小松左京 さよならジュピター
目 次
序 章 火星
1 極冠融解作戦《オペレーシヨン・デルタ》
2 氷の下の〃ナスカ〃
3 火星―小惑星―木星
第一章 木星
1 ミネルヴァ
2 〃トウキョウ3〃の乗客たち
3 〃木星太陽化計画〃
4 ささやかな破壊者たち
5 再会
6 L・R《ラヴ・ルーム》3
7 旅立つもの
8 帰還
第二章 地球
1 〃たんぽぽ《ダンドリオン》〃軍団
2 オニール中継点《ジヤンクシヨン》よろしく
3 日本地区――TOKYO
4 WSAA特別会議
5 誘拐
6 大気の底
第三章 月
1 シューベルトからライプニッツへ
2 仁科記念庭園
3 叛逆の「噂」
4 〃幽霊《ゴースト》〃探査指令
5 〃JADE《ジエイド》〃ナンバー3《スリー》
第四章 大赤斑
1 曳航
2 木星へ
3 荒れくるう岸辺
4 〃ジュピター! ジュピター!〃
5 〃硫黄の月《サルフアー・ムーン》〃
6 輪と雲と渦と…
7 赤い嵐
8 大気圏突入
9 〃幽霊《ゴースト》〃の影
10 JUDO―X1―E5
11 おぼろな遭遇
第五章 せまりくるものの影
1 リンドバーグの海
2 〃スペース・アロー〃の遭難
3 「メシェ記念室」にて
4 B会議室――火星
5 火星・月・木星
6 木星・地球
7 トロピカル・スーツの男
8 ヒューストン=ミネルヴァ
第六章 危機の正体
1 資料保存所衛星《アルカイーヴ・サテライト》
2 「狩り」のはじまり
3 破壊工作
4 オペレーション・センターにて
5 ブラックホール
6 オレンジ警報《アラート》
7 マリア
8 衝突進路《クラツシユ・コース》
第七章 黒い渦
1 インサイド・パニック
2 太陽の傍《かたわら》で
3 非常招集
4 キャッチ・ザ・「X」
5 〃ノア〃の計算
6 一万八千時間
7 100対1・3
第八章 カウント・ダウン
1 地球の秋
2 影の闘い
3 プロジェクトX
4 大統領狙撃
5 〃黒い稲妻《ブラツク・ライトニング》〃
6 〃X〃を撃つ
7 〃B・B・J〃
8 特別非常大権
9 フライング
10 GO!
第九章 バイバイ・ジュピター
1 直接接触《ダイレクト・コンタクト》
2 脱出船団《エクソダス・フリート》
3 恒星への旅
4 〃宇宙神の子《チルドレン・オブ・スペースゴツド》〃
5 フロリダの熱い日
6 ジュピター海岸《ビーチ》の午後
7 〃巨大な赤ん坊〃
8 バイバイ・ジュピター…
終 章 太陽の喪章
1 危険な賭け
2 ランセン
3 B・Tマイナス一○○H…フラッシュ・バード
4 B・Tマイナス六○H…フェイズ・レッド
5 B・Tマイナス四○H…ステップ2
6 ファイナル・ステップ
7 B・Tマイナス○五H…全員退去
8 〃マーハヤーナ60〃
9 コントロール衛星
10 「ジュピター・メッセージ」
11 ターン一八○
12 虚無への墓碑銘《エピタフ》
序章 火星
1 極冠融解作戦《オペレーシヨン・デルタ》
「マックス!」
〃肝ッ玉ケイト〃の鋭い声が、指令室の中にひびきわたった。
「ハロー、マックス!……装置B6の、中性子増加率を、セクション3Fへ線型グラフで出してくれない?……スケールは4ぐらい……。きいてるの? マックス!」
前の席にいた二、三人が、びっくりしたようにふりかえった。
「キャサリン……」隣席のレプケ博士が、ゆっくりと、顔をあげて、さとすように言った。「ミス・キャサリン・パーマー……何もそんなにどならなくたって、マイクロフォンというものがあるでしょう?」
「失礼、教授……」と〃肝ッ玉ケイト〃は、頬にえくぼをつくって片眼を閉じて見せた。「どなるつもりはなかったんですの。――ただちょっと、〃表現〃にアクセントをつけてみただけです」
だが、次の瞬間、レプケ博士自身が、眼をむいてマイクをわしづかみにし、かみつきそうな勢いで、大声をあげた。
「チャーリィ!――セクター7と8との間の温度勾配はどうなっとるんだ? 計測機の故障か? 至急チェックしろ!」
二十メートル四方ほどある、天井の高い指令室の中では、極冠融解装置の作動開始時刻へむけて、刻一刻と緊張が高まりつつあった。――作業員たちがマイクにしゃべる言葉は早口になり、動作も神経質になり、ずらりとならんだ操作卓の上のランプの点滅や、表示板上の数字、図形などの動きもあわただしくなって、その部屋の中だけ、時の刻みが早くなって行くように感じられた。
とりわけこの計画の、実質的な推進者である、エリック・高橋副主任の緊張ぶりは、見ていて息苦しいばかりだった。――三十歳をこえたばかりの、色白で小柄で、まだ学生のように見える高橋は、階段状に配置された操作卓群の、中ほどのプラットフォームにつったって、土気色の顔に一面に脂汗をうかべ、血走った眼で、正面の大スクリーンを食い入るように見つめていた。その骨ばった手で、プラットフォームの手摺をぎゅっとにぎりしめ、肩で息をしながら、かさかさに乾いた唇を、くりかえしなめている様子は、まるで病人のようだった。
〃作動開始五分前……〃と、指令室の天井の片隅からコンピューター音声のアナウンスがひびいた。〃全システム、異常なし、準備順調に進行中……〃
そのアナウンスをきいたとたんに、高橋は、びくっ、と体をふるわせて、きょろきょろとまわりを見まわし、ふいごのような太い息をついた。「システムはオーケーだけど、この分じゃ、責任者の方が先にぶっこわれちまいそうだわ……」と、〃肝ッ玉ケイト〃はレプケ博士にささやいた。
レプケ博士は、ちょっと肩をすくめただけで、手もと表示パネルの数字と図表のチェックに没頭していた。
「坊や!――おちつきなさいよ。大丈夫、うまく行くわよ」
と、〃肝ッ玉ケイト〃は、斜め前に立つ高橋に声をかけた。
「ありがとう、ミス・パーマー……」高橋は、ちょっとふりかえって、ひきつった微笑を無理にうかべながら、かすれた声で言った。「計算は……まちがってないと思うんだが……でも、なんだか……大きな見おとしがあるような気がして……」
「これだけの人間が、電子脳《ブレイン》を十五台もつかってチェックしているんだから、見おとしなんてあるわけないでしょ」ケイトはもり上がった肩をゆすって、鼻先で笑った。「万が一失敗したら、またやりなおせばいいのよ。――氷床《アイス・シート》は、なにもこれ一つじゃないんだから……」
まわりの数人が、おそろしい事をきいた、という眼つきで、ふりかえった。
〃ただいま三分前……全システム、順調に作動中……〃と、ふたたびアナウンスがひびいた。〃D6ポイントにおける気温マイナス六十二度、気圧七・二ミリバール、風向南南西、風速毎秒六メートル、変化なし。秒読み進行中……〃
「ミス・パーマー……」突然、別人のようにおちついた声で高橋副主任が言った。「二分前になったら、現場の中継映像を中央に出してください……」
〃オペレーション・Δ《デルタ》〃指令室の正面の壁には、横幅十六メートル、高さ五メートルの、巨大な多重表示スクリーンがセットされ、そこには色とりどりのグラフが、数字が、記号が、また生《なま》の映像が、目まぐるしくまたたきながら動いていた。
その正面大スクリーンにむかって、階段状に低くなって行くプラットフォームに配置された、いくつもの監視調整卓を前にして、二十数名の男女が、十二系統の異なるシステムをチェックし、レプケ博士とキャサリン・パーマーが、全系統の組みあわせ進行を見まもっている。――それぞれの系統の進行状況は、それぞれの調整卓の手もと表示パネルに、グラフ、数字、記号で表示されると同時に、正面大スクリーンの、二メートル角に区切られたセクションに投影され、そこでは他の系統との組みあわせ進行状況がひと目でわかるようになっていた。
大スクリーンの上方には、幅一メートルほどの横長のスペースがあり、そこには、全進行状況を示す、いろんな色彩のカラー・バーや何種類ものディジタル・クロックが表示され、また一隅には、衛星軌道をとんでいる、数多い無人、有人の観測機の位置が、火星のメルカトル図の上に光点となってあらわされている。
大スクリーンの上を二メートル角に区切った方形セクションに投影されている各系統の表示は、すべてオレンジから緑にいたる各段階の色彩と輝度をもったフレームでふちどられ、それぞれのシステムの進行が、完全に同期し、相互にロックされるにつれて、フレームの色はすべて同一輝度の明るいグリーンにかわって行くのだった。――そして、いまでは、ほとんどのフレームが、グリーンにかわり、あと二つのセクションだけが、やや黄色みをおびた淡い緑にかこまれていたが、その二つのフレームも、数秒のうちに同色の緑にかわって行き、やがて全系統がロックされた事を示す、明るい紫色の光点が、大スクリーンの上部に点滅しはじめた。
その光を見とどけた所で、〃肝ッ玉ケイト〃は、すばやく自分の前の横長の手もと表示パネルの上に指を走らせた。――と、それにつれて、大スクリーン上の、ほとんど四分の三を占めていた十二の方形セクションが縮小されて左端三分の一のスペースにかたまり、変って右端の小さな区画にうつっていた小さな映像が拡大されながら中央に移動してきて、大スクリーンの中央三分の一を占めた。
そこには、くすんだ赤茶色の沙漠にふちどられた、白と灰色の、不規則な三角形の平面がうつっていた。
火星の北極点ちかい、北緯七八度三二分、西経二二六度○一分の地点にひろがるD6氷床――平均厚さ五・二メートル、一辺が約六キロメートルの、ほぼ三角形をした、永久氷の平原だった。
地球の大気密度の七十分の一以下、地表大気圧で、地球の海面上大気圧の百三十分の一という極度に稀薄な火星大気――その大部分は炭酸ガスで、のこりは二〜三パーセントの窒素、一〜二パーセントのアルゴン、○・三パーセントの酸素からなっている――の中にも、かなりの量の水がふくまれていた。
大気中の水蒸気は、火星の昼夜の温度変化、また季節変化によって、山頂部や沙漠の岩石に霜となって凝結し、あるいは暁方のクレーターや大峡谷の底にもやとなってたちこめ、また上昇気流のある所では、うすい雲となってただよったが、両極地方には、季節によって大きく増減する季節氷のほかに、万年氷の形で地表に固定されていた。――その量は、季節氷、万年氷をあわせて、全部溶けたとしても、地球表面面積の三・五分の一しかない、この惑星の表面を、わずか二メートルの深さでおおう程度のものだった。
わずかといっても、利用する気になれば、それはかなりの量だった。その上、火星極冠部、特に北極圏の地下には、砂や岩石の間に、地表の何倍もの氷が、永久凍土層の形でふくまれている。
かつて――おそらく数億年前から数千万年前へかけて、火星の表面では、巨大な火山がいたる所で溶岩流をふき出し、長さ何百キロにもわたる地すべり的大洪水が荒れくるった時期があった。現在でも、ふもとの直径六百キロメートル、高さは平原上二十七・四キロメートルというオリンポス火山や、直径百二十キロメートルという大カルデラをもつアルシア火山など、地球ではちょっと想像できないような、巨大な、しかも「若い」火山が無数に存在し、クリセ盆地をはじめ、今は乾ききった赤道附近の沙漠にも、かつて水流が長期にわたってうがった浸蝕地形がいくつも存在している。
それらの、火星内部からしぼり出された「水」の大部分が、どこへ行ってしまったかは、いまだにはっきりしない。地球の四割以下という小さな表面重力のために火星誕生以来四十数億年の間に、多少は宇宙空間へ拡散して行ったにしても、それはごくわずかなものでしかない事がたしかめられている。
おそらくその大部分は、高緯度帯から極冠部の地下にしみこみ、凍土層の形にたくわえられている、というのが、火星開発一世紀の間に、専門家たちの達した結論だった。
にもかかわらず、火星の「水資源開発」は、つい最近まで、大規模なものはほとんど具体化されなかった。――すでに一世紀半前の一九七○年代の半ば、まだこの火星上に、最初の無人探索機ヴァイキング1・2号が着陸する直前に、アメリカのエイムズ・センターにあつまった科学者たちは「惑星工学」の発達を予想し、将来火星の極冠部の氷をとかしていくつかの「海」をつくり、火星の環境によく適合した光合成生物をつかって、火星の気象を、地球人にとってより住みやすいものに改造する可能性を論じていたにもかかわらずである。――火星にかぎった事ではなく、地球人類社会の、あの歴史的にもつれにもつれた事情のために、「太陽系開発」は、その技術的可能性の進歩の度合にくらべて、さまざまな局面で大幅におくれ、停滞し、それがやっと本格化した現在においても、特に「伝統的社会システム」との関係で、いびつな側面をいくつも残していたのである。
だが、今ようやく長年懸案になっていた火星水資源開発の、最初の大規模な技術テスト「オペレーション・デルタ」がおこなわれようとしていた。火星上の西経二二○度と二四○度の二本の子午線にはさまれた「ユートピア・セクター」の北部極冠附近からD6と名づけられた小型の永久氷床が慎重にえらび出された。D6は、一般の氷床とちがって沙漠質の凍土層の上にではなく、三角形の一つの頂点にむかってゆるく傾斜した、火山性の岩盤の上にのっていた。一番近い頂点をはさむ二本の辺にそって、古い水路のあとが走っており、水路は頂点で合流し、荒れはてた砂礫や岩石だらけの峡谷となって、数キロ先の、薄い砂層でおおわれた大昔のクレーターのあとらしい大きな凹みにつながっている。凹みの砂層の下は、黒ずんだ岩盤だった。まわりの崖のくずれた所を数か所土木工事でふさぎ、さらに周辺と底の硫黄分を多量にふくんだ地層を、薬品撒布によって「水どめコーティング」してやれば……D6氷床が、何らかの形で融解できたとすると、ここに火星上に人類がすみはじめてから最初の――そして、おそらく、この惑星の歴史の上では何百万年ぶりの、「湖」が出現するはずだった。
むろん、マイナス八十度ちかい極地の気温では、またすぐ結氷してしまうので、クレーターの底には、近くの核融合発電所の二次冷却ガスを利用した加熱パイプがはりめぐらしてある。――第二段階の計画で、この水は人工湖の底部から、さらにパイプラインで、中緯度帯の通常は「農場《フアーム》」とよばれている生化学プラントへ輸送されることになっていた。
D6氷床の周辺には、十か所にわたって、強力な粒子ビームを発生する融解装置がセットされ、また面積約十五平方キロの氷床の八か所にボーリングして、「標的《ターゲツト》」とよばれる大容量発熱装置が、岩盤と氷床の境界部に埋めこまれていた。――全システムは、制御された核分裂と核融合反応、それに二十一世紀後半になって飛躍的発展をとげた「超素粒子工学」の、きわめてたくみな組みあわせだった。そして、そのシステムを考案したのがエリック・高橋副主任であり、一方、そのシステムを、氷床融解計画にむすびつけたのが、レプケ博士だった。
レプケ博士は、地球の北極圏にある火山の島アイスランドで、島の中央高地をおおう巨大な陸氷の下で、ミイヴァトンという火山が爆発を起し、「氷河奔流」という現象が起るのを二度も観察した。――デルタ・オペレーションシステムが作動すると、強力な粒子ビームにのって、D6氷床と基部岩盤の境界面に、いわば瞬間大電流が流れるのと同じ現象が起り、粒子ビームはまた八か所の標的の引き金をひいて、そこに小型の核爆発に匹敵する高熱を発生させる。推定一億数千万トンのD6氷床の基底部は、その瞬間に水と蒸気のまじった状態になり、氷床自体の重量で、破砕しながら緩斜面を水路へむかってすべりおち、さらに高熱を発しつづける標的と一緒に、氷まじりの奔流となってクレーターへむかって流れて行くはずだった。
今、そのデルタ・オペレーションの引き金が、まさにひかれようとしていた。――大スクリーンの左三分の一に大きくうつし出された赤くかがやくディジタル・ナンバーは、秒と十分の一秒の桁をのこしてことごとくゼロにかわり、数分前とうってかわって、水をうったようにしずまりかえった指令室では、コンピューター合成音声のカウント・ダウンの声だけが、無表情に、機械的にひびいていた。数十の瞳が、中央の、灰白色の凹凸のひろがる映像に吸いよせられ、その照りかえしが、二十あまりの硬ばった表情の顔を、ほの白い仮面のようにうす暗がりの中にうかび上がらせていた。〃胆ッ玉ケイト〃も、今は静かな、重々しい顔つきで、右手の指先を、緊急停止ボタンの傍にのばしたまま、彫像のようにスクリーンを見つめていた。
誰かが、ごくりと唾を飲む音がきこえた。――次の瞬間、ディジタル・ナンバーはすべての桁がゼロにかわって停止し、左端の十二のセクションのフレームが、ことごとく白に変った。
中央のD6氷床の映像が、一瞬、かすかにぶれたように感じられた。――○・一秒か○・二秒の間に、そのぶれがおさまると、突然氷床の表面から数か所、こまかい氷片のようなものがいくつもたかだかとまい上がり、そのあとを追うように上空へむかってはげしく白い蒸気がふき出した。蒸気の噴出口は、氷床の全面にわたってみるみるふえて行き、その噴出口をつなぐように、暗い亀裂がのびて行った。
次に指令室のみんなが見たのは、脳貧血を起してたおれる寸前に見るのによく似た、軽いめまいと、かすかな嘔吐感をさそうような光景だった。一辺六キロもある氷床の映像は、ぐにゃりとやわらかくなって、かすかに痙攣しながらすぼまるように見えた。もう、氷床の遠い方の端は、ふき上げる蒸気とうずまく灰色の煙霧にかき消され、かすんでしまっていた。あちこちから、白鯨の溜息のように白い霧を吐き出しながら、巨大な氷床はゆっくりと、あきれるほどゆっくりと、輪郭をくずし、身をよじりながら斜面を動きはじめていた。
――やった!
と、誰かがかすれた声で叫んだ。
それと同時に、声にならないどよめきが、指令室の中をみたした。――〃肝ッ玉ケイト〃は、われにかえったように操作卓に指を走らせ、大スクリーン左部のディジタル・ナンバーを消して、そこに氷床の端のクローズアップ映像をよびだした。砕けた氷塊が、茶色の奔流にのって、次々に水路にころがりおち、さらにあとからあとから流れおちてくる水におし流されて、ゆっくり涸れた峡谷を動きはじめるのを見ると、指令室の中に、はじめて大っぴらな喜びの声が上がった。何人かは、高橋副主任の所へかけつけて、肩をたたき握手をもとめた。コンピューターの声は、計画がすべてうまく行き、流量が計算通りに上昇しつつある事を告げていたが、しばらくの間は、誰もきいていないようだった。
「ミス・パーマー……」満足げに大スクリーンを見つづけていたレプケ博士が、突然おどろいたように声をあげたのは数分のちだった。「あれを……あれは何だと思うかね? ほら、氷床が移動したあとの岩盤の上に見えるもの……」
「ええ、たしかに何か……」〃肝ッ玉ケイト〃もスクリーンに眼をこらしながらつぶやいた。「岩の割れ目か、氷床のつけた傷じゃ……」
「いや、そうじゃない……」レプケ博士の声はショックのあまりしわがれていた。「わしにはどうも……巨大な鳥の絵に見えるがね……」
2 氷の下の〃ナスカ〃
「ナスカ絵だ!」
指令室のうす暗がりの中で、誰かがうめくようにいった。
「ナスカって……南米の?」高橋副主任は、信じられないといった声音でききかえして、不安げにまわりを見まわした。「でも――なんだってそんなものが、この火星に……」
まわりの誰も、その質問に答えようとしなかった。
火星極冠融解作戦《オペレーシヨン・デルタ》の指令室の中では、再び緊張が高まりつつあった。――誰も彼もが、正面大スクリーンの中央にうつし出されている映像を、こわばった顔つきで、食い入るように見つめていた。
スクリーンの上では、面積十八平方キロメートルのD6氷床がすでに三分の一あまりくずれおち、その下から、やや赤みをおびた暗灰色の、硬そうな火山性の岩盤が姿をあらわしつつあった。
そして、その岩盤の上に、いま、翼をいっぱいにひろげ、長い首と尾羽を前後にのばした、巨大な「鳥」の絵が、はっきりと姿をあらわしていた。鳥の右には、これまた巨大な、二重螺旋模様が、半分ほどあらわれつつあった。そして左側には、無数の交錯する直線模様が……。地平近くからさす火星の北半球の晩春の光が、岩盤に深くきざみこまれた、その巨大で、奇妙な絵を、くっきりとうかび上がらせていた。
一度席を立ちかけた〃肝ッ玉ケイト〃は、もう一度自分の持ち場の操作卓にどっかりと腰をすえ、せわしなく指先を手もと表示板の上に走らせながら、D6氷床周辺の数か所の観測塔やいろんな高度と軌道傾斜の有人、無人観測衛星からうつしている、さまざまの距離、角度の映像を、次から次へと、大スクリーンの左端にうつし出していた。
だが、そのいずれも満足の行くものでない、と見てとると、外部通信用マイクのカフを上げて、持ち前の大声でどなった。
「チャーリィ! 衛星運行部にちょっと顔をきかせてよ。――いま、極軌道でちかづいている〃駒鳥《ロビン》3〃のコースを、ちょいと変えて、D6のま上を通らせてくれない? 高度も百キロぐらいまで下げてもらえるとありがたいんだけど……。〃駒鳥《ロビン》3〃は有人でしょう? あんたの知り合いがのってるんだって? それじゃぜひ……あ、ちょっと待って!」
操作卓の上で、彼女がつかっている外線への緊急割りこみ《ブレーク・イン》のランプが点滅した。すばやくそちらの受信へきりかえた〃肝ッ玉ケイト〃は、急にあらたまった口調で応対すると、傍で大スクリーンに見入っているレプケ博士の袖をひいた。
「ユートピア市の本部から……おえら方ですわ」と、彼女はマイクをおさえてささやいた。「そちらのマイクつかってください」
「デルタ指令《コマンド》、レプケです……」老人はマイクをとり上げていった。――眼は大スクリーンにすえられたままだった。「そちらも見ましたか?――誰か至急専門家の派遣をねがいます。ええ、ナスカ・パターンです。まちがいありません……。私もすぐ、現場へ行ってみます。じゃ、よろしく……」
「博士は、〃ナスカの地上絵〃の、本ものをごらんになった事があるんですか?」
高橋副主任は、かすかにふるえる声でたずねた。
「二、三度な……」レプケは、操作卓の前をはなれながら、もう一度大スクリーンの方をふりかえった。「ペルー南部の、乾いた沙漠の上にあって、古いものは二千年以上前に描かれたらしい。二十世紀になって、飛行機であの上をとぶようになってから、はじめてその全貌がわかったような、でかいものだ……。だが、あれが、宇宙考古学にとって重大な意味をもつという事がはっきりしたのは、やっとここ半世紀ほど――二十一世紀の後半になってからの事だ……。でも、それと同じものが、まさか――火星の氷の下に眠っていようとはな……」
「小惑星セレスでの発見以来、最大の事件ですわね」と〃肝ッ玉ケイト〃がつぶやいた。「こちらの仕事は、また大幅におくれるんでしょうね……」
「いや、かえって促進されるかも知れん……」レプケはにやりと笑った。「あっちこっちの氷を、もっとひっぱがしてみろといって、臨時予算がつくかも知れんぞ」
――ナスカの地上絵……。
それは、かつて、新大陸古代文明の最大の謎の一つとされた、奇妙で、巨大な、「沙漠の上のサイン」だ。
南アメリカ大陸太平洋岸に、南北にほそ長くつらなるアンデス西斜面乾燥地帯――その中の、南緯一四度四○分、西経七四度五○分附近、西海岸山脈の山裾に、ナスカ高原がひろがっている。
ペルーの首都リマから、東南へむけて、直線距離で四百キロほどはなれたあたりだ。
東側には、千メートルから千三百メートル級の山々が南北につらなり、そこから西へむかって流れ出る、北のインヘニオ河、南のナスカ河にはさまれた、赤茶けて乾燥しきった、砂と角ばった岩石片におおわれた平坦な台地である。――東側の山麓を、パンアメリカン・ハイウエイが、北西から東南へかけて、一直線に走っており、台地をつっきって、河床へおりた所で、ナスカの街へはいって行く。
巨大な「地上絵」は、このナスカの街の近辺から、高原を横切って、はるか北のパルパの街附近へかけて、東の山裾斜面から西の沙漠へかけて、南北五十キロ、東西二十四、五キロ、面積にして数百平方キロの間に、無数に描かれている。――その中には、全長百五十メートルにおよぶ翼をたたんだペリカンや、翼を水平にのばし、細い扇形にひろげた長い尾羽と、長いくちばしを前後にのばした、見事にシンメトリカルなハチドリ、また尾を巻いたクモザル、シャチ、クモ、ヒトなど、それぞれ「空から見なければとてもわからない」巨大な絵と、そして主として沙漠地帯には、長いものは延々五キロ以上にもおよぶ、無数の交錯した直線パターンがあった。
いずれも、乾燥した土地をうすく蔽っている、角ばった岩石片をとりのぞき、下のやわらかい砂地を細長く露出させる事で、直線、曲線をあらわしている。
このあたりは、紀元前一○○年ぐらいから紀元後七○○年へかけて、すなわち南米最後の大帝国として有名なインカ帝国が誕生するはるか以前、美しい彩色土器と織物をもった「ナスカ文化」が栄えた地域だった。そして、この高原で発見された、珍しい「人間」の絵は、その様式から、ナスカ時代よりもっと古い、パラカス文化とのつながりが見出されている。――とすると、広大な地域に、無数に描かれた巨大な「地上絵」は、実に二千年以上の間、雨風に洗い流される事もなく、南半球熱帯の強い日ざしに灼かれながら、沙漠の上の乾き切った空を見つめつづけてきた事になる。
近代になって、コソク博士がはじめてこれらの「絵」を、飛行機の上から見つけた。一九二○年代後半の事である。――そして、この発見は、第二次大戦後に発達する、「航空考古学」の、先鞭をつける事になった。
しかし、「空の上からでないと何の絵だかわからない」平坦な土地の巨大な絵を、いったい古代インディオが、どうやって描いたか、また、何のために描いたか、という事は、謎と神秘にみちた新大陸古代文明に、また新たな謎を投げかけた。――山はあるが現場からは遠く、山頂にのぼっても、絵のパターンはわからなかった。ある学者は、その絵の指揮者が凧をつかったのではないか、といった。また、イギリス、フランスなど、古代ケルト地帯に散見される、同じような巨大なヒトやウマの地上絵と関係づけ、「ローマ以前」の、古代ケルト航海者の影響を臆測するむきもあった。
いずれにしても、巨大な動物の絵は、古代ナスカの祭祀具に見られるパターンとの共通性から、「天への供物」という事で解釈がつかない事もなかった。――しかし、問題は、無数の、交錯する「線」だった。あるものは、幅数十メートル、長さ五、六キロにもわたって、定規でひいたように一直線にのびて行き、あるものは細長い梯形であり、しかもその幅のある線が、不思議な角度で交叉している。ある「線」は、小さな岡にぶちあたっていながら、それを無視したように一直線にのりこえている。いったい、これほどのたくさんの線を、当時とすればおそらくすくなからざる労力をつかって、何のためにひいたのか、いったいそのでたらめとしか思えない交叉は、何かの「意味」をもっているのだろうか?――そのいくつかの「帯」の組みあわせ方が、ちょうど飛行場に似ていたので、紀元前に飛来した宇宙人がつくった、「宇宙船の滑走路」ではないか、という議論さえうまれたのである。
もちろんそれは、宇宙船の滑走路などではなかった。――だが、一見、でたらめに地上にひかれた直線群としか見えなかった「ナスカ・パターン」が、「宇宙」と深い関係をもっている事が発見されたのは、二十一世紀も後半になってからであった。二○七一年、人工衛星をつかった新しいレーザー=メーザー通信システムの、地表散乱《グラウンド・スキヤツター》テスト中に、偶然その謎を解く手がかりが発見され、それが「宇宙考古学」の大発展をもたらす引き金となったのだった。
そして、今――。
火星極冠融解作戦《オペレーシヨン・デルタ》のメンバーは、この分野における、「ここ半世紀内、最大の発見」を前にしているのだった。――地球軌道から八千万キロ外側をめぐる「赤い死の惑星」の、北極近い万年氷の下にかくされていた「ナスカ型図形」の発見という……。
「こりゃ、われわれの手におえるしろものじゃないな……」と、うすいもやのたちこめるD6台地を見おろしながら、レプケ博士は、宇宙服のヘルメットの中でつぶやいた。「やはり、早い所専門家に来てもらわないと、どう処置していいかわからん。――モシはどうした?」
「いま、フォボスにはりついてるそうです」と、斜面の下から〃肝ッ玉ケイト〃がこたえた。「連絡したから、すっとんでくると思いますわ……」
高橋副主任は思わず南の空をふりかえった。――だが、低緯度帯ではあのいつもせわしなく、西から東へと、一昼夜に二度も火星の空を横切って行く、長径わずか十八キロしかない、ちっぽけな第一衛星の姿は見えなかった。火星の表面から、わずか六千キロという、地球の月の三十六万キロにくらべたら異常に低い軌道を、まるで地表を「なめる」ようにまわっているフォボスは、あまりに高度が低いため、緯度六九度より高い極地域では、まったく見る事ができないのである。
そのかわり、地平ちかくには、フォボスよりもっと小さい第二衛星ディモスの、かろうじてそれと見わけられる小さな半月が、白っぽく、ぽつんと見えていた。――公転周期七時間三十九分、火星の自転周期二十四時間三十七分をさっぴいても、地表からの見かけ十一時間で、西から東へ一周するフォボスにくらべ、フォボスのざっと六倍弱の距離にあるディモスは、見かけ百三十二時間という、おそろしくゆっくりした時間でまわるため、一晩中空のほとんど同じ所にとまっているような錯覚を起す。
そのディモスの見えている方角から、赤い、小さな光が、点滅しながら近づいてくるのが見えた。近づくにつれて、その光は二つにわかれた。
「お出ましだな……」とレプケ博士はつぶやいた。「誰か着陸地点を指示してやれ。まさかと思うが、せっかく見つかった絵の上にでもつっこんだらがっかりだ……」
斜面の下に群がっている一団の中から、一人が通信機の方へむかって動き出した。――宇宙服の臀の所が雄大なのと、上膊部には、少佐のマークがついているので、ひと眼で〃肝ッ玉ケイト〃と知れた。
3 火星―小惑星―木星
大小二機のアイオノクラフトは、D6台地に近づいてきた。やがて、その巨大な椀型ノズルから噴き出すイオン・ジェットが、極地の凍てついた砂礫をふきとばし、地上にいるものの足もとにまで石がとんできた。――二機はD6氷床台地の上を、一たんぐるりと旋回し、それから斜面の上の、比較的大きな岩のすくないあたりをえらんで着陸した。
小型の方のアイオノクラフトからまっ先におりて来たのは、この火星の上での数すくない宇宙考古学の専門家、モシ・ンザロだった。――ヘルメットの中の、漆黒の顔と鬚で、すぐそれとわかった。
「やあ、モシ……」レプケ博士は、大股でとぶようにちかづいてくる長身の黒人学者に声をかけた。「どうだね?――少しはあんたたちの研究に役にたちそうかね?」
「役にたつも何も……」まだ博士号をとったばかりの若い黒人は、興奮のあまり声がふるえていた。「こいつぁ〃トロヤの発掘〃以上のショックを、宇宙先史学にあたえるでしょうね。――われわれの方じゃ、もう火星は半分あきらめていたんです。だから、ぼくみたいなぺえぺえだけが残って、フォボスの分裂の可能性なんて、あまり本業と関係のない事なんかしらべさせられていたんだが……まさか、極冠の下に、こんな大発見がかくれていたとはね。――ところで、この絵の上にのっていた氷は、どのくらい古いものだったかわかりますか?」
「せいぜい五、六万年って所かな……」と、レプケ博士は、濁った泡だつ水にのって、南へ流れて行く氷塊を見おろしながらいった。「ちょうどそのころ、火星の自転軸が急に大きく動いて、極点がこのあたりに移動したらしい事がわかっている。その前は、このあたりは、もっと低い緯度にあったろう……」
「じゃ、この絵がきざまれたのは、そのころね……」〃肝ッ玉ケイト〃が腰に手をあてて、D6台地を見おろした。「南米のナスカの絵よりだいぶ古いってわけね」
「そりゃ問題にならない。――こちらの方が、地球のものより、はるかに〃原型〃にちかいという事は、ひと目見ればわかる」モシは、細長い腕をふりまわすようにして、うすぐらくなってきた台地の上を、あちこちと指さした。「ほら、あの〃鳥〃の絵も、ここのは、鳥に見えない事はないが、実は一種の極座標だという事がわかるだろう。クモの絵だって……」
「説明はいいが、これからどうすればいいんだね?」とレプケ博士はさえぎった。
「もっとあちこち、氷をひっぺがすのかね?」
「もちろんです。でも、とりあえずここの現場は保存しておいてください。調査用の科学衛星が、明日の朝まわしてもらえるはずです。それに、とても手がたりないので、地球の方に応援をたのみましたから……」
「地球は、今、衝《しよう》ね……」と〃肝ッ玉ケイト〃は、星の輝き出した空を見上げてつぶやいた。「火星と三億キロぐらいはなれているわ。ちょっと時間がかかりそうね……」
「それより、バーナードに知らせてやったか?」とレプケ博士は、乗物の方に足をうつしながらモシにきいた。
「やっこさん、血圧が上がって、ひっくりかえらなきゃいいが……」
「もちろん……すぐ連絡しました。――先生の要求で映像も何も、はじめっからおくりっぱなしにしてます。――でも、いまちょっと遠くにおられるので……」
「どこにいるんだね? バーナードは……」
「小惑星帯《アステロイド・ベルト》です……」モシは、夜空の中に、何かをさがすように視線をめぐらせた。「もう、セレスの基地にかえっておられると思いますけど……」
広大な宇宙の大洋にうかぶ太陽系――その中の、火星軌道と木星の軌道との間にはさまれた、幅五億五千万キロの環状の空間に、十万個以上の微小な天体がちらばって、太陽のまわりをめぐっている。大きなものでも直径数百キロメートル、小さなものは数百メートルしかない、これらの太陽系の砂粒のような小惑星の中で、一番最初に発見され、最大のものである長径七百七十キロメートルのセレス――やがて木星と最も接近する位置にむかっているこの小天体に一隻の千トン級の宇宙定期連絡船、ホアンホウ号が近づきつつあった。――セレスを中心に設置された小惑星帯調査基地から、一人の臨時の客をのせるため、コースを若干変更し、そのためホアンホウ号の最終目的地、木星への到着時刻は七時間余、おくれる見こみだった。
第一章 木星
1 ミネルヴァ
灰色の雲が、重苦しくたれこめる下に、一面の枯野がひろがっていた。
蕭々とわたって行く風に、枯れたすすきがはげしくゆれ動く。
と――。
地平に黒々と横たわる山脈《やまなみ》からぬけ出るように、黒い人影が枯野の彼方にあらわれた。――近づくにつれて、その人影は汚れた黒紋付きによれよれの袴をつけた、たくましい侍である事がわかる。
ふところ手して、肩をそびやかせた浪人者らしい侍は、あたりに油断なく眼をくばりながら、大股で枯野を横ぎってくる。――無造作にたばねた、油っ気のない髪が強い風に乱れ、への字に曲げた口のまわりを、不精ひげがおおっている……。
突然、侍の左上方の灰色の空に、オレンジ色のまるい光があらわれて、せわしなく点滅した。
――お客さまです……。
と、若い女の声がいった。
「今、いないといえ……」
と、英二は答えた。
侍は、ふと、何かを見つけたようにたちどまった。――太い眉がぐっとよって、細められた眼が鋭く光る。襟元から出した手がゆっくりと顎を掻く。
草をふむ音がして、手前から、もう一人の侍がゆっくりとあらわれ、浪人者とむかいあった。――ぶっさき羽織に野袴をつけた、そげたような頬をした、精悍で冷酷そうな顔だちの身分ありげな武士だ。年は浪人者より若いが、全身に青光りする撥条《ばね》のような、ぎらぎらする殺気がみなぎっている。
浪人者は、ふところから両手を出して、しずかに両脇へたらした。――何かいおうとするように、唇がわずかに動く……。
――緊急の来客です……。
オレンジ色の光点が再び明滅し、若い女の声がいう。
「いま、いそがしいといってくれ!」
と、英二はいらいらした声でどなった。
いきなり手前の侍が、ずばっ、と大刀をぬきはなった。――同時に浪人者が、大きくとびすさるや、眼にもとまらぬ早さで大業ものをぬいて、大上段から風をまいてふりおろした……。が、その大刀はなかばふりおろされた所でぴたりととまり、浪人者も、それにむきあった武士も、凍りついたように動かなくなった。
英二は、ゆっくり顔を後にむけた。
「くせえな……」と英二は、鼻をならすと、歯の間からおし出すようにつぶやいた。「あいかわらず風呂へはいってないな……」
英二のすぐ背後には、いまうつっていた映画の中の、細い方の侍によく似た感じの――しかし、それよりもっと眉毛のこい――肌の浅黒い長身の青年がたって、にやにや笑いながら、テレビの操作盤のストップモーション・ボタンに指をおいていた。
「いそがしいなんていって、例によって、こんな古くさい娯楽映画を見て、あそんでるのか?」
と、青年――ホジャ・キンは、白い大きな歯をむき出して、にやっと笑うと、いきなり英二のかけている椅子の背に手をかけて後へひっくりかえした。
英二は、もんどりうって背後へたおれながら、両脚をのばして、ホジャ・キンの首をはさみ、たおれた反動をつかって、キンを前に投げとばした。――一メートル八十五もあるキンの体は見事な弧を描いてすっとんだ。
それからしばらくの間は、えらいさわぎだった。二人はゲラゲラ笑いながら、相手の腹にパンチをいれ、蹴りたおし、投げとばし、室内の小ものや書類がとびちるのもかまわずに、組んづほぐれつの格闘をものの数分もつづけた。
「ちょっと待て!」組みふせた英二に、掌で顎をつき上げられながら、ホジャ・キンは苦しそうに顔を歪めていった。
「緊急の客って……おれじゃない。あの人だ……」
英二もその時になってはじめて、個室のドアの所で、おどろいたように眼をまるくしている、書類入れをかかえたひょろひょろと背の高い老人に気がついた。――ホジャ・キンが腕をゆるめた隙に、すばやく膝でもって腹を蹴上げ、キンが体を二つに折って、うめき声をあげるのを流し目で見ながら、英二はよろよろと立ち上がった。
「どうも、気がつかなくて失礼しました……」切れた唇の血を手の甲でぬぐいながら、英二はいった。「ミネルヴァ基地へようこそ……。基地責任者で、JSP調査主任の本田英二です……」
「バーナードです……」と長頭型の頭が、みごとに禿げ上がった老人は、骨ばった手をさし出した。
「レイ・バーナード……ついさっき、そちらの若い方と、ホアンホウ号で小惑星のセレスからつきました。途中、何度かあんたに連絡をとろうとしたが、木星大気の調査に行っているとかで……」
「バーナード……博士……」英二は老人の手をにぎりかえしながら、びっくりしたようにつぶやいた。「レイ・バーナード博士……あの宇宙考古学の……」
「ところでそちらのお若い方……」と老人は、まだ腹をおさえてうなっているホジャ・キンにむかって指をあげた。「さっき、あんたが組みふせるちょっと前に、バック・ブリーカーをかける絶好のチャンスがあったのに気がつかなかったかな? それできまりだったんだが、惜しい事をした。――レスリングの手を知らないんだったら、あとでちょっと手ほどきしてあげてもいいが……」
「ありがとう、博士……」ホジャ・キンは、大げさに顔を歪めながらニヤッと笑った。「でも、どっちにしても、私が勝ってたんです。ごらんになっていたでしょう?――そいつは昔から卑怯なんです……」
「ところで、博士……。わざわざこの基地までおいでくださったのは、どんな御用ですか?」英二はホジャ・キンと老人の間にわってはいるようにしながらきいた。
「木星の衛星のどれかに、大昔太陽系に来た宇宙人の痕跡が見つかれば、すぐ私に報告があるはずですが……」
「ここではない……」と老人は首をふった。「だが、一か月前、火星でおどろくべき大発見があった……。火星の北極の永久氷床の下から……」
「火星で?――それはそれは……」英二は、ちょっと慎重な眼つきになった。
「で、その火星での発見が、何かこの木星と関係があるんでしょうか?」
「どうも、そうらしいのだ……」バーナード博士は、鋭い眼つきになった。「現地からの通信では、いまの所、まだその宇宙人のホログラフ・メッセージは、ごく一部しか解読されていないが……だからこそ、私は、セレスで火星への便をまつかわりに、ここへたちよった。――どうせ、一番早い、火星、地球への便は、ホアンホウ号が木星へ来て、帰る時をつかまえるほかない。エディ・ウェッブとも連絡をとって、とにかく君にあう事にした……」
「ボス……ああ、その……ウェッブ総裁をよく知っておられるんですか?」
「ハイスクールと大学で一緒でね……」バーナード博士は微笑した。「その後も、ずいぶんいろいろと一緒に仕事をした。――彼が大学時代、きわめて優秀なクォーターバックだったなんて、信じられるかね? 私も不動のスタンド・オフだったが、エディは、何とウイングを三年もやったんだ。全アジアチームとの公式試合の時、味方の十ヤードラインから独走してトライをあげた時の事など、もう六十年以上昔の事だが、まだありありとおぼえているよ。――ところで、とりあえず二人きりで話をする時間はあるかね? 本田主任……」
「ナンシィ!」英二は傍の壁にむかって、秘書《セクレタリイ》コンピューターの名をよんだ。「地球からの調査団の到着はいつだった? あとどのくらいある?」
「太陽系標準時《エス・エス・エム・テイ》二一時三○分です……」と、若いなまめかしい女の声がこたえた。「あと約一時間あります……」
「おききのとおりです。――あまり時間はありませんが……一応まず、かいつまんだ話をおきかせください」英二は、さっきの格闘でとりちらかった部屋を見まわした。「こちらへどうぞ――静かな部屋がいいでしょう……」
「出発まで、この部屋をかりていいか?」
と、ホジャ・キンが、さっき英二のかけていた椅子に腰をおろしながら、声をかけた。
「いいよ。――ついでにかたづけといてくれ」英二はドアの所でふりかえっていった。「また遠出か?――出発はいつだ?」
「六時間後……」ホジャ・キンは、TVプレイヤーのスロットから、英二の見ていた、古い、日本の時代もの映画のカードをとり出すと、別のカードをさがしはじめた。「スペース・アローに木星産のヘリウムが満タンになったら出発だ……」
「六時間後か――じゃ、あとで一ぱいやるくらいの時間はあるな」と英二は壁の多元クロック表示を見上げながらつぶやいた。「今度はだいぶかかりそうか?」
「ちょいとね――何しろ冥王星軌道の外側まで〃彗星の巣〃の調査に行くんだから……」
「彗星源調査?」英二はちょっとおどろいた。「じゃ、相当遠いな……」
「一兆キロか二兆キロとばなきゃなるまい。往復最低二年はかかるが、途中、ほとんど冷凍睡眠で行く。――井上って学者と一緒だ」
「そんな所まで……いったい何の調査だ?」
「冥王星軌道の外側からやってくる彗星の数が、ここ何年か、激減しているんだとさ……」
「それで?」
「無人探査機を何台かとばしたんだが、そのうちある範囲へむかったものが、つづけざまに消息をたった。――きわめてせまい範囲だ。通信機の故障は、まず考えられないそうだ……」
英二は、ふと、何かを感じて絶句した。
「時間がないんだろう?」見つけ出した新しいカードを、スロットにさしこみながら、ホジャ・キンは英二にむかって顎をしゃくった。「行けよ。お客が待ってるぜ」
廊下に先へ出て待っているバーナード博士のあとを追おうとした時、個室内のTVプレイヤーから、派手な、かなり俗っぽい音楽がはなばなしく鳴りひびくのがきこえた。――英二は一、二歩ひきかえし、入口から首をつっこんで、からかうようにどなった。
「人の見ているものを古くさいとか何とかいって、自分こそ何だ?――いい年をして、まだそんな幼稚な活劇映画を見てよろこんでるのか?」
「ほっといてくれ!」ホジャ・キンは、はじまった〃スターウォーズ20〃のタイトルバックにむかって、うれしそうに手をたたきながらどなりかえした。「おれはこいつが好きなんだ……」
空いている近くの小会議室へむかって、基地内の通路を歩いて行く途中、バーナード博士は、通路壁面下部に斜めに開いている巨大な窓の所で思わず足をとめた。
その窓から、どこか狂気じみたものを思わせる、赤、茶、オレンジ、白の不規則な横縞におおわれた、巨大な、赤く輝く木星の一部が見えた。――木星は、窓の対角線の下右半分のほとんどを占め、回転しているミネルヴァ基地の動きにつれ、徐々に、窓一ぱいにひろがってきた。その赤道附近に、赤く輝く、小さな灼けた鉄球のような第一衛星イオが見え、その右の方に、第二衛星のエウロパが、白く輝きながらうかんでいる。
イオの姿の下方、南半球に、太陽系最大の、不気味にも美しい赤白の大理石模様の惑星に、さらに不気味さをそえる巨大な瞳のない一つ目――大赤斑が、周辺に狂ったように波うつカルマン渦のレースをまといながら、じっとこちらをのぞきこんでいる。
「やはり、圧倒されるな……」と、バーナード博士は、かすれた声でつぶやいた。「毎日、こんな近くから、あんなすさまじい姿を見ていて、神経がどうかならないかね?」
「新しく来た連中の中には、ちょいちょいノイローゼになるやつもいますがね……」英二も足をとめて窓を見た。「そのうち慣れて、どうってことはありません。――私なぞは、大気圏調査にはいってから、木星の雲の模様が毎日気になります。今日は、おやじさん、きげんがいいか、赤道辺のお天気はどうかってね……」
「あ、何かあの衛星の上で光った!」
バーナード博士は小さく叫んで、体をのり出した。
「イオの上で、また大きな噴火が起ったんでしょう」と英二は眼をこらしながらいった。「あの衛星の上では、高熱でとけた硫黄と硫酸のまじった、ものすごい噴火がしょっ中起っているんです。時には、何百キロも表面から噴き上げますよ」
長さ約二キロ、直径約四百五十メートルの円筒形をしているミネルヴァ基地は、木星赤道部の表面から約七十九万キロはなれた、第二衛星エウロパと、第三衛星ガニメデにはさまれた軌道を、ほぼ四十六時間の周期でまわっていた。そのため、窓から木星本体が見えている時は、ガリレオ衛星《一六一○年に、ガリレオが望遠鏡ではじめて見つけた四つの衛星で、いずれも直径三千キロから五千キロもある大きな衛星》のうち、三番のガニメデと四番のカリストは見えなかった。――そのかわり、基地本体が、平均周辺部で○・五Gの人工重力をつくり出すように自転しているので、木星本体はすぐ窓の視界から消え、かわって、暗黒の星空を背景に、木星の赤い照りかえしをうけながら、基地のすぐ傍にうかんでタンカーから推進剤を補給している、遠距離高速宇宙船の巨大な複合ノズルと針のように細長い船体が、視界の中にはいってきた。
「スペース・アロー号だ……」と英二はつぶやいた。「さっきなぐりあった私の友人は、あれにのって、冥王星軌道の外まで行くんだそうです……」
「あのずっとむこうに点滅している光も、宇宙船かね?」
バーナード博士は、ちょうど窓の正面、第四衛星カリストの暗い三日月の近くに動いている、赤、青、白、緑のまたたく小さな光をさした。
「そうです……」英二は、その光に一瞥を投げてうなずいた。「あのライトは……地球からの長距離旅客船だと思いますね――ところで、こっちの部屋でお話をうかがいましょうか? もうあまり時間がありません」
英二たちがのぞいていた窓の外側から、直線距離でほぼ数十キロはなれた宇宙空間で、自重二千二百トンの巨大な長距離貨客宇宙船《ハーフカーゴ・シツプ》トウキョウ3が、中央船体の四方にはり出したビームの先の、旅客、貨物コンテナーユニットを、船軸中心にゆっくり回転させながら、ミネルヴァ基地に接近しつつあった。
《ミネルヴァ・コントロール……こちら、トウキョウ3……》
ミネルヴァ基地の航行管制室では、スピーカーが、かすかに雑音をまじえて鳴りはじめた。
「ほら、そろそろおつきだぜ……」管制デスクにすわって、隣の肥った無口な仲間と、立体チェスをやっていた、髭もじゃの当直は、モニターパネルの映像を次々にオンにし、マイクをとり上げながら相手をせかした。
「長考してる場合じゃないだろ。なんなら、そこでうちかけにしてやってもいいんだぜ。――ハロー、こちらミネルヴァ・コントロール……トウキョウ3、どうぞ……」《トウキョウ3、ただいまベータ・ポイント通過……》スピーカーの声には、木星の電波バーストのノイズがすこしまじっていた。《まもなく、ミネルヴァ軌道《オービツト》にはいる……。軌道チェック、誘導システムチェックたのむ……》
「こちらミネルヴァ・コントロール……軌道OK……誘導システムOK……万事エレガントだ……」当直管制官は、色とりどりの数字、図表、記号が点滅する映像パネルをみながら、キイボードに指を走らせた。「四分二十秒後にアルファ・ポイント通過……。オートきりかえシグナル・センサーのノイズ・カットをもう二ポイントあげてくれ。今日は木星《おやじ》の雷が、ちょっとうるさいんだ。――乗客は元気か?」
《三十一名、全員元気だ……》トウキョウ3のパイロットはくすっと笑った。
《木星をながめて大はしゃぎしている……がっかりしたか?》
「それをきいたら、ミネルヴァ基地全員、ぶるっちまうだろうよ。――うるさいのがいるか?」
《議員さんだの、記者だの、自然保護団体や宗教団体のばあさまだの、おっかないお歴々ばっかりだ。覚悟しとけよ……》
「若い子ちゃんはいないのか?」
《一人、すてきにベッピンのかわい子ちゃんがいる。――だけど、何だかとっつきにくそうだぜ……》
「了解《ロジヤー》、トウキョウ3……」隣の肥った男が、ぐっと拇指をつき出すのを見て、髭もじゃの管制官はいった。
「到着はBポートだ。長旅おつかれさん、ハッピイ・フィニッシュを祈る……」
2 〃トウキョウ3〃の乗客たち
太陽から約七億八千万キロはなれた暗黒の空間に、その巨大な惑星はうかんでいた。
太陽と地球の平均距離よりざっと五・二倍遠い。――太陽から発する光や電波が宇宙空間を横ぎって、この木星に達するまで約四十三分かかる。
それは、太陽系の九つの主惑星のうちでも最大の惑星だった。――直径は十四万三千キロ、地球の約十一・二倍、質量は地球の三百十八倍、体積は地球の千八百倍、太陽系の全惑星のもつ質量の、実に七割以上を、この惑星一つで占めている。
こんな巨大な惑星が、周期わずか十時間というはやいスピードで自転しているのだ。――そのため、赤道部の自転速度は、地球のそれの百倍にもなり、そこで生ずる大きな遠心力が、凍ったアンモニアの白い雲と、硫化水素アンモニウムの赤い雲の縞をつくり、また高温の内部から対流によって吹きあげられてくる、燐や有機物をふくんだ濃赤色のガスが、奇怪な楕円形の斑点をつくり出す。
その巨大な惑星の周辺を、百個近い人工天体が、さまざまの軌道をとってまわっていた。――そしていま、その人工天体の中でも最大のものの一つ、ミネルヴァ基地に、奇妙な形の長距離貨客宇宙船〃トウキョウ3〃が、減速をくりかえしながらゆっくりと近づきつつあった。
「まもなく、このキャビンは本船からきりはなされ、ミネルヴァ基地《ベース》のBポートに到着します……」三十代のスチュアデスが、通路を通りすぎながら、左右の乗客にむかっていった。「しばらくの間、重力ゼロになりますので、座席におつきになって、ベルトをおしめください……」
三十一名の乗客には、たっぷりすぎるほどのスペースのある船室の中で、ほとんどの人たちは、もうめいめいの寝棚《バース》をかねた発着シートについていた。――スチュアデスは、最後部の四つの空席をちらと見て、低重力になれた歩き方で足早に後部ドアを通りぬけた。
発着シートのある部屋のむこうは、生活《リヴイング》スペースで、通路の両側に、ゲーム室、バー、食堂、図書室、ラウンジ、アスレチック・ジムなどがならんでいる。近距離用の旅客専用船ではないので、豪華なボールルームや、ステージ付きの劇場などはなかったが、それでも一応連邦議会の下院議員が視察団の副団長格ではいっているというので、月にある太陽系開発機構本部の広報課は、多少年代ものだが、せいいっぱい贅沢な旅客コンテナーを、〃トウキョウ3〃につないだのだった。
基地到着前なので、食堂よりむこうは気閘《エアロツク》をおろしてあった。ゲーム室の明りも消え、バーにだけまだ明りがついていて、中をのぞくと、隅のテーブルに、四人の若者――三人の青年と一人の娘が顔をよせあって、何かひそひそと話しあっていた。
三人の青年は、いずれも髭をはやし、髪の毛はもじゃもじゃだったが、みんな年は若いようだった。服装も無造作でまちまちで、垢じみている。一人だけの娘は、プラチナブロンドに近いうすい金髪を長く肩から背にたらし、すき通るような肌と、ほっそりした手足をしていて、ひどく清純で美しかった。――しかし、服装は地味で、お粗末といってよかった。やや茶色のかかった、くすんだモスグリーンの長袖のコートと、くるぶしまである同色のロングスカート、それにばかに鍔《つば》のひろい、うす茶色のスエードの帽子をいつもかぶっている。大きな鍔は前がべろりとたれさがり、その顔を半分以上かくしている。そのほかは、イアリングも指輪も、何のアクセサリイもつけていないし化粧もしていない。しかし、たれさがった帽子の鍔からのぞく形のよい鼻先と、その下にある、ピンクの愛らしい唇が、はっとするほどセクシイに感じられる事もあった。
「アナウンスはきいたでしょ……」とスチュアデスは、バーの入口からのぞきこみながら愛想よくいった。「あと四分できりはなすわ。お話はそれくらいにして、シートについてちょうだいね……」
若者たちはいっせいにスチュアデスの方を見、またお互いに顔を見あわせ、だまってテーブルから立ち上がって、顔を伏せ、スチュアデスの視線を避けるように、次々に傍をすりぬけていった。――最後に娘がすりぬけようとした時、スチュアデスは娘の顔があおざめ、こわばっているのを眼ざとく見つけた。
「気分はどう?」とスチュアデスは、娘の肩に手をかけた。「長旅でつかれたでしょう。――お茶をあげましょうか?」
「いえ……」と娘は、ききとれないほどの声でいってかすかに首をふった。「大丈夫です……」
娘は顔を伏せ、肩をふりはらうように歩みさった。――唇が色あせ、かすかにふるえていた。スチュアデスはちょっと肩をすくめ、バーの明りを消して、ゆっくりとあとを追って前部キャビンへはいって行った。
「すごいわね……」
と発着シートにすわって、しわだらけの顔を窓ガラスにおしつけている老婦人が、溜息をついた。
「あなた、いったい何回おなじ事をいうのよ……」
と隣席のふとった女性が、よじれたシートベルトをなおそうと、悪戦苦闘しながらつぶやいた。
「何回いおうと、すごいものはすごいわよ……」と老婦人はいいかえした。「こうやって、テレビなんかじゃなくて、じかにこの眼で、こんなに近くから見てると思うと……何だか、ぞくぞくしてくるわ。ごらんなさいな、あのすごい模様……あの大きな赤い斑点一つの中に、地球が三つも四つもはいっちまうんですって!……すごいわね、やっぱり途方もない星ね……気が遠くなりそうなほど大きくて、美しくて……」
「そうよ。本当にそうだわ!」突然前の方の席から、かんだかい声が室内にひびきわたった。「誰が何といっても、木星《ジユピター》は天界の王者よ!――だから、みなさん、あの巨大で美しい惑星を、人間の手でいじりまわしたり、破壊したりする事は、絶対にやめさせましょうよ……」
「まあまあ、ミス・ウェイン……」体の大きな初老の男が、苦笑をしながら、隣席でのび上がって金切り声をあげている、小柄で元気のいい老婦人の肩を、なだめるようにやさしくたたいた。「その演説は、ミネルヴァ基地へついて、JS計画の話をきいてからでもおそくないでしょう。何しろ、やっと到着しようという所で、結論を出すには、まだ早すぎますよ……」
スチュアデスは、職業的なつくり笑いをうかべながら、乗客たちの間を通りぬけると、キャビン前方の小さなドアをあけ、もう一度客室をふりかえって点検するように見わたすと、にっこり笑って、指を一本たててみせ、それから、ドアのむこうに消えた。
キャビン前部の小部屋は、業務用の通信室になっており、緊急用の簡単な操縦系統も、コンソールの片隅についていた。その前のシートに腰をおろし、ベルトをかけると、スチュアデスは、スイッチをいれて、
「乗客はオーケーよ、ジョー……」とマイクにいった。「いつでもきりはなしてちょうだい」
「だいぶ手間をとったな……」とコンソールからパイロットの声がこたえた。
「若いのが四人、バーで話しこんでてね……」と、髪をなであげながらスチュアデスは、やや疲れた声でいった。「ちょっと変った連中ね。――ほかのお客とはちっともなじまないで、いつも自分たちだけで、深刻な顔してひそひそ話ばっかりして……」
「何とかって、宗教団体の代表なんだろ。きっと信仰について語りあってるんだぜ……」とパイロットはくぐもった声でいった。「第一、ほかのじいさまばあさまとは世代《ゼネレーシヨン》ってものがちがわぁ……。あの極上のかわい子ちゃんだけは、ちょっと〃世代の断絶〃をこえて、仲よくなってみたいが……」
「あの子、何だか気分が悪そうだったわ……」そういいかけて、スチュアデスは、ふとテレビ面像を見上げて眉をしかめた。「ジョー! あんたまた、ホットドッグなんか食べてるの?――この旅で、いったい何キロ肥ったら気がすむのよ!」
「精力をつけてるのさ……」とパイロットは、パンをのみこみながらいった。「そうだ、パティ……。ミネルヴァ基地の〃ラヴ・ルーム〃ってやつを一度つかってみないか? 相当豪勢なものらしいぜ。――さきに行って、予約しといてくれよ」
「あんたなんか、あの部屋つかう資格ないわよ……」とスチュアデスは鼻で笑った。「いつだって、人の事をトイレの中へおしこんで、いきなりスカートをまくり上げるくせに……」
「ほら、はなすぜ……」とパイロットはいった。「じゃまた、あとでな……」
コンソールの上で、オレンジとグリーンのランプがまたたき、船室《キヤビン》が本船からきりはなされるかるい衝撃と、つづいて姿勢制御と加速噴射の、わずかな加速度が感じられた。――スチュアデスは、コンソールの上のスイッチを操作し、通信室の窓を全開にした。〃トウキョウ3〃の船体が左下後方に流れて行き、誘導ビームにのって進んで行く船室《キヤビン》の前方正面に、ミネルヴァ基地の中心軸に長方形の口をひらいているBポートの明りが、大きくせまってきた。
「本田主任……」と小会議室の壁にうめこまれたスピーカーから声が流れた。「〃トウキョウ3〃、ただいま到着しました。――乗客はいま、Bポートにむかっています。五、六分で到着します……」
「わかった……」と英二は、左手首につけた通信機のトーク・ボタンをおして答えた。「調査団一行は、オリエンテーション・ルームに案内して、少し休んでもらえ。――十五分後にそちらへ行く。それまで、ブーカーに相手をしてもらってくれ。みんなできるだけ愛想よくしろ……」
傍で、バーナード博士が軽く咳ばらいした。――英二は通話を切ると、老人の方をふりむいた。
「それで……」と英二は、今まできいた話を反芻するように、ゆっくりした口調でいった。「その――地球の、南米の〃ナスカの地上絵〃とやらを描いた宇宙人が……この木星の周辺に来たというわけですか?」
「話は逆だ……」とバーナード博士は首をふった。「連中は――かなりな数の宇宙人たちは、太陽系外から、まず、この木星周辺のどこかへ到着した。推定十万年ぐらい前だ。連中は、最初木星の衛星のどれかにとどまったらしい。それから、おそらく七、八万年前、小惑星のいくつかに基地をきずいた。――そのころはまだ、現在最大とされているセレスよりずっと大きい……すくなくとも、地球の月ぐらいの大きさの小惑星があったらしいが、おそらく、彼らが、何らかの理由で破壊してしまって、小さなばらばらの破片にしてしまったと考えられる……」
「その、昔の大型小惑星の破片にばらばらに残された、宇宙人のきざんだサインを、いまつなぎあわせようとしておられるんですね……」英二は溜息をついた。「気の遠くなるような作業ですね。――で、それと、今度火星の北極の氷の下から見つかった、ナスカ型のパターンと、どうつながってくるんですか?」
「火星の、D6氷床の下から出てきたあの図形は、固い岩盤にほりこまれていたから、地球のものよりずっと保存がよかった……」バーナード博士は、書類入れの中から、数枚の写真を出してテーブルの上においた。「もちろん、氷床をとかした時に、多少の損傷はあったが……。そのあと、すぐ近くの氷の下から見つかったもう一つの太陽系をあらわしたパターンは、私たちのチームの、モシという男が慎重にやったので、はるかに完全な形で日の眼を見る事になった。――そして、この発見は、有史以前に太陽系にやって来て、地球上で、あるいは地球の周辺で姿を消した宇宙人が、太陽系間に残していった一連のメッセージの、大きなミッシング・リンクを埋める事になった。――地球のナスカ、そして月のH・G・ウェルズ・クレーター附近の砂の下から見つかったもの、それに、小惑星のヴェスタ、エロス、イカルス、セレスと、かつての巨大小惑星の破片群の上に、断片的にきざまれていたパターン……それと今度の、火星での発見をつなぎあわせると、これまでより、はるかに大きなスケールで、〃宇宙人の書き残したもの〃の意味がわかって来そうだ……」
「という事は――もう、そのメッセージは解読できたんですか?」
「いや――まだ、完全な解読にはほど遠い。いい所、一五、六パーセントだろう。ミリセント・ウイレムという、宇宙言語学者が――彼女は一種の天才だがね――月の研究所で、ここ数年解読にとりくんでいる。そして、今度の火星での大発見があったので、彼女の研究には、重大な進展があった。――それは、かつて、彼らにとっては木星周辺が重要な意味をもっていたらしい事を示している……」
「つまり、木星の衛星がですか?」英二は、小会議室にかかげてある、木星の衛星配置図に眼をやった。
「四つのガリレオ衛星は、表面状態が悪くて、あまり宇宙人の痕跡は期待できませんよ。第一衛星のイオは……ご存知の通り、硫黄の地殻の下の、溶けた硫黄の海から、亜硫酸や硫化水素まじりの溶融硫黄の〃噴火〃をしょっ中やっています。第二衛星のエウロパ、第三衛星のガニメデ、第四衛星のカリスト、いずれも表面は厚い氷層、その下はとけた水や、氷《アイス》ジャムで――たとえ宇宙人が何かを残して行ったにしても、十万年もの間には、みんな消えちまっているにきまっています。……ずっと外側の、十一番、十二番衛星の上に五、六年前見つかった、宇宙人の痕跡かも知れないパターンというのは、もう調査されましたか?」
「まだだ……」バーナード博士は、やや苦しげに首をふった。「報告はむろんきているが、とてもそこまで手がまわらんのだ。――太陽系は……君たちにとってはどうか知らんが、私たちにとっては、いやになるほど広い。そして、われわれ宇宙考古学の専門家は数がすくないと来ている。その上、宇宙考古学そのものが、まだまだ若くて、資金もそれほど潤沢ではないのだ……」
「たしかに大変な仕事ですね……」と英二はうなずいた。「で――その……木星周辺が、宇宙人たちにとって、重要な意味をもっていたというのは、どういう事ですか? ひょっとしたら、一番内側をまわっている、アマルテアか何かが……」
「いや……それよりも……」博士は、ちょっと唾をのみこんだ。「ミリー・ウイレムも、まだ完全に、意味をつきとめたわけではないが、しかし、彼女が解読にあたって発揮する独得のカンの鋭さは、何というか、すごいものがある。で、彼女が、火星パターンの解読にとりかかってすぐ、小惑星セレスにいた私に緊急連絡してきたのだが……それで、私は、自分の眼でその火星パターンを見るより先に、君のボスのウェッブに相談して、彼のアドヴァイスで、とるものもとりあえずここへとんで来たのだが……実は、木星の大気中に、彼ら、つまり宇宙人にとって、重大な意味をもっていたものがかくされている可能性がある……」
「木星の……大気中ですって!」英二は眉をひそめた。「博士――木星の大気が、どんなすごいものか、ご存知ですか? 厚さ千キロ以上の水素、ヘリウム、アンモニア、メタン、硫化水素、氷片などの層が、風速何百メートルという速度で、上下左右にあれ狂っているんですよ。その中を、地球上では想像もつかない、ものすごい雷が、のべつまくなしにかけめぐっているし……重力が大きいため、大気の底は猛烈な温度圧力になっているし……大気表面から千キロはいった所で、温度は摂氏二千度をこえます。われわれが作業ではいるのは、せいぜい雲の表面から、三百〜三百二十キロまでが限界です……」
「わかっている……」と博士はいいにくそうにいった。「しかし、ミリーがいうには……その大気の中に、宇宙人がのって来た、宇宙船が残っている可能性がある、というのだ。途方もなく大きなもので、ほとんど〃都市〃とよんでいいほどのものが……。彼らは、それにのって、銀河系のどこかから、この太陽系へ飛来して来た。そして、木星の衛星軌道にその乗物をのせ、そこを基地にして、太陽系の探索と、一部の開発をはじめかけた。ところがある時、何かが起って、彼らの大切な基地が、大気圏内にのみこまれてしまった。外にのこった宇宙人は何回も、それを救い出そうとしたが失敗し、それでやむなく、残りの連中は、ずっと小さな宇宙船で、内側の惑星へ――火星へ、そして地球と月へ、移住をはじめたという事らしい。ミリーはそう解釈している……」
「で、つまり――その木星大気中にあるかも知れない、十万年前の異星人の宇宙船を探すのに協力しろ、というわけですか?」英二は突然、はっとしたようにけわしい眼つきになった。「博士――まさか、JS計画のスケジュールを……」
バーナード博士は、やや沈鬱な顔をしてうなずいた。「中止……とか中断とまでは行かなくとも、われわれの緊急調査に、人員機材をまわしてくれんかね?」
「本田主任……至急オリエンテーション・ルームへ……」とその時スピーカーから声が流れ出した。
3 〃木星太陽化計画〃
「木星地区へ、はるばるようこそ!」
漆黒の肌と、豹のようにしなやかな四肢をもったブーカー・ラファイエットは、まっ白な歯をむき出して、オリエンテーション・ルームでくつろいでいる調査団の一行に愛想よく笑いかけた。
「ミネルヴァ基地へようこそ!――おつかれでなければ、さっそくこの基地と、JS計画についての御説明にかかりたいと思います……」
長さ二キロ、直径四百五十メートルの人工天体ミネルヴァ基地の長軸にそって、四本のシャフト・カーが走っていた。――その一つに、バーナード博士とのりこみながら英二はいった。
「私は途中でおりますが、終点まで行ってください。長距離通信室は、おりてすぐです……」
「君とは、もっとよく話しあわなければならんね、英二……」
バーナード博士はちょっとつらそうにいった。
「その必要がありそうですね……」英二は、行先のボタンをおして乗物を発進させながら、硬い声でいった。「基地にはいつまで滞在されますか?」
「次の地球行きの便があり次第、のるつもりだ。――月へ行って、君のボスの、エディ・ウェッブにあう」博士は眼を閉じて眉間をもんだ。「それで……君にも同行してもらうつもりだ……」
「私を?」英二はちょっとおどろいてききかえした。「でも、私は……」
「その事を、これからエディと話しあおうと思っているんだ……」
ちょうどその時、乗物が英二のおりるステーションでとまり、ドアがあいた。――英二は、すぐおりずに、しばらく席にすわっていた。
「いずれにしても……」と英二はつぶやいた。「もう少し話しあいましょう」
ステーションにおりたってからも、英二はしばらく走り去って行くシャフト・カーのあとを見送っていた。――上の方で自分をよぶ声をきいて見上げると、斜め上方で、広報課の一人が手をふっていた。
英二はやっと歩き出し、円筒形の壁にそった通路を通って、オリエンテーション・ルームの入口に近づいた。
「ブーカーが、もう説明をはじめています」
と広報課員はいった。
「調査団御一行は、長旅でつかれてるんじゃないか?」
とドアの前で英二はきいた。
「全員、ぴんしゃんしてますよ。――最近の宇宙保健医学は大したもんですからね。本船をはなれる前に疲労回復剤と、低重力適応薬ぐらい飲んでるんでしょう」
「少し疲れていてくれた方がいいのにな……」
とつぶやいて、英二はドアをあけた。
「もうおききになったかと思いますが、念のために、JS計画推進機構について、御説明しておきましょう。――Jはジュピター、すなわち木星の頭文字、Sはサン、つまり太陽の頭文字である事はいうまでもありません……」
ブーカーは、ゆったりとしたオリエンテーション・ルームにすわっている調査団の前で、天井からひきおろした、半透明のELスクリーンにうつし出された、「JS計画」の機構系統図を指さしながら、明るい声でしゃべっていた。――スクリーンの右隅には、JS計画のシンボルマークがうつっている。
「JS計画――すなわち〃木星太陽化計画〃は、世界連邦大統領府直属の太陽系開発機構――SSDOの推進しているプロジェクトの一つでありまして、直接にはSSDOの下部機構である外惑星開発機構、すなわちOPDOの管轄下にあります。OPDOは、現在火星上のイシスにおかれており、JS計画推進本部も、その中にふくまれています。――そして、木星の第二衛星と第三衛星の中間あたりの衛星軌道、一名ミネルヴァ軌道《オービツト》の上におかれたミネルヴァ基地は、JS計画についての基礎研究・調査や、実現性研究《フイージビリテイ・スタデイ》をおこなっている研究調査センターでありまして、いわばこの計画の最前線を担っているものです……」
ブーカーは、後部ドアからはいって来た英二を見つけ、大げさな身ぶりで腕をさしのべた。
「ああ、いまあそこに、この計画の調査主任であり、かつこの基地の最高責任者である本田英二博士がこられました。――ご紹介しましょう」
「みなさん、ミネルヴァ基地にようこそ……」
と、英二はブーカーの方へ進みながら、聴衆にむかってにこやかにほほえんでみせた。――部屋の、一番隅の方にすわっていた、何となく調査団の雰囲気にそぐわない感じの四人の若者のうち、金髪を肩にすべらせたほっそりした娘が、はっと眼を伏せ、皮の帽子の大きな縁《ブリム》を深くさげて顔をかくしたのを、英二は気がつかなかった。
ブーカーの横にたって、大きく息を吸いこみながら、英二はもう一度、満面に笑みをうかべてみせた。
「こういう宇宙空間で長らくくらしていますと、地球のにおいを身につけた皆さんとお目にかかるのは、とてもなつかしいです……」
――主任も、よくやるよ……。
と、入口の広報課の一人が、苦笑しながらもう一人にささやいた。
――火星生れの火星育ちで、地球にゃあまり行った事がないくせに……。
「これからみなさんに、このミネルヴァ基地をご案内し、そこでやっている作業をごらんにいれるわけですが、その前に、ここで基礎調査をやっているJS計画について、一通りご説明したいと思います」
英二は指をのばして、ELスクリーンの下部にうつし出されている10《テン》キイのパターンにふれた。
「太陽系開発機構《エス・エス・デイー・オー》」の系統図が消えて、木星を北極の方向からうつし出した映像があらわれる。――地球からは、絶対に見られない、半月状の木星だった。
極の夜の部分に、かすかにオーロラがはためいているのが見える。
「ちょっと――いいかね?」
日焼けした、地方の農場主といったタイプの紳士が手をあげた。
「さっきから、スクリーン右の隅にうつっている、おかしなマークは、何かね?」
「ああ、これですか?」
英二は、スクリーンの右下隅にうつし出された
@
のマークを指さした。
「これは、JS計画全体のシンボルマークです。Aは天体記号で木星をあらわし、Cは太陽をあらわします。――星占いなんかで、ごらんになった事はありませんか? この二つを組みあわせて、〃木星太陽化計画〃のシンボルマークにしたものです。さらにこのパターンは、この計画が本格的にスタートした二一○○年と、この計画の達成目標年である、二一四○年の双方をもあらわしています……」
英二は傍にいるブーカーの肩に手をおいた。
「このマークをデザインしたのは、いま、みなさんに説明していたブーカーです。彼は優秀な研究員であると同時に、すぐれたコンミュニケーション・デザイナーでもあります。みなさんが、この基地からおもちかえりになるパンフレットや記念品は、すべて彼のデザインしたものです……」
ぱちぱち、とまばらな拍手がおこり、ブーカーはそのまっくろな顔を、照れたようにほころばせた。
「私もいい?」
と、甲ン高い声がして、白い、しわだらけの、小さい手が上がった。
「どうぞ……」
と、英二は、小さな、色の白い老婦人にむかってほほえんだ。
「なぜ、あなたたちは、木星を太陽にしようとしたりするんです?――あんな美しい、大きな、りっぱな星を、燃やしちまうつもりなの?」
室内の後半分では、ちょっとこわばった空気が流れたが、前の方では、かすかに笑い声がおこった。
英二は、ブーカーと顔を見あわせ、軽く咳ばらいした。
「いいご質問です。――マダム……」
「ミスよ……」と小柄な老婦人はきっぱりした口調でいった。「ミス・ウェインです……」
「失礼しました。ミス・ウェイン……大変ごもっともな質問です。では、それをご説明しましょう……。みなさん、どうかこちらへお出でください……」
英二は、ELスクリーンに手をふれた。――映像が消え、スクリーンが天井に上がって行くにつれて、正面の壁も一緒に上がって行き、むこう側に大きな、天井の高いホールがあらわれた。
調査団は、ホールの広大さに圧倒されたように椅子から立ち上がり、前の方へつめかけた。――英二は、一行をホールの方へとうながしながら、眼の隅でオリエンテーション・ルームの後方で、パンフレットらしいものをのぞきこみながら、顔をよせあって、ひそひそ語りあっている四人の若者の姿を見ていた。中の一人が、英二の視線を感じたらしく、ほかの連中に何かささやき、四人は立ち上がった。
「あれをごらんください……」英二は大ホールの周辺をとりまく回廊に出て行きながら、四メートルほど下の、中央フロアを指さした。「あれはごらんの通り、太陽系開発機構のシンボル――太陽系儀です」
大ホールは、直径四十メートル、高さ十メートルほどの円筒形だった。周囲の壁面に二層の回廊がめぐらされており、オリエンテーション・ルームの正面壁は、その二階回廊に接していたのだった。
大ホールは、それをとりまく、直径五十八メートルの、粒子加速機用粒子貯蔵《ストレージ》タンクの中央空間を利用してつくられていた。――どこもかしこも、ぎっしりと機械がつめこまれているこのミネルヴァ基地の中で、そこだけがゆったりとひろく、内装も美しく、おちついていて、基地で働く四百五十人たらずの要員のために「いこいの広場」を提供しているのだった。
大ホールの中央フロア床面よりも、さらに約一メートル低く、直径十五メートルほどの円形のくぼみがあり、そこに、太陽と、その九つの惑星の位置関係を、リアルタイムで表す、美しい、金属性の「太陽系儀」がそなえつけられていた。
そのまわりには、少さな噴水や、動く彫刻、多色ホログラフをつかった「光の彫刻」が配置され、緑の植えこみもところどころにあって、いくつかのテーブルでは、基地で働く男女が、飲物を飲みながら、しずかに話をしたり、抱きあったりしている。
「ご存知のように、二十二世紀にはいってから、地球の外の、太陽系空間で生活する人々の数は、四億人をこえ、やがて五億人にせまろうとしています。――むろん、地球人口の百八十五億人にくらべれば、問題にならない数ですが……」
英二は、回廊の手すりに片腕をのせて話しはじめた。
「しかし、この太陽系宇宙空間が、人類全体にとってもつ意味は、日ましに大きくなっています。――この四分の三世紀の間に、基礎科学における重大な発見と、応用技術における画期的なイノヴェーションの、実に七○パーセント以上が、この地球外の宇宙空間からもたらされました。たくさんの、すぐれた知性――特に若い知性が、のびのびと力一ぱい、この新しいフロンティアで活躍する事ができたからです……」
「あなたのような、かっこいい若い人がね……」
とミス・ウェインが、またきいきい声をあげ、調査団一行から笑い声があがった。
英二は、ちょっと顔を赤くして、耳のうしろをかき、またつづけた。
「それだけでなく、現在地球上で消費されるエネルギーの四○パーセントが宇宙空間から――ご存知のダイソン・ユニットで集められる太陽エネルギーによってまかなわれています。また、附加価値のきわめて高い精密工学製品や、高純度物質、特殊合成物のかなりの量が、宇宙空間の工場で生産され、地球上でつかわれています。地球ではつくれない高度の真空、無重力、そして、地球上のように、生物的環境を破壊するおそれのない、広大なスぺース……これが〃宇宙における生産〃の大きなメリットです。――それから、これはあまりご存知ないかも知れませんが、現在では、豊富なエネルギーと、病虫害のおそれのない環境を利用して、高級農産物や栄養物質も、地球周辺の宇宙農場でつくられ、宇宙空間はもちろん、地球にも相当量供給されています」
「知ってるとも……」陽やけした男が、顔をしかめてつぶやいた。「それが、私たちみたいな、伝統的な農場経営者には大問題なんだ……」
「たしかに、二十一世紀後半あたりまで、宇宙空間での死亡率は、地球上の十倍以上でした。――しかし、その後宇宙保健医学、とりわけ遺伝子工学をつかった適応医学の発達によって、地球なみにさがりました。太陽系宇宙空間は、今や人類にとって、すでにゆたかな稔りをあげつつあり、しかもなお大きな未来をはらむ、広大なフロンティアなのです……」
〃ホジャ・キン大尉……ホジャ・キン大尉……、至急B会議室においでください……〃 ホールの中にアナウンスがひびきわたった。――英二はふと、これから太陽系の冥王星軌道の外側へむかって、往復二年もの旅に出ようとしている友人の事を思った。
〃……ホジャ・キン大尉……井上博士がおまちです。至急B会議室へ……〃
「ところで……」と英二は気をとりなおしたように、唇をしめした。「二十一世紀末から、太陽系内宇宙人口は、地球近辺から、次第に遠方の外惑星へ移動しはじめています。現在では、この木星周辺はもとより、土星、天王星、海王星、さらに冥王星の近辺や軌道上にまで、研究、宇宙航行基地ができ、かなりの人々が働いています……」
「何をやっているんだね?」
「一つは宇宙物理学の研究です。もう一つは、恒星間宇宙旅行――人類が、太陽系の外へ、本格的に進出するための準備です……」
調査団一行の中に、沈黙がおちてきた。――一瞬ではあったが、英二を見るみんなの視線が、何か異様な、太陽系外から来た宇宙人を見つめているようなよそよそしいものに変るのが感じられた。
その視線をふりきるように、英二は回廊を歩き出した。
「しかし、外惑星地域は、地球や金星周辺とちがって、エネルギー問題に、決定的なハンディキャップがあります。――ごらんください……」
と、英二は、大ホール中央の太陽系儀をさした。
「それは、外惑星が、いずれも地球にくらべて、太陽からの距離がきわめて遠いという事です。木星の太陽からの平均距離は、約七億八千万キロ、地球と太陽との距離の約五・二倍になります。土星はさらに遠く、九・五四倍あります。――そのため、木星附近で得られる、単位面積あたりの太陽エネルギーは、地球表面でのわずか二十七分の一にしかなりません。土星にいたっては九十分の一です。ですから、二十世紀後半に、木星や土星にむかって発射された、パイオニアやヴォイジャーといった探索機は、太陽電池がつかえず、原子力電池を動力源につかっていました。――現在でも、木星以遠の宇宙基地や宇宙船の動力源は、もっぱら水素やヘリウム3の核融合エネルギーをつかっていますが、装置そのものが、きわめて巨大で高価になる上、寿命も短く、木星周辺以外でのエネルギーコストはきわめて高くなっています……」
「なるほど……」と、調査団の中の、中年の銀行員みたいな感じの男がうなずいた。「それで木星を……」
「ええ、そうです……」英二は前方のドアにむかって再び歩きはじめながらいった。「太陽系最大の惑星で、その質量や、内部の温度と圧力からみて、もう少しで小さな恒星になる所だったといわれている木星を、〃第二の太陽〃にしたらどうか、というアイデアは、すでに百五十年近く前、一九七○年代に提出されていました。――そして、二十一世紀の後半にはいって、もう一度真剣にとりあげられはじめたのです……」
4 ささやかな破壊者たち
「カルロス!」
天井から壁面まで、さまざまな機械やパイプでぎっしり埋まった部屋にはいって来ながら、英二は大声で叫んだ。
「カルロス!――どこだ? 出て来てくれ!」
そこは、大ホールから、短い廊下をへだてた一室だった。――英二のあとについて来た三十一人の民間調査団は、部屋の中央にある、やや大きいスペースにつったって、気をのまれたように、複雑で巨大な、機械と装置群を見まわしていた。
正面にすえられた、直径四、五メートル、長さ十五メートルはありそうな、うす緑色にぬられた巨大なタンクの下から、栗色の髪に、栗色の口髭をはやした、わりと小柄な青年がはい出して来た。――黒の半袖シャツに油だらけのジーンズ姿で、これも年代ものの、うす鼠色に汚れて、ところどころに小さな穴のあいたスニーカーをはいている。うす茶色の眼は、やや神経質そうで、しかしすんだ、鋭い光をたたえていた。
「ご紹介しましょう……」
と英二は、調査団にむかっていった。
「カルロス・アルバレスです。――木星太陽化計画の、もっとも重要な部分である、反応過程の研究主任です。彼は素粒子工学……それも超素粒子《スーパー・パーテイクル》についての専門家で、エンリコ・フェルミ賞、ユカワ賞をはじめ、物理学賞を五つもとっています……」
「あ、はァ!」と、小柄なミス・ウェインが、ちょこちょこと前へ出て行って、下からカルロスの顔をねめ上げるように顎をつき出した。「つまり、あんたが、あの美しい木星を燃やしちまおうとしているのね!」
「ま、待ってください……」
カルロスは、なだめるように両手をあげて上下させた。
「ええと……木星を太陽化するといっても……その、いきなり木星の内部で、太陽の中で起っているような、陽子=陽子反応の核融合を起させるわけではないんです。――そんな事は、その……木星中心部の温度と圧力から見て不可能ですし……へたすると爆発してしまいます……」
カルロスは、ややどもりながら説明しかけたが、ミス・ウェインは、そんな事一切おかまいなし、といった様子で、ますます彼に顔を近づけ、いきなり下から、カルロスの顔にむかって、ぐいと手をのばした。――カルロスは、思わずたじろいで、後へさがった。
「ほら、これで顔をおふきなさいな、ハンサム・ボーイ……」
ミス・ウェインは、手ににぎったハンカチを、カルロスの鼻先につきつけていった。
「ほっぺたに、油がくっついてるわよ!」
調査団の一行から、どっと笑い声が起り、カルロスは、うすくそばかすのういた顔をまっ赤にして、小さな老婆のさし出すハンカチをうけとった。
「ありがとう《グラシアス》……」
と、彼はハンカチで顔をぬぐいながら、蚊の鳴くような声でいった。
英二は、くすくす笑いながら、ボタンをおして、天井からELボードをおろし、カルロスの手に光《ライト》ペンをわたしてやった……。
英二の個室から、二十メートルほどはなれたB会議室に、体にぴったりついた黒っぽいアンダー・スーツを着た長身のホジャ・キンが、大股ではいって来た。――まるで強靱な、黒い鞭のような感じだった。
部屋の中にいたのは、頭のうすい、ミネルヴァ基地の宇宙航行管制室の室長と、物しずかで、端正な顔立ちの東洋系の学者だった。半白の髪をして、五十をこえているようだったが、体つきはがっちりしていて、長身のホジャ・キンに負けないぐらい背が高かった。
「ホジャ・キン大尉です……」
軽く踵をあわせるしぐさをして、ホジャ・キンは手をさし出した。
「井上竜太郎です……」端正な顔立ちの学者は、低い、しずかな声でこたえて、ホジャ・キンの手をにぎりかえした。
「片道十か月以上の長い旅ですが、よろしくおねがいします……」
「こちらこそ、よろしく……」
――へえッ! すげえ、ハンサム・プロフェッサーだ……。
と、握手をしながら、ホジャ・キンは心の中でつぶやいた。
――英二と同じ、日本系でも、こんな人がいるのかな……。英国貴族って感じじゃないか。女子学生が、さぞかし大変だったろう……。
「あなたは、冥王星軌道の外側へ、何度も行かれたそうですな、キン大尉……」井上博士はほほえんだ。「核融合型宇宙ロケットの操作では、大ベテランだとうかがいました」
「といっても、これまで行ったのは、せいぜい太陽から十億キロメートルぐらいまでの距離の往復ですから……」柄になく、少しはにかみながらホジャ・キンはこたえた。「しかし、今度は何しろその千倍、片道一兆キロメートルですからね。――十分の一光年となると、私もはじめてです……」
「先にナヴィゲーション・プランをざっと説明しますか? それとも井上博士から、今度のミッションについて、キン大尉に説明していただけますか?」
と管制室長が口をはさんだ。
「先にコースとプランの説明《ブリーフイング》をうかがいましょう」井上博士はホジャ・キンに椅子をすすめながらいった。
「今度の調査については、あとでキン大尉に説明する時間が充分ありますから……」
「わかりました……」
管制室長はうなずいて、デスクの上の映像パネルをひきおこした。
「スペース・アロー号の出発はSSMT《太陽系標準時》0420です。0300にC6デッキからフェリーが出ますから、おくれないようにしてください。――土星と天王星が、ちょうどいい位置に来ていますから、土星のヒッチハイクコースをとって、天王星の公転軌道後方百二十万キロの所を、太陽系相対速度にして秒速四百キロで通過します。この時、天王星の第四衛星オベロン軌道補給基地から、最終燃料補給を受けます。天王星軌道をこえたら、冷凍睡眠《コールド・スリープ》にはいっていただいてけっこうです。――コールド・スリープは、一応九か月間にセットされています……」
室長の要約《ブリーフイング》をききながら、ホジャ・キンはふっと気が遠くなるような感じを味わった。
――一兆キロ……十分の一光年か……。ずいぶん遠いな……。
ホジャ・キンは火星のエリシウム区の小学校の三年生のある日の事を思い出していた。その日若い女性教師が体育館にクラスをつれていって、箱の中から、直径一・五センチほどのプラスチックの赤い球を出して見せ、こういった。
――みなさん、これが私たちの太陽です。ただし、千億分の一の大きさです。この割合で、太陽系の惑星までの距離を、床の上に描いてみましょう……。
教師は体育館のまん中に、その赤い球をおき、子供たちは、巻尺と小型計算機をつかって、太陽系の九つの惑星の軌道を千億分の一の縮尺でわり出し、床の上に描きこんでいった。
水星の軌道は、直径一・五センチの赤い球の中心から、五十八センチの所になった。
――本当は、惑星の軌道は楕円形をしていて、中には冥王星のように近日点と遠日点が二十九億キロメートルもちがうような、うんと平べったい楕円形をしているのもあります。……でも、とにかく、一度、平均軌道で描いて見ましょうね……。
と教師はいった。
金星の軌道は、赤い球から一メートルちょっとの所になり、地球軌道は半径一・五メートルの円になった。――半径二・三メートルで火星軌道が描かれた時、火星生れ、火星育ちの子供たちは拍手した。
小惑星はとばして、木星軌道は、直径一・五センチの太陽から七・八メートルの所に描かれた。さらにそこからはほぼ倍、十四・三メートルの半径で、土星軌道を描いた時、子供たちはだんだん息をきらしてきた。天王星軌道――半径二十八・八メートルの円、海王星、半径四十五メートル……そして最後の冥王星の平均軌道距離五十九・一メートル、百メートルと百二十メートルのアリーナの中には描き切れなくなってしまった。――ホジャ・キンは、それでも息をきらして、壁ぎわに歩を移した。途中、ふと、冥王星の遠日点と近日点をむすぶ楕円にしてみようと思いついた。
冥王星は、遠日点が七十三億八千キロメートル余り、近日点は四十四億四千キロメートル余りで、太陽に近づいた時は、もう一つ内側をまわる海王星軌道の、さらに内側へはいりこんでしまう……。
それでも、冥王星の遠日点の千億分の一に相当する七十三・九メートルの距離をとるには、体育館の一方のドアから出て、廊下を横ぎって、倉庫の中に十メートルもはいりこまなければならなかった。
ずっとむこうの、アリーナの中央では、女教師やクラスメートたちが、がむしゃらなホジャ・キンのやり方を見て笑っていた。女教師が床にかがみこんで何かをすると、「太陽」をあらわす小さな球――それまでホジャ・キンの所からは見えなかった球が突然、赤い光を発して輝いた。
――見える?
と、女教師は口に手をあててよびかけた。
――見えまぁす…… と、ホジャ・キンは大声で返事して、手をふった。
赤く輝く「太陽」にむかって、アリーナの中をかえって行きながら、幼いホジャ・キンは、何度も、その広いアリーナの中に描かれた、諸惑星の「軌道」を見まわした。
――何て、広いんだ……。ほんものの太陽系は、この千億倍もあるんだ……。
彼は何とはなしに、胸ふさがれる思いでつぶやいた。
――太陽系の惑星って……こんなに広い所に、こんなにまばらにちらばっているのか……。
いま――。
管制室長の説明をききながら、ホジャ・キンは、あの火星の小学校の、体育館の広さを思いうかべていた。
――いまから、おれがとばなければならない、一兆キロメートルの距離を、もし、あの、体育館の中の千億分の一「太陽系」と、同じ縮尺であらわしたら……どのくらいの距離になるだろうか?
と、彼は暗算してみた。
――十キロメートル……、あの体育館のアリーナのまん中で光っていた、赤い、小さな「千億分の一太陽」から、十キロメートルもはなれた所へ行くわけか!
「木星《ジユピター》は、〃太陽になりそこねた惑星〃ともいわれています……」
機械類の一ぱいつまった「超素粒子工学研究室」の一隅で、カルロスはELボードの上に、木星の断面図をうつし出しながら、調査団に説明した。
「この巨人惑星の直径は、地球の十一・二倍、質量は三百十八倍もあり、この惑星一つで、太陽系の全惑星のもつ質量の七割以上をしめています。もっとも、太陽の質量にくらべれば千分の一しかありませんが……。しかし木星の質量が、現在の十倍ぐらい大きければ、内部で核融合反応が起り、もっとも小さい部類の恒星になっただろう、といわれています……」
カルロスは、光《ライト》ペンで、木星の断面図にふれた。――断面図は、三層の異なった色で光りはじめた。
「木星の大気のほとんどは水素とヘリウムで、その中に、メタン、アンモニア、硫化水素、水などの雲がういています。大気最外層部の温度は氷点下百二十度ぐらいですが、表面から千キロぐらいはいると、急に温度、圧力ともに上昇しはじめ、表面から二万キロ、すなわち中心部から五万キロぐらいのあたりでは、高圧のため、水素は金属化してしまい、それが高速で回転しているため、地球の一万倍という強い磁場が発生しています」
「水素が金属になるって、どういうこと?」
と、調査団の中の肥った婦人がささやいた。「いや――よくわからん……」
と、隣の老人が首をふった。
「木星中心部の、半径一万キロほどの核《コア》の部分は、表面が絶対温度で五万度、四千万気圧ぐらいですが、さらにその内部、重力中心附近では、その温度は百五十万度乃至二百万度K《K=ケルヴィン、絶対温度、0度《れいど》Kは摂氏にしてマイナス二百七十三度》、圧力も一億気圧をこえるとされています。――太陽内部の平均温度が四百万度K、中心部が千七百万度Kぐらいですから、人工的に中心温度を四、五倍上げてやれば、ここで陽子=陽子型の核融合反応が起る可能性があります」
「その温度を上げるために、あなたたちは、木星の中に水爆をうちこもうとしてるって話をきいたわ!」
と、調査団の中の女性の一人が、鋭い声で叫んだ。――調査団は、一瞬騒然とした。
私語をしたり、何か声高によびかける調査団一行をなだめながら、英二はふと、その調査団一行の一部に、ほかの連中と何か異質な動きを感じたような気がした。
「ま、ま、おしずかにねがいます……」とカルロスは、顔を赤くして汗をかきながら手をあげて叫んだ。「それは、もう五十年も前にいわれた、悪い冗談です。――木星の中心部に水爆をうちこむなんて、現実的に不可能です。内部のものすごい高温高圧のため、中心部に達するはるか手前で、水爆そのものが分解してしまいます……」
「じゃ、どういう具合にやるんだね?」
と、調査団中最年長の老人が、おだやかな声できいた。
「JS計画――実は、この〃木星太陽化計画〃という名称も、誤解を招きやすいので、私自身はかえた方がいいと思っているのですが――では、木星中心部における原子核反応をひきおこすために、主として中性微子《ニユートリノ》という素粒子をつかいます。中性微子《ニユートリノ》は、質量はほとんどゼロで、ほかの素粒子と、きわめて反応を起しにくく、そのためふつうなら、地球ぐらいの惑星は、端《はし》からはしまで、簡単につきぬけてしまうほどですが――しかし、二十一世紀後半から〃統一場理論〃の成功にもとづいて、宇宙空間で急速に発達した〃超素粒子工学《スーパー・パーテイクル・エンジニアリング》〃のおかげで、このあつかいにくい中性微子《ニユートリノ》も、〃ニュートリニックス〃の進歩によって大々的に利用できるようになってきました。このJS計画では、三種類ある中性微子のうち、比軽的質量の大きいものをつかいます。そのほかにも、基本素粒子であるクォーク粒子群のうち、かなり大質量の〃チャーム〃という粒子と、〃ビューティ〃という粒子も補助的に使います……」
カルロスは、光《ライト》ペンを、もう一度ボードにふれた――木星像のまわりに、いくつもの小さな光点があらわれた。
「現在、木星のまわりには、四十六個の実験用粒子加速機が楕円軌道をとってまわっています。荷電粒子のビームが、この装置と装置の間を、次々に加速されながら走ります。地球上ですと、この加速された荷電粒子の走るコースは、空気分子との衝突をさけるために、巨大なトンネルをつくって、中を高度の真空にしなければなりませんが、宇宙空間ではその必要はありません。木星の強い磁場やヴァン・アレン帯も、この実験に利用できるように設計されています。――本番の時は、この装置の数は倍以上にふやされ、軌道半径をもっと小さくされるでしょう。簡単にいいますと、これらの装置は、粒子加速機であると同時に、一つ一つが、高エネルギーの中性微子《ニユートリノ》・反中性微子《アンチ・ニユートリノ》の銃《ガン》であり、それぞれから木星中心部で焦点をむすぶように中性微子ビームをうちこみ、そこで起る核反応エネルギーを……」
調査団の背後で、いきなりはげしい騒ぎが起ったのは、カルロスがそこまでしゃべった時だった。
どこにかくしていたのか、あの若い娘をふくむ四人の若者が、手に手におりたたみ式のプラカードをかかげると、
「JS計画絶対反対!」
「木星を守れ!」
「宇宙を人間の手で汚すな!」
「人類は宇宙から手をひけ!」
などと口々にわめきながら、ひきのばし型の鉄棒でもって、まわりの機械類や実験装置類を、めちゃくちゃにたたきこわしはじめたのだった。
5 再会
「誓ってもいい――あのあばれた連中を、調査団の一行に加えるについて、手続き上のミスは何もなかった」
と、団長格の、世界連邦下院議員は、大きく腕をふりまわしてわめいた。
「そりゃそうでしょうな……」
と英二は、若い連中をとりおさえるとき、金属片で切った指の関節をなめながら、気のなさそうな返事をした。
「連中は、一応有力な宗教連合の代表という事になっています……」
調査団の初老のコンダクターが、汗をふきふき、書類をめくりながらいった。
「もっとも、四名のうち三名――女一人と男二人は、偽名らしいです。いま地球に照会していますが、現在の相対位置ですと、地球までの通信が、片道一時間以上かかるらしいので……。連中は、みんな〃ジュピター教団〃のメンバーだといっています……」
「ジュピター教団?」
英二は、ひっかかれたこめかみの傷に、薬をぬってもらいながら、ふと顔をしかめた。
――きいた事のない名だ……。ジュピター教団というと、木星《ジユピター》でもあがめているのか?……それで、〃木星太陽化計画〃に反対して、はるばるこの基地までなぐりこんできたのか?
「若い連中はわかったが……あの小さな、元気のいいばあさんは何なんだ?」
と英二はたずねた。
「ああ、ミス・ウェインですか?――あのばあさん……いえ、彼女はちがいます。若い連中と何の関係もありません……」
「でも、一緒になって、相当派手にあばれてたぜ……」と英二は薬をぬったこめかみをさした。「このひっかき傷も、そのば……ミス・ウェインにやられたんだ。ブーカーなんか、かみつかれていた……」
「彼女は有名人――というか、名物女性なんだ……」と、下院議員は、鼻の頭をしかめて、髪の毛をかきながら首をふった。「ある動物保護団体の顧問格で、死んだ親父が理事だったんだがね。――親父も、娘にひきずりまわされて、いやいやなったんだが……何しろ犬、猫好きで、猫に関しては眼がなくて、住んでる街中のすて猫をひろい集めたりしていた……」
「それで、よく木星くんだりまでくる気になりましたね。飼っている猫が心配じゃないんですか?」
と英二は皮肉をこめてきいた。
「自分じゃ飼いやせんのだよ……」と下院議員はますます渋面をつくった。「ひろって来ちゃ、知り合いや親戚におっつけるんだ。けっこう過激派でね。すて猫の収容所を地区予算でつくれといって、私の地区の議会の開催中に、議場にノラ猫を五十匹もはなして、大さわぎになった……」
「やりましたな!」と英二はくすくす笑っていった。「で、彼女は逮捕されて、名をあげた……」
「逮捕なんかされるもんか!――何しろ有名人、有力者の一人娘だもんな。かわりに議会がおびえて、とうとう近くの古城つきの島を、ノラ猫の収容所にする事にした……。くそったれめ! 私の所有してる島だったんだ。そこにヨットハーバー付きのヴィラをつくろうとしたら、あのばあさんに反対された。海がめの産卵場になっているから、というんだ。――それで眼をつけられて、とうとう猫どものために、地区行政府に、無料、無期限でかりあげられた。あのにくたらしい畜生ども!――猫と海がめと、大闘争でもして、どちらも絶滅するといいんだが……」
「逆に、お互い恋におちて、海ネコが大繁殖でもしたらどうします」と英二は笑いをかみしめていった。「でも、あなたの所の地区議会もずいぶんだらしないんですね……」
「何しろ、地元じゃ大変な有力者だし、その動物愛護団体は、世界中に組織をもっていて……私なんか選挙の度に厄介になっているしな……」
下院議員は肩をすくめた。
「勝手なばあさんでね。あらゆる新しい文明の生産物に反対のくせに、自分じゃエスカレーター付き全自動コンディショニングのでかい邸にすんで、クライスラーのホヴァーカーを、時速二百五十キロでぶっとばすんだ……」
「わかりました。――あのひっかいたり、かみついたりの見事なテクニックは、猫じこみってわけですな……」
英二は、部屋にはいって来た、絆創膏だらけのブーカーの顔を見ながらつぶやいた。
「しかし――その彼女が、何だって木星なんかに来たんでしょう? 猫と木星と、どんな関係があるんですかね?」
「その事だがね……」と、下院議員は、スクリーンにうつっている木星の映像を顎でさして、ニヤリと笑った。「あの星のカラー写真が、どうも、この間死んだ、彼女の一番かわいがっていたノラ猫の事を思い出させたんじゃないかね……。むくむくふくれた、にくたらしい雄で、茶のトラ猫だったがね……」
「ミス・ウェインは寝ました……」とブーカーはいった。「やっと寝かしつけましたよ。――鎮静剤入りのミルクを飲んでね」
「起きたらキャット・フードをさしあげろ……」と英二はいった。「もしこの基地にあればの話だが……」
保安係が二人――どちらもふだんは、倉庫係兼修理班だったが――こわれたプラカードや、ちゃちな武器を机の上にならべた。
「連中おとなしくしてます……」
保安係の一人は、手の甲で顔の汗をふき、ついでにたれさがる髪をなであげていった。
「鎮静剤をうつ必要もなさそうです。――仏頂面してますが、別に黙秘する気もないようで……」
「武器なんか、一応宇宙港でチェックはされたんですがね……」
コンダクターの老人は、机にちかよって行く英二の背後から、おどおどした調子でいった。
「このごろは、形式的らしいですね。――何しろ、平和で、宇宙では犯罪もほとんどありませんからな……」
英二は机の上から、おりたたみ式の超硬質合金の棒をつまみ上げ、それをちぢめた。――ちぢんだ棒は、長さ十センチほどのややふと目のボールペンになった。
「それに、これじゃ武器や凶器とはいえんでしょう……」
英二は、うすい帯鋼でつくられたプラカードをちょっと見て、ボールペンを胸ポケットにしまった。
「しかし、基地の研究セクションは、いろんなデリケートな装置がむき出しになっている所もあるのでね。ものによったら、素手だってぶっこわせます……」
傍でコールブザーが鳴った。
英二は通信器のスイッチをいれて、
「被害状況はわかったか?」
ときいた。
「わかりました。いま、画面へ出します」
と修理班の声がきこえた。
正面のELテレビにうつし出される、中性微子工学《ニユートリニツクス》研究室の惨澹たる情景と、それにかぶせてうち出されて行く、記号や数字のデータを見ながら、英二はちょっと舌打ちした。
――被害は思ったより大きい……。
一般に、人工天体内部の機器類は、隕石や宇宙航行体との衝突などの事態を予想して、軽くて丈夫にできているのだが、研究室の、それもさまざまな機器類の内部をあけたり、またデリケートな部品を、作業台の上で組立て中の所であばれられたので、貴重な部品や物質の損害が大きかった。
それに、連中は、ひろくて頑丈な壁にかこまれた所ではさわがず、せまくて脆弱な所で、いきなりあばれ出した。連中は「効果」についてよくしらべていたらしい。そのため彼ら以外の、二十七人の調査団のメンバー――それもごく平凡で、地球的な、しかも高齢者や高齢女性の多い人々――は、驚きとショックのあまり、ちょっとしたパニック状態におちいり、それが周辺機器の破壊や負傷者を増大した……。
調査団の中から六人、基地メンバーの中から四人の軽傷者が出ており、それ以外に、調査団の中から、ショックでたおれた女性が三人出ている事を、報告データは語っていた。
その上、あの「ジュピター教団」とやらの若僧たちは、そこらへんにあったハンドルやスイッチ類をめったやたらにまわしたり、おしたり、ぶったたいたりしていた。――重要なものは、もちろん二重三重のフェイル・セイフ・システムになっていたが、連中の誰かが緊急排出用のスイッチを、ガラスケースをたたきこわした上でおしたので、薬品の一部が基地外に排出されてしまい、また二つの配線系統が妙な形で接触したため、一つまちがえばとんでもない大事故に発展しかねない所だった。――もうこれから、地球から調査団がきても、あまり、愛想よくデリケートな中核部分を見せない事にしよう……。
「復旧にはどれくらいかかりそうだ? 四、五十時間ってところか?」
と英二は修理班にきいた。
「六十時間とみといてほしいですね……」
と返事がかえってきた。
「カルロスのけがはどうだ?」
「大した事はありません。――おでこにたんこぶが一つできてますが……」
「誰か、そのこぶにキスしてやれ……」
といって英二は通話をうちきった。
「議会の方に、損害賠償を請求するかね?」
下院議員はきいた。
「連邦保安局には報告しますが、連邦議会には別にこちらからは何も請求しません。請求したって、処理はどうせ、二、三年かかるんでしょう?」
英二は大きく溜息をついた。
「太陽系開発機構《エス・エス・デイー・オー》の方から、何か申し入れがあるとは思いますが――まあ、あの連中がやった事も、調査団の中の少数意見の表明としておきましょう。ただもう少し、おだやかな表現ができるように、地球の方でしつけてください……。何しろ、宇宙空間での生活には、デリケートな所がずいぶんありますから……」
英二は二人の保安係に眼くばせした。
「これから連中を訊問するのか?」と、下院議員は、ややこわばった表情でいった。「私もたちあっていいかね?」
英二は、ひややかな視線で、議員をふりかえった。
「別にかまいませんが――訊問だの、とりしらべだのじゃありません。あなたたち全員が、昔風にいえば、〃外交特権〃に相当するものを持っておられる事はよく知っています。それに宇宙機構は、いまだに地球居住者に対する裁判権をもっていませんしね……」
英二は皮肉っぽい笑いをうかべた。「だから、ちょっと事情をきいて、お灸をすえるだけです。――ただし、この基地内にいる間は、私の責任において、調査団からはなして彼らの身柄を拘束し、便があり次第、地球へおくりかえします……」
「ミス・ウェインはどうなるかね?」と議員はちょっと心配そうにきいた。「やはり、彼らといっしょに……」
「あのおばあちゃまの処置は、あなたにおまかせします。――興奮して尻馬にのっただけのようですから……」英二は笑いながらいった。「お灸すえるなら、団長のあなたがやってください。――スカートをめくって、おしりをひっぱたいたらどうですか?」
カルロスの研究室であばれまわった「ジュピター教団」の四人の若者は、以前、衣料品倉庫につかっていた、細長い、調度の何もない小さな部屋の中で、壁にもたれて立ち、うなだれていた。入口に、麻痺銃《パラライザー》をもった保安係が二人いて、若者たちは別に、手錠もはめられていなかった。――実をいうと、ミネルヴァ基地の中には、手錠などというものはなかったし、麻痺銃《パラライザー》も一度もつかわれた事はなかった。
部屋にはいってくると、英二は顔をしかめて、鼻をくんくん鳴らした。
「だいぶ長い事、風呂にはいっていないらしいな……」
と英二は、一番手前の、青白い、おどおどした眼つきの、ややずんぐりした青年にいった。
「あとでシャワーをあびたまえ。――ここには水はたっぷりある。木星の大気上層からいくらでも採取できるからね……」
次の若者は、ひょろ長く、手入れをしない髪が、鳥の巣のようにこんがらがって、おちくぼんだ眼窩の底の眼は、生気なくどんよりしていた。――さわぎの時になぐられたのか、左眼の下に黒い隈ができている。英二がそれに指でさわろうとすると、顔をそむけた。
「痛むかね?」
と英二はおだやかにきいた。
その青年は、何か英二に対して、言葉をぶつけようとするように、わずかに身をのり出し、汚い鬚にうずもれた唇をもぐもぐさせた。
それをおさえるように、英二は胸のポケットからぬき出した、ボールペン型の合金製の棒を、びゅっとひきのばした。――青年の顔におびえが走り、体を壁にはりつけるようにした。
「君たちの意見は、さっき大変印象的な方法でうけたまわった。――だが、私としては、君たちと議論する気はない……」
英二は若者たちを見わたし、合金製の棒を、拍子をつけてぐいと曲げた。――棒は、曲らずに、ピシッと鋭い音をたてて折れた。
「君たちは、こういうものを使って、議論する権利をみずから放棄したんだ。だからもう、お互い用はないはずだ。――次の貨物便で、地球へかえっていただく……」
英二は折れた棒を背後の床になげすてた。
「この次は、もう少し筋道のたった、あまり痛くない意見の交換ができるようになってきてほしいもんだな。――ごらんの通りミネルヴァ基地はせまいので、静かに議論してもらわないと、あとの掃除が大変だからね……」
「お、お、お前……あ、あんたたちは……」と、突然三番目の若者が、土気色の顔をつき出し、しゃがれた声で、はげしくどもりながらいった。「……宇宙の……た、太陽系の破壊者だ!……」
――薬《ドープ》をやっているのかな……。
と、若者たちの様子と、舌がもつれる若者の口臭を吟味しながら英二は思った。
……このごろ地球では、いったいどんなしろものがはやっているのだろう?
「宇宙はほっといてもこわれて行く。太陽系だってそうだ……」と、英二は三番目の若者を見すえ、次に歩をうつしながら、自分にいいきかせるようにいった。「人間だって、たとえ何もしなくたって死んで行く。現に今、君たちの体の中では、一分毎に百二十万個のカリウム40と、十八万個の炭素14の原子核が、放射崩壊をつづけているんだ。――種としての人類だって、あと何万年ももちやしまい。……こわれ、ほろびるまでの間に、おれたちが何をやるか、だと思うんだがね……」
英二はもう部屋の奥まで来ていた。――一番最後の、若い娘の前で立ちどまると、彼は、壁にもたれている若者たちをふりかえって、
「君たちの中の、リーダーは誰だ?」
若者たちは顔を伏せ、あるいはちらと白い眼を光らせ、頑《かたく》なにおしだまった。
「誰もいないのかね?――もし、リーダーがいたら、その人とは少しゆっくり話したいのだが……」
英二の前で、ほっそりとした娘が体をぎゅっとかたくし、鍔広の帽子のひさしをますます深くおろしていた。
「ひょっとすると、あなたですかな?――お嬢さん……」
そういうと、英二はひょいと手をのばして、彼女の帽子をとった。――娘は、はっとうろたえたようにあたりを見まわしたが、すぐ、きっと顔をあげて、まっすぐ英二の顔を見かえした。
帽子の下からあらわれた、輝くばかりの美しい金髪が、黄金のまばゆい流れとなって肩へおちていた。その金色の流れにふちどられた化粧をしていない顔は、すき通るほど白く、はっとするほど清楚で美しく、ピンクの形のよい唇をかるくかみしめて、英二の顔をいどむように見かえす、青く、すんだ瞳の底には、何かの炎がもえているようだった。
「どうやら……こちらがリーダーらしいな……」
と英二はかすれた声でいって、ゆっくり右手をのばし、娘の二の腕をつかんだ。娘はかすかに顔をしかめた。――明りの蔭になって、保安係からは見えなかったが、その時、英二の顔は、紙のようにまっ白になっていた。
「こちらと少し……話しあってみるから、あとの坊やたちにはシャワーをつかわせて、どこかでおとなしくしていてもらえ……」
そういいすてると、英二は、娘の腕をぐいと乱暴にひっぱって、大股にドアへむかって歩き出した。
6 L・R《ラヴ・ルーム》3
若者たちを訊問していた衣料倉庫を出ると、英二はちょうど眼の前を走りすぎようとしていた無人のシャフト・カーを、タックルするような調子で強引にとめ、腕をつかんでひきずって来た、若者たちのリーダー格の娘を、その中に手荒くおしこんだ。
つづいて自分ものりこむと、ドアも窓も変色ガラスはすべてまっ黒にして、手早く行先のボタンをおした。
「本田主任……」
走り出したシャフト・カーの中の、通信パネルにランプが明滅して、秘書《セクレタリイ》コンピューター〃ナンシィ〃の声がした。
「バーナード博士からの問いあわせがあります。――もう一度お目にかかれるのは、何時だろうか、と……」
「二時間後――大体そのくらいだと返事しておいてくれ。――手があいたら、こっちから連絡する、と……」
英二はちょっと唇をかんだ。
「博士は、ウェッブ総裁と話をつけたようか?」
「ええ――。太陽系開発機構本部から、主任に地球への出張を直接指令してきました。――九時間後に、土星から地球へ帰投する不定期船《トランパー》〃ロング・ジョン〃に、第七衛星軌道でのっていただきます……」
「了解……」と英二はかすれた声でいった。「それから、ナンシィ……いま、〃ラヴ・ルーム〃はあいているか?」
「ちょっとお待ちください……」と〃ナンシィ〃はいった。「四つともあいています。――一時間ほど前、〃トウキョウ3〃の乗組員《クルー》から、予約の問いあわせがありましたが、すぐキャンセルになりました。予約しますか?」
英二は、ごくりと唾をのみこんで、咳ばらいをしながら、
「たのむ……」
といった。
「承知しました。――L・R《ラヴ・ルーム》3をおつかいください……」
「それと……これから二時間ばかり、緊急事項以外の私への個人通話は、全部カットしてくれ……」
「了解……」
と〃ナンシィ〃はこたえた。
突然、隣の席で、娘がすすり泣くように息を吸いこんだ。――英二は娘の二の腕をさっきからずっとつかんだままだったが、その二の腕が、おこりにかかったようにふるえ出すのが、掌に感じられた。
英二はそっと隣の席をぬすみ見た。
娘の肩にすべる美しい金髪も、まぶかにかぶった帽子の鍔も、膝の上でにぎりしめているほっそりした手も、ぶるぶるとこまかくふるえていた。――娘は、肩と胸を大きくあえがせた。そのあえぎは次第にはげしくなり、やがて鋭い叫びとなって、のどもとからほとばしるのではないかと思われた。
英二は、その叫びをおしとどめるように、彼女の二の腕をつかんだ指に力をこめた……。
英二と娘が、シャフト・カーでミネルヴァ基地の一番はしにあるL・R《ラヴ・ルーム》3へむかっている時、B会議室では、航行管制室長の長い航路説明をききおわって、いささかぐったりしたホジャ・キンと井上博士が、出発の前途を祝して、わびしい盃をあげていた。
「彗星の話は、旅の途中でゆっくりうかがいましょう……」と、ホジャ・キンは井上博士とグラスをふれあいさせながらいった。「冷凍睡眠《コールド・スリープ》にはいるまで、二週間以上ありますからね……」
「どんな気分かな……」井上博士は、グラスの中の氷を見つめながらつぶやいた。「寒いのかね?」
「眠い方が先です。――悪い気分じゃありません……」ホジャ・キンは笑った。「趣味で登山をやっている同僚がいってました。ちょっと雪山で凍死しかけた時の気分に似てるって……。むしろ、睡眠から起される時の気分の方が、よくありません」
「あなたは何回も経験があるんですか?」
「二度ほどね。――でも、六か月以上というのは今度がはじめてです……。今度は、私のキャリアの上でも、最長の旅になるでしょう」
ホジャ・キンは、飲みほしたグラスを見ながら、ちょっと考えて、もう一杯酒をついだ。
「この次は――恒星でしょうね。何十年先になるかわからないが、行ってみたいと思ってますし、行く事になるだろうと思います。もっとも今度の旅で、太陽系の岸辺のはずれまでいって、一番近い恒星との間にひろがる、本当の〃宇宙の大洋〃というものをのぞきこんだら、また気が変るかも知れませんが……」
「あなたは本当の宇宙航海者《アストロノート》だ……」と井上博士はいって、グラスをあげた。「空間――距離への挑戦が生きがいみたいですな……」
「生きがい、というより問いかけみたいなものですね。――人間はなぜ、遠くを探ってみたがるのか、という、自分の内面の問いに対する答えを見出そうとして、次から次へと遠っぱしりするんです……」
ホジャ・キンは、ふとくたびれたような眼つきになった。
「私の場合はもうちょっと散文的でね――大体、学者の仕事というのは散文的なものの辛抱づよいつみかさねですがね……」と井上博士は苦笑した。「ただ――冥王星軌道の外からやってくる彗星の数が、ここ何年かの間、がたべりしているのが、気になってしかたがない……。それだけですよ」
「純粋に、学問的に気になる……だけですか?」
「半分はね――」井上博士は、自分にいいきかせるようにつぶやいた。「でも、そのほかにちょっと……」
「というと?」
「太陽系の冥王星軌道のずっと外側、○・一光年から、一光年ぐらいの間に、いわゆる〃彗星の巣〃とよばれる、小さな塵や氷片からなる輪があって、それが太陽にもっとも近い恒星、たとえばアルファ・ケンタウリなどの摂動作用をうけて、少しずつ軌道がずれ、大体年平均三個ぐらいずつ、太陽へむかっておちこんでくる。――これが、この十二、三年ほど前から、急に数がへりはじめて、ここ、七、八年は一つもこなくなった。……これはもう、お話ししましたね」
「ええ……」とホジャ・キンはうなずいた。「そして、調査のために四年半に十数台の無人探索機をとばしたが、そのうち二台、通信がとだえた……」
「そうなんです……。そして、私が気にしている事は、消息をたった二台の探索機が、まったく同じ方角にむかっていた事です。最初のものは太陽系から○・二光年の所で通信がとだえ、それから三年後にとばしたものは、○・一五光年の所で、突然消息をたった……」
「で、われわれの今度の調査も、その方角にむかうわけですな……」ホジャ・キンは、にやりと歯をむき出した。「太陽系外から来た宇宙人にとっつかまったのかも知れませんな」
「そういえば、火星で、何だかえらい発見があったそうですな……」と井上博士は思い出したようにいった。「極冠の下から、太古に太陽系へ来た宇宙人のメッセージが見つかったとか……」
「その話でしたら、あとで宇宙考古学のバーナード博士にきいてごらんなさい。――いま、この基地に来ていますよ。小惑星帯から、私といっしょに来たんです……」
ホジャ・キンは、グラスをのみほすと勢いよく立ち上がった。
「さて、出発の支度をしますか。――でも、まさか、その宇宙人の古代メッセージと、彗星のこないのと、関係があるわけじゃないでしょうね……」
「今の所は、別に……」井上博士は笑った。「でも、私の友人で、宇宙考古学にくわしいミリー・ウイレムって女性が、何だかちょっと気になる事をいってましたんでね……」
シャフト・カーは、全長二キロメートルのミネルヴァ基地の、一方の端にちかい所から、反対側のどんづまりまで、ノンストップで二分たらずで走った。――そのあたりは、「レスト・ゾーン」とよばれ、病院、休養所、ジム、それに予備倉庫などのある区域で、ほとんど人気がなく、ひっそりしていた。
シャフト・カーからおりたった英二は、まだ顔をふせ、全身をこまかくふるわせている娘の体をしっかりとささえ、大股に、「L・R3」と書かれたドアの所に歩いて行き、エレベーターにのりこんだ。
ドアがしまると、エレベーターは、下降――つまり、自転しているミネルヴァ基地の「外周」へむかって動きはじめた。とまるまでの短い間、英二の片腕の中で娘の体はふるえつづけていた。
エレベーターがとまり、ドアがあくと、眼前に、短い廊下をへだてて、優美な唐草模様と極楽鳥をうきぼりにした木製のドアがあった。そのドアをあけ、中にはいると、ほのぐらい明りに照らされた、天井の高い、豪勢な部屋だった。くるぶしのうまりそうな臙脂色のカーペットの上に、ルイ王朝風の、あるいはロココ風の椅子や家具が配され、そのむこうの暗がりには、シフォンのカバーをかけた巨大な円形ベッドがぼんやりと見えている。
娘を先にはいらせ、英二はドアを内側からロックし、明りのスイッチをいれた。――やわらかい、オレンジがかった光が部屋の中を照らし出し、娘は、はっとしたように英二の方をふりかえった。
英二はつかつかと娘にちかよると、その鍔のたれさがった帽子をはらった。――肩に流れる金髪が、天井光をうけて、煙るように美しくかがやいた。
「マリア……」
と、英二はおしつぶされたような声でいった。
「マリア……、まさか、君だったとは……」
「英二!」
娘は、おさえにおさえていた激情がほとばしり出るように、はげしい声でさけんだ。
「おお、英二……あいたかったわ!」
ぶつかりあうようなはげしい抱擁に、二人の体はよろけた。――しばらくの間は、ものもいわずに、むさぼりあうような接吻がつづき、やがてマリアは、感きわまったようにすすり泣きはじめた。
「まさか、君がこんな所までくるとはね……」英二はマリアの体をだきしめてささやいた。「しかも、あんな連中と一緒に……」
「あんな連中、なんていわないで……」と、マリアはしゃくりあげながらいった。「これでもあたし……彼らのリーダーなのよ……」
「何だってかまうものか……」
英二はあらためてマリアの顔をあおむけ、涙にぬれた頬といわず唇といわず、接吻の雨を降らした。
「そんな事は、どうでもいいし、あとまわしだ。――三年ぶりに、突然ここで、君にあえたんだ。こんなすばらしい事が起きるなんて、ついさっきまで夢にも思わなかった……」
接吻をうけとめながら、マリアは次第に甘いあえぎをもらしはじめた。そのほっそりした体は、熱く、やわらかくなりはじめ、腕と指先は英二の体にまつわりつくように動きはじめた。
「愛しているわ、英二……」マリアはあえぎながらささやいた。「でも、私……連中と同じでずっとお風呂にはいってないのよ」
「かまうものか……」英二はマリアの上衣をぬがせながらいった。「そんな君が欲しい。――いま、すぐ欲しい……」
たえまない接吻の間に、英二の指はめまぐるしくマリアの衣裳の上をあちこち動きまわり、やがて下着一枚になった優美な体を、彼は絹のウェディングドレスをとりあつかうようにそっとかかえあげ、奥のうす暗がりにむかってはこんでいった……。
「ホジャ・キン大尉……イノウエ博士……」と、スピーカーから基地内アナウンスが流れた。「まもなく、スペース・アロー号乗船時刻です……。最終チェックをおこないますので、C6フェリーデッキへおこしください。くりかえします……」
ホジャ・キンが〃スターウォーズ20〃のつづきを見ていた英二の個室のドアの所に、荷物をぶらさげた井上博士が顔をのぞかせて、
「行きますか?」
と声をかけた。
「ええ、そうしましょう」
そういって、ホジャ・キンはワイドテレビのスイッチをきって、立ち上がりかけたが、ふと思い出したように、
「すみません、ちょっと待ってください」
といって、テレビの操作スイッチを録画の方にきりかえた。
「英二……ホジャ・キンだ……」と彼はカメラにむかってメッセージをふきこみはじめた。「おわかれの一杯がやれずに残念だ。二年後、かえってきたら、盛大にやろう。――その時は、今回のなぐりあいのかたをつけてやる。この次は、汚い手も通用しないから、覚悟しとけよ……」
巨大な円形ベッドのまん中に横たわったマリアの裸体は、それ自体が一個の光暈に包まれた〃夢〃のようだった。――白磁のような四肢はほっそりと優雅に、太腿と腰はどっしりとした大理石像のような量感にあふれ、そして完全な半球形の乳房は、三年前、火星で英二がはじめてマリアを抱いた時より、ずっとゆたかになり、成熟した女の魅力をあふれさせていた。
ベッドの傍にたって、ひきむしるように衣服を脱ぎすてながら、英二は眼がくらみそうになり、体中の毛穴からぞくぞくと何かが噴き出すような感じがして、思わず息が荒くなった。
――マリア……、マリア……
と、シャツをぬぎすてながら、英二はうわ言のように胸の中でつぶやいていた。
――君は三年前と同じように、天使のように美しい。ちっともかわらない。だが、君は、三年前より、もっとすばらしく、セクシイになった……。こうやって見ていると、気が狂いそうだ。それは、三年前おれが君の成熟への扉を開いたせいか? 単に三年の年月のせいか? それとも……それとも……。
「英二……」
マリアは、体内にふくれ上がるものに、たえきれなくなったように、ゆたかな胸をあえがせ、美しい体をよじって、手を彼の方にさしのべ、かすれた、熱っぽい声でいった。
「来て……早く、来て……」
英二は素裸になると、ベッドの上に体を投げた。――再び接吻、素肌と素肌の、蛇のようなからみあい……ああ、これだ――と、英二は夢うつつに思った。――このなめらかな皮膚の感触、胸にやわらかくつぶれる乳房、熱くあえぐ腹、腰にからみつく、はじけるような弾力をもった太腿のうねり……これがマリアだ……。
英二はマリアの美しくのけぞった喉に舌をはわせ、乳房をふくみ、乳首をかるくかんで、彼女に鋭い叫びをあげさせた。唇がなめらかな腹からさらに下にさがって行った時、マリアは悲鳴にちかい声で叫んだ。
「だめ!……英二!……だめ!……おねがい!」
英二はかまわず、マリアのたくましい太腿をおしひらいて、がっしりと両肩にかつぎ、頭髪よりやや濃いめの金髪の中央に顔をうずめた。
風呂にはいっていない、といったのに、マリアのそこは、ほとんどにおわなかった。《そうだ、マリアは、北方人種《ノルデイツク》の形質を濃くうけついでいるようなのに、ほとんど体臭がなかった……。そう、これがマリアだ……》彼の舌は、すでにしとどにぬれたマリアのはざまを力づよくはい、昔よりずっと硬度をました急所をとらえ、ついに最初の長い長い叫びと、のたうつようなはげしい全身の動きを、その優雅な体からひき出した。
むろん、それは単なるイントロダクションにすぎなかった。――今度はしっかりとマリアとかさなり、マリアの体の中で、彼にとって最初の、そしてマリアにとって二度目の爆発と閃光を味わってから、彼はあえぎながら枕もとのインターフォンをとった。
「コントロール?」と彼は肩で息をしながらいった。「L・R3の……重力をカットしてくれないか?」
「無重力で……愛しあうの?」マリアは彼の胸の下からあえぎあえぎきいた。「ラヴ・ガスは?……どう?」
「少し、使おう……」といって、英二はベッドサイドの調節に手をのばした。
7 旅立つもの
ミネルヴァ基地の、ほとんどはずれにあるL・R《ラヴ・ルーム》は、直径四百五十メートルの四角形の基地外壁から、エレベーター・シャフトをおさめた輻《スポーク》を介して、さらに十数メートル外へむかってつき出していた。
エレベーター・シャフトのつけ根は、基地外壁にはめられた、巨大なリングにつながっており、このリングは、電磁ラッチでもって、基地本体に固定されている。――この電磁ラッチを切ると、リングと基地外壁のつながりがとけて、リングとシャフトとL・R《ラヴ・ルーム》は、標準床面に○・五Gの重力を発生させるように自転しているミネルヴァ基地の本体から自由になる。噴射ブレーキをかけて、リングの回転をとめると、L・R《ラヴ・ルーム》の中は、無重力になるのだった。
L・R《ラヴ・ルーム》3の中で、噴射ブレーキがかかる、かすかな横の加速度を感じながら、英二はマリアの裸身にやむ事のない愛撫をくりかえしていた。――L・R《ラヴ・ルーム》3の回転が徐々にとまり、ベッドカバーや枕が、ゆっくりただよいはじめた時、英二は再びマリアの体に自分をつなぎながら、ベッドの枕もとのスイッチを二つおした。部屋の床は、がんどうがえしのようにゆるやかに回転し、天井がぐるりとまわって、いままで床の下になっていたドームの部分があらわれた。透明な二重プラスチックのドームをおおうシェルターは、四方にむかって開きつつあり、開くにつれて、赤い縞を走らせた巨大な木星が、そして、その周辺の軌道上にうかぶ、数隻の宇宙船が、無数の星のきらめく宇宙空間を背景に姿をあらわしつつあった。
しっかりと抱きあった姿勢で、英二とマリアの体はふわりとベッドからうき上がり、透明なドームの中央へむかってただよっていた。二人のすぐ傍を、枕が、シーツが、小さな天体や、星間ガスのように通りすぎた。室内の明りが消えると、二人は、裸のまま、暗黒の宇宙空間にさまよい出たような感覚におそわれた。
マリアは、おそれを感じたように小さな叫びをあげ、かすかに体をふるわせて、英二の体にしがみついた。
「脚を、しっかりぼくの腰にまきつけるんだ……」と英二はささやいた。「そう、それでいい……。それで、できるだろう?」
「でも……無重力って、はじめてだから……。何だかたよりなくって……」
とマリアは熱い息をはきながらささやいた。
英二が注意ぶかく動きはじめると、マリアは、うめきをあげてがくっと首をのけぞらせた。――長い金髪が、絹糸雲のように美しく、重力のない空間にひろがった。
「チェック完了……」
とミネルヴァ基地から、三キロはなれた宇宙空間にうかぶ、長距離高速宇宙船〃スペース・アロー〃の傍で、船外作業を終えた整備員は、命綱のマグネット・アンカーを船殻からはずしながらヘルメット内のマイクへむかっていった。
「整備班撤収します……」
「了解《ロジヤー》……ごくろうさん……」と、航行管制室の声が、整備員のヘルメットの中にひびいた。「出発を少し早める。――できるだけ急いで、現場をはなれてくれ……」
「了解《ロジヤー》……コントロール……」
整備員は、小さな整備艇との間をむすんだ命綱の捲き取りスイッチを入れた。――もう一人の整備員は、一足早く整備艇にとりつき、キャノピーをあけたまま、しきりにミネルヴァ基地の方を見ていた。
「どうした?」
と、艇にちかづきながら、整備員は同僚にきいた。
「何かあったか?」
「見ろよ……」と彼の同僚は、腰の物入れから、電子双眼鏡をとり出しながらいった。「L・R《ラヴ・ルーム》の回転がとまっている。――誰かおたのしみらしいぜ……」
「さっきついた〃トウキョウ3〃のパイロットじゃないか……」と整備員はシートに体をすべりこませながらつぶやいた。「あいつはスチュアデスの連中にいわせると名うての好きものだ。ここへよるたびに基地の女に誰彼なしにちょっかいかける。――ほんものの女にふられたら、コンピューターの〃ナンシィ〃だってくどくだろうって噂だ……」
「待てよ……おい!――ありゃ主任だぜ!」
「ほんとうか?」整備員は、ミネルヴァ基地の方をふりかえった。「相手は誰だ?」
「金髪の……すてきに美しい娘だ……」
ヘルメットのヴァイザーに、電子双眼鏡の接眼部をおしあてながら、同僚は、やや興奮した声でいった。
「おい、もうよせよ。主任に気の毒だ。――早くここをひき上げないと、出発が早まるとコントロールがいってたぞ……」と、整備員は同僚の肩に手を当ててゆさぶった。「だけど……ちょっとおれにも見せろ」
しばらく使った事がなかったので、〃ラヴ・ガス〃の量はずっとすくなめに調整した。しかし、無重力状態でのセックスに、このガスを使ったのははじめてだったので、単なる性的興奮だけでなく、これほど鮮やかな幻覚作用が起るとは、英二は予想もしなかった。――それに、ここ何か月ものきびしいスケジュールにおわれていて、ずっとセックスを行う機会がなかった。そして、マリアとは、ここ三年余り、まったく音信不通だった。英二の度々の熱っぽい通信にも、全く応答がなく、彼は胸の底の鋭い痛みを、仕事の量をあげる事によってまぎらすほかなかったのだ。
マリアにとっても、おそらく条件は同じだったろう。《一緒に来た、あの三人の仲間……若者たちとも、そして、この三年間の二人にとっての空白の期間にも、彼女にとっては――彼と同様――何もなかった、と、英二は信じこもうとしていた。》L・R《ラヴ・ルーム》3が無重力状態になってから、そして〃ラヴ・ガス〃の効果があらわれはじめてから、彼女の反応は異様にたかまりはじめた。何度目かの絶頂に達した時、彼女ははげしく叫び、背を何度となく海老のようにのけぞらせ、四肢をささえのない空間にばたつかせた。ちょうど放ったばかりの英二は、四肢の力がどっとぬけ、ついマリアの体を放してしまった。
だが、それからあとは、二人とも、もはや直接の肉の交りでないセックスの中を、二つの交叉する性感のようにただよいはじめた。――そこでは、もう空間そのものが、性の恍惚だった。宇宙空間につき出す透明で巨大なドームの中の無重力空間を、二人はあてどなく別々の方向へただよって行き、どちらかがドームの壁にふれてはねかえり、また接近して行くと、そのちぢまって行く距離は、そのまま高まり行く快感として感じられるのだった。マリアの流れるようにひろがった髪に、汗にぬれた乳房に、ゆるくひらかれたなめらかな太腿に、英二の手が、唇が、足の爪先がふれる度に、マリアはアクメを感じたように、はげしく体をふるわせて叫びをあげ、またマリアのしなやかな指が、白い腕が、英二の体のそこここにふれる度に、彼もまた鋭い快感が、ふれられた所を中心に電撃のように体内をかけめぐるのを感じて、思わずのけぞった。――ふと、下半身が、股間から、なめらかで深い、底知れぬ快感の奈落にひきこまれて行くような感覚におそわれて気がつくと、四肢をひろげてゆるやかに回転している彼の男性をマリアがくわえ、両手両脚をスカイダイヴィングをする時のように、体の両側にぴんとのばしていた。彼女は餌をくわえた魚のように、彼をふくんだ唇だけで彼とつながって、ドームのすぐ下を、体をかすかにくねらせながらただよっているのだった。
マリアのはげしい吸引力と舌の動きに、英二は思わず叫びをあげた。体をひねって、彼女のゆたかな臀と下肢をひきよせようとしたが、彼女はなおくわえたものをはずさず、ついに、彼が強引に彼女の股を割ってぬれた金色の和毛《にこげ》のあつい間に舌をさしこんだ時も、なおはげしく彼のものを吸いつづけた。無理な体の動きが、回転力を生じ、二人は肉の巴となってはげしくまわりながら、ベッドに接近して行った。ベッドにふれる途中で、英二は再び放ち、マリアが苦しげに口をはなすと、彼は顔をはさんだマリアの太腿を両手でつかんではげしく下腹部の方へおしさげた。マリアの上半身は、泳ぐように前方へのびた。ベッドに爪先がふれた反動を利用して、水平に前にのびたマリアの後方から、一気にさし貫くと、彼はベッドを蹴って、長い金髪をひくマリアの頭部を先にして、その体を、ドームの彼方にうかぶ巨大な赤い惑星へむかってつきすすめて行った……。
全長二百四十メートル、重量二千五百トンの〃スペース・アロー〃号の後尾にある、巨大な四基の噴射ノズルをまわりこむようにして、小さなフェリー・ロケットが接近して行った。
一個の直径が四十五メートルもある核融合推進ロケットノズルの内面は、木星の照りかえしをうけて、にぶい赤みがかった銀色にかがやいている。
「すごいものだな……」とフェリーの操縦席《コツクピツト》から、そのノズルを見上げながら、井上博士は嘆息をもらした。「あの中心部で、核融合ペレットが爆発するのかね?」
「そうです。――この型は、〃ダイダロス改3型〃といって、まあ複合ノズルを使った最終型ですがね……」とホジャ・キンも、窓ごしに〃スペース・アロー〃を見上げながらいった。「いま、同じ核融合推進でも、ずっと進んだ、恒星探査用の〃ダヴィンチX〃というのが、地球と火星の間で、実用試験にはいっています」
フェリーは、宇宙船の船首部にまわりこんで行き、噴射ノズルや、巨大なヘリウム3と重水素タンクにくらべれば、呆れるほどちっぽけな、管制居住区のエア・ロックに接舷した。巨大な〃スペース・アロー〃の周辺には、この船を核融合推進開始点までひっぱって行く、四隻のブースター曳船《タグ》が、かすかな噴射炎を断続的に引きながら、もうすぐ近くまで接近していた。
フェリーのパイロットに手をふってわかれをつげ、井上博士とホジャ・キンは、窮屈な宇宙服をぬいで、〃スペース・アロー〃の操縦席《コツクピツト》についた。体がすっぽりうずまるような半球型シートは、上方からプラスチック・カバーがおりてくると、そのまま冷凍睡眠槽《コールド・スリープ・タンク》になる。
ホジャ・キンは、シートにつく前に、胸のポケットから、よれよれになった3D写真をとり出して、シートの内側、右上方にはりつけた。
「御家族かね?」
と井上博士は笑いながらきいた。
「妻と……娘です。五歳になります……」ホジャ・キンはちょっと歯をむき出し、ややかなしげにほほえんだ。「博士のもっておられるのは?――写真ですか?」
「航行安全のお守りだよ……」井上博士は照れくさそうに笑った。「成田不動《なりたさん》のお札だ……地球にいる妻と母が、もらって来た……」
二人の眼前のコンソールに、無数のランプが気ぜわしく明滅しはじめ、ELディスプレイに色とりどりの文字と数字があらわれて、出発前のパイロット・チェックを指示する管制室の声が、操縦席の中にやかましくひびきはじめた……。
英二とマリアは、無重力のL・R《ラヴ・ルーム》の空間をただよいながら、もはや肉の快感もともなわない幻想と恍惚の旅《トリツプ》と飛翔《フライト》をつづけていた。――それは、〃ラヴ・ガス〃をつかったセックスの最終段階の状態であり、〃愛〃が、肉体をつかった交りの果てに、肉の存在を貫き、つきぬけた彼方の、もっとも深いコンミュニケーションだけが存在する飛翔だった。
二人は、今、おなじ幻、おなじ光を見ていた。肉体は、それでも一種の視覚的な「影」として感じられたが、もはや重さも質感もなく、時には雲のように流れ、時には無数のきらめく光点となって散乱しながら、辛うじてそれぞれの存在としての統一性を、一つの「場」のように保っているのだった。
二人の前には、過去も、現在も、そして果しなくせまりすぎさって行く未来も、まったく同時に存在するものとして感じられた。
――幼いマリア、ふわふわの金髪、愛くるしいみそっ歯……黄と白と淡紅の花が一面に咲き乱れ、蝶の舞う春の野で、煙るような愛らしい微笑をうかべたかと思うと、にわかに走り出す……ころぶ……英二はあわててかけより、彼女が泣き出す前にかかえ上げ、土ぼこりをはらってやる……。彼は八歳、マリアは三歳、そこは火星の首都エリシウムの〃春の園〃で、彼女は両親と一緒に地球から火星へ来てまだ間が無く、火星の重力になれていないのだった。彼の方は、火星生れで――しかも、冷凍精液と冷凍卵子のかけあわせにより、人工子宮の中で育ち、生れた。かぎりなくやさしく、美しく、賢く、あたたかだった代母、代父から、その事を四歳の時にきかされ、そして人工子宮工場《ウテリウム》へ行って、自分の「誕生」の経過を見ても、別に何の感興もわかなかった。人間とは、そんなものだと思っていたのだ。六つの時から、寄宿舎ずまいだった。そして、ある日、公園でほんの短期間、迷子になって泣いていたマリアにあう……。
マリアが十二歳の時、最初のキス――もはや二人の間には、はっきりした「愛」が芽ばえ、やがて燃え上がろうとしていた。マリアが十三歳の時、両親が、地球行き宇宙船の大事故で死んだ。マリアははげしいショックをうけ、精神サナトリウムにはいり、ある夜脱走して行方不明になり、英二も狂ったようにさがして、とんでもない所で見つけ出して救助隊がくるまで一夜をすごし……その時二人は、ほとんど本格的なセックスの寸前まで行った。マリアは最初の幼いオルガスムスを知ったのだった……。間もなく、彼女の祖母が、自分で火星までマリアをむかえに来た。宇宙をおそれ、文明の地球よりの逸脱をおそれ、にくみ、息子夫婦の宇宙空間での死によって、さらに一層宇宙を呪咀するようになった祖母が……。
まだ精神が、衝撃から完全に回復していない彼女は、眼に涙をいっぱいうかべて彼を見ながら、別れの言葉をついに言わなかった。――彼が二十歳の時、研修で地球へ行き、その時は祖母のきびしい監視の眼を盗んで、何度か慌しいデートをくりかえし……しかし、その時はなぜかセックスはなかった。その次は、彼女が修学旅行で、月と、宇宙都市へ来た。彼は、矢も盾もたまらず、宇宙都市へとび、その時二人は、はっきりと成熟した男女の、めくるめく三日間をすごしたのだ。彼は結婚を語ったが、なぜか彼女は答をぼかし、そして三年余り前、もう一度火星であった時は、愛は、とりわけ肉体は、以前よりはげしく、長く燃え上がったにもかかわらず、彼女の中に、彼への愛とは別な何か――「思想」のようなものが、はっきりとでき上がりかかっているのが感じられた。彼女の祖母は死にかけており、彼女は遺産を継ぎ、祖母の「遺志」をついで、そのかなりな財産を、ある事に――「美しい地球のために」つぎこむつもりだ、と彼女は洩らした……。
いま二人は、共通の「幻覚の旅」の中で、全裸で抱きあったまま、ドームをつきぬけ、暗い、真空の宇宙空間にさまよい出ていた。……すぐ傍に、あの巨大な、赤い縞でおおわれた木星があった。
――美しい、大きな星……。
とマリアはつぶやいた。
――なぜ、あなたたちは、あんな美しい、りっぱな星をこわそうとするの?……なぜ、眺め、讃美するだけにしないの?
――こわすわけじゃない。あの星が、自分で輻射しているよりも、もう少しだけ余分なエネルギーを、あの中心部からとり出し、それをビームで効率よく土星や天王星の軌道へ供給して、〃太陽エネルギー〃のかわりにつかおうとしているんだ……外惑星域の開発のために……。
英二は、マリアにやさしく口づけし、舞い上がる髪をなでながらささやいた。
――あの星の秘めている巨大なエネルギーを、少しばかり効率よくとり出して、それを太陽系の新しい灯台にしようとしているんだ……。
――どうして、あなたたちはそんなに自然を破壊しつづけるの?……地球の自然を、あんなにまで変えてしまって……その上、今度は、月や、火星や、木星まで……太陽系全部を……。
――ただ破壊しているわけじゃないよ。……太陽系の中でこれまで誰もつかわなかったものを……ほうっておけば、何億年もの間にゆっくりくちはてて行くものを、新しい可能性のために利用しようとしているんだ……。人間が、宇宙へ出て行くために……。
――なぜ――なぜ人類は宇宙へ出て行くの? なぜ宇宙へ行かなければならないの? 人間は地球の外でくらすようにはできていないわ……。
「出発です……」とホジャ・キンは最後のチェックを終えると、井上博士にむかって拇指をたててみせた。「さあ……長旅の始まりですぜ」
電磁クランプで、〃スペース・アロー〃をがっちりとつかんだ四隻のブースター曳船《タグ》は、噴射口から一せいに青白い炎を噴き出し、二千五百トンの船体をしずかに動かしはじめた……。
8 帰還
L・R《ラヴ・ルーム》3の中は、摂氏二十六、七度の室温に保たれていたにもかかわらず、その天井の透明ドーム附近をただよいつづける英二とマリアは、いま肌をしめつけるような、鋭い寒気を感じていた。
それは、はげしくくりかえされた愛の行為によって失われた体内エネルギーのためであり、それによって起る体温の低下を、〃ラヴ・ガス〃の作用が、「凍るような広大な宇宙空間」の幻覚へと増幅して行くためでもあった。
無重力感覚と〃ラヴ・ガス〃のつくり出す幻想の中で、いま二人は、素裸のままL・R《ラヴ・ルーム》の透明ドームをつきぬけ、木星の傍を通りすぎ、太陽系をも遠くはなれて、絶対零度に近い、真空の宇宙空間を、銀河系の中心部へむかって、二つの小さな天体のようにただよって行った。――二人の傍を、ある時は、オリオンの大星雲を思わせるような、真紅の恒星に照らされた星間ガスが巨大な血の花のように噴き出すイメージや、超新星の爆発したあとの高熱のガスが、秒速千キロメートル以上のすさまじい速度でリング上にひろがって行くイメージがあらわれては通りすぎて行く……。
――なぜ、人類は宇宙へ出て行かなくてはならないの?
全裸のマリアは、青や赤の星の光に照らされながら、前方をただよって行く英二にむかって手をさしのべながらいった。
――なぜ、あなたは宇宙へ出て行くの?……ごらんなさい、英二……。ここは、こんなに寒くて……空気もなくて……私たち、裸の人間が生きて行くようにはできていないわ……。
――人間は、宇宙へ出て行くべく、運命づけられているんだよ、マリア……。
英二は、後へおくれそうになるマリアに手をのばし、その細く冷たい指先をにぎりしめながらいった。
――六億年以上前、地球上の生物が、母なる海をはなれて、紫外線や、暑熱や、寒さや、風や、重力や、乾燥などの危険にみちた陸上へ進出して行ったように……昆虫や、爬虫類や、鳥が、地上をはなれて空をとぶようになったのと同じように……人間は、地球という〃繭〃から巣だって、宇宙へとび立つように運命づけられているんだ……。
――でも、地球の生物は、宇宙でくらすようにはできていないわ……。宇宙は、地球の生命にとって、あまりにひろすぎる……、むごたらしいくらい、巨大ではげしいわ……、星と星との間は、あまりにも何もなくて、……わびしすぎるわ……。
――たしかに、地球はすてきだ……。いろんな生命にあふれかえっている……。
英二は、ふと、なめらかなマリアの裸の背のむこうに、ぼんやりとした青い暈《かさ》につつまれた、小さな地球の姿を見たように思った。
――だけど、あまりに生命がゆたかすぎて、ぼくらにとっては、もうせますぎると思わないか……地球の上では、ぼくらは体をちぢこめて、先輩の生物や、つみかさなった歴史遺跡や、お年よりにぶつからないように、おずおずしながら生きて行かなきゃならない……息がつまる……、ぼくたちが力いっぱい生きて、しかもあの美しい生命にみちた惑星を、これ以上破壊しないためには、ぼくたちの方が宇宙へ出て行くしかない……。
――でも、みんながゆずりあって、あたたかいバランスをとって生きて行くのは美しいわ!
と、マリアは叫ぶようにいった。――ふと気がつくと、いつの間にか二人の体は、マリアの足の方から、あのなつかしい青と白とオレンジの大理石模様の地球へむかっておちて行きつつあった。
――英二……地球へかえって来て!……私たちの星は、宇宙よりずっとすてきよ。獣も、鳥も、魚も、虫たちもいるわ……。森があり、草原には花が咲き、風が吹き、若葉がそよぎ、海辺には波がうちよせ、夕焼けが美しいわ……。そこで生きものはみんな、お互いに肩をよせあって、エレガントに、やさしい歌をうたいながら生きて行くのよ……。
――知っている……マリア……。それはぼくも見たし、ぼくも知っている……。
英二は、マリアにひかれる形で近づいて行く地球から、身をひるがえすように、再び「宇宙」へむかってそれて行った。――そこは、もう渦まく銀河系宇宙の腕をはずれて、遠くにうかぶアンドロメダ渦状宇宙や、さらに無数の、渦状の楕円状の、あるいは球状の小宇宙がちらばって、わびしく光っている広大な虚無の大洋のまっただ中だった。
――だけど……ぼくたちは、もう、〃宇宙〃を見てしまった。太陽の何百倍もある赤色巨星や、途方もない密度をもった白色矮星や中性子星、爆発する超新星……それに何百万光年、何億光年、何十億光年ものひろがりの中にちらばる、銀河系以外の、無数の渦状銀河や、楕円銀河、爆発している銀河、衝突している銀河、想像を絶するエネルギーを噴出しているセイファート銀河や準星《クエーサー》を……。宇宙は途方もなく巨大で、神秘にみちていて、それにくらべればわれわれ地球人の一人一人の存在など、水素原子の一粒ほどにちっぽけだ……しかし、そのちっぽけな存在が、いま、広大な宇宙を見てしまった……。そして見た以上……それを見たのが人間である以上……われわれ、このちっぽけな〃意識のある存在〃は、この広大な虚無にとって何なのか、という事を、宇宙の果てまで問いつづけ、探りもとめざるを得ない……。
――待って!
とマリアが悲鳴をあげるように叫んだ。
幻覚性のガスによる距離の増幅感が、ちょうど魚眼レンズを通して動くものを見るように、無重力空間における二人の間のわずかなへだたりの増大を、極端なものに感じさせるらしかった。――マリアは、あえぎながら英二にむかって手をさしのべ、何度も空をつかんだ。
――待って、英二!……そんなに遠くへ行ってしまわないで!……そんな事いくら問いつづけても、答は出ないにきまっているわ!
――おいで、マリア……。
英二も少しとまって、マリアへむかって手をのべた。
――それは……ぼくらの時代だけではだめでも、次の世代、さらにずっと先の世代は、もう少し先に進むだろう……。ぼくには、それがはっきり感じられる。彼らは……ぼくにつづく世代は、太陽系をこえ、やがては銀河系さえこえて、よりひろい宇宙へのり出して行き、宇宙の秘密と、その中に生れた生命と意識の意味に無限にせまって行く……。そのための一つのステップを、ぼくたちの時代は、ここでつくろうとしている……。
――そのために、この美しくて大きな木星を、燃やしてしまうの?
からみあった指を支点として、体を回転させながらマリアは、金色の後光のようにひろがった髪をはげしくふった。
――だめよ! 英二……おねがいだから、これ以上、この太陽系を、人間の手で汚したり、破壊したりしないで! そんな権利は、私たちにないわ!……宇宙の果てへ旅だつ技術は、そんな事をしないでもうみ出せるわ……長い時間をかければ……。
――いや、ぼくはそう思わない……。
英二は、美しい金髪の尾をひいて近づいて来たマリアの顔に、そっとキスした。
――これから先、〃宇宙へ挑む心〃は……もうあの地球上のせせこましい生活の中からはうまれてこない。宇宙空間での生活の中からしか……。
――そんなもの、うまれてこなくてもいいじゃない……。
マリアは、英二のキスにこたえながら抗った。
――星空は、地球の上から眺めてもけっこう美しいわ……。月の上や、宇宙都市からいくらでも、科学観測はできるわ……。かえって来て、英二……地球へかえって来て! そして、私と結婚して……。
――いや、だめだ……マリア……それはできない……。
マリアは、ふいに腕に力をこめ、英二にそのあらわな、美しい乳房をおしつけて来た。――肌は氷のように冷たくなっており、愛らしいピンクの乳首もちぢこまっていたが、彼女が、そのふれあっている唇から、再びもえ上がりかけているのが英二にも感じられた。唇と舌が熱く溶け、マリアは接吻でもって、英二の言葉を封じようとするように、深く舌をさしいれてきた。
――それはできないよ、マリア……。
英二は、ちょっと唇をはなしてささやいた。
――ぼくは、もう、太陽系からとびたって行く〃未来の世代〃に属している……。
――私をもう愛していないの?
マリアは、英二の首をかたく抱きしめ、その美しいほっそりした脚を、彼の脚にからめて来た。
――冷えきった体の中で、そこだけがまだ、ぬくみをたたえているなめらかな下腹が彼の下腹におしつけられ、そして、その下腹の、やさしい感触のする一角が急に熱をおびはじめた。
――私は、あなたを愛しているわ……抱いて、英二……。強く抱いて……。こんなさびしい、寒い、宇宙なんていや……こわいわ……。
英二は両脚をマリアの細い胴にまわし、がっしりと強くひきつけた。――淡雪のような乳房が、彼のかたい胸の上でつぶれ、しっかりあわされた下腹が、白く太い蛇のように彼の腰にからみつく腿のつけ根が、また一段と熱くなる……。
英二は、疲労と、ガスの残留作用にかすむ眼をあげてまわりを見まわした。――頭上には、視野のはしからはしまでひろがった青白い渦巻き型小宇宙が壮大なめまいのようにはげしく回転している幻影がうかんでいた。英二は、かたく抱きあって宙にただよう二人の体が、その渦巻きと反対の方向にぐるぐるまわり出すように感じられた……。
――来て……英二、はやく……入って来て……。
マリアは、左手で英二の首をしっかり巻き、熱くふくれ上がった唇を彼の耳もとから頸筋にはわせながら、右手を彼の股間にのばして、彼をむかえ入れようとしていた。
――あなたの子供がほしいわ、英二……子供と三人で……平和につつましく……地球でくらしたい……。
――いや……。
自分の体が、マリアの体内にはいりこむ感触と同時に、マリアが眼をつぶって強く眉をしかめ、熱い息をはき出しながら、下半身をうねらしはじめるのを感じながら、英二は、やや哀しく、わびしい思いで彼女の耳もとにささやいた。
――それはできない、マリア……ぼくも、君を愛している……。でも、それはできない……。
――英二! 英二!……。
マリアは彼の頸筋や背中に爪をたてた。度かさなる絶頂に疲労しきっていたであろうに、さらにかさねて彼をよびもどそうとするように最後の力をふりしぼり、冷たい汗を全身からはねとばしながら、彼女ははげしく体をうねらせ、腰をゆさぶって絶叫した。
――帰ってきて、英二!……地球へ……帰って来て!……来て! 来て! 早く、来て!
「寒くないか?」
と、英二は傍に長々と白い裸身をのべるマリアの肩を抱いて、そっとささやいた。昏睡しているように見えたマリアは、うす眼をあけ、かすかにうなずいた。
二人は、L・R《ラヴ・ルーム》3の透明なドームと、床の上、ベッドのちょうど真中あたりを、たなびく二条の雲のように、あるいは白と褐色の小さな宇宙ヨットのように、体を長くのばし、平行にならんでただよっていた。
英二は片腕をのばして、すぐ傍を、けぶるオーロラのように波うちながらただよい去ろうとするシーツの端をつかみ、ひきよせながら、マリアと抱きあった自分の体にあたえた回転を利用して、くるくると二人のまわりに巻きつけた。
「私たち、まるで、アベックのミイラね……」
といってマリアはくすっと笑った。
その動きの反動で、二人の体は、またドームの透明壁のすぐ近くまで、ゆるく回転しながら近よって行った。……巨大なオレンジ色の木星は、視野の右下隅にその一部をのぞかせ、二人の頭上には、木星最大の月である第三衛星ガニメデが、――その直径は五千二百七十キロもあって水星よりも大きい――大きなほの暗い三日月となってかかっていた。他の三つのガリレオ衛星同様、常に木星に同じ面をむけているガニメデの、太陽の光の影になっている部分は、木星からの照りかえしをうけて、ぼんやりとうす赤くそまっている。
そのガニメデの三日月と、木星との間の暗い空間を、核融合ロケット噴射の、青白く強い四つの光点がはるかに遠去かって行く。
「ごらん、マリア……」とシーツにくるまって首だけのばしながら、英二は抱きあったマリアにささやいた。「長距離宇宙船が出発する。――〃スペース・アロー〃号だ……」
「あの船は、どこまで行くの?」
とマリアは、彼の肩に鼻をこすりつけながらきいた。
「冥王星軌道のずっとむこう……〃彗星の巣〃をしらべに行くんだそうだ。――片道一年ちかくかかる旅だ……」
「ずいぶん遠くへ行くのね……」
「ああ……あれには、ぼくの友人で、ベテランのパイロットが乗っている。――あ、そうだ。ホジャ・キンと、おわかれの一杯をやるのを忘れていた!」
その時、L・R《ラヴ・ルーム》3の空気に、鋭い衝撃が感じられた。――ドームの外のシェルターが閉じはじめ、ドーム内壁へ上面をむけていたベッドが、床ごとゆっくりと傾きはじめた。
室内の空中を漂っていた二人は、かすかな横の加速度を感じた。――予約しておいた二時間がすぎ、L・R《ラヴ・ルーム》3は、ミネルヴァ基地本体の回転と周速をあわせるべく、加速噴射をはじめたのだった。わずかな遠心力を重力と感じて、二人は一つのシーツにくるまったまま、ゆっくりと部屋の隅のベッドの上へ、斜めに「落ちて」行った。〃本田主任……本田主任……至急、司令室へ連絡ねがいます……〃と、ノー・コールを解除された室内スピーカーがアナウンスをはじめた。〃……バーナード博士が、至急連絡をとりたいそうです。……本田主任……至急司令室へ……〃
「本田だ……」と、ベッドサイドの通信器のスイッチを入れて英二はいった。「え?――地球行きの不定期船が、不良部品の交換のため、急に基地へたちよる?――バーナード博士は、それに便乗する交渉をとりつけたって?……で、乗りこみは何時間後だ?」
英二は返事をきいて、ちょっと絶句し、傍のマリアをふりかえった。
――ベッドの上で、マリアは、ほどけかかったシーツに半分くるまって、うつぶせになったまま、軽い寝息をたてていた。
高速で自転する木星の周辺を、二隻の大型宇宙船がはなれつつあった。
一隻は、四基という、異例に多くの核融合ロケットエンジンをそなえ、巨大なヘリウム3=重水素燃料タンクを、葡萄の房のように大量につないだ長距離高速探査船で、その強大な推力を利用した特別軌道をとって土星へとびかう〃スペース・アロー〃号であり、もう一隻は、ごくあり来たりの推力レベルの核融合ロケット一基をつんだ、外惑星間不定期貨客船〃サタン・クリッパー〃号で、修正ホーマン軌道を描いて、一路地球へとむかっていた。
ミネルヴァ軌道《オービツト》をかすめるコースの上で、工作船から、交換部品と臨時の乗客をつみこみ、かわりに積荷の一部をおろした〃サタン・クリッパー〃は、順調な加速で、木星圏を離れつつあった。――その行く手には、星をちりばめた宇宙空間を背景に、徐々に光度を増す太陽があり、めったに使った事のない質素な客用船室《キヤビン》には、三人の臨時客――バーナード博士と、英二と、マリアが乗っていた。
第二章 地球
1 〃たんぽぽ《ダンドリオン》〃軍団
火星軌道と地球軌道とのちょうど中間点あたりで、英二、マリア、それにバーナード博士の乗った不定期貨客船〃サタン・クリッパー〃は、巨大な船団とすれちがった。
最初それを見つけたのは、粗末な旅客コンテナー附属のせまくるしいラウンジで、ちっぽけな展望窓の傍にすわって、暗い宇宙空間を所在なげに見ていたマリアだった。
「あれ、なに?」と、マリアは窓に額をくっつけそうにして、小さく叫んだ。「あのぼんやりしたたくさんの光……近づいてくるわ……」
英二は、バーナード博士と囲んでいたゲーム盤の盤面から顔をあげて、ちらと窓外に眼をはせた。
「ああ……ヨットだよ」と、彼は気のない調子でいった。「太陽帆船《ソーラー・セイラー》の輸送船団だ。――見るのははじめてかい?」
バーナード博士は、ゲーム盤の上にうつっている円形をにらみながら、禿げ上がった額に脂汗をにじませて、かすかにうなっていた。
――ゲームはもうほとんどかたがついていて、英二の勝ちは決定的だった。
なお執念深く盤面をのぞきこんでいるバーナード博士をそのままにして、英二は立ち上がって、ラウンジの一方の壁面に歩みより、スイッチを入れた。――壁面一ぱいに、凍てつくような星をちりばめた宇宙空間がうつった。
「操舵室《コツクピツト》……」と英二は壁面のトーク・ボタンをおしていった。「こちら、ラウンジだ。すまないが、今すれちがっている船団の映像をいっぱいにアップしてくれないか?――10時の方角に見えているだろう?」
画面の中の星が、ぐうっと流れた。同時に、画面中央にうすぼんやりした白っぽい光点がいくつもあらわれ、カメラは、光点にむかっていっぱいにズームした。
マリアは窓際から立ち上がって、壁面にむかって眼を見はった。
画面一ぱいに、巨大な十字型の帆を大きくふくらませた太陽帆船《エス・エス》の姿がうつし出された。――太陽に面した側は眩しく輝き、反対側は暗い灰色になっている。十字帆の中心部から、細い、きらりと輝く線条が長く後方にのび、その先には、オレンジ色にぬられた卵型のコンテナーがついている。
「あの帆は、一辺が大体十六キロメートルある……」英二はマリアの肩に手をおいていった。「帆も構造物も、宇宙基地関係の廃物利用だ。――あれでも、いまは時速数万キロは出ているだろう。ずいぶんゆっくりした加速だが、単価と運航費が安くつくから、数量をふやすとばかにならない。火星や木星へつけば、あの船体そのものが、いろんな材料につかえるし……」
中央にとらえられた帆船が、すさまじいハレーションで画面を染めながら通りすぎると、そのむこうに、無数の帆船が、はるか後方までかさなりあって流れて行くのが見えた。――その数は百以上あるだろう。スーパー・ホイスカーと、○・三ミリの超均質薄膜でできた帆に、太陽の光圧とプラズマ風をいっぱいにうけ、船団は、惑星空間をとぶ冠毛をもった植物の種子のように、あとからあとから画面を横切って行く。
「宇宙ヨットなら知ってたけど――あんな大きい〃帆船〃ははじめて見たわ――」
マリアは気をのまれたように、低い声でつぶやいた。
「あの船団は、無人なの?――それとも……」
「完全に無人の船団は、まだないんじゃないかな。現行の宇宙航行規定が改正されないとね……」
英二はマリアの金髪をまさぐりながらいった。
「大てい、一船団に一人か二人は、監視員がついているよ。――彼らは自分たちの事を、かっこつけて、船団司令《コマンダー》なんてよんでいるけどね……」
「百隻以上の船団に、たった一人か二人ですって?」
マリアの肩がかすかに身ぶるいするのが、英二の掌に感じられた。
「それで何か月も何年もかかって、宇宙空間を流れて行くの?」
「宇宙空間は――太陽系だけだって、ひろすぎて、絶対的に人手不足だ。機械をフルにつかったって、まだまだどうにもならないほどひろい。木星軌道までひろがっているフロンティアに五億人ぐらいの人口じゃ、とてもたらないんだ……」
それにひきかえ、地球では……という言葉が、つい出かかったのを、英二は胸にのみこんだ。――あのちっぽけな惑星、直径わずか一万二千七百キロ、表面積五億平方キロしかないせせこましい星の上に、百八十五億人もの人類が、おしあいへしあい住んでいる。よく息がつまらないものだ。「地球人」はみんな、広場恐怖症《アゴラフオビア》――というよりは、宇宙恐怖症《コスモフオビア》なのだろうか?
「宇宙空間にすんでいる人は、みんな少しずつおかしくなって行くんじゃないかしら?」と、マリアはかすれた声でつぶやいた。「あまり空間が広大すぎるから……人間性が少しずつ崩壊して行って……ふつうの地球人とはちがう、冷たくて、拡散した人間になってしまうんじゃないかしら?」
「ぼくもそうなってしまったと思うかい?……」
英二はマリアの肩を抱きよせ、頬にキスした。――マリアは、まだ体をこわばらせており、その頬は冷たく、かすかに鳥肌だっているようだった。
「コックピット……」と英二はマリアを抱きよせたまま、もう一度トーク・ボタンをおした。「あの船団の司令《コマンダー》は誰だかわかるか?」
「ええと、ちょっと待ってくれよ……」と当直の副操縦士《コパイ》の声がきこえた。「船団の識別番号は……SSCX63−BJ〃ダンドリオン〃……構成はSSC百二十三隻、船団司令は、トビアス……」
「〃たんぽぽ《ダンドリオン》〃だって? じゃ、司令はトビイ・ハワード夫妻か?」
英二は眼を輝かせて叫んだ。
「ああ、そうだ。トビアス・アンド・ケリマ・ハワード夫妻だ。よんでみるか?」
「おれの名でよんでくれ。トビイのやつ、まだ〃帆船〃にのってるのか! もう太陽の光まかせ、風まかせなんてあきあきしたから、高速船のテストパイロットになるなんていってたくせに……」
マリアがそっと体をはなしたが、英二は交信の結果に意識を集中していたので、あまり気にとめなかった。
「だめだ……」と間もなく副操縦士《コパイ》の返事があった。
「ただいまご夫婦でおたのしみ中だとさ……あんたにはよろしくいってくれって。ああそれから、早くおれみたいに、いい嫁さんもらえって……」
「ちくしょう! トビイのやつ……」と英二はうめいた。「一年半ぶりに遭遇したというのに、なんといういいぐさだ!」
その時、背後でバーナード博士が奇声をあげた。
「やったぞ!――これで逆転だ!」バーナード博士は、ゲーム盤に手をのばしながら、意気揚々と叫んだ。「さあ、どうだね。英二、これで君の方にうける手があるかね?」
英二は壁際からゲーム盤の方を一瞥した。――それから、気の乗らない顔つきで博士のむかいにまわり、そのあと五手ほどの応酬で、博士の陣営の息の根を完全にとめて見せた。博士は腕組みをして、顔をまっ赤にしながら、うなり声をあげた。
博士の相手をしながら、英二はマリアがひっそりとラウンジの一方のドアから出て行くのを眼の隅で見ていた。ゲームにかたをつけてから、英二は立ち上がってマリアのあとを追った。――そちらのドアのむこうは、せまい通路をへだてて、操縦室や通信室などのあるコントロール・セクションへつづいている。通路のつき当りの気閘《エアロツク》をあけ、英二は操縦室《コツクピツト》へとタラップをおりて行った。
せいぜい六人はいればいっぱいになる、せま苦しい操縦室《コツクピツト》の中で、当直の副操縦士《コパイ》は、コンソールに足をあげて退屈そうに本を読んでおり、航行士《ナヴイゲーター》は、自分のデスクにつっぷして眠りこけていた。
「よう……」と、はいって来た英二を横眼で見て、副操縦士《コパイ》は片方の眉をつり上げた。「どうする? 〃たんぽぽ〃船団のハワード司令をもう一度よんで見るか?」
「もういいよ……」
英二はコンソールのむこうにならんだ、六面の映像パネルの一つに、明るく太陽光線を反射させながら遠去かって行く、大船団の姿を見ながら首をふった。
「何しろ、おたのしみ中らしいから……」
「面白いから、緊急通信でおどかしてやろうか?――知りあいなんだろ?」
「よせよ、悪趣味だ。――それに、いい所でおどかして、膣痙攣でも起されたら事だ。むこうにゃ船医ものっていまい……」
副操縦士《コパイ》は、片眼をぎゅっとつぶると、クスクス笑いながらまた本のページに眼をおとした。
「マリアがさっきこなかったか?」
と、英二は操縦室の中を見まわしてきいた。
「ああ――さっき来て、通信室を使っていいかって聞いていた……」
「通信室?」
「地球の親もとへでも、長距離通信をおくるつもりじゃないか?――あと四十時間ほどで、オニール中継点《ジヤンクシヨン》につくからな……」
英二が操縦室を出て行こうとすると、副操縦士《コパイ》は本に眼をおとしたまま、
「あの娘《こ》は、あんたの恋人かい?」といった。「いい娘《こ》だな。まるで、地球の草花みたいにやさしくって、品があって……おれみたいな、地球生れにゃ、何だか小さい時のいろんな事を思い出させるよ。――だけど、あの娘《こ》には、宇宙ぐらしはむかないよ。あんまり地球のにおいが濃密にありすぎて……別に水をさすわけじゃないけどさ。火星の赤い沙漠や、でかい木星を鼻先にながめてくらすようにはできていないぜ……」
英二はタラップの傍でたちどまって、ちょっとふりかえった。――正面の映像パネルの一つに、もうずっと遠くなった帆船船団の光点群の中の一隻が、赤と緑の点滅光で、儀礼的な信号をおくっているのが見えた。
――平穏ナル航行ヲ祈ル……
その光信号を見ていると、突然その一隻にのったハワード夫妻の事が思い出され、トビアスの角張った片眼の顔と、彼の妻ケリマの、黒い髪と情熱的な黒い眼、そして油をぬったようによく光る、煽情的な褐色の肢体が眼にうかんで、それがマリアの雪白の裸体とかさなって、欲情がはげしくこみあげてくるのが感じられた。
英二は身をひるがえしてタラップをかけ上がった。――通路を曲って、通信室の前まで行き、ドアの窓から中をのぞいたが、室内にマリアの姿は見えなかった。ちょうどその時、奥の宿直室から、主任通信士があくびをしながら出て来て、のぞいている英二を見てドアをあけた。
「マリアをさがしているのか?」と通信士はきいた。「さっき来て、すぐかえった。――長距離通信をやりたいと、いって来たが……」
「地球と交信したのかい?」
「いや――そうじゃないな……」と通信士は通信記録のチェックボタンをおしながら首をふった。
「この船と同じ、土星=地球間の不定期貨客船〃ロング・ジョン〃と交信していたようだ。――この船より六時間あとに木星のミネルヴァ軌道《オービツト》をはなれて、いま四十万キロ後方にいるが……船脚はこっちよりはやいから、オニール中継点《ジヤンクシヨン》には、むこうの方が先につくかも知れん……」
「〃ロング・ジョン〃に?」英二はつぶやいた。「誰か知りあいがのっているのかな?」
「さあ、知らん。――内容は暗号メッセージで、一応親書あつかいだ。何なら、〃ロング・ジョン〃の通信士と話してみるか? 親展通信の内容公開は、とても応じてくれんだろうが、受取り人ぐらいは教えてくれるだろう……」
「いや――いいよ……」
といって英二はドアの傍をはなれた。
「あの娘はすげえ美人だな。おまけに何ともいえない清純な色気がある……」通信士は鎮静スティックをくわえながら背後から声をかけた。「あんたの知り合いなら、一度宇宙《スペース》コロニイかどこかで、デートしてくれるようにたのんでみてくれないか?――すごくいいレストランを知ってるんだ……」
英二は通信士の言葉をきき流しながら、通路をまっすぐつき進んだ。――通路はラウンジの横をまわりこんで、後部の居住区へとつづいている。
せまくるしい通路の両側に、小さな旅客用個室のドアのならぶ区域に来て、彼はマリアの部屋のドア・チャイムをおした。――返事はなかった。ノブをまわすと内側から鍵がかかっている。
「マリア……」ドアを軽くたたいて、英二は低く声をかけた。「ぼくだ……。中にいるのかい?――ちょっと話がしたいんだが……」
一呼吸、二呼吸おいて、もう一度ドアをたたこうとすると、
「ごめんなさい、英二……」と中からマリアの声がした。「しばらく一人にしておいて……。私……私、何だか気分が悪いの……」
「診療室へ行かなくて大丈夫かい?」と英二はきいた。「それとも、何か薬を……」
「いいえ、大丈夫――。ちょっと一人でいたいの……。おねがい……」
とマリアはいった。――その声は、何だか泣いているようにもきこえた。
もう一度ドアをたたこうとしてふりあげた拳を、英二は思いなおして強くかんだ。――なんとはなしに自分が浅ましく、みじめったらしく思えた。女の個室のドアの前で、欲望に下腹をかたくし、青二才のように汗をかきながら、拳を血のにじむほどかみしめている自分が……。
ラウンジへかえると、バーナード博士はまだ腕を組んで、ゲーム盤をにらんでいた。しかし、もうどうにもならなくなったゲームのきりぬけ方を、なおも考えているのではない事は、ひと目でわかった。
「あの娘《こ》は宇宙がきらいらしいな……」と盤面を見ながら博士はつぶやいた。「憎む所までは行かないまでも、恐れているようだ……」
「ここ数十時間の間に、彼女の様子が何だかかわったみたいです……」英二はぐったりと椅子に腰をおろしながらいった。「長旅の疲れが出たんですかね……」
「地球が近づいて来たからだろう……」と博士は禿げ上がった頭をなぜながらいった。「地球の……あの濃密な、生命と水と青空の気配を感じると、何がなしに興奮するのだ。あの星を故郷《ふるさと》とし、母なる大地と感じている人たちはな……」
「彼女とは、小さい時、火星で一緒に育ちました……」と英二は窓外に眼をやりながらいった。「それから彼女は、両親を宇宙船事故で失って、地球へ行き……でも、数年前まではお互いそんなにかけはなれているとは感じられなかったんです。しかし……今度は……。地球では、宇宙開発というものに対して、そんなに批判的な空気が強いんでしょうか?」
「人類は、いまむずかしい所にさしかかっているのかも知れない……」バーナード博士は、ゲーム盤の電源をきりながらいった。「人類は、二つの基本的グループにわかれつつあるような気がする。昔ながらの〃地球人〃と、もう一つの新しい〃太陽系人〃と……。それは世代《ゼネレーシヨン》の対立もふくむが、もっと決定的な〃文化的亜種〃も分離しつつあるような気がする……。私自身、こういった対立と分離をのりこえる契機になるかと思って、〃宇宙考古学〃といったものにのめりこんでいったのだが……。しかし、このごろはどうもこの乖離は、避けがたい運命のような気がしてきた……」
という事は……マリアと自分との間に生じかけているように思える、あのみぞも、これから先ますます決定的にひらいて行くのだろうか?――と、英二はいらいらと拳をかみながら思った。――それは、「さけがたい運命」なのだろうか?
「それから……」とバーナード博士はゲーム盤の傍からたち上がりながら、ちょっとためらうようにいった。「君のボスの、ウェッブ総裁も、最近はちょっとむずかしい立場に立たされている事を知っておいた方がいい……。政治的にな……」
四十時間後――
〃サタン・クリッパー〃は、土星からの八億キロの旅をおえて、地球をめぐる月軌道上にのり、L5地点にあるオニール中継点《ジヤンクシヨン》にむかって減速をはじめた。
――マリアはその四十時間、とうとう個室の鍵をおろしたままだった。
2 オニール中継点《ジヤンクシヨン》
白い雲と青い大洋、そして茶色と緑の陸地にその表面をいろどられた生命にみちた惑星地球……。
その地球の中心から三十八万キロ余りはなれた宇宙空間を、あの昔なじみの巨大な衛星、月がまわっている。そして、その月と同じ軌道上の、ちょうど月と地球との平均距離と同じだけはなれた所に、L5宇宙植民地《スペース・コロニイ》がうかび、月のあとを追うように、月とおなじ公転速度で、地球のまわりをまわっていた。――正式の名称は「コルディレフスキイ宇宙都市群《エス・シイ・ジイ》」という。そこは、地球と月との間にある「ラグランジュ点《ポイント》」の一つにあたる場所だった。――十八世紀のフランスの数学者ラグランジュが計算によって導き出したもので、共通の重心のまわりをまわる二つの天体の質量比がある一定の割合にある場合、二天体の隔たりを一辺とする正三角形の頂点にあたる所に、重力のバランスが生じ、そこにはいりこんで来たもう一つの天体は、いつまでも、二天体と安定な相対位置をたもちつづける、という点である。
太陽系内において、太陽と惑星の間に、実際そういう関係が生じている事は、早く、二十世紀はじめに発見されていた。小惑星のうち、木星の軌道上にある「トロヤ群」と名づけられた一群は、木星と太陽とを結ぶ線を一辺とする正三角形の一つの頂点にあたる位置にあって、その三者の関係を安定的に保ったまま、太陽のまわりを公転しているのがわかったのである。――この「ラグランジュ点」は、当然の事ながら、木星の公転方向の前方、後方それぞれ太陽を中心にして六十度へだてた所に二つあり、L4、L5と名づけられた。
「コルディレフスキイSCG」は、地球と月との間の、L5ポイントに、すでに一世紀以上前に建設が開始されたものだった。――もともとこのL5ポイントは、月の公転方向に対して六十度前方にあるL4ポイントとならんで、宇宙空間から、地球周辺へおちこんでくる小さな宇宙塵、彗星の氷やガス、隕石のかけらなどが、月、地球間の「潮汐力の特異点」にとらえられてたまっており、それぞれ「対月照」「相月照」といった、月にくらべればきわめて暗い、もやもやした、いわゆる「ゴースト・ムーン」が存在していた所だった。――そして、このL5に、宇宙植民地の建設がはじまった時、二十世紀後半にはじめてこの空域に実際にその天体光を観察したポーランドの天文学者の名にちなんで、「コルディレフスキイ空域《スペース》」と名づけられ、それがそのまま行政区の正式名称となった。現在では七つの宇宙都市、三つの研究所衛星、それに太陽系内最大のメモリイ・バンクをそなえた情報処理衛星をあわせて、総人口三千二百万の大スペース・コロニイに発展している。
そのL5コロニイの七つの宇宙都市の中で、一番古く由緒のあるものが「オニール中継点《ジヤンクシヨン》」だった。――いうまでもなく、その名称は、一九七○年代における、宇宙居住計画と宇宙植民衛星の最初の本格的構想を提唱した、プリンストン大学物理学教授ジェラルド・K・オニールを記念してつけられたものである。最初期に建設されたものなので、のちにつくられた居住中心の宇宙都市とちがって、地球、月、そして他の惑星との間の連絡、荷役、中継港としての設備が厖大に集積されて、正規の「G・K・オニール記念都市《メモリアル・シテイ》」の名よりも、「オニール中継点《ジヤンクシヨン》」の方が通りやすい名となった。八つの月、地球へのフェリー発着港、五つの惑星間連絡船埠頭、三十六パースをそなえた三つの巨大な貨物コンテナー専用埠頭、それに大倉庫群と、最も進んだ宇宙船建造、修理ドック、地球圏最大の宇宙航行管制センターをそなえて、かつてはるかな外惑星領域から地球へかえってくるパイロットたちにとって、「母なる星」へのゲートとして、その名は一種独得の郷愁をさそうものとなっている。
その「オニール中継点《ジヤンクシヨン》」へむけて、いま一隻の古ぼけた長距離貨客宇宙船が、徐々に速度をおとしつつあった。――土星からの旅を終えて、このあとしばらく修理ドック入りになる〃サタン・クリッパー〃だった。
船が宇宙埠頭《スペース・キイ》にむかって最終《フアイナル》ホーミングにかかったころ、マリアはやっと個室から出て来て、英二とバーナード博士が立っている操縦室《コツクピツト》後上方のプラットフォームにやって来た。――あの地味な服を身につけ、鍔の広い帽子をかぶり、わずかな手荷物をもって、もうすっかり下船支度を終えた恰好で……。
プラットフォームにあらわれた時のマリアの雰囲気は、四十時間前に個室にとじこもった時のひどく沈み切った様子とまるでちがって、ひどく浮き浮きしていた。頬は美しく上気し、すき通った青い瞳はいきいきと輝き、かるく開かれた口もとからは、あの古いフォークソング――二十世紀の後半にできて、二十二世紀になってリバイバルした「地球の緑の丘」のメロディさえもれているのだった。
「ごらんなさいな、英二……」マリアは、はずんだ声でいって、映像パネルの一つを指さした。「地球よ!――私たち帰って来たのよ……ほら見て! 美しいと思わない?」
「すてきだ……」と英二はいって、そっとマリアの肩を抱きよせようとした。「何といっても、空気と水と、生命のある惑星だからね……」
だが、マリアは彼の手をふりはらうようにして、興奮した様子で操縦室《コツクピツト》へむかってタラップをかけおりた。――かけおりる途中で、くるりとふりかえると、英二にむかって叫ぶようにいった。
「私たちの〃ジュピター教団〃は、あの美しい地球の中でも、よりぬきの美しい場所にあるのよ。ぜひ来て! 英二……そして、私たちのリーダーの、ピーターにあってよ。そしたら、あなたの考えも、変ると思うわ……」
操縦室《コツクピツト》へかけおりて、埠頭に接舷中のパイロットの背後から、何か早口で話しかけるマリアを見おろしながら、バーナード博士は笑いをふくんだ声で英二にささやいた。
「恋人を地球に奪われたような顔をしなさんな……」
英二はちょっと肩をすくめた。
「地球にへその緒のつながっている連中は、みんなそうさ……。故郷《ふるさと》が近づくと、興奮して気もそぞろになる……」
「博士はどうなんですか?」
と英二はききかえした。
「私か? 私は……微妙な所だな。半世紀以上も、同じ研究をつづけていると、自分の構築した研究体制が、〃故郷〃のようになる。正直いって、地球にはあまり関心がない。私に興味があるのは、何千年か何万年か前に、ナスカの沙漠や月や火星に地上絵を残して行った宇宙人のメッセージだけだ……」バーナード博士は、ちょっと遠い所を見つめるような眼つきをした。「年をとってから、また故郷をなつかしみ、故郷へ回帰する人もいるが……私の同僚にも何人かいたが……私にとっては、地球というのは、少年期の汗くさいぬけがらみたいなものでね。ふとなつかしさを感じる事もあるが、今さら帰ってすみたいと熱烈に憧れるほどのものでもない……。むしろ、ごちゃごちゃと入りくんだ人間関係や組織関係や、くだらんこせこせした事で悪戦苦闘した、いやな想い出がいっぱい残っている所だ……。だから、地球に行っても、研究機関以外の所は、あまり行った事がない……」
――おれにとって、「地球」とは何だろう?……
と、英二は、パネルの一つにうつっている、三十六万キロ彼方の地球の映像を見ながらふと考えた。――白い雲の渦巻きと青い海の色に彩られた地球はいま、半円形に輝いており、北アメリカ大陸中央部が、ちょうど夕方から夜の部分にはいりかけていた。
自分がその地球を、太陽系にあるさまざまの惑星の一つにしかすぎないものとして見ている事……たとえば、金星や火星や木星、土星、天王星といった惑星をまぢかに見るのと、まったく同じ眼、同じ関心のもち方で眺めているのに気がついて、英二は内心に鈍いショックを感じた。
彼にとっては、地球は決して「特別の」惑星ではなかった。――たしかにそれは、太陽系内で唯一つ、生命が発生し、四十億年にわたって進化を維持しつづけて来た惑星であり、人類とその文明もそこで誕生したのだが、英二にはそれも、太陽系の諸惑星のさまざまなバリエーションの一つにしか感じられないのだった。たとえば火星が大気のうすい、赤い沙漠とクレーターの星であり、金星が濃密な炭酸ガスの大気の中に濃硫酸の雨が降る、地表温度四百度の過酷な条件の星であり、木星がぶあつい水素、メタン、アンモニア、硫化水素の大気に包まれ、その中に、すさまじい嵐と雷の荒れ狂うおどろおどろしい惑星である事と、地球が酸素約二○パーセント、窒素約八○パーセントの水に富む大気をもち、そこに生命が存在する惑星である事とは、まったく同列の事のように感じているのだ……。
マリアは、地球を故郷――「母なる星」として、自分の体の一部のように感じ、愛し、強い情念のつながりをもっている……。そしてバーナード博士は、自分の青春の苦闘の時期が埋もれている地球を、古びた「過去」のぬけがらとして、かすかな嫌悪感をもってながめている……。
――では、おれは?
おれは、たしかに、地球人類の末裔の一人だが、その地球を前にして、何か他の惑星や太陽系内宇宙空間よりも、よっぽどなじみのうすい「異邦」を訪れるように、緊張し、かまえ、皮膚にちくちくつきささるものを感じている。――では、おれにとって故郷《ハイマート》とは何か? 自分が生れ育った火星か? いや……むしろ、自分が本当に安らげるのは、「太陽系内宇宙空間」であり、その中にうかぶ「人工天体」の中ではないか?
「〃都会《まち》のネズミと田舎のネズミ〃という話を知ってるかね?」
英二の心の中を行き交う想いを見すかすように、バーナード博士は、禿げ上がった頭をなでながら、ぽつりといった。
「いいえ……」と英二は首をふった。
「都会《まち》のネズミは、都会の高密度の繁栄をほこってこれこそネズミらしい〃生活〃だと主張し、田舎のネズミは、文明の密度はうすく、生活は貧しくとも、ひろびろとした空間のひろがる田園生活を好むと訴える――という他愛のない話だがね……」博士は苦笑した。「地球という惑星は……今や完全な〃都市惑星《アーバン・プラネツト》〃になっている。それも過飽和の、だ……。自然――海洋から森林から大気から、すべて管理された人工環境だ。そうしなければ、〃自然〃なんて残りゃしなかった。地球は、今や、ある意味では宇宙《スペース》コロニイなんかより、はるかに管理度の高い〃都市〃になっている。そいつは覚悟しておきたまえ……」
「マリアはそういう事を知っているのかな……」と英二はつぶやいた。「そんな状態なのになぜ……いや、だから、〃自然をまもれ〃っていうんでしょうか?」
「宇宙都市と、〃都市惑星〃としての地球との唯一のちがいは、地球の方は〃歴史〃をひきずっているって事だ……」博士はかすかに溜息をついた。「それも何千年という情念や怨念のからまりあいのな……。情念や怨念は、古い〃記憶〃の一種だから、これが概念にくっついていると、なかなかより正確な、新しい考え方を受け入れられないんだな。――ま、それはそれで、なかなか味がある、なんていう人もいるがね……」
「という事はつまり……〃地球〃は長期にわたってつみかさなった〃歴史的情念〃が高度に組織化された〃都市〃になっている、という事ですか……」英二は、なぜかかすかな身ぶるいが体内からこみあげてくるのを感じながら、眼の隅で半円形の〃生命の星〃の像をとらえた。「やはり、ぼくには住めそうもありませんな……。マリアがどういうか知らないが……」
もう〃サタン・クリッパー〃号と、オニール中継点《ジヤンクシヨン》から長くつき出た宇宙埠頭《スペース・キイ》の相対速度はほとんどゼロになっていた。――正面の大映像パネルには、「3」と大きな赤いイルミネーションのついた埠頭がつい眼と鼻の先にうつっており、そこから長い桟橋《ピア》が気密通路をひっぱりながら近づいてくるのが見えた。
軽い衝撃が船体につたわり、電磁《マグネツト》アンカーが船殻をとらえ、つづいて自動クランプと、動力コネクターが所定位置にはまりこむ音がした。――〃サタン・クリッパー〃は、かすかに船体をゆすってまったく停止した。操縦室《コツクピツト》のコンソール・ディスプレイの明りはすべておだやかなアンバー・カラーにかわり、船内エンジンはすべて停止して、宇宙都市からの動力に切りかわった事を示す緑と白の同心円のランプがついた。
気密通路のはしについているシーリングが昇降ドアの外側に吸いつく音と、つづいてロボット・マニピュレーターが、気密扉のロックをとく、ごとごとという音がきこえ、間もなく、かすかな溜息のような音がして、宇宙船の居住区の空気が気密通路の空気とつながった事を示す紫のランプがついた。
「ついたわ!」マリアは操縦室《コツクピツト》の中ではね上がり、手をたたいた。「地球よ! 英二……地球についたわよ!」
「まだ早いよ――ここはL5宇宙《スペース》コロニイだぜ……」と英二は映像パネルに顎をしゃくった。「地球までは、まだ三十六万キロ以上ある……」
「でも、ここはもう地球よ、月の衛星軌道だもの……」
マリアは床においた手荷物をとりあげると、パッと後尾の昇降口の方にむかって走り出した。――パイロットは、席から立ち上がりながら肩をすくめて苦笑し、バーナード博士は声をあげて笑った。
オニール中継点《ジヤンクシヨン》の宇宙港は、直径五十メートル、長さ十キロメートルの円筒形の中心軸《セントラル・シヤフト》のはずれに六本の輻《スポーク》を介してとりつけられた「リング」とよばれる直径一・八キロ、太さ径四十メートルのドーナッツ状の居住構造物二つと、中心軸のはしから円錐斜線の方向にのびた何条もの可動通路の先にとりつけられた、客船、貨物コンテナー、フェリー発着所などさまざまの埠頭設備からなっていた。――その埠頭《キイ》の先からまた、何本かの気密通路つき可動桟橋《ピア》がのびている。
気密通路のベルトコンベアにのってはこばれる間に、検疫、手荷物検査その他のチェックは自動的にすんでしまい、第三埠頭から可動通路と中心軸《セントラル・シヤフト》を通って、ホテルやレストランのある環《リング》へ行く自動カートを待っている間、埠頭の小窓から隣の第四埠頭の方を何《なん》の気なしにながめていると、そちらの桟橋《ピア》に、〃サタン・クリッパー〃のそれと同じようにおんぼろの、貨客船のものらしい操船、居住コンテナーがつながれているのが見え、その横腹に、汚れて消えかかった字で、〃ロング・ジョン〃と書かれてあるのが見えた。――第四埠頭の明りはすっかり消えているので、木星を〃サタン・クリッパー〃より六時間あとに出発したのに、そちらの方が先についたらしかった。
英二の意識の奥を、かすかにひっかくものがあった。――マリアは個室にとじこもる直前、あの船と交信していた、と通信士はいった。あの船の誰と?……何を?……。
カートが来て、のりこんだ時、マリアはうきうきした声でいった。
「ね、ホテル環《リング》じゃなくて、その先のシティ環《リング》へ行って見ない?――あっちの方がずっとひろびろとしているわよ。直径は五キロもあるし、太さも六十メートルから百メートル近くあるし……緑の森や、湖や、ゴルフ・コースのある自然公園もあるわ。レストランだって、しゃれたのがいくつもあるし……」
「いや、ぼくはホテルで一休みするよ……」と英二はいった。「少しずつ、地球重力にならさなきゃ……シティ環《リング》の方は、大体一Gぐらいだろ」
「じゃ、私、行ってくる……」といって、マリアは行く先ボタンを追加した。「あとで、フェリー・ポートであいましょう」
「六時間後だ……おくれんようにな」
とバーナード博士はいった。
3 日本地区――TOKYO
「みなさま、こちらに建っておりますのが……」
と、十代の愛くるしい顔だちのガイド嬢がレース編みの手袋をはめた手をそびえたつビル群へむかってのばした。
「二十世紀後半に建設されました、東京都新宿副都心の高層ビル群でございます。建設されてから百五十年あまりたちます。――二○二五年の、世界十大都市保存協定により、当時の高速道路の一部とともに二○四五年に史蹟に指定され、現在、東京都昭和村が保管しております……」
胸に「月」とか、「火星」「小惑星」「L5宇宙コロニイ」といったさまざまなワッペンをつけた、中年、初老の人々からなる地球観光団の一行は、まぶしそうに、紺碧の空にそそりたつ、白亜の、灰色の、また黒と遮光ガラスの高層ビル群を見あげた。
「百五十年前に建ったというが……」と、しわ深い顔だちの老人が、嘆声をあげた。「こんなたよりなさそうな建物が、あの〃大地震〃にたえてよく残ったもんだな……」
「そのかわり内部のいたみ方がはげしく、また老朽化して維持費がきわめて高くつくので、現在どの建物も十階以上はつかわれておりません。――高層部のごく一部は、倉庫や資料室になっておりますが……」
ガイドはなめらかにうけこたえすると、一行の方をむきなおって手をあげた。
「ではみなさん、次へまいりましょう。――これから上野へまわりまして、展望レストランで昼食でございます……」
観光団の一行が、ぞろぞろと行ってしまうのを、英二はぼんやりと、疲れたまなざしで見送った。――一行の乗りこんだ乗物が行ってしまうと、その界隈はほとんど人気がなくなり、強い夏の日ざしの中を、生ぬるい風が、うすいほこりをたてながら広場をわたって行くばかりだった。
暑さと、湿気と、濃い大気と、それに大きな重力にあえぎながら、英二は汗まみれの顔をあげて、六本の高層ビルを見上げた。――オニール中継点《ジヤンクシヨン》の保健所で、地球条件への適応処置はうけたものの、名にしおう高温多湿の、梅雨あけの日本の気候は、英二にとってまるで熱いポタージュ・スープの中にもぐっているように感じられた。
濃密すぎる大気を呼吸する重苦しさに、肩をあえがせながら、彼はせつなげに眼を古びた高層ビル群から、その背景の、ぎらつく青空へむけた。むろん見えるわけはなかったが、その青いガラスのような、不透明な大気の天井の彼方にあるはずのL5宇宙《スペース》コロニイ――昨日まで彼がいた「オニール中継点《ジヤンクシヨン》」をふくむ七つの宇宙都市からなる、「コルディレフスキイ宇宙都市群《エス・シイ・ジイ》」の姿を、無意識のうちに視線で追いもとめていた……。
「オニール中継点《ジヤンクシヨン》」の、乗組客宿泊施設のあるホテル環《リング》で、地球行きのスペース・シャトルの出発を待つ間、バーナード博士と英二は、火星からきたモシ・ンザロという黒人青年にあった。――博士の孫弟子にあたるというその人なつっこい青年は、リング状にカーヴしている街路の、はるかむこうの方から眼ざとく博士の姿を見つけ、
「バーナード先生!」
と叫びながら、とぶようにかけよって来た。――低重力のため、文字通り、その姿は時折二メートルちかく空中へとび上がった。
「やあ、モシ……」バーナード博士は、しなやかな黒人青年の両肩にがっしりと手をかけて破顔した。「どうだ。――火星のフォボス調査なんて、まるで島流しにされるようだ、なんてぼやいていたが、〃火星メッセージ〃の最初の確認者になって、大活躍だったじゃないか!」
「まったく、あんな偶然の幸運ってのは、宇宙考古学をやっていても、めったにないでしょうね……」
モシは、まっ白な歯をむき出してうれしそうな声をはずませた。
「それより、ミリセント・ウイレム女史の活躍ぶりは、おききになりましたか?――彼女はまったく天才的で、しかもおそろしくタフですね。あのタフネスと、天才的なひらめきが、彼女の中でどういう具合にむすびついてるのか、ぼくらにとっては神秘的としかいいようがありません。――あの新発見の火星パターンを、これまでの資料とつきあわせる事によって、あのメッセージの、ほとんど八○パーセントが解読できたっていってましたよ……」
「そりゃすごい!」と博士は叫んだ。「で、彼女は……ミリーは今どこにいる? コンピューター衛星か?」
「いや……おとついまで、ここのコロニイにいたんですがね。いま、月の方に行っています。シューベルト通信基地においてあるプログラムをつかいたいとかで……。ひょっとすると、彼女は今度の会議に、直接参加はできないかも知れません。そのかわり、例によって、ホログラフTVで顔を出すでしょう……」
「ミリーは今度の会議に出られんのか! それじゃ帰りに何とか月によって会わなきゃならんな……。で、彼女は何といっとった? あの〃宇宙メッセージ〃を八○パーセントよみといて……何かわかった事があるか?」
「実は、私もまだはっきりきいていないんですがね……。大部分は、後続の仲間に対する通信文らしいですが、……中に、なにかに対する〃警告〃らしいものがあるようだとか……」
「〃警告〃?」バーナード博士は眉をひそめた。「いったい何の〃警告〃だ……」
「さあ、そこまでは彼女もまだ、つきとめていないようですが……」
その時、傍で二人の話をきいていた英二の肩に、大きな手がおかれた。
「ランセン部長!」ふりかえった英二は思わず眼を見はった。「火星から、ここへ来てたんですか?」
太陽系開発機構の下部組織であるOPDO――外惑星開発本部のハワード・ランセン企画部長は、ちょっと眼配せして、英二の肩をたたき、夢中になって話しこんでいるバーナード博士とモシからさりげなくはなれた。
「ボスから、地球で開かれる宇宙考古学会の緊急臨時会議に出席しろと、たっての命令でね……」とランセン部長は背後をふりかえりながらいった。「君とタグ・チームを組んで、こちらの〃計画〃の性格と現状を、学会のおえら方や、強硬派の学者に、できるだけ懇切に説明し、同時に学会の大勢の向かう方向を見きわめろというわけさ」
「こちらの計画というと、あの……〃JS計画〃の事ですか?」
英二は、思わずたちどまった。
「という事は……あの火星での、〃ナスカ地上絵〃型の図形の発見が、本当に〃木星太陽化計画〃の進行に影響しそうなんですか?」
「ボスは別に、学者先生方とつっぱりあえといっているわけじゃない。――できるだけ先方の話をきき、こちらも〃JS計画〃の意義と進行状況をていねいに説明して、むこうの調査計画にわれわれがどういう協力ができるかを話しあい、検討の材料を手に入れてこいといっているんだ……」
ランセン部長は、角ばった意志的な顎を、ちょっと指先で掻いて、唇をへの字に曲げた。
「とはいうものの、今度の火星での発見は、かなりな事らしい。――ミリセント・ウイレムという宇宙言語学者を知っているか?」
「いま、あの二人の話の中に出て来ましたが――直接は知りません……」英二は、とうとうテラスの椅子にすわりこんでなお話しこんでいるバーナード博士たちを肩ごしにふりかえった。「でも、相当な女性らしいですね」
「その方面じゃ最高だろうな。――彼女とボスとは昔からの知り合いでね。そのウイレム女史から、総裁がちょっときいた所によると、火星での発見を総合してみると、これまで判明した〃宇宙メッセージ〃の中で、木星とその附近が、大きな意味をもちはじめたらしい。メッセージの中心的な〃鍵〃というか、重要なミッシング・リンクが、木星界隈にあるようだ、と彼女はいっているらしいんだ……」
「で――JS計画には、一時ストップがかかりそうなんですか?」
ランセンは、また眼配せして、ゆっくりとホテル環《リング》のところどころにある光と音楽の噴水の方へむかって歩き出した。
「そこが問題なんだ……」とランセンは角ばった肩をかすかにゆすっていった。
「JS計画は、技術的にではなくて、政治的にむずかしい所にさしかかっている……。そしてあの計画は、太陽系開発機構全体の将来に、いいかえればボス――ウェッブ総裁の政治的立場にかかわっている。いま、JS計画に、うかつな事で波風をたてたくないんだ。あの宇宙考古学の奇妙な発見が、学会のメンバーの中の、いわゆる政治にうとい〃純粋派〃の極端な意見をひき出してしまって、それがまたマスコミのセンセーションをまき起し、連邦議会の保守派までまきこんで、〃JS計画〃のモラトリアムまでひき起すような事態になるのを、どうしても避けたい。――君はまだよく知らんだろうが、あの計画は、実は太陽系開発機構の将来にとって、いまやきわめて重大な、シンボリックな意味をもちはじめている。計画そのもののスケジュールは、できるだけおくらせたくない……」
「それで、できるだけ学会の方針に協力するわけですか?」
「協力し、先方にも理解と協力を求めるんだ。わかるか?――バーナード博士が、火星の発見現場へ直行せず、逆に小惑星帯から木星へとんだのもそのためだと思う。博士はおそらくウェッブ総裁とすぐに話しあっている。博士と総裁とは、ハイスクールから、もう何十年来という親友だからな……」
「という事は――バーナード博士は、われわれの味方というわけですか?」
「そうはいっていない。博士の公式的立場は、宇宙考古学の開拓者で、宇宙考古学会の副会長で、組織を担う実力者だ。――われわれの味方というわけじゃなくて、個人的に総裁の親友……刎頸の友というわけだ。わかるか?」
「わかります……」
と英二はうなずいた。
「ところで――ちょうどむこうを出発する前ぐらいに、下院議員の加わった調査団がミネルヴァ基地に行ったろう?」とランセンは、何とはなしにおちつかない様子でまわりに視線を走らせながらいった。「どうだった?――連中をうまくあつかったか?」
「ええ、まあ……」英二はちょっと口ごもった。「ですが一行が来てすぐに、一騒動ありましてね……」
ちょっとけわしい眼つきになりかけたランセン部長に、英二はかいつまんで、あの「ジュピター教団」とかいう宗教団体所属の若者たちが暴れたいきさつを説明した。
「なるほど……」とランセンは、少し表情をやわらげてつぶやいた。「そいつはかえって……調査団にとってはいい経験だったかも知れないな」
「何しろこちらも相手の、まあいってみれば弱味みたいなものを手に入れたわけですからね。――団長格の下院議員など、すっかり汗をかいて、調査団メンバーの内幕などだいぶきかせてくれましたよ」
「しかし――どうやって、そんな若者たちが調査団にまぎれこむ事ができたか、という事を考えると、プラスばかりともいえんな……」ランセンはまた考えこむようなけわしい眼つきになった。「誰かが……あるいは何かが、JS計画に、一種の探り針を入れようとして、一見わけのわからない連中を、送ってみたとも考えられない事はない……」
「つまり、そういう連中に対するわれわれの対応や反応を見ようとした、というわけですか?」
突然ランセンは、手をのばして英二の腕をぎゅっとつかんだ。
「そのままゆっくり、噴水のそばへ歩け……」とランセンは低いおし殺したような声でいった。「五、六歩行ったら、さりげなく横をむいて、私と立ち話をするふりをしてくれ。……左後方のホテルの柱の所に、背の低い、小肥りの男がいないか?」
「います……」と英二は、立ちどまって大きく伸びをするようにまわりを見まわしながらささやいた。「何か……」
「どんな男だ! 小さな声で言ってくれ……」
「背は一メートル六十五センチくらい……白のトロピカル・スーツを着て、ベージュの帽子をかぶっています。黒い口髭をはやして、ポルノ新聞を見ています。靴は白と茶のコンビネーション……」
「指輪をはめているか? 右の薬指と小指だ。石は赤い色……」
「ええ、彼は何です?」
「尾行だ……」ランセンはにがにがしげにつぶやいた。「盗聴装置もねらっている。だが、ここなら音楽にまぎれてきこえまい……」
「尾行ですって?」英二はおどろいて部長の顔と、三、四十メートルはなれた所に退屈そうに立っている小肥りの男を見くらべた。「なんだって、また……」
「君には、政治の事はよくわかるまい……。木星の近くにゃ、あまり政治はない。だが、ここにはある。地球には、もっと濃密な、どろどろした〃政治〃がうずまいている。――ここは――L5コロニイあたりは、もうその渦の中心に、相当近い所にあるんだ……」
ランセンは耳の後を掻きながら、大仰に眉をしかめた。
「あの男は、宇宙港におりてから、ずっと私をつけてきた。さっきいなくなったと思ったが、やっぱりつけている……。ひょっとすると地球行きのシャトルにものるかも知れん」
「でもなぜ……部長に尾行がつくんです? つけているのは連邦公安局ですか?」
「ちがう……。反対派だ……」ランセンは、大きく息を吸いこんで上を見上げた。「太陽系開発機構は、いま、連邦議会に対して、ちょっと微妙な立場にある。――特に上院のあるグループが……どの地域のグループとはいわないが……もうだいぶ前から動き出している。連中は、最近準備工作を一段落させ、次にある大物と取り引きしようと、情勢をうかがっているらしい。上院副議長が、今、高齢と病気で療養中だが、もし万一、彼が死ぬような事があると……それに、三年後の大統領改選に、いまの大統領が出馬しないとなるとな……」
「もしそうなったら、太陽系開発機構はどうなります?」
「われわれの組織は、ユニークになりすぎたのかも知れん……」ランセンは唇を曲げて笑った。「それと、あらゆる方面での成長率が、少し急激に増加しすぎたんだろうな……。ウェッブ総裁が、これからどうしのいで行くかが見ものだが……」
ホテルの方で英二の名をよぶ声がきこえた。――とうとうテーブルに腰をすえて、飲物をとりよせていたバーナード博士とモシが、手ぶりで、一緒に飲もうと告げていた。
「行きましょう……」と英二はいった。「バーナード博士を紹介しますよ……」
「そうそう、君は、マリア・ベースハートの幼馴染みだったな……」柱の影の尾行の姿が消えているのをたしかめながら、ランセンはつぶやいた。「彼女とさっき、シティ環《リング》であったよ。すごくきれいになっていたが……ここで会ったか?」
マリア・ベースハートが、「暴れた若者たち」のリーダーだった事を、英二は何となく部長にいいそびれてしまった。
そして――そのマリアは、地球行きシャトルの出発時刻に、フェリー・ポートにあらわれなかった。かわりに乗船カウンターに一通のメモが残されていた。
〃ごめんなさい、英二。一足先に、月経由の別便でたちます。地球へ来たら、ぜひ、ピーターにあってください。――マリア〃
東京、新宿の文化財高層ビルと、灼けた青空を見上げながら、そんな回想にふけっていた英二の胸もとで、「WSAA・SM・TOKYO」と書かれたプラスチック・カードが突然、赤い光を点滅しはじめ、ピイピイというコール音とともに、女性のコンピューター・ヴォイスがアナウンスをはじめた。
――本田英二さま……本田英二さま……間もなく会議がはじまりますので会場へおこしください……。
4 WSAA特別会議
胸につけたIDカードを通じて、会議のはじまりを告げられたが、ホテルから旧西新宿の保存高層ビル群のそそりたつ界隈へ、体ならしのつもりでぶらぶら歩いてきた英二は、肝心の会場がどこにあるのか、どうやって行ったらいいのか、さっぱりわからなかった。
あいにく、会議の案内や資料をいれたカセットテープは、ホテルへおいて来てしまった。――それに、ふと気がつくと、とまっているホテルへ帰る道さえ、あやふやだった。
――迷子になったぞ……
と、英二は苦笑した。
さいわい、広場の一隅に案内《インフオメーシヨン》ブースがたっていた――。英二が近づくと、スイッチがはいって、画面に栗色の髪と緑色の眼をしたあだっぽい美人の顔がうつった。
「どんな御用でしょうか?」
と画面の中の女性は、にっこり笑って少し鼻にかかったハスキイな声で話しかけた。――3D映像ではなくて、平面映像をつかっているのは、女性の表情や応対の口の動きが、コンピューター制御によってつくり出されている証拠だった。
英二は胸のIDカードをはずして、画面の前につきつけた。
「この会議がもうじきはじまるんだが……」と英二はいった。「会場へはどういったらいいかね?」
「WSAA……特別会議《スペシヤル・ミーテイング》……」
画面の中の女性は――正確にいうと、実在の女性の映像をもとにして、それをコンピューター制御で動かしている映像は――エメラルド・グリーンの瞳を動かしてカードの文字を読んだ。だが、その瞳の動きはどこか機械的であり、生きて実在している女性が読んでいるのではなく、その瞳の動きと連動している〃機械の眼〃が読んでいる事が、よく注意するとわかるのだった。
「ああ、宇宙考古学会の東京会議ね……。それなら……」
突然女性の映像が小さくなって画面の片隅により、画面一ぱいに附近の地図があらわれた。
「あなたの今いる所はここ……」
と女性の映像が、手にもったポイント・ライトで、地図の上をさすと、そこに赤い光点が明滅しはじめた。
「そして、会議の会場はこれ――フジ・コンヴェンションホールの、一階中会議室です。コースは、こうたどって行って歩いて五分ほどだけど……あなたのIDカードを、そこのスロットに入れなさいな。方向指示をレコードしてあげるわ……」
英二はいわれた通りに、胸につけていたカードをとって、ブースについている細長い穴に入れた。――会場までの「地図」をカードが記憶している間、女性の映像は、もとの等身大のバスト・ショットにもどり、両肘をついて組みあわせた手の甲に顎をのせて、色っぽい眼つきで彼を見つめていた。
「あなた、若くて、ハンサムなのね……」と、女の映像は彼にむかって笑いかけた。「……どこから来たの? 月?」
「木星からだ」英二はスロットから吐き出されてきたカードをとりながら笑いかえした。「君もずいぶん色っぽいけど……本ものの君には、どうやったらあえる? あとでデートできるかい?」
体をのり出すようにして、すごいヴォリュームのある乳房の谷間を、胸もとからわざと見せつけるように両肘をついていた女性の映像は、彼の言葉をきいて、突然ストップモーションがかかったように硬直した。――ほんの、一、二秒、微笑をうかべたまま凍りついていたその映像は、またゆるゆると動き出すと、少しちがった声音で、早口にささやくようにいった。
「本当はこんな応対をしちゃいけないんだけど……この映像と、音声を提供してくれた女性は、二年ほど前に死んじゃったの。残念ね……」
「そんなに若くて、色っぽいのに死んじゃったのかい?――それとも……もう婆さんになっていたのかな?」
「失恋で……薬物中毒で……自殺よ……」
そこで映像が、ぎごちなくちょっとつなぎがとんだようだった。――案内コンピューターのマザーコンピューターの方から、〃倫理回路〃のチェックがはいったらしかった。
女性の映像は、一番最初と同じような、愛嬌のある笑顔にかえると、
「ほかに何か御用は?」
といった。
「もういいよ、ありがとう……」と英二は手をあげていった。「君が生きているうちにデートしたかった……」
案内ブースの前をはなれながら、英二は一種奇妙なあと味を口の中に感じていた。――コンピューターの音声応答システムに、女性の声を採用する事は、ミネルヴァ基地の〃ナンシィ〃でも行われていたが、地球上では、それをもっとなまなましく「人間くさい」ディスプレイにまでおしすすめている……。もしあの、「容姿」と「声」を提供した女性がまだ生きていたら――彼のデート申しこみをうけるように、コンピューターの応対プログラムをひそかに細工していただろうか?
――それにしても、あの案内コンピューターは、なぜ、あんな「個人的な応対」までできるようになっていたのだろう? まるで「本ものの女性」のように……。
すでに、二年前に失恋自殺した女の、生けるが如き「イメージ」とむきあって、つい話しこんだ、という妙な体験が、英二の舌の上に、妙にざらざらとした味わいをいつまでものこした。
胸のSLSI組みこみのIDカードが記憶した地図により、ある街角にくると、カードの隅に曲るべき方向を示す明りが点滅し、信号音が発せられた。それにしたがって右へ曲り、また右へ曲りして行くと、美しい曲面を何層にもかさねた白とスカイ・ブルーのフジ・コンヴェンションホールの建物が見えて来た。入口横の壁面に、「WSAA・SM・TOKYO」のライト・サインがうかび上がり右の方へ矢印が点滅している。
入口をはいって右へ行くと、廊下の上に再び「宇宙考古学会・特別会議、東京」の文字が宙にうかんでいるのが見えた。――中会議室のドアをあけて中にはいると、二百人ぐらいはいれる室に、参加者は、五、六十人ぐらいで、もう壇上では、バーナード博士が大スクリーンを背景に報告をはじめていた。「どこに行っていたんだ?」
ランセン部長が、足音をしのばせて近よって来てささやいた。
「朝から姿が見えないんで、心配していたんだぞ……」
「すみません。体ならしに散歩に出ていて……ちょっと迷ったんです……」
「まだはじまったばかりだ。これからかなりえんえんと専門家の話がつづきそうだが……」そういってランセン部長は、ほのぐらい会場内を、ぬすみ見るように見まわし、一段と声をひそめた。「かなり慎重にかまえなきゃならんぞ。――参加者の中に、厄介な人物が二、三人いる……」
「厄介なというと――〃宇宙開発反対派〃の代表ですか?」
「別にあからさまに〃反対派〃が代表をおくりこんで来ているわけじゃない。何しろ学会だからな。――だけど、個人的に〃モラトリアム〃に傾いている学者も二、三人いるし……学術文化局からオブザーバーできている役人の中に、ちょっと議会筋の、うさんくさいコネのあるものもいる……。それに――ある財団の理事が来ているが、これがどうも腑におちない。政治家上がりだが、出身が保安関係だ……」
「そういえば、あの男も来てますよ……」と英二は入口のわきのうすくらがりに顎をしゃくった。「ほら、オニール中継点《ジヤンクシヨン》で部長をつけていた男……」
ランセン部長が体をかたくするのがわかった。
だがその時、二人の前にすわっていた白髪の学者が不機嫌そうな顔でふりむいて、
「ちょっと静かにしてくれんかね……」
ととがった声でいったので、部長と英二は口をつぐんで、神妙に壇上に顔をむけた。
「いま、手短に申しましたように……」
と、壇上のバーナード博士は、大スクリーンにうつし出された、直線の無数に交錯する奇妙な図形を背景にしてしゃべっていた。
「今回、火星の北極地方の氷冠の下から見つかった〃ナスカ型図形〃のうち、いまの所はメーザー・ホログラフィ・パターンがまだ部分的に解読されたばかりですが、早くもそれが、地球上における〃ナスカ・ホログラフィ・メッセージ〃と補完的な関係にある事が明確になりました。――ここで、新発見の〃火星メッセージ〃と、〃ナスカ・ホログラフィ・メッセージ〃とのつながりについて、簡単にご説明申し上げたいと思います……」
「あれが、その〃ナスカ図形〃ですか?」
と英二はランセンに小さな声できいた。
「そうだ」とランセンはうなずいた。
「あれ以外にも、鳥の絵やクモザル、クモなどの巨大な地上絵があって、そちらの方はずいぶん古くから人眼をひいていたんだが……あの沙漠の中にでたらめにひかれたような直線や帯のパターンの方は、長らく正体がわからなくて、まさか、あれが古代に来た宇宙人がのこして行った、メーザー・ホログラムだとは、誰も思わなかった……」
それが、宇宙人の書きのこして行った、巨大な〃メッセージ〃だとわかったのは、二○七一年に、地上移動局と航空機と人工衛星をつかった、新型のレーザー=メーザー通信機の大規模テストをやった時だった。――特殊ガスと半導体をつかい、可視帯域の光から、中波帯域まで、連続的に波長の変換ができる発振機をつかった通信装置だ。
高度百四十キロメートルで、北から南へ、極軌道をとぶ人工衛星から、地球の球面の切線方向へ、連続的に振動数のかわる高出力のレーザー=メーザー・ビームを発し、それが地表散乱《グラウンド・スキヤツター》によって、どれだけ地平線のむこうへまわりこむかを、新大陸太平洋岸に配置された地上局と航空機でチェックしていた時、突然、赤道上三万六千キロの高度にある静止衛星局から、地上からのセンチ波の反射波の中に、奇妙なパターンが記録されたといってきた。――再度テストして見て、その「奇妙なパターン」が発生する場所が、あの有名な「沙漠の地上絵」のある、ナスカ高原だという事がつきとめられたのである。
もっとも、それが明白な「メッセージ」である事が立証されるまでには、それから実に、二十年以上かかったのだが……。
「この〃ナスカ・宇宙メッセージ〃は、これまで漠然と、地球上空を人工衛星高度で通過しつつ、メーザーないしは遠赤外レーザーで地上探査を行う飛行物体に対し、一種のSOSをなげかけているものと解釈されていました……」
バーナード博士は、背景の映像をきりかえた。――実写の「ナスカ地上パターン」がコンピューター処理をうけて抽象化され、それにメーザー散乱によってうかび上がった信号の波形と図形が、ワイプで挿入される。図形は、いくつかの補助線をひかれた天体配置図のようであり、信号の方は、パルス・コードをつかっている……。
「しかし、今回発見された〃火星メッセージ〃は、〃ナスカ・メッセージ〃より、はるかに多量の情報をふくみ、しかも、ながらく火星極地の氷冠の下の、かたい岩盤上にきざまれていたため、ナスカの場合のような風化による損失はほとんどなく、解析によって、二進法による記号、図形が大量に採取され、その一部が解読されました。――その結果を、ナスカ、月、小惑星上でこれまで発見されてきた〃宇宙メッセージ〃とつきあわせる事により、人類文明発生以前にこの太陽系へ飛来した、異星系宇宙人ののこして行ったメッセージの、全貌のほとんどが明らかになりつつあります……」
バーナード博士は、映像をさらにきりかえた。――火星北極のD6氷床の下、さらに隣接するD7、E3氷床の下から、D6につづけて発見された〃ナスカ型宇宙メッセージ〃の、ま上からとった写真がならぶ。
「これが発見されたばかりの〃火星メッセージ〃であります。――ナスカよりはるかに精巧な、高空よりのミリ波超高出力メーザーによってきざまれたものと思われ、推定年代は地球や月のものよりはるかに古く、約五万年前のものとされています……」
「ちょっといいですか……」と会場から手が上がった。「バーナード博士……なぜ、そのメッセージは、火星の氷の下にかくされていたのですか?」
バーナード博士は、壇上の左手へむかって手をのばした。――若い長身の黒人が、隣席から会釈して発言した。
「〃火星メッセージ〃の第一次調査をやった、モシ・ンザロです。――のちほどくわしく申し上げますが、簡単に申し上げますと、火星はいまから約四万五千年ほど前、自転軸が急激に移動したと考えられ、そのため、最初はナスカ同様、低緯度帯にきざまれていた地上メッセージが、北極附近に移動してしまったものと思われます……」
「では〃火星メッセージ〃と〃ナスカ・メッセージ〃をあわせて解読にあたっておられる、宇宙通信工学のミリセント・ウイレム博士に、これまでわかった〃宇宙メッセージ〃の内容について、概略を説明していただきたいと思います……」
バーナード博士は、右手の3Dビデオフォンの方をちょっとふりかえった。――回線がつながり、映像が出てくるまですこし間があった。
その時、英二の耳に、女の声がささやいた。
「本田英二さまですか?」
ふりかえると、ガードウーマンの少女が二つにおりたたんだ紙片をさし出した。
「御伝言でございますが……」
「誰から?」
「存じません。お名前はおっしゃいませんでした……」
「電話でかい?」
「いえ――。御本人かどうかはおっしゃいませんでしたが、若い女の方がこれを渡してくれとの事でした……」
うけとって開く前に、英二は、3Dテレビ電話の受像機の上に、上半身だけの等身大立体像としてあらわれた、女性の姿にちらと眼をやった。――出現する時に、何かの音楽が鳴ったが、彼の知らない曲だった。
「ミリセント・ウイレムです……」
と、女性の立体像は、会場にむかってあいさつした。明るい栗色の髪を肩にすべらせた、三十をいくつかすぎていると思われる、がっちりとした大柄な女性だった。骨太で肩も四角くはり、頬骨が高く、顎が長くて、ちょっと見るといかつい感じだったが、しかし大きな褐色の眼、美しく弧を描く眉、形のいい意志的な唇などの配置は、きらめくような知性美をあらわしていた。
「ただいま、月面のシューベルト通信センターにおりまして、ひきつづきメッセージの解読をつづけておりますので、残念ながら東京会議には出席できません。3DTVフォンを通じて、月面から参加させていただきます……」
ミリセント・ウイレムは、ややハスキイな声で、明晰な調子でしゃべり出した。
「さて、〃火星メッセージ〃を、これまで発見されていたナスカ、月、その他の場所のメッセージの断片とつきあわせてみた結果、何重もの検討を経て、その言語構造が、地球において一世紀以上にわたってつづけられてきた〃宇宙通信計画〃――たとえば、セティ計画やサイクロップス計画、修正オズマ計画などのために開発されて来た〃宇宙言語《スペース・ランゲージ》〃と、基本的には同じだ、という確信をもちました。特に〃火星メッセージ〃にふくまれていた、解読のための〃一般《ゼネラル》キイ〃によって、その言語システムは、地球で開発された〃リンコスAZ7000〃とほとんど同じであり……」
英二はききながら、そっと今わたされた紙片をひらいてみた。そこには走り書きでこう書いてあった。
「本田英二さま、アサクサ626S、43Qの〃マウエ・ティキ〃で16時に待っています。――マリア」
5 誘拐
マリアからのメッセージをにぎりしめて、英二はちょっと会場の時計を見上げた。――13時15分だ。
月のシューベルト通信基地からおくられて来ている、ミリー・ウイレム女史の立体像の様子を見ると、「宇宙メッセージ」解読の基本的手順を、専門用語をつかって立板に水を流すように説明していて、その様子ではまだまだ長くかかるようだった。
木星から、L5宇宙コロニイまでの間、船中で、特に後半ほとんどふれる事のできなかったマリアの繊細な体の事を思うと、のどもとに何かかたい塊が、ぐっとこみ上げてくるような気がして、英二はさりげなく席をたった。――ランセン部長は、記録装置とコンピューター端末のある二つむこうの席に移動していて、ウイレム博士の話を熱心にチェックしている。
そっと後のドアからぬけ出すと、ちょっと肥り肉《じし》の、若く、愛くるしい顔だちのガードウーマンが、何か? というようにほほえみかけた。
「ちょっとききたいんだけど……」と、英二もほほえみかえしながらきいた。「アサクサという所は、ここから遠いかい?」
「いいえ……」とガードウーマンは首をかしげるようにしてこたえた。「タクシーで、――そうね、十五分ぐらいかしら……」
「どんな所?」
「どんな所って――にぎやかな、伝統的ダウンタウンですわ。観音さまがあって……」
「それ、なに? カンノンさまって……」
「仏さま……つまり大きなお寺があるの。東京ははじめて?」
「そうなんだ。――タクシーはどこでのれる?」
ガードウーマンは、白い手袋をはめた手をあげて、ホール入口の外側に見えている、タクシー・コール・ブースをさした。
「ありがとう。ああ、それから……」英二はちょっと考えていった。「いま、中会議場の中にいる、バーナード博士って背の高い老人と、ランセン部長っていうがっちりした人に、ちょっと伝言してくれないか? ただし、ぼくがタクシーにのってからね……。一時間ほどで帰りますって。ぼくの名は本田英二……会議は何時までの予定だっけ?」
「一応会場は18時までとってありますわ」
「じゃよろしくたのむ……」
英二は、足早に――といっても、一Gの重力はまだ骨にこたえるので、重々しい足どりで入口を出、タクシー・コールのボタンをおした。
三十秒もたたないうちに、二人のりのコンピューターカーが、物かげのタクシーだまりからすっとんで来て、ドアがあいた。
「お一人でっか?」
と、シートにつくと、なまりのあるコンピューター・ヴォイスが、いきなり右上部の小さいスピーカーからとび出して来た。
「毎度おおきに……。どちらまでやらせてもらいまひょ?」
英二は、シートの前にある映像ディスプレイ装置に、10《テン》キイ端末をよび出して、行先コードをうちこもうとした。
「そんなややこしい事せんと、口でいうとくなはれ……」と、タクシーはいった。「何やったらそのメモ、カメラに見せてくれはったら……」
英二はちょっと苦笑して、映像画面の横にある小さなカメラに、メモをおしつけた。――映像ディスプレイ装置の画面には、すぐにアドレス・コードがうち出された。
「まちがいおへんな?」
とタクシーはききかえした。英二がOKボタンをおすと、タクシーはかなり乱暴な発進をして、誘導路《ガイドウエイ》を走りはじめた。――あけはなった窓から、急に吹きこんできた風が、胸ポケットにあさくつっこんだ、メモ用紙をふきとばした。英二はあわててポケットをおさえたが、メモ用紙は窓の外へとんで行ってしまった。彼はちょっと舌うちして、胸についているIDカードをはずし、ポケットにしまいこんだ。
「窓、しめまひょか?」
とタクシーがきいた。
「いいよ……」と英二はシートに深くかけなおしながらいった。「ところであんたの言葉は――かなりなまってるな……」
「わて、オーサカ産だったさかいな……」
そういって、タクシーは奇妙な笑い声をたてた。
浅草雷門の前でとまると、タクシーは、
「ここから先ははいれまへんねン……」といった。「〃マウエ・ティキ〃ちう店は、そこの仲見世通りはいって、四つ目の角を左へはいっとくなはれ。――目ェむいた、いやらしい木像がたってまっさかい、すぐわかります」
仲見世通りは、肌をむき出した軽装の人々でごったがえしていた。――地域エア・コンディショニングはこの区にもあるのだが、最近は「自然にかえる」という事で、よほど寒暑のひどい時でないと切っている所が多く、ここでも頭上からぎらぎら照りつける夏の日と、雑踏の発する熱気がむっとおしよせてくるようで、十メートルも行かないうちに、汗がどっとふき出した。
熱っぽい、べたべたした人肌にふれそうになるのを、肩をすぼめるようにしてすりぬけ、四つ目の角を左に曲ると、そこは道幅もせまく、人通りも急にすくなくなった。
――小ぎれいなレストランや喫茶店の間に、何の店ともわからぬ異様な色彩と造形の看板がはさまり、セミヌードにちかい服装の若い男女が、退屈そうな顔をしてぶらぶら歩いている。中には、小さなベンチに腰かけて、露骨なヘヴィ・ペッティングをやっているカップルもいた。
〃マウエ・ティキ〃の目じるしとして、タクシーがおしえてくれた、ポリネシアの奇怪な航海神の像はすぐわかった。――本当に現地製のものか模造品か、英二には判定しようもなかったが、高さ二メートルくらいの、ずんぐりした体型で、瞳のない大きな眼を怒らせ、ぐわっと開いた大きな口の、とがった歯の間からわずかに舌をのぞかせている黒っぽい木彫りの像が、通行人を威嚇するようににらんでつったっている。入口の両脇の、竹の柱の上に、舟虫の食ったあとのある流木がうちつけられ、白と赤のペイントで〃MAUE・TIKI〃とへたな字で書かれていた。
堅い木の実をつないだ、玉すだれ風のカーテンをかきわけ、その奥の木製のドアをおして中にはいると、ガーンと耳のいたくなるようなスチールギターとタムタムの音があたりをみたした。はいったばかりの所は、眼がなれるまで物のかたちが見わけられないほど暗かったが、すぐ先にまばゆくかがやく白砂と青い海があり、磯の香りをふくんだ、しめってなまあたたかい風が、むっとふきつけてくる。――もちろんほんものの海であるわけはなく、大型動画ホログラフによる南太平洋のリーフの立体映像と、わずかな人工の砂浜、それに浅い海水プールをくみあわせたしかけなのだが、その人工の砂浜では、ブロンズ色に陽やけした半裸の、あるいは全裸の若い男女がごろごろねそべって、人工太陽光に肌をやいており、何組かは水中で、あるいはマットレスの上で、物うげにセックスをやっていた。
音楽ははげしいのに、客の男女の動きは、薬でもやっているのか妙に生気がなく、のろのろしていた。――椰子の葉で天井をふいた暗がりのあちこちのテーブルでは、飲み物を前にしてぼそぼそと話しあっている何組かがあり、中にはテーブルにつっぷしてねこんでいる若者もあったが、眼がなれると、その店は、要するにポリネシア風の俗悪なスナックディスコだという事がわかった。暗い椰子小屋風の店内には、所せましと熱帯植物の鉢植えがおかれ、天井までとどく水槽内には、色とりどりの熱帯魚が泳いでいる。
奥の方の、粗末な木のステージの上で、三人ほどのポリネシア系らしい男が楽器をうちならし、これも少し薬に酔っぱらっているらしいフラ・ダンサーが一人、リズムに全然あわないのろのろしたしぐさで、ハワイアン・フラとも、タヒチアン・ダンスともつかない踊りを踊っている。褐色の乳房をあらわにし、まばらなフラスカートの下には何もつけていない。赤い髭をもしゃもしゃはやした若い白人が、ステージの下にあおむけざまにねころがっていたが、近よってみると、別に踊り子をのぞいているわけではなく、酔っぱらって大口をあけ、いびきをかいて眠っているのだった。
何とはなしに〃場ちがいな所〃へ来てしまった感じで、英二はおずおずとあちこちのうす暗い隅にマリアの姿をさがした。――だが、マリアの姿は、どのテーブルにもなかった。
「ホンダ・エイジさん?」
突然、かたわらで強い花の香りと一緒に、少しかすれた甘い声がした。
ふりかえると、肩にたらした漆黒の髪に、ハイビスカスをさした、背の高いウエイトレスが立っていた。――黒い大きな瞳に、油をぬったような褐色の肌をした、チノ・ポリネジアンらしい女性だ。肩からかけたレイをむき出しの見事な乳房がおしあげ、高いヒップの横、骨盤の角で辛うじてひっかかっている赤いプリント地の腰布の下は、これも何もつけていない。
「マリア・ベースハートさんが、奥の部屋でお待ちですけど……」
と、ウエイトレスは、色っぽい流し目で英二の顔を見ながらいった。
「どっちだい?」
と英二はきいた。
「ご案内しますわ……」とウエイトレスは、ウインクしていった。「こちらへどうぞ……」
ウエイトレスは、ステージのすぐ下でひっくりかえっていびきをかいている男の顔を、当り前のような顔をしてまたいで奥へむかった。――かえって英二の方が、短い腰布の下に何もつけていない所を、下からのぞかれたのではないかと思って、顔が赤くなった。
ステージのむこう側に、妙にエロチックな五彩の曲線曲面が波うちうごめく大きなホログラフ・オブジェがそなえてあり、ウエイトレスの褐色の背中と、わずかな赤い布に包まれた見事なヒップは、その光の像の左半分を横切ってむこうへ消えた。――つづいて、光のオブジェを横切った英二は、まわりが急に暗くなったので、数秒ほど視力を失って、爪先さぐりに進んだ。肩が壁にぶつかり、せまく、ほそ長い通路へはいりこんだようだった。
突然、左手の方から、おし殺したような女の悲鳴がきこえた。――つづいて、男のうめき声と、別の男のひくくののしるような声、さらに重いものがぶつかりあう音……。英二は暗がりの中で、反射的に身がまえた。筋肉はかたくなり、心の底の方で、まだあまりなれていない地球の大きな重力を反射的に計算していた。
うめき声と、もつれあうような音は、左のすぐ前方から、なおきこえて来た。――英二は息をひそめ、右手の壁に手をふれながら二歩、三歩とじりじりと進んだ。左手の壁が、ふいになくなると、ピンクと青と緑の光が、そこからさして来た。――女の鋭い叫び声がつづけざまにきこえ、男たちのあえぎや、家具がぎしぎしときしむ音が、叫びの背景につづいた。
ドアを半びらきにした、せまくるしい部屋の中で、全裸の女と、同じく全裸の男二人が、奇妙な形でからまりあいながら、セックスにふけっている光景を、英二は廊下から呆然としてながめていた――。女はもうあまり若くなく、三十四、五だろうか。男たちも四十をこえているように見えた。三人は開いたドアなどにはおかまいなしに、汗みずくになってもつれあっていた。下半身の前後から男たちに責められている女は赤い髪をふりみだし、大きな牝牛のような乳房をゆさぶって、快感をあらわす言葉をわめきちらしていた。
「何してるの?」と、すぐ背後でウエイトレスの声がした。「こっちよ……」
彼の肩ごしに、室内の光景を見て、ウエイトレスはくすっと笑った。
「あの人たち、もう、三時間もあんな事やりつづけているのよ……」
と、ウエイトレスはささやいて、ちょっと体をおしつけてきた。――おしつけながら、彼女は手の甲で英二のズボンにさりげなくふれ、同時に彼の手をとって、案内するように見せかけながら、自分の腰布の下に導いた。きれいに刈りこまれよく手入れされた、こんもりとしたものの手ざわりに、英二は思わずびくっと手をひっこめた。
「あなた、ハンサムね……」とウエイトレスは、むき出しの乳房を彼の腕にこすりつけるようにして、かすれた声でいった。「あとで私と寝ない?――クレジットカードはなにをもってるの?」
「〃太陽系クレジット〃だが……通用するかい?」
「あら、あなた地球の外から来たの?」ウエイトレスは、ちょっと体をはなすようにして、彼の横顔をながめた。「でも、いいわ。――あとで声かけてよ。あたしの名はキキ……」
「わかったよ、キキ……」と、英二は汗を手の甲でぬぐいながらうなずいた。「ところで、マリアのいる部屋は……」
「あそこよ……」とキキは、廊下のつきあたりを右に折れた奥をさした。「あのマリアって人、あなたの恋人?――きれいな人ね……。でも、あなたも別にセックスの相手にこだわるタイプじゃないでしょ? あとで、本当に声をかけてね……」
ウエイトレスは、大きくウインクして、にっと白い歯を見せると、くるりと背をむけて、その見事なヒップをふりながら表の店の方に遠ざかって行った。行ってしまってからも、花の香りがいつまでも強くのこるので、やっと気がついたが、その香りは彼の右手の指先から立ちこめているのだった。――キキというウエイトレスは、恥毛に強い香水をふりかけていたのだ。
指先にしみついた強烈なにおいを嗅ぎながら、英二はふと暗澹たる気持ちにおそわれた。――マリアは……彼女は、なぜこんな店をデートの場所にえらんだのだ? 彼女はこの店の常連なのだろうか? いったいいま、マリアはこの妙な場所で、何をしているのだろう?
いずれにしても、ここは宇宙ではなく地球だ……と、彼は頭をふって、思いなおそうとした。――生命も、人間関係もセックスや音楽も、とにかくなにもかも濃密な、むしろ「過密」といってもいい環境なのだ。
ウエイトレスに教えられたドアを、彼はノックもせずにあけた。
「マリア?――ぼくだ……」と、彼は室内にふみこみながら、うす暗がりの奥に立つ人影にむかって声をかけた。「用事ってなんだい?――あまり時間がないんだ。会議がまだつづいていて、できるだけ早くもどらなけりゃ……」
がん!
と、はげしい打撃が、いきなり英二の後頭部をおそった。猛烈な獣くさい体臭と、すえた汗の臭いがすぐそばでした。よろめきながら、腕をあげて第二打をかわそうとした彼の背中へ、今度は別の方角から、ずしんと衝撃がくわわり、彼はたまらず床にたおれた。ころがりながら、第三打をかわそうとしたが、次の打撃は横顔をかすめ、肩へめりこんだ――。それが、ひらべったいポリネシア風の棍棒であり、そいつをめったやたらにふりおろしているのが、半裸のひげだらけの男二人だという事が、やっとかすみかけた視界を通して理解できた。
「やめて!」と、マリアの金切り声が部屋の奥からひびきわたった。「やめてよ! なんて乱暴な事するの!」
「だけど、マリア……」と彼の頭の所につったった男がいうのがきこえた。「君は、彼をどうしても連れて行くって……」
「こんなひどい事をしなくたって……私は、彼の説得ができなかったら、手をかしてっていっただけじゃないの!」
マリアらしい影がかけよってきて、彼の頭におおいかぶさるように近づいた。
「英二!……英二!……しっかりして!――大丈夫?」
だが、英二にはその声をききわけるのがやっとだった。
――マリア……
と口の中で小さくつぶやくと、彼の意識は気持ちの悪いべとべとした闇におちこんでいった。
6 大気の底
「木星?」
と、聴衆の学者の一人が、おどろきの声をあげた。
「――木星だって?」
「木星がいったい……あの、〃宇宙人メッセージ〃とどういう関係があるんだ……」
ほかの学者たちも、がやがやと私語をはじめWSAA東京会議の会場は、騒然となった。
「おしずかにねがいます!」
と議長席のバーナード博士が、マイクに口をよせて叫んだ。
「その件については、これからウイレム博士が、順序だてて説明いたしますから、みなさん、どうかおしずかに……。ウイレム博士、つづけてください……」
「ありがとうございます。バーナード博士……」
と、月のシューベルト基地から送られて来ているミリセント・ウイレムの立体映像は、議長席にむかってかるく頭をさげた。
「――いま申し上げましたように、地球上のナスカ高原、月の裏面、小惑星の一部、それに今度発見された火星極冠部の〃宇宙メッセージ〃を総合してみると、このメッセージの全体の性格が、おぼろげにうかんできます。それはこのメッセージが、全体として何かの〃警告〃をあらわしているらしい、という事です」
「どんな〃警告〃かは、まだわからないのかね?」
と、小柄な老人がたまりかねたように声をかけた。
「まだよくわかりません。――それが〃警告〃らしいという所までで……」
「誰にあてた警告だと思うかね?」
「それもはっきりしませんが、やはりあとからくるかも知れない自分たちの仲間に対して発したものと解釈すべきではないかと思います。あるいは……」
「まさか、後世のわれわれ地球人へあてたものではないだろうな……」と誰かがまぜかえすようにいった。「連中が太陽系に来たころは、われわれの先祖はまだ、洞穴にすんで、石の斧でマンモスをぶち殺していたんだからな……」
笑い声が会場のあちこちに起ったが、ミリー・ウイレムは逆にちょっと顔をひきしめた。
「その可能性だって、ない事はないと思われます……」と、彼女は慎重な調子でいった。「あとからくる仲間――というよりは、あのメッセージを解読する能力をもった、すべての宇宙知性体にむけられている、とも思える節もあるのです……」
場内はちょっと、静かになった。
――ミリーの言葉の裏にひそむ、何かしら異様なものの気配が、場内の誰にも感じられたからだった。
「その〃警告〃の、正確な内容は、いま手もとにあるデータだけでもうめる事ができるかも知れません。しかし、メッセージの別の部分――これはかなりの部分が、太陽系へ飛来した宇宙人の年代記《クロニクル》からなっていますが――を読みといて行くと、その〃警告〃のもっとも重要な部分が、木星空域のどこか……とりわけ木星大気の中に、沈んでいる可能性があると思われるのです……」
議長席のバーナード博士が、手をあげてハワード・ランセンをよんだ。――ランセンが議長席に近づくと、博士は低い声でいった。
「英二はどうした? 姿が見えんようだが……」
「さっきまで、近くの席にいたんですが……」
と、ランセンはいぶかしそうに会場を見まわした。
「ここらへんから、彼にミリーの話をきかせておいた方がいい……」と博士はささやいた。「出番はまだだいぶ先になるだろうが……」
ランセンはうなずいて、足音を殺しながら議長席をはなれ、きょろきょろと会場内を見まわしながら、出口の方へ歩いていった。――出口の所で、ガードウーマンをつかまえて何か話しこんでいるランセンの姿をちらと横眼で見て、バーナード博士は、明晰で、たたみこむような口調で説明をつづけるミリー・ウイレムの立体映像の方に、再び関心を集中した。
「宇宙人の年代記《クロニクル》の方は、今回みつかった〃火星メッセージ〃によって、その内容が急速にはっきりしてきました。――今までわかった事を、ざっと申しあげますと、この宇宙人たちは、およそ十万年ほど前、地球上では、リス氷期とヴルム氷期の間の第三間氷期のころ、太陽系からおそらく十数光年乃至数十光年はなれた恒星系から飛来し、最初に木星の衛星軌道に、彼らの〃基地〃を――おそらく、一つの〃都市〃とよんでいいほど巨大な、彼らの移住用宇宙船をのせました。そこを中心にして、彼らはまず小惑星帯に進出し、つづいて五万年以上前に、かなりの人数が、火星へ移住して来たと考えられます……」
「よそへ出て行ったって?」 ランセンは、思わず声をあららげた。
「いったいどこへ行ったんだ?」
「さあ――私は存じませんが……」丸ぽちゃの、子供子供した顔つきのガードウーマンは、相手の見幕に、ちょっとおびえたような表情をした。「あの……ランセン部長でいらっしゃいますか?」
「そうだ――。何か伝言があったのか?」
「ええ、先ほどコール・サインを出したのですが……応答がなかったので、いらっしゃらないのかと思って……」
ランセンは、胸につけた、通信装置つきのIDカードをもぎとるようにはずした。――〃CALL〃と赤字で印刷された個所を、指でおさえたが、フリッカーがつかない。
「ちくしょうめ!……バッテリイが切れている!」
とランセンはうなった。
「バッテリイ、すぐおとりかえしますわ……」
とガードウーマンはあわててポケットをさぐった。
「いいから……どんな伝言だ?」
「ええ、あの――ランセン部長と、それからもう一人の方にって……。あの、その方の名前……私、きいてすぐ忘れちゃったんです。ええと……ブ……バ……」
「バーナード博士?」
「ええ、そう!――本田さまが、ランセン部長とバーナード博士へって……」
「で、本田は何ていったんだ?」
ランセンは、いらいらして舌を鳴らしながらいった。
「ええ、あの……ちょっと出かけてくるって……。一時間ほどしたら、帰るそうです」
「一時間?」ランセンは時計を見上げた。
「出てったのは、どのくらい前だ?」
「ええと――二十分か二十五分くらいになります」
「どこへ行ったかきいてるか?」
「いえ、何も……。若い、赤毛の女の方が、メッセージをもってこられて、それを本田さまにおわたしすると、すぐ……」
若い――赤毛の女だと? とすると、マリア・ベースハートではなさそうだが……それにしても、こんな重大な会議に、わざわざ特命をうけて、はるばると木星のミネルヴァ基地からやって来ながら、会議の途中に、女によび出されて、一時間もぬけ出すとは何事だ! あいつ、重力の大きい地球へ来て、しかも日本のむしあつい夏に、頭がいかれちまったのか?
ランセンは、かっかとしながら会場をとび出した。――とび出した所で、どこへ行ったかわかるわけはないのだが、とにかく彼は、大股でコンヴェンション・ホールの入口へ歩きながら、いろいろと考えた。
――きっとそうだ。やつは少しおかしくなっちまったにちがいない。地球では、万事ゆたかに、うまく行っているようだが、ここ数十年来、どこか社会のたががゆるみ、いろんなこまかい所が、だらしなく、いいかげんになっている。――緊急回線がつながる事のある大切なIDカードの通信用バッテリイはきれている。ガードウーマンは、伝言をつたえるべき、もう一人の人物の名を忘れる。それに、おれをよび出して応答がなかったらそれきりで、会場内をさがそうとしない……。
地球における、こまかい所のいいかげんさ、士気《モラール》の低下は、その妙に享楽的な、べたべたしたムードとともに、最近他の宇宙空間でもちょいちょい問題になっていて、その現象を、地球以外の住人は、ひそかに「地球病《アース・デイジーズ》」とよんでいた。……地球へ行くなら「地球病」に気をつけろと、月や火星や宇宙都市の連中はよくいったものだ。――何しろ、百分の一秒の差が死につながる宇宙空間とちがって、よほどのんびりした所だからな……。
ホールの外へとび出して、左右を見わたしながら、ランセンはわめくようにいった。
「やつはどっちに行ったか、見なかったか?」
「ここからタクシーにのって、どこかへ行かれましたけど……」
あとから、自分も汗をしたたらせながら追ってきたガードウーマンは、同じようにきょろきょろとまわりを見まわしたが、ふと、あら、と小さな声をあげて、タクシー・コールのブースの下にはりついている小さな紙片をつまみあげた。
「あ、これよ!――これですわ、あの方におわたししたメモ……」
それは、タクシーがはしり出した時、英二の胸ポケットから風で吹きとばされ、窓からとび出した紙片だった。
「やっぱり、マリアか……」とランセンはうなった。「君……。この〃マウエ・ティキ〃って店を至急よんでみてくれ。アドレスはここだ。――緊急呼び出し《アージエント・コール》をかけろ!」
はい、といって、ガードウーマンは、いそいで腰の電話機をぬいて、早口にしゃべった。――先方が出ると、
「〃マウエ・ティキ〃?――そちらに本田英二ってのがいってないか? もうついているはずだが……」
――キキ……あんたきいてよ……。
と、音楽にまじって、別の女をよんでいる声がした。
「もしもし……」と甘ったるいハスキイな声がした。「本田さんなら、さっき来たけど、もうここにはいないわ……」
「どこへ行った!」とランセンはかみつきそうな声でいった。
「知らないわ……。先に来てた、マリアって娘と、あと二人ほどの男といっしょに、さっき出てったわ。何だか酒だか薬だかに酔ってたみたい……。あとでつまんでやろうと思ってたのに、みんなして、河岸《かし》をかえたみたいよ」
「それは、何分ぐらい前だ?」
「そうね、ほんの六、七分前……。あんた、あの人の友だち? ねえ、あんた彼のかわりにこない? ここはアサクサのポリネシアンパラダイスよ……」
舌打ちして電話を切ると、とたんに、バッテリイをかえたばかりのIDカードに明りが点滅し、バーナード博士の押し殺した声がきこえた。
「ランセン部長……本田くんはまだ見つからんかね? ミリーの話が、そろそろ重大な所にさしかかるんだが……」
「いま、私がすぐそちらへ行きます……」とランセンはIDカードにむかっていった。
「本田英二のこの会議参加のIDナンバーは、君の所でわかっているだろう?」と、足早に会場へひきかえしながら、あとを追ってくるガードウーマンに彼はさけんだ。「いますぐ、緊急回線で呼び出してみてくれ。――かまわないから、警察にたのんで、非常呼び出しをかけろ!」
「それでは何か?――彼ら……つまり宇宙人は、小惑星のうちのいくつかを、破壊した可能性があると……」
会議場では、アジア人らしい眼鏡をかけた学者が、立ってミリー・ウイレムの立体映像に質問をしていた。
「そう思われます……」と相かわらずミリーは、冷静な表情でこたえていた。「彼らが現在の小惑星帯にあった、ただ一つの大惑星を粉砕してしまったとはいいませんが……セレス級のかなり大きな小惑星をいくつか、金属資源を採取するために、こわしてしまった可能性があると思われます」
「いま、太陽系開発機構の連中がやっているようにか?」
その、やや悪意をふくんだようにもとれる質問に、会場からいくつかの声があがり、場内は騒然とした。
「みなさん、おしずかに!」とバーナード博士は声をはりあげた。「われわれは、有史以前に、この太陽系に飛来した宇宙人が、惑星や月の上に点々とのこしていったメッセージの内容について報告をうけ、討論するために集っているのであって、ここで太陽系開発のやり方の是非を論議するわけではありません……」
ちょうど会場へはいって来たばかりだったランセンは、いそいで挙手して発言をもとめたが、バーナード博士は、議長席から、ちょっと待て、と手で制し、つづいてミリーの発言をうながした。
「それでは、報告をつづけさせていただきます……」とミリーは鉄の神経をもっているような冷静さでいった。
「木星の衛星軌道上にあった彼ら宇宙人の〃母船〃は、五万年乃至六万年ほど前に、何らかの事故のため、木星にむかって落下し、その大気圏の中に沈んだと思われます。そして木星大気圏のある高度で、浮力と重力がつりあって、〃母船〃はそのままかなりの期間ただよっていたと推定されます。――というのは、〃火星メッセージ〃のある部分に、彼らが、何十回となく、執拗に、この木星大気圏に沈んだ〃母船〃を、ひき上げようとこころみた事が、あらわれているからです……」
「それで……まさか、その〃母船〃が、五万年後の今も、木星大気の中をただよっている、というわけじゃないだろうね……」と誰かが皮肉な調子でいった。「あの荒れくるう、ものすごい高温高圧の、腐蝕性のガスの中を……」
「ちょっと――それについて、よろしいですか?」ランセンは議長の合図をうけて、腹をきめて立ち上がった。
「太陽系開発機構の外惑星開発本部企画部長のランセンです。――その点について、私より適当な木星開発計画の現場専門家が、この会議に来ておりますが、彼がちょっと事故にあいましたので、私から、木星大気の表面下千キロメートルのあたりを漂流していて、時折観測される、長さ百キロメートル以上もある奇妙な浮遊物体――〃木星幽霊《ジユピター・ゴースト》〃とよばれるものについて、ざっと御説明したいと思います……」
――JS計画、ホンダ主任……木星、ミネルヴァ基地のホンダ主任……
と、どこかで誰かが、かすかな声でよんでいた。
――ハロー……ホンダ主任、応答ねがいます。
ぴいぴいと遠くで鳥の鳴くようなかすかな声と、顔を真正面からじりじりとあぶる熱気に、英二はふと意識をとりもどした。――重い瞼をあけると、眼のくらむような白光と、青い光がどっと視野にあふれ、彼は思わず顔をしかめた。
後頭部がずきずきいたみ、体は鉛のように重く、四肢は動かない。灼けるような陽光と、大気の底の平方センチあたり一キログラムの圧力、それに一Gの重力が、彼をかたい床にはりつけているのが感じられた。――ぴいぴいいう声は、彼の胸ポケットからなおきこえてくる。気がつくと、手首と足首が繩でしばられ、ころがされている。耳もとを磯くさい風がびょうびょうとうなりながら吹きすぎ、床はふわふわとゆれ動いている。――それが陸上の道路を走っている、ランナバウト型の小型ホバークラフトの後部だという事に気がつくのに、それほど時間はかからなかった。
手首の繩が、あきれるほどいいかげんなしばり方だったので、両手はすぐ自由になった。――片手で足首の繩をいそいでほどきながら、英二は胸ポケットをさぐってIDカードをとり出し、声をひそめていった。
「はい、こちら本田英二……」
ピッ、と中絶音がはいって、今度はいきなりバーナード博士の、頭から湯気の立っているような押し殺した声がきこえた。
「なにをしとるんだ! 本田くん……すぐ会場へもどれ! 今が、君の正念場だぞ!」
「わかりました……」
といって、英二はデッキの前方をうかがった。――マリアと二人の半裸の男の姿が、運転席に見えた。
突然、ざあっとまわりにしぶきが上がり、ホバークラフトは陸から海の上を走りはじめた。進路の行く手に、二千人乗りの巨大な飛行艇がうかぶのを眼の隅にみて、英二ははって後部に行き、白い飛沫のむこうの海面に身をおどらせた。
第三章 月
1 シューベルトからライプニッツへ
月面シューベルト通信基地の、3DTV通信室では、ミリセント・ウイレムが、ONランプの消えるのを見てほっと息をつき、肩をおとした。
「おつかれさん、ミリー……」
と、副調整室のヤンが、ガラスごしに指で終了サインを出しながら、スピーカーを通じて声をかけて来た。
「ありがとう、ヤン……」
ミリーは、地球ともつながっている、コンピューターの表示端末の電源をきりながら、ゆっくり椅子からたち上がり、大きくのびをした。
さっきまで、東京フジ・コンヴェンションホールの、宇宙考古学会《ダブリユー・エス・エー・エー》特別会議の立体映像をうつし出していた、3Dスクリーンは、いまは真珠色をした円筒形の壁面にかえり、しらじらと彼女をとりまいている。ホログラフTVカメラを内蔵した小さな暗色のガラス窓のタリイ・ランプも消え、天井照明も、ソフト・レーザー光からふつうの間接照明にかわった。
デスクの上にちらばったメモ類をかたづけながら、ミリーは、地球との間のTV会議に参加したあとの、いつもの寂寥感をかみしめていた。――ついさっきまで、彼女をかこんで、むんむんとした熱気を吐いていた多勢の参加者たちの立体映像が、一瞬にして消え去ったあと、突然地球と月とをへだてる三十八万キロのうつろな距離が、その部屋へ逆流してくるように感じられる。真珠色の、にぶい光沢をはなつ壁面の底に、暗い宇宙空間がふと、すけて見えたような気がして、ミリーはちょっと手を休め、頬にかかる髪をかきあげた。
副調整室との境のドアがあいて、ヤンが軽い曲を口笛で吹きながらはいって来た。――踊るような動作で、光ファイバーのコネクターをはずし、コードや補助照明をかたづけ、マイクをケースにしまいこむ。年齢は三十三、四のはずだが、小柄でやせた体つきはどう見ても二十代にしか見えない。黒い垢じみたTシャツに、いろんな小さな道具類のケース類をいっぱいくっつけた皮のベルトをしめ、膝の所がすりきれて穴のあいたジーンズをはいて、素足にゴムのサンダルをつっかけている。不ぞろいにのびた黒い直毛を肩までたらし、頬骨の高い褐色の顔にちょび髭をはやして、額にでっかい偏光眼鏡をずりあげている所は、まるで町工場のアルバイトといった感じで、とても博士号三つと、高級技術士免許を四つも持つ、シューベルト通信基地の副主任とは見えなかった。
「さすがミリーだけの事はある。ずいぶん思いきった事をいったね……」
とヤンは、マイクケースの蓋をしめながらミリーに笑いかけた。
「だけど、本当に自信があるのかね?――木星の大気の中に、宇宙メッセージの〃警告〃の意味を解く鍵になる、異星の宇宙船が沈んでいる、なんて事が……」
「むろん、ちょっとばかりはったりがはいってるわよ。でも、あのくらいの事をいっとかないと、太陽系開発機構《エス・エス・デイー・オー》のお歴々は――特に外惑星開発本部の連中は、タフでガードがかたいものね……」
「しかし、おどろいたなあ――。あのランセンていう部長が、それらしい巨大なものが木星大気の中を漂流している事をあっさりみとめるなんて」
「そうね。――あの〃木星幽霊《ジユピター・ゴースト》〃の事、私はL5宇宙コロニイの療養所で、木星から治療に来ている男から、ほんのちょっと耳にはさんだだけなんだけど、JS計画の現場の、それもほんの一部の連中しか知らない事らしいのよ。だからバーナード博士とうちあわせして、わざわざ木星のミネルヴァ基地から、JS計画の現場責任者を会議によびよせておいたんだけど……。その人物が、肝心の時にいなくなったときいて、これは、こちらのねらいが、むこうに読まれたかな、と思って、ちょっと緊張したけど、ランセンは、意外に協力的だったわね」
「しかし、まだあの、何だか得体の知れない〃木星幽霊《ジユピター・ゴースト》〃が〃沈める宇宙船〃だってたしかめられたわけじゃないだろう。――いつも、いる場所がちがって、それも今まで観測装置に、おぼろげに姿があらわれたのは、たった三回だっていうじゃないか……」
ヤンは、ミリーの肩をおすようにして通信室を出て、副調整室の明りを消した。
「これから、木星近辺へのりこんで、木星大気の中を探るったって、こりゃ大変なこったぜ。――外惑星開発本部は、目いっぱい、JS計画につぎこんでるし、JS計画の現場じゃ、ものすごいハードスケジュールで、遮二無二試験段階へもちこもうとして、まるで毎日が戦争みたいだっていうじゃないか。……なにしろ、人手がめちゃくちゃにたらないのに、そんな〃幽霊探し〃に、現場の機械や人員を、そう簡単にまわしてくれると思うかい? 現場からすげえ抵抗があるのは目に見えてるぜ。よほどうまく、上層部から手をまわして、場合によったら、JS計画のスケジュールを全体的にゆるめる命令でも出してもらわない事には……」
「その点は、何とかなりそう……。宇宙考古学会の実際上の責任者のバーナード博士は、太陽系開発機構のウェッブ総裁と、古い友だちだから……二人の間で、調整がつくと思うわ。バーナード博士は、会議の後始末をしたら、すぐに、月にやって来て総裁にあうでしょうし――ひょっとしたら、私もよばれる事になるわね……」
「それなら、今のうち、少し休養をとっとかなきゃ、ミリー……」
と、ヤンは通信機械室のドアに手をかけながら、ちょっと心配そうに、自分より十センチちかく背の高い、ミリー・ウイレムの顔を見上げた。
「何しろ、あんたときたら、L5のコンピューター衛星《サテライト》でも、こっちへ来てからも、それこそ不眠不休で働きっぱなしだろ……。WSAAの会議に間にあって、あれだけのパンチを食わせたんだし……。次にそなえて、少し休んだら?」
「ありがと……」といって、ミリーはかすかにほほえんだ。「私、眼の下に隈ができてるでしょ。――ひどい顔してるって、自分でもわかってるのよ。それに、三日もシャワーをつかってないの。ひょっとしたら、におってるんじゃない?」
「ミリー――ぼくの個室の、東洋風呂《オリエンタル・バス》をつかえよ。日本《ジヤパニーズ》スタイルで、浴槽の中で、たっぷり手足をのばせるぜ……」 ふいにヤンは、真剣な顔つきになって、ささやくようにいった。
「それに、冷蔵庫にゃ、シャトー・ラフィットの二一二○年のマグナムが、まだ半分以上のこっている。――上等のカットグラスみたいな、すてきな赤ワインだ。あれを飲んでゆっくり眠れば……」
「ありがとう。ヤン……あなた、いつもやさしいのね……」
ミリーは、よれよれのダスターコートのポケットに両手をつっこんで、情感のこもった眼でヤンを見おろした。
「でも――今は何だか、一人になりたいの。……大丈夫、シャワーはちゃんとつかって、お酒も飲んで、ぐっすり眠るわ。――その前に、一人になって、少し考えてみたい事があるの。何といったらいいか……いま、ひどくおかしな……いやあな気持ちがするの」
「いやな気持ち?――どうして?」
「会議では、会心のショットをとばしたのに、気持ちがめいってしようがないの。何だか、自分がひどくいやな……厄介で底の知れない泥沼みたいな問題に、足をふみいれたみたいで……」
「例の――宇宙人ののこしていった〃警告〃の問題?」
「そう――私、なんだか、あの〃警告〃の正体を、解きあかしたくないの……。矛盾してるわね。どうしてかわからないけど、あれが解明されると、ひどくいやな事になりそうな予感がして……」
「やっぱりつかれてるんだ……」マイクケースを、機械室の一番手前の棚において、ドアをしめながら、ヤンは首をふった。「一眠りすりゃ、そんなおかしな気分はふっとぶよ」
「そうかも知れないわね。――ほんとに一休みするわ……」
二人はシューベルト通信センターのせまい廊下を、肩をならべて居住区の方へ歩いて行った。――途中、いくつもある通信室の一つの前を通りかかった時、中からヒュッ、と口笛の音がして、多元通信機の前にすわっていた赤い顎鬚をはやした男が声をかけてきた。
「ヤンさん、マドモワゼル・ウイレムは?」
「ここにいるわよ……」とミリーはヤンの背後から顔をつき出した。「マドモワゼルって、何さ? それいやみなの?――私ゃこう見えても出もどりよ」
「失礼しやした。はい、ラヴレター――ライプニッツ基地《ベース》から……」
といって、赤ひげの男は、人さし指と中指にはさんだ紙片を、ドアのむこうからさし出した。
「さっそくおいでなすったわ……」紙片をひらいてミリーはつぶやいた。「あれま、光栄だ事……。ひげだるま――太陽系開発機構のウェッブ総裁から、じきじきのおよび出しだわ。――十二時間後、ライプニッツへおこし乞う、か……」
「総裁は、きっと、あんたと地球とのやりとりを傍聴してたんだ……」ヤンは片眼をつぶって見せた。「お目にとまったと見えるぜ。たっぷり休んで、たっぷり磨きこんで、親玉を悩殺しなきゃ……」
「自信あるわ――といいたいけど、やる気がない。それが私の欠点ね……」
くすっと笑って、ヤンに手をふって二、三歩行きかけたミリーは、急に思いついたように、通信室にもどって、ドアから首をつっこんできいた。
「あの――ここでわかるかしら?――〃スペース・アロー〃って名前の太陽系外探索船が、この間、木星をたったはずなんだけど……いまどこらへんにいるか……」
「〃スペース・アロー〃……コード・ナンバーは?」
ミリーは首をふった。――通信員は、手早く船名照会のキイをたたきこみ応答をまった。
「太陽系外探索船というと――太陽系天文学会所属かな、有人?」
「ええ、知り合いがのっているはずなの。R・イノウエって人……」
通信員は、さらにキイをたたいてデータをおくりこんだ。
「ああ、これだな、――彗星源調査特別委員会……片道十分の一光年とはずいぶん長旅だね。――ええと、少し前に、天王星の衛星オベロンの補給ベース通過……いま、ちょうど海王星軌道あたりにさしかかる所だ……」
「その船へ、通信文をおくれないかしら?」
「おくれない事はないけど、この航行プランじゃ、もうおそらく冷凍睡眠にはいってるから、先方がうけとるのは、何か月か先になるぜ――。緊急なの?」
「ううん……」ミリーはちょっと視線をそらせた。「いいわ――やめとく……」
「その井上とかいう人と、何かわけありなの?」
「昔ね――先方は妻子があるの……」戸口からつっこんだ半身をひっこめながら、ミリーはかすかに片頬をひきつらせた。「火星でみつかった〃宇宙人メッセージ〃さわぎで、長旅前の、最後のデートをすっぽかして、おまけに、さよならもいいそびれたわ……」
ミリーは再び廊下を歩き出した時、ヤンの姿は、もう居住区の方へ消えていた。――ひょっとすると、彼の申し出をことわったので、居住区へではなく、また別の仕事に出かけたのかも知れなかった。
――「宇宙」では、誰も彼もが、地球とちがって、忙しすぎ、働きすぎる……。
と、人気のない長い廊下を、疲れた足どりで歩きながら、彼女は思った。
――人手がすくなすぎる上に、「宇宙」はひろすぎるのだ……。地球では、あれほどたくさんの人間が、ぎゅうぎゅうづめに住んで、その大部分が、次第に頽廃の色をつよめつつあるレジャーをたのしんでいるのに……。人間はなぜ、「宇宙」などというものと、かかわりをもってしまったのだろう?
シューベルト通信センターで、彼女にわりあてられた居室は、超VIPクラスの広い、趣味のいい部屋だった。――それは、基地全体が、この天才的な宇宙言語学者、情報工学者に対して抱いている尊敬の表われだった。
居室にはいると、ミリーは、ふかふかの絨毯の上に靴をあっちこっちへ蹴っとばし、ダスターをひきむしるようにぬいで椅子へ投げつけると、ぶったおれるようにソファに身を投げた。――とたんに睡魔がおそってきて、彼女を、後頭部と背中から、暗い、底なしの闇にひきずりこみそうになる。
意地になって、その闇から背中をひきはがすように起き上がると、ミリーは痛む足をひきずってバスルームに行き、バスタブの温水栓をひらいた。湯のおちる音をききながら、居室へもどると、片隅にあるグランド・ピアノの椅子に腰をおろし、ピアノの上におかれた、小型の立体写真を見つめた。それは、端正な顔だちの東洋人――ホジャ・キンとともに、巨大な長距離探索船〃スペース・アロー〃にのりこんで、一兆キロの彼方の彗星源の探査のために、片道一年以上の、わびしく冷たい旅へと出発した井上竜太郎博士の写真だった。――写真を見つめながら、ミリーは、ピアノの傍の冷凍ワゴンに手をのばし、カップにはいった日本酒をとり出して、拇指の爪で蓋をはじきとばすと、一口すすった。
――日本人……か……。
と、口の中でつぶやくと、彼女はのろのろした動作で写真をピアノの上に伏せた。――ついでのように、ピアノの蓋をあけ、指一本でおぼつかなげにメロディをたどり、二つ三つのパッセージをひいた。それからふらふらと立ち上がると、もう一方の隅に行き、小型テーブルの抽出しをひっかきまわして、一枚のメタル・カードをとり出し、録音プレイヤーのスロットにさしこんだ。
――無数の銀箭《ぎんせん》が波うちふるえるような、美しいシンセサイザー音楽で、「シューベルトのセレナーデ」が部屋いっぱいにひびきはじめると、ミリーは照明を海の底のような暗い青一色にし、壁際にいって、窓のシェルターをあけ、レースのカーテンをひいた。
窓の外には、星のまたたく暗い空を背景に、地平線すれすれに、白と青にかがやくわずかに欠けた地球がうかんでいた。
地球から三十八万キロ余りはなれた空間をめぐる月――この母惑星の直径の四分の一、三千四百七十六キロの直径をもつ、太陽系内では異例に巨大で美しい衛星は、木星や土星の大型衛星同様、いつも母惑星の地球の方へ、同じ面をむけている。つまり、月は公転周期と自転周期が同じだからであって、地球からはいつも「表」とよばれる半球の側しか見えない。
その月面に何千個もある大型クレーターには、「表」の側にあるものは十七世紀から、「裏」の側は、人類がはじめて月をめぐる人工天体をとばした二十世紀後半から、さまざまの学者、芸術家の名前がつけられているが、シューベルトの名のついたクレーターは、月の赤道部ちかく、東半球の、ほとんど「表」と「裏」の境目ちかくにあった。――そして、月の東半球低緯度帯の中央通信基地である、シューベルト通信センターは、このクレーター全面をおおっていた。
いま、そのシューベルト通信センターから、電磁加速でうち出された、中型のムーン・バスが、弾道を描いて、月の「裏側」の、南半球中緯度帯にある、ライプニッツ火口《クレーター》にむかって接近しつつあった。十六人のりのムーン・バスの中に、乗客はたった一人――ミリセント・ウイレム博士だけだった。
同じころ、月の孫衛星軌道をめぐるいくつかの宇宙フェリー・ポート衛星「ルナポート7」から、六人のりの小型フェリーが、同じくライプニッツ火口へむけて、下降コースをとりつつあった。――こちらの方には、禿頭長身のレイ・バーナード博士、苦虫をかみつぶしたような顔をしたハワード・ランセン外惑星開発本部企画部長、そして、その後には地球上の日本の首都で、大事な会議の席をぬけ出して、マリアたちに暴力的に誘拐されたあげく、脱出する時泳げもしないのに海へとびこみ、さんざん海水を飲んで、すっかりいためつけられた本田英二が、まだ青い顔をして、しょげかえっていた。
2 仁科記念庭園
二十二世紀になってから、はじめて地球から月を訪れた人たちは、この太古からの地球のもっとも近い伴侶だった巨大な天体の「裏側」の景観が、いつも地球の方をむいている「表側」と、まるっきりちがうのを目撃しておどろいた事だろう。――地球の方をむきっぱなしの「表側」は、すでに一世紀半もの昔、一九六○年代から、さまざまな観測装置がうちこまれ、一九六九年にはアポロ11号によって人類がはじめて足跡をしるしたにもかかわらず、今では、通信関係をのぞいてほとんど基地や施設はなく、「都市」と名づけられたものは、わずかに二つがあるだけだった。
それにひきかえ、「裏側」、つまり地球からはいつも見えない月の半球には、この天体上のほとんどの都市、施設が全面にわたってちらばり、月面人口の実に八六パーセントが集っている。――地球から見て、満月の輪郭線を形づくる、月の東経九○度、西経九○度の子午線が、いわば「旧い月《オールド・ムーン》」と「新しい月《ニユー・ムーン》」の境界線だった。月が、その極軸を中心に、わずかに左右にゆらぐ秤動《ひようどう》現象によって、稀に地球からも、東西九○度の経線をこえるむこう側の施設の明りが、わずかに見られる事もあったが、しかし、「表側」の月の表面は、何百万年来、地球上の生物たちのながめて来たそれとほとんど変らぬ昔ながらの姿だった。
だが、月を周回する孫衛星群や、月面の連絡交通機関にのって、月面を表から裏へとめぐって行けば、東西九○度の子午線をこえたあたりから、表側とはまるでちがう、「月の新時代」が眼下にひろがりはじめるのを見る事ができる。――表側とはちがって、裏側では、月面一ぱいに、千万の星々をばらまいたような、白、青、赤、黄、緑の光点がひろがるのを目撃するであろう。裏面に無数にある巨大なクレーターの中には、人口五万から二十万の月面都市が百ちかく建設され、平野部や斜面には、ごくわずかの人数で運営されている半地下式の自動工場が、いくつも操業中だった。研究所は、理論、応用をふくめて、四十をこえ、そのうちのいくつか、たとえばH・G・ウェルズ重力研究所、ロバチェフスキー高等数学研究所、エジソン強電試験所、長岡半太郎応用物理研究所――これらはすべて、月の裏面のクレーターにつけられた名前を冠したものだったが――などは、二十一世紀後半から二十二世紀初頭へかけて、人類の「宇宙文明時代」に新しい紀元を劃すような、もっとも輝かしい業績をあげてきたのだった。
そのほか、月の裏面には、巨大な天文台や、電波天文台をかねた長距離宇宙通信基地がいくつもあり、また、惑星空間や孫衛星軌道へむけて、貨物や資源コンテナー、さらに小型宇宙フェリーなどを、電磁加速によって射出する、質量駆動装置《マス・ドライヴアー》のランチャーが二十四か所、コンピューター誘導の宇宙港が大小とりまぜて六十ちかくあり、これらの都市、研究所、工場などの施設群の間をむすぶ、リニア・モーター列車の幹線路や、ムーン・カーの高速誘導路が、地上、地下を網の目のようにむすんでいるのだった……。
月の孫衛星軌道上にある、地球=月=宇宙航路の中継フェリー・ポート衛星「ルナポート7」を出発して螺線周回軌道をとりながら月面へ接近しつつある小型フェリーの窓から、英二はうつりかわって行く月面の光景を見つめていた。
――荒涼たる月の「表」から、光と動きと活気にみちた「裏」へとかわって行く、そのあまりにも極端なコントラストが、何か異様な感じがして、彼はいつしか食い入るようにのぞきこんでいた。
「月へ来るのははじめてかね?」
と、前のシートからバーナード博士がふりかえってきいた。
「ええ、そうです……」英二は眼を伏せていった。「〃ラグランジュ宇宙コロニイ〃の方には……L5宇宙都市には、五、六年前に行った事がありますが……」
その時彼は、女子大学の修学旅行で来たマリアとデートするため、木星空域から、何も彼もほったらかしてすっとんで来た。引率者に仮病をつかった彼女と、ホテルで目くるめくような、ほとんど一睡もしない三日間をすごすために……。
その事を思うと、彼の胸は鋭く痛んだ。――英二の指はひとりでに自分の後頭部にのび、まだあの〃マウエ・ティキ〃という店で棍棒でなぐられた時の傷がのこっている皮膚をなでていた。
「人工の宇宙都市の方の人口は、君の訪れたころから、だいたい倍以上にふえているが、月の人口は、その後ほとんどふえておらん。――二千万でほぼ横ばいだ。観光やリゾートには、あまりいい所じゃない。宇宙都市のように、任意の大きさの人工重力をつくり出せるわけじゃないからな。地球表面の六分の一の重力に長期適応できるような処置を、すすんでうけるとなると、やはり学者なり技術者なり、行政官なり、専門家にかぎってくる……」
「そして、その人口の八割以上が〃裏〃にいるわけでしょう?」英二は荒れ果てた、暗い月平線の彼方に、きらきら輝き出した、赤、青の光を見ながらつぶやいた。
「何かわけがあるんですか?」
「君は、〃宇宙景観保存条令〃の話をきいた事がないのかね?」バーナード博士は、体をねじまげるようにして英二の顔をのぞきこんだ。「地球上の自然環境保護法の延長としてでてきたんだがね。――ずいぶん無茶な条令だが、前世紀の半ばすぎには地球では相当な運動になってね。笑い事じゃなしに、宇宙開発全体が、かなりゆすぶられたんだ。その時は、まだ月の〃表側〃にも、かなりな数の月面都市の施設類があって、新月や半月の時、その明りが月の夜の部分に見えたりもしていたが……ほかにも、十年、二十年計画で、〃表側〃の都市建設のプランがあったが〃宇宙景観保存条令案〃を〃月の《地球半球》景観保存条令〃に縮小させて、さっさと連邦議会を通過させ、保護団体を一応納得させると同時に、月の表側にあった都市や研究施設群を、〃裏側〃へどんどんうつすようにきりかえたのが――当時、L5宇宙都市の拡張計画をやっていたエド・ウェッブだったんだよ。まだ二十代の、若手企画マンだったが、彼はそのころからすごいやり手でね……」
「へえ、すると……〃地球からみる月の姿〃を古代のままに保存する事をやったのは、ウェッブ総裁だったんですか?」英二は、やや意外の感にうたれて、ぐっと近くなって来た月面の〃裏側〃の施設群をあらためて見なおした。
「そこらへんの功績が、太陽系開発機構の総裁になるきっかけにもなったんでしょうか?」
「別にそれだけというわけじゃない……」バーナード博士とならんですわっていたランセン部長が、前をむいたまま、ぶすっとした調子でいった。「――そんな事は、ボスにとって、ごく些細な問題にしかすぎなかった。だけど、その時の、議会と、景観保護団体と、開発関係とのバランスをとったかけひきが、すごく鮮やかだったんで、ちょっとした神話がのこったんだ。――君も木星太陽化計画の現場ぐらいまかせておけるが、これからはもう少し、〃政治〃のシステムやかけひきというものを勉強してもらわんとな、英二……。そうしたら、あんなに大事な会議に、わざわざよびよせられていながら、肝心の時に、女からさそわれて、鼻の下をのばして出かけて行って、むざむざ誘拐されるなんて、だらしない事はやらんようになるだろう。まったくもう、子供じゃあるまいし……」
「エドについては、すご腕の大もの政治家という神話ばかりが、喧伝されすぎたきらいがあるが、本当の彼は、権謀術数が好きなだけの人物じゃない。――子供みたいにロマンティックな所がある……。私はよく知っているがね……」とバーナード博士は、とりなすようにいった。「彼は、もともと月面の主要施設群のほとんどを、月の裏側へもって行くアイデアをもっていた。――最初地球にあった太陽系開発機構の本部も、そちら側へ持って行く事を、はじめから考えていた……」
「それは――何か理由があるんですか?」
「私には、一度もらした事がある……。〃月の裏側〃からは、地球が見えないのがいい、とな……」
バーナード博士は、かすかに苦笑をうかべた。
「ちょっと極端な考え方みたいだが……そこらへんは、いかにもエドらしかったよ。――地球をしょっ中まぢかに見ていると、あの古い世界のさまざまな因縁などが気になって、これからの宇宙開発について、純粋で根源的な思考ができにくくなる。地球にもっとも近くて、開発の歴史的蓄積が大きくて、しかも、地球がまったく見えない所はどこか、といえば、それは〃月の裏側〃だ。そちらなら、太陽や惑星も、地球との関連においてではなく、いつも〃大宇宙〃の一部として見る事ができる、というのが彼の考えでね。そんな事を、本気に、むきになって考えている所が、エドの少年っぽい所だが……」
突然、自動操縦の小型フェリーが、急激にバンクして、回避行動をとった。――ニア・ミスというほどではないが、右手のすぐ下を、優先航行権のある大型のムーン・バスが、追いぬいて行った。フェリーと同じライプニッツ中央都市《セントラルシテイ》にむかうコースをとっていた。
バンクしたとたんに、英二は胸に嘔吐感がこみあげてきて、はげしくせきこんだ。――地球の大きな重力に、まだ充分なれていないうちにはげしく動きまわったのと、とりわけ、誘拐されてジャンボ飛行艇にむかってはこばれていたホバークラフトの上から、泳げもしないのに海へとびこみ、波にもまれ、相当ひどく海水を呑んで胃をいためたために、「地球酔い」の症状がぶりかえしたのだった。
「どうした?」
とランセン部長が、ひややかな眼つきでふりかえった。
「気分でも悪いか?――海底を歩いて岸にはい上がったんだから、相当こたえたろう。いい薬だ……」
そういいつつも、ランセン部長は、シートの横においていた私物入れのバッグをさし出した。
「ほら、……サイドポケットに薬入れがはいっている。〃地球病症候群《テレストリアル・シンドローム》〃の万能薬を、火星で特別に調合させたんだ。黄色いカプセルを一粒呑め」
胸もとに、苦ずっぱい唾といっしょにこみあげてくる空《から》えずきをこらえながら、英二は部長の私物入れバッグの、いくつもある横ポケットをさぐり、薬品ケースを見つけて、中の黄色のカプセルを口にふくんだ。薬品ケースをかえす時、ふと、いまさぐったポケット類の中の、からっぽのポケットの布地にふれた時の、かすかな異物感を思い出して、もう一度指でそれにさわってみた。
「部長……」と、英二はいった。「サイドポケットの二重底の間に、何かもぐりこんでますよ。きっと破れ目からはいったんでしょう……」
「破れ目? その私物入れは、新品だぞ……」
英二は、そのからっぽのポケットの中に、明りを入れるようにしてのぞいてみた。――たしかに、使い古したためにできた破れ目ではなく、丈夫なホイスカー繊維をベースにした不織布の内張りの隅が、鋭利な刃物――というよりも、携帯用の超小型レーザーカッターか何かで、ほんの一センチばかり切り裂かれたあとがある。内外二重になっているポケット布の底から、英二は幅一センチ、長さ二・五センチ、厚さ三ミリほどの、長方形の黒いプラスチック製のものを、もみ出すようにしてとり出し、印籠つぎになった蓋を、注意深くはずした。――中から、超LSIチップにからみつく、色とりどりの蜘蛛の糸のような線の束がのぞいた。
「この私物入れ、会議の時、ホテルの部屋においておいたでしょう……」と英二はつぶやいた。「盗聴録音機――でしょうね。基礎的なメカは、ミネルヴァ基地で、無人探索機につかっている振動センサーと同じです。――三年前に、火星のアルバ・パテラ研究所《ラボ》で開発されて、一年前から量産にはいっています」
「電波は出しているかな?」
とランセンは、頬をこわばらせていった。
「いや――いまは、極微電力をつかって、われわれの会話を録音しているだけだと思います。適当な時期に、母機をもっと近づけて信号をおくれば、録音した情報を高速で母機に転送するんでしょう。――そういえば、東京のホテルのロビイで、例のオニール中継点《ジヤンクシヨン》で、部長を張っていた、あの髭のおっさんの姿をちらと見かけたような気がします……」
「しつこい連中だな……」と、ランセンは青ざめた顔をゆがめて舌打ちした。「そいつは、破壊しろ。英二……」
「ええ、もちろんそうしますが……」英二は、小さな「スパイ装置」のコードをひきちぎりながら、考え考えいった。「しかし――これ一つだけかな。……会議中ホテルの個室においてあったのは、この私物入れのほかには?」
「スーツケースとこの服だが……」
「スーツケースは除外しましょう。部長が密談の時、いつも持っているわけじゃないですからね。――その服に、何かがくっついていませんか?」
十分ほどしらべているうちに、上衣のうちあわせのボタンの一つのつけぐあいが不自然にかたいのが見つかり、同じしかけの盗聴装置をくみこんだよく似たボタンにすりかえられている事がわかった。
「どうします? 開発本部の保安局へ報告しますか?」
と、二つ目の盗聴録音機をつぶしながら英二はきいた。
「いや、待て……」ランセン部長は、ねっとりと脂汗のういた額を指でこすりながら、苦渋にみちた顔でつぶやいた。「そいつは、もう少し……様子がわかるまで待ってみよう……」
「いったい、誰が、何を知りたがっているんでしょう……」英二はいらいらしながらきいた。「部長の身辺に盗聴装置をしかけて、いったいどんな事をさぐろうとしているんですか?――それがどんな連中なのかまるきり見当もつかないんですか?」
「ねらいはおそらく、ウェッブだな……」とバーナード博士は首をふった。「はじめからそれをねらって……宇宙都市からランセンを尾行し、盗聴機をしかけたにちがいない。太陽系開発機構総裁には、ふつうの人間はなかなか近づけないし、そこへ外惑星開発関係の名うてのきれ者が、緊急によばれて行くとすれば……」
「それにしても、君は妙なカンと才能をもっているな、英二……」ランセン部長は、ほっと肩をおとしていった。「どうだ。外惑星本部の情報関係の仕事をやってみないか?」
「まっぴらですね」と英二はにべもなくいった。「木星近辺なんかで働いていると、メカやシステムに変な所がある場合などに関しては、非常に敏感になりますけど……人間関係ってのは、もともと不得意です」
「さて――」座席の前の表示パネルを見て、バーナード博士はすわりなおした。「あと四、五分で、ライプニッツ火口《クレーター》に到着だぞ……」
亭々たる杉の巨木の間から、ゆっくりと霧がはき出されていた。その杉林の間をぬって流れる清流が、数段の小さな滝となって、ふしぎにゆるやかな放物線を描きながら、音をたてて流れおち、苔のついた雄大な岩組みの間を屈曲しながら、大きな心字池《しんじいけ》に流れこんでいる。――その滝の中途から筧《かけい》をひいて緑こい植えこみの蔭にしかけられた鹿《しし》おどしに水をおとし、鹿おどしは、ひどく緩慢な動きで動いては、ゆっくりと岩をたたいて、それでも澄んだ音を間をおいてたてていた。
池をはさんで杉林の反対側は、白砂をしいて流水紋に箒目をたて、その間をぬう飛び石のむこうに、藁屋根をふいた、大きな山家《さんが》風の茶屋が建っている。光悦垣で庭との間をしきったむこうには、松、槇の植えこみをへだてて、数寄屋造りの家屋の屋根がつづいている。
十畳台目《だいめ》の茶室の中では、炉にかけられた霰《あられ》紋様の真形《しんなり》の釜が、しずかに松籟《しようらい》の音をたてており、金髪を美しくゆいあげた、色のぬけるほど白い、青い眼の娘が、しずかに茶を点てていた。
傍に、焦茶の結城に茶献上《ちやけんじよう》の帯をぐるぐるまきつけ鬱金《うこん》色の山繭の袖無し羽織を着て、鼠微塵のかるさん袴をつけた、小山のような大兵肥満の老人が、白髪まじりの赤ひげをまさぐりながら、緑色の眼をあげて、月の仁科火口《クレーター》内の巨大なフーラー式ドームの中につくられた「仁科芳雄記念庭園」のたたずまいに見入っていた。
――太陽系開発機構の総帥、エドワード・トーマス・ウェッブ総裁だった。
3 叛逆の「噂」
金髪の娘は、茶をたて終ると、すらりと立ち上がって、白い足袋先を美しくそらせながら、縁近くにすわっている主にむかって黒楽《くろらく》の茶碗をはこんだ。――明るい所へ出ると、縹《はなだ》色の無地お召しが、うすいピンクのすけて見える、ぬけるように白い顔によくうつった。
白地に七草模様の帯に、帯留めには磨きあげたテクタイトがにぶく光っている。
ウェッブ総裁は、あぐらを組んだまま、前におかれた茶碗を無造作にとりあげ、それでも型通りに呑みほし、うまそうに眼をほそめて、呑み口をぬぐった。――白いもののまじったもじゃもじゃの赤ひげに、淡緑のしずくがかすかについたが、頓着する様子もなく、また庭の岩組みと、音をたてて流れる水に見入った。
筧《かけい》から鹿《しし》おどしの竹筒におちる水が、異様にゆるやかな放物線を描いているのと、竹筒がいっぱいになって水をこぼし、底が岩をたたく時の落下速度が、妙に間のびしているのは、庭のある月面の重力が、地球の六分の一しかないからだった。
エドワード・トーマス・ウェッブ……地球圏外の、太陽系諸惑星のコロニイや、宇宙都市群の開発、建設、経済、特別行政のほとんどを統括するSSDO――「太陽系開発機構《ソーラー・システム・デイヴエロツプ・オーガニゼーシヨン》」の総裁は、八十二歳だが、子供のようにきらきら輝く緑色の眼と、赤みのあせない、ひどく肉感的な唇をもっていた。もちろん大きな分厚い鼻や、頑丈な意志的な顎、はげ上がった額、もじゃもじゃの赤ひげ、それに体重百六十キロの小山のような体躯には、人を圧する威厳と、はげしい意志力が感じられたが、しかし、そのすんだ緑色の眼には、いつも無邪気な好奇心がたたえられ、口もとに何ともいえぬ愛嬌があって、彼と話している人は、時折ふと巨大な幼児か赤ン坊と対しているような気になる。――彼が月の裏側の、ライプニッツ火口《クレーター》にある太陽系開発機構《エス・エス・デイー・オー》本部にどっかと腰をすえて、ほとんど動かないのは、月面では百六十キロの体重が六分の一の二十六、七キロになるからだ、ともっぱらかげ口をたたかれているが、それでも、彼の専用宇宙艇には、いつも総裁用の特別製の気球のようにぶくぶくの宇宙服《スペース・スーツ》がそなえてあり、時にはみずから火星へ、小惑星帯へ、木星周辺へとすっとんで行くのだった。しかし、地球へは、体重と健康をいいたてて、めったに出かけなかった。
「地球は、私にとっていわばおそろしい〃重力拷問場〃であります」
というのが、ウェッブが地球行きを断る文面につかう常套句だった。――それでも、世界連邦議会に、のっぴきならぬ証言で喚問された時は、ひそかに補助人工心臓をつけて本会議場の十五段の階段をのぼるというはなれわざをやってのけ、SSDOの地球事務所の連中が本気で用意した、巨大なガラスの水槽――その中に宇宙服をつけてはいると、浮力で体重がキャンセルされる――は、議場にもちこむ必要はなかった。しかし議会の証言がすんだあと、ウェッブは心臓の苦しさを訴えて、一切のインタヴューを断った。主治医からはまじめに健康状態の発表があったが、その実、補助人工心臓をつかえば、けっこう地球上で動きまわれる、という事がばれると、度々喚問されてうるさいというので、一種の仮病をつかったのだった。
表むき絶対安静、面会謝絶の豪華な病室で、ウェッブは、この機会に少しでも体重をへらそうと、アスレチックの機械で汗を流していたのである。
その時、やっと五キロへった体重は、月へかえるとたちまちもとの木阿弥になった。――地球では五キロでも、月ではわずか八百数十グラムだろう。ばからしくって……というのが、彼のいい分だった。
呑みほしておいた茶碗をさげながら、金髪の娘は、眼顔で、もう一服いかが? ときいた。ウェッブは顎ひげをまさぐりながら首をふった。
その時、茶室の奥で、かすかに鈴の鳴るような音がした。――娘はたっていって、床の間の横の地袋をあけた。中には金蒔絵の小さなTVフォンがはいっていて、すんだ呼び出し音をたてていた。
しばらくTVフォンで応答していた娘は、地袋の戸をあけたまま、ウェッブの後によってひざまずいた。
「バーナード博士と、あとお二人が、オッペンハイマー連絡港へおつきになりました」と娘はいった。「本部の方へお出になりますか?」
「いや……。レイにはこちらの方へ来てもらおう。あとの二人は、本部の方で待つようにいってくれ」
と総裁は庭を見たままいった。
「イヴォンヌ……」地袋の方へ立ちかけた娘に、ウェッブは首をかしげるようにしていった。「この時間に、鈴虫の声はおかしいだろう……」
「申し訳ありません……」娘は、はっとしたように、庭の方へむかって耳をすませた。「昨夜の茶会で、音をしぼったのが、そのままになっていて……すぐきりかえます」
「レイを、むかえに行ってやってくれるか?」
「はい……。電話はそちらにきりかえておきます」
イヴォンヌという娘が、地袋をしめて出て行くと、今まで床下あたりからかすかにきこえていた鈴虫の声が消え、かわって深い杉木立ちのむこうから、蜩《ひぐらし》の鳴く声がきこえはじめた。
と、ウェッブの右膝前にあった煙草盆から、ちーん、とすんだ卓鈴のような音がした。ウェッブは煙草盆をひきよせて、
「ウェッブだ……」
といった。
「ランセンです……」と吐月峯《はいふき》の中から声がした。「本部では、何時にお待ちしましょうか?」
「いま、バーナードがこっちへくる……」とウェッブはいった。「ここでちょっと一服してもらう。――そうだな。一時間半乃至二時間後に、私の部屋の隣の小会議室へ来てくれ。――本田も一緒だろうな?」
「ええ――彼は、しょげています。まあ、誘拐されたのは、しらべた所大した事件ではなさそうですが……」ランセン部長の声は、ちょっととぎれた。「私の方に……実は〃虫〃がついていました。オニール中継点《ジヤンクシヨン》から見はられていて、地球で……東京のホテルで盗聴装置をくっつけられました。本田が二つ見つけてくれて、さっき専門家に〃クリーニング〃してもらったので、大丈夫とは思いますが……」
ふむ……というように、鼻をならしてウェッブは顎ひげをなでた。
「何か厄介な動きが起っているんでしょうか?」とランセンは気づかわしげな声でいった。「連邦保安情報局の方で何か……」
「ばかいえ……」とウェッブは言下にいった。「連邦情報局とわれわれとは、いわばお互いツーカーだ。時には石頭どもと、なぐりあいの激論をやるが、さぐられるような秘密はない。わしの体重の変動を十分の一グラムまで知っとるのは、やつらぐらいだ。こんな重要なわしだって知らんような個人的秘密を……」
「では……誰でしょう? どんな連中でしょうか?」
「うすうす見当はついているんだが……」ウェッブは、すんだ緑色の眼をあげて杉木立ちを見た。「その〃虫〃とやらは……まだ生きているか?」
「いえ――すぐこわしましたが……」
「おしい事をしたな。生きていれば、それを通じて、連中に大演説をきかせて多少は洗脳してやれたのに……」
ウェッブはくすくす笑った。
「まあいい。気にするな。――火星へかえったら、そんな事忘れてしまえ」
オッペンハイマー連絡宇宙港から、太陽系開発機構の本部のあるライプニッツ市まで、月面の地下を走るリニア・モーター推進のチューブ列車《トレイン》が約十五分でむすんでいた。――隕石をさけて、地下にもうけてあるが、管《チユーブ》の中はもちろん月面と同じ真空なので、空気抵抗の問題はない。最初、地球で開発された、リニア・モーターカーの様式をつかっていたので、今でも古い世代はチューブトレインとよんでいるが、その推進様式は、むしろ荷電粒子を加速する線型加速機《リニアツク》にちかかったもので、最近の人たちは、ほとんどが「リニアッカー」の名前をつかっている。
月面は、電力のみならず、エネルギー全体が豊富だった。表、裏、両面に設置された多数の高効率の太陽エネルギープラントと、孫衛星軌道をめぐっている巨大な宇宙エネルギーステーションが、赤外レーザー・ビームや、大容量の光ファイバー送エネルギー線、あるいは、地下にほられた、巨大な導波管によって結ばれ、ネットワーク・システムを形づくっていた。――太陽エネルギープラントは、二十一世紀の半ばごろまで、改良型の太陽電池をつかっていたので、これを古い世代は、「太陽発電所」とよんでいたが、集光した太陽光を、電流に転換せず直接レーザー・ビームにかえる、きわめて効率の高い、組み合わせ半導体式のエネルギー転換素子《コンバーター》がつかわれるようになったので、若い世代は、簡単にSEP――つまり太陽《ソーラー》エネルギープラントとよんでいた。地球のように、大気中の吸収、散乱による減衰のない、真空の月面では、送電ロスの多い電線よりも、レーザー・ビームによるエネルギー供給が完全に主役だった。
そして、この光のエネルギーは、そのまま農場や工場、都市などのいろんなエネルギー源につかわれると同時にきわめて効率の高い、半導体コンバーターによって、自由に電気にかえて、電磁カタパルトで宇宙空間へ物質をおくり出す物質駆動装置《マス・ドライヴアー》や「リニアッカー」の動力につかわれているのだった。――月は、真空の宇宙空間における、都市規模の人類社会の新しいエネルギー体系、「光電子工学《フオト・エレクトロニクス》」から「光子工学《フオトニツクス》」へ、あるいは両者を統合した「量子工学《クアントミツクス》」を中心にすえた新しい光エネルギー体系が、最初に開発され、実用化された場所だったのである。
ライプニッツ市は、十年ほど前、南に隣接するカルマン火口《クレーター》の、広大な生化学工場地帯と、流体力学研究所群を合併して「グレーター・ライプニッツ」となっていた。そして、その旧市街のほとんど五分の一を占めているのが、全太陽系空域の開発計画を統御する太陽系開発機構の本部施設群だった。その巨大な、半地下式の施設群の中央地区で、リニアッカーをおりたランセンと英二は、総裁室の一階下のフロアまでエレベーターで上がってきた。
「時間まで、ちょっとそこのバーで飲んでいいですか?」
と英二はランセンにきいた。
「また時間におくれるんじゃないだろうな」ランセンは渋面をつくっていった。「今度そんな事をしたら、本当にぶっとばすからな。おぼえているだろう? おれは、全火星アマチュアボクシング大会で、三位まで行ったんだぞ……」
「おぼえてます。ずいぶん前の話ですけどね。――たしかぼくが、中学へ上がるころだった……」
「いいか。――これからあうのは、総裁《ボス》だぞ……」とランセンは英二の鼻の先でおどかすように指をふりまわした。「盗聴装置を見つけたからって、それであのミスが帳消しになったわけじゃないからな。酔っぱらって、おかしな事になったら、今度という今度は……」
「わかってます、部長――気をつけて飲みます」英二はバーの入口にむかってあとずさりしながら手をふった。「それに、ここだって、酔いざめの薬ぐらいあるでしょう?」
間のびした鹿《しし》おどしの音をききながら、ウェッブは、霧を吐く杉木立ちのむこうから、和服姿のイヴォンヌにみちびかれて、ひょろりと背の高いレイ・バーナード博士の姿が近づいてくるのを見ていた。――庭園に見とれて、博士が飛び石をふみはずし、きれいに流水紋の箒目をつけた白砂にふみこんでしまうのを見て、ウェッブは鼻を鳴らした。
「やあ、エド……」とバーナード博士は後手をくみながらいった。「仁科記念庭園もしばらく見ないうちにすっかり時代がついたな……」
「日系人の庭師が、丹精してくれるからな」と、ウェッブは眉を片方つり上げていった。「ちょいちょい、うっかりものがふみ荒したりするが……」
バーナード博士は、ウェッブ総裁の皮肉が全然通じないように、後手を組んであたりをゆっくり見まわしながら、砂の上を歩いて茶室の縁先に近づいた。
「薄茶を飲むか?」とウェッブはきいた。「飲むだろう?――まあ飲め。宇宙農場じゃなくて地球からとりよせた。宇治の逸品だ」
「ああ、いただこう……」博士は縁に腰をおろしながらうなずいた。「ここへよびよせられたら、どうせ覚悟はしていたんだ」
イヴォンヌは、総裁にはさっきの黒楽に、博士には油滴天目《ゆてきてんもく》の茶碗に茶をたててはこんで来た。
痩せてひょろ高いのと、大兵肥満なのと、二人の老人は、しばらくだまって茶をすすり、庭をながめ、蜩《ひぐらし》の声と鹿《しし》おどしの音をきいていた。
「いよいよ……木星に手をつけるのか……」とウェッブは呑みほした茶碗に眼をおとしながらきいた。「大分がまんしてもらっているが、今度はこちらがゆずらねばならんだろうな……」
「ミリセント・ウイレムが――今度こそ、解読に自信をもったらしい……」バーナード博士は杉木立ちの梢を見上げながらこたえた。「まず、JS計画の現場にある、木星大気圏内をただよっている〃木星幽霊《ジユピター・ゴースト》〃に関する情報をあらいざらい出してもらいたい……」
「手を貸すよ――。現場はどうせ、ぶうぶういうだろうが……私自身、〃宇宙人メッセージ〃に興味がないわけじゃない。何しろ、われわれ地球人類の大先輩が、この太陽系にのこして行ってくれたものだからな。だが――あんたたちの調査には、大体どのくらいかかりそうだ?」
「さあ、一年か……二年か……。やって見なければわからんが、何しろ今の所、間接証拠ばかりで、雲をつかむような話だからな。場合によっては、五年か……十年か……」
「それは困るな……」ウェッブは茶碗をなでながら口の中でつぶやいた。「JS計画は、どうしても五年以内に実施段階にこぎつけるつもりなんだ。――すべての体制は、それにむかって集中してある。ひそかに、だが……私は遮二無二、部下の尻をひっぱたいているんだ……」
「エド……木星を、なぜそんなに急いで太陽化しなきゃならんのだ?」バーナード博士は旧い友人の方をふりむいた。「そんなに急ぐ必要があるのか?――本当に木星を太陽化する必要があるのか?」
「私には、もうあまり時間がない……」ウェッブは溜息をつくようにいった。「そして、人類は、もう決定的に宇宙へのり出してしまった。新しい世代は、これから外惑星へのびて行く。それからさらに、太陽系の外へ……未知の空間、未知の未来へのびて行く。人類の新しい世代を、この新しい空間、宇宙の〃未知の大陸《テラ・インコグニタ》〃へとさそい出した責任の、かなりな部分は私にある……」
「いまの段階でも、君の指導した脱出《エクソダス》は、かなり――いや、充分に成功しているじゃないか? 君はこの成功をもっとしっかりと手がたくふみかため、次の飛躍は、もっとあとの世代にまかせたらどうだ?」バーナード博士は、眉をひそめ、心配そうな表情をした。「知っているか? エド……地球では、君が、地球外の宇宙空間を、世界連邦行政から分離し、独立させようとしている、という噂をたてているやつがいるぞ。今の所は、何の証拠もないが、たとえそれが悪意の中傷や誹謗にすぎないとしても、柄のない所に柄をすげて、それは連邦に対する叛逆行為だなどと宣伝されたら……君がこれまで長い間、全面的に信任をうけてきた、連邦大統領の立場は……すくなくとも次の選挙は……」
「なるほど……。次の選挙か……」ウェッブはきらりと眼を光らせた。「それで少し読めた。議会筋――シャドリクだな。奴は……何とも古めかしいタイプの野心家だが……」
「だが、美しくなつかしき地球にすむ百八十五億の同胞の中には、〃宇宙反対〃ムードが、潜在的にかなり広くある事も事実だ……。そいつへ本格的な煽動がはいったら……」
「太陽系宇宙空間の、〃母なる地球〃に対する叛逆……独立か……」ウェッブは鼻をこすった。「そいつは満更、根も葉もない事でもないんだよ。レイ……」
バーにはいって行くと、中はがらんとして客は一人しかいなかった。――軽くて、さわやかで、しかも「すぐさめる」飲物をバーテンに注文して、奇妙なカーヴを描くカウンターに腰をおろした時、むこうの端にいる大柄な、不思議なデザインのドレスを着た女性が、
「ハーイ……」といってグラスをあげ、英二に声をかけてきた。「あなた、日本人?――そっちへ行って、一緒に飲んでいいかしら?」
4 〃幽霊《ゴースト》〃探査指令
英二は顔をあげて、バーのカウンターのむこうを見た。
波打ちぎわのような、不規則な何本ものゆるいカーヴを描いてはり出している、カウンターのちょうどむかい側に、栗色の髪を顔の半面から肩にたらし、一方の肩がむき出しになった、五彩にきらめく、光の縞を斜めに巻きつけたような、大胆で奇妙なデザインのドレスをまとったがっしりした女性がすわって、細長いチューリップグラスをあげながらほほえみかけていた。
「やあ……」と英二も眼の前に来たグラスをあげて笑いかえした。「ご一緒できるんですか?……あ、ぼくがそっちへ行きますよ」
だが、そういった時は、先方はもうストゥールからすらりと立ち上がり、チューリップグラスを、松明《たいまつ》でもささげるようにかかげながら、カウンターをまわって英二の腰かけている方へ歩いて来た。
背の高い女性だった。――見た所、一七五、六センチはあっただろう。
肩が大きくはり、むき出しになったなめらかな右肩の下に、美しい鎖骨がくっきりと影をおとしている。バストは高くもり上がり、半分のぞいた乳房の谷間に、うすくそばかすが散っていた。ひきしまったウエストの下に、いかにも成熟した女性らしい、がっしりしたゆたかなヒップが大きくはり出している。――女はだいぶ酔っているらしかったが、しっかりした足どりで、すべるように近づいて来た。歩むにつれて、とびとびに天井からおちている明りに間歇的に照らし出される顔は、頬骨が高く、顎の線が強かったが、充分美しかった。
英二はそれよりも、女の着ているドレスの奇妙さに眼を見はった。――一面に発光素子がぬいつけてあるらしく、赤、白、緑、黄、青、紫などの色とりどりの光の帯が、斜め、縦横の縞や、渦、格子模様など、さまざまなパターンを次から次へと描き出している。――英二の傍に近づくにつれて、その「光のドレス」の基調はピンクがかってきた。
「ああ、これ……」
と女性は、英二の傍のストゥールに腰をおろしながら、くすっと笑った。
「もう、地球では、二、三年前のファッションらしいわ。私は今度はじめて、思いきって着てみたんだけど……。ふだんは、小型のモデュレーターでパターンを出しているんだけど、着ている人間の感情もピックアップして表現するのよ。――光がピンクがかったでしょう? 私があなたに、かなり関心をもっているっていう、ボディ・サインよ……」
「なるほど……」英二はちょっと顔を赤らめた。「それは光栄ですな……」
「チャオ……」と、女性は赤い発泡酒のはいったチューリップグラスをあげた。「私、ミリー……」
「本田英二です……」
と英二もグラスをあげた。
「地球から?」
「ええ……ふだんは木星で働いていますが……」
突然、BGMがきりかわって、暗くはげしい弦楽合奏の曲にかわった。
「ああ、これ?」とミリーはちょっと視線をあげた。「さっき、私がリクエストしたの。シューベルトの〃死と乙女〃よ。あまり、縁起のいい曲ではないけど……月へ来てからちょっとシューベルトに凝っているの……」
弦楽四重奏曲だが、途中からシンセサイザーの多重録音だという事がわかった。――天井から、四方から、床から、無数の輝く銀箭《ぎんせん》が降りそそぐように、美しく金属的なメロディがひびきわたり、やがて床下から波のとどろくような低音がゆすり上げ、何条もの金色の音の線が天井と壁をリズムにのってめぐりはじめた。それに同調して、室内の青と緑と白とオレンジの照明が、光の雨、光のカーテンとなって波うち、息づき、はためき出した。
二人はしばらくの間、だまって酒をふくみながら、光のゆらめきに彩られた音楽にききいった。
「友だちに、日本人がいてね……」とミリーはグラスを眼の高さにあげてつぶやいた。「とてもいい友だちだったわ。私よりずっと年上だったけど、人間的にも、学問的にもとても尊敬してたの。――すごくハンサムで、魅力的で……」
「恋仲だったんですか?」
「さあどうだか……ロマンティックな時間をもった事もあるけど……どちらかといえば、私の片想いね」
「いま、その人は?」
「この間、遠くへ行っちゃったの。とても遠くへ……」
「わかれたんですか?」
「それが、私が忙しすぎてちゃんとしたわかれは、一年か二年先になってしまったのよ――。おかしな事でね……」ミリーは酒をのみほして、グラスをカウンターにすべらした。「だから、今日は、何となく日本系の人と飲みたかったの……」
「宇宙はひろすぎて……宇宙の生活は忙しすぎますね」と英二はいった。「本当に、いつか人類の科学技術が、〃光速の壁〃を突破する時がくるでしょうか?」
「さあ、私にはわからないけど……テレパシイなんて、私なんか、通信工学の方でわりと本気に興味をもってはいるのよ……」
「愛するもの同士の霊感は、光速をこえますか?」英二は笑った。「たとえ、本当にこえたとしても、それを証明するのはむずかしいでしょうね。第一……」
その時、突然音楽のヴォリュームがさがると、それにかぶさるように、呼び出しのアナウンスがはじまった。
〃ミリセント・ウイレム博士……本田英二ミネルヴァ基地主任……至急、総裁室までおいでください……〃
ミリーが、ついで英二が、ストゥールから腰をうかした。――そして、お互いに、じゃ、あなたが……というように顔を見あわせた。
ミリーと英二が、バーの一階上の太陽系開発機構本部総裁室へはいって行くと、ウェッブ総裁とバーナード博士のほかにランセン部長がもう来ていて、デスクをはさんで、三人でしきりに話しこんでいた。
二人の顔を見ると、ウェッブ総裁は、太い指をあげてデスクの方へ招いた。
「ウイレム博士……本田主任……君たちはもう知りあいか?」
とウェッブ総裁はきいた。
「正式の自己紹介はまだですけど……」と英二はミリーの方を見て口ごもった。「その前に、二人でちょっと飲みました……」
「私、つまらないおのろけなんかしゃべってしまいましたわ」と、ミリーは、酒のせいでもなさそうに、ちょっと顔を赤らめて頬をおさえた。「まさか、こちらがあの、JS計画の現場主任とは知らなかったもので……」
「本来ならば、宇宙考古学会《ダブリユー・エス・エー・エー》の東京会議で、ウイレム博士と顔をあわせている所だったんですが……」とランセン部長はじろりと英二を見て口を挿んだ。「彼が、ちょっとあの会議をしくじったもので……」
「まあいい。――君たちもかけたまえ」
といって、ウェッブ総裁はデスクのボタンをおして、安楽椅子をもう二つ、床下からせり上げた。
「ところで、英二……」総裁は、いきなりくだけた調子で話しかけた。「〃木星幽霊《ジユピター・ゴースト》〃についての情報を、できるだけくわしく知りたいんだ。――現在の所、JS計画の現場主任をやっている君ほど、この問題について、くわしい情報をもっている人間はいないはずだからな……」
「ええ……」
どうせこの問題についてきかれるにちがいないと、あらかじめランセン部長からきかされていた英二は、ちらと部長の方に視線を走らせて、頭の中で整理しておいた事を話しはじめた。
「〃木星幽霊《ジユピター・ゴースト》〃といっても、実体はまだ、何だかさっぱりわからない、とりとめもない現象で――まったく幽霊《ゴースト》みたいなものなんです。そもそもは、木星大気の中の、特殊な雲か、あるいは二次的電波の反射による、エコーではないかと思われていました……。つまり、〃幽霊《ゴースト》〃の名の起りは、初期の、木星大気圏の各層の無人探査の段階で、ミリ波メーザー・レーダーに、ぼんやりした像が見られて、それが強電導性の雲か何かにあたってできた二次的な〃幽霊《ゴースト》イメージ〃だと思われたからです……」
「しかし、それが何度か探査にひっかかるたびに、単なる大気渦流か何かによる偶然現象じゃなく、何か、〃存在〃として同定《アイデンテイフアイ》されてきたわけだな?」
とバーナード博士はきいた。
「いや――まだ、そこまで同定されているわけじゃないんです。ミネルヴァ基地の木星大気研究班の中でも、意見は完全に二つにわかれています。……それが、何かの固体の浮遊物体ではないか、とする意見と、そうではなくて、大赤斑《グレート・レツド・スポツト》のように、非常に安定した、ミリメートル単位の電波をよくはねかえす特殊な気体の渦だ、という意見と……」
英二は、ウェッブ総裁のデスクに手をのばして、端末を操作し、木星の映像を壁面のディスプレイによび出した。
「そうすると……〃木星幽霊《ジユピター・ゴースト》〃の通称がつくまでにも、何度か、原因不明のエコーかノイズとかいう形で、観測されていたわけ?」 とミリーが木星像を見上げながらきいた。
「そうです。――はじめのうちは探査目的に対して、いつも、副次的なものか、あるいは探査目的を妨げる擾乱《じようらん》現象やノイズという形でしか報告されていませんでしたから、最初からの大気圏内探査記録を、もう一度厳密に洗いなおして見なければなりませんが、私の記憶している範囲でも、そういう事が四、五回あったと思います。〃木星幽霊《ジユピター・ゴースト》〃として、はっきりその現象の存在が、記録されたのは、無人探査の第一段階がすぎて、三年前からJADE《ジエイド》――つまり有人の木星大気圏探索艇が、無人探査と並行して行われるようになってからで、最初は、JADE―1《ワン》の第三回探査の時に、木星の雲の頂から二百キロ下がった所で、そのずっと下、千二、三百キロの所に、〃巨大な一まとまりの影〃を、ミリ波レーダー面にキャッチしました」
「大きさは?」とバーナード博士。
「長さ約四、五十キロメートル、幅十二、三キロメートル――ほそ長い楕円形をした存在で雲表下千二、三百キロメートルの所を流れる、はやい気流にのって、ほぼ同じスピードで動いて行ったそうです……」
ミリーが、ほっと小さな溜息をつくのがきこえた。――英二はかまわず説明をつづけた。
「第二回の遭遇は、それから半年後、最初の遭遇地点から二万四千キロほどはなれた地点で、就航したばかりのJADE―2《ツー》によって、記録されました。その時のJADE―2の雲表下深度は四百二十キロメートル……機器の耐深耐圧テストをやっている最中で、今度はセンチ波レーダーにキャッチされました。――むこうの深度は、二千キロぐらい……この時は、幅は二十キロメートル内外ですが、長さは何と百数十キロにおよぶとされて……。レーダー係は、それで最初は雲か何かだと思って、途中で観測をうちきろうとして、艇長ともめました。その時、蛇行のようなものがみとめられたというので、艇長は〃木星ネッシイ〃などという呼び名で報告しましたが、この名称は、私が廃止させました……」
「又ぞろ、ひと昔前の〃木星生物存在説〃なんていいかげんな俗論が復活してはかなわんからな……」とランセン部長は苦笑いしながらいった。「物見高いイエロー・ジャーナリズムや、変てこな神秘主義団体にでもおしかけられたら、たまったもんじゃない」
「この時は、そいつが〃気体〃か〃固体〃かで、あとでだいぶ議論になりました。センチ波とデシメートル波でキャッチされて、途中の屈折や散乱が多く、輪郭があまりはっきりしなかったので……。それから、もう一度、JADE―2が、それらしいものの反射像をキャッチしていますが、この時は距離が遠く、それと確認できませんでした。比較的はっきり、観測されたのは、今からざっと八か月前、最新型のJADE―4をつかった観測中で、この時は、最初の遭遇の時とほぼ同じ、長さ五十キロメートル、幅十四キロメートルの、上下に扁平な紡錘形物体として、ミリ波と遠赤外メーザー・レーダーにキャッチされました。JADE―4の雲表深度は二百二十キロ、先方の深度は千百キロ内外、両者の直線距離は二千四百キロから三千キロぐらいでした。映像のうつっていた時間は十八秒で、これもそれまでの最高記録です。このJADE―4の観測以来、われわれJS計画の木星大気研究班では、一応この現象を、JUDO―X1、つまり、〃木星未確認漂流物体《ジヨウヴイアン・アンアイデンテイフアイド・ドリフテイングオブジエクト》―X1〃とよび、研究観測項目にあげることにしました……」
「という事は――あなたたちは、それが、レーダー波を強く反射する〃物体〃である、という事をみとめたわけ?」
とミリーは鋭く、たたみかけるようにきいた。
「いや――必ずしもそうではないんです。私たちは、その〃現象〃の存在をみとめただけで、それが、特にミリ波を強く反射する特殊な〃雲〃であるか、あるいは木星大気中の雲表下千数百キロメートルの所を、浮力バランスをとって漂流している巨大な〃物体〃であるのか、それとも、もっと下の方で起った、強い局所的電磁擾乱状態によって、レーダー面に〃幽霊《ゴースト》〃としてあらわれた、反射波のいたずらなのか――これもまだ、少数意見ですが、根強く主張する研究者がいます――まだはっきりと、何と同定したわけではありません。JADE―1とJADE―4のキャッチしたデータはかなり似ていますが、JADE―2の観察したものは、あまりこの二つと、諸元がかけはなれているので、果して同じものかどうか、疑問が持たれています。――現在までの所、もっとも有力な仮説は、その大きさや、レーダー波の反射率、それにごくあらっぽい推定質量から見て、木星のずっと内部から、固体層、あるいは液体層の大爆発によってふきとばされ、その後噴出流にのって木星大気の上層部までうき上がって来た、液体金属水素の、巨大な塊ではないか、という事です。カルロスは、ある種のモデルにもとづいて計算してみて、あのくらいの大きさの盾状の固体金属水素殻が、内部爆発によってふきとばされ、ある温度圧力の層に、盾を伏せた形で漂えば、かなり長期間、漂流しつづけるだろう、といっています。つまり、盾を伏せた形の固体金属水素殻の内側に、高温の気体水素、乃至ヘリウムが、とじこめられた形になって……」
「てっとり早くいえば、固体金属水素を殻にした、熱気球というわけね……」とミリーは大きくうなずいた。
「そこまで考えたなら……どうして、それが、巨大な、太陽系外から来た異星の宇宙船の残骸である可能性を考えなかったのかしら?」
「え?――でも、ウイレム博士……木星大気圏は、雲の頂上から約千キロメートルはいった所で、温度が二千度Cにもなるんですよ。JADEの下降限界はぎりぎり四百五十キロ、安全操業限界は、三百キロから三百二十キロです。――あの大きさで……全長五十キロメートルをこえる宇宙船で、その温度圧力に長時間耐え、しかも、木星大気間の、ものすごい高熱の嵐と、何万キロアンペアという雷にも耐えるような宇宙船というものが……」
「地球では、まだ存在しなくとも、太陽系外のものなら――考えられん事はあるまい」とバーナード博士はいった。「われわれが母惑星の外へふみ出すより十万年も早く、銀河系恒星間空間をこえて、この太陽系へやって来た連中だ。――もう一つたずねるが、その何件かの観測例は、木星の表面のどことどこで起ったのかね?」
「すべて南赤道帯のGRS――大赤斑《グレート・レツド・スポツト》のまわりです……」と英二は木星の映像をポイント・ライトでさしながらいった。「大赤斑は、いまかなり成長して、東西四万五千キロほどになっていますが、最初のJADE―1の発見はここ、GRSの南西のふちです。次はここ、GRSの南のGWS――大白斑との間です。それから、JADE―4がここ、……これにJADE―1以前のそれらしいものをつけくわえて補正しますと、〃幽霊《ゴースト》〃は、大赤斑のまわりの巨大な渦にのって、時計と反対まわりに動いているようです」
「よし、わかった、英二――。その〃幽霊《ゴースト》〃の正体をつきとめるんだ!」とウェッブ総裁は、ばんとデスクをたたいた。「レイとミリーに協力しろ……」
5 〃JADE《ジエイド》〃ナンバー3《スリー》
「ちょっと待ってください!」
と大声でウェッブ総裁の言葉をさえぎったのは、ランセン企画部長だった。
「総裁……JS計画の進捗状況は、逐一報告してあるはずです。現在でも、予定より半年以上おくれているのは、よくご存知でしょう?――それでも、現場は最善をつくしているんです。事故を起さない、ぎりぎりの限界で、あの化けものみたいな巨大な惑星を……次から次へと厄介な新しい問題の出てくる、荒れくるっている木星を、少しずつ攻めていっているんです。その上、時折は、木星以遠にとんで行く特殊宇宙船のバックアップをやったり、地球からくる、わけのわからない〃おえら方〃を愛想よくむかえて、ご案内申し上げなきゃならないんです……。本田主任に聞いてもらえばわかりますが、JS計画の木星現場は、いま一二○パーセントの稼動率で動いています。そこへ、そんな……木星大気圏内を、ふらふら漂流している、しかも実体が何だかわからないような〃幽霊《ゴースト》〃探しに、現場の人員機材をさけると思いますか?」
「思わん……」とウェッブ総裁はもじゃもじゃの顎鬚をひっぱった。「思わんが、そこを何とかして、バーナード博士に協力しろ、といっているんだ」
「それじゃ話になりません……」
ランセンは、ばんとデスクをたたいて立ち上がった。
「調査に必要な期間は、どのくらいと考えておられますか?――バーナード博士……」
「やってみなければわからん。――一年かかるか、二年かかるか……」バーナード博士は肩をすくめた。「とにかくまず、第一段階は――その〃木星幽霊《ジユピター・ゴースト》〃の正体が、本当に異星の宇宙船の残骸であるかどうかをたしかめる事だが……」
「蓋然性《プロバビリテイ》は五○乃至六○パーセントはあると思いますわ……」とミリセント・ウイレムが口を挿んだ。「さっき、本田主任の〃木星幽霊《ジユピター・ゴースト》〃に関するこれまでの接触例をきいているうちに、そう思いました。――火星で大量にみつかった〃宇宙メッセージ〃を、もっと精密に解読する必要がありますが、これまでに、そのメッセージの中にぼんやり輪郭があらわれてきている、彼ら――つまり先史時代に太陽系を訪れた宇宙種族の、〃母なる船〃のイメージは、〃木星幽霊《ジユピター・ゴースト》〃と非常に似ているように思います……」
「いずれにしても、一年かかるか二年かかるか――やって見なければわからないわけですな……」
ランセンはいらいらと室内を歩きながら手をふりまわした。
「という事は……総裁、JS計画の完成年度を、すこしのばしていただけるわけですか?」
「いや――JS計画のスケジュールは動かせん……」ウェッブは頑固に首をふった。「〃木星太陽化〃は、予定どおりにすすめる」
「そんな……」ランセンは立ちどまって絶句した。「じゃ、せめて〃幽霊《ゴースト》〃探査のための、機材と人員を、特別に配慮していただけますか?」
「まあ、そいつは何とか考えるが……」ウェッブは顎ひげをつまんでひっぱった。「しかし、〃木星幽霊《ジユピター・ゴースト》〃をさがすとなると、そういった特別な目的につかえる機材と人員は、この太陽系全部を棚ざらえしても、そうたくさんはないだろう。――どうだ? 英二」
「そうですね……」英二は腹の底に冷たいものがたまって行くのを感じながらつぶやいた。「木星大気圏探査艇は――これが主役になると思いますが――現在、六隻ありますが、木星圏で稼動しているのは二隻です。何しろ、木星大気圏内は、すごい嵐で、しかも電気的、化学的擾乱状態がはげしくて、損耗が大きいんです。いま、二隻はドック入りして修理中ですが、そのうち一隻は、ものすごい電撃をくらって、内部をそっくりかえなきゃなりません。もう一隻も動力系統の修理で、つかえるようになるまで、あと半年はかかるでしょう。残る二隻のうち、一番古い型のJADE―1《ワン》は、もう木星でつかうのは無理だという事になって、いま、土星へもって行って、土星大気の浅い所の探査につかっています。天王星の方からも、土星がすみ次第、回航してほしい、という要望が出ていますが、まだミネルヴァ基地の管轄下にはあります……」
「二隻稼動中、二隻修理中、一隻は土星か……」とウェッブはつぶやいた。「残る一隻は?」
「JADE―3《スリー》ですか? これは、どこも故障しておらず、一番調子がいいんですが、ただセンサー関係が旧式なので、これをとりかえるのと、それから潜航深度を、もう百から百五十キロ深くするために改装中です。深度増大改装は、ほとんど終りましたが……」
「よさそうだな。――よし、それを使え」
「待ってください、総裁……」
と、ランセンが、かすれた声でいった。――彼の顔色はまっさおで、額には脂汗がにじんでいた。
「そいつは――困ります。大気圏探査艇は、最低常時三隻、もともとの計画では常時四隻稼動させ、二隻を待機させる事になっているんですよ。――現状は、一時やむを得ずにこういう事になっているだけで……ただでさえ、JADEグループの調査は、全計画の中で、一番おくれ気味になっているんです。そこへ、そんな事に一隻をとられたら……」
「修理中の探査艇の作業を急がせろ……」と、ウェッブはデスクに手をのばしながらいった。「それから――JADEは六隻だけで、新造計画はないのか?」
「JADE―Z《セブン》が、一応耐圧殻だけはしあがりましたが……」とランセンは眼をふせていった。「内装関係は、予算の関係で来年度まわしです」
「どこでつくっている?」
「小惑星帯――トロヤ群宇宙工場地区の第八ドックヤードです……」
ウェッブは、デスクの上のボタンを押した。
「ウェッブだ。――これから緊急命令をつたえるから、すぐ外惑星開発本部長と、トロヤ群宇宙工場地区の第八ドックヤードへ転送してくれ。こちらへのリファランスなしで、ただちに実行しろ、とつけくわえろ。いいか……」
早口で命令をつたえ終ると、ウェッブは、これでいいか、というようにランセンにむかって顎をしゃくった。
「というわけだ。――すぐ、JADE―3を、〃幽霊さがし〃に投入する準備をはじめろ。JADE―1も、土星からよびもどせ」
「まだ――問題があります……」とランセンは口ごもりながらいった。「母船です。――JADEは、それだけではつかえなくて、目標地点まで曳航し、バックアップする母船が必要なんですが……これも、今、一隻でJADE二隻をカバーしています。もう一隻は修理中で……しかし、〃幽霊さがし〃となると、目的がまるでちがいますから、仕様を全部かえないと……」
「JADE―1で、最初に大気圏探査をやった時の母船が、カリストのジャンク・ヤードにつないであります……」と英二はいった。「まにあわせに工作宇宙船を改造したもので、小さいし、老朽船ですが……まだ解体はしていませんし……、JADE―3一隻だけなら、何とか……バックアップできるでしょう。エンジンや通信機類は、ついこの間、はずして転用しようという話が持ち上がったぐらいですから、充分使えると思いますし……」
「〃幽霊さがし〃のバックアップ・システムは、L5宇宙コロニイで、すぐ調達できると思うわ……」ミリー・ウイレムはいった。「私が責任をもって頼みます」
「最後にもう一つ、難問がある……」とランセンはうめくようにいった。「JADE―3《スリー》の操縦者《オペレーター》だ。あいつを、あの木星大気圏の中につっこませて、無事に帰ってこさせるだけの腕をもったオペレーターは……そう何人も……」
「場合によったら、それはぼくがやりましょう」と英二はいった。「JADEの操縦マニュアルをつくったのは、ぼくですから……。今、JS計画用にはりつけているオペレーターを、転用するわけには行きませんからね」
「君が自分でそんな事をやるひまがあるのか?」ランセンは舌打ちするようにいった。「いいか、英二……。総裁は、JS計画に関しては、公式には一日の遅延も許してくださらないんだぞ!」
「しかたがありません。……どちらもやってみるよりないでしょう……」
口先では平静にいったものの、英二は体がかっとあつくなり、腋の下に冷たいものが流れるのを感じた。――びっしりと書きこまれて、延々と過去から未来へつづくJS計画の進行表《フローチヤート》のイメージがうかび、そのうちのある部分が、「遅延」のオレンジから赤へ変りつつある情景が悪夢のように脳裡にはためいた。
おお!――あの進行表の中に「幽霊さがし」のスケジュールを、一体どうやってわりこませろというんだ!……。
「わかりました……」ランセン部長はがっくりと肩をおとした。「じゃ、いまからすぐ、本田主任と、スケジュールの検討にかかります……。ですが、総裁……これだけは、覚悟してください。この〃わりこみ〃によって、JS計画の現場の、事故発生率は、必ずはね上がります。万全の手はうちますが、しかし、こればかりはしようがないでしょう。――一人が四役も五役も果している太陽系の最前線で……貴重な人材がまた……」
「待て! ハワード……」
ウェッブ総裁はデスクのむこうに立ち上がり、デスクの両端をがっしりとつかんだ。――眼が熱病にかかったように、ぎらぎらと燃え上がった。
「わかっておる……。だから、君もわかってくれ……。君が地球からここへくる途中、妙な盗聴装置をくっつけられた事を思い出してくれ……わしの立場は――そして、この太陽系開発機構の立場、ひいては、太陽系空間の立場は、いまきわめて微妙だ。わしは、八方眼をくばらなければならん。わしは、この目方で、タイトロープの上を歩いておるんだ……。いいか、〃幽霊さがし〃では、バーナードにぜひとも協力せねばならん。そして一方、JS計画は、一歩たりとも遅延は許されん……。この計画には、地球外の、太陽系空間の将来がかかっておる……。わかったか?」
「わかりました……」
ランセンは、かたいものをのみこむような声でいった。
「よし――この本部からと、L4宇宙工場区から、腕っこきを二十人、JS計画の方へ増員してやる。希望者があったら、リストを出せ……」
「ありがとうございます……」とランセンはいった。「それから――火星における開発計画を三つほど、手なおしさせていただきたいのですが……許可ねがえますか?」
「いいだろう――やれ」ウェッブはまたどっかりと椅子に腰をおろし、眉間に太い指をあててもんだ。「すぐとりかかれ」
ランセンと英二が、急いで部屋を出て行くと、ウェッブはデスクのボタンをおし、横手の壁面一ぱいに、木星の中継映像をうつし出して、しばらくそれをじっと見つめていた。――バーナード博士も、ミリーも、つられて、その巨大な、赤い瑪瑙《めのう》のような惑星の姿に見入った。
「叛逆か……」突然ぽつりとウェッブはつぶやいた。「地球とは基礎的な環境条件のちがう――社会条件もちがう宇宙空間にくらす五億の人間が、独自の生き方と未来を求めて、自治を要求するのが、なぜ叛逆なんだ?」
バーナード博士は、びくっとしたように、傍のミリセント・ウイレムの方を見た。――しかし、彼女は静かな表情で、木星の映像を見ていた。
「〃地球〃は、宇宙空間に見すてられるのをひどくおそれているんだ……」とバーナード博士はいった。「何しろ、現在エネルギーの四○パーセント、総生産の二五パーセントを、宇宙空間からの供給に依存しているんだからな……」
「総生産の二五パーセントというのはごまかしだな。附加価値を考えれば実質、これも四○パーセントになるだろう。――地球の環境は、もう人間と生物で満杯で、何一つ新しいものはつくれやせん。地球からここへもってきて値うちのあるのは、宇治の新茶ぐらいじゃないか……」とウェッブは鼻を鳴らした。「別に、そのくらいのもの、供給をどうのこうのという事はない。――この近辺の工場施設なんて、くれてやってもいいんだ。ただ、あの歴史の手垢と、ごちゃごちゃべたべたした情念にまみれた、地球的なせせこましい人間関係や、政治機構や、官僚主義や価値判断を、この新しいフロンティアにおしつけないでほしい、というだけの話だ。宇宙空間には宇宙空間のルールがあり、独自のシステムがあってしかるべきだ……」
「〃宇宙を宇宙時代人類のために《スペース・フオー・スペース・エイジ・ヒユーマン》〃という、おかしな過激派運動が前世紀の後半に、このあたりであったな……」とバーナード博士は苦笑した。「火星へも飛び火したっけ」
「ああ……。宇宙船のハイジャックなんかやって――。あの青い連中をたたきつぶしたのは、わしだ……」
「そして、その残党の六割を、君がかくまってまだつかっている……」とバーナード博士はひやかすようにいった。「当時、連邦保安局では、だいぶ頭に来た連中がいたよ」
「レイ――君は北アメリカの生れだろう?」
「ああ、メイン州だ……」「じゃ、どう思う?――もし、人類の歴史の中で、十八世紀末における北アメリカの独立という事態がなかったら……北アメリカが、依然として、旧世界、ヨーロッパの掠奪の場にすぎず、南米のように、ごろつきみたいな副王《ヴアイスロイ》どものいいようにされつづけ、そのまま荒廃して行ったとしたら、あそこに、新しい、若い、巨大な国がうまれなかったら、二十世紀の世界史はどうなっていたろう?」
バーナード博士は、それにこたえず、ゆっくりと立ち上がった。
「さて……われわれも、〃幽霊さがし〃の打ちあわせにとりかかろう……」と、博士はいった。「ところで、エド――君はいままで、何度、総裁のポストを更迭されかけたっけ?」
「三度だ。――その度にきりぬけた。開発機構の組織を縮小されかかった事も二度ある」ウェッブは椅子をまわして横をむいた。「おれは――人類に対してまちがった事をしていると思うかね? レイ……」
「そうは思わん。だが、よくわからない……」
バーナード博士は首をふって背をむけた。
「君がまちがっているかどうかは百年二百年たってみなければ、誰にもわからんだろう。――君は君で、信念にもとづいてやるよりしかたないだろうな……」
「ああ、そうだ、ミリー……」と、博士のあとについて行きかけたミリー・ウイレムに、ウェッブは声をかけた。「君に、これをあずかっていた。――井上博士が出かける前に托して行った」
ウェッブが抽き出した白い封筒を、ミリーは紙のような顔色になって見つめた。
「それ、あずかっておいていただけませんか? 総裁……」と彼女は静かな声でいった。「彼が帰ってくるまで……まだ、きちんとしたおわかれをしていませんの……」
「彼の今度の旅は、長いぞ」ウェッブはつぶやいた。「恋仲だったのか? ミリー……」
ミリーはかすかにうなずいた。
「〃彗星源探査〃って――何か特別の理由でもあるんですの?」
「わしもよく知らん。ただ、太陽系外からくる彗星の数が、ここ何年か、急激に減ったことを、井上博士らは、ひどく気にしていたが……」
「実は、私も、何だか変に気になるんです。――あの人が行ったから、というわけではなしに……専門外なんですけど……」
「くわしい事を知りたかったら、L5宇宙コロニイの世界天文学連合事務局へ行くといい。そこに彗星源探査特別計画の本部があって、ムハンマド・マンスールという男がそこの担当責任者だ。――以前はここの統計局で働いていた。何ならたずねてみるといい……」
「わかりました……」とミリーはうなずいた。「どうもありがとうございます……」
JADE―3《スリー》――。
その名称は「木星大気圏深部探査艇《ジヨウヴイアン・アトモスフエア・デプス・エクスプローラー》」の頭文字をつなぎあわせたものにすぎないのだが――しかし、木星周辺のミネルヴァ軌道にうかんで、改装を急いでいるその外観は、新しく表面にはられたオレンジ色の耐熱タイルが、木星の照りかえしをうけて赤い縞をつくって輝き、瑪瑙の塊のように見えた。木星自体が、赤、オレンジ、白の縞や斑点におおわれた、とてつもなく巨大な瑪瑙であり、JADE―3は、その小さな破片のようだった。タングステンおよび珪酸のホイスカー・フィラメントをコイル状にまいて成型し、サーメットでかためたその耐熱耐圧殻は、新たに二千気圧、二千二百度Cに耐えるように改装され、木星南半球の「大赤斑」のまわりをめぐる〃木星幽霊《ジユピター・ゴースト》〃の探査のために、着々と準備をととのえつつあった。
第四章 大赤斑
1 曳航
千億の恒星と、稀薄な星間ガスからなる直径十万光年の扁平な銀河系宇宙――。
半径百五十億光年の宇宙の中には、同じような「小宇宙」が十兆ちかくあり、それぞれが平均二百数十万光年はなれてちらばっている。
その銀河系宇宙の、渦巻く円盤状の部分――それは、まわりをつつむ「銀河ハロー」とよばれる部分よりやや小さく、直径八、九万光年ほどだったが――の、渦の腕の一つ「オリオン肢」とよばれる中の、円盤の中心部から三万数千光年はなれたあたりに太陽系がある。渦の腕の部分は、他の部分にくらべて、はるかに恒星や星間物質の密度が高いのだが、それでも、その中の恒星系のそれぞれは、お互いに五光年から十光年はなれており、その密度は「太平洋にスイカを二つ投げこんだくらい」といわれている。
いま、その宇宙にうかぶ砂粒のような太陽系から、さらに小さな物体が、わずかにすべり出ようとしていた。
これまでも、無人の、観測機械のみをつんだ探索用飛行物体は、何百となくその恒星系から「宇宙の大洋」へむけてとび去って行ったのだが、有人のものは、まだ十数番目のオーダーにすぎなかった。二つの知的生命――もっともそれはすでに、コンピューターで精密に制御された、長く、冷たい「冷凍睡眠《コールド・スリープ》」にはいっていたが――をのせた、本体二千五百トン、増加燃料タンク二万トン余り、あわせて二万三千トンちかい質量をもった、地球的基準から見れば「巨大な」長距離有人探査船〃スペース・アロー〃号は、太陽から六十億キロメートルはなれた、冥王星平均軌道を通過しつつあった。直径四十五メートル四基の主《メイン》ノズルと、八基の補助ノズルから、核融合ジェットの、眼のくらみそうな青白い光をはためかせながら……。
全長二百四十メートルの船体のうち、中央部の、櫓か橋梁のような百七十メートルの構造体の周辺には、球型の、重水素=ヘリウム3の燃料タンクが、葡萄の房のようについていた。――そのうちの二十四個は、土星周辺のヒッチハイク・コース通過の時に、そして三十個は、天王星軌道で、その時の〃スペース・アロー〃の航行速度まで、ブースター曳船《タグ》で加速され、とりつけられたものだった。つまり、〃スペース・アロー〃は、旅立ちの途中で、「空中補給」をうけたわけである。
しかし、天王星軌道をすぎたあとは、もはや、太陽系の兄弟惑星をまぢかに見る事もなく――〃スペース・アロー〃のコースから見れば、海王星も冥王星も、ずっとはなれた所に行ってしまっていた。――外惑星宇宙基地との交信もなく、ただ空漠たる暗黒の空間にうかぶ、無人宇宙灯台や、宇宙標識のシグナルをうけるだけで、母恒星に背をむけてとびつづけるばかりだった。
冥王星軌道をこえる所で、早くも二つの空になった燃料タンクを処分した――スピードは、秒速千キロをこえていたが、〃スペース・アロー〃はなおも加速をつづけた。巨大な半球型ノズルの中心部から、プラズマ・ジェットの形で電磁加速されて噴き出す重水素とヘリウム3の流れは、ちょうど衝突する位置が、四方八方からふりそそぐ「シヴァ」型大出力レーザー・ビームの焦点になっており、そこで瞬時に核融合反応をおこして、三・六メガ電子ボルトのエネルギーをもつヘリウムと、十四・七メガ電子ボルトのエネルギーをもつ陽子、及び電子になる。高エネルギーをもった荷電粒子は、ノズルをとりまく、超伝導コイルの「磁場」をクッションにして、宇宙船をおしすすめるのだ。――かつては、重水素とヘリウム3の燃料は、「核融合ペレット」の形で小さな塊にかためられ、電磁加速で爆発点までうち出されて、そこで高エネルギー電子ビームの「爆撃」をうけて核爆発をおこした。だが、この「ダイダロス・核融合ロケット」の最終改良型である3型エンジンでは、磁界の改良と点火方式の改良により、プラズマ・ジェットの流れが連続的に、半球型のノズルの中空の中心部にある、核融合の「火の玉」に供給されるようになり、効率は、理論的限界値の七○パーセントをこえるようになった。さらに、最後には、タンク本体に、核融合燃料となる重水素化リチウム6製の、ブースター・ノズル付き燃料タンクを採用したことにより、質量比はうんと改善され、加速性能もよくなった。
だが、〃スペース・アロー〃の長旅は、まだはじまったばかりだった。太陽系のもっとも外側をまわる、「最後の惑星」冥王星の軌道をこえても、さらにその外側の、太陽系を上下にひしゃげた球状に包む、稀薄でまばらな、氷やガスからなる、「彗星源の殻」の一番内側に到達するまでに、なお五千億キロちかくをのこしており、最終速度、秒速八千キロに達するまで、まだ長い時間の加速が必要だった。
――井上竜太郎とホジャ・キンと……二人の「乗員」の、冷たく凍てついた眠りをのせて長径○・○七光年の、長周期彗星軌道に似たコースをたどる〃スペース・アロー〃は、すでに地球上での二千分の一の輻射量しかない、遠く小さい母恒星の光と、北極星やリゲル、シリウスといった明るい恒星を基準にして自動的に軌道をチェックし、全行程中、もっともいい位置にありつづける、天王星の第四衛星オベロンの軌道上通信基地に、メーザーと赤外レーザーで、「ワレ順調ニ航行中」のシグナルをおくりつづけるばかりだった。――そのシグナルも、同時におくられる、航行状況に関するさまざまのテレメーターも、発せられてからキャッチされるまで、すでに三時間以上かかり、その時間もますます長くなってきて、一年あまりかかって目標地点につくころには、〃スペース・アロー〃から発せられた光や電波が通信基地に到達するのに、三週間もかかるようになってしまうのだった……。
〃スペース・アロー〃が、太陽から六十億キロメートルはなれた冥王星軌道をこえて、「宇宙の大洋」の波うち際にのり出して行ったころ――。
木星の周辺では、「赤い嵐」のあれくるう木星大気圏の中に降りて行こうとしている一団がいた。
JADE―3《スリー》――木星大気圏深部探査艇は、母船MUSE12型との間に曳航の準備がととのい、いま、ミネルヴァ軌道《オービツト》をはなれようとしていた。
ミネルヴァ基地から、連絡艇にのって、母船にむかう途中、艇内からせまってくるMUSE12を見上げながら、バーナード博士とミリー・ウイレムは、何ともいえぬ顔つきをした。
「MUSE《ミユーズ》といっても、かなりくたびれた美神《ミユーズ》だな……」とバーナード博士は溜息まじりでいった。「外宇宙からの侵略者《インヴエーダー》と、大戦争でもやったみたいじゃないか……」
「戦闘こそやっていませんが、あの船は二度ほどかなりな事故にあっています……」と英二は連絡艇を操作しながらいった。「一度は内部で小型艇が爆発を起し、もう一度は土星との間で、隕石群とぶつかって……まあ船長がタフなベテランだったので、自力で木星までかえってきたんですが、そのあと修理してつかうか、廃船にするかでちょっと意見がわかれましてね。もと多用途工作船で、頑丈づくりで動力系統や操縦系統は無事だったんで、JADE―1号の専用母船の納期が大幅におくれた時、隕石にやられた工作室などをぶったぎって、テスト航行の代替母船に二度ほどつかったんです……」
「で、そのあと、第四衛星カリストの廃品置き場《ジヤンク・ヤード》にほうりこんであったんでしょう?」ミリーはちょっと不安そうに、あちこち塗料がはげたり、凸凹になったMUSEの船腹を見わたした。「大丈夫なの?」
「大丈夫ですよ。何しろ二度の大事故にあっても、死者一人出なかったんですからね……」英二はにやりと笑った。「つまり、それだけ丈夫な上に、ついているって事です……」
しかし、それはミリーでなくとも、なみの神経を持った人間が見たら、気が滅入りそうなしろものだった。――隕石群と衝突した時の穴や凹みが、外板のあちこちにのこっているし、カリストの表面をおおう氷にまじっている、黒くこまかい火山灰や、永年にわたってふりつもった宇宙塵に、いたる所がどす黒くすすけ、塗料ははげちょろけになっている。
その上、全体のスタイルが、何ともいえずアンバランスで不恰好だった。
このタイプの多用途工作船は、宇宙空間で、特別の大型機械や、特殊用途の観測装置を組みたてたり、また宇宙船の修理や、燃料タンクの建設をやるために、船尾の動力部と、船首の制御室兼居住区の間が、細長いむき出しの橋梁状構造物でつながれ、そこに大型クレーンや、作業用の可動ビーム、またきりはなし可能の工作制御室などがいっぱいくっついているのだが――隕石群に、ちょうどその部分を直撃され、梁がひんまがってしまったので、もとの全長二百十メートルのうち、中央部の九十メートルをぶったぎり、船首と船尾をくっつけてあった。巨大な核融合ノズルと燃料タンクをつけた動力部と、卵型の操船居住区が、わずか十メートルほどの梁でいきなりくっついて、まるで頭が胴にめりこんだような、寸づまりの、おそろしくずんぐりして不恰好なスタイルになっていた。――その上、臨時に代替母船につかう時、操縦性をよくするのと、総出力をあげるために、短いビームや船首部に、やたらとジンバル型の補助エンジンをくっつけたので、中世代初期の鎧竜型爬虫類のような、なんとも化け物じみた外観を呈している。
そこへもってきて、木星圏きっての悪趣味で知られている、カリストの廃品置き場《ジヤンク・ヤード》の連中が、赤、黄、緑、青の毒々しい螢光ペイントをつかって、まるでチベットのラマ教の経文のような変てこな書体で「MUSE12」とふぞろいな文字を横っぱらにでかでかと書きつけ、よせばいいのに、へたくそな美の女神の半裸体を、いろんなペイントをまぜあわせた腐爛屍体の肌の色のような色彩で描きつけ、しかも、さすがに途中であまりのへたさかげんに、描いた本人もいや気がさしたのか、挫折感を味わったのか、顔の部分と、巨大な西瓜のような乳房の部分とを、ひっかいて半分消しかけたままになっている、という有様だった。
そのガラクタ製の前衛芸術のできそこないか、石油の空き罐をむやみにぶったたいてはりつけたような「母船」の腹の下、短い連結ビームから出ている、クランク付きの腕《アーム》の先に、全長二十メートルあまりの、ラグビーボールをやや細長くしたような、JADE―3《スリー》ががっちりかかえこまれ、これは赤みがかったオレンジ色の耐熱タイルを全面にはりつけて、木星の赤い反射光をうけて、てらてらと光っていた。
一見、完全な紡錘形をしているように見えるJADE―3は、近くで見ると、その下面がゆるやかに左右にはり出したリフティング・ボディになっており、はり出しの先は、尖端が美しくカーヴしたVGW――つまり可変翼になっていた。尾部には、かなり面積の大きい方向舵があり、その下に原子力イオンロケットの四つのノズルと、ブースター用の核融合ロケットの二つのノズルがならんでいる。方向舵の下には、隠顕式のエア・インテイクがあり、大気圏にはいってからは、燃料節約のため、原子力加熱のラム・ジェット推進方式をとるのだった。
母船居住区と、探査艇のハッチとは、これもあっちこっち穴があいていそうな連絡チューブでつながれ、探査艇の船首には、もう曳航用のロープと、母船連絡用の多重コードがとりつけられていた。
母船居住区に口をひらくポートに連絡艇をのり入れ、気閘《エアロツク》をとじてポート内に出ると、ミリーはまた不安そうにまわりを見まわした。――最初の事故で、小型艇のエンジンの爆発が起ったのがそのポートで、しかも事故の時応急処置をとっただけで、その後ちゃんと修理されておらず、天井は焼け、壁の一部はやけただれて、塗料がうき上がり、窓の断熱ガラスは白くくもり、パイプ類はひんまがったのをハンマーでたたきなおしたり、破裂した個所をたたきつぶしたりしてあって、ひどくなまなましく「事故」の情景を感じさせたからである。
「ねえ、どうなの?――私たちは探査艇の方にはいって待機していた方がいいんじゃない?」と、ミリーは通路を行く英二に声をかけた。
「まあこれから、木星の周辺をとりまく、いろんな荒っぽいエリアを通過して行きますからね。――曳航開始まで、この母船内にいた方が無難でしょう……」と、英二は先に立って歩きながらいった。「実をいうと、ミネルヴァ基地も、この船も、全体にかなりな電磁場がかけてあるんです。このあたりは、いわば木星のヴァン・アレン帯で、かなり高エネルギーの陽子や電子が木星の磁場につかまって、放射線帯をつくっているんですが……これから木星の大気表面までの間に、もっと強い放射線帯を通過し、第一衛星イオのつくり出す、ナトリウム・ガスのトーラスをかすめ、その上、木星の〃輪〃の近くをかすめなきゃなりませんからね。――それに、探査艇《ジエイド》は、乗員二名なんです……」
「という事は……操縦は君がやるから、私たちのうち、どちらか一人が、母船内にのこってバックアップをやらなきゃならんわけか?」バーナード博士はミリーの方をふりかえった。「私は……」
「第一回は、博士におゆずりしますわ……」とミリーはいった。「お体に自信がおありでしたら……」
「申し上げておきますが、木星の対流圏にまではいると、相当きついですよ」と英二は制御《コントロール》ブリッジのドアをあけながらいった。「特別製の耐Gシートと耐Gスーツが用意されてはいますが、瞬間で8Gから9Gの加速をうける事もあります」
「そりゃ大変だ……」とバーナード博士は、あまり大変そうでもない調子でつぶやいた。「血圧調整剤をのんでおいた方がいいかな……」
ブリッジのドアをあけたとたんに、ミリーは悲鳴をあげた。――身長二メートルもありそうな、プロレスラーのような半裸の巨漢が、あいたばかりのドアへむかって、猛烈なカラテ・キックをくわせた所だったからだ。
英二はわずかに顔をよける動作をしたが、そのまま少しも歩度をおとさず、ブリッジの中にはいって行った。
「オーケイ、シン……」と英二は手をふりながらいった。「いいぞ。出発だ……」
「やあ……」
シンとよばれた頭をつるつるにそった巨漢は、コンソールの前の椅子の背にひっかけてあった、鼠色に汚れたよれよれのタオルをとると、肩で息をしながら、毛むくじゃらのぶあつい胸をごしごしこすりながら、バーナード博士とミリーを見た。
「お年寄りに御婦人と来たか……。となるとなるべく静かに船をつっこまなきゃな……」
「バーナード博士とウイレム女史……」英二は、コンソールの背後の椅子に腰をおろしながらいった。「まあ、あまり乱暴にしないでくれ……」
「あんたが、あの〃てんとうむし〃を操縦するんだって?」シンは、タオルを航海《ナヴイゲーシヨン》デスクにほうりながら、細長い泥鰌ひげのはえた上唇をこすった。「それでかい? ミネルヴァへよったら、カルロスのやつがかーすけになってたのは……。ただでさえ手がたりないのにって、ヒステリーをおこしてやがんの……」
ミリーは、どこもかしこも薄汚れ、ガラスやアクリル板がくもり、壁には色あせた無修正の3Dヌード写真がべたべたはってあるブリッジの中を、居心地悪そうに見まわした。
――英二とならんで、耐Gシートに腰かけようとすると、腕かけの所が破れ、腰かける部分にうっすらとほこりがたまっていた。ミリーはハンカチを出して、そっとそのほこりをはらい、おずおずと腰をおろした。
彼女は、シンが、コンソールの上においてあった罐入りのライトビールをつったったままごくごく飲みながら、ろくすっぽそちらも見ずに、節くれだった腕をふりまわし、背後のパネルの主動力スイッチに手の甲をばん、とたたきつけるのを、びっくりしながら見ていた。――ぐうん、とかすかな音がして、ブリッジ内のあらゆる表示が一せいにつき、正面のTVパネルに、木星の映像がうかんだ。
「おい、せめて何か着ろよ、シン……」と英二はいった。「御婦人の前だぞ……」
シンはコントロールの下から、色のすっかりさめた、べとべとに垢と脂にまみれた格子縞の綿シャツをとり出すと、裸の上にじかに着て、ボタンをかけながら、一つ一つコンソールのスイッチを入れていった。
「何かにおうわ……」
と、ミリーは鼻をひくつかせてつぶやいた。
「カリストのごみすて場のにおいでさ」とシンはいった。「おとつい酔っぱらって寝てた所が、宇宙農場のタンパク合成ユニットのぶっこわれたのがつんである所でね。――魚醤《ニヨクマム》かカマンベールのにおいがしませんかい?」
「あの人が……一人で、この母船を操縦するの?」
とミリーは心配そうに英二の耳にささやいた。
「そう――彼ほど適任者はいませんよ……」と英二はいった。「もと、この船の船長だったんです……」
2 木星へ
「さて!」
といって、シンはグローブのような手を、バン! と音たかくうちあわせ、うれしそうにこすりあわせた。
「じゃ、ぶらぶらとめえりやしょうかい……」
コンソールの前の席に、どっかと巨体をおとすと、シンは低速ロケットのスイッチを、びんと指ではじいた。
正面大パネルの中央を占める、木星の映像の左側にうつし出された、MUSE12の三元透視図の、低速用補助ロケットの部分が、ぽっと赤い光に染まった。それぞれのロケットを示す図の部分の横に、噴射の温度、流量、一基あたりの推力、MUSE12の図の下には、総合推力と三次元加速度、対恒星速度、などがディジタルで出はじめたが、シンはそんなものを見ようともせず、耐Gシートにふんぞりかえり、コンソールの上を見まわして、大満足といった風情で鼻を鳴らした。
「一つ、景気よく〃汽笛〃を鳴らすかな……」
といって、シンはコンソールの端に手をのばした。
ミリーは、そこに本当に「汽笛」のスイッチがあるのか、というように、不思議そうな顔をしてシンの手先を見、また英二の顔を見た。
ブリッジの右上部のスピーカーから、ばりばりがりがりというひどいノイズがきこえ出した。――木星の出している強烈な電波のノイズだった。
あまりひどい音なので、ミリーは思わず耳をおおった。
「ほらほら、くるぞ……」
とシンは、一方の手で指向性アンテナを操作し、もう一方の手でノイズ・フィルターを操作しながらつぶやいた。
「ほら来た!」
がりがりという雑音のむこうから、ヒュー……という低音の笛を吹くような音がきこえてきた。その音はみるみる低くなって行き、ノズルにのみこまれるように消えて行った。それを追うようにずっと遠くで、かすかなこだまがひびいた。
「〃ホイッスラー〃です……」と英二はミリーをふりかえって説明した。「木星の磁場にとらえられているプラズマの中を、第一衛星のイオが通る事によって、発生する大出力の低周波電波です……」
「こちら、ミューズ12……発進した。航路修正はないか?」
と、シンはマイクにむかっていった。
「……こちらミネルヴァ・コントロール――航路修正はない。デルタ15点《ポイント》にはいったら加速しろ……」
と、スピーカーからノイズのまじった声がした。
「了解《ロジヤー》……ところで、木星《おやじ》のごきげんはどうだ?」
「いいわけはねえだろ……。GRS《大赤斑》につっこむ前に、せいぜい泣いてお祈りでもしろよ」
「何だと!――貴様、誰にむかってそんな口をきいてやがるんだ!」シンは大声でどなった。「その声はイワノフだな?――野郎、かえったら、貴様の首をへし折ってやるからな。このシン様をどう思ってやがるんだ!」
「さあ、シン……あと三十秒でデルタ15だぞ……」と英二は巨漢の横っ腹をつついた。「あまり相手になるな。――ミネルヴァ基地じゃ、スケジュールが過重になって、みんな気がたってるんだ……」
「おれだって気がたってるんだ。――このボロ船を、たった三週間でつかえるようにしたんだからな。わずか二人の助手をつかってだぜ!……それ以上の人数を、計画本部はまわしやがらねえ。そのくせ、期間は全然まけてくれねえ……」シンは、頭から湯気をたてながら、コンソールの主《メイン》エンジンスターターを自動《オート》にロックした。「ほらよ。あと五秒だぜ。耐Gベルトをしっかりつけとけよ。――急ぐために加速時間をちょっと長くするからな」
地球の直径の十一倍以上ある巨大な木星は、またその両極点において、地球磁極の二、三十倍にあたる磁場の強さをもち、その磁場は、宇宙空間に、木星本体の直径の百倍以上にもひろがっている。それは太陽の直径の四、五倍にもあたり、もしそれが地球から見えたとしたら、月ぐらいの大きさに見えるだろう。
この強い磁場の中に、電子や陽子などの荷電粒子がとらえられ、磁力線にそって南北をはげしく往復して、地球の大気圏外のヴァン・アレン帯のような、赤道を中心とするリング状の「放射線帯」をつくっている。――地球のように、この放射線帯は、外側と内側とにわかれるが、地球のそれとちがう所は、地球のヴァン・アレン帯では、内側に陽子、外側に電子が集っているのに、木星の場合は、内側は電子と陽子の、かなりひろいエネルギー・スペクトルをもつプラズマが木星半径の十倍ぐらいまでひろがっており、そして外側のそれは、木星半径の三十倍あたりから百倍あたりまでひろがるひらべったく幅ひろいリング状の高エネルギー電子の輪――「カレント・シート」を形成している。木星が巨大な上、その自転周期がわずか九時間五十五分二十九秒と、きわめて高速で回転しているため、磁力線の回転でもって、荷電粒子をひきずって行けず、そのため電子はひらたい輪を作って木星の磁赤道面にひろがり、しかもこの荷電粒子が、早く回転する木星の磁力線によって切られるために、そこに「電流《カレント》」を生じ、その電流がまた別の磁場をつくっているのだ。電子のエネルギーは、地球のヴァン・アレン帯のそれの一万倍以上、陽子でも数千倍である。
このカレント・シートの電子は、一部は、太陽から吹き出す高速の荷電粒子のジェット風――いわゆる「太陽風」と衝突し、それによってさらに高エネルギーに加速されて、「木星電子爆発《バースト》」となってとび出し、それは数億キロをへだてて、水星のあたりでさえ検出される事がある。木星磁場と、太陽風の磁気ショックによって加速される荷電粒子のエネルギーは、「宇宙線」レベルにまで達しているのだ。
地球の場合、そのヴァン・アレン帯にとらえられた荷電粒子は、ほとんどが太陽からとんできたと考えられているが、木星の場合、すくなくともその内帯の荷電粒子の一部は、流体的にも、電磁的にも、きわめて活動のはげしい、木星そのものから吹きとばされてくる、とされている。――その内帯は、木星直径の数倍から十数倍までひろがっており、そのはしは、第三衛星ガニメデまでのびているのだった。
第二衛星エウロパの軌道と、第三衛星ガニメデの軌道の間にある「ミネルヴァ軌道《オービツト》」は、木星の自転軸に対して磁気軸が十度以上傾斜しているのを利用して、軌道上の基地や工作物が、放射線の強いベルトを横ぎる時間が小さくなるように設定してあった。――荷電粒子をそらせるため、スペースクラフトの表面には電磁場がかけてあったし、その軌道は、もっとも強いプラズマ・ベルトをめぐる第一衛星イオの、「磁気摂動」によってできる、プラズマ密度の比較的低い、「空隙」を通るように設定してあったのである。
いま――JADE―3《スリー》を腹にかかえた母船ミューズ12は、ミネルヴァ軌道を徐々にはなれ、放射線帯を大きく南へ迂回するコースをとって、七十数万キロ彼方の木星本体へむかって進みはじめた。木星大気圏のすぐ外側に到達するまでの数時間の旅だった。
ミューズ12のブリッジでは正面のディスプレイ・スクリーンいっぱいに、巨大な木星の南半球がうつっていた。
朱がかったオレンジ色の表面をいろどる、無数の白、茶、あるいはやや青みがかった色彩の、斑点や縞模様の中に、ひと眼で弁別できるひときわ明瞭な、緯度にして十数度におよぶ幅ひろい白い帯がある。
南北の低緯度帯をめぐる回帰線《トロピカル》ゾーンと、赤道《イクオートリアル》ゾーンだ。――おのおののゾーンは、「ベルト」とよばれる、暗赤色の、これも緯度数度から十度ぐらいの中の縞でへだてられている。
白い所は、Z《ZONE《ゾーン》》とよばれて上昇気流がはげしく吹き上げる所で、最上層に氷をふくむアンモニアの氷雲がうかび、B《BELT《ベルト》》とよばれる暗い所は下降流がおこっている所で、透明な、ヘリウムと水素の、二十キロほどの大気層をはさんで、その下にひろがる赤茶色の硫化水素アンモニウムの雲が、白い表層雲の切れ目からのぞいているのだった。さらにこの「赤い密雲」の下には、やはりヘリウムと水素の大気層をはさんで、H2Oの氷の雲が、厚い所では四十キロ以上にわたって渦まいている。――木星は、太陽からうけとる輻射量の二倍以上もの熱を、その内部から吐きつづけており、その内部熱のひき起すはげしい大気の対流と、十時間たらずというはやい自転速度が、地球の「貿易風帯」や「偏西風帯」よりもっとはるかに明確な、赤道に平行の白い「ゾーン」や赤い「ベルト」の縞模様を木星大気圏につくり出しているのだった。
その木星を、ある方向から見ると、北半球赤道帯のすぐ北の暗い帯――NEBが、南半球側のそれよりも幅がひろく、はっきりしている、といった事をのぞけば、白い「ゾーン」も、暗い「ベルト」も、赤道を中心にして子午線方向へ、ほぼ南北対称に区切っているように見えるのだが、もう一つの方向から見ると、南半球と北半球はひどくちがった様相を呈している。
それは、南半球の、明るい赤道ゾーンのすぐ南に、暗く幅ひろいSEB、つまり南赤道ベルトをはさんで、南緯二十度ぐらいの所に、あの赤く渦巻く、巨大な「一つ目」――大赤斑があるからだった。
GRS――大赤斑《グレート・レツド・スポツト》は、東西が南北のほぼ二倍ある南北におしつぶされた楕円形で、前後、つまり緯度方向に長い「カルマン渦」の尾をひき、まわりにははげしい嵐をまといつかせながら、時計と反対方向に回転している巨大な「赤い雲の渦巻き」だった。渦巻きの周辺回転速度は、秒速にして百メートルをこし、渦の北側では、その回転方向と逆向きの南赤道ベルトのはげしい流れにぶつかるため、その相対速度は、時速八百キロ、秒速にして実に二百二十メートルをこえる。そして、瞬間風速二百メートル、三百メートルというすさまじい暴風が荒れくるう中に、ガスとガスとのぶつかりあいによる衝撃波や熱衝撃波、さらに地球上での雷の数百倍という大電流をともなう放電が十字砲火をまじえているのだった。
いま、ミューズ12のブリッジにうつし出される木星の南半球では、西の端の方に、大赤斑がわずかに顔をのぞかせていた。――木星の高速の自転により、ミューズ12がその上空に到着するころは、ずっと東の方、午後の、夕方にちかい部分に移動しているであろう。この奇怪な「赤い巨眼」は、その大きさに多少の消長はあっても、もう何世紀もの間、南半球の南緯二十度附近に安定して存在していた。その子午線上の位置は、時速百八十キロで西にむかう南熱帯偏西風に流されるように、偏西ジェット流の十五分の一以下、時速十一キロというゆっくりした速度で、西から東へと少しずつ移動している。その大きさは、半世紀ほど前にはすこし小さくなったが、今ではまた発達して来て、東西の長径が四万キロ弱、短径二万キロ以上にまで成長していた。つまり、この巨大な、何世紀にもわたって渦巻きつづける「赤い暴風圏《レツド・ストーム》」の中には、地球が三つ、すっぽりのみこまれてしまうのだ。
ミューズ12は、いま秒速七キロで、木星の南緯二十度附近の大気圏上層部との切線コースをとりつつ、徐々に木星の引力で加速されていた。――操船は一応自動にセットされてはいたが、変転きわまりない木星周辺の電磁場の変化、それにともなうプラズマ流の変化、さらに不定期的に木星の表面で起る爆発《バースト》によって吹き出す荷電粒子のジェット流などに対して臨機応変に対処しなければならないので、「船長」のシンは、このあとブリッジにつめきりになるのだった。
「さて――あんたらは、少し個室の方で寝たらどうだ?」
各種の警報装置を点検し、セットしながら、シンはどこからか、二罐目のライトビールをとり出し、音高く蓋をあけた。
「あんまり長い事、素人衆が木星《おやじ》のすげえ面《つら》を見つづけてると、ぶるっちまう事があるっていうぜ……」
「もうちょっとたったらそうするわ……」とミリーは、ブリッジ正面のディスプレイの全面を、オレンジ色にそめ上げている巨大な惑星を見つめながらつぶやいた。「こんなに近くで、こんなに長い事、木星を見つづけるのって、はじめてですもの……」
「私はちょっと休んでくる……」といって、バーナード博士は、シートから立ち上がった。「あとから、あの大赤斑の渦のまわりにつっこんで行くとなると、体力を養っておかなきゃならんからな……」
「それじゃ、おれもここでしばらく眠る……」
シンは、罐ビールを飲みほすと、満足そうに大息をついて、両脚をコンソールのふちにあげた。「主任の旦那も寝てくるかい?――何かあったら、眼ざましを鳴らしてやるぜ。ブリッジに、おれとべっぴんさんの、二人っきりにしてくれりゃ、おれもいい夢が見られそうだがね……」
「あなた、強そうね、シン……」とミリーはくすくす笑いながらちょっと巨漢の坊主頭に流し目をおくった。「おそいかかられたら、身をまもる自信がないわ。――でも、いざという時の私の金切り声って、この船のブリッジをばらばらにできるぐらいすごいのよ」
「ご心配なく。――実をいうと、私も生ま身の女性にゃ、あまり興味ありませんのでね」とシンはつるつるの頭のてっぺんを、人さし指でかきながらいった。「あたしゃこれでも、宇宙空軍《スペース・フオース》の第三管区で、グレコ・ローマン型のチャンプを三年もはってましてね。――まあ、悪役でチャンプをそんなに長い事はったのは、おれだけでしょうがね。――その時、ずっとセコンドをやってくれてた若いのが、おれのお稚児さんでね。退役して、外航オンボロ船の船長になる時、オフィサーにひっぱってやろうとしたら、そいつめ、おれを裏ぎって、年上の女とずらかって、結婚しやがってね……」
「じゃ、英二の方があぶないわけ?」
とミリーは笑いながらふりかえった。
「おれもしばらくここにいる……」と英二は、まじめな顔で、コンソールをのぞきこんだ。「コースはこれで大丈夫か? シン……何だかエウロパにぶつかりそうな気がするが……」
「まかせとけって!――エウロパとはすれすれといっても、二千キロはなれたコースをとる。ちょうどいい位置にくるから、時間節約のため、ちょいと第二衛星にひっぱってもらう。それから……」
「まさか、イオにもひっぱってもらうわけじゃないだろうな……」英二は画面の倍率と方向を調整しながらつぶやいた。「あの軌道をとりまく、ナトリウム環《トーラス》をつっきる、なんてごめんだぜ。水素環だって願いさげだ。まして、電子束《フラツクス》チューブの端にでもふれ、何千キロアンペアの電撃をうけたりしたら……」
「大丈夫――イオはずっとはなれている。木星《おやじ》からの相対角度にして十度以上、実距離にして三万キロぐらいはなれて、イオの進んで行く後側を通る。それより、木星表面から十万キロぐらいのところで、〃環《リング》〃のはしっこをかすめるかも知れねえ。――その時は、第十五衛星がちかくにいて、だいぶお伴をつれてるだろうから、多少はガタガタくるかも知れねえが……なに、そン時ゃあ、おれが起きて、うまい事さけてやるよ。こっちだって、命は惜しいし、船は大事だ」
「木星のまわりって、ずいぶんいろいろとややこしいのね……」
とミリーがつぶやいた。
「そりゃね――周辺状態は、太陽の近辺より、もっと複雑ですからね……」と英二はいった。「大昔――帆船時代の船乗りは、南米南端のホーン岬沖を通過する時は、〃もう二度とお前にあいたくない〃ってどなったそうですがね。あの岬と、南極との間のドレーク海峡は、〃咆哮する四十度帯《ローリング・フオーテイーズ》〃とか〃金切り声の五十度帯《スクリーミング・フイフテイーズ》〃という名でよばれた、あれくるう海の難所だったらしいが、木星の周辺も……」
「こんなもの、まだ難所とはいえねえ。――あんたたちは、あの木星《おやじ》の、〃咆哮する二十度帯《ローリング・トウエンテイーズ》〃の中でも、一番すごい〃赤い大渦《メエルストローム》〃へ行くんですぜ……」と、シンはディスプレイ・パネルにむかって顎をしゃくった。「見なよ、英二……今日は、〃赤目〃の南の〃白渦巻《ホワイト・セル》〃がかなりでかい。あの間にとっつかまったら、難儀するぜ……」
3 荒れくるう岸辺
ミューズ12のコンピューター室へ行って、JADE―3の主コンピューターへ入れる操船プログラムの諸元の再チェックと補正をやってから、もう一度ブリッジへもどると、ミリーは大きく眼を見開いて、息を殺して正面のディスプレイ・スクリーンに見入っていた。
スクリーンの左上部では、チーン、チーン、とかすかな音をたてながら、巨大質量接近の黄色い警報ランプが点滅しており、その警報の下の画面には、ディジタル・ナンバーであらわされる接近中の大型天体の質量、表面曲率、重力加速度、ミューズ12との相対距離、接近速度などの数値が投影され、そのうちの一部は刻々と変って行った。
そして、さらにその下には、天体の表面と、それに接近して行くミューズ12の位置関係が、図形であらわされ、図形はついては消え、ついては消えしながら、天体の傍をかすめる宇宙船の予想コースを、少しずつ修正しながらあらわしていた。
ブリッジにはいって来た英二をちらと見て、ミリーは正面パネルに顎をしゃくった。
「ごらんなさい。すごいわ……」とミリーはかすれた声でつぶやいた。「エウロパね……。でも、こんなに近くで見るのははじめて……」
正面パネルを、ほとんどいっぱいに占領して、白く半円型に輝く天体がうつっていた。
――太陽をむいた方は、白く、にぶく光っていたが、あとの部分は、やや汚れたベージュ色で、ところどころ、どすぐろい斑点でよごれており、しかも、その白っぽい表面を、無数の細い暗い曲線が、こまかい網目をつくって走っている。
それは、うす汚れ、古びて、表面に無数のひびのはいった撞球《どうきゆう》の白球のように見えた。――一つ二つ、まだ若い、小さなクレーターが見える。
木星の第二衛星エウロパは、四つのガリレオ衛星の中で一番小さく、直径は三千百キロメートルほどで、地球の月よりわずかに小さい。軌道半径は木星の重心から六十七万キロほどで、八十五時間余りの周期でまわっている。――そして、このエウロパの特徴は、氷でおおわれた表面の、異様なまでのなめらかさだった。山脈もなければ、「海」のような盆地もない。クレーターもほとんどない。網の目のようにその表面をおおう、一見ひびわれたように見える黒っぽい線も、ほとんどくぼみをつくっていなかった。
エウロパは、「太陽系における、もっともなめらかな表面をもつ天体」とされていた。
その表面の大部分は、「凍った大洋」でおおわれ、その下の岩石質の部分が表面ちかくまでもり上がっている所でも、氷と雪におおわれている。――木星の大重力による潮汐が、この「氷の地殻」をたわませ、その下にある、氷と水と泥のまじった大洋の水を、「ひびわれ《クラツク》」を通じて表面にまでしぼり出してくるのだ。
「この人、大丈夫かしら?」
と、ミリーは、操船コンソールの中央に両脚をのっけて、いびきをかきながらこっくりこっくりやっているシンの方に眼を動かした。
「なんだかぶっそうな感じだわ。――この船、第二衛星にぶつかるんじゃないかしら……」
「安心しなせえ……」と、眠っていると思ったシンが、ねぼけた声でいった。「船のコンピューターに、ようくいいきかせてあるから、大船《おおぶね》にのった気でいりゃあいいんだ。――何かあったら、コンピューターが起してくれらあ……」
そういうと、シンはまたいびきをかきはじめた。――巨体にしては、ひどくつつましやかないびきだった。
「起きてたのかしら?――それとも、いまの寝言?」
とミリーは正面に眼をすえたままつぶやいた。
「後者の可能性がつよいね……」と英二はミリーとならんですわりながらいった。「寝言で起きてる奴と会話できるのは、シンの特技なんだ」
ミリーはそれきり何もいわず、正面スクリーンに眼をすえていた。――ディスプレイ画面の中央をしめる半月型のエウロパのバックに、同じように半分夜の部分を見せた木星の巨体がひろがっている。木星の夜の部分は、完全に真暗というわけでなく、よくみていると、縞状の雲が、電光で時折りにぶくそめ上げられる。そのほかにも、小さなスパークらしい斑点があちこちに見えた。
「エウロパには、基地はないの?」
とミリーは、半月型の「ひびのはいったビリヤード・ボール」をながめながらきいた。
「あるけど、大したものじゃない。――大抵の時は無人で……なめらかに見えるけど、おりたってみると、氷の表面状態が悪くてね。凸凹が多かったり、ざくざくでペーストみたいになっていたり……木星観測基地と、水の採取用の移動型無人工場があるだけだ。木星周辺で、一番いい水がとれる場所があってね……」
「あ――第一衛星のイオが見えてきた……」
とミリーは画面の右の端を指さして、小さく叫んだ。
半月型のエウロパの夜の部分のはずれから、ずっと小さな、同じように半月型の赤い天体が姿をあらわし、木星の夕方の部分から夜の部分へと移動して行く。
――赤く、またオレンジ色に光るその表面は、かなり反射能《アルヴエード》が大きいようだった。
「あの衛星は、溶けた硫黄の〃噴火〃があるんでしょう?」
「もっと近よったら、よく見られると思う」と英二はいった。「イオこそ……昔は観察研究のために、人間が直接おりたったりしたけど……あの衛星こそ、表面状態が悪くて、現在動いているのは、無人の装置ばっかりでね。――木星のガリレオ衛星って、図体は大きくて、ちょっとした惑星なみだけど、存外利用価値がすくなくて……自然天体ってのは、住むなら別だけど、あんまり役に立たないもので、人工天体の方が、ずっと能率はいいんです。自然天体は、まあ、金属や非金属元素など一次資源の供給もとの意味が一番大きいでしょうな……」
「というわけで、ここらへんの〃自然天体〃も、相当あなたたちにほりかえされ、砕かれたのね……」
「いや……まだ、それほどは……」英二は口ごもった。「まあ、小惑星ベルトから、もちこんだものを別にして……まだ千億トンのオーダーだと思うな……」
「あ、〃エウロパ加速〃がはじまり出したみたい……」
ミリーは、スクリーンの端に表示されている加速度計の数字を見てつぶやいた。
ブリッジにいても、かすかにミューズ12がコースをふり、速度を変えるのが感じられた。――ミューズ12のような惑星間航法システムをそなえている船では、太陽と、近傍の明るい恒星三つを基準にして大体の船の位置をわり出し、それとあらかじめ軌道上の位置が正確に計算されている近くの惑星との、相対的位置関係を補正につかうのだが、いまは、木星中心の極座標をつかい、昼の側では太陽、夜の側では人工天体を補助につかっていた。――その基準線の中に、いま、大きな天体がわりこみつつあった。エウロパの引力は、ミューズ12に影響をあたえはじめ、そのコースをわずかにまげ、すこしずつ加速しはじめていた。ディスプレイ・スクリーンの右端に表示されている図形は、ミューズ12が、エウロパの公転軌道の前方をすれすれにかすめ、コースを内側に曲げられ、わずかに加速されて、木星の南半球へむけて接近して行く事を示していた。
「本当に少し休んだら? ミリー……」
英二は、あいかわらず、食いつきそうな顔をして、スクリーンを注視しているミリーをふりかえった。
「ずっとブリッジにいるつもりなの?――作業地点到着まで、あと何時間もかかるんだぜ……」
「わかってるわ――。でも、もう少しここで見ていたいの……」ミリーは、かすかにほほえみをうかべた。「私のふだんの仕事って、コンピューターを何台もつかって、抽象的なパターンの迷路を手さぐりでうろつきまわるような事ばっかりやっているわけでしょ?――こうやって、なんというか、〃生《なま》の宇宙〃っていうものと、じかにむかいあうチャンスってなかなか無いのよ」
「なるほど……。その気持ちはよくわかるな」英二もちょっと苦笑した。「〃生の宇宙〃の中でも、この木星とその周辺は、ずばぬけて複雑な状況だからね。――初めて、木星圏に赴任した連中がよくかかる〃木星熱《ジヨウヴイアン・フイーヴアー》〃ってやつに、あなたもかかりかけてるわけだ……」
「現実に、こうやって木星や衛星を眼の前に見ていると、〃木星熱〃にもかかるわよ。――とにかく、太陽系の中の、最大のスペクタクルね……」
「そう、たしかにスペクタクルさ……」英二は、ますます接近してくる弦月状になったエウロパと、そのむこうにうかぶ、半月状の木星を見上げてつぶやいた。「〃荒れ狂う嵐〃ってやつは、遠くから見ていると、いつでもちょっとしたスペクタクルさ……。でも、その嵐の中へつっこんで行って、作業をしなきゃならないものにとっては、あまり胸のときめくものじゃない。近づいて行くにつれて、だんだん気が滅入ってくるよ……」
「それはそうね……」とミリーはうなずいた。「あなたたち、これから、あの荒れ狂う木星大気圏の岸辺へ近づいて行くんですものね。――二度目には、私もJADE―3にのるつもりだけど……母船の方も、相当もまれそう?」
「母船の方は、大した事はない。高エネルギー粒子にたたかれる事はあるけど、ブリッジにいれば、防護壁がまもってくれるし――まあ、シンの腕を信頼していればいいよ……」
「あ、あれ見て!」ミリーは画面をさして小さく叫んだ。「ほら、木星の南極に近い所……何でしょう? あんなに光ってるわ……」
「オーロラだよ……」と、コンソールの前からたち上がりながら英二はいった。「第一衛星のイオと、木星の磁極の間に、何百万アンペアという、ものすごい荷電粒子の流れが生じて、それが地球での極点オーロラ現象みたいに、木星大気の上層部を発光させているんだ……」
「光が動いてる……」ミリーはうっとりした声でつぶやいた。「きれいだわ……」
「見た眼はきれいだけど、近よりたくないね……」英二はブリッジの出口の所をふりかえっていった。「何しろ、あの放電エネルギーは、三兆キロワットもあるんだぜ……」
ミューズ12が、木星の第二衛星軌道を横切って、気体分子やプラズマの荒れくるう、巨大惑星の〃大気圏の岸辺〃へ接近しつつあるころ――。
もう一つの、小さな砂粒のような人工物体が、広大な太陽系の岸辺をはなれて、暗黒と虚無のひろがる「恒星空間の大洋」にのり出しかけていた。
「彗星源特別調査」のミッションを帯びた、長距離高速探査用宇宙船〃スペース・アロー〃は、第二段の加速をおわって、ブースター・ノズルをきりはなし、太陽系の一番外側をまわる第九惑星冥王星の平均軌道をこえて、やがて太陽から八十億キロのポイントに達しようとしていた。
船体の規模から見ると、ごく小さなコックピットの中では、二人の乗員《クルー》――パイロットのホジャ・キン宇宙空軍大尉と、調査責任者の井上竜太郎博士が、耐Gシートの中で、もう何百時間も前から、冷凍睡眠《コールド・スリープ》にはいっていた。体温をうんと低くして新陳代謝をさげ、バイオ・コントロール・システムで精密に生命維持を制御しながら、二人は、九か月後の「解凍」と眼ざめの時がくるまでの、夢一つ見ない、長く、冷たい眠りにはいっていた。
きわめてコンパクトにでき上がった、せまい操縦席《コツクピツト》では、明りもほとんど消え、それでもこの宇宙船の全システムが「生きて」順調に動いているあかしのように、ほんのわずかの赤、青、黄のパイロットランプが、見るものもないままに点滅をくりかえしていた。
太陽からの距離七十億キロをこえ、第二段加速が終了してから、〃スペース・アロー〃は、自動的に船体の周辺に、一辺の長さ四百メートルという巨大なアンテナを六本、放射状にはり出して、進行方向の空間からとびこんでくるさまざまな「情報」をさぐりはじめた。
そして、その情報は、〃スペース・アロー〃の船尾にあって、太陽の方向をむいている、使用ずみの核融合ロケットの巨大なノズルを通信アンテナに利用して、七時間という時間をかけて地球の近くへおくられ、その電波を、地球軌道の少し外側にうかんで、太陽をめぐっている、六十数個の電波アンテナ衛星のうちいくつかでキャッチし、さらにそれを地球周辺軌道上にある宇宙《スペース》コロニーL5の、世界天文学連合事務局へ転送して、そこでたった一人の男が、こつこつと「解析作業」をやっているのだった。
七つの宇宙都市と三つの研究所衛星のあるL5宇宙コロニイの中の、「ラブサット2」は、その三分の一が、天文学連合の事務局にあてられており、その一室が「彗星源探査特別計画」の本部にあてられている。――「計画本部」というと大げさだが、ふだんは担当責任者一人に、秘書一人、助手一人というつつましい構成で、一切を運営している。電波アンテナ衛星からのデータ通信や、衛星操作の指令はその小ぢんまりした部屋に集中し、またその計画独自の解析コンピューターをもってはいるのだが、それを使って〃スペース・アロー〃からおくられてくるデータをチェックしているのは、その責任者一人だけで、彼はそれをまとめて、一月に一回、探査計画の推進委員会のおえら方に報告しているのだった。
ムハンマド・マンスール、四十二歳――アラブ・ベドウィンの首長《シエイク》の血が少しまじっている、小柄で、黒髪、黒眼、黒い恰好のいい口ひげをたくわえた独身男はまだ八歳のころ、月の裏側の都市で、父親からあたえられた望遠鏡で新しい彗星を発見して以来、ずっと彗星の研究にたずさわって来た。――今では、宇宙空間で、もっとも彗星にくわしい人物とされており、彼は、今まで太陽の近くにやってくるすべての彗星だけでなく、遠く海王星のあたりへ行っている彗星、宇宙空間へ永遠にとび去ってしまった彗星、さらに、「未来において、突然出現する彗星」まで、全部知っている、というジョークがいわれるほどになっていた。
実をいうと、彗星という天体は、天文学の研究対象として、あまり人気のある存在ではなくなっていた。――彗星についての学問的興味は、もう完全にみたされてしまった、といった風潮の中で、ムハンマド・マンスールだけは、その幼児期における運命的な出会いにより――その上、まだ「地球の人」だった彼の曾祖父が、沙漠の占星術者として、大彗星を目撃した事もあって――いわば一種の情熱をもって、彗星という対象を「愛して」いた。
太陽系の冥王星軌道のはるか外にあると推測される「彗星の巣」から、年間数個のわりあいで太陽へむかっておちこんでくる「新彗星」の数が急に減少した事を、もっとも気にして、あまり興味を示さない天文学界のおえら方を辛抱づよく説得し、「特別探査計画」を実現させたのは、そういった彼の彗星に対する特別の情熱と愛情が原動力になっていた。
彼は、いわば最も「彗星の事を心配している人物」であり、「彗星源の異変を気にしている男」だった。――そして、はるか冥王星の軌道をこえて、なおその彼方、五千億キロから○・一光年ちかい空域へむかってつきすすみつつある、孤独な有人探査船〃スペース・アロー〃について、このひろい空漠たる太陽系空間の中で、たった一人、強い注意をはらいつづけている人物だった。
木星大気圏の荒れ狂う岸辺、太陽系空間の果ての、「宇宙の大洋の岸辺」とならんで、も一つの、青い地球の、亜熱帯の海の岸辺――フロリダ半島の陽光がかがやき、潮流が椰子の葉をゆする岸辺にある「ジュピター教団」の所有地では、大勢の半裸の若者たちの群がる浜辺にたちならぶ小屋の一つの中で、マリアが、数人の男女といっしょに深刻な顔で話しこんでいた。
4 〃ジュピター! ジュピター!〃
フロリダ半島の突端セーブル岬と、その北の、広大な湿地帯をひかえた町エヴァーグレーズの間にある人工の広い海岸が、「ジュピター教団《チヤーチ》」の私有地であり、本拠でもあった。
地球社会に何十万とあるさまざまな新興宗教団体――それは、二十一世紀前半、不況と局地紛争と、世界的な政治システムの組み替え、改変のかさなった「大混乱期」に一時数がへったが、二十一世紀後半期から二十二世紀へかけて、また猛烈な勢いで数がふえはじめ、ある時期の北米西海岸の、リゾート地域などでは、「人間が三人よっていれば何かの宗派《セクト》であり、石を投げれば〃教祖〃にあたる」といわれるほどになった。――社会心理学者たちは、この異常な教団増加現象を、「地球社会の〃飽和化〃による、内面への逃避現象」などとよんだ。
もちろん中には怪しげなものもずいぶんあり、薬物や、精神工学をやたらにつかって、生活の荒廃から精神の崩壊まで起し、集団的滅亡や、狂暴な大量殺人、あるいは意味のない公共施設の破壊などに走って、とりしまられたり、消滅した教団もかなりな数にのぼったが、それでも二十二世紀にはいってからは、多少なりとも淘汰され、あまり、奇矯、過激な団体はすくなくなり、比較的温和なものが残る傾向にあった。
「ジュピター教団《チヤーチ》」も、そういった、比較的おとなしい――この時代に流行している表現でいえば、「エレガント」な――新興宗教の一つだった。できてからまだ新しく、十年そこそこしかたっていない。そして、この時代の多くの新興宗教がそうだったように、「教祖」一代の魅力で、急速にふくれ上がって来たものだったのである。
教祖ピーター――年齢は三十五、六歳らしいが、本人もはっきりいわないし、本当の所は誰もわからない。彼の語る経歴からすると、そのくらいの年恰好になるのだが、見た眼はもっと若く、時には二十代後半にも見える。身長一メートル九十二、体重は百二十キロ以上、まるまると肥った、いかにも明るい陽気な人物で、ひげのないピンク色の丸顔に、もう多少頭頂部のうすくなりかけた灰色がかった栗色の髪をふわふわまといつかせ、赤ン坊のように無邪気な、澄んだ明るい灰色のやさしげな眼に、古くさい時代ものの縁無し眼鏡をかけ――その彼ににっこり赤ン坊のような表情で笑いかけられたら、よほどひどい歯痛かふつか酔いでないかぎり、ほほえみかえさずにはいられないだろう。
そんな彼の、もっとも特異な所は、体臭と声だった。――ピーターの体臭は、一種甘い……誰かが「腹ぺこの時に、ふと嗅いだ、上等のラードで玉葱をいためているようなにおい」といったが、それにもう少し、品のいい花の香りをつけくわえたようなにおいだった。そして、彼の声は、三オクターヴちかく出て、深い神秘的な洞窟の奥からふいてくる、なめらかなあたたかい微風のようで、その声でピーターは、十年前、たった二枚のマイクロ・レコードで、教団設立の資金を獲得してしまった。――二枚のレコードは、それぞれ二億枚ずつ売れたのである。しかし、彼は「プロ」の歌手にはならなかった。そのかわり、彼のまわりには、十代、二十代、中には七、八歳の「信者」がむらがり、「ジュピター教団」は、おのずとでき上がったのである。
そのピーターにも、出生の経歴に、複雑な屈折があった。――彼は、孤児で、本当の両親はわからなかった。二十二世紀初頭、ミシシッピ河下流域をおそった大地すべりをともなう巨大地震におりからの増水期がかさなって、ニューオールリーンズを泥土の下に埋没させた大洪水が起った時、赤ン坊の彼は半分水につかった小さなプラスチック・ボートにのせられて流されている所を、フロリダ州サン・ブラス岬の北の、パナマシティにすむ、年老いた漁師に発見された。どういうわけか、傾いたボートの中に、大きな岩の塊が一つはいっており、それが彼の名前の由来となった。
長ずるにしたがって、彼は何となく、おだやかな養い親の姓――トルートンを名のりたがらなくなり、タンパ市のハイスクールへ特別奨学生としてかようころには、友人には「ドールトン」とイギリス風の名前を名のっていた。もっとも上の大学へ行くようになってから、養家の姓が、熱力学上のある法則にその名を冠せられるほど有名な科学者と同じだとわかって、もとへもどしたのだが――養家は、あたたかく素朴だが、貧しくて、しかも母方にクレオールの血がはいっていた。彼の幼時、やさしくしてくれた母方の信心深い高齢の祖母は、うすいコーヒー色の肌をしており、ほとんど文字が読めなかった。そのかわり、聖書の話はいっぱい知っていて、彼に、いろいろと、祖母なりに「変形」した話をきかせてくれた。ヘロデ王の嬰児虐殺や、蘆舟にのせて流されてひろわれた赤ン坊の話や、鯨に呑まれたヨナの話や……彼女の年老いた頭の中では、こういったいろんな話がこんがらがっており、それが息を殺してきいている愛くるしい孫への「サービス」として、ピーター自身の境遇へと収斂させたのだった。彼が側近に語った所によると、ピーターは、小学校三、四年ぐらいまで、自分があの大洪水の時、両親が危険をさけるため「蘆舟」にのせて川へ流し、養父が、その舟を呑みこもうとしている巨鯨《レヴイアサン》の口から救ったのだ、と信じていたという。そこらへんが養祖母の話は混乱していて、彼が救われた時、たくさんの鯨やイルカが、彼のボートを鰐の襲撃から救おうとするように、まわりをまもっていたともいうし、彼を呑もうとしたのは、巨鯨か鰐か、祖母自身も日によって話す事が変ったという。
ハイスクールの特別奨学金は、とりやすいので理科系でとったが、ピーター自身は、夢想的な所のある少年で、フランス語のコースもとり、詩や神秘主義文学に耽溺もしていた。――学業は優秀で、二年ですぐタンパの大学の物理コースへはいり、三重水素《トリチウム》の原子核の研究で、Ph.D.をとる寸前まで行った。ところが、そこで突然自分の進む道に猛烈に懐疑的になってしまい、奨学金をふって、内陸部のオーランディアにある、ディズニー・ワールド大学の海洋生物学《マリン・バイオロジイ》のコースへはいりなおした。こちらは特別給費をもらえず、ディズニー・コーポレーションの、マイアミやディトナビーチにある、マリンランドや研究所で働きながらの事だった。そのすばらしい声をみとめられて、キャンパスやリゾート・ホテルで歌いもしたが、彼自身は、ますます「おちこんで」行った。――身長一九二センチの大きな赤ン坊みたいな顔だちの自分が、どこへ行っても場ちがいに感じられ、女の子にはけっこうさわがれるのに、性的不能の妄想に悩まされ、とうとうその大学もやめるつもりで、研究所の中古のヨットに、ギターと、それからヨットを借りる名目に、多少の研究用機材もつんで、バハマ諸島へ航海に出た。
その航海の途中立ちよったワットリング島――そこは、かつてあのコロンブスが大西洋をわたった時、最初に到着した新大陸の島、サン・サルヴァドル島だったが――で、彼は「ジュピター」と運命的な出会いをする。
べた凪ぎの秋の夜の海上で、彼は遠く西の水平線に島影をのぞんで、天測をしようとした。が、空には雲が多く、やっと南天に、ペガサスの一部と「イルカ座」が見わけられただけだった。帆走しようにも、完全に無風状態だったので、彼は帆をおろし、しばらくひっくりかえって船をただようにまかせた。カリブ海の夜空には、雲の切れ目から中天の満月と、それに木星だけが辛うじて見えていた、と彼はいう。
突然、彼は自分がみじめに思え、涙を流した。――「おれは、道化師《ジユ・スイ・ザン・ピトル》……」という、フランス語の一節がうかんできた。あまり気がめいるので、これにメロディをつけようと、起き上がって、ギターをかきならした。
その時、彼は眼前に滑らかな黒い巨体が、波をわってあらわれるのを見てぎょっとした。――だがそれは、害意はなさそうで、かえって親しげに、奇妙な声をたてた。マリンランドでおなじみの、大西洋産の大きなバンドウイルカだった。彼が安心してギターをひきはじめると、イルカは水面から頭を出して、きいている様子だった。歌の文句が――と、ピーターは「信徒」に何度も話してきかせた――いつの間にか、「私は憐れむ《ジユ・ピテイエ》……」と変っていた。が、メロディはさらにかわり、悲しみから、徐々に陽気で、力づよいものにかわって行くにつれ、歌詞のルフランも少しずつかわっていった。そして、イルカは、まるでそのリズムにあわすように、ヨットのまわりを矢のようにめぐり、波からおどり上がり、底をくぐり、奇声をあげた。
「おれはピーター!……」と、ピーターはとうとう立ち上がって、フランス語でさけんだ。「君は何ていうんだ?」
イルカは奇声を発して、水から胸まで出した。バンドウイルカにはめずらしい体長四メートル以上ありそうな巨大なイルカだった。――ピーターは、突然そのイルカに熱い「連帯」を感じて、海におどりこんだ。鮫がいるかも知れない、という危惧が頭をかすめたが、その時彼はあの宗教者が感ずる「天啓」が全身をうつのを味わったのだった。祖母からお伽噺のように粉飾してきかされた自分の数奇な生いたちと……自分の養家先の「トルートン」という名、そして自分が学位をとる寸前まで追究していた三重水素原子《トリトン》核……そして不思議な、おそらく一時は人間にかわれていたらしい人なつこいイルカとの出あい……天測で見た「イルカ座」……それらのものが一瞬にかさなりあった。なまあたたかい水の中で、イルカはなめらかな体をそっとすりよせてきた。
――おれは、こいつに乗ってやろう……。
とピーターは立ち泳ぎしながら思った。
――おれは海神の子《トリトン》だ。だったらイルカに乗れない事はない……。
イルカのつるつるした背びれに手をかけながら、ピーターは体をうかせた。
「ジュピター……」と、雲の切れ目に光る木星を見上げながら彼は声に出していった。「そう……お前は、ジュピターだ。そして、おれはピーターだ……」
〃Je《おれ》, Peter《ピーター》……〃
と、フランス語でいって、この語呂あわせに、彼は大声で笑った。――十分後、彼は、イルカの〃ジュピター〃の背びれにロープをかけ、風の無い海上を、西の島影へむかってヨットをひかせはじめた。
――救世主《サルヴアドル》の島だ……。
と、彼は月と、木星と、イルカの背を見ながら思った。――そう、これは、運命的な事だ……。
「〃愛〃による生命と宇宙との連帯」を、唯一の教義にする「ジュピター教団」誕生の神話はこういったものだった。――ピーターは、イルカのジュピターと一緒にくらすために、イルカと、月と、星と、さらに「奇蹟」と、「法悦」と「救済の予感」をうたい、レコーディングし、そして「教団」がうまれた。現在、信者は全世界に数十万、平均年齢二十二・五歳、フロリダ半島西海岸の本拠地「ジュピター・ビーチ」には、親衛隊《コア・ピープル》とよばれる若者たちが常時千数百人いた。教団は、ピーターのつんだ基金のほか「信者」や自然保護団体から寄付をうけ、その浜の「共同体《コンミユニテイ》」では、みんな何もせず、ただ毎日日光を浴び、泳ぎ、歌い、語らい、セックスをし、時には楽器をかかえて外へ「伝道」に出かけて行くのだった……。
その「ジュピター・ビーチ」の、小さな草葺きの小屋の中で、マリアは、五、六人の男女と一緒にひそひそと話しこんでいた。
「そんな生ぬるいやり方じゃ、何回やってもだめ!」と、一番年嵩の、ややいかつい顔立ちのアニタが、木のテーブルをどんとたたいて、いらいらした口調でいった。「もっと、思いきって、決定的にやらなきゃ……。爆弾ぐらいもっていかなきゃ、さわいだぐらいじゃどうにもならないって、いったでしょう?」
「でもアニタ……。外惑星航路の、のりこみの時のチェックは、意外に厳重だったぜ……」とひげをはやした若者がぼそぼそといった。「あんたがいったように、たしかに係のとりあつかいは形式的だったが、自動チェックシステムそのものは、昔通りの鋭敏なやつで……」
「それをまた、あんたたちが中途半端なやり方をしたものだから、さらに厳重にしちゃったわけよ……」と、アニタは、するどい緑色の眼でまわりの連中をねめまわした。「でも、やろうと思ったら、手はいくらでもあるわよ。――もっとしっかり考えをつめれば……」
「だが、おれたちそんな事、プロじゃないぜ……」とひょろりとしたそばかすだらけの青年が口をとがらせた。「こちらの行動で……つまり、あれだけの意思表示をすれば充分じゃないか?」
「それにアニタ……私は、やっぱり、そんな危険物をもちこむのは反対よ……」とマリアは美しい金髪をゆすって、かぶりをふった。「外惑星の最前線基地は、やっぱりぎりぎりで作業しているから、とても危険で……あまりひどい事をしたら、死者がでるわ……」
「あんたはそりゃ、現場に恋人がいるんだものね……」と、アニタはちょっと唇を歪めた。「だから地球に来たついでに、さらって来て、閉じこめとこうっていったのに――あんたはお嬢さんだから、やる事が万事手ぬるくて、まんまと逃げられちゃったじゃないの。そうする事が、あんたのいい人の身のためだっていったのに……」
「英二の事だけじゃなくて、誰でも、犠牲者を出すのはよくないわ……」マリアは、悲しそうに眼を伏せながら、しかし、きっぱりとした口調でいった。「そんなに……ピーターの教えに反するじゃないの……」
「そうだ。――爆弾や武器までつかっても、あのJS計画をやめさせろって……それは本当にピーターがいったのかい?」サングラスを頭にあげた、小肥りの若者がいった。「おれたちは、直接にはそんな事、彼からきいていないぜ……」
「その通り――それがピーターの意向よ……」アニタは低い、押し殺した声でいった。「私には……わかるのよ。私は十年間、彼といつも一緒にいたんだもの。彼がおくってくるいろんなサインが全部わかるの。――読みまちがえた事なんて、一度もないのよ。そんな事ぐらい、あんたたちだって知ってるでしょ? それに、私たちのピーターが、あんたたちに、直接口に出して、そんな指令をあたえると思うの? もしそんな事をして、万一私たちの間から裏切り者が出たら……」
〃裏切り者〃という一言で、小屋の中の空気が、しんと冷えこんだようだった。みんな足もとに視線をおとし、もじもじしたり、咳ばらいをしたりした。
――ピーター!……ピーター!……
という多勢の歓声が、遠くから椰子の葉をゆする風にのってきこえてきた。――「教祖」が、昼寝から起きて浜へ出てきたらしかった。
――ジュピター!……ジュピター!……
という、別の歓声が、海の方からきこえて来た。――教団のマスコットというより「シンボル」である、あの巨大な雄のバンドウイルカが、浜辺近くに泳ぎよって来たらしい。
「いい事……ピーターにとっては……あのイルカの〃ジュピター〃も、太陽系の木星《ジユピター》も、みんな同じ存在なのよ……」アニタは立ち上がって、戸口へ行きながらいった。「彼にとっては、太陽も、月も、宇宙のすべての星も、地球上のすべての生命と同じように大切なものなの……。まして、あの〃ジュピター〃とピーターの友情を中心とする、ジュピター教団が、あの太陽系で一番輝かしい木星《ジユピター》を、破壊しようなんて計画を、だまって見ていられると思う?」
日のさしこむ所へ出ると、アニタ・ジューン・ポープの赤い髪は、燃え上がる炎のように輝いた。――ポーランド系とイギリス系の混血の、この二十七歳の女性は、教団の最も古い幹部の一人で、ハイティーンのころから、青春も学業もすべてすてて、文字通りピーターの傍に片時もはなれず侍って来た。名誉ある軍人の家系で、政治学科の優秀な学生であったにもかかわらず……。
「ほら、おききなさいな……」
アニタは、ますます高まりつつある、ピーター、ピーター……ジュピター、ジュピターという叫び声にむかって顎をしゃくった。
「ジュピター……ジュピター……」とスクリーンにますます大きくせまりつつある不気味な木星の大赤斑の渦を見つめながら、バーナード博士はつぶやいた。「とうとうわしは、あの木星《ジユピター》の大渦の中にはいって行くのか……」
「まだもうちょいかかりますぜ……」とシンは腕組みしていった。「これから、イオの近くを通ります……」
5 〃硫黄の月《サルフアー・ムーン》〃
木星大気圏探査艇JADE《ジエイド》―3をつんだ母船、ミューズ12のブリッジでは、ちょっとした緊張がみなぎっていた。
ミューズ12は、ちょうど木星の重心から約四十三万キロの所を、木星の赤道面に対して十五度の傾斜をもつコースで通過しようとしていた。――それは、木星の第一衛星イオの軌道を、斜めにつっきる事になるのだった。
ブリッジのコンソールのむこうの壁面いっぱいにひろがる、多元表示《マルチ・デイスプレイ》スクリーンの右下には、ミューズ12の進行方向に六万キロはなれたイオの、レーダー・イメージがうつっていた。――木星の磁場との相互作用や、荷電粒子のジェット流によって、たえ間なくその表面から吹きとばされる、硫黄やナトリウムのイオンのために、妙にもやもやとした像になっていた。
ミューズ12は、秒速十七キロメートルにちょっとというはやい速度で木星の中心から四十二万キロあまりの軌道をめぐるイオの、進行方向の後方から斜めに接近して行き、イオの引力にひかれる形で、その後方三万キロたらずの所を、イオの軌道と十三度の角度で交叉するコースを通過する予定だった。――その時、わずかの時間だが、イオの公転軌道をすっぽりつつみこむドーナッツ型のナトリウムの雲、〃ナトリウム環《トーラス》〃を横切る事になる。
木星の自転軸に対して十度前後かたむく磁極軸にしたがって、木星本体の外へひろがる木星磁気の赤道も、本体の赤道に対して十度ほどかたむいており、イオの軌道にそってひろがるドーナッツ型の「ナトリウムの雲」は、この磁気赤道とともに、イオの公転軌道に対して十度傾斜していたが、それでも離心率ゼロ、軌道傾斜ゼロの軌道がすっぽりはいってしまうほど太いものだった。――そのナトリウム・プラズマは、木星周辺の中で、もっともはげしく電磁的擾乱作用のうずまくイオの軌道附近で、加速された高エネルギー粒子によって、イオの表面からたたき出されたものだった。それが、イオの運行と、木星磁場との相互作用によって起る電磁場によってとらえられ、きわめて安定したドーナッツ状の雲を形成している。――そして、さらに「ナトリウムの雲」の輪の外側を包みこむようにして、ずっと直径の太い、励起水素の雲の輪が、イオの後に、その軌道の三分の一ほどの長さにのびている。
それは、木星の表面から五万数千キロの所をめぐる、薄い「氷の輪」に対して、光学的にはほとんど見る事ができない「第二の輪」だった。――直径三千六百四十キロ、地球の月よりわずかに大きいイオは、このナトリウムと水素の雲の中をかきわけて進んで行く。
そして、それ自体が電気の良導体であるイオが、木星の外へのびている強い磁気を横切って進むにつれ、そこに大きな電荷が発生し、それが木星とイオとの間に、複雑ではげしい電磁的相互作用を起す。――イオと木星の南北磁極の間に発生する電子束《フラツクス・チユーブ》を通じて流れる、五百万アンペアという大電流もその一つだった。いわば、木星とそのまわりをめぐるイオは、真空の宇宙空間に、数十億キロワットから、時には数兆キロワットというすさまじい電力を発生する「天体発電機《ダイナモ》」を形づくっているのだった。
そのイオの軌道と、イオ本体に接近して行くミューズ12の各種センサーは、水素プラズマやナトリウム環《トーラス》、そして木星の自転とともに回転する木星磁束や、イオと木星の二つの磁極の間をはげしく往復する熱電子の束の形で流れる大電流弧がつくり出す二次的磁場などを感じとり、各種インディケーターの表示は、一桁、二桁と、はね上がりはじめた。――木星周辺を、さまざまな軌道でめぐる、有人無人の人工天体を中継点として、「木星クローズアップ航路管制衛星」との交通とデータ通信の回路はひらきっぱなしになっていたが、何段にもノイズ・フィルターがかかっているはずの音声スピーカーからも、時折バリバリガリガリというひどい雑音がとびこんでくるようになった。
「船体の電磁バリアの強度をもう少し上げた方がいいんじゃないか?」
と英二は、今はコンソールにおおいかぶさるようにして、操作を行っているシンの方を、ちらとふりかえっていった。――船は、イオの磁場と、木星の磁場によって、この衛星の進行方向のはるか後方にできる、磁束の収斂点に近づいており、ここで起る、ナトリウム・イオンや木星から電子束《フラツクス・チユーブ》を通じてふきつけてくる高速荷電粒子の、不規則な流れに、相当強くたたかれはじめていた。そして船外バリアを貫いて、ブリッジ内にまでとびこんでくる粒子の密度やエネルギーが、安全限界に時折接近しかけるのが、ディジタル表示の色彩の変化で見てとれた。
「バリアの強度は、危険水準附近で自動応答するようにしてある……」シンはおちついた声でこたえた。「レベルをあまり強く上げちまうとな……木星の磁気嵐のすごいのにぶつかると、コースが狂ったりするんだ。まあそうなっても、修正に四、五十分ほどかかる程度だがね……」
そういいながらも、シンはコンソールに手をのばし、電磁バリアの強度を少し上げた。
ミューズ12にかぎらず、木星周辺に無数にうかぶ人工天体のうち、有人のものには、ふんだんにつかえる液体ヘリウムを利用して、超伝導電流による磁界をそのまわりにつくり出していた。――それは木星周辺にうずまき、時には爆発《バースト》とよばれるほどの高密度高エネルギーの流れとなっておそいかかる高速荷電粒子を電磁界ではねとばすためだった。超ニオブ合金などをつかった超伝導による磁力は、たとえばミューズ12号のような、小型宇宙船では、人工重力のかわりにもつかわれていた。制御通信系は、ほとんどレーザー信号をつかっているので、あまり問題はなかった。
「木星接近航路《クローズアツプ》コントロールが、何かいってるぜ……」
英二は、ザーッ、というホワイトノイズに、がりがりという雷鳴のような音がかぶっているスピーカーの音声に耳をかたむけながらいった。
「PCMの反復送信をリクエストしておいてくれ」とシンは眉をしかめて、受信状況をチェックしながらいった。「いまちょっと……木星からのバーストが環《トーラス》にひっかかっちまってどうにもならん。――十分ぐらいたったら、K6からの中継がはいるだろう……」
バーナード博士とミリーは、シートにはりついたようにもたれかかり、背をのばし、正面ディスプレイ・スクリーンの中央いっぱいをしめる、暗黒の空間に眼をこらしていた。――それは、ふつうの宇宙空間の暗さではなかった。そこには星の姿が一つも見えず、かわって正面からのしかかってくるような、巨大な、「暗黒の質量」の気配が感じられるのだった。
いま、ミューズ12は、木星の「夜」の側にいた。
イオ軌道あたりから眺めると、木星の夜の闇はスクリーンの視野いっぱいにひろがって、衛星も、人工天体も圧倒的な木星の蔭の闇にはいりこみ、のみこまれていた。
だが、「木星の夜」は、完全な闇ではなかった。――その闇の南北には、ずいぶん低い緯度までおりて来ているオーロラが白っぽくゆらめき、表面のはげしい雲の流れの奥では、青白い稲妻がそこここに小さくはためいている。いったいどれだけ大きな放電現象かわからないが、時たま中緯度帯の「赤い雲の流れ」の一部が闇の中からかすかにうかび上がるほどの、すさまじい電光が、木星の大気圏の内部、赤、白の雲の海の底で光った。
そして、その異様な夜の木星の一角を、かすかに断続的な螢光を発しながら横切って行く小さな別の天体が見えた。――木星の十五の衛星の中で、ただ一つ「噴火する衛星」のイオだった。噴火といっても、地球のそれのように、高温の溶岩ではなく、溶けた高温の硫黄や、珪酸分をふくんだ亜硫酸ガスが内部から噴き出し、それがイオの電離層と衝突して光っているのだった。
「もう少しで、イオは木星の蔭から出る………」とシンは、こまかい所を修正した航行プログラムを、再びロックしながらつぶやいた。「ちょうどそのころ、おれたちはイオに一番近づく。――イオを近くから見た事がありますかい?」
「ないわ……」とミリー・ウイレムは首をふった。「私、言語屋ですもの。――ふだんはチョムスキイ記念財団のデータ・バンクのジャングルの中で働いてるの……」
「それじゃ、まあ、ちょいとした見ものですぜ……」シンはにやりと歯をむき出した。「なんせ、あんな妙な天体は、太陽系の中でも珍しいからね……」
「あれは……?」とバーナード博士がスクリーンを指さした。「あの白い、もやのようなものは何だろう?」
「ああ、あれが木星の〃輪〃です――」
英二は映像の倍率をすこしおとした。
「輪の幅は三万キロ以上あるんですが、厚さが二、三十キロしかないので、この角度から見るのが一番よく見えるんです」
進行方向をとらえているカメラがズームバックすると、それまで画面のほとんどを占めていた、木星の「夜」の部分のぶあつい暗黒が左の方へずれて行き、右端にわずかに見えていた、もやのようなうすく白い光斑が、するどく折れまがった弧状の光になった。――氷と、こまかい岩石質の塵、そしてイオの噴火口から脱出速度でふきとばされてきた岩石片などからなる木星の「輪」だった。
一九七九年、史上はじめて、木星のガリレオ衛星や本体に大接近したアメリカの無人探査機、ヴォイジャー1が発見したものだ。――二十世紀の前半まで、太陽系の惑星で輪をもつのは、土星だけだと思われていた。それが後半にはいって、天王星の望遠鏡観測で、つづいて木星への無人探査機接近で、二つの巨大外惑星にも輪が発見された。海王星の輪の発見は、ずっとおくれて、二十一世紀になりかけるころになったが、しかし、いずれにしても、地球上からの望遠鏡観測以外の方法で発見された記念すべき発見だった。
――思えば、一九七九年というのは、木星時代《ジユピター・エイジ》の最初の幕開きだった……。と、英二は次第に細く、強く光りはじめる輪を見ながらふと思った。――その前のパイオニア探査につづいて行われた、ヴォイジャー1、2、二つの探査機がもたらした、木星への大接近観測の結果が、地球人類の、「太陽系宇宙」に対する基礎的感覚にあたえたショックの重大さは、今となってみればまったくはかり知れない。すでに一世紀半以前の事となった一九七九年のヴォイジャー観測によってもたらされた発見はイオの噴火をはじめ数多く、それを記念して、その時発見された木星の十四番目と十五番目の衛星は、いまだに'79JS1、'79JS2とよばれている。――通称「ヴォイジャー衛星」1号と2号だ。
正面大スクリーンの上で、巨大な木星本体の夜の暗黒は、刻々と左の方へずれて行った。それは、かすかにカーヴした、厚い暗幕が、ゆっくりとひかれて行くような感じだった。それにつれて、暗幕がかくしていた背後の宇宙の姿、きらめく無数の星や、銀河の一部が、少しずつ右の方にあらわれてくる。――そして、さっきまでそれを通して背後の星が見えるほど、うすくぼやけてひろがっていた弓形の「輪」の姿は、いまはずっと幅がせまくなり、木星のむこう側にある太陽の光をうけて、光度も強くなった。木星の「昼」の部分はまだあらわれなかったが、木星のはやい自転や、はげしい大気の擾乱、電磁気的な爆発《バースト》などによってふきとばされたガスやプラズマが、うすい木星ハローとなって、赤道部の上部にふくらんでおり、それがごくわずかながら太陽の光を散乱し、木星の黒い輪郭をうかび上がらせている。三日月形や半月形に光るガニメデやカリストも、左の方に姿をあらわしはじめた。そして、すぐ近くで、宇宙空間に長く尾をひく木星本体の蔭からやっとすべり出たイオが、巨大な赤い弦月状に、ぎらりと光りはじめた。
「すごく光る……まぶしいくらいね……」
ミリーは眼をほそめてつぶやいた。
「かつては〃太陽系で一番なめらかな天体〃っていわれたんですがね……」シンは、もう一度コースの微調整をやりながらいった。「反射能《アルヴエード》は地球の月の六倍もあるんです。――地球のまわりにもってきたら、さぞ月夜は明るくなるでしょうがね」
「そのかわり、地球じゃまた、公害だ、宇宙空間汚染だって大さわぎになるぜ……」英二はくすっと笑った。「なんせあれだけ、硫化物だの亜硫酸ガスだの、硫化水素だのをふんだんにまきちらしているんだから……」
「さあ、来たぜ。――イオの後をすりぬけるから、よかったらカメラの倍率をあげな」
シンはスピーカーのヴォリュームを少しおとした。――加速度計、重力計の表示は、イオの引力が、かなりの大きさでミューズ12を加速しはじめている事を示していた。スピーカーの音声は、ノイズ・フィルターを最強にしてあるのに、ナトリウム環《トーラス》へつっこんだしるしの、波うつようなホワイトノイズでみたされ、他との通信は、しばらくの間完全にブラックアウトの状態になっていた。そして、そのノイズの底から、出発の時きいたものよりずっと低く、太いホイッスラーが、地獄からひびく汽笛のように、湧き上がり、消えて行く……。
英二はズーマー・スイッチをおして、ちょうど正面に来たイオの姿を拡大した。ついでイオの映像の自動追尾と焦点調節をセットした。
〃硫黄の月《サルフアー・ムーン》〃とよばれるイオの何ともいえぬ奇怪な姿が、真正面に拡大されてきた。直径三千六百四十キロのその球体の表面は、赤、朱、オレンジ、黄色、白の不規則なパターンにおおわれ、ぶつぶつと異様な穴があいている。いくつかの穴の底からは、白や青の噴煙らしいものがただよっているのが見える。――イオの表面には、木星のほとんどの衛星にあり、月や、火星や、水星の表面をくまなくおおう、隕石がぶつかってできる「衝突クレーター」が一つもなかった。あの「柔らかい氷の月」エウロパにさえ、いくつか見られたのに、イオの表面にはまるで見当らない。そこに見られる穴は、すべて「硫黄のマグマ」をふき出す火山性の陥没口《カルデラ》であり、その表面は、たえまなくふき出しふりそそぐとけた硫黄や硫化物の砂にくりかえしおおわれ、ならされ、平坦な「硫化物の沙漠」がその大部分をしめている。その上に、木星との間の、はげしい電磁気的やりとりや、木星イオ間の電磁場で加速されながらとびこんでくるプラズマ・ジェットのため、その表面物質はくりかえしはねとばされ、削りとられて行く。――イオの表面をおおう「硫化物の沙漠」と「硫黄の地殻」のすぐ下には、高温のためとけた硫黄と亜硫酸の大洋があり、その下に半溶融の珪酸塩のコアがある。木星の巨大な潮汐力によって、イオの柔らかい地殻は、赤道部で一・七日の間に百メートルもたわみ、その変形が熱エネルギーとなってイオの内部にたまり、硫黄分をとかし、溶融硫黄と亜硫酸ガスと、硫化物の火山灰、火山岩を、時にはイオの地表から二百八十キロメートル、乃至三百キロメートルの高さにふきとばすのだった。
「ああ……リンダ・モラビト火山がまた噴いている……」と、イオの映像を見ながら英二はつぶやいた。
「リンダ・モラビト?」
「一九七九年の三月九日、ヴォイジャー2からおくられて来た写真をチェックしていて、イオの噴火現象を、はじめて見つけたアメリカ女性の名ですよ」と英二はいった。「あとから、その火山に彼女の名がつけられたんです」
イオの斜め右上方に見えているモラビト火山の噴煙は、高く高くのぼりながら、その頂上が、ちょうど噴水のように、半球型にひろがって行った。噴煙の中心部は硫化水素や、他の硫化物を多くふくんで赤黄色く、周辺部に行くにつれて青くなり、最後に白い亜硫酸の凍った粒となって、イオの小さな重力と、地表附近をのぞいてほとんど大気のない状況の中で、青みがかった半透明の白煙の泡となりながらふくらんで行く。
ミリーは、唾をのみこみながらその光景を見つめていた。
6 輪と雲と渦と……
ミューズ12のセンサーは、イオがその後方に曳いている、アンモニアやナトリウム・イオンの長い「尾」の先端を、この船が斜めに横切りつつある事を示していた。
ブリッジの正面スクリーンには、木星にかわって、赤とオレンジと白の硫化物でおおわれたイオの表面が、画面いっぱいにうつり、ゆっくり移動していた。――カメラは真昼の赤道部にちかい赤い沙漠におおわれたあたりをうつし出していた。距離がかなりはなれているので、地平線にかけてゆるく球面カーヴがあらわれている。そのあたりは、のっぺりしている上、赤い、反射能《アルヴエード》の高い砂で一様におおわれているため、ほとんど大地の起伏がわからない。ところどころ不規則な形の黒い火口があって、中から白やブルーの噴気が上がっている。高さ千メートル内外の円錐形の赤と黄色の火山や、溶けた硫黄の流れがつくった、黄色いベルト状の部分が、わずかな変化を形づくっている。赤い沙漠のむこうに、まっ黒な、硫化鉄らしい砂でおおわれた沙漠があらわれる。
「あれは……?」
とバーナード博士は、瞳をこらした。
「あれ、あそこ……何か光った。噴火じゃないな。――しかし、爆発か、つむじ風のように見えるが……」
「落雷ですよ……」と英二はいった。「木星からの大電流が、ああやってたまにサージ電流になって……イオの表土をすこしずつ、すこしずつはぎとって行くんです。ナトリウム雲のナトリウムやもちろん硫黄原子もね」
「でも、どうしてイオには、あんなに硫黄がたくさんあるのかしら?」とミリーはつぶやいた。「私、惑星物理学は弱いんだけど……」
「硫黄ってのは、地球ではともかく、宇宙の平均値では、わりあいたくさんある元素でね……たしか、多い方から十番目ぐらいですよ。ナトリウムが十三番目だったかな……」英二は、頭の後に手をくんで、シートにもたれながらいった。「木星の大気中にもたくさんあるし――われわれも、いずれそいつにたっぷりもまれますがね。木星を中心にした、重力や電磁力、それに化学的エネルギーの、あるポテンシャル・レベルの所に、硫黄なら硫黄という元素が、集っちまうんじゃないですかね……」
「でも、こんな天体の上でも、人が働いてるらしいわね……」ミリーは、低緯度帯の黒い丘陵の上に、キラリと光る何かの施設があるのを見て溜息をついた。「あなた、イオの上におりた事あるの? 英二……」
「二度――いや、事故があった時をふくめると三度降下しましたよ。あまり散歩したり、別荘をかまえたりしたくない天体ですがね……」英二は冗談めかしていいながら、ちょっと唇をかんだ。「今じゃイオの上での作業はほとんど無人化されていますが、それでも二人、常駐しています。新しい設備が建設中なので、どうしても人間がいないと……。二週間交替を、いま三週間にのばしてがんばってもらってるんですが、外部環境もさる事ながら、表面状態が不安定なんで、神経がまいっちまうんです」
「こんな天体に、何かまた新しい装置をつくるの? そのためにも人がいるの?――硫黄でもほっているの?」
「もちろん、いくつかの物質も採取していますが――それより、いまも利用し、これから大々的に利用施設をつくろうとしているのは、イオと木星との間を、磁力線にそって流れている何兆キロワットという電力なんです。――いまでも、イオという宇宙発電機がつくり出す電力のほんの一部は、レーザー・ビームにかえて、周辺の人工天体にエネルギーを供給しています。いま、建設中なのは、JS計画の一部で、木星中心部の核反応に点火する予備実験につかうための装置です……本番の時、もちろん、イオ=木星間の、電子束《フラツクス・チユーブ》を通じて流れる大電流も利用しますが……」
「そうすると――JS計画が動き出すと、このイオもなくなっちまうの?」
「いや、なくなりゃしません。ちょっと状況は変るでしょう。イオと木星の間をながれる電流は、うんと小さくなってしまうと思いますがね。――ガリレオ衛星は、軌道要素など多少かわるでしょうが、全部のこります……」
英二はちょっと言葉を切って、咳ばらいした。
「ただ……木星の一番近くをまわっている第十四番衛星、'79JS1と――それから、木星の輪の一部は、木星にのみこまれるかも知れませんがね……」
「そうすると、もうじき木星の輪は見られなくなるの?――ひょっとすると、私なんか、この仕事で見るのが、見おさめになるわけ?」
「ミリー……あなたはどう思う?」
英二はシートから立ち上がって髪をがりがりとかきむしった。
「さっき……イオやエウロパは、あまり資源としては役に立たないといったけど、あれは非常に限定された意味なんだ。この太陽系の中の天体で、われわれにとって役に立たないものなんてない。宇宙では……何か小さいものでも、秩序さえあれば……それは値打ちがあるんだ……。私は――私たちはそう思うんです。この宇宙は広すぎて……あまり空虚さが広大すぎて、それに対して、質量とエネルギーの〃局部的秩序〃というものは、あまりにもまばらにしか存在しない。宇宙には星や〃銀河的秩序〃がいっぱい見えているけど、それよりその間のからっぽの空間の方がはるかに巨大で……しかも、その空虚さは、刻々とふえているんだ……」
「秩序が価値だって――それはわかるわ。でも、あなたたち、その天体の秩序の一部を……」
「それはちがう、マリア……」といいかけて、英二は思わず赤くなった。「いや、ミリー……秩序というものは、ただあるがままのものを遠くから眺めて、その美しさを愛《め》でるだけのものなんでしょうか?――その一部を使い、変更して、より高度な局部的秩序をつくる可能性に挑戦してはいけないんですかね? 宇宙の中で、虚無はほうっておいてもどんどん拡大し、局部的秩序も、時々刻々崩壊して行く……。今、われわれの手もとにある局部的秩序のポテンシャル・ストックを使えるうちに使って、よりレベルの高い秩序をつくり、拡大する虚無に挑む事は……太陽系に生れた知的生命体には許されない事でしょうか? それが許されないとしたら、この太陽系の中で、知性なんて何の意味があるんです?――ただ宇宙を眺め、その広大さにおどろき、それをしらべて、部分的秩序の美しさをたたえる詩でもつくっていりゃいいんでしょうか? 人類は、太陽系を、人類の可能性のために使ってはいけないんでしょうか?――もちろん、あまりにデリケートな美しいバランスをつくっている秩序は、こわすべきではないし、むしろ積極的に保護しなきゃならないでしょう。それにだってエネルギーはいる……。でも、この太陽系の中に知的生命が生れたという事は……地球にへたりこんで、空を眺めて歌をうたっているためだけじゃないような気がしませんか?――むしろ、太陽系が朽ち果てるはるか前に、その所与の〃資源〃、ストックとしての秩序を使って……」
「演説はいいが、シートへもどってくれねえか?」とシンが吼えるような声でいった。「イオの南極をまわりこむ時に、こちらもちょいと加速して、コースを修正するから……」
英二は、ちょっときまり悪そうな顔をしてシートへもどった。
ミューズ12は、いま、イオの南半球高緯度帯へむけて、最接近点へ進みつつあった。スクリーンにうつるイオの映像は、火口と赤と黒の毒々しい沙漠がへり、かわっていくつもの断層や陥没地形の底に、白い亜硫酸ガスの「雪」が凍りついた極地の地形にかわりつつあった。
それを正面に見ながら、ミリーは、隣席の英二の何か考えこんでいる横顔を、興味をもって盗み見た。
――彼は、もう地球人ではないんだわ……。
と、ミリーは思った。「宇宙空間」や、「天体」「秩序」「虚無」といったものに対する英二の考え方や感じ方が、彼女にとって、深いショックを与えた。――とりわけ、「秩序」が「価値」であると同時に、「資源」そのものだ、という考え方が、ミリーにとっては、今さらながら新しいものに感じられた。
――この青年は、もはや「地球人類」ではなく、「太陽系人」とも呼ぶべき世代に足をふみ入れている。……彼のあと、さらに「宇宙世代」ともいうべき新しいタイプの人類が、太陽系間の、月で、宇宙コロニイで、火星で、小惑星帯で、そして、「第二の太陽化された木星」をめぐる空間で、次々と生れてくるのだろうか? そして、彼らは、さらに未来の、太陽系をこえて、恒星間空間で「暮らす」ような、本当の「宇宙時代人」をうみ出すベースになって行くのだろうか?
自分の考えに、軽いめまいさえ感じながら、ミリーは耐Gシートに、じっと背を押しつけていた。
――本当に、このわびしくつつましい恒星系に生れた、孤独で感傷的な人類《ひと》の裔《すえ》の中から、そういった、「宇宙へはばたく世代」がずっと先にでも生れてくるのだろうか? とすると……いま、冥王星軌道をこえ、太陽から百億キロ以上はなれた暗黒の空間を、冷たい眠りを眠りながら、さらに遠く、数千億キロの彼方にまでつき進みつつあるあのイノウエも――彼女に、ついに理解できなかった彼の中にある「虚無への情熱」のようなものも――そういった時代への「予兆」として理解しなければならないのだろうか?
イオの引力でコースを曲げられたあと、ようやく木星の右端に細い三日月状の強い輝きがあらわれた。――再びミューズ12は、木星の「昼の面」へ、木星の引力でぐんぐん加速されながらまわりこんで行った。イオをはなれてから、何時間かの間、わりと単調な飛行がつづいた。イオの内側の、半径十八万キロあまりの軌道を十一・七時間でめぐる第五衛星アマルテアの相対位置は、最接近時で二十五万キロ以上はなれており、その白っぽい氷のたまった大クレーターのある、赤みをおびた岩石質の、長径百キロたらずの葉巻のような第五衛星の姿は、木星本体のむこう側にまわりこもうとする所を、超望遠のカメラの中にとらえられただけだった。
そのかわり、木星の表面から八万キロの径に近づいた時、わずか八千キロはなれた所を、平均直径七十キロの、不規則な形をした十五番衛星、'79JS2が通過するのが見えた。
さらにその数時間後、ミューズ12は、船体にいくつかのこまかい衝撃をうけた。――シンが、コンソールにはりつきっぱなしで、慎重に操船したのだが、ミューズ12は、木星の赤道表面から五万八千キロはなれた所に、幅三万キロほどにわたってひろがる「輪」の外縁部をかすめる形になり、ちょうど輪の外縁を、たくさんの小さな岩石片や氷片の「おとも」をひきつれてまわっている第十四番衛星、'79JS1に接近されて、そのため数個の小さな宇宙塵が、船体にぶつかったのだった。
だが、むろん、船体には何の損傷もなく、かわりに「輪」のすばらしい景観を二種類、見るチャンスにめぐまれた。
最初は、十四番衛星の近くで、「輪」をほとんど真横から見る事ができた。――'79JS1の近くでは特に、輪を構成する稀薄な物質の高度が、平均より高いため、火山性の岩石や、小砂礫、メタン、アンモニアの氷片などが、木星の渦巻く赤白の縞を背景に、一直線にならんで細い灰色の線として見えた。そのあと、「輪」の斜め下にむけてもぐりこんで行った時、太陽の光を散乱し、さらに木星からの赤い反射光――いわば「木星照」によって照らされて、それを通して衛星や星の姿が見えるほど密度の稀薄な、厚みのうすい輪が、それでも木星のまわりをくっきりととりまき、その上を木星の影が切っているのが見え、その中に土星ほど明瞭ではないが、細い空隙があって、それによって内外二つの輪に区切られているのが見えた。
「輪」の部分を通過すると、もう木星は、球体の「惑星」ではなく、眼下に果しなく前後左右にひろがる赤白の「大地」の様相を呈して来た。もちろん、本当の「固体表面」ではなく、「液体表面」ですらなく、その上を千キロ以上にわたって、何層にもかさなってはげしく流れ、渦まく、「雲」の表面なのだが、その雲が立体的な陰影をともなって、延々とつらなるのを見ると、まるでそれが泡立つ「固体」の表面のように感じられるのだった。そのはるか彼方に木星の、ほとんど一直線に感じられる地平線が見え、その上の暗黒の宇宙との間は、うすい高温ガスによる光の散乱のため、青色の、また時にはピンク色のもやがひろがっていた。
ミューズ12は、もう雲の頂から一万キロあたりまで、木星本体に接近していた。――シンは、姿勢を制御して、木星表面がミューズ12の船体の下側にくるようにした。その事によって、いよいよ木星の上に「降下」しはじめた、という感じが強まった。
「さて――ぼちぼちと御覚悟のほどをねがいますかな……」
とシンは、わざと残酷そうに歯をむき出していった。――しかし、そのつるつるの頭には、脂汗がべっとりとうき、顔にはかなりな疲労の色が見られた。
「本番までに、まだ二時間ほどある……」と英二はクロックを見上げていった。「ミリー……一時間でも二時間でも、眠っておいた方がいいですよ。バーナード博士みたいに……。ぼくもそうします。作業にかかったら、あなただってこのブリッジで、四時間から五時間、ぶっつづけでバックアップをしてもらわなきゃならない……」
「そうするわ……」とミリーは両手で頬をこすりながらうなずいた。「あなたたちは……あの雲の中へおりて行くのね。どんな事になるのか、私なんかには想像もつかないわ」
ミューズ12の「眼下」に、ちょうど南緯二十度から三十度ぐらいの間の、「雲の帯」がはやいスピードで動いていた。それは白く強く光る、うすい最上層の雲と、そのすき間から、さらにずっと下方に泡立ち煮えくりかえるように見える、赤茶色の雲の層からできていた。白い雲の層は、所々で逆風をうけて、カルマン渦の無数につらなる乱流をおこしており、そこでは雲の影が、美しいブルーや緑色を呈していた。また、白い、巨大な長円形の渦が、雲の平均表面よりすこし高い所でゆっくりと動いている。
それよりも、何やらおそろしげなのは、白い雲の層よりずっと下の赤茶色の雲の層から、まるで火山の大噴煙のように、白い雲の近くまでふき上がってくる、積乱雲――というより、汚れた赤茶色の、また緑がかった灰色と黒の「大竜巻」の柱だった。巨大なものは、まだいくつも見えなかったが、そのねじまがった雲の柱の中に、ちかちかと電光のはためくのを見ると、ミリーは腋の下に冷たい汗がにじむのを感じた。
こんなところに――いや、もっと木星の雲の近い所に、無人観測機や工作船、JS計画用のテスト・プラント、それに木星の大気圏から採取するヘリウム3や水素、三重水素の液化プラントとデポ用の巨大なタンク、それをはこびにくるタンカー・タグ、さらにパトロールなど、人工天体が、極軌道や赤道軌道など、さまざまな軌道をとってたくさんとんでいた。――そのいくつかと、コースの最終決定のために、木星の南赤道帯大赤斑附近の気象状況などについて交信していたシンが、ミリーのあとにつづいて、個室へ仮眠をとりに出ようとした英二にむかって、ぱちっ、と指を鳴らした。
「ミネルヴァ基地がよんでるとさ……」とシンはヘッドフォンをさし出しながらいった。「主任さんに何か御用だと……。こっちの方をつかってくれ。スピーカーよりはちょいましだ」
「ミューズ12……本田だ……」ヘッドフォンを頭にかけながら、英二はいった。「つないでくれ……」
「ああ、主任?……ブーカーです……」とぶつぶつざあざあいうノイズのむこうでブーカーの声がした。「実は、カルロスが、ぶったおれちまって……」
「過労か?」と英二は思わず声をとがらせた。「またいわれた通りの休みをとらず、ぶっとおしでやったんだろう?」
「通算百時間です。主任に内証にしてくれっていってたんですが――〃ナンシィ〃の一部がオーヴァーヒートで焦げついちゃいました……」
「馬鹿な! 何て事を!」
「でも、プログラムEK620の全面組みかえなんて、そのくらいやらないと、とてもおくれをとりもどせないんです。――一応カルロスは完成してぶったおれたんですが、訂正プログラムはデバッガーにかけて、われわれが注意してチェックしながら、さしこんじゃっていいですか? それとも……」
「フェイル・セイフ・ループを三重にして、すぐつっこめ」と英二は唇をかんでいった。「問題があったら走りながらなおすんだ……」
7 赤い嵐
周囲一面に、赤茶色の雲が、はげしく渦まきながら流れていた。
不思議に音はしない。
体は不快なうねりのリズムにのって上下左右にはげしくゆれる。――突然背中の方から、すうっと奈落の底にひきずりこまれるようにおちて行くと思うと、胸もとをぐいとつき上げるように乱暴に体がうき上がる。次の瞬間、右へ左へと、こづきまわされるように体がゆれる。
――……!
英二は思わず叫んだ。――誰かの名前をよぼうとしたのだが、その名前がうかばない。
赤茶色の雲の流れは、いっそうはげしく、早くなり、そのむこうに白い雲や青い雲が逆方向、あるいは斜めにくいちがう方向をとって動いて行く。何かが白く光り、その光がいくつにも割れて、それを中心に赤茶けた渦がはげしくまわりながらせまってくる。
眼をむけようとしても、渦は四方八方にあり、きりきりまわりながら彼をつつむようにおしよせてくる。
――カルロス!……ブーカー!……
と、英二はわめいた。
眼がまわり、胸がむかむかする。
と――、渦は急に回転をやめ、かわりに一つ一つの渦が、ぎらぎら光る血走った眼になって、赤くゆらめく雲の上にうかんで彼を見つめた。
英二は全身が鳥肌だつのを感じた。
――シン!
と、英二はまわりに群がる「眼」の視線をかわそうとして、身もだえしながら叫んだ。
――シン!……ミリー!……きこえるか? どうなってるんだ?
突然赤い雲の底から、巨大な、黒いものがぐうっとうかび上がってくる。――途方もなく巨大なものだ。大地のようにも見えるが、おぼろに細長いものであることがわかる。
――出たぞ!……幽霊《ゴースト》だ!……
と、英二は頭のまわりにマイクをさぐりながら金切り声をあげた。
巨大な――長さ何百キロもありそうな巨大な影は、はやいスピードで視界を斜め上に横切って行く……。やがてそれは、赤い雲の流れの奥に遠ざかって行き、黒い、巨大な円盤となって宙にかかった。
まわりをとりかこむ赤い雲の一点に、ぽっかりと黒い穴があいた。――赤い雲ははげしく渦まきながら、その穴にかぎりなくすいこまれて行く。
と、その黒い穴の中央に、ぼんやりと一つの青ざめた顔がうかぶ。苦しげに眉をしかめ、眼をとじ、その眉毛やくいしばった唇に、まっ白に霜と氷がこびりついている。
――キン!……
英二はおどろいてその顔にむかってよびかけた。
――ホジャ・キンじゃないか!……こんな所にどうして……。
「本田主任……」
と、誰かが英二の肩をゆすった。
「……。起きてくれ。あと二十分で、JADEの切りはなしだ……」
はっと気がつくと、個室のベッドわきにバーナード博士が立っていた。
英二は口を歪め、顔をくしゃくしゃにして起き上がった。――一時間ほど仮眠をとるつもりで調剤した睡眠剤が、地球、月への往復の間につもった疲労をひき出してしまったらしい。
ベッドの枕もとにあるケースの蓋をあけ、中をひっかきまわして、疲労回復剤を口にほうりこんだ。――覚醒作用もあって、すぐにきいてくるはずだ。
「夢を見ていたのかな?」
とバーナード博士は個室の戸口の所にたって、ふりかえりながらきいた。
「ええ、まあ……」
英二は、こめかみをもみながらうなずいた。
「ホジャ・キン大尉の名前をよんでいたようだが……ミネルヴァ基地から〃スペース・アロー〃に乗り組んだ……」
通路の方で、何かの気配があった。――せまい通路を二、三歩ひきかえしてくる足音がして、ミリー・ウイレムが戸口から顔をのぞかせた。
「〃スペース・アロー〃号がどうかしまして?」
と、彼女はやや緊張した表情でたずねた。
「いや、別に……」
とバーナード博士は苦笑しながら首をふった。
「ぼくが夢を見て、あの宇宙船に乗り組んだ友人の名を、寝言で叫んだらしいんです」
英二は立ち上がってジャケットをはおりながらいった。
「あの探査船に乗り込んだお友だちって……井上博士のこと?」
「いや……ホジャ・キンっていって、腕のいい宇宙空軍のパイロットですが……」
「あなたの知り合いかね? その……井上博士というのは……」
とバーナード博士はきいた。
「ええ、まあ……」ミリーは少し顔を赤らめながら眼を伏せた。「〃スペース・アロー〃のフライトは、ずいぶん長旅でしょう?――だのに、その人とは、さよならをいいそこなったので……、何となく気になって……」
「あっちの目的は彗星源異常調査ですからね――。往復二年……あるいはそれ以上かかるでしょう……」
英二がそういった時、通路のスピーカーから、シンのどら声がひびいた。
「なにをぐずぐずしてるんだ? あと十五分だぞ!――眼がさめねえんなら、便所掃除の水を頭からぶっかけてやれ!」
ミューズ12のコックピットでは、シンが汗みずくになりながら、正面ディスプレイにうつし出される木星の大気の動きのパターンの上に次から次へとあらわれる数値をにらみつけて、制御数値を母船と探査艇のコンピューターにうちこんでいた。
「木星《おやじ》のごきげんはあまりよくねえぞ……」はいって来た三人を横眼で見ながら、シンはほえるようにいった。「〃赤眼〃のまわりで、おりて行けそうなポイントは二つぐらいしかねえ。――最初のチャンスは四十三分後にくる。二つ目は二時間六分ぐらいあとだ。深くもぐるつもりなら、初めの方の〃穴《ホール》〃がいい。多少あぶねえが、あの七ポイント四三Nのあたりにある下降気流にのれるべえ。もう一つの〃穴《ホール》〃の方が、大きくて安全性は高いが……どうする?」
「ナンバー・ワンで行こう……」
英二はコンソールの後のがたがたのロッカーをあけ、特製の耐Gスーツをとり出して、一つをバーナード博士にむかって投げながら叫んだ。
「ミリー……博士の着付けを手つだってあげてくれ。シン、〃穴《ホール》〃ワンをねらうなら、切りはなしまであと何分ある?」
「十三分ちょっとだ……」シンはディスプレイ右上の赤い色のディジタル・クロックをさした。「切りはなしはいつでもOKだが、最終チェックを考えると、トイレへ行っているひまはねえぜ……」
「一足先へ行っています、博士……。JADE―3の乗りこみ通路はわかっていますね。ミリー……博士の着付けがすんだら、バックアップ・コンソールのチェックにかかってください……」
「ヘッ!――寝すごしたおかげでじたばたしやがって、ざまあねえや!」
とシンが手をふりまわして毒づいた。
ミューズ12の内部には、かすかに旋回加速度が感じられた。――ディスプレイの左端を占める3D座標がぐうっとまわりはじめる。
「高度はいまどのくらいなの?」
とミリーは、雲と気圧配置、風向をあらわしたパターン・ディスプレイを見上げながらつぶやいた。
「相対高度で四千キロぐらいだ。――映像を見るかい?」
シンはコンソールに手をのばした。
ディスプレイ・パネルが、ぱっと明るくなり、一面に赤、白、青の渦まく模様があらわれた。――シンがカメラを操作すると、模様はぐうっと下の方に平たくなり、木星の雲でおおわれた輪郭が、ほとんど一直線になって視野にあらわれた。その輪郭はよく見ると、わずかにカーヴしており、その上に青白く、また一部をピンク色に染め上げられた、木星の「空」が見える。
眼下の雲には、はっきりと段階が見てとれた。――白くうすいアンモニアの小さな氷晶の雲は、最上部にうすい膜となってひろがり、まぶしく光っている。そのはるか下に、もくもくともり上がる赤茶けた硫化水素アンモニウムの厚い雲がおおっているのが見える。赤茶色の雲は、所々とぎれて、その底に青い深みと、時折白く光る氷の雲らしいものをのぞかせ、はるか底から、途方もなく巨大な、青や灰色、またブロンズ色の層雲をまといつかせた積乱雲がもり上がっている。――上層雲と中層雲は、まるで反対の方向にはげしく流れているように見え、見ていると眼がまわりそうだった。毒々しい陰影をもった赤茶色の積乱雲は、ところどころで白いアンモニア雲の膜をつきやぶって、巨大な雲の峯をそびえさせており、そのまわりには、無数の紫色の電光がはためいていた。
「あそこへ……あの人たちはおりて行くの?」
ミリーは眼をすえてかすれた声でつぶやいた。かさかさに乾いた唇を、彼女は無意識に舌でしめし、ごくりと唾をのみこんだ。
「英二はなれてるさ……」シンはそういって、ぐっと腕をミリーの方につき出した。「それより、あんた、早くバックアップ・コンソールについてやんな……」
シンのつき出した腕の先に、ライトビールの罐があった。――ミリーはちょっとためらったが、それをうけとると、拇指で栓をはずし、ぐっとひと口のみこんでメイン・コンソールの左の端へまわりこんで、JADE―3との通信と操船バックアップを行う、小ぢんまりしたコンソールの前に腰をおろした。
英二はもうJADE―3のコックピットについたらしく、交信をもとめるフリッカーが総合ディスプレイ・パネルの上に点滅していた――ミリーはイアフォンをかけると手早くメイン・スイッチと通話スイッチを入れた。
「こちらミリー……スタンバイOKよ……」とミリーはいった。「そちら乗り心地はどう?」
「いいも悪いもないが……バーナード博士は?」と英二の声がきこえた。「ああ……いま、おりてこられた。――博士……早くシートヘ……」
「あと七分できりはなしだぞ!」とシンはわめいた。「どうする? 英二……チェックはおつながりでやるか?」
「できるだけ急ぐが、時間が来たらそうしてくれ。――全部で十分ありゃあ大丈夫だろう……」と英二の声がスピーカーからもきこえた。「OK、ミリー……はじめよう……」
ミリーは、一フェイズ平均二千ステップが自動的にチェックされ、全部で十二フェイズで構成されているプログラムの最終チェックにはいった。――ディスプレイ・パネルに目まぐるしく光点が走って行き、全光点が一本のバーとしてグリーンで点滅すると、次のスイッチを入れる。JADE―3の電子脳の容量には充分な余裕があるが、大赤斑の上空で、多重チャンネルレーダーをつかって、気象の大状況を監視している母船ミューズ12との交信が、何らかの原因でブラックアウトになった時――それは、すさまじいばかりの木星大気圏内の電磁気的状況では、決してめずらしくないのだが――JADE―3は、自分でそれまでミューズ12からおくられて持っていた気象のダイナミック・パターンを解析し、予測をたててのりきらなければならない。そのためには、相当な余力をもっておく必要がある。
フェイズ・4……フェイズ・5……と、自動チェックは順調に進んで行った。ごくまれに、光点ののびがひっかかり、赤い警報点が点滅して、パネルに数字と文字がめまぐるしくうかぶ事もあったが、ほとんどはミリーが手をくだすまでもなく、バックアップ・コンピューターが、自分で処置をして進んでいった。
が、途中でミューズ12は、びりびりと船体がふるえるような衝撃をうけ、メイン・コンソール前のディスプレイが一瞬全部消え、右端に見なれない赤いバーがあらわれてせわしなく点滅しはじめた。「ぶは!」とシンがうめいた。「ちくしょう!……電磁バーストのものすごいのをくっちまったぞ……」
「大丈夫? シン……」
とミリーはイアフォンをずらしてふりかえった。
「きりはなしは、ちょい延期だ。コースの立ちなおりに二分かかる……。きいてるか? JADE―3……」
「こちらは大丈夫だ……電界表示のELが一ついかれちまったが……」と英二の声がきこえた。「チェックは順調に進んでいる。いつでもいい時にサインをくれ……」
「野郎! こンちくしょう!――早くもどらんかい!」とシンはグローブのような掌でコンソールをばんばんたたいてうなった。「英二、バリア強度をちょいさげるぞ。――センサーが、パンチドランカーになっちまった。いい気持ちで小鳥の鳴き声でもきいているらしい……」
「きりはなし一分前です……」と英二はイアフォンをおさえて傍のバーナード博士をふりかえった。「気分はどうですか?」
「最高だ……」とむくむくした耐Gシートに埋まりながら博士は右手の拇指をあげて見せた。「といいたい所だが……実の所は、何といっていいかわからん。妙な気分だ……」
「私も最初はそうでした……」英二は自動操縦装置のスイッチを指でふれながらつぶやいた。「というよりは、完全にぶるってましたがね……」
「フェイズ・10……チェック終了……」とミリーの声がせまいコックピットに、軋むようにひびいた。「あと二つ……」
「きりはなしタイムだ……」と、英二はいった。「かまわずつづけてくれ、ミリー……ケーブルは三分以上つないでおく……」
バーナード博士は、反射的にせまくるしいコックピットの天井の連絡ハッチを見上げた。――完全に閉鎖されているのはわかっているのだが、自分がひどく神経質になっているのが感じられた。
通信回線を残して、JADE―3の動力系統や生命維持装置は、母船からきりはなされていた。あとはミューズ12の下部の回収装置の腕《アーム》がのび、支持用のクランプやマグネット・アンカーがはずれれば、この小さく頑丈な、潜水艦のような探査艇は、母船から完全に自由になる。ディスプレイ・パネル上に縮んで行くオレンジ色のバーは、その時があと数秒後にせまっている事を示していた。
「じゃ……はなすぜ」と、シンの声がスピーカーからきこえた。「四分半ほどひっぱってやる。気をつけて行ってこい。――お年寄りがいるんだから、あんまりむりするんじゃねえぞ」
がくん、とかすかな衝撃がJADE―3につたわった。――艇殻をとらえている回収用の腕《アーム》がのびはじめたのだった。
二秒後、JADE―3は、全長百二十メートルの母船ミューズ12の下部に、一本のケーブルで鼻先をつながれたままうかんでいた。――まわりは、赤みをおびた木星大気の散乱光につつまれ、そのすぐ下には、むくむくと白と赤茶色の団塊をもり上がらせる木星の雲海がはてしなくひろがっている。
ミューズ12はかなり前から、進行方向に船尾をむけて、制動噴射をつづけていた。――そのため、切りはなされたJADE―3は、母船の後方にはなれて行き、通信回線を内蔵した曳航索は、ぴんとはりつめて行った。
最後のプログラム・チェックがすんだ所で、英二はバーナード博士の方をふりかえってきいた。
「外の光景を見ますか?」
博士がうなずくのを見て、英二はディスプレイ・パネル全面の映像をきりかえた。
せまいコックピットの中が、突然明るくなった。正面パネルの上部に前方にむかって長い曳航索がのび、そのむこうに、不様なミューズ12の黒灰色の腹が見えた。――そして、三面のパネルの下方全体に、白、赤、青の雲が、狂気のシュールレアリストが描きなぐった巨大な「赤い嵐」のイメージのように、ねじれ、ふくれ上がり、渦まきながら、眼路の果ての果てまでひろがっているのが見えた。
8 大気圏突入
四分三十秒間JADE―3を曳航した所で、母船から曳航索切りはなしの、味もそっけもないシグナルがおくられて来た。――シンは、ミューズ12に、危険速度ぎりぎりにまで制動をかけ、切りはなしたとたん百八十度ターンして、いそいで加速にかかるつもりらしかった。
JADE―3のコックピットの中で、急に加速度がゼロになるのが感じられた。同時に正面のディスプレイ・パネルに、蛇のようにうねりながら遠ざかって行く曳航索と、はるかかなたで、とんぼがえりをうつ母船の姿がうつった。
――ひどいアクロバットだ……。
と、それを見ながら、英二は思わず苦笑した。
――ミリーが目をまわしているんじゃないかな……。
ミューズ12は、ターンするや否や背面飛行の形のまま、急加速にかかり、その姿は正面パネルの中で矢のようにJADE―3の後方へとびすさって行った。
〃通話テストだ……JADE―3、きこえるか?〃
と、スピーカーからシンの笑っているような声がきこえた。
「こちらJADE―3……よくきこえる」と英二はこたえた。「えらく派手にやったな。――ウイレム女史は大丈夫か?」
〃何しろ、そちらをできるだけ長くひっぱってやるため、危険速度いっぱいまで減速したからな……〃とシンはいった。〃でもまあ、大したこたァねえ。――瞬間6Gぐらいかかったかも知れねえが……〃
〃何が大した事ない、よ!――人にだまって、いきなり宙がえりなんかして!〃と、ややオフで、ミリー・ウイレムの金切り声がきこえた。〃見てよ! 頭の後に、こんなにこぶができちゃったじゃないの!〃
〃ま、ま、そう興奮しねえで。お嬢さん……〃
とシンがちょっとうろたえたようになだめているのがきこえた。
〃お嬢さんって、何よ!――それ、あてつけなの? 私は、こう見えても、りっぱな出もどりなんですからね!〃
〃聞いた通りだ。こちらは元気でぴんしゃんしてござらっしゃる……〃とシンはいった。〃じゃ、まあ気ィつけて行けや……。レーダー・フィードバックはどうだ! ちゃんとうつってるか?〃
「今の所、きれいに出ている……」
英二は、右側のディスプレイ・パネルに、ミューズ12の多元レーダーが上方からとらえている、木星の雲と、JADE―3の位置をあらわす映像をうつし出しながらこたえた。
「だけど、もうちょこちょこフリッカーがはいってるな……。例によって、雲へつっこんだら、そちらが送ってくる映像はあまりあてにできんだろう?」
〃そん時ゃあ、こちらから口で教えてやるから、電子脳《ブレイン》のおぼえている気象パターンを修正してつかえ……。いいな……〃
「わかってるさ。シン……。おれたちゃ三度目じゃないか!」
〃じゃ例によって〃なぜかシンは大きなくしゃみを一つした。〃例によって、緊急回線は全チャンネルあけっぱなしにしとく……。そっちもあけとけよ……。あばよ……〃
〃ちょっと待って……〃とミリーの声がわりこんだ。〃こっちはどうなの?――バックアップ回線はOK?〃
「オール・グリーンだ。ミリー……」と今度はバーナード博士が、夢を見るような声でいった。「あとは……よろしくたのむ……」
英二はスティックをにぎって、かるく前後左右に動かしてあそびをたしかめると、拇指でロックをはずし、右へかたむけた。
JADE―3は大きく右へバンクし、三面のディスプレイ・パネルの映像もぐうっと斜めにかしいだ。――すでに、かすかながら気体分子の抵抗が艇体に検出され、それがパネルの右下面に数値となってあらわれはじめる。が、まだ流体舵《ラダー》はきかず、スティックは方向調整ロケットに反応して艇を動かしていた。
英二はスティックをにぎりしめながら頭の隅で考えていた。――燃料は……むろん満タンだ。非常脱出用の予備もつんである。だが、長丁場になりそうだ。節約するにこした事はない……。
左手下方に、白く長く、むちゃくちゃに波うった渦の流れが見えている。その先にもり上がるように、長径数千キロの白斑《ホワイト・セル》がある。――あんなのにつかまったらたまったものじゃない。そのむこうに、黒と灰色の巨大な影が立ち上がり、影の奥に赤黒いものがうごめいている。大赤斑《グレート・レツド・スポツト》はその巨人のような灰色の影のむこう側だ。
英二は左手のパネルに、まだ鮮明な、母船からのレーダー映像を出し、もう一度位置関係をたしかめた。
「コースをちょっと変更するぞ、シン……」と英二はミューズ12によびかけた。「燃料節約のためだ。――7ポイント・Nから、ポイント467SW22ふったあたりで、流れ《ストリーム》ナンバー8につっこむ……」
〃勝手にやれよ……〃とシンは眠そうな声でいった。〃おれは寝てるんだ……〃
「ナンバー8の流速は、いまどのくらいだ?」
〃今いったポイントの水平分速は時速にして四百キロちょっとね……〃と、ミリーの声がした。〃よさそうよ。〈穴《ホール》〉は幅二百キロもあって、強い下降流があるわ〃
「ありがとう、ミリー……」英二はスティックを小きざみに動かしながらいった。「じゃ、つっこむ……」
英二は指でバーナード博士に合図して、パネルの左上隅をさした。――同心円と十字架をくみあわせた三次元加速表示のパターンがそこにうつし出されていたが、博士は三面のパネルにうつる、壮大な木星の雲海にただ呆然と見とれていて、英二の合図に気がつかないようだった。英二はかまわず、正面パネルの映像にかさねて、新しいコース・パターンの表示を出し、スティックを操作して中心の円に光点をあわせると、ぐっとスティックを前におした。
東西ざっと四万キロ、南北二万キロほどの南北に平たい楕円形をしている大赤斑は、木星の南赤道帯の中にあって、周速毎時三百キロから三百六十キロぐらいで時計と反対まわりに回転している。――この途方もない、燐酸や硫化水素アンモニウム、メタンなどの雲を、木星の平均雲表面上数十キロから、発達した時は百キロ以上の高さに吐き出す巨大な「台風」は、地球上の台風とちがって、きわめて安定で、望遠鏡観察がはじまって以来、数世紀にわたって、若干の発達と衰えはありながら、同じ南緯二十度附近を中心に存在しつづけていた。
大赤斑の存在するあたりは、東から西へむけて時速百八十キロぐらいのつよいジェット・ストリームが流れており、それにおし流される形で、この巨大な台風は、時速十一キロぐらいでゆっくり東へ動いている。
その北側には、反対に西から東へ毎時五百キロという高速で吹いている赤道上昇風帯があり、時速三百キロ以上で回転している大赤斑の北部の流れと対向する形でぶつかり、大赤斑はまた、すぐ南を流れる上昇流をまきこんで、そこから西へ六、七万キロにもわたるすさまじいカルマン渦の連なりができている。しかし、大赤斑のちょうど南西の角の所では、南熱帯《サウス・トロピカル》ベルトの偏西風が、大赤斑の渦の回転方向とかさなって、そこに気流の乱れのすくない、時速三百五十キロから四百キロの強い下降流ができている。
JADE―3は、その下降流にのって、大赤斑の「根もと」へもぐりこんで行こうとしていた。
赤道表面で、地球の二・八倍という木星の重力によって加速されながら、JADE―3は、下降点としてえらばれた〃穴《ホール》〃へむかってまっしぐらに進んで行った。――まだ気体粒子密度の稀薄な熱圏だったので、大気摩擦による艇殻の温度上昇はほとんど見られなかったが、それも下降するにつれ、また加速がかさなるにつれ、パネルに表示されている、毎秒あたりの気体分子の衝突個数やエネルギー数値は、びんびんとはね上がって行った。その二列のディジタルナンバーの横に、また新たな、緑色に輝く数字が出はじめた時、英二はちょっと緊張した。
数値は、電離気体中の電子密度をあらわすものであり、センサーは、103/cm-3から数値を表示するようになっている。――そしてそれがあらわし出した事は、木星大気圏の電離層の最上層に突入しはじめたしらせだ。
「ジム……」と、英二ははじめて、JADE―3くみこみの電子脳《ブレイン》に、直接によびかけた。「このあたりの電離層は何層だ?」
「四時間前の観測飛翔体のレポートでは……」と〃ジム〃は、音声応答装置のたち上がりのわずかなおくれののちにこたえた。「L1からL8の八層です。今、L1層通過中。各層の高度は……」
「高度はいい、マーク・ポイントは?」
「L5です。中間層《メソポーズ》からの相対高度は七百キロ……電子密度2.1×106/cm-3……強まっています。次はL3……相対高度八百二十キロ……今日は中間層との圏界面にL8が出ています……」
「L3とL4通過の時、電磁断熱のテストをしてみよう……」と英二はいった。「大丈夫とは思うが、ながらく使ってないから……」
「了解《ロジヤー》……」と〃ジム〃はくぐもった声でいった。「L3でテスト・セットします……」
JADE―3は、毎秒毎秒二十七メートルほどの、木星の重力加速度をうけて、ほとんど鉛直落下にちかいコースをとりはじめていた。
――落下速度は、刻々とはやまりつつあり、艇体にあたる気体分子やプラズマの数とエネルギーが増加して、艇殻温度がわずかながら上昇しはじめた。
木星大気圏は地球と同じように、最下層から対流圏、成層圏、中間圏、熱圏と、性質、密度の異なる層がつみかさなっている。――JADE―3は、いま、厚み四、五千キロメートルほどの、いくつもの電離層をふくむ熱圏を、その下にある中間圏へむかって落下しつつあった。
その中間圏との境界面からの相対高度千キロの所で、JADE―3は、L3とよばれる強い電離層を通過し、つづいて相対高度七百キロで、さらに電子密度の大きい、L5を通過した。
「電磁断熱システム、正常です……」と〃ジム〃はいった。「自動応答装置、セット完了……第二次修正軌道、ロックしました……」
「耐Gシートの具合、大丈夫ですか? 博士……」オートにきりかえたスティックから手をはなして、ふかぶかとシートにもたれながら英二はいった。「最初の難関です。――コースを短縮修正したので、多少きついかも知れませんが……」
バーナード博士は、だまって右手をあげて、OKのサインを指でしめした。
JADE―3は、はるか数千キロ下にひろがる木星の雲の頂へむけて、石ころのように落下していた。――そして中間圏との相対高度が五百キロをわった時、メイン・エンジンがスタートして、JADE―3は徐々に横すべりをはじめ、中間圏との境界面に対して、切線方向のコースをとりはじめた。機首が上がり、耐熱タイルをはった艇体下面は、熱のため、にぶく赤く光りはじめた。
JADE―3は、耐熱タイルの融解損耗《アブレージヨン》による、古いタイプの冷却システムもそなえていたが、メインの防熱方式は、豊富にある液体ヘリウムを利用して超伝導電流を艇殻に流す「電磁断熱システム」をつかっていた。――高速で大気に突入する時、艇体と大気の摩擦によって二千度から三千度の熱が発生し、それによって気体が電離しプラズマ化する。そのプラズマを、強い電磁場でもって艇体からわずかにひきはなす事によって、熱が直接艇体につたわるのを防ぐのである。
中間圏を成層圏へむけて降下するにつれて、JADE―3の艇体は赤からオレンジ色に輝きはじめ、やがて目もくらむような白光に包まれ出した。――最初赤熱して溶けはじめた艇体下面の耐熱タイルは、途中から急に輝きを失い、白熱したガスの層が艇体からわずかにはなれて全体をおおった。遠方から見ていると、それは青白く燃え上がる流星が、長い光と煙の尾をひきながら、渦まく木星の赤い雲の頂へむけてまっしぐらに落下して行くように見えた……。
〃JADE―3……〃
と、ばりばりいう雑音の底からシンの声がかすかにきこえた。
〃きこえるか?……JADE―3……〃
英二は耐Gシートから、体をもぎはなすようにして、通信機の同調コントロールに手をのばした。――パチッ、と小さな音がして、指先からかすかな青い火花がとび、回路のどこかでコンデンサーか何かが放電して急にシンの声がはっきりした。
「きこえるぞ……」と肩で息をしながら英二はこたえた。「〃穴《ホール》〃通過……第一次減速完了……通信回復した……。受信状態良好だ……」
〃こちらもよくきこえるわ……〃とミリーの声がした。〃データ通信も回復して順調……カメラも追跡中……〃
〃だいぶ手荒くやったな……〃とシンは笑いをふくんだ声でいった。〃じいさんは大丈夫か?〃
「大丈夫みたいだ……」横の席を見ながら英二はいった。「少しやりすぎた……。何しろ八・五Gが五十秒もつづいたから……」
「わしは平気だ……」と、隣の席からバーナード博士がかすれた声でいった。「もう十秒つづいたら、フォールだったかも知れんが……」
「まだこれは序の口ですよ……」と英二はコースをチェックしながらいった。「雲の中へおりて行くと、もみくちゃになりますから、もう一度耐Gスーツとシートをしらべといてください」
沈下速度が大きく減速されたので、水平分速がクローズアップされ、艇体に揚力が発生しはじめている事が、右のパネルに表示され出した。――スティックを動かすと、流体舵に手ごたえがある。
スティックを左右にたおし、艇体のバンクの具合をたしかめると、英二はバーナード博士に拇指をたてて合図し、ディスプレイ・パネルによび出した三次元速度表示を見ながら、ぐっとスティックを前におした。――同時に、プラズマに包まれた時、自動的にブラックアウトになっていた艇外の映像を、三面のパネル一ぱいにうつし出した。
「……!」
と隣席で、バーナード博士が、声にならないおどろきの声をあげた。
JADE―3の前方には、すさまじい赤茶色の雲の「大陸」が見えていた。それは白や灰色にオレンジ色のまじった雲の「大洋」の中から、わずかにもり上がり、あたかも巨大な赤い亀か、怪獣の背中が、泡立つ波間からのぞいているように見えた。
JADE―3がバンクすると、その巨大な赤茶色の雲の隆起の手前から、艇の真下へかけて走る、白くねじまがったカルマン渦の列が視野にはいった。その数珠つらなりになって、ゆっくり形を変えながら流れて行く渦の列の最先端には、白く輝く楕円形の雲の塊があって、これも雲海の上に、わずかにもり上がっているように見える。カルマン渦の一つ一つの大きさも、半径は百キロ以上ありそうで、そこでは暗灰色、灰青色、あるいは鮮やかな青緑色の雲や大気が、暗い陰影の間からのぞき、そこにはげしい乱流と、化学変化が起っている事がわかるのだった。
「いま……私は……」とバーナード博士は、のどにひっかかったような声でつぶやいた。「木星の雲の渦を……、こんな近くでみているわけだな……」
「そうです……」
と英二はコースに眼をくばりながらうなずいた。
「今まで……木星の、あの雲の間に直接おりて行った人間は何人ぐらいいるだろうかね?」
「人間ですか?――さあ、のべで四十人ぐらいじゃないでしょうか?……あなたは確実に百人以内にはいりますよ……」
大気圧は、いまや十ミリバールをこえ、大気温度は百五十度ケルヴィン――摂氏マイナス百二十度から、急速にさがりはじめた。大気成分は水素分子にくわえてヘリウムがふえはじめた。――JADE―3は、いま、木星の成層圏を、時折強い横風におし流されながら降下をつづけていた。大気温度が、マイナス百七十度Cぐらいまでさがる所が成層圏と対流圏の境界だ。木星の雲の最高部が形づくる「表面」は、その下にはてしなくひろがっている……。
JADE―3の三面パネルには、沸々とたぎるように上昇してくる、赤、白、グレーの雲の団塊や、その上を白いヴェールのようにうすく流れる、冷たそうな高層雲が、もう手をのばせば、とどきそうな感じで、接近しつつあった。
9 〃幽霊《ゴースト》〃の影
がくん、とつき上げるようなショックが艇体をおそって来たのが、木星の「対流圏」突入の、最初の兆候だった。
気圧は百ミリバールを突破し、気温はマイナス百七十度Cから、次第に上昇しつつある。――大気成分は水素、ヘリウムに、わずかながら、メタンとアセチレンとアンモニアがまざり出し、遊離窒素も検出されはじめた。
「そろそろゆれ出しますよ……」と英二はバーナード博士をふりかえった。「できるだけ乱気流を回避しますが……。右パネルに超望遠と、赤外、レーダー像を出しますから、チェックねがえますか?」
「了解……」と博士は耐Gシートの中ですわりなおしながらいった。「レコーダーのスイッチは?」
「いま、そこにランプがつきます。――フライトコーダーはまわっていますが、これと思う現象があったら、精密記録をとってください……」
正面パネルには、すさまじい「雲の大渓谷」ともいうべき光景が展開していた。――左手に赤黒く、またところどころが鮮やかな朱色に輝く雲の大絶壁があり、白と灰色の、綿ごみをひきちぎったような雲が、はやい速度で、その断崖の壁面を巻くように走って行く。右手にはそれよりも高い高度に、白と赤茶色の、途方もなく長い雲の長城が、気の遠くなるような雄大なうねりを見せて、はるか彼方までつづいていた。右手の雲の長城の頂は、白くうすい雲におおわれ、その白雲の層からすこしはなれて、下方には無数の暗い、斜めの縞の走る赤茶色の雲の壁がうねっている。二つの雲の絶壁にはさまれた渓谷の底は、濁った赤茶色と、青のまじった暗灰色のもやがうずまき、その中を右に左に電光が走っていた。
その光景の上を、さらに高い所にある白くうすい雲のヴェールが、流れながら半分かくして行く。――大渓谷の上方には、うすいブルーに、ところどころピンクのまじったような空がひろがり、さらにその上には、星や三日月型の衛星の光る暗い宇宙空間がのぞいていた。この位置からは、あの木星の「輪」は、ぼやけた灰色の雲の線が走っているようにしか見えない。
その光景を見ていると、次第に一種ののめりこむようなめまいが感じられるような気がしてくるのは、雲の断崖が、ゆるくうねりながら、はるか前方にかけて、ずっと下の方へもぐりこんでいるからだった。――幅数百キロもありそうな、雲の渓谷の中央部へ出てくると、大気温度は急に低下しはじめ、表示は百十数度ケルヴィン……マイナス百六十度Cまでになった。右手パネルの気象レーダーサイトには、何本かの強い下降気流がある事が、パターンで示された。
「ミューズ12……こちらJADE―3……きこえるか? シン……」
と英二はシンをよんだ。
〃きこえるぞ……〃シンの胴間声が、ノイズのむこうからきこえた。〃もぐる前に、もうぶるっちまったか?――ひきかえす気なら、ベビーベッドと、あったかいミルクを用意してやろうか?〃
「むだ口をたたくな……」英二は苦笑しながらいいかえした。「こちらから気象レーダー映像をおくる。下降気流のドラフトが四つあるが、そちらから赤外測定でその流れのもっとも大きなパターンをしらべてくれ。ずっと前方で、どうなっているか……」
〃了解《ロジヤー》……一分待て……〃とシンはいった。〃待つ間、お嬢さんが何かいいたいとさ……〃
〃博士……大丈夫ですか……〃
とミリーの声がわりこんだ。
「大丈夫も何も……」博士はうっとりとした微笑をうかべながらこたえた。「今、私は、すばらしい光景を見ているんだよ。ミリー……。一生のうち、何度も見られないような……」
〃ドラフトAとDは、五、六百キロ先で、左右の雲の上昇気流にまきこまれる。――ドラフトBも……千キロぐらいの間に、三つぐらいでかい乱流《タービユランス》をかすめるな。第二層雲まではおりていない。……ドラフトCは……こいつは二千キロぐらいのびている。七百キロ先から急に下降している。下降地点で、K400からの相対高度百三十キロぐらいだ……。その先も、かなり深くもぐりこんでいる〃
「了解……じゃ、ドラフトCにのる……」英二は、ブースター・スロットルを前におしながらいった。「つづけて諸元をよんでくれ……」
〃気をつけろ……。上部で中心流速は毎秒百六十メートルぐらいだから、相当幅はせまいぞ……。それから……下降点から先が、どれくらい深くまでひっぱりこまれているか、先がもやもやしてよくわからん……〃
「了解……ミューズ12……」
JADE―3の電子脳〃ジム〃は、シンと英二の会話をよんだかのように、左から二つ目の下降流との相対距離と位置関係を正面ディスプレイの右上部にうつしはじめた。――英二はそれをにらみながら、ブースターをふかし、艇首を下げながらJADE―3を大きく左へすべらして行った。
「ジム……。航行士《ナヴイゲーター》をたのむ……」と、英二は電子脳によびかけた。「ドラフトCの中心流へもって行く。コースと距離をよんでくれ……」
「了解……センター・カレント・テイルまであと二百キロです……」と、〃ジム〃はおちついた声でいった。「コース、もう一・八ポイント左……艇首をもう少しさげてください。もう二度、ヘッド・ダウンです。――進入角、オーケーです。そのままあと三ポイント加速、……秒速六・三キロにたもって……あと四十秒で目標点にのります。途中、小さな支流をこえます……水平分速毎秒二百メートル、本艇進行方向に対して角度プラス二十度……垂直分速毎秒マイナス二メートル……おし流されないように注意してください……。まもなく来ます……」
がくっ、とJADE―3の艇首がつき上げられ、ついで、ぐいっと、右へふられた。
「コース保持してください……。コンマ二ポイント左……艇首コンマ三ポイントダウン……あと艇角マイナス二度に保って……進入角度オーケーです。目標点まであと二十二秒……目標点で進入角をプラス一度上げ、四ポイント減速、艇角を五ポイントにもどしてください……。あと十八秒……」
眼に見えない、ほそいジェット流を斜めに横ぎる形になって、JADE―3はがくがくと艇首を左右にふり、凸凹道をのりこえるように上下にゆれた。――英二はスティックをかるく動かして、ショックをさけつつコースを維持した。
正面スクリーンの外部映像も上下左右にゆれたが、やがてそのむこうに、うすく青白い、もやの流れがかすかに見えて来た。流れは、右上から左下へかけて、赤黒い雲の渓谷の底へむかって走っている。
「あと五秒……減速開始……のりました……コース右六度……艇首上がりすぎです……。減速続行……コース左ヘポイント六もどしてください……オーケーです……」
突然、艇体に感じていた加速度が消えた。――雲の渓谷の、深く巨大な裂け目は、パネルの真正面に、ゆるく左へカーヴしながら開いており、その奥に、暗い底部に流れる青緑色や白のもやが巻いているのがはるかに望見された。
「しばらくこのまま行きます……」と英二はバーナード博士をふりかえっていった。「木星大気の音をききますか?」
「音?」とバーナード博士はおどろいたようにききかえした。「音があるのか?」
「ええ……」と英二はうなずいて、スイッチの一つに手をのばした。「いま大気圧は二百ミリバール……地球でいえば、地表高度一万メートルくらいの、対流圏と成層圏の境目ぐらいの気圧です。もちろん音はありますよ……」
突然コックピットの天井スピーカーから、ざあーっ、というノイズがとびこんできた。スキューを調整すると、そのノイズはひゅうひゅうと「風」のうなる音にかわった。――艇体のまわりを、相対速度毎秒三キロあまりで流れて行く、水素とヘリウムの「風」の音だ……。
「あれは?」と、博士はスピーカーに耳をすました。「何だか……爆発してるような音が……」
「雷鳴です……」英二はちょっと顔をあげてスピーカーを見上げた。「雲の壁に反響してるんです。――ここらへんでは、まだおとなしいですが、下へ行ったらあまりきかない方がいいですよ。頭がおかしくなります……」
びょうびょうと鳴る音のむこうから、ごろごろと鉄車をひきまわすような轟きがきこえてきた。――それは何重にもエコーし、雲の底から湧き上がってくるようだった。時にはそこに、ばりばりと物の裂けるような音や、巨岩が崖をくずれおちるような音もまじる……。また、ごうごうと滝のおちるようなひびきもしのびこんでくる。それは大気の底をあれくるう嵐の音かも知れなかったし、またはげしい上昇気流と、横なぐりの風が衝突し、一種の「化学的爆発」を起している音かも知れなかった。
いずれにしても、窒素と酸素と水蒸気からなる地球の大気とちがって、水素とヘリウムを主体に、メタン、アンモニア、あるいは青酸や一酸化炭素といったものをまぜこんだ木星大気中に起る「音」は、地球上できくそれとちがって、どこか異様な、まがまがしいものを――この巨大惑星外からの「侵入者」に対する、言葉にならない怒りと警告をふくんでいるようにきこえるのだった。
「大気圧五百ミリバール……まもなく、アンモニア氷晶雲の上層に達します……」と、〃ジム〃がいった。「ドラフトCの、下降点まであと三百キロ……手前四十キロほどが、かなり強く蛇行しています。コースを気をつけてください……」
「下降点から先がどうなっているか読めるか?」と英二はスティックを操作しながらきいた。「どのくらいの角度でおりている?」
「かなり急激です。――俯角四十五度以上……エレベーター降下《デイセント》ていどといっていいでしょう。したがって、その先はよくわかりません。ミューズ12からは、ドラフトCが、その先まだ、千キロ以上追跡できるようにレポートして来ましたが……」
突然、正面パネルの視野の中に、白い、平べったい塊があらわれた。――JADE―3は、その塊につっこんで行き、視野は灰白色になって、スピーカーからきこえるノイズの調子がかわった。
「アンモニア雲《クラウド》につっこみました……」と〃ジム〃は、まったく同じ調子でレポートした。「七、八秒で出ます……」
「雷を注意してくれ……」と、英二はいった。「電磁バリアは大丈夫だろうな?」
「対気速度をもう少しおとした方がいいかも知れません……」と〃ジム〃はいった。「現在艇体温度プラス二百二十度C……」
「このまま行こう……」と英二は右パネル上の、組合せ諸元のパターンを見ながらいった。「液体ヘリウムの予備冷却装置をスタートさせろ……」
JADE―3の対気速度は毎秒三キロ附近を上下していた。――水素、ヘリウム大気に対して、ほぼマッハ三ぐらいのスピードだ。白い、凍ったアンモニア微粒子の雲をぬけると、あたりは急にうすぐらくなった。雲の大渓谷は、いまや両側に高くそびえたっており、その中腹に、紫色の、あるいは青、緑の電光が走るのが見える。
「下降点まであと百五十キロ……」
と〃ジム〃がレポートした。
大赤斑の西南隅上空四千キロの所を、燃料消費を最低におさえながら、上下に波うち、また左右に蛇行するコースをとってとどまりつづけるミューズ12からは、もうJADE―3が、レーダーサイト上のセンチ波のシグナルを発する点にしか見えなかった。
「そろそろ〃すべり台〃にかかりやがった……」
と、JADE―3の三次元コース表示を見ながらシンはつぶやいた。
「〃すべり台〃なんてなまやさしいものじゃなさそうよ……」とミリーはディスプレイを見ながらつぶやいた。「ジェットコースターか、滝すべりってとこだわ……」
「すべりおりた所で、気分がどうかきいてやるかい?」
「いいえ……。むこうから何かいってくるのをまつわ……」
ミリーはコンソールに両肘をついて、眼と眼の間をもんだ。――それから両手を祈るように顎の所で組んだ。
何かのささえがはずれたように、JADE―3は、がくんと下へむかって落下した。それからはげしく右へ左へと、ヨーイング《艇重心に対して、機体軸を平面上に左右にふる動き》をはじめた。
右パネル上の、気温、気圧、第二層雲《セカンドレイヤー・クラウド》からの相対高度と、艇体温度を示す数値が、くるったように動きはじめる。――正面パネルの外部映像はみるみるうす暗くなり、赤い霧にまじって、青黒い雲がもくもくともり上がってくる。
「降下速度増加中……」と〃ジム〃が機械的にレポートする。「進行速度毎秒三・五キロ……降下速度毎秒三百二十メートル……三百五十メートル……」
突然、正面パネルに目のくらむような閃光が走った。――つけっぱなしになっていた、天井スピーカーが、ぐわらぐわらというすさまじい音響をたてると、サーキット・ブレーカーが作動して、ふっ、と沈黙してしまった。英二はすばやく天井スピーカーのメイン・スイッチを切った。JADE―3は、大気の乱れとちがう、巨大なガラスのシャンデリアが真横からぶつかって粉々にくだけたような衝撃と震動をうけ、天井スピーカーが沈黙したにもかかわらず、パリパリと艇にこまかくひびがはいったような異様な音響がコックピットにひびきわたった。内部照明が二、三度またたき、正面パネルの映像が一瞬消え、左右パネルの数字や図形が息づいて、ほんの一秒間ほど消えたり、またたいてでたらめな数字をうつし出したりした。――ち、ちっ……と小さな音をたてて、天井の突起から突起へ、小さな電気の火花がとびさえした。パネルの枠の右上で、「立ちなおり《ラリイ》」を示すライトが、せわしなく赤く点滅し、それがやがて力づよいグリーンにかわると、正面パネルの映像も左右パネルもすぐに回復した。正面パネルには、なぜか、みみずののたくったような電撃のあとらしいものがついていたが、垂直同期をずらしてワイプするとそれも消えた。
「木星《おやじ》からの、最初のごあいさつだったな……」と英二はほっと肩の力をぬいてつぶやいた。「今日はちょっと早かったが……」
「そうでもありません……」と、〃ジム〃はいった。「今の降下で、一挙に二十五キロメートル下がりました。――まもなく、第二層雲《セカンドレイヤー・クラウド》の表面です……」
JADE―3は、水平分速毎秒二・二キロメートルで、毎秒二十五メートル沈降していた。大気圧は、いつの間にか千五百ミリバール――地球の海面上気圧の一・五倍になり、大気成分中に、メタン、アンモニアのほかに、エタンや硫化水素がふえている。気温も零下百二十度と、かなり上昇した。
「第二層雲《セカンドレイヤー》までの相対高度は?」
「表面まであと十キロメートルちょっとです……。ドラフトCは、あと水平方向三百キロで、うんと弱くなり、下降分流も消滅します……。前方百五十キロに、第二層雲の積雲群あり……青酸《シアニツク》アンモニウムの上昇流もあります……」
JADE―3は再びすうっと沈み、つづいて、がくん、がくんという衝撃を床下からうけた。――冷たい下降流ドラフトCの温度が上がり、流速が弱まり、もう流れ《ストリーム》というよりは、せせらぎに近くなってまわりの濃い大気との間に乱流渦をつくって波うちはじめている。
「一気に急降下して、第二層雲《セカンドレイヤー》をつきぬけるというのはどうだ? ジム……雲の厚みは?」
「肯定《ポジテイヴ》ポイント8……直下の第二層雲《セカンドレイヤー》は、厚さ七キロ、内部に上昇流と、左四十度方向への強いストリームがありますが、進行方向右二度、距離百キロに、雲の切れ目があります。そこからなら……」
「英二……」突然バーナード博士が、おし殺したような声でいった。「このイメージは何だと思う?――超遠距離《スーパーレンジ》レーダーに反応がある……」
「なんですって?」英二は思わず博士をふりかえり、ついで左パネルを見上げた。「電離水素の雲か何かじゃありませんか?――だってまだ……高度が……」
「でも、これを見てくれ……」博士はコンソールに手をのばして、諸元をチェックした。「左三十二度……距離千キロメートル弱……われわれとの高度差は……三百キロメートルマイナス……対象《オブジエクト》の大きさは……長さ百二十キロ……幅は……約四十キロだ……」
10 JUDO―X1―E5
「そいつです!」
英二はバーナード博士の前のディスプレイ・パネルに眼を走らせながら、上ずった声で叫んだ。
「〃木星幽霊《ジユピター・ゴースト》〃です!――いま確認します」
彼はすばやく電子脳の〃ジム〃に、いま超遠距離《スーパーレンジ》レーダーがとらえている「対象《オブジエクト》」のレファランスを指令すると同時に、母船ミューズ12をよび出した。
〃こちらも確認したわ……〃と、バックアップ・コンソールの前にすわっているミリーの、興奮した声が、ひどいノイズのむこうからかえって来た。〃まちがいないわ。――幽霊《ゴースト》よ……〃
「〃木星未確認漂流物体《ジヨウヴイアン・アンアイデンテイフアイド・ドリフテイング・オブジエクト》―X1〃と同一のものと判定……肯定《ポジテイヴ》ポイント九……目撃例ナンバー4として登録します……」
〃ジム〃だけが、あいかわらずクールな声でいった。
「追跡コースをわり出せ……」と英二は上唇をなめながらいった。「できるだけ急いでつっこめるやつを……多少危険でもかまわん。ランク3まで計算してみろ……」
「対象《オブジエクト》との距離がひらいて行く……」と三次元レーダーの表示をよみながら、バーナード博士がいった。「こちらとの相対速度プラス二百二十キロメートル毎時……先端部は雷雲らしいものにかくれかかっている……。第三層雲の下の、はやい気流にのって流されているらしい。自力航行の兆候は……今の所なし……」
〃英二……お化け野郎は、マイクロ波のシグナルを出してるんじゃねえか?〃とシンの野太い声がわりこんだ。〃それとも、連続落雷ってやつの反射かな?……なんだか、パルスみたいなものがのぞいているような気がするが、こちらじゃよくわからねえ……〃
「こちらも、ノイズが大きすぎて、よくわからん……」バーナード博士は、受信チャンネルの連続きりかえチェックを行いながら、つぶやくようにいった。
「とにかく記録だけしておいて、解析はあとでゆっくりやるよりしかたがないな……」
〃ジムをコース計算からはずして、対象《オブジエクト》の解析に投入したらどう?〃とミリーの声がきこえた。〃コース計算は、こちらの電子脳《ブレイン》がひきうけるわ。まだ通信状態は大丈夫みたいだし……〃
「追跡コース計算完了……」と〃ジム〃がいった。「ランクAから順次表示します……」
〃ジム〃は、右のパネルに三種類の〃幽霊《ゴースト》〃追跡コースの諸元を表示しはじめた。――ランクAからCへかけて、時間は短縮されるが、危険性と、操艇のむずかしさが増加して行く。
JADE―3は、本格的な追跡コースにはいる前の、スタンバイ・コースをとっていた。――それでも対象との距離は、毎秒六十メートルずつはなれて行く。艇の沈下速度はややはやまり、毎秒三十メートルをこしていた。
決断をくだすのに、あまり時間はない。
「ランクCで行こう……」と英二はかすれた声でいった。「どうだ? ミューズ12……」
〃おれは知らねえぞ……〃とシンが返事をした。〃自殺したがってるやつをとめた事は一度もねえ……。ランクCのコースの中間あたり、ポイントAS四○三ぐらいに、左後方から、化学爆発雲が上昇してくる。急がねえとぶつかるぜ。データはジムに転送する。あとは神の思し召しのままに《インシヤー・アツラー》だ……〃
〃博士……。対象《オブジエクト》に、コーンアンテナBとCをむけておいてくださいな………〃とミリーがいった。〃それから接近中、さしつかえない程度にレーダー発振をきってください。ノイズはひどいけど、できるだけ、パルスらしいものを記録してみますから……〃
「了解、ミリー……」と博士はいった。「とりあえず一分のインターヴァルでやってみる。状況によっては、艇長《スキツパー》と相談して変更する……」
英二は追跡コースをセットすると、無言で拇指をたてて博士に示し、そのままスティックを一ぱいに前へたおした。
メイン・エンジンの立ち上がりに○・五秒ほどかかった。それから、がくん、というような衝撃がおそってきて、二人の体は耐Gシートに深くめりこんだ。――外部音響をひろうマイクはオフになっていたが、ざあっ、という木星大気との摩擦音は、直接JADE―3の艇殻からひびいた。電磁断熱システムは自動的に作動し、艇の先端部の温度はたちまちはね上がりはじめた。
正面パネルに、英二は外部映像をよび出した。――JADE―3は、いま、赤茶色のもくもくともり上がる硫化水素アンモニウムの雲の層へまっしぐらにつっこんで行った。視界はたちまち赤黒くなり、プラズマ化した白熱のガスが、稲妻のように断続的にはためき、すっとんで行く。マルチ・チャンネル・レーダーも、赤外映像も、すべてブラックアウトになり、ただ艇殻をこすれて行く、大気と雲の粒子のびゅうびゅうという音のみがはげしくなる。
赤黒い第二層雲の、うすい所をぬけた直後、〃ジム〃はJADE―3の艇首をひき起し、高温にもっとも強い、艇の腹部を大気衝撃の正面にさらした。ぐい、と、腹のちぎれそうなひき起し加速度を感じて、耐Gスーツを着ているのに、視界が一瞬暗くなる。気圧はすでに三千ミリバール――地球表面大気圧の三倍になっているが、あたりの大気は、ふたたび透明な、水素とヘリウムの混合気体となり、前方視界も回復してきた。
いつの間にか、赤黒い雲は、艇の上にひろがっていた。――あたりはぐっと暗くなり、黄昏ほどの明るさにかわったが、しかし、雲の切れ目から、ところどころ帯のように光のビームがさしこんでいて、かなり下方まで見える。水素、ヘリウムの大気中には、メタンやアンモニアの硫化物や燐化物、また氷の微粒子が浮遊しているらしく、雲の切れ目からさしこむ光のビームは、ある所はオレンジがかり、ある所は青みがかった灰色に、ある所は白っぽく輝いていた。
ひき起しの時に艇体に生じた揚力で、JADE―3はホッピングしかけた。――しかし〃ジム〃は、艇を右に左に、木の葉おとしの要領で横すべりさせ、たくみにその揚力を殺しながら「目標」への最短最速のコースを維持しつづけていた。そのために、英二とバーナード博士は、コックピットの中で、右、左とふりまわされつづけたが、しかし、回復した超遠距離レーダーのサイト中で、巨大な、正体不明の〃木星幽霊《ジユピター・ゴースト》〃との距離は、毎秒二・二キロのわりあいでつまりはじめていた。
もちろん、直距離で千キロ弱はなれているその奇怪な〃幽霊《ゴースト》〃――JUDO―X1との間に、何重にも存在する、すさまじい乱気流やジェット気流、またはげしい上昇、下降気流のため、とてもそんなスピードは維持しつづける事ができないのはわかっていたが、しかしこのペースで行けば、あと七、八分のうちに、目標においつけるはずだった。
だが、〃ジム〃は艇の安全をはかって、対気速度をおとしはじめていた。――大気圧は雲をぬける前の倍になり、外気温も一挙に百度も上昇した。といっても、絶対二百二十度、つまり摂氏マイナス五十度ほどだったが……。
回復した前方視界の正面を、巨大な茶色と濃い灰色のまざった雲の「壁」がふさいでいた。その壁面はぶつぶつと泡立っているように見え、ふきちぎれた灰色、茶色、青緑色の雲の帯が、まるで矢のようなはやさでまわりを横切って行く。壁は、赤茶色の第二層雲の天井をつきぬけてさらに高くふき上がり、電光はその壁のいたる所に、まるでストロボ・パネルのようにまたたいている。スピーカーをつかわなくとも、その雷鳴は、濃い大気を通じてJADE―3の艇殻に直接ひびいてくるのだった。
「〃対象《オブジエクト》〃の、漂流スピードがはやくなっている……」と、バーナード博士が、パネル上に回復した超遠距離レーダーの三次元表示を見ながら、わりにしっかりした声でいった。「はやい気流にのりつつあるらしい。漂流速度《ドリフテイング・スピード》は……秒速百メートルをこえた。まだ増加しつつある!」
「こちらとの相対速度は?」
「秒速千七百メートル、マイナス……艇は減速中らしいな……。相対速度は低下しつつある……相対距離は、直距離で九百キロ弱……」
突然、がつん! と、かたい壁につきあたったような衝撃が艇体につたわった。――つづいて、艇はがくがくと、凸凹の悪路につっこんだように上下左右にゆれはじめた。
いつの間にか、視界は灰色のもやがつつんでいた。艇殻に、ざざっ、ざざっ、と雨のあたるような音が起る。――最初の乱気流につっこんだらしく、正面パネルは、はげしいスピードでわき上がり、左右にふっきれて行く、雲の塊におおわれ出した。
震動は二、三十秒つづいて、またふっとやんだ。――視界はまたはれて、直下の灰白色の厚い雲層がはっきりと見えた。
第三層雲……氷と水蒸気の雲だ。
日の暮れ方ほどの薄明の中で、その雲の大部分は濃い灰藍色に見え、第三層雲の切れ目からさしこむ光の帯のあたる所だけが、にぶく白く光る。雲の層は、見ると何層にもかさなり、大赤斑の側面を形づくる赤黒い雲の「壁」へむかって、何条もの流れになって、渦まくようにおしよせて行き、壁に近づくにつれて、もくもくともり上がって、左から右へ壁面へ吸いこまれ、また斜め上方へむかって吹きとばされて行く。雲の上層部から、周囲一帯へかけて、もやが濃くたちこめて、視界はあまりきかない。
「ジム……あとどのくらいで、目標においつけそうだ?」
一秒ごとにかわる右パネルのディジタル表示を横眼でにらみながら英二はきいた。
「軌道要素修正中……しばらくおまちください……」と、〃ジム〃はいった。「当初の見こみから……プロバビリティ大幅に低下……当初の見こみ、可視予測点まで十五分……目下修正中……PBTポイント七二……前方に高温ジェット流出現……目標可視予測点まで二十一分……再度修正……PBTポイント六○……可視予測点まで二十六分乃至四十分……」
第二層雲をぬけてから、すでに二十五キロメートル降下した。――気圧は四気圧、外気温度はマイナス四十度Cだが、艇殻温度は下面で四百度C以上になっている。電磁断熱装置は、大気摩擦熱が二千度ちかくならないときかないから、いまは落雷ショックにそなえてバリアをはっているだけだ。
〃幽霊《ゴースト》〃は、この眼下にひろがる、荒れ狂い泡立つ最下層雲の大洋のさらにずっと下にいる。厚さ二、三十キロにもわたってつみかさなった氷と微粒水滴の雲の底面から、なお百キロちかく下を、浮力平衡をたもって流れているのだ。――そこはおそらく気圧は二十気圧、気温は二百度ちかくになっているだろう。
「〃対象《オブジエクト》〃の輪郭がレーダーで見える……」と、バーナード博士は興奮した声でいった。「輪郭が……変化しているぞ!――いや、流されながら、ゆっくり回転しているらしい……」
「赤外映像は?」
「遠赤外で、シルエットとして見えそうだ。――各チャンネルでやってみる!」
〃JA……3……こちら……リー……〃とノイズのむこうからミリーの声がかすかにとぎれとぎれにきこえた。
〃JADE!……こちらミュー……〃
「ミューズ12……こちらJADE―3、受信状態不良……きこえるか? こちらJADE―3……ノイズがひどい……」
〃ヘリカルFを……わかったか?〃
とシンの声がきこえた。――英二は一動作で通話アンテナをきりかえた。
〃シグナル、明瞭になりました……〃と今度はミリーの声がはっきりきこえた。〃博士……さっき三秒間ばかり、きわめて強いパルスが目標からはいりました。――いま、ざっと解析中ですが、パルス信号の中に、まだこまかい信号が内蔵されている可能性が大きいようですわ。……おいつけそうですか?〃
デシメートル波から、センチ波、ミリ波、遠赤外、中赤外、近赤外と、多元チャンネルで操った目標の像を、コンピューターをつかってパネル上に重ねあわせる作業をつづけている博士は、何かを問いかけるような眼付きで、英二の方を見た。
「ミリー……きこえるか?」と博士は咳ばらいをしながらいった。「いま、合成映像をそちらにおくるが、〃幽霊《ゴースト》〃の像は、輪郭をかえつつある。――ちょうど一番長い側面が見えかけている所だ。どうやら流れにもまれて、ぐるぐる回転しているらしい。さっき強いパルスがはいったというのは、どうもこちらに一番小さい輪郭、つまりま正面かまうしろをむけた時に感じられたものらしいんだが、とすると、この信号らしきものは、対象の長軸方向に指向性をもって発射されている可能性がある。これからおくる映像の時間変化とつきあわせてみてくれんか?」
「ジム……」英二は決心したようにいった。「さっきみたいに、一気にこの下の雲をつきぬけるのはどうだ?」
「否定《ネガテイヴ》……予測されない危険に対して、対応がむずかしくなりすぎます」
「肯定でこたえろ。――おれがつっこむ。君がバックアップする。危なくなったら即座に君の判断でおれからスティックの操作をうばう……。どうだ?」
「肯定《ポジテイヴ》……ポイント○七……ポイント○八……ポイント一・一……ポイント○六……」
「どうなんだ? はっきりしろ!――ポイント一より上か下か……」
「博士の健康状態によります……」
英二は、はっとして思わず傍をふりかえった。――隣席にいる八十歳をこえる老人を……。
「気力というものを信じるかね? ジム……」と博士は映像合成をつづけながら、静かな、きっぱりした声でいった。「いま、私は……獲物を見つけ、追いつめようとして燃えている。気力ははりつめている……。単なる身体条件の平均状態から、危険性をわり出す必要はない。私のいう事を信じろ……」
「肯定《ポジテイヴ》……ポイント二・一……」
と〃ジム〃はためらうようにこたえた。
「〃GO!〃だ……」英二は再びスティックをにぎりしめた。「ランクCプラスアルファだ、つっこむぞ、ジム……。二人三脚で行こうぜ。無茶だと思ったら、いつでもスティックをひったくれ……」
「〃カミカゼ〃――といっても、君は知らんだろうな……」と博士は、顔をひきしめながらつぶやいた。「二世紀も前の戦争の時、君たちの先祖の若者が、私たちの先祖の若者にしかけた、むちゃくちゃな……しかし勇敢な攻撃の事だが……」
英二はスティックを両手でにぎりしめ、歯をくいしばった。――超現実派の彫刻のような、めちゃくちゃにつみかさなり、めちゃくちゃにふきとばされた雲の山脈は、もう眼のすぐ下に来ていた。そこへむかって、JADE―3は斜めに傾きながら、つっこんで行った。
それからあとは、悪夢のような状態がつづいた。――JADE―3は、積乱雲の中で、がたがたゆさぶられ、十数回にわたって、艇殻にひびがはいったかと思うほどの落雷の衝撃をうけた。
しかしそれさえ序の口にすぎなかった。
厚さ二、三十キロもある第三層雲の下にぬけた時、JADE―3は、ものすごい土砂ぶりの雨脚の中にとらえられていた。あたりはもう、夜の帳《とばり》に閉ざされたほどの暗さだったが、それでも完全な暗黒ではなく、ひっきりなしに四方八方ではためく電光のほかに、はるか下からさしてくる、うす気味の悪い赤い光や、間歇的にあたりをゆるがす大音響とともに、空間一ぱいにひろがる朱色やうす紫、あるいは緑がかった光に、雲ともやのたぎりたつ「対流圏底部」の情景が照らし出されるのだった。
それはこの太陽系最大の惑星の表面いっぱいにひろがるとてつもない大火口のすぐ上を飛行するような――いや、煮えたぎる地獄の釜の中をつきすすむようなものだった。はるか下方に、雲や蒸気を通して見えるうす赤い光は、摂氏五百度をこえ、さらに下方の何千度という高温高圧の赤熱の液体水素の海から発せられる光だった。あたりの空間を間歇的にみたすさまざまな色の光と衝撃波は、水素や炭素や硫黄、窒素、燐といった元素の気体分子が、放電によって爆発的に「燃える」焔だった。爆発とまでは行かなくとも、気圧差数千ミリバールという巨大な「気団」が、十数気圧という大気の中を、衝撃波の渦につきまとわれて、まるで巨大な大なだれのように、あるいは破壊的な大津波のようにものすごいスピードでひろがり、横なぐりにJADE―3をはねとばした。
JADE―3は、もみくちゃにされ、一瞬天空高くほうり上げられたと思うと、落石のようにころげまわりながら奈落の底に落下し、次の瞬間は横ざまにふっとばされる、という状態に、ほとんど数分間隔でおそわれつづけた。――英二はとうの昔に、スティックを〃ジム〃にゆずり、ひたすら耐Gスーツと耐Gシートに身をゆだね、しばらくの間はただパネル上に点滅する表示だけを眼でおうのがやっとという有様だった。
11 おぼろな遭遇
――英二……
と、ふいに耳もとで女の声がしたような気がした。
《マリアか?……》
英二は、ぎくっとして顔をあげた。
――英二……返事をして……。
と、今度ははっきり女の声がきこえた。
「マリア!」英二は、かっと眼を見開いてまわりを見まわしながら、声に出して叫んだ。
「マリア!――どこにいる?」
自分の声におどろいて、はっとわれにかえると、彼はJADE―3のコックピットにいて、耐Gシートの中に、斜めにねじれたように埋もれている。
傍を見ると、隣の耐Gシートの上で、バーナード博士はぐったりと頭を垂れ、四肢をのばして、苦しそうにあえいでいた。禿げ上がった額が、汗で光っており、顔面は蒼白だ。
「……水平分速一・五キロ毎秒……沈降ゼロにとります……。十一時の方角から熱気団……相対速度二・一キロ毎秒……距離十六……」と、電子脳《ブレイン》の〃ジム〃の単調なレポートがコックピット内にひびきつづける。「接近します……距離十四キロ……大した事はありません……。八、七、六……のりきります……。三、二、一……○・五……」
がくん、と艇首が上がり、かるいピッチングが起る。――が、すぐやんでしまう。気圧は二十四気圧、艇外温度は百二十度Cだ。
〃JADE―3……〃
と、かすかにぶつぎれの声が、渦まくようなホワイト・ノイズのむこうからきこえてくる。
〃JADE―3……応答しろ……、きこえるか?……こちらミューズ12……〃
「ミューズ12……こちらJADE―3……。何とかきこえる……」と英二はよびかえした。「シン……さっきミリーがおれをよんだか?」
〃よばないわ……〃とミリーの声がいった。〃さっき一分たらずの間、そちらの映像がおかしくなったの……。ほとんど消えたわ。……シグナルも、テレメーターも四十秒間ちょっと、ブラックアウトよ。――博士は無事?〃
「現在脈搏は八十、血圧百七十……低下しつつあります。脳波正常……経絡《けいらく》パルス処置続行中……まもなく意識を回復します……」と〃ジム〃がレポートした。「HILは二分四十六秒前、オレンジ・レベルに達しましたが、その後四十二秒間不明……現在はグリーン・レベルを復調中……」
〃気をつけて、英二……。博士は八十二歳よ……〃
「ちょっと待った、ジム……」英二はききとがめた。「〃四十二秒間不明〃って、どういう事だ?――」
「わかりません。その間私の記録が一切空白になっています。――つい二分ほど前、記録が再開されたばかりです……」
「何だって!――」英二は背中に冷たい戦慄が走るのを感じた。「それはどういう事だ?――いったい何があったんだ?」
「目下の所、不明……帰投後チェックします。あるいは、いますぐやりますか?」
英二は一瞬答えをためらった。
頭をめまぐるしく回転させ、「事態」を把握しようとしたが、うまく行きそうになかった。
「おれはさっき、どうなっていたんだ?」と英二はつぶやくようにいった。「おれも、その四十二秒間、意識を失っていたのか?」
「肯定《ポジテイヴ》ポイント五……しかし、こちらの記録の空白期間と、ぴったりかさなるかどうかは、チェックしなければわかりません。――いますぐやりますか?」
そうしたい衝動が、ぐっとこみ上げてきた。
ミューズ12からの報告では、さっき、JADE―3のレーダー映像が一分たらずの間、見えなくなり、通信も四十数秒間ブラックアウトになった。
そして、おそらくその間、優秀な電子脳である〃ジム〃の記録が四十秒あまり空白になっており、英二自身も……そしておそらくバーナード博士も……意識を失っていた……。
――その間に、何が起ったのか?
ふっと、かすかな記憶がよみがえってくるような気がする。
意識を失う直前、JADE―3のすぐ近くから、「何か」が突然接近したような気がした。――それが何であるかはわからない。が、何か「圧倒的なもの」が、JADE―3の上を通過して行ったような気がする……。
いますぐ――JADE―3の航行、観測の全記録をチェックし、ミューズ12と連絡して、そこに何が起ったのか、しらべてみたい衝動が、英二をはげしくゆさぶった。だが……。
「対象《オブジエクト》の映像が消えた……」突然隣席で、バーナード博士がおちついた声でいった。「左五度の、電離気体の密雲のむこうにはいったらしい。――最終相対距離二百二十キロメートル、相対速度○・八キロマイナス……」
英二は思わず隣席をふりかえった。――バーナード博士は、まだ額に汗をにじませ、肩で息をしているが、体をしゃんと起し、自分の前のパネルを見ながら、〃幽霊《ゴースト》〃のレーダー映像の消える寸前の、運動諸元を再チェックしようとしていた。
「追跡再開……」と英二は〃ジム〃にいった。「大丈夫ですか? 博士……」
「私はどうなっていたんだ。――落雷のショックでもうけたのかね?」博士は額の汗を手の甲でぬぐいながら、深く息を吐いた。「ものすごいゆれ方だったが……途中、気を失っていたらしい……」
「いや、それは……」
あなただけじゃありません……といいかけて、英二は口をつぐんだ。
説明すると、また混乱し、時間をとってしまいそうだ。いまは、見失ったJUDO―X1……〃木星幽霊《ジユピター・ゴースト》〃のあとを追う事が重大だ。――なにしろ、何百回に一回もの僥倖で、最初の木星大気圏降下中に、これまでの何回かの接触にくらべても、もっとも近い距離で、その姿をキャッチする事ができたのだから……。
「接触の切れたポイントから、対象《オブジエクト》の漂流コースをどのくらいの精度で予測できるか?」と英二は〃ジム〃にきいた。「予測できたら、再接触予想ポイントまでの、大気状況をレポートしろ……」
「了解《ロジヤー》……」と〃ジム〃はこたえる。「順次、パネルにレポートします……」
〃ジム〃は、いま自己判断でJADE―3を操縦していた。――今は接触が切れているが、木星の、赤茶色の第二層雲の上で、最初に〃幽霊《ゴースト》〃の影をとらえてから、〃ジム〃の操艇機能を示す表示ランプは、血のような色の〃H〃――「ハンティング」のシグナルがっきっぱなしになっていた。第二層雲の上から、無謀な急降下で目標への最短コースをつっこんで行く時、英二がその指示ボタンをおしたのだ。
いま、〃ジム〃は、鋭敏で不屈の闘志をもった一頭の猟犬《ハンター》として、長さ百二十キロ、幅四十数キロの超巨獣《スーパー・ビヒモス》のような巨大な幽霊《ゴースト》の臭いを、あらゆるセンサーをつかってかぎ出そうとし、相手の動きを推測し、あたりの状況をしらべ、もっとも確率の高いコースをわり出して、「獲物」の先まわりをしようとしている。――「獲物」の影は、ついさっき、煮えくりかえる高温電離気体のブッシュのむこうにかくれた。まだ再発見はされていないが、あの小まわりのきかない巨大な図体の目標は、渦まき流れる「大赤斑」下部の気流にのって、押し流されているだけで、そうむやみに、とんでもない所に行ってしまう事はないはずだ。――よほど変った事がないかぎり……。
外部の気圧は三十気圧、気温は百五十度Cになっていた。艇殻温度も、すでに百六十度Cをさしている。――リフティング・ボディの形状をもつJADE―3は、水平飛行による揚力のほかに、すでに木星大気の浮力をうけていたが、それでもわずかずつ沈下をつづけている。〃ジム〃は、はるか下方の液体水素の海や、うずまく高密度電離気体によるレーダー波の散乱を、できるだけすくなくするように、できるだけ深くもぐりこんで、「目標」をとらえようとしているらしかった。
大気の化学爆発による熱衝撃波や落雷の十字砲火、また上昇、下降、乱気流にもみくちゃにされたあと、ここ六、七分、JADE―3は、比較的安定した、大気の定常流の中にいた。――しかし、それは、あれくるう大赤斑周辺の大気の中に、一時的にできた、周囲数十キロの、巨大な「気泡」のようなもので、そのまわりは、どちらをむいても、上昇風、下降風渦流の大嵐が、それにともなう何百キロアンペアという放電の網の目が、とりまいているのだった。
英二は、外部映像を正面パネルに出した。
――JADE―3のまわりは、うす暗い赤い光にみたされていた。もちろん、三重の雲の下、大赤斑をめぐる雲の大渦の壁の底であるこのあたりでは、地球=太陽間の五倍以上の距離の彼方にある太陽の光は、ほとんどさしこまず、その不気味に赤い、濁った血のような光は、はるか下方、高温高圧下に煮えたぎる液体水素の海からやってくる。――噴火中の海洋性火山口の奥深くに突入すれば、こんな感じではなかろうかと思わせるような光景だった。
JADE―3のうかぶあたりをのぞいて、まわりはうす黒い雲が、渦まきながら四方八方に湧き上がり、渦まきながら動いていた。――時折艇殻をゆする爆音とともに、赤茶色の濃密な爆雲が、はためく電光をまつわりつかせながらはやい速度でもり上がってくる。青みをおびた、うすい雲のヴェールが、たなびき、吹きちぎられながらゆっくりとおりて行く。はるか彼方の赤、黒の雲の渦の中で、朱色をおびた白い光がひらめき、爆発の衝撃が、何回にもわたってJADE―3をゆする。しばらくおいて、ざーっ、という砂嵐のような音とともに、火山灰のような固体の微粒子が艇殻をこすり、カメラの防護ガラスに点々とひっつく。流体ワイパーでガラスをぬぐうと、突然視界がオレンジ色をおびた灰色のヴェールでとざされ、コックピットの中にさーっという音がみちた。――艇は前後左右にゆれる。
「なんだ?」
と、英二は〃ジム〃にきく。
「雨の中にはいっています……」と〃ジム〃はこたえる。「低温の雲があって、中で雨が降っています。――エネルギー節約のためにちょっと艇体を冷やします……」
低温といっても、雨の温度は八十度C、ふれればたちまち火傷をおう温度だ。――成分をチェックすると、硫酸と硫酸ナトリウムが高濃度でふくまれている。超セラミックの外被をもつJADE―3でも、その中に長くいられるような「雨」ではない。雲の団塊の中に、局所的に生じている低温部で、凝結して雨として落下する液体は、雲の下部では、また高温のため気化して、上昇気流となり、まわりに小規模な放電を起している。そのバリバリという音は、外部マイクを切っていても、艇殻にじかにつたわり、ディスプレイ・パネルに、小さなフリッカーを炸裂させる。
「遭遇予想点まで、まだ遠いか?」
とバーナード博士がきいた。
「第一予想点まで、あと百五十キロ……」と〃ジム〃が、パネルに図を表示しながらこたえる。「前方頂角六十度コーンの範囲を探索しつつ接近中……あと五分ちょっとで、第一ポイントに達します……」
JADE―3は、毎秒○・五キロに水平速度をおとしていた。――もどかしいようだが、〃ジム〃は、あらゆる状況を計算して、最善の状態で探索をつづけているのだった。
「ソナーをつかってみるか?」
と英二はきいた。
「あまり効果は期待できませんが……」と、〃ジム〃は珍しく「人間くさい」答え方をした。「しかし、ビームを強くしてやってみましょう……」
音波《フオノン》メーザーの準備に二十秒ほどかかり、やがて、びん、というようなにぶい音が艇の一部から発せられた。――雷鳴、嵐、爆発の轟音にみちた大気の底を、超音波のコーンがひろがって行く。ソナー・サイトは、博士の前のパネルの右上方に出た。
またもやはげしい擦過音と、がたがたゆれる悪気流の壁をつきぬけると、JADE―3の視界は再びひらけた。――今度は、渦巻く雲の壁がすぐ近くにそびえている。鮮やかな青緑色の薄い雲層を貫いて、下から鮮やかな黄色の雲がもくもくともり上がってくる。
「あれは?」
とバーナード博士が低い声できく。
「さあ……だいぶ塩素がふくまれているようです……」英二は、ふっ、とかすかに笑う。「この大気の中で、裸で、何秒生きていられるかって、変な議論が、ミネルヴァ基地でもち上がった事がありましてね。――この艇の外へ出たら、ものすごい轟音と、高温、高圧と、腐蝕性の酸のほかに、すさまじい臭いがみちているでしょうね。窒息するのに、そう何秒もかからんでしょう……」
「第一予想地点通過……」と〃ジム〃がレポートした。「近くに反応ありません。計算を再チェックして、第二予想地点へむかいます。――かなり悪気流地帯にはいりますので、注意ねがいます……」
「了解……博士の健康状態を考えて、あまり無理をするな……」
「わしなら……大丈夫だ……」と博士は乾いた声でつぶやいた。「あまり惜しい命でもない。それより――〃幽霊《ゴースト》〃を見失ったかな?」
「まだ何ともいえません……。希望はあります。しかし……」
「最悪の場合は〃大赤斑〃の中に突入しなくちゃならんかね?――目撃例を検討すると、〃幽霊《ゴースト》〃は、大赤斑の渦のまわりを、流れにそってまわりながら、大赤斑の壁の中に吸いこまれたり、吐き出されたりしているようだが……」
「〃赤い目玉〃の中だけは、はいりたくありませんね……」と英二は首をふった。「あの中心部で、いったいどんな事が起っているのか、もう一世紀以上になるのに、こまかい事ははっきりわからないんです。大気循環のエネルギーだけでは、あの渦を、あんなに安定的に維持できないのははっきりしているんです。無人探査機が、渦の底にもぐりこんで、あの渦が、下の高温液体水素を、竜巻きのように吸い上げているらしい事はわかりましたが……。あの大赤斑の内部は、この木星上の〃別世界〃です。いろんな有機合成が行われてはそれがまた分解し……どんな事になっているか、見当がつきません……。誰も、はいる勇気はないんです……」
「木星大気圏内で、誰か死んだものはいるかね?」と博士はつぶやくようにきいた。
「一人……大気上層部で、衛星との間の放電にやられて、作業艇もろとも、大気の中へおちていったものがいますが……。どうして、そんな事をおききになるんですか?」
「いや、別に……」博士はパネルを見つめて、静かにいった。「ただ……このすさまじい木星の大気圏を見ていると……地球を遠くはなれたこの巨大なものの中で、一人の人間の死が、どんな意味をもつのか、と、ふと考えたので……」
博士の最後の言葉は、次の瞬間におそってきた、すさまじい衝撃の中でかき消された。――体は天井をぶち破らんばかりの勢いでほうり上げられ、うっかりしていた英二は、危うく舌をかみ切る所だった。それから腹をベルトでひきちぎられそうな横の衝撃がやってきて、つづいて反対側へのゆりかえしが起った。轟音が艇体をかけめぐり、辛うじて視野にとらえたパネルの警報は、至近距離での大規模な化学爆発と、超弩級の落雷が同時に艇をおそった事を示していた。
それからあとは、以前に倍する、すさまじい乱気流と衝撃波の連続だった。JADE―3は、艇軸を中心に独楽《こま》のように回転《スピン》し、それがやんだと思うと、大波にゆすり上げられ、またエレベーターのようにひきずりこまれた。艇の方向が、ぐるっとかわると、後へむかってすすんでいた。
「ジム!……」苦しさにたえかねて、英二はわめいた。「脱出しろ! ジム……何とか……早く!」
「目標発見……」とジムの声が、洞窟の中にひびくように、遠くエコーしてきこえた。「左上方通過中……距離百二十キロ……。映像出します……」
鉛のように重い瞼を無理におしあけて、正面パネルを見た英二は、あっと、息をのんだ。赤、茶、黒、青、黄の雲が、すさまじく渦巻きふっとぶ中から、今しもほの黒い、巨大な紡錘形の物体が、渦にもまれ、ぐるぐると上下左右に回転しながら、より遠くの焔と雲の渦の中にのみこまれて行こうとしていた。長さ百二十キロの巨大な物体のまわりには無数の電光が、白い寄生虫のようにまつわりつき、一部はまわりの光に赤黒く輝き、一部は灼熱の白光を発していた。
「博士!……見えました! あれです!」とあたりをみたす轟音の中で英二は夢中になってわめいた。「記録しろ! ジム!……記録するんだ!」
第五章 せまりくるものの影
1 リンドバーグの海
一九二七年五月二十日早朝、二十五歳の白面の青年チャールズ・オーガスタス・リンドバーグ二世が、愛機〃スピリット・オブ・セントルイス〃号にのりこんで、雨の中をニューヨーク州ロングアイランドのルーズベルト飛行場をとびたち、初の航空機による大西洋横断を目ざした時、彼はパリ郊外ブールジュ空港着陸までの五千七百七十六キロ、三十三時間三十分の飛行のうち、十五時間というものを陸地の影の全くない、霧と嵐におおわれた、氷山のただよう北部大西洋の上をとばなければならなかった。しかもそのうち七時間は、完全な夜の闇をついてとんだのである。
この飛行の間に、リンドバーグを悩ませたのは、睡魔と孤独であった。――彼は、七千二百五十キロ分の燃料を、小さな単葉機につみこんだため前方の窓もない、せまくるしい操縦席《コツクピツト》にたった一人ですわり、三十三時間半もぶっつづけに起きていなければならなかった。千七百リットルのガソリンの重量をうかすため、天測用の六分儀も、無線機も、地上や船にモールス信号をおくるための懐中電灯も機からおろしてしまい、たよりにしたのは、羅針儀《コンパス》と海図と航空時計だけだった。地上局や洋上の商船、漁船と交信して支援をうける事もできず、彼は操縦席《コツクピツト》の小さな明りの下で、コンパスと時計とをもとにして、海図の上で、ひたすら、愛機がとんでいるはずの地点を計算した。夜が明けて、アイルランドの陸地を見るまでは、その計算が、〃正しい〃という事をたしかめるすべがなかった。ライアン単葉機が洋上の強風で大きく流されてしまわなかった事、二百二十馬力の星型空冷レシプロエンジンが、三十三時間以上、故障せずに動きつづけた事は、彼の大きな幸運だった。陸地を見た時、機の位置は、予定からわずか五キロしかずれていなかった。
十数年後、軍用機の洋上作戦は当り前の事になり、半世紀後には、重量三百トンの数百人のりの旅客機が、大西洋の倍以上の距離がある太平洋を、リンドバーグ機の五、六倍もの速度で櫛比してとぶようになった。成層圏をとぶようになって、天測は自由になり、地上、洋上局から交信や、ビーコン、ローランの支援をうけ、さらに大気圏外の航行衛星によって、位置をたしかめるようになった。――リンドバーグが挑んだ、「暗黒と未知の危難にみちた、広大な空間」は、陽気にとびかう無数の情報、通信によって開発され、組織されて行ったのである。
そして、〃スピリット・オブ・セントルイス〃号の時代から二世紀たったころ――太陽系の縁辺に、再び「リンドバーグの大洋」が生じつつあった。
たしかに〃スピリット・オブ・セントルイス〃号は、全金属製とはいえ、エンジンと羽と舵、それに人間のいれものをくみあわせただけのような単純素朴な機械で、ガソリンを一・二トンほどつみ、平均時速百七十二キロメートルで、五千八百キロをとんだにすぎなかった。――これに対して、「彗星源特別探査」のミッションをおびた、超長距離探査用宇宙船〃スペース・アロー〃号は、二万数千トンの核融合燃料をつみ、最高到達速度秒速二万数千キロメートル、時速にすればリンドバーグ機の約四十万倍の、毎時七千二百万キロメートルにも達するはずだった。航行予定距離は、往復二兆キロメートル、初の大西洋横断時の約三億倍だ。ライアン単葉機のエンジン出力二百二十馬力は、ワット数に換算すれば、百六十三・七キロワットになるが、〃スペース・アロー〃号の、四基の巨大な「ダイダロス3改」核融合ロケットエンジンの総出力は、数百億キロワットにも達するだろう。――これほどまでに、両者のスケールはちがうが、しかし、そのたちむかう空間のスケールとの対比から見れば、そして、どちらも、「ちっぽけな〃人間〃をのせて、情報の極端にすくない、未知の危険がひそむ、広大な空間に挑みつつある乗物」という点から見れば、今〃スペース・アロー〃の行く手にひろがる暗黒の宇宙空間は、二世紀前に、青年リンドバーグが挑んだ大西洋と、同じ性質を帯びはじめているといってよかった。
リンドバーグ機には、むろんの事だが、小型コンピューター一つついていなかった。飛行状態を知るためには、ごく簡単な圧力、温度それに電圧電流の計測装置を応用した数種類のメーターがあるだけで、航法装置としてはコンパスしかなく、機の状態を判断し、コースと位置をわり出し、周囲の状況に対応して、機を操縦する一切の仕事は、たった一人の人間がやらなければならなかった。そのため離陸から着陸までの三十三時間半、パイロットは疲労や睡魔と闘いながら、ずっと目ざめていなければならなかった。三十三時間半一睡もせず、こういった仕事をつづけるという事は、それはおそらく、生身の人間として、精神力と体力の限界にちかい。
そして、そこが〃スペース・アロー〃と、リンドバーグ機との、最も大きなちがいだった。――巨大で複雑きわまる〃スペース・アロー〃のシステムの状態と、航行状況の一切をたえずチェックし、測定し、判断し、予測し、操船を行っているのは、大容量高性能の多極中枢型の電子脳《ブレイン》〃ナヴァホ〃だった。ペットネームの由来は、七系統の電子脳を、特殊なミッションのために技術限界ぎりぎりにまで改造されチューン・アップされた〃スペース・アロー〃に適応できるようにまとめ上げ、さらにミッションのための全プログラムをつくってくみこんだチームの最高責任者が、この北米インディアンの高名な部族の、大酋長《グレートチーフ》の血筋をひいていたからである。――彼の一族は、三代前から〃グレートチーフ〃をファミリー・ネームとして名のっていた。《惜しい事に、〃ナヴァホ〃の生みの親であるマイケル・ソーントン・グレートチーフは、このシステムの完成直後、火星上の交通事故で、二十四歳の若さで死亡した。いわば彼の「遺作」ともいうべき〃ナヴァホ〃には、この一族の大酋長《グレートチーフ》の血が流れている、と、関係者はいいならわした》
二百年前の〃スピリット・オブ・セントルイス〃号では、そのフライトの全行程にわたってリンドバーグが起きて機を操っていた。――が、〃スペース・アロー〃では、二人の〃生身の人間〃井上竜太郎博士とホジャ・キン大尉は、出発後二週間で、長い、冷たい眠りについた。九か月後に予定されている〃目ざめ〃の時まで……。
二十二世紀の「リンドバーグの海」を行く船の中で、ひとり目ざめ、船をあやつっているのは、超複合コンピューター〃ナヴァホ〃だった。〃スペース・アロー〃の中で目ざめつづけていたとしたら……二人にとって、状況は、二百年前のあの時のリンドバーグが味わったものより、もっと辛く、苦しいものになっていたろう。特殊ミッションのために、娯楽室や、アスレチック・ジム、ゲーム室、スポーツ・アリーナ、ダイニング・ルームといったものを一切省き、長距離宇宙船としては、居住性を極度にきりつめているため――それでも、例の特別製のライアン単葉機のように、一度操縦席《コツクピツト》に腰をおろしたら、着陸するまでほとんど身動きとれない、という状態にくらべればずっとましで、個室やゆったりしたバスルームはついていたが――その四方八方機械にとりまかれたせま苦しい空間ですごさなければならない、長い、単調な月日が、どうしようもなく退屈で、いらだたしく、たえがたいものになって行ったろう。
その上、行く手にひろがる広漠とした暗黒の虚無空間は、生身の人間の〃目ざめた意識〃に、さまざまな重圧を加える事になるだろう。――リンドバーグも味わったにちがいないあの「空間の広大さ」と同時に感じられる「自己の卑小感」が、退屈さと孤独感の底から、リンドバーグの時の何倍ものスケールで湧き上がってくるにちがいない。たとえ、人間的尺度からすれば「巨大な」宇宙船のふところに抱かれていても、その何も彼も途方もなく巨大な宇宙船が、小惑星の一つや二つは一塊のガスにかえるほどの圧倒的なエネルギーを絶え間なく消費しつつとびつづけても、なお踏破しきれないような果しない広がり……。その広がりは、やがてそれを見つづけるちっぽけな〃生身の人間〃の意識を絶望的な卑小感の中へおしひしぎ、ついには癒しがたい虚無感の中に粉々にうちくだいてしまうだろう。若々しく素朴なリンドバーグには、まだつきすすむ広大な空と大洋の彼方に、目的の地ヨーロッパの陸の、パリの灯のイメージをはっきりと思い描く事ができた。だが、〃スペース・アロー〃の行く手には……いったい、どんな「目的の地」のイメージを描く事ができるというのか? ミッション・プログラムの「目標点」は、三連の数字で指定される「空域」にすぎない。そこに到達して、いったい何を探し、何を求め、何を見つけたらいいのか?
冷凍睡眠《コールド・スリープ》のシステムは、生体の新陳代謝レベルをさげ、食料や生体エネルギーの消費を節約するといった事よりも、むしろ、感じやすく、みずから傷つきやすい、人間の「意識」を、むごたらしいまでに単調で、拡散した「むき出しの時空間」から保護するためのカプセルだった。そのカプセルにまもられて、二つの「意識」は、長い、夢さえ見ない仮死状態の中に凍結されていた。そして、疲れを知らず倦む事も、傷つく事も知らぬ「機械の中の〃知性〃」――〃ナヴァホ〃だけが、この二万数千トンの宇宙船の中でただ一人目ざめ、船内のすべての状況のチェック、船の操縦、前方周辺の情報の探査とチェックといった厖大な作業をやむ事なくつづけているのだった。
〃スペース・アロー〃の出発以来、すでに全航行予定期間の八分の一が経過し、往復全行程の六パーセントの距離を、予定通り踏破していた。速度は毎秒一万キロメートルちかくに達し、なお加速中だった。
太陽系中心部との距離は、もうだいぶ前に千億キロメートルをこえ、やがて千二百億キロメートルに達しようとしていた。――この距離では、〃スペース・アロー〃から発せられた電波が、太陽系中心部にとどくまで、四日と五、六時間もかかってしまう。往復には八日半もかかり、人間同士の〃会話〃は、普通郵便での手紙のやりとりみたいなものになってしまうのだ。
しかし、退屈したり、いらいらしないコンピューター同士の〃会話〃では、往復八日もかかる応答でも、相互に全然問題はなかった。――刻々ふえて行く応答の時間差を、ドップラー・シフトとともに自動的に補正しながら、〃スペース・アロー〃と、太陽系中心部との交信は、出発以来ずっと維持されていた。天王星オベロン航行基地で中継されたものは、土星、木星、小惑星帯、そして火星上の「外惑星域宇宙航行管制局」のコンピューターへ送られ、地球軌道ちかくの惑星軌道上にある数十個の「電波アンテナ衛星」のいくつかにキャッチされたものは、L5宇宙コロニイ中の研究所衛星「ラブサット2」へ転送され、そこの大コンピューターで仕分けられて、一部は「宇宙航行管制本部」へ、一部は月へ、そして大部分は「天文学連合」の中の「彗星源探査特別計画本部」へ行く。
ここには、〃ナヴァホ〃以外にも、〃スペース・アロー〃の運行をたえず、注意深く見まもり、その周辺の状況をチェックしている生身の人間――ムハンマド・マンスールがいた。
しかし、無口な彼は、音声コンバーターをつかって、直接〃ナヴァホ〃と話したりはしなかった。それこそ、ハローといってから返事がかえってくるまで一週間以上もかかるからだ。……〃ナヴァホ〃が、最も緊密にコンタクトをつづけているのは、ラブサットの大コンピューターのうち、この計画にわりあてられているユニット――通称〃ティム・ラビット〃だった。〃ティム〃は〃ナヴァホ〃のおくってくる、さまざまなデータを注意深く「聞き」、整理し、記録する。何かおかしい所が見つかったら、それを〃ナヴァホ〃につたえると同時に、物によっては、契約してあるいくつかのサブ・コンピューターに応援をたのんで、問題を解析したり、検討したりする。よほど重大な事だったら、ただちに、計画主任のマンスールに、「音声」でレポートするのだった。
〃ナヴァホ〃と〃ティム〃の間には、もし、対人用音声コンバーターをつかったら――そして、往復八日の「応答時差」を無視したら――いわばこんな〃会話〃がかわされているのだった。
――定時レポートSA60245――E・D2029N16・0800SMT、サマリイは特にコメントなし、冷凍睡眠A・B定期生理チェック、航行状態諸元チェック、船内全システム状態チェック、燃料消費状況、目標地域定時観測記録、データはいずれも圧縮コードで、0830SMTからおくる。
――〃ティム〃了解……。
――〃高エネルギー天文学会本部から、次の二十四時間の間に、ヘルクレス座のヒューマソン=ツヴィッキイX線源の観測を行ってほしい、という依頼があった。HZヘルクレスのX線パルサーに周期異常が発生したらしい。恒星HZヘルクレスにも変光周期の擾乱があるので、X線と同時に、光学観測も要求している。同時観測における〃スペース・アロー〃と太陽系中心部との基線距離に魅力があるらしい。当方の判断で、当日0938SMTから、同時観測体制にはいる。観測結果のデータを、そちらにレポートしようか?
――いや、そのデータはいらない。
――そのほか、X線源天体、ガンマ線源天体、準星、衝突銀河などについての、観測依頼の打診《サウンド》がかなりはいってきている。申しこみのリストをまとめておくるから、主任の総合的判断をあおぎたい。
――〃ティム〃了解。主任はいま、天文学連合と太陽系開発機構の合同会議で月へ行っている。帰り次第レポートする。
――前回報告した、エンジン3の、超伝導コイル冷却用液体ヘリウム系統のバイパス・バルブの漏洩は、修理後異常ない。ただ、バルブの二次側の圧力センサーの信号だけが、まだ不安定だが……。
――それについては、超伝導コイルをつくった、トロヤ群宇宙工廠のコンピューターがアドヴァイスをくれた。おそらく第三次噴射の時に、バイパス系に定格以上の圧力衝撃があって、センサーが一時的に過飽和帯電しているらしい。センサーの電流をきって、予備にきりかえてしばらく様子を見ろ。しばらくしたら回復するはずだ、といっている。
――〃ナヴァホ〃了解……。以上で当方のレポートをおわる。そちらからは、何かレポート乃至要求はないか?
――一つある。そちらのレーザー=メーザー波の、ドップラー・シフトに、ごくかすかだが、妙な所がある。定速航行中、加速中、いずれもこちらの計算値と、ごくわずかだが、ずれて来ているような兆候がある。今の所、まだ観測誤差のごく低い範囲にとどまっているが、ここ数回の記録をしらべると、ずれがだんだん大きくなってきているような傾向が、みとめられるようだ、と、航行データの精密チェックを担当しているサブ・コンピューターがレポートしてきた。……こちらからの通信はどうか? しらべてみてくれ。
――〃ナヴァホ〃了解……精密チェックは、時間がかかるが、とにかくやってみる。ほかには?
――目標方向観測記録の、スチールNT6070とNT6080の間がスキップされているが、この間の連続写真を全部、おくってほしい、と天文学連合のカタログ部コンピューターが要求している。一緒にこの期間のビデオ記録と、航行データの詳細も送ってもらいたい。……何でも、うつっている恒星の位置が、カタログとごくわずかだが奇妙にずれているようなので、くわしくしらべたいそうだ……。
――〃ナヴァホ〃了解、スチールとビデオはただちにおくる。
あとから考えると、この「ドップラー・シフトの奇妙なずれ」が、重大な意味をもっていたのだった。
〃ティム・ラビット〃は、さらにつづけて交信を行ったのだが、それに対する〃ナヴァホ〃の応答は――つまり、〃ティム〃が話しかけてから八日と数時間後にあるはずの〃ナヴァホ〃からの返事は、なぜかおくられてこず、〃ナヴァホ〃との交信は、それ以後ふっつり切れた。
〃ナヴァホ〃が「ただちにおくる」といったスチールとビデオ映像は、その言葉から数時間後におくられてきた。ただ八枚あるはずのスチールは六枚しかおくられてこず、六枚目のスチールは、三分の二しかとどかなかった。
2 〃スペース・アロー〃の遭難
彗星源異常の特別探査をミッションとする、超遠距離高速宇宙船〃スペース・アロー〃号の電子脳《ブレイン》〃ナヴァホ〃は、その時、ちょっとしたパニックにおちいっていた。
太陽系の最も外側をまわる冥王星の平均軌道をこえ、太陽から百億キロのポイントをすぎてから、この七系統の高性能コンピューターを統合し、特別ミッションの全過程を制御する複雑きわまる総合プログラムをくみこんだ〃ナヴァホ〃は、一部の系統とプログラムを残し、六系統が「休止」状態にはいっていた。――木星ミネルヴァ軌道からの出発後、四基の巨大な核融合ロケットエンジンと、八基の補助エンジンのくりかえしテストと調整、天王星近傍でのオベロン基地からの最終燃料補給、そして、海王星軌道近辺での、ホジャ・キンと井上竜太郎という二人の〃生身の〃乗組員《クルー》の冷凍睡眠《コールド・スリープ》開始といった、一連の「出発プログラム」が完了すると、あとは目標地点までの数千億キロの間、定期加速と使用ずみ燃料タンクのきりはなし、運行チェックと、L5宇宙コロニイの「ラブサット5」にある彗星源探査特別計画本部の電子脳《ブレイン》〃ティム・ラビット〃との定期交信、あるいは、時折とびこんでくる、ミッション外の宇宙観測への「協力」の依頼をこなす、といった、しごく単調なスケジュールが九か月にわたってつづくだけだった。
いきおい〃ナヴァホ〃の仕事もすくなくなり、システムの大部分は休止状態にはいって、二百時間に一度、「自己探査」系統のチェックをうけるだけの状態で〃眠って〃いた。
〃ナヴァホ〃の中の「覚醒」している部分は、〃スペース・アロー〃の動力系統、操縦系統、航行系統、通信系統、生命維持装置系統を、定期的にチェックしていた。――制御系全体のエネルギー消費はうんと低いレベルまでおとされ、その大部分は、通信系にそそぎこまれていた。
「異常事態」に遭遇する少し前から〃ナヴァホ〃は、最終段加速を、自己判断で、予定よりくり上げて行う事にした。――主系統四基、補助系統八基の核融合エンジンは、往復距離一・五兆乃至二兆キロメートルの全行程の中で、途中の動力系統チェックをかねて、数か月のインターヴァルで、何度かにわけて作動させるプログラムになっていた。重水素=ヘリウム3の核融合用燃料タンクは、金属リチウムの容器もろとも、つかいきる前に、附属システムをきりはなし、放棄して行く事になっていたが、片道一年から一年半もかかる高速の旅の間に、動力系統が、振動や宇宙塵との衝突といった事態によって故障しないかどうか、途中何回かテストをかねて作動させてみる事になっていたのである。
往路における最終加速は、太陽から千二百億キロの距離に達した時に行う予定だった。――〃スペース・アロー〃のエンジンと積載燃料は、最高秒速二万一千キロまで加速可能だったが、一応この加速で、秒速一万二千キロまでスピードをあげ、最大予定行程のちょうど半分、太陽から○・○五光年のあたりまで行く。このあたりから周辺の広域調査を開始し、状況によって、その周辺で減速をするか、さらに加速するかをきめる事になっていた。
〃ナヴァホ〃が、予定地点よりかなり手前で、最終段加速をする事にしたのは、第四回の加速のあと、補助エンジンの一つに不調が発見され、さらにその後、補助エンジン系統の燃料タンクの一つに、漏洩個所が発生したからだった。――いずれもなおしてなおせぬ事はない。また、不調の補助エンジンも、スタートと停止がスムーズに行かないだけで、定格運転から最高出力あたりまでなら、調子がいい事は、何度かのチェックとテストで判明していた。
しかし、〃ナヴァホ〃は、複雑な計算をあっという間にやってのけ、タンク配管の漏洩個所の船外修理と、エンジン調整に時間をとるよりも、最終段加速の時期を予定より早め、漏洩しているタンクの燃料をつかいきってしまって、不良タンクと補助エンジンを切りはなし、放棄する事にきめた。
この決定は、もちろん〃ティム〃にレポートしてあったが、特別計画主任のマンスールの許可を得るほどの事ではない、と〃ナヴァホ〃自身は判断した。
漏洩個所のあるタンクの燃料の一部を、空所のある別のタンクにうつし、不良補助エンジン及び、それとペアになっているもう一つの補助エンジンを、焼き切れぎりぎりまでの最高出力でつかい、のこり六個の補助エンジンを二段階に投入し、定格で作動する事にして、〃ナヴァホ〃は、3G加速をスタートさせた。これで二十六、七時間ほど加速すれば、毎秒九千二百キロメートルで定速飛行している〃スペース・アロー〃の速度は、秒速一万二千キロメートルちかくまでスピードアップされるはずだ。
加速は最初順調にスタートした。不良個所のある補助エンジンは、立ち上がりが多少ぎくしゃくしたが、定格から最高出力になると、むしろ、ペアになっている方のエンジンより調子がよく、バランスをとるのが厄介なくらいだった。
加速開始後九時間で、漏洩個所のあるタンクの内部はからっぽになり、タンク内壁の金属リチウムも、電磁溶解され、プラズマ化されて、核融合反応装置におくりこまれ、二時間後には、タンク全体の附属装置が〃スペース・アロー〃からきりはなされ、暗黒の宇宙に射出された。――そして、加速開始十六時間後、最高出力で連続運転中のペア補助エンジンのうち、不良個所のなかった方が、部分的温度上昇のため、電磁断熱バリアの超伝導維持がむずかしくなりはじめた。
これは予想より一時間以上早く起った現象だったが、〃ナヴァホ〃は、躊躇せず、奔走する一対の補助エンジンを船体からきりはなし放棄し、同時にもう二対の補助エンジンの出力を、定格まで上昇させた。
加速中の〃スペース・アロー〃からきりはなされた二基のエンジンは、矢のように後方の暗黒の中へ遠ざかって行き、液体ヘリウムによる冷却と、電磁バリアによる断熱作用を失ったエンジンは、その半球型の巨大な反射板の内部に残留する超高温の燃料プラズマによって、みるみる白熱の輝きを発しはじめ、ついに小さな爆発の閃光を残して四散した。消費した燃料とタンク附属物、それに二基の補助エンジンをあわせて、総計五百数十トンの重量を失って、そのぶんわずかに身軽になった〃スペース・アロー〃は――といっても、まだ、残余の燃料と船体をあわせて、二万トン弱の質量がのこっていたが――わずかに身ぶるいして、加速度が少し上昇した。
〃ナヴァホ〃の「トータル・センシング」レベルに、かすかな齟齬感のようなものが出現したのは、その直後だった。――人間の意識にたとえれば、「妙な不安感」といった所だ。
最終段加速開始の八十時間前、〃ナヴァホ〃は〃ティム〃から「〃スペース・アロー〃からの通信電波のドップラー・シフトに誤差かも知れない微妙なずれ」があるという通知をうけとり、時間はかかるが、精密チェックをしてみる、と応答したところだった。
しかし、その時は、すでに「最終加速開始を予定より早めるかどうか」という問題がもち上がっており、〃ナヴァホ〃は〃ティム〃との「会話レベル」の交信以外に、その点の検討に「覚醒系統」をつっこませざるを得なかった。――むろん、〃スペース・アロー〃の運航状態に関するデータは、「非会話レベル」、つまり、「一方的送信」の形で刻々おくられており、加速予定を早める決定をくだした事は、そちらの回線でラブサットにおくられていた。
そして、加速開始十六時間後、補助エンジン二基をきりはなした時、加速状況にごくごくかすかだが、「奇妙な不安」を、〃ナヴァホ〃自身が感じたのだった。
まだ加速中の〃スペース・アロー〃の中で、〃ナヴァホ〃は、一応その「不安」の正体をチェックしにかかった。――〃スペース・アロー〃の宇宙空間における物理的運動状態は、基本的には、内蔵されている積算加速度計と、宇宙船の前方後方のセンサーによる、光や電波のドップラー効果を測定する事によって検出されていた。ほかにも、もちろん、基準恒星の天測による姿勢制御や、太陽との相対位置の測定を行ってはいたが――それに秒速五千キロをこえてからは、恒星の「光行差」も一応補正的に観測していた――大もとになるのは、後方にあって、もう小さく点状になってしまったが、それでも全天で最も明るく輝く恒星である太陽のスペクトルと、内惑星、外惑星軌道上の通信基地からおくられてくるマイクロ波のさらに、特別にビームをこちらにむけてもらっている宇宙灯台681の「中性微子《ニユートリノ》ビーコン」のドップラー・シフトであった。
宇宙船の前方に見える恒星群に対しても、もちろんその青方変移は測定していた。――しかし、ちょうど〃スペース・アロー〃の進行方向には、適当な基準になる電波源天体やX線パルサーがなく、この距離では、最も明るく、しかもスペクトルが精密にわかっている太陽と、きわめて正確な基準周波数とパルスを出しつづける、通信基地や宇宙灯台の電波や中性微子《ニユートリノ》パルスを基準にするほかなかった。
惑星軌道の外へ出てから、一番精密に〃スペース・アロー〃の航行状態を検出できるのは、四系統つまれている積算加速度計だった。――これは、出発時から、〃スペース・アロー〃がうけたすべての方向の加速度を記録し、微振動やノイズをとりのぞいて、時間に関して二度積分する事によって、宇宙船の距離と飛行方向をわり出している。その記録を、太陽系や他天体からくる光と電波のドップラー・シフトとつきあわせて、宇宙船の、宇宙空間に対する相対速度や加速状態をチェックする。……いま、〃ナヴァホ〃が、漠然たる「不安」というか、トータル・センシングにおける一種微妙な齟齬を感じたのは、この加速度計と、ドップラー・シフト検出システムとの関係だった。
だが、加速中はごくわずかだが、後者の精度がおちるので、加速終了後、双方の記録を綿密につきあわす事にして、〃ナヴァホ〃は、二つのシステムの中に、故障や不調個所がないか、こまかいチェックにはいった。――加速終了直後、〃ティム〃から、天文学連合がスチールとビデオ映像を送るように要求している通信がはいり、〃ナヴァホ〃は、そちらの処理を優先させた。
その時まだ、〃ナヴァホ〃は、休止中の全系統を「覚醒」させ、〃スペース・アロー〃の運行状況の全面精密チェックにはいる必要を感じていなかった。
天文学連合の要求している星のスチールとビデオ映像を記録の中からさがし出し、連続送信をスタートさせてから、〃ナヴァホ〃は、加速度計系統の記録と、ドップラー・シフト検出系統の記録とのつきあわせにかかった。――同時に、ドップラー・シフト検出系統に、誤差が発生していないか再チェックするために、もう一度太陽スペクトルやビーコン波の赤方変移を、精密測定しはじめた。
〃ナヴァホ〃が、ほとんどパニックにおちいりかけたのは、測定をやりはじめた直後だった。――加速が終って定速航行にはいり、船内の加速度計は「加速度ゼロ」を示しているのに、太陽や星のドップラー・シフトの方は、後方も前方も、〃スペース・アロー〃が、なお加速されつづけている事を示している。
〃ナヴァホ〃は休止中の残り全系統に、「衝撃的」といっていいほど急激なコールをかけ、宇宙船と周辺空間の状態に関して、あらゆるセンサーをつかった、あらゆるレベルと精度の「緊急チェック」を指令した。――同時に、生命維持システム系に対しても、「冷凍睡眠《コールド・スリープ》」中の二つの生命体に、危険水準ぎりぎりの「緊急覚醒《アージエント・ウエイク》コール」をかけるように命じた。
前方のレーダーは、遠距離だけでなく、超遠距離、中距離、近距離あらゆるレンジで、出力最高で走査をはじめたが、何の反応もかえってこなかった。ただ、光学映像モニターが、ちょうど〃スペース・アロー〃の進行方向のま正面に来ていた恒星の像が、かすかに二重にぼやけた事を検出した。そうこうしているうちに、奇妙な事が船内で起りはじめた。全長二百四十メートルの〃スペース・アロー〃の前部と後部の加速度計が、わずかにちがった数値を示しはじめた。一方、〃スペース・アロー〃の船首から、前方六十度の角度につき出した、六本の長さ四百メートルのセンサー・アンテナのビームにテンションがかかりはじめ、その力はやがて「警報」を鳴らすほどになってきた。
ここにいたって〃ナヴァホ〃は、事態が「異常」レベルから「緊急事態」のレベルに達した事を悟った。〃ナヴァホ〃は、操縦系統に指令して、「緊急」レベルの方向転換をスタンバイさせた……。
後頭部から脳の中心を通って前額をつらぬく長いドリルが、がりがりと音をたてて頭蓋を砕き、暗黒の大脳空間に鋭い痛みをともなってつきささるのを感じて、ホジャ・キンは思わずうめきをあげた。――次の瞬間、皮膚表面に、ざわっ、と音をたてるように冷感が走り、心臓がぎゅっ、ぎゅっ、とごつごつしたつめたい手で何度もわしづかみされ、のどに針鼠のようなすさまじい棘のいっぱいはえた金属ブラシが、無理矢理につっこまれ、そいつはばりばりと音をたてて肺の奥までひっかきまわした。
ホジャ・キンは痛さと苦しさのあまり、絶叫した。――とたんに、全身に煙が噴き出すような電撃をうけ、頭の中に眼のくらむような、朱と紫の火花をともなった白光が炸裂した。
ホジャ・キンは、何度も悲鳴をあげた。――衝撃がくりかえされ、絶叫をあげる度に、次第に意識がはっきりし、体の感覚が肩先から、腕から、手首へかけてよみがえってきた。
「なんて起し方をしやがるんだ!」と、ホジャ・キンは、凍りついた眼蓋を、むりやり開こうと、顔をひきつらせ、全身でもがきながら、かすれた声でわめいた。
「おれを……殺す気か!」
自分の声を、自分の耳できいて、ホジャ・キンははじめて自分のいる場所に気がついた。――温風と、ざらざらしたマッサージ機と、それに補助人工心肺から身体局部の数か所にむりやりおしこまれてくる温かい血液によって、やっと顔の感覚がもどり、まだ霜の凍りついている眼蓋が開くようになった。
眼は開いたが、視界はまだ乳色のもやにとざされ、その奥にうすい赤や青の光が巻いているのが見えるだけだった。――が、それも、顔の前の、霜のこびりついたプラスチック・カバーが開くと、急にはっきりした。〃スペース・アロー〃の、せま苦しいコックピットの中は、めったやたらに、「警報」「緊急事態発生」の赤、青、黄のサインが明滅し、警報ベルやブザーがなりひびいていた。
「キン大尉……」と隣の冷凍シートの中で、顔にまっ白に霜と氷をこびりつかせた井上博士が、苦しそうに顔をしかめながら、ゆるゆると唇を動かし、うめくようにいった。
「も、もう……目的地か?」
「ちがうようです……。まだ、無理に動いちゃいけません」かろうじて首だけわずかに隣へねじまげながら、ホジャ・キンはいった。
「指の先から……ゆっくり動かすんです、ゆっくり……」
突然、コックピットが大地震をくらったようにはげしくゆれ、メーター類の一部がはじけとび、操作卓が火花と白煙を噴いた。
「〃ナヴァホ〃!……」とキンは、何とか冷凍シートから体をひきはなそうともがきながらわめいた。「いったいどうしたんだ? 何が起った?」
「緊急事態発生……操船不能……」と〃ナヴァホ〃のとぎれとぎれの声が、すさまじい雑音とともにきこえた。「本船前方真正面に……」
その時キンは、思わずかっと眼をむき、口を一杯に開いた。――眼前のコックピットが、ばりばりとくずれ、巨人の手によってむこう側からひきちぎられるように、凹み、砕けて、進行方向にふっとんで行った。
その背後に、暗黒、真空の宇宙空間が、一瞬大きく口を開いたが、もちろんキンは、恐怖の叫びをあげるひまもなかった。
木星の大気圏内――「大赤斑」の傍の雲の谷間へ、十回目の探査下降をおこなっていたJADE―3のコックピットで、英二の傍の耐Gシートに体を埋めていたミリー・ウイレムは、突然小さな悲鳴をあげると、ぐったりと、気を失ってしまった。
3 「メシェ記念室」にて
〃ミリー!〃
ミューズ12に残って、JADE―3のバックアップをひきうけているバーナード博士の切迫した声が、スピーカーからきこえた。
〃ミリー!……どうした? 何があった?〃
「よくわかりません。――突然気を失いました……」英二は右手でスティックを操作しながら、左手をのばして、ミリーの頬を軽くたたいた。「ジム――彼女の様子はどうだ? ひきかえした方がいいか?」
「何か精神的ショックがあったようです……」と、JADE―3の電子脳《ブレイン》〃ジム〃はこたえた。「現在、脈搏、血圧とも正常に復しつつあります。血糖値は……」
「ひきかえすなんて……そんな大げさなものじゃないわよ……」
ミリーは突然はっきりした声でいった。――顔色は青ざめ、眼は閉じたままだったが……。
「もう大丈夫よ。ちょっと……」
「いったいどうしたんです。ミリー……」
「ええ、あの……突然、ある人の事が……」
ミリーは、深い溜息をついて、眉をぎゅっとしかめ、こめかみに両手をあてた。
「いいえ! いいえ!……もういいわ。何でもないの」
「でも、なぜ、突然、その人の事なんかを!」
「それは……私にもわからない……」ミリーは、うつろな眼つきで宙を見つめ、拇指の爪をかんだ。「どういうわけだか知らないけど、いきなり……彼の事が……」
「〃幽霊さがし〃で、つかれて神経がまいっているんでしょう……」英二は、パネル表示を見上げながらつぶやいた。「われわれでも、木星大気圏で作業をしていると、幻覚を見やすいんです。――あんまり刺戟がつよいのと、緊張の連続で……」
〃なにをいつまでもべちゃくってるんだ!……前方に、でかい雷雲がふき上がってきてるぞ〃と、シンの濁《だ》み声《ごえ》が、スピーカーからがんがんひびいた。〃電撃シャワーで、ひと汗流したいなんて、風流な事を考えてるんなら、勝手にしやがれだな……〃
「四十秒で降下点です……」と〃ジム〃が淡々とした調子でレポートした。「コース四ポイント右に変針し、降下角度一ポイント三増加、加速率もポイント六上昇させます。――あと二十秒で降下開始……」
英二は隣席のミリーに視線をうつし、左手をのばして、彼女の耐Gシートのレベルを少しあげた。
ミリーはヘッドレストにしっかりと後頭部をつけ、パネルの表示を見つめているようだった。――だが、彼女のうつろな眼は、めまぐるしくかわる色とりどりのディジタル表示のどれも見ていなかった。
ミリーは、ついさっき、何の前ぶれもなしにおそって来た、不吉な幻覚の事を、胸の冷えるような感覚を味わいながら反芻していた。――彼女のかつての恋人……今ははるか太陽系外につきすすむ、孤独な宇宙船の中で冷凍睡眠にはいっているはずの、井上竜太郎博士が、頭や顔面にまっ白に霜を凍りつかせたまま、突然眼、鼻、口から鮮血をふき出し、おそろしい悲鳴をあげながらひきさかれていくまぼろしを……。
「降下開始……」
と〃ジム〃が単調な声でいった。――JADE―3は、がくん、と船首をさげ、ミリーの体は耐Gシートの中にゆっくりと沈んだ。
世界天文学連合の宇宙飛翔体探査部会によって実施された「彗星源探査特別計画」の主任ムハンマド・マンスールが、この計画のために、特別にしたてられた有人探査宇宙船〃スペース・アロー〃号に、何か異常が発生したらしい、というレポートをうけとったのは、L5宇宙コロニイの中にある研究所衛星《ラブサツト》2の「メシェ記念室《メモリアル・ルーム》」に、一人でこもっていた時だった。
「メシェ記念室」は、ラブサット2のスペースの三分の一を占める天文学連合本部の、あまり目だたない、奥の片隅にあった。
――それはいうまでもなく、十八世紀後半から十九世紀のはじめにかけて活躍した有名なフランスの天文学者シャルル・メシェを記念してつけられた名だった。
シャルル・メシェの名は、彼がはじめて百九個におよぶ星団星雲を分類し番号をつけた事によって、彼のイニシャルMにナンバーをつけてよばれる星雲や星団、いわゆる「メシェ星雲」を通じて後世にまでつたわったが、元来彼の専門は、「彗星の番人」と当時の世間でよばれたように、彗星の発見と観測だった。――彼は生涯に二十一個の彗星を発見したが、そのうちの十四個はまったく新しい彗星だった。元来、彼が百以上の星雲や星団に分類番号をつけたのも、彗星とまぎらわしい天体を区別するためだったのである。
そういうわけで、「メシェ記念室」は、一隅がメシェの業績を記念する展示にあてられ、あとはほとんど、有史以前から二十二世紀までの、目撃観測された彗星の歴史資料や記録の集積にあてられていた。つまり、この部屋では彗星に関するあらゆる記録、資料のメモリイが、映像もふくめて、最も短時間に検索、アクセスできるように、プレゼンスされていたのである。
二十二世紀において、メシェと同じように「彗星の番人」とよばれるムハンマド・マンスールは、この記念室の管理責任者であると同時に、ラブサット2の登録居住者の中で、もっとも長くこの部屋ですごす人物だった。――とりわけ彼は、二十一世紀前半に突如冥王星軌道の彼方から出現し、双子《ツイン》である上、太陽に接近するにつれ、その雄大な尾をそれぞれ二億キロメートルもひいたメッケル=アブドラル彗星の静止映像や、観測機からとったテレビ映像を、大きな液晶パネルにうつし出して眺めるのが好きだった。〃双子巨人《ツイン・ジアイアント》21C〃というニックネームでよばれたこの大彗星こそ、アラブ・ベドウィンの首長《シエイク》であり、古代オリエントの伝統を継ぐ大占星術師だった彼の曾祖父が目撃し、その子孫に、その出現にもとづく秘密の予言をのこしたものだった。この双子大彗星は、それぞれの頭部にあった複数の「核」に、超小型のマイクロ波発振機がトレーサーとしてとりつけられた最初の彗星だった。これによって、この双曲線軌道をとって再び太陽系から永遠に去って行ったこの双子彗星は、かなり長期にわたってそのパルス信号を追跡できたのだった。
「彗星源探査特別計画」が、彼と、井上竜太郎博士の努力によって実現にこぎつけてから、マンスールがこの部屋にくる回数はかなりへった。――計画本部にあてられた部屋が、記念室とフロアが六階もちがい、かなりはなれていたからだが、それでもひまな時や、近くで会議のあったあと、彼はこの記念室を訪れ、大抵は一人でぽつんとすわり、漫然と資料をよび出して眺めたり、あるいはパイプをくゆらせ、静かに音楽をながして、瞑想にふけったりするのだった。いわばこの「メシェ記念室」は、彼にとって「心の休憩室」だったのである。
その時も、天文学連合と太陽系開発機構の合同会議のため、月面のライプニッツ市まで行って、ラブサット2にかえってきてから、連合本部で小さなミーティングをやったあと、ひさしぶりにこの記念室に来て、コーヒーを飲み、パイプをくゆらしながら、ゆっくりと古い文献をディスプレイ・パネルにうつし出して眺めていた所だった。――彗星源探査計画の専用コンピューター・ブロックの〃ティム・ラビット〃が、そのパネルに突然「緊急」のサインをおくりこんで接触してきた。
「悪いしらせです、主任……」と〃ティム〃はいった。「〃スペース・アロー〃との通信が途絶しました……」
マンスールは、ゆっくりと文献読みとり回路を切って、眉根に指をあてておしもんだ。
「通信機の故障か?」
とマンスールは眉根をもみながらきいた。
「三系統でおくって来ていた航行状況データ通信も、航行シグナルも一せいに途絶しました。――〃スペース・アロー〃に何らかの異常が発生したと思われます……」
マンスールは、口ひげをちょっとなで、顎に手をあてて、しばらくむずかしい顔をして考えこんだ。
「最後の通信をうけとった時の状況は?」
「最終段加速にはいっていました。――〃スペース・アロー〃の電子脳《ブレイン》〃ナヴァホ〃は、不調の兆候のある補助エンジンと、配管系統に漏洩個所の発生した燃料タンクをきりはなすために、最終段加速時期を、予定より早めるとレポート・レベルで送信してきました……」
「じゃ……そのエンジンの爆発事故か、何かが起って……」
「いえ……最終段加速は順調に進み、途中で問題の補助エンジンも燃料タンクも、無事にきりはなされた事が、航行状態データではっきりしています。加速は予定通り終了し、最終予定速度をわずかに上まわる速度に達しました。加速終了後、〃ナヴァホ〃は、加速中にうけとったこちらの通信に、〃了解〃のサインをおくりかえし、天文学連合の要求したビデオとスチール映像を送信しはじめました。――通信途絶は、このスチール映像の送信中におこりました……」
「何か……異常事態発生の通信は、〃ナヴァホ〃からなかったのか?」
「何もありません。――異常についてのレポートはなく、通常の通信中に、突然〃スペース・アロー〃からの一切の電波が消えてしまったのです……」
マンスールは、ぐっと体をかがめ、ますます深く眉根にしわをよせてしきりに口ひげをなでた。
「〃スペース・アロー〃からの通信をうけていたのは、どことどこの局だ?」
「火星軌道電波通信衛星が二基と、海王星軌道上の宇宙通信灯台NB6です。――加速がはじまった時は、天王星のオベロン衛星基地がぎりぎりにカバーしていたのですが、途中で天王星による掩蔽が起ったので、NB6がひきつぎました」
「宇宙通信航行局は?――通信途絶について、何か見解を出したか?」
「いえ――まだ、外惑星域航行通信管制局から宇宙航行管制本部に、通信シグナル途絶の報告が上がっているだけです。本部の方は、先週起った、金星向け貨物船《カーゴ》の爆発事故の調査に集中しており、まだ第一次判定は出ていません」
「よし、わかった!――ユキコはどこにいる?」
「いま、データ整理のために、メモリイ・バンク衛星に行っています。十八時に帰還の予定です」
「すぐよびもどせ。それから――天文学連合のパパウ事務局長をよんでくれ……。いや、私がじかに行こう。事務局長はいまどこにいる? 通話をつないでくれ」
「パパウ事務局長は――いま、プールです」
「プール?――オニール中継点《ジヤンクシヨン》の?」
「いえ、この衛星のアスレチック・アリーナのプールです……。いま、おつなぎします」
パネルの映像は、二、三度またたくと、小さな屋内プールがうつし出された。――呼び出しの声が、びんびんひびくと、波うつ水面のむこうで、巨大な、褐色のイルカのようなものが、大きくターンするのが見えた。一、二秒ののち、カメラのまん前の水面が、がばっとわれると、水にぬれた褐色の巨大な顔が、ちぢれた黒い髪から水をしたたらせながらあらわれた。
「パパウだ……」
と、大きな眼をぎょろつかせながら、巨漢はいった。
「ムハンマドです……」と、マンスールは、おさえた咳ばらいをしながらいった。
「実は、重大なお話があって、至急お眼にかかりたいのですが……」
「重大な話?」パパウ事務局長は、ちょっと眉をひそめて、丸っこい鼻をこすった。「どんな話だ?――〃スペース・アロー〃に何か起ったのか?」
「一切の通信が途絶しました。――事故の可能性が大です」
「三十分後に、事務局であおう……」ざばっ、と、水をはねかえしてプールからはいあがりながら事務局長はいった。「私の部屋より、奥のB会議室へ来てくれ。あそこなら、誰もこないから……。それと、君の方から、ヴィンケル副会長に連絡して、B会議室へ御足労ねがえ。ヴィンケル博士は、いま、当番で、本部資料室でしらべものをなさっているから……」
「わかりました……」
「あと、管制本部の通信研究班のアレックス・パドロポスと、事故調査部のギュンター次長に、私の名前をいって内々に連絡しておけ」パパウ事務局長は、褐色の便腹《べんぷく》をバスタオルでぬぐいながらてきぱきといった。「アレックスはテレメーター解析のベテランだし、ギュンター次長は、あらゆる宇宙事故のケースについて、コンピューターなみの記憶をもっている。どちらも私の古い知り合いで、口がかたいし、協力してくれるはずだ。――〃スペース・アロー〃にむかって、こちらからはよびつづけているか?」
「一応いままで通りやっていると思いますが……」
「いまつかえる太陽系最外部の通信基地までの間は、S回線をつかえ。連合本部のもっている回線のうち、一チャンネルつかわしてやる。ほかの宇宙船に傍受される事もないだろうが、一応注意しておいた方がいい。――何しろ、人身事故の可能性があるからな……」
事務局長との通話をきると、マンスールは、深い溜息をついて、椅子からたち上がった。――額には、いつの間にかべっとりと脂汗がにじんでいた。
「彗星源探査特別計画」――COSREPなどというよりも、「スペース・アロー計画」、あるいは略して「SA計画」といった通称の方が通りがよかったが――を、無人でなく「有人」でやりたい、と強く主張し、粘りづよい工作をやったのは、井上竜太郎博士であり、その全面的支持者がムハンマド・マンスールだった。そして、計画当初はまだ事務局次長だったヒルデブランド・パパウ博士が、機構内部において、その実現のため、最も力づよい協力体制をしいてくれた。当時、常任幹事候補で、「恒星有人探査計画」の責任者だったオットー・ヴィンケル博士に話をつないでくれたのも、彼、パパウ事務局次長だったのである。
特に、宇宙工学、それも宇宙飛翔体工学の権威であり、有力者でもあるヴィンケル博士の「有人恒星旅行計画」と、たくみにオーヴァーラップさせた功績は大きかった。――「彗星源異常探査」という、どちらかといえば、天文学連合全体としては二番手、三番手と見なされていた課題を、「有人恒星旅行」という、壮大だが、まだそれほどはっきりした眼鼻のついていない長期計画の中に、「無人恒星探査旅行計画」の一段前のステップとして組み入れるのに成功した事により、「スペース・アロー計画」は、工学技術系の強力な支持をうける事になった。
それでも、「有人」という事に関しては、天文学連合内部に、特に地球系の会員の反対意見が、最後まであった。――計画発案者である井上博士自身が、超長距離宇宙船にのりこむ事には、今度は推進側に一部強い反対があった。博士の高潔な人格と、太陽系生成論における、理論、実証両面のいくつかのすぐれた業績に、連合の常任理事候補、そして理事長候補の声さえ上がっていたからである。
しかし、井上博士自身が、「政治」やアドミニストレーションにはあまり興味がなく、観測基地や天文台衛星、場合によっては、小惑星帯や外惑星の衛星の上にでも出かけて行き、何か月でも何年でもこもって研究に熱中するタイプだった。
――はじめ、自分が行く気だったマンスールは、ついに井上博士の情熱に負けた。一方、ヴィンケル博士のグループも、「宇宙空軍《スペース・フオース》」という思いがけない機構から、ホジャ・キンという、一匹狼といっていい変りもので猛烈なパイロットの自薦をうけなかったら、人選が難航する所だった。
僥倖ともいうべきコネクションが次々とでき上がる事によって「SA計画」は、瓢箪から駒といった形で実現にこぎつけた。――それだけに、一部には、強い危惧や反対の感情が残っており、その「評価」については、明確な「成果」があらわれるまで、甚だ微妙な所があった。マンスール自身、計画の進行中に何度も薄氷をふむ思いを味わったのである。
そして、いま、ほとんど「最悪の事態」とも思えるものが、突然発生した。――それも、目的地に達するはるか手前の段階で……。
その事を思うと、マンスールはかすかにめまいをおぼえた。それを追いはらうように、もう一度深い息をつくと、彼は唇をかたくむすんで、「メシェ記念室」を出て行った。
4 B会議室――火星
研究所衛星《ラブサツト》2にある世界天文学連合事務局のB会議室で、ムハンマド・マンスールは、パパウ事務局長とヴィンケル副会長の二人に、むかいあう形ですわり、指先でこつこつとテーブルをたたいていた。
眉根にぎゅっとしわをよせ、深刻な表情をしているのはパパウ事務局長とヴィンケル副会長であり、マンスールの表情はひどく冷静にみえた。――が、彼の眸の奥に時折かすかにのぞく暗いかげは、マンスールが、持ち前の超人的な自制心を発揮しながらも、おさえかねている、はげしい内心の動揺を示していた。
事務局の、局長室のさらに奥にあるB会議室のディスプレイ・パネルは、局長個人用の秘密回線でもって、火星の宇宙通信航行管制本部のフリッツ・ギュンター事故調査部次長の個室につなぎっぱなしになっていた。――そして、たったいま、ギュンター次長は、「個人的に」〃スペース・アロー〃の突然の通信途絶は、宇宙船の爆発か破壊といった第一級の「事故」によるものとしか思えない、という見解を披露したところだった。
B会議室に集った三人は、ひきつづき、管制本部の、宇宙航行物体から電波でおくられてくるテレメーター解析のベテラン、アレクサンドロス・パドロポスの報告を待っていた。――火星はこの時、地球と七千万キロまで接近していたが、通信は往復で八分弱もかかり、この「光速の壁」がつくり出すもどかしい空白の待機時間を、三人はいらいらしながら耐えなければならなかった。
いらいらしているのは、火星の上にいるギュンター次長も同じである事は、彼の個室とつなぎっぱなしの映像でわかった。――ギュンター次長から、パドロポスに、〃スペース・アロー〃の最後のテレメーターをざっとチェックしてもらって、とりあえず「個人的意見」をきかせてもらう事を依頼し、その回答が次長の個人専用回線でその画面にはいってくるはずだった。〃スペース・アロー〃の、突然の通信途絶は、まだコンピューター・ネットワーク・システムの中でキャッチされ、特定の関係者にレポートされただけだった。それが不吉な「事故」であり、無惨な「遭難」である事は、まだ人間によって確認され、組織や集団の情念の反応によって増幅されていなかった。
いま、天文学連合本部のB会議室にいる三人と、そこから七千万キロはなれた火星の上にいる二人が〃スペース・アロー〃の「死」を――そしてむろん、それに乗っていた二人の人間の「死」を、最初に確認する検屍医の役割を果そうとしているのだった。
突然ディスプレイ・パネルの片隅に、緊急通信のオレンジ色のフリッカーが点滅した。
――ムハンマドの手が、わずかに動くと、フリッカーが消えて、小さな画像があらわれた。
前髪をきれいに垂らした、十四、五歳の少女のような、あどけない顔だちの、東洋人の女性がうつっていた。
「ユキコです……」と、ムハンマドの助手はいった。「いま、〃ティム〃からききました。――単なる通信の不調じゃないんですか? まさか……」
「いま、そのチェックをはじめている所だ……」ムハンマドは、そっと口ひげをなでた。「だが――おそらく、最悪の事態が起った可能性がつよい……」
「百パーセント……絶望的なんですか?」
ユキコは声をつまらせた。その大きな眼に、みるみる涙がもり上がってきた。
「とりみだしてはいかん……」とムハンマドは静かな、さとすような調子でいった。「仕事は、しばらく今までどおりつづけてくれ。――秘書のソニアにはまだ何もいうな。あとで私から話す」
「わかりました、ボス……」ユキコは指先で涙をはじきながらうなずいた。「どうも申しわけありません」
「あまり目だたないように、〃スペース・アロー計画〃の、全データを、洗いざらい集めはじめてほしい。〃スペース・アロー〃の建造当時の諸元と、改装前の航行歴も、冷凍睡眠《コールド・スリープ》システムも……〃ナヴァホ〃のキャリアもだ。それから……」ムハンマドはちょっと宙を見つめるような目つきをした。「彗星源探査の最初期からの全資料は、いま、どこにあったかな?」
「無人探査のころからのですか?」
「そうだ……第一回からだ……」
「レジュメなら、〃ティム〃がもっていますが……全資料という事でしたら、もう資料保存所《アルカイーヴ》衛星に移管されていると思いますけど……」とユキコは首をかしげていった。
「一応チェックしてみます……」
「そうしてくれ……」
その時ヴィンケル副会長が、咳ばらいして、
「アレックスからの通信がはいるぞ……」
と、しわがれた声でいった。
ムハンマドは、手ぶりで助手との通話をきった。
パネル映像に、割りこみ《ブレーク・イン》のサインがきらめいて、画像がわずかに乱れると、灰色の髪をした額のやたらにひろい神経質そうな中年男の姿が、ギュンターの映像の横にワイプではいってきた。
「パドロポスです……」
と、男は、画面にむかって言った。
「〃スペース・アロー〃の航行データを、通信途絶時点から、百時間乃至百五十時間にわたって、ざっとしらべて見ました。――まだはっきりした事は何もいえませんが、すくなくとも、通信途絶直前まで、〃スペース・アロー〃の運行状態はほぼ正常で、動力系、機械系、制御系、通信系いずれも、大事故発生の兆候は何もみとめられません……」
「最終段加速を、予定より千六百時間早めたという点については、問題はないのかね?」
と、画面の中でギュンターがきいた。
「それについては、ややくわしくしらべてみましたが、〃スペース・アロー〃の電子脳《ブレイン》〃ナヴァホ〃のとった処置は適切で、問題はないようです」と、アレックス・パドロポスはメモを見ながらこたえた。「加速をはやめた理由は、補助エンジンの一つの、始動時における不安定と、外装核燃料タンクの配管の一部に微量の漏洩個所が見つかったため、とレポートされています。――修理ロボットをつかって、船外修理作業をやってやれない事はなかったのですが、今度のミッションの性質上、目標点到着後の行動余力を、なるべく多く残しておく必要があったため、〃ナヴァホ〃は、多少とも不確定要素の多い船外修理に、時間とエネルギーと、ロボット二台を投入するかわりに、最終段加速開始時間を早め、問題のある補助エンジンと、もう一基のペア補助エンジン、及び漏洩のある配管系につながるタンクの燃料をつかいきり、切りはなす事をえらびました。この判断は適切で、変更決定は〃ナヴァホ〃の自主裁量範囲にふくまれており、〃ティム・ラビット〃には、レポートされていましたし、実行プロセスには何の問題もありません……」
「つまり、〃ナヴァホ〃そのものの機能は、その時点まで、まったく正常で、〃ナヴァホ〃自身の誤動作や判断ミスはまったくなかった、とこういいたいんだな? アレックス」
「その通りです。――その当時は、〃ナヴァホ〃の統合七系統電子脳《ブレイン》のうち、六系統は休止状態にありましたが〃覚醒状態〃にある一系統の判断だけで充分だったようですし、その系統の判断は、見たところきわめて正常です……」
「〃ナヴァホ〃が誤動作やミスをするわけがない……」と、B会議室でマンスールがつぶやいた。「あれは……この太陽系で、最高の舶用電子脳《ブレイン》だ」
「しっ……」と、パパウ事務局長が指を唇にあててささやいた。「アレックスの話をきけよ……」
「加速開始後、十六時間で、予定どおり問題のあるタンクはつかいきり、そのタンクの配管系と補助エンジン二つはきりはなされました。この間、別に問題はありません。立ち上がり不調のあった例のエンジンも、定格から最高出力運転の間は、むしろ調子がよかったようです。――きりはなし後、残り六基の補助エンジンが、バックアップから定格にまで出力をあげ、3G加速はひきつづき順調に維持されました……」
「ちょっと待ってくれ……」ギュンター次長が手をあげてさえぎった。「その最終段加速の時は、主《メイン》エンジンは使われなかったんだな?」
「ええ――航行プログラムでは、目標点到達までの間の中間加速は、すべて補助エンジンをつかって行われる事になっています。到達後、どれだけ行動余力が残っているかによりますが、一応目標点到着後、最低二個の補助エンジンを残して周回探査にあたり、帰還の際に残った補助エンジンと予備タンクを全部きりはなして、主《メイン》エンジンだけで帰ってくる事になります……」
「その加速中、主エンジン系統の状態はどうだった?」
「点検システムが四系統でモニターしていますが、すくなくともテレメーターで読んだかぎり、何の問題もありません……。主エンジン四基は、補助エンジン作動中、緊急ブースト用にスタンバイされていますが、何か異常や事故が発生するような兆候は、データをざっと見たかぎり、全然あらわれていないようです……」
「わかった……」ギュンター次長は、ちらとB会議室にいる三人の方を見てうなずいた。「つづけてくれ……」
「加速はその後も約十時間ほど順調につづき、加速開始後二十六時間十一分で、予定された毎秒一万二千キロメートルに達したので、作動中の六基の補助エンジンは停止されました。――加速時間は、二十六時間から二十七時間と、約一時間のゆとりを見てありましたが、予想よりだいぶ早く、最終予定速度に達したので、エンジンを停止したようです」
「ちょっと……そこを説明してほしい……」ギュンターはいった。「〃ナヴァホ〃の予想よりだいぶ早く予定速度に達した理由だが……」
「これはまあ――データを読んだかぎりでは、簡単な事のようですね。不調のあった補助エンジンが、始動させて出力が上がると、思ったより調子がよかった。それに、通常ですと、エンジンきりはなしと、使用ずみタンク系統のきりはなしは、別々の段階で行われますが、〃ナヴァホ〃は、問題の起ったタンクの燃料を、加速に必要な分だけ残して別のタンクにうつし、燃料をつかいきると同時に、補助エンジン二基と一緒にきりはなす〃決定〃をしたので、中間のチェックをはぶき、思いきって出力をあげっぱなしにできた……」
「爆発のおそれはなかったのか?」
「なかったと判断したようです。――事実、エンジンとタンクは、無事にきりはなされ、その後つづけて十時間、残り六基の補助エンジンで順調に加速がつづいたんですから……」パドロポスはどういうつもりか、くっ、くっ、と妙な声で笑った。「失礼――要するにタンクとエンジン二基を早めにつかいきり、きりすてたため、そのあと質量比がよくなって加速が上がったわけです……」
「つづけてくれ――」とギュンターは溜息をついて眉間をもんだ。「で……加速は予定よりはやく終った。――それから?」
「加速終了直後、〃スペース・アロー〃から、天文学連合の要請にしたがって、それまでにとった、天体のスチールとビデオ映像の一部の送信がはじまります。この送信内容は、あとで説明してもいいですが……」
「その要請をしたのは私だ……」と、ヴィンケル天文学連合副会長は、B会議室の中であとの二人にきかせるようにつぶやいた。「本部のカタログ部コンピューターが、照会してきて、〃スペース・アロー〃のとったスチールとビデオの中で、ある恒星の位置が、ごくわずかこちらのカタログとずれているような気配があるというので、くわしくチェックするよう指令を出しておいたのだが……」
「この送信は、彗星源探査計画《コスレツプ》の本部電子脳《ブレイン》の〃ティム・ラビット〃からの通信が到着して、数時間後の、加速終了直後にはじめられたものですが、最初は送受信とも順調でした。ビデオ映像は、圧縮コードEをつかい、補正四チャンネルで、ほぼ終了し、スチールは八枚おくる予定と通信してきましたが、六枚しかおくられてこず、六枚目も、約三分の二の画素がおくられてきた所で、急に通信がきれています……」
「そこが問題だ!」
ギュンター次長は、ばんとデスクをたたいた。
「そう……そこが問題だ……」
とB会議室の中でも、ヴィンケル副会長がつぶやいた。
「〃スペース・アロー〃の航行状態に関するテレメーターは、三系統で送りつづけられていたんだろう? 映像通信をふくめれば、四系統だ」とメモを見ながらギュンター次長はいった。「それが、いきなり全系統、通信が切れてしまったという事は……いったい、通信はどんな具合に切れたのだ? ぷっつりとか?」
「いや――まあ、それは信号消滅の時間幅のとり方によりますが……、主観的にいえば、ふうっとです……」とアレックスは肩をすぼめてみせた。「コンマ○一秒から、コンマ一秒ぐらいの間に、急に送信出力が下がり、送信波のピッチも低下して……そうですね、〃大停電《ブラツクアウト》〃といった感じで……」
「つまり、突然、〃スペース・アロー〃の送信電源が、何らかの理由で故障して、電力が供給できなくなったというのか?」
「まあ……そんな感じですね。それもきわめて急で、総合的な……」
「それは到底信じられん!」
ギュンター次長はわめくようにいって、デスクの上のスイッチをいくつかおした。――火星の二人の映像の間に、二番目のワイプで〃スペース・アロー〃の略図がうかび上がった。次長がつづいて画をおくると、その上に、いくつかの点滅する緑色の光点と光の線がかさなる。
「いいか。ラブサット2の方も、よく見ておいてくれ。私は、〃スペース・アロー〃については、基礎設計の段階からかなりよく知っている。改装前、宇宙艀《スペース・バージ》と、軽い接触事故を起した時も調査に参加したし、改装にあたっては、事故調査部からも意見を具申し、それが通って、改装後のシステム点検にもたちあった。――〃スペース・アロー〃の、主動力、電力系統は三つ組《トリプリケイト》システムを基本としている。特に制御、通信系の電源、信号系は、二重三つ組《ダブル・トリプリケイト》システムになっている。ふだんは電源三つ組の二つの組が、一方がメイン、他方がサブの関係で、一定のインターヴァルをおいて交互に働き、どちらか一方の回路が故障しても、すぐもう一方がひきつぎ、三番目がひかえ《サブ》にはいって、同時に、〃ナヴァホ〃がはずした回路の故障個所の点検と修理にとりかかる。この独立電源をもつ三つ組回路が二重にはいっていて、それぞれの組は、いつでもそっくりのりかえ可能な上、まさかの場合は、〃スペース・アロー〃間の主動力、電力系統が、緊急投入されるようになっている。しかも……ここを見てくれ。この二重三つ組《ダブル・トリプリケイト》回路のそれぞれのユニット中に六個所に緊急電源、八個所にバッテリイがくみこんであるんだ。――いまだからいうが、〃スペース・アロー〃は、ばらばらにぶっこわれても、その五分の一が残っていれば、通信系統は、とにかく何らかの情報をおくりつづける事ができるはずなんだ。いや、場合によったら、十分の一でも、救難信号はおくれるだろう。……事故調査部が、これまでの宇宙船の大事故の経験にもとづいて意見を具申し、採用してもらったのは、こういうシステムなんだ」
B会議室の中には、重苦しい緊張感がみなぎった。――パパウ事務局長は、無意識に指をあげ、何か画面にむかって語りかけそうになりながら、途中で気がついたように、ごくりと音をたてて唾をのみこみ、手をおろした。
月の軌道上のラブサット2と、火星上の宇宙通信航行管制本部と……その間の往復八分の電気通信時差は、ホットな「問答」をはばんでいた。
「なるほど……」と、そのかわりに、画面の中で、同じ管制本部にいる、アレックスがうなずいた。「という事は、つまり……〃スペース・アロー〃の突然の通信途絶は、船内の電源故障などではあり得ない、という事になるわけですね……」
「その点は、賭けてもいい……」とギュンター次長は大きくうなずいた。
5 火星・月・木星
「〃スペース・アロー〃の通信途絶が、電源の故障などではあり得ないとすると……」画面の中でアレックス・パドロポスは、神経質そうに眼をしばたたいた。「……次長は、――あの宇宙船に、どんな事態が起ったと思われますか?」
「まだ何ともいえんが……」ギュンター次長はいつの間にか掌の間でくしゃくしゃにまるめていたメモのしわをのばして、じっとにらみつけた。「一つの可能性は……主《メイン》エンジンの暴走と爆発だ……」
「テレメーターを見たかぎりでは、否定的《ネガテイヴ》です……」とアレックスはいった。「最終段加速のあと、主エンジン四基のうち二基は、スタンバイを解除されました。もし、暴走が起ったのなら、燃料、動力系に、必ず前駆的兆候があらわれると思いますが……」
「だが、しかし……」とギュンター事故調査部次長は、大きな鼻をごしごしと手の甲でこすってつぶやいた。「私の経験では、以前にも……いや、とにかく、この主機の暴走、爆発の線を、もう一度精密に洗ってみてくれ。そのほかに、隕石その他、浮遊天体との衝突の可能性も……。何しろ、秒速一万キロ前後で、3G加速中に、何かにぶつかれば、相当な衝撃になるはずだから……」
「その点も、私としては否定的《ネガテイヴ》なんですが……。〃スペース・アロー〃の前方障害物センサーは、到達距離三十万キロまでの頂角三十度の超強力レーダーから、百万キロ、五百万キロ、千万キロまでの、頂角六十度から九十度のレーザー・センサーまで、多段階で精度のいいのがそろっている。――それに通信アンテナ類をのぞく船体には、電磁バリアがはられていますから、ちょっとした隕石ぐらいは何ともないはずです。加速前や加速中には、特に前方を入念にしらべますから、そこに衝突破壊を起すような小天体があったら、検出されないはずはないと思いますが……」
「〃スペース・アロー〃の電子脳《ブレイン》は……つまり〃ナヴァホ〃は、そういった事をチェックして、加速を行ったというわけだな?」
「当然です。〃ナヴァホ〃は、舶用電子脳《ブレイン》の中でも、特に優秀な電子脳《ブレイン》でしたから、そういう点で、ミスをおかすなどという事は考えられません……」
「という事は――〃スペース・アロー〃の通信途絶の原因に関しては、何もわからんという事になる……」ギュンターは不機嫌そうに鼻を鳴らし、体をゆさぶった。「すくなくとも、内因性の事故でない事はたしかだろうな……」
「私もそう思います。ただ……」
とアレックスは、ひろい額ににじんだ脂汗を、手の甲でぬぐいながら口ごもった。
「ただ……どうした?」
「テレメーターを、もっとくわしくしらべてみないと、はっきりした事はいえないんですが……〃ナヴァホ〃は、通信途絶寸前に、電子脳《ブレイン》の中で休止させていた六系統に、緊急《エマージエンシイ》コールをかけたらしい形跡があります……」
火星上の宇宙通信航行管制本部で行われているアレックス・パドロポスと、ギュンター事故調査部次長の問答を、七千万キロはなれた月軌道上のラブサット2の一室できいている世界天文学連合の三人の間でも、電撃のような緊張が走った。計画主任のムハンマド・マンスールなどは、無意識に椅子から腰をうかし、ディスプレイ・パネルの中の、アレックスとギュンターに話しかけようとして、途中で気づいて手をもみしぼるようにした。――ラブサット2から火星まで、よびかけたにしても、電波が先方へ到達するまで四分ちょっとかかる……。
「つまり……その時〃ナヴァホ〃は、何か〃異常〃を発見した可能性があるわけだな……」ギュンター次長は、低い声でききかえした。「その〃異常〃が、なんだか――わかりそうか?」
「くわしくしらべてみなければ、なんともいえませんが――その原因が何であるか、わかる可能性はあまりなさそうです。〃ナヴァホ〃が、緊急コールをかけたらしいことも、テレメーターの最終部分をもっとくわしくしらべてみない事には、はっきりしないんですから……とにかく、通信途絶の、ほんとに一秒か二秒前に、それらしいシグナルがはいっているだけですからね……」
「そのほかには……〃ナヴァホ〃が何かを見つけた兆候はないか?」
「ええと……ほかには、別にありませんね――加速中の後半に、〃ナヴァホ〃は、ドップラー・センサーの精度チェックをやりかけていますが、これは〃ナヴァホ〃と接触しつづけていた、プロジェクト専用電子脳《ブレイン》の〃ティム・ラビット〃からの要請によるものですし……」
「ドップラー・センサーの精度チェック?」と、これはB会議室の中で、ヴィンケル副会長がつぶやいた。「そりゃまた、どういう事だ?」
「あとで……」パパウ事務局長は、グローブのような大きな褐色の手をあげて副会長を制した。「あとで、おかしいと思う所は、ゆっくりチェックできるから……」
「それで、君の当面の意見は終わりか?」と、画面の中でギュンター次長は、太い溜息をつきながらいった。「で――これまでの段階での君の見解は?」
「〃スペース・アロー〃は……」と、いいかけて、アレックスはちょっと言葉をきり、ごくりとのどをならした。「今までの所……私の個人的意見では……太陽から約千百八十億キロメートルの位置において、船体の完全破壊のケースもふくむ、重大事故に遭遇したと思います……」
ギュンター次長は、金色の毛のいっぱいはえた両手をあげ、顔にあててごしごしこすりながら、ききとりにくい声でいった。
「つまり君は……〃スペース・アロー〃は遭難した、と思うのだね?――単に通信系統の故障でなく……」
「ええ――その通りです。さらに個人的意見をつけくわえさせていただけば、これは、第一級遭難事故である可能性がつよいと思います……」「たしかに……もし事故としたら、二人の乗員の生命損失をふくむ、しかも救難信号を発する余裕もないほどの、急激な事故だ……」ギュンター次長は、赤く血走った眼をあげて、B会議室で息をのんで見まもっている三人の男にむかっていった。「そして――私の見解も、大体同じだ。まだ詳細にしらべてみない事には、はっきりした事はいえないが、私のこれまでの経験から、感想をいわせてもらえれば――〃スペース・アロー〃はおそらく、船体の完全破壊のケースもふくむ、重大事故に遭遇した可能性がきわめて強いと思う。ただ、それにしても、この事故の様相は、私たちが知ることのできるデータから見て、きわめて異常だ。あまりに異常すぎて、そこにかえって、思いがけぬ僥倖があるかも知れないが――私のかんでは、あまりあてにできんと思う……」
アレックスの映像は、ちょっとB会議室の三人にむかって会釈をして、ディスプレイ・パネルから消えた。――あとにのこった、ギュンター次長は、椅子の背に深くもたれかかり、脚を組み、腹の上で毛むくじゃらの手をくみあわせて、ゆっくり、自分にいいきかせるようにいった。
「で――私と、アレックスが、今の段階でいえる事は、これだけだ。ミスター・パパウ……。君の所の、〃ティム・ラビット〃は、通信途絶以来、〃スペース・アロー〃をよびつづけており、通信途絶一時間後から、当本部の通信ネットワーク電子脳《ブレイン》に要請して、クラスDの緊急コール態勢にはいっている。現在、定常通信用以外に、外惑星域において二基のアンテナ衛星が、緊急コール用に投入されており、まもなく――あと四十分ほどで〃スペース・アロー〃にむけて、出力をもう二桁ほどあげた、強指向性ビームでもって、〃カンフル・コール〃が試みられる事になる。今の所、〃スペース・アロー・ネットワーク〃は、まだ〃ティム〃の管轄下にあり、当本部の主管制《メイン・コントロール》コンピューターには、〃スペース・アロー〃との間に通信異常発生として報告されているだけだが、〃カンフル・コール〃をはじめても、何の反応もなければ、十二時間後に、〃通信事故発生〃のレポートが上がり、さらに十二時間後、自動的に〃通信途絶〃のレポートが上がるだろう。――〃スペース・アロー〃の事故確認と、本部首脳への遭難報告は、私の手もとで、それからぎりぎり六時間、とめておくことができる。その期間がすんだら、宇宙通信航行本部は、ただちに緊急常任委員会を開いて、レポートを検討し、天文学連合本部と、連邦宇宙委員会へ通達しなければならない。もちろん、その段階で、マスコミにも発表されることになり、同時に、事故調査部が、特別調査本部を組織する事になる。――中途で、何らかの原因で情報がもれないかぎり、あんたたちには、あと三十時間あまり時間の余裕がある。その間、あんたたちの組織が、打撃をやわらげるために、何らかの処置をとる事ができると思うが――それについては、こちらからは、まだ今のところ、大したアドヴァイスはあげられん。とにかくうまくやってくれ。何か特にききたい事があったら……宇宙事故に関するあらゆるデータは、この調査部にそろっているから、必ず私を通じて、照会してくれ。私は、むこう四十八時間、確実にこの調査部につめている。通信は、この回線か、あるいはもう一つの、特別個人回線S6038GWをつかってくれ。以上……」
「了解、フリッツ……いろいろありがとう……」
と、パパウ事務局長は、通話カフをあげていった。「君のおかげで、ずいぶん助かった。――アレックスにもよろしくいっておいてくれ……」
B会議室の、横手の壁面のディスプレイ・パネルの上で、火星上の宇宙通信航行本部にいる、ギュンター事故調査部次長の映像が、かすかにゆれると、ふっと消えた。――あとには、うすい灰色の画面の上に、READYの明るいグリーンの文字がうかんでいるだけだった。
「ニュース発表まで、あと三十時間ちょっとか……」ヴィンケル天文学連合副会長は、ふうっと棒のような吐息をつくと、うめくようにいった。「さて――この間に、いったいどういう処置をとればいいのかな?」
ムハンマド・マンスールも、それにはこたえようもなかった。――世界天文学連合としては、実に八十数年ぶりの、人命損失をふくむ「巨大事故」だったからだ。
「ここはやっぱり……」とパパウ事務局長は、小山のような巨体を椅子からもち上げて、二人を見まわした。「……ウェッブ総裁に相談してみるのが一番いいでしょう……」
「ウェッブ?」ヴィンケル博士はいぶかしそうにききかえした。「エド・ウェッブか?――しかし、彼は太陽系開発機構の……」
「そうです……」と、特別秘密回線リストを、電子メモの上でくりながら事務局長はうなずいた。「彼なら――宇宙で起ったトラブルなら何でも、最善の処置を知っているはずです……」
「〃スペース・アロー〃が?」
月の裏面のライプニッツ火口市《クレーター》にある、太陽系開発機構本部の総裁室で、エド・ウェッブは、太い眉をしかめた。
「それは本当か?――遭難は確認されたのか?」
「火星の管制本部の専門家の意見を内々に打診したのですが……」個人用秘密回線専用の小型ディスプレイ・パネルの中心で、パパウ事務局長は、心なしか青ざめた緊張した顔つきでいった。「まず九○パーセント以上、確実なようです」
「天文学連合の会長はもう知っているか?」
「いえ――いまの所、ヴィンケル副会長だけですが……」
「オットーか――彼なら大丈夫だが……会長には、もっとあとで知らせろ。管制本部からの通達まで待ってもいいが……そうだな。十二時間後に、レンナー秘書課長と、付きそいの看護婦の――ミランダといったかな――彼女にもたちあってもらって耳うちしろ。会長はもう高齢《とし》で、ショックに弱いからな。レンナーには、そっと知らせておけ。秘書課にはもれんように……厄介な理事に御注進に行くやつが、二人ほどいるからな。連邦政府の、宇宙委員会の委員長には、私の方からいう。連邦議会の方も、まかせておけ……。君たちがすぐやるべき事は――ホジャ・キン大尉と、井上博士の家族を、すぐよびよせる事だ。三十時間以内にだったら、どうにかなるだろう。井上夫人と、御母堂は、地球にいる。日本の――カゴシマという都市だ。こちらは、大変サムライ的な家族だから、問題はないが……ホジャ・キンの女房は、いま火星にいるが、彼女には実は火星に愛人がいて、こいつが離婚問題がからんでちょっと厄介だが……。だが大丈夫だろう。その愛人というのは、私の部下だ。こいつは〃肝ッ玉ケイト〃と、直接の上司のレプケ博士にたのんで、しばらく引きはなしておこう。ホジャ・キンの子供は、ギュンターの所へ、井上博士の家族は君たちのところへ、どちらも記者発表がすむまで、ひきとめておくんだ。あとは……」
ウェッブはてきぱきと指示をあたえて、通話をきると、しばらく黙って宙を見つめていたが、やがてデスクの上のスイッチをおして、壁面いっぱいに、太陽系の各惑星、人工天体のライヴ映像を、次々にうつし出し、巨体をゆすりながら、それに見入った。
ちょうどお茶の時間で、チャイムが鳴ると、銀色のオーバーオールを着た金髪の若い娘が、飲み物をもってはいってきた。
「イヴォンヌ……」ウェッブは、ちょうどうつし出されている土星の巨大な多重環を見ながら、うつろな声できいた。「私が総裁になってから……宇宙空間での事故による死者は何人になったろう?」
「え?」
イヴォンヌは、おどろいたように、ウェッブの大きな背中を見たが、すぐポケットから、小さな端末をとり出して操作した。
「先週末までで、四千八百七十六人になります……」とイヴォンヌはこたえた。
「これには、地球=月軌道間の、シャトルの運航事故はふくまれていませんけど……」
「四千八百七十六人か……」とウェッブはつぶやいた。「また二人……」
「は?」
「いや、何でもない……」ウェッブは娘に背をむけたまま頭をゆっくりふった。「人はいずれ、みな死んで行くが……自然死と事故死では、あとに生き残ったまわりのものへの、責任や重みのかかり方が、どうしてこんなにちがうのか、と考えていたんだ。――どっちにしても、人は、先に死んで行ったものが、あとに残して行った悲しみの重荷にたえかねて、自分も死んで行くのかも知れんな……」
ウェッブは彼の言葉の意味をはかりかねて、困惑の表情で立ちつくしているイヴォンヌをふりかえって、にやりと笑った。
「だからわしは、できるだけ老骨に鞭うって、死なんようにがんばっているんだ。何しろ私は、体重が――慣性質量も、人なみはずれて大きいからな。わしが死んだら、棺桶をかつぐやつが大変だろう。手をすべらせて怪我するやつも出るかも知れん……」
「まあ、ボス、そんな……」
と、イヴォンヌは困ったような笑いをうかべた。
「一つたのみがある、イヴォンヌ……」とウェッブはまた背をむけながらいった。「事故の死者が、五千人になる直前に、わしに教えてくれ。こいつは、個人的なたのみだ。――五千人をこした時点で、わしは引退するつもりだ。どんな形をとろうとも……」
イヴォンヌは、まだもじもじしていたが、ウェッブは手をふって娘をさがらせた。――それから彼はデスクの抽出しをあけ、ティッシュをとり出して鼻をかもうとして、ふと抽出しの中の、宛て名の書いてない白い封筒に気づき、それをとり上げた。――封筒の隅は、かなりよれよれになっていた。
ちょうど壁面パネルには、木星の映像がうつっていた。――それを、しばらく見ていたウェッブは、ためらいがちに、「コンフィデンシャル・メッセージ」のスイッチをおした。
「木星、ミネルヴァ基地気付、JADE計画班、ミリセント・ウイレムDr.親展《コンフイデンシヤル》……SSDO=HO、E・T・ウェッブ……」とウェッブはちょっと言葉をきって咳払いした。「ミリー……よくない知らせだ。君はあの人に、もう〃正式のおわかれ〃をいうチャンスはなくなった。永久に、だ……。あの人から君への手紙は、相変らず私のデスクの抽出しの中にある。こちらによるチャンスがあったらわたしたい。それとも、このままやきすてた方がいいかね?」
一たん吹きこみをとめて、それから、ウェッブはもう一度スイッチをおして、低い声でつづけた。
「PS・これは君にとって、何度目の悲しみだ? 私はもうじき……五千度目を味わう事になるだろう、ウェッブ……」
6 木星・地球
木星の衛星軌道上にあるミネルヴァ基地で、ミリセント・ウイレムにわりあてられた個室の前を通りかかった本田英二は、あけっぱなしになったドアのむこうに何か異常な様子で立ちつくしている彼女の後姿を見て、ふとたちどまった。
「ミリー……」と、英二は思わず声をかけた。「どうかしたんですか?」
「いや!」とミリーは、しわがれた、はげしい声で叫んだ。「こないで!……はいってこないで!」
英二はちょっとたじろいだが、右手に何かをにぎりしめて、肩をぶるぶるふるわせている彼女の様子が、あまり異様だったので、つかつかと中にはいって行って、彼女のにぎりしめているものをのぞきこもうとした。
とたんにミリーは、くるっと体をまわして英二とむきあうと、右手をぐいと彼の胸もとにつき出し、恐ろしい形相でいった。
「こないでっていったでしょ!」
「おちついてください!」英二は彼女の右手に視線をうつしながらいった。「何があったんですか?」
「この間の……」
といいかけて、ミリーは絶句した。――眼が、とび出しそうに見開かれ、ぎらぎらと熱を帯びたように輝き、皮膚がまっ白になってかさかさにかわき、硬直した、顎や頬の筋肉が深いしわをつくり出して、彼女は突然十歳も二十歳も老けこんだような、老婆のような顔つきになっていた。
「この間……あのJADE―3の中で、私が見た幻……」とミリーはかすれた声で、とぎれとぎれにいった。「あれは……やっぱり……ほんとだったのよ……」
「どういう事です?」
英二は、相手のいう意味をとっさには理解できずに、ちょっと眉をひそめた。
「イノウエ・リュウタロウが……」ミリーの大きく見開かれた眼に、ふいに涙がいっぱいたまった。「……死んだのよ!」
井上――という名前が、さまざまな記憶のパターンの中に、ある位置をとってはまりこむのに、ほんのコンマ五秒か一秒ほどかかった。
「なんですって?」と、一呼吸おいて英二も顔色を変えた。「じゃ……〃スペース・アロー〃が……」
「まだそこまでははっきりしてないけど……」ミリーの両眼にふくれ上がった涙が、そそけだった頬に二つの筋をひいた。「でも……そうよ。きっとそうだわ……。私が見た幻覚では……」
ミリーは、はっ、と顔をそむけると、右手にもっていた小さなプラスチック・カードをさし出した。
「エドからよ……」 と彼女はくぐもった声でいった。
「エド?……ウェッブ総裁?」
「ええ……」
「きいていいんですか?」
ミリーは両手で顔をおおったままうなずいた。
「親展《コンフイデンシヤル》コードは、いれっぱなしになっているわ……」
ミリーからうけとった、黄色い個人用のメッセージ・カードを英二はちょっとながめて、再生機の細孔《スロツト》にいれた。
留守中に彼女個人にあてておくられてくるメッセージは、通信コンピューターでしわけられて、そのカードに記録されるのだが、「親展《コンフイデンシヤル》」の分は、彼女だけが知っている特別コードを再生機にインプットしなければ、読めなくなっていた。――そのコードを入れたままになっている再生機のスイッチをおし、英二はイアフォンを耳にあてた。ききなれた、ウェッブ総裁の声が、耳の底に流れはじめると、英二も自分の顔がこわばるのを感じた。
「まだ、これだけじゃよくわからない……」と、英二は自分をはげますようにいった。「映像端末で見ていいですか?」
ミリーは、英二に背をむけて、泣きじゃくりながらうなずいた。
英二は同じメッセージを、リーダー用の小型スクリーンにうつし出し、何度もくいいるように眼で追った。それから再生機のスイッチを切って、カードをミリーにかえすと、左手首の個人回線用のトーク・スイッチをいれて、
「〃ナンシィ〃……」
とよんだ。
「はい、主任……」
と、ミネルヴァ基地の電子脳《ブレイン》〃ナンシィ〃の声が、壁のスピーカーからきこえた。
「宇宙通信航行本部のレポートをチェックしてくれ。――ここ二十四時間の間に、宇宙船事故の発表はないか?」
「お待ちください……」と〃ナンシィ〃はいった。「二つあります。――月とL4宇宙コロニイの中間点で、リゾート用の宇宙《スペース》ヨットが、エンジントラブルのため救難信号を発信しました。乗員四名は、まもなくL4の救助隊《レスキユー》に、全員無事に救出されました。もう一つは、火星発の小惑星帯《アステロイド・ベルト》行き無人貨物船《カーゴ》が、操船不調で、途中でコースを逸脱、漂流をはじめましたが、まもなく回収のみこみ……」
「それだけか?」
「いまの所、それだけです……。あ、ちょっとお待ちください……」
と〃ナンシィ〃はいった。かすかにピイピイというノイズがきこえてくる。
「たったいま、火星から外惑星ネットワーク系のニュースがはいっています……。――世界天文学連合所属の、彗星源探査特別調査船〃スペース・アロー〃号の通信が、SSMT○三M一六D○八H三○途絶しました……。文面を画面に出しますか?」
「出してくれ」と、英二はいった。「それは、通信社系の報道か? それとも、管制本部の正式発表か?」
「管制本部の発表はいまから一時間十分ほど前です。――ちょっとお待ちください……。いま、ミネルヴァ航行管制《コントロール》の回線を通じて、本部に直接コンタクトしてみます……」
〃ナンシィ〃は、また二、三秒沈黙し、すぐつづけた。「いま……通信時差をいれると、三十八分前、火星の宇宙通信航行管制本部は、〃スペース・アロー〃号の通信途絶について、第二次発表を行いました。――内容は画面に出します……」
ミリーの個室の壁面の一画が、グリーンに輝き、その上に味もそっけもないコンピューター文字が流れはじめた。
……管制本部は……世界天文学連合所属の特別調査船〃スペース・アロー〃号の通信途絶に関して、……緊急常任委員会を招集して検討の結果、これを一応、第一級遭難事故の可能性大と判定し、事故調査部に対して、特別調査本部の組織を指令した。――〃スペース・アロー〃に対しては、なお緊急通信システムを通じて交信よびかけを行いつつある。〃スペース・アロー〃号は、彗星源異常の探査の目的のために特別に改造された有人超高速長距離宇宙船で、本体重量二千五百トン、乗員は二名……。
「イノウエ……」とミリーが、画面を見つめながらふるえる声でつぶやいた。「おお……イノウエ……」
――ホジャ・キン……
と、画面に流れる「乗員」の名を見ながら、英二も胸の奥で、歯噛みするような思いでつぶやいた。
――貴様が……お前が、遭難して死んじまったなんて、とても信じられん……。嘘だ……。お前なら……たとえ太陽系から千億キロ、二千億キロはなれた所だって、必ず生きていて……生きのびて……帰ってくるはずだ……。
地球――北米新大陸……。
常夏のフロリダ半島の南西部、エヴァーグレーズの町の南にある、「ジュピター教団」の本拠、ジュピター海岸《ビーチ》では、メキシコ湾の上にさんさんとふりそそぐ明るい五月の太陽のもとで、無数の若者たちが、六月に行われる「ジュピター音楽祭」の準備のために集っていた。
といっても、集ってきた若者たちの中で、ステージの足場をくんだり、空中投影用の人工雲の発生機の配置をきめるために、図面を手にあちこち歩きまわっているのは、ほんの一にぎりの連中だった。あとの連中は、まだ開催まで三週間以上もあるのに何とはなしに世界各地から三三五五集ってきて、半裸全裸で浜辺にねそべって肌をやいたり、ゲームをたのしんだり、小グループで楽器をかなで、歌をうたったり、また水中で、木蔭で、愛撫をかわし、セックスをたのしんだりしているのだった。中には同性同士、あるいは複数で、あられもない声をあげながらセックスにふけっているものたちもいた。
そんな若者たちの群がる浜辺を、マリアはもの倦《う》げな顔つきでゆっくりと通りぬけて行った。
トップレスの水着に、グリーンの色あせた麦藁帽をかぶり、うすい寒冷紗でつくった、袖無のビーチウェアの紐をむすばず肩にはおっていたが、はだけた胸にもり上がる形のいい乳房まで、見事なブロンズ色に陽灼けし、背にかかる美しい金髪を潮風になぶらせながら、長い木の枝をもって歩んで行く姿は、真昼の月神《アルテミス》のようで、行き交う若者たちは、一様に眼を見はって道をあけ、口笛を吹き、顔見知りのものたちは声をかけ、讃嘆の溜息をもらすのだった。
何本ものダイオウヤシが青く灼けた空にむかって、恐竜の首のようにその太い幹をつき上げている下で、四、五人の若い男女がねそべっている所へくると、マリアは彼らに近よって行った。
「ハイ、マリア……」
見事なプロポーションをもったビキニ姿のアジア系の娘を裸の背中にのせて、オイルマッサージをしてもらっていた、赤っ毛の、ひげだらけの青年が、彼女を見かけて、うつぶせのまま手をちょっとあげた。
マリアは、口の中で小さな声であいさつをかわすと、つったったまま疲れたまなざしで、その一団を見わたした。
マッサージをしてもらっている男のすぐわきで、プラチナブロンドの、身長一メートル八○はありそうな、おそろしく脚の長い娘が、体に一糸もまとわず、ただ顔の上に黒い野球帽と、鼻の頭に陽灼けどめの小さな三角のボール紙をおいただけで、大の字なりにねそべって、かすかに寝息をたてている。――平べったい腹の下、開かれたたくましい太腿の間に、頭髪よりずっと赤みがかった恥毛が大きくもり上がり、その間から桃色の小さな突起や、くろずんだ舌がのぞいて、フロリダの太陽に光っていた。
「イングリットったら……」と、マリアは眉をしかめてつぶやいた。「せめてタオルでもかければいいのに……」
「これが彼女のやり方さ……」と赤毛の男は、背中をおされて苦しそうにうめきながら、苦笑した。「北欧系の人間にとって、十九世紀に起った日光不足恐怖症からくる日光浴信仰は、一種の文化的傷痕《トラウマ》になっていて、ビタミンや抗生物質が普及したって、おいそれとはなくならないんだ。イスラムの連中が、いまだに豚はおろか、合成肉も食べず、インドの連中が、今でも六○パーセント菜食主義者《ヴエジタリアン》なのと同じ事さ……。さっきなんか、うつぶせになって、リリアにしばらく臀の筋肉を開いていてくれってたのんでたぜ。肛門にも、お日様の光をあてて、太陽の神秘的な力を、けつめどから吸収したいんだとさ……」
「アニタを知らない?」
マリアは、赤毛の男とならんで芝生の上に腰をおろしながらきいた。
「さっき、教団員じゃない、外来者らしいやつと、そこらへんで話していたが、あっちへ行ったみたいだな……」と赤毛の男は眼をあげた。「きっとピーターを探しに行ったんだろう……」
「そう……」マリアは、男の鼻先にあった、冷たく汗をかいている錫の柄つきカップをとりあげて、ごくりと一口のんで、唇をゆがめた。
「うわ、すごい……」とマリアはべっと唾をはきながらつぶやいた。「何よ、この酒……」
「テキーラにラムをまぜて、ライムジュースでわったんだ。――砂糖ぬきだから、御婦人むきじゃねえ……」男はくっくっと笑った。「ところでマリア……このごろ、何だか憂鬱そうで、元気がないみたいだな……」
「そうかしら……」
マリアは頭の後に手をくんで、あおむけに寝た。
「アニタとあまりつきあわねえ方がいいぜ、――最初は彼女をレズかと思ったんだが……」
「よしてよ!」とマリアは怒ったように口をとがらせた。「私、そっちの方の趣味はないわよ」
「火星だか、木星だかに、幼馴染みのいい男がいるんだってな」赤毛の男は眼をつぶったままつぶやいた。「それにしたって、アニタのグループに、あまり深入りしない方がいい。おれだって、最初はだいぶあおられたが、途中でついて行けなくなっておりちまった……。彼女の芯には、妙に狂信的《フアナテイツク》な所があって……それが何だかよくわからねえが……」
「あなたはぐずで、ぐうたらで、だめ男で、信念も信仰もないのよ……」マリアは愛らしい口調で毒づいた。「美しいものをまもるために、燃えるって事がないの。自分の身を投げ出してでも……」
「へえへえ……そんないい方は、だんだんアニタに似て来たけど……だけど、そんなせりふは可愛いマリアちゃんにゃ似あわねえよ……」
と男はよだれをたらしながら笑った。
「それに――何かやろうって時に、彼女がみんなに飲ませる〃頭をはっきりさせ、信念を明確にし、勇気を与える〃薬ってのが、どうも気に入らねえ。どうせ、レーサーやテストパイロット用の昂揚剤《ハイ・ピー》の類だろうが……」
「あんなもの何よ!」とマリアは叫んだ。「副作用も習慣性もない事は、はっきりしてるわ。それに、あんなもの飲まなくたって、私は……」
「でも、このごろ、一人でいる時は、妙にだるそうで、沈んだ様子じゃないか……」と赤毛の男はいった。「一度ピーターの所の医者《ドツク》に、精密にしらべてもらった方がいいぞ。――アニタのグループの、あの医学生は信用できねえ。対人恐怖症で、薬を飲まないと口もきけねえんだから……」
「さあ、ボブ……これで終りよ」と、ボブの背中にまたがってマッサージしていた小娘が、男の背中をぴっしゃりたたいて額に流れる汗を手の甲ではらった。「今度は、あなたが私をたのしませてくれる番よ、約束でしょ。――たっぷりセックスしてよ……うんとていねいにかわいがってね……」
「うう……」ボブとよばれた男は顔をふせたままいった。「だめだ……。あんまりたっぷりマッサージされたんで、疲れちまって、とてもたたねえ……」
「バカ!……嘘つき! インポ! 中年!」
小娘はまっすぐな黒い髪をふって、立ち上がると、腰に手をあててどなった。
「いつもこれなんだから……。おぼえてらっしゃい!」
小娘がボブの背中に足で砂をかけて走り去るのを横眼で見ながら、マリアは寝がえりをうって、ちょっとはなれた所で立体テレビを見ている二人の若者に声をかけた。
「何を見てるの?」
「カブキ……」と、まだ少年ぽさの残る若者の一人は答えた。「〃娘道成寺〃っていうんだって……」
「日本からの中継?」マリアも頬杖をついてのぞきながらきいた。「こういうの、好きなの?」
「別に……」と若者は首をふった。「ほかに見るものがないから……」
もう一人の若者は、だらしなく口をあけて眠りこけていた。
ホログラフ・テレビの性能がよくなって、直射日光下でも、立体映像はきわめて鮮やかだった。――凹形をした受像機の上に、高さ三十センチほどの、美しい烏帽子振袖の白拍子姿の娘が、にぎやかな囃子につられて、可憐に舞っている。
「これ、男の俳優がやってるって本当?」
と若者がきいた。
「そうらしいわね……」とマリアはうなずいた。「でも、とてもきれい……」
突然その立体映像の裾の所に、緑色の文字が流れ出した。
「なに?」とマリアはきいた。
「臨時ニュースだよ……」と若者はいった。「何だか、宇宙船の事故らしい……。〃スペース・アロー〃号って船が、どこか太陽系よりずっとはなれた所で遭難したって……。あまりぼくらには関係ないよ。こんな船の名知ってる?」
「知らないわ……」
といいかけて、マリアは突然、後頭部に、はげしい衝撃をくらったような気がして、体を起した。――七億キロはなれた、木星のまわりをめぐるミネルヴァ基地の無重力のL・R《ラヴ・ルーム》3で、英二とすごした、ものくるおしいひと時の事が、鮮やかによみがえってきた。
あの時……愛の営みの終ったあと、冷えた体で抱きあいながら、ふと窓外を見た時、青白い炎を吐きながら遠去かって行った巨大な宇宙船……英二が「友だちがのっている」といった、あの船が、たしか〃スペース・アロー〃といった……。
7 トロピカル・スーツの男
マリアが〃ジュピター教団《チヤーチ》〃の仲間たちと立体《ホルグラフ》テレビで〃スペース・アロー〃遭難の臨時ニュースを見ていたころ――。
教団所有の浜の、一番奥のはずれにある簡素な個人用コッテージのテラスにすわって、教団主のピーター・トルートンは、愛用のコンポーザー・ギターをつかって、今年のジュピター音楽祭のための、新曲をつくっていた。
コンポーザー・ギターには、音声プロセッサーや、液晶表示を組みあわせた小さなコンピューターがついていて、弦をはじいてメロディを口ずさむと、すぐそれを記憶し、操作に応じて、それを反復しながら楽譜に表示する。テンポをおくらせたり、音程をスライドしたり転調したり、修飾音のいろんなバリエーションをつけくわえてくれたり、また、小型ながら、ちゃんとこちらと人間の声で「問答」して、
「ここはこうやったらどうだろう?」
などと、提案してくれたりもするのだった。
その小さなメモリイの中には、ほとんどあらゆる作曲上のテクニックが記憶されており、さらに使っている人間の「くせ」や「好み」を次第におぼえて、その厖大なメモリイの中から、あいそうなものをえらび出してくるのだった。……曲が完成すれば、すぐ磁気シートにコピイされて出てくるから、それをほかのパートの連中に練習用にわたせばいい。
しかし、今年の音楽祭の幕開け用のメッセージ・ソングは、なかなか気にいったのができなくて、ピーターはいらいらしていた。――この所、ちょっと彼は落ちこんだ気分だった。理由は自分にもわからない。教団には別に問題はないし、若い連中は、相変らずハッピイそうだ。基金はゆたかで、彼の最初のアルバムをふくむ曲はまだ売れに売れていて、その上いろんな所から寄附もずいぶんあるので、このジュピター海浜《ビーチ》にいるかぎり、若い連中は、何もしなくても、食べ、遊び、セックスを楽しみ、くらして行く事ができる。この浜では、飲み食いや寝泊りは一切無料なのだ。
ピーターは、自分の心の奥に生じたかすかな予感に、この所何とはなしにおびえていた。――それは、ほんのぽつっとした、黒い影のようなものであり、しばらくたてば……この青い海を、白銀色の雲を、風を、緑のそよぎを、そして、太陽と月と星々と美しい地球とその上に息づく生命を、いつものようにうたい上げれば、たちまちふっとんでしまうようなものかも知れないが、にもかかわらず、ピーターはその得体の知れない「予感」めいたものにおびえていた。
それが、どんな予感なのか、彼自身にもうまく表現できなかった。何か……「自分」というものが、その内面の深い所から、ある日突然変ってしまうのではないか、といったような……その結果、自分がこれまで、これこそ自分のやるべき事だと思ってやって来たすべての事、歌い、語ってきたすべてのものを否定しなければならないような――そんな「予感」だった。
なぜそんな事になりそうなのか、ピーター自身には皆目見当がつかなかった。――ただ、彼は、自分の中に、何か新しい「力」が生れようとしているのではないかと、漠然と感じていた。はげしく、まがまがしい「力」が……。この凶暴な「力」の開花と闘って、おさえなければ、と一方で彼は思うのだが、他方では、それがおさえようとしてもおさえられないだろう、という無力感にもおそわれるのだった。
コンポーザー・ギターをかかえて、新しいメロディの糸をまさぐりながら、ピーターはまたその「予感」の事を考えはじめてしまい、ギターの横腹をぴしゃりとたたいて、「よし、今日はもうやめだ!」といった。「二、三日して……満月になれば、またいいメロディでもうかぶだろう……」
ギターの電源を切って、冷たいココナッツ・ジュースに、ライムをしぼりこんだ飲み物に手をのばした時、ハイビスカスの生け垣の所に、見なれない人物が立っているのに気がついた。――あまり大きな男ではなく、アニタがつきそっていた。
「ハイ……ピーター……」とアニタはにっこり笑っていった。「こちら、エンリコ・レオーネさん……。何か話があるんですって……」
「ようこそ……」と、ピーターはギターをおいて立ち上がり、手をのばした。「暑いでしょう……。こちらにかけて、何か冷たいものでもあがりませんか?」
レオーネと名のる男も、手をのばして、あまり気のない様子で握手した。――身長一メートル九十二センチ、体重百二十キロのピーターとむかいあうと、その男はまるで子供のように見えた。身長一メートル六十五センチくらい、黒い口ひげをはやし、濃いサングラスをかけ、白いピケの帽子を眼深にかぶって、白のトロピカル・スーツに臙脂色の開襟シャツ、右の薬指と小指に赤い石の指輪をはめ、靴は白と茶のコンビネーションだった。
目立たない、何か暗い感じのある中年男だったが、もし、本田英二と彼の上司であるランセン企画部長が見たら、ぎょっとしただろう。――それは、L5宇宙《スペース》コロニイのオニール中継点《ジヤンクシヨン》で、ランセンを尾行していた男だったからだ。
エンリコ・レオーネは、胸ポケットから名刺を出してピーターにわたした。ピーターは縁無し眼鏡をずり上げて、文字を読んだ。
――ある有力な文化団体のエージェントの肩書がすりこんであった。
「で、ご用は?」とピーターはほほえんだ。「レオーネさん……」
「簡単に話そう……」レオーネはピケの帽子をぬいで、額を派手なハンカチでたたいた。「あんたの教団が、太陽系キャンペーンをやる気がないか、という話だ……」
「太陽系キャンペーン?」ピーターは首をひねった。「というと?」
「つまり、月や、宇宙都市や、火星や……何なら木星あたりまで行って、あんたの歌や説教で、この教団の教えをひろめる気はないか、という事なんだ」レオーネはサングラスをはずさず、眼をそむけたまま、低い、濁った声でしゃべった。「顎足はこちらでもつ用意がある。むろん、会場のセッティングから、パブリシティ、客の動員まで、全部こちらがひきうける。教団の若いのを大勢つれてってもいい。あんたの歌なら、太陽系全体にファンがいるから、ライヴで聴けるとなれば、客はよくはいるだろう」
「つまり……金もうけの話ですか?」
「かけていいかね?」
ピーターの問いをそらすように、レオーネはいった。――ピーターは上の空でうなずきながら、生け垣のむこうの方に眼をやっていた。ハイビスカスの花がかすかにゆれ、アニタは姿はかくしたが、生け垣のかげにかくれて聞き耳をたてているようだった。
「ミッションだから、入場無料だ、チャージはとりたくない、というんなら、それでもいいんだ。――こちらの条件はかわらない……」とエンリコ・レオーネは細葉巻《シガリロ》をくわえながらいった。「悪い話じゃないと思うがね……」
「どうもよくわからない……」ピーターもレオーネにならんで腰をおろしながらいった。「なぜ、そんな……」
「あんたは、自分の教えを、もっと広く、太陽系中にひろめたいと思わないのかい?――あんたは教祖なんだろ? 自分の信仰や信念を、もっと大勢の人たちにきいてもらって、大勢の共鳴者や信者を獲得しようとは思わないのかい?」
「別に……」と、ピーターは顔を伏せたまま首をふった。「ぼく自身は、布教活動なんてやった事はない。ぼくはただ、歌って、ぼくが見ているものについて、ちょっとした歌をつくってきかせたり、おしゃべりをしているだけです。――この教団は、別に教義だの、聖堂だの、組織だのといったものはないし、布教して、信仰をおしつけ、信者を沢山獲得し、組織して、力《パワー》をもとうなんて思った事は一度もない……」
「そうかね……」レオーネは、煙を吐きながら、かすかに唇を歪めた。「あんたはそうかも知れないが、教団の信者の若い方にゃ、なかなか威勢のいいのや、はげしいのがいるようだぜ……」
「知ってます。うすうすとね……」ピーターはちょっと苦しそうな顔をした。「若い連中の中には、誤解するものもいるでしょう。でも、ここには、破門という制度もないんでね。まあ、時には注意はしますし、できるだけ、ぼくの〃見ているもの〃を、正しく見てもらうように努力はしますが……そのぼくだって、いつ、歌が変るかわからないし……」
「歌が変る?」レオーネはサングラスの奥で、ちょっと眉をしかめた。「そりゃどういう事だ?」
「それより、こちらが全くやる気のない、布教キャンペーンを、わざわざ大金かけてやってやろう、という親切な人は誰なんです?」ピーターは強い口調で、おしかぶせるようにいった。「いったいどういう理由で?」
「ある人が……」といいかけて、レオーネはちょっと咳ばらいした。「ある有力な議員が、あんたの教団と教えを知って、大変感動し共鳴した。われわれ人類は、たしかに、もっと宇宙や自然に対して、謙虚でなきゃいけない。宇宙を、あんまりわがもの顔でいじくりまわしちゃいけない……。太陽系開発だって、もっと慎重に、宇宙に対する畏怖ってものを忘れずにやるべきだ……。そう思ったから、あんたにぜひ、その考えを太陽系全体にひろめる機会を提供しようという事になった……」
「おことわりします……」とピーターはきっぱりといった。「御好意ありがたい、とも思わないな。何だか見え見えだ……。もし、本当にぼくのメッセージに共鳴し、ぼくの見ているものを、もっとはっきり見たいなら、もってまわった事をいわずにその人が一人で、ここへくりゃいいんだ。ここでは、三度の食事も宿泊費もただだし、エニイボディ・ウェルカムです。若い連中と同じあつかいですがね。共感したものを、それぞれの仕事にいかしたいんだったら、どうぞ御自分でおやりになるがいい……」
「おれはいろんな仕事をやって来てね……」と、レオーネは短くなったシガリロを、芝生にすてながらつぶやいた。「スカウトもずいぶんいろいろやったけどね……。おれの見た所、あんたは正真正銘のスーパースターになる素質をもってるぜ。地球だけじゃなくて、太陽系全体のね。グローバルヴィジョンのネットワークも、リーダー・ディスクも、銀行も、あんたの思いのままに君臨できて……あんたは王様になれるだろうね。世界連邦大統領の、公式パーティの主賓によばれて、惑星のあっちこっちに銅像がたつ……」
「やる気があれば、あんたなんかにあう前に、やっていたかも知れないがね……」ピーターはうす笑いをうかべた。「あいにく、こっちは全然そういった事に興味がなくてね。――金はいろいろはいってくるけど、ここにあるものは全部、宗教法人のもので、ぼくのものといえば、三年前に買ったこのバミューダ・ショーツと、眼鏡くらいなもんだ」
「今日の所は、ものわかれという事だろうが……」レオーネは椅子から立ち上がると、白い帽子でぱたぱたと胸もとに風を入れた。「ま、おれとしちゃ、じっくり考えなおしてみる事をすすめるな。――どうしても、という気になれば、おれのスポンサーは、いろいろうつ手をもっているようだからな……」
「何だ、そりゃ?――脅迫か?」
「脅迫? 誰が?」エンリコ・レオーネは肩をすくめた。「忠告《アドヴアイス》さ……。おれは単なる代理人《エージエント》にすぎんからな。ただ、この教団も、でっかくなりすぎて、外から見たら、圧力《プレツシヤー》をかけるねたはいろいろとできているからな……」
「かえってくれ」と、ピーターは冷ややかな声でいった。「二度とこないでくれ。――もし持ってたら、あんたの写真をくれないか?」
「写真なんかどうするんだ? おれのサインでもほしいのか?」
「いや――でかくひきのばして、浜《ビーチ》の入口にはっとくんだ……。〃この人物にかぎり、立ち入り拒否〃って書いてな……」ピーターは、歯をむき出した。「これまで、ここじゃそんな事をした事がなかったが――あんたは栄誉ある第一号になるってわけだ……」
「あまりいきがって、つっぱりなさんなよ、デブちゃん……」レオーネは帽子をかぶりながら肩ごしにあざけった。「柄のでかいのは認めるが、筋肉は赤ン坊なみじゃないか……」
ピーターは眼鏡をとって、眼をこすりながら大あくびした。――小男の足音が、生け垣のむこうに遠去かって行くのをたしかめると、ピーターは眼をつぶったまま、「アニタ!」と大声でよんだ。「出ておいで!……ちょっとこっちへ来てくれ」
ハイビスカスの花がゆれて、アニタが罰をうける小学生のような顔つきで、おずおずと出て来た。――燃え上がるような赤髪に、傾きかけた南国の太陽がきらめき、シースルーのサマーブラウスの胸をつき上げるノーブラの乳房や、真紅のホットパンツにつつまれたたくましい腰は、充分に成熟した色気をむんむんさせていたが……。
「ごめんなさい。ピーター……彼があんな失礼ないい方をするとは思ってなかったわ」アニタは、巨大なピーターの前で体をちぢめ、顔を赤らめて口ごもった。「でも、彼のもって来た話、最初のうち、とてもいい話だと思ったの。私たちの教団が、あなたのコンサートとセッションをもって、太陽系を巡回する、というアイデアは……」
「やつは君の知り合いか?」
「ちょっとだけね……町の行きつけのソーダ・ファンティンのマスターに紹介されたの。二度あっただけ――でも、ジュピター教団の事は、とても興味をもっていて、よく知っているみたいだったわ……」
「いいか、アニタ……」とピーターはアニタの両肩に手をおいていった。「わけのわからない、あやしげなやつを、ぼくに相談もせずにいきなりつれて来ちゃいけない……」
「わかってる! わかってるわよ。ピーター!」
アニタは突然はね上がるようにして、ピーターの首っ玉に両手をかけ、のび上がった。
「私、あなたの事なら、何でもわかってるわよ。あなたが自分で気がつかない事までね……。今度の事は、たしかに私の早とちりだったけど、あなたの事なら何も彼もわかっていても、相手の事は、よくわからなかったの。許してちょうだい、ね……」
アニタはピーターの唇を求めるようにのび上がったが、ピーターの顔が、はるか上の方で、困ったような顔をして、視線を宙にとばしているので、その灰色の毛がもじゃもじゃ生えた厚い胸に唇をはわせ、シースルー・ブラウスのあわせ目からこぼれた乳房をすりつけ、「上等のラードで玉葱をいためたような」といわれる彼の体臭を、切なそうに溜息をつきながら深々と何度も吸いこんだ。
「たしかに、君はずっと昔からぼくの事をよく知ってくれているし、教団の財政なんて、君がいなきゃ、どうなってるかわからない……」ピーターは、やんわりと首に巻きついたアニタの腕をもぎはなしながら、彼女を見おろした。「だけど、君は、ぼくの考えやものの見方を、全部さかさまにうけとっているみたいに思える時がある……」
「そう……私はあなたの反転像《ネガテイヴ》……だって、私は女ですもの……。ポジティヴとネガティヴが一緒になって、はじめて私たちは完全になり、歴史をこえて燃え上がるのよ。私は、あなたが本当はやりたくてもやれない事、汚らしいいやな、蔭の部分の事は、すべてやってあげるから……だから、おお、ピーター……本当にいつか、私を抱いてね。あなたの性的不能《インポテンツ》は、心因性のものだから、いつかきっと私がなおしてあげるわ。そうしたら、おねがい!……約束して……」
「わかった。アニタ……」ピーターは辟易したように、しかしやさしい口調でいった。「どっちにしても、今度から、あまり変なやつをつれてこないでくれ……」
「それはわかってるわ……」アニタはやっとピーターから体をはなしながら、彼の顔をまぶしそうに見上げた。「でも、ピーター……私たちの教団だって、いつか信ずるもののために闘わなければならない時がくるかも……」
「絶対にいやだ!」突然ピーターは顔を真赤にして叫ぶようにいった。「おれは絶対に闘ったりなんかしない。おれはどんなものであろうと、闘いなんかに人々をかりたてるために歌ってるんじゃない!」
「わかってるわ、ピーター……あなたは決して闘ったりしてはいけない……」とアニタはうなずいた。「でも……」
その時、浜辺でキキキキッ、というような声がすると、ざばっ、と水面をわって巨大な黒いものがはね上がった。
「ハイ! ジュピター!」と、ピーターは大声を上げてとび上がるように波打ちぎわへむかって走り出した。「どこへ行ってたんだ? こいつ……」
8 ヒューストン=ミネルヴァ
子供のようにはしゃいだ声をあげて、砂浜から海中へかけ入り、しぶきをばしゃばしゃあげて、巨大なイルカの〃ジュピター〃とたわむれはじめたピーターの姿を、アニタは腕を組み、眼を鋭く細めて見つめていた。
――ジュピター……あのイルカだわ……。
と、アニタは、たちまちまわりに歓声をあげて泳ぎながら群がりよってくる、教団の若い男女たちを眺めながら思った。
――でも……まさか……ピーターが……。
ジュピターの黒いつるつるした背中にはいあがり、背びれをしっかりつかんだピーターは、ヒュッ、と鋭い口笛を吹いた。――たちまちイルカは、背にピーターをのせたまま、赤い入り日に一面に染め上げられたメキシコ湾の沖へむかって泳ぎ出し、そのあとを無数の全裸、半裸の若者たちが追った。
朱金にきらめく海面をきり裂いて泳ぎ去るイルカと、その上にのったピーター・トルートンの姿は、ギリシャ神話に出てくる海童《トリトン》さながらだった。
アニタは、軽く舌打ちすると、のろのろとした足どりでコッテージのテラスをはなれ、ハイビスカスの植えこみをぬけて、ダイオウヤシの並み木にそって歩きはじめた。
「ミス・アニタ・ジューン・ポープ……」
突然、灌木の茂みの蔭から低い声がかかった。
白いトロピカル・スーツの上衣のポケットに両手をつっこんだ、小柄な男――エンリコ・レオーネが、椰子の木に背をもたせて、うっそりと立っていた。
「どじ!」
とアニタはちらと男の方をふりむいて、とげとげしい声で毒づいた。
「ピーターにむかって、何て口のきき方するのよ。彼をすっかり怒らせちまったじゃないの……」
「あれはあれでいい、と、おれは思ってるのさ……」エンリコは、アニタとならんでぶらぶら歩きながら、にやりと白い歯をむき出した。「あれがおれのやり方で、この事に関するかぎり、おれはまかされているんだ。――むろん、本部の事前了解はとってあるがね……」
「でも、あんたはもう、ここへ出入りできないわよ。――ピーターが言ってたでしょ……」
「別に、おれが直接こなくてもいい。これからは、ほかのやつがくる。――もっと紳士づらした連中がな……」エンリコは細巻葉巻《シガリロ》をくわえて火をつけた。「どうせ、ピーターのやつは、こんな話にはのるまい、という事は、はじめからわかってたんだ……。ただ、そろそろやつにも、あいさつを通しておく潮どきだと思ったからな……」
「あいさつして……どうするのよ……」アニタは、やや混乱したような顔つきになって、足をとめた。「これから……どうする気?」
「分派《セクト》を育てる……」エンリコは茜色の雲のとぶ黄昏の空にむかって、煙をたかだかと吹き上げた。「この教団は、若い連中がほとんどだ。ピーターにいかれて集ってるんだろうが、中には、ピーターをぬいて、ピーター以上のスーパースターになりたがってる奴もいるはずだ。〃ジュピター教団《チヤーチ》〃を、もっとパワーのある、太陽系全体をゆさぶるものにできるとしたら、それにのってくる奴が、必ずいる。――若いって事は、野心的だからな……。そういうのを捜し出して、チャンスをやるのさ……。ここのナンバー2《ツウ》というのは誰だ?」
「ナンバー2《ツウ》なんて……そんなものいないわ!」アニタは、ちょっとどぎまぎしたように口ごもった。「ここは、ピーターと……そのまわりのすごくハッピイなファミリイがいるだけよ……」
「そうかね?」エンリコは、濃いサングラスの奥で眼を光らせながらにやっと笑った。「あんたがそうじゃないのかい? アニタ……」
「私は……私はピーターの、影の代理人《エージエント》よ」アニタは頬をこわばらせて、硬い声でいった。「彼の潜在意識の中の悲しみや苦しみの代理人《エージエント》……」「女スメルジャコフってとこか?」
「なに?」とアニタは眉をひそめた。「なによ、その、スメル……なんとかってのは?」
「ところで……今度はどこをやる?」
エンリコは、ちょっとまわりを見まわして、一段と声を低めていった。
「データ・バンク……と思ってるの……」
アニタも声をおとし、沖を見ながらいった。
「どこの?――衛星か?」
「L4……少し近い所でね……。その次は、月をねらうわ」
「まだ、あまり深入りするなよ……。連邦保安機構に動き出されると、厄介だ……」
「わかってるわ。例によって、警告レベルよ……」
「決行日と、目標《ターゲツト》がきまったらすぐ知らせろ」エンリコはシガリロを砂にすて、靴先でふみにじった。「一週間前までに、例によって、現場に一番近い所まで、品物をはこんどいてやるから……」
「昂揚剤《ハイ・ピー》も、そろそろ品薄なのよ……」アニタは唇をちっとも動かさずいった。「また、マッツイの店にとどけといて!」
「少し、消費量が多いんじゃないか?」エンリコは、沖を見ながら、内ポケットからとり出した、うすっぺらいラジコン・プレートのスイッチを入れた。「分量を気をつけて使ってるんだろうな。――妙な事になる奴が出たら、手を切るからな。このごろ保健局の方が、またうるさくなってきたんだ……」
「わかってるわよ……。このごろ、仲間が急速にふえてるの……」
ほとんど音をたてないで、二人の眼前の波打ちぎわに、一隻の無人のヘリ・ボートが、長い水脈《みなお》をひいて近よってきた。――エンリコ・レオーネは、アニタにさよならをいうでもなく、手をあげるでもなく、油断のない顔つきで周囲を見まわしながら、ヘリ・ボートに近よって行った。
「ねえ……」と、逆光をうけてシルエットになっているエンリコの背に、アニタは叫んだ。「さっきいいかけていた、スメル……何とかって、いったい何の事よ?」
エンリコはこたえず、身軽に小さなヘリ・ボートにとびうつった。――ボートはかすかにゆれながら、舳をまわし、長い水脈をひいて沖へむかったが、岸から百メートルほどはなれた所で、後へおりたたまれていたローターが、四方へぴんとはり出し、ひゅんひゅんと音をたててまわり出すと、にわかにやかましいエンジンの音をひびかせて上昇をはじめ、夕映えに燃える空の中ほどを大きく旋回して、北の方へとび去って行った。
「エンリコが、かえったか?」
グレイ・フラノの、ひどくクラシックな型の背広を着た、がっちりした体つきの、灰色の髪の男が、小型ヴィジフォンをのぞきこみながらいった。
「いや……、こっちへよばなくてもいい。報告だけさせろ。――そうか、ピーターはやはり拒絶したか……。いいから、そちらはエンリコの思う通りにつづけさせろ……。もう少し、派手にやってもいい……」
「そうだ――もう少しゆさぶりをかけてみるがいい……」
窓際にたって、血のような落日をながめていた、頭髪のまっ白な長身の男が、相槌をうつようにつぶやいた。
テキサス州ヒューストン……かつて、二十世紀後半から二十一世紀へかけて、石油メジャーズの本社ビルが林立していたこの南部の都市は、いま、二十六基のスペース・シャトル・ピアと、巨大な宇宙通信アンテナ群を擁した、新大陸最大の宇宙連絡センターに変貌していた。
その中心部の、ビジネス・モールにそそりたつ、巨大なホテル群の一つ、コモドア・ホテルの百十一階の特別室で、二人の、趣味のいい、クラシックな服装の初老の男は、香り高いジャスミン茶をすすりながら、さっきから小声で何かを語りつづけていたのだった。
「〃スペース・アロー〃の問題にひっかけて、何かゆさぶりをかける方法がありますか?」
と灰色の髪の男はヴィジフォンを切ってつぶやいた。
「いや――あれは、うまく行けば、大きな問題になるが、もう少し、慎重に、調査の進展を待とう。いまの所、あの計画が〃無理〃という事で、天文学連合の責任は問われそうだが、技術的不備という事で、宇宙工廠関係に調査がはいっても、それだけでは太陽系開発機構に、大きなダメージをあたえられそうもない。――もちろん、連邦議会の宇宙問題委員会でも、特別調査にもちこめるし、その時にはマスコミに、相当手きびしくあつかわせるが……それでも、ウェッブを地球に召喚はできんだろう……」
「とすると、当分、これまでのように治安問題でゆさぶりをかけるほかないわけですか……」と灰色の髪の男はちょっと唇を曲げた。「しかし、連邦保安局が、惑星系の治安問題で、〃査察〃にふみきるのに、あとどのくらいの工作が必要ですかね?――保安局にしてみれば、逆に自分の所の責任もからんできて、痛しかゆしで、慎重にならざるを得んでしょう……」
「汚いやり方だ、と思うかね?」
白髪長身の男は、背をまっすぐにして、夕陽に面したまま、片方の眉をわずかにあげた。
「あまり寝ざめはよくないですね。――いまの所、まだ人命は失われてはいないし、失わないように注意はさせていますが……」
「そろそろ、その制限もはずす事になるかも知れんな……」と白髪の男は、かすれた声でいった。「どんな事をしてでも、いつか――近いうちに、太陽系開発機構の壁に穴をあけ、そこからわれわれの手をつっこんで、ウェッブの首根っ子をおさえてやらねばならん。太陽系開発機構を、長い惨澹たる歴史と経験の中からやっと苦い知恵を獲得した〃政治〃の場にひきずり出して、これを全面的に改組しなければ……」
「エド・ウェッブという男は、しかし、有能で、したたかな男ですな……」と灰色の髪の男は溜息まじりにつぶやいた。「彼には、どうつっついても落ち度はない。こちらの意図をぬけ目なく見ぬいて、いろいろと手をうってくる……」
「彼が、あまりに有能で、スケールが大きいから、問題があるのだ……」と白髪の男はきっぱりといった。「いまのままでは、太陽系開発機構は……という事は、地球をのぞく、全太陽系は、〃ウェッブのデザインした宇宙〃になってしまう。やつは、そうしておいて、太陽系宇宙を、地球の政治体制から独立させるつもりだ……。そんな事をさせてはならん。太陽系宇宙を、ウェッブと、太陽系をこえてつきすすもうとする科学者や技術者だけのユートピアにしてしまう事は……結局、地球人類のためにならん。太陽系は……やはり、地球上でうまれ、長い、流血の歴史の中でやっと獲得された、〃地球政治の秩序〃の中にくみ入れられるべきだ……。かつて、この北米大陸ではアングロサクソンが、旧大陸、東ユーラシアではロシア人が、旧世界の秩序をはなれて支配権をにぎった。それぞれは、古い世界の〃毒〃から自由になったまったく新しい世界として、ほこらかに新時代を謳歌した。が――その結果が、果してどうだったか……人類全体にとってよかったのか、悪かったのか……」
「どっちなんでしょうね……」灰色の髪の男は、憂鬱そうに眉をひそめた。「ウェッブのやつは……ジョージ・ワシントンを気どる可能性がありますかね? 太陽系宇宙植民地は、地球の支配から独立し、やがて、敵対するようになるんですかね……」
「そんな事は絶対させん……させたくない……」と白髪の男は歯の間から押し出すようにいった。「地球の政治システムも……やはり変えねばならん。太陽系全体をふくんで、統治を貫徹できるようなスケールと内容に……」 特別室のつづき部屋の方に、何人かの話し声がきこえてきた。――中で、一きわかん高く、鋭い声が、境のドアを通してはっきりときこえた。
「宇宙?――宇宙はすばらしい。荘厳じゃ。この宇宙全体は、地球をもふくめて、偉大なる造物主のうちたてられた、神秘な秩序にみちみちている……。われわれ人類は、小ざかしい技術や文明の力でもって、この聖なる美しい秩序をせかせかと破壊し、利を追うて簒奪し、汚す前に、われわれの中にも分与された理性と神智によって、これをどうあつかうべきか、よくよく洞察すべきじゃ。それができるものは、世界でもかぎられている。日ごろから、俗をはなれ、真に神の声をきくべく苦しい修練をかさねたものだけが、この宇宙を、どうあつかったらいいか、人類に教える事ができる。――今こそ、人類は神の声にしたがい、その手にみちびかれて宇宙を開くべきであり、その声をきくまで、一切の開発は凍結されるべきじゃ……。でなければ、人類は地球をこえて一層大きな罪をおかしてしまう事になるし、それは人類の聖なる精神を、内面的に崩壊させてしまう事になる……」
特別室の中の二人は顔を見あわせた。――灰色の髪の男は、ちょっとネクタイをなおすと、境のドアにかけよって、さっと開いた。
「これは……セイジ……」と白髪の男も、背をまっすぐにのばすと、両手をつき出して、開けはなたれた入口の方へ進みながら、いんぎんな笑みをつくった。「よくお出でくださいました。――御予定より、ずいぶんお早いお着きなので、おむかえにもあがらず、失礼しました……」
木星衛星軌道上のミネルヴァ基地で、個人用の荷物をまとめたミリセント・ウイレムは、個室を出て、ちょっと中をふりかえると、一つおいて隣のドアをたたいて、バーナード博士に声をかけた。
「出発時刻か?」
と博士の声が中からかえってきた。
「まだ、二、三十分ありますけど……」とミリーはこたえた。「お荷物はこんでおきましょうか?」
ドアがあいて、バーナード博士が顔を出した。――博士の顔は、一層しわ深くなっているように見え、疲労の色が濃かった。
「これだけだから、もって行こうかと思ったんだが……」
と博士は、二つの私物トランクを通路におし出した。
「私のと一緒に、フェリーにつみこんでおきますわ……」とミリーはいった。「じゃ、のちほどBポートで……」
通路の壁のボタンを操作して、壁の後のチューブを走っている貨物カートをよぶと、自分と博士の荷物をほうりこみ、行先をテン・キイで操作して、壁面のドアをしめた。
そのままぶらぶらと、シャフト・カーの方へ歩をうつしかけたミリーは、ふと思いついたように、踵をかえして、足早に通路を曲って、英二の個室の前まで来た。
半開きになったドアのむこうで、メッセージ類を整理していた英二は、ミリーの気配にふりかえった。
「いよいよ出発ですか?」
と英二はかすかにほほえんだ。
「ええ、あの……」ミリーも疲れてふけこんだ顔にやっと微笑をうかべた。「最後のおわかれをいいに来たの。私って、よく、ちゃんとしたおわかれをいいそこねて、あとで後悔するから……」
「最後のおわかれだって……。また、いつかあえるでしょう……」英二は、メッセージカードをスロットにいれて、映像のチェックをつづけながらいった。「〃木星幽霊《ジユピター・ゴースト》〃だって、――まあ、第一ラウンドの調査はすんだけど、このあと、本格的な調査から、場合によったら、引き揚げ作業を考えなきゃならないだろうし……」
「そうね……でも、私はまた、自分の本来の仕事にかえって、当分は、火星や小惑星帯や、木星の衛星で見つかった、〃宇宙メッセージ〃の解読にとりくむつもり……あれからまた、火星でも、新しいパターンが見つかったし……〃木星幽霊《ジユピター・ゴースト》〃の出していたシグナルも、何かの役に立つかも知れないわ……」
「火星で仕事をするんですか?」
「一度よって……それからL4宇宙コロニイの、資料保存所衛星《アルカイーヴ・サテライト》にこもるつもり……。あそこは太陽系最大のデータ・バンクだから……」ミリーはちょっと口ごもるようにいった。「それからあの……さっきあなたの見ていた、お友だちのメッセージのコピイくださらない。後にイノウエの顔がうつってるの……」
英二はだまって、コピイ・キイを操作し、転写されたカードをミリーにさし出した。
「ありがと……」とミリーはうけとっていった。「じゃ……さよなら……」
ミリーの足音が背後に遠ざかると、英二はもう一度、今のカードをプレイバックした。
「じゃ、英二、時間が来たから行く。一杯のめずに残念だ……」とTV画面の中で、ホジャ・キンはいった。「かえったら盛大にやろうぜ……」
英二はだまって傍のグラスに酒をつぎ、それを映像端末の上にそそぎかけた。
第六章 危機の正体
1 資料保存所衛星《アルカイーヴ・サテライト》
一か月半の火星滞在からラブサット2に帰ってきたムハンマド・マンスールと直接対面した時、秘書のブランショ・夕起子は、一瞬息をのみ、立ちすくんだ。火星との間のテレビ画像では、色調の調整の事などもあってよくわからなかったが、マンスールの浅黒い皮膚は、土気色といっていいほど気味の悪い色にかわり、眼の下にはどす黒い隈ができ、頬はこけ、眼だけがぎらぎらと燃えるように輝いて、まるでひどい熱病にかかって、長患いしている病人のように見えた。
「まあ……ムッシゥ!」夕起子は、かすれた声でいいかけて、突然鳴咽をもらしそうな声音になった。「あの……大丈夫ですか? お体は……」
「ああ――多少疲れてはいるが、心配はいらん……」マンスールは、しわがれた声でいって、不自然な笑いをうかべた。
「君の方はどうだ? ユキコ……。ソニアはもう地球へかえったか?」
「ええ。途中、月へよって、しばらくぶらぶらして帰るっていってましたわ。――彼女は、本部が解散するというので、ちょっと悲しそうだったけど、ハッピイでもあるみたいです。オニール中継点《ジヤンクシヨン》にいい人ができて、その人と一緒に地球へ行くっていっていましたから……」
「そうか……」マンスールは興味がなさそうにうなずいた。「ああ、それからユキコ……こちらは、宇宙通信航行管制本部のアレクサンドロス・パドロポス技師だ。――通信研究班にいて、宇宙船のテレメーター解析のベテランで、これからしばらく一緒に仕事をやる……」
「はじめまして……」夕起子は、つややかな黒髪をかたむけるようにして、会釈した。「おつかれでしょう?――しばらく個室でおやすみになりますか? すぐご案内しますが……」
「そうさせてもらえますかな……」
灰色の髪をした、額の広い、神経質そうな顔付きのパドロポスは、ちらとマンスールの方を見た。
「夕食まで、一眠りさせてもらっていいですかね?」
「けっこう……。あなたには、ずいぶん活躍してもらった。その上この先も、かなりの長丁場おつきあいねがわなきゃならん……。このラブサット2に慣れるまで、少しゆっくりしてください……」
マンスールは、ちょっと壁のディジタル・クロックを見上げた。
「SMT一八○○に、本部のダイニング・ルームであいましょう。私の名前で個室をとっておきます。――その時、今度のチームのメンバーの、ヴィンケル・ジュニアもごいっしょできると思いますから……」
パドロポスが、夕起子に案内されて通路の角を折れ曲るのを見送ってから、マンスールは反対側に歩いて、つきあたりの「メシェ記念室《メモリアル・ルーム》」にはいって行った。そこをもっともよくつかっていたムハンマド・マンスールが、〃スペース・アロー〃の事故査定問題で、火星へ行っていた一か月半の間、誰も使った形跡もなく、文献リーダーのスイッチを入れてみると、約二か月前、彼が読みかけていた文献が、まだそのままスタンバイされていた。
――二か月ほど前に、月での会議からかえって、この部屋でくつろぎながら、その「銀河系内における水酸基の起源とふるまい」という文献を読んでいる最中、彗星源探査特別計画の専用電子脳《ブレイン》〃ティム・ラビット〃から、「悪い知らせ」の第一報をうけとったのだった。
いつもなら、この部屋にはいったとたんに感じられる個人的な安らぎの感情が、その時は、湧き上がってこなかった。――マンスールは、書類ケースをテーブルの上に投げ出して、おちつかない眼付きで、室内を見まわした。顔が何となくべとべとするので、彼は記念室の洗面所にはいり、熱い湯とリキッド・ソープで顔を洗った。
タオルでぬぐって、ふと鏡を見た時、マンスールは、軽いショックを感じた。
美しい弧を黒々と描く、濃い眉毛の間に、ナイフで鋭くえぐったような、深いたてじわが一本きざまれている。
いくらか、そうなる傾向は見られたものの、二か月前まではなかったしわだった。――マンスールは、そっと中指でそのしわをのばして見た。眼を見開くようにして、眉と眉の間をひらいて見たが、深く走ったみぞは消えない。
――〃スペース・アロー〃がきざんで行ったしわだ……。
と、鏡の中を見つめながらマンスールは、暗い気持ちになって思った。――そんな気持ちになると、眉間のたてじわは、ますます深く、暗く、凶兆がただよっているように見えた。
――これは、おれ個人が、イノウエ博士とホジャ・キンのためにきざんだ墓碑銘《エピタフ》だ……。このあと、まだふえるだろうか?
ふと、自分のけわしい表情の顔の横に、白い小さな顔がうつり、おびえたような表情を見せているのに気づいて、マンスールはふりむいて、笑いかけた。
つやつやしい、くせの無い黒髪を額の所で切りそろえ、残りを両肩に、長くまっすぐにたらした夕起子の白い、京人形のような小さな顔は、例によって十四、五歳の少女のように見えたが、そのあどけない顔も、よく見ると、心痛と疲労のためか、目の下や頬に、かげりがあらわれていた。
「パドロポス氏は、すぐおやすみになりましたわ……」と夕起子はいった。「お部屋にはいると、ベッドにうつぶせにたおれて、とたんに大いびき……。あれで夕食の時、起きられるのかしら?」
「火星からの旅客船の中でも、ずっと作業をつづけていたんだ……」マンスールはタオルで顔をこすりながらいった。「事故審査は一応かたがついたが、こちらへついたらすぐ、連合内での解析研究班の編成と、予算枠をとらなければならないんで……。でないと、間があいちまうからな……」
「でも、主任は大丈夫なんですか?」と夕起子は心配そうにいった。「お疲れじゃないですか? 疲労回復剤は召し上がりました?――それとも、鍼でもうってさし上げましょうか?」
「いや……鍼はいい……」マンスールは首を左右に動かしながら、洗面所につづくバスルームの方をのぞいた。「そのかわり、ちょっと指圧とマッサージをやってもらおうかな……」
バスルームには、簡単なマッサージ台があり、マンスールは服をぬぐと、その上に腹ばいになった。
とたんに睡魔がおそってくる。
朦朧としはじめた意識の奥で、マンスールは夕起子が何か用意しているらしいかすかな物音をきいていた。
やがて、背中の皮膚に、何かひやりとしたなめらかな液体がぬられるのがわかった。――夕起子の、小さい、柔らかい掌と指が、それを肩から肩甲骨、脊椎の両側へとぬりのばして行く。それにつれて、背中の皮膚がぽっぽとあつくなる。
そのうち、骨が細いのに、意外に力の強い指先が、頭蓋を、頸椎を、脊椎の両脇を押しはじめ、マンスールは小さいうめき声をあげた。やがて、薬液のしみこんだ背中に、香り高いパウダーがふられ、丹念なマッサージがはじまった。――マンスールは心地よさについまどろんだ。夕起子の言葉で、あおむけになった時も、半分夢の中だった。
眠りの中で、強い、刺戟的な花の香りを大きく吸いこんだ夢を見て、マンスールははっと眼をさました。――芳香は、すぐ傍に残っており、なまあたたかい風とともにゆれていた。それは夕起子の体からただよってくるものだった。夕起子は、彼の上半身におおいかぶさるようにして、胸の筋肉のパウダーマッサージをつづけていた。彼女はタオルのガウンを肩からはおっていたが、その下には何もつけておらず、絹のようになめらかな雪白の肌をもった、小柄だが見事に肉感的な裸体が、うっすらと汗ばみ、油をぬったように光っていた。
「主任……」と夕起子はマッサージをつづけながら、低い、かすれた声でいった。「よろしかったら……私をお抱きになりません?」
「ピエールとは……わかれたのか?」
マンスールは、眼を閉じて芳香を吸いこみながらささやいた。――ぐらっ、ときそうなほど誘惑的な香料の匂いは、夕起子の恥毛と、腋の下からただよってくる。
「あの、〃ティム〃が事故をレポートした前の日に……宇宙《スペース》コロニイの登記所で離婚手つづきをすませました。帰ってすぐご報告しようと思ったんですけれど……あのさわぎで……」夕起子は、うるんだ、黒水晶のような瞳で、マンスールの顔をのぞきこんだ。「ですから、私の姓はもう、ブランショじゃないんです……。その点はご遠慮なく……」
マンスールは、だまって両手をのばし、彼女の胸からゆたかに重く垂れた、白桃のような双つの乳房を、その重みをはかるように、掌にささえた。――可憐なピンク色の乳暈《にゆううん》にかこまれた乳首がかすかにふくらむ。
「主任のお顔見た時……私……とても鍼やマッサージだけじゃ、お疲れを癒せないんじゃないかと思って……」
夕起子はちょっと顔をそむけ、熱い息を吐きながらいった。マンスールに乳房をささえられた胸が、次第に大きくあえぎ出した。
「男の人って……泣くかわりに、はげしくセックスする事があるんでしょう?……ピエールが……時折そうでしたわ……。ですから……もし主任が……」
「ありがとう……ユキコ……」
ムハンマドは、両の乳房からはなした手で、夕起子のウエストをがっしりつかみながら、情感をこめていった。――なんて細いウエストだ……、と夕起子の眼を見つめながら、マンスールは思った。――スカーレット・オハラが、コルセットでしめあげたぐらいの細さじゃないか……。
「でも、今はいい……。今、君を抱いたら……おれは本当に泣き出して、折れて、だめになってしまって……当分回復できないかも知れない。そうなったら予定が、大幅に狂っちまうから……」
夕起子は、長い髪の先を、マンスールの胸にふれさせて、眼に涙を一ぱいうかべてうなずいた。
「だけど……いつか、泣いてもいい時が来たら……その時は……」
つぶやきながら、マンスールは、夕起子の小さな頭を抱きよせ、熱い、猛烈な接吻をした。
その時洗面所のドアを、誰かが軽くノックする音がきこえた。
「こちらですか!?」と、若々しい声がよんでいた。「ヴィンケルです。――今つきましたが……」
マンスールは、その声をほうっておいて、それから一分以上も、情熱的で、ものすごく「ヘヴィ」な接吻をつづけた。――やっと唇をはなした時、夕起子が立っていられなくて、へなへなと床に膝をついてしまったくらい「ヘヴィ」なキスを……。
「やぁ……」とシャツに腕を通しながら洗面所の戸口を出てきたマンスールは、ひどくさばさばした顔つきで、記念室の中を見まわしている若者に手をのばした。「マンスールです。よろしく……」
「オットー・ヴィンケル・ジュニアです……」
と青年は、なぜか、ぽっと頬を赤らめながら手をにぎりかえした。
若々しい――というよりは、子供っぽい声で、声変りしたばかりのようにきこえる。すらりとしているが、小柄で、頬がピンク色で眼の下あたりにうっすらと雀斑《そばかす》があるのが、妙にかわいらしい。全体に、まだ乳臭さがとれなくて、本人もそれを気にしているらしく、鼻の下にふさふさとした金色の髭をはやしたりしているが、それがやや紫がかったすんだ青い眼や、石鹸の匂いのするような襟足の初々しさと相まって、かえってハイスクールの生徒みたいな印象を与えてしまうのだった。
オットー・ヴィンケル・Jr.《ジユニア》――世界天文学連合副会長オットー・ヴィンケル博士の末っ子で、まだ二十一歳だった。十四歳の時、理論数学で博士号をとり、十七歳の時、宇宙物理学の分野で賞をうけ、十九歳の時、亜光速宇宙船の理論設計で工学博士、そして今、世界天文学連合の、父親の担当する「恒星間旅行計画」のセクションで、研究をつづけている。――いわば、彼は、今度の「スペース・アロー遭難事故解析調査」に対して、天文学連合副会長がつけてくれた切り札だった。
「火星からまわされてきた、アレックスは、いまぶったおれて寝ています……」とマンスールはオットー・ヴィンケル・Jr.に椅子をすすめながらいった。「こちらへくる船の中で、二人でずっと徹夜で書類づくりをやってたんで……六時に、一緒に夕食をとる事になっています……」
「あの……ちょっと、いいですか?」オットーは、若者らしい無頓着さで、アタッシェ・ケースの中から、記録カードを何枚かとり出して、傍の端末のスロットへ入れた。「〃スペース・アロー〃が、最後に出したさまざまなシグナルの中で、ここにお気づきになったでしょうか?――通信が、全部ごくごく短い期間にドップラー・シフトを起してふっつりきれてますね。そのほんのちょっとあと……通信波が消滅してから――あまり正確じゃないけれど、まあ千分の一秒ぐらいあとに、かすかにX線閃光《フレア》みたいなものがキャッチされているんですが……」
「X線フレア?」マンスールは眉をひそめた。「それは……〃スペース・アロー〃と関係がありそうですか? それとも、もっと遠方の天体からのものですか?」
「そこがもう一つはっきりしないんですよ。――何しろ、この方角には、定常線源になるようなX線天体がほとんどないので、X線望遠鏡衛星の性能のいいのは、全然そちらをむいていなくてね……。むろん、〃スペース・アロー〃との通信につかってた、マイクロウエーヴの波長域では、そんなものキャッチされませんが、たまたま新型コリメーターのテストをやっていた観測衛星が、非常に微弱なフレアをキャッチしましてね。しかもこのX線が、やはりわずかながら、ドップラー・シフトしているように見える。……天文学連合の方で、ちょうど遭難時刻に、この空域から発せられた、何か別のシグナルがはいっていないか、チェックしていて見つけたんですが……距離は算定できませんが、方角は、〃スペース・アロー〃の遭難地域とほぼ一致しますし、何よりも、そのフレアの記録された時刻が、ほとんどぴったり一致している……」
「核爆発――かも知れませんな……」マンスールは、顔をこわばらせてつぶやいた。「〃スペース・アロー〃は、まだ二万トンちかい、核融合燃料をつんでいたはずだ……」
「ええ、それで、その点をチェックしてみたいんです。――前の無人探査衛星二基が、通信をたった時はどうでした? あれは、核燃料をつんでなかったですか?」
「最初のやつは、フライバイ方式でしたからほとんど燃料ゼロでしたが……その次のやつは、一応、往復《ラウンド・トリツプ》でしたから……本体二百トンに、燃料三千トンぐらいつんでましたかな……」
「その二つの……消滅した時のくわしい記録はありますか?」
「ここにはありませんわ……」ふいにマンスールの背後で夕起子の声がした。「L4の資料保存所衛星《アルカイーヴ・サテライト》には全部のこっていますけど……」
突然ヴィンケル・Jr.は、酒を飲んだようにまっ赤になって、立ち上がった。――夕起子の方を見ながら、口の中でわけのわからない事をごにょごにょいって、汗をしたたらせはじめた青年を、マンスールは、奇異なものを見るような眼で見ていた。
木星を発って、小惑星帯により、火星からの連絡船と途中でドッキングして、地球の月へむかう定期船《ライナー》の中で、本田英二は、火星からのりこんできた乗客の中に、再びバーナード博士と、ミリー・ウイレムの姿を見つけた。
「あら? あなたも?」とミリーはおどろいたように眼を見はった。「また地球へ行くの?」
「総裁に、緊急によびつけられた……」と英二はうんざりしたように肩をすくめた。
「あなたたちは?」
「L4コロニイの資料保存所《アルカイーヴ》衛星へ行くの」とミリーはいった。「宇宙メッセージの解読も大詰めに来てるの。これまでのあらゆる記録を洗いなおしてみようと思って……」
2 「狩り」のはじまり
木星発火星経由地球行きの定期船《ライナー》で、月軌道上のL5宇宙コロニイについた英二、ミリー、バーナード博士の三人は、G・K・オニール中継点《ジヤンクシヨン》のホテルで一泊したのち、英二は一足早く月面行きのフェリーでライプニッツ市の太陽系開発機構本部へむかい、ミリー・ウイレムとバーナード博士は、二時間おくれのL4宇宙コロニイ直行便で、資料保存所衛星《アルカイーヴ・サテライト》へむかう事になった。
月を中心にして、L5宇宙コロニイは、その軌道上の、月の進行方向に対して後方三十八万キロの地点に、そしてL4宇宙コロニイは、逆に月の進む前方三十八万キロの所に、地球と月との引力の摂動をうけて、常にその距離を保ってまわっている。――L5の方には、地球と太陽系空間をつなぐ最大の宇宙港都市オニール中継点《ジヤンクシヨン》をはじめ、人口七百万クラスの宇宙都市が三つ、それに三つの研究所衛星《ラブサツト》から構成されていたが、L4の方は、人口二百五十万クラスの宇宙都市三つと、巨大な宇宙工場、実験場、地球圏むけのエネルギー・プラント、それに三つの資料保存所《アルカイーヴ》衛星と連動している、太陽系内最大の情報処理衛星《インフオーム・サツト》群からなっていた。
L4行きの宇宙《スペース》フェリーの出発を、オニール中継点《ジヤンクシヨン》の第四バースのゆったりとしたラウンジで待っている間、ミリーは膝の上でアタッシェ・ケース型のコンピューターを開き、くりかえしくりかえし、彼女がしぼりこんだ「問題」のつめの手がかりを求めていた。――HLSI《ハイパー・エルジイ》をつかって、数ギガバイトの容量をもつ携帯用コンピューターも、彼女の「問いかけ」にぎゅうぎゅうにいためつけられて、液晶ディスプレイの上で数字とグラフと光点が苦しまぎれにおどり狂っているように見えた。もし、音声応答装置のスイッチが入れられていたら、コンピューターの、苦しげなうめきか、金切り声の悲鳴がきこえるのではないかと思えるほどだった。
「そんなに根《こん》をつめて大丈夫かね?」とバーナード博士は、ミリーの手もとをのぞきこみながらつぶやいた。「ずっと昔だが、クロスワード・パズルをあまり根をつめて考えすぎて、半年ほど失語症になった男を知っているんだがね……」
「私は逆に、やりはじめたら、ずっとやっていないとだめなんです……」ミリーは顔にかかる髪をはらいながらいった。「それに、いまやってるのは、このコンピューターの〃訓練〃みたいなものですから……」
「私のような、宇宙考古学という、フィールド相手の荒っぽい学問をやっているものには、よくわからんのだが……」博士はかすかに苦笑をうかべた。「こんなに発達したコンピューターでもわからん問題にも、まだ人間が詰めてみる余地があるのかね?」
「ええ……。人間はその場合、〃愚かもの〃の役割をする事になるんです……」ミリーはコンピューターのスイッチをきりながらいった。「コンピューターも、見事な推理をやりますけど……その推理のしかたは、あまりに理づめで整然としていて、何といったらいいか、〃とんでもない、馬鹿げた可能性〃までチェックするにはなかなかいたらないんですね。つまり、コンピューターは、まだナンセンスやユーモアをとりあつかうのは不得意なんです。ですから、私が、まるで〃不思議の国のアリス〃の中に出てきそうなめちゃくちゃな可能性を思いついて、次から次へと解答を要求すると、本当にコンピューターは、目を白黒して苦しみます。それでも〃解答不能〃のアウトプットをうけつけないで、くりかえし角度を変えて質問を入れてやると、少しずつですけど、かしこくなってきます……」
「かわいそうに、そのコンピューターもあなたにしごかれているわけだな……」と博士は破顔した。「で、すこしは何とかなりそうか?」
「もうこのコンピューターでは、この先スケールアウトですわね。――やっぱり、もう一度問題の全構造を大きく洗い出して、そこへ資料衛星にある、こまごまとした半解読、未解読の断片的データも全部はめこんでみて……それに、〃ナンセンス・アングル〃までくわえた多角的検討を加えるしかないでしょう」
バーナード博士は、頭の後で手を組んで、ソファの背にもたれながら瞑目した。――瞑目しながら、博士はもう一度、この壮大な「宇宙メッセージ」問題の輪郭を整理しなおそうとした。
そもそもは……あの古代新大陸の最大の謎とされていた、巨大な「ナスカの地上絵」のうちの、「滑走路」という綽名でよばれたでたらめに沙漠にひかれた直線パターンが、氷河時代に地球へ飛来した宇宙人の残していった、「メーザー・ホログラム」によるメッセージだった事が、前世紀の後半に、偶然に判明した事にはじまり、つづいて月の裏面、小惑星、木星の衛星の一部にも、わずかずつながら、同様な宇宙メッセージの「痕跡」らしいものが発見されて、その研究を通じて「宇宙考古学」という学問が輪郭をとりはじめた。
そこへ――最近、火星の極冠下から「大メッセージ群」が発見され、その中からミリーが一連の一般《ゼネラル》キイらしいものを見つけ出し、地球=月=火星=小惑星=木星の衛星群の上に点々と残された「宇宙メッセージ」の八○パーセントが、一挙に解読できるようになった。
それによると、人類が「文明」というものをきずき上げるよりはるか前の第三氷河期のころ、ざっと十万年ほど前に、どことも知れぬ恒星から――天文学者たちは、火星上で発見されたメッセージの中の「星図」から、ほぼ十光年乃至数十光年はなれた、比較的太陽系に「近い」恒星系から来たらしいと推定した。――途方もなく巨大な宇宙船を中心とした、宇宙人の一団がこの太陽系にやって来て、最初は木星周辺に足場をつくり、木星の水素、ヘリウム、またイオとの間を流れる大電流を利用し、また小惑星のいくつかを「資源」として分解した。それが、六、七万年前、どういう原因からか、木星の衛星軌道上にあって、彼らの「基地」の役割を果していたらしい巨大な「母船」が失われ――おそらく何らかの理由で、木星大気圏内に墜落して、それがあの大赤斑のまわりをめぐる「木星幽霊《ジユピター・ゴースト》」になったらしいのだが――遭難を免れた残りの連中は、火星の上、あるいは火星周辺の衛星軌道上に移動し、ここでまた数万年をすごす。五万年ほど前に、彼らは、のちに火星の極移動のために、極冠氷の下になってしまう巨大な「ナスカ型メッセージ」を残した。そして、月には約三万年前、地球上には、第四氷期の後期、現在から二万年ほど前に到達する……。
宇宙人たちは、小惑星、火星、月、地球といった天体のまわりの衛星軌道上に、その乗物か人工天体をまわらせて、その上で生活したか、たとえそういった天体の上でしばらくすんだとしても、乗物を「基地」とし、去る時はその基地ごと去ったらしかった。――なぜなら、これらの天体の上には、彼らが資源の採掘したあとらしいものは見つかるものの、住居、都市といった生活痕はほとんど残していなかったからだ。
かわりに、彼らがこれらの天体の上に残して行ったのが、あの奇妙な円形と、一見無意味な直線の組みあわせからなる、メーザー・ホログラムの「メッセージ」だった。――それらは、地球の新大陸の沙漠の上で、火星の極冠の下で、何千年乃至何万年にわたって風化にさらされながら、「あとからくるもの」による「解読」の日を待っていた。あたかもオリエントのベヒストゥン磨崖碑文のように……。
木星の岩石質衛星上から、小惑星帯を経て、火星、月、地球上の各地をふくむ、広大な太陽系空間にちらばり、しるされた期間も十万年もの間にわたる他恒星系から来た宇宙人の「刻文」は、長い歳月の間に、かなりの破壊損失をこうむっていた。――月の裏面に、三万数千年前に刻まれたメッセージは、三万年前に、ほとんどその中心部に衝突した隕石のクレーターによって、その八五パーセントが破壊されたと推定される。小惑星上に断片的に残されたものをよせ集めて行くと、それはもともと、月の半分ほどの直径のある大型の小惑星上に記されてあったものが、約六、七万年前、何らかの原因で――おそらく、その小惑星の内部開発か、近くの小惑星の資源採掘用にやった「破壊作業」の失敗か何かのために――その小惑星がいくつもの断片に破壊され、記録のほとんどはガスや細粒となって四散し、比較的大きな断片として、小惑星軌道上に残ったものの上に、もともとの「メッセージ」のわずか数パーセントが判別できるにすぎない事が、これはバーナード博士自身の研究によって明らかにされてきた。
そのほか、地球上のサハラ沙漠の一部、紅海の海底、インド洋上の小島嶼群にも、「痕跡」らしいものが見つかったが、それらはすべて、一万数千年前に終ったヴルム氷期後の、これらの地域の気候の激変、海水面の百数十メートルにおよぶ急激な上昇などによって、辛うじて痕跡らしいと推定できる程度のものを残して、ほとんど消失してしまっていた。紅海の海底調査の時、明らかにかつては乾陸の一部だったと思われる浅海の海底に発見された「痕跡」は、一部に数キロに及ぶテクタイトの列を使っていた点が注目されたが、結局解読不能だった。
南米大陸のアンデス西斜面、ナスカ高原に記された図形だけが、強い紫外線と乾燥に耐えて奇蹟のように残ったのだったが、それでもいざ解読にとりかかってみると、もともとの「文面」の五割以上が、後の人類によって破壊されたり、風化によって「かすれ」たりしていて、いくつかの解読の鍵になるサインがネックとなって残ってしまった。――それを一挙に解決したのが、あの火星上で極冠の氷をとかして水を採取しようとした時に、氷床の下から発見された「メッセージ」だった。最初の融氷作業によってごく一部が破損されたものの、そこに四万五千年前きざまれた全パターンの、実に七四パーセントが、良好な状態で発見されたのは、この「地球人類文明以前」に太陽系へ飛来した宇宙人の残していったメッセージの解読を急速にすすめることになった。
「宇宙言語学」の俊秀ミリセント・ウイレムがその八○パーセントを解読した「宇宙人メッセージ」をもとにして、地球人にとって「有史以前」に起った、彼らの「太陽系訪問」の経過を大まかに再構成してみると、こういう事になる。
――今から十万年以上前、地球人類が、まだ農耕も知らない旧石器時代の生活を送っていたころ、彼らは、太陽系から十数光年乃至数十光年はなれた恒星系から、巨大母船を中心とする大船団を組んではるばる飛来してきた。彼らの残したメッセージによると、その移住の原因は、彼らの母恒星が、何か破滅的な「危難」におそわれ、そのため、彼らは文明をあげて「大脱出《グレート・エクソダス》」をはからざるを得なかったらしい。船団は太陽系に来たものだけでなく、いくつもに編成されて、それぞれ近くの恒星系へむけて四散して行き、太陽系へ到着したのは、その中でも小さな船団だったようである。彼らの文明の発達度は、「クラーク進化スケール」で、地球のそれより、十五万年乃至二十万年進んでいたと推測された。
ここで、宇宙考古学者の間でも論議がわかれるのだが、彼らは、自分たちの母恒星系以外の、「他の宇宙種族」との間にも交流があったかどうか、という事である。――ミリーやバーナード博士は、すでに彼らは、「複恒星系文明時代」にはいっていた、とする意見に傾いているのだが、まだ今の段階では、積極的な証拠は見出されていなかった。別の学者は、別のコンテクストによるメッセージ解読の可能性によって、彼らは、母恒星をおそった「突然の危機」のため、それこそ少数で「命からがら」脱出して、この太陽系へたどりついたのであり、彼らの文明は、ほかにこの銀河系オリオン肢附近を長期周遊する大船団をもっており、太陽系に残された「宇宙メッセージ」は、その回帰する大船団に、「母恒星の異変」を知らせるためのものだ、と主張した。
いずれにせよ、太陽系での宇宙人たちの生活は、あまり幸福なものではなかったようだ。――生命の発生している惑星が一つだけ、しかもそこの知的生物は、「宇宙文明」はるか以前の原始的段階にとどまっており、技術的、経済的援助は期待できず、かててくわえて、木星周辺での、彼らの「母船の喪失」という大打撃をうけて、火星、月、地球周辺での、それこそ「ほそぼそとした」孤島生活を余儀なくされる。技術水準の低下のため、そこでも次第に事故が多くなり、彼らの集団内でも、モラールの低下、知能水準の低下、グループ間の対立といったさまざまな問題が起り、人口もへり、そしてついに、最後に残った集団が地球の上に最後のメッセージを残し、総力を結集して新しい移住船をつくって、彼らの「他の仲間」が赴いたとおぼしき恒星系へむけてとび去って行く……。
木星と地球の間にひろがった、八万年にわたる彼らのメッセージの語る「事件」の輪郭はそういったものだった。――そして、ミリセント・ウイレムが、しきりに気にしているのは、そのメッセージ全体がもっている「警告」のニュアンスだった。
いったいそれは、「誰」に、「何」について警告しようとしているのか?――彼らの、「あとからくる仲間」にむかってか? それとも、彼らと交流のある、複数の「宇宙種族」へむけてなのか? あるいは、地球人類のように、ずっとのちになって「宇宙文明」の初期段階に達し、そのメッセージを認識するだけの技術をもつようになる「後進知的生物」へのアドヴァイスとしてか?
そして、その「警告」は、彼らの遠い母恒星系をおそった巨大な「危機」と関係があるらしいのだが、その「危機」の正体――というか性格が、メッセージの中の「失われた鎖《ミツシング・リンク》」にはばまれて、今一歩という所ではっきりしないのだった。
しかし、言語解読の「天才的狩人《ハンター》」であるミリセント・ウイレムは、いま、もう一度、巨大な網をはりめぐらし、四方八方に周到に勢子や猟犬を配置して、「すりぬける謎」をその網の中に大きく囲いこんで、着々と包囲網をしぼり、追いつめる算段にかかっていた。――今度こそ、この新しい大包囲網の中で、「宇宙メッセージ」の要《かなめ》となる「危機」は正体をあらわし、その網の目にとらえられるかも知れなかった。その網は、L4の三つの資料保存所衛星《アルカイーヴ・サツト》にある、これまでのメッセージに関する全データと、それと連動している情報処理衛星《インフオーム・サツト》の超高性能コンピューターに準備させた、彼女がこれまで模索しながらつくってきた解読のためのあらゆる蓋然性と可能性をもりこんだ「プログラムQ―7」によって形成されているのだ……。
「バーナード博士……」
いつの間にか立ち上がっていたミリーが、ソファの後から声をかけた。
「そろそろ乗船の時間ですわ……」
「宇宙メッセージ」問題の回想にふけっていた博士は、われにかえってあたりを見まわした。――ラウンジの中は、ほとんど無人になり、L4行きフェリーの出発を知らせるシグナルが、オレンジにかわってせわしなく点滅していた。
二百人乗りの宇宙フェリーのワイド・ボディの客室は、ほんの二、三十人の客がいるだけでがらがらだった。――人事異動のシーズンには、この二百人乗りの客室が五つも六つもつながれて、さながら宇宙列車《スペース・トレイン》のようになるのだが、その時は、家族連れの姿もなく、ほとんどが技術者やビジネスマンらしかった。
そんなにすいているのに、フェリーの出発は数分おくれた。――乗る予定の乗客がまだ到着しないから、というアナウンスがあった直後、どたばたとあわただしい足音がして、三人の男が汗まみれになって入口からかけこんできた。黒い髪で口ひげをはやした浅黒い顔の男と、金髪の初々しい頬をした青年と、灰色の髪をした額の広い神経質そうな男と……。
彼ら三人が、前方の座席につくや否や、フェリーは、電磁加速装置によって、ゆっくりと動きはじめた。
「いよいよ〃狩り〃のはじまりだな……」とバーナード博士はつぶやいた。「情報処理衛星《インフオーム・サツト》のメイン・コンピューターは、ついてすぐつかえるのか?」
「予約状況からみると、ついてからしばらく待たなければなりませんわ……」とミリーはいった。「私たちの前に、緊急使用のわりこみがあったようです。――でも、待っている間、サブ・コンピューターが使えるでしょう……」
3 破壊工作
L4宇宙コロニイの情報処理衛星《インフオーム・サツト》に定期フェリーでついてから、コンピューター・ステーションの使用予約時まで、約七時間ほどのブランクがあった。――その間、バーナード博士は、休息をとるため宿舎の個室で眠り、ミリーは個室の中で携帯用コンピューターを、この衛星のコンピューター回線につないで、仕事の下準備をつづけた。
一時間ほど作業をつづけて、さすがに疲れを感じて、ルームサービスにコーヒーを注文すると、椅子に腰かけたまま、しばらくうとうとした。
そのうち、突然ドアがはげしくノックされ、その音におどろいてミリーは危うく椅子からころげおちそうになった。
「わかったわよ! もっと静かにたたいたらどう?」ミリーは、大声で叫びながら、立ち上がってドアの方へ行った。「なによ、一体……。火事でも起ったの?」
腹だちまぎれに、ドアをいっぱいにひきあけると、そこに宿舎の従業員とも思えぬ男がたっていた。――浅黒い顔にサングラスをかけ、長髪を肩までたらし、色のあせた黒のTシャツに洗いざらしのジーンズ、素足にサンダルばきといういでたちの、その小柄な東洋人は、コーヒーのトレイを肩の所にささげ、にやりと白い歯をむきだして笑っていった。
「コーヒーをおもちしました。レイディ・ウイレム……」
「ヤン!」とミリーは叫んで、大きく腕をひろげた。「ヤンじゃないの!――よくここがわかったわね!」
「おっと……、ミリー、コーヒーをおかしてくれ。――本職のボーイじゃないから、へたするとひっくりかえしちまう……」
月面シューベルト通信基地の副主任ヤン・タオルンは、抱きつこうとするミリーを、片手で制して、ちょっとよろけた。――彼の肩の上でコーヒー・セットが、がちゃがちゃとやかましい音をたてた。
「あんたがここへくるという情報は、シューベルト基地の連中が知らせてくれた……」テーブルの上に、トレイをおきながらヤンは陽気な声でいった。「おれは、四、五日前からここへつめてるんでね。――フェリーの乗客名簿をマークさせといたのさ。どうせ、資料保存所に用があるんだろうが、でも、いい時に来たぜ。あと二、三日で、資料衛星は、十年に一度の〃情報棚おろし〃にかかる。それがすんじまうと、古い方の記録は、特に一次資料類が、新しく準備中の資料保管衛星へうつされちまって、しばらくの間、検索システムがごたついたりして、直接アクセスしにくくなるからな……」
しゃべりながら、ヤンは二つのコーヒーカップに、香り高いコーヒーをそそいだ。――そそぎおわって、ミリーの方をふりかえると、ミリーは、なぜか涙をいっぱいにうかべて、ヤンの後姿を見つめていた。
「さて……コーヒーはいかが?」とヤンはおどけた身ぶりでテーブルをさした。「やつがれもお相伴させていただければ光栄でございますが……」
突然ミリーは、体をぶつけるようにヤンに抱きつき、顔を彼の肩におしつけてすすり泣きはじめた。
「つかれてんだな、ミリー……」ヤンはやさしくミリーの背をさすりながらつぶやいた。「そうだと思ったよ。木星での仕事は、プロレスラーでも顎を出しそうなきついものだって、ミネルヴァ基地の知り合いが教えてくれたし……あの遭難した〃スペース・アロー〃に乗りくんでいた、R・イノウエって学者は、あんたの恋人だったんだってな……」
「ごめんなさい、ヤン……」ミリーはぬれた顔を、ヤンの色あせたTシャツからはなし、ハンカチを出して眼をぬぐった。「あなたには、通信基地で仕事をしていた時、ずっとやさしくしてもらっていたもんだから、つい……」
「ほんとは、おれ、あんたの事、かなり好きだったからさ……」ヤンはミリーの手をとって、椅子にかけさせた。「でも、あんたはすげえ大学者で、誇り高いレディで、それに、ほかにこれもすごくりっぱな恋人がいるって事がうすうすわかってたから……女教師に片想いした高校生みたいに、がきっぽいナイト役を、好きでひきうけてたんだ!」
「ありがと、ヤン……」ミリーは、赤くなった鼻の下をハンカチでおさえて、無理にほほえんだ。「でも、私なんか、でもどりで、おばあちゃんよ。――井上が死んでから、またいっぺんに年をとったみたいに感じるの。……八十歳の尼さんになったみたい……」
「コーヒー、さめるぜ……」受け皿ごとカップをすすめながら、ヤンはいたましそうに眼をそらした。「砂糖は?」
「この所、コーヒーも紅茶もずっとブラック」と、カップをうけとりながらミリーはつぶやいた。「喪服を飲んでるみたい……」
「あんたは少し、休む事をおぼえた方がいい」ヤンは自分のカップにミルクをたっぷり入れながらいった。「いつもいつも、はりつめすぎで、今にもぷつりと切れそうな感じだ……」
「私たち、いったい何やってるのかしらね、ヤン……」ミリーはコーヒーカップをさすりながら、うつろな眼つきでつぶやいた。「あなただって、あんまりのんびりしてる所なんかみた事ないわ。――私、このごろ自分が、何のために、どこへむかってつっぱしっているのか、時々ふっとわからなくなるわ……」
「人間が、〃宇宙〃なんてものに、手をつけたからいけないんじゃないかな……」ヤンは鎮静スティックを口にくわえながらいった。「やみくもにのり出したものの、どうも、宇宙ってのは、今のままの人間の手にあまるような気がするんだ……」
「じゃ、あなたはいつか宇宙から隠退するつもり?」
「いいや――」ヤンはゆっくり首をふった。「そんな気は毛頭ない。――おれは宇宙が好きだし……つっぱしりながら死ぬのも悪くないと思っている……」
ミリーは、くすっ、と笑った。
その笑いに、ほっとしたように、ヤンは立ち上がった。
「さて、ミリーねえさん……。なにか手つだえる事はあるかい?――どうせ、例の〃宇宙メッセージ〃の解読のための資料検索の準備をしていたんだろう? そのくらいの事ならやってあげるよ……」
「ありがとう。――少しやってもらおうかしら……」ミリーは、回線につないだままになっている個人用の端末をふりかえった。「こちらのメモリイにはいっている解析プログラムの枠組と対応する資料が、衛星にどのくらいあるか、つきあわせている所なの。作業時間が、大体どのくらいかかりそうか、見当をつけるだけだから、まだごくあらっぽい大分類コードでしらべているだけ……。チェック・プログラムはもう組んであるから、あとはステップごとの指示にしたがえばいいんだけど……」
「わかった。そのくらいの事ならやっといてあげるよ。――その間すこし寝たらどうだい? 次は何時に起せばいいの?」
そうね……と、ミリーはなまあくびをしながら、時計を見てつぶやいた。――三、四時間は寝られそうだわ。本当に少し、休ませてもらうわ……。
それを声に出していったのか、半分夢の中でいったのか、はっきりわからないほど、急にはげしい睡魔がおそってきた。――椅子から立ち上がり、ベッドへむけてよろよろと歩いたのはおぼえていたが、ベッドの上にたおれこんだ記憶はなかった。
次に眼がさめたのは、誰かが遠慮がちにドアをノックしている音に気づいたからだった。――ミリーは、服を着たまま、ベッドの上にうつぶせに寝ていた。毛布が背中にかかっていたが、室内にヤンの姿はなかった。
「ミリー……私だ……」とドアの外でバーナード博士の声がした。「眠っているのかい?――そろそろオペレーション・センターへ行く時間だが……」
ミリーは、はっとして起き上がった。――コーヒーセットもテーブルの上になく、デスクの上の携帯用端末は、コードをはずされ、きちんと蓋がしてあり、その上にヤンの残して行った走り書きのメモがおかれていた。
――コードの照応は全部完了、ディスク2と3にセーヴしておいた。君の予想より、こまかい断片的資料がかなり多いみたいだ。小生のチームは君たちより少し早く、センターの使用許可を貰っているので、先に行っている。むこうであえるかも知れない。使用ブースはB棟の206D。
ヤン・T
PS・今の仕事が一段落したら、ぜひとも休暇をとって、少しゆっくり休養する事をおすすめす。小生、アジア大陸某所に自信をもって推薦できる、それはそれはすてきなシャングリラのような保養地を知っており、そこの有力者にも強いコネあり。ぜひ御相談あれ。
Y・T
PPSS・寝言で言っていた、〃エイジ〃とは、そもいかなる人物なりや?
情報処理衛星《インフオーム・サツト》は、L4宇宙コロニイの中では、やや小ぶりな人工天体だったが、それでも常住人口六千五百人、長軸方向に一・五キロもあり、ミリーたちの宿舎のある居住区から、反対の端にある巨大コンピューターのオペレーション・センターまでは、小型のカートを使う必要があった。
むこうへつけば、予定時間よりまだ三、四十分早い事はわかっていたが、少し早めに行って手つづきをすませ、センターの一部を見学してみようというので、ミリーとバーナード博士は、カートを借りてセンターへむかった。
走り出して間もなく、行程の三分の二ほど来た時、突然行く手でにぶい爆発音がひびいた。つづいて、鋭い警報音が街路に鳴りひびき、保安関係の車が何台も、爆発音のした方へすっとんで行った。
「なんでしょう?」
交通管制システムによって、自動的に電源を切られ、道路脇にとめられてしまったカートの中で、ミリーは不安そうに前方に眼をこらした。
「何か事故でもあったのかな?」バーナード博士もシートから立ち上がった。「センターの方で、何だか煙が出ているように見えるが!」
街路には、多勢の人たちが立ちどまって、通りのつき当りをながめ、ささやきあっていた。――ミリーはカートのラジオを入れた。報道管制のビートが、どの周波数にも流れており、アナウンスは数分後の臨時ニュースをお待ちください、とくりかえすばかりだった。しかし、周波数をきりかえて行くと、保安関係の無線交信らしいものがかすかにはいり、「オペレーション・センター」と「爆弾」という言葉がキャッチできた。
「冗談じゃないわ!」
ラジオのスイッチを切って、ミリーは小さく叫び、シートから立ち上がった。
「爆弾だと?」バーナード博士もカートから降りながら、呆れかえったようにつぶやいた。「オペレーション・センターにそんなものをしかけるなんて……いったいどんな連中が……」
「宇宙開発に反対する狂信団体が、このごろまた、あちこちでさわぎを起しかけてるみたいですわ」
ミリーは、カートをそのままにして、足早に歩き出しながらつぶやいた。
「若い連中かね?」バーナード博士もミリーの後を追って歩きながら言った。「そういえば――もう大分前の事だが、木星のミネルヴァ基地で、地球からの視察団にまぎれこんでいた、若い過激派みたいな連中が、暴れた事があったが……。その中の一人の娘は、基地主任の本田英二の知り合いだった。……いや……恋人というべきか……」
「若い人たちは、煽られて騒ぐだけでしょうが、その背後に、どうやら厄介な政治勢力があるみたいですわ……」ミリーは大通りから横道へ曲りながら、顔をしかめていった。「火星でも、そんな若いのが、四、五人地球から送りこまれて……何もしないうちに保護されましたけど、開発機構の保安部の連中は、ぼやいていましたわ。どうも、宇宙もだんだんきなくさくなってくるって……」
大通りをまっすぐ進まず、横道にそれたミリーの考えは、バーナード博士にもすぐわかった。――両側の建物の内部を、大通りと平行に、ベルトロードが走っていて、これはミリーの勘が当って、交通管制をうけずに動いていた。途中何度ものりつがねばならなかったが、それでもその上を歩いて行けばふつうに歩くよりはずっとはやく、オペレーション・センターのすぐ近くにまで行ける。
センターのすぐ横のビルで、ベルトロードをおりると、センターの前には数百人の群衆が集ってさわいでいた。――保安関係の車が数台、それに救急車がとまり、センターの入口の手前にはロープがはられ、制服の保安要員が群衆を制している。センターの入口のガラスのドアが砕け散り、中からまだ、うすい煙が流れ出ていた。
「どうしたんですか?」
ミリーは人々の頭ごしにのび上がって前を見ながら、傍の男にきいた。
「センターの入口をはいった所で、爆弾が破裂したんですよ……」と、中年の男はいった。「大した大きさのものじゃない。まあ、いやがらせ程度のものらしいですがね。それでも、受付のあたりにいた二、三人が怪我をして、さっき救急車で運びこまれていました……」
「センターの機能は大丈夫ですか?」
「さあ――そこまでは、私にゃわかりませんが……」
「犯人らしい若いのが、四、五人、つかまったようだぞ……」と、別の誰かの声がした。「保安車のラジオがいってた。――別の所で、投石さわぎを起したらしい……」
「ちょっと失礼……」
ミリーとバーナード博士の間をわってはいるように、黒い髪、黒い口髭の、色の浅黒い男が、汗みずくになって、人ごみをかきわけ、前へ出ようとした。――L5のオニール中継点《ジヤンクシヨン》で、フェリーに一番最後にかけこんで来た三人の乗客の一人だ、という事をミリーはすぐ思い出した。彼のあとについて行くようにしてミリーとバーナード博士も、何とはなしに前の方へ出た。
ヘルメットのバイザーを深くおろした保安要員が、手をあげてロープの所まで出たその男を押しもどすようなしぐさをした。
「世界天文学連合のムハンマド・マンスールだ……」とその男は汗をしたたらせながら、紙片をさし出した。「重要な用件で、このセンターの緊急使用の許可をとっている。操作のスタンバイはもうできているはずだが、その準備状態が被害をうけていないか、早急にしらべたいんだ……」
「今はまだだめです……」と保安要員は首をふった。「爆発処理班が、ほかにしかけられた爆弾がないか、しらべていますから……」
「でも、もう終ったみたいよ……」とミリーは横から口をはさんだ。「ほら、あそこへ出て来たのは、処理班の人たちじゃないかしら?」
入口に散乱するガラスを、靴先で蹴ちらしながら、灰色のプロテクターで身をかためた男たちが三人、道具箱をもってセンターの奥から出てきた。彼らは三人ともマスクを頭上にあげており、そのうちの一人が、両腕をあげて輪をつくり、OKのサインをしめした。
「もう大丈夫らしいじゃないか……」とマンスールは体をのり出していった。「すまんがすぐ入れてくれ。――この通り、本部の特別許可もとってある。このさわぎで、作業予定が大幅におくれちまったんだ……」
それでもためらっている保安要員に、車の方から隊長らしい男が叫んだ。
「天文学連合の人か? その人ならいいんだ。本部から通知してきた。通してあげろ!」
ムハンマド・マンスールは、ロープをくぐり、大股で入口の方へむかった。――ミリーとバーナード博士も、つられたようにロープをくぐった。
「あなたたちもですか?」
と保安要員はいった。
「ええ、そう――あの人と一緒……」
とミリーは、ちょっと狼狽しかけた博士を、おさえるようにしてそういうと、マンスールのあとを追った。
ガラスとコンクリートの小片がちらばり、血痕らしいものが散見されるポーチにはいった時、ミリーは、はっと胸をつかれて思わず足をとめかけた。血だまりの傍に、くたびれたサンダルが片っ方ころがっており、それがヤンのもののような気が一瞬したからだった。――しかし、バーナード博士は大股でマンスールのあとを追っており、彼女も足早にそこを通過せざるを得なかった。
4 オペレーション・センターにて
オペレーション・センターの入口をはいったばかりのロビイには、まだいがらっぽい、爆薬の臭気がただよっていた。
警備員が話しているのを、小耳にはさんだ所によると、ボラン系のプラスチック爆弾で、受付カウンターから、奥へ行く通路の脇におかれていたらしい。
受付カウンターの一部がふっとび、通路脇の壁に大きな穴があいて、中の動力線や光ファイバー類がのぞいていた。
壁の穴のむこう側の部屋も、かなり被害をうけたらしく、端末や、ホログラフ・ディスクのケース類が散乱しているのが見える。足もとの床は、ガラスやプラスチックのかけら、金属の破片などがちらばっていて、ふむとざりざり音がした。「被害はどのくらいなのかな?」と、マンスールと肩をならべて、大股で通路を奥へむかって歩きながら、バーナード博士はつぶやいた。「あまり大きいようにも思えんが……」
「さっき内部にいるものと連絡をとってみたんですが、サブのメモリイ関係のほんの一部が被害をうけた程度らしいというんです。まだシステム全体の精密チェックは終っていないようなので、もうほとんど組み入れてあった私たちのプログラムがどうなるか、それがちょっと心配なんですが……」とマンスールはいった。「ああ、失礼……私、世界天文学連合のムハンマド・マンスールです」
「レイ・バーナードです。宇宙考古学が専門です……」とバーナード博士はいって、ちょっと後をふりかえった。「それから……」
「ミリセント・ウイレム!」とミリーが数歩おくれて、息をはずませながら叫んだ。「宇宙言語学をやっています。――あなたたち、世界天文学連合のあと、ここのメイン・オペレーション・ルームをつかわせてもらう事になっています」
「よろしく……」マンスールは肩ごしにふりかえりながら会釈した。「ここへくるフェリーの中で、お目にかかりませんでしたかね?」
「ええ……L5のフェリー・ポートで、あなたたち、ぎりぎりおくれていらっしゃったでしょう?――あとのお連れは?」
「三時間ほど前から、ここへ来て、プログラムをしこんでいます……」マンスールもちょっと息を切らせながらいった。
「ところで……私たちはいったい、なぜこんなに急いでいるんですか?」
バーナード博士は、歩度をゆるめながら笑い出した。「それはつまり……私たちが、あなたを追っかけたからだ……」
「私たち、あなたとちがって、保安関係からここへはいる特別許可をもらってなかったのに、連れのふりをして、あなたにくっついて警備線をぬけて来てしまったんです……」
とミリーも笑いながら説明した。
「なんだ。そういう事ですか……」と、マンスールも、ちょっと白い歯を見せた。「それなら、もうここまでくれば、こんなに急ぐ必要もありませんね……」
ヒュッ――と、その時、曲り角のむこうで鋭い口笛の音がした。
そちらをふりむくと、オペレーション・ルームの入口で、灰色の髪をした、額の広い男が、大仰なゼスチュアで手招きした。
「スタンバイできたか? アレックス……」
とマンスールはきいた。
「いつでもOKです……」と火星からきたアレクサンドロス・パドロポスはうなずいた。「オットーも待ってます」
「じゃ、お先に……」とムハンマド・マンスールは、時計を見ながらミリーとバーナード博士にいった。「あなたたちの予約時間は、一時間あとでしたね。――われわれの方は、今日の段階は、ざっと当りをつけるだけですから、時間通りにおゆずりできると思いますが……」
「どうぞごゆっくり……」とミリーは愛想よくいった。「私たち、サブ・ルームで準備しています。こっちの方もけっこう時間がかかりそうですから……」
ドアをはいった所が、サブ・ルームで、そのむこうが、メイン・オペレーション・ルームになっていた。二つの部屋の間のしきりには、広いガラス窓がついている。
「やあ……」と、主任オペレーターらしい、初老の、胡麻塩頭の壮漢が、コンソールの前からふりかえった。
「すぐにはじめますかい?――予定より四分おくれてる……」
「爆弾さわぎで、あやうくしめ出される所だった……」マンスールはハンカチを出して額の汗をぬぐいながらマルチ表示パネルを見わたした。「しこんだプログラムに影響がなさそうなんでほっとしたよ」
「あんなものは、ずっと末端の、ここの事務処理レベルのシステムに影響をあたえただけで、メイン・システムには関係ありませんや……」と壮漢は片眼をつぶって、にやりと笑いながら、ごつい手をさし出した。「ブリットです。それから、あんたたちの仕事のお相手をする、電子脳《ブレイン》パートを紹介しましょう。〃セカール〃です」
「どうぞよろしく……」
と、スピーカーから、ひびきのいいバリトンの声がきこえて、正面の表示パネルに、美しい虹色の文字が、ローマ字とヒンズー文字であらわれ、ちかちかとまたたいた。
「よろしく……」と、マンスールは椅子に腰をおろしながらいった。「どうやら、インド系らしいな……」
「その上ヒンズー教徒かも知れませんよ……」部屋の奥で、少年のような顔をしたオットー・ヴィンケル・Jr.《ジユニア》がくすくす笑った。「さっき、ブラフマニズムの奥義について、ちょっと議論してたんです……」
「あなたたちは?」
とオペレーターは、入口の所に立っているミリーたちに近よりながらきいた。
「私たち、この方たちの次に、ここをつかわしていただくの……。ウイレムとバーナードです。宇宙考古学会から申しこんであるわ……」とミリーはいった。「準備のため、サブ・ルームつかっていいかしら?」
「いいですよ。――IDチェックをどうぞ……」
といって、ブリットは、サブ・ルームの隅にあるチェッカーをさした。――ミリーが、チェッカーのガラス板の上に、右の掌をおくと、サブ・ルームの表示パネルに、READYの文字が光った。
「あなたたちのお相手をするパートは……〃クレア〃です……」
ブリットは、小型の操作卓の電源スイッチを入れながらいった。
「こんにちは、ミリセント・ウイレム博士、レイ・バーナード博士……」と、〃クレア〃は自分の名前を表示パネルに、花文字で描き出しながら、上品なアクセントでいった。「高名な方とご一緒に、お仕事ができて光栄です……」
「準備にかかる前に、資料保存所衛星《アルカイーヴ・サツト》を、ちょっと見ますか?」
ブリットは、操作卓のボタンをいくつかおした。
サブ・ルームの表示パネルに、ドーナッツ状の輪をいくつも同軸にかさね、その両端に無数のアンテナをくっつけた巨大な人工天体が三つ、宇宙空間にうかんでいる光景がうつった。かなりな速度で回転している一方、自走装置をもっていると見えて、その宇宙空間での配置が少しずつ変って行く。
パネルの右下方には、半円型に輝く地球の一部がうつっており、左上方には、半月がうかんでいる。――カメラ位置が動いて行くと、もう一つ、建設中の資料衛星らしいものが画面にはいってきた。
「いま、十年に一度の〃情報たなおろし〃作業の準備と、新衛星の建設にとりかかっているところですがね……」とブリットは溜息まじりにいった。「この先、どれだけ保管衛星をつくったらいいか、見当もつきませんや。――もう、ここで新衛星建設は四基でうちきって、かわりにすごくでかいのを、火星につくるって話もきいたんですが、ほんとですか?」
「ほんとよ……」とミリーはいった。
「このごろ外惑星関係の情報が急激にふえてるの。――太陽系開発関係の、いろんなセンターが、だんだん火星にうつっていって、いずれ本部もあっちにうつるんじゃないかしら……」
「あたしゃァ反対だな……」ふいにブリットは硬い、毒々しい声でつぶやいた。「やっぱりセンターは……こういった、なつかしい地球や、月の見える所においとかなきゃ。――火星なんかへもってっちまうと、みんなだんだん、地球のことを考えなくなっちまう……」
いいすてて出て行くブリットをふりかえって、ミリーは、バーナード博士とちょっと顔を見あわせた。
「じゃ、〃クレア〃――作業の準備にかかってちょうだい……」とミリーは操作卓の前にすわり、持ってきたポータブル・コンピューターの光ファイバー・コネクターを、操作卓のコンセントにつなぎながらいった。「プログラムは、一応デバッグしてあるけど、あなたの方で、もう一度チェックしながら入れて行って……」
「わかりました……」と〃クレア〃は美しいソプラノでこたえた。「お話をうかがいながら、セットしてまいります。――作業の目的は、保管してある〃宇宙メッセージ〃の全データを照合しながら、〃火星メッセージ〃の文章の欠落部分を類推する事でございますね……」
「彗星源無人探査機CSP―2と、CSP―6の、通信途絶時のテレメーター・データは、これで全部です……」と、メイン・ルームでは〃セカール〃が錆びた声でいった。
「CSP―2は、たしかに途中で、通信系に不調が起り、予備系統に切りかえています。自己修復もうまく行かなかったようです。CSP―6は、推進系に二系統、不調が起り、一系統、暴走しかけたので、切りはなしましたがコースがそれたため、のこりの推進系をつかって、コースを補正しようとした時、また暴走が起ったらしく、コースが大きくそれてそのまま通信途絶……原因は爆発と思われます……」
「どちらも通信途絶寸前に、急に周波数の低下が起っているように見えるが……」とアレックスがいった。「そのパターンを、できるだけ拡大して、〃スペース・アロー〃の場合と比較してみてくれ……」
「了解――四十秒後に、右端のパネルに出ます……」
「それと、その二つの無人機からの通信が途絶した時点で、その方向に、X線源のバーストが記録されてないか……」マンスールはいらいらしながらいった。「どうせごくかすかなものだろうから、記録されてても、観測ノイズぐらいでかたづけられてる可能性もあるが……」
「わかりました。――天文学連合の天文事象クロニクルには何も記録がのっていませんので、いま、第一次資料の中から、それに相当する事象がないか、チェックしております。何分厖大なので、もうしばらくお待ちください……」
「こりゃ大変ですよ、ムハンマド……」とオットー・ヴィンケル・Jr.が腕組をして首をふった。「その方角に、たとえ事象記録があったとした所で、二点観測で距離が出ない事には……何しろ、X線フレアや、バーストなんて、あまり珍しいものじゃありませんからね……」
「全面チェックが終るまで、クロニクルに残っている記録だけでもいいから出してみろ……」マンスールは、うんざりしたようにいった。「CSP―2の消失時から……そうだな、十年ぐらいさかのぼって……」
「了解……」と〃セカール〃は相変らず、悠揚せまらぬ声でいった。「二分二十五秒から、右端のパネルに順次出して行きます……」
「大変ですのね……」と、ミリーの提出したプログラムを読みとりながら、〃クレア〃は溜息をつくようにいった。「資料は、私にも洗い出せますけど……解析と推理という事になると、もう一ブロック、参加してもらった方がいいかも知れませんわ……」
「適当なのが、あいてるかね?」
とバーナード博士がきいた。
「そうですね……。〃トミタ〃というパートがいいと思います。本番の時、よんでみましょう。〃トミタ〃は、前に、ちょっとした犯罪にからんで、厖大な通信文にまぎれこまされていた暗号を見つけ出し、それを解いた事があるんです。セマンティカル・インテンシフィケーションも得意です……」
「そう――それはたのもしいわね……」
ミリーは、そういって、火星のコンピューターをつかって、ぎりぎりつめた個所をプレイバックしてみせた。
〃暗い……危険……危険な……重たい……爆発する……爆発させる……失敗……〃
と、いかにも機械の話す言葉のような、重くるしい音声がスピーカーからきこえた。
「ここの所が、〃火星メッセージ〃の中で、一番重要な文章らしいのに、欠損が大きくて、もう一つつめられない。――どうやら、前後の語義で、こちらがまちがった方向に解釈してしまっているか、それともここに叙述されている〃事象〃の性格について、こちらが基本的に理解が不足しているかららしいんだけど……そこのチェックをして行きたいんだけどね……」
「時間がかかりそうですわね……」と〃クレア〃はいった。「いまの個所、もう一レベル、SIをあげてみましょうか?」
〃暗い……重い……危険……〃
と、ますます重苦しくひずんだ声がスピーカーからながれ出した。
〃暗い……重い……危険……〃
その時、メイン・ルームの方で、誰かが叫び声をあげた。
両室の間のドアが完全にロックされておらず、わずかに隙間があいて、そこから、男たちの声がきこえてきた。
「神よ!」と、椅子から腰をうかしながら叫んだのは、ムハンマド・マンスールだった。「そんな……そんな事が……」
「〃セカール〃!……そのフレア・マークを、3D《スリーデイ》ターンさせて見ろ」とパドロポスがわめいた。「太陽系の平均回転面に対して、三次元軸に……そう、そのヴェクトルと、太陽系の銀河系内公転の軌道要素とつきあわせて……」
「ピンポイント衝突《クラツシユ》だ……」オットーが、かすれた声でいった。「いやはや……見事なものだ……」
「なにが起ったんでしょう?」
とミリーは、バーナード博士をふりかえってささやいた。
「えらく興奮しているようだな……」
とバーナード博士も眉をひそめた。
「〃セカール〃……ここからは、緊急回線がつなげないか? 緊急秘密回線だ……L5の、ラブサット2―天文学連合本部だ……」
「このパネルには出せません。――隣のサブ・ルームに、外線用のブースがありますから、そこからなら……」
境のドアが乱暴にあいて、マンスールがとび出してきた。――サブ・ルームの片隅にある外線用のTVフォンのブースにとびこむと、彼はたたきつけるような早口で緊急秘密回線の使用を申しこんだ。
マンスールにつづいて、メイン・ルームから、一番若い、オットー・ヴィンケル・Jr.が、顔中にじっとり脂汗をうかべ、青い顔で鬚をこすりながら、よろめくように出てきた。――パドロポスだけが、〃セカール〃を相手に、まだ何か陰気な声でやりあっている。
「顔色が悪いわ……」とミリーはいった。「どうなさったの?――いったい、何があったんです?」
「いや……ちょっと……」と、オットーは、無理にひきつったような笑いをうかべて手をふった。「いまはまだ、はっきりしませんから……」
オットーは、マンスールのはいりこんだブースのドアをあけた。
「そうです。ヴィンケル副会長……何とも信じられない事ですが……その公算は大です……」マンスールが、かすれた声でTVフォンにしゃべっていた。「こちらで出た結果は、ただちに本部へおくります。――パパウ事務局長にも報告して……今、すぐ、緊急検討会議を招集していただきたいんです……」
「パパ……ぼくです……」ブースのドアを半分ひらいたまま、オットーが通話にわりこんだ。「何よりも、〃スペース・アロー〃の遭難点へむけて、観測を集中しなけりゃ……うんと基線の長い、電波、X線観測網がいるんです。――望遠鏡衛星をいくつか、すぐにでも惑星軌道から、はずして、太陽の極軌道にのせるのがいいと思います。ええ……ぼくもマンスールと同じ意見で、ブラックホールだと思います……」
5 ブラックホール
ブラックホール……
その言葉が、オットー・ヴィンケル・Jr.の口から出たとたん、ムハンマド・マンスールは、はっとしたように、半開きになった通話ブースのガラス・ドアをふりかえった。
ドアの外のサブ・ルームでは、ミリー・ウイレムとバーナード博士が、びっくりしたように通話ブースの方を見つめていた。
視線があったとたん、マンスールは狼狽したように、はげしくドアをしめた。――が、オットーに何かけわしい調子でささやくと、もう一度ドアをあけてブースから出てきた。
「失礼ですが……」
とマンスールは、ミリーとバーナード博士の顔を見て、ごくりと唾をのみこんだ。――その浅黒い顔は、青ざめ、こわばっていた。
「いまの話、お耳にはいりましたか?」
二人はうなずいた。――マンスールの顔には、じっとり汗がにじんでいた。
「本当ですか?」
「いったいどういう事なのですかな?」
と、ミリーとバーナード博士は同時にきいた。
「お二人とも……」マンスールはかすれた声でいった。「いまの言葉はお忘れください。――いや……すくなくとも、お二方以外の誰にも、秘密にしていただけませんか? 当分の間……どこからか、公式の発表があるまで……。ひょっとすると、永遠に発表はないかも知れません。そうである事を、祈っていますが……」
「わしはレイ・バーナード博士……宇宙考古学会の副会長です。こちらはミリセント・ウイレム博士、宇宙言語学者です。もう一度、名前と顔をおぼえておいてください。二人とも世界天文学連合のボード・メンバーです……」とバーナード博士は頬をひきしめていった。「もし、あなたたちの納得できる筋以外から、噂がたちはじめたら、まっ先に私たちの事を疑って、たしかめていただきたい。もし私たちがリークしたのなら、地獄へでも送ってくださってけっこうです……」
「ありがとう……」マンスールはハンカチを出して顔をぬぐった。「もちろん私としてはお二人を信用しないわけではありません。――しかし、これはまだきわめて不確かな推測である上、もし事実であったら、大変重大な……全人類的対応をしなくてはならない問題になりますので、それまでは、できるだけきびしい情報管制をしなくてはならない事になると思います……」
「わかりますわ……」ミリーも緊張した表情でつぶやいた。「どうかお気になさらないでください」
「私も――もう一度申し上げておきましょう。――ムハンマド・マンスール、世界天文学連合の太陽系天文学部会所属で、専門は彗星及び彗星発生源の研究です。――私が関係している探査計画に発生した事故原因を調査中なのですが……その途中で、ちょっとショッキングな兆候が見つかりましたので……」
「わかりました。――それ以上おっしゃらなくてもけっこうです……」とバーナード博士は手をあげて制した。「お連れが、よんでいらっしゃるようですよ……」
通信ブースのドアをあけて、オットーが顔を出していた。
「月のアインシュタイン市が出ました……」とオットーは低い声でいった。「天文学連合の会長と理事長が出ています。――L5の連合本部と、三元で話ができます……」
「一つだけ……一つだけ、おうかがいしてよろしいですか?」と、ブースへもどりかけたマンスールの背に、ミリーが声をかけた。「その……〃兆候〃は、比較的太陽系に近いところで発見されたのですか?」
マンスールは、ガラス・ドアを半分あけたままふりかえった。――彼の顔には、強いためらいと困惑があらわれていた。
「そうです……」と彼は、押し殺したような低い声でいった。「おききになったらちょっと、おどろくほど近い所で、それらしい〃兆候〃が見られたのです。太陽から、一光年よりはるかに小さい距離内に、とだけ申しておきましょう。しかも、その……」
そういいかけて、マンスールは、ぐっと自分をおさえるような表情をして、ブースにとびこみ、ドアをしめた。
ミリーとバーナード博士は、しばらくの間、唖然として通信ブースの中のあわただしい動きを見つめていた。
ブラックホール……通常、太陽よりわずかに大きい恒星が進化の末期に超新星規模の爆発を起し、ある場合は、その中心部が重力崩壊を起してできるとされている「空間の蟻地獄」……、小さな領域に、巨大な質量が重力によって中心部へ中心部へと集中しつづけるため、ついにそのまわりの一定領域より内側では、空間が大重力のため閉じてしまい、そこからは秒速三十万キロメートルの光さえ脱出できなくなる、暗黒の重力のおとし穴……。
二十世紀のはじめ、アインシュタインの一般相対性理論が発表された直後に、シュワルツシルドによって、その理論的可能性が立証され、その後しばらく関心がうすれていたが、二十世紀後半、電波天文学や、宇宙観測へのエレクトロニクスの大規模導入にともなって、さまざまな異常線源天体が多く発見されてくるにつれ、ふたたび学問上の話題となり、白鳥座X―1などX線源天体が、それに擬せられたりした。
二十一世紀になって、惑星、宇宙植民地、宇宙天文台などからの全天観測が急激にすすむにつれ、銀河系内にも、また超銀河系集団にも、超遠方天体の中にも意外に多くのブラックホールが存在している事がわかってきた。一九七○年代、車椅子にのった天才的宇宙物理学者ホーキングが予言した、ミニ・ブラックホールの爆発現象もいくつかとらえられ、さらに銀河系規模の質量をもった超巨大ブラックホールや、恒星爆発の機構によって生ずるブラックホールの理論的限界値よりはるかに小さい――理論的質量の十分の一の程度の――「ミディアム・ブラックホール」の存在も仮構されるようになってきた。
しかし、まだ「宇宙の最後の謎」、重力現象の解明は完璧の域からはほど遠く、ブラックホール自体も、太陽系からはるかにはなれた存在であって、人類文明にとっては、銀河系内で年間平均二十個乃至三十個出現する「新星」現象や、数百年に一度の割で出現する「超新星」現象にくらべてさえ、はるかに遠い、かかわりのほとんど無いものと思われていた。
にもかかわらず、いまマンスールは、その存在の兆候が、太陽のすぐ傍、「一光年よりはるかに小さな距離」の所にみとめられたという……。ブラックホールは、文字通り、そこに物質も、光も、電波もあらゆるものを「吸いこむ」ばかりで、そこからは光も何も出てこないので、たまたま近くにあった物質が吸いこまれる時に発するX線か、でなければ、ちょうどその背後にある恒星の光が、強力な重力場によって曲げられて光像が歪んだり二重に見えたりする「重力レンズ現象」でも発生しなければ、よほど近くまで来ても、ほとんど検出できないのだ……。
「そういえば……」
バーナード博士が、軽く指を鳴らしてつぶやいた。
「ミリー……私たちのしらべている宇宙人たちの母星は、太陽系からどのくらいはなれていたんだろう?」
「大まかに、十数光年から数十光年の間……、としておきましたけど……私は、最近、もっと近かったんじゃないかと思っています。せいぜい十光年内外じゃないでしょうか?」ミリーは、われにかえったように、博士の方をふりかえった。「でも、それが何か……」
「うむ……」博士は、サブ・ルーム用の電子脳《ブレイン》〃クレア〃の、キイをおした。「これだよ、ミリー……」
〃暗い……重い……危険……〃
と、スピーカーから、しずんで、おしつぶされたような声がきこえた。
それは、ついさっきまで、ミリーが〃クレア〃にプログラムを入れこみながらチェックした、〃宇宙メッセージ〃の欠損の大きな核心部分だった。――人類が氷河期の地球上で、棍棒と石斧でマンモスを狩っていた十万年前、太陽系へやって来た宇宙人たちの「母星系」をおそった危機の原因について述べた文章で、火星の極冠の氷の下から、偶然見つかったものだ……。
〃暗い……重い……危険……〃
と陰気な、重苦しい声はくりかえした。
〃暗い……重い……危険……〃
「ちょっと待ってください、博士……」ミリーはおどろいたように口をぽかんとあけた。「まさか、この宇宙人の母星系をおそった危険というのが……」
「別に、同じブラックホールとはいってないが……」バーナード博士は手をふった。「でも……連中が母星から大脱出をはからなきゃならなかったほどの重大な危機が、これだとすると……どうもそんな気がするじゃないか……」
〃重い……暗い……危険……〃
と声は単調に、執拗にくりかえした。
〃重い……暗い……危険……〃
「まだくりかえしますか?」
と〃クレア〃が、涼しい、美しい声できいた。
その時、突然通信ブースのドアがあいて、マンスールとオットー・ヴィンケル・Jr.が大変な勢いでとび出して来た。
「アレックス!」とマンスールは、メイン・ルームのドアを開けて、大声でどなった。「これからすぐおれたち全員で月へ行く。記録したホログラム・ディスクを全部もってこい。――急げ!」
それから、ミリーの方をふりかえると、マンスールは早口でいった。
「失礼……。私たちの作業は中断します。どうぞ次に、メイン・ルームをつかってください……」
メイン・ルームから灰色の髪の男が、上衣とディスク・ケースを持って、鉄砲玉のようにとび出してきた。――そのまま三人の男は、えらい勢いでサブ・ルームをぬけ、通路へ走り出す。
あ、ちょっと!……とつぶやいてミリーは、何かを思い出したように、あわてて立ち上がり、男たちのあとを追って通路へ出た。――彼女はマンスールのいった、「彗星源探査」と「事故」という言葉が気にかかっていて、あとからきこうと思っていたのだった。
が、ミリーが通路の曲り角までかけつけた時、三人の男は、まだ爆弾さわぎのあとの掃除のすんでいないオペレーション・センターのポーチを、ガラスやプラスチックの破片をじゃりじゃりふみにじりながらとび出して行ってしまった。
JS計画《木星太陽化計画》本部のミネルヴァ基地主任、本田英二は、ミリーとバーナード博士が、L4宇宙コロニイの情報処理衛星へついたころ、月の裏面のライプニッツ火口《クレーター》にある、太陽系開発機構本部で、総裁のエド・ウェッブの面会を待っていた。
ウェッブ総裁は、猛烈に多忙なようだった。――それに、次から次へと、予定外の「緊急問題」がわりこんできて、英二の面会時間はずるずると先に延ばされた。
しかたなしに、英二は総裁室の一階下にあるバーのカウンターに腰をおろしてちびちび飲み、酔ってボックスで一眠りし、また起きて、カウンターに腰をかけて、ぼんやり「酔いざまし」という妙な名のついたカクテルを飲んだ。
バーはこの前来た時同様、がらんとしていて、数時間へたりこんでいる間、客は彼以外に一人はいってきただけで、それも十五、六分いてすぐ出て行ってしまった。――カウンターに腰かけて、ぼんやりした眼つきでむこうのはじを見つめていると、何か月か前、同じようにそのカウンターにすわって、ウェッブ総裁の「引見」を待っており、その時むこうの端に、ミリセント・ウイレムがすわっていて、はじめて声をかけあった事が思い出されてきた。
それから、ミリーとは、ほとんど三か月にわたって、〃木星幽霊《ジユピター・ゴースト》〃探査のために一緒に働き、JADE―3にのって、初回を除いて十回以上、あの木星の荒れ狂う大気圏の中、渦まく大赤斑のまわりのアンモニアと硫化水素アンモニウムの雲の底にもぐり、〃木星幽霊《ジユピター・ゴースト》〃の影を追い求めつづけた――。
今は、最初の時とちがって、ミリーはそこにいない。そして、もっと大きなちがいは……あの時とちがって、二人は同じ事故によって、それぞれの親しい人物を失ってしまった事だ。英二はハイスクール以来の悪友だったホジャ・キンを、ミリーは恋人だった井上竜太郎博士を、同じ〃スペース・アロー〃の遭難によって失ってしまった。
二年以上かかる、太陽系外縁の探査行を終えて無事かえってきたら、その時は出発の時に、マリアとのはげしい情事に溺れていて酌みかわしそこなった酒を、埋めあわせに浴びるほど飲むつもりだったその相手のホジャ・キンは、もうおそらく二度とかえってこない。
その事を考えると、気が滅入りそうになるので、英二は前の時ミリーがすわっていた位置から眼をそむけ、反対側のホログラフ・オブジェを眺めた。
そこでは、ねじれゆらめく、五彩の光の滝の中心で、美しく若い、金髪の初々しい歌手が、一世紀以上前にヒットし、最近また地球周辺でリヴァイヴァルしているという、ビーチャム・サンドクレインの〃青空を呼ぶ《コール・ザ・ブルースカイ》〃を、顔に似あわぬハスキイな声で歌っていた。
火星の空はうす紅《くれない》……
だけど私は、その空の彼方に、
地球の青い空を呼ぶ……
ビーチャム・サンドクレインは、二十世紀末の宇宙パイロットで、ごく初期の火星開発の時、事故で片脚を失い、その後パイロットをやめ、〃火星の吟遊詩人《トラヴアトーレ》〃とよばれるほどの大ヒットしたシンガー・ソングライターになった。当時その歌をきいて、宇宙に生きる事に憧れた若者が沢山いたという……。
しかし、いま、英二は、その歌よりも、恍惚とした表情で歌っている金髪の少女に魅入られていた。
少女はどこかマリアに似ていた。
そのマリアとは、四か月以上前、あのミネルヴァ基地で、青っぽい過激派のリーダーとして出あい、無重力のL・R《ラヴ・ルーム》で狂おしく抱きあって以来……そしてそのあと、木星から地球への短い旅の間一緒にすごして以来、ずっとあっていないのだった。――そのあと、彼女は、彼を地球上の東京で開かれた宇宙考古学会の緊急会議の席上からよび出し、あやしげな店で彼を暴漢におそわせて誘拐しようとした。暴力行為は彼女の意図とはちがったようだが、彼女が妙な教団にはいり、宇宙開発反対運動に熱中している事ははっきりした。
――そんな事はどうでもいいけど、君はいったいどこにいるんだ、マリア……。
と、英二は、ホログラフの少女の像を見ながら、胸の底でつぶやいた。
――君にあいたい……。君と、もっとよく話しあいたい。君にいつも一緒にいてもらいたい……。君と一緒に生きて行きたい……。
それにしても、宇宙は広すぎる……と、またしてもうかんでくるのはこの思いだった。疲れすぎると、この愚痴がうかんでくるのは毎度の事だったが……。「ボーイ・ミーツ・ガール・ストーリイ」というのがあるが、こう広くては、いったい、ボーイはどこでガールに出あえるのだろう……。
「よびよせた上に、待たせて悪かった……」と、エド・ウェッブは太い指で眉間をもみながらいった。「二人きりで、じっくり話したかったものだから……」
「なるほど……」英二は総裁から眼をそらしながら口の中でつぶやいた。「となると、大体用件はわかります。――どれくらいJS計画の工期を急がせればいいんです?」
「四年半の所を二年にちぢめてほしい……。どんなやり方をしても、だ……」ウェッブはちらと横眼で英二を見た。「どうした?――そんな悲しそうな眼つきをするな!」
「悲しんでるんじゃありません。疲れてるんです」
と英二はいった。
6 オレンジ警報《アラート》
「むちゃな事は重々わかっとる……」
太陽系開発機構総裁エドワード・ウェッブは、百六十キロをこえる巨体をゆっくりまわして、英二の方にむきなおった。
「何もいうな。――開発機構内の、動員可能な資材、機材、人員はすべて、そちらのJS計画第一ステップ実現のためにつぎこむように手配した。最初のうちは、なるべく目だたないようにまわしているので、大した事はないが、ある時期からは、太陽系開発機構が全体制あげてとりくむ事になる――。ほかのプロジェクトを延期や中止してでも、JS計画のくりあげ達成を強行する。なにも、今の手もちの資材と人員だけで、五年ちかくかかる所を二年に短縮しろといっているんじゃない。――すべてのスケジュールを、その〃強行達成〃にあわせて組みなおしにかかってくれ、といっているんだ……」
「ランセン部長を通さず、現場の私を直接口説きおとそうというおつもりなんですね」英二は眼を伏せてつぶやいた。「今でさえ、スケジュールはタイトすぎるんです……。その上、この間のように、JADE―3で、宇宙考古学者の調査の手助けをわりこまされたりするものですから、重要スタッフに病人が出たり、中枢システムがやきついたり、むちゃくちゃになりかけています。まあ、いくら資材や人員をまわしてもらったって、もの事には限度ってものがあります。特に、時間というやつだけはどうにもなりません。あまりむちゃをやると、事故がふえるでしょうね」
「死者だけは出すな!」とウェッブはうめくようにいった。「たのむから……私は、いささか心中期する所があって……」
「いったいなぜ、そんなに急ぐんです?」英二は溜息をつきながらいった。
「連邦議会や委員会の方はどうなんですか?」
ウェッブはだまって肘かけについたキイをおした。――壁面ディスプレイに、地球の、どこか山の中がうつりはじめた。山腹の森林にうすい煙が上っており、カメラがズームインすると、飛行機の残骸がうつし出された。
「二週間ほど前、連邦議会の宇宙開発問題特別委員会の委員長が、ほか二名の委員と一緒に、飛行機事故で死んだ。――委員会のバランスは、これで大きくくずれる。議会に対する影響力も低下するだろう」ウェッブは、眉間に拇指をあてた。「……このごろ、地球では、また保守化の傾向が強まりつつあって、ムードとして、宇宙開発に対する反感が高まっている。宇宙空間にすんでいる連中と、地球に残っている連中との間の感覚や物の考え方のギャップが、めだちはじめているからな……。もっとも、そういった感情的問題は大した事はないが、厄介なのは、太陽系宇宙の生産性の高さに眼をつけて、その政治、経済、開発を、地球政治のシステムに大きくとりこもうとねらっている勢力が擡頭してきた事だ。――連中は、もうかなりな所まで、工作の手をのばしてきている。とにかく、太陽系宇宙の〃自己宰領権〃を、議会をつかって、極端な場合には、凍結にまでもちこもうというわけだ……」
「つまり総裁を更迭しようとしているわけですか?」
「そんななまやさしい事じゃないだろう。太陽系開発機構そのものを改組――場合によったら廃絶して、もっと連邦議会の自由になるような組織を新しくつくるプランをもっているらしい……」
「でも……そんな事になったら、宇宙空間で働いている連中は、協力しませんよ。というより、協力したくても、できなくなるでしょう。意気阻喪し、混乱し、悲しくなってね……」英二はちょっと間をおいてつけくわえた。「宇宙空間の生産性や技術革新力はがたおちになり、荒廃してしまいますよ」
「そんな事は、計算ずみなのだ。連中――特にシャドリクという男はな……」どういうつもりか、ウェッブは、ニヤッと歯をむき出して、英二をおどかすような顔つきをした。「宇宙開発や、宇宙居住者の社会が大混乱を来しても、そこに統治原則を貫徹させるためにはやむを得ない、と思ってる奴だ。彼にしてみたら、現在の五億の宇宙居住者を、総入れ替えしたい、ぐらいに思っているだろうな。――奴は奴で、鋼鉄の信念をもっている。その信念にもとづいた、すごいパワーをもっている。彼は彼なりに、〃宇宙文明〃のあるべき姿について、ヴィジョン、構想をもち、それに関しては、一種堅固な哲学さえもっている。シャドリクにしてみたら、人類の宇宙進出、太陽系開発は、何となく、ずるずると拡大してきてしまって、このまま放置すれば、地球文明の統制のきかない、野放しで行儀の悪いものになってしまう事を、大いに憂慮し、今が大鉈をふるう最後の機会だと腹をきめたらしい……」
「一度あってみたいですね……」と英二は眉をひそめながらつぶやいた。「すごい家父長型の人物みたいだな」
「あわん方がいい。威厳があり、人を深くひきずりこむような魅力をもった人物だ……。わしとは対照的だな。わしはどうも、彼を長い間、からかいすぎたみたいだ。――もう大方五十年もの間、やつをかげで茶化し、やつの伸ばしてきた腕をひょいひょいとひっぱずしては、鼻をあかしつづけたからな……。彼は堂々たる家父長的威厳があるのに、わしはまるで、いたずら小僧みたいだった。九十ちかくなっても、やつはぴしっとして、鞭みたいに恰好いいのに、わしはごらんの通り、月面特製のミート・ボールみたいだ。そのくせ、やつをからかったり、はぐらかしつづけた……。わしもちょっとやりすぎたかも知れん。一種、反射的にからかいたくなるんだが……それがやつの怒りと憎しみを長年にわたって蓄積してしまった……」
「今の太陽系宇宙には、威厳がないっていうんですか?」
「汗くさくて、やっつけで、秩序も品格もない、というわけだ。――君もそう思わんか?」ウェッブは鼻の頭にしわをよせて苦笑した。「それも見解の相違だが……わしは、新しい世界の形成や進化というものは、いいかげんなもので、いつの間にかずるずるとできてしまうものだと思っている。若々しい、一見無秩序と思えるほどの自由がなければ、新しいものなどうまれてこない、とな。秩序や威厳などというものは、あとから、おのずと形成されてくるもので、そうなった時は、産みの親から自立する時だと……ところが、シャドリクは、そうは思っていない。秩序や威厳は、人類がそのきびしい文明の歴史の中からつくり上げてきたもので、それは先行者から、きびしくたたきこまなければ、野獣の社会のようになってしまうと思っている……」
「それで――その人物の拇指をまたかわすために、JS計画の工期を半分以下にちぢめろというんですか?」英二はウェッブの長広舌をさえぎった。「もし、あまり無理をして、大きな事故でも起ったら……かえって相手に口実をあたえる事になりませんか?」
「今なら……何とかできる」ウェッブは表情をひきしめていった。「ただ――三年後に大統領選がある。いまの大統領は、わしの味方だが、高齢だから、次の大統領選には、出馬しない公算が大きい……。それまでに……こちらもやつに対して、最後のばくちをはってみたい……」
わかりました――と、つぶやいて、英二は椅子から立ち上がった。
何だか、ぐったりと疲れ、頸筋から肩へ、ずしんと重いものがのしかかっているような感じだった。五年ちかくかかる工期を、二年に、どうやってちぢめたらいいか……その事を考えると、心臓がつぶれそうな息苦しさをおぼえた……。
「わしの宇宙開発に、唯一の欠点があるとすれば……」と英二から視線をそらしながらウェッブはつぶやいた。「それは……性急すぎることかも知れんな」
「それはみとめますね……」と英二はふりかえっていった。「五年ちかくかかる計画を二年でやれ、なんていうんですからね」
ウェッブは黙って、壁面ディスプレイのスイッチを入れた。――月軌道系ニュースらしい音声が流れてきた。
「本日、太陽系標準時一六二七、L4宇宙コロニイの情報処理衛星で、同衛星のコンピューター・オペレーション・センターにしかけられた時限爆弾が爆発、受付ロビイと、それに隣接する事務室の一部が破壊され、現場にいた四名の男女が重軽傷をおいました……」
総裁室のドアを出かけていた英二は、ちょっと足をとめた。――ふりかえって、画面を見ようと思ったが、次のオニール中継点《ジヤンクシヨン》行きのフェリーの時間がせまっているので、船内で見る事にして、そのまま部屋を出て行った。背後で、ウェッブが低い声で、
「また、あの連中か……」
と、うめくのがきこえた。
「爆弾は、工具袋に入れて、センターの受付近くにおかれており、爆発と前後して同衛星の管理本部前で、地球から来た十数名の男女がさわぎを起し、本部の受付の機材その他を破壊し、衛星保安部に逮捕されましたが、そのうちの数名が、オペレーション・センターの時限爆弾は、自分たちがしかけたと言明しました……」
ニュースは慎重に、保安要員に連行される若者たちの名前はいわなかったが、カメラは何か叫びながら車につれこまれる顔はうつし出していた。それをながめながら、ウェッブはちょっと眉をひそめた。
「英二……」とウェッブは声をかけた。「あの娘は、いつかミネルヴァ基地でさわいだという君の幼馴染みじゃなかったかな?――マリア・ベースハートとかいう……」
返事がないので、入口の方を見ると、ドアがしまり、英二の姿はなかった。
ウェッブは、椅子の背にもたれて、画面をもう一度見た。――エアカーの走りさったあとに、プラカードや折りたたみ式のスチール・ロッドが散乱し、そのプラカードの一つに「宇宙の独裁者、暴君ウェッブを罷免せよ!」と書かれてあるのが、ほんの一瞬うつった。
――宇宙の独裁者……おれが?
と、ウェッブは苦笑した。――そのうち、彼は、くっ、くっ、と軽い声をあげて笑いはじめた。彼がまだ幼児だったころ、ほかの幼児たちと同様に熱狂した、子供向け宇宙もののテレビ映画やアニメーションの中で、単純にステロタイプ化した「悪玉」の中に、実にしばしば登場するのが、「宇宙の独裁者・暴君」というキャラクターだった事を、ふと思い出したからだった。あのころ、小さな拳を画面にむけて、そうだ、やっつけろ! と叫んでいたその対象に、八十年たって、いま自分がしたてあげられかけている事を思うと、彼は妙にくすぐったい感じにおそわれた。
デスクに肘をつき、眉間に指をあてて、なおくっ、くっ、と際限なく忍び笑いをつづけながら、ウェッブは、ふと、今自分はひどくふけこんで、さびしげな顔をしているのではないか、と思った。
彼がもう見ていない画面の中で、キャスターはワイプで画像をいれながら、なお淡々とニュースをよみ上げつづけていた。
「なお、オペレーション・センターでの爆発のため、爆弾のもっとも近くにいた、月面シューベルト通信基地副主任のヤン・タオルン氏は、片脚切断の重傷を負い、出血多量のため、目下危篤状態にあります。そのほかの負傷者は……」
月の裏面のライプニッツ火口《クレーター》から、月軌道フェリーでL5宇宙コロニイのオニール中継点《ジヤンクシヨン》へ、さらにそこから、外惑星行きの、もっともはやい便をさがして、英二は木星へむかった。
外惑星行きの旅客定期船《ライナー》は、設備がよくて体は楽だが、火星、小惑星帯とよって行くため、どうしても時間がかかりすぎる。――そこで、英二は、オニール中継点《ジヤンクシヨン》の航行コンピューターをぎゅうぎゅういわせて、多少無茶かも知れないが、しかし、最も早い方法をわり出した。
オニール中継点《ジヤンクシヨン》から、宇宙空軍の――「軍」といっても、実体は、危険、緊急作業や、長距離パトロール、救難活動が主だったが――の、救助艇《レスキユー・ボート》を出してもらって、月軌道から少しはなれた所で、燃料つみこみと最終点検をやっている工作船をつかまえる。工作船の出発には、ぎりぎり十五、六分の余裕で間にあうはずだった。
コンピューターが必死になってあちこち問いあわせてしらべたその工作船の仕様によると、小惑星帯でつかうのに、納期が急にきり上げられたため、特別の高速ブースターがとりつけられてあった。――作業区は五、六十人がはたらけるが、運搬の途中は閉鎖されている。操縦区は、ふつう十六人が起居できるが、「運び屋」は人手不足のため、たった五人だった。そして、もし英二が、手つだってくれるなら、二人一組三交替の当直《ウオツチ》が組めるので、急いで一人分、居室を用意してもいい、と「運び屋」のチーフはいってきた。
「途中、ちょいスピードをあげてもらえるかい?」と英二は、出発準備を急いでいるチーフにかけあった。「大した事じゃない、秒速にして、五、六キロほどだ。七キロあげてくれたら、特別の入れあわせをする……」
「無茶苦茶いうな!」と、チーフはどなった。「余分の燃料をどこで手配してくれる?――フライト・プランだって変えなきゃならん……」
「燃料は途中で何とかする。ブースターの燃料をつかいきったら、タンクごときりはなせば、それだけあとの操船が楽だろう?」
「おい!――いったい何を考えてるんだ? 運送指令には、ブースターも一緒にとどける事になってるんだぞ! そいつを途中のどこかへすててくりゃ、あとで懲罰もンだ……」
「マーカーをつけて、火星軌道までの間においとけば、あとからそこらへんの救難曳船《タグ》にひろわせるよ。――おれが責任もつ」
「あんた誰か、運航本部にコネがあるか?」
「直接はないが、すぐ手をまわす。嘘じゃない。――ひきうけてさえくれたら、そちらへつくまでに、話をつける……」
「誰だ、その手をまわす相手は?」
「おやじだよ……」と英二はいった。「ウェッブ総裁だ……」
相手はちょっと沈黙した。――しぶしぶといった態で、OKを出したあと、通話をきる前に、運送屋のチーフは捨てぜりふのようにいった。
「どうあろうとも、この船にのりこむ前に、一応は身体検査をさせてもらうぜ。――あんたまさか、この船をハイジャックするつもりじゃないだろうな……」
実をいうと、半分そのつもりだった。――「ちょっとした運行予定変更」の中に、最終速度のアップのほか小惑星帯についたら、火星発木星行きの高速貨物船《スピード・カーゴ》とランデヴーさせるアイデアがはいっていた。もしうまく、それに乗りうつれたら、定期船であちこち寄港して行く日数の、ほぼ三分の一で、ミネルヴァ基地に帰還できる……。
それから、宇宙空軍の救助艇《レスキユー・ボート》を緊急発進させるために、もう一度ウェッブ総裁と話をした。――さらに、工作船の予備燃料の中途手配、きりはなしたブースターを、宇宙空間の「どこかで」ひろって小惑星帯までとどけてもらう手配……。ウェッブは、たちまち一切の必要な措置をうけられるような「お墨付き」を、月から全太陽系空間の要所要所にむけて発行してくれた。
「ああ、それから……」とウェッブは通信をきる前につけくわえた。「さっき、情報処理衛星で起った、爆弾とデモさわぎ……あの地球からの若い連中の中に、君の、例の幼馴染みが、またいたぞ……」
「マリアが?」と英二は思わず絶句した。「どうせ、こっちには裁判権がないから、また地球送還でしょうが……もしチャンスがあったら、総裁からよく話してやってください……」
宇宙救助隊本部から、英二は小型の超高性能コンピューターを借り出した。それをつかって、ミネルヴァ基地へかえる途中、JS計画の短縮のための、プランを練るつもりだった。――ミネルヴァ基地には、かえりついたらすぐ、緊急会議を開くことを通知しておき、その会議の内容は伏せておいた。彼がいないうちに、連中がこの「短縮命令」の事を知ったら、それこそストライキか叛乱でも起りかねなかった。
工作船が、発進して間もなく、チーフが英二をブリッジによび上げた。
「ちょいとコースを変えるぜ……」と、ディスプレイをさしながらチーフはいった。「管制本部から、この附近航行中の全船舶に、オレンジ警報《アラート》が出た……」
7 マリア
「オレンジ警報《アラート》?」
英二はびっくりして、ブリッジの表示パネルを見まわした。
「一体何が起ったんだ?」
「わからん……。ただ、この附近航行中の全宇宙船は、それぞれのフライト・プランをフリーにし、航路管制局の指示にしたがえる体制をとれ、といってきた」
「いつまでだ?」
「わからんが、そんなに長い事じゃないだろう。いま、前方のセクターから順番に、変更コースの指示が出はじめている。もうじきこちらにも、指示が出るだろう……」
「指示がはいってきたぞ」
と、当直《ウオツチ》が、パネルに点滅し出した光点を見ながらいった。――アルファベットと数字の表示があらわれ、三次元の色彩図形が投影されて、ゆっくり回転する中を、コース指示のマークが、すうっとのびて行った。
色彩図形の上を、うすいカラーバーが左端から右端へむけてワイプして行き、工作宇宙船の電子脳《ブレイン》が、管制局からの指令をよみとりつつある事を示していた。
「ははあ、大した事はないな……」と「運送屋」のチーフはパネルを見ながらつぶやいた。「一時間か一時間半のおくれで、もとの予定コースへもどれそうだ。――畜生! もっとおくれりゃよかったのに……」
チーフは、英二の方をむいて、ニヤリと歯をむき出した。
「一日か二日おくれちまって、小惑星帯あたりで、定期船《ライナー》とランデヴーしそこねて、うろうろすりゃよかったんだ」
「冗談はいわないでくれ……」英二はほっとしながら笑いかえした。「それより、その一時間か二時間のおくれをとりもどすスケジュールを考えてくれよ」
船は管制局によって指示された新しい迂回コースをとりはじめていた。図形表示のあちこちに、近くを航行中の宇宙船が、いっせいにコースをかえはじめ、それぞれの迂回路をとりはじめるのが、光点の動きであらわされていた。
「なんだ、あれは?」
英二は、その図形表示の下方からうかび上がってきた、大きな円形の光点に気がついて、眼を見はった。
「何だかわからん……。すごくでかいものだ……」
と当直《ウオツチ》はいった。
円形の光は、地球上ならサイレンにあたる、けたたましい警報電波を発しながら、大変な高速で、あたりの宇宙船が迂回によってあけた空間にとびこんできた。警報電波は、光の円形の一部に、強く輝きながら点滅する赤い点で表示されている。
「あれを通すために、コースをよけさせたのか……」とチーフはつぶやいた。「あんなでかいものを、まるで気の狂ったようなスピートでとばせやがって……いったい何があったんだろう?」
「映像を出してみようか?」当直《ウオツチ》は、コンソールに手をのばしながらいった。「この距離ならうつるはずだ」
「出してみてくれ」と英二はいった。「あれがいったい何だか知りたい」
当直《ウオツチ》はスイッチをきりかえ、超望遠カメラをいっぱいにズームさせた。
巨大な――直径数キロはありそうな、椀型の構造物が、尾部からいくつもの、青白い核融合ロケットの炎をひきながら、すさまじい勢いで画面を斜め下方から上方に横切って行く。
「電波望遠鏡衛星だ!」
と、英二は叫んだ。
「あっちの方でもすっとんで行くぜ……」とチーフは、はるか遠景の青白い炎の点をさしていった。「二つ……いや三つだ……」
「いったい、何があったんだ?」
英二は胸さわぎを感じながら、画面を横切り、眼のくらむような、核融合の炎をこちらにむけて、遠ざかりつつある巨大な電波望遠鏡衛星を見つめた。
「何だか知らんが……電波望遠鏡衛星の大移動だ……」当直《ウオツチ》はうめいた。「見ろよ。あんなでっかい核融合ブースターを六つもつけているぜ……」
太陽を中心にして、半径一億八千万キロの軌道の上に、数百個の「望遠鏡衛星」がめぐっていた。
そのうちのあるものは、巨大な光学望遠鏡であり、あるものは電波望遠鏡、赤外線、紫外線、X線、ガンマ線観測用のものであり、多くは無人であり、有人のものは「天文台衛星」とよばれ、自走装置のあるものもあれば、ないものもあった。
いま、そのうちの数十個の各種望遠鏡衛星が、この惑星型軌道上にこれらの衛星群が設置されて以来、はじめての「大移動」を開始していた。――緊急配備によって、かきあつめられた大小の核融合ブースターをふかしながら、これらの衛星群は、太陽の赤道面に平行な、惑星型軌道からはなれ、太陽の子午線に平行な「極軌道」をとるべく、移動しはじめたのである。地球と火星の軌道の間にうかんで、めぐっていた「輪」の一部がはがれ、はずれた部分が、太陽系をめぐる諸惑星の軌道に対して直角に起き上がりつつあった。
基線三億六千万キロメートルのこの電波、X線観測装置群のねらうところは、太陽からはるか千億キロ乃至千二百億キロはなれた一点――あの不幸な〃スペース・アロー〃が、粉々にくだかれて暗黒の空間にのみこまれたあたりだった。
「あの娘はどうした?」
二十数時間ぶっつづけで、次から次へと指令を発しつづけ、やっと一息をつく事のできたウェッブは、L4宇宙コロニイの保安局をよび出してきいた。
「まだそちらにいるか?」
「いえ――、地球の方から、連邦法務局を通じて身柄引きとりの要請があったので、さっきおくりかえしました……」と保安局の男は、しぶい顔でいった。「酒に酔っぱらって、自分が爆弾をしかけた、とわめいていた二人の男だけは、抗告をやって足どめしましたが、これも一応とりしらべがすんだら、ひきわたさざるを得んでしょう。何でも弁護士が地球からこちらへむかったといいますから……」
「重傷者の、何とかいう通信技術者はどうだ?――何とか命はとりとめたか?」
「とりとめました。――しかし、爆風をもろにうけたのと、片脚が完全にふっとんで、出血多量のため、かなり療養しなければならないし、後遺症が残りそうです……」
保安局の男は、ちょっと言葉を切って、ウェッブの顔色をうかがうような眼つきをし、ぼそりとつけくわえた。
「ひょっとすると、重度身障者になるかも知れません……」
いっそ……とウェッブは瞬間、暗い眼つきになって思った。――いや、それは考えてはならん事だ……。
宇宙空間における裁判が、複雑にこんがらかった「準属人主義」ともいうべき立場をとる、という事は、最初は宇宙開発が軍事組織とまでは行かないまでも、高度の規律と士気を前提とするシステムだったからだ、とウェッブはきいていた。――しかも、初期では、宇宙空間で働く人間は、一人一人が高度な技術をもった貴重な存在であり、一方、地球は一時、国際間の利害が紛糾し、末端司法関係も極度に混乱していた時期があり、宇宙から地球へ出張するものが、それに巻きこまれてひどい眼にあう例がふえてきたため、暫定的な措置として、さまざまな特例を附してそういうとりきめが行われた、という。
通称「宇宙裁判所」というものは、ある事はあるが、人口五億にも達したにもかかわらず、ほとんど大きな裁判はひらかれた事はなく、重過失の認定が行われるぐらいで、紛争らしい紛争もなしにすごしてきた。――地球はその間、荒廃と繁栄の奇妙な混合状態がつづいた。その間、地球の「経済」をささえつづけたのは――「食料」にいたるまで――宇宙空間の高度な生産性とイノヴェーションの成果だったのである。
だが、いま、その古い昔に、暫定的にとりきめられて、そのままになっている裁判権が逆用されてきた。――地球からの旅行者は、宇宙空間で何かを起しても、裁判は地球でうける。宇宙空間の保安機構は、「逮捕権」はあっても、裁判権はもたないのである。もちろん、起訴に参加はできる。しかし、コンピューターがパンクするほど、起訴状が山積している地球での裁判では、いつ公判が開かれるかわからないし、大抵の事は、お粗末な略式裁判でかたがつけられてしまうし、開かれた所で、地もと有利なのは当然だった。
これまでは、しかし、大した事はなかった。――あっても観光客の起すばかばかしい事件ぐらいだったし、宇宙居住者は、地球で全く犯罪を起さなかった。そもそも、地球上での犯罪発生率が依然として高いのにくらべて、宇宙空間は、犯罪発生率ゼロという、一種奇妙な社会だったのである。
しかし、いま、その「準属人主義」が太陽系社会の攻撃に、逆用される兆候が出てきた。――ただ一つ、特例として、殺人罪に関してだけは、逮捕権以外に、拘束して取りしらべる権利が発生する事になっており、もし重傷をおった月面シューベルト通信基地副主任のヤン・タオルンが死ねば、いま保安局に留置してある二人の男を、二週間拘留する事ができる。
「それから……あのプラスチック爆弾がどういう経路で地球からもちこまれたかをしらべてみたんですが……」と保安局の男は、顔をひきしめていった。「危険物移動許可のチェック・コードが、どうももれているらしい形跡があります。――宇宙港の各関門の自動チェック装置の記録を全部しらべているんですが……この所、貨物や小荷物で、指定危険物や準危険物の移動が多く、その中で、どうもあれは、自動チェック装置のパス・ワードがどこかにくっついていたため、通過させてしまったらしいんです」
「チェック装置のコードを組みかえただろうな?」
「もちろん、組みかえました。しかし……これはまだ危惧にすぎませんが……どうも、コードが大もとの所で、どこかへ洩れているような形跡があります」
ウェッブの眉根にぐいと深いたてじわがよった。
「地球からの旅行客だけ、自動チェックを停止して、全員直接手荷物検査と身体検査にきりかえろ、というんじゃないだろうな?」とウェッブはいった。「そんな事のできる人数がいまどこからしぼり出せる?――おまけに、地球籍の旅行客だけ、特別にそんなあつかいをしたら……」
「もちろん、いまの状態で、そんな事ができないのはわかっています……」と、保安局の男はがっくりと肩をおとしていった。「ですから、どうしたものか、と思って、目下協議中なのですが……」
「とりあえず、コードの組みかえを頻繁にやってみろ。もちろん頻度はランダムでだ。それで様子を見てみろ。――これは私の提案だが、もっといい方法があれば、すぐ実施していい。たとえば……地球からの荷物チェックだけでも、自動チェック装置に、若干監視員をつけくわえるとか……」
「わかりました。――つたえておきます……」と保安局の男はいった。「それから……マリア・ベースハートの身柄は、もう地球へおくりかえしましたが、保安局で彼女とかなりじっくり話しあった女医がいます。彼女とお話になりますか?」
「もういい……」といいかけて、ウェッブはふとききなおした。「保安局で……というと、ママ・ダウか?」
「そうです」
「じゃ、ちょっと話してみよう。しばらくぶりだ……」
画面がきりかわると、黒い髪に褐色の肌をした、堂々たる体格の美しい初老の女性がうつって、ウェッブにほほえみかけた。
「しばらく、総裁」とママ・ダウはいった。
「ずいぶんとまた、白髪がふえましたね」
ママ・ダウ・ティン・キン――姓をもたないビルマ系民族の女性なので、ダウは「伯母さん」という意味の女性敬称なのだが、ここではみんなママ・ダウとよんでいた。六人の子供をりっぱに育て上げ、もちろん数人の孫もいたが、彼女は一人で内科、外科、産婦人科、精神科の博士号をもち、しかもなお、現在第一線で治療にあたっている女傑だった。
「保安局につれてこられた時、マリア・ベースハートは、ひどいヒステリー状態でした。暴れるので、鎮静剤をうちました。――別にお酒や薬を飲んでいるようではありませんでした。――もっとも、薬の方は、何か常用しているものがあるのかも知れない、という感じがしましたが……このごろ、地球では新種昂揚剤の副作用のチェックがいいかげんですから。でも、精密検査の暇はありませんでした……」
「本田英二の恋人だ。おぼえてるだろう、ミネルヴァ基地の……ほら、二つの時に、君に小便をひっかけた、手に負えない腕白小僧の……」
「知っています。――彼女がみんな話してくれました……」とママ・ダウはうなずいた。「鎮静剤がきいてくると、今度は泣き出して、自分からみんな……」
ママ・ダウは、ふっ、と溜息をついた。
「すてきにきれいな……それにいい子ですわ」
「じゃ、いい子にして、あまり遠くまで出かけて暴れたり、爆弾をしかけたりしないようにこのつぎ会ったらいいきかせてくれ」
「不幸な事に、彼女は深く傷ついています。――彼女が十三の時、両親が、火星から地球へ行く旅客宇宙船の事故で死んだ事はご存知ですか?」
「いいや……」
「彼女にそっくりだった母親は、その両親の強い反対をおしきって、月勤務の、マリアの父親と結婚しました。マリアが三歳の時、再度の反対をおしきって火星へ移住したそうです。――両親を失って、彼女は地球の祖母のもとにひきとられましたが、その時はもう、三つ年上の英二と、恋仲だったそうです。祖母にそれが知れて、おそろしい娘だと、ひどく叱られたそうですが……」
「早熟な子は早熟だ……」とウェッブはぶつぶついった。「だからどうだというんだ?」
「祖母は、母親に似ていたそうですが、半面、旧家の資産家の娘で、死んだ祖父は養子で……ひどく旧弊で傲慢な人だったようですね。祖母はくりかえし、マリアの父親と、自分を裏切って結婚して宇宙へ行ってしまった母親の事を罵り、呪ったようです。執拗に……くりかえし……時には体罰さえ加えながら……」
「それで、その傷痕のため、宇宙を呪うようになったのか?」
「待ってください。そう単純な事ではありません。――ここから先は、マリアの支離滅裂な話から、私なりにまとめ上げた推測ですけど……それでも、彼女は英二を深く愛しており、英二も彼女を熱烈に愛していました。彼女は火星に手紙を出したり、電話をかけたりしようとして、監視役の女執事に見つかって、ひどくいためつけられたりしたそうです。でも英二が、何かで地球に来た時、二人は何度か密会し、彼がかえったあとでそれが祖母に知れて……その時の祖母の怒りようといったら、人権委員会が動き出す寸前まで行ったようですわ……」
「そのばあさんはまだ生きているのか?」
「いえ――何年か前に死にました。その直前に、彼女は宇宙都市で、英二とはじめて本格的に愛しあったようです。そして帰ったら祖母がすぐ死んだ……」
「もうこわいものはないじゃないか……」
「でも、祖母の呪咀は、彼女の心の底に残っています。――両親をうばった宇宙に対する恐怖と、怨恨と……それが祖母への恐怖とかさなって……。マリアは、宇宙を恐れ、呪い、そして、今また英二を宇宙に奪われる事を恐れ、とりもどそうとしています……」
「今、遺産でくらしているのか?」
「祖母は遺産を、ぜいたくな動物保護財団に寄附し、彼女はそこの名目的な理事として生活費をもらっています。ただし地球に住むかぎり……。そして、そこを通じて知りあった、ある宗教団体で、彼女は、〃恐るべき祖母〃のイメージをもった女性と、〃地球にいて、祖母の喜びそうな事をやっている父親〃のイメージをもった男性にであったようです……」
「緊急通話……」と画面にブレーク・インのサインがひらめき、電子脳《ブレイン》がいった。「連邦副大統領と、世界天文学連合会長と二元ではいっています」
8 衝突進路《クラツシユ・コース》
「緊急通話か?」ウェッブは、ぐいと片方の眉をあげて画面にいった。「一分間、つなぐのを待ってくれ……」
「私はもう、申し上げる事はありませんわ……」とママ・ダウは、ふっと肩で息をついていった。「マリア・ベースハートが両親の死と、祖母の圧力からうけた、深い精神の傷痕の構造について、わかっている事はみんな申し上げました……」
「今度はこちらから、たずねたい事がある。――たった一つだけだ……」ウェッブは、ちょっと唇をしめしてささやくようにいった。「マリアの……あの娘の、心の傷とそこから由来する一種の強固なルサンチマンや固定観念は、何とかときほぐせないものだろうか?」
ママ・ダウは、褐色の美しい顔を曇らせて、長い睫毛をふせた。
「それができるのは――あの娘《こ》の恋人……本田英二だけでしょうね」とダウ・ティン・キンは首をふってつぶやいた。「あの娘《こ》の英二に対する熱烈な愛情が、さっき申し上げたように、〃宇宙〃という恐ろしい悪魔によってさまたげられている、と心の底で思いこんでいるので、……彼に対する恋しさがつのればつのるほど彼女は過激な行動に走るでしょう。――一番いいのは、英二がしばらく地球にいて、彼女の傍にいてやり、深い愛情をもって、すこしずつ彼女の心のむすぼれをときほぐしてやる事ですけど……」
「やはりそうか……」ウェッブはママ・ダウの顔から眼をそらした。「だが、気の毒だが……宇宙の方では、いま英二を手放すわけに行かん。――いずれ、一段落つくまではな……。ありがとう、ママ・ダウ、あんたの話でかなりわかってきた。もし、地球の方に、あんたの信頼できる精神医がいたら、マリアの事を注意するようにいってやってくれないか?――では……」
そういってウェッブは画面をきりかえ、
「よし、つないでくれ……」
と電子脳《ブレイン》にいった。
「これは、第一級極秘通話です……」と電子脳《ブレイン》はいった。「連邦副大統領から要請です。――処置のチェックをねがいます……」
画面中央に、TOP・SECRET―A1の赤い文字が点滅していた。――ウェッブは、すばやく肘かけの上のキイをおして処置をとった。
TOP・SECRETの文字の色が次第にオレンジ色から黄色にかわり、やがてグリーンにかわって点滅もやんだ。――これで総裁室のドアは完全にロックされて、通話中誰もはいってこられなくなり、通話回線の秘密チャンネルには、乱数をコードにつかったスクランブルが三段階にはいって、絶対に盗聴できないばかりでなく、その回線の通常チャンネルには、過去の通話記録から電子脳《ブレイン》が適当に合成してながす、「みせかけ《ダミー》」の映像通話が流される、といった念の入った処置がとられたのだった。
それでもウェッブは、さらに用心して、インカムをつけ、スピーカーからの音声をオフにして、OKボタンをおした。
ピッ、とスクランブルのはいっているサインの信号が画面に閃いて、地球上のシュクロフスキイ連邦副大統領と、L5宇宙コロニイの研究所衛星《ラブサツト》2にいる、ナーリカー世界天文学連合会長の顔が、画面にならんでうつった。
「これは副大統領閣下……」とウェッブはいった。「ナーリカー会長……お二人おそろいで、珍しいですな。――何かよほど重大な事件でも起りましたか?」
ナーリカー会長は白い髯にうまった浅黒い顔を、ちょっとひきしめてしゃべり出した。
「ブラックホール……ですと?」ウェッブは眉をひそめた。「それが、太陽系のそんなに近く……で、何か、太陽系に影響がありそうですか?」
月の裏面のライプニッツ火口《クレーター》にある太陽系開発機構本部――そこから、地球へ、またL5の研究所衛星《ラブサツト》へ、それぞれ三十六万キロ以上はなれている。電波は片道一秒余、往復で二・四秒かかり、慣れてはいるものの、会話が熱してくると、その「間《ま》」はもどかしいものになる。
「まだはっきりしたわけではない。例の〃スペース・アロー〃の遭難事件をしらべていた、彗星源特別探査計画本部の連中が、偶然それらしい兆候を発見し、いま、惑星軌道天文台群の一部を動かして、太陽赤道面に直交する軌道にのせ、〃スペース・アロー〃の遭難地点へむかって、精密観測をはじめた所だが……」
とナーリカー会長はいった。
「で――見つかりましたか?」
「まだはっきりと、わかったわけではない。いくつかの光学望遠鏡衛星が、それに起因すると思われる現象をとらえたが、まだほかの天文台衛星と協力して、その位置や、本当にブラックホールかどうかをたしかめている最中だ……」
ナーリカー会長は、ちょっと言葉をきった。
「もし、それが本当にブラックホールとするなら……何しろ、ブラックホールは、光や電波や物質をのみこむばかりで、そこからは何も出てこないから、ふつうのやり方では、見つけようがない……」
「ここぞとあたりをつけた空間点を中心に、その背後のデータのよくわかっている恒星や星雲の像が、重力レンズ現象でゆがむのをとらえるよりしかたがないでしょうな……」とウェッブはうなずいた。「それにしても……あまり大質量のものではなさそうですな。太陽より質量がうんと大きければ、方向によっては、遠い外惑星の軌道が、多少とも摂動作用をうけるでしょうから……」
「いまの所……これもまだはっきりしないのだが、もし、このブラックホールとの接触が原因ではないかと思われ出した、過去のいくつかの奇妙な現象が、たしかにその通りだとすると……せいぜい太陽の質量の十分の一程度の、ミディアム・ブラックホールである可能性が強い……」
「ミディアム・ブラックホール?」ウェッブは舌を鳴らした。「本当にそうだとすると……発見は厄介ですな。――シュワルツシルド半径は、わずか数百メートルしかない……」
「それでも相当なものだ。木星の質量の百倍はあるわけだからな……」とナーリカー会長はいった。「それに……」
「ちょっと待ってください……」ウェッブははっとしたように、視線をあげた。「そいつが……本当に〃スペース・アロー〃の遭難と関係があるとすると――太陽からの距離は、千百億乃至千二百億キロメートルぐらいしかはなれていないわけですか?」
「そうだ……」とナーリカー会長は、こわばった表情でうなずいた。「しかも――もし、〃スペース・アロー〃と同じ方向へ、ずっと以前にとばした、彗星源無人探査機CSP―2とCSP―6が、同じようにそのブラックホールの重力の影響をうけて、コースが乱れ、吸収されたものと仮定すると……さらに、それ以前、太陽から○・一光年乃至一光年附近の軌道にひろがっている彗星源のかなりの部分が、そのブラックホールにのみこまれたために、太陽系の外からやってくる彗星の数がへったのだと仮定すると……大体のコースが出てくる。まだ、あくまで仮定に仮定をつみかさねたものにすぎないが……」
「実は、まだその仮定に仮定をつみかさねたものではあるが、ここに一つの危惧すべき可能性が示唆されてきた……」額のはげ上がったシュクロフスキイ副大統領が、青い眼をきらめかせて口を挿んだ。「一つの……政治的危惧だ……」
「まさか、そのブラックホールが、地球にまっすぐとびこんでくる、というわけじゃないでしょうな……」ウェッブは拇指で鼻をこすって、肩をすくめた。「そんな一昔も二昔も前の、三流SFやSF映画みたいな事が、この宇宙で、そうちょくちょく起るとは思えませんな。第一、確率的にいっても……」
「君ほどの人間が、確率というものを、そんなに安直に考えているとは不思議だな……」と、副大統領は、皮肉っぽくいった。「たしかに、まだ仮定の上にいくつも仮定をつみかさねたものにすぎないが――その上での一つの可能性は、そのブラックホールが、まっすぐ太陽にむかってとびこんでくるおそれがある、という事だ」
「だが、太陽系といってもひろいですぞ……」ウェッブは副大統領の顔を横眼で見ながらつぶやいた。「何事も起らずに、通りすぎて行く確率の方がはるかに高いでしょう」
「私は、太陽系とはいわなかったつもりだが……」と副大統領はきりかえした。「太陽にむかってといったんだ……」
気まずい沈黙が数秒、三者の間に流れた。
「なるほど……」とウェッブはうめくようにいった。「有能な政治家――特に有能な行政官上がりの政治家は、きわめて慎重な表現をする、という事を忘れていましたよ……。で、その――仮定にさらに仮定をつみかさねた上で出てくる危惧というやつによると……例のブラックホールかも知れないもののコースは、まっすぐ太陽にむかっているんですかな?」
「何度もいうように、これはあくまで、今の所仮定と推測の組みあわせにすぎんが……」とナーリカー会長が話をひきとった。「その――仮にX点とすると――質量点Xの太陽系に対する相対速度は秒速約二千キロメートル、その進行方向は、ほとんどまっすぐ太陽系へむかっている」
「千二百億キロメートルはなれているとすると……最接近するのは、約二年後ですな……」
「そうだ。――仮定されたコースをまっすぐ延長すると、現在の太陽の位置からざっと百六十億キロメートルはなれた位置を通る事になる」
「太陽から百六十億キロもはなれた所を通過するんですか?」ウェッブは、ほっとした表情になってききかえした。「それじゃ、冥王星の遠日点の倍以上はなれているじゃありませんか。――最遠惑星軌道外の航行を注意すれば……」
「エド……」ナーリカー会長は、静かにいった。「君は、たしかに天文学の専門家じゃない。――しかし、君の該博な知識の中に、きっとこの事実は記憶されているだろうと思うんだ。私は、現在の質量点Xの固有運動のコースを延長すれば、それは現在の太陽から約百六十億キロメートルの所を通過するといった。約二年後に、だ。しかし、その二年間に、太陽の方が、ちょうどこれくらいの距離を動いてしまうのだ。つまり――二年後に、そのブラックホールは、太陽にむかってまっすぐつっこんでくる……」
ウェッブは思わず息をのんだ。
九つの惑星をしたがえた太陽は、巨大な渦巻型の、恒星と星間物質のシステムである銀河系宇宙に属している平凡なG型恒星である。
直径十万光年の、扁平な円盤状をかたちづくっている銀河系宇宙の恒星や星間物質は、銀河北極から見て、時計と反対まわりに回転していて、その回転速度は、銀河中心部に行くほどはやく、外側に行くほどおそい。
銀河円盤の面上に、その平均平面よりやや北よりにある太陽系は、銀河の中心から約三万光年――つまり五万光年の銀河半径に対して、その半分よりもやや外よりの所を、銀河システムとともに、銀河の北極から見て、反時計まわりの方向に、毎秒二百五十キロメートルの速度で、動いているのだ。
このスピードだと、一周十八・八四万光年の軌道を一回転するのに、ざっと二億五千万年かかる。――地球上で、二億五千万年前といえば、古生代末期のペルム紀で、爬虫類の最初の先祖が出現したころだ。そのころ、太陽はちょうど銀河経度に対して現在と同じ所にあり、それから一回転してもとの所にもどってくる間に、地球上では、中生代の大恐竜時代の出現とその滅亡、パンゲア大陸の分裂、移動と、哺乳類、鳥類の発生、さらに人類文明の出現と、宇宙進出のはじまりといった、実にさまざまな事があった。太陽系自体、誕生してから約五十億年たっているから、もし最初から、銀河円盤のその位置にあったとしたら、誕生以来、銀河中心を二十回転した事になる。しかし、初期のころの「夜空の星々」のたたずまいは――もちろん星座の形をふくめて――現在とはよほど変ったものであったろう。
いずれにせよ、太陽は九つの惑星をしたがえたまま、秒速二百五十キロメートルで、銀河回転面にそって移動している。その移動距離は、二年間で約百六十億キロメートルである。
「という事は――質量点Xの現在仮想されている運動コースは、太陽系の移動前方を通るわけですか?」ウェッブは念をおした。「そいつは……銀河中心の方向からやってくるわけですね」
「第一仮定によれば……だ」
とナーリカー会長はうなずいた。
「太陽の赤道面に対する角度は? いくらかそれていませんか?」
「それもはっきりしないが、すくなくとも、これまでの仮定から推測すると、ほとんど平行だ。――それに、太陽にある程度まで近づけば、今度はかなりな潮汐力が働きはじめると考えなければならんだろう」
「しかし……それにしても、太陽とのピンポイント衝突《クラツシユ》が起る可能性なんて――いったいどんなに小さな確率が……」
「エド……君が十年ほど前、地球へ来て、連邦上院議員の昼食会でぶった演説というのを、私はまざまざとおぼえているよ。あの時私はまだ、議会の宇宙開発委員会の事務局次長だったにすぎんがね……」とシュクロフスキイ副大統領はいらだたしげに口をはさんだ。「君は、あの時、〃宇宙的環境と太陽系との干渉〃について、六千万年前、白亜紀末の大恐竜の突然の滅亡が、太陽系が当時あった銀経九十度附近の高密度水素腕において起った超新星の爆発による放射線の大量被曝が原因である可能性が高い事が判明した、と長広舌をふるったはずだ……。あの、〃銀河系宇宙の状況と、われわれの太陽系の生物的環境とは、これまで考えられていたより、はるかに深く、ひろいかかわりがあるようである〃という言葉は、あれは君の確信ある本音かね? それとも、特別予算枠拡大のためのはったりかね?」
「まあまあ、副大統領……」とナーリカー会長はなだめるようにいった。「われわれだって、まだ半信半疑なんですから、――まして、エドにとっては寝耳に水でしょうからね……。しかしな、エド、例の一九○八年の、シベリアのツングースカ大爆発について、あれが九分通り、ミニ・ブラックホールの、地球との衝突事件によって起ったという事を、つい最近アスキンとミケシュという若い物理学者が立証した事を知っているかね?」
「知りませんな。ステファン・ホーキングが、ミニ・ブラックホールの存在をいい出したすぐあと――だから一世紀半も前に、ジャクソンとライアンというアメリカ人が、ツングースカの謎の大爆発について、ミニ・ブラックホール衝突説を唱えた事は何かで読みました。――しかし、彼らは、小惑星ぐらいの質量で、大きさにすれば原子一個ぐらいのミニ・ブラックホールが地表から三十キロを一秒間に通過して、大気を十万度Cぐらいの高熱にして水爆なみの爆発現象を起し、そのまま地球をぬけて行ったというが、ぬけ出て行った大西洋側に、衝撃波の現象が起っていないのがこの仮説の難点だという事でした……」
「まさに、その点をアスキンとミケシュは解決する可能性を見つけたんだよ」とナーリカー会長はいった。「彼らは、その原子一つほどの大きさのミニ・ブラックホールが、地球を貫通せず、核《コア》の附近でつかまってしまう確率を計算し、その可能性がきわめて高い事を立証したんだ……」
「いやな事を立証したもんですな……地球はその内部に、原子くらいの大きさのミニ・ブラックホールをかかえこんでいるってわけですか?」ウェッブは大仰に顔をしかめた。「そういえば、太陽内部の核反応で発生する中性微子《ニユートリノ》が、理論値よりずっとすくなくしか観測にひっかからないのは、太陽内部にミニ・ブラックホールがいくつかくいこんでいて、そいつがとらえてしまうからだ、という話もありましたな。ま、そういった学説は、一時のはやりすたりがあって……」
「しかし、この場合、学説とちがって人類社会全体の政治的対応の問題だ」と副大統領はいった。「危機の可能性が、まだ一パーセント未満の段階でも、われわれとしては、秘密に検討を開始せねばならん。ひさしぶりに、君にも地球へ来てもらって、連邦公安委員会の秘密会に出てもらう事になるだろう。一週間以内に、予定をたててほしい……」
「わかりました……」ウェッブはつぶやいた。
「危機が訪れるとすれば……二年……二年前後のうちですな……」
第七章 黒い渦
1 インサイド・パニック
その年、地球の北半球は異常に変化のはげしい夏をむかえていた。
六月に北ヨーロッパは大寒波がおそい、パリとマドリードに降雪があり、モスクワでは一夜のうちに気温が七度もさがって凍死者が出た。一方、アラスカでは、摂氏三十度をこえる熱波が一週間もおそい、雪崩、流氷、蚊の異常発生、動物の大量死が起った。またヨーロッパをおそった寒波は、一週間後中国をおそい、露地農業に大被害をあたえた。
七月にはいって、今度はアメリカ南部に、衝撃的な熱波と乾燥がおそいかかり、アリゾナ、テキサス、ニューメキシコの諸州では、連日摂氏四十三度から四十五度という異常高温がつづいて、ショック死を起す人々が百名をこえ、地方当局は、日中は外出をしないように注意をくりかえし、また一部の施設では病人、老人、虚弱者の五大湖地方への空輸さえはじめるありさまだった。
その熱波のややおさまったころ、メキシコ湾では、中心気圧九百二十ミリバールという大ハリケーン〃ドラゴン〃が発生した。――ハリケーン〃ドラゴン〃はメキシコ湾上をのろのろと動きまわり、キューバの西端に上陸して、中心気圧が九百五十ミリバールにさがり、半径五百キロ以内を風速二十五メートル以上の暴風圏にまきこみながら北東へむかって、動きはじめた。
フロリダ半島南西部海岸にあるジュピター教団本部も、直撃はまぬがれそうだったが、風速四十メートル以上の暴風圏にはいりかけていた。
教団所有のジュピター海岸《ビーチ》には、すでに瞬間風速二十メートルから二十五メートルの雨まじりの強風が吹きあれていた。簡単な小屋や施設は地下に収納され、教団員たちは思い思いに避難を終って、人ッ子一人いないうす暗い浜辺を、猛烈な横なぐりの風雨が荒れ狂い、高さ五メートルもの波が大地をゆすってたたきつけられ、ダイオウヤシの巨木がすでに何本か根こそぎにふきたおされていた。
教団マスコットの巨大なバンドウイルカ〃ジュピター〃は、すでに地下の直径二百メートルの大プールに誘導され、避難していたが、外の風雨のひびきはほとんどつたわってこないにもかかわらず、閘門《ロツク》をへだてた水路を通じて、何となく外の気配が感じられるのか、不安げに猛スピードでプールの中を右に左に泳ぎまわり、時にはプールからとび出しそうなハイジャンプを見せるのだった。教団の教主ピーター・トルートンは――彼もまた嬰児のころ、ミシシッピ下流地方の大地震にともなって起った大洪水によって流された経験をもつため、異変の時は異常に神経質になるのだが――しきりにギターを弾いて〃ジュピター〃を鎮めようとしたが、〃ジュピター〃は、四メートル上の地上に刻々とせまりくる巨大で凶暴な〃ドラゴン〃の気配におびえ、狂ったようにプールを右往左往し、高く低く跳躍をくりかえしつづけた。
歌いつかれたピーターは、物倦《ものう》く眼をあげて、壁面の大画面にうつし出された、気象衛星からの映像を見上げた。――日没線はすでにニューオールリーンズをすぎ、フロリダ半島とメキシコ湾は夜の闇の中にはいって、ハリケーンのつくり出す雲の長い列の渦だけが、わずかに左はしにほの白く見えている。チャンネルをきりかえて、赤外映像にすると、ハリケーン〃ドラゴン〃の渦巻きがつくり出す猛烈な温度差が、毒々しいカラーパターンでうかび上がった。
それは、一億五千万キロはなれた太陽からこの小さな惑星地球にふりそそぐ輻射エネルギーが、その表面に当って一部熱エネルギーにかわり、それが大気と水との気液二相間の熱交換を通じて運動エネルギーとなり、その「地球熱機関」のほんの一部のむらによって生じたちっぽけな渦巻きの一つにすぎなかった。ただ、今それは、地殻乾陸表面上にすむ小さな生物たちにとっては、広範囲にわたってその生存をおびやかされる、どうしようもない凶暴な怪物だった。
この惑星から七億キロはなれた空間にうかぶ、地球の体積の千三百二十倍もある巨大な惑星の上では、同じ太陽の熱エネルギーと、惑星内部から出てくる熱エネルギーが、地球を二つものみこむような巨大なまがまがしい楕円形の赤い渦を形づくっていた。そして……。
そこからさきに、銀河中心の方向へ千百億キロ乃至千二百億キロはなれた空間に、もう一つ、暗黒の「空間の渦」が近づきつつあった。
その「黒い渦」は、地球上の台風や、木星の大赤斑のように、熱エネルギーが物質を動かしてできるものと、まったく性質のちがったものだった。――それは何ものをも吸いつけ、吸いつけるばかりでときはなつ事のない宇宙の奇妙な力、「重力」のエネルギーによって空間が極度に歪められてできた底なし沼のまわりに渦巻く「力場の渦」だった。
巨大な質量が、それ自身の重力で中心部へ中心部へとつめこまれて行き、そこで起る重力ポテンシャルの解放による圧縮熱も、核融合によって放出されるエネルギーも、何ものもこの「集中」をおしかえせなくなってしまった時、その空間は無限小の「点」の中に恒星規模から無限大の質量がつめこまれるという、常識をこえた状態――つまり「ブラックホール」状態になってしまう。そのまわりの空間は、ただ強力な引力の「場」があるだけで、それ以外は何も感知できない。もしそれが電荷をもっていたり、回転していたりすれば、まわりに電場ができ、また光や粒子がブラックホールの重力場によってかえってエネルギーをあたえられて、脱出する事ができる「エルゴ領域」というものが発生するが、もしそういったものさえなければ、ブラックホールのまわりには、その中におちこんでいる質量に応じた範囲の「事象の地平線」というものが存在するばかりである。それをこえて、「内側」へはいったものは、高速の素粒子であろうと光であろうと、何ものも二度と出てくる事はできない。
その内部に、いかに高温度の熱が渦まき、ガンマ線や宇宙線をこえる高エネルギーの光子があろうと、その「事象の地平線」――その内部にある質量によって、その半径はきまり、それをはじめて計算した人物の名によって「シュワルツシルド半径」とよぶが――の内側からは、何ももれ出てくる事はない。その半径は、太陽ほどの質量がブラックホールになったとして、三キロメートル内外である。
最初、恒星は、太陽の約二倍の質量がないと、進化の末期にブラックホールにはなれないと計算されていた。したがって、それ以下の大きさのブラックホールは存在しないはずだ、と……。しかし、一九七○年代、S・ホーキングは、宇宙の誕生時のビッグ・バン現象にともなってできたミニ・ブラックホールの存在とその爆発を予言し、二十一世紀初頭にその予言はたしかめられた。それと前後して一個の銀河規模のブラックホールの存在も、それらしいものが数十億光年はなれた銀河団の中に発見され、つづいて十六歳のラーマン・ラーマンは、恒星と惑星の中間規模の質量をもつブラックホール――いわゆる「ミディアム・ブラックホール」のできる理論モデルを考察し、二○七五年、当時できはじめたばかりの惑星軌道天文台群と、トロヤ群小惑星の一つにおかれた重力波観測班は、三角座銀河系の腕部における大爆発――それは渦巻銀河の腕の一部がふっとぶほどの大爆発だった――の際における重力波を分析した結果、それが太陽の百倍乃至千倍程度の質量をもって連星系をつくっていた二つの巨大ブラックホール、あるいは大ブラックホールと中性子星が「衝突」し、お互いにのみこみあって一層巨大なブラックホールになった現象であり、さらにその際、融合した大ブラックホールの一部が「割れて」、ミディアム・ブラックホールがおそるべき速度でとび出した事もつきとめた。
いま、銀河系第三枝の中にある太陽系の中心へむかって、相対速度毎秒二千キロで「衝突進路」を進みつつある「黒い渦」も、そういったミディアム・ブラックホールの一つだった。――わずか数百メートルの「事象の地平線」の中に、木星の数十倍、太陽の数十分の一の質量をつめこみ、まわりの空間を、その質量と容積に応じた重力でひきゆがめている以外、光も電波も粒子も、何一つ「情報」を放出せず、光であろうと、星間ガスであろうと、宇宙船であろうと、その「重力のすり鉢穴」にすべりおちたあらゆるものをその底なしの中心部にのみこみながら、刻々と、太陽にむかって接近してくるのだった。
「ねえ、おねがい!――誰でもいいから……本当に学生でもいいから、重力理論の専門家を探してよ!」
火星上の、シトニウス総合研究センターでミリセント・ウイレムは、自分でセットアップした宇宙言語解析専用コンピューターの傍で、泣かんばかりにTVフォンにむかって懇願していた。
TVフォンの画面上では、センターのサービス・セクションの男が、げんなりしたように肩をすくめた。
「だから何度もいったろう――リストのすみからすみまで探して、仰せの通り大学院生までチェックした。――サービス電子脳《ブレイン》を締め上げて、昔の論文の方からも洗い出したんだが……どういうわけか、火星も、小惑星帯も、月も、とにかく重力屋という重力屋は、洗いざらい、天文学連合の方にもってかれちまった。宇宙物理屋も、半分以上そっちの方へ行っちまって、手が足りなくてあわててるセクションもある。――木星の方じゃ、JS計画の連中が、狂ったように火星や小惑星から、機械と人員と、工作船をかきあつめているし……いったい全体何があったんだ? あんた知らんか? ミリー……。何だかこの所、えらくあちこちの動きがあわただしくなって行くが……何か事件が起ったのかい?」
その事件が、私の仕事とも関係しているらしいのよ……と、ミリーはいいかけて、口をむすんだ。――なぜ……重力理論の専門家が、洗いざらい世界天文学連合の方へ動員されてしまったか……、また、宇宙物理関係者まで、なぜ、惑星軌道上天文台の方へひっぱられたか……その理由について、彼女とバーナードは、L4の情報処理衛星《インフオーム・サツト》のセンターで、ムハンマド・マンスールからきいて知っていたが、彼との約束のため、今ここでそれをいうわけに行かなかった。
「これだけ探してもいないとなると、むりですよ……」
ミリーの隣で、コンピューターに、こまごまとした「落ち穂データ」を入れていた、モシ・ンザロは、黒光りする顔をしかめて、気の毒そうにいった。
モシは、例の火星極冠融解作戦《オペレーシヨン・デルタ》の時、フォボスにいて、とかされた火星極冠のD6氷床の下からあらわれた宇宙人の「火星メッセージ」を最初にチェックして以来、ほとんど火星にいて、附近の氷床下に残された「ナスカ・パターン」の断片をこつこつと採取し、メーザー・ホログラムにかけ、壮大なジグソー・パズルの一隅を埋める作業をつづけているのだった。
「どうしても重力理論の専門家の協力がほしいんですか?」
「そう――そうなの……」ミリーは端末をとんとんとたたいて、大型ディスプレイに一連の、虫食い文をよび出し、それをさまざまなダイメンションから変型してみせた。「ねえ――ここが、どうやら宇宙人の残したメッセージの中の、過去のでき事に関する数理的説明らしいの。それも、何となく、宇宙物理とからむ、重力現象の事がはいってきているらしい、という所までは、私もバーナード博士もつきとめたんだけど……そこから先は、私たちはどうひっくりかえっても無理なのよ。何しろ、私たちどちらも、理論物理や重力理論の専門家じゃないでしょう? 重力の関係しているある現象について、一般解にしろ特殊解にしろ、専門的知識やコンセプトを欠いていたら、そこに書いてある文章そのものは、何とか逐語的に解読できても、それがいったい、実際に何を意味しているのか、うまくつかめないのよ。電波というものの基本的性質について理解を欠いていたら、アンテナの形状や利得、指向性といった単語をふくむ文章をいくら逐語的に訳しても、結局よくわからないでしょ?」
「あの……」突然二人の背後からおずおずと声をかけたものがいた。「重力理論といいますと……一般相対論や、ブラックホール理論ぐらいでいいんでしょうか?」
ミリーは椅子をがたんといわせてはげしくふりむいた。
そこには、小柄な、しなびた感じの、七十五、六の老人が、油じみた作業衣を着て立っていた。――電子系統の整備員と見えて、両手にコンピューターのさしかえモジュールを持っている。
「あなた、重力理論におくわしいの?」とミリーはせきこんできいた。「失礼ですけど、御専門は?」
「エンジニアですよ……」作業衣の老人はモジュールをデスクにおいて、うすくなった頭をかいた。「でも、まあ、若いころ、柄になく数学と重力問題に凝りましてね……もう五、六十年も前の事ですがね……。二十歳の時、超高速回転するブラックホール……つまりシュワルツシルド半径の周速が、光速に近いスピードで回転するブラックホールにおいて、特異点とエルゴ領域がどうなるか、という論文を投稿して、その年の〃ワールド・フィジックス〃誌で一等になりました。ですから……最近の水準はあまり知らないんですが、まあ基本的な事でしたら、何とか……」
「いいわ。あなたでもいい……。御仕事は?」
「体をちょっとこわしまして……明後日から、L5コロニイの療養所に行きます。ですから、いまはここのあと始末をしているだけで……」
「すみませんけど、ちょっとこれを見てくださる?」
とミリーは大型ディスプレイをさした。
「ええ、さっきから拝見していますよ……」と老人はいった。「ここは……こんな言葉で訳すのはまちがいで、おそらく粒子の対創生とその片方の粒子の〃エルゴ領域加速〃の事だと思います。――ほう……面白いですな。彼らは……例の十万年前に来た宇宙人の連中ですか?……彼らは……ブラックホールから、エネルギーをとり出そうとしていた……。おそらくとり出していた……」
「何ですって?」ミリーは眼をまるくした。「ブラックホールからは、何も出てこないんじゃないの?」
「いや――回転している場合、その赤道面にできるエルゴ領域をつかえば……回転していなくても、充分慎重にやれば、ブラックホール周辺の強い重力ポテンシャルをつかって、物体を加速する事ができます。つまりブラックホールに〃仕事〃をさせる事もできるわけです。ブラックホールが帯電していれば、荷電粒子をつかって、電気をとり出す事もできます。……連中……ははあ……どうやら、ブラックホールをつかって、発電しようとしたのかな?――もうちょっと文章をおくってください……。はて、これはなんだろう?……これは重力量子……これは重力波の式として……なんでここに、レーザーみたいな概念が出てくるんだ?……スピンを増大させて……いや、ちがう……。これは連星の事だろうな。共通重心を相互に高速回転する……ブラックホール連星で……高エネルギー重力波パルサー?……角運動量をあげて、……エルゴ領域をひろげて……二組のB・H連星を?……どうするというのかな?……重力波増幅……干渉……定常波が、どうだというんだ?……重力波レーザー?――」
老人の顔は、突然青くなり、汗が一面にそのしわ深い顔にふき出し、よろよろとよろけた。
「危ない!」と、モシがとび上がって後ろからささえた。
「どうなさったの?」とミリーはハンカチを出して、老人の汗をぬぐった。「おかげんが悪いの?」
「い、いや……」と老人はあえぎながら首をふった。
「すごい話だ……私には……とてもついて行けん……」
「さあ、おちついて……」ミリーは老人を椅子にすわらせた。「そんなにむずかしい理論を追わなくても、私たちの解読を助けてくださったらいいのよ……」
月裏面のH・G・ウェルズ火口《クレーター》にある重力研究所の奥まった一室では、太陽系開発機構総裁エド・ウェッブと、世界天文学連合のナーリカー会長、ヴィンケル副会長、ムハンマド・マンスール、ランセン企画部長、それにブラックホールの権威者たちが、もう二十数時間ぶっつづけに秘密会議を行っていた。――そこへ研究所の秘書室長がはいってきて、あわただしくウェッブに耳うちした。
「大統領府から……おしのびで?」ウェッブは片眉をあげた。「シュクロフスキイだな。――よびつける前に、ひっぱりに来たか……」
2 太陽の傍《かたわら》で
しずまりかえったH・G・ウェルズ重力研究所の地下六階で、かすかに溜息をつくようなエレベーターのドアの開閉する音がひびき、その階の廊下を、何人かのひめやかな足音が一番奥まった部屋にむかって移動しはじめた。
月の裏面にある数多い研究機関の中でも、そこはとりわけしずかな、全体としてひっそりとした雰囲気の研究所だった。――それは、この研究所の設立当初にすえつけられて、もう今となっては時代もので、もうじき記念物になるはずの、巨大な改良ウェーバー型重力波検出装置や、これも古典的な、水星と人工惑星と木星を組みあわせ「太陽振子」として、太陽系全体の重力ポテンシャル分布の変動を測定するキム=ヨーシフ測定器の計数センター――そのいずれもが、きわめて「静謐《せいひつ》」な環境を必要としていた――があるため、というだけではなかった。
ここでの重力研究は、実験的というよりも、甚だ思索的なものになっていたからである。――学者によっては、紙と鉛筆だけで、ほとんどコンピューターもつかわずに、何日間も沈思黙考しながら、あえかな論理の糸のからまりを見きわめようとしている。ある学者は、坐禅を組み、瞑想にふけりながら、とぎすまされたイメージのむこうに、超越的な「何か」のパターンをまとめ上げようとしている。超高級の推論コンピューターを、さらに自分の仮説展開専用にプログラムした、まだ十代の学者は、完全無音室で、コンピューターのすべてのシグナルを無音にして、目にもとまらぬはやさで展開して行く数式やパターンを、頬杖をついて見つめつづけているのだった。
そして、この研究所では、「重力=宇宙記憶説」――この宇宙が、百五十億年前、いま宇宙内にあるすべての物質とエネルギーが一点に集っていた状態から「大爆発《ビツグ・バン》」によって拡散しはじめた時、拡散進行のわずかな局所的不均衡から、あちこちに進行の「おくれ」が起り、そこに生じた時空間の歪みが、質量点となり、拡散をもとの状態にもどそうとする重力として残ったのであって、したがって重力は、宇宙の始元状態の「記憶」である、という仮説や、また「質量空孔《ホール》説」、つまり、重力が常に質量点の中心へ中心へと働き、それに対抗する「万有斥力」が存在しないように見えるのは、大爆発《ビツグ・バン》によってはじまった時空のあらゆる方向にむけての等方的拡散こそが、その「万有斥力」に相当するものであり、したがって、中心にむかってのみ引力を発生する質量点は、この空間の等方的斥力に見あう「正空孔《ポジテイヴ・ホール》」で、これは、この宇宙内に「反物質」がきわめてすくない事とも対応する、といった理論を、もう半世紀以上にわたって、こつこつと検討しつづけているのだった。
そのひっそりとした研究所の、奥まった窓一つない会議室の防音ドアのむこうで、眼を血走らせぎらぎらと顔に脂をうかべた十数人の男たちが、この二十数時間、一歩も部屋から出ずに、時には大声でどなりあい、あるいは卓をたたいて長広舌をふるい、通信器や電子脳《ブレイン》にむかって、かみつくような早口で、次々に気の狂ったような指令を発しつづけていた。
その会議室へと通じる廊下を、四、五人の足音が、エレベーターホールからつきあたりの防音ドアにむかって近づいて行った。――足音のほとんどしないスニーカーをはいているのは、シークレット・サービスらしかった。その数足のスニーカーにかこまれるように、片足をややひきずるような、ゆっくりとした靴音が、ステッキをつく、こつ、こつ、という音をともなって、廊下を移動して行く。
防音ドアの前で一行がとまると、先導していた屈強の男の指先が、ドアの傍の10《テン》キイ・ボードの上をすばやく走った。――一呼吸おいて、キイ・ボードから低い声が流れ、それに対して、男は、同じような低い声でパス・ワードをささやきかえした。
どこかで、しゅっ、という軽い音がして、ぶあつい防音ドアが静かに開きはじめた。――中からは、十数人の男たちの、汗の臭いと体臭のまじった脂っこいむっとするような熱気が、どろりと流れだした。中央に多元ディスプレイと、キイ映像パネルのついた楕円形のテーブルの上には、メモや、計算用紙が散乱し、冷えたコーヒーを半分入れたカップや、食べのこしのサンドウィッチの皿、半分ぐらいにかみ折られた鎮静スティックの断片が、林のようにつっこまれた卓上屑入れなどが、所かまわずちらばって、片隅のソファでは、シャツの胸をはだけた五十がらみの男が、かすかに鼾をかき、なかば開いた唇の端に唾の泡をためて、正体もなく眠りこけていた。
開いたドアの方へむかって、室内にいた男たちの視線が一せいにそそがれた。――どの視線も疲労に澱み、どの顔にもべっとりと脂がういて、不精ひげがのびていたが、ドアの所に立つ人物を見ると、いずれもはっとしたように表情をこわばらせた。
ちょうどドアを正面に見る位置にすわっていたウェッブは、口をぽかんとあけて、巨体を椅子から半ばうかした。
「これは……大統領閣下……」とウェッブは、かすれた声でいった。「まさか御自身でこられるとは……連邦公安委員長もご一緒ですか?」
「やあ、エド、ずいぶんひさしぶりだな……」と、見事な銀髪を後になでつけた小柄な老人――世界連邦大統領ジェイコブ・ミン博士は、おだやかな笑いをうかべながらいった。「君がこの所、あまり地球へ来てくれないので、家内がさびしがっとるよ。――北半球の夏は、今年はひどい気候不順なので、私は健康を少し害した事にして、一昨日から三週間休暇をとり、バンフの個人山荘にこもって、面会謝絶で静養と執筆ですごす事にした。その間の事は、シュクロフスキイにまかせてある。……私はどうしても、内々に君やナーリカー会長にあって、じっくり話をききたいと思って、自分でやってきた……」
「二日後の……連邦公安委員会の秘密会はどうなりました?」とウェッブは両手をテーブルについたままきいた。「それまでにおかえりになりますか?」
「延期した……」と、身長二メートルちかくある、がっちりした、ダグラス・オファット公安委員長は、うすい金色の眉毛の下の、青い瞳で室内を見わたしながらいった。「大統領、副大統領と話しあって、一応延期という事になった。――が、帰ったらすぐ、招集時期を検討して、おそらく二週間以内には開かれる事になるだろう。それでも、大統領は、君のこの問題に関する重大な役割を考慮されて、君は極秘回線をつかって、月の上からこの会議に参加する事を特別に許可する方針らしいよ、エド……」
「それは……どうも、ありがとうございます。大統領閣下……」ウェッブは、はじめて表情をやわらげて、頭をさげた。「まあどうぞ、おかけください……」
「この部屋は、どうも換気がよくないようだな……」床からせり上がってきた椅子に、巨体をおろしながら、公安委員長は鼻をひくつかせた。「大統領は少し風邪気味だ。――空調をもう少し、何とかならんかね?」
「そんな事より、ほかの人たちは、少し休んで、シャワーでも浴びてもらったらどうだろう?」と大統領は、杖をついて、腰をおろしながら会議室内のメンバーの顔を見わたした。「私と委員長はしばらくの間、エドとナーリカー会長と四人だけで、話しあってみたいのだが……」
メンバーはお互いに顔を見あわせ、ほっと肩をおとして、てんでに席から立ち上がった。――誰かがソファに寝ている男をゆり起しかけると、その男は、どさっと床にころげおちて、あわてて起き上がった。男は何を思ったか、寝ぼけまなこをこすって、いきなりテーブルの上のメモをとり上げると、
「はい。――現在X点に一番ちかい所にいる無人飛翔体は……」
と、報告しかけたが、同僚に肩をたたかれて、赤面すると、こそこそと隣室へ去って行った。
男たちが、隣の休憩、仮眠用の部屋へ消えて行ったあと、大きな楕円形テーブルをはさんで、奥の方にウェッブとナーリカー世界天文学連合会長、反対側にミン大統領とオファット公安委員長、それに二つのドアの所に二人ずつ、シークレット・サービスの男たちがのこった。――ウェッブは、何か考えこむようにうつむいて、テーブルの上や壁面ディスプレイに投影されている、コンピューターの数式、図形を一つ一つ消して行った。
「さて、エド……」大統領は、椅子の前についた杖の上に両手をかさねあわせ、その甲に顎をのせるようにしながら、ゆっくりとした、しかしきびしいものを秘めた口調でいった。「危機はまだ、確定したものではない。仮定に仮定をつみかさねたものであるのは、私にもよくわかっているつもりだ。しかし、それにしても、そこにあらわれてくる危険の可能性は重大だ。たとえまだ、確率にして何パーセントかの可能性にすぎなくても、地球人類の運命や安全について、政治的責任を負う、私や公安委員長は、最も不幸な場合を想定して、対策を考えねばならぬ段階に来ていると思う……。――私は、地球社会の状態――特にその政治的情勢と、社会心理について、最もよく知っていると思う。そして、君は、太陽系社会の内面について……特にその技術的、生産的ポテンシャルについて、私よりはるかによく知っていると思う。そこで……一つ、お互いに率直に話しあってみたい。もし、――もし、万一、現在ある確率の範囲で出現しつつある危機が、最悪の事態にたちいたったとしたら……地球と太陽系社会をひっくるめた、われわれ人類は、これに対して、どんな対応ができるだろう?――最悪の事態とは、現象的にどんな形をとるのだろうか?」
「何だと?」
木星の衛星軌道上のミネルヴァ基地《ベース》にあるJS計画本部司令室で、カルロス・アルバレスは、かけっぱなしのワイヤレス・インカムにむかって、かみつきそうな表情でどなった。――彼の茶色の髪は肩までのび、かつては美しく刈りこまれていた茶色のひげもぼうぼうにのびて、ごみや食物のかすがくっつき、頬はげっそりとこけ、顔色は土気色で、ただ眼ばかりが、熱っぽく血走って、ぎらぎらと輝いていた。
「馬鹿野郎!――何だって今さら、そんな所で貨物船《カーゴ》が六杯も保留《ステイ》させられてるんだ? トロヤ群からの工作船は、もう先発隊が到着して、中性微子銃《ニユートリノ・ガン》の組立て体制にはいってるんだぞ! いまここで、資材の到着がちょっとでもおくれたら、〃フェイズ・U〃は何もかもがたがたになっちまうぞ!」
「おちつけよ、カルロス……」黒い肌に、汗をしたたらせたブーカーが、司令コンソールの操作盤から顔をあげて声をかけた。「わめいたって、どうなるもんじゃない。――ガタが来てるのはそっちだけじゃないんだ……」
「うるさい!」カルロスは、拳をにぎりしめ、額に青筋をたてて金切り声で叫んだ。「いったいどうしてくれるんだ?――四年半でもぎりぎりってやつを、二年で何とか恰好をつけろ、というんだぞ! いま、ピンが一本でもはずれたら、すべてのスケジュールとシステムは、ばらばらになっちまう。わめくぐらいなんだ?」
「カルロス!」
司令室のすみから、輸送計画を分担している男がインカムをおさえて声をかけた。
「こっちも悪い知らせだ。――土星空域と、天王星空域から、資材と工作船を運んでくるはずの高速推船《プツシヤー》が、三隻もこちらの仕事からはずされちまった……」
「はずされた?」カルロスは、紙のような顔色になって、椅子からはげしく立ち上がった。「はずされた、だと?――いったい誰の指令でだ? こちらは、〃フェイズ・U〃のために、惑星空域の機械と工作船の運用に関しては、全権を委ねられているはずだぞ! いったい、どこのどいつだ? こちらのシステムとスケジュールに勝手に介入して来る野郎は……」
「知らん……。相手は、何だかごにょごにょいって、はっきりいいやがらない。どうやら、俺たちに与えられた権限を上まわる所からの指令が、俺たちの頭ごしに、何かはじめたらしい……」
カルロスの眼が釣り上がり、のどがふくれ上がってぴくぴく動いた。その表情はまた何か金切り声で叫び出しそうだった。
その時、司令室のドアがたたきつけられるようにあいて、英二が足音も荒くはいってきた。
「ちくしょう……」
彼は不精ひげの一ぱいのびた顔をごしごしこすり、口の中で何かぶつぶついいながら、どっかと椅子に腰をおろした。
「誰か、総裁《ボス》をよべ!」英二はくしゃくしゃになった髪の毛をかきむしりながら、肩ごしに通信装置の前にいる者にどなった。「ライプニッツ火口《クレーター》に、ピンボール・ゲームの玉っころみたいにはまりこんでいるあのひげだるまをよべ!」
「もうずっとよびつづけてますけど……」と通信器の前にいた若い娘が、おどおどした声でこたえた。「総裁への通話は、一般回線も個人回線もこの二十数時間、シャットアウトされっぱなしです。――緊急秘密回線でも、直接にはつないでくれません……」
「いいからよびつづけろ!」英二は椅子から立ち上がると、手にした書類をぴしゃりとコンソールにたたきつけてどなった。「あのたぬき親爺め! 人をせかすだけせかしておいて……この体制はなんだ! 何も、こちらの思う通りには動きやがらん」
「主任……」カルロスは、真青な顔をして、眼をすえて英二の前へつっかかるようにすすんで、両手の指を曲げ、前へつき出した。「どういう事なんだ?――火星空域を、もう十時間以上前に出発していなきゃならない、機材満載の高速貨物船《カーゴ》が六杯も保留《ステイ》させられてるんだ! そのうちの二隻は、積荷をおろして、次の指令を待て、といわれているんだぜ! いったい、どこのどいつが、足どめくわしてるんだ!――それに天王星域と土星域から、資材と工作船のピストン輸送をやるはずの高速推船《プツシヤー》が、三隻も、こちらの任務からはずされた。いったいどうなってるんだ!――え? いったいどうなってるんだ? こんな事じゃ……〃フェイズ・U〃は……」
カルロスの声は、ヒステリックに甲高くなり、両手は指関節が白くなるほど固くにぎりしめられ、英二の顔ちかくにつきつけられ、ぶるぶるふるえた。ブーカーは、危険を察して、コンソールの前から機敏な獣のように音もなく立ち上がると、カルロスの背後に近よった。
だが、突然カルロスのいっぱいに見開かれた眼には、涙がもり上がり、彼は拳をにぎりしめたまま、肩をふるわせて泣きはじめた。
「だめだ……。こんな事、できやしない……」とカルロスは顔をおおいもせず、すすり泣きながらいった。「おれは……どうしたらいいんだ?……どうしたら……」
「おちつけ、カルロス……」英二はカルロスの両手首をしっかりにぎりながらいった。「おれだって頭に来てるんだ。……大丈夫、まかせておけ……。もう少ししたら、きっと何も彼もうまく行くようになる。――そうしてやる……」
だが、カルロスは、だめだ……だめだ……とつぶやきながら、泣きじゃくりつづけ、英二に両手首をにぎられたまま、床に膝をついてしまった。
「誰か、ちょっと医務室へつれて行って休ませてやれ……」と英二はまわりにむかっていった。「こう働きづめじゃ、神経がまいっちまう……」
ブーカーが、すっと近よってきたが、英二は首をふって、通信係の女性に合図をして、カルロスをつれて行かせた。
「やつの神経がまいっちまうのも無理もないよ……」とブーカーはいたましそうにつぶやいた。「何だか――おれたちにはまだ知らされていない、妙な事が起っているらしい……。〃フェイズ・U〃システムのあちこちで、どこかおれたちの権限を上まわる筋から、いろんなブレーキがはいっている……。まさか、妨害なんてものじゃないと思うが……今の所、順調に動いているのは、小惑星帯の質量投射器《マス・ドライヴアー》だけだ……」
「ブーカー……」英二は司令室の中を見まわして、ブーカーの腕をつかんでそっとささやいた。「こんな時で何だが……またしばらく、ここでおれの代りにプロジェクトの進行を管理してくれないか? カルロスも、すぐもちなおすだろう……。おれはどうしても、もう一度月へ行ってくる。今度こそ、あのたぬき親爺ののど首をしめあげ、スケジュールにとどこおりのないように……」
「主任……」女性にかわって通信をカバーしていた男が声をかけてきた。「月から……秘密通信《シークレツト・コール》です……」
3 非常招集
「月からだと?」英二はふりかえりざま、かみつきそうな表情で、通信員にむかってどなった。「総裁《ボス》か?――あのひげだるまか?」
通信員はだまって肩をすくめ、わからない、というように首をふった。
秘密通信《シークレツト・コール》だから、当然通話相手は本人以外に知らされない。
英二は司令室の隅の調整卓の前に、どしんと腰をおろし、小型ディスプレイのフードをあげて、ディスプレイのキイを、「受信」にセットし、自分のIDコードをうちこんだ。
通信員の前のディスプレイから、メッセージが、フードでかこったディスプレイにきりかわってくる。――英二の名前と、CONFIDENTIALの赤い文字が点滅し、通信コンピューターは、つづけて本人の確認にはいった。三段階のパス・ワードで、秘密通信《シークレツト・コール》のロックがとかれ、画面に人物の顔がうつりかけた。
が、とたんに、インカムのイアフォンの底に、がりりっ、という鋭い雑音がはいり、映像が波うって乱れた。――英二は顔をしかめてイアフォンをちょっと耳からはなし、画像のたちなおりを待った。
ミネルヴァ基地は、ちょうど木星の「夜」の側――つまり、この巨大な惑星をはさんで、太陽の反対側にあった。
当然、この間地球や月との直接通信はできず、木星周辺を、さまざまな組合せの軌道要素でまわっている六個の中継衛星を通じて、木星より内側の惑星と通信しているのだが、長距離の秘密通信《シークレツト・コール》は、通信文が一度中継衛星に蓄積されて、そこから交信相手を探す。――そしていま、木星の夜の側は、大気圏にはげしい雷が荒れくるっていて、そのものすごく強力な雑音電波が通信を乱していた。
――木星《おやじ》は、今夜はひどく荒れている……。
と、英二はイアフォンにひびく雑音をききながらぼんやりと思った。
――何だか……何かを予感しているみたいだ……。
フィルターがようやくきいて、映像の乱れがとまった。――そこにうつった人物の顔を見て、英二はちょっと意外な表情になった。
「英二……ランセンだ……」と、太陽系開発機構の企画本部長はいった。「今すぐ……できるだけ急いで、月のH・G・ウェルズ火口《クレーター》の重力研究所へ来てほしい。これは第一級緊急命令だ。何ものにも優先する。……もちろん、君の立場はよくわかっているが……君のチームのほかのメンバーに、あまり動揺や疑問を起させないように、うまく……何とかうまく、こちらへ来てほしい。いま、こちらには、総裁と、世界天文学連合会長と、それから……連邦大統領と公安委員長がいる。これだけいえば、この命令の重要さはわかるだろう。だが、いったい何が起っているか――起ろうとしているか、今ここで説明するわけにはいかない……。このメッセージも、むろん他のものには極秘にしておいてほしい……」
ランセンは、ちょっと言葉をきって、ほっと肩をおとして息をつき、疲れ切ったように、指先で眼蓋の上をもんだ。――いつも身だしなみのいいランセンが、髪はばらばらで、不精ひげがのび放題の脂のういた顔に、眼のまわりに隈をつくり、頬はげっそりこけ、病人のような顔色をしているのを見ると、英二にも、何かわからぬが「事態」の重大さが感じられた。
「それからこれは、総裁《ボス》からの伝言だが……」と何日もかえていないらしい垢じみたシャツの襟をゆるめながらつづけた。「今、JS計画の〃フェイズ・U〃は、あちこちで、停滞が起っていると思う。頭にくるだろうが……そいつは、この問題と関係がある。間もなくすっきりさせるつもりだが、それまで〃フェイズ・U〃のスケジュールはゆるめるな。――わかったな? これがウェッブ総裁から君への、特別の伝言だ……以上……」
ランセンの映像は静止し、「返信ヲ待ツ」の記号が出た。――英二は、ランセンあての親展《コンフイデンシヤル》コードをうちこみ、自分のコードをいれると、ちょっとためらいながら、思いきっていった。
「総裁《ボス》にこういってください。――〃くそくらえ!〃と……」それから、咳ばらいしてつづけた。「あなただって、〃くそくらえ!〃だ……」
そこでちょっと唇をかみ、低い声でぼそりとつけくわえた。
「それはそれとして……とにかくわかりました。――すぐ、そちらへ行きます……」
通信を切って、フードをたたむと、英二はちょっと鼻の頭にしわを寄せ、指先で頬を掻いた。――地球は今、木星から見て、ほぼ西方最大離角の位置にあり、したがって電波通信がとどくまで、四十三分ちょっとかかる。四十三分後、月面で英二の「返信」をうけとった時、直属上司のランセン部長がどんな顔をするか、と思うと、少しむずがゆい気持ちだった。
司令室の中は、相変らず火事場のようなあわただしさだった。――聞きおぼえのある、甲高い声がするのでそちらの方をみると、医務室へ行ったはずのカルロス・アルバレスが、いつの間にか帰ってきていて、メイン・コンソールにどっかと腰をおろし、大型ディスプレイにうつる図型や数字を見ながら、インカムに、また司令マイクにむかって、てきぱきと命令をくだしているのだった。
カルロスからちょっとはなれた所にすわっているブーカーが、こちらをむいてちょっと肩をすくめ、苦笑してみせた。
「休ませなくて大丈夫か?」と英二はカルロスの背中を顎でさしながら、ブーカーにささやいた。「何か鎮静剤でも打ってもらったのかい?」
「いや……あいにく医者がいなくて、看護婦に、地球産のオレンジ・ジュースに、ウオトカ二、三滴たらしたのを注文して、そいつを飲んだら、もう元気になったって、すたこら帰って来ちまったんだそうだ……」
「これから、奴のためにゃ、弱い目のスクリュー・ドライヴァーをいつも用意しておいてやらなきゃならんな……」
と英二も苦笑した。
「ところで……何だったんだ? 月からの通信というのは……」
ブーカーにきかれて英二はブーカーの肩に手をおき、彼を司令室の隅に連れて行った。
「内容はまだ、いうわけにはいかんが、とにかくさっき言ったように、おれは月へ行ってくる……」英二はまわりを見まわして、声をおとしていった。「みんなには、火星の本部へ行ったとでもいっといてくれ。――留守の間のスケジュール管理は、君とカルロスでやってくれ。いろいろ妙な事が起りかけているみたいだが、こちらとしては、〃フェイズ・U〃の手をゆるめるな。――できるだけつっぱりたおすんだ。それから……カルロスをできるだけカバーしてやってくれ……」
「わかっている……」とブーカーは腕組みして、白い歯をむき出して、体をふりまわしているカルロスの背に眼をやった。「彼もさっきは、あまりにひどいプレッシャーに堪えかねたんだろうが……、冷静になれば、彼ほどすごいディレクターはちょっといないよ。――この太陽系の中で、彼とビジネス・チェスをやって、勝てるやつなんかどこにもいないはずだ……」
まったく、カルロスのあのすごい切れ味に、ブーカーの冷静さ、プレッシャーに対する柔軟で強靱な耐久力がつけくわわれば申し分ないんだが……と思いながら、英二は、髪をふりみだしてインカムに何か叫んでいるカルロスの横顔を見つめた。
もともと、彼の専門は、超素粒子《スーパー・パーテイクル》の理論研究で、そこから素粒子工学――任意の性質をもった素粒子をつくり出そうとする研究へとすすみ、さらにクォーク工学から中性微子工学《ニユートリニツクス》へと研究の手をひろげて来た所を、英二の要請で、この「JS計画」の中心メンバーにピックアップされて来た。――一見おとなしく、神経質そうな学究肌に見える彼が、「木星太陽化計画」の初期のテスト段階で、実験用中性微子銃《ニユートリノ・ガン》の台数をそろえる時に発揮したものすごい交渉力――上部組織を説得し、予算を獲得し、資材をかき集め、工期を短縮するおそろしく鮮やかなさばき方に注目した英二は、実質上カルロスを、ブーカーとともにコア・スタッフとして遇し、とりわけ〃フェイズ・U〃では、その推進役のポストにすえた。
そしていま、カルロスは、木星と小惑星の空域にある四台のスーパー・コンピューターを、鼻息荒い四頭だての馬車を馭すように縦横無尽に使いこなしながら、太陽系全体の情報処理システムにむかって、すさまじい「ビジネス・ゲーム」を挑んでいるのだった。――彼があらかじめ目をつけておいたこの空域の四つのスーパー・コンピューターを、上手に抵抗のすくない形でほかの系列の仕事からはずし、〃フェイズ・U〃専用に組みこむ作業は、彼にとっては雑作もない事だった。四つのスーパー・コンピューターは、いずれも行政、開発、総合プロジェクトについて豊富な「経験」をもち、ふつうの場合は使いようもないような、特別なデータだけでなく、それを駆使するための応用プログラムをもストックしている、「自己開発型」の、ノイマン型・非ノイマン型兼用の、一くせも二くせもある「ベテラン」コンピューターだった。――この四台に・ミネルヴァ基地の電子脳《ブレイン》を通じて手綱をかけ、それをにぎったカルロスは、ある時はこの四台を轡をならべて突進させ、ある時はそれぞれを猟犬のように独立に狩りたてて、開発機構のシステムの「隙」をさがさせ、またある時は、コンピューターの「自己判断」で、機構のシステムの「急所」に、野獣のようにとびかからせ……つまり、この四台とミネルヴァ基地の電子脳は、たえずリンクしながらも、ある時は独立に、ある時は連合して、太陽系開発機構全体のシステムにゆさぶりをかけているのだった。
カルロスの構想では、JS計画〃フェイズ・U〃の最終段階では、外惑星域の資材、機械、宇宙船、人員は、一時的ではあるがほとんど「からっぽ」になり、この木星空域に集中するはずだった。――だが、今はまだ、ようやく攻撃体制がととのい、巨大な開発機構の末端のシステムを、少しずつ食いちぎっている段階だった。それぞれのシステム・ユニット毎に内蔵されている「法令・法規判断機構」を、ウェッブからの「お墨付き」――もちろん、これも総裁保証のもとにコード化されていた――を盾に、一つまた一つとつぶして行き、ユニットの中から、〃フェイズ・U〃に必要なものを、無条件で任意な時に調達するパイプをひいて行く……。しかし、太陽系開発機構の中枢システムはまだ、手のとどかぬ所にあり、そこからいきなり「超法規的指令」がつたわってきたので、神経をはりつめさせていたカルロスはひどいプレッシャーを感じてしまったのだ。
しかし、いま彼は一時の打撃からたちなおり、四台のスーパー・コンピューターを、「直線的攻撃」の編隊《フオーメーシヨン》から解除して、何とか事態の隙を見つけるための索敵体制《パトロール》にきりかえ、懸命にスケジュールのたてなおしにかかっていた。
そんなカルロスと司令室をあとにして、英二はそっと中央シャフト沿いの通路へ出て、
「ナンシィ……」と、ミネルヴァ基地電子脳《ブレイン》の、彼専属のセクレタリィ・パートをよんだ。「今からすぐ、月へ行く。――一番早い便を……かなり無理をしてもいいから、一番早い方法を探してくれ……」
「了解……」と〃ナンシィ〃はこたえた。「しばらくお待ちください……」
〃ナンシィ〃が、便を探している間、英二は通路を自分の個室にむかって大股で歩いて行った。――旅行用の私物をとりに行くつもりだった。〃ナンシィ〃は、チェックに手間どっていた。ミネルヴァ基地電子脳《ブレイン》の、事務処理系は、大部分がカルロスに握りこまれ、〃フェイズ・U〃に投入されているため、〃ナンシィ〃の能率は明らかにおちている。
「報告します……」と、個室の五十メートルほど手前まで来た時、やっと壁から〃ナンシィ〃の声がきこえた。「今から一番近い時刻に出発するのは、〃シュトゥルムフォーゲル〃――二千八百トンの高速貨物船《カーゴ》で、地球直行便ですが、これはもう間にあわないでしょう。次は七時間四十分後、ヒルダ群小惑星経由、火星行きで……」
「ちょっと待て!」と英二は前方からすべってくるシャフト・カーに、停止信号をおくりながら叫んだ。「間にあわないって……出航は何分後だ?」
「十七分後……二分四十秒後に、最終の連絡艇がF6デッキから出ます。ですから……」
「連絡艇の出発を一分ひきのばすんだ、ナンシィ……」と、急停止したシャフト・カーの中にとびこみながら英二はいった。「航管にいって、おれの命令だとつたえろ!」
走り出したシャフト・カーの中には、先客がいた。――栗色の髪をした、眼のまんまるで大きい、出っぱる所は極端に出っぱった若いグラマーだった。
「やあ、失礼……」ぐいとシャフト・カーが急加速したとたんに、釣合をとりそこなって、彼女の胸の所にたおれこんだ英二は体を起しながら行先指示装置に手をのばした。「ちょっと急いでるもんでね。終点の発着デッキまで、ノンストップで行かせてもらうよ。君はどこでおりるの?」
「医務室ですわ……」と娘は、大きな胸をゆすっていった。「私、キャロライン……看護婦です。緊急配転で、おとつい火星から赴任したばかりです」
「ああ、そう……ぼくは本田英二……この基地のキャップでJS計画の現場主任だ。よろしく……」と英二はお座なりに手をのばした。「ところでキャロライン……君、そこに睡眠薬か何かもってないかな?――宇宙船の中でぐっすり寝て行きたいんだ……」
「いま、ここにはそんなものありませんわ。医務室は通りすぎちゃったし……」キャロラインは、まるい眼をくるくるさせて、赤くぬった唇をとがらせた。「でも……おやすみになりたいなら、これはいかが? 主任――グッナイ・キッスよ」
あっという間に、英二は首っ玉にしがみつかれ、唇をぺちゃりとなまあたたかいものにふさがれた。――娘はやわらかくふくらんだ胸を彼の胸にこすりつけ、舌をさしこんで来て、鼻を鳴らした。英二はあわてふためいて、新任看護婦の腕を、首からはなそうともがいたが、そのとたんにシャフト・カーが終点に来て急停止し、二人は床に投げ出されそうになり、それを避けようとした英二は、キャノピーに、いやという程頭をぶつけてしまった。
――〃フェイズ・U〃ともなると、いろいろ変った連中が、この基地に集って来そうだぞ……と、唇をこすりながら、発着デッキにむかってダッシュしつつ、英二は思った。
――でも、まあ……あの娘《こ》は色情狂《ニンフオマニア》かも知れんが、それはそれなりに、士気を鼓舞するのに役に立つかも知れん……。
背後でキャロラインが、何か叫びながら手をふっているのを眼の隅でちらと見ながら、英二は、赤いランプがその上でせわしなく点滅している「F6」と書かれたドアのむこうへとびこんで行った。
「解読できたかね……」
と火星のシトニウス総合研究所の、一室に顔をのぞかせながら、バーナード博士はそっときいた。
ミリー・ウイレムは、コンピューターの操作卓から疲れきった顔をあげた。
「ええ、大体……」とミリーはうなずいた。
「でも、全部はとても無理です。まだ欠落部分が多いし……でも、この人、ほんとによくやってくれましたわ……」
ミリーは傍のテーブルにつっぷして、眠りこけている小柄な、整備員の老人の方を見た。老人はテーブルに片頬をつけ、土気色の顔をして、苦しそうに眉をしかめ口をなかばあけて、かすかに鼾をかいている。
「この人は、何という名かね?」
「実はまだ、それも聞いていないんですの」と、ミリーは苦笑した。「でもほんとに、ぶっつづけで、夢中になってやってくれて……」
「で、どんな事がわかった?」
「あの宇宙人たちは……やっぱり、自分たちの母恒星系の近くへやってきた〃ブラックホール〃を、いろいろ研究したり、利用したりしていたようです。つまり、エネルギーをとり出していたんですね。今から十数万年も前の事ですけど……」ミリーはちらばったメモを見ながらいった。「でも、その事が直接の原因かどうかはっきりしないんですが、とにかくそのブラックホールが、彼らが大挙して、母恒星系から逃げ出さなければならなくなった原因になったようです。そこもはっきりしないんですが、その事態を避けるために、彼らは、その星系の惑星の一つを、犠牲にしたが、失敗したようだ――と、これはこの人の解釈です……」
「ちょっと待った、ミリー……」とバーナード博士は考えこみながらいった。「この事を……ウェッブたちに知らせた方がいいかね? どうだろう?」
4 キャッチ・ザ・「X」
太陽から一・二天文単位――半径一億八千万キロの惑星軌道上をめぐる数多くの望遠鏡衛星、天文台衛星のうち、緊急に太陽の子午線と平行な軌道に移動させられた十数基の中の一つに、オットー・ヴィンケル・Jr.がいた。
それはCOS――「複合天文台衛星」とよばれるタイプの一つで、それ自体の中に、光学望遠鏡、電波望遠鏡、X線望遠鏡、ガンマ線望遠鏡、重力波検出装置といった観測装置をそなえるとともに、他の天文台衛星や、無人望遠鏡衛星からおくられてくる観測データを集中的に解析し、また各衛星に動きを指示する、いわば天文観測衛星群の「司令衛星」としての機能をそなえていた。
隣接する衛星との間でも、電波通信が片道五分かかるぐらいはなれているので、データ送受信や指令は、リアルタイムというわけには行かなかったが、ミリ波から紫外領域までふくむ、メーザー=レーザー通信で、圧縮したパッケージ信号をやりとりしていたので、ヴィンケル・Jr.のいるCOS―7の主コンピューターは、次々におくられてくるデータを「展開」し、解析するのに、けっこう忙しかった。――その上、基線三億六千万キロの観測群だけでなく、太陽から約十四億キロはなれた、土星の衛星軌道にある天文台衛星や、さらに遠く四十五億キロはなれて、しかもちょうど銀河中心方向に対して最大離角に相当する位置にある、海王星周辺の無人複合望遠鏡衛星などが、観測網にとり入れられてきた。海王星軌道からの電波信号は、片道四時間前後もかかるのである……。
太陽から平均一億八千万キロの距離にある、太陽の赤道面と平行な惑星軌道上にある天文観測衛星のいくつかも、この「巨眼・ビツグ・アイ》―X」と名づけられた観測体制にくわえられ、合計二十七個の、大小さまざまな観測装置が、銀河の中心方向、太陽からの距離千億乃至千二百億キロメートルのあたりにむかって、巨大な「眼」を皿のようにして、きらめく星々やガス星雲を背景に、広大な空間の中の針でつついたような点――「X点」のコードをつかい、まだ「B・H《ブラツクホール》」の名称は伏せてあった――を探し求めていた。
それは、かけ値無しに、長さも面積もない、幾何学的な「点」だった。その「特異点」の中に、巨大な質量がつめこまれているために、まわりの空間に生ずる強い歪みだけが、それを検出するきめ手だった。――光も粒子も、すべて飲みこむばかりで、そこからは何ものも出てこない「ブラックホール」では、その周囲の空間の歪みによって、背後からやってくる遠方天体の光が曲げられ、蜃気楼のような二重像をむすぶ「重力レンズ現象」をとらえるほかなかった。
とはいえ、その「X点」の質量が、当初のいくつかの兆候から仮定されたように、ミディアム・ブラックホール程度のものだとすると、そのシュワルツシルド半径はわずか数百メートルという事になり、重力レンズ現象そのものも微弱なものになって、検出がむずかしくなりそうだった。
これに対して、オットー・ヴィンケル・Jr.は、むしろX点の重力場による、比較的近い恒星のスペクトルのずれに期待していた。――彼は、X点の想定位置と、「巨眼《ビツグ・アイ》」のむけられている方向とをむすぶ延長線上にある天体の、スペクトル・カタログを、全観測陣に送ってチェックさせた。
一番最初に、「宇宙空間にあいた針の穴」の兆候らしいものがキャッチされたのは、海王星軌道にある無人望遠鏡衛星によってだった。たまたま観測視野の片隅にあった、比較的安定した赤色巨星のスペクトルに、宇宙空間にある星間物質その他の影響によるスペクトルのゆらぎと、やや性質の異る鋭い変化が検出され、望遠鏡衛星Np―ATS4は「発見《エウレカ》!」のシグナルを発した。――そのシグナルは四時間かかってCOS―7にデータとともにおくられてきて、解析コンピューターはすぐチェックにかかり、X点である確率をはじき出した。スペクトルのゆらぎは、わずか数百分の一秒だったが、しかし、それが赤色巨星の光像の一部を、X点が横切った可能性が強い事がレポートされた。
シグナルが受信されてから間髪を入れず、「巨眼《ビツグ・アイ》」の中の、二基の光電子鏡面径十五メートルの電子超シュミット望遠鏡が、該当空域の集中観測をはじめた。――次に「発見《エウレカ》!」のシグナルを送ってきたのは、ミリ波帯をモニターしている電波望遠鏡衛星だったが、これは解析コンピューターが「誤認」とはじき出した。
じりじりと時間がすぎて行き、COS―7のB・E《ビツグ・アイ》司令室には、焦燥と疲労の影が濃くなって行った。――ヴィンケル・Jr.をはじめ十六人のスタッフは、交替で休息をとる事になっていたものの、Np―ATS4からの「発見シグナル」をうけてから、二十時間以上、全員が司令室につめきりだった。
そして――最初のシグナルから実に二十一時間四十分後、ついに超シュミット望遠鏡の視野の一つに、「X点」の影がとらえられた。つづいて電波望遠鏡の一つが、比較的弱い電波源天体《ラジオ・ソース》を背景に、同じ影らしきものをとらえた、とレポートしてきた。
即座に、最初のデータと、あと二つのデータが解析コンピューターによってつきあわされ、同時にB・E《ビツグ・アイ》システム所属の全観測衛星に、視角○・一秒範囲で観測方向の指示が送られた。――おのおのの観測衛星は、X点の予想位置と、ちょうどそれを見通して背景にある、恒星、電波源、X線源、ガス星雲などにねらいをつけて、ちょっとしたスペクトルのゆらぎも見のがさないように、精密にチェックしはじめた。衛星の相互の位置関係によって、ある場合は独立に「背景天体」をもとめ、ある場合には連携して、同一の恒星群をねらい……やがて、二つの光学望遠鏡と一つの赤外線望遠鏡が「発見」の通報をしてきた。さらに四十分後、土星領域にあったX線望遠鏡が、たまたま背景にあったX線パルサーの前を、何かが通過し、パルスの周期変化と、ごく短い時間であったが、線源の「二重像」が生ずる所をキャッチした。
疲れきって澱んだCOS―7の司令室の中に、一瞬どよめきと歓声があがった。――解析コンピューターは、ただちにそのX線パルサーの長期観測データと、突然起った変化とを精密につきあわせて、問題の「X点」の位置と距離と、太陽系に対する相対速度を、ピンポイントとまでは行かないまでも、これまでよりはるかに正確にはじき出した。
司令室の中では、ただちに小グループのディスカッションがはじまった。――惑星軌道観測衛星群のうちの、X線観測装置群をもっと大量に投入し、宇宙空間の「X線背景輻射」の中で「X点」をマークしてみてはどうか、という議論だった。
オットー・ヴィンケル・Jr.は、その議論にはくわわらず、司令室の中央コンソールの前に立って、正面の幅二十五メートル、高さ四メートルの、大ディスプレイ・スクリーンを、寝不足で真赤に血走った眼をすえて見つめていた。B・E《ビツグ・アイ》観測網の各観測点から刻々はいってくる報告は、いまはスクリーンの両脇におしやられ、正面中央の大スクリーンには、銀河系中心部を上方にした銀経と、一目盛り百億キロメートルのグラフの中に、太陽系と、X点の相対位置が太陽の北極方向から見た図形であらわされていた。――各観測点からのレポートがはいる度に、オレンジ色の「X」で表示されたX点は赤く輝き、コンピューターによってかさねあわされた修正データの記号と数値が横にあらわれて、しばらく点滅してから画面の右下隅に移動し、前の数値の上へならべてつみ上げられる。
「誰も直接見る事のできない」空間の黒い渦は、今は星の光や、電波、X線などの宇宙輻射の前を横切って行く、小さな陽炎《かげろう》のようなゆらぎとして、その位置をとらえられていた。――まだ誤差はプラスマイナス一億キロメートルの範囲だが、宇宙空間の「針の穴」は、その位置と速度によって、「予想コース」を設定されたのだった。
しかし、これ以上精密にコースをわり出すとなると……。
オットー・ヴィンケル・Jr.は、さっきから極秘回線で、月面のどこかにいるはずの、ヴィンケル世界天文学連合副会長をよび出していた。――太陽の極軌道をとって動いているCOS―7は、ちょうど地球に最接近する位置の近くに来ており、通話時間は片道十分余りですんだ。
コンソールの個人通話用のディスプレイの上に、極秘回線がつながったシグナルが閃めくと、ヴィンケル・Jr.は、がたんと音をたてて、ディスプレイの前の椅子に腰をおろし、インカムにむかって低い声でしゃべりはじめた。
「パパ……ジュニアです……。X点は一応こちらの網にかかりました……」
言葉をきると、突然眼のまわるようなはげしい睡魔がおそってきて、がくんと頭が垂れそうになる。――ヴィンケル・Jr.は頭を大きくふり、眼をこすってつづけた。
「精密トラッキング用に、どうしても高速無人観測機をとばして、マーカーにしたいんですが……何とか許可をとってくれませんか?――今からでは、X点とのランデヴーは、半年以上先の事になるでしょうが……」
本田英二が、月のH・G・ウェルズ重力研究所へついた時、この静かな研究所の地下には、何か異様な雰囲気がみちていた。
地下四階までは、一応これまでどおり、静謐で思索的な、二十二世紀の「重力研究」の雰囲気がたもたれていた。――しかし、地下六階の奥まった一室からはじまった「異様な雰囲気」は、二週間たつ間に、重力関係の観測装置室を除いて、拡張のための予備スペースだった地下六階をすべて占領し、地下五階を三分の一まで侵蝕し、なお拡大して行きそうな気配だった。
その「異様な雰囲気」は、倉庫用エレベーターを通じて次々にはこびこまれ、各部屋や、時には廊下まで乱雑におかれたさまざまな機械――ほとんどが特殊通信機や特別製のコンピューター端末類だったが――と、それを結ぶ無数の光ファイバー通信線、そしてその間を、この研究所にふさわしからぬせかせかした態度で歩きまわる、垢じみて汗くさい男たちと、そのかみつくような早口の会話といったものがうみ出しているのだった。
来客用エレベーターで、もの静かな、咳をするのもはばかられるような受付ロビイからまっすぐ地下六階におりた英二は、開いたドアから通路へ出たとたんに、だだっ、とえらい足音をひびかせて突進してきた、短距離スプリンターに転向したプロレスラーみたいな男と肩が接触し、二メートル近くも横にはねとばされて、壁に背中をいやというほどぶつけ、一瞬息がとまった。
「失礼!」と、その髪をもじゃもじゃにさかだてた大男は、汗をしたたらせながら、肩ごしに英二へむかってどなった。
「ああ、それから、そこの光ケーブル、足にひっかけないように気をつけてくれ!――今、コネクターの調子が悪いんで、ほんの仮つなぎしてあるだけだから……」
英二は、壁にもたれて大きくあえぎ、頭をふって、よろよろと歩き出そうとした。
と、通路の途中のドアが、ばたんとたたきつけられるようにはげしくあき、四十がらみのシャツの前をはだけたやせた男が、ワイヤレス・インカムをつけたままとび出してきて、両手をメガフォンのようにして、
「ビル!」と叫んだ。「ビル!――どこへ行った! 急いでくれ!」
その男が突進してきたので、またぶつかられないように反射的に壁によって道をあけた。――男は鉄砲玉のような勢いで、通路をかけてくると、英二の前でたたらをふむように急ブレーキをかけた。
「ビルはどこへ行った?」
男は汗の玉をふりはらうように顔をふって、英二の鼻先に指をつきつけ、かみつくような調子でわめいた。
「いや、知りません……」英二は眼を白黒させてこたえた。「私は……たった今、木星からついたばかりで……」
「大男がこっちへこなかったか?――髪の毛をもじゃもじゃにした……」
「ああ、それなら……」
といって、英二は通路の反対側をさし、さっきの巨漢が曲って行った方角を示した。
やせた男は、通路のつき当りにつっ走り、ビルという大男の曲って行った方角へむかって、両手を筒にして口に当てると、びっくりするような大声で叫んだ。
「ビル!――急いでくれ! 〃ビッグ・アイ〃から、また新しいデータがはいり出しているんだ。ケーブルDとGのコネクターをはやくかえないと、ノイズがだんだん大きくなって電子脳《ブレイン》でも補正しきれなくなるぞ!――おえら方がいらついてるから、早くしろ!」
一しきりどなると、やせた男は肩で大きく息をついて、大またでひきかえして来た。――追いぬかれそうになった英二は、自分も歩度を伸ばして、その男とならびながらきいた。
「あの……ランセン部長はどの部屋でしょうか?」
「ランセン?――ランセンって誰だ?」
「太陽系開発機構の……企画部長です」
「太陽系開発機構?――なら、このつき当りに何人かいるはずだが……おれは通信関係でL5から急によばれたんで、よく知らん……」
「つき当りの部屋――ですね?」
「そうだ。ドア・キイのコードは468―2025だ。パス・ワードがどうとかいうかも知れんが、その時は自分の名前でも何でも、適当にわめけ……」
ふいに男の姿が消えたと思ったら、男は、さっきとび出してきたドアのむこうにとびこみ、ドアがまた大きな音をたててしまった。
通路を蛇のようにのたくっている大小のケーブル類や、中継器を注意してさけながら、英二は正面のドアにむかってすすんで行った。――と、突然背後から、またばたばたと二、三人のあわただしい足音が近づいてきて、誰かに肩をぽんとたたかれた。
ふりかえると、不精ひげを顔一面にぼうぼうとのばし、すっかりさまがわりしてしまったランセン部長が、二人の作業服姿の男をしたがえて、顔をふせるようにして英二と肩をならべた。
「いまついたのか?」とランセンは、低いしわがれた声でいった。「つかれてるだろうが、とにかく君も、あの中で話をきいていてくれ……。そっちも大混乱らしいが、こちらもこの通り、てんやわんやだ。こんな状態がもう二週間以上もつづいてるんだ……」
「いったい何が起ったんです?」と英二は、ロボットのように無表情な顔をきっとあげてついてくる、二人の作業服姿の男を、肩ごしにふりかえりながら、部長にきいた。「これはまた、何のさわぎですか?」
「いま、くわしく説明しているひまはないが……あの部屋の中でみんなの話をきいていれば、すぐ事情がのみこめるだろう……」
「大統領がここへ来ているんですって?」
「いや――大統領は十日前に地球へかえった。休暇をとった形にしてあったが、そういつまでも、おしのびでここにいるわけには行かんから……入れかわりに副大統領のシュクロフスキイが来ている。オファット連邦公安委員長も、ずっといつづけだ……」
「総裁《ボス》は?」
「むろんつめっきりだ。――君も、ひょっとしたら、かなりな期間、ここに足どめになるかも知れんぞ……」
「そんな……」と思わず息をのんで、英二は足をとめた。「ミネルヴァ基地の方は、カルロスとブーカーに一応まかせてありますが……ぼくはそんなに長く、現場をはなれるわけには……」
「なあ、英二……」ランセンは、突然ひどくわびしげな声で、顔をそむけながらいった。「もうJS計画だ何だって、いってられなくなるかも知れんぞ……」
「何ですって?」英二は思わず声をあららげた。「それは、話がちがうじゃありませんか! ぼくは、あなたから〃フェイズ・U〃を……」
その時通路つき当りの部屋のドアがあいた。ランセンがドア・キイをおしたのだった。――とたんに中から、腹だたしげな怒声がとび出してきた。
「もう一度いってくれ、ウェッブ……」と、楕円形テーブルの右端にいた初老の巨漢が、立ち上がって、テーブルをたたきながらどなっていた。「たった二億五千万人しか救出できん、だと?――人類百九十億のうちの、わずか二億五千万だ、というのか?」
5 〃ノア〃の計算
英二は、その大会議室の中の何とも異様な雰囲気に、気をのまれたみたいになって、おずおずと部屋の隅の壁際の椅子に腰をおろした。
おろしたとたんに、
「おい君!――ちょっとそこ、どいてほしいんだが……」
と、部屋の反対側の方から、怒声にちかい声がとんでた。
「そこにいまこれから、ディスプレイを出すから……」
英二はあわてて窓際を立った。――大会議室は、ベージュ色と焦茶とモス・グリーンを基調とした、おちついた感じのインテリアだったが、いまは壁際のいたる所に大小の通信機や、コンピューター端末、小型コンソールなどがもちこまれ、壁面は、正規のリア・プロジェクション型のディスプレイ以外に、液晶型、プラズマ型、放射型などのディスプレイ画面が、かさなりあわんばかりにひしめいていた。
そういった機器類に、全部で十六、七人ぐらいの男女がとりついて、ワイヤレス・インカムに早口でしゃべり、キイを操作し、それこそ火事場のようなさわぎをつづけていた。
そして、その会議室の中央には、ディスプレイ画面や映像キイがいっぱいついた、巨大な楕円形テーブルがでんとすわり、そのまわりをかこんで、VIPらしい貫禄のある人物が六、七名、さらにそれを補佐するように、いかにも切れものらしい中年男たちが、七、八名、ちらばったメモやハードコピイを前にして、緊張し、疲れきった顔つきですわっている。
ただ、VIPの連中も、ほかの連中も、ほとんどが上衣をとり、シャツの腕をまくり上げ、襟もとを開いて、中にはシャツが汗でずくずくになっているものもいた。――顔には一様に脂がうき、髪はぼさぼさで、鬚をきれいにあたっている者など、一人もいない。汗のにおいと、中にはアルコールのはいった体臭のような、妙に甘ったるい臭気をたてているものもおり、空調はフルにまわっているようだが、ふくれ上がった人数が発散する熱気と臭気、それに機械類の熱がこもって、部屋の中の空気は、外からはいってきたものには、まるでくさりかけの豆スープみたいに、どろどろですえたにおいを発していた。
壁際から立って、どこか邪魔にならない所を、と眼の隅で探して移動しながら、英二は、ウェッブ総裁の姿を探していた。
ウェッブは、いまたち上がって大声でわめいている人物の斜め正面にいた。――両手を組みあわせてテーブルの上に投げ出し、禿げ上がった頭をがっくりうなだれるように前にたおして、眠っているように見えたが、鬚に包まれた口もとは、何か一人言をいっているように、もぐもぐ動いていた。
その姿を見つけた時、英二はぎょっとした。
――冗談じゃない!……総裁《おやじ》は…痩せた……。
それは錯覚かも知れなかった。
だが、憔悴しきった土気色の顔は、眼がおちくぼみ、頬がげっそりこけたように見え、そして鬚や頭の後縁に残る髪は、これは明らかに、わずかの間に白髪がぐっとふえていた。
ウェッブの斜め前につったった人物は、身長二メートルちかくあるがっちりした七十代の巨漢で、うすい金髪と青い眼をしており、その顔はウェッブと対照的に、興奮のためまっかになっていた。――その髪のうすくなった顱頂《ろちよう》からは、いまにも湯気がたちのぼりそうな見幕だった。
「二億五千万人というのは……むろん、暫定的な数字だ……」とウェッブは、かすれた、ききとりにくい声でいった。「いま突然、私の意見をもとめられたので、とっさにごく大雑把な見当を申し上げたにすぎない……」
「当然そうだろう……」つったっていた巨漢――ダグラス・オファット連邦公安委員長は、ちょっと肩の力をぬいてうなずいた。「これからの努力で、その数字を何倍、あるいは何十倍にできるか、だな……」
「誤解しないでくれ、ダグ……」ウェッブ総裁は、片方の眉をつり上げてさえぎった。「いまいったのは――私の感じでは――もっとも楽観的な数字だ。今からただちに、全組織をあげて、行動にうつっても、二年間でぎりぎりそれだけの人数を危険区域から脱出させられるかどうかは疑わしい……。実際の数値は、それをはるかに下まわるんじゃないかと思う……」
がたっ、と大きな音がした。――オファットが、くずれおちるように椅子に腰をおろしたのだった。
重苦しい沈黙が、楕円テーブルのまわりにおちてきた。――いれかわって、壁際の、早口で声を殺してマイクにしゃべっている声や、ディスプレイのシグナルの変る、ぴっ、というかすかな音が室内をみたした。
英二はランセンに合図されて、テーブルの端に臨時におかれたストゥールに、おずおずと腰をおろした。――彼には、まだ事態が半分も理解できていなかったが、そこで論議されている問題の、一種不吉な切実さは感じられた。
――脱出?……二億五千万人も、どこから、何のために、脱出させるんだろう?
「いま、人員輸送につかえる宇宙船は、いったいどのくらいあるかね?」
と、オファットの横にすわっている、見るからに切れものらしい人物が、とりなすように口をはさんだ。――地球からのテレビ放送などで見ていたので、その人物がシュクロフスキイ副大統領だ、という事が英二にはわかった。
「輸送用のすべての宇宙船でざっと八千隻です……」とウェッブから一人おいて隣の、中年の男がこたえた。「旅客専用は、そのうち千隻もないでしょう。旅客専用にすぐ転換できる貨客船《ハーフ・カーゴ》が四百隻ぐらいでしょうか。あとはコンテナー船が、居住コンテナーをセットすれば人員輸送用につかえますが、しかし……」
「しかし――何だね?」
とシュクロフスキイは、鋭く眼を光らせてききかえした。
「かりに八千隻の宇宙船をすべて、人員輸送用に改造して、脱出をはかったにしても、いったいその人員をどこへはこぶのでしょうか?」と、その神経質そうな中年の人物は眼をしょぼしょぼさせていった。「いったいどのくらいはなれた所へ、どのくらいの期間をかけてはこべばいいのでしょうか?――さっき、総裁のいった〃二億五千万人〃という数値は、私は現在の輸送船力をフルに発揮し、保有宇宙船を何回転もさせれば、とにかく、その程度の人数は、とりあえず地球を離れさせる事ができる、というニュアンスでうけとったのですが……」
今度はシュクロフスキイが椅子をがたんといわせる番だった。――彼は椅子を大きくまわし、お手上げだ、というように、テーブルの上をぴしゃりとたたいた。
「私も、まさにその点を考えているんだ……」とウェッブは上唇からたれさがる鬚をかみながら、ぼそぼそとつぶやくようにいった。「どうする? ダグ――副大統領……人類を、何人か――その人数の桁は百人か千人か万人か知らんが――この太陽系を脱出させるとして、その連中を、どこへむかわせるんだ? もっとも近い恒星系……アルファ・ケンタウリあたりへ退避させるのか?」
「アルファ・ケンタウリは、二重星で惑星系が不安定だからあまりすすめられんな……」と英二の席から二人おいて左隣の頑丈そうな老人が、大きな声で口をはさんだ。「植民するならば、いま一番可能性が高いと思われるのはバーナード星だ。アルファ・ケンタウリより一・六光年ほど遠いが……」
「オットー……」と楕円テーブルの英二の席から一番遠い端にいる、色の浅黒い、小柄なアジア系の人物――ナーリカー世界天文学連合会長が、いま発言したオットー・ヴィンケル副会長に話しかけた。「君の所で計画している有人恒星探査計画の実施は、何年後だった?」
「一応四年後だ……」とヴィンケル副会長はこたえた。「十五年前にバーナード星へむけてとばした、二機の第二次恒星探査計画の無人探査機から情報が、そろそろこちらへとどくころだ。その結果の検討をまって、計画の細部をきめることになっている。私としては、できればもっと早く――三年ぐらいで出発させたいと思ってはいるが……」
「その時におくる予定の人員は?」
「六人だ……」とヴィンケル副会長はいった。「片道十二年……ほとんど冷凍睡眠《コールド・スリープ》で行くが、途中、二人一組で、二年に一回ずつ覚醒させられて、ほかの連中の健康状態や、機械の状況を点検する事になっている。――連続冷凍睡眠の実験期間は、これまで二年半が最大だから……」
「六人?」オファット公安委員長が、かすれた声でつぶやいた。「たった六人か?……それで、片道十二年……予算はどのくらいかかる?」
「予備テストの段階から累積すれば、世界天文学連合の三年分の全予算をつっこむ事になる……。恒星探査飛行計画だけで、この二十年間つぎこんできたのと、同額ぐらいをつっこまなければならんだろうがね。――だから、理事会を通すのに苦労して、この間やっと承諾をうけたばかりだ。あと、評議会を通して、ナーリカー会長のサインを待つばかりだが……」
「それはその……一機だけかね? バーナード星まで、人間をのせてとばすのは……」
と、シュクロフスキイ副大統領が、体をのり出すようにしてきいた。
「本当は、安全を考えると二機、組ませてとばせたいんですがね……」とヴィンケル副会長は、皮肉っぽく答えた。「そうすると予算が、倍とはいわないまでも、一倍半はかかりますからね……。連合理事会の、承認限度をはるかにこえる事になりましょうな……」
「だが、それは――学術研究用だからだろう?」とシュクロフスキイはくいさがった。「仮に、六人じゃなくて、六千人おくるとすれば……まさか予算が千倍かかるわけはないと思うが……」
「さあ――それも方式によりますがね……」とオットー・ヴィンケルは首をひねった。「今、われわれが用意できる、最高の性能をもった冷凍睡眠槽《コールド・スリープ・タブ》を六千基も……この二年の間に果して生産できますかね? 火星の生体工学研究財団のつくったCST―X400ってやつは、まだ生体テストベッドにあるものをふくめて、全太陽系で二十四基しかありません。まだコストがめちゃめちゃに高いので、われわれの方のプロジェクト予算で、やっと十基購入する事になって、実際にこれまでに購入できたのは四基、あとの六基はまだオプションの段階です。――購入したうちの二基が、〃スペース・アロー〃とともに失われたのは、かえすがえすも残念です。二年の実際使用のあと、無事に帰ってきてくれれば、その実績にもとづいて、あとの六基に、細かい仕様変更が出せたと思うんですがな……」
「今の生産ラインで、二年間に六千基の製造は無理だというわけか?」
「CST―X400は、まだ精巧な手づくり品同様で、生産ラインにはのっていません……」
「となると……冷凍睡眠《コールド・スリープ》なしで、十二年の旅をさせなきゃならないわけか……」
「十二年も、せまい船内で、単調な生活をしながら寝起きをくりかえすってのは、どうですかね……」ヴィンケルは顔をしかめた。「第一――そうなると、人数分かける十二年分の、食料を用意しなけりゃならない。子供たちには学校もいる……でしょうな。教育機械や娯楽機械にどれくらいのペイロードがさけるか……」
「食料なら、宇宙農場をひっぱって行けばどうだ?」とシュクロフスキイは、さも妙案じゃないか、といった顔つきでまわりを見まわした。「あれにブースターをつけて、船団と一緒にひっぱって行けば……どんなに長くかかろうと、食料問題は大丈夫じゃないか?」
「お言葉ですが……」と、ウェッブの一人おいて隣にいる神経質そうな顔の男が、困ったようにウェッブの方を見ながら口をはさんだ。「現在の宇宙農場はすべて、太陽の輻射エネルギーを利用しています。ですから、地球よりもっと内側の軌道にのせてあるんです。火星軌道までもって行けば、もう光合成の効率は三分の一ちかくにおちてしまいます。木星軌道では、木星の反射を利用しても、能率が悪くて話になりません。――それを太陽から何光年もはなれた宇宙空間へもって行っても……」
「しかも、その太陽自体が、どうなるかわからないのだ……」ウェッブはうんざりしたような口調でいった。「移民船団は――もし、そんなものが編成されたらの話だが――一切のエネルギー源を、すべてもって行かねばならんだろう。二億人なら二億人分の食料をつくり出すだけのエネルギー源を……」
「ちょっと待ってくれ、エド……」シュクロフスキイは、焦燥の色をうかべながらいった。「君のさっきいった、二億五千万人という数は……その大部分が、太陽系宇宙空間からえらばれるわけじゃないだろうな?」
ウェッブの顔が、一瞬紅潮した。――彼は、むっと唇をむすんで、内心にこみあげてくる怒りをおさえているようだったが、大きく一呼吸すると、一語一語かみしめるようにいった。
「太陽系宇宙空間の事は、全然考慮にいれていない。――可能なあらゆる手段をつかって、いま地球にいる人間を、あの地球の表面重力から、とにかくひっぺがして、宇宙空間へうかべるとしての計算だ……」ウェッブはここでまた大きく息を吸いこんだ。「地球表面の一Gの加速度――毎秒毎秒九百八十センチメートルという重力加速度は、小さなものじゃない。私も、この月の上では、体重三十キロの少年のようにふるまえるが、地球へかえれば百六十キロの目方につぶされそうになる。――一世紀半前、人間をはじめて月へ往復させた時、たった三人の人間の乗った四十五トンの装置を月までとばすのに二千七百トンの燃料をつかった。今なら、効率のいい質量投射機《マス・ドライヴアー》があるから、大分エネルギー消費は助かるが、それにしても、地球人一人の平均体重を五十キロとして、身のまわりのものや、当座だけの食料と水をふくめて、一人当り百キロの質量を、地球表面の重力加速度や大気の抵抗にさからって、毎秒十一キロ余りの第二宇宙速度まで加速するには……それも二億五千万人分、二千五百万トンを、地球表面からもち上げるには、相当なしかけとエネルギーがいる。それも、人間は生き物だ。大砲の弾丸をうち出すのとちがう。せいぜい六G加速までにおさえて、ある程度の気圧をもたせた、温めた空気を用意してやらなければならん……。一人一人に、水と、食料と、排泄物の処理装置がいる。医療設備も薬品もいる。――ただし、それは、とにかく地球から宇宙空間へもち上げるだけの話だ。もし、この太陽系を脱出して、五光年も六光年もはなれた恒星系へ移民するとなると……いったいどれだけのしかけがいるものか、私にもすぐには見当がつかん……」
「われわれは、本当に、まともに、太陽以外の恒星系への〃移民〃を考えなきゃいかん事態に直面しているのか?」オファット公安委員長が、うめくような声でいった。「何だか……ずっとずっと未来の事が、突然いま眼の前にあらわれたみたいで、わしはまだ、本当の事のような気になれん……。本当に、その〃ブラックホール〃は、二年先に、太陽を直撃するのか? そいつはたしかか?」
その時、はじめて英二は、〃ブラックホール〃という言葉をきいた。――そして、やっと、ここで延々とつづけられている議論の中心にある「問題」が飲みこめた。
その時はそれほどショックは感じなかった。――あ、そうか。なるほど、そういう事態だったのか、これでよくわかった、と胸のつかえがおりたような気がしただけだった。
奇妙な事に、ショックはしばらくたってから、足の爪先から来た。――水銀のような、冷たい感触が足の先から、ずん、ずん、という感じで膝へ、腰へ、腹へ、そしてやがて胸もとから、さらにのどへとのぼってくるのが感じられ、はじめて英二は動顛した。
――え?……何だって?……〃ブラックホール〃が……太陽とぶつかる?……そんな、馬鹿な……。
「今の所、まだ何ともいえん。現時点で選択の幅は、六十系統以上もある、とシステム・エンジニアはいっている」とウェッブはいった。「事態がもう少しはっきりしてくるにつれ、その幅はせばまり……」
その時、壁際の通信員がふりかえってウェッブに何かいった。――ウェッブがうなずくと、壁面ディスプレイの一つにみんなの注意をうながした。
「諸君、〃巨眼《ビツグ・アイ》〃から最初のレポートだ……」とウェッブはいった。「ほう……コースはやはりピンポイント・クラッシュ……衝突まであと一万八千時間か……二年ちょっとだな」
6 一万八千時間
一万八千時間――。
その数字をきいた時、会議室内の空気にかすかにさざなみのようなものが走った。
壁際の通信員やコンピューターのオペレーターたちも、一瞬息をのんで、壁面のディスプレイ画面の一つを見上げた。――わずか数秒間だったが、妙にしんとした静寂があたりをみたした。
その静寂を破るように、一きわ高い、緊急秘密通信のコールをつげるピーッというシグナルがひびきわたった。
「ヴィンケル副会長……」と、壁際の通信員がふりかえっていった。「〃巨眼《ビツグ・アイ》〃の司令衛星COS―7から、緊急親展通信です。――御子息からのようです……」
ヴィンケル副会長は、顎にひっかけていたワイヤレス・インカムを耳にかけると、テーブルの上の映像キイで、個人通信のコードをおした。――通話をむずかしい顔できいていた副会長は、途中でウェッブにむかって指をあげた。
「息子が、X点の精密トラッキング用に、無人観測機をマーカーとしてとばす許可を求めている……」と彼はいった。「ランデヴーまで半年以上かかるだろうといっているが……いいかね?」
ウェッブはうなずいて、傍の男に合図した。男が立って、壁際に行く時、ウェッブの視線が、英二の顔をちらとかすめたような気がした。
「さて……」とウェッブは椅子の背に巨体をぐったりともたせかけながら、太い溜息をつくようにいった。「諸君……われわれは例によって、もう八時間以上もぶっつづけで議論をつづけてきた。――ここらで残り一万八千時間のうちの、貴重な一時間をつかって小休止することにしないかね?」
「反対!」
と、オファット公安委員長は、頑固そうに口を曲げて叫んだ。
「私としては、もう少し、専門家の話をきいておきたい。――せっかく条件が少しばかりわかりかけてきた所だから……。私自身については、ぶったおれるまで、まだ三時間ぐらいもつ……」
「わかったよ、ダグ……」とウェッブ総裁は肩をすくめてうなずいた。「で――何をききたいんだ?」
「一万八千時間後に、太陽が……太陽系が、どういう状態になるのか、それを専門家にもう少しきいてみたい……」
再び短い――しかし、さっきよりずっと緊迫した沈黙が、楕円テーブルのまわりにおちてきた。
テーブルをかこんだメンバーの視線は、ばらばらにではあるが、次第に小柄なナーリカー世界天文学連合会長の上に集ってきた。
ナーリカー会長は、ちょっとためらうように、自分にそそがれているいくつもの視線を見まわし、それから眼を伏せて、軽く咳ばらいをした。
「私は、ブラックホールに関する専門家ではないし、まだX点に関しては、正確な軌道要素や、X点そのものの状態――たとえば自転しているかどうか、その周期はどのくらいか、電場をもっているかどうかなど、不明の事が多すぎるから、はっきりした事はいえないが……」
ナーリカー会長は、言葉をきって、視線を宙にむけた。
「外惑星軌道へはいってきたころから、惑星の運行は相当影響をうけるだろう。もちろんX点の進路の近くに、たまたま惑星があるとすれば……御承知のように、引力は、二つの物体の質量の積と、距離の逆数によってきまるから、かなり大きな惑星が、近くに位置していれば、ひきずられてX点にのみこまれるといった事態も発生するだろうな。――その事によって、多少X点のコースがかわるかも知れんが……しかし、太陽の十分の一ちかい質量点が、太陽系に対する相対速度毎秒二千キロメートルでつっぱしっているとなると、X点自体のふるまいにはあんまり影響はないかも知れん……」
「その……どれかの惑星がひっぱられてブラックホールの中におちこむ時は、どうなるのかね?――惑星はばらばらになるのか?」
「それも、最接近の時の両者の位置関係や、惑星そのものの質量や内部構成によるだろうが……もし、そんな事が起るとすれば、まず惑星がX点の引力によって軌道からはずされて、X点にむかっておちて行き、接近するにつれて巨大な潮汐力によってこなごなに分解され、X点が自転していれば、その赤道上にドーナッツ型の円盤状になって回転する。円盤の幅や厚みは、破壊された惑星の質量によるが、一番外側は厚みもあつく、ゆっくりとまわり、物質はまあ小惑星や宇宙塵程度の大きさは保てるだろう。――しかし、そのドーナッツ円盤は、中心部ほど早く回転し、〃事象の地平線〃の近くでは、数百分の一秒で、X点のまわりをまわるぐらいに加速される。その内外のスピードの差によって、強烈な摩擦熱が発生し――むろん高温のために物質はガス状になるが――ついには一千万度をこえる温度になる。むろん、内側の輪が、〃事象の地平線〃のむこうへおちこんで行く手前あたりでは、ものすごく小さな空間にものすごい高度の物質がつめこまれるため、素粒子の衝突によっても高温が発生しているが……。このくらいの温度になると、そこから強力なX線やガンマ線が放射される……」
「相当強いものかね?」
とシュクロフスキイ副大統領は、眼を光らせてきいた。
「そうですな……。X線やガンマ線のエネルギーは、発生源の温度によってきまりますが、その量や持続時間は、おちこんで行く物質の総質量や、ブラックホールの大きさによって左右されると思います。……しかし、いずれにせよ、あまり近くにはいたくない強度のX線が……発生する事になるでしょうな……」
「重力の相互作用は、電気力や核力にくらべて非常に弱いので、よく錯覚されますが、物質をエネルギーに転換する効率は、おそろしく高いのです」と、オットー・ヴィンケル副会長が口をはさんだ。「いま、われわれが長距離宇宙ロケットの推進につかっている、核融合反応でさえ、質量のわずか○・四パーセントほどがエネルギーに転換しているぐらいですが、重力の場合、実に質量の三○パーセント以上がエネルギーに転換できます。――回転するブラックホールの赤道のまわりには、ブラックホールの強大な重力を利用して、粒子などをブラックホールにとらえられる事なく加速できる――つまりブラックホールの重力場に〃仕事〃をさせる事のできる〃エルゴ領域〃というのが存在し得ると、理論屋はいっていますが……応用物理の連中は、この領域をしらべたがって大変でしょうな……」
「ところで――そのX点が、太陽にもろに衝突したら……いったいどうなるのかね?」
とオファット公安委員長は、しかめっ面のまま、辛抱づよい口調できいた。
「もろに衝突すれば……どのくらいの規模か、まだちょっと計算できませんが、まあちょっとした〃超新星なみ〃の大爆発という事になるでしょうな……」とナーリカー会長は、ひどく冷静な口調でいった。「地球の三十三・三万倍の質量――二千兆トンの二兆倍ほどですが……が、その十分の一ほどの質量と重力衝突するわけですから……最終的に、双方の質量の三○パーセントがエネルギーにかわったとしても、相当な宇宙的スペクタクルです。――もっとも、私たちは、ブラックホールと恒星がもろにぶつかったというケースを、まだ実際に精密に観測したわけではありません。二、三、そうではないかという例もないではありませんが、まだモデル計算の域を出ない……」
「そうなった場合、諸惑星は?」
「おそらく一つも残らないでしょうね……」と、ナーリカー会長は眼を伏せていった。「爆発の時の猛烈な高エネルギー輻射と……そのあと、まわりにひろがって行く高温のガス雲が、すべてを灼きつくすでしょう……」
「わずかでもそれれば……それほどひどい事にならないだろうか?」
とシュクロフスキイ副大統領は、藁をもつかみたい、といった表情で体をのり出してきいた。
「多少はずれても、双方の引力で近づいてきて――そうですな、これも大いにありそうな事態ですが、X点は、太陽との共通重心をまわる連星系になる可能性があります……」
「その場合は……どうだ?」
「事態は、直接衝突の場合ほど激烈なものではありませんが、それでも似たりよったりです。――太陽系……とりわけ地球は、もう生物のすめる星ではなくなるでしょう」ナーリカー会長は、両手をひろげた。「X点は……その時のコースによって、軌道半径その他はかわってくるでしょうが……太陽のまわりをまわりながら、潮汐力によって、太陽から高温のガスやプラズマをひき出し、ブラックホールの中に飲みこみます。当然ものすごい高エネルギー輻射が起って……そうですね。金星や地球の大気はなくなり、生物はやけ死ぬでしょう。火星あたりまで、すめなくなるかも知れません。――場合によっては、木星周辺だって危い。X点が太陽のまわりをまわりながら、潮汐力で太陽をゆさぶりますから、太陽自体はすごく不安定になり、惑星の運行もかなりめちゃくちゃになるでしょうな……」
「諸君も、もう知っているだろうが、今年、地球は大変な異常気象だ……」オファット公安委員長は、うめくようにいった。「寒波のあとに熱波が来て、大雨と大ひでりが起って、――人間も家畜も、農作物も地球全体でみると大打撃をうけた。学者にいわせると、それは、太陽の黒点がふえたとかへったとか、太陽の活動がさかんになったとかおとろえたとか……まあ、そんな事が原因だというんだが……そうすると、X点が太陽のまわりをまわり出すと、それどころじゃないわけだな」
「いや、ダグ……そうなったら、地球の上は、もう異常気象も、大雨も旱ばつもなくなると思うよ……」ウェッブは、妙におだやかな、まるで子供にさとすような口調でいった。「太陽からの高エネルギー放射線や、高熱ガスで、地球の表面から、大気も海も、みんな蒸発してしまうから、地球にはもはや〃気象〃というものがなくなってしまうのだ。やけただれた、生命のまるきり存在しない、単調な岩石の球になってしまうのだ。――それも、その岩石の塊が、太陽のまわりのどこかにとどまる事ができれば、の話だがね……」
「ひょっとすると、X点のまわりにできる、太陽からひきずり出された高温ガスの円盤は、地球軌道ぐらいまでひろがるかも知れません……」とナーリカー会長はいった。「まあ、二つの天体が連星系をつくっておさまる時の条件によりますがね……」
「そうなった時――つまり、太陽とX点が連星としておさまった時点で、人類の生存可能な惑星は残っていないだろうか?」
とシュクロフスキイは、くいさがった。
「さあ……」と、ナーリカー会長は、ウェッブとヴィンケルの顔をかわるがわる見ながら口ごもった。「冥王星ぐらいなら何とかと思うが……海王星となると……」
「そんな事は、何ともいえんよ!」とヴィンケル副会長は、たたきつけるようにいった。「どちらにしても、惑星軌道はがたがたになってしまうだろう。――大体、仮に連星系でおさまったにしても、太陽の輻射強度や輻射量がどのくらいになるか、また太陽自体が、どのくらいの期間安定か、まるでわからん。輻射量によっては、海王星の大気が蒸発したり、冥王星の氷が全部とけてあの惑星そのものが蒸発してしまうかも知れん。そういった事は、すべて起ってみなければわからん事だ。第一、太陽とX点が、連星系になって安定するのかどうかさえ、まだまったくわからん……」
「ただ一つはっきりしている事は……」ウェッブは、低い、つかれきったような声でいった。「クラッシュの起る前に、人類はできるだけ太陽系から遠くはなれておく事だ……。たとえ総人口の一パーセントでも二パーセントでも……」
「そして……残りの九九パーセントは、座して最後の時をむかえるわけか……」オファットは、顔をこすりながらよわよわしくいった。「太陽系五十億年の歴史の中で、最初にして最後の宇宙スペクタクルをながめながら……」
「人選が大変だな……」と、シュクロフスキイ副大統領が、うつむいてぼそぼそした口調でいった。「最大の、政治的詐術をつかうよりしかたがないだろうな……」
「閣僚秘密会議は、いつひらくのかね?」とウェッブは、副大統領の顔をうかがうように見ながらきいた。「地球へかえってすぐかね?」
「それは――大統領が考えているだろう……」とシュクロフスキイは暗い目付きでいった。「かえったらすぐにでも、大統領と政治的日程をつめる作業にとりかかる事になるだろうが……これからが大変だ。こんな事態を、いつ、どんな形で発表するか……それを考えると、まったくぞっとして、死にたくなるよ。いったいどれだけのハードルをのりこえなきゃならんか……どれだけの騒ぎを処理しなきゃならんか……ひょっとすると、私もぶち殺されるかも知れん……」
「地球文明社会は……とりわけ政治面において、うまくいっていないな……トニー……」とウェッブは椅子をまわしながらつぶやいた。「ま、元来、人類社会っていうのは、そういうものかも知れん。――太陽系空間だけは少し地球社会とはちがったものにできないか、と思ったが……しかし、それもまにあいそうにない……」
それから、ウェッブはぎいっと椅子をきしませて、もう一度正面からシュクロフスキイを見すえると、きっぱりといった。
「地球へかえったら、シャドリク上院議員にこうつたえてくれ、トニー……どうせ閣僚会議が開かれれば、形式上秘密だろうが何だろうが、やつに筒ぬけになるだろうからな……。人類の危機のために、今さら彼と〃休戦〃しようとは思わない。だが、これを奇貨として、政治的に陋劣なプレッシャーをかけることだけは、ちょっと待ってくれ、とね……。これからのスケジュールを考えると、そちらにかまっている暇はなさそうだから……」
「大統領は、君に、この問題の対策の中枢部をまかせる腹らしい……」シュクロフスキイは、テーブルの上にちらばった書類をかたづけながらいった。「非常大権が発動されたら、君と、君の太陽系は、その庇護のもとにおかれる事になるだろう。――心配する事はないと思うな……」
シュクロフスキイは、書類をケースにおさめると、立ち上がって、背後にすわった秘書に、地球行きの便の手配を命じた。
「さて――」と彼は大きく伸びをしながらつぶやいた。「出発まで、まだ一時間半ほどあるな……。シャワーでもあびて、ちょっとでも横になるか――。ダグ……君も一緒に帰るだろう?」
オファット連邦公安委員長は、テーブルに両肘をついて、口の中で何かききとりにくい返事をしながら、眠けざましのつもりか、大きな掌で顔面をごしごしこすっていた。――そのうち、ふと気がついたように、ウェッブがじっと見入っている、会議室の一隅の壁面ディスプレイの方をふりかえった。
そこには、地球と月の、半円形の映像がうつっていた。――月の裏面にあるH・G・ウェルズ重力研究所からは、地球は見えなかったが、映像はL4宇宙コロニイあたりから撮っているらしかった。
月は、いまちょうど裏側が白銀色に輝き、地球から見れば新月にあたる位置にあった。――そして、白く渦まく雲と青い大洋、緑と赤茶色の陸地をまつわりつかせた地球は、ちょうど新大陸が真昼の位置に来ていた。
「あと一万八千時間たつと……」と、シュクロフスキイはその映像を見ながらつぶやいた。「あの惑星も姿を消すのか……。何だか信じられん……」
オファットは、血走った眼で、ぼんやりその映像を眺めていたが、突然はっと気がついたように、
「おい……地球のグローバル・ネットワークの二十八チャンネルは、この画面に出せるか?」と壁際の通信員に声をかけた。「今日はたしか九月十六日だったな?」
「何があるんだ?」
とウェッブは肩ごしにふりむいてきいた。
「いや――今日の午後、ソルトレーク・シティで、世界サッカー選手権大会の決勝戦があるんだ……」とオファットは照れたように鼻をこすった。「わしの孫が……全欧州チームのウイングで初出場しとるのでね……」
「ちょうど今、後半二十五分の所です……」とテレビ中継の映像が出る間、中継の音声だけをききながら通信員が報告した。「全南米チームが一点リード……いや、今、全欧州一点いれました。左ウイングのロングシュート……同点です」
「やった!」オファットは大声で叫んで立ち上がった。
「わしの孫だ!――よくやったぞ!」
7 100対1・3
シュクロフスキイ副大統領と、オファット連邦公安委員長が、地球へかえるため、つれてきたスタッフと一緒に席をたったあと、大会議室の中央の楕円テーブルをかこむ人数は半分以下になり、さらに数名が個室で休憩をとるために部屋を出ていって、会議はおのずと小休止の形になった。
のこったのは、ナーリカー世界天文学連合会長、ヴィンケル副会長、ウェッブ太陽系開発機構総裁、そしてランセン部長と英二、それにもう一人、これは英二が顔を知らない、黒い口髭をはやして憔悴しきった表情のムハンマド・マンスールだった。
そのほか、会議室の壁際にそってもちこまれた、通信機やコンピューターの端末にとりついている男女は、今までとかわらず忙しげに立ち働き、壁面には、所せましとばかり、映像や数字、文字、図形のディスプレイがせわしなく点滅していた。
英二は、その部屋にはいってしばらくたってから、ようやく太陽系全体に、いま、何が起ろうとしているかがのみこめた。――しかし、あまりに急で、しかも突拍子もない事なので、事情は理解できたものの、まだ感情がそれについて行けず、ただぼんやりと白けた思いで、その「破局」のイメージを外から眺めている、といった恰好だった。
ブラックホールと、太陽系――いや、太陽そのものとの衝突?……たしかに考えられぬ事ではない。
しかし、太陽系のあるあたりの宇宙空間では、恒星の分布密度は、太平洋の中に、二つの西瓜がただよっている程度のものだ。宇宙塵程度のものならともかく、大きな天体同士の衝突はきわめて稀な確率でしかない。
たしかに、銀河円盤に対して垂直な方向に分布する球状星団などの中では、恒星の分布密度が、太陽系近傍のそれの平均五倍以上、中心部では何十倍という密度になっているため、「恒星同士の衝突」の確率も、ずっと大きくなっているだろう。また、宇宙全体では、巨大天体が「衝突」している例もすくなくない。――はるかはなれた超銀河集団の中で、直径十万光年の渦状銀河二個が、斜めに衝突し、お互いにすりぬけつつあるものもある。渦状銀河が「正面衝突」した痕跡さえある。また太陽系の所属する銀河の中心部でも、恒星や星間物質の密度は、周辺部よりずっと大きくなって、そこからおそらく超巨星規模の衝突や、中性子星、ブラックホールへの物質の集中による、巨大なエネルギーが発生しつつある。
だが、太陽系のあたりでは――すくなくともここ数千万年の間は――恒星や星間物質の密度はずっと低く、天体の衝突の確率もきわめて低かった。平凡なG型恒星太陽は、銀河系宇宙の中の、比較的おだやかな区域でうまれ、特にここ数千万年の間はおだやかな時期をすごしていた。
しかし、今――太陽は、ある「天体」と衝突しようとしていた。その五十億年の歴史の中で、まだ一度も経験した事のないような、不運な事態をむかえたのである。
それも、その衝突の予想される天体が、諸天体の中でももっとも異常なものに属する「ブラックホール」だというのだ……。
たしかに、二十一世紀後半以降の宇宙観測技術と観察精度、密度の向上の結果、「ブラックホール」は、この大宇宙において、それほど稀な存在ではない、という事は明白になってきた。その質量も、一個の銀河規模のものから、ごく小型のものまで存在する事も……。
とはいえ、やはり太陽系の位置する、銀河中心部から三万光年のあたり、ペルセウス腕やオリオン腕のあたりでは、やはり、きわめて稀な――というより、そんなものが存在する兆候は皆無といってよかった。すくなくとも、人類がそういったものの存在の理論的可能性に気づき、天空の中にそれらしいものの存在の間接的証拠を、意識的に探しはじめた二世紀たらずの観測史の間には……。
ところが、それが今、突然、太陽のすぐ傍にその姿をあらわした。――というよりは、すでに「太陽系の領域」の奥深く、太陽からわずか百分の一光年のところまでしのびよるまで、人類は誰も気づかなかったのである。〃スペース・アロー〃のあの二人の犠牲者をふくむ異常な「事故」がなければ、それはさらに、ずっとあとになるまで発見されなかったかも知れない。
そして、それは――確率的にいえばほとんど無限小に近い「偶然」であったろうが――太陽そのものと「ピンポイント・クラッシュ」のコースをとっているというのだ!
それも、あとわずか二年ちょっと――一万八千時間後に……。
ゆるやかな悪夢の中をただよっているような、気持の悪い、船酔いに似た気分を味わいながら、英二は、その「稀な偶然」の全貌を、自分自身にのみこませようと苦心していた。が、ショックのせいか、それはなかなか成功せず、かわってあらぬ方にばかり、想念が上すべりして行くのだった。
――太陽系をはなれて、バーナード星へ移住するって?
――有人恒星探査の最初の試みさえ、まだ四年先だっていうのに……この二年以内に、億人単位の人類を五・九光年先のM6型恒星まで移住させようというのか?
――バーナード星まで、いったい何年の旅になるだろう?……宇宙船のスケールと性能によるだろうが、いまの技術では、早くて二十五年……いや、三十年か……。
――しかし、二億五千万人もの人間をはこぶとなると……いや、そんな事不可能だ!……いまからわずか二年の間にそんな準備がととのうわけはない。
――それでも、百九十億の人類のうち二億五千万人というと……わずか一・三パーセントか!――あとの九八・七パーセントは……見殺しにするよりしかたがないだろうか? 人類百人のうちから一・三人を……政治家や官僚たちはいったいどうやって、選別するんだろう? こっそりやるのだろうか? 特別の人間をえらび出すのか、それとも「無作為」でやるのか?
――それにしても……たとえ、二億五千万人が、その半分以下の一億人にしても、これはすさまじい「大脱出《グレート・エクソダス》」になる……。宇宙船一万隻として……いや、だめだ! 一万隻用意しても、平均一隻千人のれるかのれないかだから……食料やエネルギーを考えて、それも光年単位の旅をするとなると、一隻数百人がいい所だろうから……結局「太陽系」を脱出できるのは、せいぜい数百万人という所か……。
――バーナード星……おれが行けるなら、行ってみたい……。しかし……おれは行けるのだろうか?
ふいに、その時マリアの事が脳裡にひらめいた――。彼女の輝く金髪と、青い瞳と、かぐわしい春の風のような肌のうねりのイメージが、鮮やかにうかび上がった。
――そうだ! マリア……。
と英二は息をのむような思いで、そのイメージを注視した。
――マリアは……彼女は、ひょっとして、おれと一緒に行けるだろうか? いや、たとえ、おれはこちらに残って、脱出行のバックアップをつづけるにしても、せめて彼女だけでも……。
「ランセン……」
突然、ひどく乾いてはっきりした口調で、ウェッブが声をかけた。
「この二年間……いや、一年半の間で、太陽系開発機構が総力をあげて建造できる長距離用宇宙船は、ざっと何隻だろう?」
「千隻……が、ぎりぎりでしょうね」と英二の傍で、ランセンは夢からさめたように、びくっと体を起しながらいった。
「それも――今の規格でいう〃長距離用〃ですよ。恒星までとばすとすれば……請けあえませんね。有人恒星宇宙船は、まだ六人乗りのテスト船の細部仕様さえきまっていないんですから……」
「地球上で建造できる数は?」
「やはり、千隻がいいところじゃないですか?――でも……地球の工場で建造するとなると、精度や性能、安全性などの面で、私はあまり信用しませんがね……」
「はっきりいって、地球上の工場の老朽施設で、たとえ土星軌道まで往復できる船でも、建造するのはちょっと無理だろう……」とオットー・ヴィンケル副会長が口をはさんだ。「私自身、例の四年先の有人探査計画のためにしらべてみたんだが……地球上の各企業は、宇宙空間とくらべて五十年以上の技術的ギャップがある。第一、宇宙船に関してはあまりやる気がないんだ。地球でつかう乗物は、なかなか洒落た、ぜいたくなものをつくっているが……せいぜい尻をひっぱたいてつくらせても、今からじゃ、シャトル・シップか、マス・ドライヴァーを増産させる事ができるくらいじゃないか……」
「私もそう思います……」とランセンは暗い眼つきでいった。「地球の方には、人間を表面重力からひっぺがして、とにかく宇宙空間へはこび出す事に集中させるべきでしょう」
「最近、年間何人ぐらい地球と宇宙を往復してるんだ?」
「ちょっと待ってください……」
ランセンは、楕円テーブルの上にキイ映像をよび出し、重力研究所の電子脳《ブレイン》をよび出してたずねた。
「昨年度の実績で、地球からはなれた人員は二千二百万人強ですね。――でもそのうちのほとんど……千八百万人は、月やL4、L5、つまり地球周辺への観光客です。火星以遠から、地球への往復が延べで四百万人……」
「そんなものか……」ウェッブは鼻の頭にしわをよせてつぶやいた。「そいつを二年間で十倍にするのは、ちょっと……」
「無理ですね」ランセンは首をふった。
「現在、五百人から千人のりのシャトルが六百機稼動しています。予備が百五十機、貨物用のマス・ドライヴァーが全世界で百二十基です。――現在、衛星軌道まで、一機あたり月間平均三往復していますが、この稼動率を三倍にあげるのは、整備その他の条件から見て無理でしょう。マス・ドライヴァーで旅客コンテナーをうち出すとして……どうしても、機数そのものをふやさなければならん。それと……どうします? 宇宙船もつくらせますか?」
「ハンブルグとカワサキとシアトルと……あと世界で三、四か所ぐらいしか、信用できる工場はないだろう……」とヴィンケル副会長はいった。「といって、今から発注して、何隻できるかね?――NCプログラムは全部こちらからわたしてやるとして、材料は……? これも宇宙から供給してやるのかね?」
「やってみるしかないだろうな……」ウェッブは肩をすくめた。「たとえ、気休めでもな……」
「宇宙の方はどうします?」とランセンはきいた。「太陽系開発機構には……すぐ緊急体制にはいらせますか?」
「いや、まだ待て……」とウェッブは考えこみながらいった。「企画本部のスタッフ以外、まだ箝口令をしいておけ。通信航行管制本部には、トップにだけ状況を知らせて、スタンバイをかけておけ。――企画本部で、〃X対策本部〃を編成して、今、開発機構全体でとりかかっている仕事やプロジェクト、それにどれだけの生産余力があり、どれだけのパワーがしぼり出せるか、徹底的に洗い出せ。――期限は……四日乃至五日だ。こちらでは、平行して、〃Xシフト〃のラフ・プランの作成にかかる。三日目あたりから、両者のつきあわせにはいって、一週間目に方向決定だ。あとは地球の政治家が、何をどうきめるか、そいつを拝見するよりしかたがないだろう……」
「一つうかがっておきたいんですが……」ランセンは、思いつめたような眼つきできいた。「オファット委員長にいっておられたのをききましたが……本当に、太陽系宇宙空間の五億の人間に対しては、特別に退避処置をとらないで、地球にすむ人たちを最優先にするんでしょうか? 宇宙空間にだって女や子供はいるんですよ」
「ランセン……」ウェッブはふいにうるんだ声になっていった。「わかっている……。母親や子供や老人は、当然できるだけ、退避メンバーにくりこまなきゃならん。だがな……おれたちは、宇宙のプロなんだ。そして、フロンティアとしての太陽系は……宇宙空間はおれたちの、一生賭けた職場だ。――そこを考えてくれ……」
わかりました……と、ランセンは眼を伏せて、口の中でつぶやいた。
会話がとぎれると、疲労の雰囲気だけが楕円テーブルのまわりを色こくつつんだ。――ナーリカー会長は、テーブルにつっぷして、かすかな鼾をかいて眠りこけていた。ヴィンケル副会長、そしてムハンマド・マンスールは、いかにも疲れきった、という感じのあくびをくりかえしていた。
「ところで……」やっと口をきく機会をとらえて、英二はおずおずといった。
「……例の、JS計画の……〃フェイズ・U〃は、どうシフトさせましょうか?」
ウェッブは、英二の方をふりむいた。――その血走った眼には、どういうわけか、いつくしみに似た、やさしい影が宿っていた。
「もうしばらく……そうだな、もう一週間か十日……そのままにしておけ。それから、お前はしばらくこちらにいろ。わしは一度ライプニッツの本部にかえるが、二、三日でまた、この研究所へかえってくる。ともかく、もう一週間の間、〃X問題〃は、開発機構の中枢部にも公開しない。したがって、この研究所にはちょっと気の毒だが、あと一週間ぐらいは、ここが――この地下六階と五階が、〃X問題〃に対する、秘密の情報センターになる……」
そういうと、ウェッブは眼をそらせた。
「JS計画のフロントの連中は、怒ってるだろうな。――わしがそちらへ出した〃お墨付き〃は、まだ形式上とりけされていないのに、それを上まわる機密緊急指令が次々に出されたから……」
「でも、連中はそれをはねのけながらやっていますよ……」英二ははるかはなれた木星の、巨大な赤い姿を思いうかべながらいった。
「カルロス・アルバレスって男をご存知ですか?――彼をあのまま一週間もほうっとくと、機密緊急指令など、ばらばらに骨ぬきになって、〃フェイズ・U〃に組みこまれてしまう事になりかねない。ゲームズマンとしては、太陽系きってのすご腕なんです……」
「それでもかまわん。――もう一週間ちょっと、そのままほうっておけ。ただし、お前もこちらからコンタクトするな……。〃巨眼《ビツグ・アイ》〃の連中がようやく〃X点〃をとらえて、いま、軌道要素の精密チェックにはいっている。太陽系の動きと照らしあわせて、衝突コースと衝突時期がもっとずっと正確に……誤差数日から数時間ぐらいまでわり出せるだろう。それがすみさえすれば……」
「ただ、ひたすら太陽にむかってまっすぐとびこんでくるんですか?――その前に、外惑星がのみこまれたり、ひっぱられたり、という事はないんでしょうか?」
「そういった事も、〃巨眼《ビツグ・アイ》〃の連中は出してくるだろう。――〃X点〃が、太陽系の惑星軌道内にはいってきた時の惑星の位置関係によるだろうからな。ひょっとすると、冥王星ぐらい、衛星のカロンもろともやられるかも知れんな。もっとも、あんなざくざくの、軽いガスと氷の惑星は、宇宙船団の一時的退避港としてもあまり役にたたんだろうから、のみこまれてもおしくないがな……」
「脱出船団は、当然、〃X点〃の飛来方向と反対方向にはなれさせなければならないでしょう?」と英二は考え考えいった。「衝突《クラツシユ》が起った時、たとえ一時でも、遠方惑星を移民団のデポにつかえたら……」
「さあ、どうかな。――新星《ノヴア》なみに、太陽の輻射量が、一瞬にして十万倍にもなるとしたら……冥王星あたりは、大部分溶けて蒸発してしまうんじゃないか?」
「そりゃ、そうなったら冥王星あたりで、いま水星がうけている輻射量の十倍以上の輻射をうける事になるんですからね。でも、遠方巨大惑星の〃影〃を、一時のシェルターにつかう事は……」
「総裁……」その時、壁際の通信員がふりかえっていった。「いま、火星のミリセント・ウイレムという女性から、総裁あてに個人メッセージがはいってきています。特別緊急でもない、ふつうの親展レポートですが……いますぐおききになりますか?」
第八章 カウント・ダウン
1 地球の秋
その年、地球の北半球中緯度帯の秋は、夏の異常気象を埋めあわせるように、おだやかで輝きにみちたものだった。
アジアで、新大陸で、ヨーロッパで、ぬけ上がるような青い空に、刷毛ではいたような美しい絹糸状の高層雲がうかぶ日がつづき、黄金色のあたたかい陽光の中で、木々の葉は色づき、万物はゆっくりと豊かな成熟の時をむかえていた。
北京では、北風が吹いて、気の早い人たちは、もう夜には冬服を着るようになり、西北の山嶺の彼方の空には、冬の気配がせまっていた。――パリでは、ブーローニュの森の木々の葉が風の吹くたびに散りはじめ、街角のそこここには、昔ながらの焼栗の香りがただよいだした。アメリカ東部の古い大学の建物にからむ蔦の葉は、ある時一せいに真紅の輝きをそえはじめ、ついこの間まで軽装でキャンパスを歩いていた学生たちも、ツイードやフラノのコートを着こむようになった。
日本では、各地の紅葉だよりにつれて、世界各地からの観光団が訪れはじめた。――東アジアの伝統行事に対する世界的ブームは、二十一世紀の終りから二十二世紀のはじめにかけて、一とき下火になっただけで、根強い人気があり、毎年この時期に、日本以外から訪れる観光客は二千万人をくだらなかった。日光や蔵王、あるいは京都の高雄や奈良の室生寺など、旅行社がうまくツアー・ローテーションを組んでいるため、訪れる人たちはさほど混んでいる印象をもたなかったが、コンピューター制御のバスや乗物は○・一秒きざみの調整を行っていた。
秋はまた、スポーツのシーズンだった。国際的な陸上競技大会が、大陸ごとに行われ、十一月初旬の、世界大会へむかって代表選出を争っていたし、テニス、ゴルフ、野球、サッカー、ラグビー、アメリカン・フットボール、といった競技の、プロ、アマの大会スケジュールが、それこそ網の目のように地球の上をおおい、また名物のパン・アメリカン自動車レース、オーストラリア縦断ラリー、アフリカ縦断オフロード・レースといったモーター・スポーツや、太平洋、大西洋をつなぐエア・レースが次々にスタートしていた。――スポーツだけではなく、北半球の秋は、新作の劇、オぺラ、シンフォニー、ポピュラー音楽といったものの発表会のシーズンでもあり、新しいファッションの発表が、パリで、モスクワで、北京、ニューヨーク、東京、そしてカイロといった大都市で妍を競うシーズンでもあった。
秋が深まって行くにしたがって、地球上の人々は、こういった世界的な行事、催し物に湧きたっていった。――それは、春のうきうきとした解放感とも、夏の汗したたる豪快な熱狂ともちがった、一種内面的な充実感のある楽しみであり、深く澄んだ空に白球のとぶのを眼で追い、あるいは古びた伽藍の前で、色鮮やかな伝統衣裳が舞うのを眺めたあと、夕もやとともに冷気の漂い出す黄昏ともなれば、人々は家やホテルに帰ってフォーマルな服に着かえ、劇場やコンサートホールや、豪華なホテルのショー会場へと集って来て、知人の誰彼とにぎやかに楽しみ、芝居やオペラや音楽を楽しみ、そのあとホテルのラウンジや街の有名レストランで酒と食事をとりながら長い秋の夜の更けるのも忘れて、おしゃべりをたのしむのだった。――室内の照明は明るく、空気はあたたかく、金銀の食器はきらめき、ワイングラスはなまめかしく輝き、そこここのテーブルからは、ときどきにぎやかな笑い声がはじけるのだが、ふと会話がとだえ、あたりの雰囲気も静かになった時、人々は、屋内で、降るような星空の下で、秋そのものが深まって行く事を、肌でしみじみと感じるのだった。
これが、ここ何世紀か、地球北半球上の文明地帯で人々が楽しんできた「秋」の味わい方であり、その年も、とりわけ訪れが早く、おだやかな日々のつづくこの季節を、人々はいつもよりも長く、深く、楽しんでいた。
地球は、その太陽をめぐる軌道の秋分点をすぎ、冬至点へむかって三分の一ほどふみこんでいた。――軌道に対して二十三度半ほど傾いた自転軸のまわりを一回転するうち、太陽の光と熱は、もう南半球の方を長く照らすようになりはじめ、南半球には初夏が訪れようとしていた。
五十億年前、宇宙の一角に集り出した大量の塵とガスの中から、原始の太陽系がうまれてきた時、その大量の物質が、集中しつつある秩序を形成するにつれて放出した重力ポテンシャルから、その最初の運動エネルギーを分与されたこの小さな岩石質の惑星は、宇宙空間とわずかにエネルギーのやりとりを行いつつ、宇宙にうかぶ巨大な時計のように、みずからも回転しつつ、母恒星のまわりを回転しつづけてきた。その回転周期は、長年月かけてわずかずつ変化しつつあったが、知的生命体がその惑星の上に生れて、時を計りはじめてからは、目に見えるほどの著しい増減はなく、時計じかけのように正確に、確実に、一日二五八万キロずつ、太陽のまわりの自らの軌道を移動しつつあった。――何億年乃至何十億年動きつづけた、この針の長さ一億五千万キロの巨大な時計の中心に、いま突然、天空の彼方から、おそるべき破壊力をもった「黒い弾丸」がおそいかかろうとしている事も知らぬげに……。
そんな北半球の秋のひとときを、マリアは京都の大原の奥の、外見は伝統的なロッジの一つですごしていた。
L4宇宙コロニイの、情報処理衛星《インフオーム・サツト》で、大コンピューターのオペレーション・センターに爆弾をしかけてつかまって以来、マリアはかなりはげしい抑鬱状態におちいっていた。L4保安局に留置されていた時、ママ・ダウに――先方はそのつもりはなかったにせよ――深層面接をされ、鎮静剤の作用もあって、彼女が自分自身の意識の底にあるものにふれかけたせいもあり、また一方では、ほとんど禁止レベルに近い昂揚剤《ハイ・ピー》を、アニタの命令によって「行動」に出る度に飲まされて来たその副作用のせいもあって、地球へ送還された時、彼女はあまり普通でない精神状態になっていた。しかし、地球での裁判の方は、それが幸いして、彼女はほかのメンバーとちがって略式裁判で起訴猶予になり、そのかわりフロリダのジュピター教団《チヤーチ》の私有地から、一年間出てはならないし、月に二回、教団所属以外の病院で、診察をうける事が申し渡された。
だが、彼女の姿は、一か月たたないうちに、教団所有の浜辺から消えた。――彼女と一緒にオペレーション・センターをおそった連中も、禁錮二か月の一人をのぞいて罰金刑と監察処分をうけたものは、ぽつり、ぽつりとフロリダから姿を消した。
マリアは、祖母からゆずられた財産を、財団の形で管理している代理人の手によって、裁判所の許可を得て、最初はカナダのマニトバの精神サナトリウムにうつされる予定だった。――だが、そこへ出発する一週間前に、彼女は、なにものかの手によって、深夜、教団の浜辺からヘリ・ボートによって沖合の飛行艇にうつされ、それからミッドウェー経由で神戸につれてこられ、さらにこの京都東北の山奥のロッジにうつされたのだった。
最初彼女は、てっきりアニタの差し金だと思った。――しかし、そこへくるまで、アニタは一度も顔を出さず、かわりにミッドウェーから神戸を経て、京都までは、エンリコ・レオーネと名のる、小柄で、口髭をはやした、どこか凶暴で暗い感じのする男がつきそった。
大原の奥の、日本の民家風のロッジは彼女の気に入った。――そこでは、彼女は別に見はられてはいなかったが、神戸からついてきた中国系の、無口でやさしい中年の看護婦が、彼女と同じロッジにとまって、身のまわりの世話をしてくれた。
ついてから三日間、マリアは薬も飲まないのに、ただこんこんと眠りつづけた。五日目あたりから、元気も恢復し、食欲も出てきて、何百年とかわらぬひなびた山村のそこここを散策するほどになったが、一週間目、色づいた山々を灰色にかすめて時雨《しぐれ》が走るのを見ているうち、突然またはげしい鬱の発作におそわれて、部屋の片隅に頭をかかえてうずくまり、その日から二、三日、また食事もとらず、声をたてずに泣きつづける日がつづいた。
看護婦はあまり注射をつかわず、やさしく説得をつづけた。――そして、その様子を見るに見かねたように、一緒に説得してくれた、この近くに住むらしい、若く、美しい尼僧の言葉をきいて、マリアはそのすすめにしたがって、飲物をとり、薬を飲むようになった。
ようやく少しずつ食事をとり、縁先に出て外を眺めるようになったのは、四囲の紅葉も盛りをすぎ、朝晩の冷えこみがつよくなりはじめるころだった。山奥の秋はあわただしくすぎ、平地より一足先に晩秋の気配がしのびより出した。――しかし、夜ともなれば、まだあたり一面、すだくような虫の音に満ち、月の上るころともなれば、夜露をおいた芒の原が、白銀の穂を夜風に波うたせ、あたり一面、銀色の海になったように見えるのだった。
そんな一夜、若くて美しい尼僧が、一包みの菓子と水盤、鋏をもってマリアのロッジを訪れ、縁先で、庭前の芒や名も知らぬ小さな秋の草花をとって、活けてくれた。
「これがイケバナですのね……」とマリアは、珍しそうに尼僧の手もとを見ながらつぶやいた。「つくっている所は、はじめてみるわ……」
「もう芒を活けるのは、季節はずれなんですけど……」と尼僧はきれいな、ちょっと京都風のアクセントのある英語でいった。「きのう今日、芒の穂に月の光があたるのを見ていると、枯れ芒を活けてみようかと思って……」
「でも、そちらの草花はまだ枯れていないでしょう?」とマリアは香り高い茶をすすりながら、少し面白がっていった。「ブッディストのあなたが、生のあるものを切りとってもいいんですか?」
「この花も、もうじき霜がくれば枯れてしまいます……」尼僧は、小さなピンク色の花をつけた草を手にもって、ちょっとこまったようにほほえんだ。「実を結び、種子をまいても、それがすべて、来年芽をふくわけではありません。ほとんどは死んでしまいます……。植物同士も、お互いに有害な物質を出して、競争種の発芽をおさえたり、また成体を枯らしたりして闘っているのです。ご存知ですか?」
「でも、そこに人間が介入して、殺したり、破壊したりするのはよくないわ……」マリアは口をとがらした。「そんな権利は、人間にはないわ……。その芒のように、もう種子をとばして枯れるばかりのものならともかく……」
「生き物はみんな、それぞれにつくり出した余り物を利用しあって生きています……」尼僧は水盤にたてた芒のわきに、草花をすえながらいった。「それに……この草の本体はまだ死んでいません。多年生草本ですからね。――地下茎はまだ生きていて、冬を越し、来年また芽を出し、花を咲かせます……」
「答になっていないと思うけど……」マリアは笑いながらも、なおこの色白の美しい尼を困らせてやりたくて、つづけた。「じゃ、一年生草本で、まだその個体が生きているうちに刈りとるのはいけないの?」
「いのちというのは、いったい何でしょう? マリアさん……」尼僧の方も、手を動かしながら、ほほえみをくずさずにいった。「私、仏門にはいる前から、そのことが不思議で、学校で生物学を――主として植物学ですけど――しばらくやりましたの……。生物というのは、この地球の表面にあるいろんな物質を、その営みを通じて、いろんな形で動かしますわね。個々の生物の、種や個体は、その物質をいろんなかたちにまとめ上げる……。植物や動物や私たち人間も、もとの物質はみんな同じで、ちがって見えるのは、かたちだけでしょう……一人一人の人間は、かけがえのない生を生きていると思っているけど、個々の人間は、いつかは死ぬし、でも人間の〃種〃は、生れかわり、死にかわり、生きつづけますわね。――その〃種〃も、いつかはほろびるでしょうし、地球上のすべての生物も、いつかはいのちとしてのかたちをとる事ができなくなって、生命発生以前の物質にもどるでしょうけど……」
「じゃ、心は?」とマリアはきいた。「人間の魂は?」
「かたちをみとめて、美しいな、とかふしぎだな、と思うようになったいのち……でしょうか?」尼僧はちょっと首をかしげた。「でも、マリアさん、もうこの話はやめましょう。――あなたがまた、いろんな事を考えて苦しむといけないから……」
尼僧は、鋏を傍において、水盤を縁先のほどよい所におしやり、すらりと立ち上がった。
「お茶――入れなおしましょうね。あの看護婦さん……リンさんもおよびしましょうよ」
「彼女はいま、お風呂……あの人長いんです……」とマリアはこたえた。
水盤の上に、芒の白い綿毛だけになった穂が立ち上がり、あるかないかの夜風にかすかにゆれていた。その茶色になった茎の傍に、うす緑の茎と、小さな葉とピンク色の花をつけた、あまりぱっとしない草花が、しかし尼僧の手によって、何かりんとした形にととのえられて、葉や茎もかさかさにかわきかけた芒を、下からささえ上げるように背をのばしている。
――それは、もうすっかり枯れ衰え、頭上に白髪をいただいて、腰も曲りかけた老婆を、若い、幼い生命が、まだまだしっかり生きなければだめよ、とはげましているように見えた。風が芒の穂をゆすると、それは、衰えてはいるが、まだしゃんと立っている老婆が、幼い孫に、やさしくうなずいているように感じられた。
マリアはその草を、ふしぎな思いで見つめた。――やがて枯れくちて、土にかえるもののかたちをくみあわせて、そこにより高度な、ほとんどドラマや象徴にちかいかたちをつくり出す、活花という技術のふしぎさにうたれたのだった。
「まあ、いい月だこと……」と奥の台所の方から、茶器をもって出てきながら、尼僧は嘆声を発した。「明りを消しましょうか?」
マリアはだまっていたが、部屋の一隅でかすかな音がすると、明りが消え、かわって青白い月の光が、八畳間の畳のなかばぐらいまで、くっきりとさしこんできた。
水盤の上の芒の穂が、縁先から畳の上まで、長い、黒い影をおとした。
尼僧は茶器をのせた盆を、縁側においた。
明りが消えると、なぜかあたりの草むらに一面に鳴く虫の声が、はっきりときこえてくる。
「もう、鈴虫は鳴かなくなりましたわね……」と尼僧は、耳をかたむけながらつぶやいた。「これから夜毎にすくなくなっていって、最後につづれさせこおろぎだけが床下に鳴くようになって……」
それから、尼僧はマリアの方をむいて、こっちへいらっしゃいません? というように眼でさした。――マリアは座敷から縁先へ出て、縁側から脚をたらした。
すごいばかりの満月だった。――晴れわたって、雲一つない空には、かなりな数の星も輝いている。
マリアは日の光をあびるように、月にむかって顔をあおのかせ、眼をとじた。
「日本へは、よくいらっしゃいますか?」
と尼僧はマリアに茶をすすめながらきいた。
「いいえ、前に一、二度だけ……。だけど、こんなにゆっくり、日本の秋を味わうのははじめてです……」
そういってからマリアは、はっとした。――日本……ここは英二の先祖が生れた土地だ。英二自身は火星で生れたにしても……。
「どなたかお好きな方がいらっしゃるの?――ごめんなさい、なんだかそんな眼つきをなさったもので……」と尼僧はほほえんだ。
「ええ……でも、いま、木星のまわりで働いているんです……」
夜空を眼で探すと、満月にもかかわらず、火星の赤い光はすぐ見つかった。そして、木星も……。
「あの月でも、火星や木星でも、今ではたくさんの方が働いていらっしゃるのね……」尼僧は月を見上げながらいった。「私、宇宙って行ったことがないんです。きっと雄大で、すばらしい所でしょうね……」
「いいえ! ちがうわ!」突然マリアはさけんだ。「宇宙なんて……人間の出かけて行く所じゃないんです。――人間は、宇宙へ住んだりせずに……月や星はこうやって、静かに、地球からながめているのが一番いいんです……」
マリアは切なげな眼つきで、月と木星を見上げた。――女二人、冷涼の夜気の中で虫の音をきき、茶を喫しながら見上げるその月や火星、木星の上で、いま、その空の彼方からせまりくる脅威に対して、すさまじいスケールの闘いが隠密裡に準備されつつある事を、彼女たちはその時知らなかった……。
2 影の闘い
地球と太陽系の「影の部分」に、表面にはあらわれない波紋が、徐々に、ひろがりはじめていた。
その波紋は、見た眼はおだやかな海洋の下をつたわって行く、巨大な破壊力を秘めた津波の波動のように、地球をふくむ「太陽系社会」の基本構造を大多数の人々には感じとれないような低い振動数でゆさぶって行った。
その波動は、地球よりも、太陽系の方がワン・ステップ早く、深部までつたわりはじめた。――ふだんと同じつもりで、火星から月へ行く旅客宇宙船の予約をしようとすると、なぜか二週間先まで満席だったり、小惑星帯辺境部で観測研究をつづけている学者が、首を長くして待っている観測資材の到着が突然延期される通知がはいり、おどろいてどうなったのか問いあわせると、この次、いつ到着するかわからないという返事だったり、また何か月もの遠方外惑星区勤務のあと、やっとかえってくる夫をL5コロニイで待っている家族の所へ、急な任務がはいってまた何か月か帰れない、というそっけない知らせがとどいたりしはじめた。
地球から、VIP専用の豪華宇宙クルーザーや、宇宙島のホテル部の注文をうけて、製作にとりかかろうとしていた高級宇宙船専門の工場では、設計を終っていざ資材発注をしようと思うと、太陽系空間のどこにも、原材料、機器類の在庫がなくなっているのを知って、責任者が恐慌におちいった。大さわぎをして、それこそ鉦と太鼓で宇宙空間の倉庫を探しまわり、注文主に納期延期の交渉を開始するのと平行して、材料製造関係に、次の出荷時期を問いあわせ、プレミアムつきの発注をにおわせて、納品をせかそうとしたが、どこからも、次に材料をまわせる時期は一年先になるか二年先になるかわからない、という冷たい返事がかえってきた。
とうとう万策つきて、その工場では、品質の悪さと、価格の高さを覚悟で、地球上の製造部門をあちこちおがみたおして、やっと原材料の七○パーセントを手配し、のこり三○パーセントを何とか自分の所にあった古い精製装置や工作機械をつかって自家製造する事にした。――ところが、地球に発注した分の第一便は、どういうわけか衛星軌道のつみかえ点で姿を消してしまった。その行方を追及しているうちに、つづいて地球の方から、第二便につみこむはずの物資が「上部の」緊急指令により、別の所に移送されてしまった、と知らせてきた。すっかり頭に来た責任者が、いったい「上部」とはどこの事か、それに、とにかく正規の発注手続きをとって、購入する事になっていた材料や部品を、納期がすぎているのによそへまわすとは、明白な違法行為であり、裁判所に仮処分を申請するから、移送先を教えろ、と申し入れても、そのあと梨のつぶてで、業を煮やして地球へ緊急直接通話をいれると、先方の責任者ではなく、「運送屋」と名のる男が通話口に出て、
「もうこの工場の人間は、誰もいませんぜ……」と答えた。「私は、この工場の機械をそっくりある場所へうつすようにたのまれて、いまあらかた送り出した所です。あとのこっているのは、冷蔵庫とマッサージ椅子ぐらいですがね……。機械の送り先? さあね、こっちは機械をはずして梱包し、空港の貨物機につみこむまでで、送り状《インヴオイス》は空港あてになってます……」
あまりの事に呆然としていると、入れかわりに彼の工場の主任技師と副技師からメッセージがはいり、ある筋からの要請で、やむを得ぬ事情で職場をかわる、という通知をうけ、注文主が一週間以内に視察にくるというのに、どうしたものかと、気も狂わんばかりの状態になって、むやみやたらにあちこちの知り合いをよびまくるのだった。
そして、地球から、宇宙観光がてらに、その工場を訪問し、豪華クルーザーの製作進捗状況を視察しようとした、金持ちの有力者である注文主は、彼がいかに上部とのコネクションを動かしても、地球領域から外への宇宙航路が、すべて「公用」のために満席になっており、いつ空席が出るかわからないといわれて、それこそ怒髪天を衝かんばかりになり、注文先の工場とも、ふっつりと連絡がとだえてしまったので、近所の宇宙基地にいる彼のエージェントの一人に、状況をしらべて知らせるように要求すると、その発注先の宇宙船建造工場が、責任者もろとも、あった場所から完全に姿を消してしまっている、という報告をうけた。
これは、何かの犯罪事件、すくなくとも詐欺事件ではないか、とさわぎかけると、いつの間にか、裁判所を通じて、受注者側からの契約解除の手つづきがきちんととられて、注文主の銀行口座には、それに見あう賠償金が払いこまれていて、法的にはどうしようもない状態になっているのだった。
地球をふくむ太陽系社会に、「何か」が起りつつあるらしい、という事は、こういった事件を通じて、徐々に、人々の間に感じとられはじめていた。――だが、地球、太陽系あわせて百九十億余の人々のほとんどは、まだ、そこに起りつつある奇妙な変化の背後にあるものについて、まるで気づいておらず、知らされてもいなかった。連邦政府、太陽系開発機構、そして世界天文学連合の中枢部を占めるごく一部の人々をのぞいて……。
それでも、太陽系社会でそれを知らされた人たちの数は、数千のオーダーをこえて、万のオーダーへ、さらに数万のオーダーに達しようとしていた。――だが一方、地球の上では、その「危機」の正体について知っているものは、まだ百人そこそこにしか達していなかった。連邦大統領府では、この「危機」を、いつ、どんな形で公表するか、それまでに、どんな手つづきと、どんな対策をとるか、危機に対してどんな方針でのぞむか、という点について、スタッフの間ではげしい議論がつづいていた。世界各地の大学、研究所から、優秀、高名な、社会学者、経済学者、政治学者、情報工学者が極秘裡に大統領府によばれ、人里はなれた、山中の政府所有の別荘にこもって、秘密回線であちこちのデータベースと連絡をとりながら、厖大な項目について、まるで巨大なジグソー・パズルをうめて行くように、パターン全体の、バランスをとりながら、一つ一つ検討をはじめていた。
そんな時、世界連邦大統領のジェイコブ・ミン博士は、上院の「宗教及び哲学問題委員会」の委員長である、アルディン・シャドリク上院議員から、同委員会の定例午餐会への出席をもとめられた。
高齢の大統領は、「X問題」への対応で、日夜の激務と心労のため疲れ切っており、健康がすぐれない事を理由に、これも相当へたばっているシュクロフスキイ副大統領を代理出席させた。
ところが、副大統領が、大統領府から千キロはなれた大都市での午餐会へ出発したのといれちがいに、当のシャドリク上院議員が、突然大統領官邸を訪れ、面会を求めてきた。――名目は、大統領の健康状態を見舞う事だったが、大統領自身は、その突然の訪問の知らせをうけた時、咄嗟に腹をきめた。――いつかは、あわねばならぬ人物だし、相手がどんな出方をするにせよ、彼のひきいる政治勢力との調整は、避けて通る事のできないステップだった。
この問題が起ってから、二十四時間つききりの主治医グループの一人に、いそいで薬を注射してもらうと、大統領は、この「政敵」を、執務室に招じ入れた。
大統領といくつも年のちがわない、やがて九十歳になろうとする、アルディン・シャドリク上院議員は、パール色のすごく上等な背広をぴしっと着こなし、一メートル九十二センチの、鋼鉄の鞭のような強健そうな体を、豹のようにしなやかな足どりではこんで、質素な執務室の中に大またではいってきた。
「おひさしぶりです……」と、上院議員は、美しく刈りこんだ半白の口髭を、ちょっと歪めるようにしていった。「健康がすぐれないとうけたまわりましたが……たしかに、少しおつかれのようですな」
「この夏の異常気象がたたってね……」と大統領は椅子をすすめながら、無理に笑ってみせた。「年をとると、気候不順はこたえる。――そのため、今日の午餐会の方も失礼して、副大統領に出てもらったが……あなたは出席されなくてもいいんですかな?」
「午餐会よりも、閣下の御健康の方が心配で……たまたま首都にいましたので……」上院議員は、灰色がかった鋭い眼を光らせた。「何しろ、いろいろと大変でしょうからな……」
「たしかに……この間から、宇宙問題特別委の委員長、副委員長が事故死したり、異常気象で各地に災害が起ったりで、ちょっと対策に忙殺されてきた……」と大統領はとぼけた顔でいった。「もう、今度の任期がすんだら、本当に隠退するつもりだ……。私も年でね。そういつまでも、こういった激務にたえられるとも思えん……」
シャドリク上院議員の鋭い鷲のような眼が、一瞬、膜がかかったように、あいまいな光をおびた。――彼が、次期大統領選に立候補する事は、公然の秘密になっていた。連邦議会の、上院下院の選挙のあと、議会によって投票されるしくみだったが、シャドリク自身のくせのつよい性格から、無条件当選とはいかないまでも、今の所他に彼ほど強力な候補者がいない事から、もし立候補すれば、二度ぐらいの投票で過半数をとれる可能性がつよい、とされている。そしてもちろん、彼自身も、すでに数年前から、強引な工作をつづけている。
「ずいぶん皮肉な話題をおえらびになりますな……」とシャドリクは低い声でいった。「それよりちょっとおねがいがあるのだが――五分間だけでいいから、録音をとめていただけまいか?」
「どうして?」大統領は両手をひろげた。「はじめから録音などしておらんよ。――何ならしらべてごらんになるかな?」
シャドリク上院議員は、射すくめるような眼つきをして、しばらくうたがわしそうにまわりを見まわし、それから視線を伏せて、おし殺した声でいった。
「いつ……議会をはじめ、一般に発表なさるおつもりだ?」
「何を?」と大統領は椅子を小さくまわしながらききかえした。「何の事かな?」
「おとぼけにならなくてもいい……」上院議員の瞳の奥に、暗い、炎のようなものが燃え上がった。「私にも、いろいろと情報源はある。――宇宙空間にも……」
「いつ、どういう形で公表するかは、私のスタッフが、それこそ不眠不休で検討をつづけている……。もうすぐ結論が出るだろう。どうかあなたも――それまでは、公人として、秘密は厳守していただきたい、上院議員……」
「むろん――私は、協力を惜しまないつもりだ……それどころか、私のもつすべての力をあげて、閣下と連邦政府をお救け申し上げたいと思っている……」シャドリク上院議員の声は、さらに一段と低く、重苦しくなった。「それは、今すぐにでも可能だ。――大統領閣下……閣下は、私の力を、今すぐにでも必要とされていないだろうか?」
それは当然……といいかけて、大統領はぐっと口をつぐんだ。――上院議員が提示しているのは、人類社会の危機を前にしての無条件の協力ではなく、一つの「取りひき」である事に気づいたからだった。
「大統領閣下……閣下は二期この要職をつとめられ、しかも最近は、この未曾有の危機に直面して、御高齢にかかわらず、大変な重責をおわれ、激務をしいられておられる……。ご自身でどう判断されておられるのだろう? あなたは、この人類社会はじまって以来の危機にあたって、ご自身一人の力で、最良の方法で対処できる自信がおありだろうか?」
「自信があろうとあるまいと……たまたま現在私は、責任をとらなければならない立場にあるし、その立場にあるものとして、最善をつくすしかない。それが公職というものだ……」大統領は椅子をまわして、窓の外に眼をはせながらいった。「もちろん自分一人だけで、すべてが処理できるわけではない。私のスタッフをはじめ、すぐれた知性の、またあなたのような強力な指導力をもった選良の全面的な協力がいる。そして、徐々に事態を説明していって、やがては万人の……」
「しかし、百九十億の人類の中の、わずか一、二億、あるいはもっとはるかにすくない数の人間しか、太陽系を脱出する事ができないとして――そんなことが、人類すべての同意と支持を得られると、本当に思っておられるのだろうか?」
大統領の顔に、一閃、はげしい苦悶の色が走った。――彼は、二、三度はげしく咳きこんだ。
「人選について……どんなに手をつくそうとも完全な同意や支持を得る事は、むろん、きわめて困難だろう。むしろ不可能と思う。しかし――どっちにしろ、私たちはそれをやるしかない……」
「むしろ、事態をまったく一般公表しない、という方針を、考えられた事はあるだろうか?」
大統領は、一瞬、自分の耳をうたがうような表情をして、上院議員の顔を見つめた。――本気でいっているのか? と、その顔は相手にたずねていた。
しかし、シャドリク上院議員の顔は、あくまで平静であり、その眼は、冷たく、強固な意志をたたえて、冴えかえっていた。
「そんな……」大統領はかすれた声でいった。「そんな事は……人類有権者の信任をうけてこの職についた立場として……」
「まあ一度、ぜひ考えていただきたい……」上院議員の薄い、しわのきざまれた頬には、かすかに嘲笑のようなものがうかんだ。「その方向を考えれば、話はずっと簡単になり、その分だけ、最も効果的な処置が存分にとれるはずだ……。昔、癌が不治の病だった時代、癌がある程度進行してしまった患者本人には、病名を知らさなかったそうだ。みすみす、助からないとわかっている連中に……それも多数の人間に、あと何年の間に確実に死ぬ、と告げて、その死までの間を苦しませ、狂乱状態にまでおちいらせて、われわれの考えぬいた〃最善の処置〃まで妨害させるようになるよりも、いっそ……」
「ちょっと待ちたまえ……」大統領の顔色は、怒りのために白っぽくなっていた。「それとこれとは話がちがう。たとえ、政府存続が危うくなるほどの混乱が予測されようとも、信任をうけた立場としては……」
「その混乱が、人類にとって、結果的には〃最善〃となるはずの選択を不可能にしてしまってもかね?」と上院議員は大統領の内心をはかるような、ひややかな眼つきをした。「……あなたには、おそらくこの〃最善の選択〃はできないと思う。あなたは、大衆の支持によってこの職についたのだから……それが、あなた自身の弱さになっており、そのため、この未曾有の危機に対し、もっと強靱な見方によっては冷酷ともとれる意志でもって、最善の選択を貫く事をむずかしくしていると思う……」
「君にはそれができる、といいたいのかね、アルディン……」大統領はきっとシャドリクの顔を見すえて、なじるようにいった。「人類大衆に真相を知らせず、一部のものだけで、秘密に事を処してしまう事が……たとえ、それが、結果的には最善であったにしても……」
「あなたにはそれができないだろうと思うが、私ならできる……」シャドリクは、頬をひきしめて、冷酷な調子でいいはなった。「なぜなら――あなたのたよるものは、自分の良心しかないだろうが、私は弱々しく片々たる人間の良心以上のもの――人類の存在をはるかにこえる神の意志を信ずる事ができるからだ。宇宙の深淵からきこえてくる、〃永遠〃につらなるものの声をきく事によって、有限にして死すべき、個々の人間の存在に感傷的になり、判断をくもらさせる事なく、この宇宙の中における、人類の未来への存続に対して、最善かつ本質的な方策を、ためらう事なく実行する事ができる……」
「そろそろ私は次の仕事にかからねばならん……」大統領はデスクの上に手をのばしてブザーをおしながらいった。「面会時間が短くて悪かったが……」
「私なら、それができる。やってみせる……」シャドリク上院議員は体をのり出していった。「もし、手つづき上の問題で権限委譲が急にはむずかしいなら……せめて、私に、君を救けさせてくれ。君には、この宇宙と人類との本質を見きわめた上ではじめて生れてくる、強い意志の救けが必要だ。それは人類のためにも……」
「残念だがアルディン……」大統領は突然ほほえんだ。「私には、君がきいている〃神の声〃はきこえない。私にきこえてくる声は、君のきいているものとは、どうやら別のものらしい……」
3 プロジェクトX
火星の衛星軌道上にある、OPDO―3S――外惑星開発本部の第三支部衛星のラウンジで、本田英二は思いもかけない人物とばったり顔をあわせた。
OPDO―3Sは、もともと火星上におかれた外惑星開発本部の、新しい情報通信センターとして建設中のものだった。〃X問題〃がもち上がった時、もうこの総慣性質量六万三千トン、定員四百五十名の宇宙島は、外装は九八パーセント、内装は九五パーセント完成し、通信機能は、一部操業をはじめていた。
そして、月面のH・G・ウェルズ重力研究所で、地球からひそかに訪問した連邦大統領、副大統領、公安委員長と、太陽系開発機構、世界天文学連合の主要メンバーとの間で〃X問題〃についての緊急秘密会議が行われた直後、このOPDO―3Sは〃X問題対策本部〃の中枢部にする事にきめられ、ただちに細部の仕様変更と、その施設を太陽系開発機構本部の直轄とする指令が発令された。
秘密会議の最後の段階で、ミネルヴァ基地から、H・G・ウェルズ火口《クレーター》によばれた英二は、その場から、〃プロジェクトX〃の準備要員として、OPDO―3Sに派遣され、そこの情報通信システムを、〃X対策〃専用の中枢に組みかえる仕事に参加させられた。――その時から、OPDO―3Sは、非公式にOPDO―AXのコードネームでよばれる事になったが、その名称変更は、まだ外惑星開発本部でも一部のものしか知らされていなかった。
英二は、自分の責任下にあるJS計画について、まだ計画中止の通達も、変更の指令もミネルヴァ基地の実施本部に出していない事を、ずっと気に病んでいたが、ウェッブ総裁は、依然として、
「まだ、もう少しの間、何も知らせるな。――現状のまま、しばらくほうっておけ」
とくりかえすばかりだった。
OPDO―AXでの仕様変更作業は、約三週間を要した。そして、まだ完全に作業の終っていない二週間目ぐらいから、〃プロジェクトX〃の要員が、月から、L4、L5から、火星から、また小惑星帯から、続々とこの宇宙島にのりこんできて、〃X点〃――太陽系へむかってつきすすみつつあるブラックホールにむかって焦点をあわせている光学、電波、X線望遠鏡衛星群〃巨眼《ビツグ・アイ》〃から刻々おくられてくる情報を解析し、それを「プロジェクトX」のフェイズ・0《ゼロ》――つまり総合準備段階の基礎条件に組み入れて行く作業を開始していた。
一応定員四百五十名が居住できるスペースをもっているOPDO―AXには、ある時期、緊急仕様変更の作業員と、フェイズ・0《ゼロ》の要員のため、百名もオーヴァーする五百五十名もの人間がつめかけ、居住区が定員オーヴァーした上、居住スペースのかなりな部分が、はこびこまれた機械の置き場や、臨時の会議室につかわれたので、作業員の一部は、現場にマットレスや寝袋をもちこんでごろ寝する有様だった。
三週間で、仕様変更作業はあらかた終ったが、英二はひきつづき、ランセンの代理という形で、〃プロジェクトX〃の本部付要員として、OPDO―AXに張りつけになっていた。ランセンは、大統領府によばれて地球に行っており、火星への帰還は予定より一週間以上のびていた。――そのかわり、ウェッブが十日ほど前から、火星へ来ている、という事だったが、まだOPDO―AXへは顔を出していなかった。
そんな状況で、OPDO―AXへ来てから、すでに一か月以上たってしまっていた。
一日の平均睡眠時間三時間から四時間という、ひどい作業日程をこなしながら、英二は胸の底に、いつも「JS計画」とその仲間たちに対する、かたいしこりを感じつづけていた。――〃プロジェクトX〃そのものが、「フェイズ・0《ゼロ》」の段階では、まだ極秘とされ、準備要員は、こちらからは個人通信を禁じられ、外部との通信の一切は、保安部から出張してきた特命管制官ににぎられていたため、ミネルヴァ基地に、「まだもう少し帰れそうにない」という通知さえおくる事ができなかった。
ミネルヴァ基地の、ブーカーは、カルロスは、そして電子脳《ブレイン》の〃ナンシィ〃は、いったいどうしているか……。五年弱かかるはずのJS計画――「木星太陽化計画」のしあがりを、半分以下の、わずか二年にちぢめる〃フェイズ・U〃に、みんなそれこそ不眠不休で、気が狂ったようにつっこんでいたのに……一方では、彼らの知らない理由によって、最優先で手配できるはずの資材や機械が次々に入手できなくなり――しかも、現場の最高責任者である自分は、上層部に抗議に行ってくる、といって基地をとび出したきり、もう五週間以上も、何の連絡もしていない。しかも……月へ行くといって出かけたが、その後、行先もまったくわからなくなっているはずだ。
月裏面のH・G・ウェルズ火口《クレーター》での数日後、直行便で火星へ、そしてOPDO―3Sへと、何十名もの初対面のメンバーと一緒にすっとんできた。月や火星でかきあつめてきた通信機材や、電子脳と一緒に……そして、それからランセンの代理として、まるで休みなく吹きあれる嵐の中で働いているような日々の連続だった。すべての情報と通信の糸は、徐々にOPDO―AXに集りはじめた。あと一週間で、この宇宙島は、地球と太陽系をふくむすべての要員と技術と物資の状況に関するデータがリアルタイムで集中し、同時に、〃巨眼《ビツグ・アイ》〃からの〃X点〃の動きについての、刻々くわしくなって行く情報がこれにドッキングする事になっていた。あと最大の問題は、太陽系と地球の「政治・社会的状況」に関するデータをどうつなぐかだが、それは〃フェイズ・1《ワン》〃の段階の仕事だった。いずれにしても〃プロジェクトX〃の司令センターとしてのOPDO―3Sの基礎的な模様替えは、どうやら峠が見えてきた。――だが、英二自身はこれからどうなるのか、太陽系開発機構の内部だけでも、この事態についての「発表」の時期はいつになるのか、JS計画そのものの〃Xシフト〃の指令はいつ出したらいいのか、そんな疑問が、重苦しく、かたいしこりとなって、英二のみぞおちのあたりをのべつ圧迫していた。
そういった、全体としてはまだてんやわんやの状態がつづいている最中に、作業員の一人が廊下ですれちがいざま、英二と話したいという人物がFラウンジにいる、と知らせてくれた。――ちょうど仕事が一段落して、休息でもとろうかと思っていたところだったので、誰かがうちあわせでもしたいのだったら、早くきりあげようと思って、居住区との境界にちかい、Fラウンジにはいって行った。
Fラウンジは、半分は息ぬきしたり、ソファにひっくりかえって仮眠をとったりしている連中に占められていたが、あとの半分は、テーブルの上に、ELボードをひろげたり、端末をもちこんで、データをひっぱり出しては口角泡をとばして議論している作業員に占領され、まるで臨時会議室のように雑然としていた。――部屋の中にこもる、男たちの脂と汗のにおいに、ちょっと顔をしかめながら、Fラウンジの、人々が休息している半分のスペースを見わたした。
一瞥したところ、どこにも彼を待っているらしい表情の人物はいなかった。――あちこち見まわしながら奥の方へ二、三歩行きかけると、ふいにすぐ傍から、汚れたデニムのズボンをはいた脚がにゅっとのびて、彼の行く手をふさいだ。
「やあ、主任……」と、ソファに腰をおろして片脚を前にのばした青年は、英二の顔を見上げながらにやりと笑った。「ずいぶんひさしぶりだったな……。もう木星にゃかえらないのかと思ったぜ……」
「カルロス!」英二は、のどに痰がからまったような声でいった。「カルロス・アルバレス……よく……よく、ここへこられたな」
カルロスはゆっくりとソファからたち上がった。――ぼうぼうにのびた髪は肩をこし、茶色のひげものび放題にのびて、頬がこけ、頬骨のとび出した顔は、まるで別人のようだった。眉間に深いたてじわが二本きざまれて、あの若々しい天才青年だったカルロスは、すっかりふけこみ、けわしい表情になっていた。
「あんたもずいぶん髭がのびたな、英二……」とカルロスは乾いた口調でいった。「顔色も悪いし、ひどくやせたみたいだ……」
「ミネルヴァ基地の連中……元気でやってるか?」英二はちょっと顔をそむけてきいた。「もちろんおれも……ずっと気にはしていたんだが……まだ説明できないが……実は、月へ行ってからあと、ある事情で、通信を禁止されちまったんだ……。それに、ここで……」
カルロスは、いきなり英二の眼の前で、パッと両手をひろげてみせた。眼には乾いた冷ややかな光があり、口もとには皮肉な笑みをたたえ、おどけたように、開いた両手を左右に動かしてみせた。
「わかっているよ……」とカルロスはひょいと肩をすくめてみせた。「主任ともあろう人が、なんの理由もなしに、五週間も現場をはなれっぱなしで、全然連絡もしてこない、なんて思っちゃいない。きっと何かがあったんだ……。それに、この太陽系全体に、何か妙な事、とても重大な事が起りつつあるらしくて、そいつにあんたもまきこまれた……。そのくらいの事は、おれにだって察しがつくさ……」
「あとはブーカーにまかしてきたのか?」傍のアームチェアに、どすんと腰をおろしながら英二はきいた。「彼は元気か?」
「ブーカーは、相変らず無理して陽気にやっているよ……」カルロスは、眼を妙にぎらつかせながらいった。「だけど〃フェイズ・U〃は、……いまや完全に手づまりだ。こんなぐあいに……」
カルロスは、英二の鼻先にぐっと両手をつき出すと、開いた指と指とをがっちり組みあわせ、ねじるように押しあわせてみせた。
「もうだめだ……。死力をつくして、ありとあらゆる事をやってみたが――何だかものすごくでかい、もう一つの得体の知れないプロジェクトと、がっちりかみあっちまって――でっかいタンカーが二隻衝突して、片っ方のどてっ腹に、もう一方の船首ががっぷりくいこんだみたいで、押そうがひこうが、二進《につち》も三進《さつち》も動かなくなっちまった。あと二週間ちょっとぐらい、作業は今のテンポでつづけられるけど、そのあとは、もう完全に手づまりだ。どうやっても、資材も、原料も、工作船も、手配がつかない。――で、それから先はどうすりゃいい?……それを相談するために、火星へとんできたんだ。もちろんOPDOへどなりこみ、ついでに君の行方をさがすためさ……」
「しかし――よくここへ来られたな……」英二はあたりを見まわしてつぶやいた。「まだここの事については、情報が解禁になっていないはずだが……」
「さあ、どうだか知らんが、OPDOへおしかけて、ランセン企画本部長にあわせろ、といったら、ランセンはいまいない、という。それじゃかわりでいいからあわせてくれ、と粘ったら、じゃ代理がここにいるからって……たしか、上の方へ問いあわせていたな。誰だか、かなりえらいやつに……」
「総裁《おやじ》だ!」と、英二は小さく叫んだ。「きっとそうだ。――ウェッブ総裁は、いま火星につめているんだ……」
「へえ――珍しく、御大みずから、ライプニッツ市の本部を動いたのか……」カルロスは眼を見はった。「ねえ、主任……あれこれ思いあわせると、何かよほどえらい事が起りかけてるような気がするんだが……いったい何が起ったんだ? まだ教えてもらえないのかい?――まさか……」
といいかけて、カルロスは、突然くっ、くっと神経的に笑い出して、英二の隣にどかん、と大仰な音をたてて腰をおろした。
「まさか、太陽系最後の日でもくるというんじゃないだろうな?」
英二はそれをきいたとたん、頬がひきつるのを感じ、表情を見られまいと、顔をそむけた。――ちょうど、そらせた視線のむこうに、三、四十人の男たちが、バッグをかついだり、手荷物や工具箱をもって、どやどやとラウンジにはいってきた。彼らは、疲れたような、しかしせかせかした足どりでラウンジを横ぎり、反対側の出口から出て行こうとしていた。
その一団の中から、がっちりした五十がらみの男が、英二にむかって手をあげた。
「じゃ、主任……。われわれの班は今ついたフェリーでひきあげますので……」
と男はいった。
「ごくろうさん。おつかれさま……」と英二も手をあげてこたえた。「今度はどこへ行くんだ?」
「半分は火星――通信航行管制局です。あっちでまた、大規模な模様替えがあるそうで――残り半分は、宇宙工廠です……」
「宇宙工廠?」と英二はききかえした。
「君たちは、宇宙船の建設もやるのか?」
「通信関係の仕事は、造船の方だって、どうせ山ほどありまさあ……」男は背をむけて大股に歩み去りながら、肩ごしにふりかえっていった。「これでまた、むこう三か月、かかあの面《つら》をおがまずにすむこってしょうよ……」
「みんなそのままきけ……AX臨時司令部からの通達がある……」と、立ち去って行く男たちの背中によびかけるように、ラウンジのスピーカーから声が流れた。「〃プロジェクトX〃の〃フェイズ・0《ゼロ》〃の終了時は、予定より八十時間くりあげ、あと四十八時間でこの段階を終了し、そのまま〃フェイズ・1《ワン》〃にはいる。したがって、〃フェイズ・0《ゼロ》〃の作業がまだ残っている部署は、早急に予定を完成するように……。くりかえす……」
「〃フェイズ・U〃はどうしてくれるんだ?」
とカルロスはびっくりするような大きな声でどなった。――英二は、カルロスがまた、感情が激し、逆上したのかと思って、あわてておさえようとしたが、カルロスは一声どなっただけで、ソファの上でそっくりかえって、毒々しい声で笑いだした。
いつか、ミネルヴァ基地でなったような、ヒステリックな状態にはなりそうになかったので、ややほっとしたが、それでも以前のはにかみ屋のカルロスとはまったくちがう、毒々しい、攻撃的な笑い声をきいて、英二はやはりカルロスが、神経的にも精神的にも、相当ひどくいためつけられ、荒れている事を感じて、ふと胸がいたんだ。
その時、出ていった一団と、すれちがうように、ラウンジにはいってきた、新しい到着者の一団の中から、「あまり大声でわめくな……」と声がかかった。「ここではみんな、神経がまいってるんだから……」
カルロスは、その声を聞いて、喧嘩でも売りそうな勢いで、眼をぎらぎら光らせながら、はげしくふりむいた。
「やあ、ランセン部長……」声の主を認めて、カルロスは椅子からゆっくり立ち上がった。「誠におひさしぶりです。――静かにききますから、こちらの……JS計画の〃フェイズ・U〃について、いったい本部の方針はどうなっているのか、これからわれわれはどうしたらいいか、部長からご説明ねがえますか? それだけうかがえれば、私はすぐ、ミネルヴァ基地へとんでかえって、ぶったおれかけている仲間に説明しますから……」
「わかった。――とにかく一緒に、こちらへ来たまえ。まだ極秘段階だが、間もなく……四十八時間以内に、外惑星開発本部の内部だけでも、解禁になるだろうから」
「という事は……その説明をきいてしまうと、最低四十八時間はここから出られない、というわけですか?」
とカルロスは、相変らず挑戦的な口調でいった。
「ああ、英二……火星から、珍しい人たちが来てるぞ……」ランセン部長は、カルロスにかまわず、背後を拇指でさした。「今ついたフェリーで一緒になった……」
あわただしい足どりでラウンジを通りぬけて行く、到着客の一団の一番後尾に、英二は長身の老人と、がっしりした、栗色の髪の女性の姿を見て、
「バーナード博士!……ミリー!……」と思わず叫び声をあげた。「あなたたちも、こちらへよばれたんですか?」
「重力理論の専門家を、何とか見つけてくれとしつこくたのみつづけていたら、じゃここへこい、といわれてね」宇宙考古学の泰斗レイ・バーナード博士は、禿げ上がった頭をなでながら、静かにつかれた微笑をうかべた。
「こちらには、優秀な専門家が根こそぎ集められているということでな……」
4 大統領狙撃
火星の衛星軌道上にある宇宙島OPDO―AXの中央部にちかい大きなスペースの中には、六面の大ディスプレイ・スクリーンと、四面の中型ティルト・スクリーン、それに三十数卓のコンソールが雛壇式に配置され、雛壇の最上部の一隅は、防音壁でしきられた一郭になっており、その中央に多元表示装置のついた円卓がすえられていて、そこがスタッフ・ルームになっていた。
ランセンは、英二たちをひきつれる形で、その一郭に近づいていった。
スタッフ・ルームをふくむ、その広大なスペースは、「プロジェクトX」の中央司令室になる予定になっており、まだまわりには、機械や光ファイバー類が、あるものは梱包のまま雑然とくみあげられ、自動カートや軽量リフトのたぐいがせまい通路を右往左往し、何人かの従業員が天井にとりついて、配線作業やテストをつづけていたが、フロアの方では、もう十七、八人の司令部メンバーが、コンソールにはりついて通信と情報集積作業にとりくみはじめており、六面の大スクリーンのうち、さまざまなテストパターンが明滅している調整中の二面をのぞいて、残る四面のスクリーンには、〃巨眼《ビツグ・アイ》〃からの観測情報や、太陽系宇宙空間における、資材、人員、船舶、工場類の動態情報が、数字で、文字で、あらゆる種類のグラフやライヴ映像で、刻々とうつし出されつつあった。
コンソールの間を横切って、スタッフ・ルームにはいって行くと、中には髪の毛の黒い、口髭をはやした浅黒い肌の中年男と、まだ二十代半ばぐらいの、色白でそばかすのある金髪の青年が、多元表示装置にグラフをうつし出しながら、何か深刻な様子で話しこんでいた。
ランセンたち五人がはいって行くと、円卓の傍の二人は顔をあげ、バーナード博士とミリーを見て、はっとした表情になった。
「これは……」と浅黒い顔の男は、ちょっとほほえみながらつぶやいた。「バーナード博士……それに、ミリー……ウイレム博士だったですね」
「やあ、ムハンマド……」とバーナード博士は手をあげた。「それに、そちらは、天文学連合のヴィンケル副会長の御子息だったですな。――あなたたち、ここのスタッフですか?」
「まだ、正式に発令されているわけじゃありませんが、行きがかり上、当分かなりの間ここにいる事になりそうです……」とマンスールは多元表示装置をふりかえっていった。「まったくえらい事になったものです……」
「やっぱり、ブラックホールは、太陽系に大きな影響をあたえそうですか?」
ミリセント・ウイレムが口をはさむと、マンスールはオットー・ヴィンケル・Jr.とちょっと顔を見あわせた。
「というと……あなた方はまだ、現段階での、正確な情報を知らされていらっしゃらないんですか?」
「いいんだ、ムハンマド……」とランセンがうなずいてみせた。「あと四十八時間で、太陽系開発機構内部の現場には、情報が公開される。――いま説明してあげたまえ……」
英二は、傍で、しうっ、というような高圧蒸気のもれるような音をきいて思わずふりかえった。――カルロス・アルバレスが、紙のような顔色になって、くいしばった歯の間から、強い息を吹き出していた。
「ブラックホール……そうか……」とカルロスは低い声でうなるようにいった。「そうか……そうだったのか……」
「L4の情報処理衛星《インフオーム・サツト》でお目にかかった時より、情報はずっとはっきりしてきました。――そして、ずっと悪くなってきた、といった方がいいでしょう……」マンスールは、多元表示装置の上に投影されている図形に眼をやりながら、沈痛な声でいった。「こんな事が、この宇宙の中で……特に太陽系近辺で、起り得るとは、夢にも思わなかったんですが――〃X点〃、つまり、いま太陽系から千百億キロメートルほどの所にあるブラックホールは、二年たらずのうちに――あと約一万七千時間ほどで、太陽そのものを直撃するコースをとっています……」
ミリーも、バーナード博士も、息をのんだ――。ずるっ、というような音をたてて、カルロスは、くずれおちるように、円卓のまわりの椅子の一つに腰をおろし、長髪をかきむしるようにして、口の中でぶつぶつつぶやきはじめた。
「太陽を直撃する?」とバーナード博士は、放心したようにつぶやいた。「正面衝突するわけか……」
「その――ブラックホールは、質量はどのくらいですか?」とミリーはきいた。「太陽の何倍くらい?」
「いや……太陽質量の十分の一ぐらいの、ミディアム・ブラックホールです……」とマンスールのむこうから、多元表示装置を操作しながら、オットー・ヴィンケル・Jr.がこたえた。「ちょうど今、X点観測装置群の〃巨眼《ビツグ・アイ》〃から、新しい解析情報がはいってきています。――X点の想定質量は、太陽質量の十分の一よりもう少し小さい……三十分の一から五十分の一と思われます」
「それでも、木星質量の二十倍から三十倍か……」と英二はつぶやいた。「でも、それくらいだったら――ちょっと見つけにくかったでしょうね……」
「そうです。シュワルツシルド半径が、せいぜい数百メートルという所でしょう。もちろん、重力場の影響範囲は、一番小さな恒星の半分ぐらいありますけどね。――ですから、かなり近くに来るまで、こちらもまったく気がつかなかったんです。何しろ、ブラックホールは、光も電波も粒子線も吸収するばかりで、それ自体からは何の情報も出てこないんですから……」
マンスールは、溜息をついた。「でも、まあ、かなり大きな質量が、その中におちこんで行く時、小さな所にたくさんの物質が、急激につめこまれるので、高熱を発してX線を出すんですが……あとから考えてみると、この二十年ほどの間に、太陽系の外からくる彗星の数ががくんとへったのも、太陽から○・一光年乃至○・○五光年あたりにある、〃彗星の巣〃の一つが、たまたま接近してきた〃X点〃に食いつくされて、消滅したかららしいですね。――〃彗星の巣〃といっても、稀薄な氷やメタン、シアンの微細結晶の集団ですから、この時物質がブラックホールにおちこんでX線を発しても、量的にごくわずかで……しかも、銀河の中心方向から接近して来ているので、背景ノイズにまぎれて、気がつかなかったんですね。でも、あとから、観測記録を長期にわたって精密にチェックしてみますと、たしかに弱いX線フレアが――ずっと遠方のX線源と確認されたフレアが、点々とつらなっているのが見つかってきまして……それがX点の固有運動をわり出す、手がかりの一つになったのです」
「直接の発見の動機は……」ミリセント・ウイレムは低いくぐもった声できいた。「あの彗星源探査特別計画に従事していた〃スペース・アロー〃号の遭難と関係しているわけでしょう?」
「おっしゃる通りです……」マンスールは悲しげに、黒く長い睫毛をふせた。「あの計画の直接の担当責任者は私でして……ですから、〃スペース・アロー〃の遭難状況を、くわしくしらべているうちに、あの宇宙船の異常な事故の原因が、X点との不幸な接近によるものという確信を得ました。――私は、あの事故で、私の良い友人を二人失いました……」
「私も……一人、失いましたわ」
とミリーは乾いた声でいった。
おれも、だ……と、英二は思った。――ホジャ・キン……お前と最後のわかれの一杯を汲みかわせなかったのは、かえすがえすも残念だ……。
「その……ブラックホールは、どのくらいの速度で、太陽系へつっこんでくるんだね?」とバーナード博士は口ごもりながらきいた。「そんな、何の情報も出していない点を、どうやってトレースしているのかね?」
「太陽系――というより、太陽との相対速度は秒速約二千キロプラスマイナスです……」とオットー・ヴィンケル・Jr.がいった。「太陽系の、銀河中心に対する公転速度二百五十キロ/秒を計算にいれますと、二年たらずの間に、まるでピンポイントのように――まるで、どこからか、太陽という運航中の巨大な宇宙船めがけて発射された魚雷のように、どんぴしゃりで太陽を直撃します。太陽系内にはいれば、重力によるホーミング効果も出てくるでしょうし……そのコースは、まだ多少の誤差があるでしょうが、今の所水星軌道殻よりかなり内側を通ると考えられ、そうなると、たとえ直接衝突しなくても、潮汐作用によって、太陽は破壊的な大擾乱をうける事になるでしょうね。火星軌道はおろか、木星軌道や土星軌道でも、とても生物のすめる状態じゃなくなるでしょう。もし、X点が太陽のまわりをめぐる連星系を形成しても――それはまあ、よほど幸運なケースですが――太陽系はものすごい事になります。直接衝突でもすれば――まあ、銀河系中心部や、セイファート銀河では珍しくないが、このあたりではまったく珍しい〃衝突型超新星現象〃が見られる事になるでしょうね……」
ヴィンケル・Jr.は、多元表示装置のキイを操作して、ディスプレイに、星座図を出した。
「〃巨眼《ビツグ・アイ》〃で集中探査した結果、探査空間内に、恒星の重力レンズ現象が見つかって、大体のX点の位置とコースがわり出されました。――現在では、宇宙全体の二・七度Kの背景輻射と、X線背景輻射その他を利用して、これらのバックグラウンドの重力偏光現象をとらえ、X点の二十四時間追跡が可能になりつつあります。それに、高速無人探査機二機が、X点にむかって発進し、一年後ぐらいから、接近追跡が可能になるはずです……」
「で――その二年後の衝突《クラツシユ》に対して、今はどういう対策がとられつつあるんです?」
円卓の一番はなれた所から、カルロスがしわがれた声できいた。――彼の眼は、うつろで、円卓の上に組んでおかれた両手の拇指を、ぐるぐる動かしては、それをぼんやりみつめていた。
「今の所……X点の性質と軌道をより精密につきとめる事と……人類の一部――それもごく一部を、衝突前に、太陽系から脱出させるプロジェクトの準備にとりかかっている」と、今度はランセン部長がこたえて咳払いした。「それが〃プロジェクトX〃というやつで、暫定的にこの衛星のここが、司令中枢になる……。ええと……注意してほしいのは、このX点と太陽との関係の事は、地球上では、百八十五億の人口のうち、大統領府のコア・スタッフ以外、まだ誰も知らない。いつ、どんな形で、発表するかは、大統領と連邦政府の、最もむずかしい政治的選択になるだろうから、みんなも機密保持に注意してほしい。太陽系空間の方は、現在、中枢部を中心に、約五、六万人の人間がこの事を知っている。四十八時間後に〃フェイズ・1《ワン》〃にはいると、ざっと数百万人の、現場関係者が、この事を知るだろう。宇宙空間の、一般居住者への公開は、おそらく地球での発表と連動させられる事になるだろう……」
「ごく一部の人間――というと、大体どのくらいの人数ですか?」
と英二はきいた。
「この前、大統領と総裁との話合いで、二億乃至二億五千万人、という数字が出た……」ランセンは、ちょっと苦しそうに顔を歪めた。「しかし、それはこの二年間で、地球から脱出させられる人数の最大限という事で――太陽系の危機から完全に逃がすとなると、とても、こんな人数は無理だ。〃プロジェクトX〃の最大の眼目は、できるだけ多数の人間を、太陽系から脱出させるための、恒星間宇宙船の建造と、さらに、どの恒星系へむけて脱出した人間を送るか、という点にあるが……太陽系から、脱出させる事のできる人類は、さっきの数より二桁も三桁も小さいものになるだろうし……他の恒星系まで運んで植民するとなると、さらにもっと小さい数になる公算が大きい……」
「対策としては、人類を脱出させるだけですか?」と英二はきいた。「ほかには――何も考えられていないんですか?」
「ほかにどんな事が考えられる?――太陽の数十分の一の質量をもったブラックホールが、秒速二千キロでつっこんでくるんだ。こんな巨大な運動エネルギーを、どうこうするといった技術は、人類はまだもちあわせておらん……」ランセンは吐きすてるようにいった。「となると、ほかにどういう手がある? みんな心をあわせて、神に祈るのか?」
「ちょっと……」とカルロスが手をあげていった。「そのブラックホールは、回転しているんですか?――荷電は?」
「そういったディーテイルは、まだよくわかっていないんですが、学者の過半数は、いろんな条件から、回転していると考えているようです……」とオットー・ヴィンケル・Jr.がこたえた。「ただ、その角運動量がどのくらいで、回転軸がどうなっているか、また帯電しているかどうか、といった、くわしい事は何もわかっていません。――無人探査機が接近追跡をはじめれば、そういった情報がはいってくるでしょうが……しかし、そういったX点の性質がわかっても、こちらには、対策のたてようがないでしょう――。何しろ相手は、木星の数十倍の質量と、巨大な運動エネルギーをもった天体ですから……」
「私たちが、しらべていた〃宇宙メッセージ〃は、何かの役に立たないかしら?」とミリーが体をのり出すようにしていった。「最近、火星の極冠の下から見つかった、〃火星パターン〃によって、ナスカ・メッセージや、小惑星帯の〃宇宙人メッセージ〃の解読が急速に進んだんですが――その中に十万年以上前に、太陽系を訪れた宇宙人たちが、その母恒星をはなれるようになった原因として、〃ブラックホール〃が関係しているらしい、という事が、だいぶはっきりしてきたんです。そのブラックホールが、今太陽系に接近しつつあるX点と、同じものかどうかは、断言できませんけど……」
「ほう……」とヴィンケル・Jr.は、何かを考えるように、口をとがらせた。「その十万年前に太陽系や地球を訪れたという宇宙人たちの母恒星は――太陽系からどのくらいはなれていたんでしょう?」
「それは、メッセージに損傷部分があって、あまりはっきりしないんですけど……私自身は十光年から、ぎりぎり百光年の間と想像しています……」
「X点と同じブラックホールとすると、少し計算があわないかも知れない……」ヴィンケル・Jr.は、手ばやく表示装置の上で計算してみて、つぶやいた。「もし、X点の固有運動速度が、ずっといまのままだったとすると……十万年前には、六百三十光年ぐらいはなれた所にあった事になる……」
「ただ、何かの事情があって、加速された可能性も考えられんでもない……」とバーナード博士はいった。「重力理論の専門家が、根こそぎこちらの方へ動員されてしまったので、アマチュアだがそちらの方にくわしい老人に、ある程度、その部分を解析してもらったんだが……連中は――つまりメッセージをのこした宇宙人たちは、どうやら母恒星の近くにあった小型のブラックホールを、新しいエネルギー源として、いろいろ利用したり、いじくったりしたらしいのだ……。その結果が、ブラックホールのふるまいを変え、ついに彼らの母恒星にまで破壊的影響を及ぼすようになって、彼らは母恒星系をすて、宇宙植民のための長い、何波もの旅に出なければならなくなったようだ……」
「それは……本当ですか? 博士……」ランセン部長は眼を光らせた。「連中は、ブラックホール工学をマスターしていた、といえるんでしょうか?」
「私は専門家ではないから何ともいえない。専門家にくわしく検討してもらえば……それに、あの木星の大赤斑のまわりをまわっている〃木星幽霊《ジユピター・ゴースト》〃とよばれる物体が、連中の母船らしい事はほぼ確実になったから、あれを何とかひきあげて、しらべてみれば、彼らの技術について、いろんな事がわかるだろうが……」バーナード博士は、ちょっと言葉をきって、あきらめたように首をふった。「しかし、まあ、今となっては……とても時間がないだろうし、まにあわんだろうな……」
その時、スタッフ・ルームの外に、重々しい足音が近づいて、ドアがあいた。――ウェッブ総裁が、二、三人の部下と一緒にはいってきた。
「みんな、ここにいたのか?」とウェッブはむずかしい顔をしたまま、ずかずかと円卓の奥の方へ進んだ。「情勢が、すこし変るかも知れん。――さっき大統領が狙撃された。命には別条なかったが……」
5 〃黒い稲妻《ブラツク・ライトニング》〃
大統領が狙撃された……
と、ウェッブ総裁が告げた時、スタッフ・ルームの中には、凍るような、冷たい空気がさっと流れた。
「ジェイコブが……」と、バーナード博士が、かすれた、ほとんどききとれないような声でつぶやいた。「彼が……彼ほどの人格者が、いったいどんな理由でねらわれたんだ?」
「いっておくが、このニュースは公表されないはずだ……」ウェッブは、どっかと円卓の前に腰をおろしながらいった。「さっきシュクロフスキイが知らせてきたが、地球では、完全に伏せておくつもりらしい。狙撃された場所が、官邸の中庭のテラスで、側近とガードマンだけだったからな……」
「命はとりとめたにしても、大統領の怪我は?」と、ランセンが緊張した顔つきでたずねた。「重態なんですか?」
ウェッブ総裁は、じろりとランセンを横眼でにらんで首をふった。
「ガードマンが一人、二発目にあたって、肩にでかい穴があいたらしい……」ウェッブは、顎鬚をまさぐりながらいった。「しかし、一発目、大統領を狙ったのは、あたらなかった……」
「武器は?」
「紫外線レーザー銃だ……。かなり出力の大きなものだったらしい。官邸から千五百メートルほどはなれた、公園の森の上をホヴァリングしていた、無線操縦のアイオノクラフトにそなえつけられていて、遠隔操作で狙撃したようだ……」
「紫外線レーザー銃、ですって?」英二はおどろいてききかえした。「それなのに、ターゲットをはずしたんですか?――それとも単なる威嚇だったんでしょうか?」
「犯人は、決しておどかしでなく、本気で大統領の命を狙った、と、保安部の連中はいっている……」ウェッブは、鼻の頭を拇指の爪で掻いた。「だが、誠に幸運な偶然が、大統領の命をすくった。――何だと思う? カラスだ……」
「まあ!」とミリセント・ウイレムが声をあげた。「カラスがどうして、大統領の命をすくったんですの?」
「ちょうど紫外線レーザーが発射された瞬間……偶然、大きな雄のカラスが一羽、銃口と大統領を結ぶ直線の間にとびこんだ。――レーザー・ビームはそのカラスによってさえぎられ、一瞬、気配を察したガードマンが、大統領の体をおしたおして、その上に伏せた。カラスはもちろん、即死して地上におちたが、二発目は、もう一人のガードマンの肩を貫いただけで、犯人のアイオノクラフトは、あわてて逃走した……」
がたっ、と円卓のはずれで大きな音がした。――みんなが、はっとして、そちらをふりむくと、いままでウェッブの話に、一人興味を示さずに、円卓中央の多元表示装置をいじくって、ブラックホールのコースをしらべていたカルロスが、突然たち上がろうとして、円卓の上の書類ケースを床におっことしたのだった。カルロスは、ウェッブの方に顔をむけていた。しかし、どういうわけかその視線は、宙を見つめていた。
「でも、よく、まあうまい具合にカラスがさえぎったものですわね」とミリーは溜息をつくようにいった。「何億分の……あるいは何千億分の一ぐらいの確率でしょうに……」
「それに、カラスでなくて、雀ぐらいだったら、強力なレーザー・ビームをさえぎり切れなかったかも知れない……」ムハンマド・マンスールも、首をふりながらいった。「まったく運がよかった、としかいいようがありませんね……」
「何でも、大統領官邸の庭先の、楡の木に、この五、六年来すみついている、主《ぬし》のような大ガラスだったそうだ……」ウェッブは、ちょっと表情をゆるめた。「なかなか獰猛な、いたずらもので、庭師の一人には多少慣れていたそうだが――〃黒い稲妻《ブラツク・ライトニング》〃などという綽名をもらって、ペットの犬や猫どもにはおそれられていたらしいが、大統領は、その〃黒い稲妻〃が、偶然にせよ、身替りになって、自分の命をすくってくれたというので、あわれがって、官邸の庭の隅に、すぐ小さな記念碑をたてろと命じたという事だ……」
「やれやれ……ジェイコブらしいな……」
とバーナード博士がつぶやいた。
その時、カルロスが、ははっ、というような妙な笑い声をあげた。――英二がふりかえると、カルロスは、あいかわらず熱にうかされたようなぎらぎらした眼つきで、宙を見つめながら、ぶつぶつ口の中で、
「……稲妻《ライトニング》か……なるほど……」
とつぶやいていた。
「ところで……」とランセンは、そこにいる一同の顔を見まわしながら、ウェッブの方に身をのり出した。「その……大統領の暗殺未遂によって、情勢が少し変りそうだ、というのは、どういう事でしょうか?」
ウェッブは、一同の顔をじろっと一わたりねめまわして、語るのをためらうように鬚をもんだ。
「それと――あの人格者のジェイコブの命を狙おうとした犯人の背後関係は、何か心あたりがあるのかね?」
とバーナード博士は、心配そうにきいた。
ウェッブ総裁は、ちょっと困ったように、老宇宙考古学者の顔を見た。
「それはレイ……たとえ個人的には、どんな人格者でも、政権の代表者には、必ずそれに反対する勢力というものがあるものだよ。――それが、地球型人類社会の特徴だ。旧い、歴史の世界から尾をひいている、人類政治の宿痾ともいうべき、思想的哲学的対立がね……」
ウェッブは、軽く咳ばらいした。
「シュクロフスキイが、注意を喚起してきたのは……どうやら〃X問題〃のことが、大統領側近以外の――大統領の反対勢力の方にも、洩れているらしい、という点だ……。そして彼らは、その事に関して、なんらかの行動を起そうとしているらしい。つまり――犯人も上がっていないし、したがってこの暗殺未遂と、反対勢力のつながりが立証されたわけではないが――そうなると、相手の先手をうって、議会、それにつづいて一般社会に対する〃X問題〃の公表を、早めざるを得ないと、大統領とスタッフは決断したらしい……」
「という事は……発表はいつごろになりそうです?」と、ランセンは組みあわせた自分の両手を見つめながらきいた。「まだほとんど……連邦政府の方は、対策の大綱はもちろん発表の準備もできていないでしょうに……」
「副大統領は、情勢の推移によるが、一つの可能性として、ここ一週間乃至十日という線を示唆してきた……」
「まずい!」ランセンは突然立ち上がって大きな声で叫んだ。「それは……早すぎる!――まだ、こちらに、全体としての基本的な対策の見通しさえできていないのに……こんな段階で、一般発表したら、大混乱が起って、一つまちがうと、できる事さえできなくなる!」
「おちつけ……」とウェッブ総裁は、棒だちになったランセン企画部長にむかって、ひややかな声でいった。「どっちにしたって、それをどうこういう権利は、われわれにない。――大統領とそのスタッフは、連邦議長、副議長、それに最高裁長官との協議にはいっている。あと四十八時間たらずで、協議の結論が出るはずだ……」
「なんの協議ですか?」とオットー・ヴィンケル・Jr.が小さな声できいた。
「大統領に対する特別非常大権付与についての、手つづき問題についての協議だ……」
みんなの顔が、一瞬こわばった。
世界連邦大統領に対する「特別非常大権」の付与は、連邦議会による決議を経た上で、全有権者投票にかけねばならない。投票手つづきは、昔にくらべれば、大都市地域でははるかに技術的に高度化しているものの、まだ地域によって、文化的理由から昔ながらの古くさい手つづきを固守しているところもある。
有効投票数が、全有権者の三分の二をこえ、さらにそのうちの過半数が得られなければ、大統領は一たん辞任し、議会によって信を問われなければならない。
しかも、これも奇妙な事だが、太陽系宇宙空間にすむ五億の人間には、地球外から直接投票する資格はないのだ。太陽系宇宙空間にいるものでは、ただ一人、太陽系開発機構総裁のエドワード・T・ウェッブだけが、在地投票の資格をあたえられており、特例として、月軌道上の天体で一年未満の任期で働いている人間のみが、申請手つづきを経て、直接投票する事ができる。
その他の天体、宇宙島にすむ人間は、原則として、地球上の登録出身地において投票しなければならない。そして、宇宙空間で生れたもの――それはすでに、太陽系宇宙空間在住者の四分の三をこえていたが――は、「人類全体の問題」について、直接投票する権利がまだあたえられていない。形式上は、太陽系開発機構内の問題にかぎり、投票権をもつが、しかし、これまでこの機構内社会の問題について、投票が行われた事はほとんどなかった。――コンセンサスの形式や、意見の分布については、惑星社会間のへだたりがまったく「光速の壁」にぶつかりつつある事もあって、別のコンミュニケーション方式によって、機構自体の意志決定が行われてきたのである。
だが――「地球社会」では、まだ古い歴史をもつ「直接投票制度」が政治決定過程のいたる所に生きていた。その中には、おそろしく古めかしく、素朴な形式も、能率の悪さ自体にある面での「有効性」が主張されて、保存されつづけているのである。
そして、今、その「全有権者の直接投票」が手つづき上必要な問題が起ってきた。――世界連邦の大統領に対する「特別非常大権」というものは、一世紀以上前に、それもあまりつっこんだ論議もないまま、いわば暫定的に規定されたが、歴代大統領によって要求された事は、これまでに一度もなかった。
だが、ジェイコブ・ミン大統領は、いまその付与を議会および全地球人社会に対して、要請しようとしている。――しかも、いわば「追いつめられた」状態にちかい、非常に危ない政治的状況のもとに……。
「ところで……」と英二は、おずおずとウェッブにきいた。「ぼくにはよくわからないんですが――その大統領特別非常大権は、もちろん太陽系空間にもおよぶんでしょうね……」
「そんなものは当然だ!」ランセンはいらいらした様子でどなった。「その瞬間から自動的に、太陽系開発機構も大統領の直接指導下にはいる事になる……」
「いや……それが、それほど自明の事でもなさそうだ……」とウェッブはランセンの言葉をさえぎった。「わしは、情報処理衛星《インフオーム・サツト》の司法コンピューターと、ずいぶんこまかく議論してみたが……、世界連邦と太陽系宇宙空間社会の間には、まだかなり、法制上の解釈の曖昧さや、自由度が残されている。それを、今度の場合、利用するかどうかは、こちらの基本的態度にかかってくるが……。たとえば、開発機構の総裁のポストは各惑星の機構からの推薦と信任によってきまり、連邦議会の宇宙問題委員会の承認を経て、大統領から任命されるのだが、必ずしも、大統領直属のものではない。大統領は、直属の監督官を派遣する事になっているが、今、私は、その監督官を兼任している恰好になっている。ほかにも、たとえば、宇宙空軍《スペース・フオース》――というのは仮称で、もともと救助隊《レスキユー》が大きくなったものだが――は、連邦空軍とまったく系統が別なもので、ただちに大統領の直接指揮下に組み入れる事はむずかしい……」
「たしかに、昔、宇宙開発の一部が、請負制度をとった事があって、その名残が制度の中に残っているでしょうな……」とランセンは、苦い顔をした。「といって、エド……あなたが、昔の新大陸征服者たちのように、副王《ヴアイスロイ》をきどるのは……」
「そんな事ではない!」とウェッブは珍しく大きな声を出した。「ただ、これを考えてみろ、ランセン……今、むずかしい――おそらく〃政敵〃の妨害や、議会、諸団体の説得といった厄介な問題に対決をせまられている大統領にとって、われわれのSSDOは……太陽系宇宙空間は、最後の隠し球、一種の切り札になるはずだ。もし、全有権者投票や、議会の信任投票に敗れた場合のな……。われわれは、地球人類社会の、全体的政治手つづきから、ごくわずかだが、相対的自由をもっている。この乏しいフリーハンドを最大限に利用して、われわれは、地球社会をふくむ、太陽系人類社会全体の、可能な限りの災厄からの救出を考えるべきだ、といっているんだ……」
「それは――わかります」とランセンはうなずいた。
「わかりますが、しかし……今、この問題を、一般公開するのは、どうみてもまずい……。地球社会の大混乱は必至で、それが必ず太陽系社会にまで及んで……」
「四十八時間乃至七十二時間後、地球上の宇宙空港は、一せいに閉鎖されて、一般使用はできなくなるはずだ……」と、ウェッブは、多元表示装置のディジタル・クロックをちらと見てつぶやいた。「連邦公安委員会が、連邦空軍をつかって、その管轄下にいれると思う……」
「総裁――あなたから、何とか大統領を説得できませんか?」ランセンは、顔にじっとりと汗をにじませ、苦悶の表情をうかべながらいった。「せめて、もう一か月……公表をのばしてもらうように……。われわれとしても――太陽系開発機構にしても、〃X問題対策〃に関する、もう少し具体的な見通しと、たとえどんなに悲観的結果であっても、ある程度最低の数量的確信のようなものがつかめる所まで作業を煮つめてからでないと……それもなしで、いきなり公表されたら、そのあとに予想される混乱を、うけてたつ自信がもてません……」
「つまり――たとえ、わずかでも、あるいは気休め的なものであっても、大統領の手もとに地球人類をなだめる、というか、多少なりとも、一時的に安心させるか、希望を抱かせるような材料がわたってから、発表にふみきってほしい、というわけか?」ウェッブは鼻をごしごしこすった。「なるほど――君は、三代前の大統領の首席秘書官をやった事があったな……。解決や対策に関する、ごく小さなカードもなしに発表にふみきらざるを得んというのは、責任ある為政者としては、なるほどつらいだろうし、君の気持ちもわからんではないが……しかし、この場合は……」
ランセンとウェッブが、かなり熱くなった議論をつづけている間、バーナード博士とミリーは、なぜか眼くばせしあって、スタッフ・ルームから出ていった。ムハンマド・マンスールも、誰かがよびに来て、席をはずした。
カルロスが、ある時期から、多元表示装置をはさんで、オットー・ヴィンケル・Jr.と、何かこそこそと、しきりにせわしなく、話しこみはじめた。――二人は、〃X点〃、つまり太陽系へむかってつっこんでくるブラックホールの「軌跡《コース》」の図を、表示に出したり、拡大したり、消してまた描きなおしたり、相当熱くなって、議論をつづけていた。
英二だけが、ウェッブとランセンの議論にひきこまれ、一心に耳を傾けていた。――法制度とは、いったい人類社会にとって何か、その「手つづき」は、実際の、生きている「集団」が、何が起るかわからない「宇宙」の中で出あう可能性のある、さまざまな予測もつかないような事態に対して、はたしてどの程度根本的な妥当性といったものをもっているのだろうか……といった事を頭の片隅で考えながら……。
その途中で、カルロスが、ちょっと……といって英二に合図した。――彼のところに近よると、ヴィンケル・Jr.が、表示装置を指さして、英二にむかって、〃X点〃の、二年弱未来における「ファイナル・コース」を、しきりにこまごまと説明した。そのあとをカルロスがひきとり、次に別の数式や、図を出して、憑かれたような熱っぽい口調で英二にレクチュアをはじめた。
それをきいているうちに、英二の顔がひきしまり、のど仏がごくりと大きく動いた。――まだ議論をつづけているウェッブとランセンの方をふりかえった時、彼の顔色は、紙のように白くなっていた。
「ちょっと……よろしいですか? 部長」英二はぎごちない調子で、ランセンに近よりながらいった。「実は――一つ提案があります。X点の……ひょっとしたらそのコースを変えられるかも知れない、という提案です……」
6 〃X〃を撃つ
ランセンは、きょとんとした眼つきで、英二の顔を見つめた。
その顔つきは、ふいにズボンのチャックがあいてますよ、と注意され、咄嗟に何をいわれたかわからずに、いった人間の顔をまじまじと見る――といった場合の表情に似ていた。
「何だね?」とランセンは、英二と、彼の背後にいるカルロスの顔を、交互に見ながら、いぶかしそうにいった。「いま、何かいったかね?」
「ええ、あの……」英二は、自信なさそうに口ごもりながら、肩ごしに、ちらとカルロスとヴィンケル・Jr.をふりかえった。「今その……彼らと議論していたんですが……ひょっとすると、〃X点〃の軌道を、わずかでも変える方法が、ありそうなんです。まだ厳密には測り出していないんですが――まあ、その、技術的可能性は……」
「なるほど、わかった……」とランセンは、うなずいた。「それじゃ、もう少し、その技術的可能性をつめてから、レポートしてくれ……」
「ちょっと待て」とウェッブが、鋭くいった。「今、彼は、何だか聞きずてならん事をいったようだ……。〃X点〃のコースを変える、とはどういう事だ?――たとえ、針の先でつついたほどの可能性でもいいが――そんな可能性が、果してあるのか? 英二……。あるんだったら、その根拠を説明してみろ……」
ランセンが、また何かいいたそうな表情をするのを、ウェッブは眼顔でおさえた。
「わかってる、ランセン……。この問題の議会発表が、四十八時間乃至七十二時間以内にせまっている段階になって、いまさら、若い連中の〃たよりない思いつき〃など聞いている精神的余裕はないだろう。しかしな――君もさっきいったはずだ。大統領が、反対勢力のしかけに追いつめられた形になって、この問題についてかりそめの希望を抱かせるほどの対策もなく、議会と一般民衆への公表にのぞまなければならない、というのは、きわめてまずい事態だ、とな……。となると、たとえ、どんなにファンタスティックなアイデアでも――まあ、まるきり根も葉もない嘘では、あとで信用にかかわるから困るが――ほんの希望の萌芽でも曙光でもあたえてくれるような種子《たね》でもあれば……それは、一般発表の時に、大きな力になる。――別に、その種子《たね》が何であるかを、同時に発表してしまう必要はない。しかし、こちらの発表の姿勢に微妙な自信をあたえる事ができるだろうし、たとえ、あとになって、だめだとわかっても、当面はその自信が、しばらくは大勢の信頼をつなぎ、時間をかせぐ事はできるはずだ。そういった種子《たね》が何もなしに、逃げる以外に何の対応もない、といったぐあいに、指導者無策の印象をあたえてしまっては……特別非常大権の付与だってむずかしくなりかねん。だから、とにかくこの連中の思いつきを、きくだけでもきいてみよう。ひょっとすると種子になるかも知れんから……」
「わかりました……」ランセンは溜息をつくようにつぶやいた。「じゃ、……説明してくれ、英二……。〃X点〃のコースをかえる可能性というやつを……」
「今――あの化物のコースをかえる事ができそうだ、というのか?」
ウェッブは鬚をまさぐりながらきいた。
「いえ――そうじゃありません。ミディアム・ブラックホールといっても、太陽の数十分の一の質量をもった天体ですから、この段階ではどうにもなりません……」英二はカルロスの方をふりかえった。「太陽系へとびこんできてから……つまり、太陽と正面衝突する、ちょっと前ぐらいに……」
「太陽系に突入してきてから、だと?」ランセンは眉をひそめた。「危険じゃないのか?」
「もちろん、危険も何も、うまく行かなかったらそれまでです。いちかばちかです……」
「実をいうと……」英二の背後から、カルロスが、ぼそっとした口調でいった。「ついさっき、突然思いついたんです。ヒントは――〃黒い稲妻〃です……」
「〃黒い稲妻《ブラツク・ライトニング》〃?」ランセンは、ぽかんと口をあけた。「というと……何だっけ……。ああ、そうか、あの……」
「ええ――。さっき総裁の話に出てきた、大統領がレーザー銃《ガン》で狙撃された時、偶然ビームの前にとび出してきて、大統領の命をすくったという、あの大ガラスの事です」
「ああそうだった……」ランセンは、いらいらした表情をうかべながら、おしかぶせるようにいった。「で、その、カラスがどうしたっていうんだ?――あまりもってまわった事をいわずに、はっきりいってみろ!」
「こちらの彼――オットーに、今予想されている〃X点〃の、ファイナル・コースについてくわしくきいていたんです……」とカルロスは、金髪の青年をふりかえった。
「今の時点で、コースも、衝突の日時も、かなり正確に出ています。――まったく、どこかの宇宙の悪魔が、精密誘導システムでねらったように、みごとにピンポイントで、太陽へぶつかってきます。それはわかったんですが――ちょうどそのころ、ほかの惑星はどんな位置にいるだろう、という事が、ちょっと気になったんです。まあどうせ、太陽と〃X点〃がもろにぶつかれば、地球はもちろん、太陽系の惑星は、最終的には全部ふっとんじまいますから、誰もそんな事はあまり気にかけなかったんでしょうが……私は、そのつまり……JS計画の、それも〃フェイズ・U〃につっこんでから、今から二年先までの、木星の軌道上の位置は、それこそ四時間単位で頭にたたきこんでいたので、〃X点〃が太陽系につっこんできてから、太陽そのものへの衝突コースを進んで行く途中で、たまたま、木星の北極方向の、非常に近い所をかすめる、という事に気がついたんです……」
「近い所といって……どのくらいの距離だ?」
「まだ、とても精密には出せませんけど……まあ、木星の一番外側をまわっている第九衛星の平均軌道半径の倍から三倍……と、今ざっとはじき出しました。つまりせいぜい数千万キロで、一億キロとはなれていない極方向を通過します」
「木星は、かなりひっぱられるだろうな……」ウェッブはつぶやいた。「軌道からはずれるかも知れん。――ほかの惑星……たとえば土星はどうだ?」
「〃X点〃がつっこんでくる時は、木星以外の惑星は、その接近方向の反対側に行っているか、九十度ちかくひらいていて……ええと、そうですね、海王星ぐらいは、軌道に多少影響をこうむるかも知れませんが……とにかく、〃X点〃のつっこんでくる方角は、いわばあけっぴろげで、木星だけが、真正面からむかえる事になりそうですね……」
「で、――どうなんだ? 木星が〃X点〃と接近する事によって、潮汐作用によって、軌道からはずれる……。それに応じて、〃X点〃の方も、木星の引力によって、軌道がかわるのか?」
「いえ――何しろ、太陽の数十分の一の質量点が、秒速二千キロという速いスピードで動いているんですから、その運動量は相当なものです。……いくら木星の引力が大きいといっても、木星の質量は太陽の千分の一、つまり〃X点〃の質量の数十分の一ですからね。その程度の相互作用では、木星の軌道要素のうける影響は大きいでしょうが、〃X点〃そのものの軌道は、そう大した変化をこうむらないでしょう。ただし……」
「ただし……何だ?」
「木星に、ある程度の加速度をあたえてX点にぶつけたら……コースはもっと、意味のある変り方をする可能性があります……」
ランセンは、ぎゅっと唇をひきむすんで、珍しいものを見るような眼つきで、英二とカルロスの顔を、かわるがわる見つめた。――そのうち、彼はかすかに首を上下にふりはじめ、
「なるほど……なるほど……」と皮肉っぽい口調でいった。「それはまあ、たしかにそうだろう。――だが、大昔の安っぽい空想科学映画じゃあるまいし、あの木星をどうやって動かして、突進してくるブラックホールに、えんやらや、とぶつけるんだ? 今のわれわれに、そんなスケールの技術があるか? 木星の南極に、核融合ロケットをありったけくっつけて噴射するにしても、いったい木星の固体表面は……」
「ちょっと待ってください……」と英二は手をあげた。「木星を加速するといっても、別にロケットをくっつけるわけじゃありません……」
「〃木星太陽化計画〃のために設置中の、例の中性微子《ニユートリノ》ガンと木星中心部にうちこむ核融合《フユージヨン》トリガーですが……」とカルロスは、眼を伏せて、いいにくそうにいった。「これは、私のアイデアですが……あの仕様を、改良すると……木星を爆発させる事ができます……」
「それに、カルロスは……中性微子工学《ニユートリニツクス》をうまくつかって、その爆発ガスのジェット流を、ある程度コントロールできる、と考えています……」と英二がつづけた。「そうすると、木星の質量の三分の一乃至半分が、かなりな最終速度でもって、〃X点〃を、そのコースの直角方向からたたく事になります。あのブラックホールが、自転しているかどうか、その自転軸が、進行方向に対してどのくらいの角度をもっているか、その角運動量がどのくらいかは、まだもう一つはっきりしていませんが、オットーは、自転している、と確信しています。とすると、その回転面に対して、ある角度とタイミングで、木星ジェットをたたきつけてやれば――独楽《ジヤイロ》の回転面に力をくわえた場合と同じで、ブラックホールは、それまでの軌道から、大きくはね出すかも知れません……」
ランセンは、棒をのんだように体を硬直させて二人を見おろしていた。――まるで強烈な電撃をくらったようで、その口は半ばひらかれ、眼はとび出しそうにむき出され、顔色は青ざめて、額にはねっとりと脂汗が光っていた。
彼は、何かいおうとするように、口をぱくぱく動かしたが、声がのどにひっかかってうまく出ないようだった。
「木星が……木星を……爆発させる……だと?」と、彼は辛うじて、かすれた声で、あえぐようにいった。「JS計画の……しかけを……」
突然、英二は眼から火花がとび出るのを感じた。――彼の体は、三、四メートルも後方にふっとばされ、はなれて立っていたオットー・ヴィンケル・Jr.にぶつかって、一緒にたおれ、たおれる時、後の壁にいやというほど後頭部をうって、一瞬気が遠くなった。
ランセンが、その長身にものをいわせて、思いきり深くふみこんでくり出したストレートが、もろに顔面をとらえたのだった。――鼻血がまわりにとびちり、口の中が切れて血の味がした。眼の前にまだちかちかと星がまたたきながらとんでいた。
「貴様……この……」と、逆上したランセンは、さらにずかずかと大股に近づいてきて、英二の胸ぐらをつかんで、ずるずるとひっぱり上げた。「おれたちのJS計画の……主任のくせしやがって……あの木星を……ぶっとばすだと?」
ランセンは、左手で英二の胸ぐらをとって立たせ、もう一度右の拳をぐいとひいた。――カルロスが、何かきいきいわめきながら、後から抱きついて、ひきもどそうとしていたが、長身で、ばねのような筋肉をもったランセンを、非力な彼がとめられるわけはなかった。
「ランセン!」
と背後からウェッブが、鋭い声をかけた。――ランセンは、さすがにはっとしたように、左手の力をゆるめかけた。
「よし……もう一つぶんなぐれ……」とウェッブは乾いた声でいった。「そいつは、わしの分だ……」
がん!――と二発目の衝撃が、今度は顎へき、英二の体はもう一度後方へぶっとび、壁へ背中をいやというほどぶつけて、息がとまった。しかし、二度目のパンチは、一発目ほど鋭くはなかった。彼は尻もちをついた恰好から、よろよろと立ち上がりかけ、また眼がくらんで前へ手をつき、唇の端から流れる血を、手の甲でぬぐいながら、頭をふってやっと立ち上がった。反射的に口内にたまった血と唾を、ペッと床にはきすてたが、幸い歯は折れていないようだった。
立ち上がった彼の正面に、ランセン企画部長が、両腕を前にだらりと垂らし、肩で荒々しく息をつきながら立ちふさがっていた。――血の気のうせた顔は、したたる汗にまみれて眼は血走って、今にもかみつきそうな、けわしい表情だった。
「すまなかった……」
ランセンは、首をふって、ぶるぶるふるえる手を英二の方にさし出した。指の関節の皮膚が破れて、血がにじんでいる。
「いろいろとナーヴァスになっていたものだから、ついかっとして……何しろ、おれたちの、あの木星《おやじ》を……ぶっとばすなどと、いきなりいうものだから……」
ランセンの眼には、うすく涙がにじんでいた。たしかに、ランセンにとって、JS計画は、太陽系開発機構における彼のキャリアのほとんどをつぎこんだ、一個の「作品」である事はたしかだった。
「よし――もうそこらへんでいいだろう」と、ウェッブが、どん! と円卓をたたいて、吼えるような声でいった。「感傷的になったってはじまらんぞ、ランセン。――太陽系がぶっとんでしまったら、JS計画もへちまもないんだ。木星一つぶっとばして、太陽系が助かるとでもいうのなら、やってみようじゃないか。さあ、小僧ども、こっちへ来て、もう少しくわしく、そのアイデアをきかせろ。――カルロス――JS計画のしかけを、少し改造すれば、木星を爆発させられる、といっていたな? その改造には、どれくらい時間がかかりそうだ?」
「ほぼ二年――とふんでいます……」とカルロスは、口ごもりながらこたえた。
「ただし、これまでくみあげてきた、〃フェイズ・U〃の体制をくずさず、今のままのテンポで、変更計画をすすめて行ったとして……です」
「今のままのテンポで……という事は、〃フェイズ・U〃に対する、〃プロジェクトX〃側からのさまざまの干渉や凍結を解除するという事だな?」
「その通りです……」とカルロスはうなずいた。「そうしてもらえば――ぎりぎり間に合うと思います。JS計画の連中には、もっとひどい作業スケジュールを強制する事になりますが……」
「といって、そちらばかり、全力投球する、というわけにもいかん。政治的にもな。――〃EX計画〃の方も、当然の事ながら平行して進めねばならん。こいつはわかってもらいたい……」
「〃EX計画〃といいますと?」
「太陽系からの脱出計画《エクソダス》だ……。核融合ロケット付きのノアの方舟を、衝突時点までに、何隻つくり、どのくらいの人数を脱出させられるか、だ……」ウェッブは、いきなり上衣をぬいで傍の椅子の上にほうりなげると、シャツの腕をまくり上げ、毛むくじゃらの松の木の根っ子のような腕をむき出しにした。「それにしても、こいつは、真剣に考えてみる値打ちがありそうだ。――今までは、何しろ、逃げる以外に手のうちようがなくて、誰と誰がどれだけ逃げ出せるか、誰を逃がして誰が残るか、といった問題だけだったが――ただ、受け身の立場で右往左往するだけじゃなくて、あの〃黒い怪物〃にたとえ一太刀でもきりつける事ができそうだとなったら、またはりきる奴も出てくるだろう。何しろ、守って逃げまわるだけじゃなく、たとえ無駄でも、〃X〃野郎に一矢をむくい、横っ面の一つでもはりとばしてやれるとなるとな……。ランセン!――シュクロフスキイをよび出してくれ。通話時差があってもかまわん、双方向通信《ツーウエイ・トーク》に出てもらえ。それから、そこの坊や――ヴィンケルの伜か? 〃X点〃の太陽系にはいってからの精密なコースと、木星との軌道交叉の正確な計算は、いつごろできる?」
「あと、最低半年は待っていただかないと……」オットーは、どぎまぎしたように、どもりながらいった。「一年たらずで無人観測機が〃X点〃とランデヴーしますから、それからあとは楽ですが……」
「よし、かまわんから、あと一週間で、あらっぽい基礎資料を出せ。天文屋と重力屋を何人動員してもかまわん。それから英二、カルロス……木星を、ここぞという時に正確に爆発させるプロセスを――そうだな――二週間で、一応実務物理屋のおえら方を納得させるぺーパーにして提出しろ。むろん、このアイデアは、ここ当分極秘事項《トツプ・シークレツト》だ……」
7 〃B・B・J〃
無人アイオノクラフトをつかった、世界連邦大統領の暗殺未遂事件が起ってから、きっちり七十二時間たった時、地球上二百数十か所にある宇宙空港のうち、百八十か所の民間空港は、一せいに封鎖された。
封鎖は、六時間前に予告されたのち、連邦空軍と公安部隊によって行われたが、どういうわけか、一時間半後に、今度は何の前ぶれもなしに、一せいに解除された。
連邦公安委員会のスポークスマンは、この緊急処置はある重大な政治的犯罪の可能性にからんで行われたものであるが、処置にはいったのち、その可能性がうすらいだ事が判明したので、ただちに封鎖を解除した。なお、「政治的犯罪の可能性」そのものについては、現在まだ発表の段階ではない、と説明した。
大統領暗殺未遂事件そのものは、報道関係はもとより、大統領府内部に対してさえ、ごく一部の関係者をのぞいて、厳秘に付されていたから、この当局の思わせぶりなコメントについては、マスコミの間でさまざまな臆測が乱れとんだ。――ヨーロッパ系の、ある大衆週刊誌は、最近の、情報処理衛星《インフオーム・サツト》における爆弾事件をはじめ、「宇宙開発反対」のムードが、地球社会の一部にひろがり、それが過激な破壊活動とむすびつきつつある点を指摘して、この時、太陽系開発機構の中枢部破壊をふくむ要人暗殺の一団が、どこかの宇宙空域から、スペースシャトル、あるいは月軌道直行便にのりこむという情報がはいったのだ、と書きたてた。その記事の中には、宇宙開発反対派の知識人や、かたくなな、宗教的反対者のインタビューや談話、また「反文明」の運動をつづけているある過激派集団――団員はわずか百四、五十名だったが――の指導者の、過激ではあるが支離滅裂な談話などがセンセーショナルにあつかわれていた。その特集記事の中に、小さな囲みで、ジュピター教団の、アニタのグループの一人である若者が、「宇宙救済委員会――人類文明による破壊から、宇宙を救おう!」という行動団体の代表として意見をのべていた。
その特集記事の最後には、いかにも「押しこみ」という感じで、
「その時、太陽系のボス、E・ウェッブSSDO総裁は月面本部にいなかった!」
という大きな見出しで、いつも月の裏面のライプニッツ火口《クレーター》にある太陽系開発機構本部を、めったに動いた事のないウェッブ総裁が、その「宇宙空港封鎖」の前後四十数時間にわたって、本部から行方をくらましており、しかもその事は、本部委員のほとんどが知らず、中枢部もどこにいったか知らない、といったレポートをさもスクープ記事らしくのせ、想像によって、この点を考えると、宇宙開発反対の過激派の、「要人暗殺」の対象は、ウェッブ総裁にほぼまちがいないのではないか、という、仮定に仮定をつみかさねて「独断」にいたる、という論法を駆使して、しきりに「宇宙開発に対する地球の反感」を煽っていた。――最後に、記者は何とかウェッブの行方と、本部不在の理由を知ろうとして、月のライプニッツ市に、何度も粘り強く通話をこころみた事をつたえ、やっとつかまえた、ウェッブの第二秘書との問答を掲載してあった。
記者――総裁がいまどこにいるか、本当に知らないのか?
秘書――知らない。スケジュール上は休暇になっている。
記者――休暇中でも、最高責任者が所在を秘書に明らかにしておかない、というのはけしからん事ではないか?
秘書――第一秘書は知っている。
記者――第一秘書と連絡はとれるか?
秘書――私ならとれるが、しかし、総裁の居場所を明かしていいかどうかの判断は、彼がする事になる。
記者――直接第一秘書と話がしたい。
秘書――私は、彼の連絡先を外部の人に教える事を許されていない。
記者――では、あなたからきいてほしい。総裁は、いま休暇でどこにいて、何をしているか、そんな事ぐらいジャーナリズムに教えられないというなら、そこに何か重大な背景があるように思われる、という推測記事が出る事になる。
秘書――きいてみよう。あとで連絡して欲しい。
《二時間後、再び第二秘書と連絡》
秘書――これはやはり、総裁のプライヴァシィにかかわる事なので、くわしくはお教えできない。
記者――プライヴァシィとは、たとえばどういう問題か?
秘書――《しばらくためらったのち》総裁は、宇宙空間のあるクリニックにいて、休暇一ぱいそこにいる。その場所は教えられない。
記者――健康上の問題か? どこかがよほど悪いのか?
秘書――《突然声をひそめて》書かないと約束してくれるか?
記者――それは何ともいえない。しかし、そちらの誠意と、内容によっては、考慮しよう。総裁は、何のために秘密裡にクリニックにはいっているのか?
秘書――減量のためだ。
《会話ぷつんと切れる》
そのあとに、ウェッブ総裁の「体重」と、それにまつわるいくつかのエピソードを註としてのせて記事は終っていたが、記者はあくまで大まじめで、からかわれているとは気づいていないようだった。
ダグラス・オファット連邦公安委員長は、この記事よりも、むしろ、西アジア系の、政治、経済記事にきわめて権威と格式のある保守系紙にのった解説記事に注目した。――それは、宇宙空港の突然の封鎖については、短く簡潔にのべただけで、それ以前に、何人かの「政府要人」が、おしのびで「月あるいはその軌道上」の宇宙空間へ出かけて行った事を、それぞれの公式日程や、宇宙空港の記録とひきあわせて、「確証をつかんでいる」とのべ、この突然の全空港封鎖は、地球から宇宙へ出て行くものに対して――つまり「地球内部へ」むけて行われたものではなく、むしろ宇宙空間へ、つまり「地球の外へ」むけて布かれたものである公算が大であると、大方のジャーナリズムの論調と反対の見解をのべ、宇宙空間に、今何か、「異様な事態が起りつつある」という事をにおわせ、今度の事は、それに対する、軍と公安関係の演習《マヌーヴアー》ではないかと思われるとのべて、終っていた。
「うまいな……」とオファットはその記事を見てうなった。「いや――当方にとっては、まずいな、というべきかな……。この記事を書いた、A・Aというイニシャルの記者はどんなやつかわかるか?」
「その署名は、複数の一級記者たちが共同でつかっているようです……」とマスコミ担当の調査員は答えた。「そのうちの一人だけはわかっていますが――記事のタッチからいって、彼でない事はたしかです……」
「この新聞は、Sの息がかかっているか?」
「かかっているも何も、シャドリク上院議員の甥が、オーナーですよ……。十五年前に、彼の系列のエネルギー関係資本がテイクオーヴァーして、十年前から、甥がオーナー兼編集責任者になりました。現在は編集の方は、別の男にまかせていますが、実質的支配者である事はかわりません。――なにか、その記事がまずいですか?」
「まずいというか、うまいというか……」オファットはテーブルを大きな掌で、ばん、とたたいた。「ほかの記事が、どれもこれも、地球内の状情不安をいいたてているのに、これだけが、たくみに宇宙空間に、疑惑と関心をむけるように誘導している。――シャドリクは、どういうルートか知らないが、宇宙空間にも情報ルートをもっており、今度の〃X問題〃もかなりくわしく知っていて、その事を大統領に対する政治的かけひきの材料へつかってきた。この記事は、その事に関して、彼がまた一つの警告か、ブラフをかけて来たととれん事もない……」
「彼は、いったい、どんなかけひきをしかけてきているんですか?――何の目的で圧力をかけようとしているんでしょう?」
「〃X問題〃に関する、大統領の公式発表を、ぎりぎりまで延期させよう、というわけだ……」オファットは、巨体を椅子に沈めて、顔をぬぐった。「議会にも、秘密会以外には当分知らせず、EX計画――つまり脱出準備と、脱出メンバーの人選を、秘密裡にやってしまおうというんだ。この提案をうけ入れれば、彼は自分の政治勢力をあげて大統領に協力するが、でなければ、自分たちの持っている情報を、あるやり方でリークし、政府反対へまわると、大統領ににおわせたそうだ……」
「どういうつもりなんですかね……」と調査員は肩をすくめた。「今、そんな事をしたら、人類社会が……」
「彼は彼なりに、政治家としての危機に対処する構想と、その上、宗教哲学者としての確固たる〃信念〃をもっている。――われわれには、ほとんどないものだ……」オファットは苦い笑いをうかべた。「彼は、自分のやり方でなければ、本当の意味で人類は救えない、という、ほとんど宗教的といえる、熱烈な信念をもっている。それにひきかえ、われわれは、何とかできるだけの事はしたい、という原則ではかわらないが、情勢によって、その場その場で最善と思われる間にあわせの方策をとって行くしかない。〃永遠の弥縫策《びほうさく》〃というやつだな。宗教的でも狂信的でも、ともかく〃信念〃というものをもてるやつが、時にはうらやましくなるよ」「それにしても、大統領は、今何をしているんでしょうかね?」調査員は気づかわしそうに、ディジタル・カレンダーを見上げた。「発表は、いつまで延びるんでしょう?」
「わからん。大統領は、いま、閉じこもっている。側近二、三名以外、私でも面会謝絶だ。閉じこもって、一人で考え、心をきめているんだろうと思う。あの人はそういう人だからな。――今、シュクロフスキイが、火星に行っているが、彼がかえってきたら、発表という段どりになるだろう……」
しかし、シュクロフスキイ副大統領の、火星滞在は、予定が二日、三日とのびて行った。――火星の衛星軌道上にある宇宙島OPDO―AXの司令室では、ウェッブ、ランセン、ナーリカー天文学連合会長、オットー・ヴィンケル副会長とその息子のヴィンケル・Jr.、ムハンマド・マンスールそれに英二、カルロス、さらに重力理論、ブラックホール理論、惑星工学、超素粒子工学の専門家たちが入れかわり立ちかわりくわわって、連日連夜、激論をかわし、厖大な計算式をたてては、数値を計算し、またやりなおし、あちらこちらに連絡し〃巨眼《ビツグ・アイ》〃や、開発機構生産本部のデータをやたらに要求し、ついには、太陽系内にあるコンピューターや電子脳の八○パーセントを、そこの作業に「占領」してしまう所までいった。
〃プロジェクトX〃という暗号名《コードネーム》でよばれている計画のうち、最重要、最優先の位置にすえられつつあった〃EX計画〃――つまり、「人類脱出計画」は、嵐のように準備がすすみかけた所で、突然全系統に「一時待機《ホールド》」の指令がウェッブ自身の特命で発せられた。同時に、木星のミネルヴァ基地を中心に、ぎりぎりの所までつめていたJS計画――「木星太陽化計画」にも、ホールドの指令が発せられた。情報処理通信関係の組みかえは、そのままのテンポですすめられていたが、EX計画とJS計画関係は、とうとう仕事がなくなってしまい、手待ちの状態にはいる現場が、次第にふえはじめた。
「いったい、〃そのまま待て〃っていったって、いつまで待ちゃいいんだ?」とEX計画の中の恒星移民宇宙船建造の資材調達の現場の一つで、倉庫運用員の一人が、いらいらしながら同僚にたずねた。「何かい? ひょっとして、あの〃X点〃――ブラックホールというやつが、まわれ右して、どこかへ行っちまったのかい?」
「そうじゃない……」と、いろんな情報に鼻のきく運用員の一人はいった。「〃ミスターX〃は、ちゃんと予想通りのコースを、まっしぐらに走ってござらっしゃるさ――ただ、EX計画をふくめて、〃プロジェクトX〃全体に、大きな変更がありそうだって、上の方の話だ。何でも、問題の中に、新しい要素がみつかったんで、それに対応する〃B・B・J〃とかいう計画が新しく全計画の中に組みこまれるらしい。そちらと、このEX計画との整合性をわり出すために、中枢部では手間をくっているらしいんだ……」
「B・B・J?」と運用員は眉をしかめてききかえした。「何だ、それは?――いったい何の略だい?」
「知らんよ。――おれだって、本部へ連絡へ行った時、ちょっと耳にはさんだだけだ。――B・B・Jって暗号名《コードネーム》さえ、まだ今の所、極秘事項《トツプ・シークレツト》らしいぜ……」
――シュクロフスキイ副大統領は、OPDO―AXでの、果しない、会議、議論、検討作業の場に、終始たちあっていた。彼は、時には議論にくわわり、時には会議の中心となってわめきちらしたが、大部分の時は、ただじっと辛抱づよく傍聴しながら、専門家たちが、ワン・ステップ、ツー・ステップと、「暫定的結論」をつみ上げて行くのを待ちうけていた。政治家としては、比較的若い彼も、もう体力的には限界に来ており、何よりも神経がまいりかけていた。
にもかかわらず、OPDO―AXでの果しない会議の結論は、二日、三日、一週間と予定よりずるずるとずれこんで行った。――焦燥の色は、火星衛星軌道上の宇宙島、そして、あらゆる作業に「待機命令」が出されている太陽系宇宙空間だけにとどまらず、大統領府を中心とした、地球政治の中枢でも、日一日と濃くなっていた。全閣僚と議会の上院下院議長、副議長と、宇宙問題特別委員会の議長、副議長、事務局長、それに最高裁長官、連邦公安委員会のメンバーは、大統領狙撃事件後、四十八時間たった時に、一度それぞれの組織の緊急秘密会で、事態の核心的部分について、大統領、副大統領、特別補佐官から説明をきいただけで、その後、議会発表、マスコミへの一般公表の手つづきの準備に隠密裡にとりかかりながら、発表の時期が大統領自身の要請によって延期され、さらにつづいてもう一度延期されたまま、その後は何の通達も連絡もなく、発表の時期は三日、四日、一週間、十日と、じりじりとおくれていった。
その緊張と焦燥は、いくら事態を秘密にしておいても、報道陣の一部が嗅ぎつける所となり、要人の動きについて、二十四時間はりこむ新聞社が出はじめた。それがまた要人たちの神経にはねかえって、一層いらだたせ、大統領はいったいどうする気か、とにかくもう一度秘密会を開いて説明を求めたい、という声が、内部で上がりはじめた。
そんな時、突然、ある有名な新聞社系の科学雑誌に、「木星太陽化計画に、重大な理論的疑惑――今のやり方で進めれば、木星は爆発する?」というセンセーショナルな記事がでかでかとのった。
全体の執筆者はその雑誌の記者だったが、中に、著名な地球上の天体物理学者、素粒子物理学者たちが、署名入りで意見をよせ、また連名で、「JS計画」の、もっと慎重な再検討を、なかんずく、全計画の、理論、技術面の、学会、政府による査察をもとめる要望書が掲載された。
次いでそのキャンペーンは、親会社の新聞にうつって、大々的にはじめられた。――中心になっているのは、かつて、三十年以上前には、きわめて高い業績をあげ、学会でも権威をもっていたが、現在では主流からはずれ、ある種の生活運動にかつがれている超素粒子《スーパー・パーテイクル》工学の専門家だった。彼は、JS計画の主軸につかわれている中性微子工学《ニユートリニツクス》の背景となる理論モデルの一部に、重大な誤りがある可能性をあげ、「木星太陽化」につかわれる超大型中性微子《ニユートリノ》ガンの、基本設計にも疑問を投げ、このままでは、木星内部の核融合反応の点火が暴走して、木星が「大爆発」を起す恐れがあるから、至急に計画に中止命令を出し、公的機関による全面的かつ根本的再検討を行うべきだ、とつよく主張していた。
「これをどう思われます?」その記事をもって、大統領のこもっている別荘へかけつけたオファット公安委員長の顔はまっさおだった。「偶然とは思えません。もちろんシャドリクのもっていた、隠し球の一つですが――とにかく、太陽系開発機構内でも、ほんの一部しか知らない〃B・B・J〃についての情報が、シャドリクのサイドにもれているとしか思えません」
「わかっておる……」と大統領はうなずいた。「明日、シュクロフスキイが地球へつく。やっとおとつい、全計画の検討をおえてブルー・プリントをもって火星をたった。彼がかえったらすぐ……」
「しかし、手おくれかも知れませんよ」と、オファットはつぶやいた。
8 特別非常大権
火星をたって、月軌道上のL4宇宙コロニイヘむかう宇宙空軍《スペース・フオース》所属の高速貨客宇宙船《ハーフ・カーゴ》が、ちょうど第一減速点にさしかかる直前、一隻の小型救難艇《レスキユー・ボート》がその宇宙船から発進した。
さまざまなタイプの救難艇の中でも、特に緊急用に設計されたもので、頑丈で、加速性は救難艇中最高であり、最高速度も試作中の恒星間有人宇宙船に匹敵する、といわれ、航続距離は、巡航速度なら一億キロにも達した。――ただ、何か宇宙空間で事故があった時、とにかくまっ先に現場に到着し、状況の報告と、第一段の応急処置をとるのがミッションであるため、高速で運動性がよく、苛酷な条件に堪えるようにつくられてはいたが、そのかわり実用一点ばりで、居住性などはぎりぎりにきりつめられており、乗務員《クルー》は、三人のうち一人だけが、後部のせまい寝棚で体を横たえる事ができるだけで、あとの二人は操縦席でかわるがわる仮眠をとるしかなかった。
最初にこのRE7000Sタイプの救難艇《レスキユー・ボート》のテストパイロットをやったベテランの宇宙航士《アストロノート》は、一連の性能テストのあと、酢を飲んだような顔をして、
「二十世紀後半の、戦車や長距離トラックって、こんなものじゃなかったのかね?――乗った事はないけど……」
といった言葉が有名になり、I・N・R・T――つまり〃乗ったことないけど――タンク〃という綽名がついたほどのしろものだった。
いまその宇宙空軍特別救助隊所属の、RE7000S型救難艇《レスキユー・ボート》は、つみこまれていた高速貨客船から、「緊急発進」なみの速度で射出され、6Gから7Gという猛烈な加速で、光の矢のように地球へむかった。
貨客船の方は、地球から三十六万キロはなれた月軌道をまわる、L4宇宙コロニイを最終目標にしていたが、救難艇の方は、月軌道をこえて、青と白と茶の模様に彩られた地球へむかって、まっしぐらにつっこんで行き、地球から数万キロの所で、再び核融合ロケットエンジンを一ぱいにふかし、急激な減速にかかった。――減速が終って、地球周回軌道にはいった時、今度は世界連邦空軍のパトロール艇が、救難艇に接近してきた。
地表から三万六千キロはなれた、静止衛星軌道と、月軌道との間は、太陽系開発機構直属の宇宙空軍と、世界連邦空軍との共同管理空域であり、そして静止衛星軌道より内側は、世界連邦側の専管空域になっている。――無数の通信用静止衛星や、宇宙中継基地、あるいはエネルギー・ステーションのうかぶ三万六千キロ軌道のすぐ外側で、救難艇とパトロール艇は、平行飛行態勢にはいり、パトロール艇から救難艇へ、オープンタイプの宇宙スクーターが接近し、救難艇から出てきた宇宙服姿の人物をつみとり、パトロール艇にのせかえた。救難艇から出てきた人物は、心なしかぐったりしており、その宇宙服の色と腕のマークは、その人物がVIPである事を示していた。
VIPのつみかえが終ると、金色と緑色にぬられた宇宙空軍の救難艇《レスキユー・ボート》と、白と赤に彩られた連邦空軍のパトロール艇は、まるではじかれたように、上と下にわかれてとび去って行った。一方は、暗黒の宇宙空間にぎらぎら輝く月の方向にむかって、もう一方は、眼下にうかぶ、青く光るもやに彩られた地球にむかって……。
宇宙パトロール艇は、地球表面から千二百キロの高度で、白とブルーにぬられた、空軍第一師団の、軍用スペースシャトルとランデヴーした。スペースシャトルは、その巨大なペイロード・ベイに、パトロール艇からきりはなされた乗員カプセルをそのままつみとって、地球へむかって翼をかたむけた。――空軍のスケジュールを見ても、この火星から飛来した救難艇と空軍パトロール艇との接触と人物のつみかえ、さらにそのパトロール艇と空軍第一師団のスペースシャトルとのランデヴーは、単なる「通常訓練」として処理されていた。
しかし、事実は、通常訓練としてはものものしい雰囲気だった。――空軍のスペースシャトルは、なぜかシリアル・ナンバーを耐熱シールでかくしていたが、民間用のシャトルよりはるかに速度も大きく、運動性のいいその機体が、可変翼をひるがえして、大気圏滑空にはいると、地上から、超高高度戦闘機が二機、かけ上って来て、両側に護衛につき、そのまま大西洋上バミューダ島の、連邦空軍実験基地に着陸した。
その基地には、やはりシリアル・ナンバーをぬりつぶした、通常塗装のアイオノクラフト機が、エンジンをかけたまま待機しており、スペースシャトルから、次々に、同じような服装をした、同じような体格、年輩の三人の人物がおりたち、三機のアイオノクラフトにそれぞれわかれてのりこんだ。
アイオノクラフトは、同時に離陸すると、一機は東に、一機は南に、もう一機は西の方にむかって、ばらばらにとび去っていった。
数時間後、そのうちの一機が、連邦大統領官邸の上空にあらわれ、パトロール中の公安部アイオノクラフトの一機に誘導されて、官邸の奥庭に降下してきた。――もう一機のパトロールは、その間高度百五十メートルをたもって警戒をつづけていた。
官邸のテラスの直前に着陸したアイオノクラフトにむけて、制服のガードマン二人と、私服のボディガード二人がかけよった。――エンジンをかけっぱなしのアイオノクラフトのドアがあくと、パイロットが、血相をかえて何か叫んだ。
「担架だ!」
とガードマンはテラスのむこうにひらいているフランス窓をふりかえって、パイロットの言葉をつないだ。
「医務室へ誰か行け! 医者がいる!」
ボディガードの一人が、アイオノクラフトのドアから、濃いグレーのスーツを着た人物をかかえおろした。――帽子を眼深にかぶり、サングラスをかけたその人物は、地面に足をつけるや否や、ぐらりと膝を折ってたおれかかった。
それをやっとささえたボディガードは、その人物の腋の下に肩を入れ、テラスの方へよろよろと歩き出した。その間、もう一人のボディガードは、レーザー・ピストルをぬいて、開いたドアの側の植込みの方角を警戒し、ガードマン二人は、五連装のロータリー・マガジン付きのハンド・ミサイル・ランチャーをかまえ、一人は上空を、一人は乗物の閉ざされたドアの側の植込みを油断なく見はっていた。
フランス窓の奥から、ラジコン式の車付き寝台がえらい勢いでとび出して来た。その背後から、白衣の看護婦と、スポーツ服姿の医師が、診断装置のはいったケースと、救急箱をもってかけよってくる。――ボディガードは、芝生の上におりて、前方の伸縮脚をちぢめ、斜めになった寝台の上に、そっと今おりたった人物を横たえた。医師が、片手にもったラジコンの操縦機をあやつって、脚をのばし、水平にする。看護婦が診断装置のケースを寝台の横にとりつけると、すぐその人物の帽子をとり、こめかみに電極シールをはりつけ、左手首にコード付きのバンドをまきつける。
「強心剤……」と医師は診断機のカラー液晶表示装置にあらわれたパターンを見て短くいう。「過労だな……。肝臓と腎臓も相当まいっている。すこし熱が高い……。医務室で、体液調整をやる。――すぐ手配させろ……」
看護婦は、男の口に薬液噴霧器つきの酸素マスクをかぶせると、胸のポケットの通信器をとり出して早口に医務室に連絡をはじめた。――医師は表示装置に眼をすえたまま、ラジコン装置を操作して、六輪車付き寝台を、官邸の方へ移動しはじめた。それをちらと肩ごしにふりかえって、ボディガードは左手の指を口につっこみ、ひゅっ、と鋭く口笛を鳴らして、アイオノクラフトにむかって手をふった。ボディガードも、トランシーバーを腰からぬき出して、上空を旋回中のパトロール機に何かいった。空軍のアイオノクラフトはイオンのいがらっぽい臭気をまわりに残してまっすぐ離陸し、すぐはなれて、ホヴァリングしていたもう一機のパトロール機とならんで、奥庭の境界を区切る木立ちの上をとびこえ、たちまち姿を消した。上空を警戒していたパトロール機も、そろそろ燃料切れと見えて、ゆっくりと、公安局の基地の方へむかってとび去って行った。――ガードマンやボディガードも、官邸の中を警戒しながらひきこみ、フランス窓がしまると、官邸の奥庭は森閑とした静寂にかえり、ただ銀鼠色の化粧煉瓦をはった官邸に、あかあかと西日がさしつけるばかりだった……。
「シュクロフスキイ……」と、ジェイコブ・ミン大統領は、ベッドの上を見つめていたましそうに眉をひそめた。「大丈夫か?――相当無茶な旅をやったらしいな。それに、火星でも、かなりひどいスケジュールだったとか……」
「大統領閣下……」ベッドの上で、シュクロフスキイ副大統領は、ふるえる眼蓋をやっと開いて、鉛色の顔を無理にひきつらせてかすかに笑った。「年は……とりたくないものです。二度目の7G加速で……まさか肋骨にひびがはいるとは思いませんでした。私がパイロットを無理矢理せかして……時間を区切ったからですが……」
シュクロフスキイは、顔をわずかにまげ、右手をベッドの脇にのばそうとして、うっ、というように顔をしがめた。
「無理をするな……」と、大統領は、シュクロフスキイののばしかけた右手をとって、やさしくたたきながら、そっともとおかれていた毛布の上にもどした。
「これか?――これだな?」
ベッドの脇のテーブルの上に、うすい、茶色の、耐熱耐放射線プラスチック製の書類入れがおかれてあった。――大統領は、それをとり上げ、シール・ロックの、組み合せ番号をおした。
「そう……それです。――〃B・B・J〃……」シュクロフスキイは、うす眼をあけて、かすかにうなずいた。「そのホログラフ・シートに、基本的な事はすべて……。何とか、確率二、三○パーセントまで、ひっぱり出しました。大統領……それと……火星からの貨客船の中で……議会及び一般発表のための原稿草案を……とにかく、アウトラインをかためてみました。――チェックしてみてください……。私は……ひどく疲れてはおりましたけど……心血をそそいだつもりです!」
「ありがとう、シュクロフスキイ……」大統領は書類入れを開き、中からうすいガラス張りの金属ケースにはいった、径二十センチほどの円型シートを何枚かとり出し、ちょっとながめた。「よくやってくれた……。すぐ、拡大閣僚会議を開いて、検討してみる……」
「そこには、政治的方策に関する……私の意見もはいっています……。連中が……OPDOの司令部のスタッフが……一緒に考えてくれたんです。まるでマラソンみたいに……不眠不休で……〃B・B・J〃と平行して……」
「その〃B・B・J〃が……どういうわけだか、地球側に洩れているらしい……」
「なんですって?」
シュクロフスキイは、体を大きく動かそうとして、またぎゅっと痛そうに顔をしかめ、眼をつよくつぶった。
「なぜです?」
「なぜだかわからん……」大統領は、眉間に深いしわをきざんで首をふった。「四日前――突然、ある科学雑誌と、大新聞に、地球の高名な学者を中心にして、〃JS計画〃の危険性を指摘し、公権力による徹底的査察を要求する大キャンペーンが展開されはじめた――〃木星太陽化計画〃は……そのモデルに、根本的な理論的欠陥がある疑いがあり、技術的にも疑問点があって、このまますすめれば、木星が大爆発する恐れがある、というんだ……」
「恐れじゃない。爆発させるんだ……」とシュクロフスキイは眼をとじたままつぶやいた。「うまく……うまいタイミングで、しかも予期されるほどの規模で、爆発させられるか、という事に……〃B・B・J〃の最大の問題があるんだ。連中はその点を……」
「今日――ある有力団体を通じて、JS計画の政府機関による再チェックと、議会による査察の請願が、上下院議長に提出された。――連邦裁判所の方には、公権力による再チェックが終るまで、JS計画を差し止めてほしい、という請求が出される見通しだ……」
「シャドリク……ですか?」
「そうだ――。彼はまだ表面には出ていないが……いつか、ここへ突然たずねてきて、脅迫をふくむ、協力の申し入れをして行きおった。――むろんはねつけたが……」
「よりによって、こんな時期に……」シュクロフスキイは、うつろな眼つきで、天井を見上げた。「そうか……。やつは……上院議員は……そこでゆさぶりをかけておいて、太陽系開発機構を、解体とまでは行かないまでも、議会の監視下に……」
「シャドリクは、〃X問題〃については、かなりくわしい情報をもっている……」と大統領は考え考えいった。「これはまあ――情報管理がまだ完全とはいえん時期にもち上がった事だから、ある程度は漏洩もあり得るだろうが――〃B・B・J〃は、まだ極秘事項《トツプ・シークレツト》のはずだ。あのOPDO―AXの司令室と、私のスタッフ以外、誰も知らんはずだ。誰か、彼に情報を流している人物の心当りはないか?」
シュクロフスキイは、しばらくだまって、天井を見つめていた。
「ありません……。いや、わかりません……」と、彼はしわがれた声でいった。「そんなやつは……あの中には、いないはずです。――大統領……。連中は……あの宇宙の連中は、みんなすばらしいやつばかりです。彼らは、地球人類の……私たちの文明の、最前線にいて、地球とはくらべものにならない、ひどく苛酷な条件のもとに、陽気に、くじけず、ものすごい知恵と総力と士気を発揮して、がんばっています。……彼らこそ、私たちのフロントで……人類の最良の部分です。彼らなら……この地球を……太陽系を……救えるかも知れません。そのためには、彼らに全力を発揮させるようにしてやらなければなりません。彼らを妨害するような力を、ちょっとでも介入させないように……私たちで保証してやらねば……大統領……一刻も早く、〃特別非常大権〃をにぎってください。そうして彼らに、あの〃B・B・J計画〃を……あなたの全権限によって……一刻も早く、全面的GOを出してやって……」
ふいにシュクロフスキイの言葉がとぎれた。――めっきりしわ深くなった彼の頬に、突然すーっと一条の涙が流れた。
「大統領閣下……」背後から、官邸付きの医師がそっと声をかけて首をふった。「時間がとうにすぎています。それ以上、副大統領を疲れさせては……」
大統領は書類入れをもって、ベッドの傍から立ち上がった。――シュクロフスキイは、頬に涙をためたまま、口を半ば開けてかるい鼾をかいていた。
「彼は――大丈夫かね?」
と大統領はドアの所で医師をふりかえってささやいた。
「三、四日、絶対安静です……」と医師は眼を伏せていった。「体液総合調整をつづけていますが――下手をすると脳溢血を起す恐れがあります。予防処置もとり、万一の場合の準備もしていますが……」
「それは……困る」大統領は顔を曇らせた。「何とか……恢復させてやってくれ。今ここで、彼にたおれられたら……」
病室のドアの外に、見上げるような、オファット連邦公安委員長の姿があった。――彼もまた、眼の下に疲労の隈をこしらえている。
「閣僚がみんな集っているが……」とオファットはいった。
「シュクロフスキイの出席は無理かね?」
大統領は首をふって、公安委員長の後にいる首席秘書官に書類入れをわたした。
「統幕議長と、最高裁長官も来ているかね、ダグ……」
と、会議室の方へ行きながら大統領はきいた。――オファットはうなずいた。
「二時間後に、上下院議長副議長と、宇宙問題委員会の常任委員が、議会の方で待っている。――非常大権に関する、議会筋の工作は、ほぼ大丈夫だと思うが……」
「じゃ、そのあと、報道関係のトップに、声をかけて集ってもらってくれ……」大統領は時計を見た。「そちらは……そうだな、四時間後だ。集められるか?」
「四時間後というと――夜中だぜ……」とオファットはうめくようにいった。
「あんたの方こそ、大丈夫か?――ジェイク……」
「連邦議員諸君……」三日後、上下両院議員ほぼ全員出席の連邦議会本会議場の壇上で、ミン大統領は、静かに草稿の一ぺージ目をめくった。「本日ここに、私は、全地球人類社会に、われわれの太陽系全体に、さしせまりつつある重大危機について御報告しなければなりません……」
9 フライング
「はじまったぞ……」
英二は、多元表示装置の一隅をちらと見てつぶやいた。
「なにが?」
3Dグラフを使った厖大なマトリックス解析に、この十五時間、ぶっつづけにとりくんでいるカルロスが、気のない調子でききかえした。
「大統領の、議会発表……」
英二は表示装置の一部に小さくうつし出されている、地球からのテレビ映像をさした。横に太陽系標準時、地球標準時、地方時、そして電波が地球から火星へとどく時間が表示されている。――現在の地球・火星間の相対距離では通信時差は六分弱になっている。
「どうする?――大きくするか?」
「いや……聞いたって、どうなるもんでもあるまい……」カルロスはめまぐるしく波うちながら動いて行く、曲面と立体樹枝状パターンを見つめながら首をふった。
「どうせ、政治的儀式だろ?――議会に対する工作は、終っているはずだ……」
「それでも、噂によると、議会でも国民投票にもちこむ承認を得るのには、ぎりぎりの得票になるかも知れないって話だぜ……。けっこう〃反対派〃が精力的に動いたらしい……」
「反対してどうなるんだ?――自分で自分の首をしめるだけじゃないか……」
「そう単純には考えないらしいよ。政治家というものはね。――事態はわかっても、それに対処する最良の組織の組み方については、意見もわかれるだろうし……それだけじゃなくて、いろんなグループの思惑もからむから……」
「おれには、どうも地球の〃政治〃っていうやつがよくわからんな……」カルロスは、グラフのパターンをせわしなく切りかえながらぶつぶついった。「要するに、そいつは……古い歴史的な根をひいている相互不信の体系なんだろ?」
〃……くりかえし申し上げるが、科学者と専門家たちがわり出した、ブラックホールと太陽との衝突は、あと約一年八か月後に確実に起るという事である……〃画面の中のミン大統領は、沈痛に、しかし、おちついた口調で、淡々と草稿を読みあげていた。〃私のもとに、この危機の状態について、最初の報告があったのは、七週間前の事であり、以後、専門家と私たちのスタッフは、事態の確認と、災厄の規模、および性質について、およその輪郭をわり出すのに忙殺されてきた。――そしてこの危機の全貌を当連邦議会、および全地球社会の住民に報告し、選良諸氏、および人類社会の全構成員に、この太陽系全体がさらされている未曾有の危機に立ちむかうための一致協力と、政府に対する支持を要請すべきである、との結論に、到達したのである……〃
「ちょっと――みんな集ってくれんか……」
火星の衛星軌道上にあるOPDO―AX……現在、〃プロジェクトX〃の仮設総司令部として動いているこの宇宙島の中の、スタッフ・ルームに、太陽系開発機構のウェッブ総裁が、その巨体をあらわして、低い声でいった。
「カルロスと英二……いるな?――よし、あと何人だ? とにかくここにいるだけでいい。ちょっと集ってくれ……」
「ランセン部長は?」と英二はきいた。「よばなくていいんですか?」
「彼はいま、火星の外惑星開発本部に行っている。――五時間後にかえるだろう。彼にはあとで話をきくとして……とにかく、ここにいるだけでもいい。ちょっと意見をきかせてほしい……」
カルロスは、表示装置を自動《オート》にきりかえると、がたがた椅子の音をたてて装置の前から立ち上がった。
スタッフ・ルームの中央にある、多元表示装置のまわりで働いていた六、七人の連中が、仕事を中断して、楕円テーブルのはずれにある小さな卓をかこんだスペース――そこは、スタッフ・ルームにつめている連中が、ちょっとした休憩につかっている空間だったが――にぞろぞろ集ってきて、パイプ椅子やストゥールなど、思い思いのものをひっぱって来て、車座になった。
「大統領の演説がはじまってるな……」とウェッブは多元表示装置の方に眼をやりながらいった。「英二……もう少し画像を大きくしろ、音声はそのくらいでいい……」
「人民投票の結果が出るのは、いつごろですかね?」
と、集って来た中の一人が、ぐったりと椅子の背にもたれ、生あくびをかみしめながらきいた。
「全部の手つづきが、すべてとどこおりなくすんで……投票と集計がスムーズに行って、どんなに早くても十日――いや、二週間かな……。議会が、人民投票付与を承認してから、告示が最低一週間かかるから……」とウェッブは大統領演説の映像を横目でみながらつぶやいた。「それも一番スムーズに行っての話だ。――地域によっては、投票と集計にかなり時間がかかるかも知れん。プッシュボタン式の電気集計を認めていない地域もあるから……」
「それも不思議な話ですね……」と英二はいった。「問題を一人一人に理解させる方法も、個々人の判断や選択を、瞬時に集計する方法も、投票権者を自動的に識別し投票ずみを登録する方法もあるのに……こういう大事な問題でも、それをつかわない地域があるんですか?」
「人類社会は、一つじゃなくて寄木細工だ……。地球の上では、その文化的モザイク状況は、生態学的モザイクと同じで、それなりに意義があるだろう。――生命の存在を許す環境が持続するかぎりな……」ウェッブは小卓の上にあった、誰かの飲み残しのジュースをがぶりと飲んだ。「だが――そいつは、こういう事態にむきあった事は一度もないんだ。地球という、苛酷なようでいて、しかし生命にとっては、かぎりなく温和なぬくぬくとした長い歴史の中でもまれてきたもので、一つの宇宙的環境が、他の宇宙的現象によって完全に破壊されるような事態には、一度も直面した事がなく、したがってそれに対処するにも……ああ、そろそろ大統領の演説が終るぞ。このあと、シャドリクの代表質問がある……」
「シャドリク上院議員が?」英二はちょっとおどろいた。「反対演説……みたいなものですか?」
「まあそれに近いだろうし――議事ひきのばしの意味もあるだろうな。彼としては、この問題について、全人類の信任をうけ、特別非常大権の授与を求めている大統領とそのスタッフに対して、一般大衆の間に不信感を植えつける事をねらってくるだろう……」
「そんな事をして、どうするんです?」とオットー・ヴィンケル・Jr.が呆れたようにきいた。「こんな際に、社会の混乱を助長して――いったい、彼は何を求めてるんですか? どうしようというんですか?」
「その事については、長い長い説明がいる。二十世紀以来の――あるいはそれ以前からの人類社会の歴史とからんだ、長い説明がな……。オーケー、英二、映像を小さくしろ。シャドリクの演説は、あとで録画でみる事にして――いま、ここで、みんなの意見をちょっときいておきたいんだ……」
ウェッブは、小卓の上に、体をのり出すようにして、鋭い眼つきで一同を見まわした。
「もうそろそろ、君たちの間で結論を出そうと思えば出せる段階に来ているだろう。――〃X点対策〃について、〃B・B・J〃と〃EX〃の間に、どういう比率をもたせれば、もっとも効果的か……」
一同は思わず顔を見あわせた。
B・B・J計画――太陽直撃コースをつっぱしってくるブラックホールの軌道を変えるために行う「木星爆破計画」と、EX計画、つまり、人類の一部を、太陽系から脱出、移民させる「脱出計画」と……。「プロジェクトX」の中の、全く方向のちがうこの二つのサブ・プロジェクトのどちらに、どのくらいの割合で比重をかけて行けばいいか……。
「それはその――動員できる資材、工場、機械、宇宙船、人員すべてをふくんでの配分バランスですか?」
と誰かが、のどにひっかかったような声でいった。
「まあそうだ――。しかし、数量的にそんなにきっちりしたものでなくていい。むしろ、現在の段階で、みんなの胸の中に、ぼんやりと形をとりはじめた比率……まあ、イメージというか直感というか、そんなものに像をむすびかけている姿でいい。そいつをきかせてほしい……」
むずかしいな……という呟きがまわりで起った。――一同は顔を見あわせ、腕を組んだり、宙を見つめたりした。
「大雑把でいい。――直感的なものでいいんだ……」ウェッブは強調した。「むろん、コンピューターや電子脳《ブレイン》は、ある範囲の選択肢をすでにはじき出している。どの比率を選択した場合、どうなって行くか、というシナリオも準備されている。しかし、残念ながら、コンピューターというやつは、未だにいちかばちかの大博奕の決断をすすめてくれる所まで行っておらん。まあ、それは当り前で、われわれはコンピューターを、そういう風に育てて来たんだから……」
「という事は……」ヴィンケル・Jr.はおずおずといった。「総裁は、これからそういった大博奕をやるおつもりなんですか?」
「決断――といってくれ。決断は決定とちがう。最後には、ある人間が、神にでも祈って、たった一つの方向を選ばねばならん。それがトップというものの役目だ……」
「じゃ、とにかく、五○対五○《フイフテイ・フイフテイ》から行きますか……」と、頭の禿げ上がった、明るい茶色の眼をした男がいった。「私はその意見です。B・B・Jに五○、EXに五○……」
「二対三だ……」ともう一人の男が、まくり上げた腕をさすりながらいった。「B・B・Jに二、EXに三……」
「私はその逆……」とプラチナ・ブロンドの三十ぐらいの女性がすかさずいった。「B・B・Jに三、EXに二よ。これは解析とシミュレーションをやりながら、ずっと考えていた比率《レシオ》なの……」
「一対三……」と、若い、長髪の青年が手をあげた。「木星爆破に一、大脱出に三だ。――理由の一、B・B・Jは、成功の確率が今の所二○パーセントしかない。理由の二、B・B・Jは、JS計画の修正だから、あとそれほど資材を必要としないはずです……」
「英二は?」とウェッブはふりむいてきいた。「あるいはカルロスの意見はどうだ?」
「九対一……」とカルロスはぼそりといった。「むろん、B・B・Jに九……ただし……」
ふむ……というようにウェッブは腕を組んだ。――やっぱりな……といった表情が、他のものの顔にうかんだ。
「ただし……これは、〃プロジェクトX〃の前半の段階です。――プロジェクト全期間を前半と後半にわけて、前半は、B・B・Jシステムを完成させる事を最優先させる。というわけは……B・B・Jは最終段階の微調整によって、効果を、現在の見込み成功率二○パーセントから、二五パーセント、三○パーセントとあげる事が可能だと思われるからです。それに……EX計画にくらべて、もし成功した場合は、その効果は決定的です。たとえ確率が二○パーセント……乃至はそれ以下でも……」
「そうだ……」がっちりした、プロレスラーみたいな体格の、統計工学の専門家が相槌をうった。「1―3……いや1―5の賭け率なら悪くない。へたな競馬や宝くじの一発ねらいよりはよっぽどいい。――ただし、こいつは、流して買うわけにゃいかないが……」
「だから……とにかく前半、B・B・J計画の完成に全力投球し、後半にEX計画の比重を高めるべきだと思います。――中性微子《ニユートリノ》ガンと、超素粒子《スーパー・パーテイクル》の加速機の所定数の木星周辺配置が終ったら……そこが山場です。あとは人員と工作宇宙船をごっそりEXの方へまわせます……」
「よし、わかった……」ウェッブは腕組みをといてふうっと太い息をついた。「たしかに……B・B・Jは一発勝負だが、やってみる値打ちのあるばくちだ。はずれたら、それまでだが、EX計画を優先させて、勝率をおとすより、一点賭けで思いきってはってみる方がいい。地球の連中を納得させるのはむずかしいだろうが……しかし、EX計画というやつは、言ってみれば泥沼で、どこまで結果を追ったらすむのか、まるきり見通しがたたん。――B・B・J計画の山場をこえるまでに、どのくらいかかる?」
「一年半……」カルロスは、ちょっと自信がなさそうに口ごもりながらいった。
「ぎりぎりですね……。あと微調整に二か月……それも、GOサインはできるだけ早く出してもらった方がいいです。今、JS計画の進行の全面にわたって、待機《ホールド》の指令が出ていますが、みんな、これまでの体制がゆるんだり、くずれたりしないように、うんうんいってがんばっています。でも、もうがんばりも限度で……木星周辺にむかっている資材と工作船を、これ以上宙ぶらりんにさせておく事はできません。でも、この待機期間中、JS計画をB・B・J計画にシフトさせるための修正プロセスとデータはどんどんうちこんでありますから……」
「わかった……。じゃ、わしがきめよう。B・B・JとEXの重点比は三対一でスタートだ。――全プログラムは、この比率がきまりさえすれば、すぐスタートできるところまでつめてある。一時待機は、このあとすぐ、全面解除する。それでいいな? カルロス……じゃ、みんなこの体制で、GOだ……」
「ちょっとまってください……」英二は立ち上がりかけたウェッブに声をかけた。「その……今、そういう形で、全面的にGOサインを出していいんですか?――大統領に非常大権が付与されて……一応連邦政府の、この問題に関する特別委員会ができて、そこの承認が得られてからでないと……手つづき的には、フライングじゃないでしょうか?」
「そう――わしは、意識的にフライングをするつもりだ。その決心をしたんだ……」スタッフ・ルームのドアの所でたちどまって、ウェッブはじろっと一同を見まわした。
「いいか……今さっき、わしの所に一つの情報がはいった。非常大権付与のため人民投票にかける件は、何とか議会を通過するだろう。しかし、人民投票で、必要な票数を集めるのは……かなりぎりぎりの線になるかも知れない、という読みだ。対立するグループは、かなり撹乱戦術に出るだろう……。もし、万が一、必要票数がとれなくても……われわれは、この体制のままつっ走る。地球の政治的手つづきの合法性なんてものは、この際かまっちゃいられない。特別非常大権が無事に大統領に与えられたら、その時はこちらのフライングもカバーしてくれるだろうが、そうでなくても、われわれは、小うるさい連中がのりこんできて、銃でもつきつけて手錠でもはめるまで……とにかくつっ走れるだけつっ走る。われわれが、たちむかわなければならないのは、宇宙と……時間だ……。こいつのとりあつかいを一つまちがえると……政治的合法性なんて、意味をなさなくなっちまう。うまく行ったら……あとで法廷へでもどこへでもひっぱり出されようじゃないか……」
ウェッブは、ひげだらけの顔をにたっとほころばせてつけくわえた。
「おれたちは、どうせはじめから、地球社会の外へむかって〃飛んで〃いるんだ。この際、もう一段高く、フライングしようじゃないか。――フライング・GO! だ。諸君……」
「ああ……もっと!」と娘ははげしく男に腰をこすりつけながら、切なげにいった。「もっとよ……エクトル!……どうしたの? もっとまじめにやってよ」
「うん……」娘をひざの上にかかえ上げている若い男は、娘の肩ごしに3Dテレビの受像器をのぞいていた。「でも、さっき、大統領が演説していたよ。――何でも、宇宙からくるブラックホールが、太陽にぶつかるって……」
「そんな事いいから……もっとしっかりやって! ああ! エクトル……」
ジュピター教団の浜辺の、明るい日ざしの下、ダイオウヤシの木蔭ですっ裸で抱きあう二人の傍を、教祖のピーターが、やや憂い顔で通りかかった。
「マリアを見かけなかったか?」と男にきいた。「このごろ姿を見ないが……」
「さあ――そういえばしばらく見ませんね」
とセックスをしながら男は答えた。
「おお! エクトル!……エクトル!」
と娘は、はげしく動きながら叫んだ。
「議決にはいる前に、どうしてもこの点について大統領にお答えいただきたい……」とテレビの中でシャドリク上院議員はいった。「あなたは、この事態に対して、根本的にどんな対策をお持ちなのか。その一端をおきかせねがいたい」
「デモですって?」電話口に出たアニタは眉をしかめた。「ええ、いま、反対集会の連中は、みんなテレビを見てるわよ。で――アジテーションをどうもって行けっていうの?」
10 GO!
直径十万光年という、宇宙の中では、中型乃至はそれよりちょっと小さいぐらいの、恒星と星間物質の渦巻状の集団――それはどちらかといえば、宇宙の中でも、そういった集団がまばらな、わびしい空域に属し、もっとも近い、同様な渦巻状恒星集団まで、二百万光年以上もはなれている――の中で、一千億をこえる恒星の中の、これもごくありふれた、どちらかといえば小ぶりのG型恒星系の中に、ごくささやかなパニックが起りかけていた。
その小さな恒星系は、星の密度がきわめて高く、衝突、爆発などによって放出されるエネルギーが、全体平均にくらべてはるかに高い渦巻状銀河の中心部から、三万光年ほどはなれた、遠方から見れば、ほのぐらい光のもやと、星や星間物質の「腕」との間ぐらいにあり、渦巻の回転にしたがって、ゆっくりと動いていた。もっとも近いもう一つの銀河系――二百万光年以上はなれたアンドロメダ銀河から観測すれば、ほとんど一つの光点として見わける事がむずかしいほどの、小さくささやかな存在だった。
まして、その小さな光点の移動コースが、それよりはるかに小さい、針の頭ほどの暗黒の点の移動コースと交叉し、衝突しようとしている事など、他の銀河系からはおろか、その恒星にもっとも近い別の恒星系から観察しても、認識できなかったであろう。――もし、この二つの小さな点が衝突すれば、そこに新星、あるいは小型の超新星程度の爆発が起り、短い期間、いままでとはことなった強い光と、高いエネルギーがそこから大量に放出されて、その時は、かなりはなれた恒星系からも――もしそこにある程度の高さの「文明」をもった知的生命体がいると仮定してだが――急に明るくなり、大量にエネルギーを放出して、つづいて急速に暗くなって消えてしまうその恒星の変化は、気づかれるであろう。
しかし――その中型の銀河の中だけでも、毎年何百個という「新星」がその中のあちこちで出現し、また数十年乃至数百年に一個の割合で、太陽のエネルギーの十億倍ものエネルギーをごく短期間で放出し、爆発する「超新星」が出現しているのであってみれば、その程度の爆発は、この宇宙においてはごくあり来りの現象として、ほとんど記録にもとどめられないかも知れない。
まして、この宇宙全体を見れば、数千の銀河系が、ごくせまい空間に密集しているいくつかの超銀河集団《クラスター》があり、そこでは、銀河と銀河とが衝突し、あるいは、二つの渦巻銀河が、まるでさしちがえるように斜めに衝突しつつすれちがい、あるいはふつうの銀河の何万倍という質量をもった巨大銀河が、おそろしい大爆発を起すといった現象が、あちこちに見られるのであり、そういった現象のすさまじいばかりのスケールとはげしさにくらべれば、一つの、わびしい中型銀河内のはずれに起った、小さな恒星の爆発といった現象などは、銀河内のかすかな光のまたたきほどのものでさえなかったであろう……。
太陽系に近づいてみても、まだそこに、「危機」の形が眼に見える兆候として、はっきりあらわれているわけではなかった。――小ぶりの恒星である太陽は、数十億年かわらぬ姿で燃えつづけ、そのまわりを、はるかに小さな岩のかけらのような惑星はそれぞれの軌道を、それぞれのペースでくるくるとまわりつづけ、その中の、冷たいガスでおおわれた比較的大型の、木星、土星といった惑星は、これも何万年、何億年とかわらぬ表情を見せたまま、ゆったりとめぐっていた。太陽自体の大きさにくらべればそれらの惑星は、他の星々の光にまぎれてほとんど見わけにくいほどの小さな存在であり、太陽のまわりの広大な空間にばらまかれた、小さな砂粒ほどにしか見えなかった。最大の惑星である木星ですら、太陽の直径の約十分の一の直径しかなく、それは地球と月との直径の比率のさらに三分の一の比率であって、太陽の赤道面の方角から見れば、小さな赤っぽい半月状の光斑としてわずかに認められるが、よほど注意しなければ、見すごしてしまいそうな存在でしかなかった。
しかし、もし、このささやかなG型恒星系を、近くから長期観察している知的生命体があり、彼らがある幅をもった波長の電波信号を記録していたとすれば、ある時期からにわかにその星系通信電波の発信がふえ、また、小さな光の微塵のような、核融合噴射の尾をひいた人工宇宙飛翔体の往復も、それにともなって、少しずつふえはじめている事に気づいたかも知れなかった。――そして、その無数の飛翔体の動きが、この恒星系最大の第五惑星、つまり木星の周辺を一つの焦点としはじめている事も……。
この星系における唯一の水と大気と生命をもった第三惑星――地球の姿は、宇宙空間のあわただしい動きにくらべれば、何の変化もないように見られたにちがいない。その小さな惑星は、相変らず大洋の鮮やかな青と、陸地の茶色、樺色の模様の上を、渦まく白い雲の斑文におおわれ、美しく、平穏に、何十億年かわらぬ軌道を歩んでいるように見えた。――たとえ、宇宙空間から、この惑星の表面を仔細に観察し、そこに技術文明をもつようになった知的生物の営みの証拠を……あちこちの大都市と、耕地と、小さな寄生虫のように動きまわる交通機関を見出したにしても、いまその知的生物のささやかな「社会」に、一つのパニックがまき起りつつある事までは、とても認識できなかったであろう……。
「政府は対策をしめせ!」
と、デモ隊のプラカードとスピーカーが叫んでいた。
「政府は、情報をすべて公開しろ!」
「おれたちをどうするつもりだ?」
「私は助かりたい!」
「誰と誰とが、〃方舟〃にのれるのか?」
群衆は街路にふくれ上がり、怒声と、あまりそろわないシュプレヒコールと、金切り声や泣き声が、その不定形の集団の間から上がった。
「連中は、行政センターにむかっている!」と、警備出動中の警官が、通信機にむかっていった。「鎮静ガスの使用許可はまだ出ないか?」
「まだだ……」と警備車の中のスピーカーから声がきこえた。「上の方からは、できるだけつかうな、という指示が出ている。麻痺銃《パラライザー》も、威嚇用につかえと……」
「じゃ、おれたちは何のために出動してるんだ?」と警官はうんざりしたようにいった。「さっきから、連中の先頭と二十メートルの間隔をとって、後退しつづけだぜ。――このまま、あんよは上手って、行政センターまで誘導してやるのか?」
ガチャッ、と音をたてて、空き壜がとんできて、警備車にあたってこわれた。
「酒を飲んでやがる……」こわれた壜からたちのぼる臭いをかいで、もう一人の警官がぼやいた。「おれたちだって、一杯飲みたいや」
ビーッ! と、緊急連絡のブザーが鳴って、あわただしい声が、スピーカーから流れた。
「投票集積センターのコンピューター室がやられた!――爆弾だ……。各班に緊急連絡!――もよりのマイクロウェーヴの中継塔を警戒しろ! いま、A6地点で、アンテナを爆破しようとした男をつかまえた……」
「こっちは陽動作戦ってわけか……」警備車の中に体をおしこみながら警官はつぶやいた。「そんなこったろうと思った。――見た眼は派手だが、人数は大した事ないからな……」
警備車は、ぐわん、とブースターをふかして路上から空中へ飛び上がった。ホヴァリング・ダクトをまわして、群衆の上をとびこえる時、もう一人の警官が窓をあけて、ブルーにぬられた罐をぽいと外へほうり出した。
「おい!――鎮静ガスはなるたけ使うなという指令だったろ」
と、ハンドルをにぎった警官はいった。
「おとしちゃったんだ……」と、相棒は肩をすくめて空を見上げた。「連中もつかれただろう。少し休ませてやった方がいいよ……」
「明らかな投票妨害の行為の起っているのは、全世界で何か所だ?」と、投票管理委員長は、いらいらしながら事務局長にたずねた。「あまり悪質なものがあったら、警備出動も考えねばならん……」
「いまの所、投票集積センターに、破壊工作が行われたのは、全世界で三か所だけです……」と、事務局員は表示装置をのぞきこみながらいった。「一か所で、はいってきたばかりのデータのメモリイが多少きずつきましたが、大勢に影響はありません。――もっとも、あまり件数がふえると、集計の出たあとで、計数処理の混乱をいいたてられると、無効とまでは行かないまでも、ちょっと厄介ですから、注意して、警戒させていますが……」
事務局長は、ディスプレイのパターンをかえた。
「投票反対運動も、見た眼は派手ですが、実質的な人数はそう多くないようです。リーダーや、アジテーターは一人四役ぐらいで、忙しい事ですね……」
「だが、しかし、投票期間のあとの方になると、じりじりきいてくるんじゃないか?」と管理委員長はディスプレイを横眼で見ながらいった。「遠隔投票《テレヴオート》を採用していない地域が、これから大づめにかかるから……」
「それまでに有効票数だけでも、規定をこえてくれるといいんですがね……」事務局長も、ちょっと心配そうにディスプレイの上の数字をとんとんと指でついた。「こいつが、もうちょっと伸びてくれないかと思いますよ。――いま、ようやく半分をこえた所です……」
「投票のしめきりまで、まだ四日ある……」管理委員長は息をついてたち上がった。
「まあ、尻上がりにのびてきているから、大丈夫だろうとは思うが……」
「今までの分析だと、有効票が規定数を五パーセントこえれば、何とか行けそうだという結果は出ていますがね……。棄権が多いと危ないですよ……」事務局長は、ちらと管理委員長の顔をぬすみ見た。「で、その……もし、特別非常大権付与に失敗したら、どんな事になるんです? まさか……」
「大統領辞任や議会の解散なんて事にはならん。そんな手間のかかる事はやってられんし、ミスターSの一派も、そこまでは議会操作をやれんだろうしな……。まあ、議会で形式的な大統領の信任投票をやって、いまの体制の中で、対処せざるを得んだろう」
「厄介なもんですね……」
「まあ、特別非常大権にしたって、こんな問題に対処する事を予想して、制定されたものじゃないからな……」管理委員長は苦笑した。「だから、大統領にとっては、いわば伝家の宝刀だが、それだけに付与にあたっては、いろいろな手つづき上の制限条件がついている……」
「いったい、どんな事態を予想していたんです?」
「内乱だ……」と委員長は肩をすくめていった。「それと、収拾のつかない政治的、社会的混乱……。まあ一世紀以上昔に制定され、その後一度も行使されず、したがって改正もされなかったものだから……」
「それにしても、その非常大権が付与されないままに、事態を処理するとなると、どういう事になりますかね?――状況がわかるにつれて、大混乱が起るんじゃないでしょうか?」
「まあ、そいつを別の方法で、おさえおさえ、のりきって行くんだろうな。――最後にゃひどい事になるかも知れんが……そいつも、人類が、自分でえらんだ事だから……」
「脱出用宇宙船は衝突までに何隻ぐらいできるんでしょう?」事務局長は、またパターンと数字のかわりはじめたディスプレイを見やりながらつぶやいた。「いったい最終的に、何人、脱出できるんでしょうか?」
「さあ――そいつはまだ、試算中だろうし、実際にとりかかっても、途中の情勢変化で、どれだけ目標を達成できるかわからんのじゃないか。――私自身は、実をいうとそんな事にあまり興味ない……」委員長は軽く咳ばらいした。「私は……どっち道、はじめから乗船権を放棄するつもりだ。もうこの年になって、遠い宇宙のはてに、あてどのない旅になど出る気もないし……」
「実をいうと、私もなんですよ」事務局長は、突然くすっと笑った。「今年度と来年度の年次休暇を全部返還して、そのかわり、一年半先に、長期休暇を申請したんです。――役所の方は、それをうけつけてくれましたよ……」
「そりゃけっこうだ……」委員長もにやりと笑った。「どうだ。何なら、その最後の休暇を、私の別荘ですごさんかね?――山腹にあって、見はらしはいいし、下の谷川では、でっかい鱒が釣れる」
「いいですね……」ディスプレイ・パネルのキイを操作しながら、事務局長はいった。「ところで、大統領が議会でいっていた、人類退避計画のほかの、もう一つの計画というのは――危機そのものを回避しようとする計画というのは、どういうものなんです? 鋭意検討中で、まだ発表の段階ではない、と、大統領は質問に対して答えていましたが……何でも、木星をどうとかするんですって?……〃B・B・J計画〃とかいうんだとききましたが……」
「君は、その計画の名称をどこできいた?」委員長は突然眼を鋭く光らせた。「まだ極秘のはずだが……」
「ああ――今、オセアニア地区の最終集計が出ました!」と事務局長ははずんだ声で叫んだ。「好調です。――すごくいい結果だ。これでだいぶ楽になりました……」
「あと、東アジアがもうちょっとのびてくれるとな……」と委員長はつぶやいた。「そうしたら、西アジア、アフリカがもたついても……おや、何かニュースがはいっているな」
「ちょっと待ってください……」事務局長は、ブレーク・イン・フリッカーを見て、傍のスイッチをおし、ディスプレイ画面の右下隅に、文字ニュースを出した。「ええと……〃スキオ〃という科学雑誌がスクープしたそうです。政府は、巨額な資金を投じ、木星を爆発させる事によって、ブラックホールのコースを変えようとする、無謀で危険な賭けを試みようとしている……」
「それが〃B・B・J計画〃だ……」選挙管理委員長の顔は、紙のような色になった。「〃スキオ〃という科学雑誌は、ちょっと前、JS計画の危険性をいいたてて、科学者の連名で、計画のストップと査察のキャンペーンをはった雑誌だ……。もちろん、親会社の新聞社には、シャドリクの息がかかっている……」
「GO、だ!」ミネルヴァ基地の本部司令室で、巨大なディスプレイ装置を見ながらカルロスはワイヤレス・インカムにむかってわめいた。「ああ、そうだよ。――指令に変更はない。B・B・J優先でとにかくGO! だ――。貨物船《カーゴ》も目一ぱい、こちらにまわせ。こちらのシステムが組み上がり次第、全部EXへまわしてやるから……そうだ。早くしあがれば、それだけ早くまわしてやれるってわけだ。総裁《おやじ》には、ぎりぎり五パーセントの配船増加を認めてもらってる……。証拠だって? 何いってんだ。腹芸だよ、腹芸……おっと、そのロボット工作船も、まだ小惑星へかえすな、燃料補給してPS2へまわせ。極点方向のトリガー・システムが、機械だけは集るが、組みたての手がたりなくてもたもたしてるんだ……」
わっ、と突然司令室の一隅で、歓声が上がった。
「勝ったぞ! カルロス」と誰かが叫んだ。
「アフリカ地区の投票集積が出た。大勝利だ。これで大統領の特別非常大権は確定だ……」
「待て!――いま、確定は誤報だってニュースがはいっている……」と通信機にへばりついている男がいった。「中米地区で大量棄権が出た。――〃B・B・J計画〃をすっぱぬいた雑誌があって、その影響で、そんな危険な計画に、大量の資材人員を投入しようとしている大統領とそのスタッフは、リコールにすべきだって、わめき出した連中がいる……」
「地球の政治的ごたごたなんか知ったこっちゃない――」カルロスがどなった。「こっちは、とにかくGO! だ。――おい、そんな投票のニュースにかじりついてないで、誰か手のあいたやつは、クロック衛星《サテライト》を見てくれ。マイナス五五○Dから、サインを点灯しようと思ったのに、明りがつかない。リモコンで何とか……」
「おれが見てくる……」カルロスの背後を通りながらブーカーが肩をたたいた。
「どうせ、四号現場へ行かなきゃならないんだ。――途中でよって、しらべてやるよ……」
ブーカーの一人乗り連絡艇が発進してからしばらくたって、木星のミネルヴァ軌道上にある無人のクロック衛星に、ぱっと赤く光る巨大なサインがうき上がった。
X―550D・00H・00M……Xデイまであと五百五十日……。
ミネルヴァ基地からも、その宇宙空間にうかぶ血のように赤い数字ははっきりと見えた。
しかし、ブーカーはそれきりかえってこず、間もなく彼の乗っていた連絡艇が、無人のまま漂っているのが発見された。
第九章 バイバイ・ジュピター
1 直接接触《ダイレクト・コンタクト》
太陽系をはなれて、茫漠たる宇宙空間を、平均秒速千キロメートルで雁行してとびつづけていた二機の無人探索機ハウンドX―1とX―2のうち、先行していたハウンドX―1が、ついに太陽へむかってつきすすんでくる〃X点〃――まがまがしい空間の暗黒の穴、ブラックホールとの「接触」をレポートして来た時、木星のミネルヴァ基地軌道の少し内側をまわっている六個のクロック衛星《サテライト》の赤く輝く巨大な表示は、232D06H――衝突まであと二百三十二日と六時間を示していた。
そこは、太陽から約四百億キロはなれた空域だった。
太陽系の、地球軌道のすぐ外側、太陽から平均距離一億八千万キロの、太陽極軌道をめぐる多数の有人、無人の光学、電波、X線、ガンマ線望遠鏡衛星群からなるX点専門の観測システム〃巨眼《ビツグ・アイ》〃からの観測情報をうけとって、コースを調整しながらとびつづけたハウンドX―1はコースの基準にしていた四つの恒星の位置のわずかなずれから、接近しつつあるブラックホールの重力の影響を検出しはじめた。
X―1は、内蔵されているプログラムにしたがって、数回の軌道変更を行い、慣性計と恒星天測から、軌道誤差をわり出して、ブラックホールの位置を、次第に精密にわり出して行った。――ハウンドX―1の後方を、約三千万キロはなれてとんでいるX―2に、その情報はすぐ転送され、それをうけとったX―2は、自己判断しながら、ただちに〃X点〃の位置をより正確につきとめるための連携行動をとりはじめた。
二つの無人機が、「発見」行動をとりはじめたというシグナルは、三十六時間かかって、〃巨眼《ビツグ・アイ》〃の大アンテナに送られてきた。――その時、X―1とブラックホールの相対距離は、まだ六億キロメートルあまりあり、X―1のコース正面から、数度ずれた位置にあった。両者の距離は、毎時千万キロ以上の速度でせまりつつあり、ハウンドX―1のコースは、早くもブラックホールの重力にひきずられて、わずかに曲りつつあるものの、そのままでは、何千万キロかはなれて、すれちがう事になる。
X―1の、小型高性能の電子脳《ブレイン》はただちにコース修正を行って、まっすぐ「黒い悪魔」にむかってつっこみはじめた。つづいて、X―2もコース修正にはいり、二機の探査機は、連携をたもちながらそれぞれちがったコースをとって、ブラックホールに接近していった。――ハウンドXは、もともと恒星無人探査機の最新改良型で、これまで行われてきた、通過型《フライバイ》から、恒星を探査して帰ってくる往復型《ラウンド・トリツプ》に性能がアップされ――それは次の段階の「有人恒星探査」の予備テストのためだった――したがって、動力関係は充分の余裕を残していた。緊急事態のため、めちゃくちゃな加速を長時間行って、核融合エンジン四基はブースター用に使いすてられたが、まだ核融合エンジン四基と補助エンジン二基が残っており、ブラックホールの強力な引力圏のぎりぎりの限界あたりまで接近して、なお悪魔の顎《あぎと》にのみこまれずに観測をつづけるだけのパワーをもっていた。
ハウンド電子脳《ブレイン》にあたえられた使命はただ一つ――「〃X点〃にできるだけ接近、追尾をつづけながら、できるだけ多くの情報をとる事」だった。そのミッションを達成するためにとるべき行動は、すべて電子脳《ブレイン》の状況に対する「自己判断」で処理されて行く事になった。
こうして、宇宙の闇の中を走りつづけていた二匹の猟犬《ハウンド》は、「獲物」の臭いを遠くから嗅ぎつけ、耳をぴんと立て、全身を緊張させて、その臭いのただよってくる方角へむけて脚を早めた。――闇の中に、闇そのものとして完全に身をひそめ、猛烈な勢いで、一直線に太陽の横腹めがけてつきすすんでくるそのまがまがしい暗黒の凶獣がまわりにもらしている唯一の「臭い」は、空間の漏斗穴のむこう側にかくれている巨大な質量に由来する重力場の歪みだった。いま、その臭いの中心へ向けて、二匹の猟犬は、大きく迂回しながら、その周囲をまわるコースをとり、次第にその環をちぢめて行きつつあった。「獲物」に接近して行くにつれ、その闇の凶獣の巨大さと、秘めている恐ろしい力の気配が、猟犬たちを圧倒し、総毛立たせた。その凶獣は、空間の底無し穴の奥にできた針の穴よりまだ小さい点のむこうにひそみ、近よるあらゆるものを――質量ゼロの光の粒子までも、その恐ろしい力によってひきよせ、吸いこむばかりで、周囲に対しては何の反応もかえさず、すさまじい勢いでひたすら空間を驀進していた。追跡コースをとって接近してくる二匹のちっぽけな猟犬などは、まるで歯牙にもかけず、宇宙現象の偶然によってさだめられた自らのコースを、その行く手に待ちかまえている一つの恒星との衝突と、その星系にふくまれる生命の破壊という運命へむかって、一直線に進むばかりだった。その眼の無い闇の巨獣のまわりをぐるぐるまわりながら、二匹の猟犬は、はげしい警戒の叫びをあげはじめ、ついには恐怖にかられて悲鳴をあげるように、金切り声できゃんきゃん吼えたてた。
その猟犬たちの神経質な鳴き声は、三十七時間ちかくかかって四百億キロの空間を横切り、太陽のまわりをめぐる〃巨眼《ビツグ・アイ》〃の、アンテナ群に到達した。
〃気をつけろ!〃
と、〃巨眼《ビツグ・アイ》〃のコンピューター群は、猟犬が神経質に鳴きたてる声を分析し、解読した。
〃こいつは、本当にすごいやつだ……。大きくて、凶暴で……そしてこんなものすごい破壊力を秘めている……〃
その解析された猟犬《ハウンド》の報告は、ただちに火星衛星軌道上の宇宙島OPDO―AXにある〃プロジェクトX〃総司令部へ、月の裏面のH・G・ウェルズ火口《クレーター》にある重力研究所へ、そして木星のミネルヴァ基地内の〃B・B・J計画本部〃へと転送され、即座にそれぞれの計画の進行制御プログラムに組みこまれるのだった。
「〃X点〃は、やはり、かなり高速度で自転している!」
〃巨眼《ビツグ・アイ》〃から解析転送されてきた、ハウンド探索機のデータを見ながら、カルロスはつぶやいた。
「角運動量は、どのくらいだ?」
英二はカルロスの背後から、司令コンソールのディスプレイをのぞきこみながらきいた。
「それが、何だかいやに上限と下限の幅が大きくてはっきりしない……」カルロスは舌打ちするようにつぶやいた。「妙にもやもやした感じでわけがわからん。――やっぱりこういう〃化け物〃は、専門家に解読してもらわんと……」
「スワミをよぼう……」と英二はトーク・ボタンをおしながらいった。「こういう時のために、彼を確保してあるんだ。――これから奴は忙しくなるぞ。君の手もとにひきすえておけ」
まるで、よばれるのを待ちうけていたように、数秒でスワミ・バーバのスリムな姿が、司令室の入口にあらわれ、すべるような足取りで中央の司令コンソールに近づいてきた。――インド系で、わずか十七歳の、天才的な数学者で重力理論の専門家だった。
〃B・B・J計画〃にGOサインが出た時、英二は咄嗟に、この計画の中枢部になるはずのミネルヴァ基地の元JS計画司令室に、どうしても重力問題の専門家を一人、はりつけておく必要があると思って、人事コンピューターをフルにつかって洗い出した。――だが、その時はすでに、重力理論の有能な専門家は、洗いざらい〃巨眼《ビツグ・アイ》〃システムと、〃プロジェクトX〃の中枢部に配置されてしまっており、B・B・J計画のフロントに、あらたに配置できそうな人物は皆無にちかい状態だった。
英二は、すぐさま人名検索の方向をかえて、学界や大学、研究所のメンバーリストから洗い出すかわりに、ここ数年間に、学界誌、科学雑誌に発表された論文、研究報告から洗い出した。――その方法を示唆してくれたのは、火星の宇宙島OPDO―AXにいたミリセント・ウイレムだった。
「私たちだって、まさかあの時、機械の整備をやっていた老人が、重力問題に強いって事は、思っても見なかったもの……」とミリーは苦笑しながらいった。「だから、すくなくとも宇宙空間じゃ、所属機関や公式の肩書、キャリアなんてものから人材を洗い出そうとするだけじゃだめね。――そんな事、あなたの方がよほどよく知ってたんじゃないかしら……」
「たしかに、こいつは一本とられましたよ、ミリー……」英二は頭をかいた。「でも、まあ、負うた子に教えられって事もあるから……」
「なに? それ……」
「日本の古い諺だよ……」とバーナード博士が口をはさんだ。「ところで――電子脳《ブレイン》に論文の検索だけではなくて、君の要望にあった評価もやらせて選ばせる方法は知っているかね?」「いや――そいつはまだやった事がありません。何しろぼくは、エンジニアで学者じゃないものですから、今までそんな事、考えた事もなかったんです」
「じゃ、私が電子脳《ブレイン》に指令を入れてやろう……」バーナード博士は、キイに手をのばしながらいった。「宇宙考古学などという、夢みたいな学問は、いつも学界で冷や飯を食わされているからな。――電子脳《ブレイン》に対するこすっからい使い方に習熟しているんだ……」
こうして、かなり時間をかけてえらび出された三人の人物――そのうちの一人は、現在では胸疾患で静養中の、例の火星にいた電子整備士の老人だった――の中で、英二が白羽の矢をたてたのが、当時火星のオリンポス高等数学研究所特待生だったスワミ・バーバだった。彼はその時すでに、重力場のさまざまな変型に関する一般解をあつかうための予備的な計算に関する論文を二つと、ある実在するX線パルサーについて、その中心に高速回転するブラックホールがあるとして、観測データから、一つのモデルをつくりあげたレポートを発表していた。
論文の質を、電子脳《ブレイン》の専門領域に検討させてみた結果、「超《スーパー》A」という答を得た。――こんな優秀な才能が、まだ〃プロジェクトX〃にさらいこまれていないのは、スワミ・バーバが、まだその時十六歳で、「未成年」だったからであり、しかし、英才処遇法によって、十七歳になれば彼はただちに研究所の正規メンバーの資格を得、そうなれば、おそらく先輩の引きによって、〃巨眼《ビツグ・アイ》〃システムにひっぱられる事になりそうだった。
十七歳の誕生日まであと二か月というきわどい時期に、たまたまこちらが火星の衛星軌道上の宇宙島にいたという地の利のおかげで、英二はただちに、火星最高のオリンポス山頂にある高等数学研究所にとび、寄宿舎《ドーミトリイ》で、色の浅黒い、眼の大きな、ほっそりしたバーバ少年に面会して、率直に事情を説明した。
「わかりました……」と、バーバは面白そうに黒い瞳を輝かせてうなずいた。「ぼく自身も、〃巨眼《ビツグ・アイ》〃の方へ行ってしまったら、大先輩がたくさんいて、すぐには全部の情報をさわらせてもらえないんじゃないかと思っていたんです。――そっちの現場の方が面白そうだな。〃巨眼《ビツグ・アイ》〃に送られてくるハウンド探索機の全データは、整理されてすぐにミネルヴァ基地へ送られてくるんですね?」
「そう――しかし、むこうには、そいつをすぐ解析できるプロがいない、というわけだ」と英二はいった。「ところで――木星まで来てくれるのはありがたいが、研究所の方はどうするんだね? 君の恩師や先輩に、……あるいは理事会に、こちらの意向と、君の意志を伝えて、説得できそうかね?」
「そんな事してたら、ややこしい上に時間がかかってしょうがないですよ……」バーバは片眼をつぶってウインクして見せながら席を立った。「ちょっと総務課へ行って、休暇願を出して来ます。――特待生になってから、まだ一度もとっていないんで、すぐにくれるはずです。一週間ぐらいと言っておいて……とにかくそちらの現場に行っちまえば、文句のいいようがないでしょう? 所長には、あとからあいさつします……」
達者なやつだな……と、いささか毒気をぬかれて、英二はロビイを出て行くバーバの後姿を見送った。――太陽系が破壊されそうだというのに……奴はまるで、教師の眼を盗んで、無銭旅行にでも出かけるいたずら生徒みたいだ……。若い、という事は、事態の本当の深刻さとスケールが理解できるほどの想像力が育っていない、という事なのだろうか? それとも――おれの知らないうちに、またまったく新しいタイプの「宇宙世代《スペース・ゼネレーシヨン》」が育ちつつある、という事なのだろうか? 一個人の生や死、あるいは一惑星の生命系の歴史や滅亡も、宇宙における新星や超新星の爆発のように、ありふれた事と、感じるような世代が……。
「すみません。――二七五号室の荷物をおろすの手つだってくれませんか?」バーバ少年は戸口から顔だけ出してささやいた。「舎監がちょうどいないんです。――休暇届を出して、そのまま木星へ行っちまいますから……」
あとから、その寄宿舎の舎監が、彼の母方の叔母で、ひどい口やかまし屋だという事をバーバ少年は説明した。
ミネルヴァ基地へ連れて来て、みんなにひきあわせた時、カルロスだけはちょっとショックをうけたようだった。――スワミ・バーバの、ほっそりとした長身、浅黒い肌、大きな黒い眼、ちぢれた漆黒の髪が、カルロスに、死んだブーカー・ラファイエットの面影を思い出させたようだった。
ブーカーは、カルロスが赴任する以前から、ミネルヴァ基地の最初の広報官兼人事主任として、英二とほとんど同じ時期に着任していた。組織の人間的側面の処理については、彼ほどの適役はなかった。アフリカの自然の中からうけついで来た、あたたかさ、やさしさ、そしてその人柄のしなやかな強靱さが、ますますスケジュール的に追いつめられ、ぎすぎすして行くJS計画の中で……そして、その無惨なまでの方向転換である、B・B・J計画の全体運営の中で、どんなに大きな緩衝作用を果して来たかはかり知れなかった。――とりわけ、剃刀の刃のような鋭い切れ味と、いざとなった時発揮される容赦ない攻撃力をかねそなえ、それだけに神経がまいって、ぽっきり折れかねないカルロスのバックアップとして、ブーカーはまさにうってつけの女房役だった。
そのブーカーの、思いもかけない、まるで嘘のようにあっけない事故死について――よせ集めの不良部品で外まわりをつくったクロック衛星《サテライト》の、小型ブースターの爆発によるものだった――カルロスは、理由にもならない理由で、自責の念を深くかかえこんでしまっていた。――クロック衛星《サテライト》の、残り日時数のイルミネーション表示が作動しない、といって文句をいったのがカルロスであり、それをきいたブーカーが、他の現場に行く途中でたちよって事故にあったからである。
そういったわけで、スワミ・バーバとカルロスの関係は、ちょっとぎくしゃくしたものになっていた。――もっとも少年のほうは、ミネルヴァ基地の何も彼もが、研究室にこもって学究生活をつづけていた事にくらべて面白くてしかたないらしく、カルロスのこわばった応対も、まるで気にしていないようだった。
そんな少年に、英二は〃X点〃のコースと、B・B・J計画の成功率との基本的なチェックをやらせていた。――だが、いよいよ無人探索機とブラックホールの「直接接触《ダイレクト・コンタクト》」がはじまり、データが嵐のようにはいりはじめた以上、そろそろカルロスとバーバ少年を、本格的に組ませなければならない時期にさしかかった、と、英二は判断した。
「スワミ……このハウンドXからのデータをチェックしてほしいんだ……」と英二は表示装置の上の数値をさしながらきいた。「X点の、角運動量が、ひどくあいまいなんだが……」
「ああ……このままのデータじゃ当然ですよ」と少年は、すばやくキイにさわりながらいった。「ブラックホールは、理論的には、体積ゼロの空間の点ですからね。ですから近傍の二点の重力傾斜をとって、近似を出し、それから角運動量を求めてやればいいんです。ほら……」
「それでも、ずいぶん幅があるじゃないか」と、カルロスはつっけんどんにいった。「どこらへんの平均値をとればいいんだ?」
「これでシュワルツシルド半径が出ます……」と少年は指をしなやかにおどらせた。「ですから、〃事象の地平線〃のあたりで、まず、近似的に平均値を出しておくんです。ここからこちら側の空間のねじれは、エルゴ領域ですから……」
「自転軸の傾斜は?」とカルロスはさえぎるように口をはさんだ。
「進行方向とほぼ平行……しかし、かなりみそすり運動をやっているようです……」
「本田主任……」誰かが、部屋の隅から低い声でいった。「EX計画の、第一次船団が出発するようです……」
2 脱出船団《エクソダス・フリート》
ミネルヴァ基地内におかれたB・B・J計画司令室のマルチ・ディスプレイ・スクリーンの左上方に、天王星の第一衛星アリエル周回宇宙島から送られてくる映像がうつっていた。
ちょっと見た所は、地球の直径の四倍弱ある、この青ざめた氷とガスの惑星の、ほとんど横たおしになった赤道ぞいにひろがる五重のうすい輪と、そのむこうにぽつり、ぽつりと光っているウムブリエル、テイタニアといった衛星群、さらにその彼方に無数にきらめく星々にまぎれて見おとしてしまいそうだが、しかしよく見ると、そういった自然の天体とちがう動きをする光の微粒子が、暗黒の宇宙と、青白い巨大な球体の間を無数に動いている。
大スクリーンの中央部左よりには、太陽系諸惑星の位置図が投影されており、それでみると、木星のすぐ外側をまわる土星は、太陽をはさんで反対の側にあった。――天王星と海王星が、太陽を中心にして、木星とほぼ六○度から九○度の角度を形づくっており、天王星と木星の距離は二十億キロあまりだった。
EX計画――太陽系脱出計画のための恒星間移民宇宙船は、ほとんどが、木星の摂動作用によって、木星と一対一の公転周期をもつトロヤ群小惑星を中心に建造された。ほかの小惑星グループからも、もっとも加工しやすい成分をもっているものがえらび出され、木星の引力もいくらか利用してトロヤ群に集められ、その空間移動の間に工作船によってどしどし加工されるという方法がとられた。
それは、〃プロジェクトX〃の第一段階で、木星周辺に、ほとんど根こそぎといっていいほど集中させられた工作船を、作業の進行にともなって逐次はずして行って、恒星間宇宙船《スター・シツプ》の建造にまわして行ったため、木星との位置関係がもっとも安定しているトロヤ群小惑星グループが、建造基地にえらばれたからだった。
ここで、まず太陽系宇宙内部の航行につかわれていた旅客専用宇宙船――そのほとんどは、収容人員数十人から数百人どまりだったが、四百隻が集められ、収容人員の増大と、長距離航行システムヘの改造工事がはじまった。それは〃プロジェクトX〃の最も初期の段階からはじめられ、同時平行で、月軌道上のL4、L5、そして新たにL6につくられた宇宙工場では、第一次目標八千基の核融合ロケットエンジンの製造が、一せいにはじめられた。
改造宇宙船の性能を、脱出《エクソダス》計画に使用するための要求レベルにあわせるのは、種々複雑な困難がともなった。――もともと、ここ数十年にわたって、その時々の要求や技術革新の度合にあわせ、年十隻内外のピッチで建造されたものなので、船齢もすでに二十五年をこえるものがあり、仕様もまちまちで、まるでかつての大航海時代の奴隷船みたいな、宇宙工作隊輸送用のおんぼろ船もあるかと思えば、宇宙観光旅行ブームをあてこんでつくられた、おそろしく豪華で贅沢なアコモデーションのものもある、といったありさまで、結局この改造計画は、新設計のA―1型標準船の建造が軌道にのると、残りの船の部品は解体されて、標準船の製造にまわす事になった。
B・B・J計画の方の山場は、予定より六か月以上も早く、スタートから三百二十日あまりで、木星の周辺をめぐる数十基の中性微子《ニユートリノ》ガンと、六基の核融合《フユージヨン》トリガー、さらに木星の「太陽化」ではなくて、「爆発」を確実に誘導するための超粒子加速器《スーパー・パーテイクル・アクセレレーター》十二基の組み立てと、あらっぽい軌道配置ができ上がっていた。
予定よりこんなに早く作業全体の「山場」をこえる事ができたのは、ひとえに、あのOPDO―AXの〃プロジェクトX〃総司令部における非公式会議において、太陽系開発機構のウェッブ総裁が、計画の「GOサイン」出しに対して、あえて「フライング」を決断したおかげだった。――あの時、「木星爆破計画」の母体になった「木星太陽化計画」……通称JS計画は、緊急段階《フエイズ・ユー》にめいっぱいつっこんだまま「一時待機《ホールド》」をかけられ、もう少しその待機状態を長びかせていたら、せっかくぎりぎりにひきしぼったシステムのあちこちが、少しずつくずれはじめる所だった。ウェッブが、それを知っての上で、大統領の特別非常大権が人民投票によって承認される前に、GOサインを出したわけではないだろうが、それはまったくぎりぎりの、いいタイミングだった。しかも、〃プロジェクトX〃の前半ではB・B・J計画に七割から八割の力をそそいで、その山場をこえる事に全力をそそぎ、計画の途中から〃プロジェクトX〃のもう一本の柱であるEX計画へ比重をうつして行く、という「決定」をくだし、それを連邦議会に対して、ウェッブ特有の強引さでつっぱり返したため、B・B・J計画は、スタートしてからわずかの間に――その二週間たらずの期間は、カルロスと英二が、狂ったようになって、「JS計画」を「B・B・J計画」にむけて修正した期間だったが――まるで嵐のような勢いで進展しはじめた。
スタートするまで、B・B・J計画の母体となったJS計画の〃フェイズ・U《ユー》〃システム――それは、まだ太陽系の危機が気づかれなかった段階で、エド・ウェッブ総裁が、「政治的理由」から、あと五年ちかくかかる予定のJS計画の完成期間を、二年にちぢめるよう指示を出したために、カルロス・アルバレスが必死の知恵と腕力をふるってくみあげたものだったが――が、どんなすさまじい力を発揮するか、という事は、それを組み上げたカルロス自身が、完全には予測しきれていなかった。
B・B・J=フェイズ・Uは、全システムが作動しはじめてから六週間たった時、そのすさまじさのピークに達し、地球や月、金星をもふくめて、太陽系宇宙空間の、ありとあらゆる人員、情報、通信、エネルギー源、資材、工作機械、生産工場、輸送手段をまきこんで、それこそめりめりと音をたてんばかりに回転しはじめた。
「どうするんだ?――これじゃ約束がちがう!」と、脱出計画《イー・エツクス》の担当官はついに六週間目に悲鳴をあげた。「〃プロジェクトX〃のうち、初期段階は二五パーセントをこちらにさいてもらえるはずじゃなかったのか?――これじゃB・B・Jの方は七五パーセントどころか、一○○パーセントも……」
「がまん……がまん……」というのが、ミネルヴァ基地で、プログラム進行をにらんでいる英二のくりかえす言葉だった。「もうちょい、我慢だ。――この状態は今がピークで、あと百時間以内に、次のフェイズにうつる。大丈夫、まかせとけって!……そっちの事だってほうっておくわけじゃないんだから……」
B・B・J計画が、太陽系開発機構のほとんど全コンピューター、全システムをつかって動き出した時、カルロスはすぐ木星から火星へとんで、そこの宇宙島OPDO―AXのマスター電子脳《ブレイン》をつかって、B・B・J計画とEX計画のつなぎのシステムを組み上げにかかっていた。――もちろんそのためには、EX計画の担当責任者たちとの間の、これまた徹夜のすりあわせ作業がつづいたが、そのイニシャティヴをとったのはやはり、この天才的なシステム・エンジニアだった。この二つの計画を、〃プロジェクトX〃全体の中で、一貫性と整合性をもったダイナミック・システムに組み上げる事のできるのは、今となってはカルロスしかいなかった。
たしかに、太陽系のすべてのものが「根こそぎ」といった感じでB・B・J計画にそそぎこまれたのは、全システムが作動しはじめてから六週間目から七週間目にかけてだった。その時には、刻々と接近するブラックホールを監視しつづける観測機構〃巨眼《ビツグ・アイ》〃の補助動力システムや、コンピューター・ネットワークの一部も、このシステムにもちこまれ、世界連邦のコンピューターさえが、実に三分の二、動員されてしまった。――ミン大統領が、辛うじて定足数をとって、特別非常大権を手に入れて一切をウェッブにまかせていなければ、この状態は政府機構や議会の中で大問題になったであろう。
しかし、七週間すぎると、EX計画の方も次第に動きはじめた。――そして、動き出してみると、カルロスが組み上げたこの二つのシステムが、部分部分の現場における柔軟な対応性と、サブ・システム相互間のきめこまかい協調性をもった、一分の隙も無駄もない、まるで協同して働く二つの巨大な「生きもの」のような見事なシステムである事が日がたつにつれてはっきりしてくるのだった。特に見事なのは、金星軌道から海王星軌道まで、ほぼ五十億キロ以上にわたってひろがっているシステムが、まるで光行時差や、輸送の時間のおくれがないかのように、一体化して動いて行く事だった。もちろんそれは、要所要所にセットされた「独立予測・推論電子脳《ブレイン》」が、平行して作業をコントロールしているからだったが、それぞれ独立に分散処理している複数の中枢電子脳《ブレイン》が、作業の誤差によるおくれを拡大するより縮小するように働きはじめ、そのため全太陽系開発機構の作業能率は、通常の三倍にまで上がりはじめた。
地球、月、宇宙コロニイ、火星で組み上がりはじめた恒星間宇宙船用の核融合ロケットエンジンは、六割乃至八割完成の状態で、どしどし宇宙空間へおくり出され、ある工程は宇宙空間を移動しながら処理され、また宇宙空間の途中で待ちうけている工作船によって処理された。諸惑星の軌道運行がうまく組みあわされて、その空間輸送に関しても、少しの時間的無駄もないように、設計してあった。それは、いってみれば、宇宙空間に巨大なコンベア・システムができ上がったようなものだった。諸惑星の運行にしたがって、ゆるやかに流れをかえる、この太陽系を横切る流れ作業の収斂する先は、トロヤ群小惑星グループにつくられた、最終組立て工場だった。
B・B・J計画が進行するにつれて、作業の終った工作船は徐々にこの計画からはずされ、EX計画の方にまわされて行った。――一方、小惑星のヒルダ群や火星では、EX計画専用の宇宙工場や工作船自体が製造され、B・B・J計画に使用された工作船、工場群もEX計画専用に改造されて行った。
これと平行して、土星、天王星、海王星では、核融合燃料につかうヘリウム3と重水素の採集とペレット加工が進められた。――土星は、木星との相対位置がはなれつつあったので、そこで採集された燃料元素は、もっぱら太陽系内部の動力源につかわれ、「脱出船団《エクソダス・フリート》」の第一陣出発時の、相対位置から考えて、天王星と海王星が、船団用の核燃料供給位置にえらばれた。
EX計画も、フェイズ・2からみるみる予定を短縮しはじめた。――五・九光年はなれたバーナード星へむけて、二機の無人パイロット・シップがとび立ったのは、当初の予定より三週間早く、さらに六人のベテラン宇宙航行士《アストロノーツ》と専門学者をのせた三隻の探査艇が出発したのは、予定より二十五日早い時期だった。
そしていま、――予定より二週間早く脱出船団の第一陣EXF―M001が、トロヤ群船団基地をはなれ、天王星周辺の、第一燃料補給所UAF―01に接近しつつあった。船団規模は、燃料をのぞいて一万三千五百トン、乗客収容数千二百人のA―1型標準恒星間旅客宇宙船八百隻、収容人数二千人の二万二千トンのA―2型標準船百六十隻、それに四万トンクラスの工作補給船二十隻、救助艇や戦闘行動も可能な緊急作業艇をつんだ、宇宙空軍《スペース・フオース》の司令船《コマンド・シツプ》十隻、通信・情報処理専用船三隻、総計千隻になんなんとする大船団に、約百三十万人の人員がのりこんで、いま最終燃料補給地天王星のアリエル燃料基地で、先頭から次々にヘリウム3=重水素タンクをうけとって、発進コースにのりつつあった。
第一次船団M―1《ワン》につづいて、同じ千隻規模で、収容人員は百五十万人クラスのM―2、M―3が、トロヤ基地《ベース》で、またヒルダ基地《ベース》で、着々と編成されつつあった。そして、現在、B・B・Jコントロールからほとんどはなれて、EX計画の強力な第二センターとして整備されつつある火星工業区の宇宙ドックでは、標準A―2改良型のSA―2型恒星船と、思いきって工程を単純化する一方、速度と収容人数を向上させたB―1型が、すでに船影をあらわしつつあり、この新型船を中心に編成される船団M―4以後は、一船団の収容人員は二百〜二百五十万と、第一次船団のほぼ倍の規模になるはずだった。
だが――一船団千隻以上のEXF――「脱出船団《エクソダス・フリート》」を、百グループおくり出しても、太陽系を脱出できる人員は、一億五千万人そこそこにしかならない。
そして、「X―日《デイ》までに一億を!」はEX計画のスローガンだったが、今の所、どんなにEX計画のピッチが上がっても、「X―日」までに六十組、六万隻の船団を送り出すのはむずかしいとされていた。
一隻あたりの平均収容人員千四百人として、八千四百万人だ。
地球人口百八十五億に対して、実に○・五パーセントにもみたない。
太陽系宇宙空間に展開している約五億の人々のうち、この脱出行に参加するのは、一船団あたり一パーセント以下、それも宇宙空軍よりぬきのスペシャリストとしてだった。千二百人をのせた宇宙船の操船を、わずか十人ぐらいでやり、残りの乗組《クルー》は、医療、保健、事務処理をはじめ、すべて地球在住者をつかう事にきめられてあった。――しかし、この必要ぎりぎりの数字ですら、地球総人口に対する脱出可能人員比率○・五パーセントに対して、倍以上の比率だといって、状況がわかるにつれ、議会内にクレームの声が上がりかけていた。もちろん「大統領特別非常大権」によって、秘密会で知らされた具体的な数字――それも状況によって大きく変る可能性をまだはらんでいた――を外部にもらす事はかたく禁じられていたが、もしためにする情報漏洩が行われたら、今、外見平静な中にじりじりと不安と緊張が高まりつつある地球社会の世論に火をつける火花になりかねない事はたしかだった。
だが、わずかにしても、この地球誕生以来、そしてもちろん太陽系はじまって以来、未曾有の生物群の「大脱出《グレート・エクソダス》」が、いま敢行されようとしていた。――その最初の船団が、アリエル基地所属の移動式燃料補給船もろとも千隻、二千万トンにおよぶ偉容を、天王星の衛星軌道上にあらわしていた。映像がはるか遠方からその様子をとらえているうちは、虹のような輪をめぐらした青白く冷たい惑星の巨大さに眼をうばわれて、それほどに感じられなかったが、カメラがズーム・アップして行くにつれて、惑星の傍の暗黒の背景に、きらきらと光る無数の微細な光点が眼についてきた。それは、二十八億キロ以上はなれた太陽の弱々しい光を反射するものもあったが、そのほかに、すでにスタートさせた核融合エンジンの青白いプラズマの光や、宇宙船がきらめかせている舷灯の光がまじり、天王星の傍に、五彩の光の砂をまいたように見えた。
映像が、燃料補給基地からのものにきりかわったとたん、司令室の中に、声のないどよめきのようなものが走った。
「――すげえや……」
と誰かが溜息まじりにつぶやいた。
その一言は、その場にいるすべての者たちの――いや、太陽系のあちこちで何時間おくれかで、同じ映像を見ているすべての人々の思いを代弁しているようだった。
近接映像の視野いっぱいに、一万三千五百トンから二万二千トンの巨大な宇宙船がうかんでゆっくり動いて行く。正面の上方にも、下方にも、はるか彼方にも、はてしなく船団がつらなっている。一隻が、長さ二百メートルから三百メートル、中には四百メートルをこえる巨大な四万トン級工作補給船も見える。画面のすぐ手前を横切って行く、精悍な感じの司令船《コマンド・シツプ》や、その間をぬって、球型の、あるいは円筒形の核融合燃料タンクをひきながら、船団に配ってまわっている燃料曳船《フユーエル・タグ》の、あわただしい動きがあった。
船団はあとからあとから、画面の中を横ぎって行ったが、まだまだ果しなくつづいているようだった。
「おどろいたわ……」と傍で、看護婦のキャロラインがつぶやいた。「あれで、よくぶつからないわね……」
「そろそろ出発だ……」と画面の片隅に、遠くグリーンのライトが横一列にならんで点滅するのを見ながら英二はいった。「まるで……宇宙ヨット・レースのスタートみたいだな……」
その時、画面の一部に、がっしりした、真白の髪に口髭をはやした人物の顔がうつった。
「M―1船団の諸君――地球、および太陽系の諸君、私はM―1船団司令のエミール・ガロア提督だ……」とその人物はいった。「EXF第一陣のM―1船団は、ただ今全船団無事に、UAF―01基地において最終燃料の補給を完了し、これよりバーナード星までの第一航程へむけて発進する。われらの前途に、神の祝福あらん事を……そして、地球および太陽系の上に幸運のあらん事を……」
3 恒星への旅
地球人類史初の、本格的恒星移民船団M―1九九三隻は、補助エンジンをふかしながら、ゆるやかに天王星の第一衛星アリエルの軌道をはなれ、その先頭は、ちょうど牽引コースにさしかかっている第三衛星テイタニアに接近しつつあった。
計画当初からこの段階まで、すべては、わずか数分の狂いの範囲で、整然と進行してきた。――これは、ある意味でおどろくべき事だった。船団を構成する二種類の輸送船、司令船、その他の特殊用途宇宙船は、太陽系のあちこちで、時には数十隻単位で、時には一隻ずつばらばらに建造、改造され、出発点の天王星空域へ、まるでばらまかれた砂粒が、吸いよせられるように集められてきたのである。
その間に、主として地球上で、第一次船団に乗り組む移民約百二十万人の、選別と移住準備と乗船点までの輸送が行われた。――まわりを刺戟しないように、地球上での選別と出発準備は、ひそかに行われた。このために、特別に訓練された五万人以上の連邦職員が、地球社会の影の部分で、日夜をわかたずに動いていた。
こうして、一千隻ちかい大型宇宙船と、百二十万人の移民、十万人のクルーが、次第次第に太陽系のあちこちから姿をあらわし、三三五五、隊を組み、天王星の周辺へ集結してきたのである。――第一次船団M―1の集結、出発点を天王星にし、発進時刻を、第三衛星テイタニアの牽引力を有効に利用できる時刻にあわせる事は、あらかじめ精密に計算されてあった。そのおくれは、最大四十二時間まで許容される事になっていたが、実際に蓋をあけてみると、船団の集結、編成、燃料つみこみ、出発は、当初予定のわずか数分おくれですんだのである。その数分おくれさえ、月軌道上で起った、二隻の宇宙船の改造現場の外因的事故――明らかに過激派団体の破壊工作によるものだった――のためであり、その二隻を、船団M―1に参加させるか、それとも第二次船団にまわすかの決定が、最後の段階までのびたためだった。
それにしても軌道半径三十億キロの、天王星周辺にまで拡散したプロジェクトが、最終段階で、わずか数分のおくれに収束した事は、EX計画の当事者たち自身が「奇蹟的」とおどろいたほどだった。――この「奇蹟」が達成された理由の一つは、JS計画の最終段階でテストされた「カルロス方式」によるものだった。カルロスは、船団がまだ影も形もない段階で、一千個の電子脳《ブレイン》を調達し、その一つ一つを、船団構成船舶の主電子脳とするべく訓練を開始すると同時に、船の建造と、出発点集結のスケジュールをクリアすべき使命《ミツシヨン》をあたえたのである。
電子脳《ブレイン》は、人間とちがって、クールで、焦ったり、逆上したり、パニックにおちいる事はなかった。太陽系のあちこちにちらばった一千個の電子脳《ブレイン》は、自己の中にセットされた使命《ミツシヨン》とスケジュールにしたがって、最良の方法をえらび、お互いに連絡をとり、助けあいながら、それぞれ自分の「体」に相当する船体をつくりあげて行った。
そして――出発の予定時刻がせまった時、卵や幼虫として自然の中に放った動物が、成長して交配期になると、誰に命じられる事もなく四方八方からある場所へ集ってくるように、まるで太陽系空間のあちこちから一せいにわき出したように、一千隻ちかい大型宇宙船が、天王星周辺へ集ってきたのだった。
「こちら船長《スキツパー》だ……。船団はあと十五分で発進する……」と、船内にアナウンスがひびきわたった。「五分前のブザーで、各自耐Gシートについてほしい。――発進加速はそれほど大きいものではないが、幼児には、注意してほしい……以上……」
「船長《スキツパー》っていい方は珍しいわね……」と乗客の中の若い女性が、連れの男をふりかえっていった。「ふつうは、キャプテンっていうんじゃないの?」
「船長がヤン・ステーンといって、オランダ系だからだろう……」と男はこたえた。「地球じゃ、ヨットのような小さい船の艇長の事をいうんだけど……まあ、宇宙じゃ別にきまったいい方をしなくてもいいらしいんだ。どうでもいい事は、好きにやっているらしい……」
「失礼ですが……」と、口髭をはやした中年の小柄の男が、二人に声をかけてきた。「あなた方はたしか、F船室《キヤビン》の方たちでしたね……」
「ええ、そうですが……」と若い男はうなずいた。「あなたもですか?」
「いえ、私は、Dキャビンです……」小柄な男は手をさし出した。「ヴィンチェンゾ・コッティといいます。失礼、あなたはひょっとしたら、ヴァンダービルトさんじゃ……」
「ヴァンダービルトは母方の名前です……」若い男はおどろいたようにいった。「私は、フィッシャーといいます。ビル・フィッシャー……こちらは、妻のミレーヌです。母を御存知ですか?」
「いえ――ひょっとしたら、お祖父さまでしょう。私が子供のころかわいがってもらった方に、とてもよく似ていらっしゃったので……」
「母方の祖父に、よく似てるって、昔からいわれてましたよ……」ビル・フィッシャーは微笑した。「でも、まさか祖父を御存知の方と、同じ移民船にのりあわせるとはね……」
「何しろ、初対面の人たちばかりですからな……」とコッティも笑った。「しかし、妙なものですな。千人もの、初対面の人たちがいて、その中から、ずっと昔にあった人の面影が、見わけがつくんですから……」
「あなたは?――イタリアからですか?」
「いや、リオガレイゴスです。――パタゴニアの、もう南の端で、医者をしておりました」
「私たちはレイキャヴィク――アイスランドで、地質調査をやっていました――」とビルはいった。「地球の、ちょうど反対側ぐらいにいたわけですね」
「でも、これからみんなお知りあいになれますわ……」とミレーヌはほほえんだ。「長い旅ですものね……」
その時、通路のむこうに、小さな男の子の姿があらわれて、かん高い声で叫んで手をふった。背後には、母親らしい女性の姿も見えた。
「じゃ、ちょっと行ってきます……」とパタゴニアの医師は、そちらを見ていった。「のちほどまた、ゆっくりお話をしましょう」
「御家族とご一緒ですか?」
とミレーヌはきいた。
「ええ、妻と子供二人――ペットのアライグマはおいてきました。残念ながら……」
発進八分前のディジタル表示があちこちにつき、もうほとんどの乗客は船室にはいって席についていた。――ビルとミレーヌも、ゆっくりとF船室の入口の方へ歩いて行った。一万三千トンの標準A―1恒星間移民宇宙船〃マチルダ〃は、これから一千隻の同僚と旅立とうとしている本格的な――そして人類最初の「恒星への旅」にむかって、身がまえ、身ぶるいしているようだった。
「いよいよね……」通路をあわただしく走って行く乗組《クルー》を、壁際によって避けながら、ミレーヌはそっと夫の腕にすがってささやいた。「いよいよ、私たち……本当に、恒星へむかって出発するのね……」
「ああ……」とビルは、ぼんやりした調子でつぶやいた。「でも、まだ……何だか実感が湧かないな……」
「あなたもそう?」ミレーヌは夫の顔を見上げた。「私もなの……。今でもまだ、夜中に突然眼がさめて、ゼラニウムの鉢植えに水をやってきたかな、なんて思うのよ」
数か月前、二人はアイスランド中央部の氷河の下で起った火山爆発の調査から三週間ぶりでかえってきて、首都レイキャヴィク市の湖畔に借りているコッテージで、二人きりのおそい夕食をすませた。北半球は秋たけなわで、島の北半分が北極圏にはいっているアイスランドでは、日が短くなり、夜が早く来て、やがてほとんど夜ばかりつづく、雪の多い冬をむかえようとしていた。
簡単な夕食をとりながら、二人は、仕事が一段落ついた所で、冬をどこですごすかという事を語りあった。――ビルは、バハマで肌を焼きながら、のんびり研究レポートをまとめたい、といい、ミレーヌはサン・モリッツでスキーをやりたいといった。ビルは、雪や氷はもうたくさんじゃないか、といったが、ミレーヌは、青空と陽光の中につきささった氷が見たい、と主張した。
その点に結論が出ないまま、二人はワインを少し飲み、熱いシャワーをあびて、それからベッドの中で、ひさしぶりにくつろいで、二度愛しあった。
営みが終ってまどろみかけた時、突然枕もとの電話が鳴った。
「フィッシャーさんですね? 奥さんも御在宅ですか?――連邦政府のものです」と男の声がいった。「夜おそく申し訳ありませんが、緊急のお話があって、お目にかかりたいのです。――いま、ケフラヴィークからの車の中におります。あと十五分でつきます……」
本当に、十五分きっちりのちに、ドア・チャイムが鳴り、地味なスーツとコートを着た、長身の男が三人、玄関口に立っていた。――身分証を見せると、そのうちの一人が、つったったままいった。
「あなたたち御夫妻は、政府の特別組織によって、恒星移民の第一陣のメンバーにえらばれました。――受諾される意志がおありでしょうか?」
二人は顔を見あわせた。――もちろん二人は、太陽系にせまりつつある危機について知っており、それについて、政府がとろうとしている二つの対策の事を知っていた。だが、地球の大気の底にひろがる、こまごまとした、それも長い「安定」の伝統の上に展開される日常生活にくらべて、その「危機」も、方策も、何かあまりに感覚とかけはなれた事に思え、現実感がわかないまま、それならのばしのばしにしていた研究テーマを、何とかいそいで「破滅の日」までにまとめあげてしまおう、と思ったくらいだった。「氷河重量が、地殻および火山活動にあたえる影響」などといったテーマが、太陽が砕け、地球そのものが吹きとばされてしまったあとになって、いったい誰が評価してくれるのか、といった事は考えないまま……。いや、たとえ、すべてが空に帰す事を考えた所で、二人は、その研究の完成を急いだ事だろう。――いまや、そのテーマは、人類の科学の巨大な体系に、何がしかの小さな一石をつけくわえる、といった事とは関係なしに、二人自身にとって、破滅までのあと一年有余を生きる事の意義そのものとなったのである。
だが、状況は突然かわった。――三人の男を屋内に招じ入れ、十五分ほど話しこみ、二人きりで話させてくれといって、居間の方で十分ほど話しあって、それから受諾の意志をつたえた。
「あらためて申し上げますが、あなた方には、辛い義務を要求しているのです。――残って、この惑星と運命をともにするよりも、もっと辛い、重い義務を……」と、係官は、書類をテーブルにおきながらいった。「そして、あなた方には拒否する権利があります。――お二人とも、受諾の意志はかわりませんね」
ビルはこたえるかわりに、だまってペンをとり出した。
「研究書類などはもって行けますか?」と署名の途中で手をとめて、ビルはきいた。「どうしても、まとめてしまいたいテーマがあるんですが……出発までに、とてもまとまらないと思いますので……」
「手荷物の重量制限や、その他の注意は、コンピューターにきいてください。IDナンバーとパス・ワードをさし上げます……」と立ち上がりながら係官はいった。「出発は、一週間後、アゾレス島宇宙基地からシャトルにのっていただきます。くれぐれも、秘密厳守をねがいます。もちろん肉親の方にも……失礼しました」
三人の連邦職員は、訪れてから三十分後に、出て行った。――雪のちらつきはじめた、夜の闇の中を遠去かって行く乗物のテールランプを、窓ガラスごしに見つめながら、ミレーヌはぽつんといった。
「これで夕食の時の論争も、結論が出たみたいね……」
大西洋上のアゾレスへ、そこからスペースシャトルで月軌道へ、そこで簡単な訓練をうけてさらに火星へと移動する間に、まわりの人数は次第にふえてきて、小惑星帯で標準A―1に乗りこむ時には千人にふくれ上がっていた。――乗客は、客といっても、途中からほとんどが事務作業にたずさわっていた。話しあってみると、ほとんどのメンバーは、フィッシャー夫妻と同じような形で、ある日、連邦職員の訪問をうけ、それから何日かあと、簡単な旅行に出かけるような形で、近所にもほとんどあいさつせず、住みなれた家をあとにして、秘密の集結地点へ集ってきたのだった。
フィッシャー夫妻が出発するころ、ほとんどの地域は平穏だったが、一部の地域で、非常体制下の報道管制に、はげしい不満と反撥が起りかけていた。口コミのデマが流れ、小規模なパニックがその地域では散発的に起っていた。――だが、地球社会全体としては、何か不気味なほど平穏で、目と鼻の先にせまった破局の事など、社会の表面の動きからは、ほとんどよみとれないようだった。数々のスポーツ行事は例年とかわりなく行われ、その夏にヒューストンで発表されたエレクトロニック・ミュージカルは、世界的な大ヒットのあと、ロングランの記録を更新しそうな形勢であり、観光シーズンの行楽地は、おしなべて例年より数パーセント客足がのびていた。
ただ、すこし変った所は、もう前世紀の遺物となった家庭用シェルターが、欧米で、突然爆発的な売れ行きを見せはじめた事だった。――食料の買いだめをする人出もふえ、宗教的な小集会も、地域にかかわりなく、無数にもたれるようになってきた。一番奇妙な事は――これは、一種の集団的錯覚にもとづくものらしかったが――生命保険の解約より加入の方がずっとふえはじめた事だった。保険会社はこの事について、政府の意見をもとめたが、政府側は回答をしなかった。そのほかでは、キャンピング・セット、高級携帯用通信器、小型天体望遠鏡などが、前年の四○パーセントから六○パーセントの売り上げの伸びを見せていた。――いずれにしても、「地球社会」は、目前にせまりつつある「破局」というイメージをまだ消化し切ってないようだった……。
「五分前よ……」鳴りわたるブザーをきいて、ミレーヌがいった。「船室にはいりましょう……」
AからJまで、十個ある船室は、一室百人を収容し、移動、固定自由のシートによって、自由に模様がえできるようになっていた。――高加速時には、それぞれのシートは耐Gシートの役割をし、低加速時には、ラウンジ風に配置がえできる。就眠はスリーピング・ケースをつかって三交替でとるようになっていた。
いま、シートは高加速配置をとって、キャビン前方にむけてならんでいた。前方の壁一面がディスプレイ・スクリーンになっており、衛星テイタニアの切線コースをはずれつつある大船団の姿が、天王星から青白い照りかえしをうけて、はるかなる宇宙の闇わだの奥まで果しなくつらなっていた。
「とうとう行くのね……」ミレーヌは隣のシートから、夫に手をのばしながら、かすれた声でつぶやいた。「六光年も先の星へむかって……何十年もかかって……」
「まだ、行ってしまうとはかぎらない……」とビルは手をにぎりかえしながらいった。「もし……もう一つの、あのB・B・Jとかいう計画がうまく行ったら、途中からひきかえす事だってあり得る、ときいたよ……」
テイタニアの横をかすめながら、船団M―1は、発進の時をむかえつつあった。
十隻が、先行艇の噴射後流の影響をうけないように梯形陣をくみ、その一単位が、また十個集って、梯形陣をくみ、さらにその百隻の船団が、円錐体型をくんで、その巨大な円錐の頂点に、船団司令エミール・ガロア提督の乗る司令船《コマンド・シツプ》〃クリストファ・コロンブス〃号が位置していた。――コロンブス号の中央部にある船団司令室では、提督はじめ、中枢スタッフが、巨大なディスプレイ・スクリーンとコンソールを前にして、耐Gシートに腰かけ、無言でスクリーンの中央部にうつし出されている、ディジタル・クロックの数字を見つめていた。十個の船団からなる九九三隻の宇宙船からは、すべてチェック完了、異常なし、発進準備完了のシグナルがおくられ、全船団の発進が自動にセットされた事が表示されていた。
「三十秒前です……」と、ナヴィゲーターがつげた。
「さて、いよいよ……」と副司令がつぶやいた。「六十年をこえる星の旅へ出航ですな……」
「第一ポイント通過までに、ひきかえせるようになる事を祈れ」と提督は、いった。「もっとも――私個人としては、太陽が衝突をまぬがれても、こちらはこのまま行ってしまいたい気がするが……」
「発進!」とナヴィゲーターが、抑揚のない声でいった。
ディジタル・クロックの数字はすべてゼロになり、スクリーン一杯に緑色に輝いた。
4 〃宇宙神の子《チルドレン・オブ・スペースゴツド》〃
天王星のすぐ傍に、突如として、強く輝く光点が出現し、その光は、木星周辺からも、低倍率の望遠鏡で見る事ができた。
高倍率の望遠鏡をつかえば、その光点が、無数の白光の微粒子の集りである事がわかったであろう。暗黒の彼方へ去って行くその光点の反対側に眼をむければ、小惑星帯の一角から、もう一組のもっと暗い光の微粒子の集団が、彗星のように長い列になって、天王星空域へ接近しつつあるのが見出せたはずだ。
脱出船団M―1につづく、船団M―2千六隻が今や八分通りの編成を終り、残りも整備を急ぎつつ、最終燃料補給点の天王星空域へ接近しつつあった。
だが、M―3以後の船団編成については、スケジュールのおくれが、徐々に目だちはじめていた。――地球社会のあちこちに、ようやく動揺が起り出したためだった。
「地球の治安関係などきいても、しょうがないだろう……」とウェッブは火星衛星軌道上のOPDO―AXにある〃プロジェクトX〃総司令部で、めんどうくさそうに眉をしかめた。「今の所、地球上のごたごたは、太陽系宇宙空間にもちこまれないように、連邦公安委員会と、宇宙空軍《スペース・フオース》とが、二重にシャットアウトしとるはずだろうが……。オファットにつたえといてくれ。そちらはそちらでよろしくたのむ、とな。こっちはこっちで、最後の追いこみにかかってるんだから……」
「でも、その件についての話をしに、もうオファット連邦公安委員長が、お見えになっています……」と、秘書がいった。「おしのびで――大統領府の方とご一緒に……」
「オファットが来てる?」ウェッブは眼をむいた。「ここへか?」
「ええ――先ほど、火星からおつきになりました。もうすぐここへお出でになります」
「なぜもっと早く知らせない?」
「私もついさっき、知らされた所なんです。――何でも、警備体制全般について、秘密裡にチェックしてまわられているらしくて……」
「彼が宇宙空間の警備までチェックしてまわるのか?」
「そうせざるを得ない事情があってな……」ふいに、大きな影が、ウェッブの背後に立った。「やあ、エド……進行状況はどうだね?」
「EXの方がおくれ出している……」ウェッブは、拇指の爪をかみながら、ふりむきもせずにこたえた。「B・B・J計画の方は、いま、成功率をあげるのに必死になっている。――甘い方の試算では、三○パーセントをこえたが、五○パーセントまでひき上げるためには、X―デイぎりぎりまで、木星の周辺に、かなりな人員をはりつけなきゃならん。そうすると、当然、犠牲者の数がふえる事になり……」
そこまでしゃべって、やっとウェッブは、背後をふりあおいだ。
「よう、ダグ……人の部屋にはいってくる時は、ノックぐらいしたらどうだ?」
「したつもりだがな、きこえなかったんだろう」
とオファット公安委員長は、巨大な多元スクリーンと、無数のコンソールの間を大勢の人員が忙しげに立ち働く、だだっぴろい司令室を見まわした。
「ところで――どこか、ゆっくり話せる所はあるかね?」
「人払いでか?」
ウェッブは大儀そうにコンソール前のシートから立ち上がった。
「アンナ……私の個室をつかう。しばらくの間音声、電波シールドをチェックしていてくれ……」
ウェッブが先に立って歩き出すと、反対側の方角から、ランセンがあたりをきょろきょろ見まわしながら、あわただしく近づいてきた。
「ああ、総裁……」とウェッブを見かけて、ランセンは小走りにかけよってきた。「いま、警備の方からいってきたんですが、なんでも、地球からVIPが、突然おしのびでこられるそうで……」
「VIPって、こいつの事か?」とウェッブは、後に立つ自分より首一つ分大きいオファット委員長の鼻先に、肩ごしに、無遠慮に拇指をつきつけた。「おしのびも何も、こんなでかぶつ、どの隅っこにかくしとくんだ?」
「あ、これは……公安委員長……」ランセンははっと気がついて、どぎまぎしたように顔を赤らめた。「気がつきませんでした。……もう到着されていたんですか?」
「用はそれだけか?」とウェッブはぶっきら棒にいった。「私に、ほかに何か報告でもあるのか?」
「ええ、あの……」
ランセンは、ちらとオファットの顔を見た。
「かまわん。いっちまえ……」ウェッブはひげをひっぱりながら顎をしゃくった。「この方の前では、いかなる隠し事もむだだ。――太陽系のすみずみまで、すべてお見通しの公安委員長どのだぞ」
「情報局長官とまちがえてくれるな」とオファットは苦笑した。「やつにしたって、知らない事、わからない事はいっぱいある。――いつもそういって私に弁解ばかりしている」
「実は――地球と火星の間で、移動操業中の宇宙工場の一つに爆発が起りました……」とランセンはあたりを見まわして声をひそめていった。「被害そのものは大した事はないんですが、組立て中の、司令船用電子脳《コマンド・シツプ・ブレイン》のプログラム・ラインがかなりやられて、M―3船団は、場合によっては司令船二隻で出発させる事になるかも知れません。――それより、気になるのは、しかけられた爆発物の残骸の中に、メッセージがはいっていた事です」
「どんなメッセージだ?――まさかおれに、〃誕生日おめでとう〃といってきたわけじゃあるまい」
ランセンはだまって、片手にもっていたメモをさし出した。――ウェッブはそれをうけとると、しわをのばして、声を出して読んだ。
「〃SSDO《太陽系開発機構》は、進行中のプロジェクトXに関する、一切の情報を、即座に地球人民に公開せよ――宇宙神の子〃」
「それだけか?」とオファットがきいた。「本当にメッセージがそれだけだとすると……素人っぽいやり方だな。本来なら、もしただちに公開しないなら……というおどしがはいってくるはずだが、いいっぱなしというのは、あまりプロらしく思えんが……」
「〃宇宙神の子《チルドレン・オブ・スペースゴツド》〃というのも、餓鬼っぽい名前だな……」とウェッブはいった。「なんだか背中がもぞもぞする……」
「公安委員長はよくご存知だと思いますが、地球上では、〃宇宙保存連盟〃とか、〃自然の怒り〃とか、あやしげな名のグループが、いろいろ動いています……」ランセンはウェッブからメモをかえしてもらいながらいった。「それより重要な事は――これだ。地球=月空域の外側で起った、はじめての破壊、妨害工作だという事です」
「頑迷な連中の手が、とうとう宇宙空間にまで、のびてきたというわけか……」それほど深刻そうでもない顔つきで、ウェッブは鼻の頭を掻いた。「爆発物は、どこでしかけられたか、わかったか?――まさか地球でセットされたのを、火星へむかう段階まで気がつかなかった、というわけじゃないだろう」
「いま、宇宙空軍《スペース・フオース》の保安部がしらべておりますが、爆発のあったのは、地球からおくられてきた部品のつかわれている個所ではありません。――可能性があるとすれば、組立てを開始したL4の近辺だと思われますが……」
「月軌道と地球との間は、厳重管理されているといっても、ずいぶん人間の往復があるからな……」オファットは肩をすくめた。「まあ、L4の方は、連邦公安部も一緒になって、しらべているだろうから、いずれ策略がわかるだろう」
「ああ、それから……」とランセンは、思い出したようにつけくわえた。「さっき、本田英二が、地球へ行く途中で、こちらへたちよる、という知らせがありました。地球へはいる許可が欲しいそうです」
「この忙しい時に、何だってまた、地球に行くんだ?」ウェッブはふりかえって眉をしかめた。「おまけに治安だって悪くなっているらしいのに……」
「私もよく知りません。――何でも、ある特殊装置が必要で、一から組立てると、二年ぐらいかかりそうなのが、太陽系中さがしまわって、やっと地球の上に……フロリダ州の、タンパって所につかえるのが見つかったんだそうです。どこかの研究所が目下使用中で、なかなか手ばなしそうにないから、自分で出かけて行って、ひっぺがしてくるしかないんだっていってましたが……」
司令室から短い廊下をへだてて、ウェッブが休息と就寝用につかっている個室があった。ウェッブの秘書と、オファットにつきそってきた保安要員の二人は、ドアの外に椅子をもってきて外を見張り、中にはいったウェッブは、二重防音ドアを閉め、秘密のワイヤレス・インカムをのぞいて、一切の通信をシャットアウトし、電波、音声の部屋の外への漏洩をチェックする装置のスイッチを入れた。
「これで大丈夫だ……」とウェッブはいった。「用件をいってくれ、ダグ……。地球の様子はどうだ?」
「だんだん悪くなってはいるが、まだ、どこも暴動が起きる所まではいっていない」ダグラス・オファット連邦公安委員長は、ソファにどっかりと巨体をしずめて、ふうっ、と太い溜息をついた。「ただ……煽っている連中はあちこちにいる。何しろ、こんな事態だからな……。煽動する方も、される方も、ただ不安のたかまるのに翻弄されて、時々右往左往するんだ。何かにおびえて、神経質になった家畜の群れと同じだ。ちょっとした刺戟があると、暴走《スタンピード》をはじめる。大部分の連中には、まだ事態が実感として、のみこめていない。太陽系が滅ぶ、といって、現実に、それがどういう事なのか、はっきりと想像できないんだ。――今年の、北半球の四月から五月にかけては、世界のどこもすばらしかったぜ、エド……。宇宙空間で暮しているあんたたちには、わからんだろうがな。西インドで季節はずれの大洪水があった以外は、各地域ともすばらしい五月だった。快晴がつづいて、花が咲いて、陽光が天地をみたして……青空の下でさわやかな風に吹かれて、ハイキングやヨット遊びをやってみろ。体の調子も、長い冬と、不安な春から解放されて、妙にうきうきしてくるし……娘や若者は、明るい軽装になるし……そんな光景を眺めていると、そんな世界が……輝きわたる五月の太陽が、あと一年たらずのうちに爆発し、その世界が燃え上がるなんて、信じられないような気持ちになっちまうのも無理もない……」
「〃時は春、春は四月……〃ってやつか……」ウェッブは鬚をまさぐりながら、一瞬はるか遠くを見つめるような眼つきをした。「〃四月は朝……〃だったかな。ええと、〃朝は七時、片岡に露満ちて、揚げ雲雀名のり出で……〃何だか忘れちまったな」
「私もだ……」オファットは苦笑した。
「〃蝸牛枝にはい、神空にしろしめす、世はなべて事もなし〃という、あそこしかおぼえておらん……」
ふっ、と、二人の間に沈黙がおちてきた。――オファットとウェッブ……どちらもまだ頑健そのものだったが、すでに八十を越えた二人の男が、その時、お互いにちがった方向を見つめながら、どちらも、一瞬、未来に対する透明な憂愁をたたえた、少年のような眼つきをしていた。
「政府は、どの程度の事を発表したんだ?」
と、ウェッブはぼそりときいた。
「B・B・J計画とEX計画と……〃闘い〃と〃脱出〃の、二つの方向の基本対策をとっている事以外、数量的な事は、具体的にはまだ何も発表していない……」
「成否については、まだ申し上げられません。しかし、政府は粉骨砕身し、全力をつくしております――か……」ウェッブは辛そうな眼つきをした。「どうなるのか、という事についてははっきりした情報を与えられないまま、どうにかなるのだろう、どうにかしてくれるだろう、と思いながら、毎日ずるずると日がたって行く……。おちつかない、いやな気分だろうな。たとえ五月の日の光をみても、心の底の不安は、消えないだろうからな……」
「ずっと昔、癌がまだ不治の病だったころ、癌とわかっても、家族には知らせても、本人に知らせず、別の病気です、何とかなります、と気休めをいうのが、医者のモラルだったそうだ……。今、この事態に関して、救出できるのはぎりぎり一億弱です。それも、太陽系を脱出して、移住できる天体が見つかる保証はありません。人選は、混乱を避けるために政府がコンピューターを駆使してやりますから、どうかおまかせください、などといってみろ。へたをすると、混乱の結果、脱出できる人間ががたべりになってしまう……」
「やってみたらどうかね?」ウェッブは片方の眉を吊り上げてつぶやいた。「私は、人類というものが、種集団として、どれだけ〃真実〃というものにたえられるか、見てみたい気がするがね」
「大統領が、そういう誘惑にかられる事はないと思うが、基本的データの公開は、早められる可能性が大きくなってきた。――すくなくとも、M―6船団の編成等、あるいは場合によってはM―5船団が、天王星空域を離れた時点で、かなりな程度の公表がありそうだ……」
「M―6は、はじめての千万人単位の編成になるはずの船団だな……」ウェッブは考えこむような眼をした。
「なぜそんなに早めねばならないんだ? 最初は、B・B・J計画を実行してそれが完全に失敗とわかった時点で、一切の状況を公表する、という意見が強かったじゃないか。それでも、太陽が破壊されるまでにざっと四日ぐらいあるから、いろんなものにわかれを惜しめるゆとりはあるはずだ、と、あんたもいっていた……」
「一つは、一般大衆の間に、不安と動揺がひろがり、暴発を起しはじめる時期が、こちらの予想より早くなりそうだ、という判断が出てきたからだ。――危ない所だが、充分にこちらの体制をととのえて、トーンも工夫して、ある時期を狙って公表をはじめた方が、かえって身も蓋もない混乱を避けられるだろう、という意見が強くなってきた。不安感が、政府不信と衝動的攻撃になだれこまないうちにな……」
「それが一つか――ほかには?」
「妙な、反政府、反社会グループのキャンペーンや煽動活動が、このごろ目だってふえはじめている。流言やデマはながすし、あやしげな宗教儀式や、集団行動で、人死にが出たり、詐欺まがいの行為まで起りはじめている。こういう連中の影響から、一般大衆をきりはなす必要がある。でないと、溺れるものは藁で、動揺が拡大するおそれがある。それに……」
「まだあるのか?」
「反社会グループは、大部分がいいかげんなものだが、中にはそうではないものもある。――その連中にむかって、極秘情報が流れている。この太陽系開発機構の中枢部からもだ……」
ウェッブの顔が、突然石像のように凍りついた。
「シャドリクか?」と、ウェッブは唇をほとんど動かさず、かすれた声でいった。「やつのエージェントが……おれたちの所にもぐり込んでいるのか?」
「シャドリクは、ある意味で、われわれと妥協した。きっかけは、彼が心酔していた、ある宗教の〃導師〃とよばれる人物が死んだからだ。とたんに彼は、妙に弱々しくなった。彼の政治的信念には、心の支えのようなものが必要だったんだな。――彼は、いましきりに、船団の一つに、切符を求めたがっている。それも彼らしく、船団指揮者の立場でだがね……」
「船の一隻ぐらいくれてやったらどうだ……。やつの側近をつめこんでさ。あんな、恰好ばかりの、気障な野郎は、早く太陽系からほうり出した方がいい」
「しかし、かつて彼の影響下にうまれたいくつかのグループが、彼が方向転換しても、もう彼の手に負えなくなってしまっている。――こういった、狂信的で、団結のかたい、しかもおそろしく知能的なグループに対して、こちらの内部情報が流れている。どういう仕組みで流しているか、それもよくわからん。ただ、そのいくつかのグループの煽動ぶりを見ると、こちらもびっくりするくらい正確なデータをにぎって、煽動につかっていることがわかるし、その上――さっきの宇宙工場にしかけられた爆発物のように、厳重な監視の眼をくぐって、枢要な部分に破壊工作の手をのばしてきている……」
「やっとわかった……」とウェッブはがっくりと肩をおとした。「あんたが、おしのびでわざわざ火星くんだりまで出かけてきたわけが……」
「ここにも何人か、連邦の保安要員を配置して行く。――宇宙空軍は、対諜報作戦は、あまりうまくないからな……」オファットは、内ポケットから、小さな磁気カードを出した。「それから、ここには、いくつかの最も危険なグループの中で、これまでわかっている人物たちの、写真やデータがはいっている。いわば指名手配中の連中だ……」
5 フロリダの熱い日
本田英二は、汗をかいていた。
新大陸南部のフロリダ半島西海岸にあるタンパ市の上には、七月の太陽がぎらぎらと輝き、メキシコ湾から吹きつけるしめった風が、この古い港湾都市をむし上げていた。
それでも、ものかげにはいればすずしく、人々は、岬へむかってのびる新市街の緑陰にいこって、冷たい飲物を飲んだり、アイスクリームをなめたり、また、かりかりに冷えたドライ・マティニや、ラムや、カクテルを、すすったりしていた。
あいかわらず、ひしとだきあったり、キスをしたまま寝こんでしまったように動かないアヴェックも、あちこちに見える。――強い日ざしをあびて、若者たちや家族づれが、広場のまわりをぶらついたり、噴水に足をつけたり、芝生の上でほとんど全裸で肌をやいたりしている。――犬や猫がうろうろし、鳩がせわしなく歩きまわり、広場の一隅では人が群れ、誰かがわめくように喋っていた。
英二は、額にしたたる汗を手の甲でぬぐいながら、空を見上げた。――カリブ海上に、小さなハリケーンが発生した、と正午のニュースでつたえていたが、空はぬけるように青く、濃い鼠色の影にくまどられた銀白の雲の団塊が、点々とうかんでいた。
空の光と、太陽の直射日光のまぶしさに、英二は思わず目まいを感じ、足もとがよろめいた。――木星以来の過労と睡眠不足が、ちょっとでも気をゆるめると、どっとおそいかかってきて、彼の体をその場にうちたおしてしまいそうだった。
「大丈夫ですか?」
と、あとをついてきた若い研究所員が、よろめいた英二の腕を、後からささえた。
「いや……ちょっと日ざしがまぶしすぎて」と、英二は無理に笑いをうかべた。「もう大丈夫です」
「木蔭で少し休んでいてください。――トレーラーはもう出てきます……」
研究所員に腕をとられ、英二はアカシアの木蔭のテーブルの傍に腰をおろした。
「冷たいものでも飲みますか?」
と研究所員はきいた。
「いや、結構……」
「じゃ、ちょっと私はトレーラーを見てきます……」
そういって、タンパ超素粒子工学研究所の若い所員は、小走りに広場の横の、研究所通用門の方へ走り去った。
英二はシャツの襟もとをくつろげて、下枝ごしに空をあおいであえいだ。――宇宙空間にくらべて、地球上はあまりに空気が濃く、湿気をふくんで重く、それにくわえて暑く、光が強くまぶしかった。
それに、まわりに雑然とした生物の気配が濃厚に、あつい豆スープのように渦まいて流れていた。――塗料のはげたテーブルの上には、とけたアイスクリームの雫にむかって、赤い小さな蟻と、頭のでかい大きな黒蟻が列をつくって動いていた。顔のまわりには、ぶんぶん音をたてて小さな羽虫や蜂が舞い、アカシアの小さな花には、ハナバチがもぐりこんでいた。
足もとに動くものが近づく気配を感じて、視線をおとすと、黒っぽく汚れた雀が一羽、ちょんちょんと草の間をとびながら近づいてきた。――テーブルの上にちらばったパン屑をはらいおとしてやると、雀は近づいてきて、ちょっとついばむふりをしたが、にわかにぱっととびたって、テーブルの向うの端を、一生懸命はっていた青い尺取虫をくわえてとび去った。
ふくらはぎに何かさわるので、はっとすると、茶色のむく毛の仔犬が、人なつこい黒い眼をあげ、尻尾をちぎれるほどふっていた。――手をのばすと、冷たいしめった鼻先をおしつけ、やわらかくあたたかい舌で、一心に掌をなめた。
「ピーター……」と、幼い舌たらずの声がした。「ピーター……どこへ行ったの?」
よちよち歩きの、青い眼をした金髪の女の子が、赤いデージーの花を手にもって、近づいてきた。――仔犬は、ぱっと英二の足もとからとびさって、女の子のまわりを小さく鳴いてとびまわった。紫の花模様の服を着た三歳くらいの女の子は、英二の顔を見上げて、みそっ歯をむき出して、にっと笑った。
「君の犬?」と、英二はきいた。
「ううん、お隣の……」
と女の子は首をふって答えた。
「ママと一緒?」
「パパも一緒……」と女の子は、はにかんで見せながらいった。「パパとママ、いま、車の中で、赤ちゃんをつくってるの」
英二は思わず苦笑した。
「マリア!……」と遠くで、女の声がした。「どこに行ったの?――帰りますよ」
女の子は、声のする方をふりむいて、手をふった。
「君、マリアっていうの?」
と英二はきいた。
「うん……」とうなずいて、女の子は、ぱっと小さな手をひろげた。「バイバイ、おじちゃん……」
とことこと人ごみの間を去って行く、小さな金髪の頭と、その足もとにまとわりつく茶色の毛の塊を、眼を細めて見送りながら、英二は心中に、鈍く、重いショックを感じていた。――マリア……ピーター……。彼のマリアは、彼との間に赤ン坊をほしがっていた。もし今、彼とマリアの間に、さっきのような小さい子がいたら、自分は、この危機をどう感じているだろう?……マリアが、彼の誘拐に失敗した東京へ行く前――そうだ、東京での宇宙考古学特別会議の会場から、誘拐されかかった時も、こういった暑い、湿気の強い、晴れた夏の日だった――L5宇宙コロニイにとどけられたメッセージの中で、マリアは「ピーターと会ってください」と書いていた……。「ジュピター教団」とかいう新興宗教団体の教祖とかいう人物に……。
そして、火星衛星軌道上のOPDO―AX司令部に、地球行きの許可を求めて立ちよった時、そこにおしのびで来ていたオファット連邦公安委員長から、〃プロジェクトX〃の全情報公開を求めて破壊工作をつづける狂信的な過激派グループの一部の、指名手配の写真を見せられた。――その中に、彼のマリアがいた。「ジュピター教団所属の、ある過激派セクト」の一人として、もう一人の、アニタ・ジューン・ポープという女性と、ほかに四人の青年の写真とともに……。
「トレーラーが来ました……」若い研究所員が息をはずませてかけよりながら、叫んだ。「セント・ピータースバーグまで、同乗されますか?」
研究所の通用口から、エア・キャスター付きのトレーラーが、静かに出て来るのが見えた。――中に、二メートル角に長さ八メートルほどの金属ケースがはいっている。そのケースの中の特殊な超粒子流の精密制御装置を入手するために、英二はその機械を考案製作した学者と、六時間以上にわたって、根気のいる交渉をくりかえした。
その装置の、理論はもう数年前に発表されていた。――そして、B・B・J計画が八○パーセント進んだ段階で、より一層成功率を高めるために、その装置が欲しいといい出したのはカルロスだった。しかし、理論はわかっていても、実際にその装置をつくり、調整してつかえるようにするためには、最低二年かかる事がわかった。一方、その装置が、実際に作られ、使われている場所は、全太陽系の中でただ一か所、フロリダ州タンパの研究所だけだ、という事も判明した。――しかし、その装置の理論を開発し、自ら組み立てて使っている学者は、その分野でも名うての、孤独な偏屈者だった。B・B・J計画本部の要請に対し、その学者からは、装置は目下、彼自身の研究のために使用中であり、その研究のために調整してあるから、動かすわけに行かない、というにべもない返事が帰ってきた。
くりかえしの要請にも、返事は同じであり、強制収用をかけると、偏屈者の学者が怒って、装置をつかえないようにしてしまうおそれがある、というので、やむなく英二が、自分で出かけて行って、説得にあたる事になった。
「何のために使うんだ?」
というのが相手の第一声だった。――不機嫌そうな、いらいらした調子だった。
「率直にいって、太陽系を救うためです」と英二はいった。「この装置をつかう事によって、救える確率がコンマ何パーセントか上がるはずです……」
「この装置は、別にそんな大それた事のためにつくったわけじゃない……」と小柄で、頭の禿げ上がった学者はぶつぶついった。「私の、独自の研究のために、こつこつ組み上げたのだ。――理論はもう何年も前に発表し、あちこちに予算や資金を要求したのに、誰も関心をもってくれなかった。しかたなしに、私は、この研究所にはいって、いろんな金をかきあつめてつくり上げ、やっと一年前作動するようになった。これは、私の長年の研究テーマのためのものであって、別に太陽系を救うつもりでつくったわけじゃない」
「でも、その研究も、もし太陽系が終末をむかえたら、いったい誰に対して発表するんです?――何の為になるんです?」
「私は一向にかまわん。私の研究は、そんな事とは関係なく……」そういいかけて、学者のしわ深い顔に、突然後ろめたそうな表情がうかんだ。「せめて――そう、せめて半年待ってくれんか? そうしたら、今の研究が一段落つく。そのあとなら……」
「でも、あと半年で、X点が太陽にぶつかるんです……」と英二は辛抱づよくいった。「われわれのやっているB・B・Jシステムに組み込むためには、今がぎりぎりの時期なんです」
こんな交渉が、延々六時間つづき、六時間後にやっと相手は折れ、折れたものの相手は半狂乱になって、装置をとめて設備からはずし、一部解体して梱包にかかる間、書類を床に投げつけ、金切り声をあげ、ついには個室にとびこんですすり泣きをはじめる有様だった。
英二は、「太陽系の危機」といった大義名分をかさに着て、子供の大事にしている玩具を無理矢理とり上げるような、後味の悪い思いを味わった。――だが、しかし、これから先、こういった辛い、後味の悪い思いは、まだまだいくらも経験しなければならないだろうし、地球上で〃プロジェクトX〃にたずさわっている連中は、もっともっと辛い思いに堪えなければならないだろうと思って、やっと自分をはげまし、搬出作業をいそがせたのだった。
「セント・ピータースバーグの宇宙連絡港まで、どのくらいかかる?」
と英二は、研究所員にきいた。
「そうですね。――一時間ちょっとぐらいでしょう。でも、さっきシャトルの便を問いあわせたら、一機が調子が悪くて整備にはいっているので、代替機へのつみこみは午前八時ごろ、出発は、午後十時ぐらいになるそうです……」
まだだいぶ時間がある……と、英二は広場を見ながら思った。
「エヴァーグレーズまではどのくらいかかるだろう?」
「GEM《地面効果機《グランド・エフエクト・マシン》》タクシーでですか?――そうですね。直線で二百五十キロぐらいですから、まあ二時間半から三時間ぐらい……」
「もっと早く行ける方法はないかな……」
「じゃ、水陸両用《アンフイビアス》VTOLでも、チャーターしますか?――それなら一時間たらずで行けますが……」そういってから、研究所員は、いぶかしそうに英二の顔をのぞきこんだ。「これからエヴァーグレーズにいらっしゃるんですか?――むこうにお知り合いでも……」
「じゃ、そのVTOLをチャーターしてくれ……」英二は眼を伏せていった。「ちょっと行って、シャトルへのつみこみまでには、セント・ピータースバーグへ帰ってくる」
研究所員は、トレーラーの方へ走って行って、運転手に無線交信をたのんでいるようだったが、二、三分で帰ってきて、言った。
「十五分か二十分で、この広場の先の公園にある、ドッグレース場にチャーター機がつきます。今日明日はドッグレースをやってないから、守衛にいえば入れてくれます。じゃ、ぼくは、トレーラーにのって行きますから。……ああ、それから、チャーター機は、〃フライング・アリゲーター〃というおんぼろ会社のものですから、お気をつけて……」
研究所員が運転台にのりこむと、トレーラーは、かすかな溜息のような音をたててすべり出した。――それにむかって、おざなりに手をふると、英二は立ち上がって、ゆっくりと公園にむかって歩き出した。
広場の一角では、まだ人だかりがして、中心にいる人物のスピーチはますます熱気がこもってきつつあった。――近くを通りすぎる時、しゃべっているのが、三十歳ぐらいのメキシコ風の男で、近づきつつあるこの世の終末と、神の救済の可能性を説き、一転して、今の政府の無能と、上層部の腐敗を攻撃し、やり方によっては、「ノアの方舟」を全人類に行きわたるほどつくる事ができるはずだとまくしたて、抗議の輪をひろげて、政府に対策の公開をせまろうと絶叫する。――そのパターンは、L5宇宙コロニイから到着した、ダラス宇宙港周辺の、大規模なすわりこみデモにむかって行われていた演説とほぼ似たりよったりだった。ダラス宇宙港では、内部に入れろ、というシュプレヒコールがあり、警備との間で、小ぜりあいがあった。市内では、州政府の建物にむかってもっと大規模なデモが行われ、車が焼かれ、窓ガラスがこわされ、発砲さわぎがあって負傷者が出た、というニュースをきいた。――世界のあちこちにおいて、せまりくる破局に対する不安と動揺は、次第に不穏な情勢をかもし出しつつあった。まだ、パニックや暴動にまではいたっておらず、保安関係はうまくおさえているようだが、いつ、どこで火の手が上がるかわからない。
ふたたび、この世の終末と、神の救済を説きはじめた、広場のアジテーターの演説をきき流しながら、英二はまた空を見上げた。――有史以来、いったい何千年にわたって何万人の予言者が、「目前にせまりくる世界の終末」を説いただろう? そして、皮肉な事に、今実際に「目前」に――半年たらず先に、「世界の終末」が、それも、地球上の世界だけでなく、太陽系全体の破局がせまりつつある時になってみると、現在にうけつがれている予言者の口調や発想が、いかに昔とかわらぬステロタイプでそらぞらしいものであるかが、痛感されるのだった。数十人の人々は、一見ひきこまれ、陽にやけ、汗にまみれながら、一心にきき入っているようだった。だがそのまわりで、それよりずっと多くの人たちが、球技やゲームをたのしみ、愛をささやき、音楽を鳴らしてダンスに夢中になり、また偏執的な丹念さで肌を灼いているのだった。
今、その人たちの頭上にひろがる天空の一角から、「暗黒の破局」は、一秒間二千キロメートルの速度で確実にせまりつつあり、それは、今この公園の上にぎらぎらと輝く太陽を、幾千万倍のエネルギーでもって爆発させようとしているのだった。――だが、今、広場から公園にかけて群がる人々の中で、誰一人として空を仰ぎ、太陽を見ようとするものはなかった。見上げた所で、そこにはいつもと変らぬ、青く灼けた夏の空と、白く輝く雲の峰と、ぎらつく太陽があるばかりだ。そこにはまだ、何ら「破滅」の兆はあらわれていなかった。
公園にむかって、ゆっくり歩きながら、英二は再び空気の濃さ、重さ、そして重力の大きさに、あえいでいた。――まわりには、人々の笑い声、音楽、子供の甲ン高い叫び、犬や小鳥の声、そして晴れわたった夏の午後の、都会の喧噪がみち、むんむんする「生命」の気配で、何だか息がつまりそうだった。港の方角に白い鴎が舞い、公園の樹には色とりどりのインコが群れ、芝生の上を、放し飼いのキンケイが、その鮮やかな色彩を誇示するようにゆっくりと歩いている。
噴水の上がっている池のほとりで、英二は足をとめ、一息いれた。――やや濁った水面には、睡蓮がピンクの可憐な花を咲かせ、葉の上には、小さな緑色の蛙がいて、のどをひくつかせている。水中には、紅白の鯉が群れ、水面をアメンボやゲンゴロウが滑走している。
この惑星は……と、池の面を見つめながら、英二は思った。……空も地上も、水中も、地中も、どこもかしこも、こんなにまで「生命」がみちている……。ここは、宇宙の、太陽系のほかの場所とは、全くちがった場所だ。そして、これが――このすみずみまでありとあらゆる生物にみちた惑星が、おれたちの「故郷」なのだ……。
木星のミネルヴァ基地から、火星行きの便船にのりうつる時、英二はわざと連絡艇の外へ出て、命綱を長くのばして、しばらくの間連絡艇にひっぱってもらった。――それは、せまい閉ざされた基地空間内の日常が息苦しくなり、「宇宙」の無限のひろがりと、それと対比して、小さく、孤独で、しかも目ざめている自分自身の「実在」を肌で感じたくなった時、彼がたまにやるふるまいだった。体をつつむ宇宙服一重の外側は、極寒の真空だった。すぐ傍に、最早第二の母星となった木星の、赤い、巨大な姿が見えるのだが、眼を反対側にむけると、おそろしいばかりの暗黒の「空虚」と、その彼方にまばらにちりばめられた、遠い星の弱々しい光があるのだった。その身をひきしめるような空虚さは、「太陽系」や「人類」といったものに対するなつかしさを、かえって熱くきわ立たせるのだった。
頭上に低い笛のような音をきいて、英二は足を早めた。――黒い翼をひろげたVTOL機が、公園の一角にむけて降下をはじめていた。
6 ジュピター海岸《ビーチ》の午後
「ジュピター教団《チヤーチ》なら、エヴァーグレーズよりまだ先だ」と、VTOL機のパイロットは機体をバンクさせながらいった。
「セーブル岬の北の方に、〃ジュピター海岸《ビーチ》〃って人工海岸があって、そこがまあ本部みたいなもんだ。――若いのがいつもうじゃうじゃいる……」
「教祖のピーターってのは、いつもそこにいるのかね?」と英二はきいた。「突然行って、あえるかな?」
「さあ、どうかな。教祖さまは、あまりあそこを動かないみたいだがね。――〃ジュピター〃がいるからな……」
「ジュピター?」英二は、なぜかぎっくりとしてききかえした。「なんだ、それは?」
「イルカだよ……」パイロットは肩をすくめた。「でっかいイルカで、ピーターによくなついてる。教団のマスコットというより、教団の御神体みたいなもんだな……。ジュピター教団という名称も、そのイルカの名前からつけられたっていうぜ……」
〃空とぶ鰐《フライング・アリゲーター》〃社の水陸両用VTOLは、キャノピーが傷だらけで、一か所ひびがはいっていた。左へ旋回する時、右の翼端がフラッターを起し、機内は妙な臭いがする。――釣用によくチャーターされるから、と、パイロットは弁解した。
あまり上昇力のないVTOL機は、高度千五百メートルぐらいで、フロリダ半島の西海岸ぞいに南下していた。――右手の眼下には、小波のたった紺碧のメキシコ湾がひろがっており、その上に点々と雲の影がおちている。左手には、濃密な緑におおわれたフロリダ半島が、岸辺に白い波のレースをまといつかせながら、南へむかってのびていた。
ヨットや、釣舟がたくさん出ている。――英二は、下界の景色から眼をそらせて、やや西の方にうつった、ぎらつく太陽を見上げた。
南の水平線に積乱雲がもり上がっているが、頭上の空はぬけるほど青く、眼の痛むほどの光にみちている。――青い大気のシェルターは、その彼方にある暗黒真空の宇宙の存在をおおいかくし、そこに感じられるのは、年毎にめぐってくる北半球の夏であり、亜熱帯の熱く湿った空気だった。
人間は――地球上の生物は、この重く澱んだ大気の底、水と陸の表面にうまれ、そこで生きつづけて来たのだ……と、英二は日ざしのまぶしさに眉をしかめながら思った。――今、人間だけが、この大気の底からはい上がり、そのぶあつく居心地のいいブランケットの外にはてしなくひろがる、暗黒、真空、極寒の、上も下もない、底なしの宇宙空間で暮すようになり、そこでこの地上よりも早く、宇宙空間の彼方から接近する「破局」を感知した。だが、このあたたかくしめった大気の底から見上げれば、あまりにも強く明るい散乱光の天井にかくされて、その「破局」の気配はどこにも感じられなかった。
「あと半年で、あの太陽がぶっつぶれるんだって?」太陽を見上げている英二を横眼で見て、パイロットはつぶやいた。
「フロリダなんかに住んでいると、どうもそんな事、実感が湧かなくてね……。いざとなったら、このオンボロVTOLで逃げ出そうと思うんだが、こいつじゃ宇宙まで行けないかね?」
メキシコ系らしいパイロットは、白い歯をむき出して笑った。――英二は返事をせずに、眼下にもり上がるようにせまってくる濃緑の森林を見おろした。
「あんた、家族は?」とパイロットは、横眼で英二の顔を見ながらきいた。「独身か?」
「ああ……」
「おれは、二度目のワイフとの間に、ちっちゃな餓鬼が三人いる。前のワイフとの間にできた二人はもう独立していたがね……。こないだ、娘の方が、恋人と心中しちまってね……」見事な黒い口髭をたくわえた中年のパイロットは、淡々とした口調でいった。「やはり、〃最後の日〃が近づいてくると、自殺するものもふえてきているようだ……。年よりばかりかと思ったら、若い方にも……」
「なにも焦って、死に急ぐ事はないのに……」と英二はうつむいて低い声でいった。「ひょっとしたら……助かるかも知れないんだから……」
「でかい宇宙船をつくって、ぼつぼつ地球から、人間を退避させはじめているっていうな――。だが、その人選にはいるのは、連邦富くじの、特等に当るより、まだむずかしいって噂だぜ」パイロットは、VTOLを大きくかたむけて、着陸地点をさがしながらいった。「おれは、別にえらばれたいとは思わんよ。――もう遠い旅に出かけるには、年をとりすぎ、くたびれちまったからな。終りの日が近づいたら、ちびどもを連れて、ヨットで旅に出るつもりなんだ……」
VTOLは、美しい白砂と、椰子の林に縁どられた海岸にむけて高度をさげはじめた。――海岸には人が群れ、海にはボートやフローティング・デッキが無数にうかんでいる。
海岸地から少しはなれた、ほとんどからっぽの駐車場にVTOLを着陸させ、パイロットは英二をふりかえっていった。
「じゃ、ここで待ってるからな。――帰りは、セント・ピータースバーグに直行すればいいんだろ」
英二は、手をふって、コックピットから地上におりた。――教団の所有地の入口にむかって歩きはじめると、VTOLは、木蔭の方へタクシィングしながら、しばらく彼のあとをついてくる恰好になった。
「え?――なんだって?」
パイロットが、VTOLのキャノピーをあけて、彼にむかって何かどなっているのに気がついて、英二は耳に手をあてて大声でききかえした。――エンジン音があたりを圧して、パイロットの声はほとんどきこえない。
そのうちやっと木蔭にVTOLを停止させ、エンジンを切ると、パイロットは大きく手をふりまわし、左の上腕部を指さした。
「その太陽系開発機構《エス・エス・デイー・オー》のマークは、かくしておいたほうがいいぞ!」とパイロットはどなった。「それでなくたって、あんたは色がなまっちろくて、〃宇宙面《づら》〃をしているからな。そんなマークを麗々しくつけていたら、すぐわかっちまう。――ここの若い連中は、概しておとなしいが、それでも〃宇宙もの〃に反感をもっているやつは大勢いるからな……」
英二は手をふって、わかったという合図をおくり、それでも半袖の作業衣の、左上腕のところについているSSDOのマークを折りかえしてかくそうともせず、「ジュピター教団」の看板の出ている、砂浜の入口へむかってまっすぐ歩いて行った。
青地に、とび上がっているイルカの稚拙な絵の描かれた看板には、「これよりジュピター教団私有地」の表示が出ていたが、それだけで別にフェンスもなければ門衛もおらず、ただその表示からむこうには、軽装、半裸、全裸の若い男女の姿が、たくさん見えるだけだった。
うすいブルーの長いズボンと、編上げ靴を穿き、ポケットのいっぱいある上衣の襟もとまでジッパーをあげた英二の姿は、その明るい開放的な砂浜では、ひどく異質なものだったが、陽やけした教団の若者たちは、別に関心を払っていない様子だった。
椰子の木蔭や、草葺き、テント張りの亭の蔭に、半裸の男女が、思い思いの恰好で寝そべっている。――ここでも、陽光と潮風の中で、あからさまな愛撫やセックスが交換され、あちこちから、いろんな音楽が流れてくる。
「ピーターはいるかい?」
と、トップレス姿の、まるで双生児のように見える、小柄で長い黒髪の、東洋系の二人の娘をつかまえて英二はきいた。
「いるわよ……」と、栗色の肌をした、シャム猫のような感じの娘はこたえた。「彼はどこへも行かないわ」
「いま、どこにいる?」
「このずっと先……」
もう一人の娘は、腕をのばして、浜につらなる植えこみのむこうにのぞいている、赤い屋根を指さした。――腕をのばすと、見事な椀型の、かたそうな乳房がつり上がって、乳首が愛らしくぴんと立った。
娘たちとわかれて歩きながら、英二は強い直射日光を避け、またいかつい長靴が砂にめりこむのを避けて、ダイオウヤシが影をおとす芝生の上を歩いて行った。
――芝生の上では、さまざまな体位でからみあっている男女のカップルが多く、うっかりするとふんづけそうだった。
ハイビスカスの植えこみの横をまわりこんだ時、そんな寝そべっている男女の、女性の方の足に、うっかりつまずいて、ころびそうになった。
「失礼!」
と叫んで、よろけてバランスをとりそこね、思わず片膝をついてしまった英二は、つまずいた娘の脚が、開かれたまま動かないのを見て、熟睡しているのか、と思った。
だが、仰むけに、ならんで横たわる、二十前後ぐらいの男女の顔色を見て、彼は思わず身をかがめた。
「君……」英二は、すぐ傍の椰子の木にもたれて、ものうげに、チューンの狂ったウクレレを爪びいている、そばかすだらけの若者に、声をかけた。「この人たち、様子が変だぜ。――救急車を……」
横たわっている男女の顔色が土気色を通りこして鉛色に近い色になっているのを見て、声も我れ知らずけわしくなった。
坐っている若者は、彼の声がきこえないように、少しより目になって、ウクレレのフィレットを見つめながら、ぼろん、と弦をはじいた。
「それ、死んでるのよ……」
と若者の横にならんで腰をおろした、これもそばかすだらけの、ロングスカートにタンクトップ姿の十代の少女が、顔にかかる麦藁色の長髪を、物倦げにかき上げながらいった。
「今朝からずっとなの……」
「じゃ、死んだのは昨夜か?」と英二は顔がこわばるのを感じながらいった。「警察へはとどけてないのか?」
「お午まえ、誰かがとどけに行ったけど、まだ来てくれないの……」少女は、草の葉をぬいて唇にくわえながら、疲れた眼差しで海の方を見た。「ここ、いつも警察とは仲が悪いし、警察の方も、このごろ自殺者が多くて、その上、町の方で、デモ隊との衝突や、ちょっとした暴動さわぎが毎日起って、忙しいらしいのよ。――ここだって、もう、自殺や心中が、三組以上出ているし……」
「この二人は心中なんかじゃないって……」若者は、弦をぼろんと鳴らしながらいった。「薬《トリツパー》の飲みすぎさ。――いつかだって、この二人は、まわりのとめるのもきかないで、危険量の三倍も飲んで、二日二晩、人事不省だった事があるんだ……」
「でも、この二人は、いつも一緒にトリップしてたでしょ?――だから心中よ」
「そうじゃないって、――二人は愛しあってなんかいなかったさ……」
英二は二人のだらだらした会話を聞き流しながら、横たわった男女の体にちょっとふれて見た。――完全にこときれてからどのくらいたっているのかわからないが、気温が高いので、もう死後硬直はすぎて、弛緩が起っている。地面にふれている裸の皮膚に死斑ができ、顔を近づけると、娘の口もとから、早くもかすかに腐敗臭がただよってきた。二人の腕をとって、腕の上に組みあわせてやると、英二はくしゃくしゃのハンカチをとり出して、娘の顔にかけてやった。
「何か布きれはないか?」と英二は顔をそむけていった。「男の方にもかけてやった方がいい」
ウクレレをひいている青年が、ウクレレに眼をおとしたまま、横の少女の胸もとに手をつっこみ、うすいスカーフのようなものをつまみ出した。
「いやよ!」と少女は、手をのばしてとりもどそうとした。「それ、買ったばかりだもん。――死体の顔におくなんて……」
「友だちだったんじゃないのかい?」と、英二は花模様のうすい布を男の顔にかけながらいった。「警察をせかした方がいい。――もう臭いはじめている……」
蠅が布の上にとまったのを、手で追いはらい、二、三歩行きかけて、たちどまってふりかえった。
「マリアという娘を知らないか?」
「どのマリア? マリアって子はたくさんいるわよ」と、麦藁色の髪の少女は、草の茎をしゃぶりながらいった。「私もマリアよ。――でも、私はあんたを知らないわ」
「マリア・ベースハート……金髪で、ブルー・アイで、美人だ。年は二十四歳だが、もっと若く見える……」
「写真でもないと、わからないな……」と若者は、ようやく気がついたようにチューニングにとりかかりながらいった。「ピーターにきいてみなよ。――ピーターは、うそみたいだけど、教団の連中のほとんどの、顔と名前をおぼえている……」
「ここにいないかな?――アニタ・ジューン・ポープという女性と、一緒らしいけど……」
その名前を口にしたとたん、二人の若者は、びくっとしたように、顔をあげ、警戒心にみちた眼つきで英二を見つめた。
「あんた、誰?――刑事《でか》なの?」少女は鋭い声で叫んだ。「アニタの事、さぐりに来たの? 彼女は、ここになんかいないわよ。――帰ってよ! ここは誰でもウエルカムだけど、警察は歓迎しない事になってるの」
「いや――こいつはポリ公なんかじゃない」と若者はウクレレをぼろんとかきならして、嘲るように大声でいった。「こいつは、宇宙から来たんだ!――見ろよ! こいつ、太陽系開発機構《エス・エス・デイー・オー》の人間だぜ。〃宇宙の破壊者〃の一味だ!」
若者が、声を張り上げたのは、英二を挑発しようとしただけではなく、まわりにいる仲間たちに聞かせるためだという事はすぐわかった。
あたりにいた四、五人の青年が、ふりむいて近よって来た。
――太陽系開発機構からだって?――いったい、ここへ何しに来たんだ? 〃宇宙もの〃が、おれたちに何の用だ?――アニタの仲間の事をさぐりに来たのか?
本当にこいつは、〃宇宙〃から来たのかい?
「ああ、そうとも――あいつのシャツの左腕ン所を見ろよ。悪名高い〃太陽系破壊機構《ソーラー・システム・デストロイング・オーガニゼーシヨン》〃のマークをでかでかとくっつけてるぜ!」
とウクレレの若者が毒々しく叫び、まわりにどっと笑い声が上がった。
英二は、かまわず前方に見える赤い屋根の建物にむかって歩き出した。――陽に焼けた若い男女が、あつくるしい体臭を発散させながら、あとからぞろぞろついて来る。何やら、嘲りの声や、罵声や、怒声が、その群れの中から英二の背中へむけて投げかけられたが、ちょっと立ちどまってふりかえると、声はたちまち小さくなり、ただ嫌悪や、憎しみや、そして幾分恐怖もまじった、とげとげしい視線だけが、それも前のものの背後にかくれて光るのだった。
また歩き出すと、がやがやいう声はふたたび背後からおそい、ついには、こつんと音をたてて、小石が後頭部にあたり、枯れた小枝が肩ごしに前へおちた。
――面とむかっては、連中は何もできやしない……と、英二はふんでいた。
しかし、万一の場合を考えて、ポケットから緊急通信機――これはヴォリュームを最大にあげて、特別スイッチをおすと、ものすごい、鼓膜の破れそうな音を出す――をそっととり出して左手ににぎりしめ、同時に、一Gの地球重力が、自分の筋肉の反射に、どれだけの枷をはめるか、歩きながらはかっていた。
体の大きいのは何人かいたが、その動作と、筋肉のつき方からみて、一対一で英二とわたりあえそうなものはいない。――だが、しかし、群集心理のようなものが動き出すと厄介だし、その時は誰かを体術の逆技《ぎやくわざ》でおさえこんで、人質がわりにしよう、と、英二は背後と左右にむかって神経を緊張させながら歩みつづけた。
ふいに、全身まっ赤に陽焼けした、よく肥った大男が、よろよろと左前から近よってきて、前をふさいだ。腕と胸に、まっ黒な毛がもじゃもじゃはえ、顔も黒い髯でうずまっている。
「おう、お前……」と大男は、少し呂律のまわらない口調でいった。「お前、宇宙から来たんだって?――どこから来たんだ? 火星からか? 土星からか?」
「木星からだ……」
「おめえ……宇宙で生れたのかい? そんじゃこれまでに、ずいぶん、宇宙をぶっこわしたり、汚したりして来たんだろうな? ええ? 地球だけじゃたらなくってよ……」
「いかにも、おれは火星で生れて、宇宙で育ってきた……」大男の吐く息に、アルコールの臭いを嗅いで、英二はちょっと顔をそむけた。「これまで太陽系宇宙を開発するために働いてきた。――だが、いまは、太陽系を救う計画のために全力をあげている。ちょうどいいタイミングで、木星《ジユピター》をぶっとばして、太陽にぶつかろうとしているブラックホールのコースをかえようとしているんだ……」
木星《ジユピター》を破壊する、といったとたんに、まわりの群衆の中から、おう、というような恐れるような声が一せいに上がった。
「どいてくれないか?」英二は鼻先につき出された大男の指をにぎった。「ピーターにあいたいんだ……」
誰かがピーターの名をよびながら前方へ走った。――その行く手に、まわりの人間より首一つ高い巨漢が、ふりむくのが見えた。
7 〃巨大な赤ん坊〃
大勢の、半裸、軽装の若い男女にかこまれて、その人物は、塗装のはげた白いコンポーザー・ギターを右手にぶらさげ、英二の方に視線をむけていた。
まわりの若者たちより首一つ大きく、頭部には灰色がかった茶色の髪がふわふわまといつき、赤く陽焼けした童顔に、楕円形の縁無し眼鏡をかけている。まるまると肉のついた胸や腕も、赤く日に焼け、色のさめたバミューダ・ショーツ一つで、足にはサンダルをつっかけていた。
縁無し眼鏡の奥の眼は、柔和だったが、初対面の人間に対して、やや警戒の表情もうかんでいた。
「ピーター!」と、英二の後を、毒づき、罵りながらぞろぞろついてきた、教団の若者たちの中から声が上がった。「そいつは、宇宙から来たんだ。……気をつけた方がいい。何か、おれたちの事、しらべに来たらしいんだ!」
「そいつは、SSDO《太陽系開発機構》だ!……宇宙の破壊者の一味だ!」
「そうだ!――そいつは、木星《ジユピター》を爆破しようとしてるんだ!」
最後の声が、まわりにいる者に、衝撃をあたえたようだった。――おう!……というような、声にならない声が一瞬、若者たちの群れから上がり、あたりの空気は、みるみるこわばったものになった。
「はじめまして……」と、英二は、まわりの硬い、つきささるような視線を無視して、教祖の正面にすすみ、手を出した。「あんたがピーター?」
「そう……ピーター・トルートン……」ピーターは口もとにややぎごちない微笑をうかべ、眼をしょぼしょぼさせながら英二の手をにぎりかえした。「あんたは?」
「本田英二……木星のミネルヴァ基地から来た。B・B・J計画――という名前をきいた事があるかどうか知らないけど、その計画の現場責任者の一人だ……」そういって、英二は、ちらと背後をふりかえった。「いま、誰かがいっていたが、木星をぶっとばして、その勢いで、ブラックホールのコースを変えようという、かなり無茶な、成功の見こみだって、そう確実じゃない計画さ……」
「それで――この教団へは、何の用だね?」ピーターは、まぶしそうに英二の顔を見おろした。「ずいぶん忙しいんだろ?」
「タンパまで、ある機械をとりにくるついでがあってね……」英二は腕を組んで、まわりの若者たちを見まわした。「少し時間があまったんで、よって見る気になった。――あんたに一度、会ってみたかった。それから……マリア・ベースハートの消息が、ここでわからないかと思って……」
「気をつけろ! ピーター……」と横の方から鋭く叫ぶ声があった。「そいつは、マリアとアニタをつかまえに来たんだ! 保安局のまわし者だ!」
「ちがう……」とピーターはそちらの方をふりむかずに、やわらかい、よくひびく声でいった。「この人は、マリアの恋人だ……。私は彼女からよくきかされた……」
まわりにやや高いざわめきが起った。
「さあ、みんな、ちょっとあっちへ行ってくれ……」とピーターは手をあげて声をはりあげた。「私たちは、ちょっと二人きりで話したいから……。そうだね? 英二……」
「ああ……」英二は額にしたたる汗をぬぐいながらうなずいた。「そんなに手間はとらせない」
とげとげしい眼つきの若者たちは、すぐにはまわりをたち去ろうとはせず、ピーターが歩をうつすと、三、四人の男女が、少しはなれて、ピーターを護衛するようについてきた。――ピーターは、赤い屋根と白壁の地中海風の平屋にそってつくられた、小型プールの方に英二を導いて行った。
「マリア・ベースハートは、もうだいぶ前からここにいない……」とピーターは、パラソルの下の、粗末な椅子を英二にすすめながらいった。「気にはしているんだが――どこへ行ったかわからない……」
「アニタ・ジューン・ポープも一緒か?」
と英二はきいた。――アニタの名前を出したとたん、一瞬ではあったが、茫洋とした、あたたかい感じのピーターの顔に、苦痛といっていい表情が走ったのを、英二は見のがさなかった。
「二人とも、過激派の危険人物として、連邦保安局と、宇宙空軍保安部の指名手配が出ている……」英二は眼を伏せていった。「ほかにも、この教団のメンバーが、三、四人はいっていた……」
「マリアはアニタにひきずられたんだ……」と、ピーターは、海を見ながらつらそうにいった。「そのアニタにだって……一度だって、何かを憎め、などと教えた事はなかったのに……」
彼は、悪い男じゃない……と、英二はピーターの横顔を見ながら思った。――むしろ、非常にいい男だ……。
「誤解しないでほしいが、別にあんたを責めに来たわけじゃない……」英二は潮風にさらされたテーブルを、指先でこつこつたたきながらいった。「あんたがどんな人物なのか、一度あって話してみたかった。――マリアもあわせたがっていたし……」
「ぼくにも、マリアは君をひきあわせたがっていた……。幼なじみで、恋人だって……」
「とすると、あんたの役割は、マリアの父親がわりか?――彼女の両親はずっと昔に、宇宙船事故で死んでいるからな……」
「ぼくも、赤ん坊の時から、孤児だった……」ピーターは、海を見ながら、なぜか、かすかにほほえんだ。「口もきけない赤ん坊の時、大洪水があって、ミシシッピ河河口部を、プラスチック・ボートにのせられて、ただよっていたそうだ……」
「おれも、本当の、血肉をわけた両親というものは生れた時から知らない……」英二は、片方の眉を吊り上げた。「火星で――冷凍卵子と冷凍精子をかけあわせて、誕生させられたんだ……」
「君のような人は、宇宙では多いのか?」
「さあ、どうだか……」英二は首をふった。「宇宙じゃ、あまりお互いに、出身や経歴を話しあわないんだ。――みんな、地球人だ。それだけで、たくさんってわけさ……」
ピーターは、何かいいたそうにした。――英二は、テーブルを指で軽くたたきながら、ピーターの言葉を待った。
だが、彼は、言葉がうまく見つからなかったらしく、太い溜息をつくと、ギターをとりあげて、甘く、もの悲しいパッセージを一つ短くかきならした。――そのメロディをきいて、ふと英二は惹きこまれそうになった。
「あなたの教団では、どうしてあんなに、宇宙に――宇宙空間にすんでいる連中に対する反感がつよいんだ?」
「ぼくは……そんな反感をあおった事は一度もない……」
「でも、おれは、あまりここでは歓迎されないようだ……。袖のマークに気づいたら、後から石を投げられたぜ」
「若い連中は、よく行きすぎをやる。――感情においても、行動においても……。中で、妙な方向へアジるやつがあれば、なおさらだ……」
「それを、教祖のあんたは、とめたり、是正したりしないのかね?」「いっておくが、ぼくは教祖なんかじゃない!」ピーターは、びっくりするようなはげしい調子で――ほとんど憎悪をこめて――吐き出すようにいった。「ぼくは、まわりにいる連中に、何かの説教をした事など、一度もない。ぼくは、ある事を感じて、それを音楽に、歌にして歌う。聴衆が少しでもいれば、たしかにその方がうれしいし、楽しいが、しかしもともとぼくの歌は、ぼく自身が生き物や自然や、地球や……それから生きる事について感じた事を、そのまま歌の形で表わしたもので、誰もきいてくれなくったって、ちっともかまわないんだ」
英二は、ピーターの表情を見ながらいつしかじっと握り拳を握りしめていた。――何かがわかりかけてきたような気がした。ピーターという〃巨大な赤ん坊〃のような存在が……。
「ぼくは……ただ歌っていたんだ。誰にきかそうというつもりもなく……。そしたら、いつの間にか、まわりに、ぼくの歌をきいて喜んでくれる若い人が集ってきた。そのうち誰かが、その歌を録音し、レコードにした。そしたらそいつが、何億枚か売れたらしい。金がずいぶんはいったようだが、いくらはいったんだか知らない。ぼくは、この古いギターと、ショーツとTシャツぐらいあれば……それに海と、太陽と、イルカのジュピターさえあれば、あとは何もいらなかった。でもまあ、一応ぼくの名前で、ずいぶん金がはいってきたんで……」
「それを共同体《コンミユニテイ》の基金にしたってわけだね……」と英二はいった。「でも、〃ジュピター教団《チヤーチ》〃は、ちゃんと登録された宗教法人だぜ」
「登録されてるかどうか、そんな事もよく知らない――そういった事は一切、アニタがやってくれた……」
「君には、教団に関して、責任はないってわけか?」
「責任って……どう感じりゃいいんだ? ぼくは、社会的な意味からいえば、生活無能者かも知れない。だけど、ぼく自身は、誰を教え導いたわけじゃない。そんな事は、自分にはできないと思うし、やるつもりもない。魂の救済を説いて、信仰の代価として金や権力や服従を求めたわけじゃない。無責任といわれるかも知れないけど、ぼく自身は、そのかわり、対社会的な、一切の権利を放棄したんだ。ただ一つ、心にうかんだ歌を歌う権利をのぞいては……」
チッ、チッ、と小さな鳴き声をたてて、頭の赤い、小さな鳥がプールサイドを近づいてきた。――ピーターが、微妙に舌を鳴らし、テーブルの上に太い指をさしのべると、小鳥は、おそれげもなくテーブルの上にとびのって、ピーターの指にとまり、爪先をピンクの嘴でつついた。
「ぼく自身は、誰にも、何にも要求する気はないし、そんな権利の一切を放棄したつもりだが、こんなぼくでも、生きる権利と、歌う権利ぐらいはあるだろう……」ピーターは、指先の小鳥を見つめながら、疲れたようにほほえんだ。「この小鳥にだってあるように……」
英二は、しばらく絶句していた。――この人物に対しては、まわりがまちがった反応を起してしまっていても、それに対して「指導責任」があるとか、「責任放棄」だとか、いいがたいのだ、という実感がせまってきた。
一方では、たしかにあんたのいう事はわかるが、しかし、現実にまわりの若者たちが、あんた以外の人物によって、誤った憎悪に導かれている以上……とか、あんたが、〃ビューティフル〃な生き方を自分の生き方として追求するのは、たしかに誰も干渉できない権利だが、しかし、その生き方に影響された連中が――あんたほど、それをうまくやれない、人間的に幼くて能力的にもまだ低い連中が、強烈な刺戟によって、一種の麻薬中毒的な症状に陥り、それ以外の生き方に対してかえって不健全な憎悪や、破壊衝動に駆られるようになったとしたら、それはあんた自身の求める〃ビューティフルな生き方〃にも、かげりをもたらす事にならないか、とかいった問いが胸中に渦まいたが、しかし、そんな問いかけを無力化するような、何か圧倒的なものが、眼前にいるピーターからせまってきて、口を閉ざさざるを得なかった。
そこにいるのは、ふつうの「人間」とはちょっとちがった、人間社会のしがらみから大きくはみ出した、途方もなく大きく、やさしげな「生き物」だった。
「象」という生き物を見て、その大きさと威厳と、かしこさに感激した連中が、その象の周囲に群がり、勝手に神格化し、崇拝し、崇拝の仕方をめぐって集団がセクト争いを起したり、淫祠邪教化したりしても、いったいそれは、象自身の「責任」だろうか?
「一度、あんたの歌をききたかったな……」とかすれた声で、英二はやっといった。「あんたはどう思っているか知らないが、それをきいた連中が、みんな宇宙開発に反感を持つようになっちまうって歌を――どういう所が、そうさせるのか、知りたいもんだ」
「別にそんなつもりで歌ってるわけじゃない……」そうつぶやいて、ピーターは、また古いギターを短く、やさしくかきならした。「ぼくはただ……海や、太陽や、月や風を……空や雲や夕焼けや朝露を……鳥や虫や、獣や魚や木や草や花を歌うだけだ。生きているもの……われわれ生き物と一緒に生きている地球や星――との共感をね……。歌っていうけど、これはぼく個人の歌じゃなくて……そういったものとの交感であり、あいさつであり……というよりは……そういったものがみんなで歌っている歌に、ぼくはただの人間の〃声〃を、人間のための表現手段として貸しているにすぎない……」
ふと――ピーターの大きな体の背後に英二は〃地球〃を感じたような気がした。
そうか……と、彼は胸の中でつぶやいた。……こいつは、〃地球的環境〃の代表的な人だ。地球の上で生れ、育って、地球以外のどこへも行けず、この惑星と、歴史と運命をともにするあらゆるものの……。
「あんた、宇宙へ行った事があるか?」
と英二はきいた。
「いや……」ピーターはギターから指をはなして首をふった。「行った事はないし、行きたいとも思わない。生れてすぐ、海を漂っていたせいか、海は好きで、昔はよく潜ったけど……ぼくは、宇宙へ出て行くより、こうやって地球の上から、太陽や月や、星をながめているのがいい……。魚や鳥や、虫や獣みたいに、宇宙へ行けない連中と一緒に……」
「一度、あんたに宇宙へ来てもらったらよかったな……」と、西の空に傾いた太陽を見ながら英二はつぶやいた。「そうしたら……宇宙から地球や月を見てもらったら……あんたの〃歌〃もかわるかも知れないのにな……」
「君は、木星にいるんだってね、英二……」ピーターはうつむいて言った。「マリアがいってた。――木星は、でかくてすごい星だって……彼女は君をたずねて行ったそうだな」
「おれたちの基地を、ちょこっとぶっこわして、宇宙開発反対ってデモるためにな……」
英二は突然、猛烈にマリアが恋しくなって、かすかに身ぶるいし、鼻の奥がツンといたくなった。――そうだ、あの時……ミネルヴァ基地のL・R《ラヴ・ルーム》での、あの目くるめくばかりの愛の一刻……あれはもう、二度とかえらぬ夢でしかないのか?
「君たちは……木星をぶっこわそうとしているんだってな……」ピーターはうつむいたまま、悲しげな声でつぶやいた。「ブラックホールは……もうだいぶ近くまで来ているのか?」
「あと半年ちょっとの所までな……」英二は鼻をむやみにこすりながらいった。
ピーターはこたえずに、大きな体を曲げてテーブルの下に手をのばした。――今度は小鳥でなく、小さなリスが、ちょろちょろと寄って来て、後脚でたち、まばらな尻尾をふり、つぶらな黒い瞳をあげて、鼻をひくひくさせた。
「かわいいだろ?」ピーターは、指先につかまって、手の甲をかぎまわっているリスにむかってほほえみかけながらいった。「宇宙空間にも、こんな奴はいるかい?」
「ペットは飼えない事になってる……」と英二はいった。「ところで――二○九五年に、世界生物学連合と連邦環境問題委員会が共同で出したステートメントをおぼえているか?……今や地球上の、微生物をふくむあらゆる生物の〃種〃は、人類が積極的、かつ真剣にその保護と管理にあたらなければ、存続がむずかしくなっており、そのためにただちに政治的、法律的措置がとられるべきである、という……」
「知ってるとも……。それによって行われたいろんな施策のうち、一番有効だったのが、遺伝子銀行《ジーンバンク》の設立だったって事もね……」ピーターはリスをむこうへおしやりながらつぶやいた。「〃積極的に、保護、管理しなくてはならない〃って……そこに行きつくまでに、すでに人類はやりすぎだったわけだ。――管理、保護政策をとる前に、もう少し謙虚に、ほかの生き物のためのスペースをあけてやってもよかったんじゃないかね?」
メキシコ湾上に傾いた太陽は、もう落日ちかい、赤みをおびはじめていた。――ピーターは、それを見ながら、またぽつんとギターを爪弾いた。「生き物は……ぼくもふくめて、所詮、みんな死んで行く。種《しゆ》でさえ、いずれほろび、数がへって行くだろう。太陽だってこの地球だって……あと半年でほろびないまでも、何億年か何十億年先には、自己崩壊をはじめるだろう。君たちは、それを少しでも先に伸ばそうと闘うのだろうが……ぼくは、せめて、ほろびるまでの間、ここでこうやって、最後の時までみとってやりたい。お互いのすばらしく美しかった日々の思い出を歌って、地球や太陽をなぐさめてやりたいんだ……」
「なんならその歌を録音して、最後の脱出船団と一緒にうち出してもらったらどうだね」と、英二は皮肉っぽくない静かな口調でいった。「船団は、すめる星を見つけられなくても……ひょっとしたら、その録音は、どこか遠くの知的宇宙種族にでもひろわれて……それをきいて、太陽系のために泣いてくれるかも知れないぜ……」
浜辺の方で、何かのさわぎが起ったのはその時だった。――悲鳴と叫びが交錯し、何人かの若者が、半狂乱の態で、こちらへむかって走って来た。
「ピーター! 大変だ!」と若者の一人は、上ずった声で叫んだ。「ジュピターが……ジュピターが鮫におそわれてる!」
8 バイバイ・ジュピター…
〃ジュピター〃が鮫におそわれた!
という叫びをきいたとたん、ピーターの巨体は、はじかれたように椅子からとび上がった。――はずみで椅子が後にふっとび、テーブルが、がらがらと派手な音をたててたおれた。
「鮫だって?」ピーターは、上ずった、まるで泣いているような声で叫んだ。「なんだって……鮫が、この浜にはいってくるんだ?」
「ダブとオードリイが、ボートの上でラリって、鮫《シヤーク》フェンスをはずしちゃったんだって!」
と誰かが、息をはずませながらどなりかえした。
「ちがうわ!――モモよ、一緒にいたモモが悪いのよ!」と、別の女の声が、ヒステリックに泣きじゃくりながら叫んだ。「モモが……あの人、薬《トリツパー》のんで、ハッピイになっちゃって、フェンスにひっかかっている鮫を、かわいそうだ、といって……それで……それで……」
「〃ジュピター〃はどうしたんだ?」ピーターはふらふらと浜辺へむかって歩をはこびながら、まわりへむかって、うわ言をいうようにきいた。「〃ジュピター〃が、どうして……」
「ダブたちのボートが、鮫の群れにおそわれた時、〃ジュピター〃がすっとんできて、鮫との間に割ってはいったの……」陽焼けした、針金のようにやせた娘が、興奮のあまり、自分のうすい胸を握り拳でめったやたらにたたきながらわめいた。「ボートを押えて、鮫からはなそうとしたのよ。そしたら……」
夕日で赤く染まった浜辺には、パニック状態が出現していた。
海から悲鳴をあげてかけ上がってくる群衆と、浜辺へかけよって沖を見ようとする連中がぶつかりあい、収拾のつかないような混乱が起っていた。――誰も彼もが手をふりまわしてどなり、金切り声で叫んでいたが、見わたした所、誰も応急の処置をとっていないようだった。
「ボートは?」と英二は、頭をかきむしってわめいているひげ面の男の胸ぐらをとってどなった。「大き目の、スピード・ボートがいい。手つだってやるから、早く沖へぶっとばすんだ!」
「そんなもの、ここにはねえよ!」と男は、腕をつき出し、酒の臭いをぷんぷんさせながらわめいた。「ここにゃ二馬力以上のモーターのついた乗物はおいてねえんだ!」
まわりには、汗まみれの半裸の体が、芋を洗うようにぶつかりあっていた。それをかきわけて、何とか波打ち際にたどりつこうとしたが、半狂乱状態になっている連中の背中や肩の間から、ボートやヨットをすてて、水をめったやたらにはねとばしながら、浜辺へ泳ぎつこうとしている大勢の人間の姿がわずかに見えただけだった。
キャーッ! というような悲鳴がすぐ横で起った。
「ピーター! どうするのよ! ピーター」
と、何人もの女の声が口々に叫んでいた。
「誰かピーターをとめて!……早く!」
「よせ! ピーター!……馬鹿な事するんじゃない!」
三、四人の男女が、半分空にはねとばされたようにたおれるのが視野のはずれに見えた。――人ごみの中を、まるでゴール前のフットボール選手のように、遮二無二波打ち際に突進しようとしているピーターの巨体を、何人もの男や女が折りかさなって、まるでぶらさがるようにしてとめようとしていた。
「はなせ!」とピーターは、顔を空にむけて咆哮していた。「〃ジュピター〃を……ダブたちを……」
「ダブたちは助かったようだ……」ピーターの左腕にぶらさがった男が、ピーターの耳に口をつけるようにしてどなった。「今行っちゃあぶない。鮫はたくさんいるんだ!」
英二は群衆からぬけ出して、浜辺の小高い所を横ざまに走った。――走りながら、人影のまばらな波打ち際に目を配り、沖合にたつ水しぶきまでの距離をはかり、胸ポケットから通信機をとり出して、来る時にVTOLのチャンネルに合わせておいたトーク・キイをおした。
「〃空とぶ鰐《フライング・アリゲーター》〃8……きこえるか? こちら〃乗客《パツセンジヤー》〃……」と、マイクにかみつくようにどなりながら、英二は、あの水陸両用VTOLのパイロットと、一時間以上も一緒にとびながら、お互いに名のりあっていなかった事を思い出して、ふと吹き出したくなった。「緊急発進《スクランブル》だ。ぶっこぬいて浜の方へ来てくれ。沖合三百メートルぐらいの所で、鮫があばれている」
「了解《ロジヤー》……いま、何かさわぎが起ったようなので、エンジンをかけた所だ……」とパイロットはこたえた。「あんたはどうする?」
「ボートで現場へ行く。――その機に、何か鮫にききそうな武器……銛か何かつんでないか?」
「あいにくと銛はねえな。ギャフならあるが……ああ、それから鮫をおどかして追っぱらう、水中爆弾がある。あまり威力はねえが……」
「それでいい……」波打ち際のプラスチック・ボートをおし出しながら、英二は通信機を胸ポケットにしまい、インカムをプラグにつないで、しっかり頭にかけた。「回線をあけっぱなしにしといてくれ。シグナルはMDを出しとくが、見りゃわかるだろう。ぶっとんでこい!」
「了解《ロジヤー》、お客さん《ミスター・パツセンジヤー》……」とパイロットはきびきびとこたえた。「ところで、あんたの事、何とよんだらいいんだ?」
「英二だ、あんたは?」
「おれはリコだ。じゃ行くぜ……」
イアフォンの中に、ごうっ、とエンジンの吹き上がる音が高まった。――英二は浜辺の小さなボートから、小さな、小型のバスケットほどのエンジンのついた船外機をはずし、一隻のボートに二台のエンジンをつけ、一台は予備にボートにほうりこんで、エンジンをスタートさせた。二台のエンジンの操作バーを、両手ににぎりしめ、船尾に片膝ついて、腰をおとして前方海面の波立ちさわぐあたりへむかってスロットルを一ぱいにあげたが、少しうねりが出てきて、軽量のプラスチック・ボートは、時折はげしく空中をすっとんだ。――ボートをあやつるのははじめてだし、海におちたら自分が泳げないし、そして生物学的な知識はあるが、鮫という動物が、闘う相手として、実際にどんな行動をとるかわからなかったが、とにかくこれまで、宇宙空間で、とりわけミネルヴァ基地周辺で、「不測の事態」が起った際、いつも何とかきりぬけて来た事をたよりに、英二はひたすら現場へむかってボートを走らせた。
前方に、水面が煮えたぎっているように泡だち、波しぶきを噴き上げる場所がちかづいてきた。――ざばあっと、水面がわれ、なめらかな、やや灰色がかった黒色の巨体が空中におどり上がった。そのまわりに、それよりやや小さいが、藍色の背と、青みをおびた灰色の太い腹をもった、紡錘形の生物が、そのとがった鼻面をそらせるようにして、二匹、くいさがっていた。巨大なバンドウイルカは、腹や尾のあたりから、鮮血を吹き出していた。白っぽくはぜた脂肪が、その無惨にくいちぎられた傷口からのぞき、青白い死の色をした凶暴なホオジロザメの、ぞっとするような、鋭い鋸状のぎざぎざの歯が、その傷口をさらにひろげようとするようにがっきとくいこみ、それをくいちぎろうとするように、猛烈に体をふりまわしつづけているのが、一瞬ではあるが、悪夢の一シーンのようにはっきりと見えた。――イルカと鮫が空中でもつれあうようにして水面へたたきつけられた時、しぶきと波でボートがひっくりかえらないように、英二はいそいで舵をきった。
「来たぞ!」とイアフォンの中に、リコの声がわれるようにひびいた。「現場が見えてる。あんたのすぐ後だ。どうする?」
「着水しろ!」と英二はマイクに叫んだ。「おれのあとについてくるんだ。右手に赤と白のゴムボートがういているのが見えるか?」
「見える。――誰かいるみたいだな」
「逃げおくれたんだ。とにかくあの娘を先に収容する。武器を出しといてくれ、鮫の群れがねらってる」
ごうごうという噴射音が背後から近づいてきて、黒い影が視野の後にせまるのが感じられた。――英二は、鮫におそわれているイルカの方を気にしながら、トップレスの娘が、叫びつかれたように、かすかな泣き声をあげているゴムボートにむかってつっこんだ。ごつん、と音がして、プラスチック・ボートの底に、何か重いものがぶつかり、英二は思わずよろけて両膝をついた。すぐ傍を、鋭い三角形の、青黒い背びれが、波をきってすうっと通りすぎて行き、行く手からまた別の背びれが近づいた。
鮫たちは、飢えているらしかった。それだけでなく、もう完全に餌物《えもの》の血のにおいに狂っていた。――ゴムボートが、いままで沈みもせずにういているのが不思議だったが、エア・セルの一つは完全に鮫の歯によってずたずたに食いちぎられ、ボートはかしいでいた。もう一つのセルが食いちぎられれば、かしいで、その上の餌物がおのずと水中にころがりこむのは目に見えていた。だが、幸いにも、鮫の群れの主力は、イルカの攻撃にかかっており、ゴムボートのまわりにいるのは、比較的小型の二、三匹だった。
「手につかまれ!」と、ゴムボートの底に横たわっている娘に声をかけながら、英二はボートのスピードをゆるめて接近した。「しっかりしろ!」
娘は、やっと顔をあげたが、もう半分失神しているように、辛うじて手をあげたものの、とてもこちらの手につかまる力はなさそうだった。――行きすぎてしまってから、英二は、別の方法をとる事にして、ボートをターンさせた。
ゴムボートのまわりの鮫どもの動きが早くなった。英二のボートと、着水して近づいてくるVTOLと、新しい「何か」の接近に、警戒心を高められ、いよいよ最後の攻撃に出てくる可能性があった。――英二はゴムボートの、半分しずみかけている側にまわりこみ、ゆっくりとこちらのボートの舳をその水につかりかけている縁へ近づけて行った。波のうねりを利用して、こちらのボートの舳が、ゴムボートの下にもぐりこみかけた時、思いきってエンジンをふかした。タイミングをあやまると、ゴムボートがむこうへひっくりかえり、娘が海へおちるおそれがあったが、幸いにもうまい具合に、娘の体は、ぬれたゴムボートの底板をずるずるとすべって、こちらの舳にすくいあげられた。間髪をいれず、フル・スロットルで突進すると、ゴムボートはこちらの舳ではね上げられ、空中におどった。それにむかって、水中から二匹、青白い紡錘形のものがおどり上がって食いつき、パン、パン、とエア・セルのはじける音がした。
「来てくれ、リコ!」片手でバーを押してボートをまわしながら、片手で舷からほうり出されそうになる娘の足首をつかんで英二はわめいた。「救命ロープだ。――娘を収容してくれ。それから武器をよこせ!」
「まだやるつもりか?」と、VTOLをよせてきたパイロットは、キャノピーをはね上げてどなった。「一人で大丈夫か?」
「イルカを助けなきゃならん……」投げられたロープの輪を、娘の腋の下から背中へかけながら、英二はいった。「もう助からないかも知れないが、鮫はおっぱらわなけりゃならんだろう。――まだ行かないでくれ。ロープももう一度いる」
リコは、こういう事に慣れていると見えて、気を失っているトップレスの娘を、肌を傷つけないようにてきぱきと吊り上げ、コックピットに収容した。収容し終ると、リコは青いサックとギャフを、英二に投げてよこした。
「爆弾は、ピンをぬいてから三秒で爆発する――」とリコは叫んだ。「気をつけろ! うねりが高くなって来ているぞ。あんたが海にほうり出されて、ここで食われちまったら、宇宙の方で、困る連中がいるんじゃないか?」
「ロープはいっぱいにくり出しておいてくれ!」英二はボートをVTOLからはなしながら手をふった。「先へ行くからついてくるんだ」
そこからわずか三、四メートル先の海面が、海の動物たちの「死闘」の現場だった。――〃ジュピター〃は、まだ狂ったように、水面をはねていたが、しかし、もう闘いは終りに近づいているようであり、左のひれは、半分以上くいちぎられてしまっていた。操舵バーを股の間にはさむと、英二はサックの中から、野球のボールより少し大きいくらいの、緑色にぬられた水中爆弾をつかみ出し、ピンをぬいて、鮫のむらがる水面にいくつもたたきこんだ。音ばかりでかくて、あまり威力はないようだったが、それでも大きな鮫の鼻先でうまく爆発した時、鮫はふらふらとなって水中へ沈んだ。イルカの体から肉を食いちぎろうと突進した一匹をギャフをうちこんで食いとめ、水面でぐわっと口をあけた所へ、歯でピンをぬいて、もろにたたきこんだが、これは見事な効果を発揮した。だが、鮫の群れは何匹いるかわからず、イルカの体は、次から次へと肉塊をもぎとられて、出血多量でみるみる弱ってきた。
英二は思いきって、今度は力の弱ったイルカの体にギャフをたたきこみ、舷側にひきよせて、そのままおして行こうとしたが、これは鮫にとって、ますます好餌になるばかりだった。
「リコ! もっと近くへ来て垂直《ヴアーテイカル》ジェットをふかしてくれ」
と英二は叫んだ。
「上昇するのか?」とリコはきいてきた。
「ちがう。ダクトを斜めにして思いっきりふかせ、鮫は、ちょうどこの下にいる」
飲みこみのいいリコは、鮫の背びれのむらがるあたりにVTOLを近づけ、どうっ、と海面がもり上がるほど、斜め下むけにジェット噴射を行った。
鮫の攻撃はその間ちょっととまり、その間に、英二はつるつるすべるイルカの尾に、やっとロープをかける事ができた。
「いいぞ、リコ!――ひっぱれ!――いや、上昇しろ!」と英二は叫んだ。「手あらいが鮫に骨だけにされるよりゃいい。浜へついたら、そっと水の中におろせ」
「ロープは二十メートルしかねえんだぜ……骨だけにならないにしても、へたをすると、イルカの丸焼きができるぞ」とリコはぶつぶついった。「いいよ。まあやってみよう……。エンジンが焼けちまわねえように祈ってくれ」
ぐわーん、というようなものすごい音がしてVTOLは水をきって海面からうき上がった。ロープがぴんとはると、イルカの体はぐいとひっぱられるように舷側をはなれた。――プラスチック・ボートは、噴射と横波をくらって、あやうく転覆しそうになり、体を伏せてやっとバランスをとる事ができた。
海水と血をしたたらせながら、イルカの体が宙にうき上がった時、最後の一片を食いちぎろうとした一頭の鮫が、不細工なジャンプをこころみたが、これは不成功に終った。
浜へむかってとんで行くVTOLを横眼で見ながら、英二は、まだ四、五頭残る鮫を相手に、水中爆弾を投げこみつづけた。水中で、しかも急所ちかく爆発すると、威嚇用といってもかなり効果があるらしく、ちらと見えた海底には、白い腹を見せた鮫の死体が何頭かころがっていた。あとの鮫は、フェンスのはずれた所から、外洋へ逃げて行ったのか、あの不気味な背びれの数は、ぐっとすくなくなっていた。
ほっと一息ついた時、今度は本当にひっくりかえるかと思うようなものすごい衝撃を斜め下からくらい、英二は舷側に頭をいやというほどぶっつけて、一瞬気が遠くなった。――しかし、最後に、もっとも巨大で、もっとも凶悪な敵が、逃げられた餌物のかわりに、まだ食い足らない胃の腑をみたす対象として、このボートとその上にのるものを執念深くねらい出した事がはっきりした。爆弾で片眼をやられているその鮫は、ものすごい口で舷側の一部をばりばりとかみ破った。二十数発の爆弾を全部つかい果した英二は、ギャフでもってたちむかい、それも粉々にくだかれると、無我夢中で、船底にあった予備の船外機を中腰でかまえた。すぐ傍に鮫の巨大な、白い鋭い歯のならんだ口がぐわっとひらいた時、彼はスロットルを一ぱいにあけて、フル回転するスクリューを、鮫ののどの奥へ力一ぱいつっこんでいた。……
浜辺へやっとたどりつくと、波打ち際に、うなだれた群衆の輪ができていた。――すすり泣きの中心に、ずたずたになった、血まみれのイルカの体にだきついて赤ん坊のように号泣しているピーターの姿があった。
「〃ジュピター〃は、自分を犠牲にして、人間の命をまもったんだ……」英二は、まわりを見まわしていった。「こっちはずいぶん鮫を殺しちまったぜ。またあんたたちに〃自然の破壊者〃っていわれそうだが、自然の中には、闘わなきゃならない〃敵〃もいるんだ……こっちが生きのびるためにはな!」
リコが、後から英二の肩をたたいて時計を示した。うなずいて歩き出そうとした時、突然ピーターが、涙だらけの顔をあげ、白いギターをひきよせるのが見えた。……血のような落日に染まるイルカの死体を前に、ピーターは、ギターをかきならし、空をあおいで悲しげな声で、切々とうたいはじめた。
さよなら《バイバイ》、ジュピター
大きな友だち……。
終章 太陽の喪章
1 危険な賭け
そしてついに――
凶暴な「暗黒の渦」は、太陽系の領域に侵入してきた。
〃X―デイ〃より一か月ちょっと前、それは冥王星の軌道をこえ、太陽の引力の影響で、わずかにコースをふり、わずかに加速されながらも、一度ねらったターゲットは絶対にはずさない、という盲目の意志に導かれているかのように、なおまっしぐらに、ピンポイント衝突《クラツシユ》コースを驀進しつづけていた。
すでに太陽との相対距離百億キロあたりから、ブラックホールの周辺には、無数の無人観測機と、数機の有人観測機がはりつき、その特性やコースの精密観測をつづけていた。――早い時期から〃X点〃に接触して、〃巨眼《ビツグ・アイ》〃に情報をおくりつづけていた何機かの無人観測機は、燃料がつきたあと、そのはげしく回転する暗黒の底無し穴に、粉々にすりつぶされ、高熱のガスとなってのみこまれていた。またそのうちの一機は、エルゴ領域の観測をつづけているうちに舵器が故障し、〃シュワルツシルドの限界〃をかすめて、秒速数千キロものスピードで、宇宙のはるか彼方にはねとばされていた。もちろん船体は、猛烈なGによって、ほとんどばらばらになってしまっていたが……。
〃X点〃が近づくにつれて、観測班の学者、専門家たちの中で、重力理論の専門家たちが異様な興奮状態を示しはじめた。――何しろ、それまで存在はいくつか知られていたものの、そのほとんどははるか数百から数千光年もはなれた所にあり、この先何百年たったら、近くで観測できるようになるのか想像もできなかったブラックホールが、むこうの方からとびこんできたのだ。
重力理論のいくつかの重要な鍵が、〃X点〃の直接接近観測で次々と解けかけていた。――高速で回転するブラックホールの、赤道方向にひろがる〃エルゴ領域〃の性格や、極方向に幻のように隠顕する〃裸の特異点〃の時空の場がめくれかえっているような異様な性質が、次々に判明してくるにつれ、近接観測密度をもう少し上げてほしい、また、観測期間を延期してほしいという要求が、猛烈にたかまってきた。
「何度もいったように、それは不可能だ!」と〃巨眼《ビツグ・アイ》〃システムの最高責任者である、世界天文学連合のナーリカー会長は、浅黒い顔をまっ赤にし、口をへの字にむすんで、きっぱりとこの要求を拒絶した。「千載一遇の機会だという事は、私にもよくわかる。――しかし事態を考えてみろ。観測機材はこれ以上割《さ》けない。〃巨眼《ビツグ・アイ》〃からの撤収は予定通りやる。それだけだ!」
「もうほんの少しでも、〃X点〃に対する実験を追加させてもらえたら……」と代表は未練がましくうつむいていった。「時空の門《ゲート》の問題が、もうちょっとで解けかかっているんですが……」
「その問題を解いたとして――もし、ここでの予定変更が、B・B・J計画の成功率をさげるような事になったらどうするんだ?」とナーリカー会長は首をふった。「観測によって得た、あらゆる情報とデータを急いでとりまとめる――〃巨眼《ビツグ・アイ》〃は無人化して、われわれはあと十二時間でここを撤退する。そして五十時間後に、EX船団M―48にのりこむのだ。通達はきいているだろう? くりかえしていうが、予定の変更はあり得ない……」
「M―48には、ここの全員がのりこむのですか?」と、若い学者がきいた。「会長も?」
「私は――もう少しあとの船団になるだろう……」ナーリカー会長は、くるりと椅子をまわして、背をむけながらつぶやいた。「ヴィンケルと私は、まだ大統領府で少し処置しなければならない事が残っている……」
「まさか……乗らないんじゃないでしょうね?」
「いいから早く作業にかかれ!」とナーリカーは背をむけたままどなった。「急がんと、こわいブラックホールに、全員食われてしまうぞ!――いま、〃X点〃の位置はどのくらいだ?」
「そろそろ海王星軌道の内側へはいってきます……」と若い学者は壁面を見上げてつぶやいた。「衝突時刻《クラツシユ・タイム》まで、あと六百三十時間をわりました……」
「という事は……あと四週間たらずか?」ナーリカー会長も、椅子を後にむけたまま壁面の表示を見上げた。「B・B・J計画の爆発時刻《バースト・タイム》までは?」
「五百二十時間前後です……。現場の連中も、そろそろ引き揚げ準備にかかっているでしょう……」
〃JNシステム……第二次テストまであと五分……〃
ミネルヴァ基地内のB・B・J計画作業司令室の中に、びんびんとアナウンスがひびきわたった。――それをきいたとたん、今まで顔に脂汗をうかべて、ディスプレイ上のデータをにらんでいた英二は、決心したようにマイクをとり上げて叫んだ。
「本田主任だ!……レッド・グループのメンバーはみんなきけ。――みんなも知っている通り、現在スケジュールは大幅に……六時間以上おくれている。このおくれをとりもどすために、第二次テストの最終段階と、第三次テストのはじめの段階を大幅にカットする。――すなわち、第二次テストのフェイズ・5において、木星ダイナモの電流をテスト所定量まであげたあと、フェイズ・6において電源をカットせず、一たん三分の一までおとし、その状態で微調整をおこなって、そのまま第三次テストのフェイズ・2につなげる。わかったか?――よほどの事がないかぎり、電流のカットはない。ただし、フェイズ・6における各ポイントのチェックは、電流を流したままやるから、各現場は充分に注意せよ。以上……」
「そうだ……それでいい……」と、突然背後で、かすれた弱々しい声がした。「おれも、万一時間をかせがなければならない時は、その段階をカットしようと思っていたんだ……。念を入れるにこした事はないが、そこはカットした方が、電源をいったん切ってしまうより、かえって結果的にいいと思う……」
「カルロス!……」背後をふりかえった英二は、びっくりして眼をむいた。「君は……何しに来たんだ?――もう病室を出ていいのか? いや、それより……どうして、前の連絡便で、火星へ引き揚げなかったんだ?」
「おれをこの現場から、おっぽり出そうというのかよ……」車椅子にのったカルロスは、弱々しく笑った。「そうは行かないぜ。……それに、もう大丈夫なんだ。あのキャロラインって、新任の看護婦は、大した娘《こ》だ。グラマーだしな。五日間、ぶっとおしで、つききりで看護と治療をやってくれた……。おれが苦しがってる時は、添い寝までしてくれた。彼女が、もうすっかりいいといって……」
「嘘です! 主任、私そんな事いってません!」と、スピーカーから看護婦の声がきこえた。「でも、アルバレスさんがどうしても、いう事をきかないで……」
「いい子だ、キャロライン、きゃあきゃあわめくんじゃない……」カルロスはロボット車椅子をコンソールの前に進めながら、うるさそうにいった。「おい、ぼんやりするなよ、主任……。第二次テストがはじまるんだろ?」
〃第二次テスト開始、三分前……〃とアナウンスがひびいた。〃全系統異常なし……〃
「バーバ!」カルロスは突然、少しはなれた所にいるインド系の少年に鋭く声をかけた。「正面右上の、あのクロック衛星の映像を消せ!――おれがここにいる時は、うつすんじゃない……」
カルロスは正面の大スクリーンから眼をそらせながらつぶやいた。
「あの赤い数字を見ると……ついあそこで死んだブーカーの事を思い出しちまうんだ……」
英二は、声もなく、病みおとろえて頬のこけた青白い別人のようなカルロスの横顔を見つめた。――カルロスは、JNシステム――木星新星化システムの第一次テストをチェックするため、JADE―3にのって、木星大気圏内におりて行き、テストの結果生じた、ものすごい荷電粒子の暴風に吹きとばされて、あやうく「大赤斑」の大渦の底にたたきこまれる所だった。パイロットの方は瀕死の重傷を負い、カルロスもひどいショックをうけ、JADE―3との通信が途絶して、一時は絶望視されていたが、乱気流の気まぐれと、頑丈きわまるJADE―3の自動操縦装置のおかげで、まる十時間後、大赤斑からはるかはなれたホワイト・セルの一つの核にうかび上がり、奇蹟的に救助された。――それがわずか三週間前の事であり、パイロットは、ミネルヴァ基地に収容されてから息をひきとり、カルロスもすぐ後方へ送りかえそうとしたが、彼が熱にうかされたように、ここにいたいというので、そのまま治療をくわえていたのである。
「B・T《バースト・タイム》まで、あと三百八十四時間か……」バーバは、あわてて、木星衛星軌道上にうかぶ、クロック衛星の映像を消したが、その前に、ちらと、その赤く輝くディジタル表示を見たカルロスは、歯の間から押し出すようにいった。「見てろ。六時間のおくれぐらい、おれがすぐとりもどしてやる……」
「撤収開始は、B・Tマイナス六十時間前からだ。忘れるな……」と英二は大スクリーンを見上げながらいった。「ファイナル・デッド・ラインはB・T五時間前だ。――宇宙空軍《スペース・フオース》の、緊急救助隊と大議論して、やっとそこまでこぎつけた。それ以下では、自分たちも、助かる自信がないっていうんだ……」
〃テスト開始二分前……〃
と、三度目のアナウンスがひびいた。
「爆発が始まるまで、何とかもがいて千八百万キロから二千万キロはなれりゃ大丈夫さ」とカルロスはコンソールを操作しながらいった。「JNシステムが作動しはじめても、すぐ爆発が起るわけじゃない。――木星が最初、赤道直径の方向にちぢみはじめ、木星の自転速度が速くなり、その次に木星の南極が中心部へむかっておちこみはじめて……極軸方向にむけてミニ新星《ノヴア》型爆発が起って、木星が北極方向にロケットみたいにぶっとんで行くまで、どう見たって、三、四十分はかかる。〃X点〃にぶつかるのは、それからさらに三、四時間後だから……」
「本当に、おれたちは、あの木星をぶっとばしちまうんだろうか?」英二は、手の甲でゆっくりと額の汗をぬぐいながらつぶやいた。「おれは……このごろ時々……寝ていてうなされるんだ。――あの木星が、赤い一つ目をむいて、胸にのしかかるようにのぞきこんでいる姿を見て……。お前たち……このおれを……太陽系最大のおれを……諸惑星の長男であるおれを、破壊する気かって、抗議するみたいに……」
〃テスト一分前……秒読み開始……〃
とアナウンスがひびいた。
「そうだ、主任……この話いったっけ?」とカルロスは、つぶやくようにいった。「〃大赤斑〃の渦にまきこまれて……映像も通信もブラックアウトになる寸前に、あんたとバーナード博士が見たっていう、例の〃木星幽霊《ジユピター・ゴースト》〃の姿が、雲の渦の間にちらと見えたんだ……」
「いや――それはきかなかった。JADE―3の記録類は、大電撃と荷電粒子のビームをうけて、めちゃくちゃになっていたし……」
〃三十秒前……秒読み続行中……〃
と、アナウンスはしんとしずまりかえった司令室に、機械的にひびいた。
「それだけじゃない……。通信機がブラックアウトになる前、その〃木星幽霊《ジユピター・ゴースト》〃から、何か微弱な通信がはいったようだった……」
「なに?――それは本当か?」
「本当だと思うが、はっきりしない。――何しろ、JADE―3が最後の衝撃をくらって、こちらが気を失う寸前だったから……」
「もし本当なら……ミリーに知らせてやりたいな……」と英二はいった。「だが、今となっては手おくれか……」
〃十五秒前……〃とアナウンスはいった。〃10、9、8、7、6……〃
「イワン!」とミリー・ウイレムは、カフをあげて叫んだ。「レッド・グループの撤収にむかうスーパー・ブースター・シップの運搬状況を、もう一度チェックしてみて。――フラッシュ・バードNO・8の準備完了《スタンバイ》シグナルがはいってこないのよ……」
「わかっている……。こちらもさっき気がついて、宇宙空軍《スペース・フオース》の方に問いあわせてみた……」とイアフォンの中で、イワンのきんきん声がひびいた。「NO・8は、核融合エンジンの、燃料ペレット・ガンに不調があったんで、今速度をおとして調整中だ。――二時間おくれで、本隊に復帰できる……」
「了解……フェイズ・レッドは、B・Tマイナス六十時間よ。あと三百時間ちょっとしかない事を、NO・8の乗組《クルー》に注意しといてね……」
「わかってるって、おばさん。――二百三十時間後には、フラッシュ・バード船隊は、全機、木星周辺に勢ぞろいして……」
「おばさんとは何よ!」とミリーはマイクにむかってどなった。「イワン! この次あったらぶっとばすわよ。おぼえてらっしゃい……」
「わ、わかりました。ウイレム博士……」イワンはびっくりしたようにどもった。「今後気をつけます。何とおよび申し上げたらよろしいでしょうか? おじょう……」
「おじょうさん、なんてよんだら、目ン玉かきむしるからね。いいこと?」
突然、ミリーの鼻先に、いい匂いの湯気のたつ、スープのカップがさし出された。
「はい、おじょうさん……」と、カップをつきつけたウェッブは片眼をつぶってウインクしてみせた。「あんまりどなったら、のどがかわくだろう。――わしも目の玉をかきむしられるかね?」
「あなたならしかたがありませんわ、エド……」と、ちょっと顔を赤くして、カップをうけとりながらミリーはほほえんだ。「私の祖父ぐらいのお年ですもの……」
「さっき、月からここへついたら、あんたの声がきこえた……」と太陽系開発機構のウェッブ総裁は、OPDO―AX――火星の衛星軌道上にうかぶ宇宙島の〃プロジェクトX〃本部の総合司令室を見わたしながらいった。「あんたはいつからここへ来たんだ。――志願したのか?」
「ええ、一週間前から、ここへ――レッド・グループ撤収作戦本部に配属になりました。――バーナード博士も、別のセクションですけど、ここにいますわ」
「バーナードも?」ウェッブはちょっと顔をくもらせた。「あんたたちは……地球の学会組織にもポストをもっているんだから、EX船団に席がとれたのに……」
「私、強引に志願したんです……」ミリーは一口すすったカップをデスクの上において、正面のマルチ・スクリーンにうつる木星のクローズアップを見上げた。「私……昔の恋人が、あのブラックホールにのみこまれて死んでから……何となく、あれから眼がはなせなくなったんです。――それに、今ここから八億キロ以上はなれたあの惑星のまわりで、大勢の人たちが、一番危険な〃賭け〃に挑んでいます。その人たちが、全員無事に引き揚げるのを、見守っていたいんです……」
「〃賭け〃か……。英二やカルロスががんばったおかげで、この賭けの勝率は、じりじりと上がって来ているようだ……」ウェッブはつらそうな眼付きで巨大な木星の映像を見た。「そいつが、私にとってはどうも……複雑な気持ちだな。何しろ、賭けるチップは、あの惑星しかないんだ。そして、私自身は、あの賭け札を、全然別の賭けにつかおうと、何十年にもわたって苦心してきた。――〃人類の太陽系時代〃の新しいシンボルにする、という賭けのな……。いま、そのたった一つの大駒を、勝率五割以下の博奕に、つき捨てにしなきゃならんとはな……」
「私もバーナード博士も、あの惑星の中に、心残りを一つ残していますわ……」スープをすすりながら、ミリーはしんみりした口調でいった。「〃木星幽霊《ジユピター・ゴースト》〃……異星人の宇宙船かどうかたしかめられないまま、とうとう、私たちの手のとどかない所にいってしまうわけですよね……。でも、考古学の仕事では、よくある事ですわ」
「〃木星幽霊《ジユピター・ゴースト》〃といえば、さっき、ミネルヴァ基地からの報告の中に……」
そういいかけた時、突然ウェッブをよぶアナウンスがひびきわたり、個人通信がはいっている事をつげた。
「誰からだ……」とウェッブは傍のマイクのカフをあげてきいた。「船団M―58から?――」
「シャドリク様からです……」と声はいった。「秘密回線《シークレツト・ライン》へどうぞ……今なら双方向通信《ツーウエイ・トーク》が可能です」
ウェッブはぎゅっと顔をひきしめると、巨体をゆるがせて、通信ブースの方へ歩みよった。
2 ランセン
〃プロジェクトX〃総合司令室の一隅にならんでいる、三つの秘密通信ブースの真中の一つにはいると、ウェッブは、大きな音をたててドアをしめた。
ドアについている小窓から、広い司令室の、あわただしい人員の動きが見わたせたが、ウェッブはそれをちょっと横眼で見ると、シャッターをしめ、通信デスクのIDボックスの上に、大きな毛むくじゃらの手を、たたきつけるようにおいた。――ガラスの下で、赤と白の光が一、二秒点滅すると、本人のチェックがすみ、「通信OK」のランプがついた。
ウェッブは、いやな薬を飲まされるだだっ子のように、全身をふくらませて、大きく鼻息をつき、じっとスクリーンをにらみつけていたが、やっと決心したようにスイッチをいれた。
一瞬、画面が乱れて、暗黒の宇宙にうかぶ、赤い火星を背景に、ゆっくりと流れて行く、恒星宇宙船の大船団の映像がうつった。EX・FLEET――M―58の文字と、点滅するERRORの赤い文字がうつって、画面はすぐきりかわった。――今度は、銀髪に、美しい口髭をはやした、浅黒い、きびしい顔つきの老人の顔が、画面一ぱいにうつし出された。
「やあ、エド……」と、シャドリクは、ぎごちない笑いを口もとにうかべて、ちょっとのどにひっかかるような声でいった。「元気そうだな……。〃プロジェクトX〃は、順調に進捗しているらしいね」
「おひさしぶりですな、上院議員……」とウェッブは仏頂面のまま、皮肉な調子でいった。「おかげさまで、玉砕への道は順調にすすんでいるようです。――あなたの方は、まんまと、特等乗船券を入手されたようですな。心からお祝い申し上げます。船室はお気に召しましたか! あなたならきっとサウナ付きでしょうな?」
「相変らず、冗談がきついな、エド……」シャドリクは、口もとを歪めて恐ろしい顔つきで無理に笑った。「だが、そんな浮いた話じゃないんだ。この船団……この船には、連邦議会で、特に厳選された議員代表が、重要な使命をおびて乗っている。そして私は、その議員団の団長に指名されたのだ」
「へえ、それはそれは……あなたの事だから、きっと多数派工作に成功なさったんでしょうな……」
「エド……」といいかけてシャドリクは二、三度咳ばらいした。「私は、君に喧嘩を売るつもりで、こんなきわどい時に、むりをして秘密通信を申しこんだわけじゃない。むしろ、この非常の時期にあたって、過去のいきさつを水に流し、休戦と和解を……」
「お言葉をかえすようですが、上院議員……」ウェッブはもしゃもしゃの顎ひげをひっぱりながらいった。「私は、一度たりとも、あなたに戦いや争いを挑んだ事はありません。私は、ただ、自分がなすべき事を追究してきただけです」
「その点は私だって同じだ……」シャドリクは、不意に威厳をとりもどし、不屈の粘りづよさを感じさせる調子でいった。「私は二十代から政治の世界にはいった。私の父も政治家だったし、その父は軍人だった。そして私の曾祖父は、ある国の王族だった。君や、君のスタッフから見て、いろいろ思う事があったと思うが、それはそれで、私の政治家としての信念からやった事だ。邪心や私心をもってやった事ではない。その点は理解してほしい」
「わかります……」ウェッブは、ふっと溜息をついて禿頭をなでた。「わかりますが……どっち道、あと三百時間たらずで、何も彼も決着がつく事です。あなたは、はるかな、住めるかどうかわからない星にむかって旅だち、私たちはこちらへ残る……。運よく、すべてがうまく行って、また再会の機会があったとしても、その時は私の方もあなたの方も……太陽系でも地球でも、あらゆる事をやりかえなければならんでしょう。今さら、過去のいきさつを水に流すも何もありませんよ、上院議員……。あなたが、太陽系をはなれるにあたって、私との間のしこりを解消しておきたいために、わざわざ私ごときをよび出してくださったのなら、それはそれで感謝します。私の方は、今さらどういう事はありません。あなたの旅の幸運を、心からお祈り申し上げます……」
「待て、エド……」不意にシャドリクは、おし殺した声でいった。「待ってくれ……」
「まだほかに、何かあるんですか?」
「いいか、エド……いま言ったように、私は政治家だ。そして政治家というものは、自分の信念の実現のために、実にいろいろな手段をつかうのが常識なのだ。――この点は君にも理解できるだろう?」
「何をおっしゃりたいんです?」ウェッブは突然、不安にかられたように画面にむかって体をのり出した。「つまり、あなたは……」
「今度の問題に関しても、私は自分の信念にもとづいて、いろいろの手をうった。だが、そのうち情勢が変り、私自身の考えも変って、戦線の収拾にかかった。私としては、きびしく方針の転換を徹底させ、問題を残さないようにしたつもりだった。――だが、網の目は何段階にもわたってひろがっており、途中から、部下の動揺や混乱が大きくなって、完全には、収拾しきれなかった部分が末端の一部に残った。――何しろ、私もいろんな事にまきこまれたし、時間もなかったから……。で……いくつかの末端グループに対しては、方針転換の指令が徹底せず、彼らが独自の判断で暴走する可能性が残ってしまった……」
「破壊工作……の事ですか?」ウェッブの顔は赤くなり、額に青筋がうかび上がった。「あるいは暗殺専門のテロリストですか?」
「残念ながら、今となっては、私の手もとにも、どんなグループが残って、どこに対してどんな事をやろうとしているか、という事について、完全な情報がない。――末端までは何段階もあって、ほとんどは方針変更を徹底した事が確認できたのだが、しかし、ある時期から、指令伝達のネットワークが混乱しはじめ、ごくわずかだが、危険の可能性が残ってしまった……」
「この期におよんで……」と、つい声を荒らげかけたウェッブは、それでもせいいっぱい自分をおさえ、額にうかんだ汗をぬぐった。「つまりあなたは、その事に関して御自分の責任を感じて、わざわざこんな時に御忠告をくださったんですか? それとも、その事に関しては、もう責任がとれない、あるいは自分の責任ではない、と通告なさりたいんですか?」
「むろん、ある程度の責任を感じていればこそ、こうやって話しにくい君に話しているんだ……」シャドリクは顔を伏せて低い声でいった。「しかし、私はもうこうして、長い旅に出発しようとしている。しかし、これまで、完全主義を信条としてきた私としては、どうにも心残りだ。で――君にその事を教えると同時に、ひょっとしたら、どれかのグループの動静を知っているかも知れない人物の名を教えておこうと思ったのだ。実をいうと、君たちの組織内に、われわれの方の情報提供者《インフオーマント》がいる。それも、中枢部に……」
「ランセン……ですか?」
ウェッブは、疲れたような、低い、静かな声でいった。
「知っていたのか?」
シャドリクは、おどろいたように眼を見開いた。
「いや……ただ、何となく……そう感じたんです」
「彼は、ある時期、自分の方から匿名で接触してきた。その通報者がランセンだとわかったのは、こちらの方もだいぶたってからだ……。しかし、正体をさぐり出してからは、こちらもだいぶいろんな要求を出し、彼をある程度追いつめもした……。言っておくが、彼は別に報酬や見かえりを要求したわけじゃない。ただ、彼は……ある時突然、ボスのやり方に深い不安をもったんだ。太陽系宇宙を地球からきりはなし、地球には何も知らせず、何も彼も独断専行して行くボスに……」
「それで……あんたは、自分のやった事の後始末を、ランセンにおしつけて行こうというのか、シャドリク!」
ウェッブは顔を真赤にしてどなった。――だが、船団M―58は、次第に火星からはなれ、さっきから双方向の会話の時間はかなりずれはじめて、相手の反応は間のびしたものになった。
「では、そろそろ個人通話が閉鎖される時間だ……」とシャドリクはまわりを見まわしていった。「では、さよなら《アデユー》、エド……君たちのB・B・J計画の成功を、心から祈っている……」
「きけ! シャドリク!……」ウェッブはブースの中に立ち上がって、画像にむかって指をつきつけてわめいた。「いいか、個人としての私は、あんたを許す。だが公人としては、絶対に許さん!――もしあんたのせいで、この計画が妨害され、失敗でもしようものなら、死んでも怨んでやる。全太陽系の怨みは、星の彼方へまであんたを追っかけて行くからな!」
スクリーンの上にタイム・アウトの文字が点滅し、画像は乱れ、ふっと消えた。――最後の呪咀の言葉は、向うまでとどいたかどうかわからなかった。
ウェッブは、汗まみれになってくずれるように椅子に腰をおろし、頭をかかえてしばらく肩で息をしていた。――だいぶ長い時間たってから、彼はのろのろと通信卓に手をのばし、電子脳《ブレイン》をよび出して、重い口調でいった。
「ランセンは、どこにいる?」
「中央司令室の第六コンソールの前にいます」と電子脳《ブレイン》はいった。「よび出しますか?」
「わしがあいたいとつたえろ……。いや、待て。この隣の個人通信ブースへこいといえ」
それからちょっと考えて、ウェッブは通話用のカメラと映像スクリーンのスイッチを切り、隣のブースとの間の音声回路を開けた。
まもなく足音がドアの前を通りすぎ、隣のブースのドアが開閉する音が、スピーカーからきこえた。
「ランセンか?」とウェッブはきいた。
「はい、総裁……」とランセンの声がスピーカーからきこえた。「いま、どこにいらっしゃるんですか?――映像が出ませんが……故障ですか?」
「いま、お前の隣のブースにいる。カメラと映像スクリーンは切ってある……」と眉間を指でもみながらウェッブはいった。「たった今、シャドリクからお別れのメッセージを頂戴した。お前にもよろしくとの事だった……」
隣のブースで、ランセンが息をのむ気配があった。
「ところでランセン……〃プロジェクトX〃へもぐりこんだ、はねっかえりの破壊工作員とのコンタクトはあるか?」
「いえ……」ランセンはかすれた声でいった。「私もその危険を感じて、必死にしらべたのですが……私には、工作員からの直接のコンタクトは一度もありませんでした……」
「あとの方で、だいぶ脅迫されたか?」
「一度だけ……たった一度だけですが、連絡員と接触する事を強要されて、ある所であった事があります。――その時、急に気分が悪くなって、しばらく気を失っていました。その時は気づきませんでしたが、あとで考えてみると、その間に、私の個人用のパス・ワードを盗まれた疑いがあります……」
「備忘録《メモ》用のか?」
「ええ……。気がついてからパス・ワードはかえましたが、それまでに……」
「中央電子脳《セントラル・ブレイン》の、不定期にかわるパス・ワードも、そこからみんな読まれていたわけか……」
「申しわけありません、総裁……」ランセンはすすり泣くような声でいった。「私は……私は……責任とって……」
「もういい、ランセン……どっちみち、あと三百時間たらずの勝負だ。――とりあえず、仕事へ帰れ。あとで保安部の連中とあってもらうが、今は持ち場をはなれるな……。早く行け……」
スピーカーは、しばらく沈黙していた。――が、やがてひきずるような足音がきこえ、隣のブースのドアが、緩慢に開閉した。足音が遠ざかって行ってからも、ウェッブは、なおしばらくの間せま苦しい個人通信用ブースの中にいて、滝のように汗をかきながら、口の中で何かをぶつぶつつぶやいていた。
「ちょっと、あなた……」ミリセント・ウイレムは、持ち場のコンソールから顔をあげて、背後をあたふたと通りすぎかけた男に声をかけた。「さっきから、何をばたばたしてるの? こっちまでおちつかなくなるわ。――何かあったの?」
「ああ、ミリー……」田中という資材発送係は、ノートサイズのハンド・コンピューターを手にもっていらいらした様子で、額にしたたる汗をはらった。「実は、ミネルヴァ基地むけにおくり出した、最後の無人貨物船《カーゴ》の運航が、わずかだけど、予定よりおくれているんだ。途中で気がついて、スピードをあげたんだけど、燃料の食い方などからみると、どうもほんのわずかだけど、重量が予定よりオーヴァーしてるらしい。それで、何か余計なものをつんじまったんじゃないか、と、さっきからそれが気になって、積み荷リストと、積みこみの時の状況をチェックしているんだが……」
「あなたは、そういった事は神経質だったわね……」とミリーは苦笑した。「どのくらいオーヴァーしている?」
「大した事はないんだ。計算してみると二百二、三十キロ、せいぜい二百五十キロまでだが、――それにしても、四分の一トンもの重量オーヴァーとなると、いったい何をまちがえてつみこんだのか、はっきりしないと気持が悪い……」
「その貨物船《カーゴ》は、何を積んでるの?」
「一部の特殊機械をのぞいて、ほとんどがフェイズ・レッド、つまり木星周辺からの人員撤収開始段階に必要なもろもろさ。緊急救難用の宇宙カプセルとか、スペース・スーツの予備とか……」
「二百二、三十キロ、というと、人間にして四人分ぐらいね……」ミリーはちょっと考えこむような眼付きをした。「一応ミネルヴァ基地の方に連絡して、到着の時、チェックしてもらった方がいいわね……」
「そうするつもりだが、その前にもう少ししらべてみるよ。――何しろ、通信回線が満杯だし、むこうの連中は殺気だっているから、うかつに余計な事をいうと、どなられそうだ……」
そこまで言った時、司令室の入口の方に、突然あわただしい動きが起り、二、三人の男が血相をかえてかけこんできた。――ちょうど個人通信用のブースから、よろよろと、妙にもつれるような足どりで出てきたウェッブを見つけると、彼らは急いでかけよった。
「大変です、総裁、いま、ランセン部長が……」と作業衣の男が息をはずませながらいった。「事故です。――もう手のほどこしようがないそうです」
「事故だと?」汗をいっぱいかいた赤い顔をふりむけて、ウェッブは吼えるようにいった。「どんな事故だ?」
「ええ、あの――通路を閉鎖して、動力線の切りかえ作業をやっていたんですが……そこへランセン部長が通りかかって、ふらふらと閉鎖区域へはいってきて……どういうつもりか、いきなり蓋をはずしてあった開閉器に手をつっこんで……あの、自殺かも知れません」
「馬鹿!」と突然ウェッブは、司令室中がびっくりしてふりかえるほど大きな声で、顔を真赤にしてどなった。「自殺じゃない、事故だ!――ただちに事故として処理をしろ! わかったか?」
ウェッブの様子の異常さに最初に気がついたのは田中だった。――彼はハンド・コンピューターを傍のコンソールにおくと、足音をたてずに、一足とびに、汗をいっぱいかいて巨体をふらふらと前後へゆらしているウェッブの背後にまわると、支える態勢にはいった。「ランセン……馬鹿めが……もうちょっとタフなやつだと思っていたのに……」
そう、ぶつぶつとつぶやくのと、ウェッブの体がぐらりと横に傾くのとほとんど同時だった。
「ミリー!……手を貸してくれ!」
ウェッブの巨体をささえながら田中は叫んだ。――OPDO―AX上の重力は○・五G程だったが、それでも小柄な田中には重荷らしかった。ミリーもすっとんで行って、ウェッブの体を床に横たえるのを助けた。
「大丈夫……過労と、ちょっとした血圧上昇だけだ……」と医師の資格もある田中が、手早くしらべながらいった。「だけど、十二時間ぐらい安静にしていてもらわないと……」
「保安部長をよべ……」と横たわったまま、ウェッブは、少しもつれる舌でいった。「今すぐにだ……いいか……保安部……」
木星にむかって接近しつつある一機の無人貨物船《カーゴ》の第三船倉には、十二台の救難宇宙カプセルが積まれていた。――そのうちの四台には生命装置のスイッチがはいり、中に一人ずつ人間がはいっていた。
そのうちの一人に、マリアがいた。
3 B・Tマイナス一○○H…フラッシュ・バード
〃第五次テスト終了……〃
と、ミネルヴァ基地のB・B・J計画作業司令室に、この所すっかりみんなの耳についてしまった、JNS電子脳《ブレイン》の合成音声がひびきわたった。〃終了時刻B・Tマイナス一○六H二七M○三S……作業スケジュールよりのおくれ○○一H一二M○○S……〃
わっ、と声のない歓声のようなものが、広い司令室の中にあがった。
不精ひげを一面にのばした顔をほっとほころばせて、英二はやったな、というように車椅子にのったカルロスの肩をたたいた。
「さすが太陽系一のシステム屋だな……」と英二はいった。「たった三段階で、おくれを五時間もとりもどしたぞ……」
「あと、本番までツーステップか……」カルロスは、脂のじっとりういた青白い顔を、皮膚がかさかさになった手でごしごしこすりながら、歯をくいしばるようにしてつぶやいた。「ようし!――一時間十二分のおくれを、この間にカバーして、あともう二時間ぐらい、お釣りがくるようにしてやるよ」
「ここまでくれば、あまり無理しなくてもいい……。最終段階テストと、〃フェイズ・レッド〃の間には、二、三時間のゆとりがみてあるはずだから……」
〃グループ・イエローの第二次引き揚げ計画は予定通りおこなわれる……〃とアナウンスはいった。〃くりかえす……グループ・イエローの第二次引き揚げ計画は予定通りおこなわれる。各人は、自分の引き揚げ順位をチェックせよ。……ただいまから、第二次引き揚げのセクションを確認する。A―3班からA―5班までのグループ・イエロー全員……F―2からF―4の同じくグループ・イエロー全員、H、I、J、K各セクションのメンバー全員……VX―6、QR―3のグループ・イエロー全員……各班の責任者は、引き揚げメンバーを確認し、所定の引き揚げプログラムにしたがって、乗船終了後、逐次報告せよ……〃
「まさか〃フェイズ・レッド〃前に、おれをおくり出すつもりじゃないだろうな……」カルロスは、大スクリーンのディジタル表示を横目でにらみながらつぶやいた。「おれはあんたと一緒に、最終引き揚げ組に残るぜ。いいな?」
「君は、第三次引き揚げ組にはいっている……」英二は眼を伏せていった。「グループ・オレンジだ……。自分の体の事を考えろ……」
「じゃ、今から変更してくれ……」カルロスは、コーヒーを紅茶にかえてくれ、とたのむような調子でいった。「いまさら、おれの健康の事なんかもち出すのは、偽善的ってもんだぜ、主任……。別に、おれは木星と心中したいなんて感傷的な気持ちはないがね。――だが、これだけ厖大でものすごいシステムをつかって、途方もない事をやろうというんだ……。それもたった一回きりで、やりなおしは許されないんだ……。システムのどこかに、本番までに小さな狂いが起るかも知れん……。条件に微妙な変化が起るかも知れん……。そういった事に対応して、完璧とはいわないまでも、ぎりぎりの所まで成功率をあげるためには、おれが最後の段階まで必要なんだ。――別にいい恰好をして言ってるわけじゃない。要するに、この計画を、一歩でも成功に近づけるのが肝心だというだけの話だ……」
「〃フェイズ・レッド〃は、B・Tマイナス六十時間からだ……」英二はあきらめて、電子脳《ブレイン》に対し、登録変更を指令しながらつぶやいた。「最終の全員引き揚げはB・Tマイナス五時間……その間に、マイナス四○とマイナス二○、二段階の引き揚げ時間がある……」
「おれは最終引き揚げ組だ。わかってるだろうな」カルロスは、第四次テストのプログラムをチェックしながらいった。
「あんただってそうだろ?――何ならあんたは一つ前の段階で引き揚げてもいいぜ……」
「馬鹿いえ」と英二は苦笑した。「なめんなよ……」
〃グループ・イエロー〃の引き揚げのアナウンスはくりかえしひびきわたり、ミネルヴァ基地作業司令室の中でも、第二次引き揚げ組にはいっている何人かが、持ち場をはなれ、あとに残る連中と握手をかわし、何となく未練が残るみたいに、表示用の大スクリーンを見上げたり、コンソールを指さして、何かを申しおくったりしていた。――アナウンスは、基地からの連絡艇《シヤトル》の出発時刻のせまった事をくりかえし、司令室の中の動きは、次第にあわただしくなった。
英二とカルロスの傍を、何人もの男女が、別れの言葉をかけながら、足早に通りすぎて行った。――その中に、犬と猫のマークのついた袋を肩にかついだ、スワミ・バーバの、幼い浅黒い顔もあった。
「ああ、主任……カルロス……」スワミ・バーバは白い歯をむき出してにっこり笑い、手をさしのべた。「どうせぼくは、次の便まで残っちゃいけないんでしょうね?――ぼくは残っていたいんだけど……」
「いかん!」と英二はわざといかめしい顔をして首をふった。「すべてのスケジュールは、少しの狂いもなく進められねばならんのだ……」
「でも、ぼくは役に立つと思いますよ……」十七歳の天才的な少年は、ちょっと口をとがらせた。「アルバレスさんの助手にしてもらったら……。疲れきって神経がひどくまいっている人たちより、いいと思うんだがな……」
「誰か神経のまいっている者がいるのか?」と、英二は鋭くきいた。「この司令室に?」
「ええ……でも、医療班のキャロラインにそっといっておきましたから……」とバーバは口ごもった。「ぼくなんかここで、大事にしてもらっているからいいけど……この作業内容とスケジュールじゃ、誰でもまいりますよ」
「キャルが知っているならいい……」英二はうなずいた。「第三次引き揚げの時に、できるだけ、そういった連中を優先的に退避させる。――あとでキャルにチェックしてもらおう」
「でも、もうそのキャロライン自身が、まいりかけているんですよ……」とバーバは肩をすくめた。「カルロスなんかが……ちっとも彼女のいう事をきかないもんだから……」
「うるせえ! 坊主……」とカルロスは、コンソールを見つめながらうめいた。「ほら、早く行け。連絡艇《シヤトル》が出るって、アナウンスがわめいてるぞ……」
「ええ、じゃ……」と、行きかけてバーバ少年は、ふと思い出したように、ふりかえって早口でいった。「そうだ、カルロス……。ちょっと個人的にやりかけている計算があるんですけど、あとから〃ナンシィ〃にきいて、チェックしてみてください。ファイルFOR6からAFT2にかけてはいっています。パス・ワードは〃マーハヤーナ60〃です……」
「何の計算だ?」
「ええ、あの……〃X点〃が、太陽と、木星の摂動をうけて、すこしコースにぐらつきが出はじめているんじゃないか、と思われる兆候が見られるんです。そうだとした時の条件を挿入して、三通りの解答を出してみました。八割終ってますから、あとは……」
「わかった、バーバ……」カルロスはコンソールを見つめたまま、バーバの方にぐっと手をつき出した。「ありがとう。君はほんとによくやってくれた……。心から礼をいう……」
バーバは、びっくりしたようにカルロスの手を見つめていたが、すぐ、その手をしっかりとにぎりしめると、「じゃ、元気で、カルロス……」と、ちょっと鼻のつまった声でいった。「またいつか……おあいしましょう。きっと、おあいできますよね……」
バーバは、無理に歯をむき出して笑おうとしたが、突然そのつぶらな眼に、大粒の涙がふくれ上がった。――少年は、わざとはずんだ調子で手をふると、一散に出口へむかって走った。肘を曲げ、握り拳で横なぐりに眼をぬぐいながら……。
司令室の第二次引き揚げ組は、バーバが最後で、彼が出て行ってしまうと、あとは急に静かになった。――当初百人以上の人間が、火事場のように働いていた司令室も、今では三十人たらずの男女が残っているだけになり、大スクリーン上の数字や図表、映像、そしてずらりとならんだコンソールのディスプレイやランプは、相変らずせわしなく点滅していたが、全体としてがらんとしてきた。
しん、とした感じになった司令室の外から、連絡艇《シヤトル》出発の合図のブザーが、通路を通じてかすかに遠くきこえてきた。――カルロスはコンソールに手をのばして、正面大スクリーンの映像を、基地周辺にきりかえた。
右三分の一に、巨大な木星の赤道附近がうつり、ちょうど中央あたりに、六角形のクロック衛星《サテライト》がうつし出された。暗い空間を背景にうき上がる巨大な赤いディジタル表示は106Hをさし、分表示以下が、ちょうどゼロになろうとしている所だった。――その衛星での事故で死んだブーカーの事を思い出すから、といって最初見るのをいやがっていたカルロスは、最近では何もいわなくなった。
画面の左の端には、いま、第一衛星イオが赤茶けた姿をあらわしつつあった。――遠すぎてよく見えないが、木星周辺に配置された、JNシステム装置群や作業基地衛星から、いま大小無数の連絡艇《シヤトル》がとびたち、赤、緑、黄の航行灯を点滅させつつ、銀色の羽虫のように小さく光りながら、ミネルヴァ軌道に待機中の、十五隻の高速貨客宇宙船にむかって集ってくる。第二次撤退用の宇宙船団は、「グループ・イエロー」のしるしの黄色い信号灯をつけていた。
そして大スクリーンの左上方には、第三次撤退用の船団十二隻が、すでに木星から一千万キロの距離に接近しつつある事が表示されていた。
「パス・ワードは〃大船《マーハヤーナ》〃か……」とカルロスはスクリーンを見上げながらつぶやいた。「バーバのやつ……恒星間宇宙船《スター・シツプ》にのせてもらえればいいがな……」
「その可能性はある……」と、英二はつぶやいた。「脱出船団のM―43以降は、太陽系開発機構に一部開放された。主として女性や子供だが……。最後の船団になるM―59とM―60には、かなりスペースがさかれるらしい……」
「それも選択はコンピューターまかせだろ?」カルロスは低い声でいった。「そういえば、ランセンは、事故死じゃなくて自殺だという噂をきいたが……彼も本当は、仕事の重圧にたえきれなくなって、脱出組にまわりたかったんじゃないか?」
「部長はそんな人間じゃない……」と英二は強い口調でいった。「あれは事故だ。総裁《ボス》がそういっていた。彼も疲れ切って……」
突然、正面の大スクリーンの左下に、赤と青の割り込み《ブレーク・イン》シグナルが点滅した。
「宇宙空軍《スペース・フオース》チャンネルでメッセージがはいっています……」と電子脳《ブレイン》の声がした。「SBS船隊〃フラッシュ・バード〃からです……」
「きりかえろ」と英二はいった。
正面映像がきりかわって、鋭い針のような、頑丈そうな艇体と、巨大な円錐形の切りはなし式超高速ブースターを艇尾に四基もとりつけた、一種異様な、獰猛な感じさえするSBS――〃宇宙《スペース》ホットロッド〃の綽名をもつスーパー・ブースター・シップの大船団が画面一ぱいにうつった。6Gから7G加速を、十五分以上連続させることのできるスーパー・ブースターは、今は点火されておらず、艇体にとりつけられた核融合ロケットの三分の一をつかって、加速乃至は減速中だった。
「ミネルヴァ基地、〃グループ・レッド〃の諸君……こちらは緊急退避船隊〃フラッシュ・バード〃……私は船隊司令のダルグレン大佐だ……」
画面右上部に、ワイプで宇宙空軍のヘルメットをかぶった三十五、六の、精悍そうな軍人の顔がうつって、よびかけてきた。
「われわれの船隊十六隻は、現在、木星より一億キロのポイントを通過しつつある。――あと三十時間で、木星周辺の予定点へ到達、諸君らの最終撤退支援のために展開《スタンバイ》の予定である。B・B・J計画最終段階へむけて、諸君らの健闘を祈る……以上……」
ダルグレン大佐の顔は画面からふっと消えたが、航行灯を点滅させながら編隊を組んで進む〃フラッシュ・バード〃船隊の映像はなおしばらく残り、その背景にかすれた雑音だらけの音楽が流れた。
「混信か?」とカルロスはきいた。「なんだ、この音楽は?――このごろ通信の中にちょいちょいまぎれこんでいるけど……」
「〃バイバイ・ジュピター〃っていうんだ。知らないのか?」英二は、画面を見上げながらいった。「このごろ、地球でも宇宙空間でも、すごくはやってるらしい。――ピーターっていう、フロリダにいる、新興宗教の教祖みたいな歌手がつくったんだ。〃ジュピター〃っていうのは、彼がすごく可愛がっていた教団のマスコットみたいなイルカの名で、そいつが鮫におそわれて死んだ時、ピーターがつくったんだ。――おれはちょうど、この歌ができる時、その場にいた……」
「〃バイバイ・ジュピター……大きな友だち……〃か……」カルロスは、椅子の背にもたれ、頭の後に手を組んで眼をつぶり、ちょっと歌のメロディをなぞった。「おれたちのB・B・J計画――〃バイバイ・ジュピター計画〃の歌かと思ったぜ……。悲しい歌だな。イルカっていうより、まるであの木星《ジユピター》にささげられた歌みたいじゃないか……」
「またその歌か……」と、ダルグレン大佐は、通信士をふりかえって眉をしかめた。「いい歌だが、きいてると悲しくなって気がめいる……。流しているのはどの艇だ?」
「われわれの船団ではありません……」と通信士は、オープン回路の音量を少ししぼりながらいった。「いま、二万キロの距離ですれちがいつつある、B・B・J作業班の第一次引き揚げ隊の船団が、お互い流しっぱなしに流しているんです。――船内では、みんな木星の映像を見て、泣きながら合唱してるんでしょうね、きっと……」
「ふむ……」と大佐は鼻を鳴らして、コックピットの正面のスクリーンに、もうほとんど大半をしめるくらいの大きさでうつっている、オレンジと白の縞のはいった、巨大な惑星の姿を眺めた。
「〃バイバイ・木星《ジユピター》〃か……。たしかに、あと百時間ちょっとで、あのでかい惑星と、永遠にバイバイしなきゃならんわけだな……」
「ごらんなさい、司令……」とパイロットが妙に静かな声でいってスクリーンを指さした。「木星《ジユピター》の、あの大赤斑……あれが、ほら、何だか涙を流してるみたいに見えます……」
バイバイ・ジュピター……
のメロディと歌は、〃フラッシュ・バード〃船隊の前方約六千万キロの所を、木星にむかって航行しつつある、一機の無人貨物船《カーゴ》の、第三船倉の奥にも、かすかに流れていた。――正確にいうと、その船倉に、他の機械と一緒につみこまれている、十二台の緊急脱出用宇宙カプセルの中の生命維持装置のはいった四台の内部に……。
「アニタ……」と、カプセルの中に横たわったマリアは、かすかに顔を動かして、枕もとのマイクにささやいた。「あなた、またあの歌きいてるの?」
「私じゃない……」と隣のカプセルにいるアニタが、しわがれた声でこたえた。「近くをすれちがっている船団が、お互いに流しているのを、通信機がひろっているらしいわ……」
「かわいそうなピーター……」とマリアはそっとつぶやいて涙ぐんだ。「かわいそうな〃ジュピター〃……」
アニタは、カプセルの中で、大きく眼を見開いたまま、イアフォンから流れる雑音の多いメロディをきいていた。――みんな、何もわかっていないんだ……とアニタは、ギラギラと燃えるような眼付きで、カプセルの窓の外の暗い空間を見つめながら思った。――誰も、何もわかっていないんだ。この歌は……ピーターが、私にむかって、伝えようとしている使命《ミツシヨン》なんだ……。イルカの〃ジュピター〃は死んだ。だけど、太陽系の木星《ジユピター》は死なせてはならない……木星《ジユピター》を守れ、という……。とりわけこれは、私に特別にむけられたメッセージなんだ。なぜなら……なぜなら……ピーターの心を……彼の本質を、本当に理解していたのは私だけだし、私と彼とは、一枚のカードの裏と表のように一体だったからだ。彼が本当に愛していた〃ジュピター〃は、あのイルカではなくて、私だったはずだからだ……。ああ、彼のあの歌……あの声……この歌は、すべて「反語」だ。私にはわかる……。〃さよなら〃といいながら、彼は、実は、破壊されようとしているあの木星《ジユピター》を〃守れ〃、といっている……。私に、彼の太陽系宇宙におけるあの「分身」である木星《ジユピター》を……そして、私自身を――つまりは彼そのものを、守れ、と叫んでいる……。
「アニタ……」と、別のカプセルから男がよびかけた。「あとどのくらいだ? まだ長いか?」
「もう十時間ちょっと……」アニタは体の横の、武器のケースにふれながらいった。「栄養剤を飲んで、もう一眠りしておきなさい……」
4 B・Tマイナス六○H…フェイズ・レッド
「最終テスト終了!」
と、電子脳《ブレイン》がアナウンスするより早く、マイクをにぎりしめ、英二は叫んだ。
「只今B・Tマイナス六二H一四M○九S……あと二時間ちょっとで、全システムはフェイズ・レッドに突入する。――諸君、よくやってくれた。このままの体制でフェイズ・レッドへもちこむ。――グループ・レッドを残して、グループ・オレンジはただちに退去にかかれ。以上……」
英二のアナウンスにつづいて、電子脳《ブレイン》が、第三次引き揚げ組の乗船についての指示をアナウンスしはじめた。
B・B・J計画の作業ピーク時、木星の周辺には、ミネルヴァ基地を司令部にして、四万人近くの人員が働いていた。
だが、第一次、第二次の引き揚げで三万数千人がはなれ、第三次の引き揚げで残りの大部分が退去して、いよいよJNシステムが本格的に作動を開始する〃フェイズ・レッド〃の段階では、木星周辺には、千名弱しか残らなくなる。――そして、この最終段階に残ったグループ・レッドも、二十時間毎に、緊急脱出用に特別編成された〃フラッシュ・バード〃船隊によって、逐次木星周辺から撤退して行き、最後には、ミネルヴァ基地内に百二十名余りが残る予定だった。この百二十余名が、最終的に木星周辺から脱出するぎりぎりのデッド・ラインが、B・Tマイナス○○五……木星爆破開始時刻の五時間前だった。
ミネルヴァ基地の作業司令室では、すでに第二次引き揚げの時、大部分のメンバーが退去してしまい、第三次引き揚げのメンバーは十六、七名だった。――そして〃フェイズ・レッド〃の段階で残るのは、英二とカルロスをふくめてわずか十四名……ミネルヴァ基地全体で、六十名余りだった。
第三次引き揚げで退去するグループ・オレンジのメンバーは、コンソールの前や、それぞれの持ち場をはなれると、疲れ切った表情で出口の方にむかった。中には手まわしよく、荷物を持ち場にはこびこんでいたものもあった。
「じゃ、主任……」と、彼らのうちの誰彼は英二の傍を通る時、握手をもとめて口々にいった。「お先に行きます。……主任も、みなさんも、どうか御無事で……成功を祈ります……」
「ごくろうさん……ありがとう……」と、次々に握手をかわしながら英二は、うなずき、肩をたたいてねぎらった。「大丈夫、……きっとうまく行くさ……。われわれも、もうすぐ引き揚げるから……」
英二も彼らも、眼があうと無理にほほえもうとした。――だがその笑いは、口もとにこわばって凍りつき、お互いすぐに眼をふせてしまうのだった。去って行く彼らの顔には、辛く長かった任務を終えて、危険区域をはなれる事のできる喜びのかわりに、重く、苦しげな、不安と危惧の影が鉛色にのしかかっていた。
――いよいよ、だ……
と、彼ら一人一人の表情は、その胸のうちに湧き上がる、重苦しいつぶやきを語っていた。
――いよいよ……木星破壊の本番のはじまりだ……。全システムは、本番になってうまく作動するだろうか?……木星は、本当に、計算通りに爆発するだろうか?……そして、その巨大な質量の大半と、爆発のエネルギーは、予定通りにブラックホールを直撃するだろうか?……そして、本当にあの〃怪物〃は、コースをかえ、太陽からそれて行くのだろうか?……
司令室を去って行くグループ・オレンジのメンバーは、誰もがドアの所でちょっとふりかえり、司令室と、さまざまな映像、数式、グラフのうつし出された表示スクリーンを見て行った。――中には、立ちどまって、長年住みなれた家とわかれる時のように、なにやら名残おしそうに司令室の中を見わたし、スクリーンの映像やコンソールのディスプレイを、記憶の中にやきつけようとするように、ひとつひとつ、思いをこめた眼で確認してから出て行くものもいた。
「主任……」
と英二の背後で、かすれた女の声がした。――ふりむくと、B・B・J計画開始の少し前に赴任した、あの若い看護婦がたっていた。
「やあ、キャロライン……」といって、英二は看護婦の肩に手をおいた。「第二次の時に引き揚げてもよかったのに……。ずいぶんがんばってくれたね!」
キャロラインは、すっかりやつれ、顔がすすけ、髪も乱れて、眼の下に隈をつくっていた。――うす汚れた白衣の下で、あれほど見事だったバストさえ、しぼんだように見えた。彼女は第三次引き揚げまで残る事を志願し、過労のため次々にひっくりかえる作業員を相手に奮闘をつづけた。医務室には、彼女のほかに四人働いていたが、医療班そのものが、過労で次々にたおれたり、半病人のようになり、ついにはもっとも若く元気だった彼女一人が、ほとんど不眠不休で働きつづけるような状況になった。B・B・J計画は、ある種のブラックホールのように、彼女の若さを吸いとってしまったように見えた。
「アルバレスさんを……充分注意してあげてください、主任……」と、看護婦は、べそをかくような表情でいった。「まだ、体が本当じゃないんですから……特に、引き揚げの時は、よろしくおねがいします。最終便にのこることになると、かなりすごい加速をするそうですから……」
「わかったよ、キャル……」とカルロスがコンソールの所から、背をむけたままいった。「君はいい子だ。充分に注意するよ……」
「それからあと……」看護婦は、ちょっとあたりを見まわしながら声をおとした。「〃グループ・レッド〃の中に、疲労と精神的重圧で、相当神経がまいっている人も、何人かいます。まわりで、注意してあげてください。――処置はほどこしてきましたから、大丈夫だとは思いますけど……」
英二の頭の中に、ふと、スワミ・バーバが引き揚げる時、同じような事をいっていた記憶がうかんだ。
「わかった。気をつけよう……」と英二はうなずいた。「で――君の見た所では誰と誰だ? この司令室に残る組にもいるか?……」
「ええ、あの……」キャロラインは眼を伏せ、口ごもった。「ここですと、ギルがかなりまいっています。もし彼がまいったようだったら、鎮静剤じゃなくて、睡眠剤を処置してください。ソムノラントDがいいと思います……」
ギル――ときいて、英二は思わず、三つ四つむこうのコンソールの方に眼をやった。
ギルは、さっきからずっとそのコンソールのディスプレイに、歯をくいしばり、眼をぎらぎらさせ、食い入るような表情で見入っており、その傍に、退去して行こうとしているグループ・オレンジの一人が立って、肩ごしに、しきりに何か語りかけていた。
「きいているのか、ギル……」とその男はいった。「いいか、もう一度いうぜ。――〃フェイズ・レッド〃の人員撤収時に必要な救難用の予備機材をつんだ無人貨物船《カーゴ》RC209の到着が、どういうわけかおくれちまっている。もういまごろついていなきゃいけないんだが、到着が、五、六時間もおくれて、〃フェイズ・レッド〃にはいってから、着く事になった。収容はもうプログラムしてあるが、Fデッキだ。機材は、事故さえ起らなきゃいらないようなもんだが、一応〃フェイズ・レッド〃では、そろえておく事になっている。おくれた理由について、火星の本部の方から、どうも予定より積荷の重量が少しオーヴァーしているらしい、といってきたが、通信回線が混んでいて、あまりくわしい事はわからない。だから、もしそのRC209がついたら、一応積荷をチェックしてみてくれ。――ここに積荷のリストがあるから……」
「わかった! わかった! わかった!」と、突然ギルは、手をひろげ、顔をまっ赤にして、眼をむいてわめいた。「いま、おれに話しかけないでくれ!――おれは、おれなりの、大事な計算をしてるんだから……。何かあったら、おれのコンソールに、メモを送りこんどいてくれ!――とにかく、邪魔をするな! さっさと消えちまえ!」
男はびっくりしたような顔をして、ちょっと肩をすくめ、ギルの傍のアシスタント・ターミナルを通じて、メモを登録しはじめた。
ギルは、グループ・レッドからはずして、いま引き揚げさせるべきかな……という考えが、ちらと英二の頭をかすめた。――しかし、今となっては、ギルがカルロスにつぐ中枢メンバーであり、しかも第三次引き揚げ組の中に、咄嗟にはギルのかわりのできるものが思い当らない事から、急いでその考えをふりはらった。
「なるほど……」と英二は、看護婦の方をふりむいていった。「ギルは、昔から知っているが、仕事にうちこみすぎると、時々ああなるんだ。でも、大丈夫だと思うよ。根はしっかりした男だから……とにかく、気をつけてはみよう。ありがとう、キャロライン……」
そういって、英二は看護婦の両肩に手をおいてひきよせると、化粧っ気のない、かさかさにあれた両頬に軽くキスをした。――キャロラインは、おびえたように身をすくめ、体をひくようにした。唇をふれる時、彼女の垢じみた服の襟もとから、ぷん、と汗のすえた臭いがして、彼女自身がそれを意識し、体をかたくしたのがわかった。
――かわいそうに……忙しすぎて、着替えをする暇も、シャワーを浴びる時間もなかったのだ……。と、いたいたしい思いにかられて、英二は彼女の体をそっとはなした。――若い娘なのに……こんな仕事で……。
「さよなら、主任……、さよなら、カルロス」
看護婦は、ぽっと頬を染めると、かすかに会釈して二人の前をはなれた。
「間もなく……だ……」と、誰かが傍でうめくようにいった。「あと一時間たらずで、〃フェイズ・レッド〃……木星爆破システムの作動開始だ……」
火星衛星軌道上にあるOPDO―AXの〃プロジェクトX〃司令本部で、みんなの眼は、大スクリーンの右上に輝くディジタル・クロックを見上げていた。
「総裁の様子は?」
ミリーは、通りかかった田中をよびとめてきいた。
「もうすっかりいいようだ。――もうすぐ、ここへくる」と田中はいった。「火星の中央病院の特別病室から指揮をとるのは、うんざりしたらしい。あんまりいろいろすると、かえって血圧が上がるという事で、とうとう医長も折れて、現場復帰をみとめた」
「ずっと病院にいればいいのに……。静かで助かるわ。――でも、思ったより長びいたわね」
「中央病院できいたんだけど――ここだけの話だけど、もうあの人の体は、かなりぼろぼろらしい。何しろ長い間、月面の1/6Gの重力になれていたんでね。こちらへうつってから、急速に、体のいろんな所に問題が出てきたらしい……」
「そんな状態で、ここの現場へ来て大丈夫なの?」
「大丈夫……今の所は、完全に恢復した。体の方も、今すぐどうだってもんじゃない。頭の方も、まったく正常だ。ただ――すこしばかり、記憶の脱落が起っているが、これも徐々に恢復する、と医者はいっている……」
司令室の入口の方が、すこしさわがしくなって、何人かにつきそわれたウェッブの巨体があらわれた。――その体は車椅子にのっており、傍に長身のバーナード博士がつきそっていた。
かけよった二、三人の握手をめんどうくさそうにうけると、ウェッブ総裁は、いきなり車椅子のマイクをとりあげて大声でいった。「ウェッブだ。みんなそのままきけ。私はこの通り元気で、この司令室にかえってきた……」軽い歓声と、何人かの拍手が起った。「諸君、いよいよあと何分かで、〃フェイズ・レッド〃だ。計画のあらゆる側面に対する、就中《なかんずく》、木星周辺のJNSチームへのバックアップを、万遺漏なきよう進行してくれ。以上だ……」
そういい終ると、ウェッブはなれた手つきで車椅子を操縦しながらミリーの方へ近づいてきた。
「おひさしぶりです。総裁……」とミリーはたち上がってウェッブにほほえみかけた。「お元気になられてよかったわ」
「ミリー……」とつぶやいて、ウェッブは、はじめてあう人物を見るような眼つきで、ミリーをまじまじと見つめた。「ミリセント・ウイレム博士?」
「ええ……いやですわ、エド……私の事、お忘れになったの?」
「いや……何だか、ちょっと様子が変って……少し年をとられたように見えたので……いや、これは失礼……」ウェッブは顔面をもごもごさせていった。「ほかの事はどうもないのだが、ごく最近の記憶が、脱字があるみたいに、ところどころぽかっとぬけておってね……。そうだ、ミリー……あなたおぼえておらんか? 私はたしか……たおれる少し前、ここにいて、シャドリクからの通信のしらせをうけたな?」
「ええ……」
「そのあと、あんたに、あるいは誰かに、シャドリクとの会話の内容をしゃべったか?」
「いいえ――個人ブースから出てこられてすぐ、ランセン部長の事故の事をきかれて、それで……でも、シャドリク議員との間に何かありましたの?」
「いや……それがはっきり思い出せんので気になっているのだが……。シャドリクから聞いた話で、何か大切な事があったような気がして……それを誰かにつたえようとしたような気がするんだが、そこがどうも思い出せんのだ。それがランセンの自殺と関係があるような気もするのだが……」
「ちょっと……」とつきそっていたバーナード博士が、少し表情をかたくして口を挿んだ。「いま、何といった? エド……ランセンの死は自殺だったのか?」
「えっ」と、ウェッブはうたがわしそうな眼つきでバーナードとミリーの顔を見くらべた。「わしがいま、そんな事をいったか?」
「いいえ……」ミリーは、バーナード博士の眼を見ながらきっぱりといった。「そんな事はおっしゃいませんでしたわ。――ランセン部長は、事故死でした……」
〃ウェッブ総裁……〃と電子脳《ブレイン》の声がよんだ。
〃大統領からの通信がはいっています……〃
〃P・R《フエイズ・レツド》五分前……秒読み開始……〃
と電子脳《ブレイン》のアナウンスが、冷たく機械的にひびきわたった。
ミネルヴァ基地のJNS司令室の中には、重苦しい静寂の上に、皮膚がびりびりするような緊張がみちていた。
ずらりとならんだコンソール群の間には、最後の段階に残ったグループ・レッドの要員が、まばらにすわり、息をつめてコンソールのディスプレイと、正面の多面表示大スクリーンを見つめていた。――いま、スクリーン中央には、木星の巨大な姿がうつし出され、その両脇に、木星の周辺の、赤道面軌道と極軌道上にうかぶ、無数のJNS装置群の記号と、作動状況を示すデータ群が、左の方には、システム全体の状態を示すカラー表示群が、そして右の方には、〃X点〃……ブラックホールと太陽系の相対関係を示す図と、数値データと、グラフ群がうつし出されていた。
まがまがしい〃暗黒の渦〃は、もうすぐそこまで来ていた。――木星との相対距離は四億四千万キロ弱、土星軌道よりはるか内側へはいりこみ、木星軌道と火星軌道のへだたりよりもまだ近い所に……。虚無の空間をきりさいてつきすすんでくるその「重力の落し穴」の重苦しくのしかかってくるような気配は、もう司令室内の空間にさえ、ひしひしと、感じられるほどだった。
〃P・R三分前……システム・オール・グリーン……秒読み続行中……〃
と電子脳《ブレイン》がいった。とたんに、
「だめだ!」とギルがおそろしい声でわめいて立ち上がった。「だめだ!……こんなおそろしい事が……こんな途方もない事が、できるものか……人間のちっぽけな力で、あんな……巨大な惑星を爆破するなんて事が……そんな事できっこない。うまく行くはずがあるもんか……みんな、見ろ!……ほんとに、あの木星をぶっとばせると思うのか? みんな正気か? あんな巨大な惑星を爆破して、ブラックホールにうまく命中させるなんて事が、できると信じているのか?」
だめだ、だめだ、だめだ!……と泣き叫びながら、ギルはコンソールをぶったたきはじめた。傍にあった通信機をふり上げてディスプレイにたたきつけ、火花と煙が上がった。
「みんな持ち場をはなれるな!」
と、腰をうかしかけた二、三人にむかって叫びながら、英二はすばやくギルの後にかけよって、羽交いじめにしながら、手ににぎったソムノラントD入りのアンピンをすばやく首筋にさした。
「よし、ギル……すこし休んでいろ……。みんな、システム緊急チェックだ。コンソールをきりかえろ!」
〃二分前……システム・オール・グリーン……秒読み続行……〃と電子脳《ブレイン》はアナウンスした。
5 B・Tマイナス四○H…ステップ2
「〃プロジェクトX〃は、すべてにわたって順調に進行中です。大統領閣下……」秘密通信ブースの中で、ウェッブはそういって、ちょっと言葉をきり、右上のモニターに出ている太陽系標準時表示をしばらく見つめた。「B・B・J計画の方も、これまでの段階は、順調に進みつつあります。またいま――JNシステムは、すべてのテストを終って、本格的な作動段階に突入したはずです。報告は四十数分後にはいってくるでしょうが、これまでの経過から見て、全システムは予定通りに作動するものと確信しております」
ブースの映像パネルには、地球上の大統領執務室の光景がうつっていた。
小柄なミン大統領が、低いテーブルを前に、愛用のステッキをついて車椅子にのっており、その傍に、和服を着た、上品な銀髪の日本女性――大統領夫人が、つつましやかによりそっている。大統領の背後には、秘書や補佐官たちが立ち、その横には、すっかり憔悴しきって面変りしてしまったシュクロフスキイ副大統領が、同じように車椅子に坐って、肘かけをぎゅっとにぎりしめている。
――太陽系宇宙は、今や車椅子だらけだ……
と、ウェッブは、自分とカルロスの事を思いうかべながらふと思った。
〃プロジェクトX〃総司令部のある火星衛星軌道上のOPDO―AXと、地球との間の通信は、現在片道五分弱かかる。往復で十分だ。映像はつなぎっぱなしになっているが、双方とも十分間のインターヴァルをおいた「会話」に辛抱づよくたえねばならない。
大統領にこちらの音声がとどき、その返事がかえってくる間、ウェッブは標準時刻表示を、祈るような眼つきで見つめていた。――二分前に、JNシステムは、最終段階の〃フェイズ・レッド〃にはいったはずだ。太陽系最大の惑星を、一挙に小型の〃新星《ノヴア》〃にかえ、大爆発の進行に偏りをもたせて、ブラックホールを「打つ」巨大なミサイルとする途方もないシステムは、ついに後もどりのできないレールの上をゆっくりすべりはじめた。
――うまく行ってくれ……
と、甲斐のない事とは知りながら、ウェッブは拳をにぎりしめながら、祈るように胸の中でつぶやいた。
――システムは、本当に順調に作動しはじめたんだろうな……畜生! 早く報告がとどけばいいが……。
〃三十分経過……〃とミネルヴァ基地の中に、電子脳《ブレイン》の、冷静で機械的なアナウンスがひびきわたった。〃全システム、順調に作動中……〃
「ミネルヴァ基地、〃グループ・レッド〃の諸君……」突然、破れ鐘のような声で、通信回路からの割りこみ《ブレーク・イン》がスピーカーを通してなりわたった。「こちら〃フラッシュ・バード〃船隊司令のダルグレン大佐だ……。現在、予定より四十五分おくれで、本船隊は、予定空域での展開を完了、脱出待機態勢にはいった。グループ・レッド1、グループ・レッド2、いつでも来てくれ。以上……」
「こちらミネルヴァ基地B・B・J司令室……ありがとう、ダルグレン大佐……」と英二は、カフをあげてインカムのマイクにむかって言った。「二十時間後の第一次引き揚げ組の人数に若干変更がある。グループ・レッド1に、一名……いや二名追加する。追加人名は、いま電子脳《ブレイン》が報告する……」
フェイズ・レッド突入寸前に、神経発作を起して狂乱状態になったギルは、睡眠薬を注射され、毛布にかたくくるまれたまま、司令室の通路のベンチに横たえられていた。――深い眠りにはいっているにもかかわらず、その体は時折ぶるっとふるえ、歯ががちがち鳴った。フェイズ・レッドにはいって四分後、もう一人、木星周辺にうかぶ加速機群のコントロール・シップの中で、緊張のあまり幻覚症状を起したものが出た、という報告があった。
「補充はいいんですか?」と、斜め前のコンソールにはりついていた青年がふりかえって心配そうにきいた。「私が残りましょうか?」
「いや――大丈夫だ……」と、フラッシュ・バードとの通信をきりながら英二はいった。「それより、一段落ついたら、ギルを医務室へ連れて行ってくれないか?」
「わかりました。――でも大丈夫ですか? いま、医務室には誰もいませんよ」
「五、六時間は眠りつづけると思うが……」英二は、土気色の顔をして鼾をかいているギルをふりかえった。「何なら、救難用カプセルでもここへ持ってきて、その中へ寝かせておこうか?」
「そいつはいい考えですね……」
司令室の多面ディスプレイ・スクリーンの左の片隅に、紫色のフレームが点滅しはじめ、小さく断続的にブザーが鳴り出した。
「何だ?」
と英二はふりむいてきいた。
「おくれていた無人貨物船《カーゴ》が、いま到着したんです」と誰かが隅の方から答えた。「Fデッキに自動収納します……」
「今どき到着なんて、間のぬけた話だ。――積荷は?」
「特殊機械の予備部品と、あとは脱出時に準備しておく救難カプセルその他です。あまり緊急のものはありません。――ええと……貨物船《カーゴ》について何か本部からのメッセージがはいっています。積荷が予定よりオーヴァー・ウェイトだったので、ついたらチェックしてほしいといってきています……」
「棺桶でもつみこんでくれたんじゃねえか……」と別の声がぼそぼそいった。「それとも、誰か景気づけに酒樽でもしのびこませたのかな?」
「オーケー、あとで手があいたらチェックしろ」と英二はいった。
「カルロス!」と最前列のコンソールにすわっている男がふりむいて叫んだ。「木星低緯度帯の電磁バーストがひどくなった。――加速機B7のセンサーが直撃を食ってブラックアウトだ……」
「予備をつかえ!」とカルロスが英二のすぐ傍からどなりかえした。「それでもだめだったら、B6とB8との間の通信回線をもう一チャンネルふやすんだ。――センサーの機能は恢復しそうにないか?」
「やってみる……」
「あまりいらいらしないでくれ、カルロス……」英二はそっとカルロスの肩に手をかけて言った。「君まで、ギルみたいになったら……おれはお手上げだ……」
「おれは大丈夫だ……」カルロスは、コンソールのスクリーンをにらみつけながらいった。「だけど、〃X点〃の、次の新しいデータが観測機からはいってこないんで、ちょっと頭に来てるんだ。――畜生め! この前のデータだと、ちょっとした微量変化が起りそうな兆候が見えていたのに……」
木星軌道から二億五千万キロ外側を遊弋する観測母機〃アルゴス〃の上で、ムハンマド・マンスールは、呆然としてディスプレイ・スクリーンの一つを見つめていた。――その上には、無数のぼやけた光の斑点があり、それらのいくつかは、歪んだ半円型にちかい形をしていて、その弧状の部分を、同じ方向にむけていた。
――彗星だ!……
と、マンスールは声もなくその斑点を見つめながら胸の中でくりかえしつぶやいた。
――大彗星群だ……いまになって……。
数すくない彗星研究の専門家だった彼は、驚きとともに一種の運命の皮肉といったものを感じざるを得なかった。
井上竜太郎とホジャ・キンという、優秀な学者と勇敢なパイロットを犠牲にした、「彗星源探査計画」は、そもそも彼、ムハンマド・マンスールが、太陽系から○・一光年あたりにひろがる〃彗星の巣〃に由来すると考える彗星の出現数が、近年激減した事によって発案し、推進したものだった。――そして、その計画にもとづいて出発した〃スペース・アロー〃の、太陽から千二百億キロはなれた空域における突然の通信途絶が、太陽系のすぐ傍にしのびよりつつある〃X点〃……ブラックホール発見のきっかけになったのだ。
いま、そのブラックホールが、太陽まで十二億キロメートル、木星までわずか四億キロメートルちょっとの所まで接近してきたこの時期になって、突然いくつもの彗星が、土星軌道ちかくにあらわれるとは、どういう事だろうか?――おそらくはブラックホールの影響によって、その進路からずっとはなれた軌道をまわる〃彗星の巣〃からはずれたものが、太陽へむかって落ちこんで来たのだろう。
――地球の上では、さぞかし夜は見事だろう……
と、ぼんやりとマンスールは思った。
――いっぺんに、こんなに沢山の彗星が見られるような事が……果して地球の歴史の中にあっただろうか?
「ムハンマド……」と、X点周辺をとぶ何台もの無人観測機からおくられてくるデータを解析している観測員がふりかえっていった。「いま、新しいデータがはいり出した。――B・B・J本部へ転送するから、圧縮コードにしてくれないか!」
マンスールは、はっとわれにかえって、シートに腰をおろし、データのパターン化処理装置を操作しはじめた。
「軌道要素にはほとんど変化がないが、ブラックホールの自転に少し新しい変化が出はじめたみたいだな……」とマンスールはいった。「自転軸が、ごくわずかだが、味噌すり運動をはじめてるような気配がある」
「太陽の……そしておそらくは、木星の引力の影響が出はじめたんじゃないかな……」と観測員はいった。「どうしよう? 六号観測機の軌道を、極方向に変えてみようか?」
「ああ……」マンスールは、手の甲で顔の汗をぬぐいながら、あいまいな返事をした。
「だけど、その軌道をとると――エルゴ領域からとび出して、ブラックホールに〃食われる〃危険が大きくなるな……。無人観測機はあといくつ残ってたっけ」
「七つだ――。いや十二号がもうじきぶっこわれるから六つだな」
マンスールは、分割画面の一つに眼をすえた。――X線と紫外線センサーをそなえ、X点の「赤道」に対して、十五度の軌道傾斜でとびつづける観測機からおくってくる積分映像には、ブラックホールのまわりにできている稀薄な物質の「輪」が、ぼんやりとうつし出されていた。内側へ行くほど、高温高密度になるその「輪」の中央の、何もないぽっかりと黒い部分が、虚無の底に口を開く「永遠の陥し穴」のしるしだった。
「もう木星の方では、〃フェイズ・レッド〃にはいったな……」マンスールは、分割画面を見わたしながらつぶやいた。「B・Tまで、観測機がもつかな?――よし、やってみよう……」
「B・Tマイナス五○H……〃フェイズ・レッド〃にはいってから十時間経過しました……」大統領執務室で、通信を担当している係員がふりむいていった。「全システムは、予定通り順調に作動しているようです。――木星周辺のB・B・J計画司令部から、本部あての通信を直接キャッチしました。細部になお、微調整の必要があるものの、システムは正常、目下の所、万事予定通り進行中……間もなくステップ2《ツー》をロックするそうです……」
「木星爆発開始まで、あと五十時間です……」と、補佐官の一人は、低い声で大統領にささやいた。「事の成否がはっきりするのは、それからさらに四、五時間あとです。――少しお休みになったらいかがですか? あまりおつめになると、お体にさわります……」
「ベッドをここへ持ちこんでくれんか?」大統領は壁面スクリーンを見ながらいった。「簡易ベッドでいい……。私は最後までここにいる……」
「EX船団M―60が、いま火星軌道をはなれました……」と秘書が報告した。「公式的には、これが最後の船団です。――しかし、残っている二十一隻で、特別の予備船団MS6が地球軌道上で編成中です。収容人員二十四万人……」
「ウェッブに乗れといっても、彼は絶対にいう事をきかんだろうな……」と大統領はつぶやいた。「〃フェイズ・レッド〃以後、太陽系宇宙に関する全権限を、彼に百時間の時限つきで与えてしまったからな……。彼はしかし、体の方は完全に恢復したのかな……」
「暴動発生のニュースです……」と報道官がメモを見ながらいった。「アジアで二か所、中東で四か所、ヨーロッパで二か所、アフリカで一か所、新大陸で三か所、いずれも小規模なものが発生していますが、ほとんど鎮圧されつつあります。ヨーロッパの宇宙港で起きた一つは、かなり大きくて、多少犠牲も出ましたが、今は平静にむかいつつある、という事です……」
「あと五十時間……いや、五十四、五時間か……」大統領は宙を見上げてつぶやいた。「それで……何も彼も、はっきりするのだな……何も彼も……」
「神に祈りますか?」
と、シュクロフスキイ副大統領が、眼を伏せるようにして、ぽつりといった。
「いや――不遜なようだが、今度ばかりはそんな気にはなれない……」と大統領は首をふっていた。「むしろ……人類の叡知と技術にむかって祈りたい……」
そういってしまってから、大統領の顔面に、かすかに懊悩の色が横切った。
「わしはまちがっているだろうか?」
と大統領は傍をふりかえって、夫人にきいた。
「私にはわかりません……」夫人は静かにほほえんだ。「でも――あなたが正しいと思われるのでしたら、それでよろしいのではございません?」
「これまで何度か、一人で祈りたくなったり、神にすがりたくなった事はあった……」大統領は、つらい告白をするような口調で、顔を伏せてつぶやいた。「だが、今度の場合は、なぜか……突然、この宇宙の中に、神というものはいないのではないか、と思うようになった。人間は……所詮、この宇宙の中では、神なしでやって行かなくてはならないのではないか、と……」
「おそらくあなたのおっしゃる事は正しいでしょう……」と副大統領は、眉間をもみながらいった。「いずれにしても、あと五十四、五時間で答が出ます。――その答が、どっちに転んでも……失敗しても成功しても、あなたのおっしゃる事は正しいでしょうね」
「よし――ステップ2《ツー》をロックしろ!」と英二はマイクに叫んだ。「現在B・Tマイナス四二H一三M○五Sだ……。グループ1退去まで二時間十三分ある。休めるものは、今のうち少し休んでおけ。各班のグループ1責任者は、退去用の連絡艇を点検……」
「コーヒーどうです?」と、傍の青年が湯気のたつカップをさし出した。「ああそうだ。――到着している無人貨物船《カーゴ》の積荷をチェックしておかなきゃ……」
「そんなに急がなくていいぞ……」と、小走りに走り去る青年の背に、英二は声をかけた。「別に大したものをつんでいないようだから……」
熱いコーヒーをすすりながら、英二はすぐ横で、脂汗をうかべて複雑な計算にとりくんでいるカルロスに声をかけた。「君も少し休んだらどうだ、カルロス……」
「それどころじゃねえや!」とカルロスは、コンソールのディスプレイをにらみすえながらわめいた。「ブラックホールめ、この期《ご》に及んで、大きく首をふりはじめやがった!……畜生め! システム作動にこの要素を何とかくみこみたいが、こちらのコンピューターは、目一杯つかってるし……そうだ! 〃アルゴス〃はいまどこらへんにいる?」
「木星から二億キロに近づいている」
「片道十分ちょっとか……よし、あいつのコンピューターをつかってやれ。何しろ〃アルゴス〃はコンピューターとアンテナの化け物みたいだから……」
「おい……いまからそんなに本格的に修正計算をやる気か?」と英二はおどろいていった。「全部終るまでどのくらいかかる?」
「二十時間……それで終れば、おんの字だ。神にでも悪魔にでも祈れ」
〃主任、……Fデッキです。今、貨物船《カーゴ》の積荷をチェックしました……〃とスピーカーから声がした。〃輸送本部からの途中申し送りでは、積載物の総計がリストより二百三、四十キロ重量オーヴァーの状態で飛行していたという事ですが、いま全部計ってみると、全然オーヴァーはありません。品物も総重量もリストどおりです。計測機がどうかしてたんじゃないでしょうか?〃
「わかった。ほかには?」
〃救難カプセル十二台中の四台の、生活維持装置が、どこかでリークしていたらしく、バッテリーや生活物質がかなりへっています。……補充しておきます……〃
「了解……」
ふっ、と、何か心にひっかかるものがあったが、英二はそのまま通信を切った。
6 ファイナル・ステップ
うす暗い赤い光が一つだけついているがらんとした倉庫の外で、鋭く警報が鳴りわたり、ききとりにくいアナウンスがびんびんひびいた。
それにつづいて、外の通路をあわただしく走る足音や、何か叫びあう声がいくつも通過した。
「なんだ?」
と、倉庫の片隅につまれた使用ずみの梱包材の蔭から、低い、おびえたような声がした。
「しっ!……」と、別の方向からしわがれた女の声がした。「いま、B・Tマイナス二○H四五M……グループ・レッド2の引き揚げよ……」
ぐん、とかすかな、衝撃とも振動ともつかないものが床をつたわってきた。――つづいて二つ、三つと衝撃がつづく。
「連絡艇《シヤトル》が出て行く……」と、別の男の声がぼそぼそときこえた。「これであと……大型連絡艇《シヤトル》は三隻残るだけだな」
「ゴールはまぢかよ……」と、しわがれた女の声がいった。「あと十五時間……それで、ミネルヴァ基地の連中はみんな引き揚げるわ」
「もう一度、復習をやってくれ、マリア……」と最初の男の声がいった。「なんだか――何度きいても、あがっちまって忘れそうだ……」
「いいわ……」と、きれいな若い女の声が反対側の隅からした。「みんなこっちへ来て。ここなら誰かが来ても、すぐには見つからないから……」
梱包材の後から二つ、少しはなれたコンテナー・ケースの蔭から一つ、黒い影がもそもそと起き上がって、警戒するようにドアの方を見ながら、反対側の大きな運搬機の背後に小走りにかけこんだ。
マリア・ベースハートは、集って来た仲間を見まわすと、顔にかかる茶色の髪をちょっとはらって、ポケットから黒い小さな円筒をとり出した。――マリアは長かった金髪を茶色に染め、襟首の所で切っていた。顔も人工皮膚のマスクですっかり別人のようになっていた。アニタも赤い髪を黒に染め、あと二人と同じように、全然別人の顔のマスクをつけていた。彼ら四人は、早い時期にL5宇宙《スペース》コロニイにもぐりこんで、そこの工作員の指示にしたがい、別人のIDバッジとマスクをつけて、「訓練」をうけた。バッジもマスクも、実在の人物のものだという事だったが、太陽系開発機構の職員であるその「実在の四人」が、もう始末されたのかどうか、彼らはきかされなかった。
間もなく彼らは、火星に送りこまれた。――そのうち連絡が混乱し、連絡員が事故で死んだらしい、という通信だけは何とかキャッチしたが、そのあと交替の連絡員とのコンタクトがないまま、予定の日時が来てしまった。あとは彼らのリーダーであるアニタの「鉄の意志」と「独自の判断」によって、B・B・J計画の最前線である、このミネルヴァ基地までたどりついたのだった。
「いいこと?――このプランは、二時間前にここの電子脳《ブレイン》からとった情報にもとづいているけど、もうそんなに変る事はないと思うわ」とマリアはいった。「実行直前に、もしできたらもう一度チェックしてみるつもりだけど……」
「危険じゃないか?」と鬚をはやした男が陰気な声でいった。「ここの電子脳《ブレイン》はだんだん仕事がへって行くはずだ。――もし、俺たちの侵入が気づかれたら……」
「いいから、説明して……」とアニタはいらいらした声でいった。「大丈夫……ファイナル・ステップがロックされてからもここの電子脳《ブレイン》は、システムの立ち上がり監視で、かなり忙しいはずよ」
マリアは黒い円筒のボタンをおした。一端から光がほとばしり、倉庫の壁の上に二○センチ×三○センチぐらいの、ミネルヴァ基地の内部の図が投影された。
「いま、私たちのいる倉庫はここ……」と、マリアは図の上を指さした。「B・Tマイナス二十時間で、ミネルヴァ基地の作業員はほとんど引き揚げて、あとに百二十二名か三名残っているだけ……JNシステムのほかの加速機群にも、二十名前後のこっているだけになるわ。――あと十二時間プラスマイナス一時間で、木星爆破システム全体はファイナル・ステップにロックされ、すべてのシステムの動きは、この基地から十二、三キロはなれた所にあるコントロール衛星にひきつがれるの……」
「ああ、ここへくる連絡艇の窓からちょっと見えた、あの赤いディジタル・クロックがついている衛星だな……」と、無鬚の青年がいった。「あれはクロック衛星といっていたんじゃないのか?」
「そう――でも、〃フェイズ・レッド〃にはいってから、あそこのコントロール装置が動き出して呼び方が変ったの……」とマリアはいった。「さっきの様子でわかったでしょうけど、ステップ・ロックの前後が一番作業員の緊張が高まるわ。電子脳《ブレイン》も一番忙しい時よ。――だから、ファイナル・ロックがはじまる少し前、ここをぬけ出して、この通路を通って、ここから非常口をぬけて、Gデッキに行くの……。ここよ」
マリアはボタンをおして映像をかえた。「Gデッキはいまほとんどからっぽで、小型の連絡ボートと、小型貨物艇が二、三隻あるだけ……電子脳《ブレイン》の情報をチェックしてみたら、いつでも発進できるようにはなっているけど、ここの乗物は、ミネルヴァ基地と一緒に遺棄される事になっているの……。グループ・レッドの最後のメンバーは、ぎりぎりB・Tマイナス○五Hに全員Dデッキから退去して、〃フラッシュ・バード〃にひろわれて、木星周辺から脱出するわ。――私たちは全員退去の二時間ほど前に、Gデッキに行って、適当な船にもぐりこんで待機し、〃フラッシュ・バード〃が発進するのを見とどけてから、コントロール衛星へ行き、枢要部を破壊して、システム作動をストップさせるの。――基地からコントロール衛星まで、片道四十五分、進入十五分、破壊装置のセットに三十分あればいいと思うわ……そのあと脱出して、この基地へかえって来て、救出を待つ……」
「救出は、本当にくるのか? アニタ……」鬚のマスクの男が、不安そうにきいた。「もうずいぶん長い事、上の方との連絡がないが……あんなに前にきめた作戦のままでやって、大丈夫なのかね?」
「来なければ来ないで、私が何とかするわよ」アニタは強い声でいった。「これまでだって、いつでもそうだったじゃないの。私にまかせておきなさいよ。――変更の指令がないかぎり、作戦は遂行すべきだわ……」
「コントロール衛星の内部は……ついにわからなかったのか?」
と鬚のない男がマリアにきいた。
「だめだったわ。――電子脳《ブレイン》のガードが特に厳重で……現場に行ってからしらべるほかないわね。だから進入時間に余裕を見ておいたの。衛星の非常脱出口のドアロックを解くコードだけは、辛うじてわかったけど……」
「もし、JNシステムの作動が、うまくストップできなかったら……おれたちはどうなるんだ?」と鬚の男は、神経質そうに指をにぎったり開いたりしながらいった。「もう、木星周辺から逃げるのに時間がない。――逃げ出そうにも長距離艇はない……」
「その時は……木星と一緒に死ぬのね」アニタは乾いた声でいった。「私たち、死を覚悟して、この作戦に加わったんじゃない?」
「でも、こんなぎりぎりになるとはな……」と鬚の男はうつむいてぶつぶついった。「もっとずっと前に、破壊して、連中をあきらめさせるんだと思っていたが……」
「それで……もしシステムが作動しなくて、木星が破壊をまぬがれたとして――ブラックホールはどうなるんだ?」もう一人の男が、ぼそりといった。「そのまま太陽にぶつからせるのか?」
「今はそんな事考えないで……」不意にアニタは、やさしい、あやすような口調でいった。「もうここまで来てしまったら、木星を救う事だけ考えるべきよ。――おじ気づくのは許されないわ。それに……本当に太陽にまっすぐぶつかるかどうかもわからないのよ。そんなにうまいピンポイント衝突《クラツシユ》なんて、確率からいっても起りっこないって、上層部がいってたでしょ?――多少の危険はあるが、SSDOの学者たちや、大統領がおびえて、はっきりしないうちに木星を犠牲にする事にきめちまったんだって……。あの連中のいう事ややる事は、信用できないって……」
「でも――もし連中のいっている通りだったとしたら……」鬚の男はふるえる声でいって、頭をかかえた。「おれたち……ひどい事をやろうとしているんじゃないだろうか?」
「正しい事をやろうとしているのよ、ダン!」アニタはそっと、鬚の男の頭を胸にかかえた。「すくなくとも、正しいと信じている事をやろうとしているのよ……。ピーターの教えを思い出しなさい。彼は……人類も、地球上の生物も、太陽系も、みんな兄弟で、運命共同体だって、いつも願っていたじゃない? もし、太陽がほろびる時はみんな一緒にほろびるんだわ。兄弟の……それも一番大きな、太陽系の長男の惑星だけを犠牲にして、ほかの者が助かろうなんて、そんな事考えるべきじゃないわ……」
「バイバイ・ジュピター……大きな友だち……」アニタの胸に頭をかかえられながら、鬚の男は、すすり泣くような声でかすかに歌った。「わかったよ、アニタ……君はぼくたちの巫女《みこ》さんだった……。君の神託がなければ、ぼくたちは、道一つ自分の判断で横切れなかった……」
「君は正気じゃない、アニタ……」鬚のない方の男は、膝をかかえて体を貧乏ゆすりさせながらつぶやいた。「君は……どこか狂ってる。どう狂ってるかぼくにははっきりわからないが……」
「どういう意味?」
「よくわからないが……君は殉教したいんだと思う……。木星を破壊から救いたいとか、太陽系をほろびるにまかせたいとか、そんな事は別に、君にとってどうでもいいんだ。君はただ……正しいと思いこんでいる事のために、殉教者として死にたいだけなんだ……」
「ええ、そうよ! 私は正気じゃないわ!……あんたたちだって、狂ってるわ!」突然アニタは金切り声で叫んだ。「私たちが正気じゃないとして……じゃ、ここで働いている連中はどうなの? B・B・J計画なんて狂気の計画を考え出して、それを実行にうつそうとしている太陽系開発機構の連中や、それに許可を与えた大統領はどうなの? 連中はいったい正気なの?――いい? 木星を破壊したって、それによって太陽系が助かる確率は、わずか二○パーセントだって事をきいたでしょう? そんなあやふやな事のために、厖大な人々と資材をつぎこもうとしている連中こそ、狂っているとしか思えないじゃないの!」
「しっ!」マリアが手にしたプロジェクターを消して、鋭く制した。「静かにして、アニタ……誰かくる……きこえるわ」
倉庫のすぐ外の通路を、かっ、かっと急ぎ足で近づいてくる足音がきこえた。――倉庫の中の四人は、息を殺して機械の後でうずくまった。足音は、急ぎ足に、大股でドアの前を通過し、司令室の方へ消えて行った。
ダンとよばれた、鬚のマスクをつけた男は、いつの間にか、アニタに頭をかかえられたまま、すうすうと寝息をたてていた。
「アニタ……」足音が消えて行くと、マリアは膝をかかえてぽつりといった。「あなた、ジュピターを殺したかったんじゃないの?」
「なぜ?――私たち木星《ジユピター》を守りに来たんでしょ?」
「そっちじゃないの。――イルカの〃ジュピター〃……」マリアは膝小僧に頬をこすりつけながらいった。「あなた、……〃ジュピター〃の事、嫉《や》いてたわ……」
「〃ジュピター〃は、鮫におそわれて死んだわ」アニタは硬張った声でいった。「ピーターは……あのイルカを媒介にして、太陽系の木星《ジユピター》とも交感していたのよ。地球の〃ジュピター〃が死んで、太陽系の木星《ジユピター》までが破壊されてしまったら、ピーターがどんなに……」
「そんな事じゃないと思うわ……」とマリアは小さい声でいった。「あなた……火星で、あの歌をきいて、〃ジュピター〃が死んだ話を耳にしてから、何だか人が変ったわ。それまで、連絡がつかないってあんなにいらいらして、必死になって連絡をとろうとしていたのに、あのニュースを耳にしてから、全然こちらから連絡をとろうとしなくなったじゃない?――あとは全部、あなたの判断だけでやってきたのよ。あなたは、〃ジュピター〃が、自分を犠牲にして、教団の人間を救った事をきいて……そして、ピーターが〃ジュピター〃のために、あの歌をつくった事をきいて、はりあう気になったんだと思うわ。あなたも、あのイルカに負けずに、あのイルカよりもっと大きい事のために、自分を犠牲にして、ピーターに、自分のために歌ってほしかったんだわ……」
「あなた、いつから精神分析医《アナライザー》になったの……」アニタは唇を曲げて毒々しい口調で応じた。「じゃ、あなたはどうなの?――あなたみたいな、ロマンティックでひよわなお嬢さんが、ここまでついてこられたのは……あなたの恋人がここにいるからでしょ? あなた、本当にあの英二って人を愛してるんだったら、今すぐ、彼の所にいって、彼のやろうとしている恐ろしい罪を、とめてやったらどうなの? あなたの愛情の力で、恋人を、罪を犯すチャンスから、救ってやったら?」
突然、ぐっとあついものが胸にこみ上げて来て、マリアは涙が眼にもり上がりそうになるのを感じた。
――そうだ、英二!……いま、私は彼のこんなに近くにいる!……いま、私がふれているこの床……この床のつらなる先のどこかに、いくつかの部屋をへだてて、数十メートルとはなれていないこの同じ基地の司令室に、英二はいる……。私は、地球から、宇宙コロニイを経て、火星でのあれほど長い待機をへて、はるばる暗い宇宙空間をこえて、こんなに彼の近くまでやってきた。……たったいま、あの眼の前のドアから出て行き、道路を左にむかって十秒ほどもつっ走れば、そこで英二にあえ、彼の胸にとびこむ事ができるのだ……だのに……。
「彼は……とめようとしてもとめられないわよ」とマリアはくぐもった声でいった。「だから……せめて、彼が去ったあと、彼のしかけた恐ろしい装置をとめる事によって、彼が罪をおかすのをとめようとして、ここまで……」
「泣いてるの? マリア……」とアニタは意地悪気な調子できいた。「また、泣いてるの?」
「薬ちょうだい、アニタ……」とマリアはかかえた膝の上に顔をおしつけながらいった。
「あんた、飲みすぎよ……」
「いいから、ちょうだいってば……」
とマリアは、涙にあふれた眼を膝にこすりつけながらくりかえした。
「フラッシュ・バード7――グループ・レッド2収容完了……人数に変更なし……」
とコックピットに雑音の多い声がひびきわたった。
「F・B7――了解」といって副長はダルグレン大佐の方をふりかえった。「グループ・レッド2、全員収容を終りました!」
「よろしい。――F・B7発進」とF・B船隊司令官はいった。「F・B5、F・B3は何をもたもたしている?――収容を終った船から逐次発進しろといってあるはずだぞ……」
「F・B3、ただいま発進しました。つづいてF・B5……F・B7……」
「さあ、いよいよ最終ラウンドだ……」と大佐は時計を見上げてつぶやいた。「あと十三時間だ……ファイナル・グループ、いつでもこいよ。7G加速というきつい一発をたっぷり味わわせてやるからな……」
「加速機D班! 赤道表面電流が上がりすぎてるぞ!――きこえるか? D班?」と英二は多面表示パネルの一角を見すえながらマイクにわめいた。「もう少しおとせ! 電磁流体効果で、木星大気プラズマが収斂を起している。電流を何とか十兆アンペアに維持しろ……表示K8を見ろ! ダイバージ・カーヴが……だめか? よし、それじゃ非常手段だ。加速機A6、A8、F4、G3を九十度回転させろ!」「ちょっと静かにしてくれんか?」と傍でカルロスが、脂汗を顔面一ぱいにうかべながらつぶやいた。「もうちょっとで計算が終りそうなのに、あまりわめかれると、挿入項をまちがえそうだ……」
「あとどのくらいかかりそうだ?」と、英二はふりかえってきいた。「ファイナル・ステップのロックまで、予定では二時間たらずだぞ……」
「もうそんなになったか……」カルロスは、コンソールの三面ディスプレイを見ながらうめいた。「こちらは、あと一時間……いや一時間半」
「それよりカルロス……あれを見てくれ……」と英二はカルロスの肩をつかんだ。「木星の様子がおかしいんだ。どうも――予想外の現象が起りかけているみたいだ……」
7 B・Tマイナス○五H…全員退去
「時間よ」
と薄暗がりの中で、アニタがおし殺した声でいった。
「さあ、みんな……いよいよ大詰めよ。気をしっかりもってね。……私たちもう、あともどりできないのよ……」
倉庫の梱包材や機械の後から、黒い影がもそもそと起き上がってきた。――アニタは、その影の一人一人にむかって手をのばし、何かを配った。
「武器と爆薬をチェックして……」とアニタはドアの傍の壁に背をつけながら顎をしゃくった。
「忘れものはないわね。――ダン、外は大丈夫?」
「ちょっと待って!」とマリアが腕時計型の小型ディスプレイを見ながら制した。「おかしいわ……。最終《フアイナル》ステップ・ロックのアナウンスがもう無ければいけないんだけど……。予定がおくれてるのかしら?」
「どうする?」とドアの所で、ダンがふりかえってきいた。「もう少し待つか?」
「今、外の様子は?」
「通路のずっとむこうまで、誰もいない」
「じゃ、行こう……」アニタはマリアの背をたたいた。「みんな気をつけて……」
ダンはレーザー銃《ガン》の安全装置をはずし、体の脇にぴったりつけて、倉庫のドアの隙間から、ミネルヴァ基地内の第四通路へしのび出た。――前後を見まわして、はげしく手をふって、進め、と合図する。
アニタとマリアが、そして最後に時限装置つきの爆薬のケースをかかえたシューが通路へしのび出て左へむかって小走りに進む。
「急いで!」とアニタは低い声で叱りつけるようにいった。「あそこの非常口まで、急ぐのよ!」
だが、突然たちどまって、一行をはげしくおしもどそうとした先頭のダンの腕に顔をぶつけ、アニタは声のない悲鳴をあげた。
「しっ!……誰かくる!」とダンは後ずさりしながらかすれて上ずった声でいった。「どこか……そこらへんにかくれろ!」
「こっち……」とマリアはアニタの腕をひっぱった。「この柱のかげ……」
第四通路とクロスしている通路のむこうから、あわただしい足音が近づいてきた。
「おい!……どうしたんだ?」と、その足音の主は、通路の奥へむかって叫んだ。「ファイナル・ステップのロックはまだか?――何か故障か?」
「ちがう……主任がまだGOを出さないんだ……」と通路の反対側からもう一人の声がきこえた。「ブラックホールの状態が、少し予想とちがってきたんで、いま全システムの微調整をカルロスがやりなおしている……」
「どのくらいおくれそうだ?――Gデッキの連絡艇《シヤトル》の発進準備は予定通りにすすめていいのか?」
「退避計画はすべて予定通りだ。ファイナル・ステップが、ロックされ次第、全員退避にかかる……」
「了解……」
そういうと足音の主は、第四通路と交叉する通路を走りぬけた。――銀色の耐火服を着た姿が、アニタたち四人のかくれている柱の前方数メートルの所を、稲妻のように横切るのがちらと見え、足音はタラップらしいものをやかましく鳴らしながら遠去かって行った。
「いいわ……」とアニタがダンの肩をおした。「こちらもGO! よ……」
四人は十五、六メートル先の非常口にむかって突進した。ダンが非常口のドアのハンドルをまわそうとして、指をいため、低くうめいた。アニタがとびついて、かたくしめつけられたハンドルを歯をむき出して、息をあえがせながら、やっとゆるめた。――たった四、五秒かかったにすぎないそれだけの事で、アニタのかぶっているマスクの人工皮膚の小穴から、汗が滝のようにふき出し、顎をしたたって流れおちた。
あいた非常口から四人はとびこみ、先にとびこんだダンがドアを閉めた。
「右へまっすぐ……」とマリアがハンド・ディスプレイを見ながらいう。「三番目のタラップをおりて、三層目のキャッツ・ウォークを左へ……」
やわらかい底の靴をはいていたが、薄い材料でできたキャッツ・ウォークやタラップはがたがたとやかましい音をたてた。――シューのかついでいる爆発物の袋が手摺にあたって大きな音をたてた。
通路はパイプや構造材の間を通って、分岐点へ出た。
「待って……」とマリアはディスプレイを見た。「ここから右だけど……Gデッキの前が、E、Fデッキまで見通しだから……」
「ダン、ちょっと様子を見てきて!」とアニタはいった。「人声がするような気がする」
ダンは体をまるめて、通路を右に走り、別の非常口からそっと外をのぞいて、急いでかえってきた。
「だめだ。――Fデッキの前にも、Gデッキの前にも、いま人がいる。燃料か何かをDデッキへはこんでる……」
「どうする……ここで待つかい?」とシューは息をはずませながらいった。「ここも、誰かにのぞかれたら……」
マリアは胸ポケットから円筒型のプロジェクターを出して、ボタンをおした。――壁に投影されたミネルヴァ基地内部の図面を、何枚も送って、一枚の図を指さした。
「ここからこのダクトを通れば、直接Gデッキの中へ行けるわ」
「Gデッキの中は空気があるんだろうな」とダンは心配そうにいった。「ヘルメットは持ってこなかったぜ」
「二十時間前の状態のままだったら大丈夫よ」とマリアはいった。「どうする? アニタ……」
「行ってみるしかないわね」とアニタはいった。「なるべく早くもぐりこんで、適当な船をえらばなきゃならないから……」
「こっちよ……」とマリアは手をふった。「シュー……あのダクトの蓋をあけてみて……」
「フラッシュ・バード1《ワン》からミネルヴァへ……」と、副長はいらいらとディスプレイ群を見まわしながらマイクによびかけた。「ハロー、ミネルヴァ……JNS司令室応答ねがいます……」
「こちらミネルヴァ……」と、スピーカーから早口の声がした。「F・B1《ワン》、いま猛烈にいそがしいんだ。しばらく交信に出られないが、悪く思わんでくれ……」
「ちょっと待て、ミネルヴァ……こちら、ダルグレンだ……」と、F・B船隊司令は、大急ぎで通話にわりこんだ。「どうした?――何かあったのか? ファイナル・ステップのロックが、予定時刻をかなりすぎているようだが……」
「もう少しです……」とスピーカーの声は、いらいらした調子でいった。「あと三、四十分……いや、四、五十分で、ロックできると思います。われわれは、最後の最後まで、成功の確率をコンマ一パーセントでも上げようと努力しているんですから……」
「了解……別にせかしているわけではない」とダルグレン大佐はいった。「こちらは脱出時間ぎりぎりまで……B・Tマイナス○五Hプラスマイナス三十分の間、残りの全機、待機しつづけるから、どうか心行くまでやってくれ……以上」
「大丈夫でしょうか?」と副長がディスプレイを見上げながら心配そうにいった。「いま、B・Tマイナス一○Hをわりました……。ファイナル・ステップのロック予定から二時間以上おくれています。――最終退去まで、あと五時間たらずです……」
「大丈夫かどうかといっても……JNシステムそのものは、もう五十時間前に作動をはじめているんだ……」ダルグレン大佐は、ふうっと棒のような太い息をついて、顔の汗をぬぐった。「連中は、もう全部の導火線に火をつけてしまって……その燃え具合を、何とかむらなく、もっとも効果的に進行させようとして苦労しているんだ……」
「たまりませんな……」副長も、紙のようになった顔の脂汗を掌でぬぐいながらつぶやいた。「連中は、すごいプレッシャーでしょうな」
「もうプレッシャーは、この辺りの空間全体にかかりはじめているぞ……」と大佐はディスプレイの一隅にむかって顎をしゃくった。「重力センサーを見ろ、木星がすこし軌道から動きかけてる――もう、われわれと〃X点〃との距離は、一億キロを割ったぞ……」
「ファイナル・ロックはなぜおくれているんだ?」と、ウェッブは頭から湯気をたてんばかりにしてどなった。「またあいつらの……カルロスの完全主義だろう――いいかげんにして、早く退避せんと……」
「調整に苦労しているらしいですよ……」と、通信員は、前方のコンソールからふりかえっていった。「木星内部の擾乱状態が、予想外で……」
「それにしたって、連中は、全員退避時間ぎりぎりまで残るつもりか!」ウェッブは、通信員にむかって半分喧嘩腰でどなった。「馬鹿どもが!――B・Tマイナス十二時間でロックを終って、すぐ全員退避するはずだったのに……もういいから、今すぐ退避にかかれと言ってやれ!」
「本当に、それを命令としてむこうへつたえますか?」通信員はイアフォンに手をあてながらふりかえってきいた。「現在、B・Tマイナス○六H三○M……いまから命令を出しても、木星へつたわるのは四十五分後ですよ」
「ミネルヴァから、今通信がはいった!」別の通信員が手をあげて叫んだ。「あと四十分ほどで、ロックにはいれそうだ。発信時刻はB・Tマイナス○七H一五M……」
「早くやれ……」ウェッブは拳骨でコンソールをどんどんたたきながらうめいた。「早く退去しろ……」
「英二たち、苦戦しているみたいだな……」バーナード博士は、ミリーの背後からこわばった声でそっといった。「ひょっとして、うまく行かんのじゃないかな……」
「何しろ、あれだけのシステムですものね……」ミリーは、掌ににじんだ汗を、そっと服にこすりつけながらつぶやいた。「木星のまわりに、あれだけの数の途方もない装置をとばして……それで、木星の芯に〃火〃をつけようというんですもの……」
「ずっと前……まだわしがロウティーンだったころ……」とバーナード博士は遠くを見るような眼つきをした。「学校附属の情報センターで、人類がはじめて、月へ人間をおくりこんだ時の記録ビデオを見たことがあるが……あの当時としては、そのプロジェクトがこんな調子だったようだな……。大げさで、幼稚ではあるが、当時としては途方もない巨大なシステムを組み、何万人という人間がその中で働き、危険で不細工な化学ロケットで、自分たちの仲間をはじめて地球外天体へおくりこみ、月のまわりをまわって、乗組員を月面におろし、また回収して地球へ帰還させ、大気圏へ突入させて洋上でひろいあげるまでの、緊張と忍耐と苛立ちが……」
「そうでしょうね……」とミリーはうなずいた。「でも、あの時、点火してとばそうとしたロケットの質量は、たしか二千七百トンほどでしたわね。――いま、英二たちがとばそうとしているロケットは……その十億倍のまた十兆倍……地球の三百二十倍もの質量があるんですよ……」
「よし……」と、カルロスは、眼の前のコンソールのディスプレイと、正面の大スクリーンとの間に何度も眼をうつしながら、あえぐようにつぶやいた。「こんなものか。――これ以上はどうしようもないな……。あとは運を天にまかせて祈るだけか……」
JNシステム司令室の正面にかかげられた多面ディスプレイ・スクリーンの中央には、いま木星の内部状態を示す、3Dカラー透視図がうつし出されていた。
赤道直径十四万キロメートル余、地球の十一倍以上ある、この太陽系最大の惑星は、その磁気赤道面上の衛星軌道をめぐる六十数個の巨大な多元粒子加速機群と、子午線方向の極軌道をめぐる二十数個の加速機、制御装置群の放射するセンサー・ビーム……とりわけ透過性の強い中性微子《ニユートリノ》ビームによって、まるでX線写真のように、透視されているのだった。
あらゆる素粒子の中で、最も相互作用の弱い、すなわち天体規模の大質量の中でも、まわりとほとんど反応する事なくつきぬけてしまう質量ほとんどゼロの中性微子《ニユートリノ》……しかし、その中にもごくわずかながら質量をもつEニュートリノが発見される事によって、そして素粒子工学の舞台が、地球的環境をぬけ出し、宇宙へうつされる事によって、中性微子工学《ニユートリニツクス》の、さらに超素粒子工学《スーパー・パーテイクル・エンジニアリング》の新しい紀元が開けて来た。そしていよいよ……。
かつてのJSP――木星太陽化《ジユピター・ソラライゼイシヨン》計画に結集されつつあったそのすべての成果は、太陽系開発機構の二年分の総予算の三分の一をかけて、JNS――木星爆破《ジユピター・ノヴイゼイシヨン》計画に集中されていた。――エネルギーを、中途ほとんど損失なく、光に近い速度である所までとどけ、そこで最も効率の高いやり方で、連鎖反応を起すような形に変換するシステム……それが、JNシステムだった。木星本体をはさんで、赤道面上の反対側に位置する加速機がペアになり、木星の核《コア》を介して、超素粒子を随伴するニュートリノ・ビームを交換する事により、そこに位相のそろったビームをつくり出す。そして、その何十組ものペアの加速機の間で往復しているビームが、一方が中性微子《ニユートリノ》、もう一方が反中性微子《アンチ・ニユートリノ》の大エネルギー・ビームに変って、ちょうど木星の中心部の、温度四百万度K、圧力一億気圧の核《コア》を焦点として、一せいに粒子、反粒子反応を起す等……木星の中心部は一気に新星《ノヴア》反応をひき起すほどの温度圧力レベルに上がって、それが「爆発」へとつながって行くはずだった。
この計画の、もっともむずかしい所は、その新星《ノヴア》反応を、随伴超粒子の種類や、中性微子のエネルギー・レベルをうまく調整する事によって、うまく不均等化し、木星の南極方向にジェットをふき出させ、木星本体をブラックホールの方向へ加速すると同時に、つづく反応の仕方によって、木星の爆発時の質量とエネルギーを、最も効率高い衝突角度で、しかもいいタイミングで高速回転するブラックホールにたたきつける事だった。わずかのタイミングのずれ、そして反応進行の位相のずれが、効果の予測値をたちまち二○パーセント、三○パーセント増減させてしまう。しかも――太陽系内にはいりこんでからの〃X点〃のふるまいは、太陽や木星との間の重力相互作用によって、予想できなかった微妙な変化を見せ、一方、計画そのものは、無数の未知要素《アンノウン・フアクター》をふくんだまま「一発勝負」でやりなおしが絶対にきかないのだ。
いま、司令室正面中央の大画面にうつる木星の透視図は、超高温高圧の固体金属水素の核《コア》から、それをとりまく液体金属水素のマントル、液体水素、液体ヘリウム、液体リチウムの「海」、そして氷、アンモニア、シアン、硫化水素アンモニウム、ヘリウム、水素などが何層にも渦まく大気圏まで、それぞれ温度、圧力、さらに電荷、磁気、電流によって多彩に色わけされ、微妙にゆれ動いていた。――そして、この木星をとりまく、巨大なシステム群は、もう五十時間以上前から、「立ち上がり」の作動にはいり、爆発時刻《バースト・タイム》へむけて、刻々とその装置の中を流れるエネルギー・レベルを上昇させつつあった。
木星の周辺のナトリウム環《トーラス》を、また極から第一衛星イオや、集電衛星へ流れる荷電粒子のフラックス・チューブを流れる何兆アンペアもの電流、また木星大気圏や、その下の液体水素、固体金属水素核《コア》に生ずる、そのまた何十億倍もの大電流をエネルギー源としてとりこみつつ、中心部の核《コア》を、ある時には収束レンズに、ある時には反射鏡につかって、粒子ビームを往復させ、そのエネルギー・レベルを増大させ……そして今、加速機一台あたりの出力は、間もなく数億テラワット《1テラワット=1兆ワット》に達しようとしていた。
「いいか?」と英二はカルロスにきいた。「間もなく……B・Tマイナス○六Hだ。全員退去一時間前だ……」
「よし!――いいだろう………」カルロスは口惜しそうにコンソールをばしっとたたいた。「不満足だが……今となってはしかたがない……」
「ファイナル・ステップ・ロック!」英二は上ずった声でマイクに叫んだ。「ロック終了後、ただちに全員退避!――作業急げ! F・B船隊に作業終了、最終退去を通告しろ!」
「畜生め……。ブラックホールの影響が、あんなに木星の核《コア》に早く、強くあらわれるとは……」カルロスは首をふって立ち上がりかけた。
「考えてみれば、あの核《コア》の中に木星の重心があるのだから当然だったんだが……」
「ミネルヴァ基地の諸君、こちらF・B1《ワン》、ダルグレンだ……」とスピーカーから声がひびいた。「諸君らを全員収容し、予定時間内に緊急退避する準備はすでにできている。いそいで来たまえ、大船にのった気で……」
「大船?……」突然カルロスは眼の色をかえて英二の腕をぎゅっとつかんだ。「そうだ!……バーバのやった〃大船《マーハヤーナ》60〃をチェックするのを忘れてた!」
8 〃マーハヤーナ60〃
「十五分……いや十分でいい!」とカルロスはコンソールにとびつくと、肩ごしに英二へむかって叫んだ。「もうちょっとだけ、やらせてくれ。スワミ・バーバがやっていた、ブラックホールの木星に対する摂動がもたらす影響の想定計算の中に、もっといい解決法があるかも知れん。――チェックさせてくれ……」
「だが、もう今さらどうもできないぞ……」英二は額におちかかる髪をかきあげながらつぶやいた。「ファイナル・ステップはロックされはじめた。今からもう一度解除する事は、到底不可能だ……」
「かまわん、いざとなったらおれに考えがある……」
カルロスは、電子脳《ブレイン》へむけて〃マーハヤーナ60〃のコードをおくりこみながらいった。――ディスプレイに、ファイル・コードがうかび、つづいて数式と図表がうつりはじめる。カルロスはファイナル・チェックの速度を三倍にあげた。
「みんなかまわん。持ち場ごとに、最終操作がすんだらどしどし引き揚げろ!」と英二はマイクにむかって叫んだ。「現在B・Tマイナス○六Hをすぎた。――最終退去まで一時間をわった。――全員退去を急げ!」
もうすっかりがらんとしている司令室の中で、コンソールの前から一人、また一人と作業を終えた人員が立ち上がり、急ぎ足で、中にはかけ足で司令室から出て行った。
正面の多面ディスプレイ・スクリーンの右端には、カラー・ブロック・グラフが表示されており、そのほとんどは赤のブロックでうずめられ、十個たらずのブロックがオレンジに輝いているだけだった。コンソールの前から誰かが立ち上がる度に、オレンジ色のブロックが赤にかわり……やがてB・B・J計画の最終ステップが完全にロックされてしまうと、赤のブロックが、全部グリーンにかわるはずだった。
司令室に残っていた〃グループ・レッド〃の三分の二が出て行った所で、早くも連絡艇《シヤトル》の最初の一台がDデッキを発進する、かすかな衝撃が床をつたわってきた。――ディスプレイ・スクリーンの左端には、Dデッキに十二台のシャトルがある事が表示されており、いまそのうちの一台のマークが白く輝いて、左へ消えて行った。
〃最終グループ……L班基地から退避……〃
とアナウンスがひびいた。
「もう少しだ……」汗を滝のように流しながら、カルロスは誰にむかっていうでもなく、あえぐようにつぶやいた。「あともう、ほんのちょっとだ……」
「最終グループ……ただいま、ミネルヴァ基地から退避を開始しました……」とF・B《フラツシユ・バード》1のコックピットで、通信員がダルグレン大佐の方をふりかえっていった。「連絡艇《シヤトル》一機、船団に接近中……つづいてもう二機、基地を発進しました。接近しています……」
「こちら連絡艇レッド5《フアイブ》……」とコックピットのスピーカーから騒音まじりの声がひびいた。「F・B船団に接近中……現在REポイント通過……コース608A…032Y…124Q………速度○九……F・Bコントロール指示を乞う……」
「レッド5《フアイブ》こちらF・Bコントロール……」と、ディスパッチャーがマイクにむかっていう。「コース確認……RVポイントにて速度コース変更……ガイド・ビーム・センサーを、○一○九にセットせよ。スパイラル・グリーンにのったら速度○七で待機! 舟艇をF・B8に収容する。以上……」
「レッド5《フアイブ》、了解……」と声はいった。
「さあ、こいよ……」とダルグレン大佐はシートの肘かけを力一ぱいにぎりしめてうめくようにいった。「ぎりぎりまで、よくも粘ったもんだ。――あと五十六分だ……」
「F・B8……ただいまレッド5《フアイブ》収容完了!」と別の声がスピーカーからひびいた。「つづいてレッド7《セブン》接近中……収容終り次第発進できます」
「どしどし逃げ出せ!」と大佐はマイクにむかって叫んだ。「いちいちこちらの発進許可を求める必要はない。所定通り収容したら、あとは各自の判断にしたがって発進せよ!」
「四つ……」とGデッキの小型貨物艇の奥で、ダンは床につたわってくる連絡艇《シヤトル》発進の衝撃を数えた。「五つ……六つ……」
「連絡艇《シヤトル》は十二台ね……」とアニタは暗がりの中でマリアにきいた。「半分……発進したわね」
「ずいぶんかかったな……」とシューはぶつぶついった。「全員退去まであと五十二分だ……。おれたち、コントロール衛星へ行って、装置をとめる時間があるかな……」
「コントロール衛星の中がよくわからないから、ちょっと手まどるかもね……」とマリアはいった。
「ファイナル・ステップ……ロックにはいりました!」と、火星衛星軌道上のOPDO―AXの司令室で誰かが叫んだ。「いま、ミネルヴァ基地の最終グループが退去をはじめています。退去開始は……B・Tマイナス○六H○六M……」
「ふう!」とウェッブは口をとがらせてうなった。「馬鹿めが!――気をもませよって……」
「でも退去にはいったら、三十分で、最後のF・B船隊が発進できますわ……」とミリーはなぐさめるようにいった。「でも、7G加速で何分っていう、きつい緊急発進になりますわね、きっと……」
「いよいよ……」と、大統領執務室で、補佐官は低い声でいった。「時限装置が、最終的にセットされました……。いまから五十分ちょっと前です……」
「事態がはっきりするのは?……あと何時間だったかね?」と大統領が軽く咳をしながらきいた。「ああ、……すまんが……ちょっと水を一ぱいくれんか?」
「五十分後に、木星の中心部が臨界状態に達します。しかし……あの通り巨大な惑星ですし、それにできるだけ爆発エネルギーが拡散せずに、ブラックホールを有効にヒットするように、こまかく反応の進行を制御してありますから……完全に爆発状態にはいるのに五時間……さらにその爆発によって動かされた木星の質量のかなりの部分と、粒子、光のジェット流のエネルギーが、北極方向を通過する〃X点〃をたたくのは、それから三時間後と思われます……。成否がわかるのは、それからさらにもうちょっとあとでしょう……」
「では、あとまだ、九時間余りかかるわけか……」大統領は水のグラスを夫人にかえしながらちょっと首をかしげた。「それまで少し寝るとするかな?――シュクロフスキイ……寝酒を一ぱいつきあわんかね?」
「けっこうですな……」と副大統領はこたえた。「何を上がります?」
「グロッグがいい……。ホット・ブランディか、エッグノッグか……」大統領は軽く咳をし、かすかに笑った。「風邪をひきかけているんで……もし、うまく行かなかったら、その時は、この憎たらしいインフルエンザ・ウイルスを道連れにしてやれると思うと、多少いい気味だと思わんでもないがな……」
「もうじきだって?」
フロリダ半島西海岸のジュピター海岸《ビーチ》で〃ジュピター教団〃の若い男女数名が、長い影をひく椰子の木の下にねそべって3Dテレビをのぞきこんでいた。――ちょうど通りかかった、まっ赤に陽焼けしてパンツ一つの若者が、彼らの後から声をかけた。
「あと八時間ぐらい――でも、木星のあたりから地球まで、光がとどくのにいま四、五十分らしいから、九時間……という事は明日の明け方かな……」
「爆発したら、昼間でも見えるらしいわね」と、半裸の娘が乳房についた砂をはらいながらいった。「でも――ねえ……アニタたち、木星の爆発をとめに行ったって噂、ほんと? うまく行くと思う?」
「思うもんか!」とサングラスをかけた少年のような若者がいった。「あれ……あんなのアニタのはったりさ!」
「そう思う?――じゃ賭けようか?」
「しっ!」と年嵩の女が手をのばして、半裸の娘の太腿をぴしゃりとたたいた。
「その話、およしなさい……ピーターがあそこにいるのよ……」
五十メートルほど離れた浜辺を、ピーターが、ギターを持って歩いていた。――イルカの〃ジュピター〃の墓の方へ行くのかと思うと、彼はたちどまり、メキシコ湾へ沈んで行く赤い夕陽をじっと見つめていた。それから彼は波打ち際に腰をおろし、暮れかけた空を見上げ、ギターをかすかにかき鳴らしたが、そのあとは弾きつづけようとせず、太陽の沈んで行く水平線の上の空を、悲しげな眼つきでいつまでも見つめていた。
「あなた……」半白の髪をした婦人が、屋上にむかって声をかけた。「お食事ですけど……」
屋上であいまいな声がして、やがて見事な白髪の老人がおりて来て、庭にしつらえられた食事の椅子をひいた。
「おや――枝豆か……」と老人はテーブルの上を見て、軽い驚きの声をあげた。
「冷凍ものじゃございませんことよ」と婦人は生ビールの樽から冷やしたジョッキにビールを注ぎながらほほえんだ。「今朝、長畑の時男さんが持ってきてくださったんですの……」
「それはそれは……」とハンカチで手をぬぐいながら老人はいった。「で――孫たちは、やっぱりおそくなりそうか?」
「みんなでレストランへまわって食事して、それから来ると申しておりましたから……晩の八時すぎじゃありません?」
「八時には、みんなシェルターにはいっておいた方がいいな……」足もとへじゃれつくペキニーズに、ハムの一片を投げてやりながら老人はいった。「木星の爆発の時のエネルギーがどのくらいで、地球の大気圏をくぐって地上へとどくのがどのくらいかはっきりせんが……私の友人の学者は、外でじかに見ない方がいいかも知れない、といっていた……」
「で、その……木星が爆発してから何時間後でございましたっけ?――ブラックホールとかにぶつかるのは……」
「三、四時間後ぐらいらしい……」老人はみずみずしい枝豆に手をのばした。「で――それがうまく行かなかった時は……」
「そのあと、どのくらいございます?」
「わからん。――今のスピードのままだと、太陽へぶつかるまで、四、五日ときいたが……」
「そんなにあるんでございますか?」婦人は眼を見はった。「それでしたら、どこかへ旅行でも……」
「いや……そんなに長い旅はできんだろう。近づいてくれば――ぶつかる前に、いろんな事が起って……いいとこ二日ぐらいしか余裕がないんじゃないかな……」
「それではやはり、ここにいた方がよろしゅうございますね……」婦人はほっと肩をおとすようにして、高台の下の斜面の緑の間にひろがる、美しい住宅街をながめた。「でも――どういうんでしょう。こんな事が起るというのに、今年はとりわけおだやかで、いい気候でございますねえ」
「まったくだ……」老人は冷や奴の鉢に網杓子をつっこみながら、夜の海にちょっと視線を走らせた。「だが、今年の菊は……だめだろうな……」
「ばかな!」英二は思わず大声でどなった。「今さらそんな……ばかな事を……」
「まだ四十七分ある……」カルロスは、眼をぎらぎら輝かせ、両手をつき出してかすれた声でいった。「見ろ!――約束通り、十一分で答を出したろう? バーバの奴は天才だ。ちゃんとこの事態の予想をたてていた。いまからなら間にあう。奴の考えた事にしたがって、ほんのちょっと……ほんのちょっとでいいんだ。変動回路のプログラムをかえれば……」
「しかし、今から……」英二はかっと頭に血がのぼるのを感じながら、司令室の中を、ディスプレイ・スクリーンを、そしてかけ足で退去して行く〃レッド・グループ〃の最後の人員を見まわした。
「今からコントロール衛星へ行って……」
「ここからぶっとばせば十二分、中へはいるのに五分、組みかえに二十五分……いや二十二分あればいいだろう。合計三十九分だ。――最終発進には、三十分の余裕があるんだろう……」カルロスの燃え上がるような眼には、突然涙がふくれ上がり、滂沱と頬をつたいはじめた。「行かせてくれ、主任……もし何だったらおれ一人でもいい。あんたたちは退避してもかまわん。おれ一人で残ってもいいから、たのむからやらせてくれ……おれは……おれはこの手で、確実に……木星をぶっとばしてみせるといったろう? それだけじゃなく……おれは……おれはこのでっかい惑星の……木星《ジユピター》の〃死〃を……無駄にしたくないんだ。こいつの爆破が、無駄にならないために少しでもできる事があったら……毛ほどの事でもいいから……やってやりたいんだ……」
〃全員退避四十五分前……〃
と、電子脳《ブレイン》のアナウンスが、どこか遠くできこえるみたいにひびいた。
「あんたとおれのほかに、あと何人必要だ?」
頭がかっかと燃え上がるように熱くなるのを感じながら、英二はまわりを見まわした。
「三人……いや、二人でいい……」
「ヴィットリオ!……鈴木!……」英二は、いまコンソールからはなれようとしている二人にむかって叫んだ。「緊急事態だ。すまんがいまからすぐ、おれとカルロスと一緒に、コントロール衛星へ行ってくれ!――連絡艇《シヤトル》はつかえん。どれか適当な――スピードの出そうな船を準備しろ」
「すまん、主任……」カルロスは手を前につき出したまま、ぽたぽたと頬から膝へ涙をながしつづけた。「ありがとう……」
「フラッシュ・バード!――こちらミネルヴァ基地、本田主任、緊急連絡……」英二はカフをあげ、マイクをにぎって叫んだ。「やむを得ぬ最終調整のため、ただいまから四名、コントロール衛星へ行く。作業予定時間、ただいまより三十九分……最終退避船の発進時間を、ぎりぎりのばしてほしい。――きこえるか?」
「こちらフラッシュ・バード……了解……」と声がかえってきた。「司令船F・B1《ワン》の発進時刻を三十分のばし、B・Tマイナス○四H三○Mとする。――それがぎりぎりだ。急いでくれ、以上……」
Gデッキのドアがあいて、いきなり二人の男が息せききってとびこんできたので、アニタたち四人は、はっとして、小型貨物艇の貨物室にもぐりこんだ。――貨物室の中は、がらんとして何もなく、奥の方に小型の救命艇がつんであるだけだった。
とびこんで来た二人は、貨物艇には近よらず、隣の小型の連絡艇のキャノピーをあけ、一人がコックピットにもぐりこんだ。
「発進OKか?」と一人が叫んだ。
「ああ、……いや、だめだ! 燃料が三分の一もない」とコックピットの男が舌打ちしながらいった。「四人だったら、片道もあやしいぞ……」
「こっちの貨物艇をしらべてみよう、ヴィットリオ!」と叫びながら男の声と足音がちかづいてきた。「これなら、スピードはともかく足は長いだろう」
ばん! と音がして、貨物艇のコックピットのドアがあき、東洋人らしい中年の男がとびこんできて、せわしなく明りをつけ、スイッチ類を入れた。
「どうだ? 鈴木……」
と、外からの声がたずねた。
「ばっちりだ! イオまで往復できるぐらいの燃料がある!」とコックピットの男はマイクにむかって言った。「主任……こちらです。すぐ発進できます。早くのってください!」
「ヴィットリオ!……カルロスのつみこみを手つだってくれ!」と、すぐ外で別の声がした。「エンジン始動しろ、鈴木!」
その声をきくと、マリアは暗がりの中でびくりと体を動かした。
「えらい事になったぞ……」ダンが貨物室のドアの横にぴったりはりついて、レーザー銃を肩の所にあげたまま、ふるえる声でつぶやいた。「もしみつかったら……」
「大丈夫……そしたら連中をぶっとばして、このままハイジャックよ」とアニタが救命艇の後でささやいた。「うまく行ったら、連中に案内してもらえるようなものよ、世話なしだわ……」
「デッキの空気をぬいている暇はないぞ……」とドアの外で英二の声がした。
「このまま、緊急発進しろ……」
「軽貨物艇《ライト・カーゴ》LC二○二、ただいまよりGデッキより緊急発進する……」ごおっ、と貨物室の後でうなり出したエンジンの音をぬってパイロットの声がきこえてきた。「連絡艇、Gデッキ前方をクリアせよ……」
ぐわん!――というような猛烈な衝撃が、貨物室の中におそって来て、ダンは後の壁にむかってふっとばされた。
はじけるようにあいた気閘《エアロツク》をぬけて、風圧とものすごいブースターの噴射によって、LC二○二は弾丸のように宇宙空間にとび出していた。
9 コントロール衛星
「加速が悪い……」
英二は、小型貨物船のコックピットで、計器類をにらみながら、いらいらした口調でいった。
「エンジンの出力は正常だが……ヴィットリオ、ちょっと貨物キャビンをのぞいてくれ。何か余計なものをつんでるんじゃないか?」
ヴィットリオはだまってシートをたった。――後部船倉では、再びドアのあく気配に、アニタたち四人が、脱出用救命艇の背後にかくれ、レーザー銃をかまえて息を殺していた。
ヴィットリオは、船倉の中にはいらず、入口からざっと中を見まわしてドアをしめた。
「船倉はからっぽです……」とコックピットにかえってきてヴィットリオは報告した。「非常脱出用の救命艇がつんであるだけですが」
「ひょっとすると、その救命艇に何かがつんであるのかな……」と英二は首をひねった。「加速度計でみると二百キロちょっと、重くなっている……」
「減速します……」と、副操縦席にいる鈴木がいった。「予定より一分ほどおくれてます……」
「全船団、本田チームの四名を除いて、グループ・レッドの収容を終りました……」と、司令船F・B1《ワン》のコックピットに報告があった。「F・B6、F・B9、F・B10発進します……」
「了解……」と、副司令はマイクにむかってこたえた。「F・B1は、レッド・ファイア・タイムより出発を三十分延長して、本田チームを収容する。グッド・ラック……」
「本田チーム、いまコントロール衛星につきました……」と、通信員がふりかえっていった。「RFTマイナス二七M……予定より一分のおくれです……」
「早くやってくれよ……」ダルグレン大佐は、ばしんと握り拳を掌にたたきつけながらうめくようにいった。「この期に及んで、いったい何をやろうとするのかわからんが……とにかく早くやってくれよ……」
「F・B6……発進三十秒前……」と、巨大な気球のような、異様な緩衝シートにくくりつけられた、ミネルヴァ基地からの最後の引き揚げ組、〃グループ・レッド〃の隊員たちの耳もとで、かすかなアナウンスがきこえた。「何度もいうが、加速がすこしあらっぽい。深呼吸して体の力をぬけ……十五秒前……十秒前……七、六、五」
カウント・ゼロで、F・B《フラツシユ・バード》6の、四基の巨大な核融合スーパー・ブースターは、目もくらむような紫白色の光をいっせいにふき出した。――つづいて、F・B8、F・B10も……。赤とオレンジと白の縞に彩られた巨大な木星の傍から、三隻のSBSは、まるで小さな超新星の爆発のようにすさまじい閃光を発しながら、矢のように太陽の方角へむけてすっとびはじめた。船内では、7Gというすさまじい加速度のため、グループ・レッドの隊員や乗組員は、気球型の緩衝シートの奥深くめりこみ、声もなく、あえぐ事さえできず、突然七倍になった体重のもとに、半ば気を失いかけながら、気の遠くなるほど長い四十秒をたえていた……。
「中央制御室だ……」カルロスはあえぐようにいった。「急げ!――一分四十秒ロスした」
コントロール衛星の非常口デッキをあけて貨物艇をいれる時、鈴木があせってロックのコードを途中でまちがえたため、予定より何十秒かおくれた。――英二たち一行は、カルロスの車椅子をおしながら通路を息せききって走った。
長さ百六十メートル、一辺の長さ四十二メートルのプリズム型をしているコントロール衛星その三つの面には、かつて「クロック衛星」とよばれた時そのまま、爆発時刻までの残り時間を示す、巨大なディジタル表示が輝いていた――のほぼ中心部に、中央制御室はあった。一辺二十メートル、長さ二十五メートルの、やはりプリズム型の部屋だ。その奥には、英二が例のフロリダ州タンパからはるばるはこんできた、超粒子流の精密制御装置も組みこまれている。
無人の調整室の中は、ブルーとグリーンの光にみち、壁面にずらりとならんだ淡いディスプレイは、すでにすべての調整装置は、「爆発時刻《バースト・タイム》」にむけて自動的に働きはじめている事を示していた。
「さあ、はじめるぞ……」カルロスは調整室の中央にあるメイン・コンソールの前に車椅子をとめ、マスター・キイをさしこんで頑丈なプラスチック・カバーをはねのけた。「時間を見ていてくれ、主任……。鈴木!――プログラムK6273λ《ラムダ》とM4730φ《フアイ》の修正スタンバイだ……。それから主任……コンピューターA4とG6を、バックアップにぶちこんでほしい。それから、ヴィットリオ……回路制御室へ行って、サーキット226Aと、サーキット・ブルー8をオフに……こちらから合図があったら、すぐにオンだ……」
コントロール衛星内部の、非常デッキへ通じるドアがゆっくりあき、ヘルメットのバイザーをおろした頭がそっとつき出された。――バイザーは通路の左右を見まわし、後へむかって手をふった。
「連中は、いったい何をやってるんだ?」」とダンがくぐもった声できいた。「どっちへ行ったんだ?――中枢部はどこだ?」
「しっ!……もう少し様子を見よう……」とアニタは神経質に手をふりまわしながらいった。「とにかく、こちらの爆発物は量がすくないし、ここの装置全体はどうせ二重三重の補償回路をそなえているにきまっているんだから、よほど効果的に中枢部を破壊しないと……」
「とにかく、どっちにするんだ?――連中が退避するのを待ってしかけるのか? それじゃおれたちは、どうやってここから逃げ出すんだ?」とシューが心配そうにきいた。「それとも、いま、連中をおそって……」
「あんたはここにいて、船を見はってて、シュー……」とアニタは決心したようにいった。「連中が、退避にかかりそうになったら食いとめて、私たちの退去のための足を確保するのよ。――あとの二人は、私ときて……。連中がどこで、何をやってるかさぐりに行くのよ。いま、連中がいじっている所が、きっと中枢部だと思うから……」
「回路から見ると、こっちが中枢部らしいわ……」と、小型のセンサー付きコンピューターを、壁にあてがいながらマリアがささやいた。「あの角を右よ……」
「二十分たって、連絡がなかったら様子を見に来て……」とアニタはドアのむこうにひっこみかけたシューをふりかえっていった。「通話は二十分間、カットするわよ……」
「十五分経過……」と、中央制御室につなぎっぱなしになっている通信機から、F・B1《ワン》の副司令の声がきこえた。「RFTまであと六分……きいているか? 本田チーム……」
「うるせえ!」汗をだらだら流しながらカルロスは、小さく毒づいた。「主任!……プログラムW2366ω《オメガ》を四倍速チェック……すんだら、コード4778にわりこみ《ブレーク・イン》だ……それから、鈴木……メモリイ239をスタンバイ……」
スワミ・バーバの想定した〃マーハヤーナ60〃にもとづく新しい修正プログラムは、コントロール衛星の中枢電子脳《ブレイン》へのおくりこみを完了していた。――あとは、前にくみこまれてある複雑厖大なプログラム全体との「すりあわせ」が残っているだけだった。だが、いずれにしても、微妙きわまる「脳外科手術」にも似たこんな途方もない芸当を、こんな短時間でやってのけられるのは「JNシステム」を最初からつくり上げたカルロス以外になく、英二たちは、ただ彼のいうなりに操作の手助けをするほかなかった。
「こちらF・B1《ワン》……十六分経過……」とスピーカーから再び声がした。「本田チーム……状況を報告されたし……」
「F・B船隊、〃グループ・レッド〃全員撤収を終りました。――BTマイナス○五一○です……」と、〃プロジェクトX〃の司令室で、通信員がウェッブの方をふりむいていった。「全機発進します……」
「ちょっと……」別の通信員がイアフォンをおさえて叫んだ。「まだ一機残っている……。司令船F・B1《ワン》だ……。コントロール衛星に、いま本田主任はじめ、四人が最終微調整に行っている。F・B1は、この四人を回収するため、出発を三十分のばす予定……」
「何だと?」ウェッブはうなった。
「この期におよんで……英二のやつ、まだ何か……」
「十八分経過……RFTまであと二分……」スピーカーからせきこんだ声がひびいた。「本田チーム、応答せよ……本田主任! 状況報告をたのむ。きいているか? ハロー……コントロール衛星……きこえるか?」
「終った!」とカルロスが爆発するように叫んだ。「終った! すべて完了だ!――回路制御室、サーキット・イエロー4、グリーン7をもとにもどせ。そのあと全回路オンにしろ!……鈴木……全コンピューターを作動Aにもどせ! もどしたらロックだ!」
「F・B1《ワン》……こちらコントロール衛星本田チーム……」と英二はカフをあげて叫んだ。「ただいま全作業完了、ただちに脱出して貴艇にむかう。収容準備乞う……。回路制御室、ヴィットリオ! 回路オンを終ったらただちに非常発進デッキへ行って、発進準備をしろ! こちらもすぐ行く……」
「回路制御室、了解……」
と、ヴィットリオの声がいった。
シューは、じりじりして、二十分経過するのを待ちきれずに、そろりと非常デッキのドアをあけて通路へ出た。――ほとんど出あい頭に、回路制御室から出てきてデッキの方へ通路を曲ってきたヴィットリオとばったり顔をあわせた。
「何だ! 貴様は……」
とヴィットリオは思わず大声でどなった。――シューは慌てて大型のレーザー・ライフルをかまえて引き金をひいたが、安全装置がかかったままだった。
「主任!――コントロール衛星に侵入者!」その一瞬に壁の通話機にとびついてヴィットリオはわめいた。「破壊工作員です!……」
その瞬間、やっと安全装置をはずしたシューがレーザー・ライフルをぶっぱなし、右胸をうちぬかれたヴィットリオは、はげしい音をたてて床にたおれた。
「侵入者だと?」カルロスは愕然として、ヴィットリオの声のしたスピーカーを見上げてつぶやいた。「いったいどうやってきたんだ?」
「おれたちと一緒に、だ!」英二はわめいた。「あの、オーヴァー・ウェイトだ!」
その時、中央制御室の入口からヴィットリオとシューの衝突を知ったアニタとダンが、ライフルをかまえて突入してきた。――馴れていない上に、逆上していて、やたらにレーザー・ビームをふりまわし、すぐには照準がさだまらないようだったが、一連射がカルロスの肩をうちぬき、反射ビームが鈴木の左脚をたたいて、鈴木は床にころがった。
「気をつけろ!」と英二は叫んで、カルロスを車椅子からひきずりおろすと、配電装置の後へひきこみ、自分ももぐりこみながら、腰から小型レーザー・ピストルをぬいて応射した。――鈴木も床にころがりながら、レーザー・ピストルをぬいて果敢に応射した。ダンが左上膊をビームにうちぬかれて、獣のような叫びを上げた。
その時、突然中央制御室の中央パネルに、真赤な光が点滅しはじめた。
「ただいまRFTゼロ……」とF・B1《ワン》からの声が叫んだ。「本田チーム……状況を報告されたし!……もうコントロール衛星をはなれたか?」
非常デッキ前の通路で、ヴィットリオをうちたおしたシューはおろおろして、あおむけにたおれたヴィットリオの顔を遠くからのぞきこんだ。――シューは、ヘルメットの下に滝のように汗をかき、殺してしまった……おれは人を殺してしまった……とつぶやいていた。
ヴィットリオの体を、迂回するようにして、通路の奥へ行こうとしたシューの足へむかって、ヴィットリオは突然はね起きてタックルし、ジャーマン・スープレックスのスタイルで後ざまに投げとばした。後頭部をはげしく床にぶつけたとたん、シューのベルトにつった時限爆弾がはずれて、通路の隅へ転がり、消火器の後でとまった。泡をふいてもがいているシューの体に、かつて火星でレスリングのチャンピオンを争ったヴィットリオは、はげしいニー・ドロップをくわせ、傍にころがったレーザー・ライフルをひろってとどめをさした。そのまま、ヴィットリオはライフルをかかえ、右胸をおさえて壁をつたいながら制御室へむかった。
制御室では、鈴木が、ダンのビームに前額をうちぬかれた所だった。――彼が横ざまに体を投げ出した時、もっていたレーザー・ピストルは彼の手をはなれて、配電装置の近くまで床をすべって行った。ちょうどそこへよろめきながらはいってきたヴィットリオは、ダンの背後から、その心臓部を見事にうちぬいた。しかし、それとほとんど同時に、制御室の壁面のキャッツ・ウォークにのぼって、英二たちの背後にまわりこもうとしていたマリアの放ったビームが、ヴィットリオの喉を正面から貫通し、ヴィットリオは眼を大きく見開いたまま、両膝をがっくりつき、そのまま前へたおれた。
配電装置の背後で、英二はレーザー・ピストルをかまえたまま、左前方の柱の背後からライフルをかまえてゆっくり姿をあらわしたアニタを、凍りつくような思いで見つめていた。――彼の持っている貧弱な武器は、もうあらかたエネルギー源が切れかけていた。最後の思いをこめてはなったビームが、アニタの肩をかすめて消えると、もう彼は正面からまっすぐ近づいてくる「死」を待つばかりだった。
アニタはバイザーの下で、残忍な笑みをうかべてゆっくりとライフルの照準を英二の頭にあわせた。――背後では、キャッツ・ウォークの上から、マリアが同じように、ライフルのスコープの視野に英二の後頭部を入れようとしていた。
――英二!……
と、マリアは、体のふるえをおさえようとしながら、胸の中で叫んだ。
――だめ! 射てない……
ぎゅっと眼をつぶったまま、マリアは引き金をひいた。照準は無意識に英二をはずし、アニタにむけていた。背後からビームが走った時、英二も眼をつぶるようにして、体を右前方へ投げ出しざま、鈴木の手から転がったレーザー・ピストルをつかみ、アニタの方へむけて引き金をひいた。――ずばっ、というような音と、焦げくさい臭いがして、アニタはマリアのビームの一連射に、左胸から右肩へかけてきりさかれ、かすかな悲鳴をあげてたおれた。
英二は床に転がってピストルをかまえたまま、一瞬、信じられないような眼つきで、たおれるアニタの体を見ていた。――だがすぐはね起きて床におちたライフルをひろいあげると、銃口をつきつけて、アニタのヘルメットをはずした。
「貴様ら、何しにきた?」と英二はアニタの肩をゆすってどなった。「仲間は……何人だ?」
「ちくしょう……マリ……」とアニタはつぶやいた。「ピーター……さよなら……」
それだけいうと、がくり、とアニタの頭はのけぞった。
「いったい連中はどうしたんだ?」ダルグレン大佐は、居ても立ってもいられない、という調子でコックピットのパネルを見まわした。「RFTから六分経過だ。あと二十四分しか……」
「コントロール衛星から、貨物艇発進しました!」とパイロットが叫んだ。「全速でこちらへむかってきます!」
「よし!」と大佐はうなずいた。「収容デッキ・スタンバイ……発進スタンバイ……」
「本田主任から通信……」と通信員がイアフォンをおさえていった。「コントロール衛星に侵入者があったそうです……破壊工作員三名……戦闘の上全員を射殺……こちらも死者二名、カルロス技師重傷……」
「なに?」副司令がおどろいたようにいった。「おい! 救急班を待機させろ!……で、装置は無事だったのか?」
「装置は無事だ……」と貨物艇を操縦しながら英二はいった。「だが、保安部は何をしていたんだ? 破壊工作員が三名ももぐりこんでいたんだぞ!――二百キロ以上も重量オーヴァーに気づきながら、なぜもっとチェックを……」
そこまでいいかけて、突然英二は口をつぐんだ。――男二人、女一人の、体の大きさを、彼は思いうかべようとした。アニタが死ぬ前につぶやいた、「ちくしょう……マリ……」という言葉が脳裡をかすめた。
「カルロス……苦しいか? もうすぐだ……」と英二は傍をふりかえってききながらシートベルトをはずした。「いいか……おれは、これからもう一度、脱出用救命艇で、コントロール衛星にひきかえす……。大丈夫、コースは自動操縦にセットした。あとはF・B1《ワン》の方でうまくやってくれるだろう……。じゃ、元気で!」
10 「ジュピター・メッセージ」
「貨物艇接近!」とF・B1《ワン》の航宙士《ナヴイゲーター》が叫んだ。「自動操縦らしい……。回収コントロールを求めるシグナルが出ている……」
「どうしたんだ?――本田主任も負傷しているのかな」と副司令はつぶやいて、マイクのカフをあげた。「回収班、救急班、Cデッキへ急げ!――エンジン・ルーム……貨物艇乗員を病室に収容次第発進する。RFT三○Mオーバーが限度だ、いいな?」
コントロール衛星中央制御室のキャッツ・ウォークの上で、マリアはほんのしばらくの間気を失ってたおれていた。――英二を射った、というショックがはげしかったからだが、意識が恢復するころには、自分が本当に射ったのは、英二ではなくて、アニタだった、という事を悟っていた。――レーザー・ライフルをとりなおして、キャッツ・ウォークの上からながめると、制御室の床には、四つの死体がころがっていた。重い足どりでタラップをおりると、マリアはアニタの死骸の傍に膝をついて、その手をそっと胸の上に組ませた。
「ごめんなさい、アニタ……」とマリアはつぶやいた。「でも、あとは私がちゃんとやるわ……」
ダン、鈴木、ヴィットリオの死体も、あおむけにしてやり、胸に手を組ませてやると、マリアは念のため、非常デッキの方も見に行って、英二がいない事、貨物艇がない事をたしかめ、帰りにシューの死体も同じように胸に手を組ませてやった。――今こそ、この長さ百六十メートルの、巨大な、ぎっしりと機械のつまったコントロール衛星の中で、自分がたった一人であり、もう脱出する方法もない事を、マリアは胸の底がしんと冷たくなるような寂寥感の中で悟らざるを得なかった。彼女はアニタとダンのベルトから、時限装置つきの小型爆弾をはずし、自分のとあわせて合計六個の爆弾を、制御室の中を眺めて、要所と思われる所へ考え考えセットして行った。
「Cデッキ……貨物艇収容完了……」と、あえぐような声が、F・B1《ワン》のコックピットにひびいた。「負傷者を、応急処置をして、病室の耐Gベッドに収容しました。それから……」
「よし――」とダルグレン大佐は、自分も耐Gシートに身をしずめながら、ふうっと太い溜息をついた。「緊急発進……」
パイロットが手をのばし、ブースター噴射三十秒前のブザーが、くりかえし船内にひびきわたった。
「司令室! こちら回収班!」その時、あわただしい叫びがマイクからひびいた。「アルバレス技師は船内に収容しましたが、貨物艇内に、本田主任の姿は見あたりません!――くりかえします……」
「いいから、早く回収班全員もよりの耐Gシートにつけ!」副司令はどなった。「点火まであと二十秒だ!――今さらどうにもならん。ぺちゃんこになりたくなかったら、早くシートにつくんだ!」
貨物艇の船倉につんであった、小さな一人乗りの非常脱出用救命艇にのって、再びコントロール衛星の非常口に接近した時、英二は斜め後上方のキャノピーごしに、眼もくらむような閃光が輝くのを見、木星周辺に残っていた最後の緊急脱出用SBS〃フラッシュ・バード1《ワン》〃が発進した事を知った。――そして、自分がもはや脱出ののぞみもなく、五時間後に爆発する巨大な惑星の傍にとり残された事を……。
非常デッキからコントロール衛星内にはいりこんだ英二は、すぐ前方の通路にたおれているシューの死体が、さっきとちがって、両手を胸の上に組みあわせているのを見て眉をひそめた。――彼はあたりを見まわし、いそいで衛星内監視室へはいりこむと、各部屋の監視テレビのスイッチをつぎつぎに入れて行った。いくつものスイッチを入れないうちに、中央制御室で爆発物をセットしているヘルメットをかぶった人物の姿がうつし出された。英二は制御室のテレビカメラをあちこちきりかえ、ズームし、救命艇からもち出したレーザー・ピストルをかまえて、監視室をとび出して行った。
中央制御室にしのびこむと、英二は物かげにかくれてヴィットリオの死体に近づき、傍にころがっているレーザー・ライフルをとりあげてエネルギー残量をしらべ、出力を調整して、前方に動く人影の背後にしのびよった。
「よし、それまでだ……」英二はライフルの銃口を上げながら、おし殺した声でいった。「武器をすてて、両手をあげろ!」
マリアは、セットした爆発物の時限装置をスタートさせるリモート・コントローラーのスイッチを入れた所だった。――はっ、と体をかたくした彼女は、レーザー・ライフルの安全装置を片手ではずすと、ゆっくり床におくふりをして、いきなり背後へむかってすべらせ、体を反対側に投げ出しざま、腰からレーザー・ピストルをぬいて英二へむかって放射した。床にすべったレーザー・ライフルは暴発して、青白いビームが室内に乱反射し、ピストルのビームは英二の脇腹をかすめたが、英二はおちついて横転した体へむけて二連射した。
ビームはマリアの右胸から右肩を切りさき、ついでヘルメットの首の所から左額部へかけてやき切った。――バリッ、と音をたててバイザーがわれた。
英二は、用心深く武器をかまえたまま近づいて行き、銃口でヘルメットをはずした。――ヘルメットをやききったビームが、左の頬の人工皮膚をわずかに焦がし、そのはしがまくれ上がっているのを見て、英二は手をのばし、人相を変えている人工皮膚製のマスクを一挙にはぎとった。
「マリア!……」英二は驚愕のあまりほとんど声にならないかすれた声で叫んで、がっくりマリアの傍に両膝をついた。「やはり……君だったのか!」
「ああ……英二……無事だったのね……よかった……」蒼白な顔に、脂汗をいっぱいかいて、マリアは息をあえがせながらかすかにほほえんだ。「やっと……あえたわね……私たち!」
「救出されたのは、カルロス一人だと?」OPDO―AXの〃プロジェクトX〃総司令室で、ウェッブは、鬚を針ねずみのようにさかだてながらどなった。「破壊工作員だと?――ちくしょう! シャドリクのやつ……で、英二はコントロール衛星に残ったのか? JNシステムは、破壊を免れて、作動しているのか?」
「残念ながら……最後に木星周辺をとびたったF・B1《ワン》が、現在まだ6G加速中で、交信できる状態にありません……」と、通信主任はいった。「しかし、テレメーターで見るかぎり、JNシステム全体は、まだいまの所正常に動いています……。むしろ、ブラックホールの接近の影響であらわれた木星とシステムの部分的擾乱状態が、現在では安定にむかいつつあるようです……」
「しかけた爆発物は、これで全部か?」緑色にぬられた最後の爆弾を、発振機の裏からとりはずしながら、英二はきいた。「全部で六つ?」
「ええ……」とマリアは、デスクの上に横たわって、苦しげに眼をとじたままうなずいた。
「ああ、それから……シューがまだ、身につけてると思うわ……」
「時限装置は……そのリモコン装置でスタートさせたら、もうストップさせられないんだな?」
「そうよ……」マリアはうなずいた。「さっき……三十分にセットしたわ……」
もう十五、六分しかない……と、かっと熱くなった頭で、英二は考えた。――となると……どうすればいい? どこかこの衛星の、安全な倉庫か何かにほうりこんで爆発させるか?……だが、爆発物全体の「威力」がはっきりしないし、マリアもよく知らないようだった。一人だけ知っていたアニタは死んでしまった。
「マリア……大丈夫か?」突然ある考えがひらめいて、英二はデスクに横たわるマリアの顔をのぞきこんだ。「ちょっとこいつを処分してくる。すぐ帰ってくるから……そうしたら、本格的に傷の手当てをしてあげるから……」
「本当に帰ってきてくれるの? 行ってしまうんじゃないの?」マリアはうすく眼をあけて、悲しげな眼で英二を見た。「行ってしまってもいいわ。英二……。あなた、ここから逃げて……。私は……ここに残って罰をうけるわ!」
「馬鹿な事をいうな!」英二は、熱をもってかさかさになったマリアの唇にそっと口づけして、はげますようにいった。「すぐ帰ってくる。――君を一人、残しておいたりしやしないさ……」
そういいおいて、英二は出口にむかって走った。非常デッキへ突進する途中、シューの死体をとびこえ、一たん行きすぎてから思い出してひきかえし、死体のベルトから爆弾を一つはずした。――音こそしないが、リモコン装置でスイッチを入れられ、確実に爆発への時をきざみはじめている、冷たくずしりとした、緑色で平たい「七つの小さな悪魔」を、英二はたった今自分がのってきた小さな救命艇の座席にぶちこみ、発進を外部操作、操縦を自動にしてコースを木星にセットした。――非常デッキのドアをしめ、操作ボックスをあけて気閘《ロツク》をあけ、発進ボタンをおし、かすかな衝撃をドアに感じて、彼はふうっと息をつき、手の甲で顔の汗をぬぐって、ついでに時間を見た。
――爆発まで二分四十秒ある……。
エンジン全開にセットしておいた、無人の救命艇は、二分四十秒あればかなりコントロール衛星からはなれるだろう。おそらく危険のない程度に……。
そう思うと、安堵と同時に疲れがどっと出て、英二はしばらく壁にもたれて息をついだ。――これでこの衛星からのがれる手段はすべて無くなった、という思いと、カルロスは無事に、F・B1《ワン》に収容されたかな、という懸念が同時にうかんできた。そして、中央制御室に残して来たマリアの手当てをしてやらなくては、と、鉛のように重い体をひきずって、通路を歩き出した時、シューのベルトからはずれて、消火器の後にころがっていた、最後の爆弾が、時間が来て彼の背後で爆発した。――英二の体は、四、五メートルも通路をぶっとび、壁と床にたたきつけられた。
「英二!」制御室で、爆発音をきいたマリアは、激痛の走る右上半身をおさえて、デスクの上からずり落ち、爆煙の吹きこんでくる入口の方へむかってよろよろと走りながら叫んだ。「英二! どうしたの?――大丈夫?」
その時、中央制御室の全パネルは、オレンジ色に輝き出した。B・Tマイナス○四H……ついに、木星を爆発させる起爆システムの作動は最終段階にはいり、木星の内部では、核融合反応が臨界点をこえたのだった……。
「木星空域から、いまメッセージがはいりました……」報道担当特別補佐官が、通信員からわたされたメモを見ていった。「発信者は、本田英二……B・B・J計画の木星現場主任です……発信されたのは、JNシステムのコントロール衛星から……」
「大統領府へ、直接か?」
と副大統領はきいた。
「いえ、……〃プロジェクトX〃の関係者全員へですので……当然、最高指揮官である大統領閣下にもあてられていると……」
読みたまえ……というように、大統領は指をあげて合図した。
「〃コントロール衛星に侵入した破壊工作員四名中、三名を射殺、一名を衛星内にて逮捕した……。しかけられた破壊装置はすべて撤去し、衛星外に放出……コントロール装置はすべて無事……JNシステムは、すべて予定通り、順調に作動中……〃」
「神よ……」とシュクロフスキイ副大統領が手を組みあわせ、眼をつぶってうめくようにつぶやいた。「こんな土壇場に……あんな中枢部に破壊工作員が侵入していたとは……。しかも、ぎりぎりで、破壊を免れたとは……神よ、感謝します……」
「〃私、本田英二は、逮捕したマリア・ベースハートとともに、コントロール衛星内に残留のやむなきにいたった……。現在B・Tマイナス○四H……《木星に火がついた》……これで、一切の交信をうちきる……。私たちの太陽系に幸運を……さよなら……みなさん……〃」
「眼がよく見えない……」英二は顔を動かしながらかすれた声でいった。「見てくれ、マリア……パネル表示のバックは、今、何色になっている?」
「さっきまでオレンジだったけど、いまほとんどうすいグリーンになっているわ……」マリアは、あえぎながらまわりを見まわしてこたえた。「一部は……上の方がすごくきれいな紫色にかわりかけている……」
「よかった……。ここまで来ても、システムは順調に動いている……」英二は眼を閉じたまま、苦しげにほほえんだ。「本来、この段階では、ここに誰もいないはずだった。だから、こんなにカラー・パターンを変えなくてもよかったんだが……たとえ、そうでも、万一誰かがここへ残らなければならない時の事を考えて……こういう仕かけを提案したのは……ずっと前、この衛星の外部事故で死んだブーカーって男だった。……ミネルヴァ基地の……ぼくらのチームの……優秀なPRスタッフで……デザイナーだった」
突然、中央制御室の床が、ぐらりと傾いて、横たわっていた英二とマリアの体は、ゆっくりと壁際にすべり出した。――あわてて英二の体をとめようとしたマリアは、重心が狂って英二の胸の上に折りかさなってぶつかった。
「衛星が軌道をはずれ出した……」英二は、マリアにぶつかられた胸と肩の痛みに、顔をしかめながらいった。
「木星が……いまその赤道部が、ちぢみ出したんだ……。予定通り……。もうじき、この衛星も……まわりの加速機群も……何も彼もが、木星の中心部にむかっておちこみ出す……」
マリアは英二の胸に抱かれる形になって、そっと彼の唇に口づけした。
「痛む?」とマリアはきいた。
「大した事はない……」と英二はいった。
通路に残っていた時限爆弾の爆風にたたきつけられ、あちこち骨折や打撲傷や内部出血をしているらしかったが、いまはしらべるすべもなかった。
「君こそ大丈夫か?――体があつい……ひどい汗だ……」英二は傍にあるマリアの顔をなでながらいった。「部屋が少し……あつくなってきた……」
コントロール衛星の自転がとまりかけ、二人の体は、ふわりと床からうきかけ、また、ゆっくりと床に沈んだ。
「あついわ……ぬいでいいかしら……」ふと、何かを思い出したような眼つきになってマリアはささやいた。「よかったら、あなたも……英二……いつかの……あのL・R《ラヴ・ルーム》3の時のように……」
こたえるかわりに、英二はいい方の左手で、スーツの胸もとのファスナーをおろした。――マリアは、半身を起して自分のスーツをぬぎすて、英二の服をぬがしにかかった。白く美しいマリアの裸身は、その乳房の間から右肩へかけて、レーザー・ビームのなまなましい焼痕が走っており、彼女は反射的にそれをかくそうとしたが、もう英二の眼が、ほとんど何も見ていない事に気づくと、そっと体をすりよせて、彼の首に手をまわした。
「でも……よかったわ……。最後にあなたと一緒になれて……」マリアは乳房と下腹を、英二の裸の皮膚にすりつけながら愛らしく溜息をついた。「アニタも死んだし……私、ここで、たった一人で死んで行くのかと思って……」
「コンソールの横の、受信スイッチを入れて見てくれないか、マリア……」英二は、マリアの胸にそっと接吻しながらいった。「何か、遠くの交信か、ムード・ミュージックでもきこえるかも知れない……。L・Rにくらべたら……ここはあんまり淋しいじゃないか……」
マリアは、そっと英二からはなれてスイッチを入れに行った。――入れたとたんに、コントロール衛星はぐらりと大きくかたむき、二人の体は完全に宙にういた。衛星はいま軌道をはなれ、木星の中心部へむかって、自由落下しはじめていた。
「また、あの歌がきこえている……」スピーカーから流れはじめた、ざあざあばりばりというひどい空電のノイズのむこうに、かすかに波うつようなメロディが流れるのをきいて、英二はつぶやいた。「〃バイバイ・ジュピター〃……F・B船隊か何かが、流しているんだろう……」
「あの歌をつくったピーターは、今ごろどうしているかしら?」天井へむかって流れて行こうとする英二の裸身を、手をのばしてつかまえながらマリアはつぶやいた。「イルカの〃ジュピター〃は……死んだんですってね……」
「ああ……その時ちょうどぼくは、現場にいた……」英二はマリアの裸身を空中でしっかり抱きよせ、脚をからめて行きながらいった。「〃ジュピター〃は……人間を守って死んで行ったんだ……」
そのまま二人は、体の痛みも忘れたように、狂おしく情熱的に抱きあい、求めあった。――今は、強烈な紫色一色の光にみたされた制御室の中に、雑音にまじって、あのメロディが、執拗に流れつづけた。
バイバイ・ジュピター……大きな友だち……
突然その雑音のむこうに、洞窟の底で反響するような、一種の「叫び」のようなものがひびいた。
「何だ、あれは?」はっとしたように英二は顔をあげた。「何かの……誰かの……声がきこえる……」
「いや! はなれないで!」とマリアはあえぎながらいった。「だめ、英二……」
「あれをきけ! マリア……」英二は叫んだ。「木星が……木星が、何かを話しかけている!」
11 ターン一八○
JNシステム――「木星新星化《ジユピター・ノヴイゼーシヨン》システム」が本格的に働きはじめたいま、あのなじみ深い、赤白の縞におおわれた、南北に扁平で赤道附近がふくれ上がった木星の姿は、大きく変貌しはじめていた。
巨大な木星中心部の核《コア》で起りはじめた核反応の「制御された進行」により、発生した大量の「質量ゼロの中性微子《ニユートリノ》」が、赤道方向へむかって中心部のエネルギーをはこび去り、その事によって赤道周辺の質量が、急速に中心部へむかっておちこみはじめて、木星はいま、わずかながら自転軸を長軸とするラグビー・ボールのような形に変形しつつあった。
当然の事ながら、あの特徴のある大気表面の、メタンや氷の雲でできた、赤、オレンジ、白の美しい縞模様は、はげしく変りはじめていた。――赤道附近からは、ほとんど白い雲が消え、かわって毒々しい真紅や青や紫のつよいコントラストをもった縞があらわれ、その底から、にぶく赤い光がのぞきはじめた。その縞の間をぬって、網の目のように紫白色の電光がひっきりなしにはためきわたり、大気深部で起りはじめたいくつもの小規模な核融合反応の爆発雲と閃光が、その電光と雲の弄流の底から、赤く、白く湧き上がってくるのだった。
そんな状態になりながらも、あの「大赤斑」は、なおしぶとくその領域をたもちつづけていた。赤道附近の自転が早まり出すにつれて、その動きははやくなり、面積はずっと小さくなり、その姿は赤道方向に長くなって、いまにも二つの小赤斑にちぎれそうになりながら、その底から湧き上がってくる、すさまじい核融合反応の赤熱のガスと紫がかった白光によって、ふたたび一つにつながるのだった。――それはもはや、木星のまたたく「一つ目」というよりも、ずっと細面《ほそおもて》にやせてしまった木星の、「あえぐ赤い口」のように見え、小惑星帯の最前線におかれた、無人の高倍率望遠鏡基地からおくられる映像を見ているものには、その極方向にせまる凶暴な「暗黒の顎《あぎと》」にのみこまれかけている木星がその巨大な「赤い口」を開いて、その奥から、声にならない閃光と雲の痛ましい「叫び」を、太陽系にむかって、また宇宙にむかってあげつつあるように見えるのだった。
そして、その大赤斑の底では、すでに音速をこえかけているすさまじい暴風雨の渦にもみくちゃにされながら、一つの巨大な〃幽霊《ゴースト》〃が、やはり断末魔の叫びをあげようとしていた。
かつて、〃木星幽霊《ジユピター・ゴースト》〃として、木星大気圏探査艇に何度か目撃された、長さ百四十キロメートルもある、途方もない異星の宇宙船は、――それはおよそ十万年以上前に太陽系に飛来し、木星の衛星軌道上にいて、何らかの事故によって、大気圏中におちこみ、「大赤斑」の直径四万キロもの暴風の渦のまわりをめぐっていたものだが――ほとんど衝撃波にちかい、すさまじい突風に翻弄され、通常の何億倍もの雷の電流にくりかえし打たれ、また木星中心部から噴きあげてくる核融合爆発の、おそろしい熱と放射線の直撃をくらって、いまにもその巨体がへし折られそうになり、また船体が全長にわたって熱によって赤く光りはじめ、その一端には電光がまといつき、ついに船首とおぼしき端が、息づくように白く、青く発光しはじめた。
そして、その時、十万年にわたって木星大気の底で眠りつづけていたものが、この巨大な異星の宇宙船の中でついに眼ざめ、さだかならぬ、「何か」のメッセージをおくりはじめたのである。
「木星から、何か〃有意信号〃が発せられている……」
火星衛星軌道上の宇宙島OPDO―AXの司令室で、木星観測班の一人が、ディスプレイを見ながら、呆然としたようにつぶやいた。
「木星周辺の人工衛星やJNシステムの装置群が、落下をはじめて、どこか通信系統に故障が起きたんじゃないか?」と、通信員の一人がふりかえっていった。「テープでもまわり出したんだろう……」
「ちがう。そんな、われわれの知っているものじゃない……。物すごく強い……音声通信みたいな感じの連続信号だ……。何だか、ひどく奇妙な変調方式をつかっている……」観測班員はイアフォンをおさえ、ディスプレイを次々にきりかえた。「電波信号は、木星本体から発せられている……。観測船〃アルゴス〃もキャッチした……。発信地点は……どうやら〃大赤斑〃附近だ……」
「〃大赤斑〃から……有意信号?」バーナード博士が、ききとがめて、はっとしたように上の通路からふりかえった。「おい、君!――そいつを、最も精度の高い方法で記録しておいてくれんか?――ほかの基地にもよびかけて……」
「わかりました……」観測班員は、コンソールの前で座りなおして、観測ネットワークのよび出しにかかった。「でも、木星の自転がどんどんはやくなっているので……とびとびにしか記録できないかも知れません……」
「ほら! マリア……聞いてみろ!――聞こえないか? 木星が……木星が、いま何かぼくたちにいっている……」
木星の赤道部へまっしぐらに落下しつつあるコントロール衛星の中央制御室の空間を漂いながら、英二は熱にうかされたように叫びつづけた。
「わかるだろ? マリア……木星が……いま、ぼくたちに、おわかれをいっている……。わからないか?」
「英二!……英二!……どうしたの? しっかりして!」手をふりはらって、あらぬ方向へ、狂ったように泳ぎ出そうとする英二の裸身を、マリアは必死になってつかまえようとしてもがいた。
「あれは……きっと、ちぢみ出した木星から出ている、電波雑音か……そうだわ、ホイッスラーのうんと長く、大きいのだわ……」
「ちがう!――ホイッスラーなら、何度もきいた事がある……あれは、そんなものじゃない……」
たしかに、中央制御室内部いっぱいにひびきわたる、すさまじい怒濤がくずれおちるような、そしてまた瀑布のなだれおちるような雑音と、その間をばりばりとかけめぐる雷鳴に似た空電の間をぬって、巨鯨が――あるいは何か得体の知れぬ巨大な獣が吼えるような、意味ありげな音響が、高く、低くひびきわたり、それはある時は悲しげなオットセイの遠吼えのようにはげしく断続的につづき、またある時は、何かを訴えるように、低音から高音へかけて、一つのメロディを形づくって、嫋々とうたい上げるのだった。
だが、それはいくらきいても、意味の理解できるメッセージにならなかった。――しかし、爆弾の衝撃で、強く頭をうった英二の、衰弱し、なかば狂いかけた頭には、何かはっきりした言葉のように感じられるのかも知れなかった。
「ほら……マリア……きいてごらん……。君にもわかるだろ……。木星が……わかれのあいさつをしている……」英二は、紫色の光の中で、その声をとらえようとするように頭を左右にふった。「君にも、きこえるだろ?……木星が……自分は、太陽系を守るために……ガスとなって消えて行くけど……自分はそれでいいって……でも、生き残ったものたちが……さらに……太陽系をこえて……」
「英二!……だめ!……そっちへ行っちゃあぶない!」
マリアは傷ついた方の腕をのばして英二の指先をやっととらえ、反対側の腕をおよがせてひきよせようとした時、そちらの手に、何かやわらかいベルトのようなものがさわった。――反射的にそれを手にからめると、マリアはいま自分がつかんでいる英二の手と自分の手を、手首と手首をかさねるようにしてそのベルトでぐるぐる巻き、しっかりととめた。
コントロール衛星に何かはげしくぶつかった衝撃がひびき、がんがんと外壁をころげまわるものの音がした。――もう一切の役目の終ったコントロール衛星の内部では、装置群はなお生きてはいたが、木星の表面ちかく、これも役目の終った加速機、宇宙基地、のりすてられた宇宙船や、砕けはじめた衛星群の破片とぶつかりはじめているようだった。
「ほら、マリア!……きいてごらん!」ぎらぎらと熱っぽく輝く眼を見開いて、英二はなお遠い巨獣の砲陣のような音にむかって片手を宙にのべて叫んだ。「木星《ジユピター》が……、ぼくたちに、さよならっていっている……ね……きこえるだろう?……さよなら……さよなら……ジュピター……」
がりりっ、とひどい雑音が耳をうつと、突然スピーカーは沈黙した。受信アンテナに、何かがぶつかって破壊したらしかった。――あとには、さーっ、というかすかな回路のホワイト・ノイズが流れるばかりだった。
かわりに、コントロール衛星本体の、どこかずっと遠くから、何かがぶつかる音、ばりばりと外壁の砕ける音、どこかでしゅうしゅうと気体がもれる音などがひびいてきた。――中央制御室の内部は、なお紫色の光にみたされていたが、それでもどこか一部がまたたきながら弱まりはじめていた。
「マリア……どこだ?」と英二は弱々しくいって、しばられていない方の腕を宙におよがした。「何もきこえなくなった……、何も見えない……、君が見えない……」
「ここにいるわ、英二……」マリアは痛みをこらえてしばった手首をひきよせ、反動を利用して、英二の体を正面からしっかり抱きしめながらいった。「あなたといっしょよ……」
「寒い……」と英二はかすかに身ぶるいしてつぶやいた。「寒くって……暗い……。暗くて冷たい所へ……おちて行く……」
マリアは突然、頬に滂沱と涙が流れるのを感じ、四肢をからめて英二の体を正面から力一ぱい抱きしめながら接吻した。――かさかさにひびわれた唇を割って、英二の口中に舌をさし入れたが、彼の舌や、口腔が、もう冷たくなっているのを感じて胸をつかれた。英二の四肢も、胸も、氷のように冷えはじめており、ただ下腹だけにわずかにぬくみが残っていた。しゅうしゅうという、耳ざわりな音が、部屋のあちこちからきこえはじめ、気温も、気圧も急速にさがりはじめているらしい事が、裸の背中に、いたいほどの冷たさでわかった。
――英二……と、唇を耳に宛《あて》がいながらマリアは心の中でつぶやいた。――あなた、もう、死んじゃったの?
心臓の鼓動が感じられず、四肢はかたくこわばりはじめているようだった。――室内の明りは、ますますせわしなく息づきはじめ、やがて、ふわーっと照度がさがると、一部の赤、オレンジ、紫の発光体も燃えて、ほとんど消え、それも次第に暗くなって、ついに完全にまっ暗になってしまった。
もう一度英二の体を抱きなおそうとすると、二人の体は暗がりの中でからんだままくるくるとまわりはじめた。
――いいわ……英二……私の息のあるかぎり、あなたをこうやってあたためていてあげる。
と、暗がりの中で涙を流しながらマリアは死んだ英二に語りかけた。
――いまは、寒くて、暗い中をおっこちて行くけど……もうじき私たち……熱い、明るい所へ行くのよ……。そして、まっ白な光のガスになって、爆発するの……。
「来た……」と、〃プロジェクトX〃の総合司令室で、誰かがかすれた声でつぶやいた。「来るぞ……予定通りだ……」
木星が、小型の新星《ノヴア》になって、すさまじい白光と、灼熱のガス、粒子となって爆発する瞬間を、海王星帯で、火星の衛星軌道上で、月面上で、そして地球上で、何千万という眼が、それぞれ光の信号の到達する時間だけおくれて見つめていた。――それは、太陽系に何万とある大型ディスプレイ・スクリーン上の、音もなく燦《きら》めく白光としてあらわれ、その白い光は、スクリーンを注視する人々の顔を白く染めただけだった。その瞬間、誰も歓声を上げるものはなく、重苦しい沈黙が、それぞれの部屋をみたしていた。数十秒たってから、OPDO―AXの〃プロジェクトX〃総合司令室では、誰かが、かすかに、やった……とつぶやいた。
木星の質量点が、北極方向へむかって動きはじめた事が、テレメーターにあらわれていた。木星は、すさまじい核融合のジェットを南極方向にひきながら、みずからを燃やし、自転軸の方向にのびながら崩壊して行くガスの「火の玉」となって、もう眼の前にまでせまっているブラックホールの方向にむかって、その質量とエネルギーを展開しはじめていた。あとは、数時間後に、どのくらいの質量とエネルギーが、はげしく回転するブラックホールをたたき、吸収され、どの程度に、太陽との衝突進路《クラツシユ・コース》を変えられるか、だった……。
A―1型標準恒星旅客船《スター・シツプ》三百五十隻と、A―2標準船六百十二隻からなる脱出船団EXF―M―48の船団司令あてに、地球からの「緊急、極秘」の通信がはいったのは、船団がやがて太陽系から百億キロの、第一待機空域にはいろうとしている時だった。
その時、M―1からM―20までの、最初期に出発した船団は、太陽から五百億キロの第三待機空域で、M―21からM―40までの第二陣は、三百億キロの第二待機空域で、同様に、地球からの「最終指令」を待っているはずだった。
その暗号通信が、船団司令船〃タリ・ホー〃号にとどいた時、ちょうどオットー・ヴィンケル・Jr.が、大尉格の通信連絡将校として、通信室の当直をやっていたが、通信の頭に次々にはいり出した「U・TS・CC」のコードを見て、思わず顔をひきしめた。――「緊急・極秘・司令官親展」のコードだ。
「いったい何でしょうか?」と、暗号のまま受信を終った通信員は、ちょっと不安そうに、プラスチックでパッケージされたまま、受信機のスロットから出てきた通信カードをオットーにわたしながらいった。「何か特別の事でも起ったんでしょうか?」
「さあ、どうかな」その内容はともかく、それがどんな性質の通信であるかを知っているオットーは、つとめて平静な表情をつくって、そのカードをうけとった。「私が司令の所にもって行こう――いま、個室におられるから……」
司令官個室で、ハンス・ディエン提督は、M―48の一隻につまれた望遠鏡でとった、木星の爆発の瞬間の録画をプレイバックしている所だった。――百億キロちかくはなれた空域からも、木星の爆発の閃光は、かなり明るく見えた。だが、その時の光が、船団にとどくまで、九時間以上かかっている。
オットーがはいって行って、短く報告すると、がっちりとした長身の、福建の誇り高い海商と北欧ヴァイキングの両方の血筋をひく七十六歳の提督は、何ともいえぬ深刻な眼つきをして手をさし出した。――オットーのさし出した極秘通信カードはかすかにふるえており、それを受けとろうとする提督の手もかすかにふるえていた。
提督はすぐにプラスチック・カバーの封を切り、個人用執務デスクの前にすわって、暗号の解読にかかった。――オットーは、退出許可をもらえないまま、居心地の悪い思いでそこに立っていたが、やがて提督が、
「おお、神よ!……」
とうめいて、顔をおおって泣き出すのを見て、そっと足音をしのばせて出て行こうとした。
だが、その時、提督ががたん、と大きな音をたてて、椅子からすべりおちるように床に腰をつくのを見て、おどろいて足をとめた。ディエン提督が、執務デスクに片肘をついて、顔をおおい、幅ひろい肩をふるわせ、声を殺して鳴咽するのを見て、何も彼も了解されたような暗澹とした気持になった。――オットーは顔をそむけ、眼頭をこすった。自分も鼻の奥が痛くなり、涙が出そうだった。
「退ってよろしいですか?」とオットーはしめった声できいた。「それとも、今すぐ船団に報告されますか?――あるいはもっとあとで……」
「今すぐ――全員に報告しよう……準備しろ……」と提督はすすり上げながらくぐもった声でいった。「いや――その前に、全船団にコース変更の指令を出さねばならん……。航海長をここへよべ……」
え?――ととまどった顔をして、オットーはたちすくんだ。
「何をぼんやりしとるんだ、ヴィンケル大尉……」提督はやっと執務机から顔をあげていった。――その灰色の鬚におおわれた顔は、涙にぬれてくしゃくしゃになっていたが、赤くはれた眼と口もとには晴れ晴れとした笑顔がうかんでいた。「早く航海長をよばんか。――コース変更百八十度だ……。太陽系は助かった。〃X点〃は、目下、太陽から四億キロちかくそれたところを、どんどんはなれつつある……」
十分後……。
船団M―48の、千隻ちかい恒星船の中では、驚喜乱舞の状態が起って、どの船でも、しばらくの間船内機能が麻痺してしまった。――しかしそれがおさまると、各宇宙船は、劇的な百八十度コース変更にはいった。
すべての宇宙船のスクリーンには、その時、天体観測専用船につまれた、大倍率の光電子望遠鏡のとらえた、太陽の「無事な姿」を、でかでかとうつし出していた。――その時の太陽と船団の位置関係からは、あの爆発した木星の爆発ガスのなごりが、太陽の前面に、斜めに細長く、うす暗い帯状の影となってかかっているのが観測された。
それは、自ら身をすてて、太陽の家族《フアミリイ》をまもってくれた、太陽系最大の〃長男〃の死を悼んで、父なる太陽が、黒い「喪章」をまとっているように感じられた……。
12 虚無への墓碑銘《エピタフ》
「全世界のみなさん……太陽系宇宙空間にひろがる、地球同胞のみなさん……」
世界連邦大統領ジェイコブ・ミン博士は、3DTVの太陽系ネットワークを通じて、静かに語りかけはじめた。
「私たちの太陽系に、宇宙の彼方から突然、おそいかかってきた災厄による、人類にとっての、母なる地球にとっての、そして太陽系全体にとっての未曾有の危機は多くの人々の叡知と、勇気と、努力と、犠牲によって回避されました。――災厄の影響は、これからもなお若干残りつづけるでしょうが、太陽系の完全な破滅の危機は、一応回避し得たことを、世界連邦大統領として、ここによろこびをもって御報告申し上げます……」
大統領の演説は、身体のひどい衰弱により、官邸執務室から医師立ちあいのもとにおこなわれたが、連邦議会は、例によって「3DTVによる出席」が認められていたにもかかわらず、上下院とも、議長ともに実に七○パーセントをこえる「本人出席」の状態だった。――数十人の議員はEX船団にのりこんで、まだ太陽から数十億キロ彼方の宇宙空間にあり、地球にむかってひきかえしつつあった。彼らもまた、何時間おくれかで、大統領の演説をきいていた。
地球および太陽系にある百九十億ちかい人々も、大半はテレビの前で大統領の演説をきいていた。――だが、残りの大半は、再びもどってきた、平穏な日常の中で、あるものは忙しくたちはたらき、あるものはのんびりと保養地で休暇を楽しんでいて、その演説をきいていなかった。宇宙空港は、まだ閉鎖されたままだったが、地球上の大都会や町は、再びもとの活気をとりもどしつつあり、再開した旅行代理店は、殺到する観光旅行の申しこみに忙殺されていた。公園には、子供たちの明るい、やかましい声がみち、小犬が走りまわり、そこここのベンチで、若い男女が恋を語らい、咲き乱れる花の間を、蜜蜂がせわしなくとびまわり――そして、それらの上にはいつもとかわらぬ太陽が、明るくあたたかい光をふりそそいでいた。
だが、一見いつもと変らぬ太陽も、実をいうと、わずか数億キロの所を通過して行った巨大な質量の潮汐作用により、その北極からやや斜め方向にむかって、ものすごいフレアを何条も噴き出しており、はるか深部にまでおよんだ「一時的擾乱《じようらん》」は、徐々に恢復しつつあるものの、果して今後、どんなに長期にわたって、その微妙な「内部状態」に後遺症を残すか予断を許さない所があった。宇宙空間では、多くの専門家が、太陽の北半球に出現した多数の黒点をふくめ、太陽の表面と内部状態を、強い懸念をこめて精力的な観測をつづけていた。――太陽のみならず、太陽系の惑星の軌道も、あるものはかなりな影響をこうむっていた。冥王星の軌道傾斜と公転周期がかわり、海王星と火星の軌道の離心率が大きくなり、小惑星の一部は、大きく軌道からはずれ……そのほかの惑星もかなりぐらついていて、今後どういう形でおちついて行くか、まだよくわからなかった。とりわけ太陽との関係のわずかな変化によってさえ、生物にとっては「重大な」変化を起しやすい地球の複雑な気候に、この先どんな異常があらわれてくるか、気象学者たちは、固唾をのんで見まもっている所だった……。
「……しかしながら、この破滅的災厄を回避するために、私たちは何という大きな犠牲を、何千人という地球同胞のみならず、私たちの太陽系そのものに強いなければならなかった事でしょう……」と、大統領はかすかに眼をしばたたきながらつづけた。「――わが太陽系最大の惑星、あの美しい、神秘にみちた木星を、私たちは自らの手で破壊しなければならなかったのです。……それ以外のやり方がなかったにしろ、果して、この小さな地球という惑星の上にうまれた人類が、そんな事をやっていいのか――太陽系の残りの部分と、地球人類を破滅から救うために、この星系最大の惑星を犠牲にする、といった事が、果して私たちに許されるのか?……大統領として決定を下す前に、私は激しく悩みました。それは、私だけでなく、この太陽系にはぐくまれた、地球人類全体の悩みであった事は、みなさん御自身がよく御存知だと思います。――これから先私たちの、そして私たちの子孫の見上げる夜空には、あのもっとも強く美しく輝いていた地球の〃兄弟〃の光は、もう二度と見られないのであります……」
月軌道上のL5宇宙コロニイ――その中に含まれる研究衛星《ラブサツト》2の、世界天文学連合本部大会議場では、ナーリカー会長、ヴィンケル副会長臨席のもとに、奇妙な儀式がおこなわれようとしていた。
大会議場の中央床面に設置された、直径二十メートルの巨大な太陽系儀――それこそ、太陽系内の地球植民地のすべての太陽系儀の「原儀」にあたるものだったが――の中から、木星をあらわす金属球が、書記の手によってのぞかれようとしていた。
黒服黒タイの長身の書記は、円形階段状の席の半ばをうずめる、思い思いの胸に黒い喪章をつけた会員の見まもる中を、太陽系儀の上をまたいでいるキャッツ・ウォークを木星の軌道上まで歩いて行き、そこにひざまずいて、金属製の腕《アーム》から、うすく白とオレンジの縞模様をうき上がらせた金属球をとりはずし、それを黒ビロードで内張りした、マホガニー製の箱に入れて、うやうやしく胸もとにささげた。
同時にナーリカー会長が合図し、オットー・ヴィンケル副会長が、手もとのコンソールのボタンをおした。――会議場正面の大スクリーンと、場内のすべての席の前のディスプレイ・パネルにうつし出されていた、太陽系の諸惑星軌道をあらわすコンピューター画像の中から、いっせいに「木星」のマークが消えた。次第にうす暗くなって行く場内照明の中で、大スクリーンに、小惑星基地の一つからおくられてくる映像――かつて木星のあった宇宙空間に、ぼんやりと光りながら、不規則な形でひろがるガス雲の姿がうかび上がった。
場内に、かすかなすすり泣きとともに低く、重く、「バイバイ・ジュピター」の歌声が湧き起った。――あるものは頭を深くたれ、あるものはガスの映像を、涙のもり上がる眼で注視しながら、かつて存在した最大の惑星に対する「挽歌」を歌いつづけた……。
「私たち地球人類は、今後もなお宇宙へむかって、さらに遠く、深く、広く進出して行くであろうと私は思います。――それは知性をもった生物の、使命とも、宿命ともいえるものかもしれません……」大統領は、かすかにしわぶきながら沈痛な調子で語りつづけた。「しかしその事をみとめた上で、なお私たちは、今回の出来事を通じて、私たちにさしつけられた問題を、心の奥深く、かみしめてみる必要があると思います。――私たちが、知的生命体としての宿命、あるいは使命にしたがって、この宇宙にひろがり、生きつづけて行く以上、時には生きのこるために、この宇宙の一部の破壊や、その秩序の一部の破壊的変更は、やむを得ないこととして許されるべきなのか……それは、〃エントロピーの増大〃という、宇宙全体の宿命に対して、ささやかな〃部分的秩序恢復《ハング・アツプ》〃をもって闘いを挑むべく運命づけられた存在にとって、当然の、あるいはさけがたい行為であるのでしょうか?……」
火星軌道に比較的近い所を漂う、鉄質小惑星二○七九XK6に、小型の宇宙船が接触し、おろされたランプからすこしはなれた所に、宇宙服に身をかためた、五人の人物が半円形にならんでいた。――太陽系開発機構のウェッブ総裁と秘書のイヴォンヌ、ミリセント・ウイレムとバーナード博士、そして車椅子にのったカルロス・アルバレスだった。
五人の前で、工作ロボットが、チタン製のプレートでつくった一辺二○センチ×三○センチほどのささやかな墓標を二つ、小惑星の表面に露出した、ほとんど純鉄に近い鉱床の上に、ならべてレーザー溶接をしていた。――レーザーの青白いビームと火花が消え、赤く焼けた鉄鉱床の輝きがおさまると、ウェッブが墓標にちかより、マグネット付きの小さなドライフラワーの花輪を、英二の墓標の前においた。つづいてミリーがマリアの墓標に花輪をささげた。
「とうとう先に行ってしまったな、英二……」と、ウェッブはヘルメットの中から、墓標にむかって語りかけた。「お前があれほど情熱をそそいでいた木星と、運命をともにすることができたのが……そして死ぬ時に一人でなく、恋人と一緒だったのが、せめてもの事だったろうが……それにしても……お前のような若い者が先に行き……わしのようなおいぼれが……もう未来も希望もないおいぼれが、こうやって生き残るとはな……だが、わしももうじきお前たちの所へ……」
イヴォンヌが、突然すすり泣きはじめた。
「泣かないで……」ミリーはやさしくイヴォンヌの腕をたたいてささやいた。「ヘルメットの中で泣いたりしたら……お化粧がくずれても、涙もふけないのよ……」
「でも、総裁……そんな悲しいことをおっしゃらないでください……」イヴォンヌは泣きじゃくりながらいった。「総裁には、もっと生きていただいて、開発機構を……」
「いや――わしの夢はもう終った……わしの人生も……」ウェッブは、星のきらめく空間を見上げながら、淡々とした口調でいった。「男の夢や希望というものは、その人生を通じて育て上げてきた現実と一体になっているものだ……。その現実がこわれてしまえば……夢とか希望といったものも、もはや何の意味もなくなってしまう。わしの人生は、今やぬけがら同然だ。――もう一度、一からやりなおすにしては、わしはあまりにも年をとりすぎた……。太陽系社会の……人類の宇宙時代の、夢のたてなおしは、次の世代にやってもらわねばならん……」
「私はそれほど絶望していない。……自分の夢が、二度と手にいれる事ができなくなるほどこわれてしまったとは思っていないんだ、エド……」バーナード博士は、ぼんやりと幽霊のように光る木星の残骸のガス雲を見上げながら、なぐさめるようにいった。「もともと学問そのものが……時代をこえて、大勢の人間によってうけつがれてきた巨大な〃夢〃のようなものだからな……。そりゃ、今度の事で、貴重な手がかりは失われたが……多少進み方がおくれても、何代かあとの連中が、また何かを見つけるだろう。ひょっとしたら、太陽系の外で……そうしたら、また〃夢〃のつづきがはじまるだろうし、そうなる日の事を夢見ながら、希望をもちつづける事もできる……」
「まったく……君たち学者が、つくづくうらやましくなる事があるよ、バーナード……」ウェッブは太い溜息をつきながらつぶやいた。「私も、政治家などでなく、学者になっていればよかったと思う事がある……」
宇宙船から、出発時刻のせまった事を知らせるシグナルがはいり、イヴォンヌがそっとウェッブの腕をささえた。そのあとをバーナードが後見のようについて、宇宙船の方にひきかえしはじめたが、カルロスとミリーは、なおたちさりがたい思いで、英二とマリアの墓標を見つめていた。――暗黒の宇宙空間を漂う長径わずか二キロほどの、小さい、不規則な、凸凹した鉄質の塊の上にはめこまれたそれぞれの本名と死亡年月と享年だけをきざんだ二基の小さな墓標は、さむざむとした星明りのもとに、そのままおきざりにするには、あまりに孤独でわびしげだった。
「英二……マリア……」とカルロスが、くぐもった声でいった。「二人だけでここにおいとくのは、何だかかわいそうみたいだ……」
「彼らは、あのガスの一部になったのね……」ミリーは、ぼんやりひろがる弱い光を見上げながらいった。「木星がなくなっちまうと、……小惑星の軌道がいろいろかわって、この星もどこへ行ってしまうかわからないわね。墓標にマーカーがしこんであるときいたけど、この次のお墓参りの時、うまく見つかるかしら……」
「ねえ、ミリー……あなたにおねがいがあるんだが……」宇宙船にむけて車椅子をまわしながらカルロスはいった。「もし、ぼくがあなたより先に死ぬような事があったら……ぼくの墓を、この小惑星の上につくってくれないか? 英二やマリアと同じ場所に……」
「いや!」ミリーは、はげしく、鋭い声でいった。「絶対にいや!」
ミリーの背後で、カルロスが驚いたように息をのむ気配があった。
「どうして?……」
と、一呼吸おいて、カルロスは、おずおずと小さな声でたずねた。
「どうしてって……好きな人の……好きな仲間たちのお墓をつくるのは、もうごめんだわ――絶対にいやよ……」
カルロスがしばらく車椅子をとめ、それから再び宇宙船にむかって動き出すのがわかった。ミリーは、なおも強情に、去って行くカルロスと宇宙船に背をむけ、二基の墓標とむかいあっていた。しかし、彼女の眼は、足もとにある墓標にではなく、てらてらと鈍く光る小惑星の岩肌をこえ、その彼方にひろがる木星の残骸のガス雲に、さらにその背後に、はてしなく深くひろがる暗黒の空間と、そこにちりばめられた無数の凍るような星々の光にそそがれていた。耳もとのイアフォンから、ウイレム博士……出発します……お急ぎください……という宇宙船の副長の声がくりかえしきこえたが、彼女はそんな事に注意をむけず、鉄鉱床の上に、マグネット・シューズをふんばって、小さな冷たい鉄の星の一部になったようにがっしりと立ち、彼女を包みこむ、果しない宇宙の暗黒とむきあっていた。
その時、突然、彼女は宇宙の冷酷さ、残忍さ、むごたらしさというものを、はっきりと感じとる事ができた。――彼女の恋人を、若々しく美しい恋人たちを、多くのすぐれた人々の、また偉大な不屈の人々の希望や夢を数かぎりなく奪いとり、のみこみ、粉々にかみくだいて、一つかみの素粒子やエネルギーに還元してしまい、なお貪婪《どんらん》にすべてのものを、その荒々しい星の、銀河の、超銀河系の、衝突し爆発する「地獄の炉」の中にのみこみ、やきつくして、等方的な「虚無」に還元しようとしている、冷酷でよそよそしい「裸形の宇宙」の実体と今こそ何の幻想もなく、裸のままでむきあっている自分を感じていた。
宇宙そのものの中には、何の希望もなく、また、ウェッブが思い描いたような人類の美しい「未来の夢」を実現させてくれる「希望の土地」としての性質を内在させているわけでもなかった。――「夢」を抱き、その夢の未来における実現を希望するのが、人間の本性だとするなら、そのような存在としての人間と、宇宙との関係は、「不条理」というほかない。
この宇宙の中で、人間の夢や希望がいつかは実現される、という保証はどこにもない。――しかもなお、夢も、希望も抱けないまま、人間はなお、この「不条理の土地」にむかってくりかえし進出し、挑みつづけるだろう。おそらくは人間自身の「宿命」によって……。
「ウイレム博士!……どうなさったんですか?」と、とうとう副長は音声レベルをあげて叫んだ。「何かあったんですか? むかえに行きましょうか?」
――さよなら、木星《ジユピター》……
と、ミリーは天空にかかるぼんやりしたガスにむかって最後によびかけた。――自分の心が、冷たく、かたく、石のようにざらざらしたものに変って行くのを感じながら……。
――あなたは私たちの手によってガスとなり、ブラックホールを太陽からそらせた……。そのおかげで人類はまた生きのびたけど……この結果には、神の恩寵や人類の叡知の勝利といった「栄光」もなく、太陽系で最も美しく巨大な惑星を犠牲《いけにえ》にした、という「悲惨」もない……。人間は、これからも、宇宙の中で、おそいかかってくる事態に対して、できる事をやってきりぬけて行くだけ……。これから先は、あなたたちを、神話の神々の名でよばないような、新しい〃宇宙世代〃が出てくると思うわ……。私なんかには、ちょっぴり淋しいけど、それもしかたがない事ね……。じゃ……バイバイ……。ジュピター……。