師でね。フランスの奴はジゴロみたいな奴で、当時私がヨーロッパにいたからよかったものの、あの娘《こ》じゃ、マルセーユから、中東へんに売りとばされても、まだ男に貢ぎつづけるでしょう……」
「あの人は、いい保護者を持たれたわけですね……」と、私はいった。「それも、あの方の幸運でしょう。その幸運が、あの天才をまもったわけだ」
「それも、いつまでつづきますか――」江坂氏は、何か意味ありげに私を見ていった。「私も、もう年齢《とし》ですからね……」
6
いわれてみれば、淵田女史には、カナリアや飼い鳥のように、愛らしさと同時にもろさがあるようだった。――生活の曲折に、頭をぶつけ、転び、痛い目にあいながらもおぼえて行く事……そんな「知恵」を身につけるかわりに、その「存在」の一切が、歌うためにあり、歌にそそがれており、彼女にとって|生きる事《ヽヽヽヽ》は、|歌う事《ヽヽヽ》である――そんな感じがするのだった。もし、この女《ひと》が恋をすれば、|歌うように恋をするのだろう《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。だがしかしその歌、その天才は、地上のもののためにではなく、天上のもののために――超越的な「神」にささげられるために、この女性にあたえられているのであって、もしそれが、あやまって地上のものにささげられれば、その劫罰はかえって彼女自身の上にふりかかり、その身を焼きほろぼすのではないか――時折り、ふと、そんな事を考えるようになった折も折、私はそのレストランで、まことに厄介な人物と偶然でくわしてしまった。
ある水曜の午後、めずらしくその日は江坂氏がこない、と主人から知らされ、一人、いつもの窓際で彼女の歌を待っている時、表に車がとまって足音も高く、二、三人の男がはいってきた。――年配は、私といくつもかわらぬと見えたが、ゴルフがえりらしい服装に大声で、スコアがどうの、お前が、おれが、キャディの尻にさわったのさわらぬのと、柄の悪い調子でがなりあい、ボーイを手荒によび、ビール! とどなった。こんな連中はあまりよせつけない外見に、この店はなっているのに、どうしてまたこういった場ちがいがはいって来たか、と、間もなくはじまる彼女の歌を思って、私は眉をひそめた。そういえば、つい二、三日前、インターチェンジのむこう側に、新しいゴルフ場がオープンした、と、誰かにきいたが――そうなれば、ここらあたりも、ゴルフがえりのこういった連中の「攻撃《アタツク》」をうけるのだろうか?
そのうち、床をふむ足音がどすどすと背後にちかづいた。トイレへ行くのだろう、と思っていると、いきなり肩先を、いやというほどどやしつけられた。
「よう、茂木!」と野太い声がきこえた。
「ひさしぶりだな! えらく老けたじゃないか……」
今テレビでしきりに宣伝しているブランドのゴルフシャツの袖をまくり上げ、肩にチェックの上衣をかついで、うすい紫外線よけ眼鏡をかけた男がたっていた。――やあ、と曖昧《あいまい》な微笑をうかべながら、私の中に、ふと冷たいかげりが走った。
学生時代は、一緒によく飲んだり、喧嘩にまきこまれたりしたが、向こうは卒業後、要領よく一流新聞社にはいり、その後社会部畑から政治部畑へと歩き、もうかなりな地位にいるはずだ。卒業後も、二、三度はあったが、羽振りいいのはわかっているものの、その内面に前からあった傲慢《ごうまん》さ、強引さ、粗野で、下司《げす》でさえある性向が、年輪をくわえても少しも矯《た》められも磨かれもせず、逆に輪をかけられたような感じなのがいやで、あまりつきあわなくなってしまった男だった。それ以上に、私が眉をひそめたのは、彼が学生時代から相手かまわぬ漁色家で、新聞記者になってからは、それがますますはげしくなり、会うたびに、この間の芸者は、ホステスは、女子大生は、人妻は、とほかに話題がないのか、と思うほど吹聴する男だったからである。最初の女房とは離婚して、子供は先妻がひきとり、今は後ぞいがいるとかいないとか――そんな事は関係のないような、一種猛烈な雰囲気がその体からたちこめていた。
私の前の席に、どっかと腰をおろし、ビールをがぶ飲みしながら、彼――高木はまた例によって例のごとき話をはじめた。私はそのあたりはばからぬ大声を上の空にききながしながら、歌のはじまる前に、早くこの連中が食事をすませて出て行ってくれないか、とやきもきしていた。――柄の悪い連中が来ているから、今日は少しおくらせるように、と、楽屋の方へいってやろうか、それもあまり子供染みた老婆心か、と迷っているうちに、ふと彼が、最近の「手の早さ」を自慢しているのをきくと、急に不安がつのって、腰をあげかけた。
しかし、その時はすでにおそく、あの近眼のピアニストはもう椅子に腰をおろし、淵田女史は、晴れ晴れとした笑いをたたえて、舞台の上に進み出てきた。
いつもの通り、いつもの席にいる私に、笑顔で会釈しようとして、今日の同席者が江坂氏ではなく、知らぬ男なので、ちょっとびっくりしたらしかったが、それでもそのまま深々と頭をさげ、両手を胸の前であわせた。
「ほう!」と高木は、まさに思った通り、口をとがらせた。「あれ、なかなか別ぴんじゃないか。――お前にあいさつしたが、知ってるのか?」
「ちょっとな……」と、私は重い口でいった。
「だまって、歌をきけよ」
その日のプログラムの最初は、|椿 姫《ラ・トラビアータ》≠ゥらのあの有名なアリアだった。
※[#歌記号]おお、そはかの人か、
宴《うたげ》の中に、一人立てるは……
はじまると、ちょっとの間、むこうの席もしんとしたが、所詮聞く耳持たないのだろう、舞台に背をむけ、はこばれて来た皿をガチャガチャ鳴らしながら、居汚く料理を食べ、今度は、競馬の話を声高にはじめた。
高木はといえば、テーブルについた肘で顎をささえ、一応殊勝げに、しかし、歌をきくのとは別な眼付きで、彼女を見ていた。
※[#歌記号]姿は心に、
描きなれにし、なつかしの君……
「いいな――なかなかいいじゃないか……」
と高木はニヤニヤ笑いをうかべながらいった。
「紹介しろよ、え?――後家さんとにらんだが、ちがうか?」
「やめとくよ」私は素気なくいった。「へたに手を出すなよ。彼女はな、ある大ものに大事にされているんだ。ばかな気を起すと、いくらお前でも、無事じゃすまんぞ」
そんなはったりのおどしは、新聞記者には通用しないし、たちまちばれる事はわかっていても、私はそうでもいわずにいられなかった。
一曲終ると、高木は、わざとらしく高々と手をたたいた。二曲目の松島音頭が終ると三曲目をまたずに、いきなりつかつかとステージの前にちかより、顔をちかづけて、なにか気障《きざ》ったらしい調子で話しかけた。――淵田女史は、びっくりしたように高木をながめ、ついで助けをよぶように私の方を見、何をいわれたのか、さっと顔に紅葉をちらした。私は席を立つと、高木と彼女の間にわってはいった。
「さあさあ……」私は高木の腕をつかんだ。「もう一曲あるんだ。営業妨害するな」
彼は意外にあっさりと、舞台をはなれた。――三曲目、グノーのアベマリアがはじまってしばらくすると、連中はどやどやと席をたち、高木も食事もせずに席をはなれた。彼女がうたいながら、ちょっと黙礼したので、入口をふりかえると、高木が入口の所で、手をあげていた。
この事を、江坂氏に話そうか、と思いながら、次の金曜日は、仕事のための旅行でつぶれた。――そして、翌週の水曜日、十日ぶりで、いつもの席で江坂氏にあったものの、その温雅な顔つきと話ぶりに面すると、私の、かつての粗野な友人の、粗野な傾向についていきなり説明するのも気がひけた。――ただ、心に一つひっかかっていたのは前の水曜日、高木の奴が何をいったのか、彼がかえったあと、いつものように私の席に来た淵田女史が、妙になまめかしく頬を上気させてあの方、茂木さんのお友だちでいらっしゃいますの、とってもすてきな方ですわね、といった事だった。
だが、いくらなんでも、どちらも四十代だ。一週間ほどの間に、何がどうという事もあるまい、と、しいていいきかせたものの、江坂氏が、ふといぶかしがるほど、私は動揺していた。――高木と初対面の彼女に、彼の友人である私が、いきなり彼の悪口をいうのもはばかられ、注意はどうしても遠まわしになった。今日は、江坂氏もいる事だし、彼の事をはっきり注意し、あれから何もなかったか、ときこうとした。
そのうち、淵田女史が出て来た。顔はいつもより明るく神秘的にまでかがやき、衣裳は真紅のシフォンベルベットだった。――私たちに、いつものようにあいさつすると、彼女は前奏をまてないように、はずみのある声でうたい出した。
「おや?」と、江坂氏は、例にない事に、歌の途中で、はっきりきこえる声でつぶやいた。「いかん……またはじまったな……」
歌は、ラ・トスカの中の歌に生き、恋に生き……≠セった。
一曲目が終ると、江坂氏は立ち上って、
「あや子さん……」と、きびしい声でいった。「歌はもういいから、ちょっとここへ来なさい……」
彼女は大きなうるんだ眼で、じっと舞台から、江坂氏を見た。そしてうなだれるように舞台をおり、衣ずれの音をさせながら、江坂氏の傍までちかづいてくると、突然くずれるように氏の胸に顔をうずめながら、しくしく泣き出した。
「おじさま、ごめんなさい……」と涙にくぐもった声で、彼女はいった。「あや子、また恋しちゃったの……」
高木は別に悪いやつでなかった。――だが粗野で、あまりに粗野で、女を性器としか見る事のできない彼には、私や江坂氏と淵田あや子女史とがどんな関係であり、そもそも彼女自身が、どんなに貴重な、しかももろい存在であるか、などという事は、金輪際《こんりんざい》理解できない事もたしかであった。彼にとって、これが遊びである事は、はじめからわかっていた。――が、しかし、それにしても、あの小鳥のようで、かつ嬰児《えいじ》のような彼女の心を、なんとか傷つけないように、徐々にわかれさせるよう、彼の方に協力を求めるほかなかった。何という使いで、あんな男にあわねばならないのか、と、私は情なさにうちひしがれながら、印刷インクの臭いのする、すすけた新聞社の応接室で、高木の出てくるのを待った。
「わかれろ、というんだろう。わかってるよ」はいってくるなり、高木はニタニタ笑いをうかべて手をふった。「心配すんなよ。足の早いのがおれの自慢でね。風林火山がモットーだよ。ゆうべ行ったホテルで、もうちゃんと引導をわたしてきたよ」
「なに?」私は衝撃をうけて、顔がこわばった。「彼女に何といったんだ?」
「何という事もないさ。寝たあとで、これでもう終りにしましょう。お互いたっぷりたのしんだんだし、私は同じ女性と五回以上ねない事にしていますからって――彼女、ポカンとしていたな。めそつき出したんで、金ははらって、先にホテルを出た」
「あの人を、一人でおいてか?」
「ああ、――クラシックの歌姫なんて、わりと世間知らずなもんだな。この俺に、結婚していただけますか、はおどろいたぜ。――少し荒療治だったかも知れないが、私も年だが、あんたも結構婆さんでしょう。分別なさい、といってやった。――それにしても、彼女、道具はともかく、声はさすがによかったぜ。コロラチュラだかドラマチックだか知らんが、とにかくソプラノの……」
みんなまで言わさず、私は高木の顔を、正面からなぐりつけた。――人をなぐったのは二十何年ぶりだった。あっけにとられたような顔で鼻柱をおさえながら、高木は口ごもりながらいった。
「無茶すんなよ――なんだ、あれはお前の女だったのか……そんならそうと、はじめから言ってくれれば、ちゃんとあいさつして……」
その頬桁をもう一度ぐゎんとなぐりつけて、私は彼の襟をしめ上げた。
「ゆうべ行ったホテルはどこだ?――電話番号をいえ……」高木の顔をひきよせながら私はいった。
「ゆうべからずっと、彼女はマンションにかえっていないんだ」
淵田あや子女史の死体は、三日後、秋の館≠フ上にある、深い杉林の中で見つかった。――睡眠薬を飲んでいた。
その顔は悲しげではあったが、しかし奇妙な事に苦悶の表情はなかった、という。――遺書もないため、高木との事は、事件にもなにもしようがなく、ノイローゼのための自殺と断定されておわった。なにしろ、相手は死者であり、彼と女史の事は新聞社内でも別に知られていなかったようだ。
それにしても、死体が警察からかえったあとでおこなわれた客の姿の少ない通夜の晩にまで、高木の姿があらわれなかったのは、図々しいとしかいいようがなかった。
私は、自分の友人の事とて、辛く、はずかしく、江坂氏の顔を見る事ができなかった。使いのものが香奠《こうでん》だけはとどけて来たが、応対に出た江坂氏は、それを持って私の傍にすわり、
「高木氏は、とうとう来ませんな……」と、ぽつりといった。「明日の出棺には来るかな?」
――私は身をちぢめた。
翌日の、告別式にも、高木はこなかった。そして、火葬場についた時、どういうわけか江坂氏の姿が消えていた。
十名たらず、というわびしい会葬者の前で、炉の蓋がしまり、読経の中で、蓋の奥がごうごうなり出して、突然、最前列にいた女史と同じマンションで隣の部屋に住む、昔の内弟子が、けたたましい悲鳴をあげた。
「歌《ヽ》だわ!――かまの中から、歌がきこえるわ!」
一同の顔がまっさおにかわった。僧侶も一瞬読経をやめた。――と、ごうごうもえさかる炉の中から、かすかに、細く、まぎれもないあの歌声がきこえてきた。
※[#歌記号]おお、そはかの人か
宴の中に、一人たてるは……
「先生だわ!――先生はいきていらっしゃる!」内弟子は半狂乱で叫んだ。「早く。早く蓋をあけて……」
「今あけたらだめです……」むしろ動顛してあわてている火葬係にかわって、私が蓋にとびつこうとするその女性を後からささえた。
「生きておられるわけはありません。――警察で解剖したんですから……」
「でも……ほら……まだきこえる!」
「大体わかっています――」と私はいった。「それより、江坂さんは、外におられませんか?……ちょっと見て来てください」
江坂氏は外にもいなかった。
私の予想通り、骨が炉からとり出された時、死体の下とおぼしきところに、焼け熔けた一塊の金属があった。それが小型のテープレコーダーであった事はたしかであり、サーモスタットか何かをスイッチにしかけ、中にそっと入れたのは、江坂氏である事もまずたしかだった。――歌に生きた&」田あや子女史への最後の餞《はなむけ》でもあったろうし、ひょっとしたら、火葬に参列しているべき高木の良心に対し、ごくささやかな復讐をねらったのかも知れない。
江坂氏と高木ののった車の残骸が、五十キロほどはなれた山中の、崖下から発見されたのは、それから二日後だった。――夜中に高木が運転していて、カーブでハンドルを切りそこなったらしかった。江坂氏の方は、あとから癌《がん》にかかっていた事がわかった。だが、警察でも新聞社でも、二人がどういう知り合いで、なぜ一緒の車にのって、夜中、あのような山中に行ったのか、誰もわからなかった。――おそらく永遠にわかるまい。私にしても、どういう口実で、江坂氏が高木をさそい出したか、想像もつかない。
江坂氏には最近書きあらためられた遺書があり、そのおかげで、現在私はあの歌に生きた<\プラノ歌手淵田あや子の、テープとレコードの、この世における、おそらく唯一、最多のコレクションの保有者となっている。
[#地付き]〈了〉
初出誌
空飛ぶ窓
週刊小説/昭和四十九年三月十九日号
黄色い泉
小説新潮/昭和四十八年一月号
秋の女
別冊小説新潮 89号/昭和四十八年
旅する女
問題小説/昭和四十八年三月
歌う女
問題小説/昭和四十八年一月
〈底 本〉文春文庫 昭和五十一年十月二十五日刊