小川洋子
妊娠カレンダー
目 次
妊娠カレンダー
ドミトリイ
夕暮れの給食室と雨のプール
文庫版のためのあとがき
妊娠カレンダー
十二月二十九日(月)
姉がM病院に行った。
彼女は二階堂先生の所以外、ほとんど病院に掛かったことがないので、出かける前はかなり不安がっていた。「どんな洋服を着て行けばいいのか、全然分らないわ」とか、「初対面の医者の前で、うまく喋れるかしら」などと愚図々々言っているうちに、とうとう年末最後の診察日になってしまった。今朝になっても、
「基礎体温のグラフは、いったい何ヵ月分くらい見せたらいいのかしらねえ」
と言いながらぼんやりわたしを見上げ、朝食の残ったテーブルからなかなか立とうとしなかった。
「あるだけ全部見せたらいいんじゃないの」
とわたしが答えると、姉は
「全部といったら丸二年分、二十四枚もあるのよ」
と高い声を出して、ヨーグルトのびんに突っ込んだスプーンをぐるぐるかき回した。
「そのうち妊娠に関係ある部分はほんの数日分なんだから、わたしは今月の一枚だけを見せればいいと思っているの」
「だって、もったいないじゃないの。せっかく二年も計ったんだから」
「医者がわたしの目の前で、二十四枚ものグラフ用紙をがさがさめくっている場面を思い浮かべると、みじめな気持ちになるの。妊娠に至るまでの手順を、いちいちのぞき見されてるみたいで」
姉はスプーンの先についたヨーグルトを眺めた。それは不透明に白く光りながら、とろとろとスプーンからこぼれ落ちた。
「考えすぎよ。基礎体温表なんて、ただの資料じゃないの」
わたしはそう言いながら、ヨーグルトのびんの蓋を閉めて冷蔵庫にしまった。
結局姉は、全部の基礎体温表を持って行く決心をした。しかし、そのグラフ用紙を二十四枚そろえるのが、また大変だった。
姉はあれだけ几帳面に毎朝体温を計っていながら、何故かグラフ用紙の整理だけはいい加減だった。寝室にあるはずのグラフ用紙が、いつの間にかマガジンラックの中や電話台の上に紛れ込んでいた。普段の生活のなかでふと、折れ線グラフのぎざぎざ模様が目に入ることがあった。考えてみれば、新聞をめくったり電話をかけたりしながら、「ああ、この日が姉さんの排卵日だったのね」とか、「この月は低温期が長いわ」などと思ったりするのは、やはり奇妙なことだ。
姉は部屋のあちこちを捜し回り、何とか二十四枚のグラフ用紙をかき集めた。
姉がM病院を選んだのは、感情的な理由からだった。わたしはもっと設備の整った大きな病院がいいと勧めたが、彼女は
「わたし、子供の頃から、赤ん坊を生むならM病院にしようって、決めてたの」
と言って譲らなかった。
M病院はわたしたちの祖父の代からそこにある、産婦人科の個人病院だった。わたしたちはよく、そこの中庭に忍び込んで遊んだ。病院は古い木造の三階建てで、表から見ると苔の生えた塀や消えかかった看板の文字や曇ったガラスのせいで陰気臭いのに、裏から中庭に入るとそこにはたっぷりと日が差し込んでいて明るかった。そのコントラストが、いつもわたしたちをどきどきさせた。
中庭はよく手入れされた芝生が敷きつめられ、わたしたちはその上をごろごろ転がって遊んだ。芝の尖った葉先の緑と、太陽の光のきらめきが順番に視界を覆った。そしてだんだん緑ときらめきが目の奥の方で混じり合い、澄んだ藍色になっていく。すると空や風や地面がわたしの身体からすうっと遠のいて、宙を揺らめいているような一瞬が訪れる。わたしはその一瞬をとても愛していた。
しかし何よりわたしたちを一番夢中にさせた遊びは、病院の中をのぞくことだった。わたしたちは庭の隅に捨ててあるガーゼや脱脂綿の段ボール箱を台にして、窓から診察室をのぞいた。
「見つかったらきっと、怒られるよ」
姉よりわたしの方が臆病だった。
「大丈夫。わたしたちまだ子供なんだから、そうひどく怒られたりしないわよ」
姉は息で曇ったガラスをブラウスの袖口でぬぐいながら、平然とそう言った。
窓に顔を近付けると、白いペンキのにおいがした。鼻の奥がほんのり痛むようなそのにおいは、M病院と強く結びついて、大人になってもなかなか消えなかった。ペンキのにおいをかぐと必ず、M病院を思い出した。
午後の診療が始まる前の診察室はひっそりと人影がなく、隅から隅までゆっくり眺めることができた。
楕円形のトレーにのった、さまざまな種類の広口びんは、特に神秘的だった。王冠でもねじ式でもない、ただガラスの蓋を差し込むだけのそのびんを、自分で開けてみたくて仕方なかった。びんにはどれも茶色や紫やえんじのくすんだ色がついていて、中の液体もそれと同じ色に染まっていた。太陽の光がびんに当たると、液体が震えるようにひそやかに透けて見えた。
先生が坐る机の上には、聴診器やピンセットや血圧計が無造作に置いてあった。その細くくねった管や、鈍い銀色の光や、洋梨型のゴム袋は、なまめかしい昆虫のようだった。カルテに書き込まれたアルファベットの続け文字には、ぞくぞくする秘密めいた美しさがあった。
机の横には飾り気のない、質素なベッドがあった。洗い晒しのごわごわしたシーツが広がり、箱型の枕が真ん中にぽつんと置いてあった。その不思議な形の固そうな枕に頭を横たえたら、どんな気分になるのだろうと、わたしは思った。
壁には『逆子を治すためのポーズ』という写真が貼ってあった。黒いタイツをはいた女の人が、腰を折り曲げ胸を床に押し当てていた。そのタイツがあまりにもぴったりと足に張り付いていたので、わたしには彼女が裸のように見えた。彼女は黄ばんだポスターの中で、うつろに遠くを見ていた。
どこからか学校のチャイムが流れてくると、そろそろ午後の診療が始まる時間だった。お昼ご飯をすませた看護婦たちの足音が扉の向こうに聞こえると、わたしたちはもうあきらめなければいけなかった。
「ねえ、二階と三階はどうなってるの?」
わたしが尋ねると、姉はまるで見てきたかのようにきっぱりと、
「入院用の病室や赤ん坊の部屋や給食室があるのよ」
と答えた。
時々三階の窓から、女の人が外を見ていることがあった。赤ん坊を生んだばかりの人だったのだろう。彼女たちはみんなお化粧っ気がなく、厚手のガウンを着て、髪を一つに束ねていた。耳の横で後れ毛が弱々しく揺れていた。彼女たちはだいたい無表情で、ぼんやりしていた。
『あんな魅惑的な物にあふれた診察室の真上に寝泊りできるのに、どうしてちっともうれしそうじゃないのだろう』
と、わたしはあの時思った。
どうしてもM病院で診察してもらうと言うくらいだから、姉にとっても子供の頃の印象は強烈だったのだろう。彼女もガウンを着て髪を束ね、ひんやりと青ざめた頬で、あの三階の窓から芝生を見下ろすことになるのだろうか。
わたしさえ折れれば、姉に反対する人はいない。義兄は、「あそこなら近くて歩いて通えるし、いいと思うよ」と、いつものことながら当たり障りのない意見を述べた。
姉は昼前に帰ってきた。アルバイトに出かけようとしていたわたしと、ちょうど玄関で一緒になった。
「どうだった?」
「二ヵ月の半ば。ちょうど六週め」
「まあ、そんなに厳密に分るの?」
「こつこつためたグラフ用紙のおかげ」
姉はそう言うと、コートを脱ぎながらずんずん家の奥へ入っていった。特別な感慨があるようには見えなかった。
「今日の夕食なあに?」
「ブイヤベース」
「あっそう」
「イカとあさりが安かったから」
そんなありふれた会話を交わした後のような、あっさりした感触しか残らなかった。だからわたしは、おめでとう、というのさえ忘れていた。
しかし本当に、姉と義兄の間に子供が生まれるということが、おめでたいのだろうか。わたしは辞書で『おめでとう』という言葉を引いてみた。──御目出度う(感)祝いのあいさつの言葉──とあった。
「それ自体には、何の意味もないのね」
とわたしはつぶやいて、全然おめでたくない雰囲気の漢字が並んだその一行を、指でなぞった。
十二月三十日(火) 六週+一日
わたしは子供の頃から、十二月三十日という日があまり好きになれない。三十一日になれば、今年も今日で最後という気持ちで過ごせるが、最後の前の日というのは中途半端ですっきりしない。お節料理の用意も大掃除も買い出しも中途半端で、何一つ完全なものがない。そんなあやふやな家の中で、仕方なく冬休みの宿題を広げたりするのだ。
けれどお父さんとお母さんが、続けざまに病気で死んでしまってからは、そういう季節の節目もだんだん薄らいでいった。それは、義兄がこの家に来てからも変わらない。
わたしの学校も義兄の勤めも冬休みに入っていたので、今朝の朝食はのんびりした雰囲気だった。
「冬の光でも、寝不足の目にはまぶしいね」
義兄は眼鏡の奥の目を細めながら、椅子に腰掛けた。庭から差し込んでくる朝日が、テーブルの下にまで届いて、三人のスリッパの影が床に映っていた。
「昨夜は遅かったんですか」
わたしは尋ねた。義兄はきのう勤め先の歯科医院の忘年会だったが、わたしが眠ってから帰ってきたようだった。
「終電には間に合ったよ」
義兄はそう言って、コーヒーカップを持ち上げた。甘ったるい香りが、湯気と一緒にテーブルクロスの上を漂った。
義兄はコーヒーにたっぷり生クリームと砂糖を入れるので、朝食の席はいつもケーキ屋のような匂いがする。彼は歯科技工士のくせに、あんな甘いコーヒーを飲んで虫歯が気にならないのだろうか、とわたしは思う。
「終電って、朝のラッシュの電車よりひどいわね。混んでるうえに、全員が酔っ払いなんだから」
姉はトーストの上で、バターナイフをカリカリいわせた。
きのう産婦人科に行ったことで、姉は正式に妊婦になったのだが、特別変わった様子は見せなかった。喜ぶにしても戸惑うにしても、もっと興奮すると思っていたので意外だった。いつもはちょっとした変化、行きつけの美容院が店じまいしたとか、隣の猫が老衰で死んだとか、水道工事で一日断水したとか、そんなささやかな出来事にひどく動揺し、神経を乱されて、すぐ二階堂先生の所へ駆け込むというのに。
姉は妊娠のことを、義兄にどう話したのだろうか。あの二人が、わたしのいない所でどんな会話をしているのかよく分らない。大体わたしには、夫婦というものがうまく理解できないのだ。それは何か、不可思議な気体のように思える。輪郭も色もなく、三角フラスコの透明なガラスと見分けがつかない、はかない気体だ。
姉がオムレツの真ん中にフォークを突き立て、「このオムレツ、胡椒がききすぎてるわ」などとつぶやいている。彼女が料理に文句をつけるのはいつものことなので、わたしは聞こえないふりをする。フォークの先から、半熟の卵が黄色い血液のようにぽたぽたと落ちる。義兄は輪切りにしたキイウイを食べている。わたしはあの黒い種子の粒々が、小さな虫の巣のように見えて、どうしてもキイウイを好きになれない。よく熟れた今日のキイウイは、果肉が溶けかけている。バターケースの中で、白いバターの塊が汗をかいてしっとり潤んでいる。
二人とも、妊娠のことを話題にする気配はなかったので、わたしも口に出せなかった。庭で鳥が鳴いていた。空の高い所で、雲がうっすら溶けていた。食器のぶつかる音とものを飲み込む音が、交互に聞こえた。
みんな、今日が今年最後の前の日だなどということに、気づいていないようだった。松飾りも黒豆もお餅も、うちにはなかった。
「大掃除くらい、した方がいいかもね」
わたしはひとりごとのように言った。
「君は大切な身体だから、無理して動かない方がいいよ」
義兄がキイウイの透明な果汁で濡れた唇をなめながら、姉に向かって言った。彼は、こんな分りきったありふれたせりふを、いかにも親切そうに喋る癖があるのだ。
一月三日(土) 六週+五日
義兄の両親が、重箱に詰めたお節料理を持って訪ねてきた。彼らが来るとわたしは、どんな言葉遣いをしたらいいのか、彼らを何と呼んだらいいのか分らなくて、おろおろしてしまう。
わたしたちはどこにも出かけず家でごろごろし、お腹が空いたら冷凍のピザを焼いたり缶詰のポテトサラダを開けたりしていたので、その見事なお節料理に圧倒された。それは手のこんだきらびやかな工芸品のようで、食べ物には見えなかった。
いつも思うことだが、彼らは本当にいい人たちだ。庭に落葉が積もっていても、冷蔵庫にりんごジュースとクリームチーズしか入っていなくても、姉に嫌味を言ったりせず、心から孫ができることを喜んでいた。
夕方彼らが帰ると、姉は大きなため息をつき、「疲れたから寝る」と言ってソファーで寝てしまった。スイッチがパチンと切り替わるように、あっさりと眠りに落ちた。彼女は最近よく眠る。深く冷たい沼をさまようように、静かに眠るのだ。
やはり、妊娠のせいだろうか。
一月八日(木) 七週+三日
ついに、つわりが始まった。
つわりがこんなにも突然やってくるものだとは知らなかった。姉は以前、
「わたしはつわりになんかならないわ」
と言っていた。彼女はそういう典型を嫌っている。自分だけは催眠術や麻酔にかからないと、思い込んでいるのだ。
昼、二人でマカロニグラタンを食べていると、突然姉がスプーンを目の高さまで持ち上げ、じろじろ眺めはじめた。
「このスプーン、変なにおいがしない?」
わたしには、何の変哲もないスプーンに見えた。
「砂のにおいがするわ」
姉は小鼻をふくらませた。
「砂のにおい?」
「そう。子供の頃、砂場で転んだ時にかいだのと同じにおい。潤いがなくてざらざらしてて、鈍いにおいよ」
姉はグラタン皿にスプーンをもどし、ナプキンで口元をぬぐった。
「もう食べないの?」
わたしが聞くと、姉はうんとうなずいて頬杖をついた。
ストーブの上でやかんがしゅんしゅん鳴っていた。姉は無口にわたしを見ていた。仕方なく、わたしは一人で続きを食べた。
「グラタンのホワイトソースって、内臓の消化液みたいだって思わない?」
姉がつぶやいた。わたしは無視して氷水を一口飲んだ。
「その生温かい温度とか、しっとりした舌触りとか、ぽたぽたした濃度とか」
姉は背中を丸め、わたしの目をのぞき込むように首をかしげた。わたしはスプーンの先で、グラタン皿の底をこつこつ叩いた。
「それで、色がなまめかしいのよね。その脂肪色が」
わたしは彼女を無視し続けた。曇った木枯らしが、窓ガラスを震わせていた。キッチンのステンレス台の上に、ホワイトソースを作るのに使った計量カップや牛乳のパックや木のへらやソースパンが、ひっそりと並んでいた。
「マカロニの形がまた奇妙なのよ。口の中であの空洞がぷつ、ぷつ、って切れる時、わたしは今、消化管を食べてるんだなあという気持ちになるの。胆汁とか膵液とかが流れる、ぬるぬるした管よ」
わたしは姉の唇からこぼれ落ちてくるいろいろな種類の言葉を、哀しい気持ちで眺めながら、スプーンの柄を指先で撫でていた。姉は好きなことを喋りたいだけ喋ると、ゆっくり立ち上がって部屋を出ていった。冷えたグラタンが、テーブルの上で白い塊になっていた。
一月十三日(火) 八週+一日
姉から初めてその写真を見せられた時、凍りついた夜空に降る雨のようだと思った。
写真の形としては普通のスナップと同じだった。白い縁取りがあり、裏にフィルム会社のネームが印刷されていた。しかし検診から帰った姉が、無造作にそれをテーブルの上に置いた時、すぐに普通の写真とは違うと分った。
夜空は深く清らかな黒色で、じっと見続けているとめまいがしそうだった。雨ははかない霧のように空を漂っていた。そしてその霧の中に、ぽっかりそらまめ型の空洞が浮かんでいた。
「これが、わたしの赤ん坊よ」
姉はきれいにマニキュアを塗った指で、写真の角をつついた。つわりのせいで彼女の頬は青白く透き通っていた。
わたしはそらまめ型の空洞に目を凝らした。夜を濡らす霧雨の音が聞こえてきそうだった。その空洞のくびれた隅にひっかかっているのが赤ん坊だった。それはもろい影の塊で、風がふくと夜の底へはらはら舞い落ちていきそうだった。
「つわりの源泉がここにあるという訳」
姉は朝から何も食べていなかったので、ぐったりとソファーに坐り込んだ。
「ねえ、どうやってこんな写真撮るの?」
「知らないわ。わたしはただベッドに横になってただけ。超音波の診断がすんで帰ろうとしたら、先生がこれをくれたの。記念にどうぞって」
「へえ、こんなものが記念になるのね」
わたしはもう一度写真に目をやった。
「M病院の先生ってどんな人?」
わたしは窓枠のペンキのにおいを思い出しながら尋ねた。
「白髪の初老の紳士っていう感じね。とにかく無口なの。先生だけじゃなくて、二人いる看護婦もすごく物静かで、無駄なおしゃべりは一切しないの。彼女たちも決して若くないわ。先生と同じ歳くらいかしら。不思議なことに、この二人が双子みたいによく似ているの。背格好から髪型、声、白衣の染みの位置まで同じなのよ。わたし、今でもどっちがどっちだかよく分らないわ。診察室に入ると耳の奥がじんと震えるみたいに静かで、カルテをめくる音とか、ピンセットで清浄綿をつまむ音とか、ケースから注射器を取り出す音とか、そんなささやかな音しか聞こえないわ。看護婦と先生は何か彼らだけの信号を出し合ってるみたいに、喋らなくてもちゃんと意志が通じ合ってるのよ。先生がちょっと身体の向きを変えたり視線を動かしたりするだけで、看護婦がさっと血液検査表とか体温計とか、必要な物を差し出すの。わたし、その手際よさにいつも、ほれぼれしてしまうの」
姉はソファーに深くもたれ、足を組んだ。
「M病院って、昔わたしたちが遊び場にしてた頃と変わってない?」
わたしが聞くと、姉は大きくうなずいた。
「少しも変わってないわ。小学校の正門を通り過ぎて、花屋の角を曲がってM病院の看板が見えると、そこだけ時間の流れから沈澱したみたいにひそやかなの。一歩一歩近づいていって、ノブを握って扉を開ける時、自分がどこか奥深い所に吸い込まれていくような気分になるの」
姉の頬は部屋の中でもなかなか暖まらず、いつまでも冷ややかに透き通っていた。
「診察室も昔と変わってないわ。薬を入れてる細長い戸棚や、先生が坐る頑丈そうな木の椅子や、くもりガラスのついたてや、全部見覚えがあったわ。何もかも古びていて時代遅れなんだけど、きちんと手入れが行き届いて清潔なの。そんな診察室で、一つだけ場違いに真新しい物があるの。何だと思う?」
わたしは首を横に振った。
「超音波診断装置よ」
姉はその言葉を、特別大切なもののようにゆっくり発音した。
「検診に行くと必ずその装置の横のベッドに寝かされるのよ。それでブラウスとか下着とかをもそもそ引っ張ってお腹を出すと、無口な看護婦さんがやってきて、歯磨き粉よりもずっと大きいチューブから、ゲル状の透明な薬を絞り出してお腹に塗ってくれるの。その時の感触がとても好き。ゼラチンみたいに澄みきって滑らかな物質が、肌を撫でてくれるの。不思議な気持ちになれるわ」
そこで姉は一つ長い息を吐き、また続けて喋りだした。
「今度はお医者さんが、超音波装置と黒い管でつながったトランシーバーみたいな箱を、わたしのお腹に押しつけるの。さっき塗った薬のおかげで、それはとてもぴったりわたしに密着してくるわ。その時、モニターにわたしの身体の中が映し出されるの」
姉はテーブルの上の写真を、指で一回転させた。
「診察が終わると、看護婦さんが洗いたての木綿のガーゼで、お腹をふいてくれるの。ちょっと淋しくなる瞬間ね。もっとこの感触を味わっていたい、といつも思うのよ」
姉は淀みなく喋った。
「診察室を出ると、わたし、一番に洗面所へ行くの。そしてもう一回スカートから洋服を引っ張り出して、自分のお腹を眺めてみるの。まだ、あのゼラチンみたいな薬が残ってるかもしれないと思って。でも、いつも裏切られるわ。何にも残ってないの。さわってもつるつるなんてしてない。湿ってもいないし、冷たくもない。わたし、本当にがっかりするのよ」
姉はため息をついた。
床に、姉が脱いだ手袋の片方が落ちていた。外では、粉雪が降り始めていた。
「自分の身体の中を写真に撮られるって、どんな気持ち?」
わたしは、窓の向こうで風に揺らめいている雪を見ながら言った。
「彼に歯型を取ってもらうのと、同じような気持ちかしら」
「お兄さんに?」
「そう。恥ずかしいような、くすぐったいような、不気味なような気持ち」
そう言ったあと姉は、唇をゆっくり閉じて黙ってしまった。
こんなふうに一人で波のように切れ目なく喋った後、すうっと黙ってしまうのは、姉にとってよくない傾向だった。彼女が自分で自分の神経の強張りに、手を焼いている証拠だった。姉はまた、近いうちに二階堂先生の所へ駆け込むことになるだろうと、わたしは思った。
二人の間で、ほのかな赤ん坊の影が、夜の闇に包まれていた。
一月二十八日(水) 十週+二日
姉のつわりは、どんどんひどくなるばかりだ。少しずつでもよくなっているとか、いつ頃までにはおさまりそうだとかいう希望が全然持てない状態なので、姉はふさぎ込んでいる。
とにかく何も食べられない。わたしは、思い浮かべることのできるあらゆる種類の食べ物を並べたててみたが、姉はどれも食べたくないと言った。家中にある料理の本を引っ張り出してきて、一ページずつめくって見せたがだめだった。
食べるということは、こんなにも困難な作業だったのかと、わたしはしみじみ思った。
しかし、あまりにもお腹が空っぽで胃がきりきり痛むらしく、姉は「何かを口にしなければいけないわ」と言った。(決して、食べるとは言わなかった。)
姉はクロワッサンを選んだ。胃の痛みを和らげてくれるものなら、別にクロワッサンでなくてもワッフルでもポテトチップでも何でもよかった。たまたまその時、パン籠の中から朝食の残りのクロワッサンが一個、のぞいていただけのことだった。
姉は三日月型のパンの先を一かけらちぎって口に押し込み、ほとんど噛みもしないで飲み込んだ。そして喉につかえると、缶入りのスポーツドリンクを、ほんの少しだけ嫌そうに飲んだ。その姿は、とても食事風景には見えなかった。何か不可思議な、まじないか修行のように見えた。
義兄は『特集・私はこうしてつわりを乗り切った』とか、『つわりの時の夫の役目』とかいった記事の載った雑誌を、次から次から見つけてきた。妊婦や赤ん切に関する雑誌がこんなにもたくさん出ていることが、わたしには驚きだった。『妊娠中毒症に克つ!』、『妊娠中の出血大百科』、『出産にかかるお金の調達プラン』……そんな見出しを眺めていると、これから姉の身に降りかかるかもしれない問題の種類の多さに、うんざりさせられた。
信じられないことに、姉と一緒に義兄までも食欲がおかしくなってしまった。食卓についても、フォークの先で料理をつつくだけでほとんど口に運ばなかった。
「彼女が気分が悪いと、僕もつられてしまうんだ」
義兄は言い訳するようにそう言って、ため息をついた。
義兄のそういう不調を、姉は優しさだと思っているようだ。無理矢理クロワッサンを飲み込んでいる姉の背中を撫でながら、義兄は青ざめた表情で自分の胸を押さえている。二人は傷ついた小鳥のように寄り添い、早くから寝室に入って朝まで出てこない。
わたしには、義兄がとても惨めに見える。彼には、気分が悪くなる理由なんて一つもないからだ。弱々しい彼のため息を思い出すと、苛立たしい気持ちさえする。
つわりでげっそりしているわたしのそばで、フランス料理のフルコースを残さず平らげるような人を自分は好きになりたいと、ふと考える。
二月六日(金) 十一週+四日
このところわたしは、いつも一人で食事をしている。庭の花壇やスコップや流れる雲を見ながら、のんびりと食べる。昼からビールを飲んだり、姉の嫌う煙草を吸ったりして、自由な時間を味わう。淋しくなどない。自分には、一人の食事が向いていると思う。
今朝、フライパンでベーコンエッグを焼いていると、姉が階段を駆け降りてきた。
「ひどいにおいね。何とかしてよ」
姉は髪の毛をかきむしりながら大きな声を出した。興奮して、涙ぐんでいるようにさえ見えた。パジャマのズボンからのぞく素足が、ガラスのように冷えて透き通っていた。彼女はガスレンジのスイッチを、バチンと乱暴に切った。
「普通の目玉焼きと、ベーコンだけど」
わたしは小さな声で言った。
「全然普通じゃないわ。バターと脂と卵と豚のにおいが、家中にこもってて息ができないわ」
姉は食卓にうつぶして、本当に泣き始めた。わたしはどうしていいか分らなかった。とりあえず換気扇を回し、窓を開けた。
彼女は心の底から泣いていた。演技しているようなきれいな泣き方だった。髪が横顔にかかり、肩がか細く震え、潤んだ声が響いてきた。わたしは慰めるつもりで背中に掌を当てた。
「どうにかしてほしいの。朝目が覚めたら、そのすさまじいにおいが身体中に染み込んできたわ。口も肺も胃もひっかき回されて、内臓がぐるぐる渦を巻いてた」
姉は泣きながら喋った。
「どうしてうちには、こんなににおいがあふれてるの。なんでもかんでも気持ち悪いにおいを振りまくの」
「ごめんなさい。これから気をつけるわ」
わたしは恐る恐るそう言った。
「ベーコンエッグだけじゃないわ。焦げたフライパンも、陶器の皿も、洗面台の石けんも、寝室のカーテンも、あらゆるものがにおうの。一つのにおいがアメーバみたいにどろっと広がって、別のにおいがそれを包み込んで膨張して、また別のにおいがそれに溶けていって、……もうきりがないわ」
姉は涙に濡れた顔をテーブルにこすりつけた。わたしは掌を背中にのせたまま、どうしようもできずに彼女のパジャマのチェック模様を眺めていた。換気扇のモーター音が、いつもより大きく聞こえた。
「においがどんなに恐ろしいものか分る? 逃げられないのよ。容赦なくどんどんわたしを犯しにくるの。においのない場所へ行きたい。病院の無菌室みたいな所。そこで内臓を全部引っ張り出して、つるつるになるまで真水で洗い流すの」
「そうね、そうね」
わたしはつぶやいた。それから息を深く吸い込んでみた。しかしどこにも、においの影など見えなかった。さわやかな朝のキッチンだった。食器戸棚にはコーヒーカップがきっちり一列に並び、壁に掛けたふきんは真っ白に乾燥し、窓には凍りつきそうな青い空が映っていた。
どのくらいの時間姉が泣いていたのか、わたしにはよく分らなかった。ほんの数分のような感じもしたし、気が遠くなるくらい長い時間のようにも思えた。とにかく姉は、満足するまで泣き続け、最後の一息を長く吐き出すと顔を上げてわたしを見た。まつげと頬がびっしょり濡れていたが、表情はもう落ち着いていた。
「わたしはね、ものを食べたくないわけじゃないの」
姉は静かに言った。
「本当は何でも食べたいの。むしゃむしゃ馬みたいに食べたいの。おいしいと思って何かを食べてた頃の自分が懐かしくて哀しいの。だからいろいろ想像を巡らせているのよ。薔薇のテーブルフラワーが真ん中にあって、ろうそくの光がワイングラスに弾《はじ》けて、スープや肉料理の湯気が白く漂っているような食卓をね。もちろんそこには、においなんてないわ。つわりが終わったら、一番に何を食べようっていうことも考えるわ。本当に終わりがあるのかどうか、不安だけど。絵を描いてみるの。平目のムニエルやスペアリブやブロッコリーのサラダの絵。一生懸命考えて、本物そっくりに描くの。自分でもバカみたいだと思うわ。一日中食べることばかり考えてる。戦争中の子供みたいに」
姉はパジャマの袖口で涙をふいた。
「バカみたいだなって、自分を責めない方がいいと思うよ。姉さんが悪いわけじゃないんだから」
わたしは言った。
「ありがとう」
姉はぼんやりした目で、そう答えた。
「これからは、姉さんがいる時はキッチンを使わないようにするからね」
姉はうなずいた。
フライパンの中で、すっかり冷めてしまったベーコンエッグが息をひそめていた。
二月十日(火) 十二週+一日
十二週ということは、四ヵ月に入ったということだ。しかし、姉のつわりに変化はない。つわりはずぶ濡れのブラウスのように、じっとり彼女に貼りついている。
やはり今日、姉は二階堂先生の所へ行った。彼女は今、神経もホルモンも感情もバラバラになっているのだ。
二階堂先生の所へ行く時はいつもそうだが、姉は長い時間かけて着ていく洋服を選んでいた。コートやスカートやセーターやスカーフを何種類もベッドの上に並べ、真剣に考えていた。そしていつもより丁寧に化粧する。そういう姉を見て義兄は嫉妬しないのだろうか、とわたしは心配になる。
つわりのせいで腰がひとまわり華奢になり、頬がすっきりし、あごがとがってきた姉はますますきれいに見える。とても妊婦だとは思えない。
台風の時、家まで姉を送ってきた二階堂先生に会ったことがある。平凡なあやふやな顔の中年男性だった。耳たぶが分厚いとか、指がたくましいとか、首のラインがくっきりしているとかいう心に残る印象が、一つもなかった。目を伏せたまま、姉の後ろに静かに立っていた。雨で髪や肩が濡れていたせいで、余計にもの淋しく見えた。
二階堂先生がどんな治療をするのかよく分らないが、姉の話によるとちょっとした心理テストや催眠療法や投薬がなされているらしい。しかし高校生の時から十年以上、途切れることなく二階堂先生の治療を受けていながら、彼女の神経的な病気は少しも良くなっていないように思う。彼女の病気は常に、海に浮かんだ海藻のように波打っている。決して穏やかな砂地に舞い降りることはない。
ところが姉は、治療を受けている間はとても身体が自由になれると言う。
「美容院で髪を洗ってもらっている時の感じに似ているわ。自分の身体のために人が何かをしてくれる時って、たまらなく気持ちいいものよ」
その時の気持ちよさを思い浮かべるように、彼女は目を細めて言った。
わたしには、二階堂先生がそれ程優秀な精神科医だとは思えない。台風の夜、無口に玄関にたたずんでいた彼の目つきは、精神科医というよりも患者のように怯えていた。姉のもろい神経を、彼はどんなふうに撫でつけているのだろうか。
日が暮れて、金色の月が闇の中に浮かび上がる頃になっても、姉は帰ってこなかった。義兄は
「こんな寒い夜、外を歩き回って大丈夫だろうか」
と、独り言のように言った。門の前でタクシーの止まった音がすると、彼はすぐ姉を迎えに出た。
姉はマフラーをはずしながら「ただいま」と言った。瞳やまつげが冷たく光っていた。朝よりもずっと静かな表情だった。
しかし、いくら二階堂先生の所へ行っても、つわりは全くよくならなかった。
三月一日(日) 十四週+六日
これから生まれてくる赤ん坊について、自分は何も思いを巡らしたことがないと、ふと気付いた。性別とか名前とかベビー服とかについて、わたしも考えた方がいいのかもしれない。普通はそういうことを、もっと楽しむものなのだろう。
姉と義兄はわたしの前で、赤ん坊のことを話題にしない。妊娠していることとお腹に赤ん坊がいることは、無関係であるかのように振る舞っている。だからわたしにも、赤ん坊が手触りのあるものとは思えない。
わたしが今、自分の頭の中で赤ん坊を認識するのに使っているキーワードは『染色体』だ。『染色体』としてなら、赤ん坊の形を意識することができる。
前に、科学雑誌か何かで染色体の写真を見たことがある。それは双子の蝶の幼虫が、何組も何組も縦に並んでいるように見えた。楕円形の細長い幼虫は、人差し指と親指でつまむのにちょうどよい丸味を持ち、小さなくびれや湿っぽい表皮が生々しく写し出されていた。一組一組はそれぞれに個性的な形をしていて、先端がステッキ状に曲がったもの、まっすぐ平行に向き合ったもの、シャム双生児のように背中がくっついたものなどいろいろだった。
姉の赤ん坊のことを考える時、わたしはその双子の幼虫を思い浮かべる。赤ん坊の染色体の形を、頭の中でなぞってみるのだ。
三月十四日(土) 十六週+五日
五ヵ月に入ったというのに、姉のお腹は少しも目立たない。何週間もクロワッサンとスポーツドリンクだけしか口にしていないので、どんどんやせるばかりだ。M病院と二階堂先生の所へ出かける以外は、重病人のようにベッドでぐったりしている。
わたしにできることといえば、においを出さないように心掛けるだけだ。石けんは全部、無香性のものと取り替えた。パプリカやタイムやセージの香辛料の類は、缶に詰めて密封した。姉の部屋にある化粧品は全部わたしの部屋に移した。歯磨き粉のにおいも気持ち悪いというので、義兄が噴水式の歯ブラシを手に入れてきた。もちろん姉がいる時には料理は作らない。どうしても必要な時は、庭に炊飯器や電磁調理器やコーヒーミルを持ち出し、地面にござを敷いて食べる。
夜空を見ながら、庭で一人食事していると、心が安らかになる。春の初めの夜は、闇の色合いや風の感触が柔らかく、少しも寒くない。自分の掌やござに投げ出した足はぼやけているのに、庭の百日紅《さるすべり》や花壇のれんがや小さな星の瞬きは、くっきり浮かび上がって見える。遠くで犬が鳴いている他には、何の音も聞こえない。
苦労して庭まで引っ張ってきたコンセントに、炊飯器のプラグを差し込んでしばらくすると、湯気が立ち上って白く闇に溶けてゆく。それから電磁調理器で、インスタントのクリームシチューを温める。時々強い風が吹いて、湯気を夜空の高い所まで運んでゆく。そして庭の緑が揺らめく。
庭で食事をする時は、いつもより時間をかけて食べる。ござの上に置いた食器は、どれも少しずつ傾いている。こぼさないように注意しながらシチューをついでいると、ままごとをしているような気分になる。闇の中では、時間がゆるやかに流れてゆく。
二階の姉の部屋を見上げると、ぼんやり明かりが点《つ》いている。においにぐるぐる巻きにされ、ベッドでうずくまっている彼女のことを思いながら、わたしは大きな口を開けてシチューと一緒に夜の闇を飲み込む。
三月二十二日(日) 十七週+六日
義兄の両親が、風呂敷に包んだ不思議な物を持ってやって来た。それは五十センチくらいの幅の、白くて長い布だった。義兄の母親が丁寧に風呂敷を開けた時、わたしにはそれが何だか全く分らなかった。ただの布という以外、どんな形容も思いつかなかった。
義兄が手に取ってそれを広げてみると、端に犬の形のスタンプが押してあった。耳をピンと立てた利口そうな犬だった。
「そういえば今日は、五ヵ月の戌《いぬ》の日でしたね」
姉は彼らの前でも気分の悪さを隠しきれず、弱々しい声で言った。
「ええ。こんなもの邪魔になるかもしれないけど、縁起ものだから」
そう言って母親は、竹の棒やら赤い紐の束やら銀色の小さな鈴やらを、わたしたちの前に並べた。そして最後に、これらの品々をどのように用いて安産祈願したらいいか説明した、お宮のパンフレットを取り出した。
「へえ、ちゃんと説明書までついているんですか」
わたしは感心して言った。
「お宮さんに行くと、セットで売っているのよ」
母親は微笑んだ。
わたしはその布の白い染料や、訳の分らない竹の棒が、においを発しているのではないかと心配になった。姉はほっそりした指で、パンフレットの表紙を撫でていた。
わたしたち五人は順番に目の前の品物を手に取り、うなずいたり裏返したり振ってみたりした。
彼らが帰るとすぐに、姉はお宮さんのセットに興味を失い、寝室にこもってしまった。義兄はそれらを、一つ一つ元通りに包み直していた。鈴が微かに鳴っていた。
「どうしてこんな所に、犬のスタンプが押してあるんですか」
わたしは義兄に尋ねた。
「犬は一度にたくさんの子犬を生むんだ。しかも安産でね。だからこんなふうに、お守りになるんだ」
「動物にも、安産とか難産とかの区別があるんですか」
「そうみたいだね」
「えんどうの実がさやから弾けるみたいに、気持ちよくぷちぷち、子犬が生まれてくるのかしら」
「さあ、どうだろう」
「お兄さんは、犬のお産を見たことがあるんですか」
「ないよ」
義兄は首を横に振りながら答えた。風呂敷の中で、スタンプの犬がじっとこちらを見ていた。
三月三十一日(火) 十九週+一日
今日のバイト先のスーパーは遠かったので、かなり早起きをしなければいけなかった。駅までの道を歩いている間、ずっと朝靄がわたしを包んでいた。まつげがしっとり冷たくなった。
このバイトの好きな所は、もう二度と立ち寄ることもないような、見知らぬ街のスーパーで働けることだ。遮断機があって、自転車置場があって、バスターミナルがある、小さな駅前広場のスーパーに集まってくる人たちを眺めていると、自分が旅をしているような気持ちになってくる。
わたしはいつも、人材派遣会社から渡されている入店許可証を見せ、裏口からスーパーに入る。スーパーの裏口は、段ボールや野菜の切り屑や濡れたビニールシートが乱暴に散らばり、もの淋しい感じがする。蛍光灯の明かりは弱々しく薄暗い。宿直室の小窓に許可証を差し出すと、警備員が無愛想にうなずく。
開店前の売場も陳列棚にカバーがかぶせられ電気がほとんど消えていて、裏口と同じように心細い。わたしは仕事道具一式の入った袋を提げて売場を見て回り、一番適当な仕事場所を探す。今日わたしが選んだのは、肉売場と冷凍食品のケースの間の通路だった。
まず、裏口でもらってきた段ボール箱を積み重ねて台を作り、花柄のテーブルクロスで覆う。そこに皿を置き、クラッカーを並べる。それからボールと泡立て器を取り出し、ホイップクリームを泡立てる。
その時のカシャカシャいう音は、ひっそりした売場に隅から隅まで響きわたるので、いつもわたしは恥ずかしい思いをする。朝礼のためにレジの前に集まってくる店員たちの視線を無視しながら、わたしはひたすら泡立て器を振り回すのだ。
今日行ったスーパーは改装工事がすんだばかりで、床や天井がつるつるに光ってきれいだった。わたしはクラッカーにホイップクリームをのせ、買い物客に勧める。その時の文句は派遣会社のマニュアルにある通りだ。
「本日はホイップクリームがお安くなってますよ。どうぞご試食下さい。おうちで手作りのケーキなどいかがでしょうか」
と、言うのである。ほとんどそれ以外に喋ることはない。
サンダルを履いたおばさんや、トレーニングウエア姿の若い男の子や、縮れ毛のフィリピン人や、いろいろな種類の人たちがわたしの前を通り過ぎる。そのうちの何人かが、わたしの差し出す皿からクラッカーをつまんで食べる。「いつもよりどれくらい安いのかしら」などとつぶやきながら、そのまま通り過ぎる人もいるし、黙ってホイップクリームのパックをかごに入れる人もいる。
わたしはどんな人にも、平等に適度に微笑みかける。ホイップクリームが何パック売れようと、バイト代には関係ないからだ。どんな種類の人にも気持ちを乱されず、同じように冷静に微笑んでいる方が楽なのだ。
今日最初に試食してくれたのは、腰の曲がったおばあさんだった。首に手ぬぐいのようなスカーフを巻きつけ、左手に茶色い布の巾着を提げてぶらぶらさせていた。スーパーの人込みの中に静かに溶けてしまいそうな、地味なおばあさんだった。
「ちょっと、試食させてもらっても、いいですか」
彼女は遠慮深く近寄ってきた。
「はい、どうぞ」
わたしは明るく答えた。
最初彼女は珍しい物を見るように、皿の上に目を凝らしていた。そしてゆっくりと腕をのばし、粉っぽく乾燥した指でクラッカーをつまんだ。そこからそれを口に放り込むまでが、不自然なくらい素早かった。子供のように丸く唇を開き、閉じる時一緒に目をつぶった。
わたしたちは、無数の食料品に囲まれて立っていた。彼女の後ろには、薄切りやブロックやミンチの肉が行儀よく並んでいたし、わたしの後ろには、かちかちに凍ったいんげんやパイシートやコロッケが冷気に包まれていた。背丈よりも高い棚が広いフロアー一杯に連なって、その一つ一つにびっしり食料品が詰まっていた。生野菜でも乳製品でもお菓子でも調味料でも、限りがないように見えた。棚の間に立って見上げると、めまいがしそうだった。
買い物かごを提げた人たちが、何人も何人もわたしたちの周りを歩いていた。みんな水の中を漂うようにゆらゆらと、食べ物を捜し歩いていた。
ここにある物が全部、人間の食べる物だと思うと、恐ろしかった。食べ物を捜すためだけに、これだけの人数の人たちが集まっていることが、不気味に思えた。そして、沈んだ目でクロワッサンを眺め、三日月の先端の小さなひとかけらをちぎっている姉のことを思い出した。それを飲み込んでいる時のほとんど泣いているような目元と、テーブルにこぼれた白いパン屑が、頭の中に順番に浮かんできた。
おばあさんがクラッカーを食べた時、ほんの短い間彼女の舌が見えた。弱々しい身なりとは不釣り合いの、鮮やかな赤い舌だった。表面のつぶだちの上で照明が弾けているように、暗い口の中でもくっきりと見えた。舌はしなやかに、ホイップクリームの白を包み込んでいった。
「あの、もう一つ、いいでしょうか」
おばあさんは腰をかがめ、巾着をぶらぶらさせながら言った。二個続けて試食する人は珍しいので、わたしはちょっと戸惑ったが、すぐに気を取り直して「どうぞ。どうぞ」と微笑んだ。彼女はさっきと同じように皺だらけの指でクラッカーをつまみ、丸い口を開けてそれを放り込み、赤い舌をのぞかせた。健康的な食べ方だった。リズムと勢いがあり、スムーズな流れがあった。
「それじゃあ、これ、いただきます」
彼女はかごの中にホイップクリームのパックを入れた。
「ありがとうございます」
そう言いながらわたしは、彼女はこのホイップクリームを家に帰ってからどんなふうに食べるのだろう、と思った。おばあさんの慎ましい背中は、すぐに人込みに溶けて消えていった。
四月十六日(木) 二十一週+三日
今日姉が初めてマタニティドレスを着た。それを着ただけで、一度にお腹が膨らんだように見えた。しかし、直接触らせてもらうと、何も変化がないように思えた。この掌の向こう側にもう一人人間が生きているなんて、とても信じられなかった。
姉はそのマタニティドレスになかなか慣れなかったらしく、腰の所のリボンを何度も結び直していた。
そして突然、つわりが終わった。始まりの時と同じように、唐突な終わりだった。
朝、義兄を送り出した後、姉はキッチンに入ってきた。つわりが始まってから、姉にとってキッチンが一番不愉快な場所になっていたので、わたしは食器戸棚にもたれている彼女を見つけて戸惑った。
このところほとんど料理を作っていないので、キッチンはさっぱりと片付いていた。調理道具は決まった場所に全部収まっていたし、ステンレスの調理台は乾ききっていたし、食器洗浄器の中は空だった。システムキッチンのショールームのように、よそよそしく味気なかった。
姉はキッチンの中を眺め回した後、食卓に腰掛けた。いつもなら、しまい忘れたソースや食べかけのクッキーの箱が置いてあるのに、今は何もなかった。姉は何か言いたそうにわたしを見上げた。マタニティドレスの裾が、足元でゆらゆらしていた。
「クロワッサン、食べる?」
わたしは姉の気分を害さないように、慎重に言った。
「お願いだから、その甘ったるいおもちゃみたいなクロワッサン≠チていう言葉は、もう口にしないでほしいの」
姉は言った。わたしは素直にうなずいた。
「何か、他の物が食べてみたくなったの」
姉は小さな声でそう続けた。
「うん、分った」
わたしは、姉が自分から食べ物を要求するのは何週間ぶりだろうと思いながら、急いで冷蔵庫を開けてみた。
すっきりと何もなかった。庫内ランプの明かりだけが目立っていた。わたしはため息をつきながら扉を閉めた。
次に、キッチンストッカーの中をのぞいてみた。そこも同じようなものだった。きちんとした食べ物は見当らなかった。
「何かある?」
姉は心配そうだった。
「そうねえ、板ゼラチンが一袋、小麦粉が半袋、干したきくらげ、食紅、イースト菌、バニラエッセンス……」
わたしはいろいろな袋や缶やびんをかき分けた。クロワッサンの残りが二個出てきたので、すぐ奥の方に隠した。
「何かを食べてみたいの」
姉は大切な決心をしたように、きっぱりと言った。
「うん、ちょっと待って。いくら何でも、一種類くらいはまともに食べられる物があるはずよね」
わたしはストッカーに顔を突っ込んだ。上から順番に調べていって、一番下の段にケーキ用の干しぶどうの残りが見つかった。製造年月日を見ると二年くらい前で、ミイラの目玉のようにひからびていた。
「こんなものでも食べる?」
わたしは干しぶどうの袋を姉に見せた。彼女はうなずいた。
こんな固い物を、どうして平気な顔でむしゃむしゃ食べられるのか不思議だった。姉は休みなく袋から干しぶどうをつかみ出し、大きく顎を動かしながら、一心に食べた。身体も気持ちも全部が丸ごと、食べることに集中していた。そして彼女は最後の一つまみの干しぶどうを掌にのせ、しばらく眺めた後、いとおしむようにゆっくりとそれを口に運んだ。
その時わたしは、つわりが終わったんだと気付いた。
五月一日(金) 二十三週+四日
十四週間のつわりの間に減った体重五キロを、姉は十日で取り戻してしまった。
姉は目覚めている間ずっと、何らかの食べ物を手にしている。テーブルで食事をしているか、スナック菓子の袋を抱えているか、缶切りを探しているか、冷蔵庫をのぞいている。彼女の存在そのものが、食欲に飲み込まれてしまったように思える。
姉はひたむきに食べる。呼吸するように休みなく、ものを飲み込み続ける。瞳は無表情に澄み切って、まっすぐ一点を見つめている。唇は鍛え抜かれた陸上選手の太もものように、たくましく動く。つわりの時と同じように、わたしはどうしようもできずにただじっと見ているしかない。
姉は突然、とんでもないものを食べたがった。雨の降る夜、枇杷《びわ》のシャーベットが食べたいと言い出した。雨は、庭が一面水しぶきで白っぽく見えるほどの土砂降りだった。もう真夜中近くて、三人ともパジャマに着替えていた。そんな時間に開いている店は近所にないし、何よりわたしには枇杷のシャーベットというものが存在するのかどうか、よく分らなかった。
「やまぶき色の果肉がガラスの破片みたいに何枚も何枚も薄く重なり合って、シャリシャリ音がする枇杷のシャーベット。枇杷のシャーベットが食べたいの」
姉は言った。
「こんな夜中じゃどうしようもないよ。明日、何とか捜してみるから」
義兄は優しく言った。
「駄目。今じゃなきゃ駄目なの。頭の中が枇杷で一杯なの。息が苦しいくらい。このままじゃ眠れないわ」
姉は深刻に訴えた。わたしはあきらめて二人に背を向け、ソファーに坐り込んだ。
「別に枇杷じゃなくてもいいだろ。オレンジでもレモンでも。それだったら、コンビニエンスストアーにあるかもしれない」
そう言って義兄は車のキーを手に取った。
「この雨の中、出かけるんですか?」
わたしはあきれて大きな声を出した。
「枇杷じゃなきゃ意味がないわ。枇杷の柔らかくてもろい皮とか、金色の産毛とか、淡い香りとかを求めてるの。しかも求めてるのはわたし自身じゃないのよ。わたしの中の『妊娠』が求めてるの。ニ・ン・シ・ンなのよ。だからどうにもできないの」
姉はわたしの声を無視して、わがままを言い続けた。『妊娠』という言葉を、グロテスクな毛虫の名前を口にするように、気味悪そうに発音した。
義兄は何とか彼女の気分を鎮めようと、彼女の肩を抱きながらいろいろな提案をした。
「アイスクリームならあるよ」
「チョコレートはどう?」
「明日、デパートの食料品売場に行ってみるよ」
「二階堂先生にもらった薬を飲んで、とにかく今日はもう眠ろう」
義兄はおどおどと、掌の中のキーをいじっていた。怯えたように彼女をのぞき込む目つきが、わたしを苛立たせた。
真夜中、大人が三人枇杷のシャーベットに振り回されている風景は、滑稽だった。どうしてこんなことになるのか、わたしには分らなかった。三人でいくら考えても、どこからも枇杷のシャーベットなど出てくるはずがなかった。
五月十六日(土) 二十五週+五日
姉の妊娠と義兄の関係について、時々考えることがある。姉の妊娠に関して彼が及ぼした作用について。もし、そういうものがあるのだとしたら。
義兄は相変わらずおどおどと姉を見つめている。姉の心が不安定に崩れている時、彼は神経質にまばたきし、どもりながら「ああ」とか「うん」とかそんな意味のない言葉を繰り返して、最後にはどうしようもできずに姉の肩を抱き寄せる。そして、これが彼女が一番望んでいることなんだと、自分を納得させるような優しい表情を無理に作る。
そういう義兄のつまらなさに、わたしは最初から気付いていた。彼と初めて会ったのは、歯科医院だった。姉は彼と付き合っている間も婚約してからも、全然彼を家へ連れてこなかったので、わたしは長い間彼と会うチャンスがなかった。そんな時ちょうどわたしは虫歯になり、姉から彼の勤めている歯科医院を勧められたのだ。
治療してくれた歯医者はお喋り好きの中年の女性で、わたしが彼の婚約者の妹だと知っていろいろ姉について質問した。そのたびにわたしは唾のたまった口を閉じて喋らなければいけなかったので、ひどく気疲れしてしまった。
金冠をかぶせる歯の歯型を取る段になって、診療室の奥の扉から彼が入ってきた。技工士の彼は、医者とは種類の違う丈の短い白衣を着ていた。今よりももう少し細身で髪が長かった。彼がわたしの脇に立ってありふれた初対面のあいさつをした時、彼がかなり緊張しているのが分った。マスクの中で声が、か弱くこもっていたからだ。わたしは重々しい診察用の椅子に寝かされていて、どういう体勢であいさつしたらいいか分らず、首だけを彼の方に向けて頭を下げた。
「それでは、型を取らせていただきます」
彼は丁寧すぎる口調でそう言って、わたしの顔の上におおいかぶさってきた。治療するのは一番奥の歯だったので、わたしは精一杯口を開けなければいけなかった。彼が顔を近付けて口の中に手を突っ込むと、消毒液のにおいのする湿った指が歯茎に触れた。マスクの中の息遣いが、生々しく聞こえてきた。
女医は隣の患者の治療に移っていた。歯を削るモーターの音と一緒に、彼女の明るい声が響いていた。
「歯の色の質が、とてもきれいですね」
彼は作業を続けながら言った。歯の色の質に善し悪しがあるのかどうかわたしは知らなかったが、口を開けたままだったので何も喋ることはできなかった。
「それに、すばらしい歯並びです。どの歯も真直ぐ歯茎に収まってる」
彼はつぶやいた。
「歯茎の色も健康ですね。みずみずしくてつやがあって」
どうして彼がわたしの口の中の印象について、そんなふうに説明しなければいけないのか分らなかった。わたしは自分の歯や歯茎についてなど描写してほしくはなかった。
一通り歯を眺めた彼は、丸椅子に坐って薬びんの並んだワゴンから、小さなガラスのトレーを手に取った。それからそこにピンク色の粉を落とした。曇りガラスの底に鮮やかな色が映った。
円盤型の巨大な電灯から降ってくる光が頬に当たって熱かった。ダイヤモンド型や針型のドリルの先が、サイドテーブルに並んでいた。うがい用の銀色のコップから、水があふれてこぼれていた。
彼はトレーの上に、ミルクピッチャーのような入れ物から何かの液体をたらし、へらで勢いよくかき回した。マスクのひもが耳の後ろでだらしなく揺れていた。彼の目はカルテとトレーとわたしの歯を、落ち着きなく行き来していた。
『白衣とマスクに包まれたこの貧弱な男が、姉と結婚するのだろうか』
ガラスの上でだんだん水あめ状になってゆくピンクの物体を眺めながら、わたしは思った。『結婚』という言葉が不自然なものに思えて、『姉と一緒になる』、『姉を愛する』、『姉を抱く』……と考え直してみたが、どれもぴったりこなかった。へらとガラスがこすれて耳障りな音がした。彼はそんな音にはかまわず、トレーの上をかき回し続けた。
ピンクの粉は最後には粘土のようにまとまった。彼はそれを人差し指と中指ですくい上げ、残りの指でわたしの唇を押し広げながら、奥歯にべっとり塗り付けた。味はなくただひんやりした感触だけが舌に当たった。彼の指先が、口の粘膜を何度も撫でた。わたしは思い切り、彼の指とそのピンクの塊を噛み締めたかった。
五月二十八日(木) 二十七週+三日
食べれば食べるほど、姉のお腹は膨らんでくる。今まで妊婦を見ることはあっても、身体の変化の過程を見ることはなかったので、わたしは興味深く姉を眺めている。
身体の変形は胸のすぐ下から始まっている。そこから下腹部にかけて大胆に張り出している。触らせてもらうと、思った以上に固くてびくっとする。内側の煮詰まった感じが、生々しく伝わってくるからだ。そして膨らみは左右対称ではなく、微かに歪《ゆが》んでいる。そのことがまた、わたしをぞくぞくさせる。
「今頃胎児はねえ、まぶたが上下に分れて鼻の穴が貫通している時期よ。男子なら腹腔内にあった性器が下降してくるの」
姉は自分の赤ん坊について、冷静に説明する。胎児とか腹腔とか性器とか、母親に似付かわしくない言葉遣いのせいで、余計彼女の変形が不気味なものに思える。
胎児の染色体は順調に増殖しているのだろうか。彼女の膨らんだお腹の中で、双子の幼虫が連なってうごめいているのだろうか。わたしは姉の身体を眺めながら考える。
今日バイト先でちょっとした事故があった。卵のケースをワゴン一杯に積んで運んでいた店員が、レタスの切れ端で足を滑らせて卵を割ってしまったのだ。それはわたしがホイップクリームのデモンストレーションをしているすぐそばで起きたので、目の前を卵がぱらぱらと落ちていった。床のあちこちで、潰れた卵がどろりと流れ出していた。店員が踏んだレタスの葉には運動靴の跡が残っていた。そして何個かの卵は果物売場の棚に落ちて、りんごやメロンやバナナの皮をべとべとに汚した。
店長さんが、売り物にならなくなったグレープフルーツを袋に一杯くれた。今我家にはいくら食べ物があっても邪魔にはならないので、わたしはありがたくそれをもらって帰った。
テーブルにグレープフルーツを並べると、まだ少し卵のにおいが残っているような気がした。大粒で真黄色な、アメリカ産のグレープフルーツだった。わたしはそれでジャムを作ることにした。
全部の皮をむき、実を房から取り出すのはなかなか骨の折れる作業だった。姉と義兄は中華料理を食べに外出していた。窓の外には静かな夜が舞い降りていた。包丁と鍋がぶつかったり、グレープフルーツが転がったり、わたしが咳をしたりするほかには、何の音も聞こえなかった。
指先に果汁が染み込んでべとついていた。キッチンの明かりに照らされて、果肉のつぶつぶ模様が鮮やかに浮き上がっていた。砂糖をふりかけてそれが溶けると、グレープフルーツはもっとつややかに光った。かわいらしい半円形の実が、いくつもいくつも鍋の中で重なり合っていた。
無造作に並んだ分厚い皮は、どことなく間が抜けて見えた。その皮の白い所だけを切り取り、残りを細く刻んで鍋に入れた。黄色い果汁が包丁の刃や手の甲やまな板に、生き物のように勢いよく飛び散った。皮にもちゃんと模様があった。人間のどこかの粘膜を顕微鏡で映し出したような、規則正しい模様だった。
鍋を火にかけると、わたしは一息ついて椅子に腰掛けた。グレープフルーツのとろける音が、ぐつぐつとひそやかに夜の底を漂っていた。酸っぱい香りが、湯気と一緒に次から次へと立ち上った。
鍋の底でグレープフルーツの果肉の粒が弾けるのを見ながら、わたしはいつかゼミの友達に無理矢理連れて行かれた『地球汚染・人類汚染を考える会』の会合のことを思い出していた。三一三号教室で開かれていたその会合はこぢんまりしたものだったが、学生たちは皆真剣で純粋だった。部外者のわたしは一人隅の机から、キャンパスの中庭のポプラ並木を眺めていた。
流行遅れの眼鏡をかけた痩せた女子学生が、酸性雨か何かについて意見発表し、そのあと誰かがひどく難しい質問をした。わたしは会合の初めに配られたパンフレットを、手持ち無沙汰に掌の中で丸めた。一ページめに、アメリカ産のグレープフルーツの写真が載っていた。
『危険な輸入食品!』
『出荷までに三種類の毒薬に漬けられるグレープフルーツ』
『防かび剤PWHには強力な発癌性。人間の染色体そのものを破壊する!』
あの時の一ページが、ぼんやり頭の中で揺らめいた。
皮も実もしっとり混じり合い、所々ゼリー状のかたまりができる頃、姉と義兄が帰ってきた。姉は真直ぐキッチンに入ってきた。
「何? この素敵なにおいは」
そう言って、火を止めたばかりの鍋の中をのぞき込んだ。
「グレープフルーツのジャムなんて、珍しいわ」
姉はそう言い終わらないうちにスプーンを手に持って、熱々のジャムをたっぷりすくい上げた。
「枇杷のシャーベットほどでもないわ」
わたしはつぶやいた。姉は聞こえない振りをして、勢いよくスプーンを口の中に突っ込んだ。おろしたてのマタニティドレスを着て、イアリングをつけ、ハンドバッグを左手に提げたままだった。義兄が少し離れた所にたたずんでいた。
姉は次々とグレープフルーツジャムを口に運んだ。張り出したお腹のせいで、堂々と威張っているように見えた。もろくて今にも崩れそうな果肉のかたまりが、姉の喉をすべり落ちていった。
『PWHは、胎児の染色体も破壊するのかしら』
鍋の底で、怯えるように微かに震えているジャムを見ながら、わたしは思った。
六月十五日(月) 三十週+〇日
梅雨に入って雨ばかり降っている。朝も夜もなく空は灰色に暗く沈んで、一日中部屋の明かりを消すことができない。雨の音は耳鳴りのように絶え間なく、頭の奥で響いている。本当に夏が近付いているのだろうかと、不安になるくらい冷たい雨だ。
それでも、姉の食欲には何の変化もない。
確実に姉は太ってきている。お腹の膨らみに合わせて、頬や首筋や指や足首に脂肪がつきはじめている。白く濁った張りのない脂肪だ。
わたしは太った姉を見ることに慣れていないので、脂肪に縁取られたたるんだ彼女の輪郭が目に入るたびに、戸惑いを感じている。姉は自分のそういう身体の変形に全く興味を払わず、ただひたすら食べているだけなので、わたしは何の口出しもできない。姉の身体が、一つの大きな腫瘍になってしまったようだ。どんどん勝手に増殖している。
そしてわたしは、グレープフルーツのジャムを作り続けている。キッチンのどこかに、籐編みの果物籠の中や、冷蔵庫の上や、調味料入れの隣に、グレープフルーツが転がっている。わたしはそれらの皮を刻み、実をほぐし、砂糖をふりかけて弱火で煮る。
出来上がったジャムを、姉はいつも容器に移し替える間もなく食べてしまう。テーブルに鍋を置き、左腕でそれを抱えるようにしながらスプーンを中に突っ込む。彼女はパンか何かにそれをつけて食べるのではなく、ジャムそのものを食べる。スプーンの運びと口の動きだけを見ていると、カレーライスを食べているようにたくましい。そういう食べ方がジャムにふさわしいのだろうか、と不思議に思えてくる。
わたしは真正面に坐って姉を眺める。酸っぱい果汁のにおいと雨のにおいが混じり合い、二人の間を漂っている。姉はほとんどわたしを無視している。試しに、
「そんなに食べて気持ち悪くならない?」
とか、
「もうそろそろ、やめにしたら?」
などと言ってみるが、何の効果もない。わたしの声は、姉の舌がジャムを溶かす音と雨の音に紛れてしまう。
彼女をじっと見つめてしまうのは、ジャムの不自然な食べ方のせいではなく、その奇異な肉体のせいだという気がする。大きく膨らんだお腹のために身体のあらゆる部分の組み合わせが、(例えばふくらはぎと頬、掌と耳たぶ、親指の爪とまぶた)アンバランスにぐらついている。彼女がジャムを飲み込むと、喉についた脂肪が上下にゆっくりうごめく。スプーンの柄が、むくんだ指に食い込んでいる。わたしはそういう姉の一つ一つの部分を、静かに眺める。
最後の一匙《ひとさじ》をきれいになめてしまうと、姉は甘えたような潤んだ目でわたしを見ながら、
「もう、ないのね」
とつぶやく。
「また明日、作っておくわ」
わたしは無感情にそう答える。そして家中のグレープフルーツを全部ジャムにしてしまうと、バイト先のスーパーで新しいグレープフルーツを買ってくる。その時は必ず、果物売場担当の店員に、
「これ、アメリカ産のグレープフルーツですか?」
と確かめる。
七月二日(木) 三十二週+三日
いつの間にか九ヵ月に入った。つわりがおさまってから、週数の進み方が速くなったように思う。つわりの間の不快な時間の沈澱を、勢いよく洗い流しているかのようだ。
姉はいつもの通り、ほとんどの時間を食べることに費やしている。
ところが今日、姉はふさぎ込んでM病院から戻ってきた。体重オーバーを注意されたらしい。
「ねえ、知ってる? 産道っていう所にも脂肪がつくのよ。だから太り過ぎると難産になるんだって」
姉はイライラしたように母子手帳を投げた。『妊娠中の経過』のページに、体重制限と赤字で書いてあるのが見えた。
「出産までに六キロくらい増えるのが理想だっていうのよ。わたし、難産になるのね、きっと」
姉はため息をつき、髪をかき上げた。彼女の体重は、もうすでに十三キロ増えているのだ。
「どうしようもないじゃないの」
わたしは姉のむくんだ指を見ながらつぶやき、キッチンに入っていつものジャムを作り始めた。
いつの間にか、グレープフルーツのジャムを作ることは習慣になっていた。朝起きて髪をとかすように、わたしはジャムを作り姉はそれを食べた。
「難産になるのって、そんなに怖い?」
わたしは調理台に向いたまま聞いた。
「怖いわ」
姉はあっさりとか細い声で言った。
「この頃、いろいろな種類の痛みについて考えるわ。今までで一番痛い思いをしたのは、いつどんな時だったろうとか、末期ガンと両足切断と、陣痛はどっちの痛みに似てるんだろうとか、そういうこと。痛みを想像するって、とても難しいし気色悪いことよ」
「そう」
わたしは作業を続けながら相づちを打った。姉は母子手帳を握り締めていた。表紙に印刷された赤ん坊のイラストが、歪んで泣いているように見えた。
「でももっと怖いのは、自分の赤ん坊に会わなきゃならないってこと」
彼女は突き出たお腹に視線を落とした。
「ここで一人勝手にどんどん膨らんでいる生物が、自分の赤ん坊だってことが、どうしてもうまく理解できないの。抽象的で漠然としてて、だけど絶対的で逃げられない。朝目覚める前、深い眠りの底からゆっくり浮かび上がってくる途中に、つわりやM病院やこの大きなお腹やそんなものすべてが幻に思える瞬間があるの。その一瞬、何だ全部夢だったんだって、晴れ晴れした気分になれるの。だけどすっかり目が覚めて、自分の身体を眺めてしまうともうだめ。たまらなく憂鬱になってしまう。ああ、わたしは赤ん坊に出会うことを恐れているんだわって、自分で分るの」
わたしは背中で姉の声を聞いていた。砂糖と果肉の小片と細切りの皮が黄金色に溶け合い、所々でぷつぷつ弾けていた。わたしはガスの火を弱め、大きなスプーンで鍋の底をかき回した。
「恐れる必要なんて全然ないわ。赤ん坊は赤ん坊よ。とろけるみたいに柔らかくて、指をいつも丸く握って、切なげな声で泣くの。それだけよ」
スプーンに絡みつきながら渦を巻くジャムを見つめ、わたしは言った。
「そんなふうに単純にうるわしくはいかないのよ。わたしの中から出てきたら、それはもう否応《いやおう》無しにわたしの子供になってしまうの。選ぶ自由なんてないのよ。顔半分が赤痣でも、指が全部くっついていても、脳味噌がなくても、シャム双生児でも……」
姉はいくつもいくつも恐ろしい言葉を連ねた。スプーンが鍋底をこする鈍い音と、ジャムのべとつく音が一緒に聞こえた。
『この中に、PWHはどれくらい溶け込んでいるのかしら』
わたしはジャムを見つめ、胸の奥の方でささやいた。蛍光灯の明かりを受け透明に光っているジャムの清らかさが、化学薬品の冷たいびんを連想させた。無色のガラスびんの中で、胎児の染色体を破壊する薬品が揺らめいていた。
「ねえ、できたわ」
わたしは鍋の把手《とつて》をしっかり握り、振り向いた。
「姉さん、食べて」
わたしはジャムを差し出した。彼女はしばらくそれを眺め、無言で食べ始めた。
七月二十二日(水) 三十五週+二日
大学が夏休みに入った。これからわたしは、ずっと姉の妊娠に付き合わなければいけないのだろうか。
しかし、妊娠とは永遠のものではない。いつか終わるものだ。赤ん坊が生まれる時終わるのだ。
わたしと姉と義兄の三人の間に、赤ん坊がプラスされる状態について想像してみようと思うことがある。でもいつもうまくいかない。赤ん坊を抱き上げる義兄の目の表情とか、授乳する姉の胸の白さとかを思い浮かべることができない。浮かんでくるのはただ、科学雑誌で見た染色体の写真だけだ。
八月八日(土) 三十七週+五日
とうとう臨月に入った。もういつ生まれてもおかしくないという。姉のお腹の膨らみは、ほとんど限界に達している。こんなにも膨らんで、内臓がきちんと機能しているのかどうか、心配になるくらいだ。
真夏のじっとりした暑さがこもった家の中で、三人はただ静かに待っている。いつ訪れるか分らないその日を、無口に待っている。姉が苦しそうに肩で息をしたり、義兄がホースで庭に水をまいたり、扇風機が弱々しく首を振ったりする音だけが目立っている。
何かを待っている時はたいてい、微かな恐れと不安で胸がきしむ。その何かが陣痛の時でも、それは同じだ。姉の神経が陣痛のためにどんなふうにずたずたにされるのか、考えると怖い。この暑い静かな午後が、いつまでも続いてくれたらと思う。
どんなに暑くても、姉は舌が焼けるようなできたてのグレープフルーツジャムを口一杯詰め込み、よく味わいもしないでどくどく飲み込む。うつむいた横顔は、嗚咽《おえつ》しているように哀しげに見える。こみあげてくる涙を押しとどめるように、休みなくスプーンを口に運ぶ。彼女の向こう側で、庭の緑が光に打たれてぐったりしている。蝉の声がわたしたち二人をすっぽり包んでいる。
「どんな赤ん坊が生まれてくるか、楽しみね」
わたしがつぶやくと、姉はほんの一瞬手を止めてゆっくりまばたきし、何も答えずまた食べ始める。わたしは傷ついた染色体の形について、思いを巡らせる。
八月十一日(火) 三十八週+一日
バイトから帰ると、テーブルの上に義兄からのメモがあった。
『陣痛が始まりました。病院へ行きます』わたしはその短いメモを何度も読んだ。そばにジャムのついたスプーンが転がっていた。わたしはそれを流し台に放り投げ、これからどうしたらいいのかしばらく考えた。そしてもう一度メモを読み直してから外へ出た。
風景は一面光に包まれていた。車のフロントガラスや公園の噴水の水しぶきが、まぶしく輝いていた。わたしは目を伏せ、汗をぬぐいながら歩いた。麦わら帽子をかぶった子供が二人、わたしを追い抜いて走っていった。
小学校の正門は閉ざされ、校庭がもの淋しく広がっていた。そこを過ぎると小さな花屋があった。店員も客も見当らなかった。ガラスケースの中で、かすみそうがほんの少し揺れていた。
角を曲がるとつきあたりがM病院だった。姉が言った通り、そこだけ時間が止まっていた。ずっと長い間記憶の中に閉じ込められていたM病院が、そのまま目の前にあった。門の脇に大きなくすのきがあり、玄関のガラス戸は濁っていて、看板の文字は剥げかけていた。人の気配はなく、ただわたしの影だけがくっきり道に映っていた。
塀伝いに裏へ回ると、壊れかけた勝手口があるはずだった。『きっとあの勝手口も、壊れたままになってるはずだわ』と、なぜかわたしははっきり思うことができた。そしてその通り、扉の蝶番《ちようつがい》は片方取れたままになっていた。
釘に服を引っ掛けないよう注意しながら扉の透き間を通り抜けると、そこが芝生の中庭だった。きれいに切りそろえられた緑をそっと踏むと、昔のどきどきした胸の鼓動がよみがえってきた。わたしは掌で額の汗を押さえ、M病院を見上げた。窓ガラスが全部一度にきらめいて、目が痛かった。
ゆっくり建物に近寄っていくと、窓枠のペンキのにおいが漂ってきた。人影もなく風もなく、わたしより他に動いているものは何もなかった。段ボールを持ってこなくても、わたしは簡単に診察室をのぞくことができた。先生も看護婦もいなかった。そこは放課後の理科室のように薄暗かった。わたしは目を凝らし、薬のびんや血圧計や逆子を治すポーズの写真や超音波診断装置を、一つ一つ順番に確かめていった。顔に当たる窓ガラスが生温かかった。
微かに、赤ん坊の泣き声が聞こえたような気がした。太陽のきらめきのずっと向こうの方で、小さく震え涙で潤んだ泣き声が響いていた。耳を澄ますと、その声はまっすぐ鼓膜に吸い込まれていった。耳の奥が切なく痛んだ。わたしは三階に目をやった。ネグリジェ姿の女性が遠くを見ていた。肩の曲線がガラスに映っていた。ばらけた髪の毛が頬にかかり表情を青白い影にしていたので、それが姉なのかどうかよく分らなかった。彼女はくすんだ唇をわずかに開き、まばたきをした。涙を流す時のような、はかないまばたきだった。目を凝らしてもっとよく見ようとした時、ガラスで跳ね返った陽射しが視界をふさいでしまった。
わたしは赤ん坊の泣き声を頼りに非常階段を上った。一歩一歩足をのせるたびに、木の階段はつぶやくようにみしみし軋《きし》んだ。身体は熱くぐったりしているのに、てすりをつかむ掌と赤ん坊の声が吸い込まれてゆく耳の中だけはひんやりとしていた。芝生がゆっくり足元から遠ざかり、その分光が濃く強くなっていった。
途切れることなく、赤ん坊は泣き続けていた。三階の扉を開けると、外の明るさが一瞬にさえぎられめまいがした。波のように寄せてくる泣き声に神経を集め、しばらく立ちすくんでいると、薄ぼんやり奥にのびている廊下が見えてきた。わたしは、破壊された姉の赤ん坊に会うために、新生児室に向かって歩き出した。
ドミトリイ
わたしがその音の存在に気付いたのは、たいして昔ではない。ならば最近かというと、そうはっきり言い切ることもできない。過去にまっすぐつながっている時間の感覚の帯に、一ヶ所なぜかひどく霞んだ部分があって、音はそこにひっそりと存在している。ある時ふと気が付いたら、わたしはもうそれを聞いていた。いつ、どこからやってきたのか、分らない。透明なシャーレの培養基の中に、突然微生物が精巧な斑点模様を描き出すように、音はどこからともなくやってきた。
それを聞くことができるのは、ある限られた瞬間だけだ。いつでも好きな時にというわけにはいかない。最終の路線バスの中から街の光を眺めている時のこともあったし、さびれた博物館の入り口で憂鬱そうにうつむいた女の人から入場券を受け取った時のこともあった。現われ方は不意できまぐれだ。
ただ一つ共通しているのは、音が聞こえる時わたしの心は常に過去の特別な場所に向かっているということだ。そして微かな胸のきしみを伴っている。そこに建っているのは、古い学生寮《ドミトリイ》だ。鉄筋コンクリート三階建ての質素なデザインで、決して大きくはない。くすんだ窓ガラスやカーテンの黄ばみやひびの入った外壁の様子から、その古さが伝わってくる。学生寮と言いながら学生を連想させるような物、バイクやテニスラケットやスニーカーなどは何も見当たらない。ただ建物の輪郭だけがくっきりと存在している。
しかし廃墟とは違う。朽ちかけたコンクリートの中に人の息遣いが含まれているのを、わたしは確かに感じ取ることができるからだ。その息遣いの温かさやリズムが、わたしの肌に静かに染み込んでくる。
学生寮を出てからもう六年以上たつというのに、こんなふうにリアルに思い浮かべることができるのは、やはり不意に訪れるあの音のせいなのだ。
音が聞こえるのは、わたしの心が学生寮にさかのぼってゆく間の、ほんのわずかの時間だ。頭の中が広々とした雪の草原のように真っ白になり、高い高い空の果てで何かが微かに響いている。実の所、それを音と言い切ってしまっていいのかどうか、わたしには自信がない。もしかしたら、震動、流れ、疼《うず》き、といった言葉の方がぴったりしているのかもしれない。どんなに一生懸命神経を張り詰めても、わたしはその正体をつかむことができない。
とにかく、その音に関することは、発生源も音色も響き具合も何もかもがあいまいなので、わたしは言葉を失ってしまう。それでも時々、あまりのあいまいさのために心細くなり、何かにたとえてみようと思うことがある。冬の噴水の底に沈んだコインが一粒の水しぶきとぶつかった時つぶやく音、メリーゴーランドから降りた後耳の奥にあるかたつむり管の中でリンパ液が震える音、恋人からの電話が切れた後受話器を握った掌の中を真夜中が通り過ぎてゆく音……。しかし、こんなたとえで一体何人の人が、その音について理解してくれるというのだろう。
いとこがうちに電話してきたのは、冷たい風が吹く春の初めの午後だった。
「あの、突然、お電話なんかしてごめんなさい」
私は最初彼が誰なのか分らなかった。
「ご無沙汰してます。もう、十五年近く会ってないわけですから、お忘れかもしれませんが、とにかく、僕、小さい頃、あなたにかわいがってもらいました」
彼は自分のことをわたしにどう説明しようかと、どぎまぎしているようだった。
「お正月や夏休みに、田舎のおばあちゃんの所でよく遊んでもらった、いとこの……」
そこでやっと、わたしは彼のことを思い出した。
「まあ、本当に久しぶり」
わたしは思いもかけない人からの電話に驚いて言った。
「はい」
いとこは安心したように、一つ大きな息を吐いた。そして改まった口調で、
「今日お電話したのは、一つ、お願いしたいことがあるからなんです」
と切り出した。
わたしはすぐには、自分の置かれた状況を理解できなかった。うんと歳の離れたいとこが、十五年も音信不通だった後突然電話してきて、頼みたいことがあると言う。そういう事柄の一つ一つを、ゆっくりかみしめる時間が必要だった。しかしどう考えても、彼のために何がしてあげられるのか見当もつかなかった。仕方なく、いとこが喋り始めるのを待った。
「実は僕、この四月から大学生なんです」
「まあ、もうそんなに大きくなったの」
わたしは素直に叫んだ。最後に会った時、彼は確か四歳だった。
「それで、住む所を探さなくちゃならないんだけど、なかなかうまくいかなくて困っているんです。そうしたら急に、あなたのことを思い出したんです」
「わたしのことを?」
「はい。あなたがとてもいい学生寮に入っていたということを」
わたしはここでまた、記憶をたぐり寄せなければいけなかった。わたしがあの学生寮で過ごした十八から二十二までの四年間は、いとこと遊んだ記憶と同じくらいはるか遠くに押しやられていた。
「だけど、わたしが学生寮に入っていたなんてこと、よく知っていたわね」
「ええ。いくら離れていても、親戚の間を漂っている噂のようなものがありますから」
いとこは答えた。
確かに、あそこはいい学生寮かもしれない。特定の思想や方針や規則にこだわらず、控え目で物静かな雰囲気を持っていた。それどころか、利益にさえこだわっていないかのように見えた。部屋代はびっくりするくらい安かった。
そこを運営していたのは、企業でも法人でもない一個人だった。だから本当は、寮というより下宿屋という方が適切なのかもしれない。しかし、あそこはまぎれもなく学生寮だった。高い天井の玄関ホール、廊下の壁伝いにのびるスチーム用のパイプ、れんがを並べて作った中庭の小さな花壇、そんな一つ一つの風景が、学生寮という言葉の響きとぴったり溶け合っていた。下宿屋などという言葉から、わたしはとてもあそこの風景を思い出すことはできない。
「だけど、駅からは遠いし、部屋は狭いし、かなり古いわよ。わたしが卒業してからでも、もう随分時間が経《た》っているし」
わたしはまず、マイナスの条件を並べてみた。
「大丈夫です。そういうことは気にしませんから。とにかく僕、お金がないんです」
いとこはきっぱりと言った。わたしたちが疎遠になるきっかけでもあったのだが、彼は幼い頃に父親、わたしにとっての叔父を病気で亡くしていた。だから彼がお金のことを気にするのは、仕方ないことだった。
「分ったわ。お金のことからすれば、あそこは間違いなくベストよ。安心して」
「そうですか」
いとこはうれしそうに言った。
「わたしから寮に連絡してみるわ。いつでも何部屋か空いているような、人気のない寮だったから、入れないっていうことはないと思う。あんまり儲からないんで、つぶれちゃってる可能性はあるけどね。まあ、落ち着き先がはっきりするまで、うちに泊まればいいわ。いつでも好きな時に上京してきて」
「ありがとうございます」
電話の向こうで、いとこが微笑んでいるのが分った。
こうしてわたしは、再びあの学生寮とつながりを持つようになった。
まず最初に、寮に電話する必要があった。しかしわたしは、すっかり電話番号を忘れてしまっていた。わたしは不安な気持ちで職業別の電話帳を開いた。あんな小さな学生寮が電話番号を載せているかどうか、心配だったのだ。ところが、きちんと掲載されていた。『冷暖房、セキュリティーシステム、アスレチックジム、防音ピアノ室完備。各室バス、トイレ、電話、クローゼット設置。都心の緑に囲まれた絶好の環境……』そんな華やかな広告にはさまれた一行に、電話番号だけがひっそりと印刷されていた。
電話に出たのは先生だった。彼は寮の経営者であり、同時に住み込みの管理人でもあった。そして、伝統的に寮生から先生と呼ばれていた。
「わたし四年間そちらでお世話になり、六年前に卒業した……」
自分の旧姓を告げると、先生はすぐにわたしのことを思い出した。
彼の喋り方は昔と少しも変わっていなかった。わたしは彼のイメージをその印象的な喋り方を頼りに記憶していたので、彼の変わらない声を聞いてほっとした。彼は深呼吸するようにゆるやかに息を吐きながら、かすれた声で喋る。その深い息の底に吸い込まれてしまうのではないかと心配になるくらい、はかなげな声だ。
「実は、この春大学に入学するいとこが下宿を探しているのですが、そちらに入寮させていただけないかと思いまして」
わたしは手短かに用件を述べた。
「そうですか……」
先生は口ごもりため息をついた。
「何か不都合なことでも?」
「いいえ。そういうわけではありません」
そこで先生はまた言葉を飲み込んだ。
「もしかして、寮の運営をお止めになったんでしょうか」
「止めてはいません。寮は今でもちゃんとあります。わたしにはここしか住む場所がありませんから、わたしがここに居るかぎり、寮は機能しています」
キノウ、というところに力を込めて彼は言った。
「ただ、そのあり方というか仕組みというか、そういうものがあなたのいらした頃とは違ってしまっているのです」
「仕組み、ですか?」
「はい。どういうふうに説明したらいいのか、わたしには分らないのですが、とにかく今、複雑で困難な状況にあるのです」
先生が受話器の奥で小さな咳をした。その音を聞きながら、学生寮が陥る複雑で困難な状況とはどのようなものだろうか、と考えた。
「試しに具体的な事柄を説明してみると、まず寮生の数が極端に少なくなっています。あなたがいらした頃でも空室は目立っていましたが、その比ではありません。従って食堂での賄いができなくなりました。食堂で働いてもらっていたコックさんのこと、覚えていますか?」
狭く細長いキッチンで黙々と働いていたコックさんの姿を思い浮かべながら、わたしは「はい」と答えた。
「彼には辞めてもらいました。残念なことです。とても腕のいいコックだったのに……。それから共同バスも、毎日は沸かすことはできません。一日おきです。クリーニングとか酒屋の御用聞きは、来てくれなくなりました。お花見ピクニックもクリスマスパーティーも、寮の行事は全部廃止です」
先生の声は段々か弱くなっていった。
「そういう種類の変化なら、寮の状況に大して影響ないじゃないですか。複雑でも困難でも何でもないですよ」
わたしは彼を励ましているような気分になった。
「そう、その通りです。こういう具体的な変化自体は、何の意味も持っていない。今喋ったことは、わたしがあなたに本当に伝えなければならないことの一番外側にある、頭蓋骨みたいなものです。問題の本質は、大脳の奥の小脳の奥の松果体の奥の髄に隠されているのです」
先生は言葉を選びながら慎重に喋った。わたしは小学校の理科の教科書に載っていた『脳の構造』というページを思い出しながら、学生寮の陥っている状況について何とか理解しようとしたが、無理だった。
「これ以上、わたしには何も言えません。とにかくこの学生寮は、ある特殊な変性を遂げつつあるのです。しかしそれは決してあなたのいとこのような入寮希望者を、拒む種類のものではありません。ですからどうか遠慮なさらずにいらして下さい。本当はわたしはうれしいのです。あなたが学生寮のことを忘れずにいてくれて。いとこの方に戸籍謄本と大学の入学証明書を持って、あっ、それから保証人のサインを添えて、こちらにいらっしゃるようお伝え下さい」
「はい」
わたしはあいまいな気持ちのままうなずき、受話器を置いた。
その年の春は曇りの日が多かった。毎日空が冷たいすりガラスに包まれたようだった。公園のシーソーも駅前広場の花時計もガレージの自転車も、くすんだ光に閉じ込められていた。いつまでたっても街が冬の名残りから抜け出せないでいた。
わたしの生活もそういう季節の澱みに巻き込まれ、ぐるぐる同じところを漂っていた。朝起きるとできるだけ時間を稼ぐかのようにベッドの中でぼんやり過ごし、それから簡単な朝食を作って食べた。昼間はほとんどパッチワークをしていた。テーブル一面に端切れを並べ、一枚一枚縫い合わせてゆく、たったそれだけの作業だ。夕食もまた簡単に済ませ、夜はずっとテレビを見る。何の約束も期限も予定もない。ふやけたように実体のない毎日が、いくつもいくつも通り過ぎてゆく。
わたしは今、生活に関するあらゆる種類の面倒さを猶予されている。夫が海底油田のパイプラインの建設のために、スウェーデンへ赴任したのだ。あちらでの生活のめどが立って夫が呼び寄せてくれるまで、わたしは日本で待つことになっている。この、突然に訪れた真空の時間の中に、わたしはかいこのように閉じこもっている。
スウェーデンはどんな所だろうと思うと、時々不安になる。スウェーデンの食料品について、スウェーデンのテレビ番組について、スウェーデン人の顔立ちについて、わたしは何も知らない。そういう抽象的な場所へ移動しなければならない心細さを考えると、今の猶予期間が少しでも長く続いてくれたらと思う。
ある夜春の嵐が吹き荒れ、雷が鳴った。今まで出会ったことのないくらい激しい雷だった。あまりにも激しすぎて、最初は幻想的な夢を見ているのかと思った。群青色の夜の中を短い光が何度も走り、そのたびにガラスの食器棚が倒れ粉々に砕けるような音がした。遠くからまっすぐに響いてきた雷鳴がうちの屋根の真上で破裂し、その名残りが消えないうちにもう次の雷が破裂していた。次から次へと重なりあう雷鳴は、手でつかめそうなくらい近くに聞こえた。
嵐はいつまでも止まなかった。わたしはベッドの中から、海の底と錯覚しそうな深い闇を見つめていた。じっと息を殺していると、闇がか細く震えているのが分った。闇の粒子が、怯えるように宙でぶつかり合っていた。わたしは一人きりでも、少しも怖くなかった。嵐に包まれ、安らかな気持ちにさえなることができた。それは、自分がどこか遠くへ運ばれてゆくような安らかさだった。自分一人では到底たどり着けない遥かな場所へ、この嵐が連れていってくれるような気がした。そこがどこなのかは、よく分らなかった。ただ、すべてがしんと静止した濁りのない場所だということだけは感じ取ることができた。わたしは嵐の音を聞きながら闇に眼を凝らし、その遠い場所を見ようとした。
そして嵐の次の日、いとこがやってきた。
「よく、来てくれたわね」
彼くらいの歳の青年と話すのは久しぶりだったので、わたしはそう言ったきり、何を喋っていいか分らなくなってしまった。いとこは、
「ご迷惑をおかけします」
と、ゆっくり頭を下げた。
彼はとても背が高くなっていた。首筋や指や腕の伸びやかなラインが、目の奥にいつまでも残った。そのラインを筋肉がバランスよく包んでいた。しかし何より印象的だったのは、彼の微笑み方だった。彼は左手の人差し指で銀色のめがねのフレームに触れながら、うつむき加減にそっと微笑む。左手の透き間から、柔らかい息がほのかにもれてくる。それは確かに微笑みでありながら、伏せられたまつげのために、切ないため息のようにも思える。彼が微笑むたびに、どんな小さな表情の動きも見逃すまいと、わたしはじっと彼を見つめてしまう。
わたしたちはぽつりぽつりと話を始めた。彼のお母さんの近況、四歳から十八歳までの間におこった大ざっぱな出来事、わたしの夫がここにいない理由などについて話した。最初、話と話の間にはたっぷりすぎるくらいの沈黙の時間があった。わたしはその沈黙に耐えきれず、意味もなく「うん。うん」とうなずいたり咳払いをしたりしていた。
しかし話題がおばあさんの所で過ごした子供の頃の思い出に移ると、段々わたしの中から言葉がわき出てくるようになった。いとこは二人で過ごした場面について、驚くほどよく憶えていた。前後関係やストーリーは全くの空白だったが、その一コマ一コマの色彩を鮮明に焼き付けているのだった。
「縁側でおばあさんと一緒にさやえんどうのすじを取っていたら、よく川がにが庭に迷い込んできましたね」
いとこは田舎の夏の午後を思い出していた。
「そうだったわ」
彼の言葉がきっかけになり、わたしの古い記憶もどんどんよみがえってきた。
「川がにを見つけると僕はいつも、お姉ちゃん取って、って叫んだ」
「そう。わたしがこれ食べられるのよって言ったら、あなたきょとんとして、だってこれ生きてるじゃないって変な顔をしたの。死んでいるものしか食べられないと思っていたのよ、あなた」
彼は声をたてて笑った。
「ぐらぐら煮たったお湯の中に、お姉さんが川がにを入れると、それはひとしきりあばれて鍋の内側をハサミでひっかいたあと、スーと静かになった。そうしたら濁っていた川がにの赤色が、ピカピカに光った純粋な赤色に変化するんだ。僕はあの暗い台所で、川がにが食べ物に変化してゆく過程を眺めるのがとても好きだった」
こんなふうにしてわたしたちは、お互いが共有しているいろいろな場面について確かめ合った。特に彼が話の途中でその印象的な微笑みの表情を見せてくれると、わたしはますます打ち解けた気分になることができた。
彼はほとんど何も持たずに上京したので、学生寮で暮らすにしてもこまごました物を買いそろえる必要があった。わたしたちはレポート用紙に品物のリストを書き出し、重要な順番に番号をつけ、限られた予算の中でできるだけ多くの物が買えるよう計画を立てた。予算はかなり乏しいものだったので、わたしたちはいろいろな物を犠牲にし、それをどうやって補うか工夫しなければならなかった。そしてより安くて質のいい品物を求め、あらゆる情報やつてを頼りに東京中をうろうろした。例えばリストの筆頭の自転車は、半日かけて五軒の自転車屋を回り、一番丈夫で安い中古品を手に入れ、本箱はうちの物置にあったのをペンキを塗り直して使うことにし、教科書や参考書の類は入学祝いにわたしがプレゼントすることにした。
こういう慎ましい買い物はわたしを懐かしい気持ちにし、二人の間をより和やかにしてくれた。一つ一つの買い物が片付いていくたびに、わたしたちは共通の目標を達成できた喜びに浸ることができた。その目標がささやかなものであるだけに余計に、わたしたちは平和だった。
うとうとかいこのように眠っていた生活が、突然鼓動を打ち始めた。わたしはいとこのために毎食凝った料理を作り、買い物に全部付き合い、東京見物にも連れ出した。作りかけのパッチワークは裁縫箱の中でくしゃくしゃに丸められていた。あっという間に五日が過ぎた。
学生寮に入寮の申し込みをする日がきた。わたしたちは三回電車を乗り換え、一時間半かけて東京のはずれの小さな駅に着いた。
大学を卒業し学生寮を出てから、その駅に降りるのは初めてだった。六年前と比べ、全体の雰囲気はたいして変わっていなかった。改札口を出るとすぐなだらかなスロープがあり、交番の入り口に若い警官が立っていて、高校生が商店街の中を自転車で通り抜けてゆく、平凡な街だった。
「寮の先生って、どんな人ですか」
駅前のざわめきが消え、住宅街に入ったあたりでいとこが言った。
「実は、わたしにはよく分らないの」
わたしは正直に答えた。
「寮の経営者であることだけは確かなんだけど。でも、あの学生寮に経営という言葉が適切かどうかも疑問ね。とても儲かっているとは思えない。かといって、宗教的な意味合いがあるとか、会社の税金対策だということでもないし。あれだけの土地を、どうしてもっと有効に使わないのかしら」
「僕のような貧乏学生にはありがたいですけど。やっぱり、一種の奉仕精神じゃないでしょうか」
「そうねえ」
わたしは言った。
道の端で双子の小学生がバドミントンをしていた。全く見分けのつかない完璧な双子で、二人ともなかなか失敗しなかった。シャトルが左右対称にきれいに行ったり来たりしていた。アパートのベランダでは女の人がベビー布団を干していた。工業高校のグラウンドからは、金属バットの音が響いていた。ゆったりした春の午後だった。
「先生は寮の一室に住んでいるの。他の寮生と同じ狭い部屋よ。特別ゴージャスだっていうわけじやないの。そこで一人暮らし。どういう事情か分らないけど、家族はいないみたいだった。写真を見せてもらうとか、誰かが訪ねてくるということもなかったわ」
「何歳くらいの人ですか」
いとこがそう聞いた時、わたしは先生の年齢について今まで考えたことなどなかった、と気付いた。いくら先生の顔を思い出してみても、そう若くはない、という程度のあいまいな感じしか浮かんでこなかった。それは彼が、いろいろなものから孤立していたからかもしれない。家族からも、社会的地位からも、年齢からも。彼は誰ともつながっていないし、どこにも含まれていないのだ。
「人生の半ばは過ぎてしまったでしょうね」
仕方なく、わたしはそう答えた。
「とにかく、先生については分らないことが多いの。学生寮に住んでいても、彼と顔を合わせるチャンスは少ないのよ。寮費を持っていく時と、あとは踊り場の電球が切れましたとか、洗濯室の水道が漏れてますとか言いに行く時だけ。でも心配はいらないわ。嫌な人じゃないことは確かだから」
「はい」
いとこはうなずいた。
あの嵐の夜を境に、一気に春が吹き込んでいた。相変わらず曇っていたが、もう後戻りしない確かなぬくもりが風に感じられた。いとこは入寮手続きの書類の入った紙袋を、左の脇にしっかり抱えていた。どこか遠い所で鳥が鳴いていた。
「一つ、言い忘れていたことがあるの」
ずっと気になっていたのになかなか言い出せないでいたことを、わたしは切り出した。いとこは首を傾けるようにしてわたしを見下ろしながら、次の言葉を待っていた。
「先生には、両手と片足がないの」
そう言い終わったあと、微かな沈黙の時間が流れ、それからいとこが、
「両手と片足がない……」
と、なだらかな声で繰り返した。
「そう。右足しかない、と言った方が簡潔かしら」
「どうして?」
「分らない。何かの事故だと思うけど。いろいろ噂する寮生もいたわ。プレスの機械にはさまれたんだとか、交通事故だとか。でも誰も本当のことを聞くことなんてできない。両手と片足を切断した理由が、哀しくないわけないから」
「そうですね」
いとこは足元に視線を落とし、小石を蹴った。
「先生は一人で何でもできるの。食事も着替えも外出も。缶切りだって使えるし、ミシンだってかけられる。だから両手と片足がないなんてこと、すぐに気にならなくなるわ。彼を見ていると、そんなことたいしたことじゃないって思えるようになるの。ただ、何も知らずに突然先生と会って、びっくりしたらいけないと思って」
「そうですね」
いとこはまた、ぽつんと小石を蹴った。
わたしたちはいくつかの角を曲がり、横断歩道を渡り、坂道を上った。ウインドウに流行遅れのかつらを並べた美容院や、『バイオリン教えます』と手書きの看板をぶらさげた大きな家や、土のにおいに包まれた都立の貸し農園などを通りすぎた。すべてが見覚えのある風景だった。もう会うこともないと思っていたいとこと、この懐かしい風景の中を一緒に歩いていることが不思議だった。いとこがほんの小さな男の子だった頃の記憶と、学生寮の記憶が、水彩絵の具のように滑らかに混じり合っていた。
「一人で暮らすのって、どんな感じなんだろう」
いとこがふと、独り言のように言った。
「心配?」
わたしが尋ねると彼は首を横に振った。
「心配なことは何もありません。ただちょっと、胸の奥あたりが緊張しているんです。僕の周りが何か新しい展開を見せる時は、いつもこんな気分になるんです。お父さんが死んだ時も、好きな女の子が転校した時も、可愛がっていたひよこが野良猫に食べられる現場を見ちゃった時も」
「そうね。一人で暮らすというのは、何かをなくす時の気持ちに似ているかもしれないわね」
わたしはいとこを見上げた。真直ぐ遠くを見つめる彼の横顔の向こうに、霞んだ空が広がっていた。(彼はこんなに若いのに、ひよこや好きな女の子やお父さんや、そんな大切なものを既にたくさんなくしているのね)と、わたしは思った。
「だけど、一人暮らしでいくら淋しくても、そのせいで哀しくなるわけじゃないの。そこが何かをなくす時とは違うところ。たとえ自分が手にしている物全部をなくしたとしても、自分自身は残るわ。だから、自分をもっと信じるべきだし、一人っきりでいることを哀しんじゃいけないと思う」
「分るような気がする」
いとこは言った。
「だから、緊張なんかしないでね」
わたしが背中をそっとたたくと、いとこはめがねのフレームを指で押さえながら、わたしの心をひんやり握り締めるような、あの印象的な微笑みを見せた。
こんなふうにわたしたちは、話をしたりただ黙って歩いたりしながら、学生寮を目指した。先生の身体のこと以外にもう一つ、気になっていることがあった。「学生寮はある特殊な変性を遂げつつあるのです」と言った先生の言葉を、わたしは繰り返し思い起こし、それをいとこにどう話したらいいのか考えていた。しかし、答えを見つけられないまま最後の角を曲がり、とうとう学生寮に着いてしまった。
確かに寮はさびれていた。
全体の外形には変化はなかったが、細かい部分は玄関のノブも、非常階段のてすりも、屋上のテレビアンテナも、何もかもが古びていた。そういう変化はわたしが卒業してからの年月を考えれば、当然の老化と言えるかもしれない。しかし、ここをすっぽり覆っている静けさには、言い訳できない深い力が籠っていた。いくら春休みだとは言っても、その静けさは救いようがないくらいに徹底的だった。
わたしは最初懐かしさよりも静けさに圧倒され、しばらく門の前にたたずんだ。庭には雑草が茂り、自転車置場の隅にはヘルメットが一個落ちていた。風が吹くと庭の草が一面、ささやくようにかさかさと揺れた。
わたしは人の気配を探して一つ一つ窓を眺めてみた。ほとんどの窓は錆付いたようにぴったりと閉じられ、わずかに開いた窓からは色あせたカーテンがのぞいていた。ベランダにはどこも埃《ほこり》が積もり、ビールの空き瓶や洗濯ばさみが無造作に転がっていた。
学生寮を見上げたままいとこに一歩身体を近付けると、肩と胸のあたりが微かに触れ合った。わたしたちは顔を見合わせ目で合図を送ってから、注意深く学生寮に足を踏み入れた。
寮の中は不思議なくらい昔と変わっていなかった。玄関マットの模様も、十円玉しか使えない時代遅れの公衆電話も、蝶番の壊れた靴箱もそのままだった。ただここを覆っている深い静けさのために、それらの小物はもの淋しくうつむいているように見えた。
やはり学生の姿はどこにもなかった。奥に入っていくとますます、静けさの密度が濃くなってゆくような感じだった。わたしたちの足音だけが、コンクリートの天井に吸い込まれていった。
先生の部屋は食堂の向こう側にあった。先生が言ったとおり、コックさんのいなくなった食堂はもう長い間使われていないらしく、あらゆるものがきれいに乾燥しきっていた。わたしたちは一歩一歩確かめるように、ゆっくりとそこを通り抜けた。
いとこがノックすると、しばらく間があってから何かに引っ掛かるようにがた、がた、と扉が開いた。先生は中腰になって顎と鎖骨の間にノブをはさみ、頭を傾けながらそれを回すので、扉はいつもそんなふうにぎこちなく開くのだった。
「よくいらっしゃいました」
「はじめまして」
「ご無沙汰しています」
わたしたちは握手できないので、それぞれあいさつの言葉を口にしながら頭を下げた。
先生は六年前と同じようにくすんだ紺色の着物を着て、左足にだけ義足を付け、両袖はだらりと垂れ下がるままにしていた。先生が肩先でソファーを指しながら、わたしたちに腰掛けるように言うと、着物の袖がゆるやかに揺れた。
寮にいた頃、用事は全部戸口で片付いていたので中に入るのは初めてだった。わたしは新鮮な気持ちで部屋を眺めた。そこは一口で言って、コンパクトにまとまった住みやすそうな部屋だった。すべての物が計算された定位置をきちんと守っているようだった。筆記用具でも食器でもテレビでも、顎と鎖骨と足で扱うのに都合がいいベストの位置に配置されていた。従って視線をある高さより上に向けると、すっきり何も目に入らなかった。ただ、天井の隅にある直径十五センチくらいのしみだけが目につくだけだった。
事務的な手続きはすぐに済んだ。いとこがこの学生寮に入るのに、書類の上で不都合な事柄は何もなかった。ある特殊な変性≠ノついては、先生はいとこに何も話さなかった。いとこは型通りの説明を受けたあと、誓約書に角張った字で丁寧にサインした。『当学生寮において私は、幸福な学生生活を送ることを誓います』という簡潔な誓約書だ。こうふく、とわたしは胸の奥でつぶやいてみた。それから、誓約書には似つかわしくないそのリリカルな言葉を見つめながら、(わたしも昔、この誓約書にサインしたのだろうか)と、思った。しかしいくら考えても思い出せなかった。先生から誓約書を手渡された場面も、幸福という文字も、何も浮かんでこなかった。わたしは学生寮について、いくつか大切なことを忘れてしまっていることに気付いた。
「さて」
と先生は言った。
「お茶でもいれましょう」
いつもの淡くかすれた声だった。いとこは最初その意味が分らないというような、不安気な目でわたしを見た。確かに先生がお茶をいれるところを想像するのは、難しいことだった。(大丈夫。先生は何でもできるのよ)という目でわたしはいとこを見やった。彼は緊張したように唇をしっかり結び、視線を先生に戻した。
テーブルの上にはお茶の葉の缶、急須、ポット、湯呑みが特定の間隔をあけて順番に並んでいた。先生はまず左の義足を支えにして、右足をふんわりテーブルの端にのせた。それはぼんやりしていると見逃してしまいそうなくらい一瞬の動作だった。右足は真綿のように柔らかく、そっとわたしたちの前に置かれていた。身体を深く折り曲げたその姿勢の不自然さと、右足を持ち上げる優雅な仕草のコントラストが、わたしたちを不思議な気持ちにした。
次に先生はノブを回すのと同じ要領で顎と鎖骨を使って缶を開け、急須の中にお茶の葉を入れた。その一連の作業も、すばらしく美しくなされた。力の入れ具合、缶を傾ける角度、葉っぱの量、何もかもが完全だった。しなやかな曲線を持った顎と強固な鎖骨が、一組の鍛えられた関節のように正確に動いた。じっと見つめていると、そこだけが先生の身体から独立した特別な生き物のように思えてきた。
中庭に面した窓から、薄ぼんやりした光が差していた。れんがで囲んだ質素な花壇に、一列チューリップが咲いていた。オレンジ色の花びらが一枚、地面にこぼれ落ちていた。先生の右足と顎と鎖骨以外、何も動いているものはなかった。
わたしといとこは厳かな儀式を見守るように、先生の次の動作を待った。彼はつまさきでポットのボタンを押し、急須にお湯を入れると、今度は親指と人差し指に急須をはさんで三つの湯呑みにお茶を注ぎ分けた。お湯のしたたる音が細くゆるやかに、静けさの中を漂った。
先生の右足はとてもきれいだった。それはわたしの足などに比べればずっとたくさんの仕事をしてきたはずなのに、傷やあざが一つもなくすっきりとしていた。厚みのある甲、温かそうな足の裏、澄んだ爪、長い指。わたしはそんな足の部分の美しさを一つ一つ目で確かめていった。こんなにも間近にじっくりと、人の足を眺めたことは今までなかった。それどころか自分の足がどんな形をしていたかさえ、思い出すことができなかった。
(もし先生に手があったら、それはどんな形をしているのだろう)と、わたしは考えた。幅の広い豊かな掌から十本の指が真直ぐに伸びているのだろうか。そしてそれは右足の指と同じように、いろいろなものを慈しみながら包むのだろうか。わたしは袂の先で透明の空間になってしまった先生の手について、思いを巡らせた。
お茶をいれ終わると先生は、こほんと咳をして足を下に降ろした。それから、
「どうぞ、お召し上がり下さい」
と言って、はにかむようにまぶたを伏せた。わたしたちは「ありがとうございます」と頭を下げ、それを飲んだ。いとこは両手で湯呑みをつかみ、祈るようにゆっくりと飲みほした。
いとこの使わせてもらう部屋を見た後、わたしたちは失礼することにした。先生が玄関で見送ってくれた。
「では、またお会いしましょう」
と先生が言い、
「この寮がとても気に入りました」
といとこが言った。先生がおじぎをすると義足がミシ、ミシときしんだ。哀しげにつぶやくようなその音は、いとことわたしの間に深く染み透った。
いとこが寮に引っ越す日はすぐにやってきた。引っ越しといっても、二人で買い集めた小物を段ボールに詰め、宅急便で送るだけのことだった。いとこがいなくなってしまったあとの、あのかいこのような生活のことを思うと、ため息が出た。わたしはできるだけ時間を引き延ばすかのように、ぐずぐずと支度を手伝った。
「大学の授業って、高校とは全然やり方が違うんでしょ。ついていけるかな。それに第二外国語のドイツ語が心配なんだ。お姉さん、教えて下さいね」
「ごめんなさい。わたしロシア語専攻だったの」
「そうか、残念だな」
心配だ、残念だと言いながら、荷造りをするいとこは朗らかだった。彼には新しい自由な生活が待っているのだった。
「何か困ったことが起きたら、すぐにわたしに知らせてね。お金がなくなったり、病気になったり、迷子になったら」
「迷子?」
「そう。例えばの話だけど。時々はうちで夕食を食べてね。ご馳走するから。それから、恋愛関係の相談にも乗るわ。わたし、そういうの得意なのよ」
いとこはうれしそうに微笑みながら、一つ一つわたしのお願いにうなずいた。
こうしていとこは、今度は一人で学生寮に向かうことになった。こんなささやかな別れが、なぜかわたしの胸に重く響いた。セーターをはおり、ボストンバッグを右手に提げた彼は、明るい光の中をはるかな遠い一点に吸い込まれていった。彼の背中が消える時、わたしは息苦しいほどに心細くなり、まばたきもせずにずっと遠くを見続けていた。しかし、その一点は雪の粒のようにもろく溶けてしまった。
いとこがいなくなると、やはりわたしの生活は元に戻ってしまった。ベッドのまどろみと、簡単な食事と、パッチワークの毎日だ。わたしは裁縫箱から作りかけのパッチワークを取り出し、アイロンで皺を伸ばす。ギンガムチェックやペーズリー柄、紫や黄の布を、どこまでもつなげてゆく。待ち針でとめた合わせめを、丁寧に縫い付けてゆく。わたしはあまりにもつなげることだけに熱中しすぎて、時々何を作っているのか分らなくなることがある。そんな時は型紙を広げ、「何だ、ベッドカバーじゃないの」とか「壁飾りだったわ」とつぶやきながら、ほっとしてまた布きれをつなげてゆく。
針をつまんだ自分の指を見ていると、先生の美しい右足のことを思い出す。どこかになくしてしまった幻の手の指や、花壇のチューリップや、天井のしみや、いとこのめがねのフレームを思い出す。先生と学生寮といとこが、三つぐるぐるとつながっている。
入学式がすんでしばらくしてから、わたしは学生寮にいとこの様子を見に行った。桜の花びらが小さな蝶のように地面に舞い降り始めた、天気のよい一日だった。
ところが、いとこはまだ学校から帰っていなかった。仕方なく先生の部屋でしばらく待たせてもらうことにした。わたしたちは縁側に腰掛け、おみやげに持っていった苺のショートケーキを一緒に食べた。
新学期が始まったというのに、寮の静けさは相変わらずだった。寮の奥の方で誰かの歩く気配が微かにしたと思うと、すぐに風の音に紛れてしまった。わたしがいた頃にはいつも、どこかでラジオカセットの音楽や笑い声やバイクのエンジン音が響いていたのに、今はそういう生気に満ちた音がすっかり掃き清められたようになっていた。
花壇にはオレンジ色のチューリップに変わって、えんじ色のチューリップが一列咲いていた。蜜蜂が一匹、コップ型の花びらの中を見え隠れしていた。
「彼は元気ですか」
わたしは縁側に並んだ苺のショートケーキに目を落としながら尋ねた。
「はい。とても元気です。毎日、自転車の後ろに教科書をくくり付けて、颯爽と学校に通っています」
先生は答えた。それから足の指にフォークをはさみ、クリームとスポンジを一口分すくい上げた。
先生の右足にはデザート用のフォークがよく似合っていた。足首の曲線や指の繊細な動きや爪の光沢が、フォークの銀色とうまく溶け合っていた。
「ハンドボール部に入ったと言っていました。なかなか有望な選手だそうですね」
「いいえ、それほどでもありません。高校時代、県で二位か三位になった程度らしいですから」
「いや、彼はスポーツをするのにふさわしい、すばらしい身体つきをしています。彼ほど印象的な身体つきをした人は、滅多にいません。わたしには分るんです」
そう言って先生は、右足の指の先で震えているケーキを口に入れ、大事そうにゆっくり顎を動かしながら飲み込んだ。
「わたしは誰かと初めて会う時、その人の身なりや人柄には全然神経が行き届かないのです。わたしがただ一つ興味を持つのは、器官としての身体です。あくまでも、器官としての」
先生は喋りながら二匙めのケーキをすくい上げた。
「上腕二頭筋の左右のバランスが崩れている、薬指の第二関節に突き指したあとが残っている、くるぶしの形がいびつだ、すぐにそういう特徴をつかんでしまうのです。早業です。人を思い出す時、浮かんでくるのは手、足、首、肩、胸、腰、筋肉、骨などで構成された身体です。顔はありません。特に若い人の身体には詳しいです。こういう仕事ですから。でもだからといって、それをどうにかしたいと思うわけじゃないんです。ただ、医学辞典を眺めるようなものなんです。おかしいですね」
わたしはうなずくことも首を横に振ることもできず、ただじっと銀色のフォークを見ていた。先生は二口めのケーキを飲み込んだ。
「自分の両手と左足を知りませんから、二本ずつの手と足がどんなふうに作用し合って動くのか、その感覚が分りません。だから他人の身体に興味を持ってしまうのです」
縁側の下に降ろした義足が、ほんの少しのぞいて見えた。それは鈍い色の真直ぐな金属で、先には足袋をつけ、着物の奥にひっそりとひかえていた。先生はおいしそうにケーキを食べた。一口一口、フォークの先や唇についたクリームもきれいになめた。薄暗い場所へしまい込まれた古い義足と、ふわふわにとろけそうな苺のショートケーキとが、頭の中で交互に点いたり消えたりした。
「ですから、彼の身体のすばらしさについては保証できます。白い革のボールをつかむたくましい指、ジャンプシュートする時のしなった背骨、相手を邪魔する長い腕、ロングパスする肩甲骨の強靭さ、体育館の床に飛び散る汗……」
先生はいとこの身体について、いくらでも言葉が浮かんでくるようだった。クリームの甘さがまだ残っている唇から、背骨や肩甲骨という言葉がこぼれてくるのを、わたしは不思議な気持ちで聞いた。わたしはいとこの肩甲骨についてなど、考えたことがなかった。先生はこの淋しげな寮の一室で、顎と鎖骨と右足を操りながら、若い学生の完全な器官としての身体について思いを巡らせているのだろうか。それはきっと切ない作業に違いない、とわたしは思った。
庭の緑に陽射しが降り注ぎ、くっきりと光っていた。ゆるやかな風が吹いていた。さっきチューリップの中を飛んでいた蜜蜂が、わたしたちの間を通り抜け部屋の中に紛れ込み、天井のしみの真ん中に止まった。それはこの前見た時より一回り大きくなっているようだった。何種類もの絵の具を混ぜたような暗い色が、天井を丸く染めていた。鼓動を小刻みに震わせる羽が、しみの中に透明に浮き出ていた。
先生は最後に残していたショートケーキのてっぺんの苺を、ぱくりと飲み込んだ。
いとこはまだ帰ってきそうになかった。自転車の音がしないか耳を澄ましたが、蜜蜂の羽の音しか聞こえなかった。
「こほん、こほん、こほん」
先生が咳をした。つぶやくような小さな咳だった。
結局その日、いとこには会えなかった。大学で何か大事な用事ができ、帰りが遅くなると寮に電話があったのだった。
そのつぎ学生寮に行ったのは、十日くらいたってからだった。今度のおみやげは、アップルパイにした。なのにまた、わたしはそれをいとこに手渡すことができなかった。
「大学からの帰り、電車の事故で途中の駅に足止めされているそうです。たった今、電話がありました」
竹ぼうきで庭を掃除していた先生が教えてくれた。
「どんな事故ですか」
「飛び込み自殺です」
「そうですか……」
わたしはアップルパイの白い箱を胸の前で抱え、不運な偶然が二度続いたことにため息をついた。そして熟れすぎたトマトのようにつぶれてしまった筋肉や、砂利の間にはりついた髪の毛や、枕木の上に転がっている骨のかけらを思い浮かべた。
春の柔らかさが風景をすべて包んでいた。庭の隅に押しやられている壊れた自転車でさえ、穏やかな風に吹かれていた。アップルパイの箱は、ほんのり温かくなっていた。
「せっかくですから、ゆっくりしていって下さい」
「ありがとうございます」
わたしは頭を下げた。
庭はたいして汚れていなかったが、先生は一心にほうきを動かしていた。同じ所を何度も掃いて丁寧にごみを集めていた。彼は頭を深く垂れ、首と肩の間に竹ぼうきをはさむので、掃除している時は大事な何かを思い悩んでいるように見える。
竹が地面とこすれる音が、穏やかに繰り返し聞こえた。いとこの部屋を見上げると、ベランダにハンドボールシューズが一足干してあった。
「静かですね」
わたしは声を掛けた。
「はい」
竹ぼうきの音は続いていた。
「今、全部で寮生は何人ですか」
「とても、とても少ないのです」
先生は慎重に答えた。
「今年はいとこ以外に、何人新入生が入ってきたんですか」
「彼一人です」
「まあ、空室が多いと寮は淋しいですよね。わたしはここにいた頃、一度お正月に帰省しなかったことがあって、その時は怖くて眠れませんでした」
「………」
「どこかに寮生募集の広告は出していないのですか」
「………」
しばらく、沈黙があった。郵便配達のバイクが、前の道を素通りしていった。
「噂のためなのです」
不意に先生が言った。
「噂?」
わたしは驚いて繰り返した。
「そうです。ある噂のために寮生が減ってしまったのです」
物語を聞かせるように、先生は話しはじめた。
「二月に、一人の寮生が突然消えてしまいました。消える、という言葉がぴったりです。空気に吸い込まれるように、音もなくいなくなってしまったのです。脳味噌も心臓も言葉も手足も立派にある一個の人間が、こんなにも簡単に消えてしまえるものだろうかと、不思議でなりませんでした。蒸発するような心当たりは何もありませんでした。数学科の一年生で、トップ一パーセントに支給される奨学金を受けていました。友達も多く、時にはガールフレンドとデートもしていました。お父さんは地方大学の教授で、お母さんは童話作家、歳の離れたかわいい妹さんがいました。欠点のない環境です。でもそんなことは、蒸発する理由とは何の関係もないのかもしれません」
「何か手がかりはなかったのですか。伝言とか、置き手紙とか」
先生は首を横に振った。
「そのあたりのことは警察が詳しく調べました。何か事件に巻き込まれている可能性もあるということで。しかし、それらしい事実は何も出てきません。彼は数学の教科書とノート一冊だけを持って、消えたのです」
その時、肩に立て掛けていたほうきがぱたんと倒れた。先生はそんなことには構わず話を続けた。
「わたしも警察に呼ばれて調べを受けました。疑われたのです。彼が行方不明になる前後五日間の生活について聞かれました。彼と交わした会話の一言一言、読んだ本のぺージ数とあらすじ、掛かってきた電話の相手と用件、食事のメニュー、トイレの回数、もう徹底的です。そういう事柄を一つ一つ文章にし、書き写し、推敲し、読み直すのです。海岸の砂を一粒一粒選り分けていくようなものです。五日間の生活を調べ上げるには三倍の時間がかかりました。もうくたくたです。義足の付け根が膿んでじくじく痛みました。しかしそんなことをしても、何の役にも立ちませんでした。彼はどこからも現われません」
「先生が疑われるって、どういうことなんでしょう。先生が彼に何をしたというのでしょうか」
「分りません。とにかく、どうにかしたんだと思ったのでしょう。世間の人はわたしが警察に呼ばれたというだけで大騒ぎです。といっても、わたしの目の前でわーわー騒いだわけではありませんが。もっと陰湿に、もっと残酷に噂は広まったのです。そのせいでほとんどの寮生が出ていきました」
「ひどい話ですね」
「噂とは理不尽なものなのです。それにしても、わたしのあの膨大な日常生活の記録簿はどこへいってしまったのでしょう。それを考えると空しくなります」
先生は目をつぶり二、三回咳をした。それから「失礼」と断わって、また何度か咳をした。それはなかなかおさまらず、だんだん重く胸に響くようになった。彼は腰を折り、地面に向かって苦しそうに息を吐き出した。
「大丈夫ですか」
わたしは先生に近寄り、背中に掌を当てた。その時、彼の身体に触れるのはこれが初めてだ、と気づいた。着物の感触は厚くざらざらしていたが、その下にある背中は壊れそうなほどもろかった。咳をするたびに掌がじん、じんと震えた。
「お部屋で休まれたほうがいいですよ」
わたしは肩に手を回した。腕のない肩は、やはり淋しげにほっそりとしていた。
「ありがとう。最近、こんなふうに咳が出て、胸が苦しくなることがあるんです」
先生はわたしの中で身体を硬くしていた。わたしたちはその姿勢のまま、しばらくじっとしていた。蜜蜂が足元を飛んでいた。時々思い出したようにふわりと舞い上がり、こわごわ近寄ってきては、すぐにまた離れていった。
光が庭のあちこちで弾けていた。くすんだ寮の外観のなかで、窓ガラスだけは陽射しを受けキラキラときれいに見えた。(あのきらめきの向こう側にいた誰かは行方不明になり、わたしはここで先生の背中を撫で、いとこはどこかの駅で飛び込み自殺に巻き込まれている)これらの事柄を、わたしは胸の中で並べてみた。何の脈絡もないこの三つが、ガラスのきらめきに紛れ一つに溶け合っているように思えた。
少し呼吸が楽になったところで先生が、
「もしご迷惑でなかったら、彼の部屋を一緒に見てもらえないでしょうか」
と言った。わたしはその不思議な申し出に、どう答えていいか戸惑った。
「時々、彼の部屋を観察しているのです。何か新しい手がかりはないかと思って。あなたのような初めての方に見ていただけると、思いがけない発見があるかもしれません」
まだ少し、息が苦しそうだった。わたしは大きくうなずいた。
しかしその部屋で、わたしは何の発見もしてあげることはできなかった。
机と椅子、ベッド、洋服ダンスがあるありふれた部屋だった。きちんと片付いているというわけでもなく、乱雑に汚れているというほどでもなかった。人がここで暮らしていたという跡が、さり気なく残っていた。ベッドのシーツには皺があり、椅子の背にはセーターが脱ぎ捨ててあり、机の上には数字や記号が並んだノートが開いて置いてあった。勉強の途中でちょっと席を立ち、近所にジュースを買いに行ったという感じだった。
本箱には数学の専門書や推理小説や旅のガイドブックが混じり合って並んでいた。壁に掛かったカレンダーは二月のままで、所々書き込みがしてあった。倫理学レポート締切、ゼミコンパ、家庭教師、そして十四日から二十三日までは矢印が引っ張ってあってスキー。
「いかがですか」
先生が部屋を見回しながら聞いた。
「ごめんなさい。わたしに分るのは、彼が健全な学生だったということだけです」
わたしはうつむいて答えた。
「そうですか。気になさらないで下さい」
先生は言った。
わたしたちはかなり長い時間何も喋らず、ただじっと部屋の真ん中に立っていた。そうしているといつかは彼の身体がどこかから浮き出してくると、信じ合っているかのようだった。
「彼が消えたのは、スキーに出発する前の日、十三日でした」
最初に先生が口を開いた。
「このスキー旅行をとても楽しみにしていました。スキーを始めたばかりで、ちょうど急速におもしろくなってきたところだったのでしょう。わたしもスキーが好きだと言ったら、左足にはどんな靴をはくのか、ストックはどうやって持つのか、興味深そうに聞いていました。彼はそういう点、底無しに純真で無邪気だったのです」
わたしはカレンダーの十三日のところを、人指し指で撫でてみた。ざらりとして、冷ややかだった。本箱の横にカバーで包んだスキーの板が立てかけてあった。ボストンバッグのポケットからは、夜行バスの切符がのぞいていた。
「彼の特徴は左指にありました」
ここに残っている彼の面影を引き止めようとするような、深い瞳で先生は言った。
「左指、ですか」
「はい。彼は左利きでした。何でも左手でやってしまいました。髪をとくのも、眠い時目をこするのも、電話のダイヤルを回すのも、すべてです。彼はよくこの部屋にわたしを招待してくれ、おいしいコーヒーをいれてくれました。彼はコーヒーをいれるのが上手なのです。そしてこの机に向かい、並んで腰掛けました」
先生はそう言って、机の前の回転椅子に腰掛けた。義足が鈍い音できしんだ。
「ここで彼が数学の問題を解いて見せてくれるのです。専門的でただ難しいだけの問題ではありません。あんな大きな富士山がどうしてこんな小さな目の中に映って見えるのか、お寺の釣鐘を小指一本で動かすにはどうしたらいいか、そんな日常的で興味深い問題です。わたしにはそれがどうして数学で解けるのかさえ分りませんでした」
わたしは先生の背中で相づちをうった。
「『まず、こんなふうに考えれば簡単なんですよ』というのが彼の口癖でした。わたしがどんな初歩的でばかばかしい質問をしても、彼は決していらいらしたりせず、かえってうれしそうに答えてくれるのです。よく尖ったHの鉛筆を左指で握り、『ここはこうなりますから、この公式を使うんです』と説明を加えながら、次々いろいろな数字や記号を書き連ねていきました。丁寧でまるみのある読みやすい字でした。そして最後には奇跡のように簡潔な答えが、ぱっと出てくるのです。彼はそこにアンダーラインを二本引き、『ね、おもしろいでしょ』という優しい目でわたしを見ました」
先生は一度深呼吸し、息を落ち着けてから続けた。
「左指で鉛筆を持った彼の姿は、数字を書いているというより、紡ぎだしているという感じでした。彼のその美しい左指から生まれてくる∞や∴や∂の記号を、わたしは繊細な工芸品のように見つめました。見慣れているはずの数字でさえ、特別大事なものに思えました。わたしはコーヒーを飲み、彼の説明に耳を傾け、美しい左指を眺めなければなりません。忙しく、幸せでした。決して男らしい手というわけではありません。指は長くしなやかで、肌は白く不透明でした。何度も品種改良され、温室で大切に育てられた植物のようでした。指のいろいろな部分に表情があるのです。薬指の爪が微笑んだり、親指の関節が目を伏せたり、分ってもらえるでしょうか」
先生の声があまりにもひたむきだったので、わたしは「はい」と返事をした。
わたしはもう一度、彼に取り残された物たちを見回した。植物のような彼の指が、つまんだり撫でたり握ったりしただろう、鉛筆削りやクリップやコンパスを眺めた。机の上のノートは、よく使いこまれた感じのいい品物だった。(シーツの皺がのばされることも、セーターが引き出しにしまわれることも、数学の問題が最後まで解かれることも、もうないのだろうか)わたしは思った。
先生はまた咳をしはじめた。机にうつぶし泣いているような、哀しい咳だった。いつまでも先生の咳は彼の部屋に響いていた。
次の日わたしは、彼の行方不明事件について調べるため図書館へ行った。公園の片隅にあって、子供たちが絵本や紙芝居を借りにくるようなこぢんまりした図書館だ。
そこで二月十四日からの新聞を全部出してもらい、地方版の小さな記事を一つ一つチェックしていった。新聞は積み重ねるとかなり高くて重い山になった。
さまざまな事件があった。浴室のペンキを塗り替えていた主婦が中毒死し、小学生が粗大ごみ置場の冷蔵庫に閉じ込められ、六十七歳の結婚詐欺師が逮捕され、笑い茸を食べたお婆さんが病院へ運ばれた。わたしの知らないところで、世界は複雑に動いているようだった。どんな残酷な事件を読んでも、わたしにはさらりとしたお伽話のようにしか思えなかった。今大切なのは、彼の左指なのだ。
なかなか新聞の山は減らなかった。そしてどこまでいっても彼の左指は現われなかった。手がインクで黒くなり、目がちかちかしてきた。中毒や窒息や詐欺がいくつも湧き出してきては、彼の左指とどうしても交わらない座標を通り過ぎていった。窓から差し込む光の濃さで、日が傾いてゆくのが分った。
どれくらい時間がたったのか、頭が混乱しはじめた時、鍵束を持った誰かがわたしの前に立っていた。
「あの、そろそろ閉館時間なのですが」
彼は申し訳なさそうに言った。
「ごめんなさい」
わたしはあわてて新聞をきれいに重ね直し、返却した。外は真っ暗だった。
家に帰ってみると、夫から手紙が届いていた。黄色い派手な封筒や、白人女性が印刷された切手や、スタンプのアルファベットで、それが遠いところから運ばれてきたのが分った。手紙はポストの底にひっそり横たわっていた。
長い手紙だった。彼が赴任したスウェーデンの海辺の小さな街と、二人で暮らす大きな家について、詳しく写実的に書いてあった。土曜の朝市で新鮮な野菜が手に入ること、駅前のパン屋はすばらしくおいしいこと、ベッドルームから見える海はいつも荒れていること、庭にりすが遊びにくること。そんなのどかな内容だ。そして最後のページには、わたしが出発までにしておかなければならない事柄が、箇条書きにしてあった。
・パスポートの更新
・引っ越し業者への見積もりの依頼
・郵便局へ転居届け
・部長宅へご挨拶
・毎日ジョギング(身体を緞えておいて下さい。こちらは寒くてじめじめしています)
わたしは繰り返し何度も手紙を読んだ。途中までいっては引き返し、おなじ行を十回読み、最後がきたらまた元に戻った。しかしその内容をうまく理解することはできなかった。朝市、りす、パスポート、引っ越しなどという言葉が、難解な哲学用語のように思えた。わたしにとって彼のノートに書かれた数式の方が、ずっとリアルだった。あのノートにはコーヒーの湯気や、彼の左指や、それを見つめる先生の瞳が映し出されているのだった。
黄色い封筒に包まれたスウェーデンと、学生寮の一室で哀しい咳を響かせている先生と、どうしようもなく取り合わせの悪い二つの事柄が、同時にふりかかっていた。仕方なくわたしは、エアメールを引き出しの奥にしまった。
十日くらいして、先生のお見舞いに行った。今度はおみやげにカスタードプリンを買った。いとこはハンドボールの合宿で、どこかの高原へ出掛けていた。
久しぶりに雨が降っていた。先生はベッドに横になっていたが、わたしが枕元の椅子に腰掛けると、慎重に上半身を起こした。わたしはプリンの箱をサイドテーブルの上に置いた。
ベッドの中の先生はよけいにか細く見えた。いつもなら気にならない、両手と片足があるべきところのすっとした空洞が、重い欠落感を呼び起こした。その空間がいつまでもわたしの視線を離さなかった。ないものを見続けていると、目の奥がじんと痛んだ。
「いかがですか」
「まあ、なんとかですね」
わたしたちは微笑み合った。先生の笑いは弱々しく、すぐに消えた。
「病院へは行かれましたか」
わたしが尋ねると、彼は黙って首を横に振った。
「もしお節介だったらごめんなさい。でも、ちゃんと病院へ行ったほうがいいと思うんです。とっても苦しそうだったから」
「お節介なんてこと絶対にありません」
先生は何度も首を横に振った。
「わたしの友だちのご主人が、大学病院の先生なんです。その人は皮膚科ですけど、ちゃんと専門の先生を紹介してもらいますから。もちろん、わたしもお供します」
「ありがとう。あなたにそんなに心配してもらって、うれしいです。でも、大丈夫ですから。わたしは自分の身体のことは、普通の人の何倍も正確につかめるんです。前にも言ったでしょ。器官としての身体については詳しいって」
「本当に大丈夫なんですね。すぐに治るんですね」
わたしは念を押した。
「その反対です。もう治らないのです」
先生があまりにもさらりと残酷な言葉を口にしたので、わたしは最初その意味がよく分らなかった。
「どんどん、悪くなってゆくだけです。癌や筋ジストロフィーと同じで、止めようがないんです。いや、わたしの場合もっと単純かもしれない。長い間こんな不自然な身体で生活してきましたから、いろいろな部分に無理がたまっているんです。みかん箱の中のたった一個の腐ったみかんが、周りの元気なみかんを全部腐らせてしまうようなものですね。決定的なのは、肋骨の変形です。重要な何本かの肋骨が妙な具合いに内側に湾曲して、肺や心臓を圧迫しているのです」
先生は胸の奥に潜んでいる発作の火元をなだめるように、ゆるやかな口調で話した。わたしは何も言葉が見つけられず、仕方なく窓ガラスを流れるしずくを目で追っていた。
「一度だけ病院へ行きました。寮の卒業生に整形外科の医者がいるんです。そこでレントゲン写真を見せてもらいました。あなたはご自分の胸の写真を見たことがありますか。普通なら肋骨は、定規で測ったみたいな精密さで左右対称にふっくらと広がっています。その中に肺と心臓が、心地よく納まっているのです。ところがわたしの肋骨は、それはもういたわしいものでした。落雷にあった巨木の枝のように、ねじ曲げられていました。そのうえ、心臓に近いところの肋骨に限って余計無残に変形していたのです。ほとんど心臓を串刺しにしてしまいそうでした。わたしのかわいそうな肺と心臓は、怯えて震える小動物のように、狭苦しい場所に押し込められていました」
先生は呼吸を整えるために、一度深く息を吸い込んだ。喉がかすれた音で鳴った。彼が黙ってしまうと、静けさが二人の間に舞い降りてきた。わたしは窓ガラスのしずくを、一粒一粒数えていった。それは次から次へと休みなくこぼれ落ちてきた。
「肋骨の変形を食い止めることは、できないんでしょうか」
五十まで数えた時、わたしは窓から目を離してそう聞いた。
「もう、手遅れでしょうね」
先生はためらわずに答えた。
「上を向いたままでずっと寝たきりでいれば、少しはましかもしれません。でもその程度のことです」
「手術は?」
「いくら手術しても、なくしてしまった腕と足は戻ってきませんから。顎と鎖骨と右足で生きている限り、また肋骨は変形してくるでしょう」
「どうにか、ならないんでしょうか」
わたしは一語一語かみしめるように言った。答えるかわりに先生はまつげをか細く震わせながら、ゆっくりまばたきをした。
雨は単調に降り続いていた。時々、止んでしまったのかしら、と錯覚するほどひそやかな降り方だった。でも目を凝らすと、やはり雨は降っていた。
花壇には薄紫色のチューリップが咲いていた。見るたびに違う色のチューリップが、一列ずつ順番に咲いているのだった。濡れた花びらは、口紅のようにつやつやとしていた。そして花壇の中をいつものように、蜜蜂が飛んでいた。(雨の日にも蜜蜂は飛ぶのだろうか)と、わたしはふと思った。雨にうたれる蜜蜂を、今まで見たことがなかったからだ。しかし、確かにそれは蜜蜂だった。
雨でにじんだ風景の中をそれは自由に飛び回っていた。高く飛んで視界から消えたり低い草の間に隠れたり、ひとときもじっとしていなかったので、全部で何匹いるのか数えることができなかった。ただ一匹一匹の輪郭や色合いや動きは、なぜかくっきりとガラスに映っていた。とろけそうなくらい透明で繊細な羽の模様さえ、見ることができた。
蜜蜂は何度かためらい、そろそろとチューリップに近寄ってゆく。そして決心すると、腹の縞模様をびくんと振動させながら、花びらの先端の一番薄いところに止まる。すると羽が雨のしずくと溶け合って、光っているように見えるのだ。
いつまでもこの静けさの中に浸っていると、蜜蜂の羽音が聞こえてきそうな気がした。最初は雨に包まれぼやけていたその音が、蜂に目を凝らしているうちに段々鮮やかな輪郭を持ちはじめ、耳に入り込んできた。そのままじっとしていると、羽音はしなやかな液体のように耳の奥の小さな管にまで染みとおっていくのだった。
不意に、換気用の窓のすきまから蜂が一匹迷い込んできた。それは真直ぐ天井伝いに飛び、片隅の丸いしみの上に止まった。しみは前よりまた大きく濃くなっていた。すっきりと白い天井の上で、それはもう無視できないくらいに成長していた。雨に濡れた蜂はしっとりとその真ん中にはりついていた。
『一体あれは、何のしみなんでしょう』
わたしがそう尋ねようとした時、
「一つ、お願いがあるのですが」
と、先に先生が口を開いた。羽音が遠ざかっていった。
「何でもおっしゃって下さい」
わたしは両手をベッドの上、ちょうど彼の幻の右手があるあたりにのせた。
「薬を飲むのを手伝っていただけませんか」
「はい、もちろん」
わたしはサイドテーブルの引き出しから粉薬を一袋取り出し、水差しの水をコップについだ。こまごまとした日用品は、ベッドの上から扱うのに都合のいい場所へ微妙に移動していた。電話が戸口から枕元へ、ティッシュペーパーがテレビの上から足元へ、お茶のセットが台所からサイドテーブルへ、という具合に。そういう何気ない移動が先生にとっては重大な変化、つまりどんどん心臓を締めつけてゆく肋骨の湾曲、を意味するのだった。水差しからこぼれ落ちてゆくひとすじの水を見つめながら、わたしはその事実に気づき、どうしようもなく胸が凍えて震えた。
「この薬が、効くといいですね」
わたしは自分の気持ちを鎮めるように言った。
「薬といってもただの気休めなんです。筋肉をリラックスさせて、神経を落ち着けるための薬ですから」
先生は表情を変えなかった。
「どうにか、ならないんでしょうか」
わたしはもう一度繰り返した。しばらく考えてから、先生は言った。
「前にもお話ししましたが、学生寮は果てしもなく絶対的な地点に向かって変性しているのです。今はその途中です。変性にはしばらくの時間が必要なのです。スイッチを切り換えるような訳にはいきません。学生寮の空気はどんどんゆがんでいます。あなたにはきっと感じ取れないでしょう。そのゆがみに飲み込まれた人間だけにしか分らないのです。自分がどこに向かっているのか。気付いた時にはもう、どうしようもない所まで来ています。あともどりは、できません」
話し終えると先生は、控えめにそっと口を開けた。小さな口だった。男の人の口はもっとがっしりたくましいものだと思っていたが、それは唇も舌も歯もすべてがこぢんまりしていた。軟らかい唇の内側に、粒のそろった種子のように歯が一列並び、舌は喉の入り口あたりで縮こまっていた。
わたしは口の中に、そろそろと粉薬を落とした。それから先生は顎と鎖骨でコップを受け取り、いつものように完璧に水を飲んだ。その顎と鎖骨の優美な仕草を見つめながら、わたしは先生の痛々しい肋骨について考えた。白く不透明な骨が心臓を突き刺そうとしている、レントゲン写真について考えた。
わたしの胸は凍りついたまま、蜜蜂の羽のようにいつまでも震えていた。
夫からまたエアメールが届いた。
『準備は進んでいますか。返事がないので心配しています』
手紙はそんな心温まる文章で始まり、スウェーデンのスーパー、植物、美術館、道路事情について、前よりももっと詳しく朗らかに説明してあった。そして最後には、前と同じようにわたしへの宿題が箇条書きにしてあった。
・電話、電気、水道、ガス各社への連絡
・国際運転免許証の申請
・税金の精算
・トランクルームの予約
・フリーズドライ、レトルトパックの日本食をできるだけ多種類集めること(こちらの大味で塩辛い食事に僕はそろそろうんざりしはじめています)
前の手紙と合わせ、わたしのやるべき項目は十個に増えた。わたしはそれらを整理するために、一つ一つ声に出して読み上げてみた。しかしそんなことをしても何の役にも立たなかった。それらをどんなふうに並べ換え、どこから手をつけていったらスウェーデンにたどり着けるのか、見当もつかなかった。
わたしは手紙を引き出しにしまい、代わりにパッチワークを取り出した。今のわたしにベッドカバーや壁飾りなど必要ではなかったが、それ以外やるべきことが見当らなかったのだ。
ブルーの格子縞の次が白黒の水玉、その隣が赤の無地で斜め右上に緑の蔓草模様。正方形、長方形、二等辺三角形に直角三角形。どこまでもパッチワークは広がってゆく。静かな夜、一人きりで布切れをつなげていると、どこからともなく蜜蜂の羽音が聞こえてくる。先生の部屋で聞いた羽音の名残りなのか、ただの耳鳴りなのか区別がつかない。しかしそれはどんなにか細く微かでも、それることなく真直ぐ鼓膜を突き抜けてゆく。
羽音は雨に濡れた蜜蜂へ、次にチューリップ、しずくの流れる窓ガラス、天井のしみ、粉薬、そして先生の肋骨へつながってゆく。どうしても、スウェーデンにはたどり着けない。
それから毎日、わたしは違うおみやげを持って学生寮に看病に通った。マドレーヌ、クッキー、ババロア、チョコレート、フルーツヨーグルト、チーズケーキ……。最後には何を持って行ったらいいのか分らなくなった。チューリップが一列ずつ花をつけ、蜜蜂が飛び、天井のしみはじわじわと大きくなっていった。そして先生は見る見る衰えていった。まず買い物に出掛けるのが辛くなり、食事の支度ができなくなった。次の日には一人で食べるのが苦しくなり、水を飲むのさえ大仕事になり、ついには起き上がるのがやっとになってしまった。
看病といっても特別なことをするわけではなかった。時々簡単なスープを作って飲ませてあげたり、背中をさすってあげたりするだけで、あとはじっと枕元の椅子に坐っていた。先生の肋骨がきしみながら少しずつ湾曲してゆくのを、どうしようもできずにただ眺めているしかなかったのだ。
誰かを看病するのも、人間がこんなに急速に衰えてゆくのを見るのも初めてだった。このままいったら最後に先生はどうなってしまうのだろう、と思うと恐かった。肋骨が心臓に突き刺さる瞬間や、冷たくなった先生の身体から義足をはずす時の重さや、学生寮にわたし一人取り残されたあとの深い深い静けさについて考えると、淋しかった。わたしが頼れるのはいとこだけだった。彼が早くハンドボールの合宿から帰ってきますようにとわたしは祈った。
その日は夕方から雨が降りだした。わたしはおみやげに持って行ったパウンドケーキを、先生に食べさせていた。彼はベッドに横になり首まで毛布をかぶったまま、ぼんやり宙を見つめていた。毛布が上下に揺れ、息が苦しそうだった。わたしが人差し指と親指でパウンドケーキをちぎり口に近付けると、彼は小さく口を開けた。そして溶けるのを待つように、噛まないでじっと唇を閉じていた。わたしの指と先生の唇は、微かに触れ合ったかと思うとすぐに離れ、それを何度か繰り返しているうちに一切れのパウンドケーキがなくなった。わたしの人差し指と親指はバターで光っていた。
「どうもありがとうございました。とてもおいしかった」
先生はまだ少し甘さの残っている唇でそう言った。
「どういたしまして」
わたしは微笑んだ。
「人に食べさせてもらうと余計にありがたく、おいしいものですね」
先生は上を向いたままぴくりとも動かなかった。身体がべッドに縫い付けられたようだった。
「また今度、買ってきます」
「そうですね、もし、間に合えば」
最後の一言はほとんど吐息と一緒になっていた。わたしはどう答えることもできず、聞こえないふりをしてただ指先のバターを眺めるだけだった。
しばらくして、雨が降っているのに気づいた。花壇のチューリップが震え、蜜蜂の羽が濡れていた。今日のチューリップは紺色だった。インクの壺をこぼしたような混じり気のない紺だ。
「不思議な色のチューリップですね」
わたしはつぶやいた。
「あれは、行方不明になった彼と一緒に植えたものです」
先生が答えた。
「ある日彼が、袋一杯の球根を持って帰りました。花屋の裏口に捨てられていたくずをただでもらってきたのですから、木の実のように小さな球根です。きっといくつも芽吹かないだろうとわたしは思いました。それがあんなに次々と花を咲かせるなんて……」
先生は瞳だけを窓の向こうに向けた。
「しかし彼は、きっと花が咲くと信じていたようでした。まず中庭の日向《ひなた》に古い机を持ち出して、その上に球根を並べました。きちんと数を数え、色分けし、どんな植え方をしたらうまく余りなしに花壇におさまるか、頭の中で計算したのです。瞬時に、そして正確に。彼はそういう計算が本当に得意なのです。数学科の彼にとっては何でもないことでしょうが、わたしにとっては驚きです。色は何種類もありましたし、それぞれ個数がばらばらなのに、彼が計算すると一個の余りもなく全部花壇に長方形におさまるのですから」
部屋の隅から、ゆっくり夕闇が流れ込んでいた。台所の食卓に置いたパウンドケーキの箱が、薄い闇の中に沈んでいた。先生はまた視線を宙に戻し、わたしが時々差しはさむ相づちや短い言葉になど全く気づいていないかのように、一心に喋り続けた。
「球根にたっぷり日光を吸い込ませたあと、わたしたちはそれを花壇に植えました。長い間ほったらかしにしていた花壇は、土がカチカチに硬くなっていました。彼はじょろで水をまきながら、スコップで土を丁寧にほぐしてくれました。子供が砂遊びに使うような小さなスコップです。寮にはそれしかなかったのです。これらの一連の作業は、もちろん彼の左手によってなされました。土はみるみるふっくらとしてきました」
わたしは相づちを打つのをあきらめ、耳を傾けることだけに専念した。
「それからいよいよ植え付けです。彼は計算した通りの間隔で深さ五センチくらいの穴を掘り、それから左の掌に球根をのせわたしの前に差し出しました。彼は球根とわたしを交互に見つめながら、静かに微笑んでいました。わたしは小さくうなずき、顎の先でそれをつついて落としました。土のついた彼の左手は、Hの鉛筆を握って数字を書き連ねる時と同じように、たまらなく美しいものでした。汗でしっとりした掌に土がかかり、その一粒一粒が陽射しを浴びていました。指にはスコップの把手の跡が残り、そこがにじんだように赤くなっていました。球根は掌の真ん中のくぼみにのっています。そこに顎を近付けてゆく時が、一番胸が痛くなる瞬間です。指紋の模様や、うっすらと透けた血管や、火照《ほて》った皮膚のあたたかみや、彼のにおいが全部いっぺんに胸に迫ってくるのです。わたしはできるだけそんな気持ちを表にださないよう、息をひそめながら顎で球根に触れました。それは、ころん、と落ちてゆきました」
喋り終えると先生はしばらくまばたきせずに一点を見つめ、ため息をついた。そして、
「申し訳ありませんが、少し休ませてもらいます」
と言って、目を閉じた。
夕闇はどんどん広がっていた。ベッドのシーツの白さだけが、わたしたちの間をぼんやり照らしていた。雨は闇も一緒に包み込んで降り続いていた。
先生はすぐに寝息を立てはじめた。あどけないほどに滑らかな、眠りの訪れだった。わたしは壁掛時計やクッション、マガジンラック、ペン立て、そんな部屋中の品物に順番に視線を移しながら、夕闇に目が慣れるのを待った。すべての物が眠りに落ちたように、ひそやかだった。
その静けさの中で、不意に何かが鼓膜を揺らした。蜜蜂だ、とわたしはすぐに分った。それは強くなったり弱くなったりせず、同じ波長で一直線に響いていた。辛抱強く耳の奥に気持ちを集中させていると、羽がこすれ合う時のかすれるような音も確かに聞くことができた。雨の音はそれと交わることのない、ずっと底の方で淀んでいた。今わたしの中で呼吸しているのは、蜜蜂の羽音だけだった。わたしはその平坦で終わりのない音を、学生寮がかもし出す音楽のように聞いた。窓の向こうで、蜜蜂とチューリップは夕闇に紛れていた。
その時、わたしの足元にしずくが一滴落ちてきた。それは目の前をゆっくり落ちていったので、いくら夕暮れでも一粒の大きさや濃度をはっきり感じ取ることができた。わたしは天井を見上げた。丸かったしみがいつの間にかアメーバのようになって、頭の上に広がっていた。すさまじい成長ぶりだった。ただ単に面積が大きくなるだけでなく、立体的にいくらかの厚みを持っていたのだ。しずくはそのしみの真ん中あたりから、ゆっくりしたリズムでこぼれ落ちていた。
「何だろう」
わたしはつぶやいた。雨のようにさらりとした液体ではないことは確かだった。もっと濃く粘りがあった。落ちたあともなかなかカーペットに吸い込まれず、いつまでも毛足の間に溜まっていた。
「先生」
小さな声で呼んでみたが、先生は気づかず眠り続けていた。その間もずっと、羽音は鳴り続けていた。
わたしはこわごわしずくに手をのばしてみた。一個めは中指のほんの少し先をかすめていった。勇気を出してもう少し手をのばすと二個めは掌の中に落ちてきた。
冷たくも温かくもなかった。ただべっとりとした感触だけが残った。わたしはそれをハンカチでぬぐおうか、それとも握りつぶしてしまおうか迷いながら、掌を広げたままじっと硬くなっていた。しずくはぽたり、ぽたりと落ち続けていた。
『一体これは、何なんだろう』
わたしは懸命に考えた。先生は眠りにつき、いとこは合宿にでかけ、数学科の彼は行方不明になっている。わたしは本当に一人きりだった。
『Hの鉛筆で数学の問題を解き、スコップで球根を植える、彼の美しい左指はどこへ行ってしまったのだろう』
ぽたり。
『どうしてあんな、不思議な色のチューリップが咲くのだろう』
ぽたり。
『どうしてわたしはいつも、いとこに会うことができないのだろう』
ぽたり。
しずくと一緒に、いろいろな疑問が落ちてきた。
『どうして先生は、いとこの筋肉や関節や肩甲骨について、あんなに詳しく描写することができるのだろう』
わたしはだんだん胸がつかえてきた。広げたままの掌は痺《しび》れて重くなっていた。行き場のないしずくが、掌の中でうずくまっていた。
「これは、血かもしれない」
わたしは声に出して言ってみた。羽音に邪魔され、うまく自分の声を聞くことができなかった。
『そうだ。この感触は血だわ。わたし、こんなに生々しく血に触れたことなんてあったかしら。今までで一番たくさんの血をみたのは、たぶん目の前で若い女の人が車にひかれた時だ。わたしは十歳で、スケートリンクからの帰りだった。ハイヒールや破れたストッキングやアスファルトに、血が流れ出していた。盛り上がるみたいにどろりと。ちょうどこれと同じだわ』
わたしは先生の名前を呼びながら、彼の身体をゆすった。
「先生、起きて下さい」
毛布に血がついた。スリッパの先に血が落ちてきた。
「先生、起きて下さい。お願いです」
先生の身体は暗い塊になって、ベッドの中で揺れるだけだった。両手と片足のない身体はふわりと軽く、わたしにでも抱き上げることができそうに思えた。数えられないくらい何度も、先生の名前を繰り返した。しかし彼はどうしても手の届かない、遠い眠りの淵をさまよっていた。
『いとこはどこへ行ったんだろう』
わたしは一番大事な疑問を思い出した。めがねのフレームを押さえながら、ため息をつくようにうつむき微笑む彼に、たまらなく会いたかった。早く彼を探さなければ、と強く思った。
わたしは手探りで先生の部屋を出ると、階段を走って上がった。電球は全部切れたままで、学生寮の隅々にまで夜がなだれ込んでいた。掌のべとべとも汚れたスリッパも気にせず、夜を押しやりながら寮の中を走った。胸がどきどきし息が切れたが、それでも耳の奥の羽音は乱れずに響いていた。
いとこの部屋には鍵が掛かっていた。ノブを両手で握り、回したり、押したり、引いたり、考えつくあらゆる方向に動かそうとしたがだめだった。すぐにノブもべとべとになった。
今度は数学科の彼の部屋に走った。そこはあっけないくらい簡単に開いた。前見た時と何一つ変わっていなかった。スキーの板と夜行バスのキップと脱ぎっぱなしのセーターと数学のノートが、彼を待って眠り続けていた。念のために洋服ダンスの中やベッドの下をのぞいてみたが、どうにもならなかった。いとこはいなかった。
『やはりわたしは、あのしずくが落ちてくる天井裏へ、いってみなければいけないのだろうか』
詩の一行を読むような澄んだ意識の中で、わたしは思った。そして今度は一段ずつ慎重に階段を降り、ロビーの靴箱から懐中電灯を取り出して外へ出た。
中庭に回る間に、髪も洋服もすっかり濡れてしまった。細かい雨でも、それは大きなくもの巣のようにわたしに覆いかぶさってきた。冷ややかな雨だった。
わたしは中庭に転がっているビールのケースを集め、先生の部屋の通気孔の下に積み上げた。びしょ濡れで、足元はぐらぐらで、一人きりなのに、不思議と怖くなかった。自分はどこか小さなひずみに紛れ込んでいるのだ、とわたしは思った。それだけのことだ、と自分に言い聞かせた。
通気孔のカバーは錆付いて重かった。手を離すとそれはずっしり地面にめりこみ、はずみでケースが揺れた。わたしは通気孔にしがみついた。雨がまぶたや頬や首に降り注いでいた。空を見上げると、雨しか見えなかった。わたしは滑る指で苦労して懐中電灯のスイッチをオンにし、奥を照らした。
そこにあったのは、蜜蜂の巣だった。
最初にそれを見つけた時、すぐには蜂の巣だと分らなかった。平たい空間の中に唐突に転がっていたし、信じられない大きさだったし、わたしは一度も蜂の巣をじっくり眺めたことなどなかったからだ。それは無防備に増殖した、奇形の果実のようだった。表面には細かいささくれが広がり、ゆるやかな曲線模様が織り込まれていた。あまりにも大きくなりすぎ、自分でも形をまとめることができなくなって、あちこちがひび割れていた。
そのひびの間から、はちみつがこぼれていた。血液のように濃く、静かに、ひたひたと流れていた。
わたしは羽音を聞きながら、その風景を眺めた。湾曲した肋骨を抱え眠りに落ちている先生や、美しい左指とともに消えてしまった彼や、完璧な肩甲骨でシュートを打ち込むいとこのことを思った。学生寮のどこか深い一点に吸い込まれてゆく彼らを、引き止めたいとたまらなく願い、わたしは蜂の巣に手をのばした。はちみつはわたしの手の先のずっと遠いところで、いつまでも流れ続けていた。
夕暮れの給食室と雨のプール
わたしがジュジュと一緒にその家へ引っ越してきたのは、霧に包まれた冬の初めの朝だった。引っ越しといっても、荷物は使い古した洋服ダンスとライティングテーブル、あとはいくつかの段ボールだけで、ごくあっさりしたものだった。
小さなトラックががたがた震えながら霧の中へ消えてゆくのを、わたしは縁側に腰掛けて見送った。ジュジュは新しい家のにおいを確かめるように、軒下やブロック塀や玄関のガラス戸に鼻をこすりつけては小首をかしげ、クウクウと何かつぶやいていた。
霧はゆっくりうねりながら、一つの方向へ流れていた。それは風景をすっぽり包み込んでしまうような息苦しい霧ではなく、透明な清らかさを持っていた。手をのばすと、その薄くてひんやりしたベールの感触を味わうことができそうだった。
わたしは段ボールにもたれ、長い時間霧を見ていた。そうしているとおしまいには、乳白色の水滴の一粒一粒が見えてくるようになった。ジュジュはにおいをかぎまわることに疲れ、足元で丸くなっていた。背中がぞくぞくしてきたので、わたしはもたれていた段ボールのガムテープをはがし、中からカーディガンを引っ張りだしてはおった。小鳥が一羽、まっすぐ霧を突き抜けて、空の高い所へ吸い込まれていった。
最初にこの家を気に入ったのは、彼の方だった。
「ちょっと、古臭くないかしら」
すっかり塗料のはげてしまった雨戸を指先で撫でながら、わたしは言った。
「いや、いくら古くても、この頑丈な雰囲気がなかなかいいよ」
彼は太い柱を見上げて言った。それはつやつやと黒く光っていた。確かに、作りはしっかりしていた。
「ガスレンジや湯沸器も、ひどく時代遅れの型だわ」
わたしはレンジのつまみを二、三度回してみた。カチン、カチンと、乾いた音がした。台所はタイル張りで丁寧に磨き込んであったが、所々かけらがはがれ落ちて壁のセメントがのぞいていた。それがまた、凝った幾何学模様のようにも見えた。
「これはすごい、ドイツ製だ。珍しいですね。外国の、しかもアンティークのガスレンジなんて」
彼は不動産屋の女子事務員に視線を移した。彼女は大きくうなずきながら、
「ええ、その通りです。十年くらい前、ここに下宿していたドイツ人の留学生が残していったものなんです。正真正銘の、ドイツ製です」
と、言った。ドイツというところにだけ、特別力がこもっていた。
「じゃあ心配ない。滅多なことで故障したりしないよ」
彼は微笑んだ。
わたしたちは寝室、浴室、居間と順番に見て歩いた。そして扉の立て付けや、水道管のさび具合いや、コンセントの数などを調べた。大して時間はかからなかった。どの部屋もこぢんまりとして、きれいに掃除が行き届いていた。最後、縁側まで来た時、
「よし、ここに決めよう。ここなら、ジュジュも一緒に暮らせる」
と、彼は窓の向こうの庭を見回して言った。花壇も植木も何の飾り気もない、もの淋しい庭だった。所々ぽつぽつと、クローバーが生えていた。
「そうね。ジュジュと暮らせるのは、何よりね」
わたしが答えると、女子事務員は「恐れ入ります」と言いながら、うれしそうにおじぎをした。
ジュジュが新しい家へ運び入れる一番大切なものだった。他には何一つ、大したものを用意することはできなかった。みんなに反対された結婚なのだから、それは仕方ないことだった。
わたしたちが一度でも結婚という言葉を口にすると、誰もが顔を曇らせしばらく沈黙した。それから、「いや、よく考えた方がいいよ、そういう問題は……」と、遠慮がちにつぶやいた。
理由は単純でありふれていた。まず彼は、一度結婚に失敗している。十年も司法試験に落ち続けている。そのうえ高血圧体質で偏頭痛持ちだ。とにかく二人は歳が離れすぎているうえに、とても貧乏なのだ。
ジュジュがあくびをした。丸めたしっぽの先が、霧のせいで濡れているように見えた。黒と茶色のまだらの毛が、クローバーの上にしっとり横たわっていた。いつの間にか霧はどんどん薄まって、微かに陽射しが舞い降り始めていた。
わたしは無造作に散らばった段ボールに目をやり、何から手を付けたらいいのか考えた。カーテンを取り替えたり、トイレに壁紙を貼ったり、押し入れに防虫シートを敷いたり、この古い家にはいくらでも修繕するところがあった。三週間後、二人だけの結婚式を挙げて彼が引っ越してくるまでに、そういうこまごました仕事をこなしておかなければならなかった。
でも、とにかく今は、霧を見ていたかった。あせる必要はなかった。一人きりで過ごす最後の三週間を、たっぷり大切に味わおうと、わたしは思った。そして一つ長い息を吐き、つまさきでジュジュの首筋をつついた。ジュジュはほんのり暖かかった。
霧の次の日は雨だった。朝目覚めてからずっと、雨は同じ調子で降り続いていた。か細い糸のようなしずくが、いくつもいくつも窓を伝っていた。向かいの家も電信柱もジュジュの犬小屋も、ただじっと静かに雨に濡れていた。流れるしずくより他に、窓の向こう側で動いているものは何もなかった。
段ボールの整理はほとんどはかどらなかった。古い手紙を読み返したり、アルバムを一ページずつ眺めたりしているうちに、いつの間にかお昼になっていた。何か食べようかと思ったが、台所用品も食器も満足にそろっていないので、まともなものは料理できそうになかった。この雨の中、買い物に出掛けるのも面倒だった。そこでお湯を沸かしてインスタントのスープを作り、非常食用の乾パンを齧《かじ》った。ドイツ製のガスレンジは、調子よく点火した。
見慣れない部屋の風景と、ぽそぽそした乾パンの舌触りのせいで、雨の音が余計しんみりと耳の奥にしみ込んできた。彼の声が聞きたかったが、電話がなかった。テレビもラジオもステレオもなかった。仕方なく、玄関に寝そべっているジュジュを抱き上げた。ジュジュはびっくりしたようにからだをくねらせ、はしゃいでしっぽを振った。
午後からは浴室のペンキを塗り替えることにした。他の部屋と同様、浴室もかなりコンパクトな作りになっていた。ホーローの浴槽と、銀色の蛇口と、タオル掛けが一本あるだけだった。余分なスペースはほとんどないのに、なぜか窮屈な感じはしなかった。天井が高いのと、大きめの窓が付いているせいかもしれなかった。
浴室は昔、たぶんドイツ人留学生が住んでいた頃には、ロマンティックなピンク色だったのではないかと思われた。タイルの隅に微かにその名残りが見られた。しかし、長い間湯気と石けんを吸い込んで、その色合いはどうしようもなくくすんでいた。
わたしは古着に着替え、さらにレインコートを着込んでゴム手袋をつけた。換気扇を回し、窓を一杯に開けた。相変わらず雨は降り続いていた。
ペンキは思ったよりもずっときれいに壁になじんだ。浴室はどんどん鮮やかに光り始めた。時々雨が吹き込んできて、塗ったばかりのペンキの上で水滴が弾けた。むらにならないよう気をつけながら、わたしはただひたすら刷毛を動かした。
壁の半分ほどを塗り終わった時、不意に玄関のブザーが鳴った。この家のブザーを聞くのは初めてだったので、わたしはひどくびっくりしてしまった。それは動物の悲鳴のように、乱暴に響きわたったのだった。
玄関に立っていたのは、三歳くらいの男の子と父親らしい三十代の男だった。二人はお揃いの透明のレインコートを着て、フードをかぶっていた。彼らのレインコートはびっしょり雨に濡れ、しずくがぽたぽた流れ落ちていた。わたしは飛び散ったペンキでピンク色に染まっている自分のレインコートを、あわてて脱いだ。
「こんな雨の日にお邪魔して、申し訳ありません」
男が用件も名前も告げずいきなりそんなふうに切り出したので、わたしは戸惑った。
「最近、引っ越してこられたのですか」
「ええ、まあ」
わたしはあいまいに答えた。
「このあたりは海が近くて、静かで穏やかで、住みやすいところですね」
寝そべっているジュジュに視線を動かしながら、男は言った。
子供は父親の左手をしっかり握り、おとなしく立っていた。黄色い長靴にもたくさん水滴がついていた。おもちゃのように小さな長靴だった。一瞬、沈黙の時間が流れた。
「あなたは、難儀に苦しんでいらっしゃいませんか」
唐突に男がそう言った時、わたしは彼らがある種の宗教勧誘員であることに気づいた。その手の訪問者はしばしば悪天候の日を選び、しかも幼子を連れてやって来ては、わたしをどぎまぎさせるのだ。
しかし彼らは、わたしが今までに出会った宗教勧誘員たちとは、どことなく雰囲気が違っていた。宗教だけに限らず、どんな種類のセールスマンにも当てはまらない、特殊な空気を漂わせていた。
まず彼らは手ぶらだった。パンフレットも教典もカセットも、傘さえも持っていなかった。お互い片手は握り合い、反対の手はまっすぐ下におろしていた。その飾り気のない姿が、彼らを慎ましく見せていた。
そして二人とも、微笑んでいなかった。勧誘員特有の、自信に満ちた粘っこい微笑みがどこにもなかった。だからといって、不機嫌や無愛想というわけではなかった。ただ、微笑んでいないだけなのだ。
どちらかといえば、哀しげな目をしていた。こちらがじっと見返すと、静かに溶けてしまいそうな視線だった。はかなげでありながら、胸の奥にしみ込んできて無視できない影を残した。
わたしは何とか彼の質問にうまく答えてみようとした。心の中で、なんぎ、という言葉をつぶやいてみた。それは聞き慣れない哲学用語のように、つかみどころがなかった。二人は雨をしたたらせながら、わたしとジュジュを見ていた。
「とても、難しい質問ですね」
わたしは口ごもった。
「ええ、確かに」
男は言った。
「まず、難儀の定義がわたしには分りません。冬の雨も、雨に濡れた長靴も、玄関に寝そべる犬も、難儀といえば難儀ですし……」
「そう。あなたのおっしゃる通りです。何事も定義しようとするとたちどころに、本当の姿を隠してしまうものですね」
男は何度もうなずいたあと、口をつぐんだ。雨の音だけがわたしたちの間を漂っていた。どう取り繕うこともできない、気まずい沈黙だった。今、忙しいから、と言って引き取ってもらうこともできた。実際、わたしはペンキ塗りの途中だったのだ。なのにそうしなかったのは、やはり彼らの特殊な空気のせいかもしれなかった。
「どうしても、お答えしなければならないのでしょうか。あなたとその質問とわたしの間には、何のつながりもないように思えるんです。あなたはそこに立っている。質問は宙を漂ってる。わたしはここにいる。ただそれだけのことで、これ以上変化のしようがないと思うのです。犬の気持ちにお構いなく、雨が降るみたいに」
わたしはうつむき、レインコートのペンキの染みを指でなぞった。
「犬の気持ちにお構いなく、雨は降る」
と、男は小さな声で繰り返した。ジュジュが首をのけぞらせて、あくびをした。
「すばらしく的確なお答えといえるかもしれません。もうこれ以上、お邪魔する必要はありませんね。本当に、申し訳ありませんでした。それでは、失礼します」
男は丁寧におじぎをし、少し遅れて子供もちょこんと頭を下げた。そして二人は、雨の中に消えていった。何のこだわりも執拗さもない、あっさりした引き際だった。わたしは彼らが何のためにここを訪れ、これからどこへ行くのか、考えようとしてすぐにあきらめた。ペンキ塗りのことを思い出したからだ。わたしはレインコートをはおり、玄関の扉を閉めた。彼らの立っていた場所に、水溜まりが二つ残っていた。
台所の壁に調味料棚を取り付けたり、廊下にワックスをかけたり、庭の片隅に花壇を作ったりしているうちに、いつの間にか数日が過ぎた。わたしは家中を動き回って、黙々と作業した。いくらでもすることはあったし、何より結婚式が近いのだから、一人きりでも淋しくはなかった。それでも時々気分転換したくなると、ジュジュを連れて散歩に出掛けた。
わたしたちはあちこち寄り道し、これからの暮らしに必要な銀行の支店や美容院やドラッグストアーを探して歩いた。活気のある街とはいえなかったが、最低限不自由しないだけの店はそろっていた。同じようにのんびり散歩をしている老人と、時々すれ違った。
入り組んだ路地を抜け坂を上がると、日当たりのいい土手が続いていた。風のない昼下がりだった。土手の向こうで、細長い海が水色の空と混じり合っていた。貨物船がいくつか浮かんでいた。ジュジュが走ると、陽射しが弾けて鎖がきらきら光った。すべてのものが静かなぬくもりに包まれていた。
土手を進んでゆくと、海が少しずつ広がって見えてきた。手が届きそうなくらい近くを、かもめが飛びかっていた。赤い郵便収集車がゆっくり通り過ぎていった。
土手の下に小学校があった。鉄筋コンクリート三階建ての校舎と体育館、下駄箱とうさぎの飼育小屋がある、ありふれた小学校だった。ジュジュはふと思いついたように、小学校の裏門を目指し、草の茂った土手を斜めに走り降りた。仕方なくわたしもついて行った。そして、裏門の所に立っている彼らを見つけたのだった。
レインコートをのぞけば、彼らの格好は前と変わっていなかった。荷物は何もなく、手をつなぎ、ただじっと立っていた。わたしの顔など忘れているだろうと思ったのに、男はすぐに気づいた様子で、
「先日はお邪魔しました」
と頭を下げた。相変わらず丁寧なおじぎだった。
「いいえ」
わたしもあわてて会釈した。
ジュジュは興奮気味にわたしたちの間を歩き回っていた。鎖がじゃらじゃら音を立てた。男の子はずっとジュジュを目で追い掛けていた。
「お仕事の途中ですか」
仕事という言葉が適切なのかどうか迷いながら、わたしは言った。
「いいえ。そういうわけでもありません。ちょっとした休憩です」
男は答えた。
雨の日には分らなかったが、彼らはかなりきちんとした上等な服を着ていた。男は深みのあるグリーンのソフトスーツ姿、子供は純毛のセーターに染み一つない真っ白のハイソックス姿だった。昼下がりのあまりぱっとしないこの街では、かなり目を引く格好のように思えた。
「かわいい犬ですね」
「ありがとう」
「名前は何ですか」
「ジュジュです。あなたのお子さんも、とてもかわいいわ」
「ありがとう」
「おいくつですか」
「三歳と二ヵ月です」
それだけ話してしまうと、もう他には何の話題も見つけられなかった。沈黙が風のように流れ込んできた。あとわたしたちの間に残っているのは、難儀という言葉だけだった。彼が再びその言葉を口にする前にここを立ち去ろうと思いながら、なかなかそうできなかったのは、彼の眼差しに宿るはかなげな影が、わたしの中のどこかに引っ掛かっているからだった。
小学校の裏門というのは、さまざまな音の吹き溜まりだった。音楽室からは縦笛とオルガンの合奏、校庭からは駆け足とホイッスル、海からは微かな汽笛、あらゆる音が聞こえてきた。わたしは彼らの足元のあたりに視線を落とし、一つ一つの音に耳を澄ましていた。ジュジュは門柱の脇に気に入った場所を見つけて丸くなった。
「犬にさわってもいい?」
不意に男の子が口を開いた。彼が喋るのをわたしは初めて聞いた。よく響く透き通った声だった。
「いいわよ。ここのところを撫でるとね、とても喜ぶの」
わたしは沈黙が途切れたことにほっとし、首の回りを撫でてみせた。ジュジュは目を閉じ、薄桃色の舌でわたしの頬をなめた。男の子は父親の腕をほどき、尻尾の方から恐る恐る手をのばした。ふっくらと丸い指が、まだら模様の毛の中に半分隠れていた。
「この小学校に、何かご用ですか」
わたしは男に向き直って言った。
「いいえ。ただここから、給食室を眺めていたのです」
彼は給食室という言葉を特別大切なもののようにゆっくり発音し、裏門の向かいにある大きな窓に目をやった。
「給食室、ですか?」
「はい」
彼はうなずいた。
確かに、窓の向こうは給食室だった。昼休みが終わった直後らしく、そこでは食器の洗浄作業が行なわれていた。皿やボウルやスプーンを詰め込んだ巨大な鳥かご様の入れ物が、いくつもベルトコンベヤーに載って流れている。速度は遊園地の回転木馬と同じくらいでゆったりしている。所々プールの消毒シャワー室のようなステーションがあって、鳥かごはそこに到着すると何秒間か停止する。その間、四方のノズルから吹き出してくる液体のしぶきで、鳥かごは霞んで見えなくなる。そしてある瞬間にぱっとシャワーは止み、しずくでつやつや光っている鳥かごはまた動き始める。
「子供がここを気に入りましてね。飽きずにいつまでも眺めていたのです」
「まあ、何がおもしろいのかしら」
「分りません。子供は時折、とてつもないことに心を奪われるものです」
その時初めて、男が微笑んだように思えた。もちろんそれは宗教勧誘員特有の微笑みではなく、もっと素朴なものだった。間違いなく微笑みでありながら、彼の印象的な眼差しのせいで、桜の花びらのようにもろく繊細な表情に見えた。
「この小さくてかわいいおぼっちゃんと給食室が、どんなふうにつながっているというのかしらね」
「我々には想像もできない、奇妙で込み入った回路が存在するのかもしれません」
男はつぶやいた。子供は段々犬に慣れてきて、尻尾を引っ張ったり背中に覆い被さったりしていた。ジュジュは目を閉じたまま、されるままになっていた。
給食室では淡々と洗浄が進んでいた。白い作業着にマスクと頭巾を着けた職員が、何人かベルトコンベヤーの間を行き来していた。ある人はシャワーのノズルの向きを調節し、ある人は終点まできた食器を乾燥機へ運び入れていた。誰もが無口にきびきびと立ち働き、機械や床や窓は清潔に磨き上げられていた。給食室というよりも、性能のいいこぢんまりした工場のようだった。
「やはり、午前中の給食室の方がずっと見応えがありますよ」
男は言った。
「へえ、そういうものですか」
わたしたちは並んで窓にもたれた。
「もちろんです。午前中の作業はもっと複雑で変化に富んでいます。とにかく千人以上の食事を作るわけですから。千個のパン、千匹のえびフライ、千切れのレモン、千本の牛乳……。想像できますか?」
わたしは首を横に振った。
「そんな莫大な量の食料を目の前にしたら、大人でもある種の感慨を覚えますよ」
彼は掌で窓ガラスの曇りを拭った。息がかかりそうなくらい近くに、彼の手があった。長くしなやかな指だった。
「千個のたまねぎ、十キロのバター、五十リットルのサラダオイル、百束のスパゲッティ、それらが見事に処理されてゆきます。すべての工程が計算しつくされているのです。ここには最新鋭の設備が導入されていて、コンピューターのプログラムをえびフライにセットすれば、──どうも二階が制御室になっているようなのですが、──忠実な機械たちはえびフライ用に作動し始めます。えびを背開きにするのも機械です。すごいでしょ」
彼はちらっとわたしに目をやり、再び給食室に視線を戻した。
「美しく形のそろったえびたちは、背中をピンと伸ばした格好でベルトコンベヤーに乗ってきます。ある地点でナイフが下りてきて、背中にまっすぐ突き刺さります。一寸の狂いもありません。ブスッ、ガラガラ、ブスッ、ガラガラ、この繰り返しです。じっと見続けているとめまいがしてくるほどです。そのあと彼らはそれぞれのステーションで小麦粉、卵、パン粉の上を転がることになります。その転がせ方にも無駄がありません。まんべんなく衣が付くよう、計算されています。最後に彼らは油の中へ落ちてゆきます。まるで催眠術にかかったかのように従順に。そして一匹の焦げ過ぎたえびもなく、一匹の半生のえびもなく、すべてが均等なきつね色になる絶妙のタイミングで、一気に引き上げられるのです」
男はゆっくりまばたきをした。相変わらず洗浄作業は続いていた。誰もわたしたちのことを気に止めていなかった。音楽室から今度は、カスタネットとトライアングルの音が聞こえてきた。
「とても分りやすい説明だわ。今わたしの頭の中にも、ベルトコンベヤーで運ばれてきたえびがフライになって、千匹並んでいるところです」
「それはよかった」
彼はそう言って、軽く髪を撫でた。澄んだ海の色を連想させる男性化粧品の香りが、うっすら漂ってきた。
「それにしても、いつまで続くのでしょうか、この作業は」
鳥かごは次から次からいくらでも流れてきた。
「子供たちが下校する頃までですよ」
「あのシャワーから吹き出してくる液体は、水でしょうか」
「最初のシャワーには洗剤が含まれています。あとのシャワーは全部、ゆすぎのための水です。洗い残しがないように、微妙に角度が変えられているんです」
「へえ。何でもご存じなんですね。まるで給食室評論家みたい」
「いや」
彼は照れながら微笑んだ。さっきよりはほんの少し、深い微笑みだった。
「もう一ヵ月近くこの地区を回っていて、毎日一度はここへ来ていますから。子供の機嫌が悪くなったり、さぼりたくなったりした時には。前担当していた地区の小学校には給食室がなかったので、淋しい思いをしました。その点、ここはすばらしい。僕たちが今までに体験した給食室の中で、トップクラスですよ」
わたしは適当な言葉が浮かばず、ただうなずくだけだった。給食室のレベルについてなど、考えたこともなかったからだ。
「いろいろな地区の担当になって、勧誘というか布教というか、そういった種類の活動をしているのですか」
わたしは言葉を選んで慎重に言った。
「ええ、まあそんな感じです」
彼はあいまいに答えた。仕事の話になると急に、口が重くなったようだった。彼には難儀という言葉より、給食室という言葉の方がずっとよくなじんでいるように思えた。
散々ジュジュを撫で回して満足したのか、男の子はわたしたちの間に割り込んできた。セーターの胸の所に、ジュジュの細い毛がからまっていた。その一本一本が陽射しの中で淡く光っていた。
「ねえ、お父さん、明日のメニューは何かなあ」
子供は身体をすり寄せるようにして男の手を握り、言った。
「ハンバーグだよ、きっと」
「どうして?」
「肉をミンチにする、かき氷機のお化けみたいな機械が、倉庫から運び込まれるのを見たんだ。だから間違いないよ」
「へえ。楽しみだね」
子供はその場で二、三回スキップし、男はもう一度、窓の曇りを拭った。ガラスに映る二人の横顔を、わたしは長い時間見つめていた。
少しずついろいろな支度が整っていった。友だちからお祝いのベッドカバーが届き、食器棚に真っ白いお皿が並び、洗濯機の取り付け工事が終わった。それらの品物はじっと静かに目を伏せ、新しい生活が始まるのを待っていた。
フィアンセは日曜日にやって来て、物干し台を作ってくれた。どこかで安く手に入れた角材にちょっとした細工をし、庭に深い穴を掘って二本立てた。やすりをかけてつるつるに磨いた竿をその間に渡すと、立派な物干し台になった。わたしたちは出来栄えに満足し、縁側に腰掛けてしばらくそれを眺めた。
電話を買う余裕がないので、仕方なく連絡には電報を使った。『ツギノドヨウ十ジキョウカイデシキノウチアワセ』や『ジュウミンヒョウノイドウイソゲ』などの大切な連絡の他に、『オヤスミ』と一言だけの電報もあった。それが配達された時、まさに眠ろうとしてベッドに片足を載せたところだったので、わたしは余計に感動した。パジャマ姿で薄暗い玄関に立ち、オヤスミという一行を五十回くらい読んだ。その一文字一文字がわたしの身体の隅々にまでしみ込んできた。眠りを邪魔されたジュジュは薄目を開け、迷惑そうにわたしを見上げていた。
彼らに会って以来、ジュジュと散歩する時は必ず、小学校の裏門が見える土手を通るようにしていた。しかしいつも、裏門のあたりには音楽室や校庭や海からの音が舞うばかりで、人影はなかった。
土手の上から給食室の窓をうかがっても、ほとんど何も見えなかった。そこは湯気とも水煙ともつかない、不透明な気体に包まれていた。一度、ブロイラーのマークの入ったトラックが、裏門に止まっているのを見かけた。ベルトコンベヤーの上で手足を広げ、うつろな目で宙を見つめているブロイラーたちが、計算し尽くされた操作を経て、次々フライドチキンに生まれ変わってゆくさまを思い描きながら、わたしとジュジュは土手を歩いていった。
結局彼らと再会できたのは、えびフライの製造過程について説明を受けてから、十日くらいたった日の夕方だった。
太陽が海をあめ色に染めていた。波も船も灯台も、すべてがその色合いに飲み込まれていた。陽射しのぬくもりはどんどん風に流されていった。土手の草がさわさわと鳴っていた。
彼らは給食室の窓の下に転がっている段ボールに、二人並んで腰掛けていた。子供は毛糸のポンポンがついた暖かそうな帽子をかぶり、足をぶらぶらさせていた。男は頬杖をつき、遠くを見ていた。
最初に二人を見つけたのはジュジュだった。彼は尻尾を振り、足をもつれさせながら転がり下りていった。
「ジュジュだ!」
男の子は空に突き抜けるような鮮やかな声で叫び、段ボールから飛び下りた。帽子のてっぺんでポンポンが揺れていた。
「こんにちは」
わたしも一緒に引っ張られて走ったので息が切れた。
「やあ」
男はいつものあの微笑みを浮かべた。
二人が腰掛けていたのはにんじんの段ボールだった。真っ赤に熟れてみずみずしいにんじんのイラストが、ふたの所に印刷してあった。他にも冷凍いかやプリンやとうもろこしやウスターソースや、いろいろな種類の段ボールが積み重ねてあった。
生徒たちはもうみんな下校したあとで、楽器の音も駆け足の音も聞こえてこなかった。校舎の影がのびる校庭には、静けさが淀んだ水のように満ちていた。うさぎが三匹、飼育小屋の隅にかたまって丸くなっていた。
給食室にも人影はなかった。いつもは曇っているガラスがきれいに透き通り、配膳台のステンレスの光り具合いや、壁に掛けてある白衣の衿のデザインや、ベルトコンベヤーのスイッチの色や、そんなこまごました所まで見えた。
「今日の作業はすっかり終わったみたいですね」
窓から目を離し、わたしは男の隣に腰掛けた。
「はい。ついさっき」
彼は答えた。
わずかに残ったひだまりの中で、ジュジュは鎖を引きずりながら飛び跳ね、男の子は何とか尻尾をつかまえようとしてその周りをぐるぐる回っていた。彼らの向こうで、夕日が海に沈もうとしていた。さびれたヨットハーバーのマストの間を、かもめが休みなく通り抜けていった。
「すみません。子供がジュジュにじゃれてばかりいて」
「いいえ。ジュジュだってあんなに喜んでいるんですから」
「いつ頃から飼っているのですか」
「十年になります。わたしの人生の半分を一緒に過ごした計算です。だから思い出の場面の隅っこには必ず、ジュジュが坐っているのです。写真にプリントされている日付けみたいなもの。ジュジュの大きさや首輪のデザインを思い出せば、自動的に年代も明らかになるというわけです」
「なるほど」
彼はシンプルな型の茶色い革靴で、足元の小石をけった。
それからわたしたちは、しばらく犬について話した。とある山奥の温泉で犬の動物園を発見した話や、昔隣に住んでいたマルチーズが想像妊娠した話だった。彼はわたしにいろいろな質問をし、感心したようにうなずき、時々微笑んだ。
「夕暮れの給食室を見ると、僕はいつも雨のプールを思い浮かべるんです」
犬の話題が一段落し、少し沈黙があってから彼がそう切り出した時、わたしはその言葉の意味を何一つ理解できなかった。それは現代詩の一行のようでもあったし、懐しい童謡の一節のようにも聞こえた。
「雨の、プール、ですか」
わたしは一語一語かみしめながら繰り返した。
「そう。雨のプール。あなたは雨のプールに入ったことがありますか」
「さあ……、入ったことがあるような気もするし、ないような気もします」
「僕は雨のプールのことを考えると、たまらない気持ちになるのです」
雲がばら色のぼかし模様になって、空を染めていた。海から流れてきた夕暮れが、わたしたちの間を漂っていた。彼の横顔がわたしのすぐそばにあった。その輪郭を目でなぞっていると、彼の息遣いや鼓動や体温をじかに感じることができた。彼は小さな咳をし、こめかみのあたりを人差し指で撫でてから話を続けた。
「僕は泳げなかったから、小学校時代のプールの時間がとても辛かった。大人になるための試練を、全部小学校のプールで味わったといってもいいくらいです。まず、恐怖。さらさらしているはずの水がプールという器に入ったとたん、とんでもない威力で身体にのしかかり胸をふさいでしまう。あの恐怖です。それから恥辱。泳げない子は持別製の赤いスイミングキャップをかぶらされる。白地に黒線のごく当たり前のキャップの中に、赤いキャップがぽつんと漂っている。泳げないわけですから、頼りなくうつろにゆらゆらと。僕はできるだけ泳いでいるように見せかけるための努力をしました。誰も僕のことなど気に止めないでほしい、と願いました。そういうひたむきさも、僕がプールから学んだことの一つです」
彼は深く息を吸い込んでから目を閉じた。十分にじゃれ合ったあと、ジュジュは腹ばいになり前足の上に顎をのせ、子供はソファーにもたれるようにジュジュの首に抱きついていた。
「そして雨が降ると、プールの風景はもう救いようがなくなってしまいます。プールサイドに落ちる雨はいつまでたっても乾かず、くすんだ染みになって残っている。プールの表面は一面、雨粒が作り出す水模様のせいで、無数の小魚が餌を欲しがってうごめいているみたいに見える。僕はその中に、そろそろと身体を沈めます。僕の周りを同級生が何人も何人も泳ぎ去っていきます。僕の華奢な肩や背中に、水しぶきと雨が両方混じり合って落ちてきます。その頃僕はかなり貧弱な身体つきをしていました。肋骨や鎖骨はもちろん腰骨や大腿骨でさえ、裸の上からつかめそうでした。海水パンツはお尻のあたりがだらしなく皺になっていました。いくら夏でも、雨が降ると寒いのです。休憩時間になると、洗眼用の水道の後ろで震えていました。身体中の骨ががちがち鳴っているみたいでした。やっとプールの時間が終わってスイミングキャップを脱ぐと、いつも髪の毛がうっすら赤色に染まっていました」
しばらく口をつぐんだあと彼は、段ボールに残っているガムテープの切れ端をびりびり破りながら、
「こんな話、あなたにとってはどうでもいいことですよね」
と言った。
「いいえ」
わたしは正直に答えた。
「だって、雨のプールがまだ夕暮れの給食室にまでたどり着いてないじゃありませんか。ちゃんとそこに到着するまで、責任を持って下さいよ」
わたしたちは顔を見あわせ、小さく声を出して笑った。小屋の中のうさぎが一匹、キャベツの葉を齧りながらこちらを見ていた。
「泳げないことで、いじめられたわけじゃない。そういう記憶は全くない。つまり、僕自身の問題なんです。誰でも一度は、集団の中に自分をうまく溶け込ませるための、ある種の通過儀礼を経験すると思うけど、僕はたまたまそれに手間取ってしまった。そういうことなんですね、きっと」
「何となく、分るような気もします」
わたしは彼の横顔から目を離さずに言った。夕日が彼を柔らかく包んでいた。
「そして、夕暮れの給食室を見ると必ず、あの頃の、通過儀礼に手間取っていた頃の、胸の痛みを思い出すのです。でもこれじゃあ、何の説明にもなっていませんね」
彼はうつむき、もう一つ小石をけった。
給食室の窓はゆるやかにかげり始めていた。ベルトコンベヤーは沈黙の帯のように、しんと静止していた。シャワーのノズルも、隅に積み重ねられた鳥かごも、棚に並んだ鍋の底も、すっきりと乾燥していた。にぎやかな給食を連想させる残飯は、一かけらも落ちていなかった。
その冷ややかなまでに静かな給食室を見つめながらわたしは、更衣室のトタン屋根に落ちる雨の音や、プールの底を死にかけた魚のように漂うか細い足や、赤く染まった髪をバスタオルでくるみ、ひそやかに震えている少年のことを思い描いた。それらの絵は途切れなく、給食室の窓に浮かび上がった。
「同じ頃、もう一つ重要な現象が現われました。ものが食べられなくなったのです」
彼は言った。
「まあ、どうして?」
「たぶん、僕が抱えていたそういうコンプレックスや、臆病な性格や、家族のことや、とにかくいろいろなものが混じり合った結果だと思います。でも直接の原因は、給食室なのです」
「やっとここで給食室に行き当たるわけですね」
「そうです。ある時、昼休み前の給食室をのぞいてしまったのです。どうしてそんな時間に僕がそこにいたのか、授業はどうなっていたのか、思い出せないのですが、とにかく給食の用意で大忙しのそこの裏口に、僕は立っていた。それまで、給食室のことを気に止めたことなどなかったのに……」
わたしは話がどう移り変わってゆくのか見当もつかず、ただじっと耳を傾けた。
「二十五年も前のことだから、給食室といってもこことは全然違っていた。木造で、古くて、暗くて、狭くて。家畜小屋みたいなものでした。今でもはっきり覚えています。メニューはクリームシチューとポテトサラダです。まず僕が衝撃を受けたのは、においです。今まで一度もかいだことのない種類の、濃密で息苦しいにおいでした。ただ単に嫌なにおいというのなら、他にいくらでも種類はあるでしょう。それらと決定的に違うのは、給食室のにおいがこれから自分が口にする食べ物と、結びついていることの不気味さです。大量のクリームシチューとポテトサラダが発するにおいは、給食室の中で合体、発酵、変性していたのです」
わたしは段ボールに深く坐り直した。ジュジュが三角の耳をぴくぴくさせていた。子供は本当に眠ってしまったかのように、じっとジュジュに抱きついていた。
「そして、そこで繰り広げられる風景は、生々しく具体的でありながら、僕の想像力をはるかに上回っているために、かえって幻想的でさえありました。給食のおばさんたちはみんな同じようにでっぷりと太り、ゴムの袖口や長靴から肉が不恰好にはみ出していました。プールに浸けたら、苦もなくぷかぷか浮かびそうな体型でした。そのうちの一人が、シャベルでシチューをかき回していました。道路工事に使う、あの金属製のシャベルです。太ったおばさんが顔を真っ赤に火照らせながら、池のように大きな鍋の縁に片足を掛け、シャベルを動かしていました。白く濁ったシチューの中を、錆ついたシャベルや、筋だらけの肉や、たまねぎやにんじんが見え隠れしていたのです。隣の鍋はサラダです。別のおばさんが鍋の中に入って、じゃがいもを踏みつぶしていました。黒いゴム長靴の底で。彼女が足を踏みしめるたびに、マッシュされたじゃがいもに長靴の底の模様が残りました。それは幾つも幾つも重なり合い、どんどん複雑な模様になっていきました」
彼は一つ咳払いをしてから続けた。
「僕はまばたきさえできず、立ちすくんでいました。その時の気持ちを説明しようと思うのですが、どうしてもうまくいかない。怖いとか嫌だとかいう、ありふれた一言で説明できる場面なら、もうとっくに忘れてしまったはずです。感情がこみ上げてくるよりも前に、生温かい湯気のゆらめきや、シャベルの先から落ちてくるシチューのしずくや、マッシュポテトの中に埋もれてゆく長靴の形や、そんな不可思議な風景が僕の胸をふさいでしまったのです」
「それからですか、ものが食べられなくなったのは?」
わたしは話の筋道を確かめるように、ゆっくりそう尋ねた。彼はうなずいた。
「アルマイトの食器の音が聞こえただけで、給食当番が廊下の向こうから走ってくるだけで、あの風景が一つ一つよみがえってくるのです。たまらない気持ちになりました。僕にとって、給食がプールと同じ意味を持つようになったのです。いくら手足をばたばたさせても、身体が沈んでゆくのと同じように、どんなに給食の一口を飲み込もうとしても、太ったおばさんやシャベルや長靴が邪魔しました。ある朝どうしようもなくなって、ランドセルを背負ったまま学校へは行かずに、街をふらつきました。プールの授業もある日だったので、丁度よかったのです。海水パンツと赤いキャップの入ったビニールバッグを、膝で蹴りながら歩きました。自分では随分長い時間旅をしたような気分でいました。でも実際には、ほんの二時間くらいで祖父に見つかってしまったのです」
「まあ、それじゃあ、給食時間までに連れ戻されてしまったのね」
「いいえ、大丈夫。おじいさんはちっとも怒っていなかったし、学校へ連れ戻そうなんて気は全然なかったみたいだから。彼は昔、腕のいい背広の仕立職人だったのですが、リタイアしたあとはお酒ばかり飲んでトラブルを起こしていたので、家族からは厄介者扱いされていました。けんかしたり、道端で寝ちゃったり、道路標識を壊したりしてね。だからその日も、僕を捜していたというわけじゃなく、ただ朝からお酒を飲んでふらふらしていただけなんです。『こんな所で会うなんて、珍しいな。よし、いい機会だ。今日は、お前に秘密の場所を教えてやろう』なんて言いながら、僕の手を引っ張ってどんどん遠くまで連れて行きました。
僕はおじいさんの、お酒のにおいがこもった息遣いや、アルコールがしみて油紙みたいにがさがさしている手が苦手でした。でもその時には、おじいさんにぴったりくっついて、堅く手を握ってついて行きました。おじいさんはもう片方の手に缶ビールを持ち、時々それを飲みながら歩きました。
街のはずれのさびれた倉庫地帯までたどり着くと、恐ろしく古い鉄筋の廃墟が見えてきました。『あそこだ』と、おじいさんは缶ビールで指し示しました。そこは倒産した工場か何かのようでした。壁や扉や天井の鉄板があちこちはずれていたので、中に入ると、まっすぐに通り抜けてゆく風の動きを感じることができました。見上げると、はさみで切り抜いたような空が、所々に見えました。
床には赤茶けた錆と埃が混じり合い、三センチくらい積もっていました。足を少しでも動かすと、じゃりじゃり音がしました。そして、たくさんのがらくたが落ちていました。六角形と四角形のナット、ぜんまい、乾電池、ラムネの空瓶、セルロイドのカチューシャ、オカリナ、温度計……。あらゆる物が床に埋もれ、ひっそりと眠っていました。
他に、頑丈そうな機械が幾つか並んでいました。それらも同じように錆と埃に包まれていました。安全はすべてに優先する、清潔第一、といった看板も転がっていました。
『ここに坐りなよ』とおじいさんは、スイッチやレバーが並んでいる機械の台座に、僕を坐らせました。それは大きめの印刷機のようでもあり、旧式の脱水機のようでもありましたが、いずれにしても作動する気配などなく、ただの鉄の塊にしかすぎません。僕はレバーの一つに、ビニールバッグを引っ掛けました。
おじいさんは、ビールの残りが少なくなると、時々缶の口から中をのぞき込み、だんだんに飲み込む速さをゆっくりにしていきました。
『ここで昔、何を作ってたか知ってるか?』
おじいさんが喋るたびに、くちびるについたビールの泡が飛び散りました。僕は学校をさぼった理由を聞かれなかったことにほっとし、勢いよく首を横に振りました。
『チョコレートさ』
おじいさんは自慢そうに言いました。
『えっ、チョコレート?』
『そう。あっちの隅にある機械の口に、カカオ豆やミルクや砂糖をぶち込んでぐるぐるかき回すと、チョコレートの液体ができる。それが次の機械に到着する頃には少し冷えて、茶色い水飴みたいになって、最後にここのローラーを出てくると、板チョコのお化けになっているのさ』
おじいさんは僕が坐っている台座を足でつつきました。
『でっかい板チョコだぞ。幅は畳二枚分くらいあって、ローラーが動いてるかぎりどこまでも長く続くんだ。それが全部、チョコレートなのさ』
『本当?』
そんなおとぎ話のようなチョコレートに、僕は胸がわくわくしてきました。
『ああ。うそだと思うんなら、においをかいでみな』
僕は台座の上に立ち上がり、ローラーに顔を近づけてみました。できるだけ本当のにおいがかげるように、うっすら目を閉じました。両手をローラーの上にのせ、じっとしていると、自分が何か大きなものに包まれているような心地よさを感じました。空の向こうで、蝉が鳴いていました。
最初はただ、鉄のにおいがしただけです。潤いのない、くすんだにおい。でもあきらめずにそのまま目を閉じていると、どこか遠い所から、甘く優しいにおいが、夢のようにたちのぼってきたのです。
『どうだ?』
おじいさんが声をかけました。
『うん。本当だ』
僕はもうしばらく、そのざらざらしたローラーにもたれていました。
『チョコレートが食いたくなったら、いつでもここへ来ればいいのさ。このローラーはな、おまえがちょっとやそっとにおいをかいだぐらいじゃびくともしないだけの、とんでもない量の板チョコを作ってきたんだ』
おじいさんはとうとう最後のビールを飲み干し、空缶を床に放り投げました。ガラン、と淋しそうな音がして、それはもう何年も前からそこにあったかのように、がらくたの中に紛れてしまいました。おじいさんにはもう、お酒を買うお金がないんだ、と僕は気づきました。飲みすぎないように、おじいさんはいつもほんの少ししかお金を持たせてもらえないのです。僕はランドセルの中から、今日先生に渡すはずだった、修学旅行の積み立て金が入った封筒を取り出しました。
『これで、お酒を買ってよ』
僕は台座の上から封筒を差し出しました。おじいさんは赤らんだ目元に皺をよせて、うれしそうに、
『ありがとうな』
と、言いました」
長い長い、彼の話が終わった時、夕暮れはもうわたしたちの間に淡い闇を運んでいた。彼の横顔の輪郭は、その闇の奥へ吸い込まれようとしていた。ジュジュにもたれている男の子は影のようにしん、と動かなかった。
何か彼に言葉を掛けたいと、わたしは胸苦しいほどにそう思った。このままいつまでも黙っていると、彼の横顔が本当に消えてなくなってしまいそうな気がした。
「続きのお話は、もうないのですか」
わたしは一つ一つの言葉を、抱き締めるようにして言った。
「ありません」
彼の前髪が微かに震えた。
「でも、そのあと給食とプールの時間は、どうなったのでしょう」
「それを説明するのは、ごく簡単なことです。そのあと僕は、ちょっとしたきっかけで泳げるようになった。そしておじいさんは、悪性腫瘍で死んだ。これで終わりです」
わたしたちはしばらく黙って夕闇を眺めたあと、立ち上がった。ひっそりうずくまっていた時間が急に息を吹き返し、一筋、風が通り過ぎていった。
「さあ、帰ろう」
彼が声を掛けると男の子は目を開き、夢の続きを見ようとするかのように何度もまばたきした。ジュジュが尻尾の先で子供の頬を撫でた。
「またいつか、ここでお会いできるかしら」
わたしはジュジュの鎖を手に取った。
「明日から、新しい地区へ担当が変わります。山沿いの、もっと大きな街です」
彼は走り寄ってきた男の子と手をつないだ。
「この給食室とも、お別れです」
窓ガラスの向こうで給食室は、沼に沈むようにゆっくり、見えなくなろうとしていた。
「新しい街に、またすてきな給食室があるといいですね」
彼はうなずく代わりに微笑み、
「さようなら」
と言った。子供は帽子のポンポンを揺らしながら、ジュジュに手を振った。
「さようなら」
わたしも手を振った。
彼らはわずかに残った光の中を歩いていった。遠くの一点に引き寄せられ見えなくなるまで、わたしとジュジュは二人を見送った。不意にわたしは、オヤスミという電報がもう一度読みたくなった。何の前触れもなく、あの電報の紙の感触や、文字の形や、夜の空気を思い出した。四個のカタカナが全部とろとろに溶けてしまうくらいまで、何度も読みたいとたまらなく思った。わたしは鎖を握り直し、彼らとは反対の方向へ駆け出した。掌の中で、鎖はいつまでも冷たかった。
文庫版のためのあとがき
きのう久しぶりに(三か月ぶりくらい)台所の床下収納庫を開けてみたら、猫が死んでいた。ぎょっとしてのけぞり、どうしたらいいのだろうとしばらく途方にくれていた。しかしそれにしても、どうしてこんなところで猫が死んでいるのだろう。知らないうちに野良猫が入り込んで、そのまま窒息死するか餓死でもしたのだろうか。などと考えながらよく見てみると、それは猫の死骸ではなく、腐った玉ねぎだった。腐ってぶよぶよになった玉ねぎが、丁度猫の頭がい骨に見えたのだ。
わたしが毎日三度三度料理を作り、時には掃除機をかけ、拭き掃除をしていた台所の、その床板一枚の下側では、玉ねぎがひっそりと腐敗していた。大して広い家ではないけれど、ずぼらなわたしのことだから、目に見えないどこかでこれと同じような不気味な変化が進行しているかもしれない。靴箱の奥でカビだらけのパンプスが、ねずみの死体になっているとか、十年くらい使っていないマニキュアが漏れ出して、化粧台の引き出しを血でべっとり汚しているとか……。
相変らず出無精で、取材に出かけたり、資料を探しに図書館へ出向いたりすることもなく、ずっと家に閉じこもっている。書くことがなくなっても、外へ出かけてゆく元気はない。仕方がないので家の中をウロウロする。目に見えているようで、実は見えていない場所がどこかに隠れていないかと、台所の床板をはぐってみたりする。この作品集の中で書いたグレープフルーツのジャムも、学生寮の屋根裏のはちみつも、給食室のえびフライも、みんなそうやって見つけた。
だから『妊娠カレンダー』は自分の経験を書いた作品か? と質問されるたび、がっくりする。わたしの妊娠体験なんて、スーパーで買ってきた新鮮な玉ねぎそのもので、何の書かれるべき要素も含んでいない。その玉ねぎが床下収納庫で人知れず猫の死骸になってゆくところに、初めて小説の真実が存在してくると、わたしは思う。
最後になったが、この作品集がこうして文庫本になるまでには、多くの方々のお力添えが必要であったことを記しておきたいと思う。文藝春秋の担当者の皆様に心より感謝いたします。
一九九三年 夏  倉敷にて
小川洋子
〈お断り〉
本作品を「文春ウェブ文庫」に収録するにあたり、一部の漢字が簡略体で表記されている場合があります。
また、差別的表現と受け取られかねない表現が使用されている場合もありますが、作品の書かれた当時の事情を考慮し、できる限り原文の通りにしてあります。差別的意図がないことをご理解下さいますようお願い申し上げます。
初出誌
「妊娠カレンダー」
文學界 平成二年九月号
「ドミトリイ」
海燕 平成二年十二月号
「夕暮れの給食室と雨のプール」
文學界 平成三年三月号
単行本
平成三年二月 文藝春秋刊