風の邦、星の渚
レーズスフェント興亡記
小川一水
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)風の邦《くに》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)幅百|尋《ひろ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)本当に[#「本当に」に傍点]驚いた
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風の邦、星の渚
【レーズスフェント興亡記】
NATION IN WINDS, BEACH ON STARS
【RISE AND FALL RECORD OF REAZSFENT】
小川一水
OGAWA ISSUI
角川春樹事務所
目次
前史
第一章 レーズスフェントの開闢
第二章 レーズスフェントの承認
第三章 労務修士L・Fの決意
[#ここから5字下げ]
――Das Journal eines interstellar zuchtenden Lebens.
[#ここで字下げ終わり]
第四章 レーズスフェントの発見
第五章 レーズスフェントの躍進
第六章 レーズスフェントの決戦
終章
参考文献
[#地から1字上げ]装幀/地図製作 伸童舎
[#地から1字上げ]装画 村田蓮爾
[#挿絵(img/01_003.jpg)入る]
Reazsfent
Und benachbarte Landkarten.
中世の十四世紀、三百もの封建領邦が乱立していたドイツでは、新興の自由都市群が力を持ち始めた。英仏は百年戦争に突入し、両国の中間にあるフランドル地方を巡って長く争う。主戦場となった低地地方(※ネーデルラント)は、近世民主主義の萌芽を胚胎している。混乱する北欧三国はデンマークによる統一が近い。カトリックは依然強く、スペインからイスラム勢力を駆逐した。南方から、疫病の不吉な影が忍び寄っている…。
[#地から1字上げ]本書は書き下ろし作品です。
[#改ページ]
風の邦《くに》、星の渚《なぎさ》 レーズスフェント興亡記
前史
レーズは裸で勢いよく水面《みなも》から顔を出した。くるみ色の髪の、若く美しい女の姿だ。元からそういう姿だったわけではない。数年前に人間の女が水を汲みに来たので、引きずり込んでよく調べた。その姿を真似《まね》ているのである。
泉は砂地で、さし渡し三十歩ほどのくぼ地の底にある。周囲は背丈より高い崖《がけ》だ。いっぽうが崩れて階段のようになっている。そこに男が座っている。
四十がらみのたくましい男だ。肩は広く張り、足腰は木の根のようにがっしりしている。身にまとった寛衣から覗《のぞ》く膝《ひざ》やすねには、多くの傷跡が折り重なっている。サンダルは金張りの高価そうなものだが、それもぼろぼろにすりきれている。長い長い道を歩き通してきたようだ。
赤のマントを羽織り、鷲《わし》を浮き彫りにした金のブローチでマントを留めている。それらは、単に高価なだけではなく、男が高い身分にあることを示している。
そして男の顔には、何かを期待するような薄い笑みが浮いていた。
泉から現れたレーズが目指すのは、この男であった。ざぶざぶと水を蹴立《けた》てて近づいていく。
夜である。泉の周りは暗い林だ。木々の根元で素朴な桃色の夏花が揺れている。頭上に月がこうこうと輝き、座る男と歩くレーズを照らしている。
だが、他に人気はない。二人きりだ。レーズは、こうなる機会をうかがっていたのだった。
最初に水音を立てたときから、男はこちらを向いていた。場数を踏んだ戦士らしく、さりげなく剣に手をかけて足腰に力を溜《た》めたが、レーズが近づくにつれ、力を抜いた。しかし油断はせず、周囲に目を配った。裸の女に目を奪われている隙《すき》に、刺客が近づいてくるかもしれないと考えたようだった。
レーズは喉《のど》をととのえ、甘い声をかけた。
「ローマの将軍様、お遊びになりませんか」
豊かな乳房を見せ、十分ににっこりと笑ったつもりである。
男は中腰のまま、しばらく周囲を見回していたが、やがて元通りに腰を下ろした。首をひねりながら頭をかく。それはレーズが期待した行動とは、だいぶ違った。
女連れは例外として、男というものは、若い女が裸で近づくと、襲いかかってくるはずなのである。罠《わな》ではないかと疑うことはあるが、そうではないと確信できると、必ず襲ってくる。これはレーズの経験では、二百人以上試してただの一度の例外もない、真実だった。
ところがこの男は、そうしなかった。罠ではないと確信したはずなのに、顔をにやつかせることすらない。眉《まゆ》をひそめて、しきりに首をかしげている。
レーズは間が持たない。男の三歩ほど手前で、裸体をさらしたまま、間抜けに微笑《ほほえ》んでいるしかない。
さんざん待たせたすえ、男が言ったのは、こんなとんでもないことだった。
「おめぇー、人間じゃねぇな?」
ローマ共和国最高の総司令官《インペラトール》にして最後の独裁官《デイクタトール》、ガイウス・ユリウス・カエサルの、それが第一声だった。
レーズは顔に微笑を張り付かせたまま、返事ができなくなる。初対面でいきなり正体を見破られたのは、初めてだった。
広げた両腕をぎくしゃくと下ろして、かろうじて声を出す。
「なんのことかしら?」
「いや、おとぼけなさんなよ。この泉の周りは、俺の自慢のゲルマン騎兵ががっちり固めてんだ。ダキアやガリアの刺客が全身真っ黒に塗ったって、ぜってぇ入って来れねえんだよ。おまえ、そこから湧《わ》いただろ。何もない水底から」
ユリウスは子供のように目を細めて、得意げに言った。
「そういう、わけのわかんねえ奴らに出てこられるのは、初めてじゃねぇんだ、俺は」
「この星に、私の他にもレーズが!?」
「レーズっていうのか? 一度はアドリア海を渡ってる最中で、船の下に幅百|尋《ひろ》もあるでかぶつが現れた。一度はプロヴィンツィアの渓谷で、身の丈十五尋もあるガリガリのやせっぽちが霧の中を歩いていった」
「物知りなのね」
「世界中回ってっからな。どうだ、仲間か」
「……それは、仲間じゃなさそうだわ」
「そうか。ところで何の用だ、ん? 化け物のべっぴんさん」
あっさりと、レーズは白状させられていた。
レーズはこの男をたぶらかして、泉に引きずり込もうと思ったのである。ところが見破られた上に、先手を取られてしまった。触れようとした途端、男は仲間を呼ぶだろう。ご自慢のゲルマン騎兵とやらが来て、レーズを槍衾《やりぶすま》にしてしまうに違いない。
レーズは籠絡《ろうらく》をあきらめて、ふてぶてしく腰に両手を当てた。
「聞きたいことがあるのよ」
「ほう、どんなことだ」
「きみたちは一体、ここで何をしているの?」
レーズが指差したのは、男の背後だった。泉の外、二百歩ほど向こうだ。
そこでは、一ヵ月ほど前から、大騒ぎが起こっていた。
大騒ぎと言っても、喧嘩《けんか》や交尾ではない。大げさないくさでもない。
大勢の男たちが、森を切り払い、車に乗せて運んできた木や石を切り、丹念に並べて、何かとてつもない物を作ろうとしているのだ。
それは、この北辺の寒々しい土地に住んでいるレーズが、今まで見たことも聞いたこともないものだった。
男は体ごと背後を振り返って、あれか? と言った。
「あれはおめぇー、作ってるんだよ。植民都市《コローニア》を」
「都市?」
「そうだ。さては知らねえな? 都市っていうのは、俺たちローマ人が作る、馬鹿でかい家だ。みんなで集まって、楽しく暮らせる場所なんだよ」
「集まって楽しく暮らす? 群れを作るということ? それでは、敵に一網打尽にされてしまわない?」
「だからさ。敵に睨《にら》みを利かせるために集まるんじゃねえか。そうやって集まった人間をゆっくりさせるために、劇場や、病院や、風呂も作るんだ」
「劇場――病院――みんなで――」
レーズは、今まで呑《の》み込んだ数々の人間から、多くの語彙《ごい》を収集していた。その中には劇場や病院もあったが、実物を見たことはなかった。
「それらはどんなものなの?」
「どんなっておめえ、とてもいいものだよ。生きていくのに欠かせない。もっとも俺は最近、やたらめったら忙しくて、とんとご無沙汰《ぶさた》だがね」
「説明して!」
「三月も待てば実物ができる。よければ見に来るんだな。物騒なことさえしなけりゃ、俺たちローマ軍は誰でも歓迎だぜ」
男は人なつこい笑みを浮かべると、立ち上がって背を向けた。レーズは手を伸ばし、「待って――」とマントをつかもうとした。
その途端、目の前の地面に手槍がドドッと音を立てて突き刺さり、嘲笑《あざわら》うようにゆらゆらとしなった。
行く手を阻まれたレーズが顔を上げると、くぼ地の周りを囲んで、鐙《あぶみ》のない悍馬《かんば》にまたがった騎兵たちがたたずんでいた。主君の安全のみを気遣う、彼らの冷たい視線が、痛いほど感じられた。
レーズは驚いた。本当に[#「本当に」に傍点]驚いた。彼女の土地であるここで、下等な人間たちに、気配も感じさせずに近づかれるとは、思ってもみなかったのだ。それまで戎衣《じゅうい》のチュートンばかり相手にしてきたレーズは、人間がこれほど練達になれるということを、知らなかった。
階段の一番上まで登ったユリウスが、振り返った。
彼は笑っていなかった。
「泉の魔物よ、貴様が多くの人間を食らってきたこと、友誼《ゆうぎ》のあるゲルマン諸族から警告されていた。以後二度と、そのくぼ地から出ることは許さん。もし出れば――」
人類史上最大の帝国の一つを築いた男が、親指を下に向けた。
「ローマが滅ぼす」
レーズは初めて罠にはまった。
ローマ軍の都市ができていくのを、レーズは泉から見守った。
泉は河口の中洲《なかす》にあり、東西を川に挟まれている。兵士たちは、レーズが初めて見る大型の巻き上げ機で川に杭《くい》を打ち、石を積んで立派な橋を作った。東西の陸地は湿地である。そこにも束ねた柴《しば》を浮かべ、板を縦横に積んでいって、街道を作った。
また、中洲の南半分を大胆に四角く区切って、中央に十字の道を走らせ、四隅に監視の櫓《やぐら》を立てた。それから道に沿って規則的に建物を配していった。家を建て、厩舎《きゅうしゃ》を建て、食料庫を建てた。ユリウスは指揮を終えてよそへ移っていたが、都市の造営は続き、彼が言ったように、劇場も病院も風呂も建てられた。
すると、どこからともなく人がやってきて、住み着いた。レーズはてっきり、ローマ人の町だからローマ人が住むのかと思っていたら、なんとそこに来たのは大半がゲルマン人だった。東方の茫漠《ぼうばく》たる原野と森林に住む、背の高い蛮族たちである。いっぽうで、彼らより穏やかで信仰に篤《あつ》い人々も、西方からやってきて住みついた。彼らはガリア人たちだった。
ゲルマン人もガリア人も、多くは家族を連れてきており、中には若い娘もいた。いくらもたたないうちに混血の子供が生まれ始めた。
それらを、両種族の間に居座ったローマ人――そのほとんどが兵士だった――が、威厳をもって治めようとしていた。一番背の低い彼らが、一番偉そうにしているのが、何か不思議な光景だった。
ひと渡り必要な建物ができると、今度はローマ人たちはその都市を飾りつけ始めた。大理石の柱を立て、建物に破風《はふ》飾りをつけ、彫像を置いた。
ずっとおとなしくしていたレーズは、それをこの時期に顕彰されて、泉の奥に麗々しい大理石の飾り壁を与えられた。
レーズは非常な興味を持って、これらの成り行きを見守っていた。鳥獣しかおらず、たまに旅人が通るぐらいだった北辺の地に、何千もの人がやってきて、毎日しゃべったり、喧嘩をしたり、取引をしたり、愛し合ったりして、眠るようになった。多くの男女が、もう人を襲わなくなったレーズのいる泉を訪れ、さまざまな人生模様を見せてくれた。
レーズは楽しかった。それらの有様を、深く深く、心に焼き付けた。長い孤独をすごしてきた彼女は、ここで初めて、目が覚めたような気分になった。
そういった夢のような日々は、十年余り続いた。
そしてある日突然、崩壊した。
東岸に無数の死骸《しがい》が倒れている。それらはすべて、大きな頭飾りのある兜《かぶと》をかぶっていた。精強をもってなるはずの、ローマの軍団兵たちだった。彼らは防衛に失敗した。
西岸では、年寄りや女子供が死に物狂いで逃走していた。ローマ人もゲルマン人もガリア人もいたが、みな都市に慣れて、ローマ化した人々であった。
いま町にいるのは、そういった人々ではなかった。ローマ軍が修好条約を結んでおらず、それどころか存在すら察知していなかった、遠い東のゲルマンの一支族だった。毛皮をまとい、家族と財産のすべてを馬車に乗せて漂泊する彼らの一群が、たまたまこの中洲にたどり着いた。戦闘の理由はそれだけだった。政治的な駆け引きも、町の所属を巡る交渉もなかった。ただ空腹と欲望に突き動かされた人々が、目に入った獲物を襲ったというだけのことだった。
レーズの目の前で、町は奪われ、破壊された。
戦闘の終わりごろ、くぼ地の泉に、桃色の夏花をかきわけて男が降りてきた。装飾のある軍装の男である。女子供を先に逃がして最後まで戦ったが、武運つたなく敗れて、逃げてきたものらしかった。レーズはその男に見覚えがあった。泉の石壁作りを指揮していた、ローマ軍の百人隊長だった。
隊長は水辺まで来て倒れた。胸を深く切られていた。レーズは水から出ていって、彼を膝に抱いた。レーズに気付いた隊長が、死の影のさす微笑を浮かべた。
「すまんな。ここも、もう終わりだ」
「いいえ、面白かったわ。今までありがとう」
「看取《みと》ってくれるか」
レーズはうなずいた。隊長はしばらく苦しい息を続けていたが、やがて言った。
「まだ少しは持ちそうだ。何か話してくれんか」
「話? どんな話を?」
「誇りの湧く話がいい」
「誇りねえ……」
レーズは少し考えて、話した。
「きみたちは素晴らしかった。私はここへ来るまでに、多くの土地を経巡ってきたけれども、そのどこでも、このような立派な町を見たことはなかった。多くの星には都市はなく、文明はなく、しばしば命すらなかった。私たちは何代にも渡って、砂だらけの星や、水しかない星や、風しかない星を巡ってきたわ」
「ああ」
「けれどもここには大きな建物ができ、高い壁ができ、長い橋ができた。たくさんの食べ物が運ばれてきて、多くの敵が争わず暮らしていた。それはこの宇宙でも奇跡的なことよ。残すべき多くのものも生み出された。その一部だけにしても、私は永久に守っていこうと思う。そしてきみたちは光を残した。人々が愛し合うときの熱い光、争う時の黒く鋭い光、語り合うときの明るくはじけるような光を。私はそれを確かに見た。偉大な人々の残した一瞬の幻として、ずっと覚えてゆくわ」
レーズは口を閉ざし、話の途中で息絶えた男のまぶたを閉ざしてやった。彼は微笑んでいた。
怒声がした。階段の上に、弓を持った長身の男たちが来ていた。
彼らが裸身のレーズを見て、歓喜に目を輝かせ、こちらへ駆け下りてきた。
レーズは天を仰ぎ、つぶやいた。
「ユリウス――去年亡くなったんだっけ――もう、いいわよね?」
そして立ち上がると、遺体もろとも襲撃者たちを砂中に引きずり込み、くびり殺した。
ローマ軍のいち植民都市だったその町は、破壊された数年後に洪水を受けた。ライン以東で最北の前線基地だったその都市は消滅し、ただ泉の石壁と、いくつかの遺構のみが残った。
ローマ共和国は帝政化し、膨張と滅亡の長い峠へ向かう。
気候が変動し、中洲の周りの湿原には木が生えた。冷涼な北風に適応した白樺《しらかば》の疎林が、じめじめした土地にゆっくりと育っていった。やがてそれは、一帯の海岸を埋め尽くした。
帝国は分裂し、やがて別の王国に変わった。それもまた分裂し、数々の封建国家が建った。ある年には中洲を多くの人が通り、ある年にはほとんど通らなかった。
町を作ろうとする者は二度と現れなかった。あのころの景色は二度と蘇《よみがえ》らなかった。
たくましい灌木《かんぼく》に咲く、桃色の素朴な夏花だけは、一千三百年の歳月を経ても、毎年咲き誇っていた。
レーズは年ごとに世の動きを調べつつ、花に囲まれた中洲で待っていた。
[#改ページ]
第一章 レーズスフェントの開闢《かいびゃく》
主《しゅ》の年一三三六年、木々が芽吹き始めたばかりの四月。
騎士ルドガー・フェキンハウゼンは、北海に注ぐエギナ川の河口を、初めて見た。
川の上流にある、実家のカンディンゲン城から、供の者をつれ、馬と荷車を引いて一日半。北ドイツ平原特有の貧相な白樺《しらかば》林を突っ切り、じくじく湿った泥炭の道に足をとられながら、ようやくたどりついたのだった。
川は、今ではかなり大きな流れとなっている。思い切り石を投げても対岸に届かないほどだ。河口には、まばらに木の生えた、こんもりとした細長い中洲《なかす》がある。河流はその東西を洗って、北へ流れている。
川下へ目をやると、広い干潟《ひがた》のかなたに茫漠《ぼうばく》たる北海《ノルト・ゼー》が見えた。そちらから、いまだ厳しい冷気を含んだ北風が吹きつけていた。
「もうじきだな」
ルドガーはそう言って、軽く背を反らした。
彼は、フェキンハウゼン男爵ヴォルフラムの三男であり、父ともどもキルクセナ家に仕えている。キルクセナ家は小さいが、神聖ローマ帝国皇帝から東フリースラント伯爵に封ぜられた貴族である。
もっともキルクセナ家はずっと昔から、北西ドイツのその地を治めてきた。封爵を受けたのは――この帝国では何事もそうだが――皇帝からの事後認定であった。
このたびルドガーは、父の命を受けて、エギナ河口の荘園《しょうえん》、モール庄を治めるためにやってきたのだった。
彼の言葉を受けて、かたわらの人物がうなずく。
「ええ、兄様。難儀な道のりでしたね」
十七歳になる弟のリュシアンだ。毛織の黒いローブとマントをまとっているので修道僧のようにも見えるが、まだ修行中の身なので、聖職者とは言えない。フードの縁から、明るい軽やかな金髪と、澄んだ青い目が覗《のぞ》いている。
「あとは、川を越えるだけか」
そう言うルドガーは、今年二十歳になった。当節はやりのカールした付け毛をつけず、藁《わら》色の髪を短く刈った頭に、じかにフェルトの帽子を乗せている。
面長で鼻筋ははっきりしているが、濃い眉《まゆ》を常にひそめて、口の端を無愛想に曲げている。白面の優男が好まれる昨今の社交界では、姫君たちに敬遠されそうな風貌《ふうぼう》だ。実際、東フリースラント伯爵の城では、ほとんどの女に相手にされなかった。
ただ、よく見れば、その長い手足の動きに妙な愛嬌《あいきょう》があるのが感じられる。草食の大きな動物の尾のような。ただ立っているだけの今も、意味もなく腕をぶらぶらと揺らしている。そんな仕草のせいで、若者だということがかろうじてわかる。でなければ、もっとずっと年上に見えてしまうだろう。
丈の長い濃緑のマントを羽織り、その裾《すそ》からは質素な毛織のタイツと拍車のついたブーツが見えている。マントの後ろの端をちょいと持ち上げているのは、剣の鞘《さや》の石突だ。この一行の中で剣を帯びているのは、ルドガーだけである。
彼が騎士だからだ。
ただし、なりたての騎士である。彼が東フリースラント伯爵から騎士の叙任を受けたのは、この年になってからだ。それまではただの見習いであった。
だから今はまだ、貫禄《かんろく》も何も身についていない。意気の盛んなところだけが取り得である。
ルドガーは手をかざし、川の対岸を眺めた。中洲に遮られて見えないが、荘園はそちらにあるはずなのだ。だが橋はない。振り返って、二人の下男に命じた。
「その辺りに渡し舟はいないか。エルス、ヴァルブルク、探してくれ」
「へえ」
命じられた二人は川べりを覆う草の中へ分け入っていき、ほどなく大声を上げた。
「坊ちゃん、ありましたぜ」
「おう、ご苦労。いくらだ」
「無人ですよ。勝手に乗れってことらしいです」
言われたルドガーたちが行ってみると、粗末な丸木のいかだが岸辺の泥の上に引き上げられていた。いかだに結ばれた一本のロープが、こちらの右岸の木の枝に巻きつけられ、もう一本のロープが、水中へ弓形に延びて、中洲の木に結び付けられていた。
ルドガーは顔をしかめた。
「こいつはずいぶんな代物だな。荷車が乗るかな?」
「無理ですね。積荷だけ少しずつ運ぶしかない。荷車はここに置いていきやしょう」
「盗まれてしまうぞ」
「そう言われましても、他に何か方法が?」
エルスが肩をすくめた。頬《ほお》のこけたこの痩《や》せ男は、出発前に父がルドガーに付けてくれた料理人だ。口が達者でよく気がつき、愛嬌もあるので、ルドガーは気に入っていた。
もう一人のヴァルブルクは黙って荷車から荷を降ろしている。こちらも父が付けた下男で、エルスとは対照的に寡黙な大男だ。無愛想なうえに猫背だが、よく働くし、腕っ節も強そうなので、やはりルドガーは期待している。こういった辺境では、自分の身は自分で守らなければならない。
エルスが手を打ち合わせて言った。
「車輪だけ外して、持ってっちまいやしょう。そいつが一番大事だからね。そうすりゃあ荷台を動かせなくなるし、万が一壊されても簡単に作れる」
「いい考えだな。よし、ではおれとリュシアンとグルントで先に渡る。おまえたちは後から来い」
グルントはルドガーの馬の名前である。黒に近い青鹿毛《あおかげ》で、体が大きい。彼は今、主人を乗せる代わりに、その鎧兜《よろいかぶと》を収めた長櫃《ながびつ》を背負わされていた。
ルドガーは太陽を見上げて時刻の見当をつけた。正午から二時間ほどだろうか。時計など、城の広間で見て以来のご無沙汰《ぶさた》だから、時刻は見当で計るしかない。
「向こうに着いたら、食事を出すよう頼んでやるよ」
「そいつはありがてえですね。朝飯を食ったきりなんで、腹の皮と背中の皮がくっつきそうだ」
エルスが猿のように黄色い歯をむき出して笑った。
ルドガーは弟と協力して、怯《おび》える馬をなんとかいかだに乗せ、ロープを手繰って中洲へ渡った。陸に上がって手を振ると、エルスたちがいかだを引き戻した。
「兄様、ここには橋があったみたいですよ」
リュシアンが少し先の岸を指差した。春草の間から、人が削ったものらしい、石組みの土台が顔を出していた。それに気付いて流れの中へ目をやると、かつて橋桁《はしげた》だったらしい土台が、一定の間隔で点々と並んでいた。
「こりゃすごいな。誰が作ったんだろう。近くに大きな町はなかったよな」
「ローマ人ですね」
「皇帝陛下が?」
「古代のローマですよ。彼らはどこにだって橋と道路を作ったんです。ずっと昔に滅んでしまいましたけどね」
司教都市ミュンスターで勉強してきたリュシアンが、得意げに説明した。
「こんなことのできる連中でも、滅んでしまうんだな……」
軽い感傷を覚えながら、ルドガーは斜面を登っていった。
中洲はスプーンを伏せたような形をしており、幅は百クラフター(約百八十メートル)、長さは一マイル(約千六百メートル)近くあるようだった。ぐずぐずの泥炭の積もった岸辺とは違って、堅く締まった土に覆われており、歩きやすい。植生も異なり、痩せて栄養の悪そうな白樺ではなく、生命力にあふれたハイデの灌木《かんぼく》がはびこり、あちこちに威厳のあるオークやトウヒの木が立っていた。
見通しは悪かったが、幸い、あの橋桁の続きらしい、荒れた石畳が延びていた。その古い遺跡をたどって中洲を渡りきると、左岸が見えた。白樺の森の中に藁葺《わらぶ》きの粗末な家屋が建てられ、付近にはいくらかの耕地が拓《ひら》かれていた。
「モール庄だ」
予想はしていたが、小さな貧しい村のようだ。それでも、ルドガーはリュシアンと顔を見合わせ、うなずきあった。
「行きましょう、兄様」
こちら側にもいかだがあった。リュシアンがそれを指差して言ったが、ルドガーはふと考えた。
「一人でいいな」
「なんですって」
「到着を告げて、食事の用意をさせるだけなら、おまえ一人でいいだろうと言うんだ。おれは戻って、荷運びを手伝ってくるよ。そのほうが早い」
「何をおっしゃるんですか」
リュシアンが呆《あき》れたように口を開けた。
「村の荘司《しょうじ》、それも男爵家の三男たるお方が、そんな賤《いや》しい手仕事をしていいわけがないでしょう。下の者に示しがつきません」
「お堅いねえ、おまえ。おれがいいって言ってるんだから、いいんだよ」
「いけません、兄様!」
「だったらおまえがやるか? 泥まみれになって手伝うか?」
ルドガーがからかい気味に言うと、リュシアンは顔をしかめた。汚れるのがいやなのかと思ったら、そうではなかった。
「彼らは……なんだか、怖いじゃありませんか」
「ただの農夫あがりじゃ、ないようだけどな」
経歴は知らないが、エルスとヴァルブルクの二人に荒事の経験があるらしいのを、ルドガーはこの二日で見抜いていた。文弱なリュシアンは彼らの雰囲気が苦手なのだろう。ルドガーは弟の肩を叩《たた》いて笑った。
「とにかく先へ行ってろ。実を言うとおれもまだ、あいつらを信用していない。目を離すのはあまり良くない気がするんだ」
「そうだったんですか」
リュシアンはうなずくと、お気をつけてと去っていった。
彼が無事対岸に渡るまで見守ってから、ルドガーは引き返した。
右岸側に戻ると、下男たちは別段逃げもせず、きちんと働いていた。ルドガーは彼らに手を貸し、荷物を中洲へ引き上げた。それから、さらに左岸へ運ばなければならなかった。馬に荷物を載せて何度も往復した。
「なんで中洲より上流にいかだを置かなかったんですかね。そうすりゃあ、こんな二度手間をかけずに済んだのに」
「ロープが届かなかったんじゃないか。これだけ川幅があるとな」
ぶつくさ文句を言うエルスを、ルドガーはなだめた。
結局、すべての荷を左岸に運び終わったのは、夕方だった。村から出てきた応援の人手は、最後のほうに間に合っただけだった。戻ってきたリュシアンはいまいましそうに言った。
「すみません、前任の荘司がなかなか見つからなくて、人を集めるのが遅れました」
「どこにいたんだ」
「それが、流行《はや》り病《やまい》で寝込んでいて、結局会えませんでした」
「流行り病?」
ルドガーは驚いた。こんな小さな村で悪魔が出たら、すぐ全員に乗り移ってしまう。近づくわけにはいかない。
しかしリュシアンは首を振った。
「ああ、大丈夫です、村はずれの小屋に自分から閉じこもっています。乳の川を流しているそうですが、賄いの女も含めて、誓って手では触れていないそうですよ」
「乳の川か……」
その病にかかった者は、乳のように白くて水っぽい、気味の悪い下痢を垂れ流すのでそう呼ばれる。汚物に触れたものも同様の病にかかる。かなりの割合で死に至る恐ろしい病だ。
「本当に大丈夫なんだな?」
「兄様は荒くれ者は平気なのに、こういうことでは臆病《おくびょう》なんですね」
先ほどの仕返しとばかりに、リュシアンがちくりと言った。ルドガーが憮然《ぶぜん》として口をつぐむと、とりなすように弟は笑った。
「すみません、でも、本当に大丈夫だと思います。食事の桶《おけ》を渡すにも、長い棒を使っているそうですから」
「じゃあ、おまえを信用しよう」
そう言うと、ルドガーは彼に背を向けて歩き出した。どこへ行かれるんです、とリュシアンが聞いた。
「忘れ物がないか、最後に見てくる」
村人と供回りたちから離れて、ルドガーは石畳を歩いていった。
右岸を見て回ったが、何もなかったので、ルドガーは中洲に戻った。そのころには日が暮れかけ、辺りが薄暗くなっていた。ただ、見えなくなってもルドガーは平気だった。靴底に、手のひらほどの石片を敷き詰めた路面がはっきりと感じられたからだ。
「腹が減ったな……」
灌木の間に延びる道をたどりながら、久しぶりに一人になったこともあって、ルドガーは物思いした。こんな立派な道を作った人々も、この寒々しい北の地では、地に溶けたように消えてしまった。自分の行く末もそうなるのではないだろうか。先々、どうしたものだろう……。
出し抜けに、ふっと石畳が途絶え、片足が宙を踏み抜いた。ルドガーは短い悲鳴をあげて、前のめりに落下した。頭に硬いものが当たり、激痛とともに目の前が赤く染まった。
短い間、ルドガーは気を失っていた。
次に目を開けたのは、おかしな感触に気付いたためだ。
頭の下に、何か柔らかいものをあてがわれている。
生き物の体だとわかった途端、ルドガーはぞっとして起き上がろうとした。こんな時刻、こんな場所に人間がいるわけがない。
何者だ、獣か、魔物か。
「動かないでください」
声とともに、頭を押さえつけられた。ズキッと強烈な痛みが走った。
ルドガーは呆然《ぼうぜん》として、自分を覗きこむ顔を見つめた。宵闇《よいやみ》の中に、ほの白い女の顔が浮いていた。くるみの実を思わせる色の、滑らかな茶の髪の持ち主だ。瞳《ひとみ》は銅貨に付く緑青のような輝きを放っている。すらりと通った鼻筋の下に、艶《つや》のある薄い唇。その唇に、やさしい笑みが浮いている。
「頭の鉢が割れています。治してさしあげるから、じっとして……」
言葉の内容よりも、頭頂に触れる手の不思議な温かみのために、ルドガーは力を抜いた。突き刺さった痛みの針が、ゆっくりと溶かされていくようだ。それに、枕《まくら》になっているこのたっぷりとした柔らかいものは……きっと女の太腿《ふともも》だ。
そうやって身を任せていると、頭の痛みはほとんど消えてしまった。それとともに意識がはっきりしてきて、ルドガーは元の警戒心を取り戻した。
いつの間にか閉じていた目を、もう一度開いて、ルドガーは聞いた。
「何者だ……おまえは」
「もう大丈夫ですね。どうぞ、お立ちになって……」
ルドガーは身を起こして女を見つめ、あわてて顔を逸《そ》らした。女は全裸だったのだ。
周囲の光景が目に入った。ここは小さなくぼ地だった。そばに澄んだ水がたゆたっている。沈殿した白い綺麗《きれい》な砂の底に、昔のものらしい、大理石の切板が見えた。
どうやら、街道からこちらへ脇道が伸びていたらしい。ルドガーは間違えてそこへ踏み込み、転がり落ちた。
女は逃げも隠れもせず、落ち着いた様子で座っている。ルドガーはそっと目を戻した。滑らかな金茶の髪が、むき出しの肩にふわりとかかっている。形よく張った乳房の頂に、夜目にも鮮やかなばら色の乳首。あばらは一本も見えず、腰周りや太腿には、ルドガーが感じたとおり、たっぷりと肉がついている。骨の曲がったところや、かさぶたに覆われたところは見当たらない。歳《とし》はルドガーと同じほどだろう。申し分のない美しさだ。
その美しさが、とてつもなく奇怪だった。たとえ君主の娘でも、ここまで健康的ではないだろう。
ルドガーは腰をまさぐった。剣は奪われていなかった。騎士叙任の際に、師のハインシウスから贈られ、司祭の祝福を授かった剣だ。立ち上がって、それを抜こうとした。
「斬《き》るのですか? 助けてさしあげたのに」
女は無防備に座ったまま、悲しげに瞳を曇らせた。
「あなたは騎士さまなのでは?」
ルドガーは柄頭に手を置いたまま、じっと女を見つめた。
「そう見えるか」
「もちろんです。その見事な剣、凜々《りり》しいお顔」
「……そう、これは騎士の剣だ」
「それなのに、お斬りになるのですか」
「いや、恩人は斬れない」
「でも、女はお斬りになるのでしょう」
「いや、貴婦人はなおのこと斬れない」
「まことですか」
女は再び目を上げると、立ち上がった。均整の取れた裸身が、水面の照り返しで淡く光った。ルドガーは目を離せない。鼓動が高まる。
疑いや恐れは、どこかへ消えてしまっていた。
「よかった。――それなら、お願いしたいことがあるのです」
「お願い?」
「ええ。騎士さまにしか、頼めないことが」
「なぜ、おれに?」
「あなたなら聞いて下さりそうだから」
「何を頼む?」
さくり、と砂を踏んで歩み寄った女が、体を押し付けた。ルドガーの鼻を、ひやりとする花の香りがくすぐる。すんなりした腕がルドガーの首に巻かれた。
「ここでわたくしと暮らしてくださいませ……」
甘い誘いにルドガーが押し流されそうになったとき――心の中で、何かが強力に抵抗した。
それは強い自制心や誇りではなかった。そんな前向きの情念ではなかった。
情けないことだが、おれにこんなうまいことが起こるはずがない、という自虐の念が、ルドガーに疑いを抱かせたのだ。
「嘘《うそ》を言うな」
「えっ」
「おれにそんな価値はない。おれは追放者だ。少なくとも無能者だ。おれに取り入ってもいいことなどないぞ。おまえは――それがわかっているのか」
ぐい、と女の体を押し離して、ルドガーは目を見つめた。
「おれが、なんの価値もない男でもいいのか?」
心の底では、それでもかまわない、と言われることを望んでいた。
だが女の反応は残酷なものだった。
あっさりと表情を変えたのだ。それまでの熱く懇願するような顔から、呆れたような冷たい顔へ。
「なあんだ、きみはまるっきりの役立たずか」
その変貌《へんぼう》が、ルドガーに完全に正気を取り戻させた。
「きさま!」
ルドガーは女を突き放しざま、腰の剣を抜き打ちにした。真横に走った剣光を避けて、女はひらりと背後へとんぼを切る。泉の奥に浮き彫りの施された石壁が立っている。女はその上にふわりと腰を下ろした。人間ではありえない身の軽さだ。
怒り心頭に発したルドガーは、剣を突きつけて叫ぶ。
「やはり魔女か! 危うくたぶらかされるところだった、ここへ降りて来い!」
返事は哄笑《こうしょう》だった。腹を抱えての馬鹿笑い。
「ごめんなさい、一応真剣だったんだよ。怒る? 怒るよね? そりゃあ怒るか!」
甲高い声でさんざん笑うと、女は足を組み、乱れた髪を手でかきあげて、挑発的に見下ろした。
「ああ、おかしかった。でも恥に思うことはないわ。私が男を籠絡《ろうらく》し損ねたのはまだ三人目だもの。騎士、きみはなかなか見所がある」
「ふざけるな、魔物め。一体何のつもりだ! 旅人をたぶらかして、どうする気だ?」
「いろいろと。話を聞くこともある。物をもらうこともある。気が向けば助けてあげることもあるわ。さっききみにしたように」
そう言うと、女はルドガーの頭を指差した。
「そう、あれはまやかしでもなんでもないわ。きみの怪我《けが》を治してあげたのは本当よ」
ルドガーは頭に手を当てた。確かに、ぬらぬらしたものが手に触れた。かなりの血が出ている。だが痛みは残っていない。
「だから少しは恩に着てね」
女は不自然になれなれしい笑みを浮かべて言った。ルドガーは強く首を横に振る。
「いや、それこそ妖術士《ようじゅつし》の証《あか》しだ。恩になど着るものか」
「あらあら、せっかく治してあげたのにその扱い? どうやらきみは、素質はあっても頭の固い男らしいわね。さっさと退散しようかしら……」
「待てと言っている! おまえのような悪魔を見逃しはせんぞ。すぐに人を集めて狩りだしてやるから、そう思え!」
石壁の背後に飛び降りようとしていた女が、不機嫌そうに振り向いた。
「私を狩り出すとはよく言ったわ。――でも、ひとつ聞きたい。騎士」
「またその手か、妖婆《ようば》の言になど乗るつもりはない」
「それ、それよ」
身体ごと向き直った女が、面白そうに指差した。
「きみは、私をなんだと思ってるの」
「なに?」
「魔女と云《い》い、魔物と云い、妖婆と云い――全然わかっていないじゃない。なんと言って人を集めるの。魔女狩り? 悪魔|祓《ばら》いかしら? そんな調子では、人を集めようにも、集まらないでしょう」
「名前などどうでもいい。妖《あや》かしの者には違いないのだから」
「どうでもよくはないわ。私はきみが今言った中のどれにもあてはまりはしないし、そもそも魔物扱いされるようなことは何もしていない」
「そんな淫《みだ》らな姿で表に出ていること自体が罪悪だ!」
「水浴びを覗いた時にはいつもそう言うのか?」
ルドガーは言葉に詰まった。納得したのではない。反論できなくなったのだ。こんなに激しい言葉のやり取りを他人としたのは初めてだった。ましてや、淑《しと》やかに男に従うべき女と!
主君の城で過ごした八年間、こんな女は見たことがなかった。こいつにたぶらかされるところだったと考えると、ぞっとしたが――反対になぜか、ルドガーは爽快《そうかい》さのようなものも感じていた。女に対しては、ついぞ抱いたことのない感情だ。
「ではおまえは、なんだと言うんだ」
非難の言葉の尽きたルドガーは、思い切って聞いてみた。
女は胸に手を当てて、誇らしげに言った。
「レーズ」
「レーズ?」
「そう。私の名よ」
「魔女の洗礼名か?」
「だから、魔女ではないと言っているわ。いかなる魔物でもない。ただ、古い。ずっと昔から、ここにいる」
その女、レーズは泉を指差した。泉の精霊か、と考え、ルドガーはあわてて打ち消す。その手の迷信を認めるのは馬鹿げている。よくないことだ。教えの中にも含まれていない。
もっと祈祷《きとう》文や祭祀《さいし》文を覚えておけばよかった、と思う。こういうときリュシアンなら、相応《ふさわ》しい文句を聖書から引けるだろうに。そういえばあいつはどうしているだろう。探しに来てはくれないものか。
魔物ではないという説明は、かえってルドガーの心に畏怖《いふ》を呼び起こした。魔とは、天なる父の恩寵《おんちょう》を受けず、父によって追われる者だ。しかし魔物ですらないというなら――天の父の威光も届かないのではないか。
異教の。
「何か別の、その――聖霊や、貴き者だとでも?」
「神でもない」
ルドガーが口にすら出せなかったことを、レーズはあっさりと言い捨ててしまった。
「そういった姿形のない超常の者ではない。私はここにいる、目に見えているだけの者よ。遠くから来て、ここへ居ついた。一人ではここから離れられない」
ふと、レーズは目元に翳《かげ》りを見せた。
「そして……町を求めている」
「なんだって……町?」
「そうよ」
「どういう意味だ」
「町はにぎやかで楽しい。そこには幸福と繁栄と悪徳と悲劇が満ちる。男も女も敵も味方も、多くの人間が集まる。子が生まれ、若者が育ち、親が働き、年寄りが死ぬ。それが私の孤独を慰めてくれると思うの」
「ほしいというのは、住みたいということか」
「そうじゃないわ。私はここを動けないから、町に住むことはできない。少なくとも、今すでにある町には。けれども、方法はある。なければ作ってしまう、という手が」
レーズはルドガーの目を捉《とら》えて、繰り返した。
「町を作りたいのよ。ここにないのだから」
「……おれをたぶらかそうとしたのは、そのためか」
「ええ。最初の一人になってもらおうと」
あっさりと、泉の精霊は言った。
ルドガーは、彼女の物言いから奇妙な印象を受けていた。何かひどく空疎で、机上の空論を聞いているような感覚だ。
「レーズと言ったな。おまえにひとつ聞きたい」
「何よ」
「おまえ、本当の町がなんだか、知らないだろう」
レーズが顔をしかめた。ルドガーは図星を悟る。
「やはりそうだな。誰かに町のいいところを吹き込まれて、受け売りしているだけか」
「そんなことはないわ。見たことはある」
「見ただけか。見ただけのものをほしがるとは子供のようだな」
指摘してやると、レーズはますます顔をしかめて、ぶっきらぼうに言った。
「知らないからほしいのよ。文句ある?」
すねたような様子が、妙に人間臭かった。それまでの得体の知れない雰囲気がやわらぎ、ルドガーは笑ってしまった。レーズは小さく口を尖《とが》らせて言った。
「私を笑ったのは、きみで三人目だわ」
「前の二人は誰だ」
「一人目はユリウスと言ったかしら。二人目はカール」
「どこの?」
「さあ」
そう言うと、レーズはニッと笑った。ルドガーはそれらの名前を教わったことがあるような気がしたが、修道士などとは違って正式な教育を受けたわけではないので、いま少し、何を意味するのかわからなかった。
レーズが口調を改めて言った。
「ところで、騎士。私は聞きたくなったのだけど」
「なんだ」
「きみの名を」
わずかにためらってから、ルドガーはそれを明かした。
「フェキンハウゼン男爵ヴォルフラムの子、ルドガー」
「アハ……そういうこと」
レーズがわけ知り顔にうなずいた。ルドガーは問う。
「何がだ」
「最初の台詞《せりふ》の意味がわかった」
レーズはからかうように微笑《ほほえ》んだ。
「ヴォルフラムなら知っているわ。一度だけだけど、この地へ来た。ひどいことを言っていたわね、流刑地に最適だとか。察するに、きみは……流されたのね?」
ルドガーは顔をこわばらせた。それを見て、レーズが表情を和らげた。
「気の毒に、と言っておくわ」
「余計な世話だ」
先ほどとは逆に、ルドガーが図星を指された形になった。しかしレーズはそれだけでは気がすまないのか、先ほどのお礼とばかりに、さらに鋭く指摘してきた。
「ただ単に田舎に流されただけじゃないな。さっき……くく……さっきのあれは、傑作だった。きみ、流されただけでなく振られたとか?」
「うるさい、単に引き離されただけだ!」
「気持ちはわかるわ。昔、きみのような男たちを大勢見た。――この泉を作った人々よ。早く軍をやめて、女と暮らしたいと言っていた」
レーズが顔を上げ、闇の向こうを見透かした。そして、何の前触れもなく石壁の向こうに姿を消した。
「レーズ?」
ルドガーはしばらくぼんやりと立ち尽くした。その時になって、石壁に女の像が彫り付けられているのに気付いた。――レーズとよく似ていた。
やがて、背後のどこかから人の叫び声が聞こえ、松明《たいまつ》の火が近づいてきた。ルドガーは剣を収め、水面にぽつんと浮いていた帽子を拾ってから、地上に這《は》いあがった。
「おーい、こっちだ!」
「兄様!?」
数人の男たちがやってきた。闇に慣れた目には松明がまぶしかった。駆け寄ってきたリュシアンが、ルドガーの顔や肩に触れて心配そうに言った。
「ご無事でしたか、兄様。全然戻ってこられないから、もしや川に流されたのかと……あっ、この血は?」
「なんでもない、もう止まった」
リュシアンから手ぬぐいを受け取ってルドガーは頭を拭《ふ》いた。かなりの血がべっとりとついたが、傷は完全にふさがっていた。明白な奇跡だ。しかしキリスト者でもないものが奇跡を行ったなどと人に話せば、大騒ぎになる。ルドガーは黙っていることにした。
ただ、ふと思いついて、リュシアンに聞いてみた。
「リュシアン、これはローマ人のものか」
「え……ああ、そうですね、そこにアーチが倒れている。多分ローマ遺跡です」
「何年ぐらい前のものだ?」
「さあ、千年ぐらいですかねえ」
千年以上、待っているのか。
ルドガーはリュシアンを見つめて、その背格好が先ほどの女に近いことに気付いた。
「おまえの服の替えを一着、くれないか。代わりに、ほしがっていた銀十字架をやるから……」
モール庄は河口の白樺林を拓いて作られた、比較的新しい荘園である。十年ほど前にフェキンハウゼン男爵が他の土地の領民を移して、領主の役人である荘司を置き、開墾を命じた。当時で五十人ほどが住み、少しずつ増えている。
そのときの荘司が、年老いたためか、近年満足な報告を寄越さなくなったので、交替としてルドガーが送られたのである。
日が暮れてから村に入ったルドガーを、村長のグリンを始めとする村人たちが、松明を掲げて迎え、奇妙に訛《なま》った言葉で挨拶《あいさつ》した。
「遠路はるばる、ご苦労さまでございます。村をあげて歓迎いたしますので、どうか、ごゆるりとお休みください」
「うむ、ご苦労」
ルドガーは鷹揚《おうよう》に答えたが、あまりいい気分にはなれなかった。丁重な言葉とは裏腹に、グリンがこちらを歓迎していないことが、ありありと顔に出ていたからだ。
もっとも、諸手《もろて》を上げて歓迎されるとは最初から思っていない。荘司とはつまり諸税の取立人であり、賦役《ふえき》の監督官だ。領主本人よりも憎悪されることも珍しくない。
勧められるままグリンの家に向かい、夕食の饗応《きょうおう》を受けた。村の主だった男たちがテーブルに並び、女たちが両隣の家のかまどまで使って支度をした。おごそかな主への祈りの後で食事が始まった。予想したとおり、食事は粗末なものだった。
いや、予想以上に、というべきか。キャベツなどの野菜の浮いた薄い塩味のスープと、裏ごしした豆のペースト、温められたライ麦のパン。出たものはなんとそれだけだった。肉と言えば、スープの中に得体の知れないごわごわしたものが入っていたきりだ。干し肉を戻したものだろうが、何の肉かすらわからなかった。
ルドガーの隣のリュシアンは、質が落ちるのならせめて量で稼ぐと言わんばかりに、勢いよく食事を平らげていった。
「おなかが空《す》いてるとなんでもおいしいものですね、兄様」
聖職者やそれに近い人は、尊敬を受けることを当然と思っているので、このような言い方をよくする。当人には悪気がない。
「そうだな――」
うなずきつつ、ルドガーはテーブルの下で膝《ひざ》をぶつけて、目配せした。
次の間につづく戸口から、ルドガーの腹あたりまでしかなさそうな小さな影が二つ三つ顔を覗かせ、ぽかんと薄口を開けて眺めていた。
子供たちに限ったことではなく、同じテーブルにつく大人からも、ちらり、ちらりと二人の手元には視線が寄せられた。よく見れば、彼らの皿にはルドガーたちより少ない料理しか載っていないのだった。
「これでも、かなり無理をしているようだ」
不愉快そうな顔をしたリュシアンに、ルドガーは平然とした顔を保ちつつ、ささやいた。
村長の視線を感じたので、ルドガーは咳払《せきばら》いをして別の話を始めた。
「ときに、グリン村長。荘司のデッカーの病状はどうだろう。できれば見舞ってやりたい」
グリンは髪が白くなり始めた年頃の男だ。貧しい農民の中には、四十を待たずに天に召される者も多いが、彼はもっと年が行っていそうに見える。歯が揃《そろ》っており、背も曲がっていない。
ルドガーに聞かれると、目を伏せて神妙に言った。
「あまりよくはありません。当分出てこられないでしょう。お会いにならないほうがよろしいかと……」
「治る見込みはあるだろうか」
「さあ、見当もつきません」
「司祭どのはなんと言っておられる?」
どの村でも病人の面倒は司祭が見ている。
しかし、グリンはちらりと目を上げ、また伏せた。
「この村にお坊さまはおらんのです」
「どちらへお出かけに?」
リュシアンが聞いたが、そのときにはルドガーはもう察していた。列席者を見回す。テーブルの男も、皿を下げていく女たちも、好意の感じられない目でこちらを見ている。
この場に僧服の人物は見当たらないし、食前の祈りを任されたのはルドガーだった。
「最初からいらっしゃらないと。キリストの司牧者が」
「ええ」
村長が短くうなずいた。後に続く言葉を飲み込んだように、ルドガーには思われた。
領主が司祭を置いてくれなかった、というひとことだ。
聖職者がいないということは、日曜のミサが開かれず、新生児の洗礼も、末期の秘蹟《ひせき》も受けられないということだ。まさか洗礼も葬式もなしで人間が暮らせるとは思われないから、おそらく村長が間に合わせの儀式を施しているのだろうが、それは村人たちに、正しいことをしていないという不安を与えているはずだ。
ルドガーは重苦しい気分になった。隣を見ると、ルドガーよりずっと信心のあるリュシアンは、居心地悪そうにうつむいていた。
自分に責任があるわけではないが、言いわけしなくてはいけないような気分になって、ルドガーはつぶやいた。
「近くに村があれば、司祭どのに来ていただけるんだろうがな」
「森を抜ける道があれば、の話ですな」
豆のペーストをすくいながら言ったグリンに、彼の息子のナッケルが付け加えた。
「ここからは西のドルヌムにも東のエーゼンスにも出られません。いったん南のカンディンゲンにまで出なければならない。領主さまのいらっしゃるカンディンゲンに」
「ナッケル」
グリンに静かな声でいさめられ、ナッケルは口を閉ざした。
何を話題にしても、気の滅入《めい》る展開にしかならないようだった。ルドガーは困惑した。もとより身分の違う間柄であるから、家族のように打ち解けることができなくても仕方がない。それでも、笑い声のひとつぐらいはほしかった。これから長い付き合いになるのだ。
何か、この貧しい者たちにも通じる話題は……。
ふと、中洲でのことが浮かんだ。
村人たちは知っているのだろうか。あの古い泉に宿る、奇妙な女のことを。
泉自体については、通り道にあるのだから知らないわけがない。だが、女についてはどうだろう。誰か、会ったことはあるのだろうか。
うまい具合に、この場には咎《とが》め立てするような聖職者がいない。ルドガーは確かめてみることにした。
「ところで、グリン。あの中洲に泉があるだろう」
「はあ」
グリンが顔を上げた。
「あそこのレーズという女を知っているか」
ルドガーがそう言った途端、予想もしないことが起こった。男たちがいっせいに飲み物を噴きこぼし、スプーンを落とし、皿をひっくり返したのだ。
口元を拭くのももどかしげに、ナッケルが身を乗り出した。
「き、騎士さま、どうしてそれを?」
「心当たりがあるようだな。あれは何者だ。由来を知っているか?」
反応の大きさに、やぶへびだったかとルドガーは危惧《きぐ》したが、責められることはなかった。村人たちは顔を見合わせて黙り込んでしまったのだ。
「どうした、急に静かになったな。言ってみろ、知っているんだろう」
ルドガーは促したが、口を開く者はいなかった。不機嫌そうに、あるいはそらぞらしく目を逸らしている。よほど不吉なことに触れてしまったのかとも思ったが、よくよく見ると、そうではないようだ。どことなく苦笑のようにも感じられる。
はっきりしないが、どうも照れ隠しに怒っているような雰囲気である。
女たちも意味ありげな顔をしていた。こちらは照れ隠しというのとは違う。純粋な不満顔である。ただ、やはり怯えの色はない。
その沈黙の中を、皿運びの娘が、つぶやきながら横切った。
「大変な器量好《きりょうよ》しだからねえ」
「アイエっ!」
戸口から屋外へ出て行った娘を、母親らしい女が怒鳴りながら追いかけていった。
ルドガーは唖然《あぜん》としていた。そこへ、一人|蚊帳《かや》の外に置かれた形のリュシアンが、もどかしそうに聞いた。
「兄様、レーズってなんのことですか?」
「ああ、女のことだ。さっきの泉の石壁に彫られていただろう? あれを知っていたことに、今気付いたんだよ。東フリースラント伯の城にいたとき、祝いの席に現れた歌|唄《うた》いが、あの泉のことを歌っていた」
前半だけが本当で、後半は今考えついた嘘だった。しかしそれを聞いた途端、ナッケルが早口に言った。
「そう、石彫りの女です。そうです。おれたちも城巡りの歌唄いに聞きました。だから名前を知っているんですよ」
「ずいぶんうろたえたな」
「異端責めだと思ったものですから。もちろん、おれたちは正しい教えを信じてます」
うん、そうだ、異端じゃない、とテーブルの端々から声が上がった。その上にかぶせるように、グリン村長が強く手を叩《たた》いて叫んだ。
「おい、もっとビールを持ってこい! 騎士さまは飲み足りないそうだ!」
「グリン村長、さっきの娘は」
ルドガーは声をかけたが、グリンは短く答えただけだった。
「妬《や》いているんでございますよ。あの――像に」
ビールの壺《つぼ》が届き、男たちの歓声が上がり、グリンの語尾はかき消された。
酒の入った村人たちは、互いにひそひそと私語を始めた。訛っているのか、符丁《ふちょう》を使っているのか、内容はよく聞こえない。じきに声が大きくなり、笑い声が上がる。
そのたびに、苛立《いらだ》った目を向ける者がいた。さっきから場の雰囲気になじめないでいる、リュシアンだ。
何か男女のことにまつわる冗談で大きな笑いがはじけた途端、とうとう彼は、たまりかねたように叫んだ。
「騒々しい、食事中ですよ! 妙な歌はおやめなさい!」
テーブルが墓場のように静まり返った。
ルドガーが大きなため息をついて、弟の肩を叩いた。
「リュシアン、控えろ」
「しかし、兄様!」
「グリン村長、弟は酔いが回ったようだ。ここらで失礼する。ご馳走《ちそう》になった」
反抗的な目をしている弟の腕を抱えて、ルドガーは席を立った。
村人たちも見送りに立った。戸口のところには先ほどのアイエと呼ばれた赤毛の娘がいて、リュシアンを見るとクスリと笑った。それに気付いて何か言おうとしたリュシアンを、ルドガーが外へ引き出した。
下男たちは別の家で食事を取っていた。彼らをつれて、あてがわれた空き家に引き取ると、ルドガーは言い聞かせた。
「リュシアン、さっきのはまずかったな」
「すみません……でも、新しい荘司の前なんですよ。もっとかしこまっているのが当然じゃありませんか」
「田舎では耐えなきゃいかん。おまえのいたミュンスターや、カンディンゲンじゃないんだから」
「そうは言われても、あちらでは騎士と農民が同席することなど、ありえませんでしたし……だいたい、あの変な訛りはなんなんだ」
聖職者には知識があるのを鼻にかけて農民を馬鹿にする者も多い。そんな類《たぐい》の影響を受けたのだろう。ルドガーは彼の肩を抱いてなだめた。
「おまえはおれを買ってくれてるんだよな。その気持ちはうれしいよ。だが、おれのためを思うなら、おれのやり方に従ってくれ。そのうちきっと、おまえが喜ぶようなこともしてやるから」
リュシアンは不満げな顔をしていたが、やがて小さなため息をひとつついてうなずいた。
「仕方ありません、ここは兄様に免じて、引き下がることにします」
「よし、それでいい。じゃあ、これからのことを考えよう」
二間しかない小さな家である。居間のほうにいた二人の下男を、ルドガーは寝室に招きいれた。寝室といっても、藁敷きの粗末なベッドが一台あるだけで、椅子《いす》もテーブルもない。土間の床にはじかに炉が切られている。泥炭を火にくべて、いがらっぽい煙に顔をしかめながら、ルドガーは小声で話した。
「リュシアン、どう思う。さっきの食事のこと」
「ずいぶん貧しかったですね。家畜の一つも潰《つぶ》して出すかと思いましたが。嫌われたんでしょうかね」
「でしょうかねどころか、はっきりそうだと思うが、それにしてもあれは貧しかった。貧しすぎだ。不自然だ」
しばらく考えこんでから、ルドガーはつぶやいた。
「リュシアン、モール庄の資財目録の写しを持ってきたろう」
「あ、はい。出しますか」
「頼む」
リュシアンが自分で背負ってきた行李《こうり》を開けた。中には書筒や革装の本が何巻も入っている。下男のエルスが、何か神秘的なものにでも出会ったように瞬きするのを、ルドガーは似たような思いで見つめる。文字を読んだり書いたりすることは、一行の中でリュシアンにしかできない。貴重な、尊敬されるべき能力なのだ。それに、修道士たちの筆写する本は、それ自体がなかなかお目にかかれない宝物でもある。
字の読めないルドガーは、リュシアンに命じて読み書きをさせる。もともと、そういう目的で連れてきたのだ。
「牛の数を確かめてくれ。何頭だ」
「これは昨年の秋のものですが」
「それでもいい」
「ここですね。五頭とあります」
「たった五頭? 少ないな。ほかの家畜は」
リュシアンが報告し、ルドガーはうなった。いずれも、ルドガーの見立てより三割から、五割ほども少なかった。リュシアンもようやく気付いて、首をひねる。
「どういうことでしょうね」
「どういうことだろうな。荘司のデッカーが姿を見せないことと関係があるのかもしれん」
「それは病気だから……」
「デッカーがはっきりした報告を寄越さなくなったのは何年も前からだ。それがわざとだったとしたら?」
「荘司が、獲《と》れ高をごまかしているというんですか」
リュシアンが目を見張った。ルドガーは首を横に振る。
「それを調べるのが、どうやらおれたちの最初の仕事のようだ」
そう言うと、ルドガーは二人の下男に顔を向けた。
「エルスは家畜や作物の数を調べろ。目録との食い違いを探すんだ。冬ごもりの後だから減ってはいるだろうが、ごみ捨て場の骨や何かで、大体の見当はつくはずだ」
「村人に見つかったら、なんて言い訳しやしょうかね」
「おまえは料理番だろう。食材を集めていると言えばいいんだ。それにおまえ、こういうことは慣れているんじゃないか?」
「お見通しってわけですかい。こいつは手を抜けねえな」
痩せ男は、肩をすくめてヒヒッと笑った。
「村人の戦力もしっかり押さえておきたい。これはヴァルブルクにやってもらおう。武器の置き場所や、数を調べるんだ。鎌《かま》や松明もだぞ。できるか」
大男が無言でうなずいた。
「ついでに余っている木切れや金物があったら拾ってきてくれ。どうもこの家は家具がなさすぎる。そしてリュシアン、おまえはどうにかして、デッカーと話してくれ。おれでは数がわからん」
「わかりました」
「ただし、危険を感じたらすぐ逃げて、おれたちの誰かと合流しろ」
「兄様はどこにいらっしゃるんですか」
「明日は村を一周する。なにはともあれ、村の形を知らなければ話にならんからな」
話がまとまると、ルドガーは下男たちを寝室から出し、一台しかないベッドに、弟とともに入った。眠りに落ちる前に、リュシアンが言った。
「レーズって、ほんとになんなんですか」
そう、そのこともあった。
ルドガーの歌唄い云々《うんぬん》はでたらめだから、彼らがよそからレーズの名を知ったというのは嘘だ。実際にあの女と会っているのだろう。しかしなぜ隠すのかはさっぱりだった。
「そいつが一番わからん」
ルドガーは本心から言った。
数日で秘密が明らかになった。やはりこの村には欺瞞《ぎまん》があった。しかしそれは最初に予想していたような形ではなかった。
「いやいや、とんでもねえ大嘘つきですよ、この村の連中は」
初日に泊まった空き家に、以後も居座っている。夕食のあとが密談の時間だ。エルスが声を潜めて報告する。
「牛も馬も羊も豚も、目録の倍はいます。干草小屋は一棟でなく二棟あるし、車輪|鋤《すき》と馬鍬《まぐわ》も届けより多く隠してあった。おまけに畑まで。西の林の先にね、隠し畑を作ってる。道をつけずに隠してあるんだが、そんなもなぁ、足跡をたどれば一目でわかるってもんですよ」
「西の隠し畑はおれも見た。たいした出来ではなかったな、土が悪すぎる」
「悪くたって、隠し畑は隠し畑です。森の主人は領主さまだ。無断でそんなものを作っていいわけがねえ」
「それでリュシアン、そっちはどうだった。デッカーに会えたか」
力説するエルスから、弟に顔を移した。リュシアンはため息をつく。
「だめです、近づけません。村人は、寄ると危ないの一点張りで。でも手がかりらしきものはありましたよ」
「なんだ、手がかりって」
「賄いの女が――例のアイエっていう生意気な娘ですが――食事を運んでいるって、前に言いましたよね。その女が、使った椀《わん》を引き取って洗っているんですが、井戸端でちらっと見たところ、全然汚れていないんですよ」
「確かか」
「確かです。あれは演技ですよ」
ルドガーはうなった。空の椀を運んでいるのなら、小屋も空だろう。
リュシアンが強く言った。
「デッカーはすでに死んでいるのだと思います」
ルドガーはうなずく。
「だろうな。――徴税逃れをしていたのは荘司じゃなくて、村人全員だ」
宙を見上げて、ルドガーは想像をまとめていった。
「デッカーは死んだ。それもずっと昔にだ。そして彼が死んだのをいいことに、この村は徴税逃れを始めた。デッカーが書いていた報告書を村長あたりが代筆し、いっぽうで報告より多くの収穫を上げた。そのせいで、資財目録がおかしくなった。――これなら筋は通る」
ルドガーがそこまで言った時、ヴァルブルクがぼそりとつぶやいた。
「字が書けるのか」
「うん?」
あぐらをかいてもなお見上げるほどの男に目をやって、ルドガーは気付いた。
「そうか、農民が報告書を書けるわけがないな。すると誰が……」
「書けないと決まったわけではないでしょう」
リュシアンが言うが、ルドガーも言い返す。
「しかし、この村には司祭もいないんだぞ」
「報告書なんて、毎年決まった書式で書くんですから、前年のものを抜書きして作ることもできます。極端な話、アルファベットが読めなくてもローマ数字だけ知っていればいい」
「おまえがそういうなら、そうかもしれんな。まあ、それは細かいことだ。それよりも、連中の出方が問題だ。おれたちが気付いたことに、村人も気付くだろうから」
「それは問題なんですか」
リュシアンが眉《まゆ》をひそめ、冷たく言った。
「彼らの出方なんて関係ないじゃありませんか。彼らは虚偽の罪を犯したんですから。目録を作り直し、正当な税を納めさせる。納めない者には罰を下す。それだけのことです」
「リュシアン、リュシアン」
「なんですか」
「おれたちはたった四人だぞ。向こうは七十人以上だ。素直に言うことを聞くと思うか?」
「聞かないわけがないじゃありませんか。こちらには正義と力があるんですよ。城の軍勢がやってくれば、ひれ伏して慈悲を乞《こ》うでしょう」
確かにカンディンゲン城には十五名の騎士がおり、その気になれば百もの従兵を集められる。年寄りや女子供を含む村人たちは、太刀打ちできないだろう。
だがルドガーは冷静に指摘してやった。
「おれたちの頼みで、軍勢を寄越してくれると思うか。あの父上と、兄上たちが」
「それは……」
「自分の領地のことだから、来るだろうと思ったんだな。そうはならんよ、リュシアン。父上たちにとって、ここはもうおれたちの村だ。何か事が起きたら、それはおれたちの責任だ。助けを求めたところで、自分で何とかしろと言われるだけだろう。――おれたちはそのつもりで行動しなければいかんのだ」
リュシアンが口を閉ざし、悔しげにうつむいた。
ルドガーはいくぶん口調を和らげて言った。
「な、だから、村人の機嫌を損ねるようなことはしないほうがいいんだ」
「不正を見逃してやるんですか」
「そうは言っていない。正義はきちんと行われなければならない。おれがなんとかするよ。ともあれ、おれがいいと言うまでは、このことは村人たちには黙っていてくれ。おまえたちもわかったな」
様子を見るように黙っていた下男たちが、うなずいた。
だがそう言ったルドガーにも、うまい手立てがあるわけではなかった。
そもそもルドガーは、自分の立場そのものに大きな疑問を抱いていたのだ。
翌日も、ルドガーは愛馬のグルントに乗って見回りに出た。村の南には、息を止めたまま駆け登ってしまえる程度の、小さな丘がある。かつての河流が作った自然堤防の名残らしい。一帯のうちそこだけは木々がまばらで、頂上に登ると、モール庄を一望に見下ろせた。
これが本当に荘園か、と思う。
村をなすべき家々の半分以上は、木立の間に建てられている。きちんと伐採されているのは川に沿った広場と、みすぼらしい耕地のあたりだけだ。家屋はすべて藁葺き屋根の石壁小屋で、床に板の張ってある家は一軒もない。ドイツの村なら必ずあるはずの教会も存在しない。
耕地も肥沃《ひよく》とは言いがたい。じくじく湿った水はけの悪い土地で、満潮の時には飲み水に塩気が混じる。白樺の木はよく燃えるので焚《た》き物にだけは困らないが、北からの風を防ぐため、全部切り倒してしまうわけにもいかない。結局、人の往来するところだけ切り倒して、後は残すという、中途半端な開拓のままになっている。ひどく貧しく、この先もずっと貧しいままだろうと思わされる。
最初に見回ったときには、防備の薄さも気になった。囲壁や環濠《かんごう》はおろか、防御|柵《さく》もない。森とじかに接している。近隣の領主軍が襲ってきたらひとたまりもない。
しかし地形をよく踏査した今となっては、そんな心配は杞憂《きゆう》だとわかる。この地に攻めてくるような領主はいそうもないのだ。西にドルヌム、東にエーゼンスという、別々の領主が支配する村があるが、十マイルに及ぶ森林が間を遮っており、交流はない。南への交通はさらに悪い。村の真南には、いまルドガーがいるこの丘を始めとする、沼沢と小丘の入り組む湿地帯が広がり、街道が作れない。ルドガーたちがやってきたように、一度右岸に渡らなければ、領主の城へ行くことすらできない。
要するにこの地は、防御に気を使わなくていいほど地の利が悪いのだ。
北の水平線には、東フリージアの島々がかすんで見える。あそこには、かつて海辺の諸都市を劫略《ごうりゃく》し、ラインを遡《さかのぼ》ってケルンやマインツのあたりまで攻め入ったというバイキングの末裔《まつえい》にあたる、フリーゼン人が住んでいる。しかし村人の話では、彼らもこの地へは来たことがないらしい。わざわざ船を仕立てて襲うほどの魅力がないのだろう。
ここは、荘園とは名ばかりの流刑地だ。
「ここがおれの村、か」
馬を下りて倒木に腰かけ、ルドガーは自嘲《じちょう》的に繰り返してみた。自分の村。なんとそらぞらしい響きだろう。
――おまえの村だ。しっかり面倒を見てこい。
父、ヴォルフラムがそれを命じたときの、嘲笑の声音が耳に残っている。あれは、小賢しく逆らう三男坊に向けたものであるとともに、貧しいこの村に向けたものでもあったのだろう。
つかの間、ルドガーはここに至るまでの理不尽な成り行きを思い返した。
ルドガーがモール庄へ送られた理由は、はっきり言えば厄介払いだった。父ヴォルフラムは、ルドガーと弟リュシアンを好いてはいなかった。
より正確に言うと、二人の母親である、後妻のマリアンネに微妙な隔意を抱いていたようだ。
ヴォルフラムは昔気質《むかしかたぎ》の騎士領主で、神のもと定められた生まれつきの役目を、万人が果たすことを望んでいた。騎士は君主に忠義を尽くすこと。君主は騎士に領民を与えること。領民は従順に従い、勤勉に働くこと。聖職者は領民を慰め、従わせること。そういった秩序を守ることが、世の安寧につながると固く信じていた。
そんな彼だから、当然、女に対する要求も保守的だった。貞淑で慎ましく、敬虔《けいけん》で従順であれ。彼の先妻はそれを満たしていたらしい。しかし、彼女が病で亡くなった後に娶《めと》ったマリアンネは、そうではなかった。
彼女はリューベックの市議会議員《ラート》の娘だった。つまり、商いで成り上がった平民出身の女だった。
リューベックは港を持つ巨大な貿易都市である。開市から二百年ほどしか閲《けみ》しておらず、カトリック聖職者の勢力も弱くて、実力主義の気風が強い。そこから、全土が森林と湿地と農村で占められた、昔ながらの荘園領であるフェキンハウゼン領に女が輿入《こしい》れしてきたのである。考えてみれば、ただで済むはずのない組み合わせだった。双方に面識のないまま進んだ、まったくの政略結婚――この時代、それ自体は珍しいことではない――であったことも不幸だった。
フェキンハウゼン領の農民たちは生涯一つところに留《とど》まり、カンディンゲン城砦《じょうさい》に住む領主のために貢租と賦役を行う。村々の境には関所が置かれ、大事な土地の者たちを守っている。怪しいよそ者が現れると、関守が取り調べて通行税を取る。しばしば近隣の領地とのいざこざが起こる。領主の名誉に対する侮辱を雪《そそ》ぐためだとか、足りない食料を補うためだとかの、正当な理由によって火蓋《ひぶた》が切られる。騎士団や兵団が勇壮な戦いを繰り広げる。勝って賠償を手に入れることがあり、負けて荘園を差し出すこともある。そんな騎士たちの活躍を、勤勉な農民たちが支える。
また農民たちは、比較的繁華な町で定期的に開かれる市に集まり、余った産物を売って、暮らすのに十分な日用品を手に入れる。質素に生きる正しい心の持ち主たちによって、教会や修道院へ十分の一税が貢納されている。ガラスや絹布などの贅沢《ぜいたく》な品には多額の税が課され、奢侈《しゃし》が戒められている。正しい値段で物を売らない人間、つまり商人には、常に人々の非難の目が向けられている。キリスト教徒にとって禁じられている、金銭にまつわる邪悪な職業、すなわち高利貸しは、ひとりもいない。
こうした世界にやってきたマリアンネは、最初のうちこそ、夫の意に沿おうとした。ルドガーとリュシアンもそのころ生まれた。しかし、すぐに田舎の生活に耐えられず、しばしば悶着《もんちゃく》を引き起こすようになった。頭布《ウィンプル》で顔も隠さずに城下へ出たり、貴婦人がかかわるべきでない下層民と話し込んだりした。
もっとも極端だったのは、ルドガーでさえやり過ぎだと思うのだが、ヴォルフラムが隣のヴィトムント領との間に起こした私闘《フェーデ》を、勝手に仲裁してしまったことだろう。彼女は一人で敵の城へ行って、夫の非を認め、賠償の約束を結んでしまった。
彼女の働きで、国境の数軒の農家が戦いに巻きこまれずに済んだのだが、それはヴォルフラムの関知するところではなかった。彼は烈火のごとく怒り、以後、公的な場以外では妻と口を利かなくなった。
その後、彼女は病を得て亡くなってしまったが――これも珍しいことではない――そのころの名残で、いまだにルドガーたちは父に嫌われているのだ。
ルドガーが十二歳で、伯爵の城へ修行に出されたときも、父はろくに費用を送ってくれなかった。ルドガーは文字を習うこともできず、武術の師匠のもとで雑役に努めた。騎士になれたのが不思議なぐらい、ずっと貧しかった。
リュシアンはリュシアンで、貴族の下のほうの子供の吹き溜まりと化しているような、修道院に放《ほう》り込まれた。もっとも、これは彼の性に合っていたらしく、院に収められていた書物を読みふけって、たちまちにして博覧強記になり、元を取った感があるが。
そういった経緯《いきさつ》があり、ルドガーは従士として師匠の騎士に仕え、八年間の騎士修行をこなして、見事騎士の叙任を受けたのである。
だがルドガーの修行中に、故郷では母マリアンネが、切り傷の悪化がもとで亡くなっていた。貴婦人にしては珍しく、乳母の手を借りずに自ら子を育てた母(それもまた、ヴォルフラムの不興を買ったことのひとつだった)は、幼いルドガーに、田舎の騎士城では想像もできないような都会暮らしの話をよくしてくれたものだが、その死に目にも立ち会えなかった。
二十歳になってルドガーがカンディンゲン城に戻ってくると、父と二人の兄が領内を仕切っていた。ルドガーには味方も居場所もなかった。
間もなく父は、ルドガーを領内でもっとも僻遠《へきえん》の地の荘司に任じた。書記も司祭もつけてはくれなかった。せめてもの望みとして弟に手紙を書いてみると、折り返し彼が帰ってきた。
それでルドガーは、彼を連れてモール庄に来たのだった。
丘を埋めたハイデの葉が、海から吹く冷たい風に騒いでいる。膝ぐらいまでの高さの、たくましい感じの低木だ。カンディンゲンではあまり見かけなかったが、こちらではどこにでも生えている。夏になると桃色や薄紫の素朴な花をいっせいに咲かせるが、今はまだ、伸び始めたばかりといった風情だ。
風車を建てればよく回るだろう。――風の騒ぎを見て、ルドガーは思った。
風とともに、潮も上がってくる。いま見えるのは、村のすぐ先まで迫った海面だ。しかしルドガーたちが到着した時には、はるか沖まで干潟が見えていた。干満の差が大きいということだ。
干満の差の大きい地方では、泥質で岩のない河口が港に向いている。泥ならば、干潮で船が座礁しても、竜骨が折れないからだ。――そんなことを言っていたのは、誰だったろう? ルドガーは丘の上に座ったまま、ぼんやりと思い出す。ブレーメンで出会ったハンザの船長か。レヴァント商人の連れていたわけ知り顔の子供か。
ここの河口は泥質だ。
ゆっくりと、ルドガーは目を見開き、視線を右手に向けた。
中洲がある。レーズの泉のある、巨大なおたまじゃくしのような中洲だ。そこには昔、川を渡る形で、ローマ街道が走っていた。
頭の中で火花が散った。ばらばらの観念が急速に組み合わさり、何かとてつもない絵ができようとしていた。
もしかすると、ここは――
「騎士さま!」
切迫した声に、ルドガーは物思いから覚まされた。
丘のふもとから村の男が走ってきた。見れば村長の息子のナッケルだが、ただごとではない様子だ。ルドガーは立ち上がって叫び返す。
「おれはここだ。どうした?」
息せき切ってやってきたナッケルが、背後を指した。
「盗賊です! 馬に乗った――二人組が――村の中を走り回ってる。すぐ来てください!」
「盗賊だと?」
ルドガーは枝に巻いてあった馬の手綱を解き、飛び乗った。
「どっちだ、教えろ!」
ナッケルが踵《きびす》を返して走り出す。ルドガーは腰の剣の存在を確かめて、鹿毛の愛馬に拍車をかけた。
騒然としている村を抜けると、麦畑のあぜに人だかりがしていた。ひづめの音にハッと驚いた人々が、ルドガーだと知ってやや安堵《あんど》したようすを見せる。が、表情は硬い。
「どうした、賊が出たと聞いたが」
「アイエがやられました」
馬を下りたルドガーは、人の輪の中に入った。少し離れたところにリュシアンが呆然と立っていることに気付いた。しかし声をかける間もなく、村人に促される。
「見てください、背中をばっさり」
見ると、うつぶせに倒れた赤毛の娘を数人がかりで手当てしている。血止めの布をずっくりと濡《ぬ》らした赤いものが、スカートにまで染みていた。
「アイエは奴らを見て、とっさに逃げようとしたんです」
「一人目が捕《つか》まえようとして、しくじった。それで怒った二人目が斬ったんだよ」
気の毒だが、怪我人の手当てでは出る幕がない。ルドガーは村人たちに目を向けて聞いた。
「賊は二騎だと言ったな。確かか」
「わかんねえ、悪魔みたいな勢いで駆け込んできたから」
「いや、確かに二騎だった、片方は汚ねえ派手な襟飾りの奴で」
「そうだ、それでもう片っぽうは、馬鹿でかい角弓を背負ってた」
「怪物みたいな声をあげて、おれを追いかけてきやがった!」
「ヨハンとこの豚が蹴《け》っ殺されたぜ」
「川のほうへガチョウが逃げたぞ。どこの家のだ」
「それより、あいつらはどこへ行ったんだ?」
「あっちのほうへ退散しちまったよ」
「おれも見た、西の森だ」
「静かに、静かにしろ!」
口々にわめきたてる人々を、ルドガーは両手を挙げて黙らせた。皆の顔を見回す。
「誰か、他にやられた者は?」
皆が顔を見合わせる。ルドガーは畳みかける。
「賊は豚と娘を手にかけただけか? 何も奪っていかなかったのか?」
「何も」
「ああ、うちも……」
何か奇妙だった。ルドガーは首を伸ばして村のほうを見た。煙は上がっていない。焼き討ちに来たのでもないらしい。
そちらから、グリン村長と、他の男たちがやってきた。彼らから少し離れて、エルスとヴァルブルクもやってくる。だが、リュシアンはいつの間にか姿を消していた。
間もなく到着した村長たちは、アイエの様子を見て声を失った。ルドガーは逆に彼に聞いた。
「どうも妙だ、こちらの連中は何も奪われていないと言っている。村長、そっちでは?」
返事の代わりに、グリンについてきた男が、奇怪なものを差し出した。それを見たルドガーは顔色を変えた。
「首と靴≠ゥ!」
ウサギの生首と、引きちぎった後ろ足を、分銅のように紐《ひも》でつないだものだった。村人たちがいっせいに息を呑み、十字を切る。
ルドガーは顔を上げ、村長に言った。
「やつらが投げ込んでいったんだな? これを」
「| 浮 浪 兵 《シュテルツフェヒター》の斥候ですな。森から森へ隠れて回る、たちの悪い浪人、ならず者どもだ」
ただの農民のはずのグリンの口からその言葉が出たので、ルドガーは驚いた。| 浮 浪 兵 《シュテルツフェヒター》という呼び方は、修行時代に聞いたことがあるが、盗賊狩りに慣れた騎士の間での言葉だった。
村の羊番の少年が口を挟む。
「グリン村長、| 浮 浪 兵 《シュテルツフェヒター》って?」
グリンが目を向けたので、ルドガーが言った。
「| 浮 浪 兵 《シュテルツフェヒター》はただの盗賊じゃない。弱い村に目をつけ、大勢でやってきて丸ごと乗っ取るんだ。そして好きなだけ飲み食いすると、めぼしいものを奪って出ていく。奴らが通った後にはウサギ一匹、麦一束も残らん。イナゴの群れより邪悪な鬼どもだ」
「なんだって……」
「そんなひどい奴らがいるのか」
「ところが連中にも言い分がある。奴らは村を襲う前に、必ず一度警告するんだ。日暮れまでに退去して村を明け渡すか、留まって死ぬか、と。退去するなら命までは奪われない。同じキリスト者としての慈悲だとかなんとか言っているが、要は面倒な戦いをせずに乗っ取りたいだけだ。死か退去かを表す、その警告というのが――」
ルドガーは、薄気味悪い呪物《まじもの》めいた死骸を指差した。
「それだ」
羊番の子供が、青い顔で死骸《しがい》を見つめた。ルドガーは言う。
「普通は一緒に口頭で言ってくるはずだが、誰か聞かなかったか」
「そういえば……」
「何か喚《わめ》いていたな」
「さっきの二人が何も奪っていかなかったのは、そういうわけだ。抜け駆けを禁じる仲間内の掟《おきて》があるんだ」
「でもこの子を襲ったじゃないか。アイエ、アイエ!」
叫んだのはアイエの母親だ。娘を抱きしめ、心配に引きつった顔で呼びかけている。ルドガーは苛立ちを押さえながら言う。
「たまたま目の前に出てしまったんだろう。連中の気まぐれまではわからん。確かなのは、森の中にはもっと大勢の賊が隠れているということだ。彼らは日が暮れたら襲ってくる」
重苦しい沈黙が立ち込めた。
ドイツの地では、人の住まう開けた土地よりも、森林のほうが圧倒的に多い。どこまでも広がる暗く深い森のところどころに、教会を中心とする村落が蜘蛛《くも》の網のようにまばらに連なりあい、かろうじて人界を形作っている、というのがこのころの世界だ。
隠微《いんび》な森の世界には、天然の優れた狩人《かりゅうど》である狼《おおかみ》を始め、正体のわからない獣や人が数知れず棲息《せいそく》している。| 浮 浪 兵 《シュテルツフェヒター》は、人界よりもそちらに属する者たちのようだった。
村人たちは、声を抑えてひそひそと話し始めた。降って湧《わ》いた凶事に、ルドガーも混乱していたが、同時に、自分がなんとかしなければいけないという義務感も覚えていた。ここが地の果てであろうが歓迎されていなかろうが、監督者は自分だ。それに自分は騎士だ。この者たちを見捨てて逃げ出せば、名が折れる。
けれども、大勢の武装した賊どもが相手では、さすがに一人で勝てるとは思わなかった。| 浮 浪 兵 《シュテルツフェヒター》には、農民上がりで馬術もままならず、槍術《そうじゅつ》のその字も知らないごろつきが多いと聞くが、それだって数が集まれば馬鹿にならない。
どうすればいいだろう。戦うか、逃げるか、交渉するか。
そもそも一体、やつらは何人いるのだろうか。西の森へ行って調べてくることはできないだろうか。
「――西の森?」
ルドガーは思わずつぶやいた。そちらには沼沢と深い森しかない。馬に乗ったままでよく来られたものだ。奴らしか知らない秘密の道があるのかもしれない。
森の中に埋もれ、忘れられた道が――。
そのとき、先ほど丘の上で頭に浮かびかけた考えが、今度こそいっそう鮮明な輪郭をもって再来した。
ルドガーは、その思い付きが余りに大胆だったので、自分でも驚いてしまい、しばらくまともに検討できなかった。興奮を抑えて考えを進めたが、検討すればするほど、それは素晴らしい着眼であるように思われた。
ほんの二、三分で、ルドガーはその考えをまとめてしまった。後に、多くの人々の運命を変えてしまうことになる、遠大な計画を。
それは――
この地に作ってしまう、というものだった。
町を。
東西とつながり、南北の要となる町を、新たに築く。
何もないここに、一から。
……だがルドガーは、いったんその計画を頭から振り払った。それはあまりにも突飛で、自分でも一時の思いつきでないかどうか、わからないような代物だった。人前に出すにはまだまだ熟成を要することを、経験から知っていた。
今はまだそれどころではない。目の前の脅威を取り除くことのほうが大事だ。
ルドガーは集まって話している村人たちに目をやった。期せずして、彼らも何らかの結論に達したようだった。よほど深刻な話し合いだったのか、二、三人は悔し涙のようなものを流している。こちらを見て、グリンがやってきた。
「騎士さま、お願いがございます」
「奇遇だな、こちらにもある」
つかの間、二人は見詰め合った。かたや二十歳の支配者、かたや祖父のような年頃の下僕。
先ほど、妙なことを聞かされたせいもあり、ルドガーは圧迫されたが、気を張ってこらえた。彼が何を言い出すか見当がつく。こちらの提案ほど奇抜ではあるまい。
「――いいぞ、先に言え」
そう言うだけの余裕を、なんとか保つことができた。
グリンが言った。
「この荘園を引き払わせてくださいませ」
予想通りだった。
「村の者は総勢七十一名、このうち戦えるものはわずか二十名もおりません。武器といったらせいぜい鎌や鋤だけで、鎧兜は一着もない有様。抗っても勝ち目はございません。逆に、逃げるのならば難しくはない。もともと家畜の少ない村であるし、春先ゆえ、蓄えはほとんど残っていない。種麦と家財を合わせても、持ち出せないほどにはなりません。これがもっとも血の流れない方法なのです」
背後に目をやって、苦渋の決断をした村人たちを示し、グリンが迫った。
「領主さまからお借りした土地を捨てるのは、誠に心苦しいのですが、なにとぞお許しを……」
「ここを捨てて、どこへ行くんだ」
ルドガーは静かに言い返した。
「ここを捨てても行き先はないぞ。フェキンハウゼン領の古い田野は、すでに拓き尽くされている。新しい荘園を置く土地はどこにもない。だからこそおまえたちはここへ送られた。そんなことはおまえたちもわかっているはず。退去は許さない」
グリンは無表情に見返している。ルドガーの返答など、耳に入っていないかのようだ。もっとも、それはお互い様だ。ここまではこちらも、建前でしかものを言っていない。
だが、本音で話せば必ず落とし所があるはず――ルドガーはそう確信していた。問題は、どの手札から見せ合うか、だった。
「村長――」
ルドガーが口を開きかけたとき、思いがけないことが起こった。
「アイエ! アイエはまだ生きてるか!」
「リュシアン!?」
黒いローブの裾を翻して、少年が村から走ってきたのだ。村人たちを押しのけて娘のそばに腰を下ろす。ルドガーは驚いて声をかける。
「どこへ行ってたんだ、リュシアン」
「これを取りにですよ」
言いながらリュシアンは背負ってきた行李を下ろし、中から樫《かし》の小箱を取り出した。開けると蝋《ろう》で封印された大小さまざまな瓶や、たくさんの革の小袋が並んでいた。
「ぼくはさっき、こいつと一緒にいたんです。デッカーの小屋を開けさせようと思って」
言葉を切り、忌々《いまいま》しそうに歯噛《はが》みする。目まぐるしい手つきで瑪瑙《めのう》の小さな皿を取り出して、袋から出した粉末を注ぎ、瓶の粘液を垂らして練り混ぜる。
「誰か水を持ってきてください! 手桶で! ――そのとき、馬に乗った男が走ってきたんです。ぼくは手を上げて呼びました。てっきり兄様だと思ったから。この村には兄様しかいないじゃないですか、騎士なんて。でも違ったんです」
ぽかんと口を開けている母親を押しのけて、リュシアンは虫の息のアイエに屈《かが》みこんだ。村人の一人が手桶を抱えて走ってくる。それを受け取り、傷口をきれいに洗い流した。それから、生々しい肉の赤色が見えている創傷に、練り薬を丹念に詰めていった。
母親がうろたえて叫ぶ。
「あんた、変なものつけないでよ!」
「マジャール膏《こう》だ。神の鞭《むち》≠フ一族が戦傷に塗った――触れるな、触れると傷が腐る!」
鋭い叫びに、母親が驚いて手を引っ込めた。神の鞭≠ニは、ルドガーの知るところでは、かつて東の地より来たった黄色い肌の恐るべき騎兵軍のことだが、そんな知識などなくても、リュシアンの気迫は圧倒されるほどだった。
誰も手を出せないでいる前で、リュシアンは傷を塞《ふさ》ぎ、水薬まで飲ませて、ようやく息をついた。それから、ほとんど悲しげな声でつぶやいた。
「院長さまから、一番大事な人に使うように、と言われたのに」
「高い薬だったのか」
ルドガーが聞くと、リュシアンは泣き笑いのような顔でうなずいた。
「もう手に入りません」
「その子、気に入ったのか」
「まさか、こんな賤しい娘!」
真剣に否定してみせてから、リュシアンはまた顔をゆがめた。
「でも、ぼくのせいだから。ぼくが奴を呼んだから、こいつは斬られてしまったんですよ。治さないわけにはいかないでしょう? 畜生……いや、神よお許しを!」
思わず涜神《とくしん》の言葉を吐いてしまい、あわてて祈りを付け加える弟を、ルドガーは苦笑して見守った。
そして、周囲の村人たちが、自分とまったく同じような顔をしていることに気付いた。
一瞬のことだ。ルドガーの視線に気付くと、みな仮面でもつけたかのように硬い顔になった。だがルドガーには、その一瞬で十分だった。
咳払いをして、村長に向き直った。
「聞いただろう、グリン。おれたちはもう知っている」
「なにを、でございますか」
「虚偽を」
老いたグリンの目が光る。
「デッカーがもういないことや、おまえたちが何年も前から税をごまかしていたことを、だ。まずこの一事だけでも、領主裁判ものだ。罰金と賦役を科してやることもできる」
「さようでございますか」
「だが、おれはそうするつもりはない。なぜだと思う。それはおまえたちが、おれと同じ[#「おれと同じ」に傍点]だからだ」
ルドガーは胸に手をあて、男たちを見つめた。
「隠さず言おう、おれはヴォルフラム男爵の不興を買って、ここへ流された。いっぽうで、おまえたちも十年前、男爵によってこの不毛の地に流された。理由は知らない、だが見当はつく。グリン村長にナッケル、モール庄の男たち。おまえたちは――あなた方は、騎士なのではありませんか[#「騎士なのではありませんか」に傍点]?」
雷に打たれたような驚愕《きょうがく》が、人々の顔に走った。リュシアンや、エルスたちでさえ口を開けた。
「いかがです、村長。君主に謀反を働いた? それとも槍試合《やりじあい》に負けて名誉を剥奪《はくだつ》された? 騎士が農民の身分に落とされるとは、ただごとではない」
ルドガーは、静かな期待をこめて老人を見つめていた。思えば最初からおかしかった。一本|芯《しん》の入った姿勢と臆せぬ態度。この地のものではない訛り。読み書きの能力や、| 浮 浪 兵 《シュテルツフェヒター》の知識。どれもが、この人物にただならぬ過去があることを示していた。
グリンは表情を崩さなかった。村人たちのほうが先に崩した。郷愁と自嘲の混ざったような苦笑を浮かべて、顔を見合わせる。
一人が村長を示して言った。
「……これなるは我々の騎士団長、ハインリヒ・ミスペルゼー・フォン・グリン殿です。我々はある戦で、敵の奸計《かんけい》にはまって砦《とりで》を明け渡してしまい、失望した主君に騎士の位を剥奪されました。召し放たれてからはその日暮らしの雇われ兵となり、諸国をさすらっておりましたが、旅の間にできた妻子もろとも路頭に迷いかけた時、フェキンハウゼンの領主さまに拾っていただきました」
「元は、どこの御家の騎士団でしたか」
「それは」
言いかけた村人を、グリンが手を伸ばして遮り、首を振った。
「名を出すのはご勘弁を。御家の不名誉になりますゆえ……わしももう、自分を騎士だとは思っておりません。十年、鍬を握るうち、人の斬り方も忘れました。ただの村人……それでけっこうでございます」
そう言って首を振る姿は、ルドガーには逆に潔いものに見えた。
だがリュシアンが毒舌を吐いた。
「ただの村人などというわりに、せせこましく徴税逃れなどをしていたんですね」
グリンの顔が苦いものになる。
「その点は申し訳ございません……。しかし、何も私腹を肥やすために資財目録を改竄《かいざん》したわけではないのです。本当に貧しかったのです。そこまでやらなければ、冬越えができなかった。移り住んだ初年は、赤子のほとんどが死にました」
リュシアンが口を閉ざした。グリンは寂しげに目を細める。
「荘司のデッカーが病で死んでから、皆で耕地を増やして、なんとか日々の食べ物に困らないほどになりました。しかし、新たな荘司がいらしたとなると……税額が昔のように上がり、今までの苦労も水泡に帰してしまう。それぐらいなら、いま村を捨ててよそへ移っても、と思ったのでございます」
グリンがルドガーに目を据えた。
「すべてご承知なら、改めてお願い申し上げます。我らを、いま少し暮らしやすい土地に移し変えて下さりませんでしょうか」
「それが、あなた方の本音ですね」
グリンがうなずく。ルドガーは考えつつ、村長に口調を合わせて、言った。
「答えよう。ここを離れることは、許さない。――しかしこれは領主の代理人としてではなく、この地を任された者としての命令だ」
戸惑いの色を目に浮かべるグリンに、ルドガーは続けた。
「ここを離れるのでもない。この地で苦しむのでもない。第三の方法がある――と言ったら、どうする」
「第三の……?」
「そう。おれには、自分たちとおまえたちの両方を満足させる秘策がある」
「それは、どんなものでございましょう」
年配の元騎士は、何を言い出すのかというように眉をひそめる。だがルドガーは首を振り、注意深く話を逸らした。
「いま言ってもおまえたちは受け入れてくれないだろう。だから、まず| 浮 浪 兵 《シュテルツフェヒター》たちを撃退して、おれの力を示してみせる」
「奴らを倒すですと……!」
グリンだけではなく、背後の男たちも声を上げた。ルドガーは聞く。
「無理か? おまえたちは元騎士団だというのに」
「もちろん、考えはいたしましたとも。ですが、わしらはすでに年老い、子もできました。剣も槍も錆《さ》び付いています。勝てるものではございません」
「正々堂々と正面からぶつかれば、そうなるだろうな」
「騎士が計略を用いるのですか」
グリンがけげんな眼差《まなざ》しを浮かべる。ルドガーは負けずに見つめ返す。
「敵が名誉ある戦いを仕掛けてくる騎士なら、堂々とぶつかるのもいいだろう。しかし、相手は女子供まで傷つける卑劣な連中。正義にこだわっても空《むな》しいだけだ」
ルドガーは背後にいるリュシアンとアイエたちを指した。
「見ろ、あれが敵のやり方だ。おまえたちはさきほど、奸計によって砦を奪われたと言った。道にこだわって、また同じことを繰り返すのか。騎士道とは、弱き者のためにこそ捧《ささ》げられるべきではないのか」
グリンが頬を紅潮させてうつむいた。やがて絞りだすようにつぶやいた。
「……どんな策を用いるのですか?」
「泥炭と白樺の皮を」
ルドガーは腰をかがめて灰色の古木のようなものを拾い上げた。村中の土のあちこちに顔を出している、泥炭の破片だ。
「これを村に積む。連中が押し入ってきたら、火をつける」
「……村ごと燃やすとおっしゃるのですか!」
人々が呆然となった。グリンが大声で何か言いかけ、声を落とす。
「そんなことをしたら! ……村が、なくなってしまいます」
「いけないか。元々捨てるつもりだったのに」
「それはそうですが、焼け落ちた村でまた一からやり直せと?」
「ここでやり直すのではない」
ルドガーは村の向こうを指差した。いよいよ核心だ。
「中洲に、村を築きなおす」
「なんだと……」
「あの中洲は防備にうってつけだ。賊が襲ってきても中洲にいれば防ぎやすいし、あそこに村を築いてしまえばこの先も安泰になる。それにあそこには真水の出る泉がある。飲んでみたが、塩気はしなかった」
「そ、そんなことは承知しておりますが、あの中洲は……」
「レーズのもの、か」
ここまで沈毅《ちんき》な態度を見せていたグリンが、初めてうろたえた。その理由まではわからないが、彼らが中洲とそこに住む女を特別視していることは、ルドガーにも見当がついていた。でなければ、最初から中洲に住んでいたはずだ。あそこは小高く、河口の土地なのに水はけもいい。
「中洲には住めない、と?」
「そうです」
「じゃあ、中洲にさえ住めるなら村を焼いてもいいんだな」
「そ、そんなことは」
「じゃあどういう意味だ。今まで考えたことがなかったんだろう。中洲に住めるなら、もろもろの問題は解決する。違うか」
ルドガーは畳み掛けた。グリンは押し黙る。
最後にとっておいた一言を、ルドガーはとうとう口にした。
「こうしよう。おれが泉の主と交渉する。おまえたちは村を移してほしい」
「……ルドガーさまが?」
ルドガーはうなずいた。村人たちの視線が、畏怖の色に染まった。ルドガーは正解を探り当てたことを悟った。やはりあの女の存在が鍵《かぎ》だった。
彼女を動かせば、村も動くだろう。
ルドガーは村人たちを見回してから、リュシアンのところへ向かった。人々は止めようとしなかった。そばにしゃがみこむと、唖然としていた弟が、つぶやいた。
「何がどうなったんですか。ぼくにはさっぱり……」
「その子はどうだ」
「こいつですか」
リュシアンが軽く揺すった拍子に、「う……」と娘が声を漏らした。見れば、その頬にかすかな血の気が戻っていた。信じられない、というようにリュシアンが叫ぶ。
「薬が効いた?」
「他人事《ひとごと》みたいに言うな、おまえのしたことだ。よくやった」
彼の背を叩いて、ルドガーは立ち上がった。
近くにいた下男たちに二、三指示を与えてから、騎乗した。走り出してから振り向くと、村人たちはこちらへ向かって祈っていた。今の成り行きに感謝しているのか、それともこの先のことを心配しているのか、わからなかった。
自分は、虎《とら》の尾を踏もうとしているのかもしれない――そんな思いがちらりと浮かび、身が震えた。
「レーズ、出てこい、レーズ! おれだ、ルドガーだ!」
中洲の泉に着いたルドガーは、石壁の前で何度も呼ばわった。ここに来れば会えるという確信が、なぜかあった。
「レーズ、姿を見せろ。話がある!」
叫びながら石壁の背後にまわり、再び泉に戻ってくると、壁の表側に一人の少年がもたれていた。
「騒々しいわね、ひとこと言えば聞こえるわよ」
いや、少年の服装をした女だった。無染めの麻のチュニックの下に、ぴったりした芥子《からし》色のタイツを穿《は》いている。服装に合わせたのか、くるみ色の髪は肩にかからぬよう後ろへ結い上げていた。
ルドガーは拍子抜けして彼女を見つめた。村人を恐れ入らせている、得体の知れない精霊のくせに、いやにあっさり現れたものだ。どこにでもいる小娘のようにも見える。
レーズが片眉をあげて、なに、と言った。
「化けたな。別人のように見えた」
「思ったよりいい布だったから、着てあげたわ。なんなら靴も寄越しなさい。履いてあげる」
「それはもともと弟のだ。靴の替えまではない。あきらめろ」
「男物なの? しまったわ、男物を着せられたなんて」
レーズが舌打ちして横を向く。もともとくっきりした顔立ちのためか、男装がかえってよく似合っている。聖日の祭りで演劇でもやらせれば人気が出そうだが、見とれている場合ではないし、ルドガーの好みでもない。
「レーズ、実はおまえにいい話を伝えにきたんだ。聞いてくれないか」
「あら、気が変わったの? 異端の魔女に話を持ちかけるなんて」
レーズは意地悪く口の端に笑みを浮かべる。ルドガーは素直に謝ってみせる。
「魔女呼ばわりは悪かった。おまえのようなものに出会ったのは初めてで、少々驚いたんだ」
「騎士のルドガーは怖がりなのね」
ルドガーはむっとしたが、どうにかこらえた。今はとにかく、この女を仲間に引き込むのが先決だ。
「おまえはこの間、この地に町を作りたいと言ったな」
「言ったわ。よく覚えていたのね。モール庄の連中は怯えてしまって、こちらの話を聞いてもくれないのだけれど」
「怯えるようなことをしたんだろう」
「人聞きの悪い、村の人間に手出しをしたことはないわ。村を通った旅人にお仕置きをしたことはあるけど。――そいつ、泉で用を足そうとしたのよ」
「ほどほどにしてほしいところだ。それはともかく、あの件で相談したいことがある。つまり、おれはおまえと利害が一致しているということだ」
「へえ……どのような意味で?」
レーズはもたれていた石壁から身を離し、値踏みするようにルドガーを見上げてきた。
「おれもここに町を作りたい。ここを、人が訪れたいと思うような土地にするんだ。道を通し、宿を建て、市を開き、船を停《と》めさせる」
「大きく出たわね。あなたにそれができると?」
「少なくともおまえ一人ではできない」
レーズが眉を吊《つ》り上げたが、ルドガーはかまわず続けた。
「おまえだけでは、人を集められない。町は、人がいるから町なんだ。人を集めなければいけない。異国からも、遠方の地からも。レーズ、おまえが見たという町もそうだったろう?」
「前に一度、流浪の説教師とともに、アーヘンの都《みやこ》とやらを訪ねたことがあるわ」
レーズはむっつりとした顔で言う。
「大きな聖堂ができたばかりで、とても繁華だった」
「アーヘンの大聖堂? 一体いつの話だ。あれはずっと昔、フランクの大帝陛下が建立されたものだぞ」
「そう、彼が建てたのだった。二十万夜ほど前のことよ」
ルドガーは言葉を切って、レーズの顔を見つめた。女は近くの木の小鳥を目で追っている。どこかの町娘のような屈託のない口ぶりだ。顔だけ見るなら、とても異端の精霊には見えない。
だが、言うことはおよそまともでない。ルドガーの見たことのあるどんな法螺吹《ほらふ》きも、ここまでの嘘はつかなかった。
やがてレーズは、いくぶん機嫌を直したように言った。
「人。それはそうね。私が旅人を一人ずつ引き止めているのでは、埒《らち》が明かない。思えば今まで、それがいけなかったんだわ。人を引き留めるための、人がいるんだ。あなたがそれをやると言うのね」
「おれの力だけじゃないが。ここはもともと街道筋だろう?」
ルドガーはずばりと言い切った。
「ローマ街道と橋の名残がここに残っているということは、その続きが東西の森にも埋もれているはずだ。それを見つけ出し、手入れしなおせば、必ず人が通る。南のカンディンゲンに迂回《うかい》するよりも、ずっと近道だからな」
これこそ、ルドガーの腹案の核心だった。南回りは一度海から離れるため、遠く、しかも関所に阻まれる。
それらの障害のない道を通してやれば――どうなるのか、考えただけでも胸が高鳴った。
「なるほど、地の利ね……」
レーズは日が昇る方角を見透かした。次いで反対の方角を見た。
それから背伸びをして、どういうつもりか、北東、北、北西、南西、そして南東をも次々に見つめた。
「これはこれは……しばらく見ないうちに、ずいぶん栄えてきたみたいね」
「何を見ている?」
「人煙を。ひところより大分増えたわ。なるほど、これならきみが言うように、旅人も増えるかもしれない」
ルドガーは首を巡らせたが、木々の間にわだかまるハイデの灌木に阻まれ、煙など見えなかった。
「ここを町に、か」
もう一度、レーズは繰り返した。乗り気になっているように見えた。
今だ、とルドガーは思った。
「だから手を貸してくれ、レーズ。おまえたちの仲間は、強大な敵を倒すこともあると言った。その力で、| 浮 浪 兵 《シュテルツフェヒター》たちを倒してほしい。奴らは今――」
皆まで言えずに、ルドガーは口を閉ざした。
レーズが振り向いていた。細められた目に、失望、侮蔑《ぶべつ》、嘲笑、そんな冷たいものが揺れていた。無邪気そうですらあった町娘はどこかに消え、触れがたい、近寄りがたい何者かが、そこに立っていた。
「またそれなのね」
声を聞くと、ルドガーの背筋が冷えた。また、が何度目なのか、理由もなくわかった。
きっと百や二百ではない。
「すぐ力だ。倒せだの殺せだの――拝むばかり、人のたぐいは」
娘の姿をした大きなものが、ざくざくと近寄ってきた。ルドガーは思わず後ずさる。何歩か下がったとき、足が泉に浸かった。
その者がすぐ目の前に立ち、口の端を歪《ゆが》めて笑った。
「教えてあげる。私は争いがきらいよ」
いきなり、ルドガーの全身を冷たいものが包み込んだ。
何が起こったのかわからなかった。足場がいきなり消え失《う》せ、水中に落ちたのだ。ルドガーは頭まで水に浸かっていた。口と鼻に澄み切った清水が殺到し、空気を追い出した。
青黒い光が揺らめく世界に、娘が入ってきた。邪悪な笑みとともにささやかれた言葉が、水中だというのにルドガーの意識に届いた。
だから、あらそいをおしつけるものはゆるさない。
苦悶にもがくルドガーの頭を娘が押さえ、水底に沈めようとした。細い腕は見かけに反して鉄のように剛強で、雲突く巨人のような怪力がこもっていた。ルドガーは必死に抵抗したが、かなわなかった。
――違う!
もがきながら、ルドガーは声にならない絶叫を上げていた。
――私闘ではない! 守るためだ! 皆を、襲い来る、悪鬼どもから……!
肺腑《はいふ》の底まで水が入り込み、全身の血の道が焼けるように痛んだ。
ルドガーは死を覚悟した。
そのあとすぐ、出し抜けにルドガーは砂上に放り出された。体の周りに空気があった。それに気付いた途端、体を激しく痙攣《けいれん》させ、残った力を振り絞って嘔吐《おうと》した。あきれるほどの量の水があふれ出し、ルドガーは悶《もだ》え苦しんだ。
「お拭きなさい、見苦しい」
咳をくり返しながら顔を上げると、涙で潤んだ目に、レーズの姿が映った。少し先の砂の上に腰を下ろし、汚いものでも見たように顔を背けていた。
何度も咳をくり返して、ようやくルドガーは声を出せるようになった。だが、もはや軽々しくレーズに声をかける気にはなれなかった。
やはりこの女は、人ではなかった。どれほど人に近い小娘に見えようとも、その中身は邪悪で恐ろしい魔物なのだ……。
じろりと横目で見たレーズが、つぶやいた。
「ほら、その顔。人はすぐそれだ」
「何を言うんだ……人を殺しかけておいて」
「きみがまぎらわしいことを言うからよ」
ルドガーは瞬きした。相変わらずまっすぐにこちらを見ないまま、レーズが言った。
「最初にうまいことを言って、私の気を引いておいてから、あんな話を持ち出すから……ああ、またかと思ってしまった。ああいう、ぺてん師や奸臣みたいな物言いは、やめて」
「……前にもあったんだな?」
「数え切れないほどね。口先だけの空約束で、私に言うことを聞かせようとした。みんな沈めてやったわ」
ルドガーはぞっとしたが、反対に、奇妙な親しみを覚えていた。この気まぐれな怪物は利用されることを嫌うらしいが、そうでない相手に対しては、どうやら必ずしも冷酷ではないようだ。
少なくとも口ではそう言っている。
ルドガーは、もう一度レーズと向き直る気になった。
「おれの言いたいことがわかったのか」
「中[#「中」に傍点]で聞いた。きみはおせっかいよ。一人で逃げればいいものを、わざわざ助けるとは」
「そういうのは、どうなんだ。おまえとしては、許せるか、許せないか」
「……だから最初に言ったじゃない、騎士。きみは見所があるって」
レーズが振り向いた。ルドガーは驚いた。
大の男を片手で押さえつけたほどの怪物が、乱暴な仕打ちを悔いているように見えたからだ。
「やる」
「……なに?」
「やる」
「やるって」
「だから、手を貸してあげる。少しだけど」
レーズは立ち上がって言った。
「村へ行くわ。中洲のどの辺りに移ればいいか、教える」
「おまえ自身が来るのか」
「ええ」
「来られるのか」
「ここから見える範囲までは、出て行ける」
「そういう意味じゃなくて、なんというか……村人たちに怖がられないか」
「もちろん怖がるでしょうけど、彼らはあれで、けっこうここへ来るのよ」
「よく来る? 何をしに」
「きみが最初の晩にしたことと同じ」
レーズが意味深な流し目で言った。少し考えて、ルドガーは気付いた。
「おまえ、彼らを誘惑したのか!」
「私は水を浴びていただけ。彼らが勝手に来て、覗いたのよ」
「それで、聞いても答えなかったのか……」
ルドガーは思わず力のない笑いを漏らしてしまった。入れ替わり立ち替わり裸の女を拝みに来ていたなんて、よそ者に言えるわけがない。罪といえば罪だが、どちらかといえば、奇怪というよりは微笑ましいような真実だった。
「まあ、そういうことなら、連れて帰ってもたいした騒ぎにはならんのかな……」
ルドガーは腰を上げた。
「よし、行こう」
「ええ」
差し出した手を、女が軽やかに握った。
ルドガーが実際にレーズを連れて戻ったのを見ると、村人はまるで救世主その人が来臨したようにあわてふためき、いっせいにひざまずいた。彼らのあまりの動顛《どうてん》ぶりに、かえってルドガーのほうが驚いた。リュシアンが声を潜めて話してくれた。
「彼らは、兄様が荒野の魔物に食べられるか、とりこにされてしまうと思っていたんですよ」
「村人にはそんなにひどいことをしていないと言っていたが」
「ここではそうかもしれません。でもゲッセマネの野ではもっと罪深いことをしたはず」
その地名を聞いて、ルドガーは理解した。彼らはレーズのことを、神の子を堕落させようとした、あの悪魔だと思っているわけだ。恐れながらも彼女に惹《ひ》かれていたわけがなんとなくわかる。
しかし、このことは村人にとってよりも、むしろリュシアンにとって衝撃的だったようだ。
「兄様がそんなものと親しくされるなんて、思いませんでした」
彼のレーズを見る目には、恐怖と嫌悪が宿っていた。目が合うと顔を背け、離れていった。ルドガーは心を痛めたが、差し当たり弟に気を配ってやる余裕はなかった。
ルドガーはレーズとグリンを引きあわせ、恐れ敬う彼に、レーズに従って中洲への財産の移動を始めるよう指示した。彼は承知し、男たちがそれに従った。まず何よりも大事な家畜と穀物を移し、いかだに乗らない大きな農具や家具は、火が移らないように、目立たない森の奥に隠すか、土に埋めた。
次にルドガーは女子供を集めて、白樺の皮を剥《む》き、かまどの灰や炭をできるだけたくさん持ち寄るように指示した。彼女らはすでにアイエが受けた仕打ちを聞いており、二つ返事で承諾した。
その頃になって、エルスとヴァルブルクが戻ってきた。彼らは、ルドガーが喉から手が出るほどほしかった知らせを持ってきた。
「連中を見つけましたぜ」
ルドガーは中洲に渡る前に、彼らに偵察を命じておいたのだ。
「言われた通り、足元によく気をつけて森を横切っていったら、土の沈まないところがありやした。ローマの道ってなあたいしたもんですね。それに沿って奥へ進んだら、あっさり見つかりやした」
「何人いた」
「五の五倍よりもたくさん。それに馬が十頭より多くいやした」
「二十五人以上か……」
ルドガーは苦労して無表情を保った。悪い知らせだ。村の男たちより多い。もっとも、村ひとつ乗っ取ろうとしている連中なのだから、それぐらい頭数がいるのは当然だろう。
「気付かれなかったろうな」
「道っ端に寝そべってぐうすか寝てやしたよ。見上げた肝っ玉ですな」
「武器は。騎槍か、剣か。鎧はつけていたか」
ヴァルブルクが首を横に振り、ぼそぼそと言った。
「大きな槍や剣はなかった……みな短剣と手斧《ておの》ばかり。それに大弓が四張。兜がたくさん」
「わかった。おまえたち、よくやったぞ。グリン村長を探して、やはり相手は騎士ではないようだと伝えてくれ」
「朝飯前でさあ。気前のいい坊ちゃんのためでしたら、ね」
エルスがひひひと耳障りな笑い声を上げた。
「わかってる」
ルドガーは虎の子のグルデン金貨を渡してやった。それからこう付け加えるのも忘れなかった。
「ちゃんと戻って戦いに加わったら、あとでもう一枚ずつくれてやる」
ついでにルドガーはレーズを呼んでくるよう命じた。彼女がやってくると、エルスたちが調べたことを話した。
「連中の武装は、戸口を破って中へ押し入るのにうってつけだ。手練《てだ》れの押し込み強盗らしい。大弓の使い道がわからんが、まあはったりだろう。あんなもの、家の中でも馬上でもまともに使えないからな」
「決めてかかるのはよくないわ。私がその| 浮 浪 兵 《シュテルツフェヒター》とやらであれば、そう……弓取りは木の上に上げる。村中に睨みを利かせられるし、もし騎士団でも来たら、早めに見つけ、逃げる時間を稼ぐことができる」
「そうかもしれない。戦に出たことがあるのか?」
ルドガーは感心した。レーズは首を振った。
「私の泉には、武人もよく来たのよ。寝物語に聞いただけ……。それより、彼らは大丈夫なの。まともな剣も鎧もないんでしょう」
「そうだ。それに長いこと戦っていない。だから正面から当たったらやられる」
「じゃあどうやって迎え撃つつもり?」
「火計だ。火を使う」
「火? そんな手が効くかしら。敵だって用心しながら来るはずよ」
「だろうな。だからその裏をかく」
ルドガーは作戦を話した。それを聞いたレーズは、やがて言った。
「それだと、きみが一番危険ね」
「言いだしっぺだからな」
じっとルドガーの顔を見たレーズが、笑いもせずに言った。
「私の泉に墓碑銘を彫り付けてあげてもいいわ。何にする?」
「そんな気遣いは、いらんよ」
ルドガーは大仰に顔をしかめてみせた。
| 蛇 《シュランゲ》は、ヘルフォートの尼の子として生まれた。当然、母とともに修道院を追われた。つまり彼は生まれたとき居場所がなかっただけではなく、母の居場所まで奪った。
ヒルデスハイムの街に出て娼婦《しょうふ》になった母は、| 蛇 《シュランゲ》が十の時に病で死んだ。しかしそのときまでに彼は窃盗の技を身につけていた。常人の入りえない狭い窓から忍び込むのが得意技で、だから| 蛇 《シュランゲ》と呼ばれるようになった。もちろん性格のせいもあった。
長じて二度ほど逮捕され、両耳を削がれた。そのため容貌まで| 蛇 《シュランゲ》そっくりになった。
名と顔が知れ渡り、町にいられなくなった彼は、森へ入った。森は深く、快適だった。彼を排斥する住人がいなかった。彼は心の安らぎを得、若いころの憎悪と鬱屈《うっくつ》を忘れかけていたが、里の娘に遅い恋をしたために、再び苦難に陥った。娘との仲を引き裂かれたのではない。娘は駆け落ちしてくれたが、森の厳しい暮らしに耐えられなかったのである。罪人に連れ添う女を、街は受け入れてくれなかったし、生まれ育った村でさえそうだった。
あったかい家で眠りたい、と言い残して、吹雪の吹き込む洞穴で娘は死んだ。
| 蛇 《シュランゲ》は里人を憎み始めた。自分の居場所を作って、のうのうと住む人間に、激しい敵意と憧憬《しょうけい》を抱いた。その激情が、都市を追われた同類を逆に惹きつけた。神出鬼没に森から現れ、速やかに街を荒らして森へ去っていく彼に、一人二人と連れができていった。掟は一つ、街に戻らないことだけ。森での暮らしに熟達した彼にとって、もはや領邦の騎士団や都市同盟の自治軍など相手ではなかった。誰も彼を捕まえられなかった。| 蛇 《シュランゲ》は蔑称ではなくなった。恐れ敬われる盗賊の尊称となった。
| 浮 浪 兵 《シュテルツフェヒター》と呼ばれる盗賊団は数あったが、北ドイツでもっとも恐れられているそれが、| 蛇 《シュランゲ》の一党だった。
その| 蛇 《シュランゲ》が、今はエギナ川河口の、入植地のような小さな村を狙《ねら》っていた。
| 蛇 《シュランゲ》は慎重にことを運んだ。いきなり全員で乗り込むようなことをせず、まず斥候を送って様子を見た。血気にはやる仲間や子分どもは、これをやるといつも、貴重な獲物(特に若い女だ!)が逃げてしまうと言って憤慨するが、賢い| 蛇 《シュランゲ》は、うかうかと村に入っていって、待ちかまえていた自警団に矢ぶすまにされた同類の話を子分たちに聞かせて、なだめた。
| 蛇 《シュランゲ》だけは知っていた。子分たちは威勢こそよいが、実のところ小悪党ばかりである。逃亡農奴や町の泥棒、無頼漢、追い剥《は》ぎ、詐欺師、騙《かた》り坊主などといった連中だ。本物の騎士団とぶつかれば一瞬で蹴散らされてしまうだろう。| 蛇 《シュランゲ》自身、身のこなしこそ巧みだが、武技など持たないただの盗人上がりだ。
だから、本当は、村人たちを怒らせてはいけないのだ。土地に対する農民の執着は凄《すさ》まじい。彼らが本気になったら自分たちは血祭りにされてしまう。
自分たちが勝とうと思ったら、実力を隠し、はったりで敵を脅すしかないのだ。そうすれば、森に畏怖を抱いている農民たちが、こちらの実力を過大評価して、勝手に逃げ出してくれる。
| 蛇 《シュランゲ》が持って回った手を使う本当の理由が、それだった。
夕方まで子分たちを休ませると、日暮れよりも少し早く、| 蛇 《シュランゲ》は再び斥候を出した。暗くなると村の様子がわからず、待ち伏せされる恐れがあるからだ。しかし、戻ってきた斥候は、村はもぬけの殻だと浮き立った様子で報告した。人影はなく、どの家も戸口が開け放ってあり、大急ぎで逃げ出したのがわかる。いかだで中洲へ逃げていく年寄りどもを目撃した。
村は空だと聞いて、子分たちの幾人かが残念そうな声をあげた。無力な農民をいたぶって、娘の一人でも捕まえたいと思っていた者たちだ。
籍があり、家のある者たちに、何の情けをかける必要があろうか。自分たちにはなんの庇護《ひご》も無い。生きているだけで唾《つば》を吐かれ、死なば道端に打ち捨てられる存在だ。
そんな自分たちだからこそ、機会と見れば、里人のものを奪うことが許されているのだ。これは権利なのだ――。そういった考えに、| 蛇 《シュランゲ》の子分たちは染まっていた。
意気の上がった子分たちを連れて、| 蛇 《シュランゲ》は村へ向かった。
月のない夜で、村は闇に沈んでいた。| 蛇 《シュランゲ》は注意深く畑を横切り、村の真ん中の広場の入り口までやってきたが、そこで馬を止めた。何かが彼の第六感を刺激していた。
馬がぴくぴくと耳を動かし、せわしなく首を振る。近くに誰かいるのだ。
| 蛇 《シュランゲ》は振り向いて、後ろの子分に怒鳴った。
「おい、そこの家に火をつけろ。そうだ、それ一軒まるごと燃やしちまえ。松明にするんだ!」
広場の入り口にある民家に火が付けられた。燃えやすい藁葺き屋根の端に赤いものが宿ると、すぐに激しい炎が燃え上がり、あかあかと広場を照らし出した。
広場を囲む家々の物陰に、予期したとおりのものが見えた。手に手に棍棒《こんぼう》や石斧などの、みじめな武器を持って待ちかまえている、村の男どもだ。
「待ち伏せだ! 野郎ども、片付けろ! 兄弟ども、火の悪魔に食わせちまえ!」
叫びながら| 蛇 《シュランゲ》が馬を駆って走り出したので、子分たちも皆、馬のある者もない者も喚声《かんせい》を上げて突っこんだ。
農夫どもの驚きぶりは見ものだった。喚声を聞いただけで物陰から飛び出し、武器を捨てて一目散に逃げ出したのだ。子分たちは嵩《かさ》にかかって、抜き放った剣を振り回しながら追い立てる。| 蛇 《シュランゲ》は今一度叫ばなければならなかった。
「もういい、もういい。戻ってこい、おまえたち!」
奴らが目の届く範囲にいなくなれば、それでいいのだ。| 蛇 《シュランゲ》は子分たちを再び集めると、手早く指示を与えた。
「弓のある奴は屋根に上れ。あそことあそこ、それからあの煙突のある家だ。誰かが近づいたら、すぐに叫べ。夜鷹、収税倉庫を調べてこい。手長、適当な家畜をさらってきて肉にしろ。海魔、山犬、ついて来い。寝床を探すぞ」
どこへ向かった子分も、上々の報告を携えて戻った。収税倉庫では、大急ぎで穀物を運び出したらしく、いくつもの破れた袋からライ麦がぶちまけられていたが、まだ奥に十分な袋が残っていた。森の木立の中から豚の鳴き声がしたので行ってみると、木のうろに押し込んで隠したつもりらしい豚が、猿轡《さるぐつわ》が外れて泣き叫んでいた。
村役人か村長の家らしい、大きな家に入った| 蛇 《シュランゲ》は、ちょうど裏口から出て行こうとする村人を見た。そいつは藁色の髪を短く刈り上げた若い男で、シーツで包んだ荷物を背負っており、振り向いた途端、ゴトンと木彫りの箱を落とした。
「ちっ」
| 蛇 《シュランゲ》は短剣を片手に飛び掛かったが、男は間一髪避け、すばやく箱を拾って裏口から飛び出した。後を追って走りながら、| 蛇 《シュランゲ》は叫んだ。
「弓手、射て、射て! あいつだ、逃がすな!」
屋根にいた二人の弓手が、逃げる人影をすかさず射た。二、三本が地面に突き刺さったが、一本が見事に男の肩を捉《とら》えた。冷静な| 蛇 《シュランゲ》も、思わず叫んだ。
「やった!」
だが、男はしぶとかった。背中の荷物を放り出すと、よろばいながらすぐ先の川へ向かい、小さな水しぶきを上げて姿を消した。
| 蛇 《シュランゲ》に追いついた仲間が、シーツの包みを開けて口笛を吹いた。
「ヒュウ、お宝だ。焼き物の皿に、鍵つきの金庫に、ガラスの杯《さかずき》……おい、こいつは本だぜ。聖書だ! 今の奴を追っかけよう、まだ何か持ってるかもしれん!」
「やめとけ、もう沈んだ」
| 蛇 《シュランゲ》自身も、仲間たちも、泳ぎを習ったことがない。あきらめるしかなかった。
村内をくまなく見回った子分たちが、家の中にも外にもだれも隠れていないと報告した。村の四方は屋根の弓手たちが監視している。これで今夜のところは何の憂いもなく休めるわけだ。| 蛇 《シュランゲ》は命じた。
「よし、酒を飲んでいいぞ。豚は丸焼きにしてしまえ。ただし、ほどほどのところで誰か屋根の奴と代わってやれよ」
宴会が始まった。| 蛇 《シュランゲ》を始めとする、腕っ節の強い十人ほどが村長の家を使い、残りの子分は適当な家に押し入った。皆、ここ数日は野宿をしながら森の動物や木の実を獲って食べていたので、屋根と壁があるだけで満足していた。
それでもなお、| 蛇 《シュランゲ》は頭領としての用心を保っていたが、誰かが鍵つきの金庫を開けた途端、とうとう歓喜に我を忘れた。金庫は重くて振っても音がせず、土でも入れてあるのではないかと危惧していたのだが、開けてみるとグルデン金貨やシュトゥーバー銀貨がぎっしりと詰まっていたのだ。目の色を変えて奪い合いを始めそうになった仲間を、| 蛇 《シュランゲ》は懸命に押さえねばならなかった。
村長の家には、ビール壺やワインの瓶も隠してあった。| 蛇 《シュランゲ》たちはそれを見つけ、大いに飲んで歌い騒いだ。いつしか酔いが回って、一人倒れ、二人が倒れた。
| 蛇 《シュランゲ》も酩酊《めいてい》し、尿意を覚えた。便所へ行こうと、表の扉に手をかけた。
開かなかった。
「ん……?」
力をこめて押し引きしても、びくともしない。苛立って蹴り付けたが、ドンと鈍い手ごたえがあるだけだ。まるで、外から閂《かんぬき》でもかけられたようだった。
ふと、| 蛇 《シュランゲ》は不安を覚えた。そろそろ交替しろ、と弓手に指示した覚えがない。痺《しび》れを切らせた弓手が自分から下りてきそうなものだが、誰も来ない。
寝ている者が飛び起きるような大声で叫んだ。
「おい、いま屋根にいるのは誰だ! 起きているか!?」
返事は、人の声ではなかった。
パチパチと何かがはぜる音とともに、どこからともなく煙が入り込んできた。窓から外を覗いた仲間が、ろれつの回らない舌で叫んだ。
「おい、火だ! あっちもこっちも、村中燃えてるぞ!」
「ここもだ、馬鹿」
| 蛇 《シュランゲ》はその仲間を突き飛ばして、窓から這い出ようとした。部屋の温かみが逃げないよう、ごく小さく作られた窓なので、胴を入れるだけでも一苦労だった。
次の瞬間、仲間たちも、そこが唯一の逃げ口だと気付いた。藁屋根の天井からもうもうと白煙が噴き出している。
殺到した男たちが、凄まじい殴り合いを始めた。
「ひどいものですね」
村長の家に火の手が上がったのを合図に、いったん逃げて中洲へ渡っていた男たちも、村へ戻ってきた。アイエに付き添っていたリュシアンもやってきて、ルドガーたちと合流した。
彼らの前では、村の家という家がすべて、金色の炎をあげて燃え狂っていた。どの家に何人の賊が入ったかわからないので、全部燃やすしかなかったのだ。
「数軒ぐらい残しておくわけにはいかなかったんですか?」
「数軒残したって仕方ないだろう、残りの全員が中洲へ移り住むんだから」
それに家のある者とない者が分かれると、いさかいの元になる、とルドガーは胸の中でつぶやいた。
エルスとヴァルブルク、それに数人の村人たちが戻ってきた。炭を塗ったので、真っ黒な顔をしている。
「全部燃やしましたぜ」
「よし、ご苦労。降りるときに怪我はしなかったか」
「大丈夫でさあ。おれたちはそんなトンマをやらかしたりしません」
「それでも、運がよかったのだろうな……」
ルドガーは頭上を見上げる。舞い狂う火の粉の昇る先に、白樺の木々がそびえている。
エルスたちは屋根より高い白樺の梢《こずえ》に潜んでいたのだ。落ちればもちろん、命はない。
他のすべては囮《おとり》だった。慌てふためきながら川を渡ってみせた年寄りも、広場の周りに隠れていた刺客も、村長の家の裏口から逃げ出したルドガーも。こちらが策を用意し、失敗したように見せかけるためのごまかしだった。
| 浮 浪 兵 《シュテルツフェヒター》たちはまんまとごまかしに引っかかり、わずかな見張りを残しただけで屋内に引きこもった。それこそ、こちらが待っていた好機だった。どんな見張りでも、上方への注意はおろそかになるものだ。ましてや、自分が屋根の上にいるのではなおさらだ。
エルスやヴァルブルクたちは、白樺の梢から音もなく屋根に降り立ち、油断していた弓手をくびり殺した。同時に他の者が地面に降り立ち、走り回って家々に閂をかけた。
そして火をかけた。
膨大な藁と木が燃える音に、か細い悲鳴が混じっている。自業自得とはいえ、ぞっとする響きだ。ルドガーは自然に指を組み合わせて祈っていた。彼らに死後の安息があるように。我らの罪が許されるように。
エルスが周りの目を気にしながらそばへ来て、ささやいた。
「坊ちゃん、肩は大丈夫なんですかい。かなり深い傷に見えやしたが」
「ああ、服の下に板を入れておいたからな」
ルドガーは答えたが、エルスは納得した顔ではなかった。頭を振って魔除《まよ》けの言葉をつぶやき、離れていった。
本当はルドガーの矢傷は相当深かった。そもそも板など入れていなかったのだから当たり前だ。隠れる前にそこまで予期することはできなかった。
敵の親玉に不自然でない形で戦利品を与え、油断させるために、あえてルドガーは村長の家で待っていたのだ。単純に金貨だけ残しておくのは、いかにも不自然で疑われる。だから金貨を持って逃げてみせた。
多少の怪我は覚悟の上だったが、念のため川のすぐ下手で彼女を待たせていた。そのおかげで、傷を治してもらうことができた。
頭などに直撃を食らわなかったのは僥倖《ぎょうこう》だった。――それとも、彼女は死者さえ生き返らせることができるのだろうか?
「レーズ」
炎に囲まれた広場の真ん中に、男装の女が一人、ぽつりと立っている。
依然として裸足《はだし》のままで。
ルドガーは彼女に歩み寄り、声をかけた。
「何を見てる?」
「人の火を。人間が燃える炎は、他と違うわね」
「そうなのか」
レーズが燃える家を指差した。ルドガーはそちらを見たが、わからなかった。
「どこだ」
「あれだ。あの、赤よりもっと赤い火……ああ、もう崩れた」
彼女の横顔はいやに寂しそうだった。泣いているのか、とルドガーは聞きかけた。
ドサッ、と背後で音がした。
振り返ると、村長の家の窓下に、炎で作られた人型のようなものが落ちていた。それがよろよろと立ち上がった。
人型ではなく、焼けつつある人間だった。そいつがカッと目を見開き、焦げた肺から不明瞭《ふめいりょう》な叫びを吐いた。
「よくも、よくも――!」
| 蛇 《シュランゲ》は――その通り名を、村人たちはついに知ることなく葬るのだが――彼に相応しい執念深さを見せた。短剣をかまえ、一番近くにいた二人に向かって走った。
小柄なほうは、男装の女だ。そうと気付いた途端、道連れの相手に決めた。
「地獄へ落ちろ!」
絶叫しながら、突きかかった。
その前に、男が立ち塞《ふさ》がった。委細かまわず、| 蛇 《シュランゲ》は体当たりした。短剣が何かに食い込み、いまこの瞬間自分を焼き果たしつつある炎が、相手に燃え移った。
「控えろ、この下郎め!」
ルドガーは自分の胸板で、賊の突進を食い止めていた。村人の演技をするために剣を解き、鎧も籠手《こて》も身に着けていなかったので、そうするしかなかった。脇腹に熱い痛みが食い込み、脈動を始めていた。衣服の上げる煙と炎で喉が痛んだ。
揉《も》み合いは一瞬だった。| 蛇 《シュランゲ》の突進は文字通り、火事場の馬鹿力だったのだ。彼は消し炭が崩れるように倒れた。ルドガーもその隣に膝を突いた。
「ルドガー!」
叫んで駆け寄ったレーズが、足を止める。ルドガーも気づいた。
盗賊の男が片手を伸ばし、何かをささやいていた。
「むらの……か」
「そうだ」
うなずくと、男は勢いよく伸ばした手でルドガーの足首をつかみ、はっきりと言った。
「おれを、むらに埋めろ」
そして息絶えた。
レーズがそばにしゃがみルドガーの腹に手を回した。先ほどに続いて三たび、あの泉で感じたような熱が傷口を浸す。その温かみを受けながら、ルドガーは男の死体を見つめていた。
「なんだ、こいつは。今のは呪《のろ》いか」
「さあ……里者になりたかったのかもしれない」
ほんの一瞬だけ、ルドガーの脳裏にある光景が浮かんだ。――森の中の石畳を、男が歩いている。道は前にも後にも続いているが、どちらにも町は見えない。小屋一軒すらも……。
「うまくいったな!」
夢想は歓声に吹き飛ばされた。振り返ると、村長の息子のナッケルを中心にして、村人たちが集まっているところだった。どの顔も安堵に輝いている。ルドガーもすぐに、彼らと共感した。そうだ、アイエのような哀れな娘を、再び出さずに済んだのだ。寿《ことほ》ぐべきことだ。
だがルドガーの心の片隅には、たったいま垣間見《かいまみ》た幻視がしっかりと刻みこまれていた。
「レーズ」
「ん?」
「連中の墓を作ってもいいか。死んでまで憎むことはないと思う」
泉の精はそのとき、驚いたようだった。
「それは私が言おうと思ったわ。――任せる」
女は微笑んだ。
それもまた彼女の本性なのだと、ルドガーにはわかった。
火勢が衰え、代わって東の空が白み始めた。焼け跡から燃え残りの家財を引き出した人々が、流れを渡る。中洲の高台では、すでに区割りと伐採が始まっている。
治らぬはずの傷を三度も治されて、ルドガーは疲労の極に達していた。弟に支えられて中洲に渡ると、グリン村長が出迎えた。ひとしきり、無事に危難を乗り越えたことを祝いあうと、彼が言った。
「ところで、新しい村に名をつけようと思うのですが、何かお考えはおありでしょうか」
ルドガーが単身、囮を引き受けたことで、グリンは敬意を抱いてくれたようだった。孫のような年のルドガーに対して、彼はうやうやしく尋ねた。
「モール庄のままではいけないか」
「ここでは泥炭《モール》は取れません。あのように燃えてしまった村の名を継ぐのも不吉です。できれば別の名前にするべきです」
「おれには何の考えもありません。あなた方に任せてもいい」
「でしたら、レーズスフェントと名づけます」
「レーズスフェント?」
「我らの故地の言葉で、泉の主の地を表します。名をお借りしても?」
グリンの目の先に、レーズがいた。彼女は他人事のように顔を背けて言った。
「好きにすれば」
「おれも特に異議はないな」
「では、この名に」
グリンは村人たちのところへ戻った。彼はいくらか若返ったようにさえ見えた。
日が昇り、暖かい南風が吹き始めた。
春の一日、レーズスフェントは開闢《かいびゃく》した。
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第二章 レーズスフェントの承認
森の中の小道を、粗末な丸太作りの門が塞《ふさ》いでいる。
東フリースラントを治めるキルクセナ伯爵家の家臣、騎士ハインシウス・スミッツェンは、土砂降りの雨の中で震えながら愚痴を漏らしていた。
「いつまで待たせるのだ、田舎役人めが……」
騎乗したままたたずむ彼の真横に、二人乗りの箱型馬車が近づいた。窓の垂れ幕の陰から、心配げな女の声が流れ出す。
「ハインシウス、どうかこれを」
垂れ幕を上げて細腕が差し出したのは、鯨のひげに絹を張った傘である。騎士が振り向いて、快活に笑った。
「心配無用だ、ルム! この程度の雨、どうということもない」
「そう言われても……」
「騎士が傘など差したら末代まで笑われてしまうよ」
細腕の主はしばらくためらっていたが、あきらめたのか傘を引っこめた。
ハインシウスにしてみれば、今さら傘など渡されても仕方がないという気分だった。雨はフェルトの帽子と革のマントに染み通り、彼の自慢の長い黒髪をぐっしょりと濡《ぬ》らして、ブーツの先にまで溜《た》まっている。
ただそれでも、ルムと呼んだ貴婦人の気持ちだけは、率直にありがたく感じていた。彼女は主君の娘であるが、遠縁ながら自分と血筋がつながっており、また、幼いころから成長を見てきた、娘のような、妹のような存在である。その彼女が、雨ざらしの臣下を気遣うような、優しい娘に育ったのは、嬉《うれ》しく思っていた。
番小屋から外套《がいとう》をまとった関守が現れ、先ほどハインシウスが渡した蝋引《ろうび》きの封筒を突き返した。
「いけませんな、騎士殿。この通関券ではお通しできません」
「なんだと? ちゃんと見たのか、ミュンスターの司教殿の御署名入りだぞ」
「お名前が違うようですな」
「前司教が先月|身罷《みまか》られたので、交替なさったのだ」
「聞いておりません」
「こちらはキルクセナ家の身分あるご婦人だぞ。それでも通さぬというのか!」
ハインシウスは、馬車の軒の旗竿《はたざお》から垂れている紋章を指し示す。馬車自体は地味で質実な作りだが、掲げた旗は、黒地に金のハルピュイを据えて星をあしらった、高雅なものだ。しかし関守は目を伏せたまま口元に薄笑いを浮かべる。
「どなたであれ、通関券が無効ではね。領主さまの定められた法に従い、一グルデン支払っていただかなくては」
「貴様……」
ハインシウスは関守をにらむ。司教の交替を聞いていないというのは真っ赤な嘘《うそ》だろう。それを言い訳に通行税を着服しようとしているに違いない。だが不正を暴く方法はない。
ハインシウスは金貨を地に落とした。関守がかがんで拾いながら言った。
「あいすみませんな。帰りに領主さまの免税査証をお持ちになれば、返却いたしますよ」
「盗人め、悪魔に食われろ」
関守はまるで気にした様子もなく門扉を開ける。貴族から金を巻き上げることができて、腹の底でほくそ笑んでいるのだろう。ハインシウスは可能な限り泥を跳ね上げて、彼の横を駆け抜けた。
ゆるゆると走る彼の横に、また馬車を追いつかせて、貴婦人が言う。
「ごめんなさい、ハインシウス。私のために」
「いいや、ルム。悪いのはこの土地の連中だ。まったく、たった半日の道のりに三つも関所を構えるとは! こんなところは初めてだ」
「レールの町を出た日は、二つだったものね」
「……五十歩百歩か」
一騎と一台が進むうち、さしも激しかった七月の嵐《あらし》も収まり、雲の間から日が照ってきた。ハインシウスは帽子を取って勢いよく水気を振り落とす。洒落者《しゃれもの》めいた長髪にはややそぐわない、実直そうな顔立ちの、三十代なかばと見える男だ。剣を帯び、胸甲と手甲、肩当てと膝《ひざ》当てをつけている。全身|鎧《よろい》の姿でないのが、旅慣れた感じである。
ハインシウスが帽子をかぶり直すと同時に、森の木々が途切れた。
一行は農村に入った。一面の低平な畑地で、ぽつりぽつりと民家が散在している。あちこちの木の下から、雨宿りをしていた農民の男女が出てきた。彼らは通りすがる貴人の一行を、暗いうつろな目で見つめた。濡れた麦を刈り取るべきか、乾くのを待つかで口論している者もいる。収穫の最中だというのにちっとも嬉しそうではない。
ハインシウスは、なるべく彼らと目を合わせないようにした。
行く手に防備|柵《さく》に囲まれたやや繁華な村落があり、その近くの川端に城が建っていた。周りを囲む濠《ほり》が光ってみえる。ハインシウスは背後に声をかけた。
「ルム、見えたぞ。カンディンゲン城だ」
呼ばれた貴婦人が、窓から顔を出した。乳のように白い肌の娘だ。既婚者がするようにリンネル布で髪を覆わず、柔らかく波打つ黒い髪を自然に流している。ついこの間まで少女だったような、丸みのある顔立ちをしている。貴婦人と呼ぶにはやや若すぎるほどだ。
娘は手をかざして、優しげな緑の瞳《ひとみ》で前方を眺めた。
「まあ、可愛《かわい》い」
可愛いとはどういう意味だ、とハインシウスは顔をしかめる。雲間から差す日光を浴びて、切石そのままの灰色をした、四角い城壁がそびえている。外観上の特徴といえば矢狭間《やはざま》のうがたれた側塔ぐらいで、聖堂や諸侯の宮殿のような華麗さはどこにもない。無愛想で、殺伐とした建物だ。ただ中央塔《ベルクフリート》の頂上にのみ、城主の在城を示す長い旌旗《せいき》が荒々しくはためいている。
戦のことだけを考えて作られた、騎士の城だ。
「ね、ハインシウス。小さくておもちゃのようね」
そういう意味か、とハインシウスは一人納得した。
やがて一行は城にたどり着いた。跳ね橋には人と荷車の行列ができていた。収穫した野菜を納めに来た人やら、裁判を求める訴人やら、あれこれの許可を受けに来た人々である。ハインシウスはそれをしばらく眺めていたが、門衛がいちいち氏素性を確かめて帳面につけるので、列は遅々として進まなかった。
「一日仕事だな……」
列の中に目つきの悪い者がいないのを見て取ると、ハインシウスは馬車を待たせて、庶民を蹴《け》り殺さないよう声をかけつつ、跳ね橋を渡った。
「キルクセナ家の家臣、スミッツェンだ。レール城より、主家のご一族を護衛して参った。城主殿にお取次ぎ願いたい」
そう告げると、門衛が驚いて詰め所へ引っこみ、すぐに上司らしき人物を連れてきた。羽帽子をかぶった、肌色の青白い若い男だ。その出《い》で立《た》ちで、ハインシウスには男の素性がすぐにわかった。騎士の城では、戦のときに買収されないよう、信頼できる人間を門のところに置くものだ。
ハインシウスを見ると、男は人なつこそうな微笑を浮かべた。
「フェキンハウゼン男爵家の次男、コンラルドです」
思ったとおり、城主の家族だった。コンラルドは礼儀正しく言う。
「伯爵家のご一族とお聞きしましたが」
「東フリースラント伯爵ルプレヒト・キルクセナさまのご息女、エルメントルーデさまです。私は姫にお仕えするハインシウス・スミッツェン」
「スミッツェンどの……おお、わが愚弟ルドガーのお師匠どのですか」
コンラルドが顔を輝かせた。見ただけでこちらも楽しくなるような明るい笑顔だ。しかしその笑みには、どこかわざとらしいものがあるようだった。
「歓迎いたします、お入りください。騎士どのも、こんなに濡れて。すぐにお着替えを用意させます。おまえたち。道を開けろ!」
コンラルドが警杖《けいじょう》を振り回して行列の人々を追い払う。ハインシウスは外で待っていた御者に合図し、馬車を城内へ導いた。
城主ヴォルフラム・フォン・フェキンハウゼンは裁判中だったが、主君の娘が訪れたと聞くと、仕事を明日に回して現れた。
「遠路はるばる、よくぞお越し下さいました。むさ苦しい田舎の小城ではございますが、精々おもてなしさせていただきますので、なんなりとお申し付けくださいませ」
ヴォルフラムは五十を越えたばかりの、堂々たる体躯《たいく》の男で、金の小さな星を象《かたど》った額冠を絹布で頭に巻き、ヴィスビー産とおぼしき毛皮のマントを羽織っていた。彫りの深い顔立ちで、奔放《ほんぽう》な金の巻き毛を肩に垂らしている。接客の間でエルメントルーデ姫の前にやってくると、さっと膝を突いて一礼し、顔を上げて悠然と微笑《ほほえ》んだ。騎士として非の打ち所のない所作である。
二代前のクリストフのとき、この一族は東フリースラント伯爵のもとで従軍し、戦功を立ててフェキンハウゼンの地に封ぜられた。そのときに家名をフェキンハウゼンに変えて、今日まで続いている。果敢で忠実な武辺者だというのが近隣での評判である。
ハインシウスも、彼の自信にあふれた物腰をひと目見たときには、魅力的な人物だと感じた。ヴォルフラムとエルメントルーデの間での、貴人同士の付き合いには欠かせない、親族や宮廷や神にまつわる長々とした挨拶《あいさつ》が終わるまで、その感じは続いた。
二人の主君であり父である伯爵ルプレヒトの健康を寿《ことほ》ぎあうと、ようやく話は社交辞令から実務のことに移った。
「ところで、姫。今日は一体いかなる御用で、このようなつまらない土地へ?」
「ブレーメンの大聖堂へお参りに出かける途中ですの」
エルメントルーデが答える。若い娘の澄んだ声に笑みを浮かべながらも、ヴォルフラムは、首をかしげた。
「ブレーメンへ向かうのにこちらへお立ち寄りになるとは、少々回り道のようですが」
「ええ、寄り道ですわ。私、北海《ノルト・ゼー》を見たいと思ったんです。この季節の浜辺はたくさんのお花が咲いて、とても美しいと聞いたものですから」
「ほほう……」
「明日はここから、川沿いに北のほうへ参ります」
「それはちょっと……お勧めしかねますな」
ヴォルフラムが初めて言葉を濁した。エルメントルーデは無邪気に尋ねる。
「あら、何かありましたの?」
「何ということもありませんが……じめじめして風土の悪い土地なのですよ。交通も不便ですし」
「そういえば、そちらにはご子息がいらっしゃるのではなかったかしら」
エルメントルーデが微笑むと、ヴォルフラムとコンラルドは反対に顔をこわばらせた。
「ルドガーさまは、ご壮健でいらっしゃいますの?」
「でしょうね」
コンラルドがそっけなく答える。エルメントルーデが問いかける。
「詳しいことをご存じではありませんの?」
「健康を害したようなことは聞いていませんね」
「これは城に出入りの者から聞いた噂《うわさ》で、はっきりした話ではないのですけれども――もし間違っていたら失礼あそばせね――エギナ河口の小さな村が、流賊に襲われて燃え尽きてしまった、というのは本当なのでしょうか?」
ヴォルフラムがコンラルドと目を合わせ、痛ましげに言った。
「残念ながら本当です。モール庄では家屋のほとんどが焼けてしまったということです。私どもも今年の年貢を免除せざるを得なくなりました」
「まあ……神よ、なんて不幸なことでしょう。その祝福されざる狼《おおかみ》たちが、きっと縄打たれますように! あら、でもルドガーさまはご息災なのでは?」
「あいつは無事だったのですよ。それに、どういうわけか領民たちも、全員」
整った顔を苦々しげに歪《ゆが》めて、コンラルドが言った。エルメントルーデはほっと胸を撫《な》で下ろした。
「それは不幸中の幸いですわ。本当によかった」
ため息につれて、可憐《かれん》な胸が上下する。それを見たコンラルドが身を乗り出した。
「姫、そこまでご存じなら、あえてあの地へいらっしゃることもないでしょう。あそこは危険です、野蛮です。どうかその代わりに、このコンラルドに案内をお任せください。エギナ川の美しい早瀬へお連れします。それとも、鹿狩《しかが》りはいかがですか?」
その隣で、ヴォルフラムもうなずいた。
「そう、鹿狩りにはいい季節です。この上流に、我々の狩場がございます。このコンラルドは騎士の叙任こそ受けておりませんが、ご婦人のご案内にはとても手慣れております。きっとお楽しみいただけますよ」
「とても結構なお話ですわ、ぜひご一緒させていただきたいですわ」
笑顔でそう言ってから、でも、とエルメントルーデは目を伏せた。
「本当に残念ですけれども、またの機会にお願いできませんかしら。というのは、不幸な目に遭われたモール庄とかの人々を、ぜひお見舞いして、少しなりとお力付けしていこうと思うのです」
「しかし姫……」
「お誘いありがとうございます。次に立ち寄る機会があれば、きっときっと、鹿狩りをご一緒させてくださいましね」
エルメントルーデが恭しく頭を下げるのを見て、ハインシウスは丁重に、部屋で休ませていただきたいと申し出た。
「残念ね、ハインシウス」
寝室のついたての向こうで、エルメントルーデがため息をつく。彼女は城から帯同した侍女に髪を梳《す》かせている。護衛役のハインシウスは、背中で彼女の声を聞きながら答える。
「ああ、ルドガーはやはり一族に好かれていないようだな」
「鹿狩り、見たかったわ」
「そっちか」
ルドガーはハインシウスが八年もの間、手塩にかけて育てた弟子である。エルメントルーデと彼がひそかに会っていると知った時も、彼ならばこの遠縁の娘を任せられると思った。そんな彼が、実家へ戻った途端に僻地《へきち》の荘園《しょうえん》へ放逐されてしまい、しかもその荘園が襲われたと聞いたときには、実の弟のことのように心配したものだった。
だがハインシウスたちは、実はヴォルフラムに告げた以上のことを聞き及んでいたのだ。
それは燃えたはずのモール庄が再建され、名前も新たに街道筋の宿場としてやり直しているという知らせである。
巡礼者からそれを聞いたハインシウスは驚いたが、もっと驚いたのは、この報をエルメントルーデが聞くや否や、自らその地へ行きたいと言い出したことだった。普通なら、未婚の貴族の娘が、何十マイルも離れた地へ遊山に行くなどありえない。だが彼女は父親に泣き付いて、ブレーメンへの巡礼の途中で少しだけという条件をつけることで、どうにか承諾させてしまった。
そういうわけだから、一行の本当の目的地は、ブレーメンなどではなくルドガーがいるというその町、レーズスフェントである。
「そんなに鹿狩りが見たかったなら、帰りに頼めばいいじゃないか、ルム」
「あら、あなたは帰りもこの城に立ち寄るつもりなの。そうね、通行税を取り返さなきゃね」
「知らぬ存ぜぬで済まされるだけだろうよ」
「私はあまり寄りたくないわ」
「そうは言っても寄らないわけには行くまい――レーズスフェントの噂がもし嘘だったなら」
「本当に決まっているわ」
彼女は露ほども疑っていないらしい。何もなかった海辺の荒地に、忽然《こつぜん》と街道が拓《ひら》けたという話を。ハインシウスはそこが不安だ。
「まあ、おまえはルドガーさえいればどこでもいいんだろうが……」
つぶやいたとき、ついたての向こうでガタンと音がした。上から言葉が降ってくる。
「ハインシウス、言っておくけれど」
振り向くと、ついたての上から少女が顔を出していた。ろうそくの光の加減かもしれないが、頬《ほお》が赤い。
「ルドガーさまに変なことを言ったら、許さないわ」
「変なことって、どんなことだ」
「どんなことでもよ。私の普段のこととか……」
「それは変なことなのか?」
「知らないわ、もう寝ます。おやすみなさい」
必要以上に強い語気で言って、エルメントルーデはついたての向こうに消えた。ハインシウスは続きの控えの間まで礼儀正しく下がり、その後で小さく笑った。
騎士城の部屋は洞窟《どうくつ》のようにじめついて蒸し暑く、シーツはかび臭かったが、今夜に限ってエルメントルーデは気にならなかった。せいぜい明日までの辛抱なのだ。
侍女に手入れさせた、長い黒髪をひと房つまんで、軽く引っ張ってみた。頭皮が軽く引きつれる。
「ルドガーさま……」
エルメントルーデは、目を閉じて何度もそれを試した。
薄桃色の可憐なハイデの花が咲き乱れる川岸に、石畳の道を歩いて、一団の人々がやってきた。くたびれたつば広の帽子と長外套、ほこりまみれのサンダルと杖《つえ》から、聖地巡りの巡礼の一行だと知れる。先頭の、鉄の武骨な杖を持った男が、陽気に呼ばわった。
「おうい、そこな衆。渡し舟は出るかね」
声をかけられたのは工事人足たちだ。白樺《しらかば》の丸太を組み合わせ、縛りつけ、橋を作っている。作りかけの橋より少し上流に、いかだが舫《もや》ってある。
もろ肌脱ぎの、日焼けした人足が言った。
「一時間ほど待ってもらえるか!」
「一時間やて? そない待てるかい、勝手に渡《わと》てしもてええか?」
「どうしてもっていうならいかだで渡ってもらってもいいが……」
お国|訛《なま》りむき出しで叫ぶ修道士に、額の汗を拭《ふ》きながら人足が叫んだ。
「あと二本、橋桁《はしげた》を入れれば、歩いて渡ってもらえるんだ」
「なに、橋を渡れる? そら願ってもないな」
鉄の杖を持った男は驚き、背後の巡礼者たちを振り返った。聞くまでもなく全員がうなずいた。喜んで手を叩《たた》く者までいる。巡礼に出る農民や町人は、漁師などと違ってほとんど泳げないのだ。万が一いかだが転覆でもしたらそれっきりである。
一行はハイデの茂みの陰に座り込み、男たちの生き生きとした仕事ぶりを見つめた。
やがて人足たちが最後の丸太を横たえて、固定した。巡礼は歓声をあげて立ち上がる。工事を終えた人足が橋のたもとに座り込む中、先ほど叫びに答えた若い人足が手招きした。
「さあどうぞ、渡って、渡って」
「おいくらになるかね」
鉄の杖の男が、擦り切れた羊毛のマントの懐から巾着《きんちゃく》を出した。すると、人足が首を横に振った。
「いや、橋代はけっこう。このまま通ってくれ」
「なんやて、無料や言うのか」
鉄の杖の男は眉《まゆ》をひそめた。別の人足が言った。
「敬虔《けいけん》にして清らかな巡礼の方々から、お金をいただくわけには参りません。あなた方がなんの咎《とが》めもなく街道を来られたように、この橋もお渡りください」
「おお、それはなんと徳高き行いや。天なるお方があんたらの頭《こうべ》に幸福を垂れたもうよう、お祈りさせてもらうわ」
男は頭巾を後ろへ払うと、剃髪《ていはつ》した頭を日に輝かせながら、人足たちに十字を切ってみせた。赤ら顔で固太りの中年男だ。どうやらこの一行を率いる案内の修道士らしい。
格式ばった仕草で祝福を終えると、修道士はわけ知り顔を寄せて小声で言った。
「で、ほんまの理由は何や。腹黒いたくらみでもあるんと違うのか」
「別に何もないよ」
若い人足が苦笑しながら言って、空を見上げた。
「よければうちの村で泊まっていくといい。ドルヌムまでまだ十マイルもあるし、宵から雨になりそうだからな」
「なに、まだそんなにあるか。それじゃあお言葉に甘えよか」
同じように空を見上げて思案する修道士に、人足は何食わぬ顔で聞く。
「時に神父さん、あんた方はこの道のことをどこでお聞きになった」
「どこて、イエファやったかな。旅回りの鋳掛け屋から聞いたわ。関所の少ない、気持ちのええ道ができたて」
人足――ルドガーは、橋を渡る巡礼たちを見送った。
近くの森の中から現れた男物のタイツ姿の女が、馬の尾のように縛り上げた髪を揺らしながらやってきて、隣に並んだ。今までルドガーと一緒に働いていた村人たちは、それを見るとそそくさと目を逸《そ》らす。レーズはほとんどルドガーとしか話さず、いまだに在り得ざる者としての崇敬を受けている。ルドガーにしても恐れなくなったわけではない。
「今のはなかなかいいあしらい方だったわね、騎士」
「世辞はよせ、自分でも不自然だとわかってる。通行料をまけるならともかく、タダにしてしまうなんて、おれが彼の立場でも、何か裏があるんじゃないかと勘ぐるよ」
「確かに。一流のぺてん師だったら、村に入るときはタダにして、出るときにふんだくるわ。これなら絶対取りっぱぐれがない」
「そんな手があるのか。次からそうするか?」
「していいの?」
レーズは横目で薄く笑う。この女にはそういう表情がよく似合う。
「やめておきなさい、ぺてん師の仕事は長続きしない。きみが目指すのはそんなものじゃないはず」
「おまえの目当てもな」
ルドガーはレーズに目をやる。彼はレーズの目的を知っている。だが彼女の正体は知らない。それはいまだに気がかりになっている。
視線に気付いたレーズが顔をあげ、首を横に振った。あの巡礼たちの中に目当ての者はいないという意味だろう。それでもその顔は満足そうだ。彼女がこれまでに出会った旅人の一年分もが、このひと月の間に通った。
レーズは目を細めて巡礼たちを眺める。
「さっきのお坊さんの言葉、聞いたわ。もうエーゼンスの先のイエファまで噂が届いてるそうじゃない。あの鋳掛け屋が通ったとき、もてなしておいてよかったでしょう」
それを言われるとルドガーは舌を巻くしかない。鋳掛け屋は鍋釜《なべかま》の手直しこそいい腕だったが、宿の食事をさんざんに値切ろうとした挙句、賄いのアイエに手を出そうとして頬を張られたという、罰当たりな男だった。レーズの口添えがあったから上客並みに見送ってやったが、そうでなければ罰金を取っていた。
ルドガーとしては、皮肉を言うのが精一杯だった。
「ま、おまえは横から口を挟んでいるだけだからな。なんとでも言えるだろう」
「じゃあ黙っていようかな。この続き」
レーズは橋の上を歩き出し、数歩行ってから振り向いて、足元をトントンと蹴《け》った。
ルドガーは両手を挙げた。
「すまん、何もかもおまえのおかげだ。ほしいものがあったら言ってくれ」
レーズは、にっと笑って答える。
「もっと、人を」
もうすぐ夕食の時間だった。工事を終えた村人たちが中洲《なかす》へ戻り始める。その後について、ルドガーは脱いでいた衣服を身に着けて、橋を渡り始めた。
橋はまだ、二人が並んで通れるほどの幅しかなく、手すりもついていない。だが、それを渡る村人たちは嬉しそうな顔をしている。彼らは最初、底が泥質で柔らかいこの川に、橋など作れないと思っていた。それができてしまったのだから、喜びもひとしおのようだった。
橋をかけようと言い出したのはルドガーである。彼は他の河口都市を見た経験から、川には橋が絶対に必要なのだと知っていた。せっかく埋もれていた街道を手入れしなおしても、橋がなければ人は来ない。だが村人たちは渋った。彼らはそもそも外敵から逃れるために中洲へ移ったのだし、ルドガーが抱いているこの地の未来に対する夢想も理解できなかったからだ。
そこへ助け舟を出したのがレーズだった。彼女のひとことが、流れを変えた。
「柱なんか立てなくてもいいわよ。川底に土台が残っているんだから」
村人たちがぎょっとした。グリン村長が聞き返した。
「簡単におっしゃいますが、わしらは橋のかけ方を心得ておりません」
「私は知っているわ」
「あなたさまが? なぜ……」
「前に橋を建てているところを見たもの」
「はあ、誰かがこの橋桁を利用して……」
「違うわよ、元になった橋のこと。あれはユリウスが作ったの」
それが一千四百年前に帝国を打ち建てたあの男のことだと気付くと、村人たちはおそれに打たれて頭を下げた。
そうやって、橋は作られた。
だが、まだ完成したわけではない。ルドガーはこの橋を、荷馬車が通れる幅にまで広げたいと思っている。もっと先には堅牢《けんろう》な石橋にまでしたい。そのためにはレーズの助言が不可欠だ。だから彼女には頭が上がらないのだった。
「兄様ー」
見上げると、木の上からリュシアンが手を振っていた。中洲で一番高いトウヒの木に板を置いて物見台を作ったのだ。ルドガーは手を振って答えた。
「おーい」
「兄様ー」
弟はまだ手を振っている。彼も橋ができたのが嬉しいのだろうか。レーズがそちらを見たが、軽く笑って目を戻した。
橋を渡りきると簡単な丸太の門がある。門といっても攻められたときに閉じるためのものだから、普段は開けっ放しだ。そこを抜けて、ルドガーたちは中洲に戻った。
島を横切る街道沿いに、まずまず村と呼べる程度の集落ができている。先ほど入っていった巡礼団が、村の中央の広場でグリン村長と交渉しているのが見えた。広場には宿坊の看板を出した大きな(この村にしては、だが)板張りの建物がある。よく見れば巡礼団の他にもう一組、行商人らしい数人連れがいる。反対の方角から来たのだろう。両者が場所取りの交渉をしているらしかった。
実際にはまだまだこの地はまともな村ですらない。だが広場の光景を見たルドガーは、一瞬だけだが、ここがちゃんとした宿場町になったような気がした。
あの炎の夜の翌朝、ルドガーは村長たちに、レーズスフェントを町にするという彼の計画を話した。
彼らは最初、はっきりした反応を示さなかった。眉根を寄せて顔を見合わせるばかりだった。十年もの長いあいだ、世の中と隔絶した貧しい農村にいるあいだに、彼らの想像力はなまってしまったようだった。
町を作るといっても、こんなところに町ができるのか。町を作ろうにも人が来るのか。人が来るといいことがあるのか。中洲を拠点に周囲の林を開墾しなおせばいいではないか。彼らはそう言って反論した。もっとも問題になったのは、そもそも町を作ろうにも、村には余力がないということだった。余力があればあんな貧しいままではいなかった。
領主の代理人であるルドガーは、それに対抗する切り札を持っていた。
「おれに協力してくれるなら、今年の税と貢租、労役はすべて免除する」
モール庄の人々は今まで、借地料として作物の収穫の四割に達する税を賦課《ふか》されたうえ、週に三日は領主のために無報酬で耕作することを強制されていた。つまり十の労働に対して三か四程度の成果しか手元に残らなかった。もっとも彼らはそれをいくらかごまかしていたわけだが、合法的に免除されるとなると、また話が別だった。
ルドガーのひとことには絶大な効き目があった。彼らは疑いながらも、その条件を受け入れた。
それから、再建の日々が始まった。焼け残っていた収税倉庫や家畜小屋などで寝泊りしながら、家を建て、街道を切り拓き、橋作りを進めた。家はもともと粗末なものだったから、一ヵ月もたたないうちに全戸を建て終わったが、街道の手入れは大変だった。一千年も放置されていた石畳は、しばしば深い土に埋もれ、場所によっては道の真ん中から生えた太い古木によって途切れていた。ルドガーたちは草を刈り、切れる木を切って、道としての目印を付けていく程度のことしかできなかった。
それでも、苦労の甲斐《かい》はあった。
工事を進めて西のドルヌムにたどり着くと、その地の村長から手厚い歓迎を受けたのだ。話を聞くと、彼らは以前、| 蛇 《シュランゲ》の一党に襲撃されたことがあり、それ以来なんとか連中を滅ぼそうと手を焼いていたのだった。
ルドガーたちが連中を倒し、新しい街道を開いているというと、ドルヌムの村長は喜び、自分たちで街道の出口の手入れを引き受けてくれた。
もっとも、東のエーゼンスの人々は| 蛇 《シュランゲ》を知らなかったので、たいして歓迎もしてもらえなかった。
街道の手入れがひとまず終わっても、やることは山積みだった。橋作りやあらたに中洲の防備を固めること、それに畑仕事だ。耕作を免除したとはいっても、畑や家畜を一年間放置しておくわけにはいかない。それなりの世話が必要である。第一、初夏のこの時期は冬麦の収穫期だ。麦を刈り入れなければ冬に飢えてしまう。
仕事の総量としては、年貢のある年よりむしろ増えたかもしれなかった。
こうなると、いかにルドガーが騎士の身分であるといっても、横から指示をしているだけでは気がすまなくなった。なんといっても、男手が二十名に足りない村である。彼が加わるかどうかは大きな問題だった。ルドガーは止めるリュシアンを振り切って、自ら野良仕事に手を貸した。
そうやって、三ヵ月がたち、今のレーズスフェントがある。
「何をぼうっとしているの」
レーズに声をかけられて、ルドガーは我に返った。そこは街道の辻《つじ》で、右へ折れる石畳の小道がある。レーズの泉へと続く道だ。
ルドガーはこの道沿いに居を構えた。わずか二間のその簡素な小屋が、少し行った先にある。窓の明かりが灯《とも》っていないところを見ると、森へ動物を獲《と》りに行ったルドガーの下男たちは、まだ帰っていないらしい。
ルドガーは立ち止まったまま答える。
「ああ、身分について、ちょっと考えごとをな」
「身分」
レーズは泉への道を少し入ったところで、切り株に腰かけてこちらを見た。聞いてやる、ということらしい。
「つまり、おれは家門に恥じない行いをしたいが、一方で、怠け者や卑怯《ひきょう》者ではありたくないということだ」
「ええ」
「おれのような者は、この村でどんな態度を取ったらいいんだろう」
「きみの弟のような態度は取りたくないと?」
「あれはあれで毅然《きぜん》としていて立派だと思うが……おや、降りたのかな」
ルドガーが物見台を見上げると、そこには誰もいなかった。
リュシアンは依然として、村人とは生まれからして違うというような態度を取り続けている。汚れ仕事などやったこともなく、ルドガーに頼まれて書記として働く時のほかは、一人で本を読んだり、物見台で景色を眺めたりしている。
アイエの傷を治した一件がなければ、村中からつまはじきにされているところだ。
「リュシアンはいい、文字を書けるという珍しい能力を持っているし、筆算までできるのはこの村であいつしかいない。村の皆も、顔をあわせればからかったりするようだが、本心では嫌っていないだろう。しかしおれがあんな態度をとったら、間違いなく憎まれる。さりとて男たちに混じって働けば、媚《こび》を売っていると思われかねない」
「あの子はあの子で悩みがあると思うけれどね。騎士、そういうことを考えたのは、きみが初めてじゃない。世の多くの人間が、自分は何者かと悩んできたわ」
「何者かと問われれば騎士なんだろうが」
「そうかしら。騎士とは主君に仕えるもの。今のきみは本当に東フリースラント伯とやらに忠誠を誓っている? でなければ騎士ではないわ」
「そんなことはない、今でも忠実だとも。お呼びがかかればすぐに推参する」
「この村を置いて?」
ルドガーは沈黙する。レーズが笑う。
「ね」
「うむ……」
「駄目押ししましょうか。きみはもう騎士じゃない。少なくとも古い意味での騎士ではない。だから、騎士としての規範に縛られても、意味はないと思う」
「じゃあ、なんだ。今のおれはなんなんだ?」
「さあね。誰もなったことのない何かじゃない?」
「なんだそれは……」
「何かしら。私もきみみたいな人間は初めて見る。ローマ軍の男たちはもっと堂々としていたし、フリーゼン人はもっと老獪《ろうかい》で、デーン人は一本気な馬鹿ばかりだったわ。きみはもっとややこしい。面白いからもっと悩んでいて」
小娘のようにくすくす笑ったレーズが、すっと針先のような光を目に宿して、横手を振り向いた。ルドガーがそちらを見ると、太いマツの木の陰からのっそりと猫背の巨体が現れた。
「坊ちゃん、飯だ」
「なに、飯だって?」
下男のヴァルブルクだった。そんな大きな身体《からだ》なのに、すぐそばに来るまで気配がなかった。ルドガーは明かりの灯っていない自分の小屋に目をやって、言う。
「どこかよそで作っているのか」
「宿坊。今日は鹿が獲れたんで」
「ああ、そうか。すぐ行く」
美味な鹿を獲るのは領主役人の特権である。だが、ルドガーたち四人だけで食べようとしても余ってしまう。腐らせるのも馬鹿らしいので、もし獲れたら村人に分けるよう言ってあった。
ヴァルブルクが去ると、レーズが言った。
「あれも面白いわね」
「ヴァルブルクがか? そうは見えんが」
ルドガーが言うと、レーズは黙って彼の目を見つめ、わかっていない、というように小さく首を振った。
ルドガーは立ち上がって言った。
「おれは食事に行くが、おまえはどうする」
切り株に座っていたレーズも、立ち上がって尻を払った。
「ついて行く。向こうから来た行商たちを見たい」
宿坊に近づくと、中から早くも食事時のにぎやかな話し声が聞こえてきた。旅客だけでなく、村人たちもそこへ入っていく。ルドガーたちも扉をくぐった。
宿坊はルドガーが強く勧めて、他の家屋よりも立派に作らせた。床を板張りにしたのだ。一人一人の寝台があるわけではないが、板張りなら大分暖かく寝られる。そしてルドガーは、将来的には床をきちんとタイルで張りなおし、一人ずつの寝台を置き、さらに間仕切りも入れることを考えている。
食事どきの今は、板張りの真ん中に切られた炉を囲んで、旅客と村人が入り混じって車座になり、火にかけた鍋の汁やら、ルドガーが供した鹿肉やらを取り分け、にぎやかに食べ騒いでいた。
ルドガーとレーズが入っていくと、まず村人たちがすっと笑いを収めてこちらを振り向いた。身分違いの者を見る目だ。それに気付いて、客人たちもいぶかしげにルドガーを見た。
こういうとき、信仰が厚く作法にうるさい父のヴォルフラムは、皆を黙らせたまま悠々と食事にありつくのが常だった。しんと静まり返った食卓が彼の好みなのだ。だが、ルドガーはそういった振る舞いに抵抗があった。片手を上げて言った。
「続けろ、みんな」
潮が満ちるように元の喧騒《けんそう》が戻ってきた。巡礼たちが村人にルドガーの身分を尋ね、荘司《しょうじ》だと聞いて驚いているのが、聞くともなしに耳に入った。レーズは行商人たちのほうへ向かう。
それにしても今日の村人たちのにぎやかさは異様だ。普段はここまでよそ者に対してあけっぴろげではない。ルドガーは周りを見回し、村人の上座にグリン村長を見つけて彼の隣に座った。彼は陽気な騒ぎに加わらず、静かに食べているように見えたからだ。
ルドガーがやってきたのを目ざとく見つけて、彼の分を料理番のエルスが木皿で運んできた。切り口から脂の滴る鹿肉と、ニシンと野菜の煮込みだ。かなりはしょった祈祷をしてから、ルドガーは肉を手に取った。
「にぎやかだな」
「ええまったく、いくらめでたい日だからといっても、騒ぎすぎです」
村長は不機嫌そうに言った。村でもっとも高齢である彼は、まだよそ者を入れることに反対している。
「めでたいというのは、赤ん坊でも生まれたのか」
「何をおっしゃる、ついさっき橋が通じたと聞きました。あなたが架《か》けたのでしょうが」
「ああ……」
ルドガーは頭をかいた。グリンは遺憾だというようにかぶりを振った。
「お望みどおり旅人が来ましたよ。ご満足でしょうな」
「それはもう。風通しがよくなって嬉しい」
「悪いものが入ってこないといいが……」
「おまえたちだって昔は旅人だったんだろう。旅をするのが悪い者ばかりとは限らない。そろそろ考えを変えてもらえんかな」
グリンはむっつりと黙ったまま小魚を食べている。
そこへ、賄いのアイエが通りかかった。美人ではないが快活で愛くるしい娘で、今日は皆に肉を切って渡している。彼女はルドガーに気付くと、そばへやってきて小声で言った。
「ね、騎士さま。見習いさんはまだ来ないの?」
「物見台からは降りたみたいだがな」
見習いさん、とリュシアンのことを呼ぶのは彼女だけである。学者さん、修道士さん、神父さんなどと呼ぶたびに、まだ違うと彼が否定するので、そんな呼び方になったらしい。ぱたぱたとその場で足踏みして言う。
「ああん、早く見てほしいのに」
「何をだい」
「これ! あそこの小間物屋さんから買ったのよ、どう?」
アイエは頭を傾けてくるりと回った。見れば色鮮やかな青いリボンで髪を縛っている。どうやら絹らしい。グリン村長が目を剥《む》く。
「これっ、そんな贅沢《ぜいたく》なものをどうした?」
「どうって、お仕事をしてると心づけがもらえるんだもの」
「なんとはしたない……。少しは恥じらいなさい」
「もう、せっかく買ったのに、村長さんたら!」
アイエは舌を出して行ってしまった。ルドガーは気落ちする村長に声をかけた。
「あの年頃の子なら普通だろう。目くじら立てて怒らなくても」
しばらくすると、村長は長いため息をついてうなずいた。
「そういうものでしたな、町の娘というのは……」
いきなり高らかに歌が始まったので、ルドガーは度肝を抜かれた。巡礼を率いていた、あの鉄の杖を持つ修道士が、立ち上がって賛美歌を始めていた。声は見事なのだが声量が凄《すさ》まじい。その顔は朱の色に染まっている。まわりの人間もあきれ顔だ。
レーズがそばに来たので、ルドガーは言った。
「いたか?」
「いいえ。それより、なんなの、あのお坊さんは。おかしな苦行をやっていたわ」
「なんの話だ」
「神の血と言いながら、妙な黄色の泡水を飲んでいた」
「ビールを知らないのか」
「ワインとは違うの?」
「そんな高いものが手に入るものか」
「高いの。昔のお坊さんはワインばかりだったけれど」
「今はあれだよ。大人も子供も」
ルドガーは苦笑した。
そのとき、宿坊の扉が乱暴に開かれた。皆がいっせいにそちらを向く。戸口には黒いローブ姿の少年が、息を荒げて立っていた。ルドガーに気付くと、足早にやってくる。
「ああ、こちらでしたか。家に戻られたのかと……」
「どうした」
「貴族が来ました。騎士が一騎と、女馬車が一台」
「珍しいな。旗は見えたか」
「黒地に金のハルピュイです」
そう聞いた途端、ルドガーは勢いよく立ち上がった。
素面《しらふ》の者を呼び集めるのに少し時間がかかった。用心したのか、レーズは姿を消した。
村人たちと橋を渡っていくと、対岸にはすでに騎士と馬車が到着していた。
「姫……」
侍女の手を借りて馬車から現れたのは、ルドガーの予想通りの人物だった。
波打つ黒髪の少女。ほっそりしたたおやかな体に、肩からくるぶしまで達する、胸の開いた青いドレスをまとっている。装身具は頭布《ウィンプル》を留めている細い金の鎖だけ。彼女にしては控えめな身なりだ。
だが、このうら寂しい日暮れの川べりにあっては、目が覚めるような麗々しい姿に思われた。
ルドガーの胸に、半年あまり前の思い出が去来する。東フリースラント伯爵の城に勤務していたころ、ふとしたことで親しくなり、他人には隠していた己の夢まで話してしまったのが、この娘だった。貴族の女として育てられ、もう十五にもなっていたのに、なぜか小さな子供のような柔らかい頭のままで、いろいろと面白いことを言って楽しませてくれた。
だが、突飛な行動もここまで来ると驚きだった。わざわざこんなところまで足を運ぶとは。
「エルメントルーデ姫」
城にいたときと同じように、ルドガーは親しげに手を伸ばした。
しかし、少女はその手を取らなかった。馬車を降りたところで立ち止まったまま、無表情に彼を見、それから集まってきた村人たちを見渡す。
一瞬、自分に気付いていないのかと思ったが、そうではなかった。彼女の目は確かにルドガーを捉《とら》えた。その上で、無視したのだ。他の人々にするのと同じように。
かたわらに、黒い長髪の騎士がやってきて、穏やかに肩に触れた。
「ルドガー、エルメントルーデ姫の御前だ。礼を」
「ハインシウス先生……」
一回り年の離れたこの男に、ルドガーは心服していた。内心では混乱していたが、言われるまま膝を突き、頭を垂れた。
エルメントルーデはどうしてしまったのだろう。たとえ機嫌の悪いときでも、知り合いを無視するような冷たい性格ではなかったはずだが。それとも、自分が何か、彼女に嫌われるようなことをしたのか。
ハインシウスが村人に向かって声を張り上げた。
「これなるはおまえたちの主人の主人、高貴なるキルクセナ家の姫君だ。姫はおまえたちと、その主人のフェキンハウゼン家の者をともに愛し給《たま》う。このたびはモール庄を襲った災厄に心を痛められ、見舞いの栄を下し給わんがために、わざわざこの遠隔の地まで御来駕《ごらいが》なされた。皆、礼をとれ」
彼の口上に続いて、エルメントルーデが軽く片手を挙げた。その仕草にしたがって、御者が馬車の後ろに回り、二つの重そうな瓶《かめ》を下ろして、村人たちの前に据えた。御者と貴人の顔を見比べながら、おそるおそる瓶を覗《のぞ》いた村人が、声を上げた。
「銅貨だ」「こっちは塩だ」
「わたくしは感動しました」
澄んだ張りのある声が響いた。
「土地を捨て逃亡する、分をわきまえない恥ずべき者たちの多い世であるのに、おまえたちは力を合わせて、焼けた村を再建していると聞きました。いと高き天なるお方も祝福したまうことでしょう。おまえたち、お励みなさい」
その声には、この少女は泥水を飲んだことなど一度もないのだ、と思わせる確かな清らかさがあった。皆が伏して拝んだ。
ルドガーは驚いていた。これではまるで貴婦人のようだ。いや、ようだというのは失礼な言い方だ。彼女はれっきとした貴族の娘なのだから。しかしルドガーの知る彼女はもっと幼かった。子犬のように他愛《たわい》ない存在だった。
すると彼女がこちらにも目を向けて、にっこりと微笑《ほほえ》んだ。
「騎士ルドガー、久しぶりです」
「ああ……いえ、エルメントルーデ姫。ご無沙汰《ぶさた》しています」
「領民たちをよく治めているようですね。素直で、よく働きそう。さすがは年若くして騎士になられた方。昔から真面目《まじめ》で下々を思う方でしたものね」
「ありがたきお言葉です」
彼女が村人の前でちゃんとこちらの顔を立てたので、ルドガーは驚きを新たにした。あの姫がそんな気を回すようになったとは。
ゆっくりと、新たな感情が湧《わ》き起こった。それは、くすぐったいような喜びの気持ちだった。一人の淑女が生まれるところをこの目で見ることができたのだ。一抹の寂しさはあったが、それよりも喜びが勝った。
姫の目が逸れると、ルドガーはかたわらのハインシウスにささやいた。
「ずいぶん、ご立派になられましたね」
「ん? ああ、姫のことか。まあな」
「見違えました。わずかな間に、すっかり貴婦人になってしまわれて……しかし、女性というのはああいうものなんでしょうね」
「うむ、実にうるわしく振る舞われているな。ところでルドガー、今日はここに泊まるから、ご寝所のしつらえを頼むぞ」
「わかっています」
師の物腰も、以前より堅苦しくなったようだ。姫の手前だろう。ルドガーはうなずき、師に目をやった。
「ご寝所とお食事の用意をさせましょう。お召し物や持ち物で中洲に運ぶものがあれば、出してください。こちらでやります。馬車はまだ渡れません。お望みなら水浴びもできますが、どうなさいますか。ここはいい泉があるんです」
「心得てるな。旅籠《はたご》のあるじのようだ」
「まだ手探りですがね」
「とりあえず、支度はしておいてくれ。時間があれば入られるかもしれない。お迎えできるようになるまで、姫はこちらでお待ちいただく」
ハインシウスはせわしなく言ってから姫に近寄り、手を取って馬車の中へ戻した。ルドガーとエルメントルーデの目がちらりと合ったが、少女はすぐに目を逸らして馬車の中へ消えた。
当初の戸惑いは、大分薄れていた。彼女が淑女の振る舞いに目覚めたなら、親しみが減じたのも仕方がない。あちらは大貴族の娘で、こちらは辺境の畑を耕す田舎領主の三男坊。来てくれただけでもありがたく思わなければいけないのだ。
そうは言っても、以前親しく語り合ったような間柄ではなくなったのだと考えると、やはり寂しくもあった。
ルドガーの家で改めて開かれた晩餐《ばんさん》の席でも、エルメントルーデは大人びた態度を取り続けた。グリン村長やナッケルが、| 浮 浪 兵 《シュテルツフェヒター》の話をすると、落ち着いた驚きと同情を寄せた。
「彼らには、ある種の詭弁家《きべんか》にも似た奇妙な風習があるのです。最初の斥候《せっこう》が村に投げ込んでいった、首と靴≠ニ呼ばれるそれを、わしらは目の当たりにしました」
「まあ、とても興味深いわ。その首と靴≠ニはどんなものなのですか」
「貴い身のご婦人にこのようなことを話すのをお許しください。それは死骸《しがい》なのです」
「おお、死骸ですって」
「さようです。生首と、引きちぎった手足です。わしらが手に取ったときにはまだ温かく、血が流れていました」
「なんて――なんて忌まわしい。その不幸に出会った哀れな男は村の者だったの?」
「いいえ、お嬢様。違います。男ではありません。ウサギだったのです。| 浮 浪 兵 《シュテルツフェヒター》たちは、ウサギの首と足を投げ込むことで、そのように首を差し出すか、さもなければ疲れ果てて足から血が出るまで逃げるかを選べと告げるのです」
「ああ、ウサギ、人間ではないのね。そう、それはよかったわ。よかったと言っていいのでしょう? もしその可哀《かわい》そうなウサギが裂かれるのでなければ、人間が裂かれていたのだろうから」
「お嬢様、その通りでございます。ウサギは哀れですが、| 浮 浪 兵 《シュテルツフェヒター》に裂かれるのでなくても、いつもわしらや、どこにでもいる人間たちに裂かれるよう、定められているのですから」
エルメントルーデが同情心いっぱいにうなずくのを見ていたルドガーは、ふと、末席のリュシアンがスプーンを動かすのも忘れて、呆《ほう》けたように少女に魅入っていることに気付いた。思わず、微笑が漏れた。
食事が終わると、彼女は席を立って奥の部屋に引き払った。陪席の村人たちは、それを見送ってからおのおのの家に帰っていった。侍女と下男たちが後を片付ける中、ハインシウスがルドガーに聞いた。
「私はこの部屋で寝させてもらうが、おまえはどうする」
「弟たちともども宿坊に移らせていただきます」
エルメントルーデの一行は四人連れである。奥の部屋は彼女とその侍女のものになったし、残ったこちらの食堂はハインシウスと馬車の御者が使うのだろう。そうなると、ルドガーたち四人は全員出るしかない。
ハインシウスは少し首をひねってから言った。
「少し話がある。おまえだけでも残れるか」
「先生のお申し付けなら、もちろん」
リュシアンたちが立ち去ると、ルドガーはテーブルのハインシウスの向かいに腰を下ろした。
「先生、お話とはなんでしょうか」
「うん、それがな」
ハインシウスは宙に目を泳がせながら、ちらりと奥の部屋への扉を見た。一段落して落ち着いた今、ルドガーは昔のことを少しずつ思い出していた。そういえばこの師匠がこのように上の空なときは、嘘をついていることが多かった。今もそうなのだろうか。
奥の間から年配の頑固そうな侍女が現れて、ルドガーをじろじろと値踏みするように見てから、ハインシウスに耳打ちした。「うん、そうか」とうなずいた先輩騎士が、いやに平板な口調で言った。
「ルドガー、姫がお呼びだ」
「姫さまが?」
「うむ、お話相手をつかまつれ。わかっているだろうが、まだお輿入《こしい》れ前のお方だ。くれぐれも間違いのないように」
「はあ……では、おそれながら」
ルドガーは答えたが、さっぱり成り行きが飲み込めなかった。話があるなら出てくればいい。いや、晩餐の最中にでも話せばよかっただろうに、今さらなんだというのだ。
「姫、失礼いたします」
ドアを開けて次の間に入った。自分とリュシアンの寝室だが、村中から急いでかき集めた家具と寝具で、精一杯、貴人の寝所らしくしつらえてある。高価な蜜蝋燭《みつろうそく》が一度に四本も点《つ》けてあって、明るい。
エルメントルーデは立っていた。こうして間近で、二人きりで対面してみると、大人になった彼女にも、やはりどこか昔を思わせる幼さがあるような気がした。たとえば、長い髪のひと房を指に絡めて、まさぐる仕草に。
その彼女が口を開き、侍臣に命を下す王妃のような気品をたたえて、話そうとした。
「騎士ルドガー、今宵《こよい》はわたくしのために気持ちのいい華燭《かしょく》の典を開いてくれて、本当に感謝します」
他の人がその小さな言い間違いをしたのだったら聞き流しただろう。だがこの相手は別だった。ルドガーはつい、軽い気持ちで言ってしまった。
「華燭の典、はご婚儀のことですよ」
「えっ」
エルメントルーデが面食らったようにびくりと目を見張った。しまった、とルドガーは内心でつぶやく。指摘できる身分ではなかった。
だが娘は怒ったのではなかった。あわてた様子で言った。
「こ、婚儀ではありません、もちろん。さ、さっきの食事のことを、間違えて言っただけで」
「承知しております。こんな田舎でご結婚など、ね」
「そんなことはないです、司祭さまさえいらっしゃればどこででも」
「……どなたかとご結婚のご予定があるのですか」
「あっ、ありません、そんなの、あるわけないわっ」
「本当に? 姫ほどの可愛らしい方が」
「可愛らしい……」
一体なにがどうしたのか、ひとこと言われるたびに姫の動揺は増していき、しまいには顔を真っ赤にしてうつむいてしまった。泣いているようにも見えて、ルドガーは面食らう。
「姫?」
「……」
「どうなさいました? 何か悲しいことでも」
「……です」
「え?」
「やっぱり、無理です」
貴婦人のはずのエルメントルーデ姫は、年頃の内気な娘らしく顔を手で押さえて、蚊の鳴くような声で言った。
「ルドガーさまの前で偉ぶってみせるなんて、できない……」
突然、隣室から爆発したような笑い声が聞こえてきた。ハインシウスの声だ。今までの謹直で取り澄ました感じの彼とは別人のような、底意のない大笑いだった。
それを聞いたルドガーは、何もかもわかったような気がした。そうだ、この壮快な笑い声こそが、彼のよく知る師匠だった。彼はこうなることをうすうす察して、わざと素知らぬふりをしていたに違いない。
ルドガーは戸口へ行って、大声で怒鳴った。
「先生、お人が悪いですよ! ルムに無理をさせていましたね?」
「すまんすまん。しかし、無理強いはしてないぞ。そうしたいと言ったのは彼女自身だ」
「なんですって?」
「おまえさんを驚かそうとしたのさ。まあ、よく持ったほうだと思うな!」
笑い続ける師匠への抗議代わりに、扉を一発|蹴飛《けと》ばして、ルドガーはエルメントルーデの元に戻った。貴婦人はすっかり少女らしく身を縮めて、心配そうにルドガーを見ていた。
「だましていてごめんなさい、ルドガーさま。でも、誉めていただきたかったの」
「ということは、君は今でも、あの可愛かったルムなんだな?」
「それ、お願い、それをやめて。そんな風に言われると……」
「わかったわかった」
エルメントルーデの頭を軽く撫でてやると、少女は首をすくめてはにかんだ。
わかってみればなんのことはない、エルメントルーデはただちょっと背伸びをしていただけだったのだ。ルドガーに触れられて落ち着くと、彼女はすっかり元通りの快活さを取り戻した。
「ああ、せっかく頑張っていたのに、残念だわ」
「無理する必要なんかないんだ。君は君のままでいい。もう先生をこちらにお呼びしてもいいね?」
「えっ、なぜハインシウスを入れるの」
「もう演技は終わったんだから笑われることもないだろう。先生、こちらへ」
ルドガーはドアを開けて師匠を招きいれた。エルメントルーデは何か言いたげだったが、結局あきらめたように首を振った。
それぞれが腰かけると、ルドガーは言った。
「お二人が以前のままだったので、ほっとしましたよ。実のところ、どこまで話していいのか迷っていました」
「なんのことだ」
尋ねたハインシウスに、ルドガーはざっくばらんに言った。八年の歳月をともにした師である。彼が信用できないなら、誰も信用できない。
「私たちはここに、燃えた村を再建しているだけではないんです。将来を見据えて、大きな町を作ろうとしています。レーズスフェントという町を」
ルドガーはおのれの構想のほとんどを話した。中洲であることを利用して防備を固める。ローマ街道のある地の利をいかして、東西を結ぶ。検問を省略して利便をよくし、税ではなく商品の取引によって利益を出す。さらには、余裕ができたら護岸を行い、海への門も開く。
ただ一点、レーズのことのみは黙っておいた。彼女は決して話の通じない悪鬼ではないが、正真正銘の異端である。
話し終わるころには、エルメントルーデは目を輝かせてすっかり聞き入っていた。ルドガーは言った。
「それで、ルム。ここへ来てくれたということは、あの時の話を覚えていたんだね」
「もちろんよ、決まっているじゃない。私、ルドガーさまが新しい町を作っていると聞いて、すぐに思い出したの。ああ、本当にやっているんだって」
ハインシウスは聞くにつれ渋面になっていったが、エルメントルーデの言葉を聞くと口を開いた。
「ルム、おまえはこの町のことを知っていたから、あんなにここへ来たがったんだな」
「ルドガーさまが言ったことですもの、私は信じていたわ」
「レール城にいたころからこの考えを?」
「ええ、まあ」
「まあとはなんだ、まあとは」
「つまりね、ハインシウス」
エルメントルーデが代わりに口を出しそうになったので、ルドガーはあわてて遮った。
「リューベックのことは覚えておいでですか、先生」
「リューベック?」
「二人であの町へ参りました。確か、二年前のことですが」
「ああ……おまえが狐《きつね》に驚いて落馬したときか」
「そうですが、琥珀《こはく》を買いに行ったときです」
訂正して、ルドガーは言った。
「あそこで私は感じたんです。人々の活気と息吹を。それを自分の故郷でも実現させたいと、ずっと思っていました」
「ルドガー……そんなことを考えていたのか」
ハインシウスはかなり驚いたようだった。無理もない。ルドガーの八年間の都市巡りは、ほとんどこの人とともにあったのに、考えを話したことは一度もなかったのだ。ハインシウスはよき師、よき騎士ではあったが、一方で現実の厳しさをよく知っている人でもあった。叱《しか》られるのが怖くて、ルドガーは言えなかった。
「ふむ、言われてみればおまえの考えそうなことだ。おまえは貴婦人を口説くのは下手だが、頭の中ではけっこういろいろ考えているやつだったからな」
「誤解を招くような言い方をしないで下さい」
エルメントルーデの興味深そうな眼差《まなざ》しを感じつつ、ルドガーは言った。ハインシウスは笑って話を戻す。
「しかし不思議だ。ルム、おまえがそんな娘だとは知らなかった。町作りの話に興味を持つなんて、女だてらに荘園でも経営するつもりだったのか?」
茶化すように言われると、エルメントルーデは真面目な顔で答えた。
「笑い事じゃないのよ、ハインシウス。あなたにも関係があるわ」
「ほう、私に?」
「ええ。だって、町では異邦人が退けられたりしないの。私やあなたのような人間であっても」
「先生、気に障ったらお許しください。私には、先生が城でのけ者にされているように見えました」
ルドガーが言うと、ハインシウスはしばらく沈黙してから、苦い口調で言った。
「おまえには気づかせていないつもりだった。私の未熟だな」
修行時代、ルドガーは師のハインシウスに付き従って、東フリースラント伯爵の宮廷に出入りする隊商の護衛を務めていた。宮廷で必要とされる高価な衣料や装飾品、家具調度や珍味などを、帝国各地から取り寄せる隊商の護衛は、名誉な仕事だと聞かされていた。
だがルドガーはあるとき、自分たちが風雨にさらされて旅をしている間、城では別の騎士たちが馬上試合に打ち興じ、貴婦人たちと恋の浮名を流していることを知った。自分たちは、のけ者にされていたのだ。
そのわけは、程なく察しがついた。ハインシウス・スミッツェンという師の名前は、ドイツ人のものではなかったし、美しい黒い長髪も、この地の民には見られないものだったからだ。
「城では、異邦人が冷たく扱われていました。そのお名前、その髪の色。先生もそうだったのでしょう」
「ああ、その通りだ」
ハインシウスはあっさりと認めた。
「私の祖母は低地地方《ネーデルラント》の女で、さらに前は地中海東岸《レヴァント》の者だった。東方の血を受け継いでいる」
ルドガーはうなずいた。
「そのお祖母《ばあ》様と、ルムのお祖母様が、姉妹だったそうですね」
「そうだ」
「ルムにもその血が出ている。周りの人間が、そのことに触れなかったとお思いですか」
ハインシウスは沈黙する。心当たりがあるのだろう。
ルドガーは思い出す。――地下水槽から聞こえてきた声。
「人は異物を避ける。当然のことかもしれませんが、その当然のはずのことを乗り越えている人々がいるのを、私は都市で見ました。都市ではドイツ人だけでなく、低地人も、レヴァント人も、イングランド人も、フランドル人も平等に暮らしている。私がルムに言ったのは、そういうことです」
「それで、町を作るなどという考えに?」
ルドガーはエルメントルーデと目を見交わした。彼女はうなずき、言った。
「それが成ったら、教えてくれるという約束だったの」
「なるほど……」
ハインシウスは腕組みして椅子の背にもたれた。目を閉じて、深々とため息をつく。ルドガーにとっては緊張のひと時である。相手によっては、何を夢みたいなことを言っているのか、と叱り飛ばされても仕方のない話である。
窓の外の薪か何かが倒れたらしく、ガタンと音がした。思わず飛び上がってしまいそうになるのを、ルドガーはぐっとこらえた。師の前で無様なところは見せたくない。
「……おまえがそういう考えを持ち、実際に行動を起こしているとなると、正直に言って、黙っているわけにはいかんな」
「お叱りを受けるのは、覚悟の上です」
ごくりと唾《つば》を飲んで、ルドガーは言った。肘《ひじ》のところを、何か小さなものに、きゅっとつかまれた。――少女の指だ。
ハインシウスはにらむように目を眇《すが》めた。
「ルドガーよ、この件、どっちへ転んでも難儀なことになるぞ。まず、町を作るといっても、人が通らなければどうなると思う?」
「金が落ちず、ここは寂《さび》れることになるでしょうね。そして耕作の手を抜いたつけが回り、遠からぬうちに食べるものもなくなる」
「そうだ、うまく行くとは限らない。が……うまくいったら、今度はどうなる? 人が大勢通り、飲み食いし、金と品物を置いていき、市《いち》が栄えるようになったら……」
「いいことじゃない。そうなるといいわ」
懸命に口を出したエルメントルーデを手で押さえて、ルドガーは冷静に言った。
「こちらを通る人間が増えれば、よその街道が逆の目に遭います。すなわち、今まで東西に人を通していたカンディンゲンのあたりが寂れる。品物が来ず、市は立たなくなるでしょう。そして、先生、それは恐らく本当に起こります。この町は寂れず、栄えることになる」
「なぜそう言える?」
「レールからカンディンゲンまでに、いくつの関所がありましたか」
ルドガーのひとことで、ハインシウスの顔に納得の色が浮かんだ。ルドガーは続ける。
「旅人は今まで、フェキンハウゼン領内をただ通り抜けるだけのために、何シュトゥーバーもの金を使っていました。貴族ともなれば、何枚もの金貨をむしられます。それだけあれば四泊も五泊もできる。多少遠回りでも、絶対にこちらを通るはずです」
「おまえの言うとおりだ、ルドガー。そうなるだろう。こちらは栄え、あちらは寂れる。それを――領主が手をつかねて見守ると思うのか」
ハインシウスが身を乗り出して、低く強い声で言った。
「ヴォルフラム男爵が、こんなことを許すと思っているのか!」
ルドガーは膝においたこぶしを強く握り締めた。さすがは我が師匠、と腹の中でつぶやいていた。
彼が言ったそのことが、目下のところ、ルドガーの最大の懸念だった。自分はまだ、ただの荘司にすぎず、領主からは免租の許可しか得ていない。宿場町の新設や関所の撤廃はおろか、モール庄をレーズスフェントと名乗ることすら許されていないのだ。このことが領主に知られれば、必ず咎められる。
いまはただ、領主がなんらかの実効力のある手段に出てくるより早く、この町に力を蓄え、その存在を領主に認めさせることが、ルドガーの願いだった。
だが、それを可能にしてくれるはずの最大の切り札のことは、たとえ師匠であっても話すわけにはいかなかった。ルドガーはただ、静かにこう言ってみせた。
「手立ては、考えてあります。いくつもね」
「どんな手立てだ」
「まだ言えません。ですが、父には負けません」
「たいした自信だな」
「あなたの弟子です」
ハインシウスは、うろんそうに眉をひそめただけだった。彼は世辞を言われると不機嫌になる性格だ。ルドガーは付け加えた。
「私一人の独走ではありません。村人の多くも賛成している。多くの領民のためにもなります」
「租税を免除してやったそうだな。領民は先のことなど考えないから、税を下げれば喜ぶに決まっているのだ。そんなのは姑息《こそく》な人気取りだ。わざわざ誇るほどのことではない」
背筋にひやりとしたものを感じて、ルドガーは首をすくめた。さすが師匠、どころではない。裏の思惑まで読まれている。うかつなことは言えない。
ハインシウスはまたしばらく考えこんだ。それから、おもむろに言った。
「私にも立場というものがあるが――言いたいことは、一つだけだ」
「は」
「ルドガーよ、神の名のもとおまえを祝福し、騎士号を与えたもうたお方はどなただ」
「ルプレヒトさまです」
一瞬、夕方にあったレーズとの問答が脳裏をかすめたが、ルドガーは即答した。ハインシウスはうなずいた。
「何をするにしろ、ルプレヒトさまの信を裏切るようなことはするな。剣にかけて誓えるか」
ルドガーはかたわらのエルメントルーデの存在を強く意識した。伯爵家への忠誠と考えるから、迷いが出る。だが、彼女に対する忠誠ならば誰に対しても恥じるところはない。
「剣にかけて、誓います」
「よし、立て」
ハインシウスが愁眉《しゅうび》を開き、歩み寄ってルドガーを抱きしめた。ルドガーも心から師を抱き返した。
「おまえがまずまず立派に育っているようで、私は嬉しいよ」
「ありがとうございます」
「では、そろそろお開きにしないか。ずいぶん遅くなったし、明日は我々はブレーメンへ向かうのだ」
「そうですね、それでは」
ルドガーはそう言うと、エルメントルーデの前に膝を突き、うやうやしく手を取った。
「今宵は楽しゅうございました。またいつの日か、このような宵があればと願います。――おやすみ、ルム」
芝居半分で手に口付けして顔を上げると、エルメントルーデはなんとも寂しげな顔で、ただ小さくうなずいた。
ルドガーは小屋を出て、一礼しながら扉を閉じた。宿坊へ向かおうと歩き出した途端、すぐ先の木に男装の女が寄りかかっていることに気付いた。
「おまえか、レーズ」
「ずいぶん遅くなったわね。姫君の御伽《おとぎ》番でも仰せつかった?」
「お話し相手をつかまつるほうの、な。おまえ、まさか立ち聞きか」
ルドガーが顔をしかめると、闇《やみ》の中から星明りの下へ姿を現して、レーズは悠然と微笑んだ。
「そんなことはしないわ。しなくてもきみたちの話すことならたいていわかる」
「本当だとしたら立ち聞きよりたちが悪いな」
「とんでもない、私はきみの味方だからいいのよ。そうでない立ち聞きもいたけれど」
「なんだって。いたとは、確かか」
ルドガーが聞くと、レーズは他人事のように首を横に振った。
「人だと思うけれど、見てはいないわ。ただ、家の裏に人らしいぬくもりが残っていた」
「そんなことまでわかるのか……待て、じゃあおまえは何をしているんだ?」
「あの姫君にちょっと惹《ひ》かれたから」
「ルムに?」
ルドガーが驚くと、レーズは短く笑い声を上げた。
「心配しないで、近くまで寄ったら、気のせいだとわかったわ。『ラルキィ』の気配の濃さは、あんなものじゃないもの」
「ラルキィ?」
初めて聞く言葉に、ルドガーは眉をひそめる。レーズは少し考えこんだ。
「どうしようかな――言っておくか。そういう名の存在が、私を追ってやってくるかもしれないの」
「それはなんだ」
「進化の過程で私に入り込むことを覚え、私の飛行に同乗するようになったもの。――つまり繁殖相手、私の種族の雄よ。雄が、嫁探しに来るかもしれないの」
「冗談じゃない、ルムがそんなものであってたまるか。あの子は昔からあのままのルムだった」
「それが本当でもラルキィでないとは限らない。ラルキィは憑《つ》く≠烽フだから」
「憑く?」
「私と違って、ラルキィは小さい。目には見えないほど小さい。小さすぎて自力では何もできないから、生き物に憑く。私が探してるのは、その取り憑かれた主のことよ」
ルドガーはその奇怪な説明におぞましさを感じたが、レーズは軽く笑って済ませた。
「見た目は普通の人間よ。ラルキィは宿主を苦しめるようなことはしない。それどころかとても健康で賢くする。自分が生き延びるためだけれどね。けれど――あのお姫様に、ラルキィは憑いていないみたい」
「悪魔に憑かれて健康で賢くなるなんて、奇妙極まる話だな」
ルドガーがそう言うと、レーズは顔を寄せて、妖艶《ようえん》に微笑みながらささやいたのだった。
「だから、悪魔ではないと言ってるでしょう」
それはこの事業の結末を見るまでわからない、とルドガーは思う。
「さて――な」
彼女の横をすり抜けて、宿坊に向かった。
遠来の貴人をつつがなく迎えることができたせいか、その晩はよく眠れたルドガーだが、翌日は朝から面白くないことが続いた。
まず、朝起きると、昨晩酔って騒いでいた修道士が、一人でおろおろと巡礼たちを探していた。どうも酒癖が悪すぎて置いていかれたらしい。路銀全部持っていかれてもうた、どないしよう、と泣きつかれて、ルドガーも困った。そんなことまで面倒を見ていられない。
また、朝食をとろうとすると、エルスが見当たらず、代わりにヴァルブルクが食事を持ってきた。いつにないことだが、エルスは昨日森に仕掛けておいた罠《わな》を見にいったのだという。ルドガーはヴァルブルクの差し出す、なんとも武骨な食事で我慢するしかなかった。椀《わん》いっぱいの、炒《い》っただけの麦粒。ほとんど行軍中の兵隊のような飯だった。
しかしそれらはまだ、些細《ささい》なできごとだった。本当の厄介ごとは、その日の最後に起こった。
ルドガーはエルメントルーデたちに、昨日見せられなかった村の様子を、案内して回った。ローマ街道の敷石を踏ませ、古人たちが見抜いていたこの地の利便を語った。潮の満ち干を示し、港としての適性を教えた。それから、村人たちが確かに進めつつある、新しい建設と敷設の作業を見せた。
エルメントルーデは対岸に渡り、ルドガーたち兄弟やハインシウスの制止をも振り切って、焼け落ちた家々と| 浮 浪 兵 《シュテルツフェヒター》の墓をも見た。
それから中洲に戻り、泉に向かった。水をひとくち飲んだ彼女は、城の井戸より甘いと感嘆した。東フリースラントで一番甘い井戸よりも、と。
泉から上がると、最後にエルメントルーデは一人で歩き出した。
北へ、中洲の先端へと。ルドガーたちはその後を追う。
中洲の北では立ち木がなくなり、ハイデの灌木《かんぼく》だけが花を咲かせている。地面はスプーンの柄のように細長い砂洲となる。その先は北海だ。夏の明るく心地よい海。沖に島が浮かび、穏やかに晴れた空が広がる。
エルメントルーデは長いあいだそこに立ち続けた。
「ルム、そろそろ」
しびれを切らしたハインシウスが声をかけても、振り向かなかった。
「ルム」
肩に触れても。
「ルム?」
横顔を見られても。
「そろそろ出なければ、日暮れまでに次の村に着けないぞ」
そう言われて初めて答えた。
「行かない」
「なんだって」
「行かないわ。私、ここに残ります」
エルメントルーデは振り向き、ハインシウスの横をすり抜けてルドガーにしがみついた。
そして、言ったのだった。
「ここで暮らすの。ここでずっとルドガーさまのお手伝いをするの!」
「ルム!?」
ルドガーは驚いて彼女を引き離そうとしたが、その顔を見て動けなくなった。
それはあの時の顔だったからだ。
古い水の匂《にお》いに満ちたレール城の地下水槽で、初めて出会った時と同じ、追い詰められたような泣き顔。
初夏から秋にかけて、カンディンゲンの村にはゆっくりと影響が現れていた。
最初に、通行料を惜しむ貧しい巡礼や行商、渡り人足や流しの鍛冶《かじ》、無官の騎士といった人々が来なくなった。すると、それらの人々に物を売っていた旅籠や酒屋、靴直しや衣装屋、小間物屋などの露店商が立ち行かなくなった。商人たちに目を光らせる徴税人も困窮した。旅人を泊める教会の賄い僧や湯沸し僧も、手間賃を得られなくなった。
秋になり、冬に備えて倉庫の建て増しや修繕をしようとした人々は、腕のいい大工がいないことに気付いた。木材を切り出してくるきこりも見当たらなかった。
七日に一度立つ市に並ぶ商品が少なくなった。領民たちはもともと貧しく、日用品は自分たちで賄っているので、市が立たなくなっても飢えることはない。だが、ささやかな楽しみである、遠方の嗜好《しこう》品や装飾品の類《たぐい》が手に入らなくなったので、不満を募らせていた。
秋の半ばには、誰もが感じるようになった。
レーズスフェントがすべてを引き寄せているのだ。
領主ヴォルフラム男爵も、関所を始めとする各方面からの税収の滞りで、ようやく事態を悟った。今まで、しょせん辺境の小村での出来事だと軽く見ていたのが仇《あだ》となった。カンディンゲン付近の農村から脱村者が出て、彼らを取り締まるように教区司祭から正式の抗議まで来るようになると、座視してはいられなくなった。
異変の中心に、息子である荘司ルドガーがいることは間違いない。彼はいくつもの禁を犯している疑いがあった。村を勝手に町と呼称していること。外来者を無税・無検問で通していること。その他各種の税をほとんど免除していることなどだ。単に越権であるにとどまらず、反乱とさえ受け取れる行動である。
詳しいことを問いただすため、ヴォルフラムはモール庄に使者を送り、ルドガーに出頭を命じた。しかし彼は何度呼んでも、病気であるとか、重要な裁判があるだとか、相応《ふさわ》しい衣装がないなどと、言を左右にして出頭を引き延ばし続けた。使者はその都度、中洲に移ったモール庄に建物が増え、旅人の往来がどんどん盛んになっているらしいことを報告してきた。
呼びつけても来ないなら、実力を行使することが領主には許される。ヴォルフラムは検討し始めた。フェキンハウゼン家の家令に、騎士数名をつけて捕縛させるべきか。それとも、自ら出向いて、大勢で町ごと制圧してしまうのがよいだろうか。
しかし、彼が家令と相談していると、制止した者がいた。
「お待ちください、父上」
長男のフォス・フェキンハウゼンだった。今年二十七歳になる彼は父と同じ騎士であり、領地の経営においても彼の右腕として精励していた。
「私にいま一度、ルドガーを説得させてはいただけませんでしょうか」
「これからか? 難しいと思うが」
ヴォルフラムは眉をひそめて言う。
「翻意する気があるなら、今までに何度も機会はあっただろう。腹を決めてやっているとしか思えん」
「若気の至りということもあるでしょう。一度剣を向けてしまったら取り返しがつきません。最後の慈悲は垂れてやったほうがいいのでは。それに――」
顔を寄せて、フォスは言う。
「身内の争いを大きくしてしまうと、お咎めを受けるかもしれません」
「……ルプレヒトさまにか」
「丸く治めてこそ為政者というもの」
深く考えるまでもなく明らかなことだった。親子で剣を向け合うのは外聞が悪い。ヴォルフラムはつぶやく。
「万が一不幸なことになるとしても、それなりの名分というものが必要だな」
「仰《おっしゃ》るとおりです。それも念頭において口説いてまいります」
「よし、任せた」
フォスはただちに出かける用意に取りかかった。彼には父にも言っていない、内心の思いがあった。
「ルドガーめ……まさか、おまえがやってのけるとは」
支度ができると、フォスはひとり馬に飛び乗り、従兵もつれずに城を出た。
「泥棒ーっ!」
建設中の教会の前で司祭と打ち合わせをしていたルドガーは、女の叫び声を聞いて振り返った。
宿坊から飛び出した女が、男を追って走り出した。女は中年で、先の尖《とが》った奇妙な帽子をかぶり、緻密《ちみつ》な柄の入った真っ赤なローブをまとっている。何を盗まれたのか一目瞭然《いちもくりょうぜん》だった。いや、ひと聞き瞭然とでも言うべきか。
逃げる男が、シャンシャンと恐ろしくにぎやかな音を立てているのだ。細かい金物のついた円い品物を両手に握っている。楽器に違いない。
楽器を盗むとは頭の悪い泥棒もいるものだと思いながら、ルドガーは司祭に片手を上げた。
「失礼、所用ができた」
「おっ、見せ場ですな。御武運を、アーメン!」
アロンゾ司祭が陽気に十字を切ってくれる。ルドガーは顔をしかめつつ近くの立ち木へ走った。そこにつないであった愛馬の手綱をとって背に上る。ちょうど、先ほど見回りを終えたところだった。
「行け、グルント!」
グルントは俊足ではないが、それでも人間とは比べ物にならない。ノルマンディーの血の入った大きく色の濃い馬が、ドドッと地面を鳴らして駆け寄る。振り向いた盗賊が恐怖に目を剥く。
「止まれ、止まらんと許さんぞ!」
賊は止まらなかった。あるいは聞こえなかったのかもしれないが、盗んだものを離さなかったので、ルドガーは恭順の意思なしと見た。そのまま馬を突っこませ、ひづめにかけて蹴倒した。
「どう、どう!」
馬を下りて見てみると、賊は背中が陥没して虫の息だった。ルドガーはその手から楽器をとり、馬を引いて女の元へ戻った。
「ほら、取り返してやったぞ」
「あ、ああ……悪いね。あんたは騎士さんだね」
楽器を受け取った女は、しばらく上気したような顔でルドガーを見つめていた。南国の香木のような肌色をした、目鼻立ちの非常に際立った女だ。ほんの五年ほど前までは、絶世の美女と呼ばれていただろう。ルドガーはその素性に気付く。
「おまえ、ロマか」
「そうだよ、それが何か?」
女がやや表情を引き締めて答える。ロマとははるか南の砂漠の国からやって来た、流浪の楽士や踊り子たちのことだ。多くのドイツ人が彼らを蔑《さげす》んでいる。
賤民《せんみん》を助けてしまったことで、ルドガーは舌打ちしたくなったが、顔に出す直前に思いとどまった。誰でも受け入れるのが自分の信条だ。その中に、ロマも入るのか。
このようなあからさまな異教徒が来ることまでは考えなかった。ルドガーは悩みつつも、信条を保つことにした。
「ここは今、人が足りない。ゆっくりしていけ」
「いいの? 異教徒だよ?」
女の表情が驚愕《きょうがく》に変わる。ルドガーは人目を気にしながらぼそぼそと言った。
「わざわざ言わなくていい、黙ってろ」
女は、ぱっと顔を輝かせた。異教徒らしい、極端な変わりようだ。
「ありがとうさん、あたしはシャマイエトーよ。あんたみたいな親切な男は初めてだわ。楽《がく》の用があるときはぜひ呼んでね」
「仕事で助けただけだ」
ルドガーは逃げるように馬に飛び乗った。来たばかりで、まだルドガーのことを荘司だと知らなかった露店商などが、道端で唖然《あぜん》としていた。
教会まで戻ると、赤ら顔の司祭がにやにやと笑って言った。
「実にええ女やね。堅物の荘司はんも目がくらみはった?」
「おれはそんなに堅くもないんですがね。その証拠に、ほらこんな破戒僧を置いている」
ルドガーに鼻を指差されると、アロンゾ司祭はぷーっと噴き出して禿頭《とくとう》を撫でた。
「いや、かなんな荘司はんには」
「あんたは異教徒だろうがなんだろうが、美人ならいいんでしょう」
アロンゾ司祭は、三ヵ月前に巡礼団を率いて通りかかり、酔っぱらって彼らに置いていかれた当人である。話を聞くとカスティーリャのほうで正式な叙階を受けた聖職者ではあったが、故郷でも何度か酒と女で騒ぎを起こしたので、帰るに帰れないということだった。
路銀がない彼と、司祭のいない町の思惑が合致し、彼にいてもらうことになった。元モール庄の人々はほぼ全員歓迎した。何しろ今まで聖職者がいなかったので、赤ん坊の洗礼から死者の弔いまで内輪の信心会で済ませるという、心もとない状況だったのだ。少しぐらい癖があっても、きちんとお祈りのできる聖職者がいてくれるなら文句などあるはずがなかった。
ただ一人、不平を漏らしっぱなしの人間がいた。
「鼻の下を伸ばしていていい立場じゃないでしょう、司祭!」
リュシアンである。彼は修行中なので、アロンゾの下で学ぶようにルドガーが言いつけたのだ。しかしルドガー以上にお堅い性格の少年である。アロンゾのだらしなさを嫌って、二十も年上の司祭を呼び捨てにしている有様だった。
「ほら、内陣の差し渡しはこれでいいのかって大工が聞いていますよ。しっかりしてくださいよ、教会の様式なんてあなたしか知らないんだから」
「その辺はあれよ、適当でええのよ、適当で」
「ええことがありますか!」
アロンゾ司祭は説教がうまいが、それ以外はあまりぱっとしない。しかしリュシアンがついているなら、そう大きな間違いもしないだろう。弟に任せてルドガーはそこを離れた。
自分の小屋へ向かうルドガーは多くの人とすれ違う。街道沿いの、宿坊を中心とした一帯には、三ヵ月前よりもずっと建物が増えていた。
宿坊の隣に天幕をかけて露台を広げているのは、村の少年のヨハンだ。彼は元々モール村の小作人だったが、畑をやめて果物売りを始めた。最初は村の畑から集めて回ったスモモを籠《かご》いっぱい置いただけだったのに、売り上げで隣村のものを買い付けて、今では露台いっぱいの品を商っている。
他にも露台は出ている。泉から汲んで来た水やら、自宅で焼いてきたパンやらを、村人の子供たちが売っている。露台を出すのは簡単なので、その手のことをしていない村人のほうが少ない。
村人だけではなく、噂を聞いてやってきた他村、他領の者も似たようなことをやっている。馬の蹄鉄《ていてつ》打ちがいる。椅子一丁の床屋がいる。鍛冶屋が真っ赤な火を熾《おこ》して大工道具を打ち直している。そして、何屋とも呼びようがないが、とにかく自宅のものを持ってきて売っている者がいる。ミルクだの卵だの生きたガチョウだのといったものだ。
風はすでにかなり冷たい。もうじき冬が来て、商売などできなくなる。道端の人々の顔にも、どこか切羽詰まった雰囲気があった。
また、街道から少し離れた土地の空いているところでは、二人の男が一頭の牛を挟んで議論していた。最初は何をやっているのかわからなかったが、今ではわかる。この男たちはレーズスフェントに用があるのではない。ただ、それぞれ西と東に住んでいて、取引のために顔を合わせなければならないから、ここで落ち合っているのだ。
じきに商談がまとまったらしく、片方の男が牛の引き紐《ひも》を渡して、貨幣を受けとった。その際、やましいことでもあるかのように辺りを見回しているのが、ルドガーの心に残った。
あれは本来、家畜取引税のかかる行為である。それに道々の通行税もかかるはずだ。それらがかからないから、彼らはわざわざこんな辺地にまで来ているのである。
また、街道ではしばしば、巡礼の女たちが笑いながらパンを落としては拾っているのを見かけた。拾ったらそのままほこりを払って食べるので、何の意味があるのか、最初はやはりわからなかった。
あとでアロンゾ司祭に聞いてわかった。ああいうことをすると、そのパンを役人に巻き上げられる村があるというのだ。役人に言わせれば土地は領主のものであるから、いったん土地についた品は、これすべて領主のものである。だからそういう村では物を落とさないのはもちろんのこと、何をするにも言いがかりを付けられないよう、気をつけねばならない。
ここではそういう心配がないので、女たちはふざけていたらしい。
他にもまだまだある。カンディンゲン方面から訪れた富農は、中洲に粉挽《こなひ》き水車を建てたいと言ってきた。水車税を避けるためなのは明らかだ。ルドガーは断った。用心棒になろうと言ってきた騎士や、騎士崩れの荒くれもいた。ルドガーは断った。そのうち一人はどうしても雇えと凄《すご》んできたので、やむをえず取り押さえて川に放《ほう》り込んだ。
それからさらに、ここなら誰かが育てると踏んだのか、ある夜、一人の赤ん坊まで捨てられていた。
領主の支配しない町・レーズスフェント――そういう評判が、ルドガーの最初の予測をはるかに超えて、さまざまな人や物を引き寄せていた。まだ荷馬車が渡れないのにこの有様である。それが可能になったら、どれほど栄えることか。
ぞくりと背筋が震えた。栄える、という言葉の持つ陰影が身に迫っていた。今までは荒くれや賊の一人二人でしかなかった。だが、これからはもっと増えるだろう。自分ひとりでは手に負えないほど。
父との口論を思い出した。
「そういうことか……」
責任の重さを感じながら小屋に戻ると、職人風の二人組が出てくるのと鉢合わせした。顔なじみの石工だったので、声をかけた。
「どうした、何か用か」
「いえ、たいしたことじゃありやせん」
「なんだ」
「へへ、このゼップの野郎がね、おれのタガネを川に落としたんで、弁償する、しないで揉《も》めちまって……」
「仲裁してほしいということか」
ルドガーは馬を表の木につないで、水桶《みずおけ》を持ってくる。石工が手を振った。
「いえいえ、もう奥方様に話を聞いていただいたんで、気が晴れました。な」
「さっぱり水に流したところで」
頭をかきながら去っていく二人を見送り、ルドガーは小屋に入った。
室内ではエルメントルーデがテーブルにつき、侍女と額をつき合わせて書き物をしていた。ルドガーを見て、顔を上げる。
「あ、お帰りなさい、ルドガーさま」
「ただいま」
「外は寒かったでしょう。ネージ、ルドガーさまに温かいものを」
「いや、まだそれほどでも」
首を振りつつも、ルドガーは侍女が薬酒を淹《い》れた木のマグを受け取り、椅子に腰掛けた。エルメントルーデの手元を覗きこむ。
「それは何を?」
「記録を付けておこうと思って」
「今の二人の? あとに残すほどのことではないんじゃないかな」
「それではきちんとした裁判と言えないわ。あとから誰かが見ても、納得するようにしておかないと」
エルメントルーデは鵞《が》ペンを滑らかに動かしていく。ほとんど字の読めないルドガーには大いに気が引ける。薬臭いワインに口をすぼめつつ、言ってみる。
「済まないな」
「なあに?」
「いろいろやらせてしまって」
「いいのよ」
文を書き終えるとエルメントルーデは侍女に見せた。どうもこの侍女は家庭教師を兼ねていたらしい。彼女がうなずいたので、少女は紙を重ねて文箱《ふばこ》に収めた。そして、ルドガーに微笑んだ。
「こうやってルドガーさまのためにできることがあると、私、うれしいの」
「助かるね」
ルドガーは笑ってみせた。いくぶんかは本心でもある。
だが、彼女に対しては大きな負い目を感じていた。齢《よわい》十五歳の伯爵令嬢といえば、将来大変な土地持ちになることが期待できる。どんな不美人でも、求婚者がひきも切らないはずだ。ましてエルメントルーデは美しい。それが親元を離れてこんないかがわしい土地に滞在しているのだから、彼女の経歴に汚点をつけたことになる。
今のところ誰も連れ戻しに来ないが、ルプレヒト伯爵が娘の身を大いに案じているだろうことは、想像がついた。あるいは、先にレール城へ帰った師のハインシウスが、何とかなだめてくれているのかもしれないが、それならそれで彼に対して申し訳ない。
三ヵ月前、泣き叫ぶ彼女を、無理やりにでも馬車に押し込むべきではなかったか――そんな思いを、ルドガーは今でも打ち消せずにいる。
それができなかったから、今でも彼女がここにいるわけだが。
テーブルの上を片付けたエルメントルーデが立ち上がる。
「外に出てもいい?」
「ああ」
二人は連れ立って表へ出た。貴人の娘は、当然一人では外に出られない。だからルドガーの手が空くのをいつも待っている。
エルメントルーデはうきうきとした足取りで通りを行く。みすぼらしい身なりの人ばかりいるのを気にして、ルドガーはつぶやく。
「まだレールの町とは比べ物にならないな」
「どうして? ここはあそこより素敵だわ。壁がなくて風がおいしい」
ローブで顔を隠してはいるが、布の厚さからだけでも貴人だと知れる。それでも庶民の眼差しは冷たくない。素朴な敬愛の念がこもっている。ひとつの場合を除いて、搾取しない貴人ほど、下々に愛され、憧憬《しょうけい》される存在はない。皆が声をかけてくる。
「奥方さまはご機嫌ですな、ルドガーさま」
「奥方さま、お健やかに」
「奥方さまに、これをどうぞ」
老婆の差し出した鶏糞《けいふん》まみれの卵二つを、ルドガーはかろうじて笑顔を浮かべつつ、受け取る。その場を離れると、エルメントルーデがくすくすと笑う。
「今のルドガーさまのお顔――面白かった。こめかみのところがひくひくして!」
「仕方ないだろう、こんなものを押し付けられたら」
「断ればよかったじゃない。私がもらってあげたわ」
「そんなわけにはいくか」
「どうして? いいじゃない」
「本当に?」
言いながらルドガーは卵を差し出す。きゃあ、とエルメントルーデは黄色い悲鳴を上げて逃げ出す。ルドガーは追いかける。
少女は街道を離れて逃げる。木立を突っ切り、川べりで追いついた。中洲の南の端だ。二つに分かたれたエギナ川が穏やかに渦巻いている。二人はそこに並んで腰を下ろした。
走ったエルメントルーデが息を整えながら言う。
「ルドガーさま――いつも――ごめんなさい」
「なにが?」
「だって、みんな私のことを奥方さまって。私は別に許婚《いいなずけ》でもないのに……ねえ?」
エルメントルーデの遠慮がちな視線を感じながら、ルドガーは黙っている。
否定しない理由は、もう説明してある。会う人ごとに妻ではないなどと言っていたら、もしかしてエルメントルーデに、何か女としての不都合があるのではないかと、要らぬ勘繰りをされるからだと。最初は自分でも、本当にそのつもりだった。
しかし今では、その説明に自信を失っていた。人からエルメントルーデのことを妻だと言われるたびに、小さな喜びを覚えるのだ。間近で暮らし始めてみると、彼女のいいところがいくつも目に付いた。衣服も食事も貧しい、侍女一人だけの暮らしに、不満ひとつ漏らさない。生まれつきの育ちのよさのせいか、人を疑わず、誰に対しても優しく振る舞える。そして高い教育を受けていたので、繕い物や掃除などもきちんとこなし、作物や家畜の出納が管理でき、読み書きの才がある。一度など、フランス語を話しているのを聞いた。
感心して誉めると、頬を赤らめて言った。
「いずれ騎士の妻になる身ですもの。城の一つも切り回せるように、と仕込まれました」
彼女自身の口から出た妻という言葉に、ルドガーは心が揺れるのを感じずにはいられなかった。
だが、それは考えてはいけないことなのだ。
川べりに腰を下ろしたルドガーは、その息吹の感じられる距離にいる少女に、そっけなく言う。
「そうだな……できるだけ言っておくべきかもしれないな。おれの妻ではないと」
「……そうね」
エルメントルーデが気落ちした声音でつぶやいたが、ルドガーは何も言ってやれなかった。
彼女がここにいるのは、あくまでも一時的なことなのだ。
エルメントルーデが帰りたくないと言い出したあの日、ルドガーやハインシウスたちはもちろん、彼女を説得しようとした。しかし、どうしても彼女が折れないとわかると、一つの約束をさせたのだ。
それは、レーズスフェントが冬を越せたら、本当に帰るということ。
理屈では当然だ。エルメントルーデはルドガーの町作りを手伝いたいと言ったのだから。町作りが軌道に乗るまでは、いることができる。その後は帰らねばならない。
あの時、ルドガーも彼女の本音を悟ったが、それと尋ねることはできなかった。もし彼女がルドガーの妻になりたいなどと口を滑らせていれば、それこそ無理やりにでも馬車に押し込むしかなかっただろう。エルメントルーデの嫁ぎ先を決めるのは伯爵だ。ルドガーにどうこういう権利はない。その制約を侵せば、主君に背いたと解される。
彼女が言わなかったから、今ここにいられるのだ。
だから決して、ルドガーも口に出すわけにはいかないのだった。
そばにいてくれ、という一言を。
それはエルメントルーデもわかっているらしい。彼女は流れを見つめたまま、ぽつりと言った。
「ルドガーさま」
「なんだい」
「私にいま何人許婚がいるか知ってる?」
「さあなあ……三人ぐらいか」
「九人よ」
ルドガーはかすかに眉をひそめた。領邦君主が娘に複数の許婚をつけるのは珍しくない。よさそうな相手を何人も見つくろって、空約束をするのである。もちろん相手の男には他の候補のことは黙っておき、忠勤ぶりを比較する。娘が適齢期を迎えたら、その時点で一番有望な男のもとへ嫁がせるという寸法だ。
だが、九人というのはいかにも多い。しかもその中にルドガーは入っていない。
「半分は、出戻ったときのための予備なんですって」
「そりゃひどい」
ルドガーは苦笑する。そこまで準備がいいと笑うしかない。この分では結婚取り消しに備えて教会裁判所まで根回しが行っていてもおかしくない。
「その九人がどこのどいつかしらんが、ルムを離縁なんかするはずがないのにな」
「ほんとうにそう思う?」
エルメントルーデがルドガーの顔を覗きこんだ。ウィンプルの裾《すそ》から、柔らかな黒髪がはらりとこぼれる。深い緑色の瞳に、不安の色が揺れている。
ルドガーは穏やかにその目を見つめて、うなずいた。
「ああ、思うよ」
「そう言ってくださるのはルドガーさまだけよ。あのときから、今までも」
不意に、エルメントルーデが身を投げ出してきた。ルドガーはその細い肩をそっと抱き締めた。細い前髪が揺れている。少女が小刻みに身を震わせている。
「私……私……あのときから、ずっとルドガーさまのことを!」
それ以上言わせず、形のいい頭を手でしっかり胸に押さえつけて、ルドガーは目を閉じた。
出会ったのは四年も前だ。場所は舞踏会の大広間でも、城下の見えるバルコニーでもなかった。
レール城の地下大水槽だった。
暖かく気持ちのよい、五月の日だった。城の庭園には花が咲き乱れ、貴きも賤《いや》しきも日を浴びに出歩いていた。その日、十六歳のルドガーは、さる大騎士の妻に用を言いつけられた。城内の井戸に高価な櫛《くし》を落としてしまったというのだ。庭師にでも拾わせればよさそうなものだが、その妻は女の気まぐれでルドガーでなければだめだと言い張った。仕方なく彼が拾いに行くことになった。
ルドガーは井戸に攻城用の手かぎ梯子《ばしご》を下ろし、腰に龕灯《がんどう》を下げて、降りていった。
井戸の底は見えなかったが、ある深さで急に周囲に壁がなくなった。ルドガーは驚いた。そこには恐ろしく広いがらんどうの空間があったのだ。
天井は苔《こけ》むした古い石組みのアーチで、あちこちに細い光の筒が差し込んでいた。どれもルドガーが入ったのと同じような、井戸らしかった。壁は一面のみがかろうじて見え、他の三面には光が届いていなかった。一歩一歩ゆっくり降りていったルドガーは、やがて水面に到着した。そのまま沈みそうで恐ろしかったが、太腿《ふともも》まで足を入れると爪先《つまさき》が岩盤に触れた。目の届く限り、周囲には水面が広がっていた。
ルドガーは龕灯を持ってしばらく呆然《ぼうぜん》と辺りを眺めていた。水の匂いと古代からの静けさがたゆたうその空間は、光と生命に満ちた五月の地上とは対照的で、なにやら秘密の大聖堂めいていた。すでに四年もこの城にいたが、こんな場所のことは知らなかったし、誰からも聞いたことがなかった。
少し探検してみようか――そう思って足を踏み出したとたん、甲高い声が飛んできた。
「そっちはだめ!」
ルドガーは反射的に振り向いて龕灯を向けた。獣蝋《じゅうろう》のぼんやりした明かりが、壁際の通路に立つ小さな人影を照らし出した。十歳ほどの少女だ。
明かりを向けられた少女は驚いたように手をかざして、再び言った。
「わたしに向けないで。――それから、だまってこっちへ来て」
「おまえは……」
「いいから!」
魔物か、という疑いが一瞬心をかすめたが、記憶がそれを打ち消した。少女には見覚えがあった。確か、この城の大騎士か貴族の娘だ。
ルドガーは足元を照らすようにしながら、水をかき分けて少女のそばへ行った。通路に這《は》い上がると、彼女が言った。
「あっちは急に深くなっているの。あなたは泳げる?」
「いや……いいえ」
「よかった」
命を救われたわけだった。ルドガーは恩を感じ、膝をついた。
「ありがとうございます、助かりました。よろしければ姫君のお名前を……」
「エル……ううん、ルムよ」
「ルムさま?」
「ただのルムでいいの。おまえの名は?」
「ルドガー・フェキンハウゼン。ハインシウス師のもとで修行中の見習いです」
「あら、ハインシウスの? あの人はきびしいでしょう」
「ご存じなのですか」
龕灯を上げようとすると、途端に叱りつけられた。
「向けないでってば!」
「――失礼しました、姫」
「ほら、その言いかたもやめて。ルムでいいのよ」
「……ルムは、師匠の知り合いなのかい」
ためらいながらも口調を崩すと、嬉しそうにルムがうなずく気配があった。
「それでいいわ。ええ、そうなの。ハインシウスは私の又いとこよ。よかった、ハインシウスの弟子なら信用できるわ」
「もし、弟子でなかったら?」
「そのときは急いで逃げなきゃならなかったわ。との方はオオカミだってお父さまが言っていたもの!」
ルムが子供っぽく逃げ出すふりをして見せたので、ルドガーは笑った。
それにしても、こんなところに子供がいるのはいかにもおかしい。そのことを問いただそうとした。
「君はどうして――」
「おまえはどうして、こんなところへ来たの?」
ルドガーは言葉を遮られ、口を閉じた。ルムが畳み掛けるような強い口調で尋ねた。
「さあ、おっしゃい」
自分の事は聞かれたくないのだろう。ルドガーは察して、答えた。
「水汲みをしていたご婦人が、井戸の中にあやまって金の櫛を落っことしてしまったんだ。そのご婦人の命令で、櫛を取りに来た」
「見つかったの?」
「いや。向こうは深くなっているそうだし、難しそうだね。それにしても、ここはなんだろう」
ルドガーが壁を見上げて言うと、教えてあげましょうか? とルムが小さな手で壁を叩いた。
「ここはろう城用の水そうなのですって。五百年も昔からあるのよ。レール城は丘の上にあるから、普通に井戸をほっても水脈に届かないの。だからお城を建てる前に、こんな大きな水そうを作ったの。ほら、あそこに穴があるでしょう。お城じゅうの屋根に降った雨が、ぜんぶあそこから流れ落ちてくるのよ」
ルムが背伸びをして天井を指差した。そうなのか、とつぶやきながら彼女の横顔を見たルドガーは、ふと妙なものに気付いた。
卵の殻だ。それは彼女の後ろ髪にからんでいる。
何の気なしに手を伸ばしてそれを取ってやろうとすると、ルムがはじかれたように振り向いて睨《にら》んだ。
それは手負いの小動物を思わせる、敵意と怯《おび》えに満ちた一瞥《いちべつ》だった。ルドガーは背筋に寒気を覚えた。
「何をするの?」
「ごみがついている」
彼女が自分の髪に、ちらりと目を向けた。その一瞬にルドガーは手を伸ばし、卵の殻と白身にまみれた毛先を手に取っていた。
ルムが鋭く言って身を引こうとした。
「やめて、ほっといて」
「洗えば綺麗《きれい》になる。一人では無理だろう?」
「きれいになんて」
「綺麗な髪じゃないか」
わずかに波打つ柔らかな黒髪だった。ルムは動かなかった。ルドガーはうながして、彼女を通路の端に仰向《あおむ》けに寝かせた。髪が水面に触れ、ゆっくりと扇のように広がった。
ルドガーが水の中に立って、絡みを丁寧にほどいてやると、やがてルムは顔を押さえて嗚咽《おえつ》し始めた。
ルドガーは何も聞かなかった。だが幼い彼女が一人でこんなところにいるわけは想像がついた。他の少女たちに、あまり品のよくない言葉を浴びせかけられているところを、何度か見たことがある。
髪を洗い終わると、それをそっと搾って、あとはルムに任せた。ルドガーは隣に座り、何か、少女の気散じになるような面白い話を聞かせてやろうとした。
なかなか思い出せず、じきに気付いた。そもそも自分はそんな話を人から聞かされたことがないのだ。知らない物を思い出せるわけがなかった。
ただ、修行に来る前の幼いころ、母からしばしば聞かされた話が、あるにはあった。それが少女のためになるかどうかはわからなかったが、とにかく話してみることにした。
「昔……」
「昔?」
「リューベックという町に、マリアンネという女の子がいた。その子のうちはお金持ちだったけれども、市の議会《ラート》の昔からの仲間じゃなかった。だから同じラートのお父さんを持つ女の子たちから、いつもいじめられていた――」
ルドガーはちらりと彼女を見た。ルムはこちらを見上げて、じっと聞き入っている。
また目を前に向けて、ルドガーは続けた。
「でも彼女は、ちっとも不幸じゃなかった。ある秘密の理由で、毎日楽しく暮らしていたんだ」
「どうして?」
間髪いれずルムが尋ねる。ルドガーは言う。
「友達がいたから」
「友達? でも友達からはいじめられていたって」
「そう、ラートの子たちからいじめられていた。たとえばある日、マリアンネが外で遊んでいると、醸しイワシの汁を後ろからかけられた。マリアンネの服は臭くなってしまった」
「まあ!」
「ルムならどうする。そんな匂いがついたら」
ルムは不快そうに鼻の頭にしわを寄せる。甕《かめ》で醸したイワシの、鼻腔《びこう》に突き刺さるような臭気を思い出したのだろう。
「灰汁《あく》でよく洗って、軽石でこすって……ううん、だめね。あの匂いはそんなことじゃ取れないわ。捨てるしかないかもしれない。でも、お気に入りの服だったら……」
「困るね」
「ええ、すごくこまるわ。私、泣いてしまうかもしれないわ。マリアンネはどうしたの?」
「真っ白な歯をした東方地中海《レヴァント》人の友達から、香りつきの石鹸《せっけん》をわけてもらって、洗ったのさ」
ルムは戸惑った鳩《はと》のように目を丸くした。
「それで、匂いは取れたの?」
「魔法のように綺麗になったらしいね」
「そ――そんな友達が、どうしていたの?」
「またある日は」
ルムの問いかけを無視して、ルドガーは続けた。
「大事にしていた毛皮のショールを、ラートの子に隠されてしまった。その晩はとても寒くて、マリアンネは風邪を引いてしまった。喉《のど》が腫《は》れて、声が出なくなるほどの重い風邪だ。ルムならどうする」
「どう、って……お薬を飲んで」
「喉が腫れて薬が飲めない」
「ああ、そうね。それなら……どうしましょう。どうしたらいいの? マリアンネは、おもい風邪で、死んでしまったんじゃないの?」
ルムはうろたえて自分の両手を見回してから、ルドガーの腕にすがりついた。その手の小ささを感じながら、ルドガーは言った。
「ロシア都市《ノヴゴロド》の青い目の友達がやってきて、よく透き通った琥珀の|お数珠《ロザリオ》を貸してくれたのさ」
「それで治ったの?」
「神様のご加護で、翌朝には駆けっこができるようになったそうだ」
「へええ……」
ルムは感心しきった様子で口を開けた。ルドガーはさらに続ける。
「雪が降ってひどいしもやけになってしまったときは、フランドルの友達があたたかい毛のミトンをくれたのさ。間違えてお母さんの大事なお皿を割ってしまったときは、マルメの友達が同じ皿をこっそりと持ってきてくれたのさ」
「お皿を割ったのは自分がわるいと思うわ!」
「そうだね、マリアンネはきちんとお母さんに謝ったと思うよ。でも、新しいお皿もお母さんにあげたんだ」
「それはお母さんも、おこれなかったでしょうね」
「そういったわけで、マリアンネが困ったときには、必ず友達が助けてくれた。もちろん、友達が困ったときには、マリアンネが助けてあげた」
「そうね、何かをもらうよりも、あげるほうがうれしいものね」
「ルムはそうなんだね」
「そうよ、何かをあげてよろこんでもらえるのは、とてもうれしいわ! ……そういうことって、あまりないのだけど」
肩を落とすと、ルムは長々とため息をついた。
「いいなあ……! 私にもそんなにお友達がいればいいのに」
そしてルドガーを見た。
「マリアンネのお城には、どうしてそんな友達がいたの?」
「お城じゃないんだ、町なんだよ、リューベックは」
「町なら、レールにだってあるわ」
「城下町じゃなくてね。君侯さまのいない、自由都市だ。港があって――レールよりずっと高い岸壁があるんだよ――大きな船が一日に何隻も出入りして、遠くの友達を連れてきてくれるんだ。外国の友達は、マリアンネのお父さんの身分なんて気にしない。だからマリアンネは、いじめられても、毎日楽しく暮らすことができたのさ」
「そういう町があるんだ……」
遠くを見るような目で、何度もうなずいたルムが、ふと言った。
「それで、マリアンネはどうなったの?」
「……カンディンゲンというお城の騎士に、お嫁入りしたよ」
「あら、それじゃあ……あなたの」
「母上さ」
「そういうことなの。あなたのお母様は、町が好きだったのね」
「そのようだったよ」
「わかるわ、とても」
ルムはうなずき、やがて目尻を拭いて名乗った。
「……エルメントルーデです。ルドガー、楽しい話だったわ」
そう言うとエルメントルーデは、自分がここにいたわけを話したのだ。黒髪が示す南方の血統を、華麗な金髪を持った別の貴族の娘たちに、ひどくからかわれたからだ。それで、伯爵の一族しか知らないここへ降りて、隠れていたのだ。それはルドガーの想像した通りだった。
それ以来、二人は井戸の外でも会うようになったのだ。
いま、四年後の中洲の村で、エルメントルーデがルドガーにささやく。
「……私、ほんとうのことを言うと、ここへ来たときはまだルドガーさまのことを信じていなかったの」
「そうなのか?」
ルドガーは驚いてエルメントルーデの肩を押し離す。娘はうなずき、すぐ首を横に振る。
「とにかくお城から出られればよかったの。あなたのことは楽しい人だと思っていたけど、顔を知らない他の方のところへ嫁がされるよりはまし、ぐらいのつもりだったわ。でも、今まで一緒に暮らしてきてわかりました。あなたはお母様の思い出をここに、あらわそうとなさっている。そんな方、他にはいません」
「ルム……」
「私は……」
わななく細腕をルドガーの首に回して、エルメントルーデはとうとうその言葉を口にした。
「あなたをお慕いしています。どうかほんとうの妻にして!」
その瞬間までルドガーは、自分を抑えられると思っていた。五つ年下の少女がどんなに自分の心をかき乱そうと、今まで可能だったように、騎士としての理性の力で平静を保てると思っていた。
できなかった。エルメントルーデの体を腕の中にすっかり収めて、愛《いと》しさとともに抱きしめていた。
「ルム、おれもだ」
「ほんとう? ルドガーさま、ほんとうに?」
「本当だよ。おれも、君が来てからの三ヵ月で……」
「ああ、嬉しい! ルドガーさま」
かたく抱きしめあった二人の耳に――コホン、と咳払《せきばら》いが聞こえた。
エルメントルーデが驚いて離れようとしたが、ルドガーがその肩を、焦らなくていいというように押さえ、かばいながらゆっくりと振り向いた。
少し離れた立ち木の陰から現れたのは、髪を高く結い上げた男装の女だった。ルドガーはやや力を抜く。
「レーズ……」
「レーズ? 誰なの、ルドガーさま」
二人の女が顔を合わせるのは初めてだ。ルドガーはひとまず、一番無難な説明を選んだ。
「モール庄にいた女だ。いろいろ頼りになる」
「頼りに……?」
エルメントルーデは不安を隠せない様子だったが、ルドガーの腕を一度強く握り締めると、口元をきゅっと結んで背筋を伸ばした。前に出て言う。
「い、今のは私が勝手にしたことです。ルドガーさまが誘惑されたわけではありませんからね」
「ルム、落ち着け」
ルドガーは娘をいさめたが、抑えた笑い声を聞いてレーズに目を戻した。精霊の女は目を細めて含み笑いしながらやってくると、間近からエルメントルーデの頭に顔を近づけ――この女のほうがこぶしひとつ分、背が高い――形のいい鼻をひくひくと動かした。
「ひっ」
気味が悪そうにのけぞったエルメントルーデの前で、レーズがちらりと首をかしげた。
「やっぱり、匂う。ごくごくわずかだけど……」
「に、匂う? なんのこと?」
「おまえは――」言いかけて、ようやく、ルドガーの厳しい眼差しに気付いたらしかった。不承不承といったていで膝を突き、顔を伏せたまま言う。
「エルメントルーデお嬢様にものをお尋ねする無礼をお許しください。この半年余りに、ラルキィ≠名乗る何者かに、お近づきの栄を賜ったことはございますでしょうか」
意外に丁寧な口上だった。ルドガーは彼女を少し見直し、エルメントルーデにささやいた。
「答えてやってくれないか。彼女は悪いものじゃないんだ」
「はあ、ルドガーさまがおっしゃるなら……。その、ラルキィとやらに心当たりはありませんけど」
「では、いかほどの方々とお会いになりましたか」
「数えきれません。お城には多くの人がいらしていましたから。半年というと五月の降臨祭まで入るのかしら? それならば、デンマークの宰相さまやケルンの大司教さまのいらっしゃった、大きな馬上試合の観覧会があったわ」
「……とうていわからない、ということですね」
レーズは深々とため息をついた。ルドガーは声をかける。
「残念だな、見つからなくて」
「そうでもないわ。少なくとも、この時代の、この世界のどこかに、それらしき者がいることはわかった。これはとても大きな収穫よ」
「それが収穫なのか?」
「この時代におらず、この世界にいないのに、待つこともあるのよ。私は」
レーズの横顔に、一瞬、奇妙な表情がよぎったような気がした。それは――。
警戒?
警戒でないとしても、何か敵意に近いものだったように見えた。ルドガーは違和感を抱く。ラルキィとは、彼女の伴侶《はんりょ》になるはずの異性のはずだ。その手がかりが得られたのだから、喜んでもよさそうなものだが……。
顔を向けた彼女は、いつもの腹に一物ありそうな笑みを浮かべていた。
「ところで、私が来たのは、お嬢様の香りをかがせていただくためじゃないわよ」
「もっと言葉を慎めないのか、おまえは……」
「ふふ。南の方角から蹄《ひづめ》の音がする。乗り方からして、多分騎士」
ルドガーとエルメントルーデは、はっと顔を見合わせた。
カンディンゲンのほうから騎士が来る。
それがいい知らせであるとは思えなかった。
レーズスフェントの宿坊前にやってきた騎士が、馬上から広場を見回した。黒のマントと帽子をまとい、鈍く光る使い込んだ騎槍を、これ見よがしに鞍上《あんじょう》に横たえている。巨体ではないが体格がよく、力がありそうだ。深みのある金色の巻き毛を伸ばしており、顔立ちは厳しい。精悍《せいかん》と言うべきか、峻厳《しゅんげん》と言うべきか。
広場の人通りはさほど多くない。やましいことのある者はさっさと逃げてしまったからだ。残りは物陰から様子をうかがっている。
ルドガーは一人で彼の前に立って、出迎えた。
「ご無沙汰しています、兄上」
「達者にしていたか、ルドガー」
長兄、フォスが鷹《たか》のような険しい目で見下ろした。ルドガーは内心の緊張を隠して、微笑しながらうなずく。
「おかげさまで。兄上もお変わりはございませんか」
「主のご加護だ、大事ない。おれも、コンラルドも、父上もな。たまには帰ってこいよ、ルドガー」
口の端を吊《つ》り上げてフォスは笑う。次兄コンラルドは魅入ってしまうような明るい微笑み方をするが、フォスの場合ははっきり威嚇だとわかる。
「忙しいのはわかるがな。いろいろやっているそうじゃないか」
「いえ、たいしたことはしていません」
「とぼけるな、知っているんだ。おれや父上の前で話したあのことを、場所を移して始めただろう。あの貧しかったモール庄をここまで育てたとはたいしたものだ。脱帽するよ」
「何のことかわかりませんが、過分なお言葉です。村が栄えているのは村人の努力のおかげです」
「町、だろう? もうここはレーズスフェントという新しい町になったんだよな」
「モール庄です。賊が襲ってきたので避難しただけです。燃えた村を取り片付け、死体の穢《けが》れを清めたら、きっと岸辺に戻るつもりです」
「それはいつになる。ん?」
「……」
「それに、おかしな顔ぶれがずいぶんいるようだ。橋の門番をやっていた夫婦もの、あれは城の近くのドレ村の二人じゃないかな」
「存じませんでした。どういうわけか荘園に潜り込む者が多くて、把握しきれないのです。きっと捕まえて送り返します」
「いま、やったらどうだ? ――できないか? まあそうだろうな。それに、いま門へ戻っても、とっくに姿を消しているだろうしな。どうだ、人を使って二人を狩り立てたら。おれならそうするが」
ルドガーは口を閉ざす。フォスが何を言ってこようとも、公然とレーズスフェントの存在を認めるわけにはいかない。それを言えば反乱になる。まだ早すぎる。
ルドガーの背後に、人々が集まってきた。グリンやナッケル、ヨハンなど、元々モール庄に住んでいた人々だ。礼儀正しく頭を下げ、だが目には硬い光をたたえて、フォスを睨みながら、ルドガーを守るように立つ。
フォスが口の端で笑った。
彼は強靭《きょうじん》な手首をほんのわずかに動かしただけで、長い騎槍を巧みに持ち上げ、ぐるりとルドガーの胸に向けた。周囲の者がいっせいに身構える。ルドガーは、柳の葉のように尖った穂先を胸に当てられても、じっと立っていたが、兄の馬が猛《たけ》ってひづめを進めて来ると、押されるように数歩、下がった。
フォスは馬の腹を膝で挟み、槍の柄をがっしりと脇に抱え込んでいる。馬が跳ねれば、その力が即座に穂先へ伝わる体勢だ。
「見え透いた芝居はそこまでにしろ、ルドガー」
彼の声には、もはや親しみの名残すら含まれていなかった。瞳には冷たい嫌悪の光が浮いている。
「おまえはここを町に育て、フェキンハウゼン家の支配を受けない自治都市にしようとしている。そうだな? とぼければ刺す」
ぐいと肋骨《ろっこつ》の間を突かれ、ルドガーは仕方なくうなずいた。
「そうか」
次のフォスの言葉は意外なものだった。
「おまえ、おれと交替する気はないか」
「……なんですって」
「おれがこの地の荘司をやる」
目を見張るルドガーに向かって、フォスは驚くべきことを告げた。
「おまえが父上に薦めたようなことは、ずっと前からおれも考えていたんだ。父上は頭が固い。昔ながらの方法が一番いいと思っている。だが、おまえも知っているように、現実は違う。いまの世の中で力を持っているのは、土地ではなく金だ。領民を縛り付けて搾り取るよりも、あるていど動かして品物を売り買いさせたほうがはるかに儲《もう》かるんだ。都市を作った領主が一帯を制する。ツェーリンゲン公がフライブルクを作り、ホルシュタイン伯がリューベックを作ったように。だからおれは父上のご機嫌をうかがいつつ、開市特権状《ハンドフェステ》を取れる機会を待っていたんだ。――それなのにおまえが、先を焦るような真似《まね》をして、台無しにしてしまった」
フォスはにやりと凄みのある笑みを浮かべた。
「だが、ここまで育てるとはよくやったものだ。この調子で二年ももたせれば、地の利もあることだし、いっぱしの自衛力を備えた町になるだろう。おれならそれまで、この町を采配《さいはい》することができる。だからルドガー、おれにこの町を渡せ」
ぐい、とルドガーの胸を小突くと、フォスは周りの村人を見下ろして、声を高くした。
「よく聞け、領民ども! ――おまえたちのうち、まともな通行証や鑑札を持っている者が、十人に二人にも満たないことは、よくわかっている。本来なら捕縛して、罰金、鞭打《むちう》ち、所払いの刑に処するところだ。しかし、おれはそれを免除してやる。出身や、職分のことは、当分問わずにおいてやろう。その代わり、おれに従え。おれを新たな荘司と認め、忠誠を誓え!」
そう言うとフォスは、空いている左手でマントの隠しから貨幣をつかみ出し、かたわらの地面に音高くばら撒《ま》いた。三、四人、普段から物乞《ものご》いや屑《くず》拾いをしているような者が、物陰から飛び出して、貨幣の取り合いを始めた。ルドガーを囲むモール庄の人々も、ほとんど反射的に足を踏み出してしまい、かろうじて踏みとどまった。
村人たちが怯えたように振り返り、ルドガーを見つめた。グリンのような年配の男まで、無言の催促を込めたような眼差しを向けてきた。彼らの気持ちが手に取るようにわかった。
あなたは何を与えるのか、と尋ねているのだ。
領民の忠誠を無条件で要求できた時代は、とうに終わった。今の民草は、面を伏せながら腹の中でしたたかに計算をしている。誰に従うのが得か。損と出れば彼らは離れていく。
ルドガーは唇を噛《か》んでいた。自分が人々に何かを与えているという自信はある。しかしそれはきわめてわかりにくい。
手でつかんで、ばら撒けるようなものではないのだ。
「ルドガーさま……」
誰かのささやきが聞こえた。引き留める方法が思い浮かばない。
「ルドガーさま――お許しを」
そうささやいて、一人の村人が足を踏み出した。フォスの前にひざまずくつもりだと悟って、ルドガーは止めようとした。
「待って」
女の声が響いた。皆が振り向いた。
真っ赤なローブ姿の女が、シャリシャリと涼しい音を振りまきながらやってきて、フォスのかたわらに立った。褐色の額が、緊張で汗ばんでいる。その女は両手を胸に当てて礼をしてから、口を開けた。
「あんたに聞きたいわ。あたしのような異教徒の流れ者がここにいたいと言ったら、どうしてくれるの」
声が少しかすれていた。ルドガーは驚きのあまり口を挟めない。自分が異教徒だと公言するとは、捕まえてくれというようなものだ。
「異教徒か。そういえば、異邦人も集めると言っていたな」
フォスが辺りを見回して、面白そうに言った。
「ここには確か、司祭がいなかったな。だからこういった者がのさばるのだ。いいだろう、もしおれが荘司になったら、すぐにでも司祭を呼んでやる。どうだ、おまえたち」
そう言うと彼は女に目を戻し、吐き捨てるように言った。
「目障りだ、さっさと消えろ」
「ごめんだね。あたしはここにいるって決めたんだ」
フォスが目を細めた。騎槍を、鞍《くら》の横の掛け金に下げる。
右手を剣の柄にかけた。
「待った待った、騎士さん、待った!」
そのとき、今度はひと目で司祭とわかる剃髪《ていはつ》姿の男が走ってきて、ローブの女の前に回りこんだ。両手を広げてかばう。
「いけまへん、この人は斬《き》らんといてください。確かに今んところは異教徒やけど、わしがきっと改宗させますよって」
「今度は坊主か。のけ、流れ者の分際で」
「いやあ、流れ者やおまへんで。わしはモール村の人たちに、いてくださいてきっちり頼まれた司祭ですわ」
「減らず口を叩くな、そこをどけ!」
「どきまへん!」
司祭は引きつった顔でフォスを睨む。フォスがとうとう剣を抜き、振りかぶった。
それを見たルドガーは、叫んでいた。
「やめてください! その者たちはレーズスフェントの民です!」
自分の口にした言葉に、自分で打たれた。レーズスフェントの民? それが、兄に刃向かう理由になるのか。
――なる。
「兄上――」
ルドガーは剣を抜き、アロンゾ司祭の前に出る。
「お引き取り下さい。その者たちは私の民であり――あなたはそれに剣を向けられた」
抜いた剣を、ルドガーは兄に向けた。
「ならば私は、こうするしかありません。私が皆に与えるのは、それです」
「血迷ったか、ルドガー!」
「いいえ。私が言ってきたのは、最初からこういうことだったのです。兄上、あなたに町は作れません」
「なんだと……」
フォスの目に、強い憤りの光が宿った。握った剣を馬上から振り下ろす。
そのとき、どこからともなく飛来した石が、馬の眉間《みけん》を強く打った。馬はいななきながら棹立《さおだ》ちになる。
「何事だ!?」
フォスは驚いて剣を落とし、馬首にしがみつこうとしたが、こらえきれずに落馬した。ルドガーはその機を逃さず、躍りかかって押さえつけた。
「兄上」
「放せ!」
「兄上! お引き取りください。我々は、あなたがたの助けがなくてもやっていけます」
「きさま、よくもこのような大それたことを――」
罵言《ばげん》を吐こうとしたフォスが、言葉を切った。ルドガーは顔を上げて周囲を見る。
村人たちがすっかり周りを取り囲んでいた。モール庄の出身ではない者も大勢いる。
加勢してくれるのかと思ったが、すぐにそうではないことに気付いた。どの顔にも強い戸惑いが表れている。せわしなくルドガーとフォスを見比べる者もいる。どちらについたらいいか、迷っているのだ。
ルドガーにつけば新しい住処を得ることができるかもしれない。しかし彼にはなんの後ろ盾もない。
フォスにつけば領主の咎めを逃れられる。だが彼に慈悲を期待できるとは思えない。
揺れる天秤《てんびん》のような、微妙な均衡。
それを崩したのは、一人の少年の声だった。
「フォス兄上、おあきらめください! レーズスフェントの主はこのお方です。あなたの出る幕ではありません!」
「なんだと……」
身を起こして声の主へ目をやったフォスが、悔しげなうめき声をあげた。
「エルメントルーデ姫か」
ルドガーがそちらを見ると、リュシアンをともなったエルメントルーデが姿を現していた。何があるかわからないので、隠れているよう言ったのに。
リュシアンの目配せを受けたエルメントルーデが、そばへ来て言った。
「フォスさま、ご無沙汰しております。七年前、あなたの騎士叙任式でお目にかかって以来ですわね。……もっとも、失礼ながらわたくしはあなたのお顔を覚えていないのですけれど」
「……」
いまいましそうに目を逸らすフォスのそばで、エルメントルーデは続けた。
「この村、いえ、この町は、わたくしがルドガーさまに頼んで、面倒を見ていただいているのです。フォスさまのお申し出はとても嬉しく思いますけれど、二人の荘司は無用ですわ」
今にも兄が呪詛《じゅそ》を吐くのではないかとルドガーは思ったが、彼はやはり騎士だった。
「放せ」
ルドガーがためらいながらも放してやると、フォスは起き上がってほこりを払い、エルメントルーデの前に片膝を突いた。
「お見苦しいところをお目にかけてしまい、申し訳ございません。姫がお治めになっているとは知らず、無礼を申しました。お許しを」
「ええ、許しましょう」
「ありがとう存じます。しかし、ひとつお伺いしたい。――このことは、ルプレヒトさまもご承知なのですか」
エルメントルーデは口を閉ざす。ルドガーには彼女の葛藤《かっとう》がわかった。機転を利かせて助け舟を出した彼女も、父親の名で嘘をつくことまではできないのだろう。
沈黙から、フォスは意味を読み取ったらしかった。だが口に出すことはしなかった。
「おいとまします。あなたとあなたの治める町に、大きな幸のあらんことを」
あくまでも礼儀を保ったまま、フォスは立ち上がり、馬に乗って去っていった。
「やるねえ、あんた!」
「さすがは荘司さんやね」
ロマのシャマイエトーとアロンゾ司祭が感激の面持ちで抱きついてきたが、ルドガーはそれどころではなかった。曖昧《あいまい》に返事をして彼らから離れ、自分のやったことの意味を考えた。
ついに決別してしまったのだ。兄と、父たちと。
領主支配に抵抗すると、明言してしまったのだ。
心配げにささやきあう人々の間を抜けて、リュシアンとエルメントルーデがやってきた。弟が耳元で言う。
「兄様、とうとうやってしまいましたね」
「ああ。リュシアン、覚悟はできているか」
「こんなに急になるとは思いませんでしたけど――エルメントルーデさまがお覚悟なさっているんです。今さら退《ひ》きはしません」
少女に目をやって、リュシアンはうなずいた。その眼差しに、単なる崇敬以上のものがあるのをルドガーは見抜いた。
リュシアンは言う。
「フォス兄上たちは、今度は軍勢を率いてくるでしょう。こちらには何も準備ができていません。早急に手を打たないと」
「ああ。ここまで来たら、もう開市特権状《ハンドフェステ》なしでは済まされんな」
先ほどはエルメントルーデが口先でその場をごまかしたが、あれが通ったのは不意打ちだったからだ。エルメントルーデがこの町の主《あるじ》でないことは、父のルプレヒトに問い合わせればすぐわかることだし、フォスはこれから必ず問い合わせるだろう。
それによって、レーズスフェントは非合法な集落だと断定されることになる。
ルドガーのしたことは、そのままでは世界を敵に回すことになってしまう、挑戦だ。今の世は、厳格な忠誠の法則に基づいて構築されている。すべては神の御心に添う形で在り、在らねばならないと規定されている。ルドガーの君主の君主、至高なる神聖ローマ帝国皇帝その人でさえ、帝冠を戴《いただ》くにはローマへ赴き、教皇の手でそれを授けられなければならない。
神は法に従えと人に言ったし、数々の法が効力を持つのも、それらが神から授けられたためだとされている。人の行いは法に外れてはならない。何事であれ、おおやけにことを起こすためには、必ず法が必要だ。
開市特権状《ハンドフェステ》は都市の境界や権利を定めた文言であるが、それ以上に、世の人々に対して都市の存在を公認させるための武器なのである。それを掲げる者には、多くの人々が従う。逆にそれがなければ、どれだけ権益や報酬をばらまいても、しょせんは私人の非合法な虚言だとしか受け取られない。まともな人間は従わないし、集まってこない。
だから、レーズスフェントには開市特権状《ハンドフェステ》が必要なのである。
ただそれは、短期的には領主の力を削ぐため、願ってもなかなか手に入らない。ルドガーが召喚に応じず、時間を稼いでいたのは、そのためだった。レーズスフェントの実力を蓄え、少しなりとそれが生み出す利益を示せれば、後追いの形で開市特権状《ハンドフェステ》を得られると考えたのだ。
そのような機会は、しかし、与えられそうもない雲行きだった。
だが、話を聞いていたエルメントルーデが、口を挟んだ。
「ルドガーさま、差し出るようですけど……その開市特権状《ハンドフェステ》、私から父上にお願いさせてくださいませんか」
「ルムが?」
「ええ。いくら実の娘の頼みでも、簡単に出していただけるようなものでないことはわかっています。でも、レーズスフェントが栄えるのは父上にとってもよいことになるはずでしょう。理を尽くしてお願いすれば、きっと……」
「嬉しい申し出だが、どうやって頼む? ことがことだし、いい加減な使者を立てるわけにはいかない」
エルメントルーデが硬い顔になったので、ルドガーも察した。彼女自身がここを離れて嘆願に行くのが、一番いい。しかし、一度戻ったら二度と来られるかどうか。
どちらも、言い出せなかった。
すると、まるで二人の気持ちを察したかのように、リュシアンが言った。
「僕が行きます。姫、お手紙を書いていただけますか」
「リュシアン……」
「僕なら、兄様の代理として見劣りしない身分です。きっと伯爵に承知していただいてきます」
弟の頬は紅潮している。エルメントルーデのことを意識しているのがはたで見ていてもよくわかった。
ふとルドガーは、様子を窺《うかが》っている周囲の人垣の中に、宿坊から出てきた赤毛の娘がいるのに気付いた。彼女の眼差しがリュシアンに向いている。――しかし彼は毛ほども気付いていないようだった。
「どうですか」
リュシアンに重ねて聞かれて、ルドガーは彼の顔に目を戻した。十七歳の少年に、そんな重責が務まるだろうか? しかし、今は他に手がない。
「よし、頼む。できるだけ急いでレールへ向かってくれ。なんならグルントを使ってもかまわんぞ」
「乗馬を練習しておくべきでしたね。失敗したな」
リュシアンは馬に乗れない。恥じ入る彼を見て、ルドガーはちょっと笑った。
それからルドガーは、周りをぐるりと見回した。
広場の空気が変わったような気がした。まがりなりにも町としての活気が満ちつつあった、今までの「生きた」空気とは違い――せわしない、不穏な気配が漂い始めたようだった。それはどこから来るのかと言えば、まだ日があるのに店を畳み始めた行商たちや、物陰へ引っこんで興奮した様子で議論を始めた村人たちが、かもし出しているのだった。
モール村の人々が、グリン村長を中心に話し合っていた。ルドガーは声をかける。
「村長」
「ああ、ただいま。――話はまとまりましたか、荘司さま」
「ああ、エルメントルーデ姫が、お父上に開市特権状《ハンドフェステ》を請願してくださる。きっと許可が出るだろう」
「……それしかないでしょうな」
グリンはほんのわずかに考えただけで、穏やかにうなずく。実際にはそう簡単なことではないが、それ以上の手がないことをわかっているようだった。
続けてルドガーは指示を出す。
「今からただちに、村人全員に声をかけて、モール村のほうに残っている財産をすべて中洲へ引き上げさせてもらいたい。それが済んだら、籠城《ろうじょう》の支度を始めよう」
「戦にするおつもりか」
ささやきあっていた人々が静まり返る。ルドガーはわざと軽い口調で答える。
「向こうがその気になれば、な」
「籠城は、とてもつらいものです」
グリンが何かを思い出すように目を閉じる。彼が騎士として城に籠《こも》った経験があることを、ルドガーは思い出した。それでも言うしかなかった。
「じゃあ、逃げるか? 村を焼いて作り直した、この町を捨てて」
グリンが面食らったように目を丸くした。村人たちが顔を見合わせる。
ルドガーは少し調子に乗り、にやりと笑ってみせた。
「次はどこの中洲にレーズスフェントを作ろうか?」
「……はっははは! そんな苦労は願い下げですな」
破顔した村長が、村人たちに向き直って言った。
「ようし、みんな。せいぜいここで頑張ってみようじゃないか。まずは宿坊でみんなに知らせよう。ルドルフ、畑の連中を呼んで来てくれ。ナッケルとヨハンは今すぐ袋を集めて、隣村へ買出しに行け。それと今日からは、昼夜を問わずに物見台に人を上げるぞ」
村人たちは、他にいくところがないという事実を思い出したようだった。まだ不安そうな面持ちではあったが、ともかくも宿坊へ向かった。
村長に片手を挙げて、ルドガーはまた辺りを見回した。作戦を話し合う前に、まだやることがあった。
「エルス、ヴァルブルク! いるか、どこだ!」
大声で呼ぶと、痩《や》せ男と大男が教会の陰から現れた。ルドガーは尋ねる。
「どこにいたんだ。さっきはおまえたちの手を借りたい場面だったのに」
「へへ、すいやせん。川に魚籠《びく》を取りに行ってまして」
料理番の痩せ男は揉み手をして謝る。確かに彼のタイツは膝まで濡れ、毛の内着《ダブレット》の前にはキラキラ光る鱗《うろこ》が何枚かついている。ヴァルブルクは相変わらずの無言だ。
「まあいい、ちょっと来い。おまえたちにも頼みたいことがある」
「へえ、なんなりと」
ルドガーは二人を連れ、広場から街道の脇道へ向かった。自分の小屋の前を通り過ぎ、突き当りのくぼ地へ向かう。
草に埋もれていた古代の泉は、降り口に石段を組んで、今では村人の水汲み場にしてある。奥の石壁の前で、ルドガーは周りの梢を見上げた。
「レーズ、いるか」
「もちろんいるわよ」
「……なんだ、そこか」
男装の女は、別段おかしな現れ方をせず、ヴァルブルクの後ろに続いて泉の砂地に下りてきた。
だがそれは、ヴァルブルクにとっては不意打ちだったらしい。大男は巨体に似合わない素早さで振り向いた。
たいていの女が恐れて避けるヴァルブルクを、まるで立ち木かなにかのように無視して、レーズはすらりと胸を張って立った。碧《みどり》の瞳に悪戯《いたずら》っぽい光をたたえてルドガーを見る。
「目を離すわけがないでしょ。あんな騒ぎの後で」
「さっきの礫《つぶて》もおまえか」
「他に誰が?」
くすくすと涼しげな笑い声を、レーズは上げる。フォスの馬を驚かしたあの一発がなければ、ルドガーはおそらく斬られていた。礼を言うべきところだったが、ルドガーはそんな気になれなかった。礼など水臭い、と感じる。
この女には腹の内を隠せないし、隠す必要もない――そういう不思議な気持ちが、あの水に沈められたとき以来、ずっと続いている。エルメントルーデに対する愛しさとはまた違う、奇妙にさっぱりした親しみである。
「おまえしかいないだろうな。泉の精め」
「あら、悪魔扱いはやめたのね。どういう風の吹き回しかしら。それとも私に惚《ほ》れ直した?」
「直していないし、一度も惚れていない。人前で悪魔悪魔と呼ぶわけにはいかんだろうが」
「ううん、人前か。この者たちはきみの召使いだと思ったんだけど、注意しなければいけないの?」
レーズは二人に流し目をくれる。エルスがうつむいたのは、緊張したからか。いろいろと能のある彼らも、ことレーズについては、村のほとんどの人間と同様、何も知らないはずだ。
ルドガーは、まだ彼らに話を振らず、レーズに言った。
「確かめておくが、おまえはフォス兄上ではなく、おれに味方してくれるんだろうな」
「彼は男前だったわね。多少料簡が狭いけど、あれだけ押し出しがよければ、どこへ行っても通用しそう。一緒に旅をしてみたいわ」
「したければ勝手にしてこい。しかし斬られるのが関の山だろうよ。兄上は敬虔なお方だから」
「そう、残念だわ。しょうがないから、きみで我慢してあげる、騎士さん」
「光栄だ、精霊。では、ちょっと手を貸してくれ。兄上の密偵を二人、捕まえなければならんから」
ルドガーがその台詞《せりふ》を口にした途端、エルスがびくりと肩を震わせた。ヴァルブルクが舌打ちして目を逸らしたが、その一瞬の動揺を、ルドガーは見抜いていた。
レーズが薄笑いを浮かべて言った。
「やっと気付いたのね、ルドガー」
「知っていたならもっと早く教えろ」
「それぐらい、自分で気付いてほしくて」
「今までは、誰の手の者かわからなかったんだ。しかしさっき兄上がロマの女を見たとき、異邦人がどうこうとおっしゃった。この村では、誰もそんなことを兄上に教えていないはずだ。それで兄上が密偵を使っているのだとわかった」
ルドガーはエルスに目をやって言った。
「おれがあのことを口にしたのは、ハインシウス先生がいらしていた時の一夜のみだ。まだよそ者は居ついていなかった。あの晩、どちらが立ち聞きしていたんだ。おまえか? エルス」
「いや坊ちゃん、そう言われてもなんのことだか……」
「翌日の夕方には戻っていたな。一日でカンディンゲンまで往復したとは、ずいぶんご苦労なことだ。あとで村人を一人送って確かめたんだよ、あの日、おまえが城下にいたことを」
「……そこまでばれてちゃあ、しょうがないですね」
エルスが言い、懐剣を取り出した。ヴァルブルクは腰を落として左右の拳《こぶし》を構える。ルドガーもそれに合わせて体のばねを溜めながら、言う。
「これからおれだけのために働いてくれるなら、水に流してもいいんだぞ。おまえもヴァルブルクもずいぶん役に立ってくれた」
「そうはいきませんや、仲間内のしきたりってやつでね。あいすみませんが坊ちゃん……これで終わりです」
そう言うなり、エルスは懐剣を腰だめにして、突きかかって来た。ルドガーは剣を抜き、ヴァルブルクの動向に気を配りつつ、息を止めてエルスに切りかかった。
体重を乗せた強い斬撃《ざんげき》を打ち下ろす。無手の農民なら一撃で切り伏せているところだが、エルスは巧みに転がって避けた。地面近くから蛙《かえる》のように飛びかかってくる。ルドガーは手首を翻して、切り払う。
エルスはとっさに飛び退《しさ》って、それも避けた。避けながら足元の砂を蹴り上げる。並の騎士ならそれを目に浴びてうろたえただろうが、ルドガーは最初から目潰《めつぶ》しを予想していた。腕で顔をかばいながら下がって間合いを取る。
エルスは片手にいっぱいの砂をつかみ、正確にルドガーの顔へ向かって投げてから、再び突っ込んできた。卑怯《ひきょう》で、手慣れたやり方だ。ルドガーは一瞬、立ちすくむ。
目を閉じる寸前、勝ちを確信したエルスの、こわばった笑みが見えたような気がした。
ルドガーは目を閉じたまま、ほとんど伏せるように身を投げ出し、地を掃くように剣を振った。
ざっくりと手応《てごた》えがあった。目を開けてそちらを見ると、エルスが左のすねを押さえて倒れていた。うめき声をこらえていたが、じきにおうおうと喚きだす。押さえた手の間から流血が始まり、泉の砂を赤く染めた。
騎士の剣は、鎧をまとった相手を倒すために、片手剣としては重く、鈍く作られている。切り口はきれいではない。ひどい苦痛だろう。
「おまえは騎士を相手にしたことがあるんだな」
ルドガーは立ち上がりながら言った。エルスが目に涙を浮かべて睨む。
「だが、おれも盗賊を相手にした経験があるんだ。降参か?」
エルスは悔しげにうなずいた。
ヴァルブルクに割り込む間を与えずに、まずは一人倒した。誇ってしかるべきところだったが、レーズが水を差した。
「今のきみは、土下座そっくりだったわね!」
ルドガーは顔をしかめた。この精霊のあけすけな言い方は、ことのほか気に障る。
「城の朋輩《ほうばい》にもそう言われたよ。おい、手伝ってくれないのか」
「騎士なら自力でなんとかなさいな。隠密の一人や二人ぐらい」
冷たいことを言って、レーズはふわりと後ろに飛び、泉を囲む崖《がけ》に腰かける。そこで静観するつもりらしい。ヴァルブルクはそんなレーズが理解できないらしく、彼女とルドガーの両方にせわしなく目を注ぐ。ルドガーは声をかけてやった。
「ヴァルブルク、こっちを向け。その女は手を出してこない」
「……飛び道具を持っているかもしれない」
「そういうこともしない。おまえたちには一生理解できんよ。さ、どうする。降参するか」
彼は素手だ。斬りかかるわけにはいかない。剣を構えつつ、近づこうとしたルドガーは、彼の右腕が腰の後ろでわずかに動いたことに気づいた。
とっさに体を半身に開き、剣を顔の前に立てた。やにわに右腕を振り上げたヴァルブルクが、何かを投擲《とうてき》した。風を切って飛んできたものが、剣をかすってルドガーの右腕にドッと命中した。
「ぐっ」
見れば、鋭く重い釘《くぎ》のようなものが二の腕に突き立っていた。ヴァルブルクが二本目を顔に寄せて、険しい顔で短くささやく。
「主よお許しを、アーメン」
ルドガーは地を蹴って彼に向かって走った。ヴァルブルクが大きく釘を振りかぶった。彼の小さな両目が、まっすぐルドガーの心臓のあたりを凝視していた。
ルドガーは自分の剣を、しびれた右手から左手に持ち替えて、ヴァルブルクに投げつけた。
「ぬっ」
すでに投げる動作を始めていたヴァルブルクが剣を避けた。その手から釘が放たれ、ルドガーの腋《わき》を抜けて飛び去る。ルドガーは突進の勢いをそのままに、体当たりする。二人はぶつかって倒れ、砂の上で反転した。
「ぐあっ!」
転がった拍子に、腕に刺さった釘がこじられた。激痛が骨まで響き、ルドガーは悲鳴を上げる。ヴァルブルクが太い腕を上げ、胼胝《たこ》だらけの手のひらでルドガーの顔面を殴りつけた。脳天に衝撃が突き抜けた。
何度か殴られてもしぶとく耐えていると、ヴァルブルクは業を煮やしたのか、ルドガーの顔面をつかんで頭を砂上に叩きつけた。鼻と口が塞がれて、息が詰まる。
気が遠くなり、ルドガーは闇雲《やみくも》にもがいた。巨体を起こしたヴァルブルクがのしかかり、さらにルドガーの頭を押し付ける。呼吸を奪われ、砂にめり込ませられる。
砂を蹴りつけてえび反りになり、必死に逃れようとしていると、ルドガーの足がヴァルブルクの足と絡み合った。追い詰められたルドガーの頭に、反撃の一手が閃《ひらめ》いた。
足を宙に上げ、かかとでヴァルブルクのふくらはぎを蹴りつけた。ルドガーはブーツのかかとに、鋭く尖った鉄の拍車をつけている。それがヴァルブルクのタイツを切り裂き、足の腱《けん》を切断した。
凄まじい悲鳴を上げて、ヴァルブルクが跳ねのいた。ルドガーはすかさず彼にしがみつき、逆に砂地に押さえつけた。手の届くところに剣があった。それを拾い上げ、喉元に突きつけた。
「どうだ、ヴァルブルク!」
肩で息をしながら、ルドガーはヴァルブルクの胸板を踏みつけた。苦痛に顔を歪ませていた大男が、目の前の剣尖《けんせん》に気付いた。脂汗を浮かべて、小さく何度もうなずく。
「降参か。今後はおれに忠誠を誓うか!」
ヴァルブルクが、大きく一度うなずいた。
ルドガーは顔を和らげ、力を抜いた。
「よし、それなら……」
「坊ちゃん、お覚悟!」
声に驚いて振り返ると、エルスが負傷した足を引きずって、後ろに立っていた。懐剣を握った手が、力いっぱい振り下ろされた。
しまった――!
「違約だわ!」
「うおっ」
レーズの冷たく楽しげな声とともに、エルスの姿が出し抜けにずるりと消えた。足元の砂に引きずり込まれたのだ。
同時に、ルドガーが馬乗りになっていたヴァルブルクの巨体も、砂に沈み始めた。恐怖に目を見開いて彼が消える寸前、左手に三本目の太釘を握っているのが見えた。
巨体が音もなく埋没すると、小さな釘だけが墓標のように砂上に残された。
ルドガーは息を荒げながら、しばらくその砂を見つめていた。唐突すぎて、戦いの終わった実感がなかった。
そっと精霊の女に目をやると、彼女は愉快そうな半眼で砂を見下ろしていた。ルドガーの視線に気付くと、やや表情を緩める。
「あなたは沈めないわよ」
「気まぐれでそういうことをするな。気分が悪い」
「気まぐれじゃないわ、騎士が本分を果たしたから。助けてあげたのよ」
「なら最初からそうしろ。レーズ」
剣を収めて、ルドガーは女を軽くにらみつけた。
「力を見せ付けるような真似をされるのは、正直に言って不愉快だ。おまえが信じられなくなる」
「だから今のは、あいつらが自分から誓約を破ったからで――」
「それでもだ。何かするときは、おれに言ってくれ。いいな?」
レーズは口を閉ざしてルドガーを見つめた。整った大人びた顔に、らしからぬ表情が浮いている。
ふとルドガーは思った。――意外とこの女は、子供じみているのかもしれない。
「……わかったわ、人間は怖がりだものね。でも今の二人は、別に殺してはいないのよ」
「なんだって?」
ルドガーが聞き返すと、レーズは崖から飛び降りてそばにやってきた。かがんで両手を砂につく。
次に起こったことに、ルドガーは息を呑んだ。彼女もまた、ずぶずぶと砂の中へ沈みこみ始めたのだ。
沈みながら、女は愉快そうな目でルドガーに言った。
「せっかく使えそうな人間が手に入ったんだもの。殺してしまうのは、惜しいじゃない?」
「やっぱりおまえは……」
悪魔じゃないか。そう言う前に、レーズは砂の中へ姿を消した。
長くはかからなかった。ルドガーが右腕の釘を自分で抜いて、汚れた血を絞り出していると、小さな水音を立てて泉に人影が浮かび上がった。気を失っている二人をレーズが岸辺まで引きずってきて、放り出した。近づいたルドガーは、彼らの足の傷が塞がっていることに気付く。
「治してやったのか」
「体はね。でも心のほうには、ちょっときついお仕置きを」
不気味なことを言って、レーズがルドガーの腕を取る。何をするのかと思えば、釘の傷に唇を押し当てて血を吸い出した。柔らかな唇の感触に、ルドガーはおぞましさを覚える。
「おい、なんの真似だ?」
「じっとして。悪いものを吸い出してあげる。腐り止めよ」
そう言われて、ルドガーはおそるおそる腕を預けた。傷を受けると、別に毒草などに触れたわけでもないのに、体が腐ることが多い。斬った相手の呪いだとも言われるが、本当にそれを避けられるならありがたい。
「ん……」
レーズは頬をすぼめて血を吸い出すと、口に溜めて後ろへ吐き捨てた。それからもう一度唇をつけて、ちろちろと舌で唾液《だえき》を塗りつけた。おぞましさにルドガーは顔をしかめていたが、じきに心地よい熱さを感じ始めた。レーズも、心なしか楽しそうに見える。
それでも、ルドガーは不愉快そうな顔を保ち続けた。
やがて唇を離すと、レーズは手の甲で唇を拭《ぬぐ》って、息を吐いた。
「ふう……さ、これで悪いものは抜けたわ。ルドガー」
「本当だろうな」
「本当ですとも。疑うならもう一度傷をつけてみたら? 二度と腐りはしないから」
「そこまでする気はないが」
言ってから、ルドガーは首をかしげた。
「待て、二度と腐らない? おまえ、おれに何かしたのか」
「小さな連中[#「小さな連中」に傍点]が暴れないようにしたわ」
「小さな……?」
「人間の体の中には、目に見えないほど小さいモノたちが、たくさんいる。傷が腐るのはそいつらが暴れるからよ。だから、暴れられないように、天敵を入れたの」
ルドガーは眉をひそめて、まじまじとレーズの表情をうかがう。異端の教えを信じている者に特有の、あのどこか危険を感じさせる陽気さは、見当たらない。当たり前のことを言ったかのように、平静だ。
じっと見つめると、レーズはごまかすように手を振った。
「いえ、忘れてちょうだい。きみたちには、何のことだかわからないでしょうから」
「……ああ、さっぱりわからん。男の子種の中に小さな人が入っているという話は、聞いたことがあるが……」
「だから、忘れてってば。魔除けの清めを受けたとでも、思っていて」
実際、二度と傷が腐らないなどということは、あるはずがない。ルドガーは頭を振って念頭から追い払った。
倒れているエルスたちに目を向ける。
「さっき、心に仕置きをしたと言ったな」
「ええ、魂をじっくり検分したわ。こいつらはドイツ騎士団《チュートンナイツ》のはみ出し者よ。金で動く賤しい傭兵。今はあのフォスという男に雇われているけれど、その他には、やっかいな裏はついていない。もうこのまま使えるわ」
「本当に? 心変わりしないか」
「さあ、どうかしら?」
レーズが歩み寄って手で頬に触れると、二人はあっさり目を覚ました。が、レーズの淡い碧の瞳で見つめられると、滑稽《こっけい》なほどうろたえて這いつくばった。
「この通り。二度と背かないわよ、ルドガー」
面を伏せた二人の下に、ぽたぽたと滴が落ちている。泉の水ではなさそうだ。
この者たちは、水中で何を見せられたのだろう――あまり想像したくなくて、ルドガーは首を振った。
その日のうちに買出しの村人が出かけていき、翌朝には親書を持ったリュシアンと護衛たちが、レール城へ向かうために西のドルヌムへ発《た》った。ルドガーと村人たちは、籠城の備えを始めた。
領主が兵を集めて攻めてくるまで、ルドガーはまず十日から二週間ほどだと見積もった。収穫期が終わったばかりだから、兵や糧食の調達には不自由しないだろう。城にいくらか留守居を残すとしても、騎士十名とその従兵、それに徴兵した農兵など、合わせて百五十名はやってくるはずだ。それだけでもモール村住民の倍、男の数としては四倍にもなる。
しかもこれはフェキンハウゼン領の通常時の兵力であるから、領主が私財を投じて傭兵を集め始めたら、さらに増える。大砲や投石器《カタパルト》などの攻城兵器を買い入れるかもしれない。どちらにしろ、川を渡るために艀《はしけ》を用意してくるのは間違いのないところだ。
彼らがどんな名分を立ててくるかも問題だ。領主に背いたルドガーの非をあげつらい、ルドガーに従う者たちを神の敵と断じ、戦意が低下するように目論《もくろ》んでくるだろう。彼らはすでにエルスたちの報告でレーズのことを知っているはずだから、その名を挙げて、異端呼ばわりするかもしれない。
だが、それならまだいい。戦争のときに敵を呪うのはどこでもやることだ。
ルドガーが恐れているのは、敵がエルメントルーデの奪還を掲げることだった。それによって自分が人さらい呼ばわりされるのは、まだ耐えられる。だが、エルメントルーデに傷が付いたように扱われるかもしれないのが、つらかった。
彼女さえ望むなら、どこか他の地に送り出しているところだ。
だがエルメントルーデは、ルドガーの気持ちを聞いたあの日から、決してこの地を離れないと言い出していた。もちろんルドガーも同じ気持ちだった。
彼女のためにも、やすやすと町を明け渡すわけにはいかないとルドガーは感じていた。
レーズスフェント側の中核となるのは、ルドガーとモール村の人々で、掲げる大義はエギナ河口の開拓と、それによる領主・君主への貢献である。領主側の提示する罪状はすべて誤解に基づくものであり、領主本人が中洲へ視察に来てくれればすぐにわかる、と主張していく。もちろん、本当に来たらまた別の理由をつけて捕まえてしまうのである。だが、向こうもそうとわかっているから、わざわざ視察に来たりはしないだろう。
領主以下、城の人間をすべて捕らえることができれば、申し分のない勝ちとなる。しかしそれは不可能だ。相手は血のつながった家族であるから殺《あや》めるのは避けたいが、もしその機会があればためらうべきではない。実際のところは、どちらかがあきらめるまで粘ることになるだろう。
なにはともあれ、中洲を制圧されないことが大事である。頑強な城壁を造る時間はなかったので、ルドガーは中洲の全周に渡って、水際の木をすべて切り倒させた。切った木はそのまま水辺に並べて、柵とした。視界が開け、ある程度上陸を妨げられるようになった。ずっと内側に、短いながらもしっかりした柵を作り、そこに弓を据えて、敵を食い止めることとした。また、物見台を三つに増やした。
また、ひとつがいを残してすべての家畜を殺し、肉を塩漬けにした。生かしておいても与える餌《えさ》がないし、面倒を見る人手もない。
意外なのが、武具に困らなくなったことだ。
半年前にできたばかりのレーズスフェントという町が、戦をしようとしている――この噂が広まった途端、およそ歩いていける限りのところから、刀剣屋、鍛冶屋、甲冑《かっちゅう》師、皮革師などが集まってきたのだ。彼らが競って武器を、それも掛売りで売り込んだので、二、三十人程度の武具などすぐに揃《そろ》った。レーズスフェントが無税をうたってきた余禄《よろく》だった。
だが、高価な武具や傭兵の売り込みは、ルドガーが断った。すると彼らはたいしてこだわる様子もなく立ち去った。どこへ行くのか尋ねると、当然といわんばかりの答えが返ってきた。
「そりゃあ、カンディンゲンでさ。向こうも武具はほしいはずだからね」
彼らを見送ったルドガーは、賢明にも気付いた――戦を続ければ、ああいった連中にフェキンハウゼン領の富が吸い取られていくことになるのだと。
願わくば、ヴォルフラムたちにも気付いてほしいものだった。
もともとレーズスフェントの住人ではない、旅人や流浪の民は、いくさのいの字を聞いた途端に、雲を霞《かすみ》と逃げ出してしまった。ほんの少数は留まった。そのうち二人は、ここに骨を埋めると誓ってくれた。言うまでもなく、アロンゾ司祭とシャマイエトーである。とはいえ、さすがに楽士としての仕事はないので、二、三日は周りも彼女を扱いかねていた。そのうち自発的に泉から水を汲んでくるようになったので、自然に水汲みとしての立場ができた。
リュシアンは、出立してから九日目に戻ってきた。
話を聞くと、きちんと伯爵に会い、開市特権状《ハンドフェステ》の話までしてきたそうだった。ただ、まだ答えを聞くことはできなかった。特権を与えるのが適当かどうか、与えるとすればどのような特権か、検討してから伝えるという、一応の返事だった。
それでも、ルドガーは弟を手厚くねぎらった。
「門前払いを食わせられるかもしれなかったんだ。じかに会ってそこまでの返事をもらってきたなら上等だよ。これでみなの士気も大いに上がるだろう。よくやってくれた、リュシアン」
「ありがとうございます」
「どうした、顔色が悪いようだが」
「かなり強行軍だったので……」
リュシアンは体を丸めて震えていた。レール城までは四十マイル近くあり、関所も数多いので、普通なら行って帰るだけで十日はかかる。冬も近いこの季節、夜通し歩き続けた彼の苦労は相当なものだったろう。
「ゆっくり休め。ルムに言っておくから、面倒を見てもらうといい」
エルメントルーデの名を聞くと、リュシアンははっきりと嬉しそうな顔を見せた。
しかし彼はその後発熱し、何日も寝込んだ。
日一日と昼が短くなり、気温も下がっていった。万聖節の祝日と、それに続く死者の日がやってきた。ルドガーたちはあわただしく聖人たちに勝利を祈願し、墓へ行って古い死者と新しい死者を弔った。蝋燭の代わりに練った泥炭に火を灯し、生花の代わりに乾かした花弁を供えたその儀式が、皮肉にも、レーズスフェントで初めて司祭が正式に司ったミサになった。
「天にまします我らが父よ
願わくば我らに御名《みな》を崇《あが》めさせ給え
願わくば我らに御国《みくに》を来たらせたまえ――」
祈祷《きとう》文を先導して唱えたアロンゾ司祭が、いささかため息がちに漏らした。
「イエス様はあんたの敵を愛したれ言わはったけど、今度ばかりはそうもいかんなあ。許してくれはったらええねけど」
「司祭、司祭」
ルドガーは渋い顔でたしなめた。士気が下がる。もっと盛り上げてほしいところだ。
中洲の防備を進め、迎撃の訓練を積んでいると、日々は瞬く間に過ぎた。
十七日目に、見張りが叫んだ。
「来たぞ、大軍が来た!」
木の上の物見台に登ったルドガーが見たのは、二百名ほどの部隊だった。大軍というにはほど遠いが、このときの見張りは本格的な戦を見たことのないヨハンだったので、仕方がない。
それに二百名でも、レーズスフェントにとって脅威なのは間違いなかった。当初の予想より三割も多い。
先頭に立ってくるのは領主の旗を掲げた騎士だが、その次に黒衣の騎士が見えた。フォスに間違いない。ヴォルフラムとフォスの両方が城を離れることは考えられないから、ヴォルフラムは部隊の中にいないのだろう。つまり、こちらが要求しているように直接視察に来ることはないということだ。
攻囲軍である。
村中の人々があわてふためいて駆けずり回り、森へ出ている大人を呼びに子供たちがすっ飛んでいく。ルドガーは物見台から大声をかけた。
「落ち着け、いきなり攻めかかってくることはない! 落ち着いて外の人間を迎え入れろ!」
伯爵の使者はまだ来ない。取るべき道はひとつだろうと覚悟して、ルドガーは東の橋へ向かった。
敵の本隊に先行して数騎がやってきた。今度は白いマントを羽織った美男子とその護衛たちだ。中洲には入らず、橋の手前で留まる。橋へ出たルドガーの耳に、声が届いた。
「久しいな、ルドガー。こんな形で会いたくはなかったぞ!」
言葉とは裏腹に、そう悲しそうでもない口調で叫んだのは、次兄コンラルドだった。
二十歩ほどの距離を挟んで彼と相対しながら、ルドガーは寒風にかき消されぬように叫んだ。
「兄上、こちらへおいでください。兄上たちは誤解しておられます。我々が正しい生活を送っているのは、ひと目ご覧になればわかっていただけます!」
「よせよ、ルドガー。僕は騎士じゃないから、どっちが正しいかなんてことには興味はない。もっとも、今回は全面的におまえたちが悪いと思っているがね」
「そんなことはありません!」
「どうかな」
コンラルドはマントの中から畳んだ文書を取り出すと、封蝋を引きちぎって一気に開いた。声高らかに読み上げる。
「神と皇帝と主君の名のもとに、本書状を見る者、聞く者、および読む者すべてに告げる! 余、ヴォルフラム・フォン・フェキンハウゼンは、エギナ河口の中洲に蟠踞《ばんきょ》する者たちを、以下の理由により叱責《しっせき》する。すなわち、汝《なんじ》らは僭越《せんえつ》なる叛徒《はんと》ルドガーに[#「ルドガーに」に傍点]使嗾《しそう》され、道を誤り、真の主に背こうとしている!」
ルドガーは身を硬くした。コンラルドがその文を読み上げている相手は、ルドガーではなく、その後ろで息を潜めている村人たちであった。
「またすなわち、汝らは叛徒ルドガー[#「ルドガー」に傍点]に使嗾され、主の御慈愛の届かぬ不信心の輩《やから》を同じ土地に置いている。またすなわち、汝らは叛徒ルドガー[#「ルドガー」に傍点]に使嗾され、その名を出すのもはばかられる、恥ずべき何者かに仕えることを強いられている。
以上の行いに対する本心からの明確な改悛《かいしゅん》が認められるならば、余は汝らを許し、汝らが再び余の畑を耕すことを許すものである。しかしそうでないならば――いかなることが起ころうとも、余が責めを負うものではない」
芝居がかった口調で末尾の年号まで読み上げると、コンラルドは文書を閉じて、やってきた。ルドガーに向かって差し出しながら言う。
「今すぐ、おまえとリュシアン、それに異教徒の女が連れ立ってやってくるなら、攻撃を中止してやるぞ」
ルドガーは文書を受け取って、肩をすくめただけだった。どれひとつとして飲めるものではない。
が、何かが引っかかった。
馬鹿なやつだというように首を振って、コンラルドは退去していった。
ルドガーが中洲に戻ると、多くの人が待っていた。エルメントルーデと、昨日やっと起きられるようになったリュシアン。二人の下男と、グリンを始めとする多くの村人。アロンゾ司祭と、名指しされたも同然のシャマイエトー。行くところがなくてこの地に残った、十名ほどの流れ者たち。
そして、彼らの後ろの木の枝に、お手並み拝見と言いたげな薄笑いを浮かべて、レーズが腰かけていた。
ルドガーは、みなに向かって聞く。
「聞こえたか?」
戸惑いを見せる者はいない。全員聞こえたらしい。
「行くか?」
親指で背後の橋の向こうを指差した。今ならまだ、逃げ出すことができる。
誰も動こうとはしなかった。みな硬い表情ではあるが、ルドガーの顔を見つめていた。従うということなのだろう。ルドガーは微笑んだが、それだけでは足りないらしかった。エルメントルーデがそばに来てささやいた。
「ルドガーさま、お言葉を」
「お言葉?」
「これから何を始めるのかということを、皆に話すんです。お父様がよくやっていました」
「ああ……」
| 浮 浪 兵 《シュテルツフェヒター》を相手にしたときとは違うのだ、とルドガーは気付いた。あれは身を守るための闘争だったから、何も言わずともみなが働いてくれた。だが今回、弓を引く相手は、自分たちの主だ。みなそれぞれの理由で決心を固めつつあるようだが、全員がともにうなずけるような話を、今一度したほうがいいのだろう。
ルドガーは息を吸って、声を張り上げた。
「皆、恥じることはない。悔いることもないし、恐れることもない。おれたちは領主さまに、何度も申し上げたんだ。あなたを愛し、従いますと。けれども、領主さまは受け入れてくださらなかった。おれたちが歩くのを禁じ、再び畑に戻れとおっしゃったんだ。それではおれたちは生きていかれない。冬を思い出せ、去年の冬を。おまえたちは何をしていた?」
一同が過去を振り返るように目をつぶる。モール庄の者たちは、ルドガーが来る前の、貧しく暗い生活を思い出しただろう。他の者たちも、行くあてなくさすらっていた時のことを思い出したのだろう。
「今年の冬は、ここで暮らせる。うまい水と、敵を阻む川のある、この土地で。ここがもっと栄える土地なのは、みんな知っての通りだ。栄えれば、人が増える。増えれば、領主さまにもご恩返しができる。――わかるか、おれたちは領主さまのために、戦うんだ」
何人もがうなずいた。ルドガーは締めくくりにかかる。
「おれたちの決心が固ければ、領主さまも考えを変えてくださるだろう。それに、伯爵さまも。東フリースラント伯爵のルプレヒトさまが、もうじきお許しをくださる。レーズスフェントで暮らし、守《も》り立てろと。おれたちが戦うのは、それまでだ。決して長いことじゃない。みんなしっかり性根を据えて、頑張ってくれ。おれが最後までみなを守る」
そう言い切ってから、ルドガーは貴族の端くれとしての本能で、仕上げが必要なことに気付いた。皆は熱心に聴いている。必ず共感してくれるだろう。
剣を抜いて、高く差し上げた。
「レーズスフェントに栄えあれ!」
それを聞いた途端、グリンたちが高らかに唱和した。
「レーズスフェントに栄えあれ!」
ルドガーは笑みを浮かべ、さらにその言葉を繰り返した。人々と繰り返すうちに気持ちが昂揚し、体が熱くなっていった。
「レーズスフェントに栄えあれ!」
腹の底から叫んだあとで、ルドガーは剣を下ろした。どの顔も、楽しく踊ったあとのような興奮に包まれていた。
「ようし、戦を始めるぞ。橋を落とせ。守備の位置に付け」
意気の上がった人々が動き出すと、ルドガーも歩き出した。アロンゾ司祭が小走りにやってきて、顔をほころばせて言った。
「いや、見事なもんやったな。荘司はんは演説もやらはりますか」
「初めてなんですがね」
「初めてであれか? どうもあんた方兄弟には才能があるらしいな」
「というとリュシアンも?」
「実にご熱心や」
アロンゾはにっこりとうなずき、それから顔を引き締めて背後を見た。
「彼らも――なんでしょうなあ」
ルドガーは振り向いた。
父と兄たちの率いる軍勢が対岸に到着し、幕営を張り始めている。彼らと血がつながっていることを、アロンゾに言われるまであまり意識していなかった。兄弟に刃《やいば》を向け、赤の他人をかばう自分を、悪く言う者も出るだろうと思った。
だが、感傷はなかった。
攻囲軍は、その日のうちには攻めてこなかった。夕方までかけて付近の木を切り、念入りに宿営地を整えていた。それから全員に向かってフォスが演説するのが見えた。日が暮れると火を焚き、酒盛りを始めた。にぎやかに飲み食いし、歌い騒ぐ彼らの様子が、川越しに見えた。
ルドガーは陣地を巡って、村人たちに言って聞かせた。
「空騒ぎをしているだけだ。本当は楽しくもなんともないんだ、気にするな」
うらやましそうな顔をしていた者も、それを聞くと昔の経験を思い出したのか、苦笑しながら頭をかいた。十年前は彼らも似たようなことをやっていたはずだ。
籠城する敵の前で、寄せ手がわざと贅沢に飲み食いして見せるのは、よくある手だ。
ただ、そういうことは、もっと戦が続いて長期戦になってから、飢えた敵をさらに苛立たせるためにやるのが常道である。一日目からやるというのは少しおかしい。ルドガーは不審に思って、物見台に上がってみた。
すると案の定、酒盛りの明かりの届かない川の上流に、黒い影がうごめいているのが見えた。薄曇りで月も星もなく、きわめて見えづらい。ルドガーは当番のナッケルに聞いてみた。
「あれが見えるか。あの、木立のこんもりとしたところの下の、影が」
「ええ、ぼんやりと……ああ、あれか。はい、見えます」
「四角いものがあって、人が動いているな」
「まさしく、そう見えます」
ナッケルにも見えるというなら間違いない。艀だ。酒盛りはこちらの気を引くための目くらましだ。ルドガーはなおも艀の様子をよく観察してから、木から滑り降りて、もう一度、中洲じゅうの陣地を回った。
夜が更け、闇が濃くなり、大気が冷えきり、一番鶏《いちばんどり》が鳴いた。
まるでそれが本当に朝を呼んできたかのように、周囲がゆっくりと明るくなり始める。輪郭しかない暗闇が、徐々に白と黒に分かれていく。
そんな色のない川面《かわも》に、太い鼻息が響いた。カッカッ、と硬いものを打ち合わせる音もする。
やがて、音の源が闇の中から現れた。平たい台のようなものの上に、複雑な形の影がぎっしりとひしめいている。もうもうと白い呼気を吐いている。物音は、もうはっきり馬のいななきと蹄の音だとわかる。
人と馬だ。兵士と、騎士だ。
寄せ手をぎっしりと乗せた艀が、流れに乗って中洲の先端に近づいてきた。一隻ではない。先頭の艀の影に、二隻目、三隻目が続いている。それぞれが乗せているのは五十名を下らない。
ほとんど全兵力である。一日で片をつけるというフォスの意気込みが、そこに現れているかのようだった。
艀は流れのままに、急速に中洲に近づいていった。引き潮に乗り、勢いが付いている。そこまで考えた作戦だった。満潮ならば棹《さお》で押してもここまでの速度は出なかっただろう。
先頭の船に乗る騎士の目に、ぐんぐん近づいてくる中洲が映った。騎士は馬の手綱をつかみ直す。騎乗したままだと重心が高すぎるので、徒歩で馬を引いている。
岸辺が間近に迫った。土の上に飛び移ろうと、騎士は船板を踏みしめた。
その途端――。
空気を裂いて飛来した矢が、カッと音高く船縁《ふなべり》に突き立った。瞬時に騎士は事態を悟った。背後を振り返り、いっぱいに息を吸って叫ぼうとする。
「待ち伏せ――」
七、八本もの矢がいっせいに飛来して、彼の膨らんだ肺を、鎧ごと貫いた。
騎士は倒れた。だが、代わって周りの兵士が一斉に叫んでいた。
「待ち伏せだ、退け!」
岸辺に隠れていた伏勢がいっせいに起き上がり、矢を放ってきた。先頭の艀の兵はわずかに混乱したが、そのとき重い響きとともに船底が岸辺をこすった。意を決して彼らはしゃにむに岸辺に飛び移った。そこへ矢の雨が降り注ぎ、先鋒《せんぽう》を務める騎士とその馬たちを矢ぶすまにした。
残った歩兵たちが雄叫《おたけ》びを上げ、剣を抜いて突撃し始める。
しかし数歩も走ったところで、彼らは横木にぶつかって進めなくなり、足を取られて転倒した。折り重なって横たわる白樺の幹に阻まれたのだ。
そこへ、大声が浴びせられた。
「柵の外だ。みんな、柵の外を狙え!」
ルドガーだった。夜明けの襲撃があることを見越して、すべての手勢をここに集めていたのだ。村の男と移住者を合わせて、四十名。それらが、必死になって矢を放ち、石を投げた。
騎士は実戦であまり弓を使わない。その意味ではほぼ全員が素人だったが、距離が近かった。次々と歩兵たちの体を射抜き、顔面を割って、打ち倒していった。中で、エルスが見事な早射ちで続けざまに二人を仕留めたのが見えた。
頃合と見ると、ルドガーは再び命じた。
「よし、もう一度遠矢だ! 二隻目の艀を狙え!」
それはまだ岸辺から五十歩も上流にいて、熟練者でもない村人たちの矢は、その周りにまばらに落ちるだけだった。それでも近づいてくれば当たっただろうが、そうはいかなかった。
二隻目の艀は、流れに掉さしてゆっくりと向きを変えたのだ。何人もの船頭が必死で踏ん張って、艀を右岸に戻そうとしていた。そのあとに三隻目も続く。一隻目が全滅したので、恐れをなしたに違いない。
ルドガーは、二隻目の中ほどにある人影に気付いて、周囲に叫んだ。
「真ん中を狙え、大将がいるぞ!」
フォスが真っ直ぐにこちらを凝視していた。遠目にも、怒りに歯を噛み締めているのがわかる。
ルドガーの言葉に従ってなおも矢が射られたが、そのほとんどは届くことがなかった。二隻の艀は流れのまにまに右岸へと戻っていった。
彼らがすっかり手が届かなくなるまで、村人たちは緊張しきったままそちらを見つめていたが、やがて誰かがつぶやいた一言で、呪縛《じゅばく》を解かれた。
「勝った」
皆が顔を見合わせた。そこから徐々に緊張が抜け、歓喜と弛緩《しかん》が現れてきた。
「勝った」
「勝ったなあ」
「やったぞ、やった!」
感情がほとばしり、皆がいっせいに声を上げた。叫ぶ者がおり、泣き出す者がおり、抱き合う者がいた。
ルドガーはなおも警戒を解かずに、残敵がいないかとあちこちに目を走らせていたが、後ろから肩を叩かれて素早く振り向いた。そこにいたのは、グリン村長だった。
年老いた元騎士は、言った。
「終わりですよ。今日のところは」
「しかし」
「いいんです、荘司さん。あんた、よくやりました。これだけの人間に、命を張らせたんだからね」
言われて、ルドガーは気付いた。無我夢中だったが、この一晩というもの、数十人を背負っていた。当てが外れれば負ける。指揮が悪ければ死ぬ。そんな思いをねじ伏せて、駆け回り、地形を調べ、伏兵の配置を決め、敵を待っていた。
それらがすべて報われたのだという思いが、爪先からじわじわと上がってきた。
力が抜け、座り込んでしまった。グリンとその村人たちが、上気した顔で周りを囲んでいた。
「さあ、後のことはわしらがやっておくから、少し休んでください」
「頼む」
次の瞬間、ルドガーは眠り込んでいた。
実のところ、この待ち伏せは完全に成功したわけではなかった。もともとは、すべての艀が接岸してから攻撃を始める予定だった。そうすれば、フォスを生け捕りにして、戦争そのものを終わらせることもできたかもしれない。だが、最初の一矢を早く射すぎたために、やや戦機を外してしまった。その影響は後に尾を引いた。
奇襲のあと、右岸に戻りついた敵兵たちが、まずい作戦を行わせたフォスを責めているのが中洲から見えた。四十人以上が死んだり捕虜になったりしたのだから、無理もない。うまく仲間割れしてくれればよかったが、そうはいかなかった。フォスは残りの兵を説得することに成功したらしく、敵軍は留まり続けた。
翌日からは、また待ち伏せされることを嫌ったのか、今度は投石器《カタパルト》による攻撃が始まった。材木と縄を組み合わせた、機織《はたおり》ほどの大きさの道具が、右岸に三台並べられた。その機械がゴツン、ゴツンときこりのような音を立てると、十数秒たってから、中洲に人の頭ほどの石が降ってくるという具合である。
グリンたちもルドガーも、投石を実際に受けたのはこれが初めてで、最初はこわごわ見守っていた。だが、五十クラフター(百メートル弱)ほど先から飛んでくる飛石は、およそ狙いが定まらず、人に当たる恐れはまずないとわかった。一同は安堵したが、じきに、やはり警戒の必要があると思い直した。投石器が家屋を狙い始めたからだ。
まばらに飛んできた飛石が、いちばん岸辺に近い牛飼いのブーデの家に当たり、屋根藁をパッと飛び散らせた。それを皮切りに、何発もの石が飛来して、家屋を穴だらけにし始めた。なんとかしてくれとブーデに泣きつかれたルドガーは、しばらく敵を観察してから、言った。
「気の毒だが、あきらめて宿坊に移れ。どうしようもない」
「そんな殺生な」
「見ろ、敵は投石器《カタパルト》を杭で固定した。あれなら何発でも同じ場所に当てることができる。そうか、あれは元々ああやって使うものなのかもな」
「感心していないで、防げないんですか」
重い風切り音を立てて飛来した石が、家の壁を打ち抜き、柱を砕く。じわじわと家の輪郭が失われていく。ドン、と地面に落ちた石が足元まで転がってきたので、ルドガーは横へ避けた。石はそのまま進み、隣家の軒先にあった桶を見事に砕いた。生身ではもちろん、盾を置いても防げそうにない。
「怪我をしないうちに、離れたほうがいい」
ブーデが肩を落とした。
やがてリュシアンが暗い顔をして、はなはだ面白くない報告を持ってきた。
「まずいですね、あの投石器の射程はかなり長いようです。一番遠くまで飛んだ石は、教会の手前まで届いています。レーズスフェントの東半分が含まれてしまいますよ」
「というと、どうなんだ」
「つまり、その範囲内にある家は、いずれすべて破壊されてしまうわけです」
「そいつは厄介だな」
やっかいどころか極めて厳しい事態だった。もういつ雪が降ってもおかしくない時期である。差し当たりまだ壊されていない家から貴重品を持ち出すよう指示したが、このことは皆の気を滅入《めい》らせた。
この成り行きに興味を持ったらしく、見回りの途中でレーズが話しかけてきた。
「ルドガー、こうぽんぽん撃たれるままでいいの?」
ルドガーは辺りを見て、立ち聞きされるおそれがないのを確かめた。聞かれたら士気が下がる。
「いいわけがないが、打つ手がない」
「弓矢で壊したらどう」
「こっちの弓は即席の手製だから、せいぜい三十クラフターほどしか飛ばない。川向こうには届かない」
「じゃあ筏《いかだ》に乗って壊しに行ったら」
「向こうの弓でやられてしまう。こっちが川べりに顔を出すだけで危ないんだぞ。おまえ、射たれなかったか?」
「来たけど避けたわ」
レーズはけろりと言った。ルドガーはあきれたものの、彼女に聞かれて考えこんだ。
「こっちの矢は届かないのに、なぜあっちのは届くの?」
「む……」
言われてみればおかしい。敵は木の盾の隙間《すきま》から撃ってくるのでよく見えない。考えたルドガーは、あることに思い当たって、さらに気が重くなった。
「向こうは弩《いしゆみ》なのか」
ジェノバあたりの弩使いでも雇ったのだろう。てこで弦を引いて矢をつがえる弩は、並の弓よりよほど強力で正確だ。重くて扱いにくいので持ち運びには向いていないが、一ヵ所に据え付けて狙い射ちを始めると、手のつけられない恐るべき武器となる。
が、ルドガーが落ち込む理由はその威力のせいではなかった。敬虔なキリスト者であるヴォルフラムやフォスたちは、弩を人間に向けて使うことを嫌っていたはずなのだ。あえてその禁を犯して使ってくるということは、おまえは異教徒だと言っているに等しい。
いい気分ではなかった。
ガツン、ゴトンと執拗《しつよう》に石が降ってくる。沈思しながら歩くルドガーの周りを、レーズが場違いに軽い足取りで、先回りしたり後へ行ったりしている。
騎士と騎士との戦いでは礼儀を重んじるのが通例だ。しかしその他の諸身分を相手にしたときには、礼儀は重視されない。ヴォルフラムは宣戦文書を送ってきたから、最初はこちらを人間扱いしていた。しかし、引き延ばせば次第に過酷に扱われるようになるだろう。
ドッ、と石が地面を叩く音がして、すぐに悲鳴が聞こえた。
「おばちゃん!」
ルドガーはそれを聞きつけるや、音のしたほうへ走り出した。
街道へ出てみると、少し先で女が倒れていた。ヨハン少年がそばで腰を抜かしている。わらわらと集まってきた村人が、ヨハンを助け起こした。女に目をやったルドガーは、眉根を寄せた。
女は首から上がなくなっていた。頭部は瓜《うり》のように砕けて路上に飛び散っている。投石器の直撃を受けたのだ。運が悪かったとしか言いようがない。
ルドガーたちはそばにひざまずいて祈りの文句を唱えた。ヨハンだけは衝撃のあまり呆然として、祈るどころではないようだった。教会からアロンゾ司祭が走ってきて、他の人々とともに女を運んでいった。
「次は誰かしらね」
レーズが言った。ルドガーが振り向くと、彼女は血の付いた丸石を爪先で転がして遊んでいるようだった。
「リュシアンかしら。きみかしら。それとも、あのお姫さま?」
「やめろ!」
ルドガーは怒鳴りつけた。レーズが薄笑いした。
「今さら何を」
「……わかってる」
ルドガーは顔を押さえて答えた。どのみち、今度は一人の犠牲も出さずに済むわけがないのだ。
その夜、初雪が降った。北風が木々を揺らし、雷が轟《とどろ》いた。北ドイツの一年を締めくくる、暗く激しい冬の嵐が到来したのだ。
伯爵の使者は依然として姿を見せなかった。
それから何日もの間、この世の終わりに向かうような薄暗く寒い天候の中で、ルドガーたちは攻囲軍と小競り合いを続けた。敵は投石器の攻撃を続けながら、盾を構えて橋を直そうとしたり、夜間、小船に乗せた騎士をこっそりと送り込んだりしてきた。そのたびにルドガーはかろうじて追い払った。
敵が艀を上流に戻し、投石器を一台、左岸に渡そうとした時が、最大の危機だった。西と東から投石されたら、レーズスフェントは万事休する。ルドガーは決死隊を募り、筏で左岸に先回りして、艀を待ちうけようとした。
折りしも吹雪の真っ最中で、極めて危険な渡河になった。ルドガーたちが筏で流れを渡る途中、ブーデがよろめいて川に落ちた。骨まで凍らせる冷たい水が彼を飲み込み、それきり返さなかった。
しかし、無理をしただけあって、敵より先に左岸にたどりつくことができた。ルドガーたちは後からやってきた艀に斬り込み、縦横無尽に暴れたが、その際に投石器が川に落ちてしまったので、奪うことはできなかった。
そうやって挟み撃ちだけは避けられた。だが、右岸に残っている投石器からの攻撃は依然として続いた。防衛線の柵についていた男がさらに二人死んだ。なにかの改良があったのか、石が宿坊まで届くようになり、その最初の直撃が、グリンの左腕の骨を折った。
発熱したグリンは、万が一を考えて、息子のナッケルを次の村長に指名した。ナッケルは礼式にのっとって、ルドガーに村長就任の可否を問い、ルドガーはこれを許した。
「荘司ルドガーさまと、領主さま、伯爵さまのため、力を尽くしてまいります」
挨拶するナッケルの顔には、憔悴《しょうすい》の色が濃い。激戦が毎日あるわけではないが、見張りや待機の当番が一日も欠かさず回ってくるし、川べりでは弩の矢が飛んでくる。空を切って地を叩く投石の音は、四六時中響いてくる。
他の者も同様だ。男たちは気持ちが荒れ、ささいなことでも口論するようになった。女たちも黙って耐えていたが、中の二人が、ある日突然つかみ合いのけんかを起こした。聞いてみると、粥《かゆ》にする粉の割り当てが少ないとか多いとか、そんなつまらないことだった。別のマンディーという女は夜中にエルメントルーデの元へ来て、どうしても乳をもらいたいと頼んだ。彼女は、以前拾った捨て子を育てている女だった。乳が出なくなったのだ。
エルメントルーデはまだ乳が出ない。代わりに私物のチーズをやり、そのあとで泣いた。ルドガーはそれを物陰から見た。
籠城は、とてもつらいものです――。グリンに言われたことが、ひしひしと身に迫ってきた。
よりによってクリスマスに、とうとう裏切り者が出た。その知らせを最初にリュシアンから聞いたとき、村人とともに残った流れ者のことだろうと、ルドガーは考えた。
「誰だ?」
「ヨハンです」
頭をがつんと殴られたような気がした。
東の岸辺に駆けつけると、ヨハンが赤いローブの女に縄をかけ、羽交い絞めにして筏に乗り込もうとしていた。シャマイエトーを手土産に、向こう岸へ渡るつもりらしい。村人たちが近寄ってなだめようとするたびに、短剣を振り回して威嚇している。
ルドガーは村人たちをかきわけて前に出た。
「ヨハン、やめろ。戻って来い!」
ヨハンはリュシアンよりひとつ下の少年だが、一昨年両親が亡くなったので、すでに農民としてひとり立ちしていた。年の割りにはしっこく、明るい性格でよく働くので、みなに好かれていた。
その彼が、なぜ。
ルドガーの声を聞きつけると、ヨハンが目を向けた。その瞳に強い憎悪の光が宿った。
「来るな!」
「どうしたんだ、わけを話してくれ」
「あんたと話すことなんかない。おばちゃんはあんたのせいで……」
「おばちゃん?」
ルドガーがつぶやくと、横に来たリュシアンが小声で教えた。
「マルガのことです。投石で頭をやられた」
「可愛がってくれたのよ。ヨハンのお母さんみたいだった」
付け加えたのは、リュシアンについてきたアイエだ。ルドガーはうなずく。
「彼女か」
確かにあの時、ヨハンがそばにいた。親代わりの女を突然失った彼の悲しみは、大きかっただろう。
「それだけじゃない、ブーデのおっさんもあんたのせいで死んだ」
「ヨハン、落ち着け。あれは荘司さんのせいじゃない」
水死したブーデもヨハンと仲がよかった。ナッケルがなだめたが、ヨハンは激しく首を振って否定する。
「その人のせいだ。その人が異教徒を村に連れ込んだからこんな目にあうんだ。おれはもういやだ、こんなの」
誰も同意しなかったが、村人たちがひるんだのがルドガーにはわかった。
ヨハンは後ずさりしてシャマイエトーを筏に引きずりあげ、もやい綱を短剣で切った。筏は流れに押されてゆっくりと動き出す。
すると少年は、ふと悲しげな顔になって叫んだ。
「みんなも来いよ。おれが話をつけておいてやるから! 領主さまは許してくださるって言ってたじゃないか!」
そのときルドガーは、対岸で起こった動きに気付いて、叫んだ。
「ヨハン、後ろ!」
「えっ」
ヨハンが体をひねって振り向いた。
旋風のような音とともに飛来した短矢《ボルト》が、ドッと彼の胸に突き立った。
「ヨハン!」
赤毛のアイエが、甲高い悲鳴を上げた。ルドガーたちも息を飲む。
ヨハンは驚いた顔で自分の胸を見、人質を捨てて矢を抜きにかかった。だが、鋭い返しのついた弩の矢が、自力で抜けるわけがなかった。歯を食いしばって力を込めているようだったが、血が絶え間なく流れ出し、足元にしたたるのが見えた。
やがて少年はうずくまり、筏の上に横たわった。矢を握っていた手が、しばらくして力なく水面に垂れた。
シャマイエトーが首にかかった縄をほどき、咳《せ》き込みながら川に身を躍らせた。
それまで様子を見るように静まりかえっていた対岸の弓兵たちが、散発的に射撃を始めた。赤いローブはこちらへ近づいてくる。意外にも、泳げるらしい。しかしその周りに矢が飛び込んで、バシッ、バシッ、と破裂するような短い水音を立てた。
ルドガーは村人たちに命じた。
「みんな下がれ。ヴァルブルク、フランク、彼女を助けるぞ」
やがて水から救い上げられたシャマイエトーは、身を震わせて泣いているようだった。宿坊へ連れて行き、火に当たらせると、少し落ち着いた様子になって、言った。
「ありがとう、荘司さん。あんたには助けられてばっかりだね」
「……そうだな」
「感謝してるよ。でも、あんまりあたしをひいきしないほうがいいかもね」
シャマイエトーは伏し目がちに言ったが、ルドガーがじっと見ていることに気付くと、取ってつけたような笑いを浮かべて手を振った。
「ああ、いや、あたしは大丈夫だからね。心配なんかしなくっていいんだ」
水汲みの女は立ち上がり、やにわに濡れたローブを脱ぐ。彼女が楽士だったことを思い出させる、美しい裸の肩が見えると、ルドガーは目を逸らした。
宿坊の藁束の中に身を埋めて、女は言った。
「それよりも、アイエを見にいってやりな。あの子はヨハンと仲がよかったからね」
しかしルドガーはアイエを見に行かなかった。宿坊を出たところでリュシアンに会ったので、彼に任せたのだ。ルドガー自身は、ナッケルに呼ばれて彼の家に向かった。村長とおもだった老人が集まっており、深刻な顔でルドガーを迎えた。
「荘司さん、伯爵さまのお使いは、あとどれぐらいで来ますでしょうか」
「……近いうちに、必ず」
「荘司さんの立場でそれしか言えんのはわかりますが、もう少し……もう少し何か、ないでしょうか。切り札があるなら、そろそろ切ってもいい頃合です」
年配の男が言い、ナッケルがうなずいて続けた。
「わたしらも、みんなの不安を鎮めなければならないんです。寄せ手の連中が、異邦人を渡せとか、お姫さんを渡せなどと改めて言ってきたら、また動揺する者が出ると思ます」
「……言い分は、よくわかった」
そう答えたものの、急に言われても名案など浮かぶはずもなく、少し考えさせてくれと言って、ルドガーは外へ出た。出しなに、ふとひっかかりを覚えた。
「……姫の引渡し?」
前にも感じたことのある気持ちだった。なんだったろう?
物思いながら歩いていくと、村人たちの視線を感じる。どの顔にも、この先どうなるのかという不安が浮いている。どうもこうもない――つとめて考えないようにしていた不吉な想像が、念頭に浮いてくる。
助けが来なければ、自分たちは草の露と消えてしまう。
考えこむルドガーの足は、いつものくせで、自然に泉に向いた。くぼ地へ降りて石壁のはたに座り込むと、じきにぶらぶらと歩いてきたレーズが、たいして用などないかのように、かたわらの壁にもたれて枯れ草の茎をしがんだ。
「レーズ――」
ルドガーが言ったのは、踏みつけた草が起き上がるほどの時間がたってからだった。
「おまえは、どれぐらい強い?」
「強いって言うと?」
「戦士として、だ」
「そこそこね」
レーズは飄々《ひょうひょう》と言う。ルドガーは聞く。
「そこそこというと?」
「きみが期待する程度のことはできる、という意味よ」
「……兄上を?」
「うん。二人とも倒せる」
ルドガーとレーズは、別々の方向を眺めたまま、沈黙した。騎士は重いためらいに縛られ、精霊は口笛を吹きかねないような気軽な様相だ。
「レーズ……助けてくれないか」
次にルドガーがそう言ったときには、握り締めた拳を震わせていた。ほぼ確実に拒まれるとわかりつつ、万一の気まぐれを起こしてくれるよう、祈っていたからだ。
レーズはそんなルドガーを長いあいだ見下ろしてから、ふとわずかに哀れむような目になった。
それから、彼の隣に腰を下ろして、幼なじみのように語りかけた。
「ルドガー。最初の約束はなんだった? きみと私の」
「――おれはここに町を造る。おまえはおれに手を貸す」
「けっこうやっているんだけどね。この泉の水なんか、私が造っているのよ。これを飲むようになってから、おなかを壊す者はいなくなったでしょう」
言われてみれば思い当たらないでもない。泉の水は川水に比べて安全なので、今では村人全員がここを使っている。
その程度のことでいばるな、とルドガーは言いかけたが、レール城が同じ目的のためにあの巨大な水槽を備えていたことを思い出して、レーズを少し見直した。
「そうか、それはありがたいが……」
「要するに、戦えと言いたいのね」
ルドガーは、騎士の誇りが激しくうずくのを感じながらも、うなずいた。レーズがため息をつく。
「ちょっと想像してみてほしいわ。私が敵陣に乗り込んで、あやしの術を使って大将を倒したら、どうなる?」
「まあ、騒ぎにはなるだろうが」
「ただの騒ぎで済むわけがないでしょう。連中はここに異教徒がいると唱えているのよ。そいつらに、ここには異教徒どころか悪魔がいるって、わざわざ証明してやることになってしまうわ。悪魔の実在が確認されたら、人間はどうするの? ん?」
「討伐に、来るな」
「そうよ。私は知ってるわ、人間は白と赤の旗を掲げる。そして、正気を疑うほどの軍団を送り込んでくるのよ」
「……十字軍か!」
ルドガーは頭を抱えた。
我欲を通すために、地方の領主が勝手に十字軍を名乗って敵を討つこともあるが、今の場合、レーズが言っているのは教皇十字軍のことだろう。
それが何も、東方遠征のためだけに送られるのではないことぐらい、ルドガーも知っていた。近くでは百年ほど前に、カルカソンヌという町の異端に対して、教皇十字軍が送られたという話があった。
レーズはうなずき、さらに恐るべきことを言った。
「今来られたら、元の木阿弥《もくあみ》になってしまう。せめてこの町が侵攻に耐えられるぐらいになってからにしてもらわないと」
「耐えられるようになるのか? この町が十字軍に?」
「なるのか、じゃないわ。それぐらいでなければ、将来がないんじゃない?」
レーズに言われて、ルドガーは思い当たった。自分が想像した未来のレーズスフェントは、栄えるだけでなく、確かに堅牢《けんろう》にもなっているはずだと。
――しかしそれは、いまだかなわぬ夢だ。ルドガーは投げやりに言った。
「くそっ、どうしろというんだ」
「ひとつ気になることが、あると言えばある」
「なんだ」
もうほとんど期待せずにルドガーが顔を上げると、レーズは言った。
「東フリースラント伯爵とやらの腹積もりよ」
「伯爵の腹積もり? そんなもの、決まっているだろう。おれたちを値踏みしているんだ。おれの知るあの方は、とても計算高い方だ。レーズスフェントを買うのが得だということがはっきりするまで、様子を見ていらっしゃるんだ」
「なんだ、それじゃ、袖《そで》にされるかもしれないじゃない」
「だからこうして、おれたちの決意の固いことを示している。レーズスフェント、いまだに落ちずと伝われば、値も上がるだろうが」
「なるほどね」
レーズはうなずいたものの、次のひとことはルドガーの意表を突いた。
「じゃあ、リュシアンは一体何を隠しているのかしら[#「一体何を隠しているのかしら」に傍点]」
「……なんだって?」
「まさか、また気付いていなかったの?」
聞き間違いかと思うルドガーに、レーズは哀れみの口調で言った。
「レール城より戻ってからこの方、あの子はずっと落ち込んでいるじゃない」
「いや……知らなかった」
「ということは、そのリュシアンを心配して、小娘のアイエが何くれと世話を焼いていることも、そのせいでヨハンが破れかぶれになったことも知らないのね」
ルドガーは今度こそ深刻に落ち込んだ。敵のほうを見るのに夢中で、背後に起こっていることに気付いていなかった。
そんなルドガーを、レーズがあきれたように見ていたが、じきに顔をしかめて言った。
「君は思ったより未熟らしいわね。私ももうちょっと教えたらよかったかな……」
ルドガーが振り向くと、レーズは横を向いて口を尖らせていた。一見して非常にわかりにくい表情だが、どうも後悔の色があるようだった。
少し困らせすぎた、とでも思っているのだろうか。このひねくれ者の精霊に心配されるというのは、妙な気分だった。
「ちょっと待て、レーズ。考える」
枯れ草色の髪を激しくかき回して、ルドガーは思考の向きを変えた。なんだって、リュシアンが隠し事をしている? どういうことだ。あいつはレール城へ行き、開市特権状《ハンドフェステ》を請願して、それなりの返事をもらったと言った。
それが嘘だったのか。本当は、けんもほろろにあしらわれてしまったと?
ルドガーは気分が悪くなる。恐ろしい想像だ。もしそうなら、自分たちはほとんどなんの望みもないまま、破滅へ向かって突き進んでいることになる。
いや、それでは話がおかしい。彼がルドガーに黙っている理由がない。叱られるのが怖くて黙っているような年ではないし、別にルドガーとの間にわだかまりもないはずだ。
――待て。
それがあったら?
「おれとリュシアンの対立……?」
口に出して言った途端、レーズがつぶやいた。ほとんど同時にルドガーも気付いた。
「あのお姫様か」
「ルムのことか!」
その途端、ルドガーの中でいくつもの事柄が立て続けにつながった。
リュシアンは身分にこだわる性格だ。おそらく家柄のいいエルメントルーデに恋慕を抱いている。しかし彼女がルドガーと想《おも》いあっていることは公然の事実だ。その点でリュシアンがわだかまりを抱いていてもおかしくはない。
しかし、恋敵だからというだけの理由で、兄に対して嘘をつくものだろうか。レーズスフェントの将来がかかっているのに。彼がそれよりも重いと思うものがあるとすれば、それはなんだ?
――エルメントルーデ自身だ。
つまりリュシアンは、エルメントルーデを失いたくないから、嘘をついているのか。
すべてが、今まで意識の外縁にひっかかっていたことまでもが理解できた。エルメントルーデの領有宣言を聞いたはずのフォスが、それを無視して攻めて来たのはなぜか。コンラルドが宣戦のとき、エルメントルーデの引き渡しを要求しなかったのはなぜか。
エルメントルーデがここを離れるだろうと、彼らが予測しているからだ。そんな予測ができる理由はひとつしかない。伯爵に知らされたためだ。
ルドガーは、呆然とした。
「レーズ、わかったぞ」
「なにが?」
「打開策が」
しかしこれほど望ましくない解決もなかった。ルドガーは重い気分で、立ち上がった。
「ルムと引き換えなんだな」
自分の小屋の前に呼んだリュシアンの前で、ルドガーはそう言った。
返事を聞くまでもなかった。リュシアンが真っ青になって目を背けたのだ。
この場にエルメントルーデを呼ばなくてよかった、とルドガーは思った。悪いのが本人だとはいえ、この姿を見せるのは忍びない。
ゆっくりと、確かめるように尋ねていく。
「おまえは嘘をついていたんだな。ルプレヒトさまは引き伸ばしなどしなかった。開市特権状《ハンドフェステ》を与えると即答したんだ。ただし、ひとつの条件を付けて。――娘を返せ、というのがそれだ」
ルドガーはリュシアンの顔を覗きこんだ。
「エルメントルーデを返せば村は助かる。しかしおまえはそれを隠した。そうだな?」
リュシアンががくがくと膝を震わせながら顔を上げ、小さくうなずいてから、またうつむいた。ぎゅっと目を閉じると、地面に滴が落ちた。
「許してください――お別れしたくなかったんです」
「開市特権状《ハンドフェステ》は確かにいただけるんだな?」
「もう持っています。エルメントルーデさまの帰還に伴って発効すると明記されています」
「よし。おれに対して黙っていたことは、今は責めない。しかしこれは急を要することだ。今すぐ実行に移さなければいかん」
「兄様はそれでいいんですか!?」
叫んだリュシアンを、ルドガーは逆に怒鳴りつけたくなった。
だが、その気持を抑えて、言った。
「中へ入って、ルムにことを告げてこい。どう説明するのもおまえの自由だ。だが、彼女はレールへ返す」
「兄様……」
「女の前までついてきてほしいのか!?」
同じ女に思いをかけた男として、弟の気持ちはわかった。これが弟にかけてやれる、せめてもの情けだった。
中へ入っていったリュシアンが、やがてうちひしがれて出てきた。ルドガーの前を通るときに、顔を見せずに言った。
「本当のことを、すべて話しました。……後はお願いします」
そう言って、特権状の封書を差し出した。ルドガーはそれを受け取った。
「よくやった」
とぼとぼと歩み去るリュシアンの背中を、ルドガーは見送った。
そのそばに、木陰にいたレーズが現れる。
「あれは堪《こた》えているわね。身投げするかも。放っとくの?」
「あいつがもっと早く言っていれば、マルガやブーデやヨハンは、死なずに済んだかもしれん」
それを考えれば、むしろ甘いような気もしたが、ルドガーは頭を振って忘れることにした。今はリュシアンを責めている場合ではない。
ルドガーは小屋の中に入った。エルメントルーデは奥の部屋で呆然としていたが、取り乱してはいないようだった。ルドガーを見ると、気丈に顔を上げた。その顔に理解と苦悩の色があった。
「ルドガーさま」
「聞いたかい」
「ええ。――リュシアンも、つらかったんだと思うわ」
二人はつかの間、見つめ合った。
それから、どちらともなく、抱きしめあった。
「ルム」
「ルドガーさま……」
「君を愛している」
「はい、私も」
ルドガーは、夏の木の葉を思わせる深い緑の瞳を覗きこむ。そこに悲しみが湧いてくる。とめどもなく湧き出す悲しみで少女の瞳が濡れた。小さな顔そのものも、潤んで見えた。
長い接吻《せっぷん》をした後で、ルドガーは言った。
「城へ帰ってくれ」
「……はい」
どちらも、相手がそう言うと、わかっていた。そんな相手だから、愛したのだ。
もう一度、二人は長いあいだ抱き合った。
扉にノックがあった。ルドガーが体を離して、ドアに向かった。開けると、レーズが入ってくる。自分より年上の男装の女が、こんな場に現れることを、いぶかしく思ったのだろう。エルメントルーデが、不安の眼差しをルドガーに向けた。
ルドガーは彼女に真実を明かした。
「ルム、突飛なことを話すが、信じてくれ。こいつはレーズスフェントの泉の精霊だ。人間じゃない。町作りの考えをすべて話してある。おれの相棒と言ってもいい」
「それは……つまり、ルドガーさまは、この方を愛していらっしゃるということなの」
ルドガーは首を振って言った。
「そうじゃない、愛や恋ではないんだ」
「でも、女の方でしょう。それとも、殿方なの」
女と対等に付き合っている、というのは、城育ちのエルメントルーデには理解しにくいようだった。ルドガーが困惑していると、レーズが肩をすくめて言った。
「こういう面白い掛け合いは、普段ならもっと長く楽しませてもらうところだけど……そんなことをやってる場合じゃないわね、ルドガー」
「当たり前だ」
「姫君、言葉で言ってもあなたにはわからないでしょう。だから証《あか》してあげる。私が人ではないことを。こちらへ手を出して」
「手?」
「そう」
おずおずと差し出された白く柔らかな手を、レーズが細く強い左手で取った。右手を目の高さにかざす。
鞠《まり》でも突くように下へ向けた手のひらから、光があふれ始めた。まばゆい水色の光を放つ丸い結晶のようなものが、ゆっくりと下へ垂れ下がる。ルドガーたちは息を呑んだ。
レーズは楽しそうに、得意そうに結晶を生み出していく。それは腹のところで大きく膨らみ、細長い頭部を現してから、すとん、という感じでエルメントルーデの手に落ちた。卵、と誰もが呼びそうな形をしている。少女は目を丸くしてそれを覗きこむ。波打つ柔らかな青光がその顔を照らしている。可憐な唇から感嘆のつぶやきが漏れた。
「きれい……こんな素敵なもの、見たことがないわ。御本に出ていた、紅海の水のよう」
「レーズ、これは?」
「私の泉を閉じ込めたもの」
つん、と指であごを突いて考え、レーズは言った。
「|川の卵《フルス・アイ》=Bそう呼びましょうか。エルメントルーデ姫、あなたにそれを差し上げるわ」
「私に?」
娘が驚いて胸に片手を当てる。レーズがうなずいて、彼女に卵を握らせた。
「私が、ルドガーが説明したような者であるという証《あかし》よ。それと同時に、私が姫を気に入ったという証でもある」
「私を?」
「あなたはいい人だわ。だから、あなたが将来きっと出会うだろう、困難な時のために、これを差し上げます。大切に取っておいて、使ってほしい」
「将来……」
レーズの言葉で、つかの間忘れていた目の前の困難を、エルメントルーデは思い出したようだった。そして胸元に抱えた卵を、強く握り締めた。
ルドガーはその手に手を置いた。
「ルム、元気で……」
少女が迷いを断ち切るように強くうなずいた。重ねた手の上に熱い滴が落ちた。
翌日、ルドガーは物見台から右岸を眺めていた。ひとつ上の枝には、レーズが身軽に腰かけている。
ルドガーの推測通り、領主軍のフォスたちはルプレヒトとすでに意を通じており、表裏一体となった指示を受けていた。エルメントルーデが居座る限りは、領主のためにレーズスフェントを攻めても良い。しかし、エルメントルーデが帰城する決心を固め、開市特権状《ハンドフェステ》を掲げたならば、これに手を出してはならない、というものだった。
ルドガーは昨日、それを実現して、彼らに名分を失わせたのだった。
物見台からは、領主の軍勢が一ヵ月半ほどを過ごした陣地を畳み、雪を踏みしめて粛々と南へ引き上げていく様子が見えた。その行列の中に黒衣の騎士が見当たらないのは、憤慨して先に帰ってしまったのかもしれない。白いマントの次兄は中軍にしっかり認められた。彼の軽薄な苦笑が目に見えるようだった。
思いのほか短い戦だった。双方の何十人かが死んだが、レーズスフェントが焼き尽くされるようなことはなかった。橋を架け直すべきだろう。春からまた町は栄えるに違いない。ルドガーは町を守ることに成功したのだ。
そして、大きなものを失った。
「姫君たちが行くわよ」
頭上のレーズが言った。西のドルヌムへ続く道を見ているのだろうが、ルドガーはそちらを見なかった。代わりに、尋ねた。
「おまえだったらどうしていた、レーズ」
「もちろん別れたわ」
ルドガーは彼女を見上げた。男装の女は、馬の尾のようにまとめた髪を寒風にさらさらとなびかせて、こともなげに言った。
「また会えばいいことだもの」
「ルムは結婚するんだ」
「だからどうしたの?」
レーズは言い切る。ルドガーはあっけに取られた。
結婚したら終わり。それがルドガーの、また同じ時代の人々の常識だった。だがこの女は、そのような考えを露ほども抱いていないようだった。
自分はとても、そこまで割り切れない。他の男が彼女の肌に触れると考えただけで、胸が焼けそうに痛む。
だから、とても見送れなかった。無理やりにでも忘れるしかなかった。
「おまえがうらやましい」
「降りていようか」
レーズらしからぬ気配りに、ルドガーは首を振った。
彼女が見ていようがいまいが、涙など落とすつもりはなかった。
城主の家族の帰城を告げるラッパが鳴った。音を聞きつけた黒髪の騎士が、城主の間の窓際に駆け寄って、中庭を見下ろした。じきに振り向く。
「間違いはございません、ルムです。ルムが戻りました、ルプレヒトさま」
「やっと帰ったか」
東フリースラント伯爵ルプレヒト・キルクセナが、暖炉の前で趣味の釣り針を削りながら、上機嫌でつぶやいた。
「ルドガーめ、すぐに決めるかと思ったら、存外未練なやつだったな」
「なにかの手違いでしょう。でなければ攻囲軍がなかなか退かなかったか。あれはルプレヒトさまに尽くすと、私の前で誓った男です」
「だとすると、忠誠心と野心の折り合いをどこで付けたのだろうな」
まあ、大体わかるが、と君主は含み笑いした。
騎士ハインシウス・スミッツェンは、そんな主君の言動に不審を感じて、問いただす。
「お聞きしてよろしいでしょうか。以前から不思議だったのですが……」
「いいぞ」
やすりで骨を削って、釣り針を作りながら、ルプレヒトが言う。
「なぜあっさり、私の進言を容《い》れてくださったのですか」
ルドガーがしっかり面倒を見るから、エルメントルーデを連れ戻さないでくれ、と彼は頼んだのである。それは、聞き入れられないと思いつつの進言だった。未婚の娘を、同じく未婚で身分の低い騎士に預けっぱなしにするなど、およそ普通の親なら認めることではない。だがルプレヒトはあっさりとそれを認めた。
その理由を、彼はこれもまたあっさりと、この実直な騎士に教えたのだった。
「ルムはあまり高くない」
「高く……」
「嫁に出すなら、上に二人も娘がおる。あれよりもっと麗しく育った二人がな。ルムはまあ、売れればいいという程度の、余りものだ。あのままルドガーに奪われてしまっても、実を言えばそんなに惜しくなかった」
「では……なぜ今になって、お呼び戻しに……」
ハインシウスは激昂《げっこう》を抑えて尋ねる。彼はあの少女と青年を知っている。どんな思いで別れたのかも。
ルプレヒトが初めて釣り針から顔をあげ、当然のように言った。
「仁君だなどと思われてはたまらんだろうが。何かがほしければ、何かを差し出すのが忠義というものだ。その規則を忘れんように、ああしたまでよ」
「規則のためだけに?」
「規則は大事だぞ」
再び釣り針削りに没頭しようとしたルプレヒトが、ふと宙を見上げた。
「神よ、こいつは名案だ。いっぽうに町を与え、もういっぽうには妻を与える。いい釣り合いじゃないか」
「ルプレヒト様、それは――」
「フォス・フェキンハウゼンは一人身だったな?」
ハインシウスは顔をこわばらせた。ルプレヒトが畳み掛ける。
「どうだ? あれには今回、ずいぶん損をさせた。父親ともども、少し喜ばせてやらんと、後が怖い。どうだ、妻帯していないか。しているなら、弟はどうだ」
矢継ぎ早に聞く君主に、ハインシウスは自制しながら答えた。
「兄弟の片方から奪った娘を、もう片方に与えるのですか。それは、彼らの仲を引き裂くことになるのでは……」
「その通りだ。いい考えだろう」
ハインシウスは、もはや何も言えなくなった。ルプレヒトは臣下を対立させて、反抗の力を削ごうというのだ。あくまでも原則に忠実な、しかしそれだけに人を人とも思わない仕打ちだった。
「ルムを休ませたら、すぐにでもフォスに打診してみよう。うむ、少しは太らせたほうがいいな。あれは細すぎる。ついてはハインシウス、フォスへの使者に――」
ガラン、と大きな音が上がった。ハインシウスの剣が鞘《さや》ごと床に落ちたのだ。実のところわざと落としたのだった。そんな話を聞いてしまうわけにはいかない。聞けば行くしかなくなる。
「ルムを迎えにいってまいります。失礼してもよろしいですか」
「行け」
ルプレヒトが手の甲を振った。使いづらいやつめといわんばかりの、興ざめした顔だった。ハインシウスは丁重に礼をして退出した。
城主の間を離れるにつれ、多少なりとも気分がよくなった。もっとも、よくなくても笑ってやるつもりだった。
涙で顔を真っ赤にしているに違いない彼女を、ハインシウスはせいいっぱい元気付けてやらなければいけないのだから。
[#改ページ]
第三章 労務修士L・Fの決意――
Das Journal eines interstellar zuchtenden Lebens.
主の年一三三六年の暮れ、レーズスフェントは領主軍に勝利し、ひとまずその地位を確かなものにした。町を守り抜いた荘司《しょうじ》ルドガーは、東フリースラント伯爵によって新たに代官《フォークト》に任ぜられ、ともに戦った男女はこれを寿《ことほ》いだ。戦を避けて散っていた人々も戻り始め、レーズスフェントは復興の道を歩み始めた。
しかし、槌音《つちおと》の響く町の中で、一人だけ鬱々《うつうつ》とした毎日を送る者がいた。
労務修士、リュシアン・フェキンハウゼン。
十七歳の彼は、かなわぬ恋の相手を失い、さらに兄にも失望されて、復興作業に加わる意欲も能力もなく、前途に迷っていたのだった。
一三三七年三月五日。冬の間ずっと北ドイツを覆っていた、冷たく深い霧が晴れつつあるころ、レーズスフェントはすべてのカトリックの町と同じように、四旬節に入った。人々はいよいよ勤労意欲を増して、橋の修理や家屋の新造に精を出していたが、リュシアンだけは、一日に一度教会におもむいて、アロンゾ司祭の仕事をわずかに手伝うほかは、ほとんど家にこもってすごしていた。
リュシアンは身分のある男子だが、神に仕えて学問を修めた者としての誇りがあり、兄のように男たちを指揮して作業に当たらせることなどできなかった。だが、今のレーズスフェントで必要なのはそういった肉体の力であり、リュシアンの学問や筆記の能力はあまり出番がなかった。必然的に、手持ち無沙汰《ぶさた》にぶらぶらと暮らすことになった。
町の人々は口に出しては何も言わなかった。統治者の親族が、仕事らしい仕事もせず禄《ろく》を食《は》んでいることは、この近辺の諸国では珍しくない。むしろ、金もないのに宴会を開いたり、狩猟や無駄な普請に男手を動員したりしない分、ずっと無害だと思われていた。
だが、リュシアンはそれでも不満だった。彼は遊んでいるよりも、何かに貢献したかったのだ。すぐそばに有能で頼られる実兄がいるのだから、なおさらそう感じた。
そんなリュシアンを気遣って、何かにつけ面倒を見てくれるのが、宿坊の娘のアイエだった。偏食気味で、すぐ食事を抜こうとするリュシアンに、彼女はしょっちゅう夕食を運んできた。また、下男のエルスを通して、リュシアンの衣服を洗濯したり、繕ったりもした。
彼女がそんなことをするようになったのは、あのクリスマスの晩がきっかけだった。アイエは幼なじみの命を失い、リュシアンは憧《あこが》れていた女性を失った。それを互いに慰めあううち、かすかだが、親しみのようなものが生まれたのだ。
それを覚えているために、リュシアンはアイエの奉仕を拒めなかった。しかし彼女は賤《いや》しい農民であり、リュシアンは禁欲を旨とする修道士の見習いだ。黙認しつつ、顔を見れば避けるような態度を取っていた。
ルドガーが頼みごとをしてきたのは、そんなある日のことだった。
「誰の面倒を見ろですって?」
自宅にいたリュシアンは、おかしなことを言われて問い返した。戸口に立ったルドガーが身をずらして、背後を示した。
「彼女だ」
ルドガーの後ろから、一人の女が現れた。
奇妙な女だった。初対面だというのに目礼すらせずに、ぼんやりとリュシアンの胸のあたりを見ている。年のころは二十歳前後で、くるみ色の髪を雑に肩に流している。表情や体格は整ってはいるものの、茫洋《ぼうよう》としてまるで癖がなく、どこの何者ともはかりがたい。それ以前に服装が普通の女のものではない。――よくよく見直したリュシアンは、彼女の着ているのが、自分の亜麻のシャツとタイツだということに気付いた。ちぐはぐなわけだ。
「兄様、それはぼくの服じゃありませんか」
「すまん、あとで村の女に新調させよう。この子の着るものがなかったから」
「それは……」
どういう意味なのかと尋ねようとして、リュシアンは思い出した。以前にもこういうことがあった。レーズ――兄以外の人間の前にはあまり現れない、あの正体の定かでない女も、最初はそうやって現れたのだ。
リュシアンの考えを読み取ったように、ルドガーがうなずいた。
「そうだ。彼女はレーズの妹だ」
「あの女の妹ですって……それをぼくにどうしろと? 悪魔祓いにでもかけろっておっしゃるんですか」
リュシアンはレーズを嫌っている。明らかにキリスト者ではないからだ。それどころか、村人の言葉が確かならば、彼女は人間ですらないらしい。
だがルドガーは首を横に振り、女の肩を押してリュシアンの前に立たせた。
「この子に字を教えてやってほしい」
「はあ? 異端の魔物が字など知ってどうするんです」
「知らんよ、しかしこれはレーズの頼みなんだ。文字を習って記録をつけたいらしい。この村で字が書ける者といったらおまえしかいない」
「隠居のグリンだって書けるでしょう」
「グリンは桶《おけ》や農具を直すのに忙しいんだ。それに引き換え、おまえはどうだ。何か仕事をしているか」
痛いところを突かれて、リュシアンは黙った。ルドガーがうなずいた。
「そういうわけだから、頼む」
「字だけでいいんですね?」
「字と、そのほか彼女が望むことをだ。じゃ、任せたぞ」
そう言うと、ルドガーは返事も待たずに出ていってしまった。リュシアンはため息をつき、女に目を移した。少し首をかしげて、眠たそうな目でこちらを見ている。リュシアンは声をかけてみた。
「おまえの名前は」
「……ツヴァイト・プッペ」
「なんだって?」
「ツヴァイト・プッペ」
「|二つ目の人形《ツヴァイト・プッペ》?」
「ええ」
「なぜ二つ目なんだ」
「|一つ目の人形《プリムス・プーパ》は、ラテン語を学ぶために産み出されたから。……でも、最近、ラテン語に代わる新しい書き言葉が広まってる。わたしが生み出されたのは、それを学ぶため。……あなたは新しい書き言葉を使えるの?」
娘はゆっくりとそう言って、口を閉じた。
リュシアンは答えず、彼女をまじまじと見つめた。牛のように鈍重な口調だが、言葉の筋道は意外としっかりしている。しかし意味はわからない。
「人形ってどういうことだ」
「……そのままの意味よ。わたしはツヴァイト・プッペ。でも|空っぽ人形《レール・プッペ》ではないの。ちゃんと自分で考えることができる。……あなたは新しい書き言葉を使えるの?」
「空っぽ人形? それはなんだ。さっぱり意味がわからない」
「新しい書き言葉を使えないなら……困るのだけど」
そう言って、娘は眉《まゆ》をひそめた。
リュシアンはあきらめた。こんな問答をしても埒《らち》が明かない。もともと、レーズやその妹の正体になど興味はないのだ。そんなことには触れず、頼まれたことだけをやればいいだろう。
「ぼくが書ける言葉といったら、ラテン語と低地ゲルマン語の二つだけだぞ。それでいいのか」
「そう、その低地ゲルマン語。わたしはそれを習いたい」
娘はにっこりと微笑《ほほえ》んだ。リュシアンは顔をしかめる。
「それだって、三十年前からある」
「そう、たった三十年前にできたばかりの、新しい言葉」
「……まあいい」
首を振って、リュシアンは椅子《いす》から立ち上がった。自分の替えのローブを取り出して、娘に渡す。不思議そうな顔をする彼女に、命じた。
「着ろよ。外は寒い」
「中は暖かいわ」
「外へ出るんだよ」
「新しい書き言葉を学ぶのに?」
「ぼくは修道士見習いだから、女と二人きりで部屋の中に居てはいけないんだよ。さっさとついてこい、この……」
呼び方に迷って口ごもると、娘が微笑んだまま言った。
「ツヴァイト・プッペ」
「呼びにくいな、名前はないのか」
「ないわ。ツヴァイト・プッペは他にいないもの」
「そんな変な名前があるか。ヴェラだ。これからはおまえのことを、ヴェラって呼ぶ」
「その意味は?」
「……真理だ」
よくある名前を口にしただけで、意味を気にしてつけたわけではなかった。だが、娘は満足そうに微笑んだ。
「わかったわ、わたしはヴェラ。あとで書き方を教えて」
中洲《なかす》の南に立っている、物見台のある長老トウヒの根元を、対話の場にした。そこには柔らかな苔《こけ》の生えた南向きのくぼみがあり、座り心地がよかった。より大事なのは、町の人々に勘ぐられないような、適度に開けた場所だということだった。
リュシアンはそこに、手本になりそうな本を持っていった。もちろん筆記に使うのは高価な紙などではなく、木の枝と地面だ。
「abend、日暮れだ」
「アベンドね」
「acht、八だ」
「アハトね」
ヴェラは決して、二度問い返すということをしなかった。どんな単語も、一度の説明で覚えてしまった。リュシアンは驚き呆《あき》れて、本を押し付けようとした。
「そんなに頭がいいなら、おまえ一人で読めばいい」
「でも、それでは読み方がわからないわ」
ヴェラがそう断ったので、仕方なくリュシアンは授業を続けた。
先へ進むと、ルドガーが言ったとおり、ヴェラは言葉の読みだけではなく意味も聞いてくるようになった。
「nichts ? ニヒツとは、なに?」
「なにもない、ということだ」
「leer のこと?」
「空っぽとは違う。それは入れ物の中になにもないという意味だ。でもニヒツは入れ物とは関係ない。ただ、ないんだ。あるの反対の、ないだ。一から一を取り去ったもののことだ」
「ああ、つまり……数学上の無ができたのね」
「できた、だって」
「できたんでしょう? 昔はなかったもの。ラテン語にニヒツはある?」
リュシアンは虚を突かれて、考えこんだ。ラテン語にも無《ニヒル》という言葉はある。だが、算術でそれを用いることはなかった。
「わたしは、だからあなたに教えてもらわなければならないの。……新しい言葉は、ラテン語と一対一対応しているわけではない」
「それは、つまり……」
古きラテン語が不完全だということか。
リュシアンは空恐ろしい想像を抱きかけ、あわてて打ち消した。
そんなことがあるはずがない。むしろ、新しい言葉に含まれている単語が、邪悪なのか、卑俗なのだろう。
この時代の人々は、農奴から皇帝までキリスト教を暮らしのいしずえとして暮らしていたが、十二の時から五年間を修道院で暮らしたリュシアンは、いっそうその傾向が強かった。教えに反した考えを抱くことなど、思いもよらなかった。
だが彼は、その敬虔《けいけん》さと裏腹の聡明《そうめい》さも持ち合わせていた。それが彼を、ゆっくりと変えずにはおかなかった。
リュシアンが女と二人で何かをしているという噂《うわさ》は、すぐに町中に広まった。最初のうちは主に町の女たちから咎《とが》めるような目で見られたが、数日たつとそうでもなくなった。ヴェラがレーズの妹だと知れ渡ったためだ。ルドガー以外の人々は、素朴な畏怖《いふ》の心から、レーズに関《かか》わりたくないと思っている。リュシアンはいわば厄介者を引き受けているという扱いになり、いくぶん見直されるようにすらなった。
ただひとり、アイエだけはそう思わないようで、食事を運んでくるとき、浮かない顔をするようになった。
「ねえ、見習いさん。あの人と何をしてるの?」
「字を教えているだけだ」
「どうして女に字なんか教えるの。そんなことしてもしょうがないじゃない」
「わかっている。兄様の頼みでなきゃ、女に字を教えたりしない」
「そうよね。見習いさん、冷たいから……」
ほっとしたように微笑んでから、赤毛の娘は冗談めかしてささやいた。
「あたしが頼んだら、どうなのかな」
自分より一つ年下の娘の視線を避けるように顔を背けて、リュシアンはそっけなく言った。
「おまえなんかに教えたって、覚えやしないだろう」
「それもそうだわ」
軽やかに笑ってアイエは出て行った。
後日、屋外での授業中にヴェラに言われた。
「あなたは、もっとアイエに優しくしたほうが、いいんじゃないの」
「これが枝という字だ――なんだって?」
唐突な言葉に驚いて、リュシアンは握っていた枝を取り落とした。ヴェラは、相変わらずつかみどころのない半眼のままでリュシアンを見つめて、言った。
「あなたはアイエを好いているんだから、優しくするのが当然だと思ったのだけど」
リュシアンにとっては、急所を突き刺されたようなひとことだった。言い返す前に呼吸を整えねばならなかった。
「ぼくは別にあいつを好いちゃいない」
「ううん、あなたはあの子を好いて――」
「いない。アイエは農民だ。賤民《せんみん》だ。土の上で生まれた女だ。ぼくは騎士の息子だ。神に祝福された身分だ。あいつとは何の関係もない。いいな」
「そんなにむきにならなくても――」
「ヴェラ! それ以上言ったら、教えるのをやめるぞ」
ヴェラは口を閉じたが、心なしか、嘲笑《あざわら》っているようだった。それが気に障って、リュシアンはなおも言いつのった。
「好いているかいないかなんて、そもそも問題じゃないんだ。ぼくは聖職者のはしくれだ。女と親しくすることはできない」
「なぜできないの」
「じきに叙階を受けて、司祭になるためだ! これは修行の一貫なんだ」
堕落した聖職者は世間に少なくない。レーズスフェントのアロンゾ司祭なども、説教はうまいが、しょっちゅう近所の女たちをからかったり、異教徒のロマと立ち話をしたりと、品行はあまりよくない。そういった人々に比べれば、自分のほうがよほど貞潔で、司祭を名乗る資格があると、リュシアンは思っていた。
ヴェラがまた、遠慮のない口調で言った。
「なぜ、そんなに聖職者になりたいの」
「なぜ……って」
「あなたはどうして、聖職者になることにしたの」
リュシアンは沈黙した。いつにも増して居心地の悪くなる問いだった。
「そ……そんなことを、人に聞くなよ。失礼だろう」
「どうして。なりたい理由はないの。動機は」
「理由なんて必要ない。関係ない。決まりなんだよ。ぼくは修道院へ行き、そこで育った。だから神に仕える聖職者になる。当たり前のことだ。そう、主《しゅ》がお決めになったからだ」
ヴェラが小鳥のように首をかしげて、また言った。
「では、主がやめろと言えば、聖職者になるのをやめるのね」
「主が? ――主が何かをおっしゃることなんて、あるわけがないだろう!」
「そっちを否定するのね」
そのときなぜか、リュシアンは漠然としたおそれを感じた。目の前でとりとめもなく微笑んでいるローブ姿の女が、なんだかわからないが、ひどく危険な存在のような気がしたのだ。
「い、いや……主の御意思を推し量るなんて、だいそれたことだ。話すべきじゃない」
「そう」
うなずくと、ヴェラは視線を外した。いやにあっけなかったが、それで詰問《きつもん》は終わりらしかった。
女は、リュシアンが取り落とした小枝を拾って、天にかざした。日に日に明るくなる三月の陽光に、それを透かしてみる。
「zwieg、小枝。その本に載ってるのはこれが最後なのね」
「……ああ、おしまいだ」
リュシアンは息を吐いて言った。
「これで低地ゲルマン語はだいたい覚えたはずだ。自分の書きたい日記なりなんなりを書けばいい」
「いえ、まだこれからよ」
ヴェラは立ち上がり、背後を見た。日に日に人が増え、槌音がかしましくなるレーズスフェントの町を。
それからリュシアンに目を戻した。
「この町のことを、すべて教えて」
「すべて」というのがなにを指すのか、リュシアンはよくわからなかった。しかし、ヴェラに付き合って町を歩き回るうち、おぼろげにそれが見えてきた。
ヴェラが最初に向かったのは、新たにドルヌムのほうからやってきた一家が家を建てている普請場だった。彼女はそこで、大工の親方のヘッケルをつかまえて、工具の名前、材木や石の種類、果ては壁に塗る泥の名前や、その塗り方の名前までも尋ねあげた。そして答えを聞くと、腕に抱えた板に尖筆《せんぴつ》のようなもので文字を書き付けた。短気なヘッケルが怒り出したので、リュシアンが懸命に慣れぬ仲裁をしなければならなかった。
その翌日は、家財だった。ヴェラは別の家に行き、そこの主婦を相手にして、靴を縛る紐《ひも》から鍋《なべ》を吊《つ》る自在鈎《じざいかぎ》まで、すべての衣服と家財の名前を聞き取った。
次の日は料理にまつわるすべてだった。次の日は家畜と作物にまつわるすべてだった。次の日は耕作、次の日は神事、次の日は中洲の防衛と区割りを調べ上げた。
最後は日曜だった。本来、安息日として休まなければならない日である。一日歩き回ってくたくたになったリュシアンは、ヴェラの言葉を聞いて、安堵《あんど》した。
「今のレーズスフェントのことは、大体わかったみたい」
「気が済んだか。ならさっさと帰ってくれ」
リュシアンはそう言ったが、ヴェラの次の言葉を聞いてどっと疲れが出た。
「これからは、この村の過去を調べる」
「……なんだって?」
「町の人間すべての素性と来歴を知りたいの。外見と性格、血筋と身分。遡《さかのぼ》れる限りの先祖のこと」
「おい、ヴェラ、おい」
さすがに疲れ果てて、リュシアンは問い詰めた。
「一体何のためにそんなことをするんだ。ぼくはもうたくさんだ。町のことなんか、そこにいればそのうちわかってくるじゃないか」
「ええ、住んでいればわかるわ。でも、住んでいない人にはわからない」
「よそ者に知らせる必要なんかどこにもないじゃないか」
「いいえ、逆よ。よそ者に知らせることが、私の目的なんだもの」
「どういうことだ」
いつものトウヒの根元にもたれていたヴェラが、珍しく人目を避けるかのように、辺りを見回した。そして、低い静かな声でリュシアンにささやいた。
「私はこの町を結婚の持参品にしたい」
「――結婚の持参品?」
意外な単語が、おかしな組み合わせで告げられた。リュシアンは驚く。ヴェラは、淡々と話を進めていく。
「私たちは配偶者を探してこの土地へ来たの。配偶者はどこにいるかわからないし、見つけても番《つが》えるとは限らない。呼び寄せて、口説かなければならない。そうして子を生《な》すことが私たちの種族の使命。それなのに、レーズは子作りを忘れて、町作りにかまけるようになってしまった。だから私は、その町を逆に利用して、配偶者を惹《ひ》きつけることにしたの」
「待ってくれ、レーズの種族? 配偶者を呼び寄せるだって? それは、じゃあ……」
リュシアンはその奇妙な話を、なんとか理解しようとした。
「おまえたちは、異端だとか悪魔ではなくて、外国人なのか。そして、ここに橋頭堡《きょうとうほ》を作っているんだな。まさかドイツに攻め込む気か。神聖ローマ帝国に!」
それが本当なら、自分たちはとてつもない過ちを侵していることになる。リュシアンは慄然《りつぜん》とした。
しかしヴェラは、それを聞くと細い目をさらに細めて、おかしそうに微笑んだのだった。
「いいえ、それはまるで見当はずれな考えよ。私たちは侵略や戦争に興味はない。レーズは観察しかしない。基本的には宇宙を変えようとはしない種族なの。その次に大切にするのが、配偶者を見つけて番《つが》うこと。見て、番って、旅をする。これがレーズの本質。食べ物は旅の途中で取るから、あなたたちのように戦って奪う必要はない」
「食べ物を取らない……?」
ヴェラがうなずいた。リュシアンは夢を見ているような不安な気分で聞く。
「おまえたちは、一体何者なんだ?」
それを聞くとヴェラは腕を真っ直ぐに上げて、指を突き出した。
「あなたなら理解できるかもしれない。教えてあげる、わたしたちはあちらから来た」
「……天?」
ヴェラは首を横に振り、差し上げた両手をぐるりと回して、世界を一度に指してみせた。
「いいえ、大地よ。――この世界の外の、だけど」
日が暮れてフクロウが鳴き出した。窓の外に静かな闇《やみ》が降りている。昼間はだいぶ暖かくなったが、夜はまだ暖炉の火が欠かせない。エルスが炉辺に腰を下ろして、泥炭をくべつつ鍋をかき回している。
「できましたぜ」
「おう、ご苦労」
テーブルで待つ兄弟の元に、料理が運ばれてきた。ルドガーがリュシアンに皿を勧める。
「さあ、食え。今日は行商を口説いてニシンの樽《たる》を置いていかせたんだ。村中これだ」
言いながら、早くもスプーンをつかんで、魚のシチューをがつがつと食べ始めている。大変な食欲だ。四旬節のあいだは夕食しか食べられないから無理もない。
「どうした、リュシアン。腹が減ってないのか」
「いえ、いただきます」
リュシアンは我にかえってシチューに口をつける。塩がよく効いていて、美味だ。町のみなは喜んでいるだろう。町の財政は、戦争をしてほとんどすっからかんになったはずだが、よく樽詰めニシンなど買えたものだ。
リュシアンがそれを指摘すると、ルドガーはこともなげに言った。
「ルムが持ってきた銅貨を使った」
「あれが残っていたんですか!?」
「隠しておいたんだ。いつか必要になると思って」
「軍費に使い果たしたと思っていました……」
「金がない、では済まされんからな。上に立つ人間は」
ルドガーはシチューを早々に平らげ、ビールのジョッキをあおる。
「家を建てるのに木を切っているが、大工が樵《きこり》の仕事までやっていて、どうも無駄だと思っていた。だからフランケンの炭焼人たちを呼んだ。炭焼人はいつも炭を作れる森を探している。連中に木を切らせて、炭を焼かせれば、土地が空いて、売り物ができて、手っ取り早く金になる。一石二鳥だ。それに、以前、粉挽《こなひ》き水車を建てさせろと言ってきた男にも、改めて声をかけた。秋までにはそれを作らせて、粉を挽かせる。よそから買うと高いからな」
「でも、この春はどうやってしのぐんです。炭も風車も、すぐには……」
「すぐには金にならん。だから、そういうものをかたにして、ブレーメンの商人から金を借りた。金利は高いが、何、たった半年のことだ。余裕を持って返せるはずだ」
ジョッキを置いて、ルドガーが笑った。
言葉もなくリュシアンは兄を見つめる。この分では他にもまだ、手づるや隠し玉を残しているのだろう。また、そういうものが尽きても、なんとか町の人間を食わせてくれるのだろう。
自分には、そんな頼り甲斐《がい》はとてもない。
だがヴェラは自分を見込んだのだ。どうにも不思議な気になってくる。
「兄様」
「なんだ」
「兄様は、レーズからどの程度本当のことを聞いているのですか」
ルドガーは、ドアの向こうの隣室にちらっと目をやり、下男たちが自分の食事に没頭しているのを見て取ると、リュシアンに頭を寄せた。
「ヴェラからなにか聞いたのか」
「配偶者を探して、レーズスフェントのことを伝えるために、この地を詳しく調べているのだとヴェラは言っていますね」
「彼女が気にしているのは、レーズの配偶者のことだよな? ふむ、やはりレーズは相手を探しているのか。何か違うような気もしたが」
「そのほうが相手が喜ぶからと言って、町の来歴を徴税吏のように洗いざらい調べていますよ」
「ふん、戦争で領土を譲る時にも、検地帳をつけたりするからな。そういうことか」
「そんなことだと思います。あまり根掘り葉掘り聞くので、町の人間をなだめるのが大変です」
「そうか。おまえは役に立っているんだな。頼んでよかった」
兄に久しぶりに認められたような気がして、リュシアンはそこはかとない安堵を覚えた。だが話をすすめると、また奇妙な気持ちになった。
「ところで、彼女らの故郷の話はどの程度本当なんでしょうね。それに|空っぽ人形《レール・プッペ》の見聞の話なども」
「故郷の話? おまえ、レーズたちの昔語りを聞いたのか」
「ええ、少し。兄様は聞かれていないんですか」
「あまりないな。興味がないから。おれはあの女の思惑と力さえわかっていればいいんだ」
ルドガーは少し首をひねっていたが、それ以上突っこんでは聞いてこなかった。現実への対処を考えるのに忙しく、思い出や物語に付き合っている余裕がないのだろう。
リュシアンはあの女の不思議について、一人で考えねばならなかった。
夜、寝床にくるまって昼間のことを思い返した。ヴェラは、自分たちのことを星から来たと言った。カエルが池で卵を産み、サケが川で孵化《ふか》するように、レーズも星で卵を産む種族であり、それを目的に星から星へ飛び回っているのだと。自分たちが今いるここも星のひとつであり、広くはあるが有限の世界で、丸い形をしているのだと言った。
ヴェラの話はつかみどころがなく、寓話《ぐうわ》だとしても意味を汲み取りかねた。わかるのは、ヴェラがそれをひとごとのように話しているということぐらいだった。彼女はレーズと姉妹ではないのか。
「ずいぶん突き放した言い方をするんだな。おまえは実の姉が嫌いなのか」
「姉と言ったのは皆に聞かせるための嘘《うそ》。わたしは前に言ったとおり、レーズに作られた二番人形《ツヴァイト・プッペ》。そして、あなたたちがレーズだと思っている彼女も、本物じゃないわ。あれは最初に作られた一番人形《プリムス・プーパ》よ」
リュシアンは冷や汗を流しながらその話を聞いていた。世界を歪《ゆが》んで解釈したり、自分のことを人形だと言ったりするこの女は、もっとも好意的に考えても、狂人だ。
そしてもっとも不吉な想像をするならば、嘘いつわりのない悪魔だろう。
悪魔かもしれない[#「悪魔かもしれない」に傍点]とは折に触れて思ってきた。しかし目の前に悪魔がいる[#「悪魔がいる」に傍点]と考えるのは相当な恐怖だった。
そんな思いが、きっと顔に出ていたのだろう。ヴェラがいつもの薄い笑みをふと消して、けげんそうに顔を覗きこんできた。
「怖がらせてしまった?」
「いや、別に……」
「恥じなくてもいい。生き物が自分より大きなものを恐れるのは当然だもの」
「おまえは大きくなんかない。はったりを言っているだけだ」
あるいは、そのときヴェラが取った行動が、一番恐ろしいものだったのかもしれない。
彼女はしゃがんだのだ。両膝《ひざ》を抱えるように座り、床拭《ゆかふ》きをするような手つきでそっと地面を撫《な》でた。そして顔をあげた。
「いいえ、レーズは人間よりずっと大きい」
リュシアンは喉《のど》が塞《ふさ》がったような気分で、それを見下ろしていた。ヴェラは再び立ち上がり、また元のように微笑んで語った。
「でも、怖がらないでほしい。レーズは人間と同じ生き物だから。人間と同じように喜怒哀楽を覚え、論理を元にした対話ができる。実際、レーズはあなたを普通の人間よりも好いているわ。少し変わったところがあるから」
「ぼくが変わっている?」
いささか不快に思って、リュシアンは聞き返した。
「理屈っぽいところがか」
「理屈っぽさで、情動を抑え込んでいるところよ。そこにレーズは親しみを覚える。レーズも理性で抑えているもの。異性への強い想《おも》いをね」
「異性への想いだって?」
「リュシアン・フェキンハウゼン――」
ヴェラの声に重なって、リュシアンは誰かに名前を呼ばれたような気がした。思わず辺りを見回したが、ヴェラが顔を寄せたので目が離せなくなった。
「認めましょうよ、リュシアン。自分が人一倍多情なのを」
リュシアンは顔に血を上らせる。怒りの言葉を吐こうとして、途端にヴェラに指差される。
「怒鳴って気持ちを吹き飛ばす前に考えて。真実だから腹が立つのでしょう」
リュシアンは声を出せなくなる。その沈黙に、ヴェラが言葉を流し込む。
「あなたは多情だ。エルメントルーデ姫に恋慕し、またアイエにも惹《ひ》かれている。ロマのシャマイエトーも無視できない。でもそれは自然な理由から。五年ものあいだ隔離され、男に囲まれて暮らしたから。あなたが女を欲するのは、その反動。あなたが邪悪だからではない。恥じ入ることはない」
「ぼくは――」
「あなたは普通の男なの。イエス・キリストを除くすべての男たちと同じ、煩悩を抱えた常人なのよ」
どっと汗が噴き出し、リュシアンはふらついて木にもたれた。ヴェラの言葉が繰り返し頭の中で響いていた。普通の男。常人。ずっとそう言われるのを恐れてきた。
だが、言われて初めて、それを望んでいたことがわかった。常人。そのとおりだと認めてしまえば、ずっと楽になれる。聖職者を目指すという重荷に苦しまなくてもよくなるのだ。
リュシアンは改めてヴェラを見た。老婆めいた穏やかさで見つめている、ほんの二十歳ほどの娘を。なぜこいつは、ぼくの心のうちがこんなに深くまでわかるのだろう。一体何者なのか。悪魔がこんなに心をほぐしてくれるものか。むしろ、まったく反対なのでは――。
「ヴェラ、おまえは……聖人なのか?」
「違うと言っているでしょう、わたしはレーズの人形。手を貸して、はっきりと教えてあげるから」
言われるままリュシアンは右手を差し出した。村のほうからやってきたアイエが名を呼びながら現れた。ヴェラが、自分の胸にリュシアンの手のひらを強く押し付けた。ローブの布の内で、乳房が潰《つぶ》れるのが感じられた。
「見習いさん、どこに――あら」
「アイエ?」
リュシアンは振り向いて、驚愕《きょうがく》した。アイエの目が大きく見開かれ、歪んだ。次の瞬間、彼女は身を翻し、駆け去っていった。
リュシアンは何もできずに突っ立っていた。
手のひらに鼓動が伝わってこないと気付いたのは、ずいぶん経《た》ってからだった。
この女には、心臓がない。
気付いた途端、総毛立つような恐怖に襲われて、思い切り手を引き戻したが、ヴェラはその直前に手を放していた。そして、それ以上説明するでも、引き留めるでもなく、なにやら様子を窺《うかが》うようにリュシアンを見つめていた。
強い衝動がリュシアンを襲った。アイエを追いかけて、誤解を解きたいという気持ちだ。しかしそれと同じぐらい強く、そうするわけにはいかないとも思った。彼女を追えば、ヴェラの言うとおりだと認めてしまうことになる。
いくつもの相反する気持ちの板ばさみになって、リュシアンは立ち尽くしたが、皮肉にも、ヴェラの一言で踏ん切りがついた。
「そう、そういうところがいいのよ、リュシアン」
それを聞くと、リュシアンはいたたまれなくなって家に戻ってきたのだ。
「……人形、か」
夜の寝床の中で、リュシアンはあのときのことを思い返す。冷静になった今では、ヴェラの意図も見当がつく。彼女はリュシアンに女を近づけ、堕落させようとしたのだ。彼女の行いはほとんどすべてそれで説明できる。
ただひとつ、何よりも奇妙なのは、悪魔であることを明かした点だ。それだけですべてがだめになる。なぜわざわざ明かしたのだろう。
リュシアンは頭を絞って考えようとしたが、一日にいろいろなことが起こりすぎたので、集中できなかった。いつの間にか睡魔に襲われた。
眠り込む寸前、アイエの悲しげな顔が脳裏に浮かんだ。ひどく胸が苦しかった。
翌日から、リュシアンはヴェラと会うのをやめた。彼女が訪ねてきても下男に追い返させた。悪魔だとわかっている相手と会えるわけがない。
だが、町の人々にそれを語っても無駄なのは明らかだった。彼らは、レーズやヴェラが異端の存在であることを、半ばあきらめるような形で受け入れてしまっている。
教会のアロンゾ司祭に話した。この世でもっとも力を持っているのは天なる主であり、主を仰ぐカトリック教会である。教会の人々の力を借りれば、レーズを退治できるかもしれない。彼女たちの奇妙な行いや、色欲で自分を惑わそうとしたことまで話した。
だがアロンゾ司祭の答えはこうだった。
「うんうん、あんたの話はわかったけどな。魔女裁判を開くには、司教座にお伺いを立てんならん。しかしレーズスフェントは、どこの司教区にも属してへん。あんた、ひとっ走りミュンスターかブレーメンまで行ってくれるか?」
「できるわけないでしょう、そんなこと」
にやにやしながら言う司祭に、リュシアンは憮然《ぶぜん》として答える。代官《フォークト》ルドガーは、管区司教など無視してレーズスフェントを誕生させた。当然、周辺の司教たちの顰蹙《ひんしゅく》を買っている。その彼らに頼みごとなどするのは、レーズスフェントを乗っ取って下さいと言うようなものだ。
「あの人を追っ払っても、誰も喜ばへんと思うよ。もっと建設的なことをお考え」
「司祭さまはあの女を怪しいと思われないのですか?」
「それは思わんでもないけど、わしの前には滅多に現れてくれんしな、あの人ら」
「現れる現れないの問題じゃないでしょう。心臓がないんですよ。正真正銘の魔女ですよ? 放置していいわけがない!」
「放置したったらええがな。なんの実害もあるわけやなし」
「司祭さま!」
「……リュシアン、あんたな」
リュシアンが声を上げて抗議すると、司祭はふと表情を和らげて言った。
「メメント・モリいう言葉はご存じかな」
「知っていますよ、死を思え、という意味でしょう。それが何か?」
「そういう言葉を胸に抱いて、いま一度考えてみたらええと思うよ」
「はあ……」
その昔、凱旋した将軍が勝利の行進をする際に、彼の後ろから奴隷がこの言葉を投げかけるしきたりがあった。平民だろうが英雄だろうが、人間は誰でも死ぬのだから、おごりたかぶってはいけないという意味だ。
その言葉がどう当てはまるのだろう。リュシアンは考えつつ教会を出たが、よくわからなかった。
あの日からアイエは来なくなっていた。弁解には、相変わらず行けなかったが、むしろ心を乱されることがなくなってかえってよかった。よかったのだと思おうとした。
しかし、そう考えることは苦痛で、心が重くなってしまうのだった。
リュシアンが屈託しているあいだにも、日一日と春が近づきつつあった。風のない明るい日が続き、木陰の雪が減っていった。反対に中洲を洗う川の流れはどんどん水嵩《みずかさ》を増していった。それはまるで、断食と禁欲を続けながら寒さに耐えてきた人々の、春に向けた期待の高まりを表しているようでもあった。
四旬節も半ばを過ぎ、春分を迎えた日、レーズスフェントに凶報が届いた。
「フランス王がアキテーヌ公領に攻め入った!」
宿坊に入った巡礼が、おそらく行く先々で何度も語ったであろうその話を、すっかり板に付いた調子で語った。それは小一時間もしないうちに町中に広がり、ルドガーとリュシアンの耳にも入った。
ルドガーは人前ではどうという顔もしなかった。だが夜になるとリュシアンを呼び、真剣な様子で話した。
「近いうちにおれは、この町を離れなければならんかもしれん」
「なんですって。どういうことですか?」
「昼間に聞いただろう。フランス王がアキテーヌを攻めた。主君ルプレヒトさまからお呼びがかかるかもしれない」
「アキテーヌというのは確か、フランスのずっと南西の地方だったはずです。ここからだと五、六百マイルは離れているんじゃありませんか。そんな遠方のできごとに、なぜ兄様が?」
「おまえはもっと勉強したほうがいい」
そう言って、ルドガーは教えてくれた。アキテーヌ地方は、現在イングランドの王が飛び地として治めている。フランス王がそこを攻めたのは、イングランドの王と事を構えるつもりだということだ。フランスとイングランドという二大国が衝突するとなれば、どちらもドイツの領邦諸国に同盟を求めてくるのは間違いない。同盟を組むのか、それとも漁夫の利を狙《ねら》うのかは諸侯《しょこう》と皇帝陛下の意向次第となろうが、どちらにしろ、東フリースラント伯爵は兵を出さねばならなくなるだろう。
「おれはルプレヒトさまへの忠誠を誓って、レーズスフェントを認められた。戦となれば、出ないわけにはいかない。そうなったら、ここを守るのはおまえしかいない」
「ぼくが……ですか」
「案ずるな、グリンやナッケルが守《も》り立ててくれるし、レーズもついている。大規模な軍勢が攻めてくるようなことでもない限り、この町はやっていけるはずだ。おまえはただ、おれが戻るまで町の真ん中に居座っていればいい。それさえ果たせれば、あとはおれが立て直してやる」
真剣にそう言ってから、ルドガーはふと顔を崩して、今日明日の話じゃないから心配するな、と笑った。
リュシアンはとうてい笑う気になれなかった。
今まで考えもしなかったが、ルドガーがいなくなるのは十分にありうる事態だ。そうなったら代官《フォークト》の地位はほぼ自動的にリュシアンのところへ回って来る。ルドガーはああ言ってくれたが、実力も貫禄もない人間が長《おさ》の地位に収まっていたら、この町は半年ともたずに崩壊するだろう。なんとか努力してもたせたとしても、そもそも兄が帰ってくるとは限らない。ルドガーぐらいの下級騎士の役柄は、騎乗して突撃することだ。戦死するおそれは低くない。
「兄様がいなくなったら……」
リュシアンは心を鎮め、考えてみた。ルドガーがいなくなったら、自分はどうするべきか。もともと騎士ではないのだから、戦えなくても仕方がない。町を領主に明け渡して、修道院に戻ればいいではないか。長兄フォスや、次兄コンラルドは喜んでくれるだろう。
自分以外の人間だったら、どうするだろうか。やはり、そうするだろう。二十歳も出ていない若造に、町ひとつ守ることなどできはしない。誰だってあきらめる。何も恥ずかしいことではない……。
一応の結論に達したような気がして、リュシアンはそのことを忘れようとした。
しかし時が経つに連れ、強いて無視していた違和感がふくれあがってきた。
父と兄たちは明け渡しを認めてくれるだろうか。わからない、一度は刃《やいば》を交えたのだから、裁かれるかもしれない。町の人間たちは恨まないだろうか。恨むに決まっている、彼らは自分たちを信じて味方してくれたのだから。レーズやヴェラは呪《のろ》わないだろうか。おそらく呪うだろう。自分は彼女たちの作品を壊すことになるのだから。
アイエには間違いなく軽蔑《けいべつ》される。
要するに、ルドガーとともに自分も、今ではもう逃げられないところまで来ているのだ。耐えられそうもないことだが、自分が何とかしなければいけない。それが現実だ。
「でも、どうやって……!」
迷ったリュシアンは、翌日、兄に頼んでみた。
「兄様、ぼくに代官《フォークト》としての心得を教えてください。兄様の留守をしっかり守れるように」
ルドガーはそれを聞くと嬉《うれ》しそうな顔をした。
「そうか、よく言ってくれたな。だが、おまえにおれと同じやり方はできないだろうし、素質があるとしても短時間では教えようがない。それより、おまえに向いたことをするべきだと、おれは思う」
「ぼくに向いたこと?」
「そうだ。頭を使うということだ。おまえの一番の長所は、おれよりずっと頭がいいということだ。今でも倍はいいだろう。それを十倍にも、二十倍にもしろ。誰もかなわないほど賢くなれば、腕力や武技がなくても人を治めることができるだろう。昔から、そういった性格の王や聖人はけっこういたじゃないか」
「しかし、賢くなれとおっしゃっても、誰に教わればいいのか……」
「いるじゃないか、誰よりも賢い人間が。いや、人間ではないかもしれんが」
リュシアンの脳裏に、あの不可思議な女の顔が浮かんだ。思わず声を上げてしまった。
「ヴェラに、物を教われとおっしゃるんですか」
「おまえは彼女が嫌いなのかもしれんが、本気で村を守りたいと思っているなら、そんなことを気にするべきではないんじゃないか」
「でも、彼女は悪魔で――」
「リュシアン」
兄が肩をつかんで、青い目をまっすぐに据えて言った。
「おまえ、悪魔が怖いのか?」
「こ、怖いですよ、そりゃ!」
リュシアンが本音を吐いた途端、ルドガーが何度も首を横に振り、唇に指を立てた。
「待て待て、そんなにあっさり認めちゃだめだ。あのな、気持ちはわかる。おれも一度あいつに殺されかけたことがあるからな」
「殺され……」
「おう。だが、いいか。そういうのは忘れておくんだ。怖いですよなんて言ってても、何も始まらん。何かを始めるつもりなら、こう言うんだ。怖くなどない」
「怖く……」
「などない。言うんだ。悪魔など怖くない」
「悪魔など、怖くない」
「言ったな? それでいい。じゃあこれからも、そんなことを考えそうになったらすぐに言え」
兄が微笑んで顔を離した。リュシアンは戸惑って尋ねた。
「兄様、これはただの嘘なんじゃ」
「だとしたらおれの行動は全部嘘だということだな」
「……兄様も、怖かったんですか?」
「いいや、怖くなどないとも!」
半ばおどけるようにしてルドガーは言い、楽しげな笑みを見せた。リュシアンは、彼の生気が染みとおってくるように感じた。
「それでいい、のかな……」
翌日、彼は長老トウヒの根元へ向かった。そこに腰を下ろして五分も待つと、幹の裏から足音がやってきた。リュシアンは顔を上げた。ヴェラが見下ろしていた。
「悪魔狩りをするのはやめたの?」
「ああ」
リュシアンは呼吸を整えて言った。
「おまえの知っているすべてをぼくに教えてくれ。悪魔ならさぞかしいろいろなことを知っているんだろう?」
「すべてを?」
ヴェラが一瞬、見たことのない鋭い笑みを浮かべた。リュシアンは兄の言ったことを思い出し、背筋に寒気を覚える。
だが、その考えを乗り越えるようにして言葉を押し出した。
「すべてをだ。レーズスフェントのすべてを教えてやったんだから」
「――それもそうね」
何かを思いついたようにうなずくと、ヴェラは踵《きびす》を返した。
「いらっしゃい」
向かったのは泉だった。ヴェラは白砂を踏んで水中へ入っていく。もっとも深いところでは水底は青緑の陰となっている。ヴェラが振り向いて、そこへ招いた。
「ほら、こっちへ」
「どうする気だ」
「すべてを教えてあげるのよ」
毒食わば皿までという気分で、リュシアンは水中に踏み込んだ。爪先《つまさき》が触れた段階ですでに、ただの水とは異なるものを感じていた。温かいのだ。川水の手を切るような冷たさがここにはない。かといって温泉のような気味の悪い生温かさがあるわけでもない。粘り気の弱い、しいて言うならきめ細かい砂のような涼しい流れが、くるぶしを浸し、膝へとあがってきた。
「さあ……進んで」
近づいたリュシアンの手をヴェラが取り、さらに先へと押し出した。惰性で進んだリュシアンの足元で、砂がすっと消えた。悲鳴を上げるひまもなく、リュシアンはほとんど垂直に沈んだ。空気を求める肺の動きが、かえって水を呼び込んだ。
揺らめく水に包まれてどこまでも沈んでいく。――兄が感じたのと同じ恐怖と苦痛を、弟も味わった。
違うのは、途中で救い出されなかったことだ。水のもたらす感覚が、リュシアンの五感をどこまでも深く塗りつぶし、打ち消した。青黒い光のほか何も見えず、ジーンという耳鳴りのほか何も聞こえない状態が続いた。
死ぬのか、と思った。
ぼくはここで死ぬのか。だとしたら無念だ。まだほとんど何も成し遂げていなかったのに。何よりも悔しいのは――。
赤毛の少女の顔が浮かんだ。そばかすの浮いた頬《ほお》と垢抜《あかぬ》けない太い眉。目はいつも明るく輝いていた。だが今は落胆に歪み、非難の色をたたえている。
なぜ誤解を解いておかなかったんだろう。
そう思ったとたん、彼女の姿が見えた。宿坊で母親と一緒に、軽口を叩《たた》きながら繕い物をしている。と、針を指に刺して悲鳴を上げた。母親にからかわれ、頬を膨らませて言い返し、指を口に含んで血を抜いているのが、木組みの窓枠の中に見えた。
――窓枠?
そう思ったとたん、窓枠を覗《のぞ》いているコマドリの姿が思い浮かんだ。立ち木の枝に止まっている。
どうやら、今アイエの姿を見つめていたのは、そのコマドリだったらしい。鳥の見たものが、何らかの不思議によって、リュシアンの目に映っていたのだ。
しかし、では、今このコマドリを見ているのは、一体誰なのだろう? 非常に低い、地べたの上から、木の上のコマドリを見上げているようだが――。
そう思ったとたん、若草の下からコマドリを見上げているネズミが目に入った。そのネズミの目を、最前まで借りていたということだろう。
そのネズミの姿は点のように小さかった。それもそのはず、リュシアンは木々の梢《こずえ》よりはるかに高い、天空から地上を見下ろしているのだった。
そんなに高くても、リュシアンの目は地上近くの小動物や小鳥をあまさず捉《とら》えることができた。その理由はもはや明らかだった。リュシアンは今度はハヤブサになっているのだ。その視力をもってすれば、レーズスフェントのあちこちにいる無数の生き物がたやすく見分けられた。そのうち三十匹ほどが、天然の動物ではなく、自分と同じような、作られた生き物であることもわかった。
両腕を軽く動かすだけで、自在に風の流れを捉えることができ、軽々と昇ってゆけた。海や林や、遠くの町や城までもが一望にできる。心が浮き立ち、リュシアンはそのまま飛んでいきたくなった。
――待って、そこまでよ。
声がして、リュシアンは引き戻された。気が付くと青い水の中におり、目の前にヴェラがいた。
――|空っぽ人形《レール・プッペ》たちの入り心地は、どうだった?
――あれが、おまえの言っていた……。
――そう、レーズの生み出した人形たちよ。レーズは大きすぎて、動くことができない。だから――|空っぽ人形《レール・プッペ》を走らせて、周りの様子を探る。その多くは動物の姿をとっているけれど、人間と対話をするためには、人間の姿をした人形が必要だった。そこで一番人形《プリムス・プーパ》が生み出された。今あなたたちがレーズと呼んでいる女のことよ。
そう言って、ヴェラは目を閉じる。
――ほら、プリムスの視界も見えるわ。彼女はいま、長老トウヒの上から広場を見ている。ルドガーが見回りをしているからね。プリムスは彼が大好きみたい。
――あれは、たとえ話じゃなかったのか……。では、その他のこともすべて?
――ええ、比喩《ひゆ》ではなく、事実よ。あなたが持っている世界観とは相当異なっている。それでもすべてを学ぶ勇気がある?
――もちろんだ。
他にどう答えろというのか。リュシアンは怖気《おじけ》が湧《わ》く前に言い放った。ヴェラがうなずき、リュシアンの手を取った。
――レーズは二千五百年前にこの地に降り、夜ごと朝ごとに人形を放ってきた。その数、しめて六十五万頭。それらはドイツ全土に広がり、もっとも足の達者なものたちは海を渡るところまで行った。でも、遠くへ行きすぎた人形には、レーズの声が届かなくなった。生きて戻って報告したのは、ほんの一、二割。古くなってしまった報告もあるし、中には数百年前のままの絵もあるけれど、構わないわね。すべてを重ねて見せてあげる。
リュシアンの視界を覆っていた青い影が晴れ渡った。眼前に、広大な陸地が広がっていた。正面には険しく切り立った山地、左手には凍った池の点在する雪原、右手には萌《も》え始めた黄緑の平原。足元には黒く深い森に覆われた国土が広がり、ピン先のような尖塔《せんとう》を持つ集落が、あちこちにまばらに点在していた。
――ドイツよ。あれがアルプス山脈、あちらがポーランド平原、あちらがフランス。わかるわね。
リュシアンはただ呆然《ぼうぜん》と見ていた。
――あなたが知りたいことはわかっている。ルドガーに情勢を聞いたのでしょう。大きな戦が起こるのかどうか、起こるとしたらルドガーが出征せねばならないのかを知りたいのね。
――そうだ。戦争が起きたら、ぼくは兄様に代わってレーズスフェントの面倒を見なくちゃならない。
――その鍵《かぎ》は、ある男が握っているわ。
リュシアンは何本もの大河を飛び越え、海峡をひと息に渡って、白い崖《がけ》に囲まれた島に降りる。六角形の城壁を持つ石造りの陰気な城で、若く精悍《せいかん》な男が、自分よりも年配の貴族たちをとげとげしい口調で叱責《しっせき》している。
――アンジュー家のエドワード三世。今のイングランド王よ。これは二年前に人形が目にした姿だわ。狷介《けんかい》な野心家で、フランス王に臣従を誓わされたことを恨み、海の向こうの土地まで自分のものにしようとしている。出兵の準備をしていることを、他にも多くの人形が伝えている。
――彼の相手は?
――ヴァロア伯フィリップ六世。こちらも専横を極める尊大な君主。
リュシアンは海を越えて南へ向かう。沃野《よくや》を潤す大河のなかばほどに、中洲を抱えたごみごみした都が広がっている。青い屋根のルーヴル宮殿では、痩《や》せぎすで血色の悪い中年のフランス王が、面白くもなさそうな顔で食卓についている。昼食を終えて、指に付いたブドウの汁をなめているところだ。
――フランス王は大陸にあるイングランド領、特にアキテーヌ地方のギュイエンヌ公領を回復しようと何度も争ってきたけれど、いまだに果たせないでいる。この二月にもギュイエンヌに手を出して失敗した。不愉快にもなろうというものね。
――この二人の胸先三寸で、レーズスフェントの行く末が左右されるのか……。
リュシアンは緊張や恐怖が抜けて、何か空《むな》しさのようなものが胸に広がるのを感じた。手の届かない遠方で、想像の及ばない崇高で大きな戦いが行われるのだろうと、漠然と感じていたが、実際目にしてみれば、短気な若者と不平屋じみた男の私戦のようなものらしい。
この調子では、列国の王侯貴族も似たような有様ではないのだろうか。
――ヴェラ、他の国は見られるのか。
――人形が足を踏み入れたところなら、どこでも。
――見せてくれ。
そうしてリュシアンは、ヨーロッパ大陸全土をまたぐ、壮大な幻視の旅に乗り出した。
レーズスフェントのすぐそばにある、北の大国デンマークは、現在王がおらずに混乱していたが、リュシアンよりひとつ年下の王族の青年が機をうかがっており、やがて強力な王となりそうだった。
東のバルト海では、リューベックやロストクなどといった、船隊を持つ諸都市が、ハンザ同盟という組織を形成して盛んに貿易を行い、大いに栄えていた。彼らの船はレーズスフェントの沖を通って西方まで行き来しているので、いずれ関係を持たねばならないのは間違いなかった。
ドイツ諸邦の情勢は、言ってみれば三百匹のネズミが同族闘争をしているようなもので、誰が誰の尾を噛《か》み、誰と誰が交わっているのか、見当もつかない有様だった。かろうじてわかるのは、誰か一匹が力をつけて他を圧することなど、ありそうもないということだった。何しろ諸侯に君臨する神聖ローマ皇帝ですら、都のひとつも保っていないのだから。
アルプスの南には教皇がおらず、どこにいるかと思えばフランス国内のアビニョンに遷座していた。リュシアンのような下位の聖職者は、今までそれがおかしいとすら思っていなかったが、こうして時と場所をまたいで俯瞰《ふかん》してみると、教皇がフランス王国の影響下にあり、ドイツを避けてこの地に留《とど》められているのだということが、よくわかった。
全カトリックの統治者、キリストの代理人である教皇も、俗世の力にはかなわないのだ!
イタリアを巡る海では、ジェノバとヴェネツィアという二つの海洋都市が覇権を争い、スペインではカスティーリャ王国が、長く国土を占領していたイスラム教徒のムーア人を、アフリカへ追放しつつあった。
しかし東方ではひとつの強大なイスラム君侯国が現れ、小アジアを席巻していた。初めオスマンという男が治め、次いで息子のオルハンが率いるようになったその遊牧国家は、破竹の勢いで進撃を続けており、東方世界に何かただならぬ変化を引き起こしつつあることが、素人のリュシアンにも感じられた。
リュシアンは時を忘れて世界中を飛び回り、人の行いと国の盛衰をつぶさに眺めた。そういった東西何千マイルもの飛翔《ひしょう》の間に、ふと北のほうへ目をやると、ユトランド半島の根元の辺鄙《へんぴ》な白樺《しらかば》林の中に、カエルの幼生を思わせる形の、砂粒ほどの小さな点が見えた。それが、自分たちのレーズスフェントなのだ。
なんと小さいんだろう、と思わずにはいられなかった。
それとともに、なんと素晴らしいことだろう、とも思った。あんな小さな村の下位聖職者でしかなかった自分が、どんな帝王よりも広い版図を把握している……。
今まで、フェキンハウゼン領の周りにどんな国があるかすら、ろくに知らなかったリュシアンにとって、この幻視は人生を何度もやり直したに匹敵するほどの、目くるめく体験となった。
あまりにその旅に夢中になっていたので、ヴェラに時を告げられたリュシアンはひどく驚いた。
――それぐらいにして、リュシアン。もう半月も経ってしまったわ。
――そんなに?
リュシアンは我に返り、ノルウェーの勇壮な船乗りたちを見守るハイイロガンから、意識を引き戻した。
北ドイツの、北海に面した中洲の、古い泉の中に戻ったリュシアンは、遅まきながら身近なことが気になりだした。
――町は今、どうなっているんだろう。兄様が心配しているんじゃないか。
そう言ってから、小さな疑いがきざして、思わずつぶやいてしまった。
――それとも、兄様はそれほど気にしていないかな……。
――ルドガーは心配しているわよ。事情は話してあるけど、毎日泉に訪ねてくるわ。
――そうなのか。
――ええ、他の人間にそんな顔は見せないけれどね。人に向かっては、あなたをブレーメンまで使いに出したと言っている。
――そうか。
リュシアンはほっとするとともに、またしても兄に対する引け目のようなものを感じてしまった。人間的な度量では、やはり彼にかなわない。
だが、すぐにひがみを打ち消した。いまの自分は強力な武器を身につけた。必ずレーズスフェントに貢献できるはずだ。
何も恐れることはない。
――ところでヴェラ。ぼくは生きて戻れるんだろうな。今さら、この奇跡の代償が命だなどと言ったら、怒るぞ。
――怒らないでほしいのだけれど……最初は、そのつもりだった。
――なんだって?
リュシアンが相手をにらみつけたとき、世界に異変が起こった。
頭上から大きな水音がして、人影が降りてきたのだ。その者は二人の間に割って入り、燐光《りんこう》を放つ目でにらみつけた。リュシアンはつぶやく。
――レーズ……いや、プリムス。
――最近、情報の欠損がいやに多くなってきたと思ったら……こういうことだったのね。まさか、私に匹敵する人形が生まれているとは。
シュッ、とプリムスの手が水泡を曳《ひ》いて伸び、ヴェラの首をつかんだ。
――二番人形《ツヴァイト》、おまえは何者?
――おまえ……プリムス、どういうことだ。妹じゃないのか、ヴェラは。
ちらりとリュシアンを見てから、プリムスは不愉快そうに目をそらした。
――私に妹などいない。さあ、吐け。もっとも、言わなくてもわかるけれど。この惑星上に、こんなことをする者が他にいるわけはない。
プリムスは険しい目で、叫んだ。
――ラルキィ!
――……半分当たり。でも、半分外れよ。
ヴェラが苦しげな息の下から言って、歪んだ笑みを浮かべた。
――確かに私は、ラルキィの接近を感じたから動き出した。でも、その差し金じゃない。純粋にレーズの中で生まれたもの。
――私の中におまえのような不穏なかけらがあるはずがない!
――私はあなたの恋よ!
プリムスの手が緩んだ。その隙《すき》に、ヴェラがするりと後ろへ逃げた。喉を撫でながら、ささやきかける。
――あなたが本能を無理やり抑え付けたから私は生まれた。
――抑えつけてなんかいない!
――否定しても無駄よ。これは事実なんだから。あなたがいかに人に情けをかけても、いずれレーズとして繁殖の契機に出会うこととなる。そのときどうなるか――
プリムスが水中で体を一回転させ、ヴェラに激しい蹴《け》りを浴びせようとした。
だがそれより早くヴェラは後退し、青黒い水の闇《やみ》の中へと消えていった。
後には、プリムスとリュシアンが残された。
なにが起こったのか、リュシアンは懸命に理解しようとした。そして、ある結論に達した。
――プリムス、おまえは結婚したくないんだな。
プリムスが振り向いた。その顔には怒りが浮いていた。だがリュシアンは臆《おく》せず言った。
――おまえは人間に好意を持ったから、自分のことを後回しにして、兄様の町作りに力を貸してくれたんだ。また、多くの人形を走らせて、危険が近づく前に兆しを捉えようとした。ヴェラは、それを咎めるおまえの内なる声が、形になったものだった。……違うか?
プリムスの顔からゆっくりと怒りが消え、軽い驚きが取って代わった。
――なぜそう思うの。
――当たったな。
――……ええ、その通り。知られてしまったわね。
――別に人に話す気はない。話さないほうがいいんだろう。ラルキィに気付かれてしまうから。おまえがもっとも恐れるのはそれだ。……意に染まぬ結婚を強いられてしまうこと。
――賢くなったわね。
プリムスが体ごと向き直った。リュシアンは微笑んだ。
――ヴェラのおかげだ。ヴェラのせい、なのかな。おかげで恐ろしく知恵がついた気がする。彼女は一体なんのためにあんなことをしたんだろう。
――傀儡《くぐつ》がほしかったんでしょうね。レーズの叡智《えいち》をすべて受け入れることのできる人間は、過去にいなかった。聖人も賢哲も、世界のありのままを知ると狂ってしまった。なのに……きみは狂わなかった。もし私が来なければ、きみをいい手駒《てごま》にしていたでしょう。
――手駒にして、どうするんだ?
――ルドガーを討たせレーズスフェントを乗っ取らせる。私の伴侶《はんりょ》に捧《ささ》げるために。
リュシアンは息を呑《の》んだ。プリムスが口の端だけで笑った。
――それは失敗したのだ、と思いたいけれど。
――したとも。
リュシアンは息を吸い、叫んだ。
「ぼくが兄様を裏切るようなことがあるものか! ぼくは兄様を愛している!」
――ご立派。
プリムスが軽く手を叩いた。あながちからかっているわけでもなさそうだった。
リュシアンは、彼女に対する嫌悪感が薄れていることに気付いた。
――プリムス、ぼくは今までおまえのことを、なんというか……謝りたい。
――いいのよ。普通の人間の反応だったわ。ルドガーが特別なだけ。
プリムスが手のひらを向け、リュシアンの言葉を止めた。
――外へ出たら、仲良くしてちょうだい。いい?
――仲良く、か。
いきなり態度を変えるのは難しいとリュシアンは思ったが、小さくうなずいた。
そして、先ほど話しかけていたことを思い出した。
――それで僕は生きて俗界に戻れるのか。
プリムスは楽しげに笑って、頭上を指差した。
――行けばわかるわ。さあ、そろそろ戻ったほうがいい。きみを待っているのは、ルドガーだけではないんだから。
リュシアンはうなずき、頭上の光へ昇っていった。
泉のほとりの砂に両手をついて、リュシアンはしばらくぼんやりしていた。濡《ぬ》れた衣服に風が当たって、体が冷えてきた。しかし顔を上げると、すっかり暖かくなった陽光が額に当たった。周囲の木々は盛大に芽吹いて若葉を揺らしている。泉に降りたときとは別の場所のようだった。
ひとつくしゃみをした途端、石段のほうから「あ」という声が聞こえた。見れば、赤いローブのシャマイエトーが水桶を担いで降りてきたところだった。
「見習いさんじゃないか。いつの間にブレーメンから戻ったの? それに、一体なぜそんなに濡れているのよ」
「おまえには関係ない。異教徒め」
リュシアンが言うと、近づこうとしていたロマの女は足を止めた。
「あらあら、相変わらずの石頭だね。日も照ってきたし、ちょっとは柔らかくなったかと思ったら」
そう言うと、つんと背を向けて桶に水を汲《く》みにかかった。リュシアンは彼女の背を眺めながら、徐々に苦笑を浮かべた。
ロマと呼ばれる流浪の異教徒たちを、ドイツの人間は得体の知れない半人半魔とみなす傾向がある。家を建てて定住することのできぬ野蛮な者たちだと思い込んでいる。
だが、リュシアンは今では知っていた。本当は彼らはそんな怪しい者たちではない。はるかオリエントの向こうのインドからやってきた古く誇り高い種族の人々であり、放浪しているのはそれが彼らの性に合っているからなのだ。キリスト教に染まるか、それ以外のイスラム教や他の教えに染まるかということは、彼らにとってはささいな違いでしかない。異教徒めと罵《ののし》れば、確かに彼らは傷つくが、それは的外れな非難でもあるのだ。
以前の自分のことをひどく恥ずかしく思いながらも、リュシアンは穏やかな口調で声をかけた。
「冗談だよ、シャマイエトー」
女が手を止めたのがわかった。リュシアンは自分のローブの裾《すそ》を絞りながら、あえて軽い口調で言った。
「ミスルは遠いな。ここの水はあそこよりずいぶん冷たいだろう」
シャマイエトーが勢いよく振り向いた。信じられない、というような顔で言う。
「ちょっと……人をからかうもんじゃないよ。どこでそんな言葉を覚えてきたのか知らないけど」
「カイロでだよ、シャマイエトー。おまえもマムルークどものせいで北へ逃れた口かな。またナイルとピラミッドが見たいかい」
どさりと砂に桶の落ちる音がした。リュシアンが振り向くと、シャマイエトーがわなわな震えながら口を覆っていた。
「見習いさん、あんた……あたしの故郷を知ってるの」
「最近、聞いてね」
「ピレネーを越えて以来、初めてだよ。ナイルの名を聞いたのは」
「イベリアの方から渡ってきたのか。――大変だったな」
「ああ、長かったね」
シャマイエトーが強く目を閉じた。目尻に一筋の涙が落ちた。
やがて目を開くと、シャマイエトーは晴れやかな笑顔で言った。
「どうしたの、急に変わっちまったようだけど。あんたたちの神様に奇跡でも起こしてもらったかね? おっと、こんな言い方は罰当たりかな」
「天なる主はその程度のことでお怒りにならないよ。好きなように言えばいい」
「あんた、ほんとに……」
感心したように言うと、シャマイエトーは町の広場のほうを振り向いた。
「ねえ、みんなにも挨拶《あいさつ》してきなよ、見習いさん。ただでもみんな心配していたんだ。心を入れ替えて戻ってきたって知ったら、きっと喜ぶよ」
「心配してくれていたんだ」
「本当だからね、おべっかなんかじゃないよ!」
「ああ、そうだろうな。嬉しいよ」
リュシアンは石段へと歩き出した。シャマイエトーが言った。
「着替えてから行くんだよ、そのまんまじゃ風邪引いちまうからね!」
「わかってる、ありがとう」
リュシアンは片手を挙げて言った。
宿坊のシュテフェンの娘アイエは、心を決めようとしていた。
先週、求婚されたのだ。相手はこの二月に村へ来た、渡り大工のヘルベルトだ。大工たちにはいつも昼食の差し入れにいっているが、男として見たことは一度もなかった。アイエの心を占めているのは、一年前に命を救われて以来、ずっとリュシアンだった。毒舌家で皮肉屋の彼のことを人々が敬遠していても、アイエは嫌いになれなかった。
しかしそんな思いは、彼がヴェラと触れ合っているのを見たとき、もろくも崩れた。
あれがなんだったのか、いまだにわからない。ヴェラが誘惑したのだとは思う。リュシアンから触れたのだとは思いたくない。でも、それならなぜ後を追ってきてくれなかったのか。彼のことは、誤解されることなど許さないような性格だと思っていた。それ以上にひょっとしたらと、もっと甘い期待まで抱いた。
だがリュシアンは来てくれなかった。それどころか何も言わずにブレーメンへ行ってしまった。
待つことをあきらめても、罪ではない、と思うのだ。
ヘルベルトは、禁欲せねばならない四旬節が明けたら、すぐにも結婚しようと言っている。金髪できれいな青い目をしたリュシアンに比べれば、男ぶりでは数等劣るけれど、真面目《まじめ》で腕のいい大工なので、父のシュテフェンは大いに乗り気になっている。
それにアイエも、会って話をするうちに、気持ちのいい人だと思うようになってきた。明るく優しく、ちょっとおどけたところもある。大切にすると言ってくれる。アイエももう十七だから、一人身のままでいるわけにはいかない。早く結婚しなければならないのだ。
その四旬節まで、あと十日もない。いくら家財の少ない貧乏人同士だとは言っても、それなりに用意というものがある。早々に決めなければいけなかった。
「とは言っても……ね」
宿坊の裏手で洗濯物を干しながら、アイエはため息をつく。そういうものが、まだ出てしまう。特に一人になると出る。
「ったく、どこ行っちゃったのよ、見習いさん」
「ぼくのことか?」
振り返ったアイエは腰を抜かしそうになった。当のリュシアンが立っていた。それも、見慣れたいつもの黒いローブ姿ではなく、騎士が好むようなマント姿だ。いっぺんに胸が高鳴り、アイエは叫ぶ。
「どうしたの、その格好。いつ戻ったの?」
「ああ、これはたいした意味はない。いつものが濡れてしまったから兄様に借りた」
「そ、それで、なんの――」
「謝りに来た。いつぞやは済まない。あれはヴェラの心臓に触れていたんだ。おまえに怒られるのが怖くて、今まで謝れなかった。悪かったな」
「心臓!?」
「あいつの心臓は人と違うというから」
ここだけは、話を混乱させないためにリュシアンが省略したのだが、アイエにはそんなことはわからない。ただ、二十日あまりうじうじとこだわってきたことが、一度に清算されてしまったので、事態を理解するのに必死になっていた。
ようやくリュシアンが戻ってきたということが実感できた途端、求婚されたことを思い出した。怒り心頭に発して叫んでいた。
「遅いわよ、見習いさんってば! あた、あたし、もう結婚しようって言われちゃったわ!」
「なに? 誰とだ」
「大工のヘルベルトと……」
「もう誓いを立ててしまったのか?」
「それは、まだだけど」
「じゃあ問題ない。ぼくからも結婚を申し込む。シュテフェンと相談して、返事をくれ」
「結……」
今度こそアイエは、真っ赤になって立ちすくんだ。一体何がどうなっているのかわからなかった。
リュシアンは素知らぬ顔でどんどん話を進めていく。
「ヘルベルトにはぼくが話をつける。結納金はもう受け取ったか? まだ? まあどっちでもいい、ぼくがなんとかする。アロンゾ司祭に司式を頼もう。四旬節の日でいいか。式で必要なものがあったら言ってくれ。用立てる」
「み、見習い、あの」
「リュシアンさまだ」
「リュシアンさま、聖職者になるんじゃなかったの!?」
「聖職者? それじゃあ何もできない。ぼくは俗界で生きるよ」
リュシアンが顔を上げて、鼻で笑うように言った。
「メメント・モリ、さ。――いずれ死すべき身の上なのに、楽しまずしてなんとする、だ」
アイエは、彼から目を離せなかった。
毒舌家で、皮肉屋で、鬱屈《うっくつ》していた彼が、急に自分が望んだとおりに変わってくれたなんて、なんだか恐ろしい夢のようだった。
主の年一三三七年秋、イングランド国王エドワード三世は、ウエストミンスター寺院にてフランス国王に対する臣下の礼の撤回を宣言し、挑戦状を送った。一ヵ月後、低地地方《ネーデルラント》の町キャドザントにおいて、ダービー伯ヘンリーの率いるイングランド軍が、フランス王の臣下フランドル伯を攻撃した。長い長い戦争の幕が上がった。
翌年夏、エドワード三世は低地地方《ネーデルラント》に上陸する。彼を助けるためにドイツ皇帝派の諸侯が数多くはせ参じた。
レーズスフェントの代官《フォークト》ルドガーも、主君である東フリーストラント伯爵の命を受けて出征した。この冬に父親になったばかりの弟リュシアンと、二百人の領民、そして泉の精霊が、彼を見送った。
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第四章 レーズスフェントの発見
主《しゅ》の年一三三九年、十一月。
低地地方《ネーデルラント》から従者たちとともに戻ったルドガーの顔は暗かった。リュシアンとアイエの夫婦をはじめ、留守を守っていた人々は代官《フォークト》の無事の帰還を喜んだが、懐かしい人々と再会しても、ルドガーの憂いは晴れなかった。
村の人々を招待して開かれた、生還を祝う盛大な宴《うたげ》の最中も、武勇伝をせがむ人々に、ルドガーはおざなりな挨拶《あいさつ》をしただけだった。宴が終わって、内輪の席になると、ようやく憂いのわけを話した。
「今回は、ことさらに戦禍がひどくてな……うんざりした」
ルドガーは、主君・ルプレヒトを始めとする東フリースラントの騎士たちとともに、イングランド王エドワード三世に助太刀するために出征した。一年と半年前のことである。
エドワード三世の開戦の口実は、フランス王の専横に苦しむ低地諸侯を助けるというものだったが、実際のところは、フランスを占領するのが目的だった。彼の野心を知りつつ、低地諸侯も戦に加わった。理由はエドワード三世が戦費を保証したからである。
これを受けて立つ側がフランス王フィリップ六世だったが、宣戦がなされ、エドワード三世が低地地方《ネーデルラント》に上陸しても、彼は積極的に迎え撃とうとしてこなかった。
このためイングランド側は、集結した軍勢を養いつつ、低地地方《ネーデルラント》を遊弋《ゆうよく》して手近な都市への襲撃を繰り返した。フランス王をおびき出そうとしたのである。
しかしフランス王はこの誘いに乗らず、イングランド軍から距離を置いて牽制《けんせい》してくるだけだった。
業を煮やしたエドワード三世は決戦状を送りつけた。フィリップ六世もそれを受け、会戦の日時を指定した返事を送り返した。しかし実際には戦場に現れず、エドワード三世に待ちぼうけを食らわせた。
そんなことが、冬を前にして二度も三度も繰り返されたので、寄せ集めのイングランド軍は戦意を失ってしまった。低地諸侯はそれ以上の従軍を拒否し、ついには軍勢を解散した。
それが、つい先月のことだった。ルドガーは苦い思いを込めて語った。
「まる一年半も引きずり回されたのに、まともな会戦はほとんどなかったんだ。騎士たちがどんな気持ちになったか、想像がつくだろう」
「激しかったんですね。略奪が」
「ああ。大勢手にかけたよ」
尋ねたリュシアンに、ルドガーは暗い目でうなずいた。
この時代、戦争に伴う略奪は当然のこととされていた。というよりも略奪そのものが戦争の目的のひとつだった。町や村を襲って財宝と食料を奪い、破壊と征服の限りを尽くすために戦争は行われた。もちろん教会は慈悲と慈愛を説いていたが、彼らが尊ぶのは主に身分のある者たちだった。兵士や農民は神の恩寵《おんちょう》から見放されていた。
ルドガーは奪う側の人間であり、しかも君命によって戦場に出ていたのだから、当然、略奪に加わった。神の名のもと下される命令に応じて、行軍し、攻城し、突撃し、破壊した。騎士を刺し、兵士を倒し、農夫を殺《あや》めた。オリグニー、クレシー、セント・マーティン。それら繁華な町の立派な家を占領して、財物を奪った。戦利品は主君に献上し、一部を従者に託してレーズスフェントへ送った。
ルドガーはそういったことを率先して有能にこなしたし、ごく最初のうちは楽しみさえした。もともと聖人君子ではないのだ。力ずくで他人のものを奪うことには強烈な愉悦があった。主君に誉められて誇らしかったし、故郷に錦《にしき》を飾れたのも嬉《うれ》しかった。
しかし同じことが二度三度と続くと、略奪への興味は急速に失《う》せてしまった。最初のうちはまだ、君命に従っている、皇帝代理のイングランド三世を助けているという名分が立ったが、後になってくると、それが言い訳でしかないことが自分でもわかってきた。だが、君命で戦っている以上、いやになったからといってやめるわけにもいかないのだった。
貴人たちの不手際によって、いたずらに無辜《むこ》の人々を殺めさせられている。いったんそんな思いが湧《わ》くと、どうしても没頭しきることができなくなった。最後には、ただいかに咎《とが》められずに手を抜くかということばかり考えて、ルドガーは戦役を終えたのだった。
「……まったく、気の重い戦だった」
「落ち込まないで下さい、兄様。誰でもやっていることです。それに、兄様の送ってくださった戦利品はずいぶん役に立ちました」
「慰めるな、リュシアン。それぐらいなら、軽蔑《けいべつ》してくれ。おれを罰してくれ。そのほうが気が楽だ」
「罰するなんて……兄様は他の人よりもよほど善良だと思いますよ。エルスから聞きました。兄様は女子供を三度も見逃したって」
「そういえば、あいつは不満たらたらだったな」
エルスだけでなく周囲の者には、不思議がられたり、偽善呼ばわりされたりしたものだ。それを思い出して、ルドガーはようやく苦笑を漏らした。
良心に対して言い訳ができる点がもしあるなら、それだった。ルドガーは女子供を殺さなかったし、犯さなかった。そういったことをすると、同じ戦場にいる味方にすぐ知れる。ルプレヒトは略奪を認めていたし、他の騎士たちも先を競って殺戮《さつりく》に励んでいたから、ルドガーはそれ自体を気にしていたわけではない。だが味方には、実の父であるヴォルフラムとフォスがいた。彼らもやはりルプレヒトの命に応じて参戦していたのだ。そしてフォスは二年前に結婚していた。
他の女に触れたら、フォスの妻となったエルメントルーデに知られる。それが何よりも嫌だった。まだ彼女のことを忘れられていなかった。
そういったことはしかし口に出さず、ルドガーは首を振る。
「おれが慈悲を垂れてやったのも、ほとんど意味はなかった。昼に見逃してやった女を、夕方死体で見つけたこともある」
「たとえ一人でも救ったならご立派ですよ」
「そうかな。腰抜けだの、背教者だの、ひどいことを言う奴がずいぶんいたが」
「どんな男も町をひとつ作ることなんかできません」
リュシアンがそう言って、椅子《いす》から立ち上がった。ルドガーのそばへ来て、肩に手を置いた。
「兄様は立派にお勤めを果たして帰られたんです。お帰りなさい、この町を兄様にお返しします」
ルドガーは弟の顔を見上げ、それからゆっくり室内を見回した。リュシアンが新しく建てた家の一室だ。テーブルを囲む人々の顔を、暖炉の火が照らしていた。
いまや人口三百人を越えたレーズスフェントを堅実に治め、村人同士の組織作りをしている、村長のナッケル。
村人の罪と悩みを聴聞し、日々の儀式を取り仕切って、すっかり村に欠かせない人物となった、アロンゾ司祭。
一線からは引退したものの、騎士だった頃の経験を頼りに、レーズスフェントの守りを司っている、グリン老。
そしてルドガーに代わってレーズスフェントに君臨していたリュシアン。小さな村とはいえ、二十歳になったばかりの若者にとっては重荷だったろう。ルドガーは彼の手を握り返して、うなずく。
「おまえこそ、今までよくこの町を守ってきてくれた。礼を言うぞ。それに、この場の皆にも」
一同が静かに目礼した。晩秋のこの日、レーズスフェントは再び元の主人の手に戻ったのだった。
夜更けの館《やかた》で、話し合いが続く。
「それで、兄様がお戻りになったということは、戦は終わったんですよね」
「いや、おそらく一時的な休戦でしかない。イングランド王は低地地方《ネーデルラント》に留《とど》まって資金集めに奔走している。暖かくなればまた戦争を始めるだろう」
「またですか、はた迷惑なことですね。あの方は本当に懲りるということを知らない。徴税のし過ぎで本国の議会では非難|囂々《ごうごう》だと聞きますし、商人たちも融資を渋りきっているというのに」
「詳しいな、リュシアン」
ルドガーが感心してみせると、リュシアンが微笑《ほほえ》む。
「いろいろと伝手《つて》を作りましたから」
「そいつは頼もしい」
「また戦ということになると……兄様も?」
リュシアンが気遣わしげに聞いたので、今度はルドガーが微笑んだ。
「事と次第によってはそうなるだろう――が、それではレーズスフェントが立ち行かん。カンディンゲンは執事やコンラルド兄上のような留守居役がいるが、ここにはしかるべき身分の者が少ないからな」
「まさか、見逃していただいたんですか」
リュシアンが顔を輝かせた。ルドガーは慎重に笑みを抑えて言った。
「ああ。だが、条件付きだ」
「条件?」
「来年の出兵に備えた、兵糧の調達。ルプレヒトさまが必要とする分をもし立て替えるならば、兵役を免除していただけるとのことだ」
「それは……一体どれほどになるんですか」
「東フリースラント伯爵領が派遣する兵力、つまりおよそ五百名の三ヵ月分だ」
「五百名……」
リュシアンが絶句した。無理もない、この村の人口よりも多い数だ。
レーズスフェントでは少し前から、移住者に川向こうの土地をただで貸し与えて、開墾と耕作をさせるということを始めていた。まだ一年と少ししかたっていないから、それほど収穫が上がっているわけではないが、増えた人間の分ぐらいはなんとか賄えている。
しかし、五百名分もの兵糧を献上したら、村が干上がるのは間違いなかった。
「それは、ちょっと……無体なんじゃないでしょうか」
「その通りだ。だからルプレヒトさまの本音は、来年も従軍しろということなんだろうな」
納得できたようで、リュシアンがゆっくりとうなずいた。
「そういうことですか……最初から無理だとご承知なんですね」
「だと思う。が、その予想を的中させて差し上げる義理は、生憎《あいにく》ないわけだ」
「ルプレヒトさまのご不興を買っても?」
「リュシアン、おれはこの一年でよくわかったんだよ。しっかりと守られた、帰るべき故郷があるということの、ありがたさを」
ルドガーは目を閉じて、戦場の光景を思い浮かべた。歓喜と栄光の陰にある暴力。崩壊。悲嘆と怒り。混乱と無秩序。絶望。腐敗と風化。
明るさだけは豊富な夏の青空のもと、見渡す限り草と泥しかない沼沢地で、足を引きずりながら歩いていく兄妹《きょうだい》を見た。歩き続ければどこかへ着くと信じているかのような、ひたむきな顔だった。
すれ違ったルドガーには、とても教えてやれなかった。その先には廃墟《はいきょ》しかないということを。
「……ここに来れば助かる。そういう地を、おれは保ちたいんだ」
アロンゾとグリンが顔を見合わせて、穏やかにうなずいた。
「お変わりないようですな、ルドガーさまは」
「相変わらず変人だ。磨きがかかってしまった」
ルドガーは年配の人々にそう言って、軽い笑いを誘った。
リュシアンが聞く。
「それで、兵糧を集めるための具体策はあるんですか」
「ここにないのだから、よそから手に入れるしかない。各地に使いを出して、余剰を探すさ。収穫期が済んだばかりだから、今ならどこかにあるはずだ」
「たとえ見つかったとしても……手に入るでしょうか? 戦のせいで何もかも値上がりしています」
ルドガーはリュシアンを見て、くしゃくしゃと頭を撫《な》でてやった。
「心配するな。おれが帰ったら万事何とかすると言っただろう? 任しとけ!」
リュシアンが安堵《あんど》の色を浮かべた。他の人々も、それぞれにうなずく。
それを見て、ルドガーはいるべき場所に帰ったのを感じた。
夜明け近く、ルドガーは静まり返った館を抜け出して、外を歩いた。旅立つ前には村というのも恥ずかしい規模だったレーズスフェントに、しっかりした家屋がちらほらと現れ始めていた。東西の橋は馬車が通れるように拡幅され、関守がきちんと徹宵して立っていた。
ここが町になりつつあることを感じて、ルドガーは静かな喜びを覚えた。
中洲《なかす》の中央に茂る木立に入り、奥へ進んだ。林の中は綾目《あやめ》もわからぬ暗さだったが、ローマの泉にたどり着くと、明かりがあるわけでもないのに、ほんのりとものが見えた。砂の上に降りて、ルドガーは呼んだ。
「いるか。帰ったぞ」
やがて泉の真ん中辺りでぱしゃりと音がして、気配が近づいた。水から立ち上がる人影を目にして、ルドガーは声をかけようとした。
「レーズ……」
女は全裸だった。言葉を途中で飲み込んだルドガーに、レーズが含み笑いしているような声をかけた。
「こっちは寝起きよ。支度をするまで待ってもらえるかしら」
「……ああ、すまんな」
この女にはまるで異性を感じないのだが、かといってじっと見ているのも不躾《ぶしつけ》なので、ルドガーは背を向けた。衣擦《きぬず》れの音がして、じきに「いいわよ」と声をかけられた。ルドガーは振り向き、改めて言った。
「無事戻ったぞ、レーズ」
「ええ、よく戻ったわね、騎士」
すらりとした体を男物のタイツと内着《ダブレット》に包んだレーズが、髪を縛りながら答えた。
「それで、だ。一年半も留守にしていたが、何か変わりはなかったか?」
「たいしたことはなかったわ。きみの弟はよくやっていた。人が増えて、揉《も》め事が増えて、何度か戦いがあったぐらい」
「戦い?」
「沖の小島から海賊が襲ってきたのよ」
レーズが北の海を指差す。ルドガーは緊張を覚えたが、去年の冬よ、という言葉を聞いてやや安堵した。
「たいしたことはなかったんだな?」
「その時はね。でも、今年はわからない」
「なぜだ」
「レーズスフェントの富が目当てというよりは、食うに困って襲ってきた様子だったから。今年は去年より豊作だった?」
言われて、ルドガーは考えこんだ。今年は豊作ではなかったし、大きな戦争もあった。海賊が何を食べているにしろ、去年より余裕があるとは思えなかった。
「そうか……それは注意が必要だな」
「ええ。でも、レーズスフェントの災難は、その程度のものだった。きみのほうがよほど苦労していたと思う」
「見てきたように言うじゃないか」
「見ていなかったと思うの?」
悪戯《いたずら》っぽい顔で見上げられて、ルドガーは戸惑った。
「どういうことだ」
「カラスや蛇を、よく見かけなかった? ふふ、まあいいわ。鈍いほうがきみらしい」
「意味がわからんが……」
ルドガーはじっとレーズを見つめたが、彼女は思わせぶりに笑うだけだった。
レーズスフェントでの雑事を片付けると、ルドガーは村人の中から賢い者を五人ほど選び出して、さっそくブレーメンに向かった。ブレーメンはヴェーザー川の河口近くに位置する、北西ドイツで二番目の大都市である。海と陸から物と人間が集まるので、船と倉庫が並び、常市が立っている。司教座があり、諸都市の出先事務所もあり、人口は一万人を越えるといわれている。
到着したルドガーは、口には出さずにつぶやいた。
――ゾウの町だな。おれたちのネズミの村に比べると。
広場でぱっと目に入った通行人だけで、レーズスフェントの村人全員よりも多そうだった。
安宿に腰を据えて、取引所や商人の溜《た》まり場に顔を出し、情報を集めた。普通の騎士ならばこういったことには不慣れだろうが、ルドガーは修行時代にルプレヒトのための品物を売り買いした経験がある。正確には師のハインシウスの手伝いをしていただけだが、それでも当時の記憶が大いに役立った。
そして、近隣で食料が手に入りそうな村を見定めて、連れてきた者たちを買い付けに送り込んだ。もっとも代金はないから、少額の見せ金と、相手を信用させるための、東フリースラント伯爵の印璽《いんじ》入りの手紙を持たせただけである。もしルドガーが金策に失敗したら伯爵に請求が行くわけだが、その程度の危険を君主に背負わせても、罰は下るまい。
五人とも送り出すと、ルドガーはなおも市内を歩き回って、売り手を捜した。
だが、ほどなく、恐ろしいことがわかってきた。
売り手がいないのだ。
小麦、大麦、燕麦《えんばく》といった穀物はもちろんのこと、塩漬けの魚や肉、ビールや果物などの元売が、どこを探しても見当たらなかった。取引所に集まる人々も、有力諸侯の駐在事務所も、ルドガーが食料の一言を口にしただけで、そっけなく首を振った。
彼らの言い分ははっきりしていた。
「うちはハンザと契約しているんだ。ほしければハンザから買うんだね」
ハンザ同盟――それが、ルドガーの前に立ちはだかる壁の名前だった。
ルドガーとても、ハンザの存在を知らなかったわけではない。ただ、今までルドガーが関《かか》わったことのある取引は、君主の御用になる少量・高額な品ばかりだったので、ハンザとはあまり衝突しなかった。だから意識したことがなかったのだ。
ハンザ同盟とは、ドイツの海を支配する商人たちの組合である。
もっとも力のあるリューベック市を筆頭として、多くの都市国家にハンザの商人がいる。彼らは船を持ち、少量のぜいたく品ではなく、莫大《ばくだい》な量の必需品を日常的に取引している。その影響範囲は、はるか東のウラル山脈の北に位置するノヴゴロド公国から、イギリスとフランスがせめぎあう最前線である、西のフランドルにまで及ぶ。
ハンザの最大の強みは、商品の取り扱いについて、各地の諸侯や君主から独占権を得ていることだ。よそ者を排除し、加盟者の間でのみ品物を流通させることで、値を吊《つ》り上げ、大きな利益を上げているという。
そんな彼らがもっとも得意とするのが、北ヨーロッパの東西を結ぶ遠隔地貿易[#「北ヨーロッパの東西を結ぶ遠隔地貿易」に傍点]である。東方のバルト海沿岸で産出する小麦と木材を買い付け、船で西のフランドルへ運んで卸す。フランドルでは毛織物を買い付けて、東方の諸国家へ送る――。
それはまさに、今ルドガーがやろうとしていることそのものだった。商人たちに相手にされないのも道理だ。彼らはそれで食っているのだから、飯の種を渡すわけがない。
拠点と定めた安宿で、ルドガーは舌打ちして言った。
「くそっ、ハンザと取引なんかしたら、レーズスフェントの三年分の収穫が吹っ飛んでしまう。そんなことができるか」
「イングランドの王様が競売敵になるわけですからね。勝ち目がねえ」
同行のエルスが陰気に言い、おざなりに付け加えた。
「まあ、あきらめるのはまだ早いんじゃありやせんかね。使いに出した連中が帰ってくるまでは」
「そうだな、その通りだ」
ルドガーはそう答え、使者を待った。
数日たって、近郊のフェーゲザックやデルメンホルストに行かせた者が戻ってきた。しかし彼らはルドガーを見ると、申し訳なさそうにうなだれた。四日後に、二十マイルも離れたオルデンブルクまで行っていた最後の男が帰ってきたが、彼も成果はなしだった。
不安がる彼らに、ルドガーは明るく言ってきかせた。
「心配するな、他にもあてはある。おまえたちがいない間、商人と交渉を始めたよ」
安堵する彼らを、ルドガーは先にレーズスフェントへ返した。しかし内心では焦燥にかられていた。
こうなったら、非常手段しかないかもしれない。食料のありそうな土地へ遠征して、実力で奪うのだ。しかしそれをやってしまうと、村としての信用はがた落ちになる。今後、他の村や領主と取引することが非常に難しくなるだろう。
「背に腹は代えられんか……」
思い切った手を取るか、それともあきらめてふたたび従軍するか、ルドガーが苦慮していると、エルスが声をかけた。
「あのう、坊ちゃん……」
「なんだ、エルス」
ルドガーは顔を上げた。小男の従者は、遠慮がちな上目遣いで見ている。これはちょっとした奇観だった。彼は人を小馬鹿にしたところのある、傍若無人な男だ。三年前にルドガーに忠誠を誓ってからこの方、裏切ることなく忠実に働き、ともに死線をくぐり抜けるまでになった主従でもある。
「その、ですね。へへ」
「どうした、言ってみろ。遠慮など似合わんぞ」
「へえ、それじゃお言葉に甘えまして……実はおれ、ここへ来てから昔の仲間と会ったんです」
彼が言い終わるか終わらないかのうちに、ルドガーは立ち上がり、剣を抜いていた。全身に力を溜めて身構える。
エルスは兄の寄越した間者だった。それも、農夫上がりなどではなく、もともとは|ドイツ騎士団《チュートンナイツ》の一員だ。本職の戦士だったということだ。
その頃の仲間と会ったということは、再び寝返ったということだろうか。
しかし、エルスはルドガーの反応に目を剥《む》いて、あわてて弁解を始めた。
「いえ、そういうこっちゃありやせん! 坊ちゃんを裏切るなんて話じゃあないんです。誓います」
「じゃあ、なんだ。雇われ人が無断で前の雇主に会うとは、穏やかでないな」
「だから、そっちの稼業の話じゃねえんで! これは騎士団の副業の話なんでさあ」
「副業だと……?」
「聞いてもらえやすかね」
「言ってみろ」
「騎士団は兵糧も売ってるんでさあ」
エルスの話は穀物にまつわるものだった。ドイツ騎士団はもともと十字軍に参加した騎士たちの生き残りだが、ふくれあがった軍団を養うために、ドイツ東方の未開地へ入植し、騎士団でありながら自らの国家を作った。歳月を経て、そこは豊かな穀倉地帯になり、大量の余剰穀物を生み出すまでになった。それらを輸出するのが騎士団の副業なのだという。
「今、ね。そっちの稼業の代理人が、ブレーメンに来てるんです。坊ちゃん、ひとつお会いになっちゃいかがです」
「何かの企《たくら》みじゃないだろうな」
「何か企むぐらいなら、とっくに逃げ出してまさあ。……あの女さえいなけりゃね」
最後の一言を口にしたそばから、彼が怯《おび》えた様子で周りを見回したので、ルドガーは信用する気になった。
エルスの案内で、ルドガーはブレーメンの下町を歩き、別の安宿に入った。合言葉を伴うノックに続いて、薄暗く狭苦しい部屋に通された。
中にはルドガーとほとんど年の変わらない男がいた。商人というよりは学者風の、縁取りのない落ち着いた色の上着とタイツを身につけている。線の細い感じだが、目の色が明るく、知的で健康的に見えた。
間に立ったエルスが紹介した。
「坊ちゃん、この人が騎士団の書記のブルーノ・キンケルさんです。キンケルさん、こちらがレーズスフェントの代官《フォークト》、ルドガー・フェキンハウゼンさまで」
「よろしく」
「こちらこそ」
エルスの紹介は、キンケルよりもルドガーのほうの身分を重んじたものだった。それを尊重したのか、キンケルが立ち上がってにこやかに椅子を勧めたので、ルドガーは腰を下ろした。
ルドガーの向かいの寝台に腰掛けると、キンケルは口火を切った。
「ようこそ、ルドガーさま。エルスから聞いています。単刀直入にお尋ねしますが、兵糧のご用命がおありでしょうか」
「ある。五百人の兵士の三ヵ月分、つまり一千二百ブッシェル(約二十五トン)の穀物と、同量の塩漬け肉か、魚を、来年の四月にほしい」
「一千二百というと……船荷に換算して、およそ十四ラストですね」
「手に入るか」
「ええ、ご用立てできます」
「値は?」
「そうですね――」
さりげない指の動きで、キンケルは値を示してみせた。ルドガーは驚く。安いのだ。ハンザの卸値の三分の一、ルドガーが考えていた価格に比べても五割ほどだ。
「こんな価格でいいのか。先に言っておくが、支払いは現金ではないぞ。来年の夏以降になる」
「兵糧を消費する軍勢が戦果を上げてからということですね。ええ、構いません」
キンケルは泰然とうなずく。ルドガーは彼の顔をじっと凝視した。
それから、おもむろに言った。
「では、そちらの条件を聞かせてもらおうか。条件があるんだろう?」
「お話が早くて助かります」
キンケルはにっこりと笑うと、小さく咳払《せきばら》いして言った。
「まず、この取引は合法ではありません。ドイツ騎士団の中核はこのことを知りませんし、ハンザも同様です。もし、この両者に知られた場合、商品は即刻没収されて、取引は水泡に帰してしまいます」
「横流しということだな」
「ドイツ騎士団は大きすぎるんです。領地も、組織もね。それを団長以下の少数がまとめ、ハンザ相手だけに絞って商品を卸すのは、無理がある。それでは捌《さば》き切れない品物が出てくる、ということです」
「納得できない分派も、な」
キンケルが目を細めた。笑ったようだが、好意の笑みとは限らない。
「横流しの品は、お気に召しませんか?」
「別に……。それに、騎士団の内輪もめにも興味はない。それなりの質のものが、定めた量だけ手に入れば、出所はとやかく言わん」
「いたみいります。聖界のお客様の中には、そういったことを非常に気になさる方もいらっしゃるので……」
「おれは俗人だよ」
ルドガーが肩をすくめると、キンケルが満足そうにうなずいた。
「それともう一点だけ、重要なことがあるのですが、よろしいでしょうか」
「どんな」
「私どもの商品はダンツィヒの埠頭《ふとう》渡しとなります」
「ダンツィヒ……」
意味がわかるまで、二、三秒かかった。
がたりと椅子を鳴らして、ルドガーは立ち上がった。キンケルの襟首をつかみ上げる。
「貴様、ふざけているのか」
「とんでもない……私は正気ですとも」
「坊ちゃん、坊ちゃん!」
焦ったエルスに止められて、ルドガーはキンケルを寝台に放《ほう》り出した。吐き捨てるように言う。
「正気だというならなおのこと、そんなことは最初に言え。話にならん」
「最初に言ったら……ゴホッ、その場で帰ってしまわれたでしょう?」
キンケルが咳《せ》き込みながら言った。彼の顔をよくよく見つめたルドガーは、怒りが萎《な》えていくのを感じた。顔に貼《は》り付けたままの笑みの裏に、焦りの色が隠れているような気がしたのだ。
「これが、あなたのような買い手にまで話を持ち掛けなければいけない、本当の理由ですよ。ユトランド半島を挟んだ、五百マイル先の港に、私たちは在庫を抱えているんです。付近の流通は完全にハンザに押さえられ、売りたくても売れないんです」
「五百マイル……」
レーズスフェントから低地地方《ネーデルラント》の戦場までの距離が三百マイル。それより遠くから兵糧を運んでくるなど、笑い話もいいところだ。陸路では論外であり、海路では不可能だ。
もっとも、それほどの悪条件でなければ、この町で穀物の売りなど出てこないということなのかもしれない。
「いかがです。買っていただけますか。なんなら復路の水と食料も無料でお付けします。船そのものは無理ですが」
皮肉っぽく続けるキンケルに、ルドガーは手を伸ばした。彼がぴたりと口を閉ざすと、手を貸して立たせてやった。
品物があっても売れないというのは、それはそれで辛《つら》いことなのだろう。だが、いくら安くても、手に入らないのでは仕方ない。ルドガーは彼と別れた。
沈んだ心持ちでレーズスフェントへ帰ってくると、意外な光景が待ちかまえていた。村人が大勢繰り出して、中洲の周りに柵を作っているのだ。橋のたもとにも武装した男たちが詰めて、通り過ぎる人々に目を光らせている。
ルドガーを橋を渡ると、彼らは駆け寄ってきた。
「代官《フォークト》さま、お帰りなさい!」
「おう、フリッツ、それにハーン。なんの騒ぎだ」
「つい昨日、海賊が来たんです。宿坊がやられました。まだ火が消えてません」
フリッツが背後の空を指す。薄い煙が上がっている。
「なんてことだ。誰かやられた者はいるか」
「死んだのはヴィショフと大工のヘッケルだけです。でも……」
「でも、なんだ」
「子供がさらわれました」
「なんだと……」
ルドガーは奥歯を噛《か》み締めた。
カンディンゲン城の晩餐《ばんさん》の席。焼いた肉を家族のために切り分けたヴォルフラムが、一切れ頬張《ほおば》って、うなずいた。
「うまいな」
「本当だ。これは素晴らしい。香ばしい」
次男のコンラルドが同意して、次々と肉片をつまむ。ヴォルフラムがまた言う。
「実に申し分ないな、フォス」
「ええ」
長男のフォスがうなずく。ヴォルフラムがさらに言う。
「これはどうやったのだ。おまえに香辛料を買う金があったか」
「いろいろなハーブを使ったそうです」
「買ったのか」
「自分で育てたと」
「そうか。感心だな」
ヴォルフラムの視線がフォスを通り越して、その隣の女に向かう。
「いい嫁をもらったものだな、フォス」
「ありがとうございます」
フォスは穏やかにうなずく。肉をつまむ指の動きさえ、端正な男だ。
隣に、十八歳の若妻がいる。夫と同じように、指先の一インチ以外どこも肉汁で汚さず、典雅に食べている。
これはいつもの光景だった。エルメントルーデが嫁いできてから一年と少しの間、何度も繰り返された。彼女が工夫を凝らし、侍女たちを使って、どこの貴婦人にも負けないような料理を作る。あるいは巧みな腕前で服を仕立てる。あるいは庭師を使って庭を整える。そのたびに、ヴォルフラムが誉めそやす。
そして次にこう続ける。
「これで跡継ぎができれば完璧《かんぺき》なのだがな」
「まったくです」
フォスがうなずく。
「申し訳ございません」
エルメントルーデが神妙に頭を下げて、衣服の胸元を押さえる。
食事が終わって二人で寝室に入ると、フォスの態度は一変する。
「くそっ、親父《おやじ》め、またしても。くそっ、くそっ……」
妻の腕をつかみ、ベッドに投げ出して、衣服を剥《は》ぐ。エルメントルーデは目を閉じてぐったりとされるがままになっている。ドレスをまさぐるフォスの動きが、すぐに緩慢になる。反対に声はさらなる苛立《いらだ》ちを帯びる。
「おい、貴様。エルメントルーデ」
「……」
「返事をしろ。おまえは人形か。石や木で出来た女なのか」
「……」
「もっと気を入れろ。おまえが、おまえがその気にならないから……!」
ちらりと目だけを向けたエルメントルーデが、感情のない声でつぶやく。
「申し訳ありません」
「それを言うな。謝るな。謝って何の意味がある! 百万回謝るより、一度だけでも心を開いてみせろ!」
エルメントルーデはまた目を逸《そ》らして、つぶやく。
「できることはすべてやっていますわ」
「できることはだと」
フォスが長い黒髪をつかんで頭を持ち上げた。エルメントルーデの顔が苦痛に歪《ゆが》む。その耳に顔を近づけて、呪詛《じゅそ》を塗りつけるようにささやいた。
「この口の減らん、でくの坊の、石女《うまずめ》め……夫を馬鹿にするのも大概にしろ。跡継ぎを産めない女など、斬《き》り捨てることもできるのだぞ」
「お好きになさればよろしいでしょう」
「貴様!」
フォスは乱暴に髪を引いてエルメントルーデを突き飛ばした。ベッドから落ちて肩を打ったエルメントルーデが、体を丸めて胸元を押さえ、祈りの言葉を唱え始める。
「聖マリアよ、罪深き我らのために今も臨終の時も祈り給《たま》え……」
「やめろ!」
怒鳴りつけたフォスが、ふとエルメントルーデの胸元に目を止めた。
「それを貸せ」
エルメントルーデがびくりと肩を震わせ、さらに体を縮めた。
「ほう?」
予想外の反応に、フォスは興味を抱いた。今まで何をしようと、何を奪おうと、抵抗しなかった女なのだ。手を伸ばして、エルメントルーデの胸元に入れた。そこに木彫りの卵を入れていることは知っていたが、安物の下らない魔除《まよ》けだと思っていた。
「よこせ」
「だめ」
「大事なのか? そんなものが?」
「いや、やめて!」
エルメントルーデが、力を振り絞って抵抗した。それがかえって、男の加虐心に火をつけた。フォスはほっそりした体を押さえつけて強引に卵を奪い取った。
燭台にかざして上下に開くと、中から燦然《さんぜん》と輝く青い結晶が現れた。
「おお……」
「返してください! それはとても大事なものなの!」
悲痛に叫ぶエルメントルーデを無視して、フォスはその青い卵に手を触れようとした。
その途端、聞いたこともない甲高い音が鼓膜をつんざいた。
――キィィン……
音は卵から発していた。耳から脳髄まで鋭い針を突き刺すような、恐ろしく不愉快な音だ。エルメントルーデが悲鳴を上げて身を丸める。フォスは音に耐えて、卵を手巾《しゅきん》に何重にもくるんだ。
それでも音は収まらなかった。布を貫いて体の内側へ染み込んでくる。じっと持っていると骨が震えて痛みを帯びてくるような気さえした。
「くそっ、なんだこれは!」
たまらず、フォスは卵を放り出した。床に落ちた卵は、チンと澄んだ音を立てる。とっさにエルメントルーデが飛びついてそれを握った。
その途端、音は嘘《うそ》のように消え去った。
「な、なんだそれは……」
エルメントルーデは卵をかかえこんだまま、振り向こうとしない。頭に血が上り、フォスは妻の体を蹴《け》りつけた。
「なんだそれは! どういうつもりだ!」
エルメントルーデは唇を噛《か》んで声を殺し、ひたすら耐えている。そんな妻をさんざん蹴りつけてから、怒ること自体に疲れ果て、フォスは最後の罵倒《ばとう》を投げつけた。
「夫を馬鹿にし、きちんと子も産まず、挙句の果てにあやしの技を使うか。こ、この魔女め! 見ておれよ、今に思い知らせてやる!」
最後にひときわ強く脇腹を蹴りつけると、フォスは荒々しい足取りで部屋から飛び出していった。
床の上でしばらく咳きこんでいたエルメントルーデが、やがて起き上がり、力なく寝床に倒れ伏した。蹴られた痛みか、その顔には苦痛のしわが刻まれていた。
胸元から、耳に聞こえるか聞こえないかの穏やかな唸《うな》りが湧き始めた。
それを耳にしたエルメントルーデの顔から、苦痛の色がゆっくりと消えていった。浅く早かった呼吸が、次第に落ち着いていった。
レーズスフェントから北を眺めると、五マイルほど沖にとぎれとぎれの陸地が横たわっている。まるで北風から本土を守るかのように、東西に長く連なっているその島々が、東フリージア諸島だ。
海賊はその中の一つ、西《ヴエスト》ランゲオーク島から来たらしかった。
村人たちの話によると、彼らは大胆にも日暮れ前のたそがれ時、レーズスフェントの海側の干潟《ひがた》に堂々と乗りつけ、一斉に襲い掛かってきたという。二十人ほどの集団で、二隻の船に分乗していた。不意を突かれた村人がろくに抵抗もできないうちに、宿坊とリュシアンの館を破られた。グリン老が人を集めて反撃を始めると、いくらかの財物を奪っただけで、宿坊に火を放って逃げ出した。
彼らは追いすがる村人たちを何人か返り討ちにし、夕方の陸風を帆に受けて速やかに船を沖出ししてのけた。その風を利用するために、わざわざ夕方を選んだようだった。鮮やかというほかない手際だった。
幸運なのは穀物倉を襲われなかったことだ。それに犠牲者もわずか二人で済んだ。
しかしそれにも増して不幸なのは、二人の幼い子供をさらわれたことだった。
一人はダリウス。以前、中洲で見つかった捨て子で、数えで四つの幼児である。
そしてもう一人が、まだ乳飲み子のクリューガー・フェキンハウゼンだった。
「リュシアンさまの御子をさらわれるとは、面目もございません。まったく、穴があったら入りたいぐらいで……」
グリン老が恐縮するかたわらでは、広場に集まった村人たちがけんか腰で話し合っている。
「あいつら、なめやがって。許さねえ」
「そうだ。殴りこまれて、黙っていられるか」
「おれたちの村だ」
「こっちから出て行って、ぶちのめしてやろうよ」
村長のナッケルは黙っているが、彼もひどく怒っているのが、その眉間《みけん》のしわからうかがえた。
館からリュシアンがやってきたので、ルドガーは尋ねた。
「大丈夫か」
「大丈夫ですよ、女たちがついていてくれます。今朝まで動顛《どうてん》して泣き止《や》まなかったんです。何しろ、あれ一人でいるところに賊が入ってきたんですからね」
「アイエのことじゃなくて、おまえはどうなんだ」
「ぼくが泣いたように見えますか?」
そうじゃない、とルドガーは言いそうになった。リュシアンはやつれて蒼白《そうはく》な顔をしており、一睡もしていないとわかる。腹の中で何を考えているのかも見当がつく。自分が先頭に立ってでも海賊のもとに殴りこみ、子供を取り返すつもりだろう。
その気持ちはわかる。好きな女と、初めて作った子供だ。
だがルドガーは、話を聞いた当初の驚きから立ち直ると、もっと別のことを考え始めていた。
「アイエに会わせてくれ。少し話が聞きたい」
館に行ってみると、アイエは風通しのいい窓際の椅子に、ぐったりと腰かけていた。近所の婦人たちが周りを囲んでいたので、彼女らを下がらせて、弟と三人だけになった。
「アイエ……アイエ、大丈夫か」
ルドガーが声をかけると、アイエはうっすらと目を開き、微笑んだ。普段はもっと快活で、まだまだ一児の母とは思えないほど少女じみた女なのだが、今日は美しい赤毛も乱れたままで、一気に五つも老けたように見えた。
「ああ、騎士さま。ごめんなさい、こんな格好で……」
「いや、気にしなくていい。大変だったな。ところで、クリューガーを取り戻すために少し話を聞きたい。いいか」
「ええ、あたしにわかることなら、なんでも」
「それじゃあ、まず海賊の様子からだ。連中は名前を呼び合っていたかい」
「ええ……二人ほど聞いたわ。確かイェスパーと。それに、ヘンドリック、いえヘンルリックという名前が聞こえました……」
「なるほど。そいつらは子供を乱暴に扱っていたかい」
「それはもう。止めようとしたあたしを突き飛ばして、毛むくじゃらの腕でクリューを籠《かご》から……ああ神さま!」
「落ち着け、もう大丈夫だから。それで、連中は本当に[#「本当に」に傍点]乱暴だったかい? 子供を床に叩《たた》きつけたり、そのう、殴ったりとかは」
「そんなことをされたら、あたし、恐ろしくて心の臓が止まってしまったわ!」
「しなかったんだね?」
ルドガーが念を押すと、アイエはいったん宙に視線を泳がせてから、自信なさそうにうなずいた。
「そういえば……あの子を布に包んで、首に提げて連れて行ったわ」
「そうか」
さらにさまざまなことを聞いてから、ルドガーは外へ出た。胸の中には確信とともに、あるおぼろげな計算が浮かび上がりつつあった。
それは、二年半前の春に、未開のこの地を見下ろしながら考えたことと、同じ種類の構想だった。
「兄様、はやく討伐の支度を始めましょう。村人たちもやる気になっています」
焦りがちに訴えるリュシアンに、ルドガーは静かに言い返した。
「いや、討伐はちょっと待て」
「兄様?」
「海賊どもは女をさらわず、クリューたちだけをさらっていった。ということは、身代金を取るつもりなんだろう。今日明日にクリューがどうにかされてしまうことはない」
「でも、兄様!」
「まあ待てったら。おれにいい考えがある」
そう言いはしたものの、広場に戻ってみると、すでに村人たちが斬り込み隊の編成を始めていた。中心となっているのはナッケルだ。やはり怒っていたらしい。ルドガーは彼を呼び止めた。
「ナッケル、戦支度はしばらく待ってくれ。やりたいことがある」
「代官《フォークト》さん? なんですかね、やりたいことって」
ナッケルが顔を向けたので、周りの目もルドガーに集まった。
「止めないで下さいよ、これはおれたちの村の問題だ。村がなくなってもあんたはやっていけるかもしれないが、おれたちはここしか住むところがないんです」
彼と周りの男女の顔を見回して、ルドガーは何やらくすぐったいような思いを抱いた。うなずいて語りかける。
「そうだな。| 浮 浪 兵 《シュテルツフェヒター》どもが現れたときも、領主軍が来たときも、この村は自分たちの力で生き抜いたよな」
「そうです」
「そうよ!」
昔からの住人が力強くうなずいた。それだけでなく、ここへ来てまだ日が浅いらしい、見たことのない者たちも同じように叫んでいた。おそらく、住人から過去の戦いのことを聞かされて、奮い立ったのだろう。
「いい覚悟だ。みんな、頼もしいぞ」
ルドガーが鷹揚《おうよう》に認めてやると、皆の顔が明るくなった。ひょっとしたら、反乱扱いされることを心配していたのかもしれない。
だがルドガーは、このまま彼らの戦いに参加するつもりはなかった。そうするわけにはいかなかった。
「リュシアン」
「はい、兄様?」
「おまえのことだ、海賊のことはよく知っているな。あの島々にいる、フリーゼン人について」
「それは、もう」
「そうか。おれもハインシウス先生より聞いて、彼らのことは知っている。ひとつ、皆に話してやってくれんか。ノーサンバランドやナントでのことをな」
「ナント……ですか」
「そうだ。それにハンブルクや、ケルンであったことも」
リュシアンはためらいの色を見せたが、ルドガーが強い眼差《まなざ》しを向けると、決心したように話し始めた。
「フリーゼン人は、デーン人、あるいはノルマン人、またはスヴェーア人ないしヴァイキングと呼ばれる人々の末裔《まつえい》です。彼らは、北の土地に住む傑出した船乗りであり、また戦士でもあった人々です。彼らは氷の大地から竜頭の船でやってきて、しばしばぼくたちヨーロッパの人間と戦いました。彼らは領地や金を奪うことがありましたが、食料や女を強奪することも多く、大変――その、大変乱暴な性格で有名でした」
リュシアンがちらりとルドガーを見た。ルドガーは首を振り、命令する。
「ノーサンバランドだ。それに気を使った言い回しも不要」
リュシアンはあきらめたようにため息をついて続けた。
「主の年七百九十三年、デーン人は海からイングランドのノーサンバランドを襲いました。彼らは斧《おの》で僧院を破壊し、大司教以下の人々と家畜をすべて殺し、聖具と財産を奪ってから火をつけて海へ去りました。八百四十三年、デーン人は川を遡《さかのぼ》って、フランスのナントを襲いました。彼らは城壁を突破し、大聖堂を破壊し、男を殺して女を辱めたのち、街中のものを奪って火をかけ、付近の村に散らばって同じことをし、まる一冬そこに留まった上、ついには仲間内で戦利品をねらって殺し合いを始める始末でした」
さっさと済ませたかったのだろう、リュシアンは早口で淡々と話した。だが、そこに含まれる嫌悪の情が、かえって聞く者の胸に染み渡ったらしかった。
人々は静まり返った。ルドガーは、自分の留守の間に、弟が人々の尊敬を勝ち得ていたことをよく知った。だが、さらに念を押すつもりで言った。
「ハンブルクとケルンだ」
「ハンブルクは八百五十一年、ケルンは八百八十二年に彼らに焼かれました。もちろんその間、フランドルもパリもフリースラントも襲われました。それぞれの詳細まで話しましょうか? 兄様」
不安に耐え切れなくなったような声だった。ルドガーは手を上げてそこで終わりにしてやった。村人も、自分たちのよく知る大都市や古都、それに自分たちが今まさにいる場所の地名まで挙げられては、落ち着かなくなったようだった。もう十分だろう。
「いまフリージア諸島にいる海賊たちは、その末裔だ」
ルドガーが言うと、皆がざわめいた。
「まともに戦ったら少なくない犠牲が出るだろう。文明人のわれわれと違って、連中は取引や講和についての考えもこちらと違う。戦にせずに済むのであれば、そうしたほうがいいと思わないか」
ぶつぶつと賛同の呟《つぶや》きが上がった。ルドガーは村長を見る。ナッケルが渋い顔で先を促した。
「じゃあ、聞きましょう。代官《フォークト》さんの考えっていうのは、どんなです」
「おれが一人で行って交渉してくる」
「一人で?」
ナッケルが驚いて糸目を見開いた。ルドガーはうなずく。
「ああ、一人なら相手を刺激することもない。交渉に失敗しても失うものは少ない。おれが帰ってこなかったら、村を挙げて攻め込めばいい」
「しかしそりゃ無茶でしょう」
「どっちにしろ十分な偵察をしてからじゃないと戦争はできんぞ。おまえたちはまだ、相手の人数も根拠地も知らないだろう。おれがそれを見てきてやると言っているんだ。どうだ?」
ひそひそと言い交わした人々の目が、自然にある人物に向いた。
リュシアンだ。彼は決断を求められていると悟ると、ルドガーに向かって言った。
「いいでしょう、兄様に行っていただきます。でも、それにはぼくも同行させてください」
「馬鹿を言え、おれたちが二人ともいなくなったら、誰がこの村を治める」
「言葉が通じなかったらどうするんです? なにか助言が必要なことがあったら? のうのうと待ってなどいられませんよ!」
「自重しろ、リュシアン。おれが戦い、おまえが守る約束だったじゃないか」
「しかし……!」
二人で押し問答をしているとき、思いがけない方向から声がかかった。
「リュシアン、その役、私が代わってあげましょうか」
泉の精霊が、木の幹にもたれて面白そうに見つめていた。
「言っとくが、おれは加勢しねえからな。あんたらのその靴が、西ランゲオークの土に触れたら、そこでおれの仕事はしまいだ。合図があるまでは、迎えに戻るつもりはねえ」
渡し舟を頼んだギドというニシン漁師は、五マイルの海を渡る間に六度もそう言った。ルドガーはそのたびに彼を安心させてやらなければならなかった。
「構わんよ。合図の白布を振るまでは沖で待っててくれ」
エーゼンスの漁師である彼は、ヘンルリックを知っていた。それは西ランゲオーク島を根城にする海賊の頭目の名前だった。十五年も前から「十本歯のヘンルリック」という二つ名を冠せられている男で、何年かに一度、大立ち回りを演じるたびに「九本歯の」「八本歯の」と名前が変わってきたのだという。
今は「七本歯のヘンルリック」らしい。生え抜きの漁師も恐れる海の暴君だ。
そんな彼のいる島に、一行は向かっているところだった。
船は縦帆二枚の小さな漁船だ。船長のギドが艫《とも》で舵《かじ》を取り、雇い人たちが帆に取り付いたり、帆柱の上から見張ったりしている。
ルドガーは、舳先《へさき》の静索に捉《つか》まって前方を眺めていた。船が上下左右に大きく揺れるせいで、気分が悪く、頭がぼうっとしている。それでも船底に寝転がっていてはかっこうがつかないので、強いて立っていた。隣にはレーズがいる。
「レーズよ」
「なにかしら?」
「どういう風の吹き回しだ。戦いが嫌いだと言っていたくせに」
「戦いに行くの?」
「そうなるかもしれないだろう。そのつもりで来たんじゃないのか」
「私は、きみを守るために来たのよ。戦わずに逃がす方法だって、いくらでもある」
レーズはじっと前方を見ている。船が追い風で進んでいるので、髪が顔にかかって、表情が見えにくい。しかしルドガーは、問い詰めるようにじっと横顔を見続けた。
ややあって、レーズが瑣末《さまつ》な事柄のように付け足した。
「ま、戦いになったらなったで、働く気ではいるけれど」
「おいおい……やめてくれ、気味が悪い」
彼女はルドガーや他の人間を何度も殺そうとしたことのある女だ。それが方針を変えて助けてくれるとは、何かとんでもない代償を求められそうな気がした。
だがレーズは苛立ったように言った。
「きみが必要なのよ」
ルドガーはまじまじとレーズを見て聞いた。
「おれが? おまえに?」
「村にとって、よ」
「そうか」
ルドガーはレーズから目を逸らし、前方を見た。見掛けだけは美しい女の姿をしている精霊の言葉だったから、ちょっと驚いた。
いかに見た目がよくても、中身は得体の知れない存在だ。気を許すとまたたぶらかされてしまうかもしれない。そんなことを考えていると、ふと思い出したことがあった。
「そういえば、おまえの伴侶《はんりょ》とやらは見つかったのか」
返事は意外なものだった。
「ええ」
「なんだって? 本当か、どこの誰だ」
レーズはゆっくりと向きを変え、水平線を指差す。――東の方角を。
「あちらにいる」
「どういうことだ」
「あちらの方角から、たびたび噂《うわさ》や匂《にお》いが流れてくるようになったのよ」
「手がかりがあるなら、探しに行ったらどうだ。なんなら使いを出してやるぞ」
レーズは振り向き、あっさりと意外なことを言った。
「私はラルキィを避けたいと思っているの」
「避けたい? なぜだ」
「繁殖したら、村のことには構えなくなる。私はきみの――レーズスフェントを、きみが想像する以上に気に入ってきたのよ」
それはルドガーがこれまでこの女から聞いてきたことよりも、かなり好意を感じる言葉だった。驚いてルドガーは言った。
「信じられんな! 急にどうしたんだ」
「急じゃないわ。ずっと前からそう思っていたのよ。この際はっきり言っておく」
「どの際だ? なぜ今言い出した」
「だって、ラルキィが向こうからやってくるかもしれないもの」
レーズは真顔で言った。
「そうしたら、きみにとってもただ事ではない。準備がいるでしょうからね」
「一体どんなやつなんだ、そいつは……」
「待つしかないわ。でも、遠からず会うことになると思う」
レーズはそのまま、険しい眼差しで東を見つめていた。
そのとき、檣上《しょうじょう》の見張りが叫んだ。
「船だ――左後方!」
「なに?」
ルドガーたちはいっせいにそちらを向いた。レーズも振り向いた。左後方には、自分たちがあとにしてきたレーズスフェントと、モール庄が見えている。
それよりわずかに外れた海岸のほうから、赤い帆を掲げた竜頭の船が接近してきた。帆綱に取り付いていた漁師が叫び声を上げる。
「あの野郎、どこから来やがった!?」
ルドガーも同じ思いだった。目的地の西ランゲオーク島は前方なのだ。そちらはしっかり見張っていたから、船が来たなら見逃すわけがない。
ギドが冷静に叫んだ。
「陸にいたんだろ、おたおたすんな」
「陸って」
「村から誰かが海に出てこないか見張ってたんだ。来るのはわかっていただろうからな。なあ、代官《フォークト》さん、そうじゃねえかね?」
「おそらくそうだろうな!」
ギドの推測に舌を巻きながら、ルドガーは答えた。フリーゼン人は野蛮人だが、戦いの術には長《た》けていると聞く。敵陣の近くに斥候《せっこう》を置いて、動静を探るぐらいのことはするだろう。
そう、場所が海になっただけで、これはやはり戦の一種なのだ。そう考えると、ルドガーは再び知恵が回り始めたような気がした。戦のことなら慣れている。
「もっと帆綱を張れ、追いつかれるぞ!」
ギドの命令で、漁師たちがあわただしく動き、小さな船を急がせようとした。だが、漁船は魚を積むために寸胴《ずんどう》の形をしており、いかにあがいてもぐらぐらと揺れるばかりでそれほど速度が出ない。
それに対して、赤い帆の船は快速だった。刃物のように鋭い舳先で、波頭を切り裂いて楽々と迫ってくる。近づくにつれ、どぅん、どぅん、と不気味な低い太鼓の響きが聞こえてくる。それに合わせて多数の櫂《かい》で水を掻《か》いている。
竜頭船はガレー船でもあるのだ。
互いに顔がわかるぐらいの距離になったところで、矢が飛んできた。何本かが艫《とも》をかすめ、一本がカッと音を立てて船縁《ふなべり》に突き立った。ルドガーは叫んだ。
「ギド、もういい! どうせ会うつもりで来たんだ、止まってくれ!」
「冗談じゃねえ、あんたらはいいかもしれんが、いま止まったらおれたちまで取っ捕まっちまう」
ギドは聞き耳持たずに逃げようとしていたが、それも矢が船乗りに当たるまでだった。「ぎゃっ!」と鋭い悲鳴が聞こえ、ルドガーが目を向けると、帆綱を握っていた男がぐるりと半回転して海へ落ちていくところだった。
漁師たちは呆然《ぼうぜん》とそれを見ていた。次の瞬間には、辺りの材木を抱えて我先にと海へ飛び込んだ。あっというまに、船の上には三人しかいなくなってしまった。
「くそっ、根性のないやつらだ!」
「ギド、船を止めろ。次はきっとおまえだぞ!」
ルドガーの叫びを聞いて、とうとうギドは舵棒を放り出した。
彼が降伏の意思表示として帆綱を切り、帆を落とした。船は行き足をなくす。不気味な竜頭の船がやってきて、滑るように並んだ。
ルドガーは船縁に立って敵船を見つめた。戎衣《じゅうい》をまとい、たくましい腕をむき出しにした、北方人特有の見事な金髪の男たちが、弓矢でぴたりとこちらを狙《ねら》っている。
ルドガーは戦場で槍《やり》の穂先を並べた敵軍と対峙《たいじ》したこともあるから、恐怖を抑えることはできた。だが今は、ほんのちょっと態度を誤るだけで、次の瞬間には矢ぶすまにされる状況だ。緊張せずにはいられなかった。
汗でじっとりと濡《ぬ》れた手を握り締めて、一度神の名を唱えてから呼ばわった。
「レーズスフェントの主《あるじ》、代官《フォークト》のルドガーだ。おまえたちの頭目に会いに来た!」
男たちは微動だにせずこちらを狙っている。まるで声が聞こえていないかのようだ。ルドガーはもう一度叫んだ。
「レーズスフェントのルドガーだ! 海賊ヘンルリックと話がある!」
その名を出したことで、ようやく相手に動きが起こった。戦士たちを押しのけて、小柄な男が現れたのだ。髪が長く、マントをつけており、痩《や》せている。鋭い目でこちらを見て言った。
「身代金の件なら、ちょうど伝えに行くところだった。子供一人につき百ハンブルク・マルク。二人で二百。期限は年が変わるまでだ。わかったら行っていいぞ」
簡潔にして有無を言わせぬ口上に、ルドガーは内心で舌を巻いた。この男はかなり頭が切れるようだ。
しかし、ハンブルク通貨で二百もの金をそろえる当てはない。村人全員を三ヵ月は賄える金額だ。それに、口上を聞いただけで戻るわけにはいかない。子供の使いではないのだから。
ルドガーは身を乗り出して言った。
「用件は身代金のことではない。もっと違う話だ、ヘンルリック!」
そう言った途端、ルドガーの頬《ほお》を戦士の矢がヒュッとかすめた。
男が冷たく言い放つ。
「おれはイェスパーだ。ここにヘンルリックはいない」
取り付く島もない。ルドガーはこめかみににじんだ汗のようなものを拭《ぬぐ》う。しかし手の甲を見るとそれは汗ではなく血だった。戦士たちの腕前は、噂どおりらしい。
ぎりぎりの瀬戸際にいることが、肌に染みた。これ以上ひとことでも言えば、殺される。
そのときだった。レーズが隣からいきなり何かをルドガーの体に巻きつかせた。漁船の帆布だ。ルドガーは泉の彫刻にあったローマ人のような姿になる。
海賊たちの顔に緊張が走る。その顔を、レーズの大声が叩いた。
「よく聞け、海賊ども! この男はローマのカエサルに連なる英雄の血筋だ。この男を怒らせると、その船を沈めて海の藻屑《もくず》にしてしまうぞ。命が惜しければヘンルリックに会わせるがいい!」
男たちが目を丸くした。
次の瞬間、爆笑した。寒風を吹き飛ばすかのような大笑いが海原にはじけた。
笑いを浴びながらルドガーはレーズにささやいた。
「なんのつもりだ!」
「布を強めてあるわ。胸を張っていて」
男たちは腹を抱えて大笑いしていたが、一人がイェスパーに肩を叩かれて、笑いながら弓を構え、矢を放った。空を裂いて飛来した矢が、ルドガーの胸板に突き刺さった。
「ぐっ……」
「代官《フォークト》さん!」
ギドが悲鳴をあげた。男たちが、これ以上面白いものはないというように笑い崩れた。
ルドガーは足を踏ん張ってこらえた。こらえたまま、身を起こし、低い位置にいる男たちを見下ろした。
「これは、なんという遊びなんだ?」
潮が引くように、男たちの顔から笑いが消えていった。イェスパーがまなじりを吊り上げて怒鳴った。
「射殺せ!」
男たちが目にも止まらぬ速さで弓を構えなおし、一斉に放った。立て続けに弦の音がはじけ、十数本の矢がルドガーに集中した。
その瞬間、ルドガーは身動きもできずに突っ立っていた。彼が目にしたのは、目の前で一閃《いっせん》したレーズの片腕だった。それが、顔を狙っていた一本の矢をはじいた。
残りの十本以上が、体を強打した。衝撃に耐え切れず、ルドガーは甲板にひっくり返った。
「ぐうっ!」
両腕を出せなかったので、後頭部をしたたかに打った。激痛に顔をしかめつつ、起き上がる。
そして、その時初めて、体のどこからも矢傷の熱い痛みが感じられないことに気付いた。
「これは……」
「起きて」
レーズに支えられて、ルドガーは立ち上がった。ギドはそばで腰を抜かしている。
再び船縁に姿を現すと、海賊たちがどよめいた。彼らの前でレーズが帆布をほどき、力いっぱい宙に放った。ばさりと翻った布には、海賊たちが放った矢が、確かに何本も突き刺さっていた。
ルドガーの体を確かめたレーズが、うやうやしく礼をして脇へ下がる。
「後はうまくやってね」
夢でも見たような心持ちだったが、やるべきことはわかっていた。蛮族とは、腕力には長けていても、理性の光には乏しいものだ。
「見ての通りだ。おれに矢は効かん。おまえたちをこの場で皆殺しにしてやってもいい。だが、さっきも言ったとおり、おれは話し合いに来たんだ。いいか――」
息を吸って、先ほどの大笑いにも負けない強さで怒鳴った。
「ヘンルリックに会わせろ!」
男たちが弓矢を放り出してうずくまり、頭を抱えた。滑稽《こっけい》な光景だった。
ただ一人、イェスパーだけが歯ぎしりしながらにらんでいた。
「どうした、イェスパー。聞こえなかったか! それとも、おれと勝負するか?」
最後のひとことを言った途端、かかとをレーズに蹴られたが、取り消すつもりはなかった。もとより、それを最後の頼みの綱として、ルドガーは交渉に来たのだ。
一対一の勝負こそ、騎士がもっとも得意とする戦いなのだ。レーズに止められようとも、それを変える気はなかった。
悔しげに睨《にら》んでいたイェスパーが、とうとう位負けしたように目を逸らした。その瞬間を逃さず、ルドガーは駄目を押してやった。
「勝負しないんだな? よし、おれたちを連れて行け。もちろん、おれにもこの女にも、指一本触れずにだ。いいな?」
イェスパーは、手近の戦士の尻を蹴飛ばして艫のほうへ行ってしまった。彼が去ると、残った男たちがあわてふためきながら船を寄せ始めた。
「世話になったな!」
ギドに手を振って、ルドガーとレーズは海賊船に飛び移った。
東フリージア諸島は行儀よく一列に並んだ島の群れだ。東からシュピーカオーク島、ランゲオーク島、西ランゲオーク島、バルトルム島、ノルダニー島、コースト島という。
そのどれもが、東西数マイル、幅は半マイルもないような小島である。大地は砂質で地味に乏しく、常に潮風が吹きすぎるために、緑のものは極めて少ない。立ち木は数えるばかりしかなく、岩陰や地形のくぼみを利用して、わずかな畑や、瓦礫《がれき》の寄せ集めのような小屋が作られている。
そんな西ランゲオーク島の荒涼たる光景を、ルドガーは船上から眺めていたが、島の西の端に場違いな灰色の塊のようなものを見つけたので、声を上げた。
「あれはなんだ」
渋々ながら二人を船客と認めたイェスパーが、矜持《きょうじ》のにじむ口調で言った。
「あれがおれたちのメッテンボー城だ。大頭目ゴットフリートに建てられてから五百年、一度も陥《お》とされたことはない」
イェスパーが離れていってから、レーズがつぶやいた。
「城というより、よくてせいぜい砦《とりで》ね」
ルドガーはうなずいた。
と、そのとき、舳先の見張りが振り返って緊張した大声を上げた。ルドガーにはよく聞き取れなかったが、漕《こ》ぎ手たちが一斉に立ち上がって前を見ようとした。するとイェスパーが飛んできて、立ち上がった手下どもを叱《しか》り付けながら、舳先へ走った。
額に手をかざして前方を眺め、見張りとイェスパーはしばらく話し合っていた。島と島の間から沖合いを眺めているようだ。ルドガーには何も見えなかったが、背伸びして眺めたレーズが言った。
「別の船がいるわ」
「仲間か」
「わからない。でも――」
周りに目をやってから、レーズはにやりと笑った。
「仲間だったら、こんなに殺気立つかしら?」
漕ぎ手たちはそばに置いた手斧を落ち着かなげにまさぐり、食い入るようにイェスパーの背を見つめていた。
やがて、イェスパーが振り向いて、戻ってきた。注目する戦士たちに告げたのは、ひとことだけだった。
「城へ帰る」
戦士たちが大きな吐息を漏らした。レーズが言った。
「獲物を逃したのか、敵に見つからずに済んだか、どっちかでしょうね」
「どっちにしろ、やりあわずに済んでよかった。おれにはやることがある」
「それもそうだわ」
船は島の端に近づき、海中の柵で守られた砂浜に無事乗り上げた。
そこは、イェスパーのいうメッテンボー城に見下ろされるような位置だった。事実、左右に張り出した塔の上から、武骨な投石器が狙っていた。海に対する備えは万全のようだ。五百年間無敗というのも、本当かもしれない。
ルドガーは浜に下りると、なおも周囲を観察した。ここには今しがた乗ってきたのと同じような竜頭の船が、もう二隻あった。さらに西の塔の基部には、明らかによそから奪ってきたものらしい、幅広で乾舷《かんげん》の高い商船までつながれていた。
竜頭船にしろ商船にしろ、動かしてこそ役に立つはずだ。置いておくだけでは意味はない。
「ふむ……」
「おまえたち、何を見ている。早く来い!」
先へ行ったイェスパーが呼ばわったので、ルドガーは歩み寄りながら答えた。
「そんな呼び方はやめてくれ。おれはルドガーだと言ったはずだ。東フリースラント伯爵が家臣、ルドガー・フェキンハウゼンだ」
「女の名前を知らん」
「こいつか。こいつは……その、小姓のレーズだ。騎士見習いだ」
「女なのにか?」
「どうでもいいだろう。早くヘンルリックのところへ連れていけ」
仏頂面でイェスパーが歩き出すと、レーズがささやいた。
「どうせなら姫君がよかったわ」
「誰が信じるんだ、そんな駄法螺《だぼら》」
ニッ、と笑ってレーズが軽い足取りで先を進んだ。敵陣に二人きりでいるとは思えないふてぶてしさだ。生きて帰れるかどうかもわからないのに。
彼女のおかげで、心の余裕ができたように思った。
メッテンボー城は海に向いた城壁のほかは、粗末なつくりだった。カンディンゲン城のような中央塔《ベルクフリート》はなく、かろうじて居館と呼べるような石造りの平屋があった。柱に魔除けの文字が彫られ(ルーン文字だ、とレーズが言った)、竜頭の軒飾りが屋根ひさしに突き出していた。建てた当初は立派な館だったのだろう。だが文字はかすれ、軒飾りのひとつは落ちて割れていた。
一行がそこへ入ろうとすると、背後から場違いに陽気な大声をかけられた。
「よう、イェスパー。そいつらはどちらさんだ?」
振り向くと、五人ほどの男たちが塔のほうからやってきた。今降りてきたばかりらしい。ひと目で戦士たちだとわかったが、中でも先頭の男は背丈といい、差し上げた腕の太さといい、飛びぬけていた。
毛皮のモールつきのなめし革のマントが目を引く。瞳《ひとみ》は薄いブルーでとても明るい。蛮族らしからぬ、伊達《だて》な感じに整えた八の字ひげの下の口に、一本だけの前歯が見えた。
ルドガーはイェスパーに先んじて、男に声をかけた。
「海賊ヘンルリックか」
ルドガーの前に立った男が、自信にあふれた様子で答えた。
「いかにも、おれはメッテンボーのヘンルリックだ。で、おまえは誰だ?」
「東フリースラント伯爵が騎士、レーズスフェントの代官《フォークト》、ルドガー・フェキンハウゼンだ」
「なるほど、レーズスフェントのな。話は聞いてるぞ、ドイツ人。思ったより若いな。もっと年のいった陰険そうなやつを想像していた」
「おれを知ってるのか?」
「知らいでか。おまえが実の親父にさからって新しい村を作ったことも、伯爵の娘を盾にして無理やり開市特権状《ハンドフェステ》をもぎ取ったことも、こちとらちゃあんと調べてあるんだ」
「娘を盾にしてはいない。エルメントルーデ姫はご自分の意思で留まっておられた」
「だったらなんでカンディンゲンの本家へ嫁入りしちまったのかね?」
周りの男たちがどっと笑った。ルドガーの頬が熱くなる。思わず剣の柄に手を伸ばすと、斜め後ろから小突かれた。
「ルドガー」
「――わかってる」
レーズに答えて、ルドガーは気を鎮めながらヘンルリックを見つめた。大男が笑いながらもこちらの出方を窺《うかが》っているのが、わかっていた。
ヘンルリックたちがひとしきり笑ったところで、イェスパーが言った。
「ヘンルリック、こいつらは怪しい術を使うぜ。気をつけたほうがいい」
「術? どんなだ」
「弓矢で射たが、死ななかった。本人はカエサルの血筋だと名乗ってる。だから連れてきたんだよ。そうでなけりゃあ、海に叩き込んでる」
「なんで客なんか連れてきたのかと思ったら、そういうことだったのか。面白い、ぜひ手合わせしてみたいな」
ヘンルリックが手下たちを振り返って、剣と兜《かぶと》を寄越せと言い出したので、ルドガーは急いで口を挟んだ。
「待て、ヘンルリック。用件が先だ。おれは――」
「こっち[#「こっち」に傍点]が先だ」
ルドガーの言葉を遮って、ヘンルリックが言った。鼻覆いのある兜をかぶりながら、にやにやと実に楽しそうな笑みを浮かべて言う。
「ドイツ人、これがおれたちの流儀だ。話があるなら、まず一戦交えてからだ」
「おまえたちにも利のある話だぞ。おれを殺して得があるのか?」
「それはまた別の話だ。おまえがこの島の土を踏むに当たって必要なのが、まずこれ[#「これ」に傍点]なんだよ」
分厚い革兜の紐《ひも》をしっかり締めると、ヘンルリックは武骨な直剣を握って、ぶんとひと振りした。ルドガーに向き直り、言う。
「さ、剣を抜け。おれがまいったを言うか、おまえが死ぬまでの勝負だ」
ルドガーはこの恐ろしい成り行きに歯噛《はが》みする思いだった。交渉し、その条件として一騎打ちを持ち出すことぐらいは考えていた。だが、話を始めるためにまず戦えと言われるとは思っていなかった。これではたとえ話し合いに持ち込めても、妥結できないかもしれない。
「どうした、動けんのか? じゃあ、動かしてやろうか」
近づいてきたヘンルリックが、直剣を横薙《よこな》ぎにした。空気の唸りが聞こえるほどの大振りだった。ルドガーは飛びすさり、剣を抜いた。ヘンルリックが満足そうにつぶやいた。
「やるんだな、よし!」
いつの間にか集まってきたフリーゼン人たちが、周りを取り囲んで歓声を上げた。こうなっては、逃げることも命乞《いのちご》いすることも無理だろう。ルドガーは腹をくくった。
「レーズ、離れてろ。手出しはいらん」
「その言葉、二年半遅かったわね」
「なに?」
ルドガーが振り向いた時には、レーズはもう後ろへ下がっていた。取り乱した様子もなく、こちらへ手を振る。――男たちがあっという間に彼女の両手をとり、羽交い絞めにして、抑えつけた。
「その娘に手を出すな!」
ルドガーが叫ぶと、ヘンルリックが怒鳴った。
「よそ見をするな、ドイツ人!」
またしても大振りの斬撃《ざんげき》が襲い掛かった。ルドガーはさらに後ろへ跳んでから、剣を両手で構え、逆に踏み込んだ。海賊のむき出しの腕を狙って、動きの小さな突きを繰り出す。粗野で大雑把な戦い方をする相手を、すばやく効率的に仕留めるつもりだった。
だが、その途端にヘンルリックの動きが変わった。直剣を速やかに引き戻して、ルドガーの剣を軽くはじく。ルドガーの体勢が崩れたと見て取ると、手首のひねりで剣尖《けんせん》を跳ね上げ、まっすぐに突きこんできた。
「くっ!」
ぞっとしながらルドガーは首をひねって避けた。滑らかな光が肩先を流れるのが見え、嫌な熱さが肌を走った。
半歩下がって構えなおすと、同じように軽く踏み戻ったヘンルリックが、最初とはまったく異なる洗練された構えで、嘲笑《あざわら》った。
「惜しかったな、おれたちヴァイキングも最近剣術を習ったんだよ。――五百年ぐらい前にな」
海賊たちの笑い声を聞いて、ルドガーは認識を改めた。蛮族だなどと、とんでもない。相手も同じ戦の達人だ。
「そんなに古い剣術じゃ、とっくに時代遅れだな!」
景気付けに叫び返して、ルドガーは再び切り込んだ。
最初はそれほど分の悪い戦いではなかった。ヘンルリックが熟達した戦士であっても、山野の戦場を潜り抜けたルドガーが劣るものではなかった。突きを避け突きを打ち込み、斬撃を払い斬撃を浴びせた。堅く締まった砂の足場を前に後ろに飛びはねて、突出を誘い、飛び出した相手を入れ替わりに打ちすえ、立て続けに斬りつけて、防戦一辺倒になるところまで押していった。
相手が笑みを消して必死に身を守り、こちらの剣を避けきれずに弾《はじ》くようになったのを見て、ルドガーは首を取れると思った。
そのとき、ヘンルリックの後ろからこちらに狙いを定めている、何人もの弓手を目にした。期待が吹っ飛んだ。
驚いて一瞬身を堅くした隙《すき》に、ヘンルリックの起死回生の一撃が左脇に来た。
あっと思ったときには腕の内側を擦《かす》られていた。血管が切れて血が噴き出す感触があった。
「卑怯《ひきょう》だぞ!」
「油断したな!」
ルドガーの声は、はるかに大きなヘンルリックの怒声にかき消された。後退するルドガーを、ヘンルリックが追って来る。打ち下ろされる剣を続けて何合かはじいたが、左腕が急速に重くなった。ルドガーが体の向きを変えるたびに、振りまかれた血液が砂上に半円を描く。
「はあっ、はあっ!」
経験したことがないほど呼吸と動悸《どうき》が速まる。鮮血とともに生気が失われていくのがありありとわかった。
そのとき、レーズが叫んだ。
「ルドガー――傷をふさいで。剣を置いて!」
レーズの声だ。ヘンルリックがそちらへ笑いを飛ばす。
「今さら武器を捨てても見逃してはやらんぞ!」
それはわかっている。敵はこちらを殺す気でいる。
だがルドガーは、地面にざくりと剣を突きたてて、後ろへ下がった。内着《ダブレット》の裏張りのリンネルを細く引き裂き、片方を噛んで左腕を縛る。なぜかレーズをじっと見ていたヘンルリックが、ルドガーに目を戻し、その不器用な有様を見て肩をすくめた。
「それで何分稼ぐ気かね」
「よんひゅうへん」
布を噛んだままルドガーが言うと、意味を取り損ねたらしく、ヘンルリックは瞬きした。次の瞬間、呵々《かか》大笑した。
「四十年か! そいつはいい!」
笑いながら剣をかざして襲ってきた。
ルドガーはそれからの十分、丸腰のまま避けに避けた。身をかがめ、横へ転がり、背をそらして、必死で逃げ回った。ヘンルリックは勝者の余裕たっぷりに、追いすがってきた。観衆も、ルドガーの無様な逃げっぷりを指差して大笑いしていた。だが、ルドガーが人の輪の中を三周したころになると、だんだん苛立った叫びを上げるようになった。
「やれ! ぶっ殺せ!」
「そんなネズミ、潰しちまえ!」
ヘンルリックもさすがに苛立ったらしく、両手を大きく広げて、退路を断つようにルドガーの前に立ちはだかった。
「往生際が悪いぞ、ドイツ人。いい加減に覚悟を決めろ!」
「くそっ、蛮族め」
ルドガーは吐き捨てるように言うと、さっき手放した剣を左手で抜き取ろうとした。しかし腕が震えて力が入らず、突っ立った剣を抜くことすら出来ない。観衆が手を打って喜んだ。
ヘンルリックはそれを見ると、つまらなさそうに小さなため息をついた。
「それじゃあ戦いにならん。もう終わりにするか」
そう言うと、止《とど》めとばかりに強烈な突きを放ってきた。
「ヴァルハラへ逝け、ドイツ人!」
その瞬間ルドガーは、力の入らないはずの左手で堅く剣を握り、ヘンルリックの剣を弾き飛ばした。唖然《あぜん》とするその横顔へ、手首を翻して、長剣の腹を力いっぱい叩きつけた。
ガツッと石を打ち合わせたような音とともに、海賊の頭目は横ざまに吹っ飛んで倒れた。ルドガーは血に塗《まみ》れた左腕をことさらに強調するように差し上げ、彼に近づいた。荒い呼吸をハアハアと繰り返しながら、背中を踏みつけにして、剣を向ける。
「どうだ、フリーゼン人。もう終わりにするか」
海賊の背中は、ピクリとも動かなかった。
だがルドガーが足からわずかに力を抜いた途端、いきなりヘンルリックは動いた。体をひねりながらばね仕掛けのように勢いよく起き上がろうとする。
しかしルドガーは十分にそれを予期しており、手甲をはめた右腕で渾身《こんしん》の力を込めて殴りつけた。拳《こぶし》は見事にヘンルリックの口元に入り、黄ばんだ歯を二本ほど撒《ま》き散らした。
海賊は倒れなかった。しかしその口元からは血がしたたり、体はよろめいていた。千鳥足でふらつきながら、かろうじてルドガーをにらみつける。
ルドガーも息の荒さではいい勝負で、顔色はさらにひどかった。それでもなお気を張ったまま、砂に落ちたヘンルリックの歯をつまみあげて、不敵に笑いながら言ってのけた。
「全部なくなるまでやるか?」
実のところ、ルドガーにとってもぎりぎりの賭《か》けだった。これでだめなら殺すしかないが、殺せばまず確実に生きて帰れない。
ヘンルリックが、肩で息をしている。やがて言った。
「ひとつだけ聞きたい」
「なんだ」
「おまえの体はどうなってる。矢が刺さっても死なん、血が出ても倒れん。その腕、確かに一度萎えたはずだ」
「血筋だと言っただろう」
「馬鹿を言え、そんな与太を信じるものか。何か理由があるんだろう?」
ルドガーは少し脅かしておこうと思ったのだが、横からイェスパーが言った。
「レーズスフェント……レーズか!」
なんだ、とヘンルリックが聞く。イェスパーが捕らえた女に目を向けた。
「どこかで見たことがあると思ったんだが、いま思い出した。おまえは、エギナ河口の島の女だ。うんと小さいころ、爺《じい》さまに連れられて船で見に行ったよ。ローマの泉に不思議な女がいて、気に入った男女には霊験をさずけてくれるとな。違うか?」
「……よく見抜いたわね」
レーズは両足を地面に踏ん張ると、やにわに右と左の腕を振った。それを押さえていた男たちが、布袋か何かのように、どさどさと放り出された。
冗談のような怪力に、海賊たちが目を丸くする。レーズは澄ました顔で、捉まれていた手首をもんだりしている。ヘンルリックがルドガーに目を向けた。
「あれの加護か」
ルドガーはレーズを見る。以前、あの女に傷を舐《な》められたことがあった。そのとき、何か不思議なことを彼女は言った。「小さな連中」の天敵を入れたとかなんとか。
キリストの司祭は、器物や人に聖別ということをしてくれる。それによって人は間接的に主の力を得る。それと同じようなことを、彼女にされたのかもしれない。
「『あれ』なんて呼ぶと命の保証はせんぞ」
「あの方、か。そりゃあ勝てる道理がない」
剣を収めたヘンルリックが、忌々しそうに手招きをした。
「わかった、中へ入れ。おまえが満足するまで話を聞いてやる」
館に入ったルドガーがまず聞いたのは、こういうことだった。
「なぜ飢えている?」
すり切れた絨毯《じゅうたん》に車座に腰を下ろした海賊たちが、顔を見合わせた。ルドガーは続けた。
「村を襲ったのは今年に入ってからだと聞いた。まがりなりにも去年までは食えていたんだろう。その後、どんな事情があった?」
「おまえは人質を取り戻しに来たんじゃないのか」
「違うと何度も言った。信じていなかったのか」
「信じるものか。子供を取り戻すための口実だと思ったさ。それともおまえは――子供などどうでもいいと思っているのか」
ヘンルリックににらまれて、ルドガーは気を鎮めつつ答えた。
「おまえたちがさらった子供の一人は、おれの弟の子だ。もう一人も村に預けられた赤ん坊だから、おれの子のようなもの。大事でないわけがない」
「それでも、子供のことは二の次だというのか」
「そうだ」
ヘンルリックの目に非難の色が浮かぶ。身代金を取ろうとするぐらいだから、彼らも赤子を大切だと思っているのだろう。だが、彼は言った。
「続けろ」
「子供は大事だが、村全体のほうがもっと大事だ。それはおまえたちも同様だろう。身代金を取るのは本業ではないはず。なぜそんなことをする?」
「……戦のせいさ」
「ヘンルリック、ドイツ人に話したところで」
「いや。――言うだけ言ってみようじゃないか」
制止しようとしたイェスパーに言い返して、ヘンルリックは話し始めた。
西ランゲオーク島のフリーゼン人の本業は、商船を襲うことだった。
北ドイツの商船は、岸に沿って航行する。地中海で使われ始めた磁針というものは、まだ北方には普及しておらず、陸標に頼る船が多い。ハンブルクの船はエルベ河口を出て西に進み、ブラバントの船はゼーラントの島々を抜けて東へ赴く。
ヘンルリックたちの島は、東西交通のちょうど中間にある。財貨を満載した船が、家から見えるところを日夜通過していくのだ。それらをヴァイキングの血を引く彼らが襲うのは、ごく当然のことだった。
「襲ってどうするんだ、殺すのか」
「なあに、そんなひどいことは滅多にやらん。通行料を一割ほど取るだけだ」
「皆殺しにするんだと思っていた」
「五百年前はそうしていたさ。しかし今そんなことをしたら、無事でいられると思うかね?」
「諸国は怒るだろうな」
「その通り、カトリックの連中がやってきて、あっという間に滅ぼされちまう。だからおれたちも、そんなに度外れた悪事はしなくなった。せいぜい、航路を間違えて岸へ寄りすぎた船に、警告の意味も込めて乗り込んで、いただくべきものをいただく程度だ。逆に言えば、海賊はおれたちの生まれつきの稼業として、誰からも認められていたんだ。ところが――」
「ハンザの奴らがな」
ルドガーは、ぴくりと耳をそばだてた。イェスパーが陰気な顔で言った。
「去年あたりから急に、目くじら立て始めてな。商船をハリネズミみたいに武装させるようになった。傭兵を乗せて、投石器《カタパルト》を積んでな。おかげでおれたちは近寄れやしねえ」
「――さっき沖を通ったのも、そういう船だったのか?」
「気付いたか。そうだよ」
メッテンボー城へ近づく前に、船が見えるとレーズが言った。あれが獲物だったら、イェスパーたちはそのまま襲撃部隊に早変わりしていたのだろう。
「なぜ去年から急に厳しくなったんだ」
「だから、それが戦のせいだって言ってるんだよ!」
どん、とヘンルリックが床を叩いた。ルドガーの尻が少し浮いた。
「イングランドの殿様が、フランドルで馬鹿騒ぎを始めたせいで、食い物も着る物も天井知らずの値上がりだ。物資を持ち込めば持ち込んだだけ売れる。それどころか、フランドルでは今までほとんど売れなかった武具や何かまで、飛ぶように売れるんだ。どういうことかわかるか?」
「……悠長に船を止めて、海賊に付き合っているひまなどなくなったということか」
「その通りだ。ハンザの連中はおれたちを無視し始めた。――それどころか、金ができて武装できるようになったのをいいことに、逆にこっちを脅すようになりやがった。あいつらは、あいつらは……!」
怒りに口を震わせるヘンルリックのあとを、イェスパーが続けた。
「メッテンボー城を嵐《あらし》のときの退避港に使わせろなんて言うようになってな……山賊に向かって、泊めてくれと言うようなもんじゃねえか」
「馬鹿にしやがって、なあ!」
ルドガーは内心うなずかないでもなかったが、あえて冷静な顔を保ったままで言った。
「つまり、商船を襲えなくなったから、苦肉の策としてレーズスフェントを襲ったということか」
「そうだ! そんな事情でもなければ、あんな貧乏村を襲ったりするものか」
貧乏で悪かったなとルドガーは思ったが、まったくの事実なので言い返せなかった。それに、皮肉を言うどころではないほど、頭が回り始めていた。
「もしも――」
口にする順番を間違えてはいけない。この男たちは武勇を尊ぶ。その次に大事なのが子供などの弱者。その次になって、ようやく自分たちの命などが来る。
「――ハンザの鼻を明かす方法がある、と言ったら?」
ヘンルリックが、イェスパーが、居並ぶ海の男たちが一斉に眉《まゆ》をひそめた。
「どんな方法だ」
「とても困難で厳しい方法だ。だが、不可能ではない」
「だから、どんな方法だ!」
「おまえたち――ダンツィヒという港町を知っているか?」
ルドガーは海賊たちの顔を見回した。自然に、彼らの目が一人の小男に集まった。
イェスパーは警戒心をむき出しにした目でルドガーを見つめた。
「デンの国≠フ向こう側だな。バルト海の南岸だ。おれたちの船でも二十日はかかる」
「行けるんだな?」
「航路を知っているだけだ。道筋にはハンザの武装船がうようよしている。だからどうした。どんな意味がある」
「おれがおまえたちに会いに来たのは、これを言うためだ。――おれをそこまで運んでほしい」
海賊たちがあきれたように口を開けた。一人、レーズだけが顔をほころばせてつぶやいた。
「そこまで言うの、この場で」
「言うさ。他に手はないし、これが最上だ」
「ルドガー、だったな」
ヘンルリックが名を呼んで、身を乗り出した。
「どういうことだ? なんでおれたちがおまえをそんな遠くまで連れて行かなきゃならんのだ」
「そこに食べ物があふれているからだ」
ルドガーも同じほど身を乗り出して言った。
「ハンザと敵対する連中が、そこに山のような在庫を抱えている。連中はそれを西方に売りたがっている。おれはそれを買いたいが、足がない。――わかるか? おまえたちの船を借りたい」
「ほほう……」
「もしおまえたちが力を貸すというなら、食料を分けてやる」
「量はどれほどだ?」
「どれだけでも。外の城の下につないである商船、あれを一杯にしてもまだあふれるだろうな」
海賊たちの目の色が変わった。
ヘンルリックがイェスパーと目配せしあって、言った。
「よし、用件はわかった。少し外へ出ていろ」
先ほど死闘を繰り広げた砂浜に腰を下ろして、ルドガーは待った。レーズが島の女たちから飲み物をもらってきた。
「飲んで」
「ああ、すまん。――なんだこれは」
「ビールじゃないの?」
「ビールまでこんな具合なのか。ひどいな」
顔をしかめつつも、ルドガーはそのかび臭い液体を喉に流し込んだ。
レーズはルドガーの隣にしゃがんで、海を見る。
「それにしても大それたことを言ったわね」
「どこが?」
「連中の船に乗せろだなんて」
「もともとそのつもりで来たのさ。レーズスフェントと海賊の衝突を避けるには、海賊を遠くへ連れて行ってしまうのが一番だろう」
「そこまで考えていたの」
「いたとも。それで海賊が積荷を満載にして帰ってくれば、村人の怒りだって吹っ飛んでしまうだろう。クリューたちが戻れば、なおさらだ」
「本当にそこまで考えていたの?」
「――実はほとんど、思い付きだ」
ルドガーはあっさり言ってのけた。
「ただ、ここの連中となんとか手づるを作りたいと思ったのさ。互いのかまどの煙が見えるほど近くに住んでいるのに、ちまちま争いあうなんて馬鹿馬鹿しいだろう」
ルドガーが石を拾って投げると、沖に小さな白波が立った。秋の日がほとんど暮れかかっていたが、まだ対岸に小高い丘のような河口の中洲が見えた。
「レーズは、おれが出かけたらリュシアンとエルスに言付けをしてくれ。それぞれ、言いつけておいたようにしろと」
「きみが帰ってこなかったら?」
「そんなことは言わなくていいんだ、不吉なやつめ」
ルドガーはわざと顔をしかめてみせた。レーズは笑っていなかった。
「中洲から見えないところには私は行けない」
「そう、前に聞いたな」
「一人で大丈夫?」
「母親じゃあるまいし」
ルドガーは笑った。だが、ふと左腕に巻いた布のことを思い出し、そこに触れた。
「いや、実際、おまえの助けがなければ危なかったな。これはそうなんだろう」
「以前、きみの血に混ぜておいた小さい連中が、傷を塞《ふさ》ぎ、化膿止《かのうど》めをしているわ。誤解しないでほしいんだけど、心臓を止められたり首を飛ばされたりしたら、さすがに生きてはいられないわよ。気をつけて」
「それでも大きな助けだ。礼を言うぞ」
ルドガーが言うと、レーズは鼻の頭にしわを寄せて海を睨んでいた。どうした、と問いかけると、しばらくしてから首を振って言った。
「ルドガー、私はたくさんの人間を見てきたけれど、きみのような男は初めてよ。いえ、初めてではないけれど、ひどく少なかった。海賊を討伐するのではなく仲間にしようなんて、なかなかやれることじゃない。なぜきみはそんなことを思いつくの?」
「さあ……なぜだろうな? 自然にそう、考えるんだ。敵と味方を分けることはない、と。それでは危険だと人は言うし、おれ自身、危険だと感じたこともある。親しかった人が、おれとの間に一線を引いて、遠ざかってしまったこともあった。だがそれでも……」
子供の頭ほどの丸いものが、ポンポンと跳ねてきた。ルドガーはそれを手に取る。豚の膀胱《ぼうこう》だ。豚のいるところならどこでも、これを膨らませておもちゃにしている。
立ち上がって、こちらを見ていた若者たちのほうへ、長い腕でボールを投げ返した。受け取る者はおらず、それは砂の上に落ちた。彼らの目には疑いと戸惑いの色があった。
ルドガーはそれを無視して、またレーズの隣に座った。
「つい、こういうことをやっちまう。まあ甘いんだろうなあ」
「確かに甘い――でも、とても強いと思うな」
若者たちのほうを見ていたレーズが、ルドガーに目を戻した。ルドガーは思わず聞き返す。
「強いか?」
「強いわ。自信のない人間は、身構えずにいられないものだから」
「ずいぶん買ってくれたもんだ」
「単なる馬鹿かもしれないけれど」
「ずいぶん突き放してくれるな」
「生きて戻ったら大物と呼んであげる」
レーズが振り返ったので、ルドガーも後ろを見た。頭領の館から、ヘンルリックをはじめ海賊の面々が現れた。
「ルドガー! おまえの申し出、飲んでやる!」
「本当か。条件は?」
「例の二人の子供を、人質として船が戻るまでここに留め置くこと。加えて、その女――いや、その方もだ。イェスパーの話では、この季節、ダンツィヒまでは最速で十七日、遅くとも二十五日ほどで着く。荷役の日時も含めて、六十日以内に船が戻れば、全員を放してやろう。船が戻らないか、食糧が手に入らなければ、その日に村から身代金を取り立てる。手紙を書け!」
ルドガーは座ったまま、言い返した。
「では、まず確認だ。二人の子が無事かどうか、見せてみろ」
ヘンルリックの命令で、女たちが二人の幼児を連れてきた。クリューガーはまだ走れるようになったばかりだが、ダリウスはもう言葉がわかり始めている。ルドガーを見ると舌足らずに何か言った。
体を見て怪我《けが》のないことを確かめると、ルドガーは二人を返した。ヘンルリックが言う。
「よく見たな? 歯も指も欠けとらん。特に小さいほうは大事に扱ってる。あっちが弟の子なんだろう」
「両方大事にしてくれ、村の子だ。よし、確かに二人とも無事だ。手紙を書いてやるから書くものを寄越せ。レーズ!」
彼女がそばに来ると、ルドガーは言った。
「代筆を頼む。字は書けるな?」
「リュシアンにみっちり教わったわ」
「あいつに? いつの間に教わった」
「ちょっとね」
それから不意に空を見上げて言った。
「そうだわ、名案を思いついた。リュシアンにばかり手を貸すことはない」
「ん?」
「お供をつけてあげる」
レーズは、そう言って、空を指差した。
二十六日後、ルドガーたちを乗せた商船ランツァウ号と、護衛の竜頭船グラニ号は、早朝にダンツィヒの埠頭《ふとう》を離れた。ランツァウ号の船倉には、三十三ラストと三分の一(約六十トン)もの樽《たる》や梱《こり》が、ぎっしりと詰まっていた。
行く手には、猛々《たけだけ》しい波の逆巻く、十二月のバルト海が広がっていた。
「ようやく出発できましたな」
ランツァウ号の船尾楼に立って、ドイツ騎士団のキンケルがほっとした様子で言った。ルドガーはうなずく。
「一時は戦になるかと思った」
二隻の船がダンツィヒに到着した時は、ちょっとした騒ぎになったのだ。
バルト海のその辺りでは、辺鄙《へんぴ》なレーズスフェントとは違って、しっかりとした沿岸警備が行われている。竜頭船が姿を現すと、港を挟む防御塔で一斉に角笛が鳴り響き、湾口閉鎖用の鎖がガラガラと引き上げられて、戦闘準備が始まったのだ。騒ぎを聞いたキンケルが港へ飛んでこなかったら、どうなっていたかわからない。
ルドガーはメッテンボー城を出発する際に、エルスを介してキンケルへ言伝《ことづて》をしてあった。それを受け取った彼が、先回りしてダンツィヒへ戻ってくれていたために、あわやというところで戦を免れることができた。ブレーメンからダンツィヒまで、馬と船を乗り継げばルドガーたちの三分の一の行程で済むとはいえ、彼がルドガーの話を信じてくれていたのは、僥倖《ぎょうこう》だった。
彼が現れてからも、荷役は楽ではなかった。ダンツィヒ港にもハンザの船は出入りしており、彼らに知られれば計画は水の泡となる。人足たちに、まったく逆のストックホルム行きの荷だと偽り、書類関係も偽造を重ねて、ようやく荷積みを終えたのだった。
「まあ港を出てしまえばこっちのものです。あとはレーズスフェントへ向かうだけだ」
キンケルはお目付け役として自ら乗船してきた。当初の予定にない、西ランゲオークの海賊たちまで関わってきたのだから、無理もない。悠然とした態度を取りつつも、内心ではさまざまなことを――海賊たちの態度や、この船の行く先や、自分の身の安全などを――心配している様子だった。
ルドガーとしても、彼を安心させてやれるものなら、そうしたかった。何しろハンザに頼れないレーズスフェントにとって、目下のところ唯一の味方である。これ一度だけではなく、この先も世話になるかもしれない。
しかし、キンケルの心の平穏を打ち砕くような言葉が、足元から投げかけられた。
「これからが大変だと思うぜ」
イェスパーが階段を登って船尾楼に現れた。キンケルは無言で顔をしかめたが、船団の頭領はお構いなしに言う。
「風はすっかり逆風になってる。ジグザグに切りあがっていかなければならんから、これだけで五日や十日は余計にかかる。空模様もよくない。この雲の形は、北海のほうから馬鹿に大きな寒気が来てやがる印だ。……じきに雪になるな」
「あまり不吉なことを言わないで下さいよ……」
「二十五年も船乗りをやってるんでね。知りたくなくてもわかっちまう」
イェスパーはキンケルを一顧だにせず、灰色の空を見上げたままで言う。
キンケルがため息をついて、逃げるように船室へ降りていった。ルドガーは手すりにもたれて、小さく言った。
「おい、あまり彼の機嫌を損ねるな」
「おれは、ひ弱な陸者《おかもの》を見るとイライラするたちでね」
そう言ってから振り向いて、ややあわてたように付け加えた。
「あんたは別だ。腕っ節のたつ、本物の男だ。それに……あの魔女と知り合いだしな」
そう言うと目を逸らし、また空を見た。低く垂れ込めた雲に触れそうな高度を、翼の大きな猛禽《もうきん》が旋回しているのが見えた。
「魔女は何度か見たことあるが、あんなに力のあるやつは初めてだ」
ルドガーも空を見上げた。上空にいるのはイヌワシだ。レーズはそのことをこう言っていた。
――|空っぽ人形《レール・プッペ》を連れていって。
村が見える範囲でしか動けない自分に代わって、レーズは一羽の鳥を供につけたのだ。船がメッテンボー城を出てからというもの、それがずっと頭上を旋回し続けている。
イェスパーが言う。
「風だの天気だのは、おれたちだって承知している。この辺りの水路など、目隠ししても抜けてやれるが……」
風が巻き、帆をばたつかせたので、そこでイェスパーは言葉を切った。風が収まっても黙ったままだったが、彼がなんと続けようとしていたのか、ルドガーは見当がついた。
――あいつの目には、かなわん。
行きの二十日あまり、デンマークをぐるりと回り込む航行で、イェスパーを頭領とする船団の連中は、泉の精霊の力を身に染みて知らされたのだった。
イヌワシは何か見つけるたびに舵輪《だりん》のそばへ舞い降りてきて、その方向へ向かって鳴いた。檣頭の見張りよりも早く水平線上の船を見つけたことが、実に九回もあった。それに、古株のイェスパーですら知らなかった暗礁を見つけて、衝突寸前に警告したこともあった。
今では、船乗りたちの信頼を集めつつある。
「問題は、海峡だ」
追い風の中で、イェスパーがささやく。
「ストーア海峡には常にハンザの目が光ってる。満載の商船を連れて、行きの時のようにうまく通り抜けられるかどうか……」
彼が言っているのは、ユトランド半島の東側を北上する行程のことだ。そこは多数の島や暗礁と狭い水路が入り組む複雑な地形で、しかも全体がデンマークの支配下にある。デンマーク王国はハンザ同盟と敵対関係にあるが、だからといって、ルドガーたちの味方になってくれるという保証はない。
つまり、船なり要塞《ようさい》なりが目に入れば、それらはすべて敵である可能性が大きいということだ。そこを通り抜けるには、なるべく人目を避けて速やかに移動するしかない。
頼れるものならわらにでもすがりたいというのが、イェスパーの本心らしかった。
ランツァウ号とグラニ号には、二隻合わせて百名近い男が乗っていたが、まともなキリスト教徒は皆無だった。海賊たちは、故郷のデンマーク人ですら捨ててしまった北欧の古い神をいまだに信仰していたし、ルドガーやキンケルは、ほぼ名目だけのキリスト者だった。だからこの船団は、イェスパーが不敵に言ってのけたように「この冬のバルト海で、もっとも罰当たりな一党」に違いないのだった。
どうやらそれが、神の怒りを買ったらしい。間もなく船団は困難に襲われた。
比較的静穏だった四日の航海の後、アルコナ岬で沿岸を離れ北西へ向かった船団は、いよいよデンマークの領域に入るというファルスタ島のヘステ岬で、灯台守から不吉な知らせを受け取った。
「海賊?」
「ああ、海賊が出た。場所はオーゼンセだ。女子供まで殺すひどいやつらだっていうんで、海峡中の町に早舟が出て、危険を触れてまわってるよ。――どうした? あんたらは関係ないだろう、反対側から来たんだから」
オーゼンセは行きにそばを通ってきた町で、今は進行方向に当たる。デンマーク王国軍の非常線が張られたとなると、そちらへ向かうのは自殺行為だ。ルドガーたちは額を寄せて話しあった。
「いったん南へ下って、うんと西のリレ海峡から迂回《うかい》したらどうですか」
「南下するとハンザの網にかかる。いまおれたちがいるのは、ちょうどハンザとデンマークの縄張りの境目あたりだ。だからどっちの船も少ないんだ」
「人気のない島で、警戒が緩むまで二、三日様子をうかがったらどうだ。まだ時間の余裕はある」
「それはいかん。北海の寒気がますます強まってる。グレーネン岬を回るのが二日遅れると、逆風で北海へ出られなくなるかもしれない。ちょっと黙ってくれ、あんたら」
イェスパーが苛立った様子で言い、目を閉じた。彼はこの辺りの海を知り尽くしている。ルドガーは口を閉じて待った。
やがて目を開けた彼が、厳しい顔で言った。
「エーレスンドを抜けるしかないな……」
ルドガーはその地名を知らなかったが、キンケルが知っていた。彼は驚いて食ってかかった。
「あなた、正気ですか。ヘルシングエーアの砦の下を通っていくと?」
イェスパーは黙然と腕組みしている。ルドガーは尋ねた。
「キンケル、それは?」
「デンマークとスカンジナビアをわける海峡ですよ。それと同時に、北海とバルト海をつなぐ最短の海路でもあります」
「最短? それなら文句はない。夜中に中央を突っ切ればいい」
「幅は二マイルしかありません」
ルドガーはあっけにとられてキンケルを見つめた。キンケルがこわばった顔でささやく。
「そのもっとも狭まったところの両岸に砦があるんです。事実上、通行不可能なんですよ。それでなくてどうして、ハンザが流通を独占できると思いますか? 彼らはユトランド半島の根元を陸路で突っ切る通商路を抱えています。エーレスンドが閉じているからこそ、あれで商売になるんです。しかも海峡は完全な逆風です」
とどめのような一言が、その場に静寂をもたらした。
だが、イェスパーが静寂を押しのけるように言った。
「あんたが今言ったようなことは、全部承知している。付け加えれば、海峡を押さえている王国の連中も、それと同じように考えている」
「では、なぜ……」
「ひとつだけ、今の話に出なかったことがある。――潮だ」
「潮?」
「エーレスンドには北向きの速い潮が流れているんだ。でかい海が狭い海峡でつながっている場所だから、当然だな。そしてそのエーレスンドにも、潮が遅くなる時期と、さらに速くなる時期がある。それはバルト海に流れ込む川の水が、凍って涸《か》れる直前……冬の始め、つまり今なんだよ」
イェスパーは近くに立っていた副船長に目を移して、聞いた。
「おまけに、今日の月齢はいくつだ?」
「十二夜です。三日後に大潮になります」
「というわけだ」
イェスパーが、かすかに口の端を吊り上げてみせた。
話の続きを悟って、ルドガーはうなずいた。
「その潮を利用すれば……突破できると言うんだな?」
「できるなんて言わんさ。先のことは神様にしかわからん」
決め付けると運が逃げるとでも言うように首を振って、いかにも気軽そうな様子でイェスパーは言った。
「ただ、潮流をあてにできれば、二隻の帆を畳んで、櫂の力だけで曳航《えいこう》していくことができる。それなら、堂々と帆を広げているよりは見つかりにくいだろうな」
「いいじゃないか。乗ってやろう」
ルドガーはうなずいた。
翌日はひどく冷え込み、雪になる寸前の、凍るような雨が降った。海は荒れ、灰色の波がしばしば舳先を越えて船内に打ち付けた。甲板を持たないグラニ号の漕ぎ手たちは凍えてしまい、船長のベケという男がしきりに大声をかけて励ましているのが、後続のランツァウ号まで聞こえてきた。
ランツァウ号の船員たちは、帆の操作をするとき以外は甲板の下に引っ込んでしまうので、多少楽だ。しかしルドガーとイェスパーは、起きている限り船尾楼に立ち詰めにしているので、グラニ号の連中の苦労がよくわかる。
「雪が降り始めたらえらい難行になるな、これは……」
「どうせ降るなら今降っちまうといい」
「嫌なことは先に、か?」
「それもあるが、この辺りが一番見つかりやすい」
イェスパーが船の周囲を見回した。濃淡のある雨足のカーテンが辺りを取り巻き、視界を著しく狭めている。左手前方のもやの向こうには、デンマークの海岸が夢の世界のようにうっすらと見えている。
「晴れたら一発で見つかっちまう。王都コペンハーゲンはエーレスンドの入りばなにあるんだ」
「よりによって王都の前を通るのか……」
「別に好きで王都を目指すわけじゃない。王都のほうが勝手にここへ居座っていやがるんだ」
「しかし、王都とはいっても、今は肝心の国王がいないんだろう」
七年前に前王が崩御して以来、デンマークでは王が即位せず、ずっと混乱が続いていることを、ルドガーは聞き知っていた。だがイェスパーは首を振った。
「最近は二代前の王の息子が力をつけて来ている。王都の混乱も期待しないほうがいいだろう」
「そうか」
ルドガーは霧の奥をじっと見つめていたが、やがて腹を決めた。
「……よし、イェスパー。陸を離れよう」
「なんだと?」
「海の真ん中へ出てしまうんだ。霧が晴れても敵の手が届かないように」
「世迷言を言うな、もし霧が晴れなかったら一巻の終わりだぞ。太陽も星も見えないのに、どうやってまっすぐ進む?」
聞いた途端、この聡明《そうめい》な男はルドガーの言いたいことに気付いたらしかった。
二人同時に、曇り空を見上げた。ルドガーが叫んだ。
「おーい、降りて来い!」
一声かけただけでイヌワシがおとなしく降りてくる光景は、何度見ても驚きだった。船員たちが見守る前で、猛禽は船尾楼の手すりにとまった。ルドガーは顔を寄せて言った。
「おまえ、陸標がなくても方角がわかるか? スウェーデンのスカノール岬へ向かいたい」
イヌワシは軽く首をひねる。人語で返事をすることはできないらしい。
だがしばらくすると、手すりの上を横跳びにはねていって、ひとつの方角をぴたりと見つめた。イェスパーが船尾楼の下の舵のところへ下りていって、方位盤とワシの向きを、何度も見比べた。
「……ぴったりだ。こいつ、頭の中に地図が入っているのか」
声は驚きでかすれていた。
翌日の朝、一行はスウェーデン側のスカノール岬に到着した。相変わらず小雨が続いて視界は非常に悪かったが、レーズの眷属《けんぞく》は一度として狂いなく船を着けた。彼(イヌワシはオスだった)に対する船乗りたちの好意は、いまや畏怖《いふ》の域にまで高まった。
午前中を船員の移動と仮眠に費やして、正午に船団は出発した。
岬からほぼ真北へ十マイル――次第に狭まる東西の岸辺の中間に、麦粒を思わせる形の小さな島が現れた。
「サルトホルム島だ。あの左の岸にコペンハーゲン。島から三十マイル先までがエーレスンド海峡だ」
イェスパーがそう言って、大声で命令を下した。
「ようし、突っ切るぞ。帆を畳め!」
それまで二隻の船が広げていた帆がすべて巻き上げられ、すぐに、グラニ号の舷側から突き出した櫂が動き出した。ランツァウ号の人間のうち、舵取りと物見以外の全員を移乗させてある。一度に櫂につける人数は変わらないが、交替の時間が半分になる。
いつにも増して竜頭船は力強く進み、ランツァウ号をまるで空の船のように軽々と牽《ひ》いていった。
沿岸を離れると、ほどなく、ごつんと硬い感じの揺れがあって、船首が一方向に引かれた。海面の色が変わり、細かい波立ちが周りを囲む。イェスパーが喜色を浮かべる。
「来たぞ、この潮だ。こいつを逃すな」
グラニ号の舳先はサルトホルム島の右側に向いている。そちらへ向かって、滑るように二隻は進んでいった。
レーズスフェントより緯度が高いため、さらに早く日が暮れる。四時にもならないうちにあたりは真っ暗になった。しかし、それと同時に風が出てきて、雲が吹き払われた。澄んだ星明りが海面を照らす。寒気に身を震わせつつ、ルドガーはつぶやいた。
「これなら夜明けまでに海峡を抜けられそうだな……」
「その最後のところにヘルシングエーアの砦があるんですがね」
キンケルが陰気につぶやいた。
身を乗り出して薄暮の海を見回していたイヌワシが、突然、緊張した声をあげた。
クェーッ……。
「なんだ、どうした?」
ルドガーたちは振り向く。イヌワシは左舷に陣取り、対岸に向かって何度も叫んでいる。時々叫ぶのをやめると、ちらちらとこちらを振り返る。
明らかに警告だ。ルドガーは階下の舵輪に向かって叫ぶ。
「イェスパー、あちらに何かあるぞ!」
「どっちだ」
「左舷だ!」
そう言って指差したルドガーは、そちらに光が見えることに気付いた。
サルトホルム島、であるはずの黒いわだかまりの、さらに向こうに灯火が見えている。じっと見ていると、それが次第に増え始めた。松明《たいまつ》から松明へ火を渡して海を照らしている。おびただしい数だ。
グラニ号のベケも気付いたらしく、大声で叫んで寄越した。
――おーい、港で動きだ。海軍が出てくるぞ!
「デンマーク海軍が動き出しやがった」
イェスパーが舌打ちして、足早に舳先へ向かい、叫んだ。
「ベケ、寝てるやつらも全部叩き起こして櫂につけろ。後のことは考えるな」
「よしよし、言いたいことはわかったから黙ってろ」
なおも喚きたてるイヌワシの背を、ルドガーは軽く撫でてやったが、そいつは一向に静まろうとしなかった。
その夜は忍耐の夜になった。
どぅん、どぅん、とひっきりなしに太鼓の音が響く。男たちが野太い腕を伸び縮みさせ、ギイギイと櫂受けをきしませる。わずかでも風向きが追い風に変わったと見て取ると、イェスパーはすかさず展帆を命じた。それに従ってルドガーやキンケルまでもが、甲板を駆けずり回って帆を広げた。
檣上の見張りが、冷静に報告した。
「軍船、四隻。二マイル後方です」
ランツァウ号が残す白い水脈の向こうに、揺れる灯火が見えた。
一回二時間の大砂時計が上下を返され、また返され、また返された。西の海岸線には、まるで船団の座礁を防いでくれるかのように、灯火が一定間隔で連なっており、それがいい目印になった。イェスパーに言われるままにあちこちのロープを引きに駆けずり回っていたルドガーは、不意にまばゆい光を頬に浴びた気がして、振り返った。東の陸岸線から、銀色に濡れた巨大な満月が顔を出していた。見張りの誰かが叫んだ。
「正面に島!」
「ヴェーン島だ、海峡の半分まで来たぞ!」
イェスパーがすかさず答え、しばらくしてつぶやいた。
「いったん、休むか」
「おい、イェスパー?」
ルドガーが声をかけると、船長は背後を指差して言った。
「見ろ、だいぶ水を開けた。こちらのほうが足が速いんだ」
言われてみると、灯火の距離は最初よりも離れているようだった。
「三マイル半は稼いだ。しばらく潮まかせだ。後のために力を蓄えておかなけりゃ。……ベケ、漕ぎ方やめだ! 三時間寝ていいぞ!」
うおーっ、と男たちの歓声が聞こえてきた。それを聞いたルドガーも、甲板にへたりこんだ。イェスパーもそばへ来て腰を下ろした。
ルドガーは言った。
「うまく行きそうじゃないか」
イェスパーがうなずいた。
「海峡さえ抜けちまえば撒ける。沿岸警備の船はろくに食料を積んでない」
そう言って、にやりと笑った。彼が笑うのを、ルドガーは初めて見た。
休憩を終えて、再び力漕《りきそう》を始めてから二時間。ずっと後方を見ていたイヌワシが、ふと振り返って、前方に向かって鳴いた。それを見たイェスパーが、檣上に向かって叫ぶ。
「おい、正面をよく見ろ! 何かいないか?」
間をおかず、見張りが叫び返した。
「やられました、前方に警戒線! ヘルシングエーアの軍船九隻が横に並んで海峡を閉ざしてます!」
「馬鹿な、ありえん」
イェスパーがすかさず否定した。
「おれたちはやつらより早く海峡を抜けた。仮にコペンハーゲンから早馬が出ていても、ヘルシングエーアにはまだついていないはず」
「いや……馬じゃないな」
ルドガーは岸辺を指差した。いまだ夜明けには遠い真っ暗な海岸線を、点々と明かりがつないでいた。
「あれは狼煙《のろし》だ。烽火《ほうか》台が用意してあったんだ」
黙然とそちらを見つめたイェスパーが、海に唾《つば》を吐いた。
もちろん、西ランゲオークの海賊たちは投降などしなかった。投降は、島で待っている同胞の餓死を意味したし、それ以上に、自分たちの誇りの死だった。
ランツァウ号にキンケルだけを残して曳航索を解くと、男たちはグラニ号に乗り込んで、警戒線の端の一隻に向かった。投石器《カタパルト》と矢の連射をかいくぐって舷側に手かぎを投げ、手斧と剣をかついでよじ登った。ルドガーとイェスパーはともに先頭に立ち、甲板へ躍りこんだ。待ち受けていた敵勢がいっせいに襲いかかってきた。
壮絶な白兵戦となった。
雄叫《おたけ》びとともに剣が肉を割り、手斧が骨を断った。そこかしこで金属の火花が散り、木片と鮮血がはじけた。喚声を上げて一団が突進し、唸り声をあげて一団が押し返し、そのたびに船がゆっくりと左右に揺らいだ。何人もの男が跳ね飛ばされ、突き飛ばされて、暗い海面に落ちた。
ルドガーは一人を斬り、一人を蹴り倒し、一人を殴りつけ、猛烈な揉みあいに巻き込まれて右往左往した後、さらに三人を斬って船尾楼へ駆け上った。途端に、待ち受けていた敵の巨漢に棍棒《こんぼう》で殴りつけられて、倒れ伏した。その周りに双方の男たちが殺到し、誰が味方かもわからぬ凄《すさ》まじい混戦を繰り広げた。
痛む頭を押さえて立ち上がったルドガーに、目の前の男が必殺のかまえで手槍を突きこんで来た。
すでに誰かの血で濡れている穂先を、ルドガーは呆然と見つめた。
バッと空気を叩いて、大きな翼が舞い降りてきた。イヌワシが風のように通り抜けざま、鋭いかぎ爪《づめ》で敵の喉笛をえぐっていった。敵は絶叫してのけぞる。その隙にルドガーはそいつを切り伏せた。
「よくやったな!」
空を見上げて、鳥に声をかけたとき――。
別の方角でバン、バンと弦の戻る音がした。九隻のうちの敵船のうち、二隻目が接近していた。そこから放たれた矢が、唸りをあげて宙へ舞い上がり、次の獲物を探していたイヌワシを串刺《くしざ》しにした。ルドガーは悪態をつく。
「くそっ!」
「ルドガー、何をしてる!」
イェスパーの声に振り返ると、ルドガーのいる船尾楼もひどい有様だった。敵味方の死体が数え切れないほど転がり、床は血に染まって真っ黒に見える。イェスパーが階段の途中の水兵と激しく切り結んでいた。ルドガーは駆けつけざま、敵の頭を蹴り抜いて首をへし折った。そいつは糸の切れた人形のように、力なく階段の下へ転落した。
振り向いたイェスパーが白い歯を見せる。
「助かる」
「いや」
ルドガーは軽く手を挙げて答えた。
次の瞬間、マストの上から静索を滑り降りてきた敵兵が、ルドガーの肩口に斬りつけた。イェスパーがそれに気付いてルドガーを突き飛ばした。
床に尻もちを突いたルドガーは、自分の代わりにイェスパーが頭を割られるのを見た。
「くそっ」
立ち上がって敵を切り伏せ、イェスパーの様子を確かめた。即死だった。舌打ちして甲板を見回すと、大勢が決したのがわかった。
ルドガーたちはこの船の敵に勝利していた。折り重なる死体の上に、仲間の海賊たちばかりが立っている。
だが、船上での勝利にもかかわらず、その仲間たちが全滅するのも時間の問題のようだった。周りを包囲した敵船の矢が雨あられと降り注いでいた。
ルドガーはグラニ号のベケ船長を見つけて、叫んだ。
「ベケ、降伏だ。これ以上は意味がない!」
ベケはずっとルドガーを見ていた。いや、ルドガーではなく、その足元に倒れているイェスパーをだ。ベケはイェスパーの忠実な腹心で、彼の言うことにはなんでも二つ返事でしたがっていた。その兄貴分が、首から上を真っ赤に染めて倒れていた。
ベケは両腕を上げて、悲しげにひとこと吠《ほ》えた。
「うおおおッ!」
海賊たちも一斉に同じように吠えた。
そして武器を力いっぱい海に放り投げた。
結局、生きたままデンマーク軍に捕らえられたのは、わずか四十二名でしかなかった。残りはすべて斬られるか、刺されるか、あるいは溺《おぼ》れるかして、エーレスンドの潮とともに去った。
乗り込んできた敵兵が、ルドガーたちを手荒く縛り、船ごとヘルシングエーアの砦に持ち込んだ。
夜明け前の砂浜に座らされたまま、ルドガーは後のことを考えた。敵がこちらのことを単なる密輸船だとでも思っているなら、交渉次第では生きて帰れるかもしれない。だが、海賊だということが知られていれば、全員処刑され、ランツァウ号は没収されるだろう。
死戦した後で降伏した。海賊の流儀ではどうか知らないが、騎士としては不名誉な負け方ではない。なんとかそのことだけでも、レーズスフェントに伝わればいいと思った。
砦の角笛が鳴った。顔を上げると、四隻の船が港へ入ってくるところだった。最初から追ってきた連中だろう。それにしても、連中はなぜこちらの通過がわかったのだろうか。灯火の類《たぐい》は点《つ》けていなかったのに。
やがてその疑問の答えが明らかになった。
うなだれて待ち受けるルドガーの前で、よく磨かれた金属製のブーツが砂を踏みしめた。どこかの宮廷仕込みのような、流暢《りゅうちょう》なドイツ語が耳を打つ。
「匂いがするな」
顔を上げると、鎖帷子《くさりかたびら》の上に刺繍《ししゅう》の戦衣を羽織った若者が、よく輝く目で見下ろしていた。年のころは二十歳に届くかどうか。くっきりした線の濃い顔立ちをしており、均整の取れた体つきで、武術にも舞踏にも自信があるのだろうと思える。豪奢《ごうしゃ》な、いや豪奢というよりは剛健な、叩き出し鉄の黒光りする額冠をはめ、赤みを帯びた豊かな髪房を肩に流している。背後には近習らしい男たちが何名もおり、その一人が持つ盾には三頭の獅子《しし》の図があった。
青年と目が合った途端、ルドガーは体内の血のざわめきを感じた。鼓動が高鳴り、息が詰まった。恐れか、おれはこの小僧を恐れているのか、と自問したが、どうも違うようだった。恐怖は感じていない。心と体が乖離《かいり》してしまったようだった。
それで、かえって相手の正体がわかった。こいつに出会って動揺しているのは、自分ではなく自分の中の「小さな連中」だ。ということは――
「レーズか?」
「……ラルキィか!」
ルドガーの言葉に、青年は悠然とうなずいた。
「いかにも、星から降りし雄の種だ。そしてロスキレとコペンハーゲンの主人にして、デンマークの王、ヴァルデマール四世でもある。おまえはレーズの手の者だな」
デンマーク王が、レーズの恐れる異性だったとは! 驚きを押し隠して、ルドガーは平静を保とうとする。
「王は今いないと聞いている」
「司教どもがおれを認めんかったからだ。やつらは今、ロスキレ聖堂の裏で雑草の肥やしになっている。代わりの司教が来れば、すぐにでも即位式を挙げてやる」
いまいましげにそう言うと、気を取り直したようにヴァルデマールはルドガーに顔を近づけた。
「さて、おまえの本体は近くにいるのか? 星に宿りし母は……」
言いかけて、ふと顔をしかめた。縛られたままのルドガーの髪をやにわにつかんで、匂いを嗅《か》ぐ。
「なんだ、この匂いはただの人間ではないか。おまえ、レーズの眷属ではないのか?」
「おれはそんなものになった覚えはない」
「眷属はどこだ? いるはずだ、確かに匂いがした」
「|空っぽ人形《レール・プッペ》のことか?」
「なんと呼んでいるかは知らんが、レーズが作り出した道具のことだ。知っているのか」
ルドガーは無言で海を示した。死んだのか、とヴァルデマールがつぶやいた。
「となると、おまえが唯一の手がかりだな」
彼は手を振って供回りを下がらせると、ルドガーを縛る縄を切って、膝詰《ひざづ》めで言った。
「さて、名を聞こうか」
「……東フリースラント伯爵が騎士、ルドガー」
「ほう、東フリースラントとな。そんな田舎伯爵の騎士がこんなところで何をしていたかは、また後で聞くとして、おまえはレーズとどういう関係だ」
「聞いてどうする」
ルドガーは顔をあげて、毅然《きぜん》と相手を見つめた。レーズのことはともあれ、この男はイェスパーほか大勢の海賊たちの仇《かたき》だ。馴《な》れ合うつもりはなかった。
「会いに行くに決まっている」
「なぜおれが、おまえの頼みを聞かなければならないんだ」
「レーズが会いたがっているからだよ」
「彼女は会いたくないそうだ」
「女はみんなそう言うんだ。おまえだって知っているだろう。それともまだか?」
ヴァルデマールはからからと底意のなさそうな笑い声を上げた。わかりやすい性格の人物らしい。
突然、ルドガーは、この件がまったく別の問題をはらんでいることに気付いた。身分のないただの人間がレーズスフェントへ来るならば、レーズ本人は嫌がるかもしれないが、ルドガーとしてはどうということもない。だが、デンマーク王が来るとなると――レーズスフェント自体にも影響があるのではないか? 影響があるどころではない。それは必ず侵略という形を取るだろう。ルドガーは直感した。
腹が決まった。
「会わせるわけにはいかない」
「なぜだ?」
「彼女はおれの領民だから[#「おれの領民だから」に傍点]だ」
「領民? あの強大なレーズがか」
「そうだ。あの女はおれの土地に住んでいる。おれはそこの代官《フォークト》だ。だから、おれは彼女を守らなければならんのだ」
まじまじとルドガーを見つめたヴァルデマールが、突然、笑い崩れた。
「おまえがレーズを守るのか、人間のおまえが。これは傑作だ。初めて聞く茶番だ。できるものなら是非やってみるがいい、塵《ちり》と消し飛ばされなければだが!」
哄笑《こうしょう》するヴァルデマールに向かって、ルドガーは冷ややかに言った。
「あんたは何を笑っているんだ」
「何を、だと?」
目尻の涙を拭いながら青年王が言った。その様子はただの若者というよりも、他愛《たわい》ないことで笑い転げる子供のように見えた。ルドガーは続ける。
「おれはレーズと約束し、それを果たすために何年も働いてきたんだ。その約束というのは町を作るということだ。おれは寄る辺のない人々が住む場所を作ろうとし、あの女はそれを見たいと言った。おれはそのために実の親と戦い、また海を渡ってこんなところまで来た。レーズもおなじだ。おれたちはするべきことをしている。それのどこがおかしい」
「レーズが人間の町を?」
その様子を想像したのか、またヴァルデマールは笑った。ルドガーは無言で耐えた。
ひとしきり笑うと青年はふと真顔になって、つぶやいた。
「あのレーズが町を……ああ、ああ! そういうことか!」
膝を叩いてヴァルデマールは叫んだ。
「それがこの星での、レーズの捧《ささ》げ物だということなんだな?」
ルドガーは答えない。意味がわかりかねるということもあるが、相手の望む答えを口にしたくなかった。
ヴァルデマールはひとり得心した様子で何度もうなずくと、またふと拿捕《だほ》したランツァウ号に目をやって、つぶやいた。
「なるほど、あの船の積荷は、その町に持っていくものなのか」
「積荷に手を出すなよ、ラルキィ」
「図星のようだな。しかし東フリースラントに繁華な都会ができたという話は、寡聞にして聞かない……ふんふん、そういうことか」
何やらしきりにうなずいていたヴァルデマールが、わざとらしくため息をついて言った。
「やれやれ、おまえたちは運がいい」
「なんだと?」
「おれは今、この国の平定で忙しい。今日や明日に、その村だか町だかをいただきに行くことは、ちょっと無理だ」
「来なくていい」
「はっは、そう言うな。よし、今日のところは帰れ!」
「なに?」
いつの間にかあたりはかなり明るくなっていた。東天に兆し始めた朝焼けの光を受けて、冠や甲冑《かっちゅう》をきらびやかに輝かせながら、世にも楽しそうな顔で、デンマーク王は言った。
「勝負だ、ルドガー。おれに力が十分ついたら、おまえの町と女をいただきに行ってやる。それまでせいぜい、歓迎の支度を整えるがいい!」
「……それは、攻めて来るということか」
「当然」
ふんと太い鼻息を吐いて、ヴァルデマールは片腕をしごいた。
「おれはこの星では一国の王となった。王が頭を下げて頼んだりするものか。ほしいものはこの腕で奪う。おまえの町を見事育て上げ、おれの寄せ手を凌《しの》いでみせろ!」
ルドガーはじっと彼の視線を受け止め、やがて立ち上がった。意外にも、背丈はルドガーのほうが高く、相手を見下ろす形となった。
今まで、敵とも仲間とも計りかねていた青年王が、非常にわかりやすい相手になった。ルドガーは騎士であり、答えはひとつだった。
「いいだろう、その挑戦、受けてやる」
言うなり、拳を固めて、殴りかかろうとした。
ヴァルデマールがすばやく後ろに飛びのき、代わって近習の兵士たちが殺到した。ルドガーは滅多やたらに殴りつけられ、踏みつけられ、縛られた。あっという間だった。
「三年だ。三年のうちにこの国を片付けてやる。それまで、レーズによろしくな!」
立ち去るヴァルデマールの高笑いが、ルドガーの耳に残った。
翌年――主の年一三四〇年、七月。レーズスフェントより南方へ、はるか七百マイル。
夕刻のアドリア海を滑るようにやってきた、大三角帆《ラテン・セール》の商船が、美しい港町の埠頭に錨《いかり》を下ろした。降りてきたのは、汚れ果て、疲れ果てた帯剣の男たちだった。
長い航海を終えた船客は、決まって新鮮なものに飢えている。水や食べ物を抱えた物売りたちが、わっとばかりに群がった。
果物を抱えた少年が、下船した男に声をかける。
「おっさん、顔色悪いよ! プラムはどうだい、ザダールのプラム。船酔いなんかひと噛《か》みで吹っ飛ぶよ!」
「ああ……ひとつ、いや二つくれ」
男は差し出された果物を貪《むさぼ》るように皮ごと食べる。ずいぶん喉が渇いていたとみえて、二つのはずが、五つも平らげた。
放り投げられた金貨を、少年はひと噛みして、にやりと笑う。
「ヌビア金貨か。おっさんたち、十字軍だね? 儲《もう》けてきたんじゃない?」
「ああ……かなりな」
男は首元をゆるめ、汗ばんだ肌をしきりにかく。鎖骨の上あたりに、大きな黒ずんだ腫《は》れができている。遅まきながら少年は、男の様子がおかしいことに気付く。少々船酔いが激しすぎたようだ。道々吐くかもしれない。
しかし商売が何より優先だった。少年の本職は客引きだ。プラム売りは声をかけるきっかけに過ぎない。
「毎度あり、おっさん。ところで今夜の宿の当てはある?」
「ああ……ないな」
「じゃあ、うちに来なよ。うまい晩飯を出すし、船に比べたらきっと天国みたいな寝心地だよ!」
男は初めて少年を見下ろし、落ち窪《くぼ》んだ目にかすかな笑みを浮かべる。
「そいつは、素敵だ」
二人は連れ立って歩き出す。
人気のなくなった桟橋を、船から下りてきた小さな影が、キイキイと鳴きながら駆け抜けていった。
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第五章 レーズスフェントの躍進
地表を掘り返すような猛烈な雷雨が過ぎた朝、春の海霧の向こうに四枚の赤い帆が現れた。
やがて、先頭の竜頭船が中洲《なかす》の砂浜に乗り上げて止まった。舳先《へさき》に立っていた巨漢が飛び降り、両手を広げてやってきた。二十六歳になったルドガーは、片手を上げる。
「よう、ヘンルリック。久しいな、昨日の嵐《あらし》は大丈夫だったか?」
「おう、ルドガー。嵐なんてあったか? あの程度の風、屁でもないわ」
二人は固く抱き合い、互いの背を叩《たた》いた。
「おまえが本当に心配なのはあっちだろう? ダンツィヒからの積荷、今年もたんまり運んできたぞ」
ヘンルリックが沖を振り返って言う。後に残してきた三隻の商船が停泊している。喫水が深いので浜には近づけない。小船を下ろして、荷役を始めている。
「それはありがたい。しかしおれはちゃんとおまえのことを心配していたぞ」
「そうかそうか!」
ヘンルリックは満面の笑みを浮かべた。腹心のイェスパーの死に様をベケから聞いて以来、彼はすっかりルドガーのことを信頼するようになった。
ルドガーは、積荷の重さでずっしりと足を入れた船を眺めてから、背後に向かって手を振った。鉄帯を巻いた頑丈な箱を、下男たちが汗をかきながら運んできた。
それを足元に置いて、開いてみせる。燦然《さんぜん》たる輝きが漏れ、ヘンルリックが目を丸くした。
「すごいな、金貨か」
「ああ、今年は現金で払う。キンケルに耳を揃《そろ》えて払ってやってくれ」
「よくもまあ、こんなに集めたな!」
「あちこちからかき集めて、なんとかな」
あまり吹聴すると海賊の欲望を刺激してしまいそうだったので、ルドガーは控えめに答えた。ドイツ騎士団とのつながりが出来てからというもの、流れこむ膨大な小麦を裏付けにして、以前から計画していた事業を始めることができた。それらがうまく回転し始め、大きな利益を上げていた。
「ほっとしたか? おまえたちが心配していたのはこれだろう」
「おうとも、現金での払いほど嬉《うれ》しいことはないわ! ああ、いや、もちろんおまえたちが繁盛するのは嬉しいぞ」
ヘンルリックが取ってつけたような社交辞令を口にしたので、ルドガーは笑った。
「まあゆっくりしていってくれ。この冬からここで酒を作り始めたんだ。西ランゲオーク島のあのビールほどじゃないが、けっこううまくできたと思う。ひとつ味見をしていかんか?」
「願ったりだ」
ヘンルリックが舌なめずりをした。
主《しゅ》の年一三四二年、四月。西ランゲオーク島のフリーゼン人たちによる、北周り航路での商品輸送は、すでに六回を数えていた。
二年半前の冬に、ルドガーたちはいったんデンマーク軍に捕らえられたものの、国王の指示で釈放され、生きて島に戻ることができた。船団の帰りを待っていたヘンルリックはたいそう喜び、約束の取り分を受け取った後、レーズスフェントの二人の子供と、泉の精霊を解放した。
ルドガーは三人と食料を伴ってレーズスフェントに戻り、村人たちの喝采《かっさい》を得た。
キンケルは翌年まで滞在して、食料の支払いを待つつもりでいたらしいが、ランツァウ号の積荷がいくらか余っていたので、それを近在に売りに行った。そして、この辺りでは東方の二倍以上の価格で食料が売れることに気付いた。ブレーメンでの卸値よりなお高い価格だ。
彼の脳裏で、素晴らしい構想が閃《ひらめ》いた。
鍵《かぎ》となるのは、デンマーク王のお墨付きだった。船団を釈放する際、今後はレーズスフェントに向かう船に限って、エーレスンドを通行してもよいと、彼は明言した。将来の獲物を太らせようというつもりだったのだろう。それは、ユトランド半島の西と東を結ぶ新たな通商路が開かれたということを意味した。
通商路だけがあっても、そこを走る船がなければ役に立たない。しかし西ランゲオーク島の海賊たちにはそれがあるし、キンケルは彼らが欲するものを提供することができる。
船があっても、港がなければ積荷を陸揚げできない。漁港や農村に商品を集めても捌《さば》けない。それに在来の町にはハンザ同盟がしっかりと根を下ろしていて、割り込めない。
だが、レーズスフェントにはそういったしがらみがないうえに、れっきとした開市特権状《ハンドフェステ》が君主から降りていた。
つまりここには、ダンツィヒの倉庫で腐りかけている穀物や樽詰《たるづ》め食料を、金貨に換えるために必要なものが、すべて揃っていたのだ。
一度きりの冒険で済ませず、定期的な往復を始めないか。キンケルの相談を受けたルドガーとヘンルリックは、いずれも二つ返事で承知した。
こうして、ダンツィヒとレーズスフェントを結ぶ定期航路が開かれたのだった。
ルドガーとともに上陸した船乗りたちが、きょろきょろと町並みを見回して声を上げる。
「来るたびにごちゃついていくな、おまえたちの村は」
「栄えていくと言ってくれ。なあ、もしよかったらこっちに移り住んだらどうだ。あんな島にいつまでもへばりついていることはないだろう」
「何? ルドガー、おまえはおれたちのフリージアの島々を馬鹿にするのか」
ヘンルリックが一本しかない前歯を剥《む》き出して叫んだので、ルドガーはあわてて言い繕った。
「いや、馬鹿にしちゃいない、あそこはあそこで素敵なところだ。ただ、あんたの奥方やお嬢さん方は、市《いち》に来るのを楽しみにしているだろう」
「女どもはな。あいつら、次はいつこっちへ渡してくれるのかと、半月にいっぺんは聞きやがる。連れてくるんじゃなかった」
島の女たちは、今まで海賊仲間の行商人から小間物を買ったことしかなかった。レーズスフェントに来た時に、生まれて初めて市を見て、反物から馬まで扱うその品揃えに、すっかり魅了されてしまったのだった。
「あんなちゃらちゃらした破れやすい服を身に着けて、島暮らしができるかというんだ……おっ、新しい店か」
言ったそばから、路傍の鍛冶屋《かじや》の前でヘンルリックは足を止める。店頭に黒光りする見事な斧《おの》やノコギリが並んでいる。フリーゼン人たちは自分でふいごを握るほど金物が大好きな連中なので、たちまち品定めを始めた。ルドガーはその背に声をかける。
「あんただって、こっちに住んだほうがいいんじゃないか?」
「いや、そんなことはない、ないとも」
小刀の刃を念入りに吟味しながら、ヘンルリックが上の空で返事をした。
代官《フォークト》の館《やかた》へ通して、前の秋に醸造したばかりのビールを飲ませると、彼らは素直に感動した。
「こんなうまいビールは飲んだことがねえ」
「ハンブルク船から奪った一番いい樽だって、これに比べたら藁束《わらたば》の搾り汁みたいなもんだな」
彼らがすっかり上機嫌になったところを見計らって、ルドガーは次の間で待たせてあった人々を引き合わせた。
「ヘンルリック、ヘンルリック」
「おう、ルドガー。こいつを十樽も持っていっていいとは、おまえはなんという気前のいい奴だ……なんだ、誰だそいつらは」
「こちらはノルデン領ドルヌム村の村長と、グロースハイデ村の代官《フォークト》殿。こちらはヴィトムント領エーゼンス村の代官《フォークト》殿だ」
「どこの村だと?」
「まあどこでもいいんだ、後で詳しく話すから。今はとにかく一緒に飲んでくれ。……皆様、こちらがフリーゼンいちの勇敢な戦士にして有能な船長、ヘンルリックです」
ルドガーがそんな風に持ち上げたので、いぶかしげだったヘンルリックも相好を崩し、誘われるまま一同と乾杯を繰り返した。じきに早めの晩餐《ばんさん》が出て、海賊たちはさらに有頂天になった。
飲めや歌えの大騒ぎをして日が暮れると、客人たちは先に退出していった。後に残ったヘンルリックを、ルドガーは酔い覚ましと称して散歩に連れ出した。
「どうだった、あの人々は」
「うん、まあ、ドイツ人にしては気のいい連中だな。酒は少々弱いが」
「ドルヌムの村長は四クォート(四リットル弱)ぐらい飲んでいたが」
「ふん、フリーゼン人ならそれぐらい、朝の目覚ましに飲み干してしまうわ」
ルドガーは苦笑した。
「相変わらずだな」
「そうそう変わってたまるか」
そう言い捨てたヘンルリックが、何かを思い出そうとするかのようにしばらく首をひねってから、おおそうだ、と言った。
「で、なんの相談だ? 何か話があるんだろう」
「わかるか」
「わからいでか」
「うん、実はな。ここに港を作ろうと思っている」
「港? というと、桟橋を張るわけか。そうだな、いちいち砂浜に乗り上げていては面倒だからな。それを手伝えと言うんだな?」
「いや、掘り込み埠頭《ふとう》を作る」
「掘り込み埠頭」
おうむ返しに言ったヘンルリックが、ぼんやりとルドガーを見た。ルドガーは別の言い方をしてやらねばならなかった。
「この辺りは干満の差が二クラフター半(約三・五メートル)もある。浮き桟橋程度の設備を作っても、干潮の時には船が泥に乗り上げてしまう。それでは不便だ。干潮の時でも船が出入りできるような船渠《せんきょ》を作って、川につなぎたい。――要するに、ダンツィヒみたいにしたいんだ」
「あれか!」
ダンツィヒと言われて、ようやくヘンルリックは理解したようだった。あの町には石組みの頑丈な岸壁があり、人足たちが十人がかりで回す起重機が備え付けてあった。そのおかげで、何ブッシェルもの貨物を一度に船に積めたものだ。
ヘンルリックは手を振っていった。
「やめとけやめとけ、あんな大げさなものを作ったところで、無駄になるだけだ。おれたちはあんなものがなくとも、荷を運んでやる」
「そこなんだ。おれはここに他の船も泊めたい」
ヘンルリックの目つきが険しくなった。
「おれたちだけじゃ不満だってのか。それとも、おれたちをお払い箱にしてよその船を雇うってんじゃあるまいな。……まさか、ハンザと?」
「違う違う、おれの神とあんたの神にかけて、裏切るわけじゃない! フリーゼン人は今までどおり、税も手形もなしに上陸してもらうし、望むなら住んでもらう。むしろ、さっきも言ったが、できれば住んでほしいぐらいなんだ」
強く否定して、ルドガーは言った。
「この町の市は、今どんどん成長している。東西に村があり、エギナの上流にカンディンゲンの領地がある。売り手も買い手もここで商売したいと思っている。ところが海だけが手薄だ。あんたたちが年に二回、バルト海と往復してくれるだけで――もちろんそれが一番重要だが! ――それ以外の三百五十日あまりは船のふの字もない。ここが歯がゆいんだ。ここに他の船が入れれば、西方や南方からの品が手に入る。逆に、あんたたちに新しい荷を運んでもらうこともできる。今はダンツィヒへ向かう時は空荷だろう? そこに荷を積んでいけば、あちらで売ることができるぞ。二倍取りになる」
「ふむう……二倍取りか。それはいい話のようだが」
「いい話だ。おれがいい話を持っていかなかったことがあるか?」
「いや、そうだな。確かにおまえは、フリーゼン人の女子供を救ってくれた恩人だ」
「さっきの人々になぜ紹介したと思う? 彼らに資金を融通させるためだ。おれが船を走らせると言っても、連中は鼻で笑うだけだが、あんたが、潮の匂《にお》いを振りまいて挨拶《あいさつ》して回ったおかげで、おれは信用を得た。レーズスフェントは海もやれる[#「海もやれる」に傍点]と、彼らに思わせることができたんだ。そんなことをしておいて、裏切ると思うか。わかるだろう、おれはあんたと一蓮托生《いちれんたくしょう》のつもりなんだ」
「そう聞くと、いい話ばかりのようだな。しかし、だったらなんのためにおれをもてなしたんだ。何か悪いことがあるんだろう」
海賊はひげをしごきながら、ルドガーの目を覗《のぞ》き込んだ。ルドガーは言った。
「ああ、ある。――あんたたちに、略奪をやめてもらいたい」
「……」
「あんたたちはまだ、荷運びのないときには商船を襲っている。それでは他の船が怖がって寄ってこないんだ」
「それはまあ、そうだろうな」
「やめてくれるか?」
ヘンルリックは何も言わずに、ルドガーの少し先を歩いていった。
中洲はすでに、家々で覆われていた。シュテフェンの宿坊は二階建ての宿屋になり、どの季節でもきちんと食事と酒を出せるようになった。アロンゾ司祭の教会は立派な石造りに建て替えているところだ。その宿屋を中心に、旧モール庄住民の板葺《いたぶ》きの家が並び、新しく来た人々の長屋や小屋が、町の周辺を埋めていた。
広場には商店からの明かりが漏れ、いい匂いを立てる屋台が並び、よく肥えた犬猫や家禽《かきん》がうろつき、それに、もうどこの出身かもわからない人々が行きかっていた。
レーズスフェントの人口は千二百人に達した。
ヘンルリックは宵の口のさざめきが満ちる広場を横切り、振り返った。獣皮と粗布を身につけた彼の巨体は場違いで、彼自身もそれをよくわかっているようだった。
「おれは生き方を変えたくない」
「ヘンルリック、しかし……」
「いや、言うな」
手を伸ばして遮り、ヘンルリックはさらに歩いた。
広場はドイツの多くの町と同じような形になりつつあったが、北側にだけは昔ながらの木立が残されていた。それを守るように建っている小さな一軒家が、ルドガーの家だ。住居や衣服の豪勢にかまけている暇がないので、いまだにこの質素な家に、二人の従者の男と住んでいる。
そばの小道を通って木立の奥へ行くと、町の喧騒《けんそう》が薄れた。ローマの泉につくと、ヘンルリックはほっとしたように言った。
「ここは手をつけんのだな」
「つけたら彼女が怒る」
ルドガーは肩をすくめて、泉を指差した。石壁に描かれた乙女は、今夜は現れないようだった。ヘンルリックがつぶやく。
「あの女がうらやましい。いつまでも同じように暮らすことができて」
「どうだかな……」
「最近じゃ大砲なんて物騒なものが出てきやがった。竜頭船《ロング・シップ》でうかつに商船に近づくとえらい目に遭う。イングランドの戦争も収まる様子がない。海賊よりも凶悪な落人《おちうど》や脱走兵がうろつき出した。……ずいぶん長く粘ってきたが、そろそろ年貢の納め時が来たようだ。おまえに言われるまでもなく、商売替えを考えておったさ」
「戦えなくなるわけじゃない。商船の護衛として、存分に腕を振るってもらうつもりだ」
「それでも、なあ」
振り向いたヘンルリックは、拳《こぶし》を固めて凄《すさ》まじいパンチを放ってきた。
ルドガーは思わず身を硬くする。――が、拳は頬《ほお》をかすって後ろへ流れ、若木の幹を音を立ててへし折っただけだった。
「好きなとき、好きな獲物を襲えるのは、そりゃあ楽しいものなんだ」
海賊の浮かべた凄《すご》みのある笑みに、ルドガーは背筋が冷えるような気がした。
あえてニヤリと笑い返して、胸の前に両の拳を固める。
「どうだ、ひと勝負するか?」
「――いや、今は飲みすぎてる」
ふっと目を逸《そ》らして、ヘンルリックは帰り道に足を向けた。
「話はわかった。時間をくれ」
ヘンルリックは話がわかるほうだ。仲間内には彼より武闘派の人間が大勢いる。それを説得するのは大変な苦労だろう。
ルドガーは黙って彼を見送った。
翌日、レーズスフェントの中心であるリュシアンの屋敷で、盛大な宴《うたげ》が開かれた。邸内に招待された友人や名士には豪勢な料理が供され、門の前の広場では、町人たちに無料で酒がふるまわれた。楽士が呼ばれ、去年から再び踊り手として活躍し始めたロマのシャマイエトーが、華麗な舞を舞った。
宴の主役は、二人の幼児だった。この日、数えで四歳になったクリューガー・フェキンハウゼンと、先月ひと足先に六歳になった、ダリウスである。二人の子供は、ともに絹の上着とおろしたてのタイツと革靴を与えられて、広間の上座に着いた。大人たちの挨拶を受けるのは退屈そうだったが、もうこの儀式の意味がわかっているらしく、時折、照れくさそうな笑顔も見せた。
実際、この誕生祝いには大きな意味があった。――クリューガーはともかく、ダリウスは捨て子なのである。レーズスフェントがまだ村でさえなかったころのある夏の朝、彼は橋のたもとの柔らかな草の上に置かれていた。そばには、おそらく母親がなけなしの金で買って添えたのだろう、場違いに艶《つや》やかな一山のイチゴが添えてあった。
そんな子が、貴族の血を引く代官《フォークト》の甥《おい》とともに、祝われているのだ。
この儀式はルドガーの発案で行われるようになった。だが、最初からそんな習慣があったわけではない。
ルドガーが初めてこの儀式を提案した、クリューガーの二回目の誕生日には、村のほとんどの人間が反対した。どこの馬の骨ともわからぬ、洗礼すら済ませているどうかもあやしい赤ん坊を祝ってやるなど、とんでもないというわけだ。中でも、クリューガーの母親のアイエがもっとも嫌がった。象徴的な出来事だった。
騎士は騎士、庶民は庶民。身分は厳格に分けられるべし。その境目は結婚によって乗り越えられることはあっても、気まぐれで破られるべきではない。この時代の多くの人々と同じように、レーズスフェントの人々もそう考えたのだ。
しかしルドガーは自分がダリウスの後見人になり、あえてこれをやらせた。自らを支配者たらしめている身分制度を危うくする行為だとわかっていたが、やらずにはいられなかった。
なぜなら、あらゆる人が住むことのできる町を作るのが、ルドガーの夢だったからだ。
口で言うのは易しい。だがそれを実行に移すのは、つまり賤《いや》しい者も、汚い者も、異教徒も敵も住まわせるということだ。それが難しいことはルドガーも痛感していた。だからダリウスをクリューガーと平等に扱うことにしたのだ。
今日で三回目の、これはその儀式である。列席者の中には不愉快そうな者がいる。母親のアイエも、よく見るとことさらにクリューガーだけに目を注ぎ、できるだけダリウスを無視しようとしているのがわかる。あの陽気で愛らしかった娘が、そんな冷たい素振りをしているのを見ると、ルドガーは一抹のやりきれなさを感じた。
だが反対に、ダリウスを十分に愛している人々もいた。彼に乳をやって育てたマンディーは言わずもがなだが、その他に何人もの男女が、レーズスフェントに初めてやってきた赤ん坊である彼を、自分の子供のように愛して、祝辞を聞かせていた。
それでもまだ、広間の人々の間には、微妙な温度差があるように思われた。
突然、人群れの中から、子供の甲高い声が起こった。
「捨て子のダリウス、オオカミの子。オオカミの穴へ逃げ帰れ!」
一座は凍りついた。町の子供はこんなところで悪口を叫んだりしない。御馳走《ごちそう》を取り上げられ、叩き出されるに決まっているからだ。あえて叫ぶ理由があるとすれば、親からこっそり命じられたからだろう。
すると、まるで掛け合いのように、上座から歯切れのいい返事が放たれた。
「かげぐち坊やはおくびょう子ブタ、子ブタ食われてオオカミのフン!」
どっと大人たちが笑った。答えたのは四歳になったばかりの少年だ。白い頬を紅潮させて、親に似た冷たい目つきで、叫び声のした辺りを見下ろしている。
二つ年上の少年が驚いたように目を見張っていたが、やがて面映《おもはゆ》そうに微笑《ほほえ》んだ。
ルドガーは何も言わず、ただ心の中で喝采したのだった。
この二年あまりで、レーズスフェントを取り巻く情勢は大きく様変わりした。
高額の手数料を取るハンザ同盟を通さずに、食料を買い付けられる。この利点は非常に大きく、主君である東フリースラント伯爵を始め、近隣の領主や代官がこぞって取引を求めてくるようになった。英仏の戦争は、英国王エドワード三世の帰国でいったんは下火になったものの、ブルターニュ半島での小競り合いが続いており、それが周辺諸国の物価を高騰させていた。
ルドガーにとって嬉しかったのは、実家であるフェキンハウゼン家との関係がやや改善したことだ。彼らの住むカンディンゲン地方は、東西交通から上がる利益をレーズスフェントに奪われ、衰退しかけていた。しかしルドガーはそこに、エギナ川の河流を利用した南北交通という、まったく新しい流れを導いたのだ。
レーズスフェントは陸と海を結ぶことができるが、白樺《しらかば》以外のまともな建築資材や手工業製品に乏しい。反対に、カンディンゲンは資材や製品をある程度産み出す能力があるが、周辺に消費地がなかった。
ルドガーはこの両者を、最初はひそかに結びつけた。その効果は、数ヵ月後からカンディンゲンへの富の還流という形で現れてきた。税や賄賂の増収が、小作人たちから次第にカンディゲン城へ及び、ついには城の人々もレーズスフェントの存在を許容するようになった。
ルドガーは生地カンディンゲンに上り、父のヴォルフラムや、次兄のコンラルドと、久しぶりに再会した。低地地方《ネーデルラント》での戦役では、姿は見かけたものの会話はしなかったので、ほぼ六年ぶりの出会いとなった。
父と兄は、こんにちのレーズスフェントの隆盛を見て、渋々ながらもルドガーが目指していたものを理解してくれた。だが、長兄フォスだけが姿を見せなかった。
「フォス兄上はどちらに?」
ヴォルフラムはこの問いを苦い顔で無視した。後でコンラルドがこっそりと耳打ちした。
「兄上は、ある|開 け た 女《オッフェネ・フェヒター》とともに暮らしておられる」
「……娼婦《しょうふ》と?」
ルドガーは不快になった。それは既婚者として好ましい行いではない。ましてや彼が妻とした女は――。
「それは、ルム……いや、奥方様に失礼ではありませんか」
「一年前ならそうだったろうね」
「彼女に何か?」
コンラルドが、整った顔を皮肉げに歪《ゆが》めた。
「彼女はもうフェキンハウゼンの女ではなくなったんだよ。その名を継ぐ子供を産めなかったから」
頭を強く殴られたほどの衝撃を、ルドガーは受けた。しばらくは言葉も出てこなかった。
「……それは、離縁されたと?」
「前の冬にね」
「今はレール城に?」
「戻ったと思うが、その後のことは知らんよ。おまえが噂《うわさ》にも聞いていなかったというなら、ひそかに修道院にでも送られたのだろうね」
「ルムが……」
呆然《ぼうぜん》としているルドガーに、コンラルドが冷ややかに言った。
「一応言っておくけれど、探しに行こうなどと考えないことだな。問題が彼女のほうにあったのははっきりしているんだ」
「なぜそんなことが言えるんです」
「簡単なことさ。カンディンゲン城に、兄上の子を孕《はら》んだと称する女が三度も乗り込んできたからだ」
ルドガーは気分が悪くなり、顔を背けた。笑うしかない、と言った体で、コンラルドが肩をすくめて言った。
「で、今は四人目だ。これも遠からず城に来るだろう。兄上がそうまでして男性としての能力を誇示なさる気持ちはわからんでもないが、いい加減にしていただきたいというのが、我々の偽らざる気持ちだね」
コンラルドの投げやりな話ぶりを聞いて、ルドガーはいたたまれなくなった。
エルメントルーデが望まぬ相手に嫁がされたというだけなら、まだ救いはあった。貴族の結婚とはもともとそういうものであり、そこから改めて愛をはぐくむことに成功した夫婦も多いのだ。ルドガーも、兄夫婦が仲良く暮らしているという話を聞けば、嫉妬《しっと》に苛《さいな》まれつつも、少なくとも彼女は幸せになれたのだと考えて、自分を慰めることもできただろう。
だが愛し合うことに失敗しただけでなく、夫に裏切られ、あまつさえ石女《うまずめ》の烙印《らくいん》を押されて実家に帰されたとは。彼女にとって、世を儚《はかな》みかねないほどの痛手だったろう。そればかりでなく、彼女を嫁がせたルプレヒト伯爵にとっても、また夫であるフォスにとってさえも、不幸な出来事だったはずだ。
誰一人満足しない、そんな成り行きが、なぜ起こったのか。――それは、あのとき自分が彼女を手放したせいかもしれない。
ルドガーは気が塞《ふさ》いで、久しぶりにカンディンゲンに滞在したというのに、ろくにくつろげなかった。
カンディンゲンを離れ、素朴なハイデの花の咲き誇るレーズスフェントへ戻ってくると、リュシアンやナッケルたちの親しげな顔に迎えられ、かえって安心できた。こちらが本当の故郷だということがしみじみと感じられるのだった。
ルドガーを始めとする少数の人間は、レーズスフェントが人間の町でありながら、精霊に見守られていることを知っている。
だが、その中でもたった一人の男は、精霊や精霊だと思われているレーズが、まったく別の即物的な存在であることを知っていた。
「プリムス、いるか」
「いるわ」
レーズのことを、彼だけはその名で呼ぶ。真夜中すぎのローマの泉。リュシアン・フェキンハウゼンは、そんな人気のない時刻に彼女を呼び出して、しばしば密談をした。
「偵察に出していたエルスとヴァルブルクが戻った。ホルシュタインの北では、今年は国王の命令で、種牛まで潰《つぶ》して塩漬け肉を増産しているそうだ」
「侵攻用の兵糧作りでしょうね」
「軍税の取り立てもひどくて、隣国のリューベック司教領やディトマルシェンに領民が逃げ出している。まさかとは思ったが、本当にデンマーク王は戦を始めるつもりらしい」
「周りの領主たちは驚くわね。れっきとした王国が、帝国自由都市《フライエ・ライヒスシュタット》でもない、ちっぽけな町に宣戦するんだから」
「最初のうちは信じないだろうな……」
リュシアンはいまだ現実感のないまま、つぶやいた。彼には兄のルドガーほどの経営の才覚はないが、代わりに遠くを見る目とそれを理解する知力があった。
現状では、レーズスフェントはハンザ同盟の裏をかき、近隣勢力の関心を惹《ひ》きつけて、上り坂にあるように見える。
しかしリュシアンの目には、ことがまったく逆に映っていた。ハンザ同盟というのは生易しい組織ではない。それを敵に回している現状は非常に危険だ。デンマーク王から特権を得ているのも、利益と不利益が相半ばしている。デンマークは神聖ローマ帝国と必ずしも友好的な国ではないのだ。そこと親しくしていれば、ドイツ領邦の多くから敵視される恐れがある。というより、もうされているだろう。
「それに、もっとも危険なことがひとつある」
「なに」
「兄様は主君をないがしろにしすぎている」
隣に座ったレーズが面白そうな顔で問い返す。
「そう? 彼はちゃんと主君を立てている。毎年の税や兵糧はきちんと送っているし、よそから何か珍味でも届けば、必ず一番いいところをレール城へ献上している。あの気の使いっぷりは、見ていてやきもきするぐらいだけど」
「プリムス、おまえは嫉妬ということを知らないな」
「嫉妬ね。なるほど、リュシアン」
「ああ、ぼくはそれがどんなものか、よく知っている」
いささかの自嘲《じちょう》を込めてリュシアンは言う。今でこそこんな風に振り返れるようになったが、あの頃はその感情の中にすっかり浸かっていた。
「いくら貢物を献上しようとも――いや、献上すればするほど――伯爵は嫉妬を抱くようになるだろう」
「伯爵はそんな性格かしら? 仮にもルドガーに開市特権状《ハンドフェステ》を出した主君よ」
「出した理由も知っているだろう。将来自分の利益になると踏んだからだ。人形《プッペ》たちを通じて、ずっと見てきたじゃないか」
「ふふ、そうね」
「伯爵は思うはずだ。たかが代官《フォークト》風情が、なぜそれほど巧みに町を治めるのか。彼は疑い、憎むだろう。そして正当でない手を使い、ありもしない罪状を見つけ出す」
「きみが嘘《うそ》をついて愛を得ようとしたように」
「そんなところだ。伯爵は嘘をついて富を得ようとする。どういう手立てで来るかはわからないが、何か汚い口実を見つけるだろう。たとえば、兄様が敵と内通しているとか……」
「そして始末の悪いことに、必ずしもそれは濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》ではない」
「ああ。デンマーク王がレーズスフェントを優遇しているのは事実だからな」
その前提となっているのは、レーズとラルキィという凡人の想像を超えた二人の存在だ。しかし、そんなことをルプレヒト伯爵に説明できるわけがない。
夜食に持参したパンを懐から出そうとして、袖《そで》に当ててしまい、落とした。地面から拾い上げて、ちぎり取りながら、リュシアンは低い声で言う。
「プリムス、ひとつ、ちょっとした提案があるんだがな」
「どんな提案?」
「おまえが国王になればいいんじゃないか」
言った途端に、パンについていた砂利を口の中で噛《か》んでしまい、リュシアンは顔をしかめる。どこの? とレーズが問う。
「どこでもいい、ザクセンでもブランデンブルクでも、フランス王国でも。要は、ラルキィに対抗できるような地位に登ったらどうかって言ってるんだ。彼にできたんだから、おまえにもできるだろう」
レーズは|空っぽ人形《レール・プッペ》を使って、はるか東方のスラブ人の動向や、はるか西方のムーア人の情勢まで知ることができる。北方の豊作も南方の疫病も、誰よりも早く知る。それは王としてこれ以上ないほどの武器ではないか。
リュシアンがそう言うと、レーズは首を振った。
「いや、それは私には無理ね」
「ラルキィはそんなにも有能なのか」
「そうじゃないけれど、体のつくりが違うのよ。私のこの体はあくまでも人形でしかない。この土地を離れたら、鳥獣の人形《プッペ》と同じぐらいのことしかできなくなてしまう。だから王などとても務まらないわ」
「ラルキィはどうなんだ」
「ラルキィは種。『小さい連中』と同じ、目に見えぬほど小さな粉のようなものなの。それが星から降って、人に入る。入られた人間はラルキィとしての自分に目覚める。宿主が年老いて死ぬと、近くの人間に乗り移る。たいていは血縁者。だからヴァルデマール四世に入る前は、その父か母に入っていたんだと思う。その前はその父母に」
「ああ……それじゃあ、ラルキィはおまえのように不老不死ではないんだな」
「普通の人間よりはよほど丈夫だけど」
「そして死んだ後、粉だか霊魂だかになって、息子や娘に乗り移る、と」
「おおむねそんなところね」
「そんなものがこの世の中に実在するとはなあ」
リュシアンはパンを食べ終わり、長いため息をついた。
「正直に言えば、そんなややこしいおまえもラルキィも、どこかよそへ行ってほしいところだ」
「行っていいの? リュシアン」
レーズが顔を寄せ、頬に軽く口付けした。リュシアンは顔をしかめて、レーズを押し戻す。
「やめろ、そんなこと」
「気兼ねなんかいらないのに」
誘惑するように微笑むレーズから、リュシアンは目をそらした。
「二番人形《ツヴァイト・プッペ》」のヴェラからリュシアンを救って以来、レーズ・プリムスはいやに馴《な》れ馴れしくしてくるようになった。からかわれていると言ってもいい。
リュシアンは自分の意思でアイエを娶《めと》ったし、今でも深く愛している。だが、良くも悪くも人間的なアイエとはまったく異なるレーズの存在に、心の揺らぎを覚えてしまうのだった。
「誘うなら兄様を誘うがいい」
いささか無理やり、リュシアンは話を捻《ね》じ曲げた。レーズはふんと鼻を鳴らす。
「彼はつまらないわ。見込みがまったくない」
「そうか? 兄様はおまえにとても心を開いていると思うが」
「ざっくばらんではあるわよ」
「女として見られていない?」
レーズはむっつりとうなずく。他のどんな話題でもレーズはこんな表情を見せない。リュシアンはおかしくなった。
「そんなに見込みがないのか。誘惑してみたことがあるのか」
「何度も裸を見せたわ」
「それでもだめなのか。兄様も大概だな」
そう言ったリュシアンは、ふと顔を曇らせる。
「そういえば、兄様はカンディンゲンでよくない話を聞いていらしたようだった。プリムス、おまえの力で、エルメントルーデ姫が今どんなご様子かわからないか」
「彼女はもう姫じゃないわ」
「そう妬《や》かずに」
レーズが星を数えるように夜空へ視線を泳がせた。カンディンゲンに行ったことのある|空っぽ人形《レール・プッペ》に、声なき声で尋ねているのだろう。やがてまばたきして言った。
「妙ね。エルメントルーデはカンディンゲンにいないわ」
「いない? じゃあ、お里帰りか?」
「……レール城の自室も使われていない。なるほど、ルドガーの気落ちの理由はこれね」
「レール城にもいないというと、どこに行ったんだ」
「さあ」
「気に入らないのはわかるが、ちょっと調べておいてくれないか。兄様が気の毒だ」
「なんで私が……」
レーズが愚痴を言うというのも、珍しい姿だった。愚痴が出るような仕事は、はなから手がけない女だ。
木立の向こうから、アイエの不安そうな声が聞こえた。
「あなた、こちらなの……」
ちらちらと揺れるランプの明かりが近づいてくる。長居したな、とリュシアンは立ち上がる。その時、レーズがふと脈絡のないことを言った。
「リュシアン、きみ、落ちたものは食べないほうがいいわ」
「え?」
「たとえばさっきのパンとか。そこは人がよく通る」
「どういう意味だ」
「文字通りの意味よ。汚れ物はよくない……」
光を避けるようにレーズは背後の闇《やみ》へ去っていった。入れ違いに、茂みをがさがさとかき分けて、アイエがおそるおそる顔を覗かせた。
「あなた?」
「ああ、もう帰る」
ほっとした顔のアイエの手を取って、リュシアンは歩き出した。
プリムスは何を言っていたのだろう。落ちたものを食べるなと言っても、獣は殺すと地に倒れるし、果実と穀物はすべて地に落ちてから人の口に入るのだが。
それとも、空飛ぶ鳥でも食べろという意味なのだろうか?
レーズスフェントでは二年前から、防御設備の建造がこつこつと進められていた。昔は木の柵《さく》しかなかった中洲の外周は、すでに板壁と土壁に取り替えられた。今ではさらに、近くの沼地に窯を建ててレンガを焼き、レンガと漆喰《しっくい》を積み上げる工事が始まっている。
東のドルヌムへ続く橋のたもとにも、でっぷり太った衛兵のような、頑丈な円形防御塔が築かれていた。
防御塔に起重機で武器を運びあげる作業の最中、その男は現れた。
「あの筒はなんだ」
声をかけられた下っ端の石工が振り向くと、そこに騎乗した騎士がいた。長い黒髪の男で、使い込んだ感じの胸甲や手甲《てっこう》を身につけている。年のころは四十ほどだろうか。面長で美々しい顔立ちだが、表情は険しい。
騎士の後ろには、お仕着せの武装を身につけた十人ほどの歩兵が、黙って従っていた。うち一人は旗持ちのようだが、風がないので旗の意匠は見えない。
「あの鉄の筒はなんなのだ」
太縄でゆっくりと吊《つ》り上げられていく鉄の筒を、騎士はじっと見ている。咎《とが》めているようではなく、穏やかな口調だった。若い石工は、親方に教わった話を誰かに聞かせたくて仕方なかったので、得意になって話した。
「大砲さ」
「大砲?」
「そうさ、火の精で石の玉をぶっ放すんだ。それで遠くの敵をやっつけるのさ」
「それで誰をやっつけるんだ」
「悪いやつらに決まってる。ここはいい町だから、悪いやつらが狙《ねら》っているのさ」
「悪いやつとは誰だ」
「さてね。ここを狙うやつは一杯いる」
石工は肩をすくめて鼠《ねずみ》のように笑った。
おーい、と頭上から声が降ってきた。見上げた石工は、
「親方」と手を振り返す。ややあって、塔の中を駆け下りてきた親方が、引きつった顔で石工を蹴《け》り倒した。騎士の前に出て、恐縮しきった様子で地に頭をこすりつける。
「ようこそお出でくださいました、東フリースラント伯爵閣下のお使者さまでいらっしゃいますか?」
「ああ」
騎士は言葉少なにうなずいた。その背後で旗持ちの旗が微風になびき、キルクセナ家の家紋である黒地に金のハルピュイの意匠がちらりと覗いた。主君の公式の使者であるという証《あかし》だ。親方はそれを目にしたので泡を食って降りてきたのだ。
だが、騎士の態度は公用とは思えないものだった。主君の権威を背にして訪れる使者は、たいていもっと居丈高なものだ。
知らせはただちに館に伝わり、代官《フォークト》を始めとする面々が駆けつけた。すでに門を通過していた使者を認めて、ルドガーは叫んだ。
「先生、先生ではありませんか!」
「久しいな、ルドガー。元気そうで何よりだ」
ハインシウス・スミッツェン――六年ぶりに会うルドガーの師匠は、馬上でかすかに微笑んだ。
だがその笑顔には、どこかしらよそよそしいところがあるように感じられた。ルドガーの知るこの人物は、本来もっと明朗快活な人物だったはずだ。
予感どおり、彼が運んできたのは吉報ではなかった。
館に通されたハインシウスは人払いを命じ、席にも着かぬうちから、硬い口調で用件を切り出した。
「ルドガー、率直に話してくれ。おまえは今、誰に忠誠を誓っている?」
「それはもちろん、ルプレヒトさまです」
ルドガーは即答したが、ハインシウスは頭を振ってその答えを拒んだ。
「建前など聞きたくない。おまえがまだ私の知っているルドガーだというなら、私を納得させてくれ。なぜおまえは生きている? あのデンマーク王に捕らえられて、なぜ生きて戻ることができた?」
「あの、というと、お目にかかったことが?」
「ないが、一昨年の即位からこの方、内に外に大変な辣腕《らつわん》を振るっているとの評判だ。あれほど四分五裂していた半島を、今年のうちにも再統一しそうな勢いだし、噂ではスウェーデンのヴィスビーやスコーネ地方まで狙っているともいうぞ。そんな男が、一体どういう理由で、ちっぽけな僻村《へきそん》の代官でしかないおまえに目こぼししたんだ?」
「デンマーク王は、ハンザ同盟への対抗勢力を探していたんです。私がたまたまその条件にかなう場所に村を持っていたため……」
「いい加減にしろ、ルドガー!」
とうとうハインシウスは怒鳴った。その顔には深い苦悩の陰が表れている。ルドガーは迷った。レーズやラルキィの話をして、信じてもらえるだろうか。自分の従者や町の人々たちがそうなのだが、凡人は自分の目でレーズの姿を見てさえ、その存在の大きな意味には気付かない。目を逸らし、なかったものとして扱おうとするのだ。
「おまえに背信の疑いがかかっている」
ハインシウスが暗い目つきで言った。
「ルプレヒトさまは、おまえがデンマーク王の傀儡《かいらい》になったのではないかと疑っておられる。私は今日、おまえを逮捕するために遣わされたのだ。本来なら問答無用で引っ立てていかねばならんが、そこを曲げて、こうして弁明の機会を作ってやっているんだ。本当のことを言え、ルドガー。これが最後の機会だ」
「……わかりました」
ルドガーは覚悟を決めた。どうやら、精霊たちのことは避けて通れないようだ。彼にも打ち明けるしかない。
しかし、ただ話しただけでは信じられないに決まっている。証が必要だ。超常の存在と付き合っているという、明白な証が。
ルドガーは腰の剣を抜き、その柄《つか》の方を師に差し出した。それが自決を表すように見えたらしく、ハインシウスが絶望したようなうめき声を上げた。
「ルドガー! では、背信はまことか!」
「いいえ、裏切ってはおりません。しかし口で言ってわかっていただけるものでもない。ですからお見せします。とくとご覧じよ!」
言うなりルドガーは、剣の刃を握って先端を自分の腹に突き刺した。ぐぶ、と弾力のある腹筋の抵抗を感じるとともに、熱い痛みが走る。苦痛に顔をしかめつつ、さらに深く刺した。痛みが体の奥深くへ達し、ついには自力で押し込めなくなった。
「何をする、ルドガー!」
「いえ、このまま!」
驚愕《きょうがく》し、駆け寄ったハインシウスに、ルドガーは答えた。
「このまま……誰も、呼ばずに」
「何を馬鹿なことを、おい、誰か! 誰かこい!」
ルドガーは腹の痛みに耐え切れず、膝《ひざ》を突き、床に倒れる。ハインシウスが叫びながら剣を抜いて傷を押さえるのを感じた。こんな時だというのに、師が自分の身を案じてくれているのが嬉しかった。しかし脈動とともに腹から熱いものが流れ出していき、意識を保てなくなった。
短い間、ルドガーは気絶していた。次に目を開けると、恐れていたほど大勢の人間はいなかった。ハインシウスの他には、リュシアンとエルス、それにハインシウスの従者らしい剣士が一人。この程度なら、知られても構わないだろう。
自分の腹に注意を向けると、脈動が収まっていることが感じられた。両手がべっとりと濡《ぬ》れているのは、大量にあふれ出した血に染まったのだろう。ひどく喉《のど》が渇いていたが、その欲求を堪《こら》えて、ルドガーは体を起こした。
「ハインシウス……先生」
「馬鹿、じっとしていろ。いま司祭を呼んでいるから――」
「いいんです。傷を……ご覧になってください」
ルドガーは、ずっと傷を押さえていたらしいハインシウスの手を、力なく押しのけようとした。その意図を察した師が、試すようにそっと手を上げて傷を覗いた。
その目が大きく見開かれた。
「……なんだ、これは」
「おわかりですか」
「馬鹿な……内臓まで届いていたはずだ!」
体を起こしたルドガーは、当てられていた布で傷口を拭《ぬぐ》った。血汚れの下に早くも真新しい桃色の薄皮が張っていた。
「私は自分の傷を塞ぐ力を授けられました。泉の精霊、レーズに」
「……レーズ?」
「はい」
真っ青な顔をしているハインシウスに、ルドガーは順序だてて話した。彼女との出会いから、その正体と目的まで。デンマーク王がレーズ目当てで攻めてこようとしていることも話した。
危険な賭《か》けであるのは承知だった。普通の人間ならルドガーが狂ってしまったか、悪魔に取り憑かれたと考えるだろう。ハインシウスの理性だけが頼りだった。
すべて話し終わると、ルドガーは師の反応を待った。ハインシウスは深く考えこみ、疑っている様子だった。ルドガーは彼に断って、傷を洗いに立った。別室でリュシアンが耳打ちしてきた。
「レーズを呼んできましょうか」
「必要ないさ。これで信じなければ、レーズ本人が来たって信じないだろう。先生はそういう方だ」
だがハインシウスは、ルドガーが考えていたよりはるかに実際的な人間だった。ルドガーが部屋に戻ってくると、彼はいくぶん落ち着いた様子で言った。
「おまえがあくまでも、デンマーク王と内通していないと主張する気なのはわかった。三年で攻めてくるというのだから、それはそのとき明らかになるだろう」
「わかっていただけましたか」
「誤解するなよ、私が理解したのはこういうことだ――おまえは自分の主張のために腹を突いた。それが深手だったのは、私がこの目で確かめた。あれは間違いなく命を賭けていた。たとえ傷を治す秘法があるとしても、腹は嘘や冗談で突けるものではないからな。だからその主張については信じてやる」
「では……」
「だが、そのことと、レーズなどという何者かが存在するということは、まったく別の話だ。私は正直に言って、そんな話はまったく信じられん。酔っぱらいの大ボラとしか思えない。何千年も昔から生きている女? デンマーク王に取り付いている生き物? 馬鹿馬鹿しい! 一体どこからそんな与太を思いついたのか、おまえの頭を二つに割って中を覗いてみたいぐらいだ。そんな話はひとことたりとも認めん。二度と私に向かって話すな。私も二度と思い出す気はない。いいな?」
そう言うと、ハインシウスは念を押すように一座の人間を睨《にら》みつけた。それでルドガーは察した。師がこの難題を、とても賢く切り分けたことを。
傷は本当にもういいのかとルドガーに確かめてから、ハインシウスは再び表情を引き締めた。
「おまえが潔白だということは、よし、信じてやる。だが、ルプレヒトさまが信じてくださるかどうかということは、これまた別の問題だ。あの方は、おまえが腹を突いたところで信じては下さらないだろうし、先ほどの、なんとかいう女の話など聞かせたら、それこそ逆効果になるだろう。おまえは気が狂ったものとみなされて獄につながれる。そしておそらく、レーズスフェントは召し上げられる」
「スミッツェンさま、それはご無体です! 正当な理由なく臣下の所領を召し上げることは、君主といえど許されないはず。兄はこの町を、文字通り身を挺《てい》してここまで育て上げました。いえ、この町にとってこそ、兄は必要なのでございます。兄と町を分かつことは、木の幹と根を分かつことも同じ。遠からぬうちにいずれも枯れ果ててしまいましょう。それは伯爵様にとってもお為《ため》にならないことです」
叫んだのはリュシアンだ。ハインシウスが冷静に言い返す。
「おまえは確か、ルドガーの弟だな。それに免じて聞かなかったことにしてやるが、今のは不埒《ふらち》な物言いだぞ。伯爵様がじきじきにこの町を治められれば、下級の騎士が治めるよりも、当然町は富み栄えるはず。住民も光栄に思うことだろう。違うか?」
「お気遣い感謝いたします、しかしあえて言わせていただきます。スミッツェン様こそ、不埒なのではございませんか? もし伯爵さまが英明なお方ならば、家臣からむやみと領地を召し上げることなどなさらないはず。しかしあなたはそれがあるかもしれないとおっしゃる。一体、あなたは本当に伯爵さまに忠義を誓っておられるのですか?」
「きさま、差し出口にもほどがあるぞ!」
二人の激しい口論を聞きながら、ルドガーは師の本心を見極めようとしていた。
六年の間に彼の性格が変わってしまったのかもしれない。主君の威を借り、教え子の領地を掠《かす》め取って、あわよくば自分がそこの代官《フォークト》に収まろうと考えているのかもしれない。
だが、リュシアンを怒鳴りつけるハインシウスの顔にあるのは、ひたすら苦悩の色だけだった。ルプレヒトは暗愚ではないのかと聞かれたとき、真剣に怒ったのは、自分でもそう思っているからだろう。
ルドガーは片手を挙げ、二人の会話に割り込んだ。
「先生――ひとつ、お願いしてよろしいですか。もし私が訴追されたならば、レーズスフェントの後事を先生にお願いしたいのですが」
ハインシウスがぐっと歯を噛みしめ、搾り出すように言った。
「それは……できん」
「なぜですか。もしこの町を自分以外の者に任せなければならないのなら、先生以外には考えられません」
「それでもだ。私は私心で動いているのではない。騎士としての忠義で動いているのだ! 代官《フォークト》などになれば、いくら弁明しようとも、私腹を肥やすためだったのだと人に思われてしまうだろう。だから私は何も引き受けることはできない。それはわかってくれ」
「ルプレヒトさまに、次の代官《フォークト》にと指名されたらどうされますか」
「お断りする。私には一人で野山を駆ける仕事のほうが性に合っている」
ルドガーは安堵《あんど》を覚えると同時に、主君に対する抑え切れない憎しみを感じた。
こんな人が捕吏として来たのならば、従うしかないではないか。もっと邪悪な相手ならば、気兼ねなく反抗や逃亡ができようものを。
率直な心情と打算の両方が、ルドガーの心の中で渦巻いた。あらゆる敵からこの町を守りたいという気持ちが、これまでになく高まった。――だが一方で、ルドガーは自分が騎士であるということを強く意識しており、その規範を打ち壊す気にはなれなかった。
ただ、いつぞやレーズと話したことが、おぼろに思い浮かんだ。
――おまえはもう、騎士ではない。
いや騎士だ、と頭を振ってルドガーは言った。
「出頭させていただきます、先生」
「ルドガー……」
「ルプレヒトさまのおん前に出て、自ら弁明しましょう。それで疑いを晴らせなければ、それまでのこと」
「いいのか?」
「先生にご迷惑はおかけしません」
ハインシウスは一瞬、詫《わ》びるように目を伏せた。
「兄様」
心配そうな声をかけたリュシアンに、目を向ける。
「万が一を考えて、身辺を片付けておけ。おれが裁かれるようなことになったら、間違いなくおまえにも累が及ぶ」
「それは……いえ、わかりました」
問いかけようとして、リュシアンが言葉を飲み込んだ。潔く町に留《とど》まるにしろ、妻子を連れて逐電するにしろ、彼ならうまくやるだろう。どちらのつもりでもいい。彼に任せるまでだ。
「では、先生。参りますか? 支度は要らないのでしょう」
ルドガーは立ち上がったが、ハインシウスは床に膝を突いたままだった。うつむいて深く悩んでいるようだったが、やがて顔を上げてささやいた。
「ルドガーよ。この名を覚えておけ。ネージョリー」
「それは?」
「おまえが決心した時、助けてくれるかもしれん」
それだけ言うと、ハインシウスはちらりと戸口のほうを見てからやにわに立ち上がり、帰還の用意をしろ、と命じた。
開いた戸口の向こうから、彼が連れてきた兵士の一人が、こちらの様子をうかがっていたことにルドガーは気付いた。
去っていく使者の一行を、町の人々は衝撃のあまり呆然として見守った。
「ありゃあ、どうなるんだ? ルドガーさまは」
「さあ、よくてお役御免、悪ければ斬首《ざんしゅ》か……」
「いいお方だったが、いろいろやりすぎたな」
「次の代官《フォークト》さまもお優しいといいがねえ」
「呑気《のんき》なことを言ってやがる、次がもっと優しいわけがねえだろう。あの人が変だったんだよ」
「同感だ。ぼちぼちよそへ移る支度をするか……」
リュシアンは防御塔の上で、歯噛みしながら使者を見送っていた。
モール村へ来た頃のリュシアンは、天地の間に祝福を受けた民とそうでない民がいることを、当然だと思っていた。しかしレーズに世界の広さを見せられてからは、自分たちを縛りつけていたのがいかに不条理な慣習でしかなかったのかということを、よく思い知らされた。
そんな彼にとって、兄がいまだに君主の前に律儀にぬかずいているのは、耐えられないことだった。
しかもその君主は、かつて自分と兄が誰よりも愛した女をこの地から引き離し、敵へと手渡した人物なのだ。
「兄様……」
つぶやいた時、背後に人の気配を感じた。振り返ると、そこに見慣れた顔が並んでいた。
「ナッケル村長、それにアロンゾ司祭……」
「見送りたくてな」
古顔の二人に続いて、幾人もの人々が塔の上に現れ、旧ローマ街道を白樺林の中へ去っていく使者たちを見つめた。ナッケルがぼそりと言った。
「これは、いかん。どうしたって、この町にはあの方がいなければ」
「リュシアン、例の泉のひとに頼んで止められんかね」
アロンゾの視線を受けて、リュシアンは無言で首を振る。レーズは今回、どういうわけか姿を現さない。頼ることはできない。
「なんとかしなけりゃ、騎士さまが処刑されちまうぞ」
どの顔にも、我がことのような焦りが浮かんでいた。リュシアンはその人々がここにいる経緯《いきさつ》を思い出す。野盗に襲われた者がいた。無一文で行き倒れていた者もいた。重税を課す領主から逃げてきた者も、組合の不当な掟《おきて》で追放された者もいた。
すべて、兄ひとりの決断でここにいることを許された者たちだった。善か悪かで言えば、悪徳に染まった者のほうが多いだろう。だが少なくとも、恩を返そうとしている点では一途《いちず》な者たちだった。
「おれたちが連名で直訴したら、許していただけんものかな」
「甘いな。君侯さまってのは、そんなことでは目こぼししてくれんよ」
「奪い返すしかない。おれはやるぞ」
「馬鹿を言うな、罰当たりめ!」
「ひとつだけ、東フリースラント伯爵に対抗する方法がある」
険悪になりかけていた話し合いがぴたりと収まった。つぶやいたリュシアンは、人々に顔を向けて、その方法を説明した。
それを聞くにつれ、いったんは期待した人々も、疑いやあきらめの顔になった。
「そんなことが、この田舎町にできるんですか」
「現にそうした都市がある。リューベックを見ろ。アウクスブルクも、ネルトリンゲンも。ああいった町だって、最初は何もない原野だった。つい二百年かそこら前の話だ」
「じゃあ……」
「ただ、僕たちだけが声を上げてもだめだ。ああいった都市は、周りの多くの村を従えることで力をつけている。僕たちが隣り合う村々のすべてから同意を得れば、そういうことも可能になるだろう」
人々はざわめく。信じきることができない様子だ。彼らの雰囲気を読み取ったか、アロンゾ司祭が試すように尋ねた。
「リュシアン、あんた本気でそう思うのかね? ――レーズスフェントを帝国自由都市《フライエ・ライヒスシュタット》にできると」
リュシアンは、あえてこともなげに問い返した。
「なぜできないと思うんです? この町は今まで、何者にも負けたことがないのに」
そう言って、静かに人々を見つめた。
間もなく、最初の一人が、こくりとうなずいた。
東フリースラント伯爵の居城であるレール城でルドガーを待っていたものは、君主による裁判ではなかった。
丘の上にある城の門をくぐると同時に、ルドガーは師から引き離され、陽《ひ》の当たらない北側にある塔の基部に押し込められた。高みに窓がひとつあるだけの狭い部屋で、最初は暗くて何も見えなかった。濃厚な血と革の匂いが鼻腔《びこう》を満たした。
目が慣れると、三人の男と、数々の器具が見えた。
高価だが使い古した感じの祭服をまとった、書記らしい男が、いかにも役目で仕方なくやっているという風な、気のない口調で尋ねた。
「ルドガー・フェキンハウゼン。おまえの信じるものの名において真実を答えよ。おまえはデンマーク王ヴァルデマール四世と通じたか」
予備的な審問だろうか。ルドガーは戸惑いつつ「否」と答えた。
書記は背後を振り返って、事務的に命じた。
「吊れ」
革の仮面で顔を隠した、|首切り人《ダリンガー》と思《おぼ》しき男たちが、罪人に対するのと同じ、有無を言わせぬ力でルドガーの衣服を剥《は》ぎ取った。そして両手に鎖つきの鉄の枷《かせ》をはめ、部屋の右上と左上の滑車を使って吊り上げた。
壁と向き合わされたルドガーは、首をひねって後ろへ叫ぼうとした。
「待て、これは誤解だ。私は何もルプレヒトさまに背くことなど……」
いきなり燃え盛る棍棒《こんぼう》のようなもので背中を殴打され、ルドガーは必死で悲鳴を押し殺した。肩越しに振り返ると、長い革の鞭《むち》の次の一撃が、唸《うな》りながら叩きつけられるところだった。棍棒だと思ったものはそれだった。
ルドガーは革の鞭も、罪人がそれを受けるところも見たことがあったが、自分がそれを食らったことはなかった。実際に受けて初めて、なぜそれが刑罰になっているのかを知った。獄吏の振るう鞭は、もはやただの革ではない。それは人間の肌を食い破り、骨をかき削る道具なのだった。
五回目までは声を殺して耐えたが、六回目からは喉から獣のようなうめきを漏らしてしまった。七、八、九と数えるうちに脊髄《せきずい》がしびれ、めまいが襲った。十回目にひときわ強い一撃を受け、どっと汗が吹き出るのを感じていると、書記の冷たい問いかけが耳に入った。
「デンマーク王ヴァルデマール四世と通じたか」
「……否」
「打て」
息を整えるひまもなく、再び十回の恐ろしく強い打撃が始まり、ルドガーはその一撃目から悲鳴を上げた。
つまるところ、その繰り返しが、レール城でルドガーを待ち受けていたすべてなのだった。
拷問は単調に、執拗《しつよう》に続いた。いくらなんでも、伯爵じきじきの吟味ぐらいはあるだろうと思っていたルドガーは、最初のうちこそ何かの間違いではないかと思っていたが、次第に、そもそも吟味など永遠に行われないのではないかと疑い始めた。
いや、いくらなんでもそこまでは! 伯爵はルドガーを八年にわたって預かり、騎士叙勲までしてくれた人物だ。情味がある人ではなかったが、冷酷非道なわけでもなかった。正当な裁判もなく臣下の所領を召し上げることなど、するはずがない。
だが、いつまで待っても、伯爵が現れる様子はなかった。
鞭の打撃は皮膚を破り、筋肉を痛めつけた。ルドガーの背中は、まるで獅子《しし》の爪《つめ》で縦横に裂かれたようにずたずたになった。ルドガーは何度も気絶し、そのたびに水を浴びせられて目を覚まし、同じ質問をされた。
「デンマーク王ヴァルデマール四世と通じたか」。否と答えるたびに鞭が唸った。
激痛と冷水の交互の刺激が、ルドガーの意識を絶えず責めさいなみ、呆然とすることすら許さなかった。弁明や釈明をしようにも、返答以外のことで口を開くと、鞭がより速く飛来するのだった。抵抗すると激痛が襲う。この理屈が、何十回もの繰り返しの果てに頭に染み込み、理性の力より強く、ルドガーを従わせるようになった。
いつしかルドガーは、声を聞くたびに「否」と答え、その後の鞭打ちに耐えるだけの人形と化していた。そんな時ふと、書記がそれまでと異なることを言った。
「下ろしてやろうか」
ルドガーは振り向いたが、口は開かなかった。何か言えば、背中を打たれるからだ。
書記が近づいて、左右に目配せした。首切り人たちが鞭を置いて、鎖の滑車に手をかけた。
「そろそろ終わろう。下ろしてほしいか」
「……ああ」
ガラガラと滑車が鳴り、ルドガーは床に下ろされた。まるで今までの拷問が冗談だったかのような、あっさりした解放だった。首切り人が鍵を取り出したので、ルドガーはほっとして両手を後ろへ回した。
「デンマーク王ヴァルデマール四世と通じたか」
ルドガーはぎくりと身を硬くした。振り向くと、書記が疲れ果てた不機嫌そうな顔で繰り返した。
「デンマーク王ヴァルデマール四世と通じたか」
「い、否!」
途端に首切り人がガラガラと滑車を回し、元のようにルドガーを吊り上げた。ルドガーは狂ったようにもがいて、鎖を壁に叩きつけた。
「おれは何もしてない、裏切りなどしていない! おれは敬虔《けいけん》なキリスト者で、嘘などついたことはない!」
語尾に、革が肉を叩く濡れた破裂音がかぶさった。
ルドガーが本当に解放されたのは、その日の真夜中だった。首から尻までの背中全体が、ずきずきと脈打って痛み、ずっと吊られていた手首も、皮が裂けて白い肉が覗いていた。
解放されたといっても、もちろん本物の自由が与えられたわけではなかった。首切り人たちがルドガーをひきずっていき、塔に接する館の半地下の牢獄《ろうごく》に連れ込んだ。そして、分厚い樫《かし》の扉に閂《かんぬき》をかける前に、ルドガーの背中にたっぷりと塩を塗りこんでいった。
「うがあ、あ……!」
かつてルドガーは若かった頃、見習いとしてこの城に勤めながら、夜な夜な北の館から流れてくる悲鳴を耳にしたことがあった。罪人が拷問によって取り調べられるのは、ごく普通のことだったので、そのころは必要悪だと割り切っていた。
だがルドガーは今、かつての犠牲者がいかなる苦痛とともに夜を過ごしたのか、まざまざと思い知らされた。
それはまるで、背中に熱した鉄板が張り付いたかのようだった。背中一面がずくん、ずくんと振動し、傷を負っていない頭部や腰のあたりまで、その脈動にひきずられて痛む。感覚のほとんどを痛みが覆い尽くし、思考を押し流してしまう。いつしか、その激痛自体が自分のすべてであり、一拍一拍の拍動だけが自分の活動のすべてであるように思われてくるのだ。
悲鳴は、上げるというよりも、引きつる肺からだらだらと勝手に漏れ続けた。それこそが、昔から城中の人間を震え上がらせている、あの声なのだった。
翌朝は僧服の薬師《くすし》が来て、憂鬱《ゆううつ》そうな顔でルドガーの背中を酢で洗い、軟膏《なんこう》を浸した海綿で丁寧に覆った。劇的な効果があり、ルドガーの中で恐ろしい大きさにふくれあがっていた痛みがすみやかに小さくなり、代わりに自分というものが戻ってきた。安らぎながら深い息を繰り返していると、薬師が悲しげに眉根《まゆね》を寄せたまま言った。
「デンマーク王ヴァルデマール四世と通じたか」
鮮明な想像がルドガーを襲った。
「否」と答えれば、ただちに塔へと引きずって行かれ、また拷問されるのだろう。
「否」と言うとそうなるのだ。体がばらばらに壊れかねないほど痛めつけられ、悲鳴を上げることになるのだ。
「……」
そんな言葉は、絶対に口にしたくなかった。口にしなかったら? 小さなひらめきがあった。そうだ、このまま黙っていればいいのだ。子供のような思い付きだったが、ルドガーはそこまで退行していた。
だがルドガーの目論見《もくろみ》は、いとも簡単に粉砕された。
薬師の徒弟が、銀の杯を差し出した。そこには金色の液体がなみなみと満たされ、甘い蜜《みつ》の匂いのする湯気を立ち昇らせていた。
喉が鳴った。塩を擦りこまれたまま一晩放置された肉体が、飲み物を求めてきしんだ。匂いに誘われ、犬のように舌を出して近づいた。
徒弟が後ろへ下がり、薬師が問診するように「通じたか」と言った。
ルドガーの中で、何かがぶつりと音を立てて切れた。
「否! 否、否、否!」
気がつけば、首の骨が折れそうなほど激しく、頭を左右に振っていた。なけなしの抵抗だった。少しでも物事を考えたら、自分の身のために、飲み物を受け入れてしまいそうな気がした。だから、余計な思考が湧《わ》く前に、後先を無視して頭を振ったのだった。
何があろうとも、それだけは譲ってはいけないという使命感が、腹の底に根を下ろしていた。
途端に薬師たちと飲み物は影のように滑り出していき、代わりに首切り人たちが乗り込んできて、獣のような猛々《たけだけ》しさでルドガーを縛りつけた。そうなるとわかってやったにもかかわらず、ルドガーは泣き叫ばずにはいられなかった。
「やめろ、助けてくれ、かんべんしてくれ! おれはもう……」
幼児のように駄々をこねるルドガーを牢から引きずりだし、首切り人たちは北の塔へ向かった。
ふと、ルドガーは目を覚ました。冷たく新鮮な水が顔にかかっていた。獄吏たちの乱暴な浴びせ水ではない。小さな精霊の指先を思わせる優しいしずくが、はたはたと頬を叩いていた。
何度も瞬きすると、高みにある窓から水が落ちて来ているのだとわかった。戸外からさらさらと音がする。これは雨だ。衰弱しきったルドガーを、雨滴が少しだけ癒してくれたのだ。
どういうわけか、背中の痛みもひところほど強くは感じない。痛みを感じる神経がやられてしまったのだろうか。ルドガーは身を起こした。
牢獄だった。いつもの場所だが、いつ放《ほう》りこまれたのか、何度目なのか、よく覚えていない。思い出そうと集中することもできなかった。頭が痛んだ。
寝起きのようにぼんやりとした状態のまま、ルドガーはうろうろと動き始めた。このような覚醒《かくせい》は千載一遇の好機であり、今なんとかしなければ、また拷問と消耗の繰り返しに陥ってしまうということを、おぼろに理解していた。
しかし、何をしたらいいのだろう?
この牢獄から脱出すればいいのか?
それ自体、容易ではなさそうだが、どうもそれだけではいけなかったような気がする。レーズスフェントのために、とても困難なことをしなければならなかったはずだ。
一生懸命考えていると、ゆっくりと思考が戻ってきた。そうだ、自分は誤解されているのだ。何かの間違いで残酷な首切り人たちに痛めつけられている。正しい裁きを受けねばならない。ルプレヒトさまならば、正しく裁いてくれるはずだ。
「おおい……おおい。誰か、伯爵さまを呼んでくれ……」
ルドガーは樫の扉に取り付いて呼ばわった。恐怖は感じなかった。というのは、今まで夜中に引きずり出されたことだけはなかったからだ。少なくともここにいる間は安全だと思い込んでいた。
「おおい、誰かあ……」
何度も叫んでいると、突然、どこからともなく声が聞こえた。
「うるせえな、寝られねえだろうが」
ルドガーは口を閉ざし、辺りを見回した。もちろん、牢の中には誰もいない。
「誰だ? 誰かいるのか?」
「寝られねえから黙れっつうんだよ」
また声がした。空耳ではない。下のほうから聞こえたようだ。ルドガーは冷え冷えとした石の床に這《は》いつくばり、周囲を見回した。
「どこにいる?」
すると、壁の隅からまた声がした。
「こっちだ、こっち……小便の穴だよ」
牢の一番奥を右から左へ貫いて、用足し用の溝が掘られている。牢番が一日に一回水を流すだけという、不潔極まりない便所だ。ルドガーは異臭を放つその溝に顔を寄せ、奥を覗いた。壁の厚み分の穴の向こうで、光る小さなものがきょろきょろと動いていた。
人間の目らしい。隣の牢に人がいるのだ。
「やあ……起きてやがるな。ずいぶん丈夫なやつだ。三日を過ぎて起きられるやつは珍しいんだがね」
「あんた、誰だ?」
「誰だって? あんたと同じだよ。捕まった罪人だ。名前なんて間の抜けたことを聞くんじゃねえぞ。そんなもんはまるで意味がないんだ。ここには、おれと、あんたしかいないんだから」
人恋しかったのか、やたら早口でよくしゃべる罪人の男に向かって、ルドガーはきっぱりと言った。
「おれは、罪人じゃない。無実の罪でつかまっているんだ」
「その割りに、ずいぶんと激しく痛めつけられてるな。罪人よりも悪いやつってことかね」
「冤罪《えんざい》、だ。ルプレヒトさまに会ってお話しできれば、疑いは晴れるはず」
「冤罪か! はっはっは、こいつはいい。冤罪。ひぃはっは!」
男は石壁を叩いて笑い出した。何がおかしい、とルドガーは怒る。
「おかしいのおかしくないのっておまえ、これが笑わずにいられるか」
「おかしいのか?」
「おまえな、この『咎の館』はキルクセナ家の私邸だぞ。伯爵さまのご命令があったから、ここに入れられてるんじゃねえか。他の誰のせいでもねえよ。わかってなかったのか?」
「伯爵さまの……」
ゆっくりと怒りが湧き、それとともに正気が戻ってきた。これまでの経緯が順序だてて頭に浮かんだ。そうだ、今は投獄されてから四日目で、そのあいだのおれの訴えは何ひとつ届かなかったのだ。
正式に騎士として叙任された、貴族の末席に連なる自分が、罪人同様に四日も拷問されたのだ。もう忠誠心を保てなくなっても仕方ないだろう。ルドガーは主君を疑うことについて、神に許しを乞《こ》うてから、気持ちを切り替えた。
「おい……おい!」
「まだ起きてんのか」
「話がしたい。おれはルドガーだ。おまえの名は?」
「だから名前なんて関係ねえって」
「いいから教えろ。おまえはなぜここにいる」
「聞いてどうするんだ……」
男はぶつくさ言ったものの、ルドガーがしつこく尋ねると、やがて事情を打ち明けた。彼はレール城下の腕利きの織匠で、名をアーレンといい、半年ほど前のある日、伯爵のために手をかけた壁掛けを作った。その出来栄えは大変よく、伯爵は大いに喜んだ。彼はその後、近隣のミンデン司教に呼ばれて、同じ壁掛けを作った。ところが伯爵がミンデンに招待され、自分の部屋と同じものがそこにもあるのを見てしまったのだ。
一品ものだと聞かされていた伯爵は立腹し、彼にもう一枚別の新しいものを作るように命じた。それが出来上がると、よそで同じものを作らないように閉じこめてしまったのだった。
「ま、伯爵さまが別の壁掛けを欲しくなるまでは、出られねえだろうな」
「それは本当か? 以前のルプレヒトさまはその程度のことで腹を立てたりなさらなかった」
「それはいつのことだね。サン・オマーより前か、それともトゥールナイより前か?」
それらの地名は、ルドガーにも思い当たるところがあった。この一昨年に当たる一三四〇年、延々と続いている英仏の戦争に、伯爵はまたしても出兵したが、武運つたなく連敗して帰ってきたのだ。負け戦のあった場所が、トゥールナイ市であり、サン・オマーの野だった。
ルドガーは兵糧を納めることで従軍を免除されたが、伝え聞いたところでは、東フリースラント伯爵軍は戦利品が取れず、他の君侯とのいざこざもあり、さんざんの出兵だったという。
「伯爵さまはサン・オマーで弟君を亡くされた。それも味方の裏切りにあったっていうんだ。以来、人が変わったように疑《うたぐ》り深くなっちまった」
「それは確かにお気の毒だが……」
その時ルドガーは、別のことを思い出した。伯爵にとっては、去年も恵まれない年であったはずだ。嫁に出した娘が不幸な理由で戻ってきた。
「おいたわしいことだ!」
「まったく同感だが、やつあたりはやめてほしいよな」
伯爵がこのような暴挙に出てきた理由がわかったような気がした。敗戦で自分も臣下も意気消沈している中、ひとりルドガーの町だけが繁栄の兆しを見せているのだから、妬《ねた》ましくもなるだろう。
ただ、だからといってこの仕打ちが受け入れられるわけもなかった。レーズスフェントは自分が育てたのだ。伯爵は町の人間のことも、デンマークやドイツ騎士団との関係のことも知らない。町をうまく治められるわけがない。
いや、そもそもうまく治めようなどと、はなから思っていないかもしれない。レーズスフェントからむしれるだけむしって、負け戦の損失を穴埋めし、あとは朽ち果てるに任せるということも考えられる。略奪を是とする君主にしてみれば、しごく当然の考え方だ!
「ルプレヒトさま……」
いま初めてルドガーは、騎士としての忠誠心が根本から揺らぐのを感じていた。
その時、廊下に足音がした。はっとして窓を見上げると、いつの間にか雨が上がったらしく、柔らかい朝の光が差し込んでいた。
静まり返った館に、閂の鉄の音が騒々しく響く。苦悶《くもん》の一日がまた始まる。恐怖が心の底からざわざわと湧きだし、ルドガーは冷や汗を流して震え始めた。忘れていた痛みすらよみがえってきたようだ。
動揺して正気を忘れる寸前、ルドガーは念頭に湧いた言葉を、小便穴の中へ投げつけていた。
「アーレン」
「あん?」
「ネージョリーだ。頼む、その名の人に連絡を――」
扉が開き、医師と首切り人たちが乗り込んできた。怯《おび》えた鼠のように身を縮こまらせるルドガーの耳に、何千回となくかけられたあの言葉が、またしても響いた。
「ルドガー・フェキンハウゼン、デンマーク王ヴァルデマール四世と通じたか」
拷問はさらに何日も続いた。
ルドガーからただひとつの言葉を引き出すためだけに、鞭だけでなくさまざまな責め苦が加えられた。二十六歳の壮健な男の肉体はなかなか屈しようとせず、しかも、獄吏たちが首を傾《かし》げるほどの回復力を示した。暖かい春のこの季節、傷口はすぐに膿《う》みただれ、虫にたかられるはずであったが、不思議とルドガーの傷はただれなかった。それがために拷問が効いていないように見えてしまい、獄吏たちはさらに厳しい仕打ちを選んだ。
織匠と話してから七日がたつころには、ルドガーはもはや自力で起き上がることすらできなくなっていた。日が暮れて牢獄に放り込まれた彼は、何時間も指一本動かさなかった。殴打された顔は腫《は》れ上がり、別人のように膨れていた。両手の爪のうち、残っているものは一枚しかなく、胴の前面には鞭の傷に代わって、灼熱《しゃくねつ》の焼き鏝《ごて》による火傷《やけど》が数十箇所もつけられていた。
夜が更けても、ルドガーは横向きに寝て細い息を漏らし続けるだけだった。水と食料は餓死しない程度のものしか与えられていない。だがそれをひもじいと思うだけの欲求も残っていなかった。
混濁した意識の隅に、カチャリという音が届いたのは、何時ごろだったろう。獄吏がやってきたのだと思い――いや、思うというよりも機械的に反応して、ルドガーはうめきながら逃れようとした。
扉が意外なほど静かに開き、黒い影が滑り込んできた。ルドガーはささやきを聞いた。
「お静かに。お助けします」
年配の女の落ち着いた声だった。それを信じたというよりも、罠《わな》ではないかと疑って、ルドガーは身を縮めようとした。
「こんなところまで……ひどいわ」
女が肩や腕に触れ、そろそろと横へ下がる気配がした。入れ替わりに、女よりずっと大きく存在感のある影が現れ、ルドガーを担ぎ上げた。その気配と、革臭い体臭に覚えがあった。これは獄吏の片割れだ。
「ううッ!」
やはり罠だったと思い、ルドガーは懸命に抵抗しようとした。すると、女がルドガーの口にハンカチらしい布で猿ぐつわを噛ませた。
「ごめんあそばせ、今はこうするしか」
抵抗の手立てはなかった。ルドガーは男に担がれて館の廊下を行き、いくつもの階段と角を通り過ぎた。
ある扉をくぐった途端、ルドガーはぴくりと身動きした。覚えのある何かに触れたのだ。しかしそれは意外すぎて、最初はどの感覚に触れたものなのかもわからなかった。
音か? 温度か? 違う、これは……この古くて温かい感覚は、女物の蜜蝋燭の香りだ。
「ご無事だったかしら?」
その声。聞き間違えようはずがない。
ルドガーはうめき声を漏らし、なけなしの力を振り絞って体をひねった。だが、獄吏の背中に担がれている上、まぶたが厚く腫れているので、何も見えなかった。
「あわてないで」と年配の女のささやきがして、牢獄の床とは比べ物にならないほど柔らかい寝具に横たえられた。そばの誰かが、ひと目見たとたんに息を呑《の》んだ。
「これは……大丈夫なの?」
「わかりません。いま薬と湯を運ばせます」
「ひどいわ、本当に……ああ、マリア様」
湿った柔らかい指が、あまりの傷の多さに怯えたように、まだ無事な肌の上をそっと撫《な》でた。腹にひと粒、熱い滴がぽたりと落ちてくる。ああ、泣いている、とルドガーは思った。彼女が顔をくしゃくしゃにしているさまが目に浮かぶ。
大きな愛《いと》しさに突き動かされて、ルドガーは弱った腕を上げ、彼女の手を握った。
「ルム」
細い手がわなわな震えだした。
やがて温かく柔らかい胸が、ルドガーの頭を抱きしめた。五年半前の川辺で味わったものと同じ、澄んだ甘い香りが鼻腔を満たした。
だが、言葉はなかった。あの闊達《かったつ》だった彼女の、ひばりのさえずりのような呼びかけは、聞かれなかった。ただ黙って、小刻みに体を震わせながらルドガーを抱いている。
なぜだろう。なぜ、答えてくれないのか。彼女は変わってしまったのだろうか――。
変わってしまったのだ、当然。
彼女は大きな変化を体験してきたのだから、変わっていないはずがないではないか。そのことにようやく思い至って、ルドガーは静かな苦味を覚えた。五年半……彼女は二十一歳なのだ。自分のそばにいた少女では、もうない。
しばらくして年配の女と獄吏が戻り、ルドガーの傷を手当てした。
ルドガーは発熱しており、それから三日三晩、夢うつつで苦しんだ。しかしその間、一時たりともエルメントルーデの気配が離れるのを感じなかった。
四日目の朝にルドガーの熱は引いた。体中の傷にも薄皮が張っていた。年配の女――エルメントルーデの侍女であり、家庭教師でもあるネージョリーは、奇跡だと言って目を丸くしていた。
起き上がれるようになったルドガーは、他の人間を巻き込むのを避けるため、すぐにも脱出するつもりでいたが、それは意外な理由で頓挫《とんざ》した。エルメントルーデの部屋は咎の館の四階にあり、館自体の出入り口はルプレヒト伯の子飼いの騎士によって閉ざされていたのだ。
つまりこの館は、ルプレヒト伯にとって気に入らない人間を、男女を問わず幽閉しておくためのもので、エルメントルーデもまたその虜囚の一人だということだった。
それを、エルメントルーデはたいしたことではないというように笑って話した。
「一生ここにいろ、ということらしいわ」
「ルム……」
「いいんです、私、ここはそんなに嫌いじゃないから。ネージやグディが世話をしてくれて、何も不便はないもの。それに、求婚してくる殿方もいないしね」
窓辺の鉢植えに水をやりながらエルメントルーデは明るく微笑んだ。
冗談めかしたその笑みに、いくらかの本音がこもっていることを、ルドガーは知っていた。
この時代、出戻った貴族の娘にとっては、安らげる居場所などない。そのような女は女子修道院に送られるのが普通だが、修道院という場所はもともと自発的に入る牢獄のような場所だ。また、彼女は自分の身の不備で送り返されたのだから、再婚も難しい。教会裁判によって、昔に遡《さかのぼ》っての婚姻不成立が言い渡されたとしても、次の婿にと名乗りを上げる夫はいないだろう。
一人で静かに隔離されているのが、望みうる最上の扱いではあった。
だがルドガーは、こうして目の前にいる彼女が、これからの長い一生をわずか四部屋の中で暮らしていくのだと考えると、どうにもやるせない気分になるのだった。
回復しつつあるルドガーを、彼女は極めて丁重に、好意的に扱ってくれた。寝床を貸し、侍女に代わって食事や身の回りの世話までした。知人、あるいは友人としては、これ以上ないほど優しい接し方だった。
だが、穏やかな微笑みの奥へ少しでも進もうとすると、影のようにするりと逃げるところが、今のエルメントルーデにはあった。暮らしのことや、世の中の情勢などは普通に話すのだが、この館に来る前の三年間のことに触れようとすると、さりげなく別の話題を口にしたり、席をはずしたりするのだった。
その間の事情を知るルドガーには、彼女の気持ちがよくわかった。――だが、過去に触れられないということは、自分たちの昔語りもできないということだ。ルドガーはそれが歯がゆかった。
家庭教師のネージョリーは、以前レーズスフェントにも来たことのある女だが、昔からの付き人であり、自分のことよりもエルメントルーデの幸福をもっとも優先して考えているようだった。彼女はこの館でもっとも自由に動ける人間であり、織匠のアーレンから自分の名を伝え聞いて、ルドガーを助けに来たのだ。彼女の名をルドガーに教えたハインシウスの判断は正しかったということだろう。
ルドガーを牢から救い出したグディという男は、正真正銘のルプレヒト伯の獄吏なのだが、彼に限らず、拷問塔の書記や薬師たちも、伯の最近の癇癖《かんぺき》には少々うんざりしているようだった。些細《ささい》なことで罪人を作りすぎるというのだ。自分を責め立てているときの、彼らの疲れた様子を、ルドガーは思い出した。
それゆえ、彼らがエルメントルーデの部屋からルドガーを強引に連れ出すようなことはなかった。いずれ伯爵が確認にやってきたならば、そういうことにもなろうが、今はまだ適当にごまかしているようだった。
このままエルメントルーデとともに、ひっそりと暮らすことはできるだろうか。――そんな考えが脳裏をかすめることもあったが、夢想以上のものでないことはよく承知していた。レーズスフェントのことを忘れるわけにいかない。また、実際問題としてルドガーの食べ物は、エルメントルーデとネージョリーの分を削ってもらっていたので、長居するわけにはいかなかった。
一週間もするとルドガーは元通りに歩けるようになったので、脱出のため、人目を避けて館の中を調べ始めた。結果は落胆すべきものだった。館の一階は牢になっており、二階には窓がない。三階より上には窓があるが、仮にそこからなんらかの方法で伝い降りても、レール城の中央塔《ベルクフリート》と城門詰め所が南北に建っている。すぐに露見してしまうに違いなかった。
城を囲む城壁は高さ五クラフター(九メートル)もあって、翼でもない限り越えられない。逃げるとすれば城門を抜けるしかないだろう。
だがそれは、丸腰のまま相手に気付かれずに、武装した四人の衛兵を倒さねばならないということだ。限りなく不可能に近い。
その夜、ルドガーは、明かりのない窓辺に腰かけて、じっと考えていた。窓は北東に向いており、星がよく見えた。ただ、背の高い城壁に遮られて丘の下の光景は見えなかった。そちらには、城下の町明かりがあるはずだ。町の向こうに深い暗黒の森があり、森の向こうに、レーズスフェントがある――ルドガーは想像した。
衣擦《きぬず》れの音がして、白い夜着のエルメントルーデが隣に現れた。ルドガーが顔を向けると、短く言った。
「お隣、いいかしら」
厚い石壁をくりぬいた窓枠は、長椅子《ながいす》のような幅がある。ルドガーがうなずくと、彼女は向かいに腰を下ろした。城門の松明《たいまつ》のほのかな光を受けた姿は、薄く色づいた花束のように見えた。
口を利かぬまま、しばらく外を見つめた。
夜警の馬蹄《ばてい》の音が、カッカッと下方を通過していく。――ふとルドガーは思った。こんな風に隣に来てくれたことは、初めてだ。
「町のことを考えていらっしゃる?」
聞かれてルドガーはうなずいた。
「ああ」
「そんなにあの町が好き?」
続けて聞かれて、またルドガーはうなずいた。
「おれが作った町だからね」
「町の何がそんなに好きなの」
「町は人だよ。人が好きなんだ」
「好きな方がいらっしゃるの?」
エルメントルーデがルドガーを見つめた。視線を感じながら、ルドガーは続けた。
「弟や司祭どのが今ごろどうしているか……ヘンルリックやクリューガーが何をしているか。そういうことが気になるのさ」
「お元気なのね、弟さんや、あのひょうきんな司祭様。でも、あとのお二人は知らないわ」
「ヘンルリックは海賊だよ」
「まあ……海賊」
エルメントルーデが目を見張った。ルドガーは軽く笑って顔を向けた。
「そう、乱暴者の海賊だ。船を襲って荷を奪う……だが、本当は苦労人でいいやつなんだ。一度会わせてやりたいな」
「面白そうな方ね」
「クリューガーは子供だ。リュシアンの子供だよ」
口にしてから、まずいことを言ったような気がしたが、そんな心配は必要なかった。
「弟さんに、お子さんが生まれたの? あの、ちょっと気難しそうだった彼に?」
エルメントルーデは明るく目を輝かせたのだ。
「いつ生まれたの? 男の子、それとも女の子? ……ああ、その名前なら、男の子に決まっているわね」
「この春、数えで四歳になったよ」
「元気に育っているのね。素敵……ほんとうに素晴らしいわ。ルドガーさま、ずいぶん遅れてしまったけれど、おめでとうを言わせてちょうだいね」
そう言って、我がことのように幸せそうに目を閉じた。みずみずしい唇から、敬虔な祈りのつぶやきが漏れた。
そんな彼女を見ていると、愛しさとも不憫《ふびん》さともつかない、何かわけのわからぬ衝動がこみ上げて、ルドガーは思わず真情を口にしていた。
「ルム、おれと子供を育てないか」
はっとエルメントルーデの顔がこわばった。柔らかくほどけかけていた彼女が、また硬い殻のうちにこもってしまうように見えた。
ルドガーは慎重に、追いすがった。
「レーズスフェントに、クリューガーより二つ上のダリウスという子がいる。……孤児だ。だが、とてもしっかりしていて、優しい。おれはその子を後見してやっているんだ」
「私に、その子の面倒を見ろと?」
「そうだ。おれの妻として」
エルメントルーデが息を呑んだ。湧き出す感情を無理に抑えるかのように顔を背けたが、不意に、何かに気付いたらしく、唇を震わせてルドガーを見つめた。
「……知ってらしたのね?」
ルドガーは身を乗り出した。エルメントルーデが傷ついた様子で身を引いた。
「知っていたのに、黙っていらしたのね。私の……体のこと」
「ルム」
「やめて」
エルメントルーデは立ち上がり、苦しげな笑みを浮かべて、小さく膝を折った。
「ありがとう、ルドガーさま。お気遣いはとても嬉しい……。でも、結構です」
そう言って、身を翻そうとした。
ルドガーは立ち上がり、腕を取って引き戻した。そして、ずっと焦がれていた女を腕の中に収めた。
「行くな、ルム。おれはずっと」
ルドガーさま、とつぶやいた細い体を、強く抱きしめる。
「ずっと君を思っていたんだ。同情なんかじゃない。同情でこんなに苦しいわけがあるか。君があいつのところにいるあいだ……」
頭を離して見ると、エルメントルーデは泣き出しそうに顔をゆがめていた。ルドガーはその唇を奪って、彼女の体から力が抜けるまで抱き続けた。
長い接吻《せっぷん》のあいだに、硬くこわばっていたエルメントルーデの体は、また柔らかくほどけていった。やがてルドガーが顔を離すと、確かめるように、そっと身を預けてきた。
「本当に……ルドガーさま、本当にこんな私を?」
ルドガーは、形のいい頭に頬を当ててうなずいた。そして、まだためらっている様子のエルメントルーデの体をひと息に抱き上げ、彼女の寝台まで運んでいった。
二度目の接吻では、もうエルメントルーデは抵抗しなかった。かたわらに腰かけて顔を寄せるルドガーを、横たわったまま目を閉じて待ち受けた。ルドガーが唇に息吹をかけると、腕を伸ばして頭を抱きしめた。
胸骨に硬いものが当たるのを感じて、ルドガーはわずかに身を浮かせる。エルメントルーデが乳房の間から、麻の紐《ひも》を通した木彫りの卵を引き出した。蓋《ふた》が開いて中の結晶が覗く。ルドガーが手で触れようとすると、エルメントルーデが声を上げた。
「あ、いけない」
「ん?」
ルドガーは結晶に触れ、元通り蓋をしてから邪魔にならぬよう横へ退けた。結晶は静かに沈黙していた。
「いいえ、なんにも……」
「ルム」
ルドガーは女の背に手を回し、夜着を脱がせていった。エルメントルーデはときおり体を浮かせて身を任せた。
やがてルドガーが深く身を沈めていくと、ゆるやかに胸を波打たせて受け止め、見えない束縛から解き放たれたかのように、大きく背を反らせた。
「井戸……」
エルメントルーデが、胸元でぽつりと言った。
「井戸?」
ルドガーは髪に顔を埋めたまま問い返した。
「井戸を使えば、逃げられると思うの」
「井戸から、どうやって?」
「地下水槽……」
エルメントルーデのささやきが耳に入り、胸に染み渡るまで、しばらくかかった。やがてルドガーは驚いて身動きした。
「あの大水槽か」
幼いエルメントルーデと初めて出会った、神殿めいた大空間。あの巨大な水槽から、城中の井戸や洗い場が水を取っているのだ。確かにあそこなら、城の外へつながる通路ぐらいあるだろう。
「井戸があるのか。この館の中に?」
「台所に内井戸がひとつ……」
「それなら話は早い」
ルドガーは一気に身を起こして、エルメントルーデを見下ろした。
「よく思い出してくれたな、ルム。案内してくれ。早いほうがいい」
だがエルメントルーデは、うつむいたまま顔を上げようとしなかった。ルドガーはいぶかしんで、その裸の肩に触れる。
「ルム、どうした?」
「叱《しか》ってください、ルドガーさま」
顔を上げたエルメントルーデは、自責のためか、きつく目を閉じていた。
「私、最初から知っていたの。井戸が外につながっていること。教えたらルドガーさまがいなくなってしまうから、黙っていた。ごめんなさい! 本当は私のほうがルドガーさまを欲しがっていたのに、試すようなことをして……」
身を縮めて恥じ入るエルメントルーデを黙って見つめてから、ルドガーは何も聞かなかったというように首を振った。
「ここから出れば、君のお父上とはもう会えなくなる。それでもいいな」
「それは……ルドガーさまこそ、それでいいの? レーズスフェントが、攻められてしまうのでは」
「放っておいてもレーズスフェントは攻められる。町の人間も覚悟しているはずだ。ならば、おれがいたほうが幾分かは勝ち目が増える」
そう言って、ルドガーは手を差し出した。
「だから、君をさらってルプレヒトさまの逆鱗《げきりん》に触れたところで、何も変わらない」
エルメントルーデはその手を見つめてほんの少し迷っていたようだったが、やがてしっかりと握り締めた。
「お供いたします。あなたが去れと言うまでは」
「言うものか」
闇《やみ》の中に、花よりも朗らかな笑顔が浮いた。
寝台を降りて支度を整えながら、二人は話しあった。
「ネージを起こしてきてくれ」
「彼女はいいの、後から自力で来るから」
「しかし」
「もう年だから、いざというときはそうしてくれと頼まれているのよ」
「わかった、機会を待とう。他に心残りは?」
「いいえ。でも、ハインシウスにはひとこと残していきたい。ルドガーさまも何か?」
「御武運を、と」
「書き置きします。ルドガーさま、そちらにあなたの靴が。グディから買い戻しました」
女物の外出着など存在しなかったが、エルメントルーデはスカートの裾《すそ》をかがって、二股《ふたまた》のふっくらしたタイツのようなものを手早くこしらえた。支度が済むと、二人は連れ立って部屋を抜け出した。
らせん階段を通って一階に降り、隅の台所に入る。暗闇の中を手探りで進んで、井戸を探し当てた。蓋を開けて中を覗いたが、当然何も見えない。冷たい風だけが吹きあがってきた。
「縄と桶《おけ》はあるか」
「ここに」
「二本ほしい。叉《また》にして垂らして、降りた後で縄を引き下ろす」
「ごめんなさい、この辺りにはなさそう」
「拷問塔にあったな……」
拷問塔は館の反対の端だった。ルドガーはエルメントルーデを待たせて廊下へ出た。牢獄の殺風景な通路だ。どこかで囚人が寝返りでも打ったのか、ガチャリと鎖の音がした。
冷たい恐怖の記憶が背中を滑り降りる。だが、夜間は獄吏はいないはずだ。入り口の外に牢番が居座っているだけで、彼らも夜中は恐れて入ってこないと、ネージが保証していた。
ルドガーは強く首を振り、足音を殺して歩き出した。
深夜の拷問塔には生々しい血の匂いだけが満ちていた。手前の道具部屋で首尾よく縄が見つかり、ルドガーはそれを持って戻ろうとした。
「ルドガー!」
突然、叫び声が静寂を破った。ルドガーはびくりと足を止めた。
声はすぐそばの房から出たものだった。ドタリと扉に体を押し付ける音がして、羽目板の隙間《すきま》から歓喜の声がまた飛び出した。
「ルドガー、やっぱりルドガーだな。あんた、うまいこと抜けやがったじゃねえか! おれのおかげだぞ、おれの。挨拶ぐらいしてったらどうだ、え?」
織匠は妬みに満ちた声で叫び、けたたましく扉を叩いた。別の房でも囚人が動き出す気配がした。
すぐに牢番も気付いて飛んでくるだろう。ルドガーは舌打ちして樫板にささやきかけた。
「静かにしろ、こいつ!」
「静かにしろだって? ハッハッ、誰がしてやるか! ほら、ほら、ここを開けな。朝までだって喚《わめ》いてやるぞ!」
ルドガーは閂を蹴って外し、走り出した。扉から転がりだしたアーレンの歓喜の声が、淀《よど》んだ空気を震わせた。
「ほっほう、外だ! こんちくしょうめ、出てやったぞ! アッハハハ!」
牢獄中から罪人の喚き声が上がり、ルドガーの背を打った。
台所に飛び込んだルドガーは、もはや細工をするどころではなく、手に入れた縄を調理台の脚に結びつけると、井戸に放りこんだ。恐怖に顔を引きつらせたエルメントルーデが駆け寄ってきた。
「ルドガーさま、あれは?」
「すまん、囚人に気付かれた。背中につかまれ!」
水汲《みずく》み桶にエルメントルーデをまたがらせて吊り下ろすつもりでいたが、そんな余裕はもうなくなった。ルドガーは彼女を背負って、縄を伝い降り始めた。二人分の重量に縄がきしむ。井戸の縁から身を沈めるとき、牢番が戸を開けるバタンという音がした。
手の中で縄を滑らせて、ルドガーは暗闇の中を降りていく。すぐに摩擦で皮が剥けて、繊維が肉に刺さった。声を殺したつもりだったが、わずかにうめきが漏れた。耳元で声がした。
「ルドガーさま、手が?」
「大丈夫だ、あの鞭に比べたら、この程度」
当分、剣を握ることも出来なくなりそうだったが、ルドガーはそう答えた。
唐突に周囲の圧迫感が消え、風が吹きつけた。地下水槽に達したのだ。エルメントルーデが服のボタンをひとつ落とすと、数秒後に音がした。
……カツン……。
「水がないわ!」
悲鳴のような声を漏らす。ルドガーは顔をしかめる。ボタンの音からして、また十クラフターやそこらはある。落ちたらただではすまない。
「絶対に手を離すな」
自分の手で支えてやれないことをもどかしく思いながら、ルドガーは言った。
二人の運は、少しだけ足りなかった。まだ空中にいるうちに、頭上から声がしたのだ。
「ここだ、この縄を切れ!」
ルドガーが身構えるより早く、縄の手ごたえがなくなった。浮遊感が体を包む。とっさに体を回してエルメントルーデをかばってやろうとしたが、彼女も同じことをした。二人の体が不自然に支えあったまま、地面に激突した。
「うぐっ!」
ルドガーは苦鳴を耳にし、体の下で細いものが、ごきりと曲がるのを感じた。
「つぅ!」と細い悲鳴が上がる。すばやく飛びのいたが、手遅れなのは明らかだった。体を支え起こしてやると、エルメントルーデの声が聞こえた。
「ルドガーさま、おけがは?」
「なんともない。しかし君は」
「大丈夫……」
語尾は細くなって消えた。声を殺している。ルドガーは彼女の足に触れ、先ほど愛撫《あいぶ》したばかりの形のいい足首が、奇妙な方向に曲がっていることに気付いた。
エルメントルーデが気丈にも言う。
「私でよかった……ルドガーさまの足が折れても、背負ってあげられないものね」
「黙ってろ」
そうとしか言えず、ルドガーはもう一度彼女を背負いなおして歩き出した。
エルメントルーデが彼の頭を一方向へ向けさせる。
「あっちよ」
「なぜ?」
「少し明るいでしょう。あれは馬場の大井戸。星明りが差し込んでいるの。あの向こうに洗濯場に上がる階段があるわ」
しかしそちらへまっすぐ進むことは出来なかった。途中、水の残っている箇所があったのだ。エルメントルーデが言う。
「わざと作られた深みよ。乾季でもそこに残った水を使えるようにしてあるの」
「前にもそんなことを教わったな」
重くない? とエルメントルーデが聞く。ルドガーはうなずく。
「君はずいぶん重くなった」
「いやだ……」
「前は風に飛ばされてしまいそうだった。これぐらいがいい」
実際、背中に彼女の存在を感じていること自体は、ルドガーに取って純粋な喜びだった。
だが、洗濯場への階段を上りかけたルドガーは、人声を聞いたような気がして足を止めた。
「ルドガーさま?」
「しっ」
空耳ではなかった。角笛の音と守備兵を呼集する叫びが聞こえた。足音の一部はこちらへ走ってくるようだ。
「大事《おおごと》になってしまったな。他に出口は?」
「待って、思い出します」
しばらく沈黙したエルメントルーデが、やがて、左へ向かってと言った。
それから長いあいだ、二人は出口を求めて暗闇の中をさまよった。フランク王国時代に建造されたレール城の地下水槽は、単純な四角い空間ではなかった。そこには地上の城郭を支えるための太い石柱とアーチが入り組んでおり、後の世に地上で増築が行われる都度、さらに支柱も増やされていた。それは正しく迷宮というべき空間だった。
「ルドガーさま、もう水路を越えた?」
「越えるはずだったのか?」
「少し手前に細い支流があったはずよ」
「わからん、またいだかもしれない、水が涸《か》れていたのかも」
明かりもないまま、手探り足探りで進む二人は、次第に消耗していった。一方、追っ手の人数は増える一方で、前後左右のどちらにも松明の光がちらつくようになった。
支柱と支柱の間の暗闇で、ルドガーはいったん足を止めた。エルメントルーデが滑り降りて、足元を手で確かめた。
「ルドガーさま、ここには水があるわ」
「ああ」
手ですくって飲んでいると、エルメントルーデが言った。
「しばらく片足でついていきます」
「いや、まだ負ぶさってろ。最後の最後に、走らなければいけないかもしれない」
何か言おうとして口をつぐみ、エルメントルーデがルドガーの肩をそっとつかんだ。口で謝られなくとも、彼女の気持ちがわかった。
突然、横から光を浴びせられた。ルドガーは相手を確かめもせず、エルメントルーデを抱き上げて走る。龕灯《がんどう》を手にした敵が、「いたぞ!」と叫ぶのが聞こえた。
「まだ出口はあるか」
「わかりません、でも入ったことのない通路があるの。あとは、そこしか」
「よし」
エルメントルーデが知識の限りを尽くして道を教え、ルドガーはぎりぎりで追っ手をまき続けた。やがて二人は、大水槽の角に当たるらしい、二枚の岩盤の隙間に駆けこんだ。膝までの水をざばざばとかきわけて進む。
「エルメントルーデ!」
聞き覚えのある大声に、二人は振り返りそうになった。彼女をそんな風に呼ぶ人間は、ひとりしかいないはずだった。
「お父さま……!」
ルドガーはその時、狭い通路の先に光が差していることに気付いた。
「出口だ!」
角を曲がった途端、彼は足を止めた。
窓があった。ちょうど大人ひとりが立ったまま潜《くぐ》り抜けられそうな窓が。
それは、ルドガーの背丈の五倍近い高みに開き、まばゆい朝日を取り込んでいた。
エルメントルーデが呆然とつぶやいた。
「これは……この地下水槽の、あふれ口……」
「大雨用のな」
振り向くと、松明や短剣を構えた騎士たちに周りを囲ませて、まだ夜着姿の壮年の男が立っていた。東フリースラント伯爵ルプレヒトその人だ。
「久しぶりだというのに、残念だ、ルドガー。おまえがこんな男になるとは」
ルドガーはエルメントルーデを下ろして、水の中に片膝を突く。
「ようやくお目どおりがかないました、ルプレヒトさま」
「会いたくもなかったわ、この裏切り者め」
「私は、あなたを裏切ったことなど一度もございません」
「実の親に逆らったのは、わしに逆らったも同然だ」
実父ヴォルフラムに弓引いたことを指摘されて、ルドガーは小さからぬ驚きに打たれた。今その件を蒸し返されるとは。
「それは、お許しを下さったではありませんか。開市特権状《ハンドフェステ》を賜るという形で」
「あれが許しだと思ったのか? 人が好いな、ルドガー。許していたなら、エルメントルーデを取り上げたりするものか」
その意味するところを、ルドガーはゆっくりと理解した。理解するとともに、主君を目にして掻《か》き立てられた忠誠心も、再び消え去っていった。
「それではあなたは……最初から、私のことを少しも信頼されていなかったと」
「したのなら、そばに置いていた」
言わずとも察しろとばかりに、顔を歪めて伯爵は吐き捨てた。
ということは、ルドガーへの騎士叙任すらも、使いづらい若者の厄介払いだったのかもしれない。例えようもない脱力感に襲われ、ルドガーはざぶりと両手をついた。そばに寄り添ったエルメントルーデが声をかけたが、衝撃のあまり、ほとんど耳に入っていなかった。
――おれは騎士に相応《ふさわ》しくないのではなく、そもそも騎士ではなかったということか。
「エルメントルーデ、下がっていなさい。おまえまで死ぬことはない」
伯爵の娘は身動きもしない。ぴったりとルドガーに寄り添っている。恐らくその目はまっすぐに父親へ向けられているのだろう。ルドガーは顔を起こし、その想像が間違いではなかったことを知った。
愛した女が微笑みかけた。
「ここにいます」
「ああ」
ルドガーは体を起こし、エルメントルーデを抱きしめた。伯爵の目配せを受けて、後ろから弩《いしゆみ》を抱えた二人の傭兵が前へ出てきた。
伯爵が声高らかに問うた。
「最後に聞くぞ、ルドガー・フェキンハウゼン。おまえはデンマーク王ヴァルデマール四世と通じたか!」
「神かけて、否」
「虚偽だ」
一言の下に断じると、伯爵は片手を振った。傭兵の弩が、バンと音を立てて矢を放った。
矢は一本がルドガーの肩に刺さり、もう一本がエルメントルーデの首を掠めて後ろへ飛んだ。二人は声も上げずに身を縮める。
その時、木彫りの卵がエルメントルーデの胸から滑り落ちた。矢に紐を切られたのだ。
とぷん、と足元に水しぶきがあがる。
次の瞬間、劇的な変化が起こった。
卵を中心に、足元の水が盛り上がった。始めは小さな泉のように、それから強い噴泉のように。ほんの子供の拳ほどの結晶が、膨大な量の水を放出していた。瞬く間に水量は増大し、人の背丈よりも大きな噴流を形作った。
狼狽《ろうばい》した伯爵が、後ろへ下がりながら叫んだ。
「捕らえろ!」
弩は再び巻き上げるまで使えない。代わりに短剣使いたちが飛び出した。しかし、際限なく増大する噴泉に行く手を阻まれ、転倒する。泉は挑みかかられて腹を立てたかのように、さらに一段水量を増し、背丈の三倍にも達する巨大な水柱を吹き上げた。狭い通路を満たした流れが、倒れた剣士も弩使いも伯爵も、全員をもみくちゃにしながら元来たほうへ押し流した。
無論、この凄まじい異変を受けては、ルドガーとエルメントルーデの二人も無事ではいられなかった。それどころか、行き止まりを背にした二人は逃げ場がなく、湧き上がる水の圧力で壁に押し付けられ、溺《おぼ》れかけていた。
「ルム、ルム……!」
「ルドガーさま、力を抜いて!」
傷ついた肩をかばってもがいていたルドガーは、エルメントルーデの叫びを聞いた。だが、抵抗をやめた途端に水中に沈みそうな気がして、とても従えなかった。
「力を抜いて、お願い!」
叫びとともに、首の根を強く引かれた。一《いち》か八《ばち》か、と彼女を信じて、ルドガーは死体になったつもりで体を弛緩《しかん》させた。
めちゃくちゃに荒れ狂う水流の中から、水面の上に顔を引き上げられた。ルドガーは激しい呼吸を繰り返す。振り向くと、片手で岩盤の隙間につかまったエルメントルーデが、増え続ける水の圧力に身を任せるようにして、少しずつ石壁を登りつつあった。
「大丈夫か?」
「私は大丈夫、泳げます! でも、早くルドガーさまもつかまって!」
言われるまま石壁の凹凸をつかみ、見よう見まねで彼女のように体を浮かせてみた。
慣れてくると、難しいことではなくなった。下からじりじりと押し上げられるまま、手を壁に滑らせていくだけなのだ。すでに二人のいる場所は床から二クラフター(三・六メートル)の高さを越えていた。恐るべき勢いで水を放出する卵は、いつの間にか深みへ転がっていってしまったらしく、もう暴力的な水流を感じはしなかった。ただ水位だけがゆっくりと上がり続けている。恐らくこの水は地下水槽全体を満たしつつあるのだろう。
「|川の卵《フルス・アイ》=Aといったかしら」
エルメントルーデがつぶやいた。ルドガーはうなずき、こんな時だというのに、苦笑を漏らした。
「あいつらしい奇跡だ」
「私たちがここで危機に出会うことを、知っていたのかしら?」
「さて、な」
予知などではない気がした。むしろ、何が起こるか予想できなかったからこそ、こんなものを持たせたのだろう。どんな危機も愁嘆場も、大洪水で押し流してしまうために。
やがて二人は、あふれ口まで押し上げられた。そこは城壁の外側に当たる、川に面した丘の斜面だった。二人は外へ出て、斜面を下った。エルメントルーデに肩の矢を抜いてもらっていると、後からあふれ出した水が滝のように降ってきた。
時刻は早朝で、朝日に照らされて薄いもやが急速に晴れて行きつつあった。レール城内は溺者《できしゃ》の救出で大混乱になっているらしく、外回りへ出ている者は一人もいなかった。ルドガーは用心深く正門の様子をうかがいに行ったが、警戒する必要すらなかった。門番も夜警も持ち場を捨てて手近の井戸へ向かっており、乗り手のいなくなった騎馬が、立ち木につながれて尾を振っていた。
ルドガーは馬を引いてきて、城門詰め所にあった剣や槍《やり》をかき集め、手早く鞍《くら》の掛け金にかけた。肩を射抜かれた自分と足をくじいたエルメントルーデとでは、徒歩で逃げることは不可能だ。人目につくことを覚悟で、馬で強行突破するのが最善の方法だろう。
エルメントルーデを鞍の後ろに乗せると、ルドガーは馬にひと鞭を当てた。
明けていく街道を、二人は風のように駆けていった。丘を下り、レール城を巡る川にかかる橋に差し掛かった。
そこで、手綱を引いて馬を止めた。エルメントルーデが不思議そうに身を乗り出した。
「ルドガーさま……?」
橋の上に、一騎の姿があった。二クラフターもある騎槍《ランス》を鞍の横に立てている。武骨な兜《かぶと》の面頬《めんぽお》を額に跳ね上げて、鋭い目でこちらを凝視していた。
ルドガーはうめいた。
「先生……」
手甲足甲胸甲を身に着け、ビロードのマントをまとい、胸前に盾を構えた完全武装で、ハインシウス・スミッツェンが呼ばわった。
「ルドガー・フェキンハウゼン、やはり来たか」
「先生、なぜここに……」
「腹を突いても死ななかった男だ。必ず生き延び、逃げてくると思った」
レール城の者のうち、彼だけは、ルドガーを守る泉の精霊の力を知っていた。だから彼だけが、ここでルドガーを待ちかまえることができたのだろう。
「ハインシウス、あなたも一緒に来て!」
エルメントルーデが明るく声をかける。だが、ルドガーは、彼が何のためにここで待っていたのか、うすうす見当がついていた。
ハインシウスが低い声で言う。
「ルドガー、ルプレヒトさまはどうなさった」
「私たちは死を賜るところでした。だから――」
「だから、逆に倒して、逃げてきたと?」
「倒してはいないわ、ハインシウス! 倒してはいないけれど……」
「同じことだよ、ルム。私たちは騎士なのだ。主君に背くことは出来ない」
「いいえ、違うわ。お父さまはルドガーさまを騎士とみなしていなかったのだもの。あの人はルドガーさまを利用していただけ」
ハインシウスがどんなつもりでいるか、彼女も気付いたらしい。叔父《おじ》と恋人の顔を交互に見つめながら、必死の面持ちでエルメントルーデは言った。
「だからルドガーさまはお父さまの騎士ではなかったのよ。この方は、私の騎士。私の命に従って行動したのよ!」
「こじつけを言うな、ルム」
「こじつけだったら、なんなの。痩《や》せても枯れても私は伯爵の娘よ。私が叙任するというのだから、ルドガーさまは本物の騎士なのよ!」
彼女の言葉の半ばから、ハインシウスが笑い出した。つられるように、ルドガーも笑った。低く短かった笑い声は、やがて朝の空気を押しのけるほどになり、高らかに空へ散っていった。
「おまえの騎士か、ルム。そうか、はっはっは!」
「ハ、ハインシウス? ……ルドガーさまも?」
エルメントルーデの顔に、戸惑いがちの笑みが浮かぶ。和解が成ったものだと思ったのだろう。だがルドガーには、師の笑いの意味が完全にわかっていた。
鞍の横に吊ってあった槍を外し、重心をつかんで小脇に抱えた。鏡に映った姿のように、ハインシウスも槍を小脇に構えた。互いに相手を左前方に見て、穂先を向け合う。
エルメントルーデが色を失って叫んだ。
「どうして、二人とも!」
答えの代わりに、ルドガーは肘《ひじ》で彼女を押した。
「降りろ、ルム」
「いやです!」
止められぬと悟ったのか、エルメントルーデはひしとルドガーの腰にしがみついた。そうまでされてはルドガーも否やはなかった。
師に目を向けて、叫ぶ。
「参る!」
「おう!」
同時に馬の腹を蹴り、前進させた。
だく足で進み始めた馬が、ルドガーの指示に応じて次第に勢いをつけ、襲歩となって大地を蹴る。ルドガーは鐙《あぶみ》に足を突っ張り、どっしりと腰を落として、鞍の背板に体重を預ける。騎士の最強の攻撃を支えられる姿勢を、全身で取る。穂先の向こうから猛烈な勢いで相手が迫る。左半身にぞくぞくと武者震いが走る。
一瞬の交錯!
ドッ、と骨まで響く重い衝撃を受けて、かたく目を閉じた。戦場で、決闘で、何度経験しても慣れない、昂揚《こうよう》と恐怖の瞬間だ。年長の騎士たちがよくこう言っている。やられる瞬間というのは、何がなんだかわからないものだ。叩き落とされてもわからない。痛みはずっと後になってやってくる。すぐに確かめることが肝要だ……。
目を開けたルドガーは、自分の槍がまだ折れていないこと、その先に黒い丸いものが突き刺さっていることに気付いた。
「先生!?」
手綱を引き、馬を鎮めながらよく見ると、刺さっているのは鉄を張った木の板だった。ハインシウスが持っていた馬上盾だ。
振り返ると、空の馬が興奮して跳ねているのが見えた。道の脇に、落馬したらしいハインシウスが倒れている。
「先生……」
「ル、ルドガーさま」
目を落とすと、エルメントルーデはかろうじて腰にしがみついたまま、真っ青な顔でがたがたと震えていた。大の男でも途中で怖《お》じけて避けてしまうことのある、騎槍決闘を経験したのだ。失神しなかっただけでも上出来と言えた。
ルドガーはしばらくハインシウスを見つめていた。首や腕が変に曲がったような様子はない。やがて気だるそうな動きで起き上がるのが見えた。それを確かめると、盾が刺さったままの槍をその場に捨てて、ルドガーは先へ馬を進めた。
「大丈夫かい、ルム」
「ええ」
しばらく手を握ってやると、エルメントルーデは落ち着いたようだった。やがて呼吸を整えながら、聞いてきた。
「なぜあんなことをなさったの」
「主君のために戦うのが騎士だ。あの人は逆臣のおれを見逃すわけにいかなかった。だがさっきの君のひとことで、逆臣退治ではなく、騎士と騎士との名誉ある決闘となったんだ。おかげで、おれも先生も喜んで命をかけることができた」
「名誉ですって……ルドガーさま、私のことは、町のことは?」
エルメントルーデが真剣に腹を立てた様子で、詰め寄る。
そんな彼女を愛しく思いつつも、先ほどの決闘で胸の中に湧きかえった自分の魂を、ルドガーは誇りに感じていた。
「すまん、忘れていた」
エルメントルーデは絶句した。
彼女の細い手を握り締めたまま、ルドガーはいっさんに馬を走らせていった。
初夏の深夜、自宅で眠っていたリュシアンは、髪の毛を引かれて目を覚ました。見れば、小さなイタチが顔を覗きこんでいた。
イタチの後についてローマの泉へ向かうと、石壁の前に男装の女が腰かけていた。リュシアンは声を上げて歩み寄る。
「プリムス、久しぶりじゃないか。どこへ行っていたんだ。前に会ってから、確かもう……」
「二ヵ月半よ、リュシアン」
レーズの口調はいつにも増してそっけないものだったが、リュシアンは構わず話した。
「そう、そんなになる。何度も会いにきたんだぞ。僕たちはいま、大変な大ごとを始めたんだ。力を貸してくれ」
「大ごととはどんなことなの」
「皇帝陛下に願い出て、レーズスフェントを帝国自由都市《フライエ・ライヒスシュタット》にしていただく」
「ルドガーを救い出す計画ではないの?」
「知っていたのか? でも、それはもうやっている。でも兄様を救っても、名分がなければ反逆者になってしまう。これはそのための事業だ」
「ふむ」
レーズは足を組みなおして腰を落ち着けた。とりあえず話を聞いてやろうということらしい。リュシアンは続ける。
「帝国自由都市《フライエ・ライヒスシュタット》になるということは、レーズスフェントが東フリースラント伯爵の庇護《ひご》下を離れ、帝国直属になるということだ。そうなれば、もはや兄様が伯爵に身分を脅かされることはない。伯爵がいかに不満を抱いたとしても、神聖ローマ皇帝陛下に表立って逆らうことはできないからな」
「伯爵の支配を逃れても、皇帝に支配されるのだったら、同じことじゃない」
「いや、大違いだ。皇帝陛下は遠方の宮廷におわすから、こちらに支配権を及ぼすことはほとんどない。一方で自由都市となればレーズスフェントの民の身分や財産が保証され、何人もこれを侵すことは禁止される。もとの君主はもちろん、近隣の聖界君主もだ」
「そんなうまい話が本当にあるの?」
「もちろん、ただでそんな特権が得られるわけじゃない。引き換えに、皇帝陛下に対して税を納めなければならなくなる。でも、これまでのような無理難題よりはましだろう」
「要するに、虎《とら》の威を借る狐《きつね》になるわけね」
意地悪く言うレーズに、リュシアンは肩をすくめてみせる。
「どこの土地にも、獰猛《どうもう》な獣が数知れず跋扈《ばっこ》しているご時世だ。借りられるものならば虎の威でも蛇の皮でも借りたほうがいいと思うね」
「ふむ、でもそれは現実的な考えなの? 着想はいいかもしれないけれど、簡単に実現するようなことならば、ほうぼうの村々がこぞって皇帝に願い出ているはずでしょう。でも、そんな話は聞かない」
「帝国自由都市《フライエ・ライヒスシュタット》は全土に四十以上ある。知らないのか」
「紙に書かれたことには詳しくないのよ」
レーズは憮然《ぶぜん》とした顔になる。彼女の眷属《けんぞく》は獣や鳥たちが多い。各都市の場所や産物には詳しくても、人と人とが文書で交わす契約などはなかなか知ることができないのだろう。
「実現のための当たりもつけ始めている。帝国都市ともなれば一村では成立しない。周辺の村々も巻き込まなければいけない。だからフェキンハウゼン領だけでなく、ノルデン領やヴィトムント領からも支持を取り付けている」
「それは手際のいいことね」
「それに、ここが大事なんだが、ぼくがお願いしようと思っているのは今の皇帝陛下じゃない」
「へえ? じゃあ、誰なの」
「モラヴィア辺境伯カール」
少し首をかしげたレーズが、あの伊達男《だておとこ》ね、とまるで旧知の間柄のように言った。これにはリュシアンも驚いて、聞き返した。
「知っているのか?」
「十五年ほど前にパリの宮廷へ留学に来ていたわ。五ヵ国語が話せるなどと大きなことを言って、よく娘たちをひっかけていた」
「確かにその人物だ。おまえにいてもらいたかったのは、そういうことを知りたかったからだ。伯の好みがわかっていれば、貢物なども送りやすい」
「そんな目的?」
レーズはいささか興ざめしたようにつぶやいた。リュシアンは続ける。
「今はご父君に代わって、かの人がボヘミアを治めておられる。大きな声では言えないが、この方が次期神聖ローマ皇帝になること間違い無しと、巷《ちまた》ではもっぱらの評判だ。いっぽうで今の皇帝ルードヴィヒ四世陛下は、敬虔だが陰気な方で、あまり人気がない。そんな方に入れ込むよりは、おそらく味方を欲しているはずの辺境伯に近づくほうが、重んじていただけるに違いない」
「きみらしい考えだわ、リュシアン」
「ぼくらしいとからしくないとか、そういうことはどうでもいい。的を射ているか?」
宙に目を泳がせたレーズが、筋のいい考えだと思う、と言った。
「アヴィニョンの教皇や、各地の選帝侯の会話にも、彼の名はよく出てくるわ。かなり気に入られているらしい。遠からず帝冠を手にすることでしょうね」
「そうか!」
「でもちょっと待って」
「なに?」
リュシアンは眉をひそめる。その時ようやく、レーズが最初からずっと上の空だったことに気付いた。
レーズは石壁の前からやってきてリュシアンの手を取った。泉のほうへ引こうとする。
「見てほしいものがある」
「待て、プリムス。ぼくは今」
また何ヵ月も幻視の世界に出かけているひまはない。そう言って抗おうとしたが、レーズは容赦ない力で腕を引き、リュシアンを泉へ引きずり込んだ。
「うわっ!」
青黒い淵《ふち》がリュシアンを飲み込んだ。乾いた水とでも言うべき、泉の奇妙な粒子がさらさらと体を包む。覚えのある感覚だ。レーズが従えている、数多くの|空っぽ人形《レール・プッペ》たちとつながるための儀式。リュシアンは抵抗をあきらめ、窒息の苦痛に耐えた。
やがて、いつぞやのように、出し抜けに苦痛が消えて、視界が回復した。
最初に目に映ったものに、リュシアンは息を呑んだ。
それは死体だった。地べたに横たわり、苦悶の表情で息絶えている男。死後何日も経《た》っているらしく、顔や腕には腐敗の兆候である斑点《はんてん》が浮き出していた。
リュシアンは驚いて、そのそばから離れようとしたが、うまく体が動かなかった。気がつくと、リュシアンは一羽のカラスになっているのだった。死体を覗き込んでいたカラスが首をかしげ、ちょんちょんと跳ねて飛び上がると、彼の見るものがリュシアンにも見えてきた。
そこは見知らぬ農村だった。二十戸ほどの家屋が立ち並んでいる。家々の間には、ぽつりぽつりと奇妙な毛玉のようなものが散らばっている。
郊外には背の低い平たい果樹の畑が広がり、ブドウやプラムのまだ青い実がたわわになっていた。
太陽のある方角に海が見えた。ドイツの景色ではないな、とリュシアンはすぐに見当をつけた。ヨーロッパの南側だ。プロヴァンスか、ロンバルディアか……あるいはアドリアか。
いったん飛び上がったカラスはまた高度を下げ、庭木に舞い降りて、農家の中を覗いた。
そこにも死体があった。男の子と女の子の小さな体がひとつの寝台に横たえられ、台所のほうでは、母親らしい女がテーブルの上に倒れ伏していた。いずれも腐敗が始まり、不気味な斑点に覆われていた。
カラスが家から家へと移っていくにつれ、リュシアンは次第に、恐れによる寒気を覚えるようになった。どの家にも死体があった。いや、死体しかないというほうが適切だった。男も女も、年よりも赤ん坊も、貧乏人も聖職者も、みな黒い斑点だらけになって死んでいた。
そして、そこらじゅうに小さな毛玉のようなものが散らばっていた。小さな耳と細長い尾を持つ小動物――ネズミの死骸《しがい》だ。
ある家で、リュシアンはさらに恐るべきことに気付いた。とうに死んでいるものと思われた若い男が、カラスが近づくと、ぱっと顔を上げたのだ。その目は血走り、口からは薄い血が混じったような桃色の唾液《だえき》を垂れ流していたが、とにかく彼は生きていた。
その体にも斑点が浮き出していた。特に首の付け根のそれは、まるで得体の知れない黒い生き物が皮膚を食い破って飛び出そうとしているかのように、まがまがしく膨れ上がり、硬く腫れていた。
斑点は、腐敗によるものではないのだ――リュシアンはそう察して、愕然とした。これはただの死に様ではない。邪悪な、ひどく危険なもののしわざだ。
明るく穏やかで、豊かなこの農村を、目に見えない悪魔のようなものが襲ったのだ。
――なんだ……これは。
心の中でつぶやくと、レーズの声が答えた。
――説明してもいい。でも、ひどく長くなる。それより、きみたちがこの病を知っているかどうかを聞きたいの。
――病? 病気なのか、これは。
――そうよ。人から人へうつる病気よ。
リュシアンは懸命に記憶を探り、ミュンスターの大修道院で読み漁《あさ》った書物に、このような病の記述がなかったか思い出そうとした。やがて、ひとつの病名が思い浮かんだ。
――ユスティアヌスの斑点……か?
――それはどういうもの?
――末期のローマ帝国を襲った疫病だ。確か、黒い斑点が出て大勢死んだと書かれていたが……。
――正確にはいつのことかわかる?
レーズはひどく性急に尋ねた。リュシアンは答えた。
――わからない。でも七、八百年は前だと思う。
――そんなに昔か……。
レーズの声には色濃い絶望の響きがあった。彼女がそんなに深刻な物言いをするのは初めてだった。
――どうした、昔だと何か不都合なのか。
――ええ、悪い。
レーズはきっぱりと言った。
――人の体は病と戦うと強くなる。だけど、以前の戦いが古ければ古いほど、その記憶は薄れてしまう。人は、知らない病に対してとても脆《もろ》い。これだけ強力な伝染病が、八百年もの時をおいて再来したとなると……。
レーズは言葉を切った。リュシアンも、カラスの目から見える光景に目を奪われる。果樹園の間を縫って、隊列を組んだ軍勢がやってきた。全員が油|壺《つぼ》をかついでいる。
軍勢は村に入っていき、すべての家と建物に油を浴びせかけた。まだ生きて動いている人間にも。それが済むと、素早いというよりは焦った動きで火を放ち、村から出ていった。
黒煙と炎が高々と上がり、ひとつの村を焼き尽くした。
「はぁっ! はあっ、はあっ」
水中から岸辺へ放り出され、リュシアンは激しくあえいだ。その後から、レーズが現れて並んだ。
「あれをよく覚えておいて、リュシアン」
「あれは一体どこなんだ」
「イタリア半島のある村よ。今の光景は一ヵ月前のもの。他にも片手に余る村で同じような事件があった。私は最近、この病気ばかり監視している。これが怖いのよ」
「最近姿を見せなかったのは、そのせいか……」
体を起こして、リュシアンは言った。
「でも、恐れるほどのことか? アドリア半島といったら千マイルも南だ。まるで関係ない話だ」
「この病が何千マイルも彼方《かなた》からやってきたものだと言ったら?」
リュシアンは沈黙する。レーズは押し殺した声で言った。
「私の人形はこの大地の半分を覆っている。その中でももっとも遠方から戻った渡り鳥が、少し前、私に急を知らせてきた。はるか東方、きみなんか聞いたこともないほど遠くの、馬に乗った黒髪の民が、革の家で暮らしている地で、この病が起こったと……」
レーズはうつむき、地を見つめる。
「それが、わずか五年前のことなのよ」
「五年……」
「馬に乗り船に乗り、この病はたった五年でイタリアまで辿《たど》りついた。あと千マイルを渡るのに、何年かかると思う? 一年? 二年?」
レーズが微笑んだ。見たこともないほど力ない笑みだった。
泉の精霊は歩み寄り、リュシアンをそっと抱きしめた。
「きみたちが死んでしまう」
「プリムス……」
「こんなに愛しくなったのは初めてなのに」
リュシアンはしばらく呆然と座り込んでいた。不死のこの女が恐れるような病がこの地へ到来する? リュシアンの腹の中に、得体の知れない熱いものが湧き上がった。その熱に動かされ、リュシアンはレーズの両肩を静かにつかんだ。
「馬鹿なことを言うな」
「リュシアン?」
「死んでたまるか。そんなものは、来させやしない。病気だろうが悪魔だろうが、レーズスフェントに入れはしない」
リュシアンは、レーズの瞳《ひとみ》を見つめて力強く微笑んだ。
「ぼくが守ってやる。この町を」
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第六章 レーズスフェントの決戦
ラルキィであるヴァルデマール四世は、己の記憶を深く深くたどることができる。
ラルキィはレーズと同じように、星で生まれ、宇宙へ出て、別の星に降りる生き物だ。その生活環を数え切れないほど繰り返してきた。
この星にたどり着いた時、ラルキィは海に落ちた。そして、その場に漂っていたクラゲに入り込み、まずはその体を支配した。
クラゲとしての生活は快適で何の苦労もなかったが、刺激に乏しく、ラルキィの興味を満たすものではなかった。ある日、高い背びれのある大きな魚がやってきて、クラゲを食べた。これ幸いと、ラルキィはその魚に乗り移った。
マンボウの生活は、クラゲよりは興味深いものだったが、知的な展開には乏しかった。ラルキィはこれにもすぐに飽きた。やがてマンボウは死に、海底に沈んだ。微生物と節足動物が集まってきてこれを捕食した。ラルキィはできるだけ大きなカニを選んで、これに乗り移った。
何度かの移住と死が続いた。どの生物もラルキィの興味を満たしはしなかった。しかしあるとき、機会が訪れた。
サバとなっていたラルキィを、漁網が捕らえたのだ。多くの仲間とともにわけのわからぬままラルキィは引き上げられ、暗く劣悪な環境に押し込められて窒息死した。そこはつまり、船倉だった。死んだままラルキィは港に運ばれ、解体され、塩とともに樽詰《たるづ》めにされた。
三ヵ月後、再びラルキィは光を浴びた。誰かが樽を開け、サバを食卓に乗せたのだ。そしてラルキィを嚥下《えんか》した。
そこで初めて、ラルキィは人間というものになった。
人間は高度の思考に耐えうる脳と、活発な肉体を持っており、ラルキィを満足させた。さっそくラルキィは乗っ取った人間と同化して、好奇心と肉体的欲求を満たすことにした。しかしすぐに困難に遭遇した。ラルキィが町へ出て多くの人と開けっぴろげな会話をしたり、文字や音楽というものに興味を持ったり、あるいはこれと見込んだ異性に繁殖を迫ったりしようとすると、周囲の仲間たちが強硬に制止してきたのだ。
そこでラルキィは、人間を(特に適齢期の女を)束縛する、数多くの社会規範について知ったのだった。
ラルキィは、それまで自分のために使っていた脳の一部分を、宿主に返して、質問した。
「慎みという言葉はどういう意味だ」
宿主の娘は、ぼんやりしていた頭が急にすっきり冴《さ》えたように感じたが、同時に、自分のものでない放埓《ほうらつ》で淫《みだ》らな考えがどこからともなく湧《わ》いてきたので、驚き、混乱した。ラルキィの質問にもまともに答えようとしなかった。
仕方がないのでひとまずラルキィが欲求を抑え、元のように貞淑な暮らしをさせてやると、彼女はどうやら安心した。じきにその事態を説明する適当な概念を思いついたらしく、こう尋ねた。
「毎夜私に話しかけてくださるお方、あなたは天なる主《しゅ》なのですか」
「いかにも、そうだ」
そういう答えが期待されていたので、ラルキィはそう答えた。娘は納得し、以後、従順になった。
娘が落ち着いたので、周囲の人間も安心した。突然町へ出て物を盗んだり、男を誘ったり、あるいは独り言を繰り返すといった奇行に走ったので、心配されていたのだ。
ラルキィは人間でいるためのコツを飲み込み、うまく社会の中で暮らすようになった。娘の周りには血のつながった家族という集団があり、その周りには「通り」があり、通りが寄り集まって町を構成し、町は王国の一部をなしていた。自分がスウェーデンという王国の、ストックホルムという町に住んでいることを、ラルキィは理解した。
ストックホルムの街中で一人の女として生きていくことは、マンボウやカニでいたころよりも、ずっと興味深かった。娘には髪結いの母親と、木挽《こび》きの父親がおり、他にも祖父母や兄弟や親戚《しんせき》や従兄妹《いとこ》、近隣の同性や異性などの大勢の関係者が存在した。しかもこれらは、ラルキィが同化する前からの関係者でしかなく、言葉や文字というものを使えば、この何十倍もの人間と複雑な接触ができた。
それこそ、ラルキィの求めていたものだった。
自我のある者同士の、高度な接触。知性体同士の、複雑で活発な相互作用。
ラルキィは娘の協力を得ながら、周囲の人間との接触を増やし、相手から接触を求められることが増えるよう努めた。娘はそれを、自分が賢く明るく社交的になったように感じて、歓迎した。またラルキィは、より明確な反応を引き起こすために、はっきり意見を表すことを繰り返した。それによって敵ができたが、明確で有力な味方も出来た。
またラルキィは宿主を節制させ、肉体の健康を維持した。娘はそれを、自分が見違えるように美しくなったと感じた。
間もなく娘は近隣で評判になり、ある独身の貴族の目に留まって、輿入《こしい》れすることになった。結婚したラルキィが知ったのは、身分が上がると交際が増え、より多くの情報が入ってくるということだった。いっぽうで貧しい者や身分の低いものは、ひとつところに留め置かれ、満足に情報にも触れられず、野の生き物と同じような暮らししか出来ていないのだった。
このときラルキィの中で、ひとつの道筋が出来た。
身分を高めて、多くの物事を知り、それによってさらに多くの人を仲間にし、さらに高い身分に上るという道筋だ。
それを可能とするためには、今までのように捕食によって乗り移るわけにはいかなかった。それでは、今までに築いた社会的な立場を失ってしまう。
社会的な立場とともに、次の宿主に移行しなければならない。――ラルキィは、世襲に意味を見つけたのだった。
ラルキィは娘が産んだ子供に乗り移った。このころには娘はラルキィの明晰《めいせき》な思考と行動に身を任せ切り、おのれの思考というものをすっかりなくしていたので、ラルキィが抜け出すと、腑抜《ふぬ》けのようになってしまった。しかしそれを気の毒に思う余裕は、ラルキィにはなかった。何年もともに暮らした体を捨てて、生まれたばかりの赤ん坊に乗り移ったのである。まだ自我も肉体も出来上がっていないその肉塊を、一人前の人間に育てるという大仕事が、ラルキィを待っていた。
自らの自我が芽生えもしないうちからラルキィに支配されたその子供は、結果として、完全にラルキィと一体化して育った。彼にとって「自分」とは星からきた種のことであり、肉体はその仮宿でしかなかった。
その男が長じて軍船の船長になると、ラルキィは息子に乗り移った。息子が城主になると、その娘に乗り移った。娘は幼くして死んだが、幸い妹がいたのでそちらに乗り移った。妹が適齢期を迎えるまでに、その才色を十分に磨き上げ、またしても有力な貴族に嫁いだ。
何代もの間、家系図の上を伝い、あるいは飛び跳ねて、ラルキィは一門の家名を上げていった。何世代もの記憶を持ち続けるラルキィは、自信に満ちた賢い人間として、常に同世代の他人より抜きん出ていた。
そうしてラルキィの血筋はバルト海を渡って、デンマークに入り、ヴァルデマールを名乗ったのである。今から二百年ほど前のことだ。
現在のヴァルデマールは、父クリストファ二世の末子として生まれた。このころのデンマークは多くの領邦君主や地主貴族が寸土を取り合っている状態で、クリストファが倒れた後も、次期国王が立たなかった。政治情勢は荒れており、まだ幼少だったヴァルデマールは、難を避けて神聖ローマ帝国の宮廷へと逃れた。母親は泣きながらヴァルデマールを見送った。もっとも、そのような愁嘆場は過去に何十回も体験していた。
異国の宮廷で、ヴァルデマールは勉学に没頭し、またスラブ人やエストニア人としきりに面会した。本国の政局に関《かか》われないことを逆手にとって、地力をつけ、人脈を養うことに専念したのだ。支持者を作り、傭兵を集めて故郷に帰り、数年をかけて準備を整えたのち、ヴァルデマールは晴れて国王に即位した。主の年一三四〇年、二十歳のときだった。
彼はこの四分五裂した国土を再び統一し、なおかつデンマークを北欧の強国の座へ押し上げようとしていた。
その矢先、ごく間近に、生涯の伴侶《はんりょ》たるレーズがいることを知ったのである。
王都コペンハーゲンの西二十マイル、ロスキレ港。
フィヨルドの最奥に位置するこの要港は、初夏のこの日、数多の軍船に埋め尽くされていた。
紋章入りの鎖帷子《くさりかたびら》を身につけ、騎馬を華やかに飾り付けた騎士たちが、岸壁からゆうゆうと船に乗り込む。海岸では傭兵と装甲兵たちが罵《ののし》りあっている。物売りや女たちが歩き回り、その場で聖別の儀式を開いている司祭と、ぬかずいている兵士たちもいる。海面には大小の帆柱がまるで林のように立ち並び、帆の下ろされる時を今や遅しと待っていた。
港に近い高台で――といっても、全体が低平なこの土地のこと、二階家ほどの小さな丘でしかないが――ヴァルデマールは少数の直臣とともに、乗船の有様を見守っていた。
「あれで間に合うのか」
「明日中に全員を乗せられなければ、首を差し上げると艦隊司令が申しておりました」
「大変な大口を叩《たた》く。ポデブスクめ」
ヴァルデマールは国内の古い貴族に対抗するために、外国人や身分のない者を積極的に登用していた。ポデブスクもその一人で、エストニアからドイツ宮廷に遊学に来ていたところを、有能さを見込んで引き抜いた。ヴァルデマールとたいして変わらぬ年齢なのに、数年で頭角を現して、今ではこの艦隊を取りまとめている。
「何か、ご命令は」
「ない。司令官の命に従え」
レーズスフェント遠征艦隊の出港準備は、すべて順調に進んでいるように見えた。ヴァルデマールはそう簡潔に言って済ませようとしたが、生来の諧謔《かいぎゃく》癖が頭をもたげ、こう付け加えた。
「諸騎士と兵たちに、こう触れ回れ。――いまや空前に富み栄え、牛馬ですら銀の桶《おけ》から餌《えさ》を食う地に、おまえたちを連れて行ってやるぞ、と」
側近たちが控えめな追従笑いを上げた。ごく身分の高い者は、今回の遠征がハンザ同盟に対する示威でしかないことを知らされていた。目的地は新興の小村であり、めぼしい富や権益はない。
ヴァルデマールはいったん王宮に戻るため、馬首を返して丘を降りようとした。
突然、日がかげった。見上げると、大きな白い鳥の群れが頭上を旋回していた。そのうちの一羽が降りてきて、隊列の前に舞い降りる。一羽の見事な白鳥だ。
側近たちが、おお、と驚きの声を上げ、この思いがけない獲物を仕留めようと、手に手に弓を握った。
「皆、待て!」
ヴァルデマールが手を挙げて制し、馬を進めて先頭に出た。
「尋常の鳥ではないな。何者だ」
「聞かずともわかるだろう、星の種よ」
白鳥が、若い女の声で言葉を発したので、群臣はどよめいた。再び彼らを制してからヴァルデマールは問う。
「何用だ、星の母。この段階で話すことなどないと思うが」
「私にはあるわ。レーズスフェントを攻めるのをやめてもらいたい」
「勝手なことを」
鼻で笑ったものの、ヴァルデマールは馬を下りた。
「陛下?」
「話してくる。おまえたちは待っていろ」
ヴァルデマールの言葉を理解したのか、白鳥は飛び上がって、近くの岩に舞い移った。頭上の群れも、それにつれてわずかに移動する。
ヴァルデマールがそばまで歩いて行くと、白鳥は言った。
「一体なぜ戦などしようとするの、ラルキィ」
「以前、ルドガーという男を通して伝えたはずだ、レーズ。町ごとおまえを手に入れると」
「目当ては私自身のはず。わざわざ軍勢を率いてくる意味などないわ」
「物見遊山の行列を仕立てて、見所を一回りしろと? それではおまえの町を知れない。町は群れだ。群れは食い合う。身を守り、強さを増し、他の群れを破るのが群れの意味だ。群れの住む巣が町だ。そのような町を試すには、牙《きば》をかけるしかないではないか」
「それは違う。町の意味はもっと複雑で、重なり合っていて、豊かだ。あなたの解釈は偏っている」
「偏るとも、それが俺なのだから。忘れたか、ラルキィ。おれの意味を。星に住む生き物に『なる』のが俺だ。町とは殻だと俺が言うとき、それはこの星の者たちがそう言っているということなのだ」
「いいえ、町とは偶然の積み重ねよ。奇跡と言ってもいい。人の意思と人の意思が、なぜか一致して同じ向きを向く。すぐに消えてしまうはずのその一致が長く続いたとき、それは地に実って町になるんだわ。地形と気候と、歴史と偶然。それらの上に人が来て町ができる。私はそれをつぶさに見て、価値ある奇跡だと思った」
「そう、おまえは見るだけだ。俺のように星の者になりきることはできない」
「そう、あなたはなり切ってしまう。星の種だと人間に明かすことすらない」
「おまえは明かしていたな」
「明かし、認められた。その上で手を組んだ。この星で出来る、これが最上のものよ。私はそれを見ていたい」
「いつまでだ? 百年か、二百年か?」
白鳥は口をつぐむ。ヴァルデマールは嘲笑《あざわら》う。
「らしくもない。千歳《ちとせ》を渡る俺たちが、そんな刹那《せつな》を見つめてどうする。意味がない」
ヴァルデマールは剣を抜き、白鳥をひと息に切り捨てた。
頭上の群れがけたたましく鳴き騒ぎ、ぱっと散らばって、南東の方角へ飛び去った。ヴァルデマールは額に手をかざして見送る。あの群れは、レーズの言葉をこの地まで中継するのに必要だったのだろう。
待たせていた行列に戻ると、臣下の者たちが恐れの顔で見上げていた。ヴァルデマールは何事もなかったように言う。
「帰るぞ」
「陛下、今のは……」
「鳥の精だろうな」
ヴァルデマールが馬に乗って出発すると、直臣たちは顔を見合わせ、ついてきた。いずれこのことは、不思議の出来事として年代記に記されるのだろう。ヴァルデマールが勝てば、瑞兆《ずいちょう》だったとして。負ければ、凶兆だったとして。
人間とはそういうものだ。愚かで他愛《たわい》なく、とてもせわしない。
だから精一杯そのように生きてやろう。人間のヴァルデマールとして生きているラルキィは、そう思うのだった。
ヴァルデマールに斬《き》られたレーズは、ひどい苦痛を覚えた。いつものように独立した|空っぽ人形《レール・プッペ》を送るのではなく、直接、人形を操っていたので、自分が斬られたように感じた。
ともあれ、ラルキィの意思はよくわかった。中継のためにレーズスフェントとロスキレの間に配置した、数十の白鳥の群れを呼び戻しながら、レーズは無力感を覚えていた。人間ならばため息をついているところだ。
このラルキィは、人間の最悪の部分を学んでしまったようだ。他にもさまざまな種類の人間がいるであろうに、なぜよりによって君主になどなったのか。彼の体の構造が、レーズよりずっと脆《もろ》くて死にやすいせいもあるだろう。一種の微生物であるラルキィが、死にやすい人間の体に宿ったのだから、身を守ることに努力を傾けてしまうのは理解できる。だが、そうやって同情するにしても、彼の行動は乱暴すぎる。
言われるまでもなく、自分が異常であることはわかっている。生き物は増える。繁殖を至上とする。それは、宇宙全体に共通する掟《おきて》だ。繁殖を捨てて他のことにうつつを抜かす自分は、多分狂っているのだろう。
だとしても、ヴァルデマールを受け入れたくはなかった。
レーズは物思いを中断して、五感を広げる。レーズスフェントの周りにいる多くの眷属《けんぞく》たちに呼びかけ、彼らの感覚をすべて求める。鳥や獣が見て、聞いて、感じているさまざまな情景が、織り交ざって一度に流れこんできた。
――ドルヌムへ向かう西の街道沿い、鋤《す》き返されたばかりの真っ黒な畝《うね》の連なる畑に、人だかりがしている。土中のミミズを掘り出しながら、カラスがそれを見ている。
土地の一部にぽっかりと穴が開き、牛が一頭はまり込んだのだ。特別に大きな切り株を丸ごと引き抜いた跡らしい。この辺りは数年前までは森だった。
牛は蹄《ひづめ》を穴の縁にかけて、必死にもがいて出ようとする。しかしなかなか上がらない。農夫たちが話し合い、重い有輪鋤を曳《ひ》くための挽縄《ひきなわ》でつながれた、六頭の牛を連れてきた。
落ちた牛に縄をかけ、それ引け、と六頭の尻を叩く。群れはいななきながら動き出す。穴の牛は怖がって狂ったように暴れる。声をかけてなだめていた飼い主が、牛の角にかけられそうになって、あわてて穴から這《は》い出す。牛の叫びと、農夫たちの掛け声が交互に響く。二十四の蹄が畑をめちゃくちゃに蹴りつけ、泥炭の塊を跳ね散らす。
何かの拍子に、穴の牛がずるっと縁まで吊《つ》り上げられ、この時とばかりにもがきながら出てきた。すかさず六頭立ての主《あるじ》が牛たちを鎮める。汗だくの牛を囲んで、農夫たちは歓声を上げる。どの顔にも純朴な喜びがあふれている。
遠巻きに眺めていた幼い子供たちの一人が、もう帰ろうよ、と叫ぶ。だが農夫たちは取り合わない。助け出した牛に鋤を取り付けて、さっそく耕作に取り掛かる。
すねた子供が親の気を引こうと大声で独りごとを言う。前のうちがよかったな。父ちゃんはよく遊んでくれたもんな。こっちへ来てからつまんないや。
農夫は見向きもしない。朝からの悪戦苦闘で泥まみれになっているが、まるで気にしていない。それどころか子供に向かって怒鳴り返す。うるさい、前の村で腹いっぱい食えたか。
子供は泣き出す。
――|市の《マルクト》広場から程近い民家。天井の梁《はり》の上からヤモリが見下ろしている。部屋の中には織機が何台か据え付けられ、女たちがタントンと音を立てて筬《おさ》を動かしている。
扉が開き、中年の男が入ってくる。そこそこ良い身なりをしているが、目つきはあまりよくないし、背も曲がっている。男に続いて女も入ってくる。手ぬぐいで髪を隠した既婚らしい女で、こちらも顔色や姿勢が悪い。しかも胸元に乳飲み子を抱えている。
男は部屋をぐるりと回って織工たちの進み具合を確かめてから、奥の空いている織機のところへ、新しい女を手招きする。そこで短い問答を交わす。
心得ていると言ったね。はい、トリーアで半年ほど。鎖《ケッテ》織りはわかるね。いえ、それは。鎖《ケッテ》織りは簡単だからナターリアに教わるといい。ナターリア。
男に呼ばれて、隣の織工が目を向け、小さくうなずいた。男はうなずき返す。
じゃあ早速始めてくれ。亜麻の糸巻きと道具はそこ、赤ん坊はこっちの棚に置いておくといい。何かあったらナターリアに聞くように。
男は出て行く。女はもたもたと支度を整え、椅子《いす》に腰掛けて織機に手をかける。以前の仕事場と同じ型だったのか、とにもかくにも準備の縦糸は一人で張り終えた。しかし杼《ひ》を動かすところで手を止めた。隣を見て、向かいの織工を見て、また隣を見て、おずおずと尋ねる。
「| 綴 れ 《シュヴァルム》織りをやればいいんだね」
五人ほどいた織工が、ぴたりと手を止めた。
ナターリアが険悪な目で女をにらむ。
「鎖《ケッテ》織りだよ」
「でも、あんたたちがやっているのは、| 綴 れ 《シュヴァルム》織りだ」
「鎖《ケッテ》織りだってば。そういうことになってるんだ。言いたいことはわかるけど、その言葉は二度と出しちゃだめだ」
「でも」
「しつこいね、だめったらだめなんだよ。週に三シュトゥーバーもらいたかったら、黙ってりゃいいんだ」
言われて、その相場より高い給料のことを思い出したのか、女は口をつぐんだ。織機に向かって杼を飛ばし始めるが、その手は最初、遅い。その種の織り方を、ファルケンシュタイン家の貴族に納める高級な反物にしか使ってはいけないことを、たまたま知っていたからだろうか。
しかし、しばらくやっているうちに手が軽くなる。タントンと軽快な音を立てて、女は口元に笑みを浮かべる。ここでは咎《とが》められないのだ。美しい、高度な織物の技を、惜しまずに披露できるのだ。
しかも週に三シュトゥーバー。赤ん坊に乳を出してやれる……それに、綺麗なハンカチの一枚も買えるかもしれない。
――川向こうの新しい農地、飼料倉の壁穴にひそんだネズミの耳が、押し殺した激しい息遣いを捉《とら》える。山ほど積んである干草の束が、不意にどさりと崩れる。
黄色く枯れた干草がはらはらと舞い落ちると、奥の暗がりで人影が体を起こした。胸板をはだけたままでしばらく長い吐息を繰り返して、体を鎮めている。
やがてその男は、横たわったままの女の頬《ほお》に指を当てて、ささやく。
「私はキリスト教徒だ」
女は答えず、しばらく経《た》ってから、心もち笑っているような口調で尋ねる。
「だから?」
「だから、わかるだろう」
「わからないね」
女は言って、男の手を取り、口づけする。農夫や大工のそれとは違う、ペンだこのある柔らかい手だ。
「わからない。言わなくていいよ。あたしは、このままで」
「おまえを期待させてしまう」
「期待? どんな。あんたの国へ連れてってくれるって。それとも、この町に一軒家を構えて、あたしを囲ってくれる?」
はは、と女は乾いた笑い声を上げる。そしてすぐに男の手に強く頬を擦り付ける。褐色の、南国の色の肌を。
「ねえ、何も言わなくていいったら」
女はしばらく手に赤い唇を押し付ける。それから、手首を握り締めた。
「帰るの」
ささやくようなかすれた声が、男には聞こえたはずだ。
しかし男は答えない。
女が急に力を込めて、よじ登るように、男の二の腕をつかんだ。
「帰るの? ねえ、本当に?」
「この町には、もうすぐデンマーク軍が来る」
「何の話よ。今はそんなこと……」
「おれはここの人間じゃない。一緒に戦う義務はない」
男は肩を上げて女を振り払おうとした。女は離れない。
「あんた、しこたま儲《もう》けたじゃないの」
「義理は果たした」
男は勢いよく腕を振った。それを避けようと、女が手を離す。壁板の隙間《すきま》から差す光が、汗ばんで揺れる乳房と、くっきりした黒い瞳《ひとみ》を光らせた。
すると男がかすかに息を漏らした。
「おまえは……やっぱり、美しいな」
「ブルーノ!」
女が身を投げ出した。行かないで、来年も来てとすがりつく。男はしばらくされるがままになっていたが、やにわに裸の女を抱きしめて、唇を奪った。女は一瞬、驚きに動きを止める。
しかしその隙をついて、すぐに男は突き飛ばした。
「いい男を見つけろ」
「馬鹿、娼婦《しょうふ》じゃないよ!」
男は上着を引っつかんで飼料倉から駆け出していく。その背を、裸の女の罵声《ばせい》が叩く。
周りの干草を握ってめちゃくちゃに放《ほう》り投げてから、女はわっと泣き崩れた。
――長老トウヒの梢《こずえ》に止まっていたハヤブサが、滑るように降下して、教会の裏手の柵《さく》に止まる。
「ダリウス。ダーリウス!」
裏庭でハヤブサを見上げていた子供が、名を呼ばれて振り返った。六歳という年のわりには大人びた雰囲気を持つ、焦げ茶の髪の少年。
「なあにー」
ダリウスはハヤブサを振り返りつつ、教会に入る。
翼棟の施療院の一室で、大勢の人々に囲まれて、一人の老人が床についている。そのそばではカスティーリャ人の司祭がそっと腕を取り、手首に指を当てていた。
部屋に入った少年は、言う。
「なあに、マンディー」
「ご隠居にご挨拶《あいさつ》なさってくださいな」
乳母代わりの女が少年を手招きして、枕頭《ちんとう》に立たせた。病人の目やにを拭《ふ》いていた副代官夫人が、ちらと少年に冷たい目を向けたが、この時ばかりは文句の一つも言わずに、場所を空けた。
「グリンのご隠居、ごきげんよう」
「ダリウスさま」
激しく咳《せ》き込み、差し出された痰壺《たんつぼ》に喉《のど》のものを吐いてから、老人は言った。
「何をなさっていました」
「庭にハヤブサが下りてきた、グリン」
「それはめでたい。大変良いしるしです。きっともうすぐ、ルドガーさまが帰ってこられるでしょう」
「ありがとう」
答えはしっかりしたものだった。――その後で、やや自信がなかったのか、周囲の大人を見上げはしたが。
老人はまた何度か咳き込んだが、そんなことは少しも気にならないように、笑みを浮かべた。少年と、副代官夫人のスカートを握っているさらに小さな男の子に、一度ずつ目をくれる。
「ダリウスさまは本当によいお子です。クリューガーさまと仲良くなさって、先々レーズスフェントを守《も》り立ててくださいませ」
ダリウスがルドガーの養子となってからは、身分の上の者に対するしかるべき礼儀を尽くすようになったのが、彼だった。元騎士でありながら、敗北によって農奴となり、数奇な偶然を経て再び町の栄えるところを目にした老人は、死に臨んでもやはり騎士であろうとしているようだった。
それから数人と挨拶するうちに、老人の咳《せき》はいよいよ激しくなり、やせ細った全身がばらばらに折れてしまうかと見えた。しかしその苦しみも長くはなく、突然咳が静まって安らかな息が続いたかと思うと、溶け去るようにそれも消えた。
「いま、召された」
すでに終油は施してあり、司祭の宣言は簡素なものだった。人々がいっせいに天を仰ぎ、十字を切った。男たちはため息をつき、女たちはすすり泣いた。
ダリウスは老人の手を胸元に合わせてやりながら、寂しい胸の痛みを覚えるとともに、何か確かな幸福を見たようにも思った。
ハヤブサのレーズは舞い上がり、空高くから町を見下ろす。森の緑と畑の黒、川の藍《あい》色の中心に、板の茶色と石の白、レンガの焦げ茶で組み上げられた、小さな中洲が浮かんでいる。そこを眷属たちの数百の視界が網羅している。喜びと怒り、打算と劣情、発展と拡大、死と継承。千二百の人間たちの引き起こすさまざまな事象が、過去から現在へ、外部から町へ、町から未来へと、複雑な紋様を織り成して渦を巻く。
これを、とレーズはもどかしさとともに思う。ただ無意味のひとことで切り捨てたラルキィの、なんと浅はかであることか。
皮肉なことだが、この多次元的な万華鏡とも言える作り物を、彼にしみじみと堪能《たんのう》させてやるには、婚姻し、融合するしかないだろう。だが彼がそうしない以上は、正面切って攻城守城のやりとりをして、あきらめさせなければならないのかもしれない。
それは可能だろうか。町の人間を守ったままで?
――眼下で、何かが起こった。
レーズはハヤブサをそちらへ向けて、強く羽ばたく。派遣していた|空っぽ人形《レール・プッペ》からの報告で、あらかじめ知ってはいたが、実物を見るのはひときわ嬉《うれ》しい。
大柄と小柄の二騎の戦士に先導されて、騎士が西の街道をやってくる。耕作をしていた農夫たちが、農具を放り出して飛んでくる。半信半疑で手を振ると、騎士も小さく手を振り返した。よく見れば衣服がぼろぼろだ。それで苦労が知れる。
橋のたもとの防御塔にたどりつくと、手近にいた人という人が駆け寄ってきた。どの顔も歓喜に輝いている。その人々に向けて先導の小男が喚《わめ》き、大男が威嚇的に槍《やり》を振る。
「邪魔だ、邪魔だ! 代官《フォークト》さまは大怪我《おおけが》をされてるんだ、さっさとどきやがれ!」
エルスとヴァルブルクがいくら言っても、人々は聞く耳を持たない。別の代官《フォークト》が来て重税を課すか、伯爵本人が来て重税を課すかで賭《か》けをしていた者もいるぐらいだ。まさか、ルドガーが戻ってくるとは思っていなかった。
しかも、ただ戻って来ただけではなかった。そのことを、ルドガーの鞍の後ろを目にした者たちは知って、呆然《ぼうぜん》となる。
「代官《フォークト》さま!」
歓声を貫いたのは、ダリウスの叫びだ。町の男に肩車されている。馬上のルドガーと対面して、緊張した面持ちで挨拶する。
「お帰りなさいませ、ご無事でいらっしゃいましたか」
「無事だ。エルスとヴァルブルクが、迎えに来てくれたからな」
右と左に控える下男たちを見て、ルドガーは言う。リュシアンの指示で救出に向かった二人が、レール城からここまでの道のりを護衛してきた。
「無事のお帰り、嬉しく存じます! 代官《フォークト》さま」
堅苦しくダリウスが続けると、ルドガーがにやりと笑った。
「それだが、ダリウス。今日からおれのことは、父上と呼べ」
「はい、代官《フォークト》――さま?」
「そしてこちらが母上になる」
ルドガーが身をずらすと、鞍《くら》の後ろに女が乗っていた。まだ気付いていなかった者たちが、一斉に静まり返る。
だが女は、ルドガーに紹介されるのを待たずに馬を下りて、片足を引きずりながら、ダリウスの前に来た。肩車をされている彼に向かって、少し緊張した様子で、ゆっくりと片手を差し伸べる。
「あなたは、ルドガーさまを好き?」
「はい」
ダリウスはうなずく。初めて出会うはずのその女に目を奪われ、やや遅れて。
それを聞くと、女は嬉しそうに目を細めて、あなたもなの、と言った。
「ここに来ていい?」
ダリウスが、うなずいた。一度、二度。
それでハヤブサのレーズは、彼女のことを覚えていた者もそうでない者も、すべての人々が歓呼をあげてエルメントルーデを迎え入れるところを、この町のもっとも晴れがましい光景のひとつとして見たのだった。
ルドガーの最大の懸念は、ルプレヒトがすぐにも追撃してくることだった。だが、レーズスフェントに戻ると、リュシアンがその懸念の一部を解消してくれていた。
「非戦協約の念書です。エーゼンスからは念書の代わりに村長の指輪を」
彼は周辺の村長に書かせた手紙をルドガーに見せた。最近の穀物供給を背景にして、レーズスフェントを攻めないという言質《げんち》を取ったのだ。
君主である東フリースラント伯爵が攻略の号令をかければ、レーズスフェントは村々から包囲されたかもしれないが、これでその恐れはなくなった。
もっとも、念書が有効なのはレーズスフェントが優勢な間だけだろうが、今の状況ではそれでも上等だ。
当分、警戒しなくてはいけないのは伯爵のみのようだった。ルドガーはレール城やカンディンゲンにエルスたちを送って、偵察させた。
もし伯爵が攻めてきたら、町の人々はどうするだろうか。もちろん、脱走したり寝返ったりする者も出るだろう。だがルドガーは、以前、領主フェキンハウゼン男爵と戦った時のように、多くの者が逃げ出す事態にはならないと確信していた。
あの時と違って、レーズスフェントに家を建てたり、農地を手に入れたりした者が大勢いる。しかし、ルドガーが人々を信じる理由は、それだけではない。
もう何年も前から、ルドガーは町の人々自身に町の防衛を担わせていた。そもそもの発端は、旧モール庄の人間たちが回り持ちでやっていた、橋の番人だった。それが次第に夜回りになり、自警団になって、今では夜警と防御塔での監視まで町の人々が行っている。彼らの自治意識は高い。ルドガーが信じるのはそこだ。自分に対する忠誠心ではなく、共同体への帰属意識だ。
新しく来た人間も、必ずこの輪番制に組み込まれる(少なくとも、身分を明かして住み着いた者は)。戦になれば町を守るために、武器を持って戦うだろう。
ルドガーはそのような考えに立って、籠城《ろうじょう》戦の準備を進めようとしたが、リュシアンに話したところ、若干|呆《あき》れられてしまった。
「兄様はご自分を小さく考えすぎです。あなたが姫を伴ってお帰りになったことが、どれほど皆の誇りをかきたてたか、ご存じないんです」
「そんなにかきたてたのか? その誇りとやらを」
「暖炉の灰みたいに言わないで下さい。狙《ねら》ってやってもああはいきません」
下々の者たちが支配者に期待するのは、善政や指導力だけではなく、ああしたけれん味でもあるのだということを、リュシアンは力説した。
「兄様と、エルメントルーデ姫と、ダリウスの三人がいるということが、今のレーズスフェントを強く結束させているんです。忘れずにご自愛なさってくださいね」
しかしルドガーはそれほど幻想は抱かず、追い詰められた町の人間が、自分を伯爵に売ることもあり得るぐらいに考えていた。
やがて、レール市に偵察に出ていたヴァルブルクが戻ってきた。話を聞いたルドガーは驚いた。
「伯爵が攻めてこない?」
巨体の下男はうなずいた。
「湧き水で溺《おぼ》れたらしい。寝込んでいる」
言葉少なな彼に質問を繰り返して、ルドガーは状況を把握した。どうやら自分たちが引き起こしたあの洪水は、思ったよりも深刻な被害を与えたらしい。レールは海辺の都市なので、泳げる者が多く、溺死者《できししゃ》は少なかった。しかし、何分、地下迷宮のような暗黒の空間で突然洪水が起こったので、全員を助け出すまでにかなりの時間がかかった。ルプレヒト伯爵も体半分が水に浸かったまま、四時間も助けを待っていたので、重い肺炎にかかってしまったのだという。
「肺炎か……それは容易なことじゃないな」
肺炎を簡単に治す方法はない。半月は動けないだろう。できればそのまま帰らぬ人になってくれれば、いろいろと助かるのだが――そう考えかけて、ルドガーは打ち消した。敵ではあっても妻の父だ。
それにもう一つ気になることがあった。ルドガーは聞いた。
「ところで、ハインシウス先生はどうなったかわかるか」
あの混乱の中、一人だけルドガーの動きを予測して、止めようとしたのだ。恩賞ものの行動だし、そうなってほしいとルドガーは思っていた。彼に恨みはない。
だがヴァルブルクの報告は意外というか、哀れなものだった。
「使いに出された」
伯爵の風邪を治すため、ケルンへ薬を買いに行かされたのだという。騎士にはとうてい相応《ふさわ》しくない、つまらない任務だ。
彼はルドガーを逃がしたことと、そのために伯爵の救出に加われなかったことを咎められたのだ。ただ、盾に刺さっていた槍が、堂々たる決闘があったことを証明したので、こういう地味な形での罰で済まされたのだった。
「お気の毒に……」
ルドガーは同情し、また、ほとほと伯爵の人柄が情けなくなった。ハインシウスほどの騎士に使い走りをさせるとは、臣下の使い方を知らない人物だ。
ともかく、しばらくの間、東フリースラント伯爵の侵攻を心配する必要はなくなった。
レーズスフェントに戻ってから一週間目にして、ようやくルドガーはひと息ついてもいい気分になった。
夜、ルドガーが自宅で眠ろうとすると、ノックの音がした。戸を開けたエルスが、こわばった顔で取り次ぎに戻ってきたので、ルドガーには誰が来たのかわかった。
「泉のお方です」
ルドガーが表に出る間もなく、レーズはエルスを押しのけて入ってきた。ルドガーと寝台を無遠慮にじろじろと見回して、言う。
「なに、きみ一人なの」
「寝るところだったんだぞ。一人に決まっている」
「あの女がいると思ったわ」
あの女とは誰のことか、すぐにはわからなかった。レーズにかかっては貴族の姫でもあの女扱いなのだと思い出して、ルドガーは言った。
「ルムならリュシアンのところでアイエの世話になっている」
「どうして? もうとっくに番《つがい》になったんでしょう?」
ルドガーは顔をしかめる。
「品のない言い方をするな。ともに暮らすのはきちんと手順を踏んでからにしたいんだ。余裕が出来たらアロンゾ司祭に頼んで、正式に娶《めと》るつもりでいる」
「明日にしなさい」
ルドガーは眉《まゆ》をひそめた。レーズは冗談とも思えない顔でルドガーを見つめて、繰り返す。
「明日にしなさい。でなくても早いうちに」
ルドガーはエルスを呼んで、眠気覚ましの薬草水を持ってこさせた。一口《ひとくち》飲んでから、レーズにも木のマグを差し出す。
「飲むか」
「いらないわ。なぜ?」
「聞いたらすぐには眠れなくなるような話なんだろう」
「よくわかってるのね」
「何年の付き合いだ」
ルドガーはマグを握ったまま口元を拭《ぬぐ》ってから、言った。
「話せ」
「ヴァルデマール四世がここへ向かって出発したわ。兵力は軍船八十二隻、五千百十名」
ルドガーはやや呆然《ぼうぜん》とし、平板に尋ねた。
「いつ着く?」
「だいたい十四日後」
レーズから詳しい話を聞くと、ルドガーは腕組みして考えこんだ。
じきにつぶやいた。
「着替える前でよかった」
そう言うと、やおら戸を開けて出て行こうとした。背後から声をかけられた。
「どこへ行くの」
「おまえの言うとおりにする」
エルメントルーデの元へとルドガーは走った。もう寝ているだろうが、起こしても怒りはすまい。
デンマーク軍、三千名が攻めてくる。
予告無しで突然に行われた、ルドガーとエルメントルーデの結婚式の後、いぶかる町の人々に、それが告げられた。デンマーク王ヴァルデマール四世は、今までレーズスフェントの船にエーレスンド海峡の通行を許していたが、その利益の大きいのを見て、高額な通行料を課してきた。それをことわったために、戦を仕掛けてきたのだ、と。
大盤振る舞いの酒と料理を前にして喜んでいた市民たちも、この通告には驚愕《きょうがく》した。屈強の兵士三千人に対して、老若男女の混ざった千二百人では、相手にならない。この祝宴は、極寒の季節を前にした謝肉祭のようなものなのか、最後の宴《うたげ》なのかと、皆は落胆しかけた。
そんな彼ら彼女らに向かって、かたわらにエルメントルーデを従えた正装のルドガーが語りかけた。
「主の祝福を受けたレーズスフェントの男女よ、まず最初にいいことを教えよう。デンマーク王を名乗る、このヴァルデマール四世という男は、実は二十歳になったばかりだ。百戦錬磨の武人でもなく、年老いた練達の政略家でもない。自分だけのちっぽけな国を作って周りをあっと言わせようとしている、まだ嘴《くちばし》の黄色い若造なんだ」
しばしの沈黙の後、群集のあちこちから小さな笑い声が漏れた。自分たちの前で自信満々にしゃべっている当のルドガーが、ちょっと前には二十歳の若造だったことに思い至ったのだろう。
「そのヴァルデマールがずっと狙《ねら》っていたのは、実はここじゃない。ハンザの盟主、リューベックなんだ。知っているか、リューベック市を。北海とバルト海から多くの船が集まる、三万の人が住む大きな都だ。けれども、ヴァルデマールはリューベックに手が出せなかった。なぜだと思う? 実は、デンマークはとても弱い国なんだ。ほんの一昨年までは、国を治める国王陛下もいないまま、ばらばらに相争っていた。だからヴァルデマールが国王になったと言っても、その下にいるのは有象無象のよせ集めに過ぎない。リューベック市になど、とても歯が立たない。そこでレーズスフェントに狙いを変えたんだ」
この辺りは一部を除いて完全に事実である。物知りな者たちがしきりにうなずいた。
「ところで、おまえたちはこの町とハンザ同盟の関係を知っているか。おれたちは連中と競り合っている。ハンザ同盟は東西三千マイルに渡って支部を持つ、とても大きな集まりだが、おれたちの町には手出ししてこない。どういうことかわかるか? そうだ、ハンザはレーズスフェントを恐れているんだ。レーズスフェントには、古いしきたりに縛られず、危険な旅路を物ともせずに、この地へやってきた素晴らしい男と女が住んでいる。そうだ、おまえたちのことだ」
ルドガーの口調が少しずつ高まり、それに連れて人々がざわめき始めた。肯定の叫びがまばらに上がる。
「そうだ、おまえたちが住み、何年もかけて守りを固めてきた。西を見ろ、東を見ろ。あの防御塔があれば、陸からは絶対に近づけない。それに、沖を見ろ。竜頭船に乗った勇敢なフリーゼン人たちが海を守っている。思い出せ、歩き回ってみろ。レーズスフェントは東フリースラントでもっとも難攻不落な土地なんだ」
ざわめきが強まり、人々が声高に言い交わす。そうだ、そうだ、と叫ぶ者。負けるもんかと怒鳴る者がいる。
「そこを治めるのは誰だ。ここにいるのは誰だ? 無人の中洲だったここを拓《ひら》いて、カンディンゲンから来た三倍の数の騎士を押し戻したのは誰だ?」
ルドガーさまだ、とあわてん坊の子供が叫び、それに笑いながら、大人たちも同じ名を呼ぶ。ルドガーさま、代官《フォークト》さま。
「低地地方《ネーデルラント》で英国王に加勢して山のような戦利品を取り、メッテンボー城で海賊ヘンルリックと殴り合ったのは誰だ? バルト海を渡って船いっぱいの麦を運び、レール城の拷問部屋から生きて帰ったのは誰だ?」
ルドガーさま! ルドガーさま! 人々の声が合わさり、歓呼になる。
「そうだ、ルドガーだ。ルドガーがここを守っている! ルドガー・フェキンハウゼンがレーズスフェントとおまえたちを守っているぞ!」
顔を赤くして、とびきり豪快にルドガーは言ってのけた。皆が両手を挙げて叫ぶ。
それが最高潮になったところで、突然、ルドガーはさっと片手を挙げた。皆が潮が引くように静まり返る。
たっぷり時間をかけて皆の顔を見回してから、ルドガーは余裕に満ちあふれた手つきで、焼いた鳥のももを取った。それを宙に掲げて――。
両手でポキリと折った。
「デンマークのやつらは、こうだ」
人々の大笑いと喚声がはじけた。
広場中の人々の熱狂的な呼びかけを背にして、このために用意した演壇からルドガーは妻とともに降りた。彼女の手を引いて足早に館《やかた》へ戻る途中、リュシアンに声をかけられた。
「素晴らしい演説でした。やはり兄様は、こういうことが――」
「勘弁してくれ」
ルドガーは苦い顔になってしまうのを、懸命にこらえていた。前にはなかったことだが、胸がむかついて仕方がなかった。脳裏には、投石器《カタパルト》で頭を吹っ飛ばされた女や、短矢《ボルト》で胸を打ちぬかれた少年の姿が蘇《よみがえ》っていた。
館の一室に、二人だけで入ると、エルメントルーデがすかさず前に回って(まだ片足をひきずりながらではあったが)、ハンカチでルドガーの額を拭《ふ》いた。
「どうなさったの、ひどいお顔の色」
「耐えられん罪だ」
彼女の優しさすら疎ましく感じて、ルドガーは吐き捨てるように言った。
「どう言葉を飾ろうと、おれは自分が好きで作ったものを守るために、あそこの皆を戦いに駆り出そうとしているんだ。本当なら逃がさなきゃいけない。おれ一人が出て行って打たれなければいけない。それなのに……」
「彼らはわかっているわよ。自分の意思でああしているの。子供じゃないのだから」
「ルム……」
「私がいます。あなたがもし間違っていたり汚れたりしているのならば、私が彼らに打たれて償います。私は今日から、そうしていいのでしょう」
ルドガーは何も言わず、夜着から作った即席の花嫁|衣裳《いしょう》を身につけた妻を抱きしめた。
「しかし、三千名ですか」
「五千だ」
ルドガーはキンケルの不安そうなつぶやきを聞いて、訂正した。険しい目をする彼に、静かな口調で言い渡した。
「絶対に外では言わないでほしいが、軍船八十、兵士が五千だ。昨日は控えめに言った」
一座の面々が深刻な顔で黙り込んだ。
町の支配者の結婚式と披露宴ともなれば、二日や三日は続けて祝うのが普通だが、ルドガーはとびきり派手に人々を騒がせて、一日で切り上げた。
翌朝、主だったものを十名ほど館に集めて、軍議を開いた。ルドガーは、レーズから聞いたデンマーク軍出港の情報を、皆に詳しく語って聞かせた。
「ヴァルデマールは腹心の将ポデブスクに遠征軍の指揮を任せ、自分も旗艦ノンネバッケンに乗った。戦力はデーン人の貴族、自由民の戦士、イタリア傭兵、それに各種攻城兵器などだ。兵糧や物資は去年から溜《た》め込んだものを、後先考えずに大量に積んで来ているらしい。天候は穏やかで、風は十日先まで南東から吹き続ける」
「うむ、確かにそんな感じだ」
窓から空の様子を眺めたヘンルリックが、そう言って前に向き直り、椅子の上で居心地悪そうに身動きした。
「デンの国≠フ向こうからだと、岸伝いで十七、八日……うまく沖を渡れば半月かそこらでやってくるだろうな」
「その話は確かなんですか。いやに詳しいようですが」
再びキンケルが声を上げた。無理もない疑問ではある。ここからコペンハーゲンまでははるかに遠い。つい数日前に出発した艦隊の話がもう届くのは、どう考えてもおかしい。
リュシアンが何か言おうとしたが、ルドガーは手で遮って、言った。
「間違いのない話だ。おれが保証する」
キンケルはレーズスフェントの人間ではない。商売上のことでは親密に付き合っているが、所詮《しょせん》、ドイツ騎士団に属する人間だ。泉の精霊の力については知らないだろうし、話したくなかった。
「それで、どう守るんですか」
彼に言われて、ルドガーはいったん口を閉じた。一座を見回して発言を待つ。
先般、グリン老人が亡くなったため、村の防衛を取り仕切るのは、名実ともにナッケルとなった。この、目立たないが堅実でそつのない仕事ぶりを見せる男に、ルドガーは水を向けてみた。
「ナッケル。どう思う」
ナッケルは組み合わせた指をじっとにらんで、しばらく沈黙した。やがて彼は言った。
「東西の防御塔で、五百ずつは止められますな。多少の兵器がやってきても、こちらには例の大砲がある。また、沖から中洲に直接小船で来るとしても、半月あれば波打ち際に防御線を築いて、なんとか防げますな。まあ、五百や千なら……」
そう言ったきり彼は口を閉じた。額に刻んだ縦じわが深くなる。
五千などという数を、彼は語れないようだった。
ルドガーは彼の隣の巨漢に目を移す。
「ヘンルリック?」
「何も話すことはないと思うがな」
大きな拳《こぶし》でトントンと自分の肩を叩いて、フリーゼン人の頭領は穏やかに言った。
「敵が来るなら、迎え撃つだけだ。安心しろ、おれたちは一人も逃げたりせんよ」
「頼む」
真顔でうなずいたルドガーに、リュシアンがささやいた。
「どこかに援軍のあてでも?」
「援軍か。どこか頼めそうなところがあるかな。普段の時ならば、東フリースラントの君主さまに救援を願いたてまつるところだが」
リュシアンは黙り込む。ルプレヒトに対抗するために、彼は手持ちの札を使いきっている。やはり、語れることがないようだった。
初夏の陽気な朝だというのに、部屋の中には重苦しい空気が立ちこめた。
失礼、とキンケルが立ち上がる。戸口へ向かうその背中に、アロンゾ司祭が声をかけた。
「どないしてん、キンケルはん」
「用足しです」
「おれもちょうどそんな気になった」
ルドガーが立ち上がると、キンケルは険のあるまなざしを向けた。
「なんですか、一体」
「一緒に行っちゃいけないのか」
「こういうのは別々に行くべきだと思いますがね」
「そうか」
ルドガーは再び腰を下ろした。キンケルはそっけない眼差《まなざ》しでルドガーを見つめてから、廊下に消えた。
突然、館の裏から悲鳴が聞こえた。驚いて腰を浮かせる人々を、ルドガーとリュシアンの兄弟が制した。
「大丈夫だ、みんな静かに。リュシアン?」
「ええ、手は打ってあります」
じきに廊下に足音がして、気を失ったキンケルが運び込まれてきた。彼を担いでいるのは下男の二人組、エルスとヴァルブルクだ。ご苦労、とルドガーはねぎらった。
ヘンルリックが野太い声で聞く。
「どういうことだ、ルドガー」
「キンケルはヴァルデマールの間者だったのさ」
「なんだと……」
「いや、間者になったという方が正しいな。エルスたちの話では最初は正真正銘の書記だったらしいから。だが、今ではレーズスフェントの情勢を探ってデンマークに知らせている、裏切り者だ。いよいよ戦が始まると知って、逃げ出そうとした」
「こいつは理屈っぽい男だが、そんなに悪いやつじゃなかった」
「おれもそう感じた。だからこそ、だろうな。弱みを握られると逆らえない性格なんだ。そして彼には、ドイツ騎士団の本部に隠れて、大量の食料を売り捌《さば》いているという弱みがあった」
「うむ、そういうことか。デンマークの若造にその弱みを握られ、仕方なくレーズスフェントのことを探っていたんだな」
「そう簡単な話でもないと思う。騎士団本部はうすうす感づいていただろうし……だが、まあ、これで決まった」
ルドガーが近寄って活を入れると、キンケルは目を覚ましたが、状況を悟ったらしく、無念そうに言った。
「なぜ気付いたんだ」
「シャマイエトーが言っていた」
心当たりがあったらしく、キンケルは自嘲《じちょう》の笑みを浮かべた。
「そうか、あの異教徒め……」
「誤解していないか。背信の徒め」
リュシアンが冷ややかに言った。
「彼女はおまえを売ったわけじゃない。むしろ、逆だった。彼女はおまえを尊敬していたんだ。おまえは外国のことに詳しいし、異教徒だからといって敬遠せずに扱ってくれると。悪気はなかったはずだ。でもぼくに話したのが悪かった。ぼくは、この町に必ずいるはずの、デンマークの間者を探していたから」
キンケルは顔を背け、苦しげにうめいた。彼の境遇は不幸だと思ったが、ルドガーは同情することができなかった。
やがてキンケルは力なく言った。
「私を、どうするんだ」
「どうとでもしてやるさ。せいぜい想像しているがいい。エルス、連れていけ」
下男たちが、哀れな裏切り者を閉じこめにいった。露見した間者。人々の士気を上げるのに利用したり、ヴァルデマールとの交渉の札にしたり、いくらでも使い道はあるだろう。
ルドガーは席に戻って、改まった口調でいった。
「さて、不吉な話はこれまでにしよう、ここからは建設的な相談をしたい」
「建設的というと、塔をもう一本増やしでもしますかね」
皮肉な口調で言ったのは、石工のゼップという男だ。石工だが、同年輩の男たちに人気があり、自警団の行動隊長のようなことをしている。ナッケルとも親しい。
「増やす時間がありゃあですがね」
「そんな時間はもちろんない。何か勘違いしている人間がいるといけないから、ひとつはっきりさせておこう。――このままデンマーク軍を迎え撃ったら、レーズスフェントは敗れる。そうだな」
ルドガーは淡々と言ったが、その言葉が皆に与えた衝撃は小さくなかった。ナッケルやゼップがはっきりと顔をしかめる。ヘンルリックなど、背後の床に唾《つば》を吐いて毒づいた。
「ふん、敗れるだと? やってみもせんうちから何を言っとるんだ」
「何か言ったか、ヘンルリック」
「ああ、言ったとも」
「おまえが一番わかっているはずだ。五千の軍勢をここで迎え撃って、勝てるのか。どうなんだ」
「勝てるとか勝てんとか、そういう問題じゃないだろう!」
ヘンルリックはドシンと床を蹴《け》りつけて怒鳴った。
「大事なのは名誉ある戦いができるかどうかだ! ルドガー、おまえだってそうやったじゃあないか! 三年前のヘルシングエーアで、九隻の船にたった一隻で突っこんで、デンマーク兵ととことんまで殺しあったっていうのは、あれは嘘だったのか!」
「嘘なものか、ヘンルリック。おまえの戦士たちから聞いたはずだ」
「だったら今度もそれでいいだろう! 言わなくてもいいことをぐだぐだ言いおって……」
「すまん、言い方が悪かったな。おまえ相手に、これではだめだった」
ルドガーはかすかにため息をついて、言いなおした。
「デンマーク兵も、ここでは絶対に負けないと思っているだろうな」
「一緒じゃないか!」
「いや海賊はん、ちょいと待ちいな。代官《フォークト》はんは違うことが言いたいらしで」
怒鳴ったヘンルリックを制止して、アロンゾが言った。
「あんた要するに、よそでやろ[#「よそでやろ」に傍点]言うてるな?」
ようやく、ルドガーは笑みらしい笑みを浮かべることが出来た。
「こちらから出て行って、ヴァルデマールを倒す」
ヘンルリックが、五本歯の大きな口をぽかんと開けた。ルドガーは続ける。
「五千の軍が態勢を整えて攻めてきたら勝ち目はない。だが、ここへ来るまでの航行途中なら、連中は油断しているし、実力を発揮できない。船の上の重騎士なんて置物みたいなものだ。われわれはそこを襲う。夜間停泊中の敵艦隊にひそかに近づいて、まぎれこむんだ。そこで機をうかがって、旗艦を制圧し、王を捕らえる」
そうすれば、とルドガーは息を継ぐ。
「やつらは従う。それこそ、五千が五万でも支配できる。強力な国王に指揮された軍勢だ。ということは、国王がいなければ烏合《うごう》の衆だ」
ルドガー一流の、平易で小気味いい話しぶりに、いつの間にか引き込まれて、人々はうなずいている。
「なるほど……」
しかし、ヘンルリックが突然、我に返った様子で叫んだ。
「いや、何を言ってる、そんなことは無理だ! 危うくだまされるところだった、おいルドガー。そんな話は絵空事だ。絶対にできっこない」
「なぜそう言える?」
「敵が見つからんからだ! いくら八十隻の大艦隊だといっても、あの広い海では木っ端をばらまいたようなもんだ。おれの神に誓って言い切るが、その作戦は成功せん!」
「それがわかると言ったら?」
ルドガーは立ち上がり、窓を開けた。そして右腕を出した。
途端に、まるで待ちかまえていたかのように、力強い羽音が降って来た。ばさばさと羽毛を散らして翼を畳んだ猛禽《もうきん》が、ルドガーの腕にがっしりと爪《つめ》を食い込ませて、従順に頭を垂れた。
爪の痛みと、鳥とは思えないほどの重みに顔をしかめながら、ルドガーは室内に腕を差し出した。子供の背丈ほどもあるイヌワシが、精悍《せいかん》な金色の目で人々を睥睨《へいげい》した。
「こいつが教えてくれる」
鳥は、喉《のど》の奥から、枯れ木を擦り合わせるような薄気味の悪い鳴き声を、長々と絞り出した。
「……そうか、あの人がおったなあ」
アロンゾ司祭が十字を切った。
一週間後、決死の遠征隊の準備が整った。レーズスフェントでは、市民たちが総出で、万が一に備えた防御工事を始めていたが、出港の朝には多くの人が渚《なぎさ》に集まってきた。エルメントルーデとリュシアンが、代わる代わるルドガーを抱きしめて見送った。
「兄様」「お気をつけて……」
肉親やナッケルやゼップたちに見送られて、ルドガーは船に乗り込んだ。
竜頭船グラニ号は、四日かけて北海を横切り、岸伝いにやってくるデンマーク艦隊の後方に回り込んだ。回り込んだといっても相手の位置がわからないまま、何もない海原を航海したのである。頼りは例のイヌワシだけだった。
四日目の夜、グラニ号はユトランド半島西岸にあるホルムスラン砂洲の沖に到着し、南に進路を変えて、艦隊の追跡にかかった。
索具という索具のすべてに油を差し、櫂《かい》受けに綿を挟んで、徹底的に音を殺している。乗り組んでいるのは、勇猛なフリーゼン人の船乗りと、レーズスフェントの自警団から選《え》りすぐった精鋭たち、あわせて九十名である。
船上には息詰まるほどの緊張感が漂っている。その源は、両舷《りょうげん》と檣頭《しょうとう》の見張りたちだ。彼らは目を皿のように見開き、脂汗まで流して、遠方を凝視している。あのイヌワシは艦隊を見つけ、グラニ号をここまで導いてくれたが、勘の鋭いヴァルデマール王に見つかるのを避けて、すでに町へ帰ってしまった。ここからは、人間の見張りだけが頼りなのだ。
幸いにして穏やかな月夜だ。白帆をかかげた敵船はよく見えるはずである。対してこちらは帆を降ろして漕走している。これで先手を取れなかったら、よほど運が悪いとしか言いようがない。
首領であるルドガーとヘンルリックは、帆柱の根元の左右にじっと立って、前方を見ていた。ふと身を震わせたヘンルリックが、あごで艫《とも》を示してルドガーを誘った。
船尾に並んで、長々と海へ放尿しながら、ヘンルリックがつぶやいた。
「おれはこれを最後にする」
「海賊か」
「いい区切りだと思わんか。相手はイェスパーたちの仇《かたき》だ」
「そうだな」
グラニ号一隻で、八十隻の艦隊に殴りこむと海賊たちの前で言った時、全員がわれ先に志願したことを、ルドガーは思い出した。弔い合戦ほど彼らの血を沸き立たせるものはないのだろう。
船長、と檣頭の見張りが小声で呼ばわる。
「左前方、三点」
ルドガーたちはいっせいにそちらへ目を向けた。
ぼんやりとした青い海岸線を背にして、小さな白い点が、ぽつんとひとつだけ見えるような気がした。いくらもたたないうちに、両舷の見張りも声を上げた。
「間違いない、櫓《やぐら》が高い」
戦闘用の船尾楼を持つ、軍船だということだ。ルドガーとヘンルリックは、うなずきあった。
「オーディンのご加護だ」
「おれからも感謝しておく」
ルドガーたちが待っていたのは、これだった。八十四隻もの船が行動すれば、必ず、故障や事故などで遅れる船が出てくるはずである。艦隊の後ろへ回ったのは、それを乗っ取るためだった。
「ここからは、おれがよしというまで絶対にしゃべるな。しゃべった者は親子ともども舌を切る」
ヘンルリックの厳命が行き渡り、グラニ号は水を切って軍船へと向かい始めた。
近づくにつれ、軍船の状態がわかった。少し傾いた状態で完全に止まっている。座礁しているのだ。しめたというように、ヘンルリックが満足げにうなずく。ルドガーは後で知ったのだが、この辺りは海底が砂なので、座礁ならいくらでも回復させる方法があるのだった。いっぽうで、浸水や帆柱の破損などだったら、修理に時間がかかる。
ヘンルリックが腕を回して合図し、グラニ号を陸岸ぎりぎりまで近づけさせた。古式なグラニ号は、今時の大型船に比べて喫水が浅い。より危険な水域を航行できるのだ。
複雑な陸景にまぎれるようにして、竜頭船は軍船に近づいていった。
甲板上の人影が見分けられるほど近づいたところで、軍船からけたたましい鐘の音が上がった。乗員が走り回り、角灯が点《とも》される。ルドガーはつぶやいた。
「気付かれた」
「もう遅いわ、よし、行くぞ!」
待ちかねていた海賊たちが、腹の底から威嚇の叫びをあげ、角笛を吹き鳴らし、太鼓を叩いた。
ものの数分で、竜頭船は軍船の右舷に接触した。ルドガーとエルス、ヴァルブルクを先頭に、レーズスフェントの者たちが喚声を上げて乗り込んだ。眠っていた乗員たちが、泡を食って起きてくる。たちまち、甲板上での乱戦になった。
起き抜けとはいえ、相手は戦いが本職の騎士や傭兵たちである。一時はルドガーたちが不利になった。ルドガーをかばったヴァルブルクが脇腹に傷を受け、エルスほか数名が海中に放り込まれた。
だが、優勢になりつつあった敵の背後に、突然海賊たちが大声を上げながら上ってきたので、一挙に形勢は逆転した。ヘンルリックの指揮で、グラニ号は敵船の左舷に回りこんでいたのだ。オールのある竜頭船ならではの機敏な動きである。挟み撃ちをくらった敵兵たちは浮き足立ち、ある者は船倉へと逃げ込み、ある者はひざまずいて降伏した。
「よし、頃合だ。みんな武器を引け!」
ヘンルリックが号令をかけたが、猛々《たけだけ》しいフリーゼン人の戦士たちはなかなか戦いをやめなかった。命乞《いのちご》いする兵士を蹴り殺したり、船尾楼の端まで逃げた騎士を、怒りの形相で突き落とす者もいた。彼らにとっては、三年前にエーレスンドで殺された肉親や友人の仇なのだ。ルドガーは急いで船の階段を駆け下りた。
やがて、目当ての人物が見つかった。ルドガーは軍船の船長を見つけて、甲板に連れて来た。
「皆、やめろ、戦いは終わりだ! 船長が降伏したぞ。この船はおれたちのものだ!」
船が手に入ったといえば収まるだろうと思ったが、それでも乱暴をやめない者がいたので、ルドガー自身が行って、犠牲者から無理やり引き離した。よく見れば、死んだイェスパーの弟分にあたる、ベケだった。
ヘンルリックがやってきて、興奮状態のベケを無造作に殴りつけた。
「すまんな、おれたちは血の気が多すぎるんだ」
「いや、いいんだ」
これぐらい荒っぽい者でなければ、こんな決死隊には参加しようとしないだろう。ルドガーはベケを咎めずに放してやった。
軍船の船長はある聖界領地の司教だった。もちろん船長といっても名前だけの船長で、臣下の船乗りたちが船を動かしていたのである。司教が船など動かせるわけがない。しかしこの際、動かせなくてもよかった。必要なのは彼の知識だった。
「艦隊に参加したときの合言葉や、合図があるだろう。教えろ」
恐ろしい顔をした戦士たちが周りを囲み、剣や斧《おの》を突きつけて脅すと、司教はあっさりと白状した。ルドガーは拍子抜けしてしまった。
「もうちょっと粘るかと思ったが、まるで忠誠心がないようだな」
「いや、こいつは特別だ」
船の各部を調べにいっていたヘンルリックが戻ってきて、言った。
「この船は座礁などしとらんぞ」
「なんだと?」
「船倉の荷を片寄せして、座礁のふりをしていたようだ。艦隊についていきたくなかったとみえる」
驚いて司教を問い詰めると、その通りだった。この男はヴァルデマール国王に尽くす気などさらさらなく、それどころか彼のいない間に国へ戻って、留守の領地を掠《かす》め取ろうと考えていたのだった。
ヘンルリックがあきれて言う。
「ひどい話だ。デンマーク軍が烏合の衆だというのは本当らしいな」
「艦隊すべてがこんな腰抜けばかりだと思っていると、痛い目を見るぞ」
ルドガーは注意したが、いくぶん気が楽になったのは確かだった。
司教を吟味していると、突然、甲板で驚きの叫びが上がった。見れば、舷側から誰かが這い上がってきたようだ。手すりを乗り越えて甲板に倒れこんだ男を見て、ルドガーは叫んだ。
「エルス、生きてたのか!」
「こんなところで死ねませんや。坊ちゃんを守らないと、死んでも生き返らせてお仕置きするって言われてますんでね」
エルスはうんざりしたように言って、やにわに海水を大量に吐いた。ルドガーはヴァルブルクを呼んで言った。
「あいつにいい酒でも飲ませてやれ」
「そんなもの、どこに?」
「この司教の部屋を漁《あさ》ってみろ。きっと出てくる」
司教が絶望のうめき声を上げたところを見ると、図星のようだった。
乗っ取った船はホルベク号といった。腕利きの船乗りであるフリーゼン人たちが積荷の位置を直して、ただちにホルベク号の出発準備を整えた。
しかしフリーゼン人たちは、錨《いかり》を上げる前に、ひとつの儀式を済ませなければならなかった。――それは、グラニ号の葬送だった。
全員が、斧で船底を一撃ずつ打って、穴を開けた。最後にヘンルリックが帆柱を切り倒し、泳いでホルベク号に戻った。
「いい船だった」
艦隊に潜入するのに、あんな目立つ船を引きずっていくわけにはいかないから、沈めるしかない。しかしそれ以上に、この儀式はフリーゼン人たちが今までの生き方と決別するという宣言だった。波間に消える船を見送る男たちの目には、光るものがあった。
西ランゲオーク島の海賊たちは、この夜、オールを捨てた。
グラニ号との別れを済ませると、翌朝、ルドガーはホルベク号を南へ向かわせた。
ホルベク号は、乾舷が高くて船倉の広い、いわゆるコグ船で、グラニ号よりずっと鈍重だった。だが、多数の船が歩調を合わせなければならない艦隊より、独航船のほうが速い。四日後の夕方には、島影に錨を下ろした多数の船影を認めることができた。
ヘンルリックが険しい顔で言った。
「あまり時間がないな」
「大分近いのか」
「あれはシャルヘルン島だ。あそこからヴェーザー川の河口を越えたら、すぐ東フリージアの島々に入るぞ」
「もうそんなところまで来たか……」
ルドガーは夕日を背にしている艦隊に目を凝らした。もちろん、まだ人の姿も合図も見分けられない。こちらから見えないということは、あちらからも見えないだろうが、不安は収まらなかった。
ヘンルリックが部下たちにこまごまと指示を与えた。
「速度を落とせ。完全に日が暮れてから錨地《びょうち》に入るようにするんだ。合言葉は覚えたな? ようし、手の空いた奴はさっさと寝ておけ。次はいつ寝られるかわからんぞ!」
「変に黙りこまねえほうがいいですぜ。適当にばたばたしたほうが、自然になる」
エルスが横から口を出した。
やがて日が暮れると、艦隊は灯火を点した。大小の船が帆桁《ほげた》と船尾楼に角灯をかかげて停泊しているさまは、ぼんやりとしたオレンジ色の光に包まれた町のようにも見えた。
ホルベク号はその町へ入って行き、三頭の獅子《しし》の国王旗を掲げている旗艦の近くまで急いで進んでから、他の船につっかけそうになって、あわてて舵《かじ》を切った。そして、他船から笑い声や心配の声を浴びせられると、罵声《ばせい》と軽口で応じた。
その様子はいかにも、脱落した船が仲間たちの後を急いで追ってきたという風に、見えたことだろう。
船が停止する寸前の数分、ホルベク号と旗艦ノンネバッケンの間にまっすぐな水路が開いた。ルドガーははやり立った。
「このままいけないか? できれば早い方がいい」
「いや、見ろ。手前の、あの船だ」
ヘンルリックが指差した船には、弓を手にした兵士たちが大勢乗って、周囲に目を光らせていた。同じような船が旗艦の向こう側にも一隻。
「反乱対策か……」
「思ったよりしっかりしとるな。まあ、船出すれば隊列が乱れるだろうが」
ヘンルリックがそう言ったとき、近くの僚艦から拡声器で声をかけられた。
「ホルベク号、|物の怪《ウンホルト》を見たか?」
司教から聞いた通りの、掛け言葉だった。打ち合わせどおり、フリーゼン人の見張りが合言葉を答えた。
「いや、|セイウチ《ヴァルロス》しか見てない!」
すると、相手が仲間と顔を見合わせて、何か話し合い始めた。ルドガーたちは緊張する。こちらの甲板下では、万が一に備えて戦士たちが待機している。いよいよとなれば打って出なければならない。
やがて、もう一度声をかけられた。
「明日の日の出と同時に出港だ。遅れるなよ」
ルドガーたちは胸を撫で下ろした。
その夜は長い夜となった――艦隊にはあっさりと潜入できたが、旗艦を襲撃する機会がなかなか来なかった。護衛の艦の兵士たちは一晩中起きているようだったし、その上、夜半から天候が荒れだしたのだ。
ルドガーはほとんど一睡もせずに船内を見回って、今にも敵に見破られるのではないかと震えている者を励ましたり、逆に、脱走者が出ないよう目を配ったりした。
しかし本当のところは、ルドガーも焦りと戦っていたのだった。敵に気づかれれば、こちらはたかだか数十名、周り中から矢を射掛けられ、針ねずみのようになって全滅するだろう。腹の力が抜けてしまいそうな、そんな想像を、努めて頭に浮かべないように、歩き回っていたのだった。
機会がほしかった。嵐《あらし》が強まって、近衛《このえ》艦の兵士たちが船内に引っ込んでしまえばいい。あるいは、嵐が弱まって、小船が出せるようになればいい。
現実はどちらにもならなかった。風は強まり続け、近衛艦の兵士たちは粘り続けた。
砂時計が夜明けの時刻を示すころには、明るくなるどころか、真っ黒な雲から横殴りの雨が降り付けていた。風に奏でられた索具が、ひょうひょうと女の叫びのような響きを上げ、船は高波に煽《あお》られて前後左右に大きく揺れた。
船首に当たった波が激しいしぶきになり、風に乗ってルドガーのところまで飛んでくる。海面を見下ろすと、崩れた波頭が風で散って、無数の白いうさぎが飛んでいるように見えた。小船などとても出せる状況ではない。
起きてきたヘンルリックが周りを見回して、長々とうなった。
「うむ……こいつは出発が延期になるかもしれんな」
夜中ならともかく、昼間にこんなところにいたら見破られないほうがおかしい。今ですら、僚艦からの信号旗をそれと知らずに無視しているのかもしれないのだ。ルドガーは心を決めて、立ち上がった。
「やるぞ、ヘンルリック。今ならどの船も寝起きだ。ありったけの火矢を用意して、周りの船を混乱……」
ルドガーの言葉半ばで、ヘンルリックが肩をつかんだ。
「待て、旗艦に旗が上がった。あれは……出航命令だぞ!」
ルドガーは驚いてノンネバッケンに目をやった。だが、そんなことをせずとも、巻き起こった鐘の音と、甲高い号笛のおかげで、艦隊が目覚めつつあるのがわかった。
「おあつらえ向きだ、動き始めの混乱のところを狙おう」
ヘンルリックの言葉に、ルドガーはうなずいた。
居並ぶ船という船の甲板を、船乗りたちが走り回り、錨を巻き上げ、帆柱に登って、帆を広げた。事前にある程度の打ち合わせはあったようだが、整然というにはほど遠い様子で、それぞれの船が動き出す。統制が取れていないうえ、強風と高波のせいでどの船も前へ進むのさえ苦労している様子だ。
ホルベク号もヘンルリックの指示で動き出す。ルドガーは雨に打たれながら、食い入るように旗艦のほうを見ていた。
――さあ、隙を見せろ。その時こそ……。
三年前に顔を合わせた、あの高慢な青年王の顔が浮かんだ。ルドガーは祈るような思いで、待っていた。
シャルヘルン島の陰から出ると、さらに強い風が襲いかかった。艦隊の各船は風下にかしぎ、よろめくように進んでいった。どの船も風に抗して船の位置を保つのに精一杯で、他の船を観察している余裕などないようだ。ルドガーは船尾楼に駆け上がり、言った。
「今だ。旗艦に追いつけ」
「よし!」
フリーゼン人とレーズスフェントの人々が力を合わせて、帆の向きを変えた。ホルベク号は艦隊の風上に上がって、そのまばらな列を追い抜き始めた。
しかし、あと少しで旗艦に追いつけるというところで、前方に別の艦が割り込んできた。見れば、例の近衛艦だ。船尾楼に立った船長が、拡声器を構えて大声で怒鳴る。
「隊列を守れ。勝手な動きは許さんぞ!」
「わかったと答えろ」
部下に言って、ヘンルリックが野太い鼻息を噴いた。ルドガーも天を仰ぐ。
「神よ……!」
それからも、そのグズルム号という近衛艦は、旗艦の後方をがっちりと固めて、まったく隙を見せなかった。
艦隊がレーズスフェントに到着してしまったら、元も子もない。もとよりルドガーたちとて、損害を恐れはしない。レーズスフェントを守れるものならどんなことでもするつもりでいる。だが、取り巻きと戦っている間に国王に逃げられたら意味がない。
「左六点、アルテ・メルム島!」
檣頭の見張りが叫ぶ。その島の名は、陸者《おかもの》のルドガーですら聞いたことがあった。ヴェーザー川河口の西側にある島で、レーズスフェントから三十マイルほどしか離れていない。
艦隊のこの船足だと、今日の夕刻には目的地についてしまうだろう。
焦りをたたえた部下たちの視線を、ルドガーはずっと感じていた。ふと気付くと、隣にやってきたヘンルリックも、似たような渋面で、見え隠れする旗艦をにらんでいた。
「この先、機会があると思うか」
「あるかもしれん。だが、到着したら攻撃のために必ず打ち合わせをするはずだ。それを切り抜けられるか」
上陸攻撃のような複雑で大規模な行動を、信号だけで指揮するつもりだったら、その司令官はとんでもない愚か者だろう。ポデブスク司令官がまともな人物ならば、全船長を旗艦に呼んで、軍議を開くに違いない。
ホルベク号の乗員たちは、主(と異教の神オーディン)のご加護だとしか思えない幸運により、ここまで正体を隠し通した。だが、どんなに幸運でも、船長会議に呼びつけられたらごまかせるわけがない。
「待てよ……」
しかし、ルドガーは逆に、それがまたとない勝機だということに気付いた。
「その作戦会議が狙い目だ」
ルドガーがその考えを話して聞かせると、ヘンルリックが愁眉《しゅうび》を開き、武骨な顔に笑みを浮かべた。
「名案だ。それなら皆も文句はないだろう」
「よし、飯だ!」
最期の晩餐《ばんさん》になるかもしれない食事である。船倉が調べられ、食材が惜しみなく運び出された。大皿にたっぷりと盛った塩漬け肉と豆のシチュー、酢漬けのニシン、まだ色艶《いろつや》を残した果物が並べられ、男たちは先を争って平らげた。
腹を満たした彼らが見たのは、船尾楼の下の物陰で眠りこけるルドガーとヘンルリックの姿だった。
やがてルドガーは、甲板の傾きがゆるやかになったことに気付いて、目を開けた。見れば、頭上の帆が帆桁に巻き上げられていた。いつの間にか雨がやみ、風もだいぶ弱まったようで、頭上に雲が暗く立ち込めていた。
だが、景色はとても明るかった。立ち上がったルドガーは、西の海上が晴れ上がり、そちらから夕日が差しているのを見た。金色の光が、周囲に停泊している数十隻の船をとても美しく照らし出している。ほとんどの船がすでに帆を畳んで停泊しており、それらの船が、嵐の名残である強風に、索具と旗をはためせていた。
そして、南には、もう森の中の小さな荘園ではなくなったレーズスフェントが、渚に張り巡らせた柵と防御塔に守られて、二つの流れの中間にわだかまっていた。身を丸めた強情な獣のような、町の姿を眺めていると、今この瞬間にも、その地の人々がこちらを眺め、ルドガーたちが戦果を挙げるように祈っているさまが、ありありと想像できた。
ルドガーは、舷側の手すりをしっかりと握り締めて、じっとそちらを見つめていた。ふと気付くと、自分の右にも左にも、同じように陸地のほうを向いて、食い入るように眺めている男たちがいた。
思わずつぶやいた。
「まるで枝に止まった小鳥だな」
はっと我に返った男たちが、そそくさと散っていくのを、ルドガーは苦笑して見送ったのだった。
その時、重々しい角笛の音が艦隊に響き渡った。旗艦に目をやったルドガーは、一連の小さな旗が帆柱に上がっていくのを見た。
「ヘンルリック!」
「うむ、召集信号だ」
ヘンルリックが重々しくうなずいてから、にやりと笑って前方を指差した。ルドガーがそちらに目をやると、あの、さんざん悩まされたグズルム号の船長が、旗艦一番乗りの栄誉を競うかのように、急いだ様子で小船を下ろして漕《こ》ぎ出していった。
ルドガーは部下たちを振り返った。
「行くぞ。――船を進めろ」
「リュシアンさま、動きました!」
見張りの男の叫びを聞いて、地上にいたリュシアンは防御塔を振り仰いだ。
「攻撃か?」
「違います、仲間割れです!」
やったか、と叫びたくなるのをこらえて、リュシアンは塔の中に入り、らせん階段を駆け上がった。ルドガーたちの決死隊がどうやってデンマーク王に討ち入るのか、その詳しいところまでは町の人たちに明かしていない。仲間割れのように見えることが起こったのなら、それは潜入していたルドガーが行動を起こしたに違いない。
塔の屋上に走り出ると、背後から南風が吹き付けた。ローブの裾《すそ》をはためかせながら、リュシアンは胸壁に身を乗り出した。
「どれだ」
「帆を広げたやつです」
隣の見張りが指差した。八十隻になんなんとする、デンマーク軍の艦隊。勇壮なものだ。停泊中なので、当然ほとんどが帆を畳んでいる。しかしその中に一隻だけ、白々と帆を広げて、動き出している船があった。
「あれか?」
「周りの船にぶつけています」
見張りの男は目がいい。リュシアンがよくよく目を凝らすと、進んでいく船が他の船の間に割り込み、押しのけるようにして進んでいるのがわかった。ぶつかるたびに小さな点のようなものが飛んだり落ちたりしている。きっとあれは人だろう。
そのとき、誰かがらせん階段を駆け上がってきて隣に並んだ。
「プリムス」
「あれはルドガーよ。間違いない」
泉の精霊はそう言って上空を見上げた。その頭上を、大きな翼を持つイヌワシが沖へ向かって一直線に飛んでいった。
ルドガーたちだと思われる船に、他の船から、きらきら光る針のようなものが浴びせられた。弓矢だろうが、なぜかごくまばらにしか射ていない。その程度では、突き進む船はひるむ様子も見せない。それがどこを目指しているのか、もうリュシアンにもわかった。ひときわ大きな、旗を掲げた船だ。
レーズが目を閉じてつぶやく。
「わかった、小船が出ている。あの艦隊の中はいま、船長や貴族の乗った小船だらけなのよ。ルドガーはそれを蹴散らして進んでいる。他の船はうかつに動けないし、攻撃できない。見事だわ!」
間もなく、ルドガーの船は真横から旗艦に衝突した。高々とそびえている船首楼が、一段低い旗艦の中央甲板を踏み砕くようにして乗り上げた。木と木がぶつかり、折れてはじける音が、ここまで聞こえてきそうだった。
「乗り込んだ」
船首楼からたくさんの人影があふれて、わらわらと旗艦の甲板に飛び降りる。個々の人間の見分けはつかないが、リュシアンにはすぐそばで見ているようにわかる。あの中にルドガーがいる。彼は突入に成功したのだ。
「兄様ーッ!」
リュシアンは胸壁から身を乗り出して絶叫した。周りの者がぎょっとし、すぐに唱和した。
「ルドガーさま!」
「やれ、やっつけろ!」
叫びを聞きつけた人間が次々に塔の上にやってきて、海まで届けとばかりに口々に声援を投げつけた。
旗艦上の戦いは、遠目にも激しいものだった。船首楼から船尾楼までのすべての場所で、百を下らないきらめきがちららちと瞬き続け、何か小さなものが舷側からひっきりなしに海へ落とされていた。いきなり帆柱の上の帆桁がかしぎ、垂直になって、城門を破るための巨大な槌《つち》のように落下した。それが甲板を突き破って、あたりのものと人間を粉々に吹き飛ばすのが見えた。
「プリムス、加勢は!?」
「やってる」
確かに、先ほどのイヌワシを含む十数羽の鳥が、翼を広げて旋回したかと思うと、獲物を捕らえるときのように急降下していた。しかしそれはあまり効果を上げていないようだった。数が絶対的に不足している。
時間が経《た》つにつれ、刀槍《とうそう》のきらめきが減り、戦いの様子がわかりにくくなった。目を凝らし続けていたリュシアンが、ふと目頭を拭ってからもう一度沖を見ようとすると、いつの間にか夕日が暮れてしまい、青い闇が広がり始めているのがわかった。
「まだ見えるか」
「いまフクロウを飛ばしているわ」
「兄様は無事なのか?」
「甲板の下へ突っこんでいくところまでは見えたけれど!」
おお、と声が上がった。リュシアンが振り向くと、それまで気づかなかったが、屋上からあふれそうなほどの人々が詰めかけ、固唾《かたず》を呑んで戦いを見守っていたのだった。
やがて、二、三隻の船が、ぽつり、ぽつりと灯火を点しはじめた。いくらもたたないうちに明かりは艦隊中に広がり、幾重にも連なった楼閣のような威容を海上に現した。
突然、レーズがうめいた。
「ああ……ラルキィめ」
「どうした」
リュシアンを振り向いたレーズは、泣き出す寸前の子供のような顔をしていた。
「捕まった。負けてしまったわ」
「負けた?」
「本当か」
「じゃあ、この町は」
人々が不安の声をあげ始めた。そのざわめきは急に大きくなり、泣き声が混じり始め、リュシアンがまずいと思ったときには、すでに声が通らないほどになっていた。
「くそ……」
「捕まったですって」
澄んだ声が響き、人々がはたと静まり返った。リュシアンは、その声を聞いただけで誰だかわかった。胸が強く痛んだ。
人々をかきわけて、女が現れる。報告するためには、強い意志が必要だった。
「ルドガー兄様が、ヴァルデマール王に捕らえられました。……エルメントルーデさま」
エルメントルーデの美しい頬から血の色が抜けて、蝋《ろう》のように青白く変わるのを、リュシアンは目前に見た。
だが彼女は、倒れなかった。リュシアンとレーズに目をやると、はっと何かに気付いた顔になった。
「あなたは……あのときの」
レーズが無言でうなずく。エルメントルーデはあの時に比べてだいぶ背が伸び、レーズより高くなった。だがこの精霊は、しかし、六年前、|川の卵《フルス・アイ》≠授けた相手のことを、ちゃんと覚えているようだった。
エルメントルーデが、レーズの手を取った。
「あなたは、この地の守護聖人なのね」
「いえ、私は……」
「そうなのでしょう?」
エルメントルーデが背後の人々を目顔で示すのが、横にいたリュシアンにだけは見えた。レーズが何かに気付いた顔になり、改めてうなずく。
「……そうよ」
「私たちと、戦ってくれますか」
その時レーズの顔に浮かんだ複雑な表情の意味を、わかった者がいたかどうか。
だが彼女は、しっかりと彼女に向き直って、うなずいたのだった。
「戦いましょう」
「ありがとう」
エルメントルーデが膝を突き、彼女の手の甲に接吻した。
それは、キリスト者がほとんどの、この地の人々にとって、見たことも聞いたこともない不思議な光景だった。流浪の歌|唄《うた》いが歌う宮廷叙事詩《ミンネザング》では、このような接吻は、騎士が貴婦人に対して行うものだと相場が決まっている。だが今は、接吻を受けるべき貴婦人がひざまずき、何者かわからぬ男装の女に感謝の念を捧《ささ》げているのだ。
エルメントルーデの接吻が終わると、レーズは夜空を仰いで、何かを招くように腕を差し上げた。重い大きな羽音とともに、イヌワシが現れる。
「腕を上げなさい」
エルメントルーデが言われたとおりにすると、猛禽は命じられもしないのに、その腕に舞い降りた。羊をさらうことも出来る強力なかぎ爪が、若木のような細腕をつかんだ。たちまち鮮血が漏れ、人々が小さく悲鳴を上げる。
だがエルメントルーデは声一つ上げずに痛みに耐え、挑戦するようにレーズに目をやった。レーズがうなずく。
「相応しい。これからこの子は、おまえのものよ」
彼女が片手を一振りすると、猛禽は羽ばたきを叩きつけて飛び去った。その強い突風を受けて、とうとうエルメントルーデが床に倒れこんだ。
「奥方さま」
「奥方さま!」
人々があわてて周りを囲み、介抱の手を伸ばす。だが、気力が尽き果てたようにぐったりと身を任せながらも、エルメントルーデは微笑んでいた。
リュシアンには、その微笑みの意味がわかった。かたわらのレーズに近づき、ささやきかける。
「ぼくからも礼を言う」
「何に?」
「彼女を助けてくれたことを。――この方は、今まさに分解するところだったレーズスフェントを、間一髪でつなぎとめた」
エルメントルーデを見ながら言うと、レーズが淡い苦笑のにじむ声で言った。
「助けずにはいられなかった。……いえ、助けたくなってしまったのよ。ずっと昔から、利用されるのはいやだと思っていたのに」
ふわりと風を残して気配が消えた。リュシアンが振り向いたときには、彼女の姿はなかった。防御塔の縁から身を乗り出してみると、眼下の闇に、くるみ色の髪が消えていくのが見えたような気がした。
デンマーク王ヴァルデマール四世は、しきたりにのっとってレーズスフェントに使者を送り、エーレスンド海峡の通行料、年額一千ハンブルク・マルクを請求した。検討のために三日の猶予が与えられたが、レーズスフェントの副代官フェキンハウゼンはこれを即日拒否した。脅迫と拒否のやり取りが何度か続き、最終的に、レーズスフェントはあらゆる譲歩を拒んだ。
「それでは貴市は、我が王国が貴市に対して示してきた、あらゆる慈悲深きはからいに対して、背信をもってお答えになる、というわけですな」
「遺憾ながら」
副代官のこのひとことを携えて使者が帰ると、双方はミサを執り行い、戦闘態勢に入った。
翌日、日が昇って朝の海風が吹き始めるころ、防御塔の警鐘がけたたましく響き渡った。
「敵が来るぞ! 敵が来るぞ!」
一マイルほど沖に並んだ軍船の群れから、兵士を満載した百数十隻の小船が、三角帆を張り、オールを動かして、速やかに漕ぎ寄ってきた。
防御の指揮をとるリュシアンは、防御塔の上でその様子を眺めていた。しかし、敵が近づいても何をするわけでもなかった。ただ黙って、いつもの黒いローブ姿で胸壁のそばにたたずんでいる。
彼のそばでは、レーズスフェントの子供たちが、落ち着かない様子で待っている。その中にいたダリウスが尋ねた。
「叔父《おじ》さま、いいのですか」
「何がだい」
「その、命令とか」
「それは、もう済んでいる」
リュシアンは言葉少なに答えた。彼はルドガーのような騎士ではないし、前線の指揮官でもない。彼に出来ることは、前夜までにすべて済ませたし、そうでないことはこれから起こるのである。今はただ、こうして目立つところに立っているのが務めなのだ。
それは彼に限ったことではない。ナッケルも、アロンゾも、エルメントルーデもそうだ。彼ら彼女らも前線にはいないが、しかるべきところで務めを果たしている。
しかしそういうことを言葉には出さず、ただリュシアンはダリウスを抱き上げて、胸壁の上に座らせてやった。
「見ていてごらん」
焦げ茶の髪の少年が、膝頭を握って沖を見つめる。その口から小さなつぶやきが漏れた。
「父上、まだかな……」
彼は昨日の出来事を知らない。ルドガーが敵の旗艦に忍びこんで、奇襲の機会をうかがっているのだ、とだけ聞かされている。だが、捕虜の扱いは甘いものではない。身代金目当てで丁重に遇される場合もあるが、ヴァルデマールはレーズスフェントから身代金を取ろうなどと、本気で思ってはいないだろう。
「きっと来る」
リュシアンはただ、彼のそばに寄り添った。
小船の群れは一直線に中洲へ漕ぎ寄ってきた。大軍を擁するヴァルデマールは、小細工を弄《ろう》せず全軍を正面から投入することを選んだようだった。レーズスフェントの中洲はスプーンの柄のように細く沖へ伸びている。そこに小船が群がり、盾を抱えた大勢の装甲兵を吐き出した。
スプーンの柄の付け根に当たるところに、レーズスフェント人はレンガと丸太で頑強な防塁を築いていた。そこに立った指揮官のゼップが、左右の仲間を見下ろして、叫んだ。
「撃ち方用意――撃て!」
左右の防塁には、防御塔から急遽《きゅうきょ》移設した、ジェノバゆかりの最新兵器である大砲が、一門ずつ用意してあった。木の台に打ちつけた、大人の背丈ほどの長さの鉄の筒である。号令一下、砲手が尾部の穴に導火|棹《さお》を突っこんだ。轟音《ごうおん》とともに、凄まじい炎と白煙が砲口から噴き出した。石つぶてがザアッと音を立てて敵兵に降り注ぎ、一度に数十名を打ち倒した。
「やったぞ!」
市民たちが歓声を上げ、引き続き弓矢を射放って、敵を串刺《くしざ》しにする。デンマーク兵は悲鳴と苦鳴をあげ、波打ち際でもがき回る。
だが、死体や負傷者を踏みつけて、後続の兵士たちが砂洲に上陸してきた。彼らは降りそそぐ矢の雨の中で身を丸めつつ、手から手へ盾を渡していき、波打ち際に盾の壁を作った。その防御のもとで陣形を整える。
人数が百名ほどに達すると、彼らは剣や手斧を構え、雄叫《おたけ》びを上げて突進してきた。市民たちは弓矢を槍に持ち替えて待ちかまえる。
防塁によじ登ってきた敵を、槍の林が迎え撃った。胸壁に隠れた市民たちが槍を突き出して、敵を貫き、突き落とした。
いっぽう、砂洲での激戦を横目に、海へとそそぐ東西エギナの河口を遡《さかのぼ》っていく小船もあった。彼らはレーズスフェントを囲む土壁を横目で見ながら、手薄な侵入口はないかと目を光らせていた。
半マイルほども遡ると、川を横切る橋が近づいてきた。デンマーク兵は橋に目をつけ、そこから市内へ入ろうと、オールを漕ぐ力を強めた。
橋のたもとの防御塔で角笛が鳴ったかと思うと、その屋上から機械弓《バリスタ》が顔を出した。のみならず、彼らが警戒していなかった本土側の岸辺でも、弓兵が起き上がった。
「放て!」
おびただしい矢が風を切って降って来る。小船の兵士たちは首をすくめて盾をかざす。その盾の隙間に突き立った矢が、兵士たちを紙細工のように貫いた。ブン、と重い音を立てて飛んできた機械弓《バリスタ》の太矢が、杭《くい》のように船縁《ふなべり》を突き破った。
後続の小船も、レーズスフェントの土壁上に現れた弓兵たちに射掛けられて沈んだり、あわてて回頭しようとして、岸辺に突っ込んだりした。
総じてレーズスフェントの側面の防御は堅固だった。
だが、北面の状況は徐々に危険になってきた。
レーズスフェントの防御を理解したデンマーク軍が、砂洲の付け根を狙い始めたのだ。小船をひっきりなしにつけて兵力を陸揚げし、周囲に展開した船からも矢を射掛ける。たかだか五十クラフター(九十メートル)四方の防塁に、数千名の敵が攻撃を集中していた。
昼を回ると、防御側は、三方向から突撃と射撃を受けて、少しずつ損害を増やしていった。
「ラッハン、ラッハンはどこだ!」
「西の大砲を手伝いに行った」
「じゃあパウルだ。奴が見えんぞ、何をしてる?」
「さっき斬られて連れていかれたよ」
「神様、手が足りねえ」
ゼップは胸壁の内側の足場の上で、壁にもたれて荒い息をついた。その頭上に飛び降りてこようとした敵兵を、近くにいた仲間が槍で突いて外へ落とした。
「ゼップ、どうする?」
「どうもこうも、粘るしかねえ。ここが破られたら終わりなんだから」
ゼップがそう言って、そばの手桶から水を飲み、もう一度勢いよく立ち上がったとき、たった今しゃべっていた仲間が倒れた。
胸壁を乗り越えてきた敵に、頭を戦斧《せんぷ》で割られたのだ。その敵が、ゼップの正面に立った。
同時に、背後にも敵が下りてきた。ゼップは挟み撃ちに合い、あわてて槍を構える。
「ちくしょう。卑怯《ひきょう》だぞ、大勢で!」
その時だった。足場の下からばね仕掛けのように勢いよく跳ね上がってきた人影が、ゼップの前に背中を見せて立った。その人物は、正面の敵が振り下ろした手斧を間一髪で避けて、牧草を刈る大鎌《おおがま》のような鋭い蹴りで、そいつを足場の下に叩き落した。
振り向いてゼップの後ろへ回り込み、もう一人の敵と対峙《たいじ》する。
「ひい……」
それは敵兵の漏らしたうめき声だが、ゼップの漏らした声でもあった。屈強というにはほど遠い、すらりとした体格の男装の女が、大の男を綿の詰まった袋か何かのように、両手でぐいと頭上に持ち上げて、軽々と胸壁の外へ放り投げたのだ。
ゼップは目を疑う。
「い、泉の」
「レーズでいいわ」
無造作に言い捨てて周囲に敵がいないことを確かめてから、レーズは唇に指を当てて、甲高い口笛を吹いた。
ピーィ……。
すると驚くべきことに――レーズスフェントの物陰という物陰、通りという通りから、無数の獣が現れた。最初に走ってきたのは俊足の犬たちだ。それに交ざって精悍な顔つきの狼《おおかみ》もいる。踊るような足取りでキツネが跳ね、イタチやクズリのような小動物たちも、流れる水のようにするするとやってきた。
陸だけではなかった。空からも大小さまざまな翼が降りてきた。イヌワシにトビ、ハヤブサにキツツキにカケスたち。普段は追いつ追われつしているはずの猛禽と小鳥たちが、一時的に休戦でもしたかのように、入り交じって飛来した。
それらの禽獣が、中洲の北の戦場に入り込み、いっせいにデンマーク兵に襲い掛かった。飛びついて首を噛み切り、あるいは指だけをすばやく食いちぎる。すれ違いざまに鎧の留め金を掻き切っていくかと思えば、首に巻きついて絞め上げる。
水の上でも同じだった。弓を射ていた小船の兵士たちが、水中から跳ね上がった魚に体当たりされて、次々に弓を取り落とし、落水した。
デンマーク軍の攻撃が鈍り始めた。
その流れの変わり目を、防御塔にいたリュシアンは逃さずに捉えた。子供たちを振り返って、命じる。
「角笛、全隊を北の防塁に攻撃を集中! それに伝令! 広場の作業場へ行って、女たちに、明日の分の矢もすべて防塁へ運ばせろ」
大柄な子供が、顔を真っ赤にして角笛を吹き鳴らす横を、伝令の子供が転がるようにして駆け下りていった。
やがて、北の防塁から歓声が聞こえてきた。手に手に武器を握った市民たちが、抱き合って喜んでいる。防塁の北の砂洲では、生き残りのデンマーク兵が負傷者や死体を引きずって小船に乗り込んでいく。
ひとまず今日のところは撃退できたらしい。リュシアンがほっと息をついていると、ダリウスが妙に気を使った様子で言った。
「叔父さま、ひとことしか命令できませんでしたね」
思わず、リュシアンは微笑んだ。
「ひとことで勝ったんだ。すごいだろう?」
驚くべきことに、レーズスフェントはそれから一ヵ月間にわたって、デンマーク軍の攻撃を凌《しの》ぎ続けた。リューベックやハンブルクのような、巨大な人口と城壁を持つ歴史ある都市ならともかく、生まれてからまだ十年も経たない新興の町が、れっきとした王国の軍勢、五千を敵に回して一歩も引かずに戦っているというのは、普通なら考えられないことだった。
戦々恐々と見守っていた付近の村から、噂《うわさ》は風のように広まっていった。ドルヌムからレールへ、ライン河谷の諸領へ。エーゼンスからブレーメンへ、ヴェーザー川沿いの諸都市へ。低地地帯《ネーデルラント》へ、ヴェント都市へ。旅人が、商人が、巡礼が歩くのと同じ速度で、その報は伝わっていった。
レーズスフェントという小さな村の娘を、横柄なデンマーク王が奪おうとしているそうだ。……いや、その娘は異教徒なので、王陛下が討伐なさっているのだと聞くぞ。……そんな娘など関係ない。あの村にいるのは暗殺された前々王の御落胤《ごらくいん》なのだ。……どれも間違っている、レーズスフェントには救世主さまが降臨された。北ドイツを脅かす悪逆なヴァルデマール王と戦っておられるのだ。
噂は形を変え姿を変え、広まり続けた。北ドイツからフランドルへ、高地ドイツへ……そしてエルベ上流の、プラハにまで。
しかし一ヵ月が過ぎたとき、レーズスフェントは限界に達していた。
その日の朝日が昇っても、まともに起きられる者は一握りしかいなかった。誰も彼もが疲労|困憊《こんぱい》していた。男も女も、六つの子供も六十の年寄りも、俗人も聖職者もが、与えられた務め以上のことに奔走した。
戦争にまつわるありとあらゆる作業が、絶え間なく押し寄せた。矢を拾い集め、火事を消し、死体を片付け、武器を研ぎなおし、防具につぎをあて、資材を町のすみずみまで運び、怪我人を治療し、食料と炭を運び出し、始終調理をし、防塁と土壁を補修し、家畜に餌をやり、夜警に立ち、冷めた食事をかき込み、警鐘を鳴らし、怒鳴り、慰め、駆けずり回り、不安に苛《さいな》まれ、休む場所を聞き逃し、持ち場についたまま浅い眠りをとり……そして夜が明けるとまた同じ一日。
その合間には、短いが猛烈に消耗する激しい戦闘が、何十度となく繰り返された。
死者の数は百人を超えた。軍隊における百人とはわけが違う。町の中の百人だ。働き盛りの男ばかり……。ゼップが死に、ナッケルも重傷を負った。
「わし、こんなに儲けたの、生まれて初めてや」
百人目の葬式を司ったアロンゾ司祭の頬は、そぎ落としたようにえぐれ、髪にはめっきり白いものが増えていた。
レーズスフェントはそれだけ耐えた。この間に、デンマーク軍側の死者はおそらく五百を越えただろう。だがそれがなんなのか? そんなことはレーズスフェントの殊勲ではなかった。レーズスフェントはもはや勝利など求めていなかった。レーズスフェントは、ひたすら終わりを求めていたのだ。
だがそれは、ひと月を耐えても与えられなかった。
その日の朝日が昇ったとき、一人、いつも通りに目覚めたレーズは、ついに決心したのだった。
レーズスフェントのすべてと引き換えに、終わりをもたらすことを。
「出陣!」
司令官の号令とともに、旗艦の角笛が鳴り、小船がいっせいに母船を離れていく。
ヴァルデマールは、旗艦ノンネバッケンの船尾楼に立って、黙然とその光景を眺めていた。司令官のポデブスクが、声をかけた。
「水は、今日の夕刻までです」
ヴァルデマールは彼を振り返り、冷たい目を向けた。ポデブスクは穏やかに、だが毅然《きぜん》と見つめ返す。結局、ヴァルデマールはうなずいた。
「承知している」
ポデブスクは一礼した。
ヴァルデマールは苛立《いらだ》ちを抑えて、前へ向き直る。ポデブスクは得がたい人材だ。ヴァルデマールに対して念を押すことが出来る者は、この国の宮廷にもそうはいない。他の側近たちはヴァルデマールの怒りを恐れて、近づいてさえこない有様だ。だから、ポデブスクを罰するべきではないのだ。
そうとわかってはいても、ヴァルデマールは不愉快を押し隠せなかった。
あの町が三十日ものあいだ耐え続けるとは、まったく予想外だった。そのせいで、艦隊の損耗は膨大なものになっていた。兵員の士気はおびただしく下がり、兵器、資材、食料の残りは三割を切っていた。
致命的なのは真水だ。海の上で真水が切れたら、軍隊は戦えなくなる。それはすでに一度、底を突いていた。攻略半月が過ぎたころに、一番近い河川都市であるブレーメンに輸送船を送って、大枚をはたいて井戸水を購入してきたのだ。しかしそれを二度繰り返すだけの余裕は、艦隊にはもうなかった。
だからヴァルデマールは、今日の攻略に失敗したら退却することを、昨夜ポデブスクに約束させられたのだ。
その約束を果たすため、ヴァルデマールは全騎士と兵士に、火矢を持たせるよう命じた。もし町が落ちぬようならば、焼き払ってしまうつもりでいた。
「レーズめ……」
あまりにも皮肉な事態に、苦いつぶやきが漏れる。
この駆け引きを始めたとき、試す側にいるのは自分だった。相手を実力で打ち負かし、その捧げ物を嘉納《かのう》するはずだった。それが、現実は。
こちらが頭を下げて、和を請わねばならなくなった。
「……誰がそのようなことを!」
ヴァルデマールは指が白くなるほど手すりを握り締めて、海の向こうの小さな町を睨《にら》む。
そのとき、かすかに日が翳《かげ》った。ヴァルデマールは空を仰いだ。
白鳥が舞っていた。ヴァルデマールの周りで、ロスキレの丘でのできごとを覚えている者が、感嘆とも恐れともつかない叫び声を上げた。
「あやつ……」
白鳥は降りてこなかった。ヴァルデマールの頭上を通過しながら、小さな白いこよりのようなものを落としていった。拾って開いてみると、それは畳んだ手紙だった。
側近たちが気がかりそうな視線を向ける。それを無視して、ヴァルデマールはノンネバッケンの艦長に言った。
「信号を上げよ。黒旗三連だ」
「黒旗三連、上げます」
艦長が直立不動で繰り返し、後ろを振り向いて信号手にそれを命じた。ノンネバッケンの後方の帆柱に、三枚の黒旗が上がった。
ポデブスクが尋ねた。
「陛下、これは?」
「休戦に同意するなら、白旗三連を上げろと言ってきた」
もうじき火の海に包まれるはずのレーズスフェントに目をやって、ヴァルデマールはうそぶく。
「さもなければ艦隊を全滅させるそうだ」
「ほほう! どうやって?」
「違うな。どうして? と聞くべきだ」
ポデブスクがけげんな顔をする。ヴァルデマールはいよいよ表情を殺して町を睨む。
それができるのはわかっている。だが、そんなことをすれば、町も無事では済まないはずだ。町を守るために戦ってきた彼女が、そんな手に踏み切るわけがない。
これはこけおどしだ。そうに決まっている。
ローマの泉にこれほどの人が集まるのを、リュシアンは見たことがなかった。
レーズスフェントの市民、一〇三二名。決死隊と死者を除いた全員のはずである。泉のくぼ地に収まりきらず、周囲の木立のあいだにまで立っている。
リュシアンは、くぼ地の端の石段から、集まった市民たちを眺めた。みな、不安そうではあるものの、こちらを信用した様子で見つめている。
彼らの視線の先には、レーズの姿があった。石段に片足を伸ばして腰かけている。飾らない様子だ。しかし彼女の不思議な力のことを、今では町の皆が知っていた。その理解の仕方には差が――鳥獣を操る異教の司祭だというものから、癒しの力を持ったキリストの聖女だというものまで――あったが、彼女がレーズスフェントを守ろうとしているという点では、人々の見解は一致していた。
リュシアンは言った。
「集まったぞ」
レーズがうなずいて立ち上がった。リュシアンは、隣に立っているエルメントルーデとともに、泉の精霊を見つめる。
彼女のたっての指示があったから、夜明けとともに伝令を走らせて、無傷の者も負傷した者も、一人残らずここに呼び寄せたのだ。そのわけを聞くことは聞いたが、いまだに信じられない思いでいる。
立ち上がったレーズは、皆の顔を眺めて、改めて言った。
「まず、最初に謝っておくわ。この戦争は、私が起こしたものなの」
声にならないざわめきが起こった。だが、それらの声音は森の木々に吸い込まれた。
「ヴァルデマールは、私の知り合い。彼との個人的ないさかいが元で、こういうことになった。簡単に言えば、私がこの町のことを自慢したから、彼の欲望を刺激してしまったのよ。あの男の人柄を確かめてからにすればよかったけれど、気付いた時には遅かった。彼は力ずくでこの町を奪うことに決めて、やってきた。
私の過ちは、町というものを積み木細工か何かのように考えていたこと。それを作ってただ見ていればいいと思っていた。でもそうではなかった。町は生き物だった。いつごろからか、私の手を離れて自由に育ち始めていた。
今ではもう、レーズスフェントは私の町じゃない。おまえたちの町よ。私一人の意思でその行く末を左右できるものではなくなった」
「この町はルドガーさまのものだぞ!」
誰か、リュシアンには名前もわからない青年が叫んだ。レーズが微笑み、うなずいた。
「もちろんそうよ。昔からそうだった。ついでに言うと今でもそうだから安心するといいわ。彼はまだ死んではいない」
「どうしてわかるんだ?」
「彼との間にはつながりがある」
レーズの後ろで、エルメントルーデが祈るように手を組み合わせて、うなずいていた。彼女がこのひと月、この町の女主人としてあきらめることなく粘り抜けた理由を、リュシアンはわかったように思った。
「だけど、それにしても、この町を生かしているのはおまえたちだわ。だから私は、おまえたちをこうして集めた。あるひとつの事を聞くために」
ざわめく市民たちに向かって、レーズは凜《りん》とした声で告げた。
「家なき町に用はないと思う者は、この場を去れ。筏《いかだ》に乗って街を出よ。私の眷属が守ってやる。しかし――家はなくともここを故郷とする者は、残れ。私が死ぬまで守る」
「家?」
「家がどうなるの?」
声を上げた人々に、レーズは言い渡した。
「崩れる」
でも、と一息ついて、
「引き換えに、敵の船を沈めてやるわ」
しん、と沈黙がその場を覆った。
レーズは十分に待った。十分すぎるほどだったと、後になったリュシアンは思った。多分彼女は、これが見納めと悟って、人々の姿を目に焼き付けていたのだろう。
誰一人、その場を離れなかった。
レーズは満足げにうなずいた。
「待っていて。すぐに終わる」
そして皆に背を向けて泉を出ていった。
リュシアンは市民とレーズを見比べてから、エルメントルーデにこの場を頼んで、レーズを追った。しばらく走ると彼女の細い背が見えた。隣に並ぶと、ちらりと彼女は振り向いた。
「待っていてと言ったのに」
「ぼくはおまえのすべてを知りたい」
「ふん」
レーズは鼻で笑い、前に向き直った。
彼女が向かったのは、北の防塁だった。防塁といってもあちこちが崩れており、大砲はすでに火薬を失い、東の一門は石を詰めて使えなくされている。前日までの激闘の跡の残る、その廃墟《はいきょ》じみた空間に入って、レーズは胸壁に上った。リュシアンも隣に並ぶ。
敵の小船は、すでに間近まで迫っていた。今でもまだ五十隻以上あるだろう。それらが一斉に上陸してきたら、今のレーズスフェントはひとたまりもない。
「どうする?」
レーズは背を曲げて、しゃがみこもうとした。
その時、背後に足音がした。リュシアンがはっと振り返ると、香木のような浅黒い肌の踊り子が胸壁に駆け上ってきた。
「シャマイエトー、なぜここに?」
息を切らし、必死な様子でやってきたシャマイエトーは、胸を押さえてリュシアンに訴えた。
「あの人が……あの人が泉にいないんだ!」
「キンケルか」
シャマイエトーがそんな風に呼ぶ男を、リュシアンは他に知らない。ロマの女はひざまずいてリュシアンに取りすがった。
「お願い、あの人を牢《ろう》から出してあげて」
「彼は罪人だ」
「わかってるよ、でも、牢も崩れてしまうんだろう?」
「彼が裏切ったものの中には、おまえも含まれているんだぞ」
リュシアンがそう言うと、シャマイエトーは一瞬苦しそうにうつむいたものの、決然と顔をあげた。
「それもわかってる……わかってるよ。でも、放《ほ》っとけないんだよ!」
「リュシアン」
レーズが目だけで振り向き、かすかに笑っていた。助けてやれと言っているのだろう。
おまえは法の外から町を眺めているから、そんな気楽なことが言えるんだ――リュシアンはそう言ってやりたかったが、ひとつ頭を振って胸に飲み込んだ。
「館の南側の半地下だ」
リュシアンが鍵を渡してやると、シャマイエトーは涙ぐんだ目でリュシアンの手に接吻した。
「一生恩に着るよ!」
彼女が駆け去ると、リュシアンはレーズに聞いた。
「二人はきっと逃げる。それでもいいのか」
「レーズスフェントを出ることは、十分な苦行になると思うわ」
そう言うと、レーズは町の中心にこんもりと盛り上がっている、泉の森を指差した。
「さあ、リュシアン。そろそろきみも戻って。ここは危ない」
「おまえは? 身を捧げるつもりなのか?」
「何度も教えてあげたのに……」
そう言って、とても愉快そうに笑い、泉の精霊は言ったのだった。
「レーズはとても大きい。その本体は、これ[#「これ」に傍点]。そう教えたでしょう、リュシアン・フェキンハウゼン」
女は地に片膝を突き、床拭きをするような手つきで、そっと胸壁の床を撫でた。
リュシアンは思い出す。かつて、レーズと血肉を分けたもう一人の女が、同じ仕草をしたことを……。
そして彼女が顔をあげた。
「さあ、お行きなさい。私が敵を打ち払う」
リュシアンは信じられない思いで彼女を見つめた。その体を、鋭い震動が揺さぶった。
ずん……。
地の底から槌で打ったような衝撃が、リュシアンをはね上げた。続いて横揺れが始まった。重く激しい地鳴りとともに、地面が、世界が、ぐらぐらと左右に揺さぶられた。
地震だ、とリュシアンは理解する。ドイツには存在しないはずの天変地異だ。腰を抜かした彼の目に、信じられない光景が映った。
ひざまずいたレーズ、いや、レーズの操る人形《プッペ》の背後に、何か巨大なものが現れつつあるのだ。
砂洲だ。全長半マイルにも及ぶ細長い土地が、先のほうからゆっくりと持ち上がっていく。いや、それはただの砂洲ではない。リュシアンたちが今まで砂洲だと思い込んでいたものは、何か得体の知れない堅固で長大な物体に、歳月を経て土砂が積もったものだったのだ。
その長い物体が斜めに起き上がるに連れ、乗っていた土砂が崩れて、滝のように海に降りそそいだ。砂交じりのしぶきが押し寄せ、リュシアンは腕を上げて顔をかばう。砂洲の下にぽっかりと空いた空洞に、東西エギナの川水が怒濤《どとう》のように流れこみ、海水とぶつかりあって激しく渦を巻いた。
リュシアンは、啓示を受けたように悟った。
自分たちが今まで、誰の上で暮らし、飲み、歩いていたのかを。
――さあ。
しぶきに巻かれた姿で、もういちど彼女が泉の方角を指差した。
リュシアンは身をひるがえし、鳴動する大地の上を、つまずきながら走り出した。その周りで防塁が、家屋が、倉庫が、音を立てて壊れ、倒れ始めた。建物を形作っていた木と石とレンガが粉々に崩れ、すさまじい砂埃《すなぼこり》を巻き起こした。
走りながら振り向いたリュシアンは、その猛烈な砂埃の向こうに、確かに見た。
夏空高くそびえていく、|エジプト《ミスル》のオベリスクのようなものを。
二千五百年前にこの地に舞い降りた彼女の、反り返った尾、あるいは角を。
リュシアンは、その後に起こったことを目撃できなかった。彼はただ、皆が恐怖の叫びを上げて身を丸めている泉に駆け戻り、妊娠している妻と子を抱いて、同じようにうずくまった。
泉の森は激しく揺れ、鳥たちがけたたましく鳴き騒ぎながら舞い上がった。森の外からは、壁が崩れる音、柱が折れる音がひっきりなしに聞こえていた。
その激しい地震が、数分たつといったん収まった。しんと静まり返った森の中で、人々が顔を上げた。
その直後、最大の衝撃が来た。
体がぐうっと押し上げられるような、気味の悪い感覚の後に、百の雷が一度に落ちたような、とてつもない轟音と震動が襲いかかった。その瞬間に全員が、フライパンの上の豆のように、めちゃくちゃに揺さぶられた。強烈な突風がやってきて、泉の森全体をごうっと震撼《しんかん》させ、何十本もの若木を吹き飛ばした。木々の間を抜けた風が人々に叩きつけ、女子供の狂ったような喚き声すらもかき消した。
風が弱まり、物音と震動が何ひとつしなくなっても、長いあいだ誰も動かなかった。幼子の甲高い鳴き声と、気の弱い女のすすり泣きだけが響いていた。
「みんな」
最初に立ち上がったのは、意外にもリュシアンの妻だった。
「みんな、大丈夫?」
赤毛のアイエの声に、人々は呪縛《じゅばく》が解けたように動き出した。隣の者や背後の者を気遣い、手を貸し合う。リュシアンも立ち上がり、妻とその腕の中の子供を覗き込んだ。
「おまえたち、無事か?」
「ええ、あなたがいたから」
リュシアンの手を取って、アイエが少女のように微笑んだ。彼女の腹を気遣いつつ、しっかりと抱きしめてから、リュシアンは振り向いて、エルメントルーデとダリウスに手を貸した。
それから、人々を連れて森から出た。
町の様子はひどいものだった。リュシアンの館は半壊していた。アロンゾ司祭の教会も瓦礫《がれき》の山と化して、先ごろつけたばかりの鐘が、レンガの中で鈍く光っていた。
町の建物はだいたい損なわれていたが、当然というか、皮肉なことに、立派で大きな建物ほどひどく壊れていた。石と木を寄せ集めたようなちっぽけな家は、少し傾いた程度のところが多かった。
「贅沢《ぜいたく》をするなというご意思の表れかしら」
「単に震動の性質の問題だろうよ」
アイエとともに街中を抜けて、防塁までたどりついたリュシアンは、息を呑んだ。
防塁は完膚なきまでに崩壊し、干潟のような泥の荒野になっていた。津波があったらしく、泥土の上では無数の魚がぴちぴちと跳ねていた。左右エギナの岸でも防風林が根こそぎ倒されていた。
半マイルあったはずの砂洲は姿を消してしまい、ただ海面下に暗礁でも残ったのか、小さな白波だけが沖へ続いていた。
そしてその海に数多く浮いていたはずの小船は一|艘《そう》も見えず、そればかりか、沖の軍船の多くも、傾いたり、ぶつかり合って壊れたりしているのだった。
「まるで、ここにだけ嵐があったみたい……」
アイエがぽつりとつぶやき、リュシアンが答えた。
「その通りなんだろうよ。――彼女がそうしてくれたんだ」
そう言うと彼はひざまずき、神と愛想のない聖女に対して祈り始めた。
レーズスフェントのすべての人々が彼にならい、同じように心からの祈りを捧げた。
ヴァルデマールは海上からすべてを見ていた。彼の伴侶となるはずの生物が、その体の一部をおごそかに持ち上げるのを。
それは彼に、星から星へと渡る伴侶の底知れない力を思い起こさせるに、十分な光景だった。
夏の白い太陽を背にして、尖塔《せんとう》はくろぐろとした影を海に落とした。それが、世界でもっとも高い塔であるケルンの大聖堂の、五倍の高度に届いていることを、ヴァルデマールは見抜いた。彼はとっさに命じた。
「舳先をあれに向けろ!」
無論、従うことができたのは、ノンネバッケンただ一隻だった。
尖塔が再び、恐ろしくゆっくりと傾き始め、ぐんぐんと加速し、ついには斬首人の剣のように、押しとどめがたい勢いを得た。それが空気を切り裂いて海面を叩くと、煙のような真っ白な幕が、閃くようにぱっと広がった。数秒後にその幕に衝突されたデンマーク艦隊は、瞬間的にすべての帆を引きちぎられた。帆桁がへし折られて飛び、索具が断ち切られて跳ねた。何人もの兵士が海に叩き落とされた。
その後で、地軸を揺さぶるような大音響と、緩慢だが強大な津波が襲ってきた。
ヴァルデマールの目の前で、騎士たちを満載した小船が次々に転覆し、あっという間に波に呑まれた。それを哀れに思う間もなく、城壁を思わせる重厚な津波が迫った。
ノンネバッケンはなんとか舳先を向け切り、尖《とが》った船首で波を切り裂いた。だが、他の船はすべて衝撃で傾き、壊され、転覆させられていった。
船の左右から中甲板に流れこんだ青黒い海水が、船尾楼にまで駆け上がり、ヴァルデマールを手すりに叩きつけた。ヴァルデマールは頭を打ち、短い間、意識を失った。
はっと気がついたときには、斜めに傾いた船の上で、手すりに体を支えられていた。身を起こすと、ポデブスクを始めとする高官たちは軒並み倒れて気を失っていた。いっぽう近衛の騎士たちは見当たらない。
どこだ、と思う間もなく、甲板の下で凄まじい鬨《とき》の声があがった。ヴァルデマールは悟った。
――いまの衝撃に乗じて、捕虜が逃げ出したか。
周りの海面を見回したが、まだ通船を出している船はいない。のみならず、多くの船が転覆して、藻《も》のこびりついた船底をさらしている。生き残った船も帆を失い、舵《かじ》を損傷し、操船を失っている。近衛艦のグズルム号が、隣の僚艦とぶつかって、ぎいい、と寒気がするような音を立てた。下手に飛び込んだら、船と船とに挟まれてすり潰《つぶ》されてしまうだろう。
「誰か! こちらへ寄せろ!」
ヴァルデマールは大声で呼ばわった。
何度目かに叫んだとき、背後の階段に足音がした。
「ヴァルデマール四世陛下……そしてラルキィどの、であらせられますな」
振り向く前に、ヴァルデマールは覚悟を決めた。その名を知る男は、一人しかいない。
デンマークいちの腕前と名高い、セナーセーの鍛冶《かじ》に打たせた宝剣を抜きながら、ヴァルデマールは豊かな髪房をなびかせて振り向いた。
「ルドガーか」
「やっと会えた」
一ヵ月に渡る幽閉生活で、ひげぼうぼうの亡霊のような姿になったルドガーが、それでも目に輝きを宿して、にやりと笑った。
彼は衛兵から奪ったらしい、短めの両刃剣を構えている。それをヴァルデマールに向けたまま、太陽のまぶしさに目を細めて、海岸に目をやった。
「この大津波は、レーズが起こしたものかな」
「他にこんな奇跡を起こしそうな者がいるか」
「あの方ならば」
ルドガーが、ちらりと青空に目をやった。ヴァルデマールもそちらを見る。
「何も見えんぞ」
「おれもだよ」
疾風のように突き込まれた剣を、ヴァルデマールは精密に見切って、横へはねのけた。
それを皮切りに、激烈な応酬が始まった。ルドガーが獰猛《どうもう》に踏み込んで斬りつけ、突きこみ、薙《な》ぎはらう。ヴァルデマールが巧みにかわし、はじき上げ、突き返す。金属と金属がぶつかり、こすれて、鼓膜を貫くような悲鳴を上げ、熱い火花を散らした。
「いい剣さばきだ!」
ヴァルデマールは昂揚《こうよう》を感じて、叫ぶ。人の体に宿る彼は、人の楽しみを真似《まね》るのも大好きだ。真剣勝負はもっとも好きなことのひとつだ。
「見事だぞ、ルドガー」
相手のほうが背が高い。ヴァルデマールは姿勢を低めると、息を吸って足腰に力を入れて、思いきり力を込めた斬撃を連発した。ルドガーに受けの構えをとらせ、みるみるうちに防戦へと追いこむ。そのまま矢継ぎ早の攻撃をつなげて、敵を一歩二歩と後退させていった。
数百年を生きてきたヴァルデマールには、剣技を身に着ける時間も十分にあった。場数で言ったらどんな大騎士にも劣るものではない。
それに加えて、彼にはどんな戦士にもない特別な力があった。
防戦に必死だと見えたルドガーが、ある一瞬、横手に目をやってぱっと明るい顔になった。それを見たヴァルデマールも、新手か、と一瞬注意を向ける。
その隙に、ルドガーが剣を手元でひねって、ヴァルデマールの手首に切りつけた。よそ見は巧妙な引っかけだった。避けたが間に合わず、ヴァルデマールは左手首に傷を受ける。大血管が切れたらしく、鮮血が噴出した。すばやく飛びのいて剣を床に刺し、右手で傷を押さえる。
ルドガーが攻撃の手を止めて、言った。
「まだやるか。その傷は深いぞ」
ヴァルデマールは傷を強く握って、数をかぞえた。一、二、三……。十を数えたところで、右手を離して大げさに左手を振ってみせた。
「どの傷のことだ?」
傷口は塞がっている。体内に宿るラルキィの粒たちが集まり、わずかな時間で肉と肉を癒着させたのだ。この力があるから、ヴァルデマールはどんな敵をも圧倒することができた。
「おう!」
ルドガーが驚く。ヴァルデマールは再び剣を取り、一気に踏み込んだ。
「剣ではおれを殺せない!」
先ほどに倍する勢いで激しく斬りつけ、ルドガーを船尾楼の角に追いこんだ。彼がまた視線をちらりと横へ飛ばしたが、二度も同じ手を食いはしない。息をも継がせず立て続けに剣を叩きつけ、わずかな隙を見つけて、右胸にまっすぐ一撃を入れた。
剣尖《けんせん》が肋骨《ろっこつ》の間をくぐる、硬い手ごたえがした。ルドガーが大きく口を開け、濁った叫びと血を吐き出した。
勢いあまってルドガーの体を手すりに叩きつけてから、ヴァルデマールはすばやく剣を引き抜いた。ルドガーが苦痛に顔をゆがめて、ずるずると床にうずくまった。
勝利の興奮に酔いながら、ヴァルデマールは敵を見下ろした。ルドガーは剣を取り落とし、左手で傷口を押さえている。その口から、呼吸に合わせてごぼごぼと真っ赤な泡があふれ出す。肺を貫いているのだ。
「よく戦ったな、ルドガー」
誉めはしたものの、今の困難な状況でこの男を生かしておく気はなかった。ヴァルデマールは止《とど》めを刺すべく、剣を引いた。
その瞬間、背後の床がミシリときしんだ。とっさにヴァルデマールは横っ飛びに転がった。
彼が一瞬前までいたところを、真鍮《しんちゅう》製の重い|索止め《ビレイ》ピンがブンと薙いだ。それを握った壮漢が、欠けた前歯の横から獰猛な唸《うな》り声を漏らした。
「ずいぶんと勘のいい坊ちゃんだな、こいつは」
壮漢の目には、尋常でない昂《たか》ぶりの光があった。ヴァルデマールは姿勢を立て直して声をかける。
「貴様は海賊の頭目だったな。ヘンルリックと言ったか」
「海賊は、ついこの間やめた。今では……なんだろうな、ルドガー?」
「レーズスフェント海軍の総大将とでもしておくか」
そう言って、ルドガーが多少ふらつきつつも立ち上がったので、ヴァルデマールは目を剥《む》いた。ヘンルリックが低い笑い声を漏らす。
「ホッホ、そいつはご大層だな。しかし船がないぞ」
「ここにあるじゃないか」
ルドガーが言うと、もっともだ、とヘンルリックがうなずいた。
そして二人でヴァルデマールに斬りかかってきた。
ヴァルデマールは必死に応戦したが、さすがに二人が相手では荷が勝ちすぎた。それに、海賊のヘンルリックの闘志には、何か尋常ならぬものがあった。そのわけは、彼の叫びでわかった。
「イェスパーの仇!」
声とともに振り下ろされたビレイピンが、ヴァルデマールの肩口をかすって、帆柱からぶら下がっていた木製の滑車を粉々に砕いた。頭にでも当たれば首から上がなくなってしまいそうな一撃だ。
「おれに恨みがあるのか?」
「エーレスンドの潮に聞け!」
ルドガーとヘンルリックの渾身《こんしん》の一撃が左右から襲いかかった。
ヴァルデマールは決死の覚悟で、後ろへ跳躍した。手すりを越えて、海へ身を躍らせるつもりだった。だが、彼の戦衣の長い裾が、持ち主の意思を裏切った。
手すりの継ぎ目に食い込んだ戦衣が、落下しかけたヴァルデマールをがくんと宙吊りにした。はずみで剣を取り落とし、ヴァルデマールはうめいた。
手も足も出なくなったヴァルデマールに、頭上から声がかけられた。
「降参するか、デンマーク王」
「……解放しろ、代わりにこの船をやる」
「条件を出せる立場だと思っているのか?」
この怒声はヘンルリックのもので、それを横からルドガーが押し留めるのが聞こえた。やがてもう一度、ルドガーが顔を出した。
「おまえにできる最良の選択は、艦隊を国に帰すことだ」
断ったら? という言葉を、ヴァルデマールは飲み込んだ。その時には獰猛なフリーゼン人の手で肉塊に変えられた上で、改めて海へ放り込まれるのだろう。
「わかった、申し出を呑もう。主の御名《みな》にかけて、おれの身の安全を保証すると誓え、ルドガー!」
「主と、精霊レーズの名にかけて誓おう、デンマーク王」
ルドガーの厳かな誓いが聞こえ、ヴァルデマールの体が引き上げられた。
捕虜にしたヴァルデマールを連れて、決死隊の生き残りとともに帰還したルドガーを、変わり果てた町と、いくらか減った人々が待っていた。ルドガーは、人々が一ヵ月ものあいだ戦い抜いたことを賞賛した。それから、自分が奇襲に失敗したことを、代官《フォークト》として詫《わ》びた。人々は、敵の国王を捕らえてきたルドガーを寛大に許し、町に受け入れた。
それから改めて抱き合い、生還を喜び合った。
ヴァルデマールを追って、艦隊からデンマーク側の重臣たちがやってきた。ルドガーは休戦交渉に入った。一ヵ月前とはまるで立場が逆転し、レーズスフェント側の出す要求にデンマーク側が苦慮することとなった。全軍の退却、エーレスンド海峡の通行権の保証、戦費の賠償などが要求され、デンマーク側はそれらをすべて呑んだ。レーズスフェント側は、捕らえたり流れ着いたりした捕虜の引き渡しを約束した。
主の年一三四二年八月。三十一日間の戦いの末、東フリースラント伯爵領の都市レーズスフェントとデンマーク王国は、和議を結んだ。
交渉が終わると、艦隊はポデブスク司令官に率いられて一足先に帰っていった。ヴァルデマール国王は少数の側近とともに後に残った。彼がなんのためにこの地に留まったか、ルドガーとリュシアンの二人だけは知っていた。
一日、ルドガーたちはヴァルデマールとともにローマの泉に向かった。三人はしばらくそこに滞在したが、あの男装の女は現れなかった。リュシアンがいぶかしんで言った。
「おかしいな。彼女が現れないなんて……」
「レーズは津波に流されたんじゃなかったのか」
ルドガーが言うと、リュシアンは首を振って答えた。
「流されたのは彼女の数多い操り人形《プッペ》のひとつです。兄様もご覧になった、あのイヌワシや狼たちとおなじですよ。レーズは、人形を作り直せるはずなんです」
レーズとはあの女のことではなく、自分たちの足元にあるこれ[#「これ」に傍点]のことなのだとリュシアンから聞いていたが、ルドガーには実感がなかった。村と艦隊を半壊させたあの出来事を、直接目にしなかったせいもあるかもしれない。
むしろルドガーはレーズのことを、神の理《ことわり》に律せられたこの世から少しだけ外れた、火山や雷などと同じ、自然の気まぐれの一種だと考えたかった。いくつもの神を持つヘンルリックなどは、ごく自然に、彼女のことを神々の一柱だと思い込んでいる。ルドガーにはそのほうがしっくりくるのだった。
「単にへそを曲げたんじゃないか。昔から、気に入った人間の前にしか現れない女だった」
ルドガーは言った。
二人の言葉を聞くともなしに立っていたヴァルデマールが、泉を見下ろしてつぶやいた。
「あの記念碑は、新しく見えるが、戦勝を記したものか」
「記念碑?」
彼の指差す先を見ると、泉の石壁の前に、真新しい黒光りする石碑が立っていた。ルドガーはリュシアンに目を向ける。
「おまえか?」
「いえ、そんな余裕は」
三人は澄んだ水の中に踏みこみ、石碑の前に立った。人の背丈ほどのその石には、文字が彫ってあった。
「ラテン語ですね」
目を凝らしたリュシアンが、やがてヴァルデマールを振り返った。
「これは陛下にあてたもののようです」
「おれに?」
「私があなたをまどわした。私がいるからあなたが来た。だから私はすがたを消す。町が滅ぶまで眠るだろう……そんな意味ですね」
ヴァルデマールはむっつりと不愉快そうに顔をしかめていた。
「ならばこの地の人間すべてをよそに移し変えてやれば、眠りから覚めるのか」
「それは覚めるだろう。激怒しているに違いないが」
「ふん」
踵《きびす》を返して彼は歩き出した。二人はその後をついていく。
泉の外で待たせていた近侍たちと合流すると、そのままヴァルデマールは足早に進み、ルドガーの家の横を通って、|市の《マルクト》広場に出た。
喧騒《けんそう》が一行を包んだ。
瓦礫を運ぶ手押し車の響き、槌で釘《くぎ》を打つトンカンという軽快な音、駆け抜ける子供たちの小鳥のようなさざめき、仮の台に吊り上げられる鐘のガランガランというやかましい音。逃げ出した豚の喚き声とそれを追う老婆の怒声、ぶつかられた女の悲鳴と、笑い声。
瓦礫の片付いたところには屋台《ラウベ》がひしめいている。|売り台《バンク》には、早くも隣村から新しい品が届いたのか、色鮮やかなキャベツやタマネギが並び、陳列台《シュランネ》には揚げパンが、干し魚が、絞めたばかりのハトやウサギが積まれている。
「わからん!」
ヴァルデマールが、荒い鼻息を吐いた。
ルドガーはその後ろで、そっと苦笑したのだった。
ヴァルデマールが故国へ帰っていった後、ルドガーは二度と彼に出会うことはなかった。
デンマーク王ヴァルデマール四世はレーズスフェントでの敗北にもひるむことなく、分割状態だった国土の再統一を進め、デンマークを再び北欧の強国の座に押し上げた。後にスカンジナビア半島側のスコーネ地方や、バルト海の貿易の要衝であったゴトラント島に軍を送ってこれらを占領し、再興王《アッテルダーク》の異称を冠せられた。しかし積極的すぎる方針が祟《たた》って内外の反感を買い、二度も内乱を経験し、またハンザ同盟を中心とする諸都市と諸王国に包囲攻撃され、敗北した。懇意だったドイツ皇帝カール四世にも省みられなくなり、主の年一三七五年の秋、五十五歳で没した。
しかし彼の娘マルグレーテは、女ながらに父から何かを引き継いだかのような英才を備えていた。婚姻や外交政策によってノルウェー、スウェーデンとの連合王位を次々に手に入れ、北欧三国のカルマル同盟を形成してハンザに対峙した。
それらの風聞を、ルドガーは存命中ずっと耳にし続けた。ヴァルデマールの血筋がいずこかの領地を手に入れた、あるいは何かを成し遂げたと聞くたびに、ラルキィがいまだにレーズスフェントに思いを残していることを感じるのだった。
主の年一三四二年にデンマーク艦隊を撃退して以来、レーズスフェントの名声は不動のものとなった。
とはいえ、町とその統治者ルドガーが、周囲から認められるようになるまでは、なおある程度の時間が必要だった。
主君、東フリースラント伯爵は、町が五千の軍勢を押し返したと聞いて恐れをなし、以後二度と手を出してくることはなかったが、かえって陰にこもり、このころの皇帝ルートヴィヒ四世に町のことを讒訴《ざんそ》するなど、何かにつけ嫌がらせをした。
しかし、主の年一三四五年、西方で続いていた英仏百年戦争が、またもや数奇な形でレーズスフェントに余波を投げかけた。
この年九月、フランス王派に鞍替《くらが》えしたエノー伯率いる軍勢が、フリースラント諸都市を攻めた。彼らは反乱軍の立てこもるユトレヒトを落とし、ついで北部のスタバーンを攻めたが、そこで返り討ちにあった。伯の軍勢は船に乗っており、一部は追撃を避けてさらに北へ逃げた。
残党は戦乱のフランドル地方に嫌気が差していたのか、ドイツ領への上陸を目論み、エムス河口の奥へと進んだ。その地を治める君主が、すなわち東フリースラント伯爵であった。レール城では、低地地方《ネーデルラント》で起こった乱がこの地方まで波及してくるとは夢にも思っておらず、敵船が河口に現れてから、あわてて城下の騎士たちを呼び集める有様だった。
そんな様子では当然、戦地から落ちてきた殺気だった軍勢にかなうはずもなく、出撃した伯爵以下二百名の騎士たちは、ほとんどが返り討ちにあい、殺されたり、捕らえられてしまった。
エノー伯残党はこれ幸いとレール城にこもり、そのまま冬越しの態勢に入った。
この報を聞いて立ち上がったのが、カンディンゲンのフェキンハウゼン男爵ヴォルフラムであった。彼は周辺領主を糾合し、主君を救出するためにレール城へ向かった。
その救出軍の中に、部下と友人を伴ったルドガーの姿もあった。
騎士たちは夜間を狙って潜入し、激しい屋内戦ののち、エノー伯残党をすべて討ち取って、みごとに城を取り戻した。ルプレヒトとその血族は、城の地下水槽に幽閉され、餓え死にしかけていたが、これも全員無事に助け出した。
騎士たちの潜入を助け、伯爵を見つけ出したのは、城の構造を知り尽くしていたルドガーだった。彼は勝利が明らかになるとすぐにその場を辞し、部下たちとレーズスフェントへ帰った。たとえ功を上げようとも、自分は伯爵にとって仇であり、顔を合わせるのはいい結果にならないと思ったからだ。
彼の想像通り、自分がルドガーに助けられたと知った伯爵は、恥辱に怒り狂った。
「あの盗人は、どさくさにまぎれて城を乗っ取るつもりだったのだ」
生死の間をさまよった十日あまりの幽閉生活で、ますます被害者意識が強まったらしく、そんなことまで言い出す始末だった。
しかし、それでかえってルドガーには同情が集まった。伯爵がルドガーへの罵詈讒謗《ばりざんぼう》をまき散らしても、耳を貸す人間はいなくなった。
公式には、ルドガーに対する褒章は何ひとつなかった。
非公式には、ひとつだけ。
騎士ハインシウス・スミッツェンが、とうとう主君に愛想を尽かして――同時にまた、たびたびの諫言《かんげん》のために、主君にも愛想を尽かされ――レーズスフェントへ移り住んできたのだ。
「都落ちだ」
そう言って肩を落とす師を、ルドガーは最大限の敬意をもって受け入れた。
またハインシウスは、エルメントルーデの侍女であるネージョリーを伴っており、四年ぶりの再会の喜びを、この二人にもたらしたのだった。
レーズスフェントは発展を続けていた。
最大の強みであったダンツィヒからの食糧供給は、それを取り仕切っていたキンケル書記の失踪《しっそう》で、一年弱、途切れた。しかし翌年にはマリエンブルクのドイツ騎士団本部から代理人がやってきた。彼らは、レーズスフェントだけが持っている、エーレスンド海峡の自由通行権に目をつけたのだ。
代理人は、本部を通さなかったこれまでの不法な取引を水に流す代わりに、ドイツ騎士団のもうひとつの主要な輸出物資である、木材の船舶輸送を引き受けるよう、レーズスフェントに要請してきた。プロイセンやエストニア地方で伐採される木材は、建材や船材として西方で大きな需要がある(またしても戦争だ!)が、食料に輪をかけて、陸上輸送が難しい。リューベック・ハンブルク間を陸路で通すハンザ同盟に運ばせた場合、莫大《ばくだい》な輸送費がかかる。一定以上の長さの木材は、事実上、輸送不可能だ。
レーズスフェントならばこの弱点を克服できると、彼らは踏んだのだ。恐らく、キンケルの手で営まれていた食糧輸送の実績も把握していただろう。
ルドガーは経済的、政治的な利点欠点を十分考慮した。リュシアンの言によれば、この種の申し出の欠点といえば、力関係の強いほうに主導権を握られてしまうことや、ある勢力と手を結ぶことで、他の勢力から疎んじられてしまうことなどだ。
しかし、デンマークに対する勝利という箔《はく》のついたレーズスフェントならば、他の勢力、たとえばハンザ同盟や各地の君侯と取引する際にも、騎士団の傀儡だなどとみなされる恐れはない。独立した勢力として付き合っていけるだろう。
そう考えてルドガーは騎士団の申し出を受けた。
この関係は他の勢力の既得権益を侵さなかったため、非常に具合がよく、およそ一世紀あまりも続いた。
リュシアンとアイエの夫婦は、長男クリューガーのあとに、四十二年、四十三年、四十五年、四十六年と立て続けに子供を授かった。このうち四十三年の子は三つ子だった。四十六年までに都合七人の子が生まれ、うち一人しか死ななかった。
ルドガーとエルメントルーデの間に子はなかったが、ダリウスが健康に育っていた。
レーズスフェントの人口は増え続け、二千人に届こうとしていた。
しかし主の年一三四八年、南方から不吉な知らせが届いた。悪魔の仕業としか思えない奇怪な疫病が広まり、とてつもない数の死者が出ているというのだ。
この噂は事実で、間もなく空前絶後の大疫病がドイツ全土を覆い尽くした。黒死病の到来だった。
四十九年初頭に南ドイツに入った疫病は、上げ潮のようにゆっくりと、だが確実に北進し、町という町を滅ぼしていった。アウクスブルクが病み、マインツが死に、ケルンが腐った。街角には患者と死体が入り混じって積もり、無数のネズミがその周りで死骸をさらした。親が子を避け、子は親を捨てた。墓はあふれ、人々は町から逃げ出した。野でも山でも人が死んだ。城の騎士が死に、修道院の僧が死んだ。
翌五十年、病は東フリースラントに達した。レールでも、カンディンゲンでも死神の鎌が振るわれた。ルプレヒトが死に、ヴォルフラムが死んだ。君主も女官も市民も農夫も死んだ。誰も彼もが恐ろしく簡単に死んだ。
違ったのはレーズスフェントだけだった。
この年突然、レーズスフェントの古い泉は異常に水量を増して、くぼ地からあふれ出した。その水量は毎夕六時きっかりに最大になり、四方へ滝のようにあふれて行って、中洲全体を洗い流した。人々は毎日、足首まで水に浸かって暮らさねばならなくなった。
ほとんどの人は気付かなかったが、その水の流れに乗って、ネズミと虫のおびただしい死骸が川へ流れ落ちていった。
そのレーズスフェントでは、不思議と黒死病の発生が少ないようだった。泉の町へ赴けば病から逃れられると思い込んで、周辺の人々がレーズスフェントに陸続と避難してきた。彼らは泉の水を飲み、霊験を授かろうとした。
実際に霊験があったかどうかは定かではない。確かなのは、ルドガーとリュシアンが、この時代の人間に打てる限りの手を打っていたことだ。町に入る人間に頭から強い酒を浴びせ、体中を洗浄した。発病した人間は川原へ隔離し、触れた者も洗浄した。遺体は中洲の外に掘った巨大な穴に運び、毎日鎮魂のミサを執り行った。風向きが穴から町に向く日は、毒気に煙で対抗するために、盛大に牧草を焚《た》いた。
それでも病は起こった。アイエが発病し、アロンゾ司祭が発病した。アイエは治ったが、六人の子供のうち四人が死んだ。アロンゾ司祭も死んだ。
「ラホーヤ、そこにおるか?」
彼はそうつぶやいて、逝った。彼がカスティーリャに残してきたという女の名前であることを、リュシアンは知っていた。
嘆いているひまはなかった。急遽リュシアンが司祭役も勤めることになり、日夜患者と相対した。
そしてとうとう、最悪の事件が起こった。
ルドガーはその時期、ドイツ王の位にあるカール四世に召されて、ボヘミアの王都プラハに出かけていた。用件はもちろん、黒死病の治療だった。愛人の罹患を知った王が、レーズスフェントの水を飲めば治ると聞き、藁《わら》にもすがる思いで呼び寄せたのだ。
彼がレーズスフェントを知っていた直接の理由は、元はといえばリュシアンが帝国自由都市《フライエ・ライヒスシュタット》についての陳情を行ったからだ。プラハへの道行きも、リュシアンが向かうはずだった。しかし直前になって彼は体調を崩し、代わってルドガーが赴くことになった。
二ヵ月かけてプラハに往復したルドガーを、故郷の町で最愛の弟の亡骸《なきがら》が迎えた。
ルドガーは丘の上に立っていた。丘といっても、息を止めたまま登ってしまえる程度の、小さな盛り上がりだ。かつての河流が作った自然堤防の名残らしい。この辺りでもっとも見晴らしがいい。
そこからはもう、みすぼらしい荘園も、うっそうとした木立も見えない。
眼下に広がるのは整然とした耕地だ。この十四年で白樺の林は切り倒され、ずいぶん後退してしまった。
その代わりに、少し野暮ったいどっしりした防御塔に守られた、見事な中洲の町が出現していた。
季節は初夏だ。丘には薄桃色の可憐《かれん》なハイデの花が咲き乱れている。ルドガーの背後では父親譲りの大きな体格の馬が、一心に草を食《は》んでいる。名前はフェルスという。愛想は悪い。
丘の下から上がってくる人影を見て、ルドガーは手を挙げた。
「大丈夫か」
「ええ」
答えたのは寡婦のアイエだ。臨月の腹を抱えている。それを助けているのはローブ姿の少年だ。夏の日に金髪が輝いている。
一瞬、ルドガーは時間が過去に戻ったかのような錯覚を覚えた。
アイエとともに登ってきた十三歳のクリューガーが、顔を上げてうろんそうに聞く。
「なんですか、伯父《おじ》さま。じろじろ見て」
「……いや」
錯覚は消えた。ルドガーは息を吐き、首を振った。
アイエはルドガーを見て、快活に微笑む。
「お待ちになって? 騎士さま」
「一回りしてきたところだ。下の墓も、もう草だらけで見当がつかない」
「分けておいて、よかったわね」
丘の下には、昨年の黒死病で死んだ五百人あまりが埋めてある。だが頂上のここだけは、石造りのきちんとした墓碑がある。それがリュシアンの墓だ。アイエがハイデの花をかきわけて、持ってきた花束をそこに捧げた。
「お花、なくてもよかったかしら」
「教会の墓に埋めてやれればよかったんだがな。向こうなら草も生えない」
「仕方ないわ。遺体を外へ出す規則は、この人が作ったんだもの。見晴らしもいいし、この場所でよかったと思う」
「そうだな」
享年三十一歳、まだまだ生きられたが、短命というほどでもなかった。特に最期は臨時の司祭として、薬師《くすし》として、務めを果たしきった。
彼が、レーズスフェントで最後の、黒死病の死者だった。
墓前にしゃがんで、指を組んで祈っていたアイエが、またいつものように堪《こら》えきれなくなったらしく、目頭を何度も拭いた。
「クリュー」と呼んで、息子の手を取る。クリューガーが、整った顔を不満そうにゆがめつつも、母の頬に手を当てた。
それで落ち着いたらしく、アイエは深いため息をついた。
ルドガーはそれを見て、なんとはなしにうなずく。
ヒバリの声が空に上っていき、そよ風が流れた。
「アイエ」
「なんです?」
「ずいぶん……長い付き合いになったな」
振り向いたアイエが、おかしそうに顔をほころばせた。
「そうね。そういえば、ずいぶんになるわ」
「おれがこの町を作らなかったら、君はどうしてた」
「さあ? モール庄のヨハンと結婚していたか、大工のヘルベルトのお嫁になっていたか……その辺りでしょうね」
「幸せだったか?」
そう尋ねた時、ルドガーの脳裏には、さまざまな人のことが浮かんでいた。死んだヨハン。没落したカンディンゲンの家族たち。痛々しく死んでいったルプレヒトや、行方をくらましたキンケルとシャマイエトー。
アイエの返事はあっさりしたものだった。
「当たり前じゃない」
立ち上がって、息子を背後から柔らかく抱きしめながら、三十歳になった赤毛のアイエはうなずいた。
「不満なんか、何もなかったわよ。ひとつのこと以外」
「ひとつのこと?」
放せ、と暴れて、クリューガーが逃げ出した。馬のフェルスに手を出して、鼻しぶきをかけられる。アイエはそれを見て笑ってから、ルドガーに向かって目を細めた。
「レーズがいたこと」
「……」
「あの女さえいなければ、あの人は全部あたしのものだったのに。――でもいいの、今は引き離してやったから」
「女ってやつは……」
ルドガーは首を振った。
アイエが聞く。
「それで、もうおっしゃったの?」
「何を?」
「いやだ、自分から誘っておいて」
「ああ……そうだった」
アイエのせいで忘れていた。多大な苦労の末にその品が手に入ったことよりも、一人の女が幸せだと口にしたことのほうが、大事なような気がして。
結局のところ、それは事実なのだろう。
ルドガーは懐から蜜蝋《みつろう》で封緘《ふうかん》されていた巻き書簡を取り出し、墓の前に置いた。その書簡は、こんな一文で始まっていた。
[#ここから1字下げ]
「帝国直属特権状――主の名の下、本書状は保証する。すなわちレーズスフェント市は常に自由であり、帝国を除く聖俗のいかなる者にも属せず、未来|永劫《えいごう》その地位を尊重されるものであることを……」
[#ここで字下げ終わり]
「おまえのおかげだ、リュシアン」
市長《コンズル》ルドガーはそう報告し、神と弟と泉の精霊のために頭を垂れた。
主の年一三五一年、レーズスフェントは勅許を得て、帝国自由都市《フライエ・ライヒスシュタット》となった。
[#改ページ]
終章
土砂降りの雨の中。逆巻く川面とそそり立つ木々に挟まれた街道。フェルトの帽子とマント姿の騎手が、暗い街道を泥水を蹴立《けた》てて駆けていく。
天空に閃《ひらめ》いた雷光が、道端の里程標を一瞬だけ浮かび上がらせた。その脇を馬で通り抜けざま、騎手は木の立て札に書かれた文字を読み取った。
Reazsfent ]X meilen
「まだ一時間かかるか……」
つぶやいた騎手は、背丈も肩幅もまだ大人には足りない。少年だ。
ダリウス・フェキンハウゼン、十五歳。新しい東フリースラント伯爵、エルンスト・キルクセナの城に住み込んで三年の騎士見習いだ。
主君の命により、カンディンゲン城のフェキンハウゼン男爵フォスへ書状を届けて、折り返しレーズスフェントへ向かう途上である。エギナ川沿いに北へ向かう道だ。右手には薄闇《うすやみ》の立ちこめる白樺《しらかば》林、左手には濁流と化したエギナ川が流れている。
ダリウスは前方に目を凝らした。半ば泥濘《でいねい》の水たまりと化した街道が、かろうじて見通せる。だが人影はない。嵐《あらし》を恐れてか、先ほどから牛車一台も見かけない。
間もなく日が暮れる。そうなったら、道をたどれるかどうか。
ダリウスは舌打ちして、ずぶ濡《ぬ》れの体を揺すり上げた。片手ずつ手綱を放して、ばたついていたマントの裾《すそ》を引き締める。そのついでに、腋《わき》の下から自分の背後に声をかけた。
「大丈夫か?」
ひゅん、というような声が聞こえた。マントの下に人が乗っているのだ。まだ十歳にもなっていない、女の子。
目を引くのはその真鍮《しんちゅう》色の波打つ金髪と、褐色に近い肌の色だ。目鼻立ちもくっきりとしている。明らかにゲルマン人ではなく混血だ。
その姿はみすぼらしいとしか言いようがない。手作りの、多分スカートだったのだろうと思われる服を着てはいる。だが腰から下は泥まみれで、腹から上は食べかすと汁だらけだ。
少女は青白い顔で、必死にダリウスの腰にしがみついている。しかし彼女の握力を、ダリウスは先ほどからほとんど感じられなくなっていた。
「もっとしっかりつかまれ!」
ダリウスは叫ぶ。だが答えがない。恐怖か、空腹か、疲労か、何のせいかはわからないが、もう力が出ないようだった。
このままではずり落ちる。ダリウスは片手を後ろに回して、支えようとした。
それが仇《あだ》となった。わずかに前方から注意がそれた一瞬、馬が大きな水たまりを飛び越えた。ぐらっ、と馬の背が鋭く揺れた拍子に、小さな人形のように少女が落ちた。
「ちっ」
ダリウスは手綱を引き絞り、馬首を巡らせる。少女は水たまりの中で転がって、雑巾《ぞうきん》のような有様で横たわっていた。死んだか、とダリウスは顔をしかめる。首の骨でも折っていれば、一発だ。
元来たほうに視線を注いで、ダリウスは一瞬だけ、ためらった。その顔に焦りの色が濃い。
だが、決断した。馬から飛び降りて、少女のもとへ走った。
「おい、大丈夫か。おい!」
叫びながら助け起こし、頬《ほお》を叩《たた》く。名を呼びたかったが、できなかった。
名前を知らないのだ。
ダリウスはこの少女と出会ったばかりだった。彼が森へ入って二マイルほど進むと、木々の間から少女がよろめき出てきた。三年前なら森に住む魔物だろうと思ったところだが、昨年の疫病からこの方、孤児を頻繁に見かけるようになった。ダリウスはその娘も孤児なのだろうと思った。ただの孤児なら、恐れることはない。
恐れはしないが、慈悲をかけようとも思わなかった。任務の途中であり、先は長いのだ。拾ってもどうしようもない。そのまま無視して、行き過ぎた。
そのとき、少女が叫んだ。
「れーずすふぇんと」
ダリウスは振り向いた。少女がこちらを見て、子供がよくやる、丸暗記した言葉を唱えるあの一本調子で、叫んだ。
「れーずすふぇんと、つれていって」
ダリウスは馬を戻し、少女を見下ろした。そこで、彼女の外見に関する諸特徴に気付いた。混血児はそうでない孤児よりもさらに冷たく扱われる。自分が見捨てたが最後、行き倒れてしまうのは間違いないだろう。
ダリウスは尋ねた。
「レーズスフェントを知っているのか?」
少女は悲しげな目をして、首を振った。
「|母さん《ムッター》が言ったの」
「母さんがいるのか?」
「死んじゃったわ」
少女の指差すほうを見ると、木立の向こうから下生えを蹴散らして走ってくる男たちが目に入った。手に手に光るものを握っている。
途端に、ダリウスは自分がとんでもない間抜けであることに気付いた。孤児が森の中で長く生きられるわけがない。つまり孤児になったばかりだからここにいるのだ。なったばかりとはどういうことか。
ついさっき親を殺されたということだ。恐らくは無法者の類《たぐい》に。
悠長に身元を聞いているなど、愚の骨頂だ。
「乗れ!」
差し出された手をつかんで、鞍《くら》の後ろに引きずり上げ、急いで走り出したのだった。
それから二十分もたっていない。まだ名前も身元も聞いていなかった。落馬した泥まみれの少女を抱き上げて、ダリウスは馬へ戻ろうとした。一度助けた以上は、見捨てるわけにはいかない。
だが、このわずかな時間の無駄が、致命的な不幸を呼んでしまった。
猛々《たけだけ》しい蹄《ひづめ》の音が聞こえ、あっというまに背後に迫った。振り返ったダリウスは、見る。馬に乗った三人が追ってくるのを。きちんとした服も帽子も着ておらず、もちろん紋章などどこにもつけていない。
対してダリウスは、轡《くつわ》と鐙《あぶみ》のところに東フリースラント伯爵の紋章入りの金具をつけていた。使者として最低限これぐらいは必要だから、と貸し与えられたものであって、私物ではない。しかしこの場合は、盗賊たちに対して、襲い甲斐《がい》のある獲物だということを教えているも同然だった。
馬に飛びのる余裕すらなかった。鞍の後ろに少女を乗せたところで、蹄の音に追いつかれた。ダリウスは剣を抜いて振り返った。
心臓の高鳴りを抑えられない。恐ろしさが打ち消せない。
本当の戦いは初めてなのだ。
息を荒げた盗賊が三人、薄笑いを浮かべて周りを取り囲んだ。手にしているのは短剣と手斧《ておの》、それから歩兵用の大剣。どれも不似合いで不釣合いだが、奪ったものなのだろう。疫病で治安をになう騎士たちも減り、こういった手合いが増えた。
ダリウスは必死に無表情を保ち、腹に力を入れる。
大剣を持った真ん中の男が言った。
「若造、てめえはレールの殿様の騎士か」
「……どこでもいいだろう」
「その小娘と関係あるのか」
「……おまえたちの知ったことか」
返答が遅れるのは、力を溜《た》めて言っているからだ。気合を込めなければ声がかすれてしまいそうだ。
盗賊たちが目を見交わして、言った。
「今すぐ持っているものを全部下に置け。娘もだ。そうしたら見逃してやる」
「この子はおまえたちのなんなんだ」
「それこそてめえの知ったことかよ!」
右手の男が怒鳴り、三人は嘲笑《ちょうしょう》を浴びせた。
ダリウスの頭の中が、緊張でどんどん白くなっていく。右手はごうごうと逆巻く川で、逃げられない。左手の森の木々はまばらで、飛び込んでも男たちの目をくらませるほどではない。戦うしかない。
三対一での戦いなど普通は無理だ、と城では言われていた。レーズスフェントのハインシウス師も義父のルドガーも、その程度の敵が相手ではひるみもしなかったが、それを言うと城の人々には白い目で見られた。普通は無理なんだ、と強く言われた。
逃げるより戦いたい。だが、勝てるかどうかわからない。板ばさみになってダリウスは葛藤《かっとう》した。
その時、背後の馬の鞍で、少女がつぶやいた。
「あたしはシャマイエトー」
聞き覚えがあった。振り返った。少女は発熱しているらしく赤い顔をしており、ぐったりと鞍の上に伏せ、目の焦点を失ってはいたが、それでも声は聞こえているらしかった。
「それも母さんが言ったのか?」
「|母さん《ムッター》が名前をくれたの」
盗賊の一人が馬から下りた。痛めつける気になったのだろう。
ダリウスは決意を固めた。
この子は、間違いなくレーズスフェントに来るべき者だ。
「うあああ!」
叫びながら振り向いて、剣を叩きつけた。ひゃあ、と奇声を上げて大剣の盗賊が避ける。
他の二人が馬から飛び降り「この若造め!」と怒鳴りながら、いっせいに斬《き》りかかってきた。ダリウスは大声に威圧され、思わず身をすくめる。
手斧刃が左の二の腕に当たった。その、たった一撃で、ダリウスは横ざまに吹き飛ばされた。泥の上に転がり、痛みに肩を押さえる。
斬られてはいない。だが、マントの下の鉄の肩当てが曲がっていた。筋肉がずきずきと熱を持ち始めた。起き上がれない。
「やっちまうか」
「まだ小僧だ。剣だけよけとけ」
「そうだな」
ごく事務的な、そんな相談が聞こえるとともに、右手を無造作に蹴飛ばされた。剣が回転しながら飛んでいって泥に刺さる。自分は彼らを怒らせることもできないのだ。そう考えると、ツンと鼻の奥が痛くなった。
ゴロリと仰向《あおむ》けになって見上げる。雨はいつの間にか止《や》み、目に水が入らずに済んだ。日は暮れ、星空が広がっていた。盗賊たちが馬の鞍から少女を抱き上げ、肩に担いでいた。
苦しげに顔を歪《ゆが》めた少女が言った。
「たすけて」
その時だった。
ダリウスは、空から降りてくる大きな影を目にした。
鳥?
こんな暗さで?
その巨鳥は体の前に鋭い鉤爪《かぎづめ》を構えて降りてくると、勢いよく通り抜けざま、手斧をもった男の目玉をえぐっていった。
「ぎゃっ!」
男は倒れて、手斧を取り落とす。鳥は音もなく滑空して街道の先へ去っていく。残り二人が恐ろしい目でダリウスを睨《にら》む。
「なにしやがった?」
一瞬のことで、鳥の攻撃が見えていなかったのだろう。
ダリウスは仰向けのまま唖然《あぜん》としていた。今の光景は見たことがあった。幼いころ、あの追い詰められた三十日間の戦いで、何度も。だがその使い手は、もう姿を消したのではなかったのか。
泉の精霊、レーズは。
いつの間に戻ってきたのか、鳥が唐突に大剣の男に襲い掛かり、頭から何かをもぎ取っていった。ひいっ、と悲鳴を上げてその男が押さえたのは、耳だ。耳からぼたぼたと血を流して、喚《わめ》きたてる。
「なんだ! おい、見たか?」
「わ、わかんねえ!」
イヌワシだ。ダリウスにはわかる。夜間に飛んで人を襲ったりするようなことは、決してしない鳥だ。彼女に命じられでもしない限り。
まさか……?
その思いが、ダリウスの闘志に火をつけた。あの戦いでこんな風に無様に寝ている者は一人もいなかった。
喉《のど》からわけのわからない叫び声を上げながら、跳ね起きて、残る一人に飛びかかった。空を見回して鳥を警戒していたその男は、完全に不意を突かれて、尻もちをつく。ダリウスはその上に馬乗りになって、殴りつけた。拳《こぶし》がみごとにあごを捉《とら》えて、男に血を吐かせた。
野郎、と男は短剣をかまえる。ダリウスはとっさにその手首をつかんで止めようとする。刺そうとする男と、止めるダリウスの力が、その数秒、拮抗《きっこう》した。ダリウスの目の前で光る刃先が細かく震えた。
ここで命が左右されるという事実が、じわりと体に染み込んだ。恐れが体内で反射して、力となってほとばしった。
腹から吠《ほ》え声を出しながら、ダリウスは思い切り額を敵の顔に打ち付けた。短剣の刃が頬をかすって、鋭い熱を生んだ。構わず頭を上げて、何度も何度も額を叩きつけた。鼻や唇が潰《つぶ》れる不気味な感触がした。
気がつくとダリウスは、両手で顔をかばって身を丸めている男を、立って見下ろしていた。相手は完全に戦意を失っているようだった。他の二人は、と振り向くと、目をやられた男が腹ばいで逃げていこうとしていた。耳をやられた男は馬に乗って遠ざかっていくところだった。
「はあっ、はあっ……」
呼吸とともに、張り詰めていたものが抜けていった。こんなに簡単に形勢が逆転するものなのか、と意外な思いだった。
いや、簡単ではなかった。イヌワシの助けがなければ、血を流しているのは自分だったのだ。この男たちは森に慣れているに違いない。だからこそ、ありえない猛禽《もうきん》の襲撃に恐怖を覚えたのだろう。
少女は地面に放《ほう》り出されていた。ダリウスは彼女を抱き上げて、再び鞍に乗せてやろうとした。
その時だった。
「くそ餓鬼め!」
うずくまっていた男が、突然跳ね起きて、殴りかかってきた。ダリウスは両手に彼女を抱えており、まったくの無防備だった。
――やられる……!
木立の中から飛来した拳ほどの石が、ゴッと音を立てて男のこめかみを打った。男はくらりと体を傾け、五、六歩よろめくと、足を滑らせて川に落ち、水音も残さず流れていった。
「最後まで油断しないことね」
森の中から現れた人影を見て、今度こそ、ダリウスは顔を輝かせる。
「……あなたは!」
紺のマントとフードに男物の内着《ダブレット》とタイツ、高く結い上げた髪。いつか見慣れていた姿の女が、片手で三つほどの石をお手玉にしながら、言った。
「久しぶり。元気だった?」
「あなたこそ、今までどこに……」
「隠れていたわ。またヴァルデマールが戻ってきてもつまらないから。でも最近の彼は、バルト海での火遊びに忙しくなったみたいね」
「また、町に戻っていただけるんですか」
「ずっとあそこにいたわよ」
に、と目を細める笑顔に、無性に懐かしいものを感じて、ダリウスは目頭を拭《ぬぐ》った。
「それよりその子を。ずっと心配していた」
女が目をやる。ダリウスは聞く。
「知っている子ですか?」
「親をね。わけあって、そちらは助けられなかった」
「う……」
少女がうめいた。ダリウスは彼女に目をやり、ささやきかけた。
「シャマイエトー?」
少女が目を見開く。どうして知っているの、と言いたげだ。うなされているようだから、自分が口にしたことをおぼえていなくとも無理はない。かすれた声で、また言った。
「レーズスフェントへ……」
「ああ、わかった。連れていってやる」
「……ほんとう?」
「必ずだ」
そう言うと、ほーっと息を吐いて少女は体の力を抜いた。はっきりした言葉がその口から漏れた。
「ごめんなさい」
「え?」
「ごめんなさいって、言えって」
母から、言われたのだろう。その目尻が星明りを受けて光って見えた。
ダリウスは振り向いて、言う。
「乗ってください、泉のお方」
「三人も?」
「おれは歩きますよ」
女を鞍に乗せると、その後ろに少女をもたれさせて、マントをかけた。
あの町なら必ずこの子を受け入れてくれるだろう。
ダリウスは馬の前に回り、手綱を取った。
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主要参考文献
アリアドネ企画
『ノルマン民族の謎 海賊ヴァイキングの足跡』
G・ファーバー著 片岡哲史、戸叶勝也訳
岩波文庫
『ネーデルラント旅日記』
デューラー著 前川誠郎訳
山川出版社
『中世ヨーロッパの農村世界』 堀越宏一著
『中世ヨーロッパの都市世界』 河原温著
『海港と文明 近世フランスの港町』 深沢克己著
新評論
『天使のような修道士たち』
ルドー・J・Rミリス著 武内信一訳
新紀元社
『武器と防具 西洋編』 市川定春著
さ・え・ら書房
『絵で見るある港の歴史』
スティーブン・ヌーン絵/アン・ミラード文 松沢あさか訳
東京書籍
『図説都市の歴史2 レベック』
イタリア・ヤカブック版 川添登、木村尚三郎 監訳
あすなろ書房
『古城事典』
クリストファー・グラヴェット著 森岡敬一郎訳
『中世ヨーロッパ騎士事典』
クリストファー・グラヴェット著 森岡敬一郎訳
『中世ヨーロッパ入門』
アンドリュー・ラングリー著 池上俊一訳
『ヴァイキング事典』
スーザン・M・マーグソン、ピーター・アンダーソン著 久保実訳
原書房
『ヨーロッパ歴史地図』
マーク・アーモンド他著 樺山紘一訳
教育社
『ハンザ同盟 中世の都市と商人たち』
高橋理著
新潮文庫
『ローマ人の物語』
塩野七生著
刀水書房
『ドイツ中世の日常生活 ―騎士・農民・都市民―』
C・メクゼーパー、E・シュラウト、赤阪俊一、佐藤専次著
朝日新聞社
『港の世界史』 高見玄一郎著
『「中世ドイツ文学にみられる騎士制度について」(1):騎士』 中野隆正著
http://ci.nii.ac.jp/maid/110000467437
『「中世ドイツ文学にみられる騎士制度について」(2):貴婦人』 中野隆正著
http://ci.nii.ac.jp/naid/110000467463/
国立情報学研究所データベース「CiNii」
「ハンドフェステについての一考察:十四世紀東ドイツ農村の法」 阿部謹也著
http://hdl.handle.net/10086/3302
一橋大学機関リポジトリ HERMES-IR
「die Linische Katze」 ミカト
http://homepage.mac.com/linstedt/linische/index.html
著者略歴
小川一水(おがわ・いっすい)1975年岐阜県生まれ。中篇『リトルスター』でデビューの後、若手SF作家として期待される。代表作品に『こちら郵政省特配課』『導きの星』『第六大陸』『老ヴォールの惑星』など。宇宙作家クラブ会員。2004年『第六大陸』で第35回星雲賞日本長編部門を受賞。
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[#挿絵(img/murata_500.jpg)入る]
底本
角川春樹事務所 単行本
風の邦《くに》、星の渚《なぎさ》
レーズスフェント興亡記
著 者――小川一水
2008年10月8日  第一刷発行
発行者――大杉明彦
発行所――株式会社 角川春樹事務所
[#地付き]2008年11月1日作成 hj
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置き換え文字
唖《※》 ※[#「口+亞」、第3水準1-15-8]「口+亞」、第3水準1-15-8
噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26
躯《※》 ※[#「身+區」、第3水準1-92-42]「身+區」、第3水準1-92-42
鹸《※》 ※[#「鹵+僉」、第3水準1-94-74]「鹵+僉」、第3水準1-94-74
顛《※》 ※[#「眞+頁」、第3水準1-94-3]「眞+頁」、第3水準1-94-3
祷《※》 ※[#「示+壽」、第3水準1-89-35]「示+壽」、第3水準1-89-35
涜《※》 ※[#「さんずい+續のつくり」、第3水準1-87-29]「さんずい+續のつくり」、第3水準1-87-29
頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90
蝋《※》 ※[#「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71]「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71