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カメラマンたちの昭和史(3)
小堺昭三
目 次
中村立行「無の光景から出発する人」
岩宮武二「写真界の坂田三吉」
緑川洋一「カメラを持った良寛さん」
島田謹介「風景のお遍路さん」
小久保善吉「五割に運を賭けて」
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中村立行《なかむらりっこう》「無の光景から出発する人」
(一)
最近、中村立行さんは『路傍』という個展をひらき、観るものをして唖然とさせた。そこらをさまよい歩いて二四ミリのレンズ一本で撮ったものばかりでその名のとおり、路傍の雨あがりの水たまり、忘れられたサンダルのかたっぽ、ベンチわきの屑かごの中、古びたアスファルト道路の亀裂、風にそよぐ窓のカーテン、乗りすてた自転車、コンクリートの壁のしみ……そんな庶民の片隅の生活とか生命の漂泊感をただよわせていて、彼自身はこれを「モク拾いの写真術」と称している。人生の真実を拾っているのである。
カメラを肩にそこいらをほっつき、「なにかを感じたものは何でも写す。良いのか、無駄なのか、わからないで直感的に写すのでまったく自信がないから、何枚も写さず、行きずりにただ一枚写す」そして「写っている雑多な拾いものを、廃品回収屋のようにしてよりわけ、目ぼしいものを選んで引伸すことになるが、四つ切の印画紙に画像が完成してからもういちど発見の楽しさを味わう」と、彼はその個展の会場でくばったパンフレットに書いている。
たしかに中村立行は真実を追っている。毎日、自宅兼スタジオから出て、そこらの路地から路地を犬のように嗅ぎまわり何かを捜しまわっている。運がよかったり感受性が冴えているときにはいろいろ拾えるが、やたらに歩いて疲れるだけの日も多い。素材に脈絡がないので、いつどこで何が拾えるかわからない。たくさん落ちているはずなのに、拾えないのは自分の不注意のせいだと自分を叱りつけ、老眼乱視、白内障まで患っている身なのに必死にあさりまわる。これが一流写真家の後姿なのか、と唖然とさせられるほどだ。
この『路傍』については田中雅夫が、
「ひと口にいうと〈地べたをみつめる人生〉みたいな庶民の街の哀しさがでており、この作家の心の奥ふかくに存在する漂泊の思いや、時代と人間に対する不安感がこうした創造へかりたてたという感じがあり、心を動かされるものがあった」と「日本カメラ」(昭和四十九年二月号)に書いている。渡辺勉も、
「〈流行作家〉として花々しい活躍をしてきた写真家たちのなかには、いつのまにか写真家というよりかタレントとして有名な人たちも少なくない」そのなかにあって中村立行だけは「すでに還暦を迎えようとするこの写真家が、これほど若々しく新鮮な変貌をみせたというのは(中略)過去の名声に驕《おご》ることなく、またボス的地位に立つこともなく、一介の庶民としてこよなく写真を愛しつづけているからだ」と絶讃する。
また、『路傍』の写真展を見た二十歳の青年は、
「この写真展での作風の大転換には眼を疑うほどです。その裏でのご努力を考えるにつけ頭がさがります。作風の硬直化から努力することを忘れ、作品の荒廃をきたしている者の多い今日、先生の存在は心づよいかぎりです」
と中村立行にハガキを送っている。
『路傍』が「若々しく新鮮な変貌をみせた」かどうかはともかく、観るものの驚歎はこの「作風の大転換には眼を疑うほど」のものであったのだ。戦後からずーっと彼の作品に親しんできた人びとはなおさら、
「これが、あの、中村立行の作品か……」
「どうして中村がこんなふうに……」
変身してしまったかに首をかしげたのだ。
中村立行といえばここに書くまでもなく、戦後のヌード写真のパイオニアである。「戦後のヌードは中村からはじまった」といっても過言ではなく、ネイキッド(剥《は》がす、脱がす)のどぎついものが氾濫したなかで彼のみは美の秩序を堅持した。ピンアップといわれる作品は、観賞者が鼻の下をながくしてモデルそのものの裸の魅力をたのしめばよいのであって、それを撮った写真家などどうでもよい。中村はそれを嫌って、写真家の表現が主体となっているものでモデル個人はどうでもよい、そういう女体のエロティシズムを徹底して排しつづける作品のみをめざしてきた。
その作品のひとつははやくも、昭和二十五年にはヌードの最高傑作として「アルスカメラ年鑑」に収録され、翌二十六年には世界最高の写真年鑑誌である「USカメラ年鑑」に日本人作家としてはじめて掲載される栄誉を得た。
彼は造形美を究めるあまり、超接写レンズで乳首や、足の裏のしわや、腋の下の肉のくびれはいうにおよばず、女体の微細な各部分を「肛門だけはウンコのイメージがあるので敬遠した」が、そのほかはことごとく作品にしたこともある。女陰を撮るときには「この醜悪な物体をいかに表現しようかと、ライトの熱気のなかで汗をタラタラ流し」たし、現像したそのネガを四つ切に引伸すと実物の数倍もの大きさになり、「そこには醜悪を超越した、すさまじいばかりの生命感があふれている美しさを見出した」のであった。
そういう中村立行がなぜ、田中雅夫のいう「地べたをみつめる人生」をたどり、路地から袋小路へとさまよう作家に変身してしまったのか。
(二)
中村立行は珍しい日に生まれている。
大正元年七月三十一日、前日は明治四十五年七月三十日だった。つまり、七月三十日に明治天皇が亡くなり、大正時代になったそのしょっぱなの日に生まれているのだ。「だから同級生でも明治生まれがたくさんいます。しかし私はどうしても明治生まれとは言えない。大正生まれなんだと思いこんでいるからです」と中村はいう。それだけ若く見せたいなんてケチな考えからではない。彼は何事においても正確であることを好む。
彼の家庭も珍しい。生家は神戸市平野神田町にあった。父親の喜市は新聞販売店を経営していた。小学四年生で郷里の淡路島を飛びだし、大阪で砂糖問屋のデッチ小僧をふりだしに立身出世していった男だった。
母親の「しげの」はやはり淡路島の出で、従順そのものだった。だから喜市は、店員だった若い女を妾にして、妻妾をひとつ屋根の下に住まわせた。本宅と妾宅とは壁で仕切られていたが、台所はひとつだった。
しげのには六男二女ができた。中村立行は末っ子で、妾のことも実の姉だと思いこみ、壁むこうの妾宅にも平気で遊びにいった。
しげのはよく、横暴な夫に泣かされていた。妾にも二人の子ができた。泣いている母親のひざにのっかって中村は、なにが悲しくてかあさんは泣いとるのやろとふしぎがりながらも、襟のあいだがら手をいれてその母親の、ぬくみのある乳房をいじっていた。
しかし、暗い家庭というイメージはなかった。なにしろ妻妾とその子たちと女中がいて計十五人だから、いつもにぎやかだった。長男と長女はバイオリンを弾いたり油絵を描いたりしていた。四男はハーモニカの名人であった。
中村は県立神戸三中に進学した。二年先輩に映画評論家になる淀川長治と彫刻家で名をなす柳原義達がいた。一級上にはこれまた異色の花森安治がいた。中村は長男の絵具を失敬して油絵を描きはじめ、四年生のときの作品である『神戸の外人町の風景』が兵庫県展に入選した。教師が感心してしきりに美術学校へ行けとすすめた。中村自身も数学や化学が嫌いで画家になろうと思い、日曜日には大阪の信濃橋研究所という画塾へかよいデッサンを学んだ。小出楢重、鍋井克之らがその指導に当っていた。
東京上野の美術学校にはいったのは、一年浪人してのちの昭和六年春、満州事変がおこった年である。
中学時代も浪人中もデッサンの勉強はみっちりやったし、その点ではだれにも負けなかった。油絵科の南薫造教室で香月泰男と机をならべた。しかし、と中村はいう。
「地方中学の天才も東京にくると、まったくだめだった。才能のあるやつが掃いて捨てるほどいたし、多士済々だったので私は絵を描くのがはずかしくなった。しかも、自分はハーモニカしか吹けないのに、東京の連中は高級なチェロを弾いていた。自分は立川文庫がおもしろいと思っていたのに、かれらはツルゲーネフとかトルストイとかの外国文学を読破していた。服装も私は筒袖にハカマなのにかれらは学生服……というふうでことごとく差があり、私はおたおたするばかりでした」
しかし、そのころの美術界は写実主義を否定し、これまでの自然主義の行き方に対してセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンなどの、個性の尊重と主観表現の強調が新しいとされていた。なかでもセザンヌの「自然は円筒、円錐、球によって構成されている」とする非自然主義の理論と方法をありがたがり、美意識はそうでなければならぬとばかり、大家も若手もセザンヌでなければ夜も日もあけぬというふうであった。
地方中学生の中村が学んできたものはドイツ官学派的な写実主義の手堅い手法だった。美意識もまたそうであった。ありのままを正確に、ありのままの色彩で描くことしかできない彼の絵は、
「それは新しい絵画じゃないよ、風呂屋のペンキ絵だね。きみはペンキ屋になるのか」
と酷評されて彼は混乱した。
つまり、中村の眼にはどうしても自然はそのままの自然であり、円筒や円錐ではなかった。結局、美術学校に五年間籍をおいたものの、毎日を「酒と女でパーにした」にすぎなかった。彼は自分のことを「衒《てら》いが大嫌い。精神的にも生活上でもオシャレは嫌い。自分以上のものを見せたくない、バカ正直で野暮で不器用な男です」と苦笑している。
(三)
画家としてはメシが食えなかったので昭和十二年春、東京都品川区立宮前小学校の図画教師になった。中村は二十五歳、初任給が四十五円。
「下手な絵を描いて苦しんでいるよりは、教員でいるほうがすっきりする」と思い絵具箱は押入にしまいこみ、いっさい自分の絵は描かなかった。
それからの十年、教職に没頭した。
この十年間は日本が、日中戦争から太平洋戦争へと地獄の道をあゆみ、ついには焼野原となってしまう時代である。
悠長に絵を描いていられる時代でもなかった。とはいうものの、やっぱり絵筆をすてた手がさびしく、日曜日などはついスケッチブックをひろげていた。
それでも油絵はさすがに描く気になれず、水彩画に仕上げたりした。鬱勃《うつぼつ》たるものが彼のなかにはあった。それをぶっつけるかのように裸婦を描いてみたり、ついには写実の腕前を発揮して男女の秘戯――いわゆる「あぶな絵」を描いてこっそり愉しんだりした。描いては破り、破っては描くというふうで、だれにも観賞させたことはなかった。
画家になれなかった焦燥感や敗北感をまぎらわすには、ほかには酒しかなかった。彼は毎晩のように一升酒をあおり、泥のごとく眠った。学校から解放されたあとは、春画を描くか酒を飲むかでまぎらわすしかない悲惨な青春だった。
彼がよくかよった渋谷の盛り場に「ワンカップ」という縄のれんの居酒屋があった。その店に山梨県から手伝いにきている、守恵という小柄な女性がいた。中村よりは四つ年上で、いちど結婚に失敗したが明るく快活でやさしい女性だった。彼女は中村が飲みにゆくと、こっそり酒代をまけてくれたりした。
荒廃していた中村は、その守恵に母親のしげのの面影をみた。従順でいつも悲しげに目を泣きはらしていた母親の、ひざにのっかって乳首をまさぐった少年のころの想い出がよみがえってきたりした。教師になって四年目の、昭和十五年のことである。
守恵は「ワンカップ」の二階に住み込みで暮していたので、店がカンバンになってから二階のその部屋が、中村との密会の場所に利用された。
そのころ、酔客が五円の飲み代のカタに小西六のパーレットを一台おいていった。新品ならば十五、六円はするものだった。
ところが、その男はそれっきりカメラをとりにこなかった。戦争はますますはげしくなってきていたし、カメラをいじっている時代でもなくなりつつあったので、その男はカメラをとり返すより五円の飲み代を払うほうが惜しくなったのだろう。
「あなたにあげるわ」
いきなり守恵が、そのパーレットを中村の前にさし出した。中村はカメラなどいじったことはなかった。欲しいとは思わなかったが、趣味にいじってみてもいいなあという気はした。守恵と愛し合うようになってからは春画こそ描かなくなったが、何かやってみたい気持はあったのだ。
「あげるといったって……これは飲み代のカタなんだろ。タダでもらうというわけにはいかんよ」
「いいわよ、五円はあたしのお給料から差っ引いてもらうもの」
彼女はどうしてもプレゼントしたがったが、彼はちゃんと五円を支払った。この五円の中古カメラが彼の人生を変えることになるのだが、そんな「運命のカメラ」になろうとは、二人は知る由もなかった。
中村はそれを学校にさげていって、休み時間に児童のスナップ写真を撮ったり、花鳥風月ふうなものを絵画的なアングルで写してみたりした。おもしろくなってきて彼はきゅうに凝《こ》りはじめた。
「写実派の絵を描いてきた私にとって、描くより写すほうが手っとり早く物の形象がとらえられる。もうひとつには、丹念に描くデッサンよりもっと微妙に美しいトーンが得られる。これがうれしくなったからです」と中村はいう。
彼は撮影するだけではなく、間借の押入を暗室にして現像から焼付までやるようになった。自分の視覚でとらえたものを現像してみて再発見する。さらに印画紙に焼付けてみてもういちど発見の楽しみを味わった。
世間を見る彼の眼は変わってきた。太陽がさんさんとふる好日よりも曇りや雨天のほうが情感が深く、時刻も人びとが冷静に働く昼間よりも、夕暮のほうが物にも人間にも味わいがにじみ出ている。そんな当然なことが、当然以上に心にやきついてくるようになったのである。
そんなわけで中村の写真術はまったく、素人の独学であった。写真雑誌を読むだけではあきたりず、古本屋をまわって文献なども収集するようになった。そして彼の、写真における造形美の研究がはじまった。
しかし、戦局が切迫してきた。
昭和十八年暮になると日本本土が空襲をうけるようになり、学童疎開が開始された。中村は守恵と結婚したが、すぐに家も家財道具も捨てなければならなかった。リュックサックをかつぎ両手に持てるだけのものをさげ、三百四十名の学童を引率して静岡県浜松の奥山村の方広寺という禅寺にむかった。彼のリュックサックのなかからは木製の大きな引伸し機がはみだしていて、両手のカバンには四台のカメラと現像タンクと薬品が詰まっていた。守恵もまた着のみ着のままで寮母として集団疎開についてきた。
昭和十九年になるとその山村でも危険だというので、青森県大鰐温泉へ二百四十名を移動させて再疎開した。食べものに飢えたつらい疎開生活だったが、彼には写真が唯一の救いであった。学童の世話の合間に写真を撮り、それを片隅の暗室で現像した。
やがて疎開先で終戦の報をきいたのだった。
(四)
東京へもどってみると宮前小学校も灰になっていた。仮校舎での授業がはじまった。中村と守恵は、焼け残った歯科医院の二階の六畳を借りて再出発した。中村の給料だけではインフレについてゆけず、守恵は古流と安達式挿花の免許をもっていたので、近所の子女に活け花を教えた。
中村はアルバイトに英霊の複写をやった。息子や夫が戦死したが、飾る遺影がないという遺族たちの、その息子や夫の小さな顔写真を複写拡大し、ぼけた部分は絵具で修整してやって額装できるようにするのである。また、進駐軍兵士の現像焼付で忙しいカメラ店のDPの下請けをしたり、教師になりたてのころ鬱勃として描いた春画をもういちど「立光」の雅号で描き、それもカネにしなければならなかった。
昭和二十二年になるとアルス「カメラ」が創刊された。中村はその月例コンテストに、学校の小使さんをモデルにした作品を送った。これが入選し、二月号に選者の真継不二夫が、「一歩あやまれば記念写真におちいりやすい被写体を撮りながらも、芸術の境地にまで近づけている」と選評していた。つづいて四月号にも、宮前小学校の校庭で学童を撮っておいたのが入選した。彼ははじめて光明を見いだした。
この年には伝統ある雑誌も続々と復刊、いっぽうではカストリ雑誌といわれる煽情的な娯楽雑誌も氾濫した。その口絵写真にはうす汚ないヌードが載りはじめた。日本最初のヌードショーが新宿帝都座五階劇場で開演された。
この夏、中村は学童を引率して三浦半島の金沢八景へ海水浴にいった。同道した若い女教師はかつては彼の教え子で、木綿の水着姿をとおして見る二十歳の彼女の裸体がすばらしかった。
とたんに彼女のヌードを撮りたくなった。それというのも、氾濫するカストリ雑誌の口絵写真のそれを彼は「こんなものはヌードじゃない、造形美などまるでない下品なエロだ」と内心憤慨していたからである。
海水浴からの帰り、そんな話をして彼女にこわごわ、
「きみのヌードを撮らせてもらえないか」
生汗が噴きだす思いで頼んでみた。
彼女は一瞬、頬を赤らめたが、
「恩師の中村先生のお役に立てるのなら」
と、意外にあっさり承知してくれた。
彼は六畳の間借へつれてきて、裸になった彼女をミシン用の椅子にかけさせた。右手で恥毛をかくし、両脚はまっすぐ投げだす感じで両足首をかるく重ねさせた。背景にはカーテンがなかったので毛布を張った。彼女の裸形は中村が理想とする「乳房がお椀型の、すこし小肥りした肉づき」であった。
彼は二〇〇Wの写真電球を、彼女の左側面から当てた。はじめての、それも素人の女教師のヌードを撮るのだから、彼の手はふるえ、のどが涸いて仕方なかった。
四つ切にしたものを妻の守恵に見せると、
「まあ! きれいねえ。女の裸ってこんなに美しいものなの」
不潔とかいやらしいとか言われると覚悟していた中村は、女が女の裸をほめるぐらいだから「これならいける」という自信がついてきた。その頃はまだ、女が女自身の体の美醜などには殆ど関心を持たなかった時代だった。
妻がすすんで素材を捜してきてくれるようになった。銭湯へいったときに裸のきれいな娘がいると、芸術写真を撮るのだからと言って口説き、つれてきてくれた。活け花を習いにくる弟子のなかからも選んでくれた。いわば夫婦合作であった。
当時としては、脱いでくれるだけでもありがたかった。モデル料など要求しなかったし、自信のある娘は脱ぎ、それがないのは絶対に脱ぎたがらぬというふうだった。
しかし、自信があるからといって必ずそのヌードがすばらしいとは限らない。そうかといって、いったん脱いでもらったのに「どうもあなたの裸では撮る意欲がわかないから、やめにします」なんて失礼なことは言えたものではない。
最初の教え子の女教師にしても、裸形はすばらしかったが美貌ではなかった。だから二度目からは顔は撮らないですむポーズにさせたり、ほかの女たちの場合も、すてきな部分だけを強調するようにした。顔がまずければ顔を切り落し、脚が不恰好であればそこを切り捨てた。そして、どこかいいところはないかと捜し、そこだけを写す。乳房がすてきであれば乳房だけを、お尻の線が美しければそこに集中する。
階下の間借の娘も、守恵が口説《くど》くとOKしてくれた。ところがイモねえちゃんで、顔ばかりでなくどこもかしこもまずかった。それでも何とかしなければと思い、中村は彼女の手脚をくねらせたり、うしろ姿のお尻をアップにしたりした。
さらに中村は、引伸しするとき印画紙を傾斜させ、ねじれたポーズとかひどく胴長の女にデフォルメーションしてみた。すると、ちょうどモジリアニが描いたような、あるいはピカソの初期の作品にあるような裸婦ができあがった。
だが、中村のそうした作品が世に認められたのは三年後の昭和二十五年、その一点を当時の写真界の権威であった「アルス写真年鑑」に応募し、最高のヌード作品として推薦されて以来のことだ。これを機に中村は「ヌードを抽象化した新しい作家」として一躍、写真界に躍りでた。
中村は当時をふりかえり苦笑する。
「私の絵もそうだったし、ヌードだってきわめて具象的な造形美を追究したかったんですよ。しかし、モデルがまずかったんでひねくりまわさざるを得なかっただけのことなのに、世の中っておかしなもんですね。新しい抽象だなんて騒いでくれたんですよ」
もっとも、非自然主義の画家たちが「主観表現を強調」したように、中村のヌードにもそうしたものの強調がないわけではない。その証拠に、中村の裸婦は顔を必要としていない。これは何もそのモデルの顔がまずかったというだけではない。
「女体の魅力は主にトルソ(胴体)に集約されると思う。乳房、ウエスト、豊かなヒップというわけだが、乳房の魅力はいまさらいうことはない。これは女が女らしさを見せる代表である。ヒップの魅力も男性の骨ばったものに比べ、結局は〈脂肪の魅力〉といえる。ところが、ウエストだけは脂肪がついていては困る。美学的にいうなら、ウエストが締まっていてこそ、豊かな乳房やヒップの脂肪美が諒解されるのである」
と彼は自著『裸・その審美的追究』(評論新社刊)に書いているし、作品でもトルソを強調する。しかし中村のトルソ愛好は、泣いている母親のひざにのっかって襟のあいだに手を入れて体温のある乳房にまさぐった、母性愛の渇仰である。
作家としてはやはり、彼はあくまでも写実主義者である。だから彼は「私は自然主義者だから、この世にあるものはすべてフィルムに定着させたい」願望がつよく、ついには女陰や恥毛までを作品化するようになった。そして、それらの生命力を活写したのだ。
そのため中村はワイセツ容疑で警視庁にひっぱられ、作品を押収されたこともある。
それはモデルが足を組んでいるポーズのごく一部をクローズアップしたものだったが、上の足と下の足の色彩がすこし違っていたため刑事に「これは男の上に女がのっかっている」とどなられた。
幸い全身のポーズを写した分もあったので、これはこの部分ですよと説明してやっと納得してもらったが、帰りに刑事から「これからはズロースをはかせて撮ることだな」と慰められて、中村はガッカりした。
(五)
中村がヌードを撮らなくなったのは、刑事に言われてガッカリしたからではない。ネイキッドにセックスが徹底的に加わってきた今日の作家のヌード作品に、ウンザリしてしまったからである。
中村は悶々の日々を送るようになった。
「プロは商売を意識して撮ってきた。これには売れる売れないの経済意識と、うまい写真を撮りたい野心がある」
自分のなかにもあるそれがまず嫌いになり、初心にかえりたい、素直に感ずるものだけにカメラを向けたい気持が噴きだしてきた。
すると、さらに「写真のリアリズムとリアリティ(真実感)とは、紙一重だが歴然と異なる」もどかしさが出てくるし、「新人は別として、いままでの写真家にはリアリティがない。木村伊兵衛と土門拳と植田正治の三人にそれを感じる」と思うまでになっていった。「もう女の裸は絶対に撮らない」と決心してもみた。
中村立行のスタジオはいつしか、アトリエに変わった。カンバスを前に再び絵筆を持つようになった。学童疎開でいっていたころのことを想い出して、写実的なタッチでそれを再現した。冬山の杉木立の風景も描いた。
それらの制作に疲れると、カメラを肩にそこらをぶらついた。ぶらつきながら彼は、
「リアリティがほしい、リアリティだけが欲しい。おれには撮る素材がないのか」
飢えたるもののごとく呟いていた。
世の中ではさまざまな作品が量産されているというのに、自分にはもう何もすることがない。腕をこまねいているだけである。そんな焦燥感もあったが、そのくせ氾濫しているそれら「リアリティのない作品は見たくもない」のだ。
ついに中村は「リアリティ」を発見した。
それが路傍の雨あがりの水たまり、忘れられたサンダルのかたっぽ、ベンチわきの屑かごの中、古いアスファルト道路の亀裂……だったりの、彼のいう「モク拾い」である。
中村は、遠くを見つめる表情で語る。
「テーブルの上にあるゴミを汚ないとは思わず、そこに存在するものを肯定したくなる。歩いててアパートの壁にシミがあるのを見つける。すると涙が出るほどうれしくなるんですよ。枝をひろげた巨木に永遠の美しさを感じたり、コンクリートのあいだに生きている雑草に、まぶしさをおぼえたりするんです。なぜだか、なぜなのか判らぬ。自然に還れというキザなものでなく、仕方なく出てくる生きざまみたいなものに、すごく惹きつけられるんです。リアリティというものが、そこにあるように私は感ずるんですね」
彼は「匂いがプンプンするところまでカメラを近づけ」て女陰を撮ったときみたいに、そのリアリティに必死に迫ろうとしている。
「リアリティを撮らねばならぬ」
「絵画と異って写真には、枯淡な味など通用せぬ。より新鮮な感覚と表現とを求めてゆかねばならぬ」
この二つの「業《ごう》」を背負って中村立行は路地や袋小路やガード下をさまよい、ついに『路傍』に象徴される「真実」を撮った。
だが、こんどはそのあとに何をもとめて撮るのか。『路傍』にはほんとうに、彼が求めたリアリティはあったのか。それを彼はほんとうに「拾う」ことができるだろうか。
中村立行の歩いてきた道には、ヌード作家のレッテルがはられていた。しかしいまの中村には、その翳《かげ》すらない。『路傍』で発見した日常性へのまなざしは、これからは誰も見向きもしないような「無」に近いような存在を、正直な眼で追いつづけることだろう。中村の変貌は自らが勝ちとった変貌である。
栄光のヌード写真家は消滅した。そして誕生した中村立行は、名もない庶民の営みの光景を、自分の足もとを見詰めるような想いで撮りつづける作家として存在しつづけるだろう。(昭和四十九年七月取材)
●以後の主なる写真活動
昭和五十六年写真展「町の灯」。五十八年アサヒカメラに「裏通り」を発表。
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岩宮武二《いわみやたけじ》「写真界の坂田三吉」
――大阪梅田の阪神百貨店で開催された岩宮武二氏の『仏像のイメージ』展を観た。三年がかりでインドをはじめアフガニスタン、ネパール、カンボジアなど十カ国を七回にわたって歴訪。厖大な量の、これまで見る機会が得られなかった仏像・仏跡を撮ってきてくれたのである。
観客は殺到していた。
会場を一巡してわたしは、これだけのものを撮ってくる根性たるやたいへんなものだ、と感心したものの、個々の作品についてはそれほどの感銘は受けなかった。観るものを圧倒する迫力に欠ける。仏像となるとどうしても土門拳の重厚な作品群が思いうかんできてつい、それと比較してしまうからである。
土門作品の仏像は独自の個性で彩られている。まるで土門拳そのものが仏像と化しているかのような生々しいまでの迫力がある。それだけに鮮烈なものとなってわたしの脳裡に焼きついているわけだが、岩宮のには量こそ厖大であるけれども、そうした強烈さが感じられなかったのである。
わたしは、再度まわってみた。すると、初回のときより何かを感じはじめた。ときとして土門作品には自我がありすぎて「疲れ」をおぼえさせるが、岩宮作品にはそれがまったく感じられないのだ。構えて作品の前に立つ必要のない、ある種の安心感みたいなものを与えてくれる。「この人は自分を前におしだすのを照れているのだろうか。それとも撮らなければならぬ仏像が多すぎて、いちいちこだわってはいられなかったのかな」そんなふうに思ったりした。
だんだんにわたしは、画面の「柔らかさ」に好感を抱きはじめた。自己を前におしださず、そこに何千年もの昔からあるさまざまの仏像や壁面を、あるがままにごく自然に撮ってきている岩宮武二の、構えない姿が見えてくるような気がした。
写真にかぎらず独創性のあるものを、人間だれしも「これぞおれの作品」というふうに誇示したがる。が、岩宮はあえて、そうした自我を作品から抹消している一人なのかもしれない。そうも考えてみた。
この会場で当の岩宮武二氏を紹介された。
メガネをかけている彼の風貌や所作をみて反射的に、わたしは「市川崑監督にそっくりだな」と思った。市川崑は動く写真(映画)づくりの名人であり、岩宮は動かないそれの達人ということになるのかな、と呟いた。
市川監督には、駄作だとけなされる映画がない。岩宮にも失敗作がないといわれるが、この点も大いに似ているようだ。ある写真評論家にいわせると、岩宮に失敗作がないのは「自分が表に出なければならぬという写真家が多いなかで、岩宮作品はむしろ自分を殺すことに終始しているから」であり、「土門拳などはムキになって取り組みすぎて、かえってズッコケてしまい素人以下の作品にしかならない場合もある」そうだ。
わたしがいちばんびっくりしたのは、かつて岩宮がプロ野球の選手であったということだ。そう言われてみればスポーティな身のこなしだし、昭和十二年、投手として南海ホークス(グレイトリンクと呼称)に入団している。投手は冷静さがなければならず、一球の失投も許されない。その一球がホームランとなって敗戦になることが応々にしてあるからだ。彼の作品に失敗作がないのは「そうした配球の妙を心得ているからかもしれない」とカンぐってもみた。
ところがどっこい、岩宮武二を研究してみると破れかぶれのガムシャラな男で、わたしのカンはことごとくはずれてしまった。彼はわたしが推量していたよりももっと大きな、魅力ある写真家だった。
(一)
岩宮武二は、鳥取県米子市で「岩宮風月堂」という和菓子屋を経営していた助右衛門の、二男二女の次男として生まれた。大正九年、シベリア出兵があった年である。
母方の叔父に村上誠三という写真師がいた。同じく米子市で開業していて、岩宮武二の写真はこの叔父の影響と、父親の和菓子づくりの「ものを創るたのしさ」をうけついでいる。野球の名門校だった米子商業に入学、投手になって活躍した。阪神タイガースにはいった土井垣捕手は二年後輩。岩宮はしかしまだ、プロ野球の選手になるつもりも、写真家を志すつもりもなかった。
昭和十年、父親の「岩宮風月堂」が倒産。大学への進学の道が絶たれて岩宮は、泣く泣く大阪梅田の阪急百貨店に入社した。電気器具売場に配属になり、月給四十円也。
天王寺に下宿して十円を払い、残り三十円は好きな写真のために費やした。そのころ大阪に安井仲治、上田備山という一流の写真家がいてアマチュア写真団体の「ミツワ写真クラブ」を指導していた。岩宮も参加して手当りしだいに風景や静物を撮った。そのうちの一点が朝日新聞社主催の「全日本写真連盟公募展」に特選で入賞した。
安井と上田はもうひとつ「丹平写真クラブ」を主宰していた。こちらは「ミツワ」よりハイクラスの連中がいて岩宮は招かれた。特選入賞がモノを言い昇格させてもらったわけで、写真における表現を学び、安井や上田が写真にとり入れたダダイズムとかシュールレアリズムに感化されていった。
写真に没頭しながらも彼は野球への情熱も断ちがたく、日中戦争がはじまった昭和十二年、阪急百貨店をやめて南海ホークスに入団。十九歳のときである。プロともなると練習量がちがう。一日二百球は投げさせられる。猛練習がこたえて扁桃腺をはらし、高熱のためダウンし入院した。
結局、試合では投げさせてもらえない悲運をなげきつつ半年で退団、再びサラリーマンにもどった。こんどの勤め先は大阪桜島の日立造船資材課、月給四十五円。その造船所は補鯨母船の図南丸を建造中だった。太平洋戦争が勃発した昭和十六年、甲種合格で満州戦車第五連隊に入隊、牡丹江省愛河へむかった。昭和十四年のノモンハン戦争で関東軍の戦車の半数はソ連軍にやられてしまった。
そこで新たに、ドイツのエソジンを備えた四人乗りの九九式中戦車を量産したが、岩宮は前方機銃手兼無線士として搭乗させられた。――というとカッコいいが、風土病にかかり幹部候補生を失格、敗戦まで五年間も乗っていて、兵長にまでしか昇進できなかったダメな兵隊だった。
連隊長がセミパールをもっていて、写真記録係が一名ほしいという。岩宮が志願してそのカメラを借りて撮った。ときには住民たちの村へ遊びにゆき風景や風俗を作品にして「丹平写真クラブ」に郵送し、写真展に出品してもらえるたのしみもできたが、連隊長のお気に入りということで下士官たちからはやっかまれ、意地悪されたりぶん殴られたりしたものだ。
このころは大いに読書にもいそしんだ。敗戦直前の昭和二十年四月、米軍が九十九里浜に敵前上陸してくる恐れありというので、第五連隊は帝都防衛のため内地へ引き揚げることになった。幸運であった。終戦まで満州に残留した戦車隊はハイラルで、侵入してきたソ連軍に全滅させられたからである。
岩宮らは栃木県小山市で待機して、終戦をそこで迎えた。いったん郷里の米子へ復員したが、復職するためすぐに大阪へ出てきた。しかし日立造船所は爆撃でメチャクチャになっている。復職は認めぬという。神戸でラジオの修理屋をはじめた戦友をたよっていって、三宮にあった米軍のイースト・キャンプ前のバラック建ての片隅を借りてDP屋を開業した。三十円しかない資金をはたいて中古の引伸し機を買った。GIたちが現像をたのみにくるので、笑いがとまらぬほど儲けられるようになった。まわりは闇市であった。
昭和二十二年、日立造船時代の上役のすすめで、大阪生まれの三歳年下の瀬川初子と見合し、お互いに気に入って結婚、京都の平安神宮でかたちばかりの式を挙げ、新婚旅行は奈良を一巡しただけでもどり、忙しいDP屋の仕事をつづけた。
間もなく彼は二男一女の父親になった。
このころから彼には、写真家を志したい一念が沸騰しはじめた。DP屋の仕事の合間に三宮からメリケン波止場にかけての、『晩刻』と題する黄昏《たそがれ》の焼跡風景にレンズをむけた。これが彼のフリーとしての処女作であり、敗戦という歴史的ドラマのなかの人間の生きざまをリアルな眼で追及していった。
さてしかし――岩宮武二は以上のごとく苦労してきたわけだが、真の孤独な苦闘は写真家を志した、そのときから開始されたと言ってよい。これからが彼の「戦争」である。「アサヒカメラ」をはじめ写真雑誌がつぎつぎと復刊され、写真界も大家、新鋭がいりまじって賑やかさをとりもどしつつあった。だが、それは東京でのこと、神戸のDP屋にすぎない彼にとっては、雲の上の出来事みたいなものだった。
写真雑誌を買ってきては、そうした新しい時代の傾向を吸収した。彼と同年代の新進としては秋山庄太郎、大竹省二、杵島隆らがそれぞれユニークな作品をひっさげて有名になりつつあった。掲載されたかれらの作品を見ながら岩宮は、その新鮮さに感服する一方では「これくらいのものなら、おれだって撮れる」と自負心をたくましくしていった。
いわゆる「東京コンプレックス」である。
地方にあって志を抱いているものには、大なり小なりこうした劣等感と焦燥感と尊大さとがある。「東京の写真家がなんだ」「とかくメダカは群れたがる。東京にいるのはそういう連中だけだ」と無視するようなことを口にし、写真ジャーナリズムに迎合せず地方にあって孤高の姿勢を持しているのを潔《いさぎよ》しとするが、そのくせ中央の動向が気になって眼は東京のほうばかり向いている。
では、自分も上京して思いきって「他流試合」をしてみればよいではないか、ということになるが、それだけの自信ある作品はまだ自分にはない。フリーとして食ってゆけるかどうかの生活の不安もある。だから東京へ飛びだしてゆく決断もつかず、
「東京の新人たちはジャーナリズムにおべっかつかい、掲載のチャンスを与えてもらっているんだ。あれは実力ではない」
と一人でひがんだり決めこんだりする、これが「東京コンプレックス」でいつも鬱勃《うつぼつ》としている。陽の当らない暗い毎日だ。
岩宮自身も当時をふりかえって、
「ほんとうに毎日、ゴマメの歯ぎしりばかりしていました。秋山庄太郎や大竹省二の環境や活躍をうらやましく思ったものです。ふしぎなものですね、そのくせ木村伊兵衛さんや土門拳さんのような大先輩に対しては、そんな気にはなれないんです。先輩に追いつき追い越したい意欲より、同年代の連中へのライバル意識だけがものすごくあるんですから」
と苦笑する。
彼の眼も東京のほうばかり向いていて、足が大阪に立っている気もしなかったのだ。現在でも、こうした悲哀を味わっている若い人たちが、地方にはたくさんいる。かれらの多くは鬱屈している。
(二)
岩宮武二のゴマメの歯ぎしりは、それからも何年もつづいた。「これが岩宮作品だ」と賞讃されるものを撮りたくて気ばかり焦り、眼にふれるものは何でも被写体にしてみたい毎日だった。
あるとき、彼は映画館にはいっていて、「ストップ、ストップ! おーい、映写技師さんよ、止めてくれッ!」
思わず客席からスクリーンにむかって叫んだことがあり、まわりの観客に、
「うるさいぞ、どついたろか」
とどなられてしまった。
その映画のカメラアングルにすばらしいところがあって「これは勉強になる」と感じると、どうしてももう一度そこを見たくなるのだ。そんなふうだから、その映画のストーリーなんててんで頭にはいっていないし、俳優の演技などもどうでもよかった。
昭和二十四年二月、神戸の店は近所から出た火事のため類焼し、岩宮はもとの木阿弥になってしまった。たくさん買いこんでいた材料も灰になってしまった。だが、貧乏のどん底に突きおとされても写真のことだけは忘れられない。
妻の初子が出産した。ロクなものは食べていないので母乳が出ない。赤ん坊を飢え死にさせるのですか、と妻は哀願する。彼はミルク代をこしらえるために奔走したが、ようやくカネを手にすると写真の材料店へ走ってゆきたくなる。店の前を行ったりきたりして、「ミルクを買おうか、フィルムを買おうか」と思い悩むのだ。赤ん坊がひもじがって泣いているだろう。はやく買って帰ってやらねばならぬ。が、そのカネをフィルムにかえたくなるし「いま撮れば秋山庄太郎や大竹省二を見返してやれる傑作ができるかもしれぬ」という気になるのであった。
友人である堀内初太郎が復員してきた。のちに堀内も関西写真界の雄になるが、岩宮は彼と共同で再び三宮でDP屋をはじめた。
ところが不運は重なるもので、プロ野球の選手になったさいには扁桃腺でダウンし、こんどは結核で倒れてしまった。昭和二十七年、故郷、米子の結核療養所に入院、胸郭成形手術をうけた。ここでもカメラは手放さず、患者たちの生態にレンズをむけ『療友たち』をひっそり撮りつづけた。
そのうちの一点がアルス「カメラ」に、東京の大家や新進たちと肩をならべて掲載された。その雑誌を病床で抱きしめるほどうれしかったが、ますます東京が遠のいてゆくさびしさもあった。元気で大阪にいられるときならまだしも、いつ退院できるともわからぬ療養生活をつづけなければならず、
「秋山庄太郎や大竹省二は、おれよりはるか前方を走っている。なのに、おれには大きなハンディをつけられてしまった。神様は非情だな」
とベットの上で輾転とした。彼はミイラのように痩せこけていた。画家のゴッホが弟のテオに送った手紙のなかで「おれは二十九歳になったが、まだ有名にはなれない」とボヤいているが、あれと同じ気持なのである。
二年後の昭和二十九年に退院したが、大阪の天王寺の長屋でさらに自宅療養中の身で明け暮れた。
裏がマネキン人形の製作所だった。
窓からのぞくと、だれもいなくなった夕暮の工房のなかに完成している裸の人形や、手足がまだつけられていないそれが立っていたりころがっていたりする。妙に生々しいものに感じられ、彼はカメラを向けていた。
この一連の作品『マヌカン』を、第二回富士フォトコンテストに応募した。みごとカラーの部の金賞を射とめて大枚十万円をもらった。この第一回は、土門拳が受賞している。
同時に、もうひとつの『炭坑夫』と題する新劇俳優を写した作品がモノクロ・プロの部で銅賞を獲得、三万円がころがりこんできた。合計十三万円だ。それこそ夢ではないかと思い、岩宮は病床の枕の下にその札束をかくしておいて、ときおり出してみては撫でたり頬ずりしたりして、
「夢ではない。十三万円の賞金がここにあるではないか。とうとうやった! おれも写真家となるための足がかりを作ったんだ」
と自分に万歳し、長屋のすすけた天井を見つめてつぎにやるべきことを考えた。
まず、東京で個展をひらくことであった。くる日もくる日も「東京コンプレックス」に悩み、指をくわえて大阪から眺めていたって仕様がない。戦後、関西の写真家で東京で個展をひらいたのはまだいない。自分がまっさきにやってみせるぞ、と岩宮はそのこともはげみにした。
医師の外出許可が出ると、堀内初太郎と一緒に三原山や箱根の風景を撮ってまわった。堀内が自費で連れていってくれたのである。これらの作品に『マヌカン』を加えて、銀座の松島ギャラリーにおいて『第一回岩宮武二作品展』を催した。予想外に激賞され、その写真のうちの二十五点が写真雑誌に掲載された。ようやく彼は、肉体的にも精神的にも元気をとりもどした。
そのころ林忠彦氏が大阪に撮影にきた。
岩宮はよろこび歓待したあと、天王寺の長屋に泊めた。まだまだどん底生活はつづいていて、押入を暗室にしていたし、林忠彦を寝かせた布団も綿がはみだしたものだった。
このことを林は、ある写真雑誌の随筆に書いた。
「大阪の岩宮武二という写真家は、長屋の押入を暗室にしているし、王将の坂田三吉みたいな貧乏暮らしをしているが、いまに写真界の大物になるだろう」という意味の激励であった。
だから岩宮はさきを急がねばならぬような気持で、昭和二十九年十二月に佐渡ヶ島へ渡った。
「戦後の日本は何もかもアメリカ的になってしまった。昔ながらの日本はどこへ行ってしまったのか。それがあるのは離れ島だ」
と思い、きびしい自然のなかに展開される人間生活を活写したかったのだ。
万象枯れはてた厳冬の佐渡の風物は、彼自身の心象風景でもあり、彼自身のこれまでの生きざまを象徴していた。
だから『佐渡』には、土門拳の仏像や濱谷浩の風景と同様、強烈な自我があふれていた。ただし土門や濱谷の作品と異なる点は、対象から切りとるフレーミングの特異さにある。
中村正也氏にいわせると――
「岩宮さんは考えられないような撮り方をするんですよ。たとえば十分の一でシャッターを切るべきところなのに、まったく無視して百分の一で切ったりする。写真の限界に挑戦しているんですね。しかも写真以前の、その場所がすごく寒い地点であれば、寒々として撮っている自分の心情もにじませているし、じつに無駄なくフレーミングしていますね」
こうしたフレーミングが独特の『佐渡』を、岩宮は松島ギャラリーで第二回展とした。強烈な個性が出ているだけに、第一回展のときのようにこぞって激賞されることはなく、批評は賛否なかばした。
(三)
だが、岩宮武二は強気だった。鼻っぱしらもつよかった。ある座談会で土門拳にはじめて会うことができたとき、土門が、まるで出てきた頭をコツンと叩くみたいに、岩宮の『砂丘』という作品に毒舌をふるった。
「この作品の大方の評判はいいようだが、わたしはまったく認めんね。砂のなかにカメラを突っこんで撮った、というリアリティがないんだな」
土門は木村伊兵衛とともに「リアリズム運動」の旗手だったが、岩宮には田舎者ゆえにバカにされたという劣等感があり、カッとなって逆に土門の作品を槍玉にあげた。土門にも同じく鳥取の砂丘を題材にしてアルス「カメラ」に発表した作品があったからで、
「そういうあなたの『砂丘』にも、砂のなかにカメラを突っこんで撮ったというリアリティは感じられません。そんなものはありませんでしたね」
土門は、ギョロリと眼玉をむいた。が、岩宮ごときの反論など、蚊が刺したほどのこともないかのように黙殺した。
岩宮はくやしかった。しかし、このくやしさが彼の転機となって、開眼した。
そのことを彼は、八年がかりでまとめた『かたち』という写真集に、こう綴っている。
昭和三十年。写真家となってちょうど十年目であった。十年を一節とするならば、来し方を顧み、行末を考えてみるときであった。そして、その反省を、私のカメラ・ワークに反映させねばならぬ時期だとも思った。私はかねて計画していた古社寺を対象にその建築の「根」を探ろうと、奈良・京都へ通いはじめた。大阪に在住しているのだから、地の利を得た関西を場とするカメラ・ワークを……
と考え、選んだテーマだった。
それまでは大阪にいても眼は東京のほうをむいていたし、自分の足もとを見るというようなことがなかった。が、自分の場を大事にして撮ることが、自分に課せられた仕事ではないかと思い当った瞬間、岩宮自身は「キツネつきが落ちたみたいに感じた」という。
地理的にいっても大阪からなら京都、奈良、山陰、九州、裏日本のどこへもすばやく行ける。東京の写真家たちが京都や奈良を撮りに泊まりがけでやってくる。自分は日帰りでかよえる。雨の京都でも雪の奈良でもすぐにすっとんで行ってカメラを構えることができるし、足|繁《しげ》くかよって好きなようにフレーミングできる。こういう便利さをありがたいと思わず「東京コンプレックス」におち入っていた自分が滑稽に見えた。
それ以来、岩宮は大阪にいて良かったと思い、東京が気になることもなくなったばかりか、中央の写真界の「渦」が見えるようになり、学ぶべき点と学ぶべきでない点も選別できた。彼はようやく、関西名人を名のって東京棋界と絶縁した坂田三吉になることができたのである。
ざっくばらんに岩宮武二は言う。
「東京から写真家仲間がやってくる。こちらは借金してでも大阪の夜の街を案内し、歓待もする。ヤア、ヤアであけっぴろげなんですね。ところが、こちらが上京すると東京の連中はヤア、ヤアのあけっぴろげにはなってくれない。ここまでは踏みこませるが、これから先は入れないぞと一線をひいている。つまり、本心を見せてくれないわけで、それが東京の写真家たちに学んだものでした」
しかし、と彼は言葉を重ねる。
「東京コンプレックスがとれたのはいいことですが、べつの苦悩が出てきましたね。大阪にいて関西の〈お山の大将〉になったって、何ということはない。大阪にいても写真家で食えるようになってくると、それにかまけて苦労しなくなる。勉強をなまけて眼が曇ってくる。だから東京の連中が一線をひいて踏みこませまいとする、そういうきびしさは自分もつねに持っていたいと思うようになるんです。大阪的|澱《よど》みにどっぷりつかってしまうと駄目になる。おれは関西の〈お山の大将〉なんかにはならないぞ。いい気になってアマチュアたちの指導なんかしていられるか。そういうエゴイスチックな気持を、きびしく自分に課しているんです」
大阪的澱みのなかにどっぷりつかるまいとする岩宮の、自分との格闘がはじまった。
林忠彦に言わせると、「岩宮は『厳島』も『日光』もそれぞれ一週間で撮りまくり、あっという間に一冊の写真集にしてしまう」が、その速さはたんに職人芸というだけではなく、前述のように「秋山庄太郎や大竹省二は、おれよりもはるか前方を走っている」ので、何がなんでもそのおくれを挽回したいファイトのあらわれでもあるのだ。その意欲を忘れないことが、大阪的澱みに首までつかるまいとするおのれとの格闘でもあるのだった。
(四)
戦車隊にいたせいでもあるのか岩宮は、結核を患らい肋骨が七本もない体でありながら、ガムシャラな戦車みたいに猪突する。年々歳々、その猛進ぶりははげしさを増してゆく。
昭和三十七年に最初の写真集『佐渡』を出版したと思ったらつぎには『かたち』と『日光』と『東照宮』を、三十八年には『厳島』を、四十年にはヨーロッパ撮影旅行にゆき、帰ってくると『大和の石仏』『石の庭』『京』を、四十一年には『結界の美』『琉球の神話』を、四十二年には『灯火の美』、翌年は『宮廷の庭』というふうに休みなく刊行した。『かたち』は日本写真協会賞を、『京』は毎日芸術賞を、『宮廷の庭』は芸術選奨文部大臣賞をそれぞれに受賞している。
京都の四季の美を追った『京』に、故大佛次郎がこういう一文を寄せている。
このアルバムには人間が画面に出ているのが一枚としてないのが特徴だが、実は、どの画のなかにも人間の息吹きがひそんでいるのである。(中略)この写真集のどの画にも心暖いものが感じられる。姿を画面に見せない人間たちがそれをアニメートしているのだ。あるいは、これは撮影者自身の影なのかもしれない。
冒頭の『仏像のイメージ』にあるのも、大佛次郎のいうこれで、自我を抹消して「そこにある仏像を写してきたのではなく、そのままそっと持ってきた感じ」にしているのだ。
岩宮は四年がかりで撮った『日本海』を昭和四十七年に刊行している。雪の津軽にはじまり庄内、越後、能登、加賀、山口の青海島まで日本海沿海を二千キロ走破し、その四季を見事にとらえているが、その「あとがき」に彼はこう記している。
某月某日。私は沿岸ぞいを歩きながら、たまたまそこで嘱目《しょくもく》した風物を総身で知覚し撮影する。その偶然の出合いを必然とする作業は愉しかった。晴・曇・雨・雪。それぞれのとき、その場所で、私でなければ撮れない写真をつくろうと努めてきた。
つまり『日本海』は『京』や『宮廷の庭』のそれのように「撮影者の影」でなく、『佐渡』の場合と同様に、血がさわぐような自我をむきだしにしているのだ。ここでは自分を抹消したり殺したりはしていない。
わたしの好みからすれば『京』や『宮廷の庭』の岩宮武二より、血がさわぐ自我をむきだしにしている彼のほうに魅かれるが――彼の作品はつねにその両方が戦車のキャタピラとなっているのだ。
自分を殺している『京』や『宮廷の庭』的なもので満足できなくなってくると、一転して彼は荒々しく『日本海』的なものに挑戦せずにはおれなくなるのだ。彼のなかにはつねに自己と戦う「ジキルとハイド」が同居している、とわたしは見る。
岩宮はこれまでに三十冊の写真集を上梓している。現在写真家のなかでは最多の冊数であるが、そのことごとくに魅力あふれる「ジキルとハイド」が表裏している、とわたしは見た。繊細な美の究極をもとめてやまぬ耽美者の眼と、荒々しいデーモンの鋭い眼とがあるのだ。
これからも戦車のように猪突し、量産するという。彼は「つねに五つのものを胸に入れていて、自分で五進法と称しています」そうだ。五つの大きなテーマをオーバーラップさせながら追いつづける、という意味である。
そのひとつが完成すると、またひとつを補充してゆく。三年がかりで完成するもの、あるいは五年がかりで本になるもの、というふうにどのテーマもでっかいものばかりで「長丁場の勝負。そこがわたしの大阪的ど根性」だと自認している。
いますすめている五進法は――
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一、世界のヒューマンライフ。五十カ国をまわって老若男女の喜怒哀楽を撮ることで「うまい写真でなく素朴なもの。『仏像のイメージ』の人間版といったところ」だ。
二、世界の木彫と石彫。七十カ国をめぐって、百年以上たったものから有史以前のものまでを撮ることで、たぶん二十年がかりになる。しかし岩宮は「自分はいま五十五歳ですから、あと十年しか動きまわれまい。外国に行って撮ってまわるのは六十五歳までが限界でしょう。残りは、一門の若手写真家にバトンタッチして撮りつづけてもらう」。
三、日本の伝統の『かたち』をさらに純化、作品化してゆく。
四、『心願の美』というか、日本各地に点在する昔からある宗教的なもの、祈りのかたち的なものを撮る。
五、『仏像のイメージ』を完成させたばかりだから、新たにまたひとつ補充する。それを模索中。
どれも気の遠くなるような遠大なプランばかりである。だが、彼はそれを着実に完成してゆくだろう。
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ところが、ときにはこの仕事一途のファイターが、メチャクチャに狂ってしまうのである。自分を狂わせたいのである。つまり、彼のなかの「ジキルとハイド」が暴れだすのだ。
どういうときに狂いだすかというと、賭けごとをはじめたときだ。独自のフレーミングができる眼をもちながら彼は、賭けごとにはまったく目がない。彼自身はバクチは「修羅場だから好き。勝つか負けるか、あの緊張感がいい」と言っているけれども、負けてくるといっそう見えなくなり、全力投球しても乱打される投手みたいになってしまう。
ただもうガムシャラだから、クールな東京の写真家連中に寄ってたかってカモにされる。それでも彼は勝負をつづける。退くということを知らない。そのため「写真界でいちばん負けている人」と指さされ、「口のあいた財布」という不名誉なアダ名までちょうだいしている。
が、それもで賭ける。負けて勝とうとする。
「岩宮AIU」とも言われ、ありがたがられている。AIUというのはアメリカの保険会社で、ここはいちいち文句をつけずあっさり保険金を支払ってくれるので有名だ。つまり、岩宮武二はいくら負けてもAIUと同様、バクチのカネは気前よく払ってゆくからだ。
某月某日、東京のある写真家と夕方からトランプをやりだした。岩宮は今夜じゅうに大阪へ帰り、支度して明朝はハワイへたつ仕事の予定があった。ところが案の定、徹夜の勝負にもつれこんだ。
岩宮は大きく負けて何も見えず、朝になったがまだ「あと一番」「もう一番」でやめようとしない。ついに大阪に帰ることもできず、むろんハワイ行きは断念しなければならなかった。そしてなお、その日の夕方までつづけて結果は、ここにその金額を書くのはお気の毒なほど惨敗してしまったのである。
それでもこの人「岩宮AIU」はコリず、写真とバクチに猛進する。愛すべき怖い人である。やはり彼は「写真界の坂田三吉」である。「銀が泣いている」と言った坂田三吉の気持が、岩宮武二にも脈々としているのだ。(昭和五十年七月取材)
●以後の主なる写真活動
昭和五十年「日本の染織」(毎日新聞社)、写真展「見て撮ったスペイン、ポルトガル」。五十一年全日本写真連盟より功労賞受賞、「京の庭」(国際情報社)。五十二年写真展「セリグラフィーとタピストリー」。五十三年ユネスコ委嘱「現代中国絵画」取材のため訪中、「日本のかたち」(淡交社)、「京・いろとかたち」(集英社)。五十四年写真展「ネパールの貌」。五十五年写真展「仏像・神像・女神像」、写・文集「目前心後」、写真展「太陽がいっぱい」、大阪芸術賞受賞。五十六年国際交流基金の委嘱によるアメリカ講演旅行(シカゴ・ボストン・ニューヨーク・ワシントン)、写真展「岩宮武二の眼・三十五年の軌跡」。五十七年写真展「フォトラマ」「記憶・ヨーロッパ紀行」「ヨーロッパ・スナップ」。
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緑川洋一《みどりかわよういち》「カメラを持った良寛さん」
岡山市田町の横丁に、四季料理「原田」の紺のれんがさがっている民芸風の小料理屋がある。晩秋の一夜、緑川洋一さんが案内して、瀬戸内の魚を食べさせてくれるいちばん旨い店、だという。
威勢のいい板前がいて、岡山美人のかわい子ちゃんが絣《かすり》の着物姿で料理をはこんでくれる。真鯛、いか、さわらの刺身。青々とした新鮮な海藻。めばるの煮つけ。ちぬの塩焼。独得の味噌をまぶした豆腐田楽。ごぼうの甘辛煮。まさに山海の珍味であり、酒は地酒の「お多美鶴」。
瀬戸内海の公害汚染はひどくなる一方だが、東京の魚しか食べていないわたしには、涙が出るほどの美味だった。ことに真鯛の身のしまった刺身、舌さきにとろけるようなさわらはえも言われず、林忠彦さんなんかは岡山に旅するとまっさきにこの店に飛びこんできて、豆腐田楽の三皿くらいはあっというまに平らげるそうだ。
緑川さんは六十歳。まっ白な髪がふさふさしていて、顔は漁師みたいに赤銅《しゃくどう》色に日やけしている。わたしたち客人に瀬戸内の鮮魚をご馳走するのが、ご自慢というよりも、何にもましてうれしいといった表情であった。自分の郷土をこよなく愛しているのである。
写真界にかぎらず現代は、異邦人であることが好まれる時代である。さすらいの感覚が受ける時代である。緑川さんの作品にも、そうした漂泊感は大いにあるのだが、彼のなかにはもう一人、土着の精神を頑《かたく》なにもっている男が棲みついている。二十年前、尊父の横山為太さんは七十歳で病歿したが、枕もとによびよせた息子洋一さんの手を握って、いまはのきわの言葉を、こんなふうに遺した。
「サトシよ、おまえは歯医者としてよくやっているが、もう一人の洋一は道楽息子だ。身上つぶすかもしれんから気ィつけろよ」
緑川さんの本名は横山|知《さとし》である。彼が写真に夢中になるようになってから、為太さんには歯科医院を開業している知さんと、カメラをいじっている洋一さんが、だんだんに別人に思えてきた。完全に二人いると錯覚するようになっていった。だから、臨終の床で手を握ったのは、本業に精を出している歯科医のほうで、道楽息子の写真家のほうではない、そう思いこんで言ったのである。
為太さんは歯科医と道楽息子というふうに分けていたが、たんにそれだけではないとわたしは思う。耄碌《もうろく》して錯覚していたのではないと思う。いつのころから為太さんには、一人息子の緑川洋一のなかに、異邦人になりたがっている男と、土着人であろうとする男がいるように見えはじめたのだ。
二人いるといえば――緑川さんは現在でも岡山駅の近くで歯科医院を経営していて、表札が二つならんで出ているので、近所の人たちでさえ貞子夫人にふしぎそうに質問するそうだ。
「あんたは写真家のほうの奥さんですか、それとも歯医者さんと結婚した方ですか?」
「おっほほほ……両方ですわ」
と貞子夫人が笑って答えようものなら、まあ、この女は二人も亭主をもっている、それで家庭がうまくゆくのかねえ……と言わんばかりの、あきれ顔をされるのである。
(一)
岡山県|邑久《おく》町虫明は、岡山市と赤穂市のちょうど中間に位置するさびしい漁村で、正面に小豆島の景観がある。
この漁村に二人の特異な若者が育った。一人はソロバンと墨書が上手な横山為太、もう一人はのちに「夢二式の美人画」で満天下をわかせる竹久夢二である。
為太は代々の呉服商の息子。二つ年下の夢二は造り酒屋の伜《せがれ》だったが、家業がかたむいてからの夢二は、親たちとともに北九州へ引越していった。後年、夢二が名を成してからは、為太は一人息子の緑川洋一に、
「ほんとうは絵だって、わたしのほうが夢二よりは数倍もうまかったんだ」
としきりに語っていた。夢二が有名になったのが、よほどくやしかったのである。
洋一は大正四年三月に生まれた。姉がいて妹ができた。母親の政野は盲愛してくれたが、父親はスパルタ教育に徹していた。書道を教えて、自分の気に入るまで洋一に書かせ、彼がつらさに泣きだしても許さなかった。中学校も池田藩の藩学として知られた閑谷黌《しずたにこう》(閑谷中学)に入学させられた。
洋一は幼いころから、漢学や書道より色彩に対する感覚がすぐれていた。自分の家が呉服商だったので女の着物の柄が友禅染、一越|縮緬《ちりめん》、江戸小紋、黄八丈、矢絣などの日本的色彩美が網膜にやきついていた。父や母が反物を、畳の上にさーっとひろげて、その柄模様を客たちに見せる。そのときの鮮やかさにときめきをおぼえたものだった。
「あんなに美しい柄がなぜ売れないのか」
と、ふしぎに思うこともしばしばだった。
そうした人工的な色彩ばかりでなく、まわりには自然の色彩もまた豊富であった。ことに春と秋の日の出は「瀬戸内のあけぼの」といわれるほど華麗だった。為太が山の上や海辺へつれていって、その日の出を眺めさせた。海のなかからお盆のような太陽が昇った。
父母はときには伝馬船を漕いで、島々へ呉服の行商に出かけた。洋一も乗せてもらい、夕暮にもどってくるときの、茜《あかね》色の夕陽が息がつまるほど神秘的だった。空と海が黄金色になったり橙《だいだい》色に変化するし、嵐の日の海は雄大であり、明月の夜の海が白銀に光るのをながめて溜め息ついた。
閑谷中学にかよううちに洋一は、将来は美術学校へ進学したいと思った。父親は再び竹久夢二のことを例に出して一蹴した。
「夢二ほどの絵かきになっても、満足に食えないで女に養ってもらったりしているそうではないか。そんなものになる男は屑だ」
洋一にはもうひとつ特技があった。
小学生のころ理科の標本室で、機械がむきだしになっている置き時計を見た。俄然、彼はそれがほしくなった。生命力のない金属がいろいろに組み合わされ、生きもののごとくチクタク動いているのがふしぎで、そのメカニズムの美しさに魅せられたのだ。
悪いことだと思いながらも彼は、それを標本室から持ちだして、自宅の押入に三日間かくしておいた。そして、押入れのなかで時計をいじくりまわして飽きなかったが、三日目に返した。
そんなこともあって、機械いじりもまた先天的に好きだったのだ。美術学校への進学はあきらめたが、風車でうごく舟やモーターボートなどをせっせとこしらえた。
(二)
中学三年のとき、夢二の造り酒屋と同様に横山呉服店も傾きはじめた。学資を出してやれなくなった為太は、洋一を歯科医にするため上京させ、本郷の東大の近くにあった海老原歯科医院に住み込ませた。院長が岡山県津山の出身で、為太の知人だったのだ。
当時、虫明の漁村には歯科医はおらず、週に二日、岡山から出張してきて為太の家の別棟を借りて診療していた。それを見ていて為太は「歯医者ちゅうのは儲かる商売だ」と思い、自分の一人息子もそれにしようと考えたのである。
洋一は海老原歯科で技工師の手伝いやら、助手をやらされた。
駿河台の日本大学専門部歯科へ入学したのは昭和七年春だった。歯科医としての武者修業をするため、浅草の熊谷歯科医院に移り、もう助手ではなくいっぱしの診療もできるまでになった。つまり代診しては、その収入を学資にまわしたのである。
学友と組んで日本学生歯科技工研究所なるものをこしらえた。たいそう立派な研究所にみえるが何のことはない、開業医を自転車でまわって義歯製作の注文をとる、歯科の下請けみたいなものだった。
義歯の注文をとっていないときの彼は、模型飛行機をこしらえていた。小型モーターを開発して展覧会に出品すると、これを海軍省が買いあげて五十円くれたのには、彼自身がびっくり仰天してしまった。
この五十円でカメラを買った。
むろん写真家になるつもりはなく、代々木練兵場で模型飛行機のテスト飛行をさせて、それを記録写真に撮っておきたいだけであった。ところが、これが人生の岐路になったわけである。その後、彼は模型飛行機やモーターの開発はやめてしまい、喫茶店の女の子を撮ることに熱中した。
同じように撮ってやった玉突き屋の娘とデートした。品よく彼女を音楽会につれてゆき、帰りにはカッコつけてタクシーで送ってやった。が、彼女の家がある谷中までゆくタクシー代はあったが、それを払ってしまうともうポケットには一銭銅貨も残らなかった。
彼女はすましたもので「ありがとう、おやすみなさい」と言っただけで、玄関の格子戸をガチャンと閉めてしまった。空腹をかかえてとぼとぼと歩いて帰るしかなく――青春とはもの悲しいもので、カネを稼ぐために再び義歯の下請けにせっせとはげまなければならぬ、というふうであった。
洋一は、二十二歳で歯科医の国家試験にパスした。まっすぐ岡山市へもどってきた。両親が、岡山で菓子屋を営んでいたが、洋一には開業資金はなく、医療機械や器具をすこしずつ買いそろえ、ようやく横山知歯科医院の看板をあげたのは、日中戦争が勃発してまもなくの昭和十二年十一月のことだった。
幸い、歯科医院は繁盛した。
だが商売とはいえ、内科医でも婦人科医でも朝から晩まで、他人の患部を治療するのは辛気くさい。気分転換をやらないことにはやりきれなくなる。洋一も土曜の午後と日曜日は、患者の口のなかのことなど忘れたくて、瀬戸内海の海辺を散歩したり写真に撮ってみたりするようになっていった。
翌十三年、その一枚を斉藤鵠児主宰の「写真サロン」に緑川洋一のペンネームをつけて投稿、はじめてなのにみごとに入選した。作品は、岡山地方の藺草《いぐさ》の水田に反射する太陽をとらえた構図であった。おれの作品もまんざらではないな、と満足した。緑川洋一としたのは、岡山は緑や川や海が最高に美しいという意味をこめてである。
毎月、投稿するのがおもしろくなった。特選になったり佳作になったりした。「油ののりきった緑川洋一君は、今月またもや傑作を送ってきた」との斉藤鵠児の作品評に感激して、またしても投稿するというふうで、だれにも師事しない独学であった。
地方にあって一人ぼっちの彼の前に、よき先輩があらわれた。植田正治であった。植田は山陰の境港で、街の写真館を経営しながら独自の風物を撮りつづけていた。洋一よりは二歳年長だったが、すでにアルス「カメラ」、「アサヒカメラ」、「写真サロン」誌上にも作品を精力的に発表していた。石津良介、正岡国男らと「中国写真家集団」を組織していて、緑川も後にメンバーに加わった。
緑川は石津良介とも親しくなり、これまた大いにプラスになっていった。後年、緑川と植田は当時を回顧して、
「お互いに負けん気でよくやったなあ」
「おまえがやるから、おれもがんばったんだ」
と懐かしがっているが、緑川には植田に勝《まさ》る作品を創るのが初期の唯一の目標だったのである。
緑川は神戸出身の、佳人の高旗貞子と見合結婚した。やがて一男二女の父親になった。そのころには緑川はすっかり写真にのめりこんでしまっていて、貞子夫人は「写真家の嫁になったのか、歯科医の妻になったのかわからない」とこぼすほどだったし、父親の為太が「まじめな歯科医の息子と、道楽息子の二人がいる」と思うようになったのもこのころからであった。
太平洋戦争中は興亜写真報国会の一員に加わり、石津良介の助言もあって瀬戸内海の北木島を『石の出る島』と題して撮ったり、四国の坂出の塩田や、児島湾や干拓工事を報道写真にしたりしてアルス「カメラ」に発表、東京の松島画廊ではじめての個展をひらいてもらった。
戦況が不利になってくるとフィルムも不足した。出征軍人の家族を撮って戦地に送る仕事があって、これをやるとフィルムの特別配給がうけられるので従事し、二つの家族を一枚に撮ってあとの一枚をうかし、それで自分の好きな瀬戸内を撮影する、そんなやりくりまでした。
敗戦の年には岡山連隊の報道班員になっていた。午前中は自宅で歯科医の仕事をやり、午後から連隊本部に出勤する。空襲がはげしくなってくると、被害地へ派遣されて空襲の記録写真を撮らされるかたわら、救護班にもなって市民の手当をやった。
広島に原爆が投下されたときもすぐに派遣させられたが、交通が途絶して現地入りはできなかった。
「もし、あのとき広島へいってたら、放射能をあびて、ぼくも死んでいたでしょうね」
彼はきゅッと眉をひそめる。
(三)
緑川洋一は苦労はしたがしかし、アマチュア写真家の域を出なかった。歯医者さんの片手間の趣味といわれても仕方なく、彼がほんとうの写真家になり得たのは戦後も三十年代になってからである。
写真界は戦後の解放感をまず、女性のヌードを作品化することで証明した。木村伊兵衛や土門拳もさかんに女性の裸にレンズをむけた。地方にいる緑川洋一もその流行にひきずられていった。
自由を謳歌して、いたるところでミスコンテストが開催された。岡山でもミス岡山だのミス牛乳というのまであらわれた。緑川はその審査員にひっぱり出され、ミス何々をモデルにしてはじめて女性写真を撮った。ヌードも撮りまくった。『女人群像』とか『海と女』などの作品ができたし、『砂丘群像』はアルス「カメラ」年度賞を受賞した。
写真雑誌がつぎつぎと復刊。秋山庄太郎、林忠彦、植田正治、桑原甲子雄らと写真同人「銀竜社」を結成して緑川も、新進のグループに加わった。戦後初の写真展も、この「銀竜社」グループが開催した。
だが一見、はなやかに活躍しはじめたように見えても、緑川作品にはまだ確たる個性はなかった。その証拠に、秋山庄太郎が女優の原節子らをモデルにしたスマートなものを発表しはじめると、地方のミス牛乳のおネエちゃんをモデルにした作品では見劣りがするし、完全にモデル負けして野暮ったいものにしかならない。東京のプロ写真家と地方在住の写真家との差は、歴然たるものとなった。それに緑川は、本質的には女性写真家ではないと思い当った。
緑川は一転して女性写真をあきらめ、古い倉敷の町のたたずまいと人々を撮り、植田正治と二人展をひらいた。
そのころから木村伊兵衛と土門拳のリアリズム運動がおこり、社会派的な、声高に現実を訴える作品が主流を占めるようになっていった。社会派でなければ写真家ではないみたいに言われたものだ。
縁川は言う。
「ぼくはリアリズムを肯定も否定もしなかったけれど、何か仕事をしなければと思い『おおさか』の撮影にかかった。大阪商人のたくましさが狙いであった。それらの作品は東京の松島ギャラリーで展覧会を催した。そして、それなりの評価はあったが、所詮、ぼくにとっては背伸びした作品で、心の満足を得るテーマではなかった」
しかし――
「では、自分の舞台とはどこにあるのか。ヌード写真でもない。社会派でもないとすると、どこがほんとうの舞台なのか」
と、もう一人の自分に問いつめられると答えられず、彼は自分のまわりをキョロキョロ見まわすだけであった。おのれの人生をふりかえっても見た。だが、容易に掴めず、二度とカメラは手にせぬつもりで歯科医の仕事に専念した。そのくせ、心のなかでは、
〈わたしは歯医者ではない、写真家なのだ〉
と無念がっていた。それは父の為太が、有名になった竹久夢二に対して地団駄ふむ思いになっていたのと同じ気持だった。
ある日、息子がかよっている中学校の校長が遊びにきて、緑川に「お宅のお子さんはしっかりしてますなあ」と感心してみせた。何のことやらわからないでいると、
「お子さんがね、作文にこう書いてたんですよ。……おやじは歯医者をやっているが、ほんとうは写真家だ。
が、歯医者の仕事をしなければ家族を食べさせてゆけないので、おやじがかわいそうだ。ぼくがはやく歯医者になって、おやじには好きなだけ写真を撮らせるんだ、とね。偉いじゃありませんか」
と校長は瞼《まぶた》をしばしばさせて語った。
「へえー、うちの息子がそんなことを作文に……仕様のないやつだな」
緑川洋一は照れくさそうに笑ったが、内心ではおいおい声をあげて泣いていた。〈息子までが歯科医ではない、一流の写真家だと信じてくれている。好きなだけ撮らせてやりたいと言っている。それなのに、わたしはまだ自分の舞台がわからずにウロウロしている。何という情けない男だ〉と七転八倒しているのだった。
(四)
昭和三十四年、確たる自分の舞台を捜しえないまま緑川洋一は、四カ月間のヨーロッパ旅行に出かけた。
セイロン島ではインド洋に沈む、スコールのあとの入陽を見た。エジプトの砂漠の非情なまでの美しさ。地中海の手も染まるような紺青。オランダの花づくり。北極海の流氷にも眼をうばわれた。
だが、それらを前にして感じたことは、
「自然の美しさが一国にひとつずつしかない。砂漠なら砂漠だけ、流氷なら流氷だけという感じだ。日本はそうではない。四季と自然にはこまやかな変化があって、まるで世界の自然の縮図みたいである。日本へ帰ったら、自然の美しさを見直してやろう」
であり、こうして日本から離れてみて、日本のすばらしさを知る思いになった。ノルウェーのさいはての漁港へいって、一軒しかないホテルに宿泊した。翌夕、北の海が気にいったのでもう一泊したいとフロントに申し出ると、
「今日から国王がおみえになって、全館貸し切りの予約をなさっていますので、悪しからず」
とニベもなく断わられてしまった。
このままでは去りがたく緑川は、ひと晩くらい野宿してやれ、この地方は白夜なんだから夜中でも明るいではないかと思い、港町が一望にできる小高い丘にのぼった。
白夜の下で寝しずまっている町を見おろしていると、屋根屋根の色が光線の具合でひとつひとつ違っていた。幻想的でしかも何ともいえない味わいの柄模様になっており、思わず彼は讃歎しておよび腰になり、
〈おや、これはどこかで見た色彩だぞ。そうだ、少年時代に見た瀬戸内海の入陽の色ではないか。すばらしいなあ。父母が畳の上にさーっとひろげていた反物の柄のあざやかさは、こんな幻想的な色彩だった。これを何とか写真で表現できないものか〉
と呟いたとき、天からの啓示であるかのごときひらめきが貫いていった。ついにわたしは自分だけの舞台を捜しあてた、と叫びたくなった。丘の上をいったりきたりして、
〈自然を見つめてゆく眼は、だんだんに夾雑物《きょうざつぶつ》をとりのぞいていって、ついには少年のころの純粋な眼になるのではないか。もういちど少年時代の眼で自然をとらえてみたい〉
そんな意欲が噴きだしてきた。
〈寒い東北地方の生まれだったら、きびしいリアリズムに共鳴できたかもしれないが、わたしは温暖と魚の美味と風光にめぐまれた瀬戸内の産なのだ。わたしの血の流れのなかにはあたたかい風土がある。わたしが北極海の流氷を撮影しても、身を切られるような冷たい温度は出せず、どうしてもあたたかな風景になってしまう。それでもいいではないか。それがわたしの世界なのだから〉
つぎからつぎと、自分なりの悟りのようなものもひらけていった。そのはやる気持をおさえかねて一路、日本へ帰ってきた。旅行鞄を自宅におくとそのまま飛びだし、自分だけの日本の風景をもとめて、北から南まで猛然と駆けめぐりはじめた。〈自然美というものを、現実そのものの美しさより、わたし自身のフィルターを通して表現したい〉その一念だけがあった。
少年時代に見た赤い太陽の幻妙さを、自分のなかに追いもとめた。あのころの海は赤、紺、紫というふうに時間的経過によって変化したが、それがいまではひとつの色となって記憶の底に残っている。その幻妙なひとつの色彩を一枚に表現するにはどうすればよいか。現実にある風景を前にしながら彼は、自分の心のなかにある風景にむかってシャッターをおすことのみを考えた。
多重露光による独自の撮影法を考えついた。たとえば午後四時に写したときの海の色は紺碧。午後五時に写したときのは橙色。午後六時にシャッターをおした場合のは紫紺。これを一枚に重ねて撮ってしまうと、彼の心のなかにある「ひとつの色」になるのだった。
黒いシルエットになっている十艘の釣舟を三回、すこしずつずらせて多重露光によって撮影すれば三十艘になる。天体望遠鏡をのぞいて撮った月のネガを、海のネガに重ねて焼付ける場合もある。
土門拳のように現実の被写体を睨みつけ、気合をこめてパッと撮るのでなく、自分だけの自然を創るための色彩感覚、造形美を必要とした。
しかしながら、この多重露光による撮影は人一倍の緻密さと根気を要した。一枚の海を「ひとつの色」にするのに一カ月以上かかる場合もあり、失敗のほうが多くて暗室のなかで地団駄ふみ、何百枚のネガのなかの一枚がどうにかものになるというふうであった。
(五)
横山知歯科医院の玄関には「本日休診」の木札がさげられる日が多くなった。多重露光の技法にとりつかれてからの緑川洋一はもう、他人の口のなかの治療にはかかわっていられない毎日だった。
海にむかってカメラをむけたまま彼は、その海の色が自分の心のなかにある色になるまで何時間も待ちつづけた。自分だけの自然を創るのだから、現実の自然を自分のなかにひきずりこむ必要があるのだ。
それは時間と忍耐の無限の闘いであった。緑川は「じっと決定的一瞬を待っている、こういうときのみじめな姿は妻にも見せたくはなかった。だから撮影にはいちどだって妻をつれていったことがない」と言う。
彼は、一男二女の子どもたちにも寂しい思いをさせた。日曜日や祭日には彼は家庭にいたことがなく、時間も惜しげにカメラをかついで出かけてゆくので、とうとう子どもたちは日曜日には父はいないものだと諦めるようになった。
いまでもそうだが、緑川は他の写真家たちより「時間」を大切にする。歯医者であるから土曜の午後と日曜日だけが写真家になれる――いわば日曜作家としてやってきたわけで、それだけに時間は限られていて彼には貴重この上ないのである。
現在の緑川洋一は古時計の蒐集家としても有名で、蒐集の苦心談をまとめた『古時計百種百話』という楽しい本も出している。時計が大好きなのは小学校のころの理科標本室から持ちだした話でもわかるが、撮影旅行にいったさきざきの古道具屋などで買ってきたものを、三百点以上も愛蔵している。彼の部屋は大小さまざまのその時計で埋まり、廊下や便所の中にも置いてある。時価三百万円もするフランスの王朝時代の時打時計、ドイツの木製時計から江戸時代の大名時計まであって、動かなくなっているものは自分で分解し修理もやっている。それがまた楽しいのである。
「チクタク鳴る音にわたしは、音楽的な清潔感を感じる。そういう音に負けちゃいられない意欲が湧いてくる。時刻はどうでもよくて大事なのは時の流れです。ときにはチクタクにセックスを感じたり、しゃくにさわったり、うらやましさを覚えたりする。それがいいんですねえ」
だから、いくつ蒐《あつ》めても飽きることがないというわけだが――独自の多重露光による技法も「時間」の結晶でもあるのだ。
昭和三十七年、緑川はついにその独自の世界を発表した。『瀬戸内海』と題して出版したそれら作品群に、写真界はびっくり仰天した。かつてないほどの衝撃を与えた。緑川洋一の海は友禅染や黄八丈や江戸小紋などの美しさに通ずるものがあり、はなやかで柔らかだった。波濤や島かげや浮き灯台には東洋的な幻想美がただよっていた。
それまでの写真家たちの風景写真は、自然主義的なフォトジェニック(いわゆる写真でしか表現できないもの)であったのに、緑川作品は自然を巧みにデザインしていた――その技法の斬新さ、華麗さにだれもが驚嘆したのである。
緑川はこのときから「写真界の魔術師」とよばれた。その技法は「写真界のウルトラC」といわれた。どうしてこのような写真ができるのか、と世界の写真家たちからもふしぎがられ、フランス国立図書館とイギリスの美術館がそれぞれ二十五点ずつ買いあげたし、日本でも日本写真批評家協会賞、中国文化賞、写真協会作家賞など栄冠をひとり占めにしたのである。ときに四十七歳。
岡山の歯医者さんが「世界の緑川洋一」になったのだ。
(六)
しかし一方には批判の声も高まってきて、
「緑川作品には実作者の苦悩がない。土門拳や濱谷浩の作品にあるような文学性がない。木村伊兵衛や植田正治に見る絵画性もなく、あるのはメルヘン風の色彩のみ」
といった酷評も飛びだすまでになった。
それでも緑川洋一は岡山にあって、自分の世界から出ようとはせず、『日本の風景』『京都』『日本の山河』などを連作した。これらの作品にももちろん、多重露光の特殊技法が駆使されている。月が出ていない闇夜に皎々《こうこう》たる明月をはめこんでみたり、雁の群れを飛ばせるようなこともやって風景を大胆にデザインしている。追随を許さぬその技法の冴えはまさに、神技にもひとしく、いかなる酷評をあびようとも緑川は、
〈自然のヒューマニズムが思想よりは、はるかに大事なのだ〉
と思いこんできたのである。
ところが五十五歳をすぎるころから――自然のヒューマニズムが思想よりは大事であることには変わりないが、いささかの畏怖がひろがりはじめた。〈自然を創りすぎるのではないか。自然を冒涜する結果になっているのでは〉の自己反省が、技法が冴えてゆけばゆくほど大きくなってくるのである。風景を大胆にデザインにすることが、切り絵や貼り絵のたぐいになってゆくかのような虚しさを感じさせたりするのだった。
『瀬戸内海』に代表される視覚的デザインから、内的な美に迫りたい意欲へと変化していった。仏教的な雰囲気がただよいはじめた。
さきにも述べたように緑川は、海を前にカメラを据えて、その海の色が自分の心のなかにある色と合致するまで何時間も待ち、時間と忍耐の苦闘をくりかえしてきた。自然を強引に自分のなかにひきずり込もうとした。そうだった彼が、内的な美に迫りたくなったとき、逆に自分から自然へ構えもなく近づいてゆきたくなったのであった。
雨なら雨でよし。曇りなら曇りでよし。移りかわりゆく目立たぬ風景に魅せられ、自然を意のままにデザインしてきた彼が、自然のなかにひっそり溶けこみたくなったのだ。
新たな闘いが開始された。
彼の瞼の内に一人の男があらわれるようになった。法衣を風になびかせながら、飄々《ひょうひょう》と行脚をつづける禅僧の良寛の姿である。
良寛は十八歳で出家、岡山の円通寺で修業し、それから二十年間も諸国を行脚、無欲で終生を一鉢の生活に安んじて詩歌を愛した。いわば良寛は郷土の大先輩であり、彼もまた自然に溶けこみ四季のうつろいに魅かれて行脚をつづけた――自分もそんな良寛になりたいと緑川洋一は思い、現代の良寛の眼で、新しい色彩感覚と造形感覚にあふれた作品を創りたがっているのだった。
――緑川洋一さんは四季料理の「原田」でわたしに、瀬戸内の真鯛の刺身や豆腐田楽を食べさせ、盃には地酒の「お多美鶴」をなみなみと注いでくれながら、こう言った。
「ぼくは齢《よわい》六十になったが、息子も院長として診療をまかせられるようになって、やっと今年から自由に写しまくっています。この日の来るのを長いこと待っていました。いわば第二の人生が始まったわけです。その意味からちょうどいま人生の折り返し点にきたところだと思っています。これからもものすごく撮りまくりますよ。ダンテの『神曲』の地獄篇、煉獄篇などを自然の風景で表現できないものか、そういう作品ができないだろうか、と考えています。とにかく撮りまくりたいですね」
ダンテでなく、カメラをさげて煉獄をさまよう現代の良寛の姿を、緑川さんは思いえがいているのかもしれない。
が、ちょうどいま人生の折り返し点にきたという、白髪で赤銅色の緑川さんの貌は、わたしにはすごく「時間」を気にしている顔に見えた。蒐集した三百点の大小さまざまの古時計が、彼の部屋で、廊下で、いっせいにチクタクと時を刻んでいる――その音が聴えているのでは、と思った。(昭和五十一年一月取材)
●以後の主なる写真活動
昭和五十二年写真集「山河遍歴」「緑川洋一・人と作品」「京都雪月花」「名城の四季」。五十四年写真集「瀬戸内旅情」。五十五年写真集「岡山の城」「備讃瀬戸」「笠岡諸島」「岡山の武家屋敷」「国立公園の四季」。五十六年写真集「竹久夢二」「皇居・自然と造型」。写真集団「風」を主宰。五十七年「昭和写真全仕事」。五十八年写真集「国立公園写真集・山紫水明」、「天皇の庭」。作品集四十八冊となる。
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島田謹介《しまだきんすけ》「風景のお遍路さん」
――島田謹介さんは明治三十三年の生まれだから、いま八十一歳。写真界の大長老の一人であるばかりでなく、大正・昭和史の貴重な生き証人にもなっている一人だ。
と書くと「古老」の感じになってしまうが、どうしてどうして彼はいまなお新鮮な作品を産みつづけている現役であり、それらはますます美術(絵画)の境地に近づいている。ぼくは島田作品は「完全に東山魁夷や杉山寧、平山郁夫の世界にはいっていった」とさえ思っている。
とにかく元気なのである。壮健そのものである。顔は日やけしていて、カメラ機材を詰めた重いリュックを背負い、助手もつれずただ一人、風景をもとめてさすらいの旅へ出かける。日が暮れればそこらで宿をとるが、背中のリュックをおろすのを手伝ってくれる旅館の若いおかみさんが、思わずよろけてしまう。それほど彼のリュックは、ずしりと重いのであり、それをかついで歩いてまわりなおカクシャクとしているのだ。
旅さきでは、だれも彼のことを、高名な風景写真家だとは見てくれない。リュックには水石が詰まっているのだと思う。飾りものになる自然石を拾ってまわっている暇な老人だと勘ちがいされて、
「いい石が見つかりましたか、ご趣味もたいへんですなあ」
と労《いた》われたりしたことも、一度や二度ではないのである。
島田さんの東京の住居は、みどりが豊富な豊島園のそばにある。二階のある明るい応接間はまるでギャラリーみたいで、壁という壁には自分の、記念すべき作品を飾っている。
「ばあさま(妻)もトシで、もう展覧会などにはゆきたがりません。それでせめて自宅であなたの作品を鑑賞したいから、飾っておいてくれと言うのです」
つまり、島田さんは応接間を、愛妻のためのギャラリーにしてやっているのである。
ところが、彼はこうも語って、ぼくをびっくりさせるのだ。
「去年、横浜港から出航するクィーン・エリザベス二世号で、ばあさまをつれてハワイからロサンゼルスをまわってきました。いつも自分ばかりが撮影の旅に出かけて、留守番をさせてきましたから、罪ほろぼしにと思い、つれていってやったのです」
夫婦していまだに海外旅行をする元気があるのだから、ぼくにはただもう驚きなのだ。
島田さんはじつに折り目正しい人である。誠実であり謙虚な人柄が、話していてもよくわかる。「男の遊び」などは一度たりともしたことがないと言う。それでも自分は幸せ一ぱいであると言う。なぜならば――
「長生きできているということは、ほんとうにありがたいことです。元気でいられるからこそ、こうして初対面のあなたにもお会いする縁ができたのだし、いろいろなお話もできるのですから」
(一)
島田謹介は山国である長野県松代町に、四男一女の三男として生まれている。
厳父の謹一は富山県の出身だが、松代町の開業医であった。たいそう苦労人で、十三歳のとき京都画壇の長老谷口|靄山《あいざん》の書生となり、医師になるためにまず読み書きの勉強をはじめた。そして十六歳で上京、慈恵医大の前身の医学校に学び、いったんは山形へいって鉱山医となるが、「新しいドクターがほしい」という松代町のために、本誓寺の坊さんがスポンサーになって、謹一を山形からまねいて小さな医院も建ててやった。
松代藩の武家の娘だった「しけ」を、嫁として世話してくれた。この夫婦のあいだにできた四男一女の三男が謹介で、少年時代から絵心があった。
彼は昭和四十七年に刊行した写真集『四季』(日本交通公社)の「あとがき」に、その少年時代の思い出を書いている。
「私の風景へのあこがれは、小さな節穴からはじまった。それは、庭の景色を障子に映し出す、古雨戸の節穴であった。まだ小学校へ上がる前だったが、毎夜杖代りになって半身不随の祖母を、離れへ送って寝た。まだ電燈がなく、小さな手でマッチをすってランプに灯をつけた。夜が白みかけると、節穴は、暗い部屋の障子に、庭の景色を、倒に映し出していた。小さな世界ではあったが、自分で見つけ、そして、毎朝見つめた風景であった。小さな裏庭の風景ながら、その小さな雨戸の節穴は、小さな心に、四季の美しさを映して見せた。雨戸の節穴と同じ理屈だと、父からピンホールカメラの作り方を教えられて、夢中になった小学一年生だったころのことが、時々思い出されるが、遠い明治四十年のことである」
「三方山に囲まれた小さな城下町に、私は、育った。遠く北の空には、北アルプス連峰の白い峰々や、飯縄、戸隠の山々が眺められる美しい町だった。鮮烈な山国の四季のうつろいは、子供心に、強く自然の美しさを焼きつけた。遅い信濃の春は、一度に花が咲き、千曲の流れの柳の緑が美しかった」
「地蔵峠まで登れば、富士も浅間も見られると父から聞いていた私は、ある晴れた日曜の朝、近所の友達や兄弟を誘って、家へも告げず、弁当も持たず、下駄ばきのまま、町から遠い地蔵峠へ、富士山を見たいばかりに、夢中で登った。一面にスズランの花咲く峠からは、誰も絵でしか見たことのなかった日本一の富士が、遠くの山波の上に、白く浮いていた。近く浅間山は、白い煙を上げていた。この日の感激は、今も忘れられない」
じつに多感な少年であり、長野県立長野中学校に進学した謹介は、画家を志した。
同校の先輩で写真館の息子だった河野通勢は、挿絵画家として東京で有名になっており、自分もそうなりたいと謹介は思い、とくに女性に人気のあった竹久夢二にあこがれた。
謹介の水彩画は異才を放ち、父の謹一も画家を志すのをよろこんでいた。
それというのも、長男の謹吾を東京帝国大学医学部に進学させて医業をつがせたいからで、そのための学資を捻出するのが田舎医師としては精一ぱいだったし、次男坊まで大学へやる余力はなかったためである。
だが中学四年生のとき謹介は、結核をわずらって長野の寄宿舎から松代の島田医院へ帰ってきた。まだレントゲンさえない田舎医院だから、かつて祖母が寝起きしていたあの離れで、かれは妙薬もなく寝たっきりの療養をするしかなかった。
微熱はさがらなかった。ある日、父が診察してくれたあと、しばらくして母のしけが食事をはこんできた。母は泣いていたらしく、眼が赤くはれていた。
その顔を見たとたん謹介は、
〈父に言われたんだな、謹介の寿命はないというふうに。それで母は悲しんだのだ〉
と直感し、ひそかに彼は死を覚悟した。そして、幼少時代から見てきた雨戸の節穴から映る風景を、改めて見つめたのである。
彼の目尻にも熱い涙があふれていた。
(二)
謹介は一年休学してのち、大正九年にどうにか長野中学を卒業できた。
上野の東京美術学校には写真科があると知り、東大生になっている謹吾にたのんで、その手続きをしてもらった。しかし「写真科は一年おきにしか入試はやらず、今年は募集しない年」だとわかってがっかりさせられた。
画家になるには、赤貧に耐えうる精神力と体力がなければならない。病みあがりの彼には、その自信がない。当時、シベリア出兵がおこなわれていて、そのニュース写真が新聞に掲載されるようになって、広大なシベリアの風景などが彼をとらえ、写真への興味をおぼえて〈カメラマンになってみたい〉とも思うようになったのだ。
明治十二年からの朝日新聞『重要紙面の七十五年』の縮刷版をいま見ても、報道写真が紙面をにぎわすようになっているのは、このシベリア出兵前後からである。
思いがけず親子二代の奇縁ができた。
父の謹一が十三歳のときに世話になった、京都画壇のあの谷口靄山の孫にあたる谷口徳次郎が、朝日新聞社の写真部長になっていたので謹介は、その徳次郎の紹介で入社することができたのだ。幸運というほかはなく、彼は十九歳であった。
そのころの朝日新聞東京本社は、銀座の滝山町(現在の並木通り)にあった。初任給が二十円。謹介は兄の謹吾といっしょに大久保に下宿住まいをし、ここから市電で銀座へかよった。勤めが楽しいというよりも、
〈どうせ病弱の身、あと三カ月と生きられるかどうか。新聞社にいれば短期間のうちに、東京の裏表を見てまわることができる。それでいいのだ、愉しみはそれだけなのだ〉
と諦める気持のほうが大きかった。
だが三カ月どころか彼には、八十一歳の今日でもなお重いリュックを背負って撮影旅行がやれる、そんな強靱な生命力があったのだ。
肉体に自信がなかったのが、自分に無理させず、遊蕩をいましめたため、かえって人一倍の健康体にしていったのだろう。休日になると彼は、自然の風景にひかれて空気がうまい武蔵野を歩いたが、それは肉体を鍛えるためでもあったのだ。
社会部写真係はまだ幼稚なもので、部員も四、五人しかいなかった。謹介の仕事は、キャビネのアンゴーをかかえて現場へすっ飛んでゆくカメラマンの助手だった。シャッターを切るときそばにいて、かれが閃光粉を焚くのだ。ボーンと音がして閃光を発するところから「ボン焚き」とよばれていた。フラッシュが電球になる以前である。
「事件だ。ボン焚き、ついてこい」
でカメラマンの尻にくっついていった。
東芝でストライキがおこり、工場内にたてこもる女工たちの、炊き出し風景を撮りにゆくことになった。「ボン焚き」の謹介はまちがえてマグネシウムの量を多くしたため、ボーンとやったときに自分の右手をやけどしてしまった。
病院で治療してもらい、包帯を巻いて下宿に帰ってくると兄の謹吾が、
「すまんなあ。おれだけが大学にはいって、弟のおまえがさきに社会に出て、そんな危険な仕事をしなければならんのだから」
涙ぐむので謹介は、自分も眼頭が熱くなるのをおぼえながらも、笑顔になって強がってみせるのだった。
「なあーに、帝大なんかで勉強するより、新聞社のほうがよっぽどおもしろいよ。生きた社会勉強ができるんだから」
やがて謹介にも、アンゴーをかかえて飛びまわるときがきた。人力車で現場にかけつけるのである。梶棒をおさえて車夫が「おうッ、おりゃおりゃおりゃあ」と威勢よく掛声かけてひっぱってゆくのだ。
撮影はそんなに苦労しなかった。絵心があるので被写体をうまくとらえられるのだ。しかし、こんどは「ボン焚き」にやられる立場になった。
元老の西園寺公望の危篤が伝えられたとき、謹介は助手をつれて興津の「坐漁荘」という西園寺家の別邸へ急行した。玄関のわきに待機していて、天皇の侍従が見舞にきたのでアンゴーをむけたところ「ボン焚き」がマグネシウムを入れすぎたため、爆弾が炸裂したような音がして侍従はびっくり仰天するし、謹介はけむりと閃光で眼がくらみ、奥で横たわっていた元老までが事故を気づかわれるというひと幕もあった。
ライバル新聞のカメラマンとの、抜きつ抜かれつの撮影合戦もやるようになった。総理官邸で新しい内閣の顔ぶれを待って、そこらにうっかりカメラをおいていると、いつのまにかレンズにポマードを塗りたくられている。ライバル社のカメラマンがやるのであり、そうとは気づかずにシャッターを切ると、現像したとたん、大臣たちの顔がぼんやりしか写っていないことになる。もう一度撮り直しにゆくわけにはいかず、くやしがってもあとの祭りだ。
「斎藤実内閣が成立した日(五・一五事件後の昭和七年五月)に新大臣たちを撮りにいったら、他社のボン焚きがくっついてくるんですよ。うちのボン焚きがボーンとやるのと同時に、その男もボーンとやるんです。これでは照明がダブってしまい、できあがった写真は二重閃光のために白っぽくなってしまって使えたものではありません。こういう妨害をやられたことがありました」
と島田謹介は苦笑しながらもなつかしむ。
人力車から自転車の時代になると、こんなこともあった。当時は新聞社といえども社内に写真製版の機能がなかった。従って、それを通信社にたよらざるを得ず、両社間の運搬に自転車が使われていた。その自転車のタイヤの空気を抜かれたり、釘をさされたりの妨害もあったと先輩から聞いた。写真はうまく撮れても、一刻を争って社に持ち帰らなければならないのに、これでは泣きっ面にハチである。
カメラマンの誇りは自分の写真が、紙面で二段よりは三段、三段よりは四段というふうに大きく掲載してもらえることだった。パンチ力のない写真ばかり撮ってきていると、大事な写真撮影は担当させてもらえなくなるので、カメラマンたちはみんな必死だった。だから勉強も人一倍にやった。
記事がどうしても足りない場合には、そこだけ余白にしておくわけにはいかないので「穴埋め写真」の注文がデスクからきた。カット写真みたいなもので、たとえば「水ぬるむ」とか「柳がそよぐ春風」「真夏の噴水」といったような季節感があふれているものを要求された。
武蔵野や多摩川べりに出かけてゆく休日には、謹介はその「穴埋め写真」にするものをせっせと撮りだめしていった。
(三)
冒頭で「島田さんは大正・昭和史の生き証人である」と紹介したとおり、彼は幾多の歴史的事件、犯罪、政変、時の人などをその現場へいってカメラにおさめている。これほど確かな生き証人はいない。
大正十二年の関東大震災も撮影している。
九月一日のその日、夜来の雨だったので謹介はゴム長をはいて出社した。正午になろうとしたとき、グラグラグラッときた。社員らは机の下にもぐった。とっさにかれは屋上へかけあがっていった。
「波状的に余震がくるたびに、わたしのからだは屋上から、谷底に吸いこまれてゆくみたいにゆらぎましたよ。古い木造の家の屋根がゆさぶられ、瓦がずり落ちてゆくのが見えたもんです。下の道路をみると、滝山町には花柳界があったので、芸者たちが三味線を手にしたり、鏡台を抱きかかえたりして逃げだしていましたよ。
ゴム長をはいているわたしは、二食分のジャムパンを腰につけ、カメラをもって地獄の街へ飛びだしてゆきました。日比谷公園、警視庁、九段、気象台などをまわったんです。あちこちで火災が発生していました。気象台の大時計が十一時五十八分で止まっていた。九段坂を娘さんが、洗濯用の張り板をかかえてのぼっている。日ごろから年寄に教えられていたんでしょうね。大地震になると地割れがおきる。張り板をもっていれば、地割れのふちにひっかかって、底に呑みこまれるようなことはないと。
東大の赤門前ではやはり娘さんが、当時としては高価だった、蓄音器のラッパの部分だけを抱きしめて避難しているんですね。これは何のためなのかわかりませんでした。朝日新聞社は帝国ホテルを、仮の編集局にして新聞の発行をつづけましたよ。いまの東宝劇場があるあたりに松本楼というのがあって、そこの水道管が破れて、水があふれっぱなしになっていた。白昼、そこで若い女性たちが五、六人すっ裸になって水浴びをしていました。わたしは撮っておいたが、あれにはたんなる悲惨を超えた、状況をより深く浮彫りする何かがあって、大震災の光景ではいちばん印象的でした。大震災の報道写真コンクールがあれば一位になるにちがいない。そう思ってネガを大事にしまっていたんですが紛失してしまいました。のちに大阪でこの水浴びが絵はがきになって売られていた。わたしとおなじ気持で撮影していたのが、ほかにもいたわけですねえ」
震災後の大杉栄殺害事件、説教強盗の逮捕、阿部定事件、鬼熊事件なども撮っている。芥川龍之介が自殺した(昭和二年)ときには、その枕もとにあつまった菊池寛や久米正雄などの文士たちを撮っている。東京駅のホームで浜口雄幸首相が狙撃された(昭和五年)さいにもかけつけた。
五・一五事件で暗殺される犬養毅首相を、その数日前におさめている。
「信濃町の自宅付近を散歩中の犬養さんを撮らせてもらったんですが、いまでもそのときの首相の言葉を思い出しますよ。首相はこう言ったんです。これからは読む時代にかわって見る時代がくるよ。だから写真の勉強はしっかりやっておきなさい、とね。まるで今日のテレビ時代の到来を予測していたみたいでしょう。偉い人でした。昭和七年のそのころに、そんなことを予測できた人は、幾人といないはずですよ」
〈だるま大臣〉高橋是清も撮ったが、のちに二・二六事件(昭和十一年)で暗殺される運命になろうとは知る由もなかった。日本画家の横山大観、文士の島崎藤村などもレンズで追った。「アサヒグラフ」が創刊されたのは大正十二年だが、謹介はこのほうの仕事もしている。
彼が結婚したのは大正十四年秋。
お嫁さんになったのは広田操さん、明治三十九年生まれ、彼より六歳年下である。
兄の謹吾と彼は下宿住まいから、大久保にある邸宅の離れを借りて引越した。彼女はその大家さんの娘で花嫁修業中だった。顔を合わせているうちに、お互いに意識するようになったのだ。
(四)
昨年、八十歳の島田謹介が七十四歳の妻の手をひいて、クィーンエリザベス二世号でアメリカヘいったのは、留守番をさせつづけの彼女に対する「罪ほろぼし」――そのようにかれは冒頭で語ったが、事実そのとおりである。
彼には家庭におちついていられる日が、国際情勢があわただしくなるにつれて少なくなっていった。昭和六年、満洲事変が勃発すると報道カメラマンとして彼は現地へ派遣されていったのである。
この戦争は「中国側が仕掛けた」と関東軍は発表したが、現地でカメラ・ルポする彼は、日本側のあきらかな侵略行為であるのを痛感させられる。罪のない中国民衆が巻きぞえになって虐殺されてゆく。関東軍参謀部に憤りをおぼえるのだが、彼は告発できる立場ではない。
彼が撮影したフイルムを奉天飛行場でうけとって、朝日本社へ空輸するのは飯沼飛行士だった。のちに飯沼は純国産機「神風号」でロソドンまで飛び(昭和十二年)世界記録を樹立するヒーローになった。
昭和八年には謹介は、満蒙学術調査団員として再び中国大陸へ渡った。このとき彼はニュース映画も撮り、熱河省から内蒙古をまわった。いたるところで横暴な日本兵の姿を見なければならなかった。太平洋戦争がはじまった昭和十六年には謹介は写真部デスクに昇進していた。朝日本社は昭和三年に有楽町にビルを新築、移転していた。
デスクになると、別の苦労が待ちうけていた。特派員が戦場から送ってくる写真はすべて、陸軍省の新聞報道部のきびしい検閲をパスしてからでないと掲載できなかった。違反した場合は東京憲兵隊本部によびつけられ、上等兵ぐらいなのに、
「えらいことをしてくれたな、おまえは反戦主義者だろう。今日は帰さんぞ」
と脅かされ、威張りちらされるのだ。
いつも謹介が平身低頭する役目になるわけで、「いま思い出しても腹が立ってくる。ほんとうに厭な時代でしたねえ。あんな時代は二度とごめんです」と眉をひそめた。
こんなこともあった。日本陸軍の上陸用船艇ときたら、伝馬船みたいにチャチなものだった。これは兵器のうちにははいらないと思った謹介が、検閲をうけずに掲載すると、とたんに憲兵隊に出頭させられ、
「無断で何ということをするんだ。日本軍にはこんな船艇しかない、と敵に知られてしまうではないか。よくも皇軍の醜態をさらしてくれたな。軍法会議にかけて死刑にするぞ」
またしてもアブラをしぼられるのだった。
要するにデスクは叱られ役なのだ。
昭和十七年には満洲国建国十周年にあたるというので、謹介は三度目の大陸旅行をさせられた。満洲から北京へむかい、華北の占領地域を見てきた。だが、このころには南太平洋地域においては、アメリカ軍の大反撃が開始されていたのである。
敗戦の天皇放送を耳にしたとき、言わく言いがたいよろこびが謹介の全身を包んだ。
「助かったんだ。生きてゆけるんだから一人で仕事をしよう。風景を絵にすることはできなかったが、これから写真で風景を精一ぱい表現してみたいもんだ。いつか各地をまわって撮ってみよう。それを生きてゆけることの証《あかし》にしたい」
そう謹介は思ったのである。
それより三カ月前の二十年五月、東京の山の手一帯が大空襲をこうむった。「モロトフのパンかご」と恐れられていた焼夷弾をB二九がばらまく。街は火の海となり、謹介は妻と娘をかばいながら死物狂いで逃げ、文字どおり九死に一生を得た。
中学生のころ結核で倒れて死を覚悟し、いままた火の海から脱出できたおかげで終戦を迎えられたのだから「なおさら生きられるだけ生きたい。撮りたいだけ撮ってみたい」意欲が噴出してきたのであった。
だが「写真で精一ぱい表現してみたい」機会がめぐってくるのに、それからまる十年の歳月を要した。彼は誠実なサラリーマンだから、十九歳のときから恩義のある朝日新聞写真部の仕事をないがしろにはできなかったのだ。いよいよ「日本をまわって風景を撮ろう」と実行しはじめたのは、定年一年前の昭和二十九年からである。
そのとき、彼はこうも思った。
「カメラで勝負するなら風景だ。これならだれにも負けない作品がつくれる……わたしにはそんな自負がありました。報道写真は自分ひとりの力でつくれたわけではありません。新聞社のみんなの、有形無形の協力があったればこそです。
定年で退職したらいっさい、新聞社とは関係のないところで仕事をしたい。頼らない、甘えない、仕事をもらわない……この三つを大事にしなければ。たとえば全国にある朝日の支社に頼れば、どの地方の花や季節感の情報なんかでもかんたんに得られます。しかし、それもやってはいかんのだ、何でも自分でやれ、と誓わせたのです。
風景ばかりでなく、人物も撮りたい気持がありました。政治家や有名人は数かぎりなく撮ったが、これは新聞社の仕事だから撮れたのであって、定年になって肩書が無になってしまえば、改めて紹介してもらったり何なりで、とても単身ではやれっこありません。だから風景一本だけでいこう。風景を撮っている分にはだれにも迷惑をかけることもないと」
(五)
三十六年間つとめて定年と同時に、島田謹介は時間に束縛されることなく武蔵野を、カメラをさげて朝の暗いうちから、足のむくまま歩きまわるようになった。
風景は少年時代から好きであり、国木田独歩のいう「武蔵野の美は、ただその縦横に通ずる数千条の路を、当てもなく歩くことによってはじめて得られる」心境になってゆくのだが、戦後十年を経過したいまの武蔵野は都市化がすすみ、自然が片っぱしから破壊されつつある。謹介はそれを惜しみ「いまのうちに撮っておかねばと焦りながら、おカネにしたくてではなく、だれに頼まれるでもなく」撮り出したのであった。
杉林、矢竹、夏の雑木林、茶畑、雪の雑木林、春雪、桃花、すずめ、晩秋の朝、野分け、冬の富士などに慈しみの眼をむけ、しかし端正な姿勢をくずすことなく自然の造形美を作品にしていったのであった。しかも写真家の眼ではなく、日本画家のそれが光っており、どの作品にも「いまはじめて満喫している自由」のよろこびが横溢していた。
「暮らしの手帖」の花森安治が、コツコツ撮りだめしている彼のことを耳にし、写真集にすることをすすめた。そのときの謹介はまだ定年前だったので頑固に「在職中は本務以外のことはいっさい困る」と首をふって承知せず、昭和三十一年になってようやく、彼は写真集『武蔵野』を刊行する気になったのであった。
写真界はこの作品の、造形美の確かさと新鮮さにおどろいた。戦後の流行には追随せず、ひたすら自分の世界を構築している……そういう謹介の姿勢にも好感がもたれた。
『武蔵野』は第七回日本写真協会賞(昭和三十二年)を受賞した。写真評論家の金丸重嶺氏が「国木田独歩がたたえた武蔵野は、島田謹介氏によって映像のなかに再びよびもどされた」と絶讃した。受賞式が高輪プリンスホテルで開催されたとき、いまは医学界の権威となっている兄の島田謹吾も列席していて、マグネシウムで「ボン焚き」の謹介が右手をやけどして帰ってきたときみたいに、弟を思う涙顔になっていた。
武蔵野を逍遥して足に自信をえた謹介は、いよいよ日本全国に一人旅をつづけ、風景写真に専念した。旅費はいくらもなかった。
「風景写真は絵画を超えられますか?」
ぼくの質問に、彼は即座に答えた。
「風景を写真にとるとどうしても、表現力がよわまる宿命があるんです。絵のほうがはるかにつよい。画家の筆のひとつで絵は全体的に省略したり部分的に強調したりができるが、カメラは機械だからそういうことはまったく不可能なわけです」
「それでもあなたの場合は、一作ごとに絵画に接近しているではありませんか」
「もっとも端的に表現するにはどういう構図にしたらよいか……それを考えるわけです。省略するのは不可能だから、省略できない被写体にはカメラを向けません。強調したい場合は、構図と色彩によって単純化するよう心がけるわけです。花にしても風景にしても、きれいだなあと思って衝動的にシャッターをおせば電柱でも何でもはいって、作品がきたないものになってしまいます。
ですから、浜辺で遊んでいる渡り鳥をいれた海を撮るようなときにも、二羽では多すぎる、一羽にしておきたい。背景の白い波のトーンも、一羽になった場合のことを考えてなくちゃいけない。そういうふうに頭のなかで絵を描いておいて、その構図になるまで四時間でも五時間でも待ちつづけるのです」
「それでは、一日に一枚しか撮れないこともあるんでしょう?」
「もちろんです。被写体が自分の絵になるまで待ちつづけるのは、たのしいことですよ」
昭和三十二年、謹介は「週刊朝日」に『日本カメラ風土記』を連載することになった。週刊誌としては初のカラーグラビアであり、これは編集長の扇谷正造氏が話をもってきたのだった。
「自由に撮らせてくれるか。あそこがいい、こっちのほうがいいと指示されるのは困る。わたしの気のすむようにさせてくれるなら、という条件でスタートしたんです」と謹介はいう。
連載は一年間つづけられ、読者の評判も高かった。高名な画家たちがこのカラーグラビアを切り抜いてスクラップしていたそうだ。彼は佳き風景をさがし出してくる名人にもなったわけである。
カラー写真の時代の到来には、いっそう力づけられた。画家たちと同様の、自由な色彩表現の世界があたえられたことになるからである。彼は梅原龍三郎氏が主宰する「国画会」の写真部会員にもなった。カメラ雑誌にはめったに作品を発表せず、写真界の傍流にあることに甘んじ、作品の大半は写真集にするときのために撮りだめしていた。そういう島田謹介を、いまは亡き大佛次郎は「風景のお遍路」とよんだ。
(六)
島田作品の写真集はこれまでに『武蔵野』『旅窓』『雪国』『信濃路』『五十鈴川』『四季』『京の叙情』『丘』などいずれも超豪華本で出版されていて、だいたい二年おきに一冊のペースである。
大佛次郎は『四季』の序文で、
「紅梅白梅を描いた日本画の秀作が、花を囲む冷たく透明な空気や、うすら寒さ、あるいはのどかな春の光まで感じさせることは稀れである。雪中の梅にしても花の美しさは表現されても、積む雪の冷々とした感覚は、絵画では容易に出ない、写真とは言いながら、島田さんのカメラが雪の中の紅梅に向うと、花の美しさだけではなく、花が可憐にかじかむような冷々とした風情が出た。何と、その紅梅の枝の大きく見えることよ」
と絵画を超えた存在になっているのを、賞讃してやまない。
雑誌の締切りや量産に追われつづけの売れっ子の写真家より島田謹介のほうがはるかに写真家らしく、幸せではないかとぼくは思っている。風の吹くまま、時間や約束にとらえられることなく、美のお遍路さんとなって、好きな風景のなかに存分にひたっていられるからである。
彼はこういう旅日記を書いている。
「石狩川の河口の、鮭の漁場の見える宿に泊まったが、ひと切れの鮭の切り身も出ないので、一本買って、石狩鍋を食わせてくれと注文したら二泊の宿代が千円で、食いきれなかった鮭の代が千五百円だった。そして、食い残した鮭は味噌漬けにして、東京への土産にしてくれた」
「間宮林蔵が樺太へ渡った宗谷海峡に面した、宗谷村落に泊まった時、目の前の海で、盛んにとれるえびを、一尾も食膳に出さないので、これも注文したら、おやつに食い切れぬほどのえびをゆでたのをもって来た(中略)。私はこの遠来の客をもてなす、素朴なまごころにあふれた宗谷の宿が、いつまでも忘れられない」
「山の畑の老婆に『いいコブがあるが、見て買っとくれ』と言われた。日高昆布の本場だから、少々なら買ってもと思って、老婆の後について山を下った。案内した老婆が家の奥から持ってきたのは見事な木の瘤の床飾りだった。私は、しまったと思った。海の昆布だとばかり思っていたとも言えず、残念だが重いリュックを持っているので、次のときにすると言って、昆布の干してある浜に下りた。地図とチーズ、昆布と瘤、と口ずさみながら北海の海に向って、私は声を出して笑った」
「釧網線の列車に乗り込むと、大きなリュックを担《かつ》いだ一人の老人が、私の眼の前に坐った。いきなり『わし幾つに見えるか』と言った。呉服の行商で稼いで、毎月一回、弟子屈《てしかが》温泉の彼女に会いにいくのが楽しみだと言った。年を聞いて驚いた。老人は九十四だよと誇らしげだった」
旅さきでこのような、人と人とのふれ合いを経験したり、まごころのこもった味覚にありつくこともできる飾りっ気のない島田謹介が、ぼくには限りなくうらやましい。
現在、彼は赤城山へかよっている。
そこの大沼の湖畔に天然の白樺の林があって、この新緑をどうしても撮りたいのだ。白樺は生まれ故郷の長野にもたくさんあり、少年時代から好きな樹木のひとつだった。
京都の嵯峨野にも、もう三年がかりでかよいつづけている。嵯峨野の自然を写真で「描き」たいのだ。ここは他の写真家たちの作品になっているが、彼はカンバスに描くように撮りたいのだ。
千葉の水郷――ここの四季も撮りだめしている。新宿の一番電車で佐原までゆくのだが、あまりに朝がはやいものだから同乗の釣師たちにまちがえられ、ついに太公望仲間にされてしまった。釣りの趣味がないとも言えず、かれらの話に相槌打ってやっているが、内心は大いに困っている。
いずれ『白樺』『嵯峨野』『水郷』も豪華写真集になるだろう。彼にはまだまだ長生きしてもらって「大正・昭和史の生き証人」でいてほしいと願うのは、ぼくだけではあるまい。(昭和五十六年七月取材)
●以後の主なる写真活動
昭和五十七年島田謹介作品展。五十八年島田謹介作品展。
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小久保善吉《こくぼぜんきち》「五割に運を賭けて」
「いまはスポーツ新聞の全盛期、といえるような時代ですが、各紙のスポーツ写真をごらんになって、どう思われますか?」
ぼくは、そんな質問からはじめた。
ところは新宿、カワセビルにあるミノルタフォトスペースの応接室。
「ゲームのヤマ場を撮っていても、つまらないものがありますねえ。プロ野球やサッカーの実況中継をやっているテレビの画面でも、つねにヤマ場ばかりを撮影しているわけではないんだが、逆にそういうヤマ場でないところに、カメラマンとしてはおもしろなあと思いたくなる場面があるものなんです。しかし、それは撮ったとしても、紙面には絶対に載せてもらえない作品です。
たとえば、巨人軍の原選手がカーンとホームランを打つ。これは絶対に紙面をひきたたせる商品なんだけれども、スポーツ紙はそればかり、という感じがなきにしもあらずですね。むしろ、原に打たれた瞬間の大投手のほうが、絵になることだってあるのに。
ロンドン・オリンピックの記録映画を市川崑(映画監督)さんといっしょに観たとき、ソ連の重量あげ選手がバーベルを高々とあげて新記録で優勝したシーンより、それをくやしがって壁をこぶしで叩いている他国の選手の表情のほうが、はるかに印象的でした。市川さんが『これだよ、これがスポーツ写真だよ』と言い、わたしも同感でしたねえ。
現代の若いスポーツカメラマンたちにも、そういうことはわかっているんだろうけど、紙面をひきたたせる商品しか載せてもらえないのだから、かわいそうですよね。自分たちはカメラで勝負している、というところが出せないことが多いみたいで」
答えてくれる小久保善吉さんは当年七十一歳。とてもそんなおトシには見えず、笑ったときなど童顔になってしまう。そして、とにもかくにも明るいお人なのである。
「スポーツ写真のすばらしさは、どこにあるんでしょう?」
「おなじ写真が絶対に撮れない、ということでしょう。それに動くものに対するカンがよくなるし、シャッターチャンスのカンも大いに養えますしね。わたしがいちばん魅せられたのはサッカーです。広いグランドに二十二人の選手が散らばるし、ピントを合わせるのがむずかしいスポーツのひとつです。
だから、なおさら撮りたくなるわけで、とくに釜本選手が相手のマークをはずし、シュートを打つ瞬間の太ももはすばらしい。まさに筋肉美、それが撮れたときなんかもう、ほかに欲しいものは何もない……そんな気持になりますよ」
「男女いずれのスポーツがいい……?」
「体操の場合はやはり、女子選手のほうが絵になります。しかし、いま言うようにサッカーの釜本選手の脚の筋肉は惚れぼれします。陸上競技も男子選手のほうがいい。外国選手の場合はどのスポーツに限らず、男女とも表情がゆたかでドラマを感じさせるけど、日本人選手は無表情なのが多く、いつも残念に思いますよ」
小久保さんは日本のスポーツ写真家の草分けである。「日本のニール・ライファーだ」と賞讃する声もあり、とくに六〇年代のスポーツヒーローで、彼のカメラにおさめられなかった者はいない。昭和三十九年の東京オリンピックのとき、彼が「アサヒカメラ」に連載したその選手たちの美技を、記憶している諸君も多いと思う。
「躍動する女体、そのフォームの美しさ……という点ではヌードもおなじではないんですか。ヌード写真もお撮りになることがあるんでしょう?」
半ば冷やかすみたいにぼくが問うと、小久保さんは目尻をさげて苦笑した。
「ヌードだけは撮りたくありませんねえ。ヌード撮影会の講師をたのまれて、モデルのポーズはこういうのがいいのではないか、と教えることはありますがね。自分ではシャッターをおした経験もないんです。わたしにはヌードはおもしろくないんです。そういう肖像的なものでなく、光景のなかの動的な人物を撮りたい……となると、やはりスポーツということになるわけです」
現在、小久保さんは秋山庄太郎氏が学院長である、東京目黒の日本写真専門学院の主任教授にもなっている。この夏には在校生百三十人をつれて、沖縄に研修旅行に出かけた。これら在校生の何人かはスポーツ写真家をめざして、未来の小久保善吉になるはずである。
(一)
明治四十三年八月二十二日は、日本が韓国を併合した日である。この日に小久保善吉は、神戸市加納町に生まれている。ここは現在の三宮駅前だが、ビルが林立する広場と道路になっていて、彼が出生した当時のおもかげはどこにも残っていない。
神戸出身といえば、戦後に「ヌードを抽象化した新しい作家」と絶讃されて写真界に躍りでてきた中村立行氏もそうである。
彼は大正元年の生まれ。新聞販売店の息子で画家を志した。神戸三中時代の先輩に、のちに映画評論家として名をなす淀川長治氏と、「暮しの手帖」社を経営した花森安治がいた。
小久保善吉は豆腐屋の息子であった。加納町のその豆腐屋の裏を、山陽本線が走っていて、車輌のひびきと煤煙でいつも家はいためつけられていた。
父親の豊吉は、渥美半島で百姓をしていたのだが、ハイカラな神戸へ出てきてひとかどの貿易商にでもなるつもりだったらしい。しかし現実はそう甘くはなかった。
善吉が生まれたときはすでに、異母兄がひとりいた。豊吉の最初の妻が産んだ子であった。その妻が亡くなったので、彼女の実妹である春が、やもめ暮らしの義兄である豊吉のところに、家事の手伝いにくるようになった。姉によく似ていて働きものだった。
「そんならいっそうのこと、春を後妻に迎えたらどうだ。姉の夫だった男と再婚するのだから、春も厭とは言うまい」
親戚一同が話しあって春は祝言をあげ、まもなく善吉を出産したのである。
善吉は、大阪の玄関である梅田駅が近い曽根崎の、曽根崎高等小学校に学んだ。
曽根崎といえば近松門左衛門の『曽根崎心中』で有名な、大阪商人の遊び場である花街・北の新地だが、善吉が育ったのはそんな美妓たちがいる紅灯の巷《ちまた》ではなく、裏町も裏町、小さな町工場や長屋がひしめいていた。善吉たちのたのしみは堂島川で泳いだり、釣をしたりするぐらいなことであった。
豆腐屋の経営にも失敗した豊吉は、店をたたんで大阪のこの裏町へ引越してきたのであり、こんどはヤスリ工場を二、三人の職人を雇ってはじめたのだった。
善吉が高等科にいるとき、ヤスリ工場は失火から灰になってしまい、一家はいっそう貧乏になっていった。
そのため進学できない彼は、中之島にある朝日新聞大阪本社の写真部の雇員として働くことになった。
異母兄の政雄は関西大学にすすみ、バスケットボールの選手になったほどのスポーツマンで、卒業すると大阪朝日の運動部記者をやるかたわら、大阪薬学専門学校の女子バスケットボールチームのコーチをひきうけた。
その政雄がはげまして、
「カメラマンになるのに学歴はいらん。実力さえあれば出世できるんだ」
と写真部に就職することをすすめ、カメラのカの字も知らないながら善吉も、その気になったのだ。大正十五年春のことであり、大阪NHKが開局になったり、「アサヒカメラ」が創刊されたりしたのは、この年の十月だった。女性のハンドバックが流行しはじめた。
雇員というのは給仕であり、社会部の記者やカメラマンたちからは「子供」と呼ばれ、月給が二十一円であった。さきに登場いただいた島田謹介氏はすでに、このころにはもう東京朝日のほうの第一線カメラマンとして活躍していたわけだ。
給仕時代の島田氏と同様、「子供」である善吉も最初のうちは、現像液の調合からやらされた。これが毎朝の日課であり、それからアンゴーをかかえて撮影に出かけるカメラマンのあとにくっついていって、その現場で「ボン焚《た》き」をやらされるのだ。
心斎橋筋にある大丸デパートの、催しものを撮るカメラマンの「ボン焚き」をつとめたとき、マグネシュームが爆発してしまった。群衆が悲鳴をあげて逃げまどい、店内はパニック状態におちいった。当の善吉は首から上をやけどしてしまって両眼がつぶれ、その場に昏倒した。
病院へかつぎこまれた。駆けつけた政雄と母親の春が枕もとで心配していた。失明するおそれがあると医師は言ったが、眼は三日後には見えるようになった。
顔の皮膚が、ぺろりとひと皮むけた。包帯だらけの顔が正常になるまで出社しなくてもいい、ということで半年間の有給休暇がもらえた。未成年者でありながら社会へ出て働かねばならなかった、悲しくもなつかしい思い出としていまなお、彼の脳裡にその騒ぎがよみがえってくるという。
(二)
昭和六年、満洲事変がおこったとき、小久保善吉はよく大阪駅へやらされた。そのころには第一線カメラマンに成長していて、満洲の戦野へ送られてゆく出征兵士たちの、親や妻や子たちの見送り光景を撮るためであった。いよいよ軍国主義の時代だ。
「スポーツが撮りたい」
という意欲がわいてきたのは、市岡のグランドで開催された全日本学生選手権大会を撮りにいってからだった。新聞のスポーツ欄にはふんだんに写真が載せられる現代的な紙面になっていたし、現在の「アサヒグラフ」のような「アサヒスポーツ」が月二回刊行されていて「傑作をたのむよ、善ちゃん」とおだてられることもあって、その選手大会での十種目競技の織田幹雄、南部忠平などのフォームに善吉は魅せられてしまったのだ。
この年の十月に開催された東京の、神宮競技場での陸上競技大会において、走幅跳に南部忠平は七メートル九十八、三段跳に織田幹雄は十五メートル五十八の世界新記録を樹立していた。まさに日本のヒーローであった。読売新聞社がガーリックら米大リーグ選抜チームを日本に招いたのも、この十月だった。
いまの全国高校野球の前身である全国中等学校野球を、甲子園球場に撮りにかようのも毎年のたのしみになった。スポーツ大会はたいてい土曜日とか日曜日とか祭日におこなわれるので、スポーツ写真家はほかのサラリーマンたちがのんびり休んでいる日が、仕事をする日であった。それでも善吉は政界もの、社会もの、風俗ものなどの報道写真よりもやりがいがある仕事に思えた。
いまひとつ、スポーツ写真が彼を惹きつけるのは、各紙のできふできがわかり、毎日その競争ができるたのしみもあるからだった。それでいっそうファイトが湧き立つのだ。
当時、大阪朝日には十二名のカメラマンが待機していた。「新聞カメラマンは片寄ってはいかんのだ」ということで何でも――事件ものでも芸能ものでも撮らされたが、いつしかスポーツだけは、
「おーい、善ちゃんの出番だぞ。おまえ行ってくれ」
とデスクから指名されることが多くなっていった。腕前を認めてくれているのだ。
スポーツ写真は、動きがあるだけにむずかしい。それは当りまえのことだが、なにしろ当時はロクなカメラしかないのだ。レンズは暗いし、フィルムはわるいしで、
「しかし、それだからこそ、苦労のしがいがあったんですよ」
と、彼は悪条件がかさなるのをむしろ、天からの授かりもののごとくありがたがるのである。
野球の場合はホームベースがあるので、そこにカメラを向けていればよい。そこでランナーが滑りこんできて捕手がタッチする。クロスゲームになる。陸上競技とかスキーの大回転とかジャンプなども、コースが定められているし、フォームもきれいだから、そのヤマ場もさしたる苦労もなく撮影できるが、サッカーやラクビーとなるとそうはいかぬ。選手たちは広いコートを左に右に縦横に駆けまわるから、カメラのピントがはずれる。
「もう五十年以上もサッカーやラグビーを撮っているけど、これだけはいまでも現像してみるまで、うまく撮れたという自信はありませんねえ。目測のカンが正確になるまでがたいへんな訓練なんです」
と、彼はすこし苦痛な顔をする。
そこでスタンドから十メートルの距離だと百ミリの望遠レンズを、二十メートルの距離だと二百ミリのそれを、三十メートルさきだと三百ミリのを――三台のカメラのピントを合わせて、それぞれに狂わぬようテープで固定しておく。その三台を首にぶらさげていて、その距離距離ですばやく使いわけるようにした。
いちばん多い失敗は「ピンぼけ」だが、その上さらに「スポーツ写真の傑作は五割が運であり、あとはカメラマンのカン」だと言われる。ピンぼけがなかったからといって、必ずしも傑作になるとは限らないわけだ。
(三)
ボクシングの世界タイトルマッチのときなど、リングサイドの位置は各新聞社のカメラマンたちがくじ引きで決めることになっている。絶好の場所に何人も群がるわけにはいかないからだ。
しかし、たとえ場所がわるいくじを引いたからといって、悲観することはない。その眼のまえで、挑戦者の強烈なパンチをくらってチャンピオンがぶっ倒れる――そういう運がめぐってくることもあるからだ。
たとえ絶好の位置でも、その眼のまえばかりでボクサーが闘ってくれるわけではない。ちょうどパンチがあごに決ったシャッターチャンスのときに、レフリーの後姿が邪魔になって、現像してみて撮れていたのはレフリーの背中だけだった――ベソをかきたくなることもしばしばあるのだ。
サッカーやラグビーでも、相手チームの選手が邪魔になったりすることが多く、
「スポーツ写真の傑作は五割の運がつくる」
と言われるのはそのためである。
現代ではモータードライブの連動シャッターがあるから、運ばかりにたよる必要はあるまい。そう思いたくなるだろうが、やはりそうではないのだ。百メートル短距離の走者をそれで追っても、十メートルの間で五枚しか撮れていない。
しかも、十分の一秒ぐらいのズレがあるため、テープを切った決定的瞬間が撮れてなくて、テープを切る直前と、すでに切ってしまったあとの絵になっていることもある。
だから「ぴったりのシャッターチャンスだった」と自分では満足していても、いざ現像してみるとテープを切る直前と、すでに切ったあとの作品になっていたりで、これでは傑作とは言えない。
世界の強豪チームが来日したときなど、カメラマンたちはどうしても、かれらをよく撮れる場所を確保したがる。そちらのほうにはカメラマンが群れをなしていて、日本チーム側には一人もいないという光景になる。
小久保善吉は、むしろ日本チーム側にいてカメラをかまえることにしている。
なぜならば――
「日本チームが負けることはわかっている。しかし最低一点はとるだろう。たった一点しかはいらなくても、その一点をとったときの『やったぞ!』という雰囲気がいい。それは日本チーム側にいるわたしにだけしか撮れないものなのです。
朝日の現役時代、そうやって撮ったのが、他紙のよりよかったことがあります。フリーになってからは極力そのようにしているし、固定したその場で最高のものを撮ろうとする心がまえのほうが大事です。決めた場所からうごかぬこと。あっちがいい。こっちがよさそうだと追いかけてはダメ。向うからいい場面が飛びこんできてくれますよ。ふしぎに選手たちのほうが、わたしの眼のまえでヤマ場をつくってくれるんです」
一度として彼は、サッカーやプロ野球をたのしく、のんびりと観戦したことはないという。一度ぐらいはそうしようと思っても、ついカメラマンの眼になってしまい、カメラを手にしてしまうのである。
そうすることが、つねにスポーツ写真家としてのカンを狂わせないためのトレーニングなのだ。たえずカメラはうごかしていなければならないのである。
毎日新聞大阪本社に、石川忠行という名うてのカメラマンがいた。小久保善吉のよきライバルで、いつも競技場や野球場で鉢あわせになった。善吉はニヤニヤ微笑した。しめしめ、と思った。彼と会うとふしぎに、自分のほうがいい写真を撮れるからである。
石川忠行氏のほうは「今日もイヤな野郎がきているなあ」という表情になった。負けてしまう自分を認めざるを得ないからだ。
ところが、おなじ大阪毎日にいる木村某があらわれると、こんどは善吉のほうが渋い顔になる番で、木村はニヤリと笑う。
サッカーを撮りにいっても、お互いに意識しあって、おなじ場所からは決して被写体をとらえない。プライドがあるのでお互いに敬遠しあっているのだ。
毎朝、デスクのまえには各紙がならべてあり、「善ちゃん、ちょっと見ろよ」と言われる。どちらの写真の出来がいいかわかるいか一目瞭然だろう、とデスクは言外に匂わせている。嫌味にそう言われるときは善吉の写真が負けているのであり、勝っているのがこの木村某なのだ。「またしても無念の涙か」と善吉はくやしがる。連敗つづきである。
それは、力量の差というようなものではない。プロ野球にたとえれば、三割打者でも「どうもあの投手だけは苦手だよ」と顔をしかめてしまう場合がある。小久保善吉にとっての木村某は、そのような存在なのである。
そのくせ、撮影がおわると木村や石川を誘って飲みにゆきたくなる。赤ちょうちんの飲み屋で、お銚子をならべながら写真論を戦わす。「負けたほうがおごる」という約束で、朝日対毎日の写真部同士で草野球をやったりすることもあった。写真部で右に出るものがないほど善吉はたいへんな酒豪でもあった。
「一生に一度でいいから、オリンピックを撮りたい」
これを善吉は悲願としていた。
昭和十一年八月、ベルリンにおいて第十一回オリンピックが開催された。日本選手団一七九人が参加。三段跳に田島直人、マラソンに孫基禎、女子二百メートル平泳ぎに前畑秀子、男子八百メートルリレー(水泳)、二百メートル平泳ぎに葉室鉄夫、千五百メートル自由形に寺田登……それらが金メダルを獲得しており、善吉は撮りたくてウズウズしていたのだが派遣させてはもらえなかった。
(四)
翌十二年春、小久保善吉は二十八歳で恋愛結婚した。喜美子さんという、三歳年上の姉さん女房である。
彼女は天満橋にあった、食料品店兼レストランの「野田屋」に勤めていた。独身の善吉がここに食べに寄るうちに、お互いに意識しあう仲になったのだ。店が休みの日、彼女を競技場へつれていったこともある。
善吉夫妻は二人の息子に恵まれた。
現在、長男の一郎氏は早稲田大学を出て新日本製鉄に勤務しており、次男の昭彦氏はおなじく早大英文科を出たが、フリーカメラマンとなって「バブ」というグループを結成。三十二歳。世界の自動車を撮ってまわっている。おやじは走る人間に、息子は走る車に夢中になっているわけだ。
それはともかく――新婚まもなく日中戦争が勃発、善吉は朝日新聞特派の報道カメラマンとして南京攻略に参加させられた。
戦場へゆくのはこれがはじめてではない。満洲事変のときは熱河省へゆき、上海事変では上海で市街戦を展開する海軍陸戦隊を決死撮影した。
南京占領後の昭和十三年十月、バイアス湾の敵前上陸作戦と広東攻略戦に加わり、翌十四年二月の海南島攻略にも同行した。
従軍すること前後八回、
「ホトケの顔も三度、こんどこそ敵弾にやられるのではないか」
つねにその恐怖感がつきまとっていた。そして最後には、生きながらの地獄を体験させられるのであった。
太平洋戦争になると彼は、フィリピンのマニラへ派遣された。ここには名将といわれる山下奉文大将が指揮する、第十四方面軍十三万人の将兵がいた。小久保善吉は各社の記者、カメラマンたちとともに山下将軍に招待されたことがあり、そのとき将軍がこう語ってみんなをびっくりさせた。
「率直に言う、日本に勝ちめはない。国内では『一億玉砕、撃ちてし止まむ』などと言っておるようだが、国民がそうなってしまったら日本民族は滅亡する。たとえ負けようとも命は粗末にしてはならぬ」
だからといって「われわれ報道班員を、いまのうちに帰国させてください」と哀願することもならず、まもなく惨澹《さんたん》たる敗北の日が迫ってきた。
マッカーサー元帥がひきいる米軍が反撃、ルソン島の奪回作戦を敢行してきたのは昭和二十年一月。そして二月はじめにははやくも首都マニラ市内に突入。日本兵の屍の山がそこここにできた。
善吉は各社の十一人の報道班員とともにマニラから脱出、百キロ北方にあるエチアゲ飛行場へ避難した。守備隊長の中佐が、
「われわれは死守して散るが、きみたちは軍属だから死ぬことはない。できるだけ遠くへ逃げのびるんだ。生きて日本を再建しろ」
と言い、餞別として五合の塩を詰めた氷嚢をひとつずつくれた。これが命綱である。
「どんなことがあっても死ぬもんか。生きていなければならんのだ、オリンピックを撮るまでは」
善吉はおのれを叱咤しつづけた。
それから三十日間、ジャングルの山中をあてもなく放浪した。武装している数人の日本兵と合流した。かれらの銃で三頭の野猿を射殺して食った。食糧がないのだからササ、朝顔の黒いタネ、雑草、へビ、オタマジャクシ、ヒル、食えそうなのは何でも口に入れた。
カメラは携帯していたがフィルムがなく、しまいにはレンズだけ残してボディーは棄ててしまった。そのレンズで火をおこし、オタマジャクシを飯盒で煮るのである。まさに全員が餓鬼と化していたのだ。
米軍機が上空を舞い、「投降しなさい、殺しはしない」のビラを撒布した。それでも信用ならず、なおも山中放浪はつづいた。氷嚢の塩も尽きてしまった。夜は寒かった。
小さな村までおりてきたとき、軍人でないと見てとった土民たちが、親切にすすめた。「日本軍は全滅した。アメリカ兵たちはすぐ下まできている。かれらは抵抗しなければ射ちはしません」
善吉らは投降することにした。
アメリカ兵が最初にくれたのは、真水の缶詰と煙草であった。その水のうまかったこと、まだ生きている自分を善吉は、改めて思い知り涙顔になっていた。ボロボロの服装だ。
マニラへ送られ、ニュービリビット監獄に収容された。ここで捕虜生活をするうちに、八月十五日の日本降伏を知った。なおも山中にあって抵抗していた山下将軍が、投降してこの監獄に送られてきたのは八月末だった。
庭内を散歩中の将軍に、善吉は声をかけたことがある。大将の襟章はすでにない。
「閣下……」
感きわまって言葉をつまらせると、もはや閣下ではない、山下とよんでください、と微笑して、
「私は日本に帰る気はない。この地で処刑されるのを待っています」
うなずきながらその場から去っていった。
翌二十一年二月二十三日、山下奉文はマニラ郊外のロス・バニヨスで絞首刑に処せられた。
(五)
そのころ小久保善吉は、大阪日日新聞の写真部長として大阪朝日から出向させられ、焼跡だらけの大阪にいた。ヤミ市には戦災者、復員兵、浮浪児、パンパンガールがうごめいていた。
善吉は昭和二十年末、マニラから引き揚げ船で帰国していたのであり、だから「山下奉文絞首刑に処せらる」のニュースを聞いたときは、思わず直立不動の姿勢になり落涙した。
大阪日日には一年間いて、彼は北九州の朝日新聞西部本社に転勤させられた。戦後のスポーツはしだいに復活してきた。まず二十年十一月、早慶野球試合とプロ野球東西対抗試合が神宮球場でおこなわれたし、なんといってもビッグニュースは古橋広之進が四百メートル自由形競泳で、四分三十八秒四の世界新記録を出したことであった。
二十四年八月のロサンゼルスの全米水上選手権大会でも、古橋は自由形千五百、八百、四百メートルで世界新記録を樹立、「フジヤマのトビウオ」と言われた。暗い事件ばかりがつづく敗戦後の日本人を、これほどよろこばせた快挙はない。
小久保善吉もまた、往年のスポーツ写真家のカンをとりもどして、大いに撮りまくるようになった。そして昭和二十七年七月、悲願成就の日が到来したのであった。
「ヘルシンキでおこなわれる第十五回オリンピックに派遣する」
との出張命令が本社からとどいたのだ。
この大会に日本選手の戦後初参加がゆるされ、善吉は東京朝日の記者である入江徳郎氏(現在TBSのニュースキャスター)といっしょにフィンランドへ飛んだ。
善吉は特ダネ写真をものにした。
レスリングのバンタム級に石井庄八選手が出場、予期しなかった金メダルを獲得した。日本勢が手にした唯一のものだった。
まさかそんなことになるとは思わない各社のカメラマンは、古橋広之進の自由形千五百に期待をかけて、水泳会場のほうへいってしまった。しかし、善吉だけはトイレにゆくふりしてみんなから離れ、そのまま石井庄八を撮りにいったのである。
古橋選手はアメリカのフォード紺野に破れた。そのためカメラマンたちは傑作をものにすることができなかったが、善吉のほうは石井選手が出場した決勝戦の組写真を撮ることができたし、優勝した一瞬、外国のカメラマンたちが彼を、
「日本、おめでとう!」
と祝福しながら、部外者は禁止されているリングの上までおしあげて、石井選手をさらによく撮らせてくれたのである。この組写真は朝日新聞をかざり、APやUPIの写真でまにあわせるしかなかった他紙のそれに圧勝した。
前述のごとく、スポーツ写真を撮るときには「あちらがいい、こちらがいいと追いかけないこと」を守り、しかも「五割の運」に賭けたのがよかったのであり、
『挑む群像・小久保善吉スポーツ写真展』が日本橋東急において開催されたのは、東京オリンピックの前年――昭和三十八年であり、そのころ彼は西部本社から東京本社に移り、写真部次長に昇進していた。
この個展に彼は「小久保善吉の最高傑作はこれだ!」と金丸重嶺氏が激賞した自転車競技のタイム・トライアルも出品していた。
これは昭和三十八年、後楽園競輪場での世界自転車選手権大会に出場したインド人選手を、カメラをとめずに流し撮りにしたものだ。二百ミリの望遠でシャッター速度は三十分の一秒である。
そんな最高技術をもつ彼も、東京オリンピックでは大失敗もやらかしている。
四百メートルリレーの決勝。第三コーナー付近で、最終ランナーにバトンタッチされる瞬間を、モータードライブのカメラでねらっていたのだが、「あッ!」と声をあげざるを得なかった。故障してシャッターがおりなかったのだ。まさに世紀の千載一遇のチャンスをのがしたのだった。
『挑む群像』の個展をやったころから、善吉の写真の世界はさらにひろがっていった。
「週刊朝日」に『日本美再見』が連載されることになり、国立博物館の野間清六氏が文章を書き、善吉がそのカラー写真を担当、宇治平等院の国宝である仏像の手、東大寺の門扉の金具などを撮りつづけるのが三年間もつづいた。静寂の世界にひたるのである。
「国宝には、見てすぐカメラを向ける気にはなれず、一時間ぐらいはじーっと見つめていますね。五重の塔の板壁を撮りにいったときなど、住職が『まあ、半日ぐらい眺めていなさい』と言う。事実、そうせずにはいられなくなるんです。土門拳さんは『おい、そろそろ撮らんか、と仏像のほうから言ってくれる、それまで待つのだ』と語ったことがあるけど、そういうものを感じますねえ。
風景を撮っても、風とか雲とか水のうごきを撮りたくなる。名画を観ていると、描かれている人物とか鳥とかがうごくのを感ずる。それを撮らなければ、という気になる。
日本画の橋本明治先生が真冬に『桜を見にゆこう』とわたしを誘ってくれたことがありました。『冬には花は咲いていませんよ』と言ったら、先生は『いいから従《つ》いてこい』と笑っている。そこで福島の有名なしだれ桜を見に出かけたんです。先生はまだ芽さえついていない枝を、丹念にスケッチしましたね。それは花が満開になったときには、枝がよく見えなくなるから、いまのうちに枝だけは描いておきたかったんですね」
この『日本美再見』は朝日新聞社より写真集として刊行され、一連のスポーツ写真もふくめて小久保善吉は日本写真批評家協会賞を受賞した。
昭和四十年、朝日新聞社主催の『ツタンカーメン展』のため、善吉はカイロへ出かけた。エジプトのナセル大統領が、ツタンカーメンの黄金のマスクを貸してくれることになっているのだが、交渉は長びき五十日間も滞在しなければならなかった。これが朝日新聞社における、彼の最後の仕事となった。『ツタンカーメン展』がおわるのと同時に、彼は定年を迎えたのだ。「ボン焚き」の給仕からじつに四十年間いたことになる。長くもあり短くもある歳月だ。
フリーになると善吉は、スポーツ写真を撮りつづけるかたわら、尾瀬の四季にもカメラを向けた。『尾瀬』の個展を富士フォトサロンで開催、実業之日本社がその写真集をまとめてくれた。
善吉の好きな写真家は、スナップ写真ではブレッソン、人物写真ではチャーチル首相を撮っているカーシュ。日本では土門拳、中村正也であるという。いま長野、群馬、山梨県などの村道で見かける双体道祖神をさがし出してはカメラにおさめており、すでに二千点にもなっている。
双体道祖神にカメラを向けているときも、小久保善吉は、自分自身の人生を撮るシャッターチャンスを待ちつづけているのだ。(昭和五十六年十月取材)