グレイ・チェンバー
小川一水
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)如月《ささらぎ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|入れ物《チェンバー》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)きさらぎ[#「さらぎ」に縦線]
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〈カバー〉
学校なんてただの灰色《グレイ》の|入れ物《チェンバー》かも知れない。
そんな思いで学園生活を送る生徒たちの前に突然現れたピンク色をした異様な生き物。
それは気味の悪い鋭利な舌でやにわに襲いかかってきた。
級長の如月《ささらぎ》そよぎは、椅子でなんとかしとめたがそれが大災難の始まりだった。
次々と襲いかかる異界の生物・ネイバー。
クラスの誰にも逃げる道はない。
ひたすら闘うのみ…。
あの『まずは一報ポプラパレスより』の河出智紀《かわでとものり》がPN《ペンネーム》をかえてお贈りする快心の学園パニック・ノベル登場!!
小川一水
OGAWA ISSUI
25歳。愛知県在住。著作は『まずは一報ポプラパレスより』、『イカロスの誕生日』、『回転翼の天使』など。ホームページ「小川遊水池」を運営中。宇宙作家クラブ会員。
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グレイ・チェンバー
grey chamber
CONTENTS
グレイ・チェンバー
あとがき
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PROFILE
如月そよぎ kisaragi soyogi
一人暮らしの高校生。雫森高校三年一組の級長。
苗田鈴鹿 naeda suzuka
如月の同級生で、一番の仲よし。天然ボケ。
伊万里美季 imari miki
如月の同級生。ガングロ系の元気もの。
木下光一郎 kinoshita kouichirou
如月の同級生。体育会系硬派。
霧岡玲司 kirioka reiji
如月の同級生。しっかり者の優等生。
竜巳風速人 tatsumikaze hayato
不思議な武器を使う謎の男。やたら態度がでかい。
那岐はるみ nagi harumi
竜巳風のパートナー。クールな美女。
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この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには、いっさい関係ありません。
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グレイ・チェンバー
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高さ二メートルのフェンスとコンクリートの校舎だけが壁じゃない、と思う。
学校って不思議なところだ。朝登校してから、夕方下校するまで、門にもドアにも鍵《かぎ》はかけられていない。なのに、出るのも入るのも難しい。
いろんな壁がある。校則の壁、授業の壁、時間割の壁、クラスの壁、友達の壁。学校は壁だらけ。まるで灰色の入れ物みたい。
それでも、その入れ物は、命がけになった時に破れないほど丈夫じゃない。
県立|雫森《しずくもり》高校三年一組の壁を除けば。
「如月《きさらぎ》! おいッ!」
木下光一郎《きのしたこういちろう》はクラス一やる気のない男子だから、そういう切羽詰《せっぱつ》まった声を出すのは珍しい。なんだろう、とわたしはチョークを握ったまま、黒板から振り向いた。
教卓の上に、不思議なものが座っていた。
ヒキガエル?
最初はそう思った。大きさがそれぐらいだったから。
でも、カエルにしては変な色だ。肌色《はだいろ》、というより皮膚《ひふ》は血色のいい人間の肌そっくり。曇った二つの目がじっとわたしを見ている。前足は見当たらないけど、ちょっと角度を変えると、後ろ足が折りたたまれているのがわかった。ゆっくり息づいているから生き物なのは確かだ。
「ええと……小塚《こづか》さん?」
誰が置いたんだろう。わたしが聞くと、最前列の席に座っている小塚|瞳《ひとみ》さんは、目を真ん丸くしてお下げ頭をぶんぶん振った。その隣の霧岡玲司《きりおかれいじ》くんが、口を半開きにして否定した。
「それ……湧《わ》いて出たよ。その穴から」
言われて見ると、教卓の端に、肌色ガエルがすっぽり収まりそうな穴があいていた。
「ええと? 誰なの、それで」
わたしはそのとき初めて、クラス中の人間がぽかんとしていることに気づいた。てっきり、誰かがホームルームをひっくり返すつもりで、いたずらしたと思ったのに。
「これ、なんなの」
ちょっと強い声になった。教室の隅《すみ》の椅子《いす》に座っていた吉田《よしだ》先生がやって来る。
「ラジコンかな? ずいぶん前衛的なデザインだが」
先生が手を伸ばすのを見ていたわたしは、突然、肌色ガエルの目に気付いた。普通のカエルの愛嬌《あいきょう》のあるまるい目玉じゃない。切れ長で、白目と黒目があって、まつげまで生《は》えている。――まるで人間の女みたい。ぞっとした。
先生|触《さわ》らないほうが、と言いかけた時。
目の前でぴゅっとピンクの棒が伸びた。いや、棒と思ったのはそれがあまりまっすぐだったからで、肉だった。舌だ。
肌色ガエルの口から伸びた舌が、先生の袖《そで》に突き刺さっていた。
「うわ、うわっ?」
反射的に飛びのいてしまったけど、目はそらせなかった。舌は間違いなく袖の中の腕に刺さっていた。先生がコンタクトが落ちるほど目を見開いて、腕を引き戻そうとする。それに合わせて、肌色ガエルはずるっと教卓から落ち、ぶら下がった。うどんを飲みこむみたいに舌を口に収めて、ゆっくり這《は》い登っていく。
「うひあっ!」
痛いのと気持ち悪いのと両方だ。先生は悲鳴を上げて腕を振った。黒板に叩《たた》きつけられた肌色ガエルは、はねかえってまた教卓に落ちた。いつのまにか舌は引っ込めている。
先生がうめきながらしゃがみこむ。押さえた袖口が真っ赤になっていくのを、わたしはぽかんと見ていた。
「せんせ、い……」
「馬鹿逃げろ如月みんな、下がれ!」
叫んだのは、やっぱり木下だった。一番後ろの席で立ち上がる。
それで、呪縛《じゅばく》が解けた。
女子と男子がいっせいに立ち上がって、前と後ろに動こうとしてぶつかりあった。わたしは関節がセメントで固められたみたいに突っ立っていた。ただひとつ言えるのは、木下が一番はっきりした目的意識を持っていたってこと。
元から運動神経だけはいいやつだったけど、その時の木下はすごかった。机に飛び上がって三段|跳《と》び、四回目のジャンプで、例のカエルを教卓ごとけっとばしたのだ。
教室では一度も聞いたことのないようなものすごい音を立てて、教卓が出入り口のドアまで吹っ飛んだ。
ひらり、とカエルが飛んで、べたっと床に降りた。その目の前に、筆記をしていた書記の堤麻弥《つつみまや》ちゃんがいた。
肌色ガエルが、ちらっと舌を出した。わたしは叫ぼうとしたけど、無意味だった。
びゅばっ、と空気を切り裂いてそいつの舌が伸びた。
「いやーっ!」
反射的に、すごい勢いで堤ちゃんが体を丸めた。厚くてうっとうしいセーラー服の紺《こん》サージを紙みたいに切り裂いて、ピンクのむちが後ろの掲示板を叩いた。
「如月、ぼーっとしてんじゃねえ!」
木下が叫んだ時、カエルがくるりとまわってわたしを見た。今度こそ、本物の恐怖が喉《のど》から口へ飛び出した。
「何あれ! なんなのあれ! 木下あれ!」
「知るか、逃げろよ!」
木下がぐいぐいわたしを引っ張って教室の真ん中あたりまで下がらせた。すると、二、三人の男子が、代わって前に出た。さらに、腕力のなさそうな霧岡でさえ、必死に吉田先生を隅に引きずっていた。いつのまにか、ほとんどの生徒が教室の後ろにかき集められてる。男子ってすごい、と思った。
「なんだてめェは!」
前に出た男子の中に、堤ちゃんの彼氏の成田大輔《なりただいすけ》がいて、すごくドスの利《き》いた声で叫んだ。校舎の裏で、殴《なぐ》り合《あ》う寸前の男子たちが吠《ほ》えているのを聞いたことがある。そういう声だ。言葉が通じてないのは百も承知だろう。気合を入れてるんだ。
それでも、近づけない。遠巻きにしたままにらんでいるだけだ。
「成田! 堤ちゃん、堤ちゃん助けて!」
わたしは叫んだ。とたんに、耳元で木下がささやいた。
「静かにしろ、あいつ、おまえ見てる」
言われた通りだった。カエルの鼻先は、はっきりとわたしに向いていた。
ぴょん、とそれが飛んだ。壁に。それから――ものすごいスピードだった。
あっというまに視界の中でそいつが大きくなって、べちゃっと顔の前でいやな音がした。鳥肌が立ってわたしは飛びのこうとした。離れない。「如月っ!」木下の声がすごく遠くに聞こえた。何かが喉にチクリと刺さる。でもすぐにその痛みは消えた。
気が遠く……
「ざけてんじゃねー、ゴミクズ」
顔の上のそれが勢いよくひっぺがされた。ビンタを食らったみたいに顔が痛んで、わたしは立ったままよろめいた。気が付くと、目の前が晴れていて、木下がいた。
「木下……あんたが?」
「いや……」
木下が、ゆっくり後ろを向いて言った。
「吹っ飛ばされた」
わたしも見た。
教室の入り口に、二人の人が立っていた。
一人は背の高い男の人。まだ四月なのにスリムジーンズにプリントのTシャツ一枚、片手にごついグラブ。空中から引き戻した銀のドーナツをグラブで受ける。短くツンツンに立った金の髪、意味がなさそうな小さなサングラスの下から、穴が空《あ》きそうなほど鋭い眼差《まなざ》しがこっちを向いている。
その隣に、女の人。グレーのツーピースを着たロングヘアの美人。ノートパソコンみたいなものを開いて持っている。
「犠牲者《ぎせいしゃ》……出てしまったみたいね」
唇《くちびる》の端を少しだけつりあげて、女の人が言った。
「タツミカゼあなた、手を抜いたんじゃないでしょうね」
「抜くかババア、耳穴全開で聞いてたよ。おまえがしっかり予測しねえから、ここのパンツ濡《ぬ》らしどもに真夏の夜の夢見せるハメになったんだ」
「だってまさか、意識体のこんな近くにピンポイントで組織化するなんて思ってなかったもの。ま、あなたの暴言には、いつかまとめてお返ししてあげるとして……」
女の人は、ぐるっと教室を見回した。
「漏《も》らしているコは、いないみたいよ。パンツ濡らすほど怖《こわ》がりじゃないのに免じて、さっさと片付けてあげたら?」
「ふん……」
男の人は、冷たい眼差しでわたしの横を見た。視線の先を見ると、さっきのカエルが、倒された机の陰で怯《おび》えるように、じっと体を固めて丸まっていた。
その目はもう、男の人に釘付《くぎづ》けになっている。
「ファミコン並みの知能のくせに運だけはいっちょまえだな、この原生動物が。……おいナギ。LCM、OCM、ジャムソニック、ギャザラー出せ」
「OCMは必要ないでしょ。この子たち目を回しちゃうわ」
何を言ってるのか、何をしようとしているのか、わたしも含めてみんなが理解できないでいる。女の人がパソコンのキーを叩いた。とたんに、頭を鉄板で挟《はさ》まれたような痛みが走った。
「いたっ……」
「どうした、如月?」
「頭……」
「ほう? 聞こえるのか」
言いながら、男の人が右手を伸ばした。しゃらん、と銀のドーナツが落ちる。痛みに頭の両脇《りょうわき》を圧迫されながら、わたしは目が離せないでいた。それは、CDの真ん中に大きな穴をあけたような金属の円盤だった。鎖《くさり》で、グラブをはめた左手につながれている。
「よく聞け、そこの腐《くさ》れクラッド。この階梯《かいてい》はてめえの小汚ねえ足でぺったらぺったら歩き回っていい場所じゃねえんだ。とっととケツまくって帰れ!」
言うが早いか、男の人は円盤を閃《ひらめ》かせた。フリスビーの何倍もの速度でそれが飛ぶ。肌色カエルが勢いよく跳躍《ちょうやく》した。
「マリンバは対《つい》なんだよ!」
途端に男の人が、右手をもう一度動かした。手品みたいだった。どこから出したのか、二枚目の円盤が、天井近くまで飛び上がったあれに突進して、くるりと巻き付いた。男の人が鎖を引く。
カエルが、鎖でぐるぐる巻きにされたまま床に落ちた。きれいな降り方じゃない、やっつけられて落ちたんだ、ということがなぜかわかった。
「ナギ、ギャザラー」
「はいはい」
女の人が、ポケットから四角いボール紙を取り出した。手を一振りするとぱたぱたとそれが開いて、五十センチ四方ぐらいの箱になった。それから、彼女はふと、わたしの方を見た。
笑った。
「びっくりした? 二次体を見るのは初めてでしょ。こいつを還元《かんげん》したらあなたのケガもみてあげるから」
にじたい、かんげん。なんのことだろう。
その時、視界の外で、あれがもぞりと動いた。
まだ生きてる!
「ひっ……」
反射的にわたしは、そばの椅子をつかんでいた。そうしなければいけないという強烈な衝動《しょうどう》があった。振り向きざま、床の上のそいつに椅子を叩きつけた。ぐしゃっといやな手ごたえ。
「如月?」
木下が驚いてる。それはそうだ。わたしだって自分がなんでこんな乱暴なことをするのかわからない。ぐしゃっ! ぐしゃっ! と何度もそいつをぶちのめす。やりながら、怖かった。ものすごく怖くて、そいつを叩き続けた。
「おいガキ、やめろ! ナギ!」
「組織|境階波《きょうかいは》受信、この子が発振してるわ! どういうこと?」
「止めろ! ギャザラーなしで二次体を殺したら――」
男の人が何か叫ぼうとした時に、わたしの最後の一撃がカエルの胴体を押しつぶした。虫の息のそいつが絶叫した。
「ケーッ!」
次の瞬間、カエルの色がふっと変わった。うす茶色のざくざくしたものに変わる。――形はカエルのままだけど、ところどころにニスのつやがある。教卓の天板の色だった。
「しまった……」
男の人がつぶやいた。
わたしは、ぺたりと尻もちをついた。
目が覚めた。目覚し時計は午前四時。
窓から街路灯の光が差しこんでいる。どこかで救急車のサイレンが鳴っていた。
目が覚めたのは、そのせいじゃない。わたしは、ごろりと寝返りを打った。
サイレンとは違う奇妙な音を、耳以外のなにかで、わたしは聞いていた。
ぺたぺたぺた、と歩く音。きいきい、と呼《よ》び交《か》わすかん高い声。
それが、わたしの目を覚ました。探している。怖くて眠れない。
わけのわからない生き物が教室にやってきた、あの日からだった。
あいつがいなくなったあとは、みんな放心状態だった。でもケガをした吉田先生をほっとくわけにもいかず、一番しっかりしている霧岡が先生に肩を貸して立ち上がり、それでみんなも動き出した。あの男と女の二人組はいつのまにか消えていた。
救急車が来た。警察が来た。けれど誰ひとり筋道だった説明ができず、泣き出してしまう女子もいて、どうしようもなくてその日は三−一全員が早退になった。
あれから一週間。
血の跡《あと》は拭《ふ》いたし、教室も片付けた。堤ちゃんはかすり傷、先生は重傷で入院。警察に説明しなければいけなかったけど、見たことを素直に話したら、それ以上は聞かれなかった。
あの変な事件は、表面上、終わった。
でもみんな、思っている。何も終わってない。
あの肌色ガエルのことも、二人の男女のことも、誰も何も説明してくれない。
納得したくなるような嘘《うそ》さえ、ついてくれないのだ。学校も、警察も。
そして、わたしははっきり知っている。
教室で、わたしはあいつに刺された。あの時からわたしは変わった。
聞こえるのだ。
ぺたぺたぺた、と歩く音。きいきい、と呼び交わすかん高い声。聞いたこともないようなおかしな言葉。あいつらの仲間が立てる音。
わたしは、別の世界に入ってしまった。
天井を見上げていると、救急車のサイレンが遠ざかっていった。
わたしは、布団《ふとん》をかぶり直した。
学校に行く。
教室に入ると、クラスの全員がいっせいにこっちを見た。誰も休んでいない。今日こそ何か説明があるんじゃないかと期待しているのだ。
「おっは、きーちゃん」
席に着くと、一番仲のいい苗田鈴鹿《なえだすずか》がやってきた。妙に血色がいい。
「おはよう鈴鹿。寝れた?」
「寝れすぎて困ってる。それよりお知らせだにょん」
いつもの通り、寝起きでそのまましゃべっているようなぽやぽやした感じだ。そのくせ動作だけはロボットみたいにきびきびしていて、おもしろい。
「次の先生決まったって」
「……まじ? じゃ吉田先生は?」
「吉田は全治二か月。たっちゃんがゆってた」
「おーい、高槻《たかつき》!」
わたしは、四つ前の席の高槻|聡美《さとみ》を呼んだ。女子にありがちなグループわけでいうと高槻は他のグループのメンバーだけど、社交性が高いっていうか、どこの誰とでも話ができる子なので、気兼《きが》ねがいらない。
「なに?」
「次の先生決まったってほんと?」
「おー、ほんとだよ。今朝、日直で職員室いったとき聞いたさ」
「どんなやつ?」
「男だって。でも、くわしくは知らないな」
「すぐわかるって、きーちゃん」
鈴鹿がころころ笑った。
教室の前のドアが開いた。
「ほら」
振り向いた鈴鹿が、あれ、と言った。どうしたの、とその横から顔を出したわたしは、うろたえた。
「あっあれ」
「あれー? あの人どっかで見たことあるような」
「どっかでじゃなくて!」
「おーう、全員そのまま」
体をかがめてドアわくに片手でぶら下がり、教室をのぞき込むようにして、その男の人は言った。
「一週間ぶりだなガキども。今日からオレがここを仕切ってやる」
絶対ダテだと思う小さな丸いサングラスを指で下げて、じろっと見回す。
「タツミカゼハヤトだ」
唖然《あぜん》としているわたしたちの前で、男の人は教壇に上がると、ばっと身をひるがえした。前と同じシャツとジーンズの上に、四月の今ではそろそろいらなさそうなざっくりした帆布《ほぬの》のロングコートをひっかけている。
竜巳風速ノ
黒板に書く途中で、チョークが折れた。それを投げ捨てると、新しいチョークで「ノ」にはらいをつけて人と書く。
書き終わると、こっちを向いてみんなをにらみつける。
「た・つ・み・か・ぜ・は・や・と。略すんじゃねーぞ。もしくは先生と呼べ」
「あのっ!」
わたしは思わず立ち上がった。とたんに、びしっとチョークを投げつけられた。
「センセイだ」
セーラーの胸元についた白い跡を見て、洗濯だ、とわたしは思った。
反撃は女子のほうが早かった。
「ちょっとお、なんだよいきなり」「ふざけんなよ」「調子コイてんじゃない?」
玉手良恵《たまてよしえ》、伊万里美季《いまりみき》、高槻聡美。クラスの中でも元気のいい子たちがブーイングを上げる。男子のヤンキーたちは、かえって静まり返ってた。アクっぽい男子は茶髪ピアスガングロ系と体育会系と二種類いるけど、両方が細めた目で、男の人――竜巳風をにらんでいる。戦闘態勢だ。相手の力を見抜こうとしている目だ。
「うっせえ黙れこの蒙古斑《もうこはん》どもが!」
突然、竜巳風が叫んだ。
「オレはなあ、てめーらとハンカチ落とししに来たわけじゃねえんだ。微積分もラ行連体活用もどうでもいい。ワルシャワ条約も藤原不比等《ふじわらのふひと》もくそくらえだ。授業なんか一秒だってする気はねえ。オレがやるのはただひとつ」
なぜか竜巳風は、わたしを指さした。
「おまえらを仕込んで、そこの生意気そうな小娘を、連中から守ってやるだけだ」
しん、とクラスが静まり返った。
「あの時そいつが、おとなしく布団でもかぶってしょんべん垂れ流してりゃ、オレがわざわざ出てくるまでもなかったんだ。それを、トチ狂って無理やりクラッド殺したりしやがるから」
がたん、と誰かが席を立った。振り向くと、木下だった。そのまま後ろのドアへ向かう。
「おい」
竜巳風が低い声で言った。木下は聞かずにドアに手をかける。野球部所属だけどバットよりも拳《こぶし》で叩くほうが好きで、みんなから怖がられてる体育会系硬派だ。
ただ、こないだああいうことがあったから、ただのひねくれ者じゃないってことはわかってる。あれはちょっと見直したな、と不意に思った。
「待ちやがれ」
「うるせえよ」
「逃げんのか、てめえ」
ドアのところで、木下が振り返った。
「わけのわかんねー電波系のおっさんの言うことなんか、まじめに聞けるかよ」
竜巳風は、それを聞くとニヤッと笑った。
「てめえらのささやかな脳じゃ、わからねえのも無理はねえ。わかるように言うと、あのお嬢さんの命が危ないから、みんなで守りましょうつってんだ」
おかしなことに、木下はちらっとわたしの方を見た。すぐに目をそらす。
「逃げればいいだろ」
「そうか?」
ぶんっ! と何かが走った。木下の顔のあたりでドカッという音。
ドアに銀色の円盤が食い込んでいた。
「今のは、クラッドの口吻《こうふん》の半分の速度だ」
竜巳風は、もう笑っていなかった。
「本物の先端速度はマッハ〇・二。新幹線並みだ。射程は三メートル。狙《ねら》われた小娘が生きてたのは完全な奇跡と言っていい。次も避けられると思うか」
「なに言ってんだよてめえ!」
木下が叫んだ。顔色が薄い。円盤投げにはさすがにびびっているみたいだ。
竜巳風は、毛ほども動じずに言った。
「正体不明の怪物が一匹、授業中の教室に飛び込んできて、教師が一人と生徒が一人ケガをした。事実だな?」
「………」
「夢でも冗談でもない。血の跡はまだここに残ってる。なのに、他の教師や警察や親は、対策をとるどころか信じてさえくれない。おいそこのお下げ、どうだ親は」
「え」
「おまえだおまえ。ロリ中年にラチられそうな」
小塚さんが、小学生みたいに目を真ん丸にしてぶんぶん首を振った。
「そうだろう」
竜巳風は、ぐるっと教室を見回した。
「おまえら、怖かっただろう?」
その一言で、教室中のみんなが同じ雰囲気をもつ吐息《といき》を漏らした。手がぎゅっと握られる。見上げると、のんき者の鈴鹿でさえ、あのときとそっくりな引きつった顔をして竜巳風をじっと見つめていた。玉手も伊万里も、沢木《さわき》も岡《おか》も、男子も女子も悪《アク》もまじめもみんな一様に、何かにすがるような顔をしていた。
「あれが、また来る」
ひっ、と誰かが息をのんだ。
「必ず来る。そうなっちまった。てめえらみんな逃げられねえ。三年一組は猛獣のオリに入ったと思え。だから、オレが来た」
竜巳風――先生は、筋肉の盛り上がった胸を反《そ》らして言った。
「座れよ」
ドアのところで立《た》ち尽《つ》くしていた木下に、誰かが声をかけた。
襲われた堤ちゃんの彼氏の、成田だった。ピアスは全身で半ダース、ロンゲをメッシュにしている軟派系の仕切り屋みたいなやつだけど、このときは冷静そうだった。
「話だけでも聞こうぜ」
木下が、席に戻った。
「いいですか?」
霧岡が手を挙《あ》げた。生徒会役員で、このクラスの優等生筆頭の、ひょろっとした男子だ。あの時も、こいつだけは先生を部屋の隅に引きずっていくような機転を利かせていた。度胸のほうも木下なみにあるらしい。
「教えてください、竜巳風さん」
「先生だ」
「……先生。あれは一体なんだったんですか」
「監視階梯から組織化して出てきた二次体だ。あんなのはまだザコだがな」
「二次体とは?」
「情報|連鎖《れんさ》で下から二番目のネイバーだよ」
「情報連鎖……」
さすがに、三年でも一、二を争う切れ者だけあって、このままではラチが明かないことに気付いたらしい。霧岡はすぐに質問の方向を切り替えた。
「何が目的なんです」
「そんなことはどうでもいいだろう」
先生は、うんざりした顔でさえぎった。
「そんなこと聞いてどうする? ケツ穴の位置から交尾の仕方まで調べて図鑑でも作るのか? じきにわかるからそんなことは忘れてろ。いま大事なのは三つのことだ。ひとつ、やつらはあのクラッド一体だけじゃない。ふたつ、やつらはその小娘を獲物と認識した。みっつ、ついでにおまえらも狙われた」
「そう、そこを」
すかさず霧岡が切り込んだ。校内ディベート大会でこいつほど嫌われたやつもいない。
「どうして僕らで狙われるんですか?」
「小娘が、やつを殺しただろう」
先生が、じっとわたしを見つめた。
「やつらを退治する時はギャザラーで封鎖《ふうさ》してから還元する決まりだ。そうしないと情報片が監視階梯に飛び散って、他のネイバーに情報を拾われる」
「監視階梯」
「つまりだな、ああめんどくせえ! おまえらの人相書きとアドレスが犯罪者の世界にバラまかれたようなもんだ。ストーカーが山んなって押し寄せるぞ」
「ちょっと……」
わたしは、立ち上がった。先生がじろりと見る。
「なんだ小娘」
「如月そよぎよ。小娘ってのはやめて」
「生意気ぬかしやがると剥《む》くそコラ。それから敬語使え」
「さっきわたしが狙われるって言った――言いましたよね」
「それがどうした」
「どうしてわたしだけ?」
わたしが聞くと、先生はボリボリ頭をかいた。
「ややっこしいケースなんだよなあ。解析《かいせき》転写の途中でシャットしてそのまま生きてるケースなんか初めてだからなあ」
言いながら、先生はぶらぶらとわたしのそばまで来て、出し抜けに手を伸ばした。
「脱げ」
「なんですかいきなり!」
「見せろよ、傷。首刺されたろ?」
しばらくにらみあってから、わたしは覚悟を決めた。セーラーのリボンをぐいと引っ張って、首筋を突き出す。先生がそこに触れる。
意外にも、いやらしさはなかった。うまいお医者がやるみたいに、必要なところだけを機械みたいに正確に調べる動きで、鎖骨《さこつ》と、おとがいと、気管に指が流れた。
「……腫《は》れてもいねえ。あのクラッド、妙な才能があったな」
「どうなんですか?」
わたしの質問には答えず、先生は静かに言った。
「聞こえるのか?」
とたんに、わたしは硬直した。
「聞こえるんだな。やつらのあの、頭んなかを虫が歩き回ってるみてえな、気色悪い足音が」
「……聞こえるわ」
「ということは、おまえはすでに境階波に同調してるってことだ」
「境階波? に同調?」
「ネイバーは監視階梯物理法則に支配されていて、こっちの階梯に出てくるときは境階領域の干渉波《かんしょうは》として組織化する。やつらと周囲の階梯との摩擦《まさつ》から新しい波動が生まれ、それを境階波という。境階波を感じられるのはネイバーだけである――だったかな。ああ聞くな聞くな! ナギの専門でオレは全然わからんのだ!」
みんな黙った。わたしも黙った。全然わけがわからない。
一人だけ追いついた。
「じゃああいつは何をしに来たんですか」
聞いた霧岡を、先生がにらんだ。
「おまえわかってんのか? ――目的は、そうだな、人間の体を乗っ取ることだ」
わたしは叫んだ。
「体を乗っ取るって!」
「泣くな小娘。やつは今回失敗したんだ。運がよかったな」
「運がよかったって……どうしてそんなことが言えるんですか!」
「生きてるんだから文句言うな。ようしおめーら、今のでわかったか?」
先生は勢いよく教室を見回した。誰も返事をしない。
先生は、ちっと舌打ちした。
「これだから出来の悪いござるどもの面倒みるのはいやだっつったんだ」
ぶつぶつ言ってから、大声を上げる。
「いいかあ、翻訳《ほんやく》してやるから聞き逃すんじゃねーぞ類人猿ども! このきさらぎはなあ、クラッドに食いつかれて半分やつらと同じ作りになっちまったんだ。不感症のおめーらには感じられねえだろうが、やつらは四六時中、組織境階波を垂れ流しながら歩いてる。それを自分らで感じることもできる。きさらぎは、それと知らずにこの一週間、その怪《あや》しい波をスピーカーで自己紹介するみたいにアチラの世界へふりまいて、自分も堪能《たんのう》してたってわけだ」
「それで……どうなるの?」
「当然、お礼参りの団体が来る。当たり前だろうが。今まではおまえの境階波が、周波数も強度もむちゃくちゃだった。ほとんどノイズみたいなデタラメ波だったわけな。だからやつらも戸惑《とまど》ってたんだろうが、あのクラッドの残留情報でおおまかな場所は嗅《か》ぎつけてるから、そのうち、裸《はだか》で駅前歩いたみたいに、タチの悪いのが山ほど押し寄せてくるぞ」
「なんでそんなのにわたしが狙われたの!」
「やつらの好みまでオレが知るか!」
間髪《かんはつ》入れずに先生は怒鳴《どな》った。
「とにかく! 現状については説明した。わかったか?」
教室を見回す。
「あのー」
鈴鹿がのんびり手を挙げた。先生が面倒臭《めんどうくさ》そうに振り向く。
「なんだうるせえな」
「ネイバーって名前、ねばってしてるからなの?」
「あに?」
グラサンが、二ミリぐらい傾いた。鈴鹿がとっぽい口調で聞く。
「あの肉ガエル、触ったらねばってしてそうだったよね。だから?」
先生は、眉《まゆ》を変な形に歪《ゆが》めて、鈴鹿をまじまじと眺めた。鈴鹿としゃべった人間は、異空間に引き込まれてバイオリズムが変調するのが常《つね》なのだ。
「すっとぼけたこと抜かすな。NEIGHBORってのは、すぐそばにいる隣人って意味でついた名だ。それから肉ガエルじゃなくてクラッドだ」
「いいじゃん肉ガエルで。ぴったりぴったり」
にこにこ喜んでいる。先生は強烈に眉をひそめた。
「なんだおまえ、脳あるのか?」
「ちょっとー、肝心《かんじん》のこと聞いてないけど」
わしゃわしゃメッシュのライオンヘアーをかきまぜながら、殺人級ミニスカートの伊万里が聞いた。鈴鹿のワンポイントで気後《きおく》れがなくなったんだろう。
「なんだ!」
「これからどうしたらいいの、あたしら」
「そうだよ、いろいろ言われたけど」「守るとか言っても何すんの」「危ねーのはごめんだよなあ」「なんかいい手ないの?」
みんなが口を開く。ようやく、自分たちで動こうって気になったみたい。
「とりあえず、様子を見る」
「えーっ?」
全員が叫んだ。憮然《ぶぜん》って感じの顔で先生はあごをかいた。
「どれだけの情報片が散らばったかわからねえ。下手《へた》に動くとかえって感づかれる」
「っだよ散々|脅《おど》かしやがって」「わけわかんねえこと言うしよ」「ていうかマジおれら危ねーの?」
「安全だなんて一言も言ってねえぞ」
先生は、クラスを見回して言ったけど、いったんざわついた教室は静まらなかった。
「ふん……まあいい。五分十分でやつらが来ることもねえだろうからな」
つぶやくと、先生はさっさと教室を出て行こうとした。
「いいかガキども、とりあえずはバラバラになるんじゃねえぞ。おまえら全員メン割れてんだからな!」
「待てよ」
「なんだもう残尿感《ざんにょうかん》な連中だな!」
先生はうんざりした顔で振り向いた。木下がぼそっと言った。
「あんた、誰なんだよ」
「ああん?」
先生が振り向く。
「あんた何もんだ。どうしてその、ネイバーとかのことをそんなに知ってる」
「そーゆー仕事してんだよオレは」
「地球防衛軍か」
「なんとでも思ってろ。少なくともそんな片腹いてえ名前じゃねえからな」
「……け、アホくせー」
木下は顔を背《そむ》けた。
「自習だ! 今日はいちんちドリルでもやってろ」
言い捨てて、先生は出て行った。
「なにあれー?」「変なやつだよねー」「信じる?」「なわけないじゃん!」「てゆーかよくわからんかった」「よーし、ぶっちしちゃろ」
自習、というところだけ聞こえたらしい。みんなてんでに動き出した。鈴鹿が笑って言った。
「おもしろい人だったよねー」
「あんたのすずかわーるど攻撃もおもしろかったわよ。泣けた」
「え、そう? いやー、照れるなあ」
「地球最後の日まで照れてろよこいつは」
「……きーちゃん、元気ないね」
「ぎく」
どうしてこいつは妙なところだけ鋭いんだ。
「そう? 気のせい気のせい」
「気のせいじゃないと思うけど。ま、きーちゃんがいいならいいや」
この子も気付いているのかもしれない。他にもいただろう。気付いていて誰も言わなかったってことでいいか。
あるいやな考えが、頭にあった。
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「あれ?」
保健室に入ると、先生が変わっていた。
「あなた、如月《きさらぎ》そよぎさんね」
机に片肘《かたひじ》ついて足を組んだ姿勢で、白衣の美人がこっちを向いた。見間違えるはずがない。竜巳風《たつみかぜ》先生と一緒に現れた、あの女の人。
「あなたも、先生になったんですか? ええと……なぎ先生、でいいのかな」
「那岐《なぎ》はるみよ」
その人は柔らかく笑った。
「なったってのは的確ね。もともと教師でも医者でもないもの。資格を融通《ゆうずう》してもらってもぐりこんだのよ。――おっと、方法は秘密」
「理由は?」
「三年一組の情報を持ったまま、あのクラッドは死んで還《かえ》った。クラスの位置やメンバーの知識をね。それを拾った次のネイバーがやって来るとしたら、やっぱり学校に出るでしょうから。――教師でもない人間が学校の中をうろつくわけにはいかないでしょ」
「じゃ、学校側には秘密なんですか」
「言ったら全校自宅待機になるわよ。その前に信じてもらえないか」
じゃあこの人は、学校と全然関係ないところの人なんだ。どうせ聞いても詳《くわ》しく教えてくれないだろうけど。
「ところで、何の用?」
那岐先生は、椅子《いす》をすすめながら言った。
「その……例の足音なんですけど」
「例の? ああ、あなた境階波《きょうかいは》に同調したんだったわね。連中の音が聞こえるんだ」
「気になって、眠れないんです。あれから」
「他の医者にわかるわけがなし、ここに来たのは正解ね」
那岐先生は、天井を仰《あお》いだ。
「んーでも……正直、私たちでもどうしようもないわ」
「……なんだ」
がっかりした。すると、慰《なぐさ》めるように先生が肩に手を置いた。
「私たちではどうしようもないけど、自分でなんとかすることならできるわよ」
「え、ほんとですか?」
「ええ」
先生は、うなずいた。
「境階波は、基本的に五感と同じように意識的に操作できるから」
「……ええと?」
「つまりね、慣れれば思い通りにできるってこと」
「はあ」
「でもなあ」
先生は、薄いマニキュアを塗った爪《つめ》ですべすべした頬《ほお》をかいた。
「一から教えるのは難しいのよね。魚に飛べって言うようなもので。何かの拍子《ひょうし》に自分が出しているハム音に気付くことができれば、あ、こういう感覚かってわかると思うんだけど」
「はあ」
「こういう説明はどうかな。冷蔵庫のコンプレッサーがぶーんって音をたててるでしょ? あれ、普段は全然感じられないわよね。でも、夜中にそれが停止すると、ふっとわかるでしょ? あ、聞こえてたのかって」
「はい」
「そんな感じで、存在さえわかればあとは簡単よ。増幅とか変調とか検波とか、すぐできるようになるから」
「そんなことできるんですか?」
「現に今、私はしてるわ」
言われて、わたしはまじまじと那岐先生を見つめた。――何も聞こえないし感じられない。
「パッシブモード。自分からは一切《いっさい》境階波を出さないで、聞き耳だけ立ててる。潜水艦みたいなものね。あなたのは、心臓の鼓動と脳波のベータ波と筋《きん》電流とかいろいろまざって、さざ波みたいに聞こえる。ナチュラルでいい音よ」
そんなものほめられてもどういう顔をしたらいいのか。
「バックグラウンドとたいして差がないから、やつらにも気づかれていないんでしょうけど、近くまで来られたら危ないわね。今は聞こえる?」
「今は聞こえないけど、昨日《きのう》の昼休みに。牛の大群が走ってるみたいな音が」
「昨日の?」
先生は首をかしげて、机のノートパソコンをいじった。
「あらほんと、十デシベルぐらいの組織波が記録されてる。……こっちの距離で五百メートルも遠くか」
先生は、まじまじとわたしを見つめた。
「あなた相当耳がいいわね。これはあいつの言ったとおり、怪我《けが》の功名《こうみょう》よ」
「先生までそんなこと!」
「いえ、あなたにとっていいことよ、これは」
先生は、まじめな顔で言った。
「それほど遠くから聞こえるなら、身を守る力になるわ。自身の組織波が弱いのも都合がいい。……いえ、それと知らずに制御《せいぎょ》しているのかもしれない。素質よ。あなた」
「はあ」
やっぱり、あまりうれしくない。
「五十メートルを割るようだったら、とっとと逃げなさい」
「五十メートルって言われても」
「音がうるさくって耐えられなくなるぐらいの距離よ。クラスの子たちからも離れること」
「また授業中だったらどうしたらいいの? この音を消せれば……」
「消さないほうがいいんだってば」
「そうなんですか」
がっくりきた。あれ、本当に嫌《いや》な音なんだもの。なんでも食べてしまう化け物が、ガリガリ音を立てながら遠くから迫《せま》ってくる、キングの「ランゴリアーズ」って映画を見たことあるけど、まさにあんな感じ。
「ああ、そうだ! ひょっとしたらそういう適性を見ぬいたのかもしれないわ」
突然先生が手を叩《たた》いた。なんのことかわからなくて聞いた。
「なんですか」
「最初の一匹が、他の人間ではなくあなたの前に現れた理由よ。あなたの組織が境階波に同調しやすかったから現れたんだ。すごいじゃない、ネイバーのお墨付《すみつ》きよ」
「そんなお墨付きが出てもうれしくないです!」
わたしは、叫んでしまった。
「思ったよリヤバそうだったね、吉田」
「人間ってもろいんだなー」
「武藤《むとう》、なに書いてんの? ――あ、携帯の番号?」
「見るなよ」
病院前のバス停でひとかたまりになって、わたしたちはバスを待っていた。
右腕をケガした吉田先生のお見舞い。たいしたケガじゃないだろうと思ってたら、全治二か月の重傷だった。傷の大きさよりも失血と心因性のショックのせいだとか。
「なんだよ、この番号。まさか、白衣の天使? いつのまに聞いたの」
「いつでもいいだろうが! おれはこれが生きがいなんだよ」
「さてはてめ、それ目当てで来ただろ」
一組きっての伊達男《だておとこ》を自称する武藤|章一《しょういち》の周《まわ》りで、成田や沢木|幸平《こうへい》が騒いでる。バス待ちのおばさんとかおじいさんとか、あからさまに迷惑そうな顔。
武藤が看護婦さん目当てでも、責《せ》める筋合いじゃない。みんなだって、級長のわたしが提案しなきゃお見舞いになんか来なかっただろうから。
竜巳風先生がやって来てから、三日。校舎の一斉《いっせい》点検とかで午後の授業がなくなったから、郊外の県立病院まで有志を集めてお見舞いに行くことにしたけど、来ない人は花代カンパしてって言ったら、かえって人数が増えた。結局十五人。クラスの各班長とその連れ、書記の堤《つつみ》ちゃん、わたしと、それからヒマだからってんで鈴鹿《すずか》。
病室にいる間はそれなりにみんな神妙にしてたけど、外へ出たらもうバラバラだ。もともと仲良しでもなんでもない。二、三人ずつの群れに分かれてる。
「ねえ、如月さん」
「ん?」
堤ちゃんがそばへ来た。さん付けの言葉でわかると思うけど、いいとこのお嬢さんだ。今どき丈《たけ》詰めてないスカートはいて、それが似合ってる珍しいタイプ。わたしですら膝上《ひざうえ》なのに。
「なに?」
「竜巳風先生、何も言わなかったよね」
「あの暴言教師?」
教師と呼ぶのさえ違和感があるけど、他に呼びようがない。堤ちゃんはつぶやく。
「あんまり遠出するなって言ってたのに、今日は黙ってたよね。なんでかしら」
「うおー、この二輪V−maXじゃん、みんな見ろよ!」
「ちょっと、他人《ひと》のバイク触《さわ》らないの! 幼稚園児じゃないんだから!」
松尾法介《まつおほうすけ》に怒鳴《どな》っておいて、堤ちゃんの顔をのぞき込んだ。
「気になる?」
「注意してる時、先生言ってたでしょ? ここが電車も通らない田舎《いなか》でよかった、私たちほとんど徒歩通学だから、家に帰ってもまあ目が届く距離だって。先生、私たちの住所、全部|把握《はあく》してるんだよ」
「まあ、仮にも担任のまねごとしようってんだから、それぐらいはするんじゃない」
確かに、変と言えば変だ。あの先生、昨日おとついさんざん口うるさくネイバーとやらの脅威を並べ立てていたくせに、今日は妙に静かだった。
昼にちょっと顔を出した時に、わたしが見舞いのことを言ったら、行けばいいだろ、とひとこと言い捨てただけ。どういう風の吹き回しなんだか。
気にはなるけど、堤ちゃんは思い詰めるたちだから、吹き込むとどんどん暗くなってしまう。明るい材料を探さなきゃ。
「そういえば堤ちゃん、聞いてみたんじゃないの? ほら、お父さん顔が広いって言ってたじゃない。警察とか動いてくれるって?」
「だめ」
短く言って、堤ちゃんは首を振った。
「ケガを見せたら両親は信じてくれたのね。でも、警察はだめだった。パパが電話して調べるように頼んでも、のれんに腕押しで。まるで何も起こらなかったみたいな返事なの」
「なにそれ? 起こらなかったって、警察、学校に来てたじゃん。どういうこと?」
「警察だけじゃないの。パパ、市とか県のほうにも聞いたみたいだけど、返事はどこも一緒なんだって。調べてみるって言ってそれっきりか、聞いてないの一点張りか」
ワイドショーかなんかが押しかけてきたら面倒だな、と思っていたけど、そんな次元のことじゃない。なんだか、とてつもなくイヤな感じがした。
堤ちゃんは黙っている。気まずくなったけど、都合よくバスがやって来た。とりあえず今の話を忘れて、わたしは手を叩いた。市街に入るまではみんな一緒だ。
「はいはい集まって! 迷子いない? 忘れ物ない? 看護婦さんはもうあきらめろってこら! 他のお客さん優先だからね!」
最初に乗りこんだから、バスの後ろの方を占領した形になった。
武藤と成田と沢木は女談義。乗り物マニアの松尾は、後ろの窓に取りついて何か叫んでる。霧岡《きりおか》は読書、一応二班の班長だから参加した木下は、座るなり爆睡。
高槻《たかつき》とか玉手《たまて》とか女の子は、このあとカラオケっつーことで、各班横断的に合意が成立した。堤ちゃんは鈴鹿のトークですずかわーるどに引きずりこまれている。
わたしは、一人がけのシートで、額《ひたい》を押さえて下を向いていた。
「きーちゃんだいじょぶ?」
鈴鹿が後ろから首を出した。
「酔っちゃった? それとも、保母さん疲れ?」
「両方。ありがと、大丈夫だから」
「風に当たると気持ちいいよ」
んしょ、と窓を開けてくれた。五月の柔らかい風が入ってきて髪を散らした。
頭が痛いわけじゃない。聞こえるだけだ。
波のような雑音。チャンネルの合ってないラジオを、最大ボリュームでつけて、洗濯機に放りこんだようなノイズ。
これさえ――これさえ聞こえなきゃ、堤ちゃんを心から安心させられるのに。
排気ガスさえ太陽に分解されちゃうみたいな、気持ちのいい五月の昼下がりだってのに、どうしてこんな気味の悪い音が聞こえるの!
少しでも気分転換になるかと思って、わたしは外を見た。
鳥?
そう思った。何かが、バスと並行して飛んでいる。それは、開いた窓からばさっと入って来た。
「ひっ!」
反射的に首をすくめた。それは、わたしの頭の上を越えると、風圧が急になくなったせいか、ぼとんと床に落ちた。体をばたつかせて、こちらに向き直る。
鳥なんかじゃない。鳥が一メートルもの髪の毛を生《は》やしているわけがない。
ドッジボールぐらいの大きさ。てっぺんに天使のわっかが光るきれいな黒髪。それがふわりとなびいて、白い肌《はだ》が見えた。女の子の生首《なまくび》、と思った。
髪の毛の下から現れたのは色とつやだけ女の子の肌、でも耳も鼻もなく、ただひとつ光る目とセミのおなかみたいに節くれだった腹と、数えるのもいやなほどたくさんの小さな指がざあっと動きながら――まっすぐわたしを向いた。
「――ひいっ!」
堤ちゃんが悲鳴を上げた。
それは水中の魚のように髪の毛をくねらせて浮かびあがった。ぶざまで遅い飛び方だったけど、それを笑っている余裕なんかなかった。
全身が総毛立《そうけだ》った。
「いやあーっ!」
わたしは絶叫しながらシートから転げ出て、後ろにむかって這《は》った。男子たちが腰を浮かせる。
「お客さん?」
バス運転手がやけにのんびり聞いた。怒鳴りつけてやりたかった。
「この毛生《けは》えゼミ――」
女の子の声だった。振り向くと、空中をもがきながら飛んできた毛生えゼミの前に、高槻が立ちはだかっていた。右手を思いっきり後ろに引いている。彼女はバレー部だ。
「死ねっ!」
サーブ一発。そいつは吹っ飛んだ。角度が変だった。鉄のポールにぶつかって、逆にこっちに飛んできた。わたしの背中でぽこんとはね、空中で体勢を整える。
「ちょっとあなたたち、静かになさいよ」
前の席のおばさんが振り返った。目が悪いのか、眼鏡《めがね》を上げたり下げたりしてこっちをじっと見る。遊んでるとでも思われたんだろうか。
突然、木下が腹に力の入った声で叫んだ。
「おい、運転手! 止めろ、今すぐバス止めろ!」
同時に、霧岡が立ち上がった。いやに冷静な顔で、読んでいた本を投げつける。ハードカバーの全集本だ。
ゴツッと角が当たった音がした。宙に浮いていたそいつは、ごろごろ転がって、おばさんの足元あたりまで行った。
「あらあらあら」
何を考えているのか、おばさんはすっとんきょうな動作で、椅子から足を伸ばしてそいつを蹴飛《けと》ばしてしまった。そいつはさらに前まで吹っ飛ぶ。
「運転手さん! カラス、カラスが入ってきたわよ!」
おばさんの目が悪くてよかった。
「止めろ! 早く!」「お願い止めて下さい!」「逃げないと危ないよう!」
わたしたちがいっせいに叫んだので、さすがに面食らったらしい。運転手が、「止めろって言われてもねえ」と言いながら振り向いた。
そいつは、あるていど誰でもよかったんじゃないだろうか。
毛生えゼミは運転手の顔にくっついた。くぐもった悲鳴を運転手が上げる。鈍重《どんじゅう》そうな体のどこにそんな力があったのか、セミはぴったりくっついたまま離れない。
半《なか》ば振り向いたまま、運転手が腕を振り回してそれをもぎ離そうとする。長く思えたけど数秒だろう。手がだらりと下がった。そのまま料金箱の上にのめりかけるのを、シートベルトが支えた。
しがみついていたのが嘘《うそ》のように、毛生えゼミはぽろりとはがれて、運転手の足元の方に落ちていった。運転手の顔が見える。
車って、いじらなければ直進するものなんだ。
二つ先の信号で止まっていたダンプに突っこむまで、バスはまっすぐ走った。
セカンドだったから、と車好きの松尾が言った。
「エンブレで、けっこう減速してたんだよ」
その説明もほとんど聞こえなかった。ボックスには武藤が絶唱する尾崎豊《おざきゆたか》がわんわん反響していた。
エンジンブレーキがかかっていなければ、追突まで十秒もかからなかっただろうし、その間に体を丸めたわたしたちが、全員無傷で助かることもなかっただろう。
それでも、運転手はぺっちゃんこになって死んだ。
いや、本当は違う。違うんだけど、運転手は事故死ということになった。
警察が来たとき、わたしたちは全員で言い張った。鳥が入ってきて、運転手にまとわりついた。運転手はそいつを振り払おうとしていて、前方不注意になった。
他の乗客も、賛成してくれた。特に例のおばさんは、わたしたちの主張をより強化して展開してくれた。ええ、カラスが運転手さんに襲いかかったんです。カラスって凶暴なのねえ、もちろん、私は見ていただけですよ。なんにもできなかったんですから。なんにも。
嘘でも、ありがたい。
わたしたちは無罪放免。それどころか、駆けつけたバス会社の人から、後でお詫《わ》びします、とまで言われた。
でも、喜べなかった。
警察官の前で、わたしたちケガなかったから、ハゲっすねー、と鈴鹿が一発やらかしたけど、突っ込む気力もなかった。そのまま全員が、ノリの悪い木下さえもが、「はっぴーソング」に流れた。だっさい名前だよねこれだから田舎のカラオケ屋は、といういつもの罵倒《ばとう》すら、漏《も》れなかった。それでも、多少は正解だった。
武藤のがなる妙にコブシのきいた「卒業」が、ちょっぴりだけ忘れさせてくれる。
あの運転手の顔を。麻薬かなにかで壊されたような、すごく幸福そうな顔だった。
あんな死に方だけはしたくない。
最後のフレーズを武藤が歌い終わった。イラついた手つきでリモコンを握った成田が、速攻で後奏《こうそう》カット。
「ハルマゲドン級の音痴《おんち》だなムントー。五キロ四方死滅すんぜ」
「うるせえてめえ尾崎をバカにすんのか、尾崎はいいぞ」
「おー尾崎はいいよね! あたし尾崎好きだな!」
玉手がいちいち語尾にパワーこめながらうなずいている。よく見たら、成田と一緒にラガー持ってる。いま補導が入ったら瞬殺で退学だな。
堤ちゃんが止めに入る。
「ちょっと成田くん、お酒だめ」
「っだ麻弥《まや》はいつもいいコだな! 飲むか? おまえも飲むか?」
「やだ、ちょっと!」
堤ちゃんが手を振ったら、ビールが倒れてテーブルにあふれた。
〈選曲してください〉のスーパーが映る青い画面の前に、しんとした空間ができた。
みんなそうなんだ。あれが忘れられないんだ。
「シューベルトはないのかな」
くそ真面目《まじめ》な顔でリストをめくりながら、霧岡が言った。鉄壁のマイペースだ。
「ドイツ歌曲歌う場所じゃないでしょ! 鈴鹿、林檎《りんご》!」
「いえー! 一番鈴鹿、椎名《しいな》林檎いきます!」
鈴鹿にリストを奪われた霧岡は、わたしの隣に移ってきた。鈴鹿がターボかかったソプラノで、「本能」を歌い出す。
「あんた、本気でシューベルト歌う気だったの?」
「『ます』なんか明るくていいと思ったんだけど」
「……確かに笑いは取れそう」
わたしはコーラをあおった。霧岡は、なんと玉手が置いたラガーを、一息で飲《の》み干《ほ》してしまった。
「おまえもヤケ酒か。おれにもくれ」
反対側に木下が来た。霧岡がバタピーとラガーを差し出す。木下はやっぱり一気に飲む。
わたしをまたいでやるな。男二人だと、暑いし狭い。
「七時のニュースだよな」
「……木下も見たのか」
「え、なに?」
「フロントのテレビ。みんなで金払ってる時、ニュースやってただろ」
「知らない」
「さっきの事故、報道されてた。まだ片付けてないバスをバックに女子アナがしゃべっててな。その後ろを、あの毛生えゼミが飛んで行った」
「……え?」
しばらく意味がわからずに、わたしは二人の顔を交互に見た。木下が叫んだ。
「あいつ、グチャグチャになったバスの一番前にいたんだぞ。運転手は死んだ。なのにあいつは死ななかったんだ。あの衝突でも死なないんだぞ!」
いつのまにか、鈴鹿が黙っていた。看護婦がガラスを蹴破っている。
「そんなやつを、おれたちは相手しなきゃいけないんだ」
木下は、怒った顔で低く言った。わたしは、なんだかよくわからない感銘《かんめい》を覚えた。
みんなが静かにこっちを見ていることに気付く。お通夜《つや》じゃないんだぞ。
「鈴鹿、鈴鹿!」
「ふえ?」
「歌いなさい! 曲、終わってないでしょ!」
セカンドマイクをつかんで、無理やりメロディーを追っかけた。
「ほら、ハモって!」
「でもこれ、デュエットじゃないけど……」
「級長命令だ! 歌え!」
「あ、あいあいさー!」
スイッチが元に戻ったらしい。ほんとにガラスを割りそうな超ソプラノで、鈴鹿が歌い始めた。
今夜は徹カラだな。
結局、明け方みんなぼろぼろになって解散した。
無断外泊だけど、みんな気にしてないみたいだった。わたしは一人暮らしだから問題ない。堤ちゃんは家族が気にするほうだから、わたしが連絡してうちに泊めたことにしといた。こういうとき、日頃の行いがいいと信用がある。級長やっててよかった、と初めて思った。高校の級長なんて、要するに三十四人の尻ぬぐいだもの。
いったんアパートに戻ってから、自転車こいで学校に行った。教室に入ると、もうほとんどの子が来ていた。驚いたことに、朝まで一緒だった十四人が残らず来ている。一人ぐらいはぶっちするかと思ったのに。
異様な空気が教室に満ちている。残りの二十人も、昨日のことを聞いたらしかった。
口にするべきかなと考えていたら、いきなり竜巳風先生が入って来た。まだ一時間目まで十分もあるのに。
入るなり先生は、足を止めて鼻を動かした。じろっと教室を見まわしてから、ずかずか教師用の机に近寄って、どかんとお尻を乗せる。そしていきなりコートのポケットから煙草《たばこ》を出して、吸い始めた。
あまりといえばあんまりなので、わたしは席を立ってそばまで行った。
「先生、ここで吸っていいんですか」
「生徒が酒飲んでいいのか」
「え」
「気付かねえと思ったのか、ガキ。ひいふうみい……十五人も酔っぱらいがガン首そろえて臭《くさ》い息まきちらしてりゃ、鼻がなくてもわかるわ。特にそこの、玉手か。うみうしみたいな真っ青なツラぶら下げてんじゃねえ。こっちまで吐き気がする」
それは気付かなかった。わたしは絶句した。まずい、反省文、いや停学かな?
先生は、机を見まわして、灰皿がなかったものだからペン立てをぶちまけて、その中にとんとん灰を落とした。それからわたしを見る。
「ま、おれは誰が酒飲もうがヤニ吸おうが、気にしない人間だが」
あれ……ひょっとしたらこれは、気配りなのか?
さすがに毒気を抜かれて立ちすくんでいるわたしの前で、先生はたっぷり一本、フィルターまで吸い尽《つ》くしてから、おもむろに立ち上がった。
「もう、全員聞いたな。――昨日、木更津《きさらづ》たちが、ネイバーに襲われた。そいつらがハタ迷惑なアルコールの匂《にお》いまき散らしてやがんのは、びびっちまったからだ」
「先生、知ってたんですか?」
「たりめーだトンマ。俺は昨日、正義の味方よろしく、ずっとあとつけてたんだぞ」
「あ、やっぱりスか?」
松尾が言った。
「なんかついてくるバイクがいると思ってたんだよなあ」
「どうして」
「お守《も》りに決まってんだろうが。はぐれたブルネットの音がずっと聞こえてたからな。思った通り、仕掛けて来たろ」
「じゃなくて!」
わたしは、叫んだ。
「どうしてあらかじめ言っておいてくれなかったんですか!」
聞いていれば、あの運転手が死ぬこともなかったかもしれないのに。
「一度でかい一発を食らわせてやらねえと、おまえら信じねえだろうが」
冷たく先生は切り返した。
「言っとくが、昨日のブルネットは例外だ。たまたまはぐれてあのへんをうろついてただけで、本当ならダース単位で来る」
先生は、教卓まで出て、両手をついた。
「ニュース見たやつもいるだろう。まかり間違えば人死にが出る。そういう相手だ。しっかり認識しろ。最初に言ったが、逃げることはできん。てめえらみんな一蓮托生《いちれんたくしょう》だ。自力で敵を倒せ。それもなるべく手際《てぎわ》よく。さもなければ、ヨダレを垂らしながら幸せな死《し》に様《ざま》をさらすことになる」
先生は、裁判官みたいな目でみんなをにらみつけた。
「――腹くくれ」
「なんであたしらがそんなことしなきゃいけないんだよ! あんた、もっと仲間連れて来て守れよ。警察とか呼んでこいよ!」
伊万里《いまり》が叫んだ。堤ちゃんがはっと視線を動かし、それを捉《とら》えたように先生が言った。
「動かねえよ、警察も自衛隊も。連中には対処する力がねえんだ」
「だったらなおさら、あたしらだけじゃ話にならねえだろ。第一信じられねえって!」
「そうだよな」「大体そんなことしてる暇ねえっての」「まるきしファンタジーだよね」「受験生にやらせるなよ」「一方的にさあ」
ざわつく教室を、先生はじっと見ている。かすかにあごが動いていた。歯ぎしり。
「木更津」
「え?」
「おまえだおまえ。生意気そうなツラの」
「わたし、如月です」
「そりゃどういう字だ、名札でもつけろ。おまえ、級長だろ」
「……はい」
「決《けつ》とれ」
「決って……投票で決めろっていうんですか」
はっとあることが胸をついた。思わずわたしは叫んでた。
「多数決で決めることじゃないと思いまず!」
「やる気のないイモムシどもばかりじゃ助からんぞ。決まりを作ればそいつらも動くだろうが――」
ん、と先生は言った。
「ああそうか、おまえが反対するのも無理はないな」
「先生」
がたん、と椅子を鳴らして霧岡が立ち上がった。
「無理に決まりを作っても、それこそやる気のない人間は動きません。何かやるなら自由参加でいいでしょう」
先生は霧岡をじっと見た。霧岡は無表情に見返す。この二人は、わかってるんだ。
意外な方面から声がかかった。
「おれも投票反対。押しつけられるのはごめんだ」
木下だった。こいつも?
先生はじろじろ二人を見ていたけど、ふん、と鼻を鳴らした。
「まあいい。――六時間目がホームルームだったな。死にたくねえやつはクラブハウスに集まれ」
それだけ言うと、先生は出て行った。教室の雰囲気が、徐々にほぐれる。
わたしは木下のところに駆けよって聞いた。
「ちょっと……あんたわかってるの?」
「なにが」
「なにがって……」
「なんだかわからねえけど、霧岡が言ったから賛成した」
人を食った顔で木下は言った。
「あのクソ教師の言い出す方法よりマシだと思ったからな」
「じゃ、六時間目行かないの?」
「いや、行く。おれの知らんところで陰謀《いんぼう》が進むのは許せん」
わけわかんない。こいつの判断の基準って、いったいなに?
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「オウそれだけか」
ブロック造り二階建てのクラブハウスの前にうんこ座りして、ぶかーっと煙草《たばこ》を吹かしながら、竜巳風《たつみかぜ》先生がわたしをぎろっとにらんだ。
「ひいふうみい、これだけか?」
「すみません」
足がすくんだ。この人の視線には、物理的な圧力が感じられる。
「てめえが謝《あやま》ることじゃねえだろ。級長だろうが、もっといばれ」
「いばる仕事じゃないんですけど」
「殴《なぐ》ってでもつれて来りゃよかったんだ」
ぶはーっ、と煙を吐き出す。
「ったくわかってねえ小僧どもだ。自分の命が秤《はかり》の上乗ってるってのに」
わたしを含めて十八人。それが、ここへ来た人数だった。昨日《きのう》のメンバーと、あと何人か。誰かが授業をすっぽかすのは別に珍しくもないけれど、今回は大規模だった。
「あのウータンみてえな毛色のやつも来てねえな」
成田と武藤《むとう》、それに堤《つつみ》ちゃんも来ていなかった。それが、ちょっとショックだった。木下、霧岡《きりおか》、松尾、高槻《たかつき》、玉手《たまて》、鈴鹿《すずか》、そのへんはちゃんと来た。
「まあいい。――少なくともここへ来た以上、おまえらはやる気があるわけだ」
「言っとくけどな、おい」
木下が一歩前に出た。寝不足のせいもあるけど、ものすごい凶相《きょうそう》だ。
「てめえの手下になるつもりはねえからな。やり方盗んだら、それっきりだ」
「上等だ、このウド」
先生は、凄《すご》い笑みを浮かべると、煙草を地面に捨てて、火も消さずに立ち上がった。
「盗めるもんなら盗んでみやがれ。それこそこっちの望むところだ。ぴゃーすか泣いても蹴《け》り入れるだけだかんな。ママゴト気分なら張ったおすぞ」
「ハッタリ並べ立ててんじゃねえよ。とっとと始めろくそティーチャー」
のっけからなんだかすごいやり取りだ。わたしたちみんな口も挟めない。ふん、と口の端を歪《ゆが》めると、先生はクラブハウスの中に入って行った。
簡単に言うと、このクラブハウスは、ウナギの寝床だ。細長い建物の中を、廊下が一本|貫《つらぬ》いている。その左右に、八部屋ずつ部室がある。一階で十六室、二階まで合わせると、全部で三十二室。階段は両端にひとつずつ、中央にひとつの、計みっつ。
「一度しか言わねえからよく聞け」
先生は、一階中央の階段前に立った。まだ授業中だから、人影はない。
「これからやるのは、要するに演習だ。建物の中に入って来たネイバーを、集団でいかにして倒すか。それをおまえらに叩《たた》きこむ」
先生は、手で周《まわ》りを示した。
「やつらはたいてい群れで来る。開《ひら》けたところで戦ったら勝ち目はねえ。一気に押《お》し潰《つぶ》されて、それで終わりだ。また、一人で戦っても結果は同じ。狭いところに引きずりこんで、よってたかってタコ殴りにする。それが基本だ」
「戦い戦いって、やっぱりなんか軍隊みたいだ」
二年間ずっと走ってたせいで、天然の日焼けなのにガングロとよく間違えられる、女子陸上部の尾原祥子《おばらしょうこ》が、ぽつりと言った。
それを聞くと、先生はくだらなさそうにうなずいた。
「みたいじゃなくてそうなんだよ。こいつは戦争だ。何回言ったらわかるんだ、いいかげん飲みこめ」
「戦争……やだな」
鈴鹿がぽつりと言った。
「だったら逃げろ。網走《あばしり》か鹿児島《かごしま》行け。それでもおまえの個人的な情報はやつらに握られたままだ。運悪く見つかったら、一人のところをぱくっとやられるぞ」
「……なんとかならないの?」
「今のところならん。あきらめて従うんだな」
先生は、十八人の顔を見渡した。みんな、とりあえず静かになる。
「この中で一番目立つのが、絹崎《きぬざき》だ」
「あの、如月《きさらぎ》」
「いちいちうるせえな、名札つけろって言っただろうが。とにかく、如月だ。やつらにはでっかい灯台が突っ立ってるように見える。だから、それに向かって羽虫《はむし》みてえにやってくる。よって、如月を最終防衛地点にして、その周りに網を張る。敵が懐《ふところ》に入ってきたら、全員で飛び出して袋叩《ふくろだた》きにする」
「倒せんのかよ」
木下が言った。
「昨日の毛生《けは》えゼミ、ブルネットつったか。あれバスがぶつかっても死ななかったぞ」
「ふん、つまんねえところに気付きやがる」
先生は、つぶやいた。ののしるかと思ったら、意外に静かに言った。
「普通に殴っても倒せねえ。如月なら、まあダメージは与えられる」
「なんだそれ」
「どうせわからねえだろうが一応説明してやる。ネイバーは違う世界のモノだから直接こっちに出てくることはできん。だから、そこらへんにある物質を構体《こうたい》として形を取る。最初のクラッドは机から湧《わ》いて出たろう。組織化って呼んでるが、モノに乗り移ると思っていい」
なんとかわかるような気がする。
「乗り移る際には、まじないで物質がばらばらにならないように固める。このまじないは、前にも言ったが、普通の人間には感じられん。だから、おまえらは相手を倒すことができない。倒すには同じまじないをぶつけて相手のまじないを乱さんといかんのだ。――わかるか?」
「まじないって、魔法なんですか?」
霧岡が聞いた。先生は自分でも理解していないような顔で、眉根《まゆね》を寄せて答えた。
「魔法じゃねえ、まじないってのはたとえだ。ええとだな、この世界の物質だって波動でできているだろう。物質の基本となる素粒子《そりゅうし》……なんて言ったか」
「フェルミオン。六種のクォークからなります」
「それに、力の基本になる素粒子」
「フォトン、グラビトン、グルーオン、ウィークボゾン。四種のゲージ粒子です」
「それら全部にスピンっていう波動の要素があるだろう。それをネイバーは、別の世界の法則で置《お》き換《か》えちまうんだ。よくわからんからまじないって言っただけだ。しかし詳《くわ》しいなおまえ」
「基本ですが」
「鼻の穴おっぴろげて得意がるんじゃねえ」
先生は口をひん曲げた。霧岡がなおも聞く。
「如月だけが攻撃できるというのは」
「こいつが半分やつらと交《ま》ざっちまったっていうことは言っただろう。如月はいま普通の人類のメスに見えるが、体の材料は境階波《きょうかいは》で法則されたあっちの存在だ。だからやつらの境階波が聞こえるし、やつらを殴ることもできる」
「わけわかんねえよ! フカシこいてんじゃねえか?」
木下がわめいた。わたしもみんなも同じ気持ちだ。わかる霧岡がどうかしている。
「わからんでもいい。とにかく、おまえらはそのままじゃやつらを倒せん」
「じゃあどうやって戦うんスか?」
松尾が言った。
「倒せないんなら、演習だの作戦だの言っても無意味じゃないスか」
「方法はある」
先生は、わたしの頭に手を置いた。背が高いからって、無礼な人だ。
「音叉《おんさ》って知ってるか、こざるども。音叉は、ふたつ並べて片方を叩くと、もう片方も振動を始める。共振現象ってやつだ。その原理を使う。――如月、オレの音聞こえるか。肉声じゃない」
同時に、低いうなりが聞こえた。信号待ちしている車のエンジン音みたいな、太い一定の振動。先生が自分の波動を露出したんだろう。
「聞こえます」
「よし、耳は開いてるな」
すぐに音は消える。
「じゃ、そいつに触《さわ》れ。ケツでもちちでもいい」
「あたし?」
鈴鹿がきょとんとする。わたしは叫ぶ。
「なんでそんなとこ!」
「うむ、確かに触りがいのないちちだ。――いや、いいからどこでも触れ」
わたしは、鈴鹿のほっぺたに手を伸ばした。憎たらしいぐらいの赤ちゃん肌《はだ》だ。
すると、目の前の鈴鹿から、風にそよぐ木の葉のようなささやきが感じられるようになった。
「聞こえる……聞こえます! いま、この子が音出してる!」
「長ければ長いほど強く共振する。もういい。音源が増えるとまずい」
わたしは手を放した。ゆっくりと、さわさわという鈴鹿の音が小さくなっていった。
「自発的に振動しているわけじゃねえから、時間が経《た》つと消える。だが、殴りあいする間だけなら十分だ。わかっただろう。戦闘直前にこいつに触れて共振しておけば、おまえらでもやつらに一発かますことができるんだ」
みんなは不審そうな顔している。それはそうだろう。見た目、何も変わらないんだから。
でもわたしにはわかった。確かに、先生の言った方法は有効みたいだ。
「嘘《うそ》じゃないわ。先生の言う通りになってる」
みんな一応うなずいたけど、本当に納得しているかどうか。
「次は、武器だ」
先生は、後ろに置いてあった箱を目で示した。
白銀色《はくぎんしょく》のバトンのようなものが入っていた。先生がそれを一本出して、放り投げる。
受け取った。重い。中空で長さは三十センチぐらい。白っぽくくすんだ銀色。形は本当にリレーのバトンそっくりだけど、金属だ。後ろのみんなに回す。
「なにこれ」「鉄のバトン?」「トレーニング用とか」「鉄じゃないよ。もっと重い」
「名前はバトンで構わん。剣とかナイフみたいなもんを期待しただろうが、その材質と形でなけりゃ、振動を敵に伝播《でんぱ》できんのだ。材質はプラチナだが、パチんなよ」
「これプラチナなんですか!」
「だから目の色変えるなおめーらは。プラチナとあと希土《きど》類だ」
先生は、ひとつを手にとって指先でくるくる回しながら言った。
「如月がクラッドをぶっ殺せたのは、こいつの振動強度だからできた芸だ。おまえらには、これがいる」
「これで、ネイバーを叩っ殺せばいいのか?」
「そうもいかん」
先生は、腕組みした。
「これも最初に言ったが、やつらを下手《へた》に殺すと、それまでに得た情報を飛び散らせちまう。それを拾ってあとから仲間が来るからきりがない。だから、おまえらはこれでやつらを威嚇《いかく》するだけだ。バトンを使ってやつらを牽制《けんせい》、オレのところへ追い込め」
「そのあとは」
「オレが還元《かんげん》する。ギャザラーを使えば如月にもできるが、慣れんと無理だ。ああ、うまく境階波を中和して静かに殺すことを還元って呼ぶんだが」
「なんかやれそうな気がしてきたなあ」
松尾がのんきに言って、ためつすがめつバトンを眺めた。わたしはふと気付いた。
「だったら――最初っから先生があいつらに向かってくれればいいじゃないですか」
「オレ一人で何ダースものネイバーの相手ができるか。それに目標はおまえら全員なんだ。おまえ、天井に十も二十も穴がある家で、手で雨漏《あまも》りふさげるか?」
「……無理ですね」
「だろ。それよりは皿を並べて雨をためてから便所に捨てたほうがいい。てめえらが皿、如月が便所だ。おれが最後に流してやる!」
なんて下品なたとえだろ。
「ようし、説明はこれで終わりだ! 如月、二階の一番奥に行け。他はその辺に勝手に隠れろ。相談でもなんでも好きにしろ。部室のカギは全部開けてある。最初はオレがまずひとりで敵役やる」
「作戦は?」
「作戦はてめえら自身でまとめろ。オレが四の五の言うよりそのほうが覚えが早い。まず負けろ。それから考えろ」
「なんだおい、あんたを殴ってもいいのか」
「できるもんならな。殺す気でかかってこい」
「おもしれえ、それならやり甲斐《がい》あるわ」
木下がバトンを振り回す。他のみんなも、おずおずとバトンを手に取った。
「外を一周してくるからその間に態勢整えろ。漏らしそうなやつは便所行っとけ。五分たったら殴りこみかけてやるから、気合入れて迎撃《げいげき》しろよ!」
今までとは全然違う毎日になった。
先生は他の授業をかたっぱしからキャンセルして、この障害物競走みたいな授業を一時間でも多くやろうとする。職員室で他の先生に聞いてみたら、教育委員会に言われてるから口を出せない、と言われた。教育委員会にコネがあるなんて何者?
演習をやっている間は、すっぽかし組の子たちはやることがない。何をやっているのかと教室をのぞいたら、意外にも勉強してる子が結構いた。
組み合わせは、毎回少しずつ変動した。興味を持って参加してくる子、いやになってぶっちする子。
途中参加の子には、わたしがオリエンテーションした。
「わたしたちが何をやっているかって言うと」
今回のゴールは、クラブハウス二階中央、バドミントン部の部室。そこで、わたしは新しく参加した石坂圭《いしざかけい》くんと小塚《こづか》さんに、説明していた。
「要するに、陣地取りなの。突入してくるネイバー役の先生を、うまく誘導してダミーゴールまで追いこんだら勝ち。この部屋まで来られたら負け」
「ダミーゴールって?」
リスのように目をくるくるさせて、小塚さんが見上げる。この子大丈夫かな。先生がげたげた笑いながら突っこんで来たら、腰抜かしちゃうんじゃないだろうか。
「本当なら、先生が隠れてる部屋。今は西の隅《すみ》の陸上部の部室がそれってことにしてある。わたしからなるべく離しておかないと、なんかのはずみでここに来るといけないから」
「他のみんなは?」
「あちこちの部室に隠れて、先生がこっちへ来そうになったら襲いかかる手筈《てはず》なの。大体二人一組でね。あなたたちは初めてだから、わたしのそば。見学ってとこだね」
「じゃ、ここが一番安全なのね」
小塚さんはほっとうなずく。石坂くんは無言だ。口数が少ない男子って、頼もしく見える。
でも、安全かどうか。
今まで四十回以上演習をやってきたけど、わたしたちは一度も勝てなかったのだ。
先生は素手《すで》で、こっちのバトンしか狙《ねら》ってこない。バトンをはねとばされたらその子は負け。逆にわたしたちは、バトンがちょっとでも先生の体に触ったら、撃退したということになって、先生が逃げ出すという取り決めだった。
それを十数人がかりでやるんだから、圧倒的にこっちが有利なルールだ。
なのに、一度も勝てない。
まず、今のフォーメーションに決まるまで、八回こてんぱんにされた。
最初の三回は、作戦もなにもなかった。みんなが勝手にその辺に隠れて、先生が近寄ってきたら飛びかかる、という方法だった。考えてみればひどいやり方で、一対一でやられちゃう子もいれば、一度も会わない子もいて、偏《かたよ》っているのが丸わかりだった。木下は、いの一番に殴りかかって、二秒でやられた。
それでは全然だめだとわかったから、四回目からはやり方を変えた。みんなで相談して、一応陣形みたいなものを考えたのだ。わたしが一番奥に隠れる。みんなは二手《ふたて》に分かれて、建物の西と東に固まる。作戦を立てた、というだけで勝てそうな気がした。
とんでもなかった。
四回目、東の班が物音に気付いてそっちに向かったら、モップとドアを利用した音を立てる仕掛けがあっただけで、手隙《てすき》になったところから入られて負けた。
作戦変更。持ち場を決めて動かないことにする。気配がしたらまず一人偵察を出す。
五回目、偵察に出ていった子が一人ずつやられて、そして誰もいなくなった。
作戦変更、偵察は常《つね》に二人。その他の班も、常に二人以上で戦う。
六回目、二人がかりでも先生一人が撃退できない。主《おも》に女の子が、すくんじゃって攻撃できないのが原因。
作戦変更、偵察係から女子を外す。
七回目、男子の偵察係がまかれているうちに、女子が固まっていたところを狙われて戦力半減、一気に抜かれて負け。
作戦変更、逆に男女ペアで二人一組を作る。女の子はサポートに徹する。それから、今までの経験で一か所に集めすぎると他に穴ができるから、一気につぶされない程度の小さい班をいくつか作ってあちこちに置くことにした。
八回目。かなりいいところまでいった。みんなかなり飲みこんできたし、殴ったりよけたりの(さすがに先生も女子は殴らないけど)呼吸がわかってきたから。
この時は先生をダミーゴール間近まで追いこんだ。ただ、そのすぐそばにわたしがいたせいで、発見されて捕まってしまった。
八回目が終わった時には、外が暗くなってきていた。六時間目なんかとうに終わっているのに、ずっと続けさせられたのだ。まさか先生が全部の部活を休ませてクラブハウスを空《あ》けていたとは思わなかった。
慣れないドタバタのせいで疲れきったみんなをホールに集めて、先生が言った。
「どうだ、初歩の初歩ぐらいはわかってきたか」
息も切らせていない。四時間以上も十八人を相手に駆けずり回ったっていうのに。どういう体の作りをしているんだろう。
ぐったりしてるみんなの中で、木下が悔《くや》しそうに先生を見上げて言った。
「馬鹿にしやがって……笑えよ。おれら総掛かりでてめえひとり倒せないんだ」
「別に笑っちゃいねえ」
意外にも、先生は真面目《まじめ》な顔で言った。
「これでも驚いてる。確かにおまえらは動きもトロいし腰もすわってねえし連携《れんけい》もなってねえし、このままじゃそれこそリム三匹の群れにも勝てやしねえが……」
しゃがんで、座り込んでいるみんなを見回す。
「上達の方向は合ってんだよ。今時の高校生にしちゃ見上げたもんだ」
「方向というと?」
体力がないもんだから息を切らせている霧岡が、平静をつくろって聞いた。
「たとえばだ。如月を囲んで、おまえら全員で一か所に固まったらどうだ?」
みんなが顔を上げた。
「如月本人を抜いても、十七人がかりでオレの相手ができるだろう。不意をつかれることもねえ。そうしたらいいだろう」
「そっか……」「それいいんじゃねえか」
「ちょっと待ってよ、それもう考えただろ」
松尾が言った。
「おれら全員固まってたら、それこそ、ここにいますって教えてるようなもんだって、五回目ぐらいで誰かが言ったじゃん」
「うむ、その通りだ」
先生が、うなずいた。なんだか悔しそうだ。
「そうなったら如月の位置もわかって、こっちとしても楽だったんだが……気づいてやがったか」
「あ、それならさ。いっそ全員でどっかに固まって囮《おとり》になったらいいんじゃない?」
「バーカ、したら誰が先生追いこむんだよ」
「それに如月守る人間いないじゃん」
やりあうみんなを、先生が見回す。
「今の回で、野球部室と模型部室の班、妙に連携|効《き》いてたな。ありゃどうやった」
「あー、それわたしー。携帯使ったの」
「うちらと連絡取って、先生|挟《はさ》み撃《う》ちにしたのさ。あれよかったでしょ」
鈴鹿に答えて、高槻が変なガイコツのストラップがついた携帯をぶらぶら振った。
先生は立ち上がった。口をへの字にしている。高槻がちょっと気後《きおく》れ気味に言った。
「……なんか、いけませんでした?」
「いや……そういう戦術があったか」
頭をぼりぼりかく。
「独力で戦時通信網編み出しやがったか。ちょっと聞くが、この中で携帯かPHS持ってるやつ」
ほとんど全員が手を上げる。玉手が言った。
「このへん田舎《いなか》だから、ピッチなんて持ってるやつはいないよ。みんな携帯」
「っだよまったく……最近の高校生ってのは一体何様だ。一人一個か? 大戦中の日本軍より豪華装備じゃねえか。――まあいい。そいつはいただきだ。通信網築いて連携するのは戦術の基本だからな。ガンガン使え。ただし呼び出しはバイブにしとけよ」
「いいな、それ」「苗田《なえだ》たまに凄《すご》いよな」「えへへーそう? ほめてほめて!」
「うーし、反省会の済んだところで、今日はお開きだ。帰ってフロ入って死ぬまで寝とけ。明日もやるからな」
「おいセンコー遺書書いとけよ、明日こそぶっ殺してやるからな」
木下がドスの利《き》いた声で言った。先生は、にやにや笑った。
「やってみろ。ああそれからな、明日は楽しい趣向があるから、全員覚悟しとけ」
「なにそれ」
みんなが顔を見合わせた。
それで、今日は演習四日目だ。
バドミントン部の扉の内側で、へっぴり腰の小塚さんと石坂くんが並んでいる。
わたしはその後ろで、机の上に携帯を置いて、待機。
どこか遠くの方から、とりゃー、がらがらっ、馬鹿野郎! と物音が聞こえてくる。
かと思ったら、その反対側で、ガンガン何かを叩いているような音が聞こえた。反射的に小塚さんが振り向く。
「ふっ、二人いるの?」
「ううん、あれはチップ」
「チップ?」
「先生の手下なんだって。昨日から二匹出してきた。ころころして結構かわいいよ」
「そ、そうなの?」
声が裏返っている。わたしは、つとめて優しく声をかけた。
「小塚さん、肩の力、抜かなきゃ。大丈夫、滅多にケガしないから」
「う、うん」
うなずく。それから、ちょっと恥ずかしそうにわたしを見て言った。
「あの、呼び捨てでいいから」
彼女とは今までほとんど付き合いがなかった。こんなことでもなければ、卒業まで一度も話さなかったかもしれない。なんだかうれしくなって、わたしはうなずいた。
「わたしも、如月でいいから」
「そんな! 無理です」
「なんで?」
「だって……如月さん頭いいし、級長だし、かわいいし……」
「やめてよ照れるじゃん。なんだったら鈴鹿みたいにきーちゃんでもいいから」
「じゃ、如月ちゃん」
「うん。小塚ちゃん。いや、瞳《ひとみ》ちゃんのほうがかわいいな」
わたしがそう言うと、瞳ちゃんは真っ赤になってむこうを向いてしまった。なんか、すっごくかわいい。見習えよ、バカ鈴鹿。
などと思っていたら、石坂くんがクソまじめな顔でぽつりと言った。
「おれも、石坂でいい」
尺八の音が聞こえてきそうだ。なんかルパン三世の五右衛門《ごえもん》? 剣道部だし。
意外に近くからどたばたする音が聞こえて、わたしは気を引《ひ》き締《し》めた。
チップは、演習二日目に登場した。
二日目の朝、先生を料理する悪だくみをさんざんこらしてからクラブハウスに行ったら、それがいた。ハリネズミみたいな灰色の塊《かたまり》。大きさはドッジボールぐらい。
チップだ、と先生が言った。
それは、体中にびっしり生《は》えた針の長さをもにょもにょ調節して、形を変えた。あの、肉ガエルのようなクラッドの形だった。
みんなが凍りつくと、先生はげたげた笑いながら、びびんなおめーら、と言った。かみつきゃしねえ、これはただの人形だ。今日はこいつも交ぜて演習やるからな。
生き物だか機械だかわからないけど、それはとにかく、ころころと動き回ることができる何かだった。かわいかったけど、すぐにそんなことは言っていられなくなった。
たった一匹相手が増えただけなのに、今までの作戦がまったく通用しなくなった。わたしたちの防御網は、ティッシュみたいに突破された。音を立て、足元で邪魔をし、天井に潜《ひそ》み、先生と一緒に突撃してくるチップのおかげで、わたしたちは、複数になった敵がどれだけやっかいかということを骨身に知らされた。
昨日から、それがさらに一匹増えた。まだまだいるのかと聞いたら、それでおしまいだった。操《あやつ》るのに境階波を使うから、増やすと敵に感づかれる、というのだ。チップも一種のネイバーらしい。でも、たとえ二匹でもチップは十分やっかいだった。
四日目の今日。三派に分かれた相手が巻き起こすどんちゃん騒ぎが、クラブハウス中から聞こえてくる。
机の上の携帯がぶるぶるっと震えた。急いでそれを手に取る。
「はい、如月です!」
『玉手っす! こっち映研前だけど、逃げられちゃった! 東階段上にチップ一匹行ったから!』
「わかった!」
切ったとたんにまた鳴った。
「はい如月!」
『大森《おおもり》です。玄関前だけど、先生中に飛び込んじゃったよ!』
「中って、どっち行ったの?」
『わからないよ、もう見えない』
「次からちゃんと見ててね!」
長話をしているわけにはいかない。一度切って、東階段上の木下にかける。
『はいよ』
「もしもし木下? 下からチップ行ったよ!」
『マジかよ、ここもう一匹いるぞ?』
「え、それじゃ、そこに集中してるの? 一分持ちこたえて!」
通話を切って、中央階段の霧岡にかける。忙しいったらありゃしない。
『中央階段』
「霧岡? いま東階段で木下たちがチップニ匹相手してるから! 応援よろしく!」
『了解。――いや、報告!』
「もしもし?」
『チップが来た! 切るぞ』
「えー? 三匹目?」
通話が途切れる。こっちも切ったら、すぐにまた鳴った。
「はい如月――」
『上行ったやつが戻って来た! うちら突っ切って中央階段行っちゃったよ!』
「誰? ていうかどこ!」
『玉手玉手、映研前! さっき言ったやつだってば! チップ!』
「てことは……いま霧岡が相手してるの、それか!」
チップはとにかく動きが素早い。バトンで叩くと一時的に動きが鈍《にぶ》るけど、元気なときは、両翼合わせて六十メートルはあるクラブハウスを、ほんの十秒ぐらいで渡り切ってしまう。うまく囲んでボコってくれないと、すぐによそのエリアに行っちゃうから、位置がつかみづらいことこのうえない。
携帯が鳴った。
『霧岡。チップ一匹、還元成功』
「オッケ、お疲れさん!」
いきなり、廊下の外からどたどたがたんと音が聞こえた。木下の肉声。
「如月だめだ、気付いたぞ! 部屋の前にチップだ!」
「来たか。――石坂、瞳ちゃん、お願い」
言いながら、わたしもバトンを持つ。
鍵《かぎ》をかけていないアルミサッシが開いた。ぺたぺた、とクラッドの姿をした灰色のチップが入ってくる。
「えいえいえい!」
たちまち、二人と一匹の間でものすごいドタバタが繰《く》り広《ひろ》げられた。わたしは、少し下がってそれを見る。万が一飛びかかってきたら、場外ホームランにしてやる。廊下に叩き出せば、木下が駆けつけてダミーゴールの方に追っ払ってくれるだろう。
さあっ、と風が背中に当たった。
「……?」
チップから目を離しちゃいけない。そう思ってたけど、無意識に振り向こうとした。
ぽん、と頭に手が置かれた。
「ユー・ルーズ。四十五回目だな」
振り返ると、窓が開いて先生が立っていた。そういえば、大森の報告以来、音沙汰《おとさた》がなかった。しかし、二階の窓から来るか普通?
どっと力が抜けた。
結局、日暮れまでに十二回の演習をこなした。
みんな完全に息が上がってる。ホールにへたりこんだみんなに自販機で買ってきたジュースを配って回りながら、わたしは気付いたことを注意していった。
「松尾、前だけ見てると後ろ危ないよ。藤村《ふじむら》、上履《うわば》きのかかと上げなよ。あ、それから暮畑《くれはた》、調子悪かったら、携帯係に徹してたほうがいいかも」
「あー疲れた! いいわな如月は、待ってるだけでさあ」
高槻がぶしっとCCレモンを開けながら言った。わたしを見上げて笑っている。
わたしは笑い返そうとした。でも玉手の言葉でちょっと顔が引きつった。
「感謝してほしいよねー。うちらボランティアなんだからさ。これ、おごり?」
冗談だってわかってた。でも、うまく笑えなかった。ずっと心に引っ掛かってたことが、わたしののどをふさいで返事をできなくした。
「……えと、割りだよ。決まってるじゃん」
「あ、そう?」
ウーロン茶をぐいぐい飲んでから、玉手は周りを見回した。
「……あー、なに?」
「今のは言いっこなしじゃないかな、たま」
松尾が首筋をかきながら言った。
「ちょっと一線越えてた」
「……でも、ほんとじゃん」
「ほんとかもしれんけどさ。如月のこと、考えろよ」
「なにそれ、そんなにマズかった?」
玉手は、ちょっと険悪な顔でみんなを見回した。
「だって、みんなもそう思ってるでしょ?」
この子は――バンドなんかやっててノリよくて、女だけど男前でいい子なんだけど、時々こうやってミもフタもないことを言う。
予想以上に重い反応に驚いたみたいに、手を振って冗談にしようとした。
「てゆーか、冗談だって。悪かったんならあやまるし。ね、如月、ごめん」
「玉手、おれもそう思う」
「冗談のつもりじゃなかっただろ」
沢木と松尾の言葉がぶつかって、男子ふたりはぎょっとしたように顔を見合わせた。
「なに、そう思うって」
「だってそうだろ? なんでおれらがこんなことしなきゃいかんの?」
「そんな言い方ってないだろ。みんな一生懸命やってるんだからさ」
「言い方の問題じゃねーよ」
「だって沢木、人の気持ち考えてないよ」
「おまえどうなんだよ、自分ら何やってんだって思わねーの?」
「ちょっと、やめなよ」
「もともと納得いかなかったんだよ! こんなことやってどんな意味が」
「だからそれはちゃんと説明されたし!」
「なに高槻、あれ全部信じたの?」
「いまはさ、もうそんな段階じゃないよ!」
「苗田は? おまえ完全に納得してやってんの?」
「そうだよ、第一、授業どうすんだよ! おれらこんなことしてていいの?」
わたしは呆然《ぼうぜん》とした。まさか、みんながこんなに疑問を抱《かか》えていたなんて思わなかった。ダムが決壊したみたいだ。なんとかしなくちゃ。でも、わたしがここで何か言ったら、火に油を注ぐだけだ。自分の利益で言ってるとしか聞こえないだろう。
わたしは周りを見回した。先生は超然と言い争いを眺めてるだけで、口をつぐんだままだ。どうしたらいいのか見当もつかない。頭が痛い。心臓がどきどき鳴って口の中が乾く。
「うっせえぞコラ!」
突然、木下が叫んだ。立ち上がっている。
「ここまで来ていまさら何言ってんだ! 互いに助けあわねえと全員がやられるってわからねえのか? そういう前提で今まで作戦立ててきたんじゃねえのか! 敵は実際にいるしやられたら死ぬんだぞ!」
火炎放射するゴジラみたいな迫力だった。
「文句があったら黙って抜けりゃいいんだ。最初っから言われてるだろうが。ったくどいつもこいつも根性ねえこと言いやがって……」
みんな黙りこんでる。迫力もだけど、およそ木下らしくない筋の通った内容にびっくりしたんだろう。わたしも驚いた。心臓の鼓動はまだ治まってないし、余韻《よいん》のような頭痛がずっと続いている。
その時、先生がふと、振り向いてどこか遠くの方を見るような顔した。
「こいつは……」
クラブハウスの玄関から、誰かが入ってきた。白衣にロングヘア。那岐《なぎ》先生だ。
「休憩中? ちょうどいいわね」
「那岐」
「来たわよ。パッシブブイがスバイク境階波を感知。ネイバーの階梯《かいてい》同調音に間違いないわ。あなたのチップは」
「演習でさんざんぶっ叩いたから、もう実戦には使えん」
「ギャザラーもないわよね。来てよかったわ。如月さん、聞こえてるでしょ」
頭痛なんかじゃないって気がついた。これはネイバーたちが立てる音だ。切れない刃物でベニヤに穴をうがつような雑音。違う世界に無理やり体を押しこんでくる音。
「どう? 迎え撃てそう?」
「やらんわけにはいかんだろうが。この近さだ。今から逃げても間に合わん」
竜巳風先生は、わたしたちに振り向いた。みんながびくっと身をすくめる。
「本番だ。配置につけ。今の回のフォーメーションでいい」
「えっ、で、でも」
「脱出は認めん。出現位置が近い。誰か一人でも逃げたら、そいつが食われるうえに、敵の初期配置が乱れて対処しにくくなる」
今まで聞いたこともないような静かで落ち着いた声で、先生は言った。それが逆に、体が冷えるほど怖《こわ》かった。
「心配するな。チップよりずっとのろいはずだ。おまえらなら返《かえ》り討《う》ちにできる」
なんでそんな優しいこと言うの、と叫んでやりたかった。なんでいつもみたいにムカつく悪口を連打してこないの。そのほうがずっと気が楽になるのに。
「立て。バトン持て。さっきの通りにやればいい。チップを遊撃につけてやる。万が一のときはオレがサポートに行く」
青ざめた顔で、みんなが立ち上がった。もう誰ひとりとして文句を言わない。
那岐先生が、手にしたノートパソコンを開いて言った。
「同調音消滅……南西百五十メートルで組織化六体、でも二十体近くが失敗して消えたみたい。位置はかなり正確だけどザコよ。如月さんの境階波を捉《とら》えるまで八十秒と予想」
「確認するぞ。木下の一班は東階段上、松尾の二班は西階段上、霧岡の三班は中央階段、玉手の四班は一階映研、高槻の五班はサッカー部、如月がバドミントン部でオレが陸上部だ。新入り二人は如月の直衛」
「わかってる」
打席に立つ前みたいな顔で、木下がうなずく。
「通信は小声だ。悲鳴上げるな。自信のないやつはハンカチでもくわえてろ。照明は三分の一に落とすから、暗いところで目を慣らしとけ。それから……」
わたしの腕をぐいっとつかむ。
「集まれ。共振を始める」
集まってきたみんなが、わたしの手に手を重ねた。それは、たとえようもなで見たF1のスタートみたいだった。十八人が少しずつ異なったビブラートを強め始める。
「聞こえるよ……みんなが揺れてる」
それを正確に伝えることができたら、さっきの争いなんか忘れてもらえるのに。
那岐先生が、ぱたんとノートパソコンを閉じた。同時に、わたしの耳にはっきりとやつらの足音が聞こえ始めた。
「ネイバー歩行音確認! 多足歩行体、リムよ! 二百五十秒で到達するわ!」
「よし、もういいだろう。これで三十分はもつ。配置につけ」
みんなは互いに顔を見合わせると、三、四人ずつ固まって廊下の向こうに消えていった。わたしは、行こうとした木下の袖《そで》を捕まえて、早口で言った。
「さっきはありがと、助かった」
怒ったような顔で、木下はわたしをにらみつけた。
「関係ねえよ」
袖を振り払って、階段を上っていく。
「さ、お手並み拝見させてもらうわ」
那岐先生が、ぱちっとウインクしてわたしの背を叩いた。
これからのことは、後でみんなから聞いたことだ。でもわたしは、その間の境階波を実況中継みたいにつぶさに聞いていた。
「わかるでしょ。みんなのシグナル」
バトンを構えて身構えているわたしの後ろで、那岐先生が言う。
「一定の周波数のさらさら音がみんなの音。時々ぎちぎちいうのがリムの音」
「はい」
「でも、まだあなたの音が一番大きい。早く発振|制御《せいぎょ》ができるようになって」
敵はリム。姿はまだわからない。でも行動がわかる。薄暗いグラウンドの隅を横切ってきたそいつらが立ち止まった。それをチップが二手に誘導した。
携帯をかける。
「玉手? そっちに二つ行ったよ」
もう一回。
「高槻。そっちに三つ」
建物の両翼から、チップについて五匹来る。あと一匹は外でじっとしている。
一階東側の映研の部室に隠れて、玉手は薄く開けたドアから廊下をうかがっていた。
先生が言った通り、廊下の蛍光灯は消されている。ドアの隙間《すきま》から見えるのは、いくつもドアが並ぶ、薄暗く、非現実的な細長い通路。突き当たりには、非常口のパネルが緑色の光を放っている。
背中にみんなの呼吸音。息|抑《おさ》えて、と言いたいけど、その一言すら怖くて言えない。バトンを握る手に汗がにじむ。
振り返って、手振りでそれを伝える。岡《おか》がぐっと息を呑《の》む。もう一度廊下に目を移した時、ころころとチップが横切っていった。その後ろに、やつらが見えた。
非常口のパネルの下に、二つの影。
おかしな格好だ。でも、シンプル。楕円形《だえんけい》のがっしりした胴、対照的に細長い足。人間の腰から下向きに手を生やしたみたい。その手も二本じゃなくて、三本以上がからまりそうに伸びている。――犬とキリンを足して二で割ったみたいだな、と玉手は思う。
口だけを動かして、小さな小さな声で合図。
「来た」
二匹のリムは、様子をうかがうようにしばらく立ち止まってから、動き出した。
それが、速い! ひょこひょこ飛ぶようにして、あっというまに近づいてくる。玉手は硬直する。その目の前を、二匹は何も気付かずに駆け抜けた。
バレてない。ほんの少しだけど玉手の心に余裕が生まれる。それを支えに、玉手は思いっきりドアを引き開けた。ガラガラピシャーン! とサッシの轟音《ごうおん》。
「い、行くそー!」
廊下に飛び出る。あわてて残りの三人が続く。
少し先で立ち止まったリムが、よたよたと向きを変えた。
遠くで起こった物音に、一階西側の高槻たちはびくっと体を縮めた。
「……玉手たちの方かな?」
ドアの隙間からだと、あまりむこうの方は見えない。そろそろとサッシを引いて、高槻は東の方を見た。中央階段ホールのむこうで、数人が何かと戦っている。
振り向いて、みんなに聞こうとした。
「どうする? 手伝いに――」
ころころっ、とチップが横切り、あとの言葉が、瞬間的に脳から蒸発した。
廊下のほんの三メートル先に、犬キリンが立っていた。それも三つ。
「いやああ!」
その時、高槻が部屋の中に飛びこんでいたら、どうなっていたことか。真っ暗な中に三匹のリムが乱入してきて――考えたくもない。でも高槻は、何を間違えたのか廊下に飛び出して、中央ホールに行こうとした。そっちが明るかったから、というのが理由らしいけど。残りの三人の判断は、拍手ものだった。
とにかく高槻ひとりじゃ危ない。「必ず二人以上で動く」という鉄則に従って、尾原と藤村と沢木が廊下に飛び出した。それが、結果としてタックルになった。出たところで、高槻めがけて走り始めた三匹のリムとまともにぶつかった。ぐちゃぐちゃにからまった状態で、三人と三匹が廊下でもつれ合う。
あおむけに転んだ尾原の上に、一匹が馬乗りになった。そいつは動きを止めて、ひょいと足の一本を上げる。足の先は本物の人間の手のように指が生えていて、それが痴漢《ちかん》みたいに尾原のセーラー服のリボンを引っ張った。
尾原がすごいのは、悲鳴ひとつ上げなかったことだ。リムの攻撃を冷静に見ていただけじゃなく、どこが一番弱そうなのかまで見当をつけていた。折れ曲がった足の関節を、バトンで思いっきり叩く。
感電したみたいに体を硬直させて、そのリムは二メートルも飛びすさった。めいっぱい驚いたらしい。
「みんな、こいつ弱いよ! 膝《ひざ》を殴って!」
尾原の一言で、形勢が逆転した。
沢木と藤村が、ばしばしリムの足を殴りつけた。その時のリムの悲鳴をわたしははっきり聞いた。受けるはずのない反撃を受けて、おびえ切った悲鳴だった。
三匹のリムは、まとめて逃げ出した。尾原が自分の携帯をかけた。
「松尾? 一階西側だけど、三匹外に行った。そっちに上がるかも」
それから、へたりこんだままの高槻に、声をかける。
「高槻、大丈夫? ――どうしたの?」
「……自己嫌悪。腰抜けた」
「いいんじゃない、初めてだし」
平然と尾原は言った。
ずいぶん冷静に殴ってたねってあとで聞いたら、バトン、慣れてるから、だって。そういえば尾原は陸上部だった。この説得力。
外に出たその三匹は、建物の外のらせん階段を上がって二階西側に再突入してきたけど、十分心構えができていた松尾たちの班が待《ま》ち伏《ぶ》せを食らわせた。
東側で玉手たちが挑《いど》んだ二匹は、短い戦いの後であっさり逃走、中央階段からわたしめがけて上ってきた。満を持して待ち構えていた霧岡たちが、二階で迎え撃つ。
松尾たちには、下から上がってきた高槻の班がすぐに合流したらしいけど、その連絡を受ける間もなく、わたしがいたバドミントン部の前を、木下が漫画の主人公みたいに「オラオラオラオラーッ!」と雄叫《おたけ》びを上げながら駆け抜けた。中央階段の霧岡たちに加勢に行ったのだ。あの二匹、ちょっぴりかわいそう。
携帯のバイブがぶぶーっと鳴る。
「はい、如月」
『松尾です! いま三匹、先生のところに追いこんだから――』
パチパチと静電気のような音。うっしゃあ! と先生の声。
『やっつけたみたいだよ。あとは? あの霧岡たちのところ?』
建物の構造を急いで思い浮かべる。中央階段二階に三匹。霧岡の班に加えて破壊神木下が行ったから、そいつらがわたしたちのいる東側に抜けてくることはまずないだろう。階段下には玉手の班。松尾が西側の今の位置で封鎖《ふうさ》を続けてくれたら、もう出口はない。先生のいるダミーゴールは包囲網の真ん中だ。
「そこで待機して。すぐそっちに二匹行くから!」
『わかった。あ、来た!』
切れる。ほとんど全員対二匹だから、もう心配はないだろう。わたしはほっと肩の力を抜いた。
その時、那岐先生がふと振り向いた。わたしも廊下の方を見た。違和感を感じて。
からからとサッシが開いた。瞳ちゃんと石塚がなにげなくそっちを向く。
ひとまわり大きなリムが、片足を器用にサッシの取っ手にかけて突っ立っていた。非常ベルの赤いランプが気味の悪い色に染《そ》めている。
「よけて!」
那岐先生が猛烈な力でわたしの袖を引いた。ぼんやりしている瞳ちゃんと石坂の間をあっさりすり抜けたそいつが、わたしの立っていたところにすごい勢いで体当たりした。
体勢を崩しかけて、わたしは踏みとどまった。急ブレーキで停止したリムが、ばたばたと何本もの足を動かして振り返る。
二度目の体当たりは、本当にロケット弾みたいな勢いだった。よけるにはよけたけど、左手を引っかけられた。バシッと車にぶつけられたみたいな衝撃。じん! としびれが脳天まで突っ走った。
「あなたたちじゃだめよ、こいつ強いわ!」
ノートパソコンのキーを叩きながら、那岐先生が叫んだ。言われるまでもなく、瞳ちゃんは壁にへばりついている。反対に石坂は、腰を落としてバトンを構えた。
再び向きを変えたリムに、石坂が飛びかかった。
「三人とも逃げて! いま竜巳風を呼ぶから。LCM、ジャムソニックいくわよ!」
とたんに、頭を締めつけられるような痛みが襲った。あの、竜巳風先生がクラッドを倒した時の痛みだ。
「先生、これやめて!」
「我慢して。境階波と音波を妨害しなければ、あなたのことを放送される!」
頭を片手で押さえながら、わたしはリムを見た。そいつは、驚くほど機敏な動きで石坂の手からバトンを張り飛ばしたところだった。
石坂があとずさる。もう興味はない、というようにリムはこちらを向いた。
間近で見ると、本当に気味の悪いやつだ。表面はまさに人間の肌。男子の水泳選手の腰回りを思わせるがっしりした胴の下に、病的にやせ細った手、いや手の形をした足が五本も生えている。正面に、肉ガエルのクラッドによく似た目。口も鼻も耳もない。どんな生き物にも機械にも似ていない、別世界の存在。
「逃げて!」
逃げるもんか、と反射的にわたしは思った。みんな頑張ってるんだ。頭が痛いぐらいなんだ。ネイバーがなんだ!
ダッシュで突っこんできたそれを、わたしは両腕で受け止めた。昔からドッジボールは得意だ。肩に重い衝撃が走って、体重をかけたローファーがキュキュッ! と床を滑《すべ》った。
勢いを止めてしまえば、そいつは拍子抜《ひょうしぬ》けするほど軽かった。
「負っけるもんかあ!」
わたしは、サイドスローでそれを入り口に投げつけた。そこに、木下が立っていた。
「如月、ナイストス!」
トスバッティングそのものだった。木下が思いっきりバトンを振り抜いた。硬球だったら場外間違いなしのスカッとするようなクリーンヒットだった。
わたしは廊下に飛び出した。リムは天井でバウンドして床に叩きつけられていた。ふらふらだ。木下の腕力とわたしの境階波の込められた一撃は、十分にそいつを痛めつけたみたいだった。その後ろに、ぬっと背の高い人影が立った。
「クラッドの成長体ふぜいが、チョロチョロすんじゃねえ」
「竜巳風! ギャザラーは?」
「弱ってる。なしでやれる」
竜巳風先生が、右手を振った。しゃらん、と光る円《まる》い刃《やいば》が垂れ下がる。摩輪刃《マリンバ》っていう不思議な武器だ。
「これで終わりだ!」
摩輪刃《マリンバ》が宙を走った。リムの胴にそれが突き刺さる。
パチパチッ、と音がしたかと思うと、もうそこにはリムの形をしたコンクリートの塊が立っていた。
松尾たちが、霧岡たちが、むこうから走ってくる。みんな頬《ほお》が赤い。どの子も、何かを待っているような不安そうな顔だった。視線が先生に集まった。
霧岡が、バトン片手に廊下の両方に気を配りながら聞く。
「勝った、と考えていいんですか」
「オレより如月に聞けよ」
「如月?」
「大丈夫、だと思う」
霧岡の心配はわかる。言い方が慎重《しんちょう》になる。
「ううん、わからない。最後のは感じられなかったから……」
「二次体の中でも成長したやつだからな。自分の音を消すぐらいの知恵はあってもおかしかねえ」
先生が言って、おまけのように付け加えた。
「全部で六体ってのは確かだ。組織化の時の同調音はごまかしが効《き》かん」
「それじゃあ、おしまいですか?」
先生は、わたしたちを見下ろした。と思ったら、いきなりわめき出した。
「なんだテメエらあの醜態《しゅうたい》は! 泣きわめいて腰抜かすわ持ち場離れて勝手に移動するわ、この四日間何してやがったんだ! 豚《ぶた》でももっとマシに動くぞ! 今度同じことしたらひんむいて逆《さか》さ吊《づ》りにしてやる、やつらがやらなくてもオレがやるからな!」
「そのくらいにしたら? 叱《しか》るより先に、言うことあるでしょ」
那岐先生が言うと、竜巳風先生は、ものすごおく嫌《いや》そうな顔をしてぼそっと言った。
「――全員、無事でなによりだ。初めてにしちゃよくやった」
そのとたん、みんなの弾《はじ》けるような歓声が上がった。
「静粛《せいしゅく》に!」
議長がそう言って、箸《はし》に刺したウインナーを木槌《きづち》みたいに振り下ろした。
「さて、今回諸君に集まってもらったのは、他でもない。重大な問題について討議するためである」
「議長!」
「何か、苗田鈴鹿くん」
「ウインナ抜けてます」
「うわ」
あわてて高槻は手を伸ばしたけど、机を転がるウインナーを止めることはできなかった。床にぼっとり。
「あああああ、一番好きなおかずなのに」
「いいから続けてよ。なんの話?」
お昼どき。わたしたちは机を動かして島を作って、会議にかこつけ昼ごはんを食べていた。参加者はわたし、鈴鹿、高槻、それに瞳ちゃん。
「マジな話だよ」
拾ったウインナーをティッシュで葬送してから、高槻は一座を見まわした。女子バレー部副主将だから、座ってても電柱みたいに高い。
「あんたら最近、成績どうよ」
「ぶっちぎりです!」
「ぶっちぎりで低空飛行だろーがあんたは」
鈴鹿に突っこんでおいて、わたしはパンをかじった。
「ま、よくないよ」
「瞳ちゃんは?」
「……やっぱり、ちょっと」
内気な瞳ちゃんがつぶやくように言う。かわいいったら。最初ごはんに誘った時も、照れくさがってなかなか仲間に入ろうとしなかった。老若男女陸海空を問わずにひたすら自分の世界に巻きこんでしまう、宇宙人の鈴鹿とは大違いだ。
高槻が難しい顔で言った。
「原因ははっきりしてるのさ。授業ほっぽり出して毎日運動会してるんだから。しかしこれってまずくないかね」
「まずいよねえ」
もう三年の五月も終わりに近い。他のクラスは入試に向けて、補習と補講で完全に戦闘態勢に入ってるのに、わたしたちだけ置いていかれてる。
「それで提案だ。合宿しない?」
「つまり自主トレね。いいよ、うち使って。アパートだから」
「はいわたし交《ま》ざる! もう飛んだりはねたり思っきり勉強する!」
「はねるな、本気で言ってるでしょ。瞳ちゃんは?」
「如月ちゃんの部屋に入れてもらえるの?」
瞳ちゃんが子犬のように目をきらきらさせてうなずいた。
「行きます! どんな部屋か楽しみ!」
「部屋ってか、家だよ。きーちゃんは去年親が仕事でよその県行っちゃったから、アパートで仕送り生活してんの。一人暮しだからいつでも襲っちゃって」
「鈴鹿、それ極秘《ごくひ》。男子のいるところでぺらぺらしゃべらないの。じゃあ、この四人で?」
「うーん、如月は去年の学年トップテンだから問題ないけど、わたしは平均落ちで苗田が写す価値なしだから、バカ度高いな」
高槻はクラスを見まわした。
「誰かもう一人ぐらいIQのあるやつ入れて、おもり役を増やさんことには……」
始業のベルが鳴った。昼休みは終わりだ。
「高槻、誰か誘っといて」
「うん、任《まか》せろ」
「だからってなんで十人も集めちゃうのよ!」
フローリングのワンルームは、人の海になっていた。
「そりゃ確かにうちは十二畳で、両隣が夜勤だから騒いでもよくて、学校近くて便利がいいけどさ」
わたしはいらいらとこめかみのあたりをもみほぐした。高槻が無責任に笑う。
「集めたっていうか、芋《いも》づる式にくっついて来ただけなんだけどさ。堤ちゃん誘ったら成田が乗り気になって、成田は危ないから霧岡入れたら武藤も参加して、武藤がなんかしらんけど伊万里《いまり》呼んで、それをジャイアン木下がかぎつけた、みたいな」
「男子なんか今まで入れたことなかったのにー」
「ちょうどいいじゃん、予行演習さ、これは」
そんないいものか、これが。
予定では、家で夕食を食べてから来てもらうつもりで、わたしは先に帰って待っていた。チャイムが鳴ってドアを開けたら、この有象無象《うぞうむぞう》の山だった。家に帰るとバラバラになっちゃって道がわからなくなるから、帰り道で晩メシ買って直行しよう、と提案したやつがいたのだ。誰とは言わないがもちろん鈴鹿。
全員自転車で、なまじ機動力があるからこのありさまだ。
夕食持ちこみ、という時点ですでに先が見えた。もの食べながら勉強なんかできるわけがない。案《あん》の定《じょう》、食事が終わってからも引き続きダベリタイムになってしまった。
そのうち成田がテレビをつけるし、堤ちゃんはキッチンでおつまみ作りだすし、霧岡は結界《けっかい》張って参考書読んでるし、鈴鹿が人のパンツを洗濯カゴから引っ張り出して売ろうとするし、伊万里はそれにやっすい値段つけるしで、なにがなんだかわからなくなった。おまけにやろうどもはとんでもないもの買ってきてるし。
「ちょっと成田、お酒なんか飲まないでよ!」
「酒じゃねえよビールだ。んで、これはスイカチューハイ。麻弥《まや》の調教用」
「あんたも木下! 殺人線香吸わないで!」
「エクストラだから軽いぞ」
「あ、枝豆ゆで上がったよ」
「堤ちゃんも言いなりにお給仕やってないの! ここは禁酒禁煙ー!」
もうぐちゃぐちゃ。動物園だ。
結局、深夜の三時過ぎても誰も帰らなくて、力|尽《つ》きた子から隅でざこ寝っていう、信じられない状態になってしまった。
瞳ちゃんが最初にダウン。次が高槻。鈴鹿は壁にもたれて大股《おおまた》おっぴろげて鼻ちょうちん作ってるから、蹴《け》って足を閉じさせる。三時だ、と時計を見て、自分のうちみたいに律儀《りちぎ》に顔を洗ってから、平然と霧岡が寝た。
残るのは、木下、武藤、成田、堤ちゃん、伊万里。――なんとかしてほしい。堤ちゃんとわたしでかろうじて人間レベルを保っている状態だ。
「ねえ、いつまでしゃべってるの」
根負けして、わたしは弱音を吐いた。五人が顔を見合わせる。武藤が、ぼちぼちだな、と言った。妙な雰囲気だ。
「なにするの?」
「あのよ……」
変なこと言い出さないだろうな。武藤は自称サーファー系だけど、タイプじゃない。
「如月さ、あの竜巳風と、どんなことしてんの?」
「――は?」
「いつも演習ってのやってるだろ。あれ、なんなんだよ」
「おれは説明へただからよ、如月教えてやってくれ」
木下が言い添えた。
「――ああ」
そうだったのか。
ガラの悪い四人に交じって、堤ちゃんが起きてるわけが、やっとわかった。そういえば、木下をのぞく四人は、今まで一度も演習に来たことがない、反対派の子ばかりだった。いや、最初からそれを聞くつもりで、大勢で押しかけて来たんだろう。
「なんだ……それなら、演習来ればいいのに。今日だってあったじゃない」
「いまさら行けねーよ、おれ、初めのうち強烈におまえらシカトしてたし」
武藤が苦笑した。
「最近おまえら、なんだか楽しそうだから、よけいムカついてさ」
「とかガキっぽい強情張ってるから、おれが説得した。とにかく話だけでも聞けって」
木下が言うと、成田が首を振った。
「おれも落ちたもんだわ。このクズ木下に説教こかれるとは」
「んだオイ、クズだ?」
「やめてって」
わたしは笑って制止した。
「そうだね。――意外に楽しいよ。わたしたち受験勉強で運動不足じゃない。それがぱーっと解消されて」
わたしは、話した。
最初の実戦で六匹のリムを倒してから、みんなにがぜん自信がついた。あれの直前にあったひと悶着《もんちゃく》も、みんな忘れたみたいだった。演習にも力が入った。チップと先生相手の勝負では、三度に一度は勝てるようになった。
それから十日で、四回、ネイバーがやってきた。
一度はまたリム。二度目はクラッドがニグループ。いずれもクラブハウスで演習中の時だったから、最初と同じようにやっつけた。ネイバーたちはそれなりに気持ちの悪い相手ではあるけど、頭がてんで悪いのだ。こちらが十分に態勢を整えたうえで迎え撃てば、全然怖くなんかないことがわかった。
先生の悪口も気にならなくなった。肝心《かんじん》な時には頼りになるとわかったから。
三回目は、あの毛生《けは》えゼミみたいなブルネット。下校中の玉手が出くわしたのだ。幸い学校を出たばかりのところだったから、連絡網で十人以上がすぐ集まることができた。持ち歩いてたバトンでボコってから、急行してきた先生に引き渡して作戦終了。
四回目は、授業中だった。
「おとついの地理の時の? あれ本番だったのか?」
武藤が派手に驚く。
「そうだよ。クラッドとリムの混成部隊が来たの。クラブハウスまで行ってる時間なかったから、物理室でやっつけた。特別教室|棟《とう》のほう、うるさかったでしょ」
「また練習だと思ってた……」
「みんな平気で戻ってきたしな」
成田と武藤が顔を見合わせた。
「ねえ、あなたたちも一緒にやろうよ。わたしがサポートしてあげるからさ」
「でもなあ」
「堤ちゃんは? やらない?」
「でも……怖いし」
「だったら瞳ちゃんみたく電話係やればいいんだって。最近あの子すごいよ。オペレーターっていうの? 本職みたい」
「怖いの! 私は」
はねつけるように堤ちゃんが言った。わたしは、少し驚いて声を落とした。
「そうか……ごめん。堤ちゃんあんなことあったしね」
考えて見れば、この子はわたしたちの中で唯一《ゆいいつ》、ネイバーに直接ケガを負わされているんだった。無理もない。
「てゆーか義理ないんだけど、あたしら」
伊万里がだるそうに言った。
「うちらむいてねえんだよ、そういうまじめなの。体質合わないんだよね。なんつの、仲良しごっこしてんじゃねーって感じ?」
男子も一緒の車座なのに、伊万里は立て膝で平気な顔をしている。意味がないぐらいの超ミニの中のパンツが見えてるけど、おかまいなしだ。武藤、目をやるな目を。
伊万里は、これ見よがしのチョコレート肌と、五寸釘《ごすんくぎ》を踏んでも大丈夫そうな厚底ミュールがトレードマークだ。格好で判断するわけじゃないけど、こういう消極的反対みたいなことをされると、ちょっとむかっとくる。
「だいたい肉体労働なんかゴメンだよ。時給いくらよ? ケガまでするんだろ? やってらんねーそんなこと」
言いながら、成田が持ってきた煙草の箱をつかんで、とんとん出そうとする。
「ちょっと、だめだって」
「うるさいよ」
一瞬怖かったけど、自分の家でそんなことされて黙っていられるか。わたしは成田のライターをとって背中に回した。すごい目でわたしをにらんでから、伊万里は木下に手を出した。
「火、くれよ」
「やめとけよ」
木下はあっさり断った。成田と木下の違いは、こういうところだ。
「んっだよもう。いいよあたし帰る」
「え? こんな時間だよ。痴漢出るかも」
「知るかよ、そんなの逆にむいてやるよ。いい子ぶって心配したふりすんな」
「ぶってなんか! 先生言ったじゃない! 伊万里も危ないんだよ? みんな一緒なんだよ! わかんないの?」
わたしが思わず叫ぶと、伊万里は振り向いてこう言った。
「みんなって、一緒にすんな」
伊万里は、出て行った。堤ちゃんが心配そうに言う。
「ちょっと、誰か送ったほうが」
「いいよ堤ちゃん」
「でも」
「本人がいいって言ってるんだから」
男子たちはしらけた顔になった。わたしも気まずくて、付け加えた。
「伊万里のために言ったんだけどなあ」
木下がなにか言いたそうな顔をして、結局なにも言わなかった。
「成田たちは? どうする?」
「……いいよ、おれは」
「おれもやる気しねーな」
武藤と成田が言った。堤ちゃんはちらっと成田を見てから、いいわけのように言った。
「怖いし……勉強する時間もなくなっちゃうし」
「まあ、アタマいい如月はそれでも大丈夫なんだろうけどな」
そう言って成田がごろりと横になる。一瞬気に障《さわ》った。わたしは努力してるもの! と叫びそうになった。
武藤と木下がつれだって外へ出て行った。煙草を吸いに行くんだろう。堤ちゃんは成田に頭を預けて丸くなる。
わたしは、ベランダに出て、なんだかみじめな気持ちで明け始めた空を見つめた。
[#改ページ]
結局、勉強の問題は解決していない。翌日の演習のあと、わたしは先生をつかまえた。
「先生、二、三聞きたいことがあるんですけど」
「男女交際についてなら聞く。金の問題ならよそへ行け」
「ふざけないで下さい、まじめな話なの」
「っだうざってえな。手短に言えよ」
先生は、しぶしぶ振り返った。
「あいつら、いつまで来るんですか?」
「ネイバーか? ゴキブリや蚊《か》じゃねえんだから、寒くなったら消えるような都合のいいわけにはいかんわな」
「そんな。それじゃ、受験勉強してるひまないじゃないですか」
「そんなもんオレが知るか。泣きごとぬかすおめーらにビンタ張って前線に放り出す鬼軍曹《おにぐんそう》がオレの役割だ。かけ算九九まで面倒見れるか」
「じゃ、わたしたちが軒並《のきな》み浪人になってもいいっていうの!」
「いっこう構わねえな。生きてりゃいつかいいことあるよ」
「……いいですもう!」
話にならなかった。なんだか先生って呼ぶのがばかばかしくなってくる。わたしは憤然と立ち去った。
六月に入って、衣替《ころもが》えをした。紺《こん》のセーラーから白の夏服。男子は詰《つ》め襟《えり》から開襟《かいきん》シャツ。涼しいけど透《す》けて困る。
演習に加わる人数は大体クラスの半分ぐらいで安定している。参加メンバーとその他の間にはちょっとしたすれ違いもあるけど、クラスを二分するような対立にはなっていない。メンバー内の人間関係は、演習と実践《じっせん》がうまくいってるせいもあって、すこぶる良好。どこか、学園祭の実行委員をやっているような親密感がある。
ネイバーの襲撃は、ちょっとの間なくなった。時間ができたので、竜巳風《たつみかぜ》先生以外の授業では、みんな真剣に受験勉強に励《はげ》んでる。中には投げてる子もいるけど。
遅めの梅雨《つゆ》が来て、毎日降りこめられた。おりに入れられたみたいな気分。
その日も、さらさらと通奏低音みたいに雨音が聞こえていた。
三−一は一階だから、地面にはねる雨滴《うてき》の音がよく聞こえる。
歴史の授業だったけど、たまたま担当の鎌田《かまた》先生が休みだったから、みんなで自習していた。
「ズーダーマンってわかる?」
「誰それ、鼻詰まってんのか?」
「ドイツの劇作家、小説家。〈憂愁《ゆうしゅう》夫人〉〈猫橋〉などを書いた。一九二八年死亡」
「知らねーよ!」
「わたしだって知らないよ、ここに書いてあるだけなんだから。玉手《たまて》こそなに、芸術家|詳《くわ》しいって言ったくせに」
「あたしが言う芸術家ってのは、ウルフルズみたいののこと」
「どこが芸術家なんだ」
「いーじゃん好きなんだから。ガッツだぜガッツ」
「だめだこりゃ、やっぱり勉強にならんわ」
玉手とまともに勉強しようとしたのが間違いだった。歴史の資料集を手元に置いて、わたしは教室を見回した。
雨降りのせいで、珍しくエスケープがいない。まじめさに差はあれ、みんながそれなりに本を開いて自習している。外からは、さらさらとうっとうしい雨の音。
不意にその音に、たたたっ、と異質な響きが加わった。
「あ……来た」
「来た? トイレ行く? 持ってる?」
「そっちの来たじゃなくて……ネイバーが。聞こえるの」
「それか」
わたしと玉手は同時に立ち上がった。
「みんなごめん、やつらが来た。用意して!」
演習に参加しているメンバーがいっせいに動き出した。ノートをしまい、つぶして履《は》いている上履《うわば》きのかかとを起こして、かばんからバトンを取り出す。
「どこから来る?」
霧岡《きりおか》の問いに、わたしは目を閉じて耳を澄ませた。たたたっ、と小さな何かが走り回る音。キャアキャア騒いでいるようなかん高い笑い声。
「南側。特別教室|棟《とう》の方」
「前と同じか。講義室でいいな。今の時間は空《あ》いてるはず」
霧岡は、校内のすべての教室の使用スケジュールを把握《はあく》している。
「準備いい? 集まって」
バトンを持ったみんなが集まってきて、わたしが差し出した手に次々と手を重ねた。その間に、わたしは頭数をチェックした。十九人。みんなの放つ和音が徐々に高まる。参加しない子たちが、ちらちらと興味がありそうにこっちを見る。
「OK、もういいよ」
教室を出る。三−一は一階の一番東の隅《すみ》。すぐ隣の廊下の突き当たりから渡り廊下が延びて、途中で南に折れ、三十メートル先で、物理室、化学実験室、工作室、講義室、柔剣道場などが入っている特別教室棟につながっている。
トタン屋根で覆《おお》われただけの渡り廊下の、濡《ぬ》れて滑《すべ》るコンクリートのたたきの上を走りながら、わたしは指示を出した。
「先週の火曜の配置でいくよ。一班から三班まで一階の部屋に隠れて、合図があるまで待機。四班は二階の講義室前。五班は物理準備室でダミーゴールの準備。いい?」
「先生は?」
「気付いてるよ。今こっちに来てると思う」
二階建ての特別教室棟に入る。三班までの子たちが素早くそれぞれの持ち場に散っていく。階段を上って、四班・五班と別れると、わたしと瞳《ひとみ》ちゃん、石坂の三人になった。初めての実践の時以来、この二人がわたしの本部付きってことになっている。
二階の廊下を歩きながら、瞳ちゃんがわたしを見上げた。
「大勢いそう?」
「数は結構多いね。散らばってる」
「大丈夫かな」
瞳ちゃんは不安そうだ。石坂は無言。
「たいしたことないよ。大丈夫大丈夫」
強くなった雨音が中まで聞こえてくる。二階の突き当たりの講義室の扉を開けた。
「……あれ?」
OHPのある階段教室が、生徒で埋まっていた。わたしたちに驚いて、その子たちが顔を上げる。黒板に何か書いていたジャージ姿の若い先生が、振り向いた。
「なんだ?」
「ちょ、こ、ここでなにしてるんですか?」
「保健の講義に決まってるだろ。体育館は二年生がバスケットで使ってるし。あれ、予定入ってたか? 教務課に言ったと思ったが……」
生徒たちが、突然のアクシデントを楽しむようにこっちを見ている。みんな丸っこい頬《ほお》をした幼げな子たちだ。一年生らしい。迷った。順調にいけば、五班までの動きで食い止められるけど、漏《も》れるやつがいたらこの子たちを巻き込んでしまう。
携帯が鳴った。
「如月《きさらぎ》です」
『オレだ、今どこだ? まさか先週と同じフォーメーション組んでねえだろうな?』
いやに切羽詰《せっぱつ》まった声で竜巳風先生が言った。走りながらかけているらしい。
「組んでます。数がそんなに変わらないから大丈夫だと思うんですけど――」
『あの時はクラッドとリムだったろ? 聞こえねーのか?』
「え、足音と鳴き声は……」
『このうすらボケ! 羽音《はおと》だよ!』
「羽音……」
わたしは窓の外を見た。雨は弱い。ほとんど霧雨《きりさめ》だ。
突然、ずっと耳について離れなかった雨音の意味がわかった。ざあざあと空気を震わす音。
「これ……!」
『もう遅《おせ》え! 飛ぶんだ、トゥースは! 一階の迎撃《げいげき》ラインはクソの役にも立たん、チョクでそこに来るぞ! 全員まとめろ、今すぐ校舎に戻れ!』
その声と同時だった。
バシャーン! と東西の窓ガラスがいっせいに弾《はじ》けた。粉々になった白い光の粒が教室にふりそそぎ、一年生たちが悲鳴を上げた。
ガラスを突き破って入って来たものは、毛生《けは》えゼミのブルネットによく似ていた。羽音が境階波《きょうかいは》を使わなくともはっきり聞こえた。一匹一匹では蜂《はち》のように聞こえるその羽音は、群れ全体では豪雨のようだった。五十匹近くいるように見えた。
たちまち周《まわ》りはひどい騒ぎになった。ケガをしてうめく男の子、恐怖のあまり悲鳴を上げる女の子、伏《ふ》せろ伏せろ机の下にっていう体育の先生の声。瞳ちゃんと石坂の携帯が同時に鳴る。それをかき消す豪雨の襲来。
ブルネットとは比《くら》べものにならない恐ろしい速度で、そいつらは突っこんできた。毛生えゼミっていうより突撃ゼミだ。わたしの周りに雨あられと降りそそぎ、勢いあまって床や壁にぶつかって、それでも構わず隕石《いんせき》のように体当たりしてくる。
石坂がとっさに引っ張り出してくれなかったら、わたしの体は穴だらけになっていただろう。瞳ちゃんとわたしを両手で廊下に引きずり出すと、石坂は思いきりドアを閉めた。ドアの向こうから、機関銃で撃たれたようなものすごい音が上がった。
「なに、どうしたの?」
少し先で待機していた四班の松尾たちが走ってくる。後ろも見ずに駆け出しながら、わたしは叫んだ。
「だめ、失敗した! 逃げるからついてきて!」
「うそマジ?」
階段前の物理準備室の扉を叩《たた》いて五班の玉手たちを呼んでいる間に、後ろで講義室のドアが破れた。うなりを上げてネイバーたちが飛んでくる。
「玉手逃げるよ!」
出てきた玉手たちと一緒に、転がるように階段を下りた。その後ろを通り過ぎたネイバーたちが、廊下のむこうの壁にぶつかってまたすごい音を立てた。
一階に下りると、とんでもない騒ぎになっていた。
持ち場で待っているはずの各班が、みんな廊下に出てきている。窓から入ってきたやつらに押し出されているのだ。相手は五十センチ近くありそうなムカデ、いや、ムカデのように一列につながったクラッドだった。みんな、作戦もへったくれもなくなって、そいつらをバトンで部屋に押しこめるのに、精一杯だった。
「如月、尾原が負傷した!」
霧岡が尾原のすらっとした体を肩にかつぎながらやってきた。ぞっとした。左手が二の腕から指先まで血まみれだ。続いて沢木が悲鳴を上げた。
「いってえ! くそ、このやろ、このやろう!」
クラッドがズボンのすねにしがみついている。沢木は必死にバトンで叩いた。そいつはぐったりと動きを止めたけど、離れない。
「松尾、木下! 霧岡を手伝って! 石坂、沢木を!」
沢木がその場に倒れた。石坂が思いきり引っ張ってクラッドを引きはがすと、ズボンの裾《すそ》がいやな音を立てて破れた。沢木のすねに赤いものがにじむ。
駆け寄ったわたしは、絶句した。クラッドは一列につながるためにあの舌を使っていたから、それで攻撃まではできないようだった。でも、その代わりなのか、しがみつく指が強力になっていて、沢木の肌《はだ》がヤスリがけしたようにざらざらになっていた。たぶん尾原もこれをやられたんだ。
先生の言葉を思い出す。このままここでやりあっても勝てそうもない。校舎に戻って態勢を立て直さないと。
「みんな、いったん校舎に戻るよ! そいつらは構わないから全力で走って!」
クラッドに触れたら絡《から》みつかれる。わたしたちはハードル競争のように飛び越えながら渡り廊下を目指した。照度の低い薄暗い廊下から、入り口に飛び出す。
そのとたん、わたしたちは立ちすくんだ。
そぼ降る霧雨に体を濡らしながら、赤銅色《しゃくどういろ》の巨大な物体が、トタン屋根の下に入ってきた。リムに似ていたけど大きさが違う。高さがほとんどわたしたちと変わらない。リムが犬キリンならこっちは牛キリンだ。一匹、二匹、三匹、四匹も!
「如月、止まるな!」
木下が、尾原を他の子に預けて、そいつに殴《なぐ》りかかった。バトンを叩きつける。鈍《にぶ》い音とともに、木下が呆然《ぼうぜん》とした顔で飛びのいた。跳《は》ね返《かえ》された手の動きと音は、まるで鉄の塊《かたまり》を殴りつけたみたいだった。
牛キリンは、まるで応《こた》えていないかのようにのしのしこちらへ歩いてくると、大きく上体を反《そ》らせた。下がろうにも下がれない。後ろからは十八人の仲間が押し寄せてきている。ほんの三歩の距離で、向かい合った。
キチキチキチ……。
喜びの波がはっきり伝わってくる。六本以上ある足だか腕だかが、わたしに向かって伸びた。その根元に小さな小さな口があった。
「あ……」
わたしは、硬直した。どこも動かせないのに、膝《ひざ》と歯だけはかたかたとすごく速く震えた。後ろもうだめだよ! という高槻《たかつき》の悲鳴さえ、なにをのんきなって思えた。
人さらいのように牛キリンが手を伸ばしたせつな、ガキン! とものすごく重い音がして、怪物は横に倒れた。
「こっちだ! 走れ! なにボケッとしてやがんだこのトンマども!」
先生が銀の円盤を手に叫んだ。横《よこ》っ面《つら》をはたかれたようにわたしは我に返った。
走りだす。みんなが続く。渡り廊下の真ん中で、先生は摩輪刃《マリンバ》を手に、不気味な牛キリンが近寄ってこようとするたびに投げつけて阻止《そし》している。体の堅《かた》さに自信があるのか、そいつらは円盤を叩きつけられても、何度でも這《は》い寄《よ》ってくる。
「ちくしょう、さすがにブローンの背中には効《き》かねえな!」
全員が校舎の中に入ると、後ろをうかがいながら先生が飛びこんできた。待っていたわたしたちを怒鳴《どな》りつける。
「走れっつってんだろが、トゥースどもがくるぞ! 首の後ろかばえ、六組だ!」
「六組ですか?」
わたしは、一組の教室の前を駆け抜けながら言った。三年八組までのクラスが、廊下にずっと続いている。
「空いてたんで、那岐《なぎ》が準備してる。おっと、くそ……」
わたしたちの最後尾《さいこうび》を守って走っていた先生が、後ろを振り返って舌打ちした。
「来るぞ来るぞ、トゥースが来やがったぞ。てめーら、振り向くんじゃねーぞ!」
わあーんと羽音が反響した。見るなと言われたって見ずにいられるものじゃない。息切れを押さえながら振り向いたわたしは、ぞっとした。
渡り廊下につながる入り口に、編隊を組んだ突撃ゼミたちが真っ黒に群れていた。
反射的にわたしは叫んでいた。
「男子後ろに来て! ケガ人と女の子が先! 六組まで走って、急いで!」
「来たぞ!」
ミサイルのように数十匹のトゥースが突進してきた。わたしはバトンを構えてそれを叩き落とそうとした。
「馬鹿野郎!」
鼓膜が破れるほどの大声とともに、先生に襟首《えりくび》を引っつかまれた。後ろへ放り投げられる。と、力強い手が何本も伸びて、わたしをさらに先に突き飛ばした。
「てめーが一等|狙《ねら》われてんだ! 的になりたいのかこのタコ!」
怒鳴りながら先生が摩輪刃《マリンバ》を振り回した。数匹が叩き落とされ、その十倍の数が通り抜けた。わたしを前に押し出した男子たちがバトンを構える。たちまち、凄惨《せいさん》な戦いが巻き起こった。
一瞬でよくそんな人選ができたものだ。壁になった男子たちは、木下と石坂を始め、一組でもより抜きに運動神経のいい連中だった。城の回廊を死守する中世の騎士さながらに、縦横《じゅうおう》にバトンをふるって羽虫《はむし》のようなトゥースたちを叩き落とす。
それは健闘と言える働きだった。でも無力だった。一匹叩き落とす間に三匹がぶち当たった。よろけたところに五匹がへばりついた。
「おまえらも走れ! かすっただけならたいしたことはねえ! へばりついたら死んでも振り離せ!」
後退しながら先生が叫んだ。迷いを振り払って、わたしは決心した。まだ先を走っている女の子たちがいる。その子たちをあんな目にあわせるわけにはいかない。
「走って! 早く!」
並んでいる教室からは誰も出てこない。先生が来るまでに警告したんだろう。ひと気のない廊下を、わたしたちは一散に走った。
三−二、三−三、三−四。クラス名のパネルがずっと続く。五組の前で追いつかれた。
すぐ前を走っていた玉手の背中に、ライナーヒットの硬球みたいな塊が当たった。
「痛あっ!」
悲鳴を上げて玉手がつんのめる。その脇《わき》に手を突っこみながら、わたしは振り向いた。
「そんな……」
小さな声が漏れた。たった十数秒の間に、男子たちは半分近くやられていた。長い廊下に転々と、何人もの男子たちが倒れていた。みんなどこかを押さえていた。平和なはずの学校の廊下が、その一瞬、ベトナムかどこかの野戦病院に見えた。
ブン、と唸《うな》りを上げてトゥースが耳元を通過する。寒気《さむけ》が湧《わ》くような速度だった。続けて二匹。顔の前に来た一匹を反射的に叩き落とす。もう一匹は防げなかった。むきだしの左腕にやけどのような熱さが走った。見ると、そいつがしがみついていた。
キャアキャアと境階波の小さな笑い声を上げる。鳥肌《とりはだ》が立つような不愉快な声だ。そいつが、頭部の下に隠していた小さな針をすっと伸ばすのを見て、わたしはちぎれんばかりに腕を振った。ぼとっ、とそいつが落ちる。
顔を上げると、さらに数匹のトゥースが飛んできた。顔に当たる気がした。
「いやあーっ!」
何も考えられずに、体を縮めた。すぐ上を勢いよく突撃ゼミたちが通過した。
「あ……」
へたりこんだ。頭の中が真っ白だった。
「何やってるの!」
ぐいっと腕を持ち上げられた。那岐先生だった。
「あなたが来なくちゃ意味がないでしょう! 何へたりこんでるの!」
「でも……でも……」
頭がぐちゃぐちゃだった。そばで玉手がせきこんでる。おずおずとそれをさすろうとして、先生に引きずられた。
「いいから来て! すぐ折り返して来るわよ!」
勢いあまって廊下の先まで行ってしまったトゥースたちが、引き返し始めていた。
わたしは、那岐先生につれられて六組の教室に入った。そこにはもう何人かの女子と、ケガをした尾原と沢木が来ていて、机でバリケードを築いていた。
「トゥースは小回りが利《き》かないわ。障害物を作れば勝てる」
先生が何か言ってる。
「他の教室に被害が広がるといけないから、とりあえずみんなとトゥースたちを全部この部屋に集結させる。入ってきたら総出でギャザラーに入れる。いい?」
「……えっ」
「如月さん!」
顔が、手のひらに挟《はさ》みこまれた。目の前に、那岐先生の顔があった。
「どうしたの、しっかりしなくちゃ!」
「……え、でも……」
「あなたが動いてくれなきゃ、みんなを動かしてくれなくちゃ!」
そんなこと、できない。
「無理です……」
「どうして!」
「わたしが作戦ミスって……尾原ケガして、沢木を引っ張ってって言ったら沢木もケガして……男子たちみんなやられちゃって……一年生たちまで巻きこんじゃって」
「なに言ってるの? 大丈夫?」
「わたしがいるから、みんな!」
パン! と目の前が白くなった。平手打ちされたとわかるまで少し時間がかかった。
「あとになさい!」
那岐先生が、すごくこわい顔でにらんでいた。
「気持ちはわかるわ。でも、いま壊れちゃだめ! トゥースをやっつけて、ブローンもクラッドもやっつけて、壊れるならそれからにしなさい!」
それなら。それでいいなら。
わたしは、何も考えずにのろのろと立ち上がった。途端に、ドアが開いて、ぼろぼろになった男子たちとトゥースの集団がごちゃごちゃに入って来た。
あとはもう目茶苦茶だった。何段にも重ねた机のジャングルを、わたしの境階波だけを頼りに、ガンガン音をたててトゥースが飛びまわった。竜巳風先生の怒声《どせい》と、那岐先生の金切り声と、女子の悲鳴と男子の叫びがそこらじゅうを満たした。トゥースにぶつかられながら、わたしは機械的にバトンを振り回した。足にそいつがくっついても放っておいた。わめきながら走ってきた木下がそれをはたき落とした。顔にぶつかられた男子の鼻血と腕を切った女子の血が飛び散った。火災報知機が鳴り出した。那岐先生がズタズタになった白衣をひるがえしてギャザラーを振り回した。
トゥースがあらかたやっつけられた頃、わたしは別の音に気付いた。二人の先生が、ギャザラーを持ったまま顔を見合わせた。
「これ……」
「ちくしょう、やられた!」
わたしにもわかった。五つむこうの一組の教室に、あの牛キリンとクラッドのぞろぞろたちが入り込んだのだ。聞こえるのは、歓喜の声だった。
わたしたちがこっちに逃げたから、途中にいたあの子たちのことを感づかれたのだ。
まだあるの、と言いたかった。そんなことまで起こるのか。
「くそ、これはギャザラーなんか使ってるヒマねえぞ!」
竜巳風先生が振り返って言った。
「ガキども助けに行くぞ! ちんたら還元《かんげん》してられねえ、ぶっ殺す! 如月、来い!」
わたしは、うなずいた。表情がなくなっているのがわかった。
「あいつら殺せるのはおれらとお前だけだ! 覚悟決めろよ!」
一組に戻ったわたしは、二人の先生と一緒に、泣きわめきながら逃げ回る十六人の子たちを助けて、ネイバーを殺して回った。
「ついに三次体まで出てきたか……」
「最初に出てきた二次体のクラッドたちを、三次体のトゥースとブローンが追いかけてきたのね。……三次体は成長するために二次体を吸収するのよ」
ケガした子に包帯を巻きながら、那岐先生が場つなぎのように言った。
教室は惨憺《さんたん》たる有《あ》り様《さま》だった。机と椅子《いす》がひっくり返り、筆記用具と本が散らばり、その間にみっつの砂山と十数個の砂利《じゃり》の塊が落ちている。倒したブローンとクラッドの残骸《ざんがい》だ。みんなは、それを片付ける気力もなく、空いた床に思い思いに座りこんでいる。
裂傷五人、打撲《だぼく》二十七人、かすり傷は三十五人全員。那岐先生が本職じゃないと言いつつ懸命に手当してくれて、入院や手術の必要がある子はいないようだとわかった。
みんなの表情は、二種類だった。ぽかんと口を半開きにした放心状態か、おびえ切った恐怖の色。霧岡や鈴鹿《すずか》ですら、蒼白《そうはく》な顔でへたりこんでいた。
「……重傷者が出なくて、なによりだ」
竜巳風先生も、さすがに毒舌を吐かない。それほど、みんなは打ちのめされた状態だった。
「今日はまあ、どうしようもねえな。みんな帰れ。消防と警察が顔色変えて押しかけてくるだろうが、それはなんとかしておく。ヤバいと思うやつは医者に行け」
「それだけかよ」
ポツリと誰かが言った。伊万里《いまり》だった。
「それだけかよ、おい!」
「なんだ」
「なんだじゃねえよ、ふざけんなよ!」
伊万里が叫んだ。口元を堅く引き結んでいる先生にむかって、爆発したようにわめき立てた。
「なんであたしらがこんな目にあわなきゃいけないんだよ! ここ学校だよ? あたしら生徒だよ?」
「ケガで済めば幸運だ、と最初から言っている」
最小限の言葉で先生が言った。重要なことを言う時の口調だ。
「オレたちが来なくて、おまえらが訓練されていなければ、死人が出ていた」
ひとごとのような冷たい言い方だった。でもこの人は、さっきまで無数のクラッドに絡みつかれながら、鬼のような顔で摩輪刃を振り回していたのだ。
「じゃあ……じゃあ……」
伊万里が唇《くちびる》を震わせた。
「どうすればいいんだよ! 誰が責任とってくれるの?」
「最初に言った。誰にも頼れん。おまえら自身で自分を救うしかない」
突っ放した言葉だった。那岐先生も、同じ顔だった。
「かわいそうだとは思うけど、私たちも手助けするので精一杯なのよ」
「なら……それなら……」
伊万里が、不意にわたしを見た。次に伊万里が言うことがわかった。
わたしは目をつぶった。それだけは。それだけは言わないでほしい。
彼女は、言った。
「如月が全部悪いんだろう!」
教室の空気が凍りついた。
「如月がいるからうちらのクラス狙われるんだろ?」
「やめろよ」
松尾が言った。でもその声は、わたしが恐れていた通り弱い声だった。
「さっき伊万里たちも襲われたじゃん。みんな覚えられてるんだよ」
「それこそ如月が最初のあれをぶっ殺したりしたからだろ!」
伊万里がヒステリックに言った。
「どう考えたって如月の責任だろ! 如月なんとかしろよ!」
「如月がいなければ、やつらがよっぽど近くに来ないかぎり見つからないんだよね」
誰かが言った。教室が静まり返った。
そのひとことこそ、わたしが最も恐れていた言葉だった。
そう。そういう選択がある。わたしはとっくに気付いてた。一番目立っているのがわたしなら、わたしだけみんなから離れればいい。わたしが犠牲《ぎせい》になれば。
「最低じゃん」「信じらんない」「メチャ腰抜け入ってるよ」
みんながぶつぶつ言う。でも、はっきり反対意見としては言わない。みんなも気付いたのだ。それを誰も言わなかったから、わたしは今までやってこれたのに。
でも、ついに言われた。声がかすれていてよくわからなかったけど、さっきの誰かの意見は全員の意見だろう。わたしは、立ち上がって自分の席で荷物をまとめた。
「どこ行くんだ」
先生が言った。わたしは、かばんを持って、ドアへ向かった。
「帰ります」
抑《おさ》えても、声が震えた。
「またすぐネイバーが来るかもしれない。みんなの、迷惑だから」
外に出た。誰かが何か言ってたけれど、誰も出てこなかった。
校舎を出ると、まだ雨が降っていた。ちょうどよかった。
涙を、人に気付かれないで済むから。
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目が覚めてベッドの中で体をごろりと回すと、床に捨てたブラが目に入った。
時計は午後六時。起き上がって灰色の部屋の中を見回す。
下着と上着、空《から》のペットボトル、落としたパン、こぼした化粧水、プリント三十枚、一箱分のティッシュ、靴下、靴、魚、まだ乾いてない夏服、すべてを覆《おお》う綿《わた》ぼこり。ツンと目にしみる匂《にお》いがする。女の子の部屋じゃないな、と思う。
一週間あればずいぶん荒らせるんだ。妙に感動する。あの日、雨の中、傘《かさ》もささずに帰って来てから、なにひとつ片付けずにほっておいたらこうなった。
カタン、と玄関ドアの郵便受けが音を立てた。どうせガスか電話の請求書だろう。払わなかったら止まるのかな?
郵便受けのふたをがちゃっと開けた。――何もない。
あれ、と思ったときだしぬけにドアを開けられた。
「あっ、いた! 起きてる!」
三日前に最後にスーパーに行ったときに、鍵《かぎ》をかけるのを忘れていた。立っていたのは、郵便の人じゃなくて鈴鹿《すずか》だった。
「きーちゃん、大丈夫? 一週間もがっこ休んで、なにして……うわっつ!」
黙っているわたしの前で、鈴鹿は目を真ん丸にした。
「なにきーちゃん、シャツだけ? ぱんついっちょじゃん! ぶらどうしたの! うえなにこの匂い! 生ゴミ捨ててないの? すげえ魔窟《まくつ》!」
「……うるさいわね。近寄らないでよ。出てって」
「ちょっと押さないで、ああっ、だめだってそんなかっこで出てきちゃ!」
「いいから」
しゃがれ声で言って廊下に鈴鹿を押し出したわたしは、固まった。
「なんてこと言うんだよ伊万里《いまり》!」
わたしが出て行ったあとの教室で、松尾が叫んだ。
「あんまりおとなげないよ! あれ言ったらおしまいじゃんか!」
「るせえな。あたしなんか間違ったこと言ったか?」
「間違ってるとかあってるとかじゃないです!」
瞳《ひとみ》ちゃんが立ち上がって、ぶるぶるこぶしを震わせながら言った。
「あんな、あんなこと言うなんてひどすぎます!」
「うるせえよチビ! きれいごとばっか言ってんな!」
「きっきれいごとじゃないです!」
「自分にウソつくなよ、あんたも思っただろ? みんな思っただろ!」
伊万里は立ち上がって金切り声で言った。
「沢木! 誰のせいでそんなケガしたんだ? 堤《つつみ》、勉強できないって泣きごと言ってただろ! 武藤《むとう》、成田、納得いかないって言ってたよな! なんか言えよ!」
「おれ……まさかこんなケガするなんて思ってなかったし……」
沢木が、少し震える声で言った。
「ナメてたよ。甘かった。ネイバーなんてたいしたことないって思ってたから今までできたのに……こんな、こんな怖《こわ》いやつらだなんて思ってもなかった」
「そうだよな。冗談じゃねえよ、あんなのと戦うなんて」
「如月《きさらぎ》も如月だよ。なに言ってんだあいつ。楽しいなんて言ってたよな。信じられねえよ、どこが楽しいんだよ。あいつ、おれらをだまそうとしてたんじゃねえ?」
武藤が言い、伊万里がさらに視線を動かした。
「女何か言えよ。あたしが言ってんだから」
ざわついた女子の中で、泡がはじけるように二、三の声が上がった。
「わたしも怖かったよ、今まで」「だって絶対おかしいじゃん、あんなのと戦うなんてさあ」「如月はいいよ、体育得意だし。わたしつらかったもん」「やっぱりみんなそう思ってんだよな」「おれも……」
みんなが傷をなめあうようにうなずきあった時、木下が、低い声で言った。
「おめーら、今ごろなに言ってんだ」
「なんだよ、木下」
伊万里が険悪なまなざしでにらむ。木下が負けずににらみ返す。
「人が言ったことに合わせるのが格好いいと思ってんのか。隣のやつが言ったからって今さら真似《まね》すんなよ。言いたけりゃ一対一のとき言えよ!」
みんながうつむく。
「自分に素直になってそれかよ! 結局自分のことしか考えてねえんじゃねえか! 最悪だおまえらみんな!」
「やめてよ木下くん!」
堤ちゃんが耐え切れなくなったように叫んだ。
「みんなをあなたと一緒にしないでよ! それは木下くんはいいよ、ケンカも強いし体も大きいし。如月さんだって意志が強くってしっかりしてるもの。でもそんな子ばかりじゃないでしょ? 怖がるのが普通よ! あなたこそ自分を基準にしすぎよ!」
「そうだよ……あたしも怖かったよ」
玉手《たまて》が、力のない声で言った。
「でも、今まで言えなかったよ。言ったらびびってるみたいで……みんな、平気なんだと思ってた。でも、今わかったもの。みんながみんな平気なわけじゃないんだよ」
「怖いよ? そりゃ怖いよ? でも!」
「うるせえよ高槻《たかつき》、かばってんじゃねえ」
叫び返した高槻に成田がドスの利《き》いた声を投げ、さらに横から鈴鹿と松尾が叫んだ。
「かばったっていいじゃんか!」「成田、おまえはどうなんだよ」
「あんだと?」
すぐ隣でにらんでいる鈴鹿に成田は手を上げた。石坂がそれを押さえた。堤ちゃんが悲しそうな顔をした。
殺気立ってぴりぴりしている空気の中で、霧岡《きりおか》が口を開いた。
「ちょっと、いいか。――わめきあってるだけじゃ解決にならない。何か建設的なことを考えないか」
「なんでおまえ、いつもそんな冷静なんだよ! おまえはどうなんだよ! 怖いとか思わねえの?」
「思うよ、それは」
切《き》り口上《こうじょう》で言った武藤に、霧岡は静かに答えた。その顔は怒っているのでも怯《おび》えているのでもなく、どちらかと言えば悩んでいるような顔だった。
「僕だって怖い。どうやったらこんな意味のない戦いをしなくて済むか考えたこともある。でもいまだに、先生と如月がやっていることよりいい方法は思いつかない」
そんな自信のなさそうな霧岡を見るのは、みんな初めてだった。
「僕は如月を尊敬している。仮に方法があっても、彼女は絶対逃げないだろうからな。でも僕が逃げないのは、君たちに恨《うら》まれるのが怖いからだ。僕は臆病《おくびょう》なんだよ」
プライドと実力の塊《かたまり》みたいな霧岡がそんなことを言ったのだ。武藤は少し口を動かして黙った。成田はケッと息を吐いた。
伊万里が、殺気のこもった視線で霧岡を見て言った。
「弱みさらして同情買うやりかただよな。ムカつく。マジムカつくよ」
「僕の態度なんかどうでもいいだろう。個人攻撃してる場合じゃない」
「べらべらしゃべんなよスカした顔で!」
霧岡は口をつぐんだ。あきらめのような色が顔に浮かんでいる。
息詰まるようなにらみあいの中で、今度は沢木がおずおずと言った。
「伊万里、ちょっと待てよ。――とにかく、考えようぜ。どうするか」
「なんだよ、なんか考えあんの」
「おれ思ったんだけどさ、やっぱり如月が一番目立ってんのは確かな事実だろ。だったら如月だけ、どこかへ隠したらいいんじゃないの」
戸惑《とまど》ったような空気が流れた。
「それだったら、如月も危なくないし、おれらも被害受けないだろ」
まともな提案に聞こえた。一見欠点のない考えだったので、木下や高槻たちも反対しにくいみたいだった。みんなが賛同のつぶやきを漏《も》らす。
その時、ずっと黙っていた竜巳風《たつみかぜ》先生が、口を開いた。
「合理的な選択だ」
ほら、と沢木が言いかけると、先生は、腕組みして言葉を続けた。
「万が一如月がやつらに見つかって食い荒らされても、その場にいなけりゃ自分の責任じゃねえ。あいつの運がなかっただけだ。問題ねえよな、友達なんざ何十人もいる。一人欠けたってどうってことねえ。また新しいの作りゃいい」
みんなが呼吸を止めた。
「あいつ一人見殺しにすれば、ずいぶんと時間と安全が稼《かせ》げるんだ。たとえ如月が穴という穴からクラッドの吻《ふん》突っ込まれて、見た目も中身もアチラの生き物になっちまっても、そんなのは他人の不幸だ。クソして寝ちまえば三日で忘れられる。ネイバーがおまえらを襲ってきたら、またその時、別の方法を考えりゃいい」
先生は、冷たい眼差《まなざ》しでみんなを見渡した。
「だが、その時に他の仲間を助ける気になるか? ならねえだろうな。とっくに一人見殺しにしてんだ。その後何人死んだって知ったこっちゃねえ。とにかく自分さえ生き抜けば、何もかもリセットして新しいジンセイを始められるって思うわな。――もっとも、自分が誰かに助けを乞《こ》う立場になったら、泣いて死ぬしかねえけどな」
誰ひとり、伊万里でさえ、言い返せなかった。みんな、うつむいて唇《くちびる》をかんでいた。
先生は、唇の端をつりあげて皮肉な笑みを浮かべた。
「バカだバカだと思っちゃいたが、こうまで楽しい連中ぞろいだとうれしくなっちまうぜオレは。素敵だよ、最高だ。伊万里っつったな、おい、女」
伊万里が、憎々しげな、でもどこか力のない目で先生を見た。
「おまえにずっぱまりだ。ツボ入ったわ。ダークなエナジーにパンチドランカーだ。一緒に組んで裏街道歩かねえか? 那岐《なぎ》みてえなお堅《かた》い年増《としま》にゃうんざりしてんだ」
「竜巳風、やめなさいよ。言いすぎだわ」
那岐先生がぽつりと言った。竜巳風先生は叫び返した。
「おまえの年か? こいつらのバカさ加減か? いくら言っても言い足りねえよ!」
先生は、ガン! と教卓を蹴飛《けと》ばした。
「ガキども、帰って頭冷やしてこい!」
ケガの手当や学校の後始末もあって、みんなが顔をそろえたのは二日後だった。
それまでなんとか形を保っていたクラスの結束は、落とした花瓶《かびん》みたいに粉々になった。授業なんか当てられても誰もまともに答えられず、当然演習も中止になった。
最悪の状態だった。
でも、みんながそれで納得していたわけじゃなかった。一人ずつ、おずおずと、なんとかしようと思う子たちが、健気《けなげ》な動きを始めていた。
「玉手、ここいい?」
昼休み、一人でお弁当を食べていた玉手に、高槻が話しかけた。
「……うん」
気が乗らない顔の玉手の前に、高槻は椅子《いす》を引いて座った。弁当箱を広げる。
「責《せ》めに来たの?」
「まさか。世間話に来ただけさ。音楽の話」
「音楽?」
「玉手、去年の学祭でバンドやってたよね。すげーカッコよかったよ。女の子のドラムって珍しいじゃん? どうせふにゃふにゃのお嬢バンドだろって思ってたら、違っててびっくりした。背骨外れるかってぐらい力入ってたよ」
「そう。……ありがと」
「でも、ちょっと浮いてたな」
「……え?」
玉手は意外そうな顔をした。
「他のメンバーと少しずれてたよ。なんつか、一人で突っ走ってる感じで」
「それは、ドラムってもともとそうなんだよ。ドラムは目立たないけど、曲の土台受け持ってるパートだから。自分が指揮者になったつもりでやらないと」
「うん、そういう理屈はわかるさ。わたしもバレーやってたから」
むきになって言った玉手に、高槻はうなずいた。
「でも、自分がセッターの時、周《まわ》り考えないでトス上げると、スバイクの子が絶対タイミングをミスるんだよ。そういうのって誰がリードするって言うものじゃないっしょ。お互いの動きをつかんで、全体が有効に動けるように動くのさ」
「ドラムもそうだって言うの?」
「ドラムだけじゃなくてね。バンドは一人じゃ成り立たないっしょ」
高槻は、いたずらっぽく笑った。
「みんなでやるものはなんでもそうよ。玉手はミュージシャンとしてプライド持ってるんだと思うけど、ひとりよがりのプライドって、見てるほうはちょっと引くよ」
「……わかるの?」
玉手は少し赤くなった。高槻が大きくうなずく。
「わかるさ。いやいや、わたしはそういう玉手嫌いじゃないよ。ちょっとぐらい唯我独尊《ゆいがどくそん》なほうが、そういうの向いてると思うし。ただね、プライド保つつもりだったらカッコ悪いことしちゃいかんよ」
高槻は、意味ありげに笑った。
「最初の実践《じっせん》の時、実はわたし腰抜かしてヘタってたのよ。尾原に見られたけど、あいっぱいいやつだから黙っててくれてる。その時、反対側であんたは、やつらと立派に戦ってた。やっぱ玉手すげーって思ったさ。わたしは玉手のファンだから、そういうカッコいい姿を見ていたいよ」
「そうか……カッコ悪かったか……」
「ど? 痛いとこついたか?」
「……まあね」
玉手は、初めて少し笑った。
「ねね、ムントー」
数学の授業中に、後ろから話しかけられて、武藤は小声で返事をした。
「なんだよ、苗田《なえだ》」
「ちょっといいかい」
鈴鹿は、長身の武藤の影に隠れるように、顔を近づけて言った。
「いい話があるんだけどさー」
「……なんだ、うさんくせえ」
「ぴちぴちの女子高生がよりどりみどり! 黄色い悲鳴を上げてきゃー武藤クンかっこいーってな風になる、あるプランがあるのだけれど、乗らない?」
「んだそりゃ」
「乗らないと、武藤は下半身にしか価値のないよわびー男だってウワサ流すぞ」
「んだと?」
武藤は小さく振り向いて、鈴鹿をにらみつけた。
「そりゃなんのことだ?」
「きーちゃん助けてあげてよ」
「きー……如月か」
「ムントー、女の子見捨てんの?」
「見捨てるもなにもおれの女じゃねえ」
「そーかな。わたしは知っているんだぞ。あんた、ひそかにきーちゃん好きでしょ」
「くだらねえ。誰があんな仕切り女」
武藤が切って捨てても、鈴鹿は引かない。
「その仕切り屋で面倒見のいいところに、すでにクラスの六割の男子が惚《ほ》れているというじょーほーがあります。――きーちゃんと堤《つつみ》ちゃんぐらいだもんねー。武藤が必殺のほほ笑みかましても反応しないの」
「せえな、おめーもだろが」
「そうだっけか。まあそれは置いとくけど、この先もあんたがびびり続けてきーちゃん見殺しにしたら、きーちゃん本人だけじゃなくって、学校中の女子にムントー最低ってウワサ流しちゃるからね。言っとくけど、わたしこれでも下の学年に顔利くよ?」
「てっ……め!」
武藤がすごい形相で振り返る。クラス中の視線が集まった。
「怒っちゃいやん。ほら、じゅぎょーちゅーじゅぎょーちゅー」
鈴鹿は、ちっちと指を振った。
「女のコ敵に回すと、怖いよう?」
「成田くん」
屋上に続く、行き止まりの階段でガムをかんでいた成田は、手すりの陰から声をかけられて、見下ろした。
瞳ちゃんがこわごわ見上げていた。その後ろには、石坂の肩幅の広い姿。
「なんだおまえら……ケンカでも売りに来たんか」
「ち、違うの。石坂くんにはついて来てもらっただけ。用があるのはわたし」
「どっか行けよ」
「話があるの」
「おれはねーよ」
「聞いて下さい、お願いだから……」
「帰れ」
「堤さんを守ってあげて!」
成田は、くちゃくちゃやっていたガムをペッと吐き出した。
瞳ちゃんがびくっと身をすくめる。それから、唇をぎゅっとかみ締《し》めて顔を上げた。
「成田くん、その……堤さんと、付き合ってるんでしょう?」
「関係ねえだろ」
「あります! だって……堤さんの考え変えられるの、成田くんだけだから」
「ネイバーの話か」
成田は、つまらなさそうにあさっての方向を見た。
「あいつはやらねえつってただろ。おれもだ」
「成田くん……気付いてあげたら?」
いぶかしそうに、成田は瞳ちゃんを見た。
「堤さんがずっと嫌《いや》がってるの、なぜだかわからないんですか?」
「怖《こ》えーんだろ。あいつほどビクビクしてる女もいねえからな」
「成田くんが傷つかないためです!」
成田は、意外そうに瞳ちゃんを見つめた。瞳ちゃんが真剣に怒った顔で叫んだ。
「堤さんはネイバーの怖さを一番最初から知ってる人です! でも自分の身かわいさに逃げるようなことする人じゃないです! わたしよく知ってますから、如月さんとか堤さんとか、ずっとあこがれて見てたから! 自分が戦ったら成田くんまで巻きこんでしまう、そう思って堤さんは、如月さんと気まずい思いまでして、今まで断ってきたんです!」
一気に言うと、瞳ちゃんは目をうるませてはあはあ息をついた。
「成田くん、知らなかったでしょう。守られてるなんて知らなかったでしょう。かわいそう、堤さん……」
「……てめえの想像じゃねえか」
「だったら考えてみて下さい。堤さんは卑怯《ひきょう》な人ですか? それとも、そんなこともわからないぐらい、いいかげんな付き合いなんですか?」
瞳ちゃんは、小さな体から絞《しぼ》り出《だ》すように言った。
「そういう優しいところ、好きになったんじゃないんですか……?」
成田は、黙っていた。打ちのめされたような表情がその顔に広がっていった。
「っだよくそ……それじゃおれがヒモみてーじゃねえか」
「成田くん」
瞳ちゃんが、最後のひとことを言った。
「今度は、成田くんが、堤さんを守ってあげなきゃいけないと思うんです」
「……わかったよ」
成田は顔を上げた。自嘲《じちょう》とあきらめと、なにかさっぱりしたような色が浮かんでいた。
「ったくよう……。どうしておれは、いつもこういう弱っちいガキみてえな女に叱《しか》られんだ。情けねえ」
石坂が、ぼそっと言った。
「だから堤か」
「うっせえ黙れ!」
成田が、すごい顔で叫んだ。
「伊万里」
下校時刻の玄関で、伊万里は顔を上げた。ざわめきながらつれだって帰って行く生徒たちのむこうに、木下が立っていた。
伊万里は、軽く笑った。
「あの話?」
「……なんでわかる」
「昨日《きのう》きょう、苗田や高槻が動き回ってただろ。松尾もはっきりしない連中集めて熱く語ってたし。うざいったらありゃしない」
伊万里は、木下の前に立った。
「あたしは、あんたが一番不思議だよ」
「おれが?」
「真っ先にバックレそうなあんたが、なんで先頭切って旗持ちしてんだよ」
「……逃げんのは性《しょう》に合わねえからな」
「嘘《うそ》ばっか」
伊万里は、ラメを入れた目元を細めて、にっと笑った。木下はわずかにあとずさった。
「まあ、あんたは嫌いじゃないからね。言わないでおいてやるけどさ。でも、あたしはぜってー協力してやんない。悪いけどね」
「…………」
「じゃな」
片手を振って、伊万里は校門を出て行く生徒たちの流れに交《ま》ざっていった。
ほとんどの子は動くのに支障のないケガだったから、四日目から、霧岡と松尾の主導で、演習が再開された。最初十人ほどで始まったそれは、その日の終わりには倍の人数になり、次の日の朝にはさらに五人、その日の夕方にはまた五人が加わって、クラスのほとんどが参加するようになった。
その間、鈴鹿や高槻や他のみんなが、何度もわたしに電話をかけていたらしい。でもわたしは一度も出なかった。鳴ったかどうかすら覚えていない。
以前の倍近くになった人数を生かすために、霧岡が班を組み直した。それに合わせて、堤ちゃんが戦術を変更した。
新しく参加したばかりなのに半日で堤ちゃんは要領を飲みこみ、前線で主要部隊の指揮をとる霧岡に替わって、後方で情勢分析と誘導を行い、徐々に全体のマネジメントすらできるようになった。その下で、木下、成田、松尾、武藤が実働班のリーダーとして新入りの子と慣れた子のすり合わせをやった。
人数に余裕ができたので、女の子には通信と偵察の仕事が割り振られ、戦うのはもっぱら男子と、やる気のある数人の女子に任《まか》されるようになった。また、みんながそれぞれの能力を生かした戦い方ができるように作戦が立てられた。サッカー、陸上、体操、剣道、クラブで培《つちか》った足と動きが役に立った。
演習には竜巳風先生と二匹のチップの他に、那岐先生まで敵役として参加したけど、もうみんなは押されなかった。さらに携帯の使い方が一新された。堤ちゃんの手元に六人の通信係を置き、各班と本部を複数の携帯で常時接続するやり方を高槻が編み出したのだ。勝率は八割を超えた。
七つの班がリアルタイムで情報をやりとりするこの方法で、みんなはひとつの生き物のように連携して動けるようになった。たった数日の演習だったけど、ネイバーの脅威を目《ま》の当たりにしているから気合が違った。みんながやる気になっていた。
七日目の授業が終わってすぐに、竜巳風先生が教室に現れた。
「敵だ」
「敵?」
かばんに荷物をしまっていたみんなが、いっせいに緊張した。霧岡が聞く。
「如月がいないのにですか?」
「そうだ。前回さんざんネイバーを殺したせいで、座標情報が大量に流れたらしい。いま那岐が必死こいて編成と頭数を割り出してる」
「実践ですか」
「実戦だ。ここを司令部兼|還元《かんげん》エリアにする。共振はオレでやれ。今回は絶対目標の如月がいねえ。共振|境階波《きょうかいは》で全員平等に狙《ねら》われるから、完全な連携で互いを援護することが必要だ。抜かるな」
「わかったわよ!」
那岐先生がノートパソコン片手に飛びこんでくる。
「リム二群、ブローン一群、ブルネットとほか数匹。校庭西方で組織化してくる。一般生徒の避難は他の先生に頼んできたから気にしないで」
「よし、手を出せ。いや」
先生は、手近にいた高槻を引っ張って、無理やり肩を組んだ。
「なにすんです!」とわめく高槻を押さえて、妙な笑いを浮かべる。
「全員、輪になって肩組め」
「やっらしー!」「セクハラ教師!」
「いいからやれ! 男子は喜べ、役得だ」
みんなが肩を組むと、先生は目を閉じた。鈴鹿がくすくす笑う。
「なんかこの、待ってる間ヒマだよねー。あれやりたくならない?」
「なに?」
「ほら運動部がさー、試合の前とかにやるじゃん。ふぁいとー、ぜっ・おっ・ぜっ・おっ! って」
「ああ、円陣でね」
「やめとけよそんなの、恥っずい」
「よし、いいぞ」
みんなが離れると、堤ちゃんが少し緊張した顔で、言った。
「わたしは前に出ないけど、ここから精一杯サポートします。みんな頑張って下さい」
「っしゃあ!」「よーし」「やるぞ!」
班を組んだみんなが、持ち場に散って行く。
その時の戦闘は、結局|辛勝《しんしょう》に終わった。
那岐先生にも同定できなかったその他のネイバーの中に、一匹変なのが交じっていたのだ。そいつはスロートっていう名前で、自分は戦わずに、辺《あた》りの境階波をすべて聞き取って、それを歌にして仲間のネイバーたちに聞かせるというやつだった。
こいつのおかげで、こちらの動きが読まれた。以前のみんなだったらその時点で大混乱になっていただろうけど、本部でパッシブしていた那岐先生がその歌を聞き取って、堤ちゃんに教えた。堤ちゃんがそれを素早く分析して配置の変更を伝えたから、被害は最小限で済んだ。戦闘中にちょろちょろしていた女子がひとり、ケガをしてみんなに笑われただけ。もちろん鈴鹿だ。
「どーして笑うの? まさかわたしってイロモノ? イロモノなの?」
泣き叫ぶ鈴鹿をほっといて、霧岡と堤ちゃんがみんなからの報告を聞いた。那岐先生からスロートのことを聞いて、霧岡が眉《まゆ》をひそめる。
「こちらの動きが全部わかる? それじゃ敵にも指揮官が現れたということですか?」
「指揮官じゃないわ。スロートにできるのはレーダーのまねごとだけだから」
那岐先生が、心配ないというように言った。
「その歌を受け取ってどう動くかは、各個体が勝手に決めているはずなの。たいした進歩じゃないわ」
「如月のほうが断然上だな。あいつは位置の把握《はあく》と状況判断、指令まで全部ひとりでこなしやがるからな」
竜巳風先生があごをかきながら言う。
「そのうちLCMやハードキルの能力も使えるようになるかもしれん。そうなったらシギント戦じゃオレら出る幕なしだ」
「LCMとは?」
「レベルウェーブ・カウンター・メイジャー、対境階波妨害のことよ。ハードキルはその力で相手を直接倒すこと。シギント戦はまあ、情報戦ぐらいに思って」
「とにかく、如月がいりゃ、いま程度の敵なら楽勝だ。逆に言えば、トゥースあたりが出てきたらてめえらだけじゃつらいな」
竜巳風先生は、みんなを見た。
「今までバックレてたやつも、これでわかっただろう。如月は、こういう敵相手にボケどもまとめて戦ってたんだ。いい加減に根性出してあいつに頭下げたらどうだ」
それから、ニヤッと笑う。
「オレとしちゃあ、このまま意地張っててめーらだけで戦って、なし崩しにボロボロやられていくところも見物したいんだがな」
「鬼畜《きちく》か、てめーは」
木下が、目をつりあげた。
「おい、如月連れ戻しに行くぞ。追い出しとく理由ねえんだから」
「どうせなら襲っちゃわない? みんなで行ったほうが説得力あるさ」
高槻が言うと、賛同の声が上がった。
「よし荷物そろえろ! すぐ出るぞ!」
木下が仕切りだすと、先生は含み笑いをした。瞳ちゃんが不思議そうに聞く。
「どうしたんですか? 先生」
「あのさる、ほんッとに楽しいさるだな。ちょっとあおったらすぐ燃え上がりやがって、単純バカめ、赤子ハンドをスクリュードライブだ」
「あ、引っかけたんですか!」
「黙ってろこのチビ、いらんこと言うな」
瞳ちゃんの口を、先生が押さえつけた。
「出ちゃだめってゆってんのにー」
手足をバタつかせて鈴鹿がわめいたけど、頭の中が真っ白で耳に入らなかった。
アパートの前の廊下とその前の道路に、みんながひしめき合ってこっちを見ていた。
「あー生きてたよ!」「如月、前はごめんねー!」「悪かったなー」
「如月……」「おーう、いい眺めだな」
先頭にいた木下が、ぽかんとした顔でわたしを見て、視線を上下させた。その隣で、竜巳風先生がにやにやとイヤらしく笑った。
「ついでだ、全部脱げ」
「なっなんでみんなここに?」
「ていうかきーちゃん、しまいなよ。いつまで見せてんの?」
はっと気づいた。しわしわのシャツの下は昨日から替えてないパ――
「やだちょっとバカ早く言えよなんであんたは!」
「はーい、サービスタイム終了でーす」
マッハで引っ込んだ部屋の外で、鈴鹿が能天気に言った。
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「うわーなにこのティッシュの海、泳げるじゃん」
「こっちすごいよ、パンがカビまんじゅうになってる」
「魚、魚! なんで魚なんか落ちてんの!」
「あぶねっ、コップ割れてるわ。はいここ立ち入り禁止ー」
「洗濯カゴどこよ売るぞ!」
突入してきた女子軍団の手で、すみやかに部屋は片付けられていった。
ベッドの上に祭り上げられたわたしの隣で、玉手《たまて》がしみじみ言った。
「すごいね、よくここまで荒らしたね」
「ずっと泣きっぱなしだったから」
玉手は、遠慮がちにわたしを見た。口を二、三度開いて、なにか言いかける。
「如月《きさらぎ》……その」
「ん?」
「……うん、あとで言うよ」
かしましく掃除をしながら女子たちが話してくれて、わたしはこの一週間の学校での流れを理解した。
呆然《ぼうぜん》とした。それから、おなかの底からあったかいものが込み上げてきた。あのままみんながバラバラになって、何もできないままネイバーにやられてた可能性もあったのに、頑張って団結し直してわたしを迎えに来てくれたんだからすごい。話を聞いてるうちに、たまらなくなって、一杯になったゴミ箱の上に、新しいティッシュの小山を作ってしまった。
「いいよ、泣きなよ」
高槻《たかつき》が、隣に座って慰《なぐさ》めてくれた。
「如月この一週間、すごくつらかったんだよね。部屋みたらわかるもの。いい子の如月がここまで壊れてたなんて思わなかった。ほんとにごめん。もっと早く来てあげればよかったね」
「十分だよ。みんなが来てくれたから……」
わたしが鼻をかみながら言うと、高槻は顔をしかめた。
「それがね。みんなじゃないのさ」
「……え?」
「ひとり、ね」
「もしかして、伊万里《いまり》」
「そう」
「……高槻、あんたたち」
「違うの、如月ちゃん」
じゅうたんのしみを雑巾《ぞうきん》で叩《たた》いていた瞳《ひとみ》ちゃんが、あわてて言った。
「高槻さんを責《せ》めないで。みんなをまとめようと一生懸命だったんだから。誰も、伊万里さんを仲間外れにしたわけじゃないの。でも、あの人ひとりで帰っちゃって……」
「……そうだったの」
いきさつはわかる。でもなんとかしなきゃ、と思った。不意にうれしくなった。どこにも残ってないように思えたやる気が、また湧《わ》いてきていた。
「さて!」
高槻は、仁王立《におうだ》ちになって部屋を見回した。
「ヤバいもんは隠したし恥ずいもんはしまったし臭《くさ》いもんは捨てたね?」
「オッケっす隊長!」
「よし、ドアオープン!」
「ちょっと、男子入れるの?」
わたしはあわてて言った。高槻がニヤリと笑う。
「わたしたちが何しに来たと思ってんのさ。病気じゃないんでしょ?」
「でもちょっと」
高槻にずんずん引きずられて、わたしは玄関まで来た。ドアが開く。
竜巳風《たつみかぜ》先生が、子供が入りそうな大きさのスーパーの袋を、ぐいと差し出した。
「肉だ」
「肉う?」
「食え。人間は、食わんと死ぬ」
「食えってその、入れませんよこんなに大勢!」
「心配いらん、庭がある」
「庭ってその、蚊《か》がいますこの季節!」
「異議は却下《きゃっか》する。説明は終わりだ。これより実戦に移る」
先生は、ふんぞり返って、後ろの男子たちに命じた。
「敵は牛|豚《ぶた》はか畜肉《ちくにく》十キロ、野菜二山だ。迅速《じんそく》かつ効率的に撃破しろ。突撃!」
蹂躙《じゅうりん》された。
ご近所迷惑おかまいなしの焼き肉大会になった。
「っしゃあ牛タンゲットぉ!」
「バカやろそれ生焼《なまや》けだ」
「あータレがついた拭《ふ》いて拭いて!」
せっかく掃除した部屋をごちゃごちゃにされたのに、最高に楽しかった。
「おう、家主《やぬし》がなにボケッとしてやがんだ。食え」
気の回る誰かが自宅からかっぱらってきたカセットコンロと鉄板で焼いた牛肉を、先生がわたしに押しつけた。一番うまく焼けたところを取っている。抜け目がない。
壁際《かべぎわ》に退避してはふはふ食べている先生を見つめて、わたしは隣に座った。
「先生」
「んあ?」
「先生って、どんな人なんですか」
「オレの身の上か。たいしたことはねえぞ。八頭身の超美形、愛車は無敵のV−max、フった女は星の数、戦闘力はフリーザ百人分、夢はもちろん世界征服だ」
どこまで本音か知らないけど、素直に笑えた。
「じゃあ、もうちょっと細かいこと、いいですか」
「……あんだよ、惚《ほ》れんなよ。オレはロリコンじゃねえんだ」
「いつ、こっちへ来たんですか」
先生は、ぎょっとしたようにわたしを見た。それにしても本当に素直な人だ。
「〈監視|階梯《かいてい》〉だったかな。そこの人?」
「……なんでわかるんだ、おめー」
あぶら汗を流しながらわたしを見る。わたしたちが何も考えてないとでも思っているんだろうか? いるんだろうな。
「わたしみたいな境階波《きょうかいは》を感じる人間は珍しいんでしょ。普通の人間のみんなはそんなもの聞こえない。だったら、聞こえる先生たちは普通の人じゃない」
「……しゃべり過ぎだってよく那岐《なぎ》に言われちゃいるが。おめ、記憶力いいな」
「霧岡《きりおか》も堤《つつみ》ちゃんも覚えてますよ。ね、監視階梯ってなんのこと? 亜空間とか、異次元とか?」
「んー、別に次元が違うわけじゃねえんだが」
先生は頭をかきながら言った。
「前に言ったろ、素粒子《そりゅうし》の振動。この世界の人間は気付いちゃいないが、あれは実は二種類あるんだ。すべての物質は、この世界のものであると同時に、常《つね》に別の法則にしたがって振動してもいる。――その別の法則が働く状態すべてを、監視階梯というんだ」
「……ううん?」
「つまりだな」
先生は机からペンと紙を取って何か書いた。
きさらぎのしたぎを、こういしつからぱちって、うろう。
「なんて書いてある」
「売らないで下さい!」
「ここには、ある一匹のさるの名前が書いてある」
「え?」
先生は、いくつかの文字に線を引いた。
きさらぎ[#「さらぎ」に縦線]のしたぎを、[#「ぎを、」に縦線]こういしつからぱちって、う[#「しつからぱちって、う」に縦線]ろう。
「どうだ。まったく同じ文に、二つの内容が書かれているだろう。こんな風に、この世界の物質すべてには、別の規則で縛《しば》られた意味が隠されているんだ。その別の意味で記述された世界が、監視階梯だ」
「……じゃあ、このお皿とか箸《はし》とかにも?」
「そうだ、意味がある。それらの情報ひとつひとつはたいした意味を持たないが、ある一定量に達すると、ネイバーを表す文になり、目的を持って動き始める」
「へえ……」
「那岐なら詳《くわ》しく知ってるが、あいつはそういうことはしゃべらん。オレは別にばらしたって構わんと思ってるんだがな」
「じゃあ……その目的って? どうして人間を狙《ねら》うの」
「ネイバーには意識ってものがない。機械みたいに勝手に動くだけだ。まあ、基礎になる情報の量が少ないからな。だから意識を持つことが目的だ。てっとり早いのは、すでに意識を持っている物体を調べて、情報をコピーしちまうことだ。意識を持っている物体ってのは――」
「……人間の体」
「その通り。気付いたか、やつらがどいつもこいつも人間の体の作りを真似《まね》ていることに。あれは最終的に、完成した人体を目指しているんだ。二次体、三次体っていうのはそれを食物|連鎖《れんさ》にたとえたもので、まあ情報連鎖だな。それぞれ低次のネイバーを取りこんで、少しでも人間の情報を得ようとする」
「その作業が完了したら――」
はっとわたしは先生の顔を見た。いつもこちらがひるむぐらいの視線をぶつけてくる先生が、この時だけはじっとお皿の肉を見ていた。
「しかしわからんことがひとつある」
突然先生は口調を変えた。不自然な感じがしたけど、わたしはついていった。
「なんですか」
「ネイバーは、そうほいほい組織化してこっちの世界に出てくるような代物《しろもの》じゃねえんだ。それがなんで、最近は急に増えたのか……」
「わたしの情報と境階波が呼ぶからじゃないんですか」
「おう、だとしたら最初の一匹はなんで現れた?」
わかるわけがない。そう思ってたら、先生は不気味なことを言った。
「誰かのたくらみみてえなもんを感じるんだよなあ……あの最初のクラッドは、呼び寄せられたんじゃねえかって……」
「たくらみ……」
わたしが呆然としていると、先生が肩を叩いた。
「ま、気にすんな。そんなことまでおまえがしょいこむ必要はねえ。ぶたどもをまとめることだけ考えろ。暗くなるな。失敗なんか屁《へ》だと思え。万が一おまえがミスっても、残り三十何人のバカどもがなんとかしてくれるだろうよ。――さんざんわめき抜いたからな、こいつら」
先生は、その「バカども」を見つめていた。
そして、玄関の方に目をとめて、言った。
「おい、さるが出てくぞ。木下が」
「あ、はい」
「いいのか? ライター持ってたが」
「ライター……あいつ!」
わたしは立ち上がった。笑っている先生を置いて、玄関から外へ飛び出す。
かったるそーな歩き方で、木下の大柄な体が街灯の向こうへ消えて行くところだった。わたしはサンダルを突っかけてそれを追いかけた。
すぐそこにコンビニがある。途中で追いついた。
「ちょっと、木下! 煙草《たばこ》やめろって言ってるでしょう!」
「はあ?」
「買いに行くんでしょ!」
「なに言ってんだおまえ、おれはのど乾いたから」
「だって、ライター」
「ライター? 成田に渡したぞ」
言われて思い出した。確かに、コンロに火をつけたのは成田だ。
「おかしいなあ、先生が――」
ふと、気づいた。インチキ臭《くさ》い先生の笑い顔が見えるようだった。
「あのホラ吹き教師……」
「あいつがなんか言ったのか」
「なんでもない! ごめん、冤罪《えんざい》だった」
わたしは、頭を下げた。すると木下は、横を向いてぶっきらぼうに言った。
「見届けろよ」
「え?」
「止めに来たんだろ。おれが煙草買わないの、見届けろって」
わたしは、まじまじと木下の横顔を見た。
「ついて、来いって?」
「おう」
「……いいよ。でもなんかおごって」
「ああ」
誰が、と却下されるかと思ったら、意外にも承認された。コンビニに入ってわたしがジュースのコーナーに行くと、木下もついてきた。
「ど・れ・に・し・よ・う・か・な……」
「如月、おまえ一週間どこに行ってたんだ?」
突然後ろから、木下が言った。わたしはなにげなく答えた。
「ずっと部屋にいたよ。――あ、まさか電話した? ごめん、誰にも出なかったの」
「そうか」
妙にほっとした返事だった。それから、改まった口調で木下は言った。
「ひとこと言いたかったんだけどな、先月のこと。おまえんちに何人かで行って、伊万里も来た時」
「う、うん」
「おまえ伊万里に説教して、それであいつキレて帰っただろ。あの時おまえ言ったな。伊万里のために叱《しか》ったんだみたいなこと。覚えてるか」
「……言ったね」
覚えている。あの時は頭に血が上ってたけど、あとから考えたら、わたしいったい何様だって思えた。あれは伊万里のためなんかじゃなかった。努力してるわたしの横で、なんにもせずに遊んでるようなあの子に腹がたって、つい言ってしまったんだ。
あのひとことは、勢いで出た保身のための言葉だった。思い出すのがいやな記憶のひとつだ。でも、木下が覚えているなら、嘘《うそ》をついても仕方ない。
いさぎよく認めることにした。
「言ったよ。でも後悔《こうかい》してる。みっともないこと言っちゃった」
「……あれ、すげえカッコ悪かったぞ」
「だよね。うあー、やな思い出。やっぱり、みんなしっかり覚えてるんだ。反省反省」
「でも、それに気づいてるのが如月のいいところだよな」
「え?」
責められるかと思ったら、意外にも木下は、優しい顔をしていた。
「とぼけねえよな、如月。失敗を正面から受け止めて、乗り越えようとしてるよな。――おまえのそういうとこ、おれすごく好きだ」
――え?
ミニペットを選ぶ手が止まった。振り返れない。不意に後ろに立っている木下に鼓動を聞かれたような気がした。
そのまま適当にジュースを選んで、ロボみたいに立った。ぎーがちゃん、と振り向いてレジに向かう。ついてきた木下が財布を出して支払おうとする。また、がちゃんと横を向いて、わたしはドアから外に出た。
ジュースを手に木下が出てきて、わたしの後ろで怒ったように言った。
「無視するなよ」
無視してるんじゃない。すごい量の映像が頭の中で走馬灯していたのだ。
クラッドの乗った教卓を蹴飛《けと》ばしてくれた。わたしが締《し》め出《だ》されるかもしれない投票を止めてくれた。一番に演習に参加してくれた。バドミントン部の部室に一番に駆けつけてくれた。成田たちを説得してくれた。脚《あし》にくっついたトゥースを叩き落としてくれた。
最近のことだけじゃなかった。一年で同じクラスだった時のこと、三年でまた一緒になった時の顔、覚えていることすら忘れていたような思い出が、洪水のようにたくさんあふれてきた。
「うーっ……」
ぺんぺんぺん! とわたしは両方の頬《ほお》を叩いた。ぎょっとしたように木下が身を引いた。
「なんだよ……どうしたんだ」
「ほっぺがゆるむ!」
「はあ?」
「見るな!」
わたしは歩きだした。後ろから木下がついて来る。我慢できなくなって、ぐるりと木下の背中に回りこんで、手をいっぱいに伸ばしてこぶしを押しつけた。
「おいおい?」
「こっち見ないで! まっすぐ歩いて!」
めちゃくちゃに恥ずかしかった。体が熱くてふにゃふにゃだった。
「にやついちゃうよー……うれしくて」
にぶい木下も、やっとわかったみたいだった。
ぐいぐい木下の背中を押しながら、わたしはアパートまで歩いた。
ドアの外で煙草を吹かしていた竜巳風先生が、わたしたちの顔を見るなり言った。
「言ったか?」
「なっ、何をですか?」
「なめんな、シチュエーション的にわかるんだよ。顔見りゃ一発だ。隠したいんなら、うんとしかめっつらして部屋戻ったほうがいいぞ」
「そ……」
そんなにゆるんでるのかと、ちょっとショックで木下の顔を見た。
ゆるんでた。
「き、木下!」
こいつでもこんなにゆるむのかと思って、笑ってしまった。そうしたら、うまい具合に木下は仏頂面《ぶっちょうづら》になった。
「どうしたのー? きーちゃん」
部屋から鈴鹿《すずか》が出てきた。わたしはあわてて手を振った。
「なんでもないなんでもない」
「もうじき日本の人口が増えるぞ。なにしろさるだから――」
それ以上先生が爆弾を落とす前に、電子音が鳴った。先生がコートのポケットから携帯を出して受ける。
「なに?」
緊迫した声が聞こえた。二、三言話すと、先生は携帯を切ってわたしを見た。
「如月。聞こえるか」
「え?」
先生の顔を見て、なんのことを言っているか気づいた。わたしは、目を閉じて耳を澄ませた。
この世に存在しないものが、無理に姿を形作る音。
「……はい」
「近いか」
「いえ……そんなには。一キロ半……こっちの方向」
指さした方に何があるか、すぐにわかった。
「学校?」
「そうだ。那岐のブイが検知した。しかし妙だな、なんでこんな時間に来やがるんだ。誰か学校に残ってるのか?」
「……まさか!」
稲妻のように、一つの可能性が思い浮かんだ。部屋の前に走る。
「玉手! 玉手ちょっと!」
お皿片手に、なんだよと出てきた玉手の肩を、わたしは両手でつかんだ。
「玉手、伊万里のうち知ってるよね」
「え? 知ってるけど」
「学校のすぐそばって言ってたよね!」
後ろで先生たちが愕然《がくぜん》としたのがわかった。
「そうだよ、東門出て三分だよ。どうした? 今から迎えに行くの?」
「違うの! やつらが、来た」
「……学校に?」
「伊万里狙ってるんだよ、それしか考えられないよ!」
声が上ずった。みんなの視線が集まる。あの雨の日の光景がよみがえった。伊万里ひとりが、やつらに囲まれたら。五十匹のトゥースに襲われたら!
「どうしよう、わたし、まだ伊万里に謝《あやま》ってないよ。ひどいこと言ったのに、伊万里だって傷ついてるのに」
「落ち着けよ、如月」
肩に、力強い手が置かれた。木下だった。
「行って助けようぜ」
「でも……」
「聞いただろ。おれたちは、あの時とは、違うんだ」
いつの間にか、みんなが立ち上がっていた。わたしはみんなを見回した。
自信に満ちた顔だった。木下も、鈴鹿も、玉手も、成田も、高槻も、霧岡も、瞳ちゃんも、沢木も、松尾も、武藤《むとう》も、尾原も、石坂も、堤ちゃんも、みんなが同じ顔でわたしを見ていた。
堤ちゃんが、わたしの前に来て手のひらを掲《かか》げた。
「交替よ、如月さん。一組のみんなは、やっぱりあなたがまとめたほうが、うまく動いてくれると思う」
「……うん」
わたしは、その手に自分の手を打ちつけた。パン! といい音がした。
先生が叫んだ。
「よォし全員表へ出ろ! 共振かけてから急行するぞ!」
アパートの前にみんなで出る。細い私道に三十四人で円陣を作るのは大変だった。みんなで肩を組むと、鈴鹿がいきなり叫んだ。
「みんな絶対勝つぞーっ! ファイトーお!」
「ゼッ!」「おう!」「ゼッ!」「おう!」「ゼッ!」「おう!」
「らすとふぁいとーっ、ゼイ!」
「おーっ!」
終わると同時に、大爆笑になった。
「ムチャ恥ずーっ」「汗くせー」「最悪ー!」
「運動会やってんじゃねえんだ、とっととチャリンコ乗りやがれ小僧ども!」
ドドン! と先生のバイクが爆音を上げる。みんなが自転車の鍵《かぎ》を外し、徒歩の子はほかの子の荷台に立ち乗りした。
「那岐がギャザラー持って急いでる。今回はいつもと逆だ。集結してる敵を外から囲む包囲|殲滅《せんめつ》戦だかんな、不意打ち食う心配はしなくていい。好きなだけ暴れまわれ!」
「玉手、道お願い」
「了解!」
玉手がBMXで先頭を切る。そのあとにみんなが続く。
三十四人の境階波が、いまや少しの不協和音もない完璧《かんぺき》なハーモニーで体を包んでいた。背中がゾクゾクするほど気力が湧いてきた。
伊万里は、自宅の二階の部屋でぼんやりとテレビを見ていた。
ロンブーのきついギャグが妙に気に障《さわ》る。スイッチを切ってベッドに横になる。
昼間、初めて見た実戦が目に焼きついている。ばかでかい牛キリンを追いかける木下、突撃する毛玉を叩き落とす成田、矢継《やつ》ぎ早《ばや》に指示を出す堤。みな必死で、けれども張り詰めていた。教室の隅《すみ》でじっと見ている自分が、とんでもない悪人になったような気がした。
知ったことか、と思う。
あれだけ人数がいれば、自分なんか不要だろう。成田も武藤も裏切り者だ。一番仲がいいと思っていた玉手まで寝返った。
一人でもかまわない。
一週間見ていない如月のことが、ふと頭に浮かんだ。一度も間違いを犯したことがないような顔をしているのが、毛が逆立つほど不愉快だった。三十四人に存在を否定されたみじめなあいつ。家に閉じこもって打ちひしがれているに違いない。
それは、自分も――?
「違う!」
自分は、自分の意思でここにいる。あいつとは違う。
その時、窓の外を、ざあっと何かが流れた。雨? それにしては急だ。
カーテンを引く。
「――ひっ!」
無数の黒い毛玉が、水族館の回遊魚のように窓の外を横切っていった。群れの最後の一匹が、流れる毛の間からちらりとこちらを見た。
「はあい、どなた?」
一階のドアを激しく叩く音に母親の声が重なった。すぐにそれが悲鳴になった。
「南東側の四班成田だ。準備できたぞ!」
「一班高槻です。いま北東側回りこんだ、いいよ!」
「霧岡。遊撃七班、布陣《ふじん》完了」
「こちら東門前五十メートル、六班岡です。用意できた!」
住宅街に散らばったみんなからの報告を、つなぎっぱなしの携帯で受けて、並んだ通信係の女子六人がてきぱき報告する。いずれも各委員会要職のつわものばかりだ。
わたしは、東門の門柱の上に胸を張って立っていた。しっかり作戦を立てたし、携帯電話ともうひとつ、有利な道具もあった。そしてみんながいる。絶対負けない。
「全班配置終了! 如月さん、敵は?」
通信を統制している堤ちゃんが振り返って見上げた。わたしは耳を澄ます。
「――東に三百メートル、伊万里のうちを中心にたくさん集まってる。さらに五十メートル東にうるさいのがひと塊《かたまり》、トゥースね。スピード出して動いてるけど……あ、反転した! こっちに気付いた!」
南の角を曲がってすごい勢いでボルボが走ってきた。目の前で急停車して、ノートパソコンを抱《かか》えた那岐先生が降りてくる。
「集計出たわよ。クラッド四群、リム三群、ブローン一群。それとトゥースが二群五十匹」
「聞こえます。例の暴走で行き過ぎたみたいだけど、今こっちに向かって来る」
「やっぱりね。境階波を出していない伊万里さんより、あなたのほうが目立つのよ。そいつらは私が面倒見るから!」
「各班東に注意! トゥースが来るけどやり過ごして。そしたらすぐに行動開始!」
すぐに女子たちが連絡する。那岐先生がボルボの後ろから二つの灰色のボールを引っ張り出した。演習の時使っていたチップだ。携帯を耳に当てていた瞳ちゃんが叫んだ。
「如月ちゃん、四班が南から襲われた!」
「そんな! そっちには反応は……」
叫んだ那岐先生を静止して、わたしは本物じゃない聴覚に神経を集中した。
「先生はそっちの続きを。七班! まっすぐ二十歩、右に生け垣突っ切って! 成田たちが苦戦してるから援護!」
「如月さん、わかるの?」
「わかります。全部の音がすごくクリアーに聞こえる。地図を見下ろしてるみたいに位置がわかるんです。――みんなに敵の境階波を中継してもらってるみたい」
「――すごいじゃない」
驚いたように言ってから、すぐに那岐先生は我に返った。
「チップを使うわ。壊れちゃうけど、そんなこと言っていられないからね」
ノートパソコンを開いてすごい勢いでキーを叩く。それに命じられて、チップはわたしたちから十メートルほど離れたところまで走っていった。いきなり空に向かってわらっと体を開き、左右二つが組になる。直径三メートルの二枚貝。
同時に、悲しげなソプラノの境階波が響いた。
「これでトゥースを呼んで一気に捕獲するわ。近くまで来たら如月さんは隠れて!」
「来たわ!」
堤ちゃんが夜空を見て叫んだ。伊万里の家を飛び越えたトゥースが突っこんでくる。
「伏《ふ》せて!」
わたしは門柱の後ろに飛び降りた。直後、隕石《いんせき》《いんせき》群のようにトゥースの群れが降り注いだ。引き伸ばされたチップの体がたわみながらそれを受けとめる。最後の一匹が飛びこんだとたん、チップの体がばくんと閉じた。閉じこめられたトゥースたちの悲鳴が、わたしの頭の中の耳をつんざいた。
「先生、早くそれなんとかして! 他の音が聞こえない!」
「任《まか》せて!」
キーのひと叩さで、チップが自分の体をべこんとへこませた。自爆みたいな行為だったんだろう、トゥースと一緒に最後の悲鳴を上げる。そして、そいつらは沈黙した。
「トゥース掃討《そうとう》完了! 一班二班三班四班六班、作戦開始!」
命じるとともに、わたしは走り出した。すぐ右に直衛の石坂、左に指揮補助の堤ちゃん、後ろに那岐先生と六人の女子たち。前方に精鋭部隊の五班。メンバーは、サッカー部の沢木と柔道部の大森、そして、絶対無敵の看板を争う木下と竜巳風先生だ。
来るならこい!
武者震いしながらわたしは境階波を聞き取る。近づくわたしに気付いたネイバーたちが、伊万里のうちを離れる。クラッド、リム、ブローン、すべて足の長さが違う。予想通り、移動速度がばらばらだ。
「四班接敵! 右に曲がって!」
堤ちゃんの声で、県道から路地に入る。成田|率《ひき》いる四班がブローンの一群を牛追いのように追いたててくる。成田はなんとスケボーに乗っている。
「やるじゃん成田!」
「うまいんだから、彼!」
堤ちゃんがうれしそうに叫ぶ。その声が終わらないうちに、はさみうちの形でわたしたちは四体のブローンと衝突した。沢木がブローンにスライディングをかける。大森が抱《かか》えこんで内股《うちまた》をさらう。木下がスバイクでアスファルトを削りながら振り子打法を見せる。
みんな県大会にも出てないのに、全国狙えそうなすごい気迫。
「逝ッて・こいやあ!」
乱れて腹を見せたブローンを、竜巳風先生の摩輪刃《マリンバ》が稲妻のように打ちぬいた。痙攣《けいれん》しながらネイバーたちは土や木に還元《かんげん》していく。
「リム、二群接近! 北と南西!」
わたしが叫ぶが早いか、むこうの角から一班の高槻たちに追われた犬キリンどもが飛び出してきた。反対側からも来ているけど、そちらは誰もフォローしていない。
でもわたしはあわてなかった。
「堤ちゃん?」
「二班急行中!」
木下たちが、高槻の班と連携してリムとぶつかる。そっちに成田たちも回して、わたしは南を向いた。伸びた路地の奥から、街路灯を浴びて十匹近くのリムが殺到してくる。
突然横の私道から出てきたものが、そいつらにぶちかました。華々《はなばな》しい金属音。
「セーラー戦士鈴鹿ちゃんとうちゃーく!」
「なんてことしやがんだ、チャリはおれので班長もおれだぞ!」
武藤の自転車を、バカ鈴鹿がミサイル代わりにぶつけたのだった。あとからついた一班のみんなが、次々に自転車を飛び降りてリムの前に立ちはだかる。
そう、それがわたしたちのアドバンテージだった。路地の入り組む狭い住宅街を、やつら以上の高速で移動するアイテム。機動力で敵を引きずりまわして分散させ、さばける数に限界のある竜巳風先生のもとへと時間差をつけて誘導する。見事に作戦は成功していた。
「よっしゃあ、次ッ!」
「成田たちはあっちの七班へ! 霧岡が苦戦してる!」
北側の敵を掃討した高槻と木下の混成部隊が、武藤の二班に合流した。ネイバーたちの悲鳴で大気が飽和《ほうわ》状態になる。ラインぎわ二センチをぶち抜く高槻のスバイクがバトンに乗って炸裂《さくれつ》する。百メートル十二秒一〇の尾原が影分身を見せる。武藤に抱きついたリムに、鈴鹿がパンツ丸出しの飛び蹴りを放つ。女子も負けてない。
「ムントーなっさけないよ! 強いのはベッドの上だけ?」
「知りもしねえくせにうるせえな苗田《なえだ》、いっぺん教えてやろうか?」
変な取り合わせが盛りあがっている。こんな時だっていうのに苦笑が漏《も》れる。
その時、境階波でホワイトアウトした世界を、不思議な響きが貫《つらぬ》いた。
澄んでいるけど不快な旋律《せんりつ》。ファクスの送信音をバイオリンで弾《はじ》いたような金属質の音。
「パケット圧縮境階波検出! 歌だわ、スロートがいる!」
那岐先生が叫んだ。わたしにもわかった。ネイバーたちの動きに、あきらかな変化が感じられた。霧岡や成田たちと闘っているクラッドが、向きを変えている。
わたしは自分の携帯で、手すきの玉手たち三班を呼んだ。
「玉手! すぐに戻って、伊万里んち!」
『どしたよ?』
「一群抜け出したクラッドが伊万里んちに戻ってるの。スロートに呼ばれてる!」
『わかった!』
「わたしも行く! 高槻、成田、竜巳風先生、あとから来て!」
還元が済んでいないリムたちを置いて、わたしたちは数人で走り出した。
車がやっとすれ違えるような私道を折れて、伊万里の家の前にかけつける。玉手の三班が手を付けかねているような顔をしている。いやな予感がした。
「タッチの差だったよ、入られた!」
玄関のドアが破られている。中から、家族のものらしい悲鳴が聞こえた。
「突っこむよ!」
土足だったけどかまっちゃいられない。一気に中に上がりこむ。靴脱ぎの上に、繁殖期《はんしょくき》のヒキガエルみたいに黒く積み重なったクラッドたちがいた。その向こうで、狂ったように帽子かけを振りまわしている伊万里のお母さん。
「下がってください!」
クラッドが気付いた。振り向きざまいっせいに飛びかかってくる。わたしたちと玉手の三班が受けて立った。狭い玄関でものすごい密度の戦いが起こった。
バトンに張り飛ばされたクラッドが壁にぶち当たる。しがみついたクラッドに足を取られた男子が倒れる。蛇《へび》のように伸びた口吻《こうふん》で、後ろにいた女子の髪の毛がバッと切り飛ばされる。
「如月、これだけ?」
バトンをふるいながら玉手が聞いた。
「違う、もう二階に行ってるやつがいる!」
「じゃあそっち行きなよ!」
玉手が、不意に手を伸ばして、わたしの肩をつかんだ。驚いて顔を見なおすと、涙を浮かべていた。玉手は一息に言った。
「如月ごめん、あの日、あんたが帰っちゃう前に、如月さえいなければって言ったの、あたしなの!」
「玉手」
「ずっと言えなかったよ。でもいま言わないと! 本当にごめん!」
「玉手――」
玉手が唇《くちびる》をかみしめてうつむく。わたしは、玉手の髪にそっと触れた。
後ろから伸びたクラッドの口吻を、石坂が居合抜きで叩き落した。
「縁起でもない言い方しないでよ。言ってくれただけで十分!」
「抜けるぞ!」
階段の前で木下が叫んだ。わたしはそこに突っこんで、木下と階段を駆け上った。
「如月がいらないやつなんて一人もいないよ!」
後ろから、玉手の叫びが聞こえた。
二階の廊下から伊万里の部屋に入ると、雪のように羽毛が舞っていた。
電気の消えた部屋の中で、ビシッ、ビシッという音がした。目を細めると、ベッドに盛り上がった布団《ふとん》の塊が見えた。それを二匹のクラッドが取り囲んで口吻で削《そ》ぎ取《と》っているのだ。
「伊万里! いるの?」
「――如月?」
かわいそうなほど怯《おび》えきった声が聞こえた。伊万里の声とは思えない。
「この野郎!」
木下がクラッドたちに襲いかかる。その隙《すき》に、わたしは布団に飛びついて、伊万里を引きずり出した。体をかがめてベランダに連れ出す。中で木下が食い止めてくれる。
「ケガしてない? 大丈夫だった?」
「き、如月……」
化粧を涙でべっとり流した顔で、伊万里がへたりこんだ。
「なにしに来たんだよ、なんで助けに来るんだよ! おまえどうしてそんなことできるんだよ、あたしなんか、あたしなんかなにも……」
「伊万里!」
肩をつかんで、強く揺さぶった。
「怖《こわ》かったでしょ。わかるよ。すごくわかるよ。でも、でも、ああ!」
ネイバーに襲われる恐怖、みんながいなくてひとりになった寂《さび》しさ、どれも痛いほどよくわかった。それはずっとわたしが感じてきたことだった。
でも、それを伝える言葉がない。かたくなな伊万里に気持ちを伝える言葉がない。
わたしにできたのは、頭を下げることだけだった。
「伊万里、ごめん」
「如月?」
「伊万里がわたしのうちから一人で帰っちゃった時、わたし、追っかけなきゃいけないって思った。でも行けなかった」
さっきの玉手と同じ顔をしていたと思う。わたしはぶちまけた。
「腹立ってたから。あの時伊万里が大嫌いだったから!」
「…………」
「伊万里、わたしにムカついてあたりまえだよ。きれいごと言ってたのに、考えてたのは汚いことだもの。自分の汚いとこ見ずに人の欠点だけ責《せ》めてたんだもの」
伊万里もわたしも同じだった。伊万里のほうがずっと正直だった。またバカにされても仕方ない、という気持ちでわたしは頭を下げた。
「ごめんなさい、伊万里」
しばらく返事がなかった。それから、頭に手が置かれた。
「如月……」
わたしは、顔を上げた。伊万里が、半信半疑の顔で言った。
「あんたも自分勝手だって言うの?」
「そうだよ」
「腹立ったり、あたりのものぶっ壊したくなったり、殺してやるとか思ったりする?」
「一週間ずっとそうだったよ。部屋の中ゴミ箱状態」
「なんだ、そうか……」
伊万里は、ふっと目許《めもと》をゆるめた。初めて見る微笑だった。
「……あたしだけじゃ、なかったんだ」
「みんなそうだよ。ただ、伊万里は気付くきっかけがなかっただけ――ああ、またわたしえらそうなこと言ってる! なんでかなもう!」
「……わめくなよ、うっさいから」
ぶっきらぼうな言葉だったけど、笑みは消えていなかった。そして伊万里は、水のようにさらっと、本当にかっこよく言った。
「ありがと、助かったよ」
「伊万里……」
わたしは笑いかけた。それが、途中で凍りついた。またあの音が聞こえた。
「!」
わたしは振り返った。部屋の中で木下と戦っているクラッドじゃない。上だ。屋根の上!
そこに幽霊がいた。
二メートルはある細身の影。白いマントをまとったような起伏のない体。半身を覆《おお》う黒く長い髪の毛。
髪の毛が揺れ、つややかな頬が見えた。三日月のような真っ赤な口があった。
歌が響いた。
「うっ!」
頭が割れるように痛んだ。至近距離で聞くスロートの歌は、ハンマーのような破壊力があった。わたしの中にむらむらと怒りが湧いた。こいつの、こいつのせいで伊万里は、クラッドに囲まれて死ぬほど怯えて――。
―― 黙りなさい! ――
声じゃなくて意識で叫んだ。口元を叩かれたようにスロートが歌を止《や》めた。
わたしは気付いた。わたしが音を出したのだ。初めて、自分の体が放っている境階波が聞こえた。それは心臓の鼓動のように、耳以外の全身で聞くものだった。
―― おまえのせいで、みんなが! ――
わたしの意思が秩序を変えた。わたしの体が監視階梯の法則に従って震えた。発振された境階波がスロートを引っぱたいた。スロートがはっきりと怯えた。
バトンをかざす。それがアンテナになるとわかった。
―― おまえなんか、消えてしまえ! ――
ありったけの怒りをこめて、わたしは境階波を放った。スロートがそれを迎え撃った。球状に広がったふたつの境階波が干渉しあって飛び散った。金ノコで挽《ひ》かれるような振動が直接頭の骨に食いこんでくる。叫び合いじゃ勝てない。
スロートのおらび声。語っている。敵がいる、ここに脅威《きょうい》があると。
木下のバトンをくぐり抜けて、部屋の中からクラッドが飛びだしてきた。振りむきざまバトンを構えたけど、体当たりには耐え切れなかった。吻《ふん》を使う余裕もなくした、恐慌《きょうこう》状態のクラッドが一度に胸にぶつかった。
体が傾く。ベランダの手すりが低い。
「如月!」
木下と伊万里の叫びを、屋根の上で転がりながら聞いた。負けられない。屋根のヘリから落ちる寸前、塩ビの雨どいに手をかけることができた。ぶら下がる。バキバキと音を立ててゆっくり垂れ下がった雨どいが、勢いを殺してくれた。
地面で体勢を立て直す。転がり落ちたダメージなど意にも介《かい》さない様子で、クラッドたちがこちらを向く。さっきの接触の瞬間、相手の振動強度がわかった。コマが回っている程度のものだ。押し切れば止められる。
でも、伸びてしまった肩が痛い。ひねった腰が痛い。クラッドの動きについていけるかどうかわからない。
境階波の叫びを上げて、クラッドが飛びかかってきた。まずいー
「くったばりゃあ!」
目の前を銀の円盤が流れた。今までにない勢いだった。二匹のクラッドが一度に捉《とら》えられ、地面に落ちるよりも早く水滴になって散った。
「如月! 飛ばしすぎんな!」
竜巳風先生だった。那岐先生も。後ろにみんながいた。
力が抜けかけた。でも、まだ終わりじゃない。わたしは背筋を伸ばして、上に視線を向けた。警戒の歌声を上げながら、スロートの白い姿が、ベランダに降りてきた。
「如月!」
―― 伊万里を追い詰めたあいつだけは、わたしがこの手で ――
―― 降りてこい! かかってこい! ――
わたしが呼ぶと、スロートは体を揺らがせた。考えている。だめだ、逃げられる。
そう思った時、大柄な影がスロートの後ろに立った。
「逃がすわけねえだろ!」
木下が全体重を乗せたバトンを切り下げた。構造の中央にそれを食らったスロートが、悲鳴を上げながら回転して、奇妙な放物線で落ちてきた。わたしの目の前。
―― さあ! ――
わたしは思いきりバトンを叩きつけた。スロートが叫びながら身もだえする。コマどころじゃない、壊れかけのモーターが全開で回っているような高周波の振動がバトンから戻る。腕の骨が崩れてしまいそうな震えに耐えて、わたしは無理やリバトンを押しつけた。
―― 止まれえ! ――
スロートの震えを押しつぶした。
ばっ、と羽が散るようにスロートは体を失った。細かい境階波の残響が、ちりちりとさざ波を耳に残した。
「如月! 如月!」
木下の叫びが遠い。体がまだ境階波を放って震えている。それを抑《おさ》えていつもの自分に返る気力もなく、わたしはぺたりとしゃがみこんだ。
本物のさるみたいに屋根から飛び降りてきた木下が、わたしを抱《かか》え上《あ》げた。
「如月! 大丈夫か!」
「やっつけたよ……」
「ああ。おれにも聞こえたぜ。すごかった……」
わっとばかりに、みんなが集まってきた。服や髪はぐしゃぐしゃだけど、ケガ人はいないみたいだ。那岐先生が言った。
「わかったみたいね。境階波の感じ方」
「聞こえたんですか?」
「もちろん。あなたこれから、我々にとっても貴重な戦力になるわ」
「オウ、労働したら腹減ったな」
竜巳風先生が言った。
「まだ肉、五キロは残ってただろ。続きやるぞ」
「全部食い尽《つ》くしちゃるぞ!」「徹夜だ徹夜」「飲みたい! いま飲みたい気分!」
「いいよ、お酒解禁!」
わたしが言うと、成田と木下が、がっと両腕をぶつけ合った。竜巳風先生はもちろん何も言わない。那岐先生は聞かないふりをしてる。
その時、伊万里が玄関から出てきた。すっとみんなが静かになる。わたしは気力で立ちあがると、伊万里の腕をとってみんなの中に引っ張った。
「報告します。伊万里は無傷! お母さんも無事だよね? 作戦は成功!」
それでもみんなは、まだ気まずそうな顔をしている。さっきまでのわたしと一緒だ。
でも鈴鹿が、一世一代のナイスな大バカをやった。
「勝負だ、まりちゃん! 焼肉日本酒無理食い野球拳、判定なしの完全KO戦!」
即あだ名でしかも意味不明な競技種目。固唾《かたず》を呑《の》んで見守るみんなの前で、伊万里はフッと笑った。
「上等じゃん、パンツ寸止《すんど》めなしだからな。胸も隠すな、股《また》開け」
嵐の大歓声だった。
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エピローグ
「うー……」
昼休み。鈴鹿《すずか》がコンビニの日替わり弁当の上につっぷして、うなっている。
「頭痛いよー……もうお酒なんか絶対飲まない」
「一番はしゃいでたくせに。むかれ果ててお風呂に逃げて、まだ飲んでたくせに」
「なんできーちゃん平気なの?」
「さあ? 体質かも」
意外な発見だった。最近どんどん知らなかったことを知ってしまう。
「よし、食うぞ! 人間食わんと死ぬ!」
気合を入れて顔を上げた鈴鹿が、わたしの後ろに目を止めた。振り向くと、伊万里《いまり》が立っていた。伊万里は無言で、隣の島に座っていた巨体の大森を蹴倒《けたお》すと、椅子《いす》を奪ってわたしの隣に座った。
「い、伊万里……」
「なに」
「大森、泣いてる」
「うざ、暑」
「なんでここに?」
「別に」
おべんと箱を開いて、ぱくぱく食べ出す。仲間になるっていう意志表示なんだろうけど……もうちょっと文明的にやれないかなあ。
わたしが困っていると、伊万里はぶっきらぼうに言った。
「バトン、貸せよ。あんたはいらないだろ、ヘッドだから」
「そうだけど、伊万里やったことないんじゃ」
「なめんな」
そう言うと、伊万里は机の横のわたしのかばんから、ひょいとバトンを抜き出してしまった。つまらなそうな表情で無造作にスカートの腰にぶっ刺す。鈴鹿が頼もしそうに見ている。
「いいんじゃない、きーちゃん。最強のあたしを倒した女だもの。強いよ、まりちゃんは」
伊万里、無言。い、異議なし? 最強のなんたらなんて暴言を許すか?
いや……。
冗談じゃなく切実に、伊万里の参加はありがたい。うれしいなんていう甘い次元の話じゃない。ネイバーはまだいる。いつ次の集団が来るかわからない。今も……潮騒《しおさい》のように遠く、やつらの足音が聞こえるような気がする。
でも、負けることはない。みんながいるんだから。
学校は閉鎖《へいさ》的な空間で、三年一組は目に見えない檻《おり》かもしれないけど。
決して灰色じゃない。
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POSTSCRlPT
読者の皆さん、初めまして。いえ、おひさしぶりと言ったほうがいいでしょうか。
私は以前、j−BOOKSで「河出智紀《かわでとものり》」を名乗っていました。わけあって小川一水と名を変えましたが、再びここで皆さんにお会いできたことは、うれしい限りです。
今回の話で書きたかったことはただひとつ。
「クラス一丸、強敵撃破」
これに尽きます。
作中の円陣だとか友人宅での深夜座談会とかは、一部、大学に入ってから経験しました。
しかし、一番熱かった高校の時にこれをやれたら、どんなにか楽しかっただろう。思えば真面目なやつも遊んでたやつも、硬派も軟派もオタクもイケメンも、色々なやつがいたはずだけれど、受験勉強に轢《ひ》き潰《つぶ》されてぺったんこだったからなあ。見分けもつかなかった。
過ぎ去って初めてわかる青春の味――いや、まだそんなに年でもないんですが。
現役高校生の皆さん、ノートから顔を上げてください。ペンを捨てうとは言わない。しかし、今までつき合いのなかったやつもクラスにはいるはず。
時間はありません。話しかけてください。
短いあいさつですが、これで。
また機会があれば、お会いしましょう。
西暦二千年十一月十八日
[#地から1字上げ]小川一水
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■初出
グレイ・チェンバー 書き下ろし
底本
集英社 JUMP j BOOKS
グレイ・チェンバー
著者 小川一水
2000年12月30日  第1刷発行
発行者――後藤広喜
発行所――株式会社 集英社
[#地付き]2008年5月1日作成 hj