TITLE : 科学者はなぜ一番のりをめざすか
講談社電子文庫
科学者はなぜ一番のりをめざすか
情熱,栄誉,失意の人間ドラマ
小山慶太 著
はじめに
歴史を振り返ると、人間の社会には、さまざまな形で大きなうねりが、何回となく押し寄せてきたことがわかる。そして、科学の世界では、一七世紀にそれが起こった。
一七世紀は、人間の自然観に重大な変革をもたらす時代となり、古代・中世と長い間つづいてきた静寂《せいじやく》を破るかのように、旧来の自然観が突如《とつじよ》、音をたてて崩壊を始め、近代科学が誕生するにいたったからである。
その中心的な役割を担《にな》ったのは、ガリレオ、ニュートンをはじめとする天才たちである。彼らの先駆的な研究は、天動説から地動説へという宇宙体系の転換をもたらし、また、それと相《あい》まって、天体の運行と地上の運動現象を統一して記述できるニュートンの力学を生み出した。
そういう具体的な発見や業績と並行して、自然をとらえる姿勢にも本質的な変化が生じた。それは、新しい研究方法の確立である。
もちろん、それまでも人間は、自分たちを包みこむ自然を、それぞれの時代と文化に根ざしたとらえ方で理解しているにはいたが、それはおおむね思弁的なアプローチ(頭の中で理性にもとづいて理解しようとする試み)の域を出ていなかった。
ところが、一七世紀に入ると、実験と理論(数学を用いた解析)という新しい強力な手法が導入され始めたのである。そのおかげで、科学は、高い実証性と客観性、そして普遍性をもつ学問に成長するようになった。こうして、自然観を根底から揺《ゆる》がす数々の発見と同時に、それを可能にした斬新《ざんしん》な方法をも人間は手に入れたことになる。
というわけで、一七世紀に起きた人類史上画期的な知の営みの変革を、「科学革命」という概念でとらえることがある。
さて、「革命」は一般に、人間の価値観にも大きな変化をもたらすものであるが、科学革命もその例外ではなかった。
この出来事をきっかけに、科学においては、最初の発見者になることに至上の価値を置くものとの考え方が支配的になってきたのである。それまでは、古代・中世を通じ連綿と受け継がれてきた古典を、そのまま無批判的に習得することに力が注がれていた。新しい発見を価値あるものとみなすような状況にはなかったといえる。
ところで、発見という幸運は、最初にそれを成しとげた人間、つまり、たった一人の人間にしかめぐってこない。未知の謎も、誰か一人が解き明かしてしまえば、もはや謎でもなんでもないからである。そうなると、必然的に科学は「早い者勝ち」の様相を呈してくる。早い者勝ちとなれば、競争が引き起こされるのは、言をまたない。かくして、科学の研究には、「競争原理」のもと、激しい先陣争いが繰り広げられることになった。
いささかたとえが唐突《とうとつ》かもしれないが、戦国時代の武将が、文字どおり「先陣争い」を演じ、敵陣への一番乗りを最高の武勲と考えたように、科学者の間でも近代以降、発見の一番のりをめざした“戦い”が見られるようになったのである。
科学には進歩とか発展という前向きのイメージをもつ言葉がつきものであるが、それも、こうした競争原理によるところが大きいのであろう。
そこで、科学を、科学者による先陣争いの歴史という視点でとらえ直してみたのが、本書である。とり上げた時代は、近代科学の確立から現代にまでおよぶが、この間約四〇〇年の時代を通じ、科学者が第一発見者となることにいかに強い執着をもっているかが、おわかりいただけるものと思う。また、そこから、視点は異色《ユニーク》ながら、それ故に、人間の営みとしてみた科学の別な一面を、読者にお伝えすることができればと念じている。
最後になるが、本書をまとめるにあたり今回も、講談社科学図書出版部の田辺瑞雄氏には、いろいろと相談にのっていただいた。この場を借りて、お礼申し上げたい。
一九九〇年一月
小山慶太
目 次
はじめに
1章 一番のりにかけた執念
2章 秘伝としての科学
3章 先取権をめぐるガリレオの闘い
4章 ニュートンと巨人の肩
5章 先取権争いは広がる
6章 再発見された先取権
7章 涙をのんだ人々
8章 発見に自分の名前を刻んだ科学者
9章 先取権とノーベル賞の魔力
参考図書
科学者はなぜ一番のりをめざすか
情熱,栄誉,失意の人間ドラマ
1章 一番のりにかけた執念
1 スプートニク・ショック
一九五七年一〇月四日、ソ連は世界初の人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げに成功した。この打ち上げが抜き打ち的に行われたことも功を奏し、ソ連の快挙は世界中にセンセーションをまき起こしたのである。手元にある当時の新聞を読み返してみると、「地球を回る“赤い星”」、「ついに浮んだ“人工の月”」といった見出しが踊り、人々の興奮ぶりが今も伝わってくるようだ。
こうして、本格的な宇宙時代は幕を開けたわけであるが、心おだやかでなかったのは、宇宙への“一番のり”をソ連に出し抜かれたアメリカである。いや、心おだやかでないなどという生やさしい表現では、とてもすまなかった。俗にいう“スプートニク・ショック”に見舞われたまま、しばらくの間、アメリカは宇宙開発の分野で、ソ連にリードを許すことになったのである。
二年後の一九五九年九月、ソ連は無人探査機「ルーニク2号」を月面に到達させ、その翌月には、「ルーニク3号」による月の裏側の写真撮影にも成功と、華々しい成果をあげ続けた(地球からは月の裏側――正確に言うと全表面の四一パーセント――は見ることができない)。そして、アメリカに決定的な衝撃をあたえたのは、一九六一年四月一二日、ソ連が有人宇宙飛行に成功したというニュースである。
人工衛星「ボストーク1号」に乗ったガガーリン少佐は、約一時間半にわたって地球を一周し、人類史上初めて、宇宙を飛んだ人間となったのである。このときガガーリンが語った「地球は青かった」という美しい言葉は、全世界の人々に深い感動をあたえた。アメリカのケネディ大統領もお祝いの声明を発表し、ソ連の成功を高く評価したほどである。
しかし、宇宙開発競争でことごとくソ連に先を越され、有人飛行という大レースでも一番乗りを逃したアメリカの悔しさは、尋常一様ではなかった。それだけに、ケネディの祝賀声明の裏には、「今度こそ――」というアメリカの熱い闘志が秘められていたように思える。
2 ケネディの夢はアポロ宇宙船へ
それを物語るかのように、この出来事から一ヵ月後(一九六一年五月二五日)、ケネディ大統領は議会の上下両院合同会議で演説を行い、「アメリカは六〇年代の終わりまでに、人間を月に送り、無事地球に帰還させる」と大見えを切ったのである。
月への旅は、言うまでもなく、宇宙船の建造をはじめとするテクノロジーの問題であるが、それは同時に、かつて人間が経験したことのない宇宙を舞台にした“大冒険”でもあった。そこから、ケネディの演説は、愛国心に加え、冒険にかける人々の夢とロマンをかき立てることにもなったのである。そして、それが冒険である以上、なにがなんでも一番のりを果たさねばならなかった。
もしも、またもやソ連の後塵《こうじん》を拝するようなことになれば、アメリカにとって月旅行の意味は――たとえ、科学上どんなに大きな成果を収めたとしても――半減することになる。いや、冒険という要素を考えれば、半減どころか無に等しいかもしれない。もはや二番手は許されないのである。
こうして、ケネディの演説は、間もなく、有名な「アポロ計画」を生み出すことになった。一九六三年、四六歳の若い大統領はテキサス州ダラスで暗殺者の凶弾に倒れたが、アポロ計画の方は急ピッチで進められた。
そして、一九六九年七月二〇日、「アポロ11号」に乗った二人のアメリカ人宇宙飛行士アームストロングとオルドリンが、ついに月面への一番のりを成し遂げたのである。「静かの海」に星条旗が立ち、ここに“ケネディの夢”が実現された。
3 “小さな一歩”をしるすのは誰か?
かくして、他の天体に人間の足跡をしるすという世紀の冒険レースは終止符を打ったが、そこで演じられたのは、今述べた米ソという国家間レベルの競争だけではなかった。
実はもうひとつ、月へ向かう宇宙船クルーの間でも、月面一番のりをめぐる激しい闘いが繰り広げられていた。それは、誰が月への第一歩を踏み出す栄誉を手にするかという個人レベルの競争である。
アポロ11号のクルーは、全部で三名。そのうち、コリンズ飛行士は母船に残って司令の役を担《にな》うことが決まっていたため、着陸船に乗って実際に月面に立つのは、さきほど名前をあげたアームストロングとオルドリン両飛行士ということになった。つまり、この二人の間で、どちらが先かをめぐり確執《かくしつ》が生じたのである。
確執の発端は、彼らの訓練時代にさかのぼる。当初の予定では、オルドリンが最初に月面に降り立つ想定で準備が進められていたらしい。というのも、それまでの慣例では、誰かが船外活動を行うとき、船長は必ず宇宙船内にとどまっていたからである。
そうなると、アームストロングがアポロ11号の船長に任命された時点で、オルドリンが、宇宙の処女地(月面)に初めて足跡を残す役を担うのは自分だと思い込んだのも無理はなかったかもしれない。
ところが、アームストロングの方も、そう簡単には“歴史に残る一歩”を人に譲るわけにはいかなかった。船長の地位を利用して、アームストロングは自分が一番のりを果たせるよう、NASA(アメリカ航空宇宙局)の幹部に働きかけた。これに対抗してオルドリンも自分の立場を主張するという具合に、二人の宇宙飛行士は、出発を前にして激しい火花を散らしたのである。
結局、歴史的な一歩をしるす栄誉に浴したのは、アームストロングになった。そして、「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」という名台詞《せりふ》を三八万キロメートルかなたの地球へ向かって送ってきたのは、よく知られるとおりである。
つづいてオルドリンが月面に足をおろしたのは、アームストロングから遅れること、わずかに一八分後である。悠久《ゆうきゆう》の歴史の中でとらえれば、一八分という時間差そのものは、とるに足らない長さであろう。しかし、その時間差がどんなに短くても、冒険に命を賭《か》けた当事者たちにとって、一番手と二番手の差は埋めがたいものがあったのである。月面に立ったという事実は同じでも、二人の立場には――極論すれば――天と地ほどの違いが生じてしまった。
当時、世界中の人々が、テレビを通して、宇宙飛行士たちの月面活動を食い入るようにして見守った。しかし、同じ困難と危険をくぐり抜けてきたにもかかわらず、二番手に甘んじなければならなかったオルドリンの無念さを見てとった人は、いったい何人いたであろうか。幸か不幸か、彼の生の表情は、厚い宇宙服のヘルメットの下に隠されていたが――。
いずれにせよ、先端技術の粋《すい》を結集し、すべてのプログラムがコンピュータで細かく計算しつくされたアポロ計画の陰に、かくも人間臭いドラマが演じられていたことは、なんとも興味深い話である。そして、このドラマは、たとえ宇宙服に身を包んでいても、競争心をむき出しにする生身の人間の姿は決して変わらないことを物語っている。
ここでもう一言つけ加えておくと、一九七二年一二月、最後のアポロ宇宙船となった17号まで、総勢一二人のアメリカ人宇宙飛行士が月面に立ち、四〇〇キログラム近い月の岩石を地球に持ち帰った。当然、回を重ねるほど、つまり後の宇宙船になるほど、月の研究に大きな成果をもたらしたはずである。アームストロングの言葉を借りれば、「偉大な飛躍」へとつながったのである。
しかし、二回目以降の月面着陸を、いったいどれだけの人が記憶にとどめているであろうか。繰り返しになるが、歴史の中でさん然と輝くのは、一番のり――それがどんなに小さな一歩であっても――の偉業だけなのである。それが、冒険の宿命といえる。
4 北極点をめぐる争い
さて、さきほど、宇宙飛行士たちの葛藤《かつとう》を「人間臭いドラマ」と表現したが、人間が先を争って前人未到《ぜんじんみとう》の地を目指すとき、常に悲喜こもごものドラマが演じられることになる。競争心にあおられた冒険家たちは、ゴールにいたるまでの危険で困難な道程の中で、彼らの人間性をさまざまな形でむき出しにするからである。
それを象徴するかのような出来事が、今世紀の初め、北極点と南極点への一番のりをかけた冒険で、相次いで発生した。
まず、初めて北極点に到達したのは、アメリカのピアリーが率いる一隊で、一九〇九年四月六日のことであった。ピアリーは北極圏の調査に十分長い時間をかけ、その体験をもとに、犬ゾリを利用する綿密な走破計画を立て、ついに地球のてっぺんに星条旗を打ち立てたのである。
ところが、その年の九月、同じアメリカ人のクックが、ピアリー隊よりも一年早い一九〇八年四月二一日、すでに北極点に達していたと発表したのである。ピアリーにとって、クックはかつての探検仲間であったが、このような重大発表は、まさに寝耳に水であった。
もちろん、クックが何を言おうと、ピアリーが北極点に立った実績に変わりはないが、再三述べるように、二番手となったのでは、すべての努力が水泡に帰してしまうのである。
こうして二人の冒険家の間には、どちらが最初の人間かをめぐって激しい論争がひきおこされた。
しかし、ほどなく、クックの主張には辻褄《つじつま》の合わない点が多すぎることが指摘され始めた。そもそも、もっとも重要な、極点へいたるまでの位置測定記録すら存在しないのである(本人は紛失したと釈明したが)。加えて、以前、クックがアラスカのマッキンリー山初登頂に成功したと虚偽の発言をしていた“前科”も、第三者の心証を害することとなった。
結局、クックの主張は退けられ、北極点一番のりの栄誉はピアリーのものとなった。ただ、なにせ何の目印もない白一色の極地を舞台にした冒険だっただけに、論争の謎が完全に解明されたわけではなかった。その意味では、一抹《いちまつ》の後味の悪さを残す決着となった。
もしも、クックに嘘《うそ》つきの前科がなく、入念に計算された測定記録が捏造《ねつぞう》されでもしていたら、論争はかなり長引き、その判定はきわめて難しくなっていたかもしれない。
まあ、仮定の話はともかくとしても、この事件は、冒険家にとって一番のりの魅力が、いかに大きいかを如実に物語っていると言えるであろう。
5 ユニオン・ジャックは、はためかず
さて、北極点が征服されると、次の目標は南極点ということになる。これに挑んだのが、ノルウェーのアムンゼン隊とイギリスのスコット隊である。
二つの――それも国の異なる――探検隊が時を同じくして同じゴールを目指せば、必然的に、一刻を争う激しい競争が展開されることは想像にかたくない。
結果はアムンゼン隊が勝利をおさめ、一九一一年一二月一四日、南極点にノルウェー国旗がひるがえった。アムンゼンは日誌に、その感激を「神に感謝する」という言葉で表わしている。
それから一ヵ月遅れた一九一二年一月一七日、スコット隊も極点に到達した。しかし、そこはもはや処女地ではなかった。
寒気を突いて渾身《こんしん》の力をふり絞りながら前進する彼らの目の前に、うっすらと見えてきたのは、あろうことか、風にひらめくノルウェーの国旗であった。ユニオン・ジャックを立てる余地はなかったのである。
スコットは、「神よ! これほどの苦労を強いながら、一番のりの栄誉をあたえてはくれなかったのか」と、その無念さを日誌に書き記した。勝者は神に感謝し、敗者は神を恨む言葉を残して、南極点制覇のレースは幕を閉じた。
レースは終わったが、この冒険には、さらなる悲劇が待っていた。失意の中、ベースキャンプに引き返すスコット隊は、寒さと飢えと疲労に苦しみ、やがて吹雪の中で遭難したのである。彼らの遺体が発見されたのは、その年の一一月一二日のことであった。
本来なら、二番手に終わった人物の存在は、歴史の中で薄らいだものになるはずである。しかし、スコットの名が今日、アムンゼンと並んで鮮明に記憶されているのは、残酷な話ではあるが、南極に果てたドラマティックな最期があればこそと言える。そこにもまた、一番のりの魔力につかれた男の壮絶な姿を見る思いがする。
こうして、両極点にそれぞれ国旗が誇らしげに立てられた背景には、一番のりを目指す冒険家たちの野望、不正、論争、栄光、失意、悲劇といった人間ドラマが繰り広げられていたわけである。
6 自然科学は「知の冒険」
以上、二〇世紀の代表的な冒険を簡単に紹介してみたが、科学の研究もよく冒険、たとえば登山などにたとえられることがある。
それは、ひとつの目標――何かの発見や問題の解決――に向かって地道に努力する科学者の姿が、山頂を目指して黙々と歩を進める登山家のイメージに重なるからかもしれない。また、科学者が挑む自然という未知の世界は、冒険家の心を引きつける前人未到の処女地になぞらえることができるからかもしれない。
そう考えると、科学はまさに「知の冒険」という形容がぴったりする営みといえるが、両者の共通点は、そういう比喩《ひゆ》的な意味だけにとどまらない。これから見ていくように、なによりも先陣争いの激しさにおいて、科学と冒険には相通じるものがあるのである。
それは冒険と同様、科学の世界でも、業績が高く評価されるのは、最初に発見を成しとげた人間に限られるからである。
自然を相手に未知の謎を解明する科学の世界では、いったん発見が成されてしまうと、それ以上同じ問題に取り組む意味は完全になくなってしまう。取り組みつづけたところで、既知となった事実を確認するにすぎないからである。
したがって、たとえ独立に研究を進めていたとしても、ライバルに先を越されてしまえば、それまでの努力にふさわしい報いを期待することは、もはやできなくなる。厳しい表現をすれば、科学に二番手は必要ないわけである。
それだけに、冒険家が一番のりを目指すのと同じ気持で、科学者もまた、発見の先取権《プライオリテイ》――自分が最初の発見者であることを認めてもらう権利――の獲得を目指し、熾烈《しれつ》な競争を展開することになる。
そうなると、研究には成功しながら、タッチの差で競争に破れ、先取権を手にすることができなかったという悲劇も起こりうる。このとき、先陣争いに破れた科学者は、他人によって成しとげられた発見を――たとえ、それがどんなにすぐれた業績であったとしても、いや、すぐれていればいるほど――素直に喜ぶだけの心の余裕は、とてもないであろう。むしろ、自分の存在を置き去りにした科学の発展を恨めしく思うことになる。
それは、南極点でアムンゼンが立てたノルウェーの国旗を目にしたとき、愕然《がくぜん》とした思いにかられたスコットの気持になぞらえることができるかもしれない。
ところで、同じ学問でありながら、人文科学や社会科学の世界では、――少なくとも、自然科学に見られるような激しさで――先取権をめぐる先陣争いが演じられることは、ほとんどありえない。この違いは、他の諸学問にくらべ、客観性、普遍性が高いという自然科学の特徴に強く依存するのであろうが、いずれにしても、学問にたずさわる人間の生きざまが、その学問の本質と深くかかわっているというのは、大変興味深いことと言える。
そこで、さまざまな人間ドラマを例に選び、先取権獲得にかける科学者の情熱が科学をどのように形づくってきたのか、本書を通じて見ていきたいと思う。
2章 秘伝としての科学
1 ピタゴラスの秘密結社
歴史をふり返ると、科学者の先取権《プライオリテイ》に対する強い意識は、早くも近代科学の黎明《れいめい》期(一七世紀初め頃)に、その萌芽《ほうが》を見てとることができる。つまり、近代科学が産声《うぶごえ》をあげたときには、一番のりに至上の価値を置くという雰囲気も醸《かも》し出されていたわけである。
では、近代科学誕生以前はどうだったのであろうか? 比較の意味で、その様子をまず初めに概観しておこう。
近代以前も人間は、各時代、文化に固有のスタイルで自然に関心を抱きつづけてきたが、何かを発見した場合、その先取権を広く世間に向けて主張するという意識は、きわめて希薄というか、ほとんどなかったといっても過言ではなかった。
たとえば、時代をいっきにさかのぼるが、古代ギリシアの代表的数学者の一人、ピタゴラス(紀元前六世紀)の例がある。
ピタゴラスは多くの弟子をかかえ、ひとつの学派をつくったが、その集団は結束が固く、たぶんに秘密結社的な色彩をおびていた。というのも、数学や天文学など学問上の発見は、学派内の秘密として守られ、門外に漏《も》らすことは厳禁されていたからである。つまり、どんなに素晴しい発見――たとえば「ピタゴラスの定理」のような――がなされたとしても、その先取権を外の人間に向けてアピールすることは、いっさい行われなかったわけである。
また、新しい発見は、すべて学派に属する人々の共有財産と考えられており、その功績を特定の人間に帰属させることもなかった。したがって、さきほど述べた有名な定理をはじめとするピタゴラスの業績は、はたして本人によるものなのか、それとも弟子の誰かによるものなのか、今日でも、その区別はつけられていない。
こうして、ピタゴラス学派は非公開の原則を打ち立て、発見をいわば仲間内の“秘伝”として継承していたわけである。我々の感覚からすると、なんとも奇妙な話ではあるが、発見に対する権利意識とは無縁であった彼らの精神は、近代科学のそれと相反するものであることがわかる。
2 錬金術と「賢者の石」
さて、いま「非公開」とか「秘伝」という表現を使ったが、こういう言葉を聞いて思い浮かぶ営みに、古代から中世、そして近代にいたるまで連綿とつづけられた錬金術《れんきんじゆつ》がある。
錬金術の理論は、古代ギリシアの哲学者アリストテレス(紀元前四世紀)が唱えた物質観に、その基礎をおいている。簡単に要点を述べておくと、アリストテレスは、物質はすべて、基本的な四つの元素(火、空気、水、土)から構成されており、これら四元素の組み合わせ方によって、物質の多様性が生まれると考えた。そして、この四元素は、四つの基本的な性質(温、寒、乾、湿)のあたえられ方によって互いに区別されるとみなしたのである。
たとえば、空気は温と湿の二性質を、また、水は寒と湿の二性質をそれぞれ持っているという具合である。
そこで、適当な操作をほどこすことによって元素にあたえられた基本的性質を変えると、元素は相互に変換することになる。たとえば、空気(温+湿)から「温」を奪って「寒」をあたえると、水(寒+湿)に変化するというわけである。
このように、元素間の変換が可能ならば、必然的に、それらで構成されている物質も互いに変化することになる。つまり、卑金属から黄金をつくることも夢ではないという論法になる。
理論的根拠ができると、次に重要な問題は、それを実践する技術ということになるが、こちらの方は、古代エジプトやメソポタミアで発達した冶金技術、化学的な処理方法がその支えとなった。
錬金術というと、どうしてもいかがわしいイメージが先行するが、誕生した背景には、それなりに当時の学問、技術の基盤があったわけである。それに加え、神秘的、魔術的な側面が複雑にからみ合って、錬金術は「賢者《けんじや》の石」(万物を金に変える秘薬)を探し求める長い歴史をつづることになった。
その長い歴史をここでたどる余裕はないが、営みの性格からして、錬金術に関する知識は仲間内だけの秘密とされていたであろうことは、容易に想像がつく。師から弟子へ、あるいは親から子へと、ひそかに受け継がれていったのである。これもまた、公《おおやけ》の場を舞台にした先取権争いとは無縁の世界であった。
錬金術によって長年にわたり培《つちか》われた実験技術や工夫を重ねた実験器具が、後に近代化学の誕生に大きな影響をおよぼしたことは、よく指摘されるとおりである。しかし、錬金術にみられる非公開と秘伝の姿勢は、科学と明確な一線を画していることがわかるであろう。
3 数学者の果《はた》し状?!
もうひとつ、秘伝にまつわる具体例を紹介しておこう。それは、一五世紀後半から一六世紀にかけてヨーロッパで盛んに行われた数学の試合である。
スポーツの試合かチェスの対局ならともかく、学問の試合とは耳慣れない言葉かもしれないが、二人の競技者(数学者)が互いに同数の問題を出し合い、一定期間内に解けた題数で勝負を競うことが、当時よく行われたのである。
そこから見当がつくように、数学者はある問題の解法を発見しても、先を争って発表するようなことはせず、秘密にしておこうとした。それを数学の試合に使うためである。
さて、一六世紀の初め、数学者の間では、三次方程式の解法が重要な問題となっていた。そのいとぐちを最初に見つけたのは、イタリアのボローニャ大学教授デル・フェロである。フェロは、方程式の解がある条件を満たす特殊な場合について、三次方程式が解けることに気がついた。しかし、彼はその発見を公にはせず、亡くなる間際になって、弟子のフィオルにひそかに伝えたのである。
フェロが亡くなってから九年後の一五三五年、フィオルとイタリアの数学者タルターリアの間で、試合が行われることになった。双方、三〇題ずつの問題を出し合うことになったが、このときフィオルが自信をもって切り札に使った問題は、師から受け継いだ三次方程式の解法であった。
ところが、思わぬことに、タルターリアはこれを含めフィオルの出した問題をすべてみごとに解いてしまったのである(おそらくタルターリアの方も、ひそかに三次方程式の研究を行っていたのであろう)。試合の結果は、タルターリアの大勝に終わり、彼の名声は大いに高まった。
さらに、その後もタルターリアは三次方程式の研究に専念し、一五四一年、ついにその一般的解法を見つけるのに成功した。これは数学史に残る偉大な業績であったが、さきほど述べた当時の習慣から、タルターリアもまた、発見の内容をすぐには公表しなかった。
ところで、いつの時代にもめざとい人間はいるもので、この噂《うわさ》をさっそく耳にしたのが、ミラノのカルダノであった。カルダノは言葉巧みにタルターリアに接近し、秘密を絶対に守るという約束のもと、三次方程式の一般解法を聞き出してしまったのである。
しかし、カルダノは約束を守らなかった。一五四五年に『大いなる術』と題する書物を著わし、その中で、タルターリアが見つけた解法を公表してしまった。
驚いたタルターリアはカルダノに厳しく抗議をしたものの、相手は役者が一枚も二枚も上手で、さっぱりらちがあかない。業《ごう》を煮《に》やしたタルターリアはカルダノに果《はた》し状を送り、公開の場でこの問題に決着をつけようとしたが、これもうまくいかず、一五五七年、無念の思いでこの世を去っている。秘密を漏らした己《おの》れの愚かな行為を、さぞや後悔したことであろう。
ただ、ここでひとつ面白いことに気がつく。カルダノの振る舞いは確かに非難されてしかるべきであろうが、秘密をすっぱぬいた『大いなる術』の中で彼は、フェロとタルターリアが三次方程式の解法を発見していたことについてはちゃんと触れているのである。つまり、必ずしも自分が第一発見者のごとく装《よそお》ったわけではなかった。
どうせここまで狡《ずる》いことをしたのなら、ついでに――と言ってはなんだが――カルダノはタルターリアから先取権の栄誉もかすめ取ったのではないかと思いたくなるが、そこまではしなかったわけである。したがって、二人の数学者の間で繰り広げられた争いは、約束を破って秘密を公表してしまったことそれ自体が問題となったように思える。
というわけで、数学史上有名なこの逸話《いつわ》は、一六世紀の中葉ではまだ、発見の先取権に対する意識がきわめて薄かったことを物語っている。
4 カントと「コペルニクス的転回」
イタリアで数学者によるドラマが演じられていたころ、バルト海に近いポーランドのフラウエンベルクで、一人の偉大な天文学者が静かに息を引き取った(一五四三年五月二四日)。地動説を唱え、近代科学の誕生に大きなインパクトをあたえることになったコペルニクスである(なお、コペルニクスが自説を開陳した書物『天体の回転について』が出版されたのも、死と同じ一五四三年のことであった)。
ところで、コペルニクスの名前を聞くとすぐに、「コペルニクス的転回」という言葉を思い出すが、こういう形容を初めて使ったのは、一八世紀後半に活躍したドイツの哲学者カントである。
カントは『純粋理性批判』の中で、次のように書いている。
「コペルニクスは、すべての天体が観察者の周囲を運行するというふうに想定すると、天体の運動の説明がなかなかうまく運ばなかったので、今度は天体を静止させ、その周囲を観察者にまわらせたらもっとうまくいきはしないかと思って、このことを試みたのである」(篠田英雄訳、岩波文庫)。
このように指摘した後、カントは自分が提唱した認識論の学説が、従来の哲学にくらべ、ちょうど天動説から地動説への転回に匹敵するくらい独自性の高いものであることを強調したのである。いってみれば、自説をPRするために、コペルニクスを引き合いに出したともいえる。
以来、発想の転換をほめたたえるたとえとして、「コペルニクス的転回」という言葉が、すっかり定着してしまった。
さて、それほど革命的な発見だとすれば、『天体の回転について』の中で、コペルニクスは地動説に対する先取権をどのように主張しているのか、おおいに興味のあるところである。また、そこから、後世の人々の評価はともかく、コペルニクス自身は、自説の革新性、重要性をどのように認識していたのかをさぐることもできる。
そこで、このような視点から、ちょうど近代科学誕生への過渡期に生きた天才の思想を本章の最後に、少しくわしく追ってみようと思う。
5 天動説の怪物
コペルニクスの時代においてもまだ支配的であった天動説は、古代ギリシアの天文学にその源を発する。そこに描かれた基本的な構造は、よく知られるとおり、宇宙の中心にすえた地球のまわりを、他の天体が回転するという素朴な体系である。天体の運動は一様な円運動(速度、軌道の変化もなく、運動の初めも終わりもない)で、それぞれの天体をのせた天球が同心球状に宇宙をつくり上げていると考えられていた。
円や球は、対称性のもっとも高い美しい図形である。そういう図形の簡潔な組み合わせだけで宇宙を構築した背景には、「美と調和」を重視した――言葉を換えれば、自然の本質に「美と調和」を当てはめようとした――古代ギリシアの自然観があったのである。
しかし、残念なことに、現実の天体の運行はいささか複雑で、このように単純な天動説とは合致しなかった。中でもやっかいだったのは、惑星が示す不規則な年周運動である。たとえば、火星は図のような行きつ戻りつのふらつき運動を行う。これはもちろん、他の惑星と同様、地球も太陽のまわりを回っているために起こるみかけ上の動きにすぎないが、そのままでは天動説におさまりようがなかった。
そこで、天動説にはさまざまな修正が加えられたのである。もっとも巧妙だったのは、天球の上にさらに複数の小さな円を重ね、それらを同時に回転させる合成運動によって、惑星のふらつきを記述したことである。あるいは、地球の位置を宇宙の中心から少しずらすという操作などもほどこされた。
当然のことながら、時代と共に、天文学の観測データは蓄積され、くわしくなるので、それに応じて、ほどこさねばならぬ修正の度合も増してくる。そして、コペルニクスの時代ともなると、天球上に重ねられた円の数は何十にもおよび、それが鎖のようにつながってしまった。そうなると、一様な円運動という宇宙の根本原理も破綻《はたん》してしまう。
「無理が通れば、道理がひっこむ」とはよくいうが、「地球を動かさない」という無理を通すため、いつの間にか、天上界は長い鎖をひきずった複雑な体系に変わってしまい、美と調和に根ざした古代ギリシアの自然観は、大きく損《そこ》なわれてしまったわけである。一言でいえば、宇宙はきわめて醜悪な姿に変貌《へんぼう》してしまった。
こうした一六世紀前半の状況を、コペルニクスは、「天文学者は、まるで宇宙を怪物の体をつくるかのようにグロテスクな代物《しろもの》にしてしまった」と嘆いている。
6 コペルニクスの本音
嘆いたということは、コペルニクスにとって、当時の宇宙体系はどこか不自然に感じたのであろう。『天体の回転について』を読むと、「こんなはずではない!」という、コペルニクスの素朴な訴えが聞こえてくる。
つまり、コペルニクスが地動説を唱えたきっかけは、他の天文学者よりも精緻《せいち》な観測データをもっていたからとか、天体の運行を力学的に説明できたからというわけではなかった。そうではなく、美と調和をすっかり崩してしまった天動説にがまんできなかったのである。がまんできず、古代ギリシアの自然観を取り戻すために、思い余って、地球を動かしてしまったような気がする。
地球を動かすという“犠牲”を払いさえすれば、複雑怪奇な修正をほどこさずとも、みかけの運動として惑星のふらつきを説明することができる。そして、地球の代わりに太陽が宇宙の中心を占めることにはなるが、そのまわりを各天球が同心球状に回転するという簡潔で美しい体系を回復できると、コペルニクスは考えたのである。
おそらく、コペルニクスの意識の中には、自分の業績がやがて近代科学を確立させるようになるなどという、だいそれた気持はなかったはずである。むしろその逆で、今述べたように、古代ギリシアの自然観への回帰を望んでいたように思える。
事実、コペルニクスは『天体の回転について』の冒頭で、地球が動いていると考えたのは決して自分が最初ではなく、すでに何人もの古代の先哲たちが、同様の説を唱えていると、具体的な人名をあげて論述している。革新性に価値をおくのではなく、古代の学問の権威を重んじる精神が、まだ強い時代だったことがわかる。この点、コペルニクス自身の考えと、後世の人々が勝手に定着させた「コペルニクス的転回」というほめ言葉の間には、本質的な食い違いが存在するようである。
このように、コペルニクスにおいてすら、先取権を声高《こわだか》にアピールする姿勢はまだみられなかった。一番のりを至上のものとみなす風潮が生じるのは、近代科学が確立する一七世紀――それはしばしば、「科学革命」の時代と呼ばれる――を待たねばならなかった。
待たねばならなかったが、いま「革命」という言葉を使ったように、先取権への意識も、一七世紀の訪れと共に、かなりドラスティックに芽生えてきた。そして、その先頭を切ったのが、あの個性豊かな天才ガリレオである。
それでは、ガリレオの奮闘ぶりを手初めに、科学者の激しい先陣争いの様子を、歴史にそって見ていくことにしよう。
3章 先取権をめぐるガリレオの闘い
1 望遠鏡の発明
近代科学の誕生において、その中心的、先導的役割を果たしたのは、なんといっても、天文学の分野である。コペルニクスの地動説を支持し、新しい自然観を確立するのに貢献した一七世紀の天才たち――ケプラー、ガリレオ、ニュートンなど――の系譜と業績が、その様子を鮮明に物語っている。
そして、また、こうした歴史の歩みを反映するかのように、科学者の先取権争いも、まずは、天文学上の発見をめぐって繰り広げられた。その最初の主役となったのがガリレオであり、ガリレオを天体観測に熱中させたのは、当時(一七世紀初め)発明されたばかりの望遠鏡であった。
望遠鏡を最初につくったのが誰なのか、正確に特定するのは難しいが、自ら発明者として名のり出た人物の一人に、オランダの眼鏡職人リッペルハイがいる。
発明のきっかけは、多分に偶然が作用したようであるが、ともかく、遠方の物を手もとに引き寄せ拡大して見せる文明の利器の発見に興奮したリッペルハイは、一六〇八年一〇月二日、オランダ議会に望遠鏡の特許を申請した。
ところが、リッペルハイの行動に呼応するかのように、他にも望遠鏡を考案したと名のり出る人物が相次ぎ、議会もその判定に困惑してしまった。困惑した議会は、結局、誰にも特許を認めなかったため、リッペルハイの願いはかなえられなかった。
少々気の毒な気もするが、この便利な道具は、あっという間にヨーロッパ中に広がり、翌一六〇九年には、その噂《うわさ》が、ガリレオの住むイタリアのパドヴァにまで伝わってきた。そのときの様子を、ガリレオは、一六一〇年に発表した『星界の報告』の中で、次のように書いている。
「およそ一〇ヵ月ほどまえ、あるオランダ人が一種の眼鏡を製作した、という噂を耳にした。それを使えば、対象が観測者の眼からずっと離れているのに近くにあるようにはっきりみえる、ということだった。実際に眼でみてその驚くべき効果を確かめた、という人もあった。信ずる人もあれば、否定する人もあった。……そこで、ついに自分でも思いたって、同種の器械を発明できるように、原理をみつけだし手段を工夫することに没頭した。それからほどなく、屈折理論にもとづいてそれを発見したのである」(山田慶児、谷泰訳、岩波文庫)。
こうして、手製の望遠鏡を手にしたガリレオは、これから紹介するように、肉眼ではとらえられなかった新しい宇宙の姿を、次々に明らかにしていくことになる。
ところで、ガリレオの時代、学者が自ら手を汚して道具や機械をつくるという風潮はほとんどなかった。そういう仕事は職人が行うものとみなされ、一段低く評価されていたのである。
しかし、ガリレオはこういう偏見にとらわれなかった。反対に、職人たちの伝統を積極的に取り入れ、新しい学問――それは、単に思弁的な段階にとどまるのではなく、実験、観測にもとづく実証性、客観性の高い学問――を生み出そうとしたのである。いわば、自然に立ち向かう進取の精神に富んでいたともいえる。
望遠鏡の作製も、ガリレオの進取の精神のあらわれであった。そして彼はそれを天文学の観測道具に転用するという大胆な行為にでたのである。つまり、地上の風景を眺めるのではなく、望遠鏡を宇宙に向けたわけである。
2 新しい宇宙観
さて、コペルニクスの死からすでに半世紀以上も経過した一七世紀の初めにおいても、天動説はまだ、支配的な影響力をもっていた。そして、この旧来の宇宙観にしたがうと、世界は、月から上の「天上界(天体の世界)」と月から下の「月下界(人間の住む世界)」に峻別《しゆんべつ》され、この二つの領域はまったく異質なものとみなされていたのである。
どのように異質かというと、たとえば、月下界の物質は2章で述べたように、火、空気、水、土の四元素からできているが、天体は月下界に存在しない元素エーテルでつくられていると考えられていた。つまり、天上界と月下界では、世界を構成している元素が、完全に異なるわけである。
また、我々の身のまわりでは、さまざまな現象が、運動や物質の生成・消滅をともなって生起している。これに対し、天上界は完全に秩序だった世界で、そこにはいっさいの変化が生じないとみなされていた。
そういう天体の世界に、ガリレオは好奇心をむき出しにして、望遠鏡を向けたわけである。そして、次々と、天動説を根底から揺《ゆ》るがすような宇宙の新しい姿をとらえたのである。
まず、月の表面の形状について、驚くべき発見がもたらされた。月は、水晶玉のように滑らかな球体と考えられていたが、望遠鏡で眺めてみると、月面は起伏に富んでおり、地球と同様、山や谷でおおわれていたのである。そこで、太陽光がつくる山の影の長さをもとに、ガリレオは月の山がどのくらい高いか計算までしている。
こうして、手もとに引き寄せてみた月は、基本的に地球と同じ地形をしていることが明らかにされ、天上界と月下界を本質的に異なる世界とみなす宇宙観に、最初の一撃が加えられた。
また、月と地球に共通性がみられるということは、地球もあまた存在する天体のひとつにすぎないのではないかという可能性を暗示することにもなった。
ガリレオが初期に成しとげたもうひとつ重要な成果は、木星のまわりを衛星が四つまわっていることを発見したことである。
月が地球をまわるように、木星も衛星を持っている。ここにもまた、地球と他の天体との共通性が見出された。こうして、地球が宇宙の中で決して特別な存在ではないという認識が徐々に定着し、地動説の地歩が少しずつ固まっていくわけである。
以上のようなガリレオの天体観測は、さきほど望遠鏡の話のところで引用した『星界の報告』として、早くも一六一〇年――リッペルハイの特許申請から二年もたたないうち――に発表された。
この本を開くと、ガリレオ手描きの月面のスケッチや木星の衛星の位置変化を示す図などが、目にとびこんでくる。それはまた、文章とは違った迫真力をもって、ガリレオの新発見に対する興奮ぶりを、我々に伝えてくれる。
いや、興奮したのは、ガリレオ一人ではなかった。『星界の報告』は、初版五〇〇部がたちまち完売、あわせて、ガリレオの工房で作製された望遠鏡も、とぶように売れたという。本の印税と望遠鏡の売上げで、ガリレオの懐《ふところ》もそれなりに潤《うるお》ったようである。
まあ、人の懐を気にするのはともかくとしても、望遠鏡が普及してくると、ガリレオはそういつまでも安閑《あんかん》とはしていられなくなる。
こういう人間の視覚能力を増大させる便利な道具が発明される以前は、ことわるまでもなく、天体観測は肉眼によって行われていた。
肉眼でも、一六世紀末に活躍したティコ・ブラーエのように、観測誤差が角度にして二〜三分(一分は一度の六〇分の一)という精緻《せいち》をきわめた例もあるにはあったが、しかし、いくらがんばったところで、しょせんは見える物しか見えない。ティコ・ブラーエがいくら目を凝《こ》らしても、月のクレーターや木星の小さな衛星が見えるわけではない。
ところが、反対に、望遠鏡を手にすれば、誰でも――必ずしも、ガリレオではなくても――こうした宇宙の新しい姿をとらえることができる。
もちろん、ただ漠然と望遠鏡をのぞいただけで、おいそれと新発見に結びつくわけではない。しかし、それなりの問題意識をもって根気よく天体観測を続ければ、誰にも、大発見のチャンスはめぐってくるわけである。ひっきょう、早い者勝ちの競争になる。
こうなると、ガリレオは発見の先取権を今までのようには独占していられなくなる。事実、『星界の報告』が評判を呼ぶ頃から、ガリレオの先取権をめぐる闘いが始まったのである。
3 太陽黒点の先取権争い
一六一〇年七月、ガリレオの関心は、太陽にも向けられた。前節で述べたように、天動説にしたがえば、天上界――太陽もそこに属する――では、いっさいの変化、生成・消滅は起きないはずであった。
ところが、この起きないはずのことが、太陽で起きていることに、ガリレオは気がついたのである。それは、太陽表面に現われては消え、消えては現われる黒い模様(黒点)の存在であった。また、継続して観測していると、黒点は太陽表面を移動しながら、時々刻々、形を変化させることもガリレオにはわかった(なお、太陽を直接眺めては目が焼けてしまうので、望遠鏡による太陽の像を白い紙の上に投影する方法がとられた)。
神聖な太陽においても、このような変化が起きているという発見は、旧来の宇宙観にとって大きな衝撃となる出来事であった。天動説の崩壊は、もはや時間の問題となってきたのである。
と同時に、太陽黒点の存在に気がつく人間も、大ぜい現われてきた。その中の一人、イエズス会のシャイナー神父は、一六一一年の暮、アウグスブルクの政治家ヴェルザー――彼は学問にも造詣《ぞうけい》の深い名士であった――に宛てた手紙の中で、太陽黒点発見の先取権を表明し、その翌年早々、観測成果を『太陽黒点論』として出版した。
ただし、シャイナーは、イエズス会士という自らの“社会的な立場”を考え、「アペレス」という偽名《ペンネーム》を使ってはいたが。
いずれにしても、先取権の宣言で一歩先んじられたガリレオは、ここで俄然《がぜん》、反撃に転じる。
ヴェルザーからシャイナーの書物を送られたガリレオは、折り返しヴェルザーに手紙を書き、自分は一年半以上も前に太陽黒点を発見し、それ以来継続してくわしい観測を行っていると明言した。また、それについては多くの友人が認めていると書き添え、先取権は自分に帰属するという意思表示を行っている。なお、ガリレオの観測は、一六一三年三月、『太陽黒点に関する手紙』として、ローマで出版された。
さて、シャイナーとガリレオは同じ現象を発見し、それぞれが先取権を主張したわけであるが、太陽黒点の成因については、互いにまったく違った見解をもっていた。
シャイナーは、太陽をまわる星が太陽表面に影を落とし、その影が黒点として観測されると考えていた。つまり、太陽そのものに、何かの変化、生成・消滅が起きているとはみなさなかったのである。シャイナーにしてみれば、天上界は不変、完全であるとする旧来の宇宙観に反することなく、なんとか新しい現象を説明したかったのであろう。
一方、ガリレオは、このようなシャイナーの見解に真向から反対した。日ごとに見られる黒点の形状変化、位置の移動をていねいに観測したガリレオは、黒点は星の影などではなく、太陽表面そのものに生起する現象であることを、精緻なデータを駆使して論破したのである。
さらに、ガリレオは、黒点の運動から、太陽が約一ヵ月の周期で自転していることを指摘した。旧来の宇宙観に縛られていたシャイナーには、とてもそこまで見通す余裕も下地もなかった。
こうしてガリレオは、『太陽黒点に関する手紙』の中で、シャイナー説への反論を果敢に展開し、自説の正しさを強調した。それは、取りも直さず、黒点の発見をガリレオがきわめて重要視していたからにほかならない(おそらく、『星界の報告』と並んで、天動説をひっくり返す有力な証拠のひとつになると考えたのであろう)。
それだけに、発見の先取権も絶対に人には譲れないところであった。ガリレオの筆づかいから伝わってくる激しさには、彼のこうした強い思いがこめられているように感じる。
ところで、シャイナー、ガリレオの他にも、オランダのファブリキウス、イギリスのハリオットなどが、ほぼ同じ時期に、太陽黒点の存在に気がついている。したがって、誰が最初の発見者かを厳密に判定するのは――認定基準の設け方や信頼できる記録の有無などにもより――、なかなか難しいようである。
しかし、観測の精確さ、問題意識の深さ、観測結果の解析にみられる科学的な態度、後世の研究におよぼした影響、そういう要素を総合して判断すれば、初期の太陽黒点観測において、ガリレオの業績が一頭地を抜いていることは間違いのないところであろう。
4 奇妙な手紙
話は再び一六一〇年に戻るが、この年、先取権に対するガリレオの強い執着心を象徴するかのような出来事が、もうひとつ起きている。それは八月に、ガリレオから、トスカナ公国の大使としてプラハに赴任《ふにん》していたジュリアン・デ・メディチのもとへ奇妙な手紙が届いたことである。
手紙には、ガリレオがなにやら天文学上の発見を行ったことがほのめかされていた。ところが、その肝心な発見の内容は、
SMAISMRMILMEPOETALEUMIBUNENUGTTAUIRAS
という暗号文(文字の綴り変え《アナグラム》)に置き換えられていたのである。これでは、なんのことかさっぱりわからない。
しかし、隠されると知りたくなるのは、人の常である。とりわけ、天文学者ならば、ガリレオの新発見を知りたいという衝動は抑えがたいものがあろう。
その衝動を抑えきれなかったのが、ちょうどこのとき、ガリレオの手紙が届いたプラハで、皇帝ルドルフ二世の宮廷天文学者をつとめていたケプラーである。
ケプラーは一六〇〇年、さきほど紹介した当代きっての天文観測家ティコ・ブラーエを頼って、オーストリアからプラハへ移って来た。ティコ・ブラーエは間もなく亡くなるが、彼の残した膨大な観測記録をもとに、ケプラーは一六〇九年、太陽をまわる惑星の運動に関する二つの法則――いわゆる「ケプラーの第一、第二法則」――を発表したばかりであった(なお、第三法則は一六一九年に発表された)。また、地動説を支持する偉大な先輩として、ケプラーはガリレオのことを尊敬していたのである。
それだけに、ケプラーは、ジュリアン・デ・メディチのもとに送られてきた暗号文の内容が気になって仕方がなかった。ついに、矢も楯《たて》もたまらず、自分でその解読に取りかかったのである。
ガリレオのアナグラムの中から、ケプラーが最初に見つけ出したキーワードは、「火星」(MARTIA)であった。これを手がかりにしてケプラーは、
Salve umbistineum geminatum Martia proles.
と文字を並び換え、ガリレオの発見は、「火星には二つの衛星が存在する」という内容であると読み取ったのである。
というのも、当時はまだ、火星の衛星はその存在が知られていなかった。したがって、ガリレオは木星につづき火星にも衛星を発見したものと、ケプラーは思いこんだのであろう。
着眼点は悪くなかったが、ケプラーの解読作業は残念ながら徒労に終わった。ほどなくしてガリレオが公表した暗号文の正解は、
Altissimum planetam tergeminum observavi.
であり、「土星が三つの星から成ることを観測した」という内容であった。
これは土星の環の発見にほかならないが、ガリレオの望遠鏡では、その姿をまだ鮮明にとらえるまではいたらなかったのであろう(環が確認されたのは、一六五五年、オランダのホイヘンスによってである)。土星の両側に、小さな星が二つ並んだスケッチをガリレオは残している。
さて、同じ年の一二月、ガリレオはまたもや、ジュリアン・デ・メディチに宛て、暗号を書きこんだ手紙を送ってきた。
ここでそのアナグラムを引用するのは、もうやめにするが、今度も解読を試みたケプラーは、「ガリレオが木星に回転する赤い斑点を発見した」ものと考えた。
ところが、今回もケプラーの予想ははずれてしまった。ガリレオは、金星にも月と同様、満ち欠け現象が起きていることを、間もなく公表したのである(この発見も、地動説の正当性を裏づける有力な証拠であった)。
こうして、ガリレオの暗号文に振りまわされたケプラーは、さんざんな思いをするはめに陥《おちい》ったわけである。
5 暗号に秘めた先取権
では、なぜガリレオはわざわざ暗号文などをつくったのであろうか? そして、それを身分の高い人間に送りつけたりしたのであろうか?
これはもうおわかりのことかと思うが、このような手のこんだ手段を講ずることにより、ガリレオは新発見の先取権を確保しようとしたのである。
あらためてことわるまでもなく、土星の環――厳密に言うと、ガリレオは三重の星と思ったわけであるが――も、金星の満ち欠けも、それまでの宇宙観からは想像もつかない発見であった。それだけに、発見が間違いないことを確認できるまで、観測には十分時間をかける慎重さが必要であった。特に、発明されたばかりの望遠鏡の性能を考えれば、それはなおさらであろう。
新発見に有頂天になり、急いで発表したものの、後でそれが誤認だったとなっては、それこそ大変である。
かといって、あまり慎重になりすぎると、誰かに先を越される心配も出てくる。この辺のタイミングの取り方は、なかなか難しい。
そこで、ガリレオは暗号文という巧妙な方法を思いついたのであろう。この中に重要な事柄を隠しておけば、その間、観測の時間をかせぐことができる。そして、十分自信がついたところで、新発見を公表するわけである。
逆に、誰かが同じ発見を先に発表した場合には、暗号文を解いて、その内容を明らかにすればよい。権威ある人物に宛てた手紙の日付にさかのぼって、自分の方に先取権があることを堂々と主張できるというわけである。
なお、こういう目的で暗号文を利用する風潮は、学術雑誌が定期刊行され、そこが先取権認定の公《おおやけ》の場として機能し始める一七世紀後半までつづいていた(さきほど登場したホイヘンスや、あのニュートンまでが暗号文を使っている)。
ガリレオは数多くの偉大な発見を成しとげたわけであるが、いま見てきたように、先取権確保の手段についても、その先鞭《せんべん》をつけたようである。
ところで、シャイナーに対する痛烈な反論にしても、暗号文の創案にしても、そこにはガリレオのパーソナリティが強く現れていることは、もちろん言をまたない。しかし、それを一人の天才の特異性だけで片づけてしまったとしたら、事の一面しか眺めていないような気がする。
1章の最後で触れたように、自然科学は根源的に、人間を――一人ガリレオだけでなく一般的に――激しい先取権争いに駆り立てずにはおかない学問なのである。その片鱗《へんりん》が、早くも近代科学の揺籃《ようらん》期に、ガリレオの行動を通して、ドラスティックに現れたとみなすべきなのであろう。
6 ケプラーと後日談
ガリレオの闘いについては以上で一区切りにするが、このまま本章を終えたのでは、ガリレオのおかげで、すっかり暗号文に翻弄《ほんろう》されたケプラーが少々気の毒に思えてきた。そこで、余談にはなるが、その後の顛末《てんまつ》を簡単に紹介しておこうと思う。
ケプラーの生前――彼は一六三〇年に亡くなった――には間に合わなかったが、彼がガリレオの暗号文を間違って解読した内容が、二つとも、真実であることが後に証明されたのである。
明らかになった順序にしたがって述べると、まず、一六六五年、イタリアのカッシーニが、木星に回転する赤い斑点を発見している。また、一八七七年、アメリカのホールが、火星に二つの衛星が存在することを発見、「フォボス」、「ダイモス」と命名された。
この話を聞けば、ケプラーも天国で少しは溜飲《りゆういん》を下げているかもしれない。いくらガリレオでも、アナグラムの中にまぎれこんでいた偶然に対してまで、発見の先取権を主張することはないであろうから。
それにしても、まったくの偶然とはいえ、ここまでお膳立てがそろうと、なにやら因縁めいたものを感じるが、いかがであろうか。
4章 ニュートンと巨人の肩
1 大学街の喫茶店
筆者の勤務する大学は、キャンパスとまわりの商店街が渾然《こんぜん》一体をなす感があり――夕方ともなると、買物籠をさげたおばさんが大隈侯《おおくまこう》の銅像の前を通り抜けたり、体育館の前で近所の子供たちがボール遊びに興じたり、夏にはベンチで夕涼みするおじさんも現れたりという具合で――、それだけに、周辺にはたくさんの喫茶店が目につく。
そこはたいてい、サークルの溜《た》まり場になっているせいか、いつも、学生諸君の賑やかな話し声が聞こえる。
少し落ち着いた雰囲気の店をのぞいてみると、教授と数名の大学院生が、ゼミナールの延長なのか、コーヒーをすすりながら、ディスカッションをしている風景も目につく。
そういう環境の中で生活していると、ついついこちらも仕事に飽きると、同僚とつれだって、喫茶店で気分転換と相成《あいな》る。
しかし、これは一見サボっているように見えるが――なにやら、言い訳がましいなぁ――、こういう語らいの場を通して、仲間うちの小さな研究会がスタートしたり、研究テーマの着想が浮かぶことも、しばしばである(そういえば、本書が生まれるきっかけも、喫茶店での雑談からであった)。
これとまったく同じような光景が、今から三〇〇年前のロンドンのコーヒー・ハウスで繰り広げられていた。そして、その光景の中に、近代科学の金字塔となったニュートンの力学が確立される遠因を見ることができるのである。
それでは、タイム・マシンに乗って、一六八四年一月のロンドンに戻り、とあるコーヒー・ハウスをのぞいてみよう。
2 ロンドンのコーヒー・ハウス
コーヒー・ハウスは今日も、大ぜいの客でいっぱいである。政治談義に花を咲かせる者、新聞を読みふける者――当時、新聞は人の多く集まるコーヒー・ハウスに常備されていた――、趣味を同じくする同好の士の集《つど》いと、そこはロンドン市民の社交の場として活況を呈している。
そういうコーヒー・ハウスの一角に、なにやら難しそうな顔をしながら、周囲の喧騒《けんそう》をよそに議論に熱中している三人の男がいる。一人は二〇代後半の若者、二人は五〇歳前後と思われる紳士《ジエントルマン》である。
三人の正体を探るため、タイム・マシンをもう少し彼らの席に近づけてみよう。
どうやら若者は天文学者のハレー(ハレー彗星の発見者)、中年の紳士はフック(「フックの法則」などで知られる科学者)とレン(セント・ポール寺院などを設計した建築家)のようである。この三人はロンドン王立協会《ロイヤルソサエテイ》を通じての仲間であり、レンは同会会長、フックはその事務局長をつとめ、ハレーは前年、同会のメンバーに加わったばかりであった。
これだけそうそうたる人物が一堂に会しているとなると、何を語り合っているのか知りたいところである(それは間違いなく、歴史の重要な一コマになりそうなので)。そこで、話の邪魔にならないよう注意しながら、彼らの議論に耳を傾けてみよう。
3 惑星はどんな軌道を描くか?
話題は天体の運動に関することであった。「太陽から距離の二乗に逆比例して減少する力(重力)の作用を受けるとき、惑星はどのような軌道を描くのか」ということが、話し合われていたのである。
三人とも当時この問題に強い関心を抱いていたが、数学的に天体の一般的な運動法則を導出するにはいたっていなかった。結局この日も、明快な結論は出ないまま彼らはコーヒー・ハウスを後にした。
おそらく、三人だけで議論をつづけていても事態は進捗《しんちよく》しそうもないと感じたのであろう。
その年の五月、一番年の若いハレーはケンブリッジを訪れ、トリニティ・カレッジの教授であったニュートンに、この問題をぶつけてみた。すると、驚いたことに、ニュートンはいともあっさりと、その件なら自分がすでに解決済みであると答えたのである。
それから半年後、ハレーのもとにニュートンから「運動について」と題する論文が送られてきた。そこには、惑星が重力の作用を受け、太陽のまわりにだ円軌道を描くことの証明が綴《つづ》られていた。
感動したハレーはさっそくニュートンに、さらにくわしい内容をまとまった書物として発表してほしいと訴えかけた。ハレーの熱意が通じたのか、ニュートンは執筆に着手、一六八七年、歴史に残る名著『自然哲学の数学的原理』(この本は略して『プリンキピア』と呼ばれる)が世に問われたのである。ここにニュートン力学の基礎が形づくられたことになる。
なお、いま「ハレーの熱意」という表現をしたが、『プリンキピア』出版にいたるまでの彼の努力は並々ならぬものがあった。ハレーは、企画、編集、校正といった裏方の仕事を一人で引き受け、ニュートンのために出版費用の肩代わりまでしたのである(ニュートンはこうしたハレーの献身的な力添えに対し、『プリンキピア』の序文の中で謝意を表している)。まあ、それだけ、ハレーはニュートンの実力に惚《ほ》れこみ、業績の偉大さに目を奪われたということなのであろう。コーヒー・ハウスでの語らいから、二年半後のことである。
4 犬猿の仲――ニュートンとフック――
このようにして『プリンキピア』はめでたく出版のはこびとなったわけであるが、それと並行して、ニュートンとフックの間で激しい先取権争いが勃発《ぼつぱつ》した。
『プリンキピア』の草稿を見たフックは、重力が距離の二乗に逆比例することを最初に発見したのは自分であると主張し、ニュートンはフックの着想を無断で利用したと非難したのである。
実を言うとこの二人、それ以前にも数年にわたり光学に関する論争を繰り広げたことがあり、かなり相性が悪かったようである。それだけに、先取権をめぐるもめ事は、学問上の論争というよりも、多分に感情的な衝突の様相を呈してきた。
盗作者呼ばわりされ激怒したニュートンは、フックの主張を退け、一歩も譲る気配を示さなかったのである。
ニュートンにしてみれば、重力の法則に関心を抱き、その研究に取り組んだのは、すでに大学卒業直後――『プリンキピア』出版の二〇年以上も前――のことであるという自負があった。
ニュートンが大学(ケンブリッジのトリニティ・カレッジ)を卒業したのは、一六六五年のことであるが、この年、イングランドにはペストが蔓延《まんえん》し、大学はしばらくの間、閉鎖されてしまった。予期せぬ“休暇”を故郷のウールスソープで一人静かに過ごしていたニュートンは、この時期に、重力の法則や微積分法などの基礎づけを行っていたのである。それだけに、先取権に関しフックから“いちゃもん”をつけられる覚えなど、まったくなかったのであろう。
一方、フックも重力とのかかわりは古く、また、一六八〇年にはニュートンに宛てた手紙の中で、自説を開陳《かいちん》していた。このあたりがきっかけとなって、さきほど述べたような抗議の姿勢をフックはとったようである。
さて、大物二人の対立に腐心し、事態収拾のため両者の間を奔走したのは、ハレーである。結局、ハレーの仲裁《ちゆうさい》により、『プリンキピア』の中でニュートンが、フックの存在について言及するということでなんとか決着をみた。
しかし、そう言われて『プリンキピア』を開いてみても、よほど注意して見ない限り、フックの名前はみつからない。
それもそのはず、重力が距離の二乗に逆比例することを述べた命題の注として、「レン、フック、ハレーも独立にこのことを考察した」と触れられているに過ぎないからである。
リンゴのエピソードが象徴するように、ニュートンの名前を聞けば、誰もがすぐに重力の発見を思い浮かべる。これはもちろん、『プリンキピア』を通し、力学の体系を確立したという偉大な業績があればこそである。
あればこそであるが、その際、ニュートンの名をかくも輝かしいものに高めたひとつの要因は、重力の先取権争いで勝利をおさめたことであろう。一方、闘いに敗れたフックの名を、『プリンキピア』の「注」の中に見てとる人は、いまとなってはほとんど誰もいない。
ところで、念のためおことわりしておくと、ニュートンとフック、それぞれの言い分のどちらが正しいかとか、フックの研究がニュートンになにがしかの影響を与えたのだろうかというような問題を議論することが、本章の目的ではない。それはそれで、興味深いテーマといえるが、こうした議論は適当な科学史の書物に譲りたいと思う。
ここで注目したいのは、これほどの大物二人(ケンブリッジの教授と王立協会事務局長)が、恥も外聞もなく、公然と感情むき出しに先取権争いを演じたという事実である。
それは、天才をかくも狂わせる不思議な“魔力”――先取権という名の魔力――が、自然科学という学問には潜んでいるからに他ならない。
5 ライプニッツとの先取権争い
フックを相手にした重力論争と並んでもうひとつ有名なのが、ニュートンとドイツの数学者ライプニッツの間で演じられた微積分法の先取権争いである。
ライプニッツがこの新しい数学を発見したのは、外交官としてパリに赴任《ふにん》していた一六七五年のことであった(当時のライプニッツのノートに、今日、我々が使っている積分記号や微分記号dが見られる)。そして、一六八四年、ライプニッツはその成果を論文にまとめ、ライプツィッヒの学術雑誌に発表したのである。微積分の公《おおやけ》にされた論文としては、これが最初のものとなった。
一方、ニュートンは、さきほど触れたように、ライプニッツより一〇年早い一六六五年(ペストを避けて田舎に帰っていたとき)、微積分の着想を抱き、その基礎づけを行っていた。ただ、ニュートンの場合、論文の草稿が一部数学者の間で回覧され、高い評価を受けてはいたものの、研究成果を広く公表したわけではなかった。したがって、ライプニッツの研究はまったく独立に行われ、ニュートンよりも一足先に、正式の論文を著わすことになったわけである。
さて、ニュートンが初めて微積分を公にするのは、『プリンキピア』(一六八七年)においてであった。そして、やや意外に感じるが、そこでライプニッツの名前をあげ、彼もまた自分と同じ方法に到達したと、わざわざ紹介しているのである。これはおそらく、微積分の発見は自分の方がはるかに早いという優越感と、『プリンキピア』という形で大著を物した自信からくる心の余裕が、そのときのニュートンにはあったことを物語っているような気がする。
つまり、この時点ではまだ、ぎすぎすした先取権争いは見られなかったわけである。ところが、一七世紀も残りわずかとなった一六九九年、事態は一変する。
そのきっかけをつくったのは、スイスからロンドンにやってきていたファティオという若い、そして相当にエキセントリックな趣《おもむ》きのある数学者であった。
ニュートンを信奉していたこの若者は、微積分の発見者としてライプニッツの名声が大陸で高まりつつあるのを快《こころよ》く思わず、ライプニッツはニュートンの発見を盗んだに違いないと王立協会に訴え出たのである。身におぼえのない誹謗《ひぼう》を受けたライプニッツは悲憤慷慨《ひふんこうがい》し、ただちに反論に転じた。
ここでニュートンがしかるべく冷静に振るまえば、これほどの大事には発展しなかったのであろうが、やっかいなことに、当時、ファティオはニュートンのお気に入りであった。それだけに、直情的な性格のニュートンはファティオの言説を鵜呑《うの》みにし、ライプニッツの反論に対し猛然と攻撃を開始した。
普通、このような先取権争いは、当事者のどちらか一方が――場合によっては、両者が同時に――論戦の火種をつくるものであるが、今回は、ファティオというおせっかいな第三者の扇動がきっかけとなってしまった。
しかし、きっかけが何であれ、いったん火のついた論争はエスカレートの一途をたどり、泥沼化していった。加えて、ライプニッツがベルリン科学アカデミー院長(一七〇〇年)、ニュートンが王立協会会長(一七〇三年)にそれぞれ就任したため、個人的な争いというよりも、国家間の威信をかけた闘いの様相すら呈してきた。
長い闘いがようやく終結するのは、ライプニッツが亡くなる一七一六年のことであった。いや、正確に言うと、ライプニッツの死後もニュートンの怒りはおさまらなかった。その証拠に、一七二六年に出版された『プリンキピア』の改訂版では、さきほど引用したライプニッツの名前が削除されたのである。
ここにもまた、先取権に対する科学者の底知れぬ強い執着心を見る思いがする。
6 王立協会は科学の情報センター
ところで、さきほどからたびたびロンドン王立協会《ロイヤルソサエテイ》の名前が登場しているが、これは一六六二年、科学――当時の言葉でいえば自然哲学《ナチユラルフイロソフイ》――に関心をもつ人々が集まって旗揚げした団体である。国王からその存在を認可されたため「王立《ロイヤル》」と呼ばれるようになったが、会の運営はメンバーの寄付金に依存した同好の士の集まりであった。
そして、この王立協会の初代事務局長をつとめたのが、オルデンバーグというブレーメン出身のドイツ人である(なお、オルデンバーグの死後一六七七年に、フックが二代目事務局長に就任している)。
ドイツ人がイギリスの科学者サークルの運営にあたるというのは、我々日本人の感覚からするといささか奇妙に思えるが、ヨーロッパでは、さまざまな分野で国境を越えた交流が盛んであり、こういう人事もそれほどの違和感はなかったようである。
そういえば、王様ですら、しばしば他の国からやってくる風土が、ヨーロッパにはある。たとえば、一七一四年、イギリス国王となったジョージ一世はもともと、ドイツのハノーヴァー選挙侯であった(なお、ニュートンと争ったライプニッツは、長いこと、ハノーヴァー選挙侯時代のジョージ一世に仕えていた)。
ただし、この王様、英語をまったく話さず、イギリスの王位についても、生活の大半を住みなれた故国ハノーヴァーで過ごしたという。よくこれで王様がつとまったものだと感心したくなる。
さて、話をオルデンバーグに戻すと、彼の場合は、こんないい加減なことはなかった。若いころヨーロッパ各国を歴訪した体験から、彼は英語はもとよりフランス語、イタリア語にも堪能《たんのう》であった。そして、一六五三年、ブレーメンの通商交渉の代表としてイギリスにやってきたのである。
このときオルデンバーグは、英国議会の実力者オリバー・クロムウェルを相手にみごとな外交手腕を発揮した。これがきっかけとなって、イギリス社交界に広く顔を知られるようになり、科学者たちとの交流も深まっていった。
やがてイギリスに王政が復活し、王立協会設立の話がもち上がると、オルデンバーグは請《こ》われて事務局長に就任した。その期待どおり、彼は協会の運営を取り仕切るのに最適な人物となったのである。
各国語に通じた持ち前の語学力、国境を越えた広い交際範囲、積極的な行動力などが物を言い、オルデンバーグのもとには次第に、イギリス国内はもちろん、大陸の科学者からも、自分たちの研究や関心あるテーマを紹介する手紙が数多く送られてくるようになってきた。王立協会事務局は、いわば科学の情報センターとしての機能をもち始めたのである。
オルデンバーグは、こうして集められた手紙の中から興味深い内容を選び、王立協会の例会で会員に紹介していた。これは大変好評を博し、例会の呼び物になったほどである。
7 科学者の手紙を『哲学会報』に
さて、前章で、ガリレオが頻繁《ひんぱん》に手紙を使って、発見の告知や先取権の主張を行っていたことを述べた。しかし、これはもちろんガリレオ一人に限った話ではなかった。当時は一般に、手紙が科学情報を伝達する有力な手段であり、また貴重な一次情報源だったのである。オルデンバーグのもとに、内外の科学者から手紙が届いたのも、そういう習慣を反映してのことであった。
というわけで、オルデンバーグのもとに届く手紙の数は、日増しにふえていった。そこで、初めのうちは、その内容を王立協会の例会で披露《ひろう》していたわけであるが、さらに一歩進んで、それを活字にして広く知らせてみてはどうだろうかと、オルデンバーグは考えるようになった。
つまり、価値ある科学情報がもりこまれた手紙を、まとめて紹介できる学術雑誌の定期的な出版を思いついたのである。こうして一六六五年、王立協会から世界で最初の科学の学術雑誌となった『哲学会報』(Philosophical Transactions)が創刊されるはこびとなった。
これによって、本来は私的な通信手段であった手紙が、印刷され公的な性格を帯びた論文へと“変身”していくのである。
個人の間で行われていた手紙のやりとりにくらべ、定期的(月刊)に刊行される学術雑誌の情報伝達力がはるかにすぐれていることは、言をまたない。研究成果は広く大ぜいの人々に迅速に知られるようになり、また、それに刺激されて新しい研究が生まれたり、討論が深まるといった環境が整い始めたのである。
このように考えると、『哲学会報』の創刊は、科学の発展を加速させるスプリングボードの役を果たしたといえそうである。それは間違いなく、歴史の中の画期的な出来事であった。
8 先取権の認定ルール
こうして誕生した新しい形式の情報伝達媒体(定期刊行の学術雑誌)は、先取権認定においても重要な役割を担《にな》うことになった。雑誌を通して新しい発見が広く知れわたるということは、同時に、その発見に対する先取権が論文の著者に帰属することを公に宣言することにもなるからである。
初期の『哲学会報』を開いてみると、掲載された論文(オルデンバーグ宛ての手紙)が、いつ王立協会に届いたかを示す日付が明記されていることに気がつく。これは、その日付をもって、論文の著者に先取権が発生したことを意味することになる。したがって、別の人間がそれより遅れて同じ内容の研究を成しとげても、もはや発表する価値はないわけである。
こうして、公に通用する先取権認定のルールづくりが、『哲学会報』の創刊とともに進められていった。
今日では、このルールが完全に定着しており、どの専門誌を見ても、論文を受理した日付が必ず記載されている。なお、雑誌に投稿された論文が、無条件にすべて掲載されるわけではもちろんない。特に、現代のように研究者の数がふえ、情報過多の時代では、そんなことはとうてい不可能であるし、またそんな必要もない。
内容の独創性、テーマの重要性などについての審査を受け、公表する価値ありと判定された論文だけが、先取権の認定を受けることになる。
こういう科学の制度を“ジャーナル・アカデミズム”と呼んでいるが、今述べたように、その萌芽《ほうが》を早くも一七世紀後半の『哲学会報』に見ることができるわけである。
ところで、先取権がいったん認められると、広く公表された研究成果は、万人の知的共有財産となる。たとえば、重力の法則を発見した栄誉はニュートン個人に属するが、この法則をその後の研究に利用する権利は、すべての科学者にあるといえる。もはや、知識を秘伝として特定の仲間うちだけで継承していく必要はないわけである。
ここで思い出すのが、「遠くを眺めることができるのは、自分の能力が優れているからではなく、巨人の肩に乗ったからである」というニュートンの有名な台詞《せりふ》である。
「巨人の肩」とは、つまり先人たちの業績の積み重ねがあったからこそ、自分がその上に立って、ほんの少し新しいことをつけ加えたにすぎないという、ニュートンの“奥ゆかしい”言葉である(と同時に、そこには、古代の権威を無批判的に受け入れるのではなく、新しいことをつけ加えるという独創性に価値をおく姿勢を見て取ることもできる)。
ニュートンの場合は、そんなに謙遜《けんそん》せずとも、彼一人で十分偉大な巨人たり得るであろうが、一般的にその後の科学は、確かにニュートンの言う「巨人の肩」の方式にしたがって発展してきたことがわかる。
それは、学術雑誌を通して先取権認定のルールが定着するにつれ、共有の知識も累積《るいせき》的に増加してきたからに他ならない。
ニュートンだけでなく多くの科学者が巨人の肩に乗り、それぞれが小さな一歩を踏み出すのである。そして、小さな一歩の積み重ねが、時代とともに巨人をますます大きくしていくことになる。いわば、歴史の流れにそった一種の共同作業といえる。
このように、近代科学の確立は、自然観の変革だけでなく、人々の価値観や学問のスタイルにも大きな転換をもたらしたのである。
5章 先取権争いは広がる
1 科学の発展を示すバロメータ
いままでガリレオ、ニュートンという二人の人物を中心に話を進めてきたが、時代とともに先取権争いは――必ずしも彼らのような大天才の専売特許ではなく――、あちこちで頻発《ひんぱつ》する茶飯事《さはんじ》になってきた。それはあたかも、科学の発展を示すバロメータのようでもあった。
そして争い事がふえるにつれ、科学の世界にも実にさまざまな形で、人間の赤裸々な姿が露呈してくることになるのである。そこで、本章では、一八世紀から一九世紀にかけて起きた三つの事例をとりあげ、こうした先取権争いの諸相を眺めてみようと思う。
まず最初に紹介するのは、数学者の家系として知られたスイスの名門ベルヌーイ家で起きた、骨肉の争いである。
2 ベルヌーイ家の人々
学問や芸術というのは、多分に個人の才能、資質が物を言う分野であるため、普通の商売のように、一般的には家業として代々伝えていくという性質のものではない。子供に実力がなければ、親の七光《ななひかり》も通用しない世界である。
それでも、「蛙《かえる》の子は蛙」という諺《ことわざ》もあるように、長い歴史の中では、何代にもわたりすぐれた科学者を輩出させたという一族が存在する。
たとえば、フランスには天文学史に名を残したカッシーニ一族がいる。初代のジョヴァンニ・ドメニコ・カッシーニ(一六二五〜一七一二)はイタリアの出身であったが、一六六九年、ルイ一四世治政下のフランスに移り、パリ天文台長となった。彼は土星の衛星や土星の環に存在する暗いすき間――これは今日、「カッシーニの間隙《かんげき》」と呼ばれている――などを発見し、木星の衛星の表を作製したことでも知られている。
その息子ジャック(一六七七〜一七五六)、そしてジャックの息子セザール・フランソワ(一七一四〜一七八四)も、先代につづいてパリ天文台長をつとめた。
また、カッシーニ一族は、初代のときからフランス全土の三角測量を開始し、地図の作製にも多大な貢献を果たした。その作業は――財政上の理由や戦争によって、たびたび中断されたこともあり――四代、一世紀にわたって続けられ、フランスの地図がようやく完成したのは、一七九三年――これはフランス革命の最中になる――、セザール・フランソワの息子でやはり天文学者となったジャック・ドミニク(一七四八〜一八四五)の時代であった。
さて、カッシーニ一族と同じ時代に、スイスには、数学と物理学で活躍をしたベルヌーイ一族がいた。こちらはカッシーニ一族よりもさらに人数が多く、やっかいなことに、同じ名前の人物が何人も登場する(子供の命名に際しては、もう少し工夫してはどうかと思うが、こんなところで文句を言っても始まらない)。そうなると、誰それの子供だの兄弟だの甥《おい》だのと書いても、続柄を理解するだけで、頭がこんがらかってしまいそうである。そこで初めにとりあえず、彼らの系図を示しておこうと思う。なお、ここでは、太字で示した三人(ヤコブ、ヨハン、ダニエル)が話の中心となる。
ヤコブはバーゼル大学教授をつとめ、ニュートンとライプニッツが基礎を築いた微積分を発展させるのに貢献したことで知られる数学者である。「積分」(calculus integralis)という名称をライプニッツに提案したのは、このヤコブである。
弟のヨハンも、ヤコブの死後、兄の後を継いでバーゼル大学教授に就任しており、微分方程式の研究などで功績をあげた。また、重力加速度を表わす記号に〓を初めて用いたのも、ヨハンである。
もう一人、ヨハンの子ダニエルは、やはりバーゼル大学で物理学の教授をつとめ、流体力学で有名な「べルヌーイの定理」の発見者である。
このように華麗な経歴、業績に彩《いろど》られた三人であるが、これだけ一流の人物が親族の中にかたまって登場すると、研究をめぐる内輪《うちわ》もめもそれにふさわしく激しいものになったのである。
3 骨肉の争い
一六九六年、ヨハンは次のような数学の問題を提示した。「地上からの高さが異なる二点がある。この二点を結ぶ曲線にそって、高い点から低い点まで重力の作用で質点を落下させるとき、落下時間が最小となるのは、曲線がどのような形のときか? ただし、二点は鉛直線上に重ならないとする」。要するに、「最もはやく落下する道筋を求めよ」というわけである。これは、「最速降下線の問題」と呼ばれている。
これに対し、ニュートン、ライプニッツそして兄のヤコブがそれぞれ解を発見し、求める落下の道筋は「サイクロイド」という曲線であることを証明した。
もちろん、問題を提示したヨハンの方もちゃんと答を用意しておいたのであるが、彼ら三人の証明が出そろってみると、自分の解き方に誤りがあるのに気がついた。そこでヨハンは、兄ヤコブが行った証明を借用し、それを自分のもののような顔をして発表したのである。当然のことながら、この事件は兄弟げんかへと発展した。
ところで、最速降下線のように、一定の条件のもとである値が最大あるいは最小になるような解を求める計算を、「変分法」という。これは当時、微積分の重要な問題として注目されていたため、ヤコブ、ヨハンの兄弟も、その研究に力を注いでいた。それを反映し、二人のいざこざは、これ以外にも変分法の問題をめぐって、ヤコブが亡くなるまでたびたび繰り返されたのである。もっとも、兄弟げんかのおかげで、変分法の発展がうながされたという側面も見逃せないが――。
兄弟げんかの次は、ヨハンと息子ダニエルの間で起きた親子のトラブルである。ダニエルは一七三八年、『流体力学』を著わし、その中でさきほど述べた「ベルヌーイの定理」を発表している(ちなみに「流体力学」という名称を初めて用いたのも、ダニエルである)。
ところが、意地の悪いことに、父ヨハンは息子の発見した定理をこれまた剽窃《ひようせつ》し、ダニエルの『流体力学』よりも前に、自分の本の中で公表してしまったのである。先取権を侵害されたダニエルは、相手がよりにもよって実の父親だっただけに、いっとき虚脱感に襲われるほどであった(無理もない!)。
兄弟、親子が同じようなテーマに関心を抱くと、どうしても一緒に研究をしたり、議論をしたりという機会が多くなる。そしてやっかいなことに、それぞれが天賦《てんぷ》の才に恵まれているとなると、その中で各人がどれだけの寄与を果たしたのか、明確に区別するのは難しくなってくるのかもしれない。
しかし、そういう状況を考慮したとしても、やはりヨハン・ベルヌーイの行為には、かなりの行き過ぎがあったことは否めない。
「骨肉の争い」という言葉を聞くと、権力や財産をめぐるもめ事を思い浮かべるが、科学の世界もその例外ではなかったのである。
4 “解析学の化身”オイラー
このように、人格の面ではやや問題のあったものの、ヨハン・ベルヌーイは、数学の指導者としてはすぐれた力量をもち、多くの弟子を育成した。その中でひときわ光彩を放ったのが、ベルヌーイと同郷(バーゼル)の数学者オイラー(一七〇七〜一七八三)である。
ところで、一八世紀の特徴(科学についての)を一言で表わせば、ニュートンが種をまいた力学が、微積分学(解析学)という新しい数学によって、応用範囲の広い理論体系に発展した時代といえる。
オイラーは、そういう時代を築いた中心人物の一人であった。特に、一七四八年に著わした『無限小解析入門』は、一八世紀の数学を代表する書物となった(後に、フランスの物理学者アラゴーは、オイラーの存在を“解析学の化身”とたたえたほどである)。
さて、いま述べたように、オイラーはスイスに生まれ、バーゼル大学に学んだが(ここで、ヨハン・ベルヌーイの教えを受けた)、数学者として活躍したのは、ペテルブルク(ロシア)とベルリン(プロシア)の両アカデミーにおいてであった。
プロシアのフリードリッヒ大王、ロシアの女帝エカテリーナ二世の知遇を受けながら、ここを舞台に、オイラーは驚異的なペースで、数学、物理、天文学の多岐《たき》にわたる論文、書物を書きまくったのである。その質量ともの凄《すご》さは、たとえば『理化学辞典』(岩波書店)を開いただけでも、一部をうかがい知ることができる。「オイラー角」、「オイラーの運動方程式」、「オイラーのこま」、「オイラーの定数」、「オイラーの方程式」と、彼の名を冠した項目がずらりと並んでいる。
これほどの猛勉強がたたったのか、オイラーは、残された肖像画が示すように、一七三五年、右眼を失明した。さらに晩年には左の視力も失うという不幸に見舞われている。にもかかわらず、ハンディキャップを乗り越えて、かくも偉大な業績を残した才能と努力には、頭の下がる思いがする。
5 多作な数学者
ではいったい、オイラーはどれくらい論文を量産したのかというと、生前に発表されたものだけで五〇〇あまり、死後刊行されたものも含めると九〇〇近くになるというから、恐れ入る。文字どおりペテルブルクとベルリンのアカデミー紀要(研究報告書)を独占する形で、次から次へと論文を書きつづけたのである。
その有様は、さきほど引用したアラゴーが、「人が呼吸をするように、鷲《わし》が空を舞うように、オイラーは計算をした」と表現したとおりであった。
御本人も、自分が死んでも二〇年間は、ペテルブルクのアカデミー紀要は原稿に困らないだろうと豪語したほどである(実際は二〇年どころか死後半世紀近く、オイラーの論文は刊行されつづけた)。なお、一九一一年に彼の業績を集大成した『オイラー全集』の刊行が始まったが、いまだに、いつ完結するのかわからないという。
オイラーの多作ぶりに触れたついでに、もう一人凄《すご》い人物を紹介しておくと、フランス革命の年に生まれ、一九世紀前半のフランス数学界に君臨したコーシーがいる。
コーシーの頭脳からあふれ出る着想は、次々と論文にまとめられ、全盛期には、毎週のようにパリ科学アカデミーの紀要に発表された。あまりのすさまじい創造力に肝をつぶしたアカデミーは、一八三八年、ついに論文のページ数制限に踏みきったほどである。
コーシーもまた、生涯に八〇〇近い論文を書き、オイラーと同様、その名前は今日、解析学の教科書に数多く残されている。
数を競い合うような話はこの辺でやめにするが、科学者の中には、こうして何かにとりつかれたように論文を生産しつづける例が時折見うけられる。
ドイツの作家シュテファン・ツヴァイクは、人間を創造的活動に駆り立てる根源的な焦燥《しようそう》を「デーモン」(魔神)と呼んだが、その言葉を借りれば、彼らはまさにデーモンにとりつかれた人間ということになるのかもしれない。そして、片時も立止まることなく、まるで立止まることが恐怖であるかのように論文を発表しつづける衝動もまた、先取権獲得にかける執念の強いあらわれなのであろう。
さて、オイラーが亡くなったのは、一七八三年九月七日であった。この日もオイラーは、弟子のレクセルを相手に、二年前に発見された天王星の軌道計算について話をしていた。ところが、突然発作におそわれ、そのまま息をひきとったと伝えられている。まるで呼吸をするように計算をしたオイラーが計算をやめたのは、生きることをやめたときであった。
その瞬間、デーモンもオイラーの体から去っていったのである。
6 天王星の軌道の謎
次は、英仏両国の間で熱い論争となった有名な海王星発見の先取権にまつわる話題を取り上げたいと思うが、その前に天王星について簡単に触れておこう。
いま述べたように、天王星はオイラーの亡くなる二年前、一七八一年に、ハーシェルによって発見された。ハーシェルはもともとドイツ生まれの音楽家であったが、後にイギリスに渡って宮廷楽師となり、やがて天体観測の趣味が高じて王室天文官に転じたという変わった経歴のもち主である。
ところで、それまでの長い間、太陽系の惑星の数は、地球を含めて六個であると固く信じられていた。というのも、肉眼でとらえることができる惑星は、土星が限界だったからである。
ところが、3章で述べたように、一七世紀の初め望遠鏡が発明されたことによって、人間の眼に映る宇宙は、いっきに拡大した。そして望遠鏡の改良と相まって、次々と新しい発見がなされてきた。七番目の惑星が存在することも、その延長上――ハーシェルによる大型反射望遠鏡の開発――の成果として明らかになったわけである。
なお、これは後になってからわかったことであるが、実を言うとハーシェルによる発見以前に、天王星は一七世紀末からすでに何人かの天文学者によって観測されていたのである。ただし、当時は未知の惑星が存在することなど誰も予想していなかったため、せっかく天王星を見ていながら、その運動をくわしく追跡することは行われなかった。つまり、それは恒星のひとつと思われていたのである。
同じことは、この後発見された海王星についてもいえる。海王星にいたってはさらに古く、一六一二年のガリレオの観測日誌に、やはり恒星として記録されていたことが、最近、見つかっている(だからといって、天王星発見の先取権をハーシェルから奪ったり、ガリレオに海王星発見の栄誉を与える必要は、もちろんまったくないが)。つまり、それだけ、惑星は六個という思いこみが強かったということなのであろう。
ともかく、ようやくにして、人間は新しい惑星を発見したわけであるが、天王星の観測される軌道は、なぜかニュートン力学にもとづく計算と一致しないことがやがて指摘され始めた。
観測と計算に食い違いが生じるということは、ニュートン力学になんらかの不備があるためか、あるいは天王星の運動に影響をおよぼす未知の要素が存在することになる。というわけで、天文学者の中には、太陽と天王星の距離が非常に大きいため(天王星の平均軌道半径は、地球のそれの約一九倍)、ひょっとすると重力が距離の逆二乗則からずれてくるのではないかと考える者も出てくるほどであった。
しかし、ニュートン力学はそれまでに、惑星、彗星、月などのさまざまな運動を実にみごとに記述しており、その威力は十分、人々の間に浸透していた。したがって、一部にいま述べたような懐疑論者もいるにはいたが、時とともに、大勢《たいせい》は、未発見の第八惑星が存在し、その星の引力が天王星の軌道に影響をおよぼしているのであろうと確信されるようになってきた。
そうなると、問題は、天王星の運動をニュートン力学を駆使して解析し、未知の惑星の大きさと軌道を計算することになる。
さて一般に、惑星には太陽の引力の他に惑星間の引力も作用している。このように、三つ以上の天体(一般的には質点)が互いに作用し合う場合、その運動を数学で厳密に求めることはできないが、幸い惑星間の引力が太陽のそれにくらべてはるかに小さいため、近似計算――これを「摂動《せつどう》論」という――を行うことができる。つまり、太陽の引力に対し惑星どうしの引っぱり合いを補正項――これを「摂動」という――とみなし、精度の高い近似解を得る方法が確立されていたのである。
そこで、摂動論を逆に利用し、天王星の軌道にみられる計算と観測の食い違いから、その原因となる未知の惑星を発見しようということになった。
この魅力的な問題に挑んだのが、フランスのルヴェリエとイギリスのアダムズという二人の少壮天文学者であった。
7 ルヴェリエと海王星の発見
一八四五年の夏、パリ天文台長アラゴーは、当時、天体の軌道計算のエキスパートとして名をあげつつあったルヴェリエに、天王星の軌道の謎に取り組むことを強くすすめたのである。ルヴェリエはすでに、太陽系の安定性の問題や水星の近日点の移動などですぐれた業績をおさめており、その才能をアラゴーは高く評価していたのであろう。
アラゴーの期待どおり、ルヴェリエは順調に研究を進捗《しんちよく》させ、その成果を順次パリ科学アカデミー紀要に発表していった。そして、アラゴーのすすめを受けてから一年後の一八四六年八月三一日、ついに天王星の運動に影響をおよぼす未知の惑星の軌道要素(だ円軌道の長半径、離心率、近日点、公転周期など惑星の運動を表示する量)を求めた論文を完成したのである。
ルヴェリエはさっそく、計算結果をもとに新しい惑星の位置を推定すると、間髪《かんはつ》を入れずベルリン天文台のガレに手紙を書き、その発見を依頼した。このあたり、ルヴェリエは実に手際よく速いテンポで事を進めているが、そこには、自分の計算が正しいことを一刻もはやく知りたいという科学者の心理が如実《によじつ》にあらわれている。それはまた、取りも直さず、先取権の確保に通じるわけである。
さて、九月二三日に手紙を受け取ったガレは、その晩――こちらの方も、間髪を入れず――、ルヴェリエが知らせてきた位置に望遠鏡を向けた。観測を開始してほどなく、ベルリン天文台の望遠鏡は、ほぼ予測された位置に、星図にのっていない八等星が輝いているのをとらえたのである。
このようにして海王星は発見されたが、ここでひとつやっかいな事態が生じた。ルヴェリエと独立に、イギリスのアダムズも新しい惑星(海王星)の軌道要素を計算し、ルヴェリエと同じ時期に同じ結論に達していたのである。
8 アダムズの不運
ところが、アダムズの場合は、その業績が認められるまでに、いくつもの不運が重なってしまった。
一八四五年一〇月――海王星発見のほぼ一年前――、未知の惑星に関する計算結果を得たアダムズは、その要約をグリニッジ天文台長のエアリーのもとに届けた(この時点では、アダムズの方がルヴェリエよりもむしろ一歩先行していたことになる)。しかし、エアリーはアダムズの計算を積極的に評価しようとはせず、事実上、黙殺してしまったのである。
エアリーは、一八三五年から四五年間の長きにわたってグリニッジ天文台長をつとめ、当時、繁栄の一途にあった大英帝国の名に恥じぬよう、天文台の設備充実に努力した実務家でもあった。それだけに、ややもすると、このような理論的研究には、あまり好意を示さなかったのかもしれない。
いずれにせよ、イギリス天文学界の重鎮がとった冷たい態度は、結果として、アダムズの立場を決定的に不利なものとしてしまった。
さて、そうこうするうちに、フランスではルヴェリエの論文が発表され始めた。そして、一八四六年の夏になると、エアリーにも、どうやらこの二人が同じ結論に達しているらしいことがわかってきた。そこで、ようやく重い腰をあげたエアリーは、ケンブリッジ天文台に新しい惑星の探査を依頼したのである。また、アダムズも以前の計算を修正してより正確な数値を求め、その結果をエアリーに知らせていた。
ところが、これまた運の悪いことに、ケンブリッジには探査する天空部分の星図がなかったのである。したがって、星図をつくりながら観測を行うという状態がつづき、作業はなかなかはかどらなかった。
こうして、イギリスがもたついているうちに、結局、さきほど述べたとおり、ベルリン天文台のガレ――ベルリンには肝心《かんじん》の星図が整っていたことも手伝って――が、ルヴェリエの計算をもとに海王星を発見してしまったわけである。
なお、発見された後で観測記録を調べてみたところ、ガレより一ヵ月前に、ケンブリッジでも海王星を捕えていたことがわかった。ただ、星図が完備していなかったため、それを新惑星と判定できなかったのである。
9 英仏間の論争に
このように、せっかくの計算が無視されたり、天文台の観測態勢が不十分だったり、あげくのはてには、せっかく海王星を捕えながらそれを見落とすという具合に、アダムズにはつきがなかったことも事実であるが、いずれにしても、計算結果を正式の論文として公《おおやけ》に発表しなかった――発表する機会を失したと書いた方が適切かもしれないが――ことは、先取権を主張する上で、大きなハンディキャップとなった。
この点を、パリ天文台長のアラゴーは次のように批判している。
「天王星の不思議な運動を引きおこす惑星の決定は、一八四五年に私がルヴェリエにその問題を研究するよう熱心にすすめたことから、公に始められた。それと同時に、イギリスのケンブリッジ大学の若い天文学者アダムズも、この問題に取り組み、独立に解決をした。しかし、アダムズは何一つ公表しなかったし、その研究がどんなにりっぱだったとしても、未知の星を発見するのに、何の役にも立たなかった」(『ダンネマン大自然科学史9』三省堂)。
アラゴーがかなり感情的な筆づかいで、海王星発見に対するアダムズの貢献を切り捨てようとしたのは、イギリス側の動きを警戒したからである。
それは、海王星が発見されたとなるや、イギリス天文学界の指導的立場にいる人たちが、今までの沈黙から一転して盛んに、ルヴェリエと独立にアダムズも同じ結論に達していたことに言及するようになったからである。
イギリスとしても、ルヴェリエの研究にけちをつけたり、先取権を侵害するようなことを考えたわけではなかったのであろうが、フランスにしてみれば、なにをいまさらという不快の念を強くしたのであろう。確かに、どのような事情があろうと、一九世紀ともなれば、仲間うちの私的な情報交換だけで先取権を云々《うんぬん》するには無理があった。
というわけで、一部には行き違いもあったのであろうが、天文学史上画期的な発見を境に、英仏両国の間では、いっとき、かなり感情的な論争が繰り広げられた。
しかし、頭に血がのぼった状態が徐々におさまり、冷静な物の見方ができるようになるにつれ、公表の手順に落度はあったものの、アダムズの業績は業績として評価されるようになった。そして、海王星発見の栄誉は、ルヴェリエとアダムズの二人に対等にあたえられるようになったのである。
こうして、英仏間の争いは一件落着と相成《あいな》ったが、海王星発見のドラマは、いま見てきたように、先取権に対する科学者の意識や行動を考える上でも、興味深いさまざまな問題を投げかけたことがわかる。
6章 再発見された先取権
1 もし「フェルマーの大定理」が解けたら?
数学には未解決の重要な問題がいくつか存在するが、その中に、一七世紀のフランスの数学者フェルマーが、一六三〇年代の後半に書き残した有名な「フェルマーの大定理」がある(その内容を現代風に表わすと、図のようになる)。
この定理、内容だけは中学生にも理解できるほど平易でありながら、見かけとは大違いで、いまだに誰も証明に成功していない難問中の難問である。(一九九五年、ワイルズによって証明された・編集部註)
ところが、当のフェルマーは自分の愛読書――古代ギリシアの数学者ディオファントスが著わした数論の書物のラテン語訳を、当時フェルマーは読みふけっていた――の欄外に、「私はこの定理の驚くべき証明を発見したが、余白が狭くてここには書けない」という、いかにも思わせ振りな言葉を書き記している。しかし、肝心の証明はどこにも残されていない。彼の死後、遺品がくわしく調べられたが、結局、証明は見つからなかった。
それだけに、かえって人々の好奇心をかき立てるのであろう、多くの偉大な数学者がこの問題に挑んできた。
先陣を切ったのは前章に登場したオイラーで、彼はnが3と4の場合について証明に成功している。以来、nが特定の値に対する部分的な証明は見つかっているが、フェルマーが書き残してから三五〇年たった今日も、一般的な証明は、いまだ難攻不落のままである。
ところで、フェルマーは本当に証明を発見したのであろうかという、素朴な疑問がわいてくる。数学史家の定説では、いかにフェルマーといえども、当時の数学の発展段階では無理だったであろうと考えられている。そうだとすると、本人の勘違いか、定理の正しさを直感的に見抜いただけということになるのであろう。
ここで専門家の定説に異論を唱えるつもりはないが、一般的に言うと、誰かがあることを証明したという証明はできても、証明していないという証明は、厳密にはできない。
そこで、あくまでも架空の話であるが、たとえばフランスのどこか旧家の蔵の中から、定理の正しい証明が記されたフェルマーの遺稿が偶然見つかったとしたら、どうなるであろうか。
そういえば、一九三六年、ロンドンで行われたサザビーズの競売にイギリスの没落貴族が売り出した品物の中から、ニュートンの錬金術に関する多量の手稿が見つかり、大騒ぎになったことがある。また、最近では、アインシュタインの青春時代の手紙がやはり多量に見つかり、アインシュタインが結婚前に最初の妻となるミレーヴァ嬢との間に娘をもうけていたという、センセーショナルな新事実が明るみに出された。
というような前例を考えると、フェルマーの遺稿もまるっきり可能性がないというわけではないかもしれない……。
万が一そういうことになれば、当然、三世紀半を経てようやく、自分の名前が冠せられた定理の証明に対する先取権が、フェルマーにあたえられることになる。と同時に、現在この難問に取り組んでいる数学者は、そのチャンスを永遠に失うことになる。
まあ、架空の話はこの辺にするが、実際の歴史に目を向けると、偉大な業績が長い間、それにふさわしい評価を受けなかったり、あるいは埋もれたままになっていたという例が、案外多いことに気がつく。そして、本人の死後、研究が再発見され、遅ればせながら先取権が認められるという不幸なケースも少なくない。
本章では、そういう無念な思いを抱いて亡くなった科学者の姿を追ってみることにしよう。
2 カールスルーエの国際会議
一八六〇年九月、ライン河に近いドイツ南西部の街カールスルーエで、世界で最初の国際化学会議が開催された。
その音頭をとったのは、ドイツの若い化学者ケクレ――彼はその後(一八六五年)、夢の中でベンゼンの亀の甲構造を思いついたことで知られている――で、会議にはヨーロッパ各国から、百数十人もの化学者が参加した。この人数は、当時としては大変な規模であり、参加者の顔触れを眺めてみると、ロシアからメンデレーエフ、ドイツからブンゼン、リービッヒ、マイヤー、フランスからデュマ、ベルテロ、そしてイギリスからもホフマン……といった具合に、そうそうたる人物が一堂に会したことになる。
これだけの化学者が集まって、連日、熱っぽい論議が繰り広げられたのは、もちろん、それなりの訳があった。というのも、一九世紀の半ば、化学は一種混乱状態に陥《おちい》っていたのである。そこでまず、当時の状況をかいつまんで説明しておこう。
一九世紀に入ると、化学の世界には原子論が登場してきた。そのきっかけとなったのは、一八〇八年にイギリスのドルトンが著わした『化学哲学の新体系』である。この中でドルトンは、すべての物質は、それ以上分割できない粒子(原子)の結合によって構成されているという説を唱えた。そして原子の質量は元素によって異なると考え、その比を表わすのに「原子量(原子の相対質量)」という概念を導入した。
ところで、物質の最小構成要素としての原子という考え方は、すでに、はるか昔、古代ギリシアの哲学者によっても唱えられていた。その意味では、一種の復活《リバイバル》といえなくもないが、彼らの原子論は単なる思弁的な産物にすぎなかった。したがって、言葉の上で類似性はあっても、精密な実験に基礎をおく近代化学の原子論とは、異質のものであった。
さて、ドルトンの唱えた説は、おおすじにおいて多くの化学者に受け入れられてきたが、当時はまだ原子と分子の概念が明確に区別されていなかったこともあり、原子量の値が化学者によってまちまちであった。その結果、化合物の組成が決定できず、必然的に、化学式もいろいろな形で表記されていた。たとえば、水は、H2O、H O、H2O2などとさまざまに書かれる始末であった。これでは不便なことこの上ない。
また、もうひとつ事態を複雑にしたのは、著名な化学者――たとえば、イギリスのデーヴィーなど――の中にも、原子論に真向から反対する人々がいたことである。彼らは、見ることも触れることもできないような原子の実存を前提とする物質観を厳しく批判し、原子量の代わりに「当量(一定量の酸素と化合する元素の質量)」を用いることを主張した。
というわけで、原子、分子、原子量、当量、化学式などの重要な概念に対する見解が一致しておらず、化学の発展に大きな障害が生じていたのである。
3 蘇《よみがえ》ったアヴォガドロの論文
こういう時代背景の中でカールスルーエの国際会議は開かれたわけであるが、会議で台風の目のような存在となったのは、イタリアの化学者カニッツァロであった。いや、もう少し正確に言うと、カニッツァロが見つけ出した五〇年も前の分子説に関する古い論文であった。
ここで時代を半世紀さかのぼるが、一八一一年、イタリアのアヴォガドロは、フランスの『物理学雑誌』に、「物質の基本分子の相対的質量と化合物におけるそれらの比とを定める一方法についての試論」と題する論文を発表した(抄訳が『原典による自然科学の歩み』〈講談社〉に収録されている)。
その三年前(一八〇八年)にフランスのゲイ・リュサックが発見した「気体反応の法則」(化学反応を起こす気体の体積は簡単な整数比をなす)に注目したアヴォガドロは、この論文の中で、後に「アヴォガドロの法則」と呼ばれるようになる重要な仮説を提唱したのである(その内容を現代風に表わすと、「同温、同圧、同体積の気体は、気体の種類によらず同数の分子を含む」のようになる)。
ところが、当時は、同種の原子どうしが結合して複合粒子(分子)をつくる――たとえば、酸素原子どうしが結合してO2になる――という考えはなく、また、そこから分子の概念も確立してはいなかった。そういう背景もあって、アヴォガドロの研究は学界から無視され、時間の流れとともに完全に忘れ去られてしまったのである。
こうして半世紀もの間、埋もれたままになっていた先達の論文を発掘したのが、さきほど述べたように、カニッツァロであった。
カニッツァロは、カールスルーエの国際会議の壇上から、アヴォガドロの仮説こそ、化学の錯綜《さくそう》した状態を解きほぐす鍵であり、この仮説にもとづいて分子の存在を受け入れさえすれば、原子量についての混乱も解決できると熱っぽく訴えた。いや、単に訴えるだけではなかった。アヴォガドロの論文の有用性を紹介した小冊子をつくり、会場にいる化学者たちに配布したのである。
この時の様子を、ドイツのマイヤーは次のように回顧している。
「カールスルーエの会議がおわってから、カニッツァロの申し出で、見ばえのしない、小さいパンフレットが配布された。私も一冊もらって、帰る道すがらそれを読んだ。そして、このパンフレットがもっとも重要な論争点を、明快に説明しているのに驚いた。まるで目があいたような気がした」(『ダンネマン大自然科学史10』三省堂)。
かくして、アヴォガドロの論文は復活し、やがて化学の教科書でお馴染《なじ》みになるほど高い評価を受けるまでになるのである。
しかし、当のアヴォガドロは、カールスルーエ国際会議の四年前(一八五六年)、すでにトリノで八〇年の生涯を閉じていた。そう考えると、会議で熱っぽく訴えつづけたカニッツァロの胸の内には、偉大な業績を知られることなく亡くなった同国の先達に対する憐憫《れんびん》の情が、少なからずこめられていたようにも思えてくる。
4 天才カルノーの失われた論文
フランス革命の最中、軍の技術将校を養成する目的で、パリにエコール・ポリテクニクという理工系の学校が設立された。教授にはモンジュ、ラプラス、ラグランジュ、フーリエといった大物が顔をそろえ、卒業生にも5章で登場したコーシーをはじめとし、前節で紹介したゲイ・リュサック、物理学者フレネル、コリオリといった逸材を輩出した。変わり種としては、社会学の祖として知られるコントの名前も見られる。
さて、そういう逸材の中に、次の話の主人公となるカルノーがいた。ちなみに、カルノーがエコール・ポリテクニクに入学したのは、最年少の一六歳のときであった。将校の軍服を思わせる同校の制服に身を包んだカルノーの肖像画が残されている。
ところで、歴史の中には、人生の道半ばにして神に召された天才というのが時折目につくが、カルノーもその一人であった。彼は一八二四年(二八歳)に著わした『火の動力およびこの力を発生させるのに適した機関の考察』(以下『考察』と略記する)と題する論文を残し、一八三二年(三六歳)、コレラにかかって亡くなっている。
『考察』はカルノーの唯一の著作となったが、彼がこういう問題に関心を抱いたのは、当時の工業技術と深いかかわりがある。
一九世紀に入ると、蒸気機関は改良が進み、工業の広範囲な分野で使用されるようになっていた。さらに、それは蒸気船や蒸気機関車として、新しい交通機関の誕生を実現させるようにもなったのである。アメリカのフルトンが、ハドソン川で蒸気船を定期航行させたのが一八〇七年。また、イギリスのスティブンソンがストックトンとダーリントンの間で蒸気機関車を走らせたのは、カルノーが『考察』を著わした翌年の一八二五年に当たる。
そういう時代にエコール・ポリテクニクを卒業したカルノーは、効率の高い熱機関(供給された熱を機械的仕事に変換する原動機)の開発が重要であると考え、そのために必要な理論の構築に取り組むこととなった。つまり、当初はどちらかというと実用的な意図でカルノーは『考察』を書き上げたわけであるが、この論文は、一九世紀の中葉から後半にかけて完成された熱力学という新しい物理学の基礎となるのである。
しかし、そういう高い評価が生まれるのは、ずっと後のこと。『考察』が発表されたときは――パリのとある本屋から、ごくわずかの部数出版されたにすぎなかった――、仲間うちで読まれる程度にすぎず、アヴォガドロの場合と同様、ほとんど注目されずにやがて忘れ去られてしまった。そして、『考察』そのものも、いつの間にか散逸してしまった。
加えて運の悪いことに、コレラで亡くなったカルノーの遺品は、研究ノートも含め、ほとんどが焼却されてしまった(伝染を防ぐための当時の習慣だったのであろう)。カルノーの思考のプロセスがつづられた貴重な資料は、大半が灰に帰してしまったわけである。
こうして、夭折《ようせつ》した天才の存在は、あやうく歴史の舞台から消え去るところであった。その危機を救うことになったのは、カルノーと同じエコール・ポリテクニクの卒業生クラペイロンである。
5 運命の綱渡り
カルノーの死から二年目の一八三四年、忘れられかけていた『考察』の存在に気がついたクラペイロンは、「熱の動力について」と題する論文を書き、カルノーの業績の紹介につとめたのである。
ところが、クラペイロンの紹介論文もこれまた――いらいらすることに――、すぐには注目されなかった。カルノーの先駆性が広く知れ渡るのは、それからさらに九年後の一八四三年、クラペイロンの「熱の動力について」が、ドイツの学術雑誌『ポッゲンドルフ物理学・化学年報』(Poggendorf's Annalen der Physik und Chemie)に翻訳されてからであった。
ここで重要な役割を果たしたのが、イギリスの物理学者トムソン――後のケルヴィン卿――である。クラペイロンを通してカルノーの研究を知ったトムソン――彼は奇しくも、『考察』が刊行された一八二四年に生まれている――は、さっそく『考察』の原著を読んでみようと思った。
ところが、さきほど述べたように、同書はほとんど散逸してしまい、刊行から二〇年もたってから入手するのは、きわめて困難な状況にあった。その証拠に、トムソンは一冊の書物を見つけ出すまで、図書館、古本屋めぐりをつづけ、三年の時間を費している。
それでも、努力のかいあって、『考察』の原著を手にしたトムソンは、カルノーの理論をくわしく研究し、それがきっかけとなって、熱力学の完成に大きく貢献することになる。絶対温度の単位Kはケルヴィン卿の頭文字に由来するが、彼がこのような温度目盛を提唱したのも、カルノーの『考察』がヒントとなったからである。ここにいたってやっと、カルノーが残した芽が大きく花開くことになるわけである。
こうして歴史を振り返ってみると、まるで綱渡りでも見ているような思いに駆られる。というのも、歴史に対し「もしも……だったら」の議論は無意味であろうが、それを承知で敢《あ》えて次のような事態を考えてみたくなるからである。
(1)「もしもパリの本屋が、無名の若者(カルノー)の原稿など出版する価値はないと断わっていたら……」、(2)「もしもクラペイロンが、『考察』を目にする機会がなかったら……」(どうして運よく、クラペイロンが『考察』に出会ったのかは今もってわかっていない)、(3)「もしもトムソン(ケルヴィン卿)が短気な人間で、『考察』をさがすのをさっさと諦めてしまったら……」。このどれかひとつでも「もしも」がそうなっていたら、カルノーの業績は埋もれたまま終わったかもしれないわけである。
ところで、アヴォガドロにしてもカルノーにしても、自分たちの研究の行く末を知ることなくこの世を去ったことは、気の毒な話であると思う。繰り返しになるが、本人にとってみれば、無念な思いであったろう。
それでも、死後、その存在に気がつき、紹介につとめてくれた人たちが現われただけ、まだしも幸せだったといえるような気もする。ひょっとすると、埋没したまま永遠に人々に知られる機会を失った偉大な業績が、他にあったかもしれないからである。
6 異色の科学者キャヴェンディッシュ
一九世紀には、アヴォガドロやカルノーの他にも、同じような運命をたどった科学者がよく目につく。
たとえば、ドイツの物理学者オームが実験で示した有名な電気の法則(オームの法則)は、一八二七年、「数学的に扱ったガルヴァーニ回路」と題する著作の中で発表されたが、それが認められたのは、一八四一年、それもドイツの学界ではなくロンドン王立協会においてであった。
また、オーストリアの神父メンデルは、一八六六年、これまた有名な遺伝の法則(メンデルの法則)を唱えた論文「植物雑種の研究」を発表したものの、たいした評価を受けることなく、一八八四年に亡くなった。メンデルの論文の革新性が広く認められるのは、やっと一九〇〇年になってからであった。
もちろん、境遇は似かよっていても、それぞれの科学者にはそれぞれ固有のドラマがある。その意味では、一人ひとりの生き方についての興味はつきないが、本章の最後に、その中でやや異色の存在といえる人物をとりあげてみようと思う。
その人物とは、イギリス、デヴォンシャーの貴族で、物理、化学に数多くのすぐれた業績――水素の発見、水の合成、潜熱《せんねつ》、比熱の研究、地球の密度の測定、静電気力の逆二乗則の発見……――を残したキャヴェンディッシュ(一七三一〜一八一〇)である。
で、どのように異色だったのかというと、膨大な研究成果の大半を――もちろん、自らの意志で――ほとんど公表しようとしなかったのである。特に電気に関する研究は約一世紀後、この後紹介するように、マクスウェルがキャヴェンディッシュの遺稿を整理して出版するまで、ほとんど知られることがなかった。
今までずっと論じてきたように、科学者は先を争って発見の栄誉を得ようとするのが常であった。ところが、キャヴェンディッシュのように、そういう世俗の関心には完全に背を向け、一人自分の世界に閉じこもり、研究の楽しみだけを享受した人間もいたのである。
7 億万長者の隠遁《いんとん》生活
キャヴェンディッシュが科学の研究には精力的に取り組みながら、論文の発表に対して消極的だったのは、その驚くほど内向的な性格によるところが大きいようである。
この点については、キャヴェンディッシュの伝記に数々のエピソードがつづられているが、それらを総合すると、極端に社交を嫌い、半ば隠遁者のような生活を、賑《にぎ》やかなロンドンの街中でおくっていた風変わりな科学者の姿が浮かんでくる。
キャヴェンディッシュはケンブリッジ大学に学んだが、卒業後はほとんど私邸に備えつけた実験室にこもり、一人で研究に専念する毎日であった。たまにロンドン王立協会の集まりに顔を出す以外は外出することもあまりなく、人との交際を好まなかったことが知られている。よく引用される有名な話であるが、大変な女性嫌いで――もちろん、七九歳で亡くなるまで生涯独身だった――、女中とも直接口をきくことを避け、用を言いつけるときはメモで伝えたという。
このような内向性に加え、キャヴェンディッシュは潔癖な性格のもち主でもあったようである。他人の評価がどうであれ、自分で納得のいく研究成果が出るまでは満足できなかった。したがって中途半端な段階で疑問の余地を残したまま、何かを発表するようなことはしなかった。一種の完全主義者でもあったのであろう。
以上のような気質を考えると、キャヴェンディッシュの業績の多くが、生前は隠されたままであったというのも、なんとなくうなずける。
さて、もうひとつ、キャヴェンディッシュについて語るとき忘れてならないのは、彼が桁《けた》はずれの金持ちだったということである。一八一〇年に亡くなったとき、個人の保有額としてはイギリスで最高の公債をもち、遺産は莫大《ばくだい》な金額に達した。フランスの物理学者ビオが、「キャヴェンディッシュは科学者の中で最も金持ちであり、金持ちの中で最も偉大な科学者である」と称したほどである(クラウザー『産業革命期の科学者たち』岩波書店)。
おそらく、有り余る財産は、キャヴェンディッシュの私設実験室の運営に何の不自由も感じさせなかったのであろう。特異な性格と経済的に恵まれた境遇が、キャヴェンディッシュを世間の生臭い名誉欲から遠ざけ、ひたすら自然との交歓にふける世界に閉じこめてしまったようである。
ところで、妻子のいないキャヴェンディッシュの遺産は、彼のいとこに受け継がれた。そして、そのいとこの孫――七代目デヴォンシャー公爵となったウィリアム・キャヴェンディッシュ。彼はケンブリッジ大学総長もつとめた――がケンブリッジ大学に寄付した基金によって、一八七四年、実験物理学の発展を目的としたキャヴェンディッシュ研究所が設立されたのである。同研究所は二〇名を超えるノーベル賞受賞者を生み出し、世界の重要な研究機関として今日、高い評価を受けているのは、よく知られるとおりである。
このとき、初代所長に就任したのが、さきほど名前をあげたマクスウェルである。マクスウェルは、電磁気学の体系化や統計力学の研究などにより、一九世紀の科学史に輝かしい名を残した超大物物理学者である。その超大物が晩年――といっても、マクスウェルはまだ働きざかりともいうべき四八歳の若さで一八七九年に亡くなったが――、心血を注いだのが、キャヴェンディッシュの隠された研究の解明であった。
8 マクスウェルによる解明
研究所が設立された一八七四年、マクスウェルはデヴォンシャー公から、キャヴェンディッシュが残した二〇冊の原稿の束を手渡された。それは、一七七一年から八一年にかけて行われた電気の研究をつづったものであった。こうして、一世紀もの間、人目に触れることなく過ぎてきた不思議な科学者の遺稿は、マクスウェルという適役を得て、ようやく白日のもとにさらされることになるのである。
さて、キャヴェンディッシュの遺稿を手にしたマクスウェルは、そこに記録されている内容を見て驚いた。その後一世紀の間に成された電気学の重要な研究の多く――たとえばクーロンの法則やオームの法則――を、キャヴェンディッシュがすでに発見していたことがわかったからである。そして彼は一生、それを誰にも知らせることなく亡くなったわけである。
マクスウェルは、発足間もない研究所の多忙な仕事の合い間をぬうようにして、手渡された未発表の“宝の山”の解明に、五年間の時間を費した。それも、単にキャヴェンディッシュの遺稿を判読、整理するだけではなく、偉大な先達が行った実験を、ひとつひとつ、自分で追試するという力の入れようであった。
ところで、こう書くと、マクスウェルほどの大科学者が、いかに偉大とはいえ一〇〇年も前の研究の発掘に貴重な研究時間をとられたのはもったいないという印象を、あるいはもたれるかもしれない。キャヴェンディッシュの研究が仮に人に知られることなく終わったとしても、彼の発見はその後、他の科学者によって成しとげられており、その意味では、歴史はちゃんとキャヴェンディッシュの沈黙の埋めあわせをしてきたことになる。
しかし、マクスウェルが自分の研究時間を犠牲にしてまでもキャヴェンディッシュにのめりこんでいったのは、他人(凡人)にはうかがい知れない天才どうしの時間を超えた共鳴があったからであろう。
かくして、一八七九年一〇月、マクスウェルの編集によるキャヴェンディッシュの未発表論文集は刊行され、奇人科学者の電気学研究の全貌が明らかにされたのである。
マクスウェルがケンブリッジで亡くなったのは、それから一月後の一一月五日のことであった。
7章 涙をのんだ人々
1 エヴェレストに消えたマロリー
世界の最高峰エヴェレスト(八八四八メートル)の初登頂に成功したのは、一九五三年五月二九日、イギリスの登山家ヒラリーとシェルパのテンジンの二人であった。
初めて山頂に立ったのは二人だけであったが、そこにいたるまでの長い道のりには、エヴェレスト登山史を飾る多くの人々の努力とそして犠牲があったことが知られている。中でも特筆すべき存在は、一九二四年、頂上を目前にしてエヴェレストに消えたイギリスの登山家マロリーであろう。「なぜエヴェレストに登るのか?」という問いかけに対し、「そこに山があるから」という有名な名文句を吐《は》いたことで知られるあのマロリーである。
さて、イギリスがエヴェレスト一番乗りをめざし、登攀《とうはん》ルートの調査を実施したのは、一九二一年のことであった。このときイギリス隊は七〇〇〇メートルの地点まで到達、そこから北東稜にそって頂上に延びるルートを確認した。その翌年、さっそく本格的な登山隊が編成され、エヴェレスト征服に挑んだが、悪天候に阻まれ、登頂は失敗に終わった。
そこで一九二四年、再度の挑戦が試みられることになる。このとき頂上のアタックに向かったのが、一九二一年の調査隊以来毎回エヴェレスト遠征に参加しているマロリーと、若い隊員のアーヴィンの二人であった。しかし、二人は頂上をめざし、八六〇〇メートル付近を登攀する姿が目撃されたのを最後に消息を絶ってしまった。遺体は今日にいたるもまだ発見されていない(その後一九九九年に遺体は発見された・編集部註)。
そこで、はたしてマロリーとアーヴィンは登頂に成功したのか否かという論争が巻き起こった。つまり、頂上には立ったものの、下山中に遭難したのか、それとも、頂上まであと一歩と迫りながら悲劇が起きたのかが、謎として残ったわけである。
結局、当時のいろいろな状況から、二人とも登攀の途中で滑落、頂上を極《きわ》めることはできなかったのであろうというのが、一応の定説となっている。
ところが、一〇年ほど前、この定説がひっくり返るかもしれないニュースが報じられた(「“マロリーの謎”に新証言」、『読売新聞』一九八〇年一月一日)。それによると、一九七九年の秋、中国の登山家、王洪宝がエヴェレストの八一〇〇メートル付近でイギリス人の遺体を見たと証言、それがマロリーかアーヴィンの可能性が強いというのである。しかし、その直後、王自身もエヴェレストで遭難、彼が見た遺体の場所を確認する手だては失われてしまった。
もうひとつ驚いたのは、マロリーが携行したコダックカメラに、彼ら二人が頂上に立った証拠が映っているかもしれないと、アメリカの登山研究家が指摘していることである(コダック社の話では、カメラに光が入っていなければ、現在でも現像は可能とのこと)。
ということは、エヴェレスト山頂付近のどこかで問題の遺体とカメラが発見されれば、マロリーたちにまつわるミステリアスな謎がいっきに氷解するかもしれないわけである(この話題については、T・ホルツェル、A・サルケルド著『エヴェレスト初登頂の謎』〈中央公論社〉にくわしい)。
ところで、1章で科学を冒険になぞらえた話をしたが、科学者の中にもマロリーのように、山頂ならぬ発見の一歩寸前まで迫りながら(あるいは発見にいたりながら)、先取権を得ることができなかった人たちがいる。発見の価値がエヴェレスト並に高くなれば、それだけ先取権を逸した悔しさも大きくなる。そこで本章では、いま一歩のところで涙をのんだ科学者の話題をいくつか紹介してみようと思う。
2 周期律の発見
ここでもう一度、一八六〇年に開かれたカールスルーエ国際化学会議(6章)の出席者を思い出していただきたい。その中に、ドイツのマイヤーとロシアのメンデレーエフがいた。彼らは、それから九年後、それぞれ独立に元素の周期律を発見することになる。
そのきっかけは、一九世紀に入ってから新元素がつぎつぎと見つかったことにある。たとえば、電気分解法が確立したおかげで、一九世紀の初めに、ナトリウム、カリウム、カルシウム、マグネシウムなどがたてつづけに発見された。また、鉱物からカドミウム、ケイ素、アルミニウムなどが単離された。こうして、一八六〇年代には、約六〇の元素の存在が確認されるにいたった。
これだけ数がふえてくると、何か適当な基準を設けて、元素を整理分類する必要があることを、多くの化学者が痛感するようになった。
そういう状況にあった一八六九年三月、設立されたばかりのロシア化学会で、メンデレーエフの「元素の性質と原子量との関係」と題する論文が発表された(本人は出席できなかったため、仲間によって代読された)。さらにその二年後(一八七一年)、よりくわしい論文がドイツの『リービッヒ化学、薬学年報』に掲載されたのである。
この中でメンデレーエフは、当時知られていた六三の元素を原子量の小さい順に並べると、化学的に似た性質が周期的に現われることを指摘し、それを一二列八行に配列した表を提示した。ここに、今日、化学の教科書でお馴染《なじ》みの周期表の原型ができ上ったわけである。
そして、注目すべきことに、メンデレーエフは表の中で、未発見の元素を空欄にして残しておいた。つまり、空欄に入るべき元素の存在と、そのくわしい特性を“大胆”にも予言してみせたことになる。また、周期律にもとづいて、原子量の値を正確に修正できることも明らかにした。こうして、まだ知られていない元素を見つける有力な実験の指針があたえられたわけである。
はたして、メンデレーエフの予言どおり、一八七五年にガリウムGa(発見者はフランスのボアボードラン)、七九年にはスカンジウムSc(スウェーデンのニルソン)、八六年にはゲルマニウムGe(ドイツのヴィンクラー)と、新元素がぞくぞく発見された。
周期律にもとづく予言がいかに正確であったかは、図にあげたゲルマニウムの例が示すとおりである(『ダンネマン大自然科学史11』三省堂)。こうして、周期律というとらえ方の重要性が広く認められ、元素の体系化の基礎ができ上っていくわけである。
3 マイヤーの“あと一歩”
一方、マイヤーの方は、メンデレーエフより一足早い一八六四年に著わした『化学の近代理論』の中に、不十分ながら周期律の萌芽《ほうが》にあたるアイデアを記載している。そして、一八六九年一二月、「原子量の関数としての化学元素の性質」という論文を書き上げ、翌年、ドイツの雑誌に発表した。
この中でマイヤーは、五六の元素を配列した表――メンデレーエフの場合と同じように、随所《ずいしよ》に空欄がある――を掲載している。また、原子量の増加に対し原子体積(原子量/密度)の値が周期的に変化することを、グラフによって図示した。
こうして、発表がメンデレーエフより約一年遅れることにはなったものの、マイヤーも独立に周期律を発見したわけである。
このように、二人の化学者はほぼ同じ時期にほぼ同じ結論に達したわけであるが、今日、周期律の発見といえば、メンデレーエフの名前だけが思い浮かび、マイヤーの存在はほとんど忘れられてしまっている。つまり、いつの間にか二人の間には、業績の評価に画然《かくぜん》とした差が生じてしまったわけである。
この点については、次のように解釈されている。メンデレーエフは、元素の化学的性質にもとづいて周期律の概念を確立し、さきほども述べたように、きわめて正確に未発見の元素の特性をためらうことなく予言した。
科学の法則や理論にとって、“予知能力”が高いということは、その信憑性《しんぴようせい》を保証する重要なポイントとなる。たとえば、海王星の存在をみごとに予言したニュートン力学がそうであったように。
元素にせよ、惑星にせよ、誰しも未知なるものに対しては、強い好奇心を抱く。その好奇心に大胆な予言をもって応《こた》えれば、これは間違いなく強烈な一種の“パフォーマンス”――メンデレーエフ自身、それをどこまで意識していたかはともかく――となる。結果として、それが功を奏し、メンデレーエフの名をかくも高めることにつながったのであろう。
これに対し、マイヤーは、元素の原子体積、膨張率、可鍛《かたん》性といった、どちらかというと物理的な特性に注目して、周期表を作製した。それだけに、メンデレーエフのように、未発見の元素を予言するというところまでは踏みこむことができず、――あえて厳しい表現をすれば――単なる元素の分類の段階にとどまってしまった嫌いがある。
こうして、一見同じような概念に到達し、同じ内容の表をつくっても、それが意味する――あるいは、未来を展望する――真の重要性を見抜くもう“一歩”の突っ込みが、勝負の分れ目となったのである。
登山にたとえれば、マイヤーはエヴェレストの九合目、いや九・九合目までたどりついたといえる。しかし、頂上までの距離がどんなにわずかであっても――再び厳しい表現をさせてもらうと――、登頂にいたらなければ、それはやがて忘れ去られる運命にある。それだけの“残酷さ”を、自然科学はもっているのである。
4 ちょっといい話
マイヤーも、自らその差はわかっていたのであろう、「私にはメンデレーエフのような大胆さがなかった」と後に回想している。
ところで、とかく先取権をめぐる話というと、争いごとがつきものになるが、周期律の発見に関しては、マイヤーの素直な気持からも想像がつくように、そういう事態にはいっさいいたらなかった。それを物語る、ちょっといい話が残されているので、ここで紹介しておこう。
一八八七年、イギリスで、ヴィクトリア女王即位五〇年を祝う英国科学振興協会の催しが、マンチェスターで行われた。その祝宴には、メンデレーエフとマイヤーも招待されていた。
宴たけなわになったころ、元素の周期律の発見者メンデレーエフ教授が紹介された。万雷の拍手の中、スピーチを求められたが、メンデレーエフは英語がさっぱりわからない。
そのとき、大ぜいの出席者が見守る中、おもむろに立ち上ったのはマイヤーであった。そして彼はこう言った。「私はメンデレーエフではございません。マイヤーという者です。メンデレーエフさんは、英語がおできになりません。それでもさしつかえなければ、ロシア語でお礼のことばを述べたいと申されています」(山岡望『科学史伝』内田老鶴圃新社)。二人は再び拍手の嵐に包まれた。
同じ頂上をめざした者だけがわかる、ライバルへの尊敬の念が、こうしてマイヤーを起立させ、メンデレーエフにスポットライトを当てる役目を演じさせたのであろう。それは、気持のよいほど自然な振るまいであった。
5 アインシュタインとローレンツ変換
ところで、形式的にはよく似ていながら、基本的な考え方、本質に対する理解の深さが異なっていたもうひとつの例として、相対性理論をめぐるアインシュタインとローレンツの研究が思い浮かぶ。
一九世紀の後半、マクスウェルによって電磁気学が確立すると、地球の「絶対速度」を求めようという気運が盛り上ってきた。マクスウェルの理論にしたがえば、光(電磁波)は空間を秒速約三〇万キロメートル(光速c)で伝わることになる。その際、光を波動として伝える媒質《ばいしつ》として当時考えられていたのが、「エーテル」という仮想物質である。エーテルは宇宙空間に充満し、宇宙の重心に対し絶対静止をしているものと仮定されていた(これを「静止エーテル説」という)。
ということは、地球もまたエーテルの中を動いているので、我々から見た光の速度は、地球と光の相対運動に依存して変化することになる。つまり、光をいろいろな方向に走らせ、速度の違いを測定すれば、エーテルに対する地球の速度(絶対速度)がわかることになる。
そういう前提にもとづいて一八八七年に実施されたのが、有名なマイケルソンとモーレーによる光速測定の実験である。
しかし、意外なことに、彼らの実験は、走る方向に関係なく光の速度は常に同じという不思議な結果に終わった。この結果を素直にそのまま解釈すると、地球の絶対速度は0ということになってしまう(これでは、数百年ぶりに天動説が復活することになる)。当時の物理学者は、この奇妙な帰結に頭を痛めることになった。
物理学がこういう窮地に立たされたとき、オランダのローレンツは、エーテル中を運動する物体は、その速度に応じ、運動方向に収縮するという仮説を立て、マイケルソンとモーレーの実験結果を説明しようとした。さらにこの考えを発展させ、一九〇四年、「ローレンツ変換」(互いに等速度運動する座標系の間で、電磁気学の基本方程式を不変に保つ座標変換)の公式を導出した。
さて、翌一九〇五年、アインシュタインは「運動物体の電気力学」と題する論文で相対性理論を発表するが、ローレンツ変換は、少なくとも数学の形式においては、アインシュタインが論文の中で導いた式と完全に同じであった。
ところが、表面的には同じでも、アインシュタインが時間・空間の概念を根底から揺るがす大胆な発想――それはいままでの常識をひっくり返すことになる――によって、相対性理論に到達したのに対し、ローレンツはあくまでもエーテルの存在に固執し、従来の物理学の枠内にとどまったままであった。
周期律におけるマイヤーのように、ローレンツも、思いきったもう一歩を踏み出すことができなかった。ここでも、その一歩の差が、アインシュタインとローレンツに対する評価の大きな分れ目となったのである。
6 科学における“ルビンの壼”
次の話は、キャヴェンディッシュ研究所が舞台になる。マクスウェル亡き後、二代目所長にレイリー(アルゴンの発見で、一九〇四年ノーベル物理学賞受賞)、三代目にJ・J・トムソン(電子の発見で、一九〇六年ノーベル物理学賞受賞)、そして四代目にラザフォード(放射性物質の化学の研究で、一九〇八年ノーベル化学賞受賞)を迎え、一九三〇年代に入ると、キャヴェンディッシュ研究所は実験物理学の中心的役割を担《にな》うようになっていた。
それを象徴するかのように、一九三二年、同研究所のチャドウィックが、中性子の発見という偉大な業績をあげた(これは、一九三五年のノーベル物理学賞につながった)。この発見によって、原子核は陽子と中性子から構成されていることが明らかになり、その後の核物理学の発展に大きなはずみがついたのである。
ところが、チャドウィックよりも一年前にすでに、中性子の痕跡をとらえていたフランスの科学者がいた。キュリー夫人の娘イレーヌとその夫フレデリック・ジョリオの二人である。
当時、放射性元素から出るアルファ線をベリリウムに照射すると、そこから透過性の強い正体不明の放射線――これは「ベリリウム線」と呼ばれていた――が発生することが知られていた。ジョリオ夫妻は、このベリリウム線をパラフィンなどの物質に当てると、陽子が勢いよく飛び出してくることを発見した。この結果から、彼らは、ベリリウム線の正体は「ガンマ線(エネルギーの高い電磁波)」であると考えた。
というのもひとつ訳がある。その数年前、アメリカのコンプトンが、X線を物質に当てると、X線が粒子(光子)として物質内の電子に衝突し、一種の玉突き現象(コンプトン効果)が起きることを発見していたからである。つまり、X線よりもエネルギーの高いガンマ線を当てれば、同じように玉突きを起こし、陽子が物質からたたき出されるであろうというわけである。
しかし、いくらガンマ線のエネルギーが高いといっても、電子の二〇〇〇倍近い質量をもつ陽子をはねとばすのには、いささか無理があった。
これに対し、ジョリオ夫妻の実験のニュースを耳にしたチャドウィックにはピンと来るものがあった。彼は、この頃、電気的に中性の粒子が存在するのではないかという予想を持っており、ベリリウム線の正体こそ、その未知の粒子ではないかと思い当たったからである。
中性の粒子ならば、物質に入射しても原子の電荷の影響を受けることがないので、物質中をスイスイ通り抜けることができる。これは、透過性が高いというべリリウム線の特徴に一致する。また、中性粒子の質量が陽子と同程度であれば、衝突を起こしたとき、陽子がはじき飛ばされたとしても不思議はない。
そこでチャドウィックはさっそく、ベリリウム線をさまざまな物質に照射して原子核との衝突を調べ、そこから中性子の存在を実証したのである。
ここでひとつたとえを使わせてもらおうと思う。心理学の本によく引用される「ルビンの壼《つぼ》」という絵がある。黒い部分に注目すると壼のシルエットに見えるが、白い部分を意識すると、二人の人間の向き合った顔が浮かんでくるというお馴染《なじ》みの図形である。
心理学では、この絵を見て壼と答えるか顔と答えるかによって、人間の心理状態をどう判断するのかよくは知らないが、ベリリウム線の照射実験では、その解釈の仕方が中性子発見の鍵を握ったわけである。
つまり、同じ実験結果を見ても、コンプトン効果の先入観にとらわれていたジョリオ夫妻は、ベリリウム線をガンマ線と思いこんでしまった(どちらにたとえてもかまわないが、壺だと思いこむと、壼しか見えないように)。一方、中性粒子の存在を予感していたチャドウィックには、それが問題の粒子として浮き上って見えたのである。
ここにも、ゴール寸前のわずかの差が勝負を決定づけた厳しい現実があった。
7 トンネルダイオード
さて、時代は下って一九七三年、江崎玲於奈《えさきれおな》博士は「固体内トンネル効果の研究」で、日本人三人目のノーベル物理学賞を受賞した。
彼が研究したトンネルダイオードは、特定の電圧領域で、電圧をあげていくと電流が減少する特有の現象を示し、電流‐電圧特性に図のような“こぶ”が現われる。江崎博士はこの“こぶ”を発見したわけであるが、“こぶ”を――そして結果的にはノーベル賞も――目前にして涙をのんだ一人の科学者がいた。それは、江崎博士のノーベル賞講演にも名前が出てくるベル研究所のチャイノウェスである。
その様子を面白いたとえを使って紹介した文章がある。それを引用して、本章の締めくくりとしたい。
「彼(チャイノウェス)こそは、高い濃度のドーピング(結晶中に不純物を加えること)をしたp‐n接合を最も早く、最もくわしく調べた研究者の一人であり、しかも、トンネル効果の存在をはやばやとたしかめた男なのである。
ところが、彼はドーピングをもうほんの一歩だけ進めなかったために、ただそれだけのために、“こぶ”の存在を見る幸運にめぐまれなかった。何という不運な男! たとえて言うなら、歌舞伎座を見に九州から上京し、有楽町の角まで来ながら、そこからひき返したようなものである」(菊池誠「ノーベル物理学賞――トンネルダイオードの周辺」『日本物理学会誌』一九七四年一月号、傍点、注釈は引用者)。
こうして「ほんの一歩」が、後になっては埋めようのない隔絶へと広がってしまうのである。それにしても科学研究の厳しさを、あらためて突きつけられる思いがする。
8章 発見に自分の名前を刻んだ科学者
1 『砂の女』
昭和三七年に発表された安部公房《あべこうぼう》の異色小説『砂の女』は、日本の文学作品としては珍しく、たちまち二〇数ヵ国語に翻訳され、国際的な話題作となった。
物語は、夏の暑い日、男が汽車とバスを乗り継いで、砂丘に囲まれたひなびた集落を訪れるところから始まる。男は新種の昆虫を求めて砂丘の集落にやってきたのであるが、その様子が次のように描かれている。
「砂地にすむ昆虫の採集が、男の目的だったのである。
むろん、砂地の虫は、形も小さく、地味である。だが、一人前の採集マニアともなれば、蝶やトンボなどに、目をくれたりするものでない。彼等マニア連中がねらっているのは、自分の標本箱を派手にかざることでもなければ、分類学的関心でもなく、またむろん漢方薬の原料さがしでもない。昆虫採集には、もっと素朴で、直接的なよろこびがあるのだ。新種の発見というやつである。それにありつけさえすれば、長いラテン語の学名といっしょに、自分の名前もイタリック活字で、昆虫大図鑑に書きとめられ、そしておそらく、半永久的に保存されることだろう。たとえ、虫のかたちをかりてでも、ながく人々の記憶の中にとどまれるとすれば、努力のかいもあるというものだ」(新潮文庫)。
しかし、男は新種の昆虫を見つける前に、自分の方が流砂に飲みこまれかけた家に閉じこめられ、そこに一人住む女との不思議な生活が始まるという具合に、ストーリーは展開していく。
まあ、その続きは小説をお読みいただくことにして、ここで注目したいのは、引用文にある「新種を発見し、自分の名前を虫に託して残したい」というマニアの心理である。
ことわるまでもなく、学名に自分の名前を記すためには、最初の発見者にならなければならない。ところが、人目につきやすいところにいる昆虫はあらかた発見しつくされているため、新種探しはひっきょう、人のあまり行かないところで行われることになる。『砂の女』で、暑い夏の一日、男が汗まみれになりながら夢中で砂地を歩きつづけたのも、そのためである。
昆虫に関心のない大方の人から見れば、炎天下、砂地をはいまわる行為は、なんとも物好きに映るかもしれない。しかし、新種に己《おの》れの名を冠したいというマニアの心理は、先取権に対する執着のひとつのあらわれとして理解できるのではないだろうか。
2 星に名前を!
これとまったく同じようなことが、彗星の発見にかける人たち(コメット・ハンター)についてもいえる。そのはしりとなったのが、ハレー彗星の発見であろう。
この美しい彗星が、一九八六年、七六年ぶりに地球に近づいて来たときのことは、まだ記憶に新しい。科学時代にふさわしく、各国が協力して観測体制をしき、数々の華々しい成果がおさめられた。中でも圧巻だったのは、欧州宇宙機関が打ち上げた探査機「ジオット」の活躍であろう。
TVカメラを搭載したジオットは、相対速度秒速七〇キロメートルという猛スピードで、ハレー彗星の核に六〇〇キロメートルの距離まで接近、初めてその姿を撮影するのに成功した。ジオットが送ってくる画像は、“実況生中継”の形で、世界各国のTVを通じ映し出されたのである。 彗星から吹き出る粒子の弾丸を雨霰《あめあられ》と浴びながら、ジオットが“勇敢”に核めがけて突進していくさまは、「カミカゼ・ミッション」(神風特攻)と形容され、新聞は「ハレーの核“激写”」という見出しで、この快挙を大きく報じた。
こうして、数年前の春、ハレー・フィーバーが世界中にまき起こったわけであるが、この彗星がかくも有名になるきっかけは、三〇〇年前にさかのぼる。
一六八二年、若い天文学者ハレーは、長い尾をなびかせて現われた大彗星に心を奪われ、その運動に関心を抱いた。当時はまだ、彗星の運動は解明されていなかったため、ハレーはニュートンの力学を使い、一人で軌道計算に取り組んだのである。また、過去に出現した彗星の観測記録も、時間をかけ丹念に調べていった。
答えが出るまでに十数年を要したが、彗星はだ円軌道を描き、約七六年の周期で太陽のまわりを回ることが算出された。一七〇五年、ハレーは、この彗星が一七五八年に再び戻ってくると自信をもって予言している。
残念ながらハレーは、予言を自分の目で確かめることなく、一七四二年、八五歳で亡くなったが、死後出版された晩年の覚書きの中に次のように書き記した。
「この彗星が一七五八年に戻ってきたとき、後世の人々は、そのことを最初に発見したのは一人のイギリス人であることを思い起こすであろう」。こうして、自分が生存した証《あかし》を、死後に回帰してくる彗星に託したわけである。
はたして、ハレーの予言は的中し、彼は彗星に名を残す最初の人間となったのである。ハレーは生前、科学の広い分野で活躍し、ニュートンの『プリンキピア』出版に際しては、多大の尽力をしたことが知られているが(4章)、彼の名が今日これほどまでに有名なのは、なんといっても、彗星を通してであろう。覚書きに遺《のこ》したハレーの願いは、みごとにかなえられたのである。
3 コメット・ハンティング
ハレー彗星に刺激されたのか、その後、コメット・ハンティングにとりつかれる人が続出する。たとえば、パリ天文台のメシエもその一人で、彼は一八世紀末、一三個もの新彗星を発見、コメット・ハンターの名をほしいままにした。
しかし、ハレーと同じような形で名前を残したのは、ドイツのエンケが二人目になる。エンケは、フランスのポンスが一八一八年に観測した彗星の運動を計算し、その回帰を一八二二年と予言した。エンケ彗星は、今日、最も周期が短い(約三・三年)ことで知られている。
また、いま名前があがったポンスも精力的なコメット・ハンターで、四〇個近い彗星を発見、ポンス‐ヴィネッケ彗星、ポンス‐ブルックス彗星に名前を付されている。この他にも、よく耳にする例として、コホーテク、ウエスト、ジャコビニ‐ジンナーなどの各彗星があるが、これらは皆、第一発見者の名前に由来して命名されたものである。
日本人にもコメット・ハンティングで国際的に活躍した人が多く知られている。たとえば、一九四七年(昭和二二年)一一月、本田実《ほんだまこと》によるホンダ彗星の発見は、戦後の暗い日本の世相の中で、人々に希望をあたえる明るいニュースとなった。
それから一六年後の一九六三年、イケヤ彗星に名前を刻んだ池谷薫《いけやかおる》は、このとき一九歳、彗星発見者の最年少記録をつくった(その後、一九六八年、アメリカのホイタッカーが一六歳で新彗星を発見、記録を更新した。冨田弘一郎『彗星の話』岩波新書)。
さて、世界中で毎夜、大ぜいのコメット・ハンターが虎視眈々《こしたんたん》と望遠鏡をのぞいていれば、ひとつの新彗星を複数の人間が同時に見つける可能性が出てくる。ところが、彗星に名前を残せるのは、先着三名までという厳しい制限がある。
そこで、彗星(一般的には新しい天体)を発見した者は、一刻を争うように、その知らせを、国際天文連合天文電報中央局(アメリカ、スミソニアン天文台内)に打電することになる。ここが、いってみれば、新発見の情報収集の総元締めに当たるからである。
天文電報中央局は知らせを受けると、今度は、その内容を各国の主要天文台に転電する。こうして、新発見のニュースは短時間に全世界を駆けめぐるわけである。そして、それが間違いなく新しい彗星であることが確認されると、三番目までの発見者の先取権が確保されることになる。こう見てくると、コメット・ハンティングも、一瞬の遅れが命とりにつながる激しい競争であることがわかる。
しかし、激しい競争の背景には、自分の名前を、宇宙を駆けめぐる星に刻みたいというロマンがあるのであろう。
4 エポニミーとモンロー・ウォーク
いま、昆虫と彗星を例に話をしたが、科学では一般に、発見者の名前を冠した用語が数多くある。
本書に登場した科学者について見てみても、ピタゴラスの定理、コペルニクスの地動説、ケプラーの法則、ニュートン力学、ベルヌーイの定理、アヴォガドロ数、マクスウェルの方程式、エサキ・ダイオード……という具合に枚挙にいとまがない。このように、人名に由来する用語を、「エポニミー」という。
自分の名前がエポニミーに成るということは、業績が高い評価を受けた証《あかし》であり、科学者として大変名誉なことであるが、もちろんこれは科学だけの専売特許ではない。他の諸学問でも行われているし、さらに注意して見れば、いろいろな分野で人名ゆかりの言葉が多いことに気がつく。
たとえば、スポーツ。東京オリンピックのころを絶頂に、体操ニッポンが世界に君臨していた時代、山下《やました》跳び、塚原《つかはら》跳びといった日本選手の編み出したウルトラCの技が盛んに演じられた。
冬のオリンピックに目を向けると、何年か前、フィギュアスケートのビールマン選手は片足を背中につくように垂直に上げ、足首を腕でかかえこむようにして、彼女にしかできない独特のスピンを行っていたことを思い出す。この演技には、「ビールマンスピン」の名がつけられた。
料理でも、エポニミーが知られている。すぐに思い浮かぶものに、有名なサンドイッチがある。賭《か》けごとに熱中していたサンドイッチ伯爵が、勝負を中断せずに食べられるものはないかと考えたというエピソード――ただし、どこまで本当かは知らないが――は有名である。もうひとつ書いておくと、ステーキのシャトーブリアン。これも、グルメとして知られた一九世紀のフランスの政治家シャトーブリアンの好物だったものである。
なんだか話がだいぶ脱線してきたが、脱線したついでに触れておくと、一世を風靡《ふうび》した女優のマリリン・モンロー。彼女はお尻を振りながらセクシーな歩き方をした。モンロー・ウォークである。歩くという誰もがするごく普通の行為がエポニミーになってしまうのだから、さすがマリリン・モンローといえる。
5 キュリー夫人の祖国愛
話題がマリリン・モンローまで行ったところで、再び科学の世界に戻ることにしよう。
さきほどエポニミーの例として、定理、法則、方程式などを列挙したが、周期表をみると元素の名前にも科学者にゆかりのものがいくつかあるのに気がつく。キュリウムCm(キュリー夫人)、アインスタニウムEs(アインシュタイン)、メンデレビウムMa(メンデレーエフ)などである。
ただし、これらはすべて、発見者の名前をつけたのではなく、歴史上の偉大な科学者にあやかって命名されたものである。
元素の場合は、エポニミーの観点からみると、こうした人名ではなく、むしろ発見者の国名に深くかかわりがあることがわかる。国名を冠した用語は、厳密な意味ではエポニミーと言えないかもしれないが、発見者に敬意を払うという点では、同じように考えてさしつかえないであろう。
さて、7章で述べたように、メンデレーエフが周期表に空欄を設けて予言した新元素が一九世紀末、つぎつぎと見つかった。その中で、ガリウムとゲルマニウムはそれぞれ、発見者ボアボードランとヴィンクラーの国名をつけたものである。もうひとつのスカンジウムは直接国名からとった名前ではないが、発見者のニルソンがスウェーデンの化学者であること、また、元素がとり出された鉱石(ガドリン石)の産地がスカンジナビアであることに由来する。
という具合に、メンデレーエフの予言的中が元素発見史のひとつのハイライトであるが、その直後、もうひとつハイライトがやってきた。それは、キュリー夫妻による、放射性元素の発見である。一八九八年、夫妻はまずポロニウムPo、そしてその直後、ラジウムRaの存在を発表した。
当時、キュリー夫人は夫ピエールのフランス国籍になっていたが、彼女の祖国はポーランドである。
キュリー夫人(マリー・スクロドフスカ)は、一八六七年、ロシア治政下のワルシャワに生まれた。この時代のポーランドは、ロシア、ドイツ、オーストリアの三国によって分割統治されており、ポーランドという国名すら奪われていた。それだけに、女性が学問を志すという希望をもてるような状況にはとてもなかった。
そこで、マリー・スクロドフスカは、一八九一年、フランスへ出国、ソルボンヌ大学で化学の勉強を修めることになる。そして、その三年後、化学者ピエール・キュリーと結婚、キュリー夫人となったのである。こうして彼女は、ロシアの圧政に苦しむポーランドを抜け出してきただけに、祖国への思いはひとしお強かったものと思われる。
そのあらわれからか新元素の発見を伝える報告書に、キュリー夫妻はこう書き記している。
「もしこの新しい金属の存在が確認されたら、我々のうちの一人の祖国にちなんで、その元素を『ポロニウム』と命名したい」。
どれほど外国に侵略されようと、元素に刻んだ祖国ポーランドの名は、未来永劫《えいごう》にわたって失われることがないというキュリー夫人の強い思いが、引用した文章から伝わってくる。このとき、先取権に対する科学者の執念は、美しい祖国愛へと昇華したのである。
一九三四年、キュリー夫人はアルプスの療養所で六六歳の生涯を閉じた。遺体は、夫ピエールの眠るパリの墓地に埋葬されたが、そのとき、柩《ひつぎ》にはポーランドの土が振りかけられたという(F・ジルー『マリー・キュリー』新潮社)。発見した元素に祖国の名を刻んだ科学者は、それにふさわしい見送りを受け永眠したのである。
6 起死回生の大逆転――木村項の発見――
さて、キュリー夫妻がポロニウムとラジウムを発見した一八九八年は、各国が協力して地球の自転軸の変動を観測するという国際的規模のプロジェクトが始まった年でもあった。
これには日本も参加するが、それがきっかけで、明治期に日本人科学者の名前が冠せられる世界的な発見が成されることになったのである。そこで、まず、こうしたプロジェクトが実施されるにいたった経緯から、簡単に紹介しておこう。
よく知られているように、地球は自転軸(地軸)のまわりを一日の周期で回転している。ここまではごく当たり前の話であるが、地球の形が完全な回転だ円体ではなく、質量分布も自転軸に関し完全には対称になっていないため、自転軸の指す方向が――ちょうどコマの首振り運動のように――時間とともにわずかながら変化しているのである。つまり、地球の自転軸は常に天球の一定方向を向いているのではなく、ふらつき運動をしていることになる。
この現象を初めて理論的に予測したのは、5章に登場した一八世紀の数学者オイラーである。その後、一九世紀に入り、恒星の精確な位置観測が行われるようになると、実際に地球の自転軸が変動していることが確認された。
そこで、国際測地学協会は、同一緯度(北緯三九度八分)上にほぼ等間隔となるよう六ヵ所の地点を選び、一八九八年(明治三一年)から翌年にかけ、組織的な自転軸変動の観測を行うことを決定した。日本にも、岩手県の水沢《みずさわ》に観測所が設置された。そして、その責任者に任命されたのは、当時まだ二九歳の天文学者木村栄《きむらひさし》であった。
こうして一年間の共同観測が行われ、各地点でのデータが集計されたところ、日本にとって真青になるような事態が起きた。
それは、当時用いられていた自転軸の変動を与える式――もう少し正確に書くと、天文学的緯度変化を表わす経験的な式――に当てはめてみると、他の地点にくらべ、水沢の観測値が大きな誤差を示したことである。
国際測地学協会中央局長のアルブレヒト(ドイツのポツダム天文台長)は、誤差の原因を、日本の観測技術の未熟さによるものと断定した。これは、いわば日本の科学水準が低いと国際的に公言されたに等しく、我が国にとっては、大変屈辱的な思いであった。とりわけ観測に当たった木村の心痛は、想像に難《かた》くない。
ところが、間もなく、事態は一変した。各地点のデータをくわしく分析した木村は、従来用いられていた緯度変化の式に新しい補正項を加えると、水沢のものも含めすべての地点の観測値が、みごとに式と一致することを発見した。つまり、日本の観測技術がおそまつだったのではなく、使われていた式の方が不適当だったことが明らかにされたのである。
木村の論文が一九〇二年(明治三五年)、ドイツとアメリカの天文学雑誌に相次いで発表されると、補正項の導入は国際的に高く評価されるようになった。そして、補正項は「Z項」あるいは発見者の名をつけて「木村項」と呼ばれるようになった。
これはおそらく、明治期の日本人科学者が獲得した世界的に通用する初めてのエポニミーであったと思われる。
欧米に対し、いったんは肩身の狭い思いを強いられただけに、木村項の発見による起死回生の大逆転劇は、いま聞いても、小気味よさを覚えるが、いかがであろうか。
7 幻のニッポニウム
このように小気味よい話ばかり続けばうれしいのであるが、世の中、なかなかそううまくはいかない。木村栄《きむらひさし》の快挙から数年後、明治の日本には、次のような出来事も起きたのである。今度の主人公は、一九〇四年(明治三七年)、ロンドン大学のラムゼーのもとへ留学した化学者小川正孝《おがわまさたか》である。
さて、ラムゼーといえば、一八九四年のアルゴンArを皮切りに、ネオンNe、クリプトンKr、キセノンXeと四つの希《き》ガス元素を発見、一九〇四年にノーベル化学賞を受賞した、元素探しの“名人”である。
そういう“名人”のもとで研究生活を始めることになった小川は、さっそく、ラムゼーから新元素が含まれている可能性を示唆された鉱石を手渡され、その化学分析に取りかかった。
ところで、ドイツの天文学者から緯度変化の観測において日本の技術は未熟と決めつけられたことからもわかるように――緯度変化に関しては、完全な誤解であったが――当時、日本の科学は、まだとても西欧の水準には達していなかった。ようやく、長岡半太郎《ながおかはんたろう》(磁気歪、原子模型の研究)、北里柴三郎《きたざとしばさぶろう》(破傷風免疫体の発見)、高峰譲吉《たかみねじようきち》(アドレナリンの発見)……と、国際的に評価される科学者が、徐々に誕生しかけていた時代であった。
また、科学に限った話でなく、日本そのものが、若い近代国家として、なんとか西欧列強に追いつきたいとやっきになっていた時代である。
こうした世相は、海外に留学する日本人科学者の心理にも、なにがしかの影響をおよぼしたことであろう。西欧に引けをとらない業績をあげ、国威の宣揚《せんよう》に役立ちたいという思いを――特別の愛国者ならずとも――、大なり小なり抱いたとしても、不思議ではない。
新元素の発見は、その格好のチャンスとなる。キュリー夫人が新元素に「ポロニウム」と命名したように、鉱石の化学分析に取り組んだ小川の頭には、いつしか、「ニッポニウム」という元素名が浮かんできたのではないだろうか。
研究は一進一退を繰り返したが、ロンドンから帰国後も地道に実験をつづけた小川は、一九〇八年(明治四一年)、ついに原子量が約一〇〇の新元素ニッポニウムを発見したと発表した。この発表が正しいとすると、ニッポニウムは、当時まだ周期表が空欄のまま残されていた四三番目の元素に当たることになる。
しかし、その後、新元素の存在を明確に示す実験結果が得られぬまま時間が推移し、結局、ニッポニウムの発見は誤認と判明した。元素に日本の名を刻むことは、夢に終わったのである。
それでも、周期表の空欄はなかなか埋まらなかった。それだけに、小川は亡くなる(一九三〇年)直前まで、幻の元素を追いつづけたのである。
なお、“本物”の四三番目の元素は、一九三七年、アメリカのセグレとペリエが、サイクロトロン(粒子加速器)の中で重水素核とモリブデンMo(原子番号四二)の衝突実験を行ったときに発見された。人工的な操作によってつくり出されたことから、この元素は、テクネチウムTcと名づけられた。
8 “絶滅”したテクネチウム
ところで、テクネチウムの発見から半世紀後、後日談がひとつ生まれることになる。
テクネチウムは名前のとおり人工的にしか得られず、天然には存在しないと考えられている。というのも、知られている同位体がすべて放射性で、安定のものはひとつも存在しないからである(最も寿命の長い同位体でも、半減期は数百万年と計算されている)。おそらく、地球が誕生した当初は、“天然もの”のテクネチウムが存在したのであろうが、地球の歴史にくらべると半減期が短すぎ、いつの間にか消滅してしまったものと考えられている。
したがって、サイクロトロンもない時代に、いくら化学分析を精密に行っても、天然に存在しない元素は見つけようがなかった。そう思うと、小川は残念ながら無駄な努力を続けていたことになる。
ところが、つい最近、日本の研究グループが、天然にもテクネチウムが微量ながら“生き残っている”可能性を示唆する実験データを得て、これから本格的な研究に取り組むというニュースが報じられた。
そういえば、一九三八年一二月、南アフリカの東海岸で、六〇〇〇万年前に絶滅したと思われていたシーラカンスが漁船に捕獲され、大騒ぎになったことがある。
同じように、漁師の網ならぬ化学者の検出器に、絶滅をまぬがれたテクネチウムがひょっとすると、とらえられることになるのかもしれない。
もちろん、そうなったからといって、ニッポニウムの名前が復活するわけではない。復活するわけではないが、日本に因縁深い四三番目の元素だけに、この興味ある話題がどう展開していくのか、今後の成果を期待したいと思う。
9章 先取権とノーベル賞の魔力
1 アカデミー賞
映画の名台詞《せりふ》を集めた『お楽しみはこれからだ』(和田誠、文芸春秋)の「PART2」に、「オスカー」というアメリカ映画の紹介が出ている。
オスカーというのは、映画のアカデミー賞の賞品として贈られるトロフィーの愛称であり、同時に、アカデミー賞そのものの代名詞――映画のタイトルが、まさにそうであるが――としても使われる言葉である。
で、映画「オスカー」の粗筋《あらすじ》は、アカデミー主演男優賞を狙った主人公が賞を逃し、予想外の人物が受賞の栄誉に輝くというストーリーらしい。『お楽しみはこれからだ』では、この映画の中から、次の台詞が引用されている。
「オスカーはノミネートだけじゃだめだ。去年やおととしの候補者をおぼえているか。憶えられるのは受賞者だけなんだ」。
台詞の注釈は不要かと思うが、候補に残りながら、結局は選にもれた主人公の悔しさがよく現われている。
一映画ファンから見れば、世間で評判を呼び、それなりに興行成績が上がれば、十分ではないかという気がするものの、監督、俳優の身になれば、それとは別に、アカデミー賞への執念は捨て去りがたいものがあるのであろう。もう一度、『お楽しみはこれからだ』の一節を引用させていただくと、こういう表現に出会う。
「われわれにとってはオスカーなどどうでもいいと思うのだが、ハリウッド人種には、これはたいへんな行事なのだろう。うまい人がとっていることはもちろんだが、とっていない人にも名優はたくさんいて、バート・ランカスターがとっていてカーク・ダグラスがとっていないこと、ジョン・ウェインがとっていて、ヘンリー・フォンダがとっていないこと、グレゴリー・ペックがとっていて、ポール・ニューマンがとっていないことなど、考えてみると妙な気もするのだ」。
こういう実際の例をあげてもらうと、映画「オスカー」の主人公の台詞も、真に迫る重味を感じる。たとえ実力があっても、最後は運――“幸福の女神”の微笑――が事を決するという、人生の縮図を物語っているからであろう。それはまた、人が人を選ぶ難しさでもある。
2 芥川賞
新人作家の登竜門「芥川《あくたがわ》賞」は、昭和一〇年に第一回の授賞が行われて以来、日本の文壇を代表する文学賞として、常に熱いまなざしをおくられている。
その第一回受賞者は石川達三《いしかわたつぞう》(受賞作は「蒼氓《そうぼう》」)であったが、最終選考に残った一人に、太宰治《だざいおさむ》がいた。賞を逸した太宰は、翌年、選考委員の川端康成《かわばたやすなり》に、「芥川賞を私にあたえてください」と懇願《こんがん》する手紙を書き送ったのである。
当時、太宰はパビナール中毒が昂《こう》じ、加えて経済的にも苦しく、かなり不安定な精神状態にあった。そういう事情を考慮しても、一人の男が恥も外聞もなく、「何卒《なにとぞ》、私にあたえてください、名誉をあたえてください」と切々と訴えるさまは、あらためて“賞”というもののもつ不思議な魔力を表わしているような気がする。
いま振り返ってみれば、太宰の作品を評価する上で、彼が芥川賞をとっていようがいまいが、ほとんど何の影響もないように思えるが、それはあくまでも、他人の無責任な感想にすぎないのであろう。いったん“賞”なるものが設定されると、人はその魔力の呪縛《じゆばく》から逃れられなくなるのかもしれない。映画「オスカー」の台詞が、そして太宰の手紙が、それを如実《によじつ》に物語っている。
3 ノーベル賞
さて、映画、文学につづいて科学の賞となれば、これはもうノーベル賞をおいて他にない。そして、これほど国際的に知名度が高く、威光に満ちた賞も、他に類をみない。
よく知られているように、ノーベル賞はダイナマイトの発明で莫大《ばくだい》な財を築いたノーベルの遺言に基づいて設立され、一九〇一年、第一回の授賞が行われている。つまり、この権威ある顕彰《けんしよう》制度は、二〇世紀と共に始まったわけである。
ただ、たとえノーベル賞といえども、設立当初から今日のような卓抜した評価を受けていたわけではなかったと思う。おそらく初めは、むしろ受賞者の方がノーベル賞を権威づけていたのであろうが、その選考が厳しいほど適切であったため、回を重ねるうちほどなく、ノーベル賞が受賞者に権威をあたえるという今日の構図ができ上がったのであろう。
試みに初期の受賞者を眺めてみると、第一回のレントゲン(物理学)、ファント・ホフ(化学)、フォン・ベーリンク(医学生理学)に始まって、まさに綺羅星《きらぼし》のごとき顔ぶれに出会う。そして、今日にいたるノーベル賞受賞者の一覧は、そっくりそのまま、二〇世紀の天才の系譜を形づくっている。
それだけに、受賞者は、現代の国際社会の中で、「位人臣《くらいじんしん》を極める」という表現がぴったりする扱いを受けることになる。いや、時には、神格化されるという形容すら決して過言ではないほどの輝きを放っている。
こうした状況を反映し、毎年一〇月に行われる受賞者の発表は、大きなニュースとして報じられ、特に受賞者を出した国や研究機関では、お祭騒ぎを上回る興奮ぶりとなる。周囲がそうなのであるから、候補者と目される科学者にとって、一〇月は毎年、落ち着かない時期になることであろう。今年こそはと息を殺して、ストックホルムからの吉報を心待ちにしている科学者の姿が、目に浮かぶようでもある。
ところで、科学の研究を「真理の探求」という美しい言葉でたとえることがよくある。これはこれで間違いではないが、科学者も人間である以上、そういう高潔な大義名分だけで事がすむわけではない。
アカデミー賞や芥川賞が人を狂わすことがあるように、ノーベル賞もまた、これほどの威信をもってくると、陰に陽に科学者の心に大きな影響をおよぼすことになる。
そこで、本章では、最近の話題をとりあげ、先取権とノーベル賞のかかわりについて見てみようと思う。
4 ウィークボソンを捜せ!
さきほど、毎年、息を殺して授賞の知らせを心待ちにしている科学者がいると書いたが、そのような一人に、一九八四年、「ウィークボソンの発見」で、オランダのヴァン・デル・メーアと共にノーベル賞を受賞したイタリアの物理学者カルロ・ルビアがいた。
もっとも、ルビアの場合、ノーベル賞は心待ちにしていても、息を殺したりはしていなかったかもしれない。
というのも、一九八三年一月、欧州合同原子核研究所(CERN《セ ル ン》)で、ルビアがウィークボソンの発見を発表したとき、彼は事実上、ノーベル賞も掌中に収めたからである。
このウィークボソンというのは、素粒子が崩壊するときに働く弱い相互作用を伝達する粒子で、その存在は一九七〇年代の後半から理論的に予言されていた。それだけに、もしもウィークボソンが実験によって発見されれば、自然界の力を統一して記述する理論の構築という現代物理学の重要な研究に、大きな前進をもたらすことになる。換言すれば、その発見は、最優先でノーベル賞へとつながることになる(さきほど、息なんか殺していなかったと、授賞の発表を待つルビアの心理状態を忖度《そんたく》したのは、こういう訳である)。
このように目標がはっきりしてくると、後の問題は、ウィークボソンを発生させるに十分な高エネルギーの巨大加速器をいち早く建設し、それを運転することに絞られてくる。
一九七六年、ルビアはCERNにこの巨大プロジェクトを提言、熱心に加速器の建設を説きつづけたのである。CERNは名称のとおり、欧州各国が予算を分担して運営される国際的な研究機関であるが、設立されてから四半世紀を経過しながら、当時はまだ一人もノーベル賞受賞者を出していなかった。それだけに、ルビアの提言は、CERNの首脳部にとっても、きわめて魅力的なテーマと映ったことであろう。
ともかく、ルビアの精力的な働きかけが功を奏し、一九八二年、ジュネーブの郊外、遠くにアルプスを望むフランスとスイスの国境をはさんだ地下に、CERNの直径二・二キロメートルにおよぶ「スーパー陽子シンクロトロン(SPS)」が完成した。こうして、SPSの中で、高速に加速した陽子と反陽子を正面衝突させ、その反応からめざす新粒子ウィークボソンを見つけ出そうという実験がスタートした。
5 ナンバー2はいらない
実験に当たったのは、ルビアが指揮するUA1のグループとフランスのダリューラが責任者をつとめるUA2のグループの二つであった。
加速器SPSは地下に埋設されているので、粒子検出器あるいはそれを操作する研究チームは、「アンダーグラウンド・エリア1、2」と呼ばれた。つまり、CERNの中で二つのチームが、同一のゴールめざして走り出したわけである。
CERN首脳部としては、二つのグループが並行して実験を行えば、それだけウィークボソン発見のチャンスが早くめぐってくるし、また、発見された後の確認作業も素早く行われるものと期待したわけであるが、当のルビアにとってみれば、UA2グループの存在は、邪魔なものに映ったことであろう。
たとえ同じ研究所のグループでも、彼らが一足先にウィークボソンを発見してしまえば、ルビアの夢もノーベル賞も永遠に水の泡と消えてしまうからである。
レースの結果はさきほど述べたように、ルビアの率いるUA1グループが先にウィークボソンを発見、UA2の方は、その正しさを後から確認する役回りに甘んじることに終わったわけであるが、その間の激しい鍔迫《つばぜ》り合いの様子は、アメリカのジャーナリストがまとめたドキュメント『ノーベル賞を獲った男』(G・トーブス、朝日新聞社)にくわしく綴《つづ》られている。
その中に、中国系アメリカ人サミュエル・ティン(「J/Ψ《ジエイ・プサイ》粒子の発見」で一九七六年ノーベル物理学賞受賞)の次のような印象的な言葉が引用されている。
「物理にはナンバー2は存在しない。UA2が何をしたか誰がおぼえているだろうか? 誰も記憶にはとどめないだろう」。
この言葉を、本章の初めに引用した映画「オスカー」の台詞《せりふ》と重ね合わせてみると、興味深い。映画と物理学、アカデミー賞とノーベル賞の違いはあるものの、両者には相通ずるものがあることに気がつく。歴史に残るのは、受賞者(ナンバー1)だけであり、単なる候補者(ナンバー2)は人々の記憶から消えてしまうという非情な現実が、この短い言葉の中に凝縮《ぎようしゆく》されている。
6 高温超伝導フィーバー
さて、ノーベル賞がらみで世間の耳目を集めた話題といえば、数年前に引き起こされた高温超伝導騒ぎが、いまも記憶に新しい。こちらは、科学の専門誌だけでなく新聞、TV、はては週刊誌にまで、連日のように、報じられるほどのフィーバーぶりであった。
ウィークボソンをめぐる競争の場合は、ノーベル賞を標的にしたとはいっても、巨大加速器という特別な装置を必要とする研究で、たとえその気になったところで、誰もが気軽に参加できるという代物《しろもの》ではなかった。これと対照的に、高温超伝導の方は、どこの実験室にでもあるような道具で手軽に研究できることも手伝って、世界中の実に多くの科学者が、この問題にいっとき熱中した。
言葉は悪いが、その様は、一攫千金《いつかくせんきん》を夢見る“ゴールド・ラッシュ”の狂奔《きようほん》ぶりを思わせるようでもあった。
7 臨界温度の記録更新
ところで、超伝導という不思議な現象は、一九一一年オランダのカマリング・オンネスによって発見された。そもそものきっかけは、その三年前、オンネスがヘリウムの液化に成功し、極低温での物質の性質を調べることが可能になったことにさかのぼる。
オンネスは、液体ヘリウムを使って金属を冷却し、温度の低下とともに金属の電気抵抗がどのように変化するかを測定してみた。すると、四・二K(約マイナス二六九℃)まで下ったとき、水銀の電気抵抗が突然消失してしまったのである。この温度に保った水銀のループに一度電流を流すと、電流はいつまでも流れ続けていた。
オンネスは、これら一連の低温物理の研究が認められ、一九一三年にノーベル賞を受賞したが、超伝導現象のメカニズムが理論的に解明されるのは、半世紀後の一九五七年になってからであった。
不思議な現象の謎解きに成功したのは、アメリカのバーディーン、クーパー、シュリーファーの三人で、その理論は彼らの頭文字をとり、「BCS理論」と呼ばれている(三人は一九七二年にそろってノーベル賞を受賞した)。
さて、電気抵抗が0になるのは大変都合のよい話であるが、そのためには、金属を常に極低温に保たねばならないという不便さがある。そこで、なんとか少しでも高い温度で超伝導を起こしてくれる物質はないものかと、物理学者は長年にわたって研究をつづけてきた。
しかし、そう虫のよい話はなかなかないもので、つい最近まで、臨界温度(物質が超伝導性を示す温度の上限)の最高温度は、一九七三年に発見されたニオブとゲルマニウムの合金の二三・二Kであった。つまり、オンネスが超伝導を発見して以来、六二年間で臨界温度の上昇は一九K、一年当たりではわずかに〇・三Kしか上っていなかったわけである。
ところが、一九八六年の春、IBMチューリッヒ研究所のミュラーとベドノルツが、三〇K付近で超伝導を示す金属酸化物を発見、一三年ぶりに臨界温度は急上昇をとげた。
これを皮切りに、従来よりも高い温度で超伝導を起こす新物質が、各国の研究者から次々と報告されるようになった。ちょうどオリンピックを間近に控えた水泳や陸上競技のように、臨界温度の世界新記録は次々と塗り変えられ、一九八七年の春には、一〇〇Kに近づく勢いをみせた。まさに、一日を争う激しい研究開発レースが繰り広げられるようになったのである。
このような過当競争ぶりは、一九八七年三月一八日、ニューヨーク・ヒルトンホテルで開かれたアメリカ物理学会の超伝導物質シンポジウムにも端的に現われた。会場には三〇〇〇名を超す参加者がつめかけ、新しい物質の報告は休みなく翌日の明け方までつづけられるほどであった。「ニューヨーク・タイムズ」はこのありさまを、一九六九年に熱狂的な騒ぎの中で行われたロックの音楽祭をもじり、“物理学者のウッドストック”と形容したほどである。
8 三つ目の指定席
“ウッドストック”が催されるほどの活況を呈すると、話題は自然とノーベル賞のことに集中してくる。
さきほど触れたように、一九八六年まで、臨界温度の上昇率は一年当たりわずかに〇・三K、この割合で推移すれば、一〇〇Kで超伝導を実現するのは、いまから二〇〇〜三〇〇年先ということになる。
それが、突如《とつじよ》、BCS理論の常識を破って、いっきに高温超伝導が実現したのであるから、これはもう、まさしくノーベル賞級の研究であることは、衆目の一致するところであった。そうなると、関心は、いつ、誰がこのテーマでノーベル賞を獲得するのかということになる。
もちろん、誰がといっても、突破口を開いたミュラーとベドノルツの二人が受賞することはまず間違いないので、問題は三人目に選ばれるのは誰かということになる(ノーベル賞は、毎年一部門三人までという制限があるので)。
そこで、残された三つ目の指定席をめざし激しい競争が展開されたわけであるが、席に座れる条件は、ほぼ二つに絞られていた。それは、臨界温度の大幅な上昇を実現することか(極めて楽観的に考えると、図の急激な臨界温度の上昇ぶりを単純に延長すれば、室温で超伝導を起こす物質の開発も夢ではないことになる)、あるいは、BCS理論に代わる高温超伝導の新しい理論の確立である。
ところが、ノーベル賞委員会は、思いのほか早く結論を下した。結局、世界中にまき起こった大騒ぎの先鞭《せんべん》をつけたミュラーとベドノルツの二人だけに、一九八七年、ノーベル物理学賞が贈られたのである(論文の発表から受賞まで、わずか一年というスピードぶりであった)。
ノーベル賞の選考に論評を加えることは、僣越《せんえつ》かもしれないが、これはきわめて適切な判断であったように思える(三つ目の指定席を狙っていた人には、あてがはずれたかもしれないが)。
というのも、仮に臨界温度がミュラーとベドノルツの見つけた三〇Kを何倍も上まわる新物質が開発されたとしても、それはしょせん、彼ら二人が敷いたレールの延長線上にのった研究成果にすぎないからである。重要なことは、誰も気がつかなかったきっかけを初めにつくることであり、その後、温度がどれほど上ったかという競争は、二義的な意味しかもたない。少なくとも、ノーベル賞には値しないと判断されたのであろう(ここでも、物理にナンバー2は存在しないというティンの言葉を思い出す)。
また、理論的な解明も百家争鳴《ひやつかそうめい》の状態にあり、BCS理論に代わる新しい謎解きは、すぐには期待できそうもなかった。
というわけで、ノーベル賞の一件は、先駆者二人の受賞ということで、早々とけりがつけられた。
ノーベル賞にけりがついたところで、それと呼応するかのように、ひとつ面白い現象が起きた。それは、あれほど大騒ぎをし、一日を争うようにして演じられていた臨界温度の上昇競争が、いつの間にか鎮静化してしまったのである。
だからと言って、ノーベル賞を手にするチャンスが消えてしまったために、科学者の研究に対する熱意も消えてしまったなどと書くつもりはない。たまたま、時期を同じくして、当面考え得る臨界温度の上限に到達してしまったということなのであろう。
それこそ、一年足らずの間におびただしい試行錯誤が繰り返され、さまざまな材料を組み合せた新物質づくりが次々と行われたわけであるから、さしあたって打つ手は出つくしたとしても不思議はない。
しかし、ノーベル賞の決定は、最高温度の記録更新だけに目の色を変えていた異常な過熱状態から、少し落ち着いて、高温超伝導のメカニズムを検討し、実用化に向けた研究開発に取り組もうという、まともな状態へ移り変わる、ひとつのきっかけとなったように思える。
大騒ぎの突然の鎮静化は、世界の物理学界から何か憑《つ》き物が落ちたような印象すら受けるが、これもノーベル賞の偉大な影響力の一面をあらわしているのかもしれない。
9 ノーベル賞効果
いままで、いろいろな角度から先取権と科学研究のかかわりを見てきたが、ノーベル賞という絶大な権威をもつ褒賞《ほうしよう》制度が確立されると、ここでまた、この問題に新しい視点がつけ加えられることに気がつく。
それは、ノーベル賞の存在が、ちょうど火に油を注いだように、先取権争いをいっそうエスカレートさせていることである。いま紹介したウィークボソンの発見や高温超伝導の研究も、そういう“ノーべル賞効果”の一例にすぎない。初期の授賞対象となった一部の研究を別にすれば、ノーベル賞の歩みは、科学の最前線で繰り広げられるデッドヒートの歴史でもあると言える。
“ノーべル賞効果”によって競争が激化されれば、必然的に科学の発展がうながされることにつながるが、同時にそこから、科学者の悲喜こもごもの人間模様が織り成されることにもなる。それは、第一発見者になりたいという科学者本来の野心と、威信の高い褒賞に対する人間の欲望が複雑にからみ合った結果なのであろう。
そもそも、自然の深遠な謎に挑む科学者の姿は、それだけで十分ドラマティックなものと言える。そして科学研究には、本質的に競争としての側面がそなわっている。そうなると、ノーベル賞の存在は、いやが上にも、科学者たちが演じる人間ドラマに色濃い脚色をほどこすことになる。
そういえば、アメリカの科学ジャーナリスト、N・ウェイドが、激しい闘いの末、科学界最高の栄誉を射止めた勝利者の胸中を、次のような象徴的な言葉でつづっている。
「『帝王になってペルセポリスの市中に勝利の凱旋《がいせん》をすること』。科学者にとっての同等の栄誉の瞬間は、式服に身をかためてストックホルム音楽堂の舞台上に立ち、ノーベル基金によってつくられた金メダルとスウェーデン国王より授けられる賞状をにぎりしめることである」(『ノーベル賞の決闘』岩波現代選書)。
このとき、勝利の凱旋を許されるのは、言うまでもなく最初の発見者だけである。
10 先取権への執念
さて、近代科学の誕生期から筆を起こした本書も、いつの間にか、現代科学の最前線を紹介するところまで来てしまった。
振り返って、ガリレオやニュートンが活躍した一七世紀とノーベル賞の話題をとりあげた今日を比較してみると、一口に同じ科学とはいっても、その有様には文字どおり隔世《かくせい》の感がある。その間の著しい進歩、研究対象の移り変わり、領域の拡大は、科学という営みに大きな変革をもたらした。
また、ガリレオが手製の小さな望遠鏡で夜空に輝く星をながめたり、ニュートンが田舎で一人静かに思索にふけるという光景には、どこか牧歌的な雰囲気が漂うが、ルビアが一〇〇名を超える物理学者を指揮して、CERN《セ ル ン》の巨大加速器を動かすさまは、まったく異質なイメージを抱かせる。
しかし、そういう表層的な違いはあっても、科学者が先取権に敏感であることは、ガリレオの時代から今日まで四〇〇年近い時間を超えて、常に不変である。
太陽黒点の発見をめぐり、ガリレオが執拗《しつよう》にシャイナー神父を攻撃した姿と、ルビアが同じCERNの実験グループを出し抜いてまでも、ウィークボソン検出の一番のりを果たそうとしたギラギラするような目つきからは――二人が同じイタリア人であるという共通点を超えて――、科学者すべてに普遍的に当てはまる先取権への強い執着を見てとることができる。
6章で紹介したキャヴェンディッシュのように、研究成果の発表には無関心で、純粋に知的好奇心だけに生きた学問の“求道僧”を彷彿《ほうふつ》とさせる人物もいるにはいたが――まあ、何事にも例外はあるので――、長い歴史を通して見れば、先取権への執着が、人間を難しい科学の研究へと駆り立てる原動力となっていたことがわかる。
ここであらためて、「なぜ科学者は、それほどまでに先取権に心を奪われるのか?」と問われると、簡潔、明解な説明をあたえることはなかなか難しいが、ともかく、根源的に、科学は人間にそのような抑えがたい内なる衝動を湧《わ》き立たせる魅力をもっているのである。いままで見てきたように、歴史に名を残した天才たちの振る舞いが、それを明白に物語っている。
科学が今後どのように発展をとげ、従来にもまして大きな変貌をみせたとしても、人間(科学者)の心理に深くかかわるこうした本質は、将来にわたって変わることはないように思われる。
そして、科学者たちが繰り広げる熾烈《しれつ》な競争は、これからも、素晴しい発見と同時に、興味つきない人間ドラマをつくり出していくことであろう。
参考図書
ご覧いただいたように、本書は扱った時代も領域もかなり広いものになってしまった。そこで、それぞれの話題について、さらにくわしく知りたいと思われる方のために、テーマごとに、関連する書物をあげておこうと思う。
○科学史に関する本
『ダンネマン大自然科学史』安田徳太郎訳・編 三省堂
古代から二〇世紀初頭までの科学の広い分野を記述した通史。一二巻と別巻一冊からなる大著である。
『西洋科学史』シュテーリヒ著 菅井準一他訳 現代教養文庫(社会思想社)
もう少し手軽なものをという方には、文庫に収められたこの本をおすすめする。こちらも全部で五巻からなるので、必ずしも手軽とはいい難いが、関心のある巻を独立して読むことも可能である。
『近代科学の誕生』上・下 バターフィールド著 渡辺正雄訳 講談社学術文庫
一七世紀に起きた科学革命を論じた名著。コペルニクス、ガリレオ、ケプラー、ニュートンなどの業績をたどることができる。
『物語数学史』小堀憲著 新潮選書
古代ギリシアから現代の数学まで、人物を中心に書名どおり物語風に構成されている。
『コンサイス科学年表』湯浅光朝編著 三省堂
世界史、日本史の歩みの中で、科学がどのように発展したかが読みとれる工夫がなされ、ながめていて楽しい年表。
○科学者に関する本
『太陽よ、汝は動かず――コペルニクスの世界――』アーミティジ著 奥住喜重訳 岩波新書
『ガリレオ・ガリレイ』青木靖三著 岩波新書
『ニュートン』島尾永康著 岩波新書
三冊とも科学上の業績を記述するだけでなく、彼ら三人の生涯、人物像を興味深く描いている。
『科学史入門』玉蟲文一編 江沢洋他著 培風館
ガリレオ、ニュートン、ラヴォアジェ、ドルトン、ダーウィン、パストゥール、アインシュタインの七人について、各分野の専門家が筆を執っている。それぞれの発見がなされた時代背景もわかりやすく記述されている。
『科学技術人名事典』アシモフ著 皆川義雄訳 共立出版
紀元前三〇〇〇年のエジプトの哲学者から現代の科学者まで一〇〇〇名以上の人物が載っている。SFの大御所アシモフの手になるだけあって、各項目がひとつひとつ楽しめるミニ解説になっている。
『マリー・キュリー』ジルー著 山口昌子訳 新潮社
キュリー夫人の伝記はたくさん出版されているが、ここではこの一冊をあげておく。著者はフランスの女性ジャーナリスト。それだけに、今世紀の初め、女性であるが故に受けねばならなかったキュリー夫人の労苦が、痛いように伝わってくる。
○科学の古典
『天体の回転について』コペルニクス著 矢島祐利訳 岩波文庫
『星界の報告』ガリレオ著 山田慶児他訳 岩波文庫
「古典」というと――とりわけ科学物は――おうおうにして、敬遠されがちであるが、右記の二冊は、かけ値なく面白い。後者には、ガリレオが描いた月面や太陽黒点のスケッチが載っている。
『原典による自然科学の歩み』玉蟲文一他編著 講談社
宇宙、物質、生命のテーマごとに、古代から現代までの名著三〇点の解説と一部の翻訳が収録されている。
○先陣争いを描いた本
『二重らせん』ワトソン著 江上不二夫他訳 講談社文庫
『ロザリンド・フランクリンとDNA』セイヤー著 深町真理子訳 草思社
前者は、遺伝子DNAの構造解明でノーベル医学生理学賞(一九六二年)を受けたワトソンが、発見にいたるまでの研究生活を赤裸々に綴ったロングセラー。本人の手になるだけに、科学者の先取権に対する執念が、びりびりと伝わってくる。
後者は、ワトソンと同じテーマに挑みながら、道半ばで夭逝《ようせい》した女性科学者ロザリンド・フランクリンについて書かれた本。著者の女性作家セイヤーはフランクリンの友人で、この本はフランクリンへの鎮魂歌となっている。両者を併せて読むと興味深い。
『ノーベル賞の決闘』ウェイド著 丸山工作他訳 岩波現代選書
『ノーベル賞を獲った男』トーブス著 高橋真理子他訳 朝日新聞社
どちらも科学ジャーナリストの筆によるもので、綿密な取材をもとに、先取権を争う研究の舞台裏がみごとに活写されている。
○二〇世紀の科学に関する本
『X線からクォークまで』セグレ著 久保亮五他訳 みすず書房
書名どおり一九世紀末のX線の発見から筆を起こした二〇世紀物理学の通史。著者はノーベル賞(一九五九年、反陽子の発見)を受賞した物理学者でもあり、自らの研究体験にもとづいて、今世紀の歩みが描かれている。
『ノーベル賞で語る二〇世紀物理学』小山慶太著 講談社ブルーバックス
一九〇一年から始まったノーベル賞を軸にして、二〇世紀物理学の全体像が平易に記述されている。発見の内容だけでなく、それにまつわる科学者の人間ドラマも描かれている。
『超伝導』中嶋貞雄著 岩波新書
数年前に起きた高温超伝導フィーバーを書き出しに、超伝導の歴史と展望をまとめた本。
『10歳からのクォーク入門』都筑卓司著 講談社ブルーバックス
一九世紀末の電子の発見から今日の素粒子研究の最前線までが、二〇世紀に活躍した天才たちの姿を通して解説されている。
●小山慶太(こやま・けいた)
一九四八年、神奈川県生まれ。早稲田大学理工学部応用物理学科卒業。現在、早稲田大学社会科学部教授。理学博士。著書は、『科学歳時記』『ニュートンの秘密の箱』『書斎のワンダーランド』(以上、丸善)、『ノーベル賞で語る20世紀物理学』『光で語る現代物理学』(以上、ブルーバックス)、『漱石が見た物理学』『道楽科学者列伝』(以上、中央公論新社)『肖像画の中の科学者』(文藝春秋)、『知的熟年ライフの作り方』(講談社現代新書)など多数。
本書は、一九九〇年一月、講談社ブルーバックスB‐808として刊行されました。
科学者《かがくしや》はなぜ一番《いちばん》のりをめざすか
情熱、栄誉、失意の人間ドラマ
講談社電子文庫版PC
小山慶太《こやまけいた》 著
Keita Koyama 1990
二〇〇二年一二月一三日発行(デコ)
発行者 野間省伸
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二‐一二‐二一
〒112-8001
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