アメリカの壁
小松左京
目 次
アメリカの壁
眠りと旅と夢
鳩 啼 時 計
幽 霊 屋 敷
おれの死体を探せ
ハイネックの女
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アメリカの壁
ひどく胸苦しい夢にうなされて眼がさめた。――全身が、びっしょりと汗にまみれている。
カーテンはもう赤みを帯びて、日がいっぱいに当っている事をしめしている。――カーテンをあけなくても、今日もまた猛烈に暑くなりそうな事がわかった。
バスルームに行き、昨夜の乱酔のなごりの甘ったるい臭いのする排泄《はいせつ》をすませ、洗面台にかがんで冷たい水を後頭部にかぶり、さらにコップに一杯のみほしながら、彼は、さっき見た夢の事を考えた。――妙な夢だ。まっ黒な、猛烈に濃密な雲のようなものにとりまかれ、その雲が、だんだん凝縮して、暗黒の団体のようになって、四方から彼を押しつぶそうとするようにせまってくる。彼の四肢は、そのねばねばの流動体にとらえられ、胸や胴は、そのゴムのような、弾性があるくせに情容赦ない圧力で押しよせてくる暗黒の「壁」におされて、息苦しくなって来た。
――助けてくれ! つぶされる!
とわめきながら、彼はその「縮み行く漆黒《しつこく》のゴムの空間」から、何とかぬけ出そうともがき、頭の上にあるわずかな隙間《すきま》を押しひろげようと格闘した。
と――突然、ぱっとはじけるように頭上の黒い分厚いものに穴があいた。あいたとたんに、その「ゴムの雲」は、ちりぢりになって四方にちらばってしまい、彼は突然、濃い灰色の霧の中に、何のささえもなく浮いているのだった。
足の下にも、何もささえるものは無かった。――彼は、その灰色の、見通しの悪い上も下もわからない空間を、ゆっくりと回転しながらただよっているのだった。重力は感じられなかったが、自分がぐるぐるまわっている、という事は、頭頂部と爪先に、かすかに遠心力を感じる事によってわかった。まわりながら、ただよっているらしいのだが、どこへむかってただよっているのかわからなかった。
彼は、まわりの空間の、あまりの漠々とした広さ、とりとめなさに、突然はげしい、心臓の凍りつくような恐怖を感じ、思わずわめいた。――そして眼がさめた。
うっ……と、胃がえずき上げる。歯磨で口のまわりをまっ白にしながら、彼は鏡の中をのぞきこんだ。――白眼が赤茶色く濁り、下瞼《したまぶた》に黒ずんだたるみができている。顔色は鉛色で、不精鬚《ぶしようひげ》が汚らしくのびている。
畜生め――と、苦酸《にがず》っぱい唾をはきながら、彼は呪った。――何が、バーボンはアメリカの誇り≠セ。もう二度と飲むものか! 痛飲して、翌日、胃にこたえなかったためしがない。
口をすすいで、鬚をそりにかかろうとして、ふと彼は気がついて時計を見た。――七時四十分だ。あけはなしのドアから、ベッドの方をのぞいてみる。電話は沈黙したままだ。彼は大仰に舌打ちして、鬚をあとまわしにして電話をとりあげ、ダイヤル9をまわした。呼出し音はきこえるが、なかなか出てこない。
「オペレイター……」
と、大分たってから、女性交換手の不機嫌そうな声がきこえた。――アメリカも十年前にくらべればずいぶん無愛想になったものだ。このごろ、どんなりっぱなホテルにとまっても、昔のように、「グッモーニング・サー、メイ・アイ・ヘルプ・ユー?」と言った、ヤンキーガールの微笑の見えるような明るい声はきかれなくなった。
「一二六四号の豊田だが……」と、彼は言った。「今朝、七時半に、東京にパースン・トゥ・パースンでつないでもらうように昨夜たのんでおいたんだが……」
「トウキョウ? 日本の?」
「そう……」
とぶっきらぼうに豊田は言った。――何を考えてやがるんだ。ニューヨークにゃ四万人からの日本人がいて、やたら日本へ電話を入れてるのに……。
「東京――何番ですか?」
「メモはないのかい?」
「もう一度どうぞ……」
豊田は、東京の自宅の電話番号と、妻の名を言った。――ニューヨーク午前七時半、東京午後九時半――午後十時をすぎると、妻の葉子は眠りこんでしまう可能性がある。
「|お待ちください《ホールド・ザ・ライン》」
と交換手は言った。――受話器のそこで、がりがりぶつぶついう音がきこえ、うんと遠くの方で、何かカン高い声でぺちゃくちゃしゃべっている女の声が混信する。相手は応えているらしいのだが、その声はきこえない。
「ヘロー……」と交換手の声が言った。「東京は出ません」
「呼んでいるの?」
「ノー……」交換手は何だかためらうように言った。「|国 際 電 話《オーバーシー・コール》は、今ブラックアウトです……」
「ブラックアウト?」彼は眉をひそめた。「ストライキかい?」
「そうじゃありません。でも――交換手が出ないんです」
「回復の見こみは?」
「私にはわかりませんが……」
「オーケイ、それじゃ……」彼はあきらめてもう一度時計を見た。「九時にもう一度トライしてみてくれ。――部屋にいなければ、ロビイにいる……」
「わかりました……。| よい 休日《ハブ・ア・ナイス・ホリデイ》を……」
最後にはじめて交換手はお世辞らしい言葉を言った。
それにしても――と、鬚をそりながら彼は、ぼやけた頭で考えた。――国際電話がブラックアウトとはどういうわけだろう? 海底電線《ケーブル》でも切れたのだろうか?
それにしてもおかしい。太平洋横断の海底電線は、大陸横断の連絡幹線がカナダのヴァンクーバーまで走っていて、そこからハワイ、ミッドウェー、ウェーク、グアムと来て、二宮に上る。もしハワイ〜グアム間の深海底のどこかで故障がおこっても、ニュージーランドのオークランド経由の迂回《うかい》路もあるし、第一、通信衛星《サテライト》が何回線もあるはずだ。――ストライキのニュースもきいていない……。
地下のコーヒーショップへ行って、トマトジュース、パンケーキのベーコンぞえ、コーヒーというごくあり来《きた》りの朝食をかきこみ、ロビイに上ってくると、もう到着客、出発客で、かなりたてこみはじめていた。
ブックスタンドで、新聞を買って、窓際の椅子にすわる。――アメリカ大通りと、五十三番通りの角にあるニューヨーク・ヒルトン付近の街路は、早くも軽装の男女であふれはじめている。土曜日なのだが、午前中だけでも働くのは日本人ぐらいなもので、通行人はすべてヴァカンスムードだった。学校は夏休みだし、月曜日は独立記念日だ。――ビッグ・ウィークエンドというわけである。
外国の都市はどこでもそうだが、ニューヨークの雑踏はいつまで見ても飽きない。最近は多少おちついて来たものの、いまだに世界一危険な街と宣伝されてはいるが、それでもありとあらゆる人種、職業、年齢の人々が、それぞれの屈託や欲望を抱いて、めいめい勝手に生きているように見える。――窓際にすわって見ていると、新聞を読むのも忘れてしまいそうだ。
新聞そのものは、大したニュースはのっていなかった。ここ半年ばかりの傾向だが、アメリカの新聞もテレビも、どういうわけか、国際面が、精彩を欠いて来ている。アメリカ全体として、国外問題に、急速に関心を失いはじめているようだ。――ヴェトナムからずいぶんたつのに、その傾向はまだつづいているみたいに見える。建国以来、アメリカの味わったはじめての「挫折《ざせつ》」なのかも知れないが、それにしても長い。アメリカは、たしかにあれ以来、妙にいじけている。国内に「和解」を達成するだけでも、あれだけ屈辱的な手術を必要としたのは、でかい国だから無理はないが、それ以後、「可能性」や「希望」の国というあの大らかさは失われっぱなしで、まだ回復していないようだ。新聞の海外面のスペースは変わらないが、一つ一つの記事のあつかいは、変に白けて、かつてニューヨーク・タイムズやタイムの持っていた、|いき《ヽヽ》のよさ、熱っぽさはまったく見られない。
かわりに、国内問題や米州問題には、不自然な大仰さがあらわれている。――その新聞も、一面は、二日後の独立記念日におこなわれる、大統領の特別演説の準備についていやに大げさな記事がのり、もう一つの大きなニュースは、カリブ海の浅海底に発見された、石の巨大遺構が、いよいよ先史時代の、「フェニキア系大帝国」の首都のものだ、と判明した、という記事だった。
この所、アメリカはこの手の話題で持ちきりだった。――紀元前九世紀、中米の最初のインディオ文明が成立して間もないころに、ヨーロッパのケルト人が東部海岸に広範に入植し、カルタゴが、このケルト人たちと毛皮貿易をやっていた、という事は、一九七六年以来、定説となっていた。カルタゴのハンノが東部海岸に「領土」を持っていた、と言うのだ。最近では、その時代よりもっと古い遺跡、遺物らしいものが次々に発掘されはじめた。「ルーツ」さわぎではないが、アメリカ古代史が今大きく書きかえられようとしており、テレビもラジオも、映画も、出版も、まるで浮かされたようにその話題を飽きずあおりたてている。ちょっと日本の「耶馬台国さわぎ」を思わせるが、何しろあの派手好きで巨大なアメリカだから、その何十倍もダイナミックにあおっている。だが、他国の人間から見ると、そのさわぎは、なんとなくしらじらしい。
大した記事もないので、新聞をぱらぱらとめくってテーブルの上へおくと、部屋へかえろうと立ち上った。
ちょうどその時、チャーターバスがホテルの前について、中から大勢の日本人観光客がおりて来た。ほとんど初老の男女ばかりで、暑さにうだって、ぐったりした顔つきをしている。――東京からついたばかりで、へたばっているんだな、と思いながら、彼はその一行とからみあうようにしてエレベーターの方へ進んだ。何となく一行の様子が変だ、とは感じていたが、その一行の中に、ふと顔見知りの三十ぐらいの女性の姿を見つけた時さすがに意外の感にうたれた。
「どうしたんです?」と彼は、その横田明子という女性の肩をたたいてきいた。「今朝、早かったんじゃないんですか?」
「ああ……」と、横田女史はふりむいて、ちょっと|ばつ《ヽヽ》の悪そうに笑った。「朝五時にたたき起されて、空港へ行ったのよ。それが――舞いもどりなの」
「へえ――どうして?」
「何だかよくわからないけど、東京行きの飛行機が出ないの。――いつ出発するかわからないんですって」
「やれやれ……」と彼は肩をすくめた。「エンジントラブルか何かですか?」
「何だかよくわからないの。――一時間ほど待って、コンダクターがとにかく一たんホテルにおもどりください、と言うんで……」
「ハリケーンでも来てるのかな?」
「そうかも知れないわ。――ほかの便もとばないみたいで、ケネディ空港のチェックインは、何だかごったがえしてたわ」
「じゃあ、全便欠航?」
「全便かどうかは知らないけど……」横田女史はコンパクトを出して鼻柱をたたいた。「ひどい顔……。あなた、昨夜あんなに飲んで、何ともなかった?」
「宿酔《ふつかよ》いですよ。――ひでえ夢を見ちゃった」エレベーターのあいたドアの中にふみ入りながら彼は苦笑した。「バーボンなんざ、二度と粋がってがぶ飲みしない事にしましたよ。あまり、日本人の胃にゃあわないみたいだ……」
部屋へかえると、九時二分前だった。――まだ掃除のすんでいない部屋で、彼は煙草を吸いながら、ぼんやりベッドの上にひっくりかえっていた。「煙草発ガン説」以来、めっきり味のおちたアメリカ煙草を一本吸い終り、時計を見ると、九時を五分まわっていた。
相変らずルーズな交換手にむかっ腹をたてながら、彼は電話をとりあげた。
ダイヤルをまわそうとして、ふと彼は気がついた。――そうだ、|料金先方払い《コレクト・コール》や、|個 人 通 話《パースン・トウ・パースン》でなければ、何も国際電話の交換手を通さなくても、東京はダイヤル直通《イン》でかけられるはずだ。ホテルの部屋からでも……。
そう思って、サイドテーブルの上のディレクトリイをひっくりかえすと、果して国際電話ダイヤル・インのかけ方と、かかる地域がのっていた。「日本」のエリア・コードは……〇〇八だ。
彼は、指示通りにダイヤルをまわしてみた。――かちかち、と、コネクターのつながって行く音はしたが、しかし、いつまで待っても、呼び出し音はならない。一たん切って、もう一度慎重にやりなおしてみる。――だめだ。
あきらめて彼は、交換台を呼んだ。
「ああ……」と、今朝と同じらしい交換手が、部屋番号と名前を聞いて、早口で言った。「忘れたわけじゃないんですが、まだブラックアウトがつづいているんです……」
「回復の見こみは?」
「わかりません……」
「原因も?」
「国際電話のオペレイターも知らないようなんです……」
「じゃ、しかたない――」彼は肩をおとして、「回復するまで待つとしよう。――ロンドンを呼んでほしいんだが……」
「申し上げたでしょう。――|海 外 電 話《オーバーシー・コール》は、全部……」
「なんだって?」彼はあらためてぎょっとした。「ヨーロッパも不通かい? ハワイは?」
「だめです」と交換手は|にべ《ヽヽ》もなく言った。「さっき、一度だけメキシコ・シティがつながりましたが、今はだめです……」
「そりゃ大変じゃないか!――海外通話が、全部ブラックアウトとは……。テレビのニュースでウォルター・クロンカイトが何か言ってるかい?」
「知りません。日本じゃ交換手が勤務中にテレビみるんですか?」
「テレビどころかスキヤキを食わせてるよ。日本も所得が上ったんでね――。あなたの名は?」
「アニタ……」
「じゃ、アニタ――また呼ぶから、何かわかったら教えてくれたまえ」
くすっ、と笑う声がして、電話は切れた。――彼はしばらく受話器の穴を見つめ、それから首をひねりながら電話をもどした。
カーテンをあけ、窓をあけると、排気ガスのにおいのまじった熱気が、部屋にはいって来た。――同時に、五十三番通りの喧騒も上ってくる。窓のむかいが、J・C・ペニイ・ビル、斜め向いがCBSのビルだ。彼は二本目の煙草を吸いつけて、口を歪め、頭をがりがりとかいた。
五番街の方から、ブラスバンドの演奏らしいものがかすかに聞えてくる。明後日の独立記念日をひかえて、何かパレードが行われているのだろう。――見おろすと黄色いタクシーが走り、乗用車が走り、人出はいよいよ多くなってくる。
――のん気なものだな……。
彼はそれらを見おろしながら思った。
――国際電話が、ほとんど全部《ヽヽ》、ブラックアウトだと言うのに、みんな全然気にしていないみたいに、この暑いニューヨークの夏を、たのしむように歩いている……。
そうか……今日は、休みだから……。
と、生あくびをかみしめながら、彼はロックフェラー・センターの上あたりの、やや黄ばんだ、暑そうな青空へむかって、高く高くのぼって行くピンクの風船を眼でおいながら思った。――土曜日じゃなかったら、もう少しさわぐだろう。三連休のはじめの日でよかったみたいなものか……。
室内が暑くなりはじめた。今日も午前中に華氏百度をこえるだろう。彼は窓をしめた。――ロビイへおりようとしたが、ふと、何かニュースをやっていないか、と思ってテレビのスイッチを入れた。健康食のコマーシャルが終ると、屋外シーンがうつった。ワシントンらしい。軽装の貴顕淑女が拍手をする中を、質素なサマーコートを着て、杖《つえ》をつき、やや足をひきずった四十五、六の男性と、パンタロン姿の四十ぐらいの女性が近づいてくる。――モンロー大統領夫妻だった。愛称ヘンリイ・パトリック、そして妻のメアリイ……足が不自由なのに、それがかえって、彼の立居ふるまいに、一種の魅力をあたえている、という不思議な人物だ。上院議員時代、南西部遊説中、軽飛行機の事故で脚をいためた。その時、火災になった墜落機の中から、秘書と、気絶したパイロットの二人を救出したという武勇伝が有名だが、どうも宣伝マンのでっち上げくさい。
左脚が不自由なのに、あとのスタイルが、まるで俳優のように見事に均整がとれていて、病的な所が一つもない、という事が、彼をかえって「勇者」に見せている。――かつての、イスラエルのダヤン将軍の眼帯と同じ「男の魅力」になっているのだ。むろん、彼の選挙スタッフが、必死になって頭をしぼり、有名なシェークスピア俳優をわざわざイギリスから呼んで来て、歩き方の特訓をやったのだった。
「大統領候補のモンローです。ジェイムズを連想せずに、|モンロー《ヽヽヽヽ》・|ウォーク《ヽヽヽヽ》の方で記憶していただきたい」
と言うのが、選挙戦の時にひどくうけたせりふだった。――考えようによっては、むずかしい演技だった。六フィート四インチもあるすらりとした長身で、マウントバッテン卿に似た、北方人種《ノルデイツク》らしいひきしまったハンサム(ただし、髪はブルーネットだった)で、教養と、あたたかみと、意志力を感じさせる人物であればこそ、自分の弱味を自分で言って、道化じみた感じでなく、かえってゆとりのある、洗練されたユーモアを感じさせたのだろう。大統領選は、「|輝ける《ブライト》アメリカ」「|美 し い《ビユーテイフル》アメリカ」と、マヘリア・ジャクソンの唄のようなスローガンで、徹底的におしまくった。――対立候補は老練な国際政治家で、アジア、中東、ヨーロッパ、アフリカのこんがらかった状況に対する彼の展望は、的確で、説得力があり、海外での人気は圧倒的だったが、アメリカ国内では、かえって理解者がすくなかった。モンロー候補の方は、アメリカの「|未 来への使 者《ミツシヨン・フオー・フユーチヤー》」と言った、抽象的なスローガンで、対外・世界政策を、ぼかしてあつかい、「人類の新世紀」とか、「人類史の|突  破  口《ブレイク・スルー・ポイント》」とか、若い、まだふわついた夢を見ている有権者むけに、何となく彼らの気をそそるような、口当りのいい言葉を乱発し、テレビの公開討論会でも、対立候補が、いちいち具体的なむずかしい選択をあげてせまってくるのを、上手に逃げていた。
選挙は、最初接戦をつたえられたが、後半にはいってモンロー候補がひきはなし、そのまま逃げこんだ。――出身は、中部だったが、まず最初南部西部が決まり、次いで東部がきまって、中西部は苦戦だったが、結局選挙後には、「東部と南部の奇妙な同盟」がものを言った。――「|輝ける《ブライト》アメリカ」「|美 し い《ビユーテイフル》アメリカ」のスローガン通り、内治では、かなり成果をあげて行った。だが、対外政策は、何か不明確な、やや投げやりな感じのイシューがつづいていた。そして――今年は治政の三年目、前年度から、「内治」の成功のあと、今年は「対外新政策の年」という声が、国務省筋からちらほらきこえて来た。
昨年国務長官が二度もソ連へ行って、最高首脳と会い、それとバランスをとるように大統領は中国を訪問した。今年にはいってからも国務長官が一度、訪ソしており、表向き議題は変りばえしない核体制をふくむ軍備問題とされているが、今の所、西側の外交専門筋も、その裏《ヽ》に、何か画期的なイシューが準備されているのかどうか、推測しかねている……。
大統領は、テレビインタビューをうけて、二日後の独立記念日行事に関する、ジョークをまじえた軽い談話に応じていた。――首府でやられている、何かのセレモニイに出席しているらしかった。ちょっと聞いていたが、大した面白い話でもなさそうなので、ほかのチャンネルをまわしてみた。ニュースを流している局もあったが、「国際電話のブラックアウト」について、報道している様子はなかった。一箇所、昨夜から全般的に、電波の空中状態が悪く、通信に一部混乱が起っている、という話が出たが、それもほんの一分ほどで、すぐまた、ニュージャージイにおける、先史遺蹟の新しい発見のトピックへうつってしまった。
テレビを切って、ふたたびロビイへおりた。――十一時に、フリーのコラムニストをやっているハリー・ショーと会う約束になっているが、まだ十時前だった。別にする事はないし、汗かきの性分なので、暑熱のニューヨークの街路へ出る気もしなかったが、部屋にいる気もしなかった。
エレベーターをおりると、もう軽装に着がえた横田明子が、日本の新聞を持ってうろうろしていた。
「おや、いよいよ腰をすえますか?」と彼は聞いた。「部屋はあったの?」
「もとの部屋、そのままつかってくれって……」と明子は、トンボ眼鏡を額にあげて片方の眉をつり上げた。「今晩つく団体が、どうやらキャンセルらしいの。――やっぱり日本から……」
「到着便の方も欠航ってわけか……」彼は鼻の頭をかいた。「いつごろ乗れそう?」
「わからない――コンダクターは、晩には何とかって言ってたけど、へたすると、明日になりそうね」明子は眉をしかめた。「まる一日おくれると、ちとまずいなあ。予定が狂っちゃうわ。――帰ってすぐ、軽井沢のフィンランド風のホテルで、三、四日泊りこみの会議なの。スポンサー側もお出になるし、何しろあたしが、その仕事のディレクターでしょ。一日余裕を見て、ざっと整理してと思ってたのに……これじゃ、帰ったら、地獄だわよ」
「まあ、海外旅行ともなりゃ、たまにはそういう事もありますさ」と、彼は肩をすくめた。「アンデス山中で人間食べたり、バミューダ海底にジャンボごと沈んだりしないだけでも、まだ幸運と思わなきゃ……」
その時彼は、ポロシャツ姿の、小柄な、少年のような顔だちの日本人に、
「おや、豊田の旦那……」と声をかけられた。
「これはこれは、星野の旦那……」と豊田もふざけてあいさつをかえした。「これからゴルフですか?」
「何のあなた……」と、航空会社社員の星野は、メタルフレームの眼鏡の奥で、愛嬌《あいきよう》のある丸い眼をぱちぱちさせた。「さるVIPのお供で、バッファローなどという所へ行って来まして、ま、小生も、情無い事に、紺屋《こうや》の白袴《しろばかま》、ナイアガラの滝などという俗なものが初見でありましてね。今、ここまでVIPをお送りして、やっとお役御免。これで、休暇にはいれるわけでして……。午後の列車ででも、妻子が昨夜から一足先に行っておる、アトランティック・シティの知人の別荘へかけつけようという寸法で……」
「そりゃうらやましい。優雅な事ですな――所で、ケネディ空港は閉鎖になってなかった?」
「へえ?」と星野は眼を見開いた。「あなた、宮仕えの身ゆえ、泣く泣く休暇に食いこむほど働いて、やっと解放の喜びにひたっている人間に、あまりショックをあたえないでくださいよ。――バッファローからは、ラガーディア空港について、そのまま車でまっすぐ来たんだけど……ケネディ空港で何かあったんですか?」
「あ、星野さん……」フロントの方から、汗みずくの顔でせかせかとやって来た、明子たちのグループの、これも顔見知りの斉藤という三十前のコンダクターが、泣きそうな顔で声をかけて来た。「どうなんでしょう? あなたの方に、何か情報はいってませんか?――JALは北まわりも、シスコ経由も、到着便は全便欠航で、出発便は午後の便も足どめくらって、離陸許可がいつおりるか見通しがたたないって言うんですが……」
今度こそ、星野の眼は、メタルフレームの眼鏡のレンズをつきやぶって、外へとび出しそうに見開かれた。
「何だって? あなた――冗談じゃないよ。ほかのエアラインも、国際便全便? そんな事、カーラジオのニュースでも言ってなかったぜ! 五番街のオフィス、行ってみたの? ルーシーだけで、埒《らち》があかないって?――でも、テレックスか何か……」
「それがですね……」と若い斉藤は、泣き出しそうな目つきで、手にした厚い紙束を見おろした。
それは、彼がつきそっているグループ・ツアーの人々からあずかった、日本への電報の申込み用紙の束だった。
午前十一時に、ニューヨーク・ヒルトンから二ブロック南、歩いて五分たらずの所にあるタイム・ライフビルのエレベーターホールでハリー・ショーにあい、あるエージェントの個人オフィスをたずねて紹介してもらい、用件は十五分ほどですんで、再び土曜日正午前の雑踏の中へ出た。
「昼飯は、日本メシと言う事にしようや」と、ハリー・ショーは「不気味なほど悪達者な」日本語で言った。
「いいよ――どこにする? サイトウ・レストラン?」
豊田は、東のロックフェラー・センターの方へはこびかけていた足をとめた。――汗をかいてあたふたしていた、あの斉藤という若いコンダクターの事が、ひょいと頭にうかんだ。
「そうね――まあ、いいでしょ」とハリーは、ちょっと茶色の口ひげをなでてつぶやいた。「サイトウさんとこも、焼けぶとりでね」
「ほかにいい所知ってる?――ぼくはどこでもいいよ。どうせ三、四日すりゃ、東京で好きなもの食べられるんだから……。もっとも、ハーバート・パッシン教授に言わせりゃスシはニューヨークにかぎる≠チて事だがね」
彼は自分の言葉にくすっと笑ったのに、ハリーは妙にうつろな眼つきで、あつく灼《や》けただれた青空を見上げた。
「いつの飛行機をおさえたんだい? カズ……」
「水曜日――」と言って、彼はポケットからチケットを出した。「大韓航空だ」
「座席の|再 確 認《リコンフアーム》はしたかい?」
「いや――なぜ?」
それきりハリーは何も聞かなかった。
結局ハリーの推薦で、イーストの方の最近評判のいい日本レストランへ行った。――日本人だけでなく、アメリカ人客でかなりたてこんでいるKという店の中で、やっと二人かけられるテーブルを見つけると、斜め横のテーブルに四、五人で腰かけていたグループから、横田明子が手をあげて合図した。
「あのボブ・ハーディってエージェント、何だか妙な事を言ってたね」と、おしぼりで顔をふきながら、豊田はつぶやいた。「パーマネント・ヴィザがどうのこうのってしきりに言ってたが――おれみたいな、フリーの物書きで、世界中うろつきまわってなきゃ飯が食えない人間に、何の関係があるんだい?」
ハーディという名前だったが、どちらかと言えば、例の「極楽コンビ」のうちのもう一人、スタン・ローレルに似ている、やせて、きちんと髪をわけたなめらかな顔の小男の事を思い出し、彼はにやにや笑いをうかべた。
「さあね……」と、ハリーは、だらりとたれた口ひげをなでて、あいまいな調子で言った。「ところで、話はちがうがね、カズさん。あんた、アメリカに何人ぐらい友だちがいる?」
「あっちこっちに十五、六かな……」と彼は首をひねった。
「その中で、一番の|大 も の《ビツグ・シヨツト》は?」
「むろん、ここにいらっしゃる、サー・ハリー・ショーさまさ……」
「冗談ぬきでさ、わりかしまじめによ……」
「さあ……ロスのクリストファー・ブレナンじゃないかな。あと、前の内閣の時の国務省に、グッチャルディーニがいたが、今はカロライナかどこかで大学の教授をやってるはずだ……」
「ブレナンって、作家の?」
「そう――作家で、映画プロデューサーで、エレクトロニクス会社の重役だ。作家的才能が一番おちるがね」
「最近あった?」
「今度は電話で話しただけさ。――どうして? なぜそんな事を聞くんだ?」
まあまあ……と手で制し、ハリーは割箸《わりばし》を歯でくわえてパリッと割った。――これで「|シヤ《ヽヽ》ヤッコ」など食おうと言うのだから、まあ、日本通の中でも、ちょいと気障《きざ》な部類にはいる。
「カズさん、どうだい?――しばらくアメリカに腰をおちつけてみる気はないか? そう忙しく行ったり来たりしないでさ」
彼は前菜がわりの素麺《そうめん》をすすりながらしばらく考えていた。
「なぜだい?」素麺を全部食い終ってから、彼はきいた。「いい仕事があるかい?」
「まあ、あんただったら何やかや見つかるさ」
「ボブがパーマネント・ヴィザがどうこう言ってた事と、関係あるのかね?」と、彼はさぐるように聞いた。
「正直いうとね、カズさん……」冷や奴の鉢を押しやり、造りの盛り合せをひきよせながら、ハリーは、ちょっと口ごもるように言った。「あんたが、アメリカと日本の、大衆生活や大衆文化の交流や相互理解のためのプロジェクトを、ノンコマーシャルでやろうと一所懸命なのは、多とするよ。日米双方の都会人の生活感覚を人情≠フ面からつきあわせようってのは、たしかにいいアイデアだよ。――あたしゃ、ごらんの通りアイルランド系だから、|O《オー》・ヘンリイみたいな人情話≠チてのが、|いっち《ヽヽヽ》好きでね。ま、それはいいんだが……あんたが一所懸命、太平洋を股にかけてつなごうとしても、アメリカの側が、どうも――最近うまくないんだ……。はっきりした返事は、まだうけとってないだろうがね、カズさん、あんたのあてにしてた金は出ないぜ」
「|四つ《ヽヽ》ともか?」天丼の蓋をとりながら豊田は眼を伏せてきいた。「四つの財団に出しておいたアプリケーションが、まさか全部だめって事はないだろう。日本側じゃ一箇所、OKの内示が出た。だがそれだけじゃむろん足らないのはわかってるだろ?――すくなくともP財団は、もうほとんど、審査をパスしたって……あそこのメイプルウッドのおばちゃんが、四日前、にこにこして言ったぜ、火曜日には正式の……」
「それがだめなんだ……」とハリーは気の毒そうに首をふった。「あたしンとこにゃ、別の方から決定的な情報がはいった。P財団も、不採用だ。――のこり三つも、全部だめさ……」
それじゃ……と、不意にはげしい虚脱感におそわれながら、豊田は天丼を機械的に口につめこんだ。――それが本当《ヽヽ》なら……水曜日まで滞在したって意味ないな。ハリーがそう言うなら、たしかだろうが……。一応メイプルウッドのおばちゃんに電話して、本当にだめなら、明日の飛行機ででも、東京にかえるか……。今日の午前中の、国際便の欠航で、混雑するかも知れないが、何とかどの便でももぐりこめれば……。
これが、本ものの「挫折感」というものだろうか?――と茶を飲みながら、彼はぼんやり思った。――在ニューヨーク日本人や、ニューヨーカーの通人《つう》が行く店、という日本レストランの日本料理も、突然味を失って砂をかむみたいになり、全世界の都市の中で一番好きで、「ニューヨークにつくとほっとする」と冗談を言っていたこの街が急によそよそしく、冷たく、すうっと肌から遠ざかって行くように感じられ、その反動のように、にわかに下北沢の我が家と、妻の葉子、二人の子供が恋しくなった。
「アメリカは、ここしばらく――特に今の大統領になってからは急速に変った……」と目板《めいた》のから揚げをかたづけながらハリーは悲しそうに言った。「あんたの計画だけじゃないんだよ、カズさん……。あたしの関係してるものだけで、海外文化交流関係のプロジェクトは、五つ六つもキャンセルされている。政府関係のその方面のサービスも、急速に予算が縮小されて……。アメリカは、外の世界≠ノ、苦い幻滅を味わって、しらけちゃったんだよな。ヴェトナム以来とすりゃ、ずいぶん長いが、ま、大きな国だからな。|慣 性《イナーシヤ》も大きいんだ。そのうちまた、変ると思うけど――次の曲り角まで時間がかかりそうだな……」
「外よりも内≠ゥ……」と枇杷《びわ》の皮をむきながら豊田はつぶやいた。「|輝ける《ブライト》アメリカ=c…|隠退する《リタイアリング》アメリカ≠ゥ……」
「まあ、そう皮肉っぽくなるなよ、カズさん――」ハリーは、飯に茶をそそぎながらなぐさめるように言った。「アメリカはまだ若い国なんだ。――青年期には、ちょっとした挫折を大仰に考えて、放浪の旅へ出たり、禅寺へはいったり、田舎へすっこんで百姓でもやろう、と思いこむ事があるだろう。帰りなんいざ、田園まさに荒れなんとす≠チてやつ――あれだよ。あれだと思うよ。またしばらくすりゃ風向きが変るさ」
「アメリカって国は、ひょっとすると躁鬱《そううつ》型文明≠ゥも知れんな……」と彼は言った。「躁期が終って、鬱病期にはいったのかも知れん……」
ハリーはこたえずに茶漬けをかきこんだ。――ガサガサと景気のいい音をたてて茶漬けを流しこみ、沢庵《たくあん》をバリバリと派手な音をたててかむ、アイルランド系三世のインテリを、豊田は奇妙な感じでながめていた。
土曜日の夜から月曜へかけて、ニューヨーク市の北部のキャッツキル山地にある、知人の山荘ですごした。――これは予定されていた事だが、一つだけ予定外の事があった。横田明子が同行したのである。
ハリーとわかれて、何となく気ぬけしたような気分で、迎えの車がくるまで昼寝をしにホテルにかえった。二時間ほど寝て、またロビイにおりて行くと、横田明子が青い顔をしてうろうろしていた。「おいてけぼりにされちゃったみたい……」と明子は彼の顔を見ると、弱々しく笑った。「二時半ごろ、知り合いにおくってもらって、ホテルへかえってきたら、一緒の団体、誰もいないのよ。フロントできいたら、一時半ごろ、またバスが来て、みんな乗って行ったって……。コンダクターがひどくあわててたそうよ」
「東京便がとぶのかな?」彼は時計を見た。「空港へかけつけてみたら?――間にあうかも知れん」
「ところが、空港へ聞いても、JALのオフィスに聞いても、まだどの海外便も出発のめどはたたないっていう。明日までだめだろうって……」
「じゃ、どこか団体観光にでも出かけたんだろう」
「部屋をみんなひきはらって?」
一泊するのかも知れない、と彼は言った。――とにかく、予約名簿にのってるんだから、飛行再開になったら、JALのオフィスなり空港へ行けばいい。
「でもひどいな……」と横田明子はつぶやいた。「メモぐらいおいてってくれたらいいのに、まるっきり私の事、忘れて行っちまうなんて――。私、そんなに魅力ないかな」
明子は、一人でホテルに残るのを心ぼそがっていた。――さっき日本料理店で一緒に食事していた知人たちは、あれからみんな休暇旅行へ出かけてしまい、ほかの知り合いもみんな留守だ。
話している所へ、山荘の持ち主がむかえに来た。――テッド・リー、米中混血の三世で、宝石貴金属商だ。
「やあ、カズ……」とテッドは、恰幅のいい体をゆすって手をさしのべた。「奥さんがご一緒なら、そう言ってくれれば……」
ちがうんだ――と言って、彼は事情を簡単に説明した。
「それはそれは……」とテッドは大仰に同情の意を表した。「よければ、ご一緒にどうです?――部屋はたくさんあります。客はカズのほかに三人だけ、御婦人もいます。麻雀はおやりになりますか?」
「少しなら……」明子は豊田の顔色をうかがいながらうなずいた。
「そりゃいい。トウキョウ・ルールですから御心配なく。何しろ私にあの悪いあそびを教えたのはカズですから……」
そういう事で、テッドの運転手付きリンカーン・コンチネンタルには三人でのりこんだ。――出る時、豊田はホテルのフロントと、JALのオフィスにテッドの山荘の電話番号をつげ、出発便の事で通知があったらすぐ連絡してくれるようにたのんだ。
ニューヨーク市を北に出はずれて、ハドソン河ぞいに北へ――道はかなりすいていたものの、まだ家族連れの車や、屋根にボートをつんだキャンピングカーなどが、ひっきりなしに走る。すべての人々が、仕事をはなれて、明るく強い日ざしのもとにそれぞれのたのしみを求めに出かけて行く、ゆたかなアメリカの|大いなる休暇《ビツグ・ホリデイズ》……|輝ける夏《ブライト・サマー》……。
ニューヨーク市から北へ二百キロ、オルバニイの街から西南へ、キャッツキル山中のテッドの山荘へついた時は、西の空は夕映えに赤く染まり、空に星が出はじめていた。
客は、豊田も知っているガラパウロスと言うギリシャの実業家夫妻、それにはじめての東洋系の鞭《むち》のようにやせて、すばしっこそうな四十男で、テッドはシンガポールから来たジョージ・ヤンと紹介した。――すぐカクテルからバーベキューになり、英語がもう一つ不自由な明子も、食後のカードから、麻雀になるころには、すっかり打ちとけてはしゃぎ出し、牌をかきまぜながら、豊田はふと、今夜は彼女を抱くことになるのかな、と思い、そして、その通りになった。(当り前でしょ――と、彼のベッドにもぐりこみながら酔っぱらった彼女は言った)
午前三時――彼はふと眼ざめて酔いざめの水を飲み、それから階下についている明りと、人の歩きまわる音に気がついて、ガウンをはおっておりて行った。テッドが広い客間の片隅で、オールウェーヴの受信機をいじっていた。
「電話をかりていいかね?」と、階段の上から彼は声をかけた。
「どうぞ……」と、テッドはふりあおいで言った。「この時間だと、東京かね?」
「彼女かおれかに、ニューヨークから電話はなかったかい?」
と、彼は国際電話局の番号をおしながらきいた。――テッドは首をふった。
呼び出し音は鳴りつづけているのに、交換手は出なかった。
「出ないだろう……」とテッドは、パイプを吸いつけながら言った。「私もさっき、香港をよび出そうとしたが、交換手が出なかった……。女房が行っているんだが……」
彼はゆっくり電話を切り、テッドのむかい側に腰をおろした。
「外国の短波放送も全然はいらん……」とテッドはパイプで受信機をさした。「アマチュア無線の連中も、さわいでるよ。海外との交信がまったくできないらしいんだ……」
「いったい何が起ったんだ……」彼は卓上のシガレット・ボックスから一本とりあげながらつぶやいた。「国際線の飛行機は朝から、全便欠航だ。到着便もはいってこない。国際電話も……短波まで……。いったいどうしたんだろ? 何か知ってるなら、教えてくれ、テッド……」
テッドはしばらく考えこむような眼付きでパイプをふかしていたが、突然、
「アメリカが好きかね? カズ……」
と聞いた。
「まあね――」と煙草に火をつけながら彼はうなずいた。「世界で一番好きな国じゃないかな……」
「日本とどっちが好きだ?」
「日本は――別だ」彼はちょっと考えて答えた。「半分宿命みたいなもんだからな。あんた、自分自身《ヽヽヽヽ》が好きか、きらいか?」
「日本人は日本人である宿命≠ニ、歴史的に癒着《ゆちやく》しすぎてるんじゃないかな。――宿命とは、妥協のしかたもある。どこかのカバンの隅におしこんで、知らん顔でにこにこしている手もある……」
「ヒムラーみたいな奴が出て来て、カバンの中身を摘発しはじめたら、にこにこしておられんだろう……」彼は立ち上って冷蔵庫からジュースをとり出した。「あんたはどうなんだ、テッド、アメリカが好きか?」
「好きもきらいも、おれはアメリカ市民《ヽヽ》だ。――おれにとってのアメリカは、市民権《ヽヽヽ》以外の何ものでもない。IDカードの発行主体にすぎんのだよ、カズ……」テッドは薄笑いをうかべた。「おれがアメリカを好きなのは――その機械的冷淡《ヽヽヽヽヽ》さだな。いくつかの条件を満たすボタンを押す。そしてスイッチを入れる。と――ガチャンと市民権≠ェ出てくる。いい国だと思う。機械的寛容さと言うか――アメリカは、コンピューターで管理するのに一番いい国で、だからこそ、世界で一番ヒューマニスティックなんだ。自動販売機《オートマツト》や、キャッシュ・ディスペンサーほど、アメリカの寛容、アメリカのやさしさをあらわしているものはない。そういう観点から見れば、ルーツ≠竍|輝ける《ブライト》アメリカ∞|古  き《アインシエント》アメリカ≠ネんてのは反動思想としか思えんね」
テッドは、立って酒を調合した。――どちらかと言えば、甘口の好きな男だった。
「おれのじいさんの代に、中国人《ヽヽヽ》である事をやめて、アメリカ人になろうと決心したらしい。ふつうの漢民族にとって、中国人である事をやめる、というのは大変な事かも知れないがね。――でも、じいさんはやった。なぜやれたかと言えば、じいさんが客家《はつか》だったからだろう。おれの女房は、中国とイギリスの混血だが、まだ中国人である事をやめられない。潮州の名家だからね。先祖、同姓、同郷――そんなものが、まだ女房を中国にひきとめている。香港へ行っているのも、一族の先祖の祭りのためだ。おれは――キリスト教徒じゃないが、もう先祖とは切れている。アメリカの市民台帳にのっていて、何代かあとに破棄されるコードナンバー……それでたくさんだ……」
「おれの質問に答えてないぜ……」豊田はオレンジジュースをのみほしながら言った。「国際線の閉鎖、国際電話の不通、短波の不通……君は何か知っているのか? テッド……」
「おれの女房も、今、香港に行っているんだ……」テッドは指の関節をかみながら、低い押し殺した声で言った。「おれが行かせたんだ。ある用事を言いつけて……。急いでいたんだが――間にあわんかも知れん……」
「あんたは、何か知ってたのか?」
「何も……」テッドは立ち上った。「別に何も知ってるわけじゃない。ただ――ここ半年ばかり、おれは妙に不安だったんだ。何か妙な事が起りそうな気がして……商売上のカンみたいなものだが、おれのような仕事をやっているものには、大変大切なもので、役にも立つんだ。で――何が起るかわからないが、手を打っておこうと思った。それだけだ……」
今度は豊田が酒をのむ番だった。――ジンをタンブラーになみなみとつぎ、氷を入れ、ベルモットをほんの香り程度にふって、一口にぐっと飲みほした。
「別に気にするほどの事じゃ無いかも知れん……」テッドは戸口の方へ足を運びながらつぶやいた。「明日か明後日になれば、何かわかるかも知れないが――結局、何も起らんかも知れん……。とにかく様子を見る事だ。――所で、明日はどうする? ゴルフは一ぱいでだめだ。遠出して釣でもするか?」
「おそくまで寝かしてくれ……」と、ジンを飲みながら豊田は言った。「これから本格的に酔っぱらうつもりだから……」
翌日も、暑くていい天気だった。
テッドの山荘で、正午ちかくまで眠り、午後からモホーク谷の近所の小川へ、釣と言うより、散策に出かけた。
テッドとジョージ、それに明子が釣をしている間、豊田は涼しい木蔭にひっくりかえって、眼をつぶって鳥の声を聞いていた。
テッドが、サンドイッチの包みとポータブルラジオを持って、寝ころんでいる彼の傍《そば》に来たのは、もう木立ちの影がだいぶ長くなってからだった。
「食べるかね?」
とテッドは腰をおろしながら言った。
豊田は寝たまま首を横にふって、枕もとの魔法|壜《びん》をさした。――中に氷入りのアイスコーヒーがはいっている。
「ミス・アキコは、八インチもある鱒《ます》を釣り上げたよ」とテッドは、BLT(ベーコン・レタス・トマト)サンドをぱくつきながら言った。「少し動いたらどうだ? 空気がうまいぜ」
「やっぱり排気ガスの臭いがする……」彼は上体を起し、魔法壜をひきよせながら言った。「エリー運河も大分汚れたな」
「ジョージ・ヤンは、相当な色事師だ……」と口をもぐもぐさせながらテッドは言った。「気にならんか?」
「全然……彼女はまったくの行きずりだ。彼女の勝手さ……」氷がとけて、だいぶうすくなったコーヒーをのみながら、彼はラジオを顎《あご》でさした。「音楽をききながら、釣をしてたのか?」
「今、どの局も音楽はやってないよ」サンドイッチを食べ終って、唇をハンカチでふきながら、テッドはずっとむこうから近づいてくる、ジョージと明子の姿を、眼を細めて見つめた。「午後四時から――とうとう報道しはじめた。押え切れなくなったんだろうな……」
「何が起ったんだ?――戦争か?」
テッドは首をふってラジオのスイッチを入れた。
アナウンサーが興奮した早口でしゃべっていた。――聞きとりにくいので、彼はダイヤルをまわして別の局にした。
度々《たびたび》おつたえしましたように……≠ニ、さびのある太い声が、ゆっくりと言った。昨日東部時間午前三時二十分以来、北アメリカと、|外の世界《ヽヽヽヽ》との間の、一切の通信、交通が途絶しております。――中米方面は、メキシコ・シティとの間に、昨日午前九時七分まで、短波および電話線一回線の連絡がありましたが、現在は途絶しております。メキシコとの通信は、本日午後四時現在モンテレー市との間だけが通じております。海外との通信途絶は全面的で、海底電線、衛星通信、船舶用無線、アマチュア短波、軍用通信、いずれも完全に途絶状態であります。また、昨日午前六時以降、海外より合衆国へ到着予定の船舶航空機は、一つも到着しておらず、また、昨日午前三時以前に合衆国から海外へむけて出発した航空機は、いずれも連絡を絶ったままであります。――これらの通信、交通途絶の原因については、政府はじめ、関係各機関が全力をあげて調査中ですが、目下の所不明のままであります。合衆国海軍、および防衛空軍は、北米大陸沿岸より、二百|浬乃至《カイリないし》二百五十浬の沖合一帯に、正体不明の白い霧状のものが一面にたちこめているのをパトロールが発見した、と午後四時十五分に発表しましたが、その霧の正体、および規模については、その後何の発表もありません。――次のニュース、ホワイトハウスの新聞係秘書J・ムーアコック氏は、明日予定されている、独立記念式典について……
「なるほど……」と、豊田は生ぬるくなったアイスコーヒーを飲みほしながら言った。「そういう事か――こういう事だったんだな……」
「あんたも、予想してたみたいだな……」テッドは、豊田の傍から魔法壜をひきよせながら言った。
「いいや――ちっとも……」と豊田は言った。「ところで――あの二人は、ニュースを知ってるのか?」
「いいや……」もう五十メートルぐらいの所まで手をつないで近よって来ている、ジョージと明子を見ながら、テッドは首をふった。「私は、一足先に釣を切り上げて、車へ電話をかけに行ったんだ。――そうしたら、先方の男が、四時のニュースでの発表の事を教えてくれた。そのまま、ラジオを持ってこちらへ来たから……」
「ヘーイ!」と明子は、陽気な声をあげて、彼にむかって手をふった。「すごいやつ、釣ったのよう……」
「いずれにしても……」豊田はつくり笑いを浮べて、明子の方に手をあげて見せながらつぶやいた。「ここにいる連中の中で、合衆国市民権《ヽヽヽヽヽヽ》を持っているのは、あんただけなんだな……」
奇妙なことに、この大事件≠ノ対して、当初、大した「騒ぎ」は起らなかった。――一つは、夏休み期間中で、しかも、三連休のビッグ・ウィークエンドの事であり、官庁、オフィスが、ほとんど閉鎖していて、二億一千万の合衆国国民の大部分が、好天の休暇を楽しんでいたためもあろう。
しかし、それ以上に、異常事態発生とともに、報道管制をふくめて当局のとった措置が、異様なほど鮮やかだった事が効を奏したようだった。――幸運と言っていいかどうかわからないが、その年の現政権三年目の独立記念日は、「|輝ける《ブライト》アメリカ」を標榜《ひようぼう》する大統領自身が、異様なほど熱を入れ、|「二百年祭《バイセンテイニアル》」ほどの全国的なお祭りさわぎではなかったが、記念日当日をはさむ前後の週を、「|心 と 頭 脳 週 間《ハーツ・アンド・ブレインズ・ウイークス》」と銘打って、全米の企業、労働組合、学界、ジャーナリズムの大ものたち、それに上下両院議員の大部分、三軍と政府の高官、それに各国大・公使を精力的にワシントンに集め、会議や式典の日程がぎっしり組まれていた。
つまり異変≠ェ起った時、全米の「頭脳」と「実力者」のほとんどは、ワシントンに集結していたのである。
「異変」のニュースは、これらの大ものたちには、一般発表よりずっと早く、確認されてから七、八時間後、すなわち土曜日の午ごろ、「秘密情報」の形でささやかれた。――と同時に、首都は、一時的に「眼に見えない封鎖」状態におかれた。土曜日のことで、オフィスはほとんど閉めていたが、団体観光客は相変らずいくつも押しかけ、ケネディ・センターでのオペラやコンサートも、平常通り開かれていたが、政府職員には、敏速に報道管制がしかれ、またホワイトハウスでは、報道関係に気どられないように、秘密閣僚会議が招集され、土曜の夜のパーティは、厳重な護衛のもとに、ひそかな打ち合せの場となった。そして、閣僚会議、国家安全保障委員会、上下両院長老議員の秘密会議は、土曜日の夜、徹宵おこなわれた。
ATT(米国電話電信会社)は、大統領特別要請で、ワシントンにあつまっている「大もの」たちのため、緊急回線を確保した。――各国大使・公使は、各地の領事館はじめそれぞれの機関へ、また財界・産業界の大ものたちは、またそれぞれのオフィスへ、ひっきりなしに電話をかけ、傍証となるような情報採取と、緊急処置について指示をつづけた。七月第一週の土曜の午後から日曜一ぱいにかけて、ワシントンは、そのまま異様な一大秘密国際組織と化した感があったのである。
ラジオ、テレビ、新聞など、一般報道機関への「三十六時間報道管制」も、「異変」が気づかれてから、ほとんど一時間以内に、「国防上きわめて重大な事件である可能性」を理由に、各報道機関の責任者に、大統領自身が電話で協力を要請した。そして、その時点で、各州の国際空港、報道機関に対し、各地のFBI職員が、一せいに動きはじめた。ほとんど同時に、連邦移民局は、全米の支局にむかって緊急事態をつげて、全職員の臨時出勤を求め、コンピューターは滞在中の各国からの旅行客、駐在員、留学生などの氏名と住所を大車輪ではじき出しはじめた。
日曜日の午前中から、各地で、土曜以降の国際線旅客機を予約していた旅行客や、国際電話の「全面的ブラックアウト」に気づきはじめた一般市民の問い合せがふえはじめ、各州の大都市で、少しずつ波紋がひろがりはじめた。――しかし、ワシントンで秘密裡に招集されていた国家安全保障委と、大統領府の「B*竭闢チ別委員会」は、海軍と空軍、それに沿岸警備隊《コースト・ガード》に命じていた「緊急調査」の結果を、辛抱づよく待っていた。――オマハの北米防空本部も非常体制にはいり、軍関係の気象学者、地球物理学者、天文学者、通信技術者、宇宙工学関係の学者たちがこの調査に参加していた、とのちに発表された。北米大陸をとりまく、「白い霧の壁」にどこも裂け目がなく、上空は、鉛直線方向に約百キロ以上、すなわち人工衛星高度に達している、という事が、ほとんど確定的になるまでに、戦略空軍の高高度偵察機二機、RB52戦略偵察機一機、海軍の艦艇五隻、艦上偵察機四機、戦闘爆撃機二機が、「霧の壁」のむこうに消え去っていた。――「霧の壁」に突入して入った艦艇や航空機は、突入後数分にして、通信がとだえ、燃料切れの時間になっても、そのまま二度と帰ってこなかったのである。
日曜日の午後二時、大統領は海空軍の「突入調査」の中止を命令した。統参議長は、「壁」に五浬以上の距離をたもって警戒観測をつづける事を進言した。――午後三時、「緊急報道管制」の期限切れが来た時、担当の大統領特別補佐官は、粘りに粘って、もう一時間の延長をとりつけると同時に、報道の形式についても、「あまりにセンセーショナルで、刺戟的なスタイルをとらない」事を各機関責任者に納得させた。
日曜日の午後四時から流れはじめた「異常事態」のニュースは、全米ににぶいショックをあたえたようだった。――リゾート・エリアのあちこちで、大多数の市民は、ただ呆然としていた。ほとんどの人間は、事態がよくのみこめなかった。そして、その原因が何か、そんな「異常」がいつまでつづくのか、といった事について、何の示唆もあたえられないまま、ただお互いに顔を見あわせるだけだった。
もちろん、一番はげしいショックをうけたのは、アメリカ滞在中の、それも短期滞在の観光客・旅行客であった。が、彼らはその時点で、全米でせいぜい十数万の人数だった。一年二年滞在の外国人ビジネスマンや留学生たちもショックをうけた。特に本国の「本社」との連絡がとだえた「駐在員」たちは狼狽《ろうばい》動揺した。各国の外交関係者もあわてた。――しかし、そういった「外国人」は、全部ひっくるめて、せいぜい百万人台だった。そして、一般発表より、一日以上も早く情勢を得、動き出していた連邦移民局と、外国の大使館、公館が、ホワイトハウスよりの、半ば強制的な「動揺をすくなくするための臨時措置」の指示をうけ、「とりあえずの」事態収拾にむかって、すでに動き出していた。
本格的なパニック、乃至はそれに近いものは、発表から四、五日目にやって来た。「在外米人」――「霧の壁」のむこうにへだてられたまま残ってしまった、大量の観光客、ビジネスマン、官僚、軍人の家族や親族たちがさわぎ出したのである。――だが、それも「当局」があらかじめ、手を打ってあったのか、思ったほど大きなさわぎにならなかった。テレビ、新聞報道は――あれほどシャープでうるさいアメリカのジャーナリズムは、大統領の特別要請があったにしろこの件に関しては、不思議なほどクールで、センセーショナルな調子を押えているようだ。中には、明らさまに「冷静に」とよびかけはじめるものも出て来た。
「壁」の向う側と、連絡がとれる可能性は無いのか、「壁」の正体はいったい何なのか、いったいいつまでアメリカのまわりに立ちこめるのか、これが消える可能性はないのか、――そういった問題については、当局が科学者を総動員して「鋭意調査中」だが、答えが出るまで「長い時間」がかかりそうだ、と言うのが、一般向けの報道だった。
もう一つ、アメリカ社会にとっての大きなショックは、巨大な合衆国の「海外資産」だった。マンハッタンに本社をおく巨大な国際的企業群、ウォール街、ロサンゼルスやヒューストンの石油企業――そういった企業群の厖大《ぼうだい》な海外投資や、海外市場が、そして援助その他の形で海外に政府があたえていた借款が、突如として、「ブラックアウト」になってしまったのだった。国際線をとばしている航空会社や、海運関係の損失も巨大なものにのぼった。
無論の事、三連休あけとともに開かれるはずだった株式、証券市場や、為替市場は、独立記念日当日に、当分の間の「閉鎖」を発表された。――奇妙な事だったが、独立記念日の記念式典は、パーティをのぞいて一応おこなわれ、その式場から、大統領は全米へむけてテレビ中継で、この「異常事態」と、これに対処するための「全国民の冷静な団結」を訴えかけた。――「事態の異常さ、合衆国にとっての利害の重大さ」は、「全面戦争に準ずるものと判断する」が、今の所、北米大陸とそれ以外の世界との間の連結、通信、交通の「遮断《しやだん》」が、「どこかの敵対的勢力によって突然しかけられたものである、という兆候は、どこにも見られないようである」と述べた。さらに、大統領は、「考えにくい事だが、もしこの異常な外界との遮断状態が長期にわたってつづいた時、合衆国のうける社会、経済的損失は相当なものになるだろうが、しかし、合衆国は、たとえこの異常な事態が長期につづいても、その孤立状態に堪えて、生きのびるものと信ずる」とむすんだ。――演説は、突如マイクの前で大統領がうたい出したアメリカ国歌でむすばれた。朗々とした、ひびきのいい見事なバリトンだった。式典会場で、また家庭のテレビの前で、思わず一緒に歌い出した人々もたくさんいた。演説後の記者会見で、「どこかの敵対的勢力」と言うのは、「地球外」のものもふくむと考えていいのか、という質問をうけ、「その可能性も、無論考慮している」と、意味深長な返答がかえって来た。
――アメリカは生きのびるだろう……。
大統領が独立記念日の特別演説で語ったこの言葉は、時間がたつにつれて、次第に頻繁《ひんぱん》に、新聞や出版物の中に見うけられるようになって来た。――あまり、派手に、声高に叫ぶ事は抑制されているようだったが、それでもその言葉は、静かなスローガンのように社会の中に滲透《しんとう》しはじめた。それは聞くものの立場によって、一種複雑な反応をひき起したようだが、大部分の「ふつうの」アメリカ市民には、未知の異常事態に対する不安への鎮静作用と、異常事態を、「新しい、思いもよらなかった事態」としてとらえなおし、それをひきうけ、立ちむかわせる作用をもたらしたようだった。
――|アメリカは生きつづけるだろう《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》……。たとえ、外の世界から完全に孤立してしまっても……。アメリカの国土は充分ひろく、人口も適正で、資源はゆたかであり、高度な教育と科学技術を擁し、産業は巨大で社会は高度に組織化されている……。
――アメリカはたった一国でも生きのびるだろう……。
「どうもおかしい……」と豊田は、酒くさい息を吐きながら言った。「そう思わんか? ハリー――君だって、そう思うだろう?」
「もうその話はしばらくよせよ……」とハリー・ショーはうんざりしたように手をふった。「さっきから、何回同じ事ばかり言うんだ」
「何度でも言うぞ――。どう考えたって……これはおかしい。何だかくさい……」
ロサンゼルスのシティ・センターにほど近い、リトル・トウキョウ――センターの再開発計画がすすんで、いわゆる「シティ・モール」は美しく、壮大に整備されたが、この一郭は、逆に一種の無気力化が進んでいるようだった。――「本社」との連絡を一切失った日本の銀行は、ほとんどのオフィスを閉鎖して、地元零細預金者相手の、ごくわずかな窓口業務をほそぼそとやっているばかりであり、かつて日の出の勢いだった日本の商社、自動車、弱電などの支社やディーラーも店をしめたきり、先行きどういう形で業務を整理し、どういう形で再開するか、何の|めど《ヽヽ》もつかないまま、しずまりかえっていた。――何しろ、年間対米輸出百十億ドルをこえる「本社%本」との間の連絡が全面的にとだえてしまったのだ。労働・永住ヴィザのあるものは、外国人居住者に対する連邦政府の緊急臨時措置によって、失業保険に似た形式で、一人当り月五百ドルを限度として政府から支給されていたが、身もと引受人のない短期滞在者は、連邦移民局指定の宿泊施設を国別にわり当てられ、行動の自由こそ束縛されないが、食事、衣料以外の支給額はわずかなものだった。在留日本人や日系人社会が、醵金《きよきん》したり、「めんどう」を見たりするのに大車輪で動き出してはいたが、何しろ大部分が観光やビジネスのための短期滞在のつもりで来ていたのだから、突然国へ、また家族のもとへ帰れなくなったとなると、そのショックは大変で、自殺者や神経症に陥るものも、馬鹿にならない数になった。労働・永住ヴィザを持つものには一括して市民権をあたえるという法案が、議会に提出される、というニュースがつたえられてはいたが、それが通過発効するまでには、まだ紆余《うよ》曲折がありそうだった。
そんな状況下のリトル・トウキョウの安宿へ、豊田をたずねて来たハリーは、一目見て、その憔悴《しようすい》ぶりにショックをうけたようだった。――不精鬚《ぶしようひげ》ぼうぼう、服はよれよれ、シャツは汚れっぱなしで、眼はおちくぼんで血走っている。
「カズさん……」と言ったきり、ハリーはしばらく手を出すのも忘れたような顔つきだった。「何だい、その恰好は……。ブレナンの所をどうしておん出たんだ?」
「お情をうける≠チてのは苦しいもんだぜ……」と豊田は酒をがぶりと飲んで手をふった。「あんたにだってわかるだろう。たしかに奴さんはおれを親切に泊めてくれ、いつまでいてもいいと言い、居住登録と市民権申請の身もと保証人にもなってくれたし――ちょっとした仕事をまわしてもくれた。職場だって探してくれたんだが……」
「そんな事、ろくすっぽ耳もかさなかったんだろう……」ハリーは溜息をついて、油じみたテーブルのむかいにすわった。「夫人とも、喧嘩したんだってな。奴さん、苦虫かみつぶしてたぜ。カズは頭がどうかしちまったんじゃないかって……。きちがいみたいになって、電話をかけまくったり、新聞を山ほど買いこんで、部屋中切り抜きだらけにしたり、図書館から山のように本だの資料だの借り出して来て、三日も寝ずに読みふけったり……かと思ったら、金切り声で議論をふっかけたり……」
「その|でん《ヽヽ》で、テッドもおこらしちまった……」と、ぼそりと豊田はつぶやいた。
「聞いたよ。――ボストンでもワシントンでもやったんだってな……。ポストのウイリー・グレイスンとは殴りあいまでやったそうじゃないか……」ハリーは眉をしかめた。「東部の友人を、ほとんどしくじっちまって――ああ、そう言えば、あの横田って女性、テッドと結婚するよ。擬装結婚かと思ったが、双方けっこう熱々だったぜ」
「女はタフでぬけ目ねえや……」豊田は脂《あぶら》のういた顔を、ごしごしこすった。「テッドも……食えねえやつだ。|あれ《ヽヽ》が起る前に、嫁さんを香港にやって……」
「それをしつこくかんぐったりが喧嘩のもとだろう?――なあ、カズさん、いいかげんにしなよ。たしかに気持ちはわかる。が、今は何より、|市民権と生活《ヽヽヽヽヽヽ》だ。――事態に対する|適  応《アダプテーション》が先だ。足場をかためてから、じっくりとしらべたっていいじゃないか。でないと……」
「いやだ」と、彼は首をふった。「鉄は熱いうちに打て、だ。――何しろうさんくさい所が多すぎらあ。かんぐりたくなる事があんまりたくさんありすぎるんだよ」
豊田は奥へむかって、酒!――それから何か……とどなりかけ、「また|シヤヤッコ《ヽヽヽヽヽ》か?」とハリーにきいた。
「いや――」とハリーは壁を見上げた。「素麺《そうめん》にしようかな……」
「よせよ。油くさくてうまくねえぞ。カツ丼にでもしとけ」そう言って、豊田は、ハリーの顔をあらためてじっと見た。「そうだ。あんたにも聞きたい事がいっぱいあったんだ。何か知ってるにちがいない、と思ってるんだ――いったい、どこへ雲がくれしてたんだ?」
「兄貴が移民局にいて、めちゃくちゃに忙しくなるから、手伝いにこいって、――」ハリーはちょっと眼をそらせた。「最初はボランティアで――これでも、あんたたち、日本の同胞のために、夜もろくに寝ないで働いてたんだ。今でも、移民局の臨時職員だぜ」
「うふう!……」と豊田は鼻を鳴らした。「なるほど、そういうわけか――兄者が移民局員かい? で――事の起る前に、そちらから何かこっそり……」
「カズさん、いいかげんにしないと怒るぜ」
「あんたもかい?」豊田はふらふらと立ち上ってハリーの腕をつかんだ。「怒ってもいい。喧嘩になってもいいから、その前に、おれの話、おれの考え、おれの疑問をきいてくれ。――まだ、今の所は喧嘩してないだろう? おれたちゃ、友だちだろ、ハリー……」
「来てくれって――どこへ?」ハリーはきょろきょろしながらひきずられて立った。
「おれのボロアパート……」と豊田はハリーをひっぱりながらつぶやいた。「資料コピーと切りぬきとメモで、足のふみ場もねえが、とにかく来てくれ。そこで話そう。言っとくがゴキブリだらけだぜ。南京虫だっているかも知れねえ……」
「いや――あたしは別に、|あれ《ヽヽ》が起る前に、起るって事を知ってたわけじゃないよ。カズさん……」とハリーは手をふった。「ごく一般的な――あの時まで、ごく一般的に感じられた、空気≠しゃべっただけだよ。こんな事になろうとは夢にも知らなかった。誓っていい」
「テッドもそう言った……」言った通り、紙片の山で埋ったせまくるしいアパートの一室で、豊田はベッドの上にひっくりかえった。「だが――じゃ、あいつは、なぜあんな、思わせぶりな事を言いやがったんだ? あいつはまるで――こうなる事を、あらかじめ知っていたような口ぶりだった。あんたもだ……」
「なあ、カズさん……」
「どう考えたって――話がうますぎる……」豊田はベッドの上ではね起きた。「いいか――土、日に独立記念日の三連休だ。おまけに学生子供は夏休みで、国中がのんびり休んでる。国中のVIPや外国要人が、ワシントンDC(コロンビア特別区)へ集っている。――今年はまた政府がいやに熱心に集めやがった――そこへ、ちょうど連休一日目にあわせたように|あれ《ヽヽ》が起った……」
「偶然だろう」とハリーはさえぎった。「別に政府《ヽヽ》がしくんだわけじゃあるまい。また――しくめるような性質のもんでもない……」
ハリーはベッドの上にほうり出されていたその日の新聞を顔でさして、
「読んだんだろう?」
と言った。
その新聞の一面には、「白い霧の壁」の性質をはかるため、海空合同調査団が、「壁」の中に数発の核ミサイルをうちこみ、爆発させたという記事が出ていた。――そのうちの二発はメガトン級の水爆弾頭をつけた戦略核ミサイルであり、爆発地点は、「壁」の中にはいって、すぐの地点にセットされていた。また信管の時限装置は、「壁」の内部における電磁気的|擾乱《じようらん》の影響を考慮して、エレクトロニクス系統を全くつかわず、「純粋に機械的な」方法が使われた、と発表された。
爆発地点は「壁」にはいってわずか約百メートルのはずであったにもかかわらず、「爆発の影響は全く壁≠フこちら側にあらわれなかった」――つまり、爆発したかどうかも探知し得なかったのである。
また何発かの「戦術核」は、「壁」のすぐこちら側、「壁」そのものの至近地点で爆発させられた。こちらも、「結果は鋭意調査中」であるが、まだ今の所、はかばかしい発見は見られない……。
もう一つ、それにならんで、観測衛星ノアによってとられた、「壁の外の地球表面=vの写真が大きく出ていた。――何枚もの写真をつぎあわせたもので、そこには、北米大陸の輪郭ははっきりうつっており、その周辺を、ほぼ二百浬の幅でとりまく「壁」も、縁どりのようにあざやかにうつっていた。――が、その白っぽい縁どりの「外側」は……地表すべてが、ぼんやりとした、白っぽい|もや《ヽヽ》のようなものに包まれ、その下にあるはずの旧大陸や島々は、まるでうつっていない、つまり、人工衛星高度からうつした地表の情景は、「北米大陸」の部分だけをぽっかり穴のようにのこして、すっぽりと白い|もや《ヽヽ》のヴェールに包まれているのである。あたかも、ダイヤル盤の部分だけ露出して、電話機を包むレースのカバーのように……。
「読んだ……」と豊田はうなずいた。「だが、読んだからって信用しているわけじゃない。おれ自身が、調査団にくわわってるわけじゃないからな――。写真なんて、スプレーをかければそれまでだ……」
度しがたい、と言った表情で、ハリーは口ひげをひっぱった。
「いいか――そんな事は一応全部はずして、この現象の全体《ヽヽ》を考えてみてくれ、ハリー。――おれのしらべ上げたいろんな事も、全部話すから……」
豊田は山のように資料のつみ上げられたサイドテーブルから、ぶあついメモの束をとり上げた。
「ヴェトナムの泥沼化以来、アメリカの海外問題についてのオーバー・コミットメントが問題になり、ニクソンのグアム・ドクトリンからこっち、アメリカが徐々に世界≠フ緊張局面から手をひきはじめたのは誰だって知っている。――防衛肩がわり論≠ヘ、しかし、その段階ではまだ、アメリカ以外の地域から見ても、充分納得できる点をふくんでいた。問題は、それ以後、政権が代る度に、妙な方向にシフトしながら加速≠ウれて来たように見える事だ。――そして、今のH・P・モンロー大統領になってから、一層妙な事になった。アメリカは外≠フ問題について、ほとんど完全に冷えてしまったみたいだ。そのリーダー意識も、使命感も……。かつて、アメリカは、この地球上で、人類がうみ出した一番|大きな国《ヽヽヽヽ》だった。というのは、アメリカ社会と、社会意識の中には、いつも世界性≠ェあったからだ。アメリカにくれば、人類の未来≠竅A地球時代≠ニいうものが、ほかの地域にいるより、はるかに直接的に|見えて《ヽヽヽ》いた……。だけど、どういうわけか、今の大統領が当選する前後から、アメリカはいやに|小さく《ヽヽヽ》なりはじめた。内向的になり、外の世界に冷淡になり……センチメンタルなまでに自愛的になり……」
「市民《ヽヽ》として弁解させてもらえば、それもやむを得ないんじゃないかな」とハリーは言いにくそうに口をはさんだ。「外の世界≠ヘあまりに長い間、アメリカにぶらさがりすぎた。アメリカに言わせれば、あまりに長い間、むしられすぎた。いくら巨大な鯨でも、これだけいろんな連中にむしられりゃ……しかも、むこうには、自由世界と全く体制のちがう、まわりに対してきわめて非情な行動のとれる、巨大な相手がいて、どんどん強大になっている……。なあ、カズさん、おれはまったく自由な個人≠セと思っていたし、国民∴ネ前に、自由な個人でいられる、というのが、アメリカの一番好きな、いい所だと思っていた。それが妙なもんだね。国≠チてものが、いつの間にか、微妙な所で自分と一体化しちまったんだ。――アメリカが、まわりからたかられ、むしられ、ぼろぼろになったと感じた時、おれ自身も、何だか痛みを感じたよ……」
「外≠フ連中に言わせりゃ、アメリカはその分だけ、とるものをとり、力をつけ、いばるだけいばった、と言うだろうがな……」と豊田はつぶやいた。「おれとしちゃ、アメリカに同情する方だよ。日本だって、ヨーロッパだって、アメリカから見りゃ恩知らず≠セろうさ――。だが、そいつは誰でも知ってるように水かけ論になっちまう……。とにかく、アメリカは、外≠フ世界に、ひどくいやな形で傷つき、萎縮《シユリンク》しはじめた。そいつは認めるだろ? 今の大統領は、その方向をさらに強め、妙な具合にカーブさせた。彼は幸福な新天地時代≠フアメリカのノスタルジイに訴え、そこからの再出発を考えてるみたいだった。――当選した時から、いやにそういった行事やキャンペーンに力を入れ、特に今年の独立記念日の準備と来たら、念が入りすぎて……」
「任期三年目だからな……」とハリーはつぶやいた。「彼は当然再選をねらっているだろうし……」
「今度の独立記念日はアメリカの新しい出発の日≠ニいう事だったな……」豊田はメモをくった。「アメリカ中のVIPが、それを名目にワシントンに集って来た。それだけじゃない。海外のVIP、それに貴重なアメリカの頭脳で海外にいる連中――そういった連中もよばれた。大統領とホワイトハウスの招待客はどのくらいにのぼったと思う? みんな、ファーストクラスの航空券とホテル、滞在費つきだぜ。――その上……アメリカ在外兵力《ヽヽヽヽ》まで……」
「第六艦隊、第七艦隊の祝典航海≠フ事か?」
「それだけじゃない。在ヨーロッパ、在アジアの空軍からも、大デモフライトがあった。最新鋭の一線機ばかりだ。太平洋岸、大西洋岸の各空軍基地への最終グループ到着は、あの事件の起った土曜日の東部時間の午前零時《ヽヽヽヽ》だった……」と豊田はメモを見ながら言った。「その一週間前、MCA(空輸空軍)が、東半球、西半球へむけて、大空輸演習をやっている。昔やったビッグ・リフト作戦≠フ現代版と思われていたが、米本土でつみこまれた武装軍隊はアメリカ国内の別の基地でおろされ、C5Aも、C131も輸送機は全部からっぽで、アジアとヨーロッパへとんだ。――海外基地であらかじめ集結していた軍隊をつんで、別の演習地点へはこぶ。演習の終ったあと、MCAはふたたび軍隊をつんで、在欧、在アジアの基地へかえらず、そのまま米本土へ帰った。そこで在欧米軍総兵力三十万のうち、休暇帰国中の二万人プラス五万人、在太平洋地区の方は韓国、タイの地上軍はもう一年前に全国的にひき上げているから、どのくらいを収容≠オたかよくわからないが、こちらも海軍空軍をふくめて、兵力の二分の一以上が、壁≠フ出現する直前に、帰国≠オたと見なされる……」
「独立記念日≠セったからだろう……」ハリーはためらいがちにつぶやいた。「おれの従兄で海軍にいるやつがいるが、やっぱり特別休暇≠フ大盤ぶるまいだって笑ってたから……」
「全世界にわたる防衛配置の|三分の二《ヽヽヽヽ》ちかくをからっぽにしてか?」豊田は皮肉っぽく言いかえした。「いくら今度の記念日は、H・P・M自身が音頭をとって盛大にもり上げようとしていたと言ったって、ちとはしゃぎすぎじゃないかね?――地中海方面にいる第六艦隊のうち壁≠フむこうに残されたのは、空母一、水上艦艇七だけ、西太平洋の第七艦隊は、三隻の空母のうち、同じく一隻、水上戦闘用艦二十五隻のうち、わずか五隻が壁≠フむこうにとりのこされただけだ。アメリカ近海に配置されている第二、第三艦隊の損失はほとんどない……」
「それにしてもよくしらべたな……」とハリーは目をまるくした。「軍事機密に属する事を……」
「ある筋≠ゥらね――。ハリーさんよ、もしこの壁≠ェ……カナダをふくむ北米と、他の世界との間を|完全に《ヽヽヽ》、そして|永久に《ヽヽヽ》遮断してしまうとしたら――もう軍事機密や、防衛機密なんて意味がなくなるんだぜ……」豊田はメモをほうり出した。「国防総省や統参本部にもぐりこんでいる|KGB《ヽヽヽ》の手先だって、失業しちまうんだ……」
「それであんたは何を言いたいんだ、カズさん……。このとてつもない――現代科学技術では、とうてい理解も操作も不可能なような壁≠、アメリカが|人為的に《ヽヽヽヽ》につくったとでも言うのか?」
「そこまでは言えない。が――アメリカ政府はすくなくとも、|あれ《ヽヽ》が起るのを事前に知っていた。それが|いつ《ヽヽ》起るかという事まで知っていたような気がする。いや、しらべればしらべるほど、そうとしか思えん……」
豊田はベッドサイドにつみ上げられた書物や資料を乱暴に床にはたきおとした。――うずたかくつみ上げられた紙の山のむこうに、小型のカラーテレビとヴィデオコーダーがあらわれた。
「日本製だな……」と、1/2インチカセット・ヴィデオテープに眼を見はりながらハリーはつぶやいた。「ずいぶん小さいんだな……。あたしゃ、こんなのが欲しかったんだ」
「あとであんたにくれてやるよ……」カセットをはめこみ、ボタンを押しながら豊田は言った。「いずれ値が出るぜ……。もうこんな安くてとりあつかいが簡単で性能のいい、日本製のヴィデオ関係機器は二度とはいってこないんだからな。アメリカの家電企業は喜ぶだろうが、あんたたちにゃ、品物が手にはいりにくくなる……」
画面にはマイクを前にした大統領がうつった。
「三日前の、メモリアル・ホールでの演説だ……」豊田はベッドの上にひっくりかえった。「聞いたかい?……まあもう一度聞けよ」
――この異常な事態が起ってから、すでに二カ月たった……。外部世界≠ニの連絡は依然としてとれていない……。
――しかしこの奇妙で不幸な孤立状態≠ノ対してわれわれは挫《くじ》けたり、感情的になってはならない……。
――外の世界≠ニの連絡、交流途絶によって、アメリカのうけた経済的、社会的損失は大きなものがある。だが、アメリカは、急速にこの損害を克服しつつあり、同時に、この異様な隔絶状態≠ノ対処しつつある……。
――われわれは、外≠フ世界と人類同胞とから孤立した。この孤立状態はいつまでつづくか、誰にもわからない。しかし、アメリカには、充分広大な国土があり、まだ未発見のゆたかな資源がある。つい三カ月前にもフロリダ沖で、中東油田に匹敵する大油田が発見された……。
――ほかの世界から孤立させられても、アメリカはなお、アメリカだけで未来をきりひらいて行ける力を持っている……。アメリカは生きのびる……。アメリカには未来がある。……そして、アメリカの前には、まだ宇宙《ヽヽ》ものこされているのだ……。
「大統領は、何だかいやにはりきってると思わないか?」と豊田は煙草に火をつけながら言った。「何だかこの事件を、|喜んで《ヽヽヽ》いるみたいだ……」
「まさか!」ハリーの声は高くなった。「それはあんまりひどい。かんぐりすぎだ」
「まあ言わせてくれ……」豊田はベッドの下からバーボンの壜をとり出して、ラッパ飲みした。「アメリカは、この孤立≠ナうけた損害よりも利益の方が大きいはずだ……。たしかに広大なマーケットを失ったかも知れない。が、アメリカは、もう外の世界から泥沼のような援助≠もとめられたり、国連でちっぽけな国々につるし上げられたり、日本や西ドイツからの追い上げ≠うけたり、支配力≠竍影響力≠フぐらつきに焦ったりしなくてもいいんだ……。何よりも、ソ連とはりあって、全世界に力の均衡≠現出しつづけなくてもよくなった……。資源は――何でもある。フロリダ沖の大油田だって発見されたし、ロッキーのウラン鉱は、アメリカ一国では使い切れないほどある……。人口は二億一千万、カナダと壁≠フこちら側のメキシコの一部をいれて二億三千万ぐらいだろう。食料は、ありあまるほど生産できる。アジア、インド、アフリカを考慮に入れなければ、人口爆発≠心配する事はない。アジア、中東、アフリカの紛争にまきこまれる事もない……。両側世界の防衛≠ノついて、アメリカが全く責任を負わなくてすむという事は――果しない核体制《ヽヽヽ》のつみ上げ競争を、もっと未来的《ヽヽヽ》な事にシフトできるという事は、アメリカ自身にとってすばらしい事じゃないか!――たしかに、アメリカにとっては、すてきな孤立≠セ。だが……考えて見ろ。壁≠フ外側《ヽヽ》の世界――それがまだあるとしてだが――|アメリカというものを失った世界《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》は……西ヨーロッパや、東アジアは……いったいどうなる? 今、どうなっていると思う?」
「カズさん……」ハリーは、静かに言って立ち上った。「当てこすりにしても、ひどいもんだぜ。それじゃまるで、アメリカが、エゴイスティックな動機から、ほかの世界を|見すてた《ヽヽヽヽ》と言っているように聞えるじゃないか……」
「外の世界≠焉c…日本も、アメリカって国を当てにしすぎてた。――これはたしかだ……」また一口バーボンを飲んで、豊田は口をぬぐった。「だが――人類史にとって、アメリカは一体何だったんだ? それをアメリカ人も考えて見る必要がありそうだ。二百年ちょっと前まで、この世界最強の国は、この世界に|無かった《ヽヽヽヽ》。五百年前には、この豊かな広い土地は、旧世界に知られてなかった……。これからも未来へとつづく人類社会にとって、アメリカは、アメリカ人だけのものでありつづけ……」
バタン!――と大きな音をたてて、ドアがしまった。豊田は酔眼をあげて、そのペンキのはげたドアを見、またこうして一人、友人を失うのか、とぼんやり考えていた。バーボンは彼の胃にあわなかったが、彼は飲みつづけた。中途半端に酔うと、妻子《ヽヽ》や、日本《ヽヽ》の事を思い出してしまうので……。
サンタモニカ海岸の沖合に、日が沈みかけていた。
晴れた日だったが、もはやかつてのように、水平線《ヽヽヽ》に、赤い夕日が沈んで行く所を見る事はできない。沖合二百二十浬の所に高さ数百キロの「霧の壁」があり、太陽がその上にさしかかると、壁の上縁が、白く銀線のように輝く。そしてそのあと、沖合は白いスクリーンのように、日没まで輝きつづけるのだった。
豊田は波打ち際に腰をおろし、ズボンの尻がぬれるのもかまわず、水平線をながめていた。――手には、日本製のビールの空《あ》き壜を持っていた。どういうわけか、その空き壜には、コルクの栓《せん》がしてあり、波打ち際で首をふっていた。それを見つけた時、彼はどきっとしてひろい上げた。ひょっとしたら、その壜が、はるか日本から黒潮にのり、さらにカリフォルニア海流にのって南下し、サンタモニカ海岸へ流れついたのではないかと思ったのである。――あの壁≠フ下《ヽ》をくぐって……。
が、コルクをはずして見ても、中に何もはいっていなかった。――その空き壜が「白い霧の壁」を通りぬけて来た可能性はなかった。トライデント級の原子力潜水艦が一隻、深度四百メートルで壁の下をくぐりぬけようとし、水上艦艇や航空機やミサイルと同じように消えてしまい、二度と帰ってこなかった。
空き壜は、おそらくロスの日本料理店ですてられたにちがいない。それを子供がひろって、いたずらにコルクの栓をしたのだろう。――それは、決して壁のむこう≠ゥらの、壜に托された|メッセージ《ヽヽヽヽヽ》などではなかった。
――いずれにしても……と、彼は、その茶色の壜に浮き出た片仮名の商品名を指でなぞりながらぼんやり思った。――もう、この「日本製」のビールもビール壜も、だんだんアメリカから無くなって行き、ストックが無くなってしまえば、もう|二度と《ヽヽヽ》……このアメリカでは手にはいらなくなる。となると、この壜だって、骨董《こつとう》的値打ちが出るかも知れない……。
「こんな所にいたのか……」背後からハリーが近づいて来て声をかけた。「浮浪者かと思った……」
「やあ――」と豊田はふりかえって片眉を釣り上げた。「仲なおりか?」
「まあそんな所だ……」とハリーは手で招いた。「さあ、早く……。|バード《ヽヽヽ》にのるんだ」
「何だって?」
ハリーはかまわずビュイック・スカイラークのドアをあけた。
「フォルクスワーゲンを乗りかえたのか?」と、走り出してから、豊田はきいた。
「ヨーロッパ車は、今、大変な高値だ。――何しろもうはいらないからな……」とハリーは言った。「あたしのワーゲン・ゴルフだって、買い値の二倍半で売れた」
「それはいいが、どこへ行くんだ?」
「E―空軍基地だ……」ハイウェイをすっとばしながらハリーは言った。「それで今夜――仲間が、|バード《ヽヽヽ》を奪って、壁≠フ強行突破をこころみるんだ」
豊田は、事情がよくのみこめずにしばらくだまっていた。
「あんたに、アメリカの事をひどくかんぐられて、一時はあたしも腹をたてたがね……」とハリーはしゃべりつづけた。「しかし、その少しあとで、大統領の名前に関して、妙な事実を知ったんで、気がかわった。これは、ひょっとすると、あんたの言う通りかも知れないな、と思ったんだ」
「大統領の名前について、だって?――彼の名は本名じゃないのか?」
「いや、本名さ。――|ヘンリイ《ヽヽヽヽ》・|パトリック《ヽヽヽヽヽ》……この名前をきくと、あんたらはともかく、生粋《きつすい》のアメリカ人なら、すぐ思い出す歴史上の人物がいる……。知ってるか?」
「|パトリック《ヽヽヽヽヽ》・|ヘンリイ《ヽヽヽヽ》……そうだ! 一七三六年ヴァージニア植民地生れの独立運動のリーダーだ。弁護士だったけな……、自由か、しからずんば死を……≠フ文句は日本でも有名だぜ。ただし、独立後、中央政府の樹立や、憲法草案には猛烈に反対した……」
「そう――ジェファースンとならぶ反連邦主義者《アンタイ・フエデラリスト》だ。アメリカの|草の根 愛国主義《グラスルーツ・パトリオテイズム》の一つの原型をつくった人物さ……。が、大統領には、もう一つミドル・ネームがあって、選挙期間中、選挙本部は慎重にそれをかくしていた……。彼の母親は、四つの時に死んだとされているが、実は離婚して、その後彼が小学校へ上るころまで生きていた。――そのミドル・ネームは、東部の名家である生母の方の家系から継いだもので、彼は幼時、生母の家系の超保守的な影響を強くうけていた……」
「何て名だ?」豊田はきいた。
「|ジェイムズ《ヽヽヽヽヽ》さ……」ハリーは肩をすくめた。「ヘンリイ・パトリック・|ジェイムズ《ヽヽヽヽヽ》・|モンロー《ヽヽヽヽ》……ジェイムズ・モンローは言うまでもない。モンロー主義≠ナ有名なアメリカ第五代大統領だ。ヴァージニア植民地の出身で、パトリック・ヘンリーとも同志だった。もっともモンロー・ドクトリン≠ニいうのは、ヨーロッパのアメリカ植民地化反対と、干渉排除を主張したもので、のちにいささか拡大されたり、誇張されたきらいはあるがね。――いずれにしても、ヘンリイ・パトリックと、ジェイムズ・モンローの名が重なると、あまりに選挙民に孤立主義のイメージをあたえるから、というので、離別している事だし、選挙本部がかくしたんだ……」
「だけど――それがどうした?」
「大統領の、幼時に形成された情念、というものについて、一つのヒントを得た、というだけさ……」ハリーはぐんぐんスピードをあげながら言った。「それだけじゃない。――あとで話すが……」
砂漠の中のE―空軍基地についた時は、もうまっ暗だった。乾燥したカリフォルニアの空に、星がおそろしいほど鮮やかにきらめいている。
ふだんなら警戒厳重なはずの空軍基地なのに、入口では、だらしない恰好をした太っちょの衛兵が、ホットドッグをぱくつきながら出て来ただけだった。ハリーの示した許可証らしきものを一瞥《いちべつ》しただけで、豊田については、顔を見ようともしなかった。
「政府上層部は、実質的に、三軍の解体に手をつけはじめている……」と、基地の中を走りながらハリーは言った。「そのかわりに、海洋と宇宙開発に、うんと力を入れる事になるだろうな。州兵と、防衛空軍の一部と、沿岸警備をのぞいて、もう軍隊ってものはいらなくなったし、また軍事機密《ヽヽヽヽ》ってものもなくなった。この基地も、兵員は今五十分の一しかいないし、兵器は、どこかにはこび去られてしまった……」
まっ暗な中に、灯のついていない建物や格納庫《ハンガー》がいくつもならんでいて、そのむこうに、わびしく投光機がともっていた。――建物の角をまわると、その光の中に、まっ白な、巨大な白鳥のように優美な曲線でふちどられた機影が見えた。
「あれが|バード《ヽヽヽ》さ……」と、ハリーは言った。「最後の有人戦略爆撃機≠ニよばれるB―1だ。――これまでで最もよく考えられた航空機≠ニも言われたが、ソ連とのSALT交渉のあおりで開発中止になっちまった……。だが、最終開発時まで結局八機つくられ、そのうちの二機が、実験機として、NATOにひきわたされる事になっていた……」
「あれがそのうちの一機かい?」
「そう――。これがどの国にもある官僚主義の面白い所でね。NATO空軍から、テストに派遣されていた連中は、あの壁≠フ出現以後も、双方のプログラムにしたがって、各種のテスト飛行をつづけていた。まだ命令は、|とり消されていない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、と言うのが、連中の言い分だ。アメリカ国防総省とAFSC(空軍技術開発軍団)の方じゃ、あきれてぶん投げているんだが――まあ、どうせ持ち出せないから、と言うので、勝手にやらせてるんだ。で――一連のテスト・プログラムは終り、この間から夜間テスト飛行にはいって、今夜の夜間洋上飛行を終れば、プログラムはすべて完了する……」
「そこをねらって……このB―1で壁≠突破しようと言うのか?」
「いやならやめていいんだぜ、カズさん……」ハリーは、整備員が気の無さそうに働いている機体の方に歩きながら、豊田の顔をのぞきこむ。「あんたのほかにもう一人、壁≠フむこうへ行ってみたいって東欧人《ヽヽヽ》がいて、もう乗りこんでるはずだ。離陸はもうじきだぜ」
「いや、行く……」と豊田はきっぱり言った。「目的地は?」
「とりあえず、|ハワイ《ヽヽヽ》だ……。連中にしてみれば、大西洋をこえてヨーロッパへとびたいだろうが、あっちの方が、パトロールや国内線がうるさいから……」
「あんたは? ハリー・ショー……」
「おれは――残る。あのB―1はもともと乗組はたった四人なんだ。それに特別に、二人分、席をつくらせた。燃料搭載量をごまかして、一万キロはとべるようになっているが、でも、余分な荷重はない方がいい……」
整備員が、こちらをふりむいた。――ハリーはちかよって行って、肩をたたき、何かしゃべり出した。
その間に、豊田は呆然と、その優美な、夢のような曲線にみちた純白の機体を見上げた。――全長約四六メートル、全幅は、後退角をかえられる可変翼によって、四一・六七メートルから、二三・八四メートルにまで変えられる。全高一〇・二四メートル、推力二万ポンドのGEF101―GE―100ジェットエンジン四基をつみ、高度一万五千メートルを最大速度マッハ二・二でとべる一方、コンピューターと赤外線地形センサーによって、地上高度わずか二百メートルたらずの所を、亜音速で地形追随飛行もできる。この「超低空侵入」によって、巡航ミサイル同様、敵のレーダーにひっかからず、目標に接近できるのである。いたる所に、美しい曲線を配したその機体は、恐ろしい多弾頭空対地核ミサイルをつむ殺戮《さつりく》、破壊兵器というより、古代ギリシャ神話に出て来る夢の鳥のように見えた。
ハリーが地上タラップの下から手をふった。
「急いでくれ。すぐ発進するそうだ……」そう言いながら、彼は小さく平たい金属の箱を豊田に手わたした。「安心しろ、別に爆弾じゃない。――いろいろ話したい事があるが、時間が無いので、テープへ吹きこんどいた。あとできいてくれ……。じゃ、――」
何となく夢を見ているような心持ちで、豊田はタラップをのぼった。機内にはいる前に、彼はハリーをふりかえってどなった。
「無事にむこうへついたら手紙を出すからな!」
「月へうちこんどいてくれ……」とハリーは、東の空にのぼって来た半月をさしてどなりかえした。「あとでNASAにたのんでとって来てもらうから……」
ドアがしまると、彼は「同乗者」にむかって自己紹介した。
「カール・ホフヌング大佐……」と、大男が主操縦席から手をふった。
「フランソワ・コポオ!……」と副操縦席の小男が言った。
あと電子機器の所にスエーデンの軍人と、イギリスの民間人がいた。臨時にしつらえられた席に、ユーゴスラビアの役人が、窮屈そうにすわり、豊田はその隣りについた。
計器チェックは終ったらしく、すぐエンジンがスタートした。――ヘッドフォンを通じて、戦闘機のもののようなコントロール・スティックをにぎるホフヌング大佐の声がきこえた。――離陸後、地上一万フィート速度三百ノットで西南へむかい、ロングビーチ、サンディエゴ間で洋上へ出たら、高度四百五十フィートにおとし、速度四百五十ノットにあげる。監視船やレーダーに発見されなければ、そのまま壁≠ヨむかって進み、壁≠フ手前で高度四万フィートまで急上昇して、マッハ二に加速し、そのまま壁≠ヨつっこむ……。
「どうなりますかね?」と、タクシイングをはじめた機の中で、ユーゴスラビア人は、訛《なま》りのつよい英語できいた。「|向う《ヽヽ》へぬけられますかね?」
「さあ、どうでしょうか……」と、彼は首をふった。「神のみぞ知る――でしょうな……」
電子機器オペレーターに許可をもらって、ハリーのくれたマイクロカセット・コーダーをきこうとしたが、動かなかった。よく見ると、タイムロックがかかっていた。――スイッチを入れっぱなしにしておくと、洋上へ出たとたんに、ロックがはずれ、ハリーの声がスピーカーからとび出した。
――さて、カズ……。君はもうじき壁≠ノつっこんで行くだろう。あと何分か、何十分か……。いずれにしても幸運を祈る……。所で君は、この壁≠フ性質が、何かに似ていると思った事はないだろうか? どこかでこういった、現代の科学技術の理解をこえた洋上の白い霧≠ノついて、何かで読んだり聞いたりした事はないか?――君はこの問題をとりあつかう連邦政府の秘密委員会の名称がB問題委員会≠ニよばれる所までつきとめていた。君はそれを単純にブラックアウト問題≠ニ思っていたようだ。だがこのB≠ノは、もう一つの意味があった。――そう君ももう気がついているだろう……。
――話は今から数年前……一九七七年の夏、例の魔の海域≠ニよばれるバミューダ三角地帯の海底九百メートルに、高さ百八十メートルのピラミッド状のものが見つかり、|米ソ共同《ヽヽヽヽ》の調査隊が派遣された時にはじまる。調査の結果は、はかばかしくなかった、と発表された。だが、ソ連の、次いでアメリカの深海調査隊は、この時おどろくべき装置《ヽヽ》を――先文明人か、それともかつてこの星へやって来た宇宙人の遺構か、どちらともわからない――発見したのだ……。
――装置≠サのものについては、ぼくにもよくわからない。だが、それが、バミューダ海域を魔の海域≠ニする、あの奇妙な現象を――磁石をくるわせ、通信を途絶させ、近代航空機を、巨大な船舶を、数知れず|あとかたも無く《ヽヽヽヽヽヽヽ》消し去る|白い霧《ヽヽヽ》を発生させる装置である事、しかも――これは、ソ連の第三次探検船に乗組んでいた二人の超能力者が、装置の出すメッセージを読みとってわかったのだが――その効果は、人間の精神力によって、いくらでも巨大なものにできる事がわかったのだ……。
――この装置の性格について、はっきりわかったのは、現大統領が就任して間もなくだった。そしてその名の通り――またある点では、名前の呪縛《ヽヽ》によって――新しい意味での孤立主義者であった現大統領、このすばらしく、美しく、ゆたかで、新しく、自由なアメリカ≠、汚れ、古び、混沌として厄介事だらけの旧世界≠ゥら、切りはなしたい、と考えつづけていた大統領は、とんでもない事を思いついた……。
――そのあと、ソ連との間にどんな話し合いがつけられたのか……それは、ぼくのような下っぱ|CIA《ヽヽヽ》職員には、うかがい知れない。大陸中国のスパイであるテッド・リーは、うすうす何かを勘づいていたらしいが……、とにかく、世界のほかの国が何も知らないうちに、ひそかに、ソ連との間に、この地球を、世界を、人類社会を、|二つに分ける《ヽヽヽヽヽヽ》事について、話がついた。緊張緩和《デタント》どころじゃない。まさに決定的な|引きはなし=sデイスエンゲージメント》だ。――期限がいつまでか、それもわからない。しかし、この壁≠ノよって、世界は完全に「旧」と「新」の二つにわけられた。アメリカは大統領の理想通り、外のくたびれ果てた世界から、|完全に《ヽヽヽ》隔絶された。|アメリカ無き旧世界《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》において、どんな事が起ろうと、もはやアメリカを苛《いら》だたせ、悩ませ、おせっかい心をかきたてるような、いかなるニュースも、影響も、つたわってこない。君のように、|想像によって《ヽヽヽヽヽヽ》悩み苦しむ以外は……。人類は、今やまったく別々の「二つの世界」にわかれたのだ。これから先、人類史は別々の惑星社会≠フように、別々のコースをたどり出す事になるだろう。何十年先か、何百年先か……あるいは、この地上でではなく、遠い宇宙空間でか、再び「二つの社会」が相まみえる事があるかも知れない。その時、それがどんなに変っていても、それは各々の社会の責任になるだろう……。
――ところで……君は、思ったよりよくやった。少し想像力がゆたかすぎ、いろんな事をかぎつけすぎた。その分だけ君は、この新しい状況に不適応≠ニ見なし、君をのぞみ通り、ほかの|うるさい連中《ヽヽヽヽヽヽ》と一緒に……。
突然、そこでテープコーダーががりがりざあざあとひどい音をたてはじめた。――彼はあわてて機械をいじったが、ノイズはやまなかった。
「高度四万フィート……」と前方でコポオが言うのが聞えた。
「機長だ。――いよいよ、音速を突破する」とホフヌング大佐の声がスピーカーからきこえた。「音の壁≠サしてつづいて白い霧の壁≠焉c…」
ごうッ、と機体全体が鳴った。ダイヴ気味のすごい加速で、全員がシートに押しつけられた。
「マッハ一・〇、一・二、一・四五、一・七……マッハ二……」
とコポオの声がスピーカーからひびく。
「それいけ!」と大佐がわめいた。「|アメリカの壁《ヽヽヽヽヽヽ》をつきやぶれ……」
「前方レーダー、ブラックアウト……」とコポオが叫ぶ。「計器異常発生」
「後尾レーダー、対地レーダーブラックアウト!」と電子機器オペレーターが叫ぶ。「計器異常発生!」
「壁≠ノつっこんだぞ!」と大佐。「速度は?」
「対気速度下降中、マッハ一・五……一・三、一・二……マッハ一をわりました。まだどんどんおちて行きます。ただいま五百ノット……四百三十ノット……四百ノット……三百ノット……二百五十」
「エンジン全開のままだ……」と大佐は、ふるえる声で言った。
「|天なるわが神よ《マイン・ゴツト・イム・ヒンメル》!……」
「可変翼、開きません……。対気速度、おちて行きます。――地上高度不明……速度百二十ノット、八十ノット……」
突然機内の明りがいっせいに消えた。あとには狂ったようにめちゃくちゃに動く、計器類の夜光塗料だけが光っていた。――テープはまだざあざあ言いながらまわりつづけ、コポオが、いやに静かな声で、
「対気速度、ただ今ゼロノット……」
と言った時、テープの最後の部分から、雑音にまじって、ハリーの「アディュー」と言う言葉だけが、はっきりきこえて来た。
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眠りと旅と夢
アンデスの東斜面で古代のミイラが見つかるのは、それほど珍しい事ではない。
珍しかったのは、その発見状況だった。
「本社へ連絡して、すぐ研究所《ラボ》の連中をよこしてくれ!」とマイケルから連絡がはいったのは、ぼくがたまたまエクアドルのリオバンバのホテルにいる時だった。「機材がうんといるんだ。――今からリストを読みあげるから、ちゃんとメモをとってくれよ。一つでも忘れると、とりかえしがつかない事になるかも知れんから……」
「こんなものが、何にいるんだ?」マイケルが上ずった声でよみ上げる機材のコードナンバーを、端末にうちこみながら、ぼくはいささか呆れてききかえした。「いったい何が見つかったんだ?――古代のミイラだって言わなかったか? プラチナとエメラルドまじりのヘリウムの大鉱床でも見つかったのか?」
「ミイラって言っただろう!――三体見つかって、そのうちの二体は、人夫が|だめ《ヽヽ》にしちまったんだ。のこりの一体も、長い事放置しとけば、|だめ《ヽヽ》になるかも知れない。そうならないうちに、何とか収容したい」
「だめになる≠チて、どういう事なんだ? まさか、新鮮ミイラのサラダをつくろうってんじゃないだろうな?」ぼくは、通話を切りかけたマイケルをあわててよびとめた。「それに何だ、この大げさな機材は?――いったい本社の連中をどうやって納得させるんだい?」
「忘れてた。研究所《ラボ》の方へは、ハッサンとリン・ホータンに忘れずに来てくれるように伝えてくれ」
「ハッサンって……あの海洋工学のハッサン・アル・カハムか?」
「ほかにハッサンって男がラボにいたっけ?」マイケルは、テレビ電話の受像機の中で、いらだたしそうに唇を歪めた。「本社の連中を納得させるのは、君の仕事だろうが、バンボ。――うるさい事を言ったら、またボブ伯父さんの名をつかえよ。おれはかまわないよ」
はいはい……というように、ぼくは肩をすくめた。――ロバート・フラニガンは、マイケル・オコーナーの親同然の伯父で、実の父親よりマイケルを溺愛していた。潮州系|華僑《かきよう》の大物で、バーディ開発会社の株を三分の一握っている。
で、ぼくは、すでにヒューストンの本社と、フロリダ州デイトナビーチの総合研究所に連絡をいれ、マイケルの要求した機材と委員を、彼がはりついている現場《サイト》へ、ビーチクラフトの四発コンバーター貨物機《カーゴ》ですぐ運ぶ手配をした。――偉大なる「ボブ伯父さん」の名を、それほどちらつかせる事もなかった。何しろ、資源調査の実績で、マイケルの腕前は群をぬいており、超能力者だの、魔法使いだのといった噂が、他社の間でまじめにささやかれるほどだった。
「バーディ開発」の名称は別にそれにちなんだわけではないが、ゴルフ狂だった創設者の初代会長は――彼は、八十四歳で死ぬまで、狂おしいほどの努力をつづけたにもかかわらず、ついにハンディ30の壁をこえられなかったという哀れな人物だったが――探査する資源の種類・地域ごとに、業界平均の費用をはじき出し、それの3/4で目的を達成した時には「バーディ」、2/3なら「イーグル」、1/2で「アルバトロス」と、それぞれゴルフにちなんだ賞を設け、節約費用額の五パーセントを、チームにボーナスとして出す制度を設けた。そしてマイケルは、チームリーダーとして、これまでバーディを三度、イーグルを一度、アルバトロスを一度出すというおどろくべき成績をあげており、小アンチル諸島沖大油田の発見の時は、何と見つもり費用の1/5以下――実際は、試掘井わずか二本目《ヽヽヽ》で、掘り当てたのである――という奇蹟をやってのけて、役員会は「ホール・イン・ワン賞」という特別賞を設定せざるを得なかったぐらいだった(彼にくらべたら、ぼくなぞはまるでついてなくて、「ボギー」どころか、「ブービー」二回という、ビギナー同然のひどいスコアを出し、とうとう自分のチームをとりあげられて、マイケルのチームマネージャーに格下げという有様だった)。
そんなぐあいだから、マイケルの要求は、大抵の事なら、本社の連中もすぐ応じた。何しろ、ここ六年間のバーディ開発INCの利益の十五パーセントを、一人で稼ぎ出した男の要求だ。それも、時折り「小型空母を一隻どうしても都合しろ」とか、「ロマネ・コンティか、シャトー・ラフィット・ロートシルトの極上物二百本と、身長百七十センチ以上、二十四歳以下の絶世の美女二十人、それにロマノフキャビア二ガロンを、四十八時間以内にアデンまで空輸してくれ」などととんでもない注文をしてくるので、いわゆる「マイケル緊急発進《スクランブル》」に関しては、大抵の事にはおどろかなくなっている。
「それだけでいいのか?」と、本社資材課のテッドはにやにや笑いながら電話の中から聞きかえした。「マイケルにしちゃおとなしい注文だな。――デイトナビーチの方じゃ、最近研究用にでっかいアリゲーターを五匹買いこんだはずだ。二、三匹つけてやろうか?」
「ワニなんかもらってもしようがないよ」とぼくはどなりかえした。「お釣りをピラニアではらうわけにも行かんだろう。――それより、機材はいつごろ現地につく?」
「輸送機はあと二十分でケープ・リンカーンにつくから、そこでのこりの機材をつんで、ま、三時間後ってとこかな」とテッドは時計を見ていった。「研究所《ラボ》の連中は、ヘリで別にたつから、到着は同じころになるだろう。――どうだ? 中古の原子力潜水艦を一隻、マナオスまで回航してやろうか? 何なら大陸間ミサイルもつけて……」
「けっこうだね」とぼくは通話スイッチに手をのばしながらつぶやいた。「ついでにミサイルの目標をヒューストンの資材課へセットしといてくれ」
ペルー、コロンビアとの国境に近い、アリカの街の南方二十キロほどの現場《サイト》へ、小型ヘリでついた時には、もうビーチクラフト404TWCCが、四発エンジンのついた|傾 斜 翼《テイルト・ウイング》を九十度回転させて、着陸地点上空を空中停止《ホヴアリング》している所だった。研究所《ラボ》からとんで来たアエロマッキの高速旅客ヘリは、すでに上空を旋回しながら待機していた。――着陸地点が、あまりひろくない断崖途中のテラスなので、まず図体のでかい、二十二トンづみのコンバーター貨物機《カーゴ》を着陸させ、片隅によせてからヘリは着陸しろ、と、地上から指令して来た。――ぼくは、純白に赤と緑の縁取りをいれた、アエロマッキの十二人乗りのTH型ヘリのあとを追うように上空を旋回しながら、はるか東部にむかってひろがる、広大なアマゾニア草原《パンパ》の方をながめた。――乾期がはじまっていて視界はよく、黄ばんだ大草原の間を黒い河筋がゆったりとうねっているのが、ずっとむこうまで見わたせた。
貨物機《カーゴ》につづいてテラスのはしをおりると、もう貨物機後尾のクラム・シェル型のドアが開き、中から機材をつんだ小型トレーラーと、クレーン車がおろされていた。――研究所《ラボ》の連中もつづいて着陸し、テラスの一角の発掘現場に近よって来た。
そこは海抜にして二千四百メートルぐらいの丘陵のほとんど頂上にちかい斜面の中腹だった。――古い地すべりか何かでできたらしい、幅四、五十メートル、長さ百二十メートルほどのテラス状のはり出しの一方は、直下数十メートルもの急な断崖になっておちこみ、反対側は、ややなだらかな地層の露出した斜面となって十メートルほどそびえたっていた。
その露出した地層の中腹、テラスの平面から三メートルほど上がった所に、安山岩をつみ上げた、墳墓の地下部分らしいものが露出し、四角く切り出した石塊が一部くずれて、いくつもテラスの上にころがっている。――思うに、最初地下墳墓は、テラスのさらに上の、平たい山頂部のはずれぎりぎりにつくられた。それが地震か雨かによる崖くずれのため、斜面の一部が削りとられて墳墓の側壁の一部が露出したのだろう。
「|ピラミッド《ヽヽヽヽヽ》?」
ぼくは、研究所《ラボ》の連中に、昂奮して説明しているマイケルの言葉を小耳にはさんで、思わず話の輪に首をつっこんだ。
「この崖の途中に出ている石壁が、ピラミッドの一部だっていうのかい?」
「崖の上へ上って見ろよ」とマイケルは顎《あご》を上へむかってしゃくった。「潅木《かんぼく》におおわれているが、マヤ型ピラミッドの頭頂部が見られる。――あんまり大きいものじゃないがね」
アンデスの東部斜面で、かつて中米からカリブ海域へかけて栄えたマヤ文明特有のタイプのピラミッドが見つかったのは、これで四つ目か五つ目だった。――古代アメリカ文明地図は、この所、急速に書きなおされつつある。
崖の上によじのぼってみると、枯草におおわれた大地のはずれに、潅木が密生した、小山のようなピラミッドがあった。――たしかに、それほど大きいものではない。地上に出ている部分の高さは、せいぜい六、七メートル、頂上に、棟飾りをつけた、高さ二メートルほどの、小さな石の神殿がのっている。傾角六十度以上の急な傾斜の階段や、神殿の上の大きな石の棟飾りは、ちょっとパレンケ様式を思わせたが、よくみると、かなりちがう。棟飾りの上縁は半円形をしており、神殿の様式も、一種独特のものだった。
それ以上に奇妙な事は、このピラミッドが、地上部分より、地下部分の方が大きい事だった。地上部分六、七メートルに対して、地下構造の石の壁が露出している下のテラスまでは、十メートルはある。そして、さっきのぞいた所では、こわれた石の壁の内部に、まだ地下深くへ通ずる階段があった。――第一、こんな崖っぷちぎりぎりにピラミッドを築くのも妙な趣味だ。死者はよほど見はらしのいい所が好きだったのだろうか?
下の方では、腹にひびくようなエンジンのひびきが轟《とどろ》きはじめ、その間をぬって、マイケルの甲高《かんだか》い声がきこえて来た。――崖のはしから、テラスへおりて行くと、巨人の腕のような作業アームをのばした土木機械が、一つ数百キロはありそうな石材を、石の壁からとりはずしはじめていた。コンバーター貨物機《カーゴ》は、主翼の仰角を九十度にして、四つのエンジンをふかしはじめ、テラスのはしから舞い上った。給油のため、リオバンバかアリカへむかうのだろう。
「やあ、ハッサン!」ぼくは、プラチナ・ブロンドの、見上げるばかりの巨漢を見つけて、まわりの土木機械や、ヘリの騒音に負けないように大声をあげた。「どうした?――今日は海の底じゃなくて、山の上かい?――陸《おか》に上った河童ってとこだな……」
二メートル六センチもあるハッサン・アル・カハムは、小山のような肩ごしにふりかえると、うすい灰色の眼をしかめて、
「うるせえ……」
とうなった。――彼は直径二・五メートル、長さ八メートルほどの、黄色にぬられた金属性の円筒を前に、腕組みして、しきりに考えていた。――円筒は、グラス・ファイバーをコイルに巻き、FRP(ガラス繊維強化プラスチック)と重層構造にしたもので、一端がハッチになり、あちこちにパイプや、吊上げ環がくっついている。
「大洋底実験室《オセアノ・ラボ》を持ってくる事はなかったな――」とハッサンは、きらきら光る金色の毛がもじゃもじゃはえた太い腕を組んで、うめくように言った。「こいつは、四千メートルの大洋底で作業できるようになっているんだ。――海抜二千五百メートルでつかうには、勿体なさすぎらあ……鶏を裂くのに牛刀をふるうどころじゃない。ノミ一匹つぶすのに二千トンハンマーをつかうようなもんだ」
「知らないよ。こっちはマイケルの要求通りのリストを送っただけなんだからな……」とぼくは肩をすくめた。
「それにしたって、こいつを何に使うのかぐらい聞いとくべきだろうが……」とハッサンは、頭をぼりぼり掻きながら舌打ちした。「ええ畜生!――シートを二つ三つ、はずさなきゃならねえ。内法《うちのり》がどうしても不足だ……」
「いったい何に使うんだい?」
「知らないのか?」ハッサンは、じろりとぼくをねめつけた。「|お棺《ヽヽ》をはこぶんだ……」
「お棺?」ぼくはおどろいて聞きかえした。「こいつを霊柩車がわりにするのかい?」
「そうじゃねえよ……」とハッサンは唇を歪めた。「どんな霊柩車だって、十六トンもある石棺をのっけたら、スプリングがいかれちまわあ」
ハッサンが、熊がうなるような声をのどの奥であげて、いきなり傍《そば》にあったレンチとドライバーをつかんだ。それを見て、ぼくは思わずあとずさりした。――殴られると思ったからではない。大洋底実験室《オセアノ・ラボ》のシートをはずすのを手つだわされると思ったからだ。
「ハッサン!――バンボ!……」その時さいわいにも、テントの方から生化学者のアブドルが、大声でよんだ。「来てくれ!――マイケルが会議をやるそうだ」
テラスの一隅にある大型テントは、もともとマイケルたちの資源調査チームのものだった。――だが、今は、リモートセンシングの機械や、地震探鉱の装置は片隅にかたづけられ、まん中に大きなテーブルがおかれて、まわりに調査チームのメンバーや、本社と研究所からよびよせられた連中がすわっていた。
「説明してもらおうじゃないか、マイケル!」と、鬚《ひげ》もじゃの動物医テッド・タカハシが口を切った。「おれたちは、なぜよびだされたんだ? 何をすりゃいいんだ?――ミイラがどうこうと言っていたが、おれにミイラを生きかえらせろっていうなら、ちょっと自信がないぜ。イルカの子宮外妊娠や、クジラの心臓弁膜症ならなおした経験があるがね」
「待ってくれ」と、マイケルは手をひろげた。「今から説明するから……」
三十八歳にもなって、マイケルは相変わらず少年のように華奢《きやしや》だった。――浅黒い肌、黒い長髪、黒い眼、小兵《こひよう》だがしなやかな体つきの彼はテーブルの一端で立ち上がった。
「バンボがまだ説明してないと思うが、最初から断っておく。――これは資源調査とは関係ない。若干放射性鉱物の存在と関係はあるかも知れないが、あまり問題にはならん。言ってみりゃあ、純粋にぼくの道楽といっていい仕事だ」
「いいよ、マイケル――またあんたのボーナス≠つかおうというんだな」非破壊調査の専門家、リン・ホータンが、漆黒の顔をにやっとほころばせながら言った。「どっちにしたって、あんたにゃその権利がある。おれたちにしたら、同じ事だ。つづけてくれ」
「ありがとう、リン……」マイケルは、ポロシャツの胸から細巻葉巻《シガリロ》を一本つまみ出してくわえた。「道楽にゃちがいないが、ひょっとすると、考古学的、あるいは科学的大発見につながるかも知れん……」
「あのミイラがか?」とリンがきいた。「それとも、あのちっぽけなピラミッドがかい?」
「どっちもだ……」マイケルは細巻葉巻《シガリロ》に火をつけながら言った。「まず、これを見てほしい」
マイケルは、テーブルの上においたヴィデオカセットのボタンを押した。――テレビプロジェクターの百インチスクリーンに、画像がうつりはじめた。テラスの傍の崖を小型のパワーシャベルがほりくずしており、ピラミッドの地下墓室の石壁があらわれ、人夫が二、三人で、積石をはずしている。
作業記録をマイクロビデオで撮るやり方も、マイケルがはじめた事だった。
「石壁のすぐ内側に、一号棺があった。――これは、人夫が、パワーシャベルでこわしてしまった……」とマイケルが説明した。
大きな石があって、がっちり両側の石とかんでおり、鶴嘴《つるはし》で動かないので、人夫頭らしい男が、手をふった。パワーシャベルが、穴の内側につっこまれ、何回も打撃をあたえて、少しぐらつき出した。今度はシャベルが外側から内側へむかって打撃をあたえると、その石は、内部へむかってくずれおちた。――音声は消してあるので、打撃の音はきこえない。
早送り信号がはいっていると見えて、画像はスキップする。
今度は、墓室内部の映像になって、長さ四メートル、幅一・五メートル、高さ一メートルほどの、びっしりと奇妙な浮き彫りをほどこされた石棺がうつった。石棺の上に、あの大きな石がおち、厚さ十五センチもありそうな石の蓋がわれている。――人夫が、おちた石材をのけ、梃子《てこ》をつかって三つにわれた石棺の蓋をとりのぞく。ライトとカメラが内部をのぞきこむと、内部にぼろぼろに朽ちた、灰色の衣装をつけた一体のミイラがあった。硬玉製や金属製の副葬品がぎっしりつまっており、石棺内部は、朱か何かで塗られている。カメラは、ミイラの上半身をクローズアップした。――肉と皮膚は、灰色がかった茶色の雁皮紙《がんぴし》のような感じになっており、唇はぼろぼろにくずれ、むき出しになった歯の間から、金色をした金属の鎖のようなものがぶらさがっている。ミイラは、ほとんど骨になった指を、胸の所でくみあわせていた。
「なかなか保存がいいな……」と、考古学者のイワン・ウォロシーロフがつぶやいた。「ちょっと珍しい所もある――現物をよく見ないとわからんが……」
「だけど、こんなのは、メキシコ・シティでもリマでも、博物館へ行けば|ごまん《ヽヽヽ》とあるぜ」と、リンがいった。「こんなものを見るために、おれたちがよびよせられたのかい?」
「次は二号棺だ……」マイケルは硬い声で言った。「二号棺をあける所を、よく見ておいてくれ……」
画面はまたスキップして、ならんでいるもう一つの棺をうつし出した。サイズはほとんど同じか、少し大きいくらい、一号棺とちがう所は、上蓋と本体四方の浮き彫りが精巧で繊細であり、所々に、翡翠《ひすい》やトルコ石で象嵌《ぞうがん》がしてある事だった。――上蓋には、両掌を前にむけて肩の所にあげた、女性の浮き彫りがあり、そのまわりを唐草にちかいが、もっと奇怪なうねりをもった文様がとりまいていた。棺の横には、中南米の宗教的彫刻にひろく見られる様式化されたジャガーらしい、怪獣が口を開いている。
金梃子《かなてこ》が何本も棺の上蓋と本体との間にさしこまれてこじられる。蓋と本体の間には、漆喰《しつくい》か何かがつまっているらしく、ぼろぼろ白い粉末がおちる。たがねで隙間《すきま》をたたいているものもいる。――人夫頭らしいものが何か叫び、三、四人が、蓋の一方に金梃子の先をつっこみ、力をこめて、ゆすり、こじた。
ライトとカメラは、蓋の、ちょうど中の死体の頭部があるあたりに集中していた。
「ほら、ここだ……」マイケルが、ちょっとかすれた声で言った。「この場面をよく……」
蓋がぐいっと横にずれて、カメラは棺の内部をうつし出した。
「おおっ!」
と、驚きの声を出したのはハッサンだった。
「あれは……何だ?」
と、テッド・タカハシも体をうかした。
テントの中では、突然、がやがやとさわがしい私語が湧き起った。――今のは何だ? いったいどうしたんだ?――何があったんだ? おれは見なかったぞ、おしえてくれ……。
画面の中でも、一種の混乱がまきおこっていた。――人夫の一人は、金梃子をほうり出して、石壁の穴の方へすっ飛んで逃げた。残った人夫二人も、おそろしげに後ずさりし、もう一人の人夫は、棺の中を指さして、人夫頭と何かはげしくわめきあっていた。人夫頭は、やがて画面の外へむかって叫び、マイケルともう一人の技師がかけつけて来た。マイケルは、報告をうけると、棺内のミイラに顔をちかづけ、ちょっと、その頭部に手をふれ、突然ふりかえって手をふりまわすと、人夫を叱咤《しつた》して、棺の蓋を元通りにさせた……。
「もう一度見せてくれ! マイケル……」と、テッドが叫んだ。「棺の蓋をあける所だ。――どうも信じられん……」
マイケルはだまって|捲きもどし《リワインド》のボタンを押した。――画面が流れ、また、棺の蓋をこじている三、四本の金梃子がうつった。蓋が、一、二度ぐらついて、ずずっと横にずれた。翡翠とトルコ玉をはりあわせた、マヤ風の仮面《マスク》をつけた、どうやら若い女らしい死体《ヽヽ》があらわれた。死体《ヽヽ》は胸の所で、両腕を交叉させていた。蓋が横にずれた一瞬、その死体は、金剛インコやオオバシの羽毛や、美しい布ではぎあわせた、極彩色の衣装をつけているのが見えた、しかも、その胸の上で交叉された宝石と金でできた腕輪をいくつもはめた二本の腕は、白い、肉付きのいい、|生けるが如き《ヽヽヽヽヽヽ》、みずみずしさを保っていた。――が、そう見えたのは、ほんの一瞬の事だった。金剛インコやオオバシの極彩色の羽毛は、みるみる色あせて、そりかえりながら、ぼろぼろの破片となってまわりに落ち、美しい染色の布は、パターンだけ残して汚らしい灰色の斑紋のあるぼろぎれにかわり、棺内壁の眼も鮮やかな鮮紅色も、すうっと背後に溶けこむように褪色《たいしよく》して、黄土がかった冴えない朱にかわり、そして――白いみずみずしい腕は、みるみるひからび、しわだらけになり、あまつさえ、乾いた泥土のようになって一部はげおちて、骨の形が露出した。ミイラの体全体が、ふうっとふくらみを失って、平たくなったように見えた。
すべてはまったく一瞬のでき事だった。……青、赤、緑、黒、白の、鮮やかな色彩がぼくたちの眼を射て、それが灰褐色を基調にした、汚らしいものに変わってしまうまで、せいぜい二秒|乃至《ないし》三秒しかかかっていないだろう。
テントの中では私語は全く影をひそめ、息づまるような沈黙が数秒間つづいた。
やがて、ふうっと、ハッサンの大きな溜息が聞こえると、それを合図のように、またがやがやという喧騒がまき起こった。
「どうだと言うんだ?」とテッドが吼《ほ》えるように言った。「あの石棺の中にいたのは、ドラキュラの花嫁≠セってわけか?」
「みんな待ってくれ!」と、イワン・ウォロシーロフが大声で叫んだ。「別にそれほど驚く事じゃない。――今みたいな事は、考古学の方じゃ、よくある事なんだ。それほどさわぐ事じゃない。古い、密閉された墳墓や棺の中では、有機物の酸化がある程度まで進むと、酸欠状態になって、あと窒素などの不活性ガスが大部分になる。そうすると、内部の死体や有機物、金属のそれ以上の分解や腐蝕がとまって、何千年も見た目に新鮮のまま保存される。墓や石棺の中は低温で、光がささないから、色素分解などもある所でとまってしまい、ましてある程度の防腐措置がとられていたら、嫌気性バクテリアさえ繁殖できなくなる。北イタリアのタルクイニアで、先住民エトルリア族の墳墓が見つかった時など、発見者は、玄室をあけたとたん、すべてがたった今葬られたように、色鮮やかで輝いていたのに、見ている前で、夢のように朽ち果ててしまった、という話だ。――おれ自身は、吸血鬼が、何百年も生けるが如く柩《ひつぎ》の中で眠りつづけ、日光に当たるとぼろぼろに分解して骨になる、という伝説も、ひょっとしたら昔の人間が、古い墓の中の柩をあけた時に、実際に目撃した事からでき上った伝説じゃないかと思うんだ……」
「その事なら、ぼくも知っている……」ぼくは、ショックのあまり、口がこわばっているのを感じながら、やっとしわがれた声で言った。「ただ――マイケル……すまないが、もう一度見せてくれないか? 棺のあいた瞬間だけでいい……」
「君も気がついたか、バンボ……」
マイケルはいやに静かな声で言った。――彼の手もとで、テープの捲きもどし音が、かすかにつづいていた。
「じゃ、いいか。もう一度みんなに見てもらう。――今度は、あの翡翠のマスクの所だけ、注意して見ていてくれ」
スクリーンに、また、ぐらつきはじめた蓋のアップがうつった。――蓋が横にずれる。緑色の石片をつなぎあわせたマスク、極彩色の衣装、その上にくみあわされた白い腕があらわれ、それが一瞬に色あせ、朽ちて行く……。
「おい!」とリンの切迫した声がした。「今のを……見たか?」
「何だ?」
「とめてくれ! マイケル……」とハッサンがどなった。「今の所を、ストップモーションで出せないか?」
マイケルの指が、またヴィデオコーダーの上を動いた。――短い捲きもどしが終り、カチッ、と別のボタンが押される音がした。映像はまた蓋のアップからうつり出した。しかし、今度は一画像コンマ五秒ぐらいのゆっくりした送りスピードで、スライドの連続写真を見るように、ぎくしゃくしたコマ落し映像がつづく。蓋が、ゆっくり横にずれて行き、緑色のマスクと、赤青の衣装があらわれ、それを一瞬、ギラリと撮影ライトが照らし……。
「ストップ!」ぼくは叫んだ。「今の所でストップだ、マイケル……いや、画像を五、六枚もどして、今度は一枚一秒ぐらいでやってくれ……」
「バンボ……まさか……」とテッド・タカハシが上ずった声で言った。「ちがう!――あれは、マスクの|眼の穴《ヽヽヽ》のふちにライトがあたって、ハレーションか何かを起こしてるんだ」
「ちがうぞ……」と、リンがテーブルをがん、とたたいた。「たしかに見えた。――みんなも、見たろう? え? どうなんだ?」
「待てよ……」とイワンも、ひきつったような声で割ってはいった。「ああ言う死骸にかぶせるマスクはだな……マヤの場合なんかもいくつも例があるが、眼にあたる所はくりぬいて、マスクと別の材料――貝と黒曜石なんかでつくった、白眼と黒眼をはめこむものなんだ。それが、棺があいたとたん、気圧が急激に動いたり……あるいは仮面の下の死体の顔面が一瞬に朽ちたため、仮面の内側におちこんだ。――ギリシャのブロンズ像を見てもわかる通り、つくりものの眼玉ってのは、おちこみやすいんだ。それも内側《ヽヽ》へ……」
「マスクの下はどうだった?」とアブドルが、持ち前の静かな声できいた。「君はのぞいてたな?――イワンの言ったように、つくりものの眼球がミイラの顔の上におちていたか?」
「ピート!」捲きもどしをしながら、マイケルは傍の助手をふりかえった。「編集しなおしたテープを出してくれ――。みんな、もう一度別のテープを見てほしい。あのマスクの、眼の部分だけを、別のテープにアップでとって見た。画質はむろんよくないが……」
テープがかけられた。――マザーテープから拡大しているので画質はたしかによくなかったが、今度はスクリーン一ぱいに、仮面の眼の部分がうつっていた。送り速度は一コマ一秒ぐらいで、今度はコマおとしという感じではなく、スライドの連続撮影のようだった。
棺の蓋の、うねのような浮き彫りの文様が、一コマずつ横へずれて行く。――棺の内部に光がさし、翡翠の剥片《はくへん》の緑があざやかに画面一ぱいに光る。と……上半分の、まだ、黒い影にはいっている部分に、何か白く光り、動くものが二つならんでいる。さらに三コマ、四コマおくられるうちに、影は上へ消えて行き、仮面の眼の所に光があたった。
テーブルのまわりに、声のないどよめきが起った。
仮面の眼にあたる部分にあいている二つの紡錘形の穴の奥に、おどろいたように見開かれた、美しいブルーの瞳があった。瞳はいきなり当てられた強い光を避けるように動き、長い、栗色の睫毛《まつげ》のはえた瞼がおりて来て、瞳をかくした。瞼の上の皮膚を染めた濃い青の顔料もはっきり見えた。――瞼はもう一度上って行き、今度は悲鳴をあげるように大きく見開かれ、あらわれた瞳は、上方にむかって釣り上るとともに、二つの穴の奥の暗がりの中にすうっと消えて行き、あとには黒々としたうつろな眼の形の穴が二つ、緑色の石の表面に残っているだけだった。
画像はとまった。――短い沈黙のあと、テッドとアブドルが同時に発言した。
「最初に瞳孔に光があたった所を、もう一度見せてくれんか?」
「仮面の下の映像はあるかね?」
マイケルが、二つの要求を同時に処理してのけた。――テッドのためには、テープを逆送りし、アブドルの前には、一葉のカラー写真を投げ出したのである。
アブドルは、その写真を一瞥すると、隣りのぼくにまわしてよこした。
写真では、緑色の仮面を誰かの手で持ち上げ、その下にある、乾からびた、ほとんど髑髏《どくろ》にひとしいミイラの頭部がうつっていた。茶色っぽい、雁皮紙みたいになった皮膚は、しわだらけになって、顔面にはりつき、ぽっかりと落ちこんだ眼窩《がんか》の底には、イワンのいった「つくりものの眼玉」もなければ、驚きをこめて不意にさしこんだ光を見上げた、青い、美しい瞳もない。――頭髪が若干のこっていたが、どうやら金髪らしかった。
「おい、見たか……」テッドが誰にともなくうなった。「はっきり瞳孔反射《ヽヽヽヽ》がある……。ということは、棺の中のミイラは、すくなくとも蓋を開けた瞬間は、|生きていたんだ《ヽヽヽヽヽヽヽ》……」
「どのくらい前のものかわかるかね?」とハッサンが、いやにか細い声できいた。
「放射性炭素年代測定《カーボン・デイテイング》をやってみんとはっきりした事は言えんが様式だけから見れば、マヤ古典後期という所だろうな……」とイワンも元気のない陰気な声でつぶやいた。「ざっと千年から千二百年前だ……」
「かわいそうなお姫さま……」とリンがぽつりと言った。「|眠れる 美女《スリーピング・ビユーテイ》は、千年眠って……王子さまの接吻じゃなくて、バーディ開発の資源調査チームにのぞかれて、灰になっちまったか」
「さて諸君……」ヴィデオのスイッチを、音高く切ると、マイケルはテーブルの上に両手をついて、ぐっと体を前に乗り出した。「まだもう一つ、|三番目の石棺《ヽヽヽヽヽヽ》が残っている。これはまだ、手つかずで、三つの棺のうち、最大だ。――もっとも豪華で、この墳墓の本当の主……王か、有力な魔法使いのものらしい。そこで、諸君の知恵と力を借りたいのだが……」
「オーライ……」リン・ホータンは、まっ黒な顔に緊張をみなぎらせながら助手に言った。「もうちょっとだ……。もう少しゆっくりまわせ……。オーライ……あと五センチ――いや四センチだ……」
最後にたった一つ「手つかずに」残された三号棺――これは長さ六メートル、幅一・八メートルもあった――の横っ腹に、直径二十センチほどの特殊鋼製半球型のカップが接着剤でとりつけられ、棺壁との隙間は即乾性のパテで、完全に気密を保つようにぬりつぶされている。――カップの中央部には、気密ベアリングがあって、それを介して、ダイヤモンド刃《バイト》を尖端につけた、細いドリルがまわっている。カップには、ほかのいくつかの小さなバルブや、計測器のターミナルがとりつけてあり、カップ内部の空気はぬいてあった。
「切り屑がだいぶたまったようですよ」と、ドリルを操作している助手がいった。「いったん、カップをはずして、捨てますか?」
「大丈夫だろう……」と、リンは黒い顔にしたたる汗をぬぐいながらつぶやいた。「あとほんの二、三センチだ。慎重に行こう。――回転数をもう三分の二におとせ……」
リンのかけているイヤホォーンのコードは、傍のメーターのたくさんついた箱につながり、箱から何本もの電線がのびて、その端末には小さなピックアップがついていて、棺のあちこちに、プラスチック・パテではりつけてあった。――非破壊検査の専門家リン・ホータンは、そうやって、棺の内部の空気を「外気」に触れさせないように、細い細い穴を一つ、あけようとしているのだった。
前にも言ったように、アンデス東斜面――何もここばかりとは限らないが、――で古代のミイラが見つかるのは、珍しい事ではなかった。しかし、その「発見状況」が珍しい、といったのは、こういった事だった。ミイラが発見されても、それは大抵、荒っぽい工事人夫か、副葬品目当ての墓泥棒か、でなければ、少人数で、予算ぎりぎりの装備と期間で山野を苦労して歩きまわる考古学者たちによるものだった。
だが、今度見つけたのは、名にし負うバーディ開発のキング<Iコーナーだった。科学、技術のあらゆる事に精通したオールラウンダーで、その上、はじけるような好奇心の塊《かたま》りだ。電話一本で、エクアドルから、テキサスから、フロリダから、重装備の一級|専門家《スペシヤリスト》を六時間以内によびよせ、知恵をしぼり、金に糸目をつけずに、この奇怪なミイラを、棺にはいったまま、「最良の保存状態」のまま調査できるのである。――ぼくはあんまりよく知らないが、考古学の専門家イワン・ウォロシーロフに言わせても、「稀有《けう》の好運な発見状態」という事になる。
ぼくは、FNCB(ファースト・ナショナル・シティ・バンク)の、本社大金庫を破ろうとしているように、慎重に石棺に細孔をあけているリン・ホータンをあとにして、ひんやりとかび臭い玄室の側壁の穴から外へ出た。太陽はもうだいぶ傾き、アマゾン大|草原《パンパ》を、朱金色に燃え上らせている。黄色い巨大なシリンダー――大洋底実験室《オセアノ・ラボ》の中で、ハッサンは檻の中の熊のように行ったり来たりしながら、やっと三つ目のシートをはずし、外へほうり出した所だった。テントの中では、二号棺の中から持ち出した「|眠れる 美女《スリーピング・ビユーテイ》」のミイラをはさんで、テッドとアブドルが、何か大声でわめきあっている。温厚なアブドルが、珍しく興奮して、地声のでかいテッド・タカハシ医師に負けない声でまくしたてていた。イワン・ウォロシーロフは、通信装置を独占しっぱなしで、メキシコ・シティとキトーの博物館とボストンの大学と、ヴィデオフォンで四元通話をやりながら、テレファックスで無数の写真や資料を送ったり送られたりしつづけていた。
「やあ……バンボ……」
声をかけられてふりかえると、マイケルがテラスの端の方で、ほうり出された機械の箱に腰をかけて、細巻葉巻《シガリロ》を吸っていた。峯の下から吹き上げてくる微風が、彼の黒い長髪をなびかせ、ひげのない、若々しい青年のような顔をあらわにしていた。――中国人、というより、モンゴロイドの中には、いくつになってもふけこまないで青年のようなままでいるタイプがかなりいる。
「マイケル・マシン≠ヘ順調に動き出したみたいだな……」ぼくはテントの方に顎をしゃくりながら言った。「それにしても、どえらい発見になりそうだな。考古学界や医学界や……いや科学界全部がひっくりかえるかも知れないぜ。そうなったら、バーディ開発にとっても大変なパブリシティ効果があるってもんだ。またボーナスものだな――。だが、君は、本当にあの棺の中で、千年から千二百年前の王だか魔法使いだかが、|生きている《ヽヽヽヽヽ》と思うかい?」
「君はどう思う?」マイケルは赤い太陽に顔を染めながら、妙に沈んだ声で言った。「おれは――何だかいやあな気持ちになって来た……」
「どうして……」ぼくはマイケルからちょっとはなれた所にほうり出してある黄色くぬった木箱の上に腰をおろしながらききかえした。「さっきまで、おそろしくはり切ってたのに……」
「だが、もし、あの棺の主が|生きている《ヽヽヽヽヽ》としたら……考えてみろよ。おれたちの科学、おれたちの文明とその歴史、おれたちのものの考え方の基礎が、何かこう……全面的におかしくなっちまうんじゃないかって気がして……」
「それもしかたがないだろう」とぼくは、足もとの石をひろって、崖の下へ投げながらつぶやいた。「科学にしたって、文明にしたって、そういう事態には、何回も遭遇して来たんじゃないかな……。非ユークリッド幾何学の発見にしたって、集合論にしたって、相対性理論や量子論にしたって……。いわゆる超常現象や、超能力と言われているものの中に、これから先、何が見つかるか、わかったもんじゃない……。それに――まだ、それほど大さわぎする段階じゃないだろう。あの棺の主が、生きてるときまったわけじゃないんだ。|眠れる 美女《スリーピング・ビユーテイ》≠フあの奇蹟だって、よくしらべれば、われわれの知っているメカニズムで、あの|からくり《ヽヽヽヽ》がわかるかも知れん」
「そいつはいささか楽観的じゃないかな――もしそうならまだ気が楽だがね……」マイケルは茜色《あかねいろ》に染まりはじめた空へむけて、煙草の煙を吹き上げた。「ぼくは、もう少し、|いやな予感《ヽヽヽヽヽ》がしているんだ。――少くとも、これまで世界中で発見された、何万体というミイラについて、根本的に考え方を変えなければならなくなるかも知れないってね……。君の国ではどうだ? ミイラはあるか?」
「東北地方に、古いものは平安末、あとは近世のものがいくつかあると聞いたが、あまり数は多くないな。――日本は湿気の多い国だからな」
太陽は、真紅に燃え上りながら、はるか彼方、アマゾン大|草原《パンパ》に沈もうとしていた。――そのあまりの壮麗さに、ぼくたちの会話はふと途絶えた。見上げると、朱金から群青に色をかえつつある中天に、二羽のコンドルがその巨大な翼をのべて悠々と舞い、ふりかえれば、はや濃藍に染まりつつあるアンデスの峯々の上空に、きらりと宵の明星が光っていた。
「煙草、くれないか?」
と、赤い夕日に顔をむけたまま、ぼくはぽつりと言った。
「いやだ……」
とマイケルは、ちらとぼくの方を横眼で見て、|にべ《ヽヽ》もなく言った。
「なんだ……。生きてるミイラのショックで、急に|けち《ヽヽ》になったのか?」
「そうじゃないが、まだ命は惜しいからな……」とマイケルは言った。「君の腰かけてる箱を見ろよ。――中身はダイナマイトだぜ……」
ぎょっとして、すわったまま体を硬くしていると、眼の隅で、リン・ホータンが疲れ切った身ぶりで、壁の穴から出て来るのが見えた。
「終わったよ……」とリンは、ぼくたちの背後に立って言った。「穴があいた。――内張りの石と金属の張りあわせたものが難物で、ドリルを二本、折っちまったが……」
「で?……」とマイケルは夕陽に顔をむけたままきいた。
「内部の気圧は〇・四気圧だ……。ひょっとすると、あのミイラは、海抜四、五千メートルくらいの所で棺に密封されたのかも知れん」
「ボリビアのラパスよりまだ高い所でか?」とぼくはきいた。「そんな所から、ここまでどうやってはこんだと思う?」
「わからん。――今、ピートが、内部の気体組成の分析をやっているが、大部分……」
「|アルゴン《ヽヽヽヽ》か?」とマイケル。
「そうだ。――どうしてわかった?」
「二号棺の中にあった箱や、壷の中のガスをしらべたらそうだった。――アルゴンの比重は炭酸ガスよりは軽いが、空気よりは重いから……」
「くわしい事はまだわからんがピートが自動ガス分析機でざっとしらべた所、内部気体の九〇パーセントがアルゴンだ……」リンは吐息をつくように言った。「のこりのうち、四パーセントが窒素、炭酸ガスとヘリウムが約一パーセント……酸素は五パーセント弱しかない」
「古代インディオは、腐敗防止に、アルゴンガスの注入をやったのかね?」とぼく。
「ところで……」とリンは咳《せき》ばらいした。「中のミイラ……いや、死体――でもないのか。とにかく、棺の主は、|生きている《ヽヽヽヽヽ》徴候がある。おれのピックアップに、ごく微弱だが、鼓動らしいものが聞えてくる。……一分間二十ぐらいだ。だが、休みなく聞えてくる。で――これからどうする? テッドに見てもらうか?」
マイケルは、地平線に沈んで行く落日を愁わしげに眉をひそめて見つめたまま、返事をしなかった。――夕映えに赤く染め上げられたその顔には、いつものマイケルらしからぬ、何とも言えぬ混乱と動揺があらわれていた。
フロリダ半島北部東岸のデイトナビーチ――その海に面した郊外に、バーディ開発INCの総合研究所がある。面積五百ヘクタールの敷地内には、ザトウクジラを飼っている大プールや、小型の造船所、ドック、飛行場、観測衛星打ち上げ用のロケット発射場まであるのだ。
その敷地内の、海岸べりにある海洋生物研究所前のヘリポートに、四発のコンバーター貨物機《カーゴ》は、あえぎあえぎ降下した。――いくら有効積載量《ペイロード》二十二トンをほこるビーチクラフト404TWCCでも、アルゴン・窒素・酸素の混合気体をコンマ四気圧でみたした大洋底実験室《オセアノ・ラボ》の中に、プラスチック・コートをかけた十六トンの石棺をスプリングでつったものを封じこめたままつみこんで、それも三千五百メートル滑走路があるのだからそちらへ降りればいいものを、マイケルが極度にショックに神経質になっていたため、地上温度二十七度、地上風速五ノットの状況で、無理矢理ヘリポートに垂直着陸《ヴイーエル》させられたのだから、上空からアエロマッキの高速ヘリで見守っていたぼくたちも、さすがに手に汗をにぎった。|傾 斜 翼《テイルト・ウイング》がおっかなびっくりといった形で九十度に傾きはじめ、四基のGET600のターボプロップエンジンが、一基あたり六千馬力の最大軸馬力で吼えはじめても、何となくよたよたした感じで、一基でもエンストを起こしたら、すべての苦心は水の泡だと思って、はらはらしながら見守っていた。――やっと着陸は終ったものの、あとから聞くと、果して右端の一基のエンジンは、無理をかけすぎて、オーバーヒートでおしゃかになってしまったとかで、パイロットがもうこんな仕事はいやだ、と辞表を書くさわぎだった。何しろ海抜二千メートルの断崖上のテラスから重量物をつんで離陸するという、文字通りの「離れ技」をやってのけ、そのまま三千六百キロを一気にとんで、こんな無茶をさせられたのだから、無理もない所だった。
棺は、大洋底実験室《オセアノ・ラボ》ごと、トレーラーで、海洋生物研究所の、特別手術室へはこびこまれた。――特別手術室は、手術室と言うより格納庫と言った方がいいような建物で、天井高七メートル、幅十五メートル、長さ五十メートルの無柱空間の中央に、長さ三十メートルのせり上げ式大手術台がある。何しろこの特別手術室をつくった、初代研究所長J・ホッホマイヤー博士は、鯨類学者《シトロジスト》で、この手術台は、シロナガスクジラの手術をするという、博士の夢のために設けられたものだった。事実、博士の弟子のテッドが、ミンククジラの心臓弁膜症――もっとも、それは研究所附属のプールでうまれたばかりの赤ん坊クジラだったが――の手術に成功したのもこの部屋であり、二十四歳になるポーキイ≠ニいう名の、どでかいシャチの脳血栓の手術に失敗したのもこの部屋だった。
もっとも、三十メートルの大手術台は、七年前、サンサルバドル海岸に漂着した、巨大な海棲|爬虫《はちゆう》類の腐乱死体をしらべ、ついに大西洋における、ジュラ紀前期に栄えた、巨大な頚竜プレシオサウルスの末裔《まつえい》の生存を立証した歴史的な解剖以来、つかわれる事なく、床面におさめられていた。――そして、今度の場合もこの大手術台は使われる事なく、そのかわり、大洋底実験室《オセアノ・ラボ》からとり出された、長さ六メートル、幅一・八メートル、高さ一・二メートルの大石棺をおくための、長さ六・五メートル、幅二メートル、高さが床五十五センチから七十センチまでジャッキでかわる、特別の台が準備された。
その台の縦横の寸法きっちりに、頑丈な透明プラスチックのケースがかぶせられた。――ケースは、あちこちに作業用の穴がうがたれ、穴ごとに蓋がしてあった。いうまでもなくケース内部の気体組成と圧力は、あらためて測定しなおされた石棺内部のそれと同じに保たれていたのである。「さて……」とテッドは、ケースにおさまった三号石棺を見ながらもみ手をした。「これで歴史上はじめて、まったく|墓室におさめられた時のまま《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》の状態で、ミイラがしらべられるわけだな……」
「異議あり!」とリンが言った。「厳密に言えば、もうすでに、墓室におさめられた時のまま≠フ状態じゃなくなってるんだぜ。――おれがまず棺の横ッ腹に小さな穴をあけた。死者が静かに眠る柩は、ワイヤをかけられ、ウインチであの暗くしめっぽいピラミッドの下からひっぱり出された。コンバーター貨物機《カーゴ》につめこまれ、ゆられゆられて三千六百キロを旅して来た……」
「ボーアみたいに神経質な事をいうなよ」とハッサンは鼻を鳴らした。「そりゃたしかに、どんなに注意深くやっても、観察≠ヘ不可避的に状態の擾乱《じようらん》≠ひき起すさ。しかし、それも程度問題で、何も原子核の内部を観察しようというんじゃないんだから……」
「おれの専門の非破壊検査っていうのは、原則として、内部に生命系《ヽヽヽ》をふくまないからね……」とリンは肩をすくめた。「この石棺の壁を通して、内部の状態がわかるぐらいのガンマ線をかけたとして……中の生きているミイラ≠ェ、どうなっちゃうか、それは知らんぜ。超音波検査だってそうだ……」
「放射線なら、すでに中のミイラは、千二百年にわたって、|自 然 放 射 能《ナチユラル・バツクグラウンド》の平均値の、二百倍から三百倍ぐらいの放射線を浴びつづけているはずだ」とマイケルは言った。「君たちにも被曝《ひばく》線量バッジは一応渡しておいたはずだが、石棺の素材は、どれもかなり強い放射能をおびている。ピッチブレンド(瀝青ウラン鉱)か何かふくまれているかも知れん。――所で、中のミイラは、まだ生きていそうか? リン……」
「さっきもう一度はかったが、|鼓動らしいもの《ヽヽヽヽヽヽヽ》は、まだきこえている」とリンは、カップでふさがれたままの、彼が石棺に最初にあけた穴をふりかえった。「ただ気がかりな事は――どうも最初の時より、数がへっているようなんだ。一分間二十ぐらいあったのが、十六、七ぐらいにおちているみたいだ」
「これからどうするね?」とテッドが鬚をひっぱりながら聞いた。
「穴を開ける……」マイケルは眉間を指でもみながらつぶやいた。「内部と、棺の主の状態をしらべるために、いくつか穴をあけざるを得ないだろう。その前にもう一度みんなでよく討議してみよう。――リン、超音波検査で、棺の内部の形状と、棺の主が横たわっている状態をしらべてくれないか?」
「やってみよう……」とリンはうなずいた。「棺の形は簡単にわかるが、中の人間だかミイラは、すこし手間がかかりそうだな。どうせ副葬品がいっぱいつまっているだろうからな」
「もし、棺の主が、まだ本当に|生きている《ヽヽヽヽヽ》として……」とアブドルが陰気な声で言った。「おれたちがいじくりまわして死んでしまったら……そいつは殺人《ヽヽ》になるのかね?」
みんなは思わず顔を見あわせた。――だが、誰もその問いには返事をしなかった。
――妙な話だが……。
と、口ごもりながら報告した、テッドの困惑した表情が、ぼくの脳裡に奇妙に強くこびりついていた。
――|眠れる 美女《スリーピング・ビユーテイ》≠フ体は、……棺を開ける寸前《ヽヽ》まで、|生きていた《ヽヽヽヽヽ》とも言えるし、千年もしくはそれ以上前に、完全に|死んでいた《ヽヽヽヽヽ》とも言える……。
――どういう事だね?
と、もちろんマイケルは反問した。
――身体組織は、外皮をのこして、ほとんどがらんどうと言っていいぐらい分解が進んでいた。死後千年たっていると言ってもいいだろう。ヴィデオに残っていた、あのみずみずしい腕の皮膚は……表皮組織が低温の不活性ガスの中でよく保存されていて、それが、身体内部のガス圧でふくらんでいたんじゃないかと思うんだ……。
――で、蓋を開ける寸前まで|生きていた《ヽヽヽヽヽ》と言うのは?
――心臓はそれ自体が五分の一ぐらいに萎縮してしまっているが、その萎縮した組織のそのまたごく一部……左心室だけが、つい最近まで|生きていた《ヽヽヽヽヽ》形跡がある。
――つい最近、というのは、つまり蓋を開けた時までか?
――それがそうじゃないんだ……、とテッドは鬚をかきむしりながらうめいた。――あの時点から二週間乃至三週間ぐらい前まで……組織は分解しかけ、血液は凝固していたが、それでも……。
――という事は……|眠れる 美女《スリーピング・ビユーテイ》≠ヘ、棺を開ける|二週間ほど前に《ヽヽヽヽヽヽヽ》、心臓がとまった、というわけかい?
――ところが、そうでない部分もあるんだ。
と、テッドはうんざりしたように書類をほうり出した。
――左心室から出ている動脈の一本が、脳幹まで行っていて、この脳幹の組織は、あのテラスで見た時は、きわめて新しかった。脳のほかの組織は、完全にひからびて、まるで灰みたいになっていたのに……。
――問題を整理してみよう……。とマイケルはいらだたしげにテーブルをたたいた。――おれたちが棺をあけた時、|眠れる 美女《スリーピング・ビユーテイ》≠フ腕はともかく、|眼は生きていた《ヽヽヽヽヽヽヽ》。君がヴィデオをチェックして瞳孔反射がある≠ニみとめたくらいだからね。ところが、心臓の|ごく一部《ヽヽヽヽ》は、その二週間乃至三週間ぐらい前に|死んだ《ヽヽヽ》。そして、脳幹だけは、蓋を開ける寸前《ヽヽ》までは生きていた、というんだね?
――ただし……、と、テッドは口ごもった。――ただし、だ……。萎縮した左心室も、脳幹も、寸前まで|生きていた《ヽヽヽヽヽ》という徴候は、開棺直後の所見でわかった、というだけで、現在は、もうすっかり……分解がすすんじまっている。アルゴン九〇パーセントの、石棺内雰囲気≠フ中に保存しておいてもだ、もし、今ほかの組織学者に見せたら、二つとも、もう何年も前に生体反応をとめたもの、としか判定しようがないだろうな……。
――たしかに、人体というものは、心臓がとまったからといって、身体組織がその瞬間全部一せいに死≠むかえるというわけじゃない事ぐらい知っている……、とマイケルはたたみかけるように言った。――死んでからだって、髪の毛や爪は伸びる。心臓がとまって埋葬して、二週間もたって生きかえったやつがいる。脳死≠ェ検証されてからでさえ、三十時間ぐらいたって生きかえった例もある。しかしだな……身体組織は千年前《ヽヽヽ》に死に、左心室と動脈の一部は開棺の二週間前、眼と脳幹は、開棺直後《ヽヽヽヽ》まで生きていた、などというのは、すこし、支離滅裂すぎやしないか?
――そんな事言われたって、おれにはどうしようもないよ……。テッドはとうとう悲鳴をあげた。
――おれは、おれの|見たまま《ヽヽヽヽ》を報告しているんだ。このめちゃめちゃな事実《フアクト》の辻つまをあわそうとしたら、頭がおかしくなっちまう。おれはもう、この仕事をおりたいよ……。
「イワンからの連絡は、まだはいらないか?」
憔悴《しようすい》した顔のマイケルが、調査室にはいって来て言った。
「二時間前、メッセージがはいった……」ぼくは監視装置を見つめながらこたえた。「解読は一応順調に進んでいるそうだ。――それでも、レニングラードとの照会がもたついていて、あと四十八時間はかかるらしい」
「まだ、|生きているか《ヽヽヽヽヽヽ》?」と、マイケルは爪をかみながら、窓の方をむいて言った。
「一応ね……」ぼくはテレビモニターや、いろんな種類のディスプレイ端末を顎でしゃくって言った。「だが、脈搏《みやくはく》は、相変わらず乱れがひどい。いつまで持つかわからん……」
――|まだ《ヽヽ》、|生きているか《ヽヽヽヽヽヽ》……。
これは、この「M3」と名づけられた、特別調査チームの、あいさつのようなものになっていた。あのアンデス東斜面のピラミッドの地下から「三号棺」をデイトナビーチに持って来てから、すでに一週間たっていた。
「三号棺」の蓋をあけずに内部を観察するために、マイケルの指示にしたがって、棺の側壁にいくつもの、測定、観察機器をさしこむための穴があけられた。――棺の構造は、リンが音響測定によってわり出していた。幅約一・八メートル、長さ六メートル、高さ一・二メートルで、蓋の厚みが約二十センチ、棺本体は、石材の中央部を、幅八十センチ、長さ二・二メートル、深さ六十センチにくりぬき、空所の角は、十五センチぐらいのRでまるみをおびている。開口部が広く、底は縦横とも一割ぐらいすぼまっていたから、棺の主のはいっている空所は、いわばバスタブ型をしている事になる。
ピラミッドの中で棺は三つとも、ほぼ正南北におかれていた。――空所は、石材の正中央にうがたれているのではなく、足もとの方へずれていた。すなわち、頭のある側の内壁から外壁まで二メートル、足側のそれは一・八メートルである。どういう仕かけになっているのか、頭部側と足側の厚い棺壁の内部《ヽヽ》に、強い放射線源があり、それがもともと石材にふくまれていたものか、それともあとから埋めこまれたものかわからなかった。――放射線源は、どの棺にもあり、特に「従者の棺」とよばれた一号棺は、足もとの方から、相当強いガンマ線を出していた。もともと、あのテラス上でピラミッドを発見するきっかけになったのも、がけくずれの箇所の一部から出ているガンマ線を、マイケルの資源調査班の検出器がキャッチしたからだった。
厚みからいえば、上の石蓋に穴をあけるのが一番簡単だった。――それに、棺の主の「顔」の真上にあければ、たとえマスクをかぶっていても、顔の表情ぐらいはのぞきこめるだろう。
だが、なぜか――どう理由があるのか知らないが、マイケルが蓋に穴を開けるのに強く反対した。彼は棺を研究所に持ちこんでから、ひどくいらいらしていた。いくつかのやりとりがあったが、結局マイケルがこの作業のボスだったから、彼の言い分が通った。理由? 根拠?――そんなものはない。ただ……一種のカンだ……、とマイケルは言った。
で、厚さ五十センチの側壁に、慎重にいくつものほそい穴があけられた。研究所には、レーザー穿孔器があったから、穴をあけるのは楽だったが、最終段階は、内部の損傷を考えて、ドリルで仕上げられた。
足にちかい方の両側に一対、頭部と胸部にちかい所に二対、合計六個の「探査用」の穴があけられた。そこから測定用電極や、マニピュレーター、特別の内臓チェック用のテレビカメラなど、さまざまな装置がさしこまれた。もちろん、すべての作業は棺内の「雰囲気」を、ほとんど乱さないように配慮してだ。そして、専門家たちが慎重に内部の「人物」をしらべた結果……。
「諸君……」テッド・タカハシが紙のような顔色をして報告した。「あの棺の内部にいる人物は……|生きている《ヽヽヽヽヽ》!」
身長一メートル八十五センチもある、がっしりした壮年の男だった。――顔面に|眠れる 美女《スリーピング・ビユーテイ》≠ニ同じように、翡翠片をはりあわせたマスクをかぶり、金剛インコやオオバシの上衣のほかに、ジャガーの皮を腰に巻いている。腰の所に大きなエメラルドの原石をさげマスクの眼の所にも、エメラルドをうすく磨いたものがはめこまれていた。
偉大なる神官「三の猿」=\―それが棺の蓋に書かれた棺の主の名だった――は、その頭部に、黄金の薄板と硬玉でできた、奇妙なかぶりものをかぶっていた。顔の所には、ジャガーか蛇を様式化した、奇妙な動物の形がうち出されていた。――このかぶりもののために、棺の外から遠隔操作で脳波をピックアップするのに、テッドたちは大変な苦労をしたが、それでもラグビー選手のヘッドギアのように、あちこち大きな隙間があったので、何とか電極を頭にとりつける事ができた。
頭部と肩の間の隙間には、黄金製、青銅製、また翡翠《ひすい》、瑪瑙《めのう》、エメラルド、黒曜石、安山岩、陶器などでつくった副葬品がならべられていた。いくつかの木製の極彩色の器の中には、香料の球や、芳香と麻酔性の強いキノコを乾燥したものがはいっていた。副葬品は、そのほか足もとに少しあるだけで、全体としてそれほど多くなかった。――あとは、足首や腕にはめている装飾品と、耳輪ぐらいなものだ。
棺の内部は、どういうわけか、あつさ一センチの鉛と、その上にはられた金の薄板で内張りされていた。棺の石材そのものが二重になっており、内側のものは、おそろしく硬度の高い硬玉類を含んだエジル石(輝石岩の一種)で厚さ十センチほど、外側はふつうの安山岩だったが、内側と外側の間は、どうやったのかわからないが、まるで焼きばめたようにがっちり密着していた。
上蓋の内側には、ちょうど顔の真正面のあたりに直径二十センチほどの、黒曜石を磨いた円型の鏡がはめこまれていた(三の猿≠フおっさんは、よっぽどうぬぼれが強かったんだな――と、リンは言った。――真暗闇の中で、おまけに翡翠のマスクをかぶってかい? とピートはからかった)。鏡を中心にして古代マヤ文字がびっしり書かれていた。イワンは狂ったようにその文字を知りたがったが、何しろ解像力の悪いマイクロカメラでは、うまくうつらない。赤外線ランプで照射して、一字ずつヴィデオテープにおさめたが、結局数百字を採取できただけだった。それでもイワンは興奮して、蓋の上面と、棺の横に彫りこまれていた文字をうつしとり、ハーバード大学へすっとんで、解読をはじめた。――古代マヤ文字の解読は、最近はかなりすすんで来た。絵文字の表意的な解釈だけでなく、一文字あたりの表意、表音の二つの使い方が解けはじめた。しかし、文字は共通性が多いのに、その使われ方には、やたらに地方的な変化が多く、世界各地で分担して、「方言」の解読にあたっていた。
三の猿≠フ体は、おそろしくやせ細ってはいたが、内臓も、筋肉も、一応は「存在」していた。――ただ、奇妙な事に、組織の「老化」は、下半身にひどく、上半身に行くほどおくれているように見える事だった。下肢の筋肉は、大腿部にいたるまでほとんどミイラ化しており、足の部分などは、もう完全にぼろぼろになって、計測機がちょっとふれただけで、指の骨の二、三本はもげてしまったほどだった。
にもかかわらず、上半身《ヽヽヽ》はまだ生きていた。心臓は一分間に二十回から十七、八回という、正常人の三分の一以下の速度でゆっくり、弱々しく鼓動し、肺もどうやら一部だけが呼吸をやっているようだった。テッドの助手は、三の猿≠フ胸の上で組みあわされた指が、屍蝋《しろう》化している事を見つけた。屍蝋化は、肘関節まで及んでおり、そこから上は、経|帷子《かたびら》のようなものがおおっていて、組織片がとれないが、上膊はどうやらまだ筋肉組織が「生きて」いるらしい兆候があった。
上膊から上は……むろん「脳」は生きている兆候を示していた。――微弱なものだが、脳波をピックアップできたのだ。しかし、その脳波は異常なもので、正常人の脳波の中で、もっとも電位の小さい|α《アルフア》波のさらに数分の一、すなわち〇・三マイクロヴォルトぐらいの振幅でしかなかった。しかし、三分乃至五分に一度ぐらい数百マイクロヴォルトから、一ミリヴォルトちかい、強い棘波《スパイク》があらわれた。その一方、周波数は平均して、〇・三サイクル/秒ぐらいあり、これは正常人脳波の中で熟睡時にあらわれる、もっとも波長の長い|δ《デルタ》波の数倍から十倍近い波長だった。にもかかわらず、そのパターンを拡大してみると、不規則な波型は、明らかに|δ《デルタ》波に分類できるものであり、テッドはこれを「超δ波」と名づけた。
テッドも爆発寸前だが、もっとヒステリックになっているのは、日ごろおだやかなアブドルだった。――無理もない所もあって、生化学者のアブドルは、下半身がミイラ化し、上半身だけで、死せるが如く、眠るが如く生きつづける三の猿≠フ体内組織の中で、いったいどんな生化学的現象が起っているのか、アルゴン九〇パーセント、酸素わずか五パーセントの雰囲気の中で、しかも何も食べずに、水さえなく、|千年以上生きつづけている《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》生体組織は、いったいどんな新陳代謝をおこなっているのか、内臓や脳、筋肉の組織片をとって、どうしてもしらべてみたいのは無理のない所である。
だが、マイケルは、頑として、内臓に組織採取針をさしこむ事を許可しなかった。かろうじて、脚の皮膚組織だけしらべる事を許可したが、それはごまんとある既発見のミイラと同様、「ミイラ化」しているものにすぎなかった。
それでも、マイケルは、アブドルをテッドと組ましておいた。最初のうちはテッドが、「患者の直接検診」をやりたくて、わめきちらしていたが――まったくテッドときたら、一時はアルゴン九〇パーセント、〇・四気圧の「気密室」をつくってくれと言いはってきかなかった。彼が潜水服を着て、その中で「手術」をする、というのである――あとの方になると、アブドルのストレスの方が強くなったので、彼の方に気をつかっていた。いわば毒をもって毒を制す、というわけだ。
「出ないか?」とマイケルは、疲れ切った声で言った。「少しは外の空気を吸えよ。……つきっきりで監視もつかれるだろう」
「ピート……かわってくれるか?」ぼくはテレビカメラの遠隔操作のハンドルをまわしながら、ドアの外を通りかかったマイケルの助手に声をかけた。「マイクロテレビの照明がおかしい。光度がさがっているんだ――あとで、機材課の誰かに見てもらってくれ……」
「了解……」とピートは、ドアの所をはなれながら手をあげた。「ちょっと待ってくれ。――蝦《えび》の食いすぎで腹具合がおかしいんだ」
「放射性炭素年代測定《カーボン・デイテイング》の結果は出たか?」
ぼくはマイケルと肩をならべて特別手術棟の外へ出ながら聞いた。
「さっき出た――一号棺、二号棺とも、一一五〇年プラスマイナス一二五年だとさ……」
「マヤ古典後期か――イワンの推定にぴったりだな。みんなに知らせてやったか?」
「まだだ……」マイケルは気の無さそうな声で言った。「知らせた所で、どうにもならん――千年以上石棺の中で生きつづけている魔法使いの謎は、依然として謎のままだ……」
「あまり思いつめるなよ……」と、ぼくは彼の肩をたたいた。「棺の方をしらべているリンとハッサンは、ちょっと面白い事を見つけたぜ。――鉛と金の内張りに、小さな穴がいくつももとからあいてたのをしらべているうちに偶然発見したらしいんだが……あの棺の、二重の石材は、どうも空気中からアルゴンを選択的に内部へ濃縮する作用があるらしい」
「交換膜《ヽヽヽ》か……」マイケルはちょっと立ちどまってききかえした。「アルゴンのような不活性で原子量の大きな気体を……一体どのくらいのスピードで濃縮するんだ?」
「大変なものらしい――。大気中のアルゴンは、分圧にして一パーセント弱だが、そいつを棺内雰囲気の九〇パーセントまで濃縮するのに、計算によると二十日ぐらいしかかからないらしいぜ……」
「酸素や窒素は?」
「外へ追い出すが、アルゴンの濃縮速度にくらべればずっとゆっくりだ。――酸素、窒素、炭酸ガスとも、あの濃度あの気圧で棺壁のガス交換作用が平衡するみたいだ。ヘリウム濃度が高いのは、棺の前後にふくまれている放射性鉱物の出すアルファ線のためらしいというが……」
「妙なしかけを考えたものだな……」と、マイケルは遠い所を見つめるような眼付きをした。「千年以上も前に……あの二種の岩石のくみあわせが、そんな作用がある事を……」
「リンは、放射性鉱物も、その作用に一役買ってるんじゃないか、と言ってる」ぼくはまたぶらぶら歩き出しながら言った。「まだ、濃縮のメカニズムが、完全に解決されたわけじゃないが……」
「しかしまた|なぜ《ヽヽ》、アルゴンを濃縮する必要があるんだ?」マイケルは悩ましそうに言った。「組織保存のため、不活性気体を棺内に封入するなら、大気中に八〇パーセントちかくある窒素を使う方法を考えればよさそうなものを……」
「常温で窒素濃度をあげると、ある種のバクテリアが繁殖する可能性がある、とアブドルは言ってる。――人体にも、影響があるそうだ。気圧は低いし……」
「酸素分圧五パーセント……棺内気圧が〇・四気圧だから、海面高度になおせば二パーセントか……。そんなもので、よく……」
「大脳皮質は、もうへたばっちゃってるんじゃないかな……」と、ぼくはつぶやいた。「だが――|眠れる 美女《スリーピング・ビユーテイ》≠ンたいに、脳幹《ヽヽ》だけはその程度の酸素濃度で生きているのかも知れない。何しろ、六億年ぐらい前、生物がはじめて海中から陸上へ上りはじめたころの地球大気中の酸素濃度は二パーセントぐらいだったというからね……」
「だが、それにしても……」マイケルは、潮風に吹かれて乱れる長髪をおさえながら悩ましげにつぶやいた。「千年《ヽヽ》は長すぎる……。水も飲まずに……たとえ、自分の身体組織を、下肢や末端から、自己分解《ヽヽヽヽ》して栄養源にしつづけたにしても……千年《ヽヽ》は持たんだろう……」
二人は、いつか研究所構内の浜辺へ出ていた。――眼の前に青い大西洋がひろがり、波はおだやかに砂浜に弾けていた。日中吹きつづけていたつよい西風はおさまったが、乾燥したフロリダ全土のあちこちにひろがる砂浜から吹きとばした砂塵が水平線上にただよい、おりからの落日を、血のような不気味な色に染め上げていた。
「これからどうする?」
と、ぼくはきいた。――もうすでに、何回も発した質問だった。これまでは、マイケルは、バーディ開発INCの若き王《キング》≠ニして、すばやい決断でこたえてくれた。だが、その彼も、今は巨大な「壁」――、彼の経験した事の無いような、奇妙な「壁」にぶつかって、思いあぐねているようだった。
「あの三号棺の中の古典期マヤの偉大なる神官三の猿≠……これからどうあつかうつもりだ?――一応、ここまではしらべて来た。だが、これから先は……」
「お手上げだ……」とマイケルはぽつりと言った。「どうやら袋小路につっこんだみたいだ……。君はミイラというものをどう思う? バンボ・ニャムウェジ……」
「どうって――古代人の、宗教的な夢≠フ産物だろう? 最初は、みんなの敬愛する人物が、死んで醜怪な腐乱死体になったり不気味な骸骨になったりするのが、心情的に堪えがたい、というので、いろんな形の死体保存加工がはじまる。死者の肖像≠フかわりだ。それが大文明時代になると、親権王や貴族の死後の永生≠竅A終末ののちの復活≠フ時の容器として……」
「それが、まあ、合理的な解釈だろうな……」マイケルは、椰子《やし》の木にもたれて、細巻葉巻《シガリロ》をくわえ、今度はあっさりぼくにも一本くれた。「だけど――ああいう生きているミイラ≠見ると、そういった、ごく科学的で|安心できる解釈《ヽヽヽヽヽヽヽ》が、すべて、ぐらつき、ひっくりかえりそうな気がしないか?」
「ただ一つの例外《ヽヽ》でかい?」
「例外じゃないかも知れん……」とマイケルはつぶやいた。「あれこそ、|本来の《ヽヽヽ》ミイラかも知れん。――むしろ、後世の発掘者が野蛮だったにすぎないのかも知れないじゃないか……。ミイラというものの、|本来の性質《ヽヽヽヽヽ》についての知識を失ってしまい、乱暴に、不用意に棺をあけた……」
「それはおかしい、マイケル……。古代メソポタミアのミイラなどは、完全に、王が死んでから、内臓を全部とり出し、脳みそまでとり出してからミイラにしたというぜ。つまり、完全に死体《ヽヽ》を、保存加工したんだ……」
「すでにその時、|本来の《ヽヽヽ》ミイラの意義は見失われてたのかも知れん……。むしろ、ウルク王墓の例などの方が本来のあり方かも知れない。そのかわり、死後の生活≠竅A冥府への旅=Aあるいは後世の復活≠ニいった、形骸化された思想《ヽヽ》だけが残った、と考えられないか? もっとのちには、みんなで墓にほうむったのち、数日ののちに墓の中から消えたり、また別の所で復活したりしたものがいる……」
「イエスか?」
「君の国にもいたはずだ。――聖徳太子だ」
「しかし、あれは……」
「すべてのミイラが、そうだとは言えないかも知れない。またすべてのミイラが成功したとも思えない、――鵜《う》のまねするカラスで、ただの乾燥死体≠ノなったものは大勢いるだろうし、うまく|離 陸《テイクオフ》できなかったのもあるだろう。だが、あれだけ入念なしかけをした墳墓と玄室と棺の中で、|本当に《ヽヽヽ》何が起っているのか、|棺を開かずに《ヽヽヽヽヽヽ》、もっとも慎重な方法でしらべたのは、おれたちがはじめてじゃないだろうか?」
「唯一の手がかりは、吸血鬼伝説≠チてわけか……」ぼくは苦笑した。「古い館の地下墓窟の中で、棺におさまって、永遠に朽ちる事なく眠りつづけ、深夜時折り|生きかえって《ヽヽヽヽヽヽ》、人の生血を吸う……」
「それも、|ある条件《ヽヽヽヽ》のもとでのみ、永遠の生を保つ。――日光にあたれば、たちまち……」
「だが、一体なぜ、そんな事をするんだ?――千年以上にもわたって、あのまっ暗な、せま苦しい棺の中で――仮死状態で眠りつづけて……そんな永遠の生≠チて、一体どんな意味があるんだ?」
「死は、眠りにすぎぬ=c…」
と、マイケルはマクベス≠フ有名なせりふをつぶやいた。野望と罪の意識にひきさかれた謀反《むほん》人マクベスが、心の苦しみにたえかねて、自殺を思う時のせりふだ。――まったく中国人のシェクスピア好きといったら、骨がらみと言っていい。
「だが、眠りは死じゃない。――逆必ずしも真ならず、さ。眠り≠ノは……」
「夢《ヽ》があるからか?」ぼくは肩をすくめた。「千年以上、夢を見つづけるために――あんな凝ったしかけをしたのかい?」
「おれたちは、古代文明に対して、ライプニッツ以後の科学文明の立場から、偏見を持ちすぎているんじゃないのかな」マイケルは、半分吸った細巻葉巻《シガリロ》を、波打ち際にほうりながら言った。「あるいは、ものの見方≠ェ、偏《かたよ》ってしまった、と言ってもいい。――君は、非常に明瞭な夢を見る事があるかい?」
「時たまね……」
「夢という奴は、大抵の場合、自分の自由にならない。――だけど、ある種の|麻  薬《ナルコテイツク》、ある種の幻覚剤、あるいは、それをかねていながら、いい香りの刺激を与えてくれるような香料……そういった仕かけをして眠ればいい夢≠見られるんじゃないかな?」
「すくなくとも、その逆の経験はあるよ」ぼくは、クスッと思い出し笑いをした。「毛布をかぶって寝てて、|おなら《ヽヽヽ》をして、おそろしく汚い夢を見た事がある」
「まぜっかえすな……」と、マイケルは渋面をつくった。「おれたち現代人は、映画や、ミュージカル・スペクタクルで、万人共通の、眼をあいたまま見られる夢を見る事に慣れすぎている。――だが、古代文明期の連中にとっては、壮麗な神殿や奇怪な彫刻、それは精神薬物をつかって、もう一つの世界≠ヨはいりこみ、もう一つの生≠体験する事が、日常的、現実的な生の退屈や制限をこえる、ものすごくすばらしい事だったんじゃないかな。それこそ生きがい≠ナあり、この地上的、地球的な、卑小な生の超越を可能にする聖なる経験であるような……」
「なるほど……」ぼくは、全面的に承服はできないまでも、マイケルの言わんとする事は少し理解できたような気がしてうなずいた。「夢見る事≠ヘ、他の動物にない、人間の特権なのかも知れないな」
「それも、壮大な自己拡大感《ヽヽヽヽヽ》をともなうような……」マイケルは二本目の細巻葉巻《シガリロ》をくわえながら、大西洋に沈んで行く、紅くやけただれた夕日を、眼を細めて見つめた。「古代文明期の宗教についても、おれたちは、その道徳的、社会的効用の面からだけしか見ていないんじゃないかな。本当は宗教というやつは大望遠鏡や、現代的な宇宙航行探索技術のない時代の宇宙……」
「おい!」ぼくは、北の方から渚《なぎさ》を歩いてくる人影を見て思わずマイケルの腕をつかんだ。「あれは……イワンじゃないか?」
「やあ、ここにいたのか?」とイワンは手をあげた。「レニングラード大学の方は、解読のあたりがついた、というので、今夜あたり研究所にテレックスでおくってくれる事になった。――あそこで専門に研究している、マヤ文学のローカル・バリエーションの一つに、どんぴしゃりだった」
「で、二日早く帰って来たってわけか……」ぼくは、疲れ切ったような、イワンの肩をたたきながら言った。「で、君が解読した分はすぐ聞かせてもらえるかい?」
「いいよ。――だが、ちょっと一服させてくれ。何しろ、ほとんど寝てないんだ」
ぼくのポケットで、携帯電話の呼び出し音がピーッと鳴ったのはその時だった。
「バンボ……マイケルもそこにいるか?」とピートの声がスピーカーからきこえた。「すぐ来てくれないか。――棺の中を監視しているテレビに、妙な映像がうつり出したんだ」
特別手術棟へかけつけてみると、計測器の記録装置やモニター類をセットした棺内部監視用の小部屋には、ピートのほかに、リンとテッドがいて、熱心にテレビモニターをのぞきこんでいた。「VTRは?」とマイケルは、部屋にはいるなり聞いた。
「十分前に、エンドレスから記録に切りかえた……」ピートは、コンソールに手をのばしながらいった。「これまでのやつを、別のモニターに出そうか?」
「あとでいい……」マイケルは首をふった。「いったい、何がうつり出したんだ?」
「さっき、モニターカメラの、照射光源が、白色光も赤外線も両方とも切れちまったんだ」とピートは二十五インチの、メイン・モニターテレビの画面へむけて顎をしゃくった。「まっ暗になったんで、何の気なしにカメラの軸の角度をかえたら、あれがうつった」
石棺の本体のむかって右手の側壁に、上縁から二十センチ下った所に、径二十ミリの穴をあけ、海棲大型動物用の胃、腸内観察用のテレビカメラを一部改造したものがさしこまれていた。――外径二十ミリで、長さ千ミリから千八百ミリまでかえられる金属製シャフトの先に、超小型高感度のカラービデコンがおさめられ、先に組みあわせプリズムがついていて、プリズムは遠隔操作で、長軸のまわりを三百六十度回転できるだけでなく、先端部三十五ミリほどは、軸に対して、〇度から九十度まで角度がかえられる。回転軸との組みあわせによって、多少のひずみを我慢すれば、棺内のほとんど全部が見わたせた。焦点距離は、十五ミリから五十ミリまでズームでかえられる。
カメラの先端には、白色光と赤外線の光源がしこまれており、光電子倍増管を内蔵したカメラとあいまって、かなり明るい映像が得られたが、この照明用電源が――これまでもよくあったように――折れ曲り部分で断線か接触不良を起して切れてしまったらしい。
ぼくがピートに監視をひきつぐ時、カメラ開口部は、ミイラ――というより仮死体の、翡翠製のマスクの上にすえられていた。が、今、コンソールのカメラの回転軸上の角度をかえる遠隔操作ダイヤルを見ると、カメラ開口部は、さっきと百八十度ちがう、つまり、仮面とむきあう石棺の蓋の内面の、例の黒曜石製の鏡とむきあっている。
「こりゃなんだ?」とマイケルがテレビモニターをのぞきこみながら、上ずった声で言った。「……光っている……」
「さっきからずっと見ているんだが……」とピートは、コントラスト調整をしながら言った。「ぼんやりとした光点が、ついたり消えたりしている。――黒曜石の鏡面に、螢光物質でもふくまれていて、それが棺の放射線で光るのかと思ったが、そうでもないらしい……」
「光点が動く――」とリン・ホータンが興奮した声で言った。「というか……ちらばったパターンがかわるんだ」
暗灰色の画面に、ぼんやりした白っぽい光の点が不規則にちらばり、ゆっくり息づいている。光点は、ぼっとにじんでいて、輪郭はあまりはっきりしない。――しばらく見ていると、ふうっと消え、また別のパターンがあらわれる。今度は右下に、少し大きな紡錘形の白点があらわれていた。
「少し色がついてるな……」と、ぼくはつぶやいた。「あの中央上の点は赤っぽいし、右上のやつは、青っぽく見えないか?」
「色調とコントラストをもう少し上げてみろ」とマイケルはいった。「輝度はもう少し下げて……」
光点は、急にはっきり像をむすびかけた。――が、そのとたんに、そのパターンはふっと消え、かわってたくさんの小さな光点があらわれた。
「なんだ、これは?」とリンがつぶやいた。「どこかで見た事があるぞ……」
「星座《ヽヽ》だ!」とテッドが叫んだ。「見ろよ。大熊座だ。――北斗七星じゃないか。わからないか?」
「たしかにな……」とピートは腕を組んだ。「だが、|左右逆さ《ヽヽヽヽ》だ……。ちがうか?」
「そうかな?」とリンは、指をあげて天空の巨大な柄杓《ひしやく》の光点をなぞった。「ぐるっとまわっただけじゃないか?」
「いや、ちがう――」とマイケルはかすれた声で言った。「まわったら、上下ひっくりかえるだけだ。あれは左右逆《ヽヽヽ》になってる……」
「またかわるぜ」とぼくは言った。
今度は、まん中に、直径三センチぐらいの光点があらわれた。――明らかに渦状星雲だ。
「猟犬座の渦状星雲だ……」ピートは頭をごしごしと掻いた。「こいつも……|裏うつし《ヽヽヽヽ》だぜ……」
「三の猿≠フおっさんは、いったいお棺の中で何をやってんだ?」とリンはつぶやいた。「マスクかぶって色眼鏡かけて、プラネタリウムみてるのか?」
「テッド……」マイケルが、メーター類にすばやく眼を走らせながら言った。「生命系の計測をチェックしてくれないか?――あの、星座や星雲の光度変化と、メーターの振れと、何か関連してないか?」
「もうさっきからやってる……」テッドは鬚面をふくれ上らせて、メーター類や、レコーダーのチャート紙の上をびくびくふるえている針をにらみながら、いそがしくあちこちのスイッチを入れ、つまみをいじっていた。「脳波《ヽヽ》だ……。ピート――テレビカメラの入力信号を、こっちのブラウン管へ出してくれ」
「あいよ……」とピートはボタンを押しながら言った。「調整はそちらでやってくれ」
「スーパー|δ《デルタ》波の波形を見てくれ」テッドは太い毛むくじゃらの指でブラウン管の上をこつこつとたたいた。「こまかい所はいい。――テレビの星の像の息づきと、見事に並行しているだろう。ほら、今、棘波《スパイク》が出て来た。あれが大きく出ると、映像がかわる……」
テッドの言った通りだった。――ブラウン管に出ている、脳波のパターンに、はげしく大きな山が出ると、テレビカメラの光度信号が消え、モニターカメラの映像がすうっと消えて、別の映像が出てくる。――今度も渦状星雲を斜めから見た映像だった。渦状星雲は、息づきながら、ぐうっと拡大されてくる。
「アンドロメダかな?」と、リンがつぶやいた。
「いや、ちがう……」と星にくわしいピートがつぶやいた。「伴星雲がない。――はて、これは……」
「コンピューターにつないで、光度変化と脳波パターンの相関係数を出すか?」
とテッドはきいた。
「いや……」マイケルは青ざめた顔を横にふった。「今は、その必要はない。――君の方で、ほかの生体現象との相関を、もっとくわしくしらべてくれ……」
「いったいどうなってるんだろう?」とぼくは思わず溜息をついた。「あいつは……三の猿≠ヘ……千年の間、|宇宙の夢《ヽヽヽヽ》を見つづけているんだろうか?」
「いや――ちがう……」今まで黙ってモニターを凝視しつづけていたイワンが、突然上ずった声で叫んだ。「彼は……このミイラは……旅≠しているんだ!」
「夢の旅≠ゥ?」とリンは肩をすくめた。「どっちでも同じじゃないか……」
「ちがう――。棺の蓋の上と、横腹に書いてあった……。その文章の本当の意味が、今わかったが……」
「|精神の旅《サイコ・トラベル》か?」マイケルが沈んだ声で言った。「そうだろ?」
突然沈黙がおちて来た。――みんなは息をのんで、二十五インチのカラーテレビ画面に、怪しく息づく、巨大な渦状星雲に見入った。星雲はモニター画面の対角線いっぱいに輝き、その光の腕の中には、赤、青、オレンジ、白、さまざまな恒星が輝いている。星雲は徐々に拡大されて行く。遠方のまたたく楕円星雲、輝く星間物質……。
「千年以上《ヽヽヽヽ》前……」とマイケルはかすれた声で言った。「巨大な何百インチもの望遠鏡も、高感度フィルムもない時代に、彼らがどうやって、こんな何百万光年もはなれた空間の宇宙の映像を正確に知る事ができたと思う?――だから、これは、単にこの脳裡にうかぶ夢≠セとは思えないんだ。――イワン……棺の蓋や本体には何と書いてあった?」
「偉大なる魔法使いにして、クルワトルのもっとも偉大なる神官にして王、三の猿≠諱c…。卿《おんみ》の眠り永久《とこしえ》に安かれ」とイワンもかすれたききとりにくい声で、つぶやきはじめた。「卿の|眠りの旅《ヽヽヽヽ》、永久《とこしえ》にして幸多かれ……。卿の魂、この船《ヽ》にのりて、冥府路《よみじ》をこえ、時の彼方、宇宙《そら》の果て、|す《ツ》|ばる座《アブ》をこえ、双子座《アク》をへめぐり、幾百千のバクトウン(マヤ暦の四百年)を経て、宇宙の星々とまじり、生命と魂を清めて、天空《カアン》と一体となりて、空の空たる宇宙《そら》の果てに、また新たなる太陽《キン》と媾合《まぐあ》い、|金 星《ホチユ・エク》を、地球《カブ》をうみ、新たなる子孫の親となり……」
「結構な経文《モテツト》だ……」
と、うなるような声がした。――いつの間にか、みんなの背後にハッサンが来ていた。
「だが、眠りだ、船だ、旅だってのは、古代の墓によく出てくる文句だ。――古代エジプトのピラミッドの中には、イシスとネフテュスってべっぴんののった死者の船≠竅A鳥となって冥府や星の世界にとびたつ死者の魂、バアの絵がふんだんにあるぜ」
「それを象徴≠ニ思いこんだのが、かえって近代人の迷妄さだったのかも知れん……」とマイケルは、いらいらと拇指《おやゆび》の関節を噛んだ。「存外、それが事実《フアクト》だったら――イワン……ほかには?」
「大体、今言ったような事のくりかえしだ。――眠りの旅≠何ものにもさまたげられん事をねがいて、宇宙《そら》への旅立ちの港なる奥津城《おくつき》を高く置き、夢の船の舫《もや》い場を深く彫り……旅の弧愁を癒さんとて、美しき四の鹿≠フ姫君を、またその従者《ずさ》を、ともに船出させ……」イワンは暗誦《あんしよう》をやめて、ちょっと言葉をきった。「あとは――棺の蓋の内側、あの黒曜石の鏡のまわりにあったこまかい文字の内容が、何か変った事を書いているか、だ!」
突然、小部屋の片すみで、カタカタカタと乾いた音がひびきはじめた。
「イワン……」リンが、ささやくように言った。「テレックスだ。レニングラードから!」
「来たな……」イワンは、かすかにふるえる声でつぶやいた。「さて――タチアナ・ポポーヴァ女史が、うまく解読してくれたか」
「リン……ハッサン……」マイケルは額にかかる長髪をかき上げながら、弱々しい声で言った。「おれたちは、どうも……|ここまで《ヽヽヽヽ》でお手上げみたいだ。あとは――物理学者……それも、素粒子や加速器をあつかっている連中と、宇宙物理の理論屋でも呼んでこないと……」
「ちょっと待てよ……」とテッドがにらみつけていた計測器のメーターから顔をあげて言った。「これ以上、棺をいじりまわしたり、どうとかしようというのか? おれは、反対とまで行かなくても、責任はもてないぜ。棺にやたら穴をあけたり、光で照らしたり、生きてるミイラの脳波や心電図をとったりしているせいかどうか知らないが、三の猿≠フ生体反応は、だんだん微弱になり、乱れがひどくなっている。いくつかのピックアップをのこして、あとは穴をふさいで、テレビカメラも撤去した方がいいかも知れない。これ以上、内部状態≠フ擾乱をつづけると……」
「強心剤を打ってみないか?」とマイケルはぐったりと椅子に腰をおろしながらつぶやいた。「何なら心臓マッサージを……そうだな、生理学者や生化学者、それに理論医学の大ものもよばなきゃ……」
「その事なんだがな……」とハッサンは、声をひそめるように言った。「アブドルは、チームからはずしてやったほうがいい。すくなくとも、誰かと交替させて――休ませてやらなきゃいかんと思う。奴は、何一つ思う通りにやれないんで、フラストレーションのかたまりになっちまってる。奴がやらせろと言っている実験は、ことごとく無茶だ、それができないと言ってやると、金切り声をあげて殴りかかって来た。こともあろうに、このハッサン・アル・カハム様にだぜ……」
「まさか、相手になったんじゃないだろうな?」ぼくはちょっと気になってききかえした。「あんたが殴りかえしたら、アブドルはこわれちまうぜ」
「いや……いくら何でもあいつにそんな事するかよ……」とハッサンはちょっとあわてて、自分のでっかいグローヴみたいな毛だらけの手の甲を、ちらと見た。「ちょっとなだめてやっただけさ。それも、そっとだ。誓ってもいい。ごくやさしく……。奴は、今おとなしくしてるよ」
「おやおや……」とピートがモニターを見ながら言った。「ミイラどのの宇宙への旅も、だいぶ遠方まで来たらしいな。今うつってるのは|準 星《クエーサー》だぜ。――おれの記憶にまちがいなければ、3C273ってやつだ。もうそろそろ宇宙の果てもちかいぞ……」
「イワン……」マイケルは椅子にもたれ、頭をたれ、顔を両手でおおい、ごしごしこすりながら聞いた。「何かわかったか?――何か変わった事は……」
「何だ、これは……」とイワンがテレックスの前でつぶやいていた。「タチアナのお嬢さん、本当かな。もう一度、電話を入れてみなきゃいかんな……」
「よんでくれ……」とマイケルはつぶやいた。
「時《ヽ》をとべ……=vとイワンは文面をひろい読みした。「時よ、とまれ、とまれ、とまれ……。時よ、静かに歩め……ゆるやかに歩め……。汝、ゆるやかに歩めば、眠りまた安けく、永からん……=v
「|なに《ヽヽ》?」突然マイケルは顔をあげた。「何だって?」
「本当に、時≠ゥい?」とリンがにやっと歯をむき出した。「驢馬《ろば》≠フまちがいじゃないか?」
「ちょっと……見せろ!」マイケルの眼は突然ぎらぎら光り出し、椅子からとび上ると、イワンの手から、テレックスの紙をもぎとろうとした。「見せてくれ! そいつを……」
ぼくは、うとうとしながら夢を見ていた。――みんなは、休息と議論をかねて、休憩室へ行ってしまい、ぼくだけが、監視室で計器類やモニターをにらんでいたのだが、ここ一週間、マイケルと三の猿≠ノひきずりまわされつづけた疲れが出て、ついまどろんでしまったのだ。
モニターテレビには、はるか宇宙の地平線近く、百数十億光年もの彼方にある|準 星《クエーサー》が、二つ三つうつったあと、何にもうつらなくなってしまった。――一時は、三の猿≠フ息の根がとまったか、とみんな気をもんだのだが、生体反応も、脳波も、ますます不整や衰弱はひどくなりつつも、まだつづいていた。――まだ、数日……あるいは数週間は大丈夫だろう、と、テッドはたよりなげにうけあった。
疲れたから休むと言っても、テッドがいるかぎり、みんな休めやしまい。――|これからどうするか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》? 最低生体反応のピックアップだけのこし、棺内の状態≠擾乱するものをできるだけとりのぞいて、生きているミイラの延命をはかり……|そして《ヽヽヽ》? そのあとどうするのだ? これ以上、調査をすすめるのか、やめてしまうのか?――議論はどうせ果しないどうどうめぐりをくりかえすだろう。
――仮眠の夢の中で、ぼくは恒星がきらめき、超新星が爆発し、星雲が渦まき、星間物質がゆっくりと流れる宇宙空間の中をとんでいた。前にあるモニターテレビの画面はまっ暗なままだったが、夢の中のテレビには、無際限の星辰がきらめき、渦まく宇宙が回転しつつうつっており、夢の中のぼくは、ベンチに横たわり、胸の中で手を交叉させたまま、その夢の宇宙へとびこみ、さまよいつづけるのだった。
やがて離れ星も、島宇宙もまばらになり、小さく、青ざめた強い輝きをはなく|準 星《クエーサー》が行く手にあらわれるころ、ふと傍に気配を感じてふりむくと、そこにあの仮面をつけ、ぼくと同じ姿勢でただよっている三の猿≠フ姿があった。
――なぜ、私の眠りを乱すのだ?……
と三の猿≠ヘ、その緑色に輝く翡翠の仮面をむけ、より緑の輝きの強いエメラルドの剥片ごしにぼくを見すえながら、なじるように言った。
――なぜ、私の|夢の旅《ヽヽヽ》……この大いなる驚きと感動とたのしみにみちた旅を妨げる?
――妨げるつもりはなかったんです……。と、ぼくはこたえた。――ただ、ぼくたちは、知りたかった……。あなたの秘密を……。
――夢を見る事に何の秘密があろう……。夢は誰でも見る……。
――でも、あなたのは単なる夢ではなく、魂の宇宙飛行≠ナす。あなたは……荒唐無稽な夢の宇宙でなく、|本もの《ヽヽヽ》の宇宙を旅し、眼前にしている。……あなたの千年後の人類がまだ理論的可能性で実現もしていない、巨大な恒星間宇宙船もつかわず……宇宙服一つつけず……しかも超光速で……。
――|本もの《ヽヽヽ》の宇宙?……と三の猿≠ヘ、いぶかるようにいった。――これがどうして本ものの宇宙、正しい宇宙の姿だとわかる? これは私の恣意的なイメージにすぎないかも知れない……。
――でも……。
――これは、私の見ている夢かも知れない。人間は、今まで覚醒中に見た事もない景色の夢でも、いくらでも見られる。イメージは、いくらでもつくれるからだ。現実の世界で、一生かけて見られる不思議な自然の光景より、はるかに奇妙で、異様なイメージをつくれるはずだ……。私はそう言った夢≠見るために修行し、訓練をかさね、やがて人々の祝福と、歓送の儀式におくられて、もっとも静かな墓所に、愛する女とともに横たわり、もっとも頑丈な舟≠フ中で、夢の生成を助ける神のキノコ≠食べ、香料《コパル》の香りをかぎ、黒曜石の鏡に見入りながら、夢の旅≠ノむかって船出した……。
――あの真の闇の中で……どうやって鏡を見入るんです?
――|夢で《ヽヽ》だ……。と三の猿≠ヘかすかに笑った。――夢の中には……闇の彼方に光がある。すべての光景がある。
――でも……たとえ仮死状態にしろ、どうやって千年以上も生きられるんです?
――千年?……あんたたちの時間で、千年以上たとうが、それが私にとってどんな意味がある? お聞き、マヤには、トウモロコシの粥《かゆ》が煮上る間に、自分の一生の有為転変のすべてを見てしまった、という男の伝説がある。かと思うと、ほんのうとうとまどろんでいる間に、眼がさめてみると、一バクトウン(四百年)もたってしまっていた、という男の話もある。眼がさめたとたん、その男は白髪の老人になり、やがてぼろぼろの灰のような死体になってしまった……。私が千年以上も生きているってそんな事は信じられないね。実は、私が、仮眠している私の姿を見つけて、千年以上生きている、とさわいでいる、千年後の人間たちの夢《ヽ》を見ているのかも知れない。あんたも、私の夢の中にひょいと出て来た……。
――しかし、あなたは……眠りの中で、宇宙を夢見ているあなたの体《ヽ》は……実際に千年以上たっています。千年もの間、呼吸し、生き……朽ち果てもせず……。
――実際にそうだとして、それが私にとって、どんな意味がある? 眠りつづけ、夢を見つづけている私にとって、|夢の外《ヽヽヽ》の時間経過など、どうって事はない。どうか、私の夢のたのしみを邪魔しないでくれ。私を|起し《ヽヽ》、私の夢を中断する事が、あんたたちにとって、どんな意味があるというのだ? |他人の夢《ヽヽヽヽ》に干渉して、いったいどうしようというのだ?
――私たちは……知りたいのです!
ぼくは力をこめて言った。
――どうしても、知りたいのです。……どうやって、千年以上、酸素も乏しく、食物もなく、水さえも無い闇の中で、千年以上、眠りつづける事ができるのか……どうやって、夢で……あるいは魂《ヽ》だけ、|ほんものの宇宙《ヽヽヽヽヽヽヽ》を、光速をこしてとびまわれるのか……。
――あなたたちも、夢を見ればいい……。三の猿≠ヘ、仮面を反対側にむけてつぶやいた。――あなたたちだって、志せばいい。そう言った夢《ヽ》を……地球上の卑小な個人の生を超越《ヽヽ》して、無遍在の宇宙をわたって行く夢を見よう、と……。
――そこが問題です。……一体、夢を|志す《ヽヽ》事ができるんですか?
――そこが修行だ……、と三の猿≠ヘおかしそうに言った。――それと神のキノコ≠セ。そうすれば、欲する夢が見られるようになる。
――生きながらミイラになろうとした人……いや、死の以前に、すすんで瞑想にはいろうとした人たちは、みんなあなたのように……。
――どうでもいいから、どうか私の眠りを……私の夢《ヽ》を、夢の旅を、邪魔しないでくれ。私があんたたちに|何を《ヽヽ》した? 私の、長年かけて、少しずつ訓練をつみかさね、やっと出発できた夢の旅≠妨害して、それがあんたたちに、どんな得がある? この夢は、限りある生の時を超える、私の純粋に|個人的な《ヽヽヽヽ》楽しみだ。|他人の夢《ヽヽヽヽ》をのぞいて、いったいどうしようというのだ? 夢みる事をさまたげる権利が、あんたたちにあるのか? 私がこうやって夢を見ている事が、あんたたちの生活を妨げる事になるとでもいうのか?
――そんなわけじゃありません。ただぼくたちは……。
――私のように夢見る法を知りたい、というのか? 知ってどうする? 知ったところで万人が、|何の自己訓練もなしに《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、こういう夢を見る手段などはありはしない。神官たちの間にのこされている秘密の文書に、訓練の方法はあるが……それをやった所で、すべての人間にこれが可能なわけではない。才能がいる。苦しい忍耐がいる。鉄の意志がいる。幸運《ヽヽ》さえ必要なのだ。それをやって、試みて、すべての人間がうまく行くわけではない……。
――失敗例の方が多いでしょうね……。
――あるものは、そのまま文字通り永遠の眠りにつき、ただ暗黒しか見ない。あるものは、短い夢しか見ない。あるものは卑小な、あるいは苦しみにみちた地獄の夢を見てしまう。夢の入口にまで到達しても、そこからはいって行ける世界は人それぞれによってちがう……。
――あなたのような成功者≠ヘどのくらいの割り合いでいるんでしょう?
――ああ、何だか悪い予感がして来た。まさか、この夢が終ろうとしているんじゃないだろうな……。
と三の猿≠ヘ、嘆くようにつぶやいた。
――なんだって私の夢に、あんたのような予想もしなかったものが出て来たのだろう?……そういえば、私の愛する女と、忠実な従者はどこへ行った? ようやく、宇宙の果てまで巡礼して、浄められ、これからもっと大きな楽しみにとりかかろうとしているのに……。
――どんな楽しみです?
――今度は、宇宙を|創る《ヽヽ》のだ……。
と三の猿≠ヘたのしげに願うように言った。
――私の意志で……。すばらしいと思わないか? 私が、造物主に、宇宙の創造者になった夢を見られるのだ。むろん、夢にすぎないが、それでも胸がわくわくする。……この、何もない宇宙の果てに、新たな宇宙を造り出す。私の意志で……。
――ちょっと待ってください……。こんな所で大爆発《ビツグ・バン》をやるんですか?
――まあ、手はじめに見なれた宇宙をつくってみる。……今まで、みて来た宇宙を、すべてちょっとずつ変えて……。太陽系も、すこし変えて見るかな……。最初は習作《ヽヽ》だからな……。
――どうして、あなたの夢の中の宇宙は、私たちの宇宙と左右《ヽヽ》が逆になっているんです?
とぼくはすがりつくように聞いた。
――みんなそうでしたよ。なぜです?
――そうかな?……ひょっとすると、鏡《ヽ》のせいかな?
と三の猿≠ヘ首をひねった。
――闇の中の黒い鏡に、私の夢のイメージを撮影して、まあいわば増幅《ヽヽ》をやるのだが……。それなら、今度は少し注意して……、まず太陽系を……それから……。
闇の中で、何かが息づきながらにじみ出るように光りはじめた。
ぼくは息をのんで、暗黒の虚無からの「太陽系の創造」の瞬間を見つめた。
――そうだ……。新しい宇宙全体の創造にとりかかる前に、こんな余計物≠かたづけておかなくては……。
と三の猿≠フ声が傍でした。
――さあ、消えてくれ。……何なら、あの新しいちょっとちがう地球≠ヨ追放しようか? それも面白いだろう。
「あっ、待って!」と、ぼくは叫んだ。「ちょっと待ってくれ!」
突然まぢかに出現した地球へ、ぼくの体はまっさかさまにおちていった。――おそろしく長い時間の落下ののち、ぼくは、三の猿≠フ創造したちょっとちがう地球≠フ上で、数十年《ヽヽヽ》をすごしていた……。
と思ったのは|夢の中《ヽヽヽ》での話で、ぼくは夢を見ながら大声で叫んだ、「ちょっと待ってくれ!」という自分の声で、はっと眼をさました。――あわてて時計を見ると、うとうととしていたのは、わずか三、四分ほどだった。
だが、モニターテレビの上に異常が起っていた。画面の中央に、青白く輝いているのは、まぎれもない地球《ヽヽ》だった。――子供の時から、人工衛星写真で、いやというほど見て来た、あの青い海に白い雲の渦をまといつかせた地球だった。
急いでマイケルたちに知らせようと、インターカムに手をのばした時、「よせ! 馬鹿なことをするな!」という、ハッサンの声が、手術室の中にひびきわたった。「やめろ、アブドル!」
どすっ、どすっ、と何か重いものが、やわらかいものにぶつかる音がして、どさりと人のたおれる音がした。――ぼくは、非常ベルのボタンを押すと、監視室をとび出した。
がらんとした手術室の床に、ハッサンが血まみれの顔をしてたおれており、そして中央では、最悪の事態が起っていた。――まっ青な顔のアブドルが、狂ったように鉄のパイプを、棺をおおったプラスチック・ケースにむけてふりあげている所だった。
「やめろ! やめるんだ!」ぼくは声をかぎりに叫んだ。「馬鹿! そいつはまだ生きているんだぞ! そんな事したら、殺人《ヽヽ》だ!」
「うるさい!」アブドルは、一瞬、ギラギラ光る血走った眼をぼくにむけた。「おれは、どうしても、こいつの……」
ガシャッ、と音がして、パイプがケースにふりおろされた。――ケースにひびが入り、シュッ、と空気のはいる音がした。ガシャッ、ガシャッ、と音がしてケースはくだけちり、電線類がぶっちぎれた。とめようとしてアブドルにとびかかったぼくは、パイプの一撃を肩にうけてひっくりかえった。
その時ようやくどやどやと足音がしてみんなが手術室の入口にあらわれた。
「早く、とめてくれ!」ぼくは肩をおさえてたち上りながらわめいた。「アブドルが狂った。棺を……早く……」
砕けちったケースをはらうと、アブドルは狂気の馬鹿力で、少しへし曲ったパイプで棺の蓋を横むけにたたいていた。セメントがとびちり、蓋が横にずれた。みんながかけつけた時、アブドルは、パイプを蓋の隙間に入れて、力一ぱいこじた。――みんなの方へむかって、重い蓋がどおんと落ちて割れ、アブドルは、気味の悪い笑い声をあげながら、三の猿≠フかぶっている翡翠のマスクをむしりとった。
一瞬――ほんの一瞬だが、ぼくは見たような気がした。すっ、としぼむように朽ち木をまとった骸骨に変貌した三の猿≠フくぼんだ眼窩に、二つの眼球が、驚きと恐怖にみちて宙をみつめて動いたのを……。
「精神時間旅行《サイコ・タイム・トラベル》?!」
ぼくはおどろいてマイケルの顔を見た。
「証明のしようもないがね……」とマイケルは、気弱そうな薄笑いをうかべた。「といって、ほかに考えようもないんだ。テッドも、この仮説をみとめた……」
「|意志による時間旅行《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》か……」ぼくはふうっと吐息をついた。「タチアナ・ポポーヴァの解読した呪文が、鍵だな……」
「それも――あの三の猿≠フ体の全部《ヽヽ》じゃないようなんだ……。体の各部によって、老化、ミイラ化の度合がちがう。分析させたら下肢末端部の時間経過は正常時の十分の一、それから上へ上るにしたがって、五十分の一、百分の一、二百分の一、千分の一と組織の老化度がちがってくる。……心臓で一万分の一から一万五千分の一、中心は脳幹部で、十万分の一程度の時間経過しかみとめられない……」
「という事は……心臓で二十四、五日から一カ月ちょっと、脳幹部は|三・六日《ヽヽヽヽ》しか、時間がたってない、というわけか……」
「時間遅滞の場《フイールド》の強度が、同心円的に弱くなっていた、という事かな……」マイケルは、また細巻葉巻《シガリロ》をとり出した。「老化の進み方の早い部分から、自己分解して、栄養につかっていたらしいというがな……。血液が時間の傾斜《ヽヽ》をこえて、どうやって循環したのか、そこまではよくわからんようだ」
「時よ、ゆるやかに歩め≠ゥ……」ぼくは、テトラポッドに腰をおろしてつぶやいた。「時よ、とまれ……時をとべ=v
「大学からよばれた連中は、眼の色かえてしらべているがね……」マイケルは、背をまるくして葉巻に火をつけながら、くぐもった声で言った。「何もわかるわけはないやな、棺だけしらべたって……。棺の構造と、それに長年かけて、特別に訓練した、三の猿≠フ精神力《ヽヽヽ》とが、微妙に対応しあって、ああいう特別の場≠つくり出していたんだろうから……」
「三の猿≠ェ本当のミイラになっちまったとなっては、どうにもその|仕組み《ヽヽヽ》を解明しようがないってわけか……」ぼくはマイケルの方に手を出した。「一本くれよ……」
マイケルは首をふった。
「何だ、ケチ……」とぼくはつぶやいた。「今腰かけてるのは、ダイナマイトでも機雷でもないんだぜ」
「もう無いんだよ……」
と言って、マイケルは空の箱を海へほうった。
風が少し強くて、マイケルの吐き出した煙は、左右にゆれながら吹きちらされて行った。
「今となっては……残る証拠は、おれたちの観察記録とVTRだけか……」
「VTRを見せたって、みんなのよく知ってる宇宙の映像を、左右逆にしただけと思うぐらいなもんだろうぜ……」ぼくは眉をしかめた。「テレビ映像の左右逆転なんて、スイッチ一つでできるんだからな……」
「そういえば、最後にうつっていた地球像……、あれをVTRでよくしらべたら、水陸分布パターンは、|この地球《ヽヽヽヽ》と同じだったな……」
「三の猿≠フじいさんに、左右逆の事を言ってやったからな……」
「|夢の中《ヽヽヽ》で?」
「そう――そしたら、今までのやり方を少し変えてみよう、と言ってたよ。ただ――気がついたかい?――よくしらべたら、|自転の向き《ヽヽヽヽヽ》だけ、逆だったぜ……」
へえ……とマイケルはつぶやいて、吸いかけの細巻葉巻《シガリロ》をまわしてよこした。――少し唾でぬれていたが、ぼくはかまわず、胸一ぱいに煙を吸いこんだ。
「だけど……本当に、何万体とみつかっている、古代のミイラの何パーセントかは、ああいう目的のために、自らの意志で、すすんで、生きたまま、瞑想して仮死状態へはいって行ったものだろうか?」
「そうだとしても、成功したのは、そのうちのまた何パーセントかだろう……」煙草、かえせよ、と手をのばしながらマイケルは言った。「それだって――おれたちの時代の人間が、そんな事考えもせず、不用意にあけちまったため、あけたとたんに|ただのミイラ《ヽヽヽヽヽヽ》になっちまい、古代人の素朴な不死への願望≠フ証拠がまた一つつみ上げられるだけさ……」
「だけど、ミイラはこの先だって、何千体とみつかる可能性があるだろう。――それなら、これというやつを今度はもっと慎重に……」
「慎重にったって、|外から《ヽヽヽ》、どうやってその秘密をしらべるんだい?」マイケルは葉巻を砂にすててふみにじった。――まだ長いのに、もったいない事をするやつだ。「だめだよ……開けたとたんに、すべてはパアさ。おれたちのやり方が、それでも最良だったろうが……問題は、|出し方《ヽヽヽ》じゃなくて、|入り方《ヽヽヽ》にあるんだろ。古代の知恵≠竍古代の物の考え方、価値観≠ェ失われた今になっちゃ――たとえ、才能があって、奇妙な訓練をつんで、苦しみに耐えるとしても、……じゃ、そんな事をやるやつが、今の世の中に果しているかね? |一生をつぶして《ヽヽヽヽヽヽヽ》、だぜ……」
「たとえ、それに成功しても、同じように蓋を開けられたらそれまでか……」ぼくは溜息をついた。「とすると、精神時間旅行《サイコ・タイム・トラベル》の原理は、一般化《ヽヽヽ》できないってわけか?」
「できるかも知れないが、おそろしく手間がかかりすぎる。成功率だって低いしな……。古代人の知恵の中には、今のおれたちのならされている科学的な考え方とは、まったくちがったものの考え方、感じ方のプロセスをふんで、まったく奇妙な能力≠竍可能性≠ノ行きついたものが、いくつもあったかも知れない。ヨガだの経絡だのって奴は、またほり起されて来てるが、失われてしまって、その不可思議な能力まで到達するプロセスが、科学的・合理的思考では全く見当がつかないまま、能力の実在性さえ疑われ、見失われてしまっているものがいくつもあるかも知れない……」
「奇蹟の力≠ヒ……」とぼくはうなずいた。「しかしだな――まあ、たとえ、ある妙ちきりんなやり方で、千年仮死状態のまま生きて、宇宙服なし、超光速の| 精神宇宙旅行《サイコ・スペース・トラベル》が可能になったにしても……いったい、そんな旅≠して、どうするんだい? 何千年、棺の中で生きて、夢を見ても、いずれは死んじまうんだろう?出口なし≠フ旅じゃないか……」
「そこが、古代人とおれたちと、考え方がちがう所だよ……。おれたちは何のために宇宙を探査する? 宇宙へ行く?――宇宙の秘密《ヽヽ》を探るため=c…万人《ヽヽ》にとっての知識をふやすため、あるいは科学上の発見を、学会に報告して、賞讃と驚きと注視と喝采《かつさい》をあびるためかも知れん。厖大《ぼうだい》な金をかけて、はるばる土星かどこかへ行ってかえって来てさ。ああ、すばらしく感動的でした。うっとりしました。ほかに何も言う事はありません。私はあれを見て、幸せです≠ニいうだけで事がすむと思うかね?――これに対して、連中は、宇宙を、全く個人的《ヽヽヽ》に使っているのさ。行きっぱなしでかまわないのさ。人生の最後に、生きているうちに蓄積に蓄積をかさねたものを推進剤にして、できるだけ長いすばらしいジャンプ、華麗なるトリップをやり、|自分自身だけ《ヽヽヽヽヽヽ》最高に満足して……満足したら、別に報告≠ノかえらなくてもいいじゃないか? そんな義務はどこにもないんだから……」
現代人だって、最後はそれでいいのかも知れないな――と、ぼくはほろ苦く思った。――宇宙は――所詮《しよせん》、すみずみまで直接《ヽヽ》解明できるわけはないのだから――最後には、その美しさ、壮大さに感動するためにだけある、という事に……。
「だけど……」ぼくは、まぶしく光る水平線を見ながら言った。「三の猿≠ヘ、本当に――新しい宇宙≠つくったのかな……夢の中で……」
「でも、彼の夢の中で、つくられた宇宙が、一方では実在《ヽヽ》していて……」マイケルは、ふっと憂いをふくんだ男になった。「おい――そうすると、おれたちの同時代人が、何も知らず、不用意に古代の棺を開けて、その瞬間まで生きていたミイラを、本当のミイラにしちまう度に、あちこちで、いくつもの宇宙が、破壊されているのかも知れないぜ!」
そうなのだろうか?――と、ぼくは白いヨットを見つめながら思った。――三の猿≠ヘ、「ちょっとちがう地球《ヽヽ》」をつくった。本当に、この宇宙とちがう、もう一つの宇宙の中に、こことそっくりだが、自転公転の向きだけがちがう地球があって……その地球上の、フロリダ東海岸では、太陽が、|大西洋の彼方《ヽヽヽヽヽヽ》から、つまり、|東から《ヽヽヽ》、昇ってくるのだろうか? という事は、貿易風や季節風の向きもちがい、フロリダは砂漠《ヽヽ》なぞにならず……。そして、三の猿≠ェ死んだあと……。
「バンボ……」マイケルは眼を伏せて言った。「君は、|夢の中《ヽヽヽ》で、そのもう一つの地球≠フ上で数十年くらしたって言ったな?――どうだった? こことだいぶちがってたか?」
「ほとんど同じだった――」と、ぼくはつぶやいた。「ぼくはやっぱり――何とか開発につとめ、フロリダの研究所へかよってた。ただ――おれたち、日本人は、こんな全身まっ黒な膚じゃなかった。言葉もちがってた。おれも、バンボ・ニャムウェジなんて名前じゃなかった……。それから、マイケル、君たち中国人も、スコットランドが発祥の地なんかじゃなかった……」
「ふうん……」とマイケルは気のない返事をして、砂浜へひっくりかえった。「なるほど……」
「何だよ……」しばらくしてぼくは、マイケルに顎をしゃくった。「妙な顔をして、何を考えている?」
「別に……。ただ……」マイケルは、西の空からようやく中天にさしかかりつつある太陽をまぶしそうに見ながら、もごもご言った。「ひょっとすると……おれたちの|この地球《ヽヽヽヽ》も……どこか、別の宇宙の別の地球上で生きているミイラが、旅の夢を見ながら、|趣味で《ヽヽヽ》……あるいは|たのしみ《ヽヽヽヽ》で、つくりやがったんじゃないか、と思ってさ……」
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鳩 啼 時 計
静かな部屋の中で、突然かすかな音がした。
つづいて、
――ペッポウ!
と、びっくりするような大きな声がひびきわたった。
ほとんど同時に、隣室との境いのドアがあいて、女が銀盆にコーヒーセットとリキュールグラスをのせてあらわれた。
ほの暗い、アラベスク模様の壁の一角を見上げている彼を見て、女は大きな、睫毛《まつげ》の長い眼で笑った。
「びっくりなさった?」
「少し……」と彼も笑いかえした。「珍しいな――鳩啼時計ですね」
「あら……」女はテーブルの上に銀盆をおきながら、眼を見はった。「珍しいよび方なさるのね――ふつうは鳩時計≠チていうでしょう……」
「曾祖母がそう呼んでたんです……」彼は椅子から立って壁を見上げた。「同じような、古い時計が曾祖母の家にありましてね。――これ、振子をつかっているんですか?」
「まさか……」と女はかすかに笑った。
「振子は飾り――バッテリイで動いているの」
それは茶色の木製のケースにはいった――彼の曾祖母の娘時代なら、おそらくごくありふれたタイプの――鳩時計だった。蔓草《つるくさ》模様のからんだ破風《はふ》の鳩小屋を模し、丸スレートの模様を刻んだ屋根の下に、小さな、ヴェネシアン・ブラインド付きの窓があり、その下にローマ数字を配した銅色の大きな文字盤がある。二本の針は鉄色の唐草風、ほとんど聞えないような静かな音をたてて、ゆっくりと動いている振子は、蔦《つた》の葉をうち出した錬鉄製だった。――四本の長い金鎖が下って、その下に、落葉松《からまつ》の|松 毬《まつぼつくり》を模した金属製の分銅が二つさがっているが、これも飾りだろう。
針は、十時半をすこしすぎた時刻をさしていた。
「コーヒー、いかが?」
と、女はテーブルの傍からいった。
「ええ……」
彼はつったったまま、静かな、古めかしい感じの部屋を見まわした。やや煤《すす》けた高い天井から、これも古めかしいクリスタルのシャンデリアがさがり、黄ばんだ柔かい光を、それほどきらきらしくなく反射させている。部屋のそこここにさがるカーテンや、タペストリイも色あせ、毛足の深い臙脂《えんじ》色の絨毯《じゆうたん》も、どこか時代がかった重々しさがあった。
壁際をはなれる時、彼はもう一度、鳩時計の小さな窓を見上げた。――さっき、その小さな窓が開き、つくりものの可憐な鳩が音を出して鳴いた声が、まだその静かな、空気の動かない部屋の中にただよっているような感じがして、彼はちょっと耳をすますように頭をかたむけた。
「鳩啼時計、いま啼《な》きぬ……=v
と、彼は何の気なしに、つぶやいた。
女は、はっとしたように顔を上げた。
「その詩、知っていらっしゃるの?」
「ええ。少し……」
「やっぱり曾《ひい》おばあさま?」
「そうです。たしか、西条……」
「西条八十――もうずいぶん昔の詩人だわ」
「曾祖母が娘だったころに、人気があったらしいですね……」
「そうらしいわね……」女は長い睫毛をふせて銀のコーヒーポットをとり上げた。
「私は祖母からゆずられた詩集で……。でもまさか、あなたが西条八十の、その詩を御存知だとは思わなかったわ」
いかが?――というように、女はシュガー・ポットをとり上げた。うけとろうとすると、彼女の細く、白い指先は、かすかにふるえていた。
「その詩のつづき、知ってらっしゃる?」
指先のふるえをかくそうとするように、女はシュガー・ポットを押しやった手を、胸もとにひいて、セピア色の、絹のボウをもてあそびながら聞いた。
「待ってください……」彼は、ちょっと額に拳《こぶし》を当てて、ちょっと考えた。「ええと……冬の夜ふけの十一時……≠ナしたね?」
「そう……」女はすっと立ち上った。
「凩《こがらし》さむき戸外《そとも》には……=v
「利鎌《とがま》のごとき月冴えて=c…」
そうつづけて、彼はふと、コーヒーカップから眼を上げた。
――女は、フランス窓を模した窓際によって、濃い葡萄《ぶどう》色のビロードのカーテンを手でかかげていた。
窓の外には、すごいような、凍てついた星空があった。――「利鎌《とがま》のような月」ではなく、半月が遠く、小さくかかっていた。もう一つの月はまだ出ておらず、半月は、冷たい暗黒の中にちりばめられた、またたきもせぬ星々のすごさに圧倒されていた。
その星の間をぬって、ゆっくりと赤や緑の光点が明滅しながら動いて行く。
「あなたの曾《ひい》おばあさまも、その鳩時計、どなたかとご一緒にお求めになったのかしら?」
と女は窓の外を見ながらつぶやくように言った。
「ええ、そう言ってました……」彼はふと、九十二歳で死んだ時も、まだ少女のような顔だちをしていた、色白の曾祖母の事を思い出した。「恋人と……。二人とも、むしろ、西条さんの詩に触発されて、買ったらしいですね」
「銀座《ヽヽ》で?」
「ええ……」彼は、照れたような苦笑をうかべた。「昔の――あのころの女性は、感傷的というかロマンチックというか……何かこう素朴にかわいらしいですね……」
――過ぎし日、君と一つづつ……と、彼は頭の中で、その詩の二番を思いうかべながら、コーヒーをふくんだ。
――銀座の街に購《あがな》へる
鳩啼時計、いま啼けば
うれひは深しわが心
詩は、たしか昔の――大正の終りか昭和のはじめごろの、少女雑誌か何かに載ったものだ、と曾祖母は言っていた。甘い少女向けの叙情詩の類いだが……しかし、詩のイメージは悪くない。
――かつて、恋人と二人で町でたわむれに一つずつ同じものを買った鳩時計……それが恋人とわかれてしばらくたったある冬の夜ふけ、人気《ひとけ》の無い部屋で、かうかうと啼きはじめるのを聞いて、女は突然、過ぎ去った日々と、わかれた人の事がよみがえってくる。あの時、ペアで買った鳩時計の一つも、今、はるか冬の夜空の彼方の、かつての恋人の部屋で、同じ時刻を告げているだろう……。
窓際をはなれた女は、すぐ席へもどらず、手を胸もとに組みあわせるようにして、古びたシャンデリアを見上げていた。
――昔恋しきシャンデリア……
ではじまる三番を思い出していたのだろうか……。
「でも……おどろいたわ……」ふっ、と溜息をつくように、女はつぶやいた。「まさか、あなたが、あの詩を御存知だったとは……」
「ぼくも少し、おどろきました……」彼は、香り高いドラムビュイをみたしたリキュールグラスに手をのばしながら、かるく肩をすくめた。「あなたが……まさか……」
「あんな昔の詩、おぼえていらっしゃる方がいらっしゃるとは……まして、殿方でねえ……」女は優雅に腰をおろしながら、ほほえんだ。「あれは女の子の――それも、ずいぶん昔に埋もれてしまった小唄≠ンたいなものでしょう?」
「あなたもやはり、あれをどなたかとご一緒にお求めになったんですか?」
彼は眼の隅で、壁の鳩時計をとらえながらきいた。
女の白い頬に、かすかな翳《かげ》りがうかんだ。
「あなたの曾《ひい》おばあさまも?」
「そんな事を言っていました……」彼はうなずいた。「若いころ、恋人――というより、もっと淡い関係のボーイフレンドと銀座を歩いていて……。時計屋の店先で見かけた時、二人とも、あの詩を知っていることがわかったんだそうです」
「それで、その方とは?」
「さあ、どうなったのか――今いったように、恋人というほどでもない相手らしかったんですが、祖母の話だと、何でも、未亡人になってから、急にその人の事を強く思い出したらしいですよ。祖母の娘時代、ほこりをかぶったその時計をひっぱり出して壁にかけて、鳴く度に、今、あの人≠フ所でも啼いているのよ、って何度も聞かされたそうです」
「ずっとお年を召してからも?」
「ずっとかどうか――私があうようになった時は、もうだいぶ耄碌《もうろく》していましたからね。でも、隠居所の居間の壁には、鳩時計がかかっていました。一度こわれていたのを、父が何度もせがまれて、やっとなおしたんだそうです……」
「あなたも、曾《ひい》おばあさまの所で、その時計が鳴るのをお聞きになったのね?」
「ええ……。なり出すと、やっぱりいいました。――今、あの人≠フ所でも……ってね。もうその人は、曾祖母の四十代に、ずっと遠くの土地で死んでしまった事を、知っていたはずなんですがね……」
女の顔はなぜか青ざめていた。――美しくそろえた指先をあわせて、そこにできた三角形の頂を、じっとみつめるようにした。
美しい女性だった。
年齢は三十三、四歳だろうか? ややおちくぼんでいるが、眼が大きく、頬骨が心持ち張り、鼻筋が通って高く、臙脂色に光る唇は大きく、形よく、全体の印象は気位が高そうに見える。しかし、ほほえみをうかべると、何とも言えぬあでやかさが浮び上って、思わず惹きつけられる。服装も立居ふるまいも、いかにも「磨きぬかれた」という感じで、いささか演技的にさえ見えた。――そういえば、昔、舞台に立った事もあるとか聞いた。
「あの鳩時計には、あなたもやはり……」
と、彼はさめかかったコーヒーをふくみながら、女の方を見ないようにしてきいた。
「ええ……」女は眼をすえたまま、かすれた声で言った。「四年前……私の場合は、その人と別れる時に……」
女は、思い出をふり切るように、また立ち上って窓際へ行った。――片手を髪に、もう一方の手を腰にあて、カーテンの間から夜空を仰ぎ見たポーズは、一幅の、アール・ヌーヴォ調の絵のようだった。
「|船乗り《ヽヽヽ》などと、恋をするもんじゃないわね……」
ふっ、と自嘲の笑いをもらすように、女は言った。
「激しい恋だったようですね……」
彼は細巻葉巻《シガリロ》を吸いつけながら、さりげなく言った。――女のむき出しのなめらかな肩が、ぴくっ、とふるえた。
「ええ……激しい――って言えるかも知れないわね。お互い、すごく意地っぱりだったから、最後は、二人とも全然ゆずらなくて……。彼は、船長の妻として一緒に船に乗れっていうし、私は絶対に舞台はすてないってがんばったし……」
「で、最後ははなばなしく……?」
「いいえ……。お互い、意地っぱりですもの。――表面は、あつあつの恋人同士のように、仲よく店で買って……笑いながら、手をふってわかれたわ」
「それきり?」
「半年の間に二度、旅先から手紙が来たわ。――読まずに破いてしまったの……。その時まだ、私は意地をはってたし……。でも、二年目には私の方から二度、便りをしたわ。――でも、返事はなかったの……」
彼は、もう一度、壁の上の鳩時計を見上げた。――ごくかすかに、振子の動く音がきこえる。が、振子は飾りで、時計そのものは、このごろのすべての時計がそうであるように、バッテリイと水晶発振器で動いているのだろう。
唐草模様の針は、十一時七分前をさしていた。
「ペアで買ったもう一つの時計――彼が船にのせて行ったんですか?」
「ええ――船長用の個室の壁に、かけていたわ。出航の時、見送りに行って、ちゃんと見たの……。花をいっぱい持って行って、わざと陽気にふるまって、みんなの前で派手にベーゼして……二人とも、最後の意地の張り合いだったのね。彼は……すごい真剣な眼つきで、このままおろさないって言い出したんだけど……。私は、家で、この鳩時計が待ってるからって、はぐらかして……」
「出航のあとで泣きませんでしたか?」
「泣けなかったの。――それが腹が立って、彼に買ってもらった帽子、無茶苦茶にふみつけたわ……」
「でも、愛してたんでしょう?」彼は細巻葉巻《シガリロ》を灰皿にもみ消しながらつぶやいた。「ひょっとしたら、今の方が、もっと深く……」
女が体をかたくするのがわかった。
「さて……」と彼は立ち上った。「そろそろおいとまします。……お茶に呼んでくださって、ありがとう……」
「待って!」突然女は、おびえたような叫び声をあげた。「どうかもう少しお待ちになって!――もうしばらくの間、私を一人にしないで……」
「どうなさったんです?」激情にかられてか、土気色の顔をして、ぶるぶるふるえている女を見つめながら、彼はきいた。「何かあったんですか?」
「彼が帰って来たの……」女は唇をふるわせながら、かすれた声で言った。「今日の夕方、船がはいったのよ……」
で?――と聞きかえそうとして、一瞬、彼は事態を悟ったような気がした。
女の、大きく見開かれた眼は、壁の上で、かすかな音をたてて、振子をゆらめかせている鳩時計の文字盤に、ひたとすえられていた。
二本の針は、今まさに、十一時をさそうとしていた。
――女は、|何か《ヽヽ》を待っている。おそらくは、「彼」からの電話を……。
※[#歌記号]冬の夜ふけの十一時……。
もし、「彼」が、まだこの部屋にあるのと同じ鳩時計を持っており、そして、今もなお、|あの詩《ヽヽヽ》をおぼえていたら……。夜の十一時を告げる鳩時計の声とともに、四年ぶりにかえって来た港にいる昔の恋人の事を、そして、鳩時計をそろいで買った時の事のすべてを思い出したら……。
――彼女は、「賭け」をしているんだな。
と、鳩時計を見上げながら、彼は思った。――「彼」が、まだ、彼女との心の絆《きずな》を保っているか……。「彼」が、まだ彼女の事を想っているか……。夕刻入港なら、いろんな手続きその他は、午後九時半ぐらいまでにすむだろう。そして、夜ふけの十一時……、「彼」が、一人になった時、鳩時計の啼く声を聞いて……。
きりきり、……と、時計の内部で、何かが捲き上るかすかな音がしはじめた。――その音は、静まりかえった室内の、息を飲むような雰囲気の中で、異様にはっきりとひびいた。そして、文字盤の上の、小さな窓が、ぱたりと観音開きに開くと、中から白い小鳩が顔をつき出した。
――ペッポウ!……
と、大きな鳩笛が、室内にひびきわたった。――女は堪えかねたように、はっと顔を伏せ、両手で耳をおおった。
鳩は、可憐な、しかしどこか剽軽《ひようきん》な声を、つづけざまにひびかせた。
その時、部屋の隅から、かすかにすんだ、金属音が起った。
「電話です……」
と、彼は女の方をふりむいて言った。
女は、窓際で凍ったように立ちすくんでいた。――顔色は死人のようにまっさおだった。
「あなた……あなた、出て……」
女は、ひきつったような声で叫んだ。
「あなた、お出なさい……」彼は芝居じみたジェスチュアをした。「彼≠ゥらの電話かも知れない……」
女は、はじかれるように電話の方へ走った。――鳩時計はまだ、啼きつづけている。
「もしもし、津田ですけど……」と女は上ずった声で叫んだ。
「あなた……あなたなの?……え?」
女の手が口もとに上った。――そのままの姿勢で、ふいに女はふらふらとたおれかかった。
彼はすばやく女の背後にかけよって、体を支えると同時に、床にぶつかるすれすれの所で、電話機もつかんだ。――片腕で女の体を椅子によりかからせると、もう一方の手をのばして、電話の画面を、個人通話用から、拡大スクリーンに切りかえた。
「どうしました?」
と、画面にうつった中年の男は心配そうに、画面からこちらをのぞきこんだ。男のいる所は、煌々《こうこう》と明りのついた小ぢんまりした、部屋だった。――男の背後の壁に、女の部屋にあるのと同じ、鳩時計がかかっていて、今、十一時の刻を告げているのが、こちらの部屋のそれと、わずかにずれてきこえてくる。
「ショックで気を失った……」と、彼は画面にむかってこたえた。「何を言ったんです……」
「この部屋の主が|死んでる《ヽヽヽヽ》……」中年男は明らかにあわてた調子で言った。「殺されたらしい、と……」
「織部じゃないか!」ふいに、相手に気がついて、彼は叫んだ。「そこはどこだ?」
「山路か?――君はいったい……なぜ、そんな所にいる?」織部警部補もおどろいたように、画面の中で眼を見はった。「ここは、今朝帰投した調査船白鳥″の船長個室だ。――死んでいるのは、船長だ……」
その時、彼の背後で、ぱたり、と小さな音がした。――啼きおわった鳩時計の鳩が、窓にひっこみ、扉がしまった音だった。画面の中にうつる、白鳥号の船長個室内でも、ほんの一呼吸おくれて、番《つが》いの鳩時計が啼きおわり、ヴィデオフォンの画面を通じて顔を見あわせている男たちの上に、一瞬静寂がおちて来た。
「君は、彼女と前から知り合いだったのか?」と、織部警部補はきいた。
「いいや――五日前、彼女の斜め向いの部屋に越して来たばかりだ。その時、あいさつはした……」と山路は肩をすくめた。「昨夜、十時ごろ、突然電話がかかって来て、お茶でも飲みにいらっしゃいませんか、とさそわれたんだ……」
「彼女の部屋から?」
「そうだと思うな……。いや、そうだ――。画面がアップでよく見えなかったが、たしかうす暗い、天井の高い感じの部屋で、壁に鳩時計らしいものが見えていたから……。グリーンがかった部屋着らしいものを着ていたな……」
「で?」
「うかがいます――と返事したら、支度しますから、二十分か二十五分ほどしていらして、と言った。それで、十時二十五分ごろ、部屋をノックした……」
「一人で待つのがつらかったんだろうな……」と織部警部補はつぶやいた。「ずいぶん意地っぱりの女性だったが――やはり、船長の事を……」
「今度は君の番だぜ……」と山路は顎をしゃくった。「彼女とは前からの知り合いなんだな?」
「一時は、まあ、船長の代役って所さ……」と警部補は、にんまりと笑った。「――でも、まあ、柄に無いって事はすぐわかった。何しろ、スカーレット・オハラの役で当てたほこり高い女優の相手に、汚れ仕事の警官はむかんよ」
「で、君は、レッド・バトラー役の船長とも知り合いだった……」
「そっちの方が古い。高校が同じだった」
「二人の仲の取り持ち役でもやったのかい?」
「そんな事のできるカップルじゃなかったよ。どちらも、芯に火の出るようなエゴティズムを持っていて……。がっぷり組んだ横綱相撲さ。ぺえぺえの出る幕はなかった」
山路は細巻葉巻《シガリロ》に火をつける。――織部警部補にもすすめたが、彼は首をふった。
「君は、なぜ、船長の所へ行ったんだ?」
「午後十一時ジャストに、船へ来てくれってメッセージがあったんだ。――船長から……」
「いつごろ?」
「午後十時ごろ……」
「その時、船長と電話で話したのかい?」
「いや――メッセージは、署の方へテレックスではいった。おれは帰宅していたが、署から電話で知らせて来た。――すぐ、白鳥号の方へ電話を入れてみたが、交換は船長は明朝までノー・コールです≠ニいうテープがまわるだけだった」
「おかしいな……」と山路は煙のあとを眼で追いながら、眉をひそめた。「なぜ、署の方へ、メッセージしたんだろう?」
「四年の間に、おれは二度住所をかわったからな――。最初の電話番号だけしか知らなければ、局の自動案内も、教えてくれんだろう……」
「としても、なぜ、テレックスをつかったのかね?」
「さあ――。しかし、局でしらべてみたら、船長個室のテレックスは、明らかに十時ごろ、署につながれている。それに同じころ、間ちがい電話が一度かけられている」
「君の、前の番号か?」
「さあ――そうだと思うがね。間ちがい電話は、通話先が記録されんからな……」
「君は十一時少し前に、船へ行った。――乗組は全員十時すぎにはおりて、自動|当直《ワツチ》だけ……。個室のドアは?」
「鍵はかかっていなかった……」警部補はぐるりと椅子をまわした。「船長は、ベッドの上にあおむけにたおれていた。ねている所をうたれたらしい。一目見て、死んでいるのがわかった。凶器はレーザー・ガン、心臓を一発だ……。死亡推定時刻は十時前後、部屋の中には格闘のあともなかった……」
「乗組が、船長を最後に見たのは?」
「午後九時五十分に、事務長と、航海士と、最後の乾盃をしてわかれたのが最後だ。かなり酔ってたそうだ――そのあとまっすぐ、個室の方へおりて行くのを乗組の一人が見ている……。帰投の晩は、彼だけは上陸せず、個室で一晩寝るのが、彼の長年の習慣だそうだ。――何か、ジンクスでもあるのかも知れないが……本質的に、彼は、孤独な男なんだな、家族もなし……」
「到着直後は、新聞やテレビに、もみくちゃにされてたから、つかれたんだろうな。例の……あのチャーミングな……」
「T・セテイの|王 女《プリンセス》≠ゥ?――あれはすごいヒットだな。まさか、今度の航海であんな事が……」
「ぼくもテレビで見た。――すごく可憐だったし、船長も、なかなかのナイトぶりを発揮してたじゃないか……」山路は細巻葉巻《シガリロ》をもみ消した。「もう一つ――君は現場で殺人を目撃して、どうしてすぐ、彼女の所へ知らせたんだ?」
「むろん、第一報は署へ入れたさ。義務だものな。……」警部補は、もうだいぶ薄くなった頭を、そっとなでながら溜息をつくように言った。「――実は、昨日の午《ひる》ごろ、町で彼女にあったんだ。白鳥号が着くね≠チて言ったら、そうなのよ……≠チて、ひどくおちつかない風だった。ひどく興奮し、動揺しているのは、古い交際だから、すぐわかった。それから、しばらくあれこれ、昔の事を話した。彼女は船長との事を、すごく気にしているようだったが、話したくないようでもあった……。迎えに行くんだろう?≠ニきくや、いや! 私の方からは絶対に行かない!≠チて、きっぱり言うんだ。――何しろ、依怙地《いこじ》だからね。でも、やっぱり気にしてたんだな。わかれしなに、すがりつくように、おれにこう言ったんだ。もし、あなたおあいになったら、どんな具合だったか……健康そうか、どんな人になってるか、あとでぜひ聞かせてね≠チて!……」
「迎えに行かない――って言ったのかね?」と山路は首をひねった。「でも――行ったような気がするね。あの、船長の|王 女《プリンセス》がおりてくる時のテレビを見てたんだが……観客の波の中に、ちらと彼女の顔を見たような気がする……」
「行ったかも知れんが、会っていない事はたしかだな……。何しろ係官と報道陣、それに弥次馬にとりかこまれて、会うどころじゃなかったろう」
「そりゃ、じっとしていられなかったかも知れないな。何しろ、住んでる所から、ほんの二、三十分の所だからな……」山路は、じっと考えこむ眼つきをした。「群衆の間から垣間《かいま》見て……そして家へかえり、沸《わ》きたつ心をおさえて、じっと待った……」
「何を?」
「彼の電話《ヽヽ》をさ……」山路は帽子をとって立ち上った。「到着の大さわぎや、いろんな事務処理が終って、船長が個室へひきこみ、午後十一時、鳩啼時計《ヽヽヽヽ》が、船長の部屋と、彼女の部屋とで、同時《ヽヽ》に啼きだす時を……」
「鳩啼時計《ヽヽヽヽ》?」と警部補は聞きとがめた。「妙な言い方だな。あの古めかしいやつはたしか、鳩時計って言うんじゃなかったか?」
「彼女の場合は、鳩啼時計《ヽヽヽヽ》さ、絶対に……」山路は、手で警部補をうながした。「そのわけは、むこうへ行く途中で話そう」
「どこへ行くんだ?」
警部補は立ち上りながら、不審そうな顔をした。
「船長の個室は、まだ監視がつけてあるんだろう?」と山路はドアに手をかけながら言った。「ちょっとたしかめたい事があるんだ……」
「お会いしたくありませんの……」と女はドアを細目にあけて言った。「気分が悪くて……」
「お手間はとらせませんから……」と、彼はおだやかに、しかし、断乎《だんこ》としてひかぬ物腰であった。「織部警部補も一緒なんです」
女はあきらめたように、二人を中に招じ入れた。――今夜、彼女は、黒いシャンタン・シルクの長いドレスを着、唇には紅もひかず、青白い、やつれた顔をしていた。
「喪に服していらっしゃるんですね……」
山路は、あの天井の高い、古風な客間へ通りながら、ちょっと沈痛な調子で言った。
女は返事をせず、壁際の鳩時計の下に立った。――二人に椅子をすすめもせず、用件は立ったままで聞こう、という姿勢だった。
「十時三十五分……」と、山路は鳩時計を見上げて言った。「昨夜の今ごろは、ここで、しずかに、おしゃべりをたのしんでましたね……」
「御用件はなんですの?」と女は固い声で言った。
「ちょっと申し上げにくいんですが……」山路はちらと警部補の方を見た。
「あなた以外、無いと思うんですがね……」
「なにが?」
「船長を殺したのが、です……」
部屋の中に凍るような沈黙が流れた。――鳩時計の、ささやくような振子の音だけが、いやに高くひびく。
「ひどいことをおっしゃるのね……」と、女はつぶやいた。「彼≠ェ死んだのは、昨夜の十時ごろって、ニュースで言ってましたわね。ちょうどそのころ、私はあなたにおさそいの電話をさしあげたはずですわ。この部屋から……」
「たしかに、この部屋からのように見えましたがね……」と、山路は室内を見まわした。「グリーンの部屋着をお持ちですか?」
「ふだん着ています。――昨夜、お電話さしあげた時、それを着ていました」
「船長の部屋にあったのは、ライトブルーでした……」と、彼はうなずいた。「しかし、あなたは、舞台のベテラン女優だし、テレビドラマにもお出になっていた……。船長の部屋にあった、アンバーの壁灯か何かをうまくつかえば、照明効果で、ライトブルーをグリーンに見せられない事はない、と思うんですがね……。あの部屋は、たしかにここよりずっと天井が低いが、明りを消し、スタンドをつかって、あの部屋の鳩時計をぼんやり浮び上らせさえすれば、この部屋に見せかけられない事はない……」
「あなたは、かかって来たヴィデオフォンを、いちいち録画なさるの?」と女は唇を曲げて言った。
「いや――残念ながら……」と山路は首をふった。「ずいぶん短い通話でしたから……ひょっとしたら、先方確認のための、局に通話登録されない、十五秒間をわざとつかって、おかけになったのかも知れない。織部君あての、署へのメッセージは、あの部屋のテレックスをお使いになったんでしょう。電話だと、女だという事がわかるから……」
女は、傲然とした表情をしていた。――何を言っても、馬鹿気た話と聞きながして何一つ受けつけない、といった顔つきだった。
「レーザー・ガンは、どこか途中でおすてになったんですか?――今、警察の方でさがしていますから、いずれ見つかると思いますが……」
「なぜ、私が彼を……」
女はふっと窓の方へ眼をやった。――カーテンの間から、今夜も凍てついた空に光る星と、小さな月がのぞいている。「私は、彼を、愛していたのよ……。彼と、あんな別れ方をしたけど、時がたつにつれ、あの人以外、本当に愛せる人がいない、という事が痛いほどわかったの。だから、昨夜も……あの人が、あの鳩啼時計《ヽヽヽヽ》が十一時を知らせる時に、二人であれを買った時の事と、|あの詩《ヽヽヽ》を思い出して……電話してくれるかと……」
「|だから《ヽヽヽ》――殺したんでしょう? 傷ついた愛と、傷ついたあなたの誇りのために――激情が、愛を、瞬間的に怒りにかえる……。あなたの当り芸の役所《やくどころ》だ……」
「誰か証人でもいるの?――その時刻、船で私を見た、という……」
「残念ながら……」と警部補が口をはさんだ。「白鳥号は検疫もチェックもすみ、晩におしかけた乗組の家族が十時すぎの全員下船までうろうろしていたし、船内のあちこちで、酒を飲んでどんちゃんさわぎしているのもいたし……。女性も何人かいたようですが、|あなた《ヽヽヽ》を見かけた、というものはいません……」
「あなたの顔を知っているものは、乗組にもいましたがね……」と山路がひきとった。「四年前まで、白鳥号が繋留《けいりゆう》されている時、あなたは時々、夜こっそり船長の個室へいらっしゃったそうですね。――あまり人眼につかないはいり方も、御存知だったようですし、あの個室の合鍵《ヽヽ》も持ってらっしゃったそうですね……」
「失礼して、弁護士を呼ばせていただきますわ」そう言ったが、女は壁際に腕を組んだまま、動こうとしなかった。「こちらは、お仕事でしょうから、質問もしかたがないでしょうけど、あなたは名誉毀損にできるわよ。――今おっしゃった事、こじつけとロジックの綱わたりばかりで、何一つ、積極的な証拠にならないじゃないの……」
「その通り……」と山路はうなずいた。「今までの話は、あなたにも犯行ができないわけではない、というだけの話です。――しかし、どうしても、あなた以外の人が考えられない、という点もあるんです……」
山路はちょっと鳩時計を見上げた。――とたんに、女の顔は紙のように白くなった。
「実は、あの部屋に、船長のはめていた腕時計をふくめて、時計が五つありました。そのうち、|二つ《ヽヽ》をのぞいて、あとの三つは、ことごとく時間が狂っていました。正確な時計の一つは、船内全部と連動している部屋に備えつけのものですから、これはのぞくとして、四つの船長の私物の時計のうち、三つが、ことごとくきっちり一時間十七分《ヽヽヽヽヽヽ》おくれていたんです。すべて、水晶発振か原子時計でした……。ところが、私物のうち、ただ一つだけ、正確な時刻をさしていたのが、あの鳩啼時計《ヽヽヽヽ》です……」
山路は、小さく、失礼、といって細巻葉巻《シガリロ》に火をつけた。――女は塑像のように動かなかった。
「相対時差《ヽヽヽヽ》、というものを御存知なかったですか?――御存知でも、あの時あなたは、そんな事、思い出しもしなかったかも知れない……」山路は細巻葉巻《シガリロ》をくゆらしながら窓際へ行った。「動く物体上の時間は、静止している物体上の時間にくらべて、|おくれる《ヽヽヽヽ》という現象です。ふつうの車ぐらいのスピードでは、何億分の一秒というくらいで目だちませんが、スピードが速くなればなるほど大きくなる……。宇宙探索船白鳥号の今度の旅は、太陽系外の彼方にあって、有意味信号らしいものを発している電波源をつきとめる事だった。――私には、どのくらいのスピードでそうなったか、計算できませんが、その電波源、つまり、|くじら《ヽヽヽ》座|Υ《タウ》星の漂流宇宙船と接触し、あのチャーミングな王女《プリンセス》を救出して、かえってくる間の四年間の航行中、あの船内の|すべて《ヽヽヽ》の時計が、一時間十七分おくれていたんです。――船内業務用の時計の相対時差は、法規通り、木星軌道通過時に修正されましたが、船長は、部屋の掃除係にも厳命して、私物の時計は、相対時差のまま――つまり一時間十七分おくれたままにしておいたそうです。四年間の、はるけき時空の旅の記念《ヽヽ》のつもりだったんでしょうね。九時十五分ごろは、まだ、あの鳩時計の時刻が、当地時間に修正されていない事はわかっています。事務長が船長にたのまれて、あの部屋の酒をさがしに行って、見つけて出ようとすると、壁で突然、鳩時計が鳴りだした。びっくりしてふりかえると、八時《ヽヽ》をさしていた、と言ってます。ところが、それからわずか十五、六分しかたたない九時半ごろ、あの個室前の通路を、船からひき上げる乗組が二、三人通ったんですが、その時、個室の中で、かすかに鳩時計が|いくつ《ヽヽヽ》も鳴るのをきいています。――そのままなら、八時の次は八時半で、|たった一つ《ヽヽヽヽヽ》鳴るはずですがね――」
女は、依然として、しっかり立っているポーズをとっていたが、よく見ると壁にもたれかかり、立っているのだった。
「とすると――その時、|誰か《ヽヽ》が、時計をあわせていた、としか考えられません。船長の個室にはいって、わざわざそんな事をするのは、一体誰でしょうね?――船長はその時、上で事務長たちと酔っぱらってました……」
女の体が、壁にもたれたまま、ずるずると床にくずおれた。
「もう一つ、蛇足をつけくわえれば――あなた、昨夜、あのエレガントなロング・ドレスの下に、ブーツをはいておられましたね。裾さばきがおみごとで気がつかなかったが、あの電話でたおれられた時――あるいはたおれる演技をなさった時、ちらと見て、ふしぎな思いをしました。あなたほどのベストドレッサーが……。私に声をかけてから二十五分《ヽヽヽヽ》も余裕があったのに……。おそらく、私に電話をし、とんで帰ってこられて、ブーツをぬぐひまもなしに、上から急いでドレスを着てしまったんでしょう。話が、あんなにのってしまわなければ、合間を見て、奥ではきかえられるおつもりだったかも知れませんが……」
「あの、よその星の女を見て、かっとしたけど、殺すつもりはなかったのよ……」女は弱々しい声で、すすり泣くように言った。「あの人に会えば……愛をとりもどす自信はあったわ。でも、人目につかないようにあの人の部屋へはいった時……あの鳩時計が、|動いているのに《ヽヽヽヽヽヽヽ》、一時間以上おくれているのを見て、あの人、時計が狂ってもあわせもせずほったらかしにしといたんだな、と思ったら、また、かっとして――そのあと無茶苦茶に悲しくなったの……。ぶっこわして、とび出そうかと思ったけど、あれを手にかけたら……ひょっとして、この時間のおくれをなおせば……また、愛がもどってくるんじゃないかと思って――馬鹿な事をしてしまったわ……」
「レーザー・ガンは、持って行ったんですか?」警部補はかがみこみながらきいた。
「あの人がベルトにさしていたの……」
「で、九時五十分ごろ、船長が帰って来た。それで?」
「私、あの時計の下に立っていたの――。そしたら、はいってくるなり……お前は何だ? おれの部屋で何してる、って……どなるの。私よ≠チて、私つくり笑いをうかべて言ったわ。この時計ずいぶんおくれてたのね。なおしておいたわ≠チて……。そしたら、猛烈な勢いでつきとばされて……。おれのものに、よけいな事をするな!――何て事をしてくれたんだ≠チて、わめいて、それからベッドにひっくりかえって、……私、カッとなって、彼のはだけた上着の間からのぞいていた、レーザー・ガンをとって……」
警部補がそっと立って、ドアの所へ行き、外へ合図をした。
「殺《や》ってしまってからの、頭の働きはすごかったですね……」と山路は、そっと額の汗をぬぐいながら言った。「さすが、舞台に上ったら、どんな行きちがいでもりっぱにきりぬける、と言われた、度胸満点の評判だけある……」
「あの時計の時刻を、|そのまま《ヽヽヽヽ》にしてあった事は、彼にしてみれば、かえって思い出を大切にしていた事になったんじゃないかな……」と警部補は戸口の所から言った。「ちゃんと、出航の時のままに、壁にかけてあったんだし……」
残酷な事を言うな!――というように、山路は手をふった。
「連れて行け……」とはいって来た二人の警官に警部補は言った。
「気をつけて……」と、山路は言った。――自殺させないように、という目配せもまぜて、「少し休ませてからの方がいいかも知れん……」
「それにしても、ああいう女性の神経はわからん……」女が警官に連れられて出て行くと、警部補は、ふうっ、と溜息をついた。「もと愛人を殺しといて――君をお茶にさそったのはアリバイ工作だとしても、おれに十一時にあそこへ行けとメッセージをよこしたのはどういうつもりだ? 死体の発見は、ふつう、おそかれとねがうもんだが……」
「わからん事もないよ……」山路は窓際へよって、二本目の細巻葉巻《シガリロ》に火をつけた。「演技と現実――というより、彼女の演劇的情熱がくみたてた|ドラマ《ヽヽヽ》と現実とが、二重うつしになっているんだ。むしろ、現実こそ|ドラマ《ヽヽヽ》に添うべきだ、と思ってたんじゃないかな?――彼女の事をもとの仲間にきいてみたが、個性は強烈だったが、演出家とはもちろん、劇作家とさえ猛烈に衝突するんで、とうとう芝居ができなくなった、というが――彼女の理想は、芝居の作者兼演出家兼主演女優なんだ。鳩時計――いや鳩啼時計《ヽヽヽヽ》の、あの昔の詩人の詩《ヽ》に、別れの行為をなぞらせる。そして――再会のドラマは、彼女がこれはすばらしい場面《ヽヽ》だわ、と思いこんだ通りになされねばならない。昔の恋人の船が帰りついた夜、わきたつ思いをじっとおさえて、古めかしい室内で待つ。表面は、エレガントに、客との会話をあやつりながら……。と、思い出の鳩啼時計が、あの詩の中に出てくる時刻にかうかうと啼きはじめる。その時、電話が鳴る……。四年あわなかった恋人の方も、同じ時刻、思い出の鳩啼時計が啼くのをきいて、はるかな恋の思い出の彼方に、失われた愛が、またよみがえるのを感じたのだ……」
「舞台裏で、たとえバトラー船長が殺されちまっても、|電話の場面《ヽヽヽヽヽ》はとにかくやりとおすってわけか?」警部補はほろ苦く笑った。「なるほど、大女優だ。舞台に立ったら、絶対穴をあけない……」
「君も傍役《わきやく》ながら、名演技だったぜ。――なにしろ間≠狂わせなかった……」
「馬鹿を言うな……」と警部補はむくれて見せた。「だけど――主演男優の急死のあと、彼女はにわかに芝居を恋愛劇からミステリー・ドラマに変更したのかも知れんな。もし、今夜のこの結末も、彼女が頭に描いた|ドラマ《ヽヽヽ》の筋書きの一部だとしたら……ちゃんと喪服を着てたしさ……」
その時、突然室内に、音高く、鳩時計の啼く音がひびきはじめた。――十一時だった。
山路は、ふと、女の事を思って、言いようもない哀愁におそわれた。
――運命《さだめ》は恋を割きたれど
心は常に君と住む
それは、女の一方的な思いこみだったのだろうか?――ひょっとすると、それは、かつて地球上《ヽヽヽ》にだけ、人間が住み、男女の恋の変転があった時代にのみ、通用する思いこみだったのではないか? 何兆キロもの荒涼たる暗黒の虚空への旅が、男の心を根底から変えてしまう事はないのだろうか?
――かつて、地上に人々がある時、運命がいかように人々を遠くへだてようとも「時」は……「時」のみは、へだてられた人々の上に、ひとしなみにきざみ行くものだった。深夜、時計の鳴る音をきき、月の輝くのを見ては、今、同じ時刻に、へだてられた人も、同じ時刻を知らす時計の音に耳をかたむけ、同じ月を仰いでいると思う事ができた。――そして、そのひとしなみな時の鏡をなかだちとして、はるかへだたる異郷の人の上に、思いをはせることができた。
だが、宇宙へと人の営みが拡大された時、この「時の鏡」もひきさかれてしまった。――あの孤独な、情熱的な女性が、深夜、人気《ひとけ》のない古びた部屋で、鳩啼時計の啼く声に耳をかたむけながら、|同じ時刻《ヽヽヽヽ》に、はるかな恋人のもとで啼く番《つが》いの時計の事に思いをはせても、高速で闇をとぶ宇宙船との間では、「同じ時刻」というものが、もはや意味をなさなくなってしまう。――文明が「相対時差」にふれ出したこの時代には、かつてはあれほどまでに強固なものと思われていた「恋の絆」さえ、ひきさかれ、奇妙にねじられてしまうのだ。
――鳩啼時計かうかうと
冬の夜空に呼びかわす
静まり返った室内から、凍てついた夜空へむけて、鳩啼時計はなおも呼びつづけた。――彼女がなおした、あの「船長の鳩時計」も、今、主なき部屋で、声高くこたえているだろう。だが、二人の恋人たちの間に失われた、一時間十七分《ヽヽヽヽヽヽ》という時の差は、もはや永遠にかえってこない。むろん、悲劇に終った二人の恋も……。
失われた主をよぶ如く、失われた恋を慟哭《どうこく》する如く、啼きつづける鳩時計の声の吸われていく夜空に、火星の二つの三日月が、星のようにかそけくかかっていた。
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幽 霊 屋 敷
「残念ですが……」
と言って、おれはデスクの上の数冊のファイルを、客にむかっておしかえした。
「これは、ちょっと私の手に合いそうもありません。――率直に申し上げて、大変手間がかかりそうです。今、ひきうけている事件が二つほどあるんですが、これが解決するまでは、とても並行しておひきうけするわけには行かないようです……」
「あなたをたよりにしていたのじゃが……」と、老人は、しわだらけの顔を、一層くしゃくしゃにして、ぼそぼそつぶやいた。「矢坂警部は、わしの親戚の知人でな……。親戚が、あの警部なら顔がひろいから、と言うて、紹介してくれ、警部は、こういう事なら、あなたが、と……」
「矢坂警部とは、私も古い知り合いです……」
あの野郎……くそったれ警部――こんな面倒で、セコい仕事をおしつけて来やがって、ただじゃおかない……と、おれは腹の中で、呪いの言葉を吐きながら、顔だけは、いんぎんで、深刻な表情をつくってみせた。
「ですから、私としては、できるだけお力になりたいのですが……何分にも、今申しあげたようなわけですので……」
ちっぽけで、見すぼらしい老人が、気の毒に思えない事はなかった。
だが、一年以上前の「事件」を、もう一度はじめから洗いなおすのは、いささか億劫《おつくう》だった。――それも、殺人事件とか、何か大陰謀でもからんでいそうな事件なら、まだ個人的な興味もそそられたかも知れない。
しかし、これは単なる失踪事件だった。何なら一種の「蒸発事件」といってもいい。老人の、たった一人の孫が、山の中で行方不明になった。――ただそれだけの話なのだ。たしかに、ざっと見た所、いささか奇妙な所はあった。が、つまる所は、二十三歳の学生が、ハイキングだかオリエンテーリングだかに出かけて、消えてしまった、というしごく単純な事件なのだ。
それに、老人のもって来たファイルの記録を見ると、行方不明になった土地の、地元警察が、周辺の聞きこみをふくむかなり克明な調査をやっていた。消防団や、林業関係者をたのんで、丹念な山狩りまでやっていた。むろん、そのあと、その土地から、全国へかけて、「失踪人捜査」の手配がおこなわれ、新聞、ラジオからテレビまで使って、「尋ね人」の広告を執拗にくりかえしていた。――ファイルの二冊目には、おれの同業者を何人も使った調査の報告が、びっしりつまっていた。
これだけ綿密かつ大がかりな調査がやられてしまったあと、おれに何ができるというのだ。
おれは、つみ上げたファイルを、もう二、三センチ、むこうへ押しやって、デスクのむこうの老人を見つめた。――ちっぽけなじいさんは、しがみかすのニッキの棒のように、見すぼらしく、しおたれた恰好で、脚のがたつく椅子に、しょんぼりすわっていた。おそろしく時代がかった灰色の中折れ帽は、正面のとがらせた角に小さな穴があき、フェルトはどす黒い斑点だらけで、黒いリボンには、大昔のしみが、白っぽい粉をふいてこびりついており、縁《フリル》は波をうって垂れさがっていた。もとはモス・グリーンだろうが、今はグレイにちかいほど、やけて色のさめてしまったラグランオーバーの袖の所はすり切れて糸目が見えていたし、袖ボタンは、右が二つ、左が一つとれ、左のもう一つは、糸がのびて、今にもおっこちそうにぶらぶらしている。三つぞろいの茶の背広は、生地はいいものらしかったが、仕立てはおっそろしく大時代で、襟《ラペル》はへちま襟みたいだし、チョッキにまでラぺルがついているという珍しいしろものだ。銀色の不精鬚《ぶしようひげ》のはえた顎から、しぼりあげた茶色の紗《しや》のカーテンみたいに垂れさがるしわだらけの皮膚のまん中に、とがったのど仏がとび出し、これも織り目がすけそうなよれよれのワイシャツの襟まわりはもう一つぐらい頭がはいりそうなほどだぶついており、襟の折りかえしは、一昔前のプロシャ貴族の髭《ひげ》のように、波うって先がぴんとはね上っている。その襟もとに、手垢でぴかぴかになったネクタイが、くしゃみ一つでほどけそうにゆるくまつわりついている。――埃《ほこり》だらけで、泥がこびりついていびつに歪んだどた靴が、床から爪先をうかしていた。
じいさんは、膝の上に後生大事に、茶の皮鞄をのせていた。――これもすごいしろもので、すり切れた皮が、細く裂けている把手《とつて》の片方は、金属環がなくなって包装につかう麻縄でしばりつけてあった。真鍮《しんちゆう》の留金具は緑青《ろくしよう》がふき、鞄の皮は、まるで重症の皮膚病にかかったみたいに、びっしりひびがはいって表皮があっちこっち大きくはがれ、四隅がすり切れて、指のはいりそうな穴があいている。
――あの鞄の中にゃ、きっとアルミの凸凹の弁当箱が、木綿のハンカチにつつまれてはいっているんだろう……と、おれは思った。――麦四分米六分、おかずはひじきと油揚げを煮たの、蒲鉾《かまぼこ》を醤油で煮たのに、高野豆腐って所か――ほかに梅干し一つ、じいさん、前歯が二、三本ぬけてるから沢庵《たくあん》ははいっていまい。かわいそうに、息子夫婦は死んだというし、たった一人の孫がいなくなっちまったので、老後のためにとっておいた田地田畑、家も財産も、何もかも、これまでの捜索にみんなつぎこんじゃって――それで、こんな尾羽《おは》打ち枯らした恰好をしてるんだろう……。
その見すぼらしさに、同情は禁じ得なかったが、こっちだって生活は守らなきゃならない。――危ない橋を渡って、それで台所は火の車だ。まるで綱わたりのようなやりくりの連続で、一つまちがえば、こっちだって、このじいさん同様で尾羽打ち枯らした恰好になって、ベンチにならんですわり、じいさんの麦四分の弁当を、浅ましい眼つきでのぞきこむ事になるかも知れない。
それにしても、こちらが首を横にふった時の、老人のしょげ方は、いたましいかぎりだった。――絶望のあまり、このままかえしたら、行きだおれにでもなるんじゃないか、と心配になるほどだった。
だが、ここは心を鬼にするほかなかった。――こんな面倒な、手のかかる仕事を迂闊《うかつ》にひきうけたら、それこそおまんまの食い上げになって、こちらが行きだおれになりかねない。じいさんは、それでも鞄の中に弁当でも持っているのだろうが、こちとらと来た日には、昨夜おそく、屋台のラーメンを食っただけで、朝はぬき、もう一時間ほどで午《ひる》になるが、|つけ《ヽヽ》の昼飯にありつくために、角の珍々軒の娘を、業《ごう》つく親爺の眼を盗んでもう一度だけ秘術をつくしてまるめこめるかどうか、まことに危い瀬戸際なのだ。明日はいくらかでも話のまとまりかけている仕事の手付けでもはいるはずだが、まかりまちがってキャンセルでもされたら、こっちが行きだおれになりかねない。不人情なようだが、こっちが生きのびるためには、じいさんが行きだおれになるのを、涙をのんで眼をつぶらざるを得ない。――何しろ向うは老年《とし》だ。阿弥陀様だって、「順番」という点については心得ておいであそばされるだろう……。
「あの……」老人は、なお未練がましく、すがりつくような哀れっぽい眼でおれを見て、鞄をなぜた。「費用の事なら……」
「費用の件は別にして、何しろ、今言ったようなわけですので……」おれは、やんわりと手で制した。「まことにお気の毒ですが……」
――どうしても、だめですか……。
と、口の中で蚊の鳴くような声で言って、老人はしおしおと立ち上った。――おれは、心を鬼にして、老人から眼をそらし、壁にかかった、去年の十二月のカレンダーを見つめた。雪の中で、寒いだろうに、可愛子ちゃんがビキニ姿でスキーをやってころんでいるカラー写真がついているが、もうすっかり褪色して、端がひんめくれていた。今年のカレンダーは誰もくれず、といって古いカレンダーをはずしてしまえば、下から矢坂警部の横顔に似たにくたらしい壁の|しみ《ヽヽ》があらわれるのでそのままにしてある。
――費用の事なら……どのようにしてでも、何とかいたしますから……と言う老人のせりふはわかっていた。といって、あの恰好で、今金を持っているわけはなく、さっき聞いた話では、トルコ風呂に身売りして、前借金を手に入れてくるような娘もいないようだ。あの腰つきじゃ、銀行へ押し入ったり、タクシー強盗をやるのもおぼつかない。調査費を|つけ《ヽヽ》にされた日にゃ、こっちの|つけ《ヽヽ》がパンクしちまう。――悪く思わないでおくんなさいましよ……。と、おれは背後で弱々しくしまるドアの音を聞きながら、腹の中でつぶやいた。――老少不定《ろうしようふじよう》、お孫さんの事は、縁が無かったとおあきらめなさい。人間、年をとったら、あきらめが肝心ですぜ。どうか迷わず成仏しておくんなさい。南無頓証菩提《なむとんしようぼだい》……。
デスクの隅で、電話が鳴り出したのは、老人がドアを閉めて三十秒もたたないうちだった。
反射的にのばしかけた手を、もう一方の手でぐっとつかんで、おれは電話機をにらみつけた。この電話は果たして吉か凶か……。へたにとりあげると、借金取りと応対しなければならない。半年前のバーのつけは、この間からすごみのきいたお兄さんたちのやっている、取り立て屋にまわっている。マージャンのつけが二件あり、六人の友人から金を借りっぱなしにしており、そのほか、十数件の|つけ《ヽヽ》が、じりじり焦げついている。
「電話はホットメディア」というマックルーハン理論や、ビルの一室にたてこもって警官隊と派手な射ち合いをしながら、その部屋に新聞記者からかかってきた電話にでてしまっつたギャングの話などを思いながら、おれは電話のべルが、五回鳴るのを身をかたくして聞いていた。六回目に、もう一度鳴ったら出ようと思い、七回目をききながし、八回目に、今度で終わるだろうと思い、九回目には、全身が|おこり《ヽヽヽ》にかかったようにふるえ出し、十回目が鳴り出した時、とうとうたまりかねて手をのばした。
「社会福祉事業団でございます……」
と、おれは鼻をつまんで言った。
「もしもし……」と受話器の底で矢坂警部の声がひびいた。
「何だって?」
「ああ、老人福祉関係でしたら番号がちがいます。五四八の……」
「高林老人は、そっちへ行ったか?」と警部はかみつくような声でどなった。「昨夜、アパートの方へ、電話をしろ、というメモを入れておいたろう?――なぜしなかった?」
「この電話は、もうだいぶ前から、受信一方で、こちらからかけられなくなった、と、メモを入れておかなかったかい?」とおれは言った。「あと一週間もすりゃ、電話機も持ってかれちまうんだ。――電話局へ、滞納料金をふりこんでくれるかい? 恩に着るぜ」
「公衆電話があるだろう……」
「昨夜、最後の晩餐の時、屋台のラーメン屋に五円まけてもらったんだぜ。――親爺ァ同情してくれたが、タクシーの運転手やホステスどもの笑いモンになっちゃった。今朝だって、朝飯も食わずに、アパートから事務所まで歩きよ。六キロあるんだぜ。――ここへ来てから、服のポケットに穴があいてて、裏地との間に、五円玉一つおちこんでるのを見つけたが、まだとり出してないんだ」
「いい年しやがって、何だってそんな、書生っぽみたいな、身も蓋もねえオケラになるんだ?」警部はとうとう癇癪玉《かんしやくだま》を破裂させて、べらンめえ口調でわめいた。「たしなみってものがあるだろう!――まじめにかせいでりゃ、そんな鼻血も出ねえからっけつになるわけは……」
「これで、まじめに必死にかせごうと努力はしてるよ。昨夜だって、眼付きの鋭いやつ三人の眼をかすめて、半チャンに二度も積みこみを敢行したんだぜ。ばれたら、腕の一、二本もおっぺしょられる所だったのを、体を張ってやったんだ。大三元二度もテンパリながら、敵は二度とも親の国士無双と、四暗刻中単騎でくずしやがんの。ありゃどう見ても、三人組んでやがったにちがいない。――善良な市民が、必死になって、身の危険をかえりみずかせごうとしてるのに、あんな無法なインチキをのさばらせといていいのか? この国の警察ァ税金をつかっていったい何をやってるんだ? コイコイか?」
「うるせえ!」警部は破《わ》れ鐘のような声でわめいた。――だいぶ煮えてるらしかった。「今の話、テープにとって、違法賭博の自供にしてやってもいいんだぞ。――そんな事より、高林老人はどうしたんだ? 行ったのか、行かねえのか!」
「その事についちゃ、こってりお礼申し上げたいよ。御親切なこったね。――何かい? このごろ警察じゃ、老人福祉を、赤貧洗うがごとき素寒貧《すかんぴん》の市民におっかぶせるのかい? 名誉なこったが、生憎《あいにく》こちとら慈善事業じゃねえんでね。今日明日、眼の色かえて走りまわらなきゃ……」
「ことわったのか?」警部の声には、おどろきのひびきがくわわった。「あの仕事を?」
「アタ棒よ――気の毒とは思ったがね。ほんとに真から同情して、あぶなく泣いちまう所だったが、こっちだって生きなきゃならない。今日明日、仲間うちにたのんでまわしてもらう事になってる仕事で金が前借りできるかどうかの瀬戸際だ。涙をのんで……」
「おい待て……」と警部はさえぎった。「じいさん、費用の事何か言わなかったか?」
「言いかけたがね。ま、聞くのは野暮、聞けばまた同情心が粘りついて、そいつをひきちぎるのに往生するのは眼に見えてたんで、おひきとりねがったよ。――なあ警部さん、何度も言うようだが、こっちゃァ足もとに火がついて、水が鼻ン所まで来ちゃってるんだ。何カ月先に、いくら払ってくれるんだか知らないが、|つけ《ヽヽ》で溺れかかってる人間に、また|つけ《ヽヽ》の重石をせおわそうってのかい? そいつァヒューマニズムに反するってもんだぜ。あのじいさん、どうやって金を工面する気か知らねえが、見た所、身につけてるもので質草になりそうなものは一つもねえ。良くてチリ紙交換行きさね。血を売ろうたって、水気がなくてカサカサだし……それとも、あんたがたてかえようってのかい?」
「ばか……」突然警部はひややかな嘲笑《あざわら》うような調子で言った。「お前は素寒貧のくせによっぽど欲の無い奴だな。欲が無いだけじゃなくて、運もないんだ。その調子じゃ、とてもオケラからうかび上れそうもない。人がせっかく、窮状をそれと無く察して、実力の三倍ぐらいにも売りこんでやったのに――ああ、それならいいよ。借金取りに火あぶりにされるなり、腕二、三本おっぺしょられて、重りつきで水雑炊《みずぞうすい》食わされるなり、好きなようにしろ。一一〇番で泣きついたって、保護してやらんからな。捜査は死体が上ってから、それも初動をなるべくゆっくりやってやる……」
「ちょっと!」おれはあわてて電話機をにぎりなおした。「待ってくれ。切らないでくれよ。切られちまうと、こっちからはかけられないからな。――何だか、ちょいと気障《きざ》な事を言ったな。おれに運が無いのはわかってるが、|欲が無い《ヽヽヽヽ》てのは、どういうわけだ?」
「あのじいさんも、今朝、署によって、おれのお前あての紹介状とメッセージを持って行くようにって言ったのに、一人で直接行っちまったんだな……」と警部はぶつぶつ言った。「何が老人福祉だ。何が慈善事業だ。――あのじいさん、そんなもの、うける方じゃなくて、自分であれこれやってらあ。あれで、土地、山林、ビルなどわんさと持って、現金、証券あわせて資産ン百億と言われる大金持ちだぞ……」
「|なんだって《ヽヽヽヽヽ》?」おれの声は思わず上ずった。「そんな――そんな金持ちが、なぜあんな……行きだおれの一歩手前みたいな恰好をしてるんだ?」
「妙なじいさんでな。――現金《げんなま》を、自分で持ち歩く時ァ、わざとあんな恰好をするんだ。あのボロ鞄じゃ、ひったくりだって、とる気はするまい。鞄だけじゃない。腹の胴巻きにも……」
おれはその時、警部の言葉を、ほとんど上の空できいていた。――あのじいさん、もう行っちまったか、と思って、ちらと窓の外を見ると、老人は、鞄を胸にかかえ、とぼとぼと、ビルの前の道を横切って行く所だった。その老人にむかって、道のちょっと離れた所から、黒ぬりの大型車が、すうっと動き出した。車が老人の横にとまると、制服制帽の運転手がおりて来て、うやうやしくドアをあけ頭をさげた。
「もしもし!……もしもし!……おい、大杉!――聞いてるのか?」
と耳から自然にはなれた受話器の向うで、警部がわめいていた。――が、おれはそんな事かまわず、電話機を台にたたきつけた。老人の乗りこもうとしている車が、ロールスロイスだとわかったからだった。
三階分の階段を、どうやってかけおりたかほとんど記憶になかった。――ひょっとするところげおちたのかも知れない。ビルの出入口から道路へとび出すと、黒ぬりのロールスロイスは、角を曲って、スピードを早めようとする所だった。おれは百メートル十秒フラットのダッシュでその前にまわりこみ、フェンダーにぶつかりそうになりながら、斜め前に大手をひろげた。巨大なロールスロイス・ファントムVは、かなり加速していたにもかかわらず、ブレーキ音をひびかせず、ふわり、という感じでとまった。
「待ってください!」おれはまるで無人のように見える後部座席をのぞきこみながら叫んだ。
「たった今、電話が二本はいりました。――どうやらおひきうけできそうです」
老人が何か言ったらしく、後部ドアがすっとあいた。特注で、自動開閉装置がつけてあるらしかった。――ぴかぴかに磨き上げられた、オークとチェスナット、踝《くるぶし》のうまりそうな真紅のカーペット、といったインテリアに度肝《どぎも》をぬかれながら、おれは、五、六人がむかいあわせに、ゆっくり脚をのばしてすわれそうな後部座席にはいりこんだ。高林老人は、あの見事にみすぼらしい恰好のまま、どっしりとした、ふかふかの皮張りのシートの上に、ちょこんと埋まるように腰をかけていた。
「一本は仲間から、一本は矢坂警部から……」おれはぐっしょり汗をかき、息を切らしながら言った。「同業者からは、仕事が一つキャンセルになった、と言って来ました。素行調査をたのまれていた人が、にわかに死んだので……。矢坂警部からは、こっぴどく叱られ、こんこんと言われました。おれの顔をたてて、全面的にこっちの仕事にうちこめって……」
「おう!――それでは、ひきうけてくださるのか……」老人は、しわだらけの顔をぱっと輝かせると、突然おれの手をにぎってはらはらと涙を流した。「ありがたい……。これで、わしも気がすむ……あんたにやってもろうて、それでだめだったら、わしも孫の事をあきらめますわい。……あんたがひきうけてくれなんだら……わしはやけになって、自分で死ぬまでやってみるつもりじゃった……。さあ、これは礼金の手付けじゃ……。すぐにも仕事にかかってもらいたい。費用がかかるなら、何ぼでも言うてもらいたい」
おれも老人の手をにぎりかえしながら、不覚にもはらはらと涙を流し、ついでに体ががたがたとふるえ出すのを感じた。――老人の、しわ深い小さな手と一緒ににぎりしめた札束の厚みは、どう見つもっても、軽く百万円はこえていた。
すぐその日の午後から、調査の支度にかかったが、事は厄介だった。
まず、麻雀の借金二件と、飲み屋、バー、食物屋、その他もろもろの|つけ《ヽヽ》借金を、グランドスラムみたいに総仕舞いし、アパートとオフィスの滞納をきれいにして、アパートの電話をとりかえし、電話局の係の横ッ面を札ビラでひっぱたき、オフィスの送話の方を回復させた。――それから、同業に電話して、しけた有閑《ゆうかん》マダムや、成金事業家の素行調査の下働きなど、したくてもできるか、と啖呵《たんか》を切り、服と時計を質から出して……これでざっと六十万円あまりつかってしまった。
だが、厄介なのは、そちらの事ではなかった。金なら、礼金の前渡しとか規定料金、それに成功報酬は別にして、調査の実費はいくらかかってもかまわない、と高林老人が言ってくれたのは、涙がこぼれるほどうれしかったが、いくら財政的にゆとりのある調査であっても、事件そのものの厄介さがへるものではなかった。
事件は、単純すぎるくらい単純な「失踪事件」だった。――しかも、高林家が、先祖代々すんでいる地方で起こったので、高林家の「威勢」がものを言って、地元警察やいろんな団体は、それこそ、「なめるような」調査をやっていた。おれ以前にも、同業者が三組、警察と並行しての調査に投入されていて、それでも何の成果もなかったのだ。
これだけ精密に、大がかりにしらべつくされて、なお結論が出なかった事件を、もう一度たった一人でしらべなおして、解決できそうな自信はなかった。――矢坂の旦那が、ピイピイのおれを救おうと、一生懸命老人に推薦してくれて、老人が藁《わら》をもつかむ思いで、おれを過大に信頼してくれるのはありがたいが、厖大《ぼうだい》な調査書類の山を、手はじめにひっくりかえしながら、おれは早くも、老人から金をしぼりとれるだけしぼりとって、どろんをきめこむ事を考えていた。
もっとも、今度ずらかったら、矢坂警部は、本気になって全国指名手配をやるだろう。とすると、外国へでも逃げなきゃならないが、おれは外国生活があまり好きじゃない上、三日に一度は屋台のおでん、夏なら枝豆でビールを飲みたくなる。――となると、職業上のほこりや、友人との信義と言った問題は別にしても、この事件から、当座逃げるわけには行かない。おれはあきらめて、書類のファイルを、隅から丹念に読んで行った。
「事件」の経過を、かいつまんで言うとこうなる。
ざっと一年と一カ月前、つまり一九七×年の九月中旬、N県有数の素封家、高林亮吉老人の孫、幸雄君二十三歳は、大学の友人たち五人と一緒に、同じN県下にある山岳地帯に、三泊予定の山登りに出かけた。
山登りと言ったって、体があまり丈夫でない上、高林老人の掌中《しようちゆう》の玉だった幸雄君は、谷川岳の自殺登山のような無謀な事をやるわけはなく、えらんだK山も、高さは二千数百メートルちかくあったが、山容はおだやかで、危険はほとんどなく、登山というより「山歩き」むきだった。――中腹まで自動車道路が上っており、千三百メートルぐらいまでホテルやユースホステルがあり、上の方には山小屋もあった。
九月十九日の午前、高林家に集った一行は、正午ごろ列車にのって、二時間ほどの距離にあるK山山麓の駅につき、そこからバスで一時間十分ほどかかって、海抜千メートルの所にあるユースホステルについた。その晩は、そこにとまり、ほかの若者たちとキャンプファイアなどかこんで、大いに楽しんだらしい。――幸雄君は、坊ちゃん大学で知られている私立S大学の経済学部四回生、一緒に行った五人は、ほとんど高校時代の友人で、そのうち三人は、幸雄君と同じS大の四回生と三回生、そのうち一人は女性である。あとの二人は、同じ高校出身で、K大法学部四回生と、T美大のデザイン科三回生で、K大生の恋人格の女性である。
翌二十日、午前九時半ごろ、一行六名はユースホステルを出発して、K山八合目にある山小屋にむかった。途中、沢わたりや、尾根歩きをふくむ十六、七キロのコースで、ゆっくりしたプログラムである。
午後一時少し前、一行は、六合目あたりの沢で飯盒炊飯《はんごうすいはん》をやっている。昼食をすませて、出発したのは午後二時十五分ごろだった。
そこから一行は、低い草と潅木《かんぼく》におおわれたなだらかな斜面を、さらに上方にむかってのぼって行く。午後三時二十分ごろ、斜面で十分ほど小休止――ここからそろそろ「問題の地点」にさしかかって行く。午前中晴れていた空は、午後から曇りがちになり、一行の行く手に霧が出はじめていた。だが、まだそんなに濃くはなく、空をあおぐと、霧を通してにぶく太陽が見えた、と一行の誰彼は証言している。秋分前の午後三時半の日は、まだ充分高く、その晩の宿泊予定地である八合目の小屋へは、午後五時すぎにはゆっくりつけるはずだった。
霧が出はじめたので、小休止を短か目に切り上げ、一行は最後の行程にかかった。――小休止地点は、草と低生潅木におおわれた、なだらかな尾根で、そこから斜めに山頂方向へむかっておりて行き、谷間《たにあい》の落葉樹林をぬけて、さらにむこうの尾根をこえると、山小屋へまっすぐむかう山道に出る。山道は、二つの屋根のずっと裾の方を大きくまわりこむように迂回しており、そちらをたどれば、距離も二倍以上になるし、何よりも、「山歩き」のたのしさが味わえない。
尾根と尾根との間に斜面にそってほそ長くのびている落葉樹林は、幅二百メートルから二百五十メートルほどだった。山頂方面へは、次第に樹高が低くなってつづいているが、下の方は、尾根の間にスプーンのようにくぼんだ湿地帯で切れている。一行が、この幅せまい樹林帯をつっきったのは、湿地帯から七、八百メートル山頂よりのあたりだった。
一行のうち、幸雄君をふくむ三人は、このコースを前に二、三度たどって、よく知っていた。――K山そのものには、ほとんどが高校時代からのぼっており、幸雄君と、もう一人、泉谷という青年は、そのコースを行くのが四度目だった。
これといった道のない山腹斜面でも、ハイカーや登山客のふみかためた小径が、おのずと形成されるものである。――斜面をおりるにも、また樹林を横断するにも、一行はその径をたどった。ちょうどその時は道をよく知っている幸雄君が、先頭に立っていた。一行中の美大の女子学生が、山歩きになれていなかったので、後尾におくれ気味になり、六人の隊列は前後三十メートルぐらいにのびていた。――美大女子学生の恋人だった、K大生は、おくれがちな恋人についてゆっくり歩き、しきりに二台の小型一眼レフで写真をとっていた。写真部の彼は、霧の山腹の写真をものにしようと思った、と言っている。
尾根と尾根との間の樹林にそって、山頂部から、かなり濃い霧がなだれおちて来ていた。太陽は、もうほとんど見えなくなったが、それでも、樹林にはいるまでは、最後尾から、先頭を行く幸雄君の姿が、ぼんやりと見えていたという。
樹林にはいると、中は夕方のように薄暗くなった。――木立ちの間を霧が流れ、数メートル前を行くものの姿も見失いがちだった。一行は声をかけあって、木立ちの間の小径を進んだ。先頭の幸雄君が林にはいったのが三時四十五分、最後尾がはいったのが五十分ぐらいだった。
一行全員が林の中にはいって、数分進んだ時、突然地震が起った。――木立ちがふるえ梢《こずえ》がざーっとなったので、一同は思わず立ちすくんだ。そんなに大きな地震ではなく、最初は一、二分でやんだ。一同がまだ立ちすくんでいると、一番先頭を行っている幸雄君が、何か叫んでいるのが、霧のむこうからきこえた。幸雄君は、二番目の青年と二十メートル以上はなれており、その姿は霧にかくれて見えなかった。一同が歩き出そうとすると、また地震がおそって来た。最初の地震との間隔は二分から二分半ぐらいであり、今度はかなり長く、三分ぐらいつづいてとまった。
この地震は、K山山麓の測候所で記録されており、九月二十日午後三時五十三分から五十四分二十秒まで、さらに五十六分五十秒から四時〇分七秒まで、二回、地震計に記録されている。震源地は、K山中腹の地下数十キロと推定される局地性|浅発《せんぱつ》地震で、有感範囲もわずか十数キロ四方、山腹で震度U乃至《ないし》V、山麓でT乃至U、マグニチュードもせいぜい2・5程度と推定された。――K山は第四紀の中ごろ活動した火山であり、この山の下部を震源とする小型の局地性浅発地震は、近代以前から過去何十回も記録されていて、一種の名物にさえなっている、という事である。
地震が終って、まわりに静けさがかえって来た。幸雄君をのぞく一行は、梢から震動によって降って来た雫《しずく》にすっかりぬれてしまったが、別に怪我もなく、また歩き出した。立ちどまった二番目の泉谷青年に、あとの四人が追いつく恰好で、林にはいってからちょうど百メートルぐらいの所でかたまっていたが、先頭を行く幸雄君の姿だけが、霧にかくされて見えなかった。それでも、つい二、三分前に、前方から何か叫んでいるのがきこえたので、一同は別に気にする事なく、前方に口々によびかけながら、なお林の奥へ進んでいった。
声がきこえたとおぼしき地点まで来たのに、幸雄君が見えないので、一同はちょっと心配になって、前方にむかって、今度は大声でよびかけながら、やや足を早めた。
霧の向うから、こちらのよびかけに対して、応ずるような声をきいた時は、一同はほっとした――と、泉谷青年はじめ、のこりの四人も警察の調べに対して述べている。五人は、勢いを得て、さらに口々に霧の向うにいる|はず《ヽヽ》の幸雄君にむかってよびかけながら進んだ。
ところが、ほんの数十秒もたつうちに、その声が、幸雄君のものでない事を、ほとんどの者が気づいた。――前方から、次第に近づいてくるのは、何人かの男の声で、その中に幸雄君のものはまじっていないようだった。
地震のあと、霧は急速にはれ出しており、樹林の中にも、斜めに日がさしこみはじめ、うすれ行く霧の中から、何人かの登山姿の男たちの影が近づいてくるのが見えた。――これが、T市登山会のメンバーのうち、竹村氏と言う三十六歳の会社員をリーダーとする四人で、あと六人のメンバーが、数百メートルおくれてつづいていた。竹村氏をはじめとするT市登山会の一行十人は、幸雄君たちと逆方向に、K山の反対側のやや難路をふくむ登山口からのぼり、裏側七合目の山小屋で一泊して、その日の午後頂上をきわめ、その日の晩、一行の半分は四合目の国民宿舎にとまり、半分は夜行にのって、T市に帰る予定で、下山にかかっていたのである。
当然の事ながら、泉谷青年ほか四人は、先に行った幸雄君とすれちがわなかったか、と竹村氏に聞いた。――しかし、竹村氏のパーティは、誰一人、すれちがわなかった、と断言した。さっきの地震の時は、竹村氏たちも林にはいってわずかな所だったので、しばらく立ちどまっていた。その最初の地震と、次の地震との間の二、三分の間に、前方の霧にとざされた林の奥から、誰かの若々しい声は聞いたような気がする、と四人のうちの三人がこたえた。
林の中は、小笹の下生えが脛《すね》半ばぐらいまで生えていて、その中を、登山客たちのふみならした道が、ややうねりながら走っていた。――林にはいってから幸雄君は、その道をまっすぐたどっており、一行もそれを追い、T市登山会の四人も、反対側からその道をたどって来た。幸雄君の慎重で几帳面な性格から見て、途中で道のない小笹の中をまわりこんで行く、という事はほとんど考えられない、と泉谷青年は言っている。
それでも一行は、T市のパーティが、深い霧のたちこめた、うす暗い林の中で、すれちがったのを見落したのかも知れない、と思って――道は細く、また小笹の中を歩けば音がするはずであり、そんな事はほとんど考えられないのだが――竹村氏に礼を言ってわかれてから、先を急いだ。一行が出あった場所から、七十メートルほどで林が切れた。霧はもうすっかりふきはらわれて尾根のむこうに白く低くかかっているだけであり、向うの尾根へのぼる草の斜面に、かたむいた陽があかあかと照っていた。そこで見わたしたが、斜面の上に幸雄君の姿はなく、かわってT市登山会のメンバーの残りの六人が、斜面をおりてくるのが見えた。
泉谷青年たちは、口々に、幸雄君の姿を見かけなかったか、ときいた。――T市の人々は六人とも首を横にふった。心配になった泉谷青年たちは、林の中にひきかえし、あちこち手わけして大声でよび、最後の声の聞えたあたりをT市の人々もしばらく一緒にさがした。だが、幸雄君の姿は見えず、返事もなかった。
日もかげり出し、一行には足弱もいたので、泉谷青年は、とにかく一たん探すのをやめ、八合目の小屋にむかった。小屋には予定より一時間おくれて、六時ごろについたが、万一と思っていた幸雄君の姿はそこにもなかった。――しばらく待ってみたが、幸雄君はあらわれず、山小屋の番人に、山麓の派出所へトランシーバーで連絡し、高林家へも連絡をたのんで、翌朝早く捜索隊を出してもらう手配をつけた……。
以上が「事件」のあらましである。――そして言うまでもなく、二日後、三日後に、大々的な捜索がはじまったのに、幸雄青年の姿は、生きたままでも、死体になっても発見されなかった。――ただ一つ、「消えた」とおぼしき場所の、林の間の小径からわずか二メートルほど離れた小笹の下に、幸雄君のかぶっていた薄茶色の登山帽が見つかった。現場の遺留品としては、それだけだった。帽子には、別に血もついていなかったし、何の変った所もなかった。一行の中で、幸雄君のすぐ後を歩いていた泉谷青年は、林にはいる時、幸雄君がかぶっている登山帽をぬいで、手に持つのを見たような気がする、と言っている。
どっちにしても、その帽子が小笹のしげみの間におちたあたりで、二十三歳の青年がふいに消えてしまった事はたしかだ。二つの小地震の起った間のわずか二、三分の間、霧にかくれて姿は見えなかったが、幸雄君は|そこ《ヽヽ》にいた事はたしかだ。後から歩いていた泉谷青年たち五人も、前方から山を下りて来た、T市登山会の四人のうち三人も、はっきりと幸雄君のような声をきいている……。
「こりゃ、小生の手にあいそうにないよ」とおれは言って、三冊の重いファイルを、矢坂警部の机の上にどさっとおいた。「要するに神隠し≠チてやつだな。――拝み屋か、霊媒にでもたのんだ方がよさそうだ……」
「高林のじいさんが、もうたのんだとしたらどうする?」警部は、ファイルをじろりと見て、煙草をくわえた。「五人《ヽヽ》もだ。――それが、どう言ったと思う? 五人とも、幸雄君の霊は、霊界には|いない《ヽヽヽ》とさ……」
「じゃ、おれは、霊媒、拝み屋の見はなしたあとをひきうけたのか?」
おれは、警部の煙草を一本とって口にくわえ、もう一本をとって胸のポケットに入れた。
「みみっちいまねをするな!」と、警部はどなって、おれの胸ポケットの煙草をとりかえした。
「今じゃふんだんに調査費をつかえる身だろうが――。この間、お前の留守にオフィスへたずねた部下が、カミュのナポレオンが二本もあるのを見て来てるぞ!」
「ありゃ、じいさんからの贈物よ」おれはダンヒルのライターを出して火をつけながら言った。「ま、ゆるしてたもれ。――何しろ長年のピイピイ生活で、情けないくせがついちまったんだ……」
「そのライターも、高林老人の贈物か……」おれが火をつけてやる手もとを見ながら、警部は眉をしかめた。「ちょっと聞くが、礼金の前渡しだか、手付けだかもらって、いくらつかった?」
「うう……」おれは煙草の煙が眼にはいったふりをして横をむいた。「まだいくらも使っちゃいない。ちょいと七十万ばかり……」
「このファイル三冊、読むだけにか?」警部は、ぐいとファイルをこっちへ押しやった。「これで手をひいたら、詐欺現行犯でしょっぴいてやるからな。――本当にやるぞ」
「わかったよ。――まだここで手をひくつもりはないよ。いろいろ手のつけ方を考えてんだ」
「まあ、あまり焦るこたァないんだぜ」と警部は椅子にそっくりかえって顎《あご》をしゃくった。「ゆっくり、気がすむまでやんな。高林老人には、時間がかかる、と言ってあるんだろう?――ところで見通しはどうだ?」
「まだ何もない……」
「事件そのものをどう思う?」
「神隠し≠セな……。それ以外の何ものでもない。唯一つ、似た事件が外国であったのをおぼえている。デヴィッド・ラング事件≠セ……」
「どんな事件だ、そりゃあ……」警部は、興味をそそられたように体をのり出した。「最近の事か?」
「いや、ちょいと古い。一八八〇年だから、もうかれこれ百年ちかい。――所はアメリカ、テネシー州のガラティンという街から数キロはなれた、デヴィッド・ラングという男の牧場だ。日付は九月二十三日、天候は晴れ、時間は午後をちょっとまわったところだ……」
それからおれは、ざっと説明してやった。
――デヴィッド・ラングの牧場は四十平方キロもあり、ひろびろとして、眼をさえぎる岡も、木立ちもなかった。家の前庭でラングの二人の子供が遊んでおり、公道からラング家へはいってくる長い小道を、知人のオーガスト・ペック判事とその義兄が、馬車で近づいて来た。晴れた空から、さんさんと初秋の陽がふりそそいでいた。
ラング自身は、家から出て、牧場の方へ馬を見に行こうとし、先方からくる一頭だての馬車と、家とのちょうど中間あたりの柵の所にいた。家の戸口で、それを見たラング夫人が、マーケットがしまらないうちに、馬車で街へつれて行ってほしい、と声をかけた。
ラングは、その声を聞いて、懐中時計を見、
「二、三分でもどるよ」
と妻に返事した。
その時、夫人の前方であそんでいた子供たちが、近づいてくるペック判事の馬車を見つけて声をあげた。――子供たちと、馬車の間のあたりにいたラングも、気がついて判事たちに手をふり、ラング夫人も戸口の所で気がついて、手をあげた。
ラングは柵の所から家の方へひきかえすべく、身体をめぐらして、ほんの四、五歩歩いた。その地点で、彼の姿は|突然消え失せた《ヽヽヽヽヽヽヽ》。――明るい秋の日ざしが一ぱいにそそぐ、見通しのいい牧場の、家からわずかはなれた柵のちかくで……家の方からは夫人と子供たちが見ており、むこう側から馬車にのったペック判事兄弟が見ているちょうど真ン中で、彼の姿は空中にとけこむように消えてしまったのである……。
夫人は金切り声をあげ、馬車から判事兄弟がとびおりて、消えた場所へかけつけた。夫人と子供と判事たちは、ほとんど同時にその場へ到着して、草の上を見まわしたが、かたい石灰岩の大地は、平らで、草がはえている以外、おちこみそうな穴もなく、地面の凹凸《おうとつ》も、茂みもなかった。
「それで?」
と警部は爪をかみながら聞いた。
「それだけさ……」とおれは肩をすくめた。「鐘が鳴らされ、近所の人が集り、警官も来て捜査は夜っぴてつづいた。――ついには、郡の調査官までのり出し、牧場、農場、家屋のすみずみまでさがしたが、デヴィッド・ラングはとうとうそれきり見つからなかった。死体もね……」
「で――迷宮《おみや》入りか……」警部は爪をぎちぎちいわせた。「妙な話だ……」
「妙な後日談もあってね……」
おれは机の上の、警部の煙草に、そろそろ手をのばしながら言った。
「ラング消失の七カ月後、一八八一年四月のある夜、――二人の子供は、ちょうどラングの消えたあたりに立っていた。子供たちは、父親の消えた地点の草が、直径四、五メートルぐらいのリング状に、妙に黄色く、いじけた様に変ってるのに気がついていたんだ。で――その草の輪の傍に立って、サラという十三歳の姉が、そっと父親の名を呼んでみた。すると姉弟は、地の底ともつかず、空中ともつかず、どことも知れぬ所から、父親が、かすかに、苦しげに、くりかえし助けをよぶのをきいたって言う……」
「怪談でおれをたぶらかそうったってそうは行かんぞ」煙草にのびたおれの手を、ぴしゃりとたたいて警部はどなった。「そんな、百年も前の、アメリカのあやしげな話を報告書につけて、それでじいさんをごまかすつもりだったら――やっぱり詐欺罪でしょっぴいてやる」
「ごまかすつもりはないよ。――ただ、そういう話もあったっていうだけの事さ。でも、何となく、この事件と似てるだろう?」
「ごたくはいいが、お前はお前なりに、この事件の攻め方を考えてるんだろうな」
「牛を追いこみ、鳥がついばんだあとの落ち穂ひろいってとこから始めるよりしようがねえだろうが……」とおれはしぶしぶ立ちながら言った。「N県の、地元警察の誰かに、紹介状を書いてくれ、電話もしといてほしいな、今から車をとばしてみる……」
「お前――まさか、さっき乗って来た外車、買ったんじゃないだろうな」
警部は電話に手をのばしながら、ちょっと心配そうな顔をした。
「借りたんだよ。――今日び、BMWだってアルファだって、レンタカーがあるんだ」
N県F市――K山の山麓にある地方都市まで、高速道路に乗って二時間だった。パトカーなどにとっつかまると、また警部にカミつかれるので、おれはぐっとおとなしく、平均百二十キロ、時々百六十キロで走った。
一年前の捜索の主力になったF市警では、ほとんど新しい収穫はなかった。――そんな事は予期していた事だ。ざっと話をきいてから、おれは警察から営林署にたのんでもらって、ぼろジープをかりた。レジャー登山じゃなし、足の方は常日ごろ棒になるほど歩きまわってきたえていたから、今さら健康の事を考える気はなかった。営林署では、山道をのぼって、例の「消失事件」の起った林が尾根の間をのびている、その下端の湿地帯のあたりまで、ジープでのぼれる、という事だった。
おれは、地図をたよりに、湿地帯までジープでよじのぼり、そこからさらに四輪駆動で、林にはいる道の傍まで無理やりのぼった。斜面の草の間をおりてくる小径の先をたどり、林の中へはいって見た。
――ちょうど林の真ン中、幸雄君が消えた、と言われるあたりまでくると、何となく|いやな感じ《ヽヽヽヽヽ》がした。そのあたりで、若い元気な青年が、突然煙のように消えた、という奇怪な事件が起ったのが、一つの先入観念になっているせいか、と思って、おれはちょっと立ちどまってまわりを見まわした。ついでに、地面に地割れか何か走ってないか、と思って、まわりの小笹の間を足で払ってのぞきこんだ。
――だが、地面は、びっしりおおった笹の根と、茶色の腐葉土におおわれて、穴だの割れ目ちゃんだのという、オツなものは、薬にしたくもなかった。
おれは林をつっきって向う側へ出、斜面を見わたし、それからもう一度林の中をひきかえして来た。――さっき、|いやな感じ《ヽヽヽヽヽ》のした地点までくると、また、同じような、何とも名状しがたい「いやあな感じ」がおそって来た。
おれは立ちどまり、まわりを見わたし、梢を見上げた。――十月ももう終りで、木々の梢は、ほとんど落葉し、夕方の空がすけて見えた。その時おれは、自分の襟もとが、どういうわけか、そそけだつのを感じて首をひねった。
この場所《ヽヽ》で、感ずる、何とも言えぬ「いやな感じ」は、一体何だろう?――どういうわけだろう?
おれはもう一度ジープを駆ってF市へかえった。――ほとんど収穫はなかったが、とにかく、現場の土地カンだけは、何とかつかめたつもりだった。
その翌日から、根気のいる仕事がはじまった。――あの時、「現場」の林の中にいた、幸雄君の友人たち五人と、T市登山会の四人の一人一人に当って、もう一度、事件当時の話をききなおす仕事だ。
友人たちのほとんどは、もう大学を卒業して、あっちこっちばらばらに勤めていた。――T市登山会のメンバーはそれぞれ忙しい社会人だ。それに、警察に徹底的にくりかえしきかれたと見え、みんな一年以上もたって、またその話をむしかえすのは、うんざりだという顔つきだった。
「ああ、高林君の事ですか?――もう、すっかり警察に話しましたよ」というのが、みんなきまってかえってくる返事だった。「また話すんですか?――何度、同じ話をすりゃ気がすむんです?」
そっちは自身でひきうける一方、おれは同業者をアシスタントに使って――おお! ついこの間にくらべて、何という立場のちがいだろう! 人間、運が向いたら、どうころぶかわかったものではない――高林家の事情もひそかにしらべさせた。何しろ、高林老人は七十八歳という高齢だし、孫の幸雄君は、ン百億という資産の、ほとんど唯一の相続人だ。相続税はものすごいだろうが、それをひいたって、ン十億というものがころがりこむだろう。――親族もいるだろうし、とり巻きの有象無象《うぞうむぞう》の中に、馬鹿な気を起して、若い相続人を「消そう」なんて考えるやつがいないともかぎらない。
ところが、そっちの方はどうやら見込みちがいらしかった。――老人は、相続人がいなくなった場合、財産は一部を分配したあと、ほとんどを公共関係に寄付してしまうつもりで、遺書もつくってあるという。幸雄君が生きていれば、彼を理事長にして、財産の大部分で財団法人をつくる事になっている。その方が、「食える」人間は多いわけで、逆に幸雄君に死なれては困る連中の方が多いのだ。それに警察も、一応「殺し」の線もたて、動機になりそうな内情がないかをしらべていた。それでその結果は「シロ」のようだった。
そこで、あと、残されたのぞみは、鵜《う》の眼|鷹《たか》の眼、蚤取《のみと》り眼《まなこ》で、何か警察のききもらした事の中に、針のような鮮明な手がかりでもないかと、丹念に、根ほり葉ほり「落穂ひろい」をやるほかなかった。――そして、その役は、おれ自身がやるほかなかった。
書類を見ただけで、この「落穂ひろい」が楽でない事はわかった。――警察の調査は完璧《かんぺき》だった。問題の林は、現場から上と下へ、幅一ぱいにわたって、下は湿地帯が切れるまで、上は山頂溶岩丘の急斜面にぶつかるまで、前後四回も行なわれていた。幸雄君と一緒に林の中にいた九人が、「共謀」して偽証した、などという「幻の女」なみのアクロバティックな可能性も、九人の背景の調査は完璧にうちくだいていた。
にもかかわらず、おれは、ただ一筋の、解明の可能性につながるかも知れない、かすかに細い「落穂」にかけていた。――九人に一わたりあたって、それぞれ話をきいたあと、おれは某大学で精神生理学を研究している石原という旧友にわたりをつけた。彼は、催眠術をかけるベテランだし、催眠現象一般に通じている。おれは、九人の証人のうち六人に、何人かずつ、また一人ずつ石原の研究室にきてもらって、石原に催眠術をかけてもらった。
おれのねらいは、ただ一つ――あの事件が起った時、彼らが|何を《ヽヽ》見たか、|何を《ヽヽ》きいたか、だった。特におれは、両側からの視界をうばった霧の中で、幸雄君は、|何と《ヽヽ》叫んだか、をできるだけはっきり再現してみたかった。――このわずかな点にだけ、警察の綿密丹念な調査の中で、切りこめる隙《すき》がありそうに感じられた。
「ぼくは、林の中へはいって行きます……。高林君は、一人でずんずん先へ行ってしまって……霧が出て来て、彼の姿が見えない。あまり一人で先へ行っては困るんだが……」と、催眠状態に陥った泉谷青年は、頭を深くたれながらつぶやいた。「後尾の連中も……あまりいちゃいちゃして、おくれてもらっては困る。……幸雄君……彼はこの道はよく知ってるからいいけど……あッ!」
突然、泉谷青年は、恐怖の叫びをあげて、おろおろと立ち上がりかけた。
「どうしました?」
と石原が慎重に聞く。
「地震だ!――危ないぞ!……ゆれてる……立木がゆさゆさ……みんなかたまれ! 動いちゃだめだ……雫がおちてくる!……葉が……林がざわざわ鳴ってる。山がごうっ、と……」
「地震は終りました。――大丈夫です」と石原は、テープコーダーの録音音量をわずかにあげながら言った。
「ああ、よかった……。小さい地震だった……。時間も大した事はない。みんな無事だ。――幸雄君は……」
「幸雄君は、あなたの前、霧の中で見えませんね……」石原はしずかに言った。「でも、間もなく、前方から幸雄君の声がきこえてきます。――ほら……聞えてきましたか?」
「ええ……聞えて来ます。幸雄君の声だ。二十メートル……いや、もっと先かな? 何か、ぼくたちをよんでる……何か見つけたみたいだ……」
「幸雄君は何と言ってます?」助教授はやや押し殺した声できいた。「何を見つけたんですか?」
「ああ……よんでいます。――おーい……みんな来てみろよ……って言ってます」
「それだけですか?」
助教授はおれに眼くばせした。――|そこまで《ヽヽヽヽ》なら、警察の調書にものっているのだ。
「いえ……あと、まだ何か叫んでいますが……よく聞きとれません。――何と言ってるんだか……」
「よく、気をおちつけて聞いてください。次の言葉、何と言ってるか、わかりませんか?――あなたはおぼえているはずですよ。……耳の底にこびりついているはずです……」
「|ここに《ヽヽヽ》……」
催眠状態にある泉谷青年は、眼をつぶり、耳をかたむけ、必死になって、耳の底に残っている「叫びの残像」を読みとろうとしている様子だった。
「|ここに《ヽヽヽ》……と言っているようです。……|ここに《ヽヽヽ》……|こんな《ヽヽヽ》……」
「|こんな《ヽヽヽ》……何ですか?」
「あと、どうしても言葉の意味がわかりません。最後に……|何とか《ヽヽヽ》だぞう≠チて言っているようですが……」
青年はがっくりしたように首をたれた。――しばらく録音テープのまわるかすかな音が、しんとした室内にきこえていたが、青年からこれ以上聞き出すのは無理なようだった。
おれは、石原の肩をたたいてテープをとめた。
同じような、「催眠状態における聴覚像の再現」を、その時、幸雄君の声を聞いたという六人に次々にやってもらった。――だが、結局大した収穫はなかった。林の木立ちに反響して声が割れ、その上、濃い霧が音を吸収して、みんなの聴覚記憶像にのこっている幸雄君の「言葉」は、肝心の所がパターンがくずれてしまっているようだった。
だが、T市登山会のグループの方でも、警察からきかれた時は、思い出さなかった言葉を、かすかに思い出した人物がいた。リーダーの竹村氏のすぐあとを歩いていた、田久保と言うレコード会社の録音技師だった。オーディオに関しては、専門的に研《と》ぎすまされた彼の耳は、木立ちと霧でほとんどくずれてしまった幸雄君の「音声言語」の残像を――何しろ林の中でT市登山会のいた位置は、泉谷青年たちのグループと、幸雄君の消失地点との距離の、倍以上はなれていたのだ――何とかこういう具合に読み解いてくれたのだ。
……ここにこんな……|シキ《ヽヽ》があるぞ……。
前半の方は、泉谷青年がはっきり聞いていたが、田久保氏の方は、「声」は聞いているが「意味」はわからない、と言った。――思うに幸雄君は、最初の部分を、あとからくるグループをふりかえって叫び、後半を、眼前にある「|何か《ヽヽ》」を見ながら叫んだのだろう。――だから、後半の「言葉」は、前方からやってくるT市登山会のグループの方が、わずかでもはっきり聞えたのにちがいない。
二つのグループが別々に聞いた、幸雄君の叫びを、つなぎあわせて見るとこうなる。
オーイ……ミンナキテミロヨ……ココニ、コンナ……|シキ《ヽヽ》ガアルゾ……。
「|シキ《ヽヽ》」とは何だ?――先頭を行く幸雄君が、見た「何か」とは何だ? 幸雄君が「見た」ものが、道の両方からやってくる二つのグループに、どうして見えなかったのだろう? それとも、みんな「見ている」のに、「気がつかなかった」だけだろうか?
そして、幸雄君が、「シキ」というものを見た事が、彼の「消失」と関係があるのだろうか?
「聞いたもの」のつぎに、おれは九人のメンバーの「見たもの」について、同じように根気のいる「落穂ひろい」をはじめた。
だが、こちらはもっと稔りすくなそうだった。――何しろ、まだ落葉していない林の中で、濃い霧がたちこめていたのだ。九人に、はじめからこまかく当ってみても、警察の記録以上のものは、全然と言ってもいいくらい出てこなかった。
泉谷グループの中でただ一人、霧の中から幸雄君の声がした時、みんなからはなれて、ほんの三、四歩、声のする方へふみ出した青年がいて、彼はその時、前方の霧の奥に、うすぐろい、ぼんやりしたものの影を、見たような気がする、と言っていたが、その青年自身は、霧が動いていただけかも知れない、といって、本当にそういうものが|見えた《ヽヽヽ》のか、まるきり自信がないようだった。――彼の見たような気がした瞬間、「二度目の地震」がやって来て、彼はたちすくみ、地震が終ったあと、すぐ、みんなと一緒に前へ進んでみたが、木立ち以外、何もなかったのだから……。
「林の中で、写真をとったんだって?」
と、おれは、その時グループの最後尾にいた、当時K大四回生だった宇津木という青年にきいた。――彼は法学部を卒業したのに就職せず、プロのカメラマンになるつもりで、マンションをスタジオにし、恋人のT美大女子学生と同棲していた。
「ええ――まあ、半分機械的にシャッターをおして……林の中では五、六枚とったかな。でも、暗いし、霧で、ろくな写真はとれませんでした」
「カラー写真?」
「いや――小休止の時、霧が出て来たんで、カラーのはいっていたカメラをいそいでモノクロにつめかえました。トライXです――一台は、赤外フィルムを入れて、そのままでした」
「その写真に、何か、|かわったもの《ヽヽヽヽヽヽ》がうつってなかったかい?」
「警察が、フィルムをもってって、増感現像をやったんですが、何もうつってなかったようです。――ただもやもやして……」
「トライXと赤外と両方とったんですか?」
「ええ――赤外は、霞には強いんですが、霧の方はだめなんです。粒子が大きくなって、散乱がはげしくなって……」
「ネガと、引き伸ばしたポジはありますか?」
「ええ、これですけど……」
おれは、ネガを明りにすかし、四ツ切りぐらいにひきのばされたポジをながめた。――カメラはどちらも小型一眼レフ、開放で一・八、焦点距離50ミリのスタンダード・モータードライヴで、撮影条件は、それぞれのポジの隅にやきつけてある。
「ここに……何か見えるような気がしませんか……」
おれは、赤外線フィルムから焼きつけた印画と、トライXから焼きつけた印画を見くらべながら言った。――どちらも、時間は最初の地震の直後、泉谷パーティの|前方へ《ヽヽヽ》むけてとったものだ。
「ええ何となく……|何かの形《ヽヽヽヽ》があるような感じはしますが――警察は、霧の流れるパターンだろう、と言っていました。第一――林の中は、|その後《ヽヽヽ》ぼくらも歩き、警察や地元の捜索隊もしらべたのに、木立ち以外、何もなかったんですからね」
「ちょっと――このネガとこの印画を借りていいですか?」おれは有無を言わさぬ強引さで言った。「それから――ちょっと電話を拝借します……」
おれは、ネガとポジを横目で見ながら、S電子工房の、中央研究所を電話でよび出した。――そこにいる、おれの古い知人は、テレビ……というよりは、TV関係の電子システムをつかって「フォト・リフォーミング・サービス」というのを試験的にやっていた。
おれは、その木村という友人に、金を借りに行った時に、ついでに見せてもらったのだが、まことに不思議な仕掛けとプロセスだった。カラー写真や、カラー映画の、古くなって褪色したものを、カラーTVの色彩調整技術をつかって、見事に再生させるのである。
電子技術というものは誠に不思議なもので、中間色も何も全部とんでしまって、茶色っぽい赤一色になってしまったカラー写真を、肌色なら肌色を基準として、青空も、緑の森も、真紅のバラも見事にもとの色彩に――しばしば、オリジナル写真より美しく――再生してしまうのである。
それだけでなく、ちょうどアーツ衛星や、ランドサット、ノアなどといった人工衛星からとった赤外線写真から、海水の汚染度や、植生の活力、地上ではわからない活断層などが、電子処理によって、鮮やかなコントラストで印画されるように、朦朧《もうろう》とした露出不足の写真、ものすごく|かぶれ《ヽヽヽ》のひどい写真、保存が悪くて、コントラストがほとんどとんでしまった写真などから、「何が」写っているかを、ものによってはある程度まで復原してのける技術を持っている。原理は、いうまでもなく「星明りで昼間の如く見える」暗視装置《ノクトヴイジヨン》などにつかわれている光電子倍増管などをつかって、ごくわずかなコントラストを、電子的に強める――のだろうと思うが、おれにだってよくわからない。
S電子工房の研究所にあるその「PRS」というセクションに電話をし、用件をたのんだ。――おれの話をきいていた、宇津木という青年は、興味を示したと見え、
「一緒に行っていいですか?」
ときいた。
「私もいい?」
と、美大女子学生――本名は知らないが、宇津木はノン子とかよんでいた――も、どういうつもりか、ぴょんぴょんとびはねながらきいた。柄はでかいが、少し人間が甘くて、まるでガキだ。これで、恋人の宇津木と何をくっちゃべってるのかと思ったら、私、マツバクズシよりシノビイヂャウスの方が好き、とか、ヒヨドリゴエというの、一度やってみようよ、などと言ってるのだから、昨今の女子大生って、どうなってるのかわからない。
おれは、二人をBMW――ことわっておくがレンタカーの――にのせて、S電子研究所まですっとばした。ノン子は、BMWのすごい加速ぶりをきゃあきゃあよろこんで、すてき、これトヨタ、ニッサン? エンジンの馬力は|何PPM《ヽヽヽヽ》? などと、素頓狂《すつとんきよう》な事を次から次へときいたが、おれは相手にしない事にした。A級ライセンスを、一度はとりかけたおれに、突然、
「あなた、免許とったの?」
などときくので、ショックのあまり、あやうくハンドルを切りそこないかけたからだ。――実を言うと、ショックだったのは、「必要経費」で、新しい三つ揃いを買って着こんで以来、免許証を古い服に入れっぱなしで、持って来ていない事を思い出したからだ。これで、N県まで片道二時間以上高速をとばし、地元警察で、ジープを借りたんだから、われながら心臓だった。
宇津木のやつが、ノン子に、
「人の事より、お前もそろそろ免許証とれよ。もう車二台目だろ」
などと言っているのを聞くと、ますますショックで、制限速度三十キロの道路でつい百二十キロも出してしまった。――パトカーがいなかったのが幸いだったが……。
「PRS」の木村は、もう装置をスタンバイして待っていてくれ、宇津木の持って来たネガとポジ両方を持って、すぐ奥へ消えた。――宇津木とノン子は、別の研究員に研究所の見学コースを案内してもらい、その間おれはいらいらしながら待った。
小一時間もたって、宇津木たちが戻ってきたころ、ようやく木村は、何枚かの、まだぬれた印画紙と、大きな反転フィルムを持ってあらわれた。
「あまり効果はなかったぜ……」と、木村はテーブルの上に印画紙をおき、ライトパネルにフィルムをはさんだ。「赤外で一枚、トライXの方に一枚、かろうじて木立ちのむこうに、何かぼやっとしたものがうつっていたようだが、処理してみても、はっきりせん。輪郭ぐらいは、何とか出たが……」
印画紙の二、三枚は、モノクロで、うんと強いコントラストをつけたものだった。――アングルは少しずつちがうが、前景に、泉谷たちのパーティのメンバーらしいもの、後景に、木立ちが霧にとけこみながらうつっている。その木立ちのむこうに、うっすらと、何か大きな、岩のようなものが、うつっているように見える。
ライトパネルの方を見ると、そのうす暗い、巨大なものの影は、霧で半分以上かくれているが、あとの輪郭はもう少しはっきりしていた。
上の方の中央部が、三角形にとがっている。その横にももう一つ、少し低いとんがりがあるように見える。
「何だろう、これは……」とおれは首をひねった。「岩かな――それとも……」
「ブロッケンのお化け=\―つまり、霧に、人間やものの影がうつって大きく見える現象でもなさそうだな」と木村は言って、もう一枚の、カラー写真を指さした。「こいつは、カラーコントラストを出してみたんだ。もう少しパターンがはっきりするが……」
カラー・ソラリゼーションをかけたような、赤、白、黄、緑、紫の、どぎついコントラストの写真を、おれは手にとって、眼から遠くしたり、近くしたりした。
「何に見える?」と木村はきいた。
「家《ヽ》か!」おれはつぶやいた。「洋館《ヽヽ》に見えない事はないが……しかし、現場には、こんな……」
「ひょっとして、それ、幽霊屋敷≠カゃないかしら……」とノン子が横から言った。「地元の人で、そんな事言ってる人がいたわ」
「幽霊屋敷=H」おれは思わず、ノン子の二の腕をつよくつかんだ。「何だ、それは?――そんなものどこにあるんだ? 誰が言ってた? なぜだまってた?」
「よく知らないわ。――地元の人の捜索隊の中で、ひげだらけの鉢巻きのおじさんが、そんな事言って、あの登山コース、閉鎖した方がいいんじゃないかって言って、みんなに笑われてたのを、ちょっときいただけよ。なぜ、だまってたって……警察じゃ、そんな事、何もきかれなかったもの」
とノン子は、|のんこのしゃあ《ヽヽヽヽヽヽヽ》とした顔で言った。
おれは、眼玉がとび出しそうな勢いで、その写真をみつめなおした。――幸雄君の最後の言葉が、頭の中でなりひびいていた。
――コンナトコロニ……|シキ《ヽヽ》ガアルゾ……「……|シキ《ヽヽ》」は「屋敷《ヽヽ》」だろうか?――だが、後続パーティが、現場へたどりついた時、そんなものはなかった。土台も痕跡もなかった。地元警察も、捜索隊も、そんなものは問題にしていなかった。――ノン子の言う、「ひげ面鉢巻き男」をのぞいては……。
「痛いわ、離してよ」ノン子がのんびりした声で言った。「はなさないと、大声出すわよ。おまわりさん、よぶわよ」
おれは再びK山の山麓から、消失現場の山腹林へむけてジープをとばしていた。
天候は生憎のうすぐもりで、山にはうっすらと霧がかかりかけていたが、K山麓のF市に一泊して、やっとノン子の言う「ひげ面で鉢巻きした男」――もと山猟師で、今は椎茸栽培をやっている、通称|山権《やまごん》という人物にあい、しぶる彼から話を聞き出してからは、どうにももう一度「現場」を見てみたくてたまらなくなった。
おれが、地元の捜索隊にくわわった人たちに「幽霊屋敷」の事を知っている、しかじかの人相の男、ときき歩くと、三人目の男が、「ああ、そりゃ権さんだ……」と言った。
「幽霊屋敷≠チてのは、本当にあるんですか? あの林の中に……」
とおれは体をのり出してきいた。
「ありゃしねえよ……」と、その人物は|にべ《ヽヽ》もなく首をふった。「あんただって、現場を見ただろう。あんなもの、あの山のこっち側にも向う側にも、どこにもありゃしねえんだ」
その話をきいて、その場にいた、二、三人の男たちはいっせいに笑った。
「でも、なぜ――その山権さんは……彼は見たんですか?」
「権さんだってただの一遍だって見たわけじゃねえんだ」とその男は苦笑しながら言った。「なんでも、あいつのおじいがな、昔々、夜さり熊追っかけてて、おぼろ月夜のあの林ン中で見たって言うんだが――何せ、権のおじいの甚作は、大酒飲みの上、大法螺吹《おおぼらふ》きなんで……山を歩いてて、しょっ中、天狗にあったの、一かかえもあるうわばみにあったの、山姥《やまんば》が裸で酒を飲んでたのって言うんで、千三つの甚作≠チて言われたほどだで……おまけに、竹筒三本に焼酎入れて歩いてて、何とか言っちゃ飲むんだから――本人は、熊を射つ前に、一ぺえ飲まねえと度胸がすわらねえなんて言ってたというが――誰だって、信用しねえ。この土地の古い古い笑い話さ」
だが、山権は、町の連中に笑われると言ってしかめっ面をしながらも、甚作おじいは、笑い話どころじゃなかった、と言った。
「そりゃ、おらも子供ン時から、おじいのほら話はきいてるだ。話がうめえんで、おらたち孫はみんな、腹をかかえて笑ったもんだ。だけンど――幽霊屋敷≠フ話はめったにしなかったし、する時は、えらくまじめな、思い出してもぞっとするってな顔で、話しただ。――お父の話じゃ、その幽霊屋敷≠見た晩、おじいは、氷水たらふく飲んだみてえな、まっつぁおな顔して、熊追いやめてかえって来たそうだ。それから、どんな事あっても――ほかのやつらは山仕事でみんな行ったけど――おじいだけは絶対あの林に近よらなかった……」
「それを見たのは甚作じいさんだけですか?」
「ほかに――おじいの見たずっとあとで、山向うの村の炭焼きが一人、今度は夕方見たって事だ。だども、とうに死んじまった。おじいだけが、わざわざその噂をきいて、話をききに行った。やっぱ、青い顔してけえって来たっけ……。何でも、炭焼きも、おじいと同じように、あの林ン中を通っている時、地震にあって――そしたら、霧ン中から……何とも言えねえ、うすっ気味悪い形の大きな屋敷が……」
これだけ聞いて、探偵稼業がじっとしていられるか?――おれはとにかく、もう一度現場を見たかった。はじめて見た時、あの林の中の、消失現場付近で、|何とも言えぬいやあな気分《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》におそわれたのは、そのふだんは眼に見えぬ「幽霊屋敷」の気配《ヽヽ》を感じたからだろうか?
――それにしても、ふつう「幽霊屋敷」といえば、「幽霊の出る屋敷」の事なのに、この場合は、「|屋敷そのものが幽霊《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」なのだ!――幽霊にしたって、相当大ものだ。
その上、この「幽霊屋敷」――あるいは「屋敷幽霊」と言うべきか――の出現には、この地方名物の「地震」が、どういう形でか関係しているらしい。それならば、高林幸雄青年の件とも、ぴったり話があう。幸雄君は、霧の中でみんなより、二、三十メートル先を進んでいて、突然地震にあい、そのあと眼前に、突然「屋敷」が出現するのを見た。そこでおどろいて仲間に叫んだ。そして……。
そして――|それから《ヽヽヽヽ》どうなったのかわからない。彼は突然、消えてしまったのだ。「幽霊屋敷」と一緒にか?
いずれにしても、その奇怪な「屋敷」の出現と、「地震」とが関係するとすると、どうしてそれを見た人間が稀だったかがわかる。――昔は杣人《そまびと》や山猟師ぐらいしか通らず、今でもそうそう登山客が通る道ではない間道だ。その間道を通っていて、偶然にもあの|林の中《ヽヽヽ》で、地震にあう、という確率は、いくら百数十年間に何十回という頻度《ひんど》の名物地震でも、そう大きなものではあるまい。
おれは、だから、現場へ行っても、すぐに「幽霊屋敷」を見られるとは思っていなかった。――もう一度下見をしておいて、次にキャンプ道具を持ちこみ、現場付近で何日でも根気よくはりこむつもりだった。
だが、はりこむ必要はなかった。――前のように湿地帯にジープをのりすて、霧が深くなりはじめた斜面をのぼり、林の中にはいって行った時、突然おれのふみしめている腐葉土におおわれた小径が、がくがくとゆれはじめた。梢がざーっとなり、大枝が頭上でゆさゆさゆれ、立木が二重うつしのように見えた。おれは思わず傍の立木につかまった。長いようで、一分か一分半、震動がつづいて、はたとやんだ時、|それ《ヽヽ》はおれの眼前わずか四、五メートルの所に、突然霧をはらって出現していた。
|そいつ《ヽヽヽ》は、何とも言えず、うすっ気味の悪いしろものだった。
一口に言えば、二階だての、おそろしく古くさい、十九世紀風の木造洋館だった。――正面に大きな青銅屋根の破風があり、両横に、これも青銅の尖《とが》り屋根をつけた円筒形の張り出し間がある。地面から鼠色に風化した木の階段を三段上った所に木の露台があり、正面の塗料のはげたドアは半分内側へ開いている。イギリス風とも、北欧風とも、ニューイングランド風とも、何とも言いようのない、おかしな形式の、妙な家だが、それよりも全体に、今にも指一本でぼろぼろにくずれおちそうなほど古びていながら、妙に頑固で、依怙地《いこじ》で、ひねくれた感じがただよっているのが奇妙だった。ガラスは数枚が割れ、残りはびっしりと白くほこりがこびりつき、塗料は皮膚病のようにはげ、壁はひびわれ、にもかかわらず、これだけの湿気に、屋根がぬれもせず、壁に蔦《つた》一つからんでいないのが不思議だった。
半開きのドアの奥から、かすかに、何かのうなるような音がきこえて来た。――それまでただただ、この奇怪なおんぼろ洋館の出現に、舌の根が乾き、棒をのんだようにつったっていたおれは、その音を聞いて、はっ、と「職務」に――というとかっこいいが、有体《ありてい》に言えば、約束された「報酬」に――めざめ、キイキイなる、あぶなっかしい階段をふんで、半開きのドアから中をのぞきこんだ。
中はうす暗かったが、完全にまっ暗ではない。――深海底のようなうすい光の中に、ほこりだらけの家具や、手摺《てす》りのぶっこわれた階段が見えた。天井からは蜘蛛《くも》の巣がたれさがっている。
「幸雄君!」一歩内部へふみこみながら、おれはかすれた声をかけてみた。「誰か――いるのか?」
家全体が、がたがたぎしぎしと家鳴り震動しはじめたのはその時だった。――天井から、銀粉のようにほこりがふって来て、家具ががたがたおどった。
背後でバタン、とドアが大きな音をたててしまるのを聞いて、おれは心臓がのど仏にとびあがるほどの恐怖にかられ、あわてて外へとび出そうとした。だが、おんぼろのようで、意外に頑丈なドアは、ぴたりと閉ってあかなかった。おれが肩で何度体あたりくわせてもびくともしなかった。その間にも、家全体は、今にもぶっこわれそうに、がたがたみしみしとゆれつづけ、足もとの床が前後左右にゆれ動いた。やっと、玄関のドアが、押してもだめで、内側へひくのだ、という事を思い出したのと、地震がぴたりとやむのと同時だった。おれはドアをあけて鉄砲玉のようにとび出し、玄関前の階段でころんで、またはね起き、息せき切って走り出した。背後から、あのうすっ気味悪い洋館が、あんぐりドアをあけて、一呑みにしようと追いかけてくるような気がした。
四、五十メートルも走って、やっとたちどまり、後をふりかえると、霧は速い流れになって、林の中を吹きぬけていた。――おれは、幸雄君のようにあの「幽霊屋敷」と一緒に、|どこか《ヽヽヽ》へ連れ去られてしまわなかった事を――無宗教なので――弁天さまだか阿弥陀さまだか、八百万《やおよろず》の神々だか、そこらへんの向きに感謝した。霧のむこうに、あの「幽霊屋敷」は、まだうすぼんやりと見えているようだった。
――今度は、あの邸は、|消えそこなった《ヽヽヽヽヽヽヽ》のか?
その点をたしかめたかったが、ひざががくがくして、ひきかえしてたしかめようと上半身をそっちへむけても、脚は自然にもと来た道をひきかえしている。おれは職業柄、時にはこわもてするものの、さほど勇気のある方じゃない。といってそれほどなみはずれて臆病でもない。――ただ、その時は、あの何とも言えぬ奇怪な感じのする古洋館に、もう一度たった一人でとって返す気はしなかった。それほどその洋館に閉じこめられた――と錯覚したのだが――時の恐怖とショックは大きかったのだ。何しろ相手は「幽霊」そのものなのだ。幽霊の|腹の中《ヽヽヽ》にはいってみたやつが、果してこの広い世間に何人いるか? おれの事を臆病と言うなら、一度はいってからにしてもらおう。
頭の中では、|もし《ヽヽ》あの「幽霊屋敷」が、今度は消えずにのこっているのだったら、その内部のどこかにいるかも知れない幸雄君の捜索は、地元で応援をたのんでからにしよう、と考えていた。ひょっとすると、ひきかえすまでに、再び消えているかも知れない。だが、あの林の中に、あのおんぼろ洋館の「幽霊」が出現するきっかけはわかった。さすがでかい洋館幽霊だけあって、ひゅうどろどろの鳴物ぐらいじゃたらなくて、大げさにも「地震」とともに出現するのだ。今度張り込むにしても、もう少し大勢で来るべきだ。何せ一度「幽霊」を見た以上、とても見る前みたいに、|一人で《ヽヽヽ》張り込むなんて度胸はない。
林を出て、斜面をくだりはじめると、霧は急速に晴れはじめ、うす日がさしはじめた。――そして、霧が晴れたために、おれは林の中にいた間に湿地帯のむこうで起った事件に気づいて、あわてた。
湿地帯のむこうの、小高い風化した岩場においていたジープが失くなっていた。
――しまった!
と、おれは内心|ほぞ《ヽヽ》をかむ思いだった。――あまりに気がせいて、おれはキイをさしたままそこにおきっぱなしにしておいたのだった。おまけにもう一つ悪い事に、おれは朝方山権の話をきいたあと、興奮のあまり外へとび出して、つい眼と鼻の先にあった警察署の横、営林署の外にとめてあったジープにとびのり、誰にもことわらずにひき出してしまったのを思い出したのだ。――この前借りた同じジープだったから、つい乗ってしまったのだが、ひょっとすると営林署では盗難届を出しているかも知れない。
乗る時、営林署の中へ、たとえ一言でも声をかけなかったか、とよく思いかえしてみたが、結論はかけなかった事がはっきりしただけだった。――この前借りた時、湿地帯を、全輪駆動|無二無三《むにむざん》つっきり、ボディの上まで泥だらけにして大分文句を言われたので、今度はだいぶ手前の、風化砂岩の上にとめたので、どの方向へもち去られたかもわからなかった。そこから下は、林道まで、同じような状態がつづいている。――おれはしかたなしに、とぼとぼ歩いて道路まで出て、ちょうど下りて来た材木トラックに便乗させてもらった。――さっきの地震はどうだった、と運転手にきいたが、こんなボロトラックに材木つんで、凸凹《でこぼこ》の山道走ってて、気がつくもんかよ、という返事がかえって来た。
山麓までおりて、公衆電話で、おれのいる都市の警察をよび出し、矢坂警部に、何とか地元警察にとりなしてもらおうと思ったが、警部は留守だった。――何となく途方に暮れ、その町にいると、いつ「自動車泥棒」でつかまるか知れないような恐怖にかられて、とにかく一たんF市をはなれようと思って、BMWをとめておいた空地へ行ってみると、第二の衝撃がおれをおそった。――今度はいい気持ちでのりまわしていた、レンタカーのBMWの姿が消え失せていた。今度はキイはおれが持ち、ロックも完璧なはずだった。何だって、この界隈じゃ、突然自動車泥棒がやたらにはやり出したんだ?
どうしてふらふらと、おれの住む都市へかえる列車にのってしまったのかよくわからない。――何しろ「幽霊屋敷」が出現するのを見、危うくそいつにどこかへ連れ去られるのを逃れたと思ったら、無断借用してきたお役所のジープが盗まれ、しかもあろう事か、高価なレンタカーまで盗まれたのだ。こうショックの連続では、頭がぼんやりして、思考能力が低下するのは当然だろう。就中《なかんずく》、おれは、あのBMWが盗まれたのがショックだった。カッとなって、すぐ地元警察へかけこんで盗難届を……と思ったが、とたんに自分が弁解の余地のない「公共資産窃盗罪」の容疑者である事を思い出した。それと、保証金はいくらかはいっているものの、レンタカー会社との折衝の事を思うと気がめいった。連続ショックのため、後先も考えずに、ちょうどはいって来た急行列車にのり、ぼんやりと窓外の景色を見つめていたが、その時のおれは、すみなれた都市で、その先まだまだ、いくつもショックが待ちかまえていようとは夢にも思わなかった。
帰りついた都市で、おれは、二つの自動車盗難事件と、ようやく手がかりがつかめた、ひきうけている事件について、これからどういう手を打ったらいいものか、思いあぐねたまま、何とはなしに事務所へかえって来た。――もう夕方まぢかだったが、重い足をひきずって階段をのぼっているうちに、ふと、買いおきのカミュのナポレオンの事を思い出し、少し足が軽くなった。ブランディでも飲んで、ゆっくり考えればいい知恵もうかぶだろう、と思ったのである。
あまりブランディの事ばかり考えていて、おれは、つい、自分の事務所のドアをまちがえて、空き部屋のドアをあけてしまった。――と、その時は咄嗟《とつさ》に思ったのだ。苦笑いしてドアを閉め、反対側のドアをあけようとして、|そここそ《ヽヽヽヽ》が空き部屋だった事を明確に思い出した。
おれは、ぞっとして背後をふりかえった。――たった今、おれが開けて、部屋をまちがえたと思って閉めたドアのすりガラスに、「大杉誠探偵事務所」と、はっきりかかれていた。
おれはもう一度ゆっくりドアをあけて、中にはいった。――カミュのブランディは、口を開けた一本も、まだ封を切っていないもう一本もきれいに消え失せていた。ブランディだけじゃなくて、それをのせていた新品の書棚もなけなしの本も消えていた。おれの、これはまだ買いかえてないデスクも、スタンドも、皮を張りかえたばかりの回転椅子も、来客用の椅子も、長椅子も……「業務用」として、新しく購入したステレオセットも、大型テープレコーダーも、小型カラーテレビも……ごていねいに、入れたばかりの絨毯《じゆうたん》まで、何しろ一切合財《いつさいがつさい》、消え失せていた。「嵐の如く」手荒く持ち去ったらしくガラスの一輪ざしがひっくりかえってこわれていた。あるものといえば、むき出しのプラスタイルの床の上に、電話機が一つほうり出してあるだけだ。ほかに、――壁に例の去年の十二月だけのヌードカレンダーがかかっていたが、これはさすがに持って行かれなかった。
おれは入口の所で、部屋の中を見まわし、頭をぼりぼり掻いた。――掻きながら、この「事件」に関係してから、何だってこう、何も彼も消えちまうんだろう、とぼんやり考えていた。まず大資産家の孫が消えた。「幽霊屋敷」とやらがあらわれた、と思ったら、今度は借りて来たジープが消え、高価なレンタカーが消え……そして、今度は、おれの事務所の中の――やっと少し恰好のついた事務所の中の、備品の一切合財が消えちまった。……いったいこりゃ、どうなってんだ?
「大杉さん……」不意に後で、声がした。――ふりかえらなくても、管理人のじいさんだという事はわかった。「どうするんだい? まだ仕事をつづけるのかい?」
「自分じゃそのつもりでいるんだがね……」と、おれは煙草をくわえながらつぶやいた。――どういうわけか、ライターの火が上下に動いて、なかなか吸いつけられなかった。
「それにしても、ここの警備はどうなってんだい? おれにギャラをはずんでくれるなら、ガードマンのかわりをやったっていいんだぜ」
「妙な事言わないでくれ!」と、横で管理人が憤然とした声で言った。「私は一応話はちゃんときいたんだよ。あんたが、事務所の備品、一切売りわたすって書類にサインして、その上、私あてのメモまでそえたじゃないか」
「そりゃ偽者にきまってる……」おれは煙草の煙をカレンダーの可愛子ちゃんに吹きかけた。――雪の中ですっぽんぽんで寒そうな上、部屋ががらんとして、からっぽになったのでよけいに寒そうだった。「いつ、どこのどんな奴が来た?」
「今日の午《ひる》さ……。何とか商会とか言ったかな。腰は低いが、何だか眼つきのよくないやつばかり五、六人で、あっという間に……」
「ちくしょうめ……」おれは歯の間から押し出すようにうめいた。「おれの……机や椅子を……」
「あんなボロでもやっぱり惜しいかい?」と管理人はいやみをぬかしやがった。「よく買う人があるもんだ。それにしても、いくらかはいったなら、家賃……」
おれは、ひょいと体をかわすと、管理人の鼻先でドアをぴしゃりとしめてやった。ガラスの部分が、こわれない程度に奴の鼻先にあたるように呼吸をはかり、加減してだ。――外で何とかわめいていたが、おれは中からロックした。たまっているのをみんなきれいにして、来月分まで入れてあるのに、まだ家賃をほしがりやがる。そりゃ今まで、三カ月はコンスタントにためていたんだからちょっとやそっと羽振りがよくなったって、信用はないのはわかっているが、ビルやアパートの管理人が、人の顔さえ見れば家賃家賃と言うのは、ありゃ一種の職業病だ。そうでも考えなきゃ、解釈がつかない。
おれは部屋の真ン中に、ぽつんとおかれている電話機をとり上げた。肩と耳との間に受話器をはさみ、たったまま、矢坂警部へ電話した。――しばらく待ったが、先方の呼出音が鳴らないので、一度フックボタンを押して、またはなした。
その時になって、おれはやっと気がついた。――受話器の底で、発信音が鳴っていない。おれはコードをひっぱってみた。つながっている。
呆然としておれは、送受器をもどした。――電話は|切られている《ヽヽヽヽヽヽ》らしい……おそらく電話局によってだ。撤去されていない所をみると、まだ受信はできるのだろう。滞納料金はついこの間すべてきれいにしたはずだのに、これは一体どういう手ちがいか? 高林老人から大枚の手付けをもらったのが、何だか夢のように思えて来た。あれは借金に苦しんだあげくに見た甘い夢で、今、自分が目覚め、すべては「もとの現実」にもどったのだろうか?――いや、「もとの現実」よりまだ悪い。あの時はまだ、おんぼろながら、机と椅子と書棚ぐらいはあった。今はがらんどうで何もない。
その時、手もとで突然電話が鳴った。――おれは反射的に、矢坂警部だと思ってとりあげ、地獄に仏といった思いで、
「もしもし……」とはずんだ声で言った。
「大杉さんかい?」きこえて来たのは、仏じゃなくて、地獄の底からきこえてくるような、濁った、いやな声だった。
「やっとつかまったな。――ずいぶん探しまわったぜ。今すぐ、そこへ行くから、もう見苦しく、逃げかくれしなさんなよ。男のくせに、往生際が悪いぜ……」
「もしもし!――あんたは一体誰だ?」おれは思わずどなりかえした。
「金村商事のものだがね……」先方は、ゆっくり、すごみをきかせて答えた。「ある方面から、あんたについて、ある事を委託されてるんだ。――わかるだろう?」
おれはたたきつけるように電話を切った。――金村商事の名前は知っていたが、おれとは関係ないはずだった。ただ、|もし《ヽヽ》、あいつらが「仕事」をそちらへまわしたとすると……。
おれは当然、身辺に危険がせまっているのを感じた。事務所をぬけ出すと、非常口から裏階段をおり、裏口から出て、隣りのビルとの間の塀《へい》をのりこえ、おりからせまって来た宵闇にまぎれて反対側の通りへ出、タクシーをつかまえた。
どこかに一時身をかくすにしても、一応「仕事」に必要なものと、身のまわりのものを持ち出そうと思って、おれはアパートへかえった。アパートへは、まだ手がまわっていないだろうと思ったのが甘かった。連中は、どうやってはいったのか、ちゃんとおれの部屋の中にいた。あわててドアをしめようと思うと、廊下の両側から二人ずつ来た。部屋の中にいて、おれの古い服とよれよれのレインコートを持っていた二人とあわせて、合計六人だ。金村商事はよっぽど人件費が安いらしい。――それだけにやばいかも知れない。社員ががつがつしてるだろうから……。
「さあ、歩いたり……。わかっているだろ?」と、部屋から出て来た、チェックの上衣に五分刈りの男は、おれのレインコートでくるんだ匕首《あいくち》で、やんわりと背中をつついた。「外へ出ようぜ。――話をつけるのに、ほかの住人に迷惑をかけちゃいけねえからな。騒音公害ってのが、このごろうるせえんだろ。住民パワーとやらにゃ、正直言って、おれたちも往生してるよ」
「お宅はそれほどでかい総合商社かい?」おれはとぼとぼ歩きながらつぶやいた。「それじゃ、おれみたいな、零細企業とは縁が無いはずだ……」
「直接はないが、このごろじゃおれたちゃ、代理業《エージエント》とやらもやってるんでね……」アパートの裏の、暗い人通りのない道へ出て行きながら、五分刈りの男はシッ、シッ、と歯の間で笑った。「いろいろ細かく稼がなきゃ、当節不景気で、こちらもやっていけないのさ。――元禄荘≠ナの麻雀の賭金のとりたてなんてケチな仕事に、これだけの手間をかけてな」
「待ってくれ!」おれは思わず叫んだ。「そりゃおかしいぜ……。あの勝負の金なら、つい四、五日前、メンバーの連中に直接、きれいに清算した。現ナマではらったぜ、証文だってちゃんと……」
「へえ――そりゃ不思議な事を聞くもんだ。その証文てのを持ってるか? 見せてもらおうじゃねえか」
「ここにゃない……」とおれは言った。「だがアパートに……」
「こきゃあがれ!」五分刈りの横にいた、見るからにチンピラという感じの、瘠《や》せて小柄な若い男が、おれの頬にピシッと手を鳴らした。「あの部屋ァ、すみからすみまで探して、汚ねえ下着と、しけた洋服《びろ》以外、鐚《びた》一文なかったぞ」
「証文をとりかえしたってえけど、そいつァ悪いやつにでもだまされたんじゃないかい?――第一、そんなにきれいにしたやつが、何だって借金の期日前にトンズラかいて、四日五日も姿をかくすんだ?」五分刈りは、内ポケットからメモ用紙を三枚出した。「さあ、証文ってのはここにあらァ、ちゃんと立ち合い人もサインし、お前もサインしてるぜ……」
「信じられん……」とおれはつぶやいた。「たしかに清算したんだ。――ちょっとその証文を見せてくれ」
「傍へよるなよ……」五分刈りはややはなれた街灯の明りの中に手をつき出した。「そこから見てみろ」
どっちにしろ、一方の手が少しお留守になった時がチャンスだった。おれはとびかかって手刀で匕首をどぶにはまるような角度でたたきおとし、膝で腹を蹴上げ、かえす脚をのばして、ねらいをつけていたチンピラの顎《あご》を蹴上げた。――そのまま、もう一人をつきとばして、まっしぐらに逃げるつもりだったが、一歩ふみだしたとたんに、膝頭がぐんにゃりとなった。同時に眼球と鼻毛と、のどちんこがとび出したかと思った。それでもその時は、後頭部にぶちあたったのが、ブラック・ジャックだな、と判断する余裕はあった。
前へくず折れようとするのを、両側のやつが、ひょいと腕をもってささえた。――商事を名のるだけあって、おれの出あったいろんな連中の中でも、ひどくチームワークのいいやつらだった。おれの力をそぐために、頚の所にもう一発、ブラック・ジャックがぶつかり、匕首をとばされた五分刈りが、正面からのど首へ手刀をたたきこみやがった。
「いい洋服《びろ》着てるじゃねえか……」と五分刈りが言っているのが遠くで聞えた。「めかしこんでるぜ。金まわりがよさそうなのに、けちりやがって……ぬがせろ。こっちの方が金になりそうだ」
「靴もですかい?」ともう一人が言った。
「イタリア製ですぜ」
「時計もだ……」細い、かたい手がおれの胸のあたりにつっこまれ、財布をぬきとるのが、ぼんやり感じられた。「裸にむいちまえ」
「いくら持ってやす?」と後の奴がきいた。
「五万だ……」と声がかえって来た。「洋服《びろ》をひんむいても、とてもたらねえ。――残りを忘れぬように、体におぼえさせろ。忘れっぽいやつらしいから……」
それからおれは、しばらくの間、連中のサンドバッグがわりにされた。――金村商事は、社員厚生用にアスレチッククラブもやっているらしい。あのチンピラは、おれに前歯を蹴折られた腹いせに、石でおれの前歯を一本折りやがった。それからはバンドでめちゃくちゃにぶったたいた。
時計を持ってかれたので、気がついた時、何時間ぐらいのびていたかわからなかった。が、とにかく、犬の鳴き方で夜中らしいとわかった。――連中は、おれに古い服を乱暴に着せ、ボロレインコートを羽織らせて、電柱にもたれかけさせて行った。何から何まで、行きとどいたやつらだ。
気がついても、立ち上るまでに大分うならなければならなかった。――さんざうめいて、やっと立ち上ると、おれは靴下はだしで歩きはじめた。ポケットの中で音がしたので、さぐってみると、鍵束だけはかえしてくれていた。ほかに紙片が手にさわったので、ひっぱり出して、街灯の下で腫れ上った眼をむりやり開いてみると、一つは「七万五千円」と書いた借用証が破いてあり、もう一つには「残りは、あと三日待ってやる」と書いてあった。一応体裁だけはビジネスをふんでる所が笑わせる。
アパートの部屋へどうやってかえったのかわからない。――眼がさめると、煎餅蒲団《せんべいぶとん》の上にうつぶせにぶったおれていた。手には、借用証と脅し文句のメモではない、別のメモをにぎっており、管理人のおばあさんの字で、「至急矢坂警部に連絡するように」と書いてあった。――うつぶせにぶったおれた鼻先に、どういうわけか十円玉が一枚おちていたのはおあつらえだった。何しろ金は、連中が洗いざらい持って行った。十円玉がおちていたのは、胡座《あぐら》をかいていた五分刈りの男のズボンのポケットからでもおちたのだろう。
――ちくしょうめ……とおれは思った。――この十円で、貴様らの事、何も彼も警部に言いつけてやるからな……。
部屋の電話ははずされていたが、おれはもう驚かなかった。――どういうわけだか知らないが、すべて、何も彼も、あの夢のような「高林手付け金」以前にもどっているのだ。たとえ夢にしても、再びあのような甘美な夢が見られるだろうか?
「どこへ行ってたんだ!」警部は電話がつながるなりどなった。「四日前から、ずっと電話しつづけてたんだぞ」
「四日前なら、電話で話したじゃないか……」
「うそつけ!――事務所へ電話しても出なかったくせに……。お前が、悪い連中の博奕《ばくち》の鴨《かも》になって、借金が払えなくて、この所姿をくらましてるって話を小耳にはさんだぞ」
「姿をちゃんとくらましてたら、前歯を折ったりしないよ」
「どうでもいいから話をきけ。――お前、昨日、高林老人にあったか?」
「昨日はあってない……」
「おれが紹介状を書くと言ったのに、昨日の午前中、お前の所をたずねたらしいんだ」
「午前中はいなかった……。夕方かえって来た……」おれは警部の言いぐさが、どうもおかしいなとぼんやり考えながら答えた。「だけど、もう高林老人の話は、なかった事にしてくれないか?――何だか、あの事件以来妙にちぐはぐになっちまって……手付け金百万なんて、悪い夢、二度と見たくない」
「おい、ちょっと待て、何を言ってるんだ?」警部もけげんそうな声を出した。「お前、高林老人の事件を知ってるのか?――こりゃ、お前にとって、とてもいい話だと思ったんで、おれが紹介したんだ。こういう奇怪で、奇妙|奇天烈《きてれつ》な事件に、とてもむいている男がいますってな。高林老人は、おれの親友の知人で、地方名家で、資産ン百億……」
「それはきいたよ……」おれはがっくり肩をおとしながら言った。「息子夫婦をなくして、たった一人の孫がいる。幸雄君と言って二十三歳、大学四回生……」
「お前、その話をどこからきいた?」
「どこからも何からも、あんたがまわしてよこしたんじゃないか。――この事件について、手がかりはつかんだけど、おれはもうおりるよ。折角手付けもらって借金清算しても、またもとの木阿弥《もくあみ》になって、事務所をからっぽにされたり、ゴリラ六頭にかこまれてぼかぼかになぐられるんじゃ神経の休まるひまがない……」
「お前の言っている事は、どうもよくわからん……」警部はいらいらした調子で言った。「手がかりをつかんだって――どんな?」
「幸雄君が、K山の林の中で突然消え失せてしまった原因の一端さ……」
「おい、ちょっと待て……。そりゃちがう。そんな事件じゃない……」警部がしきりに自分を押えようとしている様子がありありとわかった。「これは、まったく、あの宮原博士殺人事件≠フように――あの長い部屋℃膜盾フように、お前にむきそうな、奇怪きわまる事件なんだ。いいか、高林老人の孫幸雄君は、消えたんじゃなくて、突然|二人《ヽヽ》になったんだ……」
「なに?」おれの中に、不意に冷たい衝撃が走った。「|二人になった《ヽヽヽヽヽヽ》?」
「そうだ。よく聞けよ――高林老人宅へ、一年前、突然若い青年があらわれた。その時、幸雄君は、老人と居間にいたが、その青年は、ふらふらとはいって来てすわった。おどろいて声をかけると、むこうも幸雄君を見て、ひどくおどろいた様子だった。なぜなら、その青年は顔形はもちろん、黒子《ほくろ》や幼時の怪我のあとまで、何から何まで幸雄君と同じで、自らぼくはこの家のあととり、孫の幸雄だ≠ニ名のった。――高林老人は、孫の出生に立ちあっているが、幸雄君が双子だった事実はない。一卵性双生児にしても、ああも完全に、指紋、掌紋、黒子の位置、傷あと、こまかい記憶まで一緒になるはずはない。新しく現われた幸雄君は、前日、K山に登って、林の中で妙な家にはいりこみ、友人とはぐれた、と言っているが、もとからの幸雄君は、登山の約束はしたものの、風邪をひいて行かなかった。一年にわたってしらべたが、理由がわからんので、お前にまわしたんだ。……どうだ、聞いてるか?」
むろん、おれは聞いていた。――聞きながら、おれは考えつづけていた。突然、何も彼もが、みるみる氷解して行くのを感じながら……。氷解するのを感ずると同時に、もう一つの戦慄《せんりつ》が、背筋をおそった。たしかに「奇々怪々、奇妙奇天烈」な事件だった。あり得べからざるような……。
「幽霊屋敷」通称「無名屋敷」の中を少し居心地よくして、おれは「新しくあらわれた」――と|あちら《ヽヽヽ》では言われている――幸雄君と、二日すごした。食料は一応五日分、五日たったら、また高林家の人がはこんでくれるはずだった。
しかし、食料を三日分あまし、二日目の夕方、「地震」がおそって来た。――おれは幸雄君の手をにぎりしめ、「幽霊屋敷」の戸口に立った。第一回目の地震が終わったあと、おれは幸雄君に言った。
「さ、今だ!」
二人は外へとび出し、二十メートル走った。――まわりは、やはり霧におおわれていた。二十メートルちょっと離れた所で、おれたちはふりかえった。霧の中で、「幽霊屋敷」は、まだそこに、朦朧とそびえていた。
その時、二度目の地震が来た。――震動の中で、「幽霊屋敷」が、濛々《もうもう》たる霧にまかれて消えて行くのを、二人ははっきり見た。
「幽霊屋敷」は、|あちらの世界《ヽヽヽヽヽヽ》へ行ってしまった。「もう一つの世界」では、「無名屋敷」とよばれ、もう八十年ちかい前から林の中に存在し、あちらの高林家の所有地である事もあって、誰もちかづかず、地震の時、ちょいちょい消えてはまたあらわれる、という奇妙な建築物は……。
おれが、「あちらの世界」へ行ってから、三日たっているはずなのに、営林署のジープは、まだおれが置いておいた場所にあった。――考えてみると、おれがジープを無断借用してかけつけた日は、連休の前の日だった。ハイカーが見ただろうが、よそものは、無関心だったのだろう。おれは幸雄君をのせてジープを運転し、連休の夕方でひっそりしている営林署の横のもとの場所に、こっそりジープをとめ、何くわぬ顔で立ち去った。ジープは何台もあり、しょっ中いろんな人間がつかっているから、よりぬきのボロ一台、連休前に消えても、あまり気にとめなかったのだろう。――むろん、もとの場所にBMWはあり、おれのポケットの中には、キイがあった。何も彼も、おれが「こちら側の世界」にいた時のままだった。ちがう所は、おれの新調の三つ揃いがボロ服に、新調の靴がボロ靴にかわり、前歯が一本欠けている事だけだった。
むろん、おれは約束以上の報酬をうけとり、しかも必要経費については、かなりな空伝票を無条件でみとめてもらった。――幸雄君が一年半ちかくもの間、いったいどこに行っていて、どうやって帰ったか、という事についてはおれは高林老人と矢坂警部にだけしか話さなかった。――警部は半信半疑だった。それはそうだろう。この世界と、|何も彼も《ヽヽヽヽ》そっくりの「もう一つの世界」があり、あの「幽霊屋敷」が、その「平行世界《パラレル・ワールド》」への通路だった、などという事を、一度むこうへ行ったものでなければ簡単に信じられるものではあるまい。高林老人のショックは考えたが、老人にある程度わけを話したのは、地元有力者に圧力をかけ、あの林をぬける間道を閉鎖してもらうためだった。――最初、登山会などから、理由がわからない、といって抗議も出たが、間もなく、軽い地震以外何の前ぶれもなく、林の中から「山腹噴火」を起し、林が焼けてしまったため、それなりになった。
こちらの世界では地震の時にときどきあらわれた「幽霊屋敷」――そしてこれだけが、ほとんどそっくりの「こちら」と「あちら」で顕著なちがいだが――あちらの世界で「無名屋敷」とよばれているあの奇怪な洋館は、明治三十年ごろ、あちらの世界の高林老人の祖父の代に、ひょっこりやって来て、高林家の食客になった、奇妙な外人の建てたものだと言う。高林家の当主は、なぜかその外人を尊敬してさまざまな援助をし、自分の持ち山の山林中に――こちらでは、先代の高林家の時、手ばなしていた――あの奇怪な館をたててやった。おれがちょっとしらべた所、あの建物は見せかけで、実は、地下にある何か大きな機械のカムフラージュのようだった。機械のうなるのを何度か聞いたが、地下室への入口はどこにもなかった。どんな機械か知らないが、それは主が死んでも――実は或日突然行方不明になったと言われる――自動装置、時限装置で、時々作動し、「こちらの世界」へあらわれたのだろう。「小地震」が引き金になっていたのかも知れないし、逆に、地震をひき起すきっかけになっていたのかも知れない。しばらく起らなかったのに幸雄君の「消滅」以来、短い期間につづけさまに起ったのは、機械か地殻構造か、どちらかが限界に来ていたのかも知れない。もしそうだとすると、奇妙な「小噴火」が「あちらの世界」への通路を完全にとざしてしまった可能性も考えられる。「あちらの世界」をはなれるために、幸雄君と「無名屋敷」にこもる段階になっても、「あちらのおれ」は、まだ姿をくらましていた。おれは「あちらの矢坂警部」に――ええ、ややこしい!――「あちらのおれ」があらわれたら、事件処理の報酬をわたしてやってくれるようにたのんだ。要するに、「あちらの世界」に出現した、「二人の幸雄青年」の一方が消えれば、事件は落着するのだから、「あちらのおれ」にとっては少し楽すぎるような気がしたが、おれは「あちらの矢坂警部」に、金村商事のお兄《に》いさん連中を見はり、連中が「あちらのおれ」を見つけ出し、借金の残りを払えと言って少しいためつけた所で、御用にしてくれ、とたのんでおいた。――何しろ、むこうはただトンズラをかき、こちらばかりが苦労して「むこうの代り」に、めちゃくちゃになぐられ、前歯をおられたんだから、先方だけ何もしないで、多額の金がころがりこむのじゃ、いくら「もう一人のおれ」でも釣り合いがとれない。
高林老人からもらった莫大な報酬は、おれに「手のり文鳥」ならぬ、よくしつけられた「膝のり秘書」の可愛子ちゃんを雇う事を可能にした上、おれの事務所になおいくつかの「秘密のしかけ」をほどこす事を可能にした。――事務所が小ぎれいになると、これまで、何かといえば、おれをよびつけ、おれの方から出かけて行くと、露骨にいやな顔をしていた矢坂警部が、何かにつけて、ちょこちょことたずねてくるようになった。警部にとっては、あまりに不思議で、何度きいても納得が行かない、「この世界と、|ほとんど《ヽヽヽヽ》そっくりな、もう一つの平行世界=vの存在について、もっといろいろききたい――というのは口実で、実は、おれのナポレオンが目当てだったのだろうが……。
「とにかく、この世界とまったく同じ世界が存在し、そこに、|もう一人のおれ《ヽヽヽヽヽヽ》も、もう一人のお前も、ちゃんと存在してるなんて、不思議なこったなあ……」と警部はブランディをちびちび――と見せかけて、実はがぶがぶのみながら、長嘆息する。「お前――あちらで、もう一人のおれ≠ノ会ったんだな。どんな具合だった? おれも一度は会ってみたい……」
「よした方がいいと思うよ……」おれは、膝の上の可愛子ちゃん秘書をくすぐりながら首をふった。
「アラ、キャッキャ! イヤ、キャッキャ!」
と、「膝のり秘書」は、不思議な鳴き方をした。――秘書学校で、どんな調教師が、こういう鳴き方を教えるんだろう?
「だけど……どうだった? むこうのおれ≠ヘ、このおれにくらべて……」
「そうさな――柄の悪いのと、癇癪持ちなのはかわらない。ヒューマニズムの点においては、どっちともいえないな」
「感じはどうだった?――おれのようにりっぱだったか?」
「そうさな――えらそうに見える点では、あんたの方が上だな。ただ……」
そろそろうるさくなったおれは、そっと秘密装置のボタンに手をのばし、警部の頭をつくづく見つめた。
「髪の毛だけは――むこうの方が、もうちょっと多かったようだな……」
「何だと! この野郎!」警部はカッとなって、デスクの上の電話帳をとり上げておれにぶつけようとした。「よくも、おれの一番気にしている事を……」
その瞬間、おれは「秘密装置」のボタンを二つ一ぺんにおした。――とたんに警部の坐っている椅子が逆にはねかえって、同時に開いたドアの外へ警部をたたき出し、おれの方は後の壁がわれて出て来たダブルベッドへ、可愛子ちゃんを抱っこしたまま、ゲラゲラ笑いながらたおれこんでいた。
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おれの死体を探せ
「ねえ……ボス……所長」と秘書のネネ子は、おれの膝の上で、情なそうに鼻を鳴らした。「ほんとうに、今月分のお給料出ないんですか?」
「ああ、そうだ……」おれは、|焼 酎《しようちゆう》の壜《びん》に水を入れてふりまわした液体の最後の一滴を、力一ぱいタンブラーにふりこみながらこたえた。「何度も言ったろう。人生というのは、何かにつけて波≠ニいうものがある。浮き沈みがあるのは人の世の運命《さだめ》だ……」
「でも、ボス……所長……」ネネ子は、ベソをかくような顔をして、まるまっちい尻をおれの両膝の上でゆすった。「大体、キミが悪いのよ。――だって、仕事もろくすっぽせずに、あんなにバクチばっかりにつぎこむんですもの。いくらボクが有能秘書だって、めんどう見切れないよ」
「それを言うな、ネネッ子……」おれは、水割り焼酎――というよりは、水にごくかすかに焼酎の「移り香」をつけただけのしろものだったが――の一たらしを、慎重に舌におとしながら言った。「競馬、競輪の時は、汝も同行して、やたらにハッスルして、カス目につっこみ、わが探偵社の破産を加速したではないか?――どだい、あの馬の眼が涼しいから、とか、あの競輪選手の太腿《ふともも》と腰つきがセクシイだから、といって券を買うような事で、勝てると思うか?」
「でも、キミだって、行きしなに見た霊柩車のナンバーや、ボクのボディサイズで券を買ったじゃン……人の事言えないよ」
ネネ子は、そのくりくりしたヒップの割れ目を、おれのズボンのジッパーの下の端あたりに、ごりごりとおしつけながら、その九十一センチの、グレープフルーツみたいなバストをおれのポロシャツの胸にこすりつけた。
こんな事をされたら、ふつうならたちまち、わが優駿は高々と首をかかげていななき、たてがみふって胴ぶるいする所だったが、今はまったくだめだった。
何しろ、する事がないし、金もないので、ネネ子と「昨夜三つして今朝また二つ、寝巻き着かえてもう一度」という都々逸《どどいつ》通りに――いや、「昨夜」という所を「午前」にかえ、「今朝」の所を「午後」にかえるぐらいのハイピッチでいたしたおしたのだ。いかにわがサラブレッドといえども、もう顛倒《てんとう》しっぱなしだ。
オケラの何のと言ったって、これほど見事なからっけつは、おれの波瀾《はらん》に富んだ人生の中でもそう多くない。――財布の中はもちろん、ポケットの中も机の引き出しの中も、蚤取り眼で探しつくしたが、ついに十円玉一つ出てこなかった。
ズボンの折り返しまでしらべたが、綿ごみと、砂ぼこりが出て来ただけだった。書棚の本の間のヘソクリ? 絨毯《じゆうたん》の下?――書棚は三週間前、本はその二日あとにみんな売りとばしたし、絨毯は、サラ金からまわって来た取りたて屋が十日前にひっぺがして持って行っちまった。デスクは一週間前に家賃のたしにくれてやり、そのかわり、貸ビルの裏のごみ捨て場に、引きとり手のないまま半年もほうり出されていた、前のボロ机を雑巾でふいてまた持ちこんだ。――この前の「幽霊屋敷」事件で、報酬がゴマンとはいった時つくった、ボタン一つで椅子がダブルベッドにかわる、という妙な仕かけは、債権者も取りはずしようがなくてそのままのこったが、あとは4チャンネルステレオも、スイス製のテープデッキも、日本製のVTRセットも、パリ製のフロアスタンドも、デンマーク製の洋酒キャビネットも――むろんその中の洋酒も――スウェーデン製のポルノも、とにかく一切合財、数字をうちぬいた紙くずと、マージャン、コイコイ、ドボン、オイチョカブ、バッタ巻き、あと先、それにクラップ、ルーレット、パチンコ、その他の博奕の夢となって消えてしまった。
何しろ、これほど徹底したオケラも珍しい。――金もない。|もの《ヽヽ》もない。酒もない。その上|貪婪《どんらん》飽く事を知らぬ秘書ネネ子に精力の最後の一滴までしぼりとられ、ズボンの中さえすっからかんのからからだ。
「じゃ、結局、ボクはどうなるのさ?」ネネ子はまた鼻を鳴らして体をゆすった。「夏のボーナスだってもらってないし、先月のお給料はボスと一緒にバクチですっちゃったし、今月のお給料もらえないと……」
「お前さんにゃ失業保険があるだろ?」
「へえ――そんなもんあるの?」
「そんなもんあるのって……お前さん、会計まかせておいたのに、かけておかなかったのか?」
「あらやだ!――失業保険ってのは、雇傭者がかけるもんでしょ?――そうだ! ボスがかけておかなかったのなら傭い主として怠慢だわ。労基局へ訴えてやるわ」
「労基局でも中ピ連でも、家庭裁判所でも、どこへでも訴えろ――いくら訴えたってごらんの通りだ。逆立ちしたって鼻血も出ねえ」
「立ってとんでも、アンネも出ないってわけね」えげつない事を言って、ネネ子のやつ、どういうつもりか、クスッ、と笑いやがった。「でもさあ――今月のお給料もらえないし、来月も、あてがないとなると、ボクは生活自衛のため、やめなきゃならないじゃン」
「そういう事だ……」おれはネネ子のヒップをやさしくなぜながら、言いきかせた。「お互いこの半年、ろくに仕事もせずに、けっこうたのしんだろ?――気の毒だが、もうお前さんをやとっとくわけにゃいかない。ここは一番、きれいに身をひいてくれよな。今月分の給料と退職金は、出来次第、電報為替で送ってやっから……」
「あてになンないなあ……。あとから送るって、ボス……所長……キミはこれからどうするのよ。何かあてがあるの?」
それをきかれると、憮然《ぶぜん》とせざるを得なかった。――何しろ、砂漠のごとく、月面のごとき、荒涼たるからっけつなのだ。外へ出ても、アパートへかえるタクシー代もない。地下鉄にさえ乗れない。ポケットの中は「雪の進軍」じゃないが、「たのみすくなや煙草が二本」しかない。明日の朝のコーヒー代、昼飯代もない。むろん晩飯代もなければ、翌々日の飯代も、その次の日の飯代も、何しろずうっとあてがないのだ。このままじゃ、乾上《ひあが》っちまうにきまってるが、その絶体絶命の危機を打開するための最後の|もとで《ヽヽヽ》すら無いのだ。
いい年をして、何だってこう身も蓋もないオケラになるような、馬鹿な金の使い方をするんだろう……と、いつもなら、後悔の念がうかんでくる所だが、あまりこんな事が度かさなるんで、も早や「後悔の念」の方だって呆れはててくたびれたらしく、ひょいとのぞきかけて、すぐひっこんでしまった。――人間、「後悔の念」にまで見放されるようになっちゃおしまいだ。
「ああ、ボス……所長……ボク、キミの事好きなのよ」ネネ子はこちらの首っ玉に腕をまきつけて、唇をかさねて来た。「給料がもらえなきゃしかたがないけど……ほんとはやめたくないの……」
「言っとくがな……」おれはネネ子のよくくびれたウエストに片腕をまわしながら、もう一方の手をあげて彼女の鼻先に指をたててつきつけた。「こんど就職したら上司の事をボス……所長……キミ≠ネんて呼ぶんじゃないぞ。ボク≠ネんて言うのもいかん。おれン所だからまあ大目に見て来たが、よそじゃつとまらんぞ」
「あら、だって、ここへくるまで八カ月間、ちゃんと社長秘書をつとめたわよ」とネネ子は不服そうに口をとがらせた。「何とかって、でかい|チャ《ヽヽ》バレーの社長だけどさ。おっさん、ジンキョ気味だったのが、私を秘書にしてから、元気になったって、すごく喜んでた。――膝にのっかってるとこ、お妾《めかけ》にめっかって、クビになっちゃったけど……」
「へえ、おれン所以前につとめてたってのは初耳だね」おれはいささかおどろいてききかえした。
「その大|チャ《ヽヽ》バレーとやらの社長のとこじゃ、膝にのっかる以外に、どんな事をやってたんだ?」
「そりゃいろいろあるわよ。例えば……シャクハチとかさ……」
どうでもいいけど、このごろの職業紹介所ってどうなっちゃってるんだ?――たしかに、「手のり文鳥」ならぬ、アメリカの漫画に出てくるような「膝のり秘書」を世話してくれ、とはたのんだ。そして三軒の紹介所で、生憎《あいにく》そんな|出もの《ヽヽヽ》はありません、とことわられ、四軒目に仲間が教えてくれた、怪しげな|もぐり《ヽヽヽ》の俄業《にわかぎよう》紹介所にたのんだら、すぐネネ子を紹介してよこしたのだが――そういえばその時、先方は、ほかにお座敷ストリッパーはいかがでしょう? とか、女子大生がどうの、マッサージがどうの、セーラー服がどうの、と、何だかわけのわからない事をごじゃごじゃ言っていたような気もする――特別の「秘書学校」で、「膝のり」の特訓をした、というふれこみで来た時、そちらのテストばかりで、ほかの秘書の技術は何もテストしなかったのはこちらの手落ちかも知れない。そりゃ、いくら速記ができて、タイプが一分間に一万語うてて、|こぶ《ヽヽ》茶のいれ方がうまくて、活け花が何とか流で、字がうまくて、マッサージ、|けん《ヽヽ》引きに、鍼《はり》がうててお灸《きゆう》がすえられ、その上合気道三段てなウルトラ秘書でも、ずんぐりむっくりでエラがはって、黒ぶちのボストン型ロイド眼鏡が似合って、木綿のストッキングの編み目から脛毛《すねげ》がとび出していて、鼻のわきにでかいイボだかほくろがあって、歯槽膿漏《しそうのうろう》で腋臭《わきが》もちだ、なんてのはおよびじゃない。
――といって、ネネ子みたいなのも、ちと極端だ。
「ねえ、ボス……所長……じゃ、もうこれっきり、これっきり、これっきりですか?」とネネ子は、うっすら涙をうかべながら言った。「せめておわかれのキスをしてよ。それで夏のボーナスの方は、棒びきにしたげるからさ。――だけど今月の給料はだめよ」
そうまでしおらしく持ちかけられると、またいとおしくならないでもない。――おれは膝の上のネネ子の胴をだきよせた。
と、おれの腕に、何かずしりと重いものがさわった。
「何だこれ?」おれは接吻しながら、ネネ子のサファリ・コートのポケットに手をつっこみ、それをまさぐった。「食い物か?――まさか砂金じゃ……」
「ああ、それ?――」ネネ子は唇をはなして、ちょっと照れくさそうに、おれがひっぱり出したものを見た。「もらいものよ。――今日、ひょっとするとと思って持って来たの」
「ひょっとすると――って?」
おれはネネ子のポケットからひっぱり出した、|そいつ《ヽヽヽ》を眼の前にぶらさげてみた。――ぎとぎと脂ぎった、黒い皮の、茄子《なす》のような恰好をした袋の中に、鉄丸らしいものがぎっしりはいっている。袋の一端には、皮の輪がついて、手首にかけるようになっている。
いうまでもなく、ブラック・ジャックだ。――メリケン・サックやとび出しナイフ同様、チンピラどもの|いたぶり《ヽヽヽヽ》道具だ。これでぶんなぐると、外傷はつかないが、内出血や打撲傷をおこす。まかりまちがえば骨折する。こいつで後頭部など、がん、とやられたらイチコロだ。――おれも、前の事件の時は、これでいためつけられた。
「もうせん、ハマでつっぱってる男の子がいてね。ボクの古い友達《だち》なんだけど――その子が、ヨーコって娘に惚れて、あとを追っかけて、横須賀の方へ行っちまう時、おわかれにくれたの」
「そんなどこかできいた歌みたいな話はどうでもいい。――何だってこんなもの持って来た?」
「実はね――ボスがお給料くんないから、もし今日もくんなかったら、これですきを見てキミの後からちょっとのばしといて、金庫から有金さらってずらかろうと思ったんだけど――今朝来たら、もう金庫もないじゃン……」
事務所の中の最後の金目のものだった手提げ金庫は、昨夜たたき売って焼酎に化けた。――むろん、中は空っぽだった。
それにしても、何とも油断のならない「秘書」だ。――七人の子をなすとも女に心を許すな、というが、今どきの小娘と来たら、「愛する上司」でも、給料が遅配すると、後からブラック・ジャックでたたきのめすらしい。
「ねえ、ボス……所長……。私たち心中しない?」
突然、ネネ子は眼をかがやかせて言った。――「心中」ときいて、おれはぎょっとしたが、同時に妙な気持ちになった。ネネ子の言い方は、とても「この世のなごり夜もなごり、死にに行く身をたとうれば……」という感じじゃない。
「ねえ、心中《ヽヽ》しようよ。そいつをつかってさ、銀行おそうか、金持ちの|さまじい《ヽヽヽヽ》を暗がりでおそって――ほいでもって、そのお金で、香港へでも行こうよ」
「ちょっと待て……」おれはあわててさえぎった。「心中するのに、なぜ銀行をおそうんだ?――香港なんかへ行ってどうする?」
「あら、だって――心中って、男と女と二人で、金をとって、どこかへ高とびする事じゃないの?」
「悪いが膝からおりてくれ……」おれはネネ子の腕をもぎはなそうとした。「お前さんと長話してると、たった一つ残った頭までおかしくなりそうだ……」
ネネ子はぷっと頬をふくらませ、おれにさからって、こちらの首にかけた腕に力をこめた。
ボロ机の上の電話が、いやに弱々しい、かすれたようなベルの音をたてはじめたのはその時だった。
すでに時刻は午後十時をすぎていた。
事務所を借りているオフィスビルは、どこの部屋もとうの昔に仕事を終ってかえっており、管理人の親爺も、かみさんが国もとへかえって留守というので、どこかへ羽をのばしに出かけていて、ビルの中は暗く森閑《しんかん》としている。
家具がほとんど無くなってしまい、がらんとしたおれのオフィスの中で、ボロ机の上の電話のベルは、いやに陰々滅々とひびいた。――その音は、半開きのドアから暗い廊下へもれ、階段に反響して、また部屋へおどろおどろしくかえってくるみたいだった。ほかの部屋のドアが完全にしまり、ビル全体が静まりかえっている時でないと、こんなひびき方はしない。
それに、電話のベル音が、いやにかぼそく、喘息《ぜんそく》でのどが鳴るような、かすれた音だった。――接触不良の時に起るようなやつだ。
おれは何となくいやな予感がして、ヒイイ……イイ……と鳴っている電話機を見つめた。オフィスの家賃と電話の料金は、自動ひきおとしになっていたから、電話の方はまだつかえる。――それにしても、夜の十時すぎのオフィスへ、かそけきベルの音をたててかかってくる電話、などというものは、いかに切ったはったの荒仕事ふくみの探偵稼業といえ、あまりぞっとしない。
ネネ子が膝の上からおれの顔色を見た。――おれが表情を動かさないでいると、腕をのばして電話をとった。
「もしもし……」ネネ子はよそ行きの声で言った。「大杉探偵事務所でございます。――本日はもう……」
ふいにネネ子の顔が妙にこわばった。――何やら気味悪げに、きょろきょろ室内を見まわす。
「はあ……あの……ええ……」とネネ子は不得要領な返事をした。「あの……ちょっとお待ちください……」
送話器の口に手をあてて、ネネ子はうす気味悪そうにささやいた。
「ねえ、ボス、ボクたちどっかから見張られてるわよ。――窓じゃない? それともテレビのかくしカメラでもしかけられたかしら?」
「窓のブラインドはしまってる……」とおれは言った。この部屋のどこに、テレビカメラがしかけられるんだ?――壁のゴキブリにとりつける超小型カメラでもできたのなら別だが」
「でも、この電話かけて来た|しと《ヽヽ》、ボクたちがこうやってるの、みんな知ってるわよ」とネネ子は声をひそめて言った。「ボスの手が、ボクのスカートの中にはいってる事も……」
「もしもし!」おれはネネ子の手から電話をひったくるとどなった。「申し訳ありませんが、大杉探偵事務所は、明朝をもって破産いたします。――もし、事件着手金を、明朝即金でもって頂戴できるなら、当方も破産をまぬがれますが、そうでない場合には、いたずら電話をふくめ、一切とりあわない事にしております。あしからず……」
そのまま電話を切ろうと思ったが、受話器の奥からつたわってくる、何とも異様な雰囲気の音についひきこまれて、おれは相手の反応を待った。
受話器からは、奇妙なノイズがきこえて来た。――深い深い洞窟の奥で、怪獣か、吸血鬼か、モモンガアが大あくびをしているような感じの、いやにぼんぼん反響するノイズだ。そのノイズの底から、しわがれた、陰々滅々とした老人の声が、まるでエコーをうんとかけた録音テープを、低速でまわすように、ゆっくり、まのびしたテンポできこえて来た。
「大杉……さんじゃな……」と老人は言った。「やっぱり……事務所におったのじゃな……。たのみ事が……ある……。今から……そっちへ行く……」
「来てもらっても、ビルの表はしまってて、裏口だって鍵がかかってますよ……」とおれは言った。「ええ、そりゃ、私は裏の鍵を持ってますがね……。でも、もうおそいですから、明日にしてくれませんかね。今夜はこっちへとまるつもりですから……」
「おそいのは一向にかまわん……。とにかく今から……すぐ行く……」
「ちょっと待ってください……」おれはあわてて叫んだ。「あなた、失礼ですが一体どなたです?――誰かの御紹介ですか? 一体どんな御用件です?」
「わしは……木内と……言います。――あなたの事は……ずっと前、矢坂警部の所で……ちょっと名前を聞いた……。用件は……わしの……を探してほしいんじゃ……」
「え? 何ですって?」おれはききかえした。「何《ヽ》を探してほしいんですか?」
「とにかく……すぐ、そちらへ行く……」木内という老人は言った。「行って……説明する……」
洞窟の奥で、竜があくびしているようなノイズはふいに切れ、そのあとは、ツーという発信音が流れるばかりだった。
「お客さんなの?」ネネ子はおれのひざの上から立ち上りながら言った。「ここ四カ月の間の、はじめての依頼者ね。――おめでとう、しっかりやってね。お金持ちのカモだといいわね」
「なんだ、かえるのか?」おれはすこし狼狽《ろうばい》して、腰をうかした。「たった今、仕事がはいった所だぞ。――まだ、所長はかえっていいって言ってないぞ。大体お前さんは、勤務態度がなっとらんぞ」
「あら、だって、今から仕事だったら、超勤手当はらってくれる?」とネネ子はむごい事を言った。「はらえっこないでしょ? 月末なのに今月分の給料だってもらってないし、もう義務はないはずよ。さよなら、ボス……所長……仕事はつまンなかったけど、ここの生活は面白かったわ。また景気がよくなったらやとってね。――バイバイ……」
「ネ、ネ、子、ちゃん……」おれは、自分でも胸糞《むなくそ》の悪くなるくらい、甘ったるい猫撫で声を出した。「このまま帰っちゃうの?――せめて、ラーメン代一杯分ぐらい貸してくンない? でないと、あんたの好きだったボスが、明日の午後、飢え死にしてるかもよ……」
ネネ子は、ちょっとたちどまって、ハンドバッグの中をのぞき、宙を見つめてしばらく胸算用するかの態《てい》だったが、やがて首をふると、冷たく、
「だめ!」
とのたもうた。
「だってさ、ボクだってお給料くれないから、そんなに持ってないもン。――明日から、高校時代のボーイフレンドと日本アルプスへ行くでしょう。その旅費がいるでしょう。今日これから、スナックで一杯飲んで、ハンバーガー食べて、誰かいい男がいたら、ちょっとゴーゴーおどって、それからタクシーでかえるでしょう。――だめ! 今ラーメン代かしたら、かえりタクシーに乗れなくなっちゃうもン」
そう指を折ってかぞえて、最後にまた、「だめ!」と断定的に言った。「悪いわね、でもボスは男だから、自分で何とかするわね。――じゃあね、バイのバイ……」
あなここな薄情女!……と、おれはカッとしてネネ子のかっこいいヒップにどなる所だった。――豆狸の、大食らいの、ニンフォマニアの、糞ったれ、糞づまり小娘め!
だが、そうどなりつけようとした瞬間、ネネ子は何を思ったか、ドアの所からくるっとふりむいて、三段跳びの要領でぴょんぴょんはねると、つっ立っているおれの体にぴょいととびつき、首っ玉にぶらさがり、胴に恰好のいい脚をまきつけて、力一杯しがみついた。
「おお、よしよし……」おれはニタリと笑って、ネネ子の背中とヒップをやさしくなぜてやった。
「やっぱり、好きで、わかれられないんだな。――いい子だいい子だ。もう高校時代の、小便くさいボーイフレンドの事なんか忘れるんだ。日本アルプス行きもやめにして、その旅費で、今夜一緒に、安くてうまいホルモン焼きを……」
「そそそそそ……」
とどういうわけか、体中冷たくなって、がたがたふるえながらネネ子は言った。
「そ、そんなんじゃ、なななないのよ!」
「じゃ、どんなんだい?」
「わわわわわ……ききききき……」ネネ子はますますはげしくふるえながら、おれの首をぎゅうぎゅうしめつけた。「きききもちの悪い人が……そのドアの所に……」
「どこに」おれはネネ子にぶらさがられたまま、ドアの方を見た。「誰も――何もいないぜ。ドアも開かなかったし、足音もしない……」
「いたのよ! ほんとよ!」ネネ子はまだふるえながら、こわごわ顔をあげた。「ほんとにそこの……」
ネネ子は、今度こそキーッ、とねずみの断末魔のような声をあげて、おれの体をつきはなした。机の下にもぐろうとしたのか、椅子の下にもぐろうとしたのか知らない。わざとやったのか、偶然ふれたのか知らないが、椅子の横のボタンをさわったと見え、まだメカだけはちゃんと動く、あの「ボタン一つで椅子がダブルベッドになる」馬鹿馬鹿しい装置が動き出し、おれは壁からとび出して来たダブルベッドに脚をすくわれ、床の上にひっくりかえった。
「気をつけろ!」
おれは床にいやというほど頭をうちつけ、一瞬眼がくらみながら、思わずどなった。
「だ、だ、だって、そそそそそこに……」とネネ子がダブルベッドの上でもがきながらきいきいわめくのが聞えた。
頭を一つふって、やっと立ち上った時、おれは首筋から両肩へかけて、ぞっとするほど冷たい空気の塊《かたまり》がふれるのを感じた。
思わず、ぶるっと体をふるわせて、背後を見ると、すぐそこに、鼠色のソフトをかぶり鼠色の背広を着た、背の高い老人が立っているのに気がついた。
「大杉さんじゃな……」老人は、しわがれた、奈落の底から聞えてくるような声で言って、黄色い歯をむき出して、にたりと笑った。「木内じゃ……先ほど電話した、木内幸蔵じゃ……」
「一体どうやってはいったんです?」おれは痛む頭をおさえながら、うめいた。「ビルの表も裏も鍵がかかっていたでしょう? この部屋だって、自動ラッチが……」
そこまで言いかけて、老人の土気色――というより、鉛色のしわ深い顔の半面に、顔から赤黒い血が糸をひいているのに気がついた。――顔色は死人のよう、眼の下はくろずみ、声はかすれていやに暗くひびき、雰囲気はこの世のものとも思われず……これではネネ子がおびえるのも無理もない。
「怪我をなさってるんですか?」おれはポケットからハンカチをとり出してつきつけながら言った。「血が流れてますよ。おふきになったら……」
「いや、この血はふいてもとれんのじゃ……」と木内老人は悲しげに首をふった。「それより、あのお嬢さんは、あんたの助手かな? 秘書かな?――だいぶ派手な事になっとるようじゃが……」
それは、おれも眼の隅で見ていた。――ネネ子はどういうわけか、ベッドの上でポンポン服をぬぎ、下着をはねとばし、素っ裸になって、穴のあいた|しみ《ヽヽ》だらけのシーツの下にもぐりこんでいた。
「お客だってのに、何をやってるんだ?」おれは一応ボスの貫禄を示そうとして声をあらげた。
「恐しくなったら裸になるのか?――いったい、お前さんはどういうしつけをうけているんだ? 親の顔が見たいや」
「は、はやく来てよ……」ネネ子は、まだがくがくふるえながら、かすれ声でさけんだ。「だ、だってさ、裸ンなって抱きあって、セックスやってたら、こわさを忘れるでしょ?」
「勝手な事言うな。本当にこわい時は、男の方がだめになっちまわ……」おれは顔をしかめて老人の方をふりかえった。「どうもお恥かしい所をお見せして申しわけありません。――だけどあなたの方も、あまり若い娘をおどかさないでください」
「別に好きでおどかしてるわけじゃない……」木内老人は、ちょっとさびしそうに、暗い顔をよけいに暗くした。「だが、どうにもしかたがないんじゃ……」
「まあ、とにかくおいでになったものはしかたがないから、話をうかがいましょうか……」おれはベッドに化けた椅子とデスク以外、客用の椅子さえない室内を見まわしながら、デスクの角にすわるように身ぶりでしめした。「何ですか――電話ではよくきこえませんでしたが、何かを探してほしいとか……」
「電話線へわりこむのは、わりとむずかしいんじゃ……」と老人は言った。「こんなにむずかしいとは思わなかった……」
「どういう事です?」おれは首をひねった。「とにかく、探してほしいものは何です?」
「|わし《ヽヽ》じゃ……」
と木内老人は言った。
「|あなた《ヽヽヽ》を?」おれは思わずききかえした。「ここにいるじゃありませんか?」
「正確に言うと、わしの死体じゃ……」
老人はぬっと顔をつき出した。
「|あなた《ヽヽヽ》の……死体《ヽヽ》……?」おれは、理由もなく細かくふるえ出したひざを、両手でおさえた。「でも……あなたはここに、こうして……」
「実を言うと、わしは、|ゆうべ《ヽヽヽ》殺された……」老人は、おれの顔をのぞきこみながら、いやにゆっくりと言った。「誰に殺されたかわからん。どうやって殺されたか、何時ごろ殺されたかもはっきりせん。――その上、わしの死体《ヽヽ》が、どこかへ行ってしもうて、見つからんのじゃ。誰かが持って行ってしまったのかも知れん。それを探し出してほしいのじゃ……」
「でも、あの……あなたが|殺された《ヽヽヽヽ》と言って……じゃ、その……ここにいるあなたは……」
そこまで言って、おれははねとぶようにネネ子のもぐっているダブルベッドへとびこんだ。――シーツにからまれながら、シャツをはねとばし、ズボンを蹴とばし、素ッ裸になって、ネネ子の裸にしがみついた。
「や、やろう、ネネ子! すぐやろう。はげしくやろう!」とおれはガチガチ歯をならしながら、向うをむいて体をちぢめているネネ子をこっちへむかせようとした。「おれ、やだ。おれもこわい。幽霊だの死霊だのってのは大きらいなんだ。は、はやくやって、こんな事忘れよう……」
自分でそんなつもりはないのに、おれの|のど《ヽヽ》が、ギャアと勝手に悲鳴をあげた。やっとネネ子の裸をこちらにむかせたら、その顔はなんと、木内老人の顔になっていた。
「だめじゃよ……」ネネ子のヌードの上にのった老人の首は、ニヤリと黄色い歯をむき出した。
「逃げようとしてもだめじゃ……。わしゃ、あんたを見こんだんじゃ。探してくれなきゃ一生とりついてやる……」
「もしもし……」
と、受話器のむこうで、矢坂警部の眠そうな声がした。
「やい、このボケナス! あんけらそうのオッタンチン!」とおれはどなった。「税金泥棒! すっとこどっこい! 唐変木の|だだけもん《ヽヽヽヽヽ》! バカ警部のカス警部、裏切り者! 民衆の敵!」
「うむう!」警部の顔がまっ赤になり、髪の毛がさかだつ気配が、電話線のむこうでありありと感じられた。「貴様、大杉だな!――民衆の敵とは何だ? 名誉毀損の現行犯で逮捕するぞ!」
「ああ、やってみろよ。法廷へ出たら、いかにあんたが、善良なおとなしい市民の生活を妨害し、おびやかし、サディスティックにいじめて喜んでいるか、マスコミの前で大演説ぶってやるからな……」
「何だと?――いつおれが、善良な市民生活を脅かした?――いじめると言ったって、相手はお前ぐらいだが、お前なんか、到底善良な市民≠ニは言えんし……」
「木内ってじいさん、知ってるだろう」とおれは言った。「木内幸蔵ってじいさんだ。年は六十七、八……」
「木内幸蔵?――いや、知らんぞ」
「むこうは知ってるって言ってるんだよ。――おまけに、あんたは、またこんな厄介なじいさんを、おれの方に紹介してよこした。そりゃこの前の高林老人の時は、たっぷりかせがせてもらったよ。だけど、たまには、楚々《そそ》とした年増美人でもまわしてくれたらどうなんだ?」
「おい、待てよ。いったい何を言ってるんだ?」警部はやっと少し眼がさめて来たらしく、電話口の向うで、しきりに首をひねっている気配だった。「おれは木内なんて老人は知らんし、ましてお前に紹介したおぼえもないぞ……」
「しらばくれたってだめだ。むこうはちゃんと、あんたの名と、あんたの所できいたって言ってるんだから……。なあ警部、いくら警察が手こずった事件をこっちへまわしてくるったって、ちったあ常識をわきまえろよ。じいさんだけならいいが、今度は、じいさんの幽霊《ヽヽ》をおっつけてくるなんて、あんまりひどいじゃないか!」
「幽霊《ヽヽ》?」警部はききとがめた。「幽霊がどうした?」
「それが今度あんたのまわして来た依頼人――いや、依頼霊《ヽヽヽ》じゃないか。――あんた、顔がひろい事は知ってたが、まさかあの世にまで顔を売ってるとは知らなかったよ」
「あのな、大杉……」警部の声が、意地悪げに歪んだ。「お前とは長いつきあいだから、今度も許してやるがな。前々から思ってるんだが、お前一度病院へ行って、精密に脳を検査してもらったらどうだ? どこか大事な所に|できもの《ヽヽヽヽ》ができてるかも知れんぞ。――寝ぼける癖があるなら、おれがいいおまじないを知ってるから、明日にでも署にこいよ。おれのばあさんから習ったよくきくまじないで、寝小便だってなおっちまうんだ。それともまさか、お前、お稲荷様の鳥居に小便をひっかけたんじゃ……」
「どうしても|しら《ヽヽ》を切る気だな……」おれもすご味をきかせて言った。「よし、おれが寝ぼけてるかどうか、今わからせてやる……」
おれは送話口を手でおさえて、横にぼんやりつったっている木内老人の幽霊になるべくその姿を見ないようにしながら声をかけた。
「警部の所へ行ってくれますかね?」
「電話をつないでおいてほしいな……」と老人の幽霊は言った。「線をたどって行けば、探すのが楽じゃ」
横でネネ子が、キャッ、と軽い悲鳴をあげた。――老人の幽霊が消えたらしい。
ほんの一呼吸おいて、受話器の底から、ギャアという絶叫がきこえた。――無礼者……住居不法侵入……やめて、エッチ! などというわけのわからない矢坂警部の叫びがつづき、それにドシン、バタン、ガラガッチャンと、何かがたおれたり、こわれたりする音が交錯した。
ふと気がつくと、いつの間にか木内老人の幽霊が、おれの横でニタニタ笑いながら立っていた。
「悪い事をしたわい……」と老人の幽霊は言った。「えらいさわぎになった……」
「いいですよ……」とおれもニヤリと笑った。「あのくらいおどかしてやらないと、信じないだろうから……」
「いや、おどかすというよりも、大変気の毒な事をしてしもうた。――あの人、ビールを飲んで、フリチンで眠っとったらしい」
「ええ?――あの年で、裸で寝てたんですか?」
「いや、その……これはまあ、プライバシイにかかわる事じゃが、あの人はどうやら|インキン《ヽヽヽヽ》らしい……」と幽霊は声をひそめて言った。「それで、|ふんどし《ヽヽヽヽ》はずして薬をぬって、乾かしているうち、そのまま眠ってしまったんじゃな……」
おれは電話機を机の上にほうり出し、体を二つによじって笑いこけた。
「おい、こら!」と、受話器から、警部の上ずった声がきこえた。「い、いまのは一体何だ?」
「インキンだったら、恥かしがらずにおれに相談すりゃよかったんだ……」おれはげらげら笑いながら、電話をとり上げて言った。「あんたは戦前風に、野蛮なヨーチンか何かぬってるんだろう。――おくれてるよ。今は男おいどん#體`のマセトローションが……」
「うッせえ!――インキンなんざどうでもいい。今のは本当に幽霊か?」
「そうだ――あのじいさん、知ってるか?」
「思いだした……」と警部は言った。「直接の知り合いじゃない。おれの昔の上司の知人だ。署へ、おれの上司を何度かたずねて来たのをおぼえている。――四年ぐらい前かな。そのころから、おれとお前は、よく電話でどなりあいしたり、お前を署にひっぱって来たりしたから、それでお前の事もおぼえていたんだろう……。その上司は二年ほど前、死んじまったが……」
「よし、わかった……」とおれは言った。「いずれにしても、こいつはあんたもかかわりあいだ。――今からすぐあえるか?」
「今からだと?」警部の声がとがった。「何時だと思ってるんだ? 折角今日は非番で、ゆっくりして早く寝て……」
「テレビをつけてみろよ。――まだ深夜映画もはじまっていないぜ。とにかく殺人事件があったんだ。警察としてほうっておいていいのか?」
「殺人事件?」警部の声が、突然しゃっきりした。「いつだ?――誰が殺されたんだ?」
「間のぬけた事をきくなよ。――木内老人だ。本人から|じか《ヽヽ》に告発があった……」
電話のむこうで、しばらく沈黙があった。――警部は明らかに混乱しているらしかった。
「あんなあ、おま……」とややあって、警部は困惑したような調子でつぶやいた。「おれも長年、この仕事してるけどな……」
「殺された本人《ヽヽ》が、殺人事件の通知をして来たのははじめてだ、といいたいんだろ?――わかってるさ、おれだってはじめてだ。だけど、本人の幽霊《ヽヽ》が、この事務所にいて、自分は誰かに殺された、といい、死体をさがしてくれ、と言ってるのは、どうしようもない事実なんだ。あんただって、たった今見たろ?――まだ疑うんなら、もう一度幽霊に、あんたの寝室へ行ってもらおうか? 何なら、薬局によって、マセトローション買って行ってもらおうか?」
「わかった――わかったよ……」と警部はしぶしぶ言った。「とにかく、話をきくよ。――どこであう?」
「話すのはどこでもいいが、とにかく一度、あんたの車で、おれのオフィスまで来てくれ――。何しろタクシー代はおろか、地下鉄代さえないんだ……。ああ、ついでに何か食うものと、缶ビールも買って来てくれないか? 晩に何も食べてないんだ」
四十分後、鍵をあけておいたビルの裏口からはいって来た矢坂警部が、こわごわとおれの部屋のドアをあけた時、どういうつもりか、ネネ子のやつがドアの蔭にかくれて、
「ワッ!」
と大声でおどかした。
とたんに警部は手にした袋をほうり出し、わけのわからない事をわめきながら、一目散に逃げ出した。
「ばか!――くだらん事するな」おれは吹き出しながらもネネ子をどなりつけた。「ほれ見ろ。せっかく持って来てくれたサンドイッチが、とび出しちゃったじゃないか!」
おれは大急ぎでオフィスをとび出して、警部のあとを追いかけ、階段の降り口で、頭から墜落しかけている所を、やっと襟がみをつかまえた。
「なあ、旦那。いやしくもあんたは警察官のはしくれだろ……」とおれは警部をたしなめた。「何だい、たかが女の子におどかされたぐらいで――FBIみたいに、かっこよく拳銃でもぬいてみろよ」
「ふだん、やたらにそんなもの持ち歩くか……」警部は、頭からぽっぽと湯気をたてながらぼやいた。「それに両手はサンドイッチと缶ビールでふさがってたし――第一、おれは幽霊ってやつと、あまり対面した事がないんだ。これが凶悪犯だったら、一歩もひかんのだが……」
やっと事務所につれもどすと、ネネ子はもう、けろりとした顔つきでサンドイッチをぱくつき、ビールを飲んでいやがった。床にころがって、ほこりのついた方のサンドイッチは、おれの机の上に、どうぞ、というようにおいてある。――まったく何て秘書だ! 雇い主の顔がみたい。
「所で、紹介するよ――と、おれがいうのもおかしいかな。こちら木内幸蔵さん……というか、木内さんの幽霊だ……」
おれは机の向こうを顎《あご》でさした。
「やあ、先ほどは失礼……」と幽霊はニタッと笑った。「幽霊ですじゃ……」
警部も、あいさつをかえそうとしたらしいが、のどがヒッ、と鳴っただけで、うまく声が出なかった。――のどをうるおすつもりか、警部はいきなり缶ビールをとり上げると、一気にのみほした。
「それで……その……こちらは|いつ《ヽヽ》殺されたんだ?」ビールを飲んで、やっと声が出るようになった警部は、幽霊に眼をむけないように注意しながらおれにきいた。「どこで殺されたんだ? 死体はどうした?」
「さあ、その事じゃ……」と幽霊がわりこんだ。「殺されたのは、きのうの晩じゃ……。時刻はあまりはっきりせん。場所もあまりはっきりせんが、|死んだ《ヽヽヽ》と気がついたのが、この近くの、人気の無い河原の土堤だったから、大方そこらへんで殺されたんじゃろう。殺されたと思うあたりを大分丹念にしらべてみたんじゃが、どういうわけか、わしの死体が無いんじゃ……」
「河原の土堤――というとT川ですか?」とかれは聞いた。「また、どうしてそんな所へ行ったんです?」
「さあ、それがはっきりせんのじゃ……」と幽霊は首をふった。「殺される時、どうやら頭を後から強くなぐられたらしいな。それで部分的に、記憶が失われてしまったようなんじゃ。――ほれ、この通り……」
幽霊はグレイのソフトをぬいだ。――禿《は》げた鉛色の頭のてっぺんにとてつもないタンこぶがもり上り、その頂点がざっくりわれて、赤黒い血が顔を伝って流れる恰好でこびりついている。
おれは、何となく奇妙な感じでその頭をながめた。――タンこぶつきの幽霊というのははじめてみた。おまけにこの幽霊は、肝心の所が記憶喪失ときている。おれの事や、矢坂警部の事は、四年前なのにおぼえているにもかかわらず……ひょっとしたら殴られた瞬間、肝心の事を忘れ、かわりにずっと昔の事を思い出したのかも知れない。
「一応死体を探してみなきゃいかんな……」
矢坂警部は、二本目の缶ビールに口をつけながら言った。
「そうだ。すぐ警察を動員して……」
「しかし、ちょっと待ってくれ……」警部はむずかしい顔をした。「殺人事件といってもだな……。まあ、たとえば通行人が死体を発見して、とどけた、というなら、すぐ捜査本部を組織して、捜査にかかれるが……死体も何もないとすると……」
「しかし、殺人事件である事はたしかなんじゃ!」と幽霊がわめいた。「わしがこうして、死んで幽霊になって、自分で言っているんじゃからまちがいないじゃろ?」
「しかしねえ……、どうも、|殺された本人《ヽヽヽヽヽヽ》の告発とか、幽霊の告発で、警察が動けるかどうか……」
警部はつぶやきながら電話をひきよせて、ダイヤルをまわした。
「ああ、もしもし、矢坂警部だ……。宿直を出してくれ……。昨夜から今夜へかけて、何かなかったか?――いや、何でもない。ただちょっと気になる事があるので……うん、うん、そうか……」
電話をきると警部は首をふった。
「やっぱり何も届出はなさそうだ……」
「御家族は? どこです?」とおれは幽霊に聞いた。「お宅はどちらです?――家の方から捜索願いでも出ているか、あるいは出させれば……」
「それがおらんのじゃ……」と幽霊は首をふった。「わしには日本に家族もおらん。知人もあまりおらん。――わしはこの三、四年外国におって……たしか三、四日前、日本へかえって来た所じゃ……。帰ってからもあまり人にあっておらん」
「いったいお仕事は何です?」と警部はきいた。
「秘密《ヽヽ》じゃ……」と幽霊は意地悪そうに歯をむき出して笑った。
「冗談じゃありませんぜ!」とおれは叫んだ。「捜査に協力してくれなきゃ、いくらとっつかれたって、たたられたって、しらべようがありませんよ」
「いや、今のは冗談じゃ……。だが、あまりくわしく言いとうない。大変特殊な、医学関係とだけ言っておこうか。とにかく、世間の眼から見れば、かなり変った研究を、はじめ日本で、ついで外国でやっておった。日本の学会にもはいっとらん。研究資金はずっと外国から出ていたんでな……。ま、それは捜査にはあまり関係ないじゃろう。もし必要とあれば、追い追い説明しよう。とにかく、あんたたちは、わしの死体《ヽヽ》を見つけてくれればいいんじゃ……」
「殺された――という事は、相手は大体見当がつきますか?」おれはきいた。「誰かに何か、うらみを買ったような心当りはありますか? どうして、夜、そんな河原の土堤へのこのこ一人で出かけて行ったんです? 誰かによび出されたんですか? それとも誰かにあうつもりで……」
「さあ、そこらへんがはっきり思い出せんのじゃ……」幽霊は悲しそうに、ソフトをぬいでタンこぶにふれるしぐさをした。「とにかくいきなりガーンとやられて……その前後の事がどうもはっきりしなくなってしもうた。――ま、思い出せたら、報告するから……」
「殺された時の服装はそれですね……」警部はビールを飲み、サンドイッチをパクつきながらきいた。「ほかに持ち物は?――カバンか何か……」
「持っていたと思うが、そんなものは大した事はない。――わしは、カバンの中には、あまり大事なものはいれん事にしている」
「どっちにしても、死体がないんじゃ、捜査がしにくいな……」と、警部は考えこみながらつぶやいた。「まさか、本人の幽霊が告発したと言っても……」
「警察へ出頭できますか?」とおれは幽霊にきいた。
「出頭したって、ほかのものには見えんじゃろう。――幽霊というのは、何か縁《ヽ》のあるものにしか見えんし、声もきこえんらしい。あんたの秘書は、あんたときわめて密接な状態にあったから、見えたようじゃが……」
「聞いたか――」と、おれは口をふいているネネ子をふりかえって言った。「あんまり見境いなしにベタベタすると、こういう事にまきこまれるんだぞ」
「あら、いつもさそうのはキミの方じゃない……」とネネ子はぬかした。「ねえ、警察を出動させるのなんか簡単じゃン。一一〇番して、その河原で死体があったって通報すればいいでしょ?――私の最初のボーイフレンドが、シンナー吸っちゃしょっ中いたずらしてたわ」
「そういうけしからんいたずらをするから、警察は……」と、警部はカッとなってどなりかけて、はたと膝をたたいた。「なるほど、市民からの通報か……。その手があるな」
「あんたの自宅にもあった事にすりゃいい……」おれは電話機をひきよせながら言った。「ネネ子、お前もたまにはいい知恵を出すな」
「しかし、警察官として、どうも気がとがめるなあ……」と警部は指をながめながらつぶやいた。
「それにしても、このサンドイッチ、いやにジャリジャリしてたなあ……」
「あッ! この……」おれはひきよせかけた電話をほうり出して、警部の胸倉をつかんだ。「畜生! 人でなし!――おれが食おうと思ってたのに、サンドイッチみんな食っちまいやがったな! ああ、ビールも飲んじまいやがって……この人非人《にんぴにん》! 民衆の敵!」
「まあ、そうかっかするな……」警部は眼を白黒させながら言った。「おれが買って来たんじゃないか。――それにおれはこわいと、やたらに食欲が湧くんだ」
「畜生……畜生……」とおれは半ベソをかきながら、からになったビールの缶のしずくをすすった。「よし、許してやるから、金を貸してくれ。とにかく文無しもいい所なんだ」
「またか?」と警部は顔をしかめた。「何だっておれが貸さなきゃならない?」
「いいじゃないか。ボーナスも出たんだろ?――それにこの半年、中央競馬会や自転車振興会や船舶振興会にもずいぶんつぎこんでるんだ。お上も|かすり《ヽヽヽ》をとってるんだし、そいつがまわりまわって、そっちのふところにもはいるんだ。少しは納税者にわりもどしたってバチはあたるまい」
「ねえ、今、一一〇番する?」とネネ子が電話をひきよせながら言った。「もうおそいじゃない?――夜は探しにくいし、明日の朝にしたら?」
「いや、今がいい……」と幽霊が口をはさんだ。「わしも現場へ行ってみたいし……どうも明るいと、外へ出にくいでな……」
「ちょっと待った!」おれはネネ子の手をおさえて、警部と幽霊を半々に見た。「死体探しはいいが――いったい、私の調査費や報酬はどうなるんです? あんたは死んでる。警察は、たとえ協力したって、正規の料金を出してくれるわけじゃない。私だって、趣味で探偵稼業をやってるわけじゃないんだ。いくらあんたにたたられたって、無料で働くなんてまっぴらですぜ……」
「とにかく、わしの死体をまず見つけてくれ」と幽霊はしつこくくりかえした。「見つけてくれたら――悪いようにはならん」
――翌日の昼間は、ひどいカンカン照りだった。
午前中の数時間、オフィスで寝たおれは、ネネ子がボーイフレンドから借りて来た車に乗って、T川の河原へかけつけた。
警察の車が数台、堤防の上にとまっており、草におおわれた流れの側の斜面に、十数名の制服、私服の警官がちらばってうろうろしていた。警察犬の姿も何頭か見えた。
おれは上衣を肩にかついで、土堤の中腹に立っている矢坂警部の方にぶらぶら近よった。――警部は、直射日光にさらされながら、しきりにハンカチで汗をぬぐい、唇をゆがめて、シャツの胸をゆすって風を入れていた。
「幽霊はどうした?」
おれの顔を見ると、警部は声をひそめてきいた。
「オフィスにいる……」とおれはこたえた。「ブラインドをおろして、部屋の隅の棚の上にとまってる……」
「まるで梟《ふくろう》だな……」
「あまり気持ちのいいもんじゃない事はたしかだ……」おれもたちまちふき出した汗をハンカチでぬぐいながらききかえした。「ところで……どうだ? 昨夜はだめだったが今日は何か見つかったか?」
「午後の調査で、血だまりらしいものは見つかった……。まわりの草がだいぶふみ荒らされていたから、たしかに犯行らしいものはあったらしいが……あとは何も見つからん。堤防の上の草に、大型外車らしいタイヤのあとがあって、警察犬はそこまでトレースしたから、どうやら死体はその車ではこび去られたらしいが……」
「今どきは、どこかの焼却炉で灰になってるか、セメントづめで海の底かな……」
「あのじいさんが、そんなに手をかけてまで、死体を始末しなきゃならないほど、重要な人間とは思えんけどな……」警部は斜面の上に歩をうつしながらつぶやいた。「殺しておいて、死体を外車ではこびさる、というのは、一応組織犯罪のにおいがするが……――たしかにわりと手ぎわはいい。遺留品の一つぐらいありそうなものだが、何もない」
警部は手をあげて、斜面にちらばっている警官たちにひき上げを合図した。
「で、これからどうする?」
おれは車の方へ歩きながら警部にきいた。
「さあ――一応一一〇番は虚報という事になりそうだな……あの血痕を分析してみて、あと捜査を公式に継続できるかどうか、むずかしい所だな」
「結局、おれの所へお鉢がまわって来そうかね?」おれは肩をおとした。「なにしろあの幽霊、死体を見つけないと、ずっととっつくと言ってるからな。――だけど、どうやら、かなり大がかりな組織犯罪らしいにおいがするのに、この非力で、哀れな、素寒貧《すかんぴん》の民間人がたった一人で、幽霊と、外車で死体をはこぶほどの犯罪組織にたちむかわなきゃならんのか?」
「まあそうぼやくな。――公式にはともかく、こちらもいろいろ手は貸してやるから……。一応、あちこち聞きこみはさせてある。木内って人物の事も、おとついの晩、このあたりで大型外車を見かけなかったか、という事も――タイヤのあとやのこっていた靴あとも型をとったから、大がかりな捜査は無理でも、ひまな連中に少しは歩かせてみるつもりだ……」
「それにしても、あの幽霊がもう少し、記憶をとりもどしてくれるといいんだが……。記憶喪失の幽霊なんて聞いた事ない」
「記憶を失ってるだけじゃなくて、あの幽霊、何かかくしてるんじゃないか」警部は鼻をこすった。「どうもそんな気がしてならん」
「ヘーイ、ボス!」と、車の中からネネ子が手をふった。「今度はどこへ行くの?」
その時、後についていた警察犬の一頭が、にわかに低いうなり声をあげはじめた。
おれは思わず矢坂警部と顔を見あわせた。――警察犬をひいていた警官も、手綱をゆるめた。
その警察犬は、手綱を強くひっぱって、ネネ子の乗っている一六〇〇CCクラスの国産車へむかって走り出し、ネネ子の反対側へまわりこむと、ハンドルをにぎっている彼女の色白のボーイフレンドに、はげしく吠《ほ》えついた。
「ちょっと君……」警部は少し顔をひきしめて、しかし、つとめてやわらかい口調で、そのたよりなさそうな青年にたずねた。「つかぬ事を聞くが、君、おとついの晩、何をしてた?」
「ぼ、ぼくのアリバイを聞いてるんですか?」青年は犬に吠えられて青ざめながら答えた。「おとついの晩は、友人たち大勢と、九州にいましたよ。きのうみんなと一緒にかえって来たばかりです。――冗談じゃないですよ。今日、彼女と日本アルプスに行く約束だったのに、彼女にたのまれて車を運転して来て、それで妙な事言われたんじゃ、わりがあわないや……。早くこの犬、どけてくださいよ」
おれは、青年のポロシャツのべっとりぬれた腋の下を見ながら、鼻をうごめかしていた。――来る時からリアシートで悩まされていたのだが、青年はひどい腋臭だった。
「ひょっとして……」とおれは青年の色の白い、彫りの深い顔を見ながらきいた。「君はハーフじゃないか」
「警部……」その時、堤防の下から上って来た、初老の刑事が、手にしていた二つに折ったハンカチをひらいてつきつけた。「これ、どう思われます?――あの血痕のあったすぐ傍の、泥の中にふみにじられていたんですが……」
おれと警部は同時にそのハンカチの中をのぞいた。
――そこには、泥にまみれた、ほんの一つまみの、金髪があった。
「木内さん……」とおれは幽霊にたずねた。「思い出してください。あなたをおそったのは、外国人でしたか?」
「さあて……」と幽霊は眉をしかめた。「何分にも暗い所で不意におそわれたでな……」
「何人ぐらいでした?」
「それもよくわからんが――一人や二人ではなかったような気がする……」
「誰か腋臭のやつがいませんでしたか?」
「それじゃ!」と幽霊は、大きな――しかし陰気な――声で叫んだ。「その事を言おうと思っていたんじゃ。たしかなぐられる寸前、背後からひどい腋臭の臭いがした!」
それだけでは、何の手がかりにもならない。――一体これからどうしたものか……と、おれは机の上に足をのっけて腕を組んだ。
あとは、矢坂警部の方で何かつかむか、調査に走らせてあるネネ子の報告を待つだけだ。――ネネ子のやつ、このうす気味悪い幽霊事件に興味を持ったのか、給料もはらわないのに、一人ではり切って走りまわっている。
彼女には、何でも言う事をきくボーイフレンドが五、六人もいて、その若い連中を顎でこきつかって、連中の車で機動力を発揮しているらしい。
一時は、セックス好きの点を除けば、とんでもないしろものをかかえこんだと思ったが、存外有能なのかも知れない。
――何しろ、今の若い連中というのは、まったく中年男の理解を絶する。
「もう消えてもいいかな?」と木内老人の幽霊がきいた。「こうやって、あんたらの所へ姿をあらわしていると、ひどくつかれるんじゃ。――幽霊も、なってみるとなかなか楽じゃない。一昨日の晩からほとんど出づっぱりじゃからな。幽冥界という所へかえって、しばらくやすみたいんじゃ」
「御随意に……」とおれは肩をすくめた。「ゆっくり休んで、何か思い出してください。――だけど、こちらが呼んだらすぐ出て来てくれますか?」
「と思う……」と幽霊はたよりない事を言った。「ま、ぼんやりしてると、よんでもきこえんことがあるが――そうじゃ、何か特別の香りがすると、ふっと気がつく事がある」
「お線香か何かですか?」とおれはききかえした。「幽霊がにおいに敏感だとは知らなかったな……」
「敏感というか、幽冥界は、うす暗いから、わりと香りの情報が、よくつたわるんじゃ――。お線香はだめじゃ。ありゃ数が多いし、あの香りを嗅ぐと眠くなるでな。そうじゃな……。トルコ葉の煙草などがいいじゃろう。ゲルベゾルテ≠ネんか……」
「ゲルベゾルテ≠ヒえ……」おれは顔をもんだ。「あとでネネ子に買って来てもらわなきゃ……」
「じゃ、おやすみ……」と幽霊。
おれの部屋から、ふっと冷たい雰囲気が消えた。――ふりかえると、木内老人の幽霊は消えていた。そうなってから、どっと冷たい汗が全身にふき出した。
とたんに電話が鳴った。――おびえてとび上りそうになる腰を、無理におさえておれは腕をのばした。
「いるか?」と矢坂警部の声がした。「幽霊は……」
「今、おやすみだ……」とおれは言った。「おつかれだそうで、幽冥界とやらで昼寝をなさってる。――何かわかったか?」
「いま、お前のやたら色っぽい秘書に、いろんな書類のコピーを持たせてかえしたが。だいぶいろいろな事がわかった。――木内幸蔵氏は、たしかに五日前、羽田へついている。サンフランシスコからの直行便だ。入国はどういうわけか、アメリカ国籍のパスポートではいっている……」
「ふうん――市民権をとったのかな」
「だろうな。――職業は学者。医学関係だ。特に外国ではかなり有名らしいが、本人は偏屈で、日本じゃ博士号もとっていない。近県でミッション系の地方私立大学の講師をしていたらしいが、四年前にアメリカの何とかいう研究財団にまねかれて、こっちの家をたたんで先祖の土地まで始末して行っちまった」
「アメリカのどこだ?」
「アリゾナだ――。何という大学か研究所か、それはよくわからん」
「アリゾナ?」とおれはつぶやいた。「妙な所だな……医学関係って――専門は何だ?」
「人工臓器――と書いてある。どんなもんだ? 人工心臓なんてやつか?」
おれの頭の中で、かすかな光がまたたいたような気がした。――まだまだもやもやした形だが、何かが一つのパターンをとりそうな気配があった。
「あんたの死んだ上司とはどういう知りあいだったんだ?――昔の友人か?」
「そうじゃない。――当時直属の部下だった男に問いあわせてみたんだが、何でも病院で知りあったんだそうだ。J病院だ……」
「J病院?」おれはちょっと息をのんだ。「上司は何の病気で死んだんだ? ガンか?」
「そうだ。――その時の通院友だちで……何でも、木内老人は、しきりに、新しい療法をうけてみるように彼にすすめていたらしい……」
「じゃ、老人の方も……」
「同病だったらしいな。もちろん、病院の方は、どちらにも言っていない。――病院の上層部にコネがあったんで、一応調査という事で、カルテのコピーをもらって、お前の方にも持たせてやったが……」
おれの頭の中にふたたびいくつかの閃光《せんこう》がひらめいた。――今度は前より多く、もっとはっきりとしたパターンをとりかけていた。
「それからもう一つ――これはいいニュースだか悪いニュースだか、ちょっと判定しにくいが……犯行があったと思われる晩、大型外車があの堤防の上にとまっているのを目撃した近所の人が見つかった……」
「いいニュースじゃないか……」おれは思わず体をのり出した。「で――どうした? 車の型や、ナンバーはわかったか?」
「車はダーク・ブルーのリンカーン・コンチネンタルだ。――目撃者は二人いて、一人は土堤の上でライトを消してとまっている所を、もう一人は、堤防の方からきて、橋をわたろうとしている所を、水銀灯の光の中で見られている。中に三、四人いたそうだ。所で、その車のナンバープレートだが……ブルー地に白文字だったそうだ」
「|外交官ナンバー《ヽヽヽヽヽヽヽ》?」
「そうだ。下二|桁《けた》の数字は、ちょっと記憶があやしいらしいが……大体、どこの国の外交機関のものかもあたりがついている。――だけど、どうする? 事は国際的になりそうだぜ……」
「そっちはどうする気だ?――そうなってもおれ一人にまかせるのか?」
「上部に一応当りつつはあるんだが――何しろ、死体《ヽヽ》もないんじゃ、どんな犯罪容疑で動いていいのか、ちと話が苦しいんだな……」
「わかった。――一応、その当りをつけた外交機関というのを教えてくれ。民間の探偵屋が、欲にかられてやる分にゃ、万一ややこしくなっても、そっちは言いのがれはできるだろう」おれはメモをひらいてボールペンをつかんだ。「死んだら骨をひろってくれよな」
矢坂警部との通話を一たん切って、メモをにらみつけ、しきりにさっき頭の中に閃《ひらめ》いた、いくつかの閃光のつながりを考えている時、にぎやかな足音がして、ネネ子が息を切らしてとびこんで来た。
「ちょいとちょいと、ねえ、ボス……」とネネ子は声をはずませて言った。
「所長をよぶのにちょいとちょいと≠チてやつがあるか!」とおれはメモをにらみつけたままどなった。「矢坂警部からの書類は?」
「はい、これ……」とネネ子は大型封筒をさし出した。「でもさあ、ちょいとボス、きいてよ!」
「話はあとにしろ! 今、考え事で忙しい!」と、おれはもう一度どなった。「それより、通りを一丁ほど東へ行った角に、洋モク売ってるタバコ屋があったろう。そこへ行ってゲルベゾルテ≠チて煙草を三つばかり買って来てくれ。ドイツの、平べったい箱にはいった煙草だ。早くしろ!」
「お金は!」
「たてかえとけ!」
チェッ、いばってやんの――とか何とかぼやきながら、ネネ子はドアをバタンとしめて出て行った。いばっていようが何だろうが、とにかくおれはボスだ。二人で競馬場でわめいている時とちがって、仕事につっこみ出すと、おれにもボスとしての自信と威厳がよみがえって来た。
書類の大部分は、さっき矢坂警部から電話できいた事の裏づけ資料だった。それはあとからじっくり眼を通す事にして、まっ先に、J病院のカルテのコピーをしらべた。――もうずっと前、ある有名大病院の医局薬局全体をまきこんだ麻薬犯罪をしらべるため、おれは臨時職員に化けて、半年もその病院にもぐりこんだ。その時の特訓のおかげで、おれはドイツ語やラテン語まじりのカルテが読めるのだ。
ざっと眼を通すと果して木内老人は癌《クレプス》にかかっていた。――四年半前、一度J病院で開腹している。その時、肝臓に発するガンは、全身転移していて、手のほどこしようのない状態だったらしい。あとは例によって、腹を閉じ、手術もせず、一応制ガン剤をあたえて気休めを言っていたのだろう。矢坂警部の上司とは、開腹後の通院で知りあったらしい。
しかし、待てよ――と、おれは鼻をこすって眼を宙にはせた。――矢坂警部の上司は、どのくらい症状が進んでいたか知らないが、それから二年後に死んだ。だが、肝臓に発したガンが、全身転移の段階まで来ていた木内老人は、それから四年半《ヽヽヽ》生きていた。すくなくとも、日本へ帰って来て、三、四日前に殺されるまでは……。老人性のガンは、症状が途中で進まなくなる事がある、というが――それにしても、あの幽霊《ヽヽ》は、わりと元気そうだった。という事は――殺される間際まで、老人はわりと元気だったのだろうか?
いくら、人工臓器が専門でも、医者のはしくれとして、自分のガン症状がわからない事はあるまい。――矢坂警部の上司に、しきりに「新療法」をすすめていたというのは、自分でもガンと悟っていて、一緒にうける事をすすめていたのではあるまいか?
ひょっとすると――老人が先祖の土地まで処分してにわかに渡米したというのは、その「新療法」をうけに行くためではあるまいか?
そして――と、想像の翼がとめどもなくはばたきはじめるのを感じながら、おれは思った――ひょっとして、帰国後、数日で正体不明の「外交官ナンバー」の車で来た男たちに殺され、その死体《ヽヽ》が持ち去られた事は、アメリカでうけたかも知れない「新療法」と関係があるのではあるまいか?
「はい、ボス、|プレタポルテ《ヽヽヽヽヽヽ》……」
とネネ子がまた息を切らせてはいって来て、ゲルベゾルテの箱を三つ机の上に投げ出した。――煙草屋の主人は、よほどカンのいい人にちがいない。こんなひどい言いまちがいをした女の子に、よく隣りの高級婦人服店へ行け、と言わなかったものだ。
「ねえ、ボス……所長……今度はボクの話もきいてよ」
ネネ子は机の前に体をのり出して、足ずりするように言った。
「何だってんだ? 言ってみろ……」
おれはゲルベの箱を一つ、ポケットにねじこみ、鼻先で前あきの大きなブラウスからのぞいている見事なパイオツをながめながら、めんどうくさそうに言った。――それを見ると、いつもの癖で、指は反射的に、例の「椅子をダブルベッドにかえるボタン」をまさぐる。
そして、次の瞬間、ネネ子の言った言葉が、あまりにショッキングだったので、もう少しでそのボタンを押してしまう所だった。
「あの木内っておじいさん、|死んでないわよ《ヽヽヽヽヽヽヽ》……」とネネ子は言ったのだ。「本当よ。私もター坊も、この眼で見たんだから……。あのおじいさんが、|生きて歩いている所を《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》……」
「しっ……」と、おれは後の枝にはらばっているネネ子に合図した。「ほら……見張りだ。あいつが通りすぎたら、塀ごしにとびこむからな……」
「大丈夫ですか?」と横の枝にいたネネ子のボーイフレンドのター坊が心配そうに聞いた。「犬は二匹ともジステンパーにかかってるけど……万一塀にさわったら、きっと警報装置が鳴りますよ」
「そうなったらしかたがない。運賦天賦《うんぷてんぷ》だ……」
「それ、どういう事?」とネネ子がきいた。
「説明してる暇はない……」おれは、塀のむこうの広大な芝生と植えこみの庭園をすかしながら、胸もとの小型マイクと、胸ポケットの小型FM通信機をおさえた。「それより――もう出てくるころだが……何か見えるか?」
「出て来ました……」ター坊は葉の間から、スターライト・スコープの筒先をのぞかせながら言った。「玄関を出て……こっちへ来ます……」
スターライト・スコープ……アメリカ軍がヴェトナム夜戦用につかった、光電子倍増管をつかった、「星明りでも昼のように見える」暗視装置だ。――こんなものが、今の日本では東京のアメ横で買え、地方でも通信販売で買えるのだ。むろん、安くないが、ター坊をはじめ、このごろの若いものは金持ちだ。超小型のFMトランスミッター、全員が持っているトランシーバーなど、ネネ子の「子分」たちがみんなそろえてくれたのだ。なるほど、こういう連中が過激思想にでもかぶれたら、ビルの二つや三つ、簡単にふっとばすだろう。
「ほら、見張りが来たぞ……」とおれはささやいた。「あいつが向うの角を曲ったら、行くぞ……」
「全員スタンバイ、オーケーか?」とター坊がトランシーバーにささやいた。「間もなく|おっさん《ヽヽヽヽ》がつっこむぞ……」
ああ、畜生! 四十前のいい男をつかまえて|おっさん《ヽヽヽヽ》とは何だ!――と歯がみする思いだったが、そんな事を言っている場合ではなかった。見張りの巨漢は、通行人のようなさりげない顔をして、眼前の塀際を通りすぎて行き、おれは大きくたわめて木の枝にかけたロープを、しっかりとにぎりしめた。
そこは、郊外のかなり高い山の中腹にある宏壮な邸だった。高く頑丈《がんじよう》な石塀でとりかこまれ、頑丈な鉄柵門には「某国大使館の所有地に付き、無用の者立入り禁止」と英語と某国語と日本語で標示してあった。――ネネ子のおどろくべき報告から、その塀際の、高くそびえた樹の上にたどりつくまで、三日かかっていた。
ネネ子から、突然、「木内老人は|生きて《ヽヽヽ》いる」ときいた時、おれはオフィスの椅子からとび上り、彼女の胸ぐらを――ついでにちょいとおっぱいをなでながら――つかんでいた。
「なんだと?」とおれは血相かえてどなった。「ボスをからかうと承知せんぞ!――はっきり言ってみろ。見たのは、老人の死骸《ヽヽ》だろ? そうだろ?」
「いたいわ、ボス、離してよ……」とネネ子は悲鳴をあげながら言った。「死骸じゃないよ。ほんとに|生きて《ヽヽヽ》いたわよ。――でっかい外車に二人の大男にはさまれて乗っててさ。私、交叉点でならんだ時、すぐ横ではっきり見たんだから……あの木内っておじいさんよ。まちがいないわ」
「連中は、死体《ヽヽ》をはこんでたんだ……」とおれはわめいた。「生きている人間に見せかけて……」
「ううん、ちがう……。だってさ、ター坊と私、そこからしばらくつけて、先でまっていた別のでっかい黒ぬりのベンツに、あのおじいさんが、|自分で歩いて《ヽヽヽヽヽヽ》乗りうつる所みたんだもの。ター坊、ポラロイドカラメでうつしたんだから、まちがいないわ……」
おれの頭は混乱して来た。連中は、木内老人の死体《ヽヽ》を某所から某所へ移動させた――これなら話がわかる。しかし、死体なら、何も白昼、生きている人間に|見せかけて《ヽヽヽヽヽ》、車のリアシートではこぶなどという危険をおかさずとも、箱か何かに入れてはこべばいい。おまけに、死体が、|自分で歩いて《ヽヽヽヽヽヽ》別の車にのりうつったりするなどという事は……。だがしかし、もし本当に木内老人が|生きて《ヽヽヽ》いるとするなら――あの「幽霊」は一体どうなるのだ? |誰の《ヽヽ》幽霊だ?
「その、老人がのりかえたベンツはどこへ行った?――なぜもう少しあとをつけなかった?」おれは上ずった声で叫んだ。「こんな書類、もっとあとでもよかったんだ。――尾行の方が大切だ、という事ぐらいわからんのか? それでも探偵事務所の……」
「まかしとき!――ター坊がカー無線で、グループ友達《だち》に連絡して、今、三台ぐらいがかわりばんこにつけてるわ」ネネ子はポンと胸をたたいた。「ター坊たちは|おしゃべり鳥《チヤタリング・バーズ》≠チて、カー無線のグループつくってるの。中にゃナナハンにくっつけて、ちょいとうるさいのもいるけど、みんなすごくよく動くよ」
おれは思わずヘナヘナと椅子にくずれおちた。――「カー無線」だと? このごろのガキは、何と金持ちだ! それにひきかえ、このおれは四十に手がとどこうというのに、秘書に煙草銭をかりる始末だ。
「ネネ子!――カンちゃんたちが、ベンツの行く先つきとめたらしいぜ!」とその時ター坊がドアからとびこんで叫んだ。「今、ジャン公が中継してくれた。K―山の中腹のでっかい邸だそうだ。何でも、どこかの国の公館別邸らしいって……」
「カメラのカンちゃんなら、きっと邸の写真とったろ?」
「もちろん――つけてたのは、ブーやんの車と二台だったんだ。途中でどうやら行く先の見当がついたんで、カンちゃん先まわりして、邸を見おろせる高みから、八百ミリ望遠でばっちりだって……。みんな、車から出て玄関へはいる所をとってあるって……」
「カンちゃんとやらは、八百ミリ望遠付きカメラをしょっ中カー無線付きの車につんでいるのか?」とおれは元気のない声で言った。「ああ――君たちの仲間は金持ちだ」
「カンちゃんてすごいのよ。千二百ミリ反射鏡付き望遠を、手持ちできめるのよ」と、ネネ子は言った。「どうする? ボス――そのK―山の邸、のぞきに行ってみる?」
「ああ、行こう……」おれはしおしおと立ち上った。「乗せてってくれるかい?」
「ボス、元気を出しなよ!」と今度はネネ子がおれの背中をどやしつけた。「金は天下のまわりものって、しょっ中言ってたじゃンか」
「今から行くと、途中で日が暮れるな……」とター坊は時計を見ながらつぶやいた。「でもいいか――とにかく、邸の様子だけ見に行きましょう」
そろそろラッシュにかかるころで、市街地をぬけるまで、だいぶのろのろ運転だった。――スピードがあがらないと、窓をあけていても、リアシートでは、ドライバー席のター坊の腋臭に悩まされた。
臭気ばらいのつもりで、一服吸いつけたが、それがネネ子に買わせたゲルベゾルテだという事に気がついたのは、三、四服も吸った時だった。
「わしをよんだか?」とたちまちおれの横のシートに、木内老人の幽霊があらわれた。
「あ、こりゃ失礼……」とおれはあわてて煙草をもみ消した。「まちがいでした。煙草を吸うと出てくるなんて、まるでランプの魔神みたいですな……」
だが、幽霊はどういうわけか、おれの言葉も耳にはいらないように、たちまち興奮しはじめた。
「これじゃ、この臭いじゃ!」と幽霊はわめいた。「腋臭と強烈なトルコ葉の煙草の臭いがまじったやつ……うーむ、思い出したぞ! 記憶がよみがえって来た! わしを殴り殺した連中がしゃべっていたのは、ありゃたしかX国語じゃった。わかったぞ!――わしが、アリゾナの秘密研究所をぬけ出したのがわかって、あわてて研究所の連中が、日本の出先機関に連絡した。それをX国の連中がキャッチして、おそらく羽田からわしを監視した。わしが、知人に連絡したのを盗聴し、相手の名をかたって、あの河原へよび出して……」
「いいから、そう興奮しないでください」とおれは幽霊にまけないようにわめいた。「今はそれどころじゃないんだから……」
「あの大杉さん……何か?」とター坊が前席からふりかえった。「あの……誰にしゃべってるんですか?」
「いいから、キミは運転しなさい……」ネネ子がター坊の耳をひっぱった。「キミには何も見えないし、何もきこえないんだから……」
「それより、この連中の報告じゃ、あんたは|生きて《ヽヽヽ》いるそうですぜ……」とおれは幽霊に言った。
「ばかを言うな、生きていて幽霊になれるか。わしはここにこうして、ちゃんと|化けて《ヽヽヽ》出ておる……」
「しかし、この連中は、あなたが生きていて、|歩いて《ヽヽヽ》車から車へうつる所を見てますよ。写真もとったそうです……」
「なに? わしが……|歩いて《ヽヽヽ》おった……」幽霊はますます興奮してとび上った。「そ、そりゃいかん!――やつら、そこまで……そりゃ大変な事じゃ!」
あまりやかましいので、おれも大声でどなった。――頭に来て、何か幽霊を冒涜《ぼうとく》するような事も言ったらしい。気がついた時は、老人の姿は車内から消え失せており、ネネ子は心配そうに前部席からふりかえって、
「ボス……キミ、だいぶ、あの幽霊を怒らせたらしいよ」
と言った。
一方で老人が|殺され《ヽヽヽ》て幽霊になっており、他方で、同じ老人が|生きて《ヽヽヽ》歩いている、というこの奇妙な矛盾について、深く考える余裕はなかった。――「双生児」という陳腐なアイデアもちらとうかんだが、そんな事よりおれは、意地になって、某国公館邸に軟禁されている――らしい――老人を、連れ出す計画に没頭した。半分はのりかけた船、という意地もあったが、半分は、その計画を猛烈に面白がる若い連中につき上げられた、という事もあった。
おれたちは、三日というもの、夜昼交替でその邸をあらゆる角度から、監視し、観察した。――おれ|たち《ヽヽ》というのは、むろん、おれとネネ子と、ネネ子を女王と仰ぐ|おしゃべり鳥《チヤタリング・バーズ》≠フギャングどもだ。連中はすごいメカぐるいで、ありとあらゆる通信装置や盗聴装置をもっているもの、マイコンを車にくみこんでいるもの、ENG――つまり局用の超小型カラーヴィデオを車につんでいるもの、電波方向探知器や、レーダーまで持っているもの、などがいた。まったくこのごろの若いものは――まあいいだろう。
こうして三日目の夜、おれは計画を「決行」する事にした。――どうせ、本国から、むかえの使者がくるだろう。別邸は、大使館におくとまずいから、一時のかくし場所にすぎまい。それを思うとあまりぐずぐずしていられない。
老人は、ター坊のポラロイド写真や、カンちゃんの望遠写真を見るまでもなく、|ちゃんと歩いている《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のを、おれは自分の眼で見た。――もっとも昼は姿を見せず、夜十時すぎになると出て来て、約三十分、広い庭を二人の護衛つきで、散歩のように歩きまわるのだ。なぐられた時、どうかなったのか、いくぶん歩き方はぎくしゃくしていたが、誰にもささえられず、自分で歩きまわっていた。それが木内老人にちがいない事は、ナチ狂いのジャン公≠ェ持ってきた、ドイツの砲隊鏡とスターライト・スコープをくみあわせた仕掛けで、たしかめてあった。
矢坂警部には、もちろんある程度報告したが、「外交特権」がからむとなると――しかも、|殺された《ヽヽヽヽ》はずの人物が、ぴんしゃん歩きまわっているとなると、ますます表立って警察が介入するのがむずかしくなったようだった。おれの方は、かまわずにやる事にした。なまじ警部が、これからやろうとしている、とんでもない「違法行為」を知っていると、かえってあとで迷惑がかかるかも知れない。――あの幽霊は、機嫌をそこねたのか、その後ゲルベゾルテを吸っても出てこなかった。ひょっとしたら、あれは、木内老人の|ニセモノ《ヽヽヽヽ》の幽霊かも知れないとも思ったが、詮索しているひまもなかった。
とにかく監視をはじめてから三日目の晩、おれは邸の外の高い木の葉蔭にひそみ、曲げた枝の反動を利用して、塀をとびこえるチャンスをねらっていた。――|おしゃべり鳥《チヤタリング・バーズ》≠焉Aそれぞれきめられた配置につき、決行を待っていた。
おれの眼の隅で、大柄な見張りが、塀の角を曲って姿を消すのが見えた。
「じゃ、行くぜ……」とささやいて、おれはロープをつかみ、枝を蹴った。
三メートルちかい塀は、その上の忍び返しにも、有刺鉄線にもふれずに、まんまととびこえる事ができた。――着地はやわらかい土の上だったが、少し右のくるぶしをいためた。おれはいそいで植えこみの蔭にはいこんで辺りを見まわした。
幸いにまだ気づかれていない。
「フェーズA、成功……」と、おれは胸もとのマイクに小さくささやいて、点々とたつガーデンライトに照らされた、広い芝生を見すかした。
ややぎくしゃくと、膝の関節をつっぱるような足どりで、むこうから木内老人が近づいてくる。――十メートルばかりはなれて、二人の巨漢が、何かわからぬ外国語でしゃべりながらのんびりついてくる。いつもの散歩のコースで、一群の植えこみの前まで来て、右へ曲って行く所が、たった一度のチャンスだった。――その時、老人の姿は植えこみの喬木《きようぼく》の蔭にはいって、ほんの一瞬、ついてくる護衛から死角になる。あとは、潅木やら喬木の間の曲りくねった道で、ついてくる人間は、しばらく|消えた《ヽヽヽ》という事に気づかないだろう。
おれはコースの曲り角の、潅木の茂みに身をひそめ、次第に近づいてくる老人を待った。――ついに老人が、右へ行く道を曲った時、おれは姿勢を低くしたまま、上半身を出して、老人の袖をつかんだ。
「しッ!――木内さん、救いに来ました……」と、おれは声をひそめて言った。「さ、早く……安心して、逃げましょう……。大丈夫、私は百パーセント日本人です。日本の警察が保護してくれます……」
木内老人は、肩をゆするように、ゆっくりこちらをむいた。――わずかに半顔にさす常夜灯の光の中で、その顔には何の表情も動かなかった。
「さ、早く……ほら、護衛が来ます」おれはあせって、袖を強くひいた。「こっちへ……ここへかくれて……」
突然、老人はゆっくりと両腕をあげた。その両腕が、ゆらゆらと前方へのびると、口もとから、がーっ、というような、叫びともうなりともつかぬ声を発して、突然おれの首につかみかかった。
「な、なにをするんです!」おれはぐいぐい首をしめつけられながら、苦しさのあまりつい大声を出した。「私は……味方だ……あなたを……救いに……」
老人の顔がぬーっとおれの顔の上へのしかかった。――その時、葉蔭からはずれて、ガーデンライトの光が、老人の顔をまともに照らした。
一瞬おれは、血の凍る思いを味わった。――鉛色の無表情にこわばった顔に、灰色の、瞳のない、曇りガラスのようなまたたきせぬ眼球……。老人は、生きているのではなかった。それは|死者の顔《ヽヽヽヽ》をしていた。生きているように、自分で動きまわってはいたが、そいつは死体《ヽヽ》だった。死臭もぷんとした。
|ゾンビイ《ヽヽヽヽ》だ……と。おれは、気が遠くなりかけながら、胸のうちで叫んでいた。――ヴーズー教の秘儀にあるという、|死んでもなお《ヽヽヽヽヽヽ》、|呪術師の命ずるままに動きまわる死体《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》……。
かすみかける眼の隅に、さわぎに気づいてかけよって来た護衛二人が、でっかいサイレンサー付きの拳銃をひっこぬくのが見えた。
もうだめだ……計画失敗を、外へ知らせてやる事もできない……と、がっくりなりかけた時、突然、おれの首をしめ上げている「動く死体」の顔が、ニヤッと笑ったように思った。――首をしめつける力がふとゆるんだので、はっと眼を開くと、さっきまでガラス玉にすぎなかった死体の両眼に、見なれた光が動いていた。
「もう大丈夫じゃ……大杉くん……」と木内老人の死体は、木内老人の幽霊の声で言った。「うまく|わりこめた《ヽヽヽヽヽ》。安心したまえ」
とたんに死体の腕が、おれの首からはなれると、はねかえって両脇に立っていた護衛の手首を発止《はつし》とうった。――ころがった拳銃をひろい上げ、一人の護衛の頭をたたきのめすと、老人の死体も、もう一人の護衛に同じ事をやっていた。
「フェーズB!」とおれは反射的に叫んでいた。
とたんに正門の方で、ものすごいオートバイの爆音と、叫び声が起った。――ジャン公ひきいるナナハングループが、八百長の派手な喧嘩をおっぱじめたのだ。
「どっちじゃ……大杉くん……」と植えこみの蔭を走りながら、木内老人の死体がきいた。
「その植えこみのむこう――排水溝があります。とびこんで……」と、おれはぜいぜい息を切らせながら言った。「途中の鉄格子は、酸でやき切ってあります……」
木内老人の知人という、某科学財団の理事からわたされた小切手のゼロの数を、おれは何度も数えようとしたが、どうしてもうまく行かなかった。――五つまでは数えられるのだが、それから先が何だか混乱してしまう。恥ずかしながら、気が顛倒しているらしい。
取引き場所になった、|おしゃべり鳥《チヤタリング・バーズ》$齬pのガレージの中には、財団側の数名と、おれ、ネネ子、ター坊、ジャン公、ブーやん、カンちゃんなどグループ友達《だち》、それに――おれとネネ子以外には見えなかったが――木内老人の幽霊《ヽヽ》がいた。
「やれやれ……」と幽霊は言った。「これで一件落着じゃな……」
「でもおじいちゃんの体の中が、ほとんど機械《ヽヽ》だったとは知らなかったわ」とネネ子は溜息をついた。
「脳《ヽ》だけは、わし自身のものじゃった」と幽霊は言った。「それをあいつら、脳をたたきつぶしおって……わしを|殺し《ヽヽ》おったんじゃ。くそったれめ!――体が動かんので、あわてて応急に、安物のコンピューターと指令受信装置などをとりつけおって! 死体冒涜もはなはだしい……」
「アメリカの秘密研究所も、同じような事をやろうとしたんですか?」とおれはきいた。
「というよりも、連中は、たった一つ残った生ける器官≠ナある脳を、洗脳≠ノよって、自分たちの命令を何でもきくものに変えようとしたのじゃ。――生きている脳でもって、全部を機械――つまり人工臓器におきかえた体を、総合的にうまく動かす事こそ、わしの研究の最大の成果じゃったからな……。脳くらいの大きさで、それができるほど精密なコンピューターや電子脳は、まだまだ開発されそうにないから……。わしが、身障者やガン患者を救おうと思って、粒々辛苦した研究を、そんな、完全ロボット化人間≠フ製作に応用されてたまるか!」
「でも、まあ、あなたの意志は、きっと財団がついでくれますよ」と、おれは言った。
「あなたの記憶も、ター坊の腋臭とトルコ葉の煙草のおかげでもどったようですし――これで安心して、あの世へ旅立てますよね」
「うむ、まあな……」と幽霊は、車付き寝台の上に横たえられ、白布をかけられた、自分の死体《ヽヽ》をなごりおしそうに見た。「しかし、何となくまだ、心残りじゃな――諸君とも折角知りあったのに、これでおわかれするのは残念じゃ……」
「いいわよ、いいわよ!」とネネ子があわてて手をふった。「私たちの事、もう気にしなくていいわよ。――また次のお盆にでもいらっしゃいな。お線香でも、マリファナでも、何でもあげたげるからさ……」
「では、これで……」と財団理事が黙礼した。――車付き寝台が、むこうにとまっている病院車の方に、ゆっくり動き出した。
「例の邸の方のあとは大丈夫ですかね?」とター坊がそれを見送りながらつぶやいた。「表門にまわった連中は、二、三人、顔を見られてますよ」
「まあ、公式筋を通して、日本警察に、敵性分子の侵入≠フ件をしらべろとやかましく言って来ているらしいがね……」とおれは笑った。「ま、大丈夫だろ。何しろ地もとでその件を担当してるのが矢坂警部だから……」
「あ、そうそう、ボス、これ……」とネネ子は一枚の紙片をおれにつきつけた。「できたら今すぐはらってちょうだいって……」
「なんだ、これは……」おれはその紙片に書かれた金額の、ゼロの数を数えようとして、また眼を白黒させた。
「ボクたちのグループの請求書よ。――当然でしょ」とネネ子は言った。「ただであんな危いめするほど、今の若いモンはお人よしじゃないわよ。――この件は、|いけそう《ヽヽヽヽ》だと、ボクのカンでふんで、みんなを動かしたんだから……」
「しかし、今すぐったって……」
「おっさん、今、すごい額の小切手、もらったじゃンかよ――」とジャン公が、のっそり前へまわって、おれの手もとをのぞきこんだ。「それ、おれたちに渡しなよ……。みんなとろうってんじゃないよ。釣銭《つり》はあとでかえしてやるよ。請求書の方は、まだつけおちがあるかも知れねえけどよ……」
いつのまにか、|おしゃべり鳥《チヤタリング・バーズ》≠フ面々はゆっくりとおれのまわりをとりかこむ形になっていた。――なるほど、連中金持ちなわけだ。商売だって、おれよりよっぽどしっかりしてる。
「さあ……」とジャン公は皮手袋をはめた手をさし出して、掌を上へむけてゆっくり動かした。
「あっさり渡しなよ。おれたち、友達《だち》じゃねえかよ。――ネネ子の給料やボーナスも、まだ払ってねえんだろ? おれたちの方から渡すからよ……」
二人や三人なら、いくらすごんでも、こんなチンピラはかるく片づける自信があった。――だがこれだけ人数がいて、しかも連中のチームワークのよさは、一緒に仕事をして、いやというほど知っていた。で、おれはしぶしぶ小切手をさし出そうとした。が、その時――「あ!」おれは、凍ったような叫びをあげた。「お、おい! み、見ろ!――寝台の上の死体が……おれたちにむかって、さよなら、さよならって……手をふってるぞ!」
みんな一せいに、ガレージのむこうの端の病院車の方を見た。――その隙《すき》におれは脱兎の如く連中の列をすりぬけ、すぐ傍の裏口からとび出して、外からガシャンと閂《かんぬき》をおろしてやった。
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ハイネックの女
「おや」夕暮の雑踏の中で、片岡はたちどまって声をかけた。「今、おかえりかね?」
「ああ……」吉田は細い目をまぶしそうにしばたたいて、片岡を見上げた。「ええ、あの――これからちょっと……」
「おデートですか?」
片岡はわざとらしく磊落《らいらく》な調子で言って、小柄な吉田の肩をぽんとたたいた。――むろん、中年男のすばやい視線は、吉田の背後に、顔をかくすようにした、若い娘の容貌やスタイルを、一瞬のうちに値ぶみしていた。
――こりゃあ、すこぶる付きの美人だ。彼の会社の同僚かな? それにしても……。
「あのう……」吉田は、柄になく気どって咳《せき》ばらいしながら、背後の女性の方へ、半身に体をひらいた。「御紹介します。鹿浪《しかなみ》久美子さんです。こちらは片岡さん……」
「はじめまして……」と片岡は慇懃《いんぎん》に頭をさげた。「吉田君の隣の部屋にいます。――お二人そろって、お食事ですか?」
何なら……という、「押し」を底の方にかすかににおわせながらの挨拶だった。――若いアベックの邪魔をしよう、などという野暮なつもりはなかった。が、意識下のどこかに、ちんちくりんで、あまりにも垢《あか》ぬけない隣室の青年に対する、日ごろからのかすかな憐憫《れんびん》まじりの軽侮があり、それが、一緒にいる、なみはずれて美しく魅力的な女性に対して抱いてしまった強い関心とないまぜになって、つい強引さをちらつかせるような態度をとらせてしまったのだ。
「いえ……」
鹿浪という女性は、かすかに微笑をうかべて、吉田の方をふりかえった。
笑うと、夕闇の中が、ぱっと芙蓉《ふよう》の花が咲いたように明るくなる――そんな感じの娘だった。
色がぬけるほど白く、つややかなくせの無い髪を長く背にすべらせ、純白のハイネックのセーターに、茶のスエードのヴェストとスカート、それにおさだまりの黒のブーツといった、女子学生のような恰好《かつこう》をしているが、可憐な耳朶《みみたぶ》の小さな金のイヤリングと、胸もとの金鎖が、ふしぎにあでやかだった。
「ああ、ぼくたちはこれから……」吉田のうすく脂のういた色の黒い顔が、赤らんだように見えた。「ちょっとそこのフードセンターで買物をしてかえるんです。――食事はかえってしますので……」
「ほう……」と片岡は眼を見はった。「お二人さしむかいで?」
「ええ――彼女、とっても料理がうまいんです」
そう言うと、吉田は突然、蟹《かに》に似たひらべったい顔を、くしゃくしゃにして笑った。唇のはしからよだれでもこぼれ出そうな、ゆるみっぱなしにゆるんだ笑顔だった。
じゃ、これで――と、二人で向うへ行きかけて、吉田は何か思い出したように、交叉点で立ちどまった片岡のもとへ小走りにかえって来て、ささやいた。
「片岡さん、しばらくお留守だったんで、ご挨拶がおくれましたけど……彼女、いま、ぼくの部屋にいるんです。――よろしくねがいます……」
「それはそれは……」と片岡は、挨拶のかえしようがないといった面持ちで、おざなりにつぶやいた。「君もいよいよ身をかためるわけかい?――それはおめでたい。何か……」
「いえ、その――まだ、結婚するってきめたわけじゃないんです」と吉田はちょっと|ばつ《ヽヽ》が悪そうに咳ばらいした。「何しろ、彼女とは知りあって一週間しかたってないもんで……」
「おやおや……」わけ知りぶった笑いを浮かべようとしたが、それがどこか底の方で歪むのを、片岡は感じた。「君の許婚者《いいなずけ》か会社の同僚かと思ってたが――若い人はいいね。いつから君の所に?」
「四日ほど前からです」
じゃ、これで……と、吉田はそそくさと踵《きびす》をかえして、小走りに走り去った。
鹿浪久美子という、その若く、美しい女性は、十メートルほど先で、顔だけをこちらへむけて待っていた。彼女より五センチちかくも背の低い吉田が、いそいそと肩をならべて歩き出した時、女の方は、その白い顔を、片岡の方へむけて、小さく頭を下げた。
片岡も、反射的に一揖《いちゆう》しかけたが、その時ふと、何か異様なものを感じて、動作が中途でとまってしまった。
顔だけふりむけて、こちらに黙礼した、女のしぐさに、どこか奇妙な不自然《ヽヽヽ》さがあるような気がしたのだ。
だが、何が異様なのか、どこがどう不自然だったのか、考えるひまもない内に、二人の姿は黄昏《たそがれ》の雑踏の中に消えてしまい、片岡もまた、信号がかわってどっと動き出した傍の群衆に押されて、歩き出していた。
――皮肉なものだな……。
と、片岡は部屋の鍵をさしこみながら、思った。
マンションと名づけてはいるが、実体は昔からある鉄筋アパートに毛がはえたようなもので、一ユニットの部屋数もすくなければ坪数も小さい。そのかわり買取り価格は千万円を切る。――そんなせせこましい七階建ての建物の四階へ、これもだいぶ|がた《ヽヽ》の来た定員六名のエレベーターで上って来て、深夜の人気のない廊下を自分の部屋のドアの前まで歩いてくると、途中であたたかい料理のにおいにぶつかった。
うまそうに焦げた、にんにくとバターと玉葱《たまねぎ》の臭いと、それに肉を焼いた臭いだ。――それもさほど強烈でなく、ごくつつましやかにまとまっているのが、かえって家庭的なものを感じさせる。
その臭いが、彼の隣室、吉田の部屋のドアの下から漂ってくるのがわかった時、ふと自嘲的に、そんな思いが浮んで来た。
――一週間前、彼は、「家庭」を失い、いれかわりに、隣室の独身者の所に、「家庭的」な雰囲気が出現したのだ。
ドアをあけると、冷たい、どろりとした空気が流れ出した。その底に、すえたような臭いがよどんでいる。――かすかなかびくさいようなにおい、長しの隅か、すて忘れたごみ缶の中で、野菜屑か果物の皮が腐っている、甘ったるい胸のむかむかするようなにおい、壁や敷物にこびりついた煙草の|やに《ヽヽ》のにおい、そして人間の汗と脂のにおい……そんなものが、汚れた皿にこびりついた脂肪の澱《おり》のように、一週間留守にした部屋に閉じこめられていた。
明りをつけ、キッチンの換気扇をまわし、エアコンの温度調節機を二十五度ぐらいにしてスイッチを入れる。――が、それでも、部屋全体の、寒々とした空気は急には追いはらえない。上着を椅子の上にほうり出し、ネクタイをゆるめて、キッチンへ行って酔いざましの水を飲んだ。いやにきちんとかたづいて、乾き切ったステンレスの流しの上には、うっすらとほこりがたまっていて、水音ばかりが妙にたかだかとひびく。
閉め切ってあったのに、部屋のテーブルや棚、家具の上には、一週間の留守の間に、うすいほこりがつもっていた。――指でなぜると、あるかなきかの筋がつき、指の腹にざらりとした感触がつたわる。シャツをひきむしって、上着の上にほうり出し、抽《ひ》き出しからセーターをひっぱり出してかぶると、彼は客間のソファにどっかり腰をおろした。テレビをつける気にもならなかった。
手をのばして、傍の椅子から上着をとり、ポケットをさぐったが、煙草の袋はもうからだった。――酔いで全身が重く、舌打ちしたい気持ちだったが、どうしようもなかった。煙草が吸いたければ、立って探さなければならない。声をかけて、動いてくれる「誰か」はもういない。
――買い置きがどこかにあった?
と、思うと、急に冷やりとした、暗い気持ちにおちいった。
別れる前は、すでに夫婦仲は冷え切っていたとはいえ、無ければ無いで、ぐったりしている彼にかわって、一階の自動販売機まで買いに行ってくれるぐらいの事は、別れた妻の恵子はしてくれた。親切や愛情というよりも、共同生活の惰性、乃至《ないし》はルールのようなものだった。――それに、恵子も煙草を吸ったから、一晩ぐらいはそれでしのぐ事もできたろう。
溜息をついて立ち上り、ちょっとあたりを見まわした。幸いな事に、ベッドサイドテーブルの上に、灰皿と一緒に、吸いかけの一箱を置いてあった事をすぐ思い出した。――恵子が出て行った晩、日ごろ彼女がいやがる寝煙草を、無修整の英語版プレイボーイを読みながら、充分にたのしんだのだった。思えば妻とわかれた「解放感」を味わったのは、その時だけだった。
寝室へ行って明りをつけると、ツインのベッドの一方が寝乱れたままであり、もう一方はベッドカバーをかけたまま、冷たく、とりすました感じで、それは寝巻きの裾をかたくあわせたまま、まっすぐ横たわり、露骨に拒否の表情をたたえて眼をつぶっている恵子の姿を思い出させた(何なら、そちらのベッド、持って行けよ――と、盛装し、白いトランクをさげて出て行こうとする恵子に、彼は言った。――ここのものは、何でも半分ずつわける約束だから……。――いいわよ、と、恵子は、冷ややかな表情で、皮肉をきかせて応じた。――これは権利放棄するわ。どうせ今夜からでも御入用なんでしょ……)。グラフ雑誌は、ベッドの横の床にだらし無くおちており、サイドテーブルの上には、吸い殻を五、六本もり上げた灰皿と使いすてのライター、それに半分ほどになった煙草の箱がおいてあった。
煙草をぬいてくわえると、髪の脂でどす黒く汚れた枕カバーの上に、二本ほどの抜け毛がおちているのに気がついた。――指をのばして一本つまんだが、すてる所が思いつかないまま、しばらくそれを見ていた。と、また何か、植物性の腐敗臭がにおって来た。視線をわずかに動かすだけで、その臭いのもとはとらえられた。寝室の洋服ダンスの上で、名も知らぬ花がしおれ、くさっているのだった。
片岡は、つまんだ抜け毛を汚れた灰皿にすてると、その灰皿を持って居間へかえった。――今、自分の「家」が、緩慢《かんまん》な壊死《えし》をはじめている事が、はっきり感じられた。といって、さし当ってどうする方法も無い。居間兼客間へかえると、彼は洋酒棚の中からブランディの壜《びん》を出してテーブルの上においた。それから火のついてない煙草をくわえたまま、台所へ行って、ほとんどからっぽの冷蔵庫をあけ、かちかちに凍りついた製氷皿をとり出した。とたんに、サーモスタットがはいってモーターがまわり出し、冷蔵庫の中が、びいん、と鳴りはじめた。その冷たい金属的な響きを聞いていると、部屋の中が、無人の侘《わび》しい工場になったような気がした。
酔いが折角|醒《さ》めかけているのに、また飲むというのも芸の無い話だが、今、この部屋に巣食いはじめたおぞましい寂寥《せきりよう》を、一時的にも追いはらうためには、ほかにこれと言った手段は思いつかなかった。
で、彼は飲みはじめた。――飲むうちに、恵子が出て行ってから、まだ一週間しかたっていない事をあらためて思った。二度目の離婚で、今度は最初の結婚の半分の四年間しかつづかなかったが、離婚のあとのこたえ方は、最初よりはるかに大きいような気がする。考えてみれば、「年齢」というものを計算に入れていなかった。恵子は、悪妻というほどではなかったが、自立心のある、個性の強い女で、彼同様、結婚は二度目だった。最初はそれで意気投合したのだが、もう二年目には、決定的な衝突をし、あとの二年は、ただ同じ住所に住んでいるというだけ、最後の一年は、どちらが出て行くかで意地の張り合いみたいなものだった。二人はそれぞれ愛人をつくり、もうあとには、お互いの性格に対する嫌悪と、相手にできるだけ意地の悪い打撃をあたえたい、という憎しみしか残っていないと思われた。
にもかかわらず、別れてみると、二人の間には、まだそれ以外の何かがあったのだ。――憎みあっていても、その憎しみは、「生きる事の孤独」をおおいかくすだけの熱さがあった。恵子が出て行ったあと、当然あると期待した、叫びたくなるような解放感は、なぜか不発だった。一晩、自室で寝たあと、片岡は、ずっと年下の愛人と三泊の旅行に出かけ、かえって来てから、これは浮気の相手のバーのマダムの所に二日いつづけた。籍をおいている工業デザインスタジオのオフィスには、そのくらいの自由がきく立場だった。
だが、解放感に酔いしれる筈だった五日間の休暇は、どこか索莫《さくばく》としたものだった。妻に対する憎悪や復讐の感情が、愛人に対する情熱を裏づけているとは思ってもみなかったのだが、事実は、心の底にぽっかり穴が明き、そこから冷たい風が吹いてくるのが、温泉宿の夜半、彼の腕の中で眠っている若々しい裸体のあたたかさを反芻《はんすう》している最中でさえ、感じられたのだった。三日間の旅の間、突然片岡は、自分の「老い」を意識した。金と、世間ずれした脂っこい狡知《こうち》でもって、まだ世慣れない若い娘を一刻有頂天にさせている四十男の一種の醜怪さを……。三日間の旅のかえり、車中で突然その愛人が、国へかえって結婚しようかと思っている、と言い出した時も、彼はそれほど表面的なショックはうけなかった。ただ、すでにあいている胸の底の穴が、一層大きく押しひろげられるのを感じただけだった。バーのマダムとのただれた二日は、口なおしのつもりだったが、思いきって卑俗な性のいやらしさを、全身にべっとりとまといつかせただけだった。索莫とした思いは、つのりこそすれ寸毫《すんごう》もうすめられる事なく、その上、頭から爪先まで、すえた臭いを放つ垢の薄皮をまとったような疲労感が残った。
そして今、彼は「生活」というものがぬけ出て行ってしまった、蝉《せみ》のぬけがらのような、空虚な部屋にいた。――くたびれはて、深酔いをさました上で、またむりやり酔いをかきたてながら……。この上酔えば、心の底に荒涼とした風景が現れるはずだった。それはそれで、このもやもやとしたうつろな侘しさをふきはらってくれ、自分の中に、何か歯を食いしばるような痛みがよみがえってくるのではないか、とかすかに期待しながら……。
が、その期待は、それほど簡単には果されなかった。――頭の一部がしびれた以外、酔いもせずに、いたずらにグラスをかさねている彼の耳もとに、ふと女のすすり泣きがしのびこんできた。
一瞬、彼はソファの上で身をかたくして、耳をそばだてた。たしかめるまでもなく、例の時の声だった。声は隣室の壁を通してきこえて来た。――隣の部屋に、あの吉田というぱっとしない青年が入ってから一年余り、その間、ステレオの演歌やフォークが聞こえてくる事はあっても、こういう声が聞こえてくる事は、ただの一度もなかった。
――あの娘《こ》だ……、と、片岡はチューリップグラスを宙にささえながら思った。――夕方吉田と一緒にあった、あの色白で可憐そうな、白いハイネックのセーターを着た娘……ほほえむと、芙蓉の花が開いたようで、大きな睫毛《まつげ》の長いうるんだ眼に、どこか一抹の淋しさをたたえた娘……。
――ああ……と、細い、あえぐような声が壁ごしにはっきりと聞こえて来た。――典夫さん……だめ……。だめよ。
それから、吉田の切羽つまったような声がからみ、何かが触れあう音が小さく聞え、やがて嫋嫋《じようじよう》たるすすり泣きがはじまった。
突然、一時間ほど前、隣室の前を通った時に嗅いだ、あのいかにもあたたかでたのしげな、料理の臭いの記憶がよみがえって来た。――それは、隣室のすすり泣きに、強烈ななまなましさをそえ、彼は思わずごくりと唾をのみこんだ。
|あの娘《ヽヽヽ》が……隣室で、あの料理をつくったのだ!――吉田青年と二人で、仲むつまじく食品を買いに行き、隣室のキッチンで野菜をいため、肉を焼き、二人のためのつつましげな夕食をととのえたのだ。若い二人の事だ。安いワインでも飲んだろうか。
そして今――おそらく可愛らしいサロンエプロンか何かで料理をつくり、あとかたづけをした|あの娘《ヽヽヽ》が、今、肌もあらわに、あの色の黒い、ずんぐりした吉田青年の腹の下で、もだえ、すすり泣き、あえぎながら吉田の名を呼んでいるのだ。
いつの間にか、口の中が熱く乾いていた。――さっきから、片岡の視線は、テーブルの上の、水を入れていたコップに吸いつけられていた。水は飲みほされていて、コップはからだった。そのコップを隣室との境いの壁にぴったりつけ、底に耳を当てたい衝動が、彼の全身を硬くしていた。が、妻に去られたばかりの四十男が、夜半、隣室の若いカップルの愛の行為を盗み聞きするため、コップを壁にあてて、息を殺し、耳をこすりつけている姿を想像すると、あまりの浅ましさに吐き気がしそうだった。
隣室のすすり泣きは、次第に高まり、やがて一きわ高く、ほとばしるように泣き叫ぶと、静かになった。――片岡は、いつの間にか、顎が動かなくなるほど歯を固くくいしばっていた。ついにコップを壁に押しあてはしなかったが、惨憺《さんたん》たる気分は変わらなかった。壁一重へだてて、こちら側には、空虚さと荒廃と生の凋落《ちようらく》への冷え冷えとした傾斜があり、向う側には、若さと、家庭的なものと、燃えるような初々しいセックスの喜びと――そして恐らくは「愛」があった。
――たった一週間の間に、何という皮肉なコントラストがついてしまったんだ……。
と、片岡は、食いしばった歯の間に、無理矢理ブランディを流しこみながら思った。――今は苦笑するゆとりも無かった。彼の中には、隣室のカップル、就中《なかんずく》、同性の吉田に対するどす黒い嫉妬が、タールのように粘っていた。あの、垢ぬけない、田舎っぽい、どこからみてもぱっとしない、背の低い若僧が、なぜ、あんな、若い「いい女」を……と、思うと、どうしようもなくかっとするのだった。妻と別れた直後、若い愛人からも別離を宣告された事が、その時はそうでもなかったのに、今隣室から、まぎれもない「若い性」のあえぎを聞くと、どうしようもなくみじめに感じられるのだった。
――二十年前の彼だったら、部屋の隅へ行って、膝小僧をかかえ、すすり泣いたかも知れない。が、四十すぎれば、まさか泣く事もできず、それが一層堪えがたかった。
このままでは、重ねた酔いにコントロールがきかなくなって、次から次へと、みじめな記憶や、屈辱の思い出がうかんでくるかも知れない、と思った彼は、荒々しく立ち上って、しまっていたカーテンをひき、ベランダへ出るガラス戸をあけた。――それでなくても、部屋の温度は暑くなりすぎていた。四月の夜ふけの、冷たい夜気は、一瞬彼の内へとまきこみかけていた気分を救ってくれた。隣室は、もうひっそりとしずまりかえっていたが、片岡はそのまま、ブランディの壜とグラス、それに煙草とライターを持ってベランダへ出た。小さな丸テーブルと、アルミ枠にキャンバスをはった椅子二つで一ぱいの、せまいベランダで、煙草を吸いつけると、夜風が煙をすばやくはこんで行った。
そのまま彼は、一時間以上も、体が冷えるにまかせて、ブランディをなめながらベランダにいた。――眼下の通りには、もう車の通りもたえ、眼の前にならぶ明りを消したオフィスビルの間から、遠く港の灯が見えた。ベランダは隣の吉田の部屋のとつづいており、間に不透明なアクリルの仕切り板があったが、板と板との隙間《すきま》からうかがうと、吉田の部屋は、もうすっかり明りを消し、寝しずまった気配だった。
遠い汽笛の音に、気がつくと、口をあけたばかりのブランディの壜は、あらかた空になっていた。――頭はもうろうとし、肌は氷のようになっており、胸がむかむかした。明日の朝は、ひどい事になるぞ、と思いながら、片岡はようやくよろめきながら立ち上った。部屋へはいろうとすると、隣室の窓の上の方で、がたっ、と、空気ぬきの小窓が開いたような音がした。ふらつきながら首をまわして見上げると、隣室の暗い庇《ひさし》の下から、何か黒い塊《かたま》りが、ばさばさっと羽音をたててとび出し、たちまち夜空の闇に消え去った。
――何だ、鳥か……。
と、睡魔に灰色のヴェールをかぶせられた頭の隅で、彼は考えた。
「片岡さん……」
と、男の声で言われて、何となくぎくっとした。――ふりかえると、派手なスポーツシャツ姿の吉田が、小さな眼をしょぼしょぼさせて笑っていた。
「やあ、どうも……」
と、口の中で言いながら、片岡は照れていた。土曜の午後、駅前のスーパーの食品売場で、知り合いの同性とあうのは、あまり恰好のいいものではなかった。
「買い出しですか?」
と吉田は屈託なげにきいた。――彼自身は、大きな籠に、肉や野菜、冷凍パックの魚、調味料といったものを一ぱい入れて、別に照れた風もなく、むしろ楽しそうだった。
「まあね……」
とつぶやきながら、片岡は傍のキャビアの壜詰めをとり上げた。――本当は、パンと米、それに漬け物にハムと卵を買おうと思っていたのだった。
「このごろ、片岡さん、ずっと自炊ですか?――奥さんは、旅行中?」
「わかれたんだ」と、片岡はキャビアのほかに、アンチョビーの缶詰めを棚からとり上げながら言った。「三週間ちょっと前にね……」
それは――というように、吉田は小さい眼を見開いた。
「そうだったんですか……」と、吉田はつぶやいた。「それじゃあのう――どうでしょう、これからぼくの所で、ご一緒に食事しませんか? 今日の午後、社の友人が二人来る予定になってたんですけど、急に来られなくなったんで、久美子もがっかりしてるんです」
「それはどうも……」と片岡は、棚に眼を走らせたままでいった。「そういえば、お宅の彼女、料理がうまいそうだね」
「ええ、とっても……」と、吉田は無邪気にうなずいた。「じゃ、来てくださいますか?――すぐ久美子に電話しときます」
そう言うと、吉田は短躯《たんく》をはずませるようにして、小走りにレジの方へ去った。
あんな、ままごとみたいなカップルが、|おとな《ヽヽヽ》を食事に招待するなんて、小癪《こしやく》な、とも思ったが、腹の中では、別の強い興味が動いていた。――久美子という娘を、もう一度まぢかにしげしげと観察してみたい、と思ったのである。ロマノフ・キャビアの大壜と(このごろはスーパーでさえ、こんなものを売るようになったのか、と彼はいささか驚いた)アンチョビー、それにブルゴーニュの白のちょっといいやつを奮発して、それを手みやげに、片岡は吉田の招待をうける事にした。
「君の彼女も、やっぱりお勤めかね?」とマンションへかえる途中で、片岡はぼつぼつ探りを入れた。「会社はどこ?」
「それが――仕事はやっているらしいんですが、はっきり教えてくれないんです」と吉田は答えた。「何か調査みたいな事じゃないですか? あちこちの図書館へ行ったり、資料館なんかにも行っているみたいですから……」
朝、吉田が出勤したあと、しばらくたって、久美子も外出支度で出かけるのを二、三度見た。――出先でさそいあわせるらしく、帰りは大てい二人一緒だった。
吉田との出あいは、深夜スナックという事だった。――偶然カウンターで隣りあわせにすわり、彼女の方から吉田に声をかけ、地方から出て来たばかりで、宿を探している、と言った。ふだんなら、口下手の吉田は、どぎまぎして、まともな受け答えもできない所だったが、その時はかなり飲んで、多少は気も大きくなっており、不思議に調子のいい口がきけた。何となく意気投合したようになって、吉田はもう一軒さそい、久美子もついて行き、出た時はもう真夜中をすぎていた。――そこまで持ちこんだのに、吉田の方には、とてもそれ以上の強引さはなかった。といって、その時刻、もはやラヴホテル以外、まともな宿が簡単に見つかるわけはない。
「よかったら、あなたの所へ泊めてくださる?」
と、彼女の方から言い出したのだという。
「で、その晩に?」
と、片岡は意外な思いできいた。
「ええ、まあ……」と吉田は顔を赤黒く染めた。「それでも、その晩ナイトぶりを発揮して、彼女を寝室の方に寝かし、ぼくは居間のソファ・ベッドに寝たんですけど……」
それぞれ横になってから、突然彼女の方が寝室から出て来て、そっと吉田の横にはいって来たのだ、という。
「なるほど。――すると、それ以来の習慣かね? 居間の方で、御両所がはげしい事をなさるのは……」と、片岡は一度訪れた事のある吉田の部屋の間取りを思い出して苦笑した。「おかげで、やもめぐらしの中年男は、毎夜大いに悩まされているが……」
「あ、そうだったんですか? どうもすみません……」
と、吉田は、今度は別に顔も赤らめず、ちょっと首をすくめた。――そういう所に、片岡の世代に、どうもよくわからない感覚のずれがあるようだった。
「それ以来の習慣になっちまったみたいですが、あのう、ふつう、結婚しても、夫婦は別々の部屋に寝るものなんですか? 彼女はどうしてもそうするっていうんです。一度ぐらいは、朝まで一緒に寝たいとも思うんですが、彼女が一人でないと眠れないというんで……」
「同じ寝室に寝ていても、他人以上に冷たい夫婦もあるさ」と片岡は自嘲的に言った。「やはり、結婚するの?――彼女の故郷《くに》はどこ? 親御さんは?」
「それも教えてくれないんです……」と吉田はちょっと口をとがらせた。「言葉に、かすかな訛《なま》りがあるみたいですけど――ぼくにはよくわかりません。彼女は、返事はもう少し待ってって言ってますが、ぼくはいずれ結婚するつもりです。別に誰にことわらなくてもいいんですから……」
そうだったな――と、片岡は思った。吉田の両親は早く死に、身よりと言えば、故郷《くに》もとに、孫たちに冷淡な、素封家の出の祖母がいるだけだった。ずっと年上の姉は、外国人と結婚して南米へ行ったきりで、吉田はかなりの遺産をもらい、その上祖母から毎月若干の仕送りがふりこまれる。三流の鉄鋼会社につとめていても、若くして一応マンションを買いとり、車も持って、そこそこの生活ができるのはそのためだ、と聞いた。
その上、結婚は法律上、「双方の合意」さえあれば、誰はばかる事もないのだし、吉田の立場からすれば、出世や世間体を気にする事はなかろう。「同棲時代」は若い人の風潮だし、故郷《くに》もとでなければ、うるさい口もあるまい……。
そういった、吉田のために有利すぎる条件が、なぜか片岡には面白くなかった。――その上、あんなにすばらしい娘が、まともに吉田に惚れているとしたらそんな事はあり得ない、と、考えたがるのは、かつてはいっぱしのプレイボーイを気どっていた中年男の「嫉妬」のせいだろうか?
それにしても、この組合せには、どこか|不自然な《ヽヽヽヽ》所がある――と思いかけて、ふと片岡は首をひねった。――この「不自然」という言葉は、前に一度、どこかで思い浮かべた事があるような気がした。
「彼女はなぜ、仕事や経歴をかくしたがるのかね?」と片岡はつぶやいた。「君は、そういった事を、何も知らないでも、結婚するつもりかね?」
「そうです」と吉田は自信ありげにうなずいた。「いずれ教えてくれるって言ってましたが、……でも、ぼくは別にそんな事知らなくてもいいんです。ぼくは彼女を愛してますから……」
そりゃそうだろうさ――と、以前にくらべれば、垢ぬけないなりに、ずっと明るく晴れ晴れとして、自信にあふれ出した吉田の顔を横眼で見ながら、彼はいまいましくなった。――昨今、恋というものは、女だけでなく、男まで美しく≠キるのだろうか? この男が、彼女を本気に愛するのはわかるが、いったい女の方は、果して……。
吉田の部屋のドアをあけると、すでにうまそうな、あたたかい料理のにおいが室内にあふれていた。
「いらっしゃいませ……」と、久美子が、あの清楚《せいそ》な、芙蓉の花のような微笑をうかべて出むかえた。「お待ちしておりました。――典夫さん、買物は?」
「はい、これ……」と吉田は紙の手提げ袋を久美子にわたした。「もうできてる?」
「もうちょっと――これも急いで支度してしまうから、ちょっと飲んでらしって……」
今日の彼女は、粗《あら》いマリン・ブルーのストライプのはいったブラウスを着ていた。――白い、首もとのきっちりあわさる大きな固いカラーと、同じような大きいカフスがついていた。
「これ、冷しといてください」と、片岡はワインをわたした。「フリーザーにつっこんで二、三十分でいいでしょう」
「じゃ、とりあえずビールにしますか」と吉田はいった。「こちらへどうぞ……」
はいってすぐ横のDKではなく、居間の方のカートの上に、もう酒肴《しゆこう》の支度がととのえてあった――ゴールデンウィークもちかづき、ビールのうまい季節になっていた。
壁際の大型のソファ・ベッドに腰をおろしながら、片岡は軽くクッションの上をたたき、|ここで《ヽヽヽ》やるのか……と、ふと思った。――毎晩毎晩、|ここで《ヽヽヽ》、若い二人がからみあい……。
「あ、ビールおいしい……」と吉田は、口もとの泡をぬぐいながら、子供じみた嘆声をあげた。「早く夏がこないかな。――海へ行って……彼女のセミヌードがみたいな……」
「すてきなプロポーションだろうな……」キッチンの方へ横眼をつかいながら片岡もつぶやいた。「服の上からだってわかる……。ぼくにも、ビキニ姿を拝まして頂きたいね」
「いいでしょうね――」と吉田はうっとりしたように眼を細めた。「ぼくだってまだ、まともに見た事ないんだから……」
「どうして?」ふとききとがめて、片岡はたずねた。
「どうしてって――彼女、なかなか見せてくれないんですよ」と、吉田は鼻の下をこすりながらポテトチップをつまんだ。「はずかしがりなんでしょうね。――セックスも、いつも、明りをうんと暗くしてでなきゃ……」
「一緒に風呂にはいったりしないの?」
「風呂ですって?」吉田は驚いたようにききかえした。「夫婦って、そんな事もするんですか?」
ひょっとすると、こいつは、彼女にあうまで、童貞だったんじゃないかな――と、窓の外へ眼をやりながら片岡は思った。――きっと、トルコにだって、行った事がないんだろう。
いい天気で、風がさわやかなので、ベランダへ出るガラス戸はあけはなってあった。ビールのジョッキを手にしたまま、片岡は立ってベランダへ出た。――そのうち、ふと思い出して、背後へたずねた。
「君ンとこは、何か鳥を飼ってる?」
「いいえ、動物は何も飼ってませんよ」と吉田は答えた。「どうしてです?」
「別に……」
と、いいながらも、片岡は、ベランダの上へさし出ている短い庇《ひさし》の下をながめた。――鳥の巣らしいものは何もなかった。
あの夜以来、彼の方も、おそくかえると、時々何とはなしにベランダへ出て寝酒を飲む癖がついた。気候がよくなっていたし、室内の明りまで消して、夜風にふかれながら、港の冷たい水銀灯の明りをたよりに酒を飲んでいると、日本ではなしに、どこか遠い外国の地にいるような気がして来て、「生の孤独」が擬似的な「旅愁」にすりかわるような錯覚が起きるからだった。
そんな時、二度三度、隣室の軒下から、夜空へ向けて、梟《ふくろう》ほどの大きさのものがとびたつ気配を感じた。――一度、明け方三時近くまで飲みつづけた時など、逆に夜空の彼方から、はばたくものが近づいて来て、庇の下にぶつかり、そのままどこかへはいこんだように思った。もちろん、いつもかなり酔っぱらっていたから、姿はもちろん、気配さえ、それほど確かなものとは思えないが……。
ベランダへ立ったまま、彼はジョッキを乾すふりをして、部屋の窓の上の方を仔細《しさい》に眺めた。ベランダへ出るガラス戸の、反対側の端の窓――それはふつうの窓になっていて、片岡の部屋の配置から考えて、どうやら寝室の窓らしかったが――の上部の、空気ぬきの小窓が一つだけ、わずかに開いている。窓枠《まどわく》の上部が|蝶 番《ちようつがい》で窓框《まどがまち》にとりつけられ、内側から下を押すと、クランクにささえられて下部が外へ向かって開く、というごくふつうの空気ぬきの小窓だったが、六つならんだ小窓の、のこり五つは、きっちりしまって、内側から掛け金がかかっている様子であり、その一番端の方だけが、わずかに開き、目をこらしてみると、下の窓框につもった埃《ほこり》が、何かにすれて、幅三十センチばかりとれている。
――やっぱり、あそこから、|鳥か何か《ヽヽヽヽ》が出入りしたのか……と片岡はビールを乾しながら、ぼんやり考えた。――ひょっとすると、寝室の中の天井にでも巣をつくっていて、それを二人とも気がつかないのかな……。
「どうぞ――お待たせしました」
と久美子が声をかけた。
テーブルの上には、ムール貝の白ワイン蒸《む》しと、ロースト・ダックがならび、片岡のわたしたブルゴーニュの白も、アイスジャーにはいっていた。ほかにもう一つ、アルコールランプをのせたカートがはこびこまれ、肉と野菜が皿にのって傍におかれていた。
久美子の料理は、たしかにうまかった。片岡はひさしぶりに、ままごとめかしたものではあったが「家庭的」なものにふれたような気がして、甘酸《あまず》っぱい気持ちを味わった。
「君はたしかに血色がよくなったね」とワインを飲みながら、片岡はひやかすように言った。
「やっぱり独身時代とちがって、こんないい食事を、毎日食べてると――スタミナまでちがってくるだろう」
「会社でもそう言われます」と吉田はうれしそうに言った。「その上、このごろ自分でもおかしいぐらい、よく眠るんです。――以前は、寝つきが悪くて困ったんですが、このごろは、朝までぐっすり……久美子におこされるまで、夢も見ないで眠るんです」
そりゃそうだろう――と、片岡はちょっと白けた気持ちで、ワインを含んだ。――毎晩あれだけはげしくやっちゃ……おかげでその分、こちらが眠りそこねて往生だ。
たしかに、吉田は以前、音を低くしてたが、午前二時ぐらいまで、テレビの深夜番組を見たり、ステレオを聞いたりしていたが、このごろは、あの激しい「気配」のあと、十二時すぎると、ことりとも音がしなくなる。
久美子は、酒をついだり料理を切りわけたりしながら、終始口数すくなく、やや酔った片岡が、しきりに話をひき出そうとしたが、ほとんど無言でほほえむばかりだった。
――調査のお仕事をかねて、自分でも勉強してるんです……。何をって、いろんな事を……。
典夫さんとの結婚、まだはっきりきめていません。正直言って、ちょっと迷ってるんです。もちろん、典夫さんの事、大事に思ってますけど……。
その程度の事が、やっと聞き出せただけだった。
肉のフランベを眼の前で料理しおわると、久美子は、自分はいいから、といって、キッチンへ、デザートの準備にたった。――その後姿を見ながら、片岡はつぶやいた。
「久美子さん、ハイネックの服が好きだね」
「そういえばそうですね――」と吉田は肉をほおばりながら興味なさそうに言った。「ここへうつってくる時、衣裳トランク二つ持って来ましたが、――そういえば、外で買う時も大ていそうですね」
外の廊下で、行きずりに顔をあわせる時もそうだった。――毛糸の手編みやジャージーのセーター、あるいはチャイナドレス風の詰め襟、いつも彼女はハイネックのものを身につけていた。
「これから夏へむかって、暑いだろうな……」と、片岡はつぶやいた。「頸筋か襟もとに、|あざ《ヽヽ》でもあるのかしら?」
「いや、そんなものはありませんよ」と吉田は怒ったように否定した。「寝る時は、彼女ネグリジェで――頸や襟もと見たけど、そんなもの無かった……」
片岡はだまって、書き物机の上の黒縁の眼鏡を見ていた。――吉田の視力を、彼はあまり信用していなかった。裸眼で〇・三と〇・二だという事を以前吉田の口から聞いた事があった。鼻筋がぺちゃんこで、頬骨のとび出した吉田は、外では眼鏡をかけなかったが……その程度の視力で、うす暗くした電灯の下では、それほどはっきり見てないにちがいない。
妙な事が起こったのは、それから二日ほどあとだった。
その夜は、彼の担当している、医療機械のデサインの仕事でおそくなって、十一時すぎにやっとスタジオを出た。――バーもそろそろひけ時なので、スタジオで軽く一杯ひっかけ、あとは家へかえって飲む事にした。
むしあつい晩だったが、家について、冷凍食品で軽い夜食をとり、さて飲みはじめると、雨が降りはじめた。
もう十二時をすぎていたので、隣室では、例の「儀式」がすんだと見え、壁のむこうはひっそりとしずまりかえっていた。
飲みはじめるとまもなく、雨は本降りになって来た。――今夜はベランダで飲むわけには行かないな、と思ったが、閉ざされた室内で、雨音を聞きながら一人酒を飲むのも気がめいる。二、三杯飲んでから、彼はベランダに出る戸をあけはなし、椅子を戸口に持って行った。
雨はどしゃ降りになっていた。――ベランダをたたく雨脚のしぶきが、屋内にもはねこんだが、いっそ爽快な感じで、片岡は室内の明りも消し、冷たい飛沫の感触をたのしみながら、外を眺めていた。――室内の明りを消すと、沛然《はいぜん》たる雨脚が、遠い港の水銀灯にかすかにうつって、古いフランス映画の一シーンのように感じられた。
そうやって、一時間ちかく飲んでいたろうか……。突然ベランダの外、隣室の窓のあたりで、がちっ、という音がひびいた。それははげしい雨の音にもうち消されないほどの大きな音だった。片岡は思わず椅子の上で身をかたくして、耳をすました。――一方の耳は、壁ごしに隣の部屋の様子をうかがい、もう一方の耳で、ベランダの外に注意を集中した。
隣室は、しんとしずまりかえっているようだった。――が、外の方では、さっきの大きな音につづいて、ずるっ……ずるっ……と何か重いものをひきずるような音が、雨の音にまじってきこえてくる。
片岡は、椅子から立ち上がると、ベランダへそっと、半身をつき出した。――たちまちはげしい雨が頭から肩をたたき、顔をつたう水滴のために、視野がくもった。
ずるっ……。
という、音はまたきこえた。――まちがいなく、隣の吉田の部屋の、ベランダか、窓のあたりだった。
もう彼は、雨の事など頭に無くなってしまった。ベランダへ出て、間の仕切板にとりつき、隣のベランダをのぞきこんだ。――最初のうちは、暗さと雨しぶきで何も見えなかった。彼は掌で何度も顔をこすって眼をこらした。そのうち、また、ずるっ……ずずっ……という、音がきこえ、|何か《ヽヽ》が動いた。
今度こそ、彼は、その音の源をはっきりと見た。――隣室の明りが消えている上、雨がはげしくてよくわからなかったが、何か太いパイプのようなものが、隣のベランダの手すりから、斜め上方の、寝室の上の空気ぬき窓へむかって長々とのびていた。
――|ホース《ヽヽヽ》……?
と、一瞬彼は思った。――まったくそれは、消防ホースのように見えた。両手で輪をつくったぐらいの太さで、遠い水銀灯の明りで、かすかに青白く光って、空気ぬきの窓から、ベランダの手すりをこえて、四階下の地上へ、長くたれさがっている。
それにしても、なぜ、あんな太いホースが、空気ぬきの窓などにつっこんであるんだ? こんな雨の夜中に……いや、あれは、ホースなんかじゃない!――と頭の隅で、もう一つの意識が強く叫んでいた。あれは……。
太い、ホースのようなものは、雨にぬれて何やらびくびくと息づいているように見えた。――あれは……あれは、|生きている《ヽヽヽヽヽ》!
ずるずるっ……。
と、その太く長いものは、下へむかって滑った。
――|へび《ヽヽ》……。
彼は、一瞬血の凍る思いでのどの奥で叫んだ。
――大蛇《ヽヽ》だ!
太く長いものは、波うつようにのたうった。――つづいて、その先端が、小窓の中からぬけ出して、ゆらりと弓なりに弧《こ》を描いて、手すりの方へむかった。そのふくれた先端に、ぎらっ、と光る二つのものを見たとたん、彼はわけのわからない叫びをあげて、ベランダから室内へとびこんだ。ずっと下の方で、ずるずる、どさっ、という音が雨音にまじって聞えたような気がした。
気がついた時は、彼は夢中になって隣室のドア・ブザーを押し、ドアをたたきつづけていた。
「吉田君!……吉田さん!……」と、彼は声を殺してよびつづけた。
「ちょっと開けてください!」
夫婦ともぐっすり寝こんでいるのか、なかなか返事はなかった。それでも執拗にブザーを押しつづけていると、まもなく、
「はい……」と、眠そうな久美子の声が聞こえた。「どなた?」
「隣の片岡です……」と彼は息をはずませながらいった。「夜おそく、すみません。でも、今ちょっと、お宅の外で変な事が!」
ドアがあいて、久美子がドアチェーンをかけたまま顔を出した。髪を上にあげ、うすいブルーのネグリジェの上に、カーディガンか何かをはおっていた。
「まあ、どうなさったんですの?」と久美子は、眉をひそめた。「そんなにおぬれになって……」
「それより……お宅で今、何か変な事がありませんでしたか?」と、片岡はにわかに寒気を感じて、がたがたふるえながらいった。「ああ、あの……吉田君は……」
「典夫さんは、ぐっすり眠っていますの。朝が早いものですから……。起しましょうか?」
「いや、いいです……」久美子の不審そうな顔を見て、にわかに気が萎《な》えるのを感じながら片岡は首をふった。「実はその――お宅の部屋の窓の方で、変な音がしたので、ちょっとベランダからのぞいてみたんですが……寝室の方の空気ぬきの窓から、何かはいりこんでいませんでしたか?」
「いいえ、別に……」と久美子はうす気味悪そうに首をふった。「寝室の方には、私が寝ておりますけど――何も変った事は……」
「じゃ、あの……寝室の空気ぬきの小窓、あいてないか、ちょっと見ていただけませんか?――余計な事かも知れませんが、このマンション全体の防犯とも関係しますから……」
久美子は、いぶかしそうな顔つきで、ドアの傍をはなれた。――その時、彼は、何か、ぎくっ、とするものを見たような気がした。思わず眼をこらすと、久美子の髪をあげたうなじに、赤い、不思議な形の|あざ《ヽヽ》のようなものがあるのを見たのだと気がついた。
「久美子さん……」
と、片岡は思わずドアの外から声をかけた。
「は?」
と、久美子はむこうへ行きかけた姿勢で、こちらをふりむいた。
その時、また、彼は|あの《ヽヽ》「何か異様なもの」「不自然なもの」を感じたのだ。
「いや……いや、別にいいです……」
彼はあわてて首をふった。――口の中が、なぜか一瞬のうちにからからになった。
寝室の方へ行った久美子は、まもなくかえって来て、首をふった。
「しまっておりましたわ……」
「掛け金も?」
「さあ、そこまでは見ませんでしたが……でも、この雨ですから、あいていれば、降りこんで大変だと思います……」
片岡の視線が、ややはだかったネグリジェの襟元に吸いついているのに気がついたように、久美子は、早い動作でカーディガンの襟をかきあわせた。――片岡もはっとして、視線をおとし、その視線は、またそこに釘づけになった。
――久美子の足はびしょびしょにぬれていた。よく見ると、脛《すね》の方までぬれているようだった。
「そうですか……」片岡は、何か必死に考えつめているような口調で、かすれた声でいった。「そりゃよかった。でも、もし何かあったら……すぐ、ぼくの方へ知らせてください。……このごろ物騒ですから……どうも、おさわがせしました……」
「いいえ、――わざわざ御親切に……」と久美子は、やや冷たい口調で言った。「おやすみなさい……」
閉まったドアの前から、片岡は頭をおさえてのろのろとはなれた。――頭の中で、何かが何かとむすびつきかけていた。その一方で、自分が離婚以来、あんまり飲みすぎるので、ひょっとすると、幻覚でも見たのかも知れない、という気もした。雨の降る夜、巨大な大蛇《ヽヽ》が、マンションの窓から首をつっこむなんて、そんな……。
考えこみすぎて頭痛のしはじめた頭をおさえながら、自室へかえった時、暗がりの中で、いきなり長いぐにゃぐにゃしたものに足にまといつかれて、喉の奥で悲鳴をあげてとびすさった。――あわてて明りをつけると、居間の出口においてあった掃除機のホースを、さっき廊下へとび出す時蹴とばし、それが足へからまったのだとわかった。
それでも、さっきの悪夢のような大蛇《ヽヽ》のイメージがうかんで来て、彼は早鐘をうつような動悸《どうき》のおさまるまで、壁にはりついて動けなかった。――掃除機のコイルのはいった白いホースは、太短い長虫のように、ぐにゃりと床に横たわっている。
それを見つめているうちに、突然彼の頭の中に、青い火花が閃いた。
――そうだ!……掃除機《ヽヽヽ》……|そうじき《ヽヽヽヽ》……。
「何の御用ですか?」と午後の仕事中によび出された吉田は、やや迷惑そうな顔をしていった。「片岡さん、あんまり酔っぱらって、久美子をおどかさないでください。――彼女、気味悪がって、あの部屋をこしたい、なんていい出しています」
「で、こすのかね?」片岡はかたい口調でききかえした。
「かなり本気で、あそこを売ってもっと広い部屋にうつろうと思っているんです。――二人暮しにはちょっとせまいし……」
「でも、すぐというわけじゃないだろう」と片岡は体をのり出した。「いいかね、これから言う事は、|君のため《ヽヽヽヽ》を思って言うんだ。君の部屋には、たしかに妙な事が起っている。君自身のために、どうしても、それをつきとめる必要がある。――君はこのごろ睡眠薬をのんで寝るかね?」
「いいえ……」片岡の気迫におされるように、吉田は少し身をひいて口ごもった。「前にはちょいちょい使ってましたが、このごろとても寝つきがいいので全然……」
「じゃ、寝る前に何か飲むか?」
「彼女がもって来てくれる牛乳ぐらいですね。|あの《ヽヽ》あとはのどが乾くから……」
「ほかには?」
「ほかには――彼女がグッナイのキスをしてくれるだけです。なぜか、とても甘いんです……」
「よし……」と片岡はうめくように言った。「じゃ、今夜から、牛乳は飲むな。自分で水道の水を飲め。それからグッナイキスをされたら、あと、そっとわからないように|うがい《ヽヽヽ》をしたまえ。口をきれいにすすぐんだ。甘いのをのみこんじゃいかん……」
「一体何だっていうんですか?」吉田は片岡の権幕におどろいて、おろおろした調子でいった。「何のつもりなんですか? あなたは、ぼくたちの事を……」
「いいから、それをせめて一週間つづけてくれ。そして――夜中に何かあったら、すぐ、ぼくに知らせるんだ」
そして三日目――連日の深酒と、夜の緊張つづきに、さすがに疲れて、十二時すぎからうとうとしていた片岡は、夜半、はげしくドアをたたく音にとび起きた。
「片岡さん……早く来てください!」と吉田はまっさおな顔で、半狂乱でドアをたたいていた。
「久美子が――死んでいます!……|殺されました《ヽヽヽヽヽヽ》!」
吉田は、本当に半分狂ったようになっていた。――顔はまっさおで、唇もとはひきつり、喉からは、たえまなしに、しゃくり上げるような音が洩《も》れた。
「彼女が殺されたって?」そんな吉田をひきずるようにして、片岡は吉田の部屋のドアをあけた。「どこでだ?」
「寝……寝室で」吉田はあとずさりした。「おそ……おそろしい。こんな事が……」
「さあ、いいからくわしく話せ!」逃げる吉田の腕をつかんで、中へつきとばすようにしながら片岡はどなった。「どうしたんだ?」
「あの……あなたに言われるようにしたら、毎晩ひどく寝つきが悪くなって……それで、今夜も、寝苦しくて、もそもそしていたら、隣の寝室で、変な音がしたんで、行ってみたら……」吉田は、またあとずさりして、今度は本当に泣きわめきはじめた。「いやだ! ぼくは見たくない!――あ、あんな恐しい殺され方……首を……首をきりとられるなんて……」
まるで喧嘩ごしに、泣きじゃくる吉田をひきずりながら、片岡は寝室のドアをあけた。――吉田は、わっ、と叫んで顔をおおい、しゃがみこんだ。
ツインベッドの、窓際の方に、ネグリジェ姿の久美子の体が、毛布もかけずに横たわっていた。――そのやわらかな起伏に富んだ、セクシイな体には、たしかに首が無かった。胸から上の方には、ただ白い枕があるばかりだった。
「首を|斬りとられた《ヽヽヽヽヽヽ》って?」と片岡は、吉田の腕をひっぱってたたせた。「見ろ、血が一滴も流れてないぞ……」
「そんな事どうでもいい……」吉田は顔をおおったままふるえる声で言った。「早く一一〇番しなきゃ……」
「待て。早まるな……」と強く言って、片岡は、ベッドの傍に近より、それでもこわごわ首のない久美子の体に触れた。「来てみろ。彼女は死んじゃいない。首から下はまだ生きてるぞ!」
「生きてるって……そんな……」吉田の声は、もっと上ずって来た。「うそだ! そんな馬鹿な事が……」
「いいから手を貸せ!」と、片岡はどなった。「この体を、隣のベッドにうつすんだ」
吉田は催眠術にかかったように、ふらふらと近よって来て、久美子の体の下半身を持った。
「ほんとだ……まだあたたかい……」と吉田はうわ言のようにつぶやいた。「血も流れていない」
「胸をさわってみろ。心臓も動いている。呼吸もしているぞ!」と片岡はゆたかな乳房の上に耳をあてながら言った。「やっぱり……掃除機《ヽヽヽ》だ……」
「掃除機?」
「いや、――この間、掃除機が、足にからまって、やっと思い出したんだ。掃除機じゃなくて、……捜神記≠ノのっている怪異の話を……。捜神記≠チてのは、晋代の干宝《かんぽう》って史家の書いた、志怪《しかい》の書だ。その中にこれと同じような話がのっている。――彼女は、|ろくろっ首《ヽヽヽヽヽ》の一族なんだ……」
「ろくろっ首?」吉田はぼんやりつぶやいた。「ろくろっ首ってのは――夜中に首がにょろにょろのびる化物でしょう?」
「そういうのもあるらしいが、捜神記≠竢ャ泉八雲の怪談≠ノ出てくるのは、こういう具合に、夜中になると、首だけはなれてとびまわる化物だ。――一名ぬけ首≠ニも言う。江戸時代にも、藤堂の家臣が邸で見た、という実話がのこっている。江戸時代にいるんだったら、今だって生きのこっていておかしくないだろう。――君の彼女の首のまわりにある、うす赤い筋に気がつかなかったか? 彼女のうなじにある、赤い文字のような|あざ《ヽヽ》は?――南方異物志≠チて中国の本には、ろくろっ首の仲間は、うなじに、赤い文字があるって書いてあるそうだ……」
「それは、一応気がついていましたけど……」吉田の声は、だんだんふるえて来た。「それで……彼女はいつも、ハイネックの……」
「何か金属性の盆がないか?」マヌカンの首のように、すぱっと切りとられている、うす赤い首の切り口を見つめながら、片岡はいった。「急いで持って来て……それから明りを消すんだ」
肉質の、ねばねばした感触の切り口に、やわらかい弁のついたパイプの端や、電流端子をかねた、精巧なソケットらしいものがいくつものぞいているのを見て、片岡は突然、襟元に寒気を感じた。
――この胴体の方は、単なる生体じゃない。精巧にできた一種のサイボーグだ……。
かつて医療機械デザイナーになる前、大学医学部で途中まで人工臓器の研究をやった事のある片岡には、すぐその事がわかった。
――この胴体は……おそらく、空母《ヽヽ》みたいなもので、長距離移動と、補給の役をしているんだ。……とすると、艦載機《ヽヽヽ》に相当する首の方が、|本当の生物《ヽヽヽヽヽ》なんだろうか? それとも、それも……。
吉田の持って来たアルミの盆で首の切り口をおおい、明りを消して待つと、やがて窓の外に、ばさっ、という羽音がきこえ、梟ほどの大きさのものが、開け放たれた空気ぬきの小窓からごそごそと室内に入りこんで来た。――それが窓際のベッドの上に、ころげおちたころを見はからって、片岡は、パッと明りをつけた。
とたんに、|久美子の首《ヽヽヽヽヽ》は、まるで怪鳥《けちよう》のように恐ろしい叫び声をあげた。
「畜生!」と血走った眼をぎらぎらさせ、まっ赤な唇から歯をむき出して、久美子の首はわめいた。「私の体を……動かしたな! もとの所へかえせ!」
「話によっては、かえさんでもないがね……」不思議におちついた気分で、片岡は言った。「それにしても、おどろいたな。――こんな時代に、まだ、君のような化物が生きのびていたとは……」
「化物なんて、気安くよばないで!」と久美子の首は、荒い息を吐きながら言った。「こう見えたって、私たちの種族は、あんたたち地球現世人類より、ずっと前から、――北京原人のころからいるんだからね……」
「という事は、――君たちは、宇宙から来たのか?」
「そんな事どうだっていいじゃないか!」久美子の首は、苦しげに毒づいた。「ああ、ある星からの、流刑囚の一族だよ。北京原人が、首狩りをやったのも、私たちをつかまえようとしてさ……。私たちはつかまると、助けてもらいたさにいろんな事を教えてやったからね。連中は、私たちとまちがえて、ずいぶん仲間同士の首をとりあったがね――さあ、早く……」
「おっと待った……」強い興味をひかれた片岡は、金属盆を片手でささえながら、もう一方の手をあげた。「もう少しきかせてもらおう。――とすると、君たちの種族は、ずいぶん昔から、それに数も多くいたというわけか?」
「ああ、そうだよ。――首なし幽霊≠竅A歌う髑髏《どくろ》≠フ話は、人間社会では、世界中いたる所に、古くからあるだろう? 全部が全部じゃないが、ああいった伝説の核には、私たちの種族との、実際の接触体験があるのさ。首を切られても荒《あば》れまわったという、酒呑《しゆてん》童子も、実は私たちの仲間さ。首を斬って殺した死体を、|二度と生きかえらないように《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、首と、胴とを別に埋めるっていうのも、私たちとの接触を通じて学んだ事を、同じ人間仲間にもやったわけさ。……もう今の時代、そんな知識は忘れられていたと思ったんだが……さあ、早く、もとの所に体をおかないと……」
突然、久美子の後頭部の頭皮が、頭髪をつけたまま、さっと左右一メートル半ほどに大|蝙蝠《こうもり》の翼のように開いた。今まで内側へまきこんであったらしかった。口をかっと開き、歯をむき出すと、黒い翼をはばたかせて、片岡ののど笛むかってとびかかって来た。――片岡がひょいと体をかわすと、首は壁にはげしくぶつかり、どさっと床におちてごろごろころがった。
「なるほど……首がとんでも動いてみせるわ……だな」と片岡はつぶやいた。
「やめてくれ!」と後で吉田が悲鳴をあげた。「お、おそろしい。――はやく、胴をかえして……」
「そうはいかん。まだまだ聞く事がある……」と片岡は、唇から血を流し、くやしそうに床にあえいでいる首を見おろして、冷ややかに言った。「それに、あんたの中のエネルギーも、もうあまりつづかんだろう。昔から、ぬけ首が胴にかえれないと、三度はねて死ぬ、というからな――さあ、もう少し答えてくれ。あんたの仲間で、頭がはなれてとびまわるんじゃなくて、首が長くのびる奴がいるだろう? いつか雨の晩、ここへ来てたやつだ。あれはどうちがうんだ?」
「あれは……特別の……を、改造してつくるんだよ……」と、首はあえぎあえぎ言った。「私たちの体は――地球上の食物では吸収が悪いので……それで、ああいう補給体≠こしらえるの……。連中は、いろんな高カロリーのものを食べて、それを体内で私たちに吸収しやすい形態にかえて……私たちの胴体にエネルギーを補給するんだ……」
「昔、行灯の油をなめたってのもそれかい?」
首はふたたび、はげしくはばたきながらとび上った。――だが、今度は前ほどの勢いはなく、胴体をねかせたベッドの枕の上におちた。
「首の切り口に、小さなアンテナがあったような気がするな……」と片岡は冷やかすようにいった。
「こうやって、金属板でおおって――おくと、首が接合するための誘導電波が妨《さえ》ぎられて――お気の毒だな。誘導信号がなければ着艦は不可能だろうな……」
畜生……と、かすれた声で首は毒づいた。よくも……よくも……。
「あんたたちの種族は、人間を食う事もあるんだろう? 昔の本に書いてあるが……」と片岡は、もうすっかり余裕のある態度で、重ねてきいた。「君自身は、吉田君をどうするつもりだったんだ? うまくたらしこんで、同棲して――いずれ食うつもりだったのか?」
「そんなことはしやしないよ……典夫さんは、あんたたちの種族の中じゃ、珍しく純真でいい青年だったからね……」と、首はぐったりと眼をとじながら、かすかにほほえんだ。「私たちも、これであんたたちの文明の時代に適応しなくちゃ、生きて行けないからね。それで、私は都会に出て来て、どこかを根城にして、いろいろしらべてたのさ。女の一人暮しより誰かと同棲した方がうるさくないし……それに、典夫さんは、いずれ……」
「胴をかえしてやってくださいよ!」突然、吉田が背後から、悲鳴をあげるように叫んだ。「ほら!――顔色が変わって来た。このままじゃ、彼女、死んじゃうよ」
「かえすわけにゃいかんな……」片岡は、一方の手で金属板をささえたまま、一方の手で、そっと胴体のネグリジェをまくり上げた。「この種族、それにこの体のメカニズムは、医学や生物学の途方もない収穫になる。いずれ、大学で、綿密にしらべ上げて……」
そこまで言って、彼はちょっと息をのんだ。――まくり上げられたネグリジェの下から、パンティもつけていない、見事に美しい、若い女性の裸体があらわれた。形よいはりつめた乳房、なめらかな腹、ゆたかな腰、はりきった太腿……。
――惜しいな……。
と、思わず、彼は嘆息した。
――こんな見事な女体を……。
そこまで思った時、突然思考が中断した。――がん! と、ものすごいショックが後頭部にくわわり、眼から火花がとび、口中がきなくさくなった。
ゆっくり、ふりむいた片岡の紫色がかった視界に、大きな花壜を持った吉田の姿が、超広角レンズで下からあおったように、脚が大きく、頭がはるか遠くうつった。
――久美子はぼくのものだ!……誰にもわたさんぞ……彼女が|どんな女《ヽヽヽヽ》だろうと、ぼくは、久美子を愛しているんだ!
と、わめいている吉田の声が、かすかにぶんぶんと、蜂の羽音のようにきこえて来た。
――そうか……この男には……久美子がはじめての女……はじめて|もてた《ヽヽヽ》女だったんだな……。
と、片岡は、体がだんだん重くなって行くのを感じながら、ぼんやり思った。
――こいつは……誤算だったな……。
というのが、意識を失う直前に頭にうかんだ、最後の言葉だった。
その年の秋も深くなってから――。
彼は中央線の列車の座席に身を委《ゆだ》ね、南アルプスの山奥の、きいた事もない名前の温泉地へむかっていた。――吉田に殴られた頭の傷は、頭蓋複雑骨折で、意外に重く、彼はあのあと、十日間も意識不明のまま病院のベッドに横たわり、退院までに三カ月もかかった。退院しても、頭蓋骨には金属の接続片がはいったままだった。
――彼が、階段からおちたという事で、一一九番に電話があり、隣人という二人の若い男女がつきそって来た、という事はあとからきいた。その男女――むろん、吉田典夫と鹿浪久美子は、その直後マンションをひきはらって吉田は会社をやめ、今はどこにいるのかわからない、という事を病院できかされたのは、一カ月以上たってやっと床に起き上がれるようになってからだった。
あの妙な事件について、彼はもちろんだまっていた。――話した所で、信じてもらえないし、頭を打って、おかしくなったと思われるのが関の山だったからだ。
所が、十一月になってから、突然、吉田から手紙が来た。――あの時は、感情にかられて、まったく申し訳ない事をいたしました。お詫《わ》びのしようもありません。小生もあの事件のショックのため、故郷で長期にわたり入院加療を余儀なくされ、現在も末記温泉にて療養中であります。その後、久美子の事と、|例の種族《ヽヽヽヽ》に付き、誠に興味津々の事実を当地で発見、よろしければ、御|来駕《らいが》を仰ぎ、いろいろ御意見もうかがいたく……といったものだった。
かすかなためらいののち、彼は行く事にきめ、その旨返事した。
タクシーで一時間半も山中深くはいり、やっとそのおそろしく辺鄙《へんぴ》な温泉についた時には、もう日はとっぷり暮れていた。――吉田の事をたずねると、今、岩湯にはいっていて、よろしければそちらで、という事だった。
山気で体が冷えたので、彼もすぐ湯にはいる事にした。
暗く長い廊下をわたり、冷えきった脱衣場でふるえながら服をぬいで岩湯へはいると、中に、何人かの客がいて、暗くてわからないが、どうやら混浴で女もいるらしかった。
かかり湯をして、すぐ湯にとびこみ、体をほぐしながら一息つくと、湯の中を、男が一人ちかよって来て、
「片岡さん……」と声をかけた。「吉田です、――あの時はどうも……。頭の傷、もういいんですか?」
片岡はあいまいな返事をして、しばらく顔をそむけたまま、手ぬぐいをつかった。
「で……」しばらくの沈黙ののち、片岡はぽつりとたずねた。「|例の《ヽヽ》種族の事、何かつかんだのかね?」
「ええ、実は……」と、吉田は声をひそめて言った。「この温泉地の付近一帯が、|例の種族《ヽヽヽヽ》の、古くからの根拠地らしい事がわかったんです……」
「ほう……」と、彼は湯を見つめながらつぶやいた。「それで?」
「片岡さんに、その連中を、おひきあわせしようと思って……」と吉田はかすかにほほえみながら言った。「興味がおありなんでしょう?――できたらよく連中と話しあっていただいて、その上で……」
ふと気がつくと、まわりにばらばらに浮いていた、浴客の首が、いつの間にかまわりに集まっていた。――その動きは、まるで水鳥のように、すうっと水面をすべってくる感じだった。暗がりになれた眼で、すんだ湯をすかしてみると、首の下には胴がなかった。脚にぬるりとさわるものがあり、ひっこめようとすると、何か長いものが二本、両の脚にまきついた。
ふと気がつくと、まわりの首の中に、いつか雨の日のベランダで大蛇と見まちがえた男のものらしいものもあった。――後の方に、久美子の美しい顔もあった。両脚にまきついているのは、長くのびた首であり、その一つが吉田の頭につながっているのを悟って、彼は溜息をついた。
「こういう事か……こんな事じゃないかと思ったよ。――君も改造《ヽヽ》されちまったのか?」
「記憶はずいぶんたしかなようですね」と吉田は気の毒そうに言った。「ぼくたち、あなたが死ぬと思ってました。――命をとりとめたあとも、あれだけの傷なら、記憶障害を起こしているんじゃないか、と話しあいました。そうでないまでも、もう二度と、こんな事にはかかわりたくない、と思っているんじゃないか、それならそれで、安全だろうと思ったんです。それをたしかめるために手紙を出しました。そしたら……」
「ところで、これからおれは、君たちにどうされるんだ?――吉田君のように改造《ヽヽ》されるのかね?」
「さあ、それはしらべてみないとわかりませんわね……」と久美子の声がきこえた。「改造に適する体質か、そうでないか――吉田さんのように、好適なのは、稀なケースなんです。私が彼に接近した理由は、それもあるのよ……」
「適さない場合は、どうなるんだ?」長い、蛇のような首に、脚を巻かれ、腕を巻かれ、湯の中に鼻の先までひきずりこまれながら、彼はごぼごぼと湯を吹きながらきいた。「|片づけられるのか《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》?」
「なぜ来たんです?――あんな恐ろしい目にあいながら……もう、二度とこんな気味悪い事に頭をつっこみたくないと思って当然でしょうに……あなたはすぐ、とんで来た……」吉田の声の後半は、湯の水面の外からきこえてきた。なぜです?……好奇心のためですか?
――さあな、それもあるかも知れないが……と、あつい湯を、鼻腔や、胃や、肺にごぼごぼと吸いこみながら彼は、遠ざかって行く意識の中で考えた。――ひょっとすると、それは……こんなとんでもない状況になっても、まだ残っていた、おとろえ行く中年男の、若いカップルに対する嫉妬《ヽヽ》のせいかも知れないな……。
[#地付き]〈了〉
初出誌
アメリカの壁
SFマガジン/昭和五十二年七月号
眠りと旅と夢
SFマガジン/昭和五十三年三月号
鳩啼時計
週刊小説/昭和五十二年十一月二十五日号
幽霊屋敷
小説推理/昭和五十二年五月号
おれの死体を探せ
小説推理/昭和五十二年十月号
ハイネックの女
オール讀物/昭和五十三年三月号
単行本 昭和五十三年六月文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 昭和五十七年五月二十五日刊