[#表紙(表紙.jpg)]
スペインを追われたユダヤ人
小岸 昭
目 次
凡例
序 追放の言語
第一章 ユダヤ人の不安
星の山とマラーノの国
その後の訪問者たち
マラーノとは何者か
第二章 ドイツのマラーノ
国境の死神
ハンブルクの|猶太人街《ゲツトー》
禁じられた生ハム
第三章 カバラ主義者の故郷ヘローナ
器の破壊
「地下」シナゴーグ
メシアの風
第四章 グラナダ一四九二年
アルハンブラ落城
コロンブスとは何者か
マラーノの諸相
第五章 火刑都市セビリヤ
|二人部屋《ドス・カマス》
ペスト流行と異端審問所開設
大審問官ゲバラの肖像
第六章 コルドバの|猶太人街《ラ・フデリア》
マイモニデス広場
マラーノの抵抗
シナゴーグ像
第七章 トレドの死の影のなかで
エル・グレコの家
密告
ふたつのシナゴーグ
第八章 ポルトガル・マラーノの行方
彷徨う難民
扉のなかの顔
トマールへ
第九章 棘族の末裔スピノザ
強化された後発者
レンズ
薔薇の印章
第一〇章 あるマラーノ研究者の運命
汽車
アムステルダム最後の日々
追放と王国
第一一章 トーマス・マンの「マラーノ的」魅力
ダ・シルヴァの眷族
スペインの拷問笞刑吏
亡命と言語
第一二章 エリアス・カネッティ──ふたつの追放の言語をもつ作家
カニェテ一族の移住
斧と文字
ベルリン「黄金時代」の虚妄
後書きにかえて──外の思考
学芸文庫版への後書き
マラーノ関係年表
注
[#改ページ]
凡例
[#ここから1字下げ]
一、本来は複数形ないし複数概念で表記すべき、つぎの術語や固有名詞については、単数形・単数概念で統一した。
[#ここから2字下げ]
マラーノス(Marranos)→マラーノ
セファルディム(Sephardim)→セファルディ
アシュケナージム(Aschkenasim)→アシュケナージ
[#ここから1字下げ]
二、重要な術語については、訳語の後の「 」内に入れたカナ表記でしめした。
[#ここから2字下げ]
ユダヤ人街「ラ・フデリア」
ユダヤ教教会堂「シナゴーグ」など。
[#ここから1字下げ]
三、写真は、資料写真をのぞき、筆者撮影による。
四、図版および地図は、各文献資料による。
[#改ページ]
序[#「序」はゴシック体] 追放の言語
[#ここから5字下げ]
「自分たちユダヤ人の唯一の祖国はエクリチュール、言葉なのだ。」
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](ピエール・ゴルドマン)
私が最初にスペインを訪れたのは、一九六八年三月のことであった。それ以来、何度かスペインの旅をしているが、どれも陰鬱なドイツの冬を逃れるための、まったくありきたりな旅だった。私はいつもピレネー山脈の向こうに広がる青い空と、ラテン系の人々の明るい生活ぶりをあこがれていたように思う。
だが、ほかならぬこのスペインが私にいくらか現実味をおびて迫ってきたのは、面従腹背の隠れユダヤ教徒「マラーノ」の歴史を知ってからである。マラーノという、表向きの同調と内的な反抗に引き裂かれたユダヤ人改宗者の存在を、私は、二度目のドイツ滞在ちゅうの一九八八年秋に出版された、フリッツ・ハイマンの著書『死か洗礼か』ではじめて知った。折しも、水晶の夜「クリスタルナハト」五〇周年の記念追悼行事が、ドイツ各地で催されている|最中《さなか》のことだった。
もしこの書物にめぐりあうことがなかったならば、スペインは相変わらず遙かピレネーの向こうにひろがる一辺境として、私のエキゾチシズムを満たすだけの国にとどまっていたはずであった。だが、この時を境にして、歴史の裏側に閉じこめられたユダヤ人の不安が、あの月桂樹とオレンジの香りに満ちあふれたスペインの近代に端を発しているのが、ようやく私の目にも見えるようになってきた。
問題は、誰もが知っている世界史上の年号、一四九二年である。その年の夏、キリスト教への改宗を拒否したスペイン系ユダヤ人「セファルディ」は、カトリック両王、フェルナンドとイサベルの勅令のために故郷を失い、幸せを失って、ポルトガルや北アフリカ、イタリア、さらにはオスマン=トルコ帝国へ移住を余儀なくされた。他方、一四九六年の追放令により名前を変えてキリスト教に改宗したポルトガルのユダヤ人は、一五三六年同国に異端審問所が設置され、その影のなかで不安な生活を送っていたが、一六世紀末から一七世紀初頭にかけて自由都市アムステルダムへ海路を逃れて行った。
マラーノ=豚。イベリア半島から追放されて以来何百年にもわたって世界的な移住の旅をつづける彼らは、スペイン語でそう蔑称された。
それ自体でいっそう凝縮を強めてゆく正統信仰の「内」から「外」へ追放されたセファルディは、自分たちの故郷の言語であるスペイン語を移住先の国へ携えて行った。つまり、宗旨を変えることを潔しとはしなかったセファルディにとっても、改宗した新キリスト教徒のマラーノにとっても、スペイン語は彼らの追放の言語になったのである。国土や民族ではなく、宗教や経済力でさえなく、ただ言語だけが、祖国の外へ追放されたユダヤ人の唯一の「内」に、目に見えぬ「祖国」となったのである。かくて、このスペイン系およびポルトガル系ユダヤ人は、それぞれの新しい故国において四〇〇年以上も彼らの追放の言語を純粋に保持し、彼らの内なる祖国としての言語島を築いてゆくことになる。
追放という、故国からの離脱を強いられたユダヤ人たちは、漂着した新しい国において、もちろん地位もなければ富も血縁・知友ももってはいなかった。通常の文化的・社会的な領域の外につくった「離れ小島」からやがて新しい祖国の言語を使い、主として金銭にまつわる仕事をしはじめたにしても、彼らが定住した国の法や習俗から本質的にはみ出した寄る辺ない存在であることに変わりはない。彼らは異邦の地でどれほど目覚ましい成功をおさめたにしても、その地の民族に同化することはあり得ず、その文化的・社会的な状態と再統合することもあり得ず、依然として都市から、権力ある者たちから追放されつづけている|流謫《るたく》の民「ノマド」なのである。
つまり、このような離脱と剥奪を特質とする境界状況に置かれた、セファルディ系ユダヤ人は、追われた祖国の言葉である追放の言語によって辛うじて自己同一性を保持しながら、その言語島のなかで互いに緊密な家族関係・同胞関係を|育《はぐく》もうとしたのであった。とすれば、追放(Exil)とは、本来人間という現存(Existenz)の根源に向かって思考を集中させずにはおかない、すぐれて哲学的な問題のはずである。
だが、近代ヨーロッパのあらゆる哲学的言説は、こうした迫害・追放の問題を執拗に隠蔽しつづけてきたのである。キリスト教中心の歴史学にも迫害・追放問題の深化をのぞみ得ないとすれば、いったいいかなる思想領域に目を向ければよいのか。あるいはこの問いに直接答えられるのは、中世ユダヤ哲学の重要な一部門をなすユダヤ教神秘主義「カバラ」であるかもしれない。というのも、カバラがラビ的ユダヤ教の主流から離脱し、一二世紀から一三世紀にかけて南フランスとスペインを中心に誕生し、マラーノの移住先で発展した一大精神運動であるならば、このようなカバラが、追放をやがて自らの思考の主要な対象にしてゆくのはけだし当然のことだからである。
カバラ的思考のこうした結晶化へ向かうに先立って、スペイン国内で死刑か洗礼かの恐怖政治がどのように実施され、マラーノに対する異端審問がどのように行なわれたのだろうか。さらに、スペイン、ポルトガルの異端審問の宗教的迫害にさらされていたマラーノの意識は、その後移住先の国でどのような思想を形成していったのだろうか。外なる世界の社会的緊張の場で唯一の祖国を「エクリチュール、言葉」にもとめたセファルディやマラーノの、このような文学的性格は、どれほどかけ離れていようと、北の国ドイツまでも|彷徨《さまよ》ってゆく可能性がある。であれば、彼らの|末裔《まつえい》のなかから、追放と離散という歴史の暗部から出発し、何百年も航海して、ついに現代ドイツ文学の世界に上陸する者が出てくるかもしれないのだ。スペインの過去の意識をいまに携えているそうした文学者がいるとすれば、その文学は人間の追放と離散の歴史のなかで最も注目すべきものだろう。
右の消息を知るために、私は追放が今からちょうど五〇〇年前に起こったスペインのユダヤ人街を訪ね、さらにはこの流浪の民が移住して行った新しい祖国をもできる限り回ってみようと思い立った。しかし、とくにマラーノ意識のドイツ文学への進出というテーマについては、旅行前何ひとつはっきりしたイメージをもってはいなかった。それでも実際旅をしているうちに、このまったく未知のテーマに照明をあてるものが現れてくるにちがいないという予感だけはもっていたように思う。私の年上の友人、徳永|恂《まこと》も、彼が長く携わってきたフランクフルト学派の研究者としての立場から、この旅行計画に積極的な興味をしめしてきた。セファルディ並びにマラーノの迫害と追放をめぐる我々のスペイン幻想紀行は、このようにしてはじまった。一九九〇年七月のことである。
[#改ページ]
第一章[#「第一章」はゴシック体] ユダヤ人の不安
[#ここから5字下げ]
「自分をユダヤ人だと考えだすと、すぐ目覚めてくるのは、いつも熱く激しく私を襲う、あの得体の知れない不安感なのだ。」
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](アルベール・メンミ『あるユダヤ人の肖像』(1))
星の山とマラーノの国
セファルディおよびマラーノに関する幻想紀行をはじめる前に、私はユダヤ人を特色づけているある側面について考察を試みたい。その側面とは、歴史を通じて逃れようもなくユダヤ人を脅かしつづけ、つねに他者あるいは人種的異物として迫害されてきたユダヤ人の、自我の最深部に入りこんでいる不安である。出発しなければならないのは、まさにこの点からであり、ユダヤ人の不安の実体がどれほど捉え難いものだとしても、我々はこの歴史的・心理的な事実がもつ深さから出発しないわけにはゆかないのである。
二〇〇〇年来ユダヤ人は歴史の惨劇を数限りなく体験してきたが、迫害に対する彼らの抵抗は時とともに|稀《まれ》となり(2)、しかも抵抗はその都度、以前にも増して激しい弾圧によって報復されてきた。キリスト教を中心とした国々は、征服者としてそれぞれの歴史を形成し自己を実現するために、とりわけユダヤ人を排除項に縛りつけてきたのである。だからユダヤ人街は、都市のなかにあっても離れ小島のような趣きを呈して、歴史の外に置きざりにされてきたのだった。そして、このような島に住むユダヤ人は、都市の内部から迫害の嵐が吹いてくればまた島から追い出され、流浪の運命に身をゆだねなければならないという不安に絶えず脅かされつづけてきたのだ。この不安こそ、自らの国土と自己同一性という安住の地に住む諸々の民族から、ユダヤ人を分かつものなのである。
こうした不安定感、あるいはその徹底した受動性がユダヤ人の唯一の集団的特性となった。ユダヤ人の集団が都市からどれほど|辺鄙《へんぴ》な|山間《やまあい》の村に移住して行ったにしても、彼らはやはり同じような試練を受け、その運命はもはや変わりようもない。しかし、ユダヤ人のこうした運命になにか積極的なものがあるとすれば、それは暗黒に塗りつぶされた運命を決して忘れることのない、彼らの強靱な記憶そのものであるにちがいない。
近代のうちに自らを見出したヨーロッパの歴史を全体として理解するためには、迫害された人々の、いかなる暴力によっても決して根絶されることのないこの記憶の存在に注目する必要がある。その場合、かつて迫害が行なわれたという記憶は、いつまた迫害の手がのびてくるかもしれないという不安によっていっそう強められ、父親から息子へ、世代から次の世代へ、何十年も、時には何百年にもわたって語り継がれてゆく。実際、迫害という現象は、人間社会の根底につねにマグマのように存在しているものなので、何十年、何百年の休止期をおいて、いつ爆発してくるかも分からない、そうした性質をおびているのである。
かつて迫害を受けた人々は、とくに経済変動や戦争、あるいは流行病が迫害の引き金になることをよく知っているので、自分たちを取り巻く社会をいたずらに刺激しないよう周縁に身を置き、極力人の目につかぬようにしながら、ふだんから細心の注意を払っていることだろう。だから、かつてあったことは、いつまたあるかもしれないという不安が、そうした場合、共同体の周囲に目に見えぬ壁を築いて、そのなかにひっそり暮らす方向へ人人をみちびくということも、当然起こりうる。ひとりの旅人が辺境のそうした壁のなかの村に到着するまで、歴史はそこに住む人々の不安などまるでこの世に存在しないかのように、延々と経過したのである。
つぎのような話が、実際あったこととして伝えられている(3)。
一九一七年にサムエル・シュヴァルツという、ポーランド出身の鉱山技師が、それまで数年間住んでいたリスボンから、北ポルトガル山中の小さな町ベルモンテへやって来た。ベイラ・バイシャ地方のこの町は、一九九一メートルの山を擁するエストレーラ山脈の東側にあり、一〇五六メートルの高原の町グァルダと、六一〇メートルの山間の町コビリャンのほぼ中間に位置している。
当地の、貧しい農民や日庸労働者が、働き口をもとめてシュヴァルツのところへやって来たが、誰も彼も、こんな時昔からよくあるように、競争相手のことを悪しざまに言うのであった。
「あいつはユダヤ人ですよ、旦那!」とある男が言って隣の男を指し、こうつけ加えるのだった。「これで何もかも分かるでしょう。」
リスボンの小さなユダヤ人共同体のメンバーであるシュヴァルツは、その時一瞬耳をそばだてた。そこで彼は、指をさされた当のユダヤ人を呼び、慎重に言葉を選びながら尋ねてみたが、「私は旧キリスト教徒の女性と結婚しましたので、宗旨仲間とのつきあいはあまりないんです」という返事がかえってきただけであった。だが、この男はシュヴァルツに、もうひとり別の男を紹介して、ささやくように親しみをこめてこう言うのだった。「あいつはわしらの仲間のひとりですよ、旦那。」
多くの抵抗はあったものの、こうしてシュヴァルツは、ベルモンテの農民たちの信頼を徐々にかちとっていったのである。
ところが、「ぼくもユダヤ人です」と言ったシュヴァルツの言葉を、意外なことに農民たちはまったく信じようとはしなかった。というのも、彼らは宗旨仲間同士でひそかに会っているこの辺鄙な山岳地帯の外の世界に、ユダヤ人が住んでいるなどという話を、それまでに聞いたことがなかったからである。あまつさえ、外国には自分たちの信仰を公然と表明できる大きなユダヤ人の団体が存在するという|噂《うわさ》さえ、この山間の狭い世界に伝わってきたことはなかった。一方シュヴァルツのほうでも、表向きのカトリックへの改宗者であるマラーノの間で、父親から息子へ受け継がれてきた奇妙な祈祷、つまりマラーノが互いに兄弟として認め合う際の符丁となる、古いポルトガル語の短い祈りの言葉を知らなかった。
最後に農民たちは、格別人々に尊敬されているひとりの老女を連れて来た。老女は、シュヴァルツを見上げて、祈祷のひとつを唱えてみるようにもとめた。ユダヤ人なら誰でもそうするであろうように、彼もまた聖句「シェマ」を唱えた。そして、彼がわが主「アドナイ」を口にした時だった。老女は突然両手で目をおおったのである。シュヴァルツが聖句を唱え終わった時、老女は周りを取り巻く人々に向かって、興奮の面持ちでこう断言した。「この方は、正真正銘のユダヤ人です。それは、この方が神の呼び名『アドナイ』を知っておられるからです。」
このようにして、イベリア半島から消え去って久しい、ヘブライ語の最後の|残滓《ざんし》であるわが主「アドナイ」の一言によって、北ポルトガル山中のマラーノの|末裔《まつえい》とヨーロッパのユダヤ人世界との接触が、四世紀を経て再び開始されるにいたった。
宗旨仲間であることがいったん分かってしまうと、農民たちは、シュヴァルツがマラーノについて知ろうとしていることは何でも、腹蔵なく教えてくれるようになった。こうして彼がそれから耳にしたことは、あまりにも驚くべきことだったので、最初は到底信じられないほどだった。というのは、ベルモンテだけに限らず、これを取り囲んで走るエストレーラ山脈全体が、じつはマラーノの国だったからである。ベルモンテやグァルダ、コビリャンでユダヤ人の血を引かぬ者はひとりとしていなかった。そして、ひどく変形されているためにマラーノのものとはほとんど見分けがつかぬ奇妙なユダヤの|慣習《しきたり》を守っていた住民も、確かに存在していたのである。
それに続く数年間、シュヴァルツは、鉱山の仕事のかたわら、精力的に各地を訪ね回って、マラーノの実体調査を行なった。そこから彼が突き止めたところによれば、北ポルトガルの三つの地方、すなわちトラス=オス=モンテス地方、ベイラ・バイシャ地方およびドーロ地方とミーニョ地方の中間地帯には、一万家族ものユダヤ人が住んでおり、しかも彼らは血筋から言ってもほとんど純粋なユダヤ人だということであった。
(画像省略)
一方、北ポルトガルのこの荒涼として貧しいマラーノの国に君臨する王者といえば、やはりセラ・ダ・エストレーラをおいてほかにはない。冬が厳しさを増すにつれて、この王者は|峨々《がが》たる白銀の稜線を天空に向かっていっそう鋭く描き出す。ポルトガル語で「星の|山脈《やま》」を意味する王者セラ・ダ・エストレーラは、国土もなく、政府や国王どころか一般の市民生活さえもたない追放されたマラーノを、三〇〇年近くも外界から遮断し隔絶してきたのであった。コインブラからグァルダまで全長一〇〇キロにもおよぶ、幅三〇キロのこの|花崗岩《かこうがん》の山は、隠れユダヤ教徒にとってむろん約束された王国ではなかったが、それでもその巨大さと厳しさによって、そしてなによりもその星々の|煌《きらめ》く偉容と敬虔によって、彼らの心の大きな拠り所になっていた。
それゆえ、この地に残留したマラーノにとっても、ここから遙かな|遠国土《おんこくど》へ|彷徨《さまよ》っていったマラーノにとっても、「星の山」は彼らの永遠に変わらぬふるさとであり、たしかに彼らの声なき祈りにこたえる教会堂のごとき存在でもあった。この閉ざされた「星の山」のなかに陸封され、外から来る見知らぬ男に怯えて離散と追放を生きていたポルトガル・マラーノの話は、ヨーロッパじゅうを、いやその遙かな東の果てまで|流離《さすら》いながら決して共同性を失うことがなかったユダヤ・ノマドの歴史と同様に、我々に大きな衝撃をあたえるのである。
その後の訪問者たち
サムエル・シュヴァルツが一九二五年に『二〇世紀におけるポルトガルの新キリスト教徒について』という書物を出版すると、このマラーノの国発見の話は、あたかもユダヤ人にまつわるおとぎ話ででもあるかのようにヨーロッパ世界に伝えられた。その年のうちにロンドンのポルトガル人共同体は、マラーノの歴史に|造詣《ぞうけい》の深いジャーナリスト、ルシアン・ウルフをポルトガルへ派遣した。そしてウルフは、シュヴァルツの語る夢物語のような話がすべて真実であることを、冷静な言葉で裏づけたのである。
それから何人かの訪問者が繰り返しこのマラーノの国へ赴いた。アムステルダムの「ポルトガル人」、ダ・シルヴァ=ローザも、遙かな星の山の向こうに自分と血のつながった父祖たちを訪ねた。そこから、ポルトガルの|無辜《むこ》の農民が、異端審問の捕吏にいつ発見されるかも分からないという永年の不安からようやく解放されて、ユダヤ教へ正式に復帰するための多くの計画や希望が生まれてきたのであった。
ダ・シルヴァ=ローザ。ゲルショム・ショーレムによれば、彼はアムステルダムの|律法学院《エス・ハイーム》図書館に勤める司書であった(4)。ショーレムが主著『サバタイ・ツヴィ』(一九五七年)のなかで、ポルトガルの口伝および伝承的な祈祷文に関するダ・シルヴァ=ローザの論考を引用している|条《くだり》から、この司書については、アムステルダムの知的なマラーノ、しかもポルトガルにおけるマラーノの習俗・儀礼の研究者といった人物像が浮かび上がってくる。マラーノとしての、マラーノ研究者としてのその立場からして、ダ・シルヴァ=ローザは、極端なカトリック政策をとったジョアン三世によって、ポルトガルにも一五三六年異端審問制度が導入され、初代大審問官としてディオゴ・ダ・シルヴァ(5)が登用されたいきさつについて、もちろん知っていたはずである。
ちなみに、ダ・シルヴァの姓をもつ者のなかでつとにその名を知られているのは、ポルトガルの劇作家アントニオ・ホセ・ダ・シルヴァである。このダ・シルヴァは、一七〇五年ブラジルのリオ・デ・ジャネイロに生まれたマラーノだった。『ユダヤ事典』によれば、コインブラ大学で法律を学んだ後リスボンに出て弁護士となった彼は、早くから劇作に手を染め、『ラ・マンチャのドン・キホーテ』、『クレタの迷宮』、『プロテウスの変幻』など、すぐれた作品を多数ポルトガル演劇史に残した才人である。その喜劇や喜歌劇、人形芝居や歌謡は、いずれも時代の悪習を鋭く告発する内容のものであった。ユダヤ色の強い彼の喜劇は、むろんすべて異端審問の目を逃れるために当時匿名で発表されたのである。
二一歳の時ダ・シルヴァは、「恥知らずな」風刺劇を書き、しかも実生活でモーセの掟を守っているとの理由で、異端審問所に告訴されたことがあった。その時は、反省の色いちじるしいとして数カ月後に釈放された。しかし、ユダヤ教の習慣は相変わらずひそかに実行され続けたのである。その後ダ・シルヴァは、純粋な人格でありながら、世に奇人と呼ばれている人間に特有のある行動に出た。すなわち、一方では、割礼に関する神とアブラハムの契約にちなむアブラハム結社に入会しながら、他方ではユダヤ教復帰の噂をあえて否定するためフランシスコ修道会に入った。これが結局命取りになって、一七三七年アントニオ・ホセ・ダ・シルヴァは、妻とともに異端審問所の牢獄につながれ、死刑を宣告されて、ついに一七三九年一〇月一八日、公開で、しかも同じように死刑を宣告された妻の目の前で、生きながら|火炙《ひあぶ》りにされたのである(6)。
このように、意識の分裂を背負ったマラーノの足跡を訪ねる我々の旅の道案内人になってくれそうな、ダ・シルヴァという名前だけに限っても、その名をもった人間が、時には体制側の残酷さのなかに、時には創造行為と抵抗の輝きのなかに姿を現してくる。異端を裁く大審問官の存在と処刑された若い劇作家の生涯は、ポルトガルのマラーノたちの記憶に強く刻みつけられ語り継がれたからこそ、最後の異端者に対する有罪判決(一八二六年)(7)からすでに一〇〇年近く経っていながらなお、彼らは星の山「セラ・ダ・エストレーラ」から一歩たりとも外に出ようとはしなかったのである。
一九三一年、つまり、シュヴァルツが隠れユダヤ教徒の劇的な発見に関する本を出してから六年後に、マラーノの国へ旅をしたドイツ人ジャーナリストがいた。その際彼は、スペイン、ポルトガルの各都市をも回って、マラーノの迫害と追放に関する資料を発掘しようとしたのである。
このユダヤ系ドイツ人は、一九三三年三月にナチが政権をとるとともに、ヒトラーのドイツを去らなくてはならなかった。ドイツ南西部の自由州ザールラントへ逃れた彼は、友人とともに反ナチ新聞の編集に携わっていたが、ザールとラインが同盟した一九三五年、最終的にドイツの地を去って、アムステルダムへ亡命していった。フリッツ・ハイマンというこの気鋭のジャーナリストは、一九四〇年夏、亡命先のアムステルダムで『マラーノ年代記』という題で六回にわたる連続講演を行なった。これが、スペインの深層に私の目を開かせてくれた、あのハイマンである。
タイプライター用紙で一一五枚におよぶその講演原稿は、フリッツ・ハイマンの母親マチルデが、アルゼンチンへ亡命の際携行したものであった。この原稿を彼女は、ようやく一九五九年になって、次のような手紙を添え、ニューヨークの「レオ・ベック研究所」(一九五四年設立、ロンドン、エルサレムにも)に送ったのである。
「私が亡命した時の持ち物のなかに、息子が『マラーノ年代記』という題で当時アムステルダムで行なった連続講演の原稿が入っておりました。息子はこの方面でひろい知識をもっておりましたので、この原稿には従来知られていなかった多くの新資料が含まれていることと存じます。(8)」
こうしてナチの破壊行動と戦火を生き残ったこの『マラーノ年代記』は、一九三八年一一月九日のユダヤ人迫害、あの「水晶の夜」からちょうど五〇年後の一九八八年晩秋に、前記の『死か洗礼か異端審問時代のスペインおよびポルトガルからのユダヤ人追放』という表題で復活し、フランクフルトのユダヤ系出版社アテネーウムから公刊されたのであった。
この書物においてとくに我々の興味を惹くのは、フリッツ・ハイマンがナチのユダヤ人迫害という現下の問題を、一五世紀末にイベリア半島のユダヤ人を襲ったあの破局的な事件に重ね合わせて見ようとしている点である。そして事実、ハイマンがこの本質的な一致に人々の目を向けさせようとしている時、マラーノの亡命基地アムステルダムは、異端審問時代の国家的なユダヤ人迫害「ポグロム」の再来に震える不安の|都市《まち》と化していたのである。
一九四〇年代初頭のアムステルダムの隠れ家にひそんでいたユダヤ人家族の運命を思い出してみただけでも、ナチ時代のユダヤ人がいかに不安を抱きながら生きていたかが分かる。市民社会の片隅で、隣人の密告を恐れ、秘密国家警察の靴音やノックの音に怯えながら暮らしていた当時のユダヤ人の不安は、肩をそびやかして歩くムッソリーニや、|拳《こぶし》を振り上げて|獅子吼《ししく》するヒトラーの姿を目にしただけで起こってくるのではない。むしろ、国民全体がいつ勃発するかもしれぬ戦争の脅威のなかで、しかも経済的苦境に陥って、脱出路もなく、精神的にも心理的にも飢えている時、その飢えを貪欲に満たそうとする群衆を背景にして、少数者の不安はいっそうつのってくるのである。
こうした不安の発生には、どこか中世的な雰囲気がある。というのも、いかなる時代にもまして中世社会は、自我の支柱になるものを叩き出してしまう重苦しい不安につつまれていたからである。アメリカの心理学者ロロ・メイがその著書『失われし自我をもとめて』のなかで言っているように、「ヨーロッパ全体が死の恐怖、あるいは迷信、悪魔や魔女への恐怖といった形で不安に満ちていた一四、一五世紀あたりの時代に、現代はもっとも近いかもしれない(9)」のだ。
こうした視点から、フリッツ・ハイマンは、民衆が反ユダヤ主義の破壊的で魔力的な価値に飛びついていったあのナチの時代に、現下の破局的な状況を歴史的に検証するため、あえて反時代的なマラーノ講演を行なう必要があったにちがいない。
マラーノとは何者か
すでに「豚」という侮蔑的なニュアンスからある程度抜け出し、人類の歴史のなかでユニークな、しかもドラマチックな連想と結びついたマラーノとは、しかし、いかなる歴史過程から生まれてきたのか。さらに、このマラーノがなぜポルトガルの山岳地帯にあれほど大勢生き残っていたのだろうか。第一の問いに答えるためには、スペインの歴史を振り返ってみる必要がある。
八世紀にはじまるイスラム支配下のスペインでは、ユダヤ人は領土的な野心をもたない聖書の民として独自の宗教的・国民的な文化を創造し、かつイスラム世界のみならずキリスト教世界に対しても大きな影響をおよぼしていた。
しかし、イベリア半島の北辺に撃退されていたキリスト教徒がしだいに再征服運動「レコンキスタ」に乗り出してくるにつれて、ユダヤ人の身にも急激な変化が起こってきた。かくてユダヤ教は、とくに一四世紀以来、宗教的な、さらに国民的な意味での「敵」にされてしまったのである。それに加えて、経済不況がつのり、伝染病が流行しだすと、民衆の間ばかりか聖職者の間にも、ユダヤ人に対する敵意が高まってきた。
こうした反ユダヤ主義の風潮をいっそう|煽《あお》り立てたのは、セビリヤのフェランド・マルティネス副司教だった。「ユダヤ人は全スペインを奴隷化する。」「ユダヤ人は間もなく、国王からスペイン最後のキリスト教徒にいたるまで、キリスト教徒全員を|傀儡《かいらい》にする魂胆だ。(10)」このようなユダヤ人陰謀説を、マルティネスは説教壇から繰り返し民衆に訴えかけた。この反ユダヤ主義者にたきつけられ、たけり狂った暴徒が、一三九一年六月六日、セビリヤのユダヤ人街「ラ・フデリア」に押しかけ、町じゅうに大虐殺の狂宴をくりひろげ、四〇〇〇人を殺害したのである。捕虜となった多くの者がアラブ人に売られてゆくなかで、洗礼を受けてキリスト教徒に改宗したユダヤ人も少なくなかった。
こうして、セビリヤにはじまったユダヤ人迫害は|燎原《りようげん》の火のようにスペイン全土にひろがっていった。オーストリアの歴史学者フリードリヒ・ヘールによれば、「コルドバでは子供をふくむ男女の遺体が二〇〇〇体も道路に転がり、カスティーリャでは七〇のユダヤ人共同体が壊滅した(11)」という。カスティーリャからさらに暴動の火はアラゴンにうつり、マヨルカ島にまでおよんだ。パルマ・デ・マヨルカでは、ユダヤ人が虐殺されたばかりでなく、逃げるユダヤ人をかくまったキリスト教徒たちの家も襲われたのである。
先祖の信仰を貫き通すため外国に逃れる道を選ばないとすれば、キリスト教徒の要求にしたがって、カトリックに改宗するほかなかった。ユダヤ人の歴史のなかでおそらく最初の出来事であるが、こうしてスペインのユダヤ人は試練に直面して|節《せつ》を曲げ、集団で信仰を捨てた。ペテルブルク生まれの歴史学者レオン・ポリアコフによれば、この時「大勢のラビが率先して改宗の範を示し、パニックに襲われ前後の見境もなくなったユダヤ人大衆がこれに従った(12)」のである。
(画像省略)
こうしてスペインに生き残る道を選んだ改宗者「コンベルソ」は、キリスト教に心底から帰依し、旧キリスト教徒よりも熱心なカトリック信者になった者と、生命・財産を守るために形式的にキリスト教を受け入れたに過ぎず、じつはひそかに先祖の宗教を守りつづけていた者とに大別される。迫害の嵐が去った後、右の改宗者たちの多くは、王家をも含むスペイン貴族との縁組を積極的に推し進め、司法・行政・軍隊・大学・教会などで、従来宗教的な理由から閉め出されていた職業に進出し、高い社会的地位を獲得していった。そして、ユダヤ人以外の一般市民は、改宗者の目覚ましい社会的進出に対する嫉妬と、彼らの「隠れた」信仰に対する呪いから、こうしたユダヤ人改宗者を、遠慮会釈なく「マラーノ」=豚と呼ぶようになったのである。
一三九一年の破局から一〇〇年後の一四九二年、ユダヤ人に大|鉄鎚《てつつい》が下った。カトリック両王、フェルナンドとイサベルは、グラナダ攻略とともにモーロ人最後の要塞アルハンブラ宮殿を奪ってしまうと、今度はユダヤ人が真正のキリスト教徒になることを要求し、それによって諸宗教混在のためこれまで避けられていた国民的統一を成就しようとした。再征服運動を軸としてはじまったスペインの近代化に、おそらく従来考えられていたよりも、もっとユダヤ人が寄与していたにもかかわらず、一四九二年三月三一日、イサベルはついにアルハンブラ宮殿で、ユダヤ人追放の法令に署名してしまったのである。
改宗か追放かユダヤ人はこの厳しい二者択一を迫られた。これによって、ユダヤ教を信奉する者は同年七月三一日までに国外に退去するよう命じられた。他方、国外移住に踏み切れない者は、カトリック信仰への帰依を表明して、スペインの大いなる融合過程に組み込まれていった。その数は少なくとも五万人ほどだったという。今を遡る五〇〇年前の七月、この猛暑酷暑の月に、一六万人以上のユダヤ人が重い足を引きずって亡命の途についた。おそらくその大半が、|埃《ほこり》の舞い上がる大路を、言葉も習慣も似ている隣国のポルトガルへ向かったのである。
ところが、一四九六年、ポルトガルもまたスペインとの縁組を機に、ユダヤ人に対して強制洗礼に踏み切った。その時、はじめからポルトガルに定住していたユダヤ人も、スペインからの移住者とともに、カトリックに改宗させられたのである。こうして、一三九一年の反ユダヤ人暴動を皮切りとして、一四九二年と一四九六年の破局の際改宗したこれらユダヤ人のことを、人々は「新キリスト教徒」(Nuevos Christianos)と呼んだ。じつはこれが、宗教的な二重性を背負ったユダヤ教徒「マラーノ」にほかならなかったのである。以下の章で、必要に応じて、マラーノが発生してきたこの歴史の局面に繰り返し帰ってゆくことにしたい。
つぎに、なぜマラーノがポルトガルの山岳地帯にあれほど大勢生き残っていたかについては、簡単に答えることができる。やっと安住の地を見出したと思ったのもつかの間、この新キリスト教徒たちは、一五三六年にはじまった異端審問の恐怖を逃れて、リスボンから大西洋を北上し、主に海港アントワープへ向かった。さらに、フェリペ二世によるポルトガル併合後の、一六世紀末から一七世紀初頭にかけて、多くのマラーノ難民は、アントワープからその商業上の主導権を奪い取った自由都市アムステルダムへ、大きな危険を冒して向かったのである。
シュヴァルツ以前、歴史家やユダヤ人研究者の目ももっぱらこの移住の流れに注がれていた。したがって、世の人々は、ヨーロッパじゅうに点在するユダヤ人共同体をも含めて、歴代の異端審問官たちの目が届かないあの山岳地帯に、地理的・歴史的な隠れ家を見出していたマラーノの存在にまったく気づかなかった。スペインからの難民が北ポルトガルの三県に定住し得たのも、国境越えの際、時のポルトガル国王ジョアン二世が、北の|山間《やまあい》にある三つの国境の町、つまりベルモンテ、ミランダ、ガルグァーリョをたまたま通過駅として指定したからにほかならなかった(13)。こうして、あのマラーノたちは、カトリックの衣に身を隠し、主に農業に従事しながら、異端審問制度が一〇〇年前に廃止されていたことも露知らず、不安に怯えながらひっそりと山のなかに暮らしていたのである。
ところで、改宗後も不安に怯えながらスペイン国内にとどまっていたのは、ユダヤ人だけではなかった。イスラム教徒最後の拠点だったグラナダが開城した後、モーロ人もまた右のユダヤ人と同じような運命をたどった。一四九二年以降多くのモーロ人が、主としてアフリカ方面に去った後、残留したモーロ人は「モリスコ」と蔑称され、イスラムからキリスト教に改宗する道を選んだ。だからといって彼らは、生活が安定したとは言えず、後にフェリペ二世が極端に推し進めたような血統の純化政策によって、つねに国内強制移住と国外追放の恐怖にさらされていた。
この流浪するスペインのモリスコ同様、ポルトガルのモリスコもまた、いつ国家および異端審問所の迫害の手が伸びてくるかもしれないという不安をかかえながら、彼らの「隠れた」信仰を生きようとしていた。一五三六年、ついにジョアン三世も、ポルトガルのかつてのモーロ王国アルガルヴェのキリスト教化に乗り出した。その際国王は、イスラム教徒に対して、ユダヤ教徒の場合と同じように、自分たちの信仰を捨ててキリスト教徒にならぬ限り、全員この国を出てゆくべし、さもなくば宗教裁判にかける旨を通告してきた。
だが、そうは言ってもモーロ人家族の多くは数百年も前からこの国に住み、この国の人と|仲睦《なかむつ》まじく暮らしていたのである。ポルトガルは彼らの故郷であった。国外へ移住せよと言われても、彼らは今さらどこへ行く当てもなかった。かくて彼らも国王の意志に屈して、見かけだけの新キリスト教徒になったのである。
このポルトガルのモリスコたちは、しかし、時が経つにつれて自分たちの住む家の平らな屋根のうえに、小さな白い塔を築くようになった。それがことによると、イスラム寺院の尖塔「ミナレット」ではないかと疑う者は誰ひとりいなかった。夕刻、日が落ちるとともに彼らはそっと屋根のうえにのぼってゆき、遙かなメッカに向かってぬかずくのであった。それ以来隣人たちと競い合って、より美しくより精巧な「煙突」をつくることが、アルガルヴェの風習となった。こうして、災い転じて美風となり、家々の屋根に突き出した美しい「煙突」が、ポルトガル最南端のアルガルヴェ地方を特色づける象徴的風景となった(14)。
(画像省略)
つまり、あのスペイン・カトリックの過激な純血主義も、夜、屋根にのぼってぬかずくイスラム教徒の信仰のみならず、星の山に|護《まも》られ、星の山に向かって祈るユダヤ人の信仰を、結局根絶やしにすることはできなかったのである。
以上が、スペインからのユダヤ人追放にまつわる諸問題を考察するのに先立って、私が出発点としたかったユダヤ人の歴史的・心理的な状況に関する素描である。こうした出発点に立つということは、我々の旅にはじめからある独自の性格をあたえていた。それは、三大宗教が密接に関連し、相互に活性化し合うのに最適の場所であったにもかかわらず、不安に満ちた「外へ!」を急激に出現させたスペインの近代に、関連していた。
したがって、我々がマラーノの足跡を訪ねるということは、このようなスペイン近代の、栄光と悲惨の根源へ遡行することであり、それはとりもなおさず、ユダヤ教徒やマラーノの流浪の旅とそのなかで研ぎ澄まされていった彼らの思考に、同行することを意味していた。
スペイン、ポルトガルに向かう我々の旅は、一九八九年一一月九日に怒濤のようにベルリンの壁が崩壊し、いつ東西ドイツ統一なるかという事態に、世界の目が向けられていた時期だった。出発前の日本で、そして到着したフランクフルトで目にした新聞や週刊誌は、ソ連の国粋主義団体パーミャチの動きと、東ベルリンの街頭に繰り出したネオ・ナチ集団、スキンヘッズの不気味な活動を報道していた。どちらも標的はユダヤ人である。あの社会主義にかわって、今度は自由主義がユダヤ人迫害の新たな温床になってゆくのだろうか。
ドイツ在住のユダヤ人は西で三万六〇〇〇人、東で三〇〇〇人で、五〇万人もいた戦前の十分の一以下である。このユダヤ人は今、東西ドイツが統合すれば、ネオ・ナチの活動は言うまでもなく、民衆の間にも排外的な民族意識がいっそう強まってくるにちがいないという不安に怯えているのだ。
ドイツ人は、よもやユダヤ教の大きな祭り、|贖罪《しよくざい》の日「ヨム・キプル」(九月二九日)の前ということはあるまいが、それが終わったらあっという間に統一を完成するだろうと、当時私は思っていた。こうしたなか、我々は、一九九〇年六月三〇日、「スペインは恐ろしく暑いよ」というドイツの友人たちの言葉を背に、フランクフルト中央駅から、ヨーロッパ都市間連絡特急「EC」で、一路バルセロナに向かったのである。
[#改ページ]
第二章[#「第二章」はゴシック体] ドイツのマラーノ
[#ここから5字下げ]
「ハンブルクのポルトガル人共同体を、アムステルダムのポルトガル人共同体の第二居留地と見なすことは、間違いである。」
(M・グルーヴァルト
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]『ドイツにおけるポルトガル人の墓』)
国境の死神
「セファラデにあるエルサレムの|捕囚《ほしゆう》の|民《たみ》は|南《みなみ》の|邑々《まちまち》を|獲《え》ん。」このように旧約聖書「オバデヤ書」二〇節に記されているとおり、古代ユダヤ人はイベリア半島をヘブライ語で「セファラデ」と呼んだ。地中海と大西洋の間にひろがり、ヨーロッパ大陸から西へ突き出したこの「|兎の島《イスパニア》」は、古代・中世の人々にとっては彼らの経験世界の終末を表していた。セファラデの彼方、そのさらなる西方にはもう|航《ゆ》く船もなければ、もはや定住して生活を営む人とてない。だが、オリエントの捕囚の民は、ローマ支配の時代からこの未知なる辺境に赴き、その地に家族とともに住みついていたのだった。
西暦七〇年の、ローマ軍によるエルサレム第二神殿破壊の後、エジプトからアフリカ北西部のモーリタニアにおよぶ隊商路を通って、シリアから遙かなセファラデまで、絶えず移動してゆくユダヤ人難民の流れがあった。だから、今日でもスペイン各地の古代博物館で見られる、墓石に刻まれたヘブライ語の碑文は、ユダヤ人がすでに一世紀後半から地中海沿岸都市のタラゴナやトルトサ、あるいは内陸部の町メリダに住みついていたことをはっきり立証している。
しかし、ベアトリス・ルルワによれば、一五、一六世紀のスペインのユダヤ人は、彼らの最も古い先祖が新バビロニアの王ネブカドネザルによる神殿およびユダヤ王国破壊の後、すでに紀元前五八六年頃、祖国エルサレムからこのセファラデの地に逃れてきていたという歴史的な事実を、とくに重要視して語っていたという(1)。
いずれにしても、セファラデの名にちなむスペイン系ユダヤ人「セファルディ」は、キリスト教徒ともイスラム教徒とも|仲睦《なかむつ》まじくイベリア半島に暮らしていたのだが、一四九二年の追放令とともに、かの「|南《みなみ》の|邑々《まちまち》」を後にしなくてはならなかったのである。この時ユダヤ教徒たちは、ポルトガルに向かう陸路以外に、彼らの遙かな先祖がやって来た道を逆にたどって、北アフリカの荒野の道か、人々をオリエントの岸辺まで運ぶ地中海の海路、あるいはピレネーを越えてフランスやイタリアに|流離《さすら》ってゆく陸路を選んだのであろう。
(画像省略)
地中海に直接なだれ落ちるピレネー山脈先端の町ポル・ボウは、ユダヤ人のそのような流離を刻印した地のひとつである。それは、スペイン・キリスト教の排外的統合主義によって、ユダヤ教徒がこの小さな国境の町を通って異郷へ|彷徨《さまよ》って行った一五、一六世紀だけとは限らない。今からつい半世紀前の一九三九年にも、スペインの共和国側に立つ人々が難民となってこの港町を通過して行った後、ポル・ボウは今度は、ユダヤ人の亡命路をヨーロッパから逆にスペインへ変える地点として歴史に現れてくるのだ。一九四〇年六月に、ナチ・ドイツ軍の侵攻によってパリが陥落し、非占領地区のマルセイユに逃れていたドイツ系ユダヤ人にとっては、同市からの船便が閉ざされていたので、あとはピレネーを越える道しか残されていなかった。かくて、ナチの迫害を逃れ、ピレネーを徒歩で西へ越えたユダヤ系の人々にとって、ポル・ボウは、リスボンから船でアメリカに向かう遠い亡命路の出発点となったのである。オーストリアの作家フランツ・ヴェルフェル夫妻や、トーマス・マンの息子の歴史家ゴーロ・マンもこのルートを使って、アメリカへ亡命して行ったのだった。このようにしてみれば、ポル・ボウという小さな港町も、亡命の不安と緊張をはらんだ国境の町として、世界史の影のなかに大きく浮かび上がってくるのである。
我々の乗った特急「カタラン・タルゴ」がポル・ボウに着いたのは、七月一日の午後六時五六分だった。これは、ジュネーブ発バルセロナ行きのただ一本の昼間直通列車である。ここで、軌間調整装置の魔法が働いて、列車は一四三五ミリの標準軌間から一六七六ミリのスペイン広軌に、あっという間に変わってしまう。
友人と私は七時一六分の発車時間を待ちながら、入江にのぞんだ|侘《わび》しい港町とその向こうの海を眺めていた。海は相変わらず暑い日射しに青々と照り輝いていた。
振り返ってみれば、私がこのポル・ボウをはじめて通ったのは、一九六八年三月のことだった。当時フランクフルトにいた私は、その前年の一一月から再開されたアドルノの美学講義を、日本人ではただひとり、大勢のドイツ人学生にまじって聴講していた。といっても、その難解な言葉の壁の前に立ちすくみながら、ただ時々耳に飛びこんでくる単語をノートに書きつけているだけだった。話の脈絡はまったくつかめてはいなかったのである。そうこうしているうちに私はやがて、分からないながらも、どこか心惹かれるベンヤミンを、読みはじめていた。その生涯についても少し分かってきた頃だったので、それ以来このポル・ボウを通過する時はいつもベンヤミンとその最後を思い出していた。
一九四〇年九月二六日、出国ビザをもたぬまま、非合法にピレネーを徒歩で越えたベンヤミンにとっては、翌日一行をフランス国境へ送還するというポル・ボウの国境警備官の脅しは、彼らユダヤ人亡命者たちがそのまま強制捕虜収容所へ送られることを意味していたのであろう。だからその夜、ベンヤミンは、絶望しきってホテルの一室に入り、『パリ・パサージュ論』を書いた、あのむっちりした指先でそっとモルヒネの包みを押し開いて、自殺を遂げたのである。
(画像省略)
ベンヤミンという一個人の伝記的な歴史性が、この港町におけるほど、ユダヤ人追放の問題性と深く結びついて浮かび上がってくる所はほかにない。歴史を世界の受難史として見るこの寓意家の目には、追放の困苦と不安を最も深く刻みこんだ、この国境越えの地点に現れ、権威をもって送還を口にする男の姿が、突然死神として映ったこともまた十分にあり得たであろう。
擬人化されて現れる死神といえば、ただちに、ベンヤミンのあの洞察力にあふれた、『ドイツ悲劇の根源』のつぎの一文が思い出される。
「象徴においては、没落の美化とともに、変容した自然の顔貌が、救済の光のもとで、一瞬その姿を表わすのに対して、寓意においては、歴史の死相が、凝固した原風景として、見る者の前にひろがっている。歴史に最初からつきまとっている、すべての時宜を得ないこと、痛ましいこと、失敗したことは、ひとつの顔貌いやひとつの髑髏の形をとってはっきり現われてくる。(2)」
このような寓意的な歴史観に照らしてみれば、「凝固した原風景」として見る者の前にひろがってくるのは、スペインを追われてゆく異教徒たちの「歴史の死相」だけとは限らないのだ。というのは、マラーノやモリスコを迫害し追放したスペイン・カトリックの栄光もまた、死の手にとらわれ、「凝固した原風景」の最たるもののように思われるからである。
このように歴史と現実社会の虚偽を鋭く|暴《あば》く者からすれば、寓意とは決して美学上の過誤ではないのである。スペインのバロック時代に生きたケベードもまた、寓意を美学上の武器として使った文学者であった。マドリッドの由緒ある貴族の家に生まれ、多くの歴史的な政治事件に身をもってかかわったケベードにとって、政治の腐敗、教会の堕落、社会秩序の乱れ、人心の荒廃は、「髑髏の形をとって」はっきり現れてきたのであった。ケベードはこうした現実の世界に跳梁する悪を憎み、この悪へと人間を駆り立ててついに狂わせてしまうものの力を金に帰した。だから、彼の諷刺作品のひとつ『死の夢』のなかで、死神が登場して、魂には世間と悪魔と肉体の三つの敵があると言うのだし、金もまた擬人化されて登場し、自分はこの三つの敵を一身に兼ね備えた魂の最大の敵たる地位にあるのだと|宣《のたま》うのである。自身ユダヤ人ではなかったが、このような過激な批判精神のために、実際投獄されたことがあるケベードもまた、社会から「追放された」人間であった。こうした、警句や地口を自由に駆使する奇知主義の大家ケベードは、セファルディおよびマラーノ追放後新大陸から続々運びこまれる金銀のゆえに、悪政と経済破綻へしだいに深く陥ってゆくスペイン帝国の顔貌を、「髑髏」として、彼の寓意文学のなかに描きつづけていったのである。
ケベードの死後三百数十年を経た今日、このピレネー西側の世界にいかなる力が人を|薙《な》ぎ倒す|鍬《くわ》をもって乗りこもうとしているのだろうか。
あと三、四分で発車という午後七時過ぎのことだった。六人の柄の大きいドイツ人の団体がどかどか乗りこんできて、それまで静かだった我々の車輛はにわかに騒がしくなった。彼らは、アタッシュケースやルイ・ヴィトンのトラベルバッグをさっと網棚にあげ、ふたりずつ三カ所に離れて座った。まだいっこうに衰える気配のない日射しのなかを、列車はゆっくり動きだした。通路を隔てて私の横に座っていた男が、背広をぬいで立ち上がると、「セルベッサ(ビール)を飲みましょう。御希望の方は?」と頓狂な声で叫んだ。全員が振り返って手をあげた。
こういう、いかにも自信ありげなドイツ人の団体をピレネーの西側で見るのは、はじめてのことであった。EC統合を目前にして、諸外国の企業が高失業と低賃金のスペインの産業界を、さながら草刈り場のように席捲しているという話を聞いていた。この団体は、そうしたスペインを格好のターゲットにしたドイツ企業の先兵なのだろうか。
そんなことを思いながら私は、車窓風景を見るのをやめて、二日前フランクフルトで買ったばかりの本、『グリュッケル・フォン・ハーメルンの回想録』を旅行|鞄《かばん》のなかから取り出して読みはじめた。
ハンブルクの|猶太人街《ゲツトー》
この『回想録』の作者グリュッケル・フォン・ハーメルンは、三〇年戦争が終結に向かう|天地創造後《ユダヤれき》五四〇七年(西暦一六四六―四七年)に、ハンザ自由都市ハンブルクのゲットーに生まれ、一四歳で結婚し、一二人の子供を育てた主婦である。このようなゲットーの主婦によって書かれた本書は、ユダヤ人がキリスト教社会の迫害や中傷に対し書くことで抵抗したり抗弁したりすることもなく、したがってその内面生活をほとんど書き残していない一七、一八世紀の時代にあって、自分たちがユダヤ人として現実をどのように受けとめ、またどのように人生や世界を捉えていたかを記した、きわめてユニークな記録である。
グリュッケルは、夫が|天地創造後《ユダヤれき》五四五一年(西暦一六九〇―九一年)に死亡してから、その悲しみと|種々《くさぐさ》の心配事から心をやすらかにしようと、眠られぬ夜中にも起きだしてこの『回想録』を書きはじめるのである。彼女はそれを、イディッシュ語の北ドイツ方言、すなわち高地ドイツ語、低地ドイツ語、ヘブライ語、そしてアラム語が入り混じった言葉を用い、ヘブライ文字で記した。したがってそれは、イディッシュ語を話す者にもほとんど理解できないような、文字どおり長い追放の歴史を経てきた古風なイディッシュ語だった。この手記は、現代ドイツ語への翻訳者の解説によれば、二〇〇年間誰にも顧みられることなくミュンヒェンの図書館で埃をかぶっていたが、一八九六年ブダペストのユダヤ学の|泰斗《たいと》ダーヴィト・カウフマンによって発掘出版されたものという。私がフランクフルトでたまたま手に入れたのは、一九一三年にアルフレート・ファイルヒェンフェルトによって独訳されたものの復刻版(一九八八年)である(3)。
(画像省略)
ところで、作者グリュッケルの夫は、ハンブルクではじめて通行証を手に入れ商売することを許された彼女の父親同様、金銀宝石の取引きを|生業《なりわい》とする商人であった。ゲットーのユダヤ人たちは、このような金銀宝石を扱う商売が、いつまた襲ってくるかもしれない迫害と追放に対する最良の自衛手段であることを、昔から経験によってよく知っていたのである。だが、こうした商売がどれほど生命の危険と結びついていたか、と同時に、一七世紀のユダヤ人共同体の法的・社会的な地位がいかに不安定なものであったかが、読み進むうちにしだいに明らかになってゆき、そうした現実を例証する、たとえばつぎのような犯罪事件の描写に、私は思わず引きこまれていった。
ハンブルクから一五分ほど離れたアルトナの町に、アブラハム・メッツという名の男が住んでいた。商売がはかばかしくなくなったアブラハムは、やがて両替を手がけるようになった。ある朝、グリュッケルの|従妹《いとこ》にあたる妻のサラがハンブルクへやって来て、知人の家を片っ端から回り、前の晩に夫が泊まりはしなかったろうかと尋ねて歩いた。どこにも泊まっていないことが分かると、サラはわっと泣きだして、それ以上何も言わなかった。
謎につつまれたこの出来事から、三年が過ぎた。ハンブルクでやはり両替を営むアーロン・ベン・モシェという男も、ある夜妻のもとへ帰らなかった。そのつぎの日から、水夫相手の宿屋の|主《あるじ》に雇われている女中が、どうやらこの失踪事件に関係がありそうだとの|噂《うわさ》がひろがった。というのも、この女中は、あちこちのユダヤ人を訪ねては、「ある身分の高い外国人が宝石の売り物をたくさんもって当方に来ているので、お金をもって一緒にいらっしゃいませんか」と誘って歩いていたことが分かったからである。
同じ商売をやっている夫のリップマンからその話を聞いた時、妻のレベッカは、女中の雇主が下手人にちがいない、と直感した。その夜のうちにレベッカは、ハンブルクではめったに騒ぎを起こすべきではないといって尻ごみする夫にさからって、アーロン事件の全貌を独力で解決しようと決心したのである。
ある日のこと、家に帰る途中|件《くだん》の女中と出会ったレベッカは、言葉巧みに女中を誘導し、ついにアーロン殺害に荷担していたという自白を引き出すことに成功した。女中を裁判長の家まで連れてゆき、尋問を受けさせると、女中は|吃《ども》り吃り死骸を埋めた場所まで白状した。レベッカはその地面を掘る許可を取ったが、しかし裁判長からはつぎのような警告を受けたのである。「よろしいかな、もしも死体が見つからなければ、おぬしたちは惨殺のうき目に遭いますぞ。」
ユダヤ人共同体ににわかに危機感が高まった。というのも、もし死体が出なければ、本当にハンブルクの民衆がユダヤ人に襲いかかってくることは、火を見るよりも明らかだったからである。レベッカはしかし同志たちを勇気づけ、死体はかならず出てくると雄弁に説き回った。そして、物見高い民衆が続々と集まってくるなかで、いよいよ宿屋の玄関の敷居の下が掘り起こされた。するとはたして、二四歳の敬虔な男の|亡骸《なきがら》が出てきたのだった。その時、息をつめて見守っていたユダヤ人の目からは、思わず涙があふれでた、と記されている。
アーロン殺害の詳細が分かったのにつづいて、アブラハム・メッツも三年前同じ犯人によって殺害されていたことが判明、その死体も屋根組の下の石灰で覆った穴から掘り出された。こうして犯人の宿屋の主人は、車責めの刑に処せられ、その死体は串刺しにして見せしめのため晒されることになり、妻と女中も国外追放となった。犯人処刑の日のハンブルクは、かくて一〇〇年来絶えてなかったような喧噪の舞台と化したという。「ユダヤ人に対する憎悪が高まり、またも私たちは危険に陥りました。しかし、つねに私たちをお守り下さった神は、その日もまた私たちを助けてくださいました」と書くグリュッケルは、右の記述を、「偉大なる奇跡」という言葉で結んでいる(4)。
我々はこうした事件の報告を読んで、重大犯罪をまったく独力で|暴《あば》くことに成功したレベッカの女傑ぶりにのみ目を奪われてはいけないだろう。というのも、この報告はまた、死体発掘や埋葬の際、あるいは犯人処刑の日に集まった一〇万人におよぶ民衆が、まかり間違えばゲットーのユダヤ人に襲いかかり、虐殺も辞さぬ、そうした暴力爆発の危険をいっぱいはらんだ話でもあるからだ。
ちょうどこの話を読み終えた時、あと二、三分でヘローナに到着、というアナウンスが車内に流れた。友人はさきほどから、間近に迫ったスペイン語の実践的使用に備えて、会話の本を読んでいた。
目を窓の外に移せば、もうカタルーニャの県庁所在地ヘローナの町が見える。フランスからバルセロナへの途中の古い宿場町だ。そしてここは、なによりもまずスペイン・カバラの発祥の地である。これまでショーレムのカバラ論を多少読んできた私にとっては、ヘローナははずせない町のひとつだった。
八時五分。グリュッケルの作品を気ままにひろい読みしていた私は、急にハンブルクのゲットーの歴史を知りたくなった。二日前フランクフルトの書店で、この『回想録』を買った時、中年の女店員が、頼みもしないのに一冊の本をもってきてしきりにすすめるのであった。レオ・ズィーヴァース著『ドイツのユダヤ人二〇〇〇年にわたる悲劇の歴史』という本である。すすめられるままに買って、まだ中もよく見ていないのを思い出し、それを旅行鞄から取り出して頁をめくった。絵や写真を満載した、面白そうな本である。三分の一ほどのところで、こんな章題が目に飛びこんできた。「グリュッケル・フォン・ハーメルンの年代記」。女店員があれほど熱心にすすめてくれた理由が、この時はじめて分かった。しかも、つぎのような冒頭の文章は、驚いたことに我々の今はじまったばかりのマラーノの旅にまったくふさわしいものだった。
「最初のユダヤ人がハンブルクに入ってきたのは、一六〇〇年頃であった。ユダヤ人がラインおよびドナウ地方に移住してきてから丸一五〇〇年後のことである。このユダヤ人はアシュケナージではなく、スペイン=ポルトガル系のセファルディであった。彼らもまた最初は、ユダヤ人としての素姓を明らかにせず、公にはカトリック教会に所属する信徒だった。彼らはその名をソアレス(Soares)、ダ・シルヴァ(da Silva)、ダ・フォンセカ(da Fonseca)、ダンドラーデ(d'Andrade)、エステヴァス(Estevas)、またはメンデス(Mendes)と称した。イベリア半島から追放されたユダヤ人の子孫であるセファルディは全員洗礼を受けた新キリスト教徒だったが、ハンブルクに入ってきてからひとつの事情が明らかになった。このようなユダヤ人は、スペイン、ポルトガルでは『マラーノ』=豚と呼ばれ、ハンブルクではただ『ポルトガル人』と呼ばれていた。そして、『ポルトガル人』たちは、このドイツ最大のハンザ同盟都市で、自分たちの信仰をはじめて告白することができたのである。(5)」
このズィーヴァースの指摘を、私は大変重要であると思う。なによりもまず注意しなくてはならないのは、ユダヤ人がアシュケナージとセファルディのふたつに大別されるという指摘である。
二〇〇〇年前、ユダヤ人はすべて現在のパレスティナ、つまりユダヤ人がイスラエルと呼んでいるところに住んでいた。やがてローマ人がその土地に総督や太守を置いて支配するようになった。ローマ総督フロルスの苛酷な圧政に苦しんだユダヤ人は紀元六六年に反乱を起こしたが、ローマ側はこの反乱を鎮圧し、さらにユダヤ人のバビロン捕囚後再建された第二神殿を破壊した。こうして、エルサレム陥落後追放されたユダヤ人のうち、地中海南岸添いに移動し、エジプト、チュニジア、モロッコといったアラブ圏の国々に住んでから、セファラデの地に入っていったのがすでに述べたセファルディである。他方、ライン川流域のキリスト教圏に向かったのがアシュケナージと呼ばれたが、両者はふたつに分かれて以来独自の歩みをつづけて、結婚で互いにまじり合うこともなかったのである。
一四九二年に追放されたセファルディの後を追うように、異端審問のイベリア半島を離れたマラーノたちの多くが、リスボンから主として針路を北に向け、ロンドンとアムステルダムに新天地をもとめたという事実はよく知られている。しかし、ハンブルクの「ポルトガル人」というのは、こうしたアムステルダムへの移住者の一部だったのだろうか。それとも、この流れとはまったく関係がなかったのだろうか。
このことが旅行ちゅうもずっと気になっていて、私は帰国後すぐ、最も新しい文献にあたってみた。そのひとつには、ハンブルクおよびアルトナのユダヤ人共同体について、たとえばつぎのような説明があった。「アムステルダムから移住してきたポルトガル系ユダヤ人の経済力は、むろんアシュケナージのそれよりずっと優れており、その税収総額もアシュケナージをはるかに上回っていた。(6)」
ミューリングハウスの右の所説も、アムステルダムからの移住を自明のこととしているのだが、私はそれとは別の流れがあったにちがいないと考えていた。もしこの説が本当なら、ズィーヴァースははっきりそう書いているはずだと思ったからである。はたして、一九九一年八、九月の二回目の調査旅行で、ベルリンのユダヤ人共同体会館の図書館を訪れた際見つけた古い文献には、はっきり次のとおり書かれていた。
「彼らハンブルクの『ポルトガル人』は、フランドル、イタリア、オランダおよびその植民地、トルコとモロッコ、そしてとりわけ、彼らのふるさとであるピレネー半島から、やって来たのである。(7)」
マラーノがアムステルダムに住みつくようになった一五九〇年以前に、マラーノがすでにハンブルクに入って来ていたというのが、アムステルダム→ハンブルク移住説に対するなによりの反証である。
いずれにしても、マラーノは祖国を追われ、各地に離散して行った後、五〇年から八〇年もかけてヨーロッパ大陸を北上して、ついに一六世紀後半、ドイツの代表的なプロテスタントの港湾都市ハンブルクに入って行ったのである。以来、そこで地が果て海がはじまるこの自由都市は、漂流するユダヤのノマドを受け入れ、彼らを都市の活力増強に役立ててきたのだった。
禁じられた生ハム
欧州統合の求心渦の|最中《さなか》にあって、スペインは今もその深層で大きな変貌をとげようとしている。我々の横で声高に談笑している、ドイツの企業関係者とおぼしき人々と、彼らとともに流入してゆく外国の資本並びに産業は、遅かれ早かれスペイン的なるものの草刈り人の役割をはたすことだろう。それゆえ、EC統合の道路網を通って高度成長の波がピレネーの防波堤を飛び越え、イベリア半島の津々浦々にまで流れこめば、「|昼寝《シエスタ》」と親子づれの「|散歩《パセオ》」を無上の悦びとしていた古き良きスペインは、ヨーロッパの大いなる田舎であることをやめて、急速にあのスペイン的特性「イスパニダード」を失ってゆくはずだ。それにひきかえ、ユダヤ人は、ヨーロッパの端から端まで赴くどんな長旅もいとわず、すでに中世から独自のEC的形態をつくってきながら、なぜあのユダヤ的特性を失わずにきたのだろうか。
ハンブルクのマラーノについて言えば、彼らはヨーロッパをはるかに越えて、アメリカやインド、ロシアやペルシア、アフリカにまでおよぶ国際的な規模の商取引きに従事するとともに、やがて金銀宝石を扱うようになった。こうした商業関係だけに限らず、彼らは哲学や文学、医学や科学にも光彩を放っていた。ハンブルクの市参事会は、国際的な規模の活動網を敷いていたユダヤ人の資金並びに物資調達の能力を重視し、彼らがこの町に根をおろせるように援助の手をさしのべたのである。言葉の面でも問題はなかった。というのも、彼らマラーノは、それまでじつにさまざまな国を|流離《さすら》ってきた先祖の経験と知識で、多くの言葉を達者にこなす能力を身につけていたからである。
こうした強い国際性をもちながら、マラーノたちは移住してゆく先々で、かならずと言っていいほど彼ら自身の言語島をつくったのである。このユダヤ人共同体は、たしかに、上流階級に属する人々から下層民まで、敬虔な人から無法者までさまざまな人間が混在し、そのため問題も数多く発生するといった社会構造であった。だが彼らは、律法師ラビの指導の下にユダヤ教教会堂「シナゴーグ」を建てて、これを宗教的儀礼や礼拝の中心にしたばかりでなく、実務上の指導者を選出し、宗教裁判所を設けて、独力で問題の解決にあたっていた。
そして、このユダヤ人集団は、異邦のキリスト教社会のなかに入って行っても、非ユダヤ人との間に目に見えぬ壁を築いて、|頑《かたく》なに周囲の文化と隔絶したまま、ユダヤ人の言語・文化・宗教を、むろん食生活に関する戒律をふくめて保存してきたのである。ユダヤ人にとってこの共同体は、順境の時も逆境の時も、外界に対する厚い防護壁として機能していた。その際、個々の家庭もまた、共同体という大きな壁を補強する小さな壁でありつづけようとしたのである。
つまり、いつまた襲ってくるかもしれないユダヤ人憎悪や迫害から身を守るために、ヨーロッパ各地に散らばるユダヤ人共同体が、互いに結束を固めながら存在していたことは言うまでもない。それぞれの共同体は、外国から迫害を逃れてきたユダヤ人難民の避難所となることもあったが、こうした難民を受け入れることは、構成員のひとりひとりにとってじつは命がけの行為だったのである。たとえば、グリュッケル・フォン・ハーメルンは、彼女自身の生家でも起こった、次のような想像を絶する出来事を伝えている。
「その頃、ポーランドのヴィルナのユダヤ人が町を逃げ出さなければなりませんでした。そのうちの多くは、伝染病にかかってハンブルクへやって来たのです。私たちにはまだユダヤ人の病院も、病人をいれる特別の施設もありませんでした。そんなわけで、一〇人くらいの病人が私たちの家で寝ており、父が世話をしておりました。治った者もあれば、死亡した者もありました。私と妹のエルケもやはり病気になりました。敬虔な祖母は患者たちを見舞い、不足する物がないよう気を配っていました。父も母も祖母をとめることができなかったのです。一日に三度も四度も病人全員を見舞ったのです。とうとう祖母も病気にかかってしまいました。一〇日間病んだ後、祖母は汚れのない名前を遺して、七四歳で永眠しました。(8)」
それにしても、なぜポーランド・ヴィルナのユダヤ人は、自分たちの町を逃げ出し、ハンブルクまで|流離《さすら》って来なくてはならなかったのだろうか。その頃ポーランドには、いったい何が起こっていたのだろうか。この時グリュッケルは一一歳、とすれば一六五七年か五八年ということになる。この年号に行き着いた時、私ははっとした。この時期、一四世紀のペスト流行以来最大規模のユダヤ人虐殺「ポグロム」が、ポーランドで起こっていたからである。
(画像省略)
ポーランドの領主たちの政治的・経済的な圧制に抗して立ち上がった、かの悪名高きフメルニツキー率いるウクライナ・コサックの大反乱は、一六四八年から一六五八年までつづいた。この反乱で、領主たちの圧制に関与していると見なされたユダヤ人が、一〇万人以上も虐殺されたという(9)。グリュッケルの伝えるポーランドからの病気の亡命ユダヤ人を介護する祖母の話は、じつはこの歴史的なユダヤ人大虐殺事件を背景にしていたのである。
さらに右の挿話からうかがわれることは、紀元七〇年パレスティナからの離散後、神々に祈りをささげるのも別々、互いに結婚することもなかったセファルディとアシュケナージが、時とともにこのように国境と習慣の相違を越えて連帯を強めていったという事実である。このような推移があったからこそ、グリュッケルの『回想録』のなかでも、多くの子供たちの結婚に先立つ交渉を描いた個所に、一九世紀から二〇世紀にかけて光り輝く、オッペンハイマー、リップマン、ロートシルト(ロスチャイルド)といった、ドイツ系ユダヤ人の家族名が登場してくるのである。
このような流れを見れば、かつて一七世紀から一八世紀にかけて、「宮廷ユダヤ人」として中部ヨーロッパ諸国の外交・軍事・金融などで枢要な職責をはたし、特権をあたえられていたユダヤ人の|末裔《まつえい》が、今EC統合のうねりが高まりつつあるこの二〇世紀末のヨーロッパ社会で、どれほど|辣腕《らつわん》をふるっているか計り知れない、と思われてきた。
ちょうどその時だった。ピューッと鋭い口笛が鳴って、見ればさきほど「セルベッサ」を買いに行った例の男が、|籠《かご》に缶ビールを一ダースほどももって意気揚々と立っていた。振り返った男たちの方へ、ぽんぽん缶が飛んでいって、見事それぞれの手のなかに受け取められた。車輛全体が、急にまたドイツ語で騒がしくなった。男が通路を隔てて、私の横に座ると、ぱっと手前の小さなテーブルを引き出した。男のすぐ後ろから来ていたビュッフェのボーイが、そのうえに何かを盛りつけた皿を丁重に置いた。
トロのように赤い極上の生ハム「ハモン・セラーノ」が、花びらのように丸く皿に盛りつけてあった。しばらくしてまたもどって来たボーイは、今度はおそらくシェリー酒の逸品、フィーノ・デ・ヘレスとおぼしき酒をつぎ回って、あのオードブルをひときわ優雅に引き立てた。
それにしてもなんという対照であろうか。このハンブルクのマラーノ年代記と、ハモン・セラーノとは!! マラーノの迫害の歴史とキリスト教徒の貪欲私はこの不思議なめぐり合わせに驚きながら、異端審問時代のスペイン、ポルトガルにおいて、「食」をめぐる問題が根底からユダヤ人共同体をゆるがす現実の恐怖であったことを思い出した。
「豚を食うか食わないか」──これが、あの時代においては真のカトリック教徒であるか否かを決定づけるものさしとされたのである。ユダヤ人の食物に関する規定「カシェル」によって、|反芻《はんすう》すると同時に|蹄《ひづめ》の割れている動物(牛、羊、鹿)は食用を許されるが、そのような特徴をもたないもの、あるいはカシェルのどちらか一方の特徴しかもたないもの、たとえば反芻するが蹄の割れていない|駱駝《らくだ》とか、蹄は割れているが反芻しない豚は食用を禁止されていた。このようなカシェルに拘束されていたユダヤ人にとって、豚食は一種の「踏み絵(10)」とされ、豚を食べない者は「隠れユダヤ教徒」の烙印を押され、また食べないと噂されただけでも怪しまれたのである。
一方、よりたくさん豚を食べることがキリスト教徒の|証《あかし》であるとして、国王カルロス一世自らがその範を垂れたのだった。ちなみに、ハシバミやコルク|樫《がし》の林でどんぐり「ベジョータ」を食べるばかりでなく、林に棲む蛇の|類《たぐい》をも食べるイベリア種豚から作られたハム、とりわけラ・マンチャ地方の西に隣接するエストレマドゥーラ地方のモンタンチェス産ハモン・セラーノが極上とされ、カルロス一世はその産地に離宮を構えて、霊験あらたかなハムを片時も手放さなかったという。
どのくらい時間が経ったのであろうか。突然、いつまでも賑やかな酒盛りをつづけてゆくと思われたドイツ人の間に、急激な変化が起こった。六人は通路に一塊になって、熱心な議論を開始したのである。「インヴェスティツィオーン」(投資)とか「インテグラツィオーン」(統合)という用語が|頻《しき》りに飛びかうところからして、やはりドイツの企業関係者にちがいない。事あれば、一気|呵成《かせい》に目標に向かって全体で突き進むドイツ人の気質が、その急変ぶりに見事に現れていた。
「あと数分でバルセロナ・サンツ駅です」という車内放送に、見れば外はようやく暮色がたちこめていた。
[#改ページ]
第三章[#「第三章」はゴシック体] カバラ主義者の故郷ヘローナ
[#ここから5字下げ]
「追放の恐怖についての意識は、カバラの輪廻説にも影響をおよぼした。この説は魂の追放の諸相を表現するものとして、当時猛烈な勢いで発展しつつあったのである。」
(ゲルショム・ショーレム
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]『ユダヤ教神秘主義の主潮流』)
器の破壊
一四九二年のスペインからのユダヤ人追放という出来事は、折しも文芸復興の隆盛を迎えつつあったイタリアの思想運動に、重要な影響をあたえた。
つまり、フィレンツェのメディチ家を中心とする輝かしいサークルに属していた新プラトン主義者ピコ・デラ・ミランドラは、追放されてイタリアに移住してきたカバラ主義者のユダヤ教徒から強力な影響を受けたのである。ピコは、カバラを古代英知のヘブライ的・キリスト教的源泉であると信じ、キリスト教にカバラを取り入れるという重大な行為を推し進めて、ルネサンス思想体系のオカルト的側面の拡大強化に貢献したのだった。こうして、スペインから持ち込まれてきた聖書解釈の秘宝カバラがルネサンスの一大潮流となっていったが、それはしかしユダヤ人の追放そのものを神話化するものではなかった。だが、イタリアをはじめ欧州全体を席捲したこのカバラとは異なるユダヤ教神秘主義の新しい潮流が、じつは移住したマラーノたちの世界で発生していた。
いつの頃からか、私はカバラといえばイサーク・ルリアのカバラを考えるようになっていた。それというのも、神の、自己自身の内部への撤退・亡命というルリアの教説が、スペインから放逐されたユダヤ人の災禍の体験に直接想を得ていたように思われたからである。したがってまた、後で述べる器の破壊に関するルリアの理論も、狭い劣悪な地区のうちに追放されているユダヤ人の流謫の産物なのではないかと考えていた。
そう考えていただけに、現代アメリカの文芸批評家ハロルド・ブルームの「カバラとは〈追放〉の教説、〈追放〉を説明づけるために案出された影響理論なのだ(1)」という文章を読んだ時、私は強い衝撃を受けた。追放の主題は、空間から抜け出し時間の|範疇《はんちゆう》へ移行してゆくことによってはじめて、現代にもしだいに射程を伸ばしてきたにちがいない。確かに、ユダヤ人の追放問題の水脈は、四〇〇年から五〇〇年にわたる長い歳月の後、現代の文学や思想のうちに浮上してきても決しておかしくはない。二〇世紀の批評家の関心を引くこうしたカバラは、しかし、どのようにしてマラーノ追放の神話となっていったのだろうか。
そもそもカバラとは、その起源について文献学的な立証を試みたショーレムに従えば、地上的・人間的な匂いにつきまとう一切の神話的表象を排して、厳格な教条主義精神に従ったラビ的ユダヤ教に対する反乱として、一二世紀後半、フランスのラングドック地方に、ついで一三世紀南フランスのプロヴァンスとスペインのヘローナに起こった、神話復活の一大精神運動であった。したがってそこでは、濃密な宗教的象徴表現を媒介に、人間が神と相対する神秘的な体験がもとめられていた。そのカバラが、スペインから追放されたユダヤ人によって、パレスティナへ運びこまれたのである。
そうでなくてもパレスティナ北部一帯は、神秘主義的傾向の強い地域であったから、そこへ迫害、疾病、飢えといった人間的苦痛の色をおび、あまつさえその風貌に神秘性を濃くただよわせたユダヤ教徒やマラーノ流民が入ってくれば、そこから何が醸成されてくるかは明らかである。つまり、スペインのカバラが荒涼たる一六世紀オリエントの風土に移植されてわき起こってきたのは、人間存在や宇宙の起源および神の性格をめぐる神秘的な探究であり、さらに救世主待望「メシアニズム」へと接続してゆく運動であった。岩だらけの北部ガリラヤ地方のオリーブ畑や糸杉の森のなかを吹きぬけてゆくこうした神秘主義の風が、やがて瞑想的な人々をカバラ的観照に向かわせていったのは、けだし当然のことだったのである。
このような瞑想的な人間のひとりが、先に触れたイサーク・ルリアであった。一五三四年、エルサレムのアシュケナージ系の家庭に生まれたルリアは、スペインの光輝の書『ゾーハル』に熱中して隠者の生活に入り、七年間ナイル河岸の小屋で孤独な瞑想にふけった。彼は安息日にしか家族を訪れず、ヘブライ語のほかはしゃべらなかったという。このような禁欲生活によっていっそう強められた幻視力を携えて、ルリアは聖都サフェドへ赴いたのである。その地においても彼は、自分の知見を書きとめようともしなければ、また|他人《ひと》に書きとめさせようともしなかった。そして数日間断食をしたり、山歩きをしたりしたが、その際口にするものといえば、|棘《とげ》のあるちしゃや苦い草の葉の|類《たぐい》だけだった。禁欲生活と瞑想に徹しながら、旧約聖書の神秘的な伝承について、あるいは『ゾーハル』について|一度《ひとたび》語りだせば、大勢の人々がきそって彼の言葉を聞くために集まってきたという。だが、この神秘家は、サフェドに三年足らず滞在しただけで、一五七二年アヴ月の五日、コレラに|罹《かか》り、三八歳で早世した。後年、ルリアの弟子のうち、カラブリアからの避難民であるハイーム・ヴィタルが『生命の樹』という書物を著し、師の知見を紙面に書き残したのである(2)。
だが、ユダヤ教の歴史にとってきわめて大きな意義をもつルリアの宗教思想も、その後度々攻撃対象として引き合いに出され、晒し者にされる傾向があった。とくに一九世紀の合理主義者たちによって、それは浅薄でいかがわしい作り物として片づけられた。こうしたイサーク・ルリアをユダヤ教文学史の暗がりから救出し、はじめてその象徴世界を、スペインからのユダヤ人追放という歴史の文脈のなかで検証したのが、ゲルショム・ショーレムであった。カバラ学者ショーレムがその生涯においてなしとげた最大の功績のひとつは、おそらくルリアのカバラを「追放の神話」として分析したことだろう。
(画像省略)
ショーレムのルリア解釈によれば、天地創造の可能性を創り出すために、神はまず「ツィムツム」、つまり自己収縮もしくは自分自身の内部への撤退・亡命を行なう。こうして創られた空虚な原空間に光があてられた。その光は原初の人間アダム・カドモンの姿をとっていた。ところで、未分化の均一な光が個別化し、それぞれの形態に分かれるためには、器「ケリーム」が必要だった。だが、この器は、アダム・カドモンの両眼から発する神的閃光の衝撃で砕け散ってしまっているのだ。それによって神的閃光は四散し、人間の魂は調和を失って流浪しなくてはならない。かくてこの破壊された調和を復元する象徴的過程「ティクーン」がはじまる、とルリアは考えたのである(3)。
こうしたルリアの考え方は、この世から締め出されていると感じている現代の人間の状況をも照らし出すものだろう。というのは、現代の人間もまた、カフカの小説に登場する主人公たちのように、つねに外の力に怯えながらそれと闘い、闘ったすえにかちとったものは結局、自分自身の喪失であり、追放の真理性であり、四散状態のただ中への回帰でしかないからである。そういう状態においては、どのような闘いも徹底した受動性としか見えないだろう。そして、神との合一と絶対的な追放の両極にあってなお人間が生きなければならないとすれば、追放をもって絶えず人を脅かそうとする政体の支配下にあってもなお自由との統合にいたる可能性をあたえる思想体系だけが、辛うじて信じるに値するように思われるのである。
ルリア以前のカバラは、創造とは神の流出を経て人間に到達するという、つねに前進的な過程を前提にしていた。しかし、ルリアがはじめて右のように、創造とは驚くほど退歩的な過程であり、カタストロフィをつねに中心的な出来事として位置づけたのである。自己の内部空間への神の撤退「ツィムツム」、器の破壊「シェビラート・ハ=ケリーム」、それによって生じた世界の欠陥の修理復元「ティクーン」という、こうした三つの気宇壮大な象徴から成るルリアの神話は、|流謫《るたく》をこそ救済過程における推進力と見なしたマラーノ難民の魂のうちに大きな共鳴を呼び起こし、ヨーロッパにも漸次伝播していった。
このようなルリア派カバラは、ショーレムも言うように、アシュケナージ系古代ユダヤ教の禁欲主義者たちの遺言を集大成したものではなく、スペインのヘローナにはじまった初期カバラを飛躍的に発展させた形態であった。とすれば、後期カバラの源流をなすというヘローナのカバラとは、そもそもどのようなものだったのだろうか。その痕跡が今日残っているのだろうか。
現在のヘローナについて私は何も知らなかったにもかかわらず、このスペイン・カバラ発祥の地にはぜひ行ってみたいと思っていた。スペイン、ポルトガルのシナゴーグとユダヤ人街を訪ねるため、バルセロナから一気にアンダルシアに向かって南下しようというのが、我々の大筋の計画であった。しかし一方、マラーノが濃い影を落としているアンダルシアの旅を有意義なものとするために、ヘローナをスペイン幻想紀行の出発点としたい気持ちが高まっていたにもかかわらず、私は友人に計画の変更を言い出しかねていた。
ヘローナ行きはしかし、意外とあっさり決まった。バルセロナ・サンツ駅に我々を出迎え、ホテルを世話してくれた若い日本人のK君を招待して、ランブラス通りの静かなレストランで遅い夕食をとっている時だった。「明日のご予定は?」というK君の問いに、私はためらわず「ヘローナへ行こうと思っているんです」と言ったのである。今さらガウディでもあるまいと思っていた友人は、その時のパエリャとワインの効き目も大いに手伝って、ただちにヘローナ行きに同意したのだった。
こうして明くる日、K君が車を出してくれることになった。すでに二年前からバルセロナに住み、通訳のアルバイトをしながら、秋には焼き鳥屋をオープンさせようとしているK君は、我々にとって願ってもない案内人だった。
「地下」シナゴーグ
明くる日は、スペインでは珍しく、朝からしのつくような雨だった。私は助手席に座って、ワイパーが激しく動くフロントガラス越しに、一〇〇メートルとは視界のきかない道路だけを眺めていた。そして、ユダヤ人街もシナゴーグも、この五〇〇年の間にヘローナから跡形もなく消え去っているかもしれない、と思いつづけていた。
車を独立記念広場の|棕櫚《しゆろ》の木の下にとめて、斜め格子の欄干のついた、いかにも素朴なたたずまいの橋を渡った。オニャール川の灰緑色の水面には、川べりからまっすぐ立っている石造りの古い家々が影を落としていた。さらにその、流れることを久しく忘れてしまったような水のなかには、三〇、四〇センチもあろうかという黒色や緋色の鯉が、気味悪いほどびっしりうごめいていた。フェニキア人、ギリシア人が入植した古代以来、つぎつぎと入れ替わる支配者に軍事・戦略上の要地とされてきて、現在一二万の人口を擁するこの都市の歴史は、明らかに水と石のふたつの元素に規定されているように見受けられた。
我々が入って行った地区の光景は、石畳の狭い道路がまっすぐのぼってゆく単純な構造だったが、私にはそれが大変幻想的に見えた。|昼寝《シエスタ》の時間に入っているため人影もまばらで、アーチ型の入口はどれも固く閉ざされていた。|囲《まわ》りの石積みの壁も窓もベランダの|手摺《てす》りも類型的なものばかりなのに、全体の眺めはひどく非現実的で、中世以来時間が止まってしまっているのではないかと思われるほど、古色蒼然としていた。道路の両側には背の高い家がぎっしり立ち並び、そこから受ける表面的な印象は貧しさであったが、この石壁の裏には、ことによると目も眩むような高価なものがいっぱい収蔵されているかもしれないという、そんな気もした。階下はみな店舗で、二階以上が住まいになっているらしく、ずっとうえの方に洗濯物がたくさん風にはためいていた。
こうした単純だが幻想的な風景に見とれて、我々はしばらくの間立ちどまっていた。いったいここにはどんな種類の人間が住んでいるのだろうと思って、石壁の道路表示を見れば、「ラ・フォルサ」。なんとそこが旧ユダヤ人街ではないか。まったく未知の世界に足を踏み入れて行った場合でも、あたかも既視感が働いているかのように、行きたい場所にいきなり入ってしまって、自分でも不思議に思う経験をすることがあるが、この時がまさにそうであった。
(画像省略)
友人も私も、この思いがけない旧ユダヤ人街「ラ・フォルサ」の出現に、内心の興奮を抑えかねていた。石畳の暗く狭い道をのぼり、アーチをくぐったりしているうちに、いつしか考古学の散歩道「パセオ・デ・アルケオロヒコ」に出た。その名が示すように、ここは、一三世紀に建てられたコリント様式の、人目を引く回廊をもつ聖ダニエル修道院や、ムデハル様式の美しい回教徒浴場といった中世の建造物が密集している界隈である。
回教徒浴場入口から地下に通じる階段をおりてゆけば、石で固めた丸天井の部屋にいたるが、その中央には八本の柱を立てた八角形の石の湯船がある。そこを訪れた人は、天頂から湧き出すように降りそそぐ光と、優美な大理石の柱を映し出した湯船のなかの、きらめく水のアウラを、決して忘れることがないだろう。アラブとユダヤが共存していた黄金の中世が、そこからまだ強烈な匂いを放っているようであった。
この考古学通りの白眉は、なんといっても大聖堂付属の宝物庫に収められた珠玉の陳列品である。入口の受付でもらったドイツ語の説明書によれば、それらは一〇〇〇年以上にもわたって集められたもので、諸国の王侯や大司教、公爵などからの贈答品という。|豪奢《ごうしや》な祭服や|絨毯《じゆうたん》、エキゾチックな象牙細工やアラブの装飾豊かな小箱など、数えきれない財宝が広間を埋めつくしている。
だが、それらすべての宝物のなかでもひときわ光彩を放っているのは、一二世紀につくられたというロマネスクの「天地創造図」タペストリーである。考古学的価値からいっても、また芸術的価値からいっても、比類のないこのタペストリーは、神の天地創造の場面を|絢爛《けんらん》たる|刺繍《ししゆう》で表現したものである。中央には、左手に開いた書をもち、右手を軽くあげた創造主の姿が描かれている。これを取り囲む円には、つぎのようなラテン語の文字が記されている。
Dixit Quoque Deus fiat Lux et Facta est Lux.
(神光あれと言い給いければ光あり。)
創造主の下には、波に浮かぶ鳥や魚たちがユーモラスに描かれており、思わず観る者の微笑をさそう。生きとし生けるものと自然や宇宙との融和的な結びつきを創世の根源においてとらえようとしたこの図は、一二世紀から一五世紀にかけてキリスト教がヘローナの地にいかに強力に根をおろし、国土再征服運動に結集していったかを、端的に物語っているのだ。
大聖堂の絵はがき売り場でようやく手に入れた英語のガイドブック『スペイン・ユダヤ教案内(4)』によれば、ユダヤ人が市壁の外側で店を張ることを許されたのは、一一六〇年のことであった。そして、現在の地区に居住を認められたのはようやく一三世紀に入ってからであったが、古い大聖堂の尖塔からユダヤ人街「ラ・フデリア」めがけて、石弾を投げつけるという習慣があった。こうした反ユダヤ主義の習慣が嵩じて、一三三一年の復活祭の時には、現在の大聖堂のすぐ南西側にあるユダヤ人街が、暴徒によってひどく破壊されたという。
そのような説明文を歩きながら読んでも、現に自分の立っている位置がなかなか地図の記述とは一致しない。その時、数歩先を歩いていた友人が、細い通りの奥の方を指しながら、「ここだ!」と大きな声で叫んだ。
あった。ヨーロッパではじめて見る|猶太人街《ゲツトー》。何百年も踏みつけられててかてかに光った、幅二メートルもない石畳の細い道が、暗い奥に向かってゆるやかにのぼってゆく。その両側にそそり立つ石積みの高い壁。その黒い石の壁から突き出すようにして、昼間からぼうっと乳白色の明かりをともしている角灯。
(画像省略)
ただこれだけの単純な光景を、私は棒立ちになって見つめていた。引きこまれるようにそのなかへ入って行くと、左右の壁から押し寄せてくる沈黙の奥から、一三九一年にカトリックに改宗しながらも、一四九二年には追放されてここを去らなくてはならなかったマラーノたちの嘆きの声が聞こえてくるようであった。彼らはここで、ユダヤ人迫害の嵐が吹き荒れるまで数百年間、文化的にも経済的にも最も繁栄した生活を享受していたのだ。
また友人が手を振っている。両手をメガフォンがわりにして、彼は低い声で叫んだ。
「シナゴーグがあるぞ!」
急いで近づいてみれば、「カル」と呼ばれるこのユダヤ人街のなかほどに、シナゴーグ「盲者イサク」(Isaac el Cec)はあった。
(画像省略)
このシナゴーグは、一二世紀プロヴァンスのカバラ主義者サークルを指導した律法師アブラハム・ベン・ダヴィドの息子にして、今日まで「カバラの父」と呼ばれている盲者イサクにちなんで名づけられているのである。しかもこれは、ヘローナ第三番目のシナゴーグが、中世に在ったその場所に建てられたものという。さらに、五〇〇年以上もヘローナの町に住み、全盛時には一〇〇〇人もいたという裕福で教養あるユダヤ教徒が、自分たちの共同体のシンボルとして建造した「盲者イサク」を中心に擁するヘローナのゲットーは、ヨーロッパで最もよく保存されたユダヤ人居住地である、と解説書は誇らしげに書いている(5)。
私はシナゴーグの、地下におりてゆく階段の手前で、思わず友人と顔を見合わせた。というのも、この「盲者イサク」は、イベリア半島のユダヤ人街とシナゴーグを訪ね歩こうとする我々に、最初の、と同時に最も重要な足がかりをあたえてくれそうだったからである。しかも、一九八二年に復元されたというこのシナゴーグは、通常の教会建築とはまったく異なる不思議な印象を我々にあたえずにはおかなかった。それはまるで地下に向かって建てられているといった趣きだった。勝利者さながらに天空に向かって高くそびえる大聖堂の、まさに根元に近い所にあって、シナゴーグ「盲者イサク」は、キリスト教のみならず、ユダヤ教に対してさえあえて反旗をひるがえそうとするかのように、その意志と思考をひたすら地下の深みに向かって先鋭化させているのであった。
カバラは、口から耳に直接伝授された、|師資相承《ししそうしよう》の「口伝」および「伝統」を意味している。これは、長い間厳格な参入儀礼を経た有資格の弟子にのみ教えられた、密教的な知識だった。それが世に知られるようになったのは、一三世紀スペインのユダヤ人の手になる著作からである。我々が今|辿《たど》り着いたシナゴーグ「盲者イサク」こそ、じつはスペイン・カバラ発祥の、まさに現場だったのである。
この復元されたシナゴーグにプロヴァンスの「カバラの父」の名が冠せられているのは、当時プロヴァンスとヘローナ間の交通がそれほどひんぱんだったことを物語っている。
さらに、一二世紀から一三世紀にかけて、新しいカバラの宗教的諸力は、始発の地プロヴァンスから、いっそう強度を増して後発の地に移って行った。それもまた当然のことであった。というのも、ヘローナは、ショーレムが著書『カバラの起源』のなかで述べているように、カバラ発祥の地であるプロヴァンスとバルセロナの中間にあって、しかも当時バルセロナについで二番目に大きなユダヤ人共同体を擁し、新しいカバラをさらに発展させて、広く世に伝播しやすい位置にあったからである(6)。
すでに述べたように、カバラ主義者とは、神を絶対的超越性へと止揚させてしまわず、豊かな象徴的表現を通して神の生きた実在性に触れようとする、ユダヤ教の神秘家たちのことであった。このようなカバラ主義者にとって、神あるいは神的実在とは、内から外に向かって|充溢《じゆういつ》・流出する巨大な、かつ絶対無限定的な存在エネルギーにほかならなかった。その際、カバラ主義者は、こうした無限定のエネルギーが充溢・流出する場合の、原初的に限定されるつぎの一〇個の発出点を考える。この発出点を元型と言い換えてもよいが、カバラ主義者はそれをセフィロトと呼んだのである。
[#ここから2字下げ]
(一)「ケテル」(王冠)
(二)「ホクマー」(知恵)
(三)「ビナー」(理知)
(四)「ヘセド」(慈愛)
(五)「ゲヴラー」(厳格)
(六)「ティフェレト」(美)
(七)「ネツァー」(勝利)
(八)「ホド」(栄光)
(九)「イエソド」(基礎)
(十)「マルクト」(王国)
[#ここで字下げ終わり]
つまり、ヘローナのキリスト教社会が天地創造を絢爛たるタペストリーに図像化していた頃、盲者イサクは天地創造を、言葉によって表された神的エネルギーの、外部への展開としてとらえ、こうしたカバラのセフィロト教義を発展させていたのである。
このようなカバラ思想があまねくユダヤ人社会に知れわたっていったのは、スペイン・ユダヤ人全体の指導的権威だったラビ、モーゼス・ベン・ナハマン、あの他に並ぶ者なき哲学者にしてタルムード学者のナハマニデスに負っている。ナハマニデスは、神秘的・暗示的なモーセ五書の注解によって、草創期のカバラに素晴らしい輝きをあたえた人物であった。しかし、この当代きっての聖書解釈者も、一二六三年バルセロナで四日間にわたって行なわれた、キリスト教対ユダヤ教に関する神学論争で教会関係者の怒りをかい、アラゴンを追われてパレスティナへ亡命を余儀なくされた。イサーク・ルリアの始祖とも言えるこの神秘主義者ナハマニデスが、ここユダヤ人地区「カル」の名だたるカバラ学校の出身であることも、ヘローナに来て私ははじめて知ったのである。
ヘローナの「地下」カバラ主義者の家は、私にとってひとつの発見であった。己れの意識の深層におりて行き、神の内なる根源的無と相対して「元型」セフィロトの流出世界にひたすら思考を凝らすカバラ主義者の瞑想術が、このような「地下」シナゴーグ建築を実際見ることによって、はじめて理解されたように思われた。カバラ主義者が創出した、右のような神認識の「地下」構造は、地上のいかなる権力や暴力によっても破壊することのできない、おそらくユダヤ人にとっては最後のもの[#「最後のもの」に傍点]であったにちがいない。
メシアの風
一六世紀から一七世紀にかけて、ヨーロッパ各国に離散して行ったユダヤ教徒やマラーノたちの社会に、一種異様な風が吹いていた。それは、これまでいく度も苛酷な弾圧を受け、先行きの不安に怯えるユダヤ人を全体として包みこむ神秘的な風であった。この風はどこからともなく吹いてきては、ヨーロッパじゅうを駆けめぐり、やがて時代の壁にぶつかって消滅する運命を、何度も何度も繰り返していた。
その頃イラクないしアルバニアに生まれ、イスタンブールで育ったダヴィド・ルーベニという男もまた、そのような風となった予言者のひとりだった(7)。サロニキで間もなくメシアが現れると予言したルーベニは、一五二四年、白馬に|跨《またが》ってローマの街に乗り込んだ。時の教皇クレメンスから方々の国王宛の紹介状をもらって、彼はまずポルトガルへ赴いた。彼の出現は、ポルトガルのマラーノの間に大きな興奮を引き起こした。その時、ルーベニの代弁者・協力者として名乗りをあげたのが、ディオゴ・ペレスというマラーノだった。彼は将来性のある役人の仕事を投げすて、トルコに赴いて、ユダヤ教徒時代の名前ソロモン・モルコにもどり、日夜カバラの研究に打ち込んだ。ルーベニと同様モルコもまた、一五四〇年にはメシアが現れると告げながら各地をめぐった。一五二九年から三〇年にかけて、彼はサフェドのユダヤ人共同体を興奮の渦に巻き込み、ついで世界の中心ローマで、予言者としての自らの神聖な使命を果たそうと決意した。だが、一五三二年三月、ボローニャで捕らえられたモルコは、背教者として生きたまま火刑に処された。ルーベニもまた最後には、ポルトガルの異端審問所で同じ運命にあったのである。
イサーク・ルリアも、このようなメシア待望の風のなかに生まれた神秘家であった。多くの予言者同様、この幻視家もまた、神の御名が湖水を渡ってゆくのを見たと言われている。だが、それによってルリアは、自らメシアと名乗ることはしなかった。
ひたすら内面に向かうこのカバラ主義者に反し、メシアへの道をあえて進もうとしたのが、彼の最も親密な弟子ハイーム・ヴィタルだった。師が若くして病死した後、彼はいつの日かメシアとして名乗り出るために、エルサレム、カイロ、サフェドなどでメシア到来の期待を熱心に説き回っていた。一六二〇年ダマスカスで死んだ時、ヴィタルの存在はすでに半ば忘れ去られていたにしても、彼のこうした生の歩みは、離散ユダヤ人の間にいかにメシア到来が望まれていたかを物語っていたのである。
こうしたユダヤ人のメシア待望をいっそう強烈にしたのは、一六四八年から一六五八年にかけての、一切を奪い去る大規模なユダヤ人|殺戮《さつりく》であった。フメルニツキーを首長にいただくウクライナのコサックは、ポーランドの領主たちが永年課してきた経済的・政治的な抑圧の元凶こそ、領主に取り入っているユダヤ人であると見なして、彼らを攻撃の標的にしたのである。一〇万人にも及ぶというこの虐殺は、それから近代ヨーロッパのユダヤ人問題が相継いで発生してくる前触れであった。
そのような時代を背景にして、メシアは最も暗い時代に到来するという伝承に従うように、一六四八年の終わり頃、シナゴーグのなかで立ち上がり、神の神秘的な名前を完全に唱えたカバラ主義者がいた。一六二六年スミルナに生まれたサバタイ・ツヴィというその男は、一説によればセファルディの出身という(8)。しかし、ショーレムの考証によれば、ツヴィあるいはツェヴィという姓は、個人の名としても家族の名としてもセファルディ系にはないので、サバタイ・ツヴィの家族はアシュケナージ系であろうという(9)。いずれにしても、スペインのカバラの影響を強く受けたこの男は、トルコに移住したセファルディ系ユダヤ人社会のなかでしだいに頭角を現すようになっていったのである。そして、ラビたちや敬虔なユダヤ教徒がサバタイの追放をいく度か唱えても、サバタイ・ツヴィに対する民衆のメシア待望の爆発は、数世代にわたってくすぶる火のように、ただ点火だけを待っていた。
(画像省略)
点火のスペクタクルを演出したのは、エルサレムのゲットーに生まれた、弱冠二〇歳の天才的なルリア派カバラ主義者、ガザのナタンだった。一六六五年、恍惚的幻想のなかでサバタイ・ツヴィが玉座に座っているのを見て、ナタンは彼をメシアと信ずるようになった。その信奉者のひとり、サムエル・ガンドゥールが右の幻視を伝えると、サバタイ・ツヴィはエジプトでの伝道を中止し、自分の魂に合った創造の復興「ティクーン」を見出すために、若いナタンを訪ねて急遽ガザに来たのである。これを神の啓示と見なしたナタンは、サバタイ・ツヴィに正真正銘のメシアであるとの確信を与え、数週間パレスティナの聖地をともに遍歴した後、自分より三〇歳も年長の男に、われこそはメシアなりと宣言させたのである(10)。
メシア到来のニュースは、エルサレムからアムステルダムやハンブルクまで、|燎原《りようげん》の火のように広まって行った。こうしたパレスティナからの便りに、とりわけ追放と迫害に苦しんできたマラーノたちがどれほど興奮し|欣喜雀躍《きんきじやくやく》したかが、先のハンブルクの主婦グリュッケル・フォン・ハーメルンの手記のなかに鮮やかに描かれている。
「救世主サバタイ・ツヴィの出現を伝える手紙を受け取った時の人々の喜びようがどのようなものであったかは、とても書き表せるものではありません。その手紙をいちばんたくさんもらったのは、ポルトガル人(マラーノ)でした。彼らは手紙をもって自分たちのシナゴーグへ行き、声高らかにそれを読み上げたのでした。ドイツ系ユダヤ人でさえ、老いも若きも、ポルトガル人のシナゴーグへ出かけて行きました。ポルトガル系の若者たちはいちばん上等の服を着て、そのうえに緑色の幅の広い絹の帯をしめていました。これは、サバタイ・ツヴィの信奉者たることを示す装いでした。彼らは『太鼓を叩き輪をえがいて踊りながら』シナゴーグへ出かけ、喜びもあらわに便りを読んでおりました。家屋敷や自分の持ち物を全部売り払った人も少なくはありませんでした。毎日、今日こそ救われると期待したからなのです。亡くなった義父は家屋敷も家具もすてて、ハーメルンを発ち、ヒルデスハイムに居を移す始末でした。そこからハンブルクの私たちに、敷布類を入れた大樽を二つ送ってきました。そのなかには、えんどうやいんげん豆、乾肉や乾すももなど、長く保存のきくさまざまな食べ物が入っておりました。私たちも速刻ハンブルクから聖地に赴くものと、年老いた義父は考えたのです。(11)」
だが、マラーノの希望をいっぱい詰めた二つの大樽は、グリュッケルの家に三年近くも放置されていた。遙かな聖地への旅にそれが役立つ日はついに訪れなかった。というのも、一六六六年、サバタイ・ツヴィが至福千年のはじめになるであろうと予言した年の九月一六日、彼は、革命に発展するかもしれない民衆の不穏な動きに恐れをなしたトルコ皇帝サルタンによって、投獄されてしまったからである。そればかりではなかった。死かイスラムへの改宗かという二者択一を迫られたサバタイ・ツヴィは、同年一一月、あっさりユダヤ教をすててイスラムに改宗するていたらくだった。しかも、ユダヤ人世界の幻滅をよそに、この偽救世主は、メーメット・エフェンディというイスラム名を授けられ、高給をもらって、それから一〇年間サルタンに侍従として仕えたのである。
こうして、一七世紀後半のヨーロッパ南東の空に、マラーノのメシア待望に応えると見せかけたスキャンダラスな星がのぼったのである。それは確かにヨーロッパじゅうをゆるがすほど強烈ではあったが、創造の復興「ティクーン」の成就とはまるで関係のない幻影に過ぎなかった。しかし、マラーノたちは、スペイン追放から一七四年を経て生まれてきたこの幻影に対する無意識の反発として、同じ頃、どこか亡命の旅の空の下に、真のティクーンにふさわしい人間を生み出していたはずである。それはもはや群衆の目をひきつける熱狂的な性質のものではないだろうが、それだけにいっそう透き通った知の輝きを放つ星として、ひそかに存在を主張していたに相違ない。
我々はあるいはこの旅のなかで、そうしたサバタイ・ツヴィの対極に位置するような人間の生き方と思想に出会えるかもしれない。その意味でもヘローナは、セファルディ並びにマラーノの純粋な知性を探究する我々の旅の出発点となったのである。
[#改ページ]
第四章[#「第四章」はゴシック体] グラナダ一四九二年
[#ここから5字下げ]
「カトリック両王時代のユダヤ人・マラーノの苦難が、クリストファー・コロンブスを西廻り航海に向かわせたのである。」
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](フリッツ・ハイマン『ヘルデルンの騎士』)
アルハンブラ落城
グラナダ一四九二年は、ヨーロッパ中世の終わりと同時に、近世の始まりを表していた。そこにおいて、三つの世界史的な事件が互いに密接にからみあっていた。三つの事件とは、スペイン最後のモーロ王国グラナダの陥落と、コロンブスの新大陸発見、そしてユダヤ教徒の追放令である。
一四九二年一月二日早朝、これまでしばしば歌に歌われてきたグラナダの町の、要塞という要塞はすべて、スペインの軍勢によって占拠された。市内では、教父アンブロシウスの|頌歌《しようか》を歌う聖歌隊を伴った荘厳な行列が、カリフたちの赤い城「アルハンブラ」に向かって行進していた。行列の先頭を行く聖職者たちは、法王から寄贈された大きな十字軍旗を掲げている。その後ろから馬を進めてゆくのは、フェルナンドとイサベルのカトリック両王だった。そしてついに、両王はアルハンブラ宮殿のテラスに足を踏み入れる。イスラム寺院の尖塔「ミナレット」がいく百もそびえ、噴水と庭園が朝日を浴びて紫紺に輝くグラナダの街は、彼らの前に無言で横たわっていた。
歴史を遡ってみれば、イスラム教徒が北アフリカの西の果て、タンジールからジブラルタル海峡を越え、破竹の勢いでヨーロッパ大陸への北進を企てたのは、七一一年のことであった。その|驀進《ばくしん》はトゥールーズ平原でようやくくいとめられたが、イスラム軍はアンダルシアを掌中におさめ、スペインの主要都市をつぎつぎに攻略していった。そして九二九年には、コルドバをイスラム・スペインの都として、スペインの国土に優雅と気品に満ちた花をひらかせた。キリスト教徒の職人たちは、先進技術の習得のためにオリエントの輝かしい光を放つスペインの町々を訪ね、また近隣諸国の学生たちも、アラブの科学を学ぶためにトレド、コルドバ、グラナダの各大学を訪れた。
グラナダが一二三八年に諸侯国のひとつとなった後、アラマール王にはじまりボアブディル王に終わる二一人のアラブ諸王は、ナスル王国の華「アルハンブラ」を完成させていった。グラナダのモーロ人たちは、アルハンブラを築くことによって、この世の楽園をつくることを夢見たと同時に、ここをスペインにおけるモーロ王国最後の|砦《とりで》にしようと試みたのである。モーロ華やかなりし時代、四万人もの軍隊を収容していたというこの無敵の城塞は、モーロ王国の威力をスペイン全土に広くしめしていた。また政治的、経済的にもグラナダは、カスティーリャ、アラゴン、レオン、そしてアンダルシアの貴族たちに門戸を開いていた。さらに、イベリア半島の全輸出入を取りしきるための独自の大きな港を、マラガにもっていた。
他方、モーロ人のスペイン上陸で北部山岳地帯に敗退していた少数派のキリスト教徒たちが、その後国土回復に戦いの|狼煙《のろし》をあげ、一三世紀には「レコンキスタ」と呼ばれる再征服運動を大いに発展させた。こうして、コルドバがキリスト教徒の手に落ちたのは一二三六年、バレンシアが一二三八年、さらにセビリヤ陥落が一二四八年であった。とすれば、アルハンブラ宮殿というモーロ人の夢の建築は、スペインにおけるモーロ勢力失墜の歴史に逆行する形で進められたことになる。そして、イスラム教徒同士の内紛に乗じていっそう勢いを得てきたキリスト教国の、緩慢だが厳しい進撃を受けて、ロンダは一四八五年に、マラガは一四八七年に落ち、最後の王ボアブディルの統治下にあったグラナダは、一年半にわたる包囲攻撃の後、一四九二年一月二日、ついに開城したのであった。
(画像省略)
ところで、イベリア半島統一の理想に燃えていたのは、騎士たちではなく、八〇〇年来、とりわけクリュニー修道院の高揚せるキリスト教精神で教育された聖職者たちであった(1)。スペインにいくつも建てられたこの修道院は、古代ローマの中央集権的な思想に貫かれて、全ヨーロッパに大きな勢力をもっていた。こうした忠実な聖職者を味方につけて、教皇はラテン語系国家をふくむあらゆる国家誕生を大いに推し進めることができたのである。
このような歴史的背景から、スペインにおけるクリュニー派の聖職者たちは、ローマの教皇聖下を世界の中心と見なし、スペインをまさに、キリスト教による統一を目指して戦うに値する国と見なしていた。無政府状態のなかで聖職者たちは、彼らの目標を決して忘れはしなかったし、つねに騎士たちの無法行為に一定の方向をあたえつづけていた。彼らは時代のあらゆる困難な状況をものともせずに、大きな戦闘集団をつくり、修道会士として厳格で軍隊的な生活を送っていた。こうした聖職者の戦闘的な精神によって、ヨーロッパのなかの異邦の砦グラナダはついに陥落したのである。
だが、フェルナンドとイサベルは、一〇年にわたる血で血を洗う戦いにけりをつけ、今後どこにも新しい城塞をつくらせないため、さらに古都グラナダを破滅から救うために、モーロ人に対する寛容な措置を認めていた。つまり、カリフ王国がもう存在しないとしても、その住民は「カスティーリャ王国の特別な臣民」とされたのである。さらにモーロ人は、信仰の自由を認められたうえに、兵役も免除され、税の面でも優遇措置が講じられることになっていた。もし彼らが国外への移住を希望すれば、カスティーリャ王国は船を用意してくれたし、移住先の新しい故郷が気にいらなければ、彼らはいつでも自由にグラナダへ帰ってくることもできた(2)。
グラナダの大司教タラベーラは、アルハンブラ開城後も、心優しい説教によってイスラム教徒の心をつかみ、事実モーロ人の間で彼の人気はゆるぎないものであった(3)。しかし、修道士にして初代大審問官トルケマダは、降伏条約に盛られた、モーロ人に対する寛大な措置を、スペインの国家統一に対する冒涜と見なしていた。と同時に、このトルケマダの目に、ユダヤ教徒が国家統一を妨げる最大の要因と映っていたことは言うまでもない。
キリスト教徒の手に落ちたグラナダには、当時多くのユダヤ人が住んでいた。古い年代記のなかでも、グラナダは「ユダヤ人の街」と呼ばれていたほどであった。カスティーリャの国王は、降伏条約のなかで、モーロ人の切なる要望によって、占領された地域に住むヘブライの民にも他の住民と同じ権利と自由を認めることになっていた。したがって、ユダヤ人たちも大多数のモーロ人と同様に、「特別な臣民」としての地位をあたえられて、グラナダに安泰な生活をつづけていた。いや、彼らは当初、グラナダ陥落後も安泰な生活をつづけられると思っていた。その頃しかし、大審問官トルケマダは、ユダヤ教徒の追放をフェルナンドとイサベルに激しく迫っていたのである。
キリスト教徒の再征服運動の勝利を表す一四九二年一月二日は、やがて、イスラム教徒にとってもユダヤ教徒にとっても、スペインにおける長い定住の終わりになると同時に、追放の始まりになるだろう。そして、グラナダ無血開城を待ち構えていたように、この時キリスト教の勝利と異教徒の追放を一身に兼ね備えたような男が、アルハンブラ宮殿に姿を現す。男の名前は、クリストファー・コロンブス。このジェノヴァの男はしかし、いったい何者だったのだろうか。
この問いに対する答えを見つけだすためにも、時間的には五〇〇年以前に遡る旅、空間的にはバルセロナからアンダルシアの遙か南までの、全行程一〇四九キロを一気に下る旅が、いっそう意義あるように私には思われた。
コロンブスとは何者か
中世モーロ人の要塞アルハンブラ宮殿は、三〇以上もの塔をもつ城壁によって、外部社会から完全に遮断された壮麗な別世界である。その心臓部にあたるのがアルカサル、先の二一人の諸王が四人の正妻や|愛妾《あいしよう》たちと生活をともにしていた所である。これは、増築に増築を重ねたように、統一なくつづく部屋部屋の複合体である。入口から最初に入った部屋を裁きの間「メスアール」という。その中庭の左側の扉を通ってゆけば、水と光と花々によって演出された、砂漠のオアシスさながらの天人花「アラヤネス」の中庭に入る。その正面に高く|聳《そび》えているのが、アルハンブラの塔のなかで最大の規模をもつというコマレスの塔、である。アラビア語で色硝子「クマリエス」を意味するこの塔の名は、従来その窓に多彩色のガラスが多く使われていた事実に由来している。
(画像省略) 真昼の日光が水面いっぱいにはじけるアラヤネスの中庭から大きな広間に入って行くと、誰でも一瞬たじろぎを覚えるほどの暗さである。だが、しだいに目が慣れてくると、木組みの天井に|煌《きらめ》く黄金の星々がちりばめられていることに、人はようやく気づきだす。アラビアの放牧の民が天幕生活をしながら砂漠の透き通った星空を仰ぎ見て、長い長い|時間《とき》の流れのうちにたくわえていった彼らの星空のイメージを、このような天井の造形に投影していったのだろうか。丸天井の中央部分は、アラーの神が住む天国を象徴しているという。こうした黄金の星々が煌く悠久の天井の下で、じつはスペイン史上最も重要な意義をもつ事件「グラナダ一四九二年」が起こったのである。
(画像省略) つまり、コマレスの塔内部の「大使の間」は、一四九二年一月二日、八〇〇年にわたるモーロ人のスペイン支配に終止符を打つアルハンブラ開城に、ついでその直後行なわれたイサベルとコロンブスの会見、さらに同年三月三一日、ユダヤ人の追放令に女王が署名するという決定的な国事に、使用されたのである(4)。
ところで、コロンブスが女王に|謁見《えつけん》を許された日、裁きの間もライオンの間も、モーロ人を征服したカトリックの司教、貴族、廷臣や騎士たちでごったがえしていただろう。だが、戦勝の喜びまださめやらぬ大使の間で、コロンブスは、女王からついに航海の援助ができないという通告を受けた。かくて、七年以上にもわたってスペイン王室に売りこんだ西廻り航海案を断念して、コロンブスは傷心のうちにグラナダを去って行った。
コロンブスが彼の航海案の支援を、フェルナンドとイサベルから取りつけようとして単身スペインに乗りこんできたのは、一四八五年中頃のことであった。その頃両王は再征服運動の真っ最中で、一四八五年にはロンダを、八七年にはマラガを落として、いまやイスラム最後の拠点となったグラナダ攻略の機会をうかがっていた。イサベルがカスティーリャの王位に就いたのは、一四七四年、折しも新キリスト教徒に対する暴動が荒れ狂っている頃であり、各地の市参事会がユダヤ人の居住を禁ずる決議をした時期にあたっていた。
新キリスト教徒は過去数世代にわたり、個人的にのみならず集団でも洗礼を受けるという、世界でも例を見ない挙に出て、悲惨な現実を避けてきていた。だが、この表向きの信仰の裏で彼らは、相変わらず安息日を守り、シナゴーグに通っていたのである。社会的進出の目覚ましかった新キリスト教徒は、持ち前の勤勉さと知力によって財をなし、結婚によって貴族との|繋《つな》がりをもつようになっていた。王家をふくむ貴族の家系で、ユダヤ人の血の「痕跡」がまったくないものはほとんどなかった。
驚くべきことには、アラゴン王フェルナンドの体にも、母方からユダヤ人の血が流れていたという(5)。一国の大臣、宮廷の財務官、軍隊の司令官、裁判官、医者、大学教授、そして聖職者といった最も社会的な地位の高いポストも、新キリスト教徒によって占められる形勢になっていた。このような新キリスト教徒=マラーノをねたみ、相変わらずユダヤ教とは切れていない彼らの「偽善性」を告発|弾劾《だんがい》する動きが、民衆の間からも教会の講壇からもしだいに高まってきていた。
一四七八年一一月一日、ついに神聖裁判を制度化する勅令が発せられた。それが、三〇〇年以上にわたり数えきれない人間を薪の山へ送りこむ、恐るべき異端審問に扉を開けたのである。
このような社会状況のなかでコロンブスは、ついに一四八六年五月、コルドバでイサベル女王との念願の謁見を果たしたのである。彼の西廻り航海案に関心をもったイサベルの要請により、諮問委員会がつくられ、その最高責任者に、女王の|懺悔《ざんげ》聴聞師エルナンド・デ・タラヴェーラが選ばれた。
(画像省略)
ところで、この委員会には終始きわめて奇妙な性格がつきまとっていた。というのは、グラナダ侵略が何はともあれ急務なのだから、海外活動に余計な力と資本を費やす必要がないという、すこぶる明白な反対意見が多数を占めていたにもかかわらず、一四八六年秋から五年間、結論はつねに先送りされていたのである。どういう力がこの委員会に働いていたのだろうか。タラヴェーラも、同委員会委員のドミニコ会修道士ディエゴ・デ・デサも、コロンブスにひじょうな好意をもっていたという。それにもかかわらず、同委員会は最終的に|件《くだん》の航海案に否定的な結論を出したのであった。
イサベルの支援を断られた傷心のコロンブスは、グラナダからの帰り道、タラヴェーラやデサの好意を何度も記憶のうちに|甦《よみがえ》らせたことだろう。その好意がしかしあまりにも強過ぎれば、つねにユダヤ人の動静に目を光らせているトルケマダが黙っていないのは、火を見るよりも明らかだった。コロンブスは、確かに慎重のうえにも慎重を期して、火刑と絞首刑の間を巧みに切り抜けてゆく必要があったのだ。
フリッツ・ハイマンによれば、コロンブスは一四五一年、ジェノヴァの毛織物業者ドメニコ・コロンボとスサンナ・フォンタナローサとの間に生まれたが、この母方のフォンテローサ家がじつは改宗したばかりのユダヤ人だったという(6)。これが事実だとすれば、コロンブス自身、ユダヤ人であることがばれはしまいかという不安をつねに抱いており、その不安が逆に西廻りの航海をなんとしてでも成功させようとする、彼の固い意志と不可分に結びついていたという説も、少なからぬ根拠があるように思われるのである。
帰路コロンブスは、グラナダから一五キロほど離れたピノス・プエンテという村にさしかかった。ちょうど、キリスト教徒とイスラム教徒との|血腥《ちなまぐさ》い戦闘があったことで知られる、ピノスの橋を渡っている時であった。イサベル女王の急使がそこでコロンブスに追いつき、「問題を再考するからもどるように」との命令を伝えたのである。
じつは、こうした女王の態度の急変には、アラゴン王国の計理官ルイス・デ・サンタンヘルという人物の説得があった(7)。このサンタンヘルが、ジェノヴァの警察組織の経理担当者と相談して、遠征費一四〇万マラヴェディを工面したのだという。資金調達の詳細については省くとしても、どうやらジェノヴァのユダヤ系の銀行や商館が、この時新大陸発見のために動いたのは確実のようである。とすれば、イサベル女王が自分の宝石を売って資金を調達したというのは、キリスト教側の作り話になってくる。
いずれにしても、乗員九〇人、カラベラ船三隻を擁した第一回航海を可能にする資金のめどがついた。かくして、グラナダ近郊のサンタ・フェで、コロンブスはイサベル女王と大西洋西廻り航海に関する正式協約をかわす運びとなった。一四九二年四月一七日のことである。
以上の経過から、歴史の裏側に光があてられたように、ひとつの事実が見えてくる。それは、タラヴェーラ委員会の奇妙な|躊躇《ちゆうちよ》とサンタンヘルの資金工作をめぐる急激な動きが、おそらく一三九一年以来しだいに生存圏を狭められていった新キリスト教徒=マラーノの、新天地への移住の熱望と結びついていたということである。それほど、航海に向かうまでのコロンブスの足跡と、ユダヤ人追放の過程とが互いに重なっているのだ。
コロンブスがイサベルとの間で協約書をとりかわしたのは、マラーノにとって決定的なスペインからの追放令が公布されてから、わずか一七日後のことであった。さらに提督コロンブスの率いる三隻の帆船がサルテス河口を出発したのは、一四九二年八月三日早朝というから、これはユダヤ教徒の出国期限のわずか数時間後のことである。しかも、このカラベラ船三隻には、ひとりとしてカトリックの司祭が乗船してはいなかったのである。
このようにユダヤ人を襲った破局という視点に立ってみれば、コロンブスの周辺から驚くほど大勢のマラーノが姿を現してくるのだ。コロンブスの西廻り航海案を審議する五人の諮問委員のうち、なんと四人までがマラーノだった(8)。なぜタラヴェーラ神父やデサ神父が終始コロンブスに好意を寄せていたかも、異端審問所の恐怖と追放令公布の不安から逃れようとしていた当時のマラーノの立場から説明できるのである。
さらに、最後の最後にイサベル女王に資金援助を申し出て翻意をうながした陰の立役者、ルイス・デ・サンタンヘルもまた、マラーノの家柄だったという。また、コロンブスの船に乗りこんだヘブライ語翻訳者ルイス・デ・トーレスにいたっては、出航の前日に洗礼を受けたばかりの、ほやほやの新キリスト教徒=マラーノだった。乗船員のひとりで、アラゴンの計理官ガブリエル・サンチェスの親戚にあたる監視官ロドリゲス・サンチェスもまた、ユダヤ人として新世界の土をはじめて踏んだ五人のヨーロッパ人のひとりになった。さらに、『コロンブス航海誌』を編纂し、その写本を後世に残したバルトロメ・デ・ラス・カサス神父は、スペイン人植民者の横暴に対する批判者としてつとに名を知られた人物であるが、このラス・カサスも改宗ユダヤ人=マラーノの家系に属していたという(9)。
こうしてみれば、コロンブスの画期的な大航海の事業も、まさにユダヤ人改宗者あるいはマラーノによって審査され、支持され、資金を供与され、さまざまな協力を得てはじめて実現したと言えそうである。その意味では、新大陸発見の希望を売りに来たクリストファー・コロンブスというジェノヴァの男は、マラーノの恐怖と不安が生み出した夢の冒険家だったのである。
マラーノの諸相
グラナダが開城し、トルケマダがユダヤ人追放をカトリック両王に執拗に迫っている間、ユダヤ人共同体は手をこまねいて絶望に身をまかせていたわけではなかった。迫害の嵐が吹き荒れそうな気配を感じて、彼らは史料と資金を集めだしたのである。史料は、自分たちがセファラデの地にいかに深く根をおろしていたかを立証してくれるはずであったし、また|金銭《かね》は、ユダヤ人に向けられた憎悪の火を消し止めてくれるはずだった。ラビたちは聖書の寓話、あるいはフェニキアやバビロニアの文献を解読して、ユダヤ人が紀元前からスペインに住み、いくつもの都市の建設にあずかってきたことを立証するのに懸命であった。こうした解読を通してユダヤ人の立場を弁明できる人間がいるとすれば、当代きっての財務官イサーク・アブラヴァネルをおいてほかになかった(10)。
アブラヴァネルは、日頃から親しんでいた聖書と文献学を拠り所にして、古代に遡るユダヤ人のスペイン移住の問題を懇切丁寧にイサベル女王に進講した。だが、彼はこの時、たんに歴史的な論証にとどまらずに、この迫害を食い止めるためにはどれほどの金がかかるかについても、冷静に計算していたのである。
グラナダ戦役にかかった費用をほかの誰よりもよく知っていたアブラヴァネルは、早速三万ドゥカーテンを用意し、どちらかといえば|金銭《かね》に弱いフェルナンド王に謁見をもとめたのだった。ユダヤ人追放がはたして賢明な策なのかどうか、国王の心は大きく揺れ動いた。だが、ちょうどその場に居合わせたトルケマダは、謁見室の扉を開けて、十字架をふりかざしながら叫んだ。「ユダはキリストを銀貨三〇枚で裏切った。お前は今三万の金で同じことをやろうとしている。これでもくらえ!」こう叫んでトルケマダは、十字架をテーブルのうえに投げつけて、アルハンブラ宮殿を立ち去って行った。この場面を目撃したイサベル女王の心は、怒って立ち去った大審問官の方へ決定的に傾いたのである。かくて女王は、すでに準備してあったユダヤ人追放令に署名したと伝えられている。ユダヤ人を震えあがらせたこの勅令は、グラナダ開城から二カ月後の、一四九二年三月三一日、スペイン全土に布告された。
それまでユダヤ人は、モーロ人の支配下でも、キリスト教徒の支配下でも、文化隆盛の時と執拗な迫害の歴史をスペインの全域で経験していた。ユダヤ人は、一方では大臣や徴税官、医者として領主に仕える上流社会の重要な構成員であり、他方では商人であったり、また農民にして兵士でもあった。このようなユダヤ人は、ある時はモーロ人と組んでキリスト教徒と闘い、またある時はキリスト教徒と組んでモーロ人と闘っていた。いずれにしてもユダヤ人は、このスペインの地で概して他のどの国よりも恵まれた生活をしていたのである。というのも、ほとんど同じくらいの勢力をもっていたイスラム教徒とキリスト教徒が闘っていたこの国で、数のうえでは劣るユダヤ人が第三の勢力としてキャスティングボートをにぎっていたからである。
(画像省略)
一四九二年のグラナダの三つの歴史的事件は、三者のこうした力の均衡を根底からくつがえすものであった。カトリック両王はこの時を決定的な踏み台として、「一国家・一民族・一宗教(11)」という国粋主義的なプログラムの実現に着手しはじめた。その結果、イスラムに寛大な降伏文書が数年後には履行されなくなり、一五〇一年のグラナダ反乱鎮圧の後、モーロ人もユダヤ人と同じように、「改宗か追放か」の二者択一を迫られるにいたったのである。こうしてモーロ人の多くは、八〇〇年前にやって来た道を逆にたどって、おもにアフリカ方面へ引き揚げて行ったが、それ以外の者はイスラムからキリスト教に改宗した「モリスコ」として、なおスペインに残留する道を選んだ。
さらにこの残留組は一六世紀に入ると、アンダルシアからラ・マンチャの荒地へといったように、スペイン国内の各地へ強制移住させられていった。そのうえ、「血統の純粋性」という強迫観念が荒れ狂って、科学・芸術のあらゆる分野でキリスト教徒の追随をゆるさなかったイスラム教徒が、モリスコとして激しい蔑視の風潮にさらされてゆくのである。
一方、グラナダ勅令の直撃を受けたユダヤ人のうち、どれほどがスペインの地を離れ、またどれほどがキリスト教の洗礼を受けたのであろうか。ヘンリー・カメンによれば、「一六万五〇〇〇人以上が国外へ移住、少なくとも五万人が後に残り、改宗の道を選んだ(12)」という。それに、一三九一年のユダヤ人迫害の時改宗していたユダヤ人をふくめれば、スペインに残留したマラーノの数が、全体として移住者の数を上回ることは間違いない。
このマラーノたちはみな、宗教的純粋さを確立した国内に巣喰う害毒として、いつ異端審問所に訴えられるか分からないという不安に怯えながら暮らしていた。社会には、隣人の「隠れた」行動に目を光らせる密告者が横行しはじめた。
誰が豚肉を口にしなかったか。誰が安息日の前に衣類を取り替え、祈りの前に手を洗ったか。誰が子供を旧約聖書の名前で呼んだか。
このような密告によって、隠れユダヤ教徒の嫌疑が成立する仕組みになっていたのである。密告者は痛快感を味わうか、あるいは一時的な良心の呵責にさいなまれるに過ぎなかった。それにひきかえ、密告された方は、牢獄に拘留され、財産を没収され、時には当然のことながら生命さえ奪われたのである。
「一国家・一民族・一宗教」という国家の大義名分は、一六世紀に入ると、急速に血統の純粋さの強迫観念と結びついていった。このような一六世紀スペインにも、しかし、人類の文化を進化の歴史としてとらえ、文明なるものが単数ではなく複数であるという歴史認識をもった人間がいた。実際にインディアスの植民地社会に赴き、布教を通してスペイン人植民者の横暴を批判した、あのドミニコ会士ラス・カサスがその人である。普遍性をもつこうした思想も、追放と離散を生きるほかなかったマラーノの純粋なノマディズムから生まれてきたものであるにちがいない。
おそらくモーロ人よりももっと複雑な影をスペインの社会と文化の面に落としているセファルディとマラーノについての研究は、二〇世紀前半まではおもに『ユダヤ人の歴史』(一八五三―七〇年)一一巻のハインリヒ・グレーツや、『マラーノの歴史』(一九三七年)のシーセル・ロスによって代表されていた。これらの研究は、ユダヤ人迫害に関する歴史的資料の集積の範囲にとどまって、マラーノ問題を過去の悲劇的な出来事以上のものとしてはとらえていなかった。伝統的・正統的な視点に立つユダヤ系の歴史家からすれば、マラーノの像は、英雄伝説に加えるにはふさわしくない、キリスト教界からの出もどりという不純なイメージを色濃くおびていたことだろう。
フリッツ・ハイマンの独自性は、従来のこうしたマラーノ像を破って、それをまさに現代の問題としてとらえなおそうとする歴史認識を基軸にしている点なのだ。その視点から亡命作家ハイマンは、次のように言っている。
「歴史家がもし自分の報告と研究をすべて自分に即して、自分の時代に照らして体験するならば、あるいは歴史的事件が数百年を経ていきなり思いがけない反復現象として生じるものなら、彼は歴史の舞台裏をすばやく見る目を歴史からあたえられるのだ。こうした絶望的な状況において、それはもちろん大変|稀《まれ》ではあるが、時折り恵まれる|僥倖《ぎようこう》なのだ。(13)」
つまり、グラナダ一四九二年以後のスペインを呪縛していった宗教的・民族的な凝縮過程が、それから四四一年後のナチ・ドイツに「反復現象」として姿を現してきた、とハイマンは指摘しているのである。ナチに追放され、移住先でもいつナチの追っ手に捕らえられるかもしれないという自らの不安にマラーノの運命を重ね合わせながら、ハイマンはユダヤ人歴史家として、歴史の舞台裏をすばやくのぞき見る千載一遇のチャンスに賭けたのである。
マラーノの運命をつねに自分の問題として、現代の歴史に照らして考察しようとするハイマンは、マラーノがさしあたりどのような範囲に包括されるか、つぎのように分類している。
[#ここから1字下げ]
(一) ユダヤの出自のために蔑視され迫害された全キリスト教徒。
(二) 父親から息子へという形で、あるいは地域の|習慣《しきたり》で、ユダヤの出自であるという事実を伝統のうちに引き受けているにもかかわらず、依然としてキリスト教徒でいる者全員。
(三) 出自がどうあれ、異端審問に対する恐怖と嫌悪からユダヤ教徒となることを選択した者全員(14)。
[#ここで字下げ終わり]
こうして見れば、イベリア半島のみならず、アムステルダム、ロンドン、ハンブルクといった大西洋港湾都市のマラーノ居住地には、新キリスト教徒の|末裔《まつえい》ばかりではなく、マラーノの女性と結婚した非ユダヤ系の夫たち、そして|主人《あるじ》とともにユダヤ人になった旧キリスト教徒の従僕や、異端審問のスペインからユダヤ人共同体のなかへ逃れてきて身の安全を確保しようとした多くの旧キリスト教徒など、庶民レベルから貴族層まで、マラーノにはじつに多くの色合いの違いがある。ハイマンによれば、「非アーリア系のあらゆる人々」の間に、マラーノはひろく分布しているのである。
右の「非アーリア系の人々」という言い方のなかに、アーリア系絶対主義のナチ時代にマラーノを自分の問題としてとらえたハイマンの歴史認識がこめられているように思われる。自分のなかにひとりの「マラーノ」を見ることは、文明および国家が複数存在することによってのみ文明が発展しうることを理解した人間の歴史認識なくしてはありえないだろう。
このような観点からすれば、たとえばカトリック絶対主義者のトルケマダの|対蹠《たいせき》者として、アブラヴァネルがいかに「マラーノ」になってゆくかが見えてくる。つまり、前者が初代大審問官として、カスティーリャ、アラゴン両国の中枢に限りなく身を寄せていった時、後者は、グラナダの勝利に興奮してついにはユダヤ人追放令に署名してしまった両王の|許《もと》での自らの存在を、急速に失ってしまったのだ。よりによってエルサレムの神殿が破壊された日にあたるユダヤ暦アブ月の九日(七月三一日)までに、全ユダヤ人は改宗か追放かを選択しなくてはならないというマラーノの運命を、彼は自らのうえに課すのである。
ドン・イサーク・アブラヴァネル。この改宗ユダヤ人は、財政をはじめその他もろもろの事業に関して両王の相談役であり、そのうえカスティーリャ中部・南部の徴税人として莫大な金を動かし、グラナダ戦役のためにしばしば融資さえ行なっていた人物である。この稀有な財政の天才は、当時のユダヤ人高官の多くがそうであったように、書斎に入れば、釈義上の問題について思考をこらす宗教家・哲学者でもあった。
ユダヤ人追放令を出した後も、このすぐれた人間を自分の側近としておきたかったフェルナンド王の慰留にもかかわらず、ドン・イサーク・アブラヴァネルは、大勢のマラーノ同胞と同じように、一四九二年バレンシアを去った(15)。自ら進んで|流謫《るたく》の苦しみと危険を引き受けたこの宗教思想家が、マラーノであるがゆえにナポリやフェララなどのイタリアの町々から再三追い出されるという苦い体験を経た後、ついにヴェネツィアに安住の地を見出したのは、一五〇三年、スペインを去ってから一一年後のことであった。
国から国へ、町から町への流浪のなかで、しかしアブラヴァネルは「書く」ことを決してやめなかった。彼が財政の天才としての地位と名誉から、そして祖国からも離脱して異邦の地を|彷徨《さまよ》い、「書く」という行為に入っていった時、彼は絶望的なふたつ裂きを背負った真のマラーノになったのである。アブラヴァネルの子孫がそうであるように、多くのセファルディは、再び安全な所を求めて|彷徨《さまよ》いながらも、つねに彼らの母国語であるスペイン語と書物を携え、「書く」こととタルムード研究という先祖からの伝統を失うことは決してなかった。
[#改ページ]
第五章[#「第五章」はゴシック体] 火刑都市セビリヤ
[#ここから5字下げ]
「それなら、よく聞くがいい。我々はもはやお前(キリスト)にではなく、彼(悪魔)に付いているのだ。これが我々の秘密だ!」
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』)
|二人部屋《ドス・カマス》
モンテスキューは『ペルシャ人の手紙』のなかで、かの悪名高いスペインの異端審問制度を鋭く批判したが(1)、異端者を焼く大審問官の悪魔的な世界には入ってゆかなかった。文明批評家の高い立場から異端審問の歴史的素材を扱って批判するだけではなく、大審問官の内面にまで深く肉薄している、そうした芸術作品を、私は長いこと探していたように思う。だから、異端者の火刑がスペインのほかのどの都市よりも|猖獗《しようけつ》をきわめたセビリヤに向かって旅をすることは、私にとってはそのような作品の理解を深めることにも通じていた。つぎに紹介する大審問官の像は、ナチの時代に執筆されたシュテファン・アンドレスの小説『エル・グレコ大審問官を描く(2)』からのものである。
一六世紀末のこと、トレドの医師カサリヤは、大審問官ゲバラの肖像画を描くためセビリヤに行っている友人エル・グレコから、一通の手紙を受け取った。その内容は、|枢機卿《すうきけい》ゲバラが|疝痛《せんつう》の発作に苦しんでいるため治療に来てほしい、というのであった。このヌーニョ・デ・ゲバラこそは、ほかでもない、医師カサリヤの実の兄、神学博士アゴチノス・カサリヤを、バリャドリッドで異端審問の火にかけ焼き殺した張本人ではないか。しかも弟のカサリヤは、過激なカトリック政策を敷いて異端根絶の徹底化を図ったフェリペ二世の臨終に主治医として立ち合い、エスコリアール宮殿から帰って来た矢先のことである。思いは|千々《ちぢ》に乱れたが、ともかくカサリヤは、ただちに馬に乗り、セビリヤに向かった。旅の途中、彼はつい先日友人のグレコに言った言葉、「我々が生き延びようとすれば、嘘をつくことを学ぶしかないのか」を何度も思い出さざるを得なかった。
カサリヤ博士は、枢機卿の部屋を訪れた。ゆらめくローソクの光を受けて、病人は、まるで貝殻を彫ったような多孔質の、黄色い、仮面のような顔を天井に向けて寝ていた。とりとめのない会話の後、枢機卿は言った。
「そなたは余を治療してくれるか、どうじゃ?」
カサリヤは、それには直接答えずに言った。
「バリャドリッドで、|猊下《げいか》は正義の判決をお下しになりました。」
「余は治ればただちに同じことをするだろう、余は正義の|僕《しもべ》じゃからな。」
「ああ、あなたの言う正義とは」と、医者は歯がみをするように洩らした。「バリャドリッドで最近処刑された女性は一六歳でした。」
「一五歳のエレーナだ」と、枢機卿は訂正した。「彼女はそなたの兄より強情だった。我々は真理に反する声を耳にするごとに、その肉体を焼きほろぼすのだ。火刑台は、真理の灯台になるだろう。」
枢機卿は目を開いた。彼はひじで体を支えて、頭をはじめて医者の方に向けた。彼の眼鏡をかけていない丸く見開いた目は、そこから見知らぬ者がのぞいている仮面にうがたれた穴のようだった。
シュテファン・アンドレスの小説は、このように、断片的にちらばった史実の組み合わせから、グレコ描くところの、セビリヤの大審問官ヌーニョ・デ・ゲバラの暗い内面世界を見事に浮き彫りにしている(肖像画=後出を参照)。
このような、マラーノの医者の観点から大審問官の「正義」を撃つアンドレスの小説は、世界文学史のなかでいかなる先行作品をもっているのだろうか。そして、セビリヤの異端審問制度がいつ、どのようにして始まったのか。こうした問題とヌーニョ・デ・ゲバラという大審問官の内面世界を考察してみるために、我々はアフリカ側スペイン領の港町セウタ→ジブラルタル海峡→カディスの旅を終えて、いよいよ炎熱の|都市《まち》セビリヤに向かったのである。
暑い。
真昼の光が沸騰する駅前のタクシー乗り場の列に並んだ。容赦なく叩きつけてくる熱気は、高炉から流れ出る白熱した鉄のようだ。一分もたたないうちに、一番前のアメリカ人らしい若い女性が、たまりかねて背後の日陰へ避難した。すると私の前の大柄な中年の男性が、さっと前に出た。男は振り向きもしなかった。苦しそうに息をしているその丸く盛り上がった背中は、いったん列を離れた者は優先権を失うのだ、と主張しているようだった。
カテドラルの前でタクシーをおり、アラブの城塞アルカサルの横を抜けると、そこがもうサンタ・クルス街だった。ルノーの古びた小型の車が石畳の小路を曲がってくるので、我々は重い旅行|鞄《かばん》を引きずって、家並みの白壁まで避難しなくてはならなかった。そこから壁に沿ってしばらく行くと、道はさらに狭くなって右と左に分かれる。さて、どちらに行ったものかと思案していると、背後に人の視線を感じた。振り返ると、薄暗い居酒屋の奥から、長い|髭《ひげ》を生やした老人と、上半身裸のアラブ人らしい太った男が、我々を物珍しげに眺めていた。
「こっちだ!」と友人が指示した左側の道に入って行くと、「Camas」(ベッド)という文字を不揃いに記した四角い看板が目にとまった。二階の見すぼらしいベランダには、ゼラニウムの鉢植えがふたつ置いてある。粗末な木の階段をのぼって行ってベルを押すと、重々しい鉄の扉が開いて、四〇歳くらいの鼻筋の通った色白の|女将《おかみ》さんが現れた。その背後に、中学生くらいの息子が立っていた。唇の形はくっきりと均斉がとれ、広い額は利発そうな印象を我々にあたえた。
「ドス・カマス(二人部屋)はありますか?」と尋ねると、「シー(ある)」と言う。料金がふたりで二〇〇〇ペセタという安さは別として、体験的な意味からこの旧ユダヤ人街の「ドス・カマス」に決めた。ちょうどその時、背後で扉がギーと開いて、宿の亭主らしい六〇歳くらいの老人が外から帰って来た。老人は、女将さんの器量から想像される、レンブラント描くところの、輝くような老ユダヤ人の風貌ではなかった。正直そうではあったが、|蚤《のみ》の夫婦の片側を見事に代表する風貌であった。彼は女将さんに二言三言いって買物袋を渡すと、夏風邪を引いているのかコホンコホンと|咳《せき》をしながら、控えの間の片隅にある寝椅子に行ってごろりと体を横たえた。
宿帳に名前を書いたりパスポートを渡したりした後で、私は唐突な質問だとは思いながら、「セビリヤにはシナゴーグがありますか」と尋ねた。すると女将さんは、「シナゴーグ」を「シナゴーガ」と小声で言い換え、それから急に大きな声で、「そう、昔ここに」と、床を人差指で力強く指しながら、「シナゴーガとラ・フデリアがありました」と言った。
そして、しきりに「カンビアド(変わった)」という言葉を使って説明するのだったが、それはこの町に昔たくさんあった「シナゴーガ」のなかで、破壊されずに残ったものはすべて、「|教会《イグレシア》」や世俗的な建物に変わってしまった、と言っているのだった。さらに、女将さんはメモ用紙にちびた鉛筆で数字を大きく書きながら、説明をつづけた。それによれば、一四九二年にセビリヤは、アンダルシアのユダヤ人が船で避難する際の拠点となり、一四八〇年代には六年間で七〇〇人以上の|改宗者《コンベルソ》が|火炙《ひあぶ》りの刑に処せられたという。異端審問の恐怖から移住して行ったユダヤ人が、北アフリカのモロッコやアルジェリアからこのセビリヤに帰って来たのは、ようやく二〇世紀の初頭になってからで、自分の家族もその|末裔《まつえい》である、また一九三〇年代にはドイツからのユダヤ人避難民で、当市のユダヤ人共同体は急に人口が増加した、というのであった。女将さんのこのような説明の切れ間を縫って、あの亭主の力ない咳が背後から聞こえていた。
女将さんに案内されたのは、控えの間に直接つづく、青い壁の箱のような部屋だった。室内にはもちろんバスやトイレはなく、鉄枠の低いベッドがふたつ、右と左の壁にぴったり寄せつけるようにしてあるきりだった。どんなベッドでもいい、とにかく荷物から解放されて、休みたかった。ベッドに仰向けになってしばらくすると、友人がぼそりと、「あのカンテラだけがやけに立派だな」と言った。見れば、銅製の枠に赤・緑・黄のセルロイドをはめこんだ八角形の、なるほど立派なカンテラが天井からぶらさがっていた。
私が寝ている位置からは、開け放ったドアのすぐ手前に、寝椅子に横たわる老人の小さな頭が見えた。控えの間の暗がりにぽっかり浮かぶ老人の頭に見張られているようで、私は落ち着かなかった。そのうえすでにシエスタの時間に入っているため、宿の中も外もしーんと静まりかえっていた。その静寂は、はじめて旧ユダヤ人街に泊まろうとしている者に重苦しい圧迫感をあたえた。しかし、五〇〇年前のセビリヤのユダヤ人の運命に思いを馳せるためには、こうした裏町の「ドス・カマス」に実際泊まってみるしかないのだとも、私は思った。
周りには、真昼の酷暑と死のような静寂しかなかった。それは、絶対命令のように、我々をベッドに打ちのめしていた。かつてのスペインのカトリシズムも、絶え間なく|傲慢《ごうまん》にぎらぎら叩きつけることをやめぬ太陽みたいなものだっただろう。宿の女将さんの遠い先祖も、この七月の燃えさかる烈日のなかへ追放されたのである。だが、このセビリヤには当時、ここから|彷徨《さまよ》い出て行くことに不安をおぼえ、かといってとどまっていることにも不安をおぼえていたマラーノたちが大勢いたにちがいない。彼らは数百年来、ユダヤ人迫害の嵐が吹き荒れた時も、恐ろしい流行病に襲われた時も、辛抱づよく壁のなかに身をひそめて、そうした苦難の時を乗り越えてきたのだ。だから、異端審問の隊列が市内に入ってきて行動を開始し、それから一二年後にユダヤ人の追放令が、今度は大地震のように伝わってきた時も、マラーノの多くはこの地に深く根ざした彼らの感情と、底知れぬ不安にずっと縛りつけられたままでいたのである。
夕食後、カディスの夜のようにどこかの酒場へ飲みに出かける気力はもうなく、我々は宿に帰ってまたベッドにひっくりかえるしかなかった。明かりをともすと、あの八角形のカンテラだけがひときわ美しく輝いて見えた。宿の向かい側に酒場があるらしく、やたらに大きな酔客たちの声がジュークボックスの音楽と混じり合って、笑い声ともわめき声ともつかぬ異様な不協和音を生み出し、それが何時間もつづいた。この旧ユダヤ人街界隈では、金曜日の夜を迎えても、|安息日《サバト》には入らないらしい。一二時を過ぎてようやくシャッターをおろす音が聞こえ、それとともに耳を聾する騒音もふっつりと消えた。明かりを消して寝る段取りはしたものの、私は熱帯夜の底で|輾転反側《てんてんはんそく》しながら、自分をもてあましていた。友人も時々集中的に|扇子《せんす》をぱたぱたあおいだり、ふーっと大きな溜息をついたりしていた。サンタ・クルス街のもっと奥の方には、まだやっている酒場があるのだろう。数人連れの酔っ払いがようやく通り過ぎて行ったと思ったら、また別の男女がどこからともなくわきだしてきて、下の路地でしばらくもつれあい、いがみあったり、時ならぬ歓声をあげたりして、セビリヤの夜の賑わいはそう簡単に終わりそうもなかった。
ペスト流行と異端審問所開設
ベランダに通じる|鎧戸《よろいど》も部屋のドアも開けていたが、風は深夜になってもまったく入ってこない。ひどく疲れているのに眠れず、あくびだけ何度も何度も繰り返す。体にへばりつく、どろどろした蒸し暑い空気が、なにか悪い病気でも媒介しそうな気がした。
フランスの年代記作者フロワサールによれば、一三四八年から一三五〇年までの間に、人類の三分の一が疫病の流行で死亡したという。一三四八年、このセビリヤの町でも、ほかのヨーロッパの諸都市と同じように激しいペストの来襲を受け、町全体は壊滅的な打撃を受けた。だが、ペストはこの年一回限りでなく、一三六一年、七五年そして八三年にも、繰り返しこの地に舞いもどってきた。超過密の居住地に閉じこめられたユダヤ人も、キリスト教徒と同じように、いや、はるかにそれ以上に死んでいったにもかかわらず、キリスト教徒一〇〇人に対してユダヤ人は一人しか死んでいない、という根拠のない風評が、当時ひろくゆきわたっていた。老若を問わず、貧富や貴賤を問わず、あらゆる人の命をさらってゆくこの激烈な黒死病の流行を目のあたりにして、不安にかられた市民たちは、あれは腐った空気のせいだ、と口々にわめきたてた。そこで、犯人は誰だ、ということになる。そんな時、犯人はきまって「|穢《きたな》いユダヤ人街のユダヤ人!」ということにされるのであった。
(画像省略)
ある者は、我々キリスト教徒を殺すために、ユダヤ人は井戸に毒を投げ入れるのだ、と言う。またある者は、イスラエル人は神にそしられた民族だから、神の怒りを鎮めるために、あいつらをぶち殺しゃいいんだ、と声高に叫ぶ。無知と不安が、人々をいっそう狂暴にする。こうして、民衆はユダヤ人に襲いかかっていったのである(3)。ユダヤ人はキリスト教徒の子供を殺し、その血をパンに塗りつけるという儀式殺人と聖餅|冒涜《ぼうとく》の中傷は、井戸への毒薬投入説よりもだいぶ後になってスペインに入ってきたと言われている(4)。
(画像省略)
ユダヤ人迫害は、権威ある論文に端を発することもある。たとえば、ジュアン・デ・アビニョンという医者が書いた、栄養学・生態学に関する一三八〇年の医学論文「セビリヤーナ・メディシナ」(Sevillana medicina)がそうである。このアビニョン出身の医者は、かつてモーセ・フォン・ロクモールという名の、キリスト教に改宗したマラーノであったが、とりわけアラブとユダヤのすぐれた知の伝統に心惹かれてアンダルシアにやって来た人物だった。この論文のなかで、新キリスト教徒ジュアン・デ・アビニョンは、セビリヤで猖獗をきわめているペストに言及して、つぎのように怒りを爆発させている。
「セビリヤの空気は暑くて、かつ湿っている。その主たる原因は、ユダヤ人街から押し寄せてくる大気の腐敗にもとめられなくてはならぬ。というのも、ありとあらゆる病気の宣告を受けている|輩《やから》が、あそこに大勢住んでいるからである。(5)」
こうしたラテン語の論文が、当時医者や宗教顧問官のような少数者によってしか読まれなかったのは、言うまでもない。こうした教養人は、民衆の蒙をひらくどころか、もっぱら彼ら自身が抱いている反ユダヤ主義の正当性を説くために、これらの文献を利用したのだった。その結果、ジュアン・デ・アビニョンの論文から一〇〇年後、これら特権階級に属する少数派が、教皇や国王の心を動かし、ついにイベリア半島に異端審問所を設置するため雄弁をふるうことになる。
一四七七年から七八年にかけて、イサベルがセビリヤに滞在した折、いわゆる新キリスト教徒と呼ばれる一味がいかに|涜神《とくしん》的な儀式を行ない、国家と教会を脅かす存在になっているかを女王に説得しようとする高位聖職者がいた。それが、反ユダヤ主義者として世に聞こえた、セビリヤのドミニコ修道会院長アロンソ・デ・オヘダであった(6)。
オヘダは、領土内に宗教的純粋性を確立し、国内に巣喰う害毒を除去する唯一の方法は、異端者を狩り出し処罰することであり、そのためには異端審問所を設立する以外に道はない、と女王に訴えた。その頃、女王の心はもっぱら対イスラム戦争に向けられていたが、やがて国土再征服運動が軌道に乗り出すと、ただちに「神聖裁判所」設置をめぐって、当時の教皇シクストゥス四世との話し合いに入った。その際、改宗者たちから財産を没収すれば、収入がどれほど期待できるかという問題が論議されたことは、言うまでもない。だがこの時、女王も教皇も、自分たちの調印が、イベリア半島の文化的・経済的な地平にどれほど宿命的な打撃をあたえるかという点を、それほど深く考えてはいなかったのである。
教書の日付は、一四七八年一一月一日となっている。かくして、偽キリスト教徒とその所業を取締まる、四〇歳以上の三名の司教またはそれにかわる適当な人物を任命する権限が、スペインの支配者にあたえられることになった。このことは、反ユダヤ主義を奉ずる一派の勝利を意味していた。だが、ユダヤ人の援助なくしては国土再征服運動を進められなかったイサベルとフェルナンドは、異端審問所を実際に活動させることにはしばらく|躊躇《ちゆうちよ》していた。
だが、教皇、両王、そして宗教顧問官たち三者の間でいく度も行なわれた論議を経て、一四八〇年九月一七日、セビリヤの異端審問所はついにその活動を開始することになった。つまりこの日、ドミニコ会修道士ジュアン・デ・モリリョとジュアン・デ・サン・マルティンの二名に対し、セビリヤに赴き、偽キリスト教徒摘発の仕事に即刻とりかかるようにとの勅令が発せられたのである。これを受けて、ただちにセビリヤでは宗教裁判所が開設され、裁判官として、ルイス・デ・メディナ、国庫管理人並びに告訴人としてイサベルの宮廷司祭ジュアン・ロベス・デル・バルカが迎えられた。一四八一年五月一三日、セビリヤ市長ディエゴ・デ・メルロと、財産押収係としてハネス・デ・ロボンがメンバーに加わり、かくて火刑都市セビリヤが正式に誕生したのである。
危険を察知したマラーノたちは、日頃から取引きをしていたばかりでなく、結婚によって親戚ともなっていた地方貴族の領地に避難所をもとめた。これに対してはしかし、セビリヤ異端審問所管轄下の町を出てはならないとの国王命令が発せられた。地方貴族たちは、この時、それぞれの領地を徹底的に調べ、異邦の者あるいは新来者をひとり残らず捕らえて、二週間以内に異端審問所の牢獄に送り、その財産を押収するようにとの命令を受け取った。しかもその命令には、この掟に違反すれば、教会から破門されるだけでなく、地位も所領も剥奪され、異端者を|匿《かくま》った|廉《かど》で起訴される、との脅し文句がそえられていた。
この危急存亡の|秋《とき》を迎えてマラーノたちは、逃亡よりも抵抗の手段に訴えようと考えた。当時セビリヤで最も富裕な市民のひとりだったディエゴ・デ・スサンは、逮捕の波をかぶりそうな地区の有力なマラーノを多数旧イスラム寺院に集め、司祭や司祭補佐などをふくむ信頼できる同志を糾合し、武器を集めて、逮捕者第一号が出た時を合図に蜂起しようと説いた。やがて、カテドラルの管理者で武装蜂起の計画に加わっていたP・E・ヴェナデーラが逮捕され、その自宅から一〇〇人分の武器が発見された時、マラーノたちに|叛乱《はんらん》の時が訪れた。しかし、美人の誉れ高く、「ラ・フェルモサ・フェンブラ」と呼ばれていたディエゴの娘が、恋人の騎士に気を許して|件《くだん》の秘密を洩らし、この騎士が異端審問官に通報したため、蜂起は未遂に終わったのである。
こうして、抵抗の芽はことごとくつみとられ、謀反人は異端審問官の手に引き渡された。市長ディエゴ・デ・メルロは、彼らのなかで最も裕福で知名度の高い新キリスト教徒を牢に拘留した。一四八一年二月六日、スペインで最初の宗教裁判が開かれ、先祖の信仰に忠実であったとの理由で、男女六人のマラーノが、オヘダの説教後、生きながら火刑に処せられ、その財産は没収された。かくて、過激な反ユダヤ立法を唱えていたオヘダは、ついにその目的をとげたわけである。
だが、この反ユダヤ主義者も、それから数日後に行なわれた第二回目の火刑に立ち会うことができなかった。というのも、この高位聖職者は、その時また|蔓延《まんえん》しだして、セビリヤで一万五〇〇〇人もの命を奪ったペストの犠牲になったからである。ついでに言えば、この第二回火刑では三人のマラーノが|火炙《ひあぶ》りにされたが、そのなかに異端審問に抵抗して立ち上がった、あのディエゴ・デ・スサンもふくまれていた(7)。そして、宗教的浄化を目的にしたこの火刑が、その後三百数十年もつづく、イベリア半島の長い虐殺物語の序曲になったのである。
大審問官ゲバラの肖像
|黒死病《ペスト》、迫害、蜂起そして火刑という、異端審問にまつわる血腥い問題について、私は書き過ぎたかもしれない。だが、異端審問の酷烈さそのものから、どのような文学的想像力が生まれてきたかを、セビリヤのこの終わることを知らぬ暑い夜に、私は考えようとしていたのであった。文学は人間に王国を約束しはしないけれど、追放された人間にまだ彷徨い[#「彷徨い」に傍点]つづける力をあたえることはできる。だから文学は、それ自体が「力」をもつために、異端審問の犠牲者をことさらのように強調して人々に恐怖と同情心を喚起するよりも、異端審問の非情な世界にあえて足を踏み入れようとするにちがいない。
私がこの「文学」という用語において思い描いているのは、宗教的な凄まじさをはらむドストエフスキーの想像力である。ドストエフスキーは、国境を越え、時代を越えて、さらには宗教さえも越えて、セビリヤの|恐怖《テロル》の中心にあった大審問官の肖像に、おそらく文学者ではじめて接近したのである。『カラマーゾフの兄弟』のなかでドストエフスキーは、異端審問時代のセビリヤの夜を、つぎのように描写している。
「その日も過ぎ、暗く暑苦しい、死せるがごときセビリヤの夜がやってきた。空気は、月桂樹とレモンの香りに満ちている。」
深刻な、ほとんど犯罪者的な聖者の相貌をもったドストエフスキーだけが、唯一この火刑の|都市《まち》を描くにふさわしい文学者であるように思われる。人間の倫理と現行制度との間から生ずる葛藤、さらに倫理的自由に伴う不安について、最も大胆に描き出したドストエフスキーの『大審問官』は、このようにセビリヤの|都市《まち》に直結している。
折しも、神々の栄光のために国じゅうで毎日のように|焚火《たきび》が燃え上がり、「壮麗な火刑場で心あしき異教徒を焼きつくす」という、スペインの異端審問時代のことである。つい前日、このセビリヤの「炎熱広場」で、国王や廷臣、美しい貴婦人たちの臨席を仰ぎ、全市民の目の前で、イエズス会士のいわゆる「神のより大きな栄光のために」、一〇〇人にもおよぶ異端者が、|枢機卿《すうきけい》である大審問官によって焼き殺されたばかりであった。
まさにこの炎熱広場に、誰にも気づかれずにキリストがそっと降臨したのである。だが、不思議なことに、民衆はその正体を見破り、感泣し、キリストの歩いた大地に接吻をする。キリストがちょうどセビリヤ大聖堂の入口に立ち止まった時、七歳の少女の遺骸を納めた白い|柩《ひつぎ》が運びこまれてくるところだった。キリストがそれに向かって、「タリタ・クミ」(起きよ、娘)とつぶやくと、不思議にも少女は柩のなかで身を起こしたのである。群衆の間に、どよめきと|嗚咽《おえつ》が起こった。
ちょうどこの時、大聖堂わきの広場を、大審問官である枢機卿が通りかかった。この枢機卿は、「ほとんど九〇歳に近い老人で、背が高く、腰もまっすぐで、顔は痩せて目は落ちくぼんでいるが、まだ火花のようなきらめきを放っている」と、ドストエフスキーは、あたかも肖像画でも見ているような筆致で、大審問官の容貌を描いている。この眼光|炯々《けいけい》たる痩身の九〇翁が、じつは降臨したばかりのキリストを、秩序破壊の廉で逮捕収監させてしまうのである。
真夜中、神聖裁判所の古びた建物のなかにある陰気な牢の鉄扉が開いて、大審問官がひとりで明かりを片手に入ってくる。人間に自由をあたえたキリストの根本的な間違いを是正するために、教会が一五〇〇年間、いかに闘ってきたかを説明するためであった。キリストが見過ごしたことは、人間が実際、小児のように権威と奇跡によってみちびかれることを願っているという、紛れもない事実なのである。かつて悪魔が荒野で述べたように、キリストは人間に、ただパンのみをあたえるべきなのであった。
「ところがお前は」と大審問官はキリストに向かって言う、「人間から自由を奪うことを望まず、この提案を退けた。服従がパンで買われたものなら、何の自由があろうか、と判断したからだ。お前は、人はパンのみにて生きるにあらず、と|反駁《はんばく》した。……だが、最後には、彼らが我々の足もとに自由を差し出して、『いっそ奴隷にして下さい。でも、食べるものはあたえてください』と言うだろう。……それともお前は、人間にとっては安らぎと、さらには死でさえも、善悪の認識における自由な選択より大切だということを、忘れてしまったのか。」
こうして大審問官は、自由にではなく、権威への服従にこそ、人間の恐ろしい苦悩からの救済があると説き、教会は人間の世界を、「議論の余地なき共同の|蟻塚《ありづか》」に統一するためにこそ闘ってきたのだと力説する。それなのに、「いったい何のためにお前は、今頃になって我々の邪魔をしにきたのだ」と一喝した後、大審問官は囚人に、こう脅迫的な言葉を浴びせかける。「もう一度言っておくが、明日になればお前は、我々の邪魔をしに来た罰として、あの従順な羊の群れがお前を焼く|焚火《たきび》に、わしの合図一つで熱い炭をかきたてに走るさまを見ることができよう。なぜなら、我々の焚火に最もふさわしい者がいるとすれば、それはお前だからだ。明日はお前を火炙りにしてやるぞ。」
それまで何一つ反駁する気配もなく、終始静かに耳を傾けていた囚人は、ふいに無言のまま大審問官に歩みよると、血の気のない九〇翁の唇にそっと接吻をする。老枢機卿は身震いし、唇の端をぴくりと動かし、震える手で牢獄の扉を開けて言った。「出て行け、もう二度と来るなよ。……絶対に来ちゃならんぞ、絶対にな!」キリストは外へ歩み出た。そして、暗い街路へ姿を消した(8)。
ドストエフスキーはこのように、同時代最高の宗教的権威の、最も内奥にひそむ暗い心の動きを|暴《あば》きだしているのだ。それによって彼の心理学は、恐るべき道徳的重圧と宗教的な凄まじさを生み出しているのである。確かに、追放されている者たちにまだ彷徨う[#「彷徨う」に傍点]力をあたえ得るのは、正統信仰の王国をかいま見ることではなく、こうした地獄のような認識に触れた|瞬間《とき》なのかもしれない。それはつまり、人間を奴隷化し、自由と責任の放棄に誘う宗教の、生への妨害的な側面を暴き出す異端の認識にほかならない。
(画像省略)
私はかねてから、ドストエフスキーがこうした凄まじい大審問官の像を描いたからには、特定のモデルが存在していたにちがいないと思っていた。だから、大審問官ヌーニョ・デ・ゲバラとマラーノの医師カサリヤの確執を描いた、シュテファン・アンドレスの小説を読んだ時、私はその偉大な先行作品として、ドストエフスキーの『大審問官』を想像していたのである。したがって、どこにも言及がないにもかかわらず、ドストエフスキーは、エル・グレコの画集か何かで、あの薄気味悪い大審問官の肖像画を見たにちがいない、と思いつづけていた。
しかもこのゲバラというのは、ドストエフスキーが作品の時代背景として設定した一六世紀末に、大審問官としてトレドからセビリヤに|招聘《しようへい》され、後に大司教となった人物である。とすれば、ドストエフスキーが彼の『大審問官』を書くにあたって、血のように赤い帽子と僧服を着用し、痩せて異常に目の鋭い、あの不気味な人物を念頭においていたというのは、十分にあり得ることだろう。スペインのマニエリスム画家からドストエフスキーへと繋がってゆくこの線を考えれば、二〇世紀ウィーンの美術史家マックス・ドヴォルジャークが、その『精神史としての美術史』のなかでつぎのように言っているのも、あながち偶然ではないように思われるのである。
「この肖像画家エル・グレコはまた、悲劇的というよりほかに呼びようのない肖像画をも描いている。たとえば、『大審問官ゲバラ』がそれである。この絵に対する時、『カラマーゾフの兄弟』のなかの大審問官という、あの夢幻的な人物を思い出さない人がいるだろうか。(9)」
(画像省略)
エル・グレコの肖像画に描かれた、自身セム族の家系に属するという大審問官ヌーニョ・デ・ゲバラの穴蔵のような目。冷たい、石に化した憂鬱そのものであるような目その穴がゲバラの世界の暗黒のなかで通じていたのは、追放する者にとっても追放される者にとってもひとしく唯一絶対的なものである死、であるにちがいない。トレドの画家が描こうとしたのは、大審問官という死刑執行人だけに限らず、当時セビリヤやトレドに色濃くただよっていた死の影そのものだったのかもしれない。さらに言えば、そうした死の影、あるいは死の匂いが、一九世紀ロシアの大作家の幻想をも生み出す源泉だったのではあるまいか。もう夜明けが近いはずなのに、まだ暑苦しい死のような大気の底で、私は思った。
宿の|女将《おかみ》さんの押し殺したような声に、私はふと目をさました。若い男たちが数人、女将さんの見送りを受けて、早朝の仕事に出かけてゆくらしい。五時を少し回った時刻だった。我々が泊まった宿「カマス」は、労務者たちの宿泊所にもなっているようであった。起き上がってベランダに出てみると、街はもう暑い一日のはじまりを告げる強い光に満ちあふれていた。相変わらず青磁のように晴れわたった空には、無数のツバメが乱舞していた。ヒラルダの塔や大聖堂、あるいはアルカサルのあらゆる隙間や亀裂に棲みついているツバメや岩ツバメたちは、眠る間もおしんで一日じゅう飛び回っている。ツバメたちは、五〇〇年前もこのように空中に|餌《えさ》をあさりながら、せわしなく飛び回っていたことだろう。そしてこの五〇〇年間、遠い国々に離散して行ったマラーノの|末裔《まつえい》たちも、ツバメが飛び交う故郷アンダルシアの、この青い空についても、先祖からの記憶として語り継いできたにちがいない。
[#改ページ]
第六章[#「第六章」はゴシック体] コルドバの|猶太人街《ラ・フデリア》
[#ここから5字下げ]
「マイモニデスは、ユダヤ人が虐待される国に留まるのは罪である、抑圧されても屈服したり、闘ってはいけない、と説いた。」
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](イラン・ハレヴィ『ユダヤ人の歴史』)
マイモニデス広場
一九九〇年七月一〇日の正午、我々はコルドバ駅前からビクトリア庭園沿いの大通りを南にしばらく行ったところで、ユダヤ人街「ラ・フデリア」に入って行く道を偶然発見した。かたわらにセネカ像のある赤っぽいアルモデバル門をくぐると、花々が咲き匂う明るい町におのずと入って行く。黒い服を着た上品な老婆が、子犬を連れて右側の最初の道に入って行くのを見て、我々はその後ろについて行った。石畳と家々の白壁に反響して自分たちの足音が聞こえるほどの、孤独な、神秘的な地区の目抜き通りであるが、イスラムのモスク「メスキータ」の北側に位置するこの界隈がもうユダヤ人街であった。
植物の赤や緑が家々の白壁に美しく映え、どの家にもある中庭「パティオ」をのぞいて見れば、そこは、あふれるばかりの太陽の光に演出された花々の饗宴であった。パティオの写真を撮らせていただけますかと言えば、どの家も快諾してくれた。私はふだんあまり写真を撮らないが、ラ・フデリアに入って十分ほどですでに十枚以上の写真を撮っていた。そうこうしているうちに、広い中庭の左側に暗い柱廊、右側に二階のレストランに通じる明るい階段を配した、絵のように美しい建物の前に出た。その一階は民芸品店になっていたが、そこがソコ(Zoco)と呼ばれる、ラ・フデリアのなかでもとりわけ|瀟洒《しようしや》な地区である。
近くに闘牛博物館があった。一階には、打ち出し細工の皮で製作された見事なアラビア椅子のコレクションや、市議会で議決の際に使われたという芸術的な銀器のセットなどが展示してあった。さらに、名闘牛士の誉れ高いマノレテにささげられた一室もあり、そこには、彼がリナレスで命を落とした最後の闘牛の際に使われたという、赤いケープや剣、パリィリャのほかに、二七歳のこの不世出のマタドールを殺した牡牛イスレロの皮さえ展示されていた。
見るものすべてが珍しく、私は後のことも考えずにカメラを向けた。写真を撮るのに夢中になったためか、あるいはこのラ・フデリアの構造自体がそもそも迷路のようになっているためか、我々は方向が分からなくなってしまった。後戻りするよりはもっと先へ行ってみようということになって、二、三〇メートル歩いたら小さな広場に出た。
「あっ、マイモニデスだ!」と、友人が叫んだ。花々の植え込みに囲まれた直方体の石の台座のうえに、書をひざに置いて思索する人物の銅像があった。頭にきっちりターバンを巻き、あご|鬚《ひげ》をたくわえたマイモニデスの像に、その時私ははじめて対面したのであった。
(画像省略) この銅像のすぐ後ろにあるレストランに入って昼食をとることにした。眉毛の濃い、まだ一五、六歳の正直そうな少年が給仕だった。食事が運ばれて来るまで、ビールを飲みながら、哲学者である友人は中期スコラ哲学の話をしてくれた。彼によれば、アリストテレスの哲学がヨーロッパに知られるようになったのは、ようやく一二世紀後半からという。ギリシア哲学は、古代から中世・近世を経てヨーロッパに連綿として伝えられてきたわけではなかったのだ。
「東ローマ皇帝ユスティニアヌスがギリシア哲学を禁止してしまったので、ヨーロッパにおいてギリシア哲学の伝統は途絶えてしまったんだね。わずかにイスラム世界に伝えられていたのだけれど、それもイスラムの教義を基礎づけるためにアリストテレス哲学を利用したというわけだ。マイモニデスが生まれた一二世紀というのは、中世ユダヤ教がそのラビ的・伝統的な宗教思想の基盤のうえにギリシア哲学の理性的思惟を根づかせるため、試行錯誤を繰り返していた時代だった。このような時代に、ラビのアガダー、すなわちラビ文献の倫理的・神学的内容を扱った部分と、アリストテレス哲学という二つの思想潮流が出くわすなかから、マイモニデスが哲学書『迷える者への手引き』を生み出した。これによって、ユダヤ教とギリシア哲学の統合がほぼ完璧な形で実現されたわけだ。さらに、彼は、自ら永遠不動でありながら他の一切のものを動かす動者として神の存在を措定して、トマス・アクイナスの有名な第一の神の先取りをしたんだね。」
こうした哲学的な「知」は、ヨーロッパ・カトリック思想界の有神論的形而上学の形成過程に、大きな影響をあたえた。しかしそれと同時に、マイモニデスの哲学は、それへの反発として異端的なカバラをも生み出させるほどに刺激的であった。
ラビ・モーシェ・ベン・マイモン。俗にこの頭文字を取ってラムバン(Rambam)、あるいはギリシア語でマイモニデスという名で知られているこの傑出した中世ユダヤ教の思想家は、一一三五年に、コルドバの、昔から学問ですぐれたユダヤ人の家庭に生まれた。スペインで起こったイスラム・アルモハド派「唯一神教徒」の狂信的なムスリム運動でコルドバのユダヤ人共同体が追放された時、彼はようやく一三歳になったばかりだった。彼の家族は、イスラム・アルモハド派の圧制と宗教的迫害を避けて、北アフリカに渡り、しばらくモロッコのフェズに住んだ。このアルモハド派支配下のフェズで、彼らはユダヤ教徒であることを隠し、イスラムへの改宗者を装っていた。一一六五年、マイモニデス一家は、アルモハド派支配の圏外に脱してエジプトに移り、カイロ近郊のフスタートに|住居《すまい》をさだめた。ここにマイモニデスの|赫々《かつかく》たる経歴がはじまり、レッシングの戯曲『賢者ナータン』にも登場する博愛主義者サラディンの侍医となった。加えて、宗教・哲学・医学に関するその|造詣《ぞうけい》の深さと学問的・思想的活動は、彼をエジプトの強力なユダヤ人共同体の最高指導者におし上げてゆく。この地で正式にユダヤ教に復帰し、自らを「セファルディ」と呼んでいたマイモニデスは、|流謫《るたく》のなかに存在の意義と「書く」ことを見出したマラーノの、偉大な先達であったと言える(1)。
マイモニデスの代表的な著作『迷える者への手引き』は、一一九〇年頃にアラビア語で執筆された。表題がしめすように、この書物の意図は、中途半端なギリシア哲学の理解にとどまって、ユダヤ教とギリシア哲学の教えを融合させる方法を見出せないでいるユダヤの迷える知識人を救うところにあった。だからまたマイモニデスは、アリストテレスの著作研究に取り組み、そこに展開されている思想を完全に理解してこそ最高の人間完成にいたり得るのだと説いたのである。つまり彼にとっては、律法の命じる正義を行なうことではなく、その意義を知ること、そして「現勢的に[#「現勢的に」に傍点]知的であること(2)」が、人間の最高究極の完成を意味していた。
このような彼の著作は、とくに保守的なタルムード学者を、神の支配地たる「城」の外に立ったまま入口を発見できないでいる者として描いたために、彼らの激しい批判の|矢面《やおもて》に立たされることになった。聖書の教えをすべて理性的に解説し、動物犠牲の祭儀を偶像崇拝的傾向への譲歩であるとしたこの書に対する批判の嵐は、著者が一二〇四年に死んだ後間もなく爆発し、それから数世代にわたって荒れ狂ったのである。これが世に「マイモニデス事件」と呼ばれている論争である。
ヘローナのユダヤ人共同体がマイモニデスを破門したのに対して、この論争の中心地であるプロヴァンスでは、マイモニデスを擁護する空気が強まり、アラビア語文献をヘブライ語に翻訳紹介したダヴィッド・キムヒのような自由主義的な人物も現れてきた。そしてついに、マイモニデスの著書が信仰に有害であるとして、新設されたドミニコ会に訴えられ、そこで|焚書《ふんしよ》にするよう命じられた一二三四年、この騒然たる論争は絶頂に達したのである。
こうした思想変動の時代を概観すれば、ヘローナを起点にして、スペイン・カバラがなぜ隆盛をみるにいたったかが、具体的に分かってくる。つまり、あの豊かな神話的・象徴的な形象を身にまとったユダヤ教神秘主義「カバラ」は、アリストテレス的合理主義哲学が席捲したこのような時代状況と無縁ではなかった。いや、まさにそれに対する反発として、カバラ最大の経典『ゾーハル』(光輝の書)は著されたのである。
マイモニデスに対する批判がいかに激烈をきわめたにしても、このコルドバ出身の第一級のタルムード学者・思想家は、ユダヤ学とギリシア哲学をアラビア語で融合しようとする大がかりな試みを行なったのである。そのなかから、聖書に対する合理的な再解釈のうねりが高まり、それに対する反動からまた、カバラがユダヤ人の生活のあらゆる部分に浸透していったのである。こうした論争的なからまりあいの全体こそが、ヨーロッパ的「知」の大きな潮流だったにちがいない。我々は、コルドバのラ・フデリアをさまよっているうちに、いつしかマイモニデス広場に行き着いて、こんな歴史の一頁をひらくことになったのである。
マラーノの抵抗
昼食後、我々は、コルドバのもうひとつの魅力の源泉たる、アラブのメスキータに行った。赤縞模様のアーチをもつ、無数の円柱が林立するこの大モスクの内部は、薄暗い神秘の森のようである。この巨大な迷宮に足を踏み入れた者は誰しも、自分という存在が一瞬の間に消えうせてしまったように思うだろう。
メスキータを出てさらに我々は、アルカサルに向かった。西ゴート族からイスラム教徒に受け継がれたこの|砦《とりで》は、一四世紀、アルフォンソ一一世によって改修されたものという。その後、フェルナンドとイサベルのカトリック両王がグラナダ攻略の根拠地としたのもここであり、またコロンブスがイサベルに西廻り航海案のパトロンをはじめて願い出たのも、このアルカサルの一室においてであった。我々がそこを訪ねたのは、グアダルキビール川に臨む詩的な庭園と美しい池の景観をもつこの宮殿に、一四九〇年から一八二一年までの三三〇年間、異端審問所が設置されていたからである。コルドバの死の匂いは、じつはこのアラブ様式を取り入れた|豪奢《ごうしや》なアルカサルから発していたのである。
スペインの異端審問といえば、ゴヤのエッチング『神聖裁判』が真っ先に思い出される。サラゴサに近い寒村フェンデトードスに、|鍍金師《ときんし》の次男として生まれたゴヤは、一七六九年から七一年にかけてのイタリア留学ちゅうに、マニャスコの絵『異端審問』を見ていたかもしれない。ジェノヴァ生まれのこの画家は、そのなかで、眼を焼かれる一囚人を描いているが、表現に生動味をこめようとするあまり、拷問をたんなる恐怖のスペクタクルにしてしまっている。
(画像省略)
確かに、ゴヤのエッチングもまた、恐怖と好奇心をむきだしにした群衆を描いて、表現に|現実感《リアリテイ》をあたえてはいる。しかし、それがたんなるスペクタクルに堕していないのは、高みから先祖の宗教に忠実だったという罪状を読み上げる審問官の判決に、|項《うなじ》を垂れ、両|拳《こぶし》を固めてじっと聴き入るマラーノの像が中心にあるからであり、そこに描かれた犠牲者の苦悶の真実性に、鑑賞者は思わず引き込まれるからである。
この絵のマラーノは三角の奇妙な帽子をかぶっているが、かつての狂信的なスペインでは、異端者とされた者は、両手を縛られたうえに、三角帽子をかぶらされて、火刑場に送られたのである。なんという忌まわしい行列だろう。マンサナーレス近郊のつんぼの家「キンタ・デル・ソルド」で、ゴヤは、世界の終末を思わせるこうした夜と地獄のタブローをいくつも描いていた。
それにしても、カトリックの敬虔な国王が異端審問制度の実施者であり、また神の司祭ともあろう者が、異端者たるマラーノの拷問および火刑執行者であるといった状況を考えれば、神はどのようにして地獄から区別されるのであろうか。神そのものがここでは地獄の一部ではないか。コルドバの王宮を見て回りながら、私は、このように愚かしく、醜く、残忍で、狂気じみた人間の歴史の暗部を逆につきつけられたような思いがしたのである。
と同時に、つぎのような疑問を抱かずにはおられなかった。異端審問という名のユダヤ人迫害に対して、人々はまったく無抵抗だったのだろうか。あるいは、住民の密告がいっそう妄想を生む土壌となり、異端審問官自身も強迫観念にとらわれていっそう加虐性を強めてゆくなかで、理性の力に訴えてこうしたキリスト教権力の暴虐に対して立ち上がった者はいなかったのだろうか。
一四八一年、セビリヤでディエゴ・デ・スサンが企てた、異端審問に対するマラーノの抵抗についてはすでに述べた。これを未遂に終わらせる原因をつくった、秘密|漏洩《ろうえい》者の娘「ラ・フェルモサ・フェンブラ」がその後どうなったかといえば、彼女は規定により、父親の遺産相続の権利を失った。教会の慈悲によって修道院に収容されていた彼女は、教会側の説明によれば、かつての甘い生活が忘れ難く、修道院から逃げ出したという。しかし、セビリヤの年代記によれば、悲惨と屈辱のうちに日々を送った彼女は、死に臨んで、幸せな暮らしをしていた自宅の壁に自分の頭蓋を取り付けて欲しい、と遺言したと伝えられている。その頭蓋は、フリッツ・ハイマンの報告によれば、一九三〇年代でもまだ見られたという(3)。
このような後日譚を含むセビリヤのマラーノの抵抗の後では、わずかに、サラゴサの異端審問官が大聖堂内で刺殺されるというマラーノの反乱が知られているだけである。これに連座したおよそ二〇〇人のユダヤ人が|火炙《ひあぶ》りの刑に処せられたという。それ以後、マラーノの反乱や抵抗の記録は、年代記や公的な記録から完全に姿を消してしまう。
だが、もう一度だけ、時の上層部から起こってきた異端審問官への抵抗がある。震源地は、コルドバである。その抵抗の経過は、一異端審問官の狂気と、それに同調してゆくマラーノの女予言者たちの妄想が合作する残酷劇をおりなしているので、その一部始終をここで簡単にたどっておくことは、無意味ではないだろう。
コルドバの異端審問官ディエゴ・ロドリゴ・ルセーロは、マラーノから莫大な金を取り上げたことで、つとに名を知られた人物であった。つぎにルセーロが世の人々を驚かせたのは、彼がついにある大陰謀団の手掛かりをつかんだという発表であった。その発表によれば、国内の指導的なマラーノがユダヤ教をスペイン国教に仕立て上げようと画策し、二五人の女予言者がすでにスペインの各地をめぐり歩いてユダヤ教の宣伝にこれつとめ、しかもこのユダヤ女性たちには、ひろく世に名を知られた聖職者や説教師など五〇人が伝道者として随伴している、というのであった。
ルセーロ自身がでっちあげたこのような話を、コルドバの住民はもとより国じゅうの人々が、根も葉もないつくり話と思ったことは言うまでもない。だが、しばらくたって、女予言者たちが確かに雄山羊にまたがり、空中を飛行して、マラーノたちの大集会へつぎつぎに駆けめぐるのを見た、という証人が現れた。それによりコルドバの異端審問所は、あるユダヤ人神学者の名を挙げて、この男が、説教でユダヤ教の伝承を広めた罪状は明白であると断定した。こうして、この神学者の説教を聞いた一〇七人の男女が、わずか一回開かれたに過ぎない宗教裁判で死刑の判決を受け、生きながら火炙りにされたのである。さらに四〇〇人の囚人が収監されたため、コルドバの牢獄はたちまちいっぱいになった。他の大勢の囚人たちは、大審問官デサの取り仕切るトロへ移送された。
こうして社会不安が高まり、住民は災いがいつわが身にふりかかってくるかも分からぬ状況のなかで、大審問官デサやルセーロの上司ばかりでなく、国王や教皇にも、事態収拾の請願をしたのだった。時は、イサベルの死後、一五〇五年以降のことである。
だが、人々のそんな動きには目もくれず、ルセーロは残虐な行為を続けていた。つぎに彼が攻撃の標的にしたのは、故イサベル女王の聴罪司祭で、|齢《よわい》八〇になるグラナダの大司教、エルナンド・デ・タラヴェーラだった。コロンブスの西廻り航海案を審議する女王の諮問委員会を主宰した、あのタラヴェーラ神父である。彼にはマラーノの血が流れていた。ルセーロが捕らえて拷問にかけたあるユダヤ人女性は、自分は予言者であり、自宅でシナゴーグを開設したと自白したうえに、大司教主催の集会に出席した折、タラヴェーラとその親戚、さらにはアルメリアおよびハエンの司教たちが大勢集まって、ユダヤ教による国土征服を決定するのを耳にしたと証言したのである。宗教裁判においてこうした女性の証言を取り上げて事を決するのは、この異端審問官のいつもの手口であった。
彼女の証言に基づいてルセーロは、グラナダの大聖堂で荘厳ミサを行なっていたタラヴェーラの親戚・友人を逮捕収監して、拷問にかけた。さらにルセーロは、多くの貴族たちの自宅についても、それらがシナゴーグとして使用されていたと断定した。こうした暴挙が、国民の目に狂気の沙汰と映ったのは、言うまでもない。ついに新キリスト教徒と旧キリスト教徒からなるコルドバ市民が、マラーノと婚姻関係にある二人の公爵の指揮の下に、神聖裁判が行なわれているアルカサルに押し入って、宗教裁判官を逮捕し、拘留されていたマラーノを解放したのである。だがこの時、ルセーロはいち早く逃亡して行方をくらましていた。
しかし、ルセーロは逃亡先からコルドバにすぐまた舞い戻ってきた。というのは、当時高位の貴族のほとんどがそうであったように、マラーノの出身であった首席異端審問官ディエゴ・デ・デサが、この狂暴な男の後ろ楯になったからである。かくしてルセーロは、恐怖の異端審問を再開し、新たなマラーノ逮捕に乗り出した。だが、じつはその頃、同時代の学者たちに弁護されていた大司教タラヴェーラに対する狂気じみた起訴を含む書類が、ローマに送られていた。教会はこの八〇翁を無罪としたが、それから間もなく大司教タラヴェーラは世を去り、国民から聖者として、殉教者として仰がれるようになったのである。
こうなっては、さすがの異端審問官ルセーロも、囚人を全員釈放せざるを得なくなった。いまや教皇の小勅書と世論に従うしかなくなった大審問官の命により、ルセーロはついに逮捕収監された。法廷に引き出されたこの男に対する判決文は、つぎのとおりであった「シナゴーグが存在し、女予言者たちが空中を疾駆し、タラヴェーラとその親戚が背教の罪を犯したという証拠は何一つ見つからなかった。」ルセーロは最終的にいかなる罪に問われたかについては明らかでないが、長期間拘留された後釈放され、司教座聖堂参事会員の職について平和な余生を送ったという(4)。
こうしたルセーロは、絶対主義的スペイン・カトリシズムの特殊な環境に生まれた特殊な人間では決してなかった。いつの時代にも、ルセーロのような人物、あるいはそれよりももっとスケールの大きな人物が登場してくる可能性があるのだ。とすれば、フリッツ・ハイマンがつぎのように述べているのは、まことに|肯綮《こうけい》にあたった指摘と言わなくてはならないだろう。
「ルセーロが狂暴な人間であり、どんな人間にも襲いかかってゆく精神病質の狂信者だったことは、疑いない。だが、ここで特筆すべきことは、ルセーロが長年罰せられもせずに悪業の限りをつくし、異端審問所が絶対的な権力をふるって、この男を二〇年間も国民と理性に逆らわせておくことができたという事実である。(5)」
つまり、ルセーロのような人物が登場することができ、しかも二〇年間という長期間にわたってその狂暴な活動が許容されたということは、それを支え、歓迎している広い社会層が存在していたということにほかならない。正義の名の下に凶器をふりかざす絶対主義社会は、その財産ばかりでなく生命まで奪い取ることのできる犠牲者がついに最後のひとりになるまで、飢えが癒えることはないのである。
ルセーロに対する勝利は、|夥《おびただ》しい血が流された後とはいえ、マラーノの歴史全体のなかでは一回限りの勝利であった。つまり、マラーノはそれ以後、異端審問所がどれほど非人間的な問題を押しつけてきても、二度とスペインの民衆を自分たちの味方にすることに成功しなかったのである。ルセーロの件で慎重にならざるを得なかった異端審問所は、それ以来、中産階級に属する地位の高いマラーノ、つまり銀行家や大商人や学者に、そして実際ユダヤ教を信奉している者に犠牲者を限定するようになっていった。その方が簡単でもあり、また大きな利益をもたらしたのである。金持ちのマラーノが火炙りにされても、市民は|痛痒《つうよう》を感じなかった。こうして人々は、しだいに異端審問にも牢獄にも、異端者の火炙りにも慣れていったのである。
シナゴーグ像
我々は、アラビア芸術の精髄であるメスキータと、前世紀の二〇年代まで宗教裁判所が設置されていたアルカサルを見た後、最後にシナゴーグを訪ねるため再びユダヤ人街に向かった。シナゴーグはマイモニデス広場から目と鼻の先で、ユダヤ人通りの二〇番地にあった。入口は赤っぽい偏平な石を平積みした外壁に、木の扉をはめこんだだけといういたって質素な外観で、「ラ・シナゴーガ」という壁の文字が目に入らなければ、気づかずに通り過ぎたであろう。だが、このシナゴーグはアンダルシアに現存する唯一のシナゴーグであり、スペイン全土でも三つしか残っていない、きわめて貴重なシナゴーグのひとつなのである。
木の扉を押し開けると、中は二〇平米もない変則的な四方形の|中庭《パテイオ》だった。石を積み重ねただけの赤っぽい壁いっぱいに寄せつけたたくさんの小さな鉢からあふれ出た、色とりどりのゼラニウムなどの観葉植物の|瑞々《みずみず》しい緑が、午後の強い日射しに鮮やかに輝いていた。中庭はここでは、憩いの場というよりももっと別の意味をもっている。それはすなわち、風が吹き抜け、大勢の人々が通り過ぎる道を、聖なる場所へ中継する空間としての意味である。我々は中庭の左側にある受付で入場料を払って、シナゴーグの薄暗がりのなかに入った。
建物全体から見れば南側に位置する長方形の部屋の右手に階段がある。そこをのぼって行ったところが、いわゆる婦人用別席である。その婦人席はアーチ状の三つの窓をもっていて、そこから男性用シナゴーグが|俯瞰《ふかん》できるようになっている。他のシナゴーグでは、婦人席が礼拝所の片隅に設けられていることもあるらしい。このように、シナゴーグの内部は、通常、男性用・女性用のふたつの部分に分かれているのである。
(画像省略) 『ユダヤの儀礼と象徴』の著者デ・フリースによれば、「シナゴーグの座席が男性と女性に分かれているのは、男尊女卑の思想に基づくものではない(6)」という。女性は文字どおり一家の|主婦《あるじ》であり、タルムードの言うところによれば、「|家《ハウス》」そのものを表しているのである。宗教生活の重要な中心をなす家庭を取り仕切る女性が、ユダヤ人社会でほど重んじられている社会はないだろう、とデ・フリースは言う。こうして女性を「家」、あるいはシナゴーグの別の場所に置くことによってはじめて、ユダヤ人男性は一切の世俗的な刺激に煩わされることなく、純粋で敬虔な祈りをささげることができるというのである。だが、女性の座席が片隅に置かれているのは、それがユダヤ人社会の長い伝統に由来するとしても、座席を男女で分けないキリスト教の教会を見慣れている者の目には、やはりいささか奇異に映らざるを得ない。
さて、この建物全体の中心をなす男性用シナゴーグは、支柱のない正方形のホールとして設計されている。案内書によれば、一三一五年の建立という(7)。壁の台座部分は、このシナゴーグが一四九二年に狂犬病病院に改造されて以来、彩色陶製タイルがはがされて、むきだしのままになっている。台座部分のうえには、化粧|漆喰《しつくい》細工が大小の長方形を縦横に組み合わせて、中心部分を構成している。こうした壁の分割原理は、一四世紀のムデハル様式に従っているのだろう。ムデハルとは、キリスト教徒に再征服された後、多くはコルドバ、セビリヤ、トレド、バレンシアなどで、自分たちの信仰・法習慣を維持している「残留者」のイスラム教徒をいう。こうした建物に接すると、かつてイスラム教徒と領土的野心のないユダヤ教徒が、いかに共存共栄の関係にあったかが理解されてくる。
加えて、このシナゴーグは、ムデハルの安い労働力が得られたということと同時に、イスラム風煉瓦構造が、石材の乏しいこの地方にふさわしいものだったことをも物語っている。ムデハル様式の粋を集めた|鱗《うろこ》模様、星形模様、菱形模様から成るコルドバ・シナゴーグの壁面は、グラナダのアルハンブラの部屋部屋を埋めつくしている細密な装飾内壁と変わらないように見えた。
ところで、東壁にはトーラーの巻物を収める|壁龕《へきがん》がある。これはおそらく、シナゴーグの内部を左右対称にするという理由もさることながら、実際的な問題を考慮してのことだろう。というのも、この部屋は幅が六・三七メートルと大変小さいので、トーラーを朗読するための壇「ビーマー」を部屋の中央に置くことはできそうにないからである。そのためビーマーは、西壁の壁龕前にずらされたのであろう。スペインのセファルディ系ユダヤ人が知っていたらしい、中央と西壁面というビーマーのそれぞれ異なったふたつの位置は、一六世紀に建立された、後のイタリア・シナゴーグの空間配置にも影響をあたえてゆくのである。
このシナゴーグから追い出され、強制的にキリスト教徒に改宗させられたコルドバのマラーノたちは、迫害が強まってくればくるほど、逮捕の不安に怯えながら、心のなかにこのシナゴーグを思い描いていたことだろう。こうした外的生活と内的生活の分裂は、イベリア半島のユダヤ人の悲劇を物語っているが、それ以上に、信心深い善良な人間を異端者として地上から抹殺しようとしたカトリック絶対主義の病的な不寛容のみが、今日まだ荒廃の跡をとどめているこのシナゴーグそのものから際立ってくるように思われた。
一四九二年に、コルドバのシナゴーグは狂犬病病院に改造された後、一五八一年には靴屋の守護聖人、聖クリスピヌスと聖クリスピニアヌス兄弟を奉ずる靴屋組合の会所に変えられた(8)。ということは、このシナゴーグがキリスト教の「正統信仰」によって歪められ、傷つけられ、容赦なく世俗化された歴史をもつということである。
その歴史を生々しく今日に伝えているこの建造物を見終わった後で、ふと記憶に|甦《よみがえ》ってくる像があった。それは、バルセロナに入る前日にストラスブールの|大聖堂《ミユンスター》で見たシナゴーグ像である。キリスト教教会を象徴するエクレシアは、頭に冠をいただき、十字旗と聖杯を手に、ミ然として顔を上げ、勝ち誇った眼差しで相手のシナゴーグを見やっている。これとは対照的に、ユダヤ教の象徴であるシナゴーグは、折れた|槍《やり》と今にも滑り落ちそうな律法板をもち、目隠しをされて、敗北した身であることを全身で表している。体のポーズもまた対照的で、エクレシアが肩をそびやかして、ほぼ直立像であるのにひきかえ、シナゴーグの方は胴をひねって、上半身と下半身をやや別の方向に向けるという、苦悩を色濃く表した姿勢をとっている。両者を比較すれば、勝ち誇ったエクレシアよりも、顔をうつむけた目隠しのシナゴーグのほうが、その深い内面的悲哀のゆえに、たとえようもなく魅力的に見える。大聖堂の彫刻師も、一二三五年頃の作とされる(9)この像のなかに、当時からすでに不信心者とか、キリストの死に責任を負うべき呪われた人種として、キリスト教側から汚名を着せられたユダヤ人の悲しむべき宿命を、丹念に刻もうとしたように思われるのである。
(画像省略)
(画像省略) シナゴーグから出てラ・フデリアを歩いていると、左右の家々の白壁が数えきれないゼラニウムの鉢植えで埋めつくされている小路に出た。よく見れば、壁ばかりでなく、窓の周囲にも二階のベランダの|手摺《てす》りにも地面にも、考えられるあらゆる場所に鉢植えが置かれていて、通り全体が花園になっていた。そこが、あの花の小路「カルホン・デ・ラス・フロレス」であった。そこに立てば、家と家の間から青空に向かって|聳《そび》え立つ|鐘楼《しようろう》、クリスティアナの塔をもつ大聖堂が見える。それは、八世紀にイベリア半島に上陸しコルドバへも進出してきたイスラム勢力に対する、キリスト教勢力の再征服を象徴しているのだろう。だが、このように回教王の威容を表すメスキータを取り囲んでラ・フデリアがあり、しかもユダヤ人たちの最も美しい地区であるこの花の小路から、国土再征服者の誇らしい建造物がまっすぐ見えるという、こうした三者の混在こそ、スペインの不思議な魅力であるにちがいない。
[#改ページ]
第七章[#「第七章」はゴシック体] トレドの死の影のなかで
[#ここから5字下げ]
「『でも私には罪がないのです』とKは言った、『それは間違いです。いったいどうしてそもそも人間が有罪だなんてことがあり得ましょうか。ここにいる私たちは、あなただって私だって、みんな人間なのです。』『それはそうだが』と僧侶は言った、『罪のある連中はいつでもそんなふうに言うものだ。』」
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](フランツ・カフカ『審判』)
エル・グレコの家
スペインには魅力のある町が多い。なかでも私が最も興味を引かれるのは、三方をタホ川に囲まれ、|花崗岩《かこうがん》の小高い丘のうえに発達した新カスティーリャの|都邑《とゆう》トレドである。
かつてトレドは、セファルディ系ユダヤ人のエルサレムと称された。西ゴートの首都だったトレドをモーロ人の手から取りもどしたアルフォンソ六世(一〇六五―一一〇九年)の治世に、ユダヤ人は繁栄の絶頂に達した。その絶頂期は、すぐれた神学的著作『クザリ』の作者ユダ・ハレヴィや、ヘブライ語の詩人にしてユダヤ教思想家のアブラハム・イブン・エズラといった輝かしい名前と結びつけられている。アルフォンソ六世とその孫のアルフォンソ七世の時代を通じて、ユダヤ人の学者や詩人、哲学者、医師、さらに天文学者や財政家が宮廷で高い地位につき、時には公務で大きな勢力を振るっていた。この時代、「トレド翻訳学校」と通称される画期的な知的作業が、イスラム教徒、ユダヤ教徒およびキリスト教徒の各学者たちの協同により、世界にさきがけて進められていた。
(画像省略)
しかし、私がこの町に惹きつけられるのは、かならずしもこのようなユダヤ文化の過去の栄光のためではない。またタホ川の外側の高台にある国営ホテル「パラドール」あたりから眺めた、暑い夕日のなかにくっきり浮かびあがってくる、あの忘れ難い街の全景のためだけでもない。それは、アルカサル近くのトベール広場にはじまる迷路のような街中の、とりわけ一本の道から発散してくる死の匂いによってなのである。
一九六八年にはじめてトレドを訪れて以来、その道の印象は鮮やかに胸に刻みつけられている。それは、右の広場から大聖堂を経て、サント・トメ寺院に達し、そこからエル・グレコの家を通ってエル・トランシト教会にいたる、石畳の一本の坂道である。大聖堂には、グレコの宗教画『聖衣剥奪』があり、またサント・トメ寺院には、スペイン絵画史のみならずヨーロッパ芸術史上の傑作のひとつ『オルガス伯の埋葬』(一五八六年)が展示されている。下から当てられた照明のせいか、いっそう青ざめて見えるオルガス伯の死顔は、この都市の背後に色濃くただよう死の影を予感させて、観る者を戦慄させずにはおかないのである。もちろん冷気が肌に心地よい薄暗い大聖堂や寺院を一歩外に出れば、街は相変わらず世界じゅうの観光客で賑わい、トレドの市民たちはうるおいのある生活を享受し、市内の建造物のひとつひとつは中世以来の厳かな外観を保っている。だが、それにもかかわらず、比較的広い道からしだいに狭くなる石畳の小路に入って行くと、中世から近世にかけてこの街に跳梁した死を、ますます強く感じざるを得なくなるのだった。
(画像省略)
エル・グレコは一五七七年頃、スペイン・カトリックの大本山があるトレドに定住し、一六一四年に没するまでの三〇年間、エル・トランシトに近い現在の「エル・グレコの家」付近に住んでいた。つまり、グレコが住んでいた住宅界隈の廃墟が、一九〇六年にベガ=インクラン侯爵によって、当時のアトリエを再現する形で改築されたのである(1)。内部の台所や部屋には暖炉や古い家具、寝台、さては地下におりてゆく穴蔵めいたものまで残され、グレコが画家として生きていた時代が、あたかも四〇〇年の隔りを越えて現在に|甦《よみがえ》ってくるかのようである。
(画像省略) しかし、グレコが活躍した一六世紀後半のスペインは、「日が没することのない大帝国」という形容とは裏腹に、すでに死の厳格さに傾いた国であった。宗教裁判、黒衣と固い|襞《ひだ》つきの襟飾り、イグナチオ・デ・ロヨラ、そしてエル・エスコリアル宮殿といった、特殊スペイン的な、高貴で|血腥《ちなまぐさ》いイメージは、枚挙に暇がない。スペイン王フェリペ二世の治世(一五五六―九八年)は、ヨーロッパ全体を巻き込む暗い宗教戦争の時代であった。カスティーリャはカルビニズムなどの異教の攻撃に対して、カトリック防衛の牙城として立ち上がった。国内的にはカトリック信仰の純粋性を守るため、異端審問制度によって隠れユダヤ教徒などの異端に対し恐怖政治を敷き、国外的にはスペイン人の留学を禁止、外国の書籍を検閲するなどして、プロテスタンティズムのスペイン侵入を阻止する政策をとっていた。
このように厳格な宗教政策は、純血法の強化にも拍車をかけ、先祖に一滴でも異教徒の血が混じっている人間は社会的に葬り去るという恐るべき風潮が蔓延していた。それゆえ、こうした政情を背景にして、すっぽりと頭布をかぶった僧侶たちがいつ果てるともしれぬ連祷を唱え、火炙りの刑「アウトダフェ」の見物に集まってきた優美な御婦人たちが、生きたまま焼かれる人間の肉の臭気を避けて扇を使い、そしてフェリペ二世の深刻な横顔が二六〇〇もの窓をもつエル・ エスコリアル宮殿の陰鬱な部屋部屋に浮かびあがるという、異端審問の暗いイメージが固定されたのである。
まさしくこのような時代に、グレコは、教会の有力者や当時最高の知識人の肖像画を数多く描いたのだった。彼が『大審問官ゲバラ』を描いたのは、一説によれば『オルガス伯の埋葬』から四年後の一五九〇年だったという。トレドで大審問官になり、セビリヤに移ってから大司教になったこの人物の肖像画を描くということは、ドボルジャークが言うように、確かに「悲劇的というよりほかに呼びようのない」ことであった。というのも、グレコは、御用命とあれば、この聖なる首斬り役人の肖像を描くために、馬にまたがり、遠路はるばるセビリヤまで赴かなくてはならなかったからである。
グレコ描くところの肖像画のなかで、大審問官ゲバラは、まるで|猛禽《もうきん》類のような形相をして座っている。事実その左手は、椅子の|肘掛《ひじか》けのうえに|鷲《わし》のように爪を立てているのだ。そして、なによりも人を射すくめる、あの恐ろしい目! その恐ろしさを、黒縁の眼鏡がいっそう強めている。この絵を観た者は誰しも、ゲバラの視線に魂の奥底まで見透かされたような印象をうけて、ぞっとするにちがいない(肖像画=前出参照)。
ゲバラは当時大審問官として、カトリック信仰の敵どもを殺すという血腥い「聖なる」職務についていた。プロテスタンティズムの勃興期だった当時、カトリシズムを擁護する立場にあったグレコもまた、確かに異端者をひとり残らず葬れと|使嗾《しそう》するサタンに誘惑されていたとしても不思議ではなかった。あるいは、ゲバラ着用の帽子と僧服の血の色のような赤、そしてあの刺すように鋭い目は、フェリペ二世治世の広大無辺な「狂気」と関係していたのだろうか。
サント・トメ寺院の聖堂看守は、『オルガス伯の埋葬』を指して、「彼(グレコ)は気狂いでした(Ya era loco)」と語ったという(2)。あの彩色と目の描写に異常なものがあるとすれば、右の言葉はもっとゲバラの肖像画にあてはまるはずだ。だが、グレコの作品に、分裂症や妄想狂の傾向を見るよりも、やはり時代との異常に緊張した関係のなかに立っている人間の魔性を造型した、天才的個性を見てゆく必要があるだろう。その創造的個性こそが、芸術的「|手法《マニエラ》」と、霊感に鼓舞された「|偏執《マニー》」とを一体化させて、人間の内部に横たわる暗い深淵を描出することに成功しているからである。グレコは、こうした深淵を、ゲバラのあの、すべてを破壊しつくさずにはおかない「穴」のような目として描いた。その「穴」が、この聖なる首斬り役人の頭のなかで、彼の世界の暗黒のなかで、どこに通じているかを洞察しようとした時、グレコは、ドストエフスキーの地獄の認識にさきがけた偉大な芸術家になったのである。
現在、「エル・グレコの家」と呼ばれているのは、じつはグレコ自身の住居跡というより、カスティーリャのペドロ残酷王に仕えた大蔵大臣、サムエル・ハレヴィ・アブラフィアの旧邸宅跡であるらしい(3)。しかも、華麗なシナゴーグ、エル・トランシトの建造者でもあるアブラフィアは、彼の地位と富を嫉妬した人々に|誹謗《ひぼう》され、一三六一年拷問にかけられて処刑された。とすれば、あのトベール広場から、迷路さながらの街中を一本の道で縫ってゆくその終点としてのエル・グレコの家の界隈には、裁く者と裁かれる者たちとの激しいドラマがひそんでいることになる。エル・グレコの肖像画『大審問官ゲバラ』から発散してくる血の匂いも、エル・トランシトの華麗な内壁の模様が語るユダヤ人やマラーノの内的悲哀も、スペインの歴史が生み出した、このような人間犠牲のドラマのアウラのような性質のものであろうか。
密告
外国人画家エル・グレコやゴヤの絵から、今日でも「血の清浄」の苛烈さが伝わってくるのは、そこにスペインの異端審問制度独自の性格が表現されているからであろう。問題は、社会の表面を走った迫害の恐怖ではなく、人間の内部に執拗に深く、執拗に長い不安をあたえつづけた異端審問の影なのである。
だから、数字の比較は論点をはぐらかすのに役立つに過ぎないのだ。たとえば、ギー・テスタス/ジャン・テスタスはその著書『異端審問』のなかで、異端審問所が存在した三四〇年間に実際に焼かれた者の数として、ファン・アントニオ・リョレンテの三万一九一二人という数字を挙げている。だが、大陸における魔女狩りの犠牲者総数三〇万、フランス革命の恐怖政治下で一七九二年から九四年にかけて処刑された三万四〇〇〇人に比較すれば、「この数はまだ少ないほうなのである」と、テスタスは言う(4)。
このような数字の魔術によって、スペイン異端審問の残酷非情なイメージをいくらでも割り引きすることは可能だろう。さらに、つぎのようなヴァレリウ・マルクの所説も、論点をはぐらかし、逮捕の不安に怯えていた当時のユダヤ人たちの生き地獄を隠蔽してしまうおそれがある。
「信仰裁判所が活動していた三四〇年の間、スペインは国内的にはヨーロッパで最も静かな国であった。イベリア半島はバルテルミの夜もフランスの市民戦争も、あるいは魔女火刑の狂気も、ドイツ三〇年戦争の暴虐も知らなかった。(5)」
しかし、スペインはこの三四〇年間に、ヨーロッパで最も激しい理性破壊の嵐を体験していたのである。この間、国じゅうに恐怖をあたえつづけていたのはなにも神聖裁判ばかりではなかった。国内の価値や理想にあわない「背教者」をスペインから追い出してしまおうという目的のために、自ら進んで自由を犠牲にしてしまった国民全体が、自分の内部に小さな異端審問所をもっていた。隣人が「週末にシーツを取り替えた」とか「宴会で豚肉を食べなかった」というだけで、この隣人を背教者として密告するのに十分な証拠とされていた。しかも、密告者の名前は公表されないのがつねであった。互いに疑心暗鬼を生み出さざるを得ない、こうした社会状況において、隣人や友人、そして時には親戚や家族さえも、密告に走るのが日常茶飯事となっていた。したがって、このような心理状況から、自ら罪を負ってしまうという極端なケースさえ生まれてくるのである。
ヘンリー・カメンの著書『スペインの異端審問』には、妻との会話のなかで、「姦淫は罪ではない」と口走ったとして、自ら罪をかぶり裁判所に出頭した夫たちの例が報告されている(6)。普通では考えられないこうした行動の引き金になっているのは、いつか妻に訴えられるかもしれないという、夫の日頃からの恐怖であった。密告者の目がどこに光っているか分からず、しかも異端審問所にもちこまれる密告内容の多くがまったく|陳腐《トリヴイアル》なものであってみれば、いやまったく|陳腐《トリヴイアル》なものであるがゆえに、ユダヤ人の大多数は、死も同然の恐るべき心理状態に置かれていたのであった。
その長い歴史を通じて異端裁判所は、腕や|腿《もも》をしだいにきつくひもでしめてゆく「ひも|責《コルデレス》め」と、顔のうえに置いた布切れに水を注いで息ができないようにしてゆく「水責め」などの体刑を加える拷問を行ない、「教会は血を忌み嫌う」という原則を文字通り実行していたのである。こうした拷問が実際どのようにして行なわれていたかは、ユダヤ系新キリスト教徒のエルスィラ・デル・カンポに対する裁判記録によってうかがい知ることができる。
(画像省略)
彼女は豚肉を食べず、土曜日にはシーツを取り替えているとして訴えられたのだが、トレドの異端審問官たちは、異端の宗教をひそかに実践していた間接証拠として、この密告を承認したのである。エルスィラは逮捕された一五六七年七月の時点では身重だったので、明くる年の四月六日になってから第一回目の拷問「ひも責め」が行なわれた。
「彼女は、どんなことをしていたか詳細にかつ事実あったとおりに述べるよう求められた。『私に何を言えというのですか』と彼女は言った。『私は何もかもすべてやりました。どうかひもをゆるめて下さい。私がどんなに弱い女であるか、お分かりになりませんか。』その時、ひもをもっときつくしめつけるようにとの命令が出され、命令が実施されている間、彼女はウーウーとうめきながら言った。『ひもをゆるめて下さい! 何を言えば許してもらえるのか、分かりませんもの。』ひもをさらにきつく引っ張るように命令が出された。するとたまらず彼女は言った。『皆さん、皆さんは罪深い女に同情してくれないんですか。』それに対して、真実を言えば同情してやるよ、と係官が答えた。さらにいっそうきつくひもでしめつけられると、彼女は言った。『やったって、言っているじゃないですか。』係官はまた、やったことについて詳しく述べるように、と命令。『皆さん、何と言えば許してもらえるか、私には分かりません。』それからひもがほどかれ、本数が数えられた。それらは一六回ぎゅうぎゅうしめつけたものだったが、最後に巻きつけた時のひもは切れていた。(7)」
女性マラーノ、エルスィラ・デル・カンポはこうした拷問を受けてから四日後、ついに強要されたとおりの自白をした。審問官のひとりの求刑は死罪であった。しかし、ほかの審問官たちが寛刑に回ったために、彼女は結局、財産の没収、公衆の面前での辱め、並びに三年の懲役刑を言い渡されて、|火炙《ひあぶ》りの刑を免れたのである。スペイン異端審問の残酷な歴史を刻んだ記録は大部分失われてしまい、右のような裁判記録はわずかしか今日に残されていない。
フリッツ・ハイマンが一九三〇年代に、マラーノの歴史を調査する目的でスペインへ行った時、文書保管所は絶望的な状態になっており、資料の保存に関心をもつ者はただのひとりもいなかったという。一八世紀初頭、ナポレオンがそれらの資料を戦利品として数千箱もパリへ持ち去った後、一部スペインに返還されはしたものの、まだかなりの部分がリシュリュー国立図書館などに保管されたままになっていた(8)。こうして、マラーノ関係資料が|散佚《さんいつ》してしまったので、とくに異端審問所の設置後、各都市、各地方の宗教裁判所がどのような活動をしていたかを、資料によって立証することはきわめて困難になったのである。そのようなわけで、我々も、それぞれの文献に挙げられている従来の報告によって、スペイン異端審問所の凄まじさと貪欲さをうかがい知ることで満足するほかない。
たとえば、そのひとつに、一六四八年から一七九四年にいたる、一五〇年間のトレド宗教裁判所の活動に関する統計がある。その内訳は、魔術を行なった者一〇〇件、重婚罪六二件、告解場における司祭の犯罪六八件、結婚で処罰された司祭一〇件、イスラムへの復帰の|廉《かど》で有罪とされた者五件、プロテスタンティズムへの入信罪一一件、ユダヤ教への復帰の廉で有罪とされた者が六五九件となっている。
さらに、ベルリンにあるもうひとつの統計によれば、重婚罪三五件、プロテスタンティズムへの入信罪三件、イスラムへの復帰で有罪とされた者一件、そしてユダヤ教への復帰の廉で有罪判決を下された者はじつに八二四件にも達している。これは、スペイン全土で六四地区に散らばっていた異端審問所の、一七二一年から七年間の活動に関する統計である(9)。
それにしても、宗教裁判所から有罪の判決を受けた者のなかで、このようにマラーノが圧倒的多数を占めているのは何故であろうか。ハイマンが言うように、当時にあってもユダヤ教への復帰はイスラムへの復帰より決して悪いことではなかったし、またプロテスタンティズムやカルヴィニズムの背信よりそれは確かに悪いことではなかったのである。神学的理由からでないとすれば、宗教裁判所がおもにマラーノを標的にしたのは何故であろうか。
プロテスタントの異端者は聖職者や学者といった個々人に過ぎず、他方モリスコはさして財産をもたぬ貧しい農民層を形成しているため、問題とするに足りなかった。しかし、旧キリスト教徒からすれば、富裕な市民階級を構成し、有力者を大勢かかえたマラーノは別だった。つまり、彼らは、モリスコやユダヤ教徒の追放によって打撃をうけたスペイン経済に活力を補給しつづける一大財源と見なされていたのである。
ところで、同じマラーノでも、スペインおよびポルトガルから北アフリカやトルコへ、あるいはアムステルダムやロンドンへ移住して行ったのは、概して貧しいユダヤ人であった。それにひきかえ、国内に残留していたのは、土地とそれに結びついた財産を所有する裕福なユダヤ人だったのである。彼らの財産はむろん異端審問官や国王たちにとって大きな魅力であったから、逮捕し有罪としたマラーノからその財産を没収すると、両者はそれを折半するのがつねであった。
したがって当時、異端審問という概念は財産押収に直結し、異端者狩りは結局、値打ちのある財産さがしを意味していた。これを正当化する教会法に基づいて、|贖罪《しよくざい》する気のない者は、世俗裁判所に送られて火炙りの刑に処せられた。贖罪した者は、たとえ教会との和解が成立したにしても、贖罪しなかった者と同様に財産を没収された。ヘンリー・カメンによれば、こうした規定の唯一の例外は、異端者が自ら進んで、三〇日ないし四〇日の猶予期間の間に、自分あるいは他の人を告発した場合に限られていた(10)。このような形で和解を申し入れた者は、懲役刑と財産没収を免れたのである。ということは、こうした宗教裁判制度そのものが、改宗者層のなかから「異端」を狩り出し、密告をさらに奨励する構造になっていたということにほかならない。その結果、裕福でかつ著名な改宗者マラーノの家族は、ごくささいな異端言動がもとで没落の憂き目にあった。運よく火刑を免れ「和解」したとしても、最後に「有罪者」の全財産が没収され、かくて当の家族は全員、たったひとりの「罪人」のため、一夜にして無一文になったのである。
(画像省略)
このような|贖罪の山羊《スケープ・ゴート》とされがちなマラーノは、全住民のわずか五分の一ほどで数のうえでは少数者であった。しかし、彼らは経済的にも精神的にも大きな影響力をもつ、社会的に目立つ存在であった。物静かで勤勉ではあるが自立していないモリスコは、貴族の大土地所有者などの保護者を見つけるのも容易だった。それにひきかえ、知力にすぐれたマラーノが雇用主を見出した時、彼らは世のなか全体を敵に回すことを覚悟しなくてはならなかった。というのも、マラーノはモリスコと異なり、それ自体で階級をなし、彼らの経済力と知性ゆえに人々の反発を招きやすかったからである。
宗教界においてもむろん、多くのマラーノが、司教や、時には大司教にさえなり、騎士団所属騎士や司教座付き参事会員といった高収入のポストに就いて、聖職禄をめぐる競争をあおりたてているとの理由で、旧キリスト教徒の聖職者たちはあからさまな敵意を彼らにしめしていた。
そうしたなか、国じゅうを遍歴する托鉢修道会の無数の修道士にとっては、このようなマラーノの存在は神の恵みのようなものだった。神の|僕《しもべ》たちが飢えて苦しんでいるのに、資産家の偽キリスト教徒たるマラーノが、どれほど豪華に、しかも傲慢な暮らしをしているかを、町や村の信仰篤きキリスト教徒に話してやると、それだけでなにがしかの収入を期待できたのである。フランシスコ会修道士やドミニコ会修道士のそのような宣伝(11)が、どれほど民衆の間に反ユダヤ感情をあおりたてるのに効果的だったか、計り知れない。
トレドで騒ぎたてている市民たちに関するつぎのような鋭い観察は、このような遍歴修道士の根も葉もない宣伝に対する批判でもあったろう。「小さなフォンサリーダの町に住む農民たちの財産にさえ異端の嫌疑をふっかけては、農民たちから財産を奪ったり、彼らを火炙りの刑に処しているとは、この町の人たちも信仰とやらに関して、なんとまあすごい詮索好きなんでしょう。(12)」
だが、こうした冷静な観察者の嘲笑にもかかわらず、異端審問の「影」は、スペイン国民の反ユダヤ感情を肥やしにしてますます活力を得ていったのである。
ふたつのシナゴーグ
とくに異端審問所の設置後、ある英雄的な風がカスティーリャを中心に吹きはじめていた。ケルト人やイベイロ人、ローマ人や西ゴート人、あるいはモーロ人やユダヤ人といった多種多様な民族の血が錯綜するスペイン独自の風土のなかから、その風は生まれた。七〇〇年前、モーロ人の圧倒的な勢力に追われてピレネー山中に撤退し、以来純血を保ちつづけていたという騎士たちこそ聖なる人間だったのであり、その後継者のみが自らの体内に穢れなき血の純粋さを保持しているのだ、とその風は叫んで、都大路を走りだし、こう叫ぶのであった、「谷間や平地に残り、信仰なき異邦の民の支配に屈服した者たちはみな不純であり、すでにモーロ人とユダヤ人の血で穢れてしまっているのだ」と(13)。
そして、この風が異端審問所のなかに吹きこんでいった時、マラーノにとって、あるいはユダヤ人の血が少しでも混じっている貴族たちにとって、最も恐ろしいことが起こった。騎士の書物から吹いてきたとされるこの風の名を純血主義というが、それは後々、スペインに消すことのできない跡を残してゆく。
このような純血思想が、絶対王政とその宗教裁判所の精神の核をつくっていた。教皇や宗教界がこうした血の清浄の思想にどれほど困惑したかはともかく、この思想はイベリア半島の政治を動かしてゆく現実の力となっていった。純粋な血についての思想がたとえ幻想に過ぎなかったとしても、それは現実支配的な感情と事実を形づくっていったのである。
当時、こうした|禍々《まがまが》しい風をはらみ、とくに大都市の豊かなマラーノ居住地を|徘徊《はいかい》する男たちの姿があった。彼らは、改宗者が最も先祖の宗教に戻りやすい金曜日の夜や土曜日などに、人目を忍んでマラーノの家に近づき、垣根によじのぼったり、隙間からのぞいたりして、罪深い背教者の偵察を行なっていたのである。彼らは国に雇われた密告者だった。この異端審問の走狗はしかし、「腹心の民」と呼ばれ、短剣とオリーヴの枝にはさまれた光り輝く名誉十字章を胸につけていた。
彼らはマラーノ居住区の家々ばかりでなく、時にはマラーノの墓へも偵察に回っていた。というのも、死んだマラーノが生前ユダヤ教に寝返っていたことが密告やより詳しい記載などから判明した場合、その死者を宗教裁判にかけなくてはならなかったからである。そこで死者の罪が確定されれば、背教者の骨が掘り起こされ、火刑に処された。つまり、このような死者の血は子供たちの体内にも生きつづけて、血の純粋さを脅かすものだと信じられていたのである。
死者をさえ墓から引きずり出してくるこうした残酷劇が三〇〇年以上もつづいたのは、カトリックの奉ずる神の信仰によってだったのか、それとも悪魔に|使嗾《しそう》されていたからなのだろうか。スペインの魅力と裏腹の関係にある恐怖を背後にもつこの国の歴史は、このような問いを、南欧の明るい日射しのなかを旅する我々につきつけてくるのである。ことによると聖なる妄想の悪魔は、たたきつける強烈な日射しを|住処《すみか》としているのかもしれない。そのような目で見れば、同じ市民であるマラーノを裁いて、薪の山に送りつける異端審問官たちはもとより、トレドというこの幻想的な街全体が、中世以来、ユダヤ人改宗者マラーノへの迫害を周期的に繰り返しながら、この悪魔に付いて[#「付いて」に傍点]いたように思われてくる。
こうした悪魔の影と死の匂いがただよう大気のなかで、トレドのマラーノも数百年にわたり隣人の密告を恐れ、いつどこで偵察しているかもしれない「腹心の民」の目に怯えながら、ユダヤ人区の片隅にひっそり生きていたのである。そうした恐怖と不安を胸にいだいていたからこそ、マラーノは、宗教的儀式のための機能を一切剥奪されたシナゴーグの運命に自分を重ね合わせて、抵抗することもなく、ひたすら受動的な生き方を自らに課していたにちがいない。
中世のトレドには、一〇のシナゴーグと五つの祈祷所が存在していた。そのうちのふたつが、一四九二年以降別の建物に利用されたり変容されたにしても、六〇〇年あるいは七〇〇年という歳月を経て今日なお原型をとどめながら生き残っているというのも、スペインの奇跡である。
我々が訪れたエル・トランシト教会は、ペドロ残酷王の大蔵大臣サムエル・ハレヴィ・アブラフィアによって建てられ(一三五七―一三六六年)、その旧邸だったと覚しい「エル・グレコの家」から目と鼻の先にある。アブラフィアの地位と富と趣味を記念するこのシナゴーグは、長く東西に延びた黄土色の煉瓦造りの堂々たる建物である。正面玄関のまっすぐうえの屋根を壊して、現在は|鐘楼《しようろう》がそびえている。一四九二年以降キリスト教教会に改造されたこの建造物は、一八世紀にいたるまでわずかに正面玄関のうえのヘブライ語碑文に、かつてのシナゴーグの面影をとどめていたに過ぎなかった。
(画像省略) このシナゴーグの「廃墟」の内部は一見壮麗のようだが、よく見れば北壁も南壁も破壊された装飾のうえを、化粧タイルのようなもので補修しているだけである。建物の南側二階にある婦人席からは、最もよく保存された東壁上部の、|拱廊《きようろう》を埋めた|絢爛《けんらん》たる帯状装飾がよく見える。しかし、東壁から肝心の祭壇は除去され、上部に小さなアーチが集まってできた五四の窓のほとんどが、コンクリートで塗り固められてしまっている。
こうした「廃墟」からひびいてくる声があるとすれば、それは確かに、絶対主義的カトリシズムに抵抗したり、その暴力を|弾劾《だんがい》したりするというよりも、それを受け入れて生きていこうとするマラーノの、意外に寛容な声なのである。エル・トランシト教会が全身で表している寛容は、正面玄関のうえに刻まれていたという詩篇第九九章八節のつぎの言葉に、最もよく表明されているように思われる。
「われらの神ヱホバよ、なんぢ|彼等《かれら》にこたへたまへり。彼等のなしゝ|事《わざ》にむくいたまひたれど、また|赦免《ゆるし》をあたへたまへる神にてましませり。」
もうひとつのシナゴーグは、トランシト広場からカトリコス通りを北にわずか数分行ったところにある。一二〇三年に建立され、早くも一四一一年にキリスト教教会に改造されたサンタ・マリア・ラ・ブランカは、今日に伝えられているスペイン最初期のシナゴーグだという。建物のなかに足を踏み入れれば、薄暗がりのなかに何十本もの白い角柱が林立していて、モスクにでも迷いこんだのではないかと思わせる|風情《ふぜい》である。最初の自分を失ってしまったような時間が過ぎると、感覚はしだいに落ち着きをとりもどして、シナゴーグの配置や細部までがはっきり見えてくるようになる。不規則な台形の平面のうえに五つの身廊ネーブを組み合わせているこのバジリカ式建造物は、西側の中心軸に正面玄関をもっている。その向かい側に、トーラーの巻物を収納する聖なる|櫃《ひつ》「アロン・ハコデシュ」があったが、これはもちろんとうに失われてキリスト教の祭壇にとってかわられている。
(画像省略) ここには、コルドバのシナゴーグや、さきほどのエル・トランシト教会に見られたような婦人席はない。またシナゴーグの五つの身廊は四列の堂々たる拱廊から成り、白い八角形の支柱は、アルモアド模様の見事な|馬蹄《ばてい》形のアーチを支えている。つまり、このシナゴーグは、|柱頭部《キヤピタル》やバジリカ式に見られるキリスト教の要素と、馬蹄形アーチ並びに化粧|漆喰《しつくい》細工に見られるイスラム的要素との|混淆《こんこう》建築なのである。しばらく観察しているうちに、このような混淆とは、ユダヤ教がひとつの建築芸術として、イスラムとキリスト教に取り囲まれたなかで、さながら植物のように大きく成育をとげたなによりの証拠であることが、分かってくるのである。
一四九二年のユダヤ人追放の後、この建物はカラトラヴァ騎士団に貸与され、サン・ベントと呼ばれていた。また一五五〇年以降は、贖罪する娼婦たちの避難所として使われ、さらに一七九八年からは、兵舎および倉庫として使用されていたという(14)。このように、スペインのシナゴーグには、破壊と変容の歴史が深く刻みつけられているのだ。
カトリシズムがあれほど絶対的な権力をふりかざしてユダヤ人の建造物に襲いかかっていっても、中世のシナゴーグがその迫害の歴史をそのまま自らの生き方に変えて、このように厳然として残っているというのは、不思議というほかない。いや、いくたびも変身しながらこの数百年を生きながらえてきたというのは、当の建造物自身というよりは、トレドという都市なのだという気さえしてくる。もしこの都市が異端的なものを一切排除して、己れの純粋なものだけを追求していたならば、このような異教の建造物を痕跡も残さずに地上から抹殺していたことだろう。こうした混淆をまさしく己れのものとしている点に、さまざまな顔を今日に残しているスペインの真正な魅力の秘密があるのかもしれない。
[#改ページ]
第八章[#「第八章」はゴシック体] ポルトガル・マラーノの行方
[#ここから5字下げ]
「一九世紀の間じゅうピレネーを越えた西欧諸国のユダヤ人は、ユダヤ教の名残りがイベリア半島からきれいに消えてしまったと考えていた。一方ポルトガルのマラーノは、自分たちが全世界で最後の、しかも唯一のユダヤ人だと思っていた。」
(レオン・ポリアコフ『反ユダヤ主義の歴史』第W巻
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]「異端審問の影の中のマラーノ」)
|彷徨《さまよ》う難民
追放令が公布されてから、滞在をあと四カ月に限られたユダヤ人の焦慮は、日々つのっていった。異端審問所からは、一四九二年七月三一日以降、避難民に宿を提供したり、わずかな食糧でもあたえた者は厳罰に処するという通告が出されていた。先祖が何百年来住んでいたこの国から間もなく出て行かなくてはならないことを知っていても、彼らは移住先をどこにしたらよいかまだ決めかねていた。どこの国のユダヤ人も、難民がスペインからどっと押し寄せてくることを警戒していたので、受け入れ先を見つけることは容易でなかった。ポルトガルのユダヤ人も、スペインの同胞に対して、異端審問の手から逃れるためにはポルトガルは近過ぎるから来ないほうがいい、と警告していた。このような八方塞がりの状況のなかで、イサベル女王が最終的にスペインの滞在延長をただの二日間しか認めなかった時の、ユダヤ人の落胆は筆舌に尽くし難いものだった。
それまでイスラム教徒やキリスト教徒と睦まじく隣り合わせに住み、同じイベリアの大地で、しかも同じ川から水を引いた|葡萄《ぶどう》山で共に働き、同じ町内で共に商売を営んでいた同じ市民たるユダヤ教徒は、何ひとつ権利の主張も認められぬままに、いまや財産を人手に渡さなくてはならなかった。それを拒んだ者は、アブラハムあるいはサムエルという名前をルイスとかディエゴに変えなくてはならない。ということは、ルイス某もディエゴ某も、セファルディ系ユダヤ人の文化が目の前で音を立てて崩れてゆくのを、黙って見ていなくてはならないということであった。
シナゴーグは教会や修道院に、さらには作業場や個人の邸宅に変えられてゆく。墓標板は公共の建物を拡充するために、舗石や建築資材として使われることになる。そうしたなかで、サムエルという本来の名前をディエゴに変えた者は、キリスト教支配のスペイン社会に受け入れられるために、名実ともに新キリスト教徒に生まれ変わって、真正のスペイン市民となるよう努力しなくてはならないだろう。だが、先祖伝来の地でひとまず身の安全を確保したかに見えたディエゴ某も、マラーノとして、いつカトリック教そのものに侮辱と損害を加えた|廉《かど》で告発されるか分からないという不安を抱いて、日々を送ることになるのだ。
他方、父親がつけてくれた名前を変えようとはしなかったユダヤ教徒は、住居や田畑を隣人に譲り渡して、この地を去らなくてはならない。カトリック両王の勅令には、こう記されていた。「我々は、男女を問わず全ユダヤ人に、我が王国を退去し、決して戻らぬよう命令する旨を決意した。洗礼を受ける用意のある者以外は、誰彼の区別なく、一四九二年七月三一日までに我が領土を出て、決して戻ってきてはならぬ。もし戻ってきた場合には、死刑に処し、その持ち物をすべて没収するものとする。(1)」
この追放令によって、いよいよセファルディの移住の旅がはじまる。道路が、長い行列をなしたユダヤ人難民の寝床になる。ロバや馬に乗れた者は幸せで、たいていは徒歩である。彼らは、健康な者も病人も、老いも若きも、がらくたを携え、家族単位で、ぞろぞろと日に夜をついで歩いてゆく。
「パラシオス牧師の伝えるところでは、彼らは広々とした野原に出たところでひと休みする。ある者は疲労のために、またある者は病気のために、崩れるように倒れこむ。道端で赤ん坊が生まれるかと思えば、死ぬ者も出る。こんな悲惨な姿を見て同情心に駆られ、なかには難民の間に入って行って、洗礼を受けるようにとしきりにすすめるキリスト教徒もいる。だが、ラビが飛んできて、疲れのひどいぐったりとした人々を奮い立たせるのだ。行列が動きだすと、女性たちが歌をうたい、子供たちがタンバリンを叩いたり、トランペットを吹いたりして皆をはげますのだ。そして、人々に生きる喜びをあたえるため、ラビたちは共同体の象徴になるものを見せたりもした。このようにして、ユダヤ人難民はカスティーリャを去って行った。(2)」
五〇〇年前の七月下旬、スペインの全国津々浦々で、このような光景が展開された。この時追放されたユダヤ人の数は、一六万人を下らなかったと言われている。
これら避難民のうち一二万人が、危険な海を渡る必要がないうえに、言葉も習慣も似ている隣国のポルトガルへ行くコースをとったのは、ごく自然なことだった。ポルトガル在住のユダヤ人も、ポルトガル政府も、もちろんこの難民受け入れを歓迎するはずもなかったが、時の国王ジョアン二世だけは別だった。というのも、王は永住権を望む富裕なユダヤ人からは多額の納付金を、また入国希望者全員からは、八カ月という条件付きの滞在許可を認めて人頭税を徴収する算段で、なにはともあれ受け入れを優先させた場合の利益だけをもくろんでいたからである。
一四九五年にジョアン二世が亡くなり、|従弟《いとこ》のマヌエルが王位を継いだ。一四九六年一一月三〇日に、幸運王マヌエルと、スペイン・カトリック両王の娘で、ユダヤ教徒一掃を主張する王女イサベルとの結婚の取り決めが行なわれた。その翌月、この新王もまた、古くからポルトガルに定住しているユダヤ人と、スペインからやって来た新ユダヤ人に対して、洗礼か追放かの選択を迫ったのである。
キリスト教に改宗しない者は、一〇カ月以内にこの国を去らなくてはならないとされた。ほとんどのユダヤ人は洗礼を受けて、ポルトガルにとどまる道を選んだ。というのも、彼らはもうこれ以上|彷徨《さまよ》ったり、それに伴う苦痛に耐えられそうにないと思っていたし、またスペインの避難民が国道で餓死したとか、海で溺死したとか、あるいは奴隷に売られたという話をさんざん聞かされていたからである。
ユダヤ人亡命者を歓迎したトルコの救済の岸辺にたどりついた者はごくわずかだったことを、彼らは知っていた。ポルトガルにとどまっているとすれば、一四九七年春の過ぎ越しの祭りの季節がめぐり、強制出国の日が近づくにつれて、ユダヤ人は|厭《いや》でも、子供たちとともに洗礼盤へと駆り立てられていったのである。
この時、改宗を拒んだ高位律法師シモン・マイミは、拷問にかけられた末亡くなった(3)。また一四九六年末、マヌエル幸運王の指令でリスボンに集結させられていたユダヤ人の一群が、当時発見されたばかりのアゾレス諸島や北アフリカの海港に向かう船を待っていた時、大きな容器で「聖水」をかけられ、キリスト教への改宗とポルトガル滞在を強制されるということもあった。かくて第三のマラーノ、すなわちイベリア半島のマラーノのなかで最大のグループをなすポルトガル系マラーノが、ここに生まれたのである(4)。
マヌエル王保護の下に、確かにポルトガルのユダヤ人は、少なくとも理論的には安泰であった。だが、こうした即席キリスト教徒は、国民大衆からはっきり区別されたままで、表面上の改宗を許さない大衆の狂信的な憎悪と攻撃の対象にされていたのである。一五〇六年にリスボンで起こった新キリスト教徒|殺戮《さつりく》の凶行は、そうしたユダヤ人に対する暴力爆発の典型的な例であった。この時、三日間におよぶ|大虐殺《ポグロム》の嵐で、二〇〇〇人にものぼるユダヤ人の生命が失われたという(5)。
このような背景から、ついに一五三六年、ポルトガルにも、峻烈なスペイン式異端審問制度が導入されることになった。その数年後からはじまる異端者の火刑「アウトダフェ」がつぎつぎに犠牲者をもとめていったのは、むろん「神のより大きな栄光のために」ではあったが、実際には財政的な理由からでもあったのだ。薪の山に送られた男たちは総じて新キリスト教徒=マラーノであり、とりわけ裕福な商人階級出身のマラーノであった。なぜならこの層のマラーノは、改宗してまだ日が浅いため旧キリスト教徒から終始疑いの目で見られ、そのうえポルトガルにおいて最も豊かな市民階級に属していたからである。
(画像省略)
このようなマラーノがどれほど攻撃されやすかったかは、一七〇五年に執行されたアウトダフェで、ある大司教がつぎのように|面罵《めんば》した時の激しい調子からもうかがい知ることができる。「この哀れなユダヤ教の残骸め! シナゴーグのぼろ|屑《くず》め! ユダの残党め! お前らはカトリック教徒の面汚しだ! お前らはユダヤ人どもの風上にも置けぬ奴らだ! どんな規則の下で生活しているかも、お前たちはからっきし分かってはいないのだ。(6)」
リスボンやコインブラ、あるいはエヴォラなどで|火刑《アウトダフエ》が執行される度に、ポルトガル・マラーノの家族は、危険をおかして海に乗り出して行った。この流出で、強烈な性格をもったマラーノの数が国内で少なくなり、キリスト教に対する反発も残留マラーノの間でしだいに影をひそめ、秘められた穏やかなものに変わっていった。
こうして、一五三六年に設置された異端審問制度は、啓蒙的宰相ポンバル侯爵が一七七三年に行なった、旧キリスト教徒と新キリスト教徒のあらゆる差別撤廃の改革によってその存在の意義を失い、一八二一年ついに廃止されるにいたった(7)。異端審問制度が存続したこの長い歳月と、アウトダフェで犠牲になった人々の命の重さを考えれば、廃止から一〇〇年を経た二〇世紀初頭になってもまだ星の山のマラーノが、異端審問の影に怯えて暮らしていたことが、決して偶然ではなかったことが分かるのである。
扉のなかの顔
一九九〇年七月中旬、私は五〇〇年前のセファルディ難民に思いを馳せながら、流浪者オデュッセウスの町リスボンに向かって旅を開始していた。リスボンといえば真っ先に思い出されるのは、ゲーテの『詩と真実』と、そこに紹介されている「ある異常な世界的事件」である。ゲーテはこの自叙伝の冒頭近くで、八三年におよぶ彼の長い人生の皮切りとなるにふさわしい、つぎのような思い出を引き合いにだしてきている。
「一七五五年一一月一日、リスボンに地震が突発し、すでに泰平に慣れていた世界中に異常な恐怖の波紋をひろげた。商業都市で、同時に海港だった宏壮・華麗な首都が、突如として世にもおそろしい災禍に見まわれたのだ。大地は震動し、大洋は逆巻き、船は砕け散り、家々は倒壊し、教会や塔はその上に重なり倒れ、王宮の一部は海水に呑まれ、見わたすかぎり、廃墟の中に|濛々《もうもう》たる黒煙と火の手があがっていたから、亀裂を生じた大地は|火焔《かえん》を吐くかと思われた。六万の人間が、一瞬前までは安楽な生活を営んでいたのに、いっせいに滅亡していった……(8)」
遙かな辺境の都市に起こったこの|戦慄《せんりつ》的な事件の報道は、六歳のゲーテにいつまでも尾を引く大きな衝撃をあたえた。天地の創造者にして維持者たる神、このうえなく賢明で、いつくしみ深い存在として少年の心に描かれていたその神が、正しい人をも不正な人と変わるところなく、ひとしく破滅させたのである。それは、万有の父たる神のなすべきことではないはずだった。こうした印象から立ち直ろうとして、いたいけな心はむなしくあがくばかりだったが、賢者や神学者でさえも、こういう現象をどう見たらよいかについて一致した見解をしめすことができなかったので、この時幼いゲーテの目にはじめて、世界の亀裂が見えてきたのである。神への、賢者や神学者へのこうした懐疑が、魔女裁判を作品の背景として取りこんだ、異端者ゲーテの|畢生《ひつせい》の劇詩『ファウスト』の地平を厚くおおっているのである。
リスボンを襲った大地震による死者の数は、実際には全人口の六割に当たる三万人ほどだったと言われているが、市内ばかりでなく周辺の負傷者や、経済的打撃に「破滅していった」人々の数を加えると、ゲーテの「六万」という数字もあながち誇張ではなかったように思われる。
確かに都市を全滅させるほどの大地震ではあったが、しかしここには奇跡的に破壊を免れた地区があった。アルファマという地区がそれである。迷路のように入り組んだ細い急な坂道の両側には石造りの家屋が密集し、四〇〇年以上もつづいたイスラム支配の影響が町並みに今も色濃く残っているという。この地区に、友人も私も心を惹かれていた。
列車がサンタ・アポローニャ駅に着いたのは、七月一三日午後九時半であった。アンダルシアの旅でしだいに重くなってきたスーツケースをコインロッカーに押しこんで駅の外に出ると、日はもうとっぷり暮れていた。駅前のタクシー乗り場には、そこから都心に向かう人々がそれぞれ大きな荷物をもって延々と並んでいる。そんな長蛇の列を尻目に、我々はまっすぐアルファマを目指して歩きだした。
日本の旅行案内書は、このアルファマが一七五五年の大地震の際破壊されずに残ったため、かえって近代化から取り残された地区であり、その迷路のような世界に足を踏み入れれば、カスバさながらの生活空間があり、そこに住む住民の顔も他とは少々異なっている、というような記述を繰り広げて得々としている。そこをことさら一般の市民世界から区別しようとしている浅薄なツーリズムが気になる。それでは、そのどまんなかに泊まってやろうというのが、我々の発想だった。あるいはそういう地区にこそ、我々がこの旅で探し求めているユダヤ人街があるかもしれない。できればそこへ行ってみたかった。しかし、サン・ジョルジェ城をいただく丘のうえからテージョ川に向かって下ってゆくアルファマ地区は広いのだ。ポルトガル語もできず、しかも夜の一〇時過ぎにやっと行動を開始した我々が、そこでユダヤ人街を探しあてようとするのは、まったく無謀な試みであった。
電車の線路沿いにしばらく行くと、ペンションの看板が目にとまった。魚の腐った匂いのする暗い木の階段をのぼって行って、呼び鈴を押した。どっしりとした木の扉が開いて現れたのは、表情の優しい色白の|女将《おかみ》さんだった。しかも、「ドス・カマスありますか?」と訊くと、「シー」と言うのだ。女将さんは「|二人部屋《ドス・カマス》」というスペイン語を少し皮肉に繰り返しながら、我々を部屋へ案内して電灯をつけた。広々とした、天井の高い部屋には、こざっぱりとした白いカバーをかけて、ふたつのベッドが行儀よく並んでいた。このシーズンの、しかもこんな時間に、安くて清潔な部屋が取れたのはまったく奇跡に近かった。
チェックインをすませ部屋にもどると、友人はベランダの|手摺《てす》りから身を乗りだして、夜景を眺めていた。私に気がつくと、彼は振り返ってまた子供のように激しく手まねきした。私も手摺りから首をつきだした。あっと思うような夜景が、そこにあった。すべてが、まるで映画のなかの幻想シーンのように浮かび上がっているのであった。長い単調な電車の旅の後だっただけに、私の眼前の光景は、いっそう解放的で、同時にいっそう非現実的に見えた。体を傾けて見ているせいか、五階・六階の高い建物の垂直線が崩れ、家並みのあらゆる線がどことなく傾いているように見える。狭い石畳の小路が曲がりくねり、家々のドアも窓も鳥籠や洗濯物も、あたかも舞踏曲を踊っているかのようであった。それらすべてを、家の壁からつきだした奇妙な格好の角灯が、濃いオレンジ色の光のなかに浮かびあがらせていた。そして、向かい側の家並みの屋根屋根は、暗い夜空のなかへどこまでも上へ上へとのぼってゆき、その果てに星が静かに|瞬《またた》いていた。夜は、家々の石の壁面のようにあらゆる破壊に耐えられる無限の物質からできているようで、幻想的な恍惚の一瞬と永遠の暗示を我々に惜しむことなくあたえていた。
「こういうのは、何万エスクードをだしてヒルトンホテルに泊まっても見られない光景だろうな!」と、友人はひとりごとのように言った。私はうなずいて、夜気をいっぱい吸った。
「夕食に行ってきます」と言って、ついさっき九分九厘だめだろうと思いながら呼び鈴を押したドアに向かおうとすると、女将さんは「あなた方はこちらを使ってください」と反対側の扉をあけてくれた。踊り場に猫が魚を食いちらかした跡のある一般客用の階段とはちがい、こちらの私用階段は清潔な木の階段だった。そこをおり、オレンジ色の光がこぼれる裏の路地に出てから、私は背後の暗い階段を振り返った。友人の足がゆっくりおりてきて、最後の一段でぴたりと止まった。彼はしばらく私を見つめてから、鋭い声で「君の後ろを見ろ!」と言った。私は言われるままに振り返った。目と鼻の先に、男の首があった。一瞬背筋がぞっとして、私は思わず後ずさりした。扉のなかにぽっかりくりぬかれた正方形の窓から、|髭面《ひげづら》の中年男が首だけ出してにやりと笑っていた。しかも、その頭上の、街路名を記したプレートにはこうあった。「Rua da Judiaria」。
「ここはユダヤ人街ですか?」と、耳元で友人が尋ねた。
「そうだ。ルア・ダ・ユディアーリアだ」と、野太い男の声がかえってきた。
我々はこうして、広いアルファマ地区のなかで、ゆくりなくもユダヤ人街のペンションに行き着いていたのである。
(画像省略) このアルファマがことのほか気に入って、我々は明くる日もペンション「ベイラ=マル」に泊まることにした。迷路のようなこの地区のどの小路に入っても、缶詰の缶に生けた小さな花々が咲きこぼれ、家の壁につりさげた|鳥籠《とりかご》のなかではしきりにカナリアが|囀《さえず》っていた。さらに、歩き疲れて帰ってきた昼下がり、向かい側の家の奥からは若い人妻の歌うファドが朗々とひびいてくるのであった。
女たちはあっちの窓、こっちの窓から顔をだして、世間ばなしに打ち興じ、男たちは朝から居酒屋に集まって、パチッパチッとドミノの駒を打っていた。日中、日の射さない暗い石の階段をのぼって、ふと頭上を見上げれば、家並みと家並みの間に高い青空がのぞいていた。また夜更けに人気のない曲がりくねった路地を歩いていれば、何百年も人々の足に踏みつけられた石畳が、街灯の明かりにきらきら輝いているのに出会うのも楽しかった。
このようにアルファマは多彩な魅力に満ち満ちた町であるが、屋台の炭火で焼いてもらった|鰯《いわし》を食べながら、冷たいビールを|喉《のど》の奥に流しこめば、自分もまたアルファマっ子「アルファシーニャ」との交流のなかにとっぷり身をひたしたような気分になる。そして、我々がアルファマに滞在している間、昼も夜もユダヤ人街のいちばん下の家から、あの扉のなかの窓へ首だけだした男の、コホコホという力ない|咳《せき》がいつまでも聞こえていた。
トマールへ
トマールはリスボンから電車で北に二時間ほど行った、川と樹の多い田舎町である。シナゴーグがあるという、舗石を敷きつめた道に入って行くと、左右にはどの玄関脇にも、赤や黄色の花を植えた白壁の家々が立ち並んでいた。そこがすでに、ユダヤ人街「ルア・デ・ユデーリア」だった。ポルトガルで今日に残る唯一の教会堂というトマール・シナゴーグは、そのなかほどにあった。
(画像省略) 黒い木の扉を押すと、四本支柱のシナゴーグの内部がいきなり眼前に現れた。写真で見ていた古色蒼然たる内部の趣きとは異なり、壁も|漆喰《しつくい》を塗って、全体がヘブライ博物館の明るい雰囲気に包まれていた。このシナゴーグは、一五世紀(一四三〇―一四六〇年)に建てられたもので、今日もなお古いユダヤ教用具の数々を所蔵している。ほぼ正方形の平面のうえに建てられたこのシナゴーグの内部を特徴づけているのは、とりわけ四本の支柱とこっぽりとした高い交差|穹窿《きゆうりゆう》である。
この四本支柱シナゴーグの形態でとくに興味深いのは、それがアムステルダムのポルトガル系シナゴーグだけでなく、ドイツやポーランドのプロテスタント教会建築にも、少なからぬ影響をあたえている点である。一五二二年一一月のルターの手になる新約聖書翻訳には、聖所の測定について言及しているヨハネ黙示録第一一章への、ルカス・クラナハの挿絵が付されている。この挿絵に描かれた四本支柱の建築は、トマールやアムステルダムのシナゴーグ建築を連想させずにはおかないのである。ルターの反ユダヤ主義文書の直前に製作されたと覚しい一五二二年のこの挿絵は、初期プロテスタンティズムがユダヤのシナゴーグ建築と取り組んでいた事実をはっきり物語るものだろう。ところが、ルター訳聖書の一五三四年版には、ユダヤ的表象に代わって、キリスト教の教会が登場している。こうした変化には、ルターの反ユダヤ主義文書が密接にかかわっていたであろうことは、想像に難くない(9)。
(画像省略)
館内の展示物を全部見終わって、シナゴーグの四枚セットの絵はがきを買おうと思ったら、受付の女性の姿がなかった。どうしたらよいものかと友人と話しているところへ、やがて当の女性と一緒に、六〇歳くらいの上品な白髪の紳士が現れて、我々に握手をもとめた。当シナゴーグの所長さんだった。もらった名刺には、ルイス・ヴァスコという名前が記されていた。ヴァスコ所長と話をしているうちに、じつは二年ほど前ここに日本人の先客があったことを知った。来客記念帳には、評論家の松永伍一氏とテレビ長崎関係者二名の名刺が貼ってあった。それにしてもこの日本人先客は、どのようなテーマをもってこのシナゴーグを訪れたのだろうか。彼らは、あるいは五五名のキリスト教徒を火刑斬首した一六二二年の長崎大殉教と、ポルトガル・マラーノの迫害虐殺を比較するために、この辺境の地まで来たのであろうか。
私は急に興味をそそられて、先客のトマール・シナゴーグ訪問の理由を尋ねてみた。
「あの時の一行は」と、ヴァスコ所長は遠い記憶を呼び起こすように、あごに手をやり、少しうつむき加減にして言った、「ルイス・デ・アルメイダの足跡を訪ねてやって来たのです。リスボンで取材しているうちに、アルメイダがキリスト教に改宗したユダヤ人であることが分かって、それならば一五世紀末から一六世紀にかけて、ポルトガルのユダヤ人がどのような運命の岐路に立たされていたかをもっと知ろうとして、ここへやって来たのです。」
「日本に行った、あのポルトガル人宣教師のアルメイダですか?」と、その時友人は言葉をはさんだ。長崎に育ち、熊本の旧制高校で学んだ彼も、ここではじめてアルメイダがマラーノの出身であることを知ったのである。
「そうです」と、ヴァスコ所長はうなずいた。「アルメイダは、皆さんも御存じのように、日本において聖フランシスコ・ザビエルに勝るとも劣らぬ重要な宣教師でした。」
マラーノがトルコやアムステルダム、あるいは南米に移住したとばかり思っていた私には、その行き先のひとつが我が日本でもあったということは、大きな驚きであった。一イエズス会士の布教の裏には、おそらく新天地への移住に賭けたマラーノの冒険と夢が託されていたのだろう。
ルイス・デ・アルメイダは、一五二五年にリスボンのユダヤ系家庭に生まれた新キリスト教徒だったという(10)。とすれば、もはやその決め手はないにしても、アルメイダがリスボン・アルファマ地区のあのユダヤ人街に生まれ育った可能性もあるだろう。一五四六年、外科医の免許を取得したアルメイダは、進取の気象に富んだ人物だった。ポルトガルの東洋進出の波に乗り、バスコ・ダ・ガマの発見したインド航路を通ってゴアに着いた彼が、ランパカオとマラッカ間で貿易商人として活躍した後、日本の平戸に着いたのは、一五五五年(弘治一年)のことであった。翌五六年にイエズス会に入会し、私財を寄付し、その一部で今の大分、|豊後《ぶんご》に孤児院と病院(現在のアルメイダ病院の前身)を建て、日本にはじめて外科手術を含む西洋医学を伝えたのである。ついで、薩摩、有馬、五島、|生月島《いきつきじま》、天草など主として九州地方で布教し、隠れキリシタンにその後も多大の影響をあたえ、こうしてすべての力を日本国民のために捧げたアルメイダは、一五八三年(天正一一年)、五八歳で天草|河内《かわち》|浦《うら》に没した。
テレビ長崎の一行が残していったという英語の小冊子『通訳官ロドリゲス』をヴァスコ所長に見せてもらい、頁をくってゆくと、ポルトガル人宣教師のこんな名前が目にとまった。イルマオ・ドゥアルテ・ダ・シルヴァ。これは、私が今回の旅のなかですでに何度も出会っているあのダ・シルヴァではないか。
その記述によれば、一五五二年日本にやって来たダ・シルヴァは、日本語の文法書執筆を構想していたという。さらに一五六四年四月、布教と医療活動のため豊後に向かうアルメイダの旅のなかに、このダ・シルヴァが姿を現してくる。その時、ダ・シルヴァは川尻で、死にいたる病を患っていたのであった。もはや日延べする猶予もならなかったので、アルメイダは雨のなかを五日間も歩きつづけた。そして、天候が回復するとともに、彼は病人を連れて船に乗り、トレス神父のいる高瀬まで行った。その地に着いて数日後、|秘蹟《ひせき》を待ちながら亡くなったダ・シルヴァは、日本の土となった最初の外国人宣教師であった(11)。
今を遡る四百数十年も前の、アルメイダのこうした遍歴は、深いところで一四九二年の破局と関連しているのだ。その歴史を知れば知るほど、このポルトガル・マラーノたちは、不思議な魅力をもった存在になってくる。一方はアジアの最果ての島国にまで向かうかと思えば、他方は四〇〇年以上も星の山のなかに隠れ住んで、自分たちが唯一の、しかも全世界で最後のユダヤ人なのだと信じていたのである。
トマールのシナゴーグは、今日、全般的なユダヤ人文化の崩壊のなかで辛うじて命脈を保ってきた、ポルトガルで唯一の、かつ最古のシナゴーグである。ヴァスコ所長の話によれば、一四九六年の幸運王マヌエルの勅令で、トマール・シナゴーグは宗教的にもう使われなくなり、その後個人の所有になったが、一時牢獄として利用されたこともあるという。シナゴーグのなかからまぶしい外に出てからも、このシナゴーグ共同体がたどった運命に関するヴァスコ所長の話はつづいていた。
「現在、ユダヤ人はこの町にどのくらい住んでいるのですか?」と、友人が尋ねた。
「たったふた家族ですよ」と言って、所長は眉をひそめた。
それはあまりにも少ない数だったので、その時私が口をはさんだ。「確かシュヴァルツが、一九二〇年代に、マラーノの数は北ポルトガル三県で一万家族という調査結果を出していたように思いますが。」
それまでにこやかに話をしていたヴァスコ所長が、急に真顔になって、私を見つめた。マラーノ=豚という蔑称を使ったことが、あるいは所長の気に障ったのだろうか。私は思わず目を伏せた。
頭上で、ヴァスコ所長の大きな声がひびいた。「あなたは、あのサムエル・シュヴァルツの名前を御存じか!」
「ええ」と答えながら、私はほっと胸をなでおろした。「ベルモンテの新キリスト教徒発見の話を本で読みました。」そう言い終わるか終わらぬうちに、私はヴァスコ所長に抱きしめられていた。それから彼は、私の両手をにぎりしめて言った。
「鉱山技師サムエル・シュヴァルツの力添えで、隠れユダヤ教徒が正式にユダヤ教にもどることができたのです。しかし、ポルトガルのカトリック教会は、迷いはじめた小羊たちをまた自分の|懐《ふところ》のなかへ連れもどすのにやっきになったのです。そして、それから間もなく、ポルトガル以外の国々で、気違いじみた反ユダヤ主義が、世にも恐ろしい形で起こってきたことは、皆さんもすでに御存じでしょう。」
もう|暇《いとま》を告げなくてはならない時間だった。シナゴーグの正面で記念撮影をした後、友人と私は、ヴァスコ所長の歓迎と好意に心から感謝の言葉を述べた。そしてこれを最後にと握手をして別れようとした時、彼は「ちょっと待ってください」と言って、もう一度シナゴーグの扉を開け放った。
「鉱山技師サムエル・シュヴァルツは、ここで」とヴァスコ所長は、誰もいない内部を指しながら言った、「一九二三年五月五日に、シナゴーグの買い取りに関する講演をしたのです。全体的な崩壊と破壊から我々のシナゴーグを守るためです。そしてこの建物の修理と貴重な発掘品の展示のため最初に資金をだしたのも、シュヴァルツ氏本人でした。」
(画像省略) シュヴァルツのマラーノ発見の話は、たんなる宗教史上、民族史上のロマンチックな挿話をはるかに越えたものだったのだ。なぜなら、何百年も北ポルトガルの山間に隠れていたマラーノの話は、歴史的に何度も何度も繰り返されてきた、キリスト教徒の凄まじい破壊衝動の支配のなかでも生き残ってゆく人間の不思議な力と関連しているように思われるからである。
駅に向かう道すがら、私はもう一度マラーノの行方を確認しておきたかった。トマールのあの青い山々の彼方に連なるエストレーラ山脈が、隠れユダヤ教徒の里なのであった。そして、この山里にはとても隠れおおせないと思ったマラーノが、海の向こうのまだ見ぬ|遠国土《おんこくど》に向かったのである。
この地点から言えば、ロカ岬の突端に立つ石碑に刻まれた有名な言葉、「ここに地果て、海始まる」は、いささか意味を変えてくるのだ。つまり、ポルトガルの詩人カモンイスが詠んだこの詩の一節は、たんにヨーロッパ最西端の岬という地理的なロマンチシズムよりも、イベリア半島の地を追われ、危険な海に向かって出て行くほかなかったマラーノの運命を、|直截《ちよくせつ》に表しているように思われてくるのであった。
[#改ページ]
第九章[#「第九章」はゴシック体] |棘《いばら》族の|末裔《まつえい》スピノザ
[#ここから5字下げ]
「問題は、近代的な意味を生み出したマラーノ意識の強化である。」
[#ここから7字下げ]
(カール・ゲプハルト
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]『ウリエル・ダ・コスタ著作集』序文)
強化された後発者
オランダのアムステルダム・ユダヤ人社会の起源にまつわる話が、今日に伝えられている。それによれば、マヨル・ロドリゲス夫人というマラーノの女性が、一五九三年、家族とともに宗教裁判所の弾圧を逃れて、ポルトガルを船出し、途中英国の船員にとらえられてロンドンにやって来た。エリザベス女王の宮廷に仕える一貴族が、同夫人の、|類稀《たぐいまれ》な美貌の娘マリア・ヌネスに一目の恋におちいって、彼女に求婚した。|噂《うわさ》を聞いたエリザベス女王は、この娘を一度見たいと望み、会ってたちまち彼女の美しさに心を捕らえられた。女王は御車のなかに彼女を招き入れ、一緒にロンドン市内を馬車で巡り、彼女の乗ってきた船と乗員全員を釈放するよう命じた。しかし、|母娘《おやこ》は正式のユダヤ教徒にもどりたいというかねてからの希望断ち難く、折角の求婚も、親ユダヤ的な女王の申し出も一切謝絶し、英国での華やかさを後にしてアムステルダムに向かった。このユダヤ人亡命者が、ユダヤ教徒として公然と生活することのできる憧れの海港にたどり着いたのは、一五九七年のことであった(1)。
このエピソードによっても知られるように、ポルトガルのマラーノが誕生してからちょうど一〇〇年後に、最初のマラーノ難民が、家族単位でアムステルダムへやって来たのである。その際、大量移住は、スペインやポルトガルの官憲が目を光らせていたので、不可能であった。だが、それ以上に、大西洋の荒波を越え、まだ見ぬ|遠国土《おんこくど》へ向かう危険な船旅であることを考えれば、|船艙《せんそう》をいっぱいにすることは絶対に避けなくてはならなかった。したがって最初は、こうした難民の移住も散発的で、数も少なかった。だが、世紀を越えると、このルートを使ってのマラーノ難民の亡命は、しだいにその数を増やしていった。
そして、一七世紀初頭、この港町の一角には、ユダヤ人共同体と、その平和と統一の象徴であるシナゴーグ「ヤコブの家」が正式につくられ、その後こうした共同体がオランダ統一州にある他の主要都市にも急速にひろがっていった。アムステルダムのセファルディは、人口も六〇〇〇人ないし八〇〇〇人にふくれあがり、ドイツ系アシュケナージにくらべ、富や社会的地位において、問題にならないほどの優位をこの地で占めていた。だが、マラーノたちがやっと落ち着くことができた当時のユダヤ人街は、外界に対して油断なく閉ざされていたものの、内部は|他所《よそ》からの流浪民が絶えず流れ込んで来て、とかく混乱を引き起こしがちな、騒然とした世界であった。
一六三九年、よりによってこのようなユダヤ人社会の真ん中へ、妻とともに移り住んだ非ユダヤ系の画家がいた。レンブラント・ファン・レインである。彼の新しいアトリエは、すでに廃物と化した中世全体がそこにあるいわば|骨董品《こつとうひん》屋のなかに位置し、古代ガリラヤの街さながらの不可思議な雰囲気に取り囲まれることとなった。レンブラントの銅版画『シナゴーグ』(一六四八年)を見ただけでも、この画家がいかに足繁くシナゴーグに通い、同じ町内のユダヤ人と親しく交わっていたかが、うかがわれる。つまり、ここから、周りを取り巻く人物たちの姿、身振り、衣裳などを、旧約の世界に通じる異形のオブジェとして掘り起こすレンブラントの作業が、精力的に始まったのである。
(画像省略)
このような作業から生み出された作品のひとつに、『ユダヤ人の花嫁』(一六六七年)として知られる絵がある。それは、古典的誠実さに影響された画家たちがついぞ到達し得なかった、一種の精神的光芒を放つ、旧約時代の豊かな夫婦愛を描いた傑作である。さらにレンブラントは、エフライム・ブエノのような高名な医者や、メナセ・ベン・イスラエルのような作家、あるいはその他周囲の貧しいユダヤ人や富めるユダヤ人を描いて、アムステルダムの「ポルトガル人」とその生活ぶりをリアルに今日に伝えたのである。
アムステル河とツヴァンネンブルフ運河が交差する、現在のワーテルロー広場の周囲に、アムステルダムのユダヤ人街があった。この広場の南側に、セファルディ系シナゴーグの建物が立っている。これは、一六七一年から七五年にかけて、エリアス・ボウマンの設計によって建てられたもので、現在なお完全な形で残っている(2)。
(画像省略) その内部に足を踏みいれれば、まず堂々たるイオニア式の支柱が目につく。これらの支柱が木製の見事な半円筒ヴォールトの身廊を、側廊から分けているのである。この側廊にはまた、小さな支柱のうえに婦人用別席が設けられている。さらにシナゴーグの内部でとりわけ人目を引くのは、赤っぽい黒びかりのブラジル産の木でつくられた中央の壇「ビーマー」と、トーラーの巻物を収納する|聖櫃《せいひつ》「アロン・ハコデシュ」である。このシナゴーグが、今日存在するバロック時代のシナゴーグ建築のなかで最大級のものであることは言うまでもない。だが、この|絢爛《けんらん》豪華なシナゴーグは、その背後にひじょうに裕福なセファルディ系ユダヤ人の存在と、その連帯の強さを、したがってまた、個人の恣意的な言動を許さぬ正統派的厳格さをも同時にうかがわせるものであった。
自由な貿易都市アムステルダムは、一七世紀において、ユダヤ教学の一大中心地だったばかりでなく、主としてセファルディ系ユダヤ人による文学生活の独自の中心を形成していた。そうしたユダヤ系作家・思想家のなかで最も波乱に富んだ生涯を送ったのは、一五八五年オポルトのマラーノの家に生まれたウリエル・ダ・コスタである。
彼は家族とともに危険をおかしてポルトガルを脱出し、困難な船旅のすえアムステルダムに上陸した。信仰の自由を保証するこの町に着いてすぐ彼は、自分の祖先とは関係のないアシュケナージ系シナゴーグでユダヤ教に入信したが、やがてその|旧套墨守《きゆうとうぼくしゆ》ぶりと保守的傾向の強いユダヤ人集団に幻滅をいだくようになった。そこでダ・コスタは、『反伝統論』を執筆し、ユダヤ教の儀礼や律法に関する疑問点を数々列挙して現実のユダヤ教を批判したが、そうした挑戦的な態度のゆえに、一六一八年、第一回目の破門を宣告された。しかし、これによって態度が改まらなかったどころか、ついには魂の不死性を非難攻撃するなど、彼の主張はいっそうラジカルになっていった。
ここからその論敵として登場してくるのが、サムエル・ダ・シルヴァであった。彼はダ・コスタと同じオポルトに生まれ、アムステルダムで医者になり、晩年はハンブルクに行くという典型的なマラーノの道を歩んだ人物である。それが、マラーノの世俗性を徹底的に弁護する、かつての友人ウリエル・ダ・コスタの敵に回って、いまや彼を公然と「エピクロスの弟子」という言葉で非難するようになった。ちなみに、この「エピクロスの弟子」というのは、古代ギリシアの原子論者とは関係なく、儀礼や戒律を嘲笑するだけにとどまらず、神を悪しざまに|罵《ののし》り、安息日に大騒ぎをするといった、柄のよくない人間を指していたらしい(3)。
ユダヤ人共同体からは異端者として排撃され、かつての友人からは名指しで「無知|蒙昧《もうまい》の|輩《やから》」と罵倒されても、そのひとつひとつにつねに反撃して活発な言論活動をつづけたウリエル・ダ・コスタにも、シナゴーグから第二回目の破門を言いわたされた時、不意に失墜の時が訪れる。その後のダ・コスタは、新たに論争を挑む気力ももはやなく、四面楚歌の声を聞きながら、孤独で貧しい生活との戦いを七年間もつづける。そして、破門を解いてもらうために、彼はついにシナゴーグ共同体に屈服し、大きな辱めを伴う奇妙な儀礼を受ける決心をした。その儀礼とは、シナゴーグの隅で裸になって横たわり、手を柱に縛りつけられてから、脇腹を皮の鞭で三九回ぶたれ、あまつさえシナゴーグ会衆のひとりひとりに|脚《あし》を踏まれるという残酷なお仕置きであった。一六四〇年四月のことである(4)。
こうして破門を解かれて家に帰ることを許されたこの五〇代半ばの男は、いまや生きる希望をすべて失い、暗く貧しい一室で、ピストル自殺を遂げたのである。同じ町内で起こったダ・コスタ事件の光景は、この時七歳だった少年スピノザのひときわ黒い目にも映っていたはずである。
(画像省略)
それから一〇年経った一六五〇年三月のことである。レンブラントとも親しい、当代の名医にして自由思想家のヨハンネス・ファン・ローンの友人ジャン・ルイは、ある日の夕方、高名な律法学者メナセ・ベン・イスラエルをヨーデンブレー通りの家に訪ねた。行ってみれば、彼は数人の客にメシアの再来について熱弁をふるっているところだった。長い間待ち受けていたメシアの再来に備えようとの信念を実現するために、メナセ・ベン・イスラエルは、ユダヤ教徒の英国追放(一二九〇年)以来居住を認められていなかった英国へ、ユダヤ人を移住させようという計画に夢中になっていた。「正義の人クロムウェル」が、ユダヤ人とキリスト教徒との共存の可能性をはっきり示唆しているからというのである。
(画像省略)
ちょうどその時だった。ひときわ目の黒い、一六歳か一七歳の少年が声を張り上げ、かなり冷淡な調子でこう言ったのである。「クロムウェルは、我々が民族としてもっていると思われる一種の商業上の能力を、それとなく感嘆しているかもしれないということを、先生はお考えになったことがありますか。」
すると師は、突然教え子をひどく叱りはじめた。「バルーフ、お前は第二のダ・コスタになって、お前自身の民族に背こうとするのか。お前は私に面と向かって、この高潔な英国人がただ黄金に対する卑しい欲望に動かされているに過ぎない、と言いたいのか。お前の顔なんか見たくない。」
しかし、バルーフというこの若者は、表情ひとつ変えずに、静かにこう答えるのだった。「いいえ先生、ぼくは気の毒なウリエルの後を追うつもりは少しもありません。ぼくは自殺を、この世界の整然とした秩序に対する犯罪と考えます。ぼくも先生と同じようにクロムウェル将軍を賞讃します。……数千のユダヤ人の商店がアムステルダムからロンドンへ移っても、目下のところ困ることはないでしょう。ぼくもクロムウェル閣下の帽子を飾る羽根にでもなりたいと思います。(5)」
その時、ジャン・ルイは少年の言葉をさえぎって、「あんな善良な清教徒が、羽根飾りをつけるような卑しいことをするとは思わない」と言った。すると少年は、ちらっとジャン・ルイに目を向けて、こう続けるのだった。「ぼくの言った彼の帽子というのは、ひとつの比喩なのです。この家ではいつも、先生がぼくたちの言うことを認めてくださらない時には、比喩を使って話をします。」
当代の名士たちを翻弄して平然としている、このひときわ目の黒い怪童こそ、バルーフ・デ・スピノザであった。
一六〇四年ポルトガルに生まれたメナセ・ベン・イスラエルは、子供の頃両親とともに、異端審問の拷問を逃れてアムステルダムにやって来たマラーノだった。若くしてラビになった彼は、メシア到来とイスラエルの苦難からの解放を待ち望む、熱心なルリア派カバラ主義者であった。メナセは、キリストの再臨と千年王国を期待する英国清教徒と、メシア到来を熱望するアムステルダムのカバラ的社会を|繋《つな》ぐ人物として、宗教史の一段階に特異な位置を占めている。
メシア到来を最終目標とした、このようなメナセ・ベン・イスラエルのマラーノ意識の根底には、追放生活とはシナゴーグ共同体の平和と統一によって営まれるべきものであり、さらに非ユダヤ系社会との経済的・政治的協調による前進的な過程である、という独自の考え方があった。若き後発者スピノザは、その自在な比喩によって、先行者たる師を批判し、ユダヤ的な伝統と政治的な野心の仮面を剥ぎ、これを脱理想化してしまうのである。その意味でスピノザは、ユダヤ教への反逆者ウリエル・ダ・コスタに近いと言える。世界の意味を神のなかにではなく、世界そのもののなかに見出そうとする志向において、したがってまた同胞からさえ嫌疑と迫害を受けざるを得ないその異端思想において、ダ・コスタとスピノザの強いマラーノ意識は、すでに近代的な知性の領域に向かって脱皮しようとしていた。
だが、追放生活の帰結を自殺にもとめたウリエル・ダ・コスタを否定したスピノザは、それではどのようにして彼自身のマラーノ意識を強化して、純粋な知の領域へ抜け出すことができたであろうか。
レンズ
一六五一年のある日のこと、七年間滞在していたかつてのニューヨーク、ニューアムステルダムからようやく帰って来た医師ファン・ローンは、友人ジャン・ルイとともにメナセ・ベン・イスラエルを訪ねた。この時、メナセは、ユダヤ教徒社会の責任者としての立場から、ユダヤ人共同体のなかから高まってきた多くの苦難についてふたりに語った。その苦難とは、主としてセファルディとアシュケナージの宗教上の紛争、それを背景にしてのダ・コスタ事件、そうした事態への市当局の警告などであった。彼の努力でそれまで事なきを得ていたユダヤ人社会は、しばらく和解の時代がつづいていたが、今また新しい困難が持ち上がろうとしている、というのであった。しかも、それはまったくスピノザのせいだというのである。
彼はこうつづける。「ところがこの若いバルーフは、ひじょうに好ましい青年で、おまけに咲きたてのデージーのように輝いています。私は平和を守るためにできるだけのことをしました。今までのところはうまく行きました。しかし、私の同僚がスピノザの|喉《のど》に飛びつくのを、もはや私にはとめられない日がやってくるでしょう。(6)」
それから四年後の一六五五年に、メナセ・ベン・イスラエルは、ユダヤ教徒の英国居住の可能性を探るようクロムウェルの招待を受け、ロンドンに向かって出発した。その一年後にアムステルダムのユダヤ人街に起こったことは、レンブラント描くところの律法師メナセ・ベン・イスラエルの、あの|朦朧《もうろう》とした穏やかな目が事態を正確に見ぬいていたことを、後から立証してゆくことになったのである。
オランダ一七世紀哲学史のなかでただひとり世界的名声を博したバルーフ・デ・スピノザは、一六三二年一一月二四日、アムステルダムのユダヤ人街に、ポルトガル・マラーノの出である父ミカエルの長男として生まれた。バルーフは一六三七年に設立された生命樹学院に入り、ついで一六四四年、彼の師でもあったサウル・レヴィ・モルテイラの設立になる律法学院に入学した。こうして彼は、徹底したヘブライ語教育を受けると同時に、聖書のみならず、タルムードやユダヤ教神秘主義「カバラ」などの知識を深め、学校を出てからは家業を手伝うかたわら、独力で旧約聖書の注釈家やユダヤ中世の哲学者について学んでいった。その頃、つまりファン・ローンがアメリカから帰って来た一六五〇年頃、「咲きたてのデージー」は、ユダヤ人共同体にとっては「鋭い|棘《いばら》」にほかならない|薔薇《ばら》に変身していたのである。
メナセ・ベン・イスラエルが青年スピノザのうちに正確に見ぬいていたのは、彼の、新しい知性に「|魅惑《バネン》」される傾向と、既成の枠組みにはおさまらない彼を「|追放《バネン》」しようとする共同体の「正統」意識との、ふたつの力だった。この≪bannen≫というドイツ語の動詞は、「呪縛する」「魅惑する」「破門する」「追放する」といったある強い力の出現を表している。「呪縛」「魅了」という求心的作用と、「破門」「追放」という排斥的作用が、スピノザという個人のうちに、と同時に彼をめぐって起こった時、宗教的なふたつ裂きを背負ったマラーノの意識は歴史のなかではじめて近代的な意味をおびてくるのである。
スピノザは二〇歳にもならぬ頃から、魂や自然、人間の自由や神の律法などについて省察していた一一世紀スペインのユダヤ系神秘思想家イブン・ガビロールなどの影響を受けながら、同時代の哲学者ルネ・デカルトに「魅惑」されていた。つまり、精神世界と物質世界を鋭く分離したデカルト哲学が、懐疑にはじまり無神論に終わるとしてオランダの大学での教授が禁止されていった時代に、スピノザはデカルトの新しい光輝ある哲学に「魅惑」されていたのである。
他方その頃、この「魅惑された」者を「追放しようとする」側の社会的な、あるいは精神的な状況はどのようであったろうか。一六世紀から一七世紀にかけてのアムステルダムは、世界貿易の交点として、西ヨーロッパ最大の豊かで活発な都市に発展していた。その自由な政治形態、世界規模の海運業やダイヤモンド貿易の隆盛、商業・金融業の繁栄がもたらした金の呪縛のなかで、亡命マラーノたちはすでにある決定的なものを見失っていた。それはすなわち、精神の解放をめぐる内的闘争である。アムステルダムのマラーノはもっぱら商売と経済上の出世だけを志向していたので、内的・精神的な闘争はマラーノの傍らをなんの痕跡も残さずに通り過ぎて行ったのである。
拝金主義に走っているユダヤ人共同体にも、権威主義に堕したシナゴーグにも、もはやまったく魅力を感じなくなっていたスピノザが、新しいデカルトの哲学やコレギアント派の自由に心を惹かれていったのは、けだし当然の成り行きであった。しかし、この若きタルムード学者が自由に振舞い、自由に発言すればするほど、メナセ・ベン・イスラエルが恐れていたように、共同体のユダヤ人がスピノザの喉元に飛びついてゆくのは、もう時間の問題だった。
そんな状態のなかで、ユダヤ人社会全体をひとりで敵に回そうとするかのように、じつはスピノザ自身が破門を招き寄せたふしがある。何度か警告を繰り返した後、スピノザを破門で脅かしはじめた律法師サウル・レヴィ・モルテイラに、彼はいかにも感謝の意を表するといった口調で、「私にヘブライ語をお教えくださった先生のお骨折りに報いるため、先生に破門の方法をお教えしましょう」と言ったという(7)。
スピノザのこうした言葉に激怒した律法学者たちは、それ以外にはもう方法がないかのように、彼を「小破門」からしだいに「大破門」へと追いこんでゆく。そして、ついに一六五六年七月二七日、アムステルダムのセファルディ系ユダヤ人は、二三歳の青年スピノザを、自分たちの共同体から永久追放するために、彼らのシナゴーグへ集まって来た。そのシナゴーグは、隠れユダヤ教徒迫害の嵐が吹き荒れていたイベリア半島から、この寛容な商業都市に亡命して来た最初の難民たちの、平和と統一の象徴として一七世紀初頭に完成されたあの「ヤコブの家」である。そこで、主の怒りがあたかも天からくだされたかのような声を張り上げ、律法師イサク・デ・フォンセカ・アボアヴは、破門の|呪詛《じゆそ》の言葉を読み上げた。
「……律法に記されたあらゆる呪いをもって、我々はバルーフ・デ・スピノザを破門し、追放し、処罰せん。彼は昼も夜も呪われてあれ。寝ている時もまた起きている時も呪われてあれ。外に出る時も家に入る時も呪われてあれ。主は断じて彼を赦したまわざらんことを。(8)」
この日スピノザは、シナゴーグに行かなかったので、中世以来の形式にしたがった大破門の判決を直接聞いたわけではなかった。だが、この破門によってスピノザは、彼がそれまで所属していた社会構造から、宗教的・文化的な枠組みはもちろん、経済的・日常的な人間関係のあらゆる枠組みから、永久に分離させられたのである。
このようにユダヤ教から離脱して、「バルーフ」というヘブライ語の名前をラテン語の「ベネディークトゥス」という名前に変更したスピノザには、もはやユダヤ人の知人も親族も肉親もなく、父親の遺産の相続権さえなかった。彼に残されたものといえば、わずかにベッドとカーテンだけだった。
つまり、ここまで自分を追いつめたスピノザのマラーノ意識の根底には、追放を徹底的に離脱・|籠居《ろうきよ》・収縮としてとらえようとする思考が働いていたのであった。このような「無」の状態において、ウリエル・ダ・コスタに残された唯一の道は、ピストル自殺だった。しかし、自殺を「この世界の整然とした秩序に対する犯罪」として否定するスピノザには、どのような道がひらけてくるのであろうか。
破門からおよそ一カ月が過ぎた、一六五六年八月も最後の週のある夕方のことだった。見渡す限りの青空に白熱の太陽がいつまでも輝く頃であった。ハウトフラフト通りの自宅の玄関に腰をおろし、人の心を誘う夕方の長くつづく薄明りのなかで、医師ファン・ローンは息子ととりとめのない話をしていた。その時、彼は突然スピノザの訪問を受けたのである。明らかに戸惑いを隠せぬスピノザは、屋根裏部屋で何かのはずみに負った右肩の傷を診て欲しい、というのであった。そんな苦しい嘘の言い訳をした後で、彼は暴漢に短刀で刺されたことを素直に白状した。ファン・ローンが診察室に連れて行って、短刀には毒が塗られていたかもしれないと怯えているスピノザの外套をぬがせ、シャツをひろげてみると、右肩の皮膚がちょっと擦り切れているだけで、血は出ていなかった。それでも大事をとって、医者は傷口を焼き金で焼いてから包帯をしてやった。そして、スピノザに上着を着せてやると、彼は右肩の部分が裂けている外套を拾い上げた。
「私はこの外套を、我が民族の記念としてとっておくつもりです。」こう言ったかと思うと、「ぶりかえしがはじまり、彼は顔色も青ざめ、かすかに震えだした」と、ファン・ローンは記している(9)。つい数十年前まで異端審問所の追っ手の影に怯えていたはずのマラーノが、この平和な異邦の避難所で、しかも違った意見をもっているというだけで、マラーノ同胞を計画的に襲ったのだ。
ひとまず身の安全をはかるために、スピノザは船で故郷の町を去って行った。この時、医師ファン・ローンとその他数人の護衛兵が、帽子を振り、心から万歳を叫んで、彼を見送った。それが、あの限りなく慎み深い青年の、新たな自由への出発であった。
その後の二〇年にわたる亡命の旅から、ひとりの人間の比類なく清廉な人生と不朽の思考が輝きだしてくるだろう。そしてこの時すでに、明哲なスピノザの眼は、破門と追放こそが哲学者として聖別されるための方法序説になることを、読み取っていたにちがいない。だから彼は、当面働くことと、愉快に暮らすことと、哲学を研究することを望んでいます、と医師ファン・ローンに語ったのである。こうしたスピノザの破門と追放の回想を、自由思想家ファン・ローンはつぎのような簡潔な言葉でしめくくっている。
「奇妙な信条ではあるが、しかし、決して悪くなかった。(10)」
市の南方一〇キロのところにあるアウデルケルクは、死んだマラーノが、ヨーデンブレー通りからアムステルダムの堤を下って運ばれてゆく、最も古い墓地のある町である。スピノザの実母も姉も、継母も異母弟も、そして彼の父親もアウデルケルクに運ばれ、そこのポルトガル系ユダヤ人墓地に葬られていた。マラーノ共同体から追放されながら、しかしマラーノの末裔として生きるしかないスピノザは、このアウデルケルクへの道をたどりながら、昔のユダヤ人教師の掟と忠告をまだ十分に心得ていたのである。
(画像省略)
『スピノザの生涯』の著者コレルスは、手仕事ということについて、タルムードのミシュナーの一書ピルケ・アヴォトからつぎのような言葉を引いている。
「律法の研究はそれにある技術が伴う時は美しい。ふたつに精励することは罪を忘れさせる……(11)」
スピノザはこのタルムードの教えに従うというよりも、これを自分の新しい生活のなかへ取りこもうと、かねてから考えていたように思われるのだ。とすれば、スピノザの技術習得は、コレルスの主張するような自活のためというよりは、むしろ哲学研究への、いっそうの精励のためであったにちがいない。律法ではないにしても、哲学という新しい知見の研究のためにこそ、スピノザは眼鏡、顕微鏡、そして望遠鏡用の光学レンズの研磨の手仕事を習いはじめたのである。
したがって、この手仕事には、ただ生活の糧を得るために、微小な粉末に悩まされながら、ダイヤモンド工具で少しずつ粗削りする研磨職人の暗いイメージはない。それどころか、哲学者デカルトや、当時のオランダ随一の自然科学者クリスチャン・ホイヘンス、あるいはアムステルダムの学者市長フッデと同様、彼はこの面でも生来の器用さと物理学・数学の並々ならぬ知識によって、「すぐれた光学者(12)」と称されるまでになったのである。
こうして、より確実な悪を「唯一の真正な善との合一」のために捨て去ろうとした者の哲学的思考に、|啓蒙《ひかり》という新しい知の結晶ともいうべきレンズが、存在を主張しはじめるのである。それは、肉眼では見えなかった微小な異界を拡大明示するとともに、宇宙の夜に|瞬《またた》く神秘な異界の姿を視界のなかにはっきり映し出す道具として、すでに中世の暗黒を突き破って、近代の|啓蒙《ひかり》に最長のレールを敷くものではなかったろうか。
こうして、スペインにマラーノが発生してから二六五年を経てはじめて、しかもマラーノ自身によるマラーノ破門を契機に、マラーノの最も透明な知性の輝きが、いまだ暗く混沌としたヨーロッパの地平をも照らすことになったのである。そして、この知性の輝きを近代啓蒙の意識というなら、この意識を生み出したマラーノ意識は、メナセ・ベン・イスラエルのすぐれた後発者スピノザにおいて、比類のない強度を獲得したのである。
薔薇の印章
スピノザが商人から哲学者へ歩み出した一六五〇年代前半は、暗い宗教戦争がようやく終結を迎え、薔薇十字の啓蒙運動が新しい発展を模索していた時代であった。破門後のスピノザには、そうした薔薇十字運動を推進しようとする人々との新しい交友関係がはじまる。自由を求めるその「知」の動きと、スピノザがいかなるかかわりをもっていたのだろうか。
薔薇十字運動というのは、ワールブルク派の女流歴史家フランセス・イエイツによれば(13)、一七世紀初頭のドイツに起こった「世界全体の全面的な改革の夢」にほかならなかった。この夢は、プファルツ選帝侯フリードリヒ五世と、英国のジェームズ一世の娘エリザベス・スチュアートの、ハイデルベルク宮殿で行なわれた|華燭《かしよく》の典(一六一三年二月)に端を発する。フリードリヒ五世に代表される反カトリックのプファルツ王国と、強力な反カトリック国である英国を結びつけるこの婚姻には、教皇庁ローマと神聖ローマ帝国ウィーンのカトリック支配から脱し、政治的独立と宗教的自由とを享受する新しい友愛の世界建設の夢が託されていた。
一六一九年から一六二〇年の冬にかけて、国王フリードリヒと王妃エリザベスは、プラハの故ルドルフ二世の宮殿に君臨した。だが、それもつかの間、カトリック連合軍の猛烈な攻撃に遭ったフリードリヒの軍勢は、頼りにしていたジェームズ一世の支援もないまま、プラハ近郊の白山の戦いで決定的な敗北を喫したのであった。こうして、プファルツと
ボヘミア両国の支配権を同時に失ったフリードリヒとエリザベスは、「ボヘミアの冬の国王・冬の王妃」と|綽名《あだな》され、尾羽打ち枯らして、オランダのハーグへ亡命して行く。
こうして新旧の争いが端緒を開いた三〇年戦争のはじまりとともに、薔薇十字運動の夢は、とつぜんの終焉を見るにいたり、こうしてローマ=ウィーン体制の確立に道を譲らざるを得なかったのである。
薔薇十字宣言が出はじめ、それが巻き起こした騒動の時代は、魔女狩りと戦争の激動へと突入し、やがて啓蒙主義に向かって脱皮してゆく恐怖時代にあたっていた。学問の進歩をもとめる人々の頭上には、それを敵視する恐るべき魔女ヒステリーの暗雲が垂れこめていた。こうした状況のなかで、しかし薔薇十字運動は完全に息の根を止められたわけではなかった。オックスフォードの科学者を中心に、危険な魔術との烙印を押されかねない数学から慎重に身を引き離しながら、『学問の進歩』(一六二〇年)のフランシス・ベーコンを師とする薔薇十字思想再興の運動が進められていた。こうして、一六六〇年ロンドンに、チャールズ二世を後ろ楯にして、「|英国学士院《ロイヤル・ソサエテイ》」が創設されたのである。
話は少し遡るが、一六四四年、オランダの大学町ライデンから西方へ海に通じる街道すじの小さな村エンデヘーストにやって来て、ここに居をさだめたフランスの哲学者がいた。ルネ・デカルトである。彼は、一六一九年、折しも世の人々を興奮の|坩堝《るつぼ》におとしいれた薔薇十字団のニュースに接して、好奇心に駆られ、オランダからドイツへ、さらにボヘミアへ旅をしたほどの自由思想家であった。しかし、このきわめて薔薇十字色の濃い旅から帰ったパリで、危うく薔薇十字団員の疑いをかけられそうになったデカルトは、平穏無事な、人目を避けた生活を送るため、再びオランダへ逃れ、それから十数年後にエンデヘーストにやって来たのであった。そして、この地からデカルトは、ハーグで亡命生活を送っていた彼の熱烈な愛読者プファルツ侯女エリザベスに、新著『哲学原理』を献上する。
それから五年後の一六四九年に三〇年戦争がようやく終結し、ボヘミアの「冬の国王」フリードリヒ五世の長男カール・ルートヴィヒが、プファルツ王国に復権を果たす。プファルツへ移住してはどうかという侯女エリザベスの提案を断ったデカルトは、哲学の講義のためスウェーデンに向かい、一六五〇年二月その地で客死した。こうしたデカルトの生の歩みをたどってみれば、この哲学者が、薔薇十字運動とその中心舞台であるプファルツといかに密接に結ばれていたかが分かる(14)。
ところで、ユダヤ人共同体から離脱した後のスピノザが目指したのは、国家と宗教にとって最も危険な人物であるデカルトと、その叙述のまぶしいほどの明晰さであった。だからこそスピノザは、アウデルケルクを去った後、デカルトが薔薇十字運動揺籃の地プファルツを指呼の間にのぞみながら『哲学原理』を書いたあのエンデヘーストに近いレインスブルフに、居を構えたにちがいないのだ。あたかもそれを自ら証明するかのように、自分のフルネームで出版したスピノザ唯一の著作『デカルトの哲学原理』は、このレインスブルフで出来上がるのである。
一六六一年、当時まだ無名の哲学者スピノザを隠棲の地に訪ねた旅人がいた。名をハインリヒ・オルデンブルクというこのブレーメン出身の男は、ドイツおよびオランダを旅してライデンへ赴いた際、近くに住むスピノザの寓居に立ち寄ったのである。この四〇男が、じつは、不可視の薔薇十字運動のひそかな発展形態とされる「|英国学士院《ロイヤル・ソサエテイ》」の初代書記官だった(15)。
それにしても、なぜオルデンブルクはスピノザを知っていたのか。この点についてはさだかではないが、あるいは一六五五年以後、ユダヤ人の英国居住権獲得のためクロムウェルとの折衝にあたっていた、スピノザの師メナセ・ベン・イスラエルの紹介によるものだったかもしれない(16)。いずれにしても、カルヴァン派の異端コレギアント派の集結するこのレインスブルフでの、新しい学問をめぐる議論において、スピノザのマラーノ意識は、近代的意識に生まれ変わってゆく決定的な機縁を見出すのである。
この時、スピノザは明らかに|英国学士院《ロイヤル・ソサエテイ》とその書記官に魅せられ、いつもの控え目な態度も忘れて、自分の汎神論的な神やその属性、精神と身体との関係、そしてとくに薔薇十字思想に深いかかわりをもつデカルトとベーコンの哲学について、|忌憚《きたん》のない考えを述べた。オルデンブルクのほうも、人好きのする率直なスピノザに好感をいだき、二、三の往復書簡の後で早くも、あの「目に見えない学院」で自然科学を学んだという化学者ボイルとスピノザとの、硝石再生の実験に関する論争を仲介している。なぜオルデンブルクがこうした問題に話題を限定したかといえば、魔女裁判がまだ完全に過去の遺物ではなかった時代に、宗教問題よりも、ただ科学上の無難な問題を扱うほうが、異端審問の目をかわすための賢明な予防策だったという事情があったのだろう。いずれにしても、今や「最もすぐれた友よ」とつぎのように語りかけてくるオルデンブルクの手紙に、スピノザは、新たな薔薇十字啓蒙運動の虹を見たにちがいないのだ。
「あまりにも長い間世の人々は、無知と蒙昧に犠牲をささげてきました。我々は真の科学の帆を張り、そして自然の秘密のなかへ今までよりもいっそう深く入ってゆきましょう。(17)」
さらにレインスブルフ時代のスピノザの新しい友人のなかでとくに興味深いのは、アムステルダムの医師ヨハネス・バウメーステルである。彼はスピノザの熱心な崇拝者であり、『デカルトの哲学原理』の刊行に献辞を寄せた自由思想家であった。ある時、二、三度隔日熱に苦しんだスピノザは、この友人に「紅薔薇の砂糖漬け」を|強請《ねだ》ったことがある(18)。この「紅薔薇の砂糖漬け」は、当時肺のカタル症状によく効くとされていたのである。コレルスが『スピノザの生涯』のなかで、スピノザは「二〇年間も肺を病んでいた」と述べているように、破門から間もない一六五七年頃にはすでに肺結核の症状が現れていたらしい。したがって、父親に代表される金と名誉と性的快楽の外的世界を去って、ひとり内省と孤独、質素と性的節制の世界に向かった時、スピノザは、肺結核で若死にした実母ハンナ・デボーラの世界に入って行ったとも言える。
このようなスピノザにとって、「血のような深紅」を意味する紅薔薇は、肺結核という死の十字架に対立する生命力の根源的な象徴であった。だが、「紅薔薇の砂糖漬け」の奇妙な処方について書いた、彼の友人で医師のアドリアン・クールバッハの著書『花園』(一六八八年)は、徹底してスピノザ主義を代弁する外来語辞典といった性格のものだったから、この「紅薔薇」にしてからがすでに異端の匂いを強く放っていたのである。
異端思想家としてユダヤ人共同体から破門された身であってみれば、新しい学問の旗手たちとの論争や文通の開始を、スピノザはかならずしも手放しで喜んではおられなかった。マラーノがピレネーの向こうで激しい迫害を受けていた時代に、こちら側の国でも苛酷な思想弾圧があったことを、彼は知っていたからである。大衆あるいは教権には理解できない理想を体現している人々は、進歩的な理想主義者の真偽をふるいわける理性の力をもたない権力者の迫害に直面しなくてはならなかった。サヴォナローラはフィレンツェの広場で火刑に処せられ、ガリレオは宗教裁判所の前に|跪《ひざまず》いて地動説を破棄させられた。汎神論者ジョルダーノ・ブルーノは、異端審問所によりローマの花の広場で火刑に処せられ、フランシス・ベーコンはヴェルラム男爵という世を忍ぶ仮の姿に身を隠して、迫害を逃れなくてはならなかった。またルネ・デカルトは不可視の薔薇十字団員であるとの|噂《うわさ》に身の危険を感じないわけにはゆかなかったし、その哲学は大学で講義することを禁じられた。
こうした自由思想家への弾圧の波は、ついにスピノザの知友範囲にもおよぶようになった。つまり、|英国学士院《ロイヤル・ソサエテイ》書記官オルデンブルクが、外国との秘密通信の嫌疑をかけられて逮捕され、ロンドン塔に幽閉されたのだった(19)。スピノザをレインスブルフに訪ね、書簡の往復をはじめてから六年後の、一六六七年のことである。多くの者には、学問の進歩、とりわけ「哲学する」ということ自体が、天使のような希望に満ちあふれたものではなく、むしろ悪魔のような危険にあふれたものに見えていた。ハーグ時代のスピノザの弟子であった「自由思想家にして薔薇十字団員(20)」のルカスも言うように、異端の哲学者スピノザについて、あるいは彼の肩をもって書こうと思う時には、「犯罪でも行なうかのように、注意深く身を隠し、慎重な態度をとらなくてはならぬ(21)」時代であった。このような時代状況において、|棘《いばら》族の|裔《すえ》スピノザは、学問の進歩を奉ずる友人たちにどのような声を発していたのだろうか。
≪Caute !≫(「用心せよ!」)これが、哲学者スピノザの発した声である。したがって、新しい学問の推進者のひとりが目の前に現れて以来、スピノザは彼のイニシャルであるB・D・Sと≪Caute≫を結ぶ不可視の十字のうえに、鋭い棘のある薔薇のエンブレムを、自分の手紙を結ぶ印章として用いるのである(22)。
(画像省略)
ちなみに、スピノザ一族の遙かな先祖は、その名からして分かるように、多分カンタブリ
ア山脈の麓にある北スペインの町、エスピノザ・デ・レス・モンテロス(Espinosa de res Monteros)の出身である。Espinosa とは棘の地・棘の町の謂であって、「棘の(espina)」にあたる d' Espinosa は、だからまず棘町の住人ということだろう(23)。そして、右の「用心せよ!」という警告は、スペインからポルトガルへ、さらにはアムステルダムへと移住して来たマラーノたちの、異端審問や、どこで目を光らせているかもしれない密告者に対する、警戒の声のように聞こえる。だが、それ以上のものがここに含まれていないか。
薔薇と≪Caute≫これは、薔薇十字啓蒙運動と学問の進歩に向かってつねに襲いかかろうとする、魔女狩り熱に対するスピノザの警戒をしめすものではなかったか、というのが私をとらえてはなさない|蠱惑《こわく》的な歴史幻想である。
精神と自然との合一という心理探究の努力に自分の生を合わせようとしたスピノザの解放の哲学は、必然的に恐怖と服従という中世的な関係からの自由をふくんでいた。したがってスピノザが、ヘルメス的・カバラ的な神秘主義の伝統のうえに学問の進歩と自由をもとめる薔薇十字運動に、ある種の興味をそそられていたであろうことは、十分に考えられる。さらに、この啓蒙運動の重要な側面、あらゆる宗派を越えた学問と霊知の友愛団という理念が、ユダヤのノマドたるスピノザの心をとらえていたにちがいない。そうしたなかで一六六五年、スピノザが『神学・政治論』と取り組んだ時、自由思想に基づく彼の言説が、とりわけカルヴァン派や保守的な神学者たちを敵に回すことになるのは、火を見るよりも明らかであった。
そんな折も折、スピノザが「用心せよ!」の警告を送っていた友人のひとり、医師アドリアン・クールバッハが、あの肺結核の霊薬「紅薔薇の砂糖漬け」について解説した異端の書『花園』を、大胆にもオランダ語で出版し、正統派の憤激を買ってアムステルダムを去った。ことはしかし、それだけではすまなかった。この自由思想家が、これまたスピノザ色の強い書物『闇を照らす光』を刊行して告訴され、有罪の判決を受けて一六六九年に獄死した時(24)、スピノザは≪Caute !≫の警告をいよいよわが身へ真剣に向けざるを得なくなった。こうして彼は、『神学・政治論』を匿名で、しかも発行所をハンブルクに変えて出版したのであった。その際、住所をフォールブルフから、保護者ヤン・デ・ウィットのいるハーグに移すほど、用心深い措置をとってはいた。
一七世紀前半のハーグでは、ひとりの画家が薔薇十字団員として拷問・投獄され、英国のチャールズ一世の介入により釈放されたが、一七世紀後半のハーグの宗教的・政治的状況はもっと危険な雰囲気をはらんでいた。そうしたハーグへ、一六七〇年のスピノザは引きつけられるように転居して行った。それに呼応するようにして、『神学・政治論』第一版が刊行される。そして、これに対する反撃の|狼煙《のろし》が、まずドイツのいく人かの神学者によってあげられ、間もなく本国オランダにおいても問題となって、たちまち|轟々《ごうごう》たる論難の嵐が巻き起こってきた。だが、それにもかかわらず、ヤン・デ・ウィットが国家権力を掌握している間、思想弾圧の波が「有害な書物」の著者にまでおよぶことはなかった。事態は緊迫していたが、カルヴァン派と議会派の均衡状態は、ずっとそのまま持続してゆきそうに思われた。
その均衡を破ったのは、一二万の兵を擁したフランス軍のオランダ侵攻であった。それによって、オラニエ派およびカルヴァン派の僧侶たちに|使嗾《しそう》された民衆の間から、それまで軍備にあまり力を入れてこなかったウィットに対する批判が一挙に高まってきた。その時、スピノザが見たものは、誰もまだ民衆のなかに見たことのない恐るべき憎悪の爆発だった。一六七二年八月二〇日、ヤン・デ・ウィットは、オラニエ公殺害陰謀の|廉《かど》でハーグの牢獄につながれていた兄コルネリスを訪ね、聖書を読んで聞かせていた。その時、突然民衆が侵入して来て、ふたりを路上にひきずり出し、野獣でも殺すように虐殺したのだった。人間というものが何をなしうるかを他の誰よりも知っていたスピノザは、この醜悪で残酷な光景を眺めて|戦慄《せんりつ》しないわけにはゆかなかった。
ゲーテが、彼自身の思索全体を満たすほどの「限りなく無私の精神(25)」を見出した書物『エチカ』は、じつはスピノザ自身への絶え間ない迫害や中傷と、こうした新しい群衆の狂気というデモーニッシュなものを背景に書き進められたものだった。かつて外科医ファン・ローンに言ったように、手仕事をすること、愉快に暮らすこと、そして哲学することをひたすら望んでいたスピノザは、間もなく事件の衝撃から立ち直って、レンズ磨きと主著に向かったのである。
一六七五年の半ばにスピノザは、完成した『エチカ』を出版するため、久しぶりに故郷の町アムステルダムへ帰ったが、『神学・政治論』の異端著者に対する悪意に満ちた噂のため、ここでも出版計画を断念しなくてはならなかった。アムステルダム滞在ちゅうの八月二日、新築成ったポルトガル系シナゴーグの落成式が盛大に執り行なわれていた(26)。おそらくスピノザは、マラーノの末裔としての深い感慨をもって、遠くからその祝賀の模様を眺めていたことだろう。この時、|畢生《ひつせい》の作品を完成していた「|祝福された者《バルーフ》」スピノザと、バロック最大のシナゴーグの完成を|寿《ことほ》ぐマラーノたちとの距離は、明らかに、このユダヤ人集団が破門追放した真理研究者と、彼らが「歌い踊りながら」シナゴーグへ出かけては熱狂と陶酔のうちに尊崇した、一六六六年の「|救世主《メシア》」サバタイ・ツヴィとの距離だった。
当時|燎原《りようげん》の火のようにヨーロッパの離散ユダヤ人の間にひろがったメシア出現の情報を最初にスピノザにもたらしたのは、|英国学士院《ロイヤル・ソサエテイ》の書記官オルデンブルクだった。一六六五年一二月八日付のスピノザ宛書簡でこの噂を取り上げた彼は、つぎのように書いている。
「アムステルダムのユダヤ人たちがこのことについてどんなことを聞いているのか、また彼らがこの重大ニュースをどんなふうに受け取っているのか、私は知りたくてたまりません。これがもし本当なら、世界の大きな激変をもたらすのは間違いないでしょうから。」
清教主義の中心にして、しかも科学の仮面の下に薔薇十字啓蒙運動を推し進めていたと覚しい|英国学士院《ロイヤル・ソサエテイ》の書記官であるオルデンブルクは、メシア到来を熱狂的に望むサバタイ運動に無関心ではおられなかった。というのも、サバタイ・ツヴィの父親が「スミルナで英国清教徒の商人の代理人(27)」だったとすれば、キリストの再臨および千年王国を待望する清教主義と、メシア再来を待望するサバタイ主義との接触も、ユダヤ教徒の英国居住を許したチャールズ二世の治下であり得ないことではなかったからである。|英国学士院《ロイヤル・ソサエテイ》の科学者たちの研究の動機もまた、フランセス・イエイツによれば、千年王国の招来にあった(28)。それゆえ、オルデンブルクのメシア主義に対する関心も、人並み以上のものだったのである。
これに対するスピノザの返事は紛失してしまったが、世のなかをゆり動かしている現下の問題に対して、彼は懐疑的にか、あるいは反語的に答えるしかなかったであろう。彼は、迫害と追放に翻弄されていただけ救済の予言に飛びつきやすかったアムステルダムのセファルディ系ユダヤ人のように、千年王国論者でもなかったし、また終末論者でもなかった。
スピノザのかつての同級生のなかには、グリュッケル・フォン・ハーメルンの義父のように、全財産を売り払って、繰り返しスミルナからの手紙を読み、今日こそ救われると期待しながら、遙かな聖地に赴こうとしている者もいた(第三章参照)。世の大多数のユダヤ人が恍惚としてメシアを仰ぎ見ている時、スピノザの視線は人間の足下に向けられていたのである。すなわち、人間はなぜ善に向かうよりも悪に隷属しやすいかという、より根本的な問題が彼の関心事だった。歴史、文化、環境という無数の条件によって形成されている「人間」を救済論によって均質化してしまう誤謬を、スピノザほど鋭く洞察していた思想家はいなかった。『エチカ』第四部序言にこう記されている。
「感情を統御し抑制する上での人間の無能力を、私は隷属と呼ぶ。なぜなら、感情に支配される人間は自己の権利のもとにはなくて、運命の権利のもとにあり、自らより善きものを見ながら、より悪しきものに従うようにしばしば強制されるほど運命に左右されるからである。(29)」
右の言葉を我々の関連から|敷衍《ふえん》すれば、霊的な自由あるいは聖性を獲得するために悪に陥る必要があると説くサバタイ主義の「より悪しきもの」への隷属を正当化することは、スピノザにとってはまさに感情能力の無能力をさらけだす行為であっただろう。というのも、このようにして人は実際、神の栄光のためと称して破門や追放、拷問や火刑を行なうのだし、また社会正義のためと称しては、意見の異なる者の迫害や暗殺をくわだてているからである。この地点から言えば、サバタイ主義の運動が、救済どころかかえって不安や恐怖の|漆黒《しつこく》の夜を押し広げているのに対して、スピノザの言葉も生も、その透き通った結晶のなかに漆黒の夜を閉じこめているのである。
ルカスが「スピノザはいかなる党派にも加わらなかった(30)」と言っているのは、多分その通りである。したがって、彼が薔薇十字協会に入団したということは、あり得ないことと考えていいだろう。だが、破門されたマラーノの末裔である哲学者スピノザが、同じように異端者として迫害されながらも、薔薇十字の啓蒙運動に挺身していた人々とつながりをもっていたということは、十分考えられる。それを立証するものが薔薇の印章であり、今ひとつが、中期薔薇十字運動の新たな発展形態たる|英国学士院《ロイヤル・ソサエテイ》の書記官オルデンブルクとの出会い、および化学者ボイルとの論争であったが、さらにもうひとつ、そうしたつながりの存在に思いがけない照明をあてる出来事が、ハーグのスピノザに起こっている。
一六七三年二月、プファルツのハイデルベルクから、スピノザのもとに一通の手紙(同年二月一六日付)が届いた。ハイデルベルク大学神学部教授ルートヴィヒ・ファブリチウスからのその書簡は、スピノザを同大学哲学科の正教授として|招聘《しようへい》したいというものであった。しかもそれは、「きわめて賢明なプファルツ選帝侯の指示」であった。
いったいこの招聘状は、何を意味するのだろうか。一六四九年、侯女エリザベスがデカルトに、プファルツへ居をさだめてはと申し出た提案(31)が薔薇十字運動と関連していたように、スピノザの、異例ともいえるプファルツへの招聘も、この啓蒙運動と切り離しては考えられない。というのも、招聘者は、薔薇十字都市ハイデルベルクのプファルツ選帝侯であり、しかもかつて薔薇十字運動の牙城だったハイデルベルク大学だからである。スピノザは迷いに迷ったすえに、つぎのような返事を書く。
「もし小生に、大学の教職につく希望が生じるようなことがあるとしましたら、プファルツ選帝侯殿下から閣下を通じて小生にお話のありました大学の教職しか、望み得なかったことでありましょう。とくに、きわめて慈悲深い殿下がご承認くださった、哲学する自由[#「哲学する自由」に傍点]のために、小生はそのように感ずる次第です。そのご聡明さゆえに讃嘆おくあたわざる殿下の治世の下に生活することを[#「そのご聡明さゆえに讃嘆おくあたわざる殿下の治世の下に生活することを」に傍点]、以前からずっと望んでおりましたことにつきましては[#「以前からずっと望んでおりましたことにつきましては」に傍点]、いまは申し上げません[#「いまは申し上げません」に傍点]。しかし、小生には、公的な教職につくという気持ちはいささかもありませんので、この件につきまして長い間熟考したと申しましても、この名誉ある機会を拝受する決心がつきかねる次第です。(32)」(傍点筆者)
スピノザはなぜプファルツ選帝侯の「治世の下に生活すること」が、以前からの希望であったのか。その理由を伏せているところが、逆に我々の注意を引くのである。だがしかし、右の書簡を歴史の文脈において読むならば、スピノザのこの沈黙には、彼の哲学の出発点となったデカルトとプファルツの関係、さらには「哲学する自由」に基礎づけられた薔薇十字の啓蒙思想に対する彼の共感がふくまれてはいないだろうか。『エチカ』の定理七一で、スピノザは次のように書いている。
「自由の人々のみが相互に最も多く感謝しあう。自由の人々のみが相互に最も有益であり、かつ最も固い友情の絆をもって相互に結合する。そして同様な愛の欲求をもって相互に親切をなそうと努める。(33)」
ハイデルベルク大学を、右のような「自由の人々」の中心にしていこうとするプファルツ侯国の友愛の意図を、スピノザはきわめて|稀有《けう》な構想と思った。だが、彼は六週間熟慮したすえに、招聘を断る右の手紙を書いたのである。それというのも、スピノザにとっては、やはりこの招聘に応じないということが、破門と追放を背負った彼のマラーノ意識をさらに強化してゆく闘いに勝利することを意味していたからである。この勝利なくしては、あの高貴な『エチカ』は書かれなかったであろう。|棘《いばら》族の|裔《すえ》スピノザは、薔薇十字啓蒙運動への共感を沈黙のなかへ封じこめて、彼の好きな錬金術のエンブレムであるウロボロスの蛇(34)のように、自分の尾を|咬《か》み、その輪のなかでひとり『エチカ』を|育《はぐく》もうとするのだ。
そのような『エチカ』から起こって、恐怖と服従の暗い荒野を吹きぬけてゆく一陣の風があるとすれば、その風の音から、「自由の人々」は、≪Caute !≫(「用心せよ!」)という銀の鈴のような声を聞いたにちがいない。
[#改ページ]
第一〇章[#「第一〇章」はゴシック体] あるマラーノ研究者の運命
[#ここから5字下げ]
「難破して漂流しながら、もう壊れかかっているマストの先端にまでよじのぼってゆく男のようなものだ。しかし、その男にはそこから救助信号を送るチャンスはある。」
(ヴァルター・ベンヤミンのショーレム宛書簡
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]一九三一年四月一七日付)
汽車
暗い小部屋の壁に設置された二台のテレビが、同じモノクロームの映像を延々と流している。|何処《どこ》から来て何処へ行くか分からない汽車の最後尾デッキから撮られた初冬の風景四本の線路、線路脇の残雪、裸の木々、そして灰色の暗い沼が彼方へ飛ぶように走り去ってゆく。その小部屋のいたるところに備えつけられたスピーカーからは、ただ機械的に同じことを繰り返し朗読する男たちの声がずっと流れてきている。その声は暗闇のなかで互いにぶつかりもつれ合って、何を言っているのか分からない。
会場の小部屋を出ようとした時、突然、これはアウシュヴィッツへ向かう移送列車なのではないか、ということに思いいたった。そうすれば、スピーカーから流れてくる男たちの声は、経済・文化・社会からつぎつぎにユダヤ人を締め出してゆくナチの諸政令の朗読にちがいない。そう思って聞くと、男たちの声は暗闇のなかで互いに異様に共鳴し合って、ユダヤ人の迫害に対する恐怖の声となって聞こえてくるのであった。
一九八八年一一月、フランクフルトに滞在ちゅう、ちょうど「|水晶の夜《クリスタルナハト》」五〇周年記念行事が催されていた頃、私はマイン河畔で開かれた「シナゴーグ建築展」の会場を訪れたことがある。五〇年前の焼き打ちで破壊されたシナゴーグの|礎石《そせき》や、トーラーの巻物を収める|聖櫃《せいひつ》が|斧《おの》で傷つけられたのを見て、思わず背筋に寒気が走った。なぜユダヤ人はこのように虐待されなくてはならないのか。なぜナチは、これほど徹底的にユダヤ人を迫害したのか。なぜドイツの市民は、教会でさえも、同じドイツ市民であるユダヤ人の虐殺に荷担したのか、あるいは荷担しないまでも傍観していたのだろうか。一方、五〇万のユダヤ人が、経済的・宗教的にはあれほど組織力をもちながら、なぜナチに対する組織的な抵抗に立ち上がることもなく、まるで人間貨物のようにアウシュヴィッツへ運ばれて行かなくてはならなかったのか。シナゴーグの痛々しい破片の数々を見て、そんな疑問をおぼえながら、会場の三階にのぼって行った時、その入口の脇に仮設された小部屋で、先のユダヤ人強制移送列車の映像を見たのである。
オランダに住む一四万のユダヤ人にも、こうしたアウシュヴィッツへの強制移送の恐怖が近づいてきたのは、ゲシュタポの監視機関が、軍隊とともにオランダに無警告侵攻した一九四〇年五月一〇日のことだった。国家元首ウィルヘルミナ女王はロンドンに逃げ、オランダは早くも五月一四日にヒトラー・ドイツに降伏した。一九四一年二月、ナチは最初のユダヤ人狩りに乗り出した。一九四一年七月には、ユダヤ人の身分証明書に「J」印を捺すことが指示され、同年九―一〇月に旅行制限が布告され、オランダのユダヤ人のほぼ半数は、徐々にアムステルダムのゲットー区域へ収容されていった。そして、占領当局は、オランダ在住の「非アーリア」系ドイツ人を無国籍と宣告し、一二月一五日までに国外移住の申告をすることを要求していた。
ドイツとは異なって、アムステルダムの市民はこうしたナチの無法に力の限り抵抗した。テーン・デ・フリースは、その著書『スピノザ』の冒頭で、かつてレンブラントとスピノザが暮らしていたユダヤ人地区の、目をおおうような戦後の荒廃ぶりを目のあたりにしながら、一九四一年二月二五日の、ナチに対する市民の抵抗を回想している。
「この原稿を書いている間に、アムステルダム旧ユダヤ人街の遺跡が市の新しい交通計画のために破壊されようとしている。この破壊は、一九四一年の最初の数カ月に|血腥《ちなまぐさ》い一斉手入れとともにはじまった、悲劇の最終章である。アムステルダムの全住民、港湾労働者や女店員、株式仲買人たちの、二日間にわたる勇敢な二月ストライキが、この一斉手入れと連行に対して抵抗した。この記憶に値する数日の後、ドイツのナチ占拠者たちは、この特色ある地区に住むユダヤ人を組織的に根絶やしにした。その際、難を逃れて身を隠すことに成功したのは、ユダヤ人住民のわずか一〇分の一に過ぎなかった。その大半がガス室に送りこまれたのである。(1)」
一九四〇年代初頭、オランダ全土で一四万のユダヤ人の、およそ六〇%にあたる八万人がアムステルダムに集中していた(2)。そのうち三万人がドイツ、オーストリアからの亡命者だった。このことは、オランダでもとくにアムステルダムが、ユダヤ人の重要な亡命基地とされていたことを物語っている。これらのユダヤ人は、貿易・商業に従事していたばかりでなく、ダイヤモンド産業やその他の製造業に携わり、また文化・政治活動の面でも大きな役割を果たしていた。
五〇〇〇人を越えるセファルディ系ユダヤ人およびマラーノは、ほとんど一体化したふたつの共同体のなかで暮らしていた。ひとつの中心はハーグ、そして最大の中心は四五〇〇人をかかえるアムステルダムであった。北ヨーロッパで最も重要なこのマラーノの拠点が、一九四一年二月一二日、親衛隊(SS)上級幹部兼治安警部のハンス・ラウターによって封鎖された。ラウターは、ユダヤ人評議会の結成を要求してきた。これは、オランダに住む全ユダヤ人のうち半数を、やがてこのゲットー区域に収容させていこうとする措置である(3)。
一九四二年六月二二日、国家保安本部(SD)第四局(ゲシュタポ)B四課長兼ユダヤ人移送課長アドルフ・アイヒマンは、外務省ユダヤ人問題担当官フランツ・ラーデマッハーに、オランダ、ベルギーおよびフランスから一〇万のユダヤ人をアウシュヴィッツへ輸送する件に関して、ドイツ国有鉄道と取り決めができた旨を伝えた。そのうち、オランダの割当は四万人であった(4)。
この時、オランダの司教は、ずっと沈黙を守りつづけていたドイツの司教とは異なって、ナチによるユダヤ人東方移送に正式のプロテストを行なった(5)。国民の最も深い倫理観に背くという意識から行なわれた、オランダの全教会共同体のプロテストに対する対抗措置として、八月二日、ゲネラールコミッサール・シュミットは、ハーグでの公開演説で、カトリックの「完全ユダヤ人」を最大の敵と見なし、東方への早急移送を言明したのである。カトリック系「完全ユダヤ人」のなかに、マラーノの子孫が大勢含まれていたことは言うまでもない。
こうした|逼迫《ひつぱく》する状況のなかで、一九四二年八月のユダヤ人狩りはいっそう激しさを増し、なかでも八月六日はいわゆる「暗黒の木曜日」として知られるようになった。終日ユダヤ人狩りがつづき、夜になってもユダヤ人が街頭で検束され、銃をつきつけられて、家から駆り出されたという(6)。
こうして、一六世紀末リスボンから北の自由な海港を目指して船出したマラーノの|末裔《まつえい》が、今度は強制的に列車に乗せられ、見も知らぬ東方へ移送されて行くのである。
一九四二年の大量ユダヤ人狩りで逮捕され、集合収容所にひとまず収容された多くのマラーノや他のユダヤ人に混じって、あの『死か洗礼か』の作者フリッツ・ハイマンもいた。彼にとって、アムステルダムでのマラーノ研究というのは、「難破船の、もう壊れかかっているマスト」のようなものだったかもしれない。このマストによじのぼっていったハイマンは、しかし、そこからどのような救助信号を送ることができたのであろうか。
アムステルダム最後の日々
一八九八年、デュッセルドルフのユダヤ系の家庭に生まれたフリッツ・ハイマンは、世界的な変動の二〇世紀のなかに自ら飛びこんでいった人間のようにみえる。先祖から多分に騎士的な冒険家の血を引いたらしいハイマンは、天下が騒然となればたちまち血が騒ぐような|質《たち》であった。だから、一九一四年に第一次世界大戦が勃発した時、彼はいち早く志願兵になったのである。まだギムナジウムの生徒だった一六歳の時のことである。
戦争から帰還し、数多くの勲章を|佩用《はいよう》したこの若い少尉は、やがてベルリン大学に入るが、学問になじめずに中退。その後、義勇軍将校としてスパルタクス団に対する反対運動に挺身する。だが、そこに渦巻く反ユダヤ主義の傾向に嫌気がさしたのと、義勇軍が共産党ばかりでなく、生まれたばかりの共和国をも敵に回しているのに気づき、間もなく義勇軍を退き大学にもどって、「ロンドンの穀物契約法と戦争」という論文により、ハイデルベルク大学で法学博士号を取得した。
その後フリッツ・ハイマンは、ナチの台頭期に、反ナチとしての立場をしだいに明確にすると同時に、二〇年代半ばからユダヤ人の歴史に興味をもつようになり、その資料を組織的に集めだした。一九二八年、彼は故郷の町デュッセルドルフで新聞の編集者となった。≪h≫のペンネームで、主に経済・政治コラムを担当しながら、文化面でも健筆をふるった。これは中間市民層を読者にもつ新聞であったが、ヒトラーとナチに批判的な論陣を張っていた。ヒトラーが一九三三年一月三〇日に帝国宰相に指名された時、同紙はつぎのような論説を掲載した。「ドイツ共和国の運命はここにきわまった。ドイツ共和国は一段一段と深淵へ落ちて行った。小さな災いからますます大きな災いへ落ちて行って、ついに本当に大きな災厄に行き着いてしまった。」
こうした論評が、新しい権力者の不興を買ったのは、当然である。それから間もなく同紙は、ナチ体制の反ユダヤ主義政策に賛成する新しい所有者の手に移っていった。一九三三年春に移り住んだザール地方も帝国と合併したため、ナチ批判者フリッツ・ハイマンは、一九三五年の初め最終的にドイツの地を去った(7)。
アムステルダムへ亡命したこの気鋭のジャーナリストにとって、祖国を追われるということは、かならずしも否定的なことだけを意味してはいなかった。というのも、軍人階級の経歴からばかりでなく、ジャーナリストとしての地位から抜け出し、外国の町へ亡命してはじめて、言葉の真の意味で「書く」ことがはじまったからである。住み馴れたデュッセルドルフよりも、一六世紀末以来独自のユダヤ文化を発展させてきた、この生彩ある商業都市のほうが、彼にとってはよほど自由で実り多いものだった。
彼はアムステルダムで、誰にも邪魔されずにユダヤ人に関する著作に専念しようと思っていた。計画していた著書『ヘルデルンの騎士』の新資料の発掘が、近世以来ユダヤ文献の出版でつとに名高いこの都市でこそ可能だったからである。
(画像省略)
ユダヤ人の冒険家やアウトサイダーの生涯を描いた彼の処女作『ヘルデルンの騎士』は、一九三七年秋にマラーノの血を引くエマヌエル・クヴェーリードーの創設になる書店から出版されると、たちまち著者も驚くほどの評判を取った。リオン・フォイヒトヴァンガーは、「これは刺激的な本だ」と言い、アルフレート・デーブリーンは、「慎重な筆致で書かれた、きわめて信頼のおける、比類のない歴史書だ」と絶賛し、さらにシュテファン・ツヴァイクも、「この本は最も高い要求にかなうものだ」と口をきわめて誉め称えた(8)。確かに、この本は、ヨーロッパ近代の刻印を受けた興味深いユダヤ人やマラーノを大勢登場させているだけでなく、それまでにない思いがけない側面からヨーロッパの裏面史にも照明をあてているので、当時の一般読者や批評家も、小説を読んでいるような緊張感をもって、この歴史細密画を受け取ったのである。
『ヘルデルンの騎士』のなかでフリッツ・ハイマンが真っ先に取り上げているのは、「ポルトガルのアントニオ」と通称されている人物である。一五三一年生まれのこの人物の生きた時代は、一五三六年、ジョアン三世治下での異端審問所開設と、一六八〇年の慎重王フェリペ二世によるポルトガル併合という、ポルトガル・マラーノにとっては最も多難な時代にあたっていた。しかも、アントニオが、幸運王マヌエル一世の王子ドン・ルイスと、美貌の誉れ高いマラーノ女性ヴィオランテ・ゴメスの間に生まれたご|落胤《らくいん》であってみれば、長じていかに文武両道に秀いでていたとはいえ、彼はやはりマラーノとしての引き裂かれた運命を生きるほかなかった。この書物全体についても言えることだが、ハイマンがこうしたアントニオの人生において描こうとしているのは、|流謫《るたく》の末ついにヨーロッパの貴族社会に躍り出たマラーノの、冒険家としての数奇な生涯を描くというよりも、ユダヤ人およびマラーノの歴史と現実、そして真実を、ヨーロッパ近代史のなかに鮮明に浮かび上がらせることであった。
さらに、本書を注意深く読むなら、個々のユダヤ人におけるマラーノ意識の強化が主題とされているにもかかわらず、ヘルツルのあのユダヤ人国家建設を理想としていたハイマンのシオニズムが、この書物の根底に存在しているのが読みとれるのである。したがってハイマンは、一五七八年、モロッコへの無謀な侵略戦争で倒れたセヴァスティアン王亡き後のポルトガル王位継承戦を描くのに、右のアントニオを自由の旗手として位置づけてゆくのだし、したがってまた、この自由な恋愛から生まれたドン・アントニオに、来るべきマラーノ王国の王の夢を託してもゆくのである。事実、コインブラ大学には、同大学で神学を学んだアントニオを未来のポルトガル王としてかつぎあげようとした動きがあったし、一五八〇年六月には、労働者や農民など三万人が歓呼するなかで、靴匠バラチョが四九歳のアントニオに、ポルトガル王の冠を|戴《いただ》かせたのであった(9)。たとえポルトガル王アントニオが三日天下に終わったとしても、スペイン式の血腥い異端審問制度を携えた慎重王フェリペ二世に対する学生・労働者・農民たちの蜂起のうちに、フリッツ・ハイマンは、二〇〇〇年にわたる長い流謫の歴史からいつの日か抜け出すべきユダヤ人の「真」の姿を、見ようとしたのである。
いずれにしても、異端審問所との不断の戦闘状態に置かれたマラーノの意識を、離散と同化には向けずに、シオニズムへと|転轍《てんてつ》する手段を模索していたらしいハイマンは、処女作の成功に力を得て、ただちに続編を計画した。それは偽メシア、サバタイ・ツヴィの後継者を名乗るヤコブ・フランクとその娘エヴァの歴史を描くと同時に、一説によればフランクの甥と称し、フランス革命の最中ダントンとともにギロチン刑に処せられたフライ兄弟をめぐる謎を解明しようとするものだったという。
ショーレムの主著『サヴァタイ・ツヴィ』が出版されたのは、ようやく一九五七年になってからのことであった。それに二〇年近くも先立って、サバタイ・ツヴィの悪魔の弟子とも言うべきフランク派に関する著作が刊行されていたならば、それはさしずめ、ショーレムの研究にもなんらかの示唆をあたえ得たにちがいない。しかも、グレーツやその他のユダヤ史研究家の描くフランク像とはまったく異なるフランク像に結実するはずの、膨大な未知の資料を数年がかりで集めていたハイマンは、この本の執筆に並々ならぬ意欲を燃やしていた。だが、ハイマンがアムステルダムで苦労して集めたこれらの資料も、すべてナチの侵攻によって紛失してしまったのである。
一九三三年から一九四〇年までのアムステルダムで、ドイツ亡命文学の最も重要な出版社、アラールト・デ・ランゲ書店を主宰していたヘルマン・ケステンは、何度も喫茶店でハイマンと会って、彼の文学的な抱負を聞いていたという。ケステンが、ハイマンの遺稿となった『死か洗礼か』(原題『マラーノ年代記』)のなかから引用している次の文章は、彼の歴史観を知るうえで注目に値する。
「ユダヤ人の歴史を巨視的に見れば、大休止期はユダヤ人の|脱出《エクソダス》によって形成されていることが分かる。ユダヤの歴史の一時代が終わり、新しい時代が移行期を置かずに出しぬけにはじまるのだ。エジプトからの脱出によって、前史的・伝説的な時代は幕を閉じて、ユダヤ人は歴史のなかへ足を踏み入れて行く。エルサレム崩壊とともに、民族と国とが一体となっていたユダヤ国家は終わりを告げ、ユダヤ人は地中海の周縁国へ散らばって行くこれが最初の離散である。スペインからのユダヤ人追放は、追放(Galuth)のうちに最初の偉大なユダヤ文化の全盛期に終止符を打った。中世が終わりを告げ、近代が夜明けを迎える。そしてこの近代は一九三三年に終わったのだ。ユダヤ人の精神的中心は、中部ヨーロッパから|他所《よそ》へ移って行かざるを得なかった。だが、どこへかはまだ分からぬ、アメリカ、それともイスラエルかは。(10)」
およそ一八〇〇年前、ライン河流域に移住して来て独自の伝統・文化を築いたアシュケナージからではなく、ハイマンはここでセファルディを手掛かりにしてユダヤ人追放の歴史を論じようとしているのだ。つまり、こうした歴史観に立つ彼が、「近代」の夜明けとなった一四九二年のユダヤ人追放に、「近代」の終わりとなった一九三三年のユダヤ人迫害の始まりを重ね合わせようとしているのは、明らかである。「現代」の夜明けもまたユダヤ人追放をもってはじまるのであれば、この|桎梏《しつこく》からついに逃れ出るためには政治的解決しかない、と彼は考えたのであろう。だから、『ヘルデルンの騎士』序文で述べているとおり、シオニズムの提唱者、ヘルツルの政治的プログラムのなかに、彼はまだ「救済」を見出し得ると信じていたのである。
「二〇〇〇年以来一度として統一的な政治を行なってこなかったというのが、ユダヤ人の大きな不幸なのである、とテーオドル・ヘルツルが言った時、彼はすでに救済にいたる道をもしめしていたのだった。(11)」
しかし、こうしたヘルツルの政治的救済論は、ハイマンの遺稿のなかではもはや積極的な形で現れてこない。それはしだいに生存圏を狭められていったユダヤ人の絶望的な状況のためであったろうが、それでもなおフリッツ・ハイマンは、闘争文書の性格をもつ政治的な著作を計画していた。一九三八年一一月九日の、水晶の夜を脳裏に描きながら執筆されたらしいこの原稿は、しかし、今日に残されていない。
戦争勃発は、こうした努力も、著作計画もすべて|灰燼《かいじん》に帰することを意味していた。「何もかも曖昧模糊になってしまいました」とハイマンは、一九三九年の終わりに、テルアビブ在住の友人フランツ・リットマンに書いている。「当地の政治状況はただならぬというよりもっと悪いものです。新聞はどこでもそうでしょうが、こちらでも、なんの理由もないのに楽観的な態度をとっています。……私は目下、当地の政府筋と直接関わりをもっていますが、こちらの方は私などよりはるかに悲観的な様子です。報道機関は不安のあまり泣きごとばかり。『ハーグ新報』も骨抜きにされてしまいました。言いたいことは、もう一言も言えないのです。ナチの宣伝は日増しに巧妙になり、洗練されてきて、いっそう効果をあげています。こちら側からは何ひとつできません。オランダ人もユダヤ人もキリスト教徒も、皆海外へ亡命しつつあります。オランダ人の合衆国へのビザの配当は、すでに満杯。観光ビザはむろん発給されません。国内でもう現金が底をついたとあれば、不安と絶望が|蔓延《まんえん》するばかりです。(12)」
ハイマンは、ドイツ軍の侵入がもう目前に迫っているのを予感していた。そんななかで、彼は自分の亡命先をアメリカ合衆国にしようか、英国にしようか、それともギリシアにしようかと、まだ決断がつきかねていた。「歴史におけるアクティヴな行動の告知者」(フランツ・コープラー)だったフリッツ・ハイマンがアムステルダムからの脱出に成功しなかったのは、運命の皮肉というほかない。
しかし母親のために、彼はビザを入手することができた。それによって彼の母親は、息子のひとりがもうだいぶ前に移住していたアルゼンチンへ亡命して行った。この時ハイマンは母親に、一九四〇年夏、マラーノの歴史と現実をめぐって行なった連続講演のタイプ原稿を託したのである。
もはや生きる時間が限られてしまったという予感をもたざるを得ないハイマンにとって、彼に残された最後の仕事「マラーノ研究」は、文字どおり難破しかけている船の、もう壊れかかったマストも同然だった。彼はそこから辛うじて救助のサインを送ることができた。それによって彼の原稿は無事「亡命」を果たして、半世紀後にドイツに帰ってくることができたのである。
彼自身はしかし、亡命の機会を逸してしまった。一九四〇年四月一三日付のリットマン宛の最後の手紙で彼は書いている。「ところで、すべてはなんとかなるでしょう。君にとっては確実に。ぼくの場合はどうなることやら。(13)」
これが、最後の言葉となった。ドイツ軍侵攻の予感と不安のなかで、ハイマンはいっそのことシオニズムをまっすぐ生きて、イスラエルへ移住しようと夢見たことがあったにちがいない。だが、彼はアムステルダムにとどまって、マラーノたちがオランダで最も見事に花を咲かせた一時代の終わりを見届ける道の方を、結果的には選択したのである。
ドイツ軍が一九四〇年五月一〇日オランダに無警告侵攻した時、もうハイマンにはほとんど希望が残されていなかった。というのも、外国へ逃れるための資金を調達するめどが立たなかったからである。彼はナチの追跡を逃れて身を隠さざるを得なかったが、ユダヤ人地区の封鎖を指揮した上級親衛隊(SS)警察監督官ラウターの追っ手に捕らえられた。一九四二年七月から東部へのユダヤ人移送がはじまり、翌四三年九月までそれはつづいた。その期間、ヴェステルボルクとブフトに集合収容所が設けられていた。そのひとつに収容されたフリッツ・ハイマンは、多くのポルトガル系ユダヤ人たちと一緒に、列車輸送のスケジュールの都合がつくのを待たされていた。ユダヤ人輸送列車の終着駅は、言うまでもなくアウシュヴィッツである。三車線がひとつになってゲートをくぐれば、死の世界である。フリッツ・ハイマンは、シェップスによれば、一九四二年九月以降、この死のゲートをくぐったという(14)。
追放と王国
フリッツ・ハイマンの『ヘルデルンの騎士』の|掉尾《ちようび》を飾っているのは、「拳闘選手ダニー・メンドサ」である。一七六四年、ロンドンのイーストエンドに生まれたメンドサは、スペイン最高の貴族「グランデ」の名前を先祖から受け継いだ、マラーノの出身であった。彼は、折しもパリが革命で揺れ動いている|最中《さなか》の一七八九年五月六日、ロンドンじゅうを「ハンフリーかメンドサか」という話題で騒然とさせた、当代きっての人気ボクサーであった。メンドサは確かに、アムステルダムのセファルディ系ユダヤ人のように知的にすぐれた人間ではなかったが、ボクシングをはじめて芸術の域に高め、ボクシングの諸規則をつくり、こうして貧しく暗いイーストエンドのゲットーから抜け出し、金と名声の頂点にまでのぼりつめた偉大なボクサーであった(15)。
だが、フリッツ・ハイマンの遺稿となったマラーノ論『死か洗礼か』のなかには、こうした名声|赫々《かつかく》たるマラーノのボクサーや、一七世紀ポルトガルの政治史にひときわ彩りをそえたマラーノの国王ドン・アントニオのような人物が登場してくることはもうない。ユダヤ人やマラーノの冒険家やアウトサイダーに代わって、ここに登場してくるのは、名もないつつましい農民たちであり、しかも一九三一年に彼が訪れた北ポルトガル|山間《やまあい》の農民たちなのであった。この|無辜《むこ》の農民たちについて、彼はこう書いている。
「我々の同時代人たるこの北ポルトガルの農民たちは、誇りと粘り強さをもって、比類のない誠実さをもって、数百年も、死と|劫罰《ごうばつ》をうけながら、なおひとつの信仰をにない、それが世代からつぎの世代へ、父から子へと受け継がれてきたということ、そして彼らの父祖たちがこの信仰のために苦しみ、しかも彼らにただひとつの言葉『わが主アドナイ!』しか伝えられてこなかった信仰のために、父祖たちが苦しんできたということ以外に、それについてはほとんど知らないのだ。ところで、このマラーノたちをしっかり結びつけていたものはそもそも何なのかという問いに対して、それは彼らのユダヤ的なるものだと簡単に答えるほかない。そのユダヤ的なるものとは、宗教としての、生活形式としての、運命共同体としての、この三つの形態からなるものにほかならない。(16)」
追放と迫害の最後の日々にハイマンが夢見たこのようなマラーノの国、あるいはマラーノ意識を最も純粋な形で保持していた北ポルトガルの山岳地帯とは、しかし、どのようなところなのか。
一九三一年、フリッツ・ハイマンは、ひどくクッションの悪いポルトガル・バスに乗ってベルモンテへ行った。私はそれからちょうど六〇年後の一九九一年八月二一日に、ひとりサンタ・アポローニャ駅発の|特急《ラピド》ICで、リスボンからコビリャンまで直行したのである。この時、車窓からネズノキの間に露出する岩の彼方に、星の山セラ・ダ・エストレーラをはじめて見たのだった。コビリャンからはタクシーを利用した。車は谷間の緑のなかを切るように走った。長いプラタナスの並木道を出た時、運転手が、小高いオリーブの丘のうえに発達した、前方の白く輝く町を指して、「あれがベルモンテだ」と言った。
(画像省略) この旅の間じゅう、『ヘルデルンの騎士』を書いたハイマンが、すぐれた冒険家やアウトサイダーにおけるマラーノ意識の強化という個別的な問題に立ち向かいながら、なぜ「宗教・生活形式・運命共同体の三つの形態から成るユダヤ的なるもの」という、シオニズムの色濃い全体的なヴィジョンにいっそう傾いて行ったのか、私は考えつづけていた。マラーノ意識の強化といっても、|離散《デイアスポラ》のなかでは結局挫折してしまわざるを得ないことを、彼はナチの過激な反ユダヤ主義によって身をもって体験させられたのであろうか。それほど彼は、当時もうペシミスティックになっていたのだろうか。というのも、ペシミスティックな歴史観にとらわれない限り、こうした北ポルトガル農民の|静謐《せいひつ》なマラーノ意識は、マラーノ研究の出発点でこそあれ、最終的な目標にはなり得ないからである。
宿で夕食をとって外に出ると、日はもうとっぷり暮れていた。ベルモンテ周辺の夜景が見渡せる暗い公園の端まで行くと、そこに四人の少女がひとかたまりになってひそひそ話をしていた。近づいて行くと、そのなかでいちばん体の大きな女の子がちらと私の方を見て、相手がたんなる外国の旅行者であるのを確認すると、指にはさんだタバコを口から離して、マッチはないかと尋ねた。宿のマッチを差し出すと、にっこり笑って「サンキュー」と言った。馴れた手つきで擦ったマッチの火に、彼女のピアスが金色にひかった。
ピアスの少女だけが学校でドイツ語を習っているということで、辛うじて意志の疎通ができた。皆一六歳から一七歳の少女たちであった。私が「この町にはシナゴーグがありますか?」と訊いて、ピアスの少女がそれをポルトガル語に訳した時、彼女たちは一斉に笑いだした。シナゴーグもユダヤ教も、この若い人々にとってはひどく古めかしいものだったにちがいない。
シュヴァルツの劇的なマラーノ発見の後の一九二〇年代、ユダヤ教に復帰したのは少数だった。大多数のユダヤ人が、マラーノの出自を十分に意識しながらも、この地にカトリックとしてとどまる生活を選択したことを考えれば、今日、シナゴーグもユダヤ教も、このマラーノの国のとくに若者たちには、前世紀の遺物のように感じられるのも無理はない。
写真を撮らせてくれるかと訊くと、少女たちはうなずいて私の宿の近くまでついて来た。そして、ある大きな邸宅の前に広がる中庭のベンチを指して、ここで待っている、とピアスの少女は言った。私は宿から、カメラとフリッツ・ハイマンの『死か洗礼か』を取って来て、少女たちのところにもどり、写真を撮らせてもらった。その後で、カルラという名のピアスの少女に、「これ読める?」と訊ねて、ハイマンの本を差し出した。彼女は、何かに挑む時の快活な緊張感を全身で表して、私から本を受け取ると、静かに頁をくってゆき、最後の一節をゆっくり読みはじめた。
「だが、それにもかかわらず、私たちは|悲観的《ペシミステイツク》になるにはおよびません。あの大移住がはじまって以来、ポルトガルには、マラーノたちのことに心を労し、事実そのために種々苦労をしてきたにちがいない、れっきとしたユダヤ人が生まれているのです。そのように考えられますし、実際そうしたユダヤ人をも何人かは知っております。また、そうであって欲しいと私は願っております。この戦争の後で世界はいったいどんなふうになるのでしょうか。私たちにはその予想さえおぼつかないわけですから、私たちにできるのはあの時代のユダヤ人についてただ夢をみるだけなのです。ポルトガル北部のあの農民たちもまた、未来のより善良なユダヤ人の一部となって欲しいと夢見ることにしようではありませんか。彼らは新しい血を入れてくれるでしょう。彼らは足取りも軽やかで、自信をもっております。|今日《こんにち》、そのような人間が多いとは言えません。そして彼らは、さらによいことには、農民であり、しかも数百年も前から変わらぬ農民なのです。(17)」
カルラがドイツ語の文章の意味を理解していたかどうかは分からなかったが、発音は正確だった。読み終わった時、他の少女たちから拍手が起こり、また屈託のない笑い声がわき起こった。最後に私は、「アドナイ」という言葉を知っているか、とカルラに尋ねた。彼女は首を横に振った。四人のなかでひときわ美しい細面の眉毛の黒い少女だけが、軽くうなずいたようだった。日本に帰ってから写真を送ることを約束して、ひとりひとりと握手をかわした。少女たちは、もう人影がなくなった上の町の方へ足早に去って行った。
(画像省略) それから私は、夜も更けて街灯も消えてしまった公園にもどった。昼見た時よりももっと近いところを、エストレーラ山脈が走っている気配が感じられた。星座を形づくる星々が太古から変わらぬ鳥の翼を谷間のうえに大きく広げて、動かなくなった。この静かな、おそらく今よりずっとやさしい夜の流れが、まだ一九三一年のフリッツ・ハイマンをひたして、マラーノ王国の夢のなかへ彼を沈めたに相違なかった。だが、この地点に立っても私は、すべての個人的なものをユダヤ的なるもののなかに吸収してしまおうとする全体的なヴィジョンよりも、虚構と存在に引き裂かれたマラーノ意識の強化が、文学に、しかもドイツ文学にどのような形で浮上してくるのかという、離散の創造行為の行方に心を惹きつけられていた。
[#改ページ]
第一一章[#「第一一章」はゴシック体] トーマス・マンの「マラーノ的」魅力
[#ここから5字下げ]
「詩人は追放されている。都市から、一定の職業から、限定されたもろもろの責務から、結果であるもの、把握し得る実在性のあるもの、力であるものから追放されている。」
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](モーリス・ブランショ『文学空間』)
ダ・シルヴァの|眷族《けんぞく》
私がこれから述べようとすることは、ユダヤ人ではない作家の個人的な問題意識のなかで、マラーノ意識の強化がどのように行なわれているかを追究することにつきる。その場合の個人的な問題意識は、その作家が、流浪的移住のうちに故郷をもつマラーノの原質的暗部を文学的に継承することによって生じる。そういうことに気づいたのは、一九九〇年夏の旅で、アムステルダムから帰って来たフランクフルトにおいてであった。
マイン河畔のユダヤ博物館で友人と別れて、私はひとりでツァイルの古本屋に行った。ドイツ文学関係の本をずらりと並べた書棚の前に立って、私はぼんやりと、いくつかの全集を目で追っていた。どこにでもある緑色のフィッシャー版『トーマス・マン全集』と『ムージル全集』との間に、トーマス・マンの実弟ヴィクトル・マンの『我々は五人きょうだいだった』がぽつんとはさまれていた。何気なくその本を手に取って頁を繰ってゆくと、マン家の系図(1)が目に飛び込んできた。ビュルギン/マイヤー編の『トーマス・マン年譜(2)』でも見かけなかった系図だ。
トーマス・マンが、北ドイツの商都リューベック市で、一〇〇年以上もつづいた豪商の家に生まれ、父親が声望ある市参事会員であったことは、よく知られている事実である。しかし、彼の母親については、ブラジル出身であるということを知ってはいても、その血筋をそれ以上深くさぐってみようと思ったことはなかった。私ばかりでなく、日本のドイツ文学研究者も、ドイツ本国の研究者もそうであるにちがいない。したがって、トーマス・マン研究には、決定的に南方的視点が欠けているのだ。
無意識のうちにこうした研究状況を背中に感じながら、私はドイツ文学とはおよそ関係のないテーマをもって、南の国へ旅立ったのである。そして、スペインおよびポルトガルからアムステルダムへと、数百年前マラーノたちがたどった道をなぞる旅をしながら、私はいつしか、この歴史の暗い深所からドイツ文学に通じてゆくかもしれない道を探しはじめていた。しかし、手掛かりになるものは何ひとつ現れず、翌日はもう帰国の途につかなくてはならなかった。
このように、マラーノ探究の旅の最後の最後だっただけに、ヴィクトル・マンの著書のなかにマン家の系図を見た時の、私の驚きは大きかった。というのも、トーマス・マンの母親ユーリアの旧姓が、このマラーノの旅で何度も出くわした名前、ダ・シルヴァ=ブルーンスだったからである。さらに、ダ・シルヴァ家を遡ってゆくと、祖母マリア・ダ・シルヴァは、ブラジルのアングラ・ドス・レイスに生まれ、曾祖母はその沖合の島イリヤ・グランデの出身である。この曾祖母からさらに三代遡る先祖は、いずれも生没年は不詳だ。だが、この母方の家系のうえには、マラーノ研究者フリッツ・ハイマンがナチの時代に最後の夢として思い描いていた「ポルトガル農民」という文字が、はっきりと記されているのだった。
確かに、ハンブルクやアムステルダム、あるいはブラジルに移住していったポルトガル系マラーノのなかには、ダ・シルヴァの姓を名乗るものが少なくなかったが、名前からだけでユーリア・ダ・シルヴァ=ブルーンスの家系をマラーノの出身であると断定することができないのは言うまでもない。メンデルスゾーン(3)にしても他のトーマス・マン研究者にしても、旧キリスト教徒と新キリスト教徒が混在して揺れ動いた歴史のあの暗部手前から折り返して、トーマス・マンにおける南方的視点を切り捨ててしまったのである。しかし、トーマス・マンがマラーノの追放と移住の歴史に重なるダ・シルヴァ家の|矇朧《もうろう》とした深所へおりて行って、マラーノの原質的暗部を文学的に継承していたとしたらどうであろうか。
トーマス・マンは「母の肖像」という短い|文章《エツセイ》のなかで、母親ユーリア・ダ・シルヴ
ァ=ブルーンスについてつぎのように書いている。
「私の母はリオ・デ・ジャネイロ出身だったが、父親はドイツ人だった。そのため我々の血には、ラテン・アメリカの血が四分の一だけ混じっているのである。母は我々子供たちによく、リオの湾が天国のようにきれいだったという話や、祖父の農園に出てきた毒蛇を黒人の奴隷たちが棒で打ち殺した話などを聞かせてくれたものだった。母はとても美人であった。紛れもないスペイン風の腰当てをつけており、その人種や容姿のある種の特徴を、私は後年有名な踊り子たちのなかに再発見した。(4)」
右の「四分の一」や「スペイン風」、「人種および容姿の特徴」という表現がすでに、トーマス・マンの母親の遙かな先祖をはっきりしめしているにちがいない。しかも、近代ラテン語で「森の樹」を意味しているこのダ・シルヴァ(da Silva)は、異教的なものをすべて辺境に追放してしまった大都会の上流社会などより、空の青い南の国にいかにもふさわしい名前ではないか。小説『ファウスト博士』のなかでマンは、ロッデ市参事会員未亡人に仮託して、つぎのように彼自身の母親の像を描いている。
「目の色は黒く、優美にちぢれたとび色の髪はほんの少し白くなっていた。身のこなしは|淑《しと》やかで、肌の色は象牙色、まだかなり美しさの保たれている顔だちは人好きがした。このような彼女は、長年ある上流の会の名誉会員として立派に振舞い、召使が多くて責任の重い家政を取り仕切っていた。夫の死後境遇がひどく傾き、慣れた環境にこれまでの地位を維持するのが難しくなって、彼女の心のなかに、おそらくは本当に満足されたことのない楽しみを存分に味わおうとする願望が解き放たれた。こうして彼女は、人間的によりあたたかいサークルで彼女の生涯のもっと面白い後奏曲を奏したいと願ったのである。(5)」
この描写は、トーマス・マンの作品のなかで、母親ユーリア・マンがありのままの姿で登場している数少ない個所のひとつである。というのも、マンが一五歳の時父親が死に、同時にマン家代々の家業だった穀物問屋が破産整理された後、彼の母親はリューベックからミュンヒェンへ移住し、芸術家サークルの中心となって、文字どおり「生涯のもっと面白い後奏曲を奏しはじめた」からである。
トーマス・マンはさらに、故市参事会員夫人のサークルに集まってくる人々のうち、クネーテリヒ夫妻を真っ先に挙げてつぎのように書いている。「夫人のナターリアは、髪はブルネットで、耳輪をつけ、黒い巻き毛を輪のようにカールさせて頬まで垂らしていた。この彼女は、スペインの異国的な血を引いていて、夫と同じく画家として働いていた。(6)」
トーマス・マンの娘エーリカが、父は自分の母親の描写にしてもきわめてぼかして描いたので、母親には指一本も触れなかったという意味のことを述べているのは(7)、こういう個所を指しているのだろう。つまり、マンの母親の真の肖像からぼかされた出自に関する部分が、他の登場人物のそれにさりげなく移し換えられているのである。
(画像省略)
以上からすれば、トーマス・マンの母方の先祖ダ・シルヴァの本来の故郷は、スペインだった。ダ・シルヴァ家の人々は、セファルディ並びにマラーノの追放と流浪がはじまった頃、なんらかの理由でスペインからポルトガルへ移住し、さらに海外進出の機運に乗ってブラジルへ渡ったのである。こうして世界的な移住の旅をつづけるダ・シルヴァの女性たちは、ブラジルから北ドイツへ移って行っても、先祖の伝統を携えて行き、トーマス・マンの幼時の記憶に刻まれた「紛れもなくスペイン風の腰当て」をつけていたのだ。
五人きょうだいのなかで「母親の心にいちばん近かった」息子トーマス・マンは、少年時代からスペインの古典文学を繰り返し読み、スペインとの親和のなかに身を浸していた。だからこそまた彼は、旧キリスト教徒と新キリスト教徒が混在して揺れ動いた歴史の深所におりて行って、「マラーノ意識」を文学的に継承するのだ。もしそういうことがなければ、マン二八歳の時の小説『トニオ・クレーガー』は書かれなかっただろう。ここにおいて彼は、表向きの同調と内的反抗を生の第一与件としたマラーノの意識を、市民気質と芸術家気質の相克対立という現代的な意識の問題に先鋭化している。
マンの自画像とも言うべきこの作品のなかで、主人公トニオ・クレーガーは、上流階級の子弟たちが舞踏のレッスンを受けている広間から人知れず廊下へ忍び出て、日除けの下りた窓の前に立つ孤独な除け者として描かれている。ミュンヒェンに出て詩人になってからとくに、生きることも詩を書くことも、「精神の目から見れば罪である」という意識がつねに彼につきまとっていた。久しぶりに故郷の町へ帰って、「職業は?」と警察官に訊かれてぐっと|唾《つば》をのみこまざるを得ない彼は、「いろいろな種族の言葉からつづりあわされた奇妙な名前の人物」なのであり、「詐欺その他の罪でミュンヒェン警察署から手配ちゅうの、両親不詳身分不明の男」にもひとしい存在である。こうして領事クレーガー一族の人間であるにもかかわらず、市民社会との同一化を見出せず、異邦性あるいはふたつ裂きのなかに生きるしかないこの男は、|重禁錮《じゆうきんこ》を食らった監獄のなかではじめて「書く」ことの天分を発見した銀行家に自分をなぞらえてみるのだ。
こうした芸術家の問題意識が、由緒あるクレーガー一家の没落瓦解というより、もっと根の深いものに起因していることを、彼の文学的感受性は感じとっていた。トニオの父の死によってクレーガー家の代々続いていた商会が解体すると、母親は喪明けを待ってイタリアの音楽家と再婚し、さっさと空の青い南の国へ行ってしまった。トニオ・クレーガーは、この母親と詩人としての自分の境涯について、あてもなく|彷徨《さまよ》っていったデンマークから、ロシア人女流画家リーザヴェータに宛てて、つぎのように書いている。
「私の父は、御存じのように北国の人らしい気質でした。瞑想的で徹底的で、清教主義を信じていたために|几帳面《きちようめん》で、そのうえ憂鬱な性分でした。それにひきかえ母のほうは、どこか分からぬ異国の血が混じっていて、美しくて官能的で、素朴で、それと同時になげやりで情熱的で、一時の衝動に駆られてはだらしないことをしでかすといった|女《ひと》でした。かくて私という人間は疑いもなく混血児だったのです。こうした混血児は、途方もない可能性と途方もない危険を|孕《はら》んでいるのです。そしてそこから生まれたのが、芸術に迷いこんだこの俗物なのです。(8)」
「緑色の馬車に乗ったジプシー」にも|喩《たと》えられている、この天衣無縫な母親は、少なくとも出自に関する限り、トーマス・マンの母親を暗示しており、「混血児」であることにひそかに悩む息子は、明らかに国から国へ移住するダ・シルヴァの|眷族《けんぞく》なのだ。
このように、マラーノではない人間の個人的な問題意識のなかで形成された「マラーノ意識」は、「書く」という詩人本来の仕事と関連している。祖国を追われ、移住先の国へ言葉と文化を携えて行き、そのなかに「祖国」を見出そうとする土地なき民としてのマラーノの境涯は、「都市から、一定の職務から、限定されたもろもろの責務から、力であるものから追放されている」詩人の境涯にまっすぐ通じるものだろう。すでに初期においてこのような問題意識をもっていたトーマス・マンは、その後、ユダヤ人あるいはマラーノにまつわる問題を、彼の文学作品のなかへどのように持ち出してくるのであろうか。
スペインの拷問|笞刑吏《ちけいり》
一九一二年三月から九月にかけて、トーマス・マンはカーチャ夫人の|肺尖《はいせん》カタル治療のために、海抜一六〇〇メートルのスイスの高山にあるダヴォスのサナトリウムに滞在した。この時の「不思議な環境の印象」から『魔の山』創作の観念が生まれたのだが、『略伝』によれば、「このダヴォス物語は、『何か含むところがあった』(9)」という。その「何か含むところ」とはしかし、何であったのか。それは、目下のテーマに引きつけて言えば、作者自身が主人公を、現実的には高山のサナトリウムという「特異な場所」に密封しながら、観念的にはスペインの遠い過去の深みへみちびいてゆこうとするひそかな意図と関連していたように思われるのだ。それはまた、トーマス・マン自身の、母方の祖先ダ・シルヴァの遙かな祖国への旅でもあったろう。
主人公がスペインの過去の深みへみちびかれてゆくというのは、第一章「到着」の後に、第二章「洗礼盤とふたつの姿をもつ祖父」が置かれているという作品の構成によっても説明できる。つまり、いまや孤児となった主人公は、自分でもそれとは知らない病気によって、住み慣れた都市から、就いたばかりの職業やすべての市民生活から追放されて[#「追放されて」に傍点]はじめて、昔彼が好きだった「|曾《ウル》」というスペインの、遠い過去に埋没した時代につれもどされるのである。それはすなわち、主人公に残された最後の肉親、祖父のハンス・ローレンツ・カストルプが、高いカラーに白いネクタイをつけた輝かしい自由都市の市民としての世を忍ぶ仮の姿から抜け出して、晴れがましくも美しい「スペイン風」の襟飾りの前|襞《ひだ》におさまり、本来の真実純粋な姿に帰って死んでいった思い出と関連している。
その場合、仮の現在から真実の過去へ移行する祖父の最後の姿にそえられた「スペイン風」という修飾語は、いったい何を意味しているのか。それは、厳粛な死の感覚、祖先から受け継いだ宗教の感覚、要するにあらゆる原故郷的なものの記憶の混合なのである。したがって、主人公の意識をも規定しているこのスペイン的なものとは、アムステルダムやハンブルク、あるいはブラジルのマラーノにとってそうであったように、当該人物の現在という市民的なおおいのなかに深く隠された根源的なもの、始源的なものにほかならない。
トーマス・マンは長編小説『魔の山』のなかに、そうしたスペインのモティーフを、主人公に「スペインの拷問|笞刑吏《ちけいり》」をつきそわせることによって、設定した。この「拷問笞刑吏」とは、ガリチアとヴォリニアとの境に近い小さな部落に生まれた、ユダヤ人レーオ・ナフタである。ナフタとともに、しかもイエズス会士に改宗したこのユダヤ人とともにはじまるスペイン中世―近世への旅は、しかし、東欧の辺境から出発している。
星のような光を放つ青い眼をした父エーリア・ナフタは、モーセの掟によって屠殺してもよいとされている家畜を、ユダヤ法典の規定にしたがって殺す権能をあたえられた祭儀屠殺者「ショヘート」だった。幼い頃ライプと呼ばれたレーオは、彼の敬虔な父が、大刀をもった若い下男を助手にして、儀式がかった屠殺を執行する光景を何度も見た。それ以来、レーオの想像のなかで、血のしたたり落ちる残虐な光景が、神聖で精神的な観念と結びついていった。
レーオ・ナフタがこのような「神に親しい者、バール=シェムもしくはツァディク」の子として生まれた東欧ハシディズム圏でも、中世以来ユダヤ人迫害が繰り返されていたことは言うまでもない。トーマス・マンは、ナフタ家を襲ったユダヤ人迫害を、儀礼殺人と結びつけてつぎのように書いている。
「キリスト教徒の子供がふたり、奇怪な死にかたをしたことがきっかけになって、憤激した民衆の暴動が起こった際に、エーリアは惨殺されたのである。つまり、燃えさかる自分の家のドアに|釘《くぎ》ではりつけにされている姿が発見されたのだが、それを見た彼の妻は、肺をわずらって病床についていた身なのに、子供たち、ライプ少年やその四人の弟妹といっしょに、みんな手をあげて泣き叫びながら、その部落を捨てて逃げだしたのである。(10)」
こうして、東欧の辺境に平和に暮らしていたナフタ家の離散がはじまった。この離散生活のなかで、少年ナフタはいっそう精神的反抗癖を強め、そのうえオーストリアの社会民主主義者の息子を通して、過激な政治思想の影響を受けるまでになっていった。
母親が死んだ直後のこと、一六歳のレーオ・ナフタが、イル川に臨む丘の公園のベンチに腰かけて、自分の運命や将来のことを考えながら暗い物思いに沈んでいた。その時、ふだん着の長い僧服を着たひとりの教父がたまたま散歩にやって来て、彼の横に腰をおろした。このイエズス会「|暁星《モルゲンシユテルン》」学院教授との|邂逅《かいこう》を契機に、身寄りのない知力抜群のユダヤ少年は、生まれながら属していた宗教共同体から離脱し、ローマ教会への愛を告白して、カトリック信仰に改宗していったのである。
トーマス・マンは、アシュケナージからカトリック信仰へのこのような改宗過程を、ナフタにひとりのマラーノを対置することによって強調している。この点にマンの文章芸術の無気味で多義的な性格があるが、彼はその妙技を、つぎのような一見さりげない文章のなかでやってのける。「この学院は国際的で、各国の生徒が集まっていたから、彼の人種的特徴も際立って目立つようなことはなかった。生徒のなかには、『ユダヤ的[#「ユダヤ的」に傍点]』に見えるポルトガル系南米人[#「に見えるポルトガル系南米人」に傍点]などという異邦人がいたから、『ユダヤ的』という概念は存在しなくなったのである。(11)」(傍点筆者)
こういう描写によって読者は、「ユダヤ的に見えるポルトガル系南米人」という『魔の山』で唯一のマラーノへの言及に出会う。一回だけ言及されているということがかえって印象的で、それだけに禁欲への厳しい精神的修業に身をささげてゆく新キリスト教徒・ナフタの変造過程が、いっそうスペイン的かつ異国的な様相を呈してくるのである。
このようなナフタの『魔の山』への定位は、いつ頃、どのようにして行なわれたか。この「エスプリに富んだ|厭世《えんせい》的反動家」の構想は、戦況がかつてなく危機の様相を強めた一九一七年以降のことである。一九一七年三月二五日付パウル・アマン宛の書簡に述べられているように、イタリアの人文主義者セテンブリーニ対ナフタの思想的闘争は、ヨーロッパ全体を巻き込んだ世界大戦そのものの産物だった。
こうして、「戦争、戦争とみなが叫んでいる。よろしい、賛成である」と言うナフタの位置づけは決まったが、その具体的な人物像はこの段階で決まっていたわけではなかった。それが明確な輪郭をもちはじめるのは、『魔の山』制作の最終段階にいたってからのことである。
一九二二年に、トーマス・マンはベルトラムに宛ててこう書いている。「途方もない考えをもった半分ユダヤ人のイエズス会士レーオ・ナフタが浮かびあがってきて、セテンブリーニ氏と激しい論争状態にあります。この論争はいずれ教育上の決断につながるでしょう。」――こうして、それぞれの論争家が配置につくが、ナフタは「半分ユダヤ人」からやがて「完全ユダヤ人」に変えられてゆく。しかもその際、トーマス・マンは、この完全ユダヤ人をスペインの最も闘争的な政治思想の原点にすえたのである。「ことにスペイン的な名誉心は、ナフタの教団では非常に重要な役割を演じたが、この教団の発祥地がスペインだったことはいうまでもない。(12)」
右のように、ナフタをスペインのイエズス会士に改造してゆく過程に立ち現れてくるのは、ユダヤ人の血を引くという、あの禁欲的・戦闘的な聖イグナチオ・デ・ロヨラであった。肺結核のため、大学での神学研究とイエズス会士としての平地における一切の栄達を断念して高山のサナトリウムにのぼって来てから、ナフタにはもう六年の歳月が流れていた。
このようなナフタにとっては、地上の輝かしい戦士だった経歴を捨て去り、神の国に仕える未来の戦士として、肌の黒いあの聖母マリアの祭壇の前で、禁欲と瞑想の業を行なうためにモンセラートへ向かったイグナチオ・デ・ロヨラこそが、理想だった。だから、絹づくめの彼の部屋には、赤い布を張った台のうえに、木彫りの大きな中世の彩色像、悲嘆の聖母像があるのだ。この中世的な「禁欲の象徴」によってナフタは、病気と死が集中するこの異界で、イグナチオ・デ・ロヨラの戦闘的・軍隊的な、かつ最もスペイン的な思想の刻印を、わが身に押しつけることができるのである。
「世界を軽騎兵のように駆け抜けて、ローマ教会が今まで手を伸ばせなかった異教と未開の最前線へ、その学識と熱狂によって出撃しよう」というのが、イグナチオ・デ・ロヨラの壮大な企図であった。であってみれば、遙か高山のサナトリウムという、病気と死によって呪われた「野蛮な場所」もまた、イエズス会士ナフタが「その学識と熱狂によって出撃する」最前線となる。セテンブリーニという相手に不足はない。テロリスト・ナフタの精神の拠点は、霊場として名高い「切られた山」モンセラートである。
一方、イタリア生まれのヒューマニストの拠点は、彼の属する「進歩組成国際連盟」が人類のあらゆる苦悩防止のために総会を開いた、スペインで最も近代的な都市バルセロナである。中世的霊山と近代的大都市。『魔の山』においては、このように、スイスの遙か高山のサナトリウムで、じつはモンセラートを拠点にしたテロリストと、バルセロナを人類進歩の出撃地点としたヒューマニストが、激しい戦闘の火花を散らしているのである。
片やテロリズム、片やヒューマニズム。『魔の山』におけるこの「|ふたつの軍旗《ドス・バンデラス》」が相|対峙《たいじ》し、互いに譲らぬ戦闘状態から、どのような世界が我々に見えてくるだろうか。「手に血塗ることを恐れない」というイエズス会士の原理を生きるレーオ・ナフタの言葉から浮かびあがってくるのは、きわめて南方的視点、すなわちスペイン異端審問時代の酷薄非情な論理である。「ナフタは中世の好戦的な型の僧侶たちの話をして、そういう僧侶たちは虚脱するほど禁欲的でありながら、しかも宗教的な征服欲に満ちあふれていて、神の国をまねきよせるため、つまり、超自然的なものに世界を征服させるためには、血を流すこともいとわなかったし、また……キリストのために殺したり殺されたりすることを罪悪と思わずに、最高の栄誉と考えていた。(13)」
キリストのために|殺戮《さつりく》も最高の栄誉となるというスペイン・カトリックのこうした考え方が、異端審問所をつくらせ、それを数百年にもわたって恐るべき社会的凶器へと発展させていった。ヘンリー・カメンが指摘しているように(14)、とくに一六世紀から一八世紀にかけてのスペインには、異端審問とカトリック信仰を同一視する風潮がひろく一般にゆきわたっていたのである。
さらにまた、ナフタが拷問についてつぎのように言う時、我々はこのテロリストのうちに、聖イグナチオ・デ・ロヨラよりもマラーノを仮借なく弾圧したユダヤ系大審問官トルケマダや、異教徒を根絶することによってカトリック信仰を純化しようとした、あの異常に目の鋭い大審問官ゲバラとの、濃い血の繋がりを感じざるを得ないのだ。「精神がよこしまで泥を吐かない場合は、ものを言わせることのできる肉体に聞いてみるほか手はない。拷問は、ぜひとも必要な自白を引き出す方法として、理性が要求した方法なのだ。(15)」
ユダヤ人イエズス会士と共産主義者を一身に兼ね備えたこのようなレーオ・ナフタは、トーマス・マンの生んだ忘れ得ぬ人物であると述べて、ナフタの人物像に文献学的に迫ったのは、論文「『魔の山』の人物たち」の著者カール・ケレーニィであった。ケレーニィは、トーマス・マンが一九二二年一月の東欧旅行の際、ブダペストでジェルジ・ルカーチと会い、その時のルカーチの印象から、ナフタの魅力的でかつ不気味な人物像をつくるきっかけをつかんだとして、創作の根幹にかかわる東方的視点を立証することができた。それは反駁しようのない|精緻《せいち》な研究である。しかし、ケレーニィのこの研究には、ナフタの人物像が、トーマス・マンの母方の祖先ダ・シルヴァの遙かな祖国であるスペインの歴史によって方向づけられているという南方的視点が欠けている。ケレーニィにとっては、一九一〇年代から二〇年代にかけて、共産主義とイエズス会を一身に兼ね備えたこの「タイプ」の人間が存在することを指摘することのほうが、より現実的な問題だったのだろう。
確かに当時、カトリックへの改宗後に自殺した反啓蒙的なユダヤ人著作家マックス・シュタイナーや、反民主主義的保守主義者たちから聖典と仰ぎ見られていた書物『第三帝国』の著者メラー=ファン=デン=ブルック、さらにはバッハオーフェンの『母権論』研究の後ナチの思想家になっていったアルフレート・ボイムラーといった、鋭い反動家タイプがつぎつぎに現れてきていた。だが、ナフタとブダペストの思想家をつないで、トーマス・マンの東方的視点をもっぱら強調しているにもかかわらず、ケレーニィはつぎのような鋭い分析に達していたのである。
「トーマス・マンのナフタ・コンポジションには、世界文学的に見て、またそれが現代的な意味をもつ限り世界史的に見ても、ドストエフスキーの『大審問官』につながる。(16)」
確かに、ドストエフスキーの『大審問官』とトーマス・マンのナフタ物語は、「時代が要求するテロル」をめぐる思索によってつながってくる。さらに、この系譜上に、エル・グレコ描くところの、痩せて異常に目の鋭い人物『大審問官ゲバラ』を置くこともできるだろう。野蛮な恐怖時代が理性と啓蒙を突き破って現代にも回帰し得る背後には、宗教家や政治家、著述家などの体面をつくろっている人々のなかに、こうした精神的テロリストが棲みついているからなのだろうか。いずれにしてもトーマス・マンは、エル・グレコやドストエフスキーから出てきた恐怖政治の線を、ヨーロッパ現代のなかへ一段と深く押し進めたのであった。
トーマス・マンの小説は、スイス高山の陰湿な病院の世界で繰り広げられている。そこに登場するのは、病気のために「深淵におちいった|生物《いきもの》」でありながら、病気を高貴なものと見なそうとする迷信|跋扈《ばつこ》の不安恐怖時代に属する者たちである。その恐怖時代がすっかり忘れ去られているということは、それが再び現前しないことを意味しない。
こうして、一四九二年のユダヤ人追放令によってはじまった「近代」が、一九三三年のナチの第三帝国の成立で終わってゆく過程に、忘れられていた「スペインの拷問笞刑吏(17)」もまた復活をとげてくるのである。したがって、トーマス・マンは、こうした「現代」のはじまりに、|血腥《ちなまぐさ》い恐怖政治が新たに登場してくる時代の雰囲気を、彼自身の『大審問官』のなかに書こうとしたのだった。
亡命と言語
『大審問官』の系譜につながるナフタ物語の背景には、すでに述べたとおり、スペイン近代の夜明けとともにはじまったカトリックの恐怖政治の歴史がある。ドストエフスキーが、国じゅうで毎日のように|焚火《たきび》が燃えていたセビリヤにキリストをおりたたせたように、トーマス・マンも、ナフタの精神の故郷をピレネーの向こう側に移してゆく必要があった。したがって、『魔の山』の主人公カストルプが、神の国をまねきよせるための殺戮や拷問について語るナフタに同行するのは、主人公が病気によって社会と生から追放されている状態を極限まで押し進めることによってそれを乗り越えようとする試みと軌を一にしているのである。とすれば、『魔の山』の作者がその登場人物のひとりにさせる旅は、スペインに向かう旅こそ最もふさわしかったのである。主人公ハンス・カストルプはつぎのように言って、ショーシャ夫人のスペイン旅行をいぶかっているが、それにはやはり内的必然性があったのだ。
「ショーシャ夫人がスペインへ行くつもりとなるとちょっと考えますね。……(スペインは)厳格なほうへ傾いた国です。無形式ではなく、形式偏重、いわば形をとった死であり、死の分解ではなくて、死の厳格であり、黒衣を着て、高貴で血なまぐさく、宗教裁判、固い襞つきの襟飾り、ロヨラ、エスコリアルの国です。(18)」
そしてショーシャ夫人は、スペイン旅行から帰って来て、主人公との間でエスコリアルの城が話題にのぼった時、こう言いきるのだ。
「そう、フェリペの城よ。にいんげん味のないお城。カタローニア地方のフォークダンスのほうがずっと気に入ったわ。風笛に合わせて踊るサルダナって踊りよ。わたしもいっしょに踊ったわ。みんなが手をつないでぐるぐる回るの。広場が人で埋まってしまうのよ。トテモにいんげん的よ。(19)」
(画像省略) エル・エスコリアル宮殿の非人間的なものを嫌悪し、人間的なサルダナの踊りに共感するショーシャ夫人の旅は、トーマス・マンの旅でもあった。一九二二年一月、ナフタの人物像取材のため東方の旅をした『魔の山』の作者は、今またナフタの作品全体における位置を確定するために、南方の旅に出る必要があった。
トーマス・マンは、フランスがまだ入国を禁止していたので、ジェノヴァから船でバルセロナに向かった。一九二三年四月、春もたけなわの頃であった。あと四、五〇日もすれば四九歳になるというマンは、つい一カ月半ほど前の三月一一日、ヴェスリングで母ユーリア・マンを失ったばかりだった。エルンスト・ベルトラムに宛てて、「私は生涯でこれほどの悲しみをおぼえたことはありませんでした」と書いているとおり、母の死は、きょうだいのなかでいちばん愛情を寄せていた次男の彼にとって、悲痛このうえもない出来事だった。だからこの春の旅は、亡き母を弔う息子の旅であると同時に、母の祖先ダ・シルヴァの遙かな故国を訪ねる『魔の山』の作者の旅でもあったのである。
五月二日、マドリッドのABCラジオ放送の記者に、トーマス・マンはこう語った。「ほんの子供の頃から私は一般にイベリア半島に、特にスペインに対して大きな関心を寄せておりました。それは多分、私の血管の中にイベリアの血が流れている事実によるのでしょう。……形式と精神的な内容の完全性を求める私の努力の中には、疑いもなくラテン的要素があります。(20)」
四月下旬、アンダルシアの中心都市セビリヤに入って行くと、スペイン最大の春の祭りが爆発していた。ここでは、あらゆる階層の人々がひとつに溶け合って饗宴を繰り広げ、なかでもフラメンコのきらびやかな衣裳で着飾った踊り子たちの姿が彼の目を引いた。「セビリヤで見た祭りの光景は、寺院のミサと、壮麗なオルガンの演奏と、午後の闘牛祭とともに、いつまでも忘れ得ないものと思う(21)」と、トーマス・マンは『略伝』のなかに記している。
しかし、「スペインの拷問笞刑吏」ナフタの物語に決着をつけようとするトーマス・マンは、この南スペインのアンダルシア地方よりも、スペインの古典的な地方のほうに、はっきり引きつけられていた。彼は書いている。「カスティーリャ、トレド、アランフェス、フェリペの|花崗石《かこうがん》の僧院|城砦《じようさい》、それからエル・エスコリアルの側を通って、白雪をいただいたグアダラマ山脈の彼方、セゴビアへ向かう旅のほうが、私には有意義なものであった。」
このようにトーマス・マンは、邪教徒の火刑「アウトダフェ」が最も濃い影を落としている地方を通過することによって、はじめて精神の目覚めがはじまるという認識に向かおうとする。だから、「もし私の王子がカトリック教に反対したら、私は自ら火刑のために|粗朶《そだ》を運ぶだろう(22)」とさえ述べた
というフェリペ二世のカトリック絶対主義の王国を旅し終えることによって、マンはその明くる年の一九二四年六月初旬、ついに「雪」の章を完成することができたのである。「人間は善良さと愛とを失わないために、死に思想を支配させてはならない」という認識に向かって、ようやく主人公の精神が目覚めてゆくという設定で、トーマス・マンはあわただしくダヴォス物語を閉じてゆく。
この地点から見れば、病気と死の領域へ入って行くのは、活動的で健康な市民社会から永遠に追放されていることの表明ではなく、生との積極的・冒険的な関係に向かって行くことの表明になる。病気と死に対するこうした思考には、形式的・精神的な領域を掘り下げてゆく際のトーマス・マンの「ラテン的要素」が、刻印されているのである。
『魔の山』が完成した前後から、非合理主義的な退行現象が戦後ドイツの精神風土を急速におおいはじめていた。一九三〇年、その姿がいよいよナチの台頭となってはっきり現れてきた時、トーマス・マンはその野蛮な勢力に対して|戦闘的《ミリタント》な演説を行なった。「聴衆の皆さん、妙な男が現れて、祖国の教師面をし、新しいフィヒテ[#「新しいフィヒテ」に傍点]を演じたがっているぞと理解されるかもしれません――こういう笑止な推測は払いのけることにしましょう。(23)」(傍点筆者)
このように開口一番トーマス・マンは、ベルリンのベートーヴェン・ホールを埋めつくした聴衆に訴えかけた。「新しいフィヒテ」と彼が言ったのは、偶然ではなかった。というのも、「ドイツ国民の優秀性は純粋言語を不断に保持してきたことにある」というフィヒテの言葉が、その頃ドイツ大衆の感情のなかに新たな生命をもちはじめていたからである。それゆえ、この演説「理性に訴える」において、マンが真正面から批判しようとしたのは、「純粋言語」の概念を盲信するドイツ国民の精神的・心理的な優位性の意識を政治運動の水路へみちびき入れようとする急進的国粋主義者のファシズム理論にほかならなかった。
この時、聴衆の間にナチ党員がまじっていて猛烈な妨害の野次を飛ばしていたが、その指揮をとっていたのは、大きな黒眼鏡をかけて人相を隠した詩人アルノルト・ブロンネンだった。音楽家のブルーノ・ヴァルターが講演を終えたマンをみちびいて、万一の場合に備え特別の出口に待たせておいた自家用車に乗せたため無事であったが、しかしそれ以来トーマス・マンは、ナチの|不倶戴天《ふぐたいてん》の敵となった。そして、一四九二年のスペインの「近代」が血と信仰の純粋主義を極端にまで押し進めたように、一九三三年のドイツ「現代」の幕開けもまた、凶悪な反ユダヤ主義を引き連れていた。ナチがドイツ・オーストリアの合併を強行し、反ユダヤ主義運動をいっそうラジカルに押し進めた一九三八年、トーマス・マンはついにユダヤ人の妻カーチャとともにアメリカへの移住に踏み切った。
この時、マンの亡命に、ナチ・ドイツという災厄を国内で耐えしのんでいたハンス・カロッサは、生都フィレンツェから追放されたダンテを思い出したが、私は、異端審問のスペインから放逐されたマラーノを思い出さざるを得ないのである。祖国を追放されたマラーノには、故郷から携えて行った言葉以外に住まうべき国はなかったように、トーマス・マンもまた、彼自身の亡命をひとつのより積極的な生き方に変え、いかなる権力によっても追放されない言葉という祖国[#「祖国」に傍点]へ回帰して行ったからである。
(画像省略)
一九四五年五月、トーマス・マンは『ドイツとドイツ人』の最後で、ドイツ人が他の諸民族のなかへ「離散」して行く必要を説く|条《くだり》で、「悪い」ドイツと呼ばれているものにも「大量の良きもの」が存在する(24)、と言った。このように言うマンは、『ドン・キホーテ』のなかのモーロ人リコーテにどこか似ている。リコーテは、トーマス・マンが一九三四年のエッセイ「『ドン・キホーテ』とともに海を渡る」のなかで述べているように、追放勅令でスペインを去り、イタリアからドイツにも向かったが、懐郷の念やみ難く、隠匿した財貨を掘り出そうと、巡礼に姿を変えてこっそり昔の村に忍び込む人物である。
「私らはどんな土地にいようと、生まれた国スペインを思って泣かぬ日はない。何といったって私らはスペインで生まれたのだ。スペインこそ私らの本当の祖国なのだ。……良いものの値打ちは、それをなくしてみて初めてわかる。私らの仲間の多くはスペインに帰りたいの一心で、妻子を見捨て、自分のいのちを失う危険を冒してでもなんとかしてスペインに帰りたいと思っているほどなのだ。(25)」
このようにいたましく嘆きつづけるリコーテの言葉を、トーマス・マンは引用している。追放勅令の残酷さをただ非難するよりも、放逐された者のこのような祖国愛の強調が人の胸を打つのは言うまでもない。リコーテがそうであり、追放されたユダヤ人がそうであるように、|流謫《るたく》と母語を結びつけているのは、「私らの国では」という祖国愛なのだ。だからトーマス・マンは、亡命先から一般のドイツ市民になりすましてこっそり昔の町に忍び込みはしなかったが、「本当の自然の故国」ドイツに熱い思いを抱き、そこに掘り出すべき精神の「財貨」をもっている点で、リコーテと変わりはない。つまり、トーマス・マンがここで擁護しているのは、国家主義的な熱狂ではなく、追放と離散を生きながら、祖国と異邦に引き裂かれた者の意識にほかならないのである。
「ドイツ人は」とマンは、『ドイツとドイツ人』の最後でゲーテの言葉を引用している、「ユダヤ人のように[#「ユダヤ人のように」に傍点]、世界じゅうに移植され分布されなくてはならない。」(傍点筆者)
限りなく特殊個別的であることによって普遍的になり得るというゲーテの世界文学の思想に共鳴していたトーマス・マンは、「ユダヤ人のように」という表現を、ダ・シルヴァのように、「森の樹」のように、と言い換えることもできたであろう。いかにもドイツの知性・良識を代表するといったトーマス・マンのヒューマニストぶりに反発を感じながら、それでもこのドイツ作家に心を惹かれるのは、移住を住み家としたポルトガル農民ダ・シルヴァの眷族に属する彼の隠された南方的視線のためなのかもしれない。こうした視線を「書く」行為の羅針盤にしていたからこそ、トーマス・マンは、祖国ドイツを追われながら祖国を失うことなく、スペインと類縁のエジプトへ、と同時にヨーゼフの古代ユダヤ世界にまで文学上の|彷徨《さまよ》いをつづけてゆくことができたにちがいないのである。
「故郷喪失とは何か?」という問いに、トーマス・マンは未発表の『日記断片』のなかで自らこう答えている、「私の祖国は、私が携えている仕事のうちにある。それは言語である。ドイツの言語であり、思考形式であり、私の国と民族の伝統の財貨を個人的に発展させたものである。(26)」
[#改ページ]
第一二章[#「第一二章」はゴシック体] エリアス・カネッティふたつの追放の言語をもつ作家
[#ここから5字下げ]
「|狐《きつね》は|穴《あな》あり、|空《そら》の|鳥《とり》は|塒《ねぐら》あり、されど|人《ひと》の|子《こ》は|枕《まくら》する|所《ところ》なし。」
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](新約・ルカ福音書第九章第五八節)
カニェテ一族の移住
一九九一年八月、ちょうどモスクワでクーデターが起こった「レッド・マンデイ」に、私はエリアス・カネッティの先祖が五〇〇年前に住んでいたというスペイン・クエンカ県の山奥の町に向かった。
バレンシアを午後三時三〇分に出発したバスは、遙か前方にかすむ青い山をいくつも越えて、すでに四時間も走っていた。赤い地肌をむきだしにした荒地の向こうに、また岩山が現れる。夕日に輝く要塞のような、変化の少ない赤茶けたその稜線が、東へ続いていた。岩山の途切れた|縁《へり》を曲がると、これまでの風景とは打って変わって、薄緑のやさしいポプラの林が目の前に現れた。その林をぬけると、川の周囲に豊かに生い繁った背の高い草や木々の間から、民家の赤い屋根が見えてきた。そこが、カニェテ(Caete)だった。
(画像省略) イサベル一世通りのペンションに部屋を取るなり、私はまだ夕日に満ちあふれている町中に飛び出した。交差点から左手のゆるやかな坂道をほんの十数メートルのぼった所に、三階建ての集合住宅があった。一階角の家の白壁にはりつけられたプレートを見て驚いた。そこには、なんと「エリアス・カネッティ通り」という文字が記されていたからである。私はこの思いがけない道路名に出くわして、セファルディあるいはマラーノの足跡を訪ねる旅の目的地にようやくたどり着いた気がした。そして、まるで数百年前に私がカニェテに居合わせ、この緑豊かな故郷からユダヤ人難民が去ってゆく光景を目のあたりにしているような気もした。追放の記憶と直接結びついたこの通りに私は惹きつけられていたので、坂道を交差点までおりて、それからまた「エリアス・カネッティ通り」に戻った。そして、一見して文房具店と分かる角の家のドアを開けた。
(画像省略) 店番をしていたのは、日本で言えばまだ高校一、二年生くらいの女の子だった。カニェテの絵はがきはないですかと英語で尋ねると、彼女は黙って首を振った。それから急に何かを思い出したように、女の子は背後の棚に手をのばした。そして、「こういうのがありますよ」と言って、私に一冊の本を差し出した。それは、|懸崖《けんがい》住宅「カサス・コルガダス」のカラー写真を表紙にした『クエンカ観光案内』という本だった。奇岩の多いクエンカ県の珍しい風景写真が満載されているうえに、詳しい地図が付録についていたので、この本を買いもとめることにした。
勘定をすませてから、私は「エリアス・カネッティの先祖は昔この町に住んでいたのですね?」と尋ねた。「エーリアス・カネーティ!?」と一瞬驚いたような顔をした後、女の子は、すぐに、「そうです。一四九二年の最後の大|退去《エクソドウス》の時、カニェテ一族はここを去りました。そして、一〇年前エーリアス・カネーティがノーベル文学賞をもらってから、カニェテ、いやカネーティの名が、再び私たちの町に帰って来たのです」と言ってから、私の目に向かってにっこり笑った。
交差点に面したレストランの外にある五つか六つのテーブルのひとつに座って、私はメニューをもってきた少年のようなウェイトレスに、シシカバブ一串と海老一皿、そしてビールの大ジョッキを注文した。店内のテレビはヴォリュームをいっぱいに上げて、モスクワの軍事クーデターのニュースを伝えていたが、どういうことが起こったのか私にはまったく分からなかった。夕食の後、ワインを飲んでいると、ようやく日が暮れて、それからしばらくすると月がのぼってきた。この|山間《やまあい》の町がすでに高い所にあるためか、それとも空気が澄みきっているためか、月は驚くほど低い空にかかって見えた。
五〇〇年前、カニェテ一族は他のユダヤ人家族とともにこの緑豊かな山里を去り、ラス・クエルダス山脈を越え、さらにミラ山脈を越える道を延々とたどって、バレンシアに向かうコースをとったのであろう。狐は穴があり、空の鳥は|塒《ねぐら》があるのに、追われてゆくユダヤ人難民はさしあたり海に出る道しか枕する所はなかった。地上に安眠することはできなくても、本当の故郷が天にあることを、彼らは山のうえにのぼる月を見て思ったことだろう。
これほど大きな|退去《エクソドウス》の破局において「生き残る」とは、どういうことを意味するであろうか。ヴァレリウ・マルクの『スペインからのユダヤ人追放』によれば、いくつもの山を越え、長い赤土の荒野の道を歩いて、ついに「海が見えた時、男たちも女たちもわっと泣きだした。彼らは髪をかきむしり、全能の神に大声で慈悲と奇跡を乞いもとめた。何時間も波を見つめながら、彼らは呆然と立ちつくしていたのだった。(1)」
ついに陸地が終わる地点まで来て、いよいよユダヤ人のオデュッセウスの旅がはじまった。難民船はユダヤ人を乗せられるだけ乗せて出航した。だが、これらの船の|舵《かじ》をとっているのは、危険な敵であることが多かった。というのも、船乗りたちは宝物をねらって乗客を襲ったり、時には殺害したりしたし、金貨が見つからなければ、ユダヤ人を海賊に売りわたすことも|稀《まれ》ではなかったからである。このような危険な船乗りが乗りこんでいない船も、停泊することのできる港を見つけられないまま、海岸から海岸へ|彷徨《さまよ》いつづけなくてはならなかった。こうしたユダヤ人難民のなかには、子供を抱いたまま死んでいった女性もおり、また空腹のあまり海に身を投げ、寒さと|喉《のど》の渇きでついに事切れる男たちもいた。そして、何隻かの舟がようやくベルベル地方の海岸にたどり着いても、人々は身ぐるみはがされたうえ、砂漠に追われたのである。
エリアス・カネッティの物語集『マラケシュの声』(一九六八年)のなかに、彼が四方全部を城壁で囲まれたマラケシュのユダヤ人街「メラー」を訪問した際、自分の先祖の出自について述べた後で、古いスペイン語を話す人々がまだメラーにいるかどうか、当地のユダヤ人家族に訊く|条《くだり》がある。彼らはそうしたユダヤ人をひとりも知らなかったが、それでもスペインにおけるユダヤ人の歴史についてはつとに聞き知っていることが、カネッティにも分かったという。
スペイン放逐後のユダヤ人の大移住について言えば、アフリカの北海岸に沿ってタンジールからカイロまで、さらに内陸はメクネスやフェズ、あるいはマラケシュにいたるまで、数万人のユダヤ人がそのまま定住したが、大部分は彼らの先祖が八〇〇年前にやって来た道を逆にたどり、西から東へ歩みを進め、トルコ帝国の中央諸州に向かったのである。
半月形は十字架よりはるかに寛大で、トルコのサルタンは、このユダヤ人難民を快く受け入れてくれた。それというのも、彼らはあらゆる種類の能力を身につけており、なかには有能な医師や金融業者、あるいは特殊技術に熟達した手工業者がいたからである。またたく間にイスタンブールのスペイン系ユダヤ人の数は、五万人にも達した。トルコ人は彼らに旅券をあたえ、かつイスラム教徒の赤いトルコ帽(Fez)に代わる白い帽子の着用を認めた。こうして、一四九二年にまずスペインから、ついで一四九七年にポルトガルから追放されたセファルディは、トルコ帝国全土に分散して住みつくようになった。ベルナルド・レヴィスはその著書『イスラム世界のユダヤ人』のなかでつぎのように書いている。「首都イスタンブールにはセファルディの有力な共同体がいくつもできた。サロニキやイズミール(スミルナ)、エディルネ(アードリアノープル)、さらにアナトリア地方やバルカンの諸都市においても同様だった。エディルネは都がイスタンブールに移るまでオスマン帝国の首都であったが、すでにここにもユダヤ人共同体がひとつあった。(2)」
ユダヤ人追放勅令から一〇年後に祖国を追われたイスラム教徒がスペインで築いた過去の輝かしい文化は、アフリカの砂漠にたちまち水のように吸収されてしまったが、追放されたユダヤ人の移住先の国では、それとは反対のことが起こった。つまり、彼らはアムステルダムやイスタンブールなどへ、自分たちのスペイン語を携えて行き、ユダヤ人としての同一化・共同性を保持するためにそれぞれの地で言語島をつくったのである。このように再び長い歳月をかけて、ユダヤ人は一四九二年の破局の海を渡りおおせたのだった。
こうしたユダヤ人の東方への流れのなかで、カニェテ一族はその後どうなったであろうか。『断ち切られた未来』(一九七二年)のなかで、カネッティは先祖の足取りについてつぎのように書いている。「私の父方の一族は数世紀の間に、トルコ語でエディルネというアードリアノープルに住みつき、私の祖父はそこからブルガリアへ移住し、やがてここ(ルスチュク)で私が生まれたのです。後になってはじめて、カネッティという姓が本来はカニェテと呼ばれるべきであったが、一九世紀の初頭に祖先の一人によってカネッティに修正された、ということを聞き知りました。(3)」
ルスチュク(ルセ)は、ドナウ河下流の古い港町であった。ここからドナウ河を遡ってウィーンへ行く者がいると、ヨーロッパへ行くと言われたし、ヨーロッパはトルコ帝国がかつて終焉したこの地において始まるのであった。とすれば、およそ四〇〇年の歳月をかけてこのヨーロッパのとば口に達したカニェテ一族は、ドナウ河を媒介にしてどのようにヨーロッパ文化を吸収し、あるいは祖国スペインの過去の意識をどのような形でヨーロッパに運びこんで行くのであろうか。この問題について考えてみるためにも、ルスチュクへ行こうと、私はカニェテの夜、ワインを飲みながら心に決めたのである。
|斧《おの》と文字
エリアス・カネッティの自伝は、東欧の一辺境からヨーロッパの中心に向かう一家の移住の旅からセファルディ系ドイツ語作家が誕生してくるという、世界文学史上かつて例のない現象を主題にしていて、興味深い。
カネッティ一家の移住は、少年エリアスにまさに根底からの変化を強いるものであった。そうした変化過程を全体的に表現する術語に出会えるにちがいないと思いながら、『救われた舌』(一九七七年)を、ついで『耳の中の|炬火《きよか》』(一九八〇年)を読み進んでゆくと、はたして後者の「インフレーションと無力」の章のなかに、つぎの一文があった。
「愛というものへの私の|通過儀礼《イニシエーシヨン》は、クライストの『ペンテジレーア』であった。(4)」
この文章は、男に情を移してはならないという女人国アマゾンの厳しい掟を破って、勇士の国の|凜々《りり》しいアキレスに魅惑されながら、彼を殺害し、自殺を遂げなくてはならないペンテジレーアに対するカネッティの深い共感をしめしている。掟を破るというアマゾン国からの離脱と、アキレス殺害という体験を経て真の愛に目覚めてゆく一連の経過が、ペンテジレーアのイニシエーションによって成立しているとすれば、ブルガリア辺境のユダヤ人共同体に生まれたカネッティがドイツ語選択者として誕生するのも、恐ろしいイニシエーション的「試練」によってのみ可能だったのである。
こうしたカネッティの個人的な歴史と運命をつくり出した根源的な原因は、しかし、ごく偶然のめぐり合わせに依存している。つまり、カネッティに固有の生、彼の第二の誕生は、ドナウ河下岸ルスチュクの彼の生家に下男として住みこんでいた、アルメニア人の|斧《おの》と関連していた。
彼の両親がルスチュクのスパニオル街で話していた言葉は、彼らの先祖が一四九二年の大退去により移住先のトルコへ、ついでブルガリアへ携えて行った数百年前の古いスペイン語だった。カネッティによれば、スペインを追い出されたこのユダヤ人の子孫「スパニオル」の街では、「世にもさまざまな血統の人間たちが住んでいたし、一日に七か国語か八か国語を耳にすることも稀ではなかった(5)」という。多くの国語が日常的に飛び交う言語環境のなかで、スパニオルたちは、数世紀を|閲《けみ》するなかでもほとんど変わることのないスペイン語を話して純粋な言語島を築き、しかもアシュケナージとの結婚によって血が混じるのを避ける厳格なエートスを守りつづけていたのである。
このようなスパニオル街のなかにあるカネッティの生家に、いつも悲しげな顔をしているアルメニア人が下男として住みこんでいた。この男は、イスタンブールのアルメニア人虐殺で家族全員を失って、ブルガリアに避難してきていたのである。|不憫《ふびん》に思った父親に引き取られた彼は、カネッティの人生における最初の亡命者であった。目の前で小さな妹が殺されるのを手を|拱《こまね》いて見ていたというこの下男は、炊事場の中庭でいつも悲しい歌をうたいながら、斧を振り上げて薪を割っていた(6)。
カネッティが人生の告白をはじめるきっかけとして使っている、「救われた舌」のようないくつかの記憶のうち、斧で薪を割るこの亡命アルメニア人の記憶は、彼の心的生活の秘密の引き出しを開けるどのような鍵を秘めているのだろうか。
(画像省略) 当時彼の両親は、自分たちだけの秘密の話をする時は、ウィーンで過ごした彼らの幸福な学校時代の言葉であるドイツ語を使っていた。古いスペイン語を母語とする彼らにとって、ドイツ語というのは一九世紀ウィーンの華やかな文化全体を意味していた。こうした文化の中心地ウィーンを辺境のルスチュクにつないでいたのは、言うまでもなくドナウ河である。当時、ドイツ語の新聞はウィーンから四日間の船旅をしてルスチュクに届いた。父親カネッティは、そうしたヨーロッパの匂いのするドイツ語の新聞を毎日おもむろにひろげては、神聖冒すべからざる「偉大な瞬間」をつくっていた。
ある時、五歳の子供は想像によって新聞を読む仕草をしている現場を来客に見つけられてしまった。この来客が、肝心なのは「文字」だと説明してくれて以来、子供の胸中に「文字」に対する抑えがたい憧れが呼び起こされたのである。彼は幼児の舌に習い覚えたスペイン語とはちがうこの魔法の言葉の意味を教えて欲しいと、どんなにせがんでも、両親は笑いながら、お前にはまだ早すぎると言って、取り合ってはくれなかった。そんな時彼は「腹を立てて走り去り、滅多に使われることのない部屋に走り込んで、両親から聞いたいろんな文章を、正確な抑揚で、呪文のように唱えて(7)」は、ひとりで練習してみるのだった。秘密の言語を習わせてくれない、とくに母親に対して、男の子は「深い恨み」を胸に抱いていた。幼児からはじまっていたカネッティのこのような言語への執着が、ある日異常な事件につながってゆく。
彼の隣家に、四歳年上の、|従姉《いとこ》のローリカが住んでいた。学校へ行くようになった彼女が、ある日習字帳を見せてくれた時、五歳の子供は青インクで書かれたノートの文字にたちまち魅了されてしまった。やがて「字を見せて」とせがむ子供に、少女は彼の鼻先にノートを突きつけたり、開いたノートを手に高く持ち上げ、「お前は小さ過ぎるわ! お前にはまだ読めやしないわ!」と嘲笑しながら、ぱっと逃げ出すという意地悪をするようになった。同じようなことが行なわれたある日、エリアスは炊事場の中庭に行き、アルメニア人の斧を持って来て、「じきに僕はローリカを殺してやるぞ!」という殺人の歌を繰り返し口ずさみながら、ローリカに向かって行ったのだ。ローリカの金切声を聞いて飛び出した祖父によって、この「凶悪な子供」の手から斧が取り上げられ、この時は大事にいたらずにすんだ(8)。
言語の問題と深く関連したこの「殺人未遂事件」がきっかけで、ついに母親から、学校に入る前に文字を覚えてもかまわないという許可がおりた。かくて、彼が愛していたアルメニア人の斧は、それまで固く閉ざされていた「文字」の扉を自らの意志で開けるための、ひとつの象徴的な道具に変わったのである。しかもこの道具を手にしたということは、追放の言語である古いスペイン語を生きていたひとりのユダヤ人が、ドイツ語選択者として生きるその後の彼の長い里程に、最初の一里塚を建てたことをも意味していた。
事件がこれだけならば、アルメニア人の斧の象徴的な意味も、文字や言語に対する五歳の子供の異常な執着も、いつしか記憶の底に埋められてしまっただろう。しかし、この出来事にイニシエーション的な意味をあたえる、もうひとつの事件が起こったのである。
それからしばらくして、一応の仲直りをしたふたりが、中庭で鬼ごっこをしていた時のことだった。ローリカは無意識の復讐心から、飲料用水の煮えたぎる熱湯の入った釜のなかへ、エリアスを突き落としたのである。頭を除く全身に火傷を負い、服を引きずりおろした時、皮膚も一緒に剥がれてしまうという重傷だった。父親は、運の悪いことに、移住の準備をするため、イギリスのマンチェスターに行っていた。生命が危ぶまれた。そんな最悪の事態のなかで幼いエリアスは、すべてを「包容してくれるような傷、つまり父」だけを思いつづけて、スペイン語で「いつ来るの?」と叫んでいた。
長途の旅から帰って来た父親を見た時から、全身の傷はひとつの奇蹟に変わり、治療に当たっていた医師は、彼の手がけたあらゆる出生のなかで最も困難だった「再生」の証人になったのである(9)。この「再生」という苦痛に満ちた経験は、両親にとっても少年カネッティ自身にとっても、進行しつつある「いくつかの大きな出来事」の皮切りになった。
大きな店を経営し、自分の息子をひとりたりとも手放したくなかった権力者の祖父は、一家をあげて移住しようとする息子を厳かに呪ったが、それは信心深いユダヤ人の間ではごく稀にしか起こらない、このうえなく危険でかつ恐ろしいものだったという。こうして、カネッティ親子は祖父の圧制からぬけ出すと同時に、ブルガリア辺境のあまりにも狭く、あまりにも東洋的過ぎるルスチュクのスパニオル街から離脱して、イギリスに渡って行く。
その頃、東欧の辺境から「マンチェスターに移住するスパニオルたちの数はかなり急速に増大していた」というが、それはあのアムステルダムのラビ、メナセ・ベン・イスラエルが、ユダヤ教徒の英国居住の可能性をめぐってクロムウェルと折衝しはじめた時から、じつに二五〇年後のことであった。こうして、北アフリカの諸都市からトルコ帝国の中央諸州に向かったセファルディと、ポルトガルからロンドンやアムステルダムへ向かったセファルディとが、英国で合流し、ようやくヨーロッパ大陸全域にまたがる離散の円環が閉じられたのである。
さて、家庭で話す言葉もスペイン語から英語にとってかわられ、エリアス少年が小学校に通うようになった頃、彼のその後の全人生を規定するような「荘厳で興奮的な出来事」が起きた。つまり、父親が六歳の息子に、児童向けの『アラビアン・ナイト』を買ってきてくれたのである。この時から、洋の東西を問わぬ古今のありとあらゆる本をとりつかれたように読んでゆくカネッティの読書遍歴がスタートを切る。こうして古いスペイン語の世界を抜け出し、ヨーロッパと向かいあうことができた少年カネッティは、ある日曜日、父親に連れられてマージ河畔の|草原《メドウ》に行った時のことを回想している。
「お前は何になりたいか?」という問いに、少年は思わず「ドクターに!」と言うと、父親はやさしくこう言った。「お前は自分がなりたいと思うものになるのだよ。私や伯父さんみたいに商人になる必要はない。大学にいくがいい。そしてお前が一番望むものになるのだ。(10)」しかし、それからわずか数カ月後、祖父の呪いが的中したかのように、父親は三〇歳で急死する。
殺人未遂と大火傷の事件から、祖父の呪いとブルガリアからの脱出の後に父親が急死するという、こうした大きな出来事の連鎖のなかで、カネッティが置かれた境界状況はますます危険な様相を強めてくる。スパニオル共同体と母語の世界から離脱し、最愛の父親まで失ってしまった、この七歳の少年は、いまや「孤児」同然の寄るべない存在である。
こうして、二七歳の母親に連れられて、ふたりの弟とともにウィーンへの旅がはじまるが、中継地点のローザンヌでとりわけ厳しい変化の試練が少年を待ち受けていた。レマン湖北岸のこの観光都市に着くやいなや、母親は「ウィーンの学校へ入るのだから、お前はすぐにドイツ語を学ばなくてはなりません」と言い、本屋から英=独対照文法書を買ってきて、早速授業を開始したのであった。それは、母親が挙げる例文を口づてにいきなり復唱し、そのまま記憶しなければ|罵倒《ばとう》されるという恐怖のドイツ語特訓であった。できなければ、少年の心をこのうえもなく残酷に傷つける「馬鹿」という言葉が情け容赦なく飛んでくる。本もあたえられず、そっと教えてくれる人もいない少年が、たちまち孤立無援の「危険な状態」に陥ったことは言うまでもない。しかし、一カ月後には「最悪の苦しみ」が終わって、母親とドイツ語で話しはじめる「崇高な時期」のなかへ移って行く。こうして、ウィーンでの学校時代から結婚生活を通じて、母親の信頼に値する愛の言語であったドイツ語が、息子にとって「遅蒔きながら真の苦痛のもとに移植された母国語」になったのである(11)。
母親のドイツ語特訓から、父親の急死、イギリスへの移住、大火傷そして殺人未遂事件と遡って行くと、「移植された母国語」をもつにいたったカネッティの運命は、あのアルメニア人の斧に行き着くのだ。ウィーンはあまつさえ芸術好きの学生がゆく街であるが、カネッティがもしこのウィーンで生まれ育っていたならば、スペインの意識と追放の影をただよわせた、彼の斧さながらに鋭いドイツ語の文体は花開かなかっただろう。幼いカネッティの言語への執着を象徴している亡命アルメニア人の斧は、作家カネッティの歴史と運命をつくり出した根源なのだ。
アンデス山頂に落ちる雨の滴は、小石ひとつが分水界をなして、そのわずかな曲がり具合で、一方は急崖をころげ落ちてまたたく間に太平洋に、他方は六七七〇キロもの長旅をしてついに大西洋にいたる。もし周囲の期待通りカネッティが商人か医者の道を歩んでいたならば、ブルガリア辺境の「殺人の歌」をヨーロッパの詩人の歌へ再生させてゆく、文学的イニシエーションの長旅もまたあり得なかったであろう。
ベルリン「黄金時代」の虚妄
一九九一年八月二八日の午後、電車が鉄橋にさしかかると、灰青色のドナウ河の向こうにブルガリアの都市ルスチュクの町が見えてきた。ここまでたどり着くのに、マドリッドからフランクフルト経由で五日間という、車中泊を三回も重ねての長い旅であった。
ルスチュク駅のバンクで二〇ドル、五〇マルク、そしてウィーンで使い切れなかった三〇〇シリングをキャッシングすると、一二六〇レバがきた。一万九〇〇〇円ほどの金額である。駅前からタクシーに乗った。四〇レバ取られて、ホテル・リガに案内された。後で当地の人から聞いた話では、「タクシーはすべて|騙《だま》しだ」という。ホテル・リガもまた七五〇レバという法外な高さだった。夕方町中のカフェで会った男は、ブルガリア人男性の月平均所得は一〇〇〇レバだから、あなたはその給料の大半をただ眠るためにだけ使ったことになりますね、と言って笑った。
しかし、私の一〇階の部屋からは、ドナウ河の雄大な眺望がひらけており、行き交う船や船着き場、対岸ルーマニアの広漠たる風景は、いくら見ても見あきることがなかった。ドイツ語のできるフロントの女性は、親切にエリアス・カネッティの生家を市街図で教えてくれた。旧シナゴーグもその近くにあるという話だった。
私はカメラをもって早速出かけた。市の中心の九月九日通りに入ったところで、中年の男性に道を尋ねると、彼はデュッセルドルフで五年間働いていたということでドイツ語がよくでき、私をカネッティの生家まで案内してくれた。かつてのユダヤ人居住地にあるカネッティの生家は、豊かな穀物商の家柄にふさわしい赤っぽい煉瓦造りの豪邸で、現在はドナベータという高級家具店になっていた。店内には喫茶店もあって、若い男女が四、五人お茶をのんでいた。
「ここにはカネッティにちなんだプレートもなければ、カネッティ通りという名称もないんですね」と言うと、男は首をすくめて、「この国にはまだ社会主義国家が生きているのですよ。パルタイの幹部は労働だけを強調して、精神や知性に向かう努力を嫌っていますからね。カネッティがルスチュクに生まれたにしても、まったく問題にされないのは当然ですよ」と言った。
その時、二階から女性の大きな声がした。その声は、あんたたちそこで何をしているの、と言っているように私には聞こえた。彼は手ぶりで出ようと言った。そこからさらにシナゴーグへ案内してくれた彼は、道々、自分は三年課程の工業学校を卒業した電気技師だが、いまだにパルタイの監視の目に怯えているんです、と言った。シナゴーグは小さな野菜や果物を売る屋台が七、八軒並んだ広場に面して立っていた。しかしこれもヒトラーの時代に破壊され、社会主義政権の下で富くじ「ロットー」の事務所になっているという。「知的な努力が禁止されるか制限されているというのが我々の運命ですよ」という電気技師の最後の言葉が印象的だった。
(画像省略) 彼と別れて、またカネッティの生家にもどり、そこからドナウ河に向かいながら、このスパニオル街に生まれ、まさしくここを意識の中心にすえていたカネッティにとって、「書く」とはどのような意味をもっていたかを、私は考えつづけていた。
カネッティは『群集と権力』(一九六〇年)の「不死について」の章のなかで、スタンダールの「書くこと」の特別な意味について述べている。それによれば、スタンダールは秩序というもっともらしいトリックには頼らず、言語を独力で浄化するという使命を自らに課した男であった。この真に自由な男は、「書く」ことで秩序の側の征服者になり、読者を魅了して「虚名」を得ている作家たちとは無縁の人間であった。彼は自分と一緒に同時代を生きたあらゆる人々を彼の作品のなかへ存在させることによって、彼らを不死にみちびいたのである。したがって、どんな偉大な人、どんな卑小な人をも殺すことを|肯《がえん》じなかったスタンダールは、世界を征服し、「殺す」ことに一切を賭けた権力者たちとは正反対なのであった。カネッティは書いている。「権力者たちは生きている時殺したように、死んでからも殺すのであり、殺された者から成る随員たちが、この世からあの世へと彼らに従うのである。(12)」
現実のこうした権力者たちの世界とは逆に、スタンダールの世界からは、死者たちが一〇〇年、二〇〇年経た後にも生者たちへのきわめて高貴な糧として現れ得るのだ。「かれらの不死は」と、カネッティはつづける、「生者たちに役立つ。それは死者と生者の両方に役立つ、死者への|供犠《くぎ》の|転倒《ウムケールング》である。両者の間にはもはや激しい憎悪は存在せず、生きのこることからその|棘《とげ》はとりのぞかれたのである。」
このようなスタンダールと同様、カネッティにとっても、「書く」ことは、紛れもなく「死者への供犠の|転倒《ウムケールング》」であった。だから彼の作品のなかでは、あの亡命アルメニア人のように、秩序からはずれたどんな小さな人物も、「真に生きている」権利をもち得ていたのだった。それゆえ彼の書くものはすべて、彼の根源の熱烈な瞬間につねに密着している必要があった。その意味でカネッティは、彼が作家として書きはじめた時、あらゆる権力者たちの世界から予め「追放」されていたのである。
カネッティは自伝『耳の中の炬火』のなかで、ウィーン大学に入学した一九二四年七月、亡父の妹たちの招待でソフィアを訪れた時のことを回想している。彼がソフィアに着いて目撃したのは、移住というきわめて異常な喧噪だった。親戚の一家ばかりではなく、他の数家族も二、三週間のうちにこの町と国を去り、約束された目的の土地パレスティナへ移住する準備をしているのであった。ソフィアだけではなく、全国津々浦々のスパニオル社会全体が、シオニズムという同一化への運動に転向していた。シオニズムの主唱者テーオドル・ヘルツルの『ユダヤ人国家(13)』が現れてからわずか二六年後のことである。
ブルガリアでの暮らし向きが悪かったわけでもなく、迫害を受けたり極貧にあえいでいたわけでもなかったのに、このセファルディ諸集団の間に、パレスティナへの移住熱が|蔓延《まんえん》していた。その熱をかきたて、スパニオルたちの分離主義的な尊大さを標的にしていた雄弁家のなかで、とりわけラジカルなのが、カネッティの母方の|従兄《いとこ》、ベルンハルト・アルディッティであった。このシオニストは、最も大きなシナゴーグでさえ収容しきれないほど大勢つめかけてくる聴衆に向かって、四〇〇年来の追放の言語である古いスペイン語で、約束の地への帰還を熱烈に説いていた。
カネッティは、この古いスペイン語を、成長のとまった子供用語か、台所用語としか見ていなかった。ところが今、追放の言語で政治的・思想的な問題が堂々と語られているのを見て、彼は驚きを禁じ得なかった。追放の言語は、何千年も前から約束されてはいたが、目下自分たちのものではない国土の再獲得に向けられた言語になっていたのである。こうした国土再獲得の運動をシオニズムというなら、カネッティは作家になるための条件をもとよりこの運動のなかには求めていなかった。
シオニストの従兄に向かって、大学生カネッティはこう言った。「私はドイツ語で書きたいし、他のいかなる言語でも書きたくない。」
この決意において注目に値するのは、「書く」ことの対象にではなく、「書く」当人の使用言語「ドイツ語」にはっきり重点が置かれているということである。これに対して、シオニストは不満げに首を振って言った。「何のために? ヘブライ語を学びたまえ! これはわれわれの言語だ。これよりもっと美しい言語があるとでも信じているのかい?(14)」
ドイツ語を否定し、ヘブライ語を学ぶようにすすめるこのシオニストは、「書く」対象をはじめから限定しているのである。彼にとって、「書く」とは彼が「語る」ことと同義であり、それは同胞を熱狂のうちに約束の地との再統合へと群衆化することであった。それに対してカネッティは、移住者を見送るためソフィア駅のプラットホームに集まった人々が、歌ったり、祝福したり、泣いたりする出発の光景を見ながら、追放と離散の運命から片時も目をそらすまいとしていた。それどころか、彼の|裡《うち》でますます強まっていった「ドイツ語で書く」という決意が、追放状態に身を置こうとする彼の意識と深く関連していたことは、それから四年後の首都ベルリンの体験からやがて明らかになってくる。
一九二八年七月、ウィーン大学で化学を専攻していた二三歳の学生カネッティは、ハンガリア出身の女流詩人イッビー・ゴードンに招かれて、ベルリンに向かった。マリク書店の経営者ヴィーラント・ヘルツフェルデが計画していた、当時のアメリカの人気作家アプトン・シンクレア伝のプロジェクトを助けるというのが、招待の理由であった。ヘルツフェルデを介して、カネッティはその兄のモンタージュ写真家ジョン・ハートフィールドや、画家のゲオルゲ・グロッス、詩人・劇作家のブレヒトと知り合いになった。ベルリンの黄金時代を文字どおり体現していたこれら左翼芸術家の言語に対して、まだ何ひとつ作品を書いていないカネッティは、どこに彼自身の言語を位置づけてゆくのであろうか。
すでに『家庭用説教詩集』を書いており、その夏『三文オペラ』で当たりをとるブレヒトは、独特のプロレタリア的変装のゆえに、カネッティの目を引いた唯一の人物であった。彼はブレヒトの詩を読んで、自分の書いたものが一挙に粉々に破壊されてしまったのを、感じた。こうして、彼の書いたものは「もはやまったく存在していなかったし」、「何一つ、恥すらも残っていなかった。」
だが、その最良の詩によって打ち負かされはしたが、カネッティは刺すような黒い眼をもつこの左翼芸術家と面と向かっても、一歩も後にひかなかったし、それのみか自己を主張するだけの余裕さえもっていた。カネッティがベルリンを堕落させている宣伝広告を非難すると、ブレヒトは、宣伝広告にはそれなりに良い面があって、自分はシュタイル=自動車について一篇の詩を書いて、お礼に車をもらった、と言った。金銭をおおいに愛したブレヒトに対して、カネッティがもち出した作家の条件はつぎのようなものであった。
「人はただ、ある信念から発してのみ書くことができるのであって、決して金銭のために書いてはならない。」「作家は何かを完成するためには|籠居《ろうきよ》しなくてはならない。(15)」
「激しい怒り」をこめたカネッティのこの言葉は、ベルリンの黄金時代を生きるブレヒトにとってはまったく空疎なものであった。しかし、こうした議論の応酬において我々は、過去四〇〇年以上も追放と離散を生きてきたスペイン系ユダヤ人の意識が、北国ドイツで、しかも文学の根本的な問題をめぐって、おそらくはじめて自己を主張する場面に出会っているのだ。
一方、グロッスのデッサンは、すでに少年の頃からカネッティの琴線に触れていたものだった。したがって、ベルリンに出発前、カネッティが他のどんな作家にも増して重要であると見なしていたのは、画家グロッスであった。第一次世界大戦ちゅうのベルリンに登場していたこのダダイストは、『支配階級の顔』や『|この人を見よ《エツケ・ホモ》』などによって、ドイツ革命の挫折で温存された資本家と軍人階級の傲慢さを痛烈に批判した芸術家としてつとに知られていた。ヴィーラント・ヘルツフェルデの案内で、念願のグロッスと会った時、カネッティは『|この人を見よ《エツケ・ホモ》』のファイルを本人から直接プレゼントされた。|猥褻《わいせつ》な絵として公表を禁止されていたこのファイルは、ネオンに輝く大都市ベルリンの夜の生活の、見るも恐ろしい被造物たちを描いていた。グロッスのデッサンから人は、平手打ちをくらったような印象を受けるが、このグロッスに対してもカネッティは、ブレヒトにつきつけたのと同じような批判によって自らの態度を決しようとするのである。
(画像省略)
当時のベルリン生活の本質的な現象のひとつは、パトロンたちの存在であった。ロマーニッシェス・カフェーにたむろするそうしたパトロンのひとりが、美しい女流詩人イッビー・ゴードンに助成金を申し出た。そのうえ彼は、二、三カ月間、ベルリン中心部の、自分の会社の所有になるビルのアパルトマンを、イッビーのために提供したのである。彼女はある夜ここに大勢の芸術家を集めて、盛大な新居移転の祝いを催した。カーペットを敷きつめただけで家具をひとつも置いていなかったため「空所(16)」と呼ばれたこのアパルトマンでの宴会の中心は、なんといってもあのベルリン社会の悪徳を鞭打つ画家、酔払って猥褻な「|尻《シンケン》」の讃歌を放歌高吟するグロッスであった。カネッティは、こうした百鬼夜行のベルリンに|背《そびら》を返し、「外」への逃走を決意したのである。カネッティの目には、ベルリンの黄金時代をつくっている多くの偉大な名前たち、あるいは芸術の権威たちが、突如として空虚なもの、嫌悪すべきものに映ったのだった。
このようなブレヒトおよびグロッスに対する批判から明らかになってくるのは、作家カネッティが企てた「書く」ということの意味の転倒なのである。ブレヒトなりグロッスなりが「書く」あるいは「描く」ということは、黄金時代のベルリン征服を意味していたはずである。彼らにあっては、そもそも「書く」ということは、容赦なく人に|殴《なぐ》りかかることであり、別の名前からその輝きを奪い取ることであり、忘れられないために、有名カフェーで己れを見てもらうことであり、途方もなく苛烈で冷酷な描写を社会につきつけることであり、こうして観客なり読者なりを熱狂的な群衆に変えてしまうことであった。
だが、カネッティにとって「書く」ことの意味は、ベルリン征服者の構成する世界から断固として身を引き離すことであり、受動性、無名性、そして夢幻性を伴った「外」なる自己のうちに「籠居」する孤独な体験にもとめられるべきものだったのである。
先に述べたイサーク・ルリアの後期カバラが、神の自己自身への「亡命・撤退」を軸にして展開され、それがまたセファルディやマラーノのスペインからの追放の精神的所産であってみれば、カネッティの「書く」という行為の転倒に見られるのも、この追放=亡命という、世界の「外」への執拗な志向にほかならない。スピノザがそうであったように、カネッティもまたすべての力であるものから、都市から、政治と芸術の権力から、富やシオニズムと一体化した親族からさえ「追放」され、まさにその剥奪状態のなかに「書く」ことの成立条件を見出そうとしているのである。このような位置からは、ベルリンの黄金時代の特質をなしていた自負心の誇示が、じつは集団的な不安の一徴候であることが、よく見えていた。
二度目のベルリンからウィーンへもどって来たカネッティは、あまり人目につかぬ通りを長い時間繰り返し歩きはじめる。行く手の道は、ベルリン滞在ちゅうに目撃した一切のものが何の規則もなく千姿万態をもって現れてくるので、絡み合い入り乱れて生成しつつある原始林さながらであった。ベルリンから携えてきた混沌から、肉体を備えた人物たちがつぎつぎに現れてきては、カネッティを脅かしつづけた。そうした人物たちに対する恐怖と好奇心に駆られ、同じ道をいよいよ早く突進しながら、たまたまどこかの飲食店に腰をおろして、運動ちゅうに起こったことをことごとく書きつけてゆくのだ。このような幻想の魔力に憑かれた世界の「外」にあっては、ブレヒトといえども、車椅子のなかの名もない足|萎《な》えのトーマス・マレクよりよほど見劣りがするし、本来、幻想小説『|眩暈《めまい》』の中心人物になるはずだったカール・クラウスでさえ、ユダヤ人の|傴僂《せむし》フィッシュレルの演じる人間喜劇以上の役割をあたえられてはいない。
カネッティは、すさまじい混沌のなかからしだいに輪郭を得てきた八人の人物たちが語る「己れの特別な言語と己れの特別な思考方法(17)」を、衝動に駆られるままに書きつけてゆく。その限りにおいて、彼は自己表現をしてはいないのであって、彼の|裡《うち》なる人物たちの発しつづける言語をただ記録するだけという意味で、すでに純粋な受動性に身をゆだねているのである。カネッティの自我は、こうした「常軌を逸した」観念|奔逸《ほんいつ》の渦のなかで眩暈をおぼえ、「恐ろしい大火なくして帰結はない」という破局と向かい合う以外に、もはや救い道はなかった。かくて、『眩暈』の中心人物ペーター・キーンは、己れの書庫に火を放ち、己れの蔵書とともに焼け死ぬという帰結に向かって、一直線に進んで行ったのである。
エリアス・カネッティのこのような文学体験の基底には、スペインからのユダヤ人追放という過去の意識が秘められているのは言うまでもない。セファルディ系ユダヤ人が追放と離散という剥奪状態に身をさらしたように、カネッティもまた、金銭への、名声への欲望渦巻く芸術家たちの王国から脱出して、いかなる権威にも帰属することのない破局状態の不安のなかで、「書く」という眩暈に向かって|彷徨《さまよ》って行くしかなかった。
こうした追いつめられた者の意識から、マラーノの存在を根底から脅かしつづけた異端審問と異端者の火刑「アウトダフェ」の強迫観念が、自我剥奪状態に身を置いたカネッティの「書く」ことに再帰する。したがって、一九三一年に二六歳のカネッティによって書かれた小説『眩暈』、あるいはその英訳名を借りれば、まさしく『アウトダフェ』(一九四六年)のなかに、中国文学者ペーター・キーンが、邪悪な火に眩暈をおぼえながら登場するのである。
アレクサンドリアの図書館焼失、火刑に処されながらも凝然としてなお薪の山のうえで祈りの言葉を叫びつづけている、中世の木版画に描かれた数十人のユダヤ人たち、紀元前二一三年に秦の始皇帝が発した|焚書《ふんしよ》命令、そして、終始中国文学者キーンの妄想のなかに|熾《おこ》り、最後に彼の身体を焼く火炎「遂に炎が身体にとりついた時、その生涯についぞなかったほどの大声で笑いころげた(18)」という文章で、小説『眩暈』は閉じられる。ここにちりばめられた、荒れ狂う邪悪な火の表象は、あたかも二〇世紀のアウトダフェ、すなわち、あの国会放火事件から焚書、さらに水晶の夜のシナゴーグ焼き打ちとアウシュヴィッツを経て、自らの焼身にいたるナチ指導者たちの、野蛮な火の妄想に彩られた、暗黒の歴史をすでに予言していたかのようである。
カネッティは世界の「外」へと|彷徨《さまよ》い出ながら、歴史の風のなかに向かって書きつづけようとしていた。それゆえ、一九三九年にナチの第三帝国から亡命したカネッティは、ドイツ語を移住先のロンドンへ携えて行き、この追放の言語でなお彼の著作活動をつづけていったのである。その時、作家カネッティの目の前に横たわっていたのは確かに歴史の死相だったが、それでもこうした歴史の破局から先祖たちが不死の者として繰り返し|甦《よみがえ》り、生き残ってきたことを、彼は知っていた。カネッティは数百年前に失われた「故国」に、今また新しい失われた「故国」を積み上げざるを得なかったが、それは彼がいよいよ独自の「書く」言語を構築する前提にもなったのである。
その内部に「ふたつの言語がきわめて密接に共存している文学者」は、世界の歴史のなかでもエリアス・カネッティただひとりであり、彼はそのことを、「誰にも妨げられたくない珍しい運勢(19)」と呼んでいる。この時、この二〇世紀のケベードは、スペイン語とドイツ語のふたつの追放の言語によって、彼の|裡《うち》なる真の「祖国」にたどり着いた幸運について語っているのである。
(画像省略)
歴史の風を、ほかのいったい誰がこれまで視野のなかにあえてはっきりとらえようとしただろうか。焼けつくような荒地を|彷徨《さまよ》い、危険な海を漂流した「死者たち」の不安と苦痛をありありと再現前化する者以外の誰も、おそらく人々を|薙《な》ぎ倒して吹いてゆく|禍々《まがまが》しい歴史の風の行方を、己れの眼で見、己れの言葉で書きとめようとはしなかったのだ。金銭によってでもなく、また権力によってでもなく、もっぱら「書く」言語の成立によって|僥倖《ぎようこう》をつかみとった者は、故郷を忘れることができないために、その顔を故郷の方に向けて、しかし故郷とは反対の方向に飛んで行く鳥のようだ。
このようにスペインの過去の意識は、四〇〇年以上も歴史の|暗渠《あんきよ》を流れて、ついにこの地から浮上したのだ、と私は、もう一度カネッティの生家を見上げながら思った。そこから五、六分行けばもうドナウ河である。夕日のなかを流れきたり流れくだる広大な河の眺めは、幼いカネッティの目を最も引きつけたものであったろう。カニェテ一族が数百年にわたる追放と移住の旅のなかでも決して失うことのなかったスペインの過去の意識は、その|末裔《まつえい》により一段と強化されて、まさにこの船着き場からヨーロッパに運ばれて行ったのであった。
その翌々日の午後、私はイスタンブールのシナゴーグの前に立っていた。ノックをすると、三〇歳くらいの男性が現れた。「シナゴーグのなかを拝見させていただけますか」とドイツ語で尋ねると、今日はもう安息日「サバト」に入っているので駄目だ、と言う。そう言いながらもう扉をしめようとする男性に、私は、「皆さんは日常どのような言葉で話しているのですか」と尋ねた。「私たちはスペイン語とヘブライ語しか話しません」と彼は答えたが、それはしかし立派なドイツ語だった。
ガラタ橋を渡り、グランドバザールの多彩と活気のなかにもどって来ながら、私は、言語島が五〇〇年この方、あのように純粋に生存していることに、圧倒されつづけていた。
左右から雑多な叫び声や呼び声が聞こえ、さらに私の頭上ではコーランの朗誦がいつ果てるともなく響きわたっていた。中央郵便局前の広場に入って行った時、石段の脇に置いてある、乳母車の小さな箱のなかのものに、私の目が止まった。
黒っぽい木の箱のなかから、|襤褸《ぼろ》にくるまれて、往き来する人々をじっと見つめていたのは、三〇歳くらいの男の顔だけ[#「だけ」に傍点]、いや、その大きな目だけ[#「だけ」に傍点]であった。彼の目は、人間の全存在を凝縮した唯一の「自己表現」であった。
私はどきりとして、その場を離れた。一瞬あの|男《ひと》の両手と両足はどうなっているのかという疑問がわいてきたが、それからすぐ思い出したのは、我々の深層に異様に深い感動を喚起する、カネッティの短篇『見えざる者』であった。
『マラケシュの声』の|掉尾《ちようび》を飾るこの作品の主人公は、広場の地面に置かれた、枯草色の小さな襤褸の包みである。というより、そのなかから止むことなく発しつづけている、昆虫の|羽音《はおと》のような、「エーエーエーエー」という|唸《うな》り声である(20)。
その生きものは夜ごと広場にあるが、だれに運ばれて来たものか、自分の足で歩いてきたのかも分からぬ、神秘的な存在であった。ただ声だけを出しているこの生命には、前にころがっている硬貨を|掴《つか》もうにも肝心の両腕がなかったかもしれず、神の名「アッラー」の「ル」の音を出そうにも肝心の舌がなかったかもしれなかった。だが、顔も目も見えないこの生きものが|倦《う》まず|弛《たゆ》まず出しつづけている唯一の音は、夜、大きな広場全体の他のあらゆる音の後に「生き残っていた」。
生の名に値するぎりぎりの所でなお「生き残っている」、このような存在の現実性に向かい合うことが、ベルリンの黄金時代に|背《そびら》を返したカネッティの、「外の思考」のひとつの到達点を表しているのである。
[#改ページ]
後書きにかえて──外の思考
[#ここから5字下げ]
「二つの世界のはざまで生き……|欺瞞《ぎまん》と絶望しか出てこないこの不毛な二つ裂き。(1)」
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](マルト・ロベール『エディプスからモーゼへ』)
スペインは、長い歳月にわたって、私を惹きつけてやまない美しい国であった。この|燦爛《さんらん》たる光の国のなかに、隠れユダヤ教徒「マラーノ」の死の匂いとその追放の悲劇が色濃くただよっていることを知った後も、スペインの吸引力が私のなかで衰えることはなかった。だから、マラーノについての研究をしようと思い立った時、イスラム・ユダヤ教・キリスト教が混在して揺れ動いた中世末期の姿を今日でもはっきり見せてくれるスペインそのものが、私にとっては最大の資料となったのである。
マラーノの運命。というより、そもそもマラーノであるということは、表向きのキリスト教徒と内なる隠れユダヤ教徒に引き裂かれた人間の、不安な生活と意識の状況を表している。しかもその不安な状況は、三〇〇年以上も活動を止めなかった異端審問所だけでなく、隠れユダヤ教徒の一挙一動に目を光らせる周囲の密告者たちの存在によっても、いっそう強められていったのである。マラーノであるということは、とりわけこのような生命の危機と共生することを意味していた。しかし、執拗で気違いじみた何世紀にもわたる迫害と、さらには彼らのさだめない流浪の旅のなかから、マラーノたちは知的活力を失うことなく、つねに新たに|甦《よみがえ》ってきたのである。あたかもそのような不幸によって、彼らの生き残る意志、生存への|強靱《きようじん》な力が鍛えられていったかのように、我々の目には映る。
このようなマラーノ像は、日本において従来どのように紹介され、研究されてきただろうか。マラーノの歴史的・概念的な位置づけに関する紹介は、おそらく、豊川昇によって翻訳され、昭和一三年に改造社から出版された、カール・ゲプハルトの『スピノザ概論(2)』をもって|嚆矢《こうし》とする。この書物の第一章に、マラーノ論が置かれているのである。
さらに日本人の手になるマラーノ研究として、私が最初に読んだものは、増田義郎著『コロンブス』(岩波新書、一九七九年)であった。同書は、マラーノについての全体的な歴史研究ではないにしても、コロンブスという謎の人物を取り巻いている大勢のユダヤ系改宗者「マラーノ」の群像を浮き彫りにすることに見事成功している。そして同書は、一六世紀スペインの文学的・知的な文明の頂点を改宗者たちの苦悶に負っていると指摘した現代スペインのふたりの歴史家、アメリコ・カストロとアントニオ・D・オルティスの所説、さらには一六世紀スペインのエラスムス主義者のうちに改宗者たちのすぐれた仕事を跡づけた、現代フランスのマルセル・バタイヨンの研究(一九三七年)にも言及している。マラーノに関するこうした叙述のなかで、オルティスのつぎのような言葉が、私にはとくに印象的だった。「今から二五年前に、わが国の(一六世紀の)文学、思想、神秘思想などがユダヤ人の子孫の創造であるなどと言っても、誇張としかうつらなかったろう。それほどこの問題はわかっていなかったのである。(3)」
ところで、私のマラーノ研究に最初のきっかけをあたえてくれたのは、序文にも述べたように、一九四二年アウシュヴィッツでナチの犠牲となったドイツのジャーナリスト、フリッツ・ハイマンの『死か洗礼か』(刊行は一九八八年)であった。この本と、ハイマンの処女作『ヘルデルンの騎士』(一九三七年、復刻版一九八五年)は、ドイツの歴史学者ハインリヒ・グレーツの|広瀚《こうかん》な著作『ユダヤ人史』(一八五三―七〇年)および、英国の高名なユダヤ史研究家シーセル・ロスの『マラーノの歴史』(一九三七年)を越えて、マラーノの歴史像に現代的な照明を当てようとした画期的な試みであった。このようなハイマンの研究が再評価されるようになったのは、一九八〇年代後半になってからである。
以上見たように、マラーノ研究は、スペイン本国においてはむろんのこと、その他の国々においてもようやく緒についたばかりというのが現状のようである。ましてや、スペインを追われたセファルディやマラーノが移住先の国々でどのような社会的・歴史的な、あるいは文学的・思想的な射程を伸ばしていったかという問題の考察にいたっては、なおさらである。
いま、マラーノおよびセファルディの足跡をたどろうとする私の問題意識に、芸術と心理学の境界的な仕事で知られる、ウィーン生まれの美術批評家エーレンツヴァイクの、つぎのような言葉が甦ってくる。「辺境の民としてのユダヤ人の運命のなかには、自ら進んで自己を放逐しようとする幻想のなんらかの象徴があるように思われる。(4)」
確かに、古代から現代まで絶えず繰り返されてきた、ユダヤ人の流浪運動の根底に、現在の私のテーマである「外の思考(5)」とでも言うべきものが、存在するように思われる。この思考は、荒野に放逐されて死滅する犠牲者ないし避難民の役を自ら引き受けるユダヤ人の、一見自己破壊的に見える衝動と関連しているが、それはしかし、視点を変えてみれば、どのような破局的状況のなかでも「生き残ること」への人間の希望と確信でもあるだろう。
したがって、本書では、いわゆる「ユダヤ人問題」を論ずることが、私の目的とはならなかった。「ユダヤ人問題」というのは、ボルヘスも言うとおり(6)、その人種や身分に関して世にいろいろ取り沙汰されているユダヤ人が問題であると仮定することにほかならない。問題が虚偽であることの不都合な点は、それによって虚偽の解答が引き出されることである。ナチの時代ドイツに広く流布していた非合理的な世論母胎の公的表現となったヒトラーやローゼンベルクの著書によって、ユダヤ人問題が人類史上最も不幸な解答をあたえられたことは、あらためて言うまでもない。
またユダヤ人のなかでも、選民意識を携えて領土化に向かうシオニストの問題を取り上げることも、私は目的としていなかった。私の問題意識は、もっぱら離散ユダヤ人に向けられていた。この数年間、私はカフカの作品やショーレムのカバラ論を読みながら、その背後にある追放と離散の問題を、もっと根源的に理解したいという気持ちが、高まってきていた。
そこで私は、一九九〇年七月、フランクフルト学派研究家として知られる友人の徳永
|恂《まこと》と、ドイツから一路スペインに向かったのであった。一四九二年の大|退去《エクソドウス》勅令によって追放されたユダヤ人の足跡を実際にたどってみるのが、当面の目的であった。
旅をしながら、スペインからの追放が流浪ユダヤ人の根源となり、この根源がまた彼らの移住先の国で、新しい意識と知の解放になっていったのではないか、という思いが次第に強まってきた。そして、このような根源をつねに意識の中心にすえて、現代ドイツ文学の圏域まで追放の道をつき進んで行った知性を、私は探しはじめていた。
しかし、スペイン、ポルトガルのシナゴーグを訪ね歩いて帰って来た時、トーマス・マンの作品の根底に、表向きの北方的・市民的なものと内なるスペイン的・異国的なものとに引き裂かれた人間という「マラーノ」的な主題が|揺曳《ようえい》していることにようやく目が開かれただけで、スペインの過去の意識を表明しているドイツ語作家の存在は、まだ私の視野のなかに入ってきてはいなかった。それでも、人間らしい生活の岸辺にようやくたどり着いたユダヤ人難民の言語島から小舟を漕いでドイツ文学圏に向かった作家がいるにちがいない、と私は予感しつづけていた。もしそうした作家がいるとしたら、世界の内側から外なる根源へ駆り立てられている、彼の幻想や意識は、実在性を獲得し、人の生活を価値づける芸術上のリアリティともなっているだろう。
一九九一年の一月中旬、私は旅行から帰って久しぶりに徳永恂と会った。ちょうど大阪大学で集中講義をしていた、私のかつての同僚エーバハルト・シャイフェレ氏も彼と一緒に来たので、たちまち、大阪では珍しい雪の夜の酒宴となった。リスボン埠頭の露店で買ったお揃いの、赤革のカバンを足元から置き引きされてしまった、アムステルダムでの我々の失敗談をしながら、私は、文学にも|造詣《ぞうけい》の深いこの哲学者から何か重要なことを聞きだせるような気がしていた。
そこで私は、追放されたユダヤ教徒の|末裔《まつえい》にスペインの過去の意識をもちつづけている作家はいないだろうか、と単刀直入にシャイフェレ氏に訊いてみた。氏は即座にこう答えた。「モンテーニュ。ボルドー市長でもあった随想家のミシェル・ド・モンテーニュの母親は、アントワネット・ロペスという名の、亡命マラーノでした。」
私はこの時、モンテーニュから二〇世紀の今日まで、フランスの先鋭的な批評成立の背景に、ことによるとマラーノの意識が活躍の場を見出しているかもしれない、と思った。
その後私は、二〇世紀のドイツ文学ではどうですか、とシャイフェレ氏に尋ねた。「ドイツ文学では」と、氏は少し考えてからこう言ったのである、「エリアス・カネッティ! 彼がそうだ。カネッティはアシュケナージではなく、完全なセファルディのはずです。」
この瞬間、私のなかで、一四九二年のユダヤ人追放とその|彷徨《さまよ》いが、二〇世紀のドイツ文学と繋がったのである。こうして、アムステルダムで、マラーノ関係文献ばかりか写真や旅のノートまで盗まれた私の、それらを復元する再度の旅に、「カネッティ」の主題が加わってきた。
それまで私は、カネッティの思想形成の根源をまったく意識することなく、最初の長篇小説『|眩暈《めまい》』を読んでいたに過ぎなかった。早速私は、新しい問題意識で、彼の自伝三部作を読みはじめた。すると、ベルリンの黄金時代を体現していた芸術家たちを批判する|条《くだり》に、カネッティの「外の思考」と言うべきものが、鮮明に表現されているのに気がついた。とりわけブレヒトは、金と名誉を愛し、「世界の外」にいるような羽目に決して陥らぬために、いつも壁にかけた世界地図を注視しているといった芸術家だった。このようなブレヒトに、カネッティは、まだ作品をひとつも書いていなかったが、「作家は互いに著しい対照をなす世界のなかの時代と世界のそと[#「そと」に傍点]の時代を必要とする(7)」という自己の思想を、つきつけたのである。
それは、一切の権威主義を拒否し、「世界のそと[#「そと」に傍点]」に向かって内的亡命をはかる作家の、国境を越えた普遍的意識であるにちがいない。このような外の思考が、たとえばマラケシュの広場に置かれた、枯草色の|襤褸《ぼろ》のなかから、「エーエーエーエー」と|唸《うな》りつづける「見えざる者」の存在にも、「生き残る」力をあたえ得るのだ。
二度目の旅の準備をしていた昨年六月、カネッティの翻訳者である岩田行一氏がちょうどウィーンに滞在しておられることを知って、私は早速氏に手紙を書いた。岩田氏からも、カネッティが永住の地とさだめたチューリヒにできれば一緒に訪ねたい旨の、あたたかい便りがあった。そして、カネッティと会う日が、八月一六日から九月一三日までのいずれかの日とさだめられた。だが、八月一三日の出発を二週間後にひかえた私に、ハンザー書店の代理人を通して、カネッティ氏が手術の必要あってスイスの病院に緊急入院するため、今回は残念ながら面会の御希望に添えなくなりました、との速達航空便が届いた。
このようなわけで、カネッティと会うことを断念して、私は、昨夏ひとりで、セファルディおよびマラーノの殉難の跡をたどる再度の旅に向かったのである。
右に記したように、本書は主として、一九九〇年七月のスペイン→ポルトガル→アムステルダム、さらに九一年八―九月のイベリア半島→ブルガリア→イスタンブールの旅にもとづいて、書かれた。とりわけ最初の旅で一緒だった友人の徳永恂ばかりでなく、本書が多くを負っているエーバハルト・シャイフェレ氏と岩田行一氏に、深く感謝する。私の旅の話を根気よく聞いてくださった藤原一二三氏に。牧師の職にありながら、「スペインにおける異端審問所設立に至る事情」というユダヤ人改宗者に関する論文も書いておられる氏は、専門外のテーマに向かう私を終始あたたかく励ましてくださった。
最後に、本書を執筆するようすすめてくださったうえ、出版までのさまざまな段階で骨折りをおしまれなかった人文書院編集部の落合祥堯氏に、感謝の意を表したい。
一九九二年二月二四日
[#地付き]小岸 昭
〔追記〕[#「〔追記〕」はゴシック体]
ちょうど本書の校正を進めていた時、四月二日付『毎日新聞』朝刊に、「五百年目の和解成立」という記事が載った。それには、式典会場に入場する、頭に帽子をのせたスペイン国王とイスラエル大統領の写真がそえられている。記事は、こう伝えていた。
[#ここから1字下げ]
【マドリード1日AFP時事】 カトリックに改宗しないユダヤ人をスペインから追放する勅令が下ってからちょうど五百年目に当たる三月三十一日、マドリッドでファン・カルロス・スペイン国王、ソフィア王妃、ヘルツォク・イスラエル大統領、スペイン国内のユダヤ人指導者らが出席して記念式典が開かれ、スペインとユダヤ人の五百年目の和解≠祝った。
勅令は一四九二年、アラゴンのフェルナンド国王とカスティリヤのイサベラ女王が出したもの。
この日の式典でファン・カルロス国王は、スペイン系ユダヤ人を指す「セファルディ」という言葉が「スペイン人」を意味するヘブライ語であることを指摘しながら、「スペイン国内のユダヤ人は今や自分の家にいるのと同じになった」とあいさつ。一方、ヘルツォク大統領は式典を評して「ユダヤ人とスペイン人の歴史的和解だ」と述べるとともに、「イスラエルの歴史上の痛々しい出来事の一つに終止符が打たれたと思う」と述べた。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
学芸文庫版への後書き
インドの英字新聞「ザ・ヒンドゥー」の一九九五年八月九日付の朝刊に、ペルシャ湾に臨むバーレーン国マナーマ発の、つぎのような記事が掲載されていた。
「インド・イスラエル文化協会のある集会の席上、駐イスラエル・インド大使シフシャンカル・メノン氏に対する、こんな歓迎の辞が述べられた。
『私たちはほぼ二〇〇〇年前からインドで、何の問題もなく、隣人たちと仲睦まじく平和な暮らしをしてきました。とはいえ、私たちはいつもイスラエルへ帰ることを夢見てきました。それが一九四八年から実現可能になりましたが、当時は他の乗り越え難い溝がありました。そしてついに今、私たちの父祖たちの国とわが母国インドが一緒になる幸せな時がめぐってきたのです。』
この言葉に含まれている気持ちは、まだインドに残っている六万人のユダヤ人共同体の感情を優しく包みこもうとしているようだ。先月初めエルサレムで開催されたある集会でも、これと同じような心にひびく発言があった。その時会場となったホリデイ・インのロビーで、最も幅をきかしていたのはマリャリャム語だった。」
右の記事「民族主義的|熱狂《フイーバー》に駆られて移住したユダヤ人」によっても知られるように、たとえばインド西南ケララ州の都市コーチンには、紀元七〇年のエルサレム第二神殿崩壊後、多くのユダヤ人が移住して来ていた。さらに、一四九二年のスペインからのユダヤ人追放後、最初の移住先ポルトガルを経て新たな避難所とした商業都市アムステルダムから|流謫《るたく》のセファルディ(いわゆる「ホワイト・ジュース」)がケララ州に移り住み、自由な海港コーチンに一五六八年壮麗なシナゴーグを建てた。このように古くは二〇〇〇年、新しくは五〇〇年の歴史を刻みつけているケララ州から、一九四八年のイスラエル建国とともに大勢のユダヤ人が「民族主義的な|熱狂《フイーバー》に駆られて」イスラエルへ移住したのである。この父祖の国においてもしかし、ケララ州のユダヤ人は、彼らが携えて行った故郷の言葉「マリャリャム語」で肝胆相照らし、ついにはインド大王「マハラジャ」が昔自分たちのシナゴーグを訪れた時の古い歌をマリャリャム語で歌いだし、かくて熱い連帯感を確認し合ったという。スペインから追放された離散ユダヤ人がバルカン半島などに流れ着いた後、その言語島において何百年もスペイン語を自らの故郷としていたように、インドからイスラエルへ移住したユダヤ人もマリャリャム語のうちに帰属意識を求めつづけているのだ。「ザ・ヒンドゥー」紙の記事では、インドにまだ六万のユダヤ人が残っているというが、昨年八月の旅で会ったコーチン・ユダヤ人共同体会長の内科医ベースィル・エリアス氏によれば、かつてのインド系ユダヤ人の中心地コーチンに今はわずか七家族のユダヤ人しかいないという。
インドにおいてユダヤ人がその歴史を刻みつけているのは、ケララ州だけとは限らない。アラビア海に臨むゴアにも、ポルトガルの大航海時代の幕開けとともに、多くのユダヤ人が信仰と活動の自由を求めて来ていたのであった。しかしそこには、ケララ州とまったく異なり、四五一年間にわたるポルトガルの植民地支配があり、そのうえ一五六〇年から一八世紀末まで残酷な異端審問の活動が展開されていた。こうして、ひそかにユダヤ教を信じていたとされたユダヤ人が、アジアの地でも厳しい拷問にかけられた末薪の山に送られ、生きたまま|火炙《ひあぶ》りの刑に処されたのである。水平的流謫と父祖の信仰からの垂直的流謫のまさに十字路となったゴアから日本へやって来たイエズス会士のなかにもユダヤ人が含まれていたことを考えれば、コーチン・ユダヤ人の歴史と同時にゴア異端審問の歴史についても一度深く掘り下げてみる必要がありそうである。そうすることによって、正義とキリスト教の御旗を掲げたヨーロッパ植民地主義の裏面にも、新たな照明があてられることになるだろう。
(画像省略)
以上が、一九九〇年以来セファルディおよびマラーノの足跡を訪ねている私の旅の、目下の到達点である。今後さらに、ポルトガル植民地主義の陰に息をひそめている離散ユダヤ人の歴史を追究してゆこうとすれば、足はやはり南米ブラジルに向かわざるを得ない。かくて今、日欧文化交流史を専攻するエンゲルベルト・ヨリッセン氏と、ブラジルの旅を準備ちゅうである。そうした過去のいくつもの旅と未来の旅の間に、今回『スペインを追われたユダヤ人』をちくま学芸文庫版として刊行することになった。私の最初の旅の成果を本にしてくださったうえに、新版の刊行をこころよく承諾された人文書院の方々、とりわけ同編集部の落合祥堯氏、この度文庫版を出す機会をあたえてくださった筑摩書房の熊沢敏之氏、この文庫版のためにすぐれた解説を書いてくださった畏友・西谷修氏、そして人文書院版を読み、あたたかい励ましの言葉を寄せてくださった方々に、心からの謝意を表したい。
一九九六年春
[#地付き]小岸 昭
[#改ページ]
マラーノ関係年表[#地付き](本書で言及された事項を中心に作成)
一三九一[#「一三九一」はゴシック体]
[#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]
5・21 セビリヤの副司教フェランド・マルティネス、講壇から反ユダヤ主義的な説教
6・6 セビリヤで反ユダヤ暴動勃発、ユダヤ人四〇〇〇人が殺害される
[#ここから5字下げ]
ポグロムがスペイン全土に波及
ユダヤ教徒が集団でキリスト教に改宗──マラーノ発生の第一段階[#「マラーノ発生の第一段階」はゴシック体]
[#ここから改行天付き、折り返して5字下げ]
一四六九[#「一四六九」はゴシック体] カスティーリャの王女イサベルとアラゴンのフェルナンド皇太子(母親が|改宗者《コンベルソ》)結婚
一四七四[#「一四七四」はゴシック体] カトリック両王、イサベルとフェルナンド即位
一四七八[#「一四七八」はゴシック体]
[#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]
11・1 教皇シクストゥス四世、スペインに異端審問所設置に関する教書を発布
一四八〇[#「一四八〇」はゴシック体]
9・17 セビリヤに異端審問所設置。コルドバ(一四八二年)、セゴビア(一四八三年)、アラゴン(一四八四年)にも設置される
一四八一[#「一四八一」はゴシック体]
2・2 初の宗教裁判(セビリヤ)で六人のマラーノが|火炙《ひあぶ》りの刑に処せられる
一四八三[#「一四八三」はゴシック体]
9・3 ユダヤ系修道士トマス・トルケマダ初代大審問官に就任
一四九二[#「一四九二」はゴシック体]
1・2 イスラムのグラナダ王国陥落
3・31 イサベルとフェルナンド、その領土から四カ月以内にユダヤ教徒を追放する勅令に署名
[#ここから5字下げ]
8・2までに国外へ去った一六万人以上のユダヤ教徒のうち、およそ一二万人がポルトガルに移住
国内に残留したユダヤ人およそ五万人がキリスト教徒に改宗──マラーノ発生の第二段階[#「マラーノ発生の第二段階」はゴシック体]
[#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]
8・3 コロンブス(改宗ユダヤ人だったとも言われている)新大陸発見の途に
一四九六[#「一四九六」はゴシック体]
11・30 ポルトガル王マヌエル一世と、ユダヤ教徒一掃を主張するスペイン王女イサベルの結婚の契約
12・25 マヌエル一世、その領土から一〇カ月以内にユダヤ教徒を追放する勅令を発布
[#ここから改行天付き、折り返して5字下げ]
一四九七[#「一四九七」はゴシック体] ポルトガル・ユダヤ教徒の大量改宗──マラーノ発生の第三段階[#「マラーノ発生の第三段階」はゴシック体]
一五〇六[#「一五〇六」はゴシック体] リスボンで反ユダヤ暴動勃発、ユダヤ人二〇〇〇人が殺害される
一五三一[#「一五三一」はゴシック体]
[#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]
2・16 マヌエル一世の王子ドン・ルイスとマラーノの女性ヴィオランテ・ゴメスの間にドン・アントニオ誕生
[#ここから改行天付き、折り返して5字下げ]
一五三六[#「一五三六」はゴシック体] ジョアン三世、ポルトガルに異端審問所設置
一五五五[#「一五五五」はゴシック体] ポルトガル・マラーノ出身のイエズス会士ルイス・デ・アルメイダ、平戸に到着
一五七二[#「一五七二」はゴシック体]
[#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]
7・15 パレスティナ北部ガリラヤのサフェドで、スペインからのユダヤ人追放を核とした教義「器の破壊」を説いたカバラ主義者イサーク・ルリア、伝染病に罹患し三八歳で急死
[#ここから改行天付き、折り返して5字下げ]
一五八〇[#「一五八〇」はゴシック体] クラート修道院長ドン・アントニオ、サンタレンとリスボンでアヴィス朝第一八代目の王の承認を受ける
[#ここから5字下げ]
フェリペ二世によるポルトガル併合
マラーノ王ドン・アントニオ、英国へ亡命
一六世紀末から一七世紀初頭にかけて、アムステルダムへ移住するポルトガル・マラーノ多し
[#ここから改行天付き、折り返して5字下げ]
一五九七[#「一五九七」はゴシック体] マラーノの女性マヨル・ロドリゲス夫人とその美貌の娘マリア・ヌネス、アムステルダムに到着
一六四〇[#「一六四〇」はゴシック体] ポルトガル・マラーノ出身のウリエル・ダ・コスタ、アムステルダムのユダヤ人共同体から破門を解く儀式を受けた後ピストル自殺
一六五五[#「一六五五」はゴシック体] ポルトガル・マラーノ出身の律法師メナセ・ベン・イスラエル、ユダヤ人英国居住の件でクロムウェルと折衝
一六五六[#「一六五六」はゴシック体]
[#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]
7・27 ポルトガル・マラーノ出身のバルーフ・デ・スピノザ、アムステルダムのポルトガル人共同体から破門される
[#ここから改行天付き、折り返して5字下げ]
一六六六[#「一六六六」はゴシック体] メシア的人物サバタイ・ツヴィ、スミルナに出現のニュース、全ヨーロッパのマラーノ世界を揺るがす
一六七五[#「一六七五」はゴシック体]
[#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]
8・2 アムステルダムのポルトガル系シナゴーグの落成式
[#ここから改行天付き、折り返して5字下げ]
一六九〇〜一六九一[#「一六九〇〜一六九一」はゴシック体] ハンブルクのマラーノ出身の主婦グリュッケル・フォン・ハーメルン『回想録』を書きはじめる
一七三九[#「一七三九」はゴシック体]
[#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]
10・18 ポルトガルのマラーノ系劇作家アントニオ・ホセ・ダ・シルヴァ、リスボンで火炙りの刑に処せられる
[#ここから改行天付き、折り返して5字下げ]
一七七三[#「一七七三」はゴシック体] ポルトガルの啓蒙的宰相ポンバル侯爵による新旧両キリスト教徒のあらゆる差別撤廃
一八一三[#「一八一三」はゴシック体]
[#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]
1・22 カディスの|議会《コルテス》、スペイン異端審問所廃止を決定
[#ここから改行天付き、折り返して5字下げ]
一八二一[#「一八二一」はゴシック体] ポルトガルの異端審問制度廃止
一九一七[#「一九一七」はゴシック体] 鉱山技師サムエル・シュヴァルツ、北ポルトガル山間の町ベルモンテで多数の隠れユダヤ教徒を発見
一九二三[#「一九二三」はゴシック体]
[#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]
5・5 シュヴァルツ、トマールのシナゴーグ買い取りに関して講演
[#ここから改行天付き、折り返して5字下げ]
一九二五[#「一九二五」はゴシック体] シュヴァルツ『二〇世紀におけるポルトガルの新キリスト教徒について』を刊行
一九四〇[#「一九四〇」はゴシック体] マラーノ研究者フリッツ・ハイマン、アムステルダムで『マラーノ年代記』という題の連続講演
一九四二[#「一九四二」はゴシック体] ハイマン、アウシュヴィッツで虐殺される
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
注
第一章[#「第一章」はゴシック体]
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
(1) アルベール・メンミ『あるユダヤ人の肖像』菊地昌實/白井成雄訳、法政大学出版局、一九八〇年、一九頁。
(2) アルベール・メンミ前掲書、二五頁。
(3) フリッツ・ハイマン『死か洗礼か――異端審問時代のスペイン・ポルトガルからのユダヤ人追放』Fritz Heymann, Tod oder Taufe : Die Vertreibung der Juden aus Spanien und Portugal im Zeitalter der Inquisition. フランクフルト・アム・マイン一九八八年、一三三頁以下参照。
(4) ゲルショム・ショーレム『サバタイ・ツヴィ』Gershom Scholem, Sabbatai Sevi. プリンストン一九七三年、五三四頁以下参照。
(5) ヘンリー・チャールズ・リー『スペイン異端審問の歴史』Henry Charles Lea, Geschichte der spanischen Inquisition. ネルトリンゲン一九八八年、第二巻、三〇三頁以下参照。
(6) J・L・D・メンドンサ/E・A・J・モレイラ『ポルトガル異端審問の歴史』Jos Loureno D. De Mendona/E. Antnio Joaquim Moreira, Histria da Inquisio em Portugal. 一九七九年、一八七頁。
(7) プニナ・ナヴェ「教会とシナゴーグ」、フランツ・J・バウツ編『ユダヤ人の歴史』所収 Pnina Nave, Kirche und Synagoge. In : Geschichte der Juden. ミュンヒェン一九八九年、七八頁。
(8) フリッツ・ハイマン前掲書、一七六頁。
(9) ロロ・メイ『失われし自我をもとめて』小野泰博訳、誠信書房、一九七〇年、二八頁。
(10) フリードリヒ・ヘール『神の最初の愛――歴史の緊張の場におけるユダヤ人』Friedrich Heer, Gottes erste Liebe−Die Juden im Spannungsfeld der Geschichte. フランクフルト・アム・マイン/ベルリン一九八六年、一三九頁以下参照。
(11) フリードリヒ・ヘール前掲書、一四〇頁。
(12) レオン・ポリアコフ『反ユダヤ主義の歴史』第W巻「異端審問の影の中のマラーノ」Lon Poliakov, Geschichte des Antisemitismus. IV. Die Marranen im Schatten der Inquisition. ヴォルムス一九八一年、一三頁。
(13) フリッツ・ハイマン前掲書、一四九頁。
(14) カーチャ・クラビエル『ポルトガル』Katja Krabiell, Portugal. ルツェルン一九八七年、一八九頁。
[#ここで字下げ終わり]
第二章[#「第二章」はゴシック体]
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
(1) ベアトリス・ルルワ『セファルディ』Batrice Leroy, Die Sephardim. ミュンヒェン一九八七年、一三頁以下。
(2) ヴァルター・ベンヤミン『ドイツ悲劇の根源』(川村二郎/三城満禧訳、法政大学出版局、一九七五年、二〇〇頁) Walter Benjamin, Ursprung des deutschen Trauerspiels. フランクフルト・アム・マイン一九七四年、三四三頁。
(3) Denkwrdigkeiten der Glckel von Hameln. フランクフルト・アム・マイン一九八七年。
(4) グリュッケル・フォン・ハーメルン前掲書、二二五頁(邦訳書『ゲットーに生きて』林瑞枝訳、新樹社、一九七四年、一九五頁)。
(5) レオ・ズィーヴァース『ドイツのユダヤ人』Leo Sievers, Juden in Deutschland. ハンブルク一九八一年、一〇一頁。
(6) G・W・ミューリングハウス「一七、一八世紀のシナゴーグ建築」、ハンス=ペーター・シュヴァルツ編『シナゴーグの建築』所収 G. W. Mhlinghaus, Der Synagogenbau des 17. und 18. Jahrhunderts. In : Die Architektur der Synagoge. フランクフルト・アム・マイン一九八八年、一二二頁以下。
(7) M・グルーンヴァルト『ドイツのポルトガル人墓地』M. Grunwald, Portugiesengrber auf Deutscher Erde. ハンブルク一九〇二年、六頁。
(8) グリュッケル・フォン・ハーメルン前掲書、三〇頁以下(邦訳書、四一頁)。
(9) シーセル・ロス『ユダヤ人の歴史』長谷川真/安積鋭二訳、みすず書房、一九六六年、二一九頁。
(10) 荻内勝之『ドン・キホーテの食卓』新潮社、一九八七年、九一頁以下。
[#ここで字下げ終わり]
第三章[#「第三章」はゴシック体]
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
(1) ハロルド・ブルーム『カバラーと批評』島弘之訳、国書刊行会、一九八六年、一一五頁。
(2) ベアトリス・ルルワ前掲書、一七四頁、ヨセフ・ダン「ユダヤ神秘主義――歴史的概観」市川裕訳、『ユダヤ思想2』(岩波書店、一九八八年)所収、一六五頁以下、リオン・フォイヒトヴァンガー『猶太人ジュス』谷讓次訳、中央公論社、一九三〇年、四一三頁、およびゲルショム・ショーレム『ユダヤ教神秘主義の主潮流』(山下肇他訳、法政大学出版局、一九八五年、三二二頁以下)Gershom Scholem, Die jdische Mystik in ihren Hauptsrtmungen. フランクフルト・アム・マイン一九五七年、二六七頁以下参照。
(3) ゲルショム・ショーレム『ユダヤ教神秘主義の主潮流』、二八五頁以下(邦訳書、三四四頁以下)参照。
(4) M・アギラル/I・ロバートソン『スペイン・ユダヤ教案内』M. Aguilar/I. Robertson, Jewish Spain−A Guide. マドリッド一九八四年、四二頁。
(5) アラゴ『ヘローナの記念建造物ガイド』Narcs-Jordi Arag, Fhrer durch das Monumentale Girona. ヘローナ一九八九年、一八頁。
(6) ゲルショム・ショーレム『カバラの起源』Gershom Scholem, Ursprung und Anfang der Kabbala. ベルリン一九六二年、三二六頁。
(7) ベアトリス・ルルワ前掲書、一七三頁以下。
(8) イラン・ハレヴィ『ユダヤ人の歴史』奥田暁子訳、三一書房、一九九〇年、一九八頁。
(9) ゲルショム・ショーレム『サバタイ・ツヴィ』、一〇六頁。
(10) ゲルショム・ショーレム『ユダヤ教神秘主義の主潮流』、三二二頁以下(邦訳書、三九〇頁以下)参照。
(11) グリュッケル・フォン・ハーメルン前掲書、六一頁以下(邦訳書、六四頁以下)。
[#ここで字下げ終わり]
第四章[#「第四章」はゴシック体]
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
(1) ヴァレリウ・マルク『スペインからのユダヤ人追放』Valeriu Marcu, Die Vertreibung der Juden aus Spanien. ミュンヒェン一九九一年、一六七頁。
(2) ヴァレリウ・マルク前掲書、一六九頁。
(3) レオン・ポリアコフ前掲書、一七七頁。
(4) E・ロドリゲス・カワサキ『アルハンブラの秘密』、九頁。
(5) ゲルトルーデ・フォン・シュヴァルツェンフェルト『ルドルフ二世』Gertrude von Schwarzenfeld, Rudolf II. ミュンヒェン一九七九年、一八四頁、増田義郎『コロンブス』岩波書店、一九七九年、一四八頁、およびフリードリヒ・ヘール前掲書、一四四頁参照。
(6) フリッツ・ハイマン『ヘルデルンの騎士』Fritz Heymann, Der Chevalier von Geldern. タウヌスのケーニヒシュタイン一九八五年、一一〇頁、およびフリードリヒ・ヘール前掲書、一四七頁参照。
(7) フリッツ・ハイマン『ヘルデルンの騎士』、一一二頁以下。
(8) フリッツ・ハイマン『ヘルデルンの騎士』、一一四頁以下。
(9) 染田秀藤『ラス・カサス伝』岩波書店、一九九〇年、一三頁。
(10) ヴァレリウ・マルク前掲書、一七三頁。
(11) フリッツ・ハイマン『死か洗礼か』、二五頁。
(12) ヘンリー・カメン『スペイン――歴史と文化』東海大学出版局、一九七六年、五五頁。
(13) フリッツ・ハイマン『死か洗礼か』、一四頁。
(14) フリッツ・ハイマン『死か洗礼か』、一七頁。
(15) ベアトリス・ルルワ前掲書、一五六頁。
[#ここで字下げ終わり]
第五章[#「第五章」はゴシック体]
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
(1) モンテスキュー『ペルシャ人の手紙』根岸国孝訳、筑摩書房版世界文学大系16、一九六〇年、七六頁以下。
(2) シュテファン・アンドレス『エル・グレコ大審問官を描く』(好村冨士彦訳、M・ライヒ=ラニッキー編『やむを得なかった歴史』I所収、學藝書林、一九六九年、二二九頁以下)Stefan Andres, El Greco malt den Gro§inquisitor. In : Die schnsten Novellen und Erzhlungen, Bd. II. ミュンヒェン一九八二年、七頁以下。
(3) ベアトリス・ルルワ前掲書、八三頁。
(4) ベアトリス・ルルワ前掲書、八六頁。
(5) ベアトリス・ルルワ前掲書、八四頁以下。
(6) ヘンリー・チャールズ・リー前掲書、第一巻、九三頁以下参照。
(7) ヘンリー・チャールズ・リー前掲書、第一巻、一〇〇頁参照。
(8) ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』原卓也訳、新潮社版ドストエフスキー全集15、一九七八年、二九六頁以下。
(9) マックス・ドヴォルジャーク『精神史としての美術史』中村茂雄訳、岩崎美術社、一九六六年、二七七頁。
[#ここで字下げ終わり]
第六章[#「第六章」はゴシック体]
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
(1) ベアトリス・ルルワ前掲書、六五頁以下参照。
(2) 井筒俊彦「中世ユダヤ哲学史」、『ユダヤ思想2』(岩波書店、一九八八年)所収、八二頁。
(3) フリッツ・ハイマン『死か洗礼か』、六五頁。
(4) ルセーロについては、ベルント・キル『異端審問とその異端者たち』Bernd Kill, Die Inquisition und ihre Ketzer. プフハイム一九八二年、二三六頁以下、およびフリッツ・ハイマン『死か洗礼か』、六五頁以下参照。
(5) フリッツ・ハイマン『死か洗礼か』、六七頁以下。
(6) デ・フリース『ユダヤの儀礼と象徴』S. Ph. De Vries, Jdische Riten und Symbole. ヴィースバーデン一九八一年、一四頁。
(7) ヘスス・ペラエス・デル・ロサル『シナゴーグ』Jess Pelez del Rosal, The Synagoge. コルドバ一九八八年、一七一頁。
(8) ヘスス・ペラエス・デル・ロサル前掲書、一三五頁。
(9) ハンス=ペーター・シュヴァルツ「ドイツのシナゴーグ建築」、『シナゴーグの建築』所収 Hans-Peter Schwarz, Die Architektur der Synagoge in Deutschland. In : Die Architektur der Synagoge. フランクフルト・アム・マイン一九八八年、二二頁以下。
[#ここで字下げ終わり]
第七章[#「第七章」はゴシック体]
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
(1) M・アギラル/I・ロバートソン前掲書、七五頁。
(2) グスタフ・ルネ・ホッケ『迷宮としての世界』種村季弘/矢川澄子訳、美術出版社、一九六六年、二四〇頁。
(3) ベアトリス・ルルワ前掲書、七四頁。
(4) ギー・テスタス/ジャン・テスタス『異端審問』白水社、一九七四年、九七頁。
(5) ヴァレリウ・マルク前掲書、二〇四頁。
(6) ヘンリー・カメン『スペインの異端審問』Henry Camen, Die spanische Inquisition. ミュンヒェン、一九四頁。
(7) アバ・エバン『遺産』Abba Eban, Das Erbe. フランクフルト・アム・マイン/ベルリン一九八八年、二〇〇頁。
(8) フリッツ・ハイマン『死か洗礼か』、三六頁以下。
(9) フリッツ・ハイマン『死か洗礼か』、五九頁。
(10) ヘンリー・カメン前掲書、一七〇頁。
(11) フリッツ・ハイマン『死か洗礼か』、六一頁。
(12) ヘンリー・カメン前掲書、一七〇頁。
(13) ヴァレリウ・マルク前掲書、一一五頁以下。
(14) ヘスス・ペラエス・デル・ロサル前掲書、一一九頁。
[#ここで字下げ終わり]
第八章[#「第八章」はゴシック体]
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
(1) ヴァレリウ・マルク前掲書、一七六頁。
(2) ベアトリス・ルルワ前掲書、一〇三頁。
(3) ベアトリス・ルルワ前掲書、一〇六頁。
(4) フリッツ・ハイマン『死か洗礼か』、八二頁。
(5) ベルント・キル前掲書、二二八頁。
(6) レオン・ポリアコフ前掲書、一〇六頁。
(7) レオン・ポリアコフ前掲書、一〇七頁。
(8) ゲーテ『詩と真実』菊盛英夫訳、人文書院、一九六〇年、二五頁以下。
(9) ハンス=ペーター・シュヴァルツ編『ドイツの建築』Hans-Peter Schwarz (Hrsg.), Die Architektur der Synagoge. フランクフルト・アム・マイン一九八八年、一四三頁。
(10) パチェコ・ディエゴ『ルイス・デ・アルメイダ』、長崎二十六聖人記念館、一九六四年、六頁。
(11) ミヒャエル・クーパー『通訳官ロドリゲス』Michael Cooper, Rodrigues−The Interpreter. ニューヨーク/ウェザーヒル/東京、二二五頁。
[#ここで字下げ終わり]
第九章[#「第九章」はゴシック体]
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
(1) フリッツ・ハイマン『死か洗礼か』、一一一頁。なおハイマンは、この話についてつぎのような指摘をしている。「三文小説の題材にでもなりそうな、実際そうした題材にもされたこのエピソードは、あまりにもうまくできているので、歴史家もこれを美しい伝説として片づけてしまっていたのだが、オランダの歴史家ジグムント・セリグマンがその論文のなかではじめて当時の駐ロンドン・オランダ公使の書簡を公開して、このいささかロマンチックなエピソードのすべてが真実に基づくものであることを立証した。」
(2) ハンス=ペーター・シュヴァルツ編前掲書、一一三頁。
(3) 清水禮子『破門の哲学』、みすず書房、一九七八年、二一頁。
(4) シュタニスラウス・フォン・ドゥニン=ボルコフスキー『若きスピノザ』Stanislaus von Dunin-Borkowski S. J., Der junge De Spinoza. ヴェストファーレン州ミュンスター一九一〇年、一〇四頁以下参照。
(5) ヨハンネス・ファン・ローン「『レンブラントの生涯と時代』より」、ルカス/コレルス『スピノザの生涯と精神』(渡辺義雄訳、理想社、一九六二年)所収、二〇一頁以下。
(6) ヨハンネス・ファン・ローン前掲書、二〇七頁。
(7) J・フロイデンタール『スピノザの生涯』工藤喜作訳、ル書房、一九八二年、九三頁。
(8) テーン・デ・フリース『スピノザ』Theun de Vries, Spinoza. ラインベーク・バイ・ハンブルク一九七〇年、四〇頁以下。
(9) ヨハンネス・ファン・ローン前掲書、二一五頁以下。
(10) ヨハンネス・ファン・ローン前掲書、二二六頁。
(11) ヨハンネス・コレルス『スピノザの生涯』、ルカス/コレルス前掲書、一一二頁。
(12) J・フロイデンタール前掲書、一〇八頁。
(13) フランセス・イエイツ『薔薇十字の覚醒』山下知夫訳、工作舎、一九八六年、二〇頁以下、四七頁以下、二六六頁以下参照。
(14) フランセス・イエイツ前掲書、一六七頁以下参照。
(15) フランセス・イエイツ前掲書、二四六頁以下。
(16) テーン・デ・フリース前掲書、七二頁。
(17) I・ブルーブシュタイン編『スピノザの往復書簡とその他の記録』I. Bluwstein (Hrsg.), Spinozas Briefwechsel und andere Dokumente. ライプツィヒ一九一六年、二〇頁。
(18) テーン・デ・フリース前掲書、九二頁。
(19) テーン・デ・フリース前掲書、一〇六頁。
(20) ボルコフスキー前掲書、五〇頁。
(21) ルカス『ベネディークトゥス・デ・スピノザ氏の生涯と精神』、ルカス/コレルス前掲書、二七頁。
(22) テーン・デ・フリース前掲書、一五一頁、ボルコフスキー前掲書、二九七頁以下参照。
(23) カール・ゲプハルト『スピノザ概説』豊川昇訳、創元社、一九四八年、二七頁。
(24) テーン・デ・フリース前掲書、一一九頁。
(25) ゲーテ『詩と真実』第三部、菊盛英夫訳、人文書院、一九六〇年、一六二頁。
(26) テーン・デ・フリース前掲書、一四八頁。
(27) ゲルショム・ショーレム『サバタイ・ツヴィ』、一〇七頁。
(28) フランセス・イエイツ『魔術的ルネサンス』内藤健二訳、晶文社、一九八四年、二六九頁。
(29) スピノザ『エチカ』下巻、畠中尚志訳、岩波文庫、一九五一年、七頁。
(30) ルカス/コレルス前掲書、四九頁。
(31) フランセス・イエイツ前掲書、一七一頁。
(32) スピノザのファブリチウス宛一六七三年三月三〇日付の書簡(ブルーブシュタイン編前掲書、二五一頁以下)。
(33) スピノザ『エチカ』下巻、八二頁。
(34) テーン・デ・フリース前掲書、一四八頁、およびルカス/コレルス前掲書、一一四頁参照。
[#ここで字下げ終わり]
第一〇章[#「第一〇章」はゴシック体]
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
(1) テーン・デ・フリース前掲書、七頁。
(2) ルーシー・S・ダビドビッチ『ユダヤ人はなぜ殺されたか』第I部、大谷堅志郎訳、サイマル出版会、一九七八年、二六〇頁参照。
(3) ルーシー・S・ダビドビッチ前掲書、二六一頁。
(4) ラウル・ヒルバーク『ヨーロッパのユダヤ人絶滅』Raul Hilberg, Vernichtung der europischen Juden. ベルリン一九八二年、四〇五頁以下参照。
(5) 大野英二『ナチズムとユダヤ人問題』、リブロポート、一九八八年、二九二頁参照。
(6) ミープ・ヒース『思い出のアンネ・フランク』深町真理子訳、文芸春秋社、一九八七年、一六〇頁参照。
(7) フリッツ・ハイマン『死か洗礼か』、一五七頁以下の、ユーリウス・H・シェップスの解説「フリッツ・ハイマンあるドイツ系ユダヤ人の運命」参照。
(8) フリッツ・ハイマン『ヘルデルンの騎士』、一頁の、ユーリウス・H・シェップスの解説「冒険家とアウトサイダーについて」参照。
(9) フリッツ・ハイマン『ヘルデルンの騎士』、三九頁。
(10) フリッツ・ハイマン『死か洗礼か』、一六三頁。
(11) フリッツ・ハイマン『ヘルデルンの騎士』、二三頁以下。
(12) フリッツ・ハイマン『死か洗礼か』、一六四頁。
(13) フリッツ・ハイマン『死か洗礼か』、一六五頁。
(14) フリッツ・ハイマン『死か洗礼か』、一六六頁のシェップスの解説参照。
(15) フリッツ・ハイマン『ヘルデルンの騎士』、四四七頁以下。
(16) フリッツ・ハイマン『死か洗礼か』、一三六頁。
(17) フリッツ・ハイマン『死か洗礼か』、一五三頁。
[#ここで字下げ終わり]
第一一章[#「第一一章」はゴシック体]
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
(1) ヴィクトル・マン『我々は五人きょうだいだった』Victor Mann, Wir waren fnf. フランクフルト・アム・マイン一九七六年。
(2) ビュルギン/マイヤー編『トーマス・マン年譜』Hans Brgin/Hans-Otto Mayer, Thomas Mann−Eine Chronik seines Lebens. フランクフルト・アム・マイン一九六五年。
(3) ペーター・デ・メンデルスゾーン『魔術師ドイツ作家トーマス・マンの生涯』Peter de Mendelssohn, Der Zauberer−Das Leben des deutschen Schriftstellers Thomas Mann. フランクフルト・アム・マイン一九七五年、一三頁以下。
(4) Bd. XI. S. 421. 以下トーマス・マン全集(Thomas Mann Gesammelte Werke in zwlf Bnden. フランクフルト・アム・マイン一九六〇年)からの引用は巻数と頁数、邦訳書については括弧内に訳者名と頁数(二回目からは頁数のみ)だけでしめす。
(5) Bd. VI, S. 261.
(6) Bd. VI, S. 264.
(7) カーチャ・マン『トーマス・マンの思い出』山口知三訳、筑摩書房、一九七五年、一二八頁参照。
(8) Bd. VIII, S. 337.
(9) Bd. XI, S. 126.(『略伝』佐藤晃一訳、新潮社版トーマス・マン全集X、三三三頁)
(10) Bd. III, S. 610.(佐藤晃一訳『魔の山』、筑摩書房版世界文学大系54、三二七頁)
(11) Bd. III, S. 615.(三三〇頁)
(12) Bd. III, S. 619.(三三一頁)
(13) Bd. III, S. 620.(三三二頁)
(14) ヘンリー・カメン『スペイン――歴史と文化』丹羽光男訳、東洋大学出版会、一九七三年、五五頁。
(15) Bd. III, S. 634.(三四〇頁)
(16) カール・ケレーニィ「『魔の山』の人物たち――一つの伝記の試み」渡辺健訳、ルカーチ著作集別巻(白水社、一九六九年)所収、二八九頁。
(17) Bd. III, S. 660.(三五四頁)
(18) Bd. III, S. 697.(三七五頁)
(19) Bd. III, S. 774.(四一四頁)
(20) 『トーマス・マンは語る』岡元藤則訳、玉川大学出版部、一九八五年、五九頁以下。
(21) Bd. XI, S. 132.(X、三三八頁)
(22) ヘンリー・カメン前掲書、七五頁。
(23) Bd. XI, S. 870.(「理性に訴える」森川俊夫訳、X、五二二頁)
(24) Bd. XI, S. 1147.(「ドイツとドイツ人」青木順三訳、X、六七三頁)
(25) Bd. IX, S. 466f.(「『ドン・キホーテ』とともに海を渡る」高橋義孝訳、IX、三七〇頁)
(26) ビュルギン/マイヤー編前掲書、一三一頁(『トーマス・マン年譜』森川俊夫訳、別巻、六〇八頁)
[#ここで字下げ終わり]
第一二章[#「第一二章」はゴシック体]
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
(1) ヴァレリウ・マルク前掲書、一九一頁。
(2) ベルナルド・レヴィス『イスラム世界のユダヤ人』Bernhard Lewis, Die Juden in der islamischen Welt. ミュンヒェン一九八七年、一一二頁。
(3) エリアス・カネッティ『断ち切られた未来』岩田行一訳、法政大学出版局、一九七二年、一六六頁。
(4) エリアス・カネッティ『耳の中の炬火』、法政大学出版局、一九八五年、六一頁。未開民族の「|通過儀礼《イニシエーシヨン》」について、カネッティはつぎのように説明している。「この|通過儀礼《イニシエーシヨン》は確かに文字どおりの意味で変身として体験される。その候補者は低い階梯において死んで初めて、高い階梯において生きかえりうるのだ、と想像されている場合が多い。すなわち、死そのものが階梯と階梯とをきわめて厳重に分けはなしているのである。変身は、候補者が終始あらゆる種類の|試練《プリユーフング》と恐ろしい目にあわねばならぬ危険な長旅となる。」(エリアス・カネッティ『群衆と権力』(下)、岩田行一訳、法政大学出版局、一九七一年、一六二頁)
(5) エリアス・カネッティ『救われた舌』岩田行一訳、法政大学出版局、一九八一年、四頁。
(6) エリアス・カネッティ『救われた舌』、一七頁以下。
(7) エリアス・カネッティ『救われた舌』、三七頁。
(8) エリアス・カネッティ『救われた舌』、四四頁以下。
(9) エリアス・カネッティ『救われた舌』、四八頁以下。
(10) エリアス・カネッティ『救われた舌』、六三頁。
(11) エリアス・カネッティ『救われた舌』、一一一頁。
(12) エリアス・カネッティ『群衆と権力』(上)、四一三頁。
(13) テーオドル・ヘルツル『ユダヤ人国家』佐藤康彦訳、法政大学出版局、一九九一年。
(14) エリアス・カネッティ『耳の中の炬火』、一一七頁。
(15) エリアス・カネッティ『耳の中の炬火』、三四七頁、三四九頁。
(16) エリアス・カネッティ『耳の中の炬火』、三八七頁。
(17) エリアス・カネッティ『耳の中の炬火』、四六五頁。
(18) エリアス・カネッティ『眩暈』池内紀訳、法政大学出版局、一九七二年、五〇五頁。
(19) エリアス・カネッティ『断ち切られた未来』、一五九頁。
(20) エリアス・カネッティ『マラケシュの声』、岩田行一訳、法政大学出版局、一九七三年、一六一頁。
[#ここで字下げ終わり]
後書きにかえて[#「後書きにかえて」はゴシック体]
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
(1) マルト・ロベール『エディプスからモーセへ』東宏治訳、人文書院、一九七七年、二〇頁。
(2) カール・ゲプハルト『スピノザ概論』豊川昇訳、創元社、一九四八年(一九三八年、改造文庫から出版された『スピノザ概論』の改訂版)。
(3) 増田義郎『コロンブス』岩波書店、一九七九年、一五八頁以下。
(4) アントン・エーレンツヴァイク『芸術の隠された秩序』岩井寛/中野久夫/高見堅志郎訳、同文書院、一九七四年、二二四頁。
(5) ブランショが『文学空間』のなかで彼の文学的考察の中核とした「追放」のテーマに対して、フーコーが用いた言葉。西谷修「一九三九年――〈外〉へ!」(『現代思想』青土社、一九八四年、一一号、一七二頁以下)を参照。
(6) ホルヘ・ルイス・ボルヘス『異端審問』中村健二訳、晶文社、一九八二年、四一頁参照。
(7) エリアス・カネッティ『耳の中の炬火』、三四九頁。
小岸昭(こぎし・あきら)
一九三七年、北海道に生まれる。京都大学文学部独文科修士課程終了。元京都大学総合人間学部教授。専攻はドイツ文学。著書に本作品の姉妹編である「マラーノの系譜」のほか「欲望する映像」「離散するユダヤ人」「ファシズム的想像力」「十字架とダビデの星」「世俗宗教としてのファシズム」「隠れユダヤ教徒と隠れキリシタン」などが、訳書にデッシャー「水晶の夜」、ヨベル「スピノザ 異端の系譜」などがある。
本作品は一九九二年五月、人文書院より刊行され、一九九六年六月ちくま学芸文庫に収録された。