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葬列
小川勝己
目 次
DOG SHIT
CAT SHIT
RAT SHIT
PIG SHIT
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DOG SHIT
道路脇の白いマンション。
それが目に入ったとき、もう九月に入ったというのにあちこちから聞こえていた蝉の声や、すぐ横を行き交う自動車のエンジン音などが、ほんの一瞬だけ、遠のいたような気がした。
自転車を停め、路面にスニーカーの片足を着けた明日美《あすみ》は、サドルに跨《また》がったまま、その十二階建のマンションを見上げた。陽光を背にしている建物――反射的に目を細め、左手を庇《ひさし》のようにかざす。
真っ白なマンションが、ケーキみたいに見えた。子どものときと同じだ。
ベランダに並んでいる色もかたちもさまざまな洗濯物や日光を浴びている布団の類《たぐ》いは、見る人が見れば、無粋で景観をそこなうものに思えるかもしれない。しかし明日美には、それらが白くて大きなケーキに彩りを添えているフルーツのように見えたし、マンションのすぐ横に立っている電柱や電線、そしていま自分がいる歩道とマンションの敷地とを隔てている、ところどころ錆《さび》の浮いた薄いグリーンのフェンス、さらには建物の向こう側に見える青々と茂った木々の枝葉といったものもまた、このケーキの美しさを引き立てる装飾品であるかのように思えた。
たしかにあの白い壁面は、実際にそばに寄って見たならば、薄汚れてざらついた、そこかしこに染みのある、つまらないものでしかないだろう。ここから見えるベランダの向こう、その奥にあるひとつひとつの部屋には、無様なまでに倦《う》み疲れた生活というものが、澱《よど》んだ空気を纏《まと》って巣くっているだけだろう。そんなことは四十年近く女をやっているあいだにうんざりするほど思い知らされてしまった。
だけど、それでも、幼いころに抱いたあの白くて大きなデコレーションケーキに対する憧《あこが》れだけは、いまも消えていない。
暑さのせいか。あるいは別の理由か。自分でもよくわからないまま、明日美は溜《た》め息をついていた。
そのとき、敷地のなかから出てくる若い女性の姿が目に入った。小さな男の子の手を引いて赤ん坊を背負っている、主婦らしき女性だった。
髪の毛をアップにした彼女は、赤ん坊を背負っているけれども胸を張っていた。おなかが大きい。もうすぐ三人目――たぶん――が生まれるらしい。
手を引いた男の子になにやら話しかけている彼女の笑顔を見た瞬間、自転車で彼女に向かって突進し、膨らんだ腹部を思いっきり殴りつけてやりたい衝動に駆られた。
両手で腹部を押さえ、顔面|蒼白《そうはく》になって崩れ落ちる母親。泣き叫ぶ男の子。母親が倒れると同時に、頭から道路に転げ落ちる赤ん坊。ぐしゃりとつぶれるその頭部――そんな光景が目に浮かんだ。体が震えた。
〈あたしが! ほしいものは! 白いマンションです!〉
昔、喉《のど》を嗄《か》らすようにして訴えていた自分の声が、耳に蘇《よみがえ》る。けれどもそれは、こうして巨大な白いケーキを目にしているからではない。葉山《はやま》しのぶと会ったせいだ。約六年ぶりの、再会。
ポケットからハンカチを出し、額に浮いた汗をぬぐった明日美は、マンションと親子から視線を外して、ペダルを踏む足に力を込めた。
道路の両脇に欅《けやき》が植えられた通りを抜け、押しボタン式の信号機の脇から四つ角に入った。しばらくゆくと、小さな川と、それに架かった橋に出る。橋を渡らずに、川沿いの遊歩道に入ってペダルをこぎ続ける。
明日美から向かって右側には畑が広がっている。ネギとサツマ芋の畑だ。左側は黒く塗られた丈の高いフェンス。その向こうは、川。蝉や小鳥の声に混じって、川のせせらぎが聞こえる。水面に日光が白く反射していて、ちょっと眩《まぶ》しかった。
やがて右手に、二階建の建物が見えてきた。木造モルタルの古いアパートだ。
通りに面したその建物の前には、自動車が四、五台停まれるほどのスペースがある。そこは居住者の駐車場になっており、『無断でここに駐車した人からは罰金一万円をいただきます』とマジックで書かれた、小さな立て看板が立っている。その紙は雨風をしのげるように透明なビニールでくるんであるのだが、いまちらりと見たら、ビニールの表面をびっしりと水滴が覆っていた。なにが書かれてあるのか、少なくともはじめてこれを見た人には判読できないだろう。
明日美は敷地に入り、駐車場の隅に自転車を停めた。ここが明日美の、いわば指定席だ。
自転車に鍵《かぎ》をかけて、部屋の鍵を出す。
ドアを開けた。まず明日美が思わず顔をしかめてしまったほどの熱気が部屋からあふれ出してきた。続いて、かすかにテレビの音声が聞こえてくる。昭久《あきひさ》はもう起きているらしい。
外はあんなに晴れているのに、部屋のなかは暗い。ここに越してきて二年になるが、その間ずっと、昼間から窓を閉ざし、厚いカーテンを閉めていた。換気のために窓を開けるのは深夜だけだ。それが昭久の希望だった。
それにしても、と明日美は思う。どうして彼は、あそこまで自分の体のことを気にするのだろう。他人の目に触れることを嫌がるのだろう。世間は、昭久が思っているほど冷たい人ばかりで占められてはいないと思うのだけど。
「ただいま」
靴を脱ぎながら声をかけた。
この部屋の玄関の三和土《たたき》には、市の福祉課障害福祉係に給付された段差解消器が設置されている。同様に、浴槽もトイレも、福祉課が給付してくれた住宅設備改善費で、障害のある昭久にも充分に使えるものになっている。ただそれらは、明日美たちがここを引き払うとき、元通りにしなければならない。それが大家との約束だ。
部屋に入る。狭い1Kの部屋だから、いくら陽光をさえぎっていても、玄関先の暖簾《のれん》をくぐれば、部屋のなかはすべて見渡せてしまう。
布団の上に横になっている昭久が、明日美に目を向けにっこりと笑った。服装はゆうべ明日美が着せたままだが、汗でぐっしょり濡《ぬ》れた白いランニングシャツが、昭久の肌にへばりついている。以前は中肉中背だったものの、食べて寝るだけの生活を送っているいまの昭久は、よくもまあこれだけ脂肪をつけることができたものだと感心するくらい肥え太っているから、こうして横になっていると、トドかなにかのように見えてしまう。
だけど明日美は、そんな昭久を、醜いとは思っていなかった。
「どうしてクーラーつけなかったの?」
布団のそばに腰を下ろし、たずねた。
枕元に置いてある大学ノートを広げた昭久は、白いページにシャープペンシルを走らせた。『風邪ひきそうで怖い』
かつてはそうでもなかったと思うのだが、いまの昭久の文字は、ほとんど直線のみで構成されている。だからいささか読みにくい。しかし、もうすっかり慣れてしまった。
「暑かったでしょう」
リモコンを手に取り、スウィッチを入れる。クーラーが稼働しはじめる音が聞こえた。
さらさらと、昭久がまたシャープペンシルを走らせた。見ると、『遅かったね』
「ごめんね。心配した?」
昭久は少し考えるような素振りを見せてから、ノートに手を伸ばした。『少し』
「オトコと会ってたのよ」
なんとなく意地悪な気分になって昭久の耳許《みみもと》に囁《ささや》くと、ノートに視線を落としたままの彼の顔が引きつった。唇が少し震えているように見える。
「馬鹿ね、冗談だよ」
明日美は笑いながら、昭久の額に自分の額を重ねる。「嫉妬《しつと》してんの?」
昭久がゆっくりとうなずいた。その頬に軽くキスしてやった。だが昭久の、怒ったような、そして不安そうな表情は変わらない。いつもの彼なら、こうするだけで、すぐ機嫌を直すのに。
「ホントはね、パートの人に誘われて、ちょっと喫茶店に寄ってたのよ。わかるでしょう? 職場のつきあいってやつ」
ほんとうか? と問うように、昭久がちらりと明日美を見る。なんだか、自分を捨てようとしている母親に必死にすがりつく子どもみたいな目に思えた――。
〈探してたんだよ、明日美さん〉
突然目の前に現れた葉山しのぶは、とってつけたような笑顔を浮かべてそう言った。
ハイヒールを履いているため一八〇センチはありそうに見える長身。軽いウェーヴのかかった長い髪。ちょっとだけ目尻《めじり》が吊《つ》り上がっている、しかしどこか猫のそれを連想させる目。すうっと格好よく通っている鼻筋。なんとなくアヒルの嘴《くちばし》を連想させる唇。そこから発せられる甘ったるく高い声。そして彼女が大嫌いだと言っていた、少ししゃくれた顎《あご》――たしか彼女は明日美より七つ年上だったから、もう四十六歳のはずだ。なのにしのぶは、六年前の彼女より若く見えた。白い肌も、まだまだ張りもあれば艶《つや》もあった。背が低く、生まれつき夏休みの小学生みたいに肌が黒い明日美は、かつて、しのぶのこの長身とバニラのアイスクリームのような肌とに憧れたものだった。
〈いろいろ考えたんやけど、やっぱ明日美さんのほかに頼れる友達なんていーひんし、今度こそ成功したいねん。な、友達やと思うて力貸してんか?〉
なにがトモダチだ馬鹿野郎――。
明日美は、汗で濡れた昭久のランニングシャツを少しめくった。妊婦みたいに突き出ている腹部が丸出しになった。
「ぷよぷよ、ぷよぷよ」
そう言って昭久の腹を人差し指でつつき、手のひらでさすってみる。やめろよというように、昭久が明日美の膝《ひざ》を軽く叩《たた》いた。しかしその目は笑っていた。
「汗、ふきましょうね。ホントに風邪ひいちゃう」
洗面器に水を汲《く》んできて、濡らしたタオルで昭久の肌をぬぐった。昭久は気持ちよさそうな顔をしている。
『デンスケがきた』
思い出したように、昭久がそう書いた。
「ゆうべ?」
こくりとうなずく。
「もう帰っちゃったの?」
残念そうに小さくうなずく。
「そう。キャットフードかミルクか、用意しておけばよかったね」
うん、とうなずく。
「またくるわよ。今夜にでも」
昭久は笑顔を浮かべて、何度も何度もうなずいた。
彼を起こし、上半身を壁にもたれさせてから、卵焼きを作った。それを載せた皿とパック入りの納豆、冷蔵庫に入れておいた沢庵《たくあん》、そして焼いた鮭《さけ》の切り身をテーブルに並べた。味噌《みそ》汁はインスタントだ。
ゆうべ炊いてジャーで保温したままになっていたごはんは、少し黄色みを帯びており、お櫃《ひつ》の隅に付着していた米は、すっかり水分を失って固くなってしまっていた。おまけに少し臭みが感じられる。明日美はちょっとげんなりしたが、昭久は笑顔を絶やさず、それを口に運び続けている。
昭久が、テーブルの上に置いたノートに文字を書き込んだ。『おいしい』。そして明日美に微笑みかける。その口許に、ごはんつぶがついていた。明日美は手を伸ばしてそれを取り、自分の口に運んだ。
『わたしはいま、横浜中華街にきていまーす!』
そんな声が、つけっぱなしになっていたテレビから聞こえた。朝の情報番組らしい。いまのいままでテレビの音声など耳に入らなかったのに、明日美には、その声だけが、やたらとけたたましく感じられた。
中華料理――明日美は舌打ちした。
『きょうご紹介したいのは、このお店なんです!』
朝っぱらから元気のいいことだ。それが難癖めいた感想であることは自分でもわかっている。けれども明日美は腹立たしさを抑えきれず、リモコンに手を伸ばしてチャンネルをかえた。
トントン、とテーブルが叩かれた。顔を上げる。昭久が不満げな表情でこちらを見ている。チャンネルを元に戻せと言いたいらしい。
嘆息混じりにその通りにすると、昭久が幼児みたいな笑みを浮かべた。
あれはいつだっただろうか。炬燵《こたつ》に入っていたような気がするから、たぶん冬だったのだろう。もう半年以上前のことだ。やはりこうしてふたりで食事を摂《と》っていたときに、グルメ番組かなにかが放送されていた。レポーター役の若い女性タレントが、高級中華料理店に出向き、出された料理に舌鼓を打っていた。最初の一品――それがなんだったか、明日美は覚えていない――に箸《はし》をつけたその女性タレントは、一瞬の沈黙のあと、びっくりしたみたいに目をむくと、ちょっとちょっと、と手招きするようにカメラに向かって手を振った。そしてしみじみとした調子でひとこと、おいしい、ともらした。
昭久はぽかんと口を開け、痴呆《ちほう》のような目でブラウン管を見つめていた。
超一流の料理人が作った中華料理を、明日美とふたりでおなかいっぱい食べたい。ことあるごとに昭久がそう訴えるようになったのは、それからだった。
〈いつか、お金がたまったらね〉
適当に相槌《あいづち》を打つような感じでそう言ったら、昭久は激しく首を振った。そしてノートに、こういった意味のことを書いたのだった。車椅子の自分が店に入ったら、ほかの客や店の人間がじろじろ見るに決まっている。もしくは、見て見ぬふりをしながらも、あとで自分のことを笑いものにするに違いない――。
〈そんなことないよ。考えすぎ〉
俺は好奇の目で見られるのは嫌だ。哀れみの視線を送られるのも、まっぴらだ。
〈じゃあ、どうしろって言うの。ラーメン屋じゃないんだから、出前なんてしてくれないよ〉
いささかうんざりしつつそう言うと、昭久はしゅんとうつむいてしまった。
それからというもの、毎日のように、昭久は同じ言葉をノートに書き連ねては明日美に突きつけた。超一流の料理人が作った中華料理をふたりで食べたい。だけど店に行くのは嫌だ……と。
とはいえ半月ほど前から、昭久は中華料理うんぬんを口に、いや、文字にしなくなった。昭久の興味は、この部屋のベランダに毎晩どこからかやってくる茶色い毛並みの子猫に移ってしまったようだ。昭久はその猫に「デンスケ」という名前をつけて可愛がっている。
明日美は夜働いているからデンスケとは週に一、二度しか会わないけれど、デンスケはふらりとベランダにやってきて、あーん、あーん、と声をあげ、窓を開けたら当然のような顔をして部屋に入り込み、冷蔵庫の前にちょこんと座って明日美なり昭久なりに目を向けて餌を要求し、空腹を満たすと、テレビの上にひょいと飛び乗り、丸くなって眠り、明け方にまたあーんあーんと声をかけて明日美か昭久を起こして窓を開けさせ、ふらりと出てゆくのだった。
だからもう、昭久は中華料理のことはいいかげんあきらめたのだろうと思っていたし、明日美自身、それをほとんど忘れかけていた。
なのに。
すぐそばに置いてあったノートを開いて、昭久がシャープペンシルを走らせた。そして明日美に差し出す。『いいことを思いついた』
「……なに?」
溜《た》め息混じりにたずねると、
『店を貸し切りにすればいい』
こめかみのあたりの神経を、なにか鋭いもので直接つつかれたような感覚を覚えた。
途端に昭久の表情が硬くなり、彼はそのまま目を伏せた。そしてすごすごとノートを引っ込める。どうやら、無意識のうちに感情が面に出てしまったらしい。そんなお金がどこにあるってのよ、あんた、いまの状況わかってんの? 明日美はもう少しで、そう口にするところだったのだから。
だけど――と、明日美は思う。こうなった原因はだれにあるのだ? 昭久がこんな体になったのはだれのせいだ? 自分たちがこんなに貧しい生活を送らねばならなくなったのはなぜだ? すべて自分のせいではないか。
ひょっとしたら、かつて明日美が白いマンション白いマンションと騒いでいたころ、昭久は、いまの自分のような気持ちを覚えていたのかもしれない。
〈まあちゃんのうちね、真っ白だったよ。真っ白でね、大きくてね、ケーキみたいだった〉
そう言ったとき、母は眉《まゆ》をひそめ、唇をほんの少しだけすぼめていた。それはもっと昔、どうしてうちにはお父さんいないの? と明日美が聞いたときに見せた表情と同じものだった。だから明日美は、自分は言ってはいけないことを口にしたのだ、と悟った。
くすんだ色の木造平屋建。それが明日美が八歳まですごした家だった。トタン屋根で、壁は、木材を張り合わせただけのような粗末な造りだった。
建てつけの悪い玄関の引き戸を開ける。狭い狭い三和土《たたき》。目の前に障子。その奥には四畳半の部屋がある。部屋の隅には病気の祖母が寝ていた。おばあちゃんただいま、と祖母に声をかけるのが、明日美の日課だった。明日美と母と祖母はその部屋ですごし、そこで食事をし、そこで眠った。部屋はそのひとつだけで、母が立つとそれだけでいっぱいになってしまうくらいの小さな台所がついていた。トイレはあったが風呂《ふろ》はなかった。
明日美がまあちゃんと呼んでいた女の子の本名は、忘れてしまった。顔も覚えていない。ある日その子の家に遊びにいったら、白くて大きな建物があって、まあちゃんはその建物のなかのひとつの部屋に住んでいたのだった。
その部屋のなかにもいくつも部屋があり、まあちゃんの家は部屋が三つに大きな台所まであった。
幼かった明日美はそんな家が珍しくて、まあちゃんの部屋の畳の上にちょこんと腰を下ろしてから、首が痛くなるくらいきょろきょろとあたりを見回した。家のなかにお風呂があったし、トイレは洋式で水洗だった。洋式トイレでどうやって用を足すのかさっぱりわからずまあちゃんにたずねると、明日美ちゃんったらー、と笑われた。
ベランダに出て、白い外の壁を手でぺたぺた叩いていたら、まあちゃんの家のおばさんに、危ないわよ、と叱られた。遠くから見たときは生クリームみたいに見えたから、ふわふわと柔らかいのかなとか、手に白いものがつくのかなと思っていたのだが、白い壁はとても固くてざらざらしていた。
家に帰るとき、明日美ちゃーん、と呼ぶ声がしたのでまあちゃんの家のほうに振り返った。まあちゃんが三階の小さな窓から顔を出して手を振っていた。またねー、と手を振りながらも、明日美の目はまあちゃんの顔ではなくて、建物全体に向けられていた。
白くて大きなデコレーションケーキ。
あれは、お菓子の家だ。
食事を終えてから、昭久を風呂に入れた。いつもはぷよぷよしていて可愛いと思える彼の太った体が、入浴のときだけは忌ま忌ましくなる。しかしもう何年もこんな生活を続けているのだから、昔ほど大変とは感じなくなった。慣れてしまったということか。
畳の上に座らせた昭久の上半身をタオルで拭《ふ》きながら、彼の胸を人差し指でちょんちょんとつついた。贅肉《ぜいにく》が揺れる様が妙におかしくて、「ぷるん、ぷるん」と声に出しながら、昭久の胸をつついたり揺すったりした。
すると昭久が、いきなり明日美の胸を服の上からわしづかみにした。ふざけて、仕返しをしたつもりらしい。
その手を取った明日美は、昭久の目に視線を向けたまま、彼の手首に唇を寄せ、舌を這《は》わせた。
昭久が、陶然とした笑みを浮かべた。
そんな昭久の唇に自分の唇を押しつけた瞬間、さきほど聞いたしのぶの声が脳裏をかすめた。
〈一緒に現金輸送車でも襲わへん?〉
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「はい?」
ドアフォーンから聞こえてきた池上範子《いけがみのりこ》のハスキーな声に、史郎《しろう》は、心ならずも胸の高鳴りを覚えた。
「あ、木島《きじま》です。いつも、その、すみません」
うまく言葉が出ない。
「あら、木島さん!」
弾《はじ》けるような明るさをともなって、範子の声がオクターブ跳ね上がった。「ももこちゃん、お待ちかねですよ!」
どうも……と、ついドアフォーンに向かって深々とこうべを垂れてしまった。
玄関が開けられるのを待つあいだ、史郎は池上家の周囲をぼんやりと眺めていた。きっちりと区画整理され、同じかたちの建売住宅が並んでいる風景。月光と、適度な間隔をあけて設置された街灯とに照らされている、郊外の新興住宅地。こぢんまりとした家々にともる明かり。平凡でささやかな、庶民の生活。一生懸命、地道に、汗水流して働いている人たちの暮らし――自分がいちばんほしいものが、この一角にはあふれている。
「……俺だって」
声に出して呟《つぶや》いた。「汗水垂らして働いてるよ。一生懸命」
と、玄関の奥から、どたどたと廊下を走る音がかすかに聞こえてきた。ドアが開かれる。ポンポンのついたピンクのセーターに膝《ひざ》くらいの丈のタータンチェックのスカート、そして肩と首から画材の入ったバッグとスケッチブックを下げたももこが、ドアノブに上半身の体重を乗せるような姿勢で、史郎の腹のあたりの空間から、ひょい、と顔を出した。爪先《つまさき》と踵《かかと》の部分だけ赤い、白のハイソックスが、玄関の三和土にあるサンダルの上にちょこんと乗り、爪先立っている。
「パパー」
甘えるような声をあげ、ももこがにっこりと笑った。前歯がない。ついこのあいだ乳歯が抜けたからだ。
「こら、ももこ」
ゆるんでしまいそうになる顔を意識して引き締めた史郎は、膝をかがめ、娘の額を人差し指でちょんとつついた。「よそ様のおうちだぞ。お行儀よくしなさい」
ももこはバツの悪そうな顔をすると、少しだけ肩をすくめ、ちろりと舌を出した。「ごめんなさぁい」そして、えへへ、と笑う。
こんな仕種《しぐさ》は翔子《しようこ》にそっくりだ。ももこの記憶には、母親のことなどほとんど残っていないはずなのに。これも遺伝というやつなのだろうか。
「このあいだ、ここのおばちゃんに聞いたぞ。おまえ、チャイムも押さずノックもせず、いきなりドアを開けて家のなかに上がり込んだりするそうじゃないか。そういうことばかりしてると、池上先生に嫌われるぞ」
「まあまあ木島さん、よろしいじゃないですか」
顔をあげた。毎度のことながら、これ以上崩しようがない、というくらい相好《そうごう》を崩した池上|茂《しげる》が、こちらに向かって歩いてくるところだった。一歩足を進めるたび、全身が上下に大きくぴょこんと揺れるという、いつもの歩き方である。
その後ろから、茂と範子の娘が転がるような勢いで駆けてきた。「おじちゃーん!」
ももこよりひとつ年下だという――つまり、五歳か――この池上夫妻の娘の名前を、史郎はずっと「すずね」だと思っていた。表札に「鈴音」と書かれているからだ。まさか鈴音と書いて「れいん」と読むなんて、夢にも思っていなかった。
〈ローマ字で書けば、RAINでしょう? 国際的にも意味が通じる名前ですから、将来的にはいいと思って〉
茂がにこにこと笑いながら言ったとき、なるほどねえ、と口では調子を合わせつつも、内心では、それじゃあ世界中どこに行っても雨女扱いされるんじゃないのかな、とよけいな心配をしてしまったものだった。
「こんばんは、レインちゃん。いつもももこと仲よくしてくれてありがとう」
そう言って鈴音の頭をなでると、ももこと鈴音がどちらからともなく腕を組み、お互いの顔を見合わせて、えへへー、と意味不明の笑い声をあげた。
こうしてふたりが並んだ姿を見るたびに、史郎はいささか複雑な気分を覚える。鈴音が両親に似て整った面立ちをしているのに対し、ももこのほうは、めりはりのない、ひらべったい、のっぺりとした、なんとも冴《さ》えない容貌《ようぼう》だからである。わずか五、六歳の時点で、人間にはこれだけ美醜の差がはっきりと出てしまうのか。それにふたりが同じような言動を取っても――いや、同じような言動を取るからこそはっきりする違いもある。鈴音は挙措のひとつひとつが垢抜《あかぬ》けていて、育ちのよさがそこかしこから滲《にじ》み出ている。ももこにはそれがない。父親の目から見てもそうなのだから、第三者が見たら、ももこは鈴音のお姉さんがわりというよりも、ただの引き立て役にしか見えないかもしれない。これも遺伝というやつなのだろうか。
「どうも。娘がいつもお世話になっておりまして。申し訳ございません」
気をつけ[#「気をつけ」に傍点]をしてバッと頭を四十五度下げる。茂に対し、反射的にそんなあいさつをしてしまいそうになった。おっといけない。史郎は一瞬の間のあと、へらへらとした笑顔になるよう努めながら、首だけをひょこひょこと上下させ、右手を後頭部に持ってきて、頭を掻《か》いた。ただ、その一連の動作を自然にできたかどうかについては、自信がない。
「いやいや、なにをおっしゃいます」
顔の筋肉が完全に弛緩《しかん》してしまったような笑みのまま、茂が肩を揺すった。
そこから先は、いつもの会話となった。鈴音はももこちゃんのことをお姉さんみたいに慕っているんですよ、鈴音はひとりっ子ですからねえ、ももこちゃんと一緒だったら寂しい思いもさせずに済みます……。いえいえ、それはわたしも同じでして、ひとり娘なのはももこも同じですし、母親もいませんから、いくら仕事が忙しいとはいえ娘にひとり寂しい思いをさせているのがどうにもふがいなく、しかし池上先生のおかげでわたしたち親子がどれだけ助けられているかと思うと感謝のしようもございません……。これらは史郎と茂がこうして顔を合わせるたびに交わされる会話だった。まるでふたりにとっての恒例の儀式みたいだと、史郎は思う。最近では、この儀式を終えないと、逆になんだか落ち着かない気分になってしまうのだから妙なものだ。一転して真顔になり、いつもと同じ言葉を口にしながら頭を下げていた茂が、儀式が終わった途端に照れたような笑みを浮かべたところから見て、もしかしたら彼のほうも、史郎と同じことを思っているのかもしれない。
「こんなところではナンですから、木島さん、どうぞお上がりになってください」
どうぞ、と身振りで示しながら茂が言うと、鈴音が「おあがりになってくださーい」と父親の真似をした。
「新しいCD、きのう買いましてね。どうです、ご一緒に」
玄関のそばにあるドアを指差して、茂が言った。
クラシックを聴くのが趣味だという彼は、毎晩この部屋で、水割りのグラスを片手に、音楽鑑賞を楽しんでいる。史郎はこのところずっと、茂の音楽鑑賞につきあわされていた。音楽はお好きですかと聞かれたので、調子を合わせて、ええ、と言ったところ、しょっちゅうこの部屋に引っ張り込まれる羽目になった。史郎はクラシックにはとんと疎いし、さして興味もないため、彼につきあわされるのはほとんど苦痛に近かったのだが、最近、同じ曲でも指揮者が違えばまったく別の曲のように聴こえるものなんだな、というくらいはわかってきた。とはいえ、まだそれが快感に繋《つな》がるところまでには至っていない。
できるだけ相手の気分を害しないよう気をつけながら断った。しかし茂は、もう少しくらいいいじゃないですか、と史郎たちを引き止めた。
「いま、うちのがお茶|淹《い》れてますので。いい紅茶が手に入ったんですよ、いただきものなんですけどね」
一抹のやりきれなさを隠しつつ、史郎はばたばたと手を振った。「あ、いえ、もう遅いですし、これ以上お邪魔するわけにはまいりません」
「まーたまた、そんな、水臭いなあ」
茂は史郎をぶつ真似をして、からからと笑った。茂は自分より十歳年上だと聞いたことがあるから、三十五歳のはずだ。そのわりには若い娘みたいな口をきくんだな、いや、いまのは小娘というより、おばさんっぽかったかな……と、史郎はどうでもいいようなことを頭の隅で思った。
「みずくさいなあ」
そう言って、鈴音が史郎の太腿《ふともも》のあたりを軽くぶつ真似をする。苦笑した。
紅茶を淹れてくれているという範子には悪かったが、結局史郎はそのまま池上家をあとにした。ももこが廊下の奥に向かって、「おばちゃん、お世話になりました、さようなら」と言い、「あら、お帰りなの?」という範子の声が聞こえてきたとき、史郎は逃げるように玄関から出ていた。
「きょうはどんな絵を描いたんだ?」
車のエンジンをかけながら、助手席のももこに聞いた。
「うん、いろいろー」
そんなももこの伸ばしっぱなしの髪の毛を見て、暇ができたら美容院に連れていってやらなきゃ、と思った。
「家に着いたらパパにも見せてくれよ」
とはいえ史郎は、絵はまったくわからない。ただ茂が言うには、ももこはセンスがよいのだそうだ。このくらいの年の子だと、たとえば空なら、水色一色で塗りつぶしたりすることが多いという。だがももこは、だれにも教わっていないのに、いろんな色を混ぜたり、スケッチブックの上に水を垂らしたり、なにかと珍妙なことをするのだそうだ。史郎は最初、変わったお子さんですねとか、躾《しつけ》がなっていませんねと責められているのかと思ったが、そうではなく、茂はももこを褒めていたのだった。
史郎も翔子も、絵には全然興味がなかった。なのにももこは、筋がいいと褒められる。ということは、遺伝なんて気にしなくていいのかもしれない。
あ、そうだった――と、史郎はジャケットの内ポケットに手を入れ、財布を確認した。きょうは懐があたたかいことを思い出したのだ。
〈お嬢さん、絵を習いはじめたそうですね。これで絵の具でも買ってあげなさい〉
さっき事務所を出るときに、九條《くじよう》が、いつも通りの能面のような顔と、感情というものを微塵《みじん》も感じさせない口調でそう言って、万札を三枚、無造作に手渡したのだ。これでももこと一緒に、なにかおいしいものでも食べよう。そう思いながら、史郎は両手で金を受け取り、ぴしりと踵《かかと》をそろえ、ありがとうございます、と頭を四十五度下げたのだった。
「ももこ」
カーステレオから流れる幼児向けの歌を大声で歌っていたももこが、「なあに?」とこちらに顔を向ける。
「レストランに寄って、ごはん食べていこうか」
「晩ごはん、先生のところでごちそうになったよ」
時計の針は午後八時五十分を差している。ふつうの幼児はとっくに食事を済ませている時間だろう。毎度のこととはいえ、池上夫妻には申し訳ないことをした。
「ごはんはね」
と、ももこが言う。「鈴音ちゃんのおばあちゃんが作ってくれたの。ももこちゃんのぶんもって」
茂の母親が近所に住んでいて、昼間働いている範子のかわりに毎日夕食を作りにくるという話は聞いていた。茂の話では、仕事をしているからということを抜きにしても、範子は家事が苦手で、お茶を淹れる程度のことしかやらないのだそうだ。彼女に所帯染みたところが感じられないのは、そのせいかもしれない。
「パパ、食べてないの?」
「ああ」
「ももこ、つきあうよ。レストラン行きたいしー」
えへへー、とももこが笑った。
「失敗したな。ももこがごちそうになったこと、先生にお礼しそこなったな。おばあちゃんにも、いつかお礼を言わないと」
「ねえ、パパー」
突然ももこが、怒ったような声をあげた。「パパ、きょう、お行儀悪かったよお」
「え、そうかな」
「先生だけじゃなくて、おばちゃんにも、お世話になりましたって、ちゃーんとあいさつしなきゃだめ」
メッ、と、ももこが史郎の肩を軽く叩《たた》いた。
「あ、そうだったっけ。そいつはマズかったなあ」
「ももこにはいつも、きちんとあいさつしなさいって言ってるくせにィ。親は子どもに、ちゃーんとお手本見せないといけないんだからねッ」
なんだかホステスみたいな口調だと思い、また複雑な気分になる。そしてそれが、翔子の話し方によく似ているのだと気づいて、史郎は溜《た》め息をついた。
史郎が茂の誘いを断って、お茶も飲まず、範子にあいさつもしなかったのには、いくつか理由がある。
史郎の目には池上家が、ある種理想の家族のように見えている。彼らの時間を、これ以上自分やももこが邪魔するのは気が引けた。また、彼らと一緒にいると自分たちが惨めに思えてくるというのも、お茶を遠慮した理由のひとつだった。しかしそれ以上に、範子と顔を合わせたくないという気持ちのほうが大きかったかもしれない。
史郎は、茂と範子に恩義を感じている。ふたりにとってももこは、茂が開いている「お絵描き教室」の生徒のひとりにすぎない。にもかかわらず、週に二度の教室の日は、夜遅くまで、ももこを無償で預かってくれている。そんな義理などないのに。池上夫妻にはいくら感謝しても感謝しきれないと史郎は思っている。なのに自分は、その恩人のひとりである池上範子に仄《ほの》かな恋心を抱いているのだ。そんな自分が嫌だった。
はじめて会ったときの範子の姿が脳裏に浮かんだ。
後ろでひとつにたばねられたストレートのロングヘアは、陽光を受けてきらきらと輝いていた。その下に、白い肌がつやつやと光っている笑顔があった。口調から言葉の選び方、そしてほんのちょっとした動作のひとつひとつに品があり、それでいてきびきびしていた。全身から、なまめかしい、匂いたつような色香が漂っていたけれども、不健康な印象を受けなかったのは、彼女がそういうふうに溌剌《はつらつ》としていたからだろう。そしてほんの少し目尻《めじり》の下がった彼女の目は実に表情豊かで、帯びている光の質が一瞬ごとに変化し続けているように見えた。その指先に至るまで、いや、髪の毛一本一本に至るまで、生命力に満ちあふれていた。史郎は、彼女のそんなところに惹《ひ》かれたのかもしれない。
先日ももこを迎えに行ったとき、茂がなにかの用事で留守にしていたため、範子とふたりで少し世間話をした。
〈売れない画家の女房って、大変なんですよォ〉
オレンジ色のTシャツにデニム地のショートパンツといったスタイルの範子が、そう言って長い脚を組んだ。細く、しかし肉感的な、象牙《ぞうげ》のような白い脚。その肌が、ねっとりとした光沢を放っていた。
思わず目を奪われた。胸が高鳴った。腰骨のあたりが痺《しび》れた。意思に反して股間《こかん》が疼《うず》いた。あわてて視線をそらした。
〈旦那《だんな》がお絵描き教室やってくれるようになってから、少しは楽になったんですけれども、それまでは無職だったんですよ。ですから、旦那と子どもの面倒見ながら、生活費もほとんど自分で稼がなきゃいけなくて。木島さんみたいな働き者と結婚してたらよかったんですけどねぇ〉
もちろん冗談混じりの口調だったのだが、一瞬、俺を誘ってるんじゃないか、と思ってしまった。ももこと鈴音がそばにいなかったら、自制が崩れて範子を抱きすくめてしまったかもしれない。あの瞬間から、それまで以上に、範子を異性として意識するようになってしまった。
きょう範子と同じ空間にいたら、必死になって感情を殺しても、ちょっとした目線や声の調子などに、彼女に対する気持ちが滲《にじ》み出てしまうような気がした。それを茂なり範子なりに気取られるかもしれない。そうなったら、もうふたりに合わせる顔がない。ももこにも申し訳ない。また、さっき茂が範子のことを「うちの」と表したとき、やりきれない気持ちを覚えたが、あれはたぶん、嫉妬《しつと》だ――。
突然鳴り響いた珍妙なメロディに思いを破られた。
「あ、ケータイだー」
ももこがはしゃぐ。「パパー、ケータイ買ったんだー」
一応、笑顔で応《こた》えた。時期が時期だから持っとけ、と事務所から今朝渡されたんだ、どうせ怪しげなルートで流れてきたものに違いない――などと言えるわけがなかった。言ったとしても、ももこには理解できないはずだ。かといって、そうだよ、買ったんだよ、と調子を合わせるのは気が引けた。ももこには、嘘をつきたくない。
押すのはここでいいんだったよな、と思いつつ、慎重に通話ボタンを押した。間違って切ってしまったら、蹴《け》りの一発や二発では済まないだろう。
『史郎か』
堺《さかい》の声だった。
「はい……」
『てめえ、なにやってんだよ!』
胃が痛くなった。
『すぐ事務所にこい』
「え……」
ちらりとももこに目をやった。ももこは不安そうな表情で史郎を見ている。
『いいから早くこい!』
電話は一方的に切られた。
「パパ」と、ももこが言った。「またお仕事に行っちゃうの?」
胸が詰まった。言葉が出てこない。
「ももこ、ひとりで平気だよ」
「…………」
「ももこ強いもん、パパの子だもん」
いったんアパートに帰り、ももこを部屋に入れてから、大急ぎで事務所に向かった。
史郎の住まいから車で五分ほどの場所にある雑居ビル。その三階ワンフロアすべてが「九條経営コンサルタント」の事務所になっている。事務所に残って雑用をこなしている連中の、史郎を見る目は冷たかった。なにかあったらしい。史郎はまっすぐ、社長室に向かった。
ドアの前で深呼吸した。ノックしようとして、自分の手が震えていることにはじめて気づいた。それを目にした途端、歯の根が合わなくなった。奥歯ががちがちと音を立てる。
「き……木島、です。失礼します」
声も、完璧《かんぺき》にうわずってしまっていた。
入れ、という堺の声が聞こえた。史郎はもう一度「失礼します」と言ってからノブをひねり、覚悟を決めてなかに入った。
真っ先に目に入ったのは、胎児のように背中を丸めた格好で絨毯《じゆうたん》の上に転がっている、顔面が血だらけになった、若い男の姿だった。派手なシャツにだぶだぶのズボン。素足に雪駄《せつた》。オサムだ。
デスクでは、外国製のダブルのスーツをきちんと着こなしている、紳士然とした雰囲気の九條|和樹《かずき》が、黙々と食事を続けていた。相変わらずの無表情。目尻が極端に吊《つ》り上がっている細い目も、なんの感情も浮かべていない。ガラス球みたいだ。
「遅かったですね、木島くん」
九條が言った。唇がぱくぱくと動いただけの、抑揚のない、一本調子の話し方だった。甲高い声は、どことなく金属的な響きに聞こえる。史郎は、九條のこんな顔や声を目や耳にするたびに、この人は実はロボットなんじゃないかと思う。九條の下で働くようになって七年になるが、いまだに彼の無感情ぶりには馴染《なじ》めなかった。
九條のデスクの上には、ミルクのかかったコーンフレークとハムサラダが載っていた。九條は、床に転がってうんうん唸《うな》り、ときおり咳《せ》き込んでいるオサムに目を向けたまま、それらをゆっくりゆっくり口に運んでいた。
オサムのまわりには、九條組|若頭《わかがしら》の青木《あおき》と、史郎の兄貴分である堺、そして堺の舎弟の小山が立っていた。小山がぺこりと史郎に頭を下げたのは、彼が史郎より三年ほど後輩だからだ。
青木は腕組みをして、まっすぐに史郎を見据えている。その頬が唐突に膨らんだり唇が変なかたちになったりする。いつものようにシュガーレスのキャンディを口のなかで転がしているらしい。
片手に木刀をぶら下げているパンチパーマの小山。その鼻息が荒いのは、オサムを痛めつけるのに体力を消耗したせいではないだろう。相撲取りのような体型をしている小山の呼吸音は、四六時中こんな調子で事務所のなかに響いている。
「史郎」
長めの金髪をかきあげながら、堺が歩み寄ってくる。このところの日焼けサロン通いで真っ黒に焼けている堺の整った面立ちが、一瞬にして凶暴そうなそれに変わった。変わったと思った瞬間、史郎は腹を押さえ、床に膝《ひざ》をついていた。殴られたのだ。息ができない。続いて、横っ腹に堺の靴の爪先《つまさき》が叩《たた》き込まれる。史郎はそのまま、声もなく転がった。
「てめえ、若いモンほったらかして、どこ行ってたんだよ」
すみません、と言うつもりだったが、声が出ない。呼吸は止まったままだ。
「おまえ、このコッパ[#「コッパ」に傍点]、矢野《やの》から預かってるって話だったよなあ? 矢野の留守中はおまえが面倒見ろって、矢野に言われてたんだったよなあ?」
「……はい」
「こいつにどういう躾《しつけ》してんだ? ああ?」
オサムがなにかしたんですか。そう言葉にするのに、かなりの時間がかかった。
「いいか」
堺は床の上に片膝立ちになると、史郎の髪の毛をつかんで強引に引っ張り上げた。「こいつな、てめえと別れてから飯食いに行ったんだとよ。駅前の定食屋だよ。そんで、そこの店員の態度が気に食わねえっつってよ、テーブルひっくり返しやがったんだとよ」
「…………」
「それでな、俺をだれだと思ってやがる、九條組の荒木《あらき》オサムだ、とかなんとか、偉そうにタンカ切ったんだとよ。自分をナメてんのは、組ナメてることだってな。組の面子《メンツ》があるから黙ってられなかったんだとさ。まだ十八のよ、まかないもろくにできねえガキが、いっぱしによ」
ふと、このあいだサウナに連れて行ったとき――そのサウナも九條が経営しているものだが――オサムがもらしていた言葉を思い出した。
〈うちはおふくろがひとりで、きょうだい三人食わせてくれたんですよ。でも俺が鑑別所に行ってから、兄貴がですね、もうおまえとは縁を切るって言い出して。鑑別所出てから会いに行ったら、帰れ、警察呼ぶぞって言われちゃいました。それっきり、おふくろとも兄貴とも妹とも会ってないんです。もう関係ねえよって思ってたんですけど、最近、やたらと夢見るんですよね、子どものころの。で、会いてえなあって思うようになって。なんか、弱気になっちまったんですかねえ〉
そういう内面の揺れみたいなものが、オサムを暴れさせたのだろうか。
「てめえ、どういう教育してやがるんだコラ!」
強烈な平手打ちをくらい、史郎は吹っ飛んだ。後頭部を床にぶつけた。
「店にはよ、青木の大将が謝りに行ったよ。銭包んでよ、頭下げてよ」
「……すみません」
「いま組がどういう状況か、わかってんだろう。もし戦争になったら、どんだけの金が飛ぶと思ってんだ? それでなくても会費はどんどん値上がりするしよ。一円でも惜しいってこの時期によ、なんでこんなコッパの尻《しり》ぬぐいに金使わなきゃなんねえんだ?」
史郎はその場に土下座し、ひたすらすみませんすみませんと繰り返した。
「てめえらカスの尻ぬぐい、なんで大将がやんなきゃなんねえんだよ! てめえ、教育係ひとつマトモにできねえのかよ!」
後頭部を踏みつけられた。
「てめえいくつになった、ああ!? 二十五だろう、二十五にもなって使い走りしかできねえ腰抜けの半端者が! そんなことだから女房が愛想尽かしてトンズラこくんだよ!」
肩を、背中を、蹴られ続けた。
「てめえ使い道ねえよ。いいかげん足洗えよ。ヤクザ向いてねえよ。とっとと堅気になって乞食でもやれ!」
いまさらそんな、自分を強引に組に入れたのは堺さんじゃないですか……という言葉を、グッと飲み込んだ。
「お、俺……」
床に転がっているオサムが呻《うめ》いた。史郎は思わず彼に目を向ける。
「俺、責任、取ります……指、詰めます」
青木と小山、そして堺が失笑した。それをどう解釈したのか、オサムはのそのそと立ち上がり、「俺も、そのくらいの根性、ありますから」と言う。
九條の唇がアルカイックなかたちに歪《ゆが》んだ。笑っているのだ。
小山と目を見合わせて笑っていた堺が、「ほら」と懐から取り出した短刀を差し出す。両手でそれを受け取り、オサムはその場に正座した。そして左手を床に載せ、鞘《さや》を抜いた短刀を小指に当てる。史郎の位置からも、オサムの全身が震えているのがはっきりわかった。
「……このボケが!」
堺がオサムの顔面を蹴《け》り上げた。血が噴き上がり、オサムはふたたび絨毯に倒れ込んだ。
「荒木くん、でしたっけ」
九條の淡々とした声が聞こえた。「指のない、見るからにスジモンだとわかるような人間なんて、うちでは使い物になりませんよ。それにあなたの指飛ばしたところで、一文の得にもなりません」
オサムは、蹴られた顔を片手で押さえ、唸り続けている。
「あ、すみませんが、爪楊枝《つまようじ》、持ってきてください」
九條が、皿をさげている若い衆にそう命じた。そして、唇の両端が吊り上がっているデスマスク、といった感じの笑顔のまま、続ける。
「荒木くん、こっちへきなさい」
ふらふらと立ち上がったオサムが、九條のデスクにゆっくりゆっくり歩み寄る。もう歩くのもままならないようだ。
九條が、スッと席を立った。長身で、まるでカマキリみたいにひょろひょろと痩《や》せているというのに、かなりの威圧感がある。
「さ、口を開けなさい」
オサムが、きょとんとしたように九條を見た。
「口開けろって言ってるだろう、このチンピラ!」
九條の声も、口調も、形相も、一変した。「おめえみてえな半汚れに、面子もへったくれもあるか!」
九條は、ふだんとは別人のようなドスのきいた声で怒鳴ると、若い衆が持ってきていた爪楊枝の容器をオサムの口に突っ込んだ。そして容器だけを素早く取り出し、腰の入った肘《ひじ》打ちをオサムの頬にくらわせた。
ぐう、というような声をあげて、オサムが床に転がった。両手を口に当ててのたうちまわる。その指のあいだから血があふれ出す。口腔《こうこう》のあちこちに爪楊枝が突き刺さったらしい。もしかしたら舌にも、何本か爪楊枝が刺さったかもしれない。
史郎は思わず目をそらした。
「木島くん」
静かにデスクに腰を下ろし、いつもの調子に戻って、九條が言った。息ひとつ乱れていない。「矢野くんには、ちゃんと会いに行ってますか」
もうその目には、オサムの姿など映っていないかのような口振りだった。
土下座したまま、史郎は答えた。「は、はい……あと半月もすれば、満期です」
「そうですか。もうすぐですね」
「はい……」
「ちゃんと出迎えの準備はしておくんですよ」
わかりました、と史郎は一礼した。
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自転車で駅まで行き、電車に乗ってふたつ先の駅で降りる。そこからバスで約十分。そしてバス停から一分ほど歩くと、こぢんまりとした二階建のラヴホテルに着く。午後九時四十五分、いつもの時間だ。
明日美は「HOTEL SUNRISE」というネオンがまたたく門を抜け、従業員通用口からフロントに入った。
「おはようございまーす」
明日美のあいさつに、フロントの奥にある和室でテレビを見ながらお茶を飲んでいたパートタイマーの主婦たちや、午後十時に明日美と交替することになるフロント係の江田《えだ》という青年が、おはようございます、と応《こた》える。
ホテル・サンライズの正社員は、明日美、このやたらと愛想のいい江田、そして槇《まき》という蛙みたいな顔をした小柄な中年男、若い主婦であるらしい関口菜穂子《せきぐちなおこ》の、合計四人しかいない。午前十時から午後四時までは菜穂子がフロント係を務め、彼女と交替した江田が、午後四時から十時までフロントに座る。そして午後十時から午前十時までの十二時間が、明日美の勤務時間となる。明日美と菜穂子と江田はフロント兼客室係で、槇はそれ以外のたいていの仕事をひとりでこなしている。週に三度、槇がフロントと客室係を担当する。その三日間が、明日美、菜穂子、江田、それぞれの休日となる。明日美だけが十二時間勤務なのは、明日美がひとりもので――昭久のことを知られると変に同情されそうで鬱陶《うつとう》しいと思ったため、明日美は職場では独身で通している――あり、かつベテランだからという理由で、社長に頼み込まれたためである。むろん、そのぶん給料はいい。
以前は、ふたりひと組のペアが、十二時間交替でフロント兼客室係を務めていた。そして一週間ごとに、午前十時から午後十時までの早番と、午後十時から午前十時までの遅番をかわるがわる担当していた。今週は早番、来週は遅番、というように。しかし昼型の生活と夜型の生活を週ごとに引っくり返す生活は、長いこと続けると、体に大変な負担がかかる。実際体を壊して辞めて行く者が後を絶たなかった。それで一年ほど前から、いまのシステムになったわけだ。
ただそれを抜きにしても、どういうわけか、ホテル・サンライズは人の入れ替わりが激しい。江田は半年、菜穂子は四ヵ月目に入ったところだが、ふたりとも長続きしているほうだ。みんな三ヵ月くらいで辞めてしまう。それも、断りもなしに突然いなくなるパターンがほとんどである。その後、ここに勤めている××はどこだ、とヤクザっぽい人間がやってきたりする。刑事がきたこともあった。このホテルには、脛《すね》に傷を持つ人間ばかりが集まってくるということか。江田にしても菜穂子にしても、ほんとうはどういう経歴の持ち主なのか、そもそもその名前が本名かどうかさえわからない。ふたりにしても、明日美のことは名前と顔しか知らないはずだ。
最近では、こんなことがあった。
菜穂子が入社する前、六十代の夫婦が正社員として勤務していた。ふたりは、定年になったけれども大学生と高校生の子どもがいるので学費を稼がなければならないんです、と言っていた。夫はフロント係、妻は客室係を担当していた。
ところがこの夫婦、実は駆け落ちしてきた不倫カップルだった。女のほうの息子――息子と言っても明日美と同年輩の、三十代後半といった感じの男だったが――が、見つけたぞ! とホテルに怒鳴り込んできたのだ。
それからすぐ、彼らは行方不明になった。いまどうしているのか、明日美は知らない。
そのふたりがいなくなったため社員募集が行なわれ、菜穂子がやってきた。しかし口の悪いパート主婦たちは、あの人もほんとうはヤクザかなにかから逃げてる女なんじゃないのかね、変に婀娜《あだ》っぽくて素人に見えないよ、などと陰口を叩《たた》いている。
江田は如才ない青年なので好かれそうなものなのだが、その江田にしても、あの愛想のよさはどうも油断がならない、逃走中のカルトの信者ではないのか、裏ではなにかの売人でもやっているんじゃないのか、と噂されていたりする。
ちなみにホテル・サンライズの社長は秋月《あきづき》といって、この不況下にもかかわらず、ほかに貸金業――高利の、いわゆる街金だ――とレストランを経営している、五十代後半の男である。パンチパーマに口髭《くちひげ》、そして常にサングラスという外見なので、面接の際はじめて秋月を見たとき、明日美は少々後悔したものだった。札の匂いと手触りがなにより好きだというこのドケチ社長は、月に一、二度しかホテルに顔を見せない。
タイムカードを押した。これから午前十時までの長丁場だが、ホテル・サンライズのような郊外のラヴホテルの場合、泊まり料金になる午前〇時をすぎると客足が極端に少なくなるので、仮眠の時間がわりと取れる。戦場のような忙しさとなる週末も、午前〇時には満室になってしまうため、それから午前五時くらいまではのんびりできる。だから十二時間フルに働くわけではない。
明日美は、ホテルの一、二階の平面図が映し出されているパソコンの画面に目をやった。これを見れば、どの部屋に客が入っているか、ひと目でわかるからだ。
半分ほどの部屋が赤く光っている。客が入っている、ということだ。平日の夜にしては、まあまあといったところか。江田に聞くと、そのうち三分の二は泊まり客らしいから、残り三分の一の客が帰ったあとに、ばたばたと部屋の掃除をする必要もなさそうだ――深夜に客の大群がこないかぎりは。
左胸に「HOTEL SUNRISE」と筆記体で刺繍《ししゆう》がほどこされている、白地に青のストライプが入った制服に袖《そで》を通す。下の白い作業ズボンも会社からの支給品だ。
靴を脱いで下足箱に入れ、やはり支給品のサンダルを取り出す。「三宮《さんのみや》」と自分の名前がマジックで書かれているあたりは、なんだか学生時代に履いていた上履きみたいだ。
ついでソックスを脱いで裸足《はだし》になる。客が帰るたびに風呂場《ふろば》の掃除をしなくてはならないから、冬場以外は裸足でいたほうがいいと、入社したばかりのころ、すでにベテランの域に入っていたパートタイマーに教えられたのだった。
午後十時。私服に着替え、タイムカードを押した江田が、お先に失礼します、と笑顔を振りまいて通用口から出ていった。明日美たちも声をそろえて、お疲れ様でした、とあいさつした。
「ねえねえ三宮さん」
パートタイマーのなかでいちばんの古株であり、秋月や槇が、陰で「牢名主《ろうなぬし》」と呼んでいる桂《かつら》という初老の女が、音を立てて煎餅《せんべい》を齧《かじ》りながら声をかけてきた。「今朝三宮さんが帰ってからさ、珍しく社長がきたのよ。そんで関口さん、社長に叱られたんだよね」
「へえ。なにかあったんですか?」
「わたしらが掃除してるあいだ、仕事放り出して、コンビニで買い物してたんだって。なに考えてんだろうね」
するとほかのパートタイマーたちが、堰《せき》を切ったように菜穂子の悪口を言い出した。
「ほんとにあの人、要領悪いんだよね。いまだにベッドメイクにやたらと時間かかるしねえ」
「こないだも客からクレームあったんでしょう? トイレの床が濡《ぬ》れてて気持ち悪いって。関口さんが掃除した部屋だったんだよ、それ」
「知ってる? 掃除する部屋間違えてさあ、客がやってるところに入り込んじゃったことがあるんだって。まあ、鍵《かぎ》かけてない客も客だけどさあ。それで客が怒って、大変だったんだって」
「ゴミ箱のなかのコンドーム見て、きゃあ、なんて言ってんだよね。いい年してカマトトぶってんじゃないよ、まったく」
またはじまった。宿泊客がオーダーしたモーニングサーヴィスのメニュー――AセットとBセットの二種類があり、客の好みでどちらかを選べる――をチェックしながら明日美は思う。こんな調子だと、自分も昼間、彼女たちになんと言われているか、わかったものではない。
とはいえ明日美も、菜穂子のことはあまり好きではなかった。
なにより、若くて美人なのが気に入らない。明日美と違って嘘みたいに白い肌をしているし、痩《や》せているのに、胸とお尻《しり》だけは人並み外れて大きい。仕種《しぐさ》のひとつひとつが妙に色っぽい。別の言い方をすれば、いやらしい。それがどう見ても意識的にやっているようにしか見えないから腹が立つ。常に男の視線を意識しているような素振りが不愉快だ。この仕事って手が荒れますよね、ほら、こんなに荒れちゃいました、などと言って溜《た》め息をつき、自分の手を周囲に見せびらかす。真っ白で長くてほっそりとしていて、しかし柔らかそうな指や、マニキュアが綺麗《きれい》に塗られている、よく手入れされていてかたちもいい爪を見せられるたびに、明日美は苛立《いらだ》ちを覚える。それで荒れてるってんなら、あたしの手はどうなっちゃうの。あれは手荒れを嘆いているのではなく、わたしの手はあんたたちおばさんと違って綺麗でしょう、と自慢しているのに違いない。たぶん桂たちの菜穂子に対する反感も、明日美と同じ理由によるものだろう。
「あたしたちさ、あのふたり、怪しいと睨《にら》んでるんだよね」
牢名主こと桂が、声をひそめて言った。
「あのふたりって?」
桂が明日美をぶつ真似をする。「関口さんと江田くんに決まってるじゃない」
「まさか。あのふたりが顔合わせるのって、引継ぎのときだけでしょう? せいぜい五分か十分くらいしかないじゃないですか。その間に江田くんが関口さんを口説いたとでも? だいいちその場には、みなさんもいらっしゃるじゃないですか」
「たしかに三宮さんの場合は、入る[#「入る」に傍点]ときもあがる[#「あがる」に傍点]ときも、あたしらがここにいるよ。でもあのふたりの場合は違うじゃない。関口さんがあがる[#「あがる」に傍点]ときと江田くんが入る[#「入る」に傍点]とき、つまり夕方の四時には、あたしらここにいないんだよ? ここにいるのは、あのふたりだけじゃない」
そう言われてみればそうだった。
「昼の十二時にあたしらあがる[#「あがる」に傍点]じゃない。そしたら関口さんひとりっきりでしょ? 特に平日の昼間なんて一時間にひと組くらいしか客こないんだから、暇じゃない。そこに江田くんがきてさ、ふたりでここでベタベタしてたって、おかしくないでしょう。江田くんは四時になったらタイムカード押せばいいんだし。関口さんも、タイムカードさえ押しとけば、夕方六時くらいまでここにいたって、タイムカードではとっくにあがった[#「あがった」に傍点]ことになってるんだし……」
「でも、社長とか槇さんがいきなりやってくるかもしれないじゃないですか」
「そしたら、チャイムが鳴るからわかるじゃない」
ホテル・サンライズの出入り口――駐車場入り口でもある――には赤外線のセンサーがついていて、そこを人や車が通ったら、フロントのなかに、ピンポン、というチャイムが鳴るようになっている。
「モニターで見れば、それが客か社長か槇さんか、すぐわかるでしょう? マズイと思ったら、あいてる部屋の鍵持って行って、そこに隠れてりゃいいんだしさ」
「でもそれ、なにか証拠でもあるんですか? ふたりがここで、そのう、なんと言うか……」
「別にないよ」
あっけらかんと桂が答える。「ないけど、若い男と女だよ? 絶対怪しいって」
明日美は苦笑した。
午後十一時少し前に、フロント窓口の上にあるパネルがブザーを鳴らした。コンピュータの画面の一部が点滅する。いま部屋のドアが開いた、という合図だ。同時に、入室時刻と退室時刻、料金その他が記されたレシートが吐き出される。チェックアウトだ。
それらの音を耳にしたパートタイマーたちが、どっこいしょ、と重い腰を上げる。やれやれ仕事だ、面倒臭いねえ、というニュアンスをたっぷり含んだ溜め息が、彼女たちの口から一斉にもれた。
料金を受け取り、明日美は精いっぱい愛想よく、ありがとうございました、またのご利用をお待ちしております、とマニュアル通りの台詞《せりふ》を口にした。とはいえたいていの客は、ありがとうご、あたりでそそくさと出ていってしまうのだが。
フロント脇にある四つのモニターに目をやる。そのうち、駐車場が映っているひとつのモニターに、髪の長い女の姿が見える。そこへさっきの、三十ちょっとに見える男が小走りに駆け寄る。ふたりは車に乗り込み、ゆっくりとそれをスタートさせた。
「ねえ、ちょっと、三宮さん」
わざとらしく、とんとんと腰を叩きながら、桂が声をかける。「あたしら、ちょっと疲れてるからさあ、掃除、あしたでいいでしょう?」
たしかにほかにも部屋はあいているから、あわてて掃除する必要はない。
「そうですね……」
と、明日美は少し考えて、「じゃ、あたしがやっときましょうか」
パートタイマーのうち何人かが、なにやら言いたげな顔をして目配せし合った。明日美が嫌味を言ったと解釈したらしい。
明日美としては、別に皮肉のつもりでそんなことを言ったわけではなかった。彼女たちの噂話の相手をさせられることに正直|辟易《へきえき》していたから、その場を逃れる口実がほしかったのだ。
「悪いねえ」
と、桂がにんまり笑う。明日美が部屋をひとつ掃除しておくことによって、彼女たちの明日の負担が減るからだろう。
「じゃあフロント、ちょっとお願いします」
明日美は返されたばかりのキィを制服のポケットに突っ込み、黄色いカゴに入っている浴衣、タオル、バスタオル、シーツ、枕カヴァー、ティーバッグ、石鹸《せつけん》、歯ブラシ、コンドームなどなどのセットを押し車に入れる。それを左手で押し、ひとまとめにセットアップされている掃除用具一式を右手で引っ張り、フロントを出た。ホテル・サンライズでは、通常ひとつの部屋の掃除はふたりひと組で行なうことが多いし、そもそもこれだけの荷物をひとりで運ぶのは大変だ。だからひとりくらい、わたしが手伝います、と言ってくれるのではないかと期待したが、やはり甘かったようだ。
まったく。暇なんだからとっとと帰れってんだよ――絨毯《じゆうたん》が敷き詰められた廊下をゆっくり歩きながら、明日美はひとり毒づいた。
しかし、彼女たちの気持ちもわからないではない。仕事があろうがなかろうが、一分でも遅い時間にタイムカードを押すことに執念を燃やしている彼女たちは、たしかにさもしいかもしれない。けれど、自分が彼女たちの立場だったら、絶対に同じことをやっているはずだ。
午前〇時五分。口々に「お疲れ様」「お先に」「またあした」と言いながら、パートタイマーたちがホテルをあとにした。
あしたの朝九時、彼女たちは出勤してくる。九時から正午まで、前夜の後始末をしていったん帰り、午後七時にまたやってきて仕事をする。だからというわけではないが、彼女たちはこのホテルの近辺に住む主婦がほとんどだ。ただ、ラヴホテルに勤務しているのは体裁が悪いと思う人も多く、たいていのパートタイマーは自分がここに勤めていることを近所にひた隠しにしているという話である。桂に至っては、ホテル・サンライズが建設される際、「ラヴホテル建設反対運動」の先頭に立っていたという話だから、なおさらだろう。
ひとりになった。
明日美はフロントを離れ、和室に入った。お茶を啜《すす》り、桂たちが「よかったら食べて」と残していった煎餅《せんべい》を齧《かじ》りながら、テレビの深夜番組をぼんやりと眺める。
テレビ台の下には、大きな電気シェーヴァーのようなかたちのスタンガンが無造作に置いてある。近ごろ物騒だから、なにかあったら使えと、社長の秋月がくれたものだ。
〈こいつはMAX二十万ボルト。プロレスラーだって一発でダウンするぜ〉
秋月はそう言っていた。が、もしほんとうに強盗が押し入ってきたら、こんなもので対抗できるとは思えない。相手が銃でも持っていたらどうするのだ。
明日美はスタンガンを手に取った。セーフティを外し、スウィッチを入れてみる。耳障りな音。青白い閃光《せんこう》。
その光を目にした瞬間、閃《ひらめ》いた。自分も秋月のように、経営者になればいい。そう、中華料理店の。そして自分が雇い入れた一流の料理人が作った料理を昭久と食べるのだ。ふたりっきりで。
馬鹿馬鹿しい。明日美は苦笑した。そんなお金がどこにあるというのだ。
明日美の月給が約二十万。昭久には、都と市から障害者福祉手当が合計一万九千五百円支払われている。それをなんとかやりくりし、なおかつ借金も返済しなければならない。昭久の入院費や治療費などに要した金は、一千万を軽く超えた。それらは貯金をすべて使い果たし、足りないぶんは借金して支払ったが、今度はその借金に追われるようになった。毎月決まった額を返済しているから借金が膨らむような事態には陥っていないものの、いつになったら全額返済できるのか、明日美にもわからない。
〈一緒に現金輸送車でも襲わへん?〉
「…………」
明日美は溜《た》め息混じりにかぶりを振った。
――午前二時。客はひとりもない。
明日美は畳の上に布団を敷いた。仮眠の際の寝床である。フロントを暗くし、ふたつに折った座布団に頭を載せて、横になった。
うつらうつらしていたら、ピンポン、というチャイムの音がした。跳ね起きる。客がきたのだ。
フロントの明かりをつけ、冷蔵庫から袋に入ったおしぼりをひと組取り出した。客がきたとき、ルームキィと一緒にこのおしぼりを手渡すのが、ホテル・サンライズの決まりだからだ。続いて、四台のモニターに視線を向ける。車が入ってくる気配はない。玄関に向かって歩いてくる人影がひとつ。女のようだ。パソコンの画面で時刻を確認する。午前二時五十六分。こんな時間に、女がひとりでラヴホテルにくるというのも変な話だ。
突然、背筋を悪寒が駆け抜けた。まさか強盗じゃないだろうな、と思ったのだ。
明日美は小走りに和室に向かい、テレビ台からスタンガンを取り出した。
自動ドアが開いた。女がひとり。連れはいない。
どうする? 追い返すか? それとも……
そんなことを考えていたら、ルームキィや料金を受け渡しするフロントのごく狭いスペースから、腰をかがめた女が、いきなりこちらを覗《のぞ》きこんだ。目尻《めじり》が少しだけ吊《つ》り上がった女の目。充血した目。「明日美さん」その目。その声。葉山しのぶ。
ぎりっ、という妙な音がすぐそばで聞こえた。それが自分の歯軋《はぎし》りの音だと気づくのにずいぶんかかった。
「明日美さん」
しのぶが小声で言う。「入れてくれへんかなあ……ねえ、話だけでも聞いてほしいんよ」
明日美は無言のまま鍵《かぎ》の受け渡し口にスタンガンを突きつけ、スウィッチを入れた。
目の前でスタンガンが電光を発したことに相当驚いたらしく、しのぶはひゃっと叫んで顔を引っ込めた。どすん、という音が聞こえた。床に尻餅《しりもち》をついたらしい。
「帰れ」
「……明日美さん」
「帰れよ」
しばらくは、館内に控え目な音量で流れている有線の音楽しか聞こえなかった。やがてしのぶが立ち上がったらしい気配がした。
「……またくるわ」
しのぶの力ない声に続いて、自動ドアが開く音が明日美の耳に届いた。
七年近く前、明日美をJHCに勧誘したのが、当時明日美が働いていたパート先でできた友人のひとり、葉山しのぶだった。
ある日しのぶに、おもしろい話があるからと、ひとりの男に引き合わされた。しのぶは、すごい人なんだから、わたしたちがふつうに暮らしてたら縁のないような人でさ、などとその男を持ち上げていたが、待ち合わせ場所の喫茶店にやってきたその人物は、明日美の目には、ただの成金にしか見えなかった。服も時計もセカンドバッグも車もなにもかも、ほうら、俺って金持ちだろう、すごいだろう、と一生懸命主張しているようにしか見えなかったのだ。
溝口《みぞぐち》と名乗ったその男は、JHCってご存知ですか、と切り出した。ジャパン・ヘルス・コーポレーションという会社の略称だと溝口は言った。そして彼は、現代日本人の健康がいかに蝕《むしば》まれ、それが人類という種の存続を脅かしているかを力説した。いまにして思えば、人間健康がいちばんですね、というひとことで要約できてしまう話だったわけだが、なんだかわけのわからない横文字や専門用語の羅列に、当時の明日美は幻惑されてしまったのだった。
続いて溝口は、JHCの商品――健康食品や健康器具――がいかに素晴らしいかを、さまざまなデータを並べて澱《よど》みなく説明した。
やがて話がどんどんそれてゆく――現在の生活に満足していますか。不満を感じるところはありませんか。あなたの夢はなんですか。いまの生活を続けていて、その夢が叶《かな》うと思いますか。
そして溝口は、JHCのシステムを説明した。
〈JHCは製造メーカーから直接商品を仕入れておりますから、実に手頃なお値段でお客様に商品を提供することができます。安い買い物をした、儲《もう》かった、それで終わるのもよいでしょう。ですが、あえて通常の流通を通した場合と同額のお値段で商品を提供し、そこで生じる流通マージンの差額分を消費者に還元するとしたらどうでしょう。たった一度、安い買い物をしてラッキーだったね、で終わらないシステム、消費者の手による消費者のためのマーケット……それこそが、JHCが開拓しているものなのです。あなたがJHCの商品を購入しますね。それからお友達にもJHCの商品を勧めたとします。このお友達が商品を購入したら、あなたには、お友達がお買いになった商品の定価の八パーセントが還元されます。そうしてあなたが十人のお友達にJHCの商品を勧めてくださったなら、あなたはヘルス・ディストリビューター、すなわちHDという資格を得ることができるのです。あなたの下についたお友達も、JHCの商品の素晴らしさをほかのお友達に伝えるでしょう。そうなると、HDのあなたには、そうやって販売された商品の定価の十パーセントが還元されるのです。そうしてある一定の基準を超える組織ができたならば、あなたにはチーフ・ヘルス・ディストリビューター、つまりCHDという資格が与えられます。CHDになれば、還元率は定価の十二パーセントです。やがてCHDとしての成績がある基準に達すれば、あなたにはヘルス・エージェンシー、HAの資格が与えられます。HAへの還元率は十五パーセントです――さあ、ここで考えてみてください。あなたの下についたみなさんが三十万円の商品を十人に紹介したならば、あなたには単純計算で四百五十万円が還元されるのです。あなたのいまのお仕事で、四百五十万円を手にするには、どれだけの労働が必要ですか? どれだけの時間が、月日が必要ですか? よく考えてみてください、商品を購入なさった方が十人ではなく、二十人だったらどうです? 三十人だったら?〉
溝口が語るJHCとやらのシステムは、明日美には、マルチ商法としか思えなかった。マルチにありがちな、ヘルス・ディストリビューターだのヘルス・エージェンシーだのというでたらめな横文字のネーミングも、その思いを強める要因となった。
正直にそう言うと、溝口はにっこりと微笑んだ。
〈よく誤解されるんですよ。しかしね、三宮さん。あなたはネズミ講やマルチ商法、マルチまがい商法について、どれだけの知識をお持ちですか? ほら、いまわたしが描いたこの絵、丸があってそこから棒が何本か引っ張ってあって、その下に丸があって、という――あなたが抱いているマルチのイメージとは、この絵のかたちだけで終わっているのではありませんか? 失礼ですが、三宮さんは法律について、どれだけの知識がおありですか? いわゆるマルチのどこが法的に問題なのか、ご存知ですか? JHCには、その心配はありません。それでも疑問がおありでしたら……〉
明日美は半信半疑のまま、週に一度開かれているJHC支部の講習会に連れて行かれた。
会場には、見るからに高価そうなスーツに身を包んだ男たちと、ブランドもので身を固めた女たちが、外車に乗って現れた。その腕には決まってロレックスの時計が光っており、彼ら彼女らはみな一様に明るく、話の内容はとてもポジティヴで、熱っぽく自らの夢を語っていた。
明日美はしのぶに勧められるまま、貯めていたへそくりで健康食品を購入した。二万八千円だった。すると翌週の講習会では、明日美は新入会員として、講習会に出席している百人以上の会員たちからあたたかい拍手を受けた。全員が、頑張ってください、一緒に成功しましょうね、と声をかけてくれた。それまでの人生で、こんなにたくさんの人から祝福されたのははじめてだったし、必要とされていると感じたのもはじめてだった。
講習会のあと、明日美たちのグループのミーティングが喫茶店で開かれた。彼らはそこでコーヒーなどはオーダーせず、トマトジュースやミルクをオーダーしていた。自分たちは健康食品や健康器具を売る人間なのだから、自分の健康には人一倍気を遣わなければならない。だからこうした場でも、体によいものしか口にしないのだ――彼らは口をそろえてそう言った。当然ながら、煙草を喫う者などひとりもいなかった。JHCに入って禁煙した、という者も多かった。それが会員としての自覚を持つことだと気づいたのですよと言われて、明日美は素直に感心した。
明日美がしのぶと溝口に受けたような三者面談タイプの勧誘は、JHCでは|FF《ツーエフ》と呼んでいた。フェイス・トゥ・フェイスの略ということだった。それが終わって勧誘対象者をCHDの溝口の事務所なりに連れていってみんなで説得することは|AF《エーエフ》と呼ばれていた。アフター・フォローの略である。毎日行なわれるミーティングで、ほかの会員たちが、明日午後七時三十分より喫茶店××にてFFです! 以降のAFよろしくお願いします! などと元気よく報告するのを見聞きするたび、明日美は、カッコいいなあ、と無邪気に思っていた。
明日美も熱心に人を勧誘した。もともと友人が多いタイプではなかったし、口もうまくないから、なかなかうまくいかなかったけれども、何人か声をかけるうち、やっと近所の主婦をFFに持ち込むことができた。彼女は、どうせ買うところだったからと、二十二万円の空気清浄器を購入した。明日美の口座に一万七千六百円が振り込まれた。手数料も引かれていなかった。その数字を目にしたとき、大袈裟《おおげさ》でなく、ほんとうにエクスタシーのようなものを感じた。
そして明日美たちは、受講料二万円を出して、特別講習会にも参加した。
窓をカーテンで閉ざされて照明が落とされた学校の体育館のようなところに、何百人もの会員たちが入れられ、さまざまなHA傘下の会員たちが適当にシャッフルされて、見ず知らずの人とパートナーを組まされる。講習会のあいだ、ずっとその人と行動を共にしなければならない。明日美は伊東《いとう》という青年とパートナーを組まされた。
パートナーと向かい合わせで座らせられた。司会者が言う――相手に向かって、立ちなさい、と命じなさい。言われた人は、心から立ってやろうかと思うまで立ってはいけません。なんだかよくわからなかったので、伊東から立ちなさいと言われたとき、明日美はすぐに立ってしまった。立っているのは明日美ひとりだった。ぽつり、ぽつりと立ち上がる人が増えていった。簡単に立ってはいけなかったのかな、と思った。
交替し、明日美が立ちなさいと言うと、伊東は腕組みをしてふん反り返ったままだった。ひたすら立ちなさいと言い続けた。結局伊東は最後まで立たなかった。口調が一本調子だったからだよ、と伊東は言った。感情がこもっていないんだもん、と。
殴ってやろうかと思った。
司会者が、全員に奇問としか思えない難題を突きつける。それを解かねばならない。解けない。パートナーの伊東も解けない。周囲の人たちはつぎつぎに正解を出してゆく。取り残されるという感覚に襲われる。するとすでに答えを導き出した人たちが、司会者の合図で、問題を解けない人をサポートする。ヒントをくれたりするのだ。解けた! その喜びに体を震わせた途端、司会者が言う――JHCの会員たちは、こうして困った仲間がいると、必ず助けてくれるのです!
次に、アトランダムに選ばれた五組のパートナーが集められ、十人単位のグループが作られた。グループでは、ひとりずつ順番に中央に立たされ、取り囲んだ残り九人が、中央にいる人をとにかく褒めちぎる。なんでもいい、嘘でもいいから褒めまくるのだ。中央に立った、もうどうしようもなく冴《さ》えない中年の男に、貫禄《かんろく》が違うだの男前だの天才だのと根拠もなく言いまくる。明日美は、カッコいい、素敵です、と大声をあげ、しまいには黄色い悲鳴まであげた。すると不思議なもので、褒められ続けた人たちは、ほんの数分で、自信に満ちあふれた「いい顔」になるのだ。他愛もない、褒められている本人も嘘八百だとわかりきっているお世辞でも、自信に繋《つな》がるものらしい。
司会者が言う――ほら、そうして自分のいいところを見つけなさい。それを他人に認めさせなさい。すると嘘やお世辞がほんとうのことになってゆくのです、ポジティヴに、ポジティヴになりなさい。暗い心なんて吹き飛ばしてしまいなさい。
心にしまっていた恥ずかしい過去を告白しなさい。自分の嫌いなところは? なにを恐れていますか?
そういったことをグループ内で告白させられた。泣きながら、どろどろした過去を訴える者もいた。人間性を疑うようなことをうつむいて告白し、しまいには頭を抱えてしまった者もいた。
明日美は言った――祖母が死ぬと、母はあたしを捨てました。あたしは、かつて母と自分を捨てた父のところに引き取られました。そしてあたしは、父を捨てました。もう十八年くらい会っていません。
すると、お父さんとお母さんを許してあげなさいねと言って、グループのみんなが明日美にすがってひーひー泣いた。伊東は天井を見据え、唇を震わせて涙を流していた。
今度は、ひとりずつ、自分の目標を言わされた。そしてそれを聞く周囲の人は、この人のその目標のためならば自分も身を粉《こ》にして協力してやろう、一緒に成功しようと思ったら席を立ち、相手と握手をしなさい、とのことだった。そうでなければ立ち上がってはいけない。目標を語る人は、立ち上がらない相手を納得させるまで目標を語りなさい。そう言われた。ところが口にしていい言葉は、目標そのもの、それだけだった。これこれこういう理由だから、自分はそれを目標にしており、そのために頑張っていて……などと説明してはいけないというのだ。なんてむずかしいことを、と明日美は思った。
わたしがほしいのはBMWです。わたしの目標は喫茶店のマスターです。わたしの目標は親の借金返済です――いろいろな理由を、それぞれが、涙を流して訴えた。絶叫する者もいた。それでも座ったままの人に、どうしてわかってくれないんだよ! とつかみかかる者もいた。
明日美は叫んだ。立ち上がる気配すら見せないグループの仲間たちに向かって、繰り返し繰り返し、ひとつの言葉を叫び続けた。
〈あたしが! ほしいものは! 白いマンションです!〉
明日美は毎日のように、溝口の事務所があるマンションに通った。もちろんしのぶも一緒だった。溝口が所属する、つまり明日美やしのぶも所属している柴田《しばた》というHAの事務所にも、週に二、三度は足を運んだ。たくさんの人が集まり、それぞれが目標を語り、互いに互いを励まし合い、だれかが連れてきた、会員になろうかどうしようか迷っている人をみんなで必死に説得した。そういう人たちに、JHCってほんとうに儲《もう》かるんだと思わせるために、事務所に顔を出すとき、明日美たちは、なけなしのお金で買ったブランドものを必ずどこかに身につけていた。そのうち、ほかの仲間たちのブランド品が増えてゆく。きのうまで国産の腕時計をしていたサラリーマンが、ある日ロレックスの時計をしてくる。それを見て明日美は思った。あたしも頑張らなきゃ。そして自分たちがいかにポジティヴで素晴らしくて正しいことをしているかを確認し合うのだった。
わたしはいままでなにもかもが不安で寂しくて自分がなんなのかわからずに張り合いのない毎日を送っていたけれど、いま、生きてるって感じがするの! お金儲けは二の次なの、それより、みんなにもこんな素敵な世界があるんだって教えたいの!
目を輝かせてそう言う大学生の女の子の手を取って、明日美もしのぶも、そうよね、そうよね、とうなずき続けた。
いまにして思えば、あれは自分たちの手で、自分たちをマインド・コントロールしていたのだとわかる。だからこそ、やりたくてもお金がないですから、としぶる学生を強引にサラ金に連れて行き、金を借りさせて商品を買わせる、ということを平気でやれたのだろう。
そうした日々を送っているのだから、昭久とは会話もなくなる。というより、あのころ明日美は、昭久を軽蔑《けいべつ》していた。JHCの会員になって以来、自分はどんどん成長している――と明日美は信じていた――のに、昭久の凡庸さときたらどうだろう。そう思っていたのだ。一分一秒を惜しんで夢の実現に向けて邁進《まいしん》しているJHCの人間を見ている明日美の目には、昭久が、ただその日その日を漫然と生きているだけの低俗な人間に見えてならなかった。だから昭久を勧誘し続けた。夫も、JHCに入ればその素晴らしさを理解するはずだ。彼の人生も輝き出すだろう。昭久を勧誘するのは昭久のためなのだ。これは妻の務めだ。そう信じて疑わなかった。
しかし昭久はFFを拒否し続けた。結婚してこのかた一度も声を荒げたことのない彼が、いいかげん目を覚ませ、と怒鳴ったとき、明日美の気持ちは決まった。こんな馬鹿とはもう一緒に暮らしてゆけない。
そんな明日美たちにとって、CHDやHAの地位にある人間は、まぎれもないスターだった。若い女の子のなかには、HAに声をかけられると赤面して舞い上がり、ただそれだけで泣き出す者すらいた。ほとんどカルトの教祖様である。HAの××さんに頑張ってねと言われた、ああ、身にあまる光栄ですわ! あのときの彼女たちの表情を言葉にしたら、そういったものになるだろう。
やがて明日美は、柴田と関係を持った。柴田からすれば、講習会が終わって、会場で今夜の遊び相手を選ぶ際に、たまには年増もいいか、と気まぐれで声をかけただけだったのだろう。だが明日美は、柴田に抱かれながら、あの愚劣な馬鹿と別れられる、柴田さんと一緒になれるのだと、涙を流していた。
それから数日後。昭久が首を縊《くく》った。
遺書にはこう書いてあった。
最近明日美の様子がおかしいので、こっそりあとをつけてみた。タクシーを降りた明日美が入っていったのは都心のホテルだった。明日美は喜々とした表情を浮かべ、ラウンジで待ち合わせていたらしい見知らぬ男と腕を組み、エレヴェーターに乗り込んでいった。ロビーで待ち伏せしていたら、数時間後、明日美と男が現れた。男がタクシーを停め、明日美をそれに乗せた。すると明日美は別れを惜しむように、男とキスをしていた。
それが動機らしかった。
発見が早かったためなんとか命は取り留めたものの、酸素欠乏により脳細胞の一部が死滅したとかで、昭久は歩行が困難になり、ほとんど聞き取れないほど不明瞭《ふめいりよう》な言語しか発することができなくなった。
病院のベッドで昭久の寝顔を毎日見るうちに、明日美のJHCに対する熱も冷めていった。JHCにのめりこんでいるあいだは人生を謳歌《おうか》している成功者と思えていた溝口や柴田に対する印象も、はじめて喫茶店の一角で溝口を見たときのそれに戻っていった。つまり、ただの成金。とはいえいま思えば、昭久に対する罪悪感が明日美の目を覚まさせたというよりも、ほかの会員たちと接する機会がなくなったせいで、自ら望んでかけていたマインド・コントロールが解けたのだ、といったほうがより正確だろう。
わたしのせいで、この人は体に重いハンディを背負うことになった――明日美はその罪悪感に苛《さいな》まれ続けた。そしてそれは、そのまま葉山しのぶへの憎悪にすり替わっていった。自分でも筋違いだということはわかっている。しかし、葉山しのぶが自分をJHCに誘わなければこんなことにならなかったのだ、という思いが消えることはなかった。
結局明日美がJHCで得た収入は、最初に手にした一万七千六百円で全部だった。
〈結局JHCあかんかって、あれからまた別のマルチに手を出したんやけど、そこも失敗でね。やっぱりマルチって、儲かるのはごく一部の人間だけみたいやね〉
今朝、いや、もうきのうの朝か、強引に明日美を喫茶店に引っ張り込んでから、しのぶはそう言っていた。懲りない女だ。
〈あれ知ってる? 英会話の教材売るやつ。わたし、それもやってたんよ〉
話に聞いたことはある。
〈たとえばな、昔からあるやつやったら、住民票の写しとか、名簿業者から手に入れた名簿なんかを見てな、いけそうなやつに葉書出したり電話したりするんよ。ほら、あなただけに素敵なお知らせがあります、いうやつ。それとか、街でアンケート取って、住所と電話番号書いたやつのところに連絡取ったりしてな。地方から出てきてひとり暮らししてる、女に縁のない、パッとしない若い男がいちばんええターゲットなんやけどね。女のほうも同じ。冴《さ》えない女っておるやない。彼氏いーひん、こいつ一生処女ちゃうか、みたいな女。そういうのがいちばんええんよ。で、呼び出して説得して、教材買わせるわけ。でもたいていの奴はな、だまされてるって薄々気づいとるんよね。はっきりわかっとる奴もおるよ。でも、なんや寂しいんやろな。他人との接点みたいなんができたわけやから、それ失いたくないんよ。その接点に二十万とか三十万とか出すわけ。ほんまに英語の勉強したい奴なんて、一パーセントもおらんのと違うかなあ〉
しのぶはそうまくしたてていた。
〈ただね、ほかの子はええんよ、若いから。男、どんどん引っかかるしな。でも、わたしみたいなおばちゃんやったらもうあかん、あっちが退《ひ》いてまうんよ。まあ、買った奴のなかにはストーキングおっぱじめる奴もおるらしいから、わたしはその心配ないだけ助かったけど……だからわたしの場合は、『いまここにこうしているわたしはほんとうのわたしじゃない、ほんとうのわたしを見つけなきゃ』みたいなこと思ってそうな若い女の子とか、なんや鬱屈《うつくつ》した生活送っとって、こんなはずやなかったとか、もっと世間広げたいとか思ってそうな主婦なんかを狙ってたんやけどね〉
明日美が露骨にそっぽを向き、聞きたくない、という態度を取り続けているのもまったく気にならないのか、しのぶはセーラム・ライトの煙を吐きながら話し続けていた。
〈でもそれも、大してお金にならんのよ。手応《てごた》えありそうな奴見つけて、食らいついてなんとか買わせて、それでマージンもらうわけやけど、それまでかかった時間って大変なもんやろ? 結局時給にしたらいくらなんやろって思って計算してみたら、五円くらいにしかならへんかったん。がっかりしたわ〉
そしてしのぶは急に声をひそめ、
〈わたし、あれから離婚したんよ。子どもふたりも亭主が引き取ったんやけどね〉
あんたみたいな母親に育てられずに済んで、子どもたちはラッキーだったわね、と胸の内で呟《つぶや》いた。
〈これでもけっこう不幸な女なんよ。子どもたちに見捨てられてな。離婚決まったとき、面と向かって言われたもんね。お母ちゃんと一緒は嫌や、お父ちゃんと暮らすって。そやから、半年にいっぺんくらいしか、子どもたちと会われへんかったん〉
髪の毛をかきあげ、芝居がかった調子で溜《た》め息をつく。おまえが不幸なんじゃなくて、おまえの子どもが賢明だっただけだ、と言ってやりたかった。
〈なあ明日美さん。子どもに捨てられた親の気持ち、わかる?〉
こいつ、わざと言ってるんじゃないだろうなと思った。
〈それに最近な、元亭主、再婚してな。まだ三十ちょっとの若い女とや。そしたら子どもたちが、わたしとしゃべってるときにやで、うちのお母さんがって言うんや。その女のこと、わたしの前でお母さんって言うねんで。そしたら、なんや知らん、腹立ってなあ……〉
手を組み合わせ、いまにも泣き出しそうな顔をぐっと近づけて、しのぶは言った。
〈その女、見返してやりたいんよ。子どもたちも見返してやりたいんよ。あんな血ィの繋《つな》がらん女やない、ちゃんとおなか痛めて自分たちを産んでくれたこの人が、ほんまもんのお母ちゃんやって。お父ちゃんやのうて、お母ちゃんと一緒に暮らせばよかったって。そう思わせたいんよ〉
それには金が必要だとしのぶは続けた。
〈わたしがお金持ちになったら、それで贅沢《ぜいたく》な暮らししてたら、子どもたちも見直してくれると思うんよ。だからお金、ほしいんよ〉
明日美は呆《あき》れた。なんて即物的な女なのだろう。
〈それに借金もあってな。三十ちょっとの若い女に対抗するんやから、やっぱ自分も綺麗《きれい》にならなあかん、そう思うたんよ。継母より実の母親のほうが綺麗やって、子どもらに思うてほしかったんよ。ほんでサラ金に金借りて、美容整形したりしたん〉
それでやたらと若く見えるのか。
〈わたし、こないだまで目の下に隈《くま》があって、全然消えへんかってんけど、それはここの脂肪が薄うなってたからなんやて。そんでコラーゲン注射したん。それやったら皺《しわ》も消せるしな。もう顔のあちこちにコラーゲン注入しまくりや。これで十は若うなったわ。ま、おかげで借金取りに追い回されるようになってもうたけどな〉
こいつは筋金入りの馬鹿だ。かかわるだけ時間の無駄だ。
〈あと、胸も大きくしたんよ。生理食塩水のパッド入れてん。せやけど、なんや不自然になってもうて。半分に割ったゴムボールくっつけたみたいやねん。無理やり膨らませとるから、血管びしびしでな、なんや、目ん玉の端っこみたいな感じになってしもうとるんよ。うー、おっぱい血走っとるでー、みたいな。かたち崩れんのはええねんけど、おっぱい硬うなってもうて、いかにも豊胸手術しました、みたいな感じで嫌やねん。けど、服着とるときは、そんなんだれにもわかれへんしな。おっぱい大きいって、男がみんな見るから、道歩いてたら気持ちええよ〉
そう言って笑うしのぶの顔を見ていたら、吐き気がしてきた。
明日美は自分のコーヒー代をテーブルの上に置くと、無言のまま席を立った。その腕を、しのぶがつかんだ。舌打ちをしてしのぶを睨《にら》みつけた。しのぶの手に力がこもった。腕に、がさがさした感触が伝わった。自分の腕をつかむしのぶの手に目を向けた。関節の部分にこれでもかとばかりに皺が寄っている、節くれだった、荒れた手だった。どんなに若作りしても、手や指だけは年齢をごまかすことができないと聞いたことがある。あれはほんとうのことらしい。
〈いまスーパーのレジやってんねんけど、その給料じゃ、利子もろくに払えへんのよ……なあ、力貸してほしいんよ。ふたりでお金|儲《もう》けしよう? いろいろ考えたんやけど、やっぱ明日美さんのほかに頼れる友達なんていーひんし、今度こそ成功したいねん。な、友達やと思うて力貸してんか?〉
馬鹿野郎。そう思って彼女の手を振りほどいた。すぐにしのぶも立ち上がった。そして明日美の耳に素早く耳打ちしたのだった。
〈一緒に現金輸送車でも襲わへん?〉
呆れた。たしかに昔から、なにかセンセーショナルな事件が起きると、新聞や雑誌の記事を読み耽《ふけ》り、テレビのワイドショーを録画しては何度も見返すような女だった。だが、まさかそうしたことを自分自身の手で起こそうとするほど頭の悪い女だとは思わなかった。
〈あんた、頭おかしいんじゃないの〉
先に店を出た。明日美さん! としのぶが駆け寄ってきた。
〈なあ明日美さん、別にいますぐ返事ほしい言うてないよ。よう考えてみて。それで、もういっぺんじっくり話し合おう? な?〉
友達やないの、と言って明日美の肩を軽く叩《たた》き、しのぶがへらへらと笑った瞬間、頭に血がのぼった。
明日美はしのぶの襟首をわしづかみにした。しのぶが目をむいた。
〈なにうったらばったら[#「うったらばったら」に傍点]抜かしよるんじゃ、このクソバカタレが〉
しのぶが、目を丸く見開いたまま口をぱくぱくさせた。
〈二度とうちの前に顔出すな。今度ツラ見せたら、整形に一億はかけんならんような顔にしたるど。わかったか。わかったら早う去《い》ね〉
低く押し殺した調子でそう言った。興奮のあまり、ここ二十年くらい使っていない方言が出てしまっていたこと、ちょっと突っ張っていた中学時代の言葉遣いをしてしまっていたことに明日美が気づいたのは、しばらくたってからだった。
なにが現金輸送車を襲う、だ。そんな計画がうまくいくものか。だいたい、三十九歳と四十六歳の女の強盗コンビなんて聞いたことがない。それだけで目立つし、ふたりとも体を鍛えているわけでもない立派な中年なのだから、動きだって相当鈍いだろう。その場で捕まるのがオチだ。
明日美は和室の畳の上にごろりと横になった。天井を眺める。
〈あたしが! ほしいものは! 白いマンションです!〉
――うるさい。
「あたしがほしいものは、アキちゃんとの静かな生活です」
脳裏に響く過去の声を消したくて、口に出して言ってみた。「アキちゃんとふたりっきりですごす、なんの変哲もない暮らしです。できれば子どももほしかったけど、それは無理みたいです。多くは望みません。ただふたりで、ずっとこのまま、ひっそりと暮らしていたいだけです」
これがあたしの本心だ、これがあたしの本心だ、これがあたしの本心だこれがあたしの本心だこれがあたしの本心だこれがあたしの……
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眠い。体が動かない。だが早く朝食の準備をしなければ。弁当も作らねばならない。首をひねり、隣の布団で眠っているももこに目をやる。カーテンからもれてくる朝日に照らされた娘の寝顔。つい口許《くちもと》がゆるむ。
よし、と胸の内で気合いを入れて、史郎は上半身を起こした。
『簡単に作れるお弁当のおかず百選!』という本を片手に、ももこが幼稚園に持って行く弁当作りに取りかかる。
史郎は、ももこが幼稚園に入るまで、九條に殴られたことも怒鳴りつけられたこともなかった。組に入って最初の二年くらいは、ずっと九條の身のまわりの世話をしてきたし、数えきれないくらいヘマもやったから、それこそ一度や二度は半殺しの目に遭ってもよさそうなものだったのに、なぜか九條は史郎に優しかった。
だが一度だけ、九條に怒鳴られたことがあった。ももこの弁当についてである。
〈お嬢さん、幼稚園に入られたそうですね。ちゃんとお弁当作ってますか?〉
ある日九條にそう聞かれた。史郎は、料理なんて男のするもんじゃないと思っていたし、朝早く起きてせっせと娘の弁当を作っているヤクザなんてみっともないと九條に叱られそうな気がしたというのもあって、正直に話した。コンビニエンス・ストアで弁当を買ってきて、娘の弁当箱にそれを詰め込んでいる、と。
すると九條の形相が一変した。史郎は全身がすくみあがり、一歩も動けなくなった。
〈この馬鹿野郎が! 他人《ひと》様の前で娘にコンビニの弁当なんぞ食わせやがって、恥ずかしくねえのか! おまえそれでもヤクザモンか!〉
ヤクザは、なによりも面子《メンツ》と見栄を重んじる。どんなに貧しい生活をしていても、見栄のためなら湯水のように金を使うのが当たり前だ。四畳半一間のアパートに暮らしていながらベンツを乗り回す者や、煙草銭にも苦労しているくせに、外食の際は店でいちばん高いものを注文するという人間は、この世界ではちっとも珍しくない。そのことで怒られたのかと思い、史郎はあわててこう言った。もっと見栄えのいいものを食べさせますんで、堪忍してください。
途端に九條のティーカップが顔面目がけて飛んできた。
〈おまえそれでも親か! 子どもの健康ってもんをどう考えてやがるんだ! コンビニの弁当にはな、保存料だのなんだのがたっぷり入ってるんだぞ! 飯には油が塗りたくられてるんだ! 娘の弁当くらいてめえで作れ! わかったか!〉
そのとき史郎は、いまイギリスに留学している九條のふたりの息子の名前を思い出した。長男は、人間健康がいちばんという理由で健一《けんいち》。次男は、じょうぶであれという願いをこめて丈夫《たけお》と名づけられたのだそうだ。
史郎が九條組に入ったころ、九條の妻、つまり姐《あね》さんはまだ日本にいた。掃除や洗濯、食事の後片付けなどは史郎たち行儀見習いの若い衆がやっていたものの、料理だけは姐さんが作っていた。
姐さんはこう言っていた。
〈子どもたちが食べるものは、あたしが作らないと怒るのよ、あの人。ちゃんと栄養のバランス考えて作れって、栄養学の本渡されてねえ〉
九條が刺青《いれずみ》を入れない理由も、スミを入れると内臓、特に腎臓《じんぞう》を悪くするから、とのことだった。
とにかく史郎はそれ以来、ももこの弁当は自分で作ることにした。
翔子が出て行くまで、史郎は料理といったらカップラーメンくらいしか作ったことがなかったが、いざやってみると、料理は意外とおもしろいものだった。いまでは翔子よりも自分のほうが腕は上なのではないかと自負している。最近は裁縫や編み物もやるようになった。今年の冬は、ももこに手編みのセーターとマフラー、そして手袋を編んでやるつもりだ。
ももこはどういうわけか、他人が食べているものをほしがるところがある。だれそれくんのお弁当にはハンバーグが入っていたから、ももこのあしたのお弁当にはハンバーグを入れてね。だれだれちゃんのお弁当に入っていたフルーツサラダがおいしそうだったから、あしたのお弁当にはフルーツサラダ入れてね。毎日のようにそうリクエストされる。やめなさい、みっともない。そんなさもしい娘に育てた覚えはないぞ。そう思いはするのだが、いざももこから笑顔で「入れてね」と言われると、ついふにゃふにゃと顔をゆるめてしまい、「OK!」と返事をしてしまう。われながら困ったものだと思う。
きょうのリクエストは、チーズ入りのオムレツだった。冷えたらチーズが固まって、あまりおいしくないだろうなと思うが、リクエストされたのだから仕方がない。
包丁を使って、子どものお弁当の定番「タコさんウィンナー」をふたつ作った。あとは野菜類を弁当箱に詰めてゆく。このくらいの年頃の子どもには野菜嫌いの子が少なくないが、ももこの場合ピーマンと椎茸《しいたけ》以外はなんでも食べられるので助かる。そのうちこのふたつも食べられるよう教育しなくては。
教育、という言葉から、オサムのことを思い出した。ゆうべあれから病院に運ばれたが、どうしているだろうか。きっと食事も摂《と》れない状態だろう。きょうは仕事も休むだろうから、夕方にでも暇を見つけて見舞いに行こう。
とはいえ、オサムが自分を軽く見ていることは、充分すぎるほどわかっていた。ゆうべ堺に、どんな躾《しつけ》をしているんだと怒鳴られたが、オサムは自分の言うことなどほとんど聞きやしない。口にこそ出さないものの、オサムは史郎を見下《みくだ》している。小馬鹿にしていると言ってもいい。要するにナメているのだ。史郎がこんな、およそヤクザらしくない顔つきと雰囲気であることや、組のなかでパッとしない、ヤクザの落ちこぼれみたいな存在であることがその原因のひとつだろう。
そういえば、こんなこともあった。
ふだん史郎は、カスリ[#「カスリ」に傍点]の取り立てはしていない。外見が外見だから、堅気にまで軽くあしらわれ、取り立てにならないからだ。しかし一度だけ、オサムの教育の一環だからと堺に言われ、ふたりで縄張内《シマウチ》の風俗店などへ取り立てに行かされた。
ほかの組員相手ならすぐ支払われるはずのカスリも、相手が史郎だと、向こうは突然威丈高になる。払ってやるからありがたく受け取れ、というような態度に出るのだ。ぺこぺこ頭を下げて集金し、さて事務所に戻ろうかとなったとき、それまで呆《あき》れたような顔で史郎の後ろについていたオサムが、車のエンジンをかけながらぼそりと言った。
〈あんたそれでもヤクザかよ〉
青木や堺だったら、その場でオサムを半殺しにしただろう。九條だったら、それこそ殺してしまうかもしれない。だが史郎は、思わず聞こえないふりをしてしまった――。
弁当箱の、飯を入れる部分の大きさに合わせて、焼き海苔《のり》を切る。ふたつに折る。その中央をキッチン鋏《ばさみ》で器用に切り抜き、飯の上に載せる。白い飯が、ウサギのかたちに浮き上がる。やはり細く切った海苔やさくらんぼなどで、ウサギの顔を作ってゆく。
「パパ、おはよー」
襖《ふすま》が開けられ、ピンク色のパジャマを着たももこが、両手で目をこすりながら出てきた。
「おはよう。きょうは珍しいな」
いつもは史郎が起こすまで絶対に目覚めないのに。
「顔洗ってきなさい。もうすぐごはんだぞ」
「はあい」
ぺたぺたと足音を立てて、ももこが洗面所に向かう。ちゃんとスリッパを履きなさいと言ったが、どうも聞こえていないようだった。
シマウチの飲食店やバー、スナック、風俗店などに貸し出したおしぼりを回収し、新しいおしぼりと交換する。それが史郎の仕事だ。ほかにも観葉植物や壁に飾る絵のレンタルもやっている。組に入るまで知らなかったが、こうした仕事は古くからあるヤクザのシノギのひとつであるらしい。暴対法施行以降はこの仕事も少々やりにくくなっていると聞いたが、少なくとも当の史郎は、「やりにくい」と感じたことはない。ちなみに堺は、つまみや氷といったもので商売しているらしい。特に氷は値段があってないようなものだから、いいシノギになるのだそうだ。
九條経営コンサルタントが入っている雑居ビルの一階に、その会社、「矢野リース」がある。つまりここの社長は九條ではなく、九條組いちばんの武闘派と呼ばれている幹部の矢野である。ただ、矢野はいま傷害罪で服役しているため、その間は九條が社長代行をしている。
〈残念だったなあ、史郎。矢野が務めに出たら、このシノギ、てめえのモンになると期待してたんだろう? 矢野もよ、やっぱおめえじゃ頼りねえんだろうよ〉
矢野が逮捕されたあと、堺に嫌味ったらしくそう言われた。
史郎はそんなことを微塵《みじん》も考えていなかったから、むしろ堺のその言葉に驚かされた。なるほど、これがヤクザの発想というものか。身内が刑務所に入る。死ぬ。あるいは足を洗って堅気になる。するとその身内のシノギを自分のものにできる……。
また、これは史郎の思い上がりかもしれないが、もしかしたら堺は嫉妬《しつと》しているのではないだろうか、とも思った。
史郎が九條組に入ったのは、堺の強引な誘いを断れなかったからだ。
当時九條組は、上部組織の朝倉《あさくら》組から独立したばかりで、ひとりでも多くの組員がほしい、という状況だったようだ。それで多くのチンピラがかき集められることになった。
堺は史郎の中学の先輩で、一緒に悪さをしたことが何度もあったため、声をかけられたわけだ。
とはいえ史郎は、別に不良だったわけではない。内気で気弱で頭が悪く、なんの取り柄もない史郎を相手にしてくれたのが、いわゆる不良グループの人間しかいなかっただけだ。たしかに彼らの使い走りでしかなかったけれど、ほかに居場所はなかった。たとえ使い走りでも、相手にしてもらえるだけで嬉《うれ》しかった。だから犬のように喜々として命令を受け、懸命に尽くした。堺は、その集団のリーダー格だった。
〈なあ史郎。おまえまさか、俺の頼みを断るつもりじゃねえだろうなあ?〉
ぐっと肩を組まれ、耳許《みみもと》で囁《ささや》かれた。体が震えた。怖かった。
〈組、入るよな? よお? 入りませんなんて言葉、聞きたくねえなあ、おい〉
なにがなんだかわからなくなった。ただ自分の口がぱくぱく動いていたことだけは覚えている。
そのころ史郎は、ソープ嬢として働いている翔子のアパートに転がり込み、ヒモのような生活をだらだらと送っているところだった。中学を出て就職したものの、どんな職場にも適応できなかった。なにごとも要領が悪く、ヘマばかりしていた。人間関係もうまく構築できない。先輩たちからさんざん罵倒《ばとう》され、彼らの憂さ晴らしの道具になることを繰り返すだけだった。嫌われ、邪険にされ、馬鹿にされ、殴られるためだけに生きているようなものだった。だけど、組に入れば居場所ができる――中学のときみたいに。それに、いままで自分を小馬鹿にしてきた奴らを見返すこともできるのではないか――堺が怖くて逆らえなかったというのももちろんあったけれども、同時に史郎は、頭の隅でそんなことを考えていたような気もする。よく覚えていない。
史郎は、かき集められたほかのチンピラや暴走族上がりの連中と一緒に九條の世話をするよう命じられ、翔子のアパートを出た。反対するかと思いきや、翔子は、ヤクザの女になるなんてカッコいい、と喜んでいた。
九條の家に住み込むようになって三日も経つと、組員見習いの数は、早くも三分の一程度に減っていた。みんな逃げ出したのだ。殴られたりして怖くなったわけではない。掃除や洗濯、使い走りなどの仕事に、うんざりしたらしかった。
しかし史郎は、そうした仕事がさして苦にならなかった。使い走りにも罵倒されることにも慣れていた。
〈きみ、スポーツ新聞買ってきてください。売ってあるやつ全種類〉
ある日、九條の朝食の後片付けをしていたら、突然そう命じられた。はいっ、とばかりに家を出た。帰ってくると、九條が一万円札を五枚、手渡した。
〈小遣いです。とっときなさい〉
あとから聞いたのだが、組員見習いの人間は、全員同じことを言われたのだそうだ。そのとき、九條から金も受け取らずに出て行ったのは史郎ひとりだったらしい。ほかの人間は、九條に新聞代をもらってから家を出た。まあ、それがふつうだろう。史郎は緊張のあまり、金を受け取るのを忘れていただけなのだが、九條はそれを、けっこう気が利いていると解釈したのだそうだ。ほかの連中は一万円札を受け取って買いに行き、帰ってきて釣り銭を渡したら、ご苦労さん、と言われただけだったという。
それから史郎は、九條と正式に親子の盃《さかずき》を交わし、九條組組員となった。そして九條に言われ、矢野の下で働くことになった。
矢野は九條以上に無愛想で無口な男だったが、思いのほか史郎を可愛がり、拳銃《けんじゆう》の撃ち方まで教えてくれた。矢野の拳銃の手入れも、史郎の仕事となった。
そんな史郎に、堺が嫌味たっぷりに言ったことがある。
〈人並みのこともロクにできねえクズ以下のダメ男がよ、ヤクザモンで飯食っていけるようになったのはだれのおかげだ? おまえ、だれのおかげで道歩けてんだ? その恩も忘れて矢野にべったりでよ、ほんとにおまえ、犬以下だな〉
そのときは知らなかったが、当時堺と矢野の関係は険悪な雰囲気にあったらしい。矢野がリース業をやっている店に、堺が、つまみや氷のシノギで入り込んできたからだ。なのに、自分が組に入れた史郎は矢野の下で働いている。堺はそれが、どうにも気に食わなかったのだろう。
ももこが生まれて二年ほど経った冬の夜、翔子がいなくなった。男と逃げたらしい。わたしがいないとあの人だめになるから、という置き手紙が残されていた。それを読んで、史郎は怒るより先に苦笑してしまった。あんた、わたしがいないとなにもできないの、というのが翔子の口癖だったからだ。
ももこは新生活の邪魔になるから置いていく、とも書かれていた。これには憤慨したが、翔子を追いかける気にはなれなかった。どうしてなのかは自分でもよくわからない。
ももこは俺が立派に育ててやると誓った。まっとうな、堅気の人生を歩ませてやるのだ。
とはいえ、そのためにはどうすればよいのかわからなかった。ももこが、翔子や自分に似てしまったらどうしよう、とも思った。ももこのちょっとした仕種《しぐさ》や口調などが翔子のそれを連想させるものだったときには、知らず知らず憂鬱《ゆううつ》な気分を覚えた。
そんなとき、公園の掲示板の貼紙を見た。公民館で絵を教えます、というものだった。
絵を習わせるのもいいかもしれない。そう思った史郎は、その場で、貼紙に書かれていた池上茂の電話番号をプッシュした――。
「きょうは荒木さん、お休みだそうですよ」
事務所に入り、すでにデスクに座っている経理の女子社員にあいさつすると、彼女はおはようのかわりにそんな台詞《せりふ》を口にした。「なにかあったんですか?」
怪訝《けげん》そうな表情だった。
「さあ」
曖昧《あいまい》にごまかした。
従業員控え室に入った史郎は、自分のロッカーから制服を出し、着替えた。制帽をかぶり、鏡を見る。
「なんか、なあ……」
ひとりごとをもらした。どう見てもヤクザには見えない。下手をすればアルバイト学生に見られかねない。史郎がゆうべのオサムのように、俺は九條組の木島だ、ヤクザモンを甘く見るなよ、とでも啖呵《たんか》を切ったとする。そうしたら、周囲の人間はたぶん失笑するだろう。
史郎は鏡のなかの自分を睨《にら》みつけた。いろんな角度をつけてみる。だがどんなに頑張っても、馬面のとっぽい[#「とっぽい」に傍点]兄ちゃんが幼児相手に「にらめっこ」をしているような表情しか作れなかった。
殺菌洗浄された新しいおしぼりは、一枚一枚半透明のビニール袋で包装されている。そのおしぼりが、「矢野リース」と印刷された、容量七〇リットルのビニール袋に詰め込まれている。それを両手で抱え、ひとつずつバンの後部座席に運ぶ。蝉の声がけたたましく鳴り響くなか小走りで運ぶうち、額に汗が滲《にじ》んできた。
バンの後部座席が「矢野リース」のビニール袋でいっぱいになった。ひと息ついて、首からかけた「朝倉建設」の文字が入っているタオルで首筋の汗をぬぐった史郎は、さっきの女子社員に「行ってきます」と声をかけてから車をスタートさせた。
だいたい午前中は、開店前の食堂などを回り、午後は、やはり開店前のバーやスナック、風俗店を回ることになる。
午前九時、事務所の入っているビルの向かいにある「定食 たまり屋」に向かう。「矢野リース」のビニール袋を両手で抱えた史郎は、がらがらと引き戸を開けた。
「おはようございまーす、矢野リースでーす」
開店準備を進めている店主が、使用済みのおしぼりがゴミのように放り込まれているビニール袋を指し示す。「そこに置いてあるから」
「どうも、お疲れ様でーす」
今度はその袋を抱えてバンに向かう。この繰り返しだ。一日やると、さすがに腰が痛くなる。一年ほど前から、入浴後インドメタシン入りの薬を腰に塗るのが日課となった。
二軒目はホテル・サンライズだ。到着したのが九時八分、いつも通りの時間である。
バンを降り、うー、と声をもらしながら伸びをした史郎は、両手を腰に当ててひねった。腰骨がごきごきというような音を立てる。ビニール袋を胸で支え、体を横にすると、よいしょ、と片手を伸ばして従業員通用口のドアノブを回す。そのまま肩でドアを押して、なかに入る。冷房がきいていて気持ちいい。最近よく耳にする歌が有線で流れていた。
「毎度ー、お疲れ様でーす、矢野リースでーす」
フロントに通じるドアの前で声をかけた。
「どうも」
ドアが開かれ、フロント係の女が、まったく化粧っけのない仏頂面を突き出した。眉《まゆ》が薄く、たるんだ目尻《めじり》が少し垂れていて、泣きぼくろがある「おばさん」だ。たしか三宮とかいう名前だったと思う。わりと小柄で、肌は浅黒い。日焼けしたというより、生まれつき色が黒いほうのようだ。
三宮の唇がもごもごと動いた。「いま持ってきます」
いったんフロントのなかに引っ込んだ三宮は、使用済みおしぼりがどっさり入ったビニール袋を両手で抱えて、すぐに出てきた。背が低いから、顔も頭も「矢野リース」のビニール袋で隠れてしまっている。なんだかいまにも後ろにひっくり返ってしまいそうな感じだった。歩き方もおぼつかない。ぽて、ぽて、という擬音がぴったりの歩き方だ。だいじょうぶかなこのおばさん、転ぶんじゃないかと心配になった。
史郎は新しいおしぼりが入ったビニール袋を床の上に置き、彼女が持っている袋を受け取った。
「あの、こっちが新しいやつです」
三宮は無言のまま、史郎を上目遣いに見た。そんなことは言われなくてもわかってるわよ、と言いたげな目だった。肌が黒いせいか、なんだかその白目の部分がやたらと強調されているように見えた。
制帽を取り、愛想よく「どうもー」と頭を下げる。
返答は、ドアの閉まる音だった。
愛想の悪いおばさんだぜ――史郎は軽く舌打ちした。
午前中の仕事が終わったのは、午後一時少し前だった。もう腰が痛くてたまらない。
会社に戻り、「九條経営コンサルタント」の事務所に顔を出した史郎は、ドアを開けるなり、頬を張る音となにか硬いものが床に転がる音、そして人が倒れる気配がしたので驚いた。オサムがやってきて、また殴られているのかと思ったが、そうではなかった。堺の平手打ちをくらって床に突っ伏していたのは、パンチパーマに白いブルゾン、金のブレスレットに指輪、白いエナメルシューズといったいでたちの、多田真寿夫《ただますお》だった。
身長が一五〇センチちょっとしかなく、カバみたいな面立ちをしている真寿夫は、史郎が九條の家で住み込みをしていたとき一緒だった、いわば同期である。
真寿夫は脚が悪い。組に入ったばかりのころ、喧嘩《けんか》をして負った怪我の後遺症で、右脚の膝《ひざ》が曲がらないのだ。喧嘩といっても、相手は堅気の人間だった。九條組が用心棒代を受け取っている飲み屋で酔ったサラリーマンが暴れているというので、真寿夫たちが駆けつけたところ、ビール瓶で頭をカチ割られた。さらに相手が、倒れた真寿夫の脚に、割れた瓶を突き刺した。堺はその男から慰謝料だなんだとふんだくったらしいが、真寿夫は満足に治療も受けさせてもらえなかった。
「……兄貴。真寿夫、どうかしたんですか」
「このタコがよ、俺に恥ばっかかかせやがってよ」
堺はそう言うと、倒れた真寿夫の横っ腹に爪先《つまさき》を食い込ませた。
史郎は思わず真寿夫に駆け寄り、落ちている松葉杖《まつばづえ》を拾って彼に手渡した。
「史郎! よけいなことすんじゃねえ!」
「……は、はい」
真寿夫はいま、堺の経営するデートクラブで電話番をしている。堺の話によれば、真寿夫はそこに所属しているデート嬢のひとりをつけ回し、やらせろと迫ったあげく、結果としては未遂に終わったものの、レイプしようとしたらしい。恋愛関係になるのなら堺も許しただろうが、無理やり犯そうとしたというので激怒しているのだ。そんなことをすれば、女の子は店を辞めてしまう。おまけに、もし女の子が警察に駆け込んだりしたら、デートクラブの件が警察に知れてしまい、堺がお縄になってしまう。堺にとっては踏んだり蹴《け》ったりというわけだ。
史郎は正直、またか、と思った。このあいだは、シマウチのバーのホステスだった。真寿夫がホステスのひとりに一万円札を数枚手渡し、やらせてくれよとしつこく迫った。あまりにうるさいので、組に電話がかかってきた。変な男がいるからどうにかしてほしい、とのことだった。組員が出向き、なにやってんだてめえ、と胸倉をつかむと、相手は真寿夫だった。そのときも、笑い話にもなりゃしない、と堺が怒っていた。
真寿夫は無類の女好きである。おまけに精力絶倫ときている。だが、異性に縁がない。もう絶望的なまでにモテない。それは真寿夫がヤクザだからでも、ルックスが悪いからでもない。無神経だからだ。相手に好かれる努力もせずに、一回でいいからと万札数枚を押しつけ、追い回す。そうすれば女がベッドを共にしてくれると、真寿夫は信じて疑っていない。だからモテないのだが、本人は、金額が足りないせいだと思い込んでいる。きっとそのデートクラブの女の子にも、二、三万円突きつけて、俺にもやらせろと迫ったに違いない。女の子は当然拒否する。なぜ拒絶されるのか理解できない真寿夫は、カッとなって相手を押し倒した。そういう展開だったのだろう。
堺は今朝、その女の子のマンションに出向いて、慰謝料として五十万円支払い、真寿夫を辞めさせるから勘弁してくれと土下座したらしい。
「なんで俺がてめえみてえなカスのために小娘に土下座しなくちゃなんねえんだよ! わかってんのか、このスペルマ野郎!」
また蹴りが入った。
「おい、ヤッパ貸せ」
隣に立っている小山に、堺が命じた。小山はいささかためらったようだったが、すぐに懐から短刀を抜いて手渡した。すると堺は、膝をかがめ、倒れている真寿夫の首筋に刃を軽く当てる。
「てめえの首切ったら、血じゃなくてザーメン流れるんじゃねえのか?」
真寿夫が全身を震わせた。
短刀の切っ先が少しずつ首からずれてゆく。そして真寿夫の胸を、腹を、ゆっくりと撫《な》でる。やがて股間《こかん》で、ぴたりと止まる。
「指じゃなくてよ、ここ詰めさせるぞ、この野郎」
真寿夫がかすれ声で呻《うめ》いた。目に涙が浮かんでいる。
「……立て。消えろ。しばらくアパートでマスでもかいてろ」
よろよろと立ち上がり、何度も頭を下げてから真寿夫が出て行くと、堺が、いきなり史郎の背中をどんと叩《たた》いた。「あのオットセイ男に比べりゃあ、おまえのほうがまだ少しはマシかもなあ?」
なんと答えてよいかわからなかった。
「おい史郎、昼飯食ったか」
「いえ、まだですけど……」
「食ってけ」
おごってくれるらしい。昼食代が助かったと思い、つい口許《くちもと》がほころんだ。
史郎と小山は出前のざるそば、堺はやはり出前の天丼。九條はすでに昼食は済ませているとかで、デスクに腰かけ、なにやらむずかしそうな本に目を通していた。
「親父さん。海渡《かいと》のおじさんがいらっしゃいました」
ノックのあとにドアが開かれ、張り番をしている若い組員がそう告げた。彼の両肩や頭から煙が立ちのぼっていたので、史郎は一瞬、こいつ、頭と肩にお灸《きゆう》でもすえてるのかなと馬鹿なことを思った。しかしすぐに合点がいく。来客が煙草をくわえているのだ。
その組員の体が突然つんのめった。後ろから押されたらしい。
「すみません」
来客に頭を下げながら、組員が体をどかす。その後ろから、坊主頭の五十男が、肩を怒らせながら事務所に足を踏み入れた。白いスーツ。十本の指すべてにはめられている太い指輪――九條組とは親戚《しんせき》筋に当たる海渡組の組長だった。
くわえ煙草の海渡には、やはり白いスーツ姿の組員がふたり、ぴったりとついている。いずれも海渡のボディ・ガードだ。
さらにその後ろから、赤いジャージの上下に茶のスーツの上着を羽織るという珍妙なスタイルのパンチパーマの男が、ひっそりと入ってきた。はじめて見る顔だった。年のころは三十五、六だろうか、サングラスをかけたその男は、本人は精いっぱい粋がってヤクザを気取っているものの、どう見ても器の小さい、冴《さ》えないチンピラにしか見えなかった。
史郎たちは全員席を立ち、直立不動の姿勢をとった。そして、いらっしゃいませ、と一礼する。
「相原《あいはら》さん、出てこられたんですか」
堺がジャージの男に声をかけた。すると相原と呼ばれた男は、ゆっくりとこちらに目を向けて、どこかぎこちない笑顔で堺に応《こた》えた。
九條がのっそりと腰を上げ、海渡に軽く目礼した。
海渡は小太りで背が低いから、立ったまま向き合うと、どうしても長身の九條が海渡を見下ろすような格好になる。海渡はそれが不快なのか、すぐさま「座れよ」と強い調子で言った。
「海渡さんもお座りになりませんか」
「いや、遠慮しとく」
そう言って、海渡がぐるりと事務所を見回す。その視線が、史郎の顔でぴたりと止まった。
胃が締めつけられるような感覚を覚えた。なんだろう。なにか怒られるようなことでもしたのだろうか。
「おい、おまえ」
「は、はい!」
「いつもおまえと一緒にいる若いの、どうした。きょうは休みか」
「荒木は、そのう……」
口ごもる史郎を見て事情を察したらしい、海渡は低く笑って、九條に向き直った。「また若い衆にヤキでも入れたのか? いいかげんにしとけよ、おまえ。いまどきの若い者は、そんなことじゃついてこねえぞ、おう?」
「わたしは、わたしが海渡の兄さんに体で教わった通りのことをやっているつもりですが」
無表情のまま九條が言うと、海渡がぐいと唇をねじ曲げた。
例によって荒い鼻息をもらしながら、小山がお茶を持って行く。
デスクの上に差し出された湯飲みを手に取った海渡は、九條を見下ろすような姿勢を取って、ふんと鼻を鳴らした。「外はクソ暑いってのによ」
「す、すみません!」
小山があたふたと頭を下げる。「いま、冷たいやつと取り換えますので!」
海渡がうるさそうに手を振った。「いいよ、これで」
「すみません……」
「それより灰皿だよ」
と、ボディ・ガードのひとりが言った。「気が利かねえな」
「あ、申し訳ありません……」
九條経営コンサルタントの事務所には、灰皿が置かれていない。九條が嫌がるからだ。来客があったときだけ出すようにしている。よって史郎たちは、煙草を喫いたくなったら事務所の奥に設けられた喫煙室に入らねばならない。
小山がどうぞと差し出した灰皿に煙草をねじこんだ海渡は、「こら、あいさつせんか」と、それまで黙ってうつむいていた相原の頭をぱしりと叩いた。
相原は姿勢を正し、九條に深々と頭を下げた。「おじさん、ご無沙汰《ぶさた》しております」
「ご苦労でしたね。いつ?」
淡々と、九條がたずねた。
「はい、きのうです。あいさつが遅れて申し訳ございません」
なるほど、相原という男は海渡組組員で、きのう出所したばかりらしい。
「いまは大変な時期ですが、頑張って海渡さんを支えてください」
抑揚のない口調で九條が言った。務めを終えた身内に対する言葉としては素っ気ないものだったが、逆に九條が歯の浮くようなねぎらいの言葉をかけたら薄気味悪いような気もすると、史郎はぼんやり思った。
「ところで若頭さんよ」
どことなく小馬鹿にするような口調で、海渡が言った。海渡が「九條」ではなく「若頭さん」とか「頭《カシラ》」と呼ぶときは、まず間違いなく九條に敵意を感じているときだと、史郎もいままでの経験で知っていた。
「おまえ、鹿沼《かぬま》ンところの本間《ほんま》と兄弟だったよな。本間になにか聞いてないか」
「なにも」
「もし戦争になったら、本間に盃《さかずき》返してきっちりケジメつけろよ」
「わかってます」
海渡はもう一度ふんと鼻を鳴らして九條を見据えた。「おまえ、女房と子ども、外国にやったらしいな。戦争に備えてか? まさかおまえもフケる準備してるんじゃねえだろうなあ?」
「海渡さん」
九條が白くて華奢《きやしや》な指を組み合わせる。「妻と息子たちがイギリスに行ったのは、去年ですよ」
「……ああそうかい」
最後のだめ押しとばかりにふんと鼻を鳴らしてから、海渡が踵《きびす》を返した。
「相原さん」
どうもお邪魔しました、と立ち去りかける相原に、九條が声をかけた。
相原と海渡、そしてボディ・ガードふたりが振り返る。
手近にあった手提げ金庫を開けた九條が、札束をふたつ取り出し、相原に差し出した。
「むき出しで失礼ですが、放免祝いです。とっておいてください」
相原が目を丸くして札束を見つめた。そして、おうかがいをたてるように海渡に目をやる。
「もらっとけ」
いささか不愉快そうに、海渡が言った。
「……なんスか、あの態度! あれが頭に対する態度っスか!」
四人が出て行ったあと、小山が憤懣《ふんまん》やる方ないといった調子で怒鳴った。
「小山くん」
静かに、九條が言った。「低能の猿は、マトモに相手にしないことですよ」
「相原さん、どのくらい入ってらっしゃったんですか」
食事を終え、みんなで喫煙室に入って一服しながら、隣に座っている堺にそう聞いてみた。
「八年ちょい、かな」
史郎がこの世界に入る前から、ということか。
「注射[#「注射」に傍点]っスか。それにしては長いっスね」
史郎の向かい側に座っている小山が、太鼓腹を揺すってたずねた。
「いや。八年前は海渡薬局[#「海渡薬局」に傍点]もシャブには手ェ出してなかったからよ。要するにバブルの後始末でよ、海渡さんに言われて、どこだったかの社長を……」
堺はくわえ煙草のまま、指鉄砲を史郎の胸に突きつけ、「ずどん」と言った。「ま、その社長、命は助かったんだけどな」
「カッコいいっスねえ」
しみじみとした調子で小山が言う。
史郎は、相原の、どうしようもなく冴《さ》えない雰囲気を思い浮かべた。「でも、なんか、そういう人には見えませんでしたけど……」
「そういうって?」
「チャカで人をハジくみたいな」
「言っちゃあ悪いけどよ」
と、堺は鼻と口から盛大に煙を吐き出しながら、「あの人、どうしようもなくうだつのあがらねえタイプでさ、女房風呂屋[#「風呂屋」に傍点]に入れて、それでなんとか食ってたんだよ。だからよ、そのくらいしなけりゃあ、浮かび上がれなかったんじゃねえの?」
他人事《ひとごと》とは思えなくなってきた。
「相原さんの女房、マユミとか言ったっけか、いまも風呂屋《ふろや》だぜ。場末の」
「……そうですか」
「海渡さんもケツの穴の小せえ人だからな。相原さんの女房の面倒も見てなかったと思うぜ」
「はあ……」
「だいたいよ、務めに出てる子の女房、いつまでも風呂屋で働かせとく親がどこにいるってんだよ。それに、親父さんから放免祝いもらったときの相原さんの顔、見たろう。あんなにたまげるってことはよ、海渡さんから放免祝いもろくにもらってねえってことじゃねえの?」
小山が身を乗り出した。「褒美はなんっスかね」
「なんの」
「務めに出てた、褒美っス」
堺が失笑した。「あの海渡さんだぜ? 相原さんに道具渡したときはうまいこと並べたと思うけどよ、あるわきゃねえよ、そんなもん」
「八年務めて褒美もなにもなしってのは、たまらんっスねえ」
頭を掻《か》きながら、小山が言う。
「なあ史郎」
堺の腕が史郎の肩に回された。「おめえもよ、相原さんみてえになんねえよう、気ィ入れて仕事しろよ? な?」
嘲笑《ちようしよう》するような口調だった。
「だけど俺、正直|憧《あこが》れちゃうなあ、相原さんに」
小山の言葉に、堺が首でもひねりそうな目をした。「なんで」
「俺も早く鉄砲玉とかやれるようになりたいっスよ」
だったらその前に少し痩《や》せろよ、と史郎は思った。
「チャカ持ってガーッと突っ込んでって、くたばれとかなんとか叫びながら、トリガー連続して引いてですね、バンバンバンバン! って……ああ、カッコいいなあ!」
頭が痛くなってきた。見ると堺も、いささか呆《あき》れたような目を小山に向けている。
「だけど相手のボディ・ガードがですね、すぐ反撃するんスよ。で、俺はですね、舌打ちして『畜生!』とか言ってですね、全力疾走するんスよ」
「ほう。それで?」
あからさまにうんざりした調子で、堺が相槌《あいづち》を打った。しかし小山は、堺のそんな様子に少しも気づいていないらしく、子どものように目を輝かせて続ける。
「相手がですね、『待てこらあ!』とか叫んで、後ろから撃ってくるっス。で、俺はですね、何発か弾丸《たま》くらってですね、ドッと倒れるんスよ。でもですね、組のために役に立てた喜び? それで胸がいっぱいで、痛みはさして感じないんスよね。そんでですね、『親父さん……』って呟《つぶや》いて、笑顔で死んでいくんスよ……カッコいいなあ!」
「おまえ、あした病院行け。ここの」
堺がそう言って、小山の頭を指で弾《はじ》いた。
九條組と海渡組は、共に朝倉組の傘下にある。ほかにいくつかの組織が朝倉組に所属しているが、それをたばねる若者頭が九條である。つまり九條は、九條組の組長であると同時に朝倉組の若頭でもあるわけだ。
朝倉組の古株である海渡は、その人事が気に入らなかったらしい。聞いた話では、海渡は昔から九條のことを嫌っていたのだそうだ。背中どころか両腕両脚胸に腹、果ては踝《くるぶし》にまで刺青《いれずみ》を入れ、万事が派手で、暴飲暴食を繰り返す海渡からすれば、九條のような人間は、それこそ半人前のチンケなヤクザにしか見えないことだろう。しかし組長が決めたことには逆らえないし、客観的に見ても、海渡組より九條組のほうがはるかに景気がいいのだから、文句も言えなかったようだ。
三年前、朝倉組の先代が亡くなったあと、先代組長の息子である朝倉|信吉《しんきち》が跡目を継いだ。この襲名に合わせて人事の交替もあると睨《にら》んだ海渡は、九條を追い落とし、自分が若頭の座に就こうといろいろ工作したらしい。ところが海渡にとって不幸なことに、二代目組長は先代以上に九條を可愛がっていた。よって若頭に変更はなく、海渡はいまもそのことを恨んでいるという話である。
海渡の二代目に対する苛立《いらだ》ちの要因は、人事だけではないだろう。二代目になってから、月会費の額が一気に跳ね上がった。桁《けた》がひとつ違う。最近、辻山《つじやま》会という朝倉組傘下の組がひとつ解散したのだが、その最大の理由は資金難だった。際限なく上がり続ける会費を払えなくなったのだ。
朝倉組先代は、俺が死んでも麻薬にだけは手を出すなと言っていたそうで、海渡も九條もいままでそれを守ってきた。しかし、やはり資金繰りが大変だったのか、海渡は先代の遺志を無視して、二年ほど前から覚醒《かくせい》剤や大麻、LSD、コカインなどを主なシノギにしはじめた。九條組の人間が海渡組のことを「海渡薬局」と陰で揶揄《やゆ》しているのは、そのせいである。ちなみに二代目は、見て見ぬふりをしている。会費さえ払ってくれれば、金の出どころはどうでもいいということなのだろう。
その朝倉組は、石黒《いしぐろ》組という、さらに大きな組織の傘下にある。つまり朝倉組は石黒組の二次団体で、九條組や海渡組は三次団体ということになる。
石黒組の若頭の座には、大前《おおまえ》組という博徒系の組織の組長がついていた。ところがつい先月、その大前組長が肝臓ガンで死亡した。
石黒組若頭補佐は、朝倉組長と、鹿沼組の組長が務めている。よって若頭の後任はこのふたりのうちどちらかがなるのが筋だろうということになった。
慣例に従って、後任は来月、石黒組最高幹部会において多数決で決められることになり、現在石黒組の内部では、朝倉と鹿沼の多数派工作が激化している最中であった。
そして最近、朝倉組のシマウチで鹿沼組の人間がちょろちょろしているという噂が立った。実際目撃した組員も多数いるらしい。鹿沼さんのところの方ですよね、どうなさったんですか? とたずねると、ちょっと遊んでるだけだよ、という答えが返ってきたそうだが、朝倉組の内部には、鹿沼は戦争を仕掛けるつもりではないかと戦々恐々としている者が増えてきた。
「でも、うちに戦争仕掛けたら、鹿沼が若頭になりたくてうちをつぶしにかかってるってのが見え見えじゃないですか。そうなったら、鹿沼に対する幹部会の心証ってやつが悪くなるんじゃないですかね。そんな馬鹿なことしますかね」
堺にそう聞くと、
「馬鹿野郎、学級委員決める学校の選挙じゃねえんだよ。うちのシノギ、鹿沼に取られてみろよ。朝倉組なんて、吹けば飛ぶよな弱小組織になっちまうだろうがよ。そんな組の人間に若者頭まかせる馬鹿いねえよ」
「つまり、強いほうに票が入る」
「当たり前だろ馬鹿野郎」
矢野リースの事務所に戻り、午後の仕事に出かけようとした史郎は、バンの陰からぬっと現れた真寿夫に肝をつぶした。
「……なんだよ、脅かすなよ」
「史郎。いまから仕事かよ」
「ああ。見ればわかるだろ」
「金貸してくれよ」
「……え?」
「金だよ金」
松葉杖《まつばづえ》で、脛《すね》のあたりを軽く叩《たた》かれた。
「おめえ、持ってんだろ。おいらと違ってマトモな仕事やらせてもらえてるんだからよ」
皮肉たっぷりの物言いだった。
「……持ってないよ。食ってくのでやっとだよ」
マトモな仕事だから給料安いんだよ、と言外に伝えたつもりだった。
「きのう親父から小遣いもらってたじゃねえかよ」
「いや、あれは……」
「出せよ!」
凄《すご》まれた。つい、視線を落としてしまう。「……なんに使うんだよ」
「おめえには関係ねえだろ」
「あるよ」
真寿夫が舌打ちした。「風俗行くんだよ! 文句あっかよ」
「……ないけど……いくら?」
「いくらでもいいよ。黙って出しゃいいんだよ」
「……そんなにないよ」
しぶしぶ財布を出すと、財布ごと奪い取られた。
「あ、真寿夫、ちょっと……」
「同じ釜《かま》の飯食った仲間だろうが、ケチケチすんなよ」
財布に入っていた二万円、すべて取られた。
「なあ真寿夫、それ絶対返してくれよ、来年娘が小学校で、いろいろ物入りなんだよ……」
「なんだあ?」
真寿夫が史郎を睨《ね》め上げた。「おいらが金返さねえってのか? おう?」
史郎はもごもごと、「……こないだ貸した三万だって、まだ……」
「あとでまとめて返すよ! こまかいことごちゃごちゃ言うんじゃねえよ、おめえそれでもヤクザモンかよ、あ?」
携帯電話の着信音で跳ね起きた。隣のももこが起きないよう、素早くそれを手に取り、通話ボタンを押す。
『史郎か』
堺の声。切羽詰まったような感じだった。
「……はい」
ううん、と声をもらして寝返りをうつももこに目をやったまま答えた。
『親父が撃たれた』
「……はい?」
『親父が撃たれたんだよ』
ものすごい力で胸を圧迫されたような感覚を覚えた。息がつまる。
『幸い軽い怪我で済んだけどよ、一緒にいた小山が、親父の弾丸《たま》よけになって死んだ。ほとんど即死に近かったらしいぜ』
「撃ったのは……」
『わからねえ。青木の大将も一緒だったんだが、相手追うより、救急車呼んで親父と小山を病院に運ぶのが先決だと思ったらしい』
「…………」
『それだけじゃねえ。朝倉の御大も殺《と》られたってよ。囲ってる女のマンションの駐車場で、ボディ・ガードもろとも蜂の巣だとよ。敵さんも、ご大層な道具使ったもんだぜ』
「…………」
『相手が鹿沼かどうか、まだわからねえ。親父さんが言うにはよ、ほかの組の奴が、俺らと鹿沼を戦争させて、つぶし合いさせるためにやったのかもしれねえ、とよ』
「…………」
『聞いてんのかてめえ!』
「……はい。ちょっと、その……頭のなか真っ白になっちまって……」
『警察《デコスケ》がうろうろしてやがるからよ、事務所にはこなくていい。家で寝てろ』
「……はい」
『そのうちデコスケがそっち行くと思うけどな、相手が本物かどうか確認するまで玄関開けるんじゃねえぞ。敵さん、おまえのところにも行くかもしれねえからよ』
「そんな、自分みたいな下っ端……」
否定しつつも血の気が引いた。反射的にももこを見る。
『だいじょうぶだとは思うが、一応娘にも気ィつけとけ。それからよ、ひとりで行動するなよ』
「……わかりました」
史郎は携帯電話を切りながら、小山は最後に親父さんと呟《つぶや》いて死ねたのかなとか、どんな死に顔だったのかなとか、そんなことをぼんやりと考えていた。
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「じゃ、いってくるね」
靴を履きながら昭久に声をかけると、車椅子に座った昭久が、テーブルの上のオセロゲーム――また明日美の〇勝三敗だった。悔しい――を片づけながら、笑顔でこちらに手を振った。とても四十の男がやる素振りには見えない。まるであたしたち新婚みたいだと思い、明日美は苦笑混じりにドアを閉めた。
雨が降っているので、歩いて行くことにした。
きょうは休日だ。昼間は菜穂子、夕方から夜にかけては江田、深夜は槇が担当し、あしたは江田が、あさっては菜穂子が休むことになっている。
休みだからゆっくり眠りたいという気持ちも少しはあったが、それより、ずっと昭久のそばにいられるという思いのほうが強かった。そんなことを考えている自分に対しても、明日美は、まるで新婚みたいだ、と思ったのだった。
明日美は毎週、休日に銀行へ行く。そして一週間ぶんの生活費をおろす。その日の夕食はできるだけ豪勢にする。これが習慣になっている。それしか楽しみがないと言ってしまえば虚《むな》しくなってしまうけれども、それでも明日美は、こういう身の丈に合ったささやかな生活のほうが自分たちにとって幸せなのだと思っている。
雨の音に耳を傾け、川沿いの遊歩道を歩きながら、黒い手摺《てすり》の向こうに目をやった。いつもより水かさが高く、川の流れも速い。川の水も、かなり濁っているようだ。
てくてく歩いていたら、後ろから甲高い奇声と、危ないってば! という女の人の声が聞こえてきたのでちょっと驚いた。振り返ると、黄色い雨合羽で全身を包み、やはり黄色い長靴を履いた幼稚園児くらいの子どもが、きゃっほう、というような声をあげて走ってくるところだった。後ろから、その子の母親なのだろう、傘をさした主婦らしい人が小走りに走ってくる。
「ほら、危ないでしょ、ターくん! ターくん! 待ちなさい!」
ターくんと呼ばれた子どもは、明日美の少し後ろのほうで、ぴょんぴょんと飛び跳ねはじめた。なにやら意味不明の鼻歌を歌っている。珍しく、雨が好きな子どもであるらしい。
つい、口許《くちもと》がほころんだ。『雨に唄《うた》えば』みたいだな、と思った。とはいえ明日美は、『雨に唄えば』という映画は観たことがない。題名を知っているだけだ。そもそも映画なんて、ここ六年、一本も観ていない。
いいな――素直にそう思う。自分たちに子どもがいて、その子が外ではしゃいだりして、自分がおろおろして、昭久がこらあと叱る。そんな光景が目に浮かんだ。
「明日美さん」
幻聴かと思った。顔を上げる。正面に、傘をさしたしのぶが立っていた。その横をすり抜けるようにして、傘をさし、ランドセルに黄色いカヴァーをかけたふたりの女の子が、声を合わせて歌を歌いながら、とことこ、とことこ、と歩いてくる。ぴっちぴっちちゃっぷちゃっぷらんらんらん。
「よかったあ、ちょうどお宅にうかがうところやったんよォ」
こいつはあたしの家まで突き止めていたのか。
明日美は、女の子のひとりがさしている傘を、ぼんやりと目で追っていた。大きなかたつむりが描かれている傘。そのかたつむりが、雨の滴《しずく》を弾《はじ》いている。
かたつむりに、しのぶの声がかぶる。
「ねえ明日美さん」
かたつむりが、視界から消えた。
明日美は無視して歩き出した。顔も見たくない。声も聞きたくない。同じ空気を吸うのも嫌だ。
だがしのぶは、明日美と並んで歩きながら、しつこく話しかけてくる。
「明日美さん、スタンガン持ってんねんな。それ、使おう? わたし、護身用の催涙スプレー持ってんねん。それを運搬人の顔に浴びせて、そんでスタンガン押しつけて気絶させてから、金|奪《と》るねん。な、いける、思わへん?」
「…………」
「それでお金は山分け。悪くないと思うけどなあ」
「…………」
「ねえ明日美さんってば、一緒にやろうよ」
「…………」
「お金、困ってへんの?」
困っている。だが、返事をするつもりはなかった。
「気の毒に、旦那《だんな》さん、体が不自由になったんやてなあ。そやったら、よけいお金いるんとちゃうの? もっとええところに住んで、旦那さんも楽させてあげたらええやないの。明日美さんかて、女ひとりで夜通し働かんで済むようになるし……」
明日美は立ち止まった。「帰れよ」
「……ねえ」
睨《にら》みつける。「帰れっちゅうとろうが。二度とツラ見せるな、言うたじゃろう。忘れたんか」
傘を閉じ、尖《とが》った先端をしのぶの顔に突きつけた。「目ェ突いたるぞ」
しのぶの顔がひきつった。
「気の毒じゃと? かばち[#「かばち」に傍点]たれるんもええかげんにせえよ」
「明日美さん……」
「金がほしかったら、地道に汗流して働けばええやろ。楽して儲《もう》けようやら思うけぇ、ケツに火がつくんじゃろうが。人間、働いたぶんしか金入らんけ」
「……そない言うけどな」
しのぶが言った。声が震えていた。「いまの仕事な、時給七百円やねん。借金返したり、子どもたち見返したりするの、絶対無理やねん。わたし、頭パーやし、資格も持ってへんし、なんも取り柄ないし、お金儲けなんて絶対できひんのよ」
「あたしの知ったこっちゃないわ」
「マルチやってもなにやっても、結局うまくいかんねん。一年以上考えたんよ、一年以上! もうこれしかないんよ、強盗しかないんよ、わたしみたいな女が短時間でしこたま儲ける方法言うたら、もうそれしかないんよ! 時給七百円で終わりとうないんよ、頼むよ明日美さん!」
「じゃあ、返事するよ」
しのぶの目がパッと輝いた。
「とっとと帰れ」
明日美は傘をさすと、そのまま歩き出した。濡《ぬ》れた髪を手で払う。滴が飛んだような気がした。
駅前にある共立銀行に入った。腕時計を見る。午後二時五十分。いつもなら熟睡している時間だ。休日の夜、昭久とビールでも飲みながらテレビを見ているときもそうだが、明日美の場合、ふだん眠っている時間に外を歩くと、妙な非現実感を味わうことが多い。でもその感覚は、嫌いではなかった。
キャッシュカード・コーナーには行列ができていた。といっても、それほどの人数ではない。四、五分も待てば順番が回ってきそうだ――そう呑気《のんき》に構えていたが、いつまでたってもいちばん前の老人がCD機から立ち去らない。使い方がよくわからないのだろうかと思っていたら、案の定行員が早足でやってきた。老人が文句を言っている。年寄りだからって馬鹿にして、という言葉が聞こえた。明日美の前に並んでいる若い男が、早くしろってんだよジジイ、とぼやく。明日美は気持ち半分若者に同意し、もう半分は、後ろからこの若者の背中を思いっきり蹴飛《けと》ばしたい衝動を抑えるのに費やした。
今夜はなんにしようか、とぼんやり考えていた明日美は、ふと、お好み焼きなんてどうだろう、と思った。広島ふうのお好み焼き。きのうきょうと、二十年以上使っていなかった広島弁が口をついて出たことが、それを連想させたのかもしれない。そういえば広島ふうお好み焼きなんて何年食べていないだろう。明日美の記憶がたしかなら、昭久と一緒に食べたことは一度もない。
よし、これに決めた。お世辞にも豪勢とは言えないけれど、きっと昭久も喜んでくれるだろう。
明日美にとってお好み焼きとは、父親が作ってくれるもの、という印象が強い。もちろん店にも頻繁に食べに行っていたけれど、父親が材料を下ごしらえし、目の前で焼いてくれたお好み焼きがいちばんおいしかった。おふくろの味ならぬ親父の味といったところか。
八歳のときに祖母が死んで、そのあと母がいなくなった。どうしているのか、いまも知らない。とにかくその後、広島の父の許に引き取られることになった。その父がはじめて作ってくれた料理がお好み焼きで、生地と具を混ぜて焼くお好み焼きしか知らなかった明日美は、最初に水気の多い生地を少し垂らし、その上に具を載せてゆき、また少しだけ生地をかけ、鉄板の別の場所に落とした卵の上に生地と具を載せるという広島ふうのお好み焼きを見て、広島の人は生地を節約している、みみっちい、と思ったものだった。
それでも、父の作ってくれたお好み焼きはおいしかった。
ただ父は最初怖かった。たたずまいからして、なにか尋常でないものを感じたし、笑っているときも、その表情からぴりぴりとした緊張感が消えることはなかった。左手の小指がなく、背中には刺青《いれずみ》が彫られていた。明日美と暮らしはじめたときはすでに足を洗っていたようだったが、昔はヤクザだったのだろう。両親の離婚の原因は、それだったのかもしれない。それに父はなにより博打《ばくち》が好きで、賭けごとならなんでもやっていた。
九歳まで、父と一緒に風呂《ふろ》に入った。
〈お父ちゃん、変だよ、いくらこすっても落ちないよ、この絵〉
はじめて一緒に入浴したとき、そう言った。すると父は、こう答えた。
〈毎日洗うとりゃあ、そんうち落ちるけ〉
その言葉を信じて、毎日背中を流してやった。無駄骨だった。
父の許を出て、もう二十四年になる。その間、一度も連絡を取っていない。たぶんこの先も会うことはないだろう。
〈なあ明日美。中学生の生娘とひと晩遊べたら、お父ちゃんの博打の負けな、棒引きにしてやってもええって、向こうさん言いよんなるけ〉
〈お父ちゃんの言うこと、聞けんてか! 学校にも行かんとシンナーばっか吸いよる馬鹿娘、ここまで育ててやったんは、だれなら!〉
〈たかが膜一枚のことじゃろうが! どうせ、そんうちどこの馬の骨とも知れん男と乳繰り合うんじゃろうが! そげなもん、一文の得にもなりゃあせんのじゃ! お父ちゃんの言う通りにせえ! したら銭になるんで! それともおまえ、もう男とやっちょるんか!〉
――あのクソオヤジ。嫌なことまで思い出してしまった。
嘆息混じりに濡れた肩口や首のあたりをハンカチでそっとぬぐっていたら、背後から声をかけられた。
「明日美さん」
うんざりした。振り返りざま殴ってやろうかと、なかば本気で思った。
明日美は一生懸命怖い顔を作って、ゆっくりと振り向いた。無視したところで、この女は延々自分に話しかけてくるだろうと思ったからだ。
真後ろで、しのぶがしらじらしい笑みを浮かべていた。まったくもって懲りない女だ。
しのぶをひと睨みしてから、明日美はまた彼女に後頭部を向けた。
「なあ、明日美さん」
いきなり耳許《みみもと》で囁《ささや》かれた。息がかかり、もう少しでわっと声をあげて飛びあがってしまうところだった。実際、鳥肌が立った。
「わたし、どうしてもあきらめきれんのよ、あんたのこと」
第三者が聞いたら、同性愛の女性が自分を捨てようとしている恋人にすがっていると解釈するような言葉だと思い、明日美はつい苦笑してしまった。そういえばいまのしのぶは、ストーカーみたいだ。
「わたしな、あんたとやったら、なんや、うまくゆくような気ィするねん」
また耳許に息が吹きかかる。ぞくぞくっとして、手で軽くしのぶを払った。
「……なあ、こういうところでも、ええかもしれんな」
銀行強盗でも、ということか。場所をわきまえてしゃべれ、だれが聞いてるかわかったもんじゃないんだぞ、あたしの前にもあんたの後ろにも人がいるだろう、そう思う。思うと同時に、別に関係ないじゃない、あたしには、と自分に呆《あき》れる。そんなことを考えるのは、なんだか、しのぶの計画に同意した人間の反応のように思えたからだ。
〈あたしが! ほしいものは! 白いマンションです!〉
突然その声が頭のなかを駆け巡った。そして、自分が経営する中華料理店で食事をする昭久と自分の姿が浮かぶ。
明日美は目を閉じ、首を振った。
「……ねえ、ちょっと、明日美さん」
肩を叩《たた》かれた。
「いいかげんにしてよ」
振り返り、さりげなさを装いながら、小声で抗議した。
しかししのぶはひるむ様子もなく、ロビーのほうに目をやって、「あの子、おかしい、思わへん?」とわけのわからないことを囁いた。
しのぶの視線を目で追ってしまった。
黒いシャツの上から袖《そで》をまくったジージャンを羽織り、だぶだぶのジーパンを穿《は》いている若い女がいた。つばの部分だけが赤い、黒のキャップを目深にかぶっており、ハイカットのバスケットシューズを履いている。髪はショートカットだ。身長は明日美より高いがしのぶより低い。一六〇前後に見える。
しのぶがおかしいと言ったのは、その若い女が、肩からやたらと大きなバッグを下げており、ひっきりなしに腕時計を見ながらカウンターのそばに行き、立ち止まったかと思うと四方八方をゆっくりと見回し、少し動いてまた周囲を眺める、ということを繰り返しているからだろう。
素人のしのぶや明日美が見ても様子がおかしいのだから、行員や警備員もとっくに気づいているらしく、彼女の周囲には、不自然なくらいの数の警備員が立っていた。明日美の位置からはよくわからないが、彼らの目は、あの女の一挙手一投足に注がれているに違いない。
女が、カウンターの端にぴったりと体を寄せた。とはいえ、カウンターに背を向けたままだ。そしてまた腕時計を見る。ひとりの行員が歩み寄った。なにか話しかけている。女は小さく首を振り、一、二歩だけカウンターから離れた。女の顎《あご》が少し上がる。天井を見ているらしい。だがそれも数瞬、女は目を伏せてソファのほうに戻った。腰を下ろし、時計を見ている。
列が一歩進んだ。CD機まであと三人。
「な、あの子もしかして、銀行強盗の下見でもしとるんと違う? 予行演習とか」
冗談混じりといった調子で、しのぶがひそひそと耳打ちした。
そのとき、明日美の前に並んでいた若者が弾かれたように振り返り、その顔をひきつらせて、うひゃああ、と大声を上げた。両手を高く挙げている。なんだこいつ、なにやってんだ、頭おかしいんじゃないのか、と思う。
「――明日美さん!」
いきなり後ろからしのぶが抱きついてきた。そのまま押し倒されそうになる。こいつもイカレちゃったらしい。
いや、発狂したのは明日美の前の男としのぶだけではなさそうだった。たったいままで常識ある社会人としての行動を取っていた行員も客も、みんな突然好き勝手に大声を張り上げて、一斉に両手を挙げて踊り出した。続いて両手を頭の上に載せ、床にうつぶせに寝転びはじめる。
――みんなどうしちゃったの。なにやってるの。この銀行、閉店間際にお昼寝の時間とかあるわけ?
「おいこらおばさん! 聞こえねえのかよ!」
いつの間にか、これまた非常識な風体の人間が目の前に現れていた。顔をすっぽり包む覆面をかぶっている。プロレスラーみたいだ。銀行でプロレスをやろうなんて、最近の若い人はなにを考えているのだろう。どうやらこの人は悪役レスラーらしい。手に凶器を持っている。拳銃《けんじゆう》――ピストル? え?
「手ェ挙げて床に伏せろって言ってるだろう!」
われに返った。やっと現実が認識できた。拳銃を持った銀行強盗。客も行員も両手を挙げてその場に伏せるよう命令されていたのだ。なのに明日美ひとりが立ったままだった。だから強盗は明日美に銃を向けていたのだ。
「助けて……助けて……」
喘《あえ》ぐような声が聞こえた。視線を落とした。明日美の足許で、腰が抜けてしまったらしいしのぶが、両手で頭を抱えて蹲《うずくま》っていた。
唐突に全身を恐怖が貫いた。腕が、脚が、がくがくと震えている。体が言うことを聞かない。
「早く伏せろよおばさん!」
覆面男が怒鳴った。目が尋常ではない。口の端に泡がたまっている。この男は気が変になっているのではないか、それとも麻薬でもやっているのだろうかと、明日美は思った。
不意にバランスが崩れた。視界がぐるりと回転する。強盗の姿が消え、天井が目に映った。肩のあたりに痛みを、胸に重みを感じた。体が仰向けになっている。だれかに押し倒されたらしい。
明日美は自分にのしかかっている重みの主に目をやった。さっきの挙動不審の女だった。この女が自分を突き倒したのだろうか。
「ようしそのままだ、そのまま動くんじゃねえぞ!」
こちらに銃口を向けたままわめくと、覆面男は勢いよくカウンターに飛び乗った。
「金だ金ーッ! 早く出せ、ブッ殺すぞコラーッ!」
男が、黒い拳銃の銃口を左右に振りながら叫んだ。そこかしこから悲鳴が上がる。まだ新米といった感じの若い女性行員が、もうやめて、と金切り声を上げながら、男に向かって札束をいくつか放り投げたのが見えた。これをやるから帰ってくれ、という意思表示なのかもしれない。
「だいじょうぶ」
無機的な声。ジーンズの女だった。
「え……え?」
明日美は震えながら、自分におおいかぶさったままの女を見た。キャップが飛んでしまっているから、はじめてその顔がよく見えた。一重|瞼《まぶた》の切れ長の目の奥が妙にギラついていた。鼻筋の横に大きなイボがあった。
女が、明日美の耳許《みみもと》でひそひそと囁く。
「いまはおとなしくしておいたほうがいいです。じき警察がきます。それに」
女の唇の両端が、キューッと吊《つ》り上がった。笑っている……のだろうか。
「それに、あのガン……オモチャですよ」
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「木島の兄さん、どうぞ」
後部座席のドアを開けてくれた中山《なかやま》という若い衆が、開いた傘を差し出しながら声をかけてきた。こういうことに慣れていない史郎は、戸惑いを覚えつつも、たったいま助手席から降りた堺の真似をして、「おう」と偉そうな態度を取ってみた。が、人間不慣れなことはやらないほうがいい。声はひっくり返るし、車から出た途端、雨でぬかるんだ地面に足を滑らせ転びそうになるしで、醜態をさらしただけで終わった。案の定、「親父さんは、なかでお待ちです」と史郎に言ったときの中山は、失笑をもらす寸前のような表情を浮かべていた。
奥多摩の山中、昼間もほとんど人気がない寂しい場所に建てられた九條の別荘は、もともとは建て売りの別荘であったらしい。実際九條の別荘の敷地の両隣には、それぞれ二階建の別荘が建ち並んでいる。九條が真んなかの建物を購入したあとバブルが弾《はじ》け、両隣の別荘はそのままになっている。海外とかに別荘を建てるのは無理でも、奥多摩あたりの別荘なら手に入れることができる、といった所得層の人間が激減したということか。
中山が、降りしきる雨に濡《ぬ》れた門柱に手を伸ばし、チャイムを押した。この門も、広い敷地を囲う柵《さく》も、元は白く塗られた木製のものだったそうだ。それを九條が、黒い鉄製の門柱と門扉、そして鉄柵にかえたということだった。インターフォンも、九條がつけたものだという。
左右の門柱の陰に一台ずつ設置された監視用のヴィデオカメラが、じっとこちらを見つめている。史郎はぼんやりと、右側のカメラに目を向けた。防水シートで包まれているとはいえ、こんな雨のなかにカメラを出しておいてだいじょうぶなのかな、壊れるんじゃないかな、とよけいな心配をしてしまった。
どうぞ、とインターフォンから声がした。セキュリティ・システムを解除した、という合図だ。セキュリティ・システムと言っても、よその組の人間なりなんなりが攻め込んできた場合を考えて設置されたもので、警備会社と繋《つな》がっているわけではない。だれかが了承なくこの門を開けようとしたり柵を乗り越えようとしたら、即座に別荘内に警報が鳴り響く仕掛けになっている。
中山が門を開いた。
建物前面の広い庭を堺と並んで歩きながら、史郎は別荘の周囲を見回した。この別荘にくるのは、実にひさしぶりだった。最後にここにきたのは、四、五年も前のことではないだろうか。
しかし、周囲はなにひとつ変わっていないように見える。低く垂れ込めた鉛のような雨雲に覆われているとはいえ、別荘の背後に広がる落葉松《からまつ》林や、その林を見下ろす山々のたたずまいも、風も空気もなにもかも、五年前のままだ。
矢野に拳銃やライフルの撃ち方を教わり、実弾を使って練習を重ねたのも、このあたりの林だった。あの木の幹を狙ってみろ。あの枝を撃ってみろ。矢野に言われるまま、ひたすら引金を絞り続けた。
矢野|大輔《だいすけ》。変わったヤクザだった。鋭角的な面立ちでなかなか二枚目なのだが、背が低く、本人はそれを気にしているようだった。人間を嫌っていた。同じ組の身内でさえわずらわしく感じているのが見ていてわかった。下戸だった。煙草も喫わない。マンションを持っているのに、暇さえあれば山にこもってテントで寝起きしていた。
そんな矢野の生活に史郎もつきあわされた。コンビーフの缶詰と野菜ジュース。テント生活では三食すべて、それだった。矢野がそれしか食べないからだ。そして銃の鍛練を積んだ。矢野に言われるまま、銃に関する知識を片っ端から頭に叩《たた》き込んだ。知識が増えてゆくのがいつしか快感になっていった――。
史郎はハンカチを出した。うなじのあたりをぬぐう。こんな山奥の日暮れどき、しかもしとしとと雨が降っているというのに、体から汗が吹き出してきている。ずっと冷房の利いた自動車のなかにいたせいかもしれない。
玄関が開かれる。なかに通された。涼しい。汗が引いてゆく。
玄関ホールから、ぴかぴかに磨き上げられた長い廊下がまっすぐ伸びている。その突き当たりの向かって左側が、二階に通じる階段だ。右側には襖《ふすま》があって、それを開けると六畳の和室に続く。その和室には、まるで煙幕でも張ったように、煙草の煙が立ちこめていた。ここに九條がきたらヒステリーを起こすのではないかと史郎は思った。
部屋の中央では、ラフなスタイルの組員たちが麻雀に打ち興じていた。上半身裸になり、背中に彫られた昇り鯉の刺青《いれずみ》を晒《さら》している者もいる。最近解散した辻山会から九條組に籍を移した新入りだろう。また別のところでは、カップラーメンを食べながらテレビに見入っている組員がいた。史郎が想像していたような緊迫した雰囲気は、さして感じられなかった。
彼らは史郎と堺を見ると、ご苦労さんっス、と頭を下げる。堺は平然と「おう」と応《こた》えたが、史郎はあいさつをされることに慣れていないから、照れ臭いというか、居心地が悪い。思わず、いえいえそちらこそご苦労さんです、と頭を下げてしまいそうになった。
「親父は」
両手をポケットに突っ込んだまま、堺が鷹揚《おうよう》に聞いた。地下です、とひとりが答えた。やはり九條が別荘購入後に作った地下室のことだ。地下室と言っても広さは四十畳くらいあり、床には真紅の絨毯《じゆうたん》が敷き詰められ、天井からは豪奢《ごうしや》なシャンデリアがいくつも下がっていて、部屋の一角のカウンターには史郎などには手の出ない高級な酒がずらりと並べてある、九條のプライヴェートルームである。
「おう、なんだそりゃ」
堺が、カップラーメンを食べている小田島《おだじま》という組員に声をかけた。
「は、新発売の……」
「馬鹿野郎、テレビだよ」
史郎も、堺の言葉に釣られるかたちでブラウン管に目を向けた。銀行の出入り口付近が映し出されている。その周囲に、パトカーやら警察官やらマスコミやらの姿が見える。
「銀行強盗だそうです」
小田島の言葉に、堺が失笑した。「割に合わねえ仕事やる馬鹿は絶えねえな」
なあ? と堺に同意を求められ、史郎も、はあ、と追随して笑う。
「で、どうした、そのタタキ野郎は。人質取って籠城《ろうじよう》でもしてんのか?」
すると小田島も苦笑して、「チャカ持った若い男だそうですが、派出所のお巡りに捕まったそうです。なんでもそのチャカ、本物じゃなくてエアガンだったらしくて。でもそいつ完全に舞い上がってて、踏み込んできたお巡りに向けてトリガー引いたんだそうです。そしたら、スタタタタ……って」
堺が爆発したような笑い声を上げた。「どこの世界にも馬鹿はいるな」
小田島が、そうっスね、と笑った。
中山と堺のあとに続いて、和室の奥にある、殺風景なリヴィングルームに入った。
「おい」
堺に言われ、中山が壁際の書棚をぐっと左側に押した。書棚が動いた。その後ろには、むき出しのコンクリートで三方を囲まれた、三畳ほどの空間がある。踊り場だ。この踊り場の、史郎の位置から見て向かって右側に、地下室へ続く、やはりむき出しのコンクリートの階段がある。階段にも踊り場にも明かりはないから、リヴィングから踊り場にもれてくる光だけが頼りとなる。階段は十三段。悪趣味だ。
地下室は、階段を降り切ってすぐのところにある。入り口のドアの上の部分に、小さなグリーンの電球が光っているため、暗闇のなか、ドアの周囲だけが、ぼうっと浮かび上がっているように見える。
観音開きのドアの前に立った中山が、ドアの脇にあるインターフォンのボタンを押した。「親父さん。堺の兄貴と木島の兄貴、お連れしました」
入れ、と応えたのは青木の声だった。
中山が分厚いドアを押し開くと、控え目な音量のクラシック音楽があふれ出てきた。聴いたことがある、と史郎は思った。池上茂の部屋でだ。あのときはほとんど聴き流していたが、茂がモーツァルトのKV469だと言っていた曲だと思う。あの茂と九條が同じ曲に耳を傾けている。それがなんだか、とてつもなく奇妙なことに思えた。
部屋の中央に、これまた豪奢な応接セットがある。そこに青木が座っていた。カウンターには組員がひとり入っている。撃たれた右腕を固定し、肩から吊《つ》った九條は、部屋のいちばん奥にある大きなデスクに腰を下ろしている。まるで、ナントカ省のナントカ大臣が腰かけるようなデスクだと思った。そのすぐそばで、空気清浄器が作動していた。
「木島くん、ご苦労でしたね。そこに掛けなさい。堺くんも」
九條が言った。史郎は「失礼します」と頭を下げると、堺のあとに続くかたちで、応接セットに腰掛けた。堺の隣、青木の正面である。
「おまえはもういいぞ」
中山に顔を向けて、青木が言った。いつも通りキャンディを口に含んでいるようだ。
中山が部屋から出て行くのを待っていたかのようなタイミングで、カウンターのなかにいた遠藤《えんどう》という組員が、水割りを入れたグラスを運んできた。それがテーブルの上に置かれたのと同時に、青木が口を開いた。
「なあ史郎。走って[#「走って」に傍点]みないか」
血の気が引いた。
「木島くん」
デスクに座ったまま、九條が言った。「すみませんが、鹿沼を殺《と》ってきてください」
昔、まだ組員見習いだった史郎に、スポーツ新聞を買ってきてください、と命じたときと、まったく同じ口調に思えた。
「……あ、あの、自分が、ですか……?」
声が震えていた。
「そうですよ」
九條の口調は、いつも通りの淡々としたものだった。
「しかし、そのう……親父さんは今朝、みんなに自制しろと……鹿沼に掛け合って手打ちにするからと……」
「おまえ、親に口答えする気か? え? え? え?」
静かながらも威圧的な口調で、青木が言う。
「いいんですよ」
立ち上がりながら九條が言った。そのまま、こちらの応接セットにやってくる。そして青木の隣に座ると、チタンフレームの眼鏡の奥からまっすぐに史郎の目を見据えて、続けた。
「たしかにわたしはそう言いました。鹿沼はわれわれの身内です。身内同士の戦争なんて、褒められることではありません。ですからわたしは、堺くんや青木くんに、相手が鹿沼だと決めつけるな、と言いました。よしんば鹿沼だったとしても、最高幹部会に協議してもらって手打ちに持ち込めばそれでいいと思っていましたしね。向こうは一家名乗りをあげていませんし、鹿沼自身、自分たちが朝倉組長を殺したと認めていないわけですから、話し合いで決着がつく余地が十二分にあったわけですし。被害をこうむったのはこちらだけですから、手打ちにして賠償金を取ればいいんです。殺《と》られたのは組長なので、一億くらいは請求できるでしょう。わたしはそのつもりだったのですよ、今朝までは」
震えが止まらない。さっきから止めよう止めようとしているのに。
「ところが海渡の馬鹿が、考えなしに若い者をたきつけました。たしかにこちらの格好はつくかもしれません。ですが、若い者が次から次に逮捕されたら、組はどうなります? 組員は減る、当然シノギも減る、しかし務めに出ている者たちの家族の面倒を見なければならない。要するに、半端ではない金額を毎月|捻出《ねんしゆつ》しなければならないのに、肝心の稼ぎ手をどんどん刑務所に送り込んでどうするんです。稼ぎ手が減れば減るほど、面倒を見なければならない家族が増えて、捻出する金額も増えてゆくというのに。海渡の猿のおかげで、賠償金の請求もむずかしくなりましたしね。おまけに、吉沢《よしざわ》でしたっけ? あんな下っ端を殺って、われわれになんの利益がありますか。向こうだって痛くも痒《かゆ》くもありませんよ。むしろ海渡のせいでわれわれがこうむった被害のほうが大きいくらいです」
――朝倉と九條が狙撃《そげき》されたあと、さっそく行動を開始したのは海渡組だった。二台の車に分乗した海渡組組員数名が、鹿沼組本部事務所にカチコミ[#「カチコミ」に傍点]をかけた。つまり、組事務所を銃撃したのである。
続いて、吉沢というまだ二十歳そこそこの鹿沼組組員が、行きつけのバーから出てきたところを狙撃された。五発の拳銃《けんじゆう》弾を受けた吉沢は救急車で病院に運ばれたものの、死亡した。そのほぼ同時刻、海渡組組員一名が、吉沢を撃った拳銃を手に警察に自首した。鹿沼組本部事務所にカチコミをかけた組員のうち数名も、目撃者の証言などにより、すでに逮捕されている。
「なあ史郎。よく考えてみろよ、え? こっちは朝倉の御大と小山、ふたりも殺られたんだぞ。親父さんも撃たれたし、海渡さんとこの若い者も、何人も捕まっただろう? それに比べて鹿沼のところはどうだ、え? カチコミ受けてチンピラ一匹なくしただけだろう? な? ここで手打ちにすることもできるけどさ、このままだとおまえ、俺ら一生鹿沼にナメられっぱなしだぞ。違うか? それでおまえ、鹿沼が本家の若頭にでもなってみろ、ええ? 俺らのシノギがだ、鹿沼にダーッと取られちまって、好き勝手にされちまうのがオチだ。違うか? え? え? え?」
「……はあ」
「なあ史郎」
と、青木が身を乗り出すようにして顔を近づける。「こっちは親殺られてるんだ、なあ? あっちの親殺らねえで、なにがヤクザだ。違うか? え? え? え?」
「あの、大将、お言葉ですが」
それまで無言だった堺が口を開いた。「こんな腰抜けに、鹿沼を殺れるとは思えないんですけど」
そうだそうだ、もっと言ってくれ堺さん――はじめて史郎は、堺の中傷をありがたく感じた。
「なにもこいつが走らなくても、もっと根性据わった奴がいくらでもいるじゃありませんか。親父さんや大将が自制しろとおっしゃるからこらえているだけで、好きにしろとおっしゃれば、喜んで鹿沼殺りに行く若い者、ごろごろしてますよ」
「そういう連中に鹿沼を殺れると思いますか?」
九條が言う。「顔つきから物腰から、なにからなにまで見るからにヤクザモンといった人間が、すんなりいまの鹿沼に近づけると思いますか」
「そりゃあ……そうですけど……」
「仮に近づけたとしても、道具の扱い方もろくに知らない人間が、鹿沼を殺れると思いますか? せいぜいわたしを撃った奴みたいに、鹿沼の弾丸《たま》よけの若い者を仕留めるのが関の山でしょう――木島くん」
九條がこちらに向き直った。「わたしがあなたを矢野くんに預けたのはなんのためだと思います? あなたに堅気のような仕事しかさせなかったのは?」
この日のためだった、ということか。どう見てもヤクザに見えない、ヤクザ社会の空気に染まっていない、けれども拳銃の扱いには慣れている鉄砲玉を育成したかったということか。
だけどあなたは間違ってますよ、と史郎は思った。肝心の、人を殺す度胸を、自分につけさせるのを忘れていましたよ。
「木島くん。本日づけで、きみを破門にします」
愕然《がくぜん》とする史郎を見て、青木が笑った。「なんだ、おい、そんなに驚くことはないだろう、え? おまえが務めから帰ってきたら、ちゃーんと組に復帰できるに決まってるじゃないか、なあ?」
警察に逮捕された際、史郎が九條組組員のままだと、警察の捜査は九條組全体に及ぶことになる。九條が殺人教唆容疑で逮捕される可能性も出てくる。だが犯行前に組から破門しておけば、史郎は組となんの関係もない人間ということになり、よって事件が九條組に波及する心配はない。そういうことか。
「出てきたら、きみには大きなシノギをあげますよ。若い者もたくさんつけてやります。それで立派に一本立ちしなさい」
「おう、そりゃあいい!」
青木が声を上げて笑った。そして史郎の肩を何度も叩《たた》く。「立派な男になれるじゃないか! なあ、将来の木島組組長!」
おだてているつもりらしい。だが史郎にそんなつもりはない。なにより、人の上に立つのは苦手だ。
「あなたに支払われる給料は、あなたがなかに入っているあいだも支払われ続けます。貯金する、ということになりますがね。出てきたときには、けっこうな額になっていると思いますよ」
「あの……ですが自分、娘が……」
「心配はいりません」
史郎の言葉は、九條にさえぎられてしまった。「わたしは海渡とは違います。務めに出ている人間の家族は、誠心誠意面倒を見させてもらうつもりです。給料のほかに、娘さんの生活費と言いますか、それもきちんと払わせてもらいます。あなたは親ひとり子ひとりですから、ことのほかお寂しいでしょうし、ご心配でしょうが、お嬢さんの面倒は、組をあげて見させてもらいますよ」
しかしももこが、ヤクザの娘、人殺しの娘と後ろ指を差されるようなことになったらどうするのだ。金なんかどうでもいい。自分はただももこを、自分や翔子とは違う、まっとうな、堅気の、ふつうの娘に育てたいだけなのだ。
そんな史郎の気持ちを察したのか、九條がこんなことを言った。
「なんなら、お嬢さん、わたしの家族に引き取らせましょうか。つまり、イギリスで暮らすということですが」
「……え」
「外国ならば、あなたのことが周囲に知られる心配はないでしょう。それにこれからの時代、海外で育った経験があったほうが、なにかといいのではないですか」
ふと、鈴音の顔が目に浮かんだ。それに範子の笑顔がオーヴァーラップし、続いて茂の声が聞こえた。海外でも通用するように、レインという名前にしたんですよ。
「おい史郎」
いきなり堺に肩を抱かれ、ぐっと引き寄せられた。「親父さん、ここまでおっしゃってくださってるんだ。男らしく覚悟決めろ」
「堺さん……」
反対してくれないんですか――そう目で訴えたが、無駄のようだった。
「男ならよ、一度は舞台で主役張れよ。このチャンス逃したらよ、おまえ、もう一生舞台は回ってこねえぞ」
「なあ史郎。ここらでおまえもさ、一発ダーッと走ってだ、なあ? 男になってこいよ、なあ? なあ? なあ?」
青木はそう言うと、満面の笑みのまま、紫色の袱紗《ふくさ》包をテーブルの上に置いた。ごとりという音。袱紗が開かれる。大きな、回転式の拳銃だった。コルト社製のパイソン357マグナム、銃身四インチ。
眩暈《めまい》がした。
「矢野くんがいれば、彼にやってもらうはずの仕事でした。ですから矢野くんの道具を使ってもらいたかったのですが、彼が自分の道具をどこに保管しているかわからなかったものですから、これで我慢してください」
「……はい」
「あなたが鹿沼を殺ったあと、鹿沼の手下に追われた場合を考えて、弾丸は十二発用意しておきました」
「……ありがとうございます」
そうとしか言えなかった。
「成功したら、その足で警察に行きなさい。それから言うまでもないことですが、鹿沼はきみ自身の判断で殺した。朝倉組も九條組も、いっさい関与していない。わかってますね」
「……はい」
袱紗包と、拳銃弾が入ったショートホープの箱をふたつ受け取る。手が、まだかすかに震えていた。
「史郎、なーにブルってるんだ。ほら、これでも飲んで落ち着け、グーッと飲め、グーッと」
青木が水割りを勧めた。ありがとうございます、とグラスを手に取る。喉《のど》がカラカラだったので一気に飲み干した。
「うまいか? うまいか史郎、え? え? え?」
「……はい」
「そうか、そりゃあよかった、なあ?」
笑いながら、青木が何度も史郎の肩を叩いた。そしてカウンターに声をかける。
「おい遠藤、ほら、なにボサーッとしてるんだ、ん? ほらほら、早く史郎にもう一杯作ってやれよ、ん? ん? ん?」
はい、という遠藤の声が聞こえた。心なしか、不貞腐《ふてくさ》れているような声に聞こえた。
遠藤は、史郎より六つ七つ年上のはずだ。しかし仕事といえば、いまだに見張り番や九條たちに飲み物を出すという、上の階にいた新入りたちと同じようなことばかりさせられている。それに不満を持っていて、よく若い者に愚痴をこぼしていると聞いたことがある。たぶん遠藤は、自分が鉄砲玉として走りたいのに、と思っていることだろう。それがこの世界で出世する、いちばん手っ取り早い方法だからだ。
「青木くん」
九條に言われて席を立った青木が、さっきまで九條が座っていたデスクのそばにある金庫に歩み寄った。金庫と言っても、市販のものを購入したのではなく、壁に嵌《は》め込まれている、作りつけの金庫である。この地下室を造る際に特注したらしい。大きさも、ふつうの家の押し入れくらいの大きさがあって、その気になれば人間の四、五人は隠れることができそうなシロモノだ。電卓のようなボタンとダイアルがついているから、テンキー式であり、なおかつダイアル式でもあるという、最近多いタイプだろう。このタイプは、両方の暗証番号を知っておかないと開けることができないため、より安全というわけか。
青木がそれを開いた。金庫はこちら側に向けられているので、開いた瞬間、そのなかが見えた。これまた押し入れのように真んなかに仕切りがあって、二段になっている。上の段には現金や債券、株券といったものが、山のように積まれていた。現金だけでも数億はありそうだ。史郎などには一生縁のない額である。そして下の段には、ガンスタンドに立て掛けられた拳銃やショットガンなどがずらりと並んでいた。それらに混じって、マラソン選手などがよく使う酸素吸入器がいくつか置いてあった。どうやらこの金庫には、もしなにかあった場合、組員が下の段の銃器を取り出し、空いたスペースに九條あたりが隠れる、という役割もあるらしい。酸素吸入器は、そのときのためのものだろう。
そんなことを考えていた史郎は、金庫を閉じて振り返った青木と目が合ったので、視線を泳がせてしまった。金庫のなかを覗《のぞ》き込んでいたのをとがめられたような気がしたのだ。
だが青木は、笑顔のままだった。彼は大股《おおまた》で史郎のそばにやってくると、札束をひとつ差し出した。
「百万ある。これでだ、ダーッと、な? 好きなだけ遊んでこい。な? な? な?」
地下室を出るなり、焦ったような手つきで、堺が煙草を取り出した。よっぽど我慢していたらしい。
史郎もあわててポケットをまさぐり、ライターを引っ張り出した。「失礼します」と火を差し出す。
ふーっ、と深呼吸するようにして煙を吐き出した堺は、史郎の腕をつかみ、自分のほうに引き寄せた。そして史郎の耳許《みみもと》に口を寄せ、低く言う。
「てめえ、逃げるなよ」
「……逃げるって……」
「その百万持ってフケたりすんじゃねえぞってことだよ」
「そんなことしませんよ……」
「てめえみてえな根性なし、信用できるかよ」
「…………」
「百万持って、娘と一緒に逃げようなんて気、起こすなよ」
「……はい」
堺は眉《まゆ》をひそめ、軽く舌打ちすると、いきなり史郎の肩をつかんだ。「なんでてめえみてえな腰抜けが親父や大将に選ばれなきゃなんねえんだよ」
「あの……」
「なんで俺じゃねえんだよ」
そんなこと言われても、と言いたかった。じゃあ堺さんが行ってきてくださいよ、自分、殺しなんてやりたくないですよ、刑務所なんて入りたくないですよ、と。
「とにかく」
史郎の顔に煙を吹きかけて、堺が言った。「きっちり鹿沼|殺《と》ってこいよ。逃げたら、てめえ、娘もろともブッ殺すからな」
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「そうですか……辞めたんですか。でも、急ですね」
タイムカードを押しながら言うと、和室の座布団の上に正座している、ウサギみたいに目を真っ赤にした槇が、「まあ、毎度のことだけどね」とぶっきらぼうに応《こた》えた。いつも思うことだが、この男が両手をきちんとそろえて座っている姿は、強力な下剤を飲まされたヒキガエル、といった感じに見える。
「じゃあ、関口さんと槇さんのふたりで、ずっとやってたわけですか」
「おかげでこれだよ」
槇は、充血した自分の目を指差す。「いつもの仕事だけでもしんどいのに、江田の馬鹿の代役までやらされて、大変だったわけよ。おまけにだよ、きのうヤクザがきたわけ。江田を探して」
「なんでですか」
「江田ってのは偽名なんだって。本名はなんてったっけな……忘れたけど、とにかく江田は、借金踏み倒して逃げてる奴だったわけよ。そんで借金取りをまかされたヤクザが追いかけてきたんで、あわてて逃げ出したってわけよ」
またその手の人間だったのか、と明日美は苦笑した。
「ところでさ、社長、ちゃんと残業手当て払ってくれると思うかい?」
「むずかしい問題でしょうね」
槇が嘆息を吐く。「むずかしいよお」
やはり和室でお茶を飲んでいた桂たちパート主婦の一団が、忍び笑いをもらした。
「で、さ」
槇が、四つん這《ば》いになって明日美のほうににじり寄った、「すぐに新しい人募集するからさ、それまで三宮さんも、ちょっときついかもしれないけど、少しの辛抱だから、江田のぶんまで頑張ってほしいわけよ」
明日美は眉をひそめた。「頑張れって、なにやるんですか。まさか一日十八時間労働しろって言うんじゃないでしょうね」
「違うって」
槇が大きく手を振った。「それは俺がなんとかするからさ。取りあえず、今週社長のところに行くやつね、それやってほしいわけよ。江田がくる前は三宮さんがやってたんだから、できるでしょう?」
ホテル・サンライズの売上金は、毎週末、社長の秋月がやっている街金の事務所に運ばれる。銀行に振り込むようにすればよさそうなものだが、秋月は、今週はこれだけの売上がありました、と直接報告を受け、それを現金で確認しないと気が済まないのだそうだ。おかげで明日美たちはよけいな仕事がひとつ増えることになる。以前は明日美と槇が週ごとに交替して金を運んでいたが、江田がきてからは、彼と槇が、やはり週交替で担当することになった。その江田がいなくなってしまったから、新しい社員が入るまでのあいだ、また明日美にその運搬係をやってほしいと、槇は言っているわけだ。まあ運搬係と言っても、こんな郊外のラヴホテルの一週間の売上なんてそれほどの額ではないから、気楽ではあるのだが。
「今度は、ちゃんとした人を雇ってくださいよ」
皮肉めいた笑みを浮かべて、桂が口を挟んだ。「どうしてよりにもよって、すぐにドロンしちゃうような人ばかり雇うかねえ。だいたいいまは人あまりで、仕事ほしくてたまんない人がたくさんいるでしょうに。リストラされて困ってる人とか」
「そういう人は面接にも滅多にきてくれないわけよ」
パート主婦のひとりが差し出したコーヒーを、悪いね、と受け取りながら槇が言う。「きてもさ、変にプライド高かったりしてね。わたしは以前、ナントカ商事の課長代理を務めた男だ、とかさ、そういうことばかり言うわけよ。昔は給料五十万もらってたから、六十万出せとかさ。そしたら働いてやる、みたいなこと言う人いたりするわけよ。学歴自慢したりしてね。これだけの学歴があるわたしが働いてやるんだ、感謝しろ、みたいなさ。そしたらこっちもさ、じゃああんた、ほかに仕事口あるの、それでご家族養っていけるの、そんだけご立派な逸材だったら、なんであんたリストラされるの、とか、嫌味のひとつも言いたくなるわけよ。あちらさんだって、こういうところ利用したことあるだろうにね、よくもまあ、それだけこちとらの仕事を見下せるもんだって、むしろ感心しちゃうような人がいたりするわけよ」
コーヒーを飲みながらぐちぐちと続ける槇を見て、桂たちが明日美に目配せする。またはじまったよ、と言いたいらしい。
「でも、あしたは関口さん、休みなんでしょう? どうするんです? 悪いけどあたし、十時に帰って四時に出てくるなんてできませんよ」
明日美が言うと、槇はまた正座したままにじり寄って、「三宮さん、ひとりものなんでしょう? 家で旦那《だんな》や子どもが待ってるわけでもないんでしょう? だったらあした一日だけでも我慢してよ。俺、もう限界だよ。疲れたよ」
いまになって、いえ、実は主人がいるんです、とは言えなかった。かといって、昭久を置いて午後四時から出勤するわけにもいかない。
「あした一日だけはっておっしゃいますけど、あさってからはどうなるんです? 四時から十時までは槇さんがやってくれるんですか?」
槇が困ったような顔をした。
「じゃあ、辞めた江田くんの代わり、わたしらでしばらくやりましょうか?」
困っている槇と明日美を見兼ねたのか、桂がそう助け船を出したものの、ほかのパート主婦たちは一斉に反発した。
「桂さんのところはお子さん大きいからいいでしょうけどォ、うち、まだ小さいしィ」
「うちは亭主がうるさくって。昔から言うじゃないですか、縦のものを横にもしないでしたっけ、とにかくそういう亭主だから、ちゃんと餌やらないと」
「わたし、最近体がだるくって。もう年なのかなあ」
「だいたい、関口さんが十二時間働けばいいだけの話じゃないですか。新しい人がくるまで、関口さんが江田くんのぶんまでやればいいんですよ」
「いや、それは俺も頼んでみたんだけど、関口さん、夜は忙しいんだって」
「水商売かしら」
「風俗じゃない?」
口々にそう言ったあと、パート主婦たちは「やっぱりねー」と声をそろえてうなずき合った。
「変に色気あると思ったら、そうだったんだ」
「素人じゃないと思ったんだよね」
ひとりの思いつきの発言が、またたく間に事実として認定されてしまった。自分がきのう銀行強盗に遭遇したと知ったら、この人たちはどんな反応を示すのだろう。根掘り葉掘り聞き出そうとし、明日美が曖昧《あいまい》にごまかしたりしたら、あの人も強盗の仲間だったんじゃない? とでも言い出すのではないだろうか。
「はいはい、そんなふうに他人を色眼鏡で見たりしないの」
ぱんぱんと手を叩《たた》き、まるで学校の教師のような口調で槇が言った。「人それぞれ、事情っつーもんがあるんだから。みなさんもそうでしょう?」
そして槇は、明日美の耳許《みみもと》に口を寄せ、早口で囁《ささや》いた。
「言いにくいんだけどさ、関口さんも辞めるかもしれないよ」
「どうしてです?」
明日美が小声でたずねると、
「さっき言ったヤクザがきたのはね、ちょうど関口さんと俺が交替する時間だったわけよ。俺がきたら、フロントでヤクザが関口さんに脅しかけてたわけ。あとは俺がなんとかしたけどさ、関口さん泣いちゃって、もうこんな怖い思いしたくない、辞めたいってもらしてたから」
頭が痛くなってきた。いっぺんにふたりもいなくなってしまったら、新しい人間がくる前に、過労で倒れてしまう。
「ふたりでなにひそひそやってるんですかあ? なんか怪しいなあ」
パート主婦のひとりが冷やかした。
「なに言ってんの」
呆《あき》れたようにして槇が言った。「社員には社員の事情っつーもんがあるの!」
「槇さん、『事情』が好きですねえ」
「ひっくり返せば『情事』だもんねえ」
桂が言うと、パート主婦たちが声をそろえて笑った。
アホらし……と思いながらフロントの椅子に座り、頬杖《ほおづえ》をついた明日美は、事情ねえ……と呟《つぶや》いた。あなたの事情はわかるけどさ、という、隅田《すみだ》とかいう横柄な刑事の言葉を思い出したのだ。
被害者のひとりとして話を聞きたい。そう言われたとき、明日美は、体が不自由な夫が家で待ってるんです、早く帰らないと心配します、夫はごはんも食べてないんです、と言い張った。それに対する隅田刑事の言葉が、あなたの事情は……というものだった。
〈家に電話したらどうなの。旦那に事情を説明してさ……〉
うちに電話はありません。そう言うと、隅田刑事は心底驚いたような顔をしていた。結局交番の巡査が明日美の家に出向いて事情を話すことになったが、明日美は、あの昭久が見ず知らずの来客の前に姿を見せるわけがない、きっと居留守を使うだろうと思った。
帰宅したときには、もう外は暗くなっていた。昭久は車椅子に座って待っていた。ごめんね、いろいろあって遅くなっちゃった、と言うと、昭久がノートを差し出した。警察の人がきて話は聞いた、大変だったね、怖かっただろう、だいじょうぶかい、怪我はないかい、なんの力にもなれず申し訳ない、というようなことが延々と書かれてあった。警察がきたとき、昭久は居留守を使わなかったらしい。
昭久は明日美の手を取り、その手を自分の額に当てたまま、うつむいてしまった。心配で心配でたまらなかった。彼は口に出してそう言った。むろん不明瞭《ふめいりよう》極まりない声だったし、慣れない人が聞いたらただの唸《うな》り声としか取れないものだっただろうが、明日美にはそう聞こえた。明日美は膝立《ひざだ》ちになり、心配かけてごめんね、と昭久を抱き締めた。
〈ねえ、アキちゃん。もっと広いところに引っ越そうか。広くて、便利なところ。もっと楽な生活しよう。ふたりっきりで〉
そんな言葉が口をついて出た。脳裏には、行員や自分たちにオモチャの拳銃《けんじゆう》を突きつける強盗の姿が浮かんでいた。
桂たちが帰宅したあと、明日美は和室でぼんやりブラウン管を眺めていた。しかしその映像も、流れている音声も、目にも耳にも入ってこない。頭のなかは、きのう――正確にはおとといの昼間体験した強盗騒ぎのことでいっぱいだった。
ひとりの行員が、カウンターに飛び乗った強盗に、札束を放り投げていた。別に抵抗しようとしたわけではないだろう。銀行員なのだからふだん訓練はしていると思うけれども、あの行員は、実物の強盗を目の当たりにしてパニックに陥ったのに違いない。オモチャの拳銃でさえ、ああなのだ。あれがもし本物の拳銃だったらどうだっただろう。もっと強盗が機敏に動いていたらどうだっただろう。彼が冷静さを保っていたら。警察への通報ボタンを押させなかったら。
こんな光景が目に浮かぶ。
新装開店を祝う花輪がずらりと並んでいる中華料理店の入り口に、よそ行きの格好をした自分と、やはりスーツを着用した車椅子の昭久がいる。かしこまった表情の自分たちに向けられるカメラのレンズ。
――社長、もっと笑ってください、表情カタいですよ、そうそう、その笑顔、さあいきますよ、はいチーズ!
拍手に包まれる明日美と昭久。一緒に頑張りましょう、と声をかけてくる雇われ店長や料理人たち――
『なに考えとんじゃ、おまえ!』
テレビから流れてきたその言葉と笑い声が、明日美を現実に引き戻した。ブラウン管のなかでは、若手のお笑い芸人が舞台でコントを演じていた。
明日美はかぶりを振り、冷たくなってしまったお茶をひと口飲んだ。そして部屋の隅に置いている自分のバッグを手繰り寄せた。いま職を探しているに違いない人物のことをふと思い出したのだ。彼女なら、江田の後任をやってくれるかもしれない。
財布のなかに入れておいた名刺を取り出す。藤並渚《ふじなみなぎさ》。銀行で明日美を助けようとしてくれたジーンズの女の名刺だ。
警察官が踏み込んだとき一緒にいたこともあって、明日美、しのぶ、そして渚の三人は、同時に事情聴取を受けた。それが終わってから、明日美は渚に声をかけ、礼を言ったのだが、渚の反応は素っ気ないことこの上ないものだった。ここまで無愛想な女は見たことがないと思った。
お仕事は? という明日美の問いに対し、突きつけるように差し出されたのが、この名刺だった。
〈でもこれは前の会社の名刺です。この前倒産したんです。だからいまは無職です〉
名刺には、「今川工務店 藤並渚」とあった。社員四名の小さな会社で、渚はここで事務をやっていたそうだ。そして名刺には、渚の携帯電話の番号も記載されていた。
口にはしなかったものの、渚はいま仕事を探しているはずだ。明日美は、彼女にこのホテルに勤務するつもりはないかどうか聞いてみようと思ったのだった。
名刺を手にフロントへ向かい、椅子に腰を下ろした。ギイッという音を立てて椅子が軋《きし》む。目の前にある電話の受話器を取り、渚の携帯の番号を途中までプッシュしたものの、よく考えれば、もう午前〇時をとっくにすぎている。いくら相手がひとり暮らしをしている二十歳の若者でも、電話をするには非常識な時間だと思い、受話器を戻した。
そのとき、ふと思い出したことがあった。
明日美同様、渚の名刺を受け取ったしのぶが、藤並渚……? と呟《つぶや》くのが聞こえた。見ると、しのぶはほんの少し眉根《まゆね》を寄せ、記憶を探るような目をして、名刺をじっと見ていた。あれはいったいなんだったのだろう。
まあ、いいか。とにかく電話をかけるのはあしたの朝にしよう――そう思いながら名刺を財布にしまっていたら、電話が鳴った。
「はい、ホテル・サンライズでございます」
『三宮さんですか。藤並です』
薄い唇を「へ」の字に結んでいる渚の顔が目に浮かぶような、ぶっきらぼうな口調だった。一瞬、どうして渚からここに電話がかかってくるのだろうと首でも傾げたい気持ちになったが、別れ際、彼女に、自分の連絡先としてホテル・サンライズの電話番号を教えたことを思い出した。
「あ、藤並さん? いまちょうど電話しようと思ってたところなのよ」
意識して声を弾《はず》ませ、愛想よく応《こた》える。
『十二時以降はおひとりだって、葉山さんに聞いたものですから』
「葉山さん?」
なんだって、あの女の名前が出てくるのだろう。
『いま、よろしいですか』
相変わらずの、覚えたての台詞《せりふ》を棒読みしているような調子で、渚が言う。
「ええ、ちょうど暇になったところで――ねえ藤並さん、あのね……」
『三宮さん。単刀直入に聞きます』
「……え、なに?」
『わたしたちと組みませんか』
「組む……って?」
『大金を強奪するんですよ。わたしと葉山さんと三宮さんの三人で』
それまでとは違う、妙に嬉《うれ》しそうな口調で、渚が言った。興奮を抑えている、というようにも聞こえた。
ひと息ついて、明日美は口を開いた。
「乗るわ」
呆気《あつけ》なく了承している自分が、信じられなかった。
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おかしくないよな。
Mデパート四階にあるトイレの鏡で、もう一度自分の外見をチェックした。安物のスーツにブリーフケース、黒縁の伊達《だて》眼鏡。ふつうのサラリーマンに見えると自分では思うが、他人の目から見たらどうなのだろう。
個室に入り、便座カヴァーの上に腰を下ろした史郎は、ブリーフケースを開け、拳銃を取り出した。ゆうべ入念に手入れしたから心配ないと思うけれども、いざというとき作動しなかったらどうしよう。
落ち着け。失敗したら殺される。
銃を、自分の胸に当てた。心臓の鼓動が銃を通して手に伝わってくるようだ。そう思ったら、鼓動がどんどん高まって、はっきり耳に聞こえるまでになった。脳味噌《のうみそ》自体が脈打っているような感覚を覚える。
〈チャカハジくときは、相手の至近距離まで近づかなきゃだめだ〉
奥多摩の山中で拳銃の撃ち方を教えてくれたとき、矢野が言っていた。
〈射程距離なんて、あってないようなものだ。標的との距離が三メートル離れていたら、手がちょっとブレただけで、標的がちょっと動いただけで、弾丸《たま》は外れる。手を伸ばせば相手に触れられるくらいの距離で撃たなきゃだめだ。それも、連射。人間なんてな、そう簡単には死なねえんだよ〉
頭のなかで、矢野の言葉を反芻《はんすう》した。いま自分が持っているのはコルトパイソン357マグナム、発射の際の反動も半端ではないはずだ。銃身も跳ね上がるだろう。そのぶん狙いもつけにくい。だから、ひっそりと、しかし素早く鹿沼組長に近づき、一メートル足らずの至近距離から連続して撃つしかない。これはダブルアクションだから、立て続けに強く引金を絞ればいい。
弾倉をチェックする。暴発防止のため、弾丸は五発しか込めていなかったが、やはり六発すべて装填《そうてん》することにした。至近距離でマグナム弾を六発もくらえば、たいていの人間は絶命するはずだ。
しかし問題はそのあとだ。どうやって逃げる? 鹿沼には当然ボディ・ガードがついているだろう。連中は即座に撃ち返してくるに違いない。銃弾から逃げながら空薬莢《からやつきよう》を捨て、弾丸を込めて反撃する――自分にそんな器用な真似ができるとは思えない。
と、また別の不安が芽生えた。
実際に相手の姿を見たとき、躊躇《ちゆうちよ》なく引金を引けるのだろうか。いくら敵対している組織のトップとはいえ、生きた人間に向かって。
矢野に仕込まれ、拳銃《けんじゆう》の扱いに慣れている。九條は史郎を選んだ理由のひとつに、それをあげていた。とはいえ史郎は、動く標的など撃ったことがない。虫もよく殺せない自分に、人を殺せるのだろうか。
腕時計を見る。午後一時四十七分。
少しでも気分を落ち着けたくて、煙草を取り出し火をつけた。トイレで煙草を喫うなんて中学校時代以来だ。
そして呟く――「ももこ」
――あれから史郎は、ホテルにチェック・インし、適当なデートクラブに電話をした。正直そんな気分ではなかったのだが、今度いつ女性の肌に触れることができるかわかったものではないと思ったのだった。
機械的に行為に没頭した。デート嬢も、義務的にそれを受けていた。虚《むな》しかった。
バーのカウンターで、ひとり酒を呷《あお》った。怖かった。恐怖感――薄れなかった。酔えば酔うほど増幅していった。
堺からの電話がそれに追い討ちをかけた。海渡が射殺されたのだという。自宅の駐車場で、ボディ・ガードもろとも蜂の巣にされたのだそうだ。朝倉のときと同じ手口である。使用されたのはサブ・マシンガンらしいとのことだった。吐きそうになった。俺はこのまま気が狂うんじゃないかと思った。
ひとりでいたい、でもひとりでいたくない。そんな気持ちに押しつぶされそうになったとき、ももこのことを思い出した。なんとも呆《あき》れたことに、拳銃を受け取って以来、自分のことばかり考えていて、娘の存在を失念してしまっていたのだ。
あわてて帰宅すると、ももこは自分で布団を敷き、すやすやと眠っていた。流し台には、空になった幼稚園の弁当箱が置かれていた。テーブルの上にはカップラーメンの容器があった。そして、『パパ、おかえりなさい』と書かれたももこの手紙。
史郎は一晩中ももこの寝顔を眺め続けていた。
そしてきのう、ももこに幼稚園を休ませた。どうして? と不満げにたずねるももこに、こう言った――パパとデートしてくれよ。
動物園に行き、遊園地に行った。朝から晩まで一緒に遊んだ。これ買って、とせがまれて、ウサギの顔を象《かたど》った小さなブローチ――両目が赤いガラス球になっていた――を買い、その場でつけてやった。ほしいものはなんでも買ってやり、好きなものをたらふく食べさせてやるつもりだった。レストランで、ももこがお子様ランチを頼んだとき、もっと高いもん頼めよ、この店でいちばん高いやつにしよう、と言ったら、お子様ランチでいいの! ぜいたくはいけません! と逆に叱られてしまい、苦笑した。苦笑したのは、ももこに叱られたからではなく、この店でいちばん高いやつにしよう、という自分の言い種《ぐさ》が、ヤクザっぽくておかしかったからだった。
「このまま時間が止まってくれたら」テレビや映画などで、よく聞く台詞だ。それを耳にするたびに、クッサイ台詞、と思っていた。しかしその台詞を笑えなくなっていた。メリーゴーランドに乗って、パパー、と手を振るももこにカメラのレンズを向けながら、史郎は心底思った――神様、どうかこのまま時間を止めてください。
そこに、九條から直々に電話があった。
〈いま、Mデパートの四階で、島袋俊哉《しまぶくろとしや》という画家の個展が開かれています。明日の午後二時、鹿沼はそこに現れるはずです〉
鹿沼は昔から絵が好きなのだそうだ。趣味で油絵を描いているという。
〈いい度胸してるでしょう?〉
九條はそう言って、引きつったような声を上げた。笑っているらしかった。
〈こんな状況だというのに、優雅に絵画の鑑賞と洒落《しやれ》込むんですからね。よっぽどわれわれを見くびっているんでしょう〉
午後一時五十分。
史郎は、右手に拳銃を持ち――むろん引金には指をかけていない――左手の腕時計と睨《にら》めっこしながら悩んでいた。
拳銃をブリーフケースから素早く出すためには、ファスナーを開け、あらかじめ右手を突っ込んでおかなければならない。しかしそんな不自然な格好でうろつくわけにはいかない。鹿沼組の人間なら、史郎が拳銃を忍ばせている鉄砲玉だとひと目で気づくはずだ。
ではスーツのポケットはどうだろう。不自然に膨らむからこれもまずい。それでも一応試してみたのだが、拳銃を引き抜くときに、照星やら撃鉄やら銃把やらが引っかかって、うまく取り出せない。
結局、銃身をベルトの内側に挟むという、オーソドックスな手段を取ることにした。
腰の部分、臀部《でんぶ》の上に銃身を差し込んだ。立ち上がって動いてみた。着ているスーツはセンターベンツなので、ほんのちょっとした動きで後ろから拳銃が丸見えになってしまう。これはだめだ。
次に、腰の左側に拳銃を挟み込んだ。左手にブリーフケースを持てば、この部分の膨らみもなんとか隠せるようだ。それを確認してから、引き抜いてみた。予想したほどスムーズにはいかなかったが、ほかの隠し場所と比べたらずいぶんとマシに思えた。
「……よし」
声に出して気合いを入れる。
ももこ。しばらくお別れだ。
家に電話し、留守番電話にメッセージを残しておこうと思った史郎は、携帯電話を取り出した。
「……あ、ももこ、パパだよ。その……」
切ってしまった。思わず涙声になってしまい、言葉が続かなかったのだ。
頭を抱えた。あらためて震えがくる。俺は人殺しになるのだ。きょうで娑婆《しやば》とも長いお別れだ。ももこの成長を見守ることもできなかった。
「……もう一本、もう一本だけ」
ぼそぼそと呟《つぶや》いて煙草に火をつける。そして携帯電話のナンバーをゆっくりとプッシュした。呼び出し音。呼び出し音。呼び出し音。
『もしもし、池上です』
弾《はじ》けるように明るい、範子の声。息を飲んだ。
『もしもしー?』
電話を切った。小首を傾げ、訝《いぶか》しげな表情で受話器を見る範子の顔が目に浮かんだ。
――なにをやってるんだ、俺は。最後にあなたの声を聞きたかったとでも言うのか? あなたが好きでしたとでも言うつもりだったのか?
史郎はもう一度頭を抱え、目を閉じた。深呼吸を繰り返すうちに、音楽が聴こえてきた。耳の奥で鳴っているのだ。ヴェルディの『レクイエム』、茂の部屋で聴いた曲である。
〈死者がびっくりして飛び起きそうな曲でしょう?〉
たしか茂がそう言って笑っていたと思う。でも、一度しか耳にしていないはずなのに、どうしてこんなに鮮明に覚えているのかわからない。
頭のなかで『レクイエム』の音量が大きくなってゆく。そのコーラスに押されるようにして腰を上げた史郎は、ゆっくりと個室のドアを開けた。
午後二時三分。
史郎は島袋俊哉の個展会場にいた。足を踏み入れたときに記帳を求められて焦ったが、適当な住所をでっちあげ、名前は山田二郎にしておいた。
こうした個展の場合どのくらい客が入るのがふつうなのか見当もつかないが、あくまで史郎の主観では、客の入りはまあまあといったところに思えた。
鹿沼たちの姿は見えない。腰の左側をブリーフケースでさりげなく隠し、一枚一枚の絵を丹念に眺めるふりをしながら、史郎はゆっくりと会場を歩いた。絵のことはわからない。そもそも絵を鑑賞する余裕などあるわけがない。目は絵画へ向けられているものの、史郎の全神経は会場の入り口に向けられていた。ただ脳裏では、いまも『レクイエム』が鳴り響いている。
「あ、これ、いいねえ」
すぐそばで若い女性の声がした。反射的に拳銃を引き抜きそうになり、あわてて自制した。
横目で見ると、史郎と同年輩くらいに見えるOLふうの三人の女性が、史郎の斜め前に展示されている絵を指差して、ぼそぼそとなにやら語り合っていた。その笑顔からして、彼女たちは島袋俊哉の絵を理解できているようだと史郎は思った。自分とは違う人たち。まっとうな人たち。
途切れかけた集中力を取り戻そうと深呼吸する。頭のなかの『レクイエム』も、男性の独唱のパートに入っていた。
そのとき、堅気の人間にはない気配を感じたような気がした。さりげなく周囲に目を配る。いかにも高級そうなスーツを身にまとった初老の男が、両手を後ろ手に組み、入り口付近の絵を眺めている姿が視野に入った。頭はすっかりはげ上がってしまっており、残っている側頭部や襟足の髪も真っ白なその男は、ときおり、ほう、と感心したような声をもらしている。間違いない。鹿沼組組長の鹿沼|勝利《かつとし》である。
鹿沼の横には、ふたりの男が立っていた。やはり仕立てのよさそうなスーツを着て、鼻の下にちょび髭《ひげ》を生やした、四十代前半と思《おぼ》しい坊主頭の男と、眉《まゆ》を剃《そ》り落とし、リーゼントふうにした髪の毛をてかてかと光らせている、ストライプのスーツを着た若い男だ。
彼らから視線を外した史郎は、ぎゅっと下唇を噛《か》んだ。若い男はどうでもいい。こっちは鹿沼の顔をよく知っているが、鹿沼は自分のような下っ端のことなど知らないだろうから、これもよしとしよう。問題は中年男だ。九條と五分の兄弟|盃《さかずき》を交わしている、鹿沼組若頭の本間――彼とは面識がある。何度もだ。
やっぱりやめようかと史郎は思った。計画は失敗しました、鹿沼は、自分の顔を知っている本間のおじさんと一緒でした……そう報告しようか。
〈きっちり鹿沼|殺《と》ってこいよ。逃げたら、てめえ、娘もろともブッ殺すからな〉
『レクイエム』に混じって、そんな堺の声が頭に響いた。
史郎は嘆息を吐いた。逃げ道はない。やるしかないのだ。
右手をゆっくりとスーツの内側に入れた。指先に銃把が触れる。そのままそれを強くつかんだ。静かに拳銃を引き抜く。右手はスーツの内側に隠れたままだ。
行け。このまま行け。絵を見るふりをして鹿沼の背後に回り込め。後方に目を配っているのは若い奴だけだ。こちらが変に意識しないかぎり、あいつはこっちが鉄砲玉だと気づかないだろう。あくまでさりげなく、自然に振る舞え。そしてすれ違いざま、後ろから弾丸《たま》をブチこんでやれ。
自分自身にそう言い聞かせ、史郎は静かに行動を開始した。
鹿沼のそばに辿《たど》り着くまで、たっぷり十分を要した。急速に近づけば、あの眉のない組員がこちらの意図に感づくだろうと思ったのだ。
デパートに入ったときは冷房が利きすぎていてちょっと寒いくらいだと思ったのに、いつの間にか多量の汗を吸ったワイシャツが肌に貼りつき、銃把を握り締めている右の手のひらも、汗でびっしょり濡《ぬ》れている。
若い組員が、ちらりと史郎を見た。目は合わなかったが、一気に汗が引いた。表情の変化を悟られるのを恐れて、史郎は彼らに背を向け、絵を眺め続けた。
もう、鹿沼たちはすぐそばだった。あと三、四歩も歩けば鹿沼の真後ろに立てる。そこで勝負だ。
「いいなあ、この島袋ってのは」
鹿沼の嗄《しわが》れた声が聞こえた。
「お孫さんもお連れになればよかったですね」
本間の声。
孫。鹿沼には孫がいるのか。それも、絵が好きな。
「なあに、まだあいつにはわからんよ。美術部の部長に選ばれたくらいで天狗《てんぐ》になっとるようじゃ、先が見えたな」
言葉とは裏腹に、実に嬉《うれ》しそうな声と口調だった。
美術部の部長。中学生か高校生かわからないが、とにかく鹿沼の孫はまだ学生であるらしい。
「そうおっしゃいますが、わたしはお孫さんの絵、素晴らしいと思いますよ……いや、素人考えですがね。きっと親父さんの血を受け継いでいらっしゃるんでしょう」
「本間ァ。あまり褒めるなよ。あいつ、すぐ天狗になる質《たち》だからなあ」
でれでれした調子で鹿沼が言った。そして、ほ、ほ、ほ、と笑う。
いまだ。撃て。『レクイエム』に混じって、そんな絶叫が頭のなかで響いている。だが史郎は、どうしても鹿沼に銃口を向けることができなかった。こいつを殺《や》らなきゃ俺とももこが殺されちまうんだ。そう思っているのに、動けない。
「あれ、木島さんじゃないですか! 奇遇ですねえ!」
いきなり肩を叩《たた》かれ、そう声をかけられた瞬間、史郎は喉《のど》の奥でヒッと呻《うめ》き、全身がすくみあがってしまった。
手が滑った。
『レクイエム』がかき消え、史郎の聴覚を痛いほどの沈黙が支配した。
拳銃《けんじゆう》が床に落ちた。
その音だけが、史郎の鼓膜を振動させた。
「木島さん、どうなさいました?」
池上茂が満面に笑みを浮かべて史郎の顔を覗《のぞ》き込んでいた。
史郎は反射的に、鹿沼たちに目を向けた。
三人ともこちらを見ている。
本間と目が合った。
怪訝《けげん》そうな、鹿沼の表情。
若い組員の視線が床に落ちた。
その顔が真っ赤に染まり、額の血管が膨れ上がった。
コルトパイソン357マグナム。
「てっ……てめえーッ!」
組員の絶叫より一瞬早く、史郎は拳銃を拾いあげていた。
そのまま、文字通り脱兎《だつと》のごとく駆け出した。
「待てこらあ!」
会場を飛び出した史郎は、客を弾き飛ばしながら必死に走った。前後左右から悲鳴と怒号が聞こえる。
なぜ撃たなかった? 史郎は自問する。なぜだ? なぜ逃げる? 銃を拾うと同時に鹿沼に向けて引金を引けば、必ず仕留められたのに!
そのとき、銃声が響いた。二発、三発、四発……。
けたたましい悲鳴が後方で上がった。
こんな場所で撃ちやがったのかと仰天し、思わず足を止めた。振り返る。
すると不思議なことに、自分を追っているはずの組員もまた、立ち止まって後ろを見ていた。会場のほうと史郎とをせわしく見比べ、地団太を踏んでいる。
鹿沼が撃たれた[#「鹿沼が撃たれた」に傍点]?
混乱しかけた史郎は、鹿沼組組員が張り上げた、うぉるああ、という怒声でわれに返った。組員は結局、組長のところに戻ることより、史郎を捕まえることを優先したようだ。
わっと叫んで走り出す。
走りながら振り向いた。
歯をむき出しにした若い鹿沼組組員が、鬼のような形相で追ってくる。その右手には、銀色に光るオートマティックの拳銃が握られていた。
殺される!
客とぶつかり、何度もバランスを崩した。こんな状況だというのに、そのたびに「ごめんなさい!」「すみません!」と謝っている自分をアホではないのかと思った。
エスカレーターを駆け降りる。エスカレーターに乗っている客たちから罵声《ばせい》を浴びせられた。上のほうから、「どけこらあ!」という組員の怒鳴り声が聞こえる。
エスカレーターに乗る客はたいていの場合、急いでいる人に配慮して片側のスペースをあけている。つまり史郎が全力で駆け降りるスペースはあったわけだ。ところが二階から一階へ降りるとき、老人と老婆が仲よくふたり並んで立っていた。
弾《はじ》かれたように振り返る。
史郎の視界に飛び込むようにして、あの眉のない組員が、このエスカレーターのいちばん上に姿を見せた。
「どいて!」
史郎は叫んだ。悲鳴に近い叫びだった。
「どいてくれ!」
そんな単語しか頭に浮かばない。
ゆったりとした動作で、老人が振り返る。「はあ?」
その呑気《のんき》な表情を目にした瞬間、自分のなかのなにか[#「なにか」に傍点]に罅《ひび》が入ったような、そんな奇妙な感覚を覚えた。
「どけよーッ!」
思わずふたりに銃口を向けていた。周囲の客が一斉に悲鳴を上げた。
だが老人も老婆も事態が把握できないらしく、ぽかんとした表情で、銃口と史郎の顔を交互に眺めるばかりである。
史郎は体重が軽そうな老婆をいきなり両手で抱え上げた。
老婆があわあわと声をもらし手足をバタつかせる。
なにをするんだ、と老人がつかみかかろうとした。
老婆を抱えたままエスカレーターを駆け降りた史郎は、老婆をそこに降ろすと、また走り出した。
史郎はデパートから飛び出し、歩道にひしめく人たちを掻《か》き分けながら、必死になって走った。後ろから、待てという怒声が聞こえる。あの組員はまだあきらめていないらしい。
もう『レクイエム』は聴こえてこない。頭のなかで響いているのは、荒い呼吸音と心臓の鼓動だけだ。
タクシーが目に入った。どうする? 後部ドアを開けさせる、飛び乗る、適当な場所を告げる、タクシーがスタートする――だめだ、そのあいだに奴が追いつく、タクシーのウィンドー越しにズドンだ。
横断歩道に差しかかる。点滅していた青信号が赤になった。全力でそこを駆け抜けた。クラクションが派手に鳴り響いた。
渡り切ったところで振り返る。行き交う自動車の向こうにストライプのスーツが見えた。あいつは渡れなかったらしい。
それでも史郎は走った。いまのうちに距離を稼がねばならない。そしてあいつを振り切ったと確信したところでタクシーでも拾おう。
四方八方に伸びて入り組んだ電線が天井の役目を果たしているような狭い路地に駆け込んだ。小さな居酒屋やスナックなどが立ち並んでいる路地だ。そこから、人ひとりなんとか通れるくらいの路地裏に逃げ込む。途端に脛《すね》のあたりに衝撃を受け、史郎はもんどり打って前方に転がった。無造作に置かれていたビールケースに蹴躓《けつまず》いたのだ。
同時に、銃声がこだました。
ひゃあ、と声を上げた史郎は、倒れたまま両手で頭を抱える。
二メートルほど離れた位置で、水色のポリバケツが宙を舞い、なかの生ゴミをまき散らしながら、どん、どん、どん、と音を立てて、三回地面を跳ねるのが視野の隅に映った。
「チャカ、チャカ、チャカ……」
脛の痛みをこらえ、息を切らせて呟《つぶや》きながら、周囲を見回す。落ちているのは、ずっと小脇に抱えていたブリーフケースだけだ。ないないないないない、頭を抱えてわああっと叫び出しそうになったとき、右手に拳銃を握ったままだったことを思い出した。いまの銃弾は、転んだ際、人差し指に力が入り、引金を引いてしまったために発射されたものであるらしい。
なんだいまの音、こっちから聞こえたぞ、といった声がそこかしこから聞こえる。ブリーフケースを拾い上げ、史郎はまた走り出した。
路地裏を抜け、さっきとは別の大通りに出る。
その歩道の、向かって右側の方向に走り出そうとした史郎は、たたらを踏んで立ち止まった。馬鹿、こっちだと元に戻っちまうじゃないか。
踵《きびす》を返し、痛みを訴える横っ腹を押さえ、歯を食いしばって疾走する。
と、百メートルほど先で、一台のタクシーが歩道に寄せられるのが見えた。支払いが行なわれている。客が降りようとする。そのときには史郎は、タクシーのそばに倒れ込むようにして辿《たど》り着いていた。
「ど、どうしたんです」
タクシーから降りた人のよさそうな中年の男性客が、驚いたように声をかけた。無理もない、いきなり若い男が全力疾走してきて自分の前に倒れこんだら、だれだって仰天するだろう。
「……どいて!」
男の手を振り払い、史郎はタクシーの後部座席に飛び込んだ。
「東京駅!」
ぜいぜいと息を切らしながら、なんとかそれだけを口にした。ただ、どうして東京駅なんて言葉が自分の口から出たのか、史郎自身にもよくわからなかった。
「お客さん、だいじょうぶ?」
運転手が言った。心配するというより、嘲笑《ちようしよう》するような口調だった。
その声を耳にしたとき、さっき罅が入ったなにかが完全に壊れた。
「早く出せよ!」
銃口を向けた。運転手がすくみあがる。
「出せ!」
「……助けて!」
運転手がドアを開けて逃げようとした。史郎は咄嗟《とつさ》に運転手の肩をつかみ、こめかみに銃口を突きつけた。
「車、出せ! 早くしろ!」
水飲み場の水道の蛇口をひねり、勢いよく噴き出る水に頭を突っ込んだ。気持ちよかった。そのまま顔も洗い、手ですくって水を飲んだ。なんとか呼吸を整え、ハンカチを出して手や顔、髪の毛をぬぐう。
結局史郎は、タクシーを五分ほど走らせてから停車させた。運転手が警察に向かうのではないかとか、同じ会社のほかのタクシーに、なにか暗号のようなものを使って、拳銃《けんじゆう》を持った男を乗せているから警察に通報してくれと伝えたりしていないだろうかとか、そんなことばかり考えてしまい、不安で胸がいっぱいになったのだった。
ちょうどタクシーが赤信号で停車したとき、左手に見える鉄道の高架近くに、小さな公園が見えた。史郎は運転手に一万円札を手渡し、さっきのはオモチャです、興奮してごめんなさい、借金取りに追われていたもので、お釣りはいりません、などと適当なことを並べた。だが運転手の表情は引きつったままだった。信用してもらえなかったようだ。たぶんあの運転手は、警察に史郎のことを届け出るだろう。まずいことになった。
史郎は公園を見回した。たっぷりと葉や枝を繁らせた欅《けやき》の木がぐるりと公園を囲んでいる。公園内にもそこかしこに、濃い緑の葉をつけた枝葉が大きく左右にせり出している木が植えられている。これはおそらく桜の木だ。ブランコや滑り台、シーソー、ジャングルジムなどがある。どれも史郎の家の近所の公園のそれと比べて、ずいぶんと貧相なものだった。近所の公園にあるそれらは、史郎が子どものころ遊んだものよりカラフルになっており、造りも凝っている。だがここにあるのは、錆《さ》びてペンキのはげ落ちた鉄と、いまにも朽ち果てそうな木片とが、いいかげんに組み合わされているだけのものばかりに見える。子どもたちの姿はなく、片隅のベンチで、顔にハンカチを載せたサラリーマンふうの男が昼寝をしていたり、杖《つえ》を手にした白髪の老人が、ベンチに座ってぼんやりと空を眺めていたりした。
公園の一角に公衆トイレがあった。これまた一見すると廃墟《はいきよ》のようなトイレだったが、使用禁止の札が出ているわけでもない。尿意をもよおしたこともあって、史郎はそこに向かった。
なかに入り、あまりの汚さと悪臭に驚いた。どのくらい掃除がなされていないのだろう。入り口から向かって右側に小用の便器が並んでおり、左側が個室になっている。個室のドアや、そのドアとドアのあいだの壁は、肌色っぽいペンキが塗られた木製のものだった。とはいえそのペンキはほとんどはげかけており、便器も、泥水をかぶせられて一ヵ月放置された、というような惨状だった。ここはほんとうに使われているのだろうか、使っていいのだろうかと心配になる。
異臭に閉口しつつ、いちばん奥の便器で小用を足し、ズボンのファスナーを上げようとした史郎は、「木島の兄さん」と声をかけられ、飛び上がって驚いた。声をかけられるのがもう少し早かったら、手が小便まみれになっていたことだろう。
トイレの入り口に、人影が立っていた。外から入り込む光でシルエットになっていたからよくわからないものの、さっきの声、あれはオサムの声だった。
「……オサム?」
どうしてここに? もう怪我はいいのか? そうした言葉を、史郎は飲み込んでしまった。だらりと垂れたオサムの右手に、黒いオートマティックの拳銃が握られていたからだ。
「……もしかして、鹿沼ハジいたの、おまえか?」
「俺じゃねえよ。海渡組の奴だよ」
そう言って、オサムが拳銃の遊底《スライド》を引いた。無機的なはずの金属音が、なんだか自分をせせら笑っているような音に聞こえた。
「……なんでそんなこと知ってるんだよ……俺を追いかけてきたのか」
「いっぺん見失ったんだけどさ、兄さん、路地裏でチャカぶっ放したろ。その音聞いてこっちかなって思ってたら、兄さん飛び出してきて、タクシー拾ったからさ。俺もタクシーで、その後つけてきたってわけ」
オサムの右手がスッと挙がった。「俺は、あんた殺《と》りにきたんだよ」
史郎は、わっと叫んで個室のほうに跳ね飛んだ。
同時に、乾いた銃声が立て続けに二発聞こえた。
一拍遅れて、遊底から弾《はじ》き出されたふたつの空薬莢《からやつきよう》が床に転がる音がした。
個室のドアとドアのあいだの壁に肩をぶつけたが、痛みを感じる余裕などない。オサムがすぐさまこちらに向き直ったからだ。
濡《ぬ》れた床に飛び込むようにして史郎が伏せると、右隣の個室のドアが被弾し、木の破片が飛び散った。オサムはいままで拳銃を撃ったことがないはずだ。はじめての経験のため、狙いが定まらないらしい。
「あんた殺れば、俺は若頭補佐になれるんだよ!」
オサムがわめいた。
史郎は絶望的な気分でオサムに体当たりを仕掛けた。が、寸前、躱《かわ》された。
「木島ァ!」
口許《くちもと》に薄笑いを浮かべ、血走った目をむいて、オサムが銃口を向ける。
死にたくない、痛切にそう思ったとき、両手首に強い衝撃を受けた。轟音《ごうおん》が聞こえた。
顔面をのけぞらせたオサムの全身が、宙を舞うようにして後方に弾き飛ばされる様を、史郎はスローモーションのように知覚した。
オサムの後ろの薄汚れた壁に、まるで花火が炸裂《さくれつ》したみたいに、赤を基調とした大量の液体がぶちまけられた。そこに、オサムの後頭部が叩《たた》きつけられる。ごうん、というような音が響いた。そのままオサムは崩れ落ち、濡れた床に仰向《あおむ》けにひっくり返った。
「……オサム」
にじり寄り、オサムの顔を覗き込んだ史郎は、きゃあ、と情けない声を上げて、その場に尻餅《しりもち》をついた。オサムの顔面は血みどろで、弾けたザクロのようになってしまっていた。
「オサム、オサム……」
オサムに手を伸ばそうとした史郎は、自分の右手にコルトパイソン357マグナムが握られているのにはじめて気づいた。無意識のうちにベルトから引き抜いていたらしい。
その銃口から硝煙が立ちのぼっていることに気づいた史郎は、仰天して拳銃を放り出そうとした。しかし右手が言うことを聞かない。銃を握り締めたまま、筋肉が硬直してしまっているのだろうか。
がたがた震えながら、左手でオサムの脈を取ってみる――絶命していた。
ひいいっ……と両手で頭を抱える。震えが止まらない。殺してしまった、人を殺してしまった、オサムを殺してしまった。いくら殺意もなく反射的にやってしまったとはいえ、結果は同じだ。殺してしまった。
嫌だよこんなの、起きてくれよ、おまえ家族いるんだろう、兄さんと妹さんとおふくろさんが……みんなに会いたいって言ってたじゃないか、なあ、おまえの田舎どこだよ、連れてってやるからさ、だから起きてくれよ、なあオサム。
「人殺し!」
唐突に響いた金切り声で、われに返った。いつの間にやら、史郎はオサムに取りすがって泣いていたのだった。
目を向けた。
「ひ、人殺し!」
トイレ入り口のシルエットが、あとずさりながら叫ぶ。
「……ちょっと待って、違うんですよ――」
「だれか! 警察!」
「違うって……」
駆け出したシルエットを追いかける気にもなれず、史郎はぼんやりと自分の右手の拳銃に目をやった。
指を動かしてみる。今度は銃把から手が離れた。安堵《あんど》の吐息をもらし、拳銃を腰のベルトに挟み込んだ。
史郎は溜《た》め息をついた。オサムの家族になんと言って謝ろう。なにか償いをしなければ。金か? 俺に金なんて作れるわけがない。だいいち大金を積んだところで、オサムは生き返らない。死ぬか? 死んだって、オサムもまた死んだことには変わりはない。ではどうする?
史郎はオサムの手から拳銃を取り上げた。荒木オサムは人を殺そうとしたものの逆に撃たれて死んだ――それをなんとか隠蔽《いんぺい》できないかと思ったのだ。もちろんオサムの衣服や体から硝煙反応が出るだろうが、それでも、どうにかしたいという気持ちが強かった。そのほうが、遺族にとって救いになるような気がした。
〈あんた殺れば、俺は若頭補佐になれるんだよ〉
オサムはそう言っていた。ということは、これは九條が命じたことなのだろうか。鹿沼は海渡組の人間が狙撃《そげき》したらしい。いったいなにがどうなっているのだろう。
オサムのポケットを調べてみた。やはり、弾丸が装填《そうてん》された弾倉が出てきた。九條ならば、自分にもそうしたように、きっと予備の弾丸を渡しているだろう。その読みは当たった。オサムの拳銃――コルトM1911A1のセーフティ・レヴァーをロックし、それと一緒に、予備の弾倉もブリーフケースのなかに滑り込ませた。
とにかく警察がくる前に逃げなきゃ、そう思う。俺にだって家族がいる、娘がいる、ももこがいる――ももこ[#「ももこ」に傍点]。
全身の血液が一気に足許まで下降したような感覚に襲われた。とんでもないミスを犯した。タクシーに飛び乗ったとき、真っ先にももこのところに行くべきだった。幼稚園に迎えに行き、早退させ、一緒に逃げるべきだったのだ。
携帯電話を取り出した。
「……もしもし、ももこ!? 帰ってたのか!? そう、パパだ、いまから言うことをよく聞け、いいか、おまえの箪笥《たんす》のいちばん上に、おまえの貯金通帳と印鑑が入っている、それを持って池上先生のところに行け! いますぐだ! いいから早く!」
電話を切ってから、史郎は公衆トイレから全力で駆け出した。スーツは濡れ、悪臭を放っているが、気にしている暇はない。早くももこを助けなければ。
明かりはついているのに、何度チャイムを押しても返答はなかった。
史郎は池上夫妻に、自分はリース会社に勤務していると言っている。仕事が忙しくて、なかなか娘の面倒を見られないのだ、と。たしかに嘘ではないのだが、そのリース会社が暴力団員の経営している会社で、自分もまた暴力団員であることは隠している。ももこの面倒をなかなか見られないのも、リース会社が忙しいというより、組の雑用が忙しく、二十四時間拘束されているようなものだからだ、ということも話していない。ももこのために話さないほうがよいと判断したのもあったが、それ以上に、範子に冷たい目で見られるのが嫌だった。それを想像しただけで気が狂いそうになる。
だが茂は、きょう史郎が拳銃を持っているところ、そして暴力団員に追われるところを目撃してしまった。もしかしたら、鹿沼勝利が海渡組の人間に狙撃されたところも見ていたかもしれない。ならば、史郎の素姓にも気づいたはずだ。そうなると、池上夫妻が自分たち親子を忌避するようになったとしてもおかしくない。だれだって、真っ昼間のデパートの、しかも絵の個展が開かれている会場で人を殺そうとするようなヤクザとは関わりたくないだろう。だから居留守を使っている。そういうことなのだろうか。
史郎はドアノブを回してみた。鍵《かぎ》はかかっていない。ドアを開いた。範子に、帰ってくださいと冷徹に言われたらどうしよう、そんな思いが脳裏をよぎったが、なによりももこの命が最優先だ。覚悟を決めて、池上さん、木島ですけど……と声をかけた。
「池上先生」
玄関に入る。そして後ろ手にドアを閉めた史郎は、家のなかに異臭が漂っているのに気づいて愕然《がくぜん》とした。血の匂いだ。
「……池上先生!」
史郎はあわてて靴を脱ぎ、上がり框《かまち》に飛び乗った。同時に、足の裏に痛みを感じた。なにか固いものを踏んでしまったらしい。
腰をかがめ、それを拾った。赤いガラスの目玉を持った、ウサギの顔を象《かたど》ったブローチだった。血がついている。
ブローチを強く握り締め、歯を食いしばって立ち上がる。
「池上先生! 奥さん! 鈴音ちゃん! ももこ!」
だれもいない。
リヴィングルームに入った史郎は、強烈な血の匂いに吐き気を覚えた。たしかに死体はない。だが、この匂いだけで充分だ。そもそも、ヤクザが現場に死体を残しておくなんてありえない。
先を越された。俺のせいだ。
全身の力が抜け、その場に跪《ひざまず》いてしまった。自分の意思とは関係なく、あっ……あっ……といった声が喉《のど》からもれる。息が苦しい。床に手をつき、なんとか空気の塊を吐き出したが、今度は息を吸うことができない。体が、呼吸の仕方を忘れてしまったような感じだった。
ソファの脚の部分に、血が跳ねているのが見えた。犯人が見落として、拭《ふ》き取るのを忘れたものらしい。
「……なんだよこれ」
呻《うめ》いていた。「関係ないだろ、この家の人は……」
史郎はそのまま土下座し、四方八方に向かって頭を下げ続けた。ごめんなさい、ごめんなさい、俺のせいで、申し訳ありません。
そして握り締めていた手のひらをゆっくり開いた。ブローチ。
「ももこ、ごめんな……」
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冷蔵庫に入っていた三五〇ミリリットルの缶ビールを二本、貪《むさぼ》るように飲んだ。刑務所に入る前からある銘柄だったが、デザインが変わっていた。それから近所のコンビニエンス・ストアで買った弁当とインスタント味噌《みそ》汁をたいらげた。
畳の上に横になり、頬杖《ほおづえ》をついてテレビを眺めていたら、玄関のドアが開く音がした。首をひねってそちらに顔を向ける。狭い1DKの部屋なので、そうするだけで玄関まで見えるのだ。
珠暖簾《たまのれん》の向こうに、マユミの姿があった。くたびれたタンクトップにミニスカートといういでたちだった。
「……あんただったの」
安堵したように、マユミが言った。「部屋に明かりがついてるし、鍵は開いてるしで、びっくりしたよ」
どこか気怠《けだる》そうな仕種《しぐさ》で靴を脱ぎ、ぶら下げていたコンビニエンス・ストアのビニール袋を流し台の上に置いてから、マユミが相原のそばに正座した。そして頭を下げる。「お帰りなさい」
ああ、とだけ返事をして半身を起こした相原は、あらためてマユミに目をやった。
刑務所に面会にきていたときは気づかなかったが、こうして見ると、八年前に比べてずいぶんと肌がたるみ、荒れている。衰えた、と言ったほうがいいかもしれない。むき出しの白い二の腕や太腿《ふともも》は、張りを失い、ちょっとでも触れれば崩れ落ちてしまいそうな感じだし、ブラジャーをつけていない胸もまた、重力への抵抗をあきらめてしまっている。だが、それらは些細《ささい》な変化かもしれない。なにより以前の彼女と違っているのは、全身から漂う病的な不健康さだった。
しかし相原は、マユミのそうした変化に、幻滅や感傷めいたものは感じなかった。むしろそれらは、八年間女性に無縁だった相原の劣情を煽《あお》る役目を果たしていた。
「迎え、いけなくてごめんね。仕事、忙しかったから」
自分の全身を這《は》い回る相原の粘っこい視線を感じたのだろう、マユミはそそくさと冷蔵庫に向かい、缶ビールを相原に差し出した。
相原は無言でそれを受け取ると、喉《のど》奥に一気に流しこんだ。
「きょうは組の人が放免祝い開いてくれると思ってたから……帰ってくるのはあしただって思ってたから……」
言い訳がましい。そう思いながら、相原はマイルドセブン・エクストラライトをくわえて火をつけた。
刑務所に入る前はロング・ピースを喫っていた。出迎えの人間が、どうぞとピースライトを差し出したとき、こんな軽い煙草喫えるかと思ったものの、なにしろ八年も煙草を喫っていなかったから、ひと口喫っただけで脳味噌がぐるんぐるんと回転しているような感覚に襲われ、よろめいてしまった。ニコチンに慣れるまで、しばらく軽い煙草を喫っておこうと、マイルドセブン・エクストラライトを買ったのだが、それでも最初のうちは少しふらふらした。
「出迎えにきたのは、顔も知らねえ、組の若い衆がひとりだけだったよ」
相原の言葉に、マユミは「そう」と小声で応《こた》え、目を伏せた。
ろくに面会にもきてくれなかったのだから、組長以下海渡組の人間がずらりと出迎えにくるようなことは最初から期待していなかった。だが、まさか出迎えが、組に入ったばかりの下っ端ひとりとは思わなかった。おまけに、必ず迎えにきてくれると信じていた妻のマユミの姿さえなかったのだ。出迎えの人間から、相原さんですか、と声をかけられ、車に乗ったあとも、しばらく言葉が出なかった。
放免祝いの祝宴もなく、まっすぐこのアパートに連れてこられたときは、たまらず若い衆に、親父さんはどうしてる、とたずねた。すると若い衆は面倒臭そうに、いまちょっと忙しいんスよ、とだけ答えて車を発車させた。
アパートは、相原が出ていったときのままだった。自分に道具を渡したときの海渡の言葉から、マユミはもう少しいいマンションにでも引っ越しているだろうと思っていた。しかしそれは甘かったようだ。部屋のなかの調度品も、かつてはなかったクーラーがついているくらいで、ほとんど変化はなかった。
マユミが沸かしてくれた風呂《ふろ》に入った。のんびり風呂に入るのなんて実にひさしぶりだった。入浴前に両手を挙げて番号を口にし、肛門《こうもん》のなかまで調べられるようなことはもうないのだ。そう思うと、娑婆《しやば》に戻ってきたのだとあらためて実感できた。
相原の左腕には刺青《いれずみ》が彫られている。昔、恐喝をする際に活用したものだ。そして背中には、彫りかけの龍の線だけが、しょぼしょぼとのたうっている。刑務所のなかでは、彫りはじめてすぐ刑務所に入ることになったのだと嘯《うそぶ》いていたが、ほんとうは、全身に刺青を入れている海渡に憧《あこが》れて彫りはじめたものの、金がかかるし、あまりにも痛いので、途中でやめてしまったのだった。
腰にバスタオルを巻いただけの格好で浴室から出た相原は、冷蔵庫からまたビールを取り出した。裸に近い格好で風呂上がりのビールを堪能《たんのう》する。これも娑婆でしかできないことだとつくづく思う。
見ると、部屋の中央に置かれたガラステーブルの上にスプーンだのライターだのを並べて、マユミがなにやらやっていた。マユミが細いゴム管のようなもので左腕をきつく縛り、注射器を手にしてはじめて、相原はマユミがやっていることを理解できた。
「おい、馬鹿、やめろよ」
マユミはこちらを見ようともしない。一心不乱、といった感じだった。
「やめろって言ってるだろう」
マユミの右手から注射器を奪い取ろうとしたところ、意外なほど強い抵抗にあった。
頬を張った。彼女がひるんだ隙に注射器を取り上げた。マユミが左手に持っていたスプーンが転がり、水で溶いた麻薬が畳の上に広がった。静脈注射をする麻薬といえば、覚醒《かくせい》剤かヘロインだろう。ヘロインは日本では人気がなく、ほとんど流通していないから、マユミが注射しようとしたのは覚醒剤に違いない。
「なにすんだてめえ」
ヒステリックな声を上げ、マユミがつかみかかってきた。
カッとなり、また平手打ちした。
「もったいない、もったいない」
畳の上に倒れたマユミは、うわごとのように言いながら四つん這いになると、畳の目に染み込みかけている覚醒剤に舌を伸ばした。
「……馬鹿野郎が」
相原は、マユミの横っ腹を蹴《け》り上げた。マユミはうっと呻いたあと、口をぱくぱくさせながら畳の上をのたうち回った。
「いつからだ。いつから注射なんてやってるんだ」
マユミは答えない。顔をしかめ、うー、うー、と唸《うな》りながら、畳の上に寝そべっている。
「おい、いつからだ」
「あたしが、体売って稼いだ金だよォ……」
両手で腹を押さえ、仰向《あおむ》けに倒れたまま、絞り出すような声でマユミが言った。「なんに使おうと、あたしの勝手だろうがよォ……」
「なにが勝手だ」
マユミの髪の毛をわしづかみにし、強引にその上半身をひきずり起こした。「おまえ、シャブ中がどうなるか知ってるのか。やめてもな、ひどいときは十年以上もフラッシュバックが続くんだぞ。それとも、やり続けて狂い死にでもしてえのか」
「八年間もほったらかしにしといて、いまさら亭主面すんなよォ……」
「なんだと?」
「あたしはもう、待つことに飽きたんだよォ。シャブもなしに八年も待てるほど、あたしは強くないんだよォ……」
そしてマユミは、涙の浮かんだ目をこちらに向けて、ぼそぼそと呟《つぶや》く。
「あたし、もう、あんたよりシャブのほうがいいんだよォ……」
頭に血がのぼり、また彼女の頬を張っていた。
マユミが盛大に泣き出したとき、壁がどんどんと叩《たた》かれた。続いて、静かにしろ、いま何時だと思ってるんだ、という怒声が聞こえた。
「…………」
相原は、そのままマユミに覆いかぶさった。同時に、自分を衝き動かしているものは怒りでも欲情でもなく焦燥なのだと自覚した。思い出させてやる、思い出させてやる、シャブなんかより俺のほうが……そう思いながら強引に抱きすくめる。八年ぶりに体感する、腕のなかで溶けてしまいそうな柔らかい感触と、噎《む》せ返るような彼女の体臭に、頭がくらくらした。
マユミが相原の股間《こかん》に手を伸ばした。暴発させるつもりらしい。そんなに俺が嫌なのかと思い、目の前が暗くなった。
結局、ほんの十秒ほどしかもたなかった。彼女の胸に突っ伏した。泣きそうになった。
「あたし、もう三十六だよォ……」
その姿勢のまま、マユミが言った。「いつまでもこんな仕事できないんだよォ……」
翌朝、マユミを叩き起こして金を出させた相原は、近所の理髪店に向かった。組長と会う前に、変な伸び方をしている髪の毛をきちんとしておきたかったのだ。
きつめのパンチパーマをかけた。一万円札を出す。店主が釣りを払おうとした。よけいなことするんじゃねえ、と凄《すご》みをきかせて店を出た。
サングラスをかけ、肩で風を切って歩くうち、ヤクザに復帰したのだという実感がわいてきて、自然に笑みがこぼれた。この八年、足を洗おうかと何度も思ったものだった。あれは刑務所の毒気に冒され、弱気になっていたからだろう。娑婆の空気に触れているうちに、だんだん気が大きくなってきた。
とはいえ、不安は残る。きのう自分を出迎えたのは、下っ端の若い衆ただひとりだった。もう組は自分を必要としていないのだろうか。
複雑な気分のまま、海渡組事務所に顔を出した。海渡は笑顔で出迎えてくれた。ホッとした。
「ご苦労だったなあ、相原」
海渡は何度も相原の肩を叩いた。「出迎えにも行かずに、すまんかったなあ」
「いえ、滅相もございません」
一礼した。すると海渡は一変して険しい表情を浮かべ、
「おまえも聞いてるだろうがな、いま、うちは大変なんだよ。鹿沼が戦争仕掛けてくるんじゃないかってな。それでおまえに放免祝いも出してやれんが、そこはそれ、組の事情が事情だから、我慢してくれ。な?」
「はい」
不満が表情に出ているかもしれない、それを読み取られてはいけない、という思いから、深々と頭を下げた。
「ちょうどいまな、九條の事務所に行くところだったんだよ。おまえも一緒にこい。あいさつ回り、まだだろう?」
「はい。ご一緒させていただきます」
「ただなあ、相原」
「はい」
「その格好はいかんなあ。感心せんなあ」
相原は視線を落とし、自分の服装をチェックした。赤いジャージの上下。その上から背広を羽織っている。
「もうちっと、ヤクザモンらしい格好しろよ。それじゃあまるで半汚れだよ」
「……すみません」
「ま、いい格好できるように、これから頑張って稼ぎな」
はい、と返事をしてから、相原は、言おう言おうと思っていたことを口にした。
「あの、親父さん……褒美の、ノミ屋のことなんですけど」
「あ?」
きょとんとしたように、海渡が相原を見た。
その表情を目にした瞬間、これまで経験したことのないような虚脱感に襲われた。
「……ああ、ああ、そのことか、そのことな、うん――なあ、相原」
「……はい」
「時代が変わってなあ、いまじゃ、ノミ屋もなかなか大変なんだよ。昔みたいなやり方じゃあ、やっていけんわけよ。だからやめたほうがいいと思うがなあ。だから、おまえはおまえの才覚で、立派にシノいで行けばいい。そっちのほうがおまえ、将来も明るいってもんだ。そうだろ?」
要するに、シノギを与えるつもりはないということだ。しかしそれは、さっきの海渡の表情を見た瞬間にわかっていた。海渡は、相原に拳銃《けんじゆう》を渡したとき口にしたことを、すっかり忘れていたのだ。
ほかの組員ふたりと共に、海渡に連れられ、九條経営コンサルタントに向かった。その車中で、相原は、ずっと気になっていたことを聞いてみた。
「親父さん。組がクスリやってるって、ほんとうですか」
「あ? ああ……まあな」
気まずそうに海渡が答えた。
「でも、クスリには手を出すなっていうのが、朝倉の先代の……」
「ああ、ああ、もうわかった、もういい!」
急に海渡の機嫌が悪くなった。
〈うちはシャブは厳禁なんだ、おまえどこからシャブ買ってるんだ〉
ゆうべあれから問い質《ただ》したところ、マユミは、海渡組から買っている、と答えた。
〈嘘つけ。うちの組はな、シャブはご法度なんだぞ〉
そう言うと、あんたが刑務所入ったあと、何年も前から、海渡組は麻薬を扱ってるんだと、マユミは言っていた。
「時代が変わったんだよ、相原」
落ち着いたのか、しばらくしてから海渡が言った。「堅気の景気が悪くなりゃあ、シノギが減って、こっちの景気も悪くなる。それに朝倉組も変わったんだよ。二代目になってから会費がべらぼうに高くなってな。クスリやらずに、おまえらどうやって食わせていけるんだよ」
相原が黙っていると、海渡が声を荒げた。
「おまえら若いモンのために、先代の言葉に逆らって恥かいてる親の気持ち、わからんのか!? おう!?」
だからって、子分の女房にまでシャブ売りつけることはないだろう。そう言いたい気持ちを懸命にこらえた。
「捨てちまえ!」
九條組を出てすぐ、海渡が相原に向かって怒鳴った。「そんな銭、捨てちまえ!」
「いえ、しかし……」
「おまえ、乞食か? おう? あんな外道に銭もらって、そんなに嬉《うれ》しいか? おまえにはプライドっちゅうもんがないのか? おう!?」
まあまあ親父さん、とボディ・ガードふたりが海渡を執り成す。
「あの野郎はな、もう跡目もらった気でいやがるんだ。なにが若頭だ。スミも入れられねえ半端者がよ。あんな腰抜けが三代目になってみろ、ほかの組から笑いもんになっちまうぞ、そうだろう、そうだろうが、ああ!?」
海渡は血走った目を向け、額に青筋まで立てて、相原たちに同意を求める。気圧《けお》されてしまい、相原はがくがくとうなずいた。
「いや、まったくもって親父さんのおっしゃる通りですよ」
「三代目にふさわしいのは親父さんです。だれが見てもそうです。九條のおじさんは、言っちゃあ悪いが、そんな器じゃないですよ。風格、人望、なにもかも、親父さんとは違いすぎます」
ボディ・ガードふたりが、そんな歯の浮くようなおべんちゃらを平然と口にする。
相原もあわてて追随した。「朝倉の御大は、人を見る目がないんですよ」
それでも海渡はぶつぶつと九條の悪口を言い続けていたが、車に乗り込もうとした瞬間、「相原」とこちらに向き直った。
「はい」
「もし鹿沼と戦争になったら、おまえ、鹿沼|殺《と》ってこい」
絶句する相原を、海渡と、ふたりのボディ・ガードがまっすぐに見据える。
「ほんとうに三代目にふさわしいのがだれなのか、朝倉の親父に思い知らせるにはそれがいちばんいいんだ。九條はいろいろ言ってるが、結局ヤクザは力よ。力で鹿沼ねじ伏せて、朝倉の親父を本家の若頭に据えるんだよ。そのために尽力したのがだれだったか、いざとなったらだれがいちばん頼りになるか、親父にわからせてやるんだよ。だからな、おまえ行け」
相原は懸命に言葉を探した。だが、なにも言えない。俺はきのう娑婆《しやば》に帰ってきたばかりじゃないか、なのにまたすぐ刑務所に入れというのか。そんな言葉しか浮かばなかった。
「今度はちいっと長い務めになるが、なに、出てきたらおまえ、朝倉のシマは俺らの天下になってるぞ。そしたらおまえは幹部よ。海渡組の幹部じゃねえぞ、朝倉組の大幹部だ」
今度は無期かもしれないじゃないか、と相原は思う。幹部にはなりたい。だが刑務所から出てきたとき、よぼよぼのジジイになっていたらどうするのだ……。
帰宅し、ジャージを脱いだ相原は、箪笥《たんす》から引っ張り出した黒い開襟シャツを素肌の上に纏《まと》い、紫色のダブルのスーツを着込んだ。そして指輪と金のブレスレットをはめる。
「またどっか行くの」
パジャマ姿のままカップラーメンを食べていたマユミが、生気のない目を向けた。覚醒剤を射てば、どんな疲れも吹き飛んで元気いっぱいになるはずだ。つまりマユミは、相原の留守中も覚醒剤を注射しなかったということか。しかし、やめる気になったとは思えなかった。単にクスリがなくなったか、買う金がないかのどちらかだろう。九條にもらった二百万を見せれば喜ぶだろうと思っていたが、やめておくことにした。マユミに見せたら最後、あしたには、金がすべて覚醒剤の粉末に変わってしまうかもしれない。
「おまえも着替えろ。出かけるぞ」
マユミが眉《まゆ》をひそめた。「どこに」
「服、買いに行くんだよ。おまえにも買ってやる」
「……いらない」
「なんで」
答えのかわりに、麺《めん》を啜《すす》る音が聞こえた。
相原はマユミの腕をつかみ、強引に引き上げた。マユミが「痛いよォ!」と抗議する。
「とっとと着替えろ!」
彼女の箪笥を開けて、目についた服を次から次へとマユミに放り投げた。
「……どこに行くの」
しぶしぶといった感じで相原の言葉に従い、緩慢な動作で着替えながら、マユミが聞いた。
「どこでもいい。銀座でも新宿でも渋谷《しぶや》でも」
「電車の乗り換えが面倒だよォ……このあたりでいいじゃないよォ」
「馬鹿この、ヤクザが電車なんか乗れるか! タクシーで行くんだよタクシーで」
マユミが唇を尖《とが》らせる。「そんなお金、どこにあるってのよォ……」
相原は答えず、さっき買ったロング・ピースをくわえて火をつけた。もうだいじょうぶだろうと思っていたが、やはりきつい。眩暈《めまい》はしなかったものの、胃や肺が重くなるような感じがした。
タクシーで銀座に向かった。その間マユミは落ち着かない様子で、ちらちらと相原を見ていた。タクシー代が心配らしい。
支払いのとき、万札がぎっしり詰まった札入れを出すと、マユミが目をむいた。
「釣りはとっとけ」
万札を数枚差し出した。運転手は相好を崩し、何度もぺこぺこと頭を下げた。相原が刑務所に入る前、タクシーの運転手は横柄なものだった。だが最近は不景気のせいか、以前に比べるとずいぶん愛想がよくなったようだ。
「好きなもん選んでこい。支払いになったら呼べ」
適当なブティックを見つけ、マユミに言った。
「……ねえ。そのお金、どうしたの」
怪訝《けげん》そうに、マユミが聞いた。
「いいから行ってこい」
背中を押した。
店の入り口前のガードレールにもたれ、煙草をくわえて周囲を眺めた。相原同様、連れの女を待っているらしい男たちが、いかにも手持ち無沙汰《ぶさた》といった感じでうろうろしている。たいてい、相原より年長に見える中年男たちだった。愛人か、馴染《なじ》みのホステスの機嫌取りの最中なのだろう。店から女が顔を出すと、それまでの仏頂面が嘘のような笑みを浮かべて、男たちは支払いをしに店に入ってゆく。
店から出てきた若い水商売ふうの女が、あれ、ヤクザじゃない? と連れの男に耳打ちしたのが聞こえた。男がこちらを見る。睨《にら》みつけた。女は平然としていたが、男はあわてたように目を伏せた。優越感めいたものを感じた。
「相原さん」
後ろから声をかけられ、驚いて振り返った。日焼けした、金髪の若い男が立っている。九條組の堺だ。
「お買い物ですか」
どことなくうさん臭い笑みを浮かべて堺が言った。気まずい思いのまま、小さくうなずく。九條にもらった金を手に、女房を連れて買い物しているところなど、同業者に、特に九條組の人間に見られたくなかった。
「……あんたこそ、こんなところでなにやってんの。仕事?」
「相原さんを探してたんですよ」
つけていた、ということではないのか? そう思って周囲に目をやる。エンジンをかけっぱなしにしたメルセデスが停まっていた。
相原の視線に気づいたらしく、堺が「ちょっとドライブでもしましょうよ」と言った。
「相原さんと話がしたくて。青木の大将が待ってるんですよ」
「俺に? あの……鹿沼のことかな」
「まあ、そうですね。詳しいことは車のなかで……どうぞ、こちらに」
「いや、その……」
適当な言葉が見つからなかった。「女房、待ってるもんで」
「そうですか。じゃあ、自分も一緒に待たせてもらいましょう」
断りたかったが、堺の口調には、たしかに下手には出ているものの、どこか有無を言わせぬところがあり、ついうなずいてしまった。
しばらくして、マユミが店から出てきた。
「決まったか」
「うん……ワンピース」
ちらちらと堺に目をやりながら、マユミが言う。ちょっと待っててくれと言い残し、相原はマユミと一緒に店に入った。
「奥さんですか」
店から出ると、愛想笑いを浮かべた堺がマユミに声をかけた。「わたし、堺と申します。ご主人、ちょっとお借りしますんで、申し訳ないのですが……」
タクシー代です、と堺がマユミに金を差し出した。十万はある。
いや、そんな、と相原は口を挟みかけた。しかしその前に、マユミが、目の前に食べ物を差し出された餓死寸前の子どもみたいな顔をして、堺の手から金をむしり取った。礼の言葉もない。人目がなかったら張り倒しているところだ。
「おい」
相原が叱りつけても、マユミは耳を傾ける素振りすら見せない。金をむき出しのままハンドバッグに仕舞い、そのバッグを胸に抱くようにして両手で抱えこむ。たぶん、シャブ代ができたとでも思っているのだろう。
「では、奥さん」
堺が一礼した。マユミは落ち着きのない目で周囲を見回し、「どうも」と軽く頭を下げる。禁断症状が出ているのではないかと心配になった。
「相原さん、どうぞ」
堺が後部座席のドアを開けた。九條組の青木が座っている。口のなかでなにか転がしているようだ。頭を下げ、彼の隣に腰を下ろした。
車内には、聴き覚えのある歌が流れていた。曲名は知らないが、歌っているのが加山雄三であることだけはわかった。
「なあ、相原」
堺の運転で車がスタートすると同時に、青木が口を開いた。含んでいるキャンディが歯に当たる音が聞こえる。
「加山雄三、好きか?」
「え?」
「俺は昔っから好きでなあ。『エレキの若大将』観たあと、加山雄三が使ってたのと同じギター買ったりしてな。水泳はじめたのは『大学の若大将』観たからだったし、『日本一の若大将』観てマラソンはじめて、『銀座の若大将』観てボクシング・ジムに入った。『フレッシュマン若大将』を観て、堅気の会社に就職したんだが、合わなくてな、すぐに辞めた。そんで、最近ヨットはじめたんだが、それもあれよ、『ハワイの若大将』に憧《あこが》れて、だよ」
「……はあ」
要するにみんな三日坊主だったんだな、そう思いながら相槌《あいづち》を打った。
「やっぱり若大将シリーズは最高だったよな。なあ? そう思わないか? 相原」
相原は頭を掻《か》いた。「その……すんません、観たことないもんで」
「今度観てみろ。ありゃあおまえ、その、なんだ、傑作だぞ。ワンパターンだとか、毎度お馴染みのお約束の連発が鼻につくとか、いろいろうるさいことを言う奴がいるがな、むしろそれがいいんだよ。加山雄三の若大将シリーズを観ないなんてのはな、おまえ、人生を損してるようなもんだ。いいな、絶対に観ろよ。な? な?」
「はあ、そうします」
口ではそう言ったものの、そんな気はさらさらなかった。ただ、青木が九條組の人間に、自分のことを「頭」でも「兄貴」でもなく「大将」と呼ばせている理由はわかった。ほんとうは「若大将」と呼ばせたいのかもしれないが、四十をすぎて若大将と呼ばせるのはさすがに気が引けるだろうし、本人も照れ臭いだろう。下手をすれば笑い者だ。
「ところで相原」
青木が煙草をくわえた。失礼します、とライターの火を差し出す。
「おまえ、いくつになった」
「はあ、三十六です。今年、七になります」
青木は煙草の煙を吐きながら、「俺が若頭になった年だなあ」
神経がささくれだった。「……そうですか」
「おまえ、シノギは」
言葉に詰まった。いちばん聞かれたくないことだ。
「八年も務めたんだ、褒美はあるんだろう? え?」
「いえ……その、いま組が大変なときなんで……」
しどろもどろになる相原の顔を覗《のぞ》き込んで、青木が言う。
「おまえ、なんで食ってるの」
視線をそらした。「俺は、出てきたばっかなんで、その……」
「じゃあ、まだ女房|風呂屋《ふろや》で働かせて食ってるの」
屈辱感に後頭部を押されるようにしてうなずいた。
「おまえ、女、ほかにいたっけか?」
「……いえ」
「じゃあ、おまえらふたり食っていくのでやっとじゃないの。そんなんで、組に金納められるんか? え?」
「……そこは、なんとか」
「なんとかってなに。シノギもなしに、どうやって稼ぐつもりなの。え? え?」
「…………」
「こういう時期だからこそよ、しっかり稼ぐのが組員の務めだろうが。違うか? え?」
膝《ひざ》の上に置かれている手。きつく握った。その手の甲を、青木が二、三度軽く叩《たた》いた。
「なあ相原。おまえまだ放免祝いもしてもらってないんだって? きのうはおまえ、その、なんだ、コンビニの弁当食ってたっていうじゃないの」
驚いて青木を見た。「どうしてそんなこと知ってるんですか」
青木はそれには答えず、「おまえのカミさん、年いくつだっけ?」
「……三十六です」
芝居がかった調子で、青木が首を振った。「女の盛りってえやつは、おまえを待ってるあいだにすぎちまったんだなあ」
「…………」
「聞いた話じゃ、カミさん、シャブ中だっていうじゃないの。いくら海渡さんがクスリでシノいでるからって言ってもさ、朝倉組傘下の人間の女房がシャブ中ってのは、ちょっとなあ。朝倉の先代も、草葉の陰で泣いてるんじゃねえかなあ」
「……すんません」
「シャブってのはさ、射《う》つもんじゃなくて売るもんだよ。そうだろ? それともおまえ、てめえのカミさんシャブ漬けにして、組を儲《もう》けさせようっての? え?」
「……そうじゃありません。すんません、女房にはきつく言って、やめさせますから」
「なあ相原」
にやにや笑いながら、青木が相原の手を握った。ぞっとして、思わず振りほどこうとした。しかし青木は離さない。それどころか、キスでもするかのように顔を近づけ、ひそひそと続ける。
「今年三十七のヤクザモンがだよ、シャブ中の三十六の女房、風呂屋で泡だらけにしてさ、いまどき学生も住まねえような狭いアパートでコンビニの弁当食ってて、情けなくならないか? え?」
「そりゃあ……」
意見しようと青木に顔を向けたが、彼の目を見た途端、なにも言えなくなった。
「おまえもさ、その、なんだ、ヤクザモンらしい贅沢《ぜいたく》な暮らし、してみたいだろう? カミさんに楽させてやりたいだろう? いつまでもさ、カミさんのアソコの汁で飯食う生活続けるつもりはないんだろう? え? え?」
はい、とうなずく。
「どうだ相原。海渡とは縁を切って、うちの親父と盃《さかずき》しねえか?」
耳を疑った。
「九條組に入れよ。な?」
「……なにをおっしゃるんですか!」
相原は思わず食ってかかった。
「まあまあ、興奮するな。興奮するな。な? 落ち着け落ち着け。な? な?」
笑顔を絶やさず、子どもをあやすような調子で言いながら、青木は相原の肩を両手で何度も軽く叩いた。
「あんな甲斐性《かいしよう》なしの下にいたら、おまえ、一生いまのままだぞ。そのうち、その、なんだ、鉄砲玉でビャーッと走らされて、無期か死刑くらって、そのまんま人生終わっちまうぞ? そんなこっちゃおまえ、なんのために生まれてきたかわかんなくなるじゃないの。え? 海渡さんのことだ、なあ? おまえにだ、鹿沼|殺《と》ってこいとかなんとか、そのうち言い出すんじゃないか? え? え? え? え?」
目を伏せた。「うちの親父は……そんな、ことは、言いませんよ」
「ほう」
と、青木が笑った。そしてまた、相原の肩を叩く。「そうかそうか、そりゃあ悪かった、悪かったなあ、なあ?」
「……いえ」
「そうだよなあ、おまえまだ、出てきたばかりだもんなあ? 務め果たして出てきたばかりの可愛い子にだ、ろくに放免祝いもやらずに、またムショに入ってこいって言うようなひどい親、いるわけないよなあ? なあ? なあ? なあ?」
こいつ、知ってて言ってるんじゃないのか、そう思う。
「ただなあ、相原。うちの親父じゃないが、いまのヤクザはここだよ、ここ」
青木は人差し指で自分の頭をこんこんとつついた。そしてその手を伸ばし、相原のサングラスを取ると、幼い子どもを諭すような口調で続けた。
「もうな、スミだグラサンだヤッパだチャカだ殺るだ殺られるだって時代は、とっくの昔に終わったんだよ。知恵絞ってさ、いいシノギ持って、たくさん金持ってるやつが生き残れるのよ。だろう? 違うか?」
「ですが、そのう……うちの親父は、ヤクザは結局力だって……いくら金があっても、力には勝てないんだって……」
「力ってなに。金のことだろ? 違うか? え? え? え?」
「そんな……」
「金があるから道具もいいのがたくさん手に入る。ほかの組の協力も得られる。シマだって守れるし、若い者を食っていかせられるんじゃないの。務めに出てる者の家族だって養っていけるんじゃないの。戦争だって、金がなけりゃできないだろう?」
青木は笑顔のまま、相原の肩に手を回した。
「うちの親父が朝倉の三代目継ぐことは、もう決まったも同然なんだよ。朝倉の御大も姐《あね》さんもそのつもりでおられるし、ほかの朝倉傘下の組組織もさ、みーんな了承してることだよ。な? そのときになってだよ、組のハズレモンの下にいたらおまえ、おまえが泣くことになっちまうんだぞ?」
「ハズレモンってのは、親父のことですか」
憤りを隠さず抗議したが、青木は「そうだよ」と、あっけらかんと受け流す。
「そうだよって……」
「おまえが務めてるあいだにそうなっちまったんだよ。だからさ、海渡さんに盃返して、あらためてうちの親父の盃もらえばいいじゃないの。え? そしたらおまえ、この先いいシノギもらえて、カミさん楽させてやることもできるんだぞ? だいいちおまえ、海渡さんにどんな扱い受けたの。うまいこと言われて走らされてさ、やっと務めが終わったら、褒美もなし、放免祝いもなし、カミさんの面倒も見てもらえなくてさ、それどころか、カミさんシャブ漬けになって食い物にされてさ。そんな親、とっとと見かぎればいいじゃないの。え? え? え?」
「……なんとおっしゃられても、親父は親父です。自分もヤクザの端くれです、盃返して九條のおじさんに寝返るなんて、そんな外道みたいなことできませんよ」
青木が爆笑した。運転している堺も、肩を揺らして笑っている。
「相原ァ。おまえ、ヤクザ映画の観すぎじゃないの?」
頭にきた。「そんなの、観たことありません」
「おまえが海渡さんに盃返して、九條組のために働いてくれたら、ちゃーんと褒美は用意してある。最近な、競売にかけられた一軒家、うちが手に入れたんだがな、その家、おまえにやるよ」
相原は青木の言葉が理解できず、ぽかんとして彼の顔を見た。
「一軒家だぞ一軒家。庭つき一戸建だ。おまえ、そこに住め。なあ? カミさんも喜ぶんじゃないのか? え?」
「…………」
「あとな、おまえどんな仕事やりたい? なんでもいいぞ、言ってみろ」
「……俺は、別に……」
「サウナ一軒まかせようか。従業員はほとんど堅気でな、ちゃーんとだ、刺青《いれずみ》の方お断りって貼紙も出てるんだ。客筋もいい。仕事はみんな堅気の従業員と雇われ専務がやってくれる。社長のおまえは、なにもしなくていいんだよ。おいしい仕事だろう? そこの経営権、おまえにやるよ」
「やるよって……」
「サウナが嫌だったら、なんでもいい、言ってみろ。え? どんな仕事だって用意してやるぞ? うん?」
「……俺が九條組に入るだけで、そんな褒美もらえるわけないじゃないですか」
マユミではないが、そんな甘い言葉に動かされるのにはもう飽きた。信用できない。
「青木さん。俺に、なにやらせようっていうんですか」
「簡単なことだよ」
笑顔のまま、青木が言った。「海渡、殺《と》ってきてくれ」
「……青木さん!」
思わず怒声を張り上げた。「ふざけるのもいいかげんにしてください! 親捨てるだけじゃなく、殺せとおっしゃるんですか!」
「それだけじゃないぞ、相原。殺るのは海渡だけじゃない。朝倉の御大もだ」
「な、なんですかそれ!」
「御大が眠ってくれたらよ、九條の親父が跡目を継いでさ、朝倉組は俺らの天下になるじゃないの。そうだろ? え?」
「あんたら、頭おかしいよ! それこそ畜生以下じゃないですか!」
「バーカ」
歌うように青木が言った。ふざけ散らした調子だった。「これがヤクザモンの生き方じゃないの」
「降ろしてください、もう話すことはありません……おい堺、車停めろ!」
青木が低く笑いながら拳銃《けんじゆう》を抜いた。銃口を突きつけられ、相原は仰天して両手を挙げた。
「あ、青木さん、やめてください……」
「いま降りるんなら、ここで死ね」
「……青木さん」
「道はひとつだぞ、相原。ここで死ぬか、それとも朝倉と海渡を殺って、ハッピーな人生を満喫するか、だ」
「そんな……」
「朝倉と海渡の行動は全部こっちで押さえてある。おまえはだ、俺らが指示する通り朝倉や海渡に近づいて、ボディ・ガードごと蜂の巣にしちまえばいい。道具はちゃんと用意してある。もちろんムショには戻らなくていい。朝倉と海渡を殺ったのは鹿沼だってことにしとくからな。もしバレてもさ、おまえの身代わりはちゃーんと用意してある。勲章ほしがってる若い者《もん》、うちには腐るほどいるからな、人選も済ませてあるよ……どうする? え? え? え? え?」
「堺です」
地下室前のインターフォンに声をかけた。入れ、という青木の声が聞こえた。
「失礼します」
地下室のなかには、九條が最近よく聴いている音楽が流れていた。たしかシューベルトの、『水の上で歌う』という曲だ。
「さっき本間から電話がありましてね。彼、怒っていましたよ」
いつも通りデスクに腰かけている九條が言った。「組で、どうして組長を……鹿沼を撃った奴を見逃したんだと、責められたそうです。それで、打ち合わせと違うじゃないかと文句を言ってきたわけでして」
「いま、全力をあげて史郎を追ってますので。見つけ次第、始末します」
堺が言うと、九條が珍しく溜《た》め息をついた。「まったく。敵前逃亡とはね。わたしもまだまだ人を見る目がないということですね」
打ち合わせではこうだった。
鹿沼組の本間が、事情を知らない若い組員をひとり連れて鹿沼をガードする。その本間からの情報を史郎に流す。史郎が個展会場で鹿沼を撃つ。もうひとりの組員が、当然逆襲に出る。その男に、史郎をその場で射殺させる。そうすることで、本間は自分の手を汚さず、また組での立場を失墜させることなく、鹿沼を始末することができる。史郎が失敗した場合を考えて、海渡組の組員にも情報を流しておいた。また、相手が史郎を射殺できなかったケースも想定して、オサムに拳銃を渡し、いざとなったら始末しろと言い含め、史郎に張りつけておいたのだった。
言わば史郎は生《い》け贄《にえ》だった。九條は、史郎をヒットマンとして育成したわけではなく、生け贄として育てていたわけだ。それは堺も知っていた。しかし史郎が九條の望み通りの役割を果たすには、史郎に鉄砲玉を引き受けさせねばならない。よって堺は、史郎を信用させるために、あの場でほんとうは自分が行きたいんだと言ったり彼を中傷したりしたわけだ。
九條組では、九條、青木、堺の三人しか知らないが、そもそも鹿沼組と朝倉組の抗争自体、九條と本間が演出したものだった。鹿沼が死ねば、本間が鹿沼組の実権を握ることになる。朝倉が死ねば、朝倉組は九條のものだ。その権力移行をスムーズに行なうために、抗争をでっちあげた。
九條の狙撃《そげき》事件も、いわば狂言だった。九條を撃ったのは鹿沼組の人間ではない。青木だ。
九條、青木、小山の三人になったとき、青木がまず小山を射殺した。九條が狙撃されたことに信憑性《しんぴようせい》を持たせるために、だれでもいい、九條組組員の死体がひとつ必要だったのだ。小山は、なにがなんだかわからないまま絶命しただろう。そして青木は、予定通り九條に軽い怪我を負わせ、救急車を呼んだのだ。鹿沼組の人間に襲われたことにして抗争を演出すると同時に、朝倉組長が相原に射殺されたときのアリバイも確保できるのだから、一石二鳥の作戦だった。鹿沼組の人間に撃たれたと決めつけず、あえて別の組の者の仕業かもしれないと主張するのも、真実味を持たせるための九條の作戦だったわけだ。
ただ九條が朝倉組の跡目を継ぐには、ひとつ障害があった。海渡の存在だ。だからこれも相原に始末させた。
とはいえ海渡を殺したのにはもうひとつ理由があった。要するに九條は、海渡の麻薬のシノギを自分のものにしたかったのだ。海渡組はもう空中分解寸前である。盃《さかずき》がほしいと言って九條組に移籍を申し出ている海渡組組員がどんどん増えている。連中を九條組に入れてしまえば、海渡組のシノギは九條組のものとなる。その狙いは達成された。
あとは、朝倉組と鹿沼組を解散させて、このふたつの組を合併し、新しい組を作るだけだ。鹿沼と朝倉の力が合わさったこの組が、石黒組を牛耳ることになるのは間違いない。これがほんとうの狙いだった。
「相原はどうした」
青木がたずねた。
「予定通りです。山に埋めておきました」
これが褒美ですよ相原さん、と銃口を突きつけたときの相原の表情ときたらなかった。堺は思わず吹き出してしまった。ヴィデオにでも撮って残しておきたいもんだと思いながら、続けざまに引金を引いた。笑いながら人を殺したのははじめてだった。
「相原の女房はどうしました」
今度は九條が聞いた。
「うちの若い奴に、女日照りが続いてる野郎がいましてね。シャブ漬けにして、そいつに預けてあります。一週間ばかりやりまくってから始末するそうです。ちゃんと腹を裂いてから海に沈めるよう言っておきました」
「情が移って、女を逃がしたりしないでしょうね。あるいは、一緒に逃げるとか」
「念のため、そいつの部屋には盗聴器を仕掛けておきましたから、だいじょうぶです。そいつのアパートの下の階の部屋を借りて、若いのに監視させてますから。それに、もしそういう素振りを見せたら、そいつも即座に始末します」
「そうですか。ところで堺くん」
「はい」
「だれに向かって口きいてんだ、てめえ」
いきなりの九條の豹変《ひようへん》に、堺は肝を潰《つぶ》さんばかりに驚いた。そのときはじめて、自分がズボンのポケットに両手を突っ込んだままだったことに気づき、あわてて姿勢を正した。「……申し訳ありません!」
堺が四十五度の角度で頭を下げたとき、九條のデスクの卓上の電話が鳴った。また本間ですかね、とぼやきながら受話器を手にした九條が、ふたたび口調と物腰を一変させた。
「丈夫か!? そう、パパだよ。元気にしてるか? うん? そうかそうか、英語は上手になったか? 英語であいさつしてごらん? そうそう、うーん上手だねえ、さすが丈夫だなあ……あ、お兄ちゃんか? 変わりないか? そうかあ、青い目の恋人はできたか? なに照れてるんだよ、お兄ちゃんはパパに似ていい男なんだからモテるぞー。お、ママにかわってくれ。あ、ママか? どうだ、そっちの生活にはもう慣れたかな?」
でれでれと顔の筋肉を弛緩《しかん》させ、語尾にハートマークが乱舞しそうな口調で話しながら、九條が手で、もういい出て行け、という仕種《しぐさ》を見せた。堺は一礼し、その場を離れた。ソファにふん反り返っている青木と目が合い、どちらからともなく苦笑した。
地下室を出て、堺は深呼吸した。真の勝負はこれからだ。あと何年もしないうちに、九條は本間を裏切り、新しい組を完全に自分の手中に収めるだろう。本間を消す計画も、すでに立てつつあるはずだ。そして九條は肥え太る。それまでに、自分は足場を固めておく。いずれ九條を追い落とし、九條のシノギはそっくり頂く。それが、堺の真の目的だった。
豚は太らせて食え――胸の内で呟《つぶや》き、堺はひとしきり笑った。
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CAT SHIT
10
「都内って言っても、このあたりは実にのどかなものでしてね」
車を運転しながら、朝食がわりに頬張っていたダブルバーガー。その最後のひと口をコーラで流し込み、ごくりと嚥下《えんか》した水戸春夫《みとはるお》は、努めて明るい調子で、助手席の隅田|剛一《ごういち》に声をかけた。
隅田はその手に、被害者――池上茂、池上範子、池上鈴音のスナップ写真を手にしており、えらく熱心な目つきでそれを眺めている。こちらに顔を向けようともしない。無愛想な男だと思った。
水戸は、ゆっくりハンドルを切ってカーブを曲がりながら、続ける。
「せいぜいどこそこで学生が喧嘩《けんか》してるとか、酔っ払いが暴れてるとか、その程度のことしか起きないわけですよ。わたしなんぞ刑事課に配属になって三年がたちますが、捜査本部を設置しなきゃならんような事件には出くわしたことがないんですわ。それがたった三日のあいだに、本庁がお出ましになるようなヤマが二件でしょう。所轄の連中のなかには、舞い上がっている奴もいれば、うんざりしている奴もいますよ。わたしゃ今年後厄なんですが、これもそのせいかなあ、なんて思ってましてね」
そこまで話したとき赤信号にひっかかったので、隣の隅田に愛想笑いを向けた。「でも隅田さんは、こういうのがほぼ毎日続くわけでしょう? 大変ですなあ」
隅田はこちらを一瞥《いちべつ》しただけだった。すぐにスナップ写真に視線を落とす。返答はない。
なんだこいつ、本庁の巡査部長だからって偉そうに……と不愉快になったが、そんな気持ちを表面に出すわけにはいかない。
視線を前方に戻す。ちょうど信号が青になったところだった。
車のなかは静かだ。水戸は懸命に話題を探した。だが適当なものが見つからず、ゆうべのプロ野球の結果について話しはじめると、すぐに「野球には興味ないんだ」との応《こた》えが返ってきた。
また沈黙だ。落ち着かない。耳には、かすかなエンジン音くらいしか聞こえない。
「隅田さんは、共立銀行の事件にも最初関わってらしたと聞きましたが、その後どうです?」
「さあ。俺はもう担当から外れたんでね」
スナップ写真に目を落としたまま、隅田が答えた。
「犯人はシャブをやってたって聞きましたけど、そうなんですか? もしそうなら、心神喪失あるいは心神|耗弱《こうじやく》の疑いありってことで罪が軽くなりゃしませんかねえ。下手すりゃ無罪だ」
無反応。
水戸は隅田に気づかれないよう、そっと溜《た》め息をついた。やはりこの男とは相性が悪いらしい。
こいつは苦手なタイプだ――きのうはじめて隅田と会ったとき、そう感じた。彼がやたらと尊大な態度を取り続けるのもその理由のひとつだったが、それよりも、隅田の目がたたえる陰険な光が、水戸を不快にさせたのだった。
今朝隅田と会う前に、同じ所轄署の同僚に聞いたのだが、隅田はあまり評判のよろしくない刑事であるらしい。彼に弱みを握られて肉体関係を迫られたホステスや女子大生が何人もいるという噂があり、これまた噂だが、監察官が隅田の周辺を洗ったこともあるらしい、とのことだった。しかし隅田はいまも本庁に勤務しているのだから、その噂は結局デマだったか、あるいは監察官が動いたものの、隅田の身の潔白が証明されたということだろう。案外、隅田を快く思っていない警察官がそういう噂を流したというのが、ほんとうのところかもしれない。
大通りから一車線の路地に入って少し進み、おととい警察が使用禁止にした九條経営コンサルタント――要するに九條組事務所だ――が入っている雑居ビル近くの電柱のそばに車を停めた水戸は、「着きました、ここです」と隅田に声をかけた。
車から降り、ビルの向かいにある「定食 たまり屋」に向かおうとした水戸は、隅田が電柱にもたれるような姿勢で顔を上げ、空を眺めているのに気づいた。
「どうかなさいましたか」
と、水戸も空を見上げる。泣き出しそうな曇天だ。隅田は天気を気にしているのだろうか、そう思ったとき、彼がぼそりと言った。
「アーケードみたいだ」
隅田がなにを言っているのか、さっぱりわからなかった。あらためて上空に目をやった。水戸は、なるほど、電線のことを言ってるのか、と納得した。まるで電線が頭上を覆いつくしているように見える。アーケードの屋根の骨組みたいだ。
「アメリカに行ったことあるかい」
電線を見上げたまま隅田が言う。
「いや、わたしは海外と言ったらですね、四国とか九州とか……」
もちろん冗談のつもりだったのだが、隅田はにこりともせず、「日本には、電柱と電線という美しいものがある。アメリカにはそれがない」と呟《つぶや》くように言った。
電線や電柱を美しいと褒めたたえる人間をはじめて見た。人の感性なんて千差万別なんだなと、つくづく思う。
準備中の札が出されている「たまり屋」の引き戸を開けた。声をかける。カウンターのなかで新聞を読んでいた坊主頭の大将が、不機嫌そうな顔を向けた。
「表に札が出てたろ。店は十時からだよ」
「ああ、いや、すまん、客じゃないんだ」
警察手帳を見せると、大将があからさまに顔をしかめた。
「ねえ、親父さん。お宅のおしぼり、矢野リースからレンタルしてるんでしょう?」
「なにか問題あるかね」
ほとんど喧嘩《けんか》腰だった。
「そうじゃなくてさ。あのね、お宅におしぼり持ってきたりしてた矢野リースの社員だけど、木島史郎じゃなかった?」
「そんな名前だったかね」
新聞に目を落として、大将が答えた。
「木島が顔を見せたら通報してくれ。いいな」
隅田の高圧的な物言いが気に障ったらしく、大将が目を吊《つ》り上げてこちらを睨《にら》みつけた。いまにも殴りかかってきそうな顔つきだった。
水戸はあわてた。「ああ、いや、もし木島が親父さんを頼ってここにきたりしたらさ、すぐ警察に知らせてほしいんだよね。九條組を怖がる必要はないんだよ。九條組は何日か前に木島を破門にしてたんだが、きのう絶縁したらしいから……」
あの社会で言う破門とはつまり、組からの追放である。全国に発送される破門状には、この者は破門にしたので今後当組とはいっさい関係ない、またこの者と縁組したり交遊したりすることは当組への敵対行為と見なす、といったことが綴《つづ》られることになる。ただ、破門された人間は、ふたたび組に戻ることができるのに対して、絶縁された組員は、組に戻ることを永久に許されない。
「あの坊やがなにかやったのかね」
隅田を睨みつけたまま、大将が言った。
「いや、ちょっとしたことで……」
もうマスコミに流しているから隠す必要はないのだが、そうとしか言えなかった。
「矢野リースの社員を銃で撃ち殺して逃げている」
隅田の言葉に、大将が目をむいた。隅田さん! と小声で注意したが、無駄だった。
「ほかにもいくつかの事件に関わっている可能性がある」
「まさか」
と、大将が笑った。引きつった笑いではあったが。「あの坊やは、虫もろくに殺せない、気の弱い男ですよ。人殺しなんてするもんですか」
「虫も殺せないヤクザか」
今度は隅田が笑った。なんとなく、周囲の人間を不快にさせるのが目的のような笑いに見えた。「そんなヤクザがどこの世界にいるってんだよ」
「だから坊やはパッとしなかったんだよ。向いてないんだよ、ヤクザに」
そう言って、大将がむっつりと口を結んだ。
「組でパッとしないヤー公が、上の人間に認められたくて派手なことやるってのは、よくある話だぜ」
「あの坊やはそんな人間じゃないよ」
「えらく庇《かば》うな。奴とケツの関係でもあんのか」
大将がカウンターを手のひらで叩《たた》いた。「あんた、失敬なこと言うのもたいがいにしろよ!」
「いいか。奴を匿《かくま》ったりしたら刑法一〇三条に触れることを忘れるな。そんときは遠慮なくおまえを刑務所にブチ込んでやる。わかったか」
大将が持っていた新聞を床に叩きつけた。
「なんだ、その態度は。警察ナメるんじゃねえぞ」
「隅田さん、やめましょうよ、隅田さん!」
「出てけ!」
大将が怒鳴った。「おまえら、それでも警察か!? 九條組のヤクザよりタチ悪いじゃないか!」
隅田が、顔を真っ赤にして怒鳴り返した。「だれに向かって口きいてんだ、この野郎!」
「隅田さん!」
彼の腕を強引に引っ張って店を出た。
外に出るなり、隅田が水戸の手を振りほどいた。「あんた、階級は」
「……え」
「階級だよ」
水戸はうなだれた。「巡査長、です」
「つまり、ただの巡査だな?」
「…………」
「所轄のヒラのくせに、本庁のデカ長に向かって生意気な態度取るんじゃねえよ」
正式には、巡査長という階級は存在していない。巡査の上はあくまで巡査部長である。とはいえ、警察官の昇進試験でいちばんの難関と呼ばれる巡査部長を拝命する人間はかぎられている。だからというわけではないが、巡査を十年間務めた人間には、巡査長という肩書きが与えられることになっている。水戸には、いまの隅田の言葉が、俺は巡査部長なんだぞと自慢しているというより、いつまでたっても巡査部長になれない自分を嘲笑《ちようしよう》しているもののように聞こえた。
「でも、お言葉ですが隅田さん」
気を取り直して、水戸は言った。「いまのような調子ですと、協力してくれる人間も協力してくれなくなってしまいます。一般市民にはもっとソフトに接してください。お願いします」
ここはあんたのシマじゃないんだぞ――そう言いたい気持ちを抑えつつ、頭を下げた。懇願するような口調になってしまったのが、われながら情けなかった。
「わかったよ」
ぶっきらぼうに隅田が答えた。
それにしても、これから木島史郎がレンタルおしぼりを配っていた店を一軒一軒当たらなければならないのに、一軒目からこの調子では先が思いやられる。どっと疲れてしまった。
同時に、隅田にまつわる噂がでたらめだったとしても、そんな噂を流したくなる人間の気持ちが、ほんの少しだけではあるけれど、わかるような気がした。
現在水戸も投入されている捜査本部は、犯行の推移をこう見ている。
九條組構成員・木島史郎は、鹿沼組組長・鹿沼勝利を殺害する目的で、海渡組構成員・井手泰明《いでやすあき》と共に、Mデパートで行なわれている島袋俊哉の個展会場に現れた。木島は鹿沼に接近、射殺を試みたものの、その寸前、知人の池上茂に声をかけられた。突然のことに驚いたのか、木島は拳銃《けんじゆう》を落としてしまい、鹿沼組構成員・南肇《みなみはじめ》に追われて逃走した。
その直後、木島と南に注意を引きつけられて隙だらけになった鹿沼を、井手が背後から狙撃《そげき》した。至近距離から五発の弾丸を受けた鹿沼は、すぐに救急車で病院に運ばれたものの、三時間後に死亡した。
ちなみに、鹿沼が狙撃されたあと、現場で行なわれた事情聴取に応じた池上の証言によれば、池上が開いている絵の塾に木島の娘が通っており、家族ぐるみのつきあいがある、ということだった。池上は事情聴取後、帰宅した。
南を振り切った木島は、計画が失敗したことでムシャクシャしたらしく、現場近くの路地で拳銃を発砲している。ゴミ箱に八つ当たりしたというわけだ。それでも気が晴れなかったのか、通りかかったタクシー運転手に銃を突きつけて脅すということまでやっている。
その後木島は、同じ九條組構成員である荒木オサムと遭遇した。これが偶然だったのか、あるいは荒木とそこで待ち合わせをしていたのかはわからないが、とにかく木島は荒木を射殺した。動機は不明だ。ふたりが口論になった、荒木が木島にとって不利になるようなことを知っていたため木島が口をふさいだ、といった仮説が出たが、いずれも決め手はない。ただ、荒木が殺害された公衆トイレからは二種類の拳銃弾が検出されており、荒木の体から硝煙反応が出たことから見て、ふたりがなんらかの原因で撃ち合いになったことは間違いないだろう。
たまたま公衆トイレに入ろうとした会社員にその姿を目撃された木島は、現場から逃走、池上茂宅に向かったと思われる。鹿沼殺害を邪魔されたことを根に持ったのか、池上宅に現れた木島は、そこで池上家の住人を殺害した可能性がある。いまのところ死体は発見されていないものの、翌朝、池上家玄関から門のところまで点々と血痕《けつこん》らしきものが落ちているのを発見した近所の住人の通報で警察が調べたところ、家屋のあちこちからルミノール反応が検出されたからだ。また、池上家には家捜しした形跡も残っていた。木島は家人を殺害後、池上邸から現金などを持ち去ったと考えられる。
そして、荒木オサムが着用していたズボンのベルトのバックルから検出された指紋と、池上邸のそこかしこに残っていた指紋が完全に一致した。それは、木島の自宅を家宅捜索した際に検出された指紋と同一のものであった。
本来水戸が所属している捜査本部は、池上家の事件だけを担当しているのだが、以上の事柄から、荒木オサム殺害事件、鹿沼勝利殺害事件、路上発砲事件などと同様に、池上家の事件――その内容は現段階ではまだよくわかっていないのだが――もまた木島史郎の犯行であると見て合同捜査本部を設置、池上家の事件を除く三件の事件の被疑者として、木島史郎に対する逮捕状を請求することが決まった。
また、事件当日から木島の娘も行方不明になっていることから、警察では、木島が娘を連れて逃走しているものと判断し、木島の自宅より押収した親子ふたりの写真を近隣各県警に配付、発見次第この親子連れの身柄を確保してほしいと申し入れた。
とはいえ、木島が単独で動いたとは、捜査員も考えてはいなかった。朝倉組と鹿沼組のあいだに抗争が勃発《ぼつぱつ》していることはだれもが知っている。木島が、朝倉組若頭で九條組組長である九條の命令で動いたのは、まず間違いない。犯行前に破門にして組との関係を一応絶った人間を鉄砲玉に使うというのは、ありふれた手口である。いくら九條が、あの男は破門にしたと言い張っても、ああそうですかと納得する捜査員などいるわけがない。
木島の身柄を押さえ、凶器を押収し、その拳銃の出どころなどを追及するうちに九條逮捕にこぎつけることができるのではないか。おそらく九條組、いや、石黒組もまた全力をあげて木島の行方を追っているはずだ。木島の命を救うためにも、彼らより先に木島を発見・逮捕し、身柄を拘束せねばならない――それが合同捜査本部の総意であった。
やはり矢野リースがおしぼりをレンタルしているホテル・サンライズに到着したのは、午前十時少し前だった。
「ここです」
水戸が声をかけると、相変わらず池上一家のスナップ写真をじっと見つめていた隅田が顔を上げ、小さくうなずいた。
駐車場に乗り入れ、車を降りる。それとほぼ同時に、隅田が水戸の肩を叩いた。そして駐車場の隅を顎《あご》で指し示す。ベンツが停まっていた。
入り口の自動ドアが開いた。ちょうど入り口と向かい合わせになる壁にもたれている、開襟シャツの若い男が目に入った。男が、水戸たちからは死角になっている右側のほうへ、焦ったように顔を向ける。その右手が額に伸びかけて、宙で止まった。人差し指と親指で丸を作り、それを額に当てるのは、デコスケがきた、というヤクザの合図のようなものだ。男は条件反射的にそのポーズを取りかけて、あわてて押しとどめたのだろう。男はそのまま水戸たちに愛想笑いを向けて、「ご苦労さんっス」と会釈した。
なかに入り、九條組組員と思われる開襟シャツの男が合図を送ろうとした方向に目をやる。フロントだ。そこに、四十前後に見える小柄な女の従業員と、真っ黒に日焼けした金髪の男が立っていた。男は、九條組幹部の堺だった。従業員は堺に呼ばれて、フロントから出てきたのだろう。
「あ、どうも」
へらへらと笑いながら、堺が頭を下げた。
「なにやってるんだ。木島を探してるのか」
堺は笑うばかりで答えない。
「よけいなことするなよ、堺。これは警察の仕事なんだからな」
「なにをおっしゃるんですか、旦那《だんな》」
ふざけ散らした調子で堺が言う。「警察に協力してやろうっていう親切心じゃないですか。善良な市民の務めってやつですよ」
「それがよけいなことなんだよ」
「へいへい、わかりました……じゃ、よろしく」
堺は従業員にそう言い残すと、水戸と隅田に目礼してから、開襟シャツの男を連れて出ていった。
「あんた、たしか、三宮明日美さんでしたよね」
いきなり隅田が口を開いた。
見ると隅田は、いままで堺と話していた女性従業員に目をやっていた。その目が好色そうな輝きを帯びて、彼女の頭の先から足の爪先までを無遠慮に舐《な》め回すのに気づいたとき、水戸は、こんなパッとしない中年女のどこがいいのだろうと思うと同時に、やはり隅田のあの噂はほんとうのことではないのか、とも思った。
従業員が、両手を膝《ひざ》につけてぺこりと頭を下げた。
お知り合いですか、とたずねると、共立銀行襲撃事件の際、現場に居合わせた被害者のひとりだ、という答えが返ってきた。
「そうでしたか……わたしは所轄の水戸という者です」
と、三宮明日美に警察手帳を見せる。「突然でナンですが……」
「さっきのあの男、あんたになにを言ってたんです?」
おたくにおしぼりをリースしていたのは矢野リースですね、という水戸の言葉は、そんな隅田の声にかき消されてしまった。
「あの……」
相手が警察だということで緊張しているのか、三宮明日美はうつむいたまま、おどおどとした調子で、「矢野リースの人間だけど、おしぼりを運んでいた木島史郎っていう男が突然いなくなって困っているので、見かけたらすぐに連絡してくれ、と」
「ヤクザなんかに知らせる必要はない」
隅田が言った。相変わらずの高圧的な物言いである。「さっきのヤクザじゃないが、そういうことは警察に知らせるのが市民の義務だ」
三宮明日美が怪訝《けげん》そうに隅田を見た。「あの金髪の人、ヤクザなんですか」
「木島と同じ、九條組っていう暴力団に所属しているヤー公だ――そうだな?」
隅田が水戸に確認を取る。うなずいて見せた。
「あのおしぼり屋さんもヤクザなんですか」
心底驚いたように、三宮明日美が言った。水戸が見るかぎりでは、演技ではなさそうだった。ほんとうに知らなかったらしい。
「昼のニュースでやるだろうが、木島には殺人容疑で逮捕状が出ている。九條組が傘下に入っている石黒組も、木島を追っている。警察が先に見つけないと、木島はヤー公どもに殺されるんだよ」
三宮明日美は、驚愕《きようがく》の表情を浮かべて隅田を見ていた。
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この喫茶店に入ったときから見覚えのある顔だと思っていたが、迷彩のズボンと黒のTシャツの上からデニムのジャンパー、いわゆるジージャンを羽織っているその女がだれなのか、思い出すのにずいぶんと時間がかかった。たしかに、十八歳十九歳二十歳といった時期の女性の変化は、他人からすれば目を見張るほどのものがあるが――佐和子《さわこ》はこの時期を、女の高度成長期と呼んでいる――藤並渚は、少し背が伸びたようではあるけれども、その面立ちも髪形も、高校を卒業したときと、まったくと言っていいほど変わっていなかった。なのに彼女のことがわからなかったのは、佐和子の記憶のなかの藤並渚と、すぐそばの席で、運ばれてきたレモンティーに手もつけず、広げたノートになにやら熱心に書き込んでいる藤並渚とが、どうしても結びつかなかったからだった。
薄い唇をぽかんと半開きにし、死人のような目をしてぼんやりしているか、天敵におびえる小動物みたいな目をしてうつむき、おどおどと周囲の様子をうかがっているか――佐和子が知っている渚は、そうした覇気のない、生きているのか死んでいるのかわからないような少女だった。しかし、いま佐和子の目に映っている渚は、その切れ長の目を生き生きと輝かせ、体中から生の充実感みたいなものを発散させていた。
懐かしさも手伝って席を立った佐和子は、渚が座っている席に歩み寄り、「渚さん」と明るく声をかけた。
渚が顔を上げた。なにをしているのかわからないが、テーブルの上には、ノート、筆記用具、このあたりのロードマップ、時刻表、銃の専門誌や護身術のマニュアル本などが無造作に置かれていた。時刻表は、首都圏近郊のビジネスホテルの広告のページが開かれていた。
「覚えてる? 同級生だった平賀《ひらが》だけど。平賀佐和子」
「覚えてるよ」
この素っ気なさは高校時代と同じだ。不愉快になるより先に、ああやっぱり渚さんだと微笑した。
「ひさしぶりよねえ、懐かしいなあ、元気だった?」
ここ、いい? と確認し、渚の前の席に腰を下ろしながら、佐和子は笑顔でたずねた。
「うん、まあ、ぼちぼち」
テーブルの上を片づけながら渚が言った。
「すいませーん、チーズケーキセット、こっちのテーブルにお願いしまーす」
佐和子は挙手して、カウンターにそう声をかけた。
「いやー、暑いねー、外は」
手のひらで顔を扇《あお》ぎ、わざとふざけた調子で、佐和子は言った。
「ひとり?」
まっすぐに佐和子の目を見て、渚が聞いた。
「うん。休講だったんでね、お茶でも飲もうかって思って……年なのかなあ、最近ね、なんか群れるのって、うざいんだよね」
佐和子はそう答えながら、へえ、と感心していた。昔の渚は、絶対に人の目を見て話さなかった。佐和子がたまに話しかけても、常にうつむいたまま受け答えしていた。その渚が正面から自分を見ている。おまけにその目はきらきらと輝いているのだ。これはすごい変化ではないかと思った。
「渚さんは? もしかして彼氏と待ち合わせとか」
「ひとりだよ」
「でもさ、渚さん就職だったよね。仕事、きょう休みなの?」
腕時計に目をやって、佐和子はたずねた。午後一時五十分。ふつうの勤め人が私服で喫茶店に立ち寄る時間ではない。
「いまムショクだよ」
いかにも片仮名でしゃべっているような感じで渚が言う。こうした口調も昔のままだ。
佐和子は、なんとなく声をひそめてしまった。「辞めたの?」
「ううん。会社、つぶれたんだよ」
あっけらかんとした口調だった。「いまは、貯金切り崩して生活してるんだよ」
「そう……」
なんと言えばいいのかわからなかった。
高校を卒業して就職したり、早くも結婚してしまった友人とこういう話になると、決まって、大学生は呑気《のんき》でいいよねえ、と言われる。彼女たちにそんなつもりはないのかもしれないけれど、佐和子には嫌味としか聞こえない。あるいは嫉妬《しつと》か。だから渚にも似たようなことを言われるのではないかとつい構えてしまったが、渚は「アパート、クーラーないから、涼みにきてるんだよ」と、相変わらずの調子で言っただけだった。
「アパートって……渚さん、実家じゃないの? ひとり暮らしなの?」
いいなあ、と続けようとしたら、
「わたし、高校のときからずっとひとりだよ」
「……あ、そうだったっけ」
「そうだよ」
初耳だった。
そもそも佐和子は、高校時代、渚と親しかったわけではない。正確には、渚の友達なんて、高校にはひとりもいなかった。高二の二学期のはじめに彼女が転校してきた当初は、クラスのみんなも彼女に優しく接していたのだが、彼女があまりにも無口で、他人を寄せつけようとしなかったため、自然と彼女を避けるようになっていった。いや、むしろあれは、渚がみんなを避けていたと言ったほうが正しいのかもしれない。佐和子にしたところで、嫌いというほどではなかったにせよ、彼女のことは正直苦手だった。
それでも教室の隅でひとりぽつんと座っている渚がときどきかわいそうに思えて、声をかけたりしたのだが、彼女はうつむいたままぼそぼそと無愛想に受け答えするだけで、佐和子に気を許そうとはしなかった。なによ、せっかく声かけてやってるのに……そう思い、憮然《ぶぜん》としたことも何度かある。だから彼女のことはなにも知らないと言ってよかった。
ただ一度だけ、渚がそれらしきことを口にしたことがある。修学旅行のときだ。たしか最終日だったと思う。佐和子と渚は同じ部屋だったのだが、例によってみんなとの会話に参加せず、部屋の隅で荷物の整理をしていた渚が、包装紙に包まれたペナントらしきものを大事そうにバッグにしまっていたのを見て、佐和子は声をかけた。
〈それ、だれかへのお土産?〉
すると渚はぽつりと答えた。
〈ヒカルくん。友達〉
へえ、彼氏? と、冷やかし半分にたずねた。渚はなにも答えなかった。
そういえば、こんなこともあった。
渚は、身長や体型からすると不自然なくらい足が大きかった。本人も気にしているらしく、いつも椅子の下に足をしまいこむような姿勢を取っていたし、さらにスカートで椅子を覆うようにして足を隠していた。佐和子たちは、校則で決められた丈よりスカートを短くして教師に怒られていたが、渚だけは、校則より長くしてお目玉をちょうだいしていた。
その渚の上履きを、ある朝クラスのだれかが下駄箱《げたばこ》から盗み出し、黒板の脇にある掲示板に画鋲《がびよう》で貼りつけた。上履きのシューズの土踏まずあたりのところに画鋲を突き刺し、靴底まで貫通させ、靴底から飛び出した画鋲をあらためて掲示板に刺す、といったやり口だった。そしてその横の黒板には、『二十六・五! 女のくせにでっけー足! おまけに臭《くせ》えのなんの!』とチョークで大きく殴り書きされていた。
登校してきて教室に入った同級生たちは、みなそれを見て忍び笑いをもらした。なかにはその上履きに鼻を近づけ、ほんとに臭え、とか、でっけー! 戦艦|大和《やまと》みたい! などと大声を上げて馬鹿笑いする幼稚な男子生徒もいた。
佐和子は自分でも不思議になるくらい腹が立って、衝動的に掲示板に歩み寄っていた。
黒板の文字を消し、渚の上履きをここから外す。そうしたら、たぶん自分はいい子ぶってる嫌な奴だと思われるだろう。もしかすると友達がいなくなってしまうかもしれない。だからこんなことしないほうがいい。みんなと一緒に笑っていればいいんだ――頭のなかではそんな声が繰り返し響いていたのに、体は言うことを聞かなかった。
カッコいいねえ平賀さん! という男子の冷やかしと女子のひそひそ話を背中で聞きながら、渚の上履きを画鋲ごと掲示板から外していた佐和子は、突然教室が静まり返ったので、反射的に振り返った。
いま入ってきたのか、鞄《かばん》を下げた渚が、教室の、後ろの入り口付近に立っていた。そしてじっと、佐和子を見ていた。彼女は、いま購買部で買ってきたばかり、といった感じの、新品の上履きを履いていた。
掲示板から外した渚の上履きから画鋲を抜き、黒板の文字を消してから、彼女に小走りに駆け寄った。
〈渚さん、これ……〉
〈ありがとう〉
素っ気なく言うと、渚は受け取った上履きを手に、教室のいちばん後ろの隅に置かれてあるゴミ箱に歩み寄り、ぽい、とそれを捨てた。
重苦しい沈黙のなか、上履きがゴミ箱に落ちる音が教室に響いた。
その音を耳にした瞬間、思った。彼女は、わたしが犯人だと思ったのかもしれない。
「お待たせ致しました」
ウェイトレスの声でわれに返った。チーズケーキセットが目の前に置かれた。
「ねえ、渚さん」
気を取り直してたずねる。「いまもやってるの? コスプレ[#「コスプレ」に傍点]」
うん? というように、渚が佐和子を見る。
「覚えてないかなあ、卒業する前にさ、わたし、クラスのみんなに、ノートにいろいろ書いてもらったじゃない。高校時代の思い出とか将来の夢とか、いろいろ」
いまになって考えれば、なんであんなことをしたんだろうと思う。きっと卒業を目前にして、いささか感傷的になっていたのだろう。佐和子は購買部でノートを買ってきて、クラスメート全員に、一、二ページずつ、そうしたことを書いてくれと頼んだのだった。もちろんそういうことをやっていたのはクラスにほかに何人もいたけれど、全員にノートを回したのは佐和子だけだったと思う。そうまでした思い出のノートだが、大学に入ったころには押し入れに仕舞ってしまい、佐和子自身、いまのいままで、そのノートの存在すら忘れていたのだった。
「それにさ、渚さん書いてたじゃない。趣味はコスプレって」
ほかのクラスメートが書いたことは、正直ほとんど覚えていない。なのに渚が記したことは覚えている。あまりに短く素っ気ないものだったから、逆に印象に残ったのだ。名前、生年月日、血液型、趣味。渚はそれを箇条書きにしていただけだった。つまり、たった四行しか書かれていなかったのだ。
「やってないよ」
渚が答えた。
「じゃ、その格好、なにかのコスプレってわけじゃないんだ」
「ああ、これ」
と、渚が迷彩パンツの太腿《ふともも》あたりの生地を指でつまんだ。「違うよ」
「じゃあ、もしかして渚さん、ミリタリー・マニアってやつ? それとも、彼氏の趣味だったりして」
「そういうんじゃないよ。ちょっと気合い入れたいだけだよ」
「気合い?」
「そう、気合い」
なんとも似合わない言葉を口にするもんだと思いながら、「ふうん……」と相槌《あいづち》を打ったものの、正直彼女がなにを言っているのか、よくわからなかった。
「んーと、でもさ、なんか、いいよ。ほら、『G・I・ジェーン』って映画、あったじゃない? あれのデミ・ムーアみたいでさ」
頭のなかで、もうひとりの自分が、そりゃあ褒めすぎだろー、と突っ込みを入れた。
「どうせなら、チェシー・ムーアみたいって言われたほうが嬉《うれ》しい」
珍しくいたずらっぽい笑みを浮かべて、渚が言った。
「チェシー・ムーア? だれそれ」
「アメリカのストリッパーだよ。肩に刺青《いれずみ》入れててね、ポルノ女優もやってた」
佐和子は奇異な思いを覚えた。この人はなんでそんなことを知っているのだろう。
「ほんとうかどうかわかんないんだけど、その人、男とエッチしてもなんにも感じないんだって。それで、バストが一二〇センチもあってね、それなのにシリコン入れて一五〇センチにしたら、お化けみたいになっちゃったんだ」
渚がはじめてレモンティーに口をつけた。きっともう、すっかり冷たくなっていることだろう。
「もちろんアメリカ人と日本人の体に対する感覚の違いってのもあると思うから、これはわたしの勝手な想像なんだけど、もしかしたらその人、自分の体にも他人の体にも、リアリティって言うか、そういうのを感じられなかったんじゃないのかな。ほんとうは感じたくて感じたくてたまらないんだけど、結局感じることができなかった人だと思うんだ。だから、惹《ひ》かれる」
この人がこんなにしゃべるところをはじめて見た、と佐和子は思った。ただ、彼女が言っていることは、さっぱり理解できなかった。
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いくら夜とはいえ、住宅街を歩くのには、かなりの勇気が必要だった。しかもこのあたりは、たしか鹿沼組の縄張りだ。一応変装はしているものの、連中の目をごまかせるとは思えなかった。もし組員に見つかったら、即座に拉致《らち》され、始末されてしまう。いま、連中に捕まるわけにはいかない。
史郎は新宿で、ホームレスを装い、段ボールのなかで暮らしていた。ここならかえって安全だろうと思ったのだ。だがホームレスの世界にも縄張りめいたものがあるし、周囲の人間とうまくやらないと食事にありつけない。そんな才覚は史郎にはなかった。俺はヤクザ失格だけではなく、ホームレスにもなれないらしいと悟り、暗い気分に襲われた。
『警視庁は、指定暴力団石黒組系九條組元組員、木島史郎容疑者二十五歳を、殺人の容疑で全国に指名手配しました』
空腹に耐え兼ね、たまたま入ったラーメン屋で、テレビからそんなアナウンサーの声が聞こえてきたとき、史郎は危うく口のなかの麺《めん》を吹き出してしまうところだった。
アナウンサーは史郎をこう表現していた。鹿沼勝利射殺事件の犯人を手引きし、それから路上で無意味に発砲したあと、同じ九條組組員荒木オサムさんを射殺、さらには鹿沼勝利殺害の現場で声をかけたIさん――池上茂のことだろう――を逆恨みしてIさん宅に侵入した凶悪犯である、と。そしてIさんの一家はその夜から行方不明になっており、家が荒らされた形跡があることから、木島容疑者と共に、なんらかの事件に巻きこまれた可能性がある、とも伝えていた。
テレビに映し出された史郎の写真は、運転免許証のものだった。この手の写真の常として、凶悪そうな面相に映っている。それに加えて元暴力団員という肩書きがついているのだから、見る人にそういう先入観を与える効果が倍増したはずだ。そのことに、史郎はかえって安心した。世間の人々は、史郎に対して、ちょっと気に入らないことがあるとすぐ拳銃《けんじゆう》をブッ放す、人を人とも思わぬ凶暴な男というイメージを抱いたに違いない。ところが実際の史郎はと言えば、そのイメージの対極にあるような外見をしているのだから、一般の人たちも、現物の史郎を見て、即座に指名手配犯の元ヤクザだとは思わないだろう。現にそのニュースを眺めていたラーメン屋の主人は、史郎を見ても、毛筋ほども表情を変えなかった。あれが演技だとしたら大したものだが、その後パトカーが付近にやってくるということもなかったから、あの主人は、目の前の客とブラウン管のなかの指名手配の殺人犯とが同一人物であるということに、まったく気づかなかったのだろう。
服は着替えている。池上宅が荒らされていたというのは、たぶん史郎が、茂の衣服を失敬したことを指しているのだろう。茂と史郎はほとんど体型が変わらないから、彼の服を拝借することにしたのだった。ただ、持ち去ったのは茂の服だけではないのだが――。
ぽつぽつと街灯がともっている、車が通ることもほとんどない一車線の道を歩き、住宅街のはずれに出る。完全に錆《さ》びてしまっている『こどもとびだし注意』と書かれた看板のところでカーブを曲がると、街灯にぼうっと照らされている古いアパートが見えてきた。道路脇に建っている二階建のアパートだ。一、二階にそれぞれ三部屋ずつ、合計六部屋あるアパートだが、明かりがともっているのは、一階の真んなかの部屋と右端の部屋、そして二階の左端の部屋だけだった。一階右端に入居者が増えたようだが、それでもやっぱり「お寒い」光景だと史郎は思う。ここには駐車スペースすらないのだから、現代人はあまり住みたがらないのだろう。一階の真んなかのドアのすぐそばに、やはり古い洗濯機が置かれているのだが、これは捨ててあるわけではない。部屋のなかに洗濯機パンが設置されていないのだ。
史郎は一階の隅にあるメールボックスを確認した。一階の真んなかの部屋に住んでいるのは神田《かんだ》まさあき。最近越してきたと思《おぼ》しき右端の部屋が榎本芳江《えのもとよしえ》。二階の左端が鈴木一郎《すずきいちろう》と花子《はなこ》の夫妻。
腰に差した二丁の拳銃を確認した史郎は、いったん深呼吸してから外階段に足をかけた。手すりをつかむ。手のひらにざらりとした感触を覚えた。この手すりのペンキは完全にはげ落ちており、錆びた鉄がむき出しになっていたことを思い出して、なにげなく手のひらに目をやった。生命線のところに赤錆がついている。そのため生命線が途中でぷつりと切れているように見えた。縁起でもないと思った。
鈴木夫妻の部屋のドアをノックする。だれだい? という年老いた女の声がした。
「あの……矢野のところの者です」
もしかしたら、石黒組のだれかがここに感づいて、すでに手を回しているかもしれない。そう思った史郎は、ドアに顔を寄せ、小声でそう言うと同時にドアから離れた。内側から狙撃《そげき》されることを恐れて、である。
やがてドアが開かれた。皺《しわ》深い老婆の顔が、ぬっとばかりに現れる。
史郎は緊張した。老婆の背後からヤクザが飛び出してくるのではないか、ヤクザがなかで待ち伏せしているのではないか、そう思ったのだ。
だが老婆はふだん通りの表情で、「あら、あんた」と言っただけだった。
史郎は軽く頭を下げた。「どうも……ご無沙汰《ぶさた》してます、ばっちゃん」
「入りな」
腰の拳銃に手を回したまま、老婆のあとに続いた。
1Kの狭い部屋である。トイレはあるが風呂《ふろ》はない。扇風機が回っている。家具らしきものはほとんど見当たらない。窓は開け放たれ、網戸の向こうでときおり風鈴が揺れている。その窓際では、いつものように、年老いた男が、この部屋に不似合いなベッドに横になり、テレビのナイター中継を眺めていた。
「じっちゃん、お元気ですか」
史郎が声をかけると、いかにも寝たきりの年寄りだといった表情でふせっていた老人が、ぴょこんと半身を起こした。「あんたか。ひさしぶりだな」
「どうも……」
「いやー、今年の残暑は厳しいねえ。きのうまではそうでもなかったが、きょうからまたぶり返してきやがった」
「矢野さんはまだムショのなかかい」
どっこいしょ、と畳の上に腰を下ろした老婆の声が、老人の言葉にかぶった。
「兄貴は、あと半月もすれば出てきます」
兄貴と呼ぶとき、少しためらいがあった。九條組との縁が切れたからではない。これから自分がやることを考えたからだ。自分は矢野を裏切ろうとしている。
「もうすぐだねえ。あんた、待ち遠しいだろう」
「ええ、まあ……」
「で?」
と老婆が史郎を見上げる。「取りにきたんだろ? 早いとこ、持っていきな」
それから老婆は、「ほら、あんた、だれかに見られたらどうすんの」と老人を小声で叱責《しつせき》した。
老人は窓とカーテンを閉めると、ベッドから降りた。そして史郎に笑顔を向ける。「悪いけど早くしてくれよ。暑くてかなわん」
史郎は、汗を吸って少し湿った掛け布団と剥《は》がしたシーツを老人に手渡し、薄手のマットレスを畳の上に立てかけた。マットレスの下には板が敷いてある。それを取り外す。板の下は箱になっていて、数日に一度は交換されるという大量の湿気取りや乾燥剤と一緒に、油紙に包まれた銃器と弾薬が並んでいた。すべて矢野のものである。
このあいだの会話からして、矢野は自分の銃器の隠し場所を九條にも教えていなかったと思われる。史郎には、矢野が自分たちのシマウチでなく、わざわざ鹿沼組のシマウチに隠し場所を作った理由がいままでわからなかったが、ひょっとしたら九條に勝手に使われることを恐れていたのではないか、という気がしてきた。
リヴォルヴァーは嵩張《かさば》るのでやめておくことにし、オートマティックの拳銃をいくつか取り出してみた。そのなかから、オサムから奪った銃と同じコルトM1911A1、そして中型の四五口径、ベレッタM8045の二丁を選んだ史郎は、遊底《スライド》の動きや、弾倉がスムーズに交換できるかどうか、引金が作動するか、照星が狂っていないかなどを、ごく簡単にチェックした。弾倉を交換している余裕がない場合を考え、なるべくたくさんの拳銃がほしいと思っていたが、よく考えれば全部で四丁が限度だろう。それ以上拳銃をぶら下げていたら、かえって邪魔になる。
交換用の弾倉は、一丁につきひとつずつあった。それを取り出し、次に弾丸を調べたところ、四五口径の弾丸は豊富にあったものの、357マグナム弾はなかった。それをあきらめるかわりに、四五口径の弾丸をありったけいただくことにする。
史郎は、オサムから奪ったコルトM1911A1の弾丸を補充し、それをベルトに挟み込んだ。残り二丁の拳銃は、パイソン357と一緒に、持っていたブリーフケースのなかに入れた。
ちょっと考えて、長物[#「長物」に傍点]も調べてみることにした。相手がサブ・マシンガンを持っている可能性もあるからだ。
何丁かあるライフル銃のうち、実戦でいちばん威力を発揮しそうな、コルト社製のM16A2を手にした。米陸軍レインジャー連隊が使用している自動小銃だ。交換用の弾倉はひとつ。銃弾はそのふたつの弾倉に詰められているものですべてだった。
さらにショットガンも一丁選んでみる。狩猟用としても人気が高く、アメリカのSWATが使用しているという、ベネリ社製のM3スーパー90である。散弾は二十四グラムの軽装弾しかなかった。それを箱ごと取り出した。
「ご大層な道具そろえて、どうしたんだい」
煙草をふかしながら、どういうわけか愉快でたまらないといった表情を浮かべて、老婆がたずねた。「殴り込みでもするのかい」
「まあ……そんなもんですね」
「娑婆《しやば》に出てきたときあんたがいなかったら、矢野さん、寂しがるんじゃないのかね」
半分本気、半分冗談といった感じで老人が言う。史郎は曖昧《あいまい》な笑みでごまかした。
「ちょっとすみません」
そう言って、押し入れを開けた。中央で区切られ、二段になっているその押し入れのなかに収納されているのは、炬燵《こたつ》と炬燵布団、そして老婆の布団くらいで、がらんとしている。ただ、ゴルフバッグがふたつ置かれている。矢野が置いたものだ。
「あの、古新聞かなにか、ありませんか」
「台所にごっそりあるよ」
「いただいてよろしいですか」
「好きにしな」
史郎はゴルフバッグのひとつを手に取ると、古新聞を中敷きにしてから、M16とM3、そして油紙で包んだ拳銃やライフルの弾倉や予備弾丸を、ていねいに仕舞い込んだ。その隙間隙間に古新聞を詰め込む。次いで銃器と一緒に置かれていた湿気取りや乾燥剤もいくつか入れる。銃にとって湿気は大敵なのだ。パーツがすぐに錆《さ》びつき、機能しなくなってしまう。
「……じゃ、いろいろありがとうございました」
ゴルフバッグを背負った史郎は、薄っぺらな札入れから一万円札を二枚出して、老人と老婆に一枚ずつ差し出した。最後の金である。
「ばっちゃん、これ、煙草代にでもしてください」
「すまんねえ」
老婆が、卒業証書を受け取る卒業生みたいに、両手で拝むようにして万札を受け取った。
「じっちゃん、これでなにか食べてください」
老人は、右手を「よっ」というように挙げ、笑いながら「サンキュー、サンキュー」と繰り返した。
いつもは立ち上がる史郎に「じゃ」というだけで終わりなのだが、史郎が殴り込みをすると言ったせいか、ふたりは玄関まで見送ってくれた。
ドアを開けてから、史郎は振り返った。「お元気で」
「あんたもな」
「達者でな。死ぬなよ」
「……はい」
史郎は気をつけの姿勢を取って、頭を四十五度下げた。そんな堅苦しいあいさつはやめろと、ふたりが笑った。
もうあのふたりに会うことはないだろう。アパートをあとにした史郎は、歩きながらそう思った。
彼らは夫婦ではない。赤の他人だ。ふたりをどこかから連れてきた矢野が、自分の銃の見張り番として、一緒に住まわせているのである。矢野の話では、ふたりともホームレスなのだそうだ。働ける工事現場を求めて全国を流していたものの、高齢のため使ってくれるところがなくなり、あげくの果てに体を壊してしまった元日雇い人夫と、やはり高齢になって客が寄りつかなくなった、身寄りのない元|街娼《がいしよう》だと、矢野は話していた。
〈あの婆さん、六十すぎても現役だったらしいぜ。日雇いのおじさんに、このままじゃ飢え死にするから、頼むからあたしを買っとくれ、とか頼んでたんだとさ。一発千円だったそうだぜ〉
それを聞いたとき、自分の感情をどう言葉にしてよいかわからず、なんか、なあ……ともらしていた。
そして矢野が、ホームレスとして生活していたふたりに声をかけ、夫婦のふりをしてあのアパートで暮らし、矢野の銃器の見張り番をしてくれるよう頼んだということだった。
倒壊寸前のようなアパートのことだから、大家も住民票を調べたりはしなかったらしい。借りてくれる人間がいるだけでも儲《もう》けものと思ったのだろう。一応名義はあのふたりになっており――とはいえ鈴木一郎と鈴木花子というのは、矢野がでっちあげた偽名である――家賃はこれまた矢野が作ったあのふたりの銀行口座から引き落とされているが、その鈴木一郎名義の口座には、矢野が偽名を使って毎月三十万円を振り込んでいる。湿気取りや乾燥剤を購入したぶんは、必要経費として、それに上乗せされることになっている。矢野が逮捕されて以降は、矢野リースの売上のなかから史郎が振り込んでいた。そうするよう矢野に言われていたからだ。
街灯の下で立ち止まった史郎は、シャツの胸ポケットから一枚のスナップ写真を取り出した。リヴィングに飾られていた、範子、茂、鈴音が映っている家族写真である。
それを胸に当てて黙祷《もくとう》したあと、ポケットに仕舞った。
続いてウサギのブローチを取り出し、眺めた。
ももこのいない世のなかに生きていてもしょうがない。だから、これから九條の別荘に殴り込みをかけてやる。その場にいた奴はみんな殺す。おまえの、そして池上先生とおばちゃんと鈴音ちゃんの仇《かたき》は、パパが討ってやるからな。
「……ももこ、見てろよ」
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『最近様子がおかしい』
布団に入ろうとしたとき昭久が突きつけたノートには、そんな文字が大きく書かれていた。
「なんでもないわよ。気のせいだよ」
明日美は動揺を隠し、笑いながらそう言ったが、その笑顔が自然なものになっていたかどうかには、あまり自信がなかった。ひょっとしたら、引きつった笑みになっていたかもしれない。
昭久がペンを走らせる。『なにか隠してないか』
「してないって」
『嘘をつくときの顔はすぐわかる』
「嘘なんかついてないってば!」
つい、声を荒げてしまった。
昭久が驚いたような顔をしている。
明日美は気を取り直して、
「いま疲れてるんだよ。新しい人入って、その人が十二時間働いてくれることになったのはいいんだけど、慣れてないからミスが多くて、その埋め合わせさせられたりするからさ、最近」
槇の予想通り、江田が辞めた翌日、菜穂子も辞めてしまった。明日美は正直泡を食ったが、桂たちの協力で一日を乗り切り、翌日には新しい社員が入った。常石《つねいし》という人のよさそうな五十男で、やはりリストラされた元サラリーマンなのだそうだ。さっそく桂たちは、あの人も夜逃げしてきた人じゃないのとか、なにかの事件で指名手配されている人じゃないのとか、好き勝手なことを言いはじめている。
「あたし、寝るね」
昭久に背を向ける格好で横になり、タオルケットを体にかけた。肩を揺さぶられる。その手を払いのけた。また揺すられる。カッとした。体を反転させ、昭久を睨《にら》みつけた。
「うるさいな! あたし疲れてるんだよ!? あんたみたいに一日中ぼーっとしてるわけじゃないんだからね!」
自分でも思いがけない言葉が口をついて出た。
目を見開いた昭久の顔色が赤くなり、青くなり、やがて白くなった。そのまま彼は、静かに明日美に背を向けた。
その背をじっと見ていた明日美もまた、ゆっくりと寝返りを打った。どうしてごめんのひとことが出ないのか、明日美自身にもわからなかった。
計画は進んでいた。深夜〇時をすぎると、毎晩のように渚としのぶがホテル・サンライズにやってくる。それから明かりを落としたフロント脇の和室で、ひそひそと三人で計画を練る日々が続いていた。
〈この娘《こ》な、あのときやっぱり、銀行強盗の下見にきとったんやて。わたしのカン、よう当たるやろ?〉
はじめてふたりでホテル・サンライズに顔を見せたとき、しのぶは自慢げにそう言って渚を見た。
渚が肩からやたらと大きなバッグを下げていたのも、本番のときとできるだけ近い状態に自分を置いておきたかったからだという。ひっきりなしに腕時計を見ていたのは、犯行は閉店間際の二時五十五分に決行するつもりだったかららしい。カウンターのそばに行って、立ち止まったかと思うと四方八方をゆっくりと見回し、少し動いてまた周囲を眺める、という行為も、銀行強盗を想定してのものだったということだし、カウンターの端に体を寄せたときは、頭のなかで、全員動くな、金を出せ、手許《てもと》の金をこのバッグに入れろ、と絶叫していたのだそうだ。
そのとき行員から、なにかお困りのことでも? と声をかけられた。いえ、だいじょうぶです。そう答えてから、防犯カメラの位置を確認したらしい。それで渚は、あのとき天井を眺めていたわけだ。
そして渚は頭のなかで、これから調べなければいけないことを整理していたのだそうだ。非常通報ボタンはどこにあるのか。だれがどうやって押すのか。平日の午後二時五十五分にそれが押された場合、警察が銀行に駆けつけるまでどのくらいの時間がかかるのか――。
考えていた逃走経路は、こういうものだったという。車を二台用意し、銀行そばに乗りつけた一台で逃走するも、その距離は約五百メートル。中継地点を銀行のすぐそばに設けておくのがミソだと渚は言っていた。警察が非常線を張り、マークするのは自動車にかぎられている。ならば目撃されることの多い一台目の車での移動距離はなるべく短くする。二台目の車に乗り換えてからの移動距離も、あまり長くないほうがよい。二台目を乗り捨ててからは電車で逃走する。各駅や電車にまで非常線は及ばないからだ。ちなみに奪った金は、駅のコインロッカーに保管しておくつもりだったらしい。
ところが、下見をしている最中にあんな事件が起きた。もうあの銀行はだめですね、というのが渚の弁であった。
〈あの強盗はなんで失敗したのか、わかりますか〉
渚が言った。首を振ると、
〈まず、人間が多すぎたんですよ。人間というのは、人質のことです。行員と客を合わせたらかなりの数だったでしょう? あれだけの数の人間を完全に制圧するのは、ひとりじゃ不可能ですよ。可能だとしたら、そうですね、いきなり何人かの客か行員を射殺した場合ですね。そうしたら、恐怖のあまりみんな言いなりになりますよ。かえって協力してくれるかもしれない〉
梅川《うめかわ》さんやないんやからと言って笑うしのぶに、なんですかそれ、と渚が聞いた。最後は警官隊に射殺された梅川|昭美《あきよし》の三菱銀行立てこもり事件のことを、彼女は知らなかったのだ。明日美は驚いたが、よく考えてみれば、あの事件が発生したのは一九七九年である。明日美にしてみれば、一九七九年なんてついこのあいだのように思えるけれど、もしかすると、渚はまだ生まれていなかったかもしれない。
〈よくそんな大昔のこと覚えてますね〉
いささか感心したように、渚が言った。
〈この人、犯罪オタクなのよ〉
明日美の言葉に、しのぶが〈オタクって言うな〉とアヒル口を尖《とが》らせた。
しのぶがその事件について説明すると、渚はうなずいて、
〈そのときも、やっぱりすぐ警察がやってきて、籠城《ろうじよう》事件になっちゃったわけでしょう? 実際、行員や客をうまく制圧できたとしても、一分後には銀行から逃走していないと、警察がきてしまうんですよ。そしたら、立てこもるしかなくなってしまうでしょう? そんなことになったら、もうあきらめるしかないですよ。このあいだは派出所のお巡りさんがきて、そのあとパトカーがたくさんきましたよね。あれ、二分かからなかったんですよ。お巡りさんがきたとき、時計見ましたもん〉
あんな状況下にあって、この女はそんなことを考えていたのか。明日美は怖いような感心するような、変な感じを受けた。
〈つまり、完全に銀行の情報手段を絶ってしまわないかぎり、どんなに長くかかっても、ガンを向けて一分後には、銀行を出ていなければならないんですよ。それでも成功させようとしたら、仲間が最低でもふたり必要だと思ったんです〉
ひとりでは無理だ、仲間がほしい――そう思っていたときしのぶから電話がかかってきたのだと、渚は言っていた。
〈でも、銀行強盗はやめることにしました〉
どうして? と聞くと、
〈先越されたわけでしょう、あのマスクマンに。同じことやってもつまんないじゃないですか〉
よくわからなかった。
〈それに現実問題としてですね……たとえば三人で銀行に踏み込んだとします。ひとりは客に、もうひとりは行員にガンを向ける。残ったひとりが、カウンターのなかのお金を手当たり次第にバッグに詰め込む。だけど、そんな短時間で、どれだけのお金が奪えると思います?〉
たしかに、たいした額ではなさそうだ。
じゃあほかになにかないかな、やっぱり現金輸送車を襲うのがいいんじゃない、などとしのぶが言っていたとき、閃《ひらめ》いたことがあった。それをそのまま口にした。
〈うちの社長、街金もやってるけど〉
これまた驚いたことに、渚は街金とはなにか、知らなかった。
〈今週、あたしが売上持って行くんだよね、社長のところに〉
渚が身を乗り出した。〈その社長さんのところって、どんなところですか〉
〈雑居ビルの一室。小さな事務所だよ。従業員も、女の事務員兼秘書がひとりいるだけ〉
〈ほかには?〉
〈やっぱり社長がやってるレストランの店長がいたりする。やっぱりお金持ってくるんだけど。あと、社長のボディ・ガードみたいなのがいるときもあるな〉
〈何人くらい?〉
〈だいたいふたりくらい、かな〉
〈ふたりやったら楽勝やん!〉
しのぶが手を叩《たた》いて言った。明日美は立てた人差し指を唇に当て、シーッ、と注意した。
しのぶは声を落として、〈レストランの店長と社長、それと事務員合わせても、五人しかいーひんやん。銀行と違《ちご》うて、五人やったら言うこと聞かせられるよ〉
渚が口を挟んだ。〈もしそのボディ・ガードが、元刑事とか、元ヤクザとかだったりしたら、オモチャのガン向けても無駄だと思いますけど。すぐオモチャだって気づかれますよ〉
〈そういえばさ〉
と、明日美はたずねた。〈銀行強盗のときにさ、渚さん、犯人が持ってるピストル、あれ、オモチャだって言ったじゃない。どうしてわかったの?〉
〈銃身内部のフィニッシュと、フレームとスライドのコーティングが、本物にしてはおかしかったんですよ。あと、刻印です。ガンは、銃身に刻印が彫られているものなんです。モデル名、製造メーカー名、製造番号なんかが。あのときマスクマンが持っていたのは|S&W《スミス・アンド・ウエツソン》のM5906っていうガンだったんですけど、ガン向けられたときと、明日美さんのところにゆくとき、二回確認したんです。小さく、日本のガスガンメーカーの社名とメイド・イン・ジャパンって文字が彫ってあるのが見えました。改造銃かもしれないとは思ったんですけど、モデルガンならともかく、ガスガンを改造したガンなんて使い物になりませんしね〉
そんな一瞬でよく刻印を読み取れたね、と感嘆しながら言ったとき、渚は不思議そうな表情を浮かべた。どうして明日美が驚くのか理解できない、といったふうだった。
それはともかく、と渚は続けた。
〈お金の集金日に事務所を襲ったら、内部事情に詳しい人間の手引きだって疑われると思います。明日美さんが真っ先に疑われるから、やっぱりその計画は割に合いませんよ〉
〈あのさ……〉
と、明日美は言った。〈最近、突然このホテルを辞めた人間がふたりいるんだよね。男と女で、男のほうは借金踏み倒して逃げてるんだって。それにね、そのふたり、デキてるんじゃないかって噂してる人もいるわけ。それ、利用できないかな〉
しのぶが首を傾げた。〈利用って?〉
〈男のほうはね、ずっと社長のところにお金運ぶ仕事してたんだ〉
渚が小さくうなずいた。〈つまり、借金に追われている男は、内部事情に詳しいわけですね?〉
社長の秋月のところに金を運ぶ仕事をしていた江田は、社長の金庫にはけっこうな額の現金が常時用意されていることを知った。そこで愛人の関口菜穂子と共謀、それを奪う計画を立てた。江田が退社すれば、現金運搬の係は、当分明日美がやることになる。江田も菜穂子もそれを計算に入れていた。借金取りのヤクザの手が自分の身辺に伸びていることを察知した江田はひと足早く退職、続いて菜穂子も仕事を辞め、ふたりで身を隠し、明日美が現金を運んでくるときを狙って襲撃した――と周囲に思わせることはできないか。明日美はそう考えたのだ。
あ、でもだめだ……と明日美は思った。江田は男である。しのぶと渚に江田役を演じるのは不可能だ。そう言うと、
〈その江田って人、社長さんたちとは顔見知りなんでしょう? そんな場所にのこのこ現れる間抜けな強盗なんていませんよ。だから、江田って人に手引きされた女ふたりってことにはできませんかね〉
ちょっと考えてみる――明日美はそう答えた。
猫の声で目が覚めた。枕元に置いてある目覚まし時計を見ると、針は午後七時を差していた。明かりはついていなかったが、ほとんど聞こえないほど音量を絞ったテレビがつけられていた。昭久は起きていて、うつぶせの姿勢で、茶色い毛並みの子猫と遊んでいた。デンスケだ。
「……デンスケ、きてたの?」
明日美の問いに、昭久が緩慢な動作で振り返った。力ない微笑を浮かべ、小さくうなずく。昼間の明日美の言葉を気にしているのかもしれない。
「かーわいいねえ」
昭久の肩に手を回し、彼の背に頬を載せてからそう言った。どうしても、昼間はごめんね、と言えなかった。
昭久にもたれたまま、デンスケの前に手を伸ばし、ピアノを弾くような感じで指をぱたぱたと上下させた。やたらと真剣な目で指の動きを追っていたデンスケが、前足を挙げ、明日美の指を捕まえようとする。捕まりそうになっては躱《かわ》し、躱してはまた指をぱたぱたさせるということを繰り返した。
「デンスケ、ミルクあげようか」
言葉がわかるのか、デンスケが、あーん、と鳴いた。
デンスケにミルクをやってから、まず自分の洗顔と歯磨を済ませ、続いて昭久を車椅子に乗せて洗面所に向かった。それから朝食――一般的には夕食だが――の準備をする。その間デンスケは、冷蔵庫の前にちょこんと座っていた。俺にもなにか食わせろ、という意思表示だ。スライスチーズがあったので、指でちぎってやると、おいしそうに食べた。一枚食べ終えたデンスケは、前足と後ろ足を交互に伸ばしてから部屋に戻り、テレビの上にひょいと飛び乗って丸くなった。デンスケのわが家における定位置である。おかげで最近テレビの上は猫の毛だらけで、掃除が大変になってしまった。
出勤の準備をしていたら、雨の音が聞こえてきた。思わず溜《た》め息をついてしまう。駅まで自転車で行けない。歩きだ。濡《ぬ》れるし、疲れるし、汗をかいてしまうし、いつもより早く家を出なければならない。ちょっと憂鬱《ゆううつ》な気分になった。雨合羽を着れば自転車でも行けるけれども、あれは視界が悪くなるし蒸し暑いので、徒歩出勤以上に嫌いだった。
準備を済ませ、早目に家を出た。玄関までデンスケが見送りにきてくれた。
傘をさして川沿いの遊歩道を歩く。
このあたりは夜の七時をすぎれば静まり返る田舎だから、九時近くともなると人っ子ひとり見当たらない。聞こえてくるのも川の流れる音と雨の音だけで、ゴーストタウンみたいだ。それでもときおり遊歩道沿いの家からテレビの音や音楽や会話などがもれてくるので、ちょっと安心する。
突然シャーッという音が近づいてきた。驚いた。痙攣《けいれん》するように体を震わせ、立ち止まってしまったが、音はそのまま明日美の横を通りすぎ、明日美からすれば前方に向けて去っていった。なんのことはない、自転車だ。たかが自転車のタイヤが濡れた路面を走る音で仰天した自分が恥ずかしくなった。あの自転車の主は、自分のことをかなりの怖がりと思ったのではないだろうか。自意識過剰、と思ったかもしれない。
ああもう、早くいこう――明日美は足を早めた。
もうすぐ橋に出るというとき、前方からこちらに向かって歩いてくる男の姿が目に入った。今度は歩調が乱れることもなく、ちょっと胸がどきりとした程度で済んだ。
ちら、と男に目をやった。男は傘もささず、全身びしょ濡れになっている。なにか大きなものをかついでいる。そのせいか、歩き方が妙にぎくしゃくしている。小学校の運動会の行進の際、右手と右足を同時に出していた同級生がいたが、なんとなくその子を連想してしまった。
さっきの恥ずかしさを思い出し、すれ違うときも、平静さを装うよう努めた。
すると、いきなり男が踊り出した。男にそんなつもりはなかったのかもしれないが、明日美にはそう見えた。
なに、この人――驚いて男に顔を向けた明日美は、いきなり突きつけられた非日常的な物体に目を奪われた。
拳銃《けんじゆう》。
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14
史郎は走っていた。降りしきる雨のなか、全力で走っていた。どうして俺はこうなんだ、いつもいつもこうなんだ。そう思いながら、息を切らせ、ときどき後ろを振り返りながら走っていた――。
九條の別荘に乗り込むには車がいる。だから、まずは簡単に盗めそうな車を探そう。そう思って歩き出したものの、適当な車はなかなか見つからなかった。
そのうち、こんな不安が頭をよぎるようになった。夜の住宅街を、帽子をかぶってゴルフバッグをかつぎ、周囲をきょろきょろうかがいながら歩いていたら、不審に思った住人が警察に通報するのではないだろうか。あるいは、九條組の組員に見つかってしまうのではないだろうか。
そう考えた途端、一気に冷静さを失った。焦りのあまり、手近な家の駐車場に忍び込んで車のサイドウィンドーを叩《たた》き割り、強奪しようとした。だが、目をつけた家の駐車場にこっそりと歩み寄ったところ、大きな犬に吠《ほ》えられ、不覚にも悲鳴を上げてしまった。小さいとき犬に噛《か》みつかれてからというもの、史郎はたとえ子犬でも、その姿を見た瞬間すくみあがってしまうのだ。
玄関に明かりがともったので、あたふたとその場から逃げ出した。
駆け出してすぐ、かぶっていた帽子が飛んでしまった。しかし犬の飼い主が追いかけてきているかもしれないと思うと拾いに戻ることができず、そのまま走り続けた。
やがて雨が降ってきた。傘は持っていない。なんだか、ひどく惨めな気分に襲われた。さっきまでの、九條たちを皆殺しにしてやる! という気力が萎《な》えかけている。これではいけない、と首を振った。
ずぶ濡れになって住宅街をとぼとぼ歩いていたら、不意に視野に飛び込んできたものがあった。闇に浮かび、濡れた路上に長々と尾を引いているテールランプだった。車のエンジン音も聞こえた。一台の小型車がエンジンをかけっぱなしにしたまま停まっているのだ。
雨に濡れた顔を手のひらで拭《ぬぐ》い、目をこらした。車内では、ふたつの人影が抱擁しているように見えた。男が恋人を家まで送ってきて、別れを惜しんでいる、といったところか。
やっとツキが回ってきた。
後ろから忍び寄り、サイドウィンドーをノックする。抱擁していたふたりの若い男女が驚愕《きようがく》の表情でこちらを見る。銃口を向け、車から降りろと命じる。両手を挙げ、おびえながらふたりが下車する。そのまま動くなよ、と念を押してから車に乗り込む……よし、これでいこう。思わずガッツポーズを取りそうになった。
こっそりと助手席のサイドウィンドーに忍び寄った史郎は、こんこん、とそれをノックした。唇を重ねていた、大学生くらいに見える男女が、驚いたように顔を上げた。
〈降りろ〉
コルトM1911A1をベルトから抜いて、低く言った。〈早くしろ〉
すると予想外のことが起こった。女が、耳をふさぎたくなるようなけたたましい悲鳴を張り上げたのだ。
さらに、男が〈なんだあ、てめえ!〉と、これまた大きな声を上げて車から出てきた。女は、〈痴漢! 変態! だれか!〉と叫び続けていた。
〈し、静かに、ちょっと、ふたりとも静かに……〉
〈ふざけたこと言ってんじゃねーよ!〉
男がつかみかかろうとした。
〈く、くるな!〉
恐怖を覚え、思わず銃口を向けていた。
男が失笑した。〈なんだそりゃあ? いま流行《はや》ってんのか? そのオモチャ〉
〈ほ、ほ、本物だぞ!〉
〈知ったこっちゃねーよ! 撃ってみろよ、この馬面ァ!〉
殴り飛ばされた。
電柱に体をぶつけた史郎は、反射的に銃を構え、引金にかけた指に力を込めていた。
が、作動しない。
〈あ、あれ……あれ?〉
史郎は何度も引金を絞ろうとしたが、銃はウンともスンとも言わなかった。
〈遊んでんじゃねーよ!〉
胸倉をつかまれ、また殴られた。
周囲が騒然としてきた。近所の人たちが、この騒ぎを聞きつけてわらわらと外へ出てきたのだ。
あわてふためいた史郎は、男の隙をついて逃げ出した――。
どのくらい走ったのか見当もつかない。もうだれも追ってこないようだ。
ここがどこなのかわからないが、とにかく小さな橋の歩道の上で立ち止まり、史郎は懸命に呼吸を整えた。
さっき拳銃が作動しなかったのはなぜだろう。雨で濡れたせいか。それとも整備不良か――史郎は息を切らせながら、手にしたままのコルトM1911A1に目をやった。途端に腹の底から笑いがもれた。セーフティがロックされたままだったのだ。
その場にへたりこんだ。
「……腹減った」
そういえば、ゆうべからなにも食べていない。喉《のど》も渇いた。
なにか食べよう。雨宿りもしたいし――そう思って財布を出した。空っぽだった。さっきあのふたりに残りの二万円を全部渡したことを忘れていた。
「……失敗したあ。カッコつけないで、一万円残しとくんだった……」
立ち上がった史郎は、目を閉じると、首を曲げて空に顔を向け、口を開いた。雨で、喉を潤そうと思ったのだ。
だが思ったように口のなかに雨が入ってくれない。限界まで口を開き、舌まで突き出して、雨を求めて前後左右に体を揺らした。無駄な努力だった。顎《あご》と舌が痛くなってきた。
「なんか、なあ……」
そう呟《つぶや》いて、橋から川を見下ろした。川沿いの遊歩道の街灯が水面に落ちており、川の流れにしたがって、その光が揺れ続けている。ふとここから飛び降りようかという思いが脳裏をよぎったが、水面から橋まで、せいぜい数メートルの高さしかない。こんなところから飛び降りたところで、せいぜい足首を捻挫《ねんざ》するくらいで終わりだ。ただ、水だけはたらふく飲めるだろう。あとで腹を壊すだろうが。
嘆息をついてうつむきかけた史郎は、視野の隅に動くものを感じて、そちらに目を向けた。川沿いの遊歩道を、女物の傘をさした人物が歩いている。こちらに向かってくるようだ。
あの女から金を奪おう、咄嗟《とつさ》にそう思った。とにかく今夜の食事代と宿代だけでも手に入れよう。あの女に近づき、銃を向ける。いや、それではさっきの二の舞になる。すれ違いざま抱きすくめるようにして手で口をふさぎ、銃を向ける。これでいい。そして低い声で脅す。声を出すな。金を出せ。顔を見られたって構いやしない。むしろ、指名手配されている凶悪犯だと思われたほうがやりやすい。
史郎は、さっきのコルトM1911A1を引き抜くと、面を伏せ、遊歩道に向かって歩き出した。近づく前に顔を見られ、指名手配の男だと感づかれる可能性もあるからだ。
女がちらりとこちらを見たような気がした。まあ仕方ない。こんな雨のなか、傘もささず、ゴルフバッグを背負って歩いている男がいたら、だれだって妙に思うだろう。注意すべきことは、あの女に必要以上に警戒心を起こさせないことだ。
そこまで考えて、史郎は悩んだ。警戒心を起こさせずに歩くって、どうすりゃいいんだ? 自然に歩く? 自然に歩くって、どう歩けばいいのだろう。いつも通り、ふつうに歩けばいいということか? でも俺は、ふだん、どうやって歩いているのだろう。手の振り方はどうしているのか。歩幅はどのくらいなのか。顔や背中の角度は、姿勢は……いちいちそんなことを意識して歩いているわけではないからわからない。
そうこう考えているうちに、女がすぐそばまでやってきた。呼吸を整える。もうすぐだ。カウントダウン、スリー、トゥー、ワン……
史郎は女に飛びかかった。だが、イメージ通りにはいかなかった。地面を蹴《け》った足が雨でずるりと滑ってしまい、たたらを踏んで女にすがりつくような姿勢になってしまったのだ。
女は仰天したように史郎を見ている。突然のことに驚いて声も出ないらしい。
史郎は女に、あたふたと銃口を向けた。
「声を出せ」
言ってしまってから、ますますあわてた。声を出すな、金を出せ、と言うつもりだったのに、ふたつの言葉がごちゃ混ぜになってしまった。
女が、きょとんとした表情を向けた。
「ち、ち、違う、金だ、金出せ、金、早く……」
「矢野リースの人?」
「あ、はい」
習慣とは恐ろしいものだ。こんな状況だというのに、反射的にそう答えてしまった。それとも、ただ単に自分が間抜けなだけなのだろうか。
「そのピストル、本物?」
一生懸命|凄《すご》んでみせた。「ほ、本物本物、本物だぞ、だから金……」
女は少し考えるような素振りを見せてから、こう言った。
「追われてるんでしょう? 匿《かくま》ってあげる」
今度は史郎がぽかんとする番だった。
「あんた、携帯持ってる?」
「あ、はい……」
小脇に抱えた、不格好に膨れているブリーフケースから、電源を切ったままにしてある携帯電話を取り出した。
「貸して」
「あ、はい……」
「これ、どうやってかけるの?」
そのときになって、ようやく相手がだれなのか気づいた。三宮。ホテル・サンライズのフロント係だった。
ホテル・サンライズには数え切れないほど足を運んだが、部屋のなかに入るのははじめてだった。わりとシンプルな造りで、ちょっと小洒落《こじやれ》たビジネスホテル、といった雰囲気だった。部屋の隅に籐《とう》椅子のセットがあり、テーブルの上にノートが一冊置いてあった。
「なんや、色気のない部屋やなあ」
一緒に部屋に入った葉山しのぶという顎のしゃくれた女が、ベッドに腰かけ、テレビをつけながらそう言った。「回転ベッドとか鏡張りの天井とか、ないんか」
「あの……回転ベッドって、なんですか」
史郎がたずねると、しのぶはセーラム・ライトに火をつけながら、「名前聞けばわかるやろ。ベッドが回転するんやないの」
「え、こんなふうにですか」
驚いて右腕をぐるぐる回すと、
「それじゃあ安全ベルト付けとかなあかんやないの。遊園地やないんやから。なんて言うかな、ほら、もうなくなったけど、ホテル・ニューオータニの展望レストラン、あないな感じ」
なんとなく理解できた。
「そっかあ、お兄ちゃんくらいの年になると、もう回転ベッドも知らんのやなあ」
両手を頭の後ろに組んだしのぶが、そのままベッドに倒れ込んだとき、ドアがノックされた。史郎は飛び上がって驚き、腰に差した拳銃《けんじゆう》に手を伸ばしたが、手が震えていてなかなか銃把をつかめない。
「隠れとき」
低く言って、しのぶがドアに歩み寄る。史郎はあたふたと窓際に走り、カーテンの陰に身をひそめた。
目を閉じ、身を固くして震えていたら、「木島くん、もうええよ」というしのぶの声が聞こえた。こっそりカーテンの隙間から顔を出すと、しのぶがカップラーメンの包装を破いているところだった。
「明日美さんから差し入れ。あんたにって」
胸を撫《な》で下ろした。
お湯を入れて待ち、できあがったラーメンを夢中になって食べた。が、食べているときはなんともなかったのに、食べ終わって、しのぶに恵んでもらった煙草に火をつけしばらくすると、気持ち悪くなってきた。空っぽの胃に油っこいものを急速に詰め込んだせいかもしれない。
「あんた、一服し終わったら、シャワー浴びてき」
「シャ、シャワーですか」
しのぶが顔をしかめて史郎を見た。「アホ。なに期待しとんの。あんた体びしょびしょやし、言うたら悪いけど、臭いんよ」
そういえば、事件のあと一度も入浴していないのだった。
浴室は、洗面所に面した入り口も壁もガラス張りになっていた。
「なんか、なあ……」
まあいいか、と開き直り、服を脱いで浴室に入った。腰に差しておいたコルトM1911A1は、パンツの下に隠しておいた。
シャンプーを洗い落としていた史郎は、視線を感じて洗面所のほうに顔を向けた。しのぶが腕組みをして立っていた。
「な、なんですか!」
思わず股間《こかん》を手で隠した。
「ちょっとあんた」
ガラリと戸を開け、しのぶが声をかける。「ブリーフケースのなかの鉄砲、あれ、弾丸《たま》入っとるん?」
「さ、触っちゃだめですよ! 素人は危ないから!」
「触るくらいええやん。引金引かんかったらええのやろ」
「だめですってば」
「ケチ」
しのぶは不貞腐《ふてくさ》れたようにして踵《きびす》を返したが、すぐに振り返り、言った。
「あんた、ほんまに極道なん? 刺青《いれずみ》も入れてへんし、痩《や》せっぽちやし頼りないし、全然そう見えんけど」
「……関西のヤクザと関東のヤクザは違いますよ」
関東のヤクザのなかでも自分はきわだって異質なのだが。
しのぶはまた腕組みをして、ふうん、と嘲笑《ちようしよう》するように言うと、「あんた、ちんちんも頼りないなあ」と、よけいなひとことを付け加えた。
史郎の携帯電話を使って、三宮明日美――これが三宮のフルネームらしい――が呼び出したのが、この葉山しのぶだった。明日美が電話に向かって、いま指名手配されているヤクザと一緒にいるんだけど、と言ったときには正直焦った。続いて明日美が発した言葉は、史郎をさらに混乱させた。
〈本物のピストル持ってるんだよ。だから、仲間に入れようと思う〉
明日美はしのぶに、アベックのふりをして史郎と一緒にホテル・サンライズに入ってくれと頼んでいた。いまいる場所を伝えて電話を切った明日美は、あたしは先に行くけど、しばらくしたら女がひとり、車で迎えにくるから、それまでこのあたりに隠れてて、と言った。
〈その葉山って人、どんな人ですか〉
そうたずねると、明日美は底意地の悪そうな笑みを浮かべて、こう言った。
〈コラーゲンと塩水だらけの中年女〉
その中年女の史郎に対する第一声が、これだった。
〈なんやのあんた、びしょ濡れで! シートが濡れてまうやないの!〉
それからふたりでホテル・サンライズに入った。声からして、フロントにいるのは明日美のようだった。
部屋に向かう途中、客室係のパートタイマーとすれ違った。明日美の話では、事件の翌日、九條組の人間――金髪で、綺麗《きれい》に日焼けしていたというから、堺のことだろう――がここをたずねてきたそうだ。そして、矢野リースの木島史郎を見かけたら連絡もらえませんか、と言ったらしい。それからすぐ、所轄の水戸と警視庁の隅田というふたりの刑事までやってきて、レンタルおしぼりでこのホテルに出入りしていた木島史郎という男は、実は暴力団員で、現在殺人容疑で指名手配されている、見かけたら警察に連絡を入れるようにと、史郎の写真を置いていったという。つまりこのパートタイマーも史郎の顔を知っているということになる。一応しのぶが持参した帽子とサングラスをつけているとはいえ、安心できるものではない。史郎は面を伏せ、長身のしのぶに隠れるようにしてパートタイマーをやりすごしたが、相手がほんとうに気づかなかったかどうかはわからない――。
バスタオルで体を拭《ふ》いていたら、またしのぶが入ってきた。反射的にタオルを股間に当てた。
「服、下着までびしょ濡れやろ」
「はあ……」
「浴衣《ゆかた》が置いてあったわ。これ、着とき」
「ど、どうも……」
浴衣を身につけて部屋に戻ると、しのぶが缶ビールを差し出した。冷蔵庫に入っていたのだそうだ。それを飲んだ。大袈裟《おおげさ》でなく、ほんとうに生き返るような気持ちだった。
「すみません……いずれ、金は返しますので……」
「当たり前やろ。ホテル代も、あとできっちり払ってもらうで」
「あの……」
ビールを飲み干し、ひと息ついてから、聞いた。「自分を……俺を仲間に入れるって、どういう意味ですか」
たしか関西のほうでは、会話で「自分は」という場合、「あなたは」という意味で使われることが多いのではなかったか。ならば「自分」と呼称するのは相手を混乱させるのではないか。そう思って言い直した。
「なんや、明日美さんに聞いとらんかったん?」
「ええ、まあ……」
「要するに」
と、しのぶは部屋の隅にある籐椅子に腰を下ろし、煙草に火をつけてから、淡々とした調子で続けた。「わたしら、強盗するねん。そやから、あんたの鉄砲ほしいねん。鉄砲四丁あるんやろ? わたしら、あんたも含めて四人やから、ひとり一丁ずつでちょうどええやろ」
「ちょうどええやろって……ちょっと待ってくださいよ、自分、いや、俺にもタタキやらせるつもりですか」
「あんた、ぎょうさん人殺して指名手配されとんのやろ。ヤクザにも追われとる、いうやないの。逃走資金、ほしいんと違うの?」
「俺が殺したのはひとりだけだ!」
茂、範子、鈴音、そしてももこの顔が目に浮かび、思わず怒鳴ってしまった。
「そないなこと、大きい声で言うもんやないよ」
眉《まゆ》をひそめたしのぶに叱責《しつせき》された。
「……すみません」
「まあ、あんたが殺したんがひとりやろうがぎょうさんやろうが、はっきり言わせてもらえばどうでもええねん。ただ、あんたもお金ほしいやろ? 一文なしで、これからどうするつもりなの」
「……逃げるつもりはさらさらないですよ」
しのぶが笑った。失笑としか聞こえない笑いだった。「カッコええなあ、兄ちゃん」
「茶化さないでください」
「はいはい……ま、とにかくあんた、明日美さんとわたしに借りができたやろ。それはきっちり返してもらわんと。あんたもヤクザやってんねんから、そういうことにはうるさいんと違うの?」
史郎はベッドの端に腰かけ、しばらく考えてみた。
「……強盗って、どこ襲うんですか。銀行とかだったら、俺……」
「街金。このホテルの社長んとこや」
「自分……俺の取り分は?」
「四人やから四等分」
九條組襲撃の準備金くらいにはなるかと思った瞬間、突然|蘇《よみがえ》った記憶があった。遊んでこい――史郎に拳銃《けんじゆう》を渡したあと、そう言って百万を差し出した青木の姿、その百万が仕舞われていた金庫、そしてそのなかみである。
頭で考えるより先に、口が動いていた。「……その計画が成功したあと、俺に手を貸してくれるんなら、乗ってもいいですよ」
しのぶがおもしろそうに笑って身を乗り出した。「あんたも、なんぞ考えとるん? それ、わたしらも得する話なんやろな?」
うなずいた。
「明日美さんがOKするんなら、わたしも乗ってええよ。そやから、あんたもこっちの話に乗り」
「明日美さんが断ったら?」
しのぶが笑う。「あの女と一緒やないんなら、わたし、危ない橋渡る気ないわ」
「そんなに信用してるんだ……」
感心して言うと、しのぶは目をぱちくりさせたあと、身をよじり、文字通り腹を抱えて笑い出した。その笑い方があまりに激しかったので、手にしている煙草が落ちるのではないかと、史郎はいらぬ心配をしてしまった。
「アホやな、あんた! だれがあんな女!」
笑いながらしのぶが言う。わけがわからなくなった。
「言うたらあかんよ。明日美さんに言うたらあかんよ」
いたずらっぽい笑みを浮かべ、しのぶは何度も念を押した。「わたしと明日美さん、昔、マルチやっててん。誘ったんはわたし。ふたりとも、結局パッとせえへんかってんけどね」
「はあ」
「そしたらな、なんがあったんか知らんけど、あの人、いきなり辞めてしもうたん。その尻《しり》ぬぐいさせられたんが、わたしや。あの人が清浄器売った女とか、あの人がAFやった奴とかが、あの人のかわりや言うて、わたしに嫌がらせしたんよ」
AFってなんだ? と史郎は首をひねった。
「わたしだけならまだええけど、家族にまで迷惑かかってな。無言電話とか脅迫状にはじまって、ヤクザまで出てきたんよ。それに、あの人逃がしたやろ言うて、そのマルチの偉いさんたちもわたしに嫌がらせしよったん。あの人、引っ越してしもうたあとやったからな。そんでうちの家族、みんなお母ちゃんのせいや、言うて、わたしを捨てよった。あの女のせいや。そしたら最近、あの女見かけてな。こいつに復讐《ふくしゆう》したろ、思うたわけ。こいつを犯罪者にしたろ、こいつと刺し違えてやろうって……ま、たしかに金もほしかってんけど、あの女引きずりこみたいって気持ちのほうが大きかったかもしれん」
つまり、強盗計画の言い出しっペはしのぶということか。
「……ところで、なんでマルチなんか手を出したんですか? だまされたとか」
しのぶが苦笑した。「最初からわかっとったわ、そんなもん」
「じゃ、どうして?」
「あんたな、結婚して十年以上、毎日毎日毎晩毎晩、だれのおかげで飯食えとんねん、だれのおかげでマイホーム持てたんや、とか言われて殴られてみィ。亭主に淋《りん》病移されて、文句言うたら、一文も稼げへんくせに男の世界に口出すなとか、色気のない、女の残骸《ざんがい》みたいな体して、なに吐《ぬ》かしてけつかんねん、とか言われて、逆にぶたれてみィ。亭主見返してやりたい、思うようになってもおかしゅうないやろ。亭主より稼ぐようになれたら、もうあないなこと言われんで済むし、ぶたれんでええ、そう思うたんよ。でも、わたしみたいになんの取り柄もない中年女に、なにができる? なにかあったら教えてほしいわ」
吐き捨てるような口調だった。そのしのぶの目は吊《つ》り上がっていた。額には青筋まで立っている。
「わたしはもう、コケにされるのはまっぴらや。負けっぱなしはごめんやねん。わたしもう四十六や。残りの人生、勝ち組に回ったるんよ。そう決めたんや」
しのぶは唐突にスカートのなかに手を入れ、乱暴な手つきで、ストッキングとパンツを同時に脱ぎ捨てた。
「あの……なにやってるんですか」
「パートの人が帰って明日美さんがフリーになるまで、あと一時間ちょっとあるやろ。それまで暇やから、しよう」
「しよう……って」
しのぶが歩み寄ってきた。「わたしな、ここんとこ男としてへんのよ。そやからしたいねん。あんたもずっと逃げとるんやから、溜《た》まっとるやろ。お互い様や。さっさとしよう」
色気も素っ気もない口ぶりだった。
「そんな気分じゃないですよ……」
「あんたの気分なんかどうでもええねん」
股間《こかん》を握られた。しのぶの手が蠢《うごめ》きはじめる。
「わたし、男には、お金とちんちんしか求めてないねん。男にそれ以外のもの求めるようなアホには、死んでもなりとうないんや。そやから気にせんでええよ」
自分の股間も同時に愛撫《あいぶ》しながら淡々と言って、しのぶは史郎の股間に顔をうずめた。
「そういう、問題じゃ、ないと、思うんだけど……」
「……はい、大きゅうなった。若い男なんか単純やから、気分どうこう言うても、こう[#「こう」に傍点]されたらこう[#「こう」に傍点]なるやろ? さ、しよ」
のしかかられる。
「あんた、なかに出してええよ。わたし、もうあがっとる[#「あがっとる」に傍点]さかい」
史郎の上になって腰を動かしながら、情感のかけらもない口調でしのぶが言った。ああそうですか、と史郎は思った。
午前〇時を少しすぎたころ、電話が鳴った。ちょっと緊張しつつ史郎が出ると、フロントの明日美からだった。
「しのぶさん。明日美さんが、みんな帰ったからって」
送話口を手のひらで押さえ、洗面所のしのぶに声をかけた。
「なんやのん、まだ髪の毛乾いてへんのに」
備えつけのドライヤーを駆使してヘアスタイルを整えていたしのぶが不貞腐《ふてくさ》れたようにして言った。「すぐ行くからって、言うといて」
「はい……あの、すぐうかがいますので」
「木島くん、鉄砲忘れんと、持って行かなあかんよ」
受話器を置いてすぐ、しのぶのそんな声が聞こえた。
しのぶが服を着るのを待って、こっそり部屋を出た。廊下に人気はない。早足でフロントに向かった。ただ、しのぶはいいとして、浴衣《ゆかた》姿に濡《ぬ》れた服とブリーフケースを抱え、ゴルフバッグを背負った史郎の格好は、自分で見ても珍妙極まりない。だれが見ているわけでもないのに、恥ずかしいなあ、と赤面した。
フロントに通じるドアをしのぶがノックすると、すぐに制服を着た明日美が顔を出した。入って、と手招きする。
「ふたりは、いまチェックアウトしたことにしたから」
明日美の言葉に、しのぶが了解と答えた。
「ふうん……」
しのぶが、ホテルに入ったときには穿《は》いていたストッキングをつけておらず、その髪の毛がまだ湿っており、化粧も直していることに気づいたからだろう、明日美はしのぶと史郎を見比べると、例の底意地の悪そうな笑みを浮かべてそう言った。
「木島くん、乗るそうや」
しのぶが早口で言うと、明日美が満足そうにうなずいた。
「おしぼり屋さん、その服乾かすから貸して」
「あ、はい……」
「そこ座って」
フロント奥の和室を指差して、明日美が言った。言われた通りにする。先に腰を下ろしたしのぶが煙草をくわえ、史郎に一本差し出した。ありがたくちょうだいした。
「ピストル、見せて」
史郎の服を乾燥機に突っ込んでから、ひそひそと明日美が言った。
史郎はブリーフケースから出した四丁の拳銃《けんじゆう》をテーブルに並べた。矢野が所有していたコルトM1911A1やベレッタM8045も、すでに油紙は外してある。
「これ、リヴォルヴァーってやつやな」
しのぶがパイソン357に手を伸ばそうとしたので、あわてて制した。「危ないって。これ、弾丸《たま》入ってますよ」
「残りの三丁は、どこに弾丸入れるの」
弾丸の入っていないコルトM1911A1を手に取り、マガジン・ストップを押して、銃把から弾倉を抜いた。「ここに」
「ああ、ようテレビで見るわ、こういうの」
弾倉をふたたび挿入した史郎は、ふたりにセーフティを示すと、それを解除した。
「安全装置です。これを外さないと、弾丸出ないんですよ」
車を奪おうとして演じた失敗を思い浮かべながら、史郎は言った。続いて遊底《スライド》を引く。
「これで弾丸が薬室に装填《そうてん》されるんです。そして……」
引金を絞った。かちり、と乾いた音がする。
「へええ……ほんまもんは、やっぱすごいなあ」
感心したようにしのぶが言った。
「ただ言っときますけど、チャカ――拳銃ってのはそう簡単に当たるもんじゃないですよ」
「別に当たらなくてもいいのよ」
それまで無言で史郎の動作を眺めていた明日美が言った。「人を撃つつもりはないんだし」
「明日美さんは被害者のふりしとけばええから、そない簡単に言うんよ」
しのぶは不満げである。「鉄砲持って突っ込んで行くんは、わたしと渚ちゃんなんやで。もし相手が武器持っとって、向こうてきたらどないすんの。ボディ・ガードやっとるような人間が、鉄砲向けられて金出せ言われて、はいわかりましたって素直に両手万歳するわけないやろ。そやから渚ちゃん、本物がほしい、言うてたんやない」
「でも、相手が死んだらどうするのよ。強盗殺人って、たしか無茶苦茶罪が重いはずよ」
「刑法二四〇条ですね。無期または死刑です」
史郎の言葉に、しのぶが感心したような声を上げた。「あんた、極道なんぞしとったからアホやと思うとったら、けっこう物知りやね」
史郎は頭を掻《か》いた。「い、いや、その、組で覚えさせられるんですよ。スジモンは、全国どこの組でもそうしているはずです」
「まあ、それはそれとして」
しのぶと違い、明日美は素っ気なく受け流す。「あくまでピストルは威嚇のためだけに使うべきよ。天井向けてぱんぱんって撃って、マネーッ! って」
「なんですか、それ」
「アジア系の不良外国人の犯行に見せかけるんよ。わたしのアイディアや。なかなかのもんやろ?」
「……そうですかね」
「明日美さんは、ここ辞めた……ええと、なんやったっけ、名前」
「江田と関口」
「そう、そのふたりの犯行に見せかけたいらしいんよ。でもな、そのうち江田って男は、社長にもボディ・ガードにも、そこの社員にも面割れとるんよね。そやから無理やないかって思うんやけど……なあ木島くん、あんた極道やったんやから、言うたら犯罪のプロやろ。プロの意見も聞かせてほしいわ」
史郎はうつむいた。「いや……俺は、そのう、下っ端で、絵を描いたりする立場じゃなかったし……ただ地道に働いていただけで」
「絵を描くって、なに?」
明日美の問いにしのぶが答えた。「計画を練る、いうことやないの」
「とにかく俺は、お手伝いはしますし、分け前もいただきますけど、計画についてはどうも……」
ピンポン、とチャイムの音がした。ぎくりとした。明日美がすぐにフロントに向かう。そしてモニターに目をやってから、こちらに振り返った。
「だいじょうぶ。渚さん」
もうひとりの共犯者、か。
フロントに入ってきたのは、史郎の予想に反して、まだ若い女だった。
「電話で連絡した通り。この人が木島史郎さん」
ぺこりと頭を下げた。渚という女は、立ったまま、じっと史郎を見下ろしている。値踏みしているみたいな目だった。
「信用できるんですか、この人」
渚が無躾《ぶしつけ》に言うと、しのぶが低く笑った。「それ言うたら、しまいや」
「でもね、渚さん、ピストル手に入ったんだよ」
「じゃあ、わざわざ仲間に加えなくても、この人始末しちゃえばいいじゃないですか」
悪寒が走った。同じことを明日美やしのぶが言ったとしたら、こんな感覚は覚えなかったかもしれないが、渚の口調には、いまにもそれを実行しかねない凄味《すごみ》のようなものが感じられた。
「なに言うの……!」
驚きを隠せないといった調子で、明日美が渚を窘《たしな》めた。
その渚の家に居候することになってしまった。明日美は夫と同居しているし、しのぶのところにはいつ借金取りがくるかわからないというので、消去法的に、史郎は渚のところに身を寄せることになったのだった。
しのぶの車で送られて到着したのは、まだ新しい二階建のアパートで、渚はここの二一二号室に住んでいるという。部屋はワンルームだったが、あまりにもがらんとしているたたずまいに驚かされた。ベッド、電話、パソコン、扇風機、ミシン。壁にかけられている時計。そして冷蔵庫と洗濯機。それだけの部屋だった。クローゼットは作りつけであるらしい。
「変なことしないでよ」
史郎が後ろ手にドアを閉めた途端、振り返って渚が言った。
「……しないよ」
「とにかく入って」
言われた通り靴を脱ぎ、あらためて部屋を見回していると、冷蔵庫から取り出した缶の烏龍《ウーロン》茶を突きつけられた。
「……ありがとう」
渚はなにも言わず、そばにある扇風機のスウィッチを足の爪先《つまさき》で押した。そして自分の烏龍茶のプルタブを開け、それを飲みながらパソコンデスクに歩み寄り、椅子に座る。彼女の足許《あしもと》の床には、ロードマップや護身術のハウトゥ本、そして数冊のファイルなどが散乱していた。今回の計画の資料らしい。
ゴルフバッグとブリーフケースをその場に置いて、史郎もフローリングの床に直接腰を下ろした。クーラーがないんだから窓を開けてくれないかなと思ったが、渚はそんな素振りは見せなかった。
壁の時計の音と、扇風機の音だけが聞こえる。
「あのう……煙草喫っていいかな」
「どうぞ」
ポケットをまさぐる。ない。
「あ、あれ、ないや……あ、そうか、全部喫っちゃったんだった、忘れてた」
雰囲気をほぐそうと、そう言って笑ったが、渚はなんの反応も示さなかった。史郎の力ない笑い声は、すぐさま沈黙に押し潰《つぶ》されてしまった。
「あの、俺、買ってくる」
なんだか拷問を受けているような気がしてきて腰を浮かした。煙草を喫いたいというより、この場から逃げ出す口実がほしかったと言ったほうが正確かもしれない。
「自動販売機は五時まで動かないよ」
玄関に向かおうとした史郎は、渚の言葉に足を止めた。
「それに、自分が指名手配されてること、忘れてない?」
「あ……いや……」
「五時になったら買ってきてあげるから、それまで我慢しなよ」
「あ、はい……」
無意識のうちに正座してしまった。
「……ねえ、その、若い女の子の部屋にしては、珍しいね」
重い空気に耐え切れず、そう言った。
「なにが」
「いや、そのう……」
なにもなくて、というのは失礼かと思い直し、「ミシンがあるから」と続けた。
「自分で服作ってたんだよ」
「あ、そうなんだ」
やっぱり人は見かけによらないね、とよけいなことを口走ってしまいそうになり、あわてて付け加えた。「俺も、裁縫とか、けっこう得意だよ」
ももこの顔が目に浮かんだ。今年の秋にはセーターと手袋とマフラーを編んでやるつもりだったのに、できなかった。
「昔、コスプレとかやってたんだよ」
と、渚が言った。「コスパにもよく行ってた。友達できるかなって思ったからね」
史郎のまわりにいた人間は、コスプレ――コスチュームプレイという言葉を、夜の生活における遊びの一環として使うことが多かった。九條組がカスリを取っていた性風俗店にも、そうしたプレイをやる店がいくつかあった。しかし渚のような若い子が使う場合だと、好きなミュージシャンのコンサートに、そのミュージシャンのステージ衣装と同じ服を着て行くとか、ゲームやアニメなどの登場人物と同じ格好をして楽しむ、といった類《たぐ》いのものだろう。
ただ、コスパってなんだろう、と史郎は思った。相手がしのぶなら――いや、明日美でも、それってなんですか? と質問できただろうが、どうも渚には聞き返せない。
渚が続ける。
「でもみんな、買うんだよ、服。わたしみたいに自分で作ってる人なんて、あんまりいなかったよ。特注で三十万とか四十万とかかけてお店で作ってもらってる人もいたよ。みんなお金持ってるんだなって思った」
話を聞いているうちに、妙な気持ちがしてきた。パンチパーマにしたり指輪をはめたり「いかにも」な服装に身を包むことは「ヤクザのコスプレ」をしていることになるのかな、と思ったからだ。
「ええと……だれのっていうか、なんのコスプレやってたの」
別に興味などなかったが、また重苦しい沈黙がおとずれるのが嫌だったので、一応話を合わせた。
「適当だよ。さっき言ったけど、単に友達できるかなって思って、その手の雑誌見て、目についたキャラクターの服作ってただけだよ」
「それでできたの? 友達」
「できなかったよ」
あっけらかんとした口調で言うと、渚は足許のファイルを手に取り、「見て」と史郎に差し出した。
ファイルには、デジタルカメラで撮影し、パソコンでプリントアウトしたものと思《おぼ》しき写真が、一ページ一枚ずつ、挟み込んであった。古い四階建の雑居ビルの外観をさまざまな角度からとらえた写真や、その雑居ビルの周辺の通りを写した写真などである。
さらにページをめくると、かなり簡略化されたものではあるが、部屋の平面図のようなものが出てきた。
「目標だよ」
淡々とした口調で、渚が言った。「図面は、明日美さんの話を基に、わたしがパソコンで作ったんだ。道路の写真は、逃走用の車をどこに置くかの参考になると思うよ。その周辺の交通量その他は、まだまだ調査不足だけどね」
さらにページをめくる。計画らしきものがぎっしりと書き込まれていた。
「それ、もう一度見せて」
椅子に座ったまま、渚が史郎の荷物を指差した。ブリーフケースから弾丸の入っていないベレッタM8045を取り出した史郎は、それを手に、膝立《ひざだ》ちのままパソコンデスクににじり寄った。
まるで奪い取るようにしてベレッタM8045を手にした渚が、弾倉を抜いたり、遊底の動きを確認したりしはじめた。
「……あんた、チャカに慣れてるな」
少し驚いてたずねた。渚は感触をたしかめるように引金を引いてから、「別に」と素っ気なく答える。
「ほんとうに使うんなら、ちゃんと分解して手入れしなきゃだめだよ」
渚が史郎を見た。「あなた、できるの?」
「ああ。だから、ガンスプレーとか布地とかドライバーとか、そろえてほしいんだけど」
「このあたりじゃなくて、都心で買ったほうがいいだろうね。で、そっちは?」
と、渚がゴルフバッグを指差す。
史郎が引っ張り出したM16とM3を見て、渚がうっすらと笑った。「戦争に行くみたいだね」
「……そのつもりだったから」
思わずそうもらすと、渚が「どういうこと?」とたずねた。気のせいか、彼女の目が異様な光を帯びたように見えた。
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「おーう」
大声での出迎え。社長の秋月が、デスクにふん反り返ったまま右手を挙げていた。部屋のなかにいるというのに、ブルーがかったサングラスをかけている。度が入っているのかもしれない。
明日美は後ろ手にドアを閉めた。事務所のなかに置かれたテレビの音声。そして熱帯魚が泳いでいる、窓際に置かれた水槽の音。それ以外の音が途絶えた。だれも口には出さないものの、事務所の防音設備が整っている理由は、明日美にも見当がついていた。金を返さない客を引っ張り込んでリンチするときのためだ。
売上の入ったバッグを胸に抱いたまま、明日美は事務所の入り口で頭を下げた。
「いやいやいや、あんたが銭持ってくるのはひさしぶりだなあ」
秋月は、常に腹から声を出している。舞台|稽古《げいこ》をしている役者みたいだ。だからこうして狭い部屋に一緒にいると、うるさく感じる。
明日美がバッグを差し出すと、秋月は「おう」と受け取り、なかを確認した。彼のデスクの上に載っている大きな湯飲み茶碗《ぢやわん》からは、こいつの値段は半端じゃないぞ、聞いたらおまえ驚くぞ、と主張しているようなお茶の香りが立ちのぼっていた。
秋月の表情が、わずかながら曇った。「最近売上が落ちてるなあ」
そうですね、と明日美は答えた。
「おーいスミちゃん、これ、ちゃんと計算しといて」
入り口そばにある机に脚を組んで座り、手鏡を見ながら化粧を直していた迫水澄子《さこみずすみこ》という若い秘書兼事務員が、返事もせずに立ち上がった。彼女は秋月のデスクに大股《おおまた》に歩み寄ると、ひったくるようにしてバッグを手にした。そのまま自分の机に戻る。
この澄子が秋月の愛人であることは、社内では公然の秘密になっている。ただ澄子の困ったところは、社長の愛人になった途端、自分が偉くなったと勘違いして、明日美や槇に対して横柄な態度を取りはじめたことである。秋月に対してもこういう態度を取るのもまた、同じ理由によるものだろう。公私混同もはなはだしいと明日美は思う。
「明日美ちゃん、ま、お茶でも飲んで行きなさい。お菓子もあるからな」
「はい、すみません」
「おーいスミちゃん、明日美ちゃんにお茶。それからカステラ切ってやって」
また澄子が無言のまま席を立った。ああもううるさい、と全身で抗議しているような立ち上がり方だった。
「カステラ食ってけカステラ。土産でもらったんだ。本場長崎のな、文明堂のカステラだぞ、うまいぞ」
そんなもん東京にだって売ってるじゃないかと思いつつ、明日美は精いっぱいの笑顔を浮かべて、「いただきます」と頭を下げた。
明日美は秋月に勧められるまま事務所中央の応接セットに向かいながら、できるだけさりげなく、事務所の様子をうかがった。
応接セットには三人の男が腰かけていた。レストランの店長をしている三宅《みやけ》。秋月のボディ・ガードと取り立て役を兼ねている若い男ふたり――田所《たどころ》と手塚《てづか》。あいさつすると、三宅は愛想笑いを浮かべて軽く頭を下げたが、田所と手塚は明日美を一瞥《いちべつ》しただけだった。
三十五、六に見える三宅は、痩《や》せ型で柔和な顔立ちをしているものの、かつて暴力団に所属していたという話である。なんという暴力団だったかは忘れたが、少なくとも史郎がいた九條組でないことはたしかだ。暴対法施行後に足を洗い、よその店でウェイターをしていたところを秋月に引き抜かれ、店長をまかされたと聞いている。
田所と手塚の素姓は、明日美も知らない。取り立てをやっているくらいだから、その外見はかなりの強面《こわもて》で、こういう場でなかったら、絶対に関わりたくない類《たぐ》いの男たちである。彼らもやはり元ヤクザとか、そういった経歴の持ち主なのだろう。案外九條組の元組員かもしれない。
〈迂闊《うかつ》だったなあ……〉
そんな史郎の言葉を思い出した。渚と一緒に、しのぶの車でこのビルの下見にきたとき、ビルの共同玄関から九條組の人間が数名出てきたのだそうだ。
〈よく考えたら、九條組のシマウチで街金なんてやってるんですから、間接的にせよ、組と関係があると考えたほうが自然なんです〉
〈ヤクザ屋さんがついとるんやったら、やめたほうがええんとちゃうんかなあ……〉
史郎の話を聞いて弱気になったのか、しのぶはそう言っていたが、渚は決行すると言い張った――。
田所と手塚の正面、三宅の隣に、明日美は腰を下ろした。隣と言っても、ソファの隅にお尻《しり》を半分だけ載せる格好で座ったから、三宅との距離は充分離れているのだが。
パンプスの音を響かせてやってきた澄子が、湯気が立ちのぼっている湯飲みと、カステラをふたきれ載せた小皿を、どん、と明日美の前に置いた。どうぞのひとこともない。まったくもって無愛想な女だ。
と、秋月が豪快な笑い声を上げた。「ほらほら、おまえらが怖い顔して睨《にら》むから、明日美ちゃん怖がってるじゃないの」
田所と手塚に言っているらしい。
「あ、いえ……そんなことないです」
「無理しなくていいって」
秋月はまた笑う。「顔、引きつってるじゃないの」
心臓がうずくような感覚があった。自分では自然に振る舞っていたつもりだったが、やはり緊張しているのだ。さっき田所たちがあいさつもしなかったのは、明日美の様子がおかしいのに気づいたからかもしれない。
「そういえば、顔色悪いね」
明日美の顔を横から覗《のぞ》き込んで、三宅が言った。
明日美は焦った。どうしよう。意識すればするほど、仕種《しぐさ》も言葉も表情も、なにからなにまで不自然になってしまうだろう。このままでは怪しまれてしまう。
「寝てないから……かな。最近ちょっと体調悪くて」
われながら苦しい言い訳だと思った。
「だめだめ、そんなんじゃだめ、体大事にしなきゃだめだよ、明日美ちゃん。あんたまでいなくなったら、ホテルのほう、どうしようもなくなっちまうんだから。なあ?」
秋月はそう言うと、なにがおかしいのか、耳障りなくらい大きな声で笑い出した。
「もう年なんですよ」
懸命に軽口を叩《たた》いた。が、自分がいまどんな表情を浮かべているのかわからない。ひょっとしたら青褪《あおざ》めているかもしれない。そう思うと、怖かった。
「……いただきます」
口のなかがからからだったので、湯飲みを口に運んだ。秋月が飲んでいたお茶とはまったく違う、すぐに安物だとわかる香りがした。だいたい秋月が、社員であれ客であれ、自分以外の人間に高価なものを出すわけがない。
そうしながら、アナログの腕時計に目を落とした。ゆうべと言うか今朝未明、しのぶ、渚のふたり――史郎は銃の手入れをしていて顔を見せなかった――と、秒針まできっかり合わせた時計である。十時四十八分。あと二分弱だ。
〈このブラッシング一万回ってのは、なんやの〉
そんなしのぶの声が耳に蘇《よみがえ》る。渚のファイルを眺めながら彼女が言っていた言葉だ。
〈現場に髪の毛が落ちてたら、物的証拠になるじゃないですか。一万回ブラッシングしたら、その日に抜ける髪の毛は、たいてい落ちてしまいますよ〉
〈出かける前に洗髪ってのは?〉
〈念には念を入れて、です。しのぶさん髪が長いんだから、まとめてきてくださいよ。髪形から素姓が割れるかもしれないんだから、ちゃんと帽子で隠してください〉
しのぶはぶつぶつ言っていたが、史郎よりはマシだろうと明日美は思った。史郎は同じ理由から、すでに渚の手によって丸坊主にされていた。
そして渚は、しのぶに衣類を手渡した。まだ開封されていない黒いジャージの上下、野球帽、手袋、サングラスとマスクだった。なぜか、包帯もあった。
〈こんな色気のない格好せなあかんの? 嫌やわ、せっかくの晴れ舞台やのに〉
〈晴れ舞台もなにもないでしょう。相手に人相がバレたら終わりですよ。わたしと史郎くんは目出し帽をかぶりますから。それとも、しのぶさんが目出し帽をかぶりますか。そしたらわたしがこっちを……〉
〈目出し帽って、覆面レスラーみたいになるやつやろ? 嫌やわ、カッコ悪い。それならこっちのほうがええよ〉
そうした衣服は、渚が都内あちこちをぐるぐる回って少しずつ購入したものなのだそうだ。そのほうが足がつきにくい、というのが彼女の弁であった。
〈袋から出して着るのは、あしたにしてください。しのぶさんの部屋にいるダニなんかがジャージに付着して、それが現場で落ちたりしたら、やっぱり証拠になってしまいます。その可能性をできるだけ低くしておきたいんです。警察は、そういうものまで調べるらしいですよ〉
〈失礼やな、わたしのところにダニなんかおらんよ〉
〈断言できますか〉
しのぶは黙った。
〈ところで、この包帯はなんなの〉
しのぶの代わりに明日美がたずねると、
〈しのぶさん胸大きいから、これをサラシみたいにぐるぐる巻いて、ぺったんこにしておいてほしいんです。特徴はなるべく消したほうがいいんです〉
〈じゃあ、顎《あご》を削ったほうがいいんじゃないの〉
〈なんやて〉
しのぶが目をむいて明日美を睨みつけた。
〈それに塩水入りのバスト、そううまくつぶれるかなあ?〉
〈あんた。言うてええことと悪いことあるよ〉
〈まあまあ〉
アヒル口を尖《とが》らせ、額に青筋まで立てて怒るしのぶを、渚が執り成した。
〈それから、ガンはあした渡します。よっぽどのことがないかぎり撃たないでくださいよ。詳しい手順も、あした〉
〈あたしにも話してよ〉
明日美の抗議を、渚は軽く受け流した。〈なにが起こるかあらかじめ知っていたら、明日美さんの反応が不自然なものになってしまうかもしれないじゃないですか。ですから明日美さんには、暗号を完璧《かんぺき》に覚えることに専念してもらえれば……〉
うっすらと笑みを浮かべ、そう言ったときの渚の目を見て、軽い胸騒ぎを覚えた。
〈車はどうすんの〉
しのぶが聞いた。
〈もちろん盗みます。銀行強盗計画していたときに気づいたんですけど、なんだかんだ言って、まだまだ日本は治安のいい国ですよ。そこらじゅうにエンジンかけっぱなしの車が停車していますからね。わたしと史郎くんにまかせておいてください〉
渚は気づいていないのかもしれないが、彼女が木島史郎のことを史郎くんと呼ぶたびに、しのぶの眉《まゆ》が不快そうにひそめられる。しのぶが史郎に気があるというわけではないのだろうが、一度関係を持ったゆえに、無意識のうち、ついつい嫉妬《しつと》めいた感情を覚えてしまうのかもしれない――と、それまで明日美は思っていたが、どうも違うのではないかという気がしてきた。しのぶの嫉妬の対象は、渚の若さではないのだろうか。外見的な若さはもちろん、これから先の人生に対する可能性をはじめとする、しのぶがすでに失ってしまったものをすべて渚が兼ね備えていることに、しのぶは嫉妬しているのかもしれない。史郎はただ、その感情を表面化させる触媒のようなものにすぎないのではないか――。
時計を見る。十時四十九分、あと一分弱だ。
「そういや明日美ちゃん、あんたまだ結婚しないの」
煙草に火をつけながら秋月が言う。なにを言ってるんだと訝《いぶか》しんだが、自分はここでは独身で通しているのだったと思い出し、「そうですねえ」と曖昧《あいまい》に答えた。
「なんか理由でもあんの?」
どことなく楽しそうに、秋月がたずねる。
「この年までひとりでいると、もうなんか、面倒臭いんですよ、そういうの」
「さっきも年、年って言ってたけど、あんたまだ三十九だろ? まだまだだいじょうぶ、いけるって」
うるさいな、女に年のことなんて聞くなよ……という苛立《いらだ》ちと、ああ、あと三十秒だ、という緊張と恐怖とが、明日美のなかに同居していた。
「俺、知り合いにさ、いい人いないかって頼まれてるんだよ。縁談。相手の男は四十五。ちょうどいいだろ? 再婚だけど、前の結婚早かったからさ、子どもはもう独立してるんだよ。だから、変に気兼ねしなくて済むよ」
あと二十秒。
「なあ、今度写真持ってくるからさ、見てみなよ。なかなか男前だぜ?」
「いえ、あたしは……」
「なに、もしかして男いるわけ?」
「…………」
「じゃあその彼氏と結婚――」
秋月の言葉が耳に入ったのはそこまでだった。彼はまだなにか言っているようだったが、明日美の耳にはもう、心臓の鼓動と秒針の音以外、なにも届かなくなった。
ごくり、と自分が生唾《なまつば》を飲む音がやたらと大きく響いたのとほぼ同時に、入り口のドアが勢いよく開かれた。
十時五十分ジャスト。澄子の「いらっしゃいませ」という言葉が途中で途切れ、盛大な悲鳴へと変わった。
「なんだおまえら!」
怒声と共に、手塚が威勢よく立ち上がった。
明日美は弾《はじ》かれたように入り口を振り返った。
不思議と、いろんなものが同時に見えた。
駆け込んでくるジャージ姿の三人。バッグを背負ったしのぶに拳銃《けんじゆう》を突きつけられ、両手を挙げたまま金切り声を張り上げている澄子。その澄子の机の上から、いま彼女が計算していたホテル・サンライズの売上金をひったくるしのぶ。煙草を手に持ったまま、ぽかんと口を開けて三人を見ている秋月。その秋月の正面に立って、彼に銃口を向ける渚。こちらに銃を向ける史郎。一斉に身構える田所たち。素早く目の前の湯飲み茶碗《ぢやわん》を手に取り、三人に向けて投げつけようとする三宅――それらがいっぺんに、そしてなぜかスローモーションのようにゆっくりと、目に映った。
「う、動くな!」
オートマティックの拳銃を両手で構えた史郎が、うわずった声を上げた。
その瞬間、明日美は絶望的な気分に襲われた。
できればこの襲撃計画は、江田の手によるものと思わせたい。だからあなたには江田役をやってもらいたい――明日美は史郎にそう言っていた。つまり史郎が声を出したということは、その時点で、秋月たちが強盗犯人のひとりの男を江田と認識する可能性がゼロになったということである。それに加えて、しのぶが言っていた、犯人は不良外国人と思わせようとの計画もまた、彼のひとことのせいで頓挫《とんざ》したことになる。たぶん舞い上がって思わず叫んでしまったのだろうが、こんなノミのような心臓で、よく七年間もヤクザをやっていけたものだ。
それは明日美ひとりの思いではないようだった。しのぶのほうはサングラスとマスクで表情が読めないが、目出し帽から覗《のぞ》く渚の目は焦りと驚愕《きようがく》の色をたたえているし、その口もまた、あんぐりと開かれていた。
「手、手、手、手、挙げろ、手ェ挙げろ! 手ェ挙げろ!!」
史郎がわめく。そんな彼の様子が、逆に三宅たち三人を冷静にさせたようだった。
「おまえら、どこの者だ?」
田所がドスのきいた低音を発した。そのまま、自分たちに銃口を向ける史郎との間合いを慎重に詰めてゆく。
「撃ってみろよ。そんなオモチャでなにしようってんだよ、え?」
田所と手塚のふたりが、ほぼ同時に、懐から短刀を抜いた。拳銃を手にしているというのに、史郎は完全に彼らに気圧《けお》されてしまっている。
「ふざけんじゃねえぞ、こらあ!」
驚嘆ものの敏捷《びんしよう》さを見せて明日美の体を乗り越えた三宅が、茶碗を史郎に投げつけた。
史郎はひいっと呻《うめ》くと、両腕で顔を覆い、蹲《うずくま》った。
茶碗が壁に当たって割れる音が響いた。それが合図だったように、三宅たちが史郎に飛びかかろうとした。
万事休す――明日美は両目をきつく瞑《つぶ》った。
「Freeze!」
渚の声。目を開けた。
「Freeze! Don't move! Hold up!」
「なんだあ? 女かあ?」
手塚がせせら笑うように言った。「撃てるのかよ。撃ってみろよ、お嬢ちゃん。よう?」
渚の目が吊《つ》り上がった。
「You bastard!」
渚が叫ぶと同時に銃声が轟《とどろ》き、窓際の水槽が爆発したように砕け散った。澄子がまた甲高い悲鳴を上げる。
そのまま渚が、ソファの明日美に銃口を向けた。
明日美はすくみ上がった。
再度の銃声と共に頭上を衝撃波が襲い、後ろにある古い書棚のガラス戸が派手な音を立てて割れたとき、明日美は演技ではない、ほんとうの悲鳴を上げていた。
両手で頭を抱え、ソファの上に丸くなる。
背中や後頭部に、そして頭を庇う手の甲に、こなごなになったガラスの破片が降りそそいだ。
全身がおこりでも起きたように激しく震え出した。
自分はいま、はっきりと殺意を感じた。渚はほんとうに自分を射殺するつもりだったのではないだろうか。よく考えてみれば、渚にしてもしのぶにしても史郎にしても、ここで明日美が死んだほうが助かるのだ。分け前も増えるし、発覚の危険性も低くなる。しのぶはもともと信用できないし、渚や史郎にしてみれば、明日美が死のうがどうしようが知ったことではないだろう……。
恐る恐る目を開けた。
涙でかすんだ視界のなか、三宅、田所、手塚の三人が、さっきと同じ姿勢のまま固まっている。
しのぶに銃口を向けられている澄子は、腰を抜かしてしまったのか、床の上にへたりこみ、きゃあきゃあと叫び続けている。
史郎はいまの銃声でやっとわれに返ったらしく、激しく肩を揺らしながら立ち上がり、また三宅たちに銃口を向けた。
渚は、座ったまま両手を挙げている秋月の背後に回り込んでいた。彼の後頭部に銃を突きつけた彼女は、三宅たち三人に血走った目を向け、早口で叫んだ。
「Drop that piece of shit or I brow his head off!」
正確な意味はわからないが、ニュアンスだけは理解できた。短刀を床に捨て、そのまま両手を挙げたところからして、田所たちも同じらしい。
「Get down on the floor, dick-wed. Fuckin'down now!」
三人が両手を頭の後ろで組み、そのまま床に身を伏せた。
「Are you secretary!?」
明日美を睨みつけて渚が叫んだ。彼女がなにを言っているのかわからない。しかし明日美は、恐怖心から、ぶるぶると首を振った。
「Hey, bitch!」
渚が澄子に目を向け、大声を張り上げる。「Are you secretary!? Ha!?」
澄子が首振り人形みたいに何度も何度もうなずいた。セクレタリーとは、秘書という意味なのだろうか。
「You open the safe! You know what I mean!?」
「ノー、ノー!」
澄子がわめいた。すると思ったより冷静なしのぶが、澄子の腰に軽く蹴《け》りを入れた。それだけで澄子はまたけたたましい悲鳴を上げる。しのぶが、今度は澄子に平手打ちをお見舞いした。訂正。しのぶは冷静ではない。興奮している。
「オープン、オープン」
やたらと発音のいい渚と違い、いかにも片仮名英語といった感じで、しのぶが澄子に低く命じた。そして事務所の隅にあるカード式の金庫を指差す。「オーケー?」
涙を流しながら、澄子がよろよろと立ち上がった。全身をがくがく震わせている彼女の背を、しのぶが強く押した。
「Hurry up!」
たたらを踏む澄子を凝視して、渚が怒鳴る。
「ま、待ってくれ、待ってくれ、俺が、俺が開ける、俺が……」
両手を万歳したまま、喘《あえ》ぐように秋月が言った。
同時に、渚の拳銃が火を噴いた。銃弾は秋月の頬をかすめ、デスクに食い込んだ。ぎゃあっと叫んで、秋月が頬を押さえた。
デスクに突っ伏しかける秋月の髪の毛をわしづかみにして、強引にその頭を起こした渚は、彼の首筋に銃口を押しつけると、その唇に微笑をたたえて低く言った。
「You shut up. Okey?」
明日美は震え続けていた。なんなんだ。いったいなんなんだこの女は。もしかすると自分としのぶは、とんでもない女を仲間に引き入れてしまったのではないだろうか。
嗚咽《おえつ》をもらしながら、秋月のデスクのそばにある神棚に手を伸ばした澄子が、カードキィを手にした。そして一歩一歩、おぼつかない足取りで金庫に歩み寄る。
金庫が開く音に、史郎の「ストップ!」という声がかぶった。
澄子がびくんと体を震わせ、振り向く。
史郎は大きく手を振り、そこから離れろ、と澄子に動作で指示している。すぐに金庫に近寄ったしのぶが、澄子を突き飛ばして、金庫の扉を開けた。
明日美の位置からは、そこにどれだけの金が入っているのか見えないし、金庫のなかを見てしのぶがどんな反応を示したのかもわからなかった。ただ、金庫のなかに手を伸ばしたしのぶが、その手を高々と掲げたことだけはわかった。彼女がなにか持っている。黒いもの。銃身が短いリヴォルヴァー。
なるほど。さっき秋月が、自分が金庫を開けると主張した理由、そして史郎が、澄子を金庫から離した理由は、これだったのか。金庫のなかに拳銃《けんじゆう》が隠してあるに違いない、史郎はそう読んだのだろう。七年間暴力団に在籍していた経験も、あながち無駄ではなかったらしい。とはいえあの拳銃を目にしたところで、澄子が反撃に出るとは、明日美にはとても思えなかったのだが。
しのぶがバッグに金を詰め込み終えるのに、さして時間はかからなかった。むろん計っていたわけではないけれど、ほんの十秒程度で作業は終了したようだった。
三人が一斉に入り口のドアへ移動した。手塚たち三人が体を起こそうとしたが、一瞬早く、渚が発砲した。
「Nobody fuckin'move!」
三宅たちが、あたふたと身を伏せる。
明日美もまた両手を頭の上に載せたまま、入り口に目を向けていた。
ドアが開かれる。バッグを受け取った史郎が廊下に駆け出した。しのぶと渚は動かない――いや、しのぶがなにやらやっている。携帯用のガスバーナーでドアノブを熱しているのだ。三宅たちがすぐに追ってこられないための細工らしい。この事務所から廊下に出るには、あの分厚いドアを開けるしかない。そのドアノブがバーナーで熱せられていたら、熱くてだれも握ることができない。あとはドアをぶち破る以外方法はないのだ。渚はそれを計算に入れていたのだろう。
こちらに銃口を向けたまま、渚がジャージのポケットからなにか取り出した。円筒形の物体だ。導火線がついている。
明日美は息を呑《の》んだ――ダイナマイト!?
うわわっと秋月たちが悲鳴を上げた。
しのぶがガスバーナーの炎を導火線に向けた――点火。
やっぱりだ、と明日美は思う。あいつらはあたしも一緒に始末するつもりなのだ。
渚が、にやっと笑った。「Fuck you very much!」
ダイナマイトを投げ込み、しのぶに続いて廊下に飛び出した渚が、外から入り口のドアを蹴飛ばした。勢いよくドアが閉まった。
三宅たちが、秋月が、澄子が、各々怒声や悲鳴を張り上げながら逃げようとする。勇敢にも唇を引き締めてドアノブを握った三宅が、苦痛の呻《うめ》きを上げてその場に倒れた。火傷《やけど》した右手を左手で押さえ、床の上をのたうち回る。
「窓、窓……」
そう呟《つぶや》きながら、明日美は窓から逃げ出そうとしたが、腰が抜けてしまったのか、立ち上がることすらできない。
床を這《は》う。手のひらが濡《ぬ》れた。次いで痛みを覚える。渚が撃った水槽の水と破片が床に散乱していたからだ。床の上をぴちぴちと跳ねている熱帯魚を、危うく手でつぶしそうになってしまい、それを躱《かわ》した明日美は、バランスを崩して横向きに倒れた。
秋月の叫び声とガラスの割れる音が聞こえた。彼が窓に椅子を叩《たた》きつけたのだ。
そのときになって、ここは三階だと思い出した。飛び降りる勇気など明日美にはない。
それは秋月も同じだったようだ。窓枠に片足をかけた彼は、そこから下を見下ろすと、情けない声をもらして飛び退いてしまった。
その窓の上方の壁に、ダイナマイトが音を立ててぶつかった。田所か手塚がダイナマイトを拾って捨てようとしたものの、あわてているためコントロールが狂ったのだろう。導火線に火のついたダイナマイトが目の前に転がり落ちたので、明日美は悲鳴と共にのけぞった。
「あ、明日美ちゃん! 捨てて! 早く!!」
秋月が金切り声を上げた。
死にたくない――その一心から、明日美はダイナマイトに手を伸ばした。しかしこれを窓から捨てれば外は大惨事となる。そんな思いが脳裏をかすめた。導火線を引きちぎろうとした、だがうまくいかない、もう間に合わない、死ぬのは嫌だ、死にたくない――
いやあああっという絶叫と共に、明日美は窓からダイナマイトを放り出した。
伏せろ、とだれかが叫んだ。
明日美は両手で頭を庇うようにして身を伏せた。
が、爆発音は聞こえなかった。
顔を上げた。三宅が、田所が、手塚が、やはり怪訝《けげん》そうな表情で顔を上げるところだった。秋月と澄子は床にうつぶせになり、震えている。
「……おい!」
伏せたままゆっくりと窓際に這い寄って、唇をわななかせながら外に目をやった三宅が怒鳴った。「なんだ、ありゃ!」
田所たちが駆け寄る。明日美も、がくがくと震えつつ窓枠に手を伸ばし、懸垂をするようにして上半身を起こした。
眼下では、さっき明日美が投げた円筒形のものが、シャーッという音を立てて、七色の火花を周囲に振りまいていた。花火。綺麗《きれい》だった。
安堵《あんど》のためか。それとも違うのか。明日美はそのまま気を失った。
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16
こんな暮らしはまっぴらだ。三日も続ければストレスが溜《た》まって爆発してしまうに違いない――そう思っていた。しかしその三日が経過したときには、すっかりこの生活に馴染《なじ》んでしまっていた。そんな自分に、史郎はなかば呆《あき》れ、なかば感心していた。おまえはどんな環境にもすぐ順応できるな、とかつて矢野に言われたことがあった。果たしてそうだろうかと疑問に思っていたが、あながち間違いではなかったらしい。
渚はいま日本にいない。言うまでもないことだが、自分がいないあいだも決して外に出るなと、彼女に強く言われていた。それには即座に同意したが、夜も明かりをつけるな、洗濯もするな、風呂《ふろ》にも入るな、との言葉には素直にうなずけなかった。
〈わたしがいないのに、部屋に人が住んでる気配があったら、おかしいでしょう。あの部屋の人は男と同棲《どうせい》してるんじゃないかって噂が立つくらいどうってことないけど、それが流れ流れて警察や九條組の耳に入ったらどうなると思う? 正体不明の男が女の部屋に転がり込んでるんだよ。もしかしたら……って思うかもしれないじゃない〉
そんなの考えすぎだよ。そう抗議すると、用心するに越したことはないでしょう、と言われた。それでも、風呂に入れないのはつらいから、水浴びだけでもさせてくれと頼み、なんとか了承してもらった。
夜は、渚が冬使っているという掛け布団を床に敷き、タオルケットを掛けて寝ている。枕にして、と渚が押し入れから引っ張り出したクッションは少し黴《かび》臭く、最初は気になって仕方なかったものの、いつしか慣れてしまった。
食事は、渚が残していった米と、やはり渚が日本を発つ前に山ほど買い込んできたインスタント味噌《みそ》汁と缶詰で済ませている。もともと舌が贅沢《ぜいたく》なほうではないし、そうした食生活は矢野とのキャンプでさんざん経験している。あまり不満は感じていない。煙草も、渚が買ってきてくれたカートンが置いてある。ちなみにこれらの代金は、分け前の二百五十万のなかからしっかり取られた。部屋代も光熱費も折半である。
そして一日中部屋にこもり、陽が落ちると、言われた通り明かりをつけずに闇のなかでじっとしている。
とはいえ、ただぼんやりしているわけではなかった。
〈九條組とやり合うんでしょ。だったらこれ、やっとけば〉
渚がそう言って手渡したものがある。この部屋でもできるという、彼女が考えたトレーニング・メニューだ。史郎はそれをこなすことに専念した。腕立て伏せや腹筋、背筋、ヒンズースクワットにはじまり、渚に買ってきてもらった鉄アレイも活用して、体を動かしている。渚の話では、この部屋の真下に住んでいる人は昼間家にいないそうなので、トレーニングは昼間行なうことになる。夜だと、天井がミシミシいったりして、苦情がきそうだったし、なによりこの部屋にいま人が住んでいるということを悟られたくなかった。だから夜は、握力強化のトレーニングとか、両手に持った鉄アレイを上下させたりとか、そういうトレーニングが主になる。ずっと体を動かしているせいか、夜はよく眠れた。
そして史郎は、トレーニングの合間合間に、一発ずつ、慎重に、手持ちの銃弾の先端を削っていた。
ハンティング用であるジャケテッド・ホロー・ポイント弾、エキスパンディング・ポイント弾、シルバーチップ弾、ジャケテッド・ソフト・ポイント弾。軍用の基本であるフル・メタル・ジャケット弾。安価で練習向けとされるラウンド・ノーズ弾。ターゲット用紙にくっきりと弾痕《だんこん》を残すため、標的射撃用として使われるワッド・カッター弾。同じ用途ではあるが、ジャミングしやすいオートマティックに使われることの多いセミ・ワッド・カッター弾――その八種類が代表的な弾丸の種類だが、いま史郎の手許《てもと》にある銃弾の大半は、弾頭を薄い銅でコーティングしてあるフル・メタル・ジャケット弾だ。史郎はその先端の銅を、可能なかぎり削り取るつもりでいた。
昔矢野に、こんな話を聞いたことがある。第一次大戦か第二次大戦のとき、ドイツ兵が頭部に銃弾をくらった。弾丸はヘルメットを貫いた。ふつうに考えれば、その兵士は即死、あるいは瀕死《ひんし》の重傷を負った、ということになろう。だがその兵士は死ななかった。それどころか、怪我すら負わなかったという。銃弾がヘルメットの内周に沿ってドイツ兵の頭をぐるりと一周し、射入孔からふたたび出ていったからだそうだ。ドイツ兵が受けた被害は、頭部に円周形のハゲができたことだけだった、という話であった。
冗談でしょう、と言うと、矢野は、実話かどうかたしかめたわけではないが、そういうことは現実にあり得る、と答えた。弾丸には、抵抗の少ないところを抜ける性質があるからだ。つまり、たとえ至近距離から狙撃《そげき》しても、標的に命中した弾丸が、体内の抵抗の少ないところを抜けて貫通すれば、相手に助かる見込みが出てくるわけだ。
それを避け、殺傷能力を高めるためにはどうすればいいと思うか、と質問されたので、弾丸の先端に毒薬でも塗ったらどうでしょう、と答えたら、矢野が苦笑した。
〈昔、ヤクザモンの戦争で、散弾に青酸カリ仕込んだ奴がいたらしい。当たったら体のなかに青酸カリが入って即死すると思ったんだろうな。だがな、青酸カリってのは、酸性の胃のなかに入るからこそ、青酸ガスが発生して毒性を発揮するんだ。人間の体ってのは、胃以外はみんな弱アルカリ性だから、意味ねえよ〉
じゃあどうすればいいのかと聞くと、銃弾頭部の鉛を露出させればいい、とのことだった。そうすれば、命中の衝撃で鉛が変形し、弾丸が相手の体を貫通しにくくなるから、撃たれた相手は弾丸の持つ運動エネルギーをすべて受けることになるという。殺傷能力はふつうの弾丸とは段違いで、相手の内臓もぐしゃぐしゃになってしまうのだと、矢野は言っていた。史郎はそれを思い出し、弾丸に手を加えることにしたのだった。
ただ、M16A2とパイソン357の銃弾はそのままにしておくつもりでいる。M16の弾丸は多すぎるし、パイソン357の弾丸はもともと火薬量の多いマグナム弾だから、わざわざ手を加えるまでもないと思ったのだ。至近距離でパイソン357を撃てば、目の前の相手の体を貫通した弾丸が背後の人間に命中することだって充分あるだろう。その際、ひとり目の体を貫く際に弾丸の先端が潰《つぶ》れ、鉛がむき出しになるから、背後の人間は即死するに違いない。
また、渚に頼まれた仕事もある。この写真通りの服を作ってくれと、渚がパソコンでプリントアウトした写真を手渡したのだ。宅配便の配達員の制服だった。似たような色の生地はそろえてあるので、できる範囲でいいからやっておいてもらえないかとのことだった。しかし史郎は、手編みこそできるもののミシンは使えないし、トレーニングと弾頭の銅を削るのに精いっぱいで、そちらのほうは手つかずのままである。
渚はいま、韓国の済州島に行っている。そこには射撃場があって、銃の練習がたっぷりできるのだという。観光客を装って銃を撃ちまくり、その扱いに慣れてくるという話だった。同じ目的で、しのぶはグァムに飛んでいる。ふたり一緒に行動しないほうがよいだろうとのことで、別々の国に向かったわけだ。ただ渚が自分の行き先に済州島を選んだのには、ちゃんと理由があるらしかった。
〈済州島の射撃場はね、M16も撃てるんだよ〉
史郎ですら、M16は撃ったことがない。彼女は史郎が持っているM16を、自分が使うつもりでいるのだろう。
以前矢野に聞いた話によれば、M16は五百五十メートル先の敵のヘルメットを貫通させる能力があるのだそうだ。拳銃《けんじゆう》しか撃ったことのない史郎からすれば、驚嘆ものの射程距離に思える。また、カナダ軍仕様のこの銃には、フル・オートとセミ・オートのセレクターがあって、フル・オートにセットしたら、一分間に約七百発から八百五十発程度連射できるという。とはいえ八百五十発も装填《そうてん》できる弾倉などないので、弾倉はほんの数秒で空になってしまうのだろうが。
とにかくこんなものをフル・オートでぶっ放せば、銃が反動で踊り出し、相手を撃つ前に自分に向けて弾丸が飛んでくるかもしれない。そんなものを女が使いこなせるのだろうかという気がしないでもないが、実射の訓練もしておらず、前日に口頭でコツを教えただけであれだけ拳銃を使いこなせた渚なら、M16も短期間でなんとかするかもしれない、との思いも少しある。
ふと思い立って、史郎は押し入れを開けた。秋月の事務所を襲う前日に手入れして以来、つい銃の点検と整備を怠ってしまった。特に渚が使用した銃をそのままにしておくと、射撃後の残留物で、銃腔《じゆうこう》と薬室が腐食してしまう。発砲しなくても、湿気を含んだ空気や手の汗などはサビの原因になるから、自分やしのぶが持っていた銃も手入れしなければならない。
銃の入っているゴルフバッグを出そうとした史郎は、押し入れの隅にファイルブックが立てかけてあるのに気づいた。なんだろう、これもなにかの計画書かな、と手を伸ばしかけて、思いとどまる。他人のファイルなんて見るもんじゃないよ、と思ったのだ。
まずは、渚が使用したベレッタM8045の手入れからはじめた。
一リットルくらいのお湯をバケツに入れる。それに二十五グラム程度の石鹸《せつけん》を溶かした。銃口部をそのお湯につけ、なかを水洗いする。クリーニング・ロッドやワイヤーブラシがほしいところだが、贅沢《ぜいたく》も言っていられないので、タワシや歯ブラシで代用した。そして布でていねいに水を拭《ふ》き取り、薄く油を塗ってから、可動部に注油した。
次に、自分としのぶが使ったコルトM1911A1の手入れに移る。
スライドやフレームの溝の埃《ほこり》をていねいに落とす。油を染み込ませた布で銃腔を清掃し、別の乾いた布で残った油を拭き取る。銃全体の表面も、いったん布で綺麗《きれい》にしてから油を塗布した。可動部への注油も忘れずに行なう。
コルトパイソン357マグナムと、秋月の事務所から奪った拳銃、銃身2インチのS&WM10の、二丁のリヴォルヴァーにも同様の手入れを施す。そしてM3を、続いてM16を、整備した。
一時間ちょっとかけて、作業を終えた。ふたたび押し入れを開ける。ファイルに目が吸い寄せられた。
膨れ上がる好奇心には抗《あらが》えなかった。渚と同じ部屋で暮らしていて、彼女のことはなんにも知らない――むろん肉体関係もない――という思いが、ファイルに対する興味をより強めたのかもしれない。
後ろめたさを感じながら、こっそりファイルを開いた。
「……なんだこれ」
犯罪計画書ではなかった。絵だ。たぶん、CG。写実的なものではなかったが、ひとりの少年のバストショットが描かれていた。かなりの美少年だ。その絵の右下のほうに、手書きらしいサインが小さく書かれていた。渚の筆跡で、『ヒカルくん』。そのすぐ下に、筆記体で『NAGISA』とあった。『ヒカルくん』というのは、この少年の名前なのだろうか。
ページをめくった。『ヒカルくん』の笑顔。困惑したような『ヒカルくん』。さらにページをめくる。首のない『ヒカルくん』が大きなトレイを持っている。そのトレイの上には、『ヒカルくん』の生首があった。
彼女は絵を描くのが好きだったのか……そう思いながら、史郎はページをめくり続ける。
ひたすら、さまざまなポーズとシチュエーションで描かれた『ヒカルくん』の絵が続いていたが、最後のほうに、一転して写実的な、やたらとリアルな女性の絵が出てきた。これもCGらしい。波打つ長いブロンドの髪の、白人の女だ。髪の根元のあたりは黒いから、これは染めたものらしい。しかしなにより、頭がふたつついているのではないかと思えるほど巨大なバストが圧倒的だった。いやらしいというより、どこかコミカルでもある。例によって『NAGISA』というサインがあり、その上には『Chessie Moore』と、やはり筆記体で書かれてある。このモデルの名前であるらしい。
ページをめくった。前ページと同じ女性の絵だったが、顔はそのままに、体だけが骨になっていた。いや、人間の骨ではない。無骨な、あちこち錆《さ》びた鉄骨を適当に組み合わせ、ロボットの骨組にした、といった感じのものになっていた。念の入ったことに、その鉄骨はところどころネジが抜け落ちていて、赤錆だらけのネジが地面に転がっていた。むろん史郎は絵のことなど皆目わからないけれども、見ているだけで、いやぁな気分になってくる絵だと思った。そのくせ渚は、『Chessie, I wanna be your lover※[#ハート白、unicode2661]』とハートマークすら織り交ぜながら、その絵に大きく書きなぐっているのだった。
「なんだ……? レズか? あの女」
そんな自分のひとりごとが、罪悪感を目覚めさせた。見てはいけないものを見てしまった。そんな気がして、こっそりと、ていねいに、ファイルを元の場所に戻した。
その夜ももこの夢を見てうなされたのは、渚の絵を盗み見てしまったせいかもしれない。
〈きょうはどんな絵を描いたんだ?〉
〈うん、いろいろー〉
〈家に着いたらパパにも見せてくれよ〉
夢の最後のシーンは、あまりと言えばあまりのものだった。立っている九條と青木の前で、堺がももこの首を両手で絞めていた。にやにや笑いながらももこの体を持ち上げ、九條と青木に見せては馬鹿笑いしていた。そしてももこは、鼻血を流しながらこちらを見て、笑ったのだった。
――パパ、待ってたんだよ。どうしてきてくれなかったの。パパが先生のところに行けって言ったからそうしたのにィ――
そしてももこの眼球が飛び出し、首がちぎれた。
ちぎれた首をトレイに載せて、くるくる回るようにして踊りながら、翔子が史郎に近づいた。そして翔子は、すさまじい笑顔のまま、耳打ちした。
――あんたがももこを殺したんだよ――
目の前に九條と青木と堺がいた。堺のひと声で、何十人ものヤクザがわき出てきて、史郎に自動小銃を向けた。
堺が言う。
――おい腰抜け野郎。てめえ、向いてねえんだよ。生きるってことによ――
青木が言う。
――なあ史郎。おまえ、その、なんだ、豚以下だ。豚の糞《ふん》ってところか、なあ?――
そして、九條が言った。
――木島くん。あっちへ行きなさい。馬鹿が移る――
ももこの生首を載せたトレイを片手に、まるでミュージカル俳優みたいに踊りながら、翔子が言う。
――バーカバーカ、ダメ男――
トレイの上のももこの生首が、顔をしかめた。そして、吐き捨てるように言った。
――パパ、最低。死ねば?――
腹を抱えて笑いながら、組員たちが自動小銃の引金を絞った――。
跳ね起きたとき、目から涙があふれていた。肩で息をしていた。
「討ってやるよ。ももこのカタキは……」
枕元に置いてある、池上家の家族写真とウサギのブローチを手に取った。
「討ってやるよ。みんなのカタキを……」
そのために、渚たちに手を貸した。結果的に助けられたかたちになってしまったけれど。だが、今度はうまくやる。
史郎は拳《こぶし》を握り締め、ぼそぼそと呟《つぶや》いた。
「あいつら、皆殺しにしてやるよ……」
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17
「なにやってるの……」
仕事から帰宅した明日美は、玄関のドアを開けるなり棒立ちになった。いつもは明日美の手助けがないと車椅子に座ろうとしない昭久が、自分で車椅子に乗り、なおかつ台所で米を研いでいたからだ。
「……おなか空いたの? あたしが帰ってくるまで待てなかったの?」
あわてて靴を脱ぎ、昭久の腕に手をかけながら、優しく問うた。すると昭久は顔を上げ、笑顔で首を振った。
明日美は混乱した。「じゃあ、なんなの」
昭久は腕を伸ばして蛇口をひねり、手を洗い、拭《ふ》いた。そのまま部屋に向かう。そして布団の上に置いてあるノートとシャープペンシルを手に取ると、なにやら走り書きして明日美に見せた。
『これからは、自分のことは自分でやる。きみに甘えるのはやめる』
「……なに言ってるの!」
胸を掻《か》きむしられるような思いのまま、地団太まで踏みながら、明日美は怒鳴っていた。どうして自分が金切り声を上げたのか、明日美自身にもよくわからなかった。
昭久がまた米を研ぎはじめた。
「やめてよ! あたしがやるよ!」
そんな明日美の腕を、昭久が振り払った。強い力でそうされたわけではなかったし、むしろ、「いいっていいって、ぼくがやるよ」というような、優しい調子でそうされただけだったのだが、明日美は足許《あしもと》が崩れ、落ちて行くような感覚を覚えた。
『もしきみがいなくなったら、ぼくはどうすればいい? 自分ひとりで生きてゆけるようにしなくちゃいけないだろう? 自立できるようにならないと。これからは買い物もぼくがやるから、きみはゆっくり眠っていていいんだ』
「なによ……」
明日美はノートを畳の上に投げつけていた。「なんでこんなこと考えるの! あたしはどこにも行かないよ、馬鹿!」
膝《ひざ》をかがめ、思わず昭久の襟首をつかんでいた。
昭久が、笑った。
その笑顔を目にした瞬間、明日美は理解した。昭久は気づいたのだ。自分が秋月の事務所を襲った犯人の一味だということに。彼が言う、明日美がいなくなるということは、警察に逮捕される、という意味なのだ。
よく考えてみれば、昭久が気づかないほうがおかしいのだ。中華料理の件、明日美が広くて便利なところに引っ越そうと言った件、いつまでたっても減らない借金、昭久が最近明日美の様子がおかしいと気にしていたことなど、昭久が明日美に疑惑を持つ要因はいくつもあった……。
「嫌だ」
そう呟いた。「ずっと一緒だよ、そう約束したじゃないか」
ぽんぽん、と昭久が明日美の背を叩《たた》いた。
明日美は昭久を抱きすくめた――お願いだから、嫌わないで。
「じゃあ三宮さんお先に」
「お疲れ」
「お疲れさまー」
「またあした」
タイムカードを押してあいさつするパート主婦たちに、明日美は軽く頭を下げた。「……お疲れ様でした」
桂たちがいなくなると、さっきまでのけたたましさが嘘のような静寂に包まれた。明日美はフロントの椅子に座り、桂たちがほんとうにホテルから出て行ったかどうかをモニターで確認してから、和室に取って返した。
バッグを開け、白い封筒を取り出す。宛名は明日美。差出人は、埼玉県大宮市の永嶋真理《ながしままり》。消印も大宮である。永嶋真理とは渚の偽名だ。渚はわざわざ大宮まで出向いて、この封書を投函《とうかん》したらしい。
明日美はすでに何度も読み返したその手紙に、あらためて目を通した。
計画は成功した。奪った金は約一千万円、ひとり約二百五十万の取り分となる。明日美にも間違いなく金を渡すから心配しないでほしい――そうしたことが素っ気ない文章で綴《つづ》られている。
問題は、その先だった。
自分――つまり渚――としのぶは、史郎がかねてより考えていた計画に乗ることにした。それはつまり、九條組組長・九條和樹の別荘を襲撃することである。九條和樹の別荘の地下には、少なく見積もって一億近い金が常にプールされている。それを奪う。よって自分は韓国の済州島に、しのぶはグァムに、それぞれ飛ぶことにした。観光客を装って、銃の訓練をするためだ。史郎は自分のマンションに潜伏している。なお、あらかじめ言っておくが、今度の計画は秋月の事務所を襲撃したときのようにはいかない。その場にいたヤクザを皆殺しにする覚悟をしておかなければならない。相手はヤクザだ。金を奪われたら、地の果てまで自分たちを追い詰め、殺すだろう。だから、死にたくなければ相手を殺さなければならない。これは戦争である。計画に荷担するかどうか、自分たちが帰国するまでに結論を出してほしい――渚はそう記していた。
明日美は震える手で、便箋《びんせん》を封筒に戻した。だが、そこだけ大きな字で書かれている「戦争」の二文字が、目に焼きついて離れない。
なにを考えているのだろう、あの連中は――そう思う。このあいだの計画がうまくいったので、慢心しているのではないだろうか。
指名手配され、ヤクザから追われるようになった経緯は詳しく聞いていたから、史郎が九條組に復讐《ふくしゆう》をしたいという気持ちはわからないでもない。しかし、なぜ自分たちがその計画に加わらねばならないのだ。いつかしのぶが言っていたように、相手は犯罪のプロである。そんな暴力組織に、中年女ふたりと二十歳そこそこの小娘が戦いを挑んで勝てるわけがない。たしかに史郎は元ヤクザだけれども、明日美には、あんな情けない男と組んでどうなるというのだという気持ちが強い。このあいだのことだって、渚のほうがよっぽど頼り甲斐《がい》があった。いや、渚がいなかったら、あの計画は失敗に終わっていただろう。しかも今度は、殺人も辞さないという。そのために外国まで行って、銃の扱い方をマスターしてくるという。たかが一億円のために、なんだって殺人犯人にならなければならないのだ。いくらヤクザとはいえ、どうして何人もの人間の命を奪わなければならないのだ。たかがお金のために。それでは自分たちは、ある意味でヤクザ以上の凶悪犯ではないか。明日美には、渚としのぶは頭がおかしくなったとしか思えなかった。
それに明日美は、もう犯罪に荷担する気はなかった。昭久に嫌われたくない。
封書を仕舞い、コーヒーでも淹《い》れようかと思っていたら、チャイムが鳴った。客だ。明日美はフロントに戻り、モニター画面に目をやった。
駐車場に一台の車が乗り入れていた。明日美はパソコンで、いまあいている部屋をチェックする。ふたたびモニター画面に目を転じる。男がひとり車から降りてくるところだった。連れはいない。嫌な予感がした。
明日美は和室のテレビ台にスタンガンを取りに行こうとした。その前に、自動ドアが開く音が聞こえた。溜《た》め息をつき、腰を下ろす。
「三宮さん」
フロント前に立った男が、ぼそりと声をかけた。「本庁の隅田だけど」
全身が硬直した。
「ちょっと聞きたいことがあるんだがね。なかに入れてくれないか」
「……関係者以外立ち入り禁止ですから」
咄嗟《とつさ》にそう答えた。
「おい。俺は警察だぞ」
相変わらず横柄な男だ。
「決まりですから。申し訳ありません」
隅田が舌打ちした。きっとこの黒いガラスの向こうでは、あの陰険で好色そうな目が、不快そうにしかめられていることだろう。
「あんた、ここの社長の事務所が襲われたとき、現場にいたそうだね」
前置きもなにもなく、隅田が切り出した。顔が引きつるのが自分でもわかる。隅田と相対しなくてよかったと心底思った。
「そのことなら、さんざんほかの刑事さんに聞かれましたけど」
「なら、俺にも話してくれたっていいだろう」
明日美は溜め息をついた。「……いましたよ」
隅田が喉《のど》の奥で笑った。「こないだの共立銀行の件といい、二度も続けて強盗の現場に居合わせたなんてね。運がいいのか悪いのか」
「悪い、ですよ」
さりげなさを装うのはかえってまずいような気がして、緊張を隠さず、明日美は言った。自分は被害者であり、犯人に狙撃《そげき》されたのだから、あの事件のことは思い出したくもないし、それでなくても刑事を前にして緊張している――という立場を取ったほうが、むしろ自然だろうと判断したのだ。
「犯人は、男ひとりと女ふたりの三人組だそうだね。間違いないかね」
「ええ、たぶん」
「たぶん?」
「その……オカマさんかもしれないから」
警察の捜査がそれてくれないかという期待混じりに、そんな思いつきを口にした。
「たしかにそうだよな。ひょっとしたら三人とも性転換していて、戸籍上では、女ひとりと男ふたりの三人組かもしれないもんな。あるいは、実は男の三人組だったとか、女の三人組だったとか、さ」
そして、隅田は嘲笑《あざわら》うような声を上げる。「あんた、名探偵だね」
明日美は無言で、目の前の黒いガラスと、鍵《かぎ》の受け渡し口から覗《のぞ》ける、毛むくじゃらで太く短い隅田の指とを見つめていた。その両指が組み合わされた。そのまま隅田は、手のひらをすり合わせるように動かした。手を離す。手のひらに浮いた垢《あか》を隅田が払い落とすのが見えた。鳥肌が立った。
「ここのパートさんたちは、事務所を襲ったのは江田って男と関口って女、そしてそのふたりの仲間の女だろうと言ってるそうだが、あんた、どう思う?」
それは知らなかった。どうやら桂たちは、明日美の期待通りの推測を警察に話しているようだ。だが、そうです、と言える状況ではない。江田と面識のある秋月たちは、史郎の声も聞いているから、あれが江田だとは思っていまい。また秋月は菜穂子とも面識がある。渚としのぶ、そのふたりのうちどちらかを菜穂子だと勘違いするほど、彼は間抜けではないだろう。なのに明日美が、犯人は江田と菜穂子であると主張したら、彼らの証言と齟齬《そご》が生じてしまい、自分の首を絞めることになる。
「別人だと思います」
と、明日美は答えた。「声が全然違いました」
「犯人の女は、あんたに向けて発砲したんだって?」
「……ええ」
「怖かったろ」
「そりゃあ……」
「たいていの人間は、生まれてはじめてハジキ向けられて、しかもぶっ放されたりしたら、頭ンなかが真っ白になって、なにがなんだかわからなくなっちまうことが多いんだよな。なのにあんたは、犯人の声が江田や関口の声じゃないって判断できるくらい、冷静だったわけだ」
ほんの一瞬だけ、言葉に詰まった。「……声の違いくらい、いくら怖くても、その、わかりますよ。あたし、江田さんの声も関口さんの声も、毎日聞いてたわけですから」
「ああそう」
隅田が、鼓膜に絡みつくような、そしてどことなくサディスティックな響きを伴った笑い声をもらした。「現場にいた、あんた以外の人たちも、犯人は江田でも関口でもないって言ってるそうだ。よかったな、証言が一致して」
露骨な嫌味だと思った。
「ところで三宮さん」
「はい」
「あんたのまわりに、ヤクザはちらついていないかね」
史郎の顔が脳裏に浮かんだ。「いえ、全然」
「秋月の奴――いや失礼、お宅の社長さんね、九條組とつきあいがあるんだろうね。ここのおしぼりだって、九條組の幹部が経営している会社からレンタルしているわけだし」
「さあ。そういうことには興味ないものですから」
「秋月が事件の解決を九條組に依頼する、なんてことは考えられないかね」
「ですから、そういうことはわかりません」
「いやね、きょう奥多摩の山のなかで、脳天カチ割られた男の死体が発見されたんだよ。道路脇の藪《やぶ》のなかに放置されてて、もうほとんど腐ってたそうだがね。で、どうもそいつ、江田らしいんだな」
絶句した。
「本名は山野《やまの》っていうんだけどさ。ねえ三宮さん。ここのパートの人が言ってるように、九條組が江田を臭いと睨《にら》んでだよ、奴を始末したとは考えられないかね」
「いま刑事さん、おっしゃったじゃないですか。社長もみんなも、犯人は江田くんじゃないって言ってたって」
「江田が後ろで糸を引いていたと、秋月なり九條組なりが解釈したとしたらどうかね。それで九條組の連中は江田を探し出して、吐かせようとした。あげくの果てに始末した。そう思わないかね」
明日美は隅田に気づかれないようゆっくりと、そして静かに、息を吐いた。「もしそうだったら、怖い話ですね」
「そうなりゃ当然、九條組のヤクザどもは関口も狙うわな。なにしろふたりがここを辞めたタイミングがよすぎたからね。ところがだ。関口も江田同様、履歴書に書いた住所も電話番号もでたらめだったわけだよ。関口菜穂子ってのも、偽名だろうな」
「そうですか」
隅田が笑った。「驚かないのかね」
「ここ、そういう人、珍しくないですから」
「へえ、そうかい。ま、あんたはそうかもしれんが、ほかの人間――たとえば九條組の連中は、関口菜穂子を臭いと思うだろう。それだけじゃない。奴らがあんたにも疑いの目を向けたらどうなるだろうね」
隅田の毛むくじゃらの手に、心臓をわしづかみにされたような感覚を覚えた。
「まあ、せいぜい身のまわりには気をつけることだな」
「……ええ」
「ところで犯人だけどさ、男以外は英語をしゃべってたんだって?」
「……みたいですね。あたし中卒で、その中学もろくに行ってませんから、よくわかりませんけれども」
「要するに、不法滞在しているアジア系の不良外国人の仕業にでも見せかけたかったんだろうな。ありふれた手だ」
すっかり見抜かれている。
「でもな、もし犯人の狙いがそれだったとしたら、犯人はかなり間の抜けた奴だな。英語じゃなく、いかにも外国人が覚え立ての言葉を口にしているような片言の日本語で話すべきだったんだ。そう思わないかい?」
言われてみればまったくその通りのように思えてきた。どうして自分たちは、計画を立てているとき、それに思い至らなかったのだろう。歯痒《はがゆ》い。
「秘書の迫水澄子。彼女、昔英会話スクールに通って、英語かじった経験あるんだとさ。その迫水澄子が言ってたそうだよ。ネイティヴみたいに発音がよくて、やたらめったらスラング混じりの英語だったって」
「そうなんですか。あたし、ネイティヴとかスラングとかも、なんのことか……」
「でもな」
明日美の言葉をねじ伏せるように、隅田が続ける。「ネイティヴみたいだったって言うんなら、アジア系の不良外国人、つまり英語圏以外で暮らす人間がしゃべったにしては、発音がよすぎるとは思わないか? それにそういう人間なら、もっと綺麗《きれい》なって言うか、まともな英語しゃべりそうなもんだろう。そう思わないか?」
「……ですから、あたしはそういうの、わからないんです」
「外国の日本語学校で日本語勉強してる外国人は、日本人より正しい日本語話すらしいぜ。日本でもさ、英会話スクールなんかで、ファックだのシットだのビッチだのディックだの、教えるとは思えないんだよな」
この男は、なにを言いたいのだろう。
「香港は?」
ふと思いついて言ってみた。「香港はたしか、ええと……」
「あそこはイギリス領だったんだろう。俺は詳しくないが、香港の人間がしゃべるとしたら、キングス・イングリッシュに近い英語を使うんじゃないかね。アメリカの英語とイギリスの英語は、ずいぶんと違うんだぜ」
「フィリピンはどうですか。フィリピンは英語教育が徹底してるって、聞いたことがあります」
以前テレビで見聞きした情報にすぎなかったが、嘘とは思えなかったので、そう言ってみた。
「男は、外国|訛《なま》りのない日本語をしゃべったそうじゃないか」
「男は日本人で、ピストル撃った女はフィリピン人だったとか」
「その可能性もあるだろうが、こうも考えられるんじゃないかね」
低い、しかし強い口調で、隅田が言う。「犯人のうち、リーダー格と思われる奴は、アメリカ英語に慣れ親しんだ人間である、子どものころアメリカに住んでいた人間である、つまり帰国子女である、と」
冷房が利いているにもかかわらず、額を汗が流れる感触があった。
「あんた、藤並渚、覚えてるだろう?」
ずん、と全身の血が冷えてゆくような感覚に襲われた。
「彼女、帰国子女なんだよね。知ってた?」
「……いえ、全然」
ほんとうだった。
「へえ、そうかい」
隅田が声帯全体を痙攣《けいれん》させるような音をもらした。それが笑い声であると気づくのに、数秒かかった。
「そういえばさ、共立銀行の例の事件のとき、俺がまとめて事情聴取した人間、あんたと藤並渚のほかに、もうひとりいたよね。たしか、葉山しのぶっていったっけなあ?」
助けて――頭のなかでそんな声が響いた。助けて、アキちゃん助けて。
ひと息ついて、隅田が続けた。
「犯人は車で……もちろんこの車は盗難車だったらしいが、車で逃走したそうだね。よくあるパターンとしては、別の場所、中継地点だな、そこにもう一台車を用意しといて、中継地点で車を乗り換え逃走する、というのがある。目撃証言などから、犯人が逃走に使用した車の車種はたいてい割り出せる。つまりその車はすぐに警察が手配するから、その前に、別の車に乗り換える必要があるわけだ」
渚がそうしたことを話していたのを思い出した。彼女なら、そんな初歩的なミスはしていないと思うが……。
「しかしだね」
と隅田が言う。「盗難車が乗り捨てられた地点が犯人たちにとっての中継地点だとすれば、犯人たちは、あらかじめその場所に車を停車させていたことになるだろう? そこで、だ。まず、現場からその中継地点まで車で行ける時間を割り出す。次に、事件発生前に駐車していて、いま言ったやり方で割り出した時間の前後に姿が見えなくなった車を割り出す。となると、犯人が用意していたもう一台の車の車種も割り出せる。うまくいけばナンバーもね。犯人が三台、四台と車を用意しておいて、つぎつぎ乗り換えたとしても、同じことを繰り返せば、いずれは犯人が最後に使用した車に辿《たど》り着くことができる――しかし秋月の事務所を襲った犯人は、その手を使わなかったらしいんだな」
それも初耳だった。そもそも明日美は、犯行計画の詳細を聞かされていないのだ。
「犯人は電車で逃走したそうだよ。盗難車を駅まで走らせ、乗り捨てる。そしてそこから電車に乗った。おそらく、まっすぐ目的地に向かうようなヘマはやっていないだろう。次の駅ででも降りてタクシーに乗り、そこからまた別の路線の電車に乗って……ということを繰り返したと、俺は思うね」
安堵《あんど》した。それならだいじょうぶだと思ったのだ。
「だがね……さっき言ったように、現場から駅までの、車での所要時間、それを割り出し、事件発生時刻にそれをプラスするとしよう。その時刻に駅に現れた人間を片っ端から洗うという手もあるわけだ。さらに言えば、次の駅で犯人たちがタクシーに乗ったとしたら、その駅あたりを流しているタクシーを虱潰《しらみつぶ》しに当たれば、犯人を乗せた運転手が見つかるかもしれない」
明日美は黙っていた。なにも言えなかったのだ。
「その聞き込みの際、試しに藤並渚と葉山しのぶの写真でも使ったら、どうなるだろうね」
「どうにもならないと思いますけど」
なんとかそう言い返すことができた。「聞き込みでもなんでも、お好きになさったらいかがですか」
「ほう。自信たっぷりって感じだね」
「ええ。だって、藤並さんと葉山さんが犯人だったら、あたしにはすぐにわかったはずです」
「あんたが共犯じゃなかったらな」
「あたしは殺されかけたんですよ」
隅田が笑った。「そうだったな」
「…………」
「さて、と……夜中にお邪魔して悪かったね」
鍵の受け渡し口から、隅田の毛むくじゃらの手が消えた。「俺はその事件の担当じゃないから、なかなか時間の都合がつかなかったんだよ。勘弁してくれや」
声が遠ざかってゆき、自動ドアが開く音がそれに続いた。
明日美はモニターに顔を向けた。隅田が車のドアを開けていた。彼の車がホテルの敷地を出ていってからも、明日美はしばらくのあいだ、モニター画面から目を離すことができなかった。
隅田はもう戻ってこない、そう確信したとき、深い溜《た》め息がもれた。同時に明日美は、全身が汗でびっしょり濡《ぬ》れており、体が震えていて歯ががちがち鳴っていることに、はじめて気づいた。
あの男はすべて感づいている。泣きわめきたい気分だった。
落ち着け――自分にそう強いる。落ち着け、落ち着け、落ち着け!
和室に戻ってインスタントコーヒーを淹《い》れた。マグカップを口に運んでひと息つく。ほんの少しではあれど、冷静になれたような気がした。
あの男はいったいなんなのだろうと、明日美は思った。よく考えてみれば不自然だ。
〈俺はその事件の担当じゃないから……〉
隅田はそう言っていなかったか? そういえば隅田が事件について話した内容は、ほとんどすべて、伝聞形で語られていたような気がする。なのにどうして、あの男は秋月事務所の事件に首を突っ込むのだろう。そもそも、なんであの男はひとりだったのだ。刑事は通常、ふたりひと組で行動すると聞いたことがあるが……。それに、もし自分たちを疑っているとしても、刑事が証拠もなしに、ひとりでのこのこ容疑者のところに顔を出し、おまえを疑っているぞ、というような言動を取るだろうか。
電話が鳴った。体がびくんと反応し、手にしていたマグカップのなかみがテーブルの上に飛び散った。
明日美はフロントの電話に駆け寄り、受話器を取った。明日美より先に、相手が口を開いた。
『もしもし、夜分遅くに申し訳ございません、楢崎《ならさき》工務店さんですか?』
史郎の声。ホッとした。
一生懸命覚えた、渚の作った暗号を頭のなかで検索する。楢崎工務店さんですか? というのは、こちらは順調だ、その後変わりはないか、という意味のはずだ。
「いえ、違います。何番におかけですか?」
警察が動いている。しばらく自分に接触するな。そういう意味の暗号を口にした。明日美は被害者の立場にあるとはいえ、犯人は内部の事情に詳しい者に手引きされた、と警察が判断する可能性がある。よって渚が、こうした暗号も作っていたのだ。
史郎が息を呑《の》む気配が伝わってきた。
「何番におかけですか?」
繰り返した――あたしに接触するな。
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18
多田真寿夫は、ゆっくりと玄関のドアを開けた。ひさびさに吸う新鮮な外の空気と、アパートのすぐそばを通る私鉄の電車の音、そして「お待たせしましたあ」という出前持ちの声とが、一斉に部屋のなかに流れ込んできた。
真寿夫を見るなり、若い出前持ちの表情がいくぶん引きつったように見えた。いまにも、うげっ、というような声をもらしそうな表情だと、真寿夫は思った。真寿夫が松葉杖《まつばづえ》をついているからだろうか。パンツ一枚の半裸だからだろうか。それとも、真寿夫が暴力団員だと気づいたからだろうか。
「……ええっと」
出前持ちは、あからさまに真寿夫から目をそらした。「カツ丼、ニラレバ炒《いた》め、味噌《みそ》汁、二人前ずつでしたよね?」
真寿夫は一万円札を突き出した。「釣りはいらねえ。とっとけ」
「……あ、どうも、ありがとうございます」
片手を頭の後ろに載せた出前持ちが、ぺこぺこと頭を下げる。「あの、皿は玄関にでも……」
「わかったから、とっとと帰れ」
「はあ、毎度どうもー」
言葉の調子だけは明るかったが、出前持ちは顔を歪《ゆが》ませたまま、逃げるようにして玄関から出て行った。
「おい、飯だ。取りにこいよ」
奥の部屋に声をかけた。
目の下に隈《くま》ができている相原マユミが、のっそりと青白い顔を見せた。さっきまでは全裸だったが、いま出前持ちがきたからだろう、素肌の上に夏用のワンピースを着ている。
ガニ股《また》になったマユミが皿を運んでいるあいだ、真寿夫は洗面所の鏡を覗《のぞ》いてみた。マユミ同様、顔色が悪く、隈ができている。どう見ても病人の顔だ。だが、目だけはぎらぎらと輝いている。それであの出前持ちは、気味悪そうな表情を浮かべていたわけか。
冷房の利いた部屋に戻ると、マユミがテーブルの上に丼や皿を並べていた。そして生気のない目を真寿夫に向ける。「あんた、お茶淹れようか」
「ああ」
ここ十日ばかり、ろくに食事も摂《と》らず、覚醒《かくせい》剤を注射しては快楽に溺《おぼ》れていたせいか、目の前に並んだ料理を見ても、食欲はまったくわかなかった。むしろ吐き気がした。それはマユミも同じらしく、彼女はカツ丼をひと口食べて、すぐ割り箸《ばし》を放り出してしまった。
「食えよ」
「……食べたくない」
「無理してでも食えって」
マユミを抱き寄せた。そして唇を押しつけた真寿夫は、舌を使って、自分が咀嚼《そしやく》したものをマユミの口のなかに流し込んだ。マユミが喉《のど》を鳴らしてそれを飲み込んだ。
「おいらにも食わせてくれよ」
マユミはとろんとした目でレバニラ炒めを口のなかに放り込み、もぐもぐと噛《か》み砕くと、真寿夫の首を抱いて唇を重ねた。マユミの唾《つば》にまみれたレバニラ炒めが少しずつ送り込まれてくる。
それを何度か繰り返すうち、真寿夫はまた興奮してきて、マユミを押し倒した。
「ねえ……ちょっと待って。まだ血が出てるから」
連日覚醒剤を射《う》っては、一日十時間以上も求め合っているのだ。あまりに酷使したため、マユミのその部分はきのうから出血していた。それは真寿夫のものも同じなのだが、クスリのせいか、痛みはまったく感じない。
「飯食ってからな、飯」
自分に言い聞かせるように、真寿夫は何度もそう繰り返した。
それにしても――と真寿夫は思う。覚醒剤を注射してするセックスがこんなに気持ちのいいものだとは知らなかった。なにも射たずにやるそれとは百倍も千倍も違う。二時間でも三時間でも平気で続けられるし、射精の瞬間の快感ときたら、言語を絶する素晴らしさだ。ふつうのセックスなんて、もう馬鹿馬鹿しくてやる気がしない。こんなことなら、組の言うことなど聞かず、昔からやっておけばよかった。
堺は、この女を殺せと言う。二、三度抱けばどんな女でも飽きるだろう、それまで好きにしていいが、飽きたら始末しろよ、と言い含められている。最初は真寿夫もそのつもりだった。だがいまではマユミを手放す気が失せてしまっていた。こんな従順な女がほかにいるものか。覚醒剤さえ渡せば、なにも言わずに、どんな無茶な要求だって飲んでくれる。このままふたりで、覚醒剤を射ちながら、死ぬまで交わるつもりだった。いま殺されても笑って死ねると、真寿夫は本気で思った。
たっぷり時間をかけた食事を終えると同時に、マユミは四つん這《ば》いになって畳の上を這い、敷きっ放しになっている湿った布団の枕元に手を伸ばした。そこには、覚醒剤の包みと注射器、そしてゴムバンドなどが置いてある。
「ああ、もういくつもないよォ……」
マユミが悲痛な声を上げた。真寿夫は横になると、四つん這いの彼女のワンピースの裾《すそ》をまくりあげ、臀部《でんぶ》を両手で大きく割った。そして、もう幾度となく真寿夫を受け入れ、すっかり開いてしまっている薄飴色《うすあめいろ》の肛門《こうもん》に舌を這わせた。
「心配ねえって……兄貴からもらってきてやるよ……」
そのまま彼女の股間《こかん》に舌を伸ばした。滲《にじ》んでいる血をていねいに舐《な》め取った。
マユミが喘《あえ》いだ。「……ちょっと待って、シャブ射つまで待って」
「射ったら、すぐおいらに回せよ。今度は五時間くらいぶっ通しではめまくって……」
呼び鈴が鳴った。真寿夫は舌打ちした――だれだ、こんなときに。
「……あんた、お客さんだよォ」
「無視しろって」
「でもォ……」
ドアがノックされる。マユミが覚醒剤を掛け布団の下にスッと隠した。
松葉杖を持つのも面倒だったので、そのまま片脚を引きずって玄関に向かった。そして「だれ!」と声をかける。ほとんど怒鳴り声だった。
明るい調子での、宅配便です、という返事が返ってきた。ドアスコープから覗くと、たしかに宅配便の制服を着た若い女が立っていた。
真寿夫は口許を緩めた。この女も引っ張り込んでシャブ漬けにして、三人で楽しんでやろうか。
ドアを開けた。開けるなり女の腕をつかみ、引きずり込むつもりだった。だがその前に、なんと女が体当たりしてきた。混乱した。真寿夫は女の体ごと上がり框《かまち》に転がった。女が体当たりしてきたのではなく、だれかが女を後ろから強く押したのだと気づいたのは、そのときだった。
「おとなしくしろ」
ドアが閉まると同時に、そんな声が聞こえた。視線を向ける。頭が丸坊主になっていたから一瞬わからなかったものの、木島史郎が、真寿夫にオートマティックの拳銃《けんじゆう》を向けていた。
なんだおめえ……そう怒鳴ったつもりだった。しかし口からは、あ、あ、あ、といった吐息混じりの声が、断続的にもれただけだった。
真寿夫は宅配便の女の体を振り払い、そのまま床を這って部屋の奥へ逃げた。
「真寿夫、逃げるな、撃つぞ!」
それは真寿夫のよく知っている史郎の声とは、多少違っていた。思わず体がすくんでしまうような殺気が感じられた。
おまえ、ほんとうに史郎か? そう聞きたかった。史郎なら、こんな恐ろしい声は出さないはずだ。もっとおどおどした、気弱そうな声を出すはずだ。さっき史郎と見えたのは、自分の目の錯覚かもしれない。
うつぶせの姿勢のまま、ゆっくりと振り向いた。両手を挙げて震えている宅配便の女を盾にして立っている男。間違いなく史郎だった。だがその表情からは、あの温和そうな雰囲気が、綺麗《きれい》さっぱり消え失せていた。
「どけよ」
言って、史郎が宅配便の女を突き飛ばした。女は、小さい叫び声と共に畳の上に転がった。
「あんた、動くなよ。両手、頭の上に載せて、顔、畳につけてろ」
女が言われた通りの姿勢を取った。手足が小刻みに震えている。
「……だれだ?」
布団のほうにちらちらと目を向けながら、史郎が聞いた。半裸のマユミが、両手で頭を抱え、布団の上に丸くなっている。その口からは、ひいい……ひいい……というようなかすれ声がもれていた。
真寿夫は答えた。「あ……相原の女房だよ」
「相原?」
史郎の眉《まゆ》がひそめられた。「相原って……海渡組の相原さんか?」
「……そうだよ」
「相原さんの女房が、なんでこんなところにいるんだよ」
「……兄貴が連れてきたんだよ」
史郎が、汚物でも見るような目を真寿夫に向けた。「それでおまえがオモチャにしたってわけか」
「兄貴がやれって言ったんだよ!」
「相原さんは」
「し、知らねえよ、知るわきゃねえだろ!」
「なにムキになってんだよ、おまえ」
真寿夫は思わず視線をそらした。
「真寿夫」
「なんだよ!」
「組はどうなった」
「……おめえ、絶縁されたんだろ、もう他人じゃねえか、おめえに教えるわけねえだろうが!」
なにもびびることはない。ちょっと顔つきが変わったと言っても、組と警察から逃げている緊張感が面に出ているだけに違いない。こいつはあの気弱で根性なしの木島史郎だ。ちょっと凄《すご》めば、尻尾《しつぽ》を巻いて逃げ出すに決まっている。そう思って、睨《にら》み返してやった。
顔面を蹴《け》られた。
「……なにすんだおめえ!」
「組はどうなった。答えろ」
「知らないね」
「親父はどうしてるんだ。九條だよ」
「ヤクザモンが親売るわきゃねえだろうが、馬鹿野郎!」
「ああそうかい。じゃあ、ほかの奴に聞けばいいな」
史郎が右手の親指でセーフティを外した。
真寿夫は息を呑《の》んだが、精いっぱい強がって見せた。「お、おめえみてえな腰抜けに、人を撃てるわけねえだろ」
史郎は無言のまま拳銃の遊底《スライド》を引いた。
銃口を向けられた。
真寿夫はあわてた。「言う! 言う言う言う、言うって!」
話せ――史郎が目だけで伝える。
「か、鹿沼とは手打ちになって、朝倉の三代目、親父が継ぐことになった……朝倉の幹部会も、石黒の最高幹部会も、全員一致で了承したから……」
「それで。親父はどこにいるんだよ」
「日本にはいねえよ……外国だよ……外国で襲名披露と総長|賭博《とばく》やるって」
「総長賭博か」
気のせいか、史郎がにやりと笑ったように見えた。「で? 外国ってどこだ」
「よ、よく知らねえよ……台湾とか韓国とか香港とかタイとかフィリピンとか……そのあたりじゃねえのか」
「いつ帰ってくるんだ」
「おいらみたいな下っ端、そんなこと知らねえって!」
「おい史郎」
突然の堺の声に、真寿夫は仰天した。
それは史郎も同じだったらしい。彼は驚愕《きようがく》の表情で玄関のほうへ振り返った。
次の瞬間、続けざまの銃声と共に、史郎の体が吹っ飛んだ。胸に数発被弾したようだ。史郎はそのまま壁に叩《たた》きつけられ、体を痙攣《けいれん》させた。
宅配便の女が、そしてマユミが、悲鳴を上げた。
「あ……兄貴」
玄関を抜け、土足のまま上がってきた堺と、堺の舎弟である中山の姿を目にした途端、真寿夫は安堵《あんど》の声をもらした。
堺が怒鳴った。「この大馬鹿野郎が! 注射なんぞやって女にうつつ抜かしてやがるから、こんな腰抜けにつけ入れられるんだよ!」
真寿夫は呆然《ぼうぜん》と堺を見た。どうして兄貴はそんなことまで知っているのだろう――。
「おい中山。チャカ貸せ」
史郎を撃った銃を腰のホルスターに仕舞った堺は、中山の銃を受け取り、セーフティを外した。
「だいたいよ、こいつ、いつまで生かしとくんだよ。早《はえ》えとこ殺《と》っちまえよ、こんなもん」
堺は、布団の上でぶるぶる震えているマユミを睨みつけ、遊底を引いた。
「てめえ、史郎の女房は三日で飽きて、すぐ始末したくせによ。そんなによかったのかよ、この女。それとも、情でも移ったのかよ。え?」
「い、いえ、その、デークラででも働かせて……」
「いらねえよ、こんな頭のいかれたシャブ中の年増」
言うや否や、堺はマユミに銃口を向けた。
マユミが力ない声を上げて逃げようとする。
銃声。立て続けに四度響いた。
「ああ……」
真寿夫は、絶命したマユミに取りすがった。両手が血だらけになった。裂けた腹部から内臓が飛び出している。真寿夫はそれらをマユミの体に押し込もうとした。戻してやらないと、腹が空っぽになって、マユミがかわいそうだと思ったのだ。
背後から、堺の笑い声が聞こえた。「真寿夫。てめえ変態か? 内臓いじって勃起《ぼつき》してんじゃねえよ」
振り返る。頬を張られた。
「なんだその目は。文句あんのか?」
「……いえ」
堺は、ホルスターから拳銃《けんじゆう》を引き抜き、真寿夫に押しつけた。「真寿夫。おまえこれ持って警察行け」
「え……え?」
「いきなり押し入ってきた史郎が、こっちのチャカで、おまえの女殺した。だからおまえは反撃して、このチャカで史郎をハジいた。そういうこった」
「そんな、兄貴……」
「石黒組が総力上げて追ってる奴のタマ取ったんだ、立派な勲章じゃねえか。務めから帰ってきたら、おまえ石黒組の若頭補佐になれるよ」
「若頭補佐……」
なんて甘美な響きだろう。
そのとき真寿夫の視界の隅に、妙なものが映った。宅配便の女が、伏せたまま、制服の前ボタンをゆっくりとはずしていたのだ。
――なにやってるんだ? あの女……。
「おい、姉ちゃんよ」
堺が、宅配便の女に顔を向けた。
同時に、女の手の動きが止まった。
「あんたにゃあ悪いが、とんでもねえとこ見られたんでよ、このまま眠ってくれや。恨むんなら、そっちで死んでる男を」
たぶん堺は、そのあと、恨みな、とでも続けるつもりだったのだろう。だがその表情が一瞬にして強張《こわば》った。
その瞬間、真寿夫も堺の思いを理解した。さっき史郎はたしかに被弾した。しかし、一滴の血も流れなかった。つまり彼は、防弾チョッキをつけていたのではないか……。
堺がそのまま体を反転させて、史郎に銃口を向けた。それと、史郎が跳ねるように上半身を起こしたのは、ほぼ同時だった。
動いたのはふたりだけではなかった。伏せていた宅配便の女が、懐に手を突っ込み、銃身の短いリヴォルヴァーを引き抜いたのだ。それもまた、史郎や堺の動きとまったく同時だった。
頭が混乱した。
銃声が轟《とどろ》き、ぎゃっという悲鳴と共に、堺の体が宙を舞った。堺や史郎より早く、女が引金を絞ったのだ。
女はそのまま、呆然《ぼうぜん》としている中山をも撃った。
中山のスーツの腹部が、まるで爆発したように血と肉片を吹き上げるのを見て、真寿夫は言葉を失った。
飛び起きた史郎が、堺が落とした拳銃を拾い上げてから、倒れた堺の横っ腹を蹴り上げた。そして堺の首根っこを左手でわしづかみにする。
「起きろ、堺!」
史郎が怒鳴った。そして堺の背中を壁に押しつけ、ずるずると引きずり起こした。
「……史郎てめえ、だれに向かって口きいてんだ」
「おまえだよ、堺」
堺の鼻のあたりを、史郎が銃把で殴った。堺が、ぐう、というような声を上げた。間違いなく堺の鼻の骨は折れただろう。
「見ろよ堺、見ろ!」
血まみれになった顔面を押さえて崩れ落ちた堺の鼻先に、史郎がなにか小さいものを突きつけた。ブローチのようだった。
「……なんだそりゃ。馬鹿か、てめえ」
史郎の頬がぴくぴくと痙攣した。彼は銃を堺の腹部に向けると、引金を二度引いた。そのたびに堺の体が跳ねた。堺は、もう悲鳴を上げることすらできないようだった。
そんな堺を、史郎がふたたび引きずり起こす。
堺はまだ生きていた。史郎に血走った目を向け、なにか言おうとしている。が、口から大量の血|反吐《へど》があふれて、言葉にならないらしかった。
金髪の半分くらいがどろりとした血で赤く染まった堺の顔面に、銃口が突きつけられた。
「ももこを返せ!」
絶叫と共に、史郎が撃った。撃ち続けた。堺の顔が跡形もなくなり、弾丸がなくなったあとも、かちかちかち……と撃鉄が空を打つ音が、いつまでも聞こえた。
堺の血と脳漿《のうしよう》を浴びた史郎が、肩で息をしながら、赤鬼のような形相をこちらに向けた。
「真寿夫ーッ!」
大声を張り上げ、史郎が飛びかかってきた。怒っているというより、号泣しているような声に聞こえた。
われに返った真寿夫は、這《は》いつくばった姿勢のまま、さっき堺に押しつけられた拳銃をあわてて構えようとした。だがその前に、史郎に顔面を蹴《け》り上げられ、銃を取り落としてしまった。
あっという間に、うつぶせの格好で組み伏せられる。
「真寿夫、どういうことだ! 俺の女房おまえが殺したって、どういうことだよ!」
「うるせえ、離せ、離せよ、痛えんだよォ……!」
「いま堺が言ってたじゃないか! 言え! 言わないとおまえも殺すぞ!」
史郎が、腰のあたりからもう一丁の拳銃を引き抜いた。銃身の太いリヴォルヴァーだ。それを、こめかみに突きつけられた。
「言えよ真寿夫、言え!」
「……大将が……」
「青木が?」
「大将が、あの翔子って女は史郎にはよくないって……あんな派手好きの女がついてたら、史郎は流されちまって、典型的なヤクザモンになっちまうって……だからあの女どうにかしろって言われた兄貴が、翔子を口説いて……金見せて、贅沢《ぜいたく》させてやるから亭主と娘捨てろって言ったら、ふたつ返事でひょいひょいついてきたって……」
「嘘だ! じゃあ、あの置き手紙はなんなんだよ、翔子が書いた置き手紙は!」
「兄貴が書かせたに決まってるじゃねえか……」
「それでおまえがオモチャにしたのか……あの人みたいに!」
マユミのことか。
「……いいじゃねえかよ……どうせ風呂屋《ふろや》で働かせてたんだろう……体売らせて、おめえそれで食ってたんだろうがよ……」
「う、うるさい! 黙れ!」
後頭部を殴られた。
「翔子はどこだ。どこに眠ってるんだ」
「知らねえよ……始末して、ガスが溜《た》まって浮き上がらねえよう腹裂けって言われて……あとは兄貴がどこかに沈めたよ……」
「おまえ、同じ釜《かま》の飯食った仲間をよく裏切れたなあ!」
なにが仲間だ、と真寿夫は思う。
自分より冴《さ》えない役立たずのくせに、史郎は九條に気に入られ、矢野に可愛がられ、ふつうの仕事を与えられた。悔しかった。いまのいままで拳銃に触ることすら許されなかった真寿夫と違い、史郎は矢野から射撃のレクチャーを好きなだけ受けられた。憎らしかった。自分と違い、史郎には家庭があった。家には女房と子どもが待っていた。いつも赤ん坊の写真を持ち歩いていた。幸せそうに見えた。だから許せなかった。
「No more asshole」
突然の女の声。後頭部に衝撃を受けた。マユミが残したカツ丼の、冷たくなった飯や卵や玉葱《たまねぎ》、そして齧《かじ》りかけのトンカツが、うなじや耳の後ろから、ずるずると滑り落ちてくる。丼を叩《たた》きつけられたらしい。意識が遠くなりかけた。
「いつまで呑気《のんき》におしゃべりしてるんだよ。警察くるよ」
女の声。無機的な声。
「さっさと殺しちゃいなよ、こんなもん」
言って、女が低く笑った。さっきの堺の真似をしているつもりらしい。
仰向《あおむ》けに体をひっくり返された。
「Fuck it」
女の声。股間《こかん》にすさまじい衝撃を受けた。蹴り上げられたのだ。呼吸が停まる。全身が硬直する。女はそのまま、真寿夫の股間を踏みにじる。悲鳴を上げることすらままならない。
かすみつつある視野のなか、宅配便の女が、真寿夫の眉間《みけん》にリヴォルヴァーの銃口を向けている。蛇みたいな目だと思った。
女は真寿夫の目を凝視したまま撃鉄を起こした。その音と同時に、生気の感じられなかった目が急速に輝きを帯びた。
そして女は、にっこり笑った。童女のような笑みだった。
「Adios」
女は笑いながら、妙な節をつけ、歌うようにしてそう言った。
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RAT SHIT
19
青々とした雑草が生い茂る土手の上には、ローカル線の線路が敷かれている。その土手下の、舗装されていない狭い一本道を、明日美はのんびりと歩いていた。向かって左が線路。右には田畑が広がっており、ぽつんぽつんと農家の人の姿が見える。
電車が通った。東京にいるときはうるさいとしか感じないその音が、土と緑に大半を覆われている風景のなかでは、妙に耳に心地好い、風流と言ってよいようなそれに聞こえて、少し不思議に思った。
わずか数|輛《りよう》の編成だったため、電車はほんの数秒で明日美のそばを通りすぎていった。明日美が歩いている道は線路のすぐ下なので、けっこうな風が吹きつけてきて涼しく感じられたが、電車の音が遠ざかると共に、また元通り、風のない状態となった。
暑い。うなじを汗が流れる。額にも。眉《まゆ》でいったん止まった汗が、頬をツーッと流れ落ちた。両手がふさがっているので、ハンカチを出して拭《ふ》くこともできない。
ふう、と息を吐いた。
空は青い。雲がゆったりと流れている。そよ風が吹いた。雑草が揺れた。
明日美は立ち止まった。周囲を見回した。懐かしかった。
しばらく行き、右折する。畑と畑のあいだの道をゆっくりと歩く。視界の隅に映る麦藁《むぎわら》帽子をかぶった農夫が、動きを止め、明日美を見ているのがわかった。たぶん彼は明日美のことを珍妙な女だと思っているのだろう。ひょっとしたら、頭がおかしい女だと思っているかもしれない。だが、気にはならなかった。
一車線の道路に出た。ぽつりぽつりと人家が見える。後ろからやってきた白い軽トラックが、明日美の横を通るとき、減速した。運転手がこちらを見たような気がした。顔を上げた。目が合った。笑顔で会釈した。運転手はきょとんとしたような顔をしていたが、すぐに愛想笑いを浮かべて会釈し返した。しかし、すぐに目をそらした。やはり明日美のことを薄気味悪い女だと思ったのかもしれない。やはり気にならなかった。
だらだらとした上り坂を行く。バス停があった。そのそばに、小さな雑貨屋。ジュースと煙草の自動販売機が、店の前に三台、並んでいた。自転車に跨《また》がった、白いシャツに学生ズボンといったいでたちの、中学生くらいに見える少年たちが、なにやら声高にしゃべり、笑い合いながら、ジュースを飲んでいた。彼らがちらちらとこちらを見たのがわかった。これまた気にならなかった。
坂の途中の、カーブミラーが立てられた四辻《よつつじ》。左折する。道の左右は雑木林になっている。そこから、いろんな鳥の鳴き声が聞こえた。
やがて一軒の家に辿《たど》り着いた。赤いトタン屋根の木造平家建。昔のままだ。いや、やはりかなり老朽化しているか。
玄関に入らず、その脇から裏庭に向かった。狭い狭い、文字通り猫の額ほどの裏庭。物干し台がある。頭が真っ白になった、ラフな服装の男が、洗濯物を取り込んでいた。
明日美は立ち止まり、男を見た。
視線を感じたのか、男がこちらに目を向けた。その眉が怪訝《けげん》そうにひそめられる。が、次の瞬間、男はあんぐりと口を開けて明日美を見た。
「ただいま」
明日美は言った。「お父ちゃん、元気しとったか?」
「あ――ああ」
父の幸三郎《こうざぶろう》は胸に抱えていた洗濯物を縁側に置くと、困惑したような、照れたような、そんな笑みを浮かべた。「よう帰ってきたの。何年ぶりかいの」
「二十四年」
「ほうか……こんな[#「こんな」に傍点]、いくつになったんか」
「三十九。もうすぐ四十」
幸三郎がうっすらと笑った。「老けたのォ」
「お互い様じゃけ。お父ちゃん、もうすっかりおじいちゃんやね」
「六十六じゃからの。今年で、七じゃ」
ぎこちない調子で言ってから、幸三郎は明日美が抱えている遺骨をまじまじと見た。
「だれの骨かいの」
「旦那《だんな》」
「……ほうか」
幸三郎が視線を落とした。「せえで喪服着とるんか」
「お父ちゃんに会うてもらいたかったんじゃ。こん人にも、うちが育ったとこ、見てほしかったしな」
「ほうか……ま、上がれ。散らかっとるがの」
幸三郎が、そそくさと縁側に上がった。明日美もそれに続いた。
「麦茶でええか」
「うん」
幸三郎は、食器類がうずたかく詰め込まれている流し台に歩み寄り、コップをふたつ取って洗い出した。ふだんは無精をして洗い物をしていないのだろう。
「明日美。こんな、いま、どこにおるんかの」
「東京」
「お母ちゃんとは、その後会うたか」
「ううん。会う気もないし」
「こんな、まだシンナー吸うたり喧嘩《けんか》したりしちょるんやないやろな」
いま洗ったばかりの濡《ぬ》れたコップを突き出しながら、冗談半分といった感じで幸三郎が言った。まさか、と明日美は笑った。
「旦那、堅気やったんか」
「うん。酒も煙草も女もギャンブルもやらん、堅物じゃったけ。うち、お父ちゃんみたいな男は選ばんけ」
明日美のコップに麦茶を注ぎながら、幸三郎が苦笑した。「で? ええ男じゃったか」
「デブじゃ」
「こんなん料理がうまかったけぇ、ぶくぶく太ったんじゃろ」
「そやったらええんじゃけどな」
「子どもは」
「おらんよ。ほしかったけど、できんかったん――それにうち、子どもはこん人ひとりで充分じゃったけ」
「ほいで、旦那の名前はなんちゅうんじゃ」
「三宮昭久。じゃけぇうちはいま、三宮明日美じゃ」
幸三郎が低く笑った。「なんや、妙な感じじゃのう」
「うちもはじめはそうじゃったよ。じゃけぇどいまは、中村明日美、いうほうが、かえってしっくりこんわ。お母ちゃんがおらんようになって、赤坂明日美が中村明日美になったときと同じじゃけ。慣れたんじゃろ」
「ほうか」
幸三郎は、昭久の遺骨の入った白木の箱の前に、麦茶を注いだグラスをもうひとつ置いた。そして居住まいを正し、遺骨に向かって声をかける。
「昭久さん。娘がお世話になりました」
そのまま、深々と頭を下げた。
「なあ、お父ちゃん。しばらく泊めてもろてええか」
「ああ、そうせえ。積もる話もあるじゃろ」
「せえでな、お父ちゃん……うち、泣いてもええじゃろか」
「あ?」
「ずっと我慢しとったん。こん人がおらんようになってから、ずうっと」
「……ああ」
晩飯の買い物でもしてくるわ……そう言って、幸三郎が席を離れた。
玄関の引き戸が閉まる音が聞こえた。
明日美は白木の箱から取り出した骨壺《こつつぼ》を静かに抱き締めた。
あの日の夕方、目が覚めると、昭久の姿がなかった。枕元に置かれたノートには、買い物に行ってくるから心配しないでゆっくり眠ってくれ、と書かれてあった。
『このくらいひとりでできるようにならないと。いつまでもきみに甘えっぱなしというわけにもいかないからね』
心配するなというのが無理な話だ。明日美はアパートを飛び出した。
商店街を走りまわり、車椅子に乗っていて言葉も不自由で太った中年の男を見なかったかと、道行く人に手当たり次第に質問した。するとひとりの女性が、目をむいて言った。
〈車道に飛び出した子どもを助けようとして、車椅子に乗った男の人がダンプに轢《ひ》き逃げされたんだけど、まさかその人じゃ……〉
目の前が真っ暗になった。その人が支えてくれなかったら、その場に倒れていただろう。
交番に駆け込んだものの、明日美は頭が混乱していてうまく言葉にできず、付き添ってくれたその女の人が、制服警官に事情を説明してくれた。
昭久は、すでに死亡していた。ほとんど即死だったそうだ。ただ、彼が助けようとした子どもは無傷だったらしい。明日美より十は年下に見えるその子の両親が、泣きながら礼や謝罪の言葉を口にしていたようだったが、それらは明日美の耳を素通りしていた。
葬儀の類《たぐ》いはいっさい行なわなかった。もともと昭久も明日美も天涯孤独と言っていい境遇だったし、友人も仕事仲間も近所付き合いも皆無に等しかったからだ。
仕事を休み、荼毘《だび》に付された昭久の遺骨を抱いて帰宅した明日美は、一晩中遺骨を眺めていた。頭のなかはずっと空白だった。
深夜、デンスケがやってきた。デンスケは昭久を探して、あーん、あーん、と声を上げながら、何度も何度も部屋のなかをぐるぐると回った。
〈デンスケ。アキちゃん、もういないのよ〉
デンスケを抱き上げ、そう言うと、デンスケは明日美の目をまっすぐ見据えたまま、小首を傾げた。あんた、なにを言ってるんだい? そう言いたげな目に思えた。
しかしデンスケは、明日美の言葉を理解したのか、それとも動物のカンなのか、やがて遺骨の入った白木の箱のそばに陣取ると、箱にべったりともたれるようにして動かなくなった。そのままデンスケは、朝まで昭久のそばにいた。
翌日、交番の制服警官がたずねてきた。昭久を轢いて逃げていた犯人が捕まったという。
〈目立つダンプでしたからね、目撃者の証言もありましたし、現場にも車体にも、いろいろな物証が残っていましたから逮捕することができました〉
ダンプカーは、朝倉建設のものだった。
父に揺り起こされた。昼の十二時を少し回ったところだった。なにしろ長いこと昼間寝て夜働くという生活を続けてきたから、ふつうの生活のリズムに戻れない。実家に戻って三日が経つが、昼間眠り、夕方ごそごそと起き出す明日美に、父は呆《あき》れているようだった。それで起こされたのかと思ったが、そうではなく、客だ、とのことだった。
「葉山さん、言うとられるがの」
少々混乱した。寝ぼけた頭を回転させた。しばらく広島に帰るということ、そして実家の住所をしのぶに伝えておいたことを思い出した。
「上がって待っててもらって」
歯磨と洗顔を済ませ、服を着替えてから客間に入った。麦茶の入ったコップを傾けていた、白いツーピース姿のしのぶが、明日美の顔を見るなり微笑した。グァム帰りだからだろう、真っ黒に日焼けしている。いままで通りの白い肌のほうが綺麗《きれい》なのに、と明日美は思った。
「明日美さん、ちょっと出られる?」
ドライブしよう、とのことだった、しのぶは広島まで、自動車でやってきたらしい。
「このあたり、観光スポットなんてないよ」
助手席に乗り込みながら言うと、
「そんなんやないよ。ちょっと話あるだけ」
しのぶがゆっくりと車をスタートさせた。
「喫茶店とかもないよ」
「車のなかで話せばええやない。ここならだれにも聞かれる心配ないし」
旦那《だんな》さん、大変やったなあ、としのぶが言った。「で、仕事は?」
「辞めた」
「これからどうすんの」
「わからないけど……とにかくね、うちの亭主轢いたの、朝倉組のダンプなんだよね」
しのぶがちらりとこちらを見た。心なしか、顔が引きつっているように見えた。「朝倉組言うたら、九條組の……」
「もしも、だよ。こないだのことで社長があたしを疑ってて、それをヤクザに話してたとしたら、そんでヤクザがわざと亭主|撥《は》ねたとしたら……もしそうだったら、そんな奴の下で働けないよ」
「あんた、ヤクザに狙われとるの?」
しのぶが言った。少し、声が震えていた。
「ね、ひとつ聞きたいんだけど。金奪ったあと、どうやって逃げたの? ええと、逃走経路っていうか」
しのぶは前方を見据えたまま、アヒルみたいな唇を引き締めて、「盗んだ車で駅まで行って、そこで乗り捨てて、駐車場に停めてたレンタカーに乗り換えたんよ。盗んだ車、駅前に乗り捨てたら、警察はわたしらが電車で逃げたと思うんやないかって、渚ちゃんが言うてな。それで、レンタカーで埼玉まで行ったわけ。で、待ち合わせ場所決めてから、渚ちゃんと木島くんはそこのラヴホテルで一泊して、わたしはビジネスホテルで一泊して、それから一緒に東京に帰ってきたわけ」
思わず口許《くちもと》をゆるめた。隅田のカンは見事に外れたというわけだ。
明日美は隅田とのことを、かいつまんで説明した。
「じゃ……その江田いう男の人、九條組のヤクザに消されたんやろか」
「わかんないけど、隅田って刑事は、そういう言い方してた。もしそうだったら、連中はいま、関口さんを探してるんじゃないかな。ひょっとしたらもう殺されてて、あしたあたり死体が見つかるかもしれないけど」
「……それで、旦那さんも殺された、言うの?」
「ひょっとしたら、ね」
「あんたも危ないんやないの」
「だから」
明日美は語気を強め、しのぶに目を向けた。「あたし、乗るよ。あんたたちの計画」
「朝倉組の人間が旦那さん轢いたの、偶然やったとしたら?」
「故意だろうが過失だろうが、殺されたのには変わりないからね」
「朝倉組のダンプが轢いたから、朝倉組の者は全員許せん、いうこと?」
「毒を食らわば皿までって、よく言うじゃない」
「あんたな、それ言うんなら、坊主憎けりゃ袈裟《けさ》まで憎い、やで」
「……似たようなもんじゃない」
「似てないって」
「――ところで、どうだったの、グァム。よく焼けてるけど」
しのぶが苦笑した。「渚ちゃんに文句言われてん。遊びじゃないんですよ、ちゃんと鉄砲撃つ練習したんですかってな」
「いい年なんだから、あまり日焼けするのも考えもんだと思うけど。肌、ボロボロになっちゃうよ」
「うっさいな、しゃあないやろ? グァムにきた日本人観光客がやで、生っちろい肌のまんま、海にもプールにも行かんと、ひとりで射撃場巡りしてたら、怪しまれるに決まっとるやろ。偽装工作や、偽装工作」
「練習はしたの?」
「一ヵ所だけやったら変に思われるやろ、そやからガイドブック片手にあちこち回ったんよ。どこ行っても日本人がいて、鉄砲撃ってキャーキャー言いよったけど。言葉にも不自由せんかったな。で、たいていの店がな、店の人が『どれにしますか?』って鉄砲選ばせてくれんねん。木島くんに渡されたんが、オートマティックとかいうやつやったから、それ選んで……」
「で、どんな感じだったの」
「ほら、よう映画なんかであるやん、刑事が鉄砲の練習するところ。まんまあれやったな。イヤープロテクターやったっけ、ヘッドフォンみたいなんつけて、お店の人が撃ち方教えてくれて、ダーツの的みたいな標的を撃つんよ。真んなかにいけばいくほど点数高うなってね。お店の人、筋がいいですねって言うてたよ、わたしのこと」
「お世辞に決まってるじゃない」
しのぶが唇を尖《とが》らせた。「わかっとるよ。で、少しは慣れたと思うけど、相手は動く標的やろ。当たるとは思えへんわ」
「渚さんは?」
途端にしのぶの表情が曇った。「思い出した。いちばん最初に言わなあかんこと、忘れとったわ……明日美さん、新聞見た? テレビは?」
「最近全然」
「ダッシュボードに新聞の切り抜き入っとるから、読んでみて」
言われた通りにした。『白昼の銃撃戦 四人死亡 市民もひとり巻き添えに』という見出しだった。
「それな、木島くんと渚ちゃんがやったんやで」
ゾッとした。
「九條って組長のところに、いつ、どのくらい金が入るか、そして組長はどうしてるか、そういうこと調べに行ったんやて。それでヤクザ三人ブチ殺しとるんよ。三人のうちふたりは、渚ちゃんが殺したんやて……巻き添えって書いてある女の人は、ヤクザが殺したらしいわ。そんであのふたり、間一髪でパトカーからは逃げたらしいけどな、ほんま無茶しよるわ」
はああ……と、しのぶが深い溜《た》め息をついた。
「正直な、ついていけん、思うた。木島くんはまだ少しはわかるんよ。子どもとか、ヤクザに殺されたらしいからな。でも渚ちゃんは違うやろ。恨みもなんもないやない。いくらヤクザや言うても、人間やないの。なんで平気で殺せるんやろ。あんた、殺せるか?」
「……そのときにならなきゃわかんないけど、たぶん」
昭久のカタキだと思えば、たぶん殺せる。
「渚ちゃんが殺したヤクザにも、そのヤクザを産んで育てた母親がおるはずや。父親もおるやろうし、じいちゃんばあちゃんもおるやろう。兄弟姉妹もあるかもしれん、奥さんや子どもや恋人がおるかもしれん。その人たちのこと考えたら、あんた、撃てるか?」
「おしぼり屋さんにもあたしにも、家族はいたよ」
切り抜きをダッシュボードに戻しながら、明日美は言った。
「そりゃそうやけど……なあ、あんたも変わったな。こないだまでは、鉄砲は威嚇のためだけに使え、絶対に人撃つなって言うてたくせに」
そう言われてみればそうだった。なんだか、遠い昔のことのようだ。
「そんで渚ちゃんな、東京中をあちこち回って、いろいろ買い込んどんねん。防弾チョッキとかクロスボウとかガソリンとか」
「ガソリンなんか、なんに使うの」
「わからん。あの娘《こ》がなに考えとんのか、さっぱりやもん」
「おしぼり屋さんはどうしてるの」
「木島くんのことか?」
「そう」
明日美はちょっと意地悪な気持ちになって、「しのぶさん、あんた妬《や》けない? おしぼり屋さんと渚さんがべったりで」
しのぶが鼻を鳴らした。「わたしはな、同じ男と二度寝るほど暇やないんや」
明日美は笑った。
「で、木島くんやけどな、渚ちゃんに言われるまま、いろいろ準備しとるよ。昼間はふたりで部屋にこもって、護身術の練習相手させられとる」
「なにそれ」
「肉弾戦になったときのためやて。そないなことになったら、ヤクザにかなうわけあれへんやん。そやけど渚ちゃん、一生懸命やっとるわ。目、きらきら輝かせてな――あの娘、どう見ても楽しんどんねん。ヤクザ殺して金奪うこと、楽しゅうてしゃあないっちゅう感じやねん。そやから、ついていけん、思うてな」
「じゃ、抜けるの?」
しのぶが苦笑混じりに首を振った。「抜けたい、思うたこともあったけど、こないだ奪った金だけじゃ、借金返せるかどうかで終わりや。やっぱお金、ほしいしな。それに、明日美さんがやるんなら、わたしもやるよ」
そう言って、しのぶが奇妙な笑みを浮かべた。
「それってどういうこと?」
「どうもこうもないよ――なあ、明日美さん。あんたとわたし、一蓮托生《いちれんたくしよう》やで」
しのぶが笑った。なぜか、悪寒が走った。
「それになあ」
と、しのぶが続ける。「あの娘らが狙っとるヤクザの金庫、額が魅力的やねん。そやから、退《ひ》けんわな」
「額ってどのくらいなの」
「なんでも、九條って奴が朝倉組の組長になるんやと。で、外国で襲名披露の総長|賭博《とばく》いうのんをやって、額は日本で精算するんやて。その金が九條の金庫に集められるやろうって、木島くん言うとった」
「だから、額はいくらなのよ」
しのぶはもったいぶった調子で、「四億から五億は堅いって」
「……少なく見積もっても、ひとり一億?」
「わたしら、こつこつ真面目《まじめ》に働いても、そんな額、一生縁ないで」
「……要するにあたしたち、コンバットに行くんだね。お金のために」
しのぶが失笑した。「コンバット。あんた、なに古いこと言うてんの」
「でも、そうでしょう?」
「ま……そやな。この世のなかで信用できるんも、命張る価値があるんも、お金だけやもんな、結局」
なんだか、自分自身に言い聞かせているような口調に聞こえた。
信号に引っかかった。
しのぶがハンドバッグを取り、なかから出した分厚い封筒と携帯電話を明日美に差し出した。「遅うなったけど、あんたの取り分や。携帯は、渚ちゃんからのプレゼント。連絡取れんかったら、お互い困るやろうって」
封筒を開けた。万札だけでなく、千円札や五百円玉も入っている。変な感じがした。
「盗んだ金は、全部で一千と二十三万円あってな。四で割って、ひとり二百五十五万七千五百円」
「……ありがと」
手渡された封筒と携帯電話に目を落としたまま、明日美はたずねた。
「ねえ……前から聞こう聞こうって思ってて、そのままになってたことがあるんだけど」
しのぶがアクセルを踏んだ。「なに?」
「しのぶさんさ、渚さんの名刺はじめて見たとき、こう……不思議そうな顔してさ、藤並渚? とか言ってたじゃない」
しのぶの表情が硬くなった。「そないなこと言うてたかな」
「聞こえたよ。あれ、なんだったの」
しのぶは唇をきつく引き結び、じっと前方に目を向けて車を運転していたが、やがてぽつりとこう言った。「あの娘《こ》、アメリカ帰りやねん」
それは隅田も言っていた。
「あの娘の父親、なんとかいう会社の、アメリカのどこかの州の支店長やってんて。で、家族みんなであっちに住んでてんけど、五年前にな、近所の人なんかとホームパーティーやってて、庭でバーベキューとかしてたんやて。そしたらそこに、武装した若い男の子の一団がやってきてな、そこの家族も、お客さんも、みんな殺されてしもうたんよ」
明日美は言葉を失った。
「そのときたったひとり生き残ったんが、藤並渚って女の子やったんよ。覚えてへんかな、その事件。こっちでもニュースでかなりやってたけど」
「……知らない」
そのころは、昭久が入院していて、テレビも新聞もまったく見なかった。それどころではなかった。
「犯人は、十七、八歳の男の子の集団でな、どないして手に入れたんか、自動小銃とかで完全武装してたんやて。その子たちが全員ふつうの家庭の子で、白人ばっかりやったから、最初は向こうのマスコミもこっちのマスコミも、人種差別が根底にあるんやないかとか、いろいろ言いよったんやけど、ほんまはアホらしい動機やってん。戦争、ゲリラ戦をやってみたかったんやと。つまり、遊び半分やったんやて。藤並さん一家には恨みもなにもなくて、ただ、さあやろうぜってみんなで武装して車走らせてたら、たまたまパーティーしてる藤並さんの家が目に入ったんで、突撃したんやて。わたし、その記事で、スポーツ・キリングって言葉知ったんよ」
頭が痛くなってきた。
「それで、向こうでもこっちでも大騒ぎになってね。ただ、ほら、そういうときのベタな展開ってあるやん。現実と虚構の区別がついてないとかさ。そう言うおまえこそ区別ついとんのかい、みたいなやつ。映画が悪いゲームが悪いとかなんとか。まんま、それやったんやけどね。犯人の部屋はファミコンソフトでいっぱいだった、とか、犯人のひとりの部屋から戦争映画のヴィデオテープが! みたいな」
「たしかによくあるね、そういうの」
「で、マスコミは渚ちゃんを不幸のヒロインみたいに仕立て上げたんやけど、変なもんで、みんながかわいそうかわいそうとか言うてたら、逆にバッシングしたがる奴も出てくるやん。そのときもそうでさ、日本におるときから内向的で友達おらんで、そんでアメリカでもつきあい悪くて友達できんで、ひとりでヒカルくんとかいう男の子の絵ばっかり描いとったから、みんなから気味悪がられとった……って書く奴もおってな。たいていのマスコミは、渚ちゃんのこと匿名で報道しとったんやけど、その週刊誌だけは実名報道やったし……ま、ほかの奴と違うこと書けて、そいつは気持ちよかったんやろうけどな」
最後のほうは皮肉たっぷりの物言いに聞こえた。
「ヒカルくん……日本にいたときの幼馴染《おさななじ》みとか」
「それやったらよかったんやけど。あのな、渚ちゃんが描いとったヒカルくんって男の子、この世にいーひんのよ」
「亡くなったの?」
「ちゃうわ。あの娘の頭のなかにしかいーひんのよ。妄想の産物、いうやつや」
「…………」
そしてしのぶが眉《まゆ》をひそめた。「それにあの娘、犯人たちに輪姦《まわ》されたらしいわ」
カッとした。「なんでそんなことまで報道されるの」
「保護されたとき素っ裸やったそうやから、警察は知っとったんやろうけど、犯人のひとりが裁判で言うたそうや。リーダー格の奴がやれ言うから仕方なくやったって。リーダーがそんだけみんなのなかで力あって、そいつには逆らえんかったんやって言いたかったんやろ。それで自分の罪を軽うしたかったんやないかな」
「ゴミだね」
「なんやかんや言うて、男なんちゅうもんは、そういう話が好きやからな。犯人がみんな若い男で、十五歳の女の子がひとり生き残ってて、ちゅうことはまわされたんやろなって、内心思うとったんと違うの? そしたら犯人がそないなこと言うたんで、大喜びで記事にしたんやと思うわ」
しのぶは眉をひそめたまま、唇を歪《ゆが》めて笑った。
「それから渚ちゃん、東北の叔父《おじ》さん夫婦に引き取られたそうやけど、それからも大変やったんちゃうかなあ。こないださりげなく聞いたら、渚ちゃん、東京の高校出たって言うてたから、案外折り合い悪うて、ひとりで上京したんやないの。学校でいじめられたんかもしれんけど」
「いじめられたって……内向的だから?」
「それもあるやろうけど――渚ちゃん、大事件の主役やったわけやん、言うたら。なんぼ被害者やいうても、そないな人を毛嫌いする風潮ってまだあると思うよ。それに、ようある話で、渚ちゃんが転校する前に、学校の先生が、藤並さんはこれこれこういう事件の犠牲者ですから、みんな色眼鏡で見たりしないで温かく迎えてあげましょうね、やらいらんこと言うて、かえって生徒に色眼鏡かけさす、みたいなことがあったんかもしれんし」
「でも匿名報道だったんでしょ。実名報道した週刊誌を読んでる人だけなんでしょ、渚さんがその事件の生き残りだって知ってるのは」
「クラスの子の親が読んどったらどうやの。そんで子どもに言うたとしたら? それに先生はみんな知っとったと思うで」
「……まあ、そうかもね」
「ほかにもいろいろ考えられるやん」
「なにが」
「アメリカ帰りで発音だけはやたらとええから、英語の授業で教科書読んでて、みんなからいちびっとる[#「いちびっとる」に傍点]と思われてもうたとか、アメリカでは自分の意見をきっちり主張せんとみんなに馬鹿にされて嫌われるから、日本では嫌われないようにしようって思うてそうしたら、やっぱりいちびりやって言われてかえって嫌われてまうとか、いろいろ考えられるやないの」
広島に越してきたときのことを思い出した。言葉が違うといっていじめられた。習慣が違うといっていじめられた。片親だといっていじめられた。それを撥《は》ね返すには、暴力でねじ伏せるしかなかった。こちらがいじめる側に立つしかなかった。
渚の場合は――どうだったのだろう。
翌日明日美は、家を後にした。東京には戻らず、山梨県の韮崎《にらさき》市というところに向かった。そこで、あらかじめ渚に指定されていたビジネスホテルにチェック・インした明日美は、部屋にこもり、彼女たちがくるのを待った。しのぶはいったん東京に戻り、史郎と渚を車に乗せて韮崎にやってくる、という話だった。そして渚と史郎はダブルの、しのぶはシングルの部屋をそれぞれとる。そして今夜、そのうちのひとつの部屋に集まり、最後の詰めを行なう。そういうことだった。
ベッドに横になり、明日美はぼんやりと天井を眺めていた。
幸三郎との最後の晩餐《ばんさん》は、父が作ったお好み焼きだった。明日美がリクエストしたのだ。お好み焼きをひっくり返す幸三郎の手が、かすかに震えていた。神経がやられちょるんじゃ、と父は言っていた。もう長いことないかもしれん、と。
〈せえでも最後にこんなが会いにきてくれたけぇの。もう思い残すこと、ないけ〉
〈なに言うとるんね。たったひとりの身内じゃろうが。もうちっと長生きしてもらわんと。これからはうちが楽させたるけぇな〉
そう言ったときの父の笑顔は、悲しげなものに見えた。そのときは、死の恐怖があるのだろうかとか、自分がまたいなくなることが寂しいのだろうかと思ったが、いまにして思えば、あれは娘がなにをやっているか、やろうとしているか、薄々感づいていたからではないのか、という気がする。
〈達者で暮らせよ。昭久さんのぶんまでな〉
駅まで見送りにきた父は、最後にそう言った。今度こそ、もう二度と会うことはないだろう――父はそう思っていたのかもしれない。
かつて、十五歳の自分を博打《ばくち》のかたにしようとした父だった。何度殺してやろうと思ったことか。なのにいまの自分は父を許し、それどころかほんの少しではあれど愛《いとお》しく感じている。それが不思議でならなかった。
「……壮観」
携帯で連絡を取り合い、しのぶと一緒に、渚と史郎がとったダブルの部屋に入った明日美は、テーブルやソファの上に並べられた銃を見るなり、そう呟《つぶや》いた。
「これがコルトパイソン357マグナム。これとこれが俗に言うコルトガヴァメント、コルトM1911A1。これがベレッタM8045。これは秋月の事務所からいただいたS&WのM10。これは堺っていうヤクザから奪ったもので、ベレッタM9。いまの米軍の制式|拳銃《けんじゆう》です。こっちは、中山っていうヤクザが持っていたコルトDE――ダブル・イーグル。これはコルトM16A2。最後のこれは、ベネリM3スーパー90。ちなみにこっちの三丁はボウガン――クロスボウですね」
聞きもしないのに、一丁一丁手に取りながら、史郎が説明した。服やバッグじゃあるまいし、銃なんてどこのメーカーのなんという種類かなんてどうでもいいじゃないか、と明日美は思った。要は殺傷能力があるかどうか、ちゃんと作動するかどうかだ。
「M1911A1は、一九一一年三月二十九日にアメリカ陸軍の制式拳銃として採用が決定され、翌年四月から生産開始されたコルトM1911に改良を加えたものでして、一九二四年に完成しています。M1911A1と名づけられたのが、ええと、一九二六年五月二十日、それから一九八五年まで、アメリカ軍の制式拳銃として使用されていたものです。M1911とM1911A1の違いはと言いますと、まずトリガー、引金ですね、それが短くなっていて、メイン・スプリング・ハウジングが膨らんだかたちに変更され、そしてフロント・サイトの幅がA1では広くなっていて――」
どうでもいい話に耳を傾けるのをやめ、明日美はそのM1911A1――何度も史郎が口にするので、覚えてしまった――とやらを手に取ってみた。そして、ベッドに腰かけ、三五〇ミリリットルの缶ビールに口をつけているしのぶに、扱い方を質問した。
これがセーフティ。これが遊底《スライド》。こうやって引く。ハンマー、トリガー、マガジン・ストップ。撃ったあと、空薬莢《からやつきよう》はここから弾《はじ》き出される。近距離でしか使用しないからあまり意味はないが、これが照星。ここで照準を合わせる――そうしたことを簡単に教えてもらった。
「……第一次大戦ではレミントンUMC、第二次大戦ではレミントン・ランド、イサカ、シンガー、ユニオン・スウィッチ&シグナルなどのメーカーが、軍の需要に合わせて生産に参加していて、だからM1911やM1911A1と言っても、刻印やパーツ形状、仕上げなんかが製造メーカーや製造時期によって異なっていて……」
まだ言ってる。だれも聞いてないってのに。どうして男という生き物は、こうも一文の得にもならないことに血道《ちみち》を上げるのだろう。馬鹿じゃなかろか。
もう一丁のM1911A1を手にしたしのぶが、弾倉を取り出して見せた。明日美も見よう見まねでやってみる。空の弾倉が滑り落ちてきた。そしてやはりしのぶの真似をしながら弾倉を挿入し、遊底を引いた。
「こっちは?」
秋月の金庫に入っていた、スミスなんとかの拳銃を指差した。しのぶが小首を傾げる。回転式のやつは扱ったことがない、とのことだった。
「それは、トリガーを引けばいいだけですよ」
渚が言った。どういうこと? と目で問うと、渚はその拳銃を手にし、マガジン・ストップを押した。シリンダー状の弾倉が左横にせり出す。渚は弾丸を抜くと、ふたたび弾倉を銃本体にセットした。撃鉄を起こし、引金を引く。乾いた音がした。
「それはダブル・アクションだけれども、ダブル・アクションの場合は引金を引く指にいつも以上に力がかかりますから、銃がブレて、狙いが外れやすくなります」
だれも聞いてくれないので、たくわえた知識の披露をあきらめたらしい史郎が、そう説明した。
「ダブル・アクションって、なに?」
「ハンマー……撃鉄をいちいち起こさなくても、引金を強く引けば、弾倉が勝手に回転してくれますから、連続発射ができるわけです」
史郎の言葉を受けて、渚が立て続けに引金を引いた。なるほど、一発かちりと音がするたびに、レンコンみたいな弾倉が、ぐりっ、ぐりっと回転する。
史郎はM1911A1に目をやり、「もちろんオートマティックにもシングル・アクションとダブル・アクションがありますけど、リヴォルヴァーに比べればトリガーにかかる負荷は小さいですね」
「このM3ってやつは?」
「散弾銃ですよ」
「あの、クレー射撃とか猟なんかに使う?」
「ええ。ですからこのM3スーパー90は、乙種狩猟免状さえ持っていれば、一般の人も手に入れることができます」
「だれが使うの?」
「自分――俺が」
「こっちのライフルは?」
「M16A2は、アメリカのレインジャー連隊が使っていて……」
「そういうことじゃなくて。だれが使うの?」
「渚さんです」
「……だいじょうぶなの?」
渚がこくりとうなずいた。
それから銃が各自に配られた。明日美はコルトM1911A1とコルトDEを、しのぶはM1911A1とベレッタM9を、史郎はM3スーパー90とコルトパイソン357マグナムを、渚はM16A2とベレッタM8045を使う、ということだった。
このメンバーのなかで、実弾射撃を経験していないのは自分だけだ。足手まといにならないようにしなければ。
「でも、一丁あまるね」
しのぶが言った。S&WM10とかいうやつのことだ。
「わたしが持ってもええやろか」
明日美の顔を覗《のぞ》き込むようにして、しのぶが言った。
「……いいんじゃない? あたしが撃っても当たんないだろうから」
「でもそれは、口径が違うから、予備の弾丸はありませんよ」
「じゃあこれ、あと何発あるわけ」
「二発」
しのぶは困惑したようにS&WM10を見ていたが、「ま、ないよりマシやろ」と手に取った。
M1911A1には、予備弾倉がひとつついていた。殺したヤクザから奪った拳銃には、それがないらしい。それからひとり三十数発ずつ、予備の45ACP弾丸が配られた。明日美たちが受け取った拳銃の弾倉には、9ミリ弾丸なら十五発前後|装填《そうてん》できるらしいのだが、史郎は45ACP弾丸しか持っていなかった。これだと、銃によるが、七、八発程度しか装填できないとのことだった。ただ45ACPは、9ミリ弾丸より遥《はる》かに殺傷力があるらしい。弾倉への弾丸の込め方も、史郎に教えてもらった。
「殺したヤクザもガンを持っている可能性があります」
淡々とした調子で渚が言う。「ヤクザの死体からガンや弾丸《たま》を奪うことを忘れないでください。武器は、あればあるほどいいですから」
「現地調達かいな。まるで日中戦争末期やな」
大袈裟《おおげさ》に天井を仰いで、しのぶがぼやいた。
「そう。これは戦争なんですよ」
強い調子で、渚が言った。目をらんらんと輝かせ、にんまり笑っている。ちょっと気持ち悪かった。
「で……このクロスボウはどうするの? こんなの、役に立つの?」
「矢はアルミ製ですが、先端を鋭く削ってあります」
史郎が言う。「うまくいけば、充分殺傷能力はあると思いますよ」
「あと、これ」
渚が、足許《あしもと》のバッグからいろいろなものを取り出して、ベッドの上に載せた。
手袋。目出し帽。靴。白いベスト。ウィンドブレーカー。ポケットやらなにやらがごちゃごちゃついているベスト。ブリーフケース。それより少し大きめの、真んなかに取っ手がついたガラス。双眼鏡のようなものが装着されているヘルメット――などであった。
「……なにこれ」
「衣装です」
明日美は苦笑した。「ふつうこういうとき、衣装って言わないと思うんだけど……」
渚はにこりともせず、
「この白いベストは、防弾防刃チョッキです。インナー式なので、服の下につけてください」
「防弾チョッキはわかるけど、防刃ってなんやの」
しのぶが聞いた。
「刃物も防げるってことです。ちなみにこのタイプは、貫通能力の高いトカレフとか、映画の『ダーティハリー』でクリント・イーストウッドが使っている44マグナムの銃弾も食い止めることができるそうです」
「数がやたらと多いけど?」
明日美が聞くと、
「体はもちろんですが、脚にも巻きつけるんですよ。ちょっと動きにくくなるけど、太腿《ふともも》のあたりに。相手も、こっちが防弾チョッキつけてるって、すぐに気づくと思うんですね。そしたら脚を撃ってくるに決まってます。それに備えて、です」
「ふうん……」
「で、これは見た通り、ニーパッドとエルボーパッドです。いつ転ぶかわかりませんから、こういうのも必要でしょう」
「なんや、バレー部みたいやねえ」
しのぶが言ったが、渚は相槌《あいづち》も打たずに続ける。
「それから、このウィンドブレーカーを着てください。これも防弾ウィンドブレーカーってやつで、アメリカの警察が使っているやつです。これだけでも、トカレフの銃弾を防ぐことができます。防弾防刃チョッキの上から服を着て、さらにその上からこの防弾ウィンドブレーカーをつければ、かなり心強いでしょう? 長袖《ながそで》なので、防弾チョッキではカヴァーできない両腕も、銃弾から守ることができますしね」
たしかに、と明日美は思った。
「そしてこの手袋は、スペクトラ・タクティカルグラブといって、アメリカの制服警官が使用しているものです」
「なんや、舌|噛《か》みそうな名前やなあ。スペクトラ……なんやて?」
「スペクトラ・タクティカルグラブ。スペクトラっていうのは、防弾チョッキの素材です。どれだけガンを撃つかわからないから、手と指に受ける射撃の衝撃を少しでもやわらげるためにも、こうしたものをつけておいたほうがいいと思って」
そうやね、としのぶがうなずいた。明日美は拳銃《けんじゆう》を撃ったことがないのでわからないが、やはり一発撃つたびに、けっこうな衝撃が手や指を襲うのだろう。
「靴は、やはりアメリカのレスキュー隊などが使っているもので、オイルにも滑りにくく、爪先《つまさき》はスティールで補強されています。なかには、バイオストライド・ブーツインサートっていう中敷を入れておきました。ショックを吸収する力が、ふつうの中敷の十五枚分ある優れものです」
「この鎧《よろい》の一部みたいなのは、なんなの」
明日美は、剣道の防具みたいなものを指差した。
「タクティカル・レッグガード。ひとことで言えば、脛《すね》のプロテクターですね。これもアメリカのSWATで使用されているものです」
「へええ……」
「この目出し帽はフリスカーフードといって、防弾チョッキに使われているケブラーっていう繊維で作られている、やっぱりSWATが採用しているものです」
「そやけどな、渚ちゃん。なんでブリーフケースなんてあんの?」
「ブリーフケースはふつうのブリーフケースなんですけど、なかに特殊防弾シールドが入っています。これも、トカレフや44マグナムに対応する強度があります。つまり、盾として使うわけです。こっちのガラスはバリスティック・シールド。防弾ガラスの盾ですね。これも44マグナムに対応できます。バリスティック・シールドはガラスなので、向こう側が透けて見えますよね。顔をカヴァーしながら相手に突っ込んで行けるから、相手がガンを撃ちまくっているところに飛び込む際に使用できます」
そんな勇気あたしにはない、と思いながら、明日美は、ポケットだのなんだのがいっぱいついてるベストを手に取った。「これは?」
「防弾モジュラージャケットですね。やはりSWATで使われているもので、マガジンや散弾をたくさん収納できますから、わたしと史郎くんが使います」
「この、ストラップがついた双眼鏡みたいなのは?」
「ナイトヴィジョンゴーグルです。これをつけていれば、赤外線で、暗闇の敵の動きもわかります。ただこれは、わたしと史郎くんだけが使わせてもらいます」
「……ねえ、こんなもの、どうやってそろえたの?」
「ふつうに売ってますよ」
あっけらかんと渚が言った。
「防弾チョッキとか防弾ガラスとか赤外線つきの眼鏡とかが? こんなの、戦争の道具じゃない……」
「ほんま、戦争やな」
ナイトヴィジョンゴーグルを指先でちょんちょんとつつきながら、溜《た》め息混じりにしのぶが言った。「わたしら、ほんま、コンバットに行くんやな。銭のために」
「そうです。何度も言いますけど、これは戦争なんですよ、戦争」
目をぎらぎらさせて渚が言う。口許には、うっすらと笑みが浮かんでいた。
ひょっとしたら、この娘は、自分の両親を殺し、自分を凌辱《りようじよく》した連中と同じことをしたいのかもしれない。明日美はふとそう思った。でも、どうしてそうなる? ああした経験をしたのなら、むしろそういう行為を嫌悪するようになるのがふつうではないのか。
「あと、最後にこれ」
渚が小さなビニール袋を指差した。「見ての通り、耳栓です。銃声で耳がおかしくならないように」
「で?」
いささかうんざりしながら明日美は聞いた。「これはなんて名前の戦争の道具なわけ?」
「ただの耳栓ですよ。小さい音はそのままに、大きな音はカットしちゃうって優れものですから、銃声からは多少なりとも耳を庇《かば》いますけど、お互いの会話には支障がないんじゃないかと。近所の本屋さんで買いました」
なんだか妙におかしくなった。
「それでですね、おふたりが使用するこれらの道具、わたしが立て替えておきましたから、あとでお金払ってください」
「……ちょっと待ってよ。頼みもせんのに勝手に買い物して金払えって、そりゃあないのんと違う?」
「お金払わないのなら、差し上げることはできません。ほしかったら、ちゃんと払ってください。あとで明細渡しますから」
しのぶがアヒル口を尖《とが》らせた。
シャワーを浴び、髪の毛をドライヤーで乾かしていたら、ドアがノックされた。出ると、白いビニール袋をぶら下げた渚が立っていた。
「一杯やりませんか」
ビニール袋を掲げるようにして、渚が言った。
「お酒?」
「近くの酒屋さんで買ってきたんです。わたし、あんまり飲めないんですけど、神経が昂《たか》ぶって眠れないんで、ちょっと……と思って。スコッチなんですけど、つきあってもらえますか」
「いいよ、入って」
渚はテーブルの上に、袋のなかみを出した。スコッチのボトル、ミネラルウォーターのペットボトル、氷。ちょっとしたつまみや紙コップまであった。
「おしぼり屋さんは? しのぶさんも誘おうか?」
あたしがやるから、とシングルの水割りを作りながらたずねると、渚は淡々とした調子で、「あのふたりはいまごろベッドのなかです」と答えた。明日美は唖然《あぜん》とした。
「ひょっとしたら、あした死ぬかもしれないじゃないですか。だからやっぱり……って思ったみたいですね、ふたりとも」
「平気なの? 渚さん。おしぼり屋さんがしのぶさんと、その……あれで」
一瞬ぽかんとしたように明日美を見てから、渚が笑った。「しのぶさんも勘違いしてたみたいだけど、わたしと史郎くん、なんでもないですよ」
「……そうなの?」
「ただの同居人です」
いまの若い人はみんなそうなのかな、と明日美はつまらないことを思った。同時に、なんだかおかしくなった。なにが同じ男と二度寝るほど暇じゃない、だ。
「明日美さんはほしくないんですか、男」
まるで出張した晩のおじさんみたいな物言いだな、と思った。
「別に。だいいち、亭主がそばにいるしね」
明日美はそう応《こた》えて、サイドテーブルの上に載せてある遺骨に目を向けた。性欲がないわけではないが、昭久以外の男は嫌だった。
このホテルに入って渚たちを待っているあいだ、明日美は昭久の骨を少し食べた。そして買ってきたコンドームをふくらませ、なかに骨を入れて、それを使って自分を二度慰めた。いまも膣《ちつ》のなかには、小さな遺骨を入れている。さっきシャワーを浴びたあと、コンドームでくるんで挿入したのだ。アキちゃんがあたしのなかにいる。そう思うせいもあって、さっきからずっと、子宮のあたりに、ずん、ずん、というような感覚を覚えている。これで充分だった。だがそんなことを渚に言うわけにはいかない。頭のいかれた変態だと思われてしまう。
渚さんこそどうなのよ、と軽口を叩《たた》きかけて、やめた。彼女はレイプされた過去があるらしい。もしそれがほんとうなら、とてもそんな気にはなれないだろうと思ったのだ。
「知ってるんでしょう? わたしのこと」
一杯目の水割りを飲み干してから、唐突に渚が言った。自分の気持ちを読まれたように思えて、明日美はどきりとした。
「ええっと……なんのことかな」
渚が微笑した。「明日美さん、嘘つくの下手ですね。すぐ顔に出る」
『嘘をつくときの顔はすぐわかる』という昭久の文字が、ふと目に浮かんだ。
「わたし小さいときから、自分に実感がなかったんですよね」
「……は?」
「自分が、いまこうしてここにいるって感覚が、リアルに感じられなかったんですよ。生まれてからずっと、夢のなかにいるみたいで」
「なんか、そういう人よくいるって、聞いたことはあるけど……」
「それが不思議とね、犯されて、殺されかけたとき、はじめて実感できたんですね。わたしは生きてるんだって。ただその瞬間だけ、でしたけど」
どう応えていいか、わからなかった。
「わたし、兄がいたんですよ」
初耳だった。
「笑っちゃうんですけど、向こうにいたとき、両親の留守中に、兄がこっそりポルノヴィデオ見てたことがあって。わたしが覗《のぞ》き見してることに気づいて、兄は顔を真っ赤にして怒ったんですけど、わたし、兄が見てたヴィデオに出てる女の人、チェシー・ムーアっていうんですけど、なんか惹《ひ》かれたんですよ、その人に。この人わたしと同類なんじゃないかって思えて」
「同類って?」
「自分のことも他人のことも、この世界も、リアルに感じられない。感じたいと思ってるんだけど、感じることができない。そんな人に思えたんです。あくまでわたしの想像ですけどね」
「……はあ」
渚は二杯目の水割りをちびちび飲みながら、「そんな矢先に事件が起きたんですけど、そのときわたし、はじめて自分の存在を感じることができたんですね。そしたら、ぞくぞくするような快感があって――あ、言っときますけど、男にやられたから気持ちよかったんじゃないですよ」
「それはわかるよ」
「そのときの犯人たちの声がね、ずっと耳に残ってたんです。自分でも変だと思うんだけど、それ思い出すと、やっぱり気持ちいいんです」
「……なんて言ってたの?」
「This is war, this is war, this is war……って」
明日美は絶句した。
「……それで日本に帰ってきて、ずっといろいろ考えてて、またいつかアメリカ行こうって、そう思うようになったんです」
「どうして?」
明日美は聞いた。明日美が渚と同じ体験をしたなら、アメリカに行きたいなどとは絶対に思わないだろう。
すると渚はにっこり笑った。「チェシー・ムーアを殺したいって思って」
明日美は混乱した。なんでそうなるのだ。理解できない。
「あの人もね、殺されそうになったら、自分の体とか命とか、そういうのをリアルに感じられるんじゃないかなあって思ったんですよ。それ、感じさせてあげたいなって。それで、殺してあげようって」
理解不能――その四文字が、頭のなかを駆け巡る。
「で……」
なんとか気を取り直して、聞いた。「結局やらなかったんでしょう、それ」
「ええ。ヒカルくんが止めてくれたんですよね。やめたほうがいいと思うよって、言ってくれたんです」
「ヒカルくん」
と調子を合わせつつも、明日美は背筋が寒くなった。
すると渚が声を上げて笑った。彼女にしては珍しい。そういえばきょうの、いや、いまの渚は、ずいぶんと饒舌《じようぜつ》で、かつ表情が豊かに見える。酔いが回っているのかもしれない。
「明日美さん、なに顔引きつらせてるんですか?」
「え……そんなこと、ない、けど」
渚は笑いながら続けた。
「ヒカルくんがわたしの心のなかにしかいないってことくらい、わたしだってわかっていますよ」
ああそう、と言いそうになったが、口にはしなかった。なんだか失礼な反応に思えたからだ。
「ヒカルくんっていうのはね、小学校の同級生なんですよ」
なんだ、と明日美は苦笑した。じゃあ、実在しない人物というわけではないじゃないか。
「ただね、会ったことないんです」
明日美は首を傾げた。「どういうこと?」
「小さいときから、ずうっと友達いなかったんですよ、わたし。幼馴染《おさななじ》みもいなくて。孤立してるって言うか」
まあ、こういう性格だったら不思議ではないと思うが、と胸の内で呟《つぶや》いた。
「幼稚園のときからそうだったんですけど、小学校に上がってからも、ずっとみんなに嫌われてたんですよ。そしたら、二年生の二学期に……十月だったと思うんですが、担任の先生が、あしたから新しいお友達が増えますよって言って……転校生ですよね、つまり。で、その子の名前はムラカミヒカルくんですって言ったんですね。それで先生が、ムラカミヒカルくんの席は藤並さんの隣にしましょうって言って……たぶんわたしに友達いなかったから、先生なりに気配りしたんだと思うんですが、それでわたし、自分の席の隣に新しい机を運ぶように言われたんですね。で、わたしずっとその机を眺めてたんです。あしたからここに座るムラカミヒカルくんとはお友達になれるかもしれない。ぜひなりたい。そう思いながらね」
「……でも、会ったことないって」
「それが嘘みたいな話なんですけど、その日にね、ヒカルくん、車に撥《は》ねられたんだそうです。おとなの話だと、引っ越してきて、このあたりはどんな感じかなー、とか近所を探検……子どもにすれば探検ですよね、そんな感じで歩いてて、道に飛び出して、轢《ひ》かれちゃったんだそうです。それで、即入院」
子どもを助けようとしてダンプに轢かれた昭久――胸が疼《うず》いた。
「お見舞いには行かなかったの?」
「顔も知らないし病院もわからないってのもたしかにあったんですけど、それ以前に、面会謝絶だったそうですよ。わたし、メンカイシャゼツって言葉の意味がわからなくて、母に聞いたんです」
「それで?」
「三日後に亡くなったんですよ」
「……そう」
「先生が、悲しいお知らせがありますって言って……でもみんな、ヒカルくんなんて、会ったこともないわけじゃないですか。全然リアリティないですよね。だから、ふうんって感じでしたね、クラスのみんなは。で、もうこないんだから片付けちゃえってだれかが言って、花瓶が載ってるヒカルくんの机を運び出そうとしたときに、わたし、机にすがりついて、やめてって叫んじゃったんですよ。わたしの友達になってくれたかもしれなかった人……って言うか、わたしは、わたしの友達になってくれるに違いない人って、もう勝手に決めつけてたんですけど、その人の机になにするのって感じで。そしたらみんなから、ますます嫌われちゃいました」
渚がまた、声を上げて笑った。
「それでね、みんなはどんどんヒカルくんのこと忘れてゆくわけでしょう。当然ですよね、名前しか知らないんだから。でもわたしは忘れたくなくて、わたしが忘れたら、ヒカルくんがかわいそうっていうか、そんな気がして、毎日ヒカルくんに話しかけてたんですよ。きょうこんなことがあったよ、とかね。ほんとうならヒカルくんも受けるはずだった授業なんだと思ってノート取って、きょうはこんなお勉強したんですよって。ほんとうはヒカルくんも食べるはずだったんだって思って、きょうの給食はこれこれこうでしたって。今度の遠足はどこどこに行くんですよ、とかね」
喉《のど》の渇きを覚え、明日美はグラスを口に運んだ。氷が溶けてしまっていたため、水割りはすっかり薄くなっていた。
「そのうち、ヒカルくんってどんな人だったんだろうって思うようになったんです。顔とか、性格とか、声とか、得意な科目とか、好きな食べ物とか、好きなテレビ番組とか、好きなマンガとか、好きなゲームとか、ひいきの野球チームはあったのかなとか、そんなこと考えるようになったんです。いまになって思えば、ヒカルくんの住所を先生に聞いて、ご両親をたずねて、お墓参りして、いろいろお話聞いて……ってやればよかったって思うんですけど、八つの子どもでしょう、そこまで頭が回らなかったんですよ。それで自分でいろいろ想像していったんですね。こういう顔で、こういう声で……って。そしたら、ヒカルくんがね、現実の世界とか、わたし自身よりも、ずっとずーっとリアルなものに感じられるようになったんですよ」
明日美は黙っていた。相槌《あいづち》も打てなかった。言葉が見つからなかった。
「楽しいこと……まあ、そんなこと滅多になかったけど、ふだんないからこそ、ちょっとしたことでも楽しく感じられるじゃないですか。そういう楽しいことも、悲しいことも、なにかあると、真っ先にヒカルくんに報告しました。そしたらヒカルくんが、よかったねって声かけてくれてるような気がしてきて。ヒカルくんがそばにいれば、なにがあってもだいじょうぶなんだって思えるようになったんです。だから、どんなことにも耐えられたんです」
でもね、と渚は続けた。
「あのときは、助けてもらえなかった。目の前で人がどんどん殺されて、襲われて、犯されて、殺されそうになって、そのあいだずっと、ヒカルくん助けてって祈ってたんですよ。でも、助けてもらえなかった。当然ですよね。ヒカルくんなんて、この世にいないんだから」
最後のひとことだけは、吐き捨てるような口調だった。
「そのとき、はじめて自分をリアルに感じられたんです。でも、警察がやってきて、助かったって思った途端、また現実感が消えたんです。元に戻っちゃった」
渚が、ふうっと笑った。
「……もう一度、生きるか死ぬかのぎりぎりの瀬戸際に自分を追いやることができたら――もっと言っちゃえば、だれかと殺し合いをすれば、また生きてるって実感が感じられるってわけね。ほんの一瞬、刹那《せつな》的なものでしかないけど、感じられるってわけね?」
「それとは……ちょっと違うんですけど」
「とにかく、充実感を得るために、銀行強盗やろうとしたわけね? ヤクザと戦争しようってわけね?」
「もちろんお金もほしいですよ」
渚が言った。「お金が手に入ったら、わたし、ヒカルくんに命を吹き込んであげるんです」
「……なにそれ」
「もっともっとCG勉強して、ヒカルくんの絵を動かすんです。ヒカルくんに体を与えてやりたいんです。たしかに二次元の薄っぺらなものでしかないけど、CGで作った体と、わたしのこの体と……ううん、CGで作った存在と、このわたしの存在とは、大して変わらないんですよ。わたしにとってはね」
それだけリアルなCGで、イメージのヒカルくんを完全なものにするのだ――そういう意味かと思ったが、彼女の表情を見るかぎり、どうやらそれは明日美の早合点のようだった。彼女は、藤並渚という人間は薄っぺらなCG程度のものでしかないのだ、と言いたいらしかった。
「そうやって、わたしなりにヒカルくんを生き返らせることができたら、わたし、ヒカルくんを、なんて言うのかな、客体化? できるんじゃないかって。そしたらわたし、もう一度一からやり直すんです。八歳のころに戻って、人間をやり直すんです」
[#改ページ]
20
大沢浩二《おおさわこうじ》は闇のなかにいた。視野が暗黒なのは、アイマスクをはめられているためだけではないだろう。この場所それ自体が闇に包まれているのだ。
大沢は、後ろ手に手錠をかけられ、寝袋に詰め込まれていた。その寝袋の上からロープでぐるぐる巻きに縛られているようだ。口にはたっぷり水を含ませたハンカチがねじ込まれており、なおかつ猿轡《さるぐつわ》をかまされているため、声も出せず、身動きもとれない。
どうしてこんなことになったんだろう――大沢はもう一度、頭のなかを整理してみた。
国道沿いのファミリーレストランで食事を済ませ、『大沢内装店』のトラックに戻った。駐車場に入ったときはトラックの右側のスペースが空いていたが、店から出たら、左右ともにふさがっていた。鬱陶《うつとう》しいな、と思ったことを覚えている。
ドアを開けたとき、すいませーん、とはしゃぐような女の声が聞こえた。見ると、鼻筋の横にイボがある唇の薄い若い女が、笑顔で駆け寄ってくるところだった。
なんだ、俺か? と大沢はいささか驚いた。が、お世辞にも美人とは呼べないとはいえ、若い女に笑顔で声をかけられて、つい脂下《やにさ》がってしまった。
女は、体のラインがはっきりわかる、ぴったりとした黒のブラウスシャツに、いまにも下着が見えそうなミニスカートを穿《は》いていた。ストッキングをつけていない白い脚はすらりとしていて、膝《ひざ》のあたりが少しピンクがかっていた。つい、視線がそちらに向いてしまった。
〈あのー、すいませーん、えっとォ、ちょっとおたずねしたいことがあるんですけどー〉
いかにも若い娘といった感じの、語尾を伸ばすしゃべり方だった。
〈おう、なんだい、おじさんでよかったら力になるぜ〉
〈きゃー、やっだあ、おじさんってえ、頼もしいですねー〉
なんだか、取ってつけたような話し方に思えてきた。
そのとき、大沢のトラックの左側の車からアベックが出てきた。ふたりとも帽子を目深にかぶり、サングラスをしていた。大沢はちらりとそのアベックに目をやったが、若い女の、〈ええっとですねー〉という声に視線を戻した。
同時に、背後から走り寄る足音が聞こえた。次の瞬間、電気がスパークしたみたいな音がして、丸太でぶん殴られたような衝撃が腰のあたりを襲った。大沢はそのまま気を失った。
気づいたとき、大沢はいまのような状態にあった。走る車のなか――たぶん自分の4tトラックの荷台のなかにいるらしいことは、すぐにわかった。連中は気を失った大沢を寝袋に詰め込んでから、荷台に運んだらしい。いったいどういうつもりだ、俺みたいなしがない内装屋の親父を誘拐してどうしようってんだ、そう思った。
周囲に人の気配を感じた。自分をこんな目に遭わせた連中のひとりらしい。大沢はもがいたが、相手はひとことも口をきかず、なにか硬いものを大沢のこめかみに押し当てた。なにしやがる、と暴れようとしたら、アイマスクをほんの少しだけずらされた。ライターがともされ、その火が、自分のすぐ横に腰を下ろしている、目出し帽をかぶった男の顔を照らし出した。大沢は悲鳴を上げたが、ハンカチと猿轡のせいで、くぐもった声がもれただけだった。
男が、こめかみに当てていたものを大沢の目の前に持ってきた。拳銃《けんじゆう》だった。男はそれをベルトに挟み込むと、上着のポケットから一枚の紙切れを取り出し、大沢に突きつけた。『本物だ』ワープロで打たれたらしい文字だった。そして男はアイマスクを元通りにした。また視界が真っ暗になった――。
トラックは走り続けている。道はかなり悪いらしく、ときおり車体が跳ねる。そのたびに大沢は後頭部や背中、腰などを床にぶつけ、苦悶《くもん》の声を上げた。
時間の感覚が完全に薄れ、いったい何時間経過したのか、それとも何日も経っているのか、そうしたこともわからなくなってきたとき、トラックが停まった。金属音がして、荷台の扉が開かれたのがわかった。荷台に飛び乗る足音が耳に入った。
両肩と両足をつかまれた。続いて、せえの、という男の声が聞こえた。体がふわりと宙に浮く。連中が自分の体を寝袋ごと運びはじめたのだ。抵抗はしなかった。そんな気力は失せてしまっていた。
体が四十五度近く傾けられ、大沢は低く呻《うめ》いた。荷台から降ろされているようだ。
連中が歩き出した。左右にゆっさゆっさと体が揺れる。いつも自分が運んでいる荷物はこんな感じで運ばれているのだろうなと、頭の隅でぼんやり思った。
大沢を運ぶ連中の、はっ、はっ、という吐息に混じって、鳥の声や風に揺れる木々の枝葉の音が聞こえた。どうやらここは、人気のない山奥であるらしい。
ゆっくりと、地面の上に置かれた。投げ出されないでよかったと安堵《あんど》した。
ドアが軋《きし》みながら開く音が聞こえた。せえの、という声と共に、また持ち上げられる。
少し進んだところで、それまで水平だった体が、ふたたび四十五度ばかり起こされた。それがあまりに急だったため、大沢はわっと叫んだが、声は口から発することができず、喉《のど》の奥でとどまってしまった。連中は、階段をのぼっているようだ。
しばらくすると、また体が水平に戻された。そしてちょっとだけ進む。ドアが開かれる気配がした。横たえられた。部屋の外に出て行く幾人かの足音がした。
アイマスクを外された大沢は、あわてて周囲を見回した。調度品もなにもない、板張りの部屋だった。窓がひとつあるものの、カーテンで外の様子はうかがえなかった。
大沢を見下ろし、まっすぐに拳銃の銃口を向けている、例の目出し帽の男の姿が目に入った。男が、アメリカの警察か軍隊あたりが着用していそうなポケットだらけのベストを着ていることを、大沢ははじめて知った。
男が紙片を突きつけた。『声を出すな。おとなしくしてろ』そして猿轡がはずされ、口のなかのハンカチも取り出された。大沢は激しく喘《あえ》いだ。
「あ……あんたら、いったいなんなんだよ」
男が紙片を指差す。『声を出すな。おとなしくしてろ』
「トラックの荷物、夕方までに届けなきゃいけないんだよ!」
男が人差し指で紙片を何度も叩《たた》いた。『声を出すな。おとなしくしてろ』
「俺なんか誘拐したって、金なんかありゃしねえぞ!」
横っ腹を蹴《け》られた。息がつまり、悶絶した。
男が膝をかがめ、大沢の頬を冷たい拳銃でぴたぴたと軽く叩いた。そしてあらためて紙片を突きつける。『声を出すな。おとなしくしてろ』
なんとか呼吸ができるようになってから、大沢はがくがくとうなずいて見せた。
男がまた別の紙片を見せた。『おまえの家族に電話を入れる。身の代金を用意させる』
「……だから」
と、大沢は小声で、「金なんかねえんだってば」
男がポケットに手を入れ、シャープペンシルを出した。そしてその場で、紙片の一枚に殴り書きをする。『あんた社長だろう』筆跡をわかりにくくさせるため、わざと下手クソな字で書いたような文字だった。
「……社長ったってよ、大会社の社長じゃねえんだ。俺と母ちゃんと息子の三人で地道にやってるだけだよ……家も抵当に入ってるし、借金だらけで、逆さに振っても鼻血も出ねえぞ」
『とにかく身の代金が手に入るまで、おまえは解放しない』
ふざけるな、と大沢は抗議しかけたが、銃口を向けられるとなにも言えなくなった。
男は、さっきとは別のハンカチを取り出すと、強引に大沢の口にねじ込んだ。その上からガムテープを貼られた。おまけに今度は耳栓まで押し込まれた。それまでかすかながらも聞こえていた鳥のさえずりなどが、ほとんど聞こえなくなってしまった。
やっと見張りの交替の時間になった。
「じゃ、ちょっと外の空気吸ってくるわ」
手許《てもと》のスウィッチで警報ボタンを解除した遠藤は、うーんと伸びをして立ち上がると、監視カメラのモニターが設置された机の前に腰を下ろし、さっそくマンガ雑誌を広げる小田島にそう声をかけた。
「行ってらっしゃい」
雑誌に目を落としたまま、顔も向けずに小田島が言う。
「おい、俺が門から出たらスウィッチ入れろよ」
「わかってますよ」
兄貴分に対してなんて言い種《ぐさ》だ、と遠藤は思った。自分は上の者からことあるごとに殴られていたから、後輩にはそういうことはすまいと思っていた。しかし小田島のこうした態度を見るにつけ、やっぱり厳しい態度で接したほうがいいのかな、という気になる。
眠気覚ましにカフェイン入りのガムを噛《か》みながら、玄関を出た。外はどんより曇っていた。ひと雨くるかもな、と遠藤は空を見上げた。
いくら山奥と言っても、ずっと冷房の利いた屋内にいたせいか、蒸し暑く感じられる。今年の残暑は厳しく、長い。
門を出た遠藤は、ふだん人気などまったくないこの場所にトラックが停車していたので、驚いた。トラックは隣の別荘の門の前に停車しており、ジャージの上下に軍手をはめ、肉体労働者のように肩からタオルを下げた女たちが、扉の開かれた荷台から荷物を降ろしていた。敷地のなかには、ワゴン車と軽自動車が一台ずつ停車していた。
「あ、こんにちはー」
顎《あご》がしゃくれ、アヒルの嘴《くちばし》みたいな唇をした、背の高い厚化粧の中年女が、笑顔で会釈した。遠藤もそれに応《こた》えた。
「お隣のかたですか?」
遠藤に歩み寄ってきて、女が言った。関西|訛《なま》りが感じられた。
「わたし、隣に越してきた飯田《いいだ》と言います。よろしくお願いしますね」
「はあ、どうも」
「まあ、越してきた、言うても、ひと月にいっぺん程度しか顔出しませんけど、なんやご近所さん、お隣さんしかいーひんみたいやし、妹たちとね、寂しいなあ、言うてたんですよ」
飯田と名乗った女はそう言うと、軽く片手で遠藤をぶつ真似をしてから、ころころと笑った。
「いやあ、もうすぐ九月も終わりやし、ここは山のなかやから涼しいかなあ、思うてたら、けっこう暑いですねえ。運動しとるせいかもしれんけど」
「運動? ああ、引っ越しですね」
「ええ、節約しよう思うて、友達にトラック借りて自分たちでやってるんですけど、ケチケチせんと、引っ越し屋さんに頼めばよかったですよ」
また飯田という女がころころと笑う。
「はあ、暑い暑い」
飯田という女はそう言いながらジャージの上を脱ぎ、ぴっちりと体にフィットしたTシャツ姿になった。年増だと思っていたが、なかなかいいスタイルをしている。ウェストも細いし、FカップかGカップくらいありそうな胸が、むん、と突き出ていた。つい、ニヤけそうになった。
「俺、手伝いましょうか」
スケベ心を出してそう言った。
「いいんですよォ、そんな、いきなり甘えるわけにもいきませんしねえ」
胸を揺らしながら飯田が応える。
「いや、早いとこ済ませないと、雨降ってくるかもしれないし」
飯田の胸にちらちら目をやりながら、遠藤は食い下がった。
「姉さん!」
敷地のほうから鋭い声が聞こえた。見ると、背の低い色黒の中年女が手招きしている。
「妹が呼んでますから、またあとで」
どうも、と何度も何度も頭を下げて、飯田が敷地に入って行った。ジャージをぴっちりと食い込ませた彼女のヒップラインをニタニタ笑って見ていた遠藤は、煙草を取り出して火をつけた。そしてすぐ、九條別荘に戻った。
呼び鈴を押した。しばらくの間のあと、「はあい」という小田島の間延びした声がした。
「馬鹿野郎、俺だよ。ちゃんとモニター見ろよ」
「あ、すいません。でもスウィッチ切ったままですからだいじょうぶですよ」
「馬鹿野郎、俺が出たら入れろって言っただろう」
「はあ、すいません」
ついさっきまで詰めていた玄関脇のモニタールームに入ると、小田島はマンガ雑誌を眺めてうひゃうひゃと笑っていた。
「おい小田島、隣、引っ越しみたいだぞ」
「へえ、そうっスか」
顔も上げない。
「女ばかり三人だ」
「へえ、そうっスか」
「ひとり若いのがいてな、残りふたりは年食ってたけどな、そのうちひとりが、これよ」
胸が大きいぞ、とジェスチャーした。
「へえ、そうっスか」
「聞いてんのかよ」
「へえ、そうっスか」
頭を殴った。小田島がびっくりしたように顔を上げた。もう一度同じことを説明した。
「だからさ、暇見つけて遊びに行かねえか? 引っ越しの手伝いにきましたとかなんとか言ってさ。そんでハメちまおうぜ」
「俺、遠慮しときますよ。どうしてもってんなら、ほかの奴誘ってください」
「なんで」
「俺、年増、だめなんス。肌が違うでしょう、高校生なんかとは。でろーんとしてて、張りがなくて。それに二の腕っていうんスか? 年取った女って、ここがぶるんぶるんしてて、気持ち悪いんスよ」
「馬鹿野郎、それがいいんじゃねえか」
「兄貴、それ、オヤジ入ってますよ」
「いいんだよ、俺もう三十すぎてんだから」
「俺、基本的に、十三歳以上二十歳未満の女しか、女として認めてませんから。ぎりぎり二十三かなあ。それに俺、チチでかいの好きじゃないんですよ。Aカップか、せいぜいBカップくらいの女しかだめなんスよ。Cとかなったら、チチが『これがチチだーっ!』って主張してるみたいじゃないスか。あれがだめなんス、気持ち悪くて」
「馬鹿野郎、そうやってブラのカップや賞味期限を決めてるから、おまえモテねえんだよ」
「でも、でかいのがいいってんなら、兄貴も同じじゃないっスか」
「別にでかけりゃいいってもんじゃねえよ。ただ、大は小を兼ねるって、よく言うじゃねえか」
「チチの場合は兼ねませんよ。でかいのはでかいだけだし。やっぱ俺、中学生か高校生しかだめだなあ」
「……おまえも立派にオヤジ入ってるよ」
大沢浩二は闇のなかにいた。いや、正確にはその肉体が闇のなかにいるわけではないのだが、ここに連れ込まれて以来、ずっとアイマスクをされているので、視界がゼロなのだ。
大沢は子どものころからずっと視力が二・〇だったし、それは五十をすぎたいまもまったく衰えておらず、それが自慢の種だったのだが、こうしてずっと視界を奪われていると、目が不自由な人の気持ちがどんなものか、なんとなくわかるような気がしてきた。四肢の自由も奪われていることから、体が不自由な人、寝たきりの人などの気持ちも、少しだけではあるけれど、わかるような気がした。耳栓もされたままだから、耳もよく聞こえない。耳が遠い人は、常にこんな心細さを味わっているのだろうか。そういう人たちのことをいままで考えもしなかったことが、恥ずかしくなってきた。
唐突にアイマスクが外された。目出し帽をかぶった男がいた。コップと、ミネラルウォーターの入ったペットボトルを持っている。
男は大沢の後頭部を抱え上げるようにすると、唇に水をついだコップをつけ、少しずつ傾けた。口のなかに水が注ぎ込まれる。大沢は夢中になってそれを飲んだ。
「……腹減った」
ガムテープとハンカチを取られたので、必死にそう訴えた。が、ずっと口のなかに異物を詰め込まれていたせいで顎が痛く、舌もうまく回らない。
「どうにかしてくれよ……なにか食わせてくれ……」
すると、男がお菓子のようなものを大沢の口に差し込んだ。味でわかった。カロリーメイトのブロックタイプ、チーズ味だ。
それをふたつ、胃のなかに入れることができた。男がもう一杯、水を大沢の口に流し込んだ。
「なあ……トイレに行かせてくれよ」
男が紙切れにシャープペンシルを走らせた。『小便なら垂れ流しにしろ』
「……でかいほうはどうしろってんだよ」
男は紙切れに線を書き込み、大沢に突きつけた。『小便なら[#「小便なら」に取消線]垂れ流しにしろ』
大沢は泣きそうになった。「冗談だろ、ふざけんなよ、どうにかしてくれよ、おい……」
すると男が、ハッとしたようにカーテンの閉ざされた窓に顔を向けた。大沢は耳栓をされているから聞こえないが、外でなにか物音がしたのかもしれない。
男はベストから小型のオペラグラスを取り出すと、窓際に駆け寄ろうとした。だが、すぐに思い直したように大沢に向き直って、口にハンカチを詰め込み、アイマスクをつけた。
「なあ、見た? 見た? アホやであのヤクザ。わたしがわざとおっぱい突きつけたら、鼻の下べろーんと伸ばしくさって」
さも嬉《うれ》しそうに言って、しのぶが声を立てて笑った。
「あんた、疲れってものを知らないの?」
苦笑しつつ、明日美は言った。「大型免許持ってないのにトラック運転させられたりしたら、あたしなら三十分も走れば神経ズタボロだよ。よく男冷やかす元気があるね」
「なにデリケートぶっとんのや」
「でも、しのぶさんって、けっこう男好きなんですね。ゆうべ楽しんだくせに、まだ満足してないんですか?」
『大沢内装店』の荷台から適当に拝借した家具を運び終えてから、渚が嘲笑《ちようしよう》するように言った。
「なんやのあんた、やっぱり妬《や》いとんのか?」
渚が唇の片側だけをきゅっと上げて、目をそらした。馬鹿馬鹿しくて相手にしてられない、といった態度に見えた。
「あーあ、やっぱ若い男はええなあ」
渚に対する嫌みのつもりか、しのぶがそんなことを言い出した。「いくときにな、ちんちんの先がぐーんと膨らみよんのや。子宮が潰《つぶ》れるかと思うたわ。でもわたし、それがけっこう好きやねん。なんべんやっても、破裂するんちゃうか、いうくらい膨らむんや。やっぱ男は三十すぎたらあかんな、あんなふうにならへんもんな」
「しのぶさん」
明日美は呆《あき》れて口を挟んだ。「なにヒヒジジイみたいなこと言ってんの。聞いてるほうが恥ずかしいからやめてよね。だいいち自分の年考えなさいよ。四捨五入したら五十だよ、あんた」
「見た目だけやったら、わたしとあんた、大して変わらんやないの。さっきのヤクザも、わたしには色目使うてたけど、あんたのことは、なんじゃこのオバハン、いう目で見てたやないの。案外わたしのほうが若う見えるんちゃうの?」
「あ、あたしはあんたみたいにコラーゲンと塩水だらけの改造人間じゃないですからね!」
「ちょっと、やめてくださいよ」
渚が溜《た》め息をつく。「隣のヤクザに聞こえたらどうするんですか。それにしのぶさん」
「なによ」
「さっきみたいなこと、もうしないでくださいよ。あのヤクザが手伝いにきたらどうするんですか。一発でバレちゃいますよ」
そう言って、渚ががらんとした部屋を見回した。そして裏庭の窓にも目を向ける。この別荘に侵入するため、渚が石で割ったガラス窓だ。
しのぶが、ふん、と鼻を鳴らした。「はいはい。わかりましたよ、隊長殿」
「でもさ、あのヤクザ、頭おかしいんじゃないの」
と、明日美は鼻を鳴らした。「コルセットでぎゅうぎゅうに締めつけた腹とか、塩水パッド入りの、しかも寄せて上げるブラで思いっきり補正した中年女の胸見て、なにが楽しいんだろうね」
「またそれ言う!」
しのぶが明日美を睨《にら》みつけた。「ええやないの。まあ、あんな頭の悪そうなブ男のヤクザ、まっぴらごめんやけど、男にああいう目で見られたら、それなりに気持ちええもんよ」
「あんたが特殊って感じもするけど?」
「明日美さん、あんた、自分がおっぱい小さいから言うて、僻《ひが》んどるんと違う? 悔しかったら豊胸手術してみィ」
「そ、そんなもんしなくても、けっこうあるんだから、バスト!」
しのぶが鼻で笑った。「へえ」
「……ま、かなり垂れちゃってるけどさ」
ごにょごにょと付け加える明日美をまっすぐに見据えて、渚が言った。「だから、もうやめてくださいってば。なんですか、いい年して。そんな見栄の張り合いは後回しにしてください。仕事、いっぱいあるんだから」
「ちょっとあんた、見栄の張り合いってなんやの。それに、いい年ってどういうことや、いい年って」
「あたし別に見栄なんか張ってないよ、なんならおっぱい見せようか!」
「あんた、若いから言うて調子乗らんとき!」
「あんたもいつか年取るんだよ、二十代なんて、あっという間なんだから!」
「三十代なんて一瞬や、一瞬!」
渚が露骨に呆れた素振りを見せた。「体が老けようとどうしようと、どうでもいいじゃないですか」
「あんた、そないなこと言うとられるんも、いまのうちやで」
「ですからわたし、興味ないんですよ、そういうのには」
吐き捨てるような口調だった。明日美は納得したが、しのぶは唇を尖《とが》らせたままだった。
「いいですか、いまは遊んでる場合じゃないんですから。夕方までに、引っ越しを済ませたように見せかけておかないと」
たしかにそうだ。
「……でもさ、渚さん、電気の代わりがこれでだいじょうぶなのかな。ヤクザたちが外から見ておかしいと思わないかな」
明日美は、ランプと懐中電灯が入ったリュックを指差した。
「カーテンしなかったらまずいかもしれませんが、一応カーテンしますからね。部屋がぼうっとでも明るくなってればいいと思うんですが」
珍しく歯切れの悪い口振りだった。どうやら渚は、この点に関しては自信がないようだった。
「きました」
階段の上から、押し殺したような史郎の声がした。「ベンツがつぎつぎに乗りつけてます。金を運んできたみたいです」
小田島が残していったマンガ雑誌はすぐに読み終えてしまった。退屈だった。モニター画面に目をやる。闇しか見えなかった。
遠藤は溜め息をつくと、両手を頭の後ろで組み、椅子にもたれた。いまごろ朝倉組の偉い連中は、地下で酒でも飲んでいるか、博打《ばくち》でもやっているのだろう。なのに俺はいつまでたっても見張り番だ。組に入ってずいぶん経つのに。
年下の連中がどんどん出世していく。このままでは、自分の人生、見張り番で終わってしまう。大きな勲章がほしい。それには鉄砲玉となって走るのがいちばんだ。
「鹿沼|殺《と》るとき、俺が走ってたらなあ……」
史郎みたいな根性なしではなく、自分が走っていたら、間違いなく鹿沼を仕留められたはずだ。そうしたら、十五年か二十年務めたあと、朝倉組の幹部になれたのに。シノギの才覚のない自分がこの世界で出世するには、それしかないというのに。
「親父も、俺を選べばよかったんだよ」
そんなひとりごとをもらし、また深い溜め息をつく。
呼び鈴が鳴った。遠藤は体を起こして白黒のモニターを見た。門の前に満面の笑みを浮かべた女が立っていた。昼間見た飯田とかいう女だ。ウィンドブレーカーを着ていて、両手でなにか抱えている。
一瞬、ここに連れ込んで、交替の時間まであの女と楽しもうかと思った。だが、この一階にも幾人かの若い衆がいる。彼らに見つかり、上の者に告げ口されたらたまらない。除籍か破門になってしまうかもしれない。
『すみませーん』
インターフォンのスウィッチを押すと、飯田の声が聞こえてきた。『引っ越しソバをお持ちしたんですけど、ここ、開けてもらえます?』
「そいつはどうも」
遠藤が言うと、飯田が『あら、昼間の!』とすっとんきょうな声を上げ、カメラに向かって手を振った。
「せっかくお持ちいただいたのに申し訳ないのですが、後で取りに向かいますので、門の前のところに置いといてもらえますか……地面の上で恐縮なんですけど」
残念だが、いまは仕事中だ、あの女を口説くのは後回しにしよう……そう思いつつ、遠藤は言った。
『わかりました、ここに置いときます、食べてくださいねー』
地面にザルソバを置いてから、飯田が笑顔で投げキッスをした。ついニヤけてしまう。
飯田の姿が画面から消えるのを確認し、遠藤は警報スウィッチを解除した。そして部屋を、続いて玄関を出た。
風が出ていた。虫の声や木々のざわめきを聞きながら庭を抜ける。夜空を見上げた。月は出ていない。曇っている。内側から門を開けた。地面にザルソバが置いてあった。せいぜい三、四人前だ。自分や上で張ってる若い者だけで食べてしまってもかまわないだろう……そう思いながら身をかがめようとした寸前、遠藤は胸と腹に衝撃を受け、仰向《あおむ》けに引っくり返った。
なにが起きたのかわからず、倒れたまま自分の体に目を向けた。胸と腹部に、細長い棒のようなものが突き立っていた。
頭が混乱する。なんだこれは、なんだこれは、いったいなにがどうしたんだ――痛みを覚えるより、そうした思いが遠藤の頭を支配するのが先だった。
かすみはじめた視界の隅で、なにかが動いた。人影。
「あ……あ……」
声が出ない。影が突進してきた。肩にライフルのようなものをかけ、手にフルサイズのクロスボウを持っている。その顔には、軍用のものとしか思えないゴーグルをつけていた。
そいつが遠藤の顔面にクロスボウを向け、「遠藤」と低く言った。
その声。木島史郎。
九條邸と向かい合わせになっている雑木林に身をひそめ、明日美はしのぶが門の前から離れる様を凝視していた。息が荒い。落ち着け。自分に言い聞かせる。落ち着け、落ち着け、落ち着け!
やがて門のところに人影が現れた。一応門柱の上に明かりがともっているのだが、明日美には、その人物の人相などはまったくわからなかった。しかし、すぐそばに身を伏せ、クロスボウを構えている渚と史郎は、赤外線ゴーグルをつけているから、よく見えるはずだ。
そのふたりに、明日美はちらりと視線をやった。リュックを背負い、ウッドランドの迷彩服の上下――その下にはむろん防弾チョッキ――の上から防弾モジュラージャケットを羽織り、ヘッドストラップでナイトヴィジョンゴーグルを装着している渚は、呼吸すら止めて門を睨《にら》みつけているように見えた。きっとゴーグルの奥の彼女の目は、ぎらぎらと輝いていることだろう。
史郎の服装は、明日美やしのぶとほとんど変わらない。背負っているリュックも同じだ。ただ防弾ウィンドブレーカーではなく、渚と同じ防弾モジュラージャケットを着用しているだけだ。服装だけでなく、彼のいまの気持ちも、たぶん明日美のそれと、そう大して変わらないと思う。緊張と恐怖、そして復讐心《ふくしゆうしん》。
しのぶはどうだろう。彼女の場合、復讐心はないにせよ、それ以外は、自分や史郎と同じかもしれない。
門が開き、人影が敷地から出てきた。しのぶが置いていったザルソバに目を落としている。
「3、2、1、0」
そばにいる明日美にも聞き取れるかどうかといった小声で、渚が言った。
ゼロ、と渚が言った途端、門のところに立っていた人影が、もんどり打って地面に転がった。ふたりが放った矢がうまく命中したらしい。
同時に、史郎がクロスボウを地面に置いた。そしてあらかじめ矢をセットしておいた残り一丁のクロスボウを手にし、門に向かって突っ込んでいった。
史郎が、倒れた人影の顔面にクロスボウを向け、引金を引いたのがわかった。人影は両手両足をピンと伸ばし、全身を痙攣《けいれん》させているようだった。
その間に、さっきの二丁のクロスボウに矢を装填《そうてん》し終わった渚が、そのうちの一丁を明日美に手渡した。打ち合わせ通りだ。明日美はこれを門の前で待つ史郎に手渡す役目を担っていた。
「GO!」
ぼそりと、しかし強い調子で渚が言った。
M16A2を肩から下げ、クロスボウを構えて、彼女が走り出す。
明日美はコルトM1911A1の遊底を引き、セーフティをロックしてベルトに挟み込んでから、渚に続いた。右手にはクロスボウ、左手には盾代わりになる特殊防弾シールド入りのブリーフケースを持っている。
監視カメラからは死角になっている九條邸の塀に身をひそめ、フリスカーフードとタクティカル・レッグガードを装着していたしのぶが――彼女は渚に言われるまま、このふたつをいかに早く装着するか、ついさっきまでひたすら練習していた――少し遅れて合流した。
史郎にクロスボウを投げ渡した。逆に予備の矢を投げ返される。彼がたったいま放り出したクロスボウに、これを装填してくれということらしい。
明日美はすぐにクロスボウを拾い、発射部分を下にして銃を垂直に立てると、弓の部分についている足掛けを踏みつけ、思いっきり弓を引いた。
そして矢をセットしようとしたとき、いま史郎に殺されたヤクザの姿が不意に目に入り、悲鳴を上げそうになった。仰向けに倒れた男の胸に、腹に、そして眉間《みけん》に、矢が突き刺さっている。見開かれた男の目は、完全に光を失っていた。
人が死んでる、人が死んでる、あたしたちが殺したんだ、あたしたちは人殺しだ……体がよろめいた。
はあっと息を吐いて、顔をそむけた。気を取り直し、矢を装填した明日美は、男の死体が視界に入らないよう注意しつつ、史郎たちの後を追って駆け出した。走りながらベルトに差した拳銃《けんじゆう》を抜こうとした。だが、うまくいかない。立ち止まって抜いていると、しのぶが小声で「早《はよ》う!」と叱責《しつせき》した。
伏せろ――明日美たちに動作でそう指示してから、史郎がこっそりと玄関を開け、なかの様子をうかがう。そして、こい、と手招きした。
玄関を抜ける。長い廊下。突き当たりの向かって左が階段。右が部屋。そこを抜けてリヴィングに入る。そのリヴィングの書棚が地下室の入り口になっている――明日美は史郎から教えられた屋敷の構造を頭のなかで反芻《はんすう》しながら、ほんの少しだけ開かれたドアの隙間に体を滑り込ませた。明日美が最後だ。後ろ手に、こっそりドアを閉めた。
廊下は真っ暗だった。突き当たりのところに光がもれていて、そのそばに階段があることくらいはわかったけれども、いま自分がいる場所がどうなっているのか、明日美には見当もつかない。渚たち三人の衣擦《きぬず》れの音を頼りに、足音を殺してゆっくりと進む。
「兄貴! カップラーメン食べますかあ!?」
階段のそばから襖《ふすま》が開くような音がして、そのあたりがさあっと明るくなったと同時に大声が聞こえた。思わず体をすくませた。
背の高いシルエットが、その光のなかに現れた。「兄貴! 遠藤の兄貴! どうしますかあ!?」
明日美は、そのシルエットに目をやったまま、ぴったりと壁に張りついた。シルエットがこちらに向かってくる。だめだ、見つかる、どうしよう。
ひゅん、という音が二度聞こえた。続いて、また別の影がシルエットに重なった。シルエットがゆっくりと崩れ落ちていった。
なにがあったのだろう、と明日美は考える。渚と史郎がクロスボウを放ち、ふたりのうちどちらかが、いまのヤクザに飛びかかって、ナイフかなにかでとどめを刺した。そういうことなのだろうか。
衣擦れの音が遠ざかって行く。渚たちが歩き出したらしい。
明日美は、ゆっくりと足を進めた。
と、なにかに躓《つまず》いた。あっと思ったときには、クロスボウを取り落としていた。廊下に転がったクロスボウが大きな音を立てた。
「なんだ? どうした小田島」
光がもれている部屋のなかから、そんな声がした。血の気が引くのを感じた。あたふたと体を起こそうとした明日美は、床についた手袋の手のひらの部分がぬるりと滑ったので、びくんとその手を引いた。血の匂いだ。死体。
「いやっ!」
思わず悲鳴を上げた。あわてて口を噤《つぐ》んだ。手遅れだった。
「だれだ!」
「どうした小田島!」
大声が響き渡り、どやどやと人影が廊下に飛び出してきた。
「……Shit!」
渚が歯軋《はぎし》りしながら呻《うめ》いたのが聞こえた。
廊下の明かりがつけられた。眩《まぶ》しくて目を細めた。渚と史郎があわてたようにナイトヴィジョンゴーグルを跳ね上げたのが、視野の隅に映った。
「……なんだてめえら!」
頭をつるつるに剃《そ》り上げ、口髭《くちひげ》を生やした長身の男が、こちらに拳銃を向けた。明日美の前方を、ぎりぎりまで膝《ひざ》をかがめて進んでいた史郎、渚、しのぶの三人が、一斉に身を伏せる。立て続けに銃声が轟《とどろ》き、明日美は胸のあたりに拳骨《げんこつ》で殴られたような衝撃を感じて吹っ飛んでいた。被弾したのだ。
防弾ウィンドブレーカーに防弾チョッキ。それらをつけているから、もし被弾しても少しショックがある程度だろうと高を括《くく》っていた。だが実際に受けた衝撃は予想を遥《はる》かに超えるものだった。
痛みをこらえつつ、明日美はなんとか顔を起こした。
襖の奥から飛び出してきたヤクザたちが、口々に怒声を張り上げながら、拳銃を乱射する。恐怖のあまりその場に蹲《うずくま》った明日美は、ぎゅっと目を瞑《つぶ》り、ブリーフケースで顔を覆った。ブリーフケースに何発もの銃弾が撃ち込まれ、危うく取り落としそうになった。
いままでと違う銃声が廊下の壁を震わせた。その銃声がやんだあと、恐る恐る目を開けた。四、五人の若いヤクザが血の海に沈んでいた。それは死体などという生易しいものではなかった。人間の残骸《ざんがい》だ。明日美は気が遠くなりかけた。
「……あんた、なに考えとんのや、せっかくの計画がパーやないか!」
憤りを隠さない口調で、しのぶが耳打ちした。「わたしら殺されたら、あんたのせいやからな、責任取ってもらうよ!」
「早く!」
銃口から硝煙が立ちのぼっているショットガンに散弾を詰めながら、史郎が鋭く言った。「奴らがくる!」
史郎はヤクザの死体から素早く二丁の拳銃を奪い取ると、ショットガンM3スーパー90を肩から下げ、そのまま襖の奥の部屋に突っ込んだ。ベレッタM8045を手にした渚が彼に続く。すぐさま撃ち合いになったらしく、耳をふさぎたくなる銃声が絶え間なく続いた。
「ほら、早うして!」
しのぶが明日美の手を引っ張って立たせようとした。ふらふらと立ち上がった明日美は、自分のすぐ足許《あしもと》に、胸に二本の矢を突き立て、頸動脈《けいどうみやく》が切断されて血まみれになっているヤクザの死体が転がっているのにはじめて気づき、腰を抜かしそうになった。
「明日美さん、セーフティ」
言われるまま、それを解除した。途端に背後から銃声が聞こえた。ひゃっと叫んで振り返る。別の部屋に待機していたらしいヤクザが数名、おらあ、というような叫び声を上げながら、明日美たちに向かって突進してくるところだった。
全身を恐怖が貫いた。
明日美は四つん這《ば》いのままどたばたと廊下を進み、階段に飛び乗った。そのまま駆け上がる。
「ちょっと、どこ行くの、そっちやないってば!」
しのぶの金切り声が追ってくる。
二階の廊下も真っ暗だった。ドアから漏れる光もない。ここにはヤクザはいないようだ。
「待たんかコラァ!」
ヤクザの怒声と足音が階段のほうから聞こえる。
「なんちゅうしつこいヤクザやねん!」
廊下を走りながらしのぶが泣き声を上げた。
「あんたに惚《ほ》れてるんじゃないの!?」
「くだらん冗談言うとる場合か!」
「現実の恐怖を忘れさせようとしてる心遣いがわからないの!?」
「わかるかそんなもん!」
廊下の突き当たり。逃げ道はない。どうしよう! としのぶと顔を合わせる。
銃声。頭上斜め上の壁に火花が散った。うひゃあ、としのぶがへたり込んだ。
意味不明のわめき声。足音。二、三人のヤクザが突っ込んでくる。
殺される――。
いやああああっと叫んで、明日美はコルトM1911A1を乱射した。ほとんど無意識のままの行為だった。
「あちっ!」
熱した鉄に触れたような感覚を訴える頬を押さえた。弾《はじ》き出された空薬莢《からやつきよう》が、壁に当たって跳ね返り、明日美の頬を直撃したらしかった。
横幅の狭い廊下で、なおかつ至近距離だったのが幸いしたのだろうか。それとも彼らは、こちらが女だと知って油断していたのだろうか。生まれてはじめて拳銃を撃ったというのに、気がついたときには、ヤクザたちは廊下に突っ伏していた。
全身から力が抜けた。くたくたとその場に崩れ落ちた。
「……殺しちゃった」
とうとう人を殺してしまった。頭がずきんずきんと痛んだ。眩暈《めまい》がした。吐き気がした。こらえきれなかった。そのまま嘔吐《おうと》した。
「明日美さん……明日美さんだいじょうぶ?」
背中をさすられる感触があった。しのぶだ。
「さ、立って」
しのぶの声。震えている。「早う木島くんたちと合流せんと、わたしらここで殺されるだけやで」
錯乱しかけた意識のまま、明日美はよろよろと立ち上がった。しのぶが肩を貸す。
廊下を進んだ。ヤクザの死体が目に入った。また吐き気がした。死体の顔面に胃液が飛び散った。
不意に目に浮かんだ光景があった――自宅近くの、川沿いの遊歩道。雨。かたつむりの絵が描かれている傘。それをさして歩く小学生。後ろから走ってくる子ども。その子の母親の声――ほら、危ないでしょ、ターくん! ターくん! 待ちなさい!
いま自分が射殺したヤクザにも、そういう時期があったのだ。この世に生まれたときには周囲に祝福され、首がすわったといっては両親が喜び、歩いたといっては可愛がられ、言葉を覚えては親の目を涙ぐませ、ランドセルを背負って学校に通っていた時期があったのだ。
――また眩暈に襲われた。
「明日美さん、しっかりして」
しのぶの囁《ささや》き声。小さくうなずいて応《こた》えた。
と――階段を駆けのぼる足音が聞こえた。全身が凍り付いた。
「ここか!」
ヤクザの怒鳴り声。
しのぶが悲鳴を上げた。
階段のところから、人影がふたつ、飛び出した。窓から射し込む月光が、その顔を照らし出した。鬼のような形相だった。
銃口を向けられた。
明日美は反射的に身を伏せ、銃を構えた。引金を絞る。弾丸がない。あわててコルトDEを抜こうとしたが、全身が震えていて、ポケットに手を入れることすらままならない。
言葉にならない叫び声をあげて、しのぶがS&WM10を乱射した。だが冷静さを欠いているのか、当たらない。すぐに弾丸がなくなり、ハンマーが、かちかちかちと虚《むな》しい音を立てた。
明日美がやっとコルトDEを抜くことができたとき、しのぶの体が後方に跳ね飛んだ。撃たれたのだ。
カーッと頭に血がのぼった。体温も急上昇したような感じだった。視界が紅色に染まった。
明日美は引金を絞りまくった。しかし当たらない。ヤクザたちは廊下の隅に身を寄せ、撃ってくる。
肩に被弾した。銃弾は防弾ウィンドブレーカーが防いでくれたものの、衝撃で銃を取り落とした。
死を覚悟した瞬間、廊下の明かりがついた。眩《まぶ》しい。思わず目を細めた。
ヤクザたちがなにやらわめいて、弾かれたように振り返った。
階段をのぼり切ったところに史郎が立っていた。
史郎が手にしていた拳銃《けんじゆう》が火を噴いた。一度、二度、三度……ヤクザたちが吹っ飛んだ。
「早く!」
史郎が手招きする。木島くうん、としのぶが幼女のような声を上げた。弾丸は防弾ウィンドブレーカーで保護されている部分に命中したらしい。つまり、命に別状はないということだ。
よかった――そう思っている自分が不思議だった。
階段を駆け降りる。
「こっちです」
襖《ふすま》の奥から渚の声が聞こえた。その部屋にいたヤクザは、全員渚と史郎の銃弾に倒れたらしい。しのぶが襖のなかに飛び込んだ。明日美もあわててそれに続く。
部屋のなかは、文字通り血の海だった。ひっと呻《うめ》いて明日美は目をそらした。しのぶが、きゃあっと叫んで明日美に抱きついてきた。仰天してしのぶの体を振りほどく。
渚と史郎の後を追おうとした明日美は、背後から「こらあ!」とすさまじい怒声を浴びせられ、無意識のうちにすくみ上がってしまった。
振り返る。血に染まった腹部を押さえた若いヤクザが、血走った目を向け、こちらに銃口を向けていた。明日美たちの後を追って階段を這《は》い降りてきたのだろう。史郎の銃弾をくらったものの、死ななかったらしい。
頭のなかが真っ白になった。体が動かない。
しのぶの悲鳴と共に、銃声が轟《とどろ》いた。
ヤクザの顔の鼻から上が、ぽんと弾けた。頭部の半分を失ったヤクザの体はバレエダンサーのようにその場で一回転し、どさりと倒れた。
震えながら振り向いた。最愛の恋人とのデートを楽しんでいる最中の無邪気な少女――そんな言葉がぴったりの笑みを浮かべた渚が立っていた。その手に握られたベレッタM8045の銃口から、硝煙が立ちのぼっている。
「……人殺し」
目を見開いて渚を凝視したまま、思わずといった感じでしのぶが呟《つぶや》いた。
「さ、早く」
にこにこと笑いながら、渚が明日美たちを急《せ》かす。この人のこんな楽しそうな笑顔ははじめて見たと、明日美は頭の隅で思った。
渚の後からリヴィングに駆け込む。彼女に言われるまま、書棚の端に身を寄せた。
史郎が書棚を動かす。同時に彼は横っ跳びに飛んだ。なかから、三人のヤクザが拳銃を乱射しながら飛び出してきたのだ。渚の予想通り、待ち構えていたらしい。
その三人の背に、渚がベレッタM8045の弾丸を撃ち込んだ。一発外れた。ヤクザが反転しながら銃口を向ける。床の上に横になっていた史郎が、さっき殺したヤクザたちから奪ったらしい拳銃を連射した。ヤクザの胴体から、盛大な血しぶきが噴き上がった。
「たぶん、階段にはうじゃうじゃいるよ」
返り血を浴びて悲鳴を上げるしのぶと明日美に向かってそう言うと、渚は腰をかがめ、いま殺したヤクザの死体の腋《わき》の下に手を入れた。彼女がなにをしようとしているか察したらしく、史郎がそのヤクザの両足をつかんだ。
せえの、と、ふたりは階段へ続く踊り場にヤクザの死体を投げ込んだ。途端に階下からとんでもない数の銃声が響いた。被弾したコンクリートの壁がつぎつぎに火花を上げ、ヤクザの死体が蜂の巣になった。空薬莢《からやつきよう》が床に転がる音が、深い残響音をともなって、いくつもいくつも聞こえた。
「……ほらね」
笑いながら、渚が言った。そして彼女は、前頭部に跳ね上げていたナイトヴィジョンゴーグルを装着すると、ベレッタM8045をホルスターに突っ込み、肩から下げていたM16A2を構えた。
「ゴーグル、史郎くんも」
「了解」
「電気、消して」
史郎が、言われた通りにした。地下に通じる階段には明かりがともっていないから、そこで待ち伏せているヤクザたちも、明日美たちも、闇に包まれたことになる。案の定階段の下あたりから、舌打ちとか、ライターつけろという声などが聞こえてきた。しかし彼らの姿は、赤外線で、渚と史郎には丸見えということだ。
「史郎くん、援護して」
呼吸を整えてから、渚は踊り場に体半分だけ乗り出し、M16A2をフル・オートで連射した。すさまじい銃声だった。明日美は両手で耳をふさいだ。ふさいでいるのに、ヤクザたちの絶叫が聞こえてくる。史郎もまた、M3スーパー90を連射している。
ほんの数秒で、M16A2の弾倉が空になった。
撃っているあいだは呼吸を止めていたのだろう、さっと踊り場から離れた渚が、はあはあと息を荒げながら「殲滅《せんめつ》」と言った。笑っているような口調に聞こえた。
史郎が明かりをつけ、M3スーパー90に散弾を込めた。
「……行きましょうか」
M16A2の弾倉を交換してから、渚が言った。実に嬉《うれ》しそうな口振りだった。
渚がベレッタM8045の、しのぶがベレッタM9の弾倉にそれぞれ弾丸を補充しているのを見た明日美は、さっき空になったコルトM1911A1の弾倉を交換し、空の弾倉とコルトDEの弾倉には、ウェストポーチから出した45ACPの弾丸を補充した。
ちょっと考えてから、さっき渚が射殺した死体ににじり寄った。死体と目を合わせないよう注意しながら、拳銃弾をチェックする。だが、全員の弾倉が空っぽに近く、使えそうなものはなかった。
まだ手が震えている。当たり前だと明日美は思う。渚のように、人を殺しておいて平気で笑っていられるほうが異常なのだ。自分やしのぶみたいに、震えが止まらないとか、ヒステリーを起こしてしまうことこそが、まともな人間の反応なのだ。
渚、史郎、しのぶ、明日美の順で、踊り場に入った。
史郎が、うっと呻いて立ち止まり、しのぶが「いやあ!」と叫んでその場に蹲《うずくま》った。それは明日美も同じだった。血みどろになったコンクリートの階段には、ほとんど挽《ひ》き肉のようになってしまっているズタボロの死体が、いくつもいくつも積み重なっていたのだ。
「やらなきゃ、わたしたちがこうなっちゃうんですよ」
渚の叱責《しつせき》が飛んだ。
死体を蹴散らすようにして階段を降りる渚と違い、史郎もしのぶも、死体を踏まないよう、ゆっくりと、注意深く、足を進めている。
ついに耐え切れなくなったのか、しのぶが身をよじって嘔吐《おうと》した。咳《せ》き込み、引きつったような声をもらしている。
さっきさんざん嘔吐したせいか、明日美は吐きこそしなかったものの、やはり胃液が込み上げてきていたし、全身の震えが止まらなかった。それは時間の経過にともなって激しさを増してゆくようだった。
がくがくと震えながら一歩一歩階段を降りてゆく。ちょうどその中間あたりに差しかかったとき、がしりと足首をつかまれた。虫の息のヤクザのひとりだった。
明日美は盛大な悲鳴を上げて尻餅《しりもち》をついた。
「助けて……」
ヤクザが、ほとんど焦点の定まらなくなってしまったような濁った目を向けて、懇願した。「お、願、い、たす、けて……」
その手から力が抜けてゆく。そしてヤクザは、目を見開いたまま動かなくなった。
明日美は泣き叫びたい気持ちをこらえ、ヤクザの手を振りほどいた。這うようにして、なんとか階段を降りて行った。
「……待ち伏せしてるよ」
階段を降り切ったと同時に渚が言った。
たしかに、だれも地下室から出てこないというのはおかしい。明日美たちが入った途端に蜂の巣というわけか。いくら防弾チョッキの上から防弾ウィンドブレーカーを着込み、盾を持っているとはいえ、明日美の気持ちは安心とは何万光年もかけ離れている。
渚が耳栓を出してはめた。そして目だけで、みんなも耳栓して、と告げている。明日美はうなずいて、それに従った。史郎としのぶもポケットから出した耳栓を装着する。
グリーンのランプがぼんやりともっている地下室の前に辿《たど》り着いた。史郎がノブに手を伸ばす。鍵《かぎ》はかかっていなかった。やはり待ち伏せか。
渚が、明日美としのぶに振り返る。援護して。彼女の目はそう言っていた。
ドアが開かれた。
銃声、銃声、銃声、銃声、銃声……明かりが消され、真っ暗になっている地下室のあちこちで、銃口から放たれる火花――史郎の話では、マズル・フラッシュというらしい――が、その名の通りカメラのフラッシュみたいに点滅し続けている。
飛び込んだ渚が、一発の銃弾も放てずに、あっと叫んで吹っ飛ばされたのがわかった。何発か銃弾をくらったらしい。渚ちゃん! としのぶが叫んだ。史郎はM3スーパー90を撃ち続けている。
ええい、畜生、どうにでもなれ!
ドアのすぐそばで床に伏せた明日美は、なかばヤケクソになって、部屋中で火を噴き上げているマズル・フラッシュを狙い、コルトDEの引金を引いた。
だが三発撃ったとき、突然銃が動かなくなった。弾《はじ》き出されるはずの空薬莢が詰まってしまったのだ。
コルトDEをヤクザ目がけて投げつけた明日美は、コルトM1911A1を抜き、撃ちまくった。
しかし相手もこちらのマズル・フラッシュを標的にしているらしく、明日美のすぐ近くの床に何度か着弾した。
あわててブリーフケースで頭を庇《かば》う。ブリーフケースから、衝撃が伝わってきた。もう少し遅かったら、脳天を撃ち抜かれていただろう。
明日美はごろごろと転がって移動し、一発撃つごとにそれを繰り返して、なんとか相手にこちらの位置を悟られないようにした。
「死ね死ね死ね死ねヤクザ死ね」
そんな声が、銃声よりも大きく、明日美の耳に届いた。目を向けた。なにかに取り憑《つ》かれたように叫びながら、やはり伏せたまま、しのぶが銃を撃ち続けていた。
コルトM1911A1のふたつの弾倉が空になった。弾倉を抜き、拳銃《けんじゆう》弾を補充しようとしたが、なにしろ真っ暗なのでなにも見えない。
入り口方向に体を転がした明日美は、膝立《ひざだ》ちになってドアノブに手を伸ばし、開くと同時に伏せた。案の定ドアが被弾して火花が散った。
四つん這《ば》いになって、部屋を出た。グリーンの光がぼんやりと階段付近を照らしている。この明かりを頼りに銃弾を装填《そうてん》しようと思ったのだが、さんざんマズル・フラッシュを見つめていたせいか、明るさがいまいち足りないように思えた。よく見えない。
明日美は弾倉をポケットに戻すと、階段に進んだ。渚が射殺したヤクザの死体がごろごろしている。目をそらしたままヤクザの死体をまさぐり、手当たり次第に拳銃を取り上げた。
「明日美さん!」
そんな声が聞こえたような気がして振り返る。やはり銃弾が尽きたのか、明日美同様四つん這いになったしのぶが、どたどたと近づいてくるところだった。明日美は取り上げた拳銃を取りあえず三丁、しのぶに手渡した。そしてふたりで、這ったまま地下室に戻る。部屋に転がり込むと同時に乱射した。
また銃弾がなくなった。くそ、と階段に戻ろうとした明日美は、なにかが匍匐《ほふく》前進しながら自分に近づく気配を感じ、仰天して振り向いた。
無言のまま、ヤクザが躍りかかってきた。組み伏せられる。ヤクザは馬乗りになると、首を絞めてきた。相手も銃弾がなくなり、それで肉弾戦を挑んできたらしい。敵ながら天晴《あつぱ》れと言うべきか。
明日美はなんとか、ズボンの太腿《ふともも》の外側にあるポケットに手を突っ込むことができた。秋月にもらったスタンガンがあるのだ。それのセーフティを外し、首を絞めるヤクザの手首に押しつけると同時にスウィッチを入れた。スタンガンが電光を放ち、ヤクザがぎゃあっと叫んで飛び上がった。途端にその体が蜂の巣になり、明日美の顔に鮮血が飛び散った。仲間の銃弾にやられたようだ。
その体を押し退けようとした明日美は、ふと思いついて、死体のスーツのポケットをまさぐった。冷たい感触。ライターのようだ。
明日美はそれを持って地下室から飛び出した。ライターをつける。オイルライターだった。それを床の上に置き、ライターの炎を頼りに、コルトM1911A1の弾倉に銃弾を込める。気ばかり焦ってうまくいかない。何度か銃弾を取り落とした。
「明日美さん……!」
やはり四つん這いになったしのぶが、また転がるようにして地下室から出てきた。
「これ!」
弾丸を込めた弾倉ふたつを手渡す。「そっちのマガジン貸して!」
しのぶと弾倉を交換した。しのぶは自分の銃に弾倉を挿入し、地下室に駆け戻った。
渡されたふたつの空の弾倉に弾丸を詰めた明日美は、ライターを消してポケットに突っ込み、中腰になって地下室に向かった。
ひとつ目の弾倉を撃ちつくし、手探りでふたつ目の弾倉を挿入しようと四苦八苦していたら、突然M16A2のフル・オートの音が聞こえた。渚が復活したらしい。もしかしたら倒れた際に頭でも打って、気が遠くなりかけたのかもしれない。
こちらに向けて放たれていたマズル・フラッシュの数が激減した。もう数えるほどしかない。弾倉が空になったらしく、M16の銃声はすぐに止まったが、M3の発射音は聞こえ続けている。
「Shit!」
そんな渚の声と、がちゃんという音が同じ方向から聞こえた。弾丸がなくなったので、渚がM16A2を床に放り出したらしかった。
と、伏せている明日美の背を踏みつけるものがいた。ぐえっと呻《うめ》いた明日美は、あわてて横に転がった。呻き声を狙って撃たれる、と思ったのだ。明日美を踏みつけた人間はその場に転んでしまったらしい。きゃっという声がした。渚だ。
すかさずそのあたりに銃弾が撃ち込まれたが、それよりも、渚がこちらに転がってくるほうが幾分早かった。
「明日美さん? 明日美さん?」
すぐ隣に転がってきた渚が耳許《みみもと》で言った。「突っ込むから援護して」
どういうことよ、と聞くより先に、背中のリュックから取り出した防弾ガラスの盾――バリスティック・シールドを手にした渚が立ち上がった。
彼女の思惑が理解できた明日美は、なんて無茶なことをするんだと正直|呆《あき》れた。渚は顔面をバリスティック・シールドで庇いつつ、連中に突っ込み、至近距離で決着をつけるつもりなのだ。
「Hey!」
大声を張り上げて、渚が駆け出した。渚に当たるかもしれないと思ったのだろう、史郎としのぶの銃が沈黙した。
ヤクザたちが怒号と共に撃ってきた。バリスティック・シールドに、渚の胸や腹に、つぎつぎと銃弾が撃ち込まれる。が、渚は被弾の瞬間にはさすがに立ち止まってよろめくものの、足を止めようとしない。代わりに渚のベレッタM8045が火を噴き、ヤクザたちが倒れてゆく。
弾倉を交換し終えた明日美も、渚を援護して銃を撃った。すぐにしのぶが続いた。さすがに明日美より狙いは正確で、しのぶが一度銃を発射すると、必ずと言っていいほどマズル・フラッシュがひとつ消える。五発撃って一発当たればいいほうの明日美とは大違いだ。
「防弾チョッキ着けてやがるぞ! 足を狙え!」
そんな声が聞こえた途端、史郎が「青木ーッ!」と絶叫し、声のした方向に向けて銃を連射した。
ひとりのヤクザが渚の太腿《ふともも》あたりを撃ったが、こっちが両脚にも防弾チョッキを巻きつけているとは夢にも思っていないらしく、そのヤクザはひるまない渚を見て悲鳴を上げ、両手を万歳した。その顔面にベレッタM8045を向け、渚が引金を絞った。
明日美は、ブリーフケースで顔をガードしたまま走った。腹に銃弾を食らったが、そのまま突っ込んだ。逃げようとするひとりのヤクザの背中に銃口を向け、二度、引金を引いた。
突然明かりがついた。目が眩《くら》んだ。
部屋の中央にある応接セットのソファの後ろに飛び込んで身を隠した明日美は、耳栓を外すと、コルトM1911A1の弾倉を取り出し、銃弾を補充した。そして、周囲の様子をうかがう。
血と硝煙の匂いが充満している地下室は、ボロキレのようになったヤクザの死体で埋まっていた。まだ何人か生きているものはいるようだったが、ほとんど戦意を喪失しているように明日美には見えた。
明かりをつけたのは史郎だった。壁際のスウィッチのそばに彼がいた。ゴーグルも、フリスカーフードも取り外して、素顔をさらしていた。
しのぶはどこにいるのかわからない。
渚は部屋の奥にある大きなデスクの前に立っていた。腰を抜かしたようにへたり込んでいる、片手を吊《つ》った眼鏡の男に銃を突きつけている。
「待て、待て史郎、おまえ、その、なんだ、なにか勘違いしてるんだ、そう、勘違い勘違い、やめろよ、やめろって、な? な? な?」
散弾を撃ちつくしたのか、史郎はコルトパイソン357マグナムとかいう拳銃を両手で構えており、その銃口をひとりの中年男に向けていた。その中年男を、右肩から血を流している若いヤクザが庇おうとしている。
「なあ史郎、く、組に戻りたいか? ん? 戻してやる、戻してやるとも、親父さん、朝倉の三代目になったんだ、だからおまえ、その、なんだ、朝倉組の大幹部で迎え入れてやるよ、な? な? な?」
「まっぴらごめんですよ」
史郎が撃鉄を起こした。
「やめろ、おまえどうしちまったんだ、ええ!? おまえはもっと、その、なんだ、優しーい男だったじゃないか、え? え? え?」
「あんたらのせいだよ」
「なに言ってるんだ、え? そんなことない、そんなことないぞお、だからな、撃っちゃいかん、撃っちゃいかんぞ、な? な? な?」
「覚えてますか、大将。このチャカ、あんたがくれたもんだよ」
史郎が男の足許を狙って銃を撃った。男が、悲鳴と共に飛び上がる。
「あんた――俺の女房、真寿夫に殺させたんだってな!」
「やめろって史郎!」
「翔子を返せ――ももこを返せ!」
史郎の銃が火を噴いた。若いヤクザが「大将!」と叫んで中年男の盾になった。身を挺《てい》して大将とやらを庇《かば》ったのか。ヤクザながら大したものだと明日美は思った。しかし史郎が放った銃弾は、その若いヤクザと、大将と呼ばれた中年男ふたりの胸板を、いっぺんにぶち抜いてしまった。
どう見てもふたりとも絶命しているのだが、それでも恨みが晴れないらしく、史郎は折り重なっている若いヤクザの死体をどかすと、その下敷きになっていた大将とやらの全身を執拗《しつよう》に蹴《け》りまくり、顔面を踏みつけ、撃った。コルトパイソンの弾丸がなくなると、床に落ちていた拳銃《けんじゆう》を二丁拾って、その銃に残っている弾丸を全部、大将とやらの体や顔に撃ち込んだ。
「おい、九條!」
渚に銃を向けられている眼鏡の男に向かって、史郎が怒鳴った。
明日美は驚いた。九條というのは九條組の組長で、今度朝倉組の三代目を襲名した親分だと聞いていた。明日美が想像していたのは、もっと貫禄《かんろく》のある、和服が似合いそうな大男だったのだ。だがいま渚と史郎に銃を向けられ、がたがた震えている男は、ヤクザというより銀行員みたいな顔をしており、体もほっそりしていてカマキリのようだ。こんな男が暴力団の組長だなんて、どうにもしっくりこない。
「三代目襲名おめでとう。お祝いにきてやったんだよ、ありがたく思え!」
史郎がそう叫んだとき、部屋の隅にあるカウンター――なかのボトルもなにもかも粉々になっていた――から、突然しのぶが、返り血に染まった顔を出した。そして明日美の位置からは死角になっている史郎の背後に向けて、銃を撃った。ぎゃっという声がした。死んだふりでもしていたか、あるいは虫の息だったヤクザが、最後の反撃に出ようとしたものの、しのぶに見つかって射殺された、というところか。
史郎はまた、床に落ちている拳銃を拾った。リヴォルヴァーだった。回転式の弾倉のなかみをチェックすると、九條目がけて連射した。わざと狙いを外しているらしく、銃弾は九條の周囲につぎつぎと着弾する。九條が両手で頭を抱え、胎児のような格好になって、やめてくれと叫んだ。
「ふだんとはまるで別人じゃないですか、親父さん」
ていねいな口調で史郎が言った。「いつものクールさはどこに行ったんですか。それとも、これがあんたの本性なのかな」
「ゆ、許してくれ木島くん! 撃つな、もう撃つなーッ!」
胎児のような格好のまま、九條が足をばたばたさせた。最後のひとことは、完全に声が裏返っていた。
史郎が満足そうな笑みを浮かべた。愉快でたまらない、と言いたげな笑いだった。もしかしたら史郎は、九條のこんな姿を見たかったのかもしれない。
「木島くん、わ、わたしには家族がいるんだ、女房と子どもがいるんだ、子どもがふたり、健一と丈夫、知ってるだろう、家族が、家族が……」
「それがどうした[#「それがどうした」に傍点]」
史郎がまた撃った。九條が悲鳴を上げる。
「頼む、撃つな、撃たないでくれ、頼むよ木島くん!」
「死にたくなかったら金庫開けろ」
「……え?」
「金庫だ。金庫開けろ!」
「……そしたら助けてくれるのか?」
「ああ。だから早く開けろ」
九條が床の上に正座し、米|搗《つ》きバッタのように何度も何度も頭を下げた。「すまない、感謝する、だから撃たないでくれよ、な?」
「いいから早くしろ!」
九條はへっぴり腰で、デスクのそばにある大きな金庫ににじり寄ると、暗証番号を打ち込み、さらにダイアルを回してロックを外した。
「そこまでだ!」
史郎の鋭い声に、九條がその背をびくりと揺らした。
「手ェ挙げてこっちこい!」
吊っていないほうの手をゆっくりと挙げ、九條がのそのそとデスクに戻った。
しのぶがカウンターのなかから出てきた。リュックを史郎に手渡そうとしているのだろう。
明日美もあわてて立ち上がり、念のため周囲のヤクザの死体に目を配りながら、背中のリュックを下ろした。
「注意してて」
明日美たち三人に向かって、史郎が言った。さっきのように、死体のふりをしているヤクザが突然逆襲に出るかもしれないし、九條がそうするかもしれない、ということか。明日美は両手で拳銃を構え、九條に、周囲に、銃口を向け続けた。その手がまだ震えている。明日美は懸命にそれを止めようとした。無駄だった。
リュックを手に、史郎が金庫に向かった。そして彼が金庫を開けた途端、続けざまに銃声が鳴り渡り、史郎の体が床に叩《たた》きつけられた。
史郎の顔――鼻から上がなくなっていた。しのぶの悲鳴が聞こえた。
驚愕《きようがく》し、混乱する明日美の耳が、「親父!」というドスのきいた声をとらえた。はじめて聞く声だった。
宙を舞う拳銃を九條がキャッチした。そのまま九條が渚に、しのぶに、明日美に、立て続けに銃弾を浴びせた。明日美は咄嗟《とつさ》に両手で頭を抱え、背を向けて蹲《うずくま》ったが、背中に被弾し、前方に跳ね飛ばされた。痛みをこらえて振り返りざま一発撃ち、そのままソファの後ろに飛び込んだ。
こっそり見ると、しのぶはカウンターに逃げ込んだものの、渚は床の上に跪《ひざまず》いていた。ホールドアップしている。その手に、ベレッタM8045はない。撃たれたときに落としてしまったらしい。
「矢野くん」
金庫のそばからのっそりと立ち上がった、髪の毛をパンクスみたいに逆立てている小柄な男に、九條が、ついさっきまでとはまるで違う無機的な調子で声をかけた。「ご苦労でしたね。苦しかったですか」
「いえ別に」
と、矢野と呼ばれた男が酸素吸入器をかざした。
「まったく……どこまで馬鹿なんでしょうね、このカスは!」
九條が史郎の死体を蹴飛ばした。
やっとわかった。明日美たちが侵入したのを察知した時点で、九條はこの矢野という男に金庫のなかに隠れるよう命じていたのだ。きょうここには多額の現金が集められる。そこを襲撃するものがいるのだから、目的は金庫のなかみだろう。ならば最後の切り札として、ひとりそこに隠しておく――そういうことか。
「矢野……そこにいるメスブタども、みんな始末しちゃいなさい!」
九條がヒステリックな声を張り上げた。しかし矢野の目は、史郎の死体に釘《くぎ》づけになっている。どこか悲しそうな目に見えたのは、明日美の気のせいだろうか。
しのぶの絶叫と、「矢野!」という九條の声が同時に聞こえた。銃声二発。しのぶが矢野を撃ったのだ。
矢野が倒れた。
床に転がった矢野の拳銃に、渚が飛びついた。
九條が、渚を撃つ。
明日美は九條に向けて引金を引いた。
カウンターのほうからも銃声がした。しのぶだ。
明日美の弾丸は外れたが、しのぶが放った弾丸は九條の頬をかすめたらしい。九條が頬を押さえ、くるりと体を回転させて倒れた。彼はそのまま、デスクの後ろに這《は》って逃げようとする。しのぶが撃ったが、間に合わなかったようだ。
渚さんは――? と、明日美は彼女を目で追った。
矢野の拳銃を奪い取り、立ち上がろうとしている渚の姿が目に入った。その顔はデスクの後ろに向けられている。九條を撃つつもりらしい。
だが同時に、膝立《ひざだ》ちになった矢野が、しのぶに撃たれた腹を片手で押さえつつ、腰からもう一丁の拳銃を抜いているところも見えた。
明日美はソファから上半身を出し、矢野を狙って引金を絞った。仰天したように矢野がこちらを見た。焦ったように身を躱《かわ》す。明日美は撃った。撃ち続けた。当たらない、当たらない、当たらない、当たらない!
「女ァ!」
すさまじい怒気を含んだ声だった。矢野が血走った目を向け、唇の端に血の混じった唾《つば》を溜《た》め、明日美に向けて銃を連射した。
いったん伏せて、また少しだけ顔を出した明日美は、矢野が横倒しに倒れていたので驚いた。自分の弾丸が当たったのかと思ったが、そうではなく、矢野の注意が明日美に向けられた隙に、渚が矢野を撃ったらしかった。
「殺せ!」
しのぶがヒステリックな声を張り上げた。「ブッ殺したれ!」
しかし渚は、もう矢野には目を向けようともしなかった。デスクに飛び乗り、床を狙って二発、銃を撃った。そこに隠れている九條を撃ったのだ。つぶされた蛙のような声が聞こえたから、当たったらしい。
渚はデスクから飛び降り、史郎の死体に駆け寄った。史郎が手にしていたコルトパイソン357マグナムを手にする。そして空薬莢《からやつきよう》を捨てると、史郎のポケットから357マグナム弾を取り出し、銃に装填《そうてん》してゆく。
手首のスナップをきかせてリヴォルヴァーの弾倉を銃本体にセットした渚は、呻《うめ》き声をもらしている九條の体をデスクの後ろから引きずり出した。明日美としのぶに、自分が九條を殺すところを見せたいのだろうか。それとも矢野に、だろうか。
九條は、脚と肩のあたりを撃たれていた。痛い、痛い、と子どものような声を上げ続けている。
その九條を床に突き転がしてから、渚が史郎の銃を構えた。九條には、この銃でとどめを刺さねばならない、ということのようだ。
渚の表情――歓喜の色に満ち満ちていた。
「Kiss my ass」
笑顔で呟《つぶや》き、渚がコルトパイソンを連射した。五発目が顔面に撃ち込まれた。それが九條の最期だった。
残り一発。渚は床に倒れ、咳《せ》き込み、血を吐いている矢野に銃口を向けた。
「待って」
しのぶがカウンターから飛び出してきた。そして虫の息の矢野に向けて、コルトM1911A1を撃ちまくった。
しのぶはカウンターにひそんでいるあいだに弾倉に弾丸を補充していたようで、すでに絶命している矢野の体に全弾撃ち込むと、まだまだ足りないと言わんばかりにすぐ予備の弾倉と交換し、また矢野の死体に向けて引金を絞り続けた。
「もう生き残ってる奴いないでしょうね」
静寂を破ったのは、渚の声だった。ベレッタM8045を拾い、銃弾を補充している。
われに返り、周囲を見回した明日美は、いまさらながらゾッとした。冷静になってあらためて見ると、ここで自分たちがやったことはまさに大量|殺戮《さつりく》なのだと思い知らされる。さっきまでの自分は、発狂していたのかもしれない。
「なあ……」
虚脱したように床にぺたんと腰を下ろしていたしのぶが、ぼそりと言った。「わたしらが殺したこいつらにも、こいつらを産んで育てた母親がおってんな……」
どうやら彼女も、明日美と同じことを思っているらしかった。
「さっき、その九條って奴が言うてたやろ、女房も子どももおるって。わたしらが殺したヤクザにも、女房も子どももおると思うよ……お父ちゃん殺されて、その子ら、これからどうすんのやろ」
「いまさらなに言ってんですか」
嘲笑《ちようしよう》するような調子で渚が言った。「馬鹿馬鹿しい。敵が死のうが、その子どもがどうしようが、知ったことじゃないでしょう? これは戦争なんですよ?」
それを聞いた瞬間、明日美は全身の血が沸騰するような感覚を覚えた。なんだこの女は。どうしてこう平気でいられるんだ。
「敵は全部|殲滅《せんめつ》したから、さっさとお金、運びましょう」
明日美は無意識のうちに、金庫に向かう渚の背に銃口を向けていた。殺してやる。あんたの望み通りに。死んでしまえ、この気狂い。
その手首をぐっとつかまれた。しのぶだった。やめろ、と目で言っている。
「運ぼう」
うわずった調子で、しのぶが言った。明日美はこくりとうなずいた。
金庫のなかは、ちょうど押し入れのように真んなかで仕切られていて、下の段は空っぽだったが――おそらく矢野は、ここにひそんでいたのだろう――上の段には札束がこれでもかと言わんばかりにうなっていた。まず五億は下らないだろう。三人で分けて、ひとり約一億七、八千万か。
だが明日美は感嘆の声など上げなかった。しのぶも無言のままだった。見ると、暗鬱《あんうつ》な表情を浮かべている。ただ渚だけが、いつもの淡々とした調子ではあったけれど、「目標金額より多いみたいです。よかったですね」と言っていた。
三人で金を詰め込み、その作業を終えてから地下室を出ようとしたところ、「ちょっと待ってください」と渚に呼び止められた。振り返った。渚は手当たり次第に死体をまさぐり、拳銃《けんじゆう》やその銃弾をチェックしては、自分のリュックに仕舞い込んでいた。
「ふたりとも、いらないんですか? ガン」
「いらん」
脱力しきったような口調で、しのぶが言った。「もう人殺しはたくさんや」
「じゃあこれ、わたしがもらってもいいんですね?」
渚が掲げたものは、コルトパイソン357マグナムとベネリM3スーパー90だった。
「好きにし……これもやるわ。鉄砲は一丁あれば充分やから」
そう言って渚にベレッタM9を差し出したしのぶは、くるりと踵《きびす》を返し、先頭に立って地下室から出ていった。
ぱんぱんになったリュックを背負い、九條邸を出た。上の階に生き残っている人間がいるかもと、銃を構え、用心していたが、そこには死者しかいなかった。
隣の別荘の敷地に入った。しのぶの車のトランクにリュックを詰めた。
三人で、盗んだワゴンに乗り込み、九條邸の敷地に入った。玄関前にワゴンを停めた。ワゴンのなかには、ガソリンの入ったポリタンクが大量に詰め込んである。みんなで地下室にそれを運んだ。死体はもちろん、ありとあらゆるところに、念入りにガソリンを撒《ま》いた。ワゴンに戻り、またポリタンクを抱えて屋内に入る。地下への階段へ、リヴィングへ、和室へ、キッチンへ、廊下へ、階段へ、二階の各部屋へ、そして見張り番がいた部屋へ、ガソリンを撒いた。監視カメラの映像がヴィデオに記録されているかもしれないと思ったが、それらしい機械は見当たらなかった。それでもモニターをはじめとする機械すべてにガソリンをかけた。
隣の別荘の二階に放り込んでおいた大沢を、彼のトラックから拝借した家具すべてと一緒に、トラックの荷台に戻した。大沢は気力体力共に尽き果てたのか、まったくの無抵抗だった。
それから、九條邸同様、自分たちが隠れていた別荘にもガソリンを撒いた。ただ自分たちの痕跡《こんせき》を消したいだけだったので、こちらは九條邸ほど念入りではなかったが。
最後の仕上げに、九條邸の玄関前につけたワゴン車にもガソリンをかけ、玄関から門に向かってガソリンの筋を作った。その筋は、隣の別荘にも作っておいた。
しのぶの車には渚と明日美が乗り、明日美が運転することになっている。大沢のトラックを運転するのはしのぶだ。
明日美は車のエンジンをかけると、さっきヤクザから奪ったライターを手に、九條邸の門の前に立ち、もうだれも見るもののない監視カメラを眺めた。しのぶもまたトラックのエンジンをかけ、隣の別荘の前で煙草を喫っている。
目で合図した。ふたり一緒に、ガソリンの筋にライターを放った。地面に上がった炎が、一気に屋内に向けて伸びてゆく。
すぐに車に乗り込み、スタートさせた。
爆発音が聞こえたのは、しばらくしてからだった。
気づいたとき、大沢はトラックの荷台のなかに横になっていた。アイマスクも猿轡《さるぐつわ》もされていなかった。縄も解かれていたし、手錠も外されていた。寝袋もない。耳もよく聞こえる。
記憶を探ってみた。ずっと芋虫みたいな状態に置かれていて、頭が変になりかけたころ、いきなり連中がやってきて、運び出された。連中は終始無言だった。自分が運び込まれたのがトラックの荷台であるらしいことは、なんとなくわかった。嗅《か》ぎ慣れた匂いがしたからだった。
それからどのくらい走ったのか見当もつかないが、荷台の扉が開かれ、連中がそばにやってきたことはわかった。そしてさらわれたときと同じように、腰のあたりを衝撃が襲い、気を失ったのだった。
大沢はむっくりと半身を起こした。ああ、動く。動ける。いままでなんとも思っていなかったが、自分の体が思うように動くのがこんなに幸せなことだとは知らなかった。
と――胸の上に載っていたものがぽとりと落ちた。なんだこれは、とそれを手に取り、荷台の扉に歩み寄った。ちょっと押してみる。驚いた。開いたのだ。外からロックされているとばかり思ったのに。
扉を開き、外に出た。まるで見覚えのない風景がそこにあった。見渡すかぎり田畑ばかりだ。いまは早朝らしい。朝日が昇りかけている。トラックは二車線の道路の路肩に停められていた。
荷台をロックしようとした大沢は、自分が手にしているものに目をやった。さっき胸から落ちたものだ。封筒だった。
なかを見た大沢は、自分の目を疑った。ぱちぱちとまばたきしてから、もう一度確認する。封筒から出して手に取った。間違いない、金だ。
大沢は運転席に乗り込んでから金を数えてみた。三百万あった。そして一枚の紙切れが同封されていた。やはり筆跡をごまかすためか、異常に下手クソな字で、『謝礼』と書かれていた。
なにがなんだか、さっぱりわからなかった。
静岡の外れで大沢のトラックを降りたしのぶが、前方で待っていた自分の車に乗り込んできた。
「明日美さん、運転替わろうか」
「いいよ、だいじょうぶ。疲れてるのはお互いさま」
「あんたはどうなの」
後部座席の渚に、しのぶが声をかけた。
「平気ですよ。充実してます」
「……充実、ね」
明日美は溜《た》め息をついてから、車を発進させた。「ところで渚さん。どうしてあの大沢って人、殺さなかったの。あんた、顔見られてるでしょう。あんたのことだから殺すと思ってた」
渚が笑った。「人を殺人狂みたいに言わないでくださいよ」
明日美は胸の内で毒づいた――殺人狂そのものじゃないか。
「わたし、顔変えますから。整形するんです」
「へえ。あんたも改造人間になるわけだ」
ぴしゃり、としのぶに太腿《ふともも》のあたりを叩《たた》かれた。
「で? これから名古屋に行くわけ?」
「ええ。適当なホテルで一泊して、それから東京に戻りましょう」
「……オッケー、わかった」
「ところでみなさん、これからどうなさるんですか」
しのぶがセーラム・ライトをくわえた。「いっぺんに返したら怪しまれるから、ぼちぼち借金返していって、引っ越して……あとはそれから考えるわ」
「金持ちになったとこ、子どもに見せるんじゃなかったの」
明日美が聞くと、しのぶは「なんや、アホらしゅうなった」と、ひとりごとのようにもらし、苦笑いめいたものを浮かべた。
「明日美さんは?」
と、渚がたずねた。
「親父に仕送りして、仏壇買って、お墓買う。あと、横浜で中華料理食べて、白いマンション買うんだ……そのくらいしか思いつかない。渚さんは?」
「パソコン機器を充実させて、CGをもっと勉強して……あとはわかりません」
しのぶが笑った。「なんや、こないぎょうさんお金あったら、なにしてええか、わからんな」
「でもあれですね、予定外でしたね」
と、渚が言った。
「なにが」
「史郎くん死んだから、分け前増えたじゃないですか」
しのぶが怒った。「あんた、言うてええことと悪いことあるよ!」
「だって事実じゃないですか」
渚は、なぜしのぶが怒るのか理解できない、といったふうだった。
どうしようもない不快感に衝き動かされるようにしてアクセルを踏み込んだ明日美の頭に、ふと、こんな考えが飛来した。
史郎が死んだから分け前が増えた。ということは、しのぶと渚を殺せば、この金は全部自分のものじゃないか。
「あんた、なにニヤニヤしとるん?」
しのぶに言われるまで、自分がそんな表情を浮かべているなんて夢にも思わなかった。
その考えを打ち消そうとした明日美は、また別の可能性に思い至った。いま自分が考えたことと同じことをこのふたりが腹の底で思っていたとしたら?
決まっている。殺される前に殺さねばならない。
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PIG SHIT
21
雨上がりの夜の十字路は、淡く滲《にじ》んだ光に彩られていた。設置されたいくつもの信号の光や街灯の灯、そして停車している自動車のヘッドライト、ウィンカー、さらには煙草や清涼飲料水の自動販売機の明かりなどが、濡《ぬ》れた路面に落ちている。なかでもひときわ鮮やかに路面を照らしているのは、十字路の角にあるコンビニエンス・ストアの明かりだった。
こうして人通りの少ない郊外の街角で明かりをともしているコンビニエンス・ストアを見るたびに、隅田は、まだ駆け出しの新米だったころに観た映画を思い出す。『未知との遭遇』。とはいえその映画の内容は、もうすっかり忘れてしまった。
信号が青になった。
このまま目的地に向かうつもりだったが、気が変わった。隅田は、コンビニエンス・ストアの店舗の横にある、いささか狭い駐車スペースに愛車を乗り入れた。
車を降り、店に向かう。入り口付近には、十五、六歳くらいに見える少年たちがたむろしていた。いわゆるうんこ座りをして顔を突き合わせ、ときおり甲高い声で笑っていた少年たちが、隅田がそばを通った途端、口を噤《つぐ》んだ。そして緩慢な動作で顔をあげ、隅田をじろじろと眺めるのが、視界の隅に映った。
週刊誌二冊と、何種類かの栄養ドリンクを全部で十本ほどカゴに入れ、レジに向かう。その途中、少し考えて、フラボノイド入りのガムとリップクリームもカゴに入れた。
会計をしているとき、後ろに人の気配を感じた。さりげなく目を向ける。立っていたのは、長髪を後ろでたばねている、さっき店の前にいた少年のひとりだった。
隅田がレジから離れたとき、少年はすでに店から出て、仲間のところに向かっていた。おおかた隅田の財布のなかみを背後から確認し、それを報告しているのだろう。報告|如何《いかん》で、隅田を襲って財布を奪うかどうか決める、といったところらしい。
もし連中が襲いかかってきたら遠慮なくぶちのめしてやろうと思ったが、やめておくことにした。小便臭い子どもの相手をしている暇はない。こっちは忙しいのだ。よけいな体力を消耗したくない。そんな事態になったら、警察手帳を見せて追い払うことにしよう。
しかし隅田の財布のなかみは、連中のやる気をそいでしまったようだ。少年たちは立ち上がる気配も見せず、またぺちゃくちゃとなにやら声高に話しはじめた。そうした彼らの様子を見て、隅田はプライドを傷つけられたような気がした。
車に乗り込んだ隅田は、コンビニエンス・ストアのビニール袋から栄養ドリンクを取り出し、立て続けに三本を空にした。ひと息ついて、もう一本|喉《のど》に流し込む。
ルームライトをつけ、無造作に引っ張り出した週刊誌のページを開いた。先週、朝倉組組長九條和樹の別荘で起きた事件の記事が載っているのだ。
狂気、残酷、地獄絵図、殺人放火、大量虐殺、暴力団同士の血で血を洗う抗争――そんな扇情的な言葉が滑稽《こつけい》なまでにおどろおどろしく躍っている誌面から顔を上げた隅田は、もう一本栄養ドリンクの瓶を空にしてから、別の週刊誌を広げた。同じ事件を採り上げたページを開いてざっと読んでみたが、内容はさっきの週刊誌とそう大差ないように思えた。
隅田は、苦笑混じりにルームライトを消した。
暴力団同士の抗争? 九條の別荘の事件はそんなものじゃない。ギネスものの大量殺人とか、現場を火の海にしてしまうとかいう残虐性から暴力団を連想するというのは、隅田に言わせれば、ほとんどお笑い種《ぐさ》である。これは間違いなく素人の仕業だ。素人だからこそ、こんな真似をするのだ。
四課の知り合いに聞いたが、九條は朝倉組の三代目を襲名したばかりなのだそうだ。朝倉組傘下だけでなく、石黒組傘下の暴力団の主要な人物が台湾に飛んだという情報があったというから、日本で襲名式を済ませて台湾に向かったか、襲名式も台湾で行なったかしたのだろう。
では彼らは台湾でなにをやっていたか。襲名披露後恒例の総長|賭博《とばく》に決まっている。その精算は帰国後に行なわれるはずだ。もし九條がその金を別荘に集めていたとしたらどうだろう。そして犯人の狙いが、その金だったとしたら。犯人は相当額の金額をせしめたに違いない。
では、犯人はどうやってその情報を得たのか。答えは簡単に得られる。この前起きた、九條組組員の堺、多田、中山、元海渡組組員相原の配偶者相原マユミの四人が殺害された事件がそれだ。犯人はそのとき、総長賭博の件を被害者から聞き出していたのだろう。そして始末した。
また、総長賭博という言葉から、即座に国内の組内部で大金が動くと連想したと思われる点、九條組の下っ端である多田のアパートを知っていた点などをわざわざ考慮しなくても、犯人は九條組の内部に精通しているものと考えてよいだろう。そう考えれば、犯人がだれであるか、朧気《おぼろげ》ながら見えてくる。木島史郎だ。
犯人は木島史郎。そこまではいい。だが、木島ひとりにあれだけのことができるだろうか。朝倉組構成員の約三分の二が、あの事件で始末されている。幹部クラスは全滅だ。それだけの大量殺人――殺された暴力団員も、その大半は丸腰ではなかっただろう――を、ひとりでこなせたとは思えない。別荘二軒に放火した手際から見ても、犯人は複数いたと考えるべきだろう。
犯人は四人。それが隅田が出した結論だった。その四人とはだれか。木島史郎、三宮明日美、藤並渚、葉山しのぶだ。女にこんなことができるだろうかという思いもなくはなかったが、それは体力的な問題であって、女ならばこんな気狂いじみた大量|殺戮《さつりく》は行なわないだろう、という意味ではない。むしろ、相手を皆殺しにしてしまうとか、九條邸だけでなく、おそらくアジトとして使用していたと思われる隣の別荘まで焼き尽くすといった徹底したやり口に、変な言い方だが、女らしさと言うか、女の匂いを感じた。
秋月という男が経営する街金の事務所が襲われ、現金約一千万を強奪された事件が起き、その経緯を耳にしたときから、隅田は三宮明日美が怪しいと思っていた。最初は単なるカンにすぎなかったものの、独自に調査するうちに、それは確信へと変わっていった。
たしかに自称江田や関口といった元従業員も怪しいと言えば怪しい。しかし、自分が辞めた直後に会社を襲うなんて馬鹿なことをやるとは、どうしても思えなかった。おまけに江田の借金は、たかだか一千万程度で返せるような額ではないのだ。もし江田が強盗を企《たくら》むとしたら、たとえば銀行とか現金輸送車とか、そうしたもっと大きな額が得られる対象を狙うだろう。
だが、秋月の事務所を襲えば、内部事情に詳しいために真っ先に疑われるという点では、三宮明日美も自称江田と同じだ。ただ、彼女が自分から疑いをそらすことができる初歩的な手段がある。自分を被害者に見せかけることだ。だから犯人たちは、三宮明日美がいる時間を狙いすましたように事務所を襲ったとの解釈も成り立つし、犯人のひとりが、抵抗しようとした男たちではなく、無抵抗だった三宮明日美を狙って拳銃《けんじゆう》を発砲したという、よく考えれば不自然な点にも、納得がいくというものだ。
それでは、秋月の事務所を襲ったのはだれか。三宮明日美はいろいろ言っていたが、目撃者――被害者の証言を素直に受け止めて、男ひとりと女ふたりという前提に立てば、これも答えはすぐに出る。藤並渚、葉山しのぶ、木島史郎だ。藤並渚と葉山しのぶは共立銀行の事件の際、三宮明日美と一緒にいた。案外あの銀行強盗と遭遇したことによって、金が必要だったら強奪すればいいのだ、という概念のようなものが彼女たちのなかに生まれたのかもしれない。
その三人と木島史郎は、なぜ、どうやって合流したか。その疑問も、三宮明日美を中心に考えれば、ある程度の推測は成り立つ。
ひとつ。三宮明日美と木島史郎は顔見知りであった。
ひとつ。犯人たちは、秋月の事務所を襲撃した際、本物の拳銃を所持していた。
ひとつ。木島史郎は鹿沼組組長鹿沼勝利を射殺しようとし、なおかつその後、同じ九條組組員である荒木オサムを射殺、逃亡していた。つまり拳銃を所持していた。
ひとつ。木島史郎は、尻尾《しつぽ》こそ出さないものの、九條組きっての武闘派と言われる矢野大輔とは、直盃《じかさかずき》を交わした兄弟分の関係にあり、矢野大輔が経営する矢野リースの社員として働いていた。となると、木島史郎は矢野大輔が所持しているという噂のある大量の銃器類の隠し場所を知っていた可能性がある。
すなわち三宮明日美は、木島史郎が所持していた拳銃を目当てに、彼を仲間に引き入れたのだ。木島史郎はなぜそれを承諾したか。おそらくなにか取り決めがあったのだろう。その答えは、いま隅田の膝《ひざ》の上にある週刊誌に大きく掲載されている。
動機はどうか。
三宮明日美は身障者の夫を抱えていた。借金もあるということがわかった。葉山しのぶにも借金がある。藤並渚は勤めていた会社が倒産し、いまは無職ということだった。つまり、三人とも金に困っていたわけだ。木島史郎の場合は、逃走資金がほしかったというところか――。
バックミラーを覗《のぞ》き込み、カサカサの唇に買ったばかりのリップクリームを塗ってから、隅田はエンジンをかけた。
車は、住宅街に入った。このあたりは鹿沼組の縄張りのはずだ。
ぽつぽつと街灯がともっている、車が通ることもほとんどない一車線の道をゆっくりと進み、住宅街のはずれに出る。完全に錆《さ》びてしまっている『こどもとびだし注意』と書かれた看板のところでカーブを曲がると、街灯にぼうっと照らされている古いアパートが見えてきた。道路脇に建っている二階建のアパートだ。一、二階にそれぞれ三部屋ずつ、合計六部屋あるアパートだが、明かりがともっているのは、一階の右端の部屋と真んなかの部屋、あと、二階の左端の部屋だけだ。駐車スペースすらないのだから、近ごろの者はあまり住みたがらないのだろう。一階の真んなかのドアのすぐそばに、やはり古い洗濯機が置かれていた。捨ててあるわけではないらしい。たぶん、部屋のなかに洗濯機パンが設置されていないのだろう。
アパートの前に車を停めたとき、二階の左端の部屋のドアが開かれ、皺《しわ》深い老婆の顔が、ぬっとばかりに現れたのが見えた。ちらちらと隅田に目をやって、また部屋に戻る。このアパートの前に車が停まること自体が珍しいのだろうか。それとも、なにか後ろ暗いところでもあるのだろうか。
隅田は一階の隅にあるメールボックスを確認した。一階の真んなかの部屋に住んでいるのは神田まさあき。右端が榎本芳江。二階の左端が鈴木一郎と花子の夫妻。
隅田は迷うことなく榎本芳江の部屋に向かった。
ドアをノックする。
しばらくして、返答があった。
「東京電力の者ですが」
そんな出たらめを言うと、ドアが開かれ、自称榎本芳江がおどおどしたように顔を出した。
「警察だ」
警察手帳を突きつけた。
女は、蝋燭《ろうそく》のように白い顔を引きつらせ、喉《のど》の奥でかすかな悲鳴を上げた。
玄関に入り込む。女の顔を凝視したまま後ろ手にドアを閉めた。
鍵《かぎ》をかけてから、隅田は言った。
「元気だったかね、関口菜穂子さん。それとも本名で呼んだほうがいいかね、池上範子さん」
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22
≪十月三日付東京日日新聞社会面≫
『現職警官の変死体見つかる
二日夜、東京都練馬区森崎町の賃貸マンションの一室で、同部屋の住人で警視庁捜査第一課巡査部長、隅田剛一さん(四八)が死んでいるのを、同僚の警察官が発見した。隅田巡査部長は一昨日から無断欠勤しており、電話をしても応答がないため、同僚がたずねたところ、その死体を発見した。隅田巡査部長は咽喉《いんこう》部を刃物で深く刺されており、なおかつ男性器が切断されていた。警視庁では殺人死体損壊事件と見て捜査本部を設置、近隣への聞き込みを開始すると共に、隅田巡査部長の交遊関係を調べることにしている』
≪同月同日付東京日日新聞社会面≫
『自宅に女性の他殺死体
二日午後、東京都××市の賃貸マンションの一室で女性が殺されているのを、金融会社社員が発見した。殺されたのは、その部屋の住人であるスーパーマーケット店員、葉山しのぶさん(四六)。死後二日程度経っているものと見られる。葉山さんは金融会社に借金があり、先月分の支払いが遅れているため督促にきた金融会社社員が、死体を発見したものである。葉山さんは胸部や腹部、背中など十数ヵ所を刃物で刺されており、傷の部位などから他殺と見られる。また葉山さんの部屋は物色された形跡があり、警視庁は強盗殺人事件と見て捜査を進めることにしている』
ねえデンスケ――薄れゆく意識のなか、明日美は胸の内で呟《つぶや》き続ける。もう声を発することもできない。
――ねえデンスケ。最後までそばにいて。ひとりだと寂しいから、ここにいて。あんたがアキちゃんのそばにいた夜みたいに。
ほとんどかすんでしまっている視界。渚が押し入れを、箪笥《たんす》を、まさぐっている――。
たずねてきた渚の顔を見た瞬間、後悔した。しのぶさんを殺し、金を奪い、次はあたしを殺しにきたというわけか。やっぱりこいつは地下室で撃ち殺しておくべきだった……。
渚はなにか言いたげな表情を浮かべていた。彼女の声を聞いてしまったら、撃てなくなるかもしれないと思った。しのぶが殺されたと知ってから常に持ち歩いていた拳銃を引き抜き、渚に銃口を向けた。
あーん、という声。デンスケの声。
思わず振り返った。テレビの上で眠っていたデンスケが、体を起こし、まっすぐに明日美を見ていた――昭久に見られているような気がした。
躊躇《ちゆうちよ》。戸惑い。人差し指から力が抜けた。
渚が動いた。あわてて引金を絞った。渚の体が「く」の字に曲がった。腹部に命中したのだ。彼女はそのまま、二、三歩たじろいだ。
視野の隅で、銃声に驚いたデンスケが、テレビの後ろに飛び込むようにして隠れるのが見えた。
渚が深い吐息と共に上体を起こした。血は流れていなかった。彼女は防弾チョッキを着けていたのだ。
渚が明日美に視線を向けた。大きく見開かれている彼女の目からは、さまざまな感情が見て取れた。いつもの死んだ魚みたいな目ではなかった。強盗や殺人を決行しているときのギラギラ輝いた異様な目でもなかった。それは、人間の目だった。
ぶるぶると唇をわななかせていた渚が、言葉にならない呻《うめ》き声のようなものをもらして拳銃《けんじゆう》を抜いた。
裏切り者、とわめきながら、明日美は銃口を向けた。でも――渚の目を見てしまった。撃てなかった。
轟音《ごうおん》と共に、明日美の体は後方に跳ね飛ばされた。被弾したのだ。
胸を撃たれていた。意識が遠くなってゆく。寒くてたまらなかった。
倒れた自分をじっと見下ろしている渚の姿がぼんやり見えた。彼女はなにも言わなかった。
ふううーっ、ふううーっ、という声がかすかに聞こえた。デンスケが渚に襲いかかろうとしているのだ。
お願い――必死にそう言った。声になったかどうかはわからなかったけれど。渚さんお願い、その子は撃たないで。お願いだから――
そして、頭の隅で考える――これで昭久とふたりっきりになれる。もうだれにも邪魔されることはない。
ああそうか、と明日美は思う。自分は昭久をどこにもやりたくなかったのだ。ずっと彼を自分の手のなかに置いておきたかったのだ。だから昭久が自立を志したとき狼狽《ろうばい》した。昭久は、明日美が強盗をしたから愛想をつかしたのではない。自分のせいで明日美が犯罪を犯したと思い込んでいたのだろう。だからもう明日美に甘えたりせず、自分のことは自分でやろうとしたのだ。それが彼の寿命を縮めてしまう結果を招いた。
あたしのせいだと明日美は思った。あたしはアキちゃんを永遠に自分の庇護《ひご》下に置いておきたかった。そのためにお金がほしかった――自分の本音が、やっとわかった。
「明日美さん」
渚の声が遠くから聞こえた。「もう、行くね」
どうやらコインロッカーの鍵《かぎ》は見つけられてしまったらしい。だけど、もういい。昭久とのこれからの暮らしには、お金なんて必要ないのだから。
楽にして――明日美は訴えた。口からはもう血の塊しか出てこないけれど、なんとか言葉にしたくて、訴え続けた。楽にして。アキちゃんのところにいかせて。
あーん、というデンスケの声。
――デンスケ、バイバイ。いろいろありがと。
「明日美さん」
黒いものが目の前に突きつけられているようだった。
「明日美さん、ごめんね。さよなら」
マズル・フラッシュ――それが、明日美の目に最後に映ったものだった。
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池上範子は、中学三年くらいから高校生にかけて、よく学校帰りに駅やデパートの公衆トイレに入り、制服から私服に着替え、髪の毛をセットし直し、化粧をしてから、街で遊んだ。当時は制服も野暮ったかったし――彼女が通っていた学校の制服はセーラー服であり、しかも後ろ髪は肩にかからないくらい短くするか、そうでない場合は三つ編みにする、という校則があった――制服を着て街を歩くなんて、恥ずかしくてたまらなかったのだ。
それから十五年近くが経って、三十二歳になった今年の六月から、範子はそのころと同じことをするようになった。
最初は、職がなくてラヴホテルに勤務することになったとき、知人に知られたくないと思ってはじめた変装だった。履歴書に偽名を書いたのも似たような理由からで、本名や住所、電話番号などを、経営者や同僚に知られたくなかったのだ。やあやあ池上さん、近くまできたもんだから寄らせてもらったよ、などと言って、ラヴホテルの関係者が自宅にやってきたらどうしよう、そんなところを近所の人に知られたくないと思ったのだった。そのころは、ラヴホテルの関係者というのは、見るからにいかがわしい人ばかりだと思っていたから。
しかし彼女は、関口菜穂子という架空の女性になりきることを、いつしか楽しむようになっていた。病みつきになってしまったと言ってもいい。関口菜穂子でいる時間があるから、池上範子でいられる。関口菜穂子でいる時間が失われたら、自分は池上範子でもなくなってしまうかもしれない――そう思うこともあった。
毎朝八時半に家を出る。バスで駅に向かい、電車に乗り換え、隣町の駅で降りる。そしてトイレの個室に入り、まず服を脱ぐ。Bカップのブラジャーを外してから、パッドを入れ、Eカップのブラジャーをはめる。立ったまま目線を落とすと、胸で視界がさえぎられる。これがなんだか妙に嬉《うれ》しい。続いてバッグから出した服に着替え、化粧を落とす。それからあらためて化粧をやり直す。ふだんはわりと温和な表情になるようメイクするのだが、このときは少々きつめで派手な化粧を施す。これだけで、顔の印象がかなり変わる。さらにカラーコンタクトを入れる。見るからにカラーコンタクトを入れているとわかるほど色がついているわけではないのだが、これで彼女の虹彩《こうさい》は、ずいぶんと茶色っぽくなるのだ。最後に、髪の毛を後ろでたばねているゴムを外してブラッシングする。
顔が変われば気分も変わる。心なしか、声もいささか変わってしまうようだったし、意識してそうしているわけではないにせよ、しゃべり方も、いつもと比べて少しゆっくりしたテンポのそれに変わるのだった。
そうして、一時間以上かけて変身を終えると、彼女はふたたび電車で元の駅に戻り、バスでホテル・サンライズへ向かう。職場に到着するのは十時前後。ちょっとでも遅れると、乾いた田圃《たんぼ》の泥みたいな肌をした、チビで目ばかりぎょろぎょろさせている三宮明日美という冴《さ》えないおばさんが、不機嫌そうな顔をして範子――そのときは菜穂子――を睨《にら》みつける。
彼女は、この三宮明日美という女が大嫌いだった。確たる理由があるわけではない。はじめて顔を見た瞬間から、この女は嫌いだ、と思った。だから彼女が池上範子ではなく関口菜穂子でいるとき、唯一|憂鬱《ゆううつ》になる時間は、ホテルに入り、三宮明日美と顔を合わせる午前十時前後だった。
仕事は思ったより楽だった。実際よく考えてみれば、午前十時から午後四時という時間帯にラヴホテルが満室になるなんてありえない。あったりしたら、なんだか無気味だ。
昼になるとパートタイマーたち――彼女はこの人たちも嫌いだった――が帰宅するので、ますます暇になる。だから午後は、たいていテレビを見てすごした。なんて荒唐|無稽《むけい》な筋書きだろうとか、なんて説明過剰な演技とナレーションなんだろうとか、このドラマの脚本家と演出家の脳|味噌《みそ》には皺《しわ》ってものが入ってないんじゃないのか、などと小馬鹿にしながらぼんやり見ていた昼のドラマにいつの間にやらハマって[#「ハマって」に傍点]しまい、あしたはどうなる、これからどうなる、と和室に置いてあるテレビ雑誌を広げては、そのドラマの「今週のあらすじ」のページを熟読したり、出ている役者のプロフィールにやたらと詳しくなってしまったりした。一般に「クサい」「くだらない」とされているものほど、いったん周波数みたいなものが合うと、「このクサさがたまらない」「この見え見えの展開が心地|好《い》い」「このレヴェルの低い笑えないギャグがおかしくてたまらない」といった作用をもたらしてしまうものらしいと、彼女は思った。
午後四時近くになると、おはよーっス、と江田がやってくる。
江田のことは好きでもなんでもなかったが、彼が自分に向ける発情したオスのような視線は好きだった。同僚の三宮明日美やパートタイマーたちは大嫌いでも、彼女たちが自分に注ぐ、嫉妬《しつと》に満ちた視線は大好きだったのと同じように。
昔から彼女は、相手が異性であれ同性であれ、憧憬《どうけい》や羨望《せんぼう》や嫉妬の目が向けられると、全身がぞくぞくするような快感を覚えていた。そんな視線をもっともっと浴びせられるような存在になりたいと常に思っていた。だから一生懸命勉強したし、スポーツも頑張った。百点を取ったり運動会のかけっこで一番になったりクラス委員長になったり生徒会長になったりしたら、周囲のおとなたちが彼女を褒めちぎった。クラスメートが称賛の言葉を浴びせた。最高に気持ちよかった。思春期になってから、彼女に注がれる異性の視線に情欲が混じってきたけれども、これもやはり、彼女に快感をもたらし続けた。
彼女は異性に対しては、いわゆるお堅いほうだったし、交際した男性の数も片手の指で充分足りるのだが、学生時代も、そして社会人になってからも、異性からの誘いはひっきりなしにあった。それらはほとんどすべて、ぴしゃりと断った。
しかし、郵送されたり直接手渡されたりしたラヴレターの類《たぐ》いは一通も捨てずに保管していたし、電話でつきあってくださいと告白されたときは、できるだけその告白をテープに録音するようにした。それが恋の告白の電話であることは、相手が第一声を発した時点で、なんとなくわかるものだからだ。
そして自室にこもり、自分に送られた大量のラヴレターを繙《ひもと》いたり、テープを聞き返したりしては、自分に向けられる熱っぽい言葉の海に浸り、夢見心地の時間をすごしていた。とはいえその手紙を書いた人間や電話をかけてきた人間を相手にする気は毛頭なかったけれど。
でも最近では、そんな視線を浴びせられたりする機会がめっきり減った。それどころか、かつては女王でありマドンナであった自分のことを、「池上さんの奥さん」「鈴音ちゃんのお母さん」「鈴音ちゃんとこのおばちゃん」と平気で呼ぶ輩《やから》しか周囲にいなくなってしまったのだ。これはつらかった。
しかしこの職場では、ひとりでいるとき以外はずっと、彼女が望むままの視線にさらされている。それがたまらなく心地好かった。
〈俺、前から思ってたんスけどォ、関口菜穂子って、いい名前っスよねえ〉
江田が言った。心の半分は、なんて程度の低い褒め言葉だろうと呆《あき》れていたのだが、残り半分は、やはりうっとりとした気分に包まれた。
ちなみに関口は範子の旧姓で、菜穂子は、範子が自分の娘につけたかった名前だった。鈴の音と書いてレインなどという、西欧コンプレックス丸出しの名前を子どもにつけるつもりなど、まったくなかった。
女の子がほしい、女の子だったら菜穂子がいい――範子がそう言っていたとき、茂はいいんじゃないと適当に相槌《あいづち》を打っていた。しかしいざ生まれてみると、姑《しゆうとめ》と、そして当時はまだ生きていた舅《しゆうと》を味方につけて、これからは国際化の時代だからレインにする、と言い出した。なんだそりゃ、というのが範子の正直な感想だったのだが、姑も舅も、いまふうだねえ、と感心していた。
〈次は男の子がいいな。男の子にはこの名前をつけよう〉
そう言って茂が書いた『舞華瑠』という文字を見て、やっぱり範子は、なんだこりゃ、と思った。読めなかったのだ。
〈馬鹿だなあ、マイケルって読むんじゃないか〉
おまえは暴走族か、と思った。
そんなことを思い出しつつ、そうですかあ? ありがとう、と江田に笑顔を向けた。さあもっと褒めろ。褒めまくれ。わたしは称賛の言葉がほしいのだ。しかしおまえの役目はあくまでもわたしを言葉でうっとりさせることであって、それ以上踏み込むのは許さない――そう思いながら、彼女は微笑し続けた。
江田が見る。みる、ミる、視る、観る、見る見る見る見る見る。彼女の頭の先から手足の爪先《つまさき》までを、江田の視線が這《は》い回る。気持ちいいと彼女は思う。良い、佳《い》い、好い、善い、気持ちいい気持ちいい気持ちいい。
そして四時になり、彼女はタイムカードを押して帰路につく。
駅での変身。関口菜穂子から、池上範子へと戻るのだ。
家に着くのは午後五時半前後になる。たいてい台所から姑の声とテレビの音声と茂の馬鹿笑いと甲高い声を張り上げて走り回る鈴音の足音が聞こえる。それは範子には、微笑ましい家族の光景に思える。だけどそこに、自分の居場所はない。
茂は範子に家事をさせない。下手だからなのだそうだ。そのくせ茂は他人には、うちのはなんにもしなくって、とぼやいて見せる。そして姑は、ただいま、と入ってくる範子に向かって、毎日必ず、主婦がこんな時間まで大変なことで、と嫌味たっぷりに言う。今度は連れ込み[#「連れ込み」に傍点]で働いてるそうですね、まったく、みっともないったらありゃしない。そうつけ加えることもある。
ふざけるな、と範子は思う。あんたの息子が働かないから、わたしが働いてるんじゃないか。あんたらみたいに、先祖の残した遺産とやらを食いつぶしてグータラ生きてきた連中にはわかんないんでしょうけどね、こうして働かなきゃ、みんな飢え死にしちまうんだよ馬鹿野郎。ラヴホテルだろうがなんだろうが、ほかに仕事がないんだからしょうがないじゃないか。土地売ってのほほんと暮らして、お金なくなったらまた別の土地売ってのんべんだらりと暮らして、売る土地なくなったら年金で生活してるあんたなんかには、絶対わかんないんでしょうけどね。
――そうなのだ、と範子は自省する。室町時代から続く名家の生まれで曾祖父《そうそふ》は貴族院議員でフランスとイタリアに留学したことのある画家。そんな肩書きにころりと参ってしまった自分が浅はかだったのだ。留学と言っても、どちらも一年足らずで逃げ帰るようにして帰国したらしいし――だって言葉がわかんないんだもん、と茂は言っていた――画家というのは本人がそう言い張っているだけで、茂が絵など全然売れない無収入の男だとは、夢にも思わなかった。最近やっと、児童を対象にお絵描き教室をはじめたが、その収入は、すべて茂の小遣いになっていた。
〈あなた、池上家の嫁だという自覚あるんですか?〉
いかにもわたくしは育ちがよろしいんでございますのよと言いたげな楚々《そそ》とした調子で、そんな天然記念物ものの嫌味を言われたことがある。なんだそりゃ、と範子は思った。グータラしてる怠け者一家の嫁にふさわしく、食っちゃ寝食っちゃ寝してろってのかよ、このクソババア。
〈やっぱお母さんの料理はうまいなあ〉
半分お世辞だということはわかっているが、茂がそう言うたびに、範子ははらわたが煮えくり返るような思いがする。
〈若い人のお料理と違って、栄養が違いますものね〉
そう言って姑は上品に笑う。その顔に、テーブルに並んでいる料理をぶつけてやりたいと何度思ったことか。だいたいあんた、わたしの料理食ったことないじゃないか、そう思う。
〈ママの料理は、まずーい。ゲー〉
鈴音までそんなことを言う。すると茂と姑が、こらこら、と言って大笑いする。四六時中姑と一緒にいるから、すっかり洗脳されてしまっているのだ。外面だけは異様にいいのも、姑や茂にそっくりだ。最近では姑の機嫌取りに、範子を小馬鹿にするようなことばかり口にする。
夕食を終え、後片付けを済ませた姑が帰ると、茂は部屋にこもって音楽を聴き、気が向いたときは絵筆を持つ。夫の絵がいいのか悪いのか、正直範子にはさっぱりわからない。
鈴音を寝かしつけるのは範子の役目だが、これがまたひと苦労だ。姑が甘やかし放題に甘やかすから、なんでも自分の思い通りになると思っている。
いつだったか、ひょっこり夜中に起き出して、範子を揺り起こしたことがあった。おねしょでもしたのかと思いきや、ケーキ食べたいから買ってきて、と言う。あしたにしなさいと叱ると、いま食べたいんだもん! とヒステリーを起こした。茂は怒ったように、おまえ母親だろう、買ってきてやれよ、と言った。すると鈴音もまた、おまえ母親だろう! と叫ぶのだ。
やっと鈴音が寝てから入浴し、ベッドに入る。たまに茂が求めてくるのだが、そのたびに化粧をさせられるのには辟易《へきえき》する。なんでよ、嫌よ、と言うと、茂は笑いながらこう言った。
〈だって化粧落としたおまえの顔、お化けみたいなんだもん。ぬぼーっとしてさ、気持ち悪いんだよな〉
子どものころから培ってきたものが、音を立てて崩れた。
茂に枕を投げつけた。〈じゃあ電気消せばいいじゃない!〉
〈俺、真っ暗だと気分出ねえもん〉
さらにこう言われた。
〈おまえ、ひとりしか子ども産んでないのにさ、なんでこんなに妊娠線あるわけ。腹が干し柿みたいでさ、気色悪いよ〉
喧嘩《けんか》になった。殴られた。親にも殴られたことないのに。殴り返した。倍になって返ってきた。
あの日も江田が見ていた。髪の毛を褒めてもらいたくて、さあっと髪が波打つよう意識しながら、彼に背を向けた。
すると江田が、後ろから髪の毛を一本引っ張り、抜いた。びっくりして振り返った。それでも内心、彼はこんな言葉を口にするだろうと予想はしていた。どうしてもあなたの髪の毛を一本ほしかったのです。お守りにして一生大切にします――。昔、そんな台詞《せりふ》を言った男がいたっけ……そう思っていたら、江田がいま引き抜いた彼女の髪の毛をすっと差し出した。
〈すンません、ピーンと跳ねて目立ってたもんで、つい〉
白髪だった。気が遠くなりそうになった。
自分はいま、どんな表情を浮かべているのだろう。見られたくない。白髪を抜かれて驚愕《きようがく》している顔を見られるのが、なぜかとてつもなく恥ずかしかった。
また背を向けた。背後で、江田が動く気配がした。腰に衝撃が走った。テレビ台の下に置きっ放しになっている、三宮明日美のスタンガン。そう思いつつ、気を失った。
気づいたときは裸にされていた。猿轡《さるぐつわ》をかまされ、右の手首と右の足首を、左の手首と左の足首を、それぞれ紐《ひも》のようなもので縛られていた。犯された。泣いた。殺してやると思った。そして三宮明日美のことが、いままで以上に嫌いになった。
茂が島袋ナントカという画家の個展に出かけた日は、彼女の休日だった。
前日、江田が突然いなくなり、ヤクザのような男たちがやってきて、江田はどこだと騒いだ。あれは怖かった。ただ、おまえ江田の女か! と凄《すご》まれたときに涙が出てしまったけれど、その涙は恐怖のあまり流れたものではなかった。江田に凌辱《りようじよく》され、その後も強いられるまま関係を続けていることを見抜かれたような気がしたからだった。
あれから江田は、午後四時ではなく、二時ごろやってきて、毎日のように彼女の体を弄《もてあそ》んだ。我慢ならなかったのは、そうやって犯されながらも、この男は自分を毎日でも抱きたいのだと思うと優越感が湧き上がってきて、高笑いしたい気分を覚える自分自身だった。わたしは変態かもしれないと思った。
ヤクザたちは江田がいなくなったと言っていたが、範子は最近買ったという江田の携帯電話の番号を知っていた。その番号をあのヤクザたちに教えればよかったと後悔した。
きょうは姑がきていない。範子と顔を合わせたくないのだろう。ホッとする。そのかわり昼食は自分で作らねばならない。
なに食べたい? と鈴音に聞くと、おばあちゃんのお料理、と言う。ママが作るんだよ、と範子は強い調子で言った。じゃあいらない。そんな答えが返ってきた。ちゃんと食べないとだめだよ、おばあちゃんに叱られるよ。言いたくなかったけれども、言うことを聞くかと思い、そう言った。じゃあコンビニのお弁当、と言われた。脳の神経を攪拌《かくはん》されたような感覚に襲われた。
弁当を買ってきて部屋に入ると、鈴音がコードレス電話で遊んでいた。適当に番号を押しては相手の反応をうかがい、きゃははと笑って切る。そういうことを繰り返していた。
〈なにやってるの!〉
叱ると、鈴音は範子に向かってアッカンベーをした。カッとなり、鈴音をつかまえ、お尻《しり》を叩《たた》いた。一発叩くと鈴音が泣き出したので、説教しようとした。いい、そういうことやっちゃだめなの……と。すると鈴音はするりと範子の腕から逃れ、窓を開けた。そしてコードレス電話を外に捨てようとした。範子に対する当てつけのつもりらしい。
〈鈴音!〉
くるりと鈴音が振り返った。
〈うるせえ、クソババア〉
その言葉を耳にした瞬間、範子は眩暈《めまい》を覚え、そして嘔吐《おうと》した。
それから先のことは悪夢としか思えない。
頭のなかが空白になっていた範子がわれに返ったのは、頬を張られて倒れたためだった。いつ帰ってきたのか、恐ろしい形相の茂が立っており、自分を見下ろして、なにか言っていた。そして茂が、範子に馬乗りになった。首を絞められた。範子は無我夢中で手を振り回した。すると右手に妙な感覚があり、茂が範子の横にどっと崩れ落ちた。首がざっくりと切れており、そこから噴水のように血が噴き上げていた。その血を全身に浴びた範子は、混乱したまま自分の右手を見た。血みどろの包丁が握られていた。
茂にすがりつこうとした範子は、茂の体の下に、なにかが下敷きになっていることに気づいた。鈴音だった。うつぶせになり、白目をむいていた。鈴音が、レインが……と、茂の体を無我夢中で押した。ごろりと転がった茂の体の下にあったのは、全身を滅多突きにされた鈴音の死体だった。
範子は吐いた。胃液しか出なかったが、それでも吐き続けた。
包丁は、まるで接着剤でくっついたみたいに手のひらから離れなかった。それを振りほどこうとしていた範子は、おばちゃん……という震え声に、飛び上がって驚いた。
範子の視線の先に、凍りついたようにして、木島ももこが立っていた。いつものように、呼び鈴も押さず、ノックもせずに上がり込んだらしかった。
意思とは関係なく、範子はももこに飛びかかっていた。
江田に電話して、泣いてすがった。江田はまだ市内にいた。隠れていたらしい。彼は車でやってきて、あんた、おっそろしい女だなあ、と言いつつ、死体の始末を手伝った。
〈血、拭《ふ》いとけよ〉
言われた通りにした。
用心しつつ、死体を毛布にくるんで車に運んだ。山奥に運び、ふたりで穴を掘って死体を埋め終わったとき、もう夜中の三時をすぎていた。
〈なあ。あのガキ、なんでこんなもん持ってたんだろうな〉
作業を終えて、その場に座り込んで夜空を眺めていたら、江田がそう言った。ももこが持っていた貯金通帳と印鑑をポケットから取り出し、通帳を団扇《うちわ》代わりにして扇《あお》いでいた。
〈それ、わたしにちょうだい〉
〈ふざけんなよ。協力してやったんだぜ? 額が少なすぎるけどさ、このくらいの金俺がもらっても、文句なかんべさ〉
当然のように通帳と印鑑をポケットに戻し、江田がどっこいしょと立ち上がった。
その瞬間、爆発したように殺意が芽生えた。鈴音、茂、ももこのときとは違い、はっきりとそれを自覚した。
〈とにかく、おまえのアリバイ作らねえとな〉
煙草を取り出して火をつけようとする江田の脳天を、手にしていたシャベルで一撃した。衝撃で手が痺《しび》れた。あっと叫んで、江田が膝《ひざ》をついた。頭を抱え、眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せて範子を睨《ね》め上げた江田が、そのままつかみかかろうとした。今度はシャベルを横に払った。江田が吹っ飛ぶように転がった。
範子はさらにシャベルを振りかぶった――。
死体は、そこから遠く離れた山中の藪《やぶ》のなかに捨てた。疲れ切っていたため、埋めるのはやめた。
俺は木島史郎を追っていたと、隅田は言った。九條組をマークすれば史郎に近づけるかもしれないと思った隅田は、九條組と関連があると思われる秋月事務所が強盗に襲われた事件に着目した。それを追ううち、三宮明日美と木島史郎の関連に思い至った。そのうち隅田は、従業員から聞く関口菜穂子のイメージが、池上範子のイメージに重なる部分があるように感じはじめたそうだ。
やがて隅田は、史郎が勤務していた矢野リースの売上から、毎月三十万ちょっとの金が、鈴木一郎という男の口座に振り込まれている情報をつかんだ。矢野リースの女事務員に賄賂《わいろ》を渡して聞き出したらしい。鈴木一郎の住所を割り出した隅田は、鈴木が住むアパートを張り込むことにした。すると一階の隅の部屋から、池上範子が姿を現した。範子は変装しているつもりだったが、隅田にはひと目でわかったという――。
隅田の行為は、若さにまかせて範子を抱いていた江田と違って、ねちっこいとしか表現できないものだった。俺の言う通りにしないと逮捕するぞと脅されるまま関係を強いられた最初の日だけは、範子のアパートでのおとなしめの行為だった――なにしろ隣とは、薄っぺらな壁一枚で隔てられているだけだから――が、翌日から隅田は、毎晩車で迎えにやってきては範子を自分のマンションに引っ張り込むようになった。
隅田は、よくもまあこんなことを思いつくものだと言いたくなるようなさまざまな手段でもって、範子の体を蹂躙《じゆうりん》した。抵抗すると殴られた。いつか必ず殺してやると心に誓った。
〈三宮明日美、覚えてるだろう〉
嫌だと言うのに強引に一緒に入浴させられ、浴槽のなかで後ろ向きに抱っこされていたとき、隅田が言った。
〈あいつ、とんでもない女なんだぜ。あんたよりもな〉
暴力団の組長の別荘を襲撃して、その場にいたヤクザを皆殺しにし、相当額の金を奪ったみたいだ、と隅田は言った。
〈木島史郎と組んでるんだ。あとは、葉山しのぶっていう女と、藤並渚っていう小娘だ。葉山しのぶってのは小物だよ。藤並渚はまだ二十歳そこそこのガキだからな、こいつも大したことねえ。俺は木島と三宮が主犯だと睨《にら》んでるんだがな〉
木島史郎にそんなことができるとはとても思えない。隅田はなにか勘違いしているのではないかと思った。
〈なんで逮捕しないの。証拠がないの。それとも、三宮さんもわたしみたいにしたいわけ〉
別に隅田のことなど好きではないが、あの田圃《たんぼ》の泥の化身みたいな中年女と比べられているかと思うと、腹が立った。
〈あの女の銭、横取りしたいんだよ〉
風呂《ふろ》から上がって、木島史郎を除く三人の住所を教えてもらった。三宮明日美の家が、いまの自分の住まいとさして離れていない場所にあったので、驚いた。
それから四時間後、さんざん範子を弄《もてあそ》んでから眠りについた隅田の喉《のど》に、包丁を叩き込んでやった。
殺人にも慣れというのがあるのだろうか、事務的に事を進めている自分を、範子は気持ち悪いと感じていた。自分の痕跡《こんせき》が残っているかもと思い、隅田の性器も切断した。阿部定《あべさだ》は愛情ゆえに愛人の性器を切断し、大切に持っていたそうだが、範子は憎悪にまかせて切断した性器を、隅田のマンションの近所のドブ川に捨てた。
下の階に引っ越してきたものなんですが。そうあいさつすると、葉山しのぶは満面に笑みを浮かべ、あらそうですかあ、と嬉《うれ》しそうに言った。この部屋に他人がたずねてくるのは皆無に近いらしいと、範子は思った。茂や鈴音と暮らしていたとき、自分がこんな表情を浮かべていたのは、数少ない訪問客があったときだけだったような気がしたからだ。
つまらないものですけど。そう言って手にしていた箱を見せると、葉山しのぶは滑稽《こつけい》なくらい破顔し、なかに入ってお茶でも飲みませんか、と言った。よっぽど寂しかったらしい。どう見てもこの女が、ヤクザを何十人も殺した四人組のひとりだとは思えなかった。
それにしても好都合だ。こんなにうまくいくとは思わなかった。
どうぞ、と先に立ってなかに入る葉山しのぶの背中に、範子は、よく研いだ包丁を、力いっぱい突き立てた。肺の空気をすべていっぺんに吐き出したような音を口からもらして、葉山しのぶがうつぶせに倒れた。包丁を引き抜き、また振り下ろした。今度は左の肩胛骨《けんこうこつ》の少し下あたりに刃がめり込んだ。抜こうとしたら、葉山しのぶが抵抗した。
〈なんやの、あんたあ……だましたんかあ……〉
刃が彼女の体内に収まったまま、柄のところから包丁が折れてしまった。
台所に走った範子は、食器乾燥機のなかに包丁を見つけ、手にした。這《は》って逃げようとする葉山しのぶに飛びかかり、滅多刺しにした。あー、あー、と葉山しのぶは声をもらし、唇を震わせ、涙をいっぱい溜《た》めた目で範子を見上げていた。
〈なんでや、なんで刺すの、わたしがなにした言うの、なあ……〉
目をそむけ、範子は包丁をふるい続けた。
〈いややあ、死にとうない、死にとうないよお……〉
もはや聞き取ることもむずかしいようなかすれ声で、それでも葉山しのぶは呻《うめ》き続けていた。
〈木島くん、明日美さん、渚ちゃん、木島くん、明日美さん、渚ちゃん、木島くん、わたし、死にとうないよお〉
葉山しのぶがなにも言わなくなった。見開かれたままの彼女の目から、ツーッと、涙が一筋こぼれた。見ると、瞳《ひとみ》は完全に光を失っていた。脈を取った。停止していた。
部屋を物色した。箪笥《たんす》のなかに、拳銃《けんじゆう》が一丁あった。使い方などわからないが、もらっておくことにした。
そして押し入れに、大きなバッグが仕舞われていた。それを開いた範子は、驚嘆の声をもらした。札束がぎっしり詰まっていたのだ。
範子はいま、畳の上に置いたそのバッグを両手で抱えていた。この金があれば一生不自由することはない。どうやら世間では、池上範子は家族と共に失踪《しつそう》したと、いや、木島史郎に殺害されたということになっているようだし――どうしてそうなったのか正直わからないというのが、範子の本音だった――これから先のことを考えると途方に暮れるしかなかったけれど、この金があれば取りあえずだいじょうぶだ。きっとうまくいく。茂と結婚してからこれまでの不本意な自分とさよならして、本来の自分に戻れるのだ。
ただ、わからないことがある。だれが三宮明日美を殺したのだろう。
しかしその答えはすぐに得られた。藤並渚だ。仲間割れでもしたのか。それとも藤並渚が三宮明日美の金を狙って殺したのか……いや、それはないか。隅田は、三宮明日美と木島史郎が主犯で、藤並渚というのは二十歳そこそこの小娘だと言っていた。そんな子どもになにができるというのだ。
不意にノックの音がした。警察かと思った。心臓の鼓動が高まった。
「すいませーん」
明るい、女の声だった。ホッとした。
「えっとお、お留守ですかあ?」
留守だったら返事するわけないだろう、馬鹿。
「あの、ちょっと、いらっしゃったらあ、開けてもらえますう?」
ノックの音が続く。ああうるさい。
舌打ち。立ち上がった。念のため、葉山しのぶから奪った拳銃を手にする。それを構えて、どなた、と低く言った。
「あ、よかったあ、お留守じゃなかったんですねえ」
わーい、と拍手までしている。この女、頭が少しおかしいのではないだろうか。
「あのですねー、上の鈴木の親戚《しんせき》の者なんですけどもお、今朝東京に出てきましてえ、ご近所にお土産配ってるんですよお」
田舎者が……と範子は思う。ご近所づきあい、地縁血縁お土産、ああ鬱陶《うつとう》しい。とっとと追い払おう。
「どうもすいませんね」
そう言ってドアを開けた範子は、目の前に立っている女を見て頭が空白になった。まるでサヴァイヴァルゲームから抜け出したように、迷彩の戦闘服に身を固めた女が、クロスボウを構え、範子に矢の先端を向けていたからだ。
「Hi, sweetheart」
あわててドアを閉めようとした寸前、ひゅんという音と共に、腹に矢が突き刺さった。激痛。声も出ない。範子は仰向けの姿勢で玄関の上がり框《かまち》に転がった。
迷彩服の女が飛び込んできた。そして素早く引き抜いた拳銃を範子に突きつけた。
「痛いでしょう、池上範子」
あんただれ、と言ったつもりだったが、口からは、あっ……という吐息がもれただけだった。
既視感を感じた。自分に刺されて倒れたとき、葉山しのぶはこんな声をもらさなかったか。
「たぶんあんた、こんな手を使ったんだろうと思ってね、真似させてもらったんだよ」
「……なんの、こと」
やっと声が出た。だがそれと一緒に、どろりとした血が喉の奥から逆流してきて、咳《せ》き込んだ。
「とぼけるんじゃないよ。あんた、しのぶさん殺したでしょう」
女の顔が歪《ゆが》んだ。笑っているようにも、泣いているようにも見えた。その両方なのかもしれない。
「因果応報って言うの? わたしたちが九條の家を襲ったときも、この手使ったんだよ。しのぶさんが声かけてね。そのしのぶさんが同じ手で殺されたんなら、あんたにもこの手でドア開けさせるしかなかったんだよ」
範子は後ろ手をつき、ようやく上半身を少しだけ起こした。
「……藤並渚、でしょう……あんた」
女が、引きつったような笑い声を上げた。「照れるなあ。いつの間にそんなに有名になったのかなあ」
範子は藤並渚に拳銃を向けた。引金を引いた。動かなかった。
藤並渚が、薄い唇を醜く歪めた。「それ、しのぶさんのものだろ」
範子はきいいっと叫んで引金を引き続けた。動かない。
藤並渚が、酷薄そうな笑みを浮かべた。「オートマティックのガンってのはね、セーフティ外さなきゃ弾丸《たま》出ないんだよ」
セーフティ、なんだそれ、なんだそれ……
平手で頬を張られた。拳銃を取り落とした。藤並渚がそれを拾い、ベルトに挟み込んだ。
「……なんで……」
「なんであんたのこと知ってるか、という意味?」
範子は小さくうなずいた。
「明日美さんが言ってたんだよ。隅田って刑事がわたしたちに目をつけてるって。だからわたし、九條から金を奪ったあと、ひとりでずっと隅田をつけ回してたんだよ。そしたら隅田がここにきてさ、それから毎日あんたとイチャついてたよね。わたし、驚いたよ。あんたの顔、史郎くんに写真見せてもらって知ってたからね」
「木島さん……」
「そうだよ。それで全部わかったよ。あんたの家族も、史郎くんの娘さんも、あんたが殺したんだね」
藤並渚が、ポケットからなにか小さなものを取り出した。血のついた、ウサギのかたちをしたブローチだった。
「史郎くんがあんたの家で見つけたんだってさ。事件の前の日、ももこちゃんに買ってやったものだって」
「…………」
「史郎くんはね、あんたたちが九條組のヤクザに殺されたって思い込んでて、そのカタキ討とうとして、それで殺されたんだよ」
また頬を張られた。なにすんのよ、と言うと、反対側の頬を蹴飛《けと》ばされた。
「隅田殺したのもあんただろ」
「やめてよ! あんただって……三宮さん殺したの、あんたでしょう!」
腹に力が入らないから弱々しい声になってしまったが、それでも範子は、強い調子で言い返した。
案の定、藤並渚の表情が強張《こわば》った。顔が真っ赤になり、そして白くなった。
「あの人は、わたしがしのぶさんを殺したって思い込んでたんだ」
ぼそぼそと、幽鬼のような表情で、藤並渚が続ける。「わたし、しのぶさんが殺されたこと知らなかったんだ。隅田が死んでるとも思わなかったから、いま隅田はマンションに閉じこもってる、明日美さんやしのぶさんと会うのはいまだって思って、あの人に連絡取ろうとしたんだ。でも携帯の電源ずっと切られてた。しょうがないから夜中に家にいった。そしたらあの人、わたしを撃ったんだよ」
藤並渚が、手にした拳銃にぎらついた目を向けた。「そんなつもりなかったのに。条件反射。撃ってた」
「……あとからだと、なんとでも言えるよね」
「友達になれるって思ったのに。なってくれるって信じてたんだよ。そしたら殺されそうになったんだよ――撃たれたんだよ」
藤並渚が範子を睨《にら》みつけた。「おまえのせいだ」
「ねえ……」
咳き込みながら、範子は言った。「あんた……わたしと組まない?」
藤並渚の目から、凶暴そうな光が一瞬消えた。「友達になってくれる?」
「なるよ、当たり前じゃない……仲間になるんだから」
藤並渚が目を吊《つ》り上げた。「わたしはなりたくないよ」
今度は拳銃《けんじゆう》で顔を殴られた。前歯が折れた。後頭部を畳にぶつけた。顔が痛い。痛い痛い痛い。
「顔……顔ぶたないで!」
「綺麗《きれい》な顔してるよね、あんた。化粧濃いけどさ」
拳銃を握っている藤並渚の親指が、拳銃の横の部分にある小さなレヴァーのようなものを動かした。そして左手を拳銃に添え、前後に動かす。ガチャリ、という音がして、拳銃の上の部分が動いた。
「このガン、ベレッタM9っていってね、わたしがしのぶさんにもらったものなんだ。だからあんたは、これで撃つよ」
「や……やめて……お願い……お金返すから……」
「当たり前だよ。ヤクザ相手に血も汗も流さずに、横からひょいって出てきて、自分より弱い女殺して金取ろうなんて、虫がよすぎるんだよ」
「……やめて、お願いだからあ!」
「声出せよ。大声出せよ、助けてって。昼間だから隣は留守みたいだけど、上の鈴木って人、いるよ。警察に通報してくれるんじゃない? まあそしたら、あんたも逮捕されるけどね。あんた、いったい何人殺したの?」
「……あんたほどじゃないわよ!」
「どっちにしろ、わたしはあんた殺すよ。こんなに人を憎いと思ったの、はじめてだし、殺してやりたいと思ったのもはじめてだよ」
ゆっくりと、藤並渚が範子に銃口を向けた。
「顔、撃たないで!」
藤並渚が、片方の眉《まゆ》をきゅっと上げた。「どうして。そのほうが楽に死ねるよ」
「どうせなら、綺麗なまま死にたいの!」
「へえ。いい度胸してるんだね。朝倉組のヤクザより根性据わってるよ――でもね、そのひとことで決まり。みっともない死にざまさらさせてやるよ」
「お願いだから!」
「次のなかから選んでよ。A、あんたの顔にありったけの弾丸ブチ込む。B、あんたの頭をトイレに突っ込んで、後ろから撃ち殺す。C……そうだね」
藤並渚が、くくくっと笑った。「あんた殺したあと、あんたの顔にうんこしてやろうか」
「やめてよォ……!」
続けざまに拳銃が二度火を噴いた。両脚を撃たれ、範子は声なき悲鳴を上げて畳の上を転がった。
「いまのはね、しのぶさんのぶんだよ」
「やめて……」
「これが明日美さんのぶん」
右肩を撃ち抜かれた。
「これがももこちゃんのぶん」
左肩から血が噴き出した。
「これがわたし」
腹部に被弾した。
もう、意識は半分遠のいている。目もかすんでよく見えない。寒い、寒い、寒い……。
藤並渚が拳銃を仕舞い、また別の銃を引っ張り出すのがぼんやりと見えた。その銃口が、顔面に突きつけられた。
「見える? 聞こえる? これはね、史郎くんのガン。コルトパイソン357マグナム。ふつうのガンとは破壊力が違うから、これ顔面に食らえば、一発で楽になるよ。まあ、顔はぐしゃぐしゃになるけどね」
かちり、と藤並渚が撃鉄を起こした。「そしてこれが史郎くんのぶんだよ」
「顔は……や……め……」
「Adieu」
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この喫茶店に入ったときから見覚えのある顔だと思っていたが、地味なトレーナーに穿《は》き古したダブダブのジーンズを穿いたその女がだれなのか、思い出すのにずいぶんと時間がかかった。
藤並渚は、その面立ちも髪形も、九月にここで会ったときと、まったくと言っていいほど変わっていなかった。なのに彼女のことがわからなかったのは、このあいだの藤並渚と、すぐそばの席で、運ばれてきたレモンティーに手もつけず、薄い唇をぽかんと半開きにし、死人のような目をしてぼうっと窓の外を眺めている藤並渚とが、どうしても結びつかなかったからだった。
九月に会ったときの彼女は、その切れ長の目を生き生きと輝かせ、全身に生命力をみなぎらせていた。しかしいまの渚は、覇気のない、生きているのか死んでいるのかわからない、そんな高校時代の彼女に戻ってしまったかのようだった。
席を立った平賀佐和子は、渚が座っている席に歩み寄り、「渚さん」と明るく声をかけた。
ゆっくりと、渚がこちらに顔を向けた。死んだ魚のような目をしている。渚の椅子の隣の席に乗っている、これまた冴《さ》えないコートの上に、空っぽの書店の袋が置かれ、テーブルの上には、買ったばかりと思われるコンピュータの専門誌が無造作に載せられていたが、渚がそれを開いた形跡は見られなかった。
「ひさしぶりねえ、元気だった?」
ここ、いい? と確認し、渚の前の席に腰を下ろしながら、佐和子は笑顔でたずねた。
渚が視線をそらした。「元気だったよ」
「すいませーん、チーズケーキセット、こっちのテーブルにお願いしまーす」
佐和子は挙手して、カウンターにそう声をかけた。
「いやー、寒いねー、外は」
両手をこすり合わせ、わざとふざけた調子で、佐和子は言った。
「冬だからね」
相変わらずの素っ気なさである。
「ひとり?」
笑顔を浮かべて、佐和子は聞いた。
「いつもひとりだよ」
うつむいたまま、渚が言った。
「ええと……仕事、見つかった?」
「まだだよ」
「そう。大変だねえ」
「そうでもないよ」
取りつく島がない。
「パソコン、勉強してるの?」
話題を探していた佐和子は、テーブルの上の本を人差し指で突つきながらたずねた。
「CG」
「へええ。どんなの作ってるの?」
「友達の絵」
「友達。ヒカルくん?」
「別の友達」
「友達できたんだ。よかったねえ」
驚きのあまりつい本音を口にしてしまい、佐和子はあわてた。これはあまりに失礼というものだ。なんとかフォローしなければと思うのだが、気ばかり焦って、適当な言葉が浮かばない。
チーズケーキセットが運ばれてきた。コーヒーをひと口飲んでから、佐和子はやっと差し障りのない言葉を見つけることができた。もう手遅れかもしれないけれど。
「あのさ、友達って、どんな人?」
「おばさん。あと、男の人」
「あ、そうなんだー、へー。男の人って、年いくつくらい?」
「五つ上だよ」
「どんな人?」
「馬面」
「いや、そうじゃなくてね、そのう……」
「子どもいるよ」
「えー、じゃあ不倫とか、バツイチとか?」
「だから、ただの友達だよ」
「えっと、ええっと、その、おばさんは?」
「ひとりは背が高くて、ひとりは低いよ」
「おばさんって、いくつくらいの人なのかなあ」
「四十六と三十九」
「そのCG、プレゼントするの? ほら、もうすぐクリスマスだし」
渚が、ほんの少しだけ、首を傾げた。「……わかんない」
「したほうがいいよ。ほらあ、おばさんって、なかなかプレゼントもらう機会ないらしいし。喜んでもらえると思うよ。せっかくできた友達なんだから――あ、いや、その、友達はやっぱ、大切にしないと、ね?」
「……うん」
たったひとことだったけれども、それはいままでと違い、妙に実感のこもった口調だった。
「ねえ、平賀さん」
佐和子は意識して笑顔を浮かべ、身を乗り出した。「え? なに?」
「平凡に生きるって、どうすればいいの」
佐和子は面食らった。
「どういうふうに生きていったらいいのか、わからないんだよ」
「ええっと……そうだねえ、ふつうに生きてればいいんじゃない?」
「ふつう」
「うん……ほら、お友達のおばさん、その人たちみたいになればいいんだよ。仲よくしてもらってさあ、いろんなこと教えてもらってさあ――」
そこまで言って、佐和子は口ごもってしまった。渚の目に白いものが浮かんでいるように見えたからだ。
だけどそれは、佐和子の気のせいなのかもしれなかった。
呼び鈴を押す。しばらくして玄関のドアが開かれた。義眼のような目の、唇を半開きにした女が、のっそりと顔を出した。死人みたいな顔をした女だと、本間は思った。
「あんた、藤並渚さん?」
開かれたドアをぐっと引っ張り、自分の左右に立っている組員を軽く目で制してから、本間はたずねた。
女――藤並渚は両手を後ろに組むような姿勢を取り、無言のまま、緩慢な動作でうなずいた。
「突然だがね、あんた、大沢内装店って知ってるだろう」
渚はなんの反応も示さない。
「ある事件があったとき……その事件が起きる前、昼間にさ、その現場にいた奴に、俺が電話したんだよ。いやね、ちょっとしたパーティーがあって、俺も呼ばれてたんだけどさ、野暮用で行けなくなっちまったからね。それでそいつに聞いた。なにか変わったことはないかって。そしたらそいつが言ったね。隣が引っ越しみたいです、大沢内装店ってとこのトラックがきてますってさ――それで事件のあと、俺ら、大沢を探してね。やっと見つけて、締め上げた。だいたいの事情は飲み込めた。それでさ、大沢に声をかけた女の特徴言わせてさ、似顔絵作って、都内の親しい組に協力してもらって、その女を探した……いままでかかったよ」
渚は毛筋ほども表情を動かさない。焦点が定まっていないような目で、ただぼんやりと、本間を見ている。
「事務所まできてもらうよ」
本間が言うと同時に、左右のボディ・ガードがスッと拳銃《けんじゆう》を抜いた。そして銃をコートの裾《すそ》で隠しながら、渚に銃口を向けた。
渚の目がはじめて動いた。ゆっくりと、左右を見回している。
「駐車場も、階段も、うちの若い衆が固めている。逃げられないさ」
「あの……」
白い息と共に、渚が言葉を発した。「あなた、どなたですか」
本間は笑った。「そういや、まだ名乗ってなかったな。失礼した。俺は鹿沼組の本間ってんだ」
「ホンマさん」
「そう――なあ、藤並さん。あれはあんたみたいな小娘にできることじゃない。それに、大沢に堂々と面《ツラ》さらしてるんだから、あんたが主犯じゃないってことくらいわかってる。主犯はだれだ? どこの組の者だ? あんた、だれになんと言って頼まれた?」
「あの……鹿沼組って、石黒組系列の鹿沼組ですか」
本間は眉《まゆ》をひそめた。「あんた、なんでそんなこと知ってるんだ?」
その瞬間、渚が変わった。その目に突然生気が宿り、ぎらぎらと輝き出したのだ。それだけではない、唇に、嬉《うれ》しくて嬉しくてたまらないといったような笑みを浮かべ、全身から妖気《ようき》のようなものが立ちのぼっている。
本間は反射的に、腰のホルスターへ手を伸ばした。
一瞬早く、渚が後ろに組まれていた両手を突き出した。
二丁の拳銃。
角川文庫『葬列』平成15年5月25日初版発行