小松左京
夜が明けたら
目 次
夜が明けたら
海 の 森
ツウ・ペア
真夜中の視聴者
葎 生 の 宿
秘  密
長 い 部 屋
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夜が明けたら
夜八時少しすぎ、夕食が終って、妻は子供たちと食器を台所にはこび、彼は煙草に火をつけて、テレビの時代もの連続ドラマを見はじめた時だった。
最初、茶を飲みおわった茶碗の上においてあった箸《はし》がカタカタとふるえ、つづいてホーム炬燵《こたつ》の食台の上に残っていた皿小鉢がふれあって、チンチン、チリチリと音をたてはじめた。
お、と彼は天井を見上げ、急いで煙草を小皿の上でもみ消した。
「あなた!」台所の方で、妻が叫んだ。
「地震?」
「そうだ」彼は次第に大きくゆれはじめる天井の螢光灯を見上げながらいった。
「おい、ガスの元栓をしめろ!」
もうその時は、家中の襖《ふすま》や戸がガタガタガタッ、と大きな音をたててふるえはじめ、二階建て木造家屋の柱や鴨居は、みしみし、めきめき、と不気味な音をたてはじめていた。
ゆさゆさ、ゆさゆさ、と部屋は次第に大きく、波のようにゆれはじめた。――小学二年の下の娘が、小さな、おびえた悲鳴をあげた。
「大きいわ!」妻も悲鳴をあげるように叫んだ。「どうする? あなた……」
「おちつけ!」そういいながら、彼も半分腰をうかしていた。「棚の上のものを気をつけろ!」
家の中のどこかで、何かがどん! とおちた。ガラスか一輪ざしが、チャリン、とわれる音もした。
ごうっ、というような唸りが家の外の夜の庭からきこえてきて、カーテンごしに、夜空がパーッと一面に青白く光り、むかいの家の屋根のシルエットがうかび上るのが見えた。
バシッ、と音がして、ホーム炬燵のコンセントから銖色《しゆいろ》の焔がふき出したのはその時だった。――彼はゆれる部屋の中で、中腰になって、あわててコードをぬこうとした。ボン、というような音をたてて、テレビの裏から白い煙がたちのぼり、テレビの画面がすうっと消えた。そのあとを追うように家中の電灯が、ふっ、と消えた。――一瞬にして出現した闇の中で、テレビの画面は、まだうす白くぼーっと光っていた。
娘が泣き声をあげた。
ゆさゆさ、という不気味な揺れはまだしばらくつづき、柱がきしみ、皿小鉢が鳴る音は、闇の中でまだきこえていた。
そのうち、潮がひくように静寂がかえってきた。
地震の常で、それが終ってしまえば、まるでうそのような感じがのこる。――地震がはじまったとたんに、突然そこにまったく次元のちがう時空間が出現し、気分は上ずり、判断力は失われ、人間が長い歳月をかけて開発して来た理性や、もっともらしい日常性は一瞬にして蝋《ろう》のように溶け失せ、ずっと底の方にかくれていた原始的な小動物の恐怖や、動顛《どうてん》した心が突然うかび上ってくる。が、地震がやめば――すべては悪夢のように雲散霧消してしまうのだ。次元のちがう時空間も、おびえてきょときょとしている小動物も……。
「やんだわ……」と妻がまっ暗な台所でいった。「ああよかった……」
「まだゆりかえしがくるかも知れんぞ……」彼は闇の中で、ふっ、と息をついて、腰をおろした。「……ほら……」
また、部屋がゆさ、ゆさ、ゆさとゆれはじめた。――どういうわけか、今度は、さっきはきこえなかった古い箪笥の鐶《かん》が、かたかたと鳴るのがはっきりきこえた。
「またよ!」と娘が叫んだ。「こわいわ!」
「大丈夫よ」と妻がいっていた。「ゆりかえしだから……」
ゆりかえしは数十秒で、またおさまって行った。
そのあと、闇の中に静寂がかえって来た。――外ではいつの間にか風が出て来たらしく、崖の上の森の梢が、ざわざわと鳴るのが遠くきこえてきた。
「明りをつけなきゃ……」と小学校六年の長男がしっかりした声でいった。
「マッチどこ?」
やっぱり男の子というものはたのもしいもんだ――と、彼は闇の中でちょっと微笑をうかべた。
「あ、だめよ。動かないで……」と妻はいった。「さっき、何か流し台からおちたみたい。――かけらがちらばってるとあぶないから……」
「懐中電灯、ここらへんの柱につってあったね」と長男の手は何かにふれたらしく、カチャリと音がした。「あ、あった」
彼は手さぐりで、さっきもみ消した煙草をさがしていた。――テーブル……茶碗……ころげた箸……こりゃ何だ?――ああ、醤油つぎか……小皿……あった!――端がもしゃもしゃしている煙草を口にもって行き、それから畳の上に手をのばして、ライターをさがす。
「どうしたの?」と妻がいっていた。
「だめだ、これ……」かすかに何度も金属のすれあう音をたてながら長男がいった。「電池が切れてる。――電球かな?」
「ほらほら……」彼は畳の上をごそごそさぐりながら、茶の間からいった。「懐中電灯なんかは、ふだんから、よく点検しとかなきゃ。……毎月一日と十五日を点検日にしろ、といってあるだろう。――少し待ちなさい」
ライター……ない! たしか、座蒲団の脇にあったのに……。あ、こんな所にあったか。……炬燵の蒲団のずっと奥――中腰になった時、こんな中に蹴こんでしまっていたのだ。やれやれ……。
ライターをつけて、腰をあげる。――闇の中ではこんな小さな焔が、いかに明るく、力づよく感じられるか。台所へ行くと、小さい娘が、うれしそうな歓声をあげた。
「蝋燭はどこだ?」台所の床を照らしながら彼はきいた。
「ああ、大丈夫だ。コップがおちてるけど、別にこわれてない」
「蝋燭……ちょっと待って……」妻は、食器棚についている抽き出しをあけて、中をひっかきまわした。「ライター貸して……。ええと……」
「ちゃんといつも用意しとけ、といっておいたろう?」彼はついとがった声になる。「非常持ち出しのリュックは?」
「あれにはまだはいってないのよ。食物はいれたけど――蝋燭は、この前買いに行ったけど、切れてたの。この次デパートへ行った時でも買おうと……ああ、そうだ。二階の物置きのどこかにあるわ。たしかひっこしの時の荷物でまだほどいてないものの中に……」
「そんな――ライターのガスが持つか!」
「とも子のローソクならあるわよ」と娘がいった。
「だめだい。オモチャのローソクなんか」と伜《せがれ》がいった。
「おもちゃじゃないわよ。ほんとにつくわよ」
そういうと、娘はかがんで食器棚の下の戸棚をあけ、隅の方から、細長い赤い紙箱をひっぱり出し、耳の傍でかたかた振った。
「まだあるわ――はい」
「あ、そうそう――これ、バースディケーキにたてる蝋燭だわ」妻が大きな声をあげた。
「すっかり忘れてた」
「なーんだ。やっぱりオモチャじゃないか」と伜はいった。
「オモチャじゃないよ。これでもちゃんとつくんだから……」彼は娘の小さなお河童頭《かつぱあたま》をなでた。「とも子のお手柄だね」
赤、青、黄の、小さな蝋燭に、彼は四本火をつけ、ライターの火を消した。ライターはもう焼け切っていた。
「これを持って、大きな蝋燭さがしておいで……」と、彼は二本の飾り蝋燭を妻にさし出した。
「すぐにつくと思うけど――やはりとって来ておいた方がいい」
「そうね……」妻は手をのばした。「あら、消えちゃった。――小さいから、風に弱いのね」
「マッチを持っていった方がいいぞ」と彼はいった。
妻はマッチをエプロンのポケットに入れ、小さな明りを手でかこうようにして階段の方へ行った。
「幸雄……。いっしょに来て!」と妻は階段の所でふりかえっていった。「探すの手つだってよ」
「ちぇ」と伜は生意気に舌打ちした。
「一人で行くの、こわいんだな」
彼は苦笑して、小さな二本の蝋燭と、のこりのはいった箱を持って茶の間の方へ行き、灰皿の上に蝋燭をたてた。――小さな蝋燭は、もう三分の一も燃えてしまっていた。
「ハッピィ・バースディ・トウ・ユー・ハッピィ・バースディ・トウ・ユー……」
と娘は大声でうたった。
「こらこら、吹き消しちゃだめだよ」
と、彼は笑っていった。
まもなく二階の廊下をどたばた走る足音がきこえた。
「こら! やったな」
と妻が叫ぶ声がきこえた。――キャッキャッと笑いながら、伜はまるで雷のような音をたてて階段をかけおりて来て、何かにぶつかって、うめいた。
「ほーら、罰が当った。――いい気味だ」
と妻が大きな蝋燭に火をつけて、向う脛《ずね》をかかえ上げて、片脚とびをしている伜の頭をぐいとこづきながらあらわれた。
「しずかにしないか」と彼はいった。
「だってこの子ったら、襖の陰にかくれておどかすんだもン」
「あっつっつ……」伜はどすんと、たおれるように腰をおろした。「爪、はがれたかな」
伜が腰をおろした反動で、食台の上の小さな蝋燭の一本がたおれた。
「だめ!」と娘が叫んだ。「お兄ちゃんたら、地震みたい……」
太い蝋燭の、強い明りは、ちょっと一同を陽気な気分にさせた。――妻は茶をいれ、子供たちは蜜柑を食べ、炬燵のまわりで、一しきり、さっきの地震の話や、大震災、空襲、停電の話などがはずんだ。
「そしたら、父さんの中学校のころ、夜は蝋燭で勉強したの?」と伜はきいた。
「蝋燭じゃとても字が読めなかったな。――バッテリーにランプがついたのがあって、入試前にはそれをすこしつかったが……」
「そんなにしょっ中停電してたの?」
「しょっ中さ。終戦の年は、八月から九月いっぱいぐらいまで、大都市はずっと電気がつかなかった」
「昔の人は、夜はローソクだけ?」と娘はきいた。
「いいや、灯明《とうみよう》といってね、種油に芯《しん》を入れて、それに明りをつけてつかっていた。ほら、テレビで行灯《あんどん》ってあるだろう? あれがそうだよ。――でも、田舎の人は、夜になると大抵ねちまったろうな。油代も高かったからね……」
彼はふと、奇妙な感情におそわれた。――ほんとうにわずか百年ちょっと前、自分たちの祖父の幼い頃は、そんな生活だったのだ。明治七年、十代のはじめに草深い田舎から東京へ出てきた祖父は、その年の十二月、京橋から金杉橋までの間に八十五基のガス灯がはじめてついた時の事を鮮烈な記憶にもっていて、彼は子供のころ、くりかえしてその話をきかされた。夜が来ても、その青白い光は「まったく昼よりも明るくて、下で新聞が読めた」と、祖父は感動をこめて語った。――毎日夕方、一里半の道を銀座まで歩いて行って、ガス灯が点火されるのを見た、という。それがわずか一世紀ちょっと前の事なのだ。――そして、今は……。
「ほんとに終戦直後――ううん、昭和三十年ぐらいまで、冬は寒かったわねえ」と妻はちょっと体をすくめるようにいった。「私、終戦の時まだ小学生で、やせっぽちだったでしょう。――冬がいやで、冬になったらしょっ中ぴいぴい言ってたわ。風邪はひくし、霜やけになるし、ひびはきれるし……」
「|ひび《ヽヽ》ってなあに?」と娘はきいた。
「とも子ちゃんに言ったってわからないわ。とにかく、いたいもの……」と妻は遠くを見るような眼つきでいった。「寒かったのよ。――だって冬でも火鉢と炬燵だけでしょう。せいぜい煉炭火鉢ぐらいで……」
「セントラルヒーティングなかったの?」と伜がきいた。
「そんなもの、あるもんですか。ガスストーブをやっとつかい出したのが、昭和三十二、三年じゃなかったかな。――もっとおそかったかしら?」
「結婚して二年目だから三十四年だ……」彼は憮然《ぶぜん》とした表情でいった。「それまでは、ガスこんろに薬缶《やかん》をかけて湯気をたててたくらいだな……。たった――十五年前だ」
「さむい……」寒がりの妻はぶるっと肩をふるわせた。
「電気のついていない炬燵って、寒いわね。――だいぶ冷えて来たわ」
「それにしても長い停電だな……」彼は時計を見た。
「もう三十分以上たつぞ。――ちょっと電気会社に電話してみろ」
「ええ、そうする――。あついお茶でも一ぱい飲まなくちゃ……」
妻は手をのばして電話機をひきよせ、番号しらべのダイアルをまわした。――受話器を耳にあてると、あら、と小さくつぶやいて、妙な顔で受話器から耳をはなした。
「どうした?」と彼はきいた。
「おかしいわね。電話、切れてるみたい――あなた、きいて……」
彼はさし出された受話器に耳を持って行った。――発信音がきこえない。
「切れてる……」と彼はいった。「故障だ」
「やっぱり停電のせいかしら?」
「停電とは関係ないはずだ。電話局は予備電源を持っているし……」
「じゃやっぱり故障?――いやあねえ」
「ラジオをきいて見よう」と彼は顎をしゃくった。「ポータブル・ラジオ、非常持ち出しの中に入れてあるだろうな」
「ええ、それはちゃんとはいってます」
妻はそそくさと立ち上って押入れをあけた。――ボストンバッグ、リュック、子供用のリュックが一かたまりになっている。ボストンバッグの中から、小型ラジオをとり出した妻は、スイッチを入れ、同調ダイヤルをまわした。
「あらやだ。――これも電池が切れてるのかしら?」
「しようがないな」彼は舌打ちした。
「どれ、貸してみろ」
スイッチを二、三度動かしたが、ラジオはつかない。バッテリー・チェックの針は上っている。
「これだからだめなんだ」と彼はちょっと声をあらげていった。「今の地震は大した事がなかったからいいが、本当の火事や地震の時に、何の役にもたたなかったらどうする! ――幸雄、これにあう乾電池はないか?」
「カセットコーダーのがある」と伜は立ち上った。「蝋燭一本貸してね」
「寒いわあ……」と娘が炬燵にちぢこまりながらいった。
「早く電気つかないかなあ」
「本当に少しひえてきたな――」彼はつぶやいた。「今夜はひえこみがきついって、天気予報で言ってたからな。――ガスストーブはすぐ出るか?」
「ええ、ここにあるわ」妻が立ち上って台所に元栓をあけに行った。「お手つだいのおばさんがほしいって言ってたんで、今日、出しておいたの」
古いガスストーブが持ちこまれ、ガス管がソケットにさしこまれた。――火花点火式の栓をひねったが、火はつかない。
「それだって電池が上ってるんだ」彼はライターをさし出しながらいった。「ずっとつかってなかったんだろう。さあ、これで……」
ライターの火で、ガスは、ぽっと青白く燃え上った。
「わ、ばんざーい」と娘はいった。
「あら、なに? これ……」と妻はいぶかしげにいった。
ガスの焔は、しゅうしゅうと勢いよくふき出さず、まるで焼酎火のように、力なく、ふらりとゆれながら赤みをふくんだ長い焔になる。――妻は空気調節つまみをまわしたが、焔の調子はかわらない。
「圧力がさがってるんだな……」と、彼はつぶやいた。
ここらあたりは、郊外の新開地で、高圧圧送地域だから……と彼は思った。――きっと、ガス会社の圧送ポンプもとまっているんだ。とすると……相当広範囲な大停電かな……。
明りが次の間にはいってきて、伜が首をひねりながら、部屋に首をつっこんだ。
「父さん……」と伜は不思議そうな顔で、手をつき出した。「電池が――みんな妙な事になっている……」
「だめか……」
「うん……これ……」
伜のさし出した、五、六個の乾電池をうけとって、彼はそれを蝋燭の明りにすかしてみた。単一、単二、単三……いずれも陽極の金属キャップに、焦げたような黒い斑点があって、その中心に小さな穴があいている。――過剰電流が通りぬけた穴みたいだ。
「どうしたんだろうね?」と伜はのぞきこみながらいった。
「わからん……」
彼は何となく冷たいものが胸もとにつき上げてくるのを感じながら、ポータブルラジオの電池ボックスを開いた。
単二乾電池二本をいれた電池ボックスの中は、煤《すす》けていて、指でこするとカーボンがべっとりついた。
「懐中電灯を持って来てごらん……」と彼はささやくように子供にいった。
「つかないよ、いいの?」
「ああ……」
懐中電灯の中の電池も、同じ状態だった。――陽極、陰極双方の面上に黒い煤のしみ……そしてその中央に、小さい、はじけたような穴……。
彼はホーム炬燵のプラグをひきぬいたコンセントを見た。――コンセントは、さっき火をふいたあとが、黒っぽくすすけている。テレビの背後の壁を見る。――ぼんやりと、巨大な筆の穂先のように走っているうすぐろい斑点……。
「あら!――あら……あら……」と妻が頓狂な声を出した。「ガスが消えちゃうわ」
「いやーん……」と娘が泣き声を出した。
ふうっ、ふうっと、二、三度息づくようにのびちぢみしたガスの焔が、ポッ、ポッ、と三、四回とぎれ、小さくなって消えた。
「栓をしめろ……」と彼はかたい声でいった。
「しかたがない。今夜はみんな早く寝るんだな……。電気はいつくるかわからないし……寒いから……」
「そうしようか」と妻はわざとらしい声で、元気よくいった。「ねちゃおう、ねちゃおう」
「今夜、ママのお床でねてもいい?」と娘はいった。
「まっ暗でこわいもン……」
「いいわよ」と妻はいった。「そうだ、お話ししてあげるわ」
「うん、して、して!」と娘は無邪気に手をたたいた。
「ぼく、予習があるんだけどなあ……」と伜はいった。
「明日、早く起きてしろ。今から寝れば、早く眼がさめる」
「残念、九時からテレビで見たいのがあったのに……」
「何をいってるか。まだ小学生だぞ。――たまにテレビのない晩もいいもんだ」
「あなたは?――お休みになる?」
妻は娘の手をひいて立ちながらきいた。
「いや、もう少し起きていて、それから寝る。あっちこっち、電灯のスイッチを切ってねるんだぞ。それからセントラルヒーティングのスイッチの元栓も……」
「ここはスイッチ入れといていいのね」と妻は新しい蝋燭に火をうつしながら、いった。「あなたも、早く寝たら?――蝋燭、もったいないわよ」
なにをいいやがる――と彼は苦笑しながら、太い蝋燭の焔を見つめた。
「おやすみなさーい」と娘はいった。
伜はしばらくぐずぐずしていたが、やがて「おやすみなさい」といって立っていった。
風がだいぶ出て来て、ガラス戸ががたがたいった。――二階で、妻が何かいう声と、キャッキャッと笑う娘の声がきこえた。「お話し」をしてもらっているらしい。
ますます冷えこんでくる室内で、かすかにゆらぐ蝋燭の焔をぼんやり見つめながら、彼はさっき見た電池の、奇妙な焼け焦げについて考えた。――いったいどうしたんだろう? 欠陥電池なんだろうか? まさか!――CdNi 電池じゃあるまいし、平凡なマンガン電池やアルカリ電池が、古くなったからといって、あんな事になるわけはない。
ひょっとすると、さっき停電の前、コンセントとテレビのヒューズが火をふいた、あの現象と関係あるのだろうか? そう思うと、なんだか、寒さがますますひどく、ぞくぞくせまってくるような気がした。
彼は蝋燭をとり上げると、立ち上って台所へ行った。――台所のいろんなものの中で、彼がただ一つだけ、おいてある場所を知っている所からウイスキーの瓶をとり出すと、コップといっしょに茶の間に持ってきた。コップにウイスキーをつぎながら、時計を見ると、九時十五分だった。
――してみると、さっきの地震と停電から、もう一時間以上たっている。
ずいぶん長い停電だ。――さっきの地震は、せいぜい震度三か四ぐらいだったのに……。あちこちの送電線にでも被害が出たのだろうか?
ウイスキーをのみながら、電話をとり上げて耳にあててみたが、受話器の底からは、何の音もきこえてこなかった。
遠くで、いらだたしい連打音がきこえる。――彼は寝床の中で眼をあけた。
眼をあけても、つぶっても、つぶっているのとかわらないまっ暗闇だ。
「あなた……」隣で妻が、眠そうな、しかしどこか緊迫した声でいった。「誰か――玄関の戸をたたいているわ……」
たしかにそうだ。――誰かが玄関の戸をたたいている。
「高木さぁん……」とよぶ声が、その合間をぬってきこえる。「今晩は……夜分すみません……高木さぁん……」
「電報かしら?」
妻はもうはっきり眼のさめた声でいった。――隣の蒲団の中で、ぱっちり眼を開いている気配がわかる。
「高木さぁん……」と声はまだきこえる。
「まだ停電か」彼は枕もとをさぐりながらいった。「マッチは?」
「はい、ここ……」妻の手がふれた。
「いいわ、つけてあげる」
シュッと音がして、青白い火花が走り、朱とオレンジの焔がまばゆくもえ上る。――彼は腕時計を見た。三時四十五分……夜明けにはまだ遠い。
あたたまった寝床の外に出ると、部屋の冷えこみに、ぞっと全身鳥肌だった。あわてて丹前をはおり、蝋燭の光で足袋をさがす。――その間にも、玄関のドアはいらだたしげにたたかれつづける。……高木さぁん。……やっと足袋を見つけてはき、こはぜをとめるのをあきらめて、蝋燭を手に寝所の襖をあけた。――出て行きしなに、ふりかえっていう。
「おい。――とも子が脚を出してるぞ」
ドアをたたく音は、ちょっと間遠になりかけていた。階段をおりて行くと、ドアの外で、二人らしい男の話し声がきこえる。……だめですな。起きてこない……。
「はい!」ドアのこちらからきいた。
「どなたです?」
「ああ、高木さん。どうも起しちまってすみません。隣の吉井です」
吉井さん?――とつぶやきながら鍵とチェイン錠をはずした。ドアをあけると、冷気がどっとふきこんで来て、蝋燭の焔が消えそうになった。
「何でしょう?」
彼は玄関に立つ二人の男を見た。――二人ともオーバーを着、マフラーを首に巻いて襟をたて、手袋をはめている。吉井氏はキャンプ用らしいカンテラをぶらさげ、もう一人はカバンをぶらさげていた。二人の吐く息が夜目にも白かった。
「こんな時間に起しまして、どうも申し訳ありません」と隣人はいった。「実は……お宅の車を拝借できないかと思いまして……」
「車?」彼はおどろいてもう一人の四十五、六の男を見た。「なにかあったんですか?」
「こちらの方が――あ、こちら菊村さん、うちの斜め向いにおすまいで、私、お仕事の関係と、ゴルフ仲間でよく知っているんです」
「どうも……」と菊村とよばれた男は頭をさげた。「私のわがままで、お起ししてしまいまして……思いあぐんで御相談したんですが……」
「菊村さんは、電力関係のお仕事で……技術関係なんですが……」と吉井氏はいった。「実は、今夜の大停電で――菊村さんはおとついから休暇なんですが、あまりひどい停電で、しかも電話もラジオもいつまでも通じないんで、すっかり御心配になられて、どうしても会社へかけつけたい、と言われるんです。でも、電話がだめで、タクシーもよべないでしょう。思いあまって、先ほどうちへこられて、車を貸してもらえないか、といわれたんだが、あいにくうちの車が故障で……」
「そうですか――」彼はうなずいた。
「わかりました。ちょっとお待ちください。あ、それからさむいですから、どうかおあがりください」
彼は首をちぢめるようにして、二人を玄関の中に招じ入れた。――明りを消さないように持って奥へ行き、手早く着かえた。ラクダのシャツと股引きをはき、毛糸の靴下をはき、トックリセーターに上衣をはおる。眠気はけしとんでいた。かつて、会社の化学工場の製造関係をやっていた彼には、菊村という中年技術者の心配と焦慮が、手にとるようにわかった。年配と人物からいって、課長クラスだろう。責任がずっしりと肩にかかっている年代だ。特に電力関係ともなれば、社会的影響が大きく、たとえ非番であっても、居ても立ってもいられなくなるのは当然だ。――もしこれが、自分の会社、自分の持ち場であったら、と思うと、たとえ夜中にたたき起されても、社会人は相身互い、という気持ちがすぐ起った。
「お待たせしました……」彼は玄関でスリッポンをつっかけながらいった。「いま車を出しますから……」
キイホルダーを出してガレージの鍵をあけ、シャッターを巻き上げて中へはいる。二〇〇〇ccの国産車の、ぞっとするほど冷え切ったシートに体をすべりこませ、ちょっと両手に息をふきかけながらクラッチを切り、イグニッション・キイをさしこんでひねる。
ダッシュボードはまっくらだ。――バッテリーランプはつかない。
「エンジンが冷えてますか?」と吉井氏がカンテラをさしあげながらいった。
「いや……」ボンネットのロックをときながら、彼は、顔が寒さのせいでなくこわばるのを感じた。「おかしい……バッテリーが全然だめです。昨日はこれでかえって来たのに……」
「|お宅の車も《ヽヽヽヽヽ》?」と吉井氏は息をのむようにいった。
「やはりバッテリーですか? じゃ、うちの車と……」
彼はボンネットをはね上げ、吉井氏がカンテラをさしかけ、菊村氏がのぞきこんだ。――バッテリーのターミナルの所に、白いセメントのようなものが一面にもり上っている。
「こりゃあ……」と菊村氏がつぶやいた。「バッテリーが上ってるなんてものじゃない。|パンク《ヽヽヽ》ですね。――酸化鉛があんなにふき出している。……容器の蓋に穴があいたんですね」
「どうでしょう。おしていただけませんか?」と彼はいった。「バッテリーは何しろ新品です。少しはきいてくれるでしょう」
「むだだと思いますね」菊村氏はディストリビューターとダイナモにふれながらいった。「ダイナモが……電線も何もこんなに焦げている所を見ると、おそらくコイルがやけてしまっているでしょう……」
「菊村さん……」彼はボンネットをしめながらいった。
「あなた、電力関係のお仕事でしょう? 説明していただけませんか? いったい、どうなっちゃったんでしょう?――うちで乾電池類が……」
「うちでもそうです」と菊村氏はいった。「うかつでした。気ばかりあせって、つい盲点に気がつきませんでした。車だって電気系統がやられれば……」
「いったい何が起ったんです?」彼はせきこんできいた。
「おわかりですか?」
「いいえ……」
菊村氏は首をふった。
「わかりません。私の電気工学の――電気物理学の基礎知識や常識では、まったく理由のわからない事です。すべての電気関係の回路に、それぞれの回路容量の上限をちょっとだけこえる電流が流れた……そうとしか思えません。しかし、ミリアンペアから何百キロアンペアまである千差万別のキャパシティをもつ回路に|いっせい《ヽヽヽヽ》に、そのぎりぎりのキャパシティをちょっとだけこえる電流が流れるなんて……そんな事はとても常識では考えられない……」
「あの――八時ごろに地震があった時、空が青白く光った。と同時に、つかっていた電気炬燵やテレビが火や煙をふいたんです。――あの地震とこれと関係がありますか?」
「わかりません……」この寒いのに、菊村氏はハンカチを出して額をふきながらかすれた声でつぶやいた。「私には……まったくわけがわかりません。まったく奇妙な……悪い夢を見てるみたいな……」
彼は呆然として、まっ暗な住宅街をながめた。――門灯も常夜灯も、家の中の明りも、何も彼も消えた暗黒の街を……風はやみ、わずかに雲のある空一面に、凍てつくように星がかがやいていた。夜明け前の冷えこみはすごく、家々の屋根にも街路にも草の葉にも、びっしりと白く霜がおりはじめているのが、星明りでわずかに見える。
「どうしようもない……」と彼はつぶやいた。「夜が明けるのを待って……自転車ででもいらっしゃるよりしかたがないでしょうな」
「そうですな……」と菊村氏はいった。
「そうだ、自転車をどこかで借りて……」
「いや、いまからじゃ危いですよ」と吉井氏はいった。
「車のダイナモがやられてるんだったら、おそらく自転車の発電ランプもやられてるでしょう。――この暗さに、無灯で自転車を走らせるなんて、無謀だ。まあ朝までお待ちなさい。もうじき夜も明けます」
「ちょっと……」と、彼は手をあげ、耳をすませた。
「え?」と吉井氏はカンテラをあげた。
「なにか?」
「ほら……きいてごらんなさい」彼は住宅地斜面のずっと下の方を指さし、耳をかたむけた。「爆音が……きこえるでしょう。|走っている車もいる《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。……全部が全部、やられたわけじゃないんだ」
「|ディーゼル《ヽヽヽヽヽ》だ!」と菊村氏は叫んだ。
「ディーゼルエンジンで動く、バスやトラックは走るんだ。あれは電気系統がいらないから……」
「でも、やっぱり無灯で走ってるんでしょうな」と吉井氏はいった。「それにディーゼルをセルモーターなしでスタートさせるのは、ずいぶん大変だったろうな。坂道でも利用したのかな……」
「あれは、国道を走ってるんですね、きっと……」菊村氏はそわそわしていった。「じゃ国道まで行って、のせてもらいます」
「お待ちください。いっしょに行きましょう」彼はガレージのシャッターをおろしながらいった。
「いえ、そんな……」
「いいですよ。――どうせかえったって、寝られやしない」
三人は、ゆるい坂を国道にむかってくだりはじめた。
バス道へ出て、右へおれると、まっくらな街路のむこうにゆらゆらゆれる明りが道路にもれているのが見えた。――ちかよって行くと、交番だった。中に顔見知りの警官が一人、蝋燭の明りを前にポツンとすわっていて、机の横の石油かんの中でたよりない火が燃えている。
「今晩は」ドアをちょっと押して彼は顔をのぞかせた。
「何か様子がわかりませんか?」
「ああ、高木さんですか……」と警官は火明りに照らし出された彼の顔を見て、びっくりしたようにいった。
「どうしたんです? こんなに朝早く……」
「菊村さんが、どうしても会社へ行かなくては、とおっしゃるので――送って来たんです」と吉井氏がいった。
「長い停電ですな。警察の方で何かわかりましたか?」
「いや、それがさっぱりで……」警官は卓上の電話をさした。「なにしろこれが全然通じないんで……あんまり長い停電で、電池ラジオもきこえないし、近所の方が二、三人ききにこられたんで、今、同僚に自転車で本署へききに行ってもらっているんですが……まだかえってこんのです。あたって行きますか?」
「いや……」と菊村氏はいった。「国道へ出て、通るトラックでもひろって見ようと思いますので」
「ああ、菊村さん。お宅電力関係でしたな。――どうでしょう。朝になったら、電車は動くでしょうかな」
「いえ、それが……」菊村氏は苦しそうにいった。
「どうも、会社へ行って見ない事にはなんとも……」
「しかし、不思議な事ですなあ……」警官は外へ出て来て、まっくらな街を見わたした。「いったい何がどうなったのやら、さっぱりわからん。ラジオも電話も通じんと来ちゃ……車も動かんでしょう……」
「ええ……」と彼はいった。「吉井さんのも私のも両方とも電気系統が……」
「まったくどうなってんですかなあ。今はみんなねているからいいが、夜が明けて、出勤通学時刻になったら、みんなさわぎ出すでしょう。その時警察が、何もわからん、ではなあ……」警官は外へ出て来て街路を見わたした。「さっきの地震で、工場地帯が全滅でもしたんですかな。――何しろ、何の情報もはいってこんので……」
午前四時半――夜の暗さも、冷えこみも、もっとも濃く、はげしくなる時刻だった。広大な天地が、その闇と空気に、きりきりとしめつけられて行く気配が、ひしひしと感じられた。
それにしても、広域大停電におそわれた地上の、何という暗さだろう。――たしかに、空には満天の星が、音をたてるようにきらめいていた。しかし、月のない夜の地上は、ただはてしない闇のつらなりとして、もくもくとした地平の起伏と凹凸だけが、巨大な漆黒の怪獣の背のように、星明りにうかび上るだけで、道も森も、家並みも地形も、そのぶあつく濃密な黒一色の中にとかしこまれて、「形」はなく、ただその「生存感」「量感」のみが、恐しい圧力でのしかかってくる。――大昔の夜は、こんなだったんだろうな、と、彼はふと思った。そしてつい昔でも、ちょっと人里はなれれば、こんな「暗さ」だったのだろう。
夜ともなれば夜行性の生物をのぞいて、鳥も獣も人も、ただ洞窟やかくれ家にちぢこまって、大地の眠りとともに眠り、一刻の「意識の仮死」の中で、夜明けを――大地の眼ざめを待つよりしかたがなかったのだ……。
「じゃ、失礼……」と彼はいった。「菊村さんが国道でトラックか何かをつかまえるとおっしゃってますから。――ディーゼル車は動いているみたいですよ」
「何かわかったら、私にも教えてくれんですか……」と警官はいった。「警察官がこんな事いっちゃはずかしいが……」
三人はまた国道へむかって歩き出した。
「あれ……」と菊村氏がずっとむこうをさした。「何でしょう。火がうごいている」
「松明《たいまつ》――か何かですな」と吉井氏は眼をこらしていった。「停電はともかく、電池がだめになる、なんて思っても見なかったでしょうからな。――私は山登り用のこれが家にあったけど、大抵の家には、昔のように提灯なんてないでしょう」
国道へ出たが、星明りににぶく光る舗装道路は、端から端まで見わたしても車一台走っていなかった。――あちこちにのりすてられた、明りの消えた乗用車はたくさんあったが……。沿道の街灯、常夜灯、ガソリンスタンドやモーテル、ドライブイン、レストランのネオン、看板や道標の明りがまったく消え、終夜流れつづけるヘッドライトやテールランプの明りも消え失せた国道は、道路というより、原始地形を走る断層のようだった。
「来ませんな……」と菊村氏はつぶやいた。
「待っていればくるでしょう」と吉井氏はなぐさめるようにいった。「それに、どうせ夜が明けたら……」
「あそこで焚火《たきび》をやっている」と彼はいった。
「あたらせてもらいましょうよ。こう冷えこんじゃ、待つのも大変だ」
ずっとむこうで、オレンジ色の焔がゆれていた。――ちかづくにつれて、そのあたたかそうな光が妙になつかしくなり、三人は無言で脚を早めた。
近よってみると、焚火の傍に人影が動いていた。――地面を浅く掘った所に木屑がパチパチ燃え、その両側に煉瓦をつんで鉄棒をわたし、鍋と薬缶《やかん》がかかっている。割烹着をつけ、着ぶくれた中年すぎの主婦らしい婦人がたき木をくべていた。
「今晩は……」と吉井氏はいった。「ちょっとあたらせていただけませんか?」
「どうぞどうぞ……………」と婦人はびっくりしたようにいった。「もう御出勤ですか?」
「ええ、まあ……」と菊村氏はあいまいに言った。
「今日、子供が遠足でございましてね……」主婦はふきはじめた鍋の様子を見ながらいった。「ゆうべ御飯をたいておりませんで……。明け方になっても、ガスがまいりませんでしょう。それで主人にむりにたのんで、焚火をしてもらって、こんなおかしい事をしておりますんですよ……」
そうか――と彼は焚火にかざした手を、こすりあわせながら思った。――ガスがまだ出ないとなると……。
「水道は? 出ますか?」と吉井氏はきいた。
「ええ、水道は今の所……」
すぐ傍の家のどこかがあいて、婦人の亭主らしい人影がちかづいてきた。――婦人が説明し、三人が事情を話すと、半白の髪をした初老の紳士は、
「それはそれは……」と愛想よくいった。「どうぞあたっていってください。もっとたき木をとって来ましょう」
「いえ、私たちがとって来ますから……」と彼はいった。
「そこが普請場《ふしんば》で、木屑が一ぱいありますから……」と初老の紳士はいった。
「トラックか何かをお待ちになる――通っているかな?」
「さっき一台だけ通りましたわ」と婦人はいった。「無灯で――でもずいぶんとばしておりましたけど……」
「ま、そのうち通り出すでしょう」と吉井氏はいった。
「もう間もなく、東が白みかけるから……」
「いや、まだちょっとありますな……」紳士は時計を見てつぶやいた。「五時すぎ……このごろは夜が長くて、五時半ぐらいにならないと、白んで来ません」
「長い停電でございますねえ」と婦人はいった。「それに、電池がみんなだめになるなんて――ゆうべはこの国道、えらいさわぎだったんでございますよ。地震のあと灯が消えて、その上、車がみんなとまってしまいまして……」
「ディーゼルトラック、バスは動いていましたんでね。のっけてくれって、大変なさわぎだったんです。――ずいぶん歩いてかえって行きました」と紳士はつづけた。
「うちへもだいぶ通行人の方が立ちよられまして……電話をかしてくれ、とか、一休みさせてほしいとか……」
「夜中ごろまで眠られませんでしたわ」と婦人はいった。
「お前、湯が沸いたら、熱いお茶でもさしあげろ」と紳士はいった。
「いや――とんでもない。結構です」
「どうか御遠慮なく……こういう時はお互い様です」と紳士はいった。
熱い茶をふるまわれて、ふうふう飲みながら、四人は何という事はない話をした。――紳士は寒さで思い出したのか、夜釣りの話をし、吉井氏は昔、冬山で遭難しかけた話をした。それには面白い落ちがついていて、四人は声をあげて笑った。
「来ませんな……」笑い声が一しきりとぎれると、菊村氏は国道をふりかえった。
「おや、――自転車かな、あれは……」
焚火が道路になげかけるほの明りのはずれに、二台の自転車がちかづいて来た。――のっているのは、三十五、六の男だった。
「すみません。ちょっと、あたたまらせていただけますか?」
自転車からおりた男たちは、白い息を吐きながらいった。――二人とも、いかにもインテリらしい風貌だった。
「どうぞどうぞ……」と吉井氏はいった。「こちらの方《かた》の焚火ですが……」
二人は手袋をぬいで手をかざした。――急いで来たらしく息を切らしていた。
「御出勤ですか?」と菊村氏はきいた。
「いえ……ちょっと、港まで行って見ようと思いまして……」
「港まで?」紳士がびっくりしたようにいった。「そりゃあ大変だ。三十キロはあるでしょう。――無灯じゃあぶない」
「そうですよ。もう少し待って、夜が明けてから行かれたらどうです」と彼はいった。「それまであたって行かれたら……どうせ、もうじき、東が白んでくるし……」
一人の三十男は、顔を見あわせると、ふっとだまりこんでしまった。
そのだまりこみ方が、あまり異様なので、のこりの四人は思わず男たちの方を見た。――二人はだまって、せわしなく手をこすりあわせ、何度も唾をのみこんでいる様子だった。
「どうしたんです?」吉井氏がいぶかしそうにきいた。
「あなたがた――何か御存知なんですか?」
「ええ、まあ……」と眼鏡をかけた方の男が、かすれた声でいった。「今、時間は?……」
「午前五時三十七分……」と菊村氏はいった。「それがどうかしましたか?」
「私たち、この先の丘の上にある天文台のものなんですが……」ともう一人の男がいった。
「天文台?――ああ、ありましたな」
「星をごらんになりましたか?」眼鏡の男は顔を天にむけた。「何かお気づきになりませんでしたか?」
「いいや――私たちは別に、あなたたちのような専門家じゃありませんから……」
「あの星――」と若い方の男が指さした。「あれが北極星です。北斗星が、ほら、あんな所にいます」
「それがどうしたんです?」彼は胸さわぎを感じながらきいた。
「今は午前五時三十七分……」眼鏡の男は、焚火にむかって顔を伏せながらつぶやいた。「しかし、あの星座の位置は、昨日の|午後十一時半ごろの《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》位置です……」
焚火のまわりに、一瞬沈黙がおちて来た。
「なんですって?」と菊村氏がしわがれた声できいたのは、だいぶたってからだった。「まさか……」
「ええ、そうです。――昨夜の午後八時すぎから十一時へかけて、|地球の自転が《ヽヽヽヽヽヽ》、|突然とまったんです《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》……」と眼鏡の男はいった。
彼は思わず東の空を見た。――午前五時三十七分……が、東の地平は相かわらず漆黒の闇がとざし、星々は動かず、東天は白みかける気配もない。
「どうしてです? なぜそんな……」吉井氏が叫ぶようにいった。「じゃ、あの地震は……」
「わかりません。――ずいぶん不思議な現象です。本来なら、もっと大きな地震があったり、大風、大津波がおそったりしてもよさそうなものですが――何しろ地球自転の慣性は、かなりなものですからね。低緯度地方は、もっと被害が出ているかも知れません。でも通信が途絶して――」
「じゃいったい、この停電は?」と菊村氏は体をのり出し、かみつきそうな顔でいった。「電池類や回線類が全部パンクしたのは……」
「それは――わかりません。私たち専門家じゃないので……」と眼鏡の男は首をふった。「私たちも知りたいんですが……」
「じゃ、今……」彼は星を見上げてつぶやいた。「地球の自転は……とまっているんですか?」
「ええ――」男は火に顔をむけたままいった。「正確にいうと、日本標準時で昨日の午後十一時三十二分の位置で……」
「以前、ヴェリコフスキイという学者が、旧約やマヤの文書から、古代において、彗星の衝突のため、一度地球の自転がとまった事がある、という説をとなえました。そのあと、地球は、|反対向けに《ヽヽヽヽヽ》自転しはじめたというのです。今われわれが見ているように、太陽や星が東からのぼってくるのは、それからの事だ、という奇説ですが……」
「しかし――今、実際にとまってんでしょう?」と彼はきいた。
「ええ……」と若い方の男はうなずいた。「東アジアから太平洋へかけてが夜……日本は|ま夜中の位置で《ヽヽヽヽヽヽヽ》……」
彼は思わず焚火の傍から立ち上った。
――顔をあげると、空一面の星が視野一ぱいにひろがった。
|とまっている《ヽヽヽヽヽヽ》――と、彼は思った。――この星は、動いていないのだ……。眼で見ただけでそれがわかるわけはなかった。――しかし、彼の顔面は、膚は、全身は、天空にみちみちた「静止」の気配を感じて戦慄した。
吉井氏も、菊村氏も、初老の紳士も、ゆっくり立ち上り、顔を空にむけた。
とまっている!
――と三人とも、声のない叫びで唱和したように思えた。――この空、この星、この天体は、いま、天の北極を中心に、何十億年つづけて来た回転を、とめているのだ。
二十四時間に一回転のわりあいで、くるくるとやむ事なくまわりつづけ、その自転によって、昼と夜、夜明けと夕暮れ、四季と季節風とをこの地上にもたらした地球は、いま突然エンストを起したようにその回転をとめ、太陽のまわりの軌道を、ゆっくりただよって行く「まわらぬ星」になってしまったのだ。
「もうじき六時だ……」と吉井氏はつぶやいた。「すると――いくら待っても、もう夜は明けないんですか? 太陽はのぼってこないんですか?」
「ええ――地球が|このままとまりつづけるならね《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」と眼鏡の男はいった。「日本が、あいにくと、ま夜中の所でとまってしまいましたからね」
「すると――地球の反対側では、昼ばかりの所があるわけですな――」と紳士はいった。
「ええ、南米から大西洋中央部へかけてが、まひるですね……」
「すると大変だな――」と彼はつぶやいた。「どんどん温度があがってるだろうな」
「そのかわりこちらは……」と若い男はいった。「どんどん温度がさがりますよ。何しろ、ずっと夜ですから……」
四人は声もなく立ちすくんでいた。――停電で……通信もつかえず……そして、この闇は、|もう動かずこの地上に居すわりつづけるのだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》……。どうなるのだ? どうすれば……。
「お邪魔しました。ありがとうございます……」と眼鏡の男は立ち上った。「私たち、これから港へ行って、動きそうな船で、あちこち様子をしらべたいと思っています。何か――何とか解決の道はあるはずですよ。|生きのびるだけなら《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》……」
「このままだと――真昼の部分にも、真夜中の部分にも、人間はすめなくなって、世界中の人口が、夜明けの線と黄昏《たそがれ》の線の所に、南北に集ってくるでしょうね――」若い男はいった。「このまま……ずっととまっているならね……」
「もし、自転がとまったままだったら……」眼鏡の男はつぶやくようにいった。「あと|三カ月《ヽヽヽ》したら夜が明けてきて、半年たったらまたひるになります。でも……もし……地球が月のように、一方の面だけ太陽にむけっぱなしになってしまったら……」
二人がまた自転車にまたがるのに背をむけて、四人はまた焚火のまわりにかがみこんだ。――鍋はおろされ、焚火の火は、もうだいぶ燠《おき》になっていた。
「どうします?」と吉井氏は低い声でつぶやいた。
「どうしますって――私はやっぱり会社へ行ってみます」と菊村氏はかすれた声で、顔をこすりながら言った。
「車をつかまえて……」
「もっと木をくべましょう」と初老の紳士は手をのばしながらいった。「これから――こういう木ッ端みたいなものも貴重になるでしょうが……。まあ、今の所――お茶、いかがですか?」
「ありがとう……」彼は上の空でいった。「いただきます……」
こうやって焚火にあたっているうちに――いずれ|夜が明けてくる《ヽヽヽヽヽヽヽ》、とついさっきまでは思っていた。|もうすぐだ《ヽヽヽヽヽ》。そして、|夜が明けたら《ヽヽヽヽヽヽ》……。
だが、その夜明けはこない――茜色《あかねいろ》の光をなげかけて闇をおいはらい、万物を光の中に蘇生させ、霜をとかし、大地をあたためる太陽は、のぼってこない。運がよくて|三カ月《ヽヽヽ》待たなければ………その間この日本の上には、真夜中の常闇《とこやみ》がとどまり、大地はさらに冷えつづけ……。
彼はそっと時計を盗み見し、そっと東の空を眼のすみで見た。――六時七分……東天はまだまっ暗だ……。いや、|まだ《ヽヽ》、という事はない。|これからずっと《ヽヽヽヽヽヽヽ》まっ暗なのだ……。
その事を考えたくないので、――いや、これから先の事、家族の生活の事など何も考えたくないので――彼はうずくまって、焚火の焔をみつめた。――しかし、パチパチと音をたててもえる焔を見つめていると、またしても、あのききわけのない、あの動物的本能ともいうべき、あの期待が浮かびそうになるのを、ねずみを殺すように何度も、努力して意識の底におし沈めなければならなかった。
こうやって……待っているうちに……、いずれ――夜が明けたら……。
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海の森
ずしん!……
というような音をきいて、ふいに眼がさめた。
さっきから、眼りが浅くなっているのは、自分でも気がついていた。――宵の口にかなり飲んだビールのおかげで、また膀胱《ぼうこう》がはって来ているのだ。
便所に行く夢を何度も見て、次第に眠りの底からうかび上って行き、尿意を催しているな、という事がぼんやりわかりかけていた所だった。
そこへ、家の外でひびいた、重い音で、一ぺんに瞼《まぶた》があいてしまった。
一寸ばかり閉めのこした襖からさしこむ、うす暗い廊下の明りの照りかえしが、電灯を消した寝室の、天井や襖をぼんやりうかび上らせている。
それを見つめているうちに、自分がなぜ急に眼をさましたのか、ふとわからなくなってしまった。
腿《もも》のつけ根あたりがじんじんしはじめた。――もう我慢の限度だ。
勢いよく蒲団をはねてとび起きる。――安普請の寮の二階は、大男の彼がはねるように蒲団からとび出したとたんに、どすんと音をたててわずかにゆれる。
畳の上にとび出した姿勢のままで、彼は、はっ、と耳をそばだてた。
またあの、ずしん!……という音が、外でしたような気がしたのだ。
四畳半の入口につったったまま、彼は、じっと建物の外の気配に耳をすました。――が、音はそれきりきこえない。自分がとび起きた音が、建物にひびいたのかも知れない。
もう、尿意はこらえきれない所まで来ていた。襖をあけて、スリッパをつっかけると、人気のない廊下にぴったんぴったん音をひびかせながら、彼はつきあたりの便所へ急いだ。
四月だというのに、山がちかいせいか、夜の空気は冷えこんでいた。たまりきっていたものを一気に排泄する快感に、思わず溜息をつくと、体がぶるっとふるえ、くしゃみがとび出し、ついでに景気のいい音をたてて放屁《ほうひ》した。――にぎやかなこった、と、自分でおかしくなって、にやにや笑いながら、残りをしぼり出し、腰をふるっていると、今度は長い長いあくびが出た。
大口をあいて、息を吸いこんだその頂点で、あくびはぴたっととまってしまった。
また、
ずしん!……
と、重々しい音が、建物の外でしたのだ。
今度は、それだけでなく、ふーっ、ふーっ、と|ふいご《ヽヽヽ》を鳴らすような音もきこえた。
彼は、便所のガラス窓をあけて外をのぞいた。――眼と鼻の先に、黒々とした山塊がそびえたち、その漆黒の闇にきりとられた月のない夜空に、星が一面にまたたいている。――宵のうち降っていた雨はいつの間にか上ったらしい。すぐ隣の普請場の、建ちかけた柱や、つんである材木が、寮からもれる明りにぬれている。
ずしん!……
という音がまたした。……便所の窓から見えない、表の道路の方だ。それで、この夜中に、隣の普請場で、地固めや杭打ちをやっているのではない事ははっきりした。
音は、またしばらくやむ。――その合間に、ふっ、ふっ、と荒い息使いのようなものがきこえる。
音は、ちょうど寮の入口の前あたりでしている。――最初きいた時より、だいぶ移動しているような感じだった。
彼は耳をすませ、じっと表の気配にききいり、窓をしめた。
いったい何の音だろう!――廊下に出てから、彼はちょっと立ちどまって、外へ見に行ったものかどうか考えた。はずすのを忘れたままの時計を見ると、午前二時だ。――こんな真夜中に、いくらまわりにまだ人家がすくないといって、あんな大きな地響きたててる奴は、いったい誰だろう? 何をしているんだろう?
ほうっとけ、という声も、頭の隅でした。――誰かが、何をしていようと、こちらに関係のあることじゃない。それより、寝ておかないと、明日はまた早起きだ……。
重い音が、またしはじめた。――そいつは、寮の前を、山の方に移動しはじめた。彼の意識とは関係なく、反射的に体がひるがえって、彼は廊下を階段の方へむけて走り出した。
階段をかけおりると、寮番の源さんが、寝巻の上に羽織をひっかけて、鍵をぶらさげて、住んでいる部屋から出て来た所だった。
「和田さんかい?」と源さんは眼をしょぼしょぼさせながらいった。「私ゃ、あんたが二階で寝返りをうっているのかと思ったが……」
「おれじゃない」彼は玄関へむかって大股に進みながら首をふった。「何かが表を通ってるんだ」
「なんだろ。こんなま夜中に……」
彼はだまって、背後の源さんから鍵をひったくって、表戸をあけた。
下駄をつっかけて、外へ出てみると、常夜灯の青白い光に照らされた表通りには、何の姿も見えなかった。
ずしん!…… ずしん!……
と言う音は、山の方へまがっている道を、明りのとどかない方へ遠のいて行く。
「なんだい?」
彼の後についてきた源さんが、少しふるえる声できいた。
「いや……何だかわからん……」彼は闇へとけこんでいる道路のむこうをすかしながら首をふった。「何も見えない」
彼は常夜灯に照らされた前の道路に眼をうつした――が、最近本舗装が完成されたばかりの道路は、上ったばかりの雨に一面にぬれているだけで、何のあとものこっていない。昔のように、雨になるとどろどろにぬかる道だったら、あれだけの地ひびきをたてるようなものが通って行けば――それが何にせよ――きっと、|あと《ヽヽ》がのこったろうが……。
彼は、道路へ二、三歩とび出し、音の遠ざかって行く方をすかした。
「源さん……」彼は闇をすかしながらつぶやいた。「懐中電灯ないか?」
「よしなよ、和田さん……」源さんはせきこむようにいった。「なにも見に行く事ないよ。――だいぶ遠くへ行っちまったし……」
物音は、ずっと遠くへ行ってしまっていた。もう、山腹が急傾斜に立ち上るあたりまで行っているらしく、漆をぬったような濃い闇の底から、ずっとかすかになりながら、時折り、ずしん!……ずしん!……と断続してきこえてくる。――べきべき、ざわざわ、と、草木のおれるような音もきこえた。
「山ン中へはいって行く……」と、彼はつぶやいた。
「獣……かね?」源さんは、ほっとしたように、それでもまだふるえる声できいた。
「そう――みたいだったな」
「裏山から、熊かなんか出てきたんだろうか?」
「あんなすごい、地ひびきするような足音を出す熊って、このあたりにいるかね?」彼もやっと緊張をといて、寝巻の襟をかきあわせた。「北海道のヒグマならともかく……。いや、ヒグマだって……」
「ま、どっちでもいいや。もう、行っちまったんだから……」源さんは彼の袖をひいた。「さ、もうはいろうぜ。その恰好じゃ風邪をひいちまう」
「ああ……」彼はなま返事をしながら、あたりを見まわした。「こんな事って、はじめてかい?」
「長年この寮にすみこんでるが、はじめてだね……」と源さんは首をすくめてつぶやいた。
「びっくらしたよ。――まあ、あんたが泊っててくれてよかった……」
彼は源さんの言葉をききながしながら、何という事なしに斜面を見まわした。――こんな辺鄙な、もとは田畠と草っ原だった所が、最近は宅地が造成されかかっている。だが、建ちかけている家はまだちらほらで、住民は全然住んでいない。ついこの間まで昭和の三十年代はじめに建った、彼の会社の寮――当時、このあたりを開発しかけていた不動産会社が建て、その会社が左前になった時、二足三文で買いとったものだというが――以外は、あちらこちらに、農家の屋根がぽつんと見えるぐらいのものだった。
それが今は、斜面に石垣をつみあげた、造成宅地にかわりかけ、舗装もでき、まばらではあるが、一部に常夜灯もつくようになった。
しめった雨上りの空気を吸いこんで、寮の戸口へはいろうとした時、彼は急に鼻をひくつかせた。
「源さん……」彼はつぶやいた。「何かにおわないか?」
「え?」源さんは、彼をふりかえった。
「さあ……私ゃ鼻があまりきかねえが……」
「気のせいかな……何だかなまぐさいような……変なにおいが、そこらにするが」
「そういやあ……」あたりの空気をくんくんかぎまわっていた源さんは、ふと彼の横腹をつついた。「あ、和田さん……あれじゃあねえかね?」
言われてふりかえると、源さんは常夜灯のあたりを指さしていた。
茶色っぽい、何本もの紐がもつれたようなものが、道路の上に長くのびて、ぬらぬら光っている。――和田は、二、三歩あゆみよって、そいつをひろいあげ、鼻をくんくんさせた。
「ああ……これだ……」彼はぬれたそいつをもち上げながらいった。「ホンダワラだ……」
「――妙だな」源さんは、とほん、とした声でつぶやいた。「今ひっこぬいて来たみたいだけど……」
二人は思わず、山と反対側を見た。
なだらかな傾斜の下の方、右手の森と左手の小高い岡の間の、ゆるいV字型になった向うに、海がにぶく光っている。――が、海まで、直線距離で五、六キロはある。
と、その時、――二人の背後、くろぐろとそびえたつ山の裾闇の方から、おそろしい、きりさくような叫びがきこえてきた。
たしかに、|何か生物の《ヽヽヽヽヽ》……はげしい、長々と尾をひき、まわりの闇にこだまする、きくものの心を一瞬凍りつかせるような、怒りのこもった叫び声が……。
海峡に面した現場事務所に、寝不足の腫れぼったい顔を出すと、和田はすぐ、地図を見ている係長にちかづいて言った。
「今夜、誰か二、三人あっちの寮に泊りに来てくれませんかね」
「藪から棒に何だ?」係長は、まっくろに陽に焼けた顔をあげて、ニヤリと笑った。「麻雀か?」
「いや――寮番の源さんがおびえちまって……」
「どうしたんだ?――泥棒でもはいりかけたか?」
彼はちょっとためらい、つっかえつっかえ昨夜おこった事をかいつまんで話した。
「冗談じゃないぜ」途中から係長は笑い出した。「狸か何かのいたずらだろう。あそこらへんは、昔多かったんだ。近所の農家の人にきいてみろ。だまされた話を山ほどきかせてくれる。――そうだ。副部長も、昔あの寮にいた時、一度だまされたそうだ」
「冗談じゃないですよ」和田は口をとがらせた。「源さん、おびえちまって……何しろ、配偶者《つれあい》をなくしてから、めっきり気が弱くなったでしょう?」
「今まであの寮には、そんな怪談はなかったんだがな」係長はクスクス笑いながら、煙草をくわえた。「まあ、もう三日したら若い連中が九州からかえってくるからさ。――そうしたら、またにぎやかになるさ。にぎやかはいいが、もう昔みたいに、夜中に馬鹿さわぎできんぞ。まわりが宅地になっちまったからな」
「まだ人の住んでる家は一軒もありませんよ」と彼はいった。「人が住み出せば、にぎやかになるでしょうが……今はまだね」
「それより、今日の予定をよく見ておいてくれ。作業が大幅におくれているんだ」係長は、海峡の海底地形の書きこまれた地図の区画の一つをとんとん指でついていった。「今B班が潜っているが、相変らず、視界が全然悪くて、はかどらんらしい」
「こんな内湾で、どうして海の中がそんなに荒れつづけるんですかね?」彼は自分の机にかえりながら首をひねった。「大潮でもないのに、おとついあたりから、潮流もいやにはげしいし――なんだか、あまり気持ちよくない」
「おいおい、ゆうべ変な声をきいたからって、弱気を出さんでくれ」
係長は、作業進行表をちらと見上げて言った。
その時、プレハブの事務所の入口に、ヘルメット姿がのぞいた。
「ああ、和田さん、来てはったか……」と、古参作業員の大貫《おおぬき》――今はそうでもないが、かつては大酒のみだったので、うわばみをちぢめて通称バミさんが、渋紙色のしわだらけの顔をくしゃくしゃさせ、がに股でちかづいて来た。「今、ちょっとの間、あんたひまか?」
「とりたててすぐ用事はないけど……」和田は机から顔をあげた。「何か……?」
「あんた、古いもん趣味やろ。――ちょっと見てくれへんか。そんなひまとらせへん」
和田は、壁にかかった時計を見て、立ち上った。――午後の作業の打ち合せにかかるまで、まだ三、四十分はありそうだ。A班の班長の席はからだったので、事務の女の子に、定刻に直接打ち合せ室の方へ行くから、といいおいて、バミさんのあとについて外へ出た。
春の日ざしが、海峡の上にも、事務所外の白砂の上にも、さんさんと降りそそぎ、海からひやりとした潮風が吹いている。――対岸の岬のあちこちに、けぶるようにおそ咲きの桜が咲いているのが見え、陽光にきらきら光る海峡の真中に、海底調査の作業船や、ボーリング機械の櫓《やぐら》をくみあげた筏《いかだ》がうかんでいるのが見える。
三年後に、この海峡に橋がかかるのだ。
赤錆びたパイプや、油まみれの機械がほうり出してある砂浜のむこうで、ブルドーザーが何台も、黄色い甲虫《かぶとむし》のようにはいまわりながら、赤土の小丘をけずっていた。資材置き場の拡張工事だった。
「おとつい、あこの崖っぷちでな……」とバミさんは歩きながら、ブルドーザーの動いているあたりを指さした。
「若いもンが――ああ、あの組の臨時雇いや、――何やしらん、古い塚を一つ削ってまいよってな……」
「何の塚だったんだい?」
「さあ、それがようわからん。――そやけどいンまの若いもン言うたら、もの知らんちうか、こわい事を知らんちうか、そんな事、気ィがまるでまわらへんねやな。わしが通りかかった時は、もうすっくり削ってしもうて……|これ《ヽヽ》をちょうど海ン中へほうりこもうとしとるとこやった……」
二人はちょうどもう一棟の事務所の前にある、水栓のたった洗い場の横に来ていた。一かかえほどもある灰色の石塊が、コンクリートブロックをつんだ上においてあって、横にバミさんの書いたらしい、サワルナ、の字と矢印が、マジックで大書してある。
「この石仏をかい?」
彼は腰をかがめて、その石塊に手をかけた。――もう表も裏もすっかり摩滅して、顔も容姿もはっきりわからないほどになっているが、日光にすこし傾けて、影をつくると、明らかに円光をおって両手に何かもち、結跏《けつか》した仏像の形がうかび上る。
「さいな。――なんぼ、土地のもんも知らん古塚でも、削るだけならともかく、祭ったある仏さんを石ころみたいに、足で蹴って海にほうりこむやつがあるかいな。どなりつけたら、けったいな顔してふくれかえっとった。髪の毛、長うしとる二十二、三の若僧や。昔やったら字もろくに読めんやつでも、そんな事せえへんかったもんや。いったい、このごろ学校で何を教えとるんやろ」
「これ、何か台座にのっていなかったか……」と、石仏をためつすがめつしながら、彼はきいた。
「さあ、その台座らしいのを海へ蹴おとして、つづいてそれを蹴こもうとした時に、わしがとめたんや」
菩薩《ぼさつ》らしい……と、彼は思った。持っているものが、もうすこしはっきりわかれば判別がつくのだが……。
「裏になんか字がほってあるやろ。あんたなら読めへんかと思うたが……だいぶ古いもんか?」
「年代みたいなこまかい字は、とても無理だなあ……」水道からしたたる水に手をぬらし、背面をそっとなでながら彼はつぶやいた。
「この大きな文字……これ、魚へんらしいが……下は、塚≠セな」
「ああ! それやったら、きっと鯨塚やろ!」とバミさんは大きな声で言った。
「ここらへんの海岸に、よう鯨塚がたっとるさかい……。昔はこんな内湾まで、セミ鯨なんかがようけはいってきよったらしい」
「そう……この旁《つくり》は……たしかに京≠セ。上のなべぶたが、なんとか見える」
「そう言えば、塚の中から、なんやでかい骨らしいものも出た、言うとったな……」
「骨が?」彼はふと眉をひそめた。「で、それは?」
「それも、削った土と一緒に海へおとしてしもうたらしい……」バミさんは、今では会社の名物になった煙草入れをとり出し、すぽんと音をたてて筒蓋をぬくと、鉈豆煙管《なたまめギセル》にきざみをつめ出した。
「ほんまにわやにしよるわ。――所でその仏さん、何やわかるか?」
「さあなぁ……菩薩と思うけど、こうすりへってては、よくわからんな。――台座がのこってたら、それでわかる事もあるが……」
「わしがじかに見たわけやないけど……何や馬みたいな四つ足にのってはったらしいで。馬頭観音か?」
ちがう――と、彼は思った。馬頭観音なら、大抵結跏ではなく半跏趺坐《はんかふざ》で、三面|二臂《にひ》、あるいは三面六臂、四面八臂で、手には道具をもたず、合掌して印をむすんでいるはずだ。顔容はわからないが、その像は一面で、頭上にある突起は馬頭でなく、宝冠か髻《けい》だ。それに馬頭は頂いていても、台座は大てい蓮である。
「持っているものがはっきりわかるとな……」と、彼は、石仏の手のあたりを指の腹でなぜながらいった。「これ、ここ……これは、ひょっとしたら欠けおちたのか、それとも最初から短いのか……」
「どれどれ……」バミさんは煙管をすぱりと一服吸うと、自分も指をのばした。「あ、このぎざぎざは、はじめからきざんだもんやで。ほれ……こっちの端も……」
その時彼は、どこかで上った鋭い叫びをきいて、はっと腰をのばした。
むこうの事務所から、二、三人が砂を蹴って、急造の桟橋《さんばし》の方へかけて行く。
反射的に沖へ眼をやると、調査船の一隻が、波をけたててこちらへかえってくる。――潮のとまる憩流《けいりゆう》時のまっ最中で、潮が動き出すまであと一時間以上あるのに、作業を中断したのだ。
マストに、事故の旗が上っているのを見て、彼も桟橋へむかって走り出そうとした。――同時に、こちらの事務所の入口から、白衣の医師と、担架をかかえた救護班がかけ出して行く。
「何かありましたか?」と、彼は走りながら医師にむかって叫んだ。
「わからん……」医師は眼をすえて走りながらぶっきら棒にいった。「畑野君に、何かあったらしい……」
それだけきくと、彼は一気に砂を蹴ってダッシュした。
桟橋につくと、もう船は横づけになって、ウエットスーツを着た畑野が、乗組員の肩を借りながら、よろよろとおりてくる所だった。
「大丈夫……なあに……何かがひどく、肋《あばら》の所にぶつかっただけです……」畑野は土気色の顔をして、息をつきながら、それでもぬれた頬を無理にほころばせようとしていた。「その拍子に眼鏡がとんで、少し水をのみましたが……もう大丈夫……大したことじゃありません」
「横になって……」医師は機械的に担架をさした。「歩いちゃいかん。スーツの上をぬがせて……」
ゴムのスーツのファスナーがひきさげられると、胸毛のはえた、たくましい胸が出てきた。――右乳の下に、赤っぽい打撲のあとがあり、ところどころくろずみかけている。
「骨は折れてないようだが……」医師は指でさぐりながらいった。「とにかく、医務室へはこべ。レントゲンの用意を……」
「どうしたんだ?――潮に巻かれたのか?」
担架について歩きながら、彼は同僚の顔をのぞきこんだ。
「いや――視界は相変らず悪いが、潮はおだやかだった……」畑野はむき出しの肋を上下させながら、しゃがれた声で答えた。「それがいきなり……体がぐるぐるっとまわされると、脇っ腹の所に、どすん、と――あんな深さの所を、流木なんかが流れるかね?」
「流木?」彼は首をひねった。「見たのか?」
「いや……なんだか……でかい巨人にぶんなぐられたみたいな感じだった。――大蛸でもすんでいるのかな」
「しゃべらないで!」と医師が鋭く言ったので、彼は口をつぐみ、担架からはなれた。
「潜水病は大丈夫だと思います」畑野と組んでいた岩槻《いわつき》が、係長に説明していた。「マスクも、すぐ見つけて……ええ、だいぶ苦しそうでしたが、一緒について上ってやったんで……」
「視界がよくなるまで、作業を中止するか……」
係長はやけくそのように言った。
「午後――あるいは明日あたりからよくなるかも知れません――」岩槻は海峡をふりかえって言った。「今日は何しろ、ゆうべの雨のあとですからね」
「視界はおとついの午後から、ずっと悪いんだ……」と係長はぶすっといった。
「F地点にはいってから、まだほとんど作業が進んでいない」
医務室の前でしばらく待ち、肋骨は折れていない、休養さえとれば大丈夫だ、ときいてから、和田たちは、ぞろぞろ建物の外へ出た。――A班の打ち合せの開始時刻はもう三十分以上すぎていた。
打ち合せをやる場所へむかって歩いていると、反対側から来たバミさんに、よびとめられた。
「あのな和田やん……」バミさんは、皮のような掌をひろげて見せて、ふしくれだった指で、図形を描いてみせた。「あの仏さんな、あら片っ方の手にこんな恰好のもの持っていたで。――仏さんの鈴みたいなやつ……」
和田は上の空にききながして行きちがった。それ所じゃない、という気持ちだった。あとになって、バミさんの言った事が、心のどこかにひっかかっていた事に気がついたのだが……。
「和田さん……」
誰かが闇の中で、ふるえる声でよんでいた。――相変らずの視界不良と、海底に生じている妙な、小さな渦巻きのため、作業がちっともはかどらず、みんないらいらして、晩にウイスキーをかなりのみ、かえりついて泥のように眠ってしまった彼は、その声をきいた時、意識が一瞬にして、妙に冴えるのを感じた。
「和田さん……起きとくれよ」
彼は、枕から頭をあげた。――廊下からさしこむ明りに、黒い頭のシルエットがうかんだ。
「源さん?」
「そうだ――酔ってて悪いけど……たのむから起きてくれないか。私ゃ……おそろしくて……」
「何が?」彼は、ちょっときょろきょろまわりを見た。
「何がって……|あれ《ヽヽ》だよ。ほら……」
ずしん!……と、腹の底にひびくような音が、表の方できこえた。
――ずしん!……と、つづいてまた一つ……。
彼は蒲団をはねのけて、半身起した。――深酔いで頭が少し痛んだが、眼ははっきりさめていた。
「|あれが《ヽヽヽ》……ちかづいてくるんだよ……。何だろ?」
「懐中電灯だ、源さん……」彼はとび起きてけわしい声でささやいた。「それから、何でもいい。バットか、棒か、――そんなものないか?」
「およしよ、和田さん――」
源さんはがたがたふるえながら、袖をひっぱった。
「かまわない方がいいよ。――それより一緒に居とくれよ」
源さんをひきずるようにして、彼は階段をおり、源さんの部屋の壁につってあった懐中電灯を持ち、ありあわせの棒をにぎりしめて、表の戸をそっとあけた。
常夜灯に照らされた表の道路には、何の姿も見えなかった。
しかし、すぐ彼は、異様な事に気がついた。――雨上りの昨夜とちがって、乾き上った道路の上に、大きな水のしたたりあとが、点々とついていた。形はくずれていたが、一つの大きさは直径四、五十センチもあり、何ものかが歩いたかのように、互いちがいについている。間隔は、二、三メートルもあろうか……。
彼は常夜灯の光のとどかぬ一方の闇からもう一方の闇へと消えているそのしたたりのあとを眼で追った。――坂の下の方は、もう水がかわきかかっており、上の方は、たった今ついたようになまなましい。
ふと――彼は昨夜とおなじ、なまぐさい磯のにおいを空気の中に嗅いだ。ふっ、ふっ……、ふっ……というような、巨大な獣の息づかいのようなものが、すぐ先の、闇の中からきこえる。と――また、ずしん!……と音がした。
|何か《ヽヽ》が歩いている――姿は見えないが、巨大な獣らしいものが……一足おろすごとに、あたりの闇をふるわせるほど、重く、巨大な|何か《ヽヽ》が……。
ずしん!……ずしん!……と足音は次第に坂の上に遠去かって行く。――またしばらくしなくなり、ふーっ、ふーっ、と深い息がきこえると、ベキッ、と角材か何かが折れる音が闇の奥から鋭くひびいた。
それが合図のように、彼の体は、反射的に表へとび出していた。――片手で棒をにぎりしめ、もう一方の手につき出した懐中電灯のスイッチを入れる。
さっ、と道路上に走った光の輪の中に、ぬれた巨大な足あとが、常夜灯の明りのとどかぬあたりまでつづいているのがうかび上る。そして、それが、十メートルほど先でふっ、と消えているのも……。
彼は光の輪の先を、道路上にもっとむこうまで走らせた。――が、その先、山裾をまわって行く道路の上に、足あとはない。最後の足あとの上あたり、さらにまわりの空間に光をふりまわしたが、道の両わきにおいしげる草以外何もうかび上らない。
突然、ずしん!……という音がまたひびいた。――とたんに、光の輪の中で、べたっ、とまた一つ新しい足あとが、道路上にあらわれた。つづいて、もう一度、ずしん!……という音とともに、また一つ……。
彼は体が、どうしようもなく、ガチガチに硬張《こわば》っているのを感じた。――懐中電灯の光芒《こうぼう》を、思うようにふりまわせないほどだった。
だが、彼ははっきりと感じとる事ができた。――ほんの十メートル先に、姿は見えないが、何か|途方もなく巨大なものが《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》立ちふさがり、こちらを空中からじっと見すえているのを……。
突然、その|姿の見えない何か《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》は、大きく動いた。――夜を切りさいて、鋭い、厚手の布を、巨人の手で一気にひきさくような叫びが、眼と鼻の先の空中《ヽヽ》から、長々とひびいた。背筋を氷刀でたちわられるようなショックをうけて、彼はとびのいた。
いつの間に寮の中にはいったのかおぼえていないが、気がついた時は、戸口のドアを、背中でしっかりおさえ、がたがたふるえていた。全身は氷のような汗におおわれ、顎《あご》ががちがちなり、膝も腕も、胴中も、どうしようもなくがたがたふるえて、とめようがなかった。
やっと人心地がかえってきかけた時、彼は気がついて、かすれた声で叫んだ。
「源さん……」
返事はなかった。――また、ぞっ、と冷汗がふき出した。
「源さん……」
もう一度よんだ時、彼は、やっと廊下に赤いマジックで書かれたぐにゃぐにゃにふるえている字に気がついた。
――オレにげる。
作業打ち合せがはじまって、十五分もたってから、やっと和田は会議室にはいって来た。――みんなはいっせいにふりむいた。
「宿酔《ふつかよ》いか?」班長のとがった声がとんだ。
「よし、作業を休め。そのかわり……」
「ちがいますよ……」彼はぶすっとした声でいった。
「少し寝不足かも知れませんがね。――午後までに一眠りすりゃ大丈夫です。医務室でしらべてもらってもいい。宿酔いなんかじゃありません」
「どうしたんだ?」和田の、つんけんした調子に、びっくりしたように、係長がききかえした。「何かあったのか?」
「源さんがどこかへ行っちまいました……」和田は掌で顔をごしごしこすりながらいった。「もうかえってこないでしょうね……」
「なんだ。――源さんと喧嘩でもしたのか?」
「とんでもない……」和田は、ふっと息をついて煙草をくわえた。「ぼくも、もう寮へはかえりません。不用心だと思うなら、誰かかわりを泊めてください……」
「いったい何があったんだ?」
「きのう話したでしょう……」マッチをさぐりながら和田はつぶやいた。「|あれ《ヽヽ》……ですよ。狸なら狸でいいが……とにかく、ぼくはもういやです」
「狸だって?」
誰かが頓狂な声をあげたので、みんなどっと笑った。
「よし、その話はあとにしろ」班長はいらいらした声でどなった。「和田、気分がよくねえんだったら、医務室へ行ってこい。休んだってかまわん。今日の打ち合せはA、C、E班合同だ。邪魔するな」
「作業はやりますよ……」和田はぶっきら棒に言った。「そのつもりでなきゃ、ここへくるもんですか」
打ち合せがすんで、みんなが会議室をどやどや出て行く時、係長はA班長にちょっと眼配せした。
「休ませた方がいいんじゃないか?」
「医師《せんせい》にちゃんと見せて、はっきりさせますよ。――だけど、あいつぁ、自制心の塊《かたま》りです。あいつが自分でやると言うなら大丈夫でしょう。ああいう腕のいいのに休まれるとちょっと痛いですからね……」班長はちょっと空を見上げた。
「天気は明後日あたりからくずれるって事ですし、今のうち何とかF地区に手をつけとかないと……今朝D班の連中に電話できいたら、視界はよくなりつつあるそうです……」
ボンベをぶらさげて桟橋までくると、桟橋のはずれに、ヘルメットを阿弥陀《あみだ》にかぶり、相変らず咥《くわ》え煙管のバミさんが、後手を組んでつったって、きらきらかがやく海峡をじっと見ていた。
「よう……」と、彼の顔を見て、バミさんは煙管を上下に動かした。「いよいよF地区アタックでっか?」
「ああ……」彼は、ちょっと眼を細めて、おだやかな海面を見つめた、「多少無理しても手をつけてみようってわけだ。――おくれがひどくて、班長はカースケだ。別におれたちのせいじゃないがね。視界も少しずつよくなっているらしいし……」
「ゆんべ、土地の古い漁師のおっさんにきいたんやが……」バミさんは、からの煙管をすうすう言わせながら、F地区の海面を顎でさした。「あこらあたりの底に鯨の墓場≠ソうのがあるそうや」
「鯨の墓場=H」彼は眉をしかめた。
「きのうの鯨塚とはちがうのかい?」
「さあ、あれも関係があるのかわからんけど……まあ、ここらへんの漁師は一本釣りばかりで、底引きもやらんし、潜りもせんから、知っとるのは少い言うとったけどな。――そのじいさんの話やと、潮の澄んどる時もぐったら、時々、ごつい鯨の骨がごろごろしとるのが、見える事があるそうや……」
「見える時と見えない時があるのかい?」
「ここらへんは潮流がはやいさかい、砂が動いてうまるのとちゃうか?――時化《しけ》のあとなんかで、海がすんだ時、見える事があるそうや。そやから、土地もンでも、じかに見たものはすくない、ちうとったな。もう今は、漁師をやるやつもすくないし、言い伝えでも知っとるもんすくないやろ、と、そのじいさん言うとったな。もう八十やけど、子供の時、一度だけ見たそうや……」
船尾の縄がとかれ、舷《ふなばた》がはなれかけたので、彼はバミさんの話をききすてて、桟橋を走り、船にのりうつった。
船は、おだやかな春の海の、かすかなうねりにのって海峡のまん中へむかって出て行った。――対岸で、基線を出しているレーザー発振器が、ちかりと光るのが見えた。
潮はまだわずかに動いていた。――もうじき、流れが完全にとまる。船は少し潮上に出て、碇《いかり》をほうりこんだ。海底二十五〜三十メートル、内湾側の海峡入口を占めているF地区の、ちょうどはずれだった。
「ようし、――今日は、少しはよさそうだ……」
箱眼鏡で底をのぞいていたA班長は、まっ黒な顔に白い歯を見せて、うれしそうに笑った。
舷側《げんそく》に、海中へむけて梯子がかけられた。下半身を海中にひたした最初のダイバーが、マスクをおさえ、あおむけざまに海面に身を投げた。
舷を、おだやかに、ぴたぴたと眠くなるようなリズムでうつばかりのしずかな海面に、青藍色の海底から、何か銀色に光るものが矢のようにちかづいてくるのを見つけたのは、甲板員の一人だった。――彼は思わず交替の用意にかかっていたC班長の腕をつかんだ。
ふりかえった班長の眼前、二十メートルほど離れた水面で、銀色のものは鋭い音をたててはじけ、黄色い煙を濛々《もうもう》とふき出すや、その中心から、ぎらつく光の点が、淡紅色の尾をひいて空中たかくまいあがり、浅黄色の春の空に爆音たててはじけた。
「緊急救難信号!」
C班長は、顔を白くしながらどなった。
「C班とびこめ!」
たちまち舷から、黒いウエットスーツにボンベをせおった姿が、二つ、三つ、水しぶきを上げて海へ身をおどらせた。――素潜りの名人のF班長は、ボンベをせおわずに、頭からとびこんだ。船橋からは、鋭い汽笛の吹鳴が起り、通信室では係長が、水中電話をよべ! もっと呼び出し音を鳴らせ! とわめいていた。
間もなく船から五メートルほどはなれた所にはげしく泡が盛り上り、黒い頭がポカッと水をわってうかび上ると、悲鳴をあげるようにわめいた。
「やられた! 二人やられた! 一人はもうだめだ」
「なんだ?――何にやられたんだ?」
「わからん。青野と桐島だ。医者を早くよべ! 船の救護班じゃ間にあわん!」
潮を吹くようにそれだけわめくと、うかんできたダイバーは、もう一度むしゃぶりつくようにマウスピースをくわえ、水面でとんぼを切って沈んで行った。
サイレンを鳴らしながら、フルスピードで、医師をつんだボートがちかづいて来た。
「どうした?――何があった?」
「わかりません!」水中電話にしがみついていた係長は、悲痛な声でいった。
「桐島は、即死だそうです。青野が――ああ、今きいています。ひどい怪我だそうで、出血多量だそうです。ひき上げていいか、ときいています。水深二十五メートルに……潜水病は……」
「そんなものはあとでどうにでもなる。いや、まて!」
医師はいきなり服をぬぎはじめた。
「何かでしばって急いで止血しろ、といえ。水中なら圧力で血の出方がすこしは助かる。誰かボンベを貸せ。私がおりて行くと言え」
「止血は……むずかしいそうです」係長は受話器を耳にあてながらいった。「横っ腹を何かにえぐられて……」
「なに?」医師の顔は紙のようになった。
「ロープをおろせ!」係長は甲板員にむかってどなった。
「今、桐島の死体をあげるそうだ」
ひき上げられてきた桐島の死体は、一見無傷に見えた。――ボンベのベルトがきれ、あの鋼鉄のボンベがぐしゃりとへしゃげている以外は……。
「顔を見るな!」と海面から誰かがさけんだ。「眼球がとび出してるんだ。――なにかおそろしく重いものに、胸部をつぶされてる……」
みんなは眼をそむけて海水のしたたる桐島の死体を甲板にうつぶせにおいた。
間もなく、二人のダイバーにかかえられ、医師がつきそって、青野が上って来た。――そのあたりの海中に、うすく赤ペンキのようなものがただよっていた。
「そっと上げろ……」青野をかかえて上って来たダイバーたちは、妙に低い、ひそひそ話をするような声で甲板から手をのばす連中に言った。「そっとだぞ……」
医師がまっ先に上って来て、マスクを額に上げ、ふうっ、と息をついた。――肩がせわしなく上下している。
係長の顔を見ると、医師は眼をそらし、首をふった。「まだ、生きてる……」医師はしわがれた声でいった。
「だが、あと二、三分だろうな。――一応輸血もしてみるが、あれだけ出血していてはとても……十五メートルの海中でカンフルをうったのは、うまれてはじめてだ」
青野が、こちらはあおむけに横たえられ、マスクをはずされた。――眼のふちに隈《くま》が入り、出血多量のため、青黒い顔がしぼんだようになって、もう死人の顔だった。看護員が、それでも血液のはいった容器を甲板要員にたかくかかげさせ、スーツをはいで輸血にとりかかっていた。医師は傷口をしらべている。――何か鋭い、太いもので、肋骨の下から奥深くえぐられている。もう傷口からはほとんど血は流れていない。
「青野……」係長はボロボロ涙を流しながら青野にすがりつくようにして、耳に口を当てた。「きこえるか、おれだ……」
「も……り……」と青野がかすかに口をうごかした。
「え?」一同は、青野の顔をのぞきこみ、耳をかたむけた。
「森がある……」今度は、青野は、はっきりした声でいった。「海の底に……森がある……森林……すごい」
のどがかすかに鳴った。――胸が大きく一度、二度上下すると、青野の青黒い顔の上に、さらにもう一段濃い陰影が日のかげるように走った。
医師は青野の脈をとり、それからその手を、ウエットスーツの上にそっとおいた。
誰かがたまらず嗚咽《おえつ》した。
「みんな上ってこい……」低い、おし殺した声で、A班の班長が海にむかってよんだ。「作業中止だ。――和田は……」
え?――というような雰囲気が海面に流れた。
「和田はどうした?」
「まだ、下か?」
「さがしてこい!」上ずった声で班長が言った。
「まて!――おれも行く」
視界が相かわらずよくない海中を、和田は青野と桐島のすぐあとを泳いでいた。――海底地形図をもとに、適当な目標物をさがし、それを基点に、ボーリングに適当な場所のあたりをつけて行く……。いつもなら二人一組だが、視界があいかわらず六、七メートルあまりしかないので、三人一組で動いていた。
青野と桐島が、F地区の、湾内よりの方へ進んで行く姿を、ぼんやり前方に見ながら、彼は、少し自分の精神が散慢になりかけているのを意識していた。――やっぱり、昨夜の寝不足がたたっているのか……。二十五メートルぐらいの水深で、「おめでた」になっちまっちゃ恥だぞ……、そう思いながら、作業をはなれて、あらぬ事に意識がただよって行く……。
といって、あの恐しい、「見えない獣」の事ではなかった。――ちらと思い出しはするが、どういうわけか、恐しくも何ともなかった。――さっきから、変にくりかえし頭に浮かんでいる事は、きのう医務室からかえる時、バミさんが言っていた事だった。――あの仏さん、もう一つの手に鈴みたいなもの、持ってはったで……。
片手に鈴……もう一方の手に、両端がぎざぎざになった短いもの、五鈷杵《ごこしよ》……金剛杵《こんごうしよ》か!――そうだ! そうにちがいない。するともう一方の手の鈴は……金剛鈴だ。右手に金剛杵、左手に金剛鈴をもち、結跏して……そうか、わかった! 普賢《ふげん》菩薩だ! すると、あの投げこまれた台座というのは……。
そこまで考えた時、海中に、何かのショックがつたわってくるのを感じて、彼はハッとわれにかえった。
あたりを見まわしたが、濁った海水の中に、青野と桐島の姿は消えていた。
彼は思わず二蹴り三蹴り、大きく水を蹴った。と……その時、彼は海中に、声にならない叫びのようなものを二度きいたように思った。
つづいて前方、F地区の奥の方で、ばりばり、と何かがつぶれるような音と、ぼつッ、というようなにぶい音がした。
はっとしたとたん、流れのない海中に、突然はげしい渦が起って、体がぐるぐるまわった。やっと手にふれた岩角にしがみつき、渦の流れが、なにかを頭上すれすれに押し流すのをかわした。
|こいつ《ヽヽヽ》だな……と、彼はマスクをおさえながら考えた。――きのう、畑野はこいつに出あい、こいつが押し流してきた|何か《ヽヽ》に、肋にぶっつかられたんだ。
渦がおさまったあと、海中の視野は一層わるくなった。――とたんに、先へ行った青野と桐島の事が心配になり、彼はふたたび水を蹴ってF地区の奥へと急いだ。
あまり急ぎすぎて、マスクの下の顔に汗が流れ、息が切れた。――彼はちょっとスピードをおとした。
まわりの水が、急にすみはじめた。――視野はいつの間にか、二十メートル以上になっている。
はっと気がついた時、彼は、見わたすかぎりの海底を埋めつくす、巨大な骨の平原の上に浮いていた。――ちょっと見た所は、海底の倒木林のひろがりのように見えたが、そのうっすらと茶色の泥をかぶった、まがりくねったものの一つ一つは、すべて巨大な動物の骨である事がわかった。今の渦のせいか、所々付着した泥がはがれて、白い肌がみえている。
あ、これが……と、彼は息をのんだ。……ついさっき、バミさんが言っていた……土地の古老が、昔見たという……鯨の墓場か!
だが、次の瞬間、衝撃は倍加した。――彼は思わず眼をこらし、その一つの巨大な頭骨らしいものの上におり、泥をこすった。
これは……鯨じゃない! と、彼は声もなく叫んだ。――象だ! 古代象《ヽヽヽ》だ! 鯨の墓場じゃなくて……この内湾は、巨大な、古代象の墓場だ!――パレオロクソドン・ナマディクス……通称ナウマン象……同じものを、ある地方の湖底で見、ひき上げ、学者の講義もきいたので、彼はすぐわかった。こんな浅い湾に、それほど深く埋もれもせず、こんなにたくさんの骨が沈んでいるとするならば、それはきっと、日本で最もふつうの化石象であるナウマン象のそれにちがいない。――かつて先輩にきいたが、瀬戸内海の明石海峡底に、これと同じような、「象の海底墓場」が見つかった、ときいた。かつて、古瀬戸内湿地帯は、大小の湖沼群と大森林におおわれた、古代象、シカ、クマなど、動物たちの楽園だった。旧石器時代人も、いや縄文人の一部も、そこで動物を狩り、生活を営んでいただろう。それがある時、大地震によって古瀬戸内盆地のどこかが裂け、一挙に海水が浸透し、やがて大海進とともに、海は、あの低地を完全に占領し……。この内湾でも、かつて同じような事が起ったのだろうか?
それとも、かつてこの内湾に流れこんでいた大河が洪水を起すたびに、巨象たちは溺れ、この内湾に死体が流れこんだのだろうか?
彼は呆然として、海底の象の墓場≠フ上をただよっていた。――現在からは信じられない事だが、つい一万数千年前、洪積世の末ごろまで、日本列島は「象の楽園」だったのだ。
ステゴドン亜科のステゴロフォドン象とパレレファス象は、日本で出る化石が世界最古のものだ。そのほか、ステゴドン象には、オリエンタリス、アカシエンス、シヨウドエンシス、カントエンシス、があり、またマンモス象、ゴンフォテリウム象など、実にたくさんの種類の象が、何十万年にわたって、この日本の地に住み、盛衰した。現在まで日本で出た象の化石は、二千体以上、二百五十種に及ぶ……。
そんな事をぼんやり考えている彼の眼の前に、白い、巨大なものの姿が、ふっと水の奥に見えた。――マスクがなければ眼をこすりたい所だった。
あれは……まさか、あれは……。
白い、幻のような、半透明のような姿は、ゆらりとこちらにちかづいて来た。
――悠然とふられる長い鼻と、六本の牙……とすると、あれは……。
ずん、と重たく冷たい衝撃が背筋を走り、彼は思わず水をのみかけた。
|六牙の白象《ヽヽヽヽヽ》、――それは……|普賢菩薩の乗物《ヽヽヽヽヽヽヽ》ではないか!
何も彼も一ぺんに理解できたようで、何一つ信じられないような気持ちだった。――あの、ものを知らぬ若い臨時雇いが、古い普賢菩薩の石像の台座の象の部分を海へ蹴こんだ。――その海は、鯨の墓場≠ニよびならされながら、実は古代象の墓場≠セった。そして、そこへ蹴こまれたあの菩薩の聖獣が今、その墓所≠荒されようとしている古代象たちを……まさか! 信じられない!
とはいうものの、あの会社の寮の前を上って行く道が、普賢菩薩を祭るこのあたりの古寺へ通ずる道だった事を思い出した時、理屈はどうであれ、彼は何をおいても逃げ出す気になった。
が、その時象の墓場の上の海中に、無数の、巨大な、|眼に見えない《ヽヽヽヽヽヽ》獣が、透明な大森林の中にかげろうのように立ち上り、ゆらめきながら、おしあいへしあい彼にむかって突進しようとしていた。すでに海底をふみとどろかす足音は、海水をはげしく振動させながら周囲にせまり、その嵐のような鼻息は、彼の顔面を吹き、その内のとりわけ巨大な一頭が、彼の頭上にのしかかるようにせまると見るや、その透明な鼻を高々とふり上げ、その鼻から、長い長い、きり裂くような、攻撃の叫びをあたりにひびかせたのだった。
[#改ページ]
ツウ・ペア
まっすぐ立っていられないほど酔っていたので、鍵が鍵穴になかなかはいらなかった。
汗のせいか、いやに右手がぬるぬるして、力がこもらないので、彼は掌を何度もオーバーにこすりつけたが、また鍵をまわそうとするとぬるりとすべる。
朦朧《もうろう》とかすむ眼で右手の掌をすかしてみると、何だか黒っぽいものがついている。
酔っぱらって歩いているうちに、塀にでも手をついて、タールでもついたのかな……と、彼は体をふらふらゆすりながら、頭の隅でぼんやり考えた。――そういえば、工事場の横で転んだような気もする。あの時、油のたまりにでも手をつっこんだのかも知れない。
誰かが背後から、じっと見つめているのを感じて、彼は知らぬ間にドアにくっつけていた頭をあげ、鉛のように重い眼蓋をむりに押し上げた。同じ階の、どこかの部屋の主婦らしい細面の女が、四、五メートルはなれた所に立っていた。――髪の長い女だ、という事はわかったが、顔は陰になって見えない。
「やあ……やあ……」彼は頭をぐらぐらさせながら手をあげた。「今晩は……ただいま……どうも、おさわがせしてすいません……」
彼が手をあげたのを見ると、女の姿は、何かにおびえたように、ふっと消えた。――部屋にひっこんだらしい。
ドアの鍵穴の横にも、黒っぽい|しみ《ヽヽ》がついてしまった。鍵はあいたが、今度は、ドアのノブがすべってまわらない。左手で、やっとまわしたと思ったとたん、頭からつっこむように、部屋の中にころげこんでいた。
自分の|いびき《ヽヽヽ》で、突然目がさめた。――とたんに襟もとがぞくっとして、大きなくしゃみがとび出した。
天井に青白く光る輪が見えた。二つになったり四つになったり、ふわふわと飛びまわったりしていたが、それがやっと二つの輪型の蛍光灯におさまると、今度は、チッ、チッ、とせわしなくひびく、目覚しのセコンドの音が、はっきりきこえてきた。その間に、ポツン、ポタン、と、水道の蛇口からおちる水滴の音が、ステンレスの流しに反響して、びっくりするほど大きくひびく。
部屋の中は、しんしんと冷えこんでいる。
肩がぎちぎちに凝《こ》っていると思ったら、オーバーを着こんだまま、畳の上にひっくりかえっていた。――靴さえ片っ方はいたままだ。
起き上って、靴を入口にたたきつける。――とたんに胸がむかついて、こめかみにずきんと、痛みが走った。明日は、宿酔いの、ひどい出勤になりそうだ。
ガスをつけ、オーバーをぬぎ、ネクタイをひきむしり、水道の蛇口に口をつけて、じかに冷たい水をがぶがぶ飲んだ。――大息を一つふうっ、とついて、額にかかる髪を手の甲でかき上げると、眼の前に、赤いものがちらついた。
彼は流しの前に立って、しばらくぼんやりと赤く染まった右手を見つめていた。――部屋にはいって寝こんでから、ずいぶんたつような気がするのに、血は、たった今ついたばかりのように、ぬれぬれと光っていた。
ふと気がつくと、シャツの胸の所にも、べたべた血の手型がついている。――この分だと、ドアの所にも、オーバーや上衣などにも、いっぱいついている事だろう。
血糊があまり新しいので、自分が掌かどこかを怪我《けが》したのだ、と思って、彼はいそいで水道をひねって手を洗った。血はみるみるおちたが、掌も手首も、どこにも切り傷はなかった。そのかわり、手の甲に、三筋の、爪でひっかいたようなみみず脹《ば》れが見えた。――が、血は出ていない。
いったい、どこでこんなに大量の血が、手についてしまったのか?
工事場でころんだ時、交通事故の血溜りにでも手をつっこんでしまったのか?
かすむ頭で、彼は駅をおりてから、団地にかえりつくまでの事を思い出そうとした。駅にタクシーがなくて、歩き出してから、途中で辻をまちがえて畠の中にまよいこんでしまい、そこからまたひきかえして、工事場の横を通り……、終電に乗る前についたという事はあり得ない。改札を出る時、定期券をしっかり見せなかったというので、駅員に腕をつかまれた。もう一度、駅員の前で定期をふって見せたが、その時は血などついていなかった。もしその時ついていれば、こちらが酔っぱらっていても、誰かがきっと注意してくれたろう。
とすると、やはりころんだ時だろうか?
それにしても、どうして血糊があんなにあたらしかったのだろう?――そもそも、これはいったい、何の血か?
白くふやけた掌を眼の前にあげて、何という事なしににぎりしめてみた。大きな蜘蛛《くも》のようなそれは、五本脚をぐっとちぢめる。
突然、どこか、ずっと遠くで、魂消るような女の悲鳴がきこえたような気がして、彼はぎょっとしてまわりを見まわした。――が、どこで聞えたわけでもなく、頭の中にひびいた幻想だという事は、自分でもすぐわかった。肩で息をついて、手をおろそうとすると、凝りかたまったように腕が動かない。指も、ぎゅっとこわばって開かない。
まだ血のこびりついている爪の間に何かがはさまっている。――ふるえる左手の指で、つまみとってみると、五、六十センチはありそうな、細く、長い、女の髪の毛だった。
髪の毛をとりさると同時に、右手の緊縛はとけた。ずきずき痛む眼で、その長い髪の毛を呆然と見つめていると、まだうす赤い色がかすかにのこるシンクの排水口の所にも一本、同じように長い髪の毛がうねっているのに気がついた。
「多木くん……」
と提出した書類に眼を通していた課長が突然びっくりしたようにいった。
「は?」
寝不足でいつの間にかぼんやりしていた彼は、はっと我にかえって、立っている課長の机の前で背筋をのばした。――なにか、ミスがあったか……。
課長の隣の係長が、こちらを見ている。まわりの、いくつかの視線が、彼にそそがれていた。
「その手はどうした?」
はっとして視線をおとすと、右手がまっかだった――彼はまっさおになった。傍の女事務員が、小さな悲鳴をあげた。彼は、おろおろして、なんとかその手を、まわりの視線からかくそうとした。
「だめよ、多木さん……」と、背後から手がのびて、彼の腕をささえた。「シャツにつくわ」
「怪我したんだろう。早く医務室へ行きたまえ」
と課長はいった。
彼は血みどろの右手を、思わずかたくにぎりしめた。怪我でない事は、どこにも痛みを感じない事からすぐにわかった。
「上にあげた方がいいわ、またたれてくると……」
とお節介のハイミスが、彼のシャツの袖をまくり上げながらいった。「私、ついてってあげましょうか」
「いいんだ……」彼は狼狽しながら、ふりきるように課長の前をはなれた。「自分で行けるよ。子供じゃあるまいし」
「飲むのもいいが、宿酔いするほど無茶飲みをするなよ」課長が声をかけた。
「書類ミスぐらいならどうってことはないが、大怪我して気がつかないなんて事になると命にかかわるからな」
笑い声が上るのを背にききながら、彼は事務室をとび出した。にぎりしめた右手を、左脇の下にかくすようにしながら、エレベーターの前を走りぬけ、階段をかけ上る。その階の洗面所は、いつも誰かはいっている。二階上の、役員室がある階のものなら、大てい誰もいない。
階段をかけ上って息を切らせながら、彼は人気のない廊下をしのぶように足早やに歩き、洗面所のドアの外で、そっと中の様子をうかがい、人の気配がない事をたしかめて、すべりこんだ。
水をはねかえるほど出して、半まくれのシャツの袖がぬれるのもかまわず、彼は肘の関節ぐらいまでごしごし洗った。水を勢いよく出したのは、赤く染まるのを見るのが何だかこわかったからだった。
血は、たった今ついたばかりのように、ぬらぬらしていた。石鹸液をたっぷりつけ、思いっきりごしごし洗って、爪の間にこびりついていないかたしかめようとすると、そこにまた|それ《ヽヽ》があった。
細く、長い、かすかに赤みをおびた女の髪の毛……。そして、手の甲の三筋のみみず脹れ……。
ふいに横の洗面台に、人影が立ったので、心臓がのどにとび上るくらいおどろいて、ふりかえると、隣の課の、同じ大学の先輩の奈良崎が、水道の栓をひねっていた。――背後で洋式便器の中を水洗の水がおちる音がしていた。誰もいないと思ったが、奈良崎がはいって扉をしめていたのに気がつかなかったのだ、とわかった。
「怪我かね?」伊達男の奈良崎はぬれた手をぬぐうと、ボウタイをちょいとなおしながら、鏡にむかっていった。
「ええ……いや……」
「ずいぶん熱心に洗ってたな……」奈良崎は、ニヤッと笑った。「なんだか|マクベス夫人《ヽヽヽヽヽヽ》を思い出させたぜ」
返事のしようがなくて、彼はほとばしる水の中で、やたらに手をもんでいた。――もちろん、爪にはさまった髪の毛は、水の中でとって流してしまった。
「君もこの階のトイレを使うのかい?」奈良崎は、ネクタイのつぎに、襟を下にひっぱりながらいった。「おれもさ。混んでなくていいよな。悠々と瞑想にふける事ができる」
お先に、といって奈良崎が出て行ってしまったあと、やっと彼は水をとめた。――ハンカチで冷たくなって色の変った手をぬぐって、ふと洗面台をのぞくと、あれほど強く流しつづけたのにもかかわらず、あの長い髪の毛は、真っ白な陶器の上に、ゆるくうねってへばりついていた。
階段を一階おりる間に、彼はこのままでは、課にかえれない事に気がついた。――その階からエレベーターにのって、彼は六階の診療所へ上った。さいわい、一、二度デートした事のある、かわいい、気だてのいい看護婦がいたので、彼は衝立ての向うにいる医師に気をくばりながら低い声でいった。
「繃帯《ほうたい》を一巻きくれないか?」
「どうしたの? 怪我?」と看護婦はよく通る明るい声でいった。「出しなさいな、見てあげるわ」
しっ、と彼は唇に指をあてた。
「薬はいいんだ。――繃帯だけくれれば……」
「いったいどうしたのよ。どこを怪我したの?」
「君に見せられない所さ――おちんちんだ」
「ばか!」
少し顔を赤くして、ぴしゃりと彼の腕をぶつと、看護婦はケースをあけて繃帯の包みをとり出した。
「本当に繃帯だけでいいの?――一体何にするの?」
彼は繃帯の包みをうけとって、ちょっと考えた。
「やっぱり、薬をぬってもらおうかな……」
「それごらんなさい」クスッと笑った看護婦は、しかし、彼のつき出した右手を見ると、けげんな顔をした。
「どこを怪我したのよ」
「してやしないさ」彼は無理に笑いをうかべながらいった。「実は、今日の午後テニスの試合を申しこまれていてね。出たくないんで……その口実づくりさ」
「あら、多木さんもテニスやるの?」外用薬の壜《びん》をとりよせながら、看護婦はいった。「私も少しはやるのよ。いつか、お手合せしたいわね」
クスクス笑いながら、手ぎわよく繃帯をまきおわると、突然看護婦の眼の光がつよくなった。
「やだ……」と、彼のシャツの胸もとに指先をのばしながら、看護婦はいった。
「こんな所に、女の人の髪の毛つけちゃってさ、――ごちそうさま」
誤解だよ、という声は、口の中だけで、とうとう唇の外に出なかった。――彼は自分の顔がまっさおになり、冷や汗がふき出した事をさとられまいと、くるりと背をむけると小走りにかけ出した。眼の隅に、ぷっとふくれた看護婦の顔がちらとうつった。
課の部屋にはいる前に、彼は呼吸をととのえ、汗をぬぐい、顔をこすって血の色をよみがえらせた。
「ひどい怪我だったかね?」
机へかえって行こうとすると、課長が声をかけた。
「いや……大した事はありませんでした」彼はこわばった笑いをうかべながら、かすれた声でいった。「知らないうちに、どこかにひっかけたらしくて……」
「顔色が悪いぞ……」と課長はいった。
「なんならちょっと休んできたらどうだ?」
それほどの事はありません、と呟きながら、彼はそっと机の下にかくした右手を見た。今巻いたばかりの繃帯に、また血がにじんではいないか、と思ったのだった。
繃帯は、まだまっ白だった。
それはよかったが、今度はもう一つの事が思い出されて来て、彼は全身の血が、ずしりと重く、足の方に沈んで行くのを感じた。
それでは――今朝《ヽヽ》、また右手が血まみれになっていたのは……あれは、ゆうべ酔っていて、洗ったつもりで洗い忘れたのでは決してなかった。
右手は、寝ている間に、再び血まみれになっていたのだ!
それにしてもこの血は……と紫色にせばまり行く視界を、必死にふみこらえながら、彼は胸の底でつぶやいていた。……いったい、|どこから《ヽヽヽヽ》くるのだ? そして、あの|髪の毛は《ヽヽヽヽ》。
バーも麻雀もことわって、その日は会社がひけるとまっすぐアパートへかえった。
かえりついた時は、もう外はまっ暗だったが、酔ってない眼で、もう一度ノブのまわりをたしかめると、今朝拭きとったあとに、まだうっすらと血痕がついている。――中にはいって、風呂場をのぞくと、前夜血まみれになったシャツは、浴槽の冷水の中で、ほとんど血の色を失っていた。血のついた上衣とオーバーは、まだそのまま戸棚に吊ってある。オーバーが着られないため、その日は、この寒空にトレンチコートで出勤したのだ。
繃帯を見ると、果して|もう《ヽヽ》、血が中心部ににじんでいた。――繃帯をはずし、いつの間にかまた血まみれになった手を、今度はすぐに洗わず、しげしげと眺めた。
血にまちがいない。鼻を近づけると、ぷんとなまぐさいにおいがする。
洗いながして、爪の間をながめると、今度はあの髪の毛ははさまっていなかった。
湯を沸かし、茶を入れ、ターミナルのデパートで買って来た弁当を食いはじめた。――途中で思い出して、ウイスキーをひっぱり出して水割りをつくり、それをあおりながら食べた。できるだけにぎやかにしたいので、テレビはつけっ放しにしておいた。――酔いがまわり、腹がくちくなってくると、少しは気分がおちついた。
血が、どうだというのだ?――別に実害はない。ひょっとすると、掌の毛細血管から、自然に血が噴き出す奇病かも知れない。そうだ、明日、医者に行ってみよう。……人間の体にできた腫《は》れ物から、本物《ヽヽ》の天然綿の繊維が噴き出す「綿ふき病」という奇病さえあるのだ。掌から血がにじみ出るぐらい、大した事はない。
髪の毛は?
三回とも偶然《ヽヽ》だろう――と、彼は自分に強弁しようとした。――そういえばゆうべ、この階のどこかに住んでいるらしい、髪の毛の長い女が、酔っぱらって鍵をあけようとしているおれの事を見ていたっけ……。あの女、梳《す》き毛の始末が悪くて、それが風にとばされて、この部屋にどこからかまぎれこみ……服にでも、たくさんついているんじゃないかな?
テレビの白痴的お笑い番組のにぎやかさに元気づけられて、その強弁もなんとか飲みくだせそうだった。――彼は、グラスをのみほし、熱い茶を湯のみに一ぱいつぐと、のこったおかずで、冷えた飯をかきこみはじめた。――二口、三口、ほうばった時、舌の先になにかざらっとしたものがふれた。指を口につっこもうとすると、口から何かが糸をひいた。
つまんでひくと、飯の中から、細く、長い、やや赤らんだ女の髪の毛がずるずるとひき出されて来た。
しばらく、凝然と、その三、四十センチほどの髪を見ているうちに、彼はあついものでも手にふれたように弁当折りを膳の上にほうり出し、ウイスキーをグラスにどくどくつぐと、生《き》のままでぐいとあおった。
あまりの胸苦しさに、思わず大声で叫ぼうとして眼がさめた。――部屋の一角から、はげしい雑音とともに、青白い光が横ざまにさしている。テレビをつけっぱなしのまま眠ってしまったらしい。いつ蒲団を敷いてもぐりこんだのかおぼえがないが、ちゃんと蒲団はかけている。が――そのかけ蒲団の裾《すそ》から胸にかけて、なにか石のように重いものがずっしりとのっていて、おしつぶされそうに息苦しい。叫ぼうとしても声が出ない。
突然、全身にどっと冷たい汗がふき出した。
蒲団の裾の方に、誰《ヽ》かが立っている!
テレビからさす青白い光が、かろうじて、その足もとをかすかに照らし出すだけで、顔はもちろん、姿形はほとんどわからない。が、ほそい、背の高い影が、ぼうっと部屋の隅の暗がりの中につっ立っている。
「誰だ!」
と声が出たとたん、胸から裾へかけての重みがすっとなくなった。反射的にはね起きたが、全身はまるで電気にかかったようにはげしくこまかくふるえ、膝ががくついて立つ事もできないほどだった。カタカタカタとかわいた音をたてて、歯が鳴っていた。黒い影は、まだ部屋の隅に朦朧《もうろう》と立っている。そのあたりから、全身を総毛立たせるような冷気が、流れ出してくるのだった。――じたッ……じたッ……というような、はだしの足でしめった畳をふむような、かすかな音が、その影の方角からきこえる。
「誰だ!……そこにいるのは誰だ……」
彼は、かすれた声でもう一度叫んだ。叫びながら、まるではうようにして、壁のスイッチをさぐった。
部屋の隅には誰もいなかった。――今の今まで、その一角から吹き出していた冷気は、明りがつくと同時にふっと消え失せた。だが、ぼたっ……ぼたっ……という音は、なお蒲団の裾の方からきこえ、畳の上に、どろりとした赤い斑点がひろがりつつあった。
彼は天上を見上げた。――白っぽくぬられた天井のどこにも、血のしたたってくるあとはない。にもかかわらず、ぼたっ、と音がして、畳の上に、また小さな赤い花が咲いた。彼は思わず、血溜りの上に手をのばした。――ぽつっ、となまあたたかい血の滴が、掌の上におちた。つづいてもう一つ……。彼はさし出した手を、次第に上にあげて行った。二つ、三つ、と、血の花びらはふえて行った。が、ある高さになると、不意に血の滴はおちてこなくなった。今度は徐々に手をさげて行くと、またポツリと、なまあたたかいものが掌をうった。
血は、畳の上七、八十センチほどの高さの、|何もない空間から《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》したたりおちている。
ふわり、と何かがひろげた指にからまった。――細い、三、四十センチほどある髪の毛だった。
人さし指にからまって、すうっと下にたれた髪の先を見おろすと、畳の上の血溜りの傍に、二筋の髪の毛が、蛇のようにうねっていた。
「掌の皮膚に異常はない……」と加賀見医師は検査室から出て来ながらいった。「汗腺も毛細血管もごく正常だ。――色汗症といって、色のついた汗が出ることもあるが、それでないのは勿論だし……第一、あの血液はAB型だ。|君の血じゃない《ヽヽヽヽヽヽヽ》」
「だから、はじめから言ったでしょう!」彼は傍の奈良崎をふりかえって、叫ぶように言った。「あの血は、掌から噴き出すんじゃないんだって……」
「とすると、いよいよ怪談か……」奈良崎は、鼻の頭を掻いた。「怪談といっても、いろいろあるぜ。――聖痕≠ニいうのを知っているかね? ヨーロッパじゃよくあるが、健康な人間の掌や、足の甲に、何で切ったわけでもないのに、突然傷ができて血が噴き出すんだ。それがちょうど、キリストが磔《はりつけ》にされた時、釘をうたれた箇所にあらわれるので、聖痕≠ニよばれている……」
「ヨーロッパも、地方へ行けば、まだまだ未開だからな……」と奈良崎と同期の加賀見医師は、眉をしかめた。
「信心きちがいが、ヒステリー発作を起して、無意識のうちに自分で傷をつけるんだろう」
「ところがそうも言われん所があってね……」妙な趣味で、世界中の奇現象についてよく知っている奈良崎は眉をすくめた。「君たち医師の、合理的説明って奴を、まるきりうけつけない現象もあるんだ。――クラリタ・ヴィラノヴァ事件というのを知っているか?」
「知らんな。なんだ、それは……」
「一九五一年五月十日、十一日と二日にわたってマニラ市で起った事件だ。クラリタという十八歳の少女が、突然|眼に見えない何ものか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》におそわれ、かみつかれた。その歯型が、体中何箇も、警官、マニラ警察署長、監察医、マニラ市長の見ている前であらわれたんだ。二度目は法廷で新聞記者が見ている前で起った。三度目はマニラ市長が少女の腕をおさえていたが、|その手の下で《ヽヽヽヽヽヽ》、歯型があらわれた……」
「信じられんな、そんな事……」と加賀見医師は横をむいた。
「じゃ、自分でマニラへ行って当時の記録をしらべるんだな。新聞記事にも、警察の公式記録にものこっている。――多木は、昨日の晩、部屋の中の、|何もない空中から《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、血がわいてしたたりおちた、と言っていたな……」
「ええ……」
「それも似たような話がずいぶんある。――広義の騒霊現象《ポルターガイスト》≠ニよばれるものの一つだがね。ポルターガイスト現象というのは、大昔から人間によって知られ、|現在なお《ヽヽヽヽ》、世界のどこかで起りつづけ、科学者や警察によって、目撃されていながら、まだどんな科学的説明もつけられていない、もっともポピュラーな奇現象だ。日本でも戦後起っているよ。関西在住の歴史小説家で有名なS氏は、終戦後間もないころ、京都市北郊、大原雲ガ畑の寺でそれを目撃して記事を書いているし、昭和三十二年一月に青森県北津軽郡で八日にわたって起ったのも、大勢の人間によって目撃されている。東北は座敷ぼっこ≠ネどという現象が多い所だからな……」
「やはり、|血も《ヽヽ》降るんですか?」
「血の話は聞かないが、|何もない空間から《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、岩だの小石だのが降ってくる、という事件は、世界中にいやというほどある。――日本でも富山県にそういう事がよく起る村があるが、一番有名なのは、一九五七年三月七日、アメリカのパースという街で起った現象だ。その時は、ペニーという青年の仮住いの|テントの中で《ヽヽヽヽヽヽ》、高さ一・八メートルほどのなにもない空間から小石がふり出し、日中数度、一回五分ほど降りつづけた。新聞記者十名、見物人五百人の見る中で、その現象はつづき、記者や警官がテントの内外をしらべたが、テントには穴もあいておらず、すきまもなかった。この現象は三十五日間もつづき、ペニーというその青年についてまわった。また、乾いた壁から突然水が噴き出し、壁をこわしたが、中には水道管も雨もりもなかった、という事件が一九六三年九月二十七日、アメリカのマサチューセッツ州メチューエン市のマーティン邸で起っている……」
「どうも、これは……そんなのじゃないみたいです……」と多木は青い顔でつぶやいた。「たしかに……あれは、女の幽霊でした。幽霊が……ぼくにたたっているんです」
「なにかおぼえがあるか?」
「まさか……」多木はぎょっとして、青ざめた。「……何のおぼえもありません」
「じゃ、なぜ、君にたたるんだろう……」奈良崎は首をかしげた。「今夜も君の部屋に出るかな?――ぼくが泊ってやろう」
「それより二人とも、紹介状を書いてやるから、精神科へ行ってみたらどうだ?」加賀見医師はうんざりしたようにいった。「頭がおかしいんじゃないか?――ばかばかしい」
「じゃ、君はこれをどう説明するんだ」奈良崎はいきなり多木の右手をつかんで、ぐいと医師の方につき出した。
「つい一分前まで、きれいに洗われていた事は、君も見ていたろう?――皮膚組織をきりとったあとからの出血だ、と思うなら血液型をしらべてみろ。手品じゃない、彼の体のどこに、そしてこの部屋のどこに、これだけ大量のAB型血液があるか、さがしてみたらいい」
|たった今《ヽヽヽヽ》、血みどろになった多木の右手を見て、加賀見医師はさすがに顔色を変えた。
奈良崎はその土曜日の夕方、アパートへ来た。――店屋物《てんやもの》で食事をすませ、少し飲み、テレビを見、時間つぶしに二人でカードをはじめた。わずかな金をかけてブラック・ジャックでやりとりし、途中でドロウ・ポーカーに切りかえた時は、もう十時をすぎていた。奈良崎はブラフの名人で、何とかその裏をかこうとしているうちに、次第に夢中になって来た。
何十回目かの勝負で、奈良崎がコールし、彼が手をさらした。――クラブとスペードのキング、ダイヤとハートのクインのツウ・ペアのカードの上に、なにかがポトッとおちた。彼は、はっとして宙を見上げた。
「はじまった……」と彼はかすれた声でいった。「……ようです……」
キングの剣をもった手の上に、ぽつりと赤い汚点ができた。つづいてもう一枚のキングのカードにも、……それにつづいて、ハートのクインの胸にも、じわっ、と血の斑点《しみ》がうかび上った。つづいてダイヤの方も……。
それを見た時、彼の中に、ずきん、と名状しがたい衝撃が走った。
|ツウ《ヽヽ》・|ペア《ヽヽ》……。キングの血ぬられた手と、クインの血のにじむ胸……。
ぼたっ……。
と、奈良崎の背後で、畳の鳴る音がした。部屋の一角から、水のような冷気がふうっ、と吹き出した。
「はじまったか?」奈良崎は、襟をすくめながら天井を見上げた。「どこに?」
「うしろ……」彼はこまかくふるえながら指さした。
入口のドアのついた壁と、押入れとのつくり出す角の所の畳の上に、もう三つ、赤い、丸い点ができていた。――血の滴は、はっきり、畳から八十センチほど上の空間にふいにあらわれ、落下し、畳の上に、ぼたっと音をたてる。
さすがの奈良崎も、紙のような顔色になって、その血の滴のあらわれる空間を凍りついたように見ていた。――意を決したように立ち上ろうと奈良崎が膝をたてたとたん、電圧が下ったように、蛍光灯がぶん、と音をたてて暗くなる。思わず見上げる二人の頭上で、蛍光灯は、ぼうっと光力を弱めて、ふっと消えた。
多木はとうとう、見栄も外聞もなく、悲鳴をあげた。
明りの消えた真の闇の中に、ちょうど血のおちていた部屋の隅の所に、ぼんやり若い女の姿がうかび上った。――肩から背へすべる長い髪、藍のようにまっさおな顔、なめらかな卵型の顔に、ほそく弧を描く眉、通った鼻筋、くろずんだハート型の唇……瞳のないうつろな眼は、ひたと彼の方にむけられ……黒い裾をひくマキシドレスの左胸には、深々と何かの刃物がつきささり、そこの傷口から、燐光を放つ血が、闇の中で赤く燃えながら、ぽたり、ぽたりとしたたりおちる。
女は突然、苦悶にその美しい顔をゆがめた。
唇がいっぱいにひらかれ、その部屋の中ではない、二人の頭の中に、すさまじい断末魔の悲鳴が、長く長くこだましたかと思うと、女の姿は、くずれおちるように消えた。
なぜ、そんな所を歩いているのか、自分でもはっきりしなかったが、彼は、日曜の午後の人出で雑踏する目ぬき通りを、宿酔いと寝不足に朦朧とする眼を必死になって見開きながら歩いていた。――前夜、とうとう恐怖のあまり、自分の部屋を出て、その大都市にある奈良崎のマンションにとめてもらった。酒をあびるほど飲んだのに眠れず、やっと夜が明けてから、一、二時間まどろんだだけだった。眼がさめると、奈良崎は、その日に約束があったのか家族ぐるみ出かけており、テーブルの上に置き手紙があったようだが、見もしなかった。そして、気がついた時には、奈良崎のマンションからほんの二丁ほど先の、デパートや高級品店のならぶ通りをふらふら歩いていた。
うす曇りの二月の厳寒の中で、彼は全身、ねとねととした脂汗にまみれていた。――無茶飲みしたウイスキーが体の中にのこり、顔がもえ上っているようだった。ひっきりなしに汗を流しながら、彼はふらふらと雑踏にぶつかりながら歩いていた。
どうして洋品店のウインドウの前などに立ちどまったのかわからなかった。――なにか、ぶつぶつつぶやきながら、彼はガラスに顔をくっつけるようにして、舶来の生地や、ゴルフ用具をながめているだけでなく、どうして中へはいって、カウンターの所に立ったのか、店員から、「なにか……」と声をかけられるまで気がつかなかった。
その時になって、やっと、自分がずっと前から、外国ものの、大型の裁物鋏《たちものばさみ》がほしかった事を思いだした。アパートに、小さな鋏はあったが、彼は子供の時から、大型の、洋裁用の裁物鋏の爽快な切れ味が好きで、小包みの紐を切ったり、新聞の切り抜きをする度に、いつか閑を見つけてそれを買いに行こう、と思っていた。
そのウインドウに、彼の欲しかった鋏があり、カウンターの下のガラスケースに、それがいくつかならべられていた。
「はい……」と店員は言って腰をかがめ、カウンターの上に、二つ、三つとならべて見せた。「これはドイツ製、こちらはスエーデンのもので……専門家のお使いになる品でございます」
ふらつく体をカウンターにささえ、彼は一番大型のものをとりあげて、皮のケースをはずした。
その時、入口の方から、黒い、細い体が店内にはいってくるのが、眼の隅に見えた。
その娘の視線が、彼の横顔に凍りつくのに気がつかなければ、そちらをふりかえらなかったかも知れなかった。――ともすれば、朦朧としがちな眼をしばたたいて、入口の方に顔をむけた時、黒いセーターに黒のパンタロンをはき、黒いマキシコートのボタンをはずした若い娘の、恐怖にみちた視線ともろにぶつかった。――肩から背にすべる長い髪、卵型のなめらかな顔、細い弧を描く眉、通った鼻筋、ハート型の唇……。
彼の中に、どしん、脊椎をどやし上げるような衝撃が走り、視界がにわかにはっきりした。最初、鳩尾《みぞおち》の凍るような恐怖が、つづいてはげしい驚愕が、そして徐々に怒りに似た感情が、こみ上げた。
昨夜、彼の部屋に出た幽霊女《ヽヽヽ》だ!――彼女は……|生きている《ヽヽヽヽヽ》!
娘の唇が、わなわなふるえながら悲鳴を上げるようにゆっくり開かれた。蝋のようになった美しい顔は恐怖にこわばった。悲鳴を上げるかと思った一瞬、娘はマキシコートの黒い裾をひるがえしてパッと外へとび出した。
「おい、君!」彼は大声でどなった。
「待ちたまえ!」
体の中にのこっていた酔いが、一瞬怒りとなって燃え上った。――背後で店員が何か叫んでいたが、耳にはいらなかった。昨夜の幽霊女が、|生きていて《ヽヽヽヽヽ》、この日曜の午後の街を歩いていた事、そしてむこうが、明らかに彼の顔を見て、恐怖の表情をうかべ、逃げ出した事が、一瞬、宿酔いに機能の低下した彼の理性を失わせた。あの幽霊が、生きている女性だった以上、これは誰かが――何のためか知らないが――彼がおどかそうと、人為的《ヽヽヽ》にしくんだトリックにちがいない、と思ったとたん、彼は爆発的な怒りにかられたのだった。――鍵のかかった部屋への幽霊の出し入れ、血と、髪の毛の不可解な出現といった事は、その時彼の頭になかった。ただただ、あの娘が、何か|汚いお芝居《ヽヽヽヽヽ》の一味であり、今こそつかまえて泥を吐かせてやる、という事だけで頭が一杯だった。
雑踏にぶつかりながら、彼は猛烈な勢いでダッシュした。まわりの悲鳴や怒声など耳にもかさず、彼は十メートルほど先にひるがえる、黒いコートの裾めがけて走った。流行の、踵《かかと》の太いハイヒールでかけている娘のスピードは眼に見えておちはじめた。一度、腕に手がふれたが、もぎはなされた。
「助けて!」娘は金切り声で叫んだ。
「殺される!」
「おい!」と誰かが、彼の腕をつかんだ。「待て!――何をするつもりだ」
その腕を体をふってふりはらっている間に、娘は四、五メートルひきはなし、角をまがろうとしていた。彼は歩道を蹴って、一気に間をつめた。
角を曲った所が、工事中で、車道、歩道ともに通行止めだなどとは思っても見なかった。勢いつけて角を曲ったとたん、通行止めのため、走ってひきかえしてくる娘と、出会い頭にはげしく正面衝突した。もつれあってたおれそうになるのを、やっとこらえて、彼は娘の細っこい体を乱暴につかまえた。
「おい、君!」と彼は眼にはいる汗に、眼をしばしばさせながらどなった。「なぜ逃げた?」
娘は、彼の腕の中で、恐怖のために石ころのようになった眼を見ひらき、色を失った唇をわなわなふるわせながら、かすれた声でいった。
「おねがい……殺さないで……」
次の瞬間、その顔は苦悶のためにくしゃくしゃにひきゆがんだ。歯をくいしばるようにすると、彼の右手の甲を爪をたててかきむしり、ゆっくりくずれおれるように歩道にたおれた。
その時になって、彼は自分の右手をひたす、ぬらぬらしたもののぬくみに気がついた。曲ったままこわばった指は、娘の胸から流れ出した熱い血に染まり、爪には一本の長い、細い髪の毛がはさまっていた。手の甲の三本のみみず脹れと、あおむけにたおれた娘のセーターの左胸に、深か深かとつきささったドイツ製の鋏を見くらべながら、彼は背後で、通行人の女がたてている鋭い悲鳴を、ぼんやりときいていた。――その悲鳴は、今度は、|頭の中《ヽヽヽ》ではなく、現実の、うす曇りの凍てついた空の下、ビルの谷間に、長々と、サイレンのようにひびいているのだった。
「どうして彼女が……」と拘置所の面会室の金網の向うで、彼はつぶやいた。「まだぼくに|殺されないうち《ヽヽヽヽヽヽヽ》から、ぼくにたたったのか――|死ぬ前に《ヽヽヽヽ》幽霊となってあらわれたのか、どうしてもわかりません……」
「彼女の友だちの話だと、彼女も、君とであう二、三日前から、若い男に殺される夢を見ておびえていた、というな……」奈良崎は沈痛な調子でいった。「彼女の友だちからきくと、彼女の語っていた夢の中の殺人者≠フ年恰好、背丈、人相は、君にぴったりだ。だからあの店で君にばったりあった時、彼女はおびえて逃げ出したんだろうな」
「それはまだわかります。――先輩からきいた、予知とか、予夢とかって奴でしょう。特に事故なんかで死ぬ人が、そういう夢をよく見る、って話は先輩からたくさん聞かされましたね。しかし……ぼくの場合は、いったいどうなるんでしょう? まだ殺してもいないうちから、どうして死んでいない女の幽霊にたたられたんでしょうね。……有罪はしかたがないが、その事だけがどうもすっきりしない……」
「その事についても……ある程度、わかったつもりだが……」奈良崎はためらいながらいった。「君には――兄弟はいるかね?」
「いません」多木は首をふった。「ぼくは産みの親が二人とも、赤ん坊の時死んで、多木家の養子になったんです。その養父母も大学の時相ついで死んで――遺産はかなり残してくれましたが――養父母にもほかに子供はいませんでしたから……」
「君は、実家の戸籍謄本を見た事があるか?」
「いいえ、抄本ばかりです――養家のなら見たような気がしますが……」
「死亡抹消されているから、原簿を見ないとだめだが――君には、実は兄弟がいたのだ」
「ああ……そんな事を、ちらときいたような気もしますが……」彼は、遠くを見るような眼つきをした。「赤ん坊の時死んだんです」
「ところが、死んでいなかったんだ……」奈良崎はいった。「|今は《ヽヽ》……死んでるがね」
「へえ……」多木の眼に、かすかな動揺が起った。「ほんとですか?――しかし、たとえぼくに兄弟がいた所で、それがどんな関係があるんです」
「君の兄弟は、――兄さんだが、生れたのは、君と同じ年の同じ月、同じ日だ……」奈良崎は、絶句した彼の顔に、じっと眼をすえた。「そう――君たちはふた児……それも一卵性双生児だった……」
「|ふたご《ヽヽヽ》ですって?」多木の声は高くなった。
「……一卵性……双生児ですって?」
「ああ……もっと奇妙な事に、君に殺された彼女の方も、同じような事情があった。――彼女にもやはり一卵性双生児の姉がいた。しかし幼い時わかれて、お互い知らなかったらしい。……」
多木は金網を両手の指でぎゅっとつかんだまま、絶句した。――唇が色を失って、かすかにふるえていた。
「|その事件《ヽヽヽヽ》をしらべるために、北海道まで行って来たよ……」奈良崎は、ふっと溜息をついて眼をそらした。
「君が、あれをやってしまうきっかり一年前、君の兄さんは、洋裁学校にかよっていた彼女の姉さんを、洋裁用の鋏でさし殺している。無理心中だった……」
「そんな……」彼は視線のさだまらなくなった眼を、キョロキョロと天井や壁に走らせながら、しわがれた声でつぶやいた。「|コルシカの兄弟《ヽヽヽヽヽヽヽ》……いや……だって、一年もたって……」
それから多木は、眼を宙にすえたまま、またしばらく絶句した。――しばらくして、彼は、変に沈んだ、低い声でつぶやいた。
「じゃ……ぼくの所へ出たのは……ぼくのふた児の兄貴に殺された、彼女の姉《ヽ》の幽霊なんですか?」
「そう考えていいだろうな……」奈良崎はうなずいた。
「しかし、なぜ……」叫ぶように大声でいいかけて、多木はまた沈んだ声でつぶやいた。「|なぜ《ヽヽ》なんだ?――なぜ、彼女の姉は……ぼくにたたらなきゃならないんだ? 関係ないのに……」
「君の兄さんに殺された時、彼女には、結婚する約束までした恋人がいた……」と奈良崎はいたましそうにいった。「それに……君の兄さんとちがって、女の方はすぐ死ななかったそうだ。一時間ほど生きていた。――その間、大変苦しみ、なぜ死ななきゃならないのか、これから、やっと幸福な生活をはじめようとするのに、死ぬのはいやだって……大変泣きさけんだそうだ。手術をしようにも麻酔がちっともきかず、最後まで泣きさけんだ、と病院の方ではいってたよ。麻酔がきかなかったため、死んだようなものだそうだ……」
多木は、猿のように金網につかまったまま、うつろな眼を見開いていた。
「君の兄さんは、もう一つの鋏で心臓をついて、こちらは即死だったからな……。つまり……女の方は、怨みを晴らそうと思っても、たたる相手が|この世にいない《ヽヽヽヽヽヽヽ》のだから……」
「それにしても……」彼はうつろな眼をしたまま、かすれた声でつぶやいた。
「……なんてひどい……理不尽な……なぜ妹《ヽ》まで犠牲に……」
「妹の方も、あつあつの恋人がいて、もうじき結婚する事になっていたそうだ。――一卵性双生児の姉の、嫉妬――なのかね……」奈良崎は、ハンカチを出して、そっと汗をぬぐった。
「生きてるって事は……厄介な、恐しい事だね。自分が全然知らない事で……思っても見ない事で、直接の責任は何もないのに、知らぬ間に他人に怨まれている、という事が、よくあるにちがいない。ずいぶんひどい話だが……女の世界なんて、美人であるという事だけで、……幸福であるだけで、憎まれたり、嫉妬されたりする事がしょっ中だからね……」
「|ツウ《ヽヽ》……|ペア《ヽヽ》……」
と、突然多木がしわがれた声で言って、低く笑った。
「この事は一応弁護士には話しておいたが……」腰を上げながら奈良崎は、自分に言ってきかせるようにつぶやいた。
「弁護の材料にゃならんだろう。――|たたり《ヽヽヽ》とか、因縁といった事を判定に加味するようには、今の裁判はできていないからな」
「ツウ・ペア!」
いきなり大きな声でどなると、多木は大声でゲラゲラ笑いはじめた。――看守がけわしい顔をして、近づいてきた。
あんな話をきかせて……狂ったかな?
と、ゲラゲラ笑いながら、二人の看守に腕をとられて面会室を出て行く多木を見送りながら、奈良崎は思った。もし、狂ったなら――せめて一人は助かるわけだ。
だが、多木は狂わず裁判をうけた。
――そして、すすんで本人も有罪をみとめ、実刑を申しわたされた。
一年たって、社の方に突然、顔色の悪い男の訪問をうけた奈良崎は、その、多木と同室で仮釈放になったという男から、元気にやっている、超自然現象の本をさしいれてほしい、という多木の言伝《ことづ》てと、彼が模範囚で、その日から、縫製工場の方に作業がかわる、という消息をきいた。――縫製工場ときいて、ぎょっとして、奈良崎は急いで刑務所に電話をかけた。ひょっとすると間にあわないかも知れない、という予感におそわれながら……。
多木が鋏で心臓をついて死んでからしばらくたって、身寄りのない彼の遺品は、遺言によって奈良崎の手もとに送られて来た。――その中に、手ずれのしたトランプが一組あった。それがあの晩、二人でポーカーをやったトランプである事を思い出した奈良崎は、奇妙な気分におそわれながら、カードをくった。あの晩、多木の手にできたツウ・ペアの、ダイヤとハートのクインの胸には、色あせ、うすくなった血痕がまだついていた。スペードとクラブのキングをぬき出してならべた時、奈良崎はぎょっとしてそれを見つめた。
キングの、血で汚れた手ににぎりしめられた剣が鋏にかわっていた。
だが、よく見ると、それは、トランプの表面の傷に、血がしみこんで、鋏のように見えただけだった。どこにはさまっていたのか、一本の長い髪の毛が、四枚のカードをからめるように、机の上にうねっていた。
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真夜中の視聴者
外で飲んできた上、寝る前にまた、うすい水割りを二、三杯も飲んだせいか、夜中に便所に行きたくなって眼がさめた。
酔いがのこっているのか、頭が少しふらついて口がねばつく。
妻はとなりのベッドで、かすかに寝息をたてて眠っている。
眼をこすりながら、階下へおりていって用を足し、あと、洗面所で冷たい水をコップに一杯飲みほした。――ついでにべたつく脂汗を水と石鹸で洗いおとした。眼がさめてしまったが、すぐに眠りにつける自信はあった。
タオルで顔をこすると、やっと、頭がはっきりした。――と、その時、居間の方から、かすかな物音がきこえてくるような気がした。
耳鳴りかな、と思って、ちょっと耳の穴をほじくり、耳をすませてみた。
――やっぱりきこえてくる。
さーっ……というような、水の流れるような音だった。――時おりそれに、ぶつぶつとなにかが小さく、はぜるような音がまじる。
なんだ?――と、考えかけて、すぐ聞いたことのある音だ、とわかった。
居間の方へ行ってみると、はたして明りを消した居間の障子に、青白い光があたって、ちらちらと動いている。――障子ごしに、さっきからきこえている音が、今度はもっと濁って、ざーっ……というようにはっきりきこえる。
障子をあけると、彼はつけっぱなしになったテレビにちかよった。――映像がなにもうつっていない画面に、白黒の斑点《フリツカー》が無数にとびかっていて、スピーカーからは、ざーっ、というノイズが、滝音のように流れ出している。
スイッチを切る時、棚の置時計を見ると、緑色に光る針は、夜光文字の上に、三時をさしていた。
二階へ上って行くと、妻はベッドの上に寝がえりをうって、口の中で何かいった。
「テレビをつけっぱなしだったぞ……」
彼は隣のベッドにもぐりこみながらいった。
「ん?」
と、妻は寝ぼけた声でききかえした。
「なんでもないよ……」彼はあくびをして毛布をひっかぶった。「……おやすみ……」
二日たって、今度は妻が夜中に起き出して階下へおりていった。
二、三日前から、変な風邪をひいており、下痢気味だった。
おりて行く時は、寝こんでいて気がつかず、階下のトイレで、水がざーっと流れる音で、ちょっと眼がさめた。――このごろ年をとったせいか、寝つきはあいかわらずいいのに、変に耳ざとくなって、ふいに眼がさめる事がある。
妻は、トイレのドアの音をさせたあと、しばらく上ってこなかったが、やがて階段のきしむ音がして、あけっぱなしの寝室のドアの所に、髪にカーラーをいっぱいつけたシルエットがあらわれた。
「あなた、居間のテレビつけっぱなしだったわよ……」
妻はあくびまじりの声でいった。
「え?」
彼は、再び睡気にしびれはじめた頭の、どこかずっと遠くで、変だな、と思いながら、ききかえした。
「いいわよ……」
妻は隣のベッドにもぐりこんで、彼に背をむけて毛布をかぶりながらつぶやいた。
「おやすみなさい……」
はじめて妻が、彼に苦情をいったのは、日曜日の朝、二人でおそい朝食をすませ、彼がコーヒーをのみながら新聞に眼を通し、碁《ご》の番組を見ようとして、テレビのスイッチに手をのばした時だった。
「あなた、ゆうべ、またテレビをつけっぱなしにしたまま寝たでしょう?」
「え?」
彼は新聞から顔をあげて、ゆうべの事を思い出そうとした。
「これで、二度目か三度目よ……」妻は、汚れた皿を台所にはこびながらいった。「少し気をつけてくれなくっちゃ……。深夜番組を見ながら、お酒を飲むからよ。飲みすぎると、まるで、だらしなくなっちまうんだから……」
「そりゃおかしい……」彼は画面にうつった碁盤を見ながらいった。「ゆうべは、ろくなものがなかったんで、ブランデイを一杯飲んで、お前のあとからすぐ上って行ったじゃないか」
「でも、明け方トイレにおりたら、つけっぱなしだったわよ」妻は台所で水音をさせながらいった。「気をつけてよ。――このごろすこし、うっかりが多すぎるみたいよ。この間もまた、傘を電車に忘れてきたでしょう」
「遺失物係の所へ行って、すぐとって来たじゃないか」
「でも、忘れた事は事実でしょ」
彼はちょっとむっとして、テレビの画面を眼で追った。
「そんな事をいうが、お前だって、この間つけっぱなしで寝たぜ」彼はふと思い出していった。
「うそ! 私はそんな事ないわ」
「うそじゃない。ほら――月曜日だったかな。おれが酔っぱらってかえって来た晩……」
「あの時、家へかえってまた飲んだじゃない」
「そうだ。そして、もういけませんって、お前におしあげられて、先に寝ちまった。あのあと深夜番組でも見て、そのままつけ忘れたんだろう」
「月曜日――ううん、見なかったわ」
「でも、三時ごろ、トイレで眼がさめて、下へおりてみたらついていたぜ。――二階へあがって、おれが声をかけたろう」
妻はだまって水音をたてていた。――あの晩、彼にいわれた事を、思い出したのだろう。
それでもしばらくたって、自分にいいきかせるように、うそよ、見てなんかいないわ、とつぶやくのがきこえた。
二日後の火曜日――
彼は早朝の飛行機で出張しなければならないので、朝五時の目ざましでおきた。
低血圧気味で、寝起きの悪い妻は、そんな時、前の晩に旅行の支度と、朝食の支度をしておいてくれ、彼は妻に朝寝をさせてやる事にしている。
階下へおりて来て用を足し、洗面所で歯をみがきはじめる。――その時、また彼は、居間の方に|あの音《ヽヽヽ》をきいた。
口のまわりを歯みがきだらけにしたまま、彼は居間の方をのぞいてみた。
暗い部屋の障子のむこう側から、青白い光がちらちらあたっている。
すぐ消しに行こうとして、彼はふと思いたって、階段から妻の名をよんだ。
「なによう……」と妻の眠さにとがった返事がきこえた。
「支度はちゃんとしてあるでしょう?」
「まあ、とにかくちょっとだけ起きて来てみろ」と彼はどなった。「すぐまた、寝ていいから……」
妻はべそをかくような顔をして、眼をこすりながらやっとおりてきた。
「いいか、ゆうべ、おれは睡眠薬を飲んで、十時ごろ、一足先に寝た。――まちがいないな」彼は妻の肩をおして居間へ行きながらいった。
「そうよ。私は、あなたの支度やなんやかやで、十二時までかかったんだから……眠いのはあたり前でしょう」
「じゃ、見てごらん。――またテレビがつけっぱなしだから……。今度はおれがやったなんていわせないぜ。あの睡眠薬をのむと、いつも六時間半はぐっすり眠るんだから」
そういいながら、彼は居間の障子をあけた。――とたんに、彼は眼をうたぐった。
「なにいってるのよ……」妻は、眼をしょぼしょぼさせながら、ふくれっ面になった。「ちゃんと消えてるじゃない……」
テレビの画面はまっ暗だった。――たしかに、ついさっきまで、障子に蛍光面の青白い光がちらちらうつり、ざーっというノイズがきこえていたのだが、今、テレビは完全に消えている。
「あなた、寝ぼけてるんでしょ」と妻は眼をこすりながらいった。「いつか、私につけっぱなしで寝た事をいわれたのが口惜しくて、――その事が頭にのこってて、寝ぼけて、ついてると錯覚したんだわ」
そんなばかな事が!――と思って、彼はテレビのスイッチをいれてみた。
画面に輝く斑点が走って、ノイズがまた流れ出した。――この時間、放送はまだどこの局もやっていない。チャンネルをまわしても、テストパターンも出てこない。
狐につままれたような気持ちでスイッチを切った彼は、はっ、と思いあたって、受像器のケースに手をあててみた。
「やっぱり、たったいままでついていたんだ……」と、彼は昂奮して叫んだ。
「ほら――こんなにあたたかい」
「なにいってんのよ……」妻はふらふらした足どりで、階段の方へ行きながら、ぶつぶついった。「ひとりでについたり消えたりするテレビなんて……うちのはタイムスイッチつきじゃないのよ……」
翌日――
出張先で午前の会議を終り、昼食をとりに会議室を出ようとした時、部屋の隅で電話がなり、とった男が、戸口の所の彼に声をかけた。
「君にだ」そういって男は電話をさし出した。「奥さんから……」
「もしもし……」
受話器を耳にあてると、せきこんだ妻の声がきこえた。
「あなた……今日、ほんとにかえってくる? なるべく早くかえって!」
「どうした?」彼はまだまわりにいる支社の連中を、ちょっと気にしながら、低い声でいった。「なにかあったのか?」
「ゆうべ夜中に……」妻の声は、ふるえ、いまにも泣き出しそうだった。
「また|ひとりでに《ヽヽヽヽヽ》、テレビがついてたの。――ううん、今度はぜったいに消し忘れなんかじゃない。……それも、|二度もよ《ヽヽヽヽ》――。早く寝て、一度二時半ごろ起きたら、ついてたの。消して寝たんだけど、なんだかこわくってまんじりともしなくって……。五時ごろ、もう一度下へおりてみたら、またついてるの……それも――私の見ている前で、すうっと消えたの。私……私、こわくって……」
「まあおちつけ――」彼は、自分でもなにか冷たいものが背筋をはいのぼってくるのを感じながら、わざとのんきそうな声でいった。「一度テレビ屋をよんで見てもらいなさい。――夕方にはかえるから」
「ほんとにかえってよ。――あ、それから、きのうの朝はごめんなさい。私、あんな事がほんとに起るなんて思いもしなかったもの……眠かったもんだから、つい毒づいちゃって」
夕方、家にかえりつくと、妻はとびつくように彼をむかえた。
「おかえりなさい」と年がいもなく、彼の胸にすがりつきながら、妻はほっとしたようにいった。「いま、テレビ屋さんに来てもらってるの」
「おかしいですね」テレビの修理屋は、道具をしまいながらいった。「どこも悪い所はありませんよ。番組はどの局もみんなうつるし、スイッチも故障していません。――夜中にひとりでにスイッチがはいってしまうなんて事は、あり得ないんですが……念のため、タイムスイッチをつけておきました。これを十二時なり午前一時半なりにあわせておけば、たとえけし忘れても、ちゃんと消えますから」
「今夜は宵寝するから、十一時か十二時ごろおこしてくれ」
と、夕食をとりながら彼はいった。
「明日は代休だが、ちょっと今晩中にしらべておかなければならない書類があるから……」
「|見はる《ヽヽヽ》のね……」妻はこわばった顔をしていった。「いやだわ!――私、二階ででも一人で寝るのいや」
「気にしなさんな」彼はなんでもないようにいってテレビを見た。「仕事だよ」
テレビのカラー画面からは、公開録画のドタバタ喜劇の、陽気な笑い声が流れてきた。
夜の十二時に妻に声をかけられて下へおりて行くと、ネグリジェに着がえた妻は、睡眠薬を口にほうりこんでいた。
「なにがあっても起さないでね」と妻はいった。「明日の朝、きくわ」
「あんまりたくさん飲むなよ」と彼は苦笑していった。
「明日の午前中、ずっとねちまうぞ」
書斎から、書類とパイプとブランデイをもって来て、彼は妻と入れちがいに居間にすわりこんだ。――すぐには仕事をはじめず、テレビの深夜番組を見ながら、ブランデイをなめた。タイムスイッチは一応二時に切れるようにセットしておいた。
深夜映画は、外国もののスパイ映画を見た。――それが終ると、別のチャンネルをさがして、時代劇ののこり十五分ほどを見た。それがおわってCFがはいり、やがて「これで本日の番組は全部終了しました。どちらさまもおやすみなさい。戸じまりとガスのコックを」というテロップがうつり、ファンファーレとクレジットがはいって、テストパターンになった。
ほかのチャンネルをまわしてみると、あと一局、カラー調整パターンをおくっている局があるだけで、あとはどのチャンネルもすべて、映像は何もうつらず、ざーっ、というノイズが出るだけだった。――ちょうど二時になって、タイムスイッチが作動して、光線とノイズがすうっと消えた。
彼は念のため、テレビ本体についているスイッチも切って、ポットからコーヒーをつぎ、卓の上に書類をひろげた。ブランデイのせいもあり、書類の文章はなかなか頭にはいらなかった。――郊外の山裾をひらいてできた、新しい造成宅地は、森閑としずまりかえって、車の音もきこえない。
どこかではげしく犬が鳴く。
と、それにこたえるように、遠くでも二、三匹の犬が、吠えはじめた。
ふと、その中にまじって、犬の鳴き声とはちょっとちがう、ギャオーン、というような声が、二度、三度、山の方できこえた。
おや、あれは――と思って、彼は耳をすませた。――狐だな……。狐が鳴いている……。
ついこの間まで、ここらへんにも棲んでいて、宅地がきりひらかれて山の方へ行ってしまったか。――今夜は月夜だから、古巣のあった、里の方へおりて来て、犬にほえられているのだろう。
狐の鳴き声は、ずっと遠ざかってもう一度だけきこえ、やかましい犬どもの鳴き声もしずまってしまうと、あとにまた静寂がのこった。
彼はコーヒーをゆっくりのみながら、やや緑がかった灰色の、テレビの蛍光面を見ていた。
何も起らない。
スイッチを切られたテレビは、盲《めし》いた白眼をむいて、沈黙している。――ついさっきまでの、あれほどの饒舌を忘れたように。
二時半ごろ、彼はトイレにたった。そして用を足しおえた後で、小さなピシッという音をきいた。
居間へとんでかえってみると、居間の電灯が消え、かわりに障子に青白い光がちらつき、ざーっ、という音がきこえてきた。
障子を音をたててあけはなつと、彼は画面から流れ出る、ちらちらする光に照らされた室内を、怒りのこもった眼で見わたした。
食卓の上には、からのブランデイ・グラスと三分の一ほどのコーヒーののこったカップがあり、書類がひろげられ、ボールペンと、うすく煙をたてているパイプがころがっている。――ほんの一分半前と、少しもかわった所はない。
しかも、彼がトイレにはいっている間に、電灯が消え、テレビのスイッチが入った。――電灯をつけると、彼はタイムスイッチを見た。
スイッチはONになっており、時間目盛りは五時《ヽヽ》に切れるように動かされている。
気がついてみると、いつの間にか髪の毛がさかだち、口がからからに乾いていた。
自分に、恐しくなんかないぞ、といいきかせるため、わざとゆっくり、冷たくなったコーヒーののこりをのみ、グラスにゆっくりブランデイをついだ。――手のふるえはわずかだったが、意識の方がこわばっていて、知らぬ間に、チューリップグラスに半分以上も、ブランデイをそそぎこんでいた。
パイプをくわえ、わざと無造作な手つきでタイムスイッチを切り、目盛りをもとにもどし、受像器のスイッチも切った。――グラスをかみやぶらんばかりの勢いで、ブランデイをがぶりとのみ、正坐して、パイプをかたくにぎりしめ、テレビをにらめつけた。
テレビの裏側に、|なにかが《ヽヽヽヽ》ひそんでいるような気がして、一瞬ぎくっとしたが、それは錯覚だった。
ちくしょう!――と、彼は、はげしくなった動悸を、いっしょうけんめいおさえようとしながら、パイプの吸い口をぎゅっとかみしめた。――ちくしょうめ!……どこのどいつだ! |ばけもの《ヽヽヽヽ》か?――ばけものならばけものでかまわない。とにかく、おれの眼の前でやってみろ!
そのまま、二分たち、三分たった。――さっきまで、気もつかなかった、置時計のチッ、チッ、というセコンドの音が、いやに大きくひびいた。
スイッチを切った受像器をにらみつけている彼の背後で、|なにか《ヽヽヽ》が、かすかに集りはじめているような気配がふと感じられた。
その時――彼の眼の前で、タイムスイッチの時間目盛りが、誰もふれないのに、ゆっくりまわりはじめた。
とび出しそうになった眼球で、凍りついたように見つめている彼の前で、目盛りはまた五時のOFFまで動いて行き、カチリと音がして、スイッチがONになった。――と受像器のスイッチの所に、なにかぼんやりした|手の影のようなもの《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》がすうっとあらわれて、スイッチをおした。――とたんに電灯が消え、ざーっ、とスピーカーから雑音が流れ出すと同時に、画面一面にかがやく光点がおどりはじめた。
パイプをくわえた歯が、吸い口にかちかちあたっていた。パイプをささえる手は、石像のそれのように、動かなくなってしまっていた。――膝や上体がぶるぶるふるえはじめ、そのふるえがだんだんはげしくなるのにたまりかねて、彼はとび上り、居間の電灯のスイッチの所へ走った。
明りをつけると、彼はタイムスイッチをつかんで目盛りを押しもどし、スイッチをあらためて切り、受像器のスイッチも切った。
「だれだ!」彼は明るくなった室内の、天井の四隅をねめまわしながら、地団駄踏むようにどなった。「ちくしょう!――ばけものならばけものらしく、姿をあらわしたらどうだ? なんだってこんな事をする!」
突然、背後にふうっと影がさして、彼は背筋から冷水をそそぎこまれたような気分におそわれて、とび上った。
「なんだ……お、お前か……」彼はかすれた声でいった。
「びっくりさせるな」
「どうしたの?」妻は、紙のようなまっ白な顔色をして、ぼんやりした声でいった。「またはじまったの?――睡眠薬がきかなくて、もう少しのもうと思って……」
その時――突然部屋の隅で、かすかな音がした。
電話のベルが、接触不良のような、間のびした小さな音をたてて鳴りはじめた。
彼は思わず妻と顔を見あわせた。――妻はネグリジェの上にはおった袢纏《はんてん》の袖を前でかたくあわせたまま、顔を能面のようにこわばらせ、身じろぎもせず立っている。電話のベルは、なおもかすかに、ため息をつくように鳴りつづける。
彼はついに決心して、電話に手をのばした。――妻の顔は恐怖にひきつり、口が大きくひらいた。
こわばった指で、電話をとりあげ、耳におしあてた。
……ぶつぶついうだけで、なにもきこえない。
が、たしかに、|どこかに《ヽヽヽヽ》つながっている。
「もしもし……」
彼はかすれた声でいった。
「……」
ずっと遠くで、かすかに声がきこえる、――が、ききとれない。
「もしもし!」彼は、大きな声でどなった。
「……もしもし……」遠くで、陰気な、かすれた声がいった。「……を切らないで……」
「え?」彼は眼をむいてききかえした。
「もしもし!――どなた?」
「……どうか……テレビを……切らないで……ください……」と、陰気な、地面の底からきこえてくるようなかすかな声はいった。
「テレビを?」彼はどなりかえした。
「誰だ、君は?」
電話はぷつんと切れて、あとに、ツー……という発信音がきこえた。
タイムスイッチの目盛りが、カチ、カチと音をたててまわりはじめ、電灯が、ふっ、と消えた。
――後《うしろ》で、どさっ、となにかがたおれる音がした。
気を失った妻が、立っている場所でくずれおれ、そのままかすかな寝息をたてはじめた。
――テレビの画面に青白い光の点がとびかいはじめ、スピーカーはまたざーっとノイズの音をたてはじめた。
その時彼は、彼の背後、部屋の中のうす暗い天井や壁の|むこう《ヽヽヽ》側に、かすかに多勢の笑い声をきいたように思った。
「だめだ! そんな事ができるか!」彼はいらいらして妻にどなった。「頭金と、月賦をもう十カ月もはらいこんでいるんだ。もう土地だって三倍以上に値上りしている。やっと手に入れた自分の家を、そうむざむざ手ばなしてたまるもんか。そんな事をしたらこのつぎ一体いつ自分の家というものがもてるか……」
「でも――」妻はげっそりやつれた顔をして、泣き出しそうな声でいった。「このままじゃ、私、気がくるいそうよ。じゃ、せめてお寺か神社にたのんで、お祓《はら》いでもしてもらいましょうよ」
その手もある……と、彼は考えた。
――うす気味悪い電話がかかって来てから、二晩つづけて、彼は夜中に起きては、ひとりでにつくテレビと格闘した。――二晩めには電源のコンセントをぬいてみた。だが、そんな事はむだだった。一度は、彼がちょっと眼をそらせていた隙に、二度めは、あの「影のような手」が、彼の見ている前で堂々と、コンセントをはめてしまった。その間、二晩で三度、電話のベルが、つぶやくようなかそけき音で鳴り、一度はなんの声もきこえず、二度は例の陰気な声が、「……切らないでください……」といい、三度目は、抗議するような口調で、
「……どうして切るんですか?……」といってきた。
「……あなたに関係のない事じゃありませんか」
「関係ない、だと?」彼はカッとなってどなった。「どう関係ないんだ?――毎晩毎晩、他人《ひと》の家のテレビを無断でつけやがって。……こっちの身にもなってみろ! いったいどういうつもりだ?」
むこうはちょっとだまっていた。――それで電話が切れるかと思うと、間をおいて未練がましく、うらめしそうな声で、ぼそぼそつぶやくのがきこえた。
「……迷惑は、おかけしないつもりなんだが……」
「ばかいえ!――」彼は、どなりかえした。「迷惑はかけないだと?――これで、おれはもう、二日も会社を休んでいるんだぞ! きさまのおかげで、一晩中ねられないんだ」
「……気にしなければいいじゃありませんか……」相手は気のめいるような声でいった。「……でも……なんなら話しあいませんか?……」
「話しあう?」彼はふと妙な気持ちになった。「……ちょっと待て。――いったいなにを話しあうんだ?」
しかし、電話はそこでまたぷつっと切れて、あとは発信音が流れるばかりだった。
会社を二日休んだ、といっても、一日は出張のあとの代休だったし、もう一日、病欠という事にした次の日からは、連休がはじまる。――彼は意地になって、昼間寝て夜中に起き、朝まで奇妙な「なにものか」が、テレビをつけるのを消しつづけた。――彼をおびやかしたのは、一晩ごとに、ごくわずかずつではあるが、電灯が消えて、なにも映像のうつらないテレビがついたとたんに、背後にあらわれる、|なにか多ぜいのもの《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》の気配が、確実になりつつある事だった。
当然の事ながら、彼よりも妻の方がさきにまいりかけた。――おびえた彼女は、昼間も神経がたかぶって眠られず、とうとう、あまり気味が悪いから、はいって三カ月もならない新築の家を、手ばなそう、などといい出して、これも神経のいらだっている彼と、口論になったのだった。
「ねえ、どうするの?――ほかに、いい知恵でもあるの?」妻は元気のない声でいった。「近所のお寺へ行って、わけを話してたのんでみましょうか?――なんとかしなきゃ……こんな家、気味悪くってもう一晩もいたくないわ。あなたが、ほかにいい知恵もなくて、この上毎晩、あんな意地くらべをつづけるなら、私、実家へかえらしてもらうわ」
「まあ待て……」彼はこめかみをもみながらいった。「むこうは――というのは、例のうす気味悪い電話野郎は、ゆうべ、話しあいしたい、とかなんとかいっていた。もし今夜もかかってきて……どういう事になるかわからんが……とにかく、もう一晩だけ待って、むこうがどんな話しあい≠ニやらをもちかけてくるか……それをきいてから、手を考えてみよう。もう一晩だけ、待つんだ」
「いやよ!」妻は泣きそうな声で叫んだ。「また、今夜もだなんて!――私、こんな気味悪い目、もうがまんできないわ。だってゆうべなんか、居間の電灯が消えると、居間の中に、|誰かが多勢《ヽヽヽヽヽ》、いるような感じがするんですもの!」
「お前も|それ《ヽヽ》を感じるか?」彼は考えこむように腕を組んだ。「――だが、いずれにしても、おれはもう一晩がんばって、あの電話野郎と話してみる。お前、いやだったら、実家へでもどこでも泊ってこい」
「いいわ……」しばらく間をおいて、なまあくびをかみころしながら、妻はあきらめたようにいった。「もう一晩だけつきあうわよ。――あなたが、あの気味悪い連中に食い殺されちゃいやだから……」
彼は、電気器具屋にいって、電話を二人できける装置を借りてきた。――妻といっしょに、あの気味の悪い電話をきくためだった。
一方、妻は、どういうつもりか、その日の夕食に、スタミナのつきそうなものばかりそろえた。――精をつけて、あの奇妙な「おばけ」と対抗しよう、というつもりだったかも知れない。
夕食がすんで、しばらくの間、二人は手持ち無沙汰のまま、愚にもつかないテレビ番組をだまって見つづけた。その夜にかぎって、どこのチャンネルをまわしても、ろくな番組をやっていなかった。
彼は根負けしてテレビを消し、目ざましを午前二時にしかけて、居間で仮睡した。――連日寝不足の妻も、柱にもたれて、うつらうつらしかけていた。
じいっ……と妙な音をたてて、居間の蛍光灯がうすぐらくなりかけるのに、はっと気がついて、彼はとび起きた。――明りは、一ぺんに消える事なく、息づくようにまたたいて、暗くなったかと思ったら明るくなる事をくりかえした。切ってあったテレビは、いつの間にかスイッチがはいり、外国ものの深夜映画がうつっていた。
「起きろ!」彼は柱にもたれてねむりこけている妻をゆり起した。「はじまったぞ!――今夜はいつもより早いみたいだ」
妻はおびえたように眼を開き、パーッ、パーッとまたたいている蛍光灯を見上げた。
テレビのスイッチを切ろうとした彼は、ぐっと唾をのみこんだ。
――今夜は、今までとちがって、テレビのチャンネル・セレクターがそろそろ動きかけている。……例の「影のような手」が、チャンネル切りかえつまみをつかんで、一心にまわそうとしている。がつまみが重いのか、なかなか動かない。
ついにガチャリ、とチャンネル・セレクターが動いて、番組をやっている二つの局の間《ヽ》の目盛りにはいった。――とたんに蛍光面には斑点《フリツカー》のいっぱい走った、白っぽい光がなみうちはじめ、スピーカーはざあざあとはげしいノイズをたてはじめた。
彼は、額に冷たい汗がじっとりにじむのを感じながら、力をこめてチャンネルをもどし、スイッチを切った。
とたんに、息づいていた蛍光灯の明りは、すうっともとにもどった。同時に電話機が、あの情ない弱々しいベルの音をたてはじめた。
彼は妻と顔を見あわすと、電話機をとりあげた。――妻も、同時に相手の声がきけるイヤフォンを耳にさしこんだ。
「……もしもし……」と例の陰気な、地の底からよびかける声はいった。「なぜ、そんな意地悪をするんです?……あなたたちは、いま、テレビを見ていないじゃありませんか」
「意地悪とはなんだ?」と、彼はとがった声でいいかえした。「見ていようがいまいが、よけいなお世話だ。これは、おれの家のテレビだぞ!」
「……話しあいする気は……ないんですか?」陰気な声は、こまりはてたようにぶつぶついった。
「……ないでもない」彼は妻に目くばせしながらいった。
「いったいどう言うつもりで、夜中におれの所のテレビをつけるのか、まずそのわけをきいてからだ……」
「いいじゃありませんか……」相手はわからないやつだ、といった声音でいった。「あなたたち、どうせ寝ていて、見ていないんだから……あなたたちには、なんの迷惑もかけていないつもりですよ」
「大迷惑だね」と彼はいった。「夜中にあんな事をされては、気味が悪いし、気になって、ろくろく眠られん。――第一、なんだって、なにもうつってない時間に、テレビをいれるんだ?」
「……|うつってるんですよ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》……」相手はいった。「あなたたちにはなにも見えませんけど、|私たち《ヽヽヽ》には、ちゃんと見えてるんです。……」
「|見えてる《ヽヽヽヽ》って?」彼は呆然として眼を宙にはせた。「なにが?」
「いろんなもの……娯楽番組や、ドラマや、ニュースといったものです。……|私たちの方《ヽヽヽヽヽ》でも、もうずっと前に、試験電波を出すのに成功して、このごろは本格的なカラー放送がはじまっているんです……。でも……あなたたちには見えない。私たちだけに見えるんです」
「そんな……」といいかけて、彼は絶句した。「だけど、なぜ、そんな放送を見るのに、うちのテレビをつかうんだ?――それだったら自分たちのテレビで見ればいいじゃないか?」
「わかっていないんですね……」相手はあざけるようにいった。「私たちの放送は……あなたがたのテレビの、放送していない時間をつかい、見ていない受像器を利用させてもらっているんです……」
「そんなの、大迷惑だ!」彼はおぼろげにわかりはじめた事態に、また全身がかすかに鳥肌だちかけるのを感じながら、上ずった声でさけんだ。「こ、これは、おれのうちのテレビ受像器だぞ。――かってにつかわれちゃ、いたみ方も早いし、第一、電気代だってかさむ……」
「ですから、その分は埋めあわせさせてもらう方法を考えてあります……」と相手はおちついた声でいった。「まあいろいろ方法はありますけど……お金でよかったら、お宅の銀行口座に、電力使用分料金と損料を、毎月ふりこんだっていいんです……」
「そのくらいの事してもらっても……」彼はつのる恐怖と昂奮に、舌をもつらせながらわめいた。「と、とにかく……こ、ここは、おれの家だ。おれの家で、こんな事をされては……」
「あなたの家だけじゃないです……」相手は当然の事のようにいった。「私たち、数が多いですからね。この家だけじゃ、とてもはいり切れなくて、あちこちの家でも、夜中につかわせてもらっています……」
「なんだって?」彼は眼をとび出しそうにむいた。「|この家だけじゃない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》?――じゃ、この近所の家でも」
「もともとここは、私たちの方があなたたちより、ずっと前から住んでいたんですよ。――それを、あなたたちの方が、勝手にどかどかはいりこんで来て、森をきりひらき、草を刈り、岡をけずったり池を埋めたりして住みはじめたんじゃないですか。――山の上にはゴルフ場ができるし、自動車道路が走るし、昔の|お墓《ヽヽ》も一部はうつされたけど、草にうずもれてわからなくなったものはそのまま強引に……」
「じゃ……あの……君たちは……」彼はからからに乾いた口を、反射的になめながら、かすれた声でやっといった。
「……やっぱり……幽霊か?」
「ええ、まあ……それもいますけど……」相手はちょっと口ごもった。「……ほかにもまあ……位の高い狐とか、狸とか……昔、天狗や河童ってよばれていたのもいますし……蛇の精や、木の精も、むかで、川うそ、甲虫の精も……まあ、いろいろいます。……鰻や……鯉もいたかな……」
「そんな……」彼は小きざみにふるえる膝を必死におさえていった。
「じゃ……じゃ……君たちは……やっぱり……ばけもの……」
「ええ……そりゃ……一つ目小僧や、鬼……なんてのも、中にはいますが……。大丈夫ですよ……別にあなたたちにご迷惑をかけたり、おどかしたりしません。……私たちの方でも、時代はかわった、というのがみんなの考えです。……あなたたちが勝手にはいりこんできても、まあ、なるべく目だたないように……衝突をさけているんです。……まあ、私たちのすめる所も、だんだんせまくなって来ますからね……。ひっこす所もこのごろは簡単にないし……できるだけ、辛抱してあなたたちと共存《ヽヽ》しよう、というのが、申しあわせです。……われわれの方だって、これだけ譲歩しているんです。あなたたちの生活《ヽヽ》をさまたげるわけじゃなし……あなたたちの寝ている間をつかっているんですから……テレビだって……」
「で、でも……なにも、テレビを……」彼はやっとの事でいった。
「しかし……私たちの世界でも、テレビや電話をつかうようになって、……こういった、共存《ヽヽ》の考え方がひろまるようになったんですからね」と相手はいった。
その時、イヤフォンで、眼をすえてきいていた妻が、いきなり電話機をひったくって、せきこんでしゃべった。
「もしもし!……あなたたちの中に、死んだ人たちもいるって言ってたわね?……死んだ人の霊なら、誰でもすぐにさがせるかしら?」
「さあ……なにしろ数が多いですから……」相手はめんくらった。「でもまあ……最近の人で……日本の人でしたら……」
「じゃ……さがしてください。二年前に、自動車事故で死んだ子で……ええ、私たちの……男の子です.達雄ちゃんというの……、死んだ時は八つ……。その子を見つけて、ここへつれて来てくれたら……」
「待ってくださいよ……」
電話の相手の声は低く反響して遠ざかった。――電話を妻にうばわれて、イヤフォンを耳にさしこんでいた彼の鼓膜に、ずっと遠くで、なにかよびあっている声がきこえた。
「……見つかりました……」と、まもなく相手の声がいった。
「あの……話できますか?」
「いえ……だめです。……まだ|こちら《ヽヽヽ》へ来て、時間がたっていませんからね。……あなたの声はきこえますが……」
「じゃ、あの……あの……ここへ……この家のこの部屋へつれてこられます?」
「もう、来ておられますよ……」と相手はいった。「電話では話せませんが……お母さまが、声をかけられたら、合図はできます……」
「達雄ちゃん!……あなた、ここに来てるの?」と妻は涙声でいった。
コン……コン……。
と、かすかにテーブルの上の茶托《ちやたく》が、小さな音をたてた。
「達雄ちゃん!……達雄ちゃんなのね?……お母さんよ、わかる?……新しいおうちよ。ほら、ひろいでしょう?……もうどこへも行かないで、ずっとここにいなさいね……」
そう茶托のあたりによびかけると、妻は電話にむかって、まくしたてるようにいった。
「この子もいっしょにあなたたちのテレビを見せてやってくださいな。この子は……怪獣番組とマンガが好きなんです。なるべく見せてやってくださいな。そうしたら、あなたたち、いくら見てもいいわ。夜中なら……どうせ私たち、見ないんですもの……どうぞ、いくらでもごらんになって……でも……でも、子供にあまりテレビを見せすぎないで……なるべく早く寝かせてください!」
そういうと妻は、電話機をほうり出していきなり二階へかけ上った。
寝室で、ワッ、と泣き出す声がきこえた。
イヤフォンの底には、もう、ツーという発信音しかきこえなかった。
電灯がふっと消えた。――テレビのスイッチが、カチリ、と小さな音をたてると、画面に一面に白点がおどり出し、スピーカーはふたたび、ざーっ、という滝のようなノイズをたてはじめた。
呆然と白斑のちらつく画面をながめる彼の背後、居間の隅や天井ちかい暗がりの中で、あきらかに|なにか多勢のもの《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》たちの気配がひしめきあっていた。そのたくさんの|なにものかは《ヽヽヽヽヽヽ》、斑点のとぶテレビの画面の上に、彼には見えない「番組」を熱心に見ながら、声もなく笑い、どよめいているようだった。
その「なにものかたち」の中に、幼くして死んだ自分の一粒種もまじっているのだろうか、と、その気配をさぐりながら、彼は、妙な事になったものだ、と思った。せまい島の上にふくれあがりすぎた「高度生活」のためにもう、厳密な意味で、「自分だけの土地」というものは、この日本では持てなくなりつつあり、さまざまな奇妙な存在との「共生」を我慢し、お互いゆずりあって生きて行かなくてはならなくなって来たのだ……。やっと持てた、新築の「自分の持家」も、こんなぐあいに、「昼夜二部制」で住まわなくちゃならないんだな、と……。
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葎生(むぐらふ)の宿
道に迷った。
過疎化がこれほど急激に進んでいるとは思っても見なかった。
二、三年前に一度、近道という事もあって、その山中をぬけた。その時、まだ一部未舗装で、開けた谷間の田の中をうねうね通る県道のほこりっぽさに対して、道こそ悪いが、むせかえるような青葉若葉の森をぬけ、渓流の傍を通り、山越えした時の事が忘れられず、今度は山腹をいろどる紅葉のつづれにひかれて、心おぼえの間道の所でハンドルを切った。それがまちがいのもとだった。第一、この前の時は、その土地出身の、地理にくわしい男が同乗していたが、今度は一人旅だった。
間道にのりいれてしばらく車を走らせるうちに、完全舗装で整備の進んだ県道に対して二間たらずの地道の荒れ方が、この前の時よりずっとひどい事に気がついた。――手入れがされないと見えて、石ころや岩がやたらに露出し、道の中央が、雨水のため、みぞのように深くえぐれている。両側の草はぼうぼうとおいしげって、道におおいかぶさり、轍《わだち》のふみしだいたあともない。
この前来た時、道の両側には水が漲《みなぎ》った田に、五月の稲が美しく、たくましく根づき、えんどう豆や茄子《なす》、胡瓜《きゆうり》など、よく手入れされた蔬菜類の畠がひろがっていたが、今はそれも荒れ果て、畦《あぜ》のみのこして、雑草がぼうぼうとおいしげっていた。
道は間もなく森にはいり、それから、のぼりになる。――つづら折りの地道を、何段か折れまがってけわしい山腹をのぼりつめると、そこからゆるやかな坂道で、さらに深く山奥へとはいって行く。
そこらあたりまでは、昔の記憶もはっきりしていた。
山水に荒れきった道を、車の腹をすらないように、デフをぶつけないように、路面の高い所、岩根に車輪をのせるように、注意しながらハンドルをきり、またきりかえし、それでも何度か、ガン、とフレームを岩角や石ころにぶつけて肝をひやしながら、つづら折りをのぼり切った時には、額がじっとり汗ばんでいた。――そこまでは景色を見る余裕などなかった。急坂をのぼりきって、ちょっと車をとめ、ちょっと風を入れながら、眼下の、のどかな田園風景をながめた。それも、二、三年前とだいぶちがっていて、県道ぞいに、いやにけばけばしいドライブイン・レストランや、えらくりっぱで、モダンなデザインの学校の建物が、とり入れのすんだ田や、減反で休耕になっている田の間に出現していた。――日本の秋らしい、やわらかい黄色、茶色、くすんだ緑といった色彩の中に、ぴかぴか光る青瓦の新築の家や、赤いカラートタンの農家の屋根が、少々突拍子もない感じで散在している。
ま新しい、黒々としたアスファルトに、鮮やかな白線を敷いた県道を、大型トラックやダンプがタイヤの粘りつく音をたててびゅんびゅん通りすぎる。――昔の膏薬《こうやく》みたいなつぎはぎ道路とちがって、もう砂煙はたたない。が、景色全体は、かつてのしっとりした均整をうしなって、大きく変りはじめている。
何とはなしに首をふって、さて、行く手をながめると、こちらは見事な赤、黄の紅葉の森の中に、まっすぐつっこんで行くのだった。
ゆっくり車を発進させ、十分も走らないうちに、彼は思わず声に出ない歓声をあげた。
この前来た時、かすかに記憶にのこっていた楓《かえで》の林は、かつてのみずみずしい青葉が、今は息もとまりそうに見事な真紅に、紅葉していた。それに黄金色の櫨《はぜ》や葛《くず》がまじり、所々に常緑の葉をまじえて、みごとなつづれ錦のトンネルが形成されていた。
傾斜がゆるやかになったため、道の荒れ方もそれほどではなかった。しめった土にちり敷く赤黄茶の落葉を踏んで、ゆっくり車を走らせて行くと、時折り、ざっと梢をゆすって行く山風が、可憐な楓、葛の葉を行く手に舞わせ、あけはなった窓から一片、二片をシートにおくりこんで来た。丈高い紅葉林の梢の上には、うすく絹雲を刷いた清涼の秋の空があり、わずか数百メートルの高さながら、山中は平地とちがって一足先に晩秋が訪れたのか、するどくけたたましい百舌鳥《もず》の声が、森閑とした山林に、冴えざえとひびきわたる。
その清澄の気配、静寂の圧力を高める燃え上るような紅葉に心をうばわれて、いつの間にか、どこかで道をまちがえてしまったらしい。――気がついた時は、熊笹の一面にはえた、櫟《くぬぎ》や楢《なら》の雑木林に車がはいりこんでおり、道はせまくなって、両側から笹がおおいかぶさり、とうとう車が動けなくなってしまった。
何度も切りかえして方向転換し、やっと見おぼえのあるあたりへ出た。さらにひきかえすと、さっきは気づかず通りすぎた枝道がある。何のためらいもなく直進して、行きづまりになったのだから、曲るのが当然だろうと思って、彼はせまい枝道の方に車をつっこんだ。
道は相かわらず、車幅ぎりぎりのせまさながら、今度は消えもせず深い森の下生えの中をつづいている。木の根や岩角にのり上げ、のろのろ運転で、彼は車を走らせつづけた。――道は間もなくくだりになる。少しほっとした気持ちで、ボディで草をわけるようにしておりきると、谷間をまわって行く細い、しかし一応は村道とも思える道に出た。両側に、不規則な形の、うちすてられた山田があり、田にはえた雑草の中に、灰色に朽ちはてた案山子《かかし》が、頭をつっこむようにしてたおれている。道のくだる方へむかって進むと、また道はのぼりになって、うねうねと山間にはいって行く。
そのころから少し不安になってきた。――以前に来た時と、ちがう道にはいりこんでしまった事ははっきりしていた。今さららしくロードマップをひらいてみたが、どこにいるのか見当もつかない。さらに車を走らせて行くと、うちすてられた田畠がすこし多くなり、おいしげった藪の間に、二つ三つの藁屋根《わらやね》が見えた。一番ちかい一軒の前に車をとめて、道をきこうと思ったが、その農家の戸格子がはずれてほうり出され、中ががらんどうなのを見て、次の一軒にむかって進んだ。――もう一軒は、道に接してたち、同じ農家づくりながら、昔は何かを売っていたような佇《たたずま》いだった。が、雨戸はとざされたままで人の気配はなく、玄関の破れたすりガラスのむこうに割れた下駄が片方ころがっているのが見え、戸の桟《さん》は、もう何年もふれる人のない土ぼこりがびっしりつもっていた。
そのほかも、無住の廃屋ばかりだった。この山奥で、どうやって生きてきたのか、毛のぬけた老猫が一匹、枯れた切り株だけのこる田をのそのそ横切り、山際の藪の中に消えて行った。
道はその先で二股になっていた。――ひきかえそうかと思ったが、一方の道が、いかにも人里に出られそうな感じだったので、そちらをとった。両側からせばまる崖の間をしばらくのぼって、今度はゆるやかな下りになる道と、のぼって行く道にわかれる。下りをえらぶ。またわかれ道、思いきって一方をたどると、突然眼前に落石があらわれる。大苦労してひきかえしはじめた時は、もう日が傾き、山間に濃い菫色《すみれいろ》の影がおちはじめた。
もとの村道らしい道に出るつもりが、わかれ道で、またまちがえたらしい。もう出ていいころなのに、両側の草はいよいよ深く、道はまたのぼりになり、あまつさえ両側に木立ちが深まって行く。
――こりゃいけない。
と、彼は舌うちした。あせって、鼓動が少し早くなりかけていた。
――またひきかえすか……。
あたりがうすぐらくなって来ているのは、深まって行く木立ちのせいばかりではなかった。窓から上を見あげると、梢の先はもう、暗い赤にそまり出し、さっきまでの青空は、群青から紺へと深まって、絹雲が、金色にうねる合間に、ちかりと星さえ光りはじめている。
姿は見せず、しかし塒《ねぐら》にかえる羽ばたきのリズムを感じさせながら森の上で烏が鳴く。
道は、しかし、やや広く、しかもゆるいくだりだった。ライトをつけようかと思ったが、まわりに急速に濃くなりつつあるうす闇に、意地になってさからうつもりで、やめにした。ゆるいくだりが、またゆるいのぼりになるあたりで、方向転換をしようと、ロウにいれたままで、アクセルをふみこんだ。
エンジンの力が、すぽっ、とぬけたような感じで、車は坂をのぼりかけてとまった。――その時になって、オイルと鉄《かね》のやける臭いが、むっとダッシュボードの下からおしよせ、彼は、あっと思ってブレーキをふんだ。ボンネットの下から、うすい湯気がたちこめる。計器ランプをつけると、エンジン温度計はふり切っていた。
急いでエンジンを切り、ボンネットのロックを解く。前にまわって、ボンネットをあけようとすると、やけどしそうな熱さにとび上った。ハンカチと木の枝をつかい、ボンネットをはねあげると、エンジンはやけきっていた。――ラジエーターの水がからからで、水栓の隙間から、ぴーっ、と音をたてて高圧蒸気が吹き出している。ライトをとり出して、てらしてみると、下の方のパイプにかすかにひびがはいっている。
ひびは、応急にガムテープと赤土でふさげない事はない。が、問題は気づかぬうちにからからになってしまった水だ。彼は、急速に冷えはじめた林の中で、どっと全身に汗がふき出すのを感じ、どこかに小川か岩水でもないかと、もうすっかりうすぐらくなったまわりを、あわただしく見まわした。
と――
ゆるい上り坂の上に、黒々と家らしいシルエットがそびえているのが眼にはいった。
こんな山中の、深い林の中にあるのだから、どうせ廃屋になった農家か、杣人《そまびと》の家だろう、手助けは期待できないと思ったが、それでもかつて人が住んでいたのなら、井戸とはいわないまでも、崖から湧水《わきみず》ぐらいひいているかも知れない、と思いなおして、彼はライトをふりまわしながら、坂をのぼった。――坂といっても、ゆるいのぼりでほんの二十メートルぐらい行くと、林がそこだけかなりひろく切りひらかれ、草こそ膝を没するほどにおいしげっているが、それでもまわりに低い、しっかりした石垣がのこっており、椿、八手、といった植えこみが、巨木化しながら、一種風格あるたたずまいを見せていた。
風雨にさらされた雨戸は四方ともぴったりしまり、入口の板戸も閉ざされている。
水場があるであろう裏口へまわってみる。――丸石をならべた中を三和土《たたき》でかためた洗い場があり、背後の崖から、太い、盂宗《もうそう》の竹樋《たけとい》が導かれていたが、竹の切り口はからからにかわいて、水は一滴も流れていない。洗い場のすぐ横をくぼめて、水溜めになっていたが、底は朽ち葉がびっしりたまって草がはえている。
ライトをめぐらすと、裏口の戸は半分ほどあいていた。茶色の水がめらしいものがちらと明りの端に見えたので、念のため、がたがたいう戸をあけて、つん、と埃《ほこり》と黴《かび》の臭いが鼻につく土間にふみこみ、のぞいてみたが、やっぱりからからで、埃が底にぶあつくたまっている。
どうという事なく、ライトをまわりにふりむけると、まっ黒にすすけた、巨大な梁《はり》の組みあわさった、天井の高い、堂々とした賄所がぼんやりとうかび上った。――一隅につくり置きの大きな土のかまどが三つもならんでいる。土間から上った所は、これもがっしりと太い框《かまち》を組んだ板の間だった。天井には一面に蜘蛛《くも》の巣が張り、梁からはすすほこりが無数のつららのようにぶらさがり、板の間の上にも、そのつづきの間の古畳の上にも、破れ障子の桟にも、何年とも知れぬ歳月の間にふりつんだ埃が、火山灰のように、ぶあつくつもっていた。彼が、少し裏戸をがたがたやっただけで、天井から、銀色のほこりがゆっくりおちてくる。
ずいぶんりっぱな家だ、と、彼はちょっとおどろいた。
――だが、水がなければしようがない。
がっくりして、彼はまた表へまわって行った。――釣瓶《つるべ》おとしの秋の日は、すでにとっぷりと暮れ、まわりは闇と、うすもやと、冷気にみたされはじめている。水のないエンジンで動きまわる事もできず、かといって、この見ず知らずの深い山中で、闇の中を歩きまわって、どこへ出られるというあてもない。とすれば――車の中で夜を明かすという情ない事になるか。
ライトをふりまわして、八重葎《やえむぐら》のおいしげった庭先をつっきろうとした時、ふと彼は、妙な感じにおそわれて、その古い、大きな廃屋をふりかえった。――林のとぎれた空を背景に雑草のはえた萱葺《かやぶ》き屋根《やね》が黒々とそびえている。ふりかえったとたんに、何故ふりかえったのかわからなくなってしまった。彼はちょっと首をひねり、何気なく、家の方にライトをふりむけた。
さっき、ぴったりと閉ざされていたと思った、表の頑丈な板戸が、半分ほどあいている。
おかしいな、と、彼は眉をひそめた。――が、開いた戸口からのぞく屋内はまっ暗だし、誰のいる気配もない。
さっき閉まっていると思ったのは、眼の錯覚だったのだろう、と思いなおして、彼はゆるい坂をおり、車の所へかえって行った。
リア・シートに、さいわい毛布がつんであった。――それを助手席におき、運転席にすわって、煙草を一服吸いつけた。窓からかろうじてはいってくる、うすぼんやりした夜明り以外、鼻をつままれてもわからないまっ暗な中で、赤い、小さな一つ目のような煙草の火が、吸うたびに明るく息づいた。
吸ってしまうと、さてそのあとする事はなかった。
――のどはひりつきそうにかわき、腹もへった。悪路の山道を何時間もドライブしつづけ、神経もすりへって、体もくたくたに疲れている。が、とても眠れそうにない。
カー・ラジオを入れてみる。――ここは谷間のブランケット・エリアになっているのか、ぶつぶつざわざわと言うばかりで、はいってこない。同調ダイヤルをまわしてみたが、短波のように、フェーディングのはげしい、ききとりにくい音楽がちょっときこえ、すぐ消した。ラジオを消すと、また車の中はまっ暗になった。彼はしばらく、背もたれに体をぐったりあずけて、じっとしていた。
森がざわざわ鳴っていた。――急速に冷えこみがきびしくなってくる。山間部では明日、霜が降る、と昼のラジオの予報が言っていた事を思い出した。エンジンがかけられなくては、ヒーターもつかえない。
しかたがない……とリクライニング・シートをたおしながら、彼は自分に言いきかせた。――とにかく、明日だ。明日、日が上ってから、どこかに水をさがしに行こう。渇きと、空腹と、足もとからしのびよる寒さが、彼につらい、情ない思いをさせた。――しようがないさ。誰をうらむ事もできない。自分が迂闊《うかつ》だったんだ。
毛布をひっかぶり、頭までひき上げる。靴をぬいで、毛布の中に足をちぢめる。――体をもっとらくにするために、助手席のリクライニング・シートもたおして、前部座席に横に寝る。――森のざわざわ鳴る音が、まわりから迫ってくるようで、寝つかれそうになかったが、無理をしてぎゅっと眼をつぶった。
いつの間にかうとうと眠ったようだった。――眠っている間に夢を見た。体が凍るように寒く、がたがたふるえる夢だ。闇の中でふるえながらまわりを見まわすと、ふとちらちら赤い光が動くのに気がついた。
眼をこらすと、さっきの家だった。表の戸が、さっき見た通り半分あいていて、土間にちらちら焔のはえるのが見える。
と、家がすき透って、彼は中にいた。ひろい、天井の高い、がっしりした家の奥の間に囲炉裏が切ってあり、乾いた木がパチパチ音をたててあたたかそうに燃えている。その囲炉裏の傍に、もう一人の彼が、毛布にくるまって、あたたかそうに眼をつぶっている。――囲炉裏の傍の彼はぬくぬくとあたたかそうなのに、それを|見ている彼《ヽヽヽヽヽ》は、寒くて胴ぶるいがとまらない。
「おい!」
彼は腹をたててどなった。
(なんだ、お前だけあたたかい目をして! こっちは寒くて寒くてたまらないんだぞ!)
どなった自分の声で眼がさめた。――寒いのは本当で、歯の根があわないぐらい胴ぶるいがした。
窓がぼんやりと白っぽく見えた。夜が明け出したのかと思って空を見たが、何も見えない。ルームランプをつけると、ガラスの外側に、まっ白に霜がこおりつきかけていた。
それにしてもすごい冷えこみようだった。ヒーターをつけない車内は、金属類が痛いほど冷え切っている。毛布一枚では寒くてやりきれず、彼は冷たくなった指先を懸命に動かした。
とうとう彼はガタガタふるえながら起き上った。――毛布をかぶったまま外へ出ると、息がまっ白く凍る。足ぶみして、体をあたためながら、夜光時計を見ると、まだ午前一時だ。夜明けは遠い。そして明け方へかけて、冷えこみは一層きびしくなるだろう。すごいような星明りの下で、すでに車の屋根やガラスにはびっしり霜がおり、まわりの草にも白いものが凍りついている。
この冷えこみで、朝まで寝られるだろうか?――と歯をガチガチ鳴らしながら、彼は、心細く思った。――肺炎にでもなりそうだ。
星明りの空の下に、黒々とそびえるあの廃屋の屋根が眼の隅に見えた時、彼はふと、さっき車の中で見た夢を思い出した。
――そうだ、ひょっとしたら……。
と、彼は、廃屋をふりかえりながら思った。
――あの家の中の方があたたかいかも知れないな……。
――すごい埃だぞ……。
と、彼は自答した。
――さっき、見たろう。
――埃ぐらい……。
彼は車中からライトをとり出し毛布を頭からかぶって、坂道を一歩のぼりかけながら思った。
――この寒さがちょっとでもへるならどうってことはない。もやすものだってあるかも知れない。
表の戸は、やっぱり半分ほどあいていた。手をかけて押すと、戸車は、長年無住と思えないほど、かろやかな音をたててあいた。――さっき、裏からのぞいた時の、すごい埃と黴の臭気を期待して、鼻腔をすぼめ、息をつめるようにして一歩中に足をふみいれた。
意外にあたたかい空気が、まわりから、彼を包んだ。
――そして、予期した埃と黴の臭気は、そのおちついた闇の中になかった。
ライトを奥にむけて照らした彼は、一瞬、狐につままれたような思いを味わった。
太い、黒光りする梁、がっしりした上り框、古びた御影石の沓《くつ》ぬぎ、赤茶けた畳……たしかにどこもかしこも古びていたが、裏口から見た時、びっしりとつもり、こびりついていた埃は一つもなかった。天井からさがる蜘蛛の巣やすすもない。上り框も、板戸も、柱も、廊下も、奥の板の間も、時代はついていたが、たった今ふきこまれたように塵一つない。
――なんだ……と、彼はいささかあっけにとられて、あちこちライトの光をさしつけながら思った。――誰か住んでいるのか……。
が、人の住んでいる痕跡はどこにもなかった。押入れの中は、やはり埃一つなかったがからっぽだ。家財道具も何もない。――念のため、土間を通って賄所の方へ行ってみた。さっき見た時、びっしりつもっていた板の間の埃も、梁からぶらさがっていた蜘蛛の巣も、きれいになくなっている。
奇妙に、恐怖感はわかなかった。――考えて見れば、それもおかしな事だ。こんな、人里離れた、見も知らぬ山奥の一軒家で……しかし、寒さにかりたてられ、半寝惚けで、感情もまともに働かなくなっていたのか、家の中に埃がないと知ると、彼は、しめしめ、といった思いで、いそいそと靴をぬぎ、座敷にあがった。
表の間の次の間に、大きな囲炉裏が切ってあった。天井からまっくろにすすけた自在鉤《じざいかぎ》がさがり、灰は冷えていたが、きれいにならされていた。
囲炉裏の横に、粗朶《そだ》と、乾いた薪がきちんとつんである。――こう来なくっちゃ……と、膜のかかったような頭の中で、彼はよろこんでつぶやいた。
手帳の紙を二、三枚破いてまるめ、粗朶を上において、ライターで火をつけた。橙色の焔が、ゆるゆると背をのばし、焦げた紙が、黒く、そして白くちぢれて行く、と、たちまち粗朶に燃えうつり、乾いた小枝がパチパチとはぜた。
間もなく囲炉裏の中には、薪が燃え上り、力強く暖い焔が、陽気な音をたてはじめた。彼の頬はあたたまってほてり、ぬくみは手先、腕から、次第に胸、腹と、全身をあたたかくほぐして行った。薪がよく乾いているのと、天井の煙出しがよくできているので、ちっとも煙たくなく、あたりには香ばしく、なつかしい木の焦げる臭いがみち、部屋全体の空気もあたたまりはじめた。
――やれやれ……。
と、たっぷりの薪をまわりにくべて、彼は頬をゆるめ、毛布をかきあわせて眼をつぶった。
――助かった……。うまい場所が見つかったものだ。これで朝まで、あたたかく眠られるぞ……。
火のぬくみを半身に感じながら、彼は横になり、暖気にときはなたれた睡魔に、今度は心おきなく全身をゆだねた。――パチパチはぜる木の音を、子守唄のように快く聞きながら……。
闇の中に、突然|何か《ヽヽ》の気配を感じて、彼は、はっと身をかたくした。――火が消えたのかと思ったが、パチパチはぜる音はきこえ、半身にうけるぬくみもかわらない。
――また夢か?
と、彼は闇の中で思った。
闇の底にたしかに|何か《ヽヽ》の気配がする。
彼を包みこむようにせまり、しかし、害意のない事は感じられた。
――だれ?
と、夢の闇にむかって眼を開きながら、彼は、|それ《ヽヽ》にむかって問いかけた。
――だれだ?……何の用だ?
――お休みなさいまし……。
と、|それ《ヽヽ》は、やさしく、彼を包むようにいった。
――誰なんだ? 何の用だ?
――お気になさる事はありません……。
|それ《ヽヽ》はいった。
――ずっと……今度はずっと、いてくださるのでしょう?
(ずっと?)
と、彼は相手に問いかえさず、心の中で思った。
(ずっと……だって?)
「いや!」彼は大きな声で叫んだ。「そうは行かない、そんな事は……」
――なにが……。
闇の気配は、心配そうにいった。
――なにが不足なのでしょう?
「水がいるんだ」と、彼はあいかわらず大声で叫んだ。
「水が――どうしてもいる」
――水?
相手は、けげんそうにいった。
――水がいるのですか?
どこかで、ちょろちょろと水の流れる音がした。――やがてそれは、ざあざあと急流に似たような音をたててせまって来た。
バーン! と大きく薪のはぜる音がして、彼はぱっと眼をひらいた。
囲炉裏を背にして横たわった彼の影が、押入れの板戸に、もくもくと巨大な山影のようにゆらめいている。
薪は半分以上|燠《おき》になっていたが、半分はまだ勢いよく焔をたててもえている。――しゅうしゅうと、|やに《ヽヽ》をふき出す音にまじって、どうどうとどこかでおちる水の音がきこえた。
彼は思わず炉ばたではね起きた。
水の音は、裏の方からはっきりきこえてくる。
あわただしく靴をつっかけ、ライトをにぎって、彼は土間を裏口にむけて走った。
裏戸をぬけると、さっきはからからだった筧《かけい》の口から、山清水がどうどうと流れおち、洗い場の上で、冷たい、鮮烈な飛沫をちらしていた。
――しめた!
と、不思議を思うより先に、彼は心の中で叫んでいた。
――助かった!
水がめのわきに、大ぶりの手桶があった。
彼はそれをつかむと、筧からおちる水をいっぱいにみたし、途中何度も休みながら、よちよちと谷間の車の所にはこんで行った。
ますますきびしくなった冷気が、睡気をすっかり吹きとばしていた。彼はボンネットをあけ、首をつっこむと、ラジエーターパイプのひびわれに、粘っこい赤土をすりこみ、ガムテープで何重にもしっかり巻いた。寒いし、無理をしなければ充分人里まで出られる。
もう一往復すると、ラジエーターの注水口から水があふれた。手桶をなげ出し、毛布とライトを後部座席にほうりこむと、彼は一刻ももどかしいようにキイをさしこみ、ひねった。
冷えきったエンジンは、二度目のスターティングで勢いよくまわり出した。――アクセルを軽く踏んだ状態で、しばらくあたため、前にまわって、応急修理箇所から水もれのない事をたしかめると、彼はボンネットをしめた。フロントグラスや、前部窓の霜をウエスで充分にふきとり、運転席にすわると、深々と息をついてギアを入れた。空が白みはじめており、まっ白に霜のおりたあたりの光景は、やっと見わけられるほどになっていた。窪地のようになった所で、霜と草をふみしだいて勢いよく車をまわし、ライトをつけてもと来た道を慎重にひきかえしはじめた時、ふと背後で何か叫びをきいたような気がしたが、その時は車が動くうれしさに気にもとめなかった。
だが――草をかきわけ、木の根をこえて、ものの十分も走った時、彼は背後からつけて来る|何か《ヽヽ》の姿を、バックミラーの上にちらと見たような気がした。岩角をのりこえ、やや、平らな直線に出た時、彼はもう一度バックミラーをたしかめた。
黒いものの姿がちらっとうつったように見えた。
やや不安になって、彼は直線路を、すこしスピードをあげて走り、次のくだりのカーブをまがった所で、一たん車をとめた。
白んで来た空の下に、道は斜面を蛇行して、すぐ下の狭間《はざま》を走る、もっとひろい道へ、おりて行くのが見えた。――その道を左にとれば、あの村道らしきものに出られる。そこへおりて行くまでの斜面は、まだ暗い、杉木立ちにおおわれている。その斜面をちょっとくだった所に車をとめ、彼は背後の気配に耳をすませた。
|何か《ヽヽ》が、あとを追ってくる……。
そんな気がする。いや、そんな気配がする――。
エンジンを切り、窓をあけて、彼は背後の今まがって来たカーブのむこう、斜面の上の木立ちの間にむかって耳をすませた。
ガサリ……カサッ!……、
と下ばえの草をかきわける音がする。
ポキッ……ベキッ……、
と下枝をへし折る音も、その合間にきこえる。
もう疑いようもなかった。
|何か《ヽヽ》が、彼のあとをつけてきている!
――何だ、いったい……、
彼は、背筋がぞくりとするのを感じて、あわててエンジンをかけた。
得体が知れないくせに、それがわかっているような気がした。
あの、夢の闇の中で、彼を包みこむように話しかけて来たもの……そして――それはおそらく、最初見た時ほこりだらけだったあの廃屋を、わずかの間に綺麗にし、車内の夢の中でよびかけて彼をいざない、薪を準備し、ひ上った筧から水を出した「もの」だ……。
山腹の草にかくれた道を慎重にひろいながら、彼はできるだけ急いで斜面を走りおりた。――下の道へ出て急カーブを切った時、再び眼の隅に、黒いものがちらと見えた。岩角に片輪のり上げた車をたてなおしながら、彼は首をねじまげて斜面の上をながめた。
とたんに、口の中がシュッと音をたてて乾き、全身の毛穴がちぢみ上った。
そんな……彼は凍りついたような恐怖の表情でハンドルにしがみつき、アクセルをふんだ。――そんな……ばかな!
が、ふりかえりたがらない顔の筋肉をねじまげて、もう一度見た時、それはもう疑いようもなかった。
山の斜面を、巨大な、黒いものが、体を左右にゆすって、草をかきわけかきわけおりてくる。
あの家《ヽ》が――古い、がっちりした無人の廃屋が、彼のあとを追って来たのだ!
その日の朝まだき、朝もやのたちこめるその地の県道を、霜をふみ、白い息を吐いて早い仕事に出かけるために歩いていた人たち、またトラック、乗用車を走らせていた人たちは、誠に奇妙な光景にぶつかって呆気にとられた。
その地方の中心都市にむかう県道を、山間部の方から、一台の小型乗用車が、狂ったようなスピードで、バス、トラック、乗用車を追いぬき、正面衝突すれすれの無謀運転ぶりでつっ走って来た。スピード制限も、交通法規も、まるきり無視した、むちゃくちゃな運転ぶりだった。
そして、そのすぐ後、五十メートルほど間隔をあけて、一軒の古びた、しかし、がっしりとしたつくりの大きな農家《ヽヽ》が、それに負けないスピードで風を巻いて追って来た。古びた萱葺き屋根にはえた丈高いペンペン草をなびかせ、戸障子をがたがた言わせながら、家《ヽ》は時速百二十キロにちかいスピードで小型乗用車のあとを追いつづける。――まるで、眼に見えないロープで前を行く車にひっぱられているように、ぴったり五十メートルの間隔をおいて……。
県道を車で走っていた人たちは、乗用車のむちゃな運転ぶりにもびっくりしたが、そのあとから追ってくる農家の、大きな、黒々とした姿には、一層肝をつぶした。――みんなあわてて路傍に急停止して家《ヽ》をよけようとしたが、中にハンドルをとりそこねて追突したり、路肩から田へ転落する車もあった。県道は一応完全舗装、四車線だったが、それでも堂々たる構えの農家一軒を、時速百二十キロでつっぱしらせるにはせますぎた。路傍を歩いていた人や、バスを待っていた人は、家《ヽ》のまきおこす風にあおられてひっくりかえったり、よけようとして悲鳴をあげて田や溝にとびこみ、つっぷした。
しかし、家《ヽ》は、そのでかい図体をたくみにひらりひらりと斜めにして、対向車や、追いこす車との衝突をさけた。荷物を満載した十トンづみのトラックに、あわや衝突したかと思った瞬間、かるがると空中高く舞い上り、そのトラックをとびこして、なお追跡をつづけた。
奇妙な「追われるもの」と「追跡者」は、県道にさわぎをまきおこしながら、次第に都市部にちかづいて行った。――日は次第に高くのぼり、通勤の車、バス、トラックの数も次第にふえて来たが、おかしな追っかけっこは、混み出した車の間をぬい、所々信号を無視して、なおつづいた。乗用車はやがて幅ひろい自動車専用道路にのったが、家《ヽ》もかまわず宙をとぶようにして、同じ道路を走った。
パトカーの出動がおくれたのは、目撃した人々がわが眼をうたぐって動顛したのと、通報をうけた警察が、「家《ヽ》が車《ヽ》を追いかけている」というあわてた電話を、早朝でねぼけたものと思って、しばらくの間まともに相手にしなかったからだった。――だが、都市部にはいって、電話がじゃんじゃんかかり出し、派出所に詰めていた警官からも目撃の電話がかかると、ついに非常線指令がとび、サイレンをならしての追跡がはじまった。
あるテレビ局のモーニングショーが、たまたまその日朝、ヘリをとばしており、ただちに現場の上空に行かせて、カメラにとらえた時は、車は専用道路からおりて、都市のはずれへむかう産業道路を走っており、家《ヽ》も相かわらず五十メートルはなれてそのあとを追っていた。
「あ、見えてまいりました!――家《ヽ》です! みなさんごらんになれますか? 本当の家《ヽ》です。家《ヽ》がただいま産業道路のS町附近を走っております。堂々たる萱葺きの農家です。建坪は五十坪もありましょうか――あ、ただいま先を行く小型車が、猛烈な勢いで四丁目の交叉点をまがりました。つづいて家《ヽ》も、時速約百キロあまりで見事にカーブをまがります……」
交叉点をまがって、もう一本の産業道路が、高層アパート群の中を通過するあたりで彼は車をとめ、とぶようにして自分の住居のあるアパートの階段をかけ上った。
「なによう、今ごろ……」
ドアをはげしくたたかれて、妻は不きげんそうな寝不足のはれぼったい顔でドアをあけた。
「ゆうべは一体どうしたのよ。泊るなら、電話ぐらいかけたって……」
「ドアをしめろ!」中にとびこむなり、彼はわめいた。
「追われてるんだ!」
「追われてるって?」妻はびっくりしたように眼をしばたたいた。「喧嘩でもしたの? 誰に追われてるの?」
「家《ヽ》に、だ!」彼は奥の間にかけこむと、ふとんをひっかぶってがたがたふるえた。「ゆうべ山の中で道に迷って――とまった家《ヽ》が追っかけてきたんだ」
妻があきれてききかえそうとした時、ドアがまたはげしくたたかれた。
「警察のものですが……」と外で声が叫んでいた。「ちょっとあけてください」
尻ごみし、わめきながら警官にともなわれて、アパートの外へ出てみると、家《ヽ》は、アパートのまン前の産業道路一ぱいに居すわっていた。――すでに近所の住民、パトカー、野次馬で黒山の人だかりだった。警官が出動して縄を張り、野次馬の整理にあたっており、そこへ新聞社、放送局の車が続々とおしかけていた。
「もっとおちついて話してください」警官はがたがたふるえる彼をかこんできいた。「あれはあなたの家《ヽ》ですか?」
「いいや、とんでもない!」彼はふるえながら首をふった。「ゆうべ……山の中で車で道に迷って……偶然あった空き屋にとまったんですが……そ、その家《ヽ》です」
「そうかね?」と警官はうたがわしそうな顔をした。「それにしてもどうやって家《ヽ》を走らせたんだ?」
「そんな事知るもんですか!」彼は叫んだ。「車が動くようになって、走り出したら……あいつがあとを追っかけて来たんです」
「警察への通報では――」と別の警官が口をはさんだ。
「あんたが車であの家《ヽ》をひっぱって、無謀運転でつっぱしったという事だが……」
「冗談じゃありません!」彼は金切り声をあげた。「私の車は千二百ccですよ。そんな車で、あのでかい家《ヽ》をひっぱって、百二十キロで走れると思いますか?」
警官が誰かによばれてふりむいたすきに、まわりでやりとりをきいていた、新聞記者や放送記者の列がどっと前に出た。フラッシュがきらめきマイクがつきつけられた。
「あの家《ヽ》に追いかけられたんですって?」と一人がきいた。「この住宅難の折りに、家《ヽ》の方が追いかけてくるなんて、ずいぶん運がいいと思いませんか? 感想はいかがです?」
人の気も知らない、無責任な質問にかっとして、どなりつけようとした所を、また警官にへだてられた。
「交通本部からの指令だが……」とパトカーの方へ行っていた警官がかえってきていった。「事情聴取は署の方でやるとして、とにかくあの家《ヽ》をどかせろ、といっている。今、大型カーとトレーラーがくるそうだ。――なにしろあんな所で居すわられていちゃ、ラッシュ時でもあるし、交通が渋滞混乱してどうもならんからな」
「早くどかせてくださいな」主婦らしい、上ずった声がきこえた。「あの家《ヽ》、うちの戸口をふさいじゃってるんですよ。裏口しかつかえないんです!」
別のサイレンの音がちかづき、そのあとからでかいクレーンが、人垣の上を動いてくるのが見えた。警官が笛を吹き、野次馬をさがらせた。
「萱葺き屋根じゃ、どうもならんな」とレッカー車からおりたヘルメットの男が、まわりの工事人夫姿の連中にいった。「ジャッキで上げて、下に|ころ《ヽヽ》をかませて、ウインチでトレーラーにひっぱりあげるか」
「この家《ヽ》が、いったいどうやって百二十キロで走ったんだ?」人夫の一人が、けげんそうにつぶやいた。「ほんまかいな。――大分古いぜ」
人夫の二、三人が、家《ヽ》にちかづいて行った。――とたんに、分あつい萱葺き屋根の軒から、何年とたまった泥とほこりが、どっと人夫たちの頭の上におちて来て、彼らはあわてて手をふり、しりぞいた。
おちた土ぼこりのおさまった所で、もう一歩近づきかけると、今度は軒下から、わあん、と音をたてて、巨大なスズメバチの群がとび出し、人夫、警官、野次馬めがけておそいかかった。――あちこちから悲鳴があがり、どっと人垣がくずれた。
蜂たちは、彼だけはおそわず、しりぞいた人波の中から、彼一人、家《ヽ》の正面にのこされた。
家《ヽ》は、彼の姿を見つけたようだった。
朝日をうけた、黒ずんだその姿が、一瞬ぱっと明るくなったように見えた。屋根にはえた雑草がしゃんと立ち、土台のまわりの土もろとも運ばれてきた、八重むぐらの茎や葉に、露がキラキラと輝いた。――彼の見ている前で、戸口がするするとあき、雨戸がガラガラとくられ、障子があき、座敷の奥で囲炉裏の火がパッともえ上った。裏の方で、筧からざあざあ水のおちる音もしはじめた。
――さあ、どうぞ……。
と、家《ヽ》は彼にむかって語りかけているようだった。
――なぜ逃げるのです。ここはあなたの家《ヽ》ですよ。どうぞおはいりください……。
「ちきしょう!」
蜂にさされた人夫頭が、痛そうにうめくのがきこえた。
「こりゃ、ちょっと大きすぎて、このままじゃトレーラーだって乗りませんぜ。かたづけろっていうなら、ぶっこわしてバラバラにして持って行ったほうが、ずっとてっとり早い」
「いいだろう……」本部と無線で話していた警官がふりかえっていった。「あとで持主があらわれたって、これは明白な道路不法占拠、交通妨害だ」
「待ってくれ!」
人夫が声をかけあい、クレーンの先のフックに、でかいアングルがつるされた時になって、彼はやっとかすれた声で叫んだ。
「ちょっと……待ってくれ」
クレーンのエンジンがうなり、アングルが次第に大きくゆられ、やがて大きくはずみをつけて、萱葺き屋根にぶつかった。――ぼん、とにぶい音がして、埃が浮くと立ちのぼり、さしも頑丈づくりの家《ヽ》も、ぐらりと横にかしいだ。家《ヽ》の中で、どすん、と梁のおちる音がし、あけはなたれた障子の奥は、ほこりで見えなくなった。
反対側からの第二撃で、家《ヽ》の柱がベキッ、とつぎ目で折れる音がし、屋根が膝をつくように大きくかしいだ。――たちこめる埃のむこうに、めらっと大きく、赤黒い焔がたつのが見えた。
その時、彼ははっきりきいた。
昨夜、夢の闇の中で、やさしく彼をつつみこむように語りかけた声と同じ声が、くずれ行く家《ヽ》の中から叫ぶのを……。
「燃えたぞ!」
と、さわぎが大きくなって行くまわりでわめくのがきこえた。
「消防を呼んでおいたほうがいい」
「待ってくれ!」
たおれかけた障子の桟と紙をぺろぺろとつたい、襖、板戸にうつりかけた火を見つめながら、彼は憑かれたように背後のクレーン車へむけて手をふってわめいた。
「待ってくれ! 中に……中に、女がいる!」
「なに?」
警官の一人がききとがめて、ふりかえった。
「それは、本当か?」
「知らない……」彼はかわいた萱葺き屋根の軒にまわって、どっと強くなった火熱を、顔をそむけてよけながら叫んだ。
「わからない……が、|何か《ヽヽ》がいる。あの中に……」
「危い!」と彼が叫んでいた。
「あなた、何すんのよ!」妻の金切り声の悲鳴が背後でかすかにきこえた。「もどってらっしゃい、あなた!」
ごうごうと軒から屋根へもえ上った火に、眉毛をこがされながら、彼はなにかにひかれるようにふらふらと戸口へむかって進んだ。
視界一ぱいをうめつくして光ともえ上る焔の中から、|あの声《ヽヽヽ》が、悲鳴のように、懇願するように叫んでいるのが彼にははっきりきこえた。
――あなた、どうぞ……あなた、どうぞ……声は悲しげにくりかえした。
――これは、あなたの家《ヽ》ですよ……。
「待て!」と彼は叫んだ。「いま……助けてやるぞ!」
彼の姿が、手のつけられない一団の火焔と化した家《ヽ》の戸口から中へとびこむのと、無数の火の粉と黒煙を宙天に吹き上げて、火の家《ヽ》がどうっと燃えくずれるのと同時だった。――悲鳴と叫喚が、まわりから上った。消防車が鐘とサイレンを鳴らしながら、車と人をかきわけてちかづいてきたが、もう間にあわない事は明白だった。
呆然と手をこまねいて見まもる警官や群集も、ヒステリイの発作を起して気を失いかけた彼の妻も、誰も知らなかった。――ずっと前、あの山奥に、その家《ヽ》を建て、山林と親族に貸した田畠の上りで、ひっそりとくらしていた老人が、ある日出先で死に、ひどい過疎化がはじまって、一族が都会に出てしまったため、そのままに山中に無住のままうちすてられて来たその家《ヽ》――老人がみずから材をえらんでつくり、愛《め》で、永年起居して、体の一部となるほど情のうつっていたその家は、ある日出て行ったまま帰らぬ主《あるじ》を、何年も空虚のまま帰りを待ちつづけ、ついに人恋うあまり|狂い《ヽヽ》……何年かぶりでやっと訪れたもののあとを追って無理心中をとげたのだ、という事を……。
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秘  密(タプ)
あたたかい日曜日だった。
おだやかな麦藁色《むぎわらいろ》の秋の陽《ひ》が縁側いっぱいにさしこみ、その陽をぬくぬくと浴びた飼い猫は、大きな伸びをしたり、ひっくりかえって板の間に背をこすりつけたりして、ひとりできげんよく、のどをごろごろ鳴らしている。
おそい朝食をすましたあと、夫は縁側のデッキ・チェアにねそべり、煙草をふかしながら、新聞の囲碁欄に眼を通していた。
妻は居間から応接間へ掃除機をかけており、同居している夫の妹は、鼻歌をうたいながら、台所で朝食のあとかたづけをしている。
応接間のカーペットに掃除機をかけおわった妻は、掃除機の吸いこみ口をさしかえ、椅子や飾り棚の上のほこりをとりはじめた。――飾り棚の上や、ガラスケースの中には、古い皿や、花瓶や、夫が仕事でアフリカ、南太平洋へ行って来た時に買いあつめて来た、いろんながらくたがおいてある。真鍮製《しんちゆうせい》の壺、原住民のつくった稚拙な楽器、木彫り、石彫りの人形や動物、不思議な彩色と筋彫りのある瓢箪製《ひようたんせい》の容器……そういったものにまじって、妻が日ごろから気味悪がっている、まっ黒なかたい木に彫られた、ごつごつした神像があった。高さ三十センチほどの、大きな瞳のない眼をむき、べろりと舌を吐き出したその神像を見る度に、妻は動悸の早まるような気がするのだった。
夫の持ちかえってきたさまざまなグロテスクな未開種族の神像、人形の中で、それは最初に見た時から、とりわけ不気味な迫力を持っているように見えた。――あらっぽい、稚拙な彫線にかかわらず、見るものを、何か暗い、深い得体の知れない所へひきずりこむような雰囲気がただよっている。どこで買って来たのか、夫が包みをといた時から、ふつうの土産物店で売っているものではないような、異様な感じがつきまとっていた。下の方に、泥がついて乾燥している。枯れた苔のようなものもついており、くぼみには、小さな蜘蛛の巣ものこっていた。何度か外国旅行をした事もある妻は、こういったこびりついている土や苔が、本当は検疫でうるさく言われる事を知っていた。そして、夫がまたいつもの手で、スーツケースにいれて、税関の「申告なし」の方を通りぬけて来たのだろう、と思った。
包みをあけてから、夫は泥や枯葉や蜘蛛の巣をきれいにふきとって、その神像を飾り棚の上に、ほかの像とならべておいた。
ならべてしまえば、あとは一向に無関心な夫をよく知っている妻は、その気味の悪い感じのする神像を、一番すみの目立たない所に押しやり、前の方に自分の好きな、アフリカの木彫り類をおいた。――しかし、夫は何も言わなかった。
飾り棚の上のほこりを吸いとり、あと、乾いた布で、棚の上や、彫像類をざっとからぶきしているうち、いつも一番隅にあるその神像だけ、さわるのもいやで、ほこりを拭きとらず、ほったらかしにしておいた事が、ふと気の毒なような気がした。――象の彫り物をからぶきしながら、彼女はちょっと横眼ですみの像を見た。
その時、台所をすませた夫の妹が歌を歌いながら応接間にはいって来た。
「洗い物、すんだわよ」と妹は、エプロンで手をふきながらいった。「お掃除の方、手つだいましょうか?」
「そうね……」妻はちょっと考えるような調子でいった。
「あと一つだけれど、その木彫り、拭いてくれる?――あたし、紅茶かコーヒー入れてくるわ」
「いいわよ」妹は気軽にいって、姉から布をうけとった。「わあ、なによ、この人形。ほこりだらけじゃない?」
「うん……」嫂《あによめ》はあいまいな笑いをうかべた。
「あんまり好きじゃないものだから、今まで、冷や飯くわしてやったの……」
「かわいそうに……」
妹は神像を縁先にもち出して、布でほこりをはたいた。――もう午ちかい日ざしの中で、小さなほこりが、銀色に光ってとびちり、おどった。
「あなた、お紅茶がいい? コーヒーがいい?」
妻は、妹のやっている事を横眼で見ながら夫にきいた。
「うう……」夫は、囲碁欄に指をおきながら答えた。
「うう、じゃわからないわ。どっち?」
「コーヒー……」
と夫はやっといった。
「やだわ。このごみ、こびりついちゃってとれない……」
妹は、直射日光に神像をすかし、ぷっ、と神像の頭部に唾を吐きかけ、ごしごしこすった。
妻は、何となく|と《ヽ》胸をつかれたような思いで妹のしぐさを見つめた。
嫂に見つめられている事に気づいた妹は、くるくるした眼で、義理の姉の方を見て、肩をすくめ、ぺろりと舌を出した。
妻は苦笑したが、何だかその時、舌を出した妹の顔が、グロテスクな神像の顔と、ふとうつりあうような気がした。
嫂がコーヒーを入れに台所へ去ると、妹は、神像を飾り棚の正面にかざった。――みがかれた神像は、日ざしの照りかえしをうけて、急にいきかえったような、なまなましさをおび、その瞳のない眼で、あたりをにらみまわした。
コーヒーをのんでしまうと、三人はぼんやりして庭をながめた。――夫はまた新聞をとりあげ、囲碁欄に眼をおとす。
「あなた、今日はゴルフはいらっしゃらないの?」
「うう……」と夫はまた口の中で答えた。
「一日家にいらっしゃるのだったら、芝生を刈ってくださらない?」
「芝生?」夫は庭を見た。「そんなにのびてない。それにもう秋だ。もうじき……」
「もうじき枯れるから刈って欲しいのよ。――のびたまま枯れたら、みっともないでしょう?」
夫はだまって、新聞を投げ出すと、立ち上って大きく伸びをした。
妹は居間の方で、テレビのショー番組を見ている。
肩を二、三度、|こり《ヽヽ》をほぐすように上げ下げすると、夫は縁先からサンダルをつっかけて庭へおりて行き、裏の方へまわって行った。――物置きの方で音がし、間もなくごろごろと芝刈り機を押してあらわれた。妻は奥からいくつも箱を縁側に持ち出し、中のものの整理をはじめた。
麦藁《むぎわら》色の太陽は、新築間もない家にも、さほどひろくない庭にもさんさんと降りそそぎ、どこかで鋭く百舌鳥《もず》の鳴く声がした。――ガラガラと芝刈り機を押して、夫は庭の端から端へと何度も往復し、妻は時々整理の手をやすめて、芝刈り機の赤く塗られた鋳物の車輪の間から、鋼鉄の刃がにぶくきらめくのを見、その刃の回転につれて、こまかい、しめった緑色の葉が宙に舞い上るのを見た。グレイフラノのズボンに、カッターシャツの上から、薄茶色のカーディガンを羽織った夫の顔は汗ばんでおり、時折り押す手を休めて、澄んでひいやりした秋の空気を吸いこんだり、庭先の植えこみをながめたりした。
植えこみのむこうの垣根の上から、隣家の主婦が、愛嬌のある顔をのぞかせ、夫にむかって一言二言いった。夫はちょっと手を休めて何か答え、二人はおかしそうに空にむかって笑い、夫はまた芝刈り機を押しつづけた。
そんな光景を、顔の横に感じながら、妻は整理をつづけた。――いつの間にか、妹もテレビを消して義姉の傍に来てすわり、二人はとりとめないおしゃべりをしながら、箱の中を一つまた一つと整理していった。その横で、猫があきもせず背中を廊下にこすりつけ、ごろり、ごろりと寝がえりをうっていた。気がつくと、夫は芝刈りをすっかりすませてしまい、きりきざまれた青い葉をいっぱいくっつけた芝刈り機にもたれ、汗をふいた。
「あなた、ごくろうさま」と妻は声をかけた。「こちらへはいって、一服なさったら?――冷たいものでもあげましょうか?」
「ああ……」と夫は、汗をぬぐい、青空にむかって大きく胸を開いて深呼吸しながら、気持ちよさそうに言った。
「……が食べたいな」
「いやな兄さん」妹はくすくす笑った。
「さっき朝御飯食べたのに、芝刈りぐらいでもうおなかがすいたの?」
「お午飯《ひる》に鰻でもとりましょうか?」と妻はきいた。「何が食べたいの?」
「お前が食べたい……」
と夫は、太陽をあおぎながら、まぶしそうに眼を細めていった。
「え?」と妻はききかえした。「何ですって?」
「お前が食べたいんだよ」と夫は細めた眼を妻の方にむけていった。「お前の頭を食いたい……」
「まあ、兄さんったら……」
冗談だと思って、ぷっと吹き出しかけた妹は、突然胸の底が凍るような感じにおそわれた。
嫂の顔が、紙のようにまっ白になり、眼の色が、ひきずりこまれるように暗く、沈んでいるのに気がついたからだった。
妹は兄の顔を見た。――兄の顔は笑っていなかった。その眼は光沢を失ってざらざらした感じで、何の表情もなく、嫂にむけられており、その唇は、両端が吊り上り、一種猥らな感じをたたえて、ピンクの舌先が、右から左へ、また逆へと、ゆっくりなめずっていた。
「本当に……」妻は、かすれた、気の滅入るような低い声で夫にむかっていった。「私を食べたいの?」
「ああ……」夫は、大きく見開いた眼を、ぴったり妻にむけて、しわがれた、気味の悪い声でいった。「本当だとも。本当にお前を食べたいよ……」
妹は、兄の眼が異様にいやらしい輝きをおびはじめ、その肩があえぐようにゆっくり上下しはじめるのを見た。――はっ……はっ……という獣のような息づかいが、そのひんまがって、なかば開かれた唇からもれていた。
「そうなの……」土気色の顔色になった妻は、がっくり肩をおとし、ふちにくろずんだ隈のできた眼を力なく伏せ、蚊のなくような声でいった。「じゃ、いいわ……」
それをきくなり、夫は芝刈り機をほうり出し、物置きへとんで行ってシャベルをとってくると、今きれいに刈り上げたばかりの芝生につきたて、狂ったようなスピードで穴を掘りはじめた。
妻の方は、死人のように青ざめた顔で、力なくうなだれたまま、箱をかたづけはじめた。
「いったい二人ともどうしたのよ?」
妹は上ずった声で、悲鳴をあげるように叫んだ。
「気でも狂ったの?――義姉《ねえ》さん、兄さんはどうかしちゃったみたいよ。早く、お医者か警察をよばなくちゃ……」
嫂は、顔をあげて義妹を見ると、さびしげな微笑をうかべて、ゆっくり首をふった。
「いったいどういう事なの?」
妹は金切り声をたてた。「義姉さん――あなた本当に……本当に、兄さんに|食べられる《ヽヽヽヽヽ》つもり?」
「だって、あの人が私を食べたい、というんだからしようがないでしょう……」妻は、低い、あきらめたような声でいった。「あの人が食べたいなら、食べさせてあげるしかないわ。だって――私、あの人を愛しているんですもの……」
「そんな……」妹は、のどがつまって、かすれたような声でいった。――唇がからからに乾き、全身は恐怖のためにこまかくふるえ出した。「いくら夫婦だって……そんな……」
「おい!」汗をかいて、土を掘りかえしながら、兄は妹に声をかけた。「ちょっと行って、バナナの葉を四枚ほどもらってこい」
「バナナの葉?」妹はおどろいてきいた。「そんなもの、どこにあるのよ」
「公園の植物園にあるだろう。自転車で行ってもらってこい」
「バナナの葉なんて……いったい何にするの?」
「うるさい!」兄は、もうずいぶん大きくなった穴の中から、シャベルで土をどさっとほうり出しながらどなった。「料理につかうんだ。さあ、早く行かないと、お前も食ってしまうぞ!」
妹は、しばらくショックと恐怖のため、まっさおになってぶるぶるふるえていたが、やがて顔をおおってワッと泣き出すと、応接間からとび出して行った。
間もなく、玄関の方で、自転車をひき出す音がした。
妹が出て行ったあとも、夫はなにかに憑かれたように、一心不乱に穴をほりつづけた。――どさッ!……どさッ!……としめった黒い土が芝生の上に、正確な間隔で投げ出されるのを、妻は縁側に肩をおとしてすわり、暗い眼つきでじっと見つめていた。
「おや、まあ……」
さっきのぞいた隣家の主婦が、また垣根ごしに顔をのぞかせて、おどろいたように声をあげた。
「せっかくきれいに手入れなさったのに、掘りかえしてしまうんですか?――ごみでもお埋めになるの?」
「いいや……」夫は泥まみれの顔で、歯をむき出して笑った。「これは地炉≠ニいいましてね。――ポリネシア語でウム≠ニいうんです。この中で、いろんな食物を蒸し焼きにするんですよ」
「ああ……」隣家の主婦は、あいまいな顔でうなずいた。
「つまり……バーベキューの……」
「バーベキューじゃありません。蒸し焼きです……」夫は陽気な声で言って、縁側でしょんぼりうなだれてすわっている妻の方を、泥のついたシャベルでさした。「これから女房を蒸し焼きにして食ってやろうと思うんです。――一口、お裾わけしましょうか?」
「まあ……」隣家の主婦は、ぽかんと口をあけて夫と妻を見くらべたが、やがてあわてたように首をふった。
「いえ……いいえ、私はけっこうですわ……」
主婦がおそろしそうな顔をして、家の中にひっこんでしまうと、夫は歯をむき出してニヤリと笑い、シャベルを大きくふりまわして、穴の底に、ぐさっとつきさした。
妹は泣きながら、公園の中を自転車で走って行った。――日曜で、公園には家族連れやアベックなど、人出が多かったが、人々は、眼を泣きはらし、涙を流し、泣きじゃくりながら自転車を走らせて行く若い娘を見て、びっくりしたようにふりかえった。
植物園の入口で自転車をとめると、妹はハンカチで顔をおおって、おんおん泣きながら、園丁のいる事務所にはいって行った。
「どうした?」園丁たちはびっくりして、椅子から立ち上った。「なにがあったんだね」
「あの……」妹ははげしくしゃくり上げながらいった。
「バナナの葉を……四枚ほどほしいんですけど……」
「バナナの葉だって?」園丁たちは異口同音にいった。
「枯れたやつでいいのかい?」
「青いので……なけりゃだめだって言っています……」
「秋だから、青い葉をあまりとるわけには行かないが……」園丁の一人はいった。
「いったい何にするんだ?」
「兄が……嫂《ヽ》を料理するのにつかうんです……」妹は一層はげしく泣きながらいった。「兄は……これから嫂を殺して……食べるんです……」
園丁たちは顔を見あわせた。――中には頭がおかしい、というそぶりをするものもいた。「よしよし……」と一人が、事務所のドアをあけながらいった。「何枚いるんだね? 四枚?」
「そうです……」妹はハンカチで眼をおさえ、わんわん泣きながらやっといった。
青い、大きなバナナの葉を四枚かついで、今度は手ばなしで泣きながら、妹が自転車を走らせて行くと、公園にいた人たちは、一層おどろいたような顔であとを見送った。
穴はもう長さ二メートル、幅七十センチ、深さ五十センチ以上になっていた。――夫は穴の中からはい出すと、シャベルをほうり出し、手をはらって満足そうに汗をぬぐった。
「掘れたわね……」妻は縁側にすわって、力のない声でいった。「あなた……どうしても、私を食べるつもり?」
夫は答えずに、いそがしそうに物置きに行った。――物置きから、大きな斧をとり出すと、彼は、物置きをたたきこわしはじめた。
妻は縁側にきちんと膝をそろえてすわったまま、顔を伏せ、じっとその音をきいていた。――膝の上にかさねた手の甲の上に、ぽとりと一滴、涙がおちた。
夫はたたきこわした物置きの破片を、腕一ぱいにかかえて来て、庭の隅の大きな焼却炉のそばにつみあげた。
「私たち……」妻は涙をたたえた眼でせわしなげに立ちはたらく夫を見ながらつぶやいた。「……とても……愛しあっていたでしょう?」
夫はふと手をとめて、うつろな眼つきで宙を見つめた。――おれはいったい、何をやっているんだろう……といいたげな、混乱した表情が、その顔にうかんだ。
「……そう……愛しあっていた……」と夫はしわがれた声でつぶやいた。「お前だって……ぼくを愛しているから……食べさせてくれるんだろう?」
「どうしても……」妻は指先でそっと眼をおさえていった。「食べるつもりなのね?」
夫は答えずに、もう一山の薪をはこんできて焼却炉の傍に投げ出すと、炉の口をあけ、新聞紙をまるめてつっこんで火をつけた。
「あなたは……とっても男らしかったわ……」
妻はうつむいたまま、うすい肩をふるわせていった。
「私の父が困っていた時……あなたはあんなに親身になって助けてくださったわね……」
焼却炉の中で、薪がごうごうと勢いよく燃え上ると、夫はせかせかと庭の反対の隅につんであった丸石をはこんで来て、焼却炉の中にほうりこんだ。――それは妻が、花壇をつくるために、植木屋にたのんで持って来てもらったものだった。
石をいくつもほうりこみ、火の具合をたしかめて、また薪をたした。
「ああ、あなた……私を食べるのをやめてよ……」妻は肩をふるわせながら、涙にくぐもった声でいった。「二人で、これまで通り……仲よくくらしましょうよ。……こうやって新しい家もできた事だし……、私、今度こそ、赤ちゃんも欲しいわ……」
夫は焼却炉の前から立ち上ると、大きな息をついた。――それから、縁側にきちんとすわって、うつむいた顔から、涙をぽたぽた膝におとしている妻の方をふりかえった。
妹が、眼を泣き腫らしてかえってくると、兄は焼却炉から、赤くやけた石をとり出してやけ具合をしらべている所だった。
「持って来たか?」兄は妹のさし出すバナナの葉を横眼で見ながらいった。「ふん、貧弱な葉だな。――まあいい、そこへおけ」
妹はバナナの葉を穴の横へおくと、縁側から中へはいろうとした。その時、彼女は、裸にむかれた嫂の死体が、廊下の板の上にじかにおかれているのを見て、思わず足がすくんだ。
嫂は、さびしそうな、青白い顔をして死んでいた。首をしめられており、色のさめた唇から、一筋の血が、赤い糸のように、片頬からこめかみへかけて流れていた。――子供をうんでいないため、形のくずれていないまるい乳房が青ざめ、こわばっており、うすい|もや《ヽヽ》のような恥毛がいたいたしかった。
義姉《ねえ》さん……とさけびかけた妹は、嫂の髪が、乱暴に刈りとられ、坊主にされているのを見て、うっ、と口をおさえ、玄関の方へ走り去った。
夫はまっかにやけた石を、焼却炉から火かき棒でかき出し、穴の中におとしこんだ。――穴の底が焼け石でいっぱいになると、バケツに汲んであった水をその上にふりかけ、もうもうとたちのぼる湯気の上に、ぬらしたバナナの葉をおいた。
それから彼は、うす暗くなった家の奥へむかってどなった。
「おい!……手つだえ!」
妹が口をおさえながら出てくると、兄は妻の死体の脚をもたせ、焼け石の上のバナナの葉の上においた。――それから死体の上にまたバナナの葉をおき、水をふりまき、のこっていた焼石をその上において、土をかけた。
かけ終ると、兄は満足そうに手をはたき、居間から上って風呂場へ行った。
妹は、縁側の、さっきまで嫂のすわっていた所にすわって、恐怖と嫌悪とショックのため、声もなく泣きつづけた。――湯殿の方でざあざあ水音がし、兄が奇妙な言葉で、きいた事もない歌をうたうのがきこえた。
長い風呂が終ると、兄は浴衣に着かえ、ビールとコップを手に持って縁側へ出てくると、妹からはなれて縁先に腰かけ、暮れて行く秋の空をながめながらビールを飲み、うなるような気味の悪い声で、意味のさっぱりわからない歌を歌いつづけた。
日がとっぷり暮れて、あたりで虫が鳴き出し、東の空に高くのぼった満月が、庭先にさしこむと、兄は立ち上った。
「もういいだろう……」
とつぶやくと、彼は台所へ行き、長い庖丁を持って来て、庭におりたった。
妹は、電灯もつけていない応接間の縁先にすわって、こまかくふるえながら、浴衣の裾をはしょった兄の黒い影が庭先の黒い土をほりかえすのを見ていた。――とりのけられた土の下から、まだ湯気が濛々《もうもう》とたちのぼっていた。それにまじって、バナナの葉の焼けた甘い臭いと肉のやけた臭いがした。
土と石と、ぐにゃりとしたバナナの葉をとりのけると、兄の手にした庖丁が、月の光ににぶく閃めくのが見えた。――ずぶっ、というような音がして、妹は思わずかたく眼をつぶった。
眼をつぶっても、むっとするような、甘ったるい、胸のむかむかする臭気は、容赦なく妹の鼻腔からしのびこんだ。肉を裂くかすかな音、ボキッ、と関節のはずれる音、そしてくしゃくしゃと、兄の歯が、何かをかむ音がきこえてきた。
「兄さん……」妹は眼をふさいだままきいた。
「本当に……義姉さんを、食べているの?」
「ああ……」と、兄は答えた。「うまいぞ。お前も食べないか?――一しょに食べろよ」
「いえ……」妹は身をふるわせていった。「私はたくさん……」
「ばかだな……」兄はかすかに笑った。
「いつか、一緒にハワイへ行った時、ルアウという料理を食べたろう。……あれと同じだよ。あれは豚でやったが、昔のポリネシアじゃ、人間を使ってやった事も、よくあったそうだ」
「なぜそんなひどい事をするの……」妹はまたこみあげてきた吐き気をおさえながらきいた。「義姉さんは、何にも悪い事しなかったのに……。あんなにいい奥さんで……あなたたち、あんなに仲のいい夫婦だったのに……」
「なぜってことはない。――ただ食べたくなったからさ……」兄は答えた。「――なぜだかわからない……。ただ、突然食べたくなったんだ。そう言ったら、彼女《あれ》は食べてもいいって言った。――おれを愛していたからさ」
しばらく沈黙があった。
それから、
「さあ、そろそろ頭《ヽ》にかかるか……」
とつぶやく声がきこえ、ばさっ、と刃物が何かにぶつかる音がした。
兄の唇が、ぴちゃぴちゃ鳴り出すのをきいて、妹はとうとう耳をおおった。
翌日十時ごろ、その家の表で車がとまる音がした。
縁先で、昨夜の姿勢のままじっとすわっている妹の耳に、玄関の方で訪《おとな》う声がきこえた。――返事をしないでいると、どやどや足音がして、嫂の三人の兄たちが上って来た。
「なんだ、いたのか……」と一番下の兄が、縁先にすわっている妹を見ていった。
「あんたの兄さんは、もう出かけたかね?――良子はどこにいる?」と二番目の兄がきいた。
「いきなり三人でおしかけてびっくりしたろう……」と一番上の、もう五十をすぎた兄がいった。「実は、私たち三人、ゆうべおかしな夢を見たのだ。――丸坊主で裸の妹が、泣きながら、私たちにわかれをいいに来た夢だ。三人が三人とも、同じ夢を見た事が、今朝お互いに電話しあってわかったので、心配になってとんできた。――良子はどうした? 別にかわりないか?」
「義姉《ねえ》さんは……死にました」妹は、もう一滴ものこっていない、と思った涙が、またどっとあふれ出すのを、手でおさえながら、かすれた声でいった。「兄が……きのう義姉さんを殺し、あそこで、蒸し焼きにして食べてしまったんです」
一番下の兄は、庭へとびおりて、穴をのぞきこんだ。――穴のまわりの、とりのけられた土の上に、冷えた丸石や、色のかわったバナナの葉、それに骨がちらばっていた。
「……一部しかのこっていないぞ」と一番下の兄はさけんだ。「のこりはみんな食ってしまったのか?」
「さあ話しなさい……」二番目の兄は、義理の妹の肩に手をかけて、きびしい声でいった。「いったいどういうことがあったのか……」
妹は泣きながら、一部始終を物語った。――下の二人の兄は、食い入るように話をきいていたが、長兄だけは、途中から、異様な眼つきで応接間の中を見わたしていた。
妹の話が終ると、長兄は飾り棚の正面におかれた、あの不気味な、舌を出した神像を指さしてきいた。
「あの神様は、いつもあそこにおかれているのかね?」
「いいえ……」妹は涙をふきながらいった。「ずっと隅にあったのですが、きのう、私が拭いたあと……」
「あれは、南太平洋のテイキ(ポリネシアにひろくつたわっている伝統的な神)の神像だ……」と長兄はいった。
「それも、見た所、とりわけ強い呪力を持ち、原住民がタプ(禁忌《タブー》)にしているものだ。――どうやって手に入れたか知らないが、あんなものは、決して売るものでもなければ、外来者《よそもの》に、祭ってある所を教えたり、ちかづけたりするものでもない。あの男は、また悪いくせを出して、こっそり盗んで来たな。前々から、そういう事はするものではない、といいきかせていたのに……。きのう起った事も、ラロトンガ島というポリネシアの島に、古くから伝わる妻を食った男≠フ伝説とまったく同じ経過だ。――ツパという男が、その妻のラオを、殺して、蒸し焼きにして食った、という伝説だ。おそらくあの神像は、その無惨な事件|そのもの《ヽヽヽヽ》の怨念を、封じこめるために、大昔につくられ、祭られたものだろう。――きのう、あんたはあの神像を、ただ拭いて、あそこへおいただけか?」
「いえ……」妹は身をふるわせていった。「日に当てました。それから――唾を吐きかけてこすりました。よごれが乾いた布でこすっただけではとれなかったものですから……」
「ばかな事を!」長兄は小さく叫んだ。「あんたは、これもポリネシアに古くから言われている唾の魔力≠知らんのか……いまの日本の若い人が知らんのもむりはないが……。ああいう神像を、おろそかにあつかうものではない。それに、あんなものに、むやみに唾を吐きかけるものではない。――そのため――おそらく、ラロトンガのツパの呪いはよみがえった。私たちもみんな、今、その呪いの中にとらえられている……」
「兄さんはどこへ行った?」と二番目の兄は、けわしい声でいった。「かくさない方がいいぞ」
「兄は、今朝、義姉さんの残りの体を持って、裏山へ逃げました……」妹はふるえ、泣きながらいった。「きっと、あなたたちがくる事を予感したんです」
「行こう――」と一番下の兄がいった。「裏山なら、そんなに深くない。すぐ見つかる」
「警察へ知らせなさい」長兄は神像をとり上げながらいった。「あんたもあとからくるのだ」
三人の男たちが、またどやどやと出て行くと、妹はよろよろと立ち上り、電話機にすがりつくようにしてダイヤルをまわした。
三人の男たちが、車をとばして裏山にはいって行くと、低い灌木がまばらにはえた草原の斜面に、ちらと人影が動くのが見えた。男たちは、車をおり、斜面をのぼって行った。――二番目の兄は、途中で長いまっすぐな木の枝をナイフで切りとって、手に持った。
妻を食った男は逃げもせず、岩かげにじっとうずくまっていた。――岩かげには、哀れな女の死体の一部……食いのこした腕や脚の一部が、一箇所にまとめてあった。
「ああ……兄さんたち……」男は不精ひげの伸びた顔をあげて、まぶしそうに男たちを見た。
「おひさしぶりです。おかわりありませんか?」
「私たちは元気だ……」と一番下の兄はぶすっといった。
「なぜ、妹を殺した?――なぜ、殺して|食った《ヽヽヽ》?」
「なぜだかわかりません……」男は憮然《ぶぜん》とした表情で、腰をおろした所の傍にある草をむしり、口にくわえた。
「なぜか――きのう芝を刈り終えると……急に食べたくなったのです。特に妻の頭《ヽ》が……妻にそういうと、彼女はびっくりし、それから悲しそうな顔をしましたが、こう答えました。いいわ――愛しているから……=v
澄んだ秋空の下で、百舌鳥がけたたましく鳴いた。山というより、小高い丘のようなその斜面にいると、下から吹き上げるひいやりした風にのって、下の街の物音がよくきこえてくるのだった。――駅を出て、速度をあげて行く電車の音、国道を走る自動車のエンジンの音、たったばかりの団地の中の小学校からきこえてくる、元気な子供たちの歌声……。
「私も……なぜ、あんなかわいそうな事をしたのか、わかりません。妻も……逃げようと思えば逃げられたのに……なぜ逃げなかったのか……妹がなぜ警察へ知らせなかったのか……さっぱりわかりません。何だか、今でもまだ夢を見つづけているようです……」
「お前は馬鹿な男だ――」長兄はあの神像を示しながらいった。「馬鹿というよりは――お前の中には、この世のさまざまなものに対する心の底の敬虔《けいけん》さ、畏《おそ》れというものが、根本的に欠けている。それが今度の悲劇のもとになったのだ。――それがお前にわかっているのか?」
それから長兄は、先をとがらせた、長い木の枝を持った次兄をふりかえって言った。
「殺せ」
男の妹が、パトカーに乗って裏山へかけつけると、草におおわれた斜面の一箇所から、煙がたちのぼるのが見え、その下に、三人の男の姿が動いているのが見えた。一同はパトカーをおりた。パトカーの後には、新聞社の車も二台ついており、その一台には隣家の主婦ものっていた。
一行が斜面をのぼって行くと、風に吹きよせられ、異様な臭気が鼻をうった。
岩かげまで行くと、三人の男はならんで一行をむかえた。――岩の上には、あの不気味な神像が、一行の方をにらんで眼をむき、舌を吐き出していた。
「どうしました?」警官が息をはずませながら男たちにきいた。「犯人はつかまえましたか?」
「ええ……」長兄は、あいまいな調子で答えた。「話はきかれましたか?」
「ききました――」警官はすっぱい顔をしてうなずいた。
「ひどい話ですな――だが、どうもすぐには信じられん。いずれにしても、よくしらべて見なければ……で、犯人はどこにいます」
三人の男の視線はそろって岩かげにむいた。――その視線のあとを追った一行は、一瞬、凍りついたような表情になった。
岩かげの土が浅くほりかえされ、その中に、焼け石をまわりにつめこまれた男の死体があった。――地炉の上の方に、まだもうもうと煙をたてている大きな焚火があり、いくつもの石が、中でやけていた。――焦げて顔もわからなくなった男の体は、あちこちの肉が切りとられていた。
男の妹は、ここへついた時、三人の男の口が、眼に見えないほどゆっくり動いていた事を思い出し、小さな叫び声をあげた。
「この男は、自分の妻である、私たちの妹――何の罪もない、やさしい妻を、殺して蒸し焼きにして食べました……」と長兄はしずかにいった。
「だから、兄である私たち三人は、妹の復讐のため、この男をとらえ、同じように殺し、蒸し焼きにして食べました……」
「なぜそんな……」警官は口をぱくぱくさせて、かすれた声でいった。「あなたたちまでが……」
「|なぜ《ヽヽ》?――それが、この伝説……つまりはこの|呪い《ヽヽ》の結末だからです……」長兄は、岩の上から、あの神像をとり上げた。「|なぜ《ヽヽ》――自分一人で、世界中ととりひきしていたやり手の貿易商が、突然妻を食べたい、などときちがいじみた事をいい出したか、|なぜ《ヽヽ》、そういわれた妻が逃げもせず、おとなしく食べられてしまったか、|なぜ《ヽヽ》、妹が警察にも知らせず、だまって兄の手伝いをしたか――|なぜ《ヽヽ》それをきいた私たちが、同じようにこんなきちがいじみたやり方で、復讐をしたか……|なぜ《ヽヽ》?――理由はありません。誰も、そうする事に抵抗できなかったからです。なぜなら、これは、無知な現代人によってよみがえらされてしまった|呪い《ヽヽ》だからです。……太古は、話そのもの≠ェ、一つの呪い≠セったのです。呪いは元来、不条理な意志≠ナす。その呪縛《じゆばく》の中にとらえられた私たちは、めいめい理性や、日常的な常識にささえられた意志に関係なく、その筋書き通りに動かされるのです。――今ここにこられたあなたたちも、やはり、|呪いの中《ヽヽヽヽ》にいます……」
焚火の中から、やけた石が一つ、斜面をころげて穴の中におち、死体はぶすぶすと焦げる臭いをたてた。
「私は――こういった方面の研究を長年つづけてきました。名前を申し上げれば、御存知だと思います。だから、どういう事がおこったか、よくわかっています。しかし、その私にしてからが、どうする事もできず、呪いであるような話≠フ筋にしたがって、こういう風に行動せざるを得なかったのです」
長兄は、弟に眼配せした。――二番目の兄は、穴の傍にしゃがみこむと、ナイフをふるって、蒸し焼きにされた死体から、いくつもの肉片を切りとり出した。半焼けの肉片をうけとると、長兄はそれをまわりをとりかこむ一同に一つ一つさし出した。
「さあみなさんも、これを食べてください。――別に、さほど食べにくいものでもありません。これが、この呪い≠フ結末であり、この呪いの筋書きを終らせ、封じる最後の儀式です……」
警官は肉片をうけとると、しばらく蝋のような顔色で見つめていたが、やがておずおずと口に持っていった。――その次の警官もそうした。兄に嫂の肉をすすめられた時には拒んだ妹も、さし出された兄の肉は口に入れた。新聞記者も、カメラマンも、隣の主婦も……みんな「妻を殺して食った男」の肉を食べた。肉は何片も何片もさし出され、あたりにはみんなが肉をかむ、くちゃ、くちゃ、という音がたちこめた。――その合間をぬって、遠く下の街の方から、駅前スーパーのアナウンスがかすかにきこえて来た。……みなさま、本日当スーパーでは、豪華冬物スウェーター、オーバー、スキーウエアの特価サービス大売り出しをいたしております……。
「さて……」と長兄はいった。「私たちはみんな、この男の肉を食った。私たちは共通のタプ――秘密をもったわけです……」
長兄は手にした神像を見おろした。
「食人の話は、ポリネシア地域には特にたくさんのこっています。――また、一部の島では、十九世紀の終りまで、実際にその習慣がのこっていた、といいます。何もポリネシアだけではありますまい。ほかの地域にもあったでしょう。脳みそ食い≠フ痕跡は、五十万年前の北京原人の遺跡にも見られ、二十世紀にはいってからも、ニューギニアの奥地で、実際におこなわれていました。――私たちの先祖もそれをやり、日本の中にも、ある時期まで、そういった伝説と同時に、習慣ものこっていたでしょう。だから、この呪い≠フストーリーとわれわれの心の深部との間に、何かひびきあう所があり、それによって、古い呪い≠ェ私たちの上におちてきたのでしょう。しかし、私たちの先祖は、ずっと古い時期に、こういった呪わしい話を、|意識して《ヽヽヽヽ》、後代につたえる歴史伝承の中から消しはじめたのでしょう。だから今日私たちの知る、われわれの伝承民話の中には、鬼≠竍怪物≠フ姿をかりる以外に、こういった話が見あたらず、私たちもまた、|人間は《ヽヽヽ》、――すくなくとも私たちは、そんな事は絶対にしないものだ、という確信を抱きはじめた。話=\―歴史記憶である伝承≠消す事によって、そういった習慣≠熄チす事ができたのです」
長兄は手にした神像を、まだ煙をあげている焚火の中に投げた。――硬い木はなかなか燃えにくかったが、それでも、やがてまわりから、小さい焔がその神像を包んだ。――三人兄弟の一番末の男が、焚火の上にまわり、棒と靴で、火のついた薪と神像を、穴の中につきおとしはじめた。大勢に食われて、半分骨になった男の上に、燃える薪と一しょにおちこんだ神像は、自分にささげられた供物の上に満足そうに横たわり、自分の体からふきだす焔の舌で、その無惨な供物をなめまわすように見えた。
「呪い≠ヘこれで終りです……」焔をながめていた長兄は、一同の方をふりかえった。「そして、私たちは、この男の肉を一緒に食うことにより共通の秘密《タプ》をもちました。私たちは、このタプを、タプとして保持する事によって、この呪い≠サのものを終らせ、封じこめなければなりません。――このむごたらしい、きちがいじみた事件を、一切|なかった事《ヽヽヽヽヽ》にするのです。そうする事によって、私たちの歴史――心をまもるのです。この狂気の呪われた事件を世界に知らせ、かきたてて、安らかにくらしている人たちに、人間の深奥にひそむおそろしい、不条理な狂気をのぞきこませてはならない。そんな事をすれば、また誰かが、呪い≠ノおちこむでしょう」
一同は操り人形のように、こっくりうなずいた。
「もちろん、この哀れな夫婦が、変死した――すくなくとも、消え失せた、という事を、世間の眼からかくすわけには行かないでしょう。しかし、|実際に起った惨劇《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》は、絶対に外に知れてはなりません。――なんとかやっていただけますか?」
「むずかしい――が、何とかやって見ましょう……」
警官は、腕組みしながらうなずいた。
「ええ……」と新聞記者も、面のように白っぽい顔でうなずいた。「こっちも何とか……」
秋晴れの空に、もう陽が高くのぼっていた。風のない丘の上から、白っぽい煙が空へ高く立ちのぼり、さっきから鳴いていた百舌鳥のかわりに鳶《とび》が一羽、丘の上で輪をかきながら、ぴーとろろ、と澄んだ声で鳴いた。
その声が合図のように、一同は急にそわそわしはじめた。
「私、子供が今日運動会なんです」と、割烹着姿のままの、隣家の主婦はいった。「お弁当を持ってってやらなけりゃならないんです。つくりかけのまま、とび出して来たんだけれど――もう行っていいですか?」
「またお送りしますよ、奥さん」と新聞記者の一人が言った。
「火のあと始末だけ、ちゃんとしておいてください」警官は斜面をおりかけながら、もう焔のたたなくなった穴に、土をかけている三人兄弟の方をふりかえっていった。
「山火事などになると、あとがうるさいですから……」
「庭の穴は、埋めてしまいなさい。骨なんかまわりにのこさないように……」足で、穴に土をおとしながら、長兄は、一同のあとについて降りようとしている妹にいった。「あと、また芝生をうえるのだ。――あとから私たちも行って手つだうから……」
妹はうなずいて、斜面をみんなと一緒におりはじめた。――ぬけるような秋の空に、刷《は》いたような絹雲がうかび、麦藁色の日ざしは、丘の斜面に、そして眼下にひろがる平和な街や、白い、新築の団地、造成宅地の上に、あたたかく、ぬくぬくと降りそそいでおり、蚊のような音をたてて遠くの飛行場へ舞いおりて行く旅客機の翼を、キラリと光らせた。
警官たちは、この事件について、いったいどういう「報告書」を書いたらいいのか、といささか屈託顔だった。――屈託顔は記者たちも同じだったし、隣家の主婦も、悪夢からさめたばかりのような、何か考えこむような顔をしていた。
わりと呑気そうにしゃべりあっているのはカメラマンたちだった。――その一人が、こうつぶやくのをきいた時、死んだ男の妹は、かすかに、襟元のうぶ毛を、さかなでにされたような気がした。
「腹がふくれちまった。――この分じゃ、昼飯はぬきでいいな」
〈おことわり〉
[#2字下げ] この話の原型となったポリネシアの民話は、早津敏彦氏著『南太平洋のロマン』(白馬出版社刊)の中の、クック諸島の章、ラロトンガ島の伝説「妻を食った男」(同書129ページ)から、著者の承諾を得てとらせていただきました。原話についてお知りになりたい方は、同書をご参照ください。ご承諾くださった早津氏に感謝いたします。
[#地付き]――筆者――
[#改ページ]
長 い 部 屋
せわしなく首をふるワイパーがびしょぬれのフロントガラスの上につくり出す扇形を通して、鉄柵門らしいものの影が、ヘッドライトの黄色っぽい光の中に、ぼんやりゆがんでうかび上って来た。――どうやら道をまちがえずにすんだらしい。
雨は猛烈な勢いで、車の屋根と四方の窓をたたいている。雨脚が、一瞬、滝のようにはげしくなって、ヘッドライトの光芒《こうぼう》を銀色の幕でおおってしまい、門が見えなくなった。おれはセカンドにはいっていたギアを、もう一段おとし、煮えくりかえる泥川のようになっている地道《ぢみち》をのろのろ進んだ。
両側の杉並木が、左右に開いて行き、鉄柵門はふたたび明りの中に、今度はずっとまぢかにせまってきた。門のすぐ前で車をとめ、おれはしのつく雨をすかして、鉄柵のむこうをのぞいた。
でかい敷地だ。
門の両側に、四メートルもある大谷石《おおやいし》の石柱をたて、その左右に、三メートル半ぐらいの頑丈な石塀が、連なって、雨と闇の中にとけこんでいる。門のむこうには、二車線ほどのコンクリートの道が、低い鉄鎖の柵を両側にならべて、右の方にゆるくカーブしている。――道の両側は、鬱蒼たる杉、糸杉、ヒマラヤ杉がくろぐろとそびえたち、雨脚が雷の光でにぶく光ると、まるで巨大な森のように、梢のシルエットがうかび上った。
ここが、目ざす場所にまちがいない事は、門柱にわずかにひっかかった右ライトの明りの中に、緑青を吹いた、大きな青銅板の片隅がうかび上っているのでもわかった。――明りのはずれに、かろうじてLAB……の三文字がうき出し、うきぼりの文字との間を、雨水が流れをつくっておちている。
太さ一インチはありそうな、頑丈な門の鉄柵をながめながら、おれはしばらくハンドルの前にすわっていた。――雨はますますはげしく、この雨の中に出て行って、門を開くかどうか、うろうろのぞきに行く気はしなかった。第一、こんな雨の夜ふけにこんな人里はなれた岡の上まで人をよびつけておいて、門もあけておかないなんて、失敬千万だ。
おれは、クラクションを三度、思いきり鳴らした。それからハンドブレーキをひき、ワイパーのスピードをおとして、煙草をくわえ、火をつけた。
雨は一向に弱まりそうになかった。車を水没させようとしているかのように、はげしく屋根をたたきつづけ、車のまわりは、滝の様な雨の幕にとりかこまれてしまった。屋根だけでなく、窓ガラスやボディまで、ひっきりなしにたたきつける雨にびしびし鳴っていた。――そんな中にすわっていると、鋼鉄の棺桶にとじこめられて、滝壺の中にぶちこまれたような、心細い感じがこみあげてきた。
雨音のむこう、空の奥の方から、ごろごろと、石ころ道をタイヤなしの車がかけまわるような音がひびいてきた。と、門のむこうの大木の梢が、青ずんだ緑に一瞬うかび上った。――一呼吸、二呼吸ほどおいて、バリバリグヮラグヮラという音が、空の上の方をかけめぐった。
おれはシートの背にもたれて、ぼんやりピーター・スタイヴィサントを吸いつづけた。ルームライトを消していたので、煙は見えず、吸いこむたびに鼻先で赤い小さな火が輝きをまし、熱い、甘ったるい気体が肺にはいりこむのを感じるばかりだった。|かん《ヽヽ》で、三分の二ばかり吸った、と感じられるところで、おれは、煙草を灰皿につぶし、もう一度、やけっぱちみたいに、たてつづけにクラクションを鳴らし、またシートの背にもたれた。
雨の勢いにおされて、ワイパーは息切れしそうにあえぎあえぎガラスをなでている。ゆがんだ透明な流れがガラスの上をわがもの顔に流れおち、前方はほとんど何も見えない。人魂《ひとだま》みたいに燐光色にぼんやり光る動かない計器類の中で、時計の秒針だけが、いやになめらかにすべって行く。
風邪気味でのどがいがらっぽく、二本目の煙草を吸う気にもならず、おれはただ、阿呆みたいにその動く細い針を見つめていた。――針は文字盤の上を三度まわった。三度目を半分すぎた時、おれは舌うちしてワイパーのスピードを上げ、ハンドブレーキをはずした。敷地のまわりを一周して見て、それではいる所がなかったら、街道へひきかえしてもう一度電話してみる。それでだめだったら――かえって酒を飲み、あたたかく眠ってしまうまでだ。
ギアをいれ、ハンドルを右にきりながら、わずかにクラッチをあわせた時、右足は反射的にブレーキをふみこんでいた。――ヘッドライトが右へふって、門柱の青銅板を正面から照らした時、青銅板の下に、モス・グリーンにぬられたインターフォンがとりつけてあるのが眼についたからだった。
十秒か二十秒の間、おれは光の輪の中の、緑色の小さな箱を見つめていた。
別にかわった所があったわけじゃない。――どうしたものか、と、咄嗟の間に考えていたのだ。
車を出て、インターフォンまで、四、五メートルある。このどしゃ降りでは、そこへ行くまでにぐしょぬれになっちまう。車をまわして、ぴったりそばへつければいいのだが、門があいたら、またバックで門の正面までもどさなくてはならない。別に大した事はないのに、その時のおれは、ひどくいらいらしていて、川みたいになった道を、のろのろ前進させたり後退させたりするのがめんどうくさかった。そんな事をするくらいなら、雨の中を勇ましくとび出していった方が、恰好がいい。――その時のおれは、ちょっとしたハードボイルド・ミステリーの主人公みたいな気分だった。そんなばかな真似をするから、いつも厄介な事にまきこまれ、ハードボイルドの主人公みたいに、踏んだり蹴ったりの眼に何度もあわされ、しかも結末は、小説より全然ひどい事になってしまうのだが、それでもなおらない所を見ると、よほど人間がおっちょこちょいにできているにちがいない。
ギアを手早くニュートラルにもどし、ハンドブレーキをもう一度ひくと、おれはおれの持っている衣裳の中でただ一つ、自慢できるグレイのレインコートの襟ボタンをかけ、襟をたて、レインハットを眼深《まぶ》かにかぶりなおした。――ドアをあけると、バケツの水をぶっかけるように雨が横なぐりに吹きこんできた。車の外に足をおろすと、ポチャリと踵のあたりまで水にもぐった。おれはもう一度レインコートの襟をたて、車の前をまわって、大またで門柱にちかよった。それだけの事で、もう肩先から中にしみ通るほど、重くぬれてしまった。
「はい……」
インターフォンのボタンをおすと、すぐ返事がきこえた。妙に弱々しい、何かびくびくしているような声――あの男の声だった。背後で、ざあざあとひどい雑音がはいる。
「ひどいじゃないか」とおれはインターフォンにむかっていった。「雨の中を、潜水艦にのってやって来たら門がしまってるんだぜ。おれは今、アクアラングをつけてしゃべってるんだ」
「は?」と相手はめんくらったようにききかえした。「どなたさまで?」
「大杉だよ」とおれはどなりかえした。「外の世界を見てみろ。日本はもう半分沈没しちまってるぞ」
「あ、失礼しました。風呂にはいっていて、ついあけておくのを忘れました。すぐあけます」相手はあわてた様子でいった。「門をはいってまっすぐおいでください。ポーチがあって、ドアがあいております。主人は玄関ホールをぬけて、正面のドアのむこうの廊下を、左に行かれて、三つ目の部屋で、お待ちしております」
声が消えたとたん、白に紫のまじった、すさまじい電光が眼に灼《や》き金《がね》をつっこむようにはためいて、あたりを昼のように照らし出した。間髪を入れず、天がはりさけるような雷鳴がバリバリと鳴りひびき、地面がどん、とゆれた。どこかちかくにおちたらしい。車にかえってドアをあけようとすると、研究所の森の上空に、白熱した樹枝状の電光が走り、また地面が鳴った。おれは肩をすくめて、車の中にもぐりこみ、ずぶぬれのままシートにすわって、車を門の正面にむけなおした。――あの野郎は、ぬくぬくと風呂にはいっていて、門をあけ忘れた。待たされたおれは、レインハットの縁《ブリム》からしたたる雫《しずく》に顔をぬらし、靴の中にたまった水を、爪先でびちゃびちゃやっている。あいつに顔をあわせたら、初対面のあいさつに一発お見まいしようか、――そんな事を考えているうちに、正面の鉄柵門が、がらがらと左右にひらきはじめた。おれはギアをいれ、アクセルをふみこんだ。
雷がまた光り、カーブをまがったむこうにある、四角い、巨大な灰色の建物を、うかび上らせた。
インターフォンに出た声の主から電話がかかって来たのは、きのうの午後だった。
「一見《いちげん》はおことわりしてるんですがね」と、おれはお茶屋のおかみみたいな事をいった。
「どなたかの御紹介がおありですか?」
相手はためらいながら、ある人物の名をつげた。その名は、おれの舌の根に、ざらっとした感覚をよび起した。――昔、よく知っていた人物だ。そしておれと、その人物が、ある種のつながりを持っている、という事を知っているものは、ごくすくなかった。そのころすでに、かなりのおえら方だが、今はもっとえらくなっている。そしておれは、ある事件からその人物とのつながりが切れ、個人営業のボディガード兼私立探偵といった、ぱっとしない仕事におちぶれた。
「で、御用件は?」と、おれはわざとめんどうくさそうな調子でいった。
「ある方の――私の主人の身辺をまもっていただきたいんですが……」と相手は、まわりを気づかうようなひそひそ声でいった。
「明日の晩、九時ごろ、研究所の方に来ていただけませんでしょうか?」
「明日の晩?」
ちょっと待ってください、と口の中でつぶやいて、おれは予定表をとり上げ、しばらく送話器に紙の音を送りこんだ。予定表の翌日の欄は何も書きこまれていなかった。その次の日も空白だ。そのあともずっと空白だった。その空白が、あと二週間うまらなければ、おれは寒む寒むとした思いを抱いて、この借りている事務所を夜の町にずらからなければならなくなる。
「明日の晩ねえ……」とおれはいった。「この所、ちょっと仕事がたてこんでいるんですが……」
「もしおひきうけくださるなら……」と相手はせきこんだ調子でいった。「一時間後にとりあえず即金で三十万おとどけしますが」
のどの所に、ぐっとかたい玉がこみ上げた。電話機をにぎりしめている掌に、じわっと汗がにじむのがわかった。――おれは咳ばらいをし、大きく息を吸いこんだ。
「現金ですか?」
「ええ、もちろん」と、相手はいった。「そちらの事務所の住所はわかっています」
おれは知らぬ間に乾き上った唇を舌でしめした。――三十万あれば、二カ月滞った事務所の借金を払い、同じく二カ月滞ったアパートの料金を払い、今夜は四〇〇グラムのフィレステーキと、輸入ものの赤葡萄酒が一本のめる。
「いいでしょう。何とかしてみます」とおれはいった。「警備は、二十四時間ですか?――それだったら、料金は一万五千円、あと、車代、食費、それに医療費がいるような事があれば、実費でいただきます」
「一日二万円出しましょう」と相手はいった。「主人は今、旅行中ですが、明日の晩かえって来ます。午後九時には、お目にかかれると思います。お出でねがえますか?」
「ちょっと待ってください」
受話器を耳にあてたまま、おれはメモと鉛筆をとった。――相手からきいた、「研究所」とやらの住所は、街から十五キロほどはなれた人家のほとんどない郊外の岡の上だった。そんな所に研究所があるとは全然知らなかった。依頼して来た男の「主人」は、日本ではあまり名は知られていないが、日本以外では、かなり有名な天才的科学者だ、といった。
おれは、その科学者の名前を知らなかった。何の研究をやっているのかもきかなかった。科学者だろうが、世界的に有名だろうが、その研究がキンゼイのむこうをはるセックス問題の大コレクションだろうが、そんな事はおれに関係なかった。科学者の命がねらわれるとなれば、そこに何かスパイ事件でもからんでいるのかも知れないが、そんな事もおれには興味はなかった。どんなえらい天才でも、大政治家でも、所詮その土台は虫けら同様の生き物だ。生き物はその体をひどく傷つけられると死ぬし、死ねば虫けらだって天才だってあまりかわりはない。おれの仕事は、その生き物の体が傷つけられないように、気を配る事だ。「上部構造」の方はこちらの領分じゃない。――主人の身辺に「生命の危険」がせまっている気配がある、と「執事」とやらはいった。明日、主人が帰宅してから、とりあえず十日ほど、とまりこみで警戒してほしい、くわしい事は来てから話す、と。
電話を切ってから、おれはデスクをハイハードルの要領でとびこえ、口笛を吹きながら階段をかけおりた。事務所のある貸しビルの一階に、行きつけのレストランがあって、そこで特別定食を注文すると、エレベーターをつかわず階段を二段とびに三階までかけのぼった。朝からラーメン一ぱいで食欲がなかったのに、にわかに猛烈に腹がへって来た。
はこばれて来た定食をつめこんでいると、ドアが小さくノックされた。――口一ぱいの食物を大急ぎでビールでのどに流しこんでいると、ドアの下のすき間から、ぽってりとあつい封筒がすべりこんだ。ドアの所にとんで行ってあけると、廊下のむこうで、エレベーターにのりこむ男の黒いズボンだけがちらりと見えた。おれはあとを追うのをやめて、白い封筒をとりあげた。――あけて数えて見るまでもなく、手ざわりと厚みで、内容はわかった。おれは口笛を吹き吹きデスクへかえり、のこりの料理をゆっくりかたづけにかかった。
門をはいってから、建物までずいぶん距離があった。一キロ以上あったろう。道は斜面をゆるやかに迂回して、建物の正面にちかづいて行く。――おそろしく広い敷地だ。執事は、ここが科学者の個人所有の研究所だといった。個人で、こんな広大な研究所を持っているなんて、いったいどんな財産処理をしているのだろう?
雨は一向に小やみにならず、雷もますますはげしくなった。車はまるで滝をくぐりぬけるようにして、建物にちかづいていった。――両側に、深い森を配した、灰色の平べったい建物が、雷光に照らされてま正面にうき上った。窓がほとんどない、奇妙な建物だ。
正面の四角い建物の背後に、銀色にかがやくガスタンクのような円筒形の建物がそびえている。が、それも一瞬に消え、降りしきる雨のカーテンを通して、正面入口の、ぼんやりした明りだけが次第にちかづいて来た。
車寄せに車をとめて降りたつと、雷光が敷地のむこうの森にむかって走るのが見えた。バリバリ、ドシン、とえらい音がして建物がびりびりふるえた。雷はここを先途と荒れくるい、あちらにもこちらにも朱や紫のまじった白い火柱をたて、まるで空襲のようなさわぎだった。車寄せにはひろいさしかけの屋根もあったが、この猛烈な吹きぶりにそんなものは何の役にも立っていなかった。車からおりたとたん、おれは横なぐりに吹きつけて来た水の塊にぶつかり、またぐしょぐしょにぬれてしまった。
灰色にぬられて、細長いのぞき窓のついている味もそっけもない鋼鉄製のドアを押してみたが、ドアはあかなかった。横手についている、呼鈴のボタンをおすと、ドアはしずかに観音開きに開き、中からあたたかい光があふれ出して来た。
おれはぬれたレインコートとレインハットから雫をたらしながら、建物の中へはいって行った。床には、煉瓦色のカーペットがしかれているが、あとは何のかざりもない、ただまっ四角な、やたらに天井が高く、だだっぴろいばかりの、まったく何のかざり気もないホールだった。右手に二階へ上って行く、これも何の飾りもない階段がついている。左手に受付用の窓らしいものがあったが、内側からシャッターがぴったりしまっている。まわりの壁も天井も、明るい、やや青みがかった灰色にぬられ、床のカーペットだけがいがらっぽくなるような煉瓦色で、見ていると遠近感がおかしくなって来そうだ。
「こんばんは!」
とおれは、ホールの奥へむかってどなった。
何の返事もない。
執事のやつは、まだ風呂場でもたもたしているのだろうか? むかえにも出ないなんてまったくふざけたやつだ。
ホールの空気は乾いてあたたかかった。――だが外では、雨風と雷が、相かわらず、この世の終りのように荒れくるっていた。はいって来たばかりのドアを、ザッ、ザッ、と雨の水滴がたたき、雷鳴は天地の間を気がくるったようにかけめぐっては、どこかにドシン、と落ちる。送電線もやられているらしく、おちたとたんに、時々ホールの中の間接照明が、ふうっと暗くなって息づく。
無礼な執事を待っていてもしかたがないので、あとからたっぷりあいさつをする事にして、おれはホールを横切り、正面のドアの方に歩いて行った。靴の中で水がごぼごぼなり、レインコートからおちる雫がカーペットにしみをつくった。
正面のドアは、それだけうす緑にぬられた、これまた何の装飾もない一枚パネルだった。中にはいっただけでは、この研究所がいったい何の研究をやっているのかさっぱりわからない。しかし、住居もかねているらしいこの研究所の持主が、よほど無趣味な人物である事はわかった。無趣味もここまでそっけなくなれば、変人にちかい感じだ。
正面のドアをあけると、左右に長い廊下がつづいていた。相かわらず何の装飾もなく、所々に壁灯がついているだけの、ベージュ色一色の廊下だ。右の方が長く、つきあたりのドアの手前に、奥へ行く曲り角が見える。左の方はドアが四つならんでいて、つきあたりは、頑丈そうな非常ドアだ。おれは言われた通り、左へかぞえて三つ目のドアの前に立った。壁と同じベージュ色だが、どういうわけか、そのドアのパネルの上にだけ、プラスチックの赤い円板がついていて、頭上に「立入禁止」のランプがついている。――主人は中で、何かやっているらしい。おれはドアをノックした。
「ボディガードです」と、おれはドアのむこうにむかってどなった。「はいっていいですか?」
しばらく待ったが、中から何の返事もなかった。――廊下の右の方を見わたしてみたが、執事が出てくる気配もない。
もう一度ノックしようとして、胸の高さまで手をあげた時、その手はなぜか宙にとまった。
なんだか知らないが、猛烈にいやな感じがしたのだ。
なぜだかわからない。だが、おれの体のどこかで、突然警報が鳴りはじめた。――その警報は遠くから次第に近くなり、やがて頭の中で、ガンガン鳴りひびいた。顎がひとりでにかたくなり、小鼻がひらいた。その時には、その警報の出所がはっきりわかった。
鼻腔の奥にある嗅覚神経を、ほんのかすかな、ツンと刺激のある臭いがくすぐっていた。――その焦げたような臭いは、おれの脳の中の遠い記憶をひき出し、その記憶が警報装置への緊急回線をつかって、全身に警報ベルを鳴りわたらせているのだ。
おれはすばやくあたりを見まわした。背後、左右には、何の気配もない。――かすかな、あるかなきかの臭気は、やはりむかいあったドアのむこうからただよってくる。おれはドアのむこうの気配に耳をすませながら、ゆっくり腰をかがめた。
やっぱりだ。――臭いは、ドアの下の隙間からただよってくる。
ドアのむこうに全神経を集中しながら、おれは大きく息を吸いこみ、ドアのノブに手をかけ、体あたりするようにとびこんだ。
ドアは二重ドアだった。――とびこんだとたんに、眼の前がぐわっとまっかに燃え上ったような気がした。
その部屋の中は、壁も天井も床も、すべて燃えるような真紅にいろどられていた。――細長い部屋で、おれはその部屋の左の壁にちかいドアからとびこんでいた。いそいで左右を見わたしたが、右の方に長くのびている室内には何も見えない。しかし、あの臭い――コルダイト火薬の臭いは、ずっと強く、左の方からただよってくる。左の壁に、やや赤味の弱いドアがあって、わずかにあいている。火薬の臭い……それにまじって、かすかになまぐさい、血のような臭いが、ドアの隙間から流れ出している。
ドアのむこうで、|何か《ヽヽ》の気配がした。おれは、一足とびにドアにとびついて、一気にひきあけた。ドアのむこうも、同じように細長い、まっかな部屋だった。とびこんだとたんに、おれはドアの傍の床にあった、やわらかいものに蹴つまずいて、あやうくころびそうになった。
やっとふみとどまって、足もとを見ると、真紅の床の上に、暗紅色のガウンをまとった人物が、足をむこうにむけて、あおむけにたおれていた。
おれは思わず、一歩あとずさりし、それからゆっくり床にしゃがみこんだ。――たおれている人物は、もうかなり老人だった。汚れたくしゃくしゃの白髪、しわだらけの鉛色の顔……眼は恐怖と驚愕の表情をたたえてかっと見開かれ、乱杭歯《らんぐいば》ののぞく口をなかばあけ、瞳孔は完全に開き、眼球はかわいていた。ガウンの胸もとにあいた、焼け焦げのあとのあるでっかい穴から、もう血は流れるだけ流れ出てしまったらしいが、床も赤、ガウンも暗紅色なので、あまり目だたない。しかし、よく見れば、流れ出した血は床の上に赤いペンキのようにドロリとたまって、はしの方は黒っぽくかたまりかけていた。老人の上体は血だまりの中に浮いているみたいだった。頬にふれると、もう氷のようにひえていたが、たまった血は、まだなまあたたかいようで、むっとするようななまぐさい臭気が、吐き気をもよおさせた。
血の臭いの強烈さに圧倒されて、焦げた火薬の臭いを忘れかけていた。が、体を少し動かした時、傍から、ツンと刺激臭がした。――しゃがみこんだ右膝の傍、老人の頭からちょっとはなれた床の上に、かなり大ぶりな回転拳銃がころがっていた。おれは左手でレインコートのポケットから、鹿皮の手袋を出し、右手にはめて、そっと拳銃をとり上げ、床から立ち上ろうとした。
部屋のむこうのつき当りに、何か動くものの姿がちらと見えたのはその時だった。――おれはぞっと襟もとがそそけだつのを感じた。死体につまずいた衝撃が強烈すぎて、意識の中からおしやられていたが、|そいつ《ヽヽヽ》の姿は、ドアにはいった時から、細長い部屋の、おれのはいったのと反対側のドアの所に、その姿をおれの視野のどこかに見せていた事に、突然気がついたからだった。そいつは、部屋の反対側のドアのむこう側にいて、死体をしらべているおれの様子をじっとうかがっていた。おれが立ち上り、そいつに注意をむけたとたん、やつは背をむけて、ドアのむこうへ逃げ出そうとした。
おれは、反射的に、たった今ひろいあげた拳銃を、逃げて行こうとするやつの背中にむけ、死体をとびこえて一歩ふみ出した。
「とまれ!」おれは叫んだ。「とまらないとうつぞ!」
引き金に指はかけていたが、ひいたおぼえは全然なかった。ひろいあげた時、撃鉄《ハンマー》がおきている事にも気がつかなかった。が、拳銃を緑色のレインコートを着た背中にねらいをつけたとたん、轟音とともにものすごい衝撃が肘《ひじ》をうって、銃口がはね上った。黄ばんだ朱色の焔と、白っぽい煙が眼の前にひらめいた。――同時におれは、左の肩甲骨の下に、やけつくような痛みを感じ、前へむかってつきとばされた。たち上ろうとしたが、背中の痛みにたえかねて、またうつぶせにたおれた。
部屋の外では、空が裂けたかと思うほどのものすごい雷鳴がとどろき、今度こそ、建物のすぐ傍に、ズシン、と地響きたてて落雷した。――血のような色をした細長い部屋の照明が、二、三度大きくまたたいて、ふうっと消えて、気を失う瞬間のおれの網膜には、緑色のレインコートの男がドアのむこうで、よろめく後姿が、はっきりやきついていた。
「あんまり動かん方がいいぞ」
と、ベッドの傍に立った男がいった。
「痛むか?」
「ウイスキーをくれ」とおれはひからびた唇を動かしてやっといった。「おれはバーボンがいい。アイ・ダブリュー・ハーパーをスリー・フィンガーほど……」
「ここはバーじゃないぞ」と男は舌打ちするようにいった。「呆れた男だ」
「飲ましてやりなさい」と、部屋の隅で腕まくりして手を洗っていた、眼鏡の男――医者らしかった――がふりむいて、ぬれた手をふりながらいった。「それから、あまり無茶をしなければ、もう起きてかまわん。運のいい男だな。弾丸は筋肉だけをつきやぶっていた。骨も、腱も、肺も、何ともなっていない。あとしばらく医者にかよった方がいいが、私の応急処置で充分だろう」
おれは眼を開いた。電灯の明りがまぶしくて、涙が出た。うつぶせにねかされたベッドの上から、そろそろ起き上ると、おれは、裸の上半身をぐるぐる巻いた繃帯のしまり具合を、ちょっと指でさわってみた。
肩を動かすと、まだ左肩甲骨の下がズキンと痛む。が、大した事はない。新品のレインコートと、背広と、シャツがおしゃかになった事を考えると、かっと頭に血がのぼった。
「摘出した弾丸を見せてくれないか」とおれは傍の刑事をふりかえっていった。「おれを後からうち殺そうとしたやつの、せめて片割れの面《つら》でもおがみたいんだ」
「弾丸が……」医者はワイシャツの袖をおろしながら、酸っぱいような顔をした。「まだあるかな。――もう溶けてしまったかも知れん」
「なんだって?」
おれは、眉をしかめてききかえした。
医師は上衣を着ると、テーブルの上にあった膿盤《のうばん》がわりの西洋皿をつきつけた。――血がわずかにしたたって、まん中の小さな血だまりの中に、白く、小さな、米粒ほどのものがあった。
「こりゃなんだ?」おれはびっくりして、医師の顔を見た。
「あんたの背中から出た弾丸さ」と医師は煙草をくわえながらいった。「こいつがあんたの、左大円筋と闊背筋《かつぱいきん》の境い目あたりにもぐり、背胸膜をわずかに傷つけてとまっていた。とり出した時は、もう少し大きかったんだが……どうする? これでも証拠になるかい? なんなら、乾いた布でふいておいた方がいい」
「一応そうしましょう」と刑事はいって、その小さな白い粒をつまみ上げた。
「ちょっと待ってくれ」とおれはいった。
「そんな小さなものが……どうして……」
「もとからこんなに小さかったんじゃない。発射された時は、薬莢《やつきよう》や銃腔にぴったりだったんだろうよ」と医師は煙をはき出しながらいった。「岩塩《ヽヽ》さ――岩塩のかたいやつをくりぬいて弾丸にしたんだ。体内にはいったら、血清にとけちまってあと何ものこらない。手当てが早かったから、まだ傷の奥にのこっていたが……。手のこんだ事をする奴がいるもんだね。推理小説のトリックで読んだ事はあるが、まさかこの日本で、本当にやるやつがいるとは思わなかった」
おれはぽかんと口をあけて、うす赤い液体のついているからっぽの皿を見つめた。――塩が高血圧に悪い、という事は知っていたが、まさか塩に|射ち殺されかける《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》とは、思っても見なかった。
ドアがあいて、トレンチコートを着た大柄の男が手に瓶を持ってはいってきた。――おれは傷が痛むふりをして顔をしかめた。その男――矢坂警部とはずっと前に顔見知りだった。おまけに彼は、おれの前歴を知っている。
「酒々とわめくな。安酒場じゃあるまいし、この家には、バーボンなんて下品なものは一本もないぞ」と矢坂警部は、おれをにらみつけて、吼《ほ》えるようにいった。「みんな極上のブランデイばかりだ。おれの給料じゃ、七、八本も買えないようなしろものだ。お前なんかに飲ませるのは、もったいないくらいのもんだ」
「いいからくれよ」おれは右手をのばした。
「銀座で飲めば、四、五杯であんたの給料ぐらいとんでしまうよ。おれなら十杯ぐらいいけるがね。――あんたみたいにむさくるしいのに、酌をしろとは言わない。飲ましてもらえばいいんだ。久闊を叙して乾杯といきたいが、あんたはよした方がいいぜ。勤務中だろ。おれはちがうからな」
警部は顔を赤黒くして、おれをにらみつけた。……おこらしちゃまずいという事はわかっていたが、彼の顔を見ると、ついへらず口をたたきたくなる。そのために、昔、何度かまずい事になったが、その時はどうともなれ、という気持ちだった。
警部は何かどなりたそうに口をむずむずさせたが、そばで医師がにやにや笑いながら見ているので、ぎゅっと唇をひきむすんで、投げつけるようにおれに瓶をわたした。おれは、歯で栓をぬいて、床へ吐きすてると、瓶の首を持ってラッパ飲みした。三口飲んでから、瓶を見ると、カミユのナポレオンだった。口当りは悪くない。が、こんな時には、もうちょっとぴりっとした奴――アルマニャックのエストラゴンぐらいが欲しい所だった。
おれが飲んでいる間、警部はポケットに手をつっこんで、ハンカチでくるんだピストルをとり出し、くんくん臭いを嗅いだ。――あの大型の拳銃が、野球のグローブみたいな警部の手の中にあると、いやに、ちいさく見えた。
「・三五七マグナムってやつだ。火薬量のうんと多い、破壊力のつよいやつだ」警部はおれをねめつけながらいった。「ナンバーは大分前に削りとってある。二発発射されてる。――さあ、言ってみろ。一体これをどこで手に入れた?」
「ちょっと待て!」おれはブランデイにむせながら、あわてて瓶から口をはなした。「その前に、ここの執事ってやつにあわせてくれ。どうしても奴からきいておきたい事がある」
「執事は、軽い脳貧血を起して二階で寝ているよ。むこうの話は、別にこちらでちゃんときいた。――お前の話をきいてから、会いたきゃ会わせてやる。だが、それまではだめだ。重要容疑者を、重要参考人と、事情聴取の前に会わせるわけにゃいかん。こんな事は常識だろう?」
「おい!」おれは思わずベッドから立ち上った。背中の傷が、ズキン、と痛んだ。「冗談じゃないぜ。執事からきいたんだろう。おれは……」
「なにも、お前が殺したと言っているわけじゃないよ。――その判定は裁判所がくだす事だ。だが、ほかに誰もいない部屋で、ここの主人が拳銃で至近距離から射たれて死んでいた。その傍に、被害者を殺した弾丸と同じ口径の拳銃をにぎった男がたおれていた。背中からうたれていたが致命傷じゃない。拳銃は二発発射されていて、まだ火薬のにおいがぷんぷんする。被害者の心臓をぶちぬいた弾丸が、その拳銃から発射されたかどうかはまだわからないが、旋条痕《ライフル・マーク》をしらべりゃすぐわかるだろう。――本格的な訊問は、署でやるとして、とりあえずその、凶器の拳銃をもってたおれていた人物に、事情をききたいんだ。これだって、昔のよしみなればこそだ。どうだね?」
「畜生!……」とおれはうめいた。「執事にあわせろ……」
「話せよ」警部はにたにた笑って顎をしゃくった。「事情によっては、緊急逮捕しなければならないかも知れないんだ。何しろ銃器による殺人事件だし、お前には昔の事もあるしな。――署にはどうせ来てもらわなけりゃならんが、やましくない、というなら捜査に協力してくれるだろうな」
「私はもう少しここにいてもいいかね?」医師が警部にたずねた。――それからおれにむかって言った。「私は、実は検屍医じゃないんでね。――宮原博士の主治医で、偶然今夜来あわせたにすぎん。旅先から宮原さんが電話して来て、今夜九時十五分に、あう事になっていた」
「さあ……」と警部はもう一度おれにむかって顎をしゃくった。
おれは最初から順序をたてて話した。――ブランデイの瓶は警部にうばいとられ、おあずけの恰好で、テーブルの上におかれた。
最初から、といっても、きのうの今日だ。大して話す事もありはしない。かかってきた電話から、うけとった前金の額まで――ついでに、ゆうべ食ったステーキの味まで話してやろうかと思ったが、警部がブランデイの瓶をちらつかせるので、はしょる事にした。――それから今夜、門の前にたどりついて、あの赤い、細長い部屋にふみこみ、死体を見つけ、逃げて行く男を見つけ、拳銃が暴発し、同時に背後からうたれるまで……。
「それで全部か?」
「全部だ……」とおれは舌なめずりしていった。「執事にあわせてくれ。その前にブランデイをよこせ」
警部はトレンチコートのうちあわせの間に手をつっこみ、パチンと音をさせた。手をひき出すと、小型のテープレコーダーが出て来た。――このごろの警察は、いやなものを使う。
「ふむ……」警部は、大きな指で顎をおさえて、うさん臭そうな顔つきをした。「ちょっとおかしいな……」
「おかしいなら、執事をしめ上げてみろ。やつの方がよっぽどおかしい」とおれはわめいた。「おれに、思わせぶりな仕事をたのんできたのもやつだ。おれがついたのに、顔も見せやがらない。声だけであの部屋へ行け、といいやがった。それに――おれがくるまで、やつは被害者と二人だけだ」
「それについては私が説明しよう」と医師が口をはさんだ。「私がついた九時十五分ごろ、執事は風呂場にとじこめられていた。宮原さんの居間の方へ行こうとすると、浴室の方で、ドンドン音がするから、変だと思って、のぞいてみると、湯殿のドアの下に、外から大きな木の楔《くさび》が二つも、かたくうちこんであった。外からでも、とるのに大苦労したくらいかたく……」
「|あいつだ《ヽヽヽヽ》!」とおれは叫んだ。
「あいつって――その、緑色のレインコート≠着た男か?」と警部がいった。
「そう、そうだ。――きまってる。そいつが、執事を閉じこめておいて、博士を殺した……」
「もう一つ、執事には、アリバイがあるんだよ」と医師はいった。「私は、八時四十五分に、宮原さんがかえっているかどうかをたしかめるために電話をした。その電話は、風呂場につながって、執事が出た。――水音がざあざあしていたからまちがいない」
「変な邸だな」おれは呆れてつぶやいた。
「風呂場に電話も、インターフォンもつながるのか?」
「ここの主人と来たら、きちがいじみた風呂好きでね、その影響のためか執事も風呂好きだ。湯殿の中に、電話もきりかえられる。インターフォンも通じる。テレビも、ラジオも、ステレオも風呂の中で見たりきいたりできる。チェス盤から、ぬれても破れない石油合成紙でつくったメモまでおいてある」
「ちょっと……」おれはある事を思いついて口をはさんだ。「門は?」
「インターフォンに操作ボタンがついている」と医師はいった。「八時四十五分、電話は執事の部屋から、湯殿にきりかえられてあって、執事はそこにいた。宮原さんは、第二研究室の方に行っている、という事だった。いる事がわかればいいので、すぐ電話を切ったが、その時は、閉じこめられていたにしても、まだ気がついていなかったらしく、別にあわてていなかった」
「おれがインターフォンでよんだ時は、閉じこめられたのがわかったのかな」とおれはいった。
「だいぶあわてていたから……」
「それは何時だ?」と警部が体をのり出した。「おぼえているか?」
「九時五分前だ――ダッシュボードの時計をずっと見ていたから……」
「こいつは微妙な事になったぞ」警部は鼻の頭にしわをよせた。「被害者が殺されたのは、九時一分前ぐらいだから……」
「なんだと?」おれはぎょっとした。「なぜそんなに正確にわかる?」
「被害者のはめてた腕時計を見なかったか?――火薬量の大きい弾丸で、近い距離からうたれて、体重の軽い被害者ははねとばされたみたいに後へはげしくたおれた。腕をのばしてたおれたんで、腕時計が床にたたきつけられ、ガラスがこわれて針がとまった。それが……」
「じゃ、やっぱり|あいつ《ヽヽヽ》だ!」おれは叫んだ。「おれがあの部屋にとびこんだ時、やつはまだ反対側のドアの所にいた。――九時ジャストぐらいだったから、その一分前に、被害者を殺し……被害者は、生命の危険≠感じていたというから、やっぱりあいつは殺し屋か何かで……」
「さあ、そいつがあんたの話では、もう一つはっきりせんのだ」警部は、ポケットから紙をとり出した。「九時一分前……というと、もう玄関ホールにはいっていたろう?――拳銃の音はきこえなかったか?」
「いや……」おれは首をふった。「きこえたにしてもあの雷じゃな」
「ちょっと、あんたがあの部屋にはいった経路を、図で描いて説明してくれんか?」警部は紙をテーブルの上におきながらいった。
「どうも、まるきり辻つまのあわん所がある」
「まだおれがどうかした、とでも思ってるのか? おれが何だって、折角の金づるをうち殺す必要がある?――これで三十万|ふい《ヽヽ》だ。手付けだって返せといわれるかも知れん。もうほとんどつかっちまったが……おれなんかとっちめるより、早く非常線でもはったらどうだ。真犯人が逃げちまうぞ。背丈はおれぐらい、緑色の帽子、緑色のレインコート……」
「動機については、別にしよう。過失致死という事もあるかも知れん」警部は太い指で紙をつついた。「とにかく描いてみろ」
おれは、研究所にはいって来た順序を思い出しながら図を描いた。こんな具合だった。
おれの手から紙をとりあげた警部は、あからさまに眉をしかめた。
「う、ふう……」と彼は、鼻をおっぴろげて、大きな息をついた。「お前、これ……」
「なんかおかしいか?」とおれはきいた。
「おかしすぎるよ」警部は首をひねってつぶやいた。
「絶対まちがいないか? 何か錯覚をしてるんじゃないか?」
「絶対まちがいない」おれはいらいらしてどなった。「嘘をついたってしかたがない」
「先生、どう思います?――うたれたショックで……というような事は考えられますか?」
「さあ――きわめてしっかりしているとしか思えんが……」図をのぞきこんだ医師の顔は、幽霊でも見たような、奇妙な表情になっていた。「それにしてもふしぎだな。――私も第二研究室ならよく知っているが、いったいなぜ……」
「おい、何か着るものを持って来てやれ!」と警部は刑事にどなった。「お前、歩けるか? どうだ?」
「走れるくらいだ」とおれは中ッ腹でいった。「表に見張りはたててあるんだろうな。でないと、とんずらするぞ。あんたらが一向に真剣になって追おうとしない、緑色のレインコートの男をとっつかまえて、真犯人としてつき出してやるんだ」
「いいからこれを着ろ」警部は、刑事がもって来たシャツとガウンをおれの膝の上におしつけた。「今から一しょに、現場を見に行くんだ」
もとよりおれに異存はなかった。――シャツもガウンもちょっと窮屈だったが、ないよりましだった。
四人でつれだって、廊下を行くと、玄関ホールの受付の反対側に出た。
「さあ、ここからはいって来た時の通り、やってくれ」と警部はいった。「お前はあの表のドアからはいって来た。――それから?」
幼稚園児がおはなしをせがむんじゃあるまいし、それからもくそもあるもんか、と思いながら、おれはホールをつっきって、正面ドアから廊下へ出て、左へとった。――三人は、ぞろぞろついてくる。
・   ・
・   ・
左へ数えて三つ目の赤いプラスチック円板のついたドアの前で、おれは立ちどまった。
「ここでおれはノックをした」とおれは内心ばかばかしく思いながら、説明した。「返事はなかった。――そのうち、鼻の奥に、かすかに硝煙のにおいを感じ、いそいでとびこんだ……」
「待て」ノブに手をかけたおれに、警部は声をかけた。
「はいる前によく見てくれ。さっきはいる時と、どこかかわった所はないか?」
「ある」とおれは言った。「ドアの上の、立入禁止のランプが消えている」
「それはいい」と警部はいった。「そのドアは、やはり今のように、赤いプラスチックの円板がついていたか?」
「ああ……まちがいない。これがあるから、まちがいっこないんだ」
「よし、はいろう」
おれたちはドアをあけて中へふみこんだ。
さっきと同じ、すべてまっかにぬられた、細長い部屋におれたちははいっていた。
さっきとちがった所は、はいってすぐ左側のドア、つまり、犯行がおこなわれ、死体のたおれていた部屋へ通ずるドアと、反対側の端で、三、四人の警察官らしい連中が、床に巻尺をあてたり、フラッシュをたいたりしている事だった。
「あの連中の事は気にするな」と警部はいった。「お前はこの部屋にふみこんだ。――それから?」
「火薬の燃えた臭いにまじって、血の臭いがこのドアの隙間から流れてきた」おれはしゃべりながらドアのノブに手をかけた。「このドアをあけて、次の部屋にとびこんだとたん、死体に……」
その時、おれの背筋に、ぞうっ、と冷たいものが走り、全身が総毛だった。
ドアのむこうからきこえる、ある音に気がついたからだった。
三人は奇妙なものを見るような眼つきで、じっとおれを見つめていた。
ドアのノブに手をかけながら、腕が凍りついたみたいで、どうしてもそれを手前にひけなかった。
まさか……いや、そんな馬鹿な……おれは腋《わき》の下をチリチリと冷たい汗がつたわるのを感じながら、口の中でつぶやいた。……|そんな馬鹿な《ヽヽヽヽヽヽ》……。
「どうした? やった通りにやって見ろ」と警部の声が、さっきよりずっと冷たい調子で、頭の中にがんがんひびいた。「そのドアをあけたんだろう? さあ、あけて見ろ……」
動悸が早まり、眼の前が暗くなるのを感じながら、おれはやけくその力をふるって力一ぱいドアを開いた。
水滴まじりの冷たい風が、開かれた戸口からどっと吹きこんで来た。
ドアの向うに――さっきあった|部屋はなかった《ヽヽヽヽヽヽヽ》!
ドアの向うは、すぐに戸外で、さっきよりずっと小やみになったものの、暗い空から相かわらず雨がふりそそぎ、時おりパーッと遠くの空がうすく光ると、左手の高い建物と、右手の円筒形の建物のシルエットがうかび上るのだった。
「どうした?」警部はしゃがれた声でいった。「部屋はないじゃないか。お前が嘘をいったか、それとも、あのドアじゃなくて、もう一つのドアからはいったか……」
「嘘じゃない!――まちがえてもいない。たしかに、死体を見つけたんだ」おれはわめいた。「そうだ!――わかったぞ!――あの部屋はさっきまではあったんだ。しかし、わずかの間に、どこかに運び去られたんだ! それにちがいない。あの部屋は、もともとトレーラーか何かにのせられていて……」
「死体もろともにか? なるほど――それも考えられないんだ」警部は口をへの字にむすんで、顎をうしろにしゃくった。「死体はそのドアのむこうじゃなく、あそこにたおれていた。反対側のドアの前だ。――お前も一しょにたおれていた。ピストルをにぎりしめてな」
おれはやっと、この部屋の反対側の端にいる刑事たちが、何をやっているか悟った。――と同時に、胸が悪くなり、血が足へ下って行くのがわかった。
「そんな……」おれは弱々しく、あえぎあえぎいった。
「おれは絶対に……そうだ! この部屋は、きっとスライドするんだ。事件があってから、ドア二つ分だけスライドしたんだ! おれは、あちらのドアのむこうの部屋からはいってきて……」
「むこうのドアもあけてみるか?」警部は意地悪くいった。「あのドアのむこうをしらべたいのなら、傘をさした方がいいな。こちらと同じで、やっぱり雨が降っているぜ。――部屋がスライドするとはよく考えたが、この部屋はなるほどトレーラーハウスみたいになっているものの、そんなに簡単に動かせるしろものじゃない。動かした形跡もない」
「この部屋は最初から|一つだけ《ヽヽヽヽ》だよ」と医師は気の毒そうにいった。「私は宮原さんと長くつきあっていたからよく知っている。動いたなんて事もない」
「さあ、どうなんだ?」と警部はいった。
「これでお前の話は、まるきり辻つまのあわん、いいかげんなものだ、という事になってくる。――とすると……ほかの話も……お前の見た、という犯人《ヽヽ》はもちろん、死体発見の時の状況も、信憑性があやしくなってくる。結局、凶器の拳銃をにぎって、死体の傍にたおれていた、という事実《ヽヽ》だけが、強い意味をもってくる事になるんだが……」
「嘘だ……いや、おれの言ってる事は嘘じゃない」おれはふらふらしながらやっとつぶやいた。「おれだって、もと、麻薬捜査官だ。――いいかげんな事や、錯覚なんて……」
「その捜査官の仕事をどうして馘《くび》になったんだ……」警部の言葉は、うつろな頭蓋の闇の中にぼうん、ぼうんとひびいた。「たしかにお前はタフで有能だったよ。暴力団の内部へ、囮《おとり》捜査にもぐりこませても、お前だったら安心できた。だが、タフで強面《こわもて》しすぎた分だけ、お前は粗暴すぎた。辛いのはわかっていたが、しかし、司直にたずさわっているものが、私情から殺人をおかすなどという事は……」
てやんでえ――と、おれはぐらぐらゆれながら、頭のすみで思った。おれの……おれの愛人を、強姦して殺した奴を、自分の手で復讐して何が悪い。……もぐりこんだ囮捜査官をあぶり出すために……畜生め! あの時は、警察の中に密通していた奴がいた。だから、由美子が捜査官の愛人だという事が、むこうにわかったのだ。……そりゃペニスを切って、なぶり殺したのは……やりすぎだったかも知れない。……組織の仲間うちのリンチという事で、内部で処理してくれたのも恩に着ている。だが……おれの事を、おれが自分でかたをつけたのが何だってんだ……。そんな事ぐらいできない司直なんて……てやんでえ、だ……。
体が前へ、ぐらりとゆれるのがわかった。が、もうおれはがんばらないで、つんのめって行くのにまかせた。顔面と胸に、ごつんと衝撃があったが、いたくも何ともなかった。
[#ここから2字下げ]
筆者敬白
ここでちょっと読者にお休みをいただいて頭の体操がわりにこの「長い部屋」の基本トリックをお考えいただくのはいかがでしょう。ここまででおわかりになった方はよほど慧眼《けいがん》の方だと思います。この奇妙な現象にたった一つの解決法があるのですが――ただし専門のミステリー作家でない小生の書くものですから、|あまりフェアなものではありません《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。その事はおことわりしておきます。
閑話休題。
[#ここで字下げ終わり]
「そんな事で、起訴できるなんて、思っちゃいないよ。動機が薄弱すぎるし、情況証拠ばかりだからな」矢坂警部はしぶい顔で、おれの調書をデスクの上にほうり出した。
「書類送検も待ってやる。だが、言っとくが、お前は相かわらず重要被疑者なんだぜ。剃刀《かみそり》の刃の上で片足で立ってるようなもんだって事を忘れるな。何しろはっきり凶器ときまった拳銃をにぎって、死体の傍にたおれてたんだからな……」
「罠《わな》だってことは、赤ン坊だってわかるぜ」とおれはいった。「被害者《がいしや》を殺したのは、一発目さ。二発目は、おれがあの真犯人≠ノ一発ぶちこんだんだからな。――拳銃の細工はわかったか?」
「撃鉄《ハンマー》の留金をやすりで削ってあった。知らない奴が持てば、暴発同然の事になるだろうな。――だが、これもわからん。プロの早射ちの中にゃ、ああいう細工をするやつもいるって事をどこかできいたからな」
「アメリカの西部で、それも一世紀ちかく前の話だろう」おれは鼻で笑った。「ダブルアクションの回転拳銃の引き金を、ふれただけでおちるように細工して、しかも撃鉄を上げた状態で死体のそばにおいておく。――これが罠でなくて何だ?」
「あとの方は、何とも言えん。何しろお前の話だけで、おれたちの見た時には、もう撃鉄はおちていたんだからな」警部は、面白くなさそうに机の角を両手でぎゅっとつかんだ。
「たとえ、お前のいうとおり、撃鉄が上ってたとしても――そりゃいったい、お前にとって、どういう罠≠ネんだ? お前は緑のレインコートの男≠ェ真犯人だと主張しているが、真犯人は、|お前に自分を射たせるために《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、そんな罠をしかけたのか?」
「わかったよ」おれは両手をあげた。「その点についちゃ、おれもお手上げなんだ。――じゃ、こう考えたらどうだろう? 犯人《ほし》は、宮原博士を殺して、死体の傍に拳銃をおき、自殺に見せかけるつもりだった。そこへ予期しない、おれがはいってくる気配をききつけ、反射的に撃鉄をあげた。が、思いなおしてそのまま拳銃をおいて逃げた。――撃鉄の留金に細工したのは、自殺というより、暴発と見せかけるつもりだったかも知れない。……こりゃいい線だと思わないか?」
「それで?」と警部は興味なさそうにつぶやいた。
「忘れちゃ困るのは、犯人が二人組《ヽヽヽ》だった、という事だ。もう一人は、手前の部屋のずっと右側にいた。おれは左のドアに気をとられて、部屋の右側にいる奴に気がつかなかった。おれが拳銃をとり上げて、相棒を射ちそうになったので、あわてて背後からおれを射った」
「岩塩《ヽヽ》の弾丸をこめてか?」警部は皮肉たっぷりにいった。「――見て来たような事をいうじゃないか。それにもしそうだとしたら、部屋は二つなけりゃならん。だが、実際は一つしかないんだ」
「オーケイ。――部屋がなくたってかまわない。おれの後であいていたドアのむこう、戸外から射った……」
「むりだな」警部はにべもなくいった。「部屋の床は、地面から一メートル以上もち上っているんだ。どのくらいの距離からうったか知らんが、お前の背中、左肩甲骨の下に、|やや下向き《ヽヽヽヽヽ》に弾丸をうちこむためには、どのくらいの大のっぽでなきゃならんと思う? だから、おれはお前がドアのむこうに見たという緑色のレインコートの男の事さえ信じられんのだ。やつは竹馬でもはいてたのか?」
畜生……とおれは口の中でうめいた。――畜生め!
「尾行はつけておくからな」と警部は憎たらしい顔でいった。「へたな動きをすると、今度は身柄不拘束じゃすまさんぞ。お前のために留置場を一人分、ずっとあけといてやる」
「おればかりにかまわずに、あの執事をもっと責めてみたらどうだ。――やつは依然としてくさい」
「彼ならおとなしくしているさ。――見張りはつけてある。なにしろ、奴の証言は、お前の言いぐさとペアになってるんだからな、いずれ遺言状が公開されれば、奴にもいくらか取り分はあるだろうから、ばかなまねもするまい」
「あの宮原って、風変りな学者は、よほど金持ちなのかね」
「金持ちなんてものじゃない。億というより兆……にちかいって話だ。むろん日本に持っているわけじゃないがね。石油と金鉱だそうだ」
億が兆だろうが、他人の財産には興味はない。おれにはものにしそこねたボディガードの仕事が問題だった。この事件は、三つの点で、おれの頭に来ていた。一つ、生命をまもってくれとたのまれて、手付けをもらっていながらやりそこねた。二つ、おれを罠にかけ、うしろから射ち殺しかけ、おかしな部屋のトリックで、おれを|こけ《ヽヽ》にした。三つ、十日で三十万という|まぶな《ヽヽヽ》仕事をふいにした。――これではおいそれとあとにひけない。
警察署の階段をおりながら、おれは二枚の紙をとり出して見くらべた。一枚はおれの描いた|事件のあった時《ヽヽヽヽヽヽヽ》の見取り図、もう一枚は、警察の方で、事件のあとでこしらえた見取り図だ。――階段をおりて行くと、歩道に一人の紳士がたって、おれと同じように二枚の紙片をしげしげと見くらべていた。
「やあ……」紳士はおれに気がつくと、笑いかけた。「とりあえず放免かね?――私も参考人で呼ばれてね」
「先生も、その図を見てるんですか?」おれはその紳士――田代という被害者の主治医の手もとをのぞきこんだ。
「なにかわかりましたか?」
「私には一向わからんが……」医師はコピーにとった二枚の図を見くらべた。「私の甥に見せた所ひどく興味をもって、ぜひ一度現場と研究所を見たい、というんだ。――何かわかりかけているらしい。警察の許可ももらったんで、これからここでおちあって、研究所に行くんだが、あんたも一しょに行きますか?」
「ええ……」とおれはうなずいた。「こっちも一度行ってみようと思っていた所です。――甥御さんは、何をやってらっしゃるんです?」
「物理学者で、この間、アメリカからかえったばかりだ。K大の助教授をしている。――宮原さんの研究の事もよく知っているらしい」
「それにしても……」おれは二つの見取り図を見くらべながら首をひねった。「なぜ、こんなおかしな事になったのか――この図からわかりますか?」
「さあ――」と医師は眼鏡をあげながら口ごもった。「私にもさっぱりわからん」
「この、第三のドアから左側のドアまで、のこっていた足あとというのは?」
「よく知らんが、カーペットに水にぬれた靴のあとがのこっていたそうだ」と田代医師はいった「ひょっとすると、君の見た真犯人≠フものかも知れん」
・   ・
・   ・
「あるいは――私のものかも知れませんね」とおれはいった。「気がつかなかったが、犯行のあった部屋には、あの円筒形の研究室へ通じるドアがあったんですか?」
「鍵がかかってたがね」と医師はつぶやいた。「それにしても、不思議だな。あんたの指紋は第三のドアのノブにはあったが、D2にはついてなかったというし……」
おれはもう一度、二つの図を見くらべた。――おれが――D3からはいった事はまちがいない。そして消えてしまった二番目の部屋の、ドアのすぐむこうに、血にひたった死体を見つけた事もまちがいないのだ。
第二の部屋を、犯人がどこかへ持って行ってしまったとしよう。しかし第二の部屋の戸口で、血にひたっていた死体と、背中をうたれて血だまりの中にたおれていたおれを、医師と執事のかけつける二十分たらずの間に、どうやって第一の部屋――第二研究室の反対の端に移動できたのか? 死体もおれも、動かされた形跡はなく、血は、宮原博士のものにまちがいない事がわかっている。
「ああ、来たぞ」と医師は歩道によってとまった車の中から手をふる、若い、秀才らしい青年を見ていった。「甥の結城《ゆうき》良男だ」
「ああ、大杉さんですか……」結城助教授は笑いながら頭をさげた。「伯父からうかがいました。――研究所へ行く途中、お話をきかせていただけますか?」
「宮原博士の御専門は何だったんです?」
「力場《りきじよう》――特に、重力場、磁力場の研究です」と結城助教授はハンドルをあざやかにさばきながらいった。「つい最近もブラックホール≠ニいう特殊な天体の、空間曲率の研究論文を発表されました」
「その……博士の研究とやらは、もし完成すれば、大変な値打ちのあるものですか? ええ……たとえば原爆のような……」
「そりゃ大変でしょうね。――ただし、国際スパイや産業スパイといった事を考えておられるなら、見当ちがいです。学問上は、すごい発見でしょうが、すぐには役に立つものと思えません」結城助教授は、いかにも秀才らしく、明晰《めいせき》な口調でいった。「私はあちらで、博士の考えた、|ある装置《ヽヽヽヽ》の基本アイデアの論文を読みました。まったくすばらしい、天才的なアイデアです。でも、実際にそんな装置をつくろうと思ったら、ものすごく金とエネルギーがかかる。全地球の現在のGNPを全額百年分ぐらいつぎこみ、太陽クラスの恒星のエネルギー、三個分ぐらい消費します。――ただ、今年のはじめ、宮原さんとバークリイであった時、あの人は一言だけ、気になる事をいいました。その装置を、|実際に《ヽヽヽ》うんと安く――桁はずれに安くつくる、新しいアイデアを見つけた、というんです。あの人はすごい金持ちだし、ひょっとしたら……」
「その装置を完成した?」
「そうじゃないかと思うんです。――私、あの研究所の受電契約をしらべてみたんですが、今年の三月、それまでの千五百キロワットから、一気に八千キロワットに上っている」
「ちょっと待ってください」おれはさえぎった。「とすると、あなたはやっぱり、博士の研究と、この事件が関係あると思っておられる……」
「ええ……」と結城助教授はうなずいた。
「だから、どうしても研究所を――特にその装置を見たいんです。謎をとく鍵は、それしかないと思います」
車はあの鉄柵門の所につき、今度は守衛小屋につめている警官にあけてもらって、中へはいった。――この間の雨の夜と、うってかわった秋晴れの空の下で、研究所の敷地は、ひろびろと美しかった。
車寄せでおりると、横の方でものすごい犬の吠える声がきこえた。――頑丈な鎖で、まっくろなマスティフ種の、獰猛《どうもう》そうな犬が、入口のはずれにつないである。
「犬がいるのかい?」とおれは出てきた顔色の悪い執事にきいた。「この前の晩、よくかみつかれなかったものだ」
「主人が危険を感じたらしく、最近、買いましたので……」執事はぼそぼそいった。「ところが、あの犬は、雨と雷が大きらいで」
「役に立たない犬だな」とおれはいった。「おかげで助かったようなものだが……」
「この度は、まったく申し訳ない事に巻きこんでしまいました」ならんで歩きながら、執事は小さい声でいった。「まさかあんな事になろうとは……」
「いいんだ。ああいう事も仕事のうちさ」とおれはいった。「こっちも間にあわなかったのは残念だ。お互いついていなかったんだな。だが、これからはわからんぞ」
なぐさめるような口をききながら、しかし、おれはこの執事が何となく気にいらなかった。おどおどしているのは、気が弱いためでなく、なにか後ぐらい所があるようだった。――それに、時々、おれの横顔を後から、妙な眼つきでじっと見ているのも気にいらない。
特別研究室をしらべたい、というと執事は露骨に難色を示した。
「あそこは、警察の方がもう入念にしらべられましたが、何もなかったといいますし……」と執事は三人の顔をちらちら見ながらいった。「それに、あの研究室は主人が絶対に他の方に見せたがらなかったので……」
「その主人が殺された原因をつきとめようというんだ」とおれはおっかぶせるようにいった。「警察には許可をもらってある。張りこみの刑事《でか》さんにも、電話がしてあるはずだ。どうしてもこの眼で、あのガスタンクのお化けの中を見たい。それというのも、こちらは……」
「大杉さんの助手の結城です」結城助教授はなぜか妙な事をいった。「大杉さんは、自分で自分の容疑をはらしたいんです。あなただって、わかってくれるでしょう?――ところであの研究室の鍵を持っていたのは、博士だけですか?」
「主人と手前だけです」執事はしぶしぶといった表情で、案内しながらいった。「どうか、機械には手をふれないようにねがいます」
居間のさらにむこうにある通路から、特別研究室へはいると、結城助教授は急にだまりこんでしまった。
ガスタンクの中のような、円筒形の建物の中央に、水力発電機のような形をした、でっかい装置がでん、とすわっている。――結城助教授は、隅にある、操作盤のようなものをらんらんとした眼つきでのぞきこんでいたが、やがてほっと溜息をついた。
「こりゃおどろいた……」と助教授はいった。
「やっぱり、完成したらしい。――こんな簡単な装置で……」
「これはどういう装置なんです?」とおれは欠伸《あくび》をかみ殺しながらきいた。
「しかし、本当に作動するのかな」結城助教授は操作盤の椅子にすわって、メインスイッチに手をのばした。
「やってみよう」
操作盤についている小さなブラウン管に映像がうつり出した。――どうやらこの装置の操作マニュアルらしかった。
スイッチが次々にいれられるにつれて、装置がぶうん、とかすかなうなりをたてはじめた。――おれは、ちょっと胸のむかつくような、妙な気分を味わった。
しかし、何も起らない。
「部品の一部がこわれているらしい」
そうつぶやいて、助教授は立ち上った。装置の横腹についているドアから、装置の中をしらべている助教授は、ふりかえっていった。
「この研究所の見取り図がどこかにありませんか?――部品倉庫があると思うんだが」
「見取り図ならここにある」と田代医師は壁をさした。
「倉庫はこの地下だな。そこの階段からおりられる」
助教授がおりて行くのに、おれもついていった。田代医師は居間の方へ休みにいった。――地下は、目のくらみそうな広大な部品倉庫と工作物だった。ずらりとならんだ自動工作機械と、入力倍増装置を見て、おれはあの偏屈な科学者がたった一人で、こういった機械をつかって、こつこつ仕事をしている所を想像して、妙な気持ちになった。
結城助教授が、部品をさがしている間、おれもそこらをぶらぶらして、工作機械にさわったり、ロボットそっくりな入力倍増装置を見上げたりした。――小型ロッカーみたいなもののドアを何げなくあけると、むっとするような熱気がたちこめた。乾燥器らしかった。ドアをしめようとすると、ふと中に、白っぽい小片があるのが見えた。おれはちょっとそれをながめ、手をのばしてつまみ上げた。
なぜ、そんなものをしげしげと見つめたのかわからない。――しかし、おれの中で、また例の警報が鳴りはじめ、やがて突如として|ある事《ヽヽヽ》がひらめいた。
部品を見つけて、階段を上って行く助教授をおいぬいて、おれは研究室をとび出し、居間へ走った。――田代医師は、何かを考えこむように椅子に腰かけていた。
「田代先生!」とおれは息をはずませてきいた。
「先生が、風呂場のドアの下にかませてあった、という木の楔は、どんな材質でした?」
「藪から棒になんだ?」と医師はびっくりして顔を上げた。「さあ、何だったか――杉か、檜か……」
「これじゃありませんか?」おれはもって来た小片をつき出した。「地下の乾燥器の中にありました。――これは特別な木でね。ふつう、材木は、水分を一%ふくむごとに、最大〇・四%もふくれるんですが、こいつは切り方によっては、〇・六%ちかくふくれる。木材工場にいた時に、あつかった事があるんです」
医師は、はっとしたように腰をうかした。
「じゃ、外から、うちこんであったのは……」
「そうです。こいつで楔をつくって、乾燥器で充分に乾燥し、それを風呂場の内側から、糸か何かでひきよせて、かるくドアの下にかい、あと、湯気をうんとたてるか、湯をそそげば……」
「|ハンマーでうちこんだようにがっちりドアにくいこむわけか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》……」医師はつぶやいた。
「じゃ、あの男の、おかしなアリバイはくずれる事になる。だが――博士のつけていたこわれた時計……」
「今になってみれば、あれがそもそもおかしい。私だって時計は見ましたが、S社の超硬質ガラス付きショックプルーフです。あのやせた老人がカーペットの上にたおれてたたきつけたぐらいで、あんなにめちゃめちゃにこわれるはずがない。――九時一分前より、ずっと前に殺して、時計の針を一分前にあわせ、それから時計をこわす……」
「そういえば、私が見た時も、少しおかしかった……」と医師はいった。「三十分ほど前に殺されたにしては、血のかたまり方がすこし進みすぎていた。検屍官もそれを言っていたが――しかし、それだけでは……」
「なおりましたよ」その時、布で手をふきながら結城助教授が、はいって来た。「一服したら作動させて見ましょう。いよいよ……」
おれは結城助教授をつきとばすようにして居間をとび出した。――ちょうど廊下をやって来た張りこみの刑事をつかまえて、わめいた。
「執事の部屋はどこだ?」
「これをつきあたって、左のつきあたりだ。――どうした?」
おれは答えもせずに走った。――その時もう一言、執事は部屋にいるか、ときいておけばよかったのだが、おれはいつも、一歩早くとび出してしまう。
居間の前の廊下を建物正面にむかってつきあたると長い廊下が直角にのびている。一方へ行けば、あの第二研究室をふくむ四つのドアがある方向だ。おれはそちらと反対の方角に角をまがると、猛烈なスピードで長い廊下を走った。
ドアを一つあけまちがえ、執事の部屋を見つけてとびこむと、中には誰もいなかった。――まわりを見まわして、とび出そうとすると、突然部屋の電話が鳴った。
反射的にとり上げると、誰かが息せききって叫んだ。
「早く!――第二研究室に犯人を追いつめた。手を貸してくれ!」
電話をたたきつけると、おれはドアからとび出した。
長い廊下には人影はなかった。おれはきちがいじみた衝動にかられて廊下を走りぬけると、あの赤い円板のついたドアから第二研究室へとびこんだ。その時ドアの上に「立入禁止」のランプがついたが気にもとめなかった。
ぐわっと燃え立つような真紅の部屋にとりかこまれて、おれは二、三度目をしばたたき、あえぐようにまわりを見まわした。――部屋の中には誰もいなかった。
が――|あのドア《ヽヽヽヽ》、はいってすぐ左手のドアのむこうに何かの気配がした。
一瞬おれはためらった。――このドアの外は、戸外のはずだ。警察も何度もしらべ、おれ自身も確かめた。が、おれの中で、|開けろ《ヽヽヽ》、という警報は鳴りつづけた。――開けろ!……開けるんだ!
一、二秒のためらいで、おれはドアをあけはなった。
と――ドアのむこうに、|あの部屋《ヽヽヽヽ》はあった。――あの晩と同じ、最初の部屋とまったく同じような、まっ赤な、細長い部屋が……。
のみならず、その部屋のつきあたりのドアのむこうに、緑色の背広を着た、あの晩の後姿とそっくりな男の姿が見えた。
「待て!」
とわめいて、おれは|次の部屋《ヽヽヽヽ》にとびこんだ。その部屋が幻でも何でもない事は、とびこんだ時、一メートル下の地面へ転落するかわりに、最初の部屋と同じ高さに、固い床をふんでいた事でたしかだった。――ドアのむこうを、きちがいじみたスピードで逃げて行く緑色の背広の男のあとを、おれもきちがいじみたスピードでおっかけ、あけはなったドアから、さらに|次の部屋《ヽヽヽヽ》にとびこんだ。
四つ目か五つ目の部屋へとびこんで、なお逃げつづける相手を追いつづけている時、さすがにおれの中に、何だかおかしい、という感じがうかび上って来た。
いったい、この同じような部屋は、どこまでつづいているんだ?
が、そんな疑問をふりかえってみるひまもないうちに、おれの足もとに、何かが、音をたててころがって来た。――逃げつづける野郎がおとしたのか、投げすてたのか、一丁の拳銃だった。ラグビーボールをひろいあげる要領で、そいつを走りながらひろいあげると、おれは逃げる男の背に銃口をむけて叫んだ。
「とまれ! とまらないと射つぞ!」
「射っちゃいかん!」
という声が、横手前方からした。が、すべてはあの晩と同じだった。かまえて、引き金に指がふれたとたん、拳銃は発射された。あの晩とちがっていたのは、発射されたとたん、おれの頭に、あの晩|背後から《ヽヽヽヽ》射たれた記憶がよみがえって来て、反射的に身をふせた事だ。ドアのむこうで緑色の背広の男も身を伏せた。――チュン! と風を切る音がして、何かが頭上を通りすぎた。
「立つな!」とまた声が叫んだ。矢坂警部の声みたいだった。「ずっと伏せているんだ」
ピュッと、二発目が体の上をとびこした。――背後の発射音もなしに、だ。しばらくたって三発目が、今度はずっと勢いよわく、シュッというような音で走った。背後で壁や床に何かがピシッ、ピシッとあたって小さい音をたてた。そいつはおれの足もとの方でかちんと音をたて、ころころと伏せているおれの眼の前にころがって来た。
先端が斜めにひしゃげた、拳銃弾だった。
10
「まだわかりませんか?」と、結城助教授は笑いながらいった。
「一向に……」とおれはいった。「わかったようなわからないような……」
おれ、警部、医師、そして助教授の四人は、赤く、細長い部屋の、一方のはしにいた。――第二研究室とそっくりな、しかし、一体|何番目《ヽヽヽ》の部屋かわからない部屋の、一方のドアの傍に……。
「じゃ――一つそのドアをあけて、むこうをのぞいて見てくれませんか?」と結城助教授はいった。「さあ、どうぞ……」
おれはドアをあけ、むこうをのぞいていた。
ドアのむこうは、また同じような部屋だった。部屋のむこうのはしに、四人の人物がいて、ひらいたつきあたりのドアから、むこうをのぞいていた。
「あれは……」その四人の姿をまじまじと見ているうちに、おれは舌が、しゅっと音をたててかわくのを感じた。
「そんな……ばかな……」
「ばかな事はありません」結城助教授はいった。「事実です。――警部さん、ちょっと後をふりかえってください」
おれの傍で、警部がふりかえるのが眼のすみで見えた。――と、むこうの部屋の四人のうち、警部そっくりの恰好をした男が、こちらをふりかえった。その顔は――警部の顔だった。
「これでわかりましたか?」と助教授はいった。「あの四人は――われわれです。われわれは、自分たちの姿を、|後から《ヽヽヽ》見ているんです」
「わからん――」おれはまた気分が悪くなってきた。「どういうわけだ?」
「宮原博士は、|空間を曲げる装置を《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、ついに完成したんです」と結城助教授はいった。
「そして、この第二研究室を実験につかっていた。――この細長い部屋の空間は、装置が働くと、ぐるっと輪のようにまげられて、あちらの入口が、反対側の入口につながれてしまうんです。|いくつ《ヽヽヽ》も部屋があったわけじゃない、たった一つの部屋が輪になっていたんです。ドアはつながったとたん、一方のノブが他方のくぼみにはいって、一枚ドアのようになります。蝶番にも細工がありますがね」
「頭がいたい……」とおれはつぶやいた。
「どうしてこれが曲ってるんだ。――まっすぐ見えているのに……」
「それは、曲った空間の中では、光もその曲りにそってすすむから、われわれにはまっすぐに見えるんです。光が重力場の歪みにそって曲るのは知っているでしょう? 正確にいうならば、四次元空間の中で、三次元的に曲げられているんで、われわれは左右の壁が平行――つまりこの部屋が直線で構成されているとしか見えない。――図を描きましょうか?」
助教授は、さらさらと紙に図を描いた。
「あなたは、D3のドアをあけて、第二研究室へはいった。もし、右側のドアの方をよく見れば、そこに死体がある事に気づいたでしょうが、一つは内開きのドアが視界を邪魔しているし、いきなり眼のチカチカするようなまっ赤な部屋にはいって、視力が適応していない。おまけに、赤い床に、暗紅色のガウンを着て血の海の中にたおれていれば、まるきり保護色ですからね。――あなたはそれより、左のドアの、向うからにおってくる、火薬の臭いと血の臭いに気をとられていた。そして、部屋の右側のドアから、死体の傍に足をふみ入れた」
「そして――部屋の左端のドアのむこうに、右端のドアから中へはいった、おれ自身の後姿を見たってわけですか」おれはうなった。
「いや――一つおかしい所がある。その時見えた男は、たしかに緑色のレインコート≠着ていたのをはっきり見た。おれはグレイのレインコートを着ていたのに……」
「それでいいんです」結城助教授はほほえんだ。「伯父に、あなたが何色のレインコートを着ていたかを聞いたのが、最大のヒントになっているんです。それをきいた時、私は、ハッとして、ひょっとすると宮原博士は、|あの装置《ヽヽヽヽ》を完成したのではないか、と直感しました。――なぜなら、人間の色覚の不思議で、赤い色をじっと見つめて、それからふいに灰色のものを見ると、その灰色が赤の補色、つまり|鮮やかな緑色《ヽヽヽヽヽヽ》に見えてしまうからです。博士の長年の研究テーマから、ふと、あなたが見た緑色のレインコートの男とは、あなた自身の後姿ではなかったかと思いついたんです」
・   ・
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「するとおれは、|自分の背中《ヽヽヽヽヽ》にむかって、拳銃をぶっぱなしたんですか」おれは着ているグレイの背広を見まわしてつぶやいた。「今も、おれの後姿を息せき切っておいかけ、またもや自分にむかってぶっぱなし、弾丸は輪になった部屋の中をぐるぐるまわりつづけ……」
「この部屋にかけつけた時はおどろいたぜ」と警部はにやにや笑いながらいった。「お前は息せき切って、こちらのドアからとび出したと思ったとたん、反対側のドアからとびこんでくるんだからな」
「あの拳銃は?」とおれはきいた。「どうして突然出現した?」
「お前がかっかしてどうどうめぐりしているのを見はからって、特別研究室に通ずるドアから、床へすべらしたやつがいるんだ」
「誰だ、そいつは!」おれはどなった。「きっと……」
「そう――執事だ」と警部はいった。「お前がかえったすぐあとで、いろいろと面白い情報がはいった。まず鑑識から、あの拳銃の二発目の薬莢と、銃腔から、ごくわずかの塩化ナトリウムが検出された、と言ってきたんだ。それであの岩塩の弾丸は、あの拳銃から発射されたらしい事がわかった。なぜ、そんなややこしい事をしたか? お前を射った弾丸が、あの銃から発射されたという事がわかるとまずいからだ。――どんな器用な男でも、自分の持った銃で、左肩甲骨の下をうつわけに行かんからな」
「すると、やつはやっぱり、おれを罠にかけたんだな」おれは歯がみした。「なぜだ?――なぜおれを……」
「やつの前歴を洗ってもらったら、面白い事実が出てきた」警部は頭をなぜた。「上手にたちまわってきたらしく前科はないが――あいつは、お前が六年前、怒りにまかせて切りきざんだ麻薬密輸のチンピラの|実の兄貴《ヽヽヽヽ》だったんだ。宮原さんにここの経理をまかせられているうちに、だいぶかすめたらしい。それがばれかけていた所へ、お前の事を知ったので、一石二鳥というわけで……それがわかったんで、こちらへ訊問にとんで来たんだ」
「ちくしょう!」おれはうなった。「やつは今、どこにいる?」
「さっき刑事が特別研究室でつかまえた。こちらでおさえている。お前にはあわせんぞ。またぐじゃぐじゃにすると困るからな」
おれたちは第二研究室を出た。――おれはむろんのどがからからで、みんなも昂奮してのどが乾いていたので、博士の居間の冷蔵庫から、冷たいものでも出して飲み、それからひき上げようという事になった。
「一つだけわからん事があるんですがね」警部はビールを飲みながら、助教授にきいた。「やつの風呂場とじこめトリックはわかりましたが、田代先生に出してもらってから、やつはいつ、あの装置のスイッチを切ったんでしょう? 先生は、警察がくるまで、やつとずっと一緒だったといいますが……」
「あれは切らなくても、自動的に切れるんです。まだ完全なものじゃないので、十五分から二十分ぐらいたつと、ある種の部品がもたなくなって、回路遮断器《サーキツト・ブレーカー》が自動的に切れる。するとスイッチが自動的にOFFの状態になって、次に遮断器は自動的にもどるようになっています。大杉さんは、落雷で停電したと言っておられましたが、あの夜、この附近で、停電はなかったはずです。――自動的に切れたんですね」
その話をききながら、おれはトイレに立った。――もどってくると、警部は腕時計を見てふきげんそうにいった。
「どうした? 長いトイレだな」
「ショックで下痢しちゃってね」とおれはいった。「さてみなさん、まいりましょう」
車にのりこもうとすると、執事を見はっていた刑事が息せき切ってとんで来た。
「警部! やつが逃げました」
「なに!」警部はとび上った。「見張ってたんじゃないのか?」
「でも、警部が急いで建物のはずれへこい、と電話でおっしゃったので、大杉さんに見張りをたのんで……」
「大杉! 貴様……」
警部はかみつきそうな顔でおれをにらみつけた。
「犯人《ほし》がいなくなったって?――。おかしいな、さっきまでここにつながれていた、でかい犬もいないぜ」おれはにやにや笑いながらいった。「あわてなくても、あと十分もすれば、装置が自動的に切れて、やつは一方のドアからぼろぼろになってとび出してくるさ。――人と犬と、しばらくサイクロトロンごっこをさせといてやれよ。人犬《ヽヽ》蹂躪かも知れんがね」
[#地付き]〈了〉
初出誌
夜が明けたら
週刊小説/昭和四十九年一月四日号
森 の 海
週刊小説/昭和四十九年五月10日号
ツウ・ペア
週刊小説/昭和四十八年二月九日号
真夜中の視聴者
週刊小説/昭和四十八年六月二十九日号
葎生の宿
週刊小説/昭和四十八年十月五日号
秘  密
週刊小説/昭和四十八年十一月十六日号
長い部屋
週刊小説/昭和四十八年十二月号
〈底 本〉文春文庫 昭和五十二年三月二十五日刊