炸 裂
勝目 梓
目 次
一章 偽善者
二章 鳥になる
三章 爆 音
四章 密 告
五章 乳 房
六章 切 断
一章 偽善者
1
薄闇が校庭を包みはじめている。
黄色い喚声《かんせい》と、野太く荒っぽい声がいりまじってひびく。女子のバレー部と野球部が、まだ練習をつづけていた。ボールはそろそろ見えなくなるだろう。
見事な夕映えの空も、輝きを失いはじめている。山の稜線がくっきりと黒い。垣原《かきはら》市立第三高等学校の敷地は、西に山を背負っている。
教職員用の駐車場は、西校舎の端の出入口の近くにあった。山と校舎の陰になっているために、その一画だけ一足さきに宵闇が濃くなる。
校舎から出てきた三人の生徒が、停めてある車と車の間にしゃがみこんだ。三人とも、手にしていた通学鞄《かばん》を、放り出すようにして地べたに置き、その上に尻を据《す》えた。
「順番はどうするんだよ、甲田《こうだ》」
「きまってんじゃねえか。ジャンケンだ」
「甲田はジャンケン強ぇからな」
「気合だよ、そんなの。おまえらが出したザーメンでヌルヌルしてる穴なんかに突っこみたかねえからな。気合がちがうよ、おまえらとは」
「誰《だれ》だって一番にやりてえよ。なあ、塩野《しおの》」
「気合だとよ、武井《たけい》。気合がちがうんだと。笑っちまうよ。おれはおまんこに気合入れる気にゃなれねえや」
「どうでもいいけど地べた坐《すわ》ってんの、貧乏たらしいや。塩野、やれよ」
甲田健介《けんすけ》が、隣《となり》の塩野道夫の膝《ひざ》を小突《こづ》いた。
「やれって、何を?」
「車のドア開けろよ。車の中で待ってようぜ。商売道具、持ってんだろう?」
「ああ」
「車の中で待つのはいいけど、先公が来たらどうすんだよ。車の持主の先公が」
武井繁行《しげゆき》が、立ちあがりかけた塩野の肩を押えて言った。
「かまやしねえって。先公が来たら、わかんねえうちに車から出ちまえばいい。塩野、やれ」
甲田が暗がりの中で顎《あご》をしゃくった。塩野は通学鞄を開け、中からスチールのスケールのようなものを取り出した。それが車の窓のガラスに沿って、すべるようにしてドアの内部に押し入れられた。そいつの先端で、ドアに内蔵されているロックの爪をはずすのが、塩野はうまい。
ドアは呆気《あつけ》なく開いた。甲田が先にリアシートにもぐりこんだ。塩野がつづいた。武井は助手席に乗った。
「吸うか?」
甲田がたばこの袋をさし出した。塩野と武井がセブンスターを一本ずつ抜き取った。
武井は盗癖がある。たばこの火をつけてから、武井は車のグローブボックスを開けた。缶に入ったキャンデーが中にあった。金色に横文字のデザインの、薄い紙箱があった。武井がそれを開けた。コンドームのパッケージだった。武井が低い笑い声をあげた。
「おい、これ、誰の車だ?」
武井は缶のキャンデーを口に放りこんでから言った。
「誰のか知らねえや。キャンデーよこせ」
甲田がリアシートから手を伸ばしてきた。武井はその手の上に、キャンデーではなく、コンドームの小さな包みをひとつのせた。甲田が包みを破って中身を出した。
「コンドームはめてやる気か、武井」
「そうじゃねえよ。グローブボックスに入ってたんだ。だから誰の車かって言ったんじゃねえか」
「いいじゃねえか。先公だっておまんこやるんだから、コンドームも使うよ」
塩野が言った。
「おい、来たぞ。ミス美術部が。あれ、そうだろう」
甲田が校舎の出入口を指さした。かわいらしい顔立ちの大柄な女生徒が廊下の明りの中に見えた。一人だった。鞄と手さげ袋を持っていた。手さげ袋からスケッチブックがのぞいていた。
「藤田圭子《ふじたけいこ》だ。来た、来た」
「塩野、ペンシルライト持ってきてんだろうな」
「忘れるもんか」
「よし、いこ」
三人は車から出た。武井が少し遅れた。キャンデーの缶とコンドームの箱をグローブボックスに押し込んで、武井も外に出た。吸いさしのたばこが地面につぎつぎに落とされ、足で踏まれた。
甲田が先頭に立った。すぐうしろに武井と塩野が並んでつづいた。三人とも手に鞄をさげていた。
藤田圭子は、下駄箱の前を離れて、校舎から出てきた。そこで彼女は甲田たちと向き合うことになった。他には誰もいなかった。
甲田が藤田圭子の前を塞《ふさ》いだ。武井と塩野が藤田圭子のうしろに回った。誰も口をきかない。藤田圭子は怯《おび》えて顔を歪《ゆが》めた。
甲田は冷静だった。まわりを見回して、人の姿のないことを確かめてから、甲田はいきなり手にさげていた鞄で、藤田圭子の耳のあたりを横殴りに殴りつけた。
藤田圭子がヒッという声をあげた。武井がうしろから藤田圭子の首に腕を巻きつけた。塩野が彼女の口を片手で押えた。甲田がポケットから出したナイフを、藤田圭子の鼻の頭に当てた。
「おとなしくしねえと、この高い鼻ナイフで削っちまうぞ」
甲田が言った。藤田圭子の眼に涙がにじんだ。武井が首を抱えこんだまま、藤田圭子の背中を体で押して歩かせた。
駐車場のはずれに、体育用具の小さな倉庫がある。倉庫の扉《とびら》は少し開いていた。甲田が足でその扉を開けた。藤田圭子は倉庫の中に連れこまれた。最後に甲田が中に入り、扉を閉めた。校庭ではまだ女子のバレー部と野球部の、練習の声がひびいていた。
「塩野、ライトつけろ」
甲田が言った。倉庫の中は暗かった。塩野がペンシルライトをつけた。武井が先に立って、藤田圭子を奥に連れていった。空気が埃くさく、すえたような匂《にお》いがこもっていた。
武井が跳び箱を並べた陰に、藤田圭子を引き倒した。藤田圭子の足がはねあがり、スカートがめくれ、太腿があらわになった。甲田が藤田圭子の胸を靴《くつ》で踏みつけ、鞄を放り出した。武井がもがく藤田圭子の両腕を押えた。塩野が彼女の両の臑《すね》を押えた。
「おれが押える。パンツ脱がせろ」
甲田が藤田圭子に馬乗りになり、彼女の両手をつかんで床に押しつけた。藤田圭子が叫んだ。声がかすれて高くはひびかなかった。甲田がいきなり藤田圭子の頬《ほお》に平手打ちをくれた。容赦《ようしや》のない殴り方だった。
「あきらめておとなしくしろ。おまえが選ばれたんだよ。顔がきれいでグラマーだからな。名誉なことじゃねえか、女なんだからよ」
甲田はナイフを藤田圭子の頬に当てた。片手が制服の上から彼女の乳房をつかんだ。藤田圭子が息を詰まらせた。
「パンツよこせ。声出されるとやべえからな。口に突っ込んどこう」
武井がむしりとったパンティを投げてよこした。甲田が藤田圭子の前髪をつかみ、ナイフで彼女の口をこじあけた。武井が丸めたパンティをそこに押しこんだ。
「ジャンケンだ。こい」
甲田は藤田圭子に馬乗りになったままで、躯《からだ》を横にひねった。塩野が甲田の背後から、拳《こぶし》ににぎった手を突き出してきた。甲田はナイフを放り出し、片手をうしろに回して、むき出しにされた藤田圭子の性器をつかもうとした。そこには先客があった。塩野の手が、薄い陰毛をのせた藤田圭子のそこに、しっかりと手を押しつけていた。甲田が力まかせにその手を払った。塩野は笑って手を引っ込め、すぐに藤田圭子の内股《うちまた》を乱暴につかんだ。
ひそめた声のジャンケンがつづいた。甲田が勝った。甲田は藤田圭子に馬乗りになったまま、あとじさった。
藤田圭子が強く膝《ひざ》を締《し》め、上体でもがいた。武井が床にころがっていたナイフを取り、藤田圭子の頬に当てた。それでも彼女は腰をはねあげ、上に乗った甲田をはねとばそうとした。パンティの猿轡《さるぐつわ》を咬《か》まされたまま、藤田圭子はくぐもった呻《うめ》き声と、火のような呼吸の音を洩《も》らした。
塩野が藤田圭子の脚《あし》を開かせようとして、彼女の足首をつかんで力《りき》んでいた。武井はナイフを犠牲者の頬に当て、片手で彼女の制服の胸をはだけ、ブラジャーを喉《のど》もとまで引きあげた。あらわになった乳房がはげしく上下していた。床に置かれたままのペンシルライトが、藤田圭子の胸もとに、揺れる乳房の影をつけていた。武井の手が乳房のひとつをわしづかみにした。乳房は五つの指先で深いくぼみをつけられ、張りつめたまま形をいびつに変えた。
甲田は下着とズボンを膝までおろしていた。勃起《ぼつき》しきったペニスの先が濡れていた。
「ナイフを貸せ」
甲田が押し殺した声で言った。武井はナイフを甲田に渡すと、あいた手をすぐに乳房に押し当てた。藤田圭子の両腕は、武井の膝で押えられていた。
「股《また》をおっぴろげなきゃ、おまんこをナイフでぶっ刺すぞ」
甲田がうわずった声で言った。ナイフの峰が藤田圭子の陰毛を薙《な》ぎ払った。藤田圭子が息を呑《の》んだ。締められていた膝の力がゆるんだ。塩野が足と手をつかって引き裂くように藤田圭子の脚を開かせた。
甲田がすばやく彼女の膝の間に膝を割り入れた。甲田は藤田圭子の片方の膝を肩に担《かつ》ぎあげた。歪んだ形に押し開かれた彼女の股間を、塩野が喘《あえ》ぎながら床に頬をつけ、覗《のぞ》きこんだ。甲田が低い笑い声を立てた。
甲田は指で藤田圭子の性器をなぞり、位置を確かめ、そこに自分の唾液を指で塗《ぬ》りひろげ、少し手間どった末に押し入った。
藤田圭子は重く呻き、全身を硬直させた。彼女の躯はピンで留められた虫のように、床の上で動きを奪われていた。
塩野が前に出てきた。塩野は乳房を独占している武井の手のひとつを、殴りつけるようにして払い、いきなり乳首に吸いついた。乳首を吸いながら、塩野はもうズボンと下着を膝までおろしにかかった。武井も同じことをした。武井は勃起したペニスを、藤田圭子の乳房にねじりつけた。乳房は甲田の腰のはずみを受けて揺れていた。
2
演劇部の部会は六時半に終った。
宇津木光弘《うつきみつひろ》は職員室に引き揚《あ》げてくるなり、たばこに火をつけた。
授業のときは習慣になっているから我慢できるたばこが、クラブ活動や、部のミーティングのときは無性《むしよう》に欲しくなる。
その日も部会では、秋の文化祭の公演のテーマが決まらずじまいだった。
創作劇を発表することだけは、すでに決定していた。内容について意見が二つに分かれている。テーマを親と子の問題に絞《しぼ》るか、学校での生活を題材にするか――。
創作劇をすすめたのは部長の宇津木だった。そこから先の選択は、宇津木は部員たちの自主性と創造性にゆだねるつもりでいる。
いっこうに話がまとまらないのは、見ていて歯痒《はがゆ》い。宇津木はしかし、口をはさまずに、迷走しがちな会議につきあっている。
すっかり暗くなった校庭は、静まり返っていた。野球部名物の、練習の後のダッシュもすでに終ったのだろう。
職員室に残っているのは、当直の教師だけだった。宇津木は持って帰るものを鞄に入れ、机の抽出《ひきだ》しから車のキーを出した。最後に念入りにたばこを灰皿で消して、当直の教師に声をかけ、職員室を出た。
駐車場の車は二台だけになっていた。宇津木が運転席に坐り、ドアを閉めたとき、すぐ先の体育用具の倉庫の扉《とびら》が中から開いて、人影が出てきた。三つだった。暗くて影にしか見えなかった。
宇津木は一瞬、訝《いぶ》かった。すぐに、部活で遅くなった生徒が、道具をしまいに来たのだろうと思った。
宇津木は車のエンジンをかけた。スターターの音で、三つの人影がふり向いたように思えた。宇津木は車のライトをつけた。光の中に三人の顔が白く浮かんだ。一瞬のことだった。三人は光を避けてすぐに顔を元に戻した。ぼんやりと視線を前に投げていただけだった宇津木に、三人の顔を眼に留《と》める間はなかった。
三人の足が早くなった。二人が駈《か》け出した。一足遅れた一人が、また宇津木の車のほうをふり向いた。それが三年生の甲田健介《こうだけんすけ》であることが、今度は宇津木にもわかった。甲田の顔には薄笑いがあった。すぐに甲田も連れの二人を追って駈け出した。
不審な思いが宇津木の胸に戻ってきた。
甲田健介が非行グループの番長であることは、担任ではない宇津木も知っている。甲田の父親は、垣原市一帯に根を張っている暴力団の組長である。甲田の家は、甲田健介の曾祖父の代から、その土地でやくざ稼業の看板を出している。甲田健介も、それを笠に着て、教師たちを舐《な》めているところが見えた。事実、教師たちも甲田健介には及び腰なのだ。健介の父親を敬遠してのことだ。
だからといって、甲田健介が校内で眼に余る振舞いをしたり、大きな問題を引き起したことはない。警察|沙汰《ざた》になるようなことだけは、やくざの父親に戒《いまし》められているのか、きわどいところで健介は踏みとどまっている。
その甲田健介が、仲間らしい生徒と、放課後のこんな時間に、体育用具収納庫からのっそりと出てきたのだ。甲田はボクシング部に籍を置いている。ボクシング部は適当な指導者がいないのと部員が極端に少ないために、部活動らしい動きは行なっていない。非行グループや非行の傾向のある生徒たちの溜《たま》り場と見られている。部活のために甲田が体育用具収納庫に出入りする用があるとは思えない。
宇津木は車を出しかねた。ライトの光の中で甲田が見せた薄笑いが、宇津木の眼にはりついていた。人を小馬鹿にしたような笑いに見えた。甲田たち三人の姿はもう見えない。
奴《やつ》らはあそこでたばこでも吸ってたのだろうか。火はちゃんと消したんだろうな――宇津木はそう考えた。彼が体育用具の倉庫の中をのぞいてみる気になったのは、たばこの火の不始末を心配したからだった。
倉庫の扉は開けっ放しになっていた。一歩中に足を入れて、宇津木は暗がりの中で洟《はな》をすする音を聴いた。耳をすますと、それが嗚咽《おえつ》の声に変った。
宇津木は手を伸ばし、扉の横の電灯のスイッチを探り、明りをつけた。嗚咽の声がぴたりと止んだ。
「誰かいるのか? そこに」
宇津木は奥に声を投げた。気配はあったが人の姿は見えない。宇津木は乱雑に物の置かれた中を、奥に進んだ。
「来ないで!」
声が飛んできた。跳び箱の陰だった。さし迫った悲鳴のような女の声が、逆に宇津木の足を急がせた。
「藤田!」
宇津木は自分の担任のクラスにいる藤田圭子の姿を見て、息を呑《の》んだ。髪の乱れきった藤田圭子が、制服の上着を胸に押し当て、その胸を折った膝にぴたりとつけて、床の上で躯を丸くしていた。裸の背中に埃が塗りついていた。埃は彼女の裸の太腿のところも汚していた。そばに血の色の見える丸まった小さな布ぎれが落ちていた。それがパンティだと宇津木にわかるまで、少し間があった。
「甲田たちか?」
宇津木は言った。何がそこで起きたのか、一目瞭然だった。
「あっちに行って!」
藤田圭子がかすれた声で言った。宇津木はすぐに倉庫を出た。
「待ってるよ、外で。送っていってやる」
宇津木は扉のところから小さく声を投げた。返事はなかった。宇津木はつけっ放しの車のライトをスモールに変えた。倉庫の明りはつけたままにしておいた。藤田圭子が身づくろいをするのに、暗くては困るはずだった。
藤田圭子はなかなか出てこなかった。宇津木は外に洩《も》れている倉庫の明りが気になった。当直の教師に見咎《みとが》められると厄介《やつかい》だ、と思った。大騒ぎにしてもかまわない事柄だとは、宇津木には思えなかった。宇津木は、まっ先に考えてやるべきは藤田圭子の気持だ、と思った。
「早くしなさい。当直の先生が来ると厄介だよ」
宇津木は倉庫の入口から小さく声をかけた。跳び箱の陰から、制服を着た藤田圭子が立ちあがるのが見えた。藤田圭子はよろめいた。しかし、すぐに歩き出した。服にも埃がついていた。
宇津木は藤田圭子が出てくるのを待って、明りの中で服の背中やスカートについた埃をはたいてやろうとした。彼女の肩に置かれた宇津木の手が払いのけられた。
「服が汚れてる。埃をはたきなさい」
顔を伏せたまま、藤田圭子はおざなりに服をはたいた。宇津木は背中をはたいてやった。その手も藤田圭子はよけようとした。宇津木は胸が詰《つ》まった。いまの藤田圭子には、牡犬だって呪いの対象になりかねないのだろう、と宇津木は思った。
車のうしろのドアを開けてやると、藤田圭子は先に奥に鞄と手さげ袋を放り込み、乗りこむとすぐに鞄に頭をつけてシートに伏せた。
「帰ろうと思って車に乗ったとき、倉庫から甲田たちが出てくるのを見たんだ。他の二人の顔は見えなかった。出てきたのが甲田だったから気になって、中をのぞいたんだ。こんなひどいことを奴らがしてるとは思わなかったよ」
校門を出てから、宇津木は言った。返事はなかった。
「あとの二人は誰だった?」
「…………」
「藤田、先生なんでも相談にのるぞ。先生はこれは警察に訴えるべき事件だと思うよ。帰ってお母さんに話をするんだ。先生はもちろん証人になる。おまえは恥ずかしいと思うかもしれないけど、恥じるべきは甲田たちのほうなんだぞ。おまえは胸を張ってなきゃだめだ。いいな。わかるな」
「そうやって厄介払いをすれば、先生たちは気が楽になるものね」
ようやく聴きとれるくらいの細いかすれた声が、リアシートから返ってきた。
「厄介払い?」
「甲田のことよ。先生たちはみんな甲田には弱腰だったじゃない。やくざの組長の息子だから」
「そんなことはないよ。先生は甲田の父親を怖がってはいないぞ。だから警察で証言するつもりでいる」
「人のことだから、胸を張ってだなんて、カッコいいこと言えるのよ」
「人のことだなんて思っちゃいない。とにかく今はおまえもいろいろ言われたくないんだろうから黙るけど、先生はおまえの味方だからな。それだけは言っとく」
藤田圭子が何か言った。宇津木には聴きとれなかった。
(放っといてよ)
そう言ったように思えた。やりとりはそれっきりになった。
宇津木は、藤田圭子の母親の顔を思い浮かべた。藤田圭子は、看護婦勤めの母親と二人で暮していた。離婚家庭だった。母親の勤め先は総合病院である。看護婦は交替勤務で、夜は藤田圭子だけになることもある。そういう話を宇津木は家庭訪問のときに聞いている。今日は母親が家にいる日だろうか、と宇津木は考えた。藤田圭子にそれをたずねてみたかったが、何か言えば言うだけ、相手の心を捻《ね》じ曲げることになりそうだったので、口まで出かかったことばを彼は呑みこんだ。
藤田圭子の家は、県営の団地の中にあった。彼女の家の棟《むね》の前で、宇津木は車を停めた。藤田圭子は無言のまま、車を降りた。宇津木は短く声をかけて、彼女を見送った。
ふだんは口数の少ないところはあるが、素直で、行儀のよい生徒だった。成績は中の上といったところだが、絵の素質があって、デザイン関係の勉強をしたいという希望を持っていた。手のかかる生徒ではなかった。いま反抗的に見えるのは、ショックで気持が押しつぶされているせいだ、と宇津木は考えた。
団地の入口に電話ボックスがあった。宇津木は車を停めて、ボックスの中に入った。
担任の子供の家の電話番号は、すべて手帳に控えてあった。藤田圭子の家の番号を回すべきか、母親の勤め先に電話をすべきか、宇津木は少し迷った。
総合病院のほうを選んだ。電話は外科のナースセンターに回された。電話に出た看護婦らしい相手は、藤田さんは帰りました、と告げてきた。
宇津木はいくらか気持が楽になった。自分の口から娘の身に起きたことを母親に告げるのは、できれば逃れたい役目に思えたのだ。
3
「藤田圭子の奴、今日も欠席してるってよ」
武井が言った。
「輪姦《マワ》されりゃあ、学校の二、三日ぐれえ休むだろうよ。でかいの三つもぶっこまれたんだぜ。あそこがおっぴろがったまんまで、歩けなくなってんだよ」
甲田が笑った。
「おれ、きょうよう、理科室の前で宇津木とすれちがったんだよ。あいつ、すげえ顔しておれを睨《にら》んでたんだよ。宇津木の野郎、知ってんじゃねえか? 藤田圭子のこと」
塩野の声には不安そうなひびきがあった。
「知ってるわけねえだろう」
甲田はコーラで割ったウイスキーのグラスを、たばこを指にはさんだ手で口にはこびながら言って笑った。
「だけど甲田、あんときあそこでライトつけた車は、宇津木のだぜ。まちがいねえ。おれはぱっとナンバー見て憶《おぼ》えたんだから。なあ武井。おまえにもナンバー言ったよな」
「藤田圭子は宇津木の担任だしな」
武井は言って、読んでいたマンガ週刊誌を放り出した。
「ばかか、おまえら。てめえから輪姦《マワ》されましたって話しする女がいると思ってんのか。藤田圭子がしゃべりさえしなきゃ、誰にもわかりゃしねえよ。なあ、みどり、そうだろ。おまえ、おれたちにマワされたとき、誰かにしゃべったか?」
甲田は言って、ミニスカートの膝をあぐらにして、テレビゲームに熱中しているみどりの腰を足で突ついた。
「ミチコにだけ話した。ミチコは誰にも言わないほうがいいって言ったわよ。恥かくのはあんただからって」
「ミチコはおまえのダチだけのことはあるじゃねえか。それが友情ってもんだ」
「あんたたち、いい加減にしたほうがいいんじゃないの。あたしはあのころ、ギンギンのツッパリだったから、マワされたぐらい屁でもねえって思ってたけど、藤田圭子って子はまじめな子なんでしょう。かわいそうよ」
「ツッパリだろうがまじめだろうが、おまんこに変りはねえよ」
甲田はまた笑った。
「まじめなおまんこだからやってみてえってこともあるよな」
武井も笑った。
「ああ、おまんこやりてえ。よかったな、藤田圭子。おっぱいはでかいしさ。おれ、あいつがあんなに毛が生えてるとは思わなかったな」
「ばかが、塩野の奴、思い出してやがんの。ほんのいまさっきは、宇津木にばれてんじゃねえかって、びびってたくせによう」
「びびりとおまんこやりてえのとは別だよ」
「心配すんなって。ばれちゃいねえよ。なんならおれがあした試《ため》してみてもいいぜ。賭《か》けるか、おまえら」
「試すって、どうやって?」
「宇津木はおまえらの顔ははっきり見ちゃいねえかもしれねえけど、おれの顔はしっかり見てるはずだよ。おれはわざとふり向いて顔を見せてやったからな」
「どうしてそんなことしたんだよ、甲田。やべえじゃねえか。誰がやったって証拠がなきゃ、ばれたって平気なのに」
「おら、おまえらと違うよ。藤田圭子のことがばれたときのことを、おれは考えてたんだよ。だからわざと堂々と宇津木に顔を見せてやったんだよ。てめえ、余計《よけい》なことしゃべりやがったら、ただじゃすまねえぞってつもりで、顔見せてやった」
「甲田組の息子《ワカ》に手ェ出す先公はいねえからな」
「ふざけんな、武井。甲田組は関係ねえ。そういうこっちゃねえよ。宇津木が余計なことしたりしゃべったりしたら、おれ自身が承知しねえよ」
「そりゃいいけど、宇津木が知ってるかどうかを、どうやって試すんだよ、甲田」
塩野が言った。
「塩野はきょう、宇津木に睨みつけられたんだろう。おれも明日、こっちから宇津木の前に出て行くよ。野郎があれを知ってれば、睨んでくるはずじゃねえか」
「野郎にそんな度胸があるかねえ? 甲田組の息子《ワカ》に眼《ガン》とばす度胸がよ」
「組は関係ねえって言ってるだろうが、武井。てめえ、おれを舐《な》めてんのか」
甲田が眼を据《す》えた。武井が眼を逸《そ》らした。
「いくら賭ける? おまえら」
「千円。千円だな、武井……」
「ああ、千円なら賭ける」
「しけたこと言うなよ。たった千円で安心料をすませようってのか。一万円だ。いいな」
「おまんこの安心料だから一万円かよ」
武井が笑って言った。塩野はその駄洒落《だじやれ》が通じなかったのか、笑わなかった。
「きめたぞ。一万円だ。いいな」
「いいよ。もしばれてなかったら儲《もう》けもんだよな。いつだって藤田圭子のおまんこやれるもんな」
塩野が言った。
「うるさいわね。さっきからおまんこ、おまんこって……」
みどりが塩野を睨みつけた。
「みどり、見せろよ、おまえのおまんこ」
塩野は躯《からだ》を横にして、あぐらをかいたミニスカートのみどりの膝に頭をのせた。スカートの奥にミッキーマウスの絵のついたパンティがのぞいていた。みどりは膝をはねあげて、塩野の頭を床に落した。眼はテレビゲームの画面から離れていない。
武井は空になったグラスに、目盛りを測るような慎重な手つきでウイスキーを注いだ。
「武井。薬を飲んでんじゃねえんだぞ。ガバッと注いでガバッと飲め」
「甲田は人んちの酒だと思って気楽なこと言うけど、おふくろに文句言われんのはおれなんだぞ」
「文句言われたらなあ、武井。あのテープおふくろに聴かせてやるんだよ。おまえが隣の部屋で盗み採りした、おふくろさんと男とのあのときのすげえよがり声をよう」
甲田が言った。
「あ、あのテープまた聴きてえな。武井、テープ出せよ」
みどりの股倉をのぞくのを止《や》めて、塩野が起きあがって言った。
「そういやあ、みどりはまだ聴いたことなかったな、あのテープ。聴かせてやるよ」
「人がセックスしてるときの声なんか聴いたって、おもしろくもなんともないよ」
みどりは言った。
そこは武井繁行が、母親と弟の三人で住んでいる、マンションの部屋の居間だった。サイドボードにはスコッチやブランデーの壜《びん》が並んでいた。革張りのソファが置いてあるのだが、武井たち四人はソファに坐《すわ》らずに、絨毯《じゆうたん》を敷《し》いた床に尻を据えている。
武井の母親は、その街の盛り場でミニクラブを経営している。不動産会社の社長がパトロンについている。社長は週に一、二度、昼間の時間を選んでその部屋にやってくる。武井と弟は、昼間は学校に行っているからだ。たまに、酔って武井の母親と夜中に帰ってきて、そのまま泊っていくときもある。
武井の弟は中学一年生で、兄とちがっておとなしい成績のいい子供である。夜は弟は塾に行く。二つの塾をかけ持ちしているから、ほとんど家にいることはない。夜は武井だけになる。そのためにいつからか、そこは甲田たちの溜《たま》り場になっていた。
武井も離婚家庭の子供だった。武井と弟の信博《のぶひろ》とは、種ちがいの兄弟である。母親が二度離婚をくり返している。武井は弟には父親がちがうということを話していない。信博はそういう事情はまだ知らずにいる。できることならおとなになるまで、信博がそのことを知らずにすめばよい、と武井は思っている。武井は、自分とちがってグレそうもない、勉強好きの信博が好きだった。
「たまんねえな。アウン、アウンだってよ」
塩野が言った。床に置かれたラジカセのスピーカーから、押し殺しかねたような女の喘ぎ声が洩《も》れている。塩野がラジカセのボリュームを少し上げた。
「気が知れねえな。いくらおふくろが嫌ェだからってよう、武井。おまんこのときの声を人に聴かせてよろこんでんのは、おまえぐらいのもんだぞ。親は親じゃねえか」
「今度はなんとかして、おふくろがやってるとこをカメラかビデオで撮って、売りまくろうと思ってんだ、おれは」
武井は真顔で言った。
「もう、うるさいんだから。ねえ、甲田さん、何かやらない?」
みどりがテレビゲームを放り出して、甲田に媚《こ》びるような眼を送った。
「咳止《せきど》め。|眠り薬《メタ》。シンナー。なんでもそろってるぜ」
「ラリたくなっちゃった。いま持ってんの? ヤク」
「ああ。銭《ぜに》はあんのか?」
「ない。躯《からだ》で払う。だめ?」
「だろうと思った。おまえはいつだって躯だからな。ほんとはおまえ、ヤクがほしいんじゃなくて、おまんこしたいんだろう」
「ちがうわよ。おまんこなんかちっともよくないもん。オナニーのほうがよっぽどまし」
「オナニーしてみせろ。そしたらヤクをやるぞ」
「ヤクちょうだい」
「先に脱げ」
みどりはするすると素裸になった。
「オナニーだけじゃねえからな。やらせるんだからな、あとで……」
塩野が言った。
「あんたにヤクを回してもらうんじゃないじゃないか。えらそうに言いやがって!」
みどりは脱いだパンティを塩野に叩《たた》きつけた。
「おれはショバ代もらう権利があるぞ。おれの部屋だからな、ここは」
武井が脚を開いたみどりのほうに、身をのり出した。男たちの視線が、みどりの股間に集まった。みどりは甲田の前に手を突き出した。甲田がポケットからビニールの袋を出し、中の小さな紙包みをひとつ、みどりの手にのせた。中身はメタカロン系の睡眠薬だった。甲田組が東京の密造グループから仕入れてきて、売り捌《さば》いている。
みどりは立ったままで中の錠剤を口に放りこみ、甲田の飲みかけのコークハイで喉《のど》の奥に流し込んだ。甲田は目の前のみどりの、申しわけ程度に陰毛の生えた性器に手を伸ばし、指先でクレバスを撫《な》でた。
みどりはその場に坐り、片手で乳房をさすりながら、もうひとつの手を股間に向けた。みどりの中指の先が、浅いクレバスに沈み、そこで細かく動きはじめた。片方の脚は開いて伸ばされ、片膝は立てられていた。塩野と武井が、みどりの腿に顔を近づけて、彼女の指の動いているところに眼を注いだ。
甲田は立ちあがって、下着とズボンを脱いだ。ペニスが勃起《ぼつき》していた。
「こいつ、意外と尺八うまいぜ。なあ、みどり。しゃぶれよ、おら」
甲田が腰を突き出した。みどりが笑って、乳房から放した手で甲田のペニスをにぎり、無造作にそこに唇をかぶせた。武井がみどりの乳房に手を伸ばした。塩野は床に寝そべって、みどりの性器を押し開き、つくづくと眺め入った。そこは稚《おさな》くて乾いていた。
「ほんと、あんたたちってスケベね」
みどりが言った。勝ち誇《ほこ》ったような言い方だった。
4
藤田圭子の欠席は二日目になっていた。
欠席届は出ていなかった。校則では欠席の場合は、父母が欠席届を認《したた》めて、自署捺印《なついん》したものを担任に届けることになっている。実際は父母からの電話の連絡ですまされる場合が多い。校則は必ずしも厳守されてはいなかった。
二日目になっても、藤田圭子の母親からは、欠席の連絡はなかった。宇津木はいくつかのことを想像した。心が塞《ふさ》がる思いの想像ばかりだった。
藤田圭子の欠席二日目の昼休みに、宇津木は学校の外に出て、近くの電話ボックスから、藤田圭子の家に電話をした。圭子が電話に出た。彼女は宇津木が名乗るとすぐに、何も言わずに電話を切った。宇津木はすぐに電話をかけ直した。今度は誰も電話に出てこなかった。
宇津木は圭子の母親の勤め先の病院に電話をした。母親の藤田昌代《まさよ》は勤務中だったが、手術室に入っていて手が離せないということだった。宇津木は手術の終る時間をたずね、名前を名乗って電話を切った。
午後の最初の授業を終えて、宇津木はふたたび学校の近くの電話ボックスまで走った。
電話口に出た藤田昌代の声も口調も、いつもと変らなかった。彼女は圭子が学校を欠席していることを知らずにいた。
「どうしたんでしょう、圭子は。きのうもきょうも、いつもと変らないようすで、朝出て行ったんですよ」
「そうですか……」
宇津木はことばを探した。母親は圭子の身に起きたことを知らずにいるようすだった。病院のナースセンターの電話だから、知っていても話せないのかもしれない、とも思った。
「何かあったんでしょうか? あの子……」
「ちょっとね。お母さん、話を聞いてやってください。詳《くわ》しいことは本人の口からお聞きになったほうがいいと思いますので」
「面倒《めんどう》を起したんですか? あの子が……」
「お母さん、明日はお宅にいらっしゃいますか?」
「五時半には帰ってますけど……」
「じゃあ、そのころぼくがお宅に伺《うかが》います。藤田君が面倒を起こしたわけじゃないんです。圭子君は気の毒なめにあってるんです。そのつもりで話を聞いてやってください」
「はい……」
心細げな返事だった。
つぎの日も、圭子は欠席だった。近所に住んでいる一年生の女子生徒が、藤田圭子の欠席届を預って、宇津木に届けてきた。母親の手で書かれた欠席届だった。理由は風邪《かぜ》となっていた。日付はその当日までと記されていた。
一時限の授業が始まる前に、藤田昌代から宇津木に電話がかかってきた。
「欠席届をことづけましたけど、あれでよかったんでしょうか?」
「届のほうは別にかまわないんです。圭子君と話をなさったんですね?」
「それが、圭子は何も言わないんです」
「お母さんにもですか」
「何があったんですか? 先生……」
「お家からですか? この電話」
「出勤の途中なんです」
「わかりました。今日、お宅に伺ってから話します。電話じゃちょっとあれですから」
「五時半には帰りますから」
「圭子君、どんなようすですか?」
「それが、おとといからずっと、いつもと変ったようすはなかったのに、あたしがきのう病院から帰って、学校を休んでるわけを訊《き》いたときから、自分の部屋に入ったっきり、口もきかないし、食事もしないんです」
「無理もないな。じゃあとにかく、夕方に」
宇津木はふりきるようにして電話を切った。教師たちのたくさんいる職員室の電話で、レイプの話をするわけにいかなかった。
午後の最後の授業を終えると、宇津木はすぐに車で学校を出た。藤田圭子の母親が帰ってくる前に圭子の家に行き、彼女と話をするつもりだった。
宇津木は、藤田圭子に冷静な気持を早くとり戻させてやりたかった。それは病気で苦しんでいる者に、病気のことを忘れよと求めるようなものであることは、宇津木にもわかっていた。だが、冷静に対処しなければ、藤田圭子の傷はさらに無残なものになるかもしれないのだった。
無断欠席も、母親に話を打ち明けないでいることも、無理からぬことだろうが、宇津木には冷静さとは程遠く、藤田圭子が抜ける場所のない道に踏みこんでいっている現れと思えてならなかった。
宇津木が、藤田圭子の家のインターフォンを鳴らしたのは、四時半ごろだった。返事がなかった。宇津木はそれは予測していた。インターフォンを鳴らしつづけた。
返事がないまま、突然にドアが開いた。宇津木がドアの前に立ってから十分は過ぎていただろう。
「帰ってよ」
ドアを開けるなり、藤田圭子は低い険《けわ》しい声を出した。それも宇津木の予測にあったことだった。宇津木はドアをつかみ、躯を割りこませるようにして中に入った。
「帰るわけにいかないんだよ。お母さんとここで会う約束をしたんだ」
言って宇津木はドアを閉めた。
「あたしが黙ってんのに、余計《よけい》なことしないでよ、先生」
「黙って欠席されたら、放っとけないだろう。欠席のことがなくても、ぼくはお母さんに対して知らん顔はできないさ。担任として」
「よっぽどお節介《せつかい》やきたいのね」
言い捨てて、藤田圭子は奥に消えた。
「上がらせてもらうよ」
宇津木は靴を脱いで、スリッパを出し、藤田圭子のあとを追った。
二DKの作りの団地だった。藤田圭子はいちばん奥の部屋にいた。襖《ふすま》がしまっていた。宇津木は声をかけて開けた。学習机と本棚とベッド、洋服|箪笥《だんす》などの置かれた六畳の和室だった。壁に光GENJIのポスターと、藤田圭子の描いたものらしい油絵が何点か飾ってあった。
ピンクのトレーナーとジーンズを着た藤田圭子は、ベッドの端に腰をおろして、顔を伏せていた。宇津木は机の前の小さなスチールパイプの椅子に腰をおろした。机も椅子も小さくて、古びていた。圭子はその机と椅子を中学のときから使っているのかもしれない、と宇津木は思った。すると、目の前の圭子の背負っている痛ましさが、不意に強く宇津木の胸に迫ってきた。同じ強さで、甲田ら三人に対する憤《いきどお》りも、あらためて頭をもたげてきた。
「三日間、何を考えてた?」
宇津木は慰《なぐさ》める口調で言った。
「何も……別に……」
「お節介と言われれば、そうかもしれない。先生が知らずにいれば、それはそれで終ってたのかもしれないからな」
「放っといてよ。どうしてかまうの?」
「先生てのは、勉強だけ教えてればいいってもんじゃないからだよ」
「どうしろって言うの? あたしに」
「物事には正しいやり方と正しくないやり方がある。それを教えるのも先生のつとめなんだよ」
「強姦されたあたしが説教されるわけ?」
「説教なんかじゃない。いまおまえにとっていちばん正しい道は、四日前の事をお母さんに話して、事件を警察に訴えることだよ。誇《ほこ》りを踏みにじられて黙っているというのは、人間として自分で自分を卑《いや》しめることだからね」
「警察に訴えて、みんなにあれは強姦された女だって指さされることが、誇りを守ることなのね?」
「警察に訴えるのが勇気のいることだというのは、先生もよくわかる。警察沙汰にするかどうかは、おまえとお母さんが決めることだ。先生はそれについては何も言えない。警察に訴えないなら、それはそれで、誇りを守る道はある」
「知ってるわよ。あいつら三人を殺すのよ」
「おまえの気持の上でね。あいつらを無視して、胸張って生きろ。学校も休むな。堂々としてろ。奴らはゴキブリだ。いや、ゴキブリ以下だ。ゴキブリがちょっとおまえの足の上を踏んで通っただけだ。あいつらを少年院に送って怒りをはらすことができないなら、そう考えて胸張ってるしかない」
「きれいごと並べないでよ。先生もあいつらと一緒《いつしよ》よ!」
藤田圭子の声がふるえた。
「どうして一緒なんだ?」
「男だもん。先生だって四日前、あたしが来ないでって倉庫で言ったのに、入ってきてあたしの裸を見たじゃないの」
「無茶言うなよ。何があったか知らずに入って行ったんだ」
「それだけじゃないわ。先生は甲田の顔を見たのに、追っかけようとしなかったじゃないのよ。倉庫の中で何があったかわかったのに、あいつらを追っかけなかったじゃないの」
宇津木はことばに詰《つ》まった。藤田圭子の言うことは、理に叶《かな》っていた。だが、あのとき宇津木は、藤田圭子のズタズタにされている心のほうに気持が行って、暗闇の中を駈《か》け去った三人を追うことなど、頭に浮かばなかった。越度《おちど》でないとは言えない。
「相手が甲田だから、先生は追っかけなかったのよ。やくざが怖かったから」
藤田圭子のことばは鋭かった。宇津木はそのことばを否定できなかった。あのとき甲田を追わなかったのは、自分がやくざと面倒を起すことを怖れる気持があったからかもしれない――宇津木は考えた。
藤田圭子の傷ついた気持に心が向いたというのも、嘘《うそ》ではない。甲田たちを追っていって捕え、騒ぎを起せば、藤田圭子が凌辱《りようじよく》された事実までが、知る必要のない人間にまで知られることを虞《おそ》れた、というのも事実だ。
けれども、それが甲田たちを追わなかった理由のすべてと言いきれるだろうか。それらは、自分の心の怯懦《きようだ》を覆《おお》い隠すための口実にすぎないのではないか――宇津木は自分を問い詰めた。
「何が誇りよ。先生だってただの男じゃないのよ」
藤田圭子は笑った。笑いながら立ちあがると、彼女は荒々しく躯を動かして、着ている物を脱いだ。宇津木は意表を突かれた。
「何をするんだ、おまえ……」
「先生に強姦させてやるわよ。やりたいんでしょう、先生だって」
あっという間に、藤田圭子はパンティまでおろして、足で踏むようにして足首から抜いた。
「さあ、やんなさいよ、先生。偽善者!」
藤田圭子は素裸の躯をベッドに投げ出して、大の字になった。宇津木の眼がひとりでに彼女の若い乳房や、淡い陰毛を掃《は》いて過ぎた。欲望の眼だった。
「外でお母さんの帰りを待つ」
宇津木は立って部屋を出て、閉めた襖の外からことばを投げた。
5
放課後だった。
甲田は職員室の近くの廊下に立っていた。
一人だった。武井と塩野は、甲田のテスト≠フ結果がわかるのを、近くの喫茶店で待っているのだった。
テスト≠ノ立ち合うか、と甲田は二人を誘ってみた。武井も塩野も首を横に振った。
「おまえはわざわざふり向いて、宇津木に顔を見せたんだもんな。おれたちゃ顔は見られちゃいねえんだぜ。こっちから出てって怪しまれるようなことするこたあねえや」
武井と塩野はそう言った。
「度胸がねえんだな。おまえらは要するに」
甲田はそう言って、二人を嗤《わら》った。
二十分待っても、宇津木は姿を見せなかった。甲田は落着かなかった。腕の時計を見た。さらに十分待って、甲田は職員室をのぞきに行った。
ドアが中から開いて、宇津木が姿を現わした。甲田は一瞬、びくついた。数歩あとじさりした。ひとりでに薄笑いが顔に浮かんできた。宇津木は職員室のドアを閉め、廊下に立った。
出合頭に眼が合ったときから、宇津木の視線は甲田に向けられたままだった。ただ見ているという眼ではなかった。といって険しい眼つきでもない。眼が貼《は》りついてきた――甲田はそう感じた。
(この野郎、知ってやがる)
甲田は薄笑いをさらにひろげた。
「なに、人の顔見てんだよう」
「珍らしい顔だからだ」
「おもしれえこと言うじゃねえか、先生。おれの顔のどこが珍らしい?」
甲田は胸が触れ合わんばかりのところまで宇津木に躯を寄せ、低い穏やかな口調で言った。眼も笑っていた。
「人間そっくりの面《つら》したけだものがいるもんだと思ってね」
「それ、おれのことか!」
「おまえと話してるんだ」
「おれがけだものだって言うのか?」
「自分の胸に訊《き》いてみろ。けだものじゃないかどうか」
「どういう意味だい、それ?」
「わからないか?」
「だから訊いてんだろう」
「じゃあ教えてやる。ちょっと来い」
宇津木が背を向けて歩き出した。廊下の離れた場所で、何人かの男女の生徒たちが、足を停めて二人を見ていた。やりとりは聴こえなかっただろうが、異様な空気は伝わっていたにちがいない。甲田は廊下に立っている者たちを眼で脅《おど》して、宇津木のあとにつづいた。
宇津木の出方は、甲田の予測からはずれていた。相手がまっすぐ向ってくるとは、甲田は思っていなかった。それならそれでかまわない。こっちにも考えがある。吠《ほ》え面《づら》かいて泣きを見るのはてめえのほうだ――。
宇津木の足が早くなっていた。甲田はひとりでに、肩をゆする歩き方になった。
西校舎の端の出口を出た宇津木の足が、職員駐車場の前を過ぎて、体育用具収納庫のほうに向っていった。甲田は歩きながら唾《つば》を吐《は》いた。
宇津木が、体育用具収納庫を開け、ふり向いて、中に入れというふうに顎《あご》をしゃくった。でけえつらしやがって――甲田は宇津木の足もとに、また唾を飛ばしておいて、倉庫の中に入った。宇津木が入ってきて扉を閉めた。高いところにある小さな窓から、傾きかけた陽《ひ》の光が斜めにさし込み、光の帯の中に埃が舞っていた。
「奥の跳び箱のところに行け」
宇津木が言った。甲田は奥に行った。
「何の真似《まね》だい、こりゃ?」
ふり向いて甲田は言った。蹴《け》りにもパンチにも、ちょうどよい間合《まあい》のところに、宇津木が立っていた。背丈《せたけ》は頭ひとつ甲田が高い。肩幅も甲田のほうがひと回り広い。相手と体格を見くらべながら、甲田はわくわくした。
「ここに連れてこられたわけは、わかってるはずだ」
宇津木の眼がはじめて厳しくなった。甲田はいっそうわくわくした。
「わからねえな」
「あとの二人は誰なんだ?」
「何の話をしてるんだ?」
「とぼけるんじゃない。五日前の月曜日の夕方の話に決まってるじゃないか。あのとき、おまえと仲間の二人が、この倉庫から出てきたじゃないか。先生は車の中からおまえの顔をはっきり見たぞ」
「それで?」
「それでじゃない。藤田圭子に謝まれ。はっきりとな。謝ったって藤田の気持が救われるわけじゃないだろうが」
「ちょっと待てよ。藤田圭子って誰だい。そいつとおれがどういう関係があるっていうんだ? はっきり言ってくんなきゃ話がちっともわからねえぜ」
「よし。はっきり言ってやろう。今週の月曜日の夕方、おまえと他の二人は、ここで、いまおまえが立ってるその場所で、藤田圭子に乱暴した」
「乱暴ってなんだ?」
「レイプだ。強姦だよ。集団だから輪姦だな」
「証拠があるのか? 先公」
「ある。先生が見てる」
「何を?」
「おまえたち三人が倉庫から出ていくのを見た。それから裸にされてここで泣いてた藤田圭子を見た」
「藤田圭子が、おれたちに強姦されたって言ったのか?」
「言ったよ。先生も見てる」
「おまえなあ、てめえが何言ってるのかわかってんだろうな。おれに因縁《いんねん》つける気か。おれがいつ強姦した?」
「やってないってのか?」
「強姦するほどおれはおまんこに不自由してねえよ」
「呆《あき》れた奴だな。これだけはっきりしてることを、知らないですますつもりか。藤田と母親がこれを警察沙汰にすることになったら、先生は証人になるぞ。いいな。それを覚悟しとけ」
宇津木が背中を向けて歩き出そうとした。甲田は宇津木の肩をつかんだ。
「待て、先公」
宇津木がふり向いた。甲田は宇津木の背広の襟《えり》を拳《こぶし》の中に巻き込んでつかんだ。
「もう一度、はっきり言うぜ。よく聞け。おれは強姦なんぞ、やっちゃいねえ。やったっていうのはそっちの因縁だ。因縁つけられて黙ってるわけにゃいかねえぜ」
「おれに脅しが効《き》くと思ったら、大まちがいだぞ、甲田」
「上等じゃねえか。効かせてやらあ」
甲田はつかんだ襟を引き寄せ、同時に頭を突き出した。強烈な頭突きが宇津木の顔面を襲った。宇津木の躯が揺れた。甲田は膝で宇津木の股間を蹴《け》りあげた。
宇津木の躯が前に傾き、くずれ落ちかけた。つかんだ襟を引いて起こし、脇腹に拳を打ちこみ、腹を蹴った。背広の襟が抜けて、宇津木は自分の腹を抱えこんだまま、床に膝を突いた。宇津木の顔が血で濡れていた。
甲田は血がたぎっていた。そうなるといつも止まらない。膝で立って呻《うめ》いている宇津木の顔面に足を飛ばした。宇津木は肩を床に叩きつけるようにして倒れた。
はずみで宇津木の躯が仰向《あおむ》けになった。両膝は腹につけて曲げられたままだった。脚が宙に浮き、股間が無防備になっていた。
甲田は宇津木の股間を力まかせに踏みつけ、その足ですかさず、尻を蹴った。肛門は急所だという話を、甲田は甲田組の組員から聞いて知った。喧嘩《けんか》でそれは実験ずみだった。木刀で肛門を突かれた喧嘩の相手は、その一撃で悶絶して立てなくなった。
だが、宇津木は立とうとした。ころがってうつ伏せになった宇津木が、上体を起して甲田を見た。その眼がすわっていた。甲田は宇津木の脇腹を蹴った。蹴りつづけた。甲田の額《ひたい》から汗が落ちた。一蹴りごとに宇津木の上体が傾き、よじれ、沈んでいった。
甲田は残忍な快感に酔っていた。躯がその酔にそそのかされてひとりでに動いた。宇津木の耳が血に染まっていた。甲田はその耳を狙ってまた蹴りを飛ばした。
宇津木が獣のような唸《うな》り声をあげた。耳を狙って蹴り出した足が、宇津木の胸に抱えこまれていた。甲田はバランスを失ってよろめいた。拳で宇津木を殴りつけた。躯のバランスを奪われているので、効くパンチにはならなかった。
宇津木が片膝を立てた。荒い息をしながら、宇津木は立ちあがろうとしていた。甲田は片脚を抱えこまれたままだった。
甲田は自分から床に倒れた。自由になるほうの脚で宇津木の頭を蹴った。宇津木の眼が白くにごったように見えた。だが抱えこまれた脚はそのままだった。
宇津木は足を踏《ふ》ん張って立ちあがった。甲田は床に倒れたまま、宇津木の臑《すね》を蹴った。はずれた。宇津木が抱えていた甲田の脚をようやく放した。
「立て、甲田」
宇津木の声は苦しそうだったが、眼は鋭かった。甲田ははね起きた。そこに宇津木が肩から突っ込んできた。かわす間がなかった。甲田は羽目板まで飛ばされた。宇津木は腰にくらいついていた。羽目板が甲田の背中と腰を強打し、腹には宇津木の肩がめりこんできた。甲田は息が詰まった。
気がついたときは、甲田の足が浮いていた。彼の躯は宇津木の腰にのせられていた。そこで大きく甲田の脚が円を描いて、背中から床に叩きつけられて落ちた。後頭部が床を打った。甲田は一瞬、頭の芯《しん》が涼しくなるのを感じた。
「おれを甘くみるなよ、チンピラ」
宇津木の喘《あえ》ぎながらの声が、上から落ちてきた。甲田は急いで躯を起した。宇津木は攻めてこない。甲田は立ちあがりながら、ポケットに手を入れた。ナイフを出した。頭の中はわけのわからない怒りでまっ白になっていた。腰を落し、半身《はんみ》に身がまえて、ナイフの刃を出した。刃の冷めたい光が、いっそう甲田の頭の中を白くした。
「刃物か。だったら遠慮しないぞ。正当防衛だからな」
宇津木が言った。宇津木が上衣を脱ぎはじめた。それでナイフを払うつもりか、と甲田は思った。片方の袖《そで》から宇津木が腕を抜こうとしたところを狙った。踏み込んだ。下から斜めにナイフを払い上げた。フェイントのつもりだった。宇津木はとびさがらなかった。上体を反《そ》らしてかわした。甲田は目安が狂った。宇津木がとびさがれば、うしろは羽目板だ。それ以上はさがれない。逃げ道を絶《た》っておいて突っ込むつもりだったのだ。
ナイフを払い上げた腕の下に、宇津木の肩があった。甲田は何も考えずに、その肩にナイフを突き立てようとした。動きは宇津木のほうが一瞬、早かった。宇津木の上体が横に傾いた。同時に蹴りが横から甲田の膝に飛んできた。
甲田の膝が中に入った。倒れかかるのをようやく踏みこらえた。躯を立て直したときは、宇津木は羽目板の前から離れていた。
宇津木は脱いだ上衣を左の腕に巻きつけた。肩口から拳までを、上衣が包んでいた。
「やるじゃねえか、先公」
甲田は言った。意外だった。おとなしい国語教師だと思っていた宇津木が、いま甲田の眼には、格闘に馴《な》れている手強《てごわ》い敵として映っていた。柔道か空手か、そんなものをかじったことぐらいはありそうだった。
「まだやるのか、甲田」
「始めた喧嘩は最後までやる。それがおれの主義だ」
「そういうのをばかって言うんだ」
「ばかだよ、おら、ばかがどういうもんか教えてやるぜ」
宇津木が上衣で包んだ腕でナイフを払うつもりなのはわかっていた。甲田はその腕を狙った。腕にナイフを突き立てる気だった。宇津木は服で包んだ腕をまっすぐ前に突き出していた。
甲田は少しずつ右に回りながら、間合を詰めた。宇津木を跳び箱のところに追い詰めるつもりだった。
甲田は踏みこみざまに、下から宇津木の突き出された腕めがけてナイフを突き上げた。宇津木の腕が引かれ、ナイフが宙を突き、高い蹴りが甲田の首すじを襲ってきた。効いた。一瞬、頭が軽くなり、視界がかすんだ。突き出されていた腕は誘いだったと気がついたときは、甲田は頭から羽目板に突っ込んでいって、はじきとばされ、腰から落ちた。
甲田は夢中で立った。立ったところを腰を蹴られた。膝はまだ笑っていた。甲田の躯はくの字に折れて横に吹っ飛んだ。側頭部を跳び箱の角《かど》に打ちつけて、甲田は床にくずれ落ちた。ナイフは手から落ちていた。手が届かなかった。宇津木がナイフを足で横に押しやり、拾いあげた。甲田は跳び箱にすがって立とうとした。膝に力が入らなかった。宇津木が倉庫から出て行った。
6
サラダとアジのマリネはすでにできていた。冷蔵庫に入れてある。トマトとグリーンアスパラのサラダだった。
スパゲティを茹《ゆ》でているところに、洋子が帰ってきた。洋子はその街のタウン誌などを出している小さな出版社で、編集の仕事をしている。宇津木夫婦の間では、家事分担のルールが、結婚以来守られていた。子供が生まれるまでということで始まったルールだ。
夕食は先に帰宅したほうがこしらえる。朝食は当番制。洗濯は洋子。掃除は宇津木。
結婚したとき宇津木が二十八歳で、洋子は二十五歳だった。それから六年が過ぎている。二人とも子供ができるのを心待ちにしているのだが、望みは叶《かな》えられずにいる。あせりを覚えているのは、宇津木のほうだった。洋子の年齢のこともある。家事分担のルールが効力を失う日を待ち望む気持も、宇津木の心の中にないではない。
声をかけてキッチンに入ってきた洋子が、宇津木の肩に手を置いて、湯気を立てているスパゲティの鍋《なべ》をのぞきこんだ。その眼をあげて宇津木の顔を見た洋子が、眉《まゆ》を寄せた。
「ひどい。唇が切れて脹《は》れているじゃないの。あら、耳も切れてる。事故?」
「ちょっとね……」
「交通事故?」
「生徒だよ。殴《なぐ》り合いになった」
「だいじょうぶ?」
「頭突きくらったんだ。耳は蹴られたときに切れたらしい。たいした怪我《けが》じゃないさ」
「なんでまた?」
「うん……」
「新聞ダネにならないかしら。いやよ、暴力教師なんて書かれるの……」
「相手のほうが暴力のプロだよ」
「非行グループの生徒?」
「甲田組の息子なんだ」
「やくざじゃない。面倒なことにならないかしら?」
「わからない」
「なんなの? 原因は」
「あんまり話したくはないんだがね。でも、話しとくよ、おまえには。知っといてもらったほうがいいから」
「深刻なことなのね。ちがう?」
「深刻というより、厄介《やつかい》な問題だね。ぼくは肚《はら》を据《す》える必要があるかもしれない。わるくすると甲田組を向うに回すことになるかもしれないんでね」
「スパゲティ、あたしが見るわ。話して」
洋子は、宇津木の手からスパゲティをすくいあげる道具を取りあげた。宇津木はすぐそばの食卓の椅子に腰をおろした。飲みかけのグラスが食卓に置いてあった。帰ってくるとすぐに、ちびちびと飲み始めていたのだ。気持を鎮《しず》めるための酒だった。甲田を叩きのめしたことは、宇津木にとっては少しも痛快ではなかった。
理由はともかく、生徒と殴り合いをしたことが、気持をくさらせた。後悔とは別に、事態が厄介になっていく予感が、次第に頭をもたげてきてもいたのだ。
宇津木は水割りをすすり、たばこに火をつけた。いざ話すとなると、やはり口は重くなった。
「甲田組の息子って、何年生?」
「三年だよ」
「ワルなの?」
「札《ふだ》つきだ」
「何をやったの?」
「レイプ。三人がかりで。やられたのはぼくの担任のクラスの生徒だ」
洋子がつけてくれた糸口に誘われるようにして、宇津木は話し出していた。洋子がガスコンロの前でふり向いた。洋子は眼を丸くしていた。宇津木は、事のいきさつを話した。
「藤田圭子さんはどうしてるの?」
「ずっと欠席してるんだ」
「無理ないわね」
「藤田はおかしくなってる。きのう、藤田の家に行ったんだ。母親と話すことにしてたから。藤田はレイプのことを母親にも黙ってたんだよ。だから母親には話をしなさいと言ってやったんだ。ところがあの子は、ぼくの前でいきなり素っ裸になった」
「どういうこと?」
「男はみんなけだものだと思ってるんだろうな。ぼくにレイプしろって言うんだ。したいだろうって」
「お母さんはいなかったの?」
「いなかった。母親が勤めから帰ってくる前にぼくが行ったから。母親に事件を打明けるように説得するつもりがあったんだ」
「ショックで気持がへんになってるのよ」
「仕方がないから、母親にはぼくから話をしたんだよ。ぼくは藤田の担任だし、事件の発見者でもある。いろいろ考え方はあると思うけど、やっぱり母親には知らせておくべきだと考えたんだ」
「当然だと思うわ、それが……」
「当然だよね。他人に話したわけじゃないんだから」
「事件のことは、他の人はまだ知らないままなのね?」
「藤田親子と、やった犯人たちの他に、ぼくとおまえしか知らない」
「警察には訴えないの?」
「ぼくは、訴えるべきだって、藤田にも母親にも言ったんだ。二人は内緒にしたいって言ってる」
「それもわかるわね。事が事だもの」
「わかる。よくわかる。それに、藤田も母親も、甲田組を怖がってるんだ。特に母親がはっきりそう言ってるんだ。あとで何をされるかわからないって……」
「このへんで甲田組って言ったら、誰だって怖がるわよ。ある意味じゃ、くやしいけど藤田さんとお母さんの選択は賢明で現実的なのかもしれないわ」
「そうなんだ。ぼくもそう思う。思うんだが、教師としては釈然としないんだ。教師としてのぼくは、藤田圭子に正義を守るということを教えなきゃいけないという気持もある」
「それはわかるけど……」
「いや、正義を教えるなんて上等なことじゃない。正直に言うとね、ぼくは藤田に偽善者だって言われたんだ」
「どうして?」
「体育倉庫から出てきた甲田の顔を見たすぐあとに、ぼくは事件を知ったんだ。そのときぼくはすぐに甲田たちを追いかけて、レイプしたことを認めさせるべきだったんだ。相手がやくざの組長の息子だから、追いかけなかったんだろうって、藤田に言われてね。ぼくはグーの音《ね》も出なかった。実際、ぼくはそのとき、甲田たちを追いかけることを思いつきもしなかったんだ」
「相手がやくざの息子だからだったの?」
「そうじゃないとは言い切れない。一瞬、ぼくの頭にも、相手がわるいという事なかれ主義の考えがひらめいたんだろうと思う。でなければ、レイプが起きて、犯人はいま出ていったばかりだとなれば、反射的に追いかけて捕えようとするはずだもの」
「でも、甲田たちをつかまえて、相手が素直にレイプを認めないで、騒《さわ》ぎになったら、藤田さんはかえって困ったんじゃないの。警察にも届けないって言ってるんだから」
「それはそうだけど、藤田がぼくを非難してるのはまた別の問題なんだよ。自分が困る、困らないもあるけど、藤田にとってはあのとき現場で、ぼくに甲田たちをふんづかまえて、殴るなりなんなりして奴らを懲《こ》らしめてほしかったんだと思うんだ。そういうストレートな行為を藤田はぼくに期待したんだよ。気持としてそうだったんだと思う。ところがぼくがしたことは、藤田を家まで車で送り届けて、母親と相談して警察に訴えることをすすめることだけだった。つまりさ、藤田の眼から見れば、ぼくは口先だけの正義感しかない教師ってことになるわけだよ。こたえたね、これは。偽善者と言われても仕方がないもの」
洋子は口を噤《つぐ》んだまま、すくいあげたスパゲティを指先でつまんで、茹《ゆ》だち加減を見ていた。彼女は、夫のとったそのときの行動の正当性を探そうとしているように見えた。宇津木はグラスを口にはこび、またたばこに火をつけた。
「むつかしい問題ね。あなたのしたことはまちがっていたとも言い切れないわ。レイプされた当人のプライバシーを無視して、英雄になるのが正しいとも言いきれないもの」
「そりゃそうだが、自分の担任の教師が、犯人とわかっててそいつらを見逃しにしたという事実は、そのことの判断のよしあしとは別に、藤田圭子には許せないことだろうと思うんだ」
「あたし、そのときあなたが甲田たちをつかまえてたら、絶対に騒ぎは大きくなって、みんながレイプ事件のことを知るようになってたと思うわ」
「だろうな。だからと言って、藤田圭子は、そのときのぼくの行動が正しかったとは思わないし、ぼくにも正しかったとは言いきれないんだ。騒ぎになってレイプが人に知られるとしても、ぼくはあのときもっと素直で自然な人間としての憤《いきどお》りに身を任《まか》せて、甲田たちをとっつかまえるべきだったんだよ。そうすれば、教師のそういう姿を見て、藤田圭子も気持を変えて、胸を張って理不尽な暴力と闘う気になってたと思うんだ。レイプされたことを恥辱だなんて思って、負け犬にならなくてもすんだはずだよ」
「あたし、あんまりあなたに、自分を責めてほしくないわ」
「当事者の藤田圭子に責められたんだよ。眼をつむるわけにはいかないさ」
「それで今日、甲田と殴り合いになったのね?」
「殴り合いになるとは思っちゃいなかった。甲田がぼくに無言の脅《おど》しをかけてきたんだ。だからはっきり言ってやった。おまえがレイプ犯人だってことは知ってる。必要があれば警察にも証言するってね。そうしたら案《あん》の定《じよう》、甲田はレイプはやっちゃいない、因縁《いんねん》をつける気かと言って殴りかかってきたんだ」
「あなたも相当やったでしょう。怪我させなかった?」
「加減はしたよ。甲田がナイフを出したから、蹴りを入れたけどね」
「知ってるの? 甲田は。あなたが空手初段だってことを」
「知らないだろうな。学校で知ってる者はいないはずだ」
「事件の現場でそのときやらなかったことを、ちょっと遅れてあなたは始めたことになるのね?」
「そうなんだ。だから二重に後悔してる。遅れて始めたために、下手すれば厄介なことになるかもしれないんだ」
「甲田組のこと?」
「それもある。それから藤田圭子と母親のことがある。きょうのことで騒ぎが大きくなれば、レイプ事件も表沙汰《おもてざた》になるかもしれない。そうなると、泣き寝入りして事件を忘れようというつもりになっている藤田圭子と母親の心を、もう一度かき乱すことになるからね」
「仕方がないわね。事はもう始まってるんだもの。どうなっていくかわからないけど」
「最初のボタンをぼくはかけちがえたのかもしれない。でも、もうかけ直すことはできないと思うんだ。このまま甲田が黙って引き下がれば別だけどね」
「教師としては辛《つら》いところね。でも、あなたが気のすむようにして。あたしはあなたという人のこと、よくわかってるつもりよ」
「そう言ってくれると、気持が軽くなるよ」
「トラブルに巻きこまれるのを虞《おそ》れて、要領よく世渡りして、早く校長になってほしいなんてことを、あたしがあなたに望んでると思ってた? だったとしたら、あなたはあたしのこと、ちっともわかってないわよ」
スパゲティを鍋《なべ》から揚げた洋子が寄ってきて、テーブルに手を突き、額を宇津木の額にくっつけて言った。笑った眼が上目遣《うわめづか》いに宇津木を見ていた。宇津木は洋子の腰に腕を回した。
「おまえは望んでいなかったかもしれないが、ぼくは望んでたな。楽して早く偉くなろうってね」
宇津木は笑って言った。洋子も笑った。
二章 鳥になる
1
来客用の駐車場に、白のベンツと白のシーマが停まった。
昼休みがはじまったばかりで、教室の外に生徒が溢《あふ》れていた。駐車場に停まった車に、近くにいた生徒たちの視線が集まった。
ベンツの運転席と助手席の扉が開いて、二人の男が降りてきた。助手席から降りてきたのは、坊主頭の三十半ばの男で、レスラーのような躯をグレイのブルゾンとスラックスで包んでいた。運転席から出てきたのは、ベージュのスリーピースにグリーンのネクタイという姿の若い男で、パンチパーマの頭をしていた。
二人の男が、ベンツのリアドアを外から開けた。白のシーマからも四人の男が出てきて、ベンツのまわりを囲んだ。男たちは全員がスーツ姿だった。中の二人がパンチパーマだった。
ベンツのリアシートから、二人の男が降りてきた。一人は白髪に眼鏡をかけたふとった男で、紺のスーツに赤いベストを着て、大きな書類鞄を脇に抱えていた。もう一人は濃紺に縞柄の入ったスリーピースに、ピンクのネクタイ、右手首にボリュームのある金のブレスレットをはめた、長身の四十代半ばの男だった。
二台の車のまわりに、人を威圧するような空気がひろがった。ベンツとシーマに向けられていた生徒たちの眼が、その空気に追い払われるように、そこから逸《そ》れていった。
長身のピンクのネクタイの男が歩き出した。白髪の男と、シーマから降りてきた男の一人が、そのあとにつづいた。残った男たちは、歩いていく三人の後姿に向って、足を開き、腰から折っていくようなやり方で頭を下げ、それぞれの車の中に引っこんだ。車は二台とも走り出すようすはなかった。
三人の男たちは校舎の正面玄関に入り、受付の女子職員に声をかけた。
「校長先生に、甲田茂久《こうだしげひさ》が、息子の健介のことでお目にかかりにきた、と伝えてください」
長身の男が胸を突き出すようにして言った。昼食のサンドイッチをつまんでいた女子職員は、立ちあがりながら、急いでサンドイッチを飲みこもうとして、苦しそうな顔になった。彼女の眼に怯《おび》えの色が見えた。
「お待ちください」
女子職員は言った。
「ここで立って待ってろというのかい?」
そう言ったのは、パンチパーマの四十前後の男だった。男の声はしわがれていて、顎《あご》に横に走る傷痕があった。
「あの、取次いでまいりますので……」
「お願いします」
甲田茂久が、何か言いかけた傷痕のある男を軽く手で制して言った。
奥に姿を消した女子職員が、廊下から玄関に出てきて、あわてたようすで三人分のスリッパを出してそろえた。三人は女子職員に案内されて、校長室の隣のせまい応接室に案内された。
いくつかのトロフィーなどの飾られたガラス戸棚の前に、カバーのかかった粗末《そまつ》なソファとテーブルが置かれていた。
甲田茂久と白髪の男が並んでソファに腰をおろした。顎に傷のある男は、ソファのうしろに立っていた。案内の女子職員と入れ替りに、別の女子職員が紅茶を運んできた。彼女が出ていくと、校長の高沢重則《たかざわしげのり》が入ってきた。高沢ははじめから緊張のようすを見せ、しきりに鼻の上の眼鏡を指先で押し上げていた。
高沢が名乗って名刺を二人に渡した。高沢はソファのうしろに立っている男に、坐《すわ》るようにとていねいに言った。男は犬を見るような眼で高沢を一瞥《いちべつ》しただけだった。
「坐りませんよ、その男は。わたしらの世界じゃそれが礼儀ですから」
甲田が言ってから、二人を紹介した。白髪の紳士は弁護士の熊谷由哉《くまがいよしや》で、立っている男は甲田組|若頭《わかがしら》補佐という肩書の手塚光男《てづかみつお》だった。甲田が弁護士を伴《ともな》ってきたと知って、高沢のようすはいっそう落着きを失って見えた。
「甲田健介君のことでおいでいただいたそうですが、どういったお話でしょうか?」
短い沈黙に耐《た》え切れなくなったようすで、高沢が口を開いた。
「校長先生はまだ、健介と宇津木先生とのことをご存じないようですな」
高沢は穏やかな口調で言った。
「甲田君と宇津木先生がどうかしましたんですか?」
「弱りましたな。校長先生が校内で起きたトラブルについて、何もご存じないというのは、具合がわるいんじゃないですか?」
「私は何も聞いとりませんが……」
「それじゃあ、父親のあたしが説明すると感情がまじりますのでね、弁護士の熊谷先生からお話していただきましょう」
甲田が熊谷を見やって、軽く頭を下げた。熊谷は鞄からルーズリーフのノートを出して膝の上でページを開き、そこに眼を落して話しはじめた。
「問題点が二つあるんです。事が起きたのは昨日、五月十九日午後四時二十分ごろということですが、当校の三年生の甲田健介君が職員室の前を通りかかったところ、中から当校の教師である宇津木光弘先生が出てきた。宇津木先生は甲田君の顔を無言でじっと睨《にら》んだ。そこで甲田君が何か用ですかと先生に訊《き》いたところ、おまえはけだものだから、ちょっと来いと言って、甲田君を当校の体育用具の倉庫に連れて行った……」
「ちょっと待ってください。その、けだものというのはどういうことですか?」
高沢が弁護士の説明を遮《さえぎ》った。
「いまそれを説明します。体育用具の倉庫で、宇津木先生は甲田君を名ざした上で、おまえは当校の二年生の藤田圭子さんを三人がかりで強姦しただろう、と言ったそうです」
「強姦!」
高沢の表情が変った。
「宇津木先生が甲田君のことをけだものと呼んだのは、つまり強姦に関連してのことだったわけですが、それに対して甲田君は、それは濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》だと反論したわけです。それが口論となって殴り合いに進展した結果、甲田君が頭部二ヵ所に負傷した。側頭部に裂傷、後頭部に皮下出血。他に頸部《けいぶ》の内出血と膝の内出血があります。全治三週間の診断です。これが医師の診断書のコピーです」
淡々とした口調で熊谷弁護士は一気に言って、校長の前に診断書のコピーを置いた。熊谷はつづけた。
「当方が校長先生の責任において善処を願いたいと望むのは、宇津木先生が根拠もなしに、甲田健介君に強姦犯人の汚名をきせたことと、暴力を振るって、生徒の甲田君を負傷させたことの二点です。納得のいく謝罪と処置がいただけない場合は、残念ながら法的な場に問題を持ちこむことになります。以上が、私のほうの依頼人である甲田さんのお話です」
「なにせ突然のお話で、びっくりしてしまいました。お話の主旨は承《うけたまわ》りましたが、私としても、宇津木先生の話も聞いてみないことには、なんともご返事ができませんが……」
「それは当然ですね。校長先生はあたしらが来るまで、何も知らなかったとおっしゃるんだから……」
甲田がなぜだか眼を閉じたままで言った。
「眼が届きませんで、申し訳ありません」
「宇津木先生をここに呼んでいただきましょう。ここで話をお聞きになるといい。そうすりゃあたしらも一緒に宇津木先生の言い分が聞けるわけだから。校長先生、お願いしますよ。宇津木先生を呼んでください」
「そうしますか……」
曖昧《あいまい》な口調で言って、高沢が立ちあがった。女子職員が職員室に宇津木を呼びに走った。宇津木は時計を見て、女子職員に、午後の最初の授業のクラスを自習時間にするように伝えてほしい、と頼んで腰をあげた。
宇津木が応接室に現われると、甲田茂久が閉じていた眼を開けた。ソファのうしろに立っている手塚も宇津木を見た。宇津木に向けられた甲田の視線は穏やかだったが、手塚の眼は不気味にすわっていた。熊谷は、高沢の隣に腰をおろした宇津木を、無表情な眼で見やった。
高沢が来客三人を宇津木に引き合わせた。宇津木は立ちあがって、三人に向って名乗り、ていねいに頭を下げた。宇津木の唇はまだ大きく脹《は》れあがって、裂けたところに血の色が見えた。切れた耳にはテープが大きく貼ってあった。高沢は宇津木の怪我を、自転車でころんだせいだ、と聞かされていた。
「用件はおわかりですね、宇津木先生」
甲田が、宇津木がソファに腰をおろすのを待って言った。声はあいかわらず静かだった。
「昨日の甲田君との件ですね?」
宇津木が言った。
「レイプ事件があったというのは、事実なんですか? 宇津木先生」
高沢が訊いた。
「甲田君はそのことも話してるんですね?」
宇津木は甲田に眼を向けたままで言った。
「話しちゃまずかったですか、先生」
甲田の口もとにかすかな笑いが一瞬、浮かんだ。
「ぼくはかまいません。だが、被害者の女生徒の気持を考えると、できればレイプのことは内密にしといてやりたかったですね」
「藤田圭子がレイプを受けたというのはほんとうなんですか? 宇津木先生」
高沢が訊いた。
「甲田君は藤田の名前まで出しちまってるんですか」
「そりゃ出しますよ、先生。息子にしてみれば強姦の濡れ衣を着せられてるんですから、疑いをはらすためには、先生に言われたことを何もかも話さなきゃならんでしょうが」
「濡れ衣じゃありません。甲田君はやってます。他の二人の仲間と三人でね。ぼくが証人です」
「証人?」
「見たんです、ぼくは。甲田君が体育用具を入れてある倉庫から出てくるところを。他の二人の顔は見えなかったんですが」
「見たとおっしゃるのは、暴行の現場のことですか?」
熊谷がことばをはさんできた。甲田の口もとにまたかすかな笑いがひろがった。
「現場は見ていません。しかし、甲田君と二人の男が倉庫から出てくるのをぼくが見てから、倉庫に入って被害のようすを発見するまで、一、二分しかたっていないんですよ。もちろん倉庫の中には、裸で泣いている被害者の他には誰もいませんでした」
「たしかに状況的な目撃証言にはなりますね。しかし決定的な証拠にはならないでしょう、それは」
「ぼくは法律家じゃありませんが、事実の見える眼は持ってるつもりです」
「先生が倉庫に入られたとき、中に明りがついてましたか?」
「ついていませんでした。ぼくがつけたんです」
「被害者は先生に甲田健介君が犯人だと言ったんですか?」
「彼女は、ぼくが甲田君が倉庫から出てくるのを見たにもかかわらず、彼を追いかけて捕えなかったことを非難しています」
「それは、あなたが被害者に、甲田君が倉庫から出ていくのを見たと言ったから、彼女はなぜ追わなかったのかと言って非難したんでしょう?」
「そうですよ」
「被害者ははっきりと甲田君が犯人だと、あなたに言ったわけではないんでしょう?」
「それは、そうです」
「先生はさっき、倉庫の明りは自分がつけた、とおっしゃいましたね。ということは、先生が明りをつけるまでは、倉庫の中は暗かったということですね。そういう暗いところで被害者が犯人の顔を誰と識別《しきべつ》できるかどうか、たいへん疑問ですね」
「法廷の証人尋問みたいですね」
「気をわるくなさらないでください。仕事となると、こういう話し方にならざるをえないんです。それに、先生に事実誤認があれば、それを正す必要もありますのでね」
「ぼくが事実誤認をしているとおっしゃるんですか?」
「基本的な事実の誤認の可能性があります。先生は倉庫から出てくる甲田君を見たとおっしゃる。これが誤認でないという客観的な証拠がありますか?」
「ぼくの眼を信じてもらうしかないですね」
「一方は見たと言い、一方は問題の日時にその倉庫なんかには行っていないというわけです。そして見たという側には客観的な証拠がない」
「甲田君にはあるんですか? そのとき倉庫にはいなかったという証拠が……」
「アリバイですね。あるでしょう、きっと。私はまだ本人に確認をとってはいませんが」
「アリバイは作れますからね」
床板が鳴った。大きな音だった。手塚が蹴ったのだ。手塚は刺すような眼で宇津木を見ていた。
「先生のお話には、他にも説得性と合理性に欠ける点があります」
「どういうことですか?」
「倉庫からは三人が出てきたというお話ですが、先生は甲田君の顔だけを見たとおっしゃっている。他の二人の顔が見えなかったのに、どうして甲田君の顔だけが不思議なくらいはっきり見えたんでしょうか?」
「その理由は簡単です。甲田君だけが、ぼくの車のライトの中でこっちをふり返ったんです」
「それも妙な話ですね。仮にその三人が強姦事件の犯人だとしてですね、どうして甲田君だけがわざわざふり向いて顔を見せたんでしょうかねえ。自分から犯人は私ですよと先生に教えてるようなもんじゃないですか。ほんとうの犯人がそういうばかなことをするでしょうか?」
「なぜ彼がわざわざふり向いたのか、ぼくにはわかりません。ぼくにはっきり言えるのは、ぼくはあのとき、その場所で甲田健介君の顔をはっきり見た。それは見まちがいではないということだけです」
「見まちがいというのは誰にもあることです。肝心の被害者である藤田圭子さん自身は、犯人が甲田君だとは言い切れないと言ってるんです。暗かったし、怖ろしさで頭がいっぱいで、犯人が誰かなんて考える余裕はなかったと、私にはっきり言ってるんです」
「あの子に会ったんですか?」
「ゆうべ会ってきました。お母さんにもね」
「そうですか。あの子は犯人はわからないと言ったんですか」
「ま、そういうことです、先生。こちらの言い分と要望は、校長先生にお伝えしてあります。あたしとしては、なるべく穏便《おんびん》に事をすませたいと思ってます。騒ぎになるとマスコミが走り回るし、教育委員会だって黙って見ちゃいないでしょうからね。おたがい、静かに暮らすのがいちばんです。息子の怪我の治療費のことも考えてたんですが、お見受けしたところ、先生も少々痛いめにあっておられるようだから、病院代は泣き別れのチャラにしましょう。ひとつ、校長先生とよく相談なさって、何分《なにぶん》のご返事をください。今日のところはそういうことで……」
なめらかな口調で言って、甲田が腰を上げた。
「何はともあれ、相手がわるいな。どうしてまた、事件のことをすぐに私の耳に入れてくれなかったんだ、宇津木先生」
客が引揚げるのを待って、高沢がひそめた声で言った。
「藤田の気持を考えて、なんとか表沙汰にしたくないと考えてたんです。申し訳ありませんでした」
「だったら、どうして甲田の息子を問い詰めたりしたんだね。よりによってあの甲田の息子を。こりゃどう考えても不利だよ、宇津木先生。しかるべき謝罪と処置をすればそれでケリをつけると向うは言ってるんだ」
「それはこっちの言うことです。甲田は息子の強姦事件をつぶそうとしてるんですよ。弁護士までつけてね。やくざのやりそうなことだ」
「しかし、甲田が強姦犯人だとする決め手はないんだから……」
「なに言ってるんですか、校長。甲田がやったからこそ、父親がこういう脅《おど》しをかけてきて、息子のやったことを覆《おお》い隠そうとしてるんじゃないですか」
「でも、被害者の藤田圭子が、犯人は誰かわからないと言ってるんだから……」
「藤田は相手がやくざの息子だから怖がってるんですよ。みんな甲田組の脅威に眼が向いてしまってるんです。校長も被害者自身もね。そのために、赦《ゆる》しがたいレイプ事件そのものが棚上げにされてるんですよ。レイプされたのは校長、この学校の生徒であり、ぼくの担任の子なんですよ」
「それはわかってる。宇津木先生は甲田組に脅威を感じないのかね?」
「感じますよ、もちろん。だけど、ぼくと校長がここで腰砕けになったら、ぼくらは暴力団と一緒になって、生徒の藤田圭子に屈辱を強《し》いることになるんですよ。教師としてそんなことができますか?」
高沢は黙りこんだ。困惑《こんわく》といらだちが、高沢の眉間《みけん》に現われていた。
2
校門のすぐ横に、黒のプレリュードが停まっていた。
プレリュードのボンネットに寄りかかって、たばこを吸っている男は、一目でやくざとわかる恰好《かつこう》だった。
男は校門から出てきた宇津木の車と、運転席の宇津木の顔を見ると、プレリュードの助手席に乗った。プレリュードの中には、三人の男が乗っていた。
宇津木は何も気づかないふりをして、門から道に車を出した。プレリュードがうしろからついてくるのが、バックミラーに見えた。こういうことが、しばらくはつづくのだろうな、と宇津木は思った。
プレリュードは、ぴたりと張りつくようにして、宇津木の車の後についてきた。尾行ではなくて、威嚇《いかく》のつもりだとわかった。宇津木は、自分の行先をプレリュードの連中に隠そうとは思わなかった。
県営団地の藤田圭子の家の棟の前で、宇津木は車を降りた。プレリュードはすぐうしろに停まった。宇津木はプレリュードの中の男たちと視線を合わさないようにして、建物の中に入った。男たちは建物の中にまではついてこなかった。
インターフォンを鳴らしたが、返事はなかった。ドアの向うに人が近づいてきて、覗き穴からこちらを見ている気配があった。それからドアが開けられた。
藤田圭子は、ドアを開け、宇津木をちらと見ただけで、黙って奥に引き返していった。宇津木は中に入った。
藤田圭子はキッチンの食卓の前に坐《すわ》っていた。奥の部屋で音楽が鳴っていた。藤田圭子の前には、コーラが半分ほど残っているグラスが置かれていた。テーブルの横の棚に置かれた小さな水槽の中で、熱帯魚がゆったりと泳いでいた。母親は留守だった。
「何か用?」
「おまえのようすが気になってね。見に来たんだよ」
「おもしろい? 強姦された女の子を見るのは……」
宇津木は返事をせずに、椅子に坐った。
「強姦やりたくてきたんでしょう、先生」
「強姦、強姦て自分で言って楽しいか?」
「平気よ。何回でも言ってやるわ」
「ゆうべ、熊谷という弁護士が来たそうだな」
「どういうつもり? 先生。余計なことをしてくれたわね」
「甲田を先生が問い詰めたことを言ってるのか?」
「そうよ。もう放っといてよ。何したって、あたしが強姦されたことは消えてなくなりはしないんだから」
「事実は消えないさ。だけどね、藤田、おまえは自分の心の傷は消すことができるんだぞ。起きた事実に押しつぶされないようにすれば」
「傷なんかほっときゃ治《なお》るわ」
「先生はそうは思わないね」
「先生がどう思おうと関係ないわ。これはあたしの問題なんだもの」
「そうだ。おまえの問題だ。だから先生の問題でもあるんだよ。おまえは先生の生徒だからね」
「どうしろって言うの? あたしに……」
「強くならなきゃだめだ」
「先生は強いって言えるの? 今ごろになって甲田を問い詰めたり、殴り合いをやったりしたからって、先生が強いとはあたし思えないわ」
「先生もそう思う。この前ここに来て、おまえに偽善者だと言われて、先生は一言もなかった。だから反省したんだ。強くなろうと思ってるよ、いまは……」
「もう遅いわよ」
「何が遅いんだ?」
「あたし、ゆうべの熊谷って弁護士に、犯人の顔は見ていないって言っちゃったもの。ほんとに暗くて誰だかわからなかったんだけど」
「そんなことは問題じゃない。弁護士とか検事とかいうのは、裁判で争うときは、事実を細かくバラバラにして、それを自分の立場に都合のいいように組み合わせていって、ほんとうの事実を歪めてしまうことがあるんだよ。織物の糸をほぐして、別の柄の織物に織りなおして見せるようなもんだ」
「でもあたし、ほんとに犯人の顔は見てないんだもの」
「先生が見てるじゃないか。おまえはほんとうに甲田は犯人じゃないと思ってるわけじゃないだろう。甲田だと思っていても、あいつが暴力団の組長の息子で、その組長が弁護士なんかを使って乗り出してきたから、怖くなって、犯人は誰だかわからないと言ってるだけなんだろう?」
「先生だって甲田組のこと怖がってるじゃない」
「怖がってる。でも闘うつもりだよ、先生は。きょう、甲田の父親が子分と弁護士を引き連れて学校に乗り込んできたよ。先生が甲田にレイプ犯人の濡れ衣を着せた上に、殴って怪我させたから謝罪しろって言ってきた。先生は謝る気なんかないよ」
「恰好いいわね、先生」
「皮肉かい?」
「皮肉言う気もないわ。先生は何もわかってないのよ。それでいて、ひとりで騒ぎをひろげてるのよ」
「騒ぎをひろげるつもりなんか、まったくなかったよ。いまもない。騒ぎ立ててるのは甲田の父親のほうだ」
「同じことよ、どっちでも。おかげでもう何人もの人間に、あたしが強姦された女の子だってことを知られてしまったわけじゃない。もっともっとたくさんの人も知るようになるわよ」
「おまえの辛い気持、たまらない気持も先生はわかってるつもりだよ。でも、事件を知った人たちの大部分は、おまえに同情やいたわりの気持は持っても、軽蔑したり、好奇心で見たりはしないぞ。人間の心というのは、そんなに下劣じゃないよ」
「同情もいたわりもいらない。放っといてほしいだけ」
「そう思うことが、おまえの心があの事件に押し潰されてることの現われじゃないか。このまま負け犬になって引きさがれば、おまえはこの先もずっと、精神的にはレイプを受けつづけて生きていくことになるんだよ。そういう自分に満足できるのか?」
「先のことなんか考えてないわ」
「ばか言うもんじゃない。いいか、藤田。もう闘いは始まってるんだよ。それもおまえをひどいめにあわせた甲田の奴がしかけてきた汚ない戦争なんだ。この戦争で甲田はおまえをまたレイプしようとしてるんだぞ、精神的に……」
「戦争に火をつけたのは先生でしょう?」
「ちがう。甲田だ。甲田はきのう、先生を脅すつもりで、わざとつっかかってきたんだよ。因縁つけて暴力で脅して、おまえの事件のことで先生の口に蓋《ふた》をしようとしたんだ。そうだとわかったから、先生は脅しには乗らんぞとはっきり言ったのさ」
「いい、先生。あたしと母は放っといてほしいって言ってんのよ。だのに先生は、自分のトラブルにあたしを巻き込もうとしてる」
「そう言われればそうかもしれないけどね。また理屈だとか、きれいごとだとか言われそうだけど、先生はやっぱり泣き寝入りするのはまちがいだと思うんだ」
「強姦されたのはあたしよ。まちがいでもなんでも、あたしがいいって言ってるんだからいいじゃないの」
「教師は生徒のまちがいを黙って見てるわけにいかないだろう」
「あたしの処女膜が破られたことにまで責任を感じてもらいたくないわ」
「責任があるんだよ。まして校内で起きたことなんだから。校長以下全教師の責任だ」
「だったらあたしのヴァージンを返してよ」
「その闘いをやろうとしてるんじゃないか。さっき先生は言っただろう。事実は消せないけど、心の傷は消せるって。心の傷を消すために闘う必要があるんだよ」
「お母さんが言ってた。先生が言うように、事件を表沙汰にしたら、あたしたち親子はこの土地では暮していけなくなるって。世間の無責任な噂と、甲田組のいやがらせでズタズタにされるって。そうかといってよその土地に移るのはとてもたいへんだって。黙ってじっとして、いやなことは忘れることがいちばんだって。必ず忘れられるって……」
藤田圭子は宇津木の前で、はじめて涙を見せた。
3
甲田茂久は、自宅の玄関で靴をはき、用のすんだ象牙の靴べらを、横に控えていた組員に投げるようにして渡した。
玄関のドアは開け放ってあった。立ちあがった甲田の眼に、門から玄関に向ってくる健介の姿が見えた。甲田はふたたび上《あ》がり框《がまち》にどっかと腰をおろした。甲田の眼が険しくなっていた。
「学校休んで、どこをふらついてた、健介」
玄関に入ってきた健介に、甲田の怒声が飛んだ。
「ゲームセンター」
「ばかやろう。おまえは全治三週間の怪我人てことになってんだ。外をうろつくなって言ってあっただろうが」
「いいじゃねえか、ちょっとくらい」
健介が口をとがらせた。甲田はゆっくりと立ちあがった。いきなり甲田は手の甲で健介の頬を張った。健介は下駄箱の上に倒れかかった。健介の唇の端から細い血が流れ出た。彼は上体を起し、父親のほうに躯を向けたが、そのまままた下駄箱に腰でもたれかかって、唇の血を手の甲で押えた。
「宇津木って野郎は、肚《はら》据えてるぞ、健。てめえは倉庫から出てくるところを宇津木に見られただけじゃねえ。わざわざてめえから宇津木に顔を見せてやったそうだな」
「どうってことねえって思ったんだよ」
「どうってことねえだと。一人前の口きくんじゃねえ。てめえで何の始末もできねえ半端《はんぱ》野郎が。熊谷先生がいなかったら、逆に宇津木にやりこめられてたかもしれねえんだぞ」
「わかったよ」
「何がわかったんだ?」
「ドジ踏んだってことが……」
「いいか、健介。おまえはいまからあっちこっちの友達に電話して、垣原三高の二年生の藤田圭子って子が、学校の中で強姦されたって噂をばらまけ。いいな」
「なんで?」
「なんでもいい。ついでにおまえが強姦犯人とまちがわれて、宇津木にぶっとばされたって話もひろめろ」
「それでどうなるんだよう?」
「どうなるかてめえで考えろ。考えて頭で喧嘩するやり方を覚えろ。頭突きだけが頭使う喧嘩のやり方じゃねえんだ、ばか」
言い捨てて甲田は玄関を出た。組員たちが玄関の前に立っていた。一人がべンツのドアを開け、甲田は乗りこんだ。そのとき甲田の妻が玄関に出てきたが、彼女は甲田のほうは見もしないで、黙って階段を上がっていった。
二十分後に、甲田の乗ったベンツは、市の盛り場に近いマンションの玄関に横づけにされた。
ベンツから降りたのは、肥沼《こいぬま》という坊主頭のレスラーのような体躯の用心棒と、甲田だけだった。
「車は奈保《なほ》の店のほうに回しとけ」
ドアを開けた運転係の組員に甲田は言って、マンションの玄関に入った。
エレベーターを五階で下りた甲田と肥沼は、倉本《くらもと》奈保というネームプレートの出ているドアの前で足を停めた。肥沼がインターフォンを鳴らした。女の声が送られてきた。
「組長です」
肥沼が野太い声を送った。ドアが開き、倉本奈保が顔を出した。二十七、八歳の細面の美人だった。眼もとと口もとに濃厚な色気を感じさせる女だった。
「いらっしゃい」
奈保はいったん廊下に出て、甲田を中に入れ、手の中ににぎっていた小さな紙の包みを肥沼の手ににぎらせた。
「ゆっくりしてきて……」
「いただきます」
肥沼は渡されたものを押し戴《いただ》く恰好をして、エレベーターのほうに戻っていった。奈保はドアを閉め、鍵をかけ、チェーンロックをかけて奥に行った。
寝室で甲田が服を脱ぎはじめていた。
「時間がないんだ。七時にはおまえも店に出ろ。市長が来るんだ」
「お店に?」
「いつものみやげを渡さなきゃならんのだよ、市長に」
「わかったわ。今度はどちらからのおみやげなの?」
奈保は甲田の脱いだ物をハンガーにかけ、下着や靴下はきちんとたたんで、ドレッサーの前のスツールの上に置いた。
「ゴルフ屋だ」
「じゃあ、ゴルフ場できるって話、本決まりなのね?」
「縁故で会員権が安く手に入ることになってるよ、もう。おまえの分もな」
言って甲田は素っ裸の体をベッドに投げ出した。総身彫りの竜神の刺青《いれずみ》を入れている。
「お酒は?」
「ブランデーをくれ」
甲田は腹這《はらば》いになって、たばこに火をつけた。奈保が居間から酒の壜《びん》とグラスを持って戻ってきた。ボトルとグラスはベッドの横のテーブルに置かれた。グラスに酒を注いでおいて、奈保は着ているものを脱いだ。あらわにされていく奈保の白い躯を、甲田の眼が舐《な》めるように下から見ている。
奈保がベッドに入ってくると、甲田はヘッドボードに竜神の背中をもたせかけ、グラスを口にはこんだ。片手は奈保の乳房を撫《な》ではじめた。指が乳首を縒《よ》るようにして揉《も》む。奈保の手はまっすぐに甲田のペニスに伸びる。
寝室のカーテンはレースだけが引かれていた。午後四時近くで、外はまだ明るい。外光を受けたベッドの上で、甲田の刺青に埋めつくされた青い躯と、奈保の肌のぬめるような白さが、淫靡《いんび》な対照を見せている。
「健の野郎が面倒を起しゃがってな」
「喧嘩?」
「それもあるが、学校の倉庫で三人がかりで二年生の女の子を強姦しちまったんだ」
「学校で?」
「そいつを宇津木って先生に見つかっちまってな。ばかが健の野郎、その教員を殴っちまったんだ。脅して口を塞《ふさ》ぐつもりだったらしいが、この宇津木ってのが脅しにのるタマじゃねえようなんだ」
「事件になるの?」
「ほっとけばな。だから手を打った。おまえにも手伝ってもらわなきゃならん」
「手伝うって、何を?」
「店、ゴルフ練習場、美容院、どこでもいいから噂をひろげてほしいんだ。垣原三高の二年生の藤田圭子って子が学校の倉庫で強姦されて、宇津木って教師が健介に強姦の濡れ衣着せようとして暴力を振るった――そういう噂だよ。藤田圭子は母親と県営の団地に住んでて、母親は仁星病院の外科の看護婦してる女だ」
「学校の中での強姦事件と先生の暴力事件を噂にしてひろめて、校長の責任問題にして、その宇津木って教師に詰腹《つめばら》を切らせようってわけね」
「さすがにおまえは健介より頭が回るよ。健の野郎はそこまで読めねえんだ」
「逆療法の作戦ね」
「熊谷先生と相談したんだ。先生の考えじゃ、宇津木が何を言ったって、決定的な証拠はないから健介は無実だってことで押し通せるっていうからね。こっちが騒ぎを大きくする手に出ることにしたんだ。いざとなったら、市でも県でも教育委員会に手を回して、宇津木の首をとばすことだってできるんだ、こっちは」
「いつも健介さんのことばかだとか言ってるけど、やっぱり父親ね。そこまで考えてかばってやるんだから」
「親ばかでかばうんじゃねえよ。これが傷害だのなんだのなら、おらほっとくぜ。甲田組の跡取りが強姦でパクられたってんじゃ、みっともなくて仕方がねえだろうが」
「やらしてくれる女の子、いないのかしらね、健介さんには」
「いたって同じだよ。男の子ってのは見た片端から女にはめたくなるもんだ。その上、健のばかは調子者だからな。ダチがやろうって言い出せば、まっ先立って走っていくにきまってら」
「そうね」
「こいよ、奈保」
「はい」
奈保は起きあがり、ベッドに膝を突いて、甲田の顔をまたいだ。甲田は片手にブランデーのグラスを持ったまま、もうひとつの手で眼の前の奈保の陰毛を撫でた。濃くて毛足の長い陰毛が、生《は》えぎわを一線にそろえて逆三角形に性器を覆《おお》っていた。
甲田は陰毛を撫であげ、指でクレバスを押し開いた。そうやって仔細《しさい》に眺《なが》めながら、グラスを口にはこんだ。奈保はヘッドボードに手を突き、眼を閉じて腰を突き出している。
甲田の指が、陰毛の下の襞《ひだ》を分け、小陰唇を指先でつまんでちぢみを押しひろげた。細い隆起の付根《つけね》を指が押すと、包皮の中からクリトリスがむきだしにされた。粒の大きなクリトリスに、甲田がすぼめた唇で息を吹きかける。クリトリスは小さく息づくような動きを見せ、奈保がかすかな声を洩《も》らす。甲田の口もとにげびた笑いがひろがる。
甲田はさらに、奈保の膣口を指で押しひろげておいて、そこをのぞきこむ。そこに浅く指をくぐらせる。
「いや、見るだけじゃ……」
甘えた声で言って、奈保が浮かしていた腰を落とした。甲田の口もとが、奈保の陰毛で囲まれた。甲田はブランデーのグラスを奈保に渡し、彼女の尻を胸の上で抱え込むようにして引き寄せ、舌をクレバスに割りこませた。奈保はブランデーをすすりながら、喘《あえ》ぐような声を出して、ゆるやかに腰をゆすり立てた。
奈保の声が次第に高くなっていく。甲田は舌と唇を動かしながら、溢《あふ》れてくる奈保のうるみを、わざと音を立てて吸い、両手を上げて彼女の乳房を揉みしだいていた。
やがて奈保は甲田の胸の上で躯の向きを変え、そのまま突っ伏して甲田の男根に深々と唇をかぶせた。奈保の口からは絶え間もない喘ぎの声が洩れつづけている。その声は男根でふさがれた口の中で、ときどき舞い上がるように高くなる。
甲田がはげしく舌と唇を動かしながら、奈保の尻の横から伸ばした手の指を、彼女の膣とアヌスの両方に埋めているのだった。
4
週が替わって、藤田昌代は二勤の勤務番になっていた。
その夜、昌代が三勤の看護婦たちに引継ぎをすませて、勤務から解放されたのは、午後十一時過ぎだった。
「遅くなっちゃったわね。早く帰ってあげなさい、藤田さん」
引継ぎの相手のことばに送られて、昌代はナースセンターを出た。廊下は静かになっていた。どこかの病室から、呻き声とも寝言ともつかぬ低い声が洩れてきた。
昌代はうつむき加減になって、急ぎ足で廊下を進んだ。いつになく、病院が人間の不幸や不運の巣のように思えてならなかった。昌代自身も、心の中で呻き声をあげつづけていた。圭子がとんでもない災厄《さいやく》を受けてからは、昌代も眠れない夜がつづいている。
どこからひろがったのか、圭子が学校の中で乱暴されたという噂が、病院の中でもひろがりはじめていた。引継ぎの同僚が、早く帰ってあげなさいと言ったのは、圭子のためにという意味なのだった。
同僚たちは、圭子と昌代に対して同情といたわりを示していた。それがうわべだけのものではないことが、昌代にもわかっている。わかっていながら、同情されたり、いたわりのことばを向けられたりすると、昌代はついその裏に相手の好奇の気持を探りたくなってくる。そういう自分の心の動きも、自分ながらいやになるのだった。
昌代は軽乗用車で通勤している。駐車場を出て、車に乗りこんで、昌代は息をつき、大きく肩を落した。病院と県営団地との往き帰りの車の中だけが、このところ昌代のわずかに息のつける場所になっていた。
圭子の噂が同僚たちの耳に入ってからは、職場は気の詰まる場所に変わっていた。家に帰って、圭子の姿を見ていると、痛ましさと不憫《ふびん》さで胸が詰まってしまう。
圭子は母親の昌代にもほとんど口をきかない。身も心もむごたらしく傷ついているはずの圭子が、何を考えているのか、昌代にも深いところまではわかりかねている。
それは圭子が口をきかないから、心の内がわからないとこっちが思ってしまって不安になるだけで、圭子も自分と同じようなことを考え、同じような気持に苦しんでいるのだということは、昌代にはわかっていた。
宇津木先生の言うように、圭子もあたしも、事件を堂々と警察沙汰にして、甲田と二人の男に罰を与え、罪の償《つぐな》いをさせたいのはやまやまだわ。でも、それは口で言うほどやさしいことじゃない。警察でいろいろ細かなことを訊《き》かれ、検事にも訊かれ、法廷でも同じことが何人もの人たちの前でくり返されるんだわ。ときどき小説やテレビドラマで、そういう場面が出てくるじゃないの。女がそういうことに耐えるというのは、裸で町を歩くようなことなのに、それが宇津木先生にはわかっていないんだわ。宇津木先生はあたしに、甲田の父親が闘いをしかけてきたのは、考えようによっては甲田たち三人に罪を償わせるいいきっかけになるのだから、一緒に闘おうと言ったけど、ずいぶん気楽な先生だと思うわ、ほんとに。暴力団とたちのわるい弁護士を相手にまわして、学校の先生と女親と娘だけで、どうやって闘うのよ。勝てるはずがないじゃないの。宇津木先生の気持はありがたいし、先生の勇気には敬服もするけど、闘おうと思って立ちあがろうとすると、躯が足をひっぱるんだと言って、圭子は泣いていたけど、あたしも同じだわ。四十五になったあたしでさえ、裸で町を歩く覚悟なんかできないんだから、十七になったばかりの圭子にそういうことができるわけがないわよ――。
車を走らせながら、昌代は胸の中でひとりで語りつづけていた。
昌代が団地の駐車場に車を停めたのは、十一時四十分ごろだった。そこから少し歩くことになる。団地の中の通路を、昌代はやはりうつむき加減にして歩いていた。
彼女が顔を上げたのは、何人かの人の昂《たか》ぶった声を耳にしたからだった。昌代の家のある棟の出入口のところに、人がたかっていた。いくつもの声の中に、救急車とか、警察とかということばが聴きとれた。
昌代は一瞬、足を停めた。胸騒ぎを覚えたのだ。胸騒ぎはすぐに不安に変わった。底に恐怖のまじった不安だった。
昌代は駈《か》け出していた。気がついたときは足が地を蹴っていたのだ。足音で人の輪《わ》の中の何人かが、昌代のほうをふり向いた。
「藤田さん!」
声と一緒に、輪を離れた二、三人が、昌代のほうに走ってきた。
「あんた、見ないほうがいい、藤田さん。いまは見ないほうがいい」
中年の男が昌代の前に立ちはだかり、手をひろげ、すぐに昌代の肩をつかんだ。横から女の手が伸びてきて、昌代の肩を抱いた。もう一人の手が昌代の背中に添えるようにして当てられた。
「圭子ちゃんが……」
女が言い、ことばを呑みこんだ。
「娘さんなんだ、お宅の。上の踊り場から跳びおりたらしい。いま、救急車と警察を呼んでるから」
肩をつかんだ男が言った。
「娘にまちがいないんですか?」
自分でもびっくりするほど静かな声を昌代は出していた。そのくせに膝からはじまった震《ふる》えが、全身にひろがっていた。
「まちがいないの、奥さん。あたしが顔を見ちゃったの。圭子ちゃんなの」
昌代の肩を抱いている女が言った。昌代の家の隣の主婦だった。昌代はしかし、それが誰なのかわかっていなかった。
「あたし、見る。母親だもの。圭子かどうかたしかめる」
昌代は押えている人たちの腕をはげしい身振りで振りほどいて走った。誰かが抱きとめようとした。それも振り払った。昌代の手からハンドバッグが飛んだ。隣家の主婦がそれを拾いあげた。
昌代は人の輪の中にとびこんだ。最初に眼に映ったのは、薄いモスグリーンのジャケットと、白のパンツと、コンクリートの路面に散りひろがった髪だった。ジャケットにもパンツにも、昌代は覚えがあった。十七歳の誕生祝いに、圭子が選んで昌代がプレゼントしたものだった。ジャケットもパンツも、とてもよく圭子に似合っていた。圭子にとっては初めての、おとなっぽい服装だった。
昌代は立ったまま、そのジャケットとパンツを無言で眺めていた。けれども自分が何をいま見ているのか、彼女にはわかっていなかった。
圭子はうつ伏せになっていた。両脚は投げ出されたように膝を折って開き、右の腕だけが躯の下敷きになっていた。左手は捻《ね》じれた形に横に伸びていて、掌《てのひら》が上を向いていた。左の頬《ほお》が路面に押しつけられ、そこに血がひろがっていた。呻き声も聴こえないし、髪の毛一本動かない。
昌代はゆっくりとしゃがみこんだ。頭の中がふっと翳《かげ》ったように暗くなりかけた。昌代はひろがった血溜《ちだま》りの中に両膝を突き、圭子の頬に手を当てた。冷めたいのか温《あたたか》いのかわからない――そう思ったとたんに、停止していた思考力と知覚力が一斉に働きはじめて、昌代は娘の死の現実と直面した。
昌代の口から、悲鳴のような声がほとばしった。声と一緒に昌代は圭子の上に躯を投げ出し、胸に頭を抱きこんで、号泣をはじめた。人垣の中から、洟《はな》をすする音が生れた。
パトカーと救急車が来て、警察官が抱き起そうとしても、昌代は圭子の死骸から離れようとしなかった。
5
宇津木はベッドの中で、洋子と唇を重ね、彼女の乳房をまさぐっていた。
洋子は舌をからませながら、パジャマの前をはだけ、腰を浮かせてパジャマのズボンと下着をおろしていった。すぐに宇津木の手が、洋子の柔らかいしげみに伸びた。
電話のベルはそのときに鳴りはじめた。
「誰かしら?」
「邪魔しやがる」
「でもいいわよ。まだ始めたばかりだもん。最中ならあたし絶対、電話なんか出ない」
「いまなら出るかい?」
「いいけど、あたしもうパンティ脱いでるのよ」
「仕方がない。出るか」
宇津木は起きあがり、笑った顔で洋子の乳房としげみのところにすばやく口づけを送り、ベッドを出た。
電話は居間に置いてあった。明りはつけなかった。居間と寝室はドアでつながっている。開けたままのドアから、ベッドの枕もとのスタンドの明りが薄く居間の床に伸びていた。暗くても受話器は取れた。
宇津木は寝室に眼を投げたままで、受話器に手を伸ばした。ベッドの足もとのほうの半分ほどがそこから見えていた。洋子の裸の体の腰から下も見えている。
宇津木は受話器を取って応答の声を送った。送られてきた相手の声は、低い上にこもったようなひびきで、ことばが聴きとりにくかった。男なのか女なのかすらはっきりしなかった。酔っぱらいのまちがい電話ではないだろうか、と宇津木は思った。そんなふうにも聴こえたのだ。
「宇津木です。電話が遠いんですが」
宇津木は声を高くした。一瞬、受話器が静まり返り、それから声が送られてきた。今度はなんとか聴き取れた。
「圭子が、死にました……」
「なんですって!」
宇津木ははじかれたように躯の向きを変え、電話機の上に上体をかがめた。
「圭子が自殺したんです。今夜。先生のせいですよ」
「お母さんですか?」
宇津木は叫ぶような声になっていた。耳に返ってきたのは、電話の切れた音だった。
宇津木は寝室に戻った。まっすぐに洋服|箪笥《だんす》の前に行った。
「藤田が自殺したようなんだ」
「自殺!」
洋子もベッドの上ではね起きた。
「電話はお母さんだったの?」
「だと思うんだけどね。声がいつもと全然ちがうんだ」
「まさか、誰かのいたずらか、甲田のいやがらせじゃないでしょうね」
「それなら救われる。とにかく行ってくるよ、藤田の家に」
宇津木は言った。洋子もパジャマを急いで着て、ベッドを降りた。
「黒のセーター出してくれ」
ズボンに足を通しながら、宇津木は言った。
(……先生のせいですよ)
電話の相手の声が、虫の羽音のように耳もとにまとわりついていた。
「免許証持った?」
玄関まで送って出てきた洋子が言った。宇津木は免許証だけでなく、車のキーも持たずに出ようとしていた。洋子が持ってきた免許証と車のキーをひったくるようにして、宇津木は家を出た。
電話がかかってきたとき、洋子と躯を重ねていたとしたら、ひどく悪いことをしていたような気持になったかもしれない、と宇津木は車を出しながら思った。
すぐに、まだ藤田圭子が死んだことがはっきりしたわけじゃない、と自分に言った。
ダッシュボードの時計は、午前一時になろうとしていた。日が変わって日曜日になった。そう思ったとき、宇津木は藤田圭子の自殺はいつのことなのだろうか、と考えた。
習慣のようになった眼が、バックミラーに行った。うしろにも前にも車は走っていなかった。甲田組も夜中までは宇津木に張りつくつもりはないらしい。
二十分余りの道のりだった。
県営団地の中に、宇津木は車を乗り入れた。静かだった。明りのついている窓はかぞえるくらいしかなかった。
藤田圭子の家の棟の入口に、水を撒《ま》いたあとがあった。そこに花の束と、茶碗に土を入れたものに線香が立てられて、置かれていた。宇津木は胸を突かれた。まっすぐ上に眼を上げた。階ごとの踊り場の囲いが縦に並び、その上に屋上がつづき、そこに暗い夜空がひろがっていた。屋上から落ちてくる藤田圭子の姿が、宇津木の脳裡《のうり》にあった。
線香は短くなったまま、薄い煙をあげていたが、匂いはしなかった。
宇津木は階段を上がった。ひとりでに足音を殺すような昇り方になっていた。
インターフォンで送られてきた声は、宇津木がさっき電話で聴いたのと同じだった。
ドアが開き、藤田昌代が顔を出した。彼女はいっぺんに十歳も年をとったかに見えた。眼が脹れあがっていた。通勤着らしいグレイのスーツに、黒とグレイの太い縞柄のスカートをはいていた。髪が乱れ、ストッキングの膝が汚れていた。ストッキングは足首のところにたるみができていた。
「圭子はいません」
「お母さんが電話をくださったんですね?」
「お知らせだけしとこうと思いまして……」
「いつのことだったんですか?」
「さっきです。あたしが仕事から帰ってくる少し前です。七階の踊り場の囲いのところから跳びおりたらしいんです。踊り場にサンダルが脱いであったんです」
「遺書は?」
藤田昌代は無言で頷《うなず》いた。
「お線香があったらいただきたいんですが」
宇津木は言った。藤田昌代は奥から線香の箱を持ってきた。宇津木は中からつかみ取った線香を持って、踊り場に出た。
そこは四階だった。宇津木は七階まで上がった。踊り場にはもう藤田圭子のサンダルはなかった。宇津木は踊り場の囲いの前に立った。真下にぼんやりと白く小さく、花束が見えた。そこに立ったとき、藤田圭子は何を考えたんだろうか、と宇津木は思った。涙がこみあげてきた。
下りていった宇津木は、四階の踊り場で藤田昌代と鉢合わせになった。彼女も手に線香の束を持っていた。藤田昌代が先に立って階段を下りた。
二人は水で濡れた地面に置かれた花束の前にしゃがんだ。藤田昌代が短い蝋燭《ろうそく》にマッチで火をつけた。炎が風に揺れた。宇津木が手をかざして風をよけ、蝋燭の火で藤田昌代が線香に火をつけた。宇津木も蝋燭の火で線香をつけた。合掌《がつしよう》した。土を入れた茶碗は、線香でいっぱいになっていた。煙が濃くなり、線香が匂った。合掌は長くつづいた。
「遺体はお家ですか?」
「まだ帰っていません。解剖をするんだそうです。変死ということで……」
二人はその場にしゃがんだままだった。
「たしかに、ぼくのせいかもしれません。申し訳ないと思います」
「いいんです。電話ではあんなことを言いましたけど、先生のせいだなんて本気で考えてるわけじゃないんです」
「残念でなりません。ぼくはまちがってたかもしれないと思ってます。いまは……」
「圭子は先生に謝まりたかったんじゃないかと思いますよ。自分が弱くて、先生のおっしゃるようにできないことを」
「遺書はどんな内容だったんですか?」
「お母さん、ごめんなさい。わたしは鳥になります。何もかも消して空を飛びます――それだけしか書いてなかったんです」
宇津木は聞いたことばを胸の中で反芻《はんすう》した。くりかえし反芻した。遺書のことばを読む藤田圭子の声が、どこからか聴こえてくる気がした。
「学校の友だちが、何人も電話をかけてきていました。それで圭子は、みんなが事件を知っていることがわかったんです。それがあの子にはこたえたようです」
「事件の噂がひろがっていることは知っています。おそらく甲田が吹聴《ふいちよう》してるんだと思います。ぼくの立場を悪くするためにでしょう、きっと。甲田と彼の父親は、ぼくを根拠もなしに人を疑う暴力教師に仕立てあげたがってるんです。自分の罪を隠すために」
「あたしの勤めている病院にも、噂は流れてきています。先生の噂じゃなくて、圭子の噂だけが……」
「まったく、こんなことになるとは思ってもいませんでした」
「先生はご自分が立派であろうとして、努力をしすぎたんだと思います」
「たしかにこれは、圭子君の問題であると同時に、ぼくの問題にもなってしまってた」
「あたしはこれで一人になりました。看護婦の免許がありますので、どこにでも行けます。この土地にしがみつこうとする気持がふっきれそうな気がしてるんです。圭子が死んだ土地を離れたほうがいいように思います。先生は、もうご自分の問題だけを考えればいいわけですから、思うとおりになさってください。圭子もそれを望んでるんだと思います。あたしには、先生のように強く闘っていく力がないんです」
「やっぱり、圭子君をぼくは自殺に追いやったんだと思います」
「だから先生、闘ってください。あの子のためにも……」
「そのつもりです。自分に何がやれるかわかりませんけど……」
「圭子は、先生が家に来てくださったことを、なんとか自分の心の支《ささ》えにしようとして、結局、できなかったんです」
「十七歳の女の子に背負えというのは無理なものを、ぼくは圭子君に背負わせようとしていたのかもしれません」
「その子によりますでしょう。圭子は芯の弱い子だとは思っていませんでしたけど、思いつめるところのあるタイプでした」
藤田昌代が立ちあがった。彼女の声は最後までしわがれたままだった。線香が短くなっていた。
宇津木は打ちひしがれた気持で、藤田昌代と別れた。
三章 爆 音
1
生徒たちが廊下にひとかたまりになって、教室の中を覗《のぞ》いていた。
どの顔も好奇心で輝いていた。宇津木はその中に、甲田健介の顔を探した。甲田はそこにはいなかった。塩野や武井などの非行グループの生徒が、何人かまじっていた。
教室の中にいるのは、宇津木とその土地のテレビ局のスタッフたちだけだった。宇津木はテレビカメラを向けられ、ライトの中に立っていた。藤田圭子の席だった場所のすぐ横である。
藤田圭子が使っていた机の上には、花が飾られていた。テレビ局が用意してきた花だった。カメラマンがその花の位置を、何度も助手になおさせていた。
藤田圭子が自殺をしてから、十日が過ぎていた。宇津木の顔には疲れがにじんでいた。
空席になった藤田圭子の机には、一週間だけ、毎日花が飾られていた。クラスメート全員が、一輪《りん》ずつの花を毎日持ち寄ったのだ。
八日目に、前日飾った花が、鋭い刃物で切り刻まれて、教室中にばらまかれていた。それを見て、宇津木は花を飾ることを止めさせた。
「では、そろそろ……」
ディレクターの上村が、宇津木に向って言った。ポロシャツの上に格子《こうし》のジャケットをはおった、若いディレクターだった。ディレクターがインタビュアーをつとめることになっていた。宇津木は無性にたばこが欲しくなった。もちろん、教室に灰皿はなかった。
「藤田圭子さんが自殺なさって、ちょうど十日が過ぎたわけですが、先生のいまのお気持はどうでしょうか?」
「痛恨の一言です」
「これは特集番組ですので、お話をうかがう前に、これまでの事件の経過を、報道されている事柄にそってふり返ってみたいんです。事実の整理と確認の意味で」
「はい」
「まず、五月十五日の夕方に、ここ垣原市立第三高等学校の体育用具倉庫の中で、二年生の藤田圭子さんが、三人組の男によって乱暴されるという事件が起きた、とされています。その四日後の十九日の放課後に、同じ倉庫内で、宇津木先生と、先生から藤田圭子さんに乱暴を働いた三人組の一人と名指しされた、三年生のK君との間で、そのことを巡《めぐ》る口論があり、暴行|沙汰《ざた》が起きました。それからさらに一週間後の五月二十六日の深夜に、藤田圭子さんが遺書を残して、住んでいた県営団地の七階の踊り場から跳びおり自殺をしたわけですね。その後、警察が藤田圭子さんの暴行事件の捜査を始めました。その捜査は結論を見ないまま結局、きのうで打ち切られました。最終的な警察の見解は、暴行事件が現実に発生したと認定するに足りる客観的な根拠が見つからず、従って捜査を打ち切る、というものでした。こうした経過のために、藤田圭子さんの自殺の原因は謎のままとなり、暴行事件の発見者である宇津木先生と、先生によって暴行犯と名指しされたK君との主張も対立したままで、事件の真相は藤田圭子さんの自殺によって藪《やぶ》の中に隠れたままとなっているわけですね」
宇津木は頷《うなず》いた。
「これまで宇津木先生は、この事件についてのマスコミへの発言を、一切《いつさい》控えてこられたわけですが、それはなぜですか?」
「警察が真相を明らかにしてくれるのを待っていたのです。それまでは一切しゃべらないということは、校長を通じて報道陣に伝わっているはずです」
「警察が捜査を打ち切ったので、わたしどもの取材に応じようというお気持になられたわけですね?」
「そうです」
「暴行事件があったと認定するに足りる、客観的根拠が見当らないとした警察の見解についてはどうですか?」
「不満ですね。事件発生の根拠が見当らないからと言って、事件が起きなかったということにはならないはずです。現実に、ぼくの担任していた一人の女生徒が、醜《みにく》い野獣たちの毒牙《どくが》にかかっているんです」
「藤田圭子さんのお母さんは、報道陣にも警察にも、娘がレイプを受けたかどうかはわからないと話していますね。圭子さんが五月十六日以後、自殺する日まで学校を休みつづけていたことについても、お母さんは、学校でいやなことがあったからだとしか娘は言わなかった、と話していますね」
「お母さんとしては、死んだ娘がレイプされた、レイプが原因で自殺したとは言いたくなかったんでしょう。痛ましすぎますからね。娘さんをかばってやりたかったんだと思いますよ。そうすることで、あの子のレイプの噂を否定してやりたかったんでしょう、お母さんは」
「なるほど」
「そのお母さんの話を聞いて、そこにレイプの事実を嗅《か》ぎ取るかどうかは、人それぞれの判断でしょうけど、ぼくは警察がお母さんの話を額面どおりに受け取っていることが残念です。当の被害者がもう話のできないところに行ってしまったために、捜査を進めるのが非常に困難だということはわかりますけど」
「警察は、レイプ事件に関する先生の目撃証言も聞き流しにしたことになりますね?」
「結果的にはそうなっています。ぼくの話に警察が耳を貸さなかったとは言いませんが、熱心に聴いてもらえたという印象は持てませんね。ぼくは現実に、暴行を受けたことが明白な被害者のようすを、そのとき見ているのだし、倉庫から出ていくKと、顔のわからなかった残りの二人を見ているんですから」
「警察は先生が見たものは幻《まぼろし》だったというわけですね」
「幻と言ってるわけじゃありません。見たと言っているのがぼく一人では、それを事実として認めるための材料としては不充分だ、ということらしいんです」
「それに、先生に顔を見られたとされているK君のことも、見た、いやそこにはいなかった、と水掛け論に終るし、K君はアリバイを主張した、ということでしたね」
「ぼくは、ありもしなかった暴行事件をでっちあげて騒ぎを起そうとしている、わけのわからない男ということになりそうですね。しかし、何のためにぼくが、見もしなかったことを見たと言わなきゃならないんでしょうかね。なぜ藤田圭子は五月十六日から学校を欠席しつづけていたんでしょうか。なぜ彼女は自殺しなければならないんでしょうか。不思議なことばかりが起きているんです。ところが問題にされたのは、レイプ事件が起きたか起きなかったか、ということだけでしたね。ぼくに言わせれば、藤田圭子の欠席や自殺だけでも、充分にレイプ事件を認定する材料だと思うんですがね」
「警察は、藤田圭子さんが死んでしまっていることから、最初から投げやりな捜査をしたとも受けとれますね。その点どうですか?」
「被害者の証言がとれないから投げやりになったのか、別の理由で徹底捜査ということにならなかったのか、ぼくにはわかりません」
「別の理由と言いますと?」
ディレクターの眼が輝いた。マイクを向けてくる手に力がこもったように、宇津木には見えた。
「推測でならいくらでも物が言えますが、それは無責任ですから発言は控えます」
「警察が捜査を打ち切った理由について、何か先生には推測なさっていることがあるわけですね?」
「ノーコメントということにしときましょう」
「ところで、先生がレイプ犯人として名指したK君というのは、暴力団の幹部の子息ですね?」
「はい」
「K君に暴力を振るったことで、彼のお父さんから先生に圧力がかかった、という話を聞いているんですが、事実ですか?」
「圧力がかかったとは考えていません。抗議のためにK君のお父さんが学校にこられたことはありますが」
「抗議ですか?」
「レイプ犯人の濡れ衣を着せられたということと、暴力を振るったことについての抗議でした。それを圧力と取るかどうかは、それぞれの考え方によるでしょうね」
「抗議に対して、先生はどのように答えられたんですか?」
「謝罪の意志はない、と伝えてあります」
「それでケリがついているわけですか?」
「いまのところはぼくのほうは、ケリがついていると思っています。向うがどう考えているかはわかりませんが……」
「先生は当然、いまも藤田圭子さんの自殺の原因は、そのレイプにあると考えていらっしゃるわけですね?」
「まずレイプがあったんだと思います。そのあとで、ぼくとK君との暴力事件が起きて、レイプの噂がひろまりはじめるということがありました。それから、ぼくが藤田君に、勇気を持ってレイプ犯を告発するのが、この不幸を乗り越える途《みち》だという話を再三したということもあります。そうしたもろもろのことが、彼女を死に追いやる結果になったんだとぼくは思っています。ぼくは教師として、自分のとった行動が正しいのかどうか、自分ではわかりません。もちろんそのときはそれが正しいと思ってしたことだったんですが、彼女を死に追いやった責めの一端は負わねばならないと思っています」
「そのために具体的に考えていることが、何かありますか?」
「この事件の本質的な問題は、なぜレイプが幻の事件とされていったか、という点にあるんです。それにはちゃんと理由があるんです。被害者自身も、母親までもが、レイプの事実を認めたがらない特殊な理由があるんです。できればぼくは、自分の手で三人のレイプ犯人を突き留めて、レイプが行なわれたことを明白にした上で、事件が幻にされていった理由も明らかにしたいと考えています」
「その理由とは?」
「いろんな意味での、暴力に対する脅威です。一言で言えば……」
「暴力に対する脅威?」
「はっきり言いましょう。K君と暴力団の幹部であるK君のお父さんに対する脅威です」
「なるほど」
「どこまでやれるかわかりませんが、ぼくはすべてを明らかにしたいと思っています。それが藤田圭子の死に報《むく》いる、教師としての義務だと考えています。教え子がレイプされたことを暴《あば》くようなことは、ほんとうはやりたくない。藤田圭子は汚れを知らないまま死んでいったということにしておきたいのですが、これまでのいきさつが、ぼくに眼をつむることを許さないんです」
「ありがとうございました」
ディレクターが、カメラマンに合図を送り、マイクをスタッフに渡した。
「このインタビュー、必ず放送してくださいよ、上村さん」
宇津木はディレクターに言った。
「もちろん放送しますよ」
「カットなしで?」
「それも約束します。甲田組の圧力で、放映見送りなんてことになるんじゃないかって考えてるんでしょう。宇津木さん。心配しないでください。必ずノーカットで流します」
「ぼくは独力で甲田組と闘うことになりかねないです。マスコミの応援があれば、こんなに心強いことはない」
「応援しますよ。がんばってください」
ディレクターは言った。
2
CDラジカセのスピーカーから、ロックミュージックがひびきわたっていた。かなりのボリュームだった。
たばこの煙と、かすかな酒の匂いが、閉めきった部屋にこもっていた。武井繁行の家の居間である。武井と甲田健介と塩野道夫が顔をそろえていた。みどりと、松原由佳《まつばらゆか》という名の女の子がいた。松原由佳は、みどりの友だちで、みどりに連れられてはじめてその部屋にやってきたのだった。五人とも床に腰をすえたり、寝そべったりしている。そのために部屋がせまくなっていた。
男たち三人は、コークハイを飲んでいた。三人とも睡眠薬を飲んだあとだった。松原由佳が、甲田から受け取った睡眠薬の錠剤を、スプーンを使って薬包紙の上でつぶしはじめた。
「由佳、何してんのよ」
みどりが言った。
「あたし、粒のままだと薬飲めないんだ」
由佳は言って、真剣な眼差《まなざ》しでスプーンを使いつづけた。
「親父《おやじ》さんに話したのか、甲田……」
塩野が言った。
「何を?」
「決まってんじゃねえか。今日、宇津木が教室でテレビのインタビュー受けたことだよ」
「話した。おまえらから聞いたとおりにな。あいつのインタビュー、おまえらちゃんと聞いてたんだろうな?」
「だいたい、まちがいないよ。廊下で聴いてたから、声が低くなると聴きとれないときもあったけどよ」
塩野が言った。
「親父さん、何て言ってた?」
「おもしれえじゃねえか。先公一人つぶすのなんざ指の先だって、そう言ってるよ」
「指の先でちょん。それでおしまいか。だろうな。宇津木対甲田組だもんな」
「あてにすんなよ、甲田組を。親父は表《おもて》にはもう出ないって言ってるからな。表に出るのはおれたちの役目だって。親父は裏に回るってよ」
「結局、同じことだよ。宇津木は一人で甲田組と喧嘩することになるわけだ」
「勇ましいこと言ってたな、宇津木は。強姦犯人三人組を突き留めて、K君のお父さんと対決します、そんなこと言ってたぜ」
「K君のお父さんが事件の癌《がん》だというようなことも言ってたよなあ」
「そう。K君のお父さんの脅威には負けません、だとよ、K君」
「おまえら、うちの親父がついてると思って、気楽な面《つら》してるけど、宇津木は本気だぞ。親父も言ってたよ、あいつはほんとにやるつもりらしいって。びびるなよ、武井も塩野も」
「びびるわけねえだろうが」
「いくら本気になっても、宇津木に何がやれるってんだ。あいつにやれることは、テレビのマイクに向って、恰好《かつこう》つけたことしゃべるだけだよ」
「親父は、宇津木がしゃべったことがテレビで放送されたら、テレビ局と宇津木を名誉|毀損《きそん》となんとか罪で訴えるって言ってたよ」
「なんとか罪ってなんだい?」
「ブコク罪とかなんとか言ってたなあ」
「なんだ、そりゃ?」
「知らねえよ」
「訊かなかったのか、親父さんに」
「おっかなくて訊けるかよ。訊けば、てめえが余計な騒ぎ起しやがるから、いらんことで頭使わなきゃならねえんだって、ぶっとばされるにきまってんだ」
「いいな、甲田の親父さんは。ぶっとばしても、息子のことを心配してくれるんだから。おれんとこの親父は、おれには何も言わねえんだよ。びびってやがんの、息子に……」
「いつまで強姦の話ばっかりしてんのよ。女っ気が足りねえっていうから、由佳を連れてきてやったのに……」
みどりが口をとがらせて言った。
「あんたたち、強姦やったの?」
由佳がコークハイのグラスを下唇につけたままで言った。
「こいつらよ。ほら新聞にのったでしょう。三高の二年生の子がレイプされたとか、されなかったとかで、自殺したって事件」
「ああ、あれ。あの子やっぱりレイプされてたの?」
「そうなのよ。だからこの三人、宇津木って先公とトラブってんのよ」
「余計なこと言うんじゃねえ、みどり」
甲田が怒鳴った。みどりは口を噤《つぐ》んだが、怖がっているようすではなかった。
「ヤベえな」
塩野が甲田を見て言った。甲田がソファのところに行って、塩野と武井を手招きした。三人が窓ぎわに集まった。みどりと由佳がそれをぼんやり見ていた。みどりと由佳は、もう睡眠薬が効きはじめたのか、とろんとうるんだような眼になっていた。
「由佳を姦《や》ろうぜ。姦っちまえば、あいつもよそ行って余計なことしゃべらねえからな」
甲田が武井と塩野の頭を寄せさせて、耳もとにささやいた。
「わかんねえぞ。余計なことしゃべったら、姦《や》られたことを噂にして流すぞって脅すんだろう? 由佳もツッパリらしいからな。姦《や》られたことぐらい屁でもねえと思えば、しゃべるかもしれねえぞ」
「おふくろのポラロイドカメラがあるんだよ。フィルムもあるはずだ。なきゃ買ってくればいい。それで由佳の写真とろう。おまんこまる見えの写真。そいつを口留めに使うんだよ」
「ギャンギャン喚《わめ》かれるとやべえから、最初にみどりを裸にさせて、おまんこやっちまおう。そうやって由佳もその気にさせちまう。それで写真撮ろう。やってるとこの写真だ。こっちの顔を写さねえようにしてな」
「K君、冴えてますねえ」
「ばかやろう」
囁《ささや》きを止めて、三人は大声で笑った。
「何よ、あんたたち。内緒話《ないしよばなし》なんかして。帰るわよ、あたしたちが邪魔なら」
みどりが言った。
「邪魔じゃねえよ。そうじゃなくて、まだ薬《ヤク》の礼をもらってなかったなって言ってたんだよ」
塩野が言って、三人は元の場所に戻った。
「払うわよ、躯《からだ》で……。オナニーはいやよ。あんたたち、オナニーして見せただけじゃ、どうせすまないで、結局おまんこやることになるんだから……」
「由佳も躯で払うのかい?」
「いやよ、あたしは。お金払うわ。いくらなの?」
「三千円。特別サービス。初めての客だから」
「高いんじゃないの?」
「おれんとこはいつもは一錠千五百円もらってんだぜ」
甲田が真顔で言った。由佳は残っている二錠の錠剤を包みに納め、ポシェットから財布を出した。それをポケットに入れながら、甲田がみどりに眼をやった。
「みどり、脱げよ」
「ここでやる気? 由佳が見てるとこで」
「かまわねえよ。由佳だって見たがってる」
「あたし、帰る」
由佳が立ちあがった。塩野が由佳の前に立ちふさがり、肩を押えた。
「ラリったままでふらふら外を歩くんじゃねえよ。サツの少年課に補導されるぞ」
塩野は無理矢理に由佳を坐《すわ》らせた。
「ま、いいか。由佳は女だもんね」
みどりが言って、するすると着ている物を脱いだ。
「あたし、隣の部屋に行ってる」
由佳はまた立とうとした。塩野がそれを抱きすくめた。
「おまえも脱げよ。どうってことねえよ。みんなやってることなんだから。知ってんだろう? 男」
塩野が由佳の頬に唇をつけて言った。由佳の顔と躯《からだ》がこわばった。彼女は塩野の腕の中でもがき、荒い息を吐《は》いた。
甲田が裸になったみどりを仰向けにして、彼女の胸をまたぎ、頭を引き寄せて、フェラチオを強いた。みどりは床に肘《ひじ》を突いて躯を支え、舌と唇を巧みに使いはじめた。甲田が由佳を笑った顔で見ながら、みどりの両の乳房を荒っぽく揉みしだいた。
武井がみどりの脚を押し開き、ペッティングを始めた。薄く陰毛をのせたみどりの性器が、武井の手で裂けんばかりにひろげられ、クリトリスが露出させられた。武井の指がそこを早い動きでこすりはじめた。
「やってみようぜ、おれたちも」
塩野が由佳のミニスカートの奥に手を入れた。
「いや!」
由佳が塩野を突きとばして立ちあがり、部屋の入口に走った。塩野がうしろからとびつき、肩をつかんで振り向かせざまに、平手打ちをくわせた。由佳の躯が壁にぶつかった。塩野は由佳の腹を蹴った。
「由佳。あきらめてやらしちゃいな。どうってことないって。やらさなきゃこいつら、何するかわかんないわよ」
みどりが言った。みどりの口はすぐにまた甲田のペニスで塞《ふさ》がれた。塩野が由佳の髪をつかんで引き倒した。武井が立っていって、由佳のスカートとストッキングとパンティをむしりとった。甲田はみどりに犬の姿勢を取らせて、うしろからペニスを突き入れた。甲田はそのままみどりの腰の上に突っ伏し、手を伸ばして乳房を揉みしだいた。
「早くいっちゃってよね。あたしはよくならないんだから」
みどりはけろりとした口調で言った。
由佳は塩野と武井の二人がかりで、素裸にされていた。床に押えつけられた由佳に、左右から塩野と武井が取りつき、小さな乳房を揉み、乳首を吸い、稚い陰毛の下にあらわになっている性器をもてあそんだ。
「なにやってんだ、おまえら。カメラだよ、カメラ」
甲田が言った。武井が思い出したようすで立ちあがり、隣室に行った。甲田はみどりから離れると、由佳の性器に触れている塩野の手をはねのけ、無理矢理に膝を押し割り、腰を抱えこみ、何度も失敗した末に押し入った。
「またおまえが一番かよ、甲田」
塩野が不服げに言ったが、彼はすぐにみどりの上に乗りかかっていった。由佳は棒のように横たわったまま、両手を顔に当てて泣きはじめた。
3
その特集番組は、宇津木がインタビューに応じた一週間後の夜の十一時から放送された。〈女子高校生の自殺の謎に迫る〉というタイトルがつけられていた。
宇津木は洋子と二人で、自分の家でそれを見た。
静かな住宅地に、オートバイと車のすさまじい爆音が迫ってきたのは、その番組が始まって十分とたたないときだった。
「暴走族?」
洋子が宇津木を見て眉《まゆ》をひそめた。宇津木は曖昧に頷いた。
宇津木は、近づいてくるすさまじい音の塊《かたま》りに甲田健介の顔を思い浮かべていたのだ。甲田健介が、そのテレビの特集番組の放映時間に合わせて、暴走族を引き連れて現われる――ありえない話とは思えなかった。
爆音の群《むれ》は、たちまち宇津木の家の前まで押し寄せてきた。テレビの音はまったく聴こえなくなった。
「甲田じゃないの?」
洋子も宇津木と同じことを考えたようだった。洋子の表情がこわばっていた。
「そうかもしれない。特集番組が放送されたんで、いやがらせにきたのかな」
宇津木は平静を装《よそお》った。洋子の恐怖を誘いたくはなかった。
「ご近所に迷惑かけるわね」
「出てみるよ」
「刺激しちゃだめよ。うちの前に停まってるみたいよ」
洋子が言った。遠ざかっていく爆音もあった。家の前でエンジンをすさまじい音で空吹かししている音も聴こえた。オートバイと四輪車のエンジン音が、入りまじっていた。
「一一〇番に連絡してくれ。暴走族が集ってて騒がしいからなんとかしてくれって言ってみて」 洋子が立ちあがった。宇津木は居間の窓のカーテンを細く開けて、外に眼をやった。生垣《いけがき》の向うに、車とオートバイのライトがかたまって見えた。何か叫んでいる声もした。何台の車やオートバイが集っているのか、生垣に遮《さえぎ》られて見えなかった。
電話をしている洋子の声も、よく聴きとれなかった。宇津木は玄関に行った。明りはつけずに、サンダルをつっかけてドアを開け、門まで行った。門の前も車とオートバイで埋まっていた。
宇津木は気持の昂《たか》ぶりを押えて、門を開け、道に出た。何本ものオートバイのライトの光が、交錯《こうさく》しながら宇津木に向けられてきた。宇津木は両手をかざして眩《まぶ》しい光を遮った。とたんに耳もとを風を切って何かがかすめていった。宙にあげている腕に、にぶい音を立てて何かが当った。痺《しび》れるような痛みが腕に走った。
石を投げられているのだ、とわかった。宇津木は憤激した。また石が飛んできた。見えたわけではなかった。肩と太腿に走った痛みでわかった。
宇津木は腕で頭をかばった。気持の昂ぶりが、家の中に駈《か》けこむという考えを宇津木から奪っていた。宇津木は腕で頭をかばったまま、いちばん近いところに停まっているオートバイに突進した。
オートバイはタイヤから煙をあげて、いきなり突っこんできた。宇津木は生垣に突っ込むようにして、オートバイをかわした。鋭く笛が鳴り、音と光の集団が疾走を始めた。はげしい音とともに、何かが割れた気配があった。家の前は、いくらか静かになった。だが、遠巻きにしているような爆音は、姿の見えないまま、まだつづいていた。
宇津木は門まで引き返した。カーポートに停めてある洋子のカローラのフロントガラスが割れ、前輪のタイヤが二つともパンクしていた。並べて停めてあった宇津木のブルーバードの前輪もパンクしていて、ボンネットの上に描の押しつぶされたような死骸がのせてあった。外灯の明りが、血まみれの猫の死骸を、濡れたように光らせていた。
宇津木は玄関に入った。洋子が出てきた。
「パトカーを向かわせるって……」
「甲田の奴だよ」
「いたの?」
「いたかどうかわからないが、車の窓が割られて、パンクさせられてる」
「どうする?」
「パトカーぐらいじゃ治まらないだろうな。どうせ一台か二台しか来やしないよ、パトカーは」
「また来るわね、きっと。まだ音が聴こえてるもの」
「戦争みたいなもんだな、これは。こっちが怯《おび》えたら、奴らもっとつけあがる」
「まさかあなた、多勢を相手に立ち回りやるつもりじゃないでしょうね」
「それほどばかじゃない。懐中電灯を持ってきてくれ」
「何をするの?」
「奴らの車の一台でもいいからパンクさせて、とっつかまえる。甲田の仕業《しわざ》だという証拠がほしいんだ」
宇津木は言った。洋子は気遣《きづか》わしげなようすを見せたが、黙って奥に行って懐中電灯を持ってきた。
「出てきちゃだめだぞ。何があってもね。ぼくは大丈夫だから」
宇津木は言って玄関を出た。裏の物置に行って、扉を開けた。贈り物の京都の漬物《つけもの》の空《あ》き樽《だる》があった。ラワン材の切れ端もあった。宇津木は大工道具の入っている箱をあけ、三寸釘と金槌《かなづち》を取り出した。ラワン材の切れ端に、三寸釘を間隔をあけて三本打ち込んだ。釘は板を突き抜けて裏に出た。漬物の樽の蓋《ふた》にも、釘を打ち込んだ。蓋が割れるかと心配したが、割れずにすんだ。
物置の隅《すみ》に、埃をかぶった木刀が立てかけてあった。迷った末に、木刀は手に取らなかった。
宇津木は門を出た。爆音は近くなったり遠くなったりして、まだ聴こえていた。住宅地の中の道を走り回っているようすだった。
百メートルほど先に、小さな神社があった。宇津木は急いで神社まで行った。鳥居をくぐり、境内《けいだい》の石の柵《さく》の陰に身をひそませた。
たばこを持ってくればよかった、と宇津木は思った。何かひどく無駄なことをしているような思いが、くり返し生れた。
爆音の塊りが近づいてきたのは、二十分余りも待った後だった。音は文字どおり、何かの塊りのように迫ってきた。
境内の石の柵の前を、何台もの車とオートバイが、風を捲《ま》きあげて疾走していった。宇津木はかぞえた。車が八台。オートバイが十三台いた。それは必ず同じ道を引き返してくるはずだった。
さらに二十分近く待った。音と光の群が近づいてきた。宇津木は息を殺し、眼の前を走り過ぎる車とオートバイの数をかぞえはじめた。ライトの光の中に、武井の顔が浮かびあがった。武井は車の窓から身を乗り出して、うしろにつづいているオートバイに大きく手を振っていた。
列が途切れかかる前に、宇津木は立ちあがり、釘を打ち抜いた二つの板を道路に投げた。すぐにまた柵の陰にかがみこんだ。
ブレーキのきしむ音が耳を裂いた。オートバイ同士がぶつかるのが見えた。一台が横転したまま、小さな火花を飛ばして路上をすべっていった。一台は乗り手の膝をオイルタンクの下敷きにして、倒れた。先行の車は遠ざかっていた。倒れた二台の車が最後尾《さいこうび》だった。それは数をかぞえていたから、宇津木にはわかっていた。
宇津木は柵をとび越えて道路に出た。二人の男が、オートバイを起しにかかっていた。宇津木は、道の端に飛んでいた二枚の板を拾った。それを柵ごしに境内に投げこんだ。
男たちが宇津木のほうをふり向いた。宇津木は寄っていった。
「オートバイを道の端に寄せろ」
宇津木は言った。
「なんだよ、おっさん」
ゴーグルの中から声が出てきた。宇津木は男の股間を膝で蹴りあげた。相手は支えていたオートバイに引き倒されそうになり、オートバイを放してその場にうずくまった。呻《うめ》き声がゴーグルの中にこもった。
一人が詰め寄ってきた。脇腹に蹴りを入れた。宇津木はそのまま、神社の境内に走り込んだ。
「くそ!」
「なんだい、あの野郎」
「ぶっとばしてやるぞ、こい!」
「待て。単車を立てろ」
男たちの声を、宇津木は境内の暗がりに立って聴いた。サンダルをはいたままの蹴りだし、加減もしていた。それほど効いているはずはなかった。宇津木はしかし、今度はサンダルを脱いで、素足になった。
単車が道の端に寄せられているようすだった。爆音は遠ざかったままだった。
影が二つ、鳥居《とりい》をくぐって境内に入ってきた。二人ともゴーグルを脱いでいた。一人は知っている顔だった。塩野道夫。見まちがいではなかった。
〈高校教師が校外で暴力|沙汰《ざた》 相手は自校の生徒〉
そういった新聞の見出しの活字が、ふと宇津木の脳裡《のうり》をかすめた。怯《ひる》みは覚えなかった。
境内は暗かった。外灯の明りがわずかに届いているだけだった。宇津木は二人に寄っていった。気づいて相手が足を停めた。塩野はそれが、宇津木だと気づいたようすだった。塩野の口から短いおどろきの声が洩《も》れた。
「珍らしい暴走族だな、おまえら。こんな道のせまい住宅地に集まるなんて」
「どこに集まろうと勝手だろうが!」
声と一緒に、一人が殴りかかってきた。ろくに殴り合いの経験もなさそうな攻め込みようだった。
宇津木は逆に踏み込んだ。横殴りの相手の拳《こぶし》を左の手刀で払いざま、腰を狙って蹴った。一発で相手は崩れ落ちた。
「くそが! ぶっ殺すぞ」
塩野が喚《わめ》いた。塩野はナイフを取り出していた。だが、構えは及び腰だった。
「おれを刺せるか、塩野。やってみろ!」
宇津木は低い声を出した。塩野は腰を落したまま、首をちぢめ、背中を丸くして、ナイフを突き出し、宇津木のまわりを回りはじめた。腰を蹴られた男は、立てずにいた。
「甲田に頼まれたんだな、今夜の騒ぎは」
「誰にも頼まれてなんかいねえよ」
「バイクは校則違反だってことは、忘れちゃいないだろうな、塩野」
「校則? 関係ねえや。それがどうしたってんだ」
「処分は覚悟の上ってわけか」
「見えみえだ、てめえの考えてることなんか。バイクのこと見逃してやるから、誰に頼まれてここで騒いだかしゃべれってんだろう」
「おまえがしゃべらなくても、こいつがしゃべるさ」
宇津木は、眼は塩野に向けたままで、地面にころがっている男の脇腹を蹴った。男の躯が撥《は》ねて、詰まった呻き声が三度つづいた。
塩野がナイフを振り回して突っ込んできた。かわすのは簡単だった。だが、暗いためにつけいることまではできない。宇津木はどこかに落ちているはずの、釘を打ち抜いた板を、眼でさがした。
石の柵の近くに、かすかに白っぽいものが見えた。宇津木は少しずつあとじさりながら、石の柵に近づいた。塩野が同じかまえで距離をつめてきた。白っぽいものは、まちがいなくあの板ぎれだった。
宇津木はすばやく身をかがめて、板ぎれを手に取った。ラワン材だった。釘の突き出ているほうを前に向けた。眼の端に、もう一人の男が地面から躯を起すのが、黒い影の動きになって映っていた。
「怖いのか、塩野。朝までそうやってナイフ持って突っ立ってる気か」
「舐めんじゃねえ!」
塩野はまた、ナイフを振りまわして突っ込んできた。塩野の動きよりも、かすかに光るナイフの動きのほうがよく見えた。宇津木はそれだけを眼で追った。板ぎれでナイフを払った。
三度|空《くう》を切った板ぎれが、四度目に塩野の手を捉《とら》えた。塩野が叫んだ。板の釘が手の甲に突き刺さったようすだった。塩野の一瞬の怯みを、宇津木は突いた。低い蹴りが塩野の下腹を捉えた。ナイフが落ちた。
宇津木は塩野の肩を蹴った。塩野の躯は二つに折れていた。横から肩を蹴られて、塩野は飛ばされ、地面にころがった。宇津木はナイフを拾った。板ぎれを放り出した。ナイフはポケットに入れた。
もう一人の男は、躯を起したものの、まだ立ちあがれずにいた。宇津木は塩野の腕をつかんで引きずった。踏み石の上だった。塩野がまた喚いた。男の髪をつかんで、踏み石の径《みち》の上に引き倒した。塩野の頭と男の頭が踏み石の上で隣り合った。宇津木は二人の頭を互いにぶつけ合わせた。にぶい音がした。それが三回くり返された。二人の頭をつかんだ宇津木の手に、少しずつ力が加えられていった。
「止《や》めてくれ!」
男が喘《あえ》ぎながら言った。
「止めない。舐めるな」
「甲田だよ。甲田がこの町で確かだって言ったんだ」
「甲田の親父か? 健介のほうか?」
「健介……」
男が言った。宇津木は二人の頭を放した。
4
「あたしがここにお邪魔するのは、これが最後です。話し合いの余地はないようだから」
甲田茂久が最初に口を開いた。学校の応接室である。
テーブルをはさんだ前に、校長の高沢と宇津木が坐《すわ》っている。校長は眼をテーブルに落している。その躯はひとまわりちぢんだように見えた。隣の宇津木は、まっすぐに甲田に眼を向けている。気負いも怯《おび》えも見えない眼だ。そういう眼で見られていると、甲田はつい怒鳴りたくなる。本性をむき出しにしたくなる。だが、宇津木という男には、それは威嚇《いかく》にならない。それが甲田にはわかっていた。
「わたしからお話しましょう」
弁護士の熊谷が言った。甲田は隣に座っている熊谷の膝に手を当てた。考えが変った。
「熊谷先生、きょうはあたしが話しましょう。先生に話をしてもらうつもりでいましたけどね。こういう話し合いはこれが最後だから、あたしの口からきっちりこっちの考えを言っときたいんですよ。校長先生と宇津木先生にね」
甲田は言った。うしろに立っている若頭補佐の手塚が、唸《うな》るような調子で咳払いをした。今日は用心棒の肥沼もうしろに立っている。坊主頭の大男の肥沼が、誰でも気色がわるくなる蛇のような眼を、宇津木と校長に向けたままであることが、甲田には見なくてもわかっている。
「校長先生。先生はゆうべの十一時からの、例のテレビの特集番組ごらんになったんでしょうな。この学校で起きた事件を扱った番組ですよ。女子高生の自殺の謎を追うとかって、派手なタイトルがついてましたな」
甲田は口を開いた。眼は宇津木に向けていた。校長が眼を上げ、指で眼鏡をずりあげ、すぐにまた躯ごと前に倒して眼を伏せた。
「見ました」
「どう思われます? あの番組……」
「どうと言われても、番組を作るのはテレビ局ですから、なんとも言えませんが……」
「そんなことはもちろんわかってます。あたしがどう思われるかとうかがったのは、そういうことじゃありません。あの番組の宇津木先生のインタビューは、この学校の教室の中で行なわれてるわけですよねえ」
「宇津木先生の担任しているクラスの教室です」
「そのインタビューは、もちろん学校の最高責任者である校長先生のご許可のもとに行なわれたと、こういうことなんでしょうな?」
「許可といいますか、承知していました」
「そこなんですよ、校長先生。あたしが先生にどう思われますかとうかがってるのは。あのインタビューの中で、宇津木先生は実名こそ出してはいないが、まだあたしの息子を強姦野郎呼ばわりした上に、あの事件の癌《がん》は、健介の父親である甲田組の組長の暴力的な脅威にあると、このわたしのことまで名ざしで誹謗《ひぼう》中傷しておられるわけです」
「甲田君の実名を伏せたのと同じように、甲田さんや組の名前も、実名は出していませんよ、ぼくは」
宇津木が言った。甲田はそれを無視した。
「電波は公共のもんですよ、校長先生。学校も公共のもんです。電波を使い、しかも公共の学校という神聖な教育の場で、一人の少年に強姦野郎の汚名をかぶせたり、その父親を極悪人呼ばわりするなんてことが許されると思いますか、校長先生。この点についてはどういう見解をお持ちか、ぜひ伺《うかが》いたいですな」
「甲田さんがお怒りになるのも無理ないことだと思いますが、私の立場としては、校内でのマスコミの取材を断わるだけの正当な理由がないんですよ」
「あたしは取材を断われと申しあげてるわけじゃない。報道は自由ですからね。こりゃ断われない。しかし、学校の責任者として、事前にしかるべき配慮をすることも、校長先生のお立場としては必要だったんじゃないですか?」
「はあ……」
「それとも校長先生も、健介が強姦野郎で、この甲田茂久が今度のこのわけのわからん事件の癌であると、お考えになっておられるから、テレビ局の取材にもなんら配慮をしなかったということですか?」
「そういう事件の事実関係については、正直言って私にはほんとのことが何もわかりませんので、何とも申しあげかねるんです」
「誰にもわかりませんよ。事実関係はね。警察が調べても、強姦事件があったかどうかわからなかったんですから……」
「あったかなかったかわからなかったから、強姦事件はなかった、ということにはなりませんよ、甲田さん」
宇津木が言った。甲田は、怯《ひる》みを見せずにはっきりと物を言う宇津木に、ふと小気味のよさを感じた。おれはこいつが好きだな、と甲田は思った。
「そういうことを、宇津木先生はテレビでもおっしゃってましたなあ。勇気ある発言てやつですね。捜査のプロの警察のやり方に、素人がケチをつけたわけだから」
「ケチをつけた覚えはないですよ。思ってることを言っただけです」
「そう。人間は思ってることははっきり言うべきです。あたしもその主義だ。だからはっきり言っときますよ、宇津木先生。あんたはテレビを使って世間に向かい、あたしの息子とあたしのことを中傷した。これは名誉|毀損《きそん》です。黙ってるわけにいきませんな。あたしは先生と校長先生を名誉毀損と誣告《ぶこく》罪で訴えることにした。熊谷先生に訴訟手続きをとってもらいます。きょうはそれを言いに来たんです。つぎは法廷で会いましょう」
「ぼくを訴えるのはかまいません。だが、校長は関係がないでしょう」
「ないことはないですよ。あのテレビのインタビューはこの学校の教室で行なわれたわけだし、校長先生は、テレビ局のマイクに向って宇津木先生がどんなことを発言するか、予測がついてて、中傷発言を放置したんですからね。学校の責任者としては、責められても仕方がないでしょう」
「いいですよ。法廷で会いましょう。テレビでも法廷でも、ぼくにとっては思ってることを主張する場所が増えるのは大歓迎です。このままじゃ、まるでぼくが強姦事件をでっちあげたってことで終ってしまいますからね。すべてをぼくは明らかにするつもりです。そうすれば、ぼくが中傷発言をしたのか、事実を話したのかも、おのずとはっきりします」
「まあ、せいぜい、がんばってください。若い人は元気でいいですね、宇津木先生」
「おたくの若くて元気な少年に、お父さんから言っといてください。暴走族を集めて、人の家の前で騒ぐような、卑怯ないやがらせをするのは男らしくないぞとね」
「どういうことですか? それは」
「健介君にお訊きになればわかりますよ」
「健介がそういうことをしたんですか?」
「ゆうべです。ぼくの家の近所の人たちは、おかげで一時間ぐらいは耳に栓をしてたでしょうね。車八台にオートバイ十三台の騒音ですからね」
「健介がそれを集めたというんですか?」
「ぼくが言ってるんじゃありません。その中の二人の男がぼくに言ったんです」
「健介が仕切ったと?」
「はっきり言いました。そういうことを世間の人が知れば、ぼくのテレビでの発言も納得してもらえるはずです」
「先生。あんたよっぽど喧嘩売るのが好きらしいね」
若頭補佐の手塚が言った。横で肥沼が音を立てて深く息を吸い、吐いた。宇津木は手塚のことばを聞き流していた。
「あたしも喧嘩は嫌いじゃない。健介ももちろんそうです。そういうふうにあたしはあれを育ててきましたからね。けど、まちがった喧嘩と男らしくないやり方は教えちゃいません。暴走族の件は、そりゃ健介じゃない。先生に健介の名前を出した奴がいるとしたら、そりゃそいつらがでまかせを言ってるんです。そうにちがいありません。それじゃあ、失礼しますよ」
甲田はうしろの二人と熊谷を眼で促《うなが》して、腰をあげた。校長があわてたように立ちあがった。肥沼が、膝がぶつかったふりをして、ソファを蹴った。ソファに押されたテーブルが、校長と宇津木の臑《すね》を打った。校長が顔をしかめた。
宇津木はテーブルを押し戻した。それがわざとかどうか、肥沼の脚に触れた。肥沼が足を止めて宇津木を刺すような眼で見すえた。宇津木は動《どう》じたようすを見せなかった。
5
「恰好《かつこう》いい! 先生」
演劇部の部室に入っていったとたんに、声と拍手が飛んできて、宇津木は面くらった。部員たちが集まっていた。部員たちは全員が、ミーティングの席に着いていた。
「なんだい。いきなりおどかすなよ」
宇津木はあいている席に腰をおろしながら言った。
「ゆうべ見たよ、先生。テレビ……」
「なんだ、その話か」
「先生、勇気あるなあって、みんなで話してたんですよ」
「勇気なんかないよ。先生だって暴力団は怖いさ。怖くて仕方がない」
「さっきも甲田組の連中が来てたんでしょう? 学校に」
演劇部のリーダーシップをとっている芝山百合枝《しばやまゆりえ》が、テーブルの向うから躯《からだ》をのり出してきて言った。
「連中はしつこいからな」
「坊主頭のレスラーみたいなのもいたぜ」
「みんな、モロ、ヤーサンて感じだもんな」
「いやあね。あんなのが学校に来てうろうろするのって……」
「今日は甲田組は何て言ってきたの、先生」
「ゆうべのテレビのことだろう? 先生」
「名誉毀損と誣告罪で、校長先生と先生を告訴するつもりらしい」
「先生は受けて立つんでしょう?」
「逃げるわけにいかないじゃないか」
「やっぱり、勇気があるのよ、先生は」
「勇気はないけど、勇気を持てって、自分に言い聞かせてるんだよ。でなきゃ、藤田圭子に先生は顔向けができないからな」
「どうして?」
「先生は藤田に、偽善者って言われたんだ。藤田が甲田たちに乱暴されたとき、倉庫から出て行った三人を追っかけなかったからね。たしかにあのとき三人をつかまえてれば、今みたいなことにはならずに、藤田も自殺なんかしなかったと思うんだよ。だから先生はいま、甲田組と闘ってるんじゃなくて、自分の中にいた偽善者を追い出すために、自分と闘ってるようなもんなんだ。先生は偽善者だったけど、いまはちがうよって、藤田に言えるようにね」
宇津木は言った。座が静かになった。すぐに芝山百合枝が口を開いた。
「さっき、みんなとも話してたんだけど、今度の事件のことをドラマにして、文化祭に出したらどうかと思うんだけど、先生……」
「今度のことを?」
「テーマは勇気」
「ちょっと待てよ。今度のことを芝居にするのは、あまりにも生《なま》なましすぎるんじゃないか」
「それはでも、話を作り替えればいいんだから」
「作り替えるにしても、教師の勇気というテーマを、生徒のおまえたちが上演することに、何か意味があるのかね?」
「だから作り替えるんですよ、話を。教師の勇気というより、人間としての勇気の問題でしょう、これは」
「そりゃそうだが……」
「ぼくたち、ふだんは正義とか勇気とかってことをあんまり考えることないんだよ。特別考えなきゃならないような出来事にぶつかることがないからだけど」
「そういう出来事が全然、おれたちのまわりにないわけじゃないんだよ。たとえばさ、甲田たちが学校の中で何かひどいことやってんのを見ても、おれたちは彼が怖いし、関わりあいになるとうるさいから、つい、見て見ないふりすると思うんだよ」
「早い話がよ。今度の事件でもし、先生じゃなくてあたしが、倉庫から出てくる甲田さんの顔を見て、そのあとで藤田さんがひどいめにあったんだってわかったとしたら、あたしはやっぱり、倉庫から甲田さんが出てくるのを見たことを黙ってると思うの。それって、考えてみたら、ひどいめにあった藤田さんに気持で同情しながら、ほんとは犯人のほうに味方してることになるわけじゃない。そうするとあたしもやっぱり、勇気がないばかりに偽善者になっちゃうことになると思うの」
丸顔の田中和子《たなかかずこ》が、大きな眼を少しうるませて言った。みんなが大きく頷《うなず》いた。
「うちの親父が言ってた。ゆうべの先生のテレビ見てて。宇津木先生が教育委員会あたりの圧力で、どこかに転勤なんかさせられるってことにならなきゃいいけどって……」
「あ、それ、うちのおふくろも言ってたわ。大きな声じゃ言えないけど、校長の高沢先生はもうじき停年で、学校で揉《も》めごとが起きるのをいちばん怖がってるはずだし、教育委員会も、甲田組の組長が市会議員とか県会議員のコネを使って圧力をかけたら、宇津木先生をどこかに飛ばして、騒ぎを収めちゃおうってことになるかもしれないって……」
「そんなこと言うもんじゃないよ、生徒のおまえが」
「先生、あたしが言ってんじゃないわよ。うちのおふくろさんの意見よ」
「いくら教育委員会だって、そんなスジの通らない異動はやりゃしないよ。人事異動にはちゃんとしたきまりがあるんだから」
「そりゃそうだけど、そういうことを心配してる人が、親たちの中にも生徒の中にもいるわけだよ、先生」
「それと演劇部とどういう関係があるんだ?」
「関係ありますよ、先生。今度のことで先生に不当な圧力がかかるとしたら、さっき言ったプランを実行に移すことで、あたしたちも不当な圧力と闘うことになるわけでしょう」
「そうだよ。そしてもういまでも、圧力というか、脅しが始まってるんだから」
「おれたち、芝居をやることで、先生を応援したいんだよ。やろうよ、先生」
「おまえたちの気持はありがたいけどね」
「そういう気持とかっていうことじゃなくて、これはなんていうかなあ、オーバーに言うと思想の問題として考えるべきだと思うの。目の前で正しくないことが行なわれているとき、人間はどういう行動をとるべきかという問題よ」
「自分たちの身近なテーマを選んで、創作劇をやろうと言いはじめたのは、先生だったじゃないか。先生てれくさいんだろう。自分がドラマの中でヒーローみたいに扱われるのが。おとなってそういうことでは、妙に遠慮深くなるんだから」
「おれたち、このテーマで燃えてるんだよ、先生。やろうよ」
「だけど校内レイプなんて、ただでさえどぎつい話だよ。しかも現実に起きた話をドラマにするんだから、やっぱり生なましすぎて、文化祭の演目にはちょっとなじまないんじゃないか?」
「レイプ事件の話にする気はないわよ、先生。だってそりゃそうよ。あの世にいる藤田さんだってそれは触れてほしくないと思ってるでしょうし、藤田さんのお母さんの気持だって考えなきゃいけないんだから」
「そりゃそうだよ。事件はなんでもいいんだよ。他のものに替えて、主人公も先生じゃなくて生徒にして、状況だけ現実の出来事から借りてくればいいんだから」
「万引き事件でもいいじゃないの。暴力団員の子供が万引きか盗みをやるのよ。その現場を一人の生徒が見ちゃうわけ。で、その万引きか泥棒事件が発覚して、現場を見ちゃった生徒が、犯人はK君だって名ざしするのよ」
「K君ね」
一人が言って、笑い声が湧いた。
「名ざしされたK君は、おれはやってないって言うのよね。それでもって、名ざしした生徒にいろんな脅しやら圧力がかかってきて、彼がそれと闘うという話……」
「台本と演出は芝山の仕事だからな。おまえに一任するよ。なあ、みんな」
一任の声がつぎつぎに湧いた。
「よし。これでやることは決定ね。いいでしょう、先生」
「決めるのはおまえたちだからな。やるなとは先生は言えない。だが、もう一日か二日、先生に考えさせてくれないか。問題が起きたら、もちろん先生が責任はとるけど、演劇部だけのことではすまないことも出てくるかもしれないからな」
「甲田組が芝居にいちゃもんつけてくるとか?」
「それもある。そのまえに、その芝居をやることで、演劇部員の一人一人が甲田健介に喧嘩を売るようなもんだってことも考えとかなきゃならないんだぞ」
「そういう覚悟ができてないとしたら、あたしたち、この芝居やろうなんて言い出さないわ、先生」
「わかった。だが、もう少し先生にも考えさせてくれ」
「いいけど、先生はきっとやろうって言い出すにきまってるよ。だって現実で甲田組の組長と闘ってる先生が、芝居でびびるなんておかしいもの」
「そうよ、そうよ」
芝山百合枝が言って、手を叩いた。また拍手が湧いた。まるでその芝居をやることが決定したことを示すような拍手になった。
宇津木は感動と困惑を同時に胸に抱いていた。部員たちの積極的な問題意識と、手を組んで一緒に不当な力と闘おうと言ってくれる気持は、教師としても一人の人間としても、心を揺さぶられるものがある。
だが、その芝居を上演することで予想される数々の危惧《きぐ》も大きいのだ。危惧されるような事態の中に部員たちは自ら踏み出していこうとしている。教師としてはそれを留めるべきではない。そう思いつつ、宇津木の気持は揺れていた。
6
甲田は浴室の黒いタイルの洗い場の椅子に、どっかりと腰をおろしていた。
倉本奈保が、甲田のうしろにしゃがんで、スポンジに石鹸を塗りつけている。倉本奈保のマンションの浴室である。
「くさくさするぜ、まったく……」
倉本奈保が、刺青で青く光る甲田の背中をスポンジで洗い始めると、甲田が吐息《といき》を洩らして言った。
「何かあったんですか?」
「息子を殴るってのは、どうにも胸のすっとしねえもんだな。他人とちがって」
「健介さんがどうかしたんですか?」
「またあの野郎、ドジりやがった。半端《はんぱ》野郎とつきあうからだ」
「どうしたんですか?」
「ゆうべだよ。宇津木の野郎が出てるテレビが放送されてるとき、健は暴走族に集合かけて宇津木の家に行ったんだよ。家のまわりでがーがーやって脅しかけるつもりでな。それはいいんだ。おれがやれって言ったんだから。ところがおまえ、その集合を仕切ったのが健だってことが、宇津木にばれちまったんだよ」
「どうして?」
「四十人近くで行ったらしいんだが、その中にへなちょこ野郎が二匹いやがったわけだよ。どうやったんだかわからねえけど、宇津木にそのへなちょこ二匹がとっつかまって、口を割らされてるんだよ」
「その二人が健介さんの名前出したの?」
「そうだってんだ。今日、また学校に行って、テレビのことで告訴するって言ってきたんだけど、そのとき宇津木が言ったんだ。あんたの息子に、暴走族なんか使って卑怯ないやがらせしねえように言えってな。その場じゃとぼけといたけど、帰ってから健介の野郎をぶっとばしてやったんだ。口から泡《あわ》吹くぐらいな」
「そんな、殴らなくてもいいでしょうに」
「そうはいかねえ。こっちが宇津木をつぶそうとしていろいろやってるそばから、健の野郎がつまんねえドジ踏みやがるから、痛めとかなきゃ、組の者の手前もしめしがつかねえじゃねえか」
「またどうしてその二人、宇津木につかまっちゃったのかしら?」
「健もおれに言われるまで知らなかったんだよ。気がついたら、いちばんケツから走ってきてた二人がいなくなっちまったって言うんだ。健もまさかそいつらが宇津木につかまってるとは思わなかったってんだ」
「そりゃそうでしょうよ」
「だから健に言ったんだ。そういうときは仕切ってる者がちゃんと考えて、誰か探しに走らせなきゃだめだって。それから、ちょっと痛められたぐらいで口割るような胆《きも》っ玉《たま》のねえ野郎とはつきあうなって」
「宇津木って男もそこまでやったの」
「野郎は命かけてやってる。おれにはそれがわかるよ。あの男、おれは好きだ。妙な話だけどよ」
「あんたは、相手が度胸さえあれば好きになっちゃう人だものね」
「宇津木はあれは、おれたちの商売やってたら、立派なやくざ者になってただろうよ。もったいねえくれえのもんだ」
「学校の先生にしとくのは惜しい?」
倉本奈保は笑って言って、甲田の前に回り、彼の腕を自分の膝にのせて洗いはじめた。
「だけどおれは宇津木を潰《つぶ》さなきゃならねえ。どうしておれがここまでの気持になってるかわかるか?」
「健介さんのためじゃないの?」
「それもある。が、それだけじゃねえ。宇津木を放っとくと、下手すりゃこの土地で甲田組は大きな面《つら》してられなくなる心配があるんだよ。見てみろ。近ごろじゃ日本のあっちこっちの街で、やくざが素人衆にいじめられて、ビルを追ん出されたり、商売の締め出しくらったりしてるじゃねえか」
「ここもそうなるっていうの?」
「宇津木は学校の先生で、頭も切れるし度胸もある。うしろにゃ父母会がついてる。今度のことでこれ以上騒ぎが大きくなって、この土地の連中が宇津木を応援しはじめてみろ。どうなる?」
「そうね。宇津木がこの土地の暴力団締め出し運動の先頭に立つなんてことが起きないとも限らないわね」
「それだけじゃねえんだ。そういう運動が始まると、いままで黙ってた連中が、ピーチクパーチクさえずりはじめて、おれと市長とか市会議員とか、警察の旦那方とかとのいろんなつながりが、明るいところに引きずり出されねえとは言えねえんだよ。新聞とかテレビの連中は、いまはおとなしくしてるけど、みんながその気になったとなると、尻馬どころじゃねえ、いちばん前に出てきて旗振りやるにきまってんだ。おれはゆうべの宇津木のテレビ見てて、そう思ったね。いまはそういう時代なんだよ。うかうかしてるとやくざがトウシロに向《むこ》う臑《ずね》かっぱらわれるんだ。だのに健の野郎、ドジ踏みやがって、くそが」
「もういいじゃないですか。健介さんもそうやって、ドジ踏んじゃあ、ひとつずつ利口になっていくのよ」
「おら、宇津木に負けねえぜ。必ず潰してみせる。ウルトラCどころか、ウルトラZてえぐらいの作戦があるからな」
「どういうの?」
「そのうちわかるよ。宇津木の野郎はこれで潰れる。絶対だ」
「立って……」
倉本奈保が言った。甲田は立ちあがった。まだ洗われていないのは、股間だけだった。洗い場にしゃがんだ倉本奈保の手が、甲田のペニスを洗いはじめた。スポンジは使わない。両手に石鹸をつけて、揉んだりしごいたりして洗う。黒いタイルの床に、にじんだようにして、奈保の白い腰から胸の脇のあたりがぼんやり映っている。
黒タイルの上で見ると、奈保の肌の白さがやけに目立つ、と甲田はいつも思う。洗われている男根が、勃起を始めていた。戦争してるときは、女をじゃんじゃん抱かなきゃだめだ。女の腹の上からとび出して行った戦争で、おれは負けたことがねえ――。
倉本奈保が、シャワーを出して、全身泡だらけの甲田の躯に湯を浴びせた。甲田は手を伸ばして奈保の乳房をつかんだ。湯の滴《しずく》をつけた奈保の陰毛を、そろえた手の指の甲のほうがそっと撫でた。指の一本をクレバスに添わせて下に進めていった。柔らかくくぼんだところに、うるみがひろがっていた。
いい女だ。おれのちんぽこ洗っただけで、もうこんなに濡れてやがる。どうだい、このひくひくした感触は――。
甲田の股間にシャワーの湯を浴びせながら、奈保は勃起したままのペニスをつかんで強くにぎった。甲田が笑って腰を突き出した。奈保はシャワーを片手に持ったまま、甲田の前にしゃがみ、ペニスにねっとりと舌を這《は》わせてから、深く唇をかぶせた。豊かな乳房が甲田の腿に押しつけられてくる。乳首が固くとがっている。
甲田は壁に片手を突き、片足を浮かせて、奈保の股間に持っていった。足の親指の先で、奈保の女陰をまさぐった。奈保の膝が開いていく。奈保はフェラチオをつづけながら、すっかり膝を開き、尻を落した恰好になる。足の親指がクリトリスを探し当てる。手の指でやるようには細かな動きができない。
それでも奈保は喘《あえ》ぎを洩らす。戦争のときはじゃんじゃんやらなきゃ――足の指で奈保の小陰唇をつまんでみる。うまくつまめない。三度に一度は指の間から逃げていく。足の親指がすっぽりと奈保の中に入った。奈保がタイルの床に落した尻を小さくゆすり立てる。
「立って湯舟の縁《ふち》に片足あげてみな」
奈保は立ちあがる。眼の線と耳たぶがうっすらと赤くなっている。その気になるといつも奈保はそうなる。それから眼が細くなって、とろんとした光が瞼《まぶた》の間からのぞく。
甲田は奈保の手からシャワーのノズルを取り、奈保の前に洗い場の腰掛けを移し、そこに腰をおろす。甲田は奈保の女陰を押し開き、クリトリスを露出させ、そこにシャワーのノズルを近づけた。
湯が陰毛を押し分け、クリトリスの付根《つけね》で小さくせせらぎを作り、押し分けられたわれめのつやつやと赤い襞《ひだ》の上を光りながらすべり落ちていく。
奈保の口から声が洩れ始める。甲田はシャワーの湯の条《すじ》のひとつが確実にクリトリスの急所を直撃するように、注意深くそこに眼を凝《こ》らし、シャワーのノズルの位置を加減し、湯の当り方を強くしたり弱くしたりした。
「ああ、それ、効く……。ズンズンくる」
「そうか、そうか」
甲田はシャワーを放り出し、奈保の手を引いて、自分の膝に跨《またが》らせた。奈保は小さく腰を浮かし、甲田のものに手を添えて導き、くぐらせた。奈保は声を洩らし、ゆっくりと腰を沈めてくる。甲田はシャワーのホースをつかんでノズルをたぐり寄せる。その手が奈保の尻のうしろに回される。
もうひとつの手で、甲田は奈保のアヌスを探り、位置を確かめておいて、今度はそこにシャワーの湯を当てる。
奈保が甲田の首のうしろで両手を組み、声を放って身をのけぞらせた。甲田はシャワーを使いながら、片手で奈保の乳房を強く絞りあげ、厚い舌で乳首をころがした。
7
塩野道夫は、甲田組の事務所に入っていくときはいつも、ちょっと肩をそびやかしたいような、得意な気持になる。みんなが怖がって近寄らない場所に、自分は平気で出入りできるのがうれしい。
だが、その夜は事務所のドアを押して入ったときから、いつもとようすがちがった。眼を向けてきた知合いの組員たちの視線が、みんな冷めたく険しかった。
そのとたんに、塩野は躯がこわばるような不安に包まれた。
「健介に呼ばれてきたんですけど……」
塩野は言った。
「裏のガレージに行け。若はそっちだ」
組員の一人が言った。塩野は頭を下げ、連れの笹原幸伸《ささはらゆきのぶ》の袖をつかみ、外に出た。
「やべえよ、笹原。おれたちがゆうべ宇津木に甲田の名前|白状《ゲロ》したことが、ばれちまってんじゃねえか?」
歩き出してから、塩野が小声で言った。塩野の右手には包帯が巻かれていた。
「なんでばれちまったんだよう」
「わかんねえよ、そんなこたあ」
「ばれるわけねえだろう。おれとおまえの他にゃ、宇津木って先公しか知らねえんだから」
「ばれてなきゃいいんだけどよう。いやな予感がするんだよ。甲田組の事務所に行って、いきなりガレージに行けなんて言われたの初めてだぜ」
「そう言や、組の人たちの眼つき、おかしかったな」
「だろうが」
「リンチか? おい。ガレージってのは」
「おれ、逃走《トンズラ》してえよ」
笹原は黙りこんだ。二人の歩き方が遅くなった。
甲田組のガレージのシャッターは閉まっていた。シャッターの下の細い隙間《すきま》に明りが洩れていた。かすかな話し声と、ロックミュージックが聴こえた。
「とぼけとおそうぜ、塩野。それっきゃねえぞ」
「だな。びびった顔しねえで入んなきゃな」
囁《ささや》き合った。塩野がシャッターの端のくぐり戸のノブを回した。中の話し声が止み、くぐり戸を開けると、音楽の音が耳を打ってきた。
ガレージの中には車は停められていなかった。奥のタイヤを重ねて積んであるところに甲田が坐っていた。他の三人は立っていた。三人とも暴走族の仲間だった。一人はシャドーボクシングをしていた。床にラジカセが置いてあった。テープが回っていた。
入っていった塩野と笹原に向けられた甲田たちの眼は、一様《いちよう》にとがっていた。塩野は平静のふりをして四人に声を送ったが、顔がこわばっていた。笹原も同じだった。
「手塚さんを呼んでこいや」
甲田が坐っていたタイヤから腰をあげて、横に立っていた加藤に言った。加藤がくぐり戸から出ていった。甲田の左の眼が脹《は》れあがり、眼の下まで青くなっているのに、塩野は気がついた。
「どうしたんだ、甲田。その眼は……」
塩野は言った。
「どうしたのかゆっくり教えてやっから、おまえら二人、そこに正座しろ」
甲田がたばこに火をつけてから言った。塩野は笹原を見た。笹原の顔はもうすっかりこわばっていた。自分の顔も同じであることが、塩野にもわかった。
「坐れって、なんでだよ」
「なんでだか、てめえらがいちばんよく知ってんだろうが」
怒鳴ったのは杉田だった。杉田はまだシャドーボクシングをつづけている。杉田の顔は汗で光っていた。
「何のこと言ってんだか、わからねえぜ」
笹原が言った。甲田が二人の前にやってきた。
「正座……」
甲田は言って、いきなり塩野の額にたばこの火を押しつけ、思いきり足の甲を踏みつけた。塩野は叫び、甲田の手を払った。たばこは塩野の額の上で折れて、足もとに落ちた。火だけが額に張りついて残った。塩野はそれを手で払い落した。
「とにかく、なんなんだよ、これは……」
塩野は言った。シラを切り通すしかないと思った。甲田の足が笹原の臑を蹴り、そのまま塩野の膝に飛んできた。
「わかったよ。坐るよ」
笹原が言って、コンクリートの床に正座した。塩野も正座した。
「言えよ」
甲田が言った。
「何をだよ?」
塩野はわざと突っかかる言い方をした。
「とぼけようってのか。笹原、おまえはどうなんだ?」
「とぼけなきゃならねえようなことは、なんにもねえよ」
「なら訊くぞ。おまえら二人、ゆうべはなんで途中で消えちまった?」
「笹原のバイクのエンジンが調子わるくなったんだよ。だからおれもバイク停めて、二人でエンジン調べてたんだよ」
「どこで?」
「宇津木の家の近くでだよ」
「宇津木の家の近くで、宇津木にてめえらとっつかまったんじゃねえか。わかってんだよ、みんな。ばれちまってんだよ」
「とっつかまっちゃいねえよ」
笹原が言った。声はもうひきつっていた。
加藤が甲田組の若頭補佐の手塚を連れて戻ってきた。手塚は甲田に眼配《めくば》せを送り、塩野と笹原の前に立った。物も言わずに、手塚は正座している二人に、いきなり往復ビンタをくわせた。二人とも達磨《だるま》のようにころがり、すぐに坐り直した。手塚の足がつぎつぎに二人の胸に飛んだ。二人はまた達磨になった。塩野はもうシラを切りつづける気力を失っていた。笹原の顔も往復ビンタで染めたように赤くなったまま、恐怖でひきつっていた。
「おまえら、ゆうべなにした? 若とダチ公を宇津木に売ったんだなあ。宇津木にふんづかまって、暴走族《ゾク》の集合かけたのは若だってゲロしたんだなあ。してねえならしてねえって言ってみろ」
手塚の声と口調は、静かなだけにドスがきいていた。塩野は口がきけなかった。小便をもらさずにいるのが精一杯だった。笹原はふるえていた。
「おまえらのために、若はこう親父さんから吐くまでぶっとばされたんだ。今度は若とおまえらのダチが、オトシマエつけさせる番だよ。やさしくねえぞ、オトシマエは。おれが見てる以上はな。二人とも上だけ裸になれ。若、水とホースだ」
手塚は言って立ちあがり、車庫の奥に行った。加藤が蛇口をひねってバケツに水を汲んだ。甲田が水道のゴムホースの先を一メートル五十センチぐらいの長さにナイフで切断した。
「勘弁してください!」
笹原が悲鳴のような声をあげて、床に手を突き、頭も床につけた。塩野も叫びこそしなかったが、土下座した。小便を洩らしそうな予感が迫っていた。
「詫《わ》びはきっちりオトシマエつけてから言うもんだ。脱ぎな」
穏やかな口調の手塚の声がした。塩野は頭をあげた。手塚と甲田の他はみんな、まるで自分が私刑《リンチ》を受けるのだというような、こわばった白っぽい顔になっていた。
脱ぐしかないと塩野は思った。ゴムホースでひっぱたかれるんだと思っただけで、背中に痛みが走るようだった。躯に鳥肌が立ってくるのがわかった。笹原は口を開けて息をしながら、ジャンパーを脱ぎはじめた。
裸になった二人の躯に、加藤が叩きつけるようにして、バケツの水を浴びせた。冷めたさで一瞬、皮膚がひきしまった。そこにゴムホースが音を立ててくいこんできた。皮膚が裂けてめくれるような痛みがまずきた。つぎに痛みは何かの塊りのようになって、皮膚の内側深くに沈みこんでいった。
「どういうつもりなんだよ、塩野。笹原はただの助っ人みてえなもんだけど、おまえはちがうだろう。おまえはおれと一緒にあの女を輪姦《マワ》したんだろうが。ゆうべの集合は、てめえのためでもあったわけだぞ。それをてめえは、輪姦《マワシ》には関係ねえような面《つら》して、宇津木におれの名前を教えたわけだよ。そんなのはダチでもなんでもねえ」
甲田は一語ずつ区切りながら言った。ことばの区切りごとに、ゴムホースが塩野と笹原の背中や胸や腹に飛んできた。ホースが風を切る音と、皮膚が鳴る音と、二人の息を詰めた呻《うめ》き声がつづいた。塩野は失禁していた。
たちまちのうちに、裸の上半身が火に焼かれてでもいるように痛み出した。みみず脹れが破れて、血がにじみはじめていた。ホースの痛みは、皮膚から中にしみこんだまま、そこに溜まっていった。あとからあとから、新しい痛みが重なってきた。笹原が泣きはじめた。塩野は自分の躯の輪郭《りんかく》がくずれていくような気がした。また水が浴びせられた。それが傷にしみた。異様なしみかただった。
水が塩水だということに塩野が気づいたのは、杉田がバケツの水に、ビニール袋の塩を放りこんでいるのが、はげしい痛みにかすんだ眼に映ったからだった。
甲田は荒れ狂ったようになっていた。殴れば殴るほど、新たな怒りがこみあげてくるといったように見えた。狙いの狂ったゴムホースが、塩野の頬を打ち、耳を切り裂いた。
「若、それくらいにしとこう」
手塚の声が聴こえた。ゴムホースの嵐が治まった。塩野は息を吐《つ》いた。躯の力がいっぺんに抜けた。そのまま躯がくずれていって、水びたしの床に塩野は倒れた。坐っていられなかった。眼も開けていられなかった。笹原も床にころがっていた。
足音がした。誰かが車庫から出ていったようすだった。手塚だろう、と塩野は思った。頬に冷めたくて固いものが当てられた。塩野は眼を開けた。よく磨かれて光っている靴が見えた。折り目の立ったグレーのズボンの裾が見えた。眼の下にドスが見えた。手塚がドスを持って、塩野の頬に押し当てていた。塩野はまた小便を洩らしそうになった。膀胱《ぼうこう》は空っぽになっていた。
「起きあがるんだ塩野」
手塚が言った。穏やかな声だった。ロックミュージックはまだつづいていた。塩野は起きた。躯じゅうが痛んだ。骨までが脹れあがって疼《うず》いているように思えた。
笹原の姿はなかった。杉田も加藤もいなかった。ガレージには手塚と甲田しかいなかった。塩野はまた正座した。
「小便洩らしたか?」
「はい……」
「おまえのオトシマエはこれからつける。おまえと笹原じゃ立場がちがうからな」
手塚の声と口調は、また一段低く静かになっていた。塩野は躯の震えを止めることができず、半ば無意識に頷いた。
「ドスをにぎれ、ほら」
手塚が塩野にドスを渡した。塩野は受け取るしかなかった。苦痛と恐怖で、塩野の意志は凍りついていた。
「指詰めろ」
「勘弁してください」
やっと声が出た。甲田が前に出てきた。手塚はうしろにさがった。
「指詰めるか。宇津木を殺《や》るか。どっちか選べ。それがオトシマエだ」
甲田が低い声で言った。手塚が甲田と並んで前にしゃがんだ。手塚の眼がまっすぐに塩野を捉えていた。
「どっちだ? 塩野」
甲田が言った。
「やるって、どうするんですか?」
塩野は手塚に訊いた。
「バラすんだ。やれるか?」
塩野は返事ができなかった。
「そんな度胸はてめえにゃねえよな。殺《や》れなきゃ指詰めるしかねえぜ」
甲田が顔を突き出してきた。
「宇津木を殺《や》れねえんなら、野郎の女房を強姦してこい。強姦ならやれるだろう。馴れてるもんな、塩野」
手塚が言った。塩野は頷いた。
「いつやるかはおれが決める。決めたら必ずやれ。いいな」
「はい」
塩野はまた躯から力が抜けていきそうだった。
四章 密 告
1
宇津木の帰りは遅くなりはじめていた。
演劇部の活動が、秋の文化祭をめざして、ようやくスタートを切ったのだ。
その日は、部員の芝山百合枝が書いた台本の、最後の検討会が行なわれた。
ストーリーは、その芝居をやろうと部員たちが言い出したときに、芝山百合枝が思いついて話したものが、ほとんどそのまま使われていた。藤田圭子の強姦事件を、校内での現金盗難事件に置き換えて、主人公の生徒が窃盗《せつとう》の現場を目撃して、犯人を名ざしする、というようになっていた。筋の展開は、藤田圭子の強姦事件に端《たん》を発して、その後に宇津木自身が経験したことを、ほとんどそのままなぞっていた。
ラストは、生徒と教師と父兄たちが手を結び合って市民組織を作り、街から暴力団を追放することに成功する、というものになっていた。台本のタイトルは『鳩《はと》たちの勝利』となっていた。
その芝居を文化祭で上演することに、宇津木はすでに迷いを捨てていた。生徒たちが自主的に問題意識を持ち、それを表明しようとするのを妨《さまた》げる理由はない、と宇津木は考えた。
演劇部がそういう芝居の上演を企てていることは、いずれ甲田健介の耳に入り、甲田茂久も知ることになるだろう。何が起るかわからない。妨害は充分予想される。
演劇部の部長であり、その芝居を部員たちが企画するきっかけを作った者として、宇津木には、部員たちを妨害や圧力から守ってやる責任がある。宇津木がもっとも悩んだのはその点だった。
ひとつの考えが宇津木に生まれた。その芝居が文化祭で上演されることを、事前にマスコミに知らせておこう、と宇津木は考えたのだ。それがみんなに知られていれば、甲田の側は迂闊《うかつ》なことはできないはずだ。事を起せば暴力によるクラブ活動への介入だとされかねない。そうなればマスコミもとりあげる。いわば衆人環視による、甲田組の封じ込め作戦だった。
すでに宇津木は、前にインタビューを受けて知り合った、テレビ局のディレクターの上村に、その芝居の上演準備を始めていることを話してあった。
上村は、芝居の稽古《けいこ》が始まったころに、それをニュースとしてテレビで流すことを約束してくれた。
最後の台本の検討会が終ったのは、午後七時近くだった。部員たちは張り切っていた。あとは配役を決め、芝山百合枝の演出プランが固まれば、稽古が始まるのだ。
宇津木は職員室に戻り、たばこに火をつけた。椅子の背もたれに背中をつけて、宇津木は伸びをした。
宇津木のうしろの窓の向うに、静かになった校庭が、闇の中に沈んでいた。そこで影が動いた。宇津木は背中を向けているので、気がつかなかった。
ガラスの割れる音で、宇津木は躯を起してふり向いた。その鼻先をかすめるようにして、石が飛んできた。石は宇津木の机の上の本立てに当り、重い音を立てて床に落ちた。拳大《こぶしだい》の石だった。
宇津木は立って窓のほうに眼をやった。窓の前のツツジの列の先に、人影が見えた。人影はひとつだった。影が踊るように動き、ふたたび石が飛んできた。石はかわした宇津木の肩に当り、手の甲を打って足もとに落ちた。
職員室には宇津木しかいなかった。宇津木は窓を開け、そこから外にとび出した。走り去る足音が聴こえた。宇津木は追った。校庭の途中で、足音は聴こえなくなった。
宇津木は諦《あきら》めずに、校庭の端まで行った。金網のフェンスの向うに、走り出す車の姿が見えた。ライトもつけずに車はたちまちスピードをあげた。
職員室に戻りながら、宇津木は塩野道夫の顔を思い浮かべた。
塩野がここ数日来、学校を欠席していることを、宇津木は知っていた。塩野が怪我をしたらしいという話が、生徒たちの間に伝わっていることも、宇津木は知っていた。
ひとつの推測が宇津木の頭に生れていた。塩野と、塩野と一緒だったあの暴走族の一人は、その夜に仲間を集めて住宅地を走り回ったのが、甲田の仕組んだことであることを、宇津木に洩らした。そのために二人は甲田からリンチを受けた。そのときの怪我のために、塩野は学校を休んでいる。その腹いせに、塩野は校庭から職員室の宇津木に石を投げつけることを思いついた――宇津木の推測はそういうものだった。
職員室に戻ると、当直の数学の教師が、床に散った窓ガラスの破片を見おろして立っていた。
「誰かが校庭から石を投げこんだんですよ」
宇津木は当直の教師に説明した。
「宇津木先生を狙ってでしょう?」
「ぼくしかいませんでしたから」
「甲田一派の仕業《しわざ》なんでしょう?」
「わかりません。追いかけたんですが、見失ってしまったんです。石を投げた奴の顔は見えなかったんですよ」
「ずいぶんこじれてきてるようじゃないですか、甲田組と……」
「こんな騒ぎになるとは思っていなかったですよ、ぼくも」
「頑張りますねえ、宇津木先生も」
「仕方がありません。乗りかかった船です。藤田圭子が哀れなんです、ぼくは」
「あの子も死ぬことはなかったのに……」
「藤田圭子の気持は、誰にもわからないことだと思いますよ、ぼくは」
宇津木は言った。藤田圭子の死を批判がましく口にする数学教師の無神経ぶりに、宇津木は少し肚《はら》を立てた。甲田組と闘おうとしている宇津木を、数学教師は『頑張りますねえ』という言い方で、冷やかに嗤《わら》っていた。それも宇津木は不愉快だった。
「窓が破れたのは、そういうわけですから、よろしく頼みます」
宇津木は言って、床のガラスの破片を拾い集めにかかった。
「校長がね、宇津木先生。先生のことを頑固《がんこ》なドン・キホーテだと言ってましたよ」
数学教師が言った。宇津木は笑って見せて聞き流した。あんたもそう思ってるんだろう――そのことばは呑みこんだ。
ガラスの始末をして、窓の破れを厚紙でふさいで、宇津木は職員室を出た。
車で校門を出ると、すぐに道に停まっていた車がうしろについた。いつものことだった。甲田組はまだ宇津木につきまとうことを止めていなかった。神経戦のつもりだろうと思えた。
ドン・キホーテか――車を走らせながら、宇津木は胸に呟《つぶや》いた。そうかもしれない、と思った。できることなら甲田組との争いから手を引きたかった。引くことはもはやできないところにきていた。藤田圭子を犬死にのままにするわけにいかないという思いが、宇津木に退くことを許そうとしない。
同僚の教師たちの中には、宇津木の立場を支援しようとする者は、一人もいなかった。宇津木の行動を、感傷的で独善的な物の考え方の上に立ったスタンドプレーだと、はっきり批判する者もいた。
校内レイプ事件などで、自分たちの学校が世間の注目を浴びることを好まないのは、校長の高沢だけではないことも、宇津木は知っていた。
宇津木はしかし、そうした教師たちの小心や、事なかれ主義を批判するつもりはない。藤田圭子に偽善者ということばを投げつけられるまでは、宇津木自身も他の教師たちと同類だったのだ。そうと意識すらせずに、偽善者の面《めん》をかぶっていたのだ。
宇津木はたまたま、事件の当事者の一人として、騒ぎの中心に身を置くことになってしまった。もし他の教師がいまの宇津木の立場に立ち、自分が局外者でいるとしたら、やはりその当事者をおれはドン・キホーテ呼ばわりして嗤うだろう――。
車は新しく開けた市街地を抜けて、川沿いの道に入っていた。車の往来は少なかった。
不意にルームミラーが眩《まぶ》しい光をはね返した。宇津木は眼を細めた。うしろの車がライトをハイビームにしていた。それまでにないことだった。宇津木は、うしろの車に乗っている甲田組の組員たちの顔に浮かんでいるだろう薄笑いを思い浮かべた。
ルームミラーの向きを替えて、宇津木は眩しさを防いだ。別の光が右のフェンダーミラーに迫ってきた。大型トラックのようだった。トラックは追越しにかかっていた。
横に並んだのはダンプカーだった。ダンプカーは、宇津木の車を追い越すと、急な動きで前に切りこんできた。ダンプカーの大きな後輪が、宇津木の車のフェンダーの右端をかすめんばかりにして、前に出てきた。
宇津木はブレーキを踏んだ。ダンプの荷台が上がりはじめていた。傾斜した荷台から、大きな石がいくつかころがりだして、とび出すようにして宇津木の車の前に落ちた。ひと抱えするほどの石ばかりだった。
宇津木は急ブレーキを踏んだ。車体に固い衝撃が伝わってきた。ブレーキは一瞬遅かった。バンパーが道路にころがった石を押していた。
宇津木は車を停めて外に出た。ダンプは走り去っていた。ナンバープレートには泥が塗りついていて、数字は読めなかった。道路には石が三つころがっていた。
宇津木はそれが、偶然ではないことに、すでに気づいていた。甲田組の連中の車も、うしろに停まっていた。ライトはスモールにしていた。
宇津木は道路の石をころがして、路肩にどかした。宇津木の車のバンパーが傷つき、ナンバープレートが曲がっていた。
(今日は石の日か……)
ふたたび車で走り出してから、宇津木は呟いて、ちょっと笑った。うしろの車は、ライトをハイビームにしたまま、まだまとわりついていた。
家の玄関と門の灯りがついていた。洋子の車はカーポートに入っていた。
洋子は台所で食事の支度をしていた。宇津木は寄っていって洋子の横に立ち、湯気を立てている鍋の中をのぞいた。タケノコが茹《ゆ》でられている最中だった。
「掘り立てのタケノコよ。取材に行った先でいただいたの。ワカメと煮るつもりよ。それから今夜は豆ごはん。あなたの好物ばかりね」
「もうグリンピースが出てるのか?」
「早いわよね」
宇津木は洋子の頬に軽く唇をつけた。洋子も宇津木の唇に軽く唇を重ねてきた。宇津木の頭の中から石の日≠フ出来事が薄れていった。宇津木は不意に、洋子を抱きしめたくなった。
居間で電話が鳴りはじめた。宇津木は洋子の尻を軽く手で叩いてから、居間に行って電話に出た。
「宇津木かい」
低い男の声だった。宇津木はその声に覚えはなかった。
「そうだ」
「交通事故に気をつけろよ。車で死ぬ奴が多いからな」
電話は切られた。
石を落したダンプカーは、警告のつもりだったのだろう、と宇津木は思った。交通事故に見せかけて殺すぞ、と電話の男は言ったつもりだったにちがいない。
2
杉田豊《すぎたゆたか》は、信号で車を停めた。
杉田のプレリュードが、列の先頭だった。盛り場の信号である。杉田は前の横断歩道を渡る人の群《むれ》に、ぼんやりと眼を投げていた。工場の勤めの帰りだった。
横断歩道で車に近づいてくる一人の女の顔が、杉田の眼を惹《ひ》いた。見たことのある顔だった。
どこで見た顔だったのか、杉田はすぐに思い出した。彼は手を伸ばしてグローブボックスを開けた。中にむき出しのポラロイド写真が一枚入っていた。
子供っぽい顔をした女が、裸でポラロイド写真に写っていた。女は横にした躯をカメラに向け、上になったほうの脚を高く宙に上げていた。薄い陰毛を持った女の性器が、はっきりと写真に捉えられていた。そこにはペニスが浅く突き入れられていた。
男はうしろから女を抱え込んでいた。男の腕がうしろから女の片脚を抱え上げ、手は女の肩の下から乳房にまわっていた。男の顔は女の頭のうしろに隠れている。
杉田は、写真の女の顔を見た。それとそっくり同じ顔の女が、いまプレリュードの前を横ぎって通り過ぎようとしていた。杉田は歩いている女と、写真の女とを急いで見くらべた。
杉田の顔に笑いがひろがった。杉田は女の姿を眼で追いながら、写真をジャンパーのポケットに入れた。女は横断歩道を渡り終えると、商店のショウウィンドウを見ながら、ゆっくりとした足どりで歩道を歩いていた。
杉田は、写真で見た女の乳房や薄い陰毛や、ペニスを呑みこんでふくらんだように見える性器のようすを思い返した。まさか実物に行き当るとは思ってもいなかった。
写真は甲田健介が持っていたものだった。それを杉田が一枚だけ強引に取り上げたのだった。
杉田は甲田組には頭が上がらないが、甲田健介は同じ高校の二年後輩に当るから、無理が言える。
甲田は、写真の女の身許や名前を明かそうとしなかった。そういう写真が甲田のところにある理由も、説明したがらなかった。甲田が杉田に話したのは、その写真を撮ったのが武井繁行であり、写真の中で女を抱いているのが、甲田自身だということだけだった。
武井は甲田ほどには口が堅くなかった。また武井に対しては、甲田以上に杉田は無理が言いやすかった。武井はその写真が撮影されたいきさつはしゃべろうとしなかったが、写真の女の名前が、松原由佳で、彼女は高校を中退して、家でブラブラしているということを話した。
信号が青に変った。松原由佳はゲームセンターの前に立って、店の中をのぞきこんでいた。
杉田は車を出した。ゲームセンターの前には駐車の列ができていて、割りこむ余地はなかった。杉田は二重駐車にして車を降りた。松原由佳はゲームセンターの前を離れて、また歩き出した。連れのいないことは、杉田にはわかっていた。
「ちょっと、お茶飲まない」
杉田はうしろから松原由佳の肩を叩いた。松原由佳は足を停めてふり向いた。いやがっている顔ではなかった。
「あたしで今日何人目? ナンパすんの」
からかうような口調で、松原由佳が言った。
「行こう。車、二重駐車してんだ。のんびりしてられないんだよ」
杉田は松原由佳の肩に腕を回し、パーキングランプを点滅させているプレリュードのほうに顎《あご》をしゃくった。
「放してよ。つきあうなんてあたし言ってないわよ」
松原由佳は肩をゆすり、手で杉田の手を払い落した。
「おまえ、松原由佳だろう?」
「どうしてあたしの名前を知ってんのよ」
「知ってんのはおまえの名前だけじゃねえぜ。ほら」
杉田はポケットの写真を出し、松原由佳の顔の前に突き出した。夜だが盛り場の歩道は明るかった。松原由佳が、写真に写っているものを見きわめるには充分な明るさだった。松原由佳の表情が一変した。彼女は手を伸ばして、杉田の手から写真を奪い取ろうとした。杉田は写真を持った右手を引き、ボクシングのときのジャブの要領で左手をすばやく突き出し、宙に伸びた松原由佳の手首をつかんでいた。
「車の中で話しよう。困るだろう? おまえもこんな写真をおれが持ってちゃよう」
杉田はまた写真を松原由佳の顔の前でひらひらさせた。通行人が二人のようすを見ながら通り過ぎていった。
「ほら。みんなが写真見るじゃねえか。歩いてる連中がよう。こいよ」
杉田はつかんだ手を引いた。松原由佳は車に向って歩き出した。
「返してよ、写真」
助手席に乗ると、松原由佳は言った。杉田は車を出した。
「返してやろうと思って声かけたんじゃねえか」
「早く返して」
松原由佳は杉田のジャンパーのポケットに手を入れようとした。杉田は左手で由佳の手を強く払い、その手を彼女の乳房に伸ばした。写真で見るよりは、つかんだ乳房は大きそうに思えた。
「なにすんのよう!」
今度は松原由佳が、胸の杉田の手をはたいた。杉田は左手をハンドルに戻した。
「おっぱいさわったんだよ」
「へんなことしないで、写真返してよ、早く」
「まさか、ただで写真よこせってんじゃないよな」
「どういう意味よ、それ」
「わかってんだろう。おれの部屋に行こう」
「いやよ」
「写真をおまえに返さなきゃ、他にいろいろおもしろい使い途《みち》があるんだぜ。いまのポラロイド写真は焼き増しができるからな。いっぱい焼き増しして売るとか、その中の一枚をおまえんちの親に送るとかさ」
「それが条件なのね」
「いい条件じゃねえか」
「わかったわよ。あんたの部屋に行くよ」
「おれは女にはやさしい男なんだ」
「どうしてその写真があんたのところにあるのよ」
「道で拾ったんだよ」
「あんた、あたしの名前知ってたじゃない」
「おまえのおまんこに名札がついてた。それが写真に写ってたんだよ」
「甲田か武井か塩野からその写真もらったんでしょう?」
「誰だい? その甲田とか武井とかって連中は」
「とぼけちゃって!」
「それなら、どうしておまえ、あんな写真を撮らせたんだ?」
「撮らせたわけじゃないわよ。撮られたのよ、無理矢理に」
「おまんこやられたのも無理矢理か?」
「誰があんな奴らに自分からやらせるのよ」
「輪姦《マワ》されたってわけだ。ひでえことやる連中だな」
「あんただって同じようなもんじゃない」
「おれはちがうよ。おれは女はやさしくかわいがるほうさ」
「写真返してよ」
「やさしくしてやってからだ」
二階建てのアパートの一室だった。小さな台所とトイレと六畳の部屋だけである。
部屋はひどく散らかっていた。ベッドの上には脱いだ衣服や、ドライヤーや、ヘアブラシが散乱していた。
部屋に入り、ドアの鍵を閉めるとすぐに、杉田はベッドの上のものを片端から畳の床に落した。
「脱げよ」
杉田は自分も着ている物を脱ぎながら言った。松原由佳は、肩からはずしたポシェットを放り出し、杉田に背中を向けて服を脱ぎはじめた。杉田は先に素裸になって、裸になっていく松原由佳を立ったままで眺めた。ペニスは勃起を始めていた。
松原由佳が腰をかがめてパンティをおろした。真っ白い尻がうしろに突き出されていた。杉田は寄っていって、白い尻の割れ目の下にペニスを押しつけ、うしろから回した両手で、松原由佳の乳房をつかんだ。
「待ってよ。逃げやしないんだから。なによ、ガツガツしちゃって」
「かわいいケツしてんじゃんか。これでおっぱいがもうちょっとでかけりゃ百点満点だけどな」
「ただでやるんじゃないの。贅沢《ぜいたく》言うんじゃないよ」
松原由佳はパンティを足首から抜いて言った。彼女はパンティを脱いだものの上に放り出し、ベッドに上がろうとした。杉田は由佳の肩をつかんで、ベッドの端に坐らせた。
「しゃぶってくれ」
「やだよ。やるだけ」
「しゃぶってる写真も持ってんだよ、おれは」
杉田は言いながら、片手で松原由佳の頭を押え、片手をペニスに添え亀頭を彼女の口もとに捻《ねじ》りつけた。
「何枚持ってんのよ? 写真」
「さっき見せたのと、おしゃぶりのと二枚」
「二枚とも返してよね。いいわね」
「返すって言ってんじゃねえか」
松原由佳は上眼遣いに杉田を睨《にら》んでから、ペニスに唇を当てた。
「下手だな、おまえ。歯が当るじゃねえか」
「文句言うならもうやってやんない」
松原由佳はベッドに躯を投げ出した。杉田もベッドに上がり、あぐらをかいた。片手で乳房をつかんで揉みながら、片手は由佳の性器を押し開いた。杉田は由佳の性器をのぞきこんだ。薄くて毛足の長い陰毛が、指にからみついてきた。何かの双葉のような肉の厚い小陰唇の陰に、ピンク色のクリトリスの先がちょっぴりのぞいていた。
「なにやってんのよ。いじくらないで、早く入れてよ。気分なんか出さないわよ、あたしは。躯貸すだけなんだからね」
「うるせえな。折角《せつかく》やるんじゃねえか。愉《たの》しまなきゃ。ガツガツすんなって言ったのはおまえだろうが」
杉田は指に唾《つば》をつけて、クリトリスをこすった。指を由佳の中に入れた。由佳の躯は乾いたままだった。杉田はかまわずに指を押し入れ、中をまさぐった。
3
杉田の部屋を出てすぐに、松原由佳は足もとにはげしく唾を吐いた。何度も何度も吐いた。それでも口の中には、杉田の精液のなまぐさい匂いが残っていた。
写真は返してもらえなかった。脱ぎすてられていた杉田のジャンパーのポケットから写真を奪い返そうとしたら、腹を蹴られ、乳房を拳で殴られた。息が詰まった。そのあとでまたフェラチオをさせられた。
そのときも杉田は由佳の口の中に射精した。その前もそうだった。妊娠を心配した由佳が、外で射精してくれと頼むと、杉田は強引にペニスを口のところに持ってきたのだった。
「気に入ったよ。おまえのおまんこ。あと二、三回部屋まで来い。そのあとでおまえに飽きたら写真は返してやるからな。部屋に来なかったら、写真は他の使い途を考えるぞ」
杉田はそう言った。
由佳は杉田も憎かったが、それ以上に甲田と武井と塩野を憎悪した。赦《ゆる》せない、と思った。急ぎ足に杉田のアパートから遠ざかりながら、由佳は唸り声をあげた。怒りと憎しみで躯がふるえそうだった。
「由佳。おまえはおれたちが三高の二年生の藤田圭子を輪姦した話をさっきここで聞いちまった。その話をおまえが誰にもしゃべらないって保証はねえもんな。だからおまえがおまんこやってるところを写真に撮っとくんだよ。おまえがここで聞いた話を誰かにしゃべったら、おまえの恥ずかしい写真が世間にばらまかれるからな。おまえの口が堅ければ、写真はおれが預ったままだ。一枚だって誰にも渡さねえから安心しろ」
甲田ははっきりそう言ったのだ。
なにが安心しろなのよ、嘘つきが。写真は全部で十枚はあるはずだわ。あのとき武井は、新しいポラロイドフィルムのパッケージを開けて、フィルムをカメラに入れたんだから。あたしはそれを見てた。たしか、ポラロイドフィルムは、十枚一組になってパッケージに入ってるはずだった。
もしかすると、フィルムはあたしの知らない十人の男たちの手に渡ってるかもしれないじゃない。十人じゃなくて、それが五人だったとしても同じことだわ。そいつらが杉田のようにいきなりあたしの前に現われて、杉田と同じことをするのかもしれない。
冗談じゃないわよ。なんだと思ってるのよ、人を。許せない。
甲田が何よ。暴力団の組長の息子がどうしたっていうのよ。やってやる。仕返ししてやる。嘘をついて約束破ったのは、あいつらのほうなんだから。あたしだって約束破ってやる――。
明るい通りに出た。松原由佳は刃物のような眼になっていた。
電話ボックスを眼に留めると、松原由佳は車の列を縫って道路を走って横断し、電話ボックスにとびこんだ。
まっ先に電話機の下に眼をやった。そこの台の上に電話帳が置いてあった。その教師の名前は、新聞の記事や、テレビの特集番組でも覚えていたし、甲田と武井と塩野が、武井の家の居間で話すのを聞いたことでも、はっきり覚えていた。どこにでもたくさんあるという名前ではなかった。
電話帳には、宇津木という苗字《みようじ》は三つしか載っていなかった。一人は女性の名前だった。松原由佳は、三高の教師の宇津木の名前のほうまでは覚えていなかった。まちがい電話を一度かければすむことだ、と松原由佳は考えた。
電話帳の番号を見ながら、番号ボタンを押した。男の声の応答が返ってきた。
「宇津木さんのお宅ですか?」
「そうです」
「垣原市立三高の先生をしている宇津木さんのお宅ですか?」
「そうですが……」
「先生はいます?」
「わたくしです。どなたですか?」
「ちょっと事情があって、名前は言いたくないんですが、先生に教えてあげたいことがあって電話したんです」
「教えてくださるって、何をですか?」
「例の事件のことです。甲田健介たちが起したレイプ事件のこと」
「どんなことですか?」
「甲田健介と一緒に、あの自殺した子をレイプしたのは、先生のところの学校の三年生の、塩野と武井って生徒なんです」
「ほんとですか? それは」
「甲田たちのツッパリグループの中に、塩野と武井って子がいるでしょう?」
「知ってます」
「そいつらです。あたしの話、ほんとうですよ、先生。嘘じゃないんです」
「きみはうちの学校の生徒?」
「ちがいます」
「どうしてあなたはそういうことを知ってるの? 現場を見たわけじゃないんでしょう?」
「話を聞いたんです。本人たちに」
「わからないなあ。どうして甲田たちがあなたにわざわざ、そんな話をしたの?」
「わざわざしたんじゃないんです」
松原由佳は、甲田たちの輪姦の話を聞いてしまうことになったいきさつや、それを聞いたのが、宇津木がテレビのインタビューを受けた日の夜であることや、話を聞いた場所が武井の家の居間だったことなどを、かいつまんで話した。
輪姦の話の口留めのために、セックスの最中の写真を撮られ、その写真を持っていた知らない男に脅されて言うことを聞かされた話も、松原由佳は宇津木に話した。
「それで、あなたはその仕返しに、武井と塩野のことをぼくに密告してくれたわけですか?」
「あたし、甲田と武井と塩野が赦せないんです。赦せないけど、仕返しされるのは怖いから、ほんとは名前を名乗らなきゃならないんだけど、勘弁してください」
「あなたも高校生?」
「中退したんです。不良だったから」
「あなたも甲田たちに輪姦された上に、写真まで撮られたわけでしょう。それを警察に訴えるつもりはないの?」
「あとが怖いもの。それにあたし、警察は嫌いだから世話になりたくないんです」
「それなら仕方がないなあ」
「もうひとつ教えてあげます、先生」
「なんですか?」
「甲田は、親父さんの組の組員から渡されるシンナーとかトルエンとか、密造の睡眠薬とかを売って、お金を稼いでるんですよ。あたしも一錠千円で甲田から睡眠薬を買ったんです。写真を撮られた夜に……」
「いまも睡眠薬やってるの?」
「いまって、いま?」
「この電話かけてるいま」
「いまは飲んでません」
「わかった。薬なんか早く止めるんだね。それから不良とつきあうのも。絶対に後悔するよ。いろいろ教えてくれてありがとう。こういう電話がかかってきたことは、誰にも話さないから、心配しないでいい。それは誓うよ。絶対に誰にも話さない」
「そうしてください。お願いします。それから先生、甲田たちをやっつけて、少年院に送るように、がんばってください」
「ありがとう」
松原由佳は電話を切った。なぜだが、それ以上話していると、自分が名前を名乗ってしまいそうな気がした。
4
宇津木の車は、県営団地に向っていた。
夜の八時近くになろうとしていた。宇津木は学校の帰りの途中だった。うしろにライトを上向きにした車がついていた。その日はワゴン車だった。車種はよく変わったが、乗っているのが甲田組の組員たちであることは、宇津木にはわかっていた。中の何人かの顔は、すでに宇津木は覚えてしまっている。
宇津木は団地の中に車を乗り入れて停めた。藤田昌代が住んでいる棟《むね》の前だった。
うしろに張りついていたワゴン車は、団地の中までは入ってこなかった。引返したわけではない。ワゴン車が団地の出入口に停まるのを、宇津木はフェンダーミラーの中に見ていた。
棟の出入口で、宇津木は足を停め、そこの地面に向って合掌した。藤田圭子が命を絶った場所だった。水で濡れた地面に、花と煙をあげている線香が置かれていた光景が、宇津木の閉じた瞼《まぶた》に浮かんできた。今はもうそこには、花も線香もない。
藤田昌代には、訪問の約束をとりつけてあった。
ドアを開けて顔を出した藤田昌代の顔を見て、宇津木は胸を突かれた。彼女の髪は、一目でわかるほど白髪が目立つようになっていた。
宇津木が藤田昌代と顔を合わせるのは、圭子の葬式以来だった。一人しかいない娘を突然に失った母親のことが気にはなっていたのだが、宇津木は顔を見に行くのは控えていたのだ。自分が行けば、藤田昌代は、娘を自殺に追いやった事件のことを、ことさらに思い出さずにはいられないだろう、という気持が宇津木にはあった。
遠慮をしているうちに、一ヵ月余りが過ぎて、その間に藤田昌代の頭は、急激に増えた白髪で一変していた。それがなによりも、彼女の心の痛手の深さを物語っていた。
ダイニングキッチンの隣の和室の整理|箪笥《だんす》の上に、小さな仏壇が置かれ、横に圭子の写真が立ててあった。葬式に使われていたのとは別の、母親と二人で写っている写真だった。海と小さな岬《みさき》の見える窓を背にして、母親と娘は並んでいた。母親が椅子に腰をおろし、横に立った娘が、母親の肩に手を置いていた。二人ともカメラに向ってほほえんでいた。
「去年の秋の連休に、伊豆の温泉に行ったときの写真なんです」
藤田昌代が言った。
宇津木は仏壇の前に持ってきた花を置き、線香をあげて手を合わせた。
小さな座卓の前に坐蒲団《ざぶとん》が出されていた。藤田昌代が座卓の前で茶をいれていた。ガラスの器に盛ったイチゴが、テーブルに置かれていた。
「妙な取り合わせですけど。お茶とイチゴだなんて」
「どうか、おかまいなく……」
「圭子はイチゴが大好きだったんです。いまだに見るとつい買っちゃうんですよ。一人ですからワンパックのイチゴたべるのに、三日も四日もかかったりするんです。ですからそのイチゴ、残り物なんです。ごめんなさい」
「よろこんでいただきます」
藤田昌代は急に白髪が増えて、以前よりも顔がひとまわり小さくなったように見えたが、不安定な感じはなくて、印象はとても静かだった。宇津木の来訪を迷惑に思っているようすも見られなかった。
「少しはお気持が落着かれましたか?」
「どうなんでしょうか。自分ではわかりません。不思議なんですよ。最初の頃は圭子がいなくなったという思いがとても強くて、それが辛《つら》くてならなかったんですけどね。近頃は圭子がいまも隣の部屋にいるような気がすることのほうが多いんです。いるような気がするときのほうが寂しさは大きいんです」
「そういうものなんでしょうね」
「いろんなことが片づいたら、あたし、東京にでも行って暮らそうと思ってたんです。それも最近は気がかわってきました。圭子がまだこの家にいるような気がしてるからなんです。あと二年したら、圭子は大学に入って東京で暮らすようになるかもしれないから、それまではここにいよう、なんて本気で考えてるときがあるんです。おかしいですね」
藤田昌代は少し笑った。宇津木は頷《うなず》いて見せた。切なさがあった。
「この前のテレビ、見ましたわ。ずいぶんはっきりといろんなことをおっしゃってましたね、先生は。胸がすっとしたり、自分が情なかったりしました」
「黙ってることができなかったし、たくさんの人にほんとうのことを知ってほしかったりしたものですから、インタビューに応じたんですけどね。反面では圭子君とお母さんが隠しておきたかったことをあからさまにすることになるのが、申しわけない思いがして辛かったんですが……」
「テレビであれだけのことを発言なさって、甲田組は何も言ってきませんでした?」
「ぼくを訴えるそうです。名誉毀損と誣告罪で。いずれ法廷に出なきゃならないと思います」
「訴えるだけですか? 怖いことは何もしてこないんですか?」
「いやがらせと脅しはいくつか起きてますけどね。直接行動には出てきません。出られないでしょう。いまぼくの身に何かが起きれば、世間はみんな甲田組がやったと思うはずです。ぼくと甲田組とのいきさつは、もうみんな知ってるんですから」
「それほどひどいことはできませんわね、向うも」
「今度は、ぼくが部長をしている学校の演劇部が、この事件を劇に仕立てて、秋の文化祭で上演しようということになったんです。生徒たちの発案ですけどね。彼らは彼らなりに今度の事件を自分たちの問題として考えてるんです」
「そうですか。そういうことが始まってるんですか。圭子はよろこぶと思いますよ、きっと……」
「お母さんにそう言っていただけると、ぼくもうれしいですね」
「お話というのは、その劇のことだったんですか?」
「それもあったんですが、実はお母さんにお願いしたいことがありましてね」
「なんでしょうか?」
藤田昌代が眼を上げた。宇津木は茶をひと口すすった。たばこを吸いたかったが、我慢した。気楽に頼める願いではなかった。断わられるという予感のほうが大きかった。けれども他に方法がなかった。
「実はぼくのところに匿名《とくめい》の密告電話がありましてね。ゆうべのことなんです」
「何の密告電話なんですか?」
「その電話をかけてきた本人が、甲田と他の二人とが、圭子さんに学校の倉庫で乱暴したことを話しているのを聞いたと言うんです。その二人というのは、うちの学校の三年生の生徒で、甲田なんかの非行グループに入ってる連中なんです」
「その二人と甲田が犯人だということですか?」
「そうなんです。そういう密告電話だったんです」
宇津木は、前の晩の匿名の電話の主から聞いた話を、かいつまんで藤田昌代に伝えた。聞きながら藤田昌代は何度も眉《まゆ》をひそめた。事実、眉をひそめずにはいられない話なのだった。
「それで、先生はその武井と塩野の二人が、甲田と一緒に圭子に乱暴した犯人だと考えていらっしゃるんですね?」
「証拠のある話じゃないし、匿名の密告者の話を真《ま》に受けていいのかどうか、迷いはぼくにもあるんです。ただ、ぼくには電話の話しぶりなどから考えて、名前を名乗らなかったあの女の子の話には、かなりの真実味があるように思えるんです。それに、軽はずみにこういうことを言ってはいけないんですが、武井と塩野ならやりかねないってところもありますしね」
藤田昌代は、宇津木を見たまま、ゆっくりと頷いた。
「お母さんとしては、もうむし返してほしくないというお考えもおありかと思いますけど、ぼくはやはりどうしても、犯人を三人とも突き留めて、しかるべき報《むく》いを受けさせてやりたいんです。圭子さんの無念をはらすためにも……」
「先生が、武井と塩野という子たちを問い詰めると、密告電話をかけてきた女の子に迷惑がかかりますわね」
「そうなんです。それでぼくも手の打ちようがなくて困ってるんです。いまになってぼくが犯人として武井と塩野を名ざししたりすると、彼らは誰かが告げ口したと疑うにきまってるんです」
「証拠があれば問題ないんですね」
「ぼくがお母さんにお願いしたいと思ってるのはそのことなんです。はっきりした証拠があればこれに越したことはないんですが、それは望めません。でも、ぼくが武井と塩野を問いつめるための根拠が、わずかでもあればぼくは動けます。あまり公明正大なやり方とは言えませんが、その根拠をぼくは捏造《ねつぞう》しようかと思うんです。お母さんのお許しをいただいて……」
「捏造……」
「圭子さんの死の直後は、お母さんも気持が動揺していて、どうしてもレイプのことは隠しておきたかったから、警察にもああいう話をした。だが、実際はお母さんは圭子さんからレイプの事実を打明けられたとき、犯人の名前も一緒に聞いていた。時間がたって気持が落着いてきたら、あらためて圭子さんをひどいめにあわせた三人を赦《ゆる》せない気持になった――そういう話をぼくがお母さんから聞いた、ということにすれば、ぼくには武井と塩野を問い詰める理由ができるわけです。彼らが犯人なら、問い詰めて白状させる自信はぼくはあります。ただ、武井と塩野が犯人ではなかった場合、お母さんにご迷惑がかかるかもしれないので、ぼくも迷ってるんです。乱暴なやり方ですからね」
「迷惑はかかりません。武井と塩野という子たち、それから甲田。この三人はまちがいなく犯人なんですから。先生は何も作り話なんかに頼る必要はありませんわ」
「何か知っていらっしゃるんですか? お母さん」
「証拠はちゃんとあるんです」
藤田昌代は、それまでと少しも変らない静かな口調と表情で言って立ちあがり、隣の圭子が使っていた部屋に行った。宇津木は一瞬、きょとんとした気持に包まれた。事態はまことに呆気《あつけ》なく打開されていた。それが宇津木を戸惑わせていた。歓びと、力が湧いてくるような思いは、もどかしいほど遠くに感じられた。
藤田昌代が、表紙の黄色い一冊のノートを手に持って、戻ってきた。
「圭子の日記帳なんです。あの子はずっと日記をつけてたんです。もっとも、乱暴された五月の十五日の前日までで、日記は終ってるようなものですけど……」
「日記に圭子君は事件のことを何か書いてるんですね?」
宇津木は気持の昂《たか》ぶりを覚えた。藤田昌代は、膝の上で圭子の日記帳のページをくり、その手を停め、開いたままの日記帳をテーブルに置き、宇津木の前に押しやった。宇津木は日記帳のページに眼を落した。黒のボールペンの、小さな几帳面《きちようめん》な文字が、かたまり合うようにして並んでいた。
〈わたしを踏みにじった三匹のけだものの名前。三高の三年生。甲田。塩野。武井。わたしはあのとき倉庫の中で、あいつらが呼ぶ名前をしっかり頭に刻みつけた。それだけがわたしにできる唯一のことだった。わたしの体は木から落ちたリンゴ。中からどんどん腐《くさ》って、たえられない悪臭を放っている。わたしはあのけだものたちを殺してやりたい〉
開かれたページに書かれているのは、それだけだった。日づけはなかった。宇津木は息を詰めて、それをくり返して読んだ。
「それが圭子が日記帳に書いた最後の文章なんです」
「奴らは平気で、圭子さんの前で名前を呼び合ってたんですね?」
「圭子が事件を表沙汰にしないことを見すかしてたんでしょう。それがわかったら、あたしはなんだか、あらためてとても肚《はら》が立ちました。あたしがその日記帳を見つけたのは、つい一週間ほど前なんです。そこに書いてあることを、先生にお知らせしようか、どうしようかと、ずっと迷ってたんです」
「このことを武井と塩野、それに甲田に話してもかまわないんですか? お母さん」
「そうしてください。わたしはかまいません。むしろ、こちらからお願いに行くべきだったと思っています。わたしはもう甲田組を怖れていませんから。一人になったら、何も怖いものがなくなった気持なんです」
藤田昌代は気負ったようすもなく、やはり静かな、沈んだ口調でそう言った。
5
物理の教師の末川は、その日の最後の授業を終えて、職員室に帰ってきたばかりだった。
末川が自分の席に坐って、たばこに火をつけたところに、宇津木がやってきた。英語教師の江藤が一緒だった。
宇津木と江藤の並んだ顔を見て、末川はちょっと眉を寄せた。いやな予感が生れた。
「これを読んでみてください、末川先生。江藤先生も……」
宇津木が言って、ポケットから四角に折りたたんだ紙片を出した。コピー用紙だった。宇津木はひろげた紙を末川の前に置き、両手で紙を机に押しつけるようにしてから、手を引いた。
「なんですか?」
末川は置かれた紙に眼をやりながら言った。
「藤田圭子の日記帳のコピーらしいんです」
江藤が末川に言って、末川の肩越しに机に視線を落した。
末川は、いやな予感が的中したことで、舌打ちしたくなった。渡された紙には、レイプ犯人を名ざし、その三人への怨《うら》みと、自己嫌悪を表わした藤田圭子の短い文章がコピーされていた。
「えらいものが出てきたなあ」
読み終えて、江藤が言った。江藤は空《あ》いていた末川の隣の席の椅子を引き寄せて、腰をおろした。
「一週間前に、藤田君のお母さんが、日記帳の中のその文章をはじめて見つけたんだそうです。それで、お母さんの了解をもらって、コピーしてきたんですよ」
宇津木が言った。
「それはいいけど、これをどうしてぼくに見せるの? 宇津木先生」
末川は言った。返ってくる答はわかっていたが、末川は牽制《けんせい》のつもりで、言わずにはいられなかった。
「どうしてって、末川先生は甲田健介と塩野道夫の担任だし、江藤先生は武井繁行の担任だからじゃないですか」
宇津木は少しむっとした言い方を見せた。
「いまさら担任を持ち出すのはどうかな、宇津木先生。この件では最初からぼくも末川先生も局外にはじき出されてて、宇津木先生がひとりで事に当ってきたじゃないの」
「先生がたをはじき出すつもりなんか、ぼくにはなかったんですよ。結果はそういうようなことになってますがね。それは、事件の最初の段階で、ぼくが藤田圭子の気持を考えて、事件が表沙汰にならないほうがいいと思ったからですよ」
「どっちにしろ、最初に事に関わって、ここまで引きずってきたのは、宇津木先生でしょう。それははっきりしてる」
末川は言った。江藤も、藤田圭子の日記の文章を見せられたことを、迷惑に思っているようすである。それが末川の気持を強くした。
「引きずってこざるをえなかったんですがね、ぼくは。まあ、それはいいでしょう。それで、先生方は、この先もぼく一人でこの問題を引きずっていけと言うつもりじゃないでしょうね。事を起したのはあなた方の担任してる生徒たちなんですがね」
「そりゃわかってる。で、これをどうしようっていうの? 宇津木先生」
「藤田君の日記の文面を甲田たちに見せて、罪を認めさせて、警察に自首させるんです」
「この日記帳のことは、藤田圭子のお母さんが、宇津木先生に知らせてきたんですか?」
末川は言った。
「ゆうべぼくが藤田君のお母さんに会いに行ったんですよ。お母さんのようすを見にね。そのときお母さんが、こんなものがあったと言って見せてくれたんですよ」
末川はそれを聞いて、そのときの宇津木の勝ち誇ったようなようすを想像した。また舌打ちしたくなった。
「藤田圭子のお母さんは、娘がレイプされたようには思えなかったって、新聞では話してたんじゃなかった?」
江藤が言った。末川は思わず大きく頷いた。
「事態が変ったんですよ。本人が日記帳にそこまではっきり書き遺《のこ》してれば、お母さんだって事実を疑う気持なんか吹っとびますよ」
宇津木が言った。こういうタイプの正義漢というのが、いちばん厄介なんだ、と末川は思った。同じ思いが、江藤の顔にも現われていた。そのままの顔で江藤が口を開いた。
「はっきり書いてあるというけどね、宇津木先生。この文章に、法律的な意味で証拠能力があるかどうかだよ」
「そんなことは法律家が決めることです」
「しかし、誰が見ても確かな証拠と言えるようなものなしで、甲田たちに罪を認めさせることができるかな? 彼らが否定したらどうにもならないでしょう。名ざししたほうはもうこの世にいないんですから」
末川はそう言って、江藤に同調した。
「そういうことをここで先生方と議論してみたって、何にもならない。すぐにあの三人をどこかに呼び集めて、事をはっきりさせるのが先決でしょう。気が進まないと言うのなら、ぼくも立ち会います」
「気が進む、進まないの問題じゃない。いまになって騒ぎをむし返すことが、いいことかどうかだよ、宇津木先生」
「これを騒ぎだと先生は考えてるんですか?」
「だって、学校の中で生徒がレイプされたというのは、世間から見れば刺激のある騒ぎですよ」
「そうだよ。レイプというような問題でことさらことを大きくするのは、学校という場にはぼくはなじまないと思うんだ」
「校長には藤田圭子のこの文章のこと、話してあるんですか? 宇津木先生」
「話しました」
「校長はなんて言ってるの?」
「聞かなくてもわかってるでしょう。校長の考えは、あなた方と一緒ですよ。あと一年で甲田たちは卒業していくんだから、平地に波瀾を起すようなことは慎《つつ》しんでくれって言われましたよ」
「当然ですよ、それが。この学校でレイプ事件があったかどうかってことは、警察の調べでもはっきりしないということで、騒ぎは治まってるんですから。さいわいなことにね。藤田圭子には気の毒だけど。それをいまになってまたむし返して、垣原三高は学校の中で生徒が生徒をレイプするようなところだなんてことを、わざわざ世間に知らせることはないじゃないですか、宇津木先生」
「レイプ事件は起きた。しかし垣原三高は、事件にまっこうから対処して、レイプされて自殺した生徒の気持をしっかりと受けとめてやった学校だと言われるほうが、学校にとっては名誉と誇りを世間に示すことになると、ぼくは思いますがね」
「先生は立派だからな。ぼくらは弱虫だから、甲田組を敵に回して意地を張るような、英雄的な行動は、とてもとれないよ。そういう蛮勇はおれにはないな」
「意地でぼくがこういうことを言い出したんだと思われたんじゃ、どうしようもないな」
「ぼくは江藤先生とちがって、必ずしも先生が意地でやってるとは思いませんけどね。ただ、校長が静観しろと言ってるのに、それを無視して宇津木先生に同調するわけにはいかないですよ。学校の最高責任者は校長なんだから」
末川は言った。彼は江藤のように、投げやりに自分の卑劣さまでさらけ出して見せる気にはなれないのだった。
「わかりました。ぼくも初めから、先生方がぼくに同調してくれるとは期待していなかったんです。ただ、担任に断りもせずに、あの三人を問い詰めるわけにもいかないと思ったから、話をしただけです」
宇津木が言って、末川の机の上から、藤田圭子の日記のコピーを取り、たたんでポケットに入れた。
「困ったもんだな。はねあがりのドン・キホーテ先生にも……」
江藤が立ち去っていく宇津木の後姿を見送りながら、末川の耳もとで囁いた。末川は返事をしなかった。
末川は、宇津木がドン・キホーテであることはかまわなかった。彼が宇津木を許せないと思うのは、宇津木が自分の行為や物の考え方の正当性をふりかざして、こっちを非難したり裁いたりするからだった。末川には、宇津木がそういう人間にしか見えなかった。
6
ボクシング部の部室で、珍しく甲田と武井はスパーリングのまねごとをしていた。
サンドバッグに蹴りを入れている部員もいれば、縄跳びをまじめにつづけている部員もいた。
武井が左のアッパーを入れようとしたとき、甲田が表情を変えて、拳をにぎっていた両腕をだらりと下げた。甲田の眼は武井の肩ごしに、入口のほうに向けられていた。
「どうしたんだ? 止めるのか」
武井は言った。甲田が入口に眼を向けたまま、顎《あご》をしゃくった。その顔に意地のわるい薄笑いが浮かんできた。武井は甲田の視線を辿《たど》ってうしろをふり向いた。宇津木が入口からリングに近づいてくるのが見えた。
「ゴキブリ野郎……」
「おれたちに用らしいな」
武井は体の向きを変え、甲田と並んで、近づいてくる宇津木に、視線を絡《から》みつけた。
「塩野はいないのか?」
リングのエプロンに立った宇津木が言った。宇津木は何を考えているのかわからない表情を見せていた。
「ここはボクシング部だぜ。演劇部じゃないぜ」
甲田が言った。
「塩野は?」
「見りゃわかんだろう。いねえよ」
武井は言った。
「まだ欠席か? 塩野は」
「何の用だ?」
「欠席がつづいてるのか? 塩野は」
宇津木は他の部員たちに声をかけた。一人が塩野がその日も欠席していると答えた。
「きみたち二人に話があるんだ。ちょっと来てくれ」
宇津木は甲田と武井に眼を戻して言った。
「何の用なんだよ?」
武井は突っかかった。
「きみたちに見せたいものがある。ヘッドギアとグローブはずして、来てくれ」
「今度は何だ? 何の罪をおれにきせてくれる気だい?」
「いいから来い」
宇津木の声に力がこもった。甲田が笑ってヘッドギアを脱いだ。
「行こうぜ、武井。宇津木先生は暴力教師だからよう。言うこときかねえとぶっとばされっからな。おっかねえよ」
甲田が笑って言った。他の部員たちはみんな動きを止めて、三人を見ていた。武井もヘッドギアをはずした。グローブはいい加減に紐《ひも》を結んでいたので、簡単にはずせた。手のバンデージなども巻いてはいなかった。
「どこに行くんだい?」
武井は、先に立って廊下を進んでいく宇津木に声を投げた。
「体育用具の収納庫だ」
宇津木が前を見たまま言った。
「収納庫? なんでそんなとこに行かなきゃならねえんだよ」
「そこがいちばんいい場所だからな、おまえらには」
宇津木が言った。武井は並んで歩いている甲田の顔を見た。眼が合った。甲田は何かを考えている顔になっていた。武井は甲田に眼で問いかけた。
(藤田圭子のことじゃねえか? おれたちのこともばれたのかもしれねえな)
それが通じたのかどうかわからなかった。甲田は険しさを加えた眼を、宇津木の背中に向けた。
「入口、閉めろ」
倉庫の奥に進みながら、宇津木が言った。武井は入口の扉を閉めた。気持が揺れていた。宇津木がレイプのことで甲田を問い詰め、殴り合いになったのも、体育用具の倉庫の中だった。それを考えると、宇津木の話の中身が、武井には見当がつく気がした。
武井は顔のこわばるのを感じた。どうしたらいいのかわからなかった。
「武井、思い出すことがあるだろう。この場所にくれば。甲田もだ」
宇津木が言った。宇津木は高い窓からの光を背にして立ち、武井と甲田の立っている足もとを指でさしていた。武井の横に跳び箱が並べてあった。
「またその話かよ。いい加減にしろよ。しつこいぜ。やってねえものはやってねえんだよ」
甲田が言った。宇津木がポケットから折りたたんだ紙を出してひろげ、甲田に突きつけるようにしてさし出した。
「ここに書いてあることを、声に出して読んでみろ。藤田君が日記に書き遺してたものだ」
宇津木がいった。甲田が受け取った紙に眼を落した。武井も横からのぞきこんだ。そこに自分と甲田と塩野の名前が並んでいるのを見たとたんに、武井は恐怖と逆上に襲われて、頭がカッと熱くなった。
「これがどうしたってんだ?」
甲田が紙をひらひらと顔の前で振って、宇津木に言った。
「どうもしない。それがおまえら三人がやった卑劣な犯罪行為の証拠だと言ってるんだ。わるいことは言わん。三人とも警察に自首しろ。自首しないのなら、先生が警察に話す」
「相手にするかな? 警察がそんな話を」
「被害者本人が犯人は甲田、武井、塩野の三人だと言ってるんだ。藤田君はこの場所でおまえらがおたがいの名前を呼ぶのをちゃんと聞いてるんだからな。警察はこの話を取り上げないわけにはいかないさ」
「警察はもうこれにはケリをつけてんだぜ」
「だからって、新しい証拠が出てきたのに、それを無視するなんてことを警察がやるわけはない。そんなことよりも、おまえたちは藤田君が日記に書き遺したことを認める気があるのか、ないのか」
「ねえよ、こんなもん。藤田がでたらめを書いたのかもしれねえじゃねえか。だいいち、このコピーが、藤田の日記の本物のコピーかどうかだってわからねえぜ。おめえが藤田の字をまねて書いたもんのコピーだってこともあるかもしんねえしな」
甲田はポケットからナイフを出して、刃を出した。甲田は話しながら、指の先につまむようにして持ったその紙を、端のほうからナイフで細く裂きはじめた。宙に片手でかざすようにした紙を、ナイフは小気味のよい小さな音を立てて、まっすぐ縦に裂いていく。剃刀《かみそり》の刃のような切れ味だった。
武井は甲田のすることを、恰好いいと思った。甲田が宇津木に言い返したことばも、武井には思いつかないことだった。さすがに甲田は、やくざの組長の息子だけのことはある。言うこともやることも半端じゃない。奴のうしろには甲田組がついている。おれも甲田についていれば、何も怖いものはない――武井は逆上したままの頭でそう考えた。
「武井、おまえはどうなんだ? 藤田君が日記に書いていることを、認めるのか、認めないのか?」
「冗談じゃねえ。そんなわけのわからねえもの、認めるも認めねえもねえよ」
「そうか。自首する気がないなら仕方がないな。先生がおまえたち三人を告発するしかない」
宇津木は言って倉庫を出ていこうとした。甲田が宇津木の前に立ちふさがった。甲田は宇津木の肩に手を置き、ナイフを横にして宇津木の頬《ほお》にぴたりと当てた。頬の肉がナイフの幅だけ浅くくぼんだ。
「先公。このまえてめえはここでおれに、チンピラに舐《な》められるおれじゃねえって、上等な啖呵《たんか》を切ったよなあ。言っとくぜ。おれも先公なんぞに舐められるようなチンピラじゃねえんだ」
甲田が言った。頬の上で横にされたナイフが、ゆっくりと起こされていった。ナイフの刃にそって、糸のように細い血の条《すじ》が伸びていった。武井の頭がまたいっそう熱くなっていた。
「ナイフを放せ」
宇津木が低い声で言った。
「先公も警察も、おら目じゃねえんだ。よく覚えとけ」
甲田がすっとナイフを引いた。宇津木の頬の細い血の条が、いっぺんに太くなり、刷毛《はけ》で赤いペンキを塗りつけたようになった。武井はそれを見て、甲田の肝っ玉のふとさに感服した。自分も何かやって見せなければ、意気地なしと思われそうだった。武井は自分が意気地なしだと思ったことは一度もなかったのだ。
「いつまででけえ面《つら》すりゃあ気がすむんだ、てめえ!」
武井は吠えて、右のストレートを宇津木の顎に打ちこんだ。宇津木はかわさなかった。パンチはまともに顎にヒットした。宇津木の上体が少しうしろにのけぞった。武井はもう頭だけでなく、全身が熱くなっていた。のけぞった宇津木の頬に、武井は左のロングフックを踏みこんで打った。
宇津木の動きは早かった。武井のフックの手首が横にはじかれ、蹴りが腹に飛んできた。武井は棍棒《こんぼう》で殴られたような痛みを手首に感じた。蹴りの痛みは腹の底にひびいた。その痛みを両手で抱えこんだような姿勢で、武井はうしろに飛ばされた。跳び箱に腰を打ちつけた。跳び箱ごとうしろに倒れた。
「教師だって、黙って生徒に殴られていなきゃならないって決まりはないんだ」
宇津木が言った。宇津木の眼がすわっていた。頬から滴《したた》り落ちる血が、ポロシャツの胸を染めていた。
武井は立ちあがった。一発で宇津木に蹴り倒されたことで、武井は逆上していた。それを甲田に見られたことで、さらに逆上した。
「甲田。ナイフを貸せ!」
武井は吠えた。甲田がナイフを渡した。
「くそ、てめえ。ぶっ殺してやる」
武井はナイフの刃を上に向けて、逆手《さかて》に持った。ナイフを斜めに振り上げ、振りおろしして、宇津木に迫っていった。甲田が宇津木の左側に回った。宇津木は甲田のいるほうに、小さく足を運んで移動しはじめた。
ばかが、と武井は思った。ナイフを突き出すと見せかけて、武井は宇津木の腹のあたりをナイフで払った。ナイフは少し低すぎた。宇津木のズボンのベルトを打ち、ポロシャツの腹のところをかすめた。ポロシャツが裂け、血がにじんできた。
宇津木がうしろにとびさがった。甲田が突っ込んでいった。甲田は宇津木に組みつこうとして両腕を上げた恰好になっていた。がらあきになった甲田の腹に、宇津木が蹴りを入れた。甲田が腰を落しかけた。
「おれが殺《や》る。まかせろ、甲田!」
武井はまた吠えた。何も考えていなかった。甲田も唸り声をあげた。甲田は跳び箱をとび越えて、大きく動いて宇津木のうしろに回りこんだ。
「突っ込め! 武井」
甲田が声をとばしてきた。武井は腰を低くした。逆手に持ったナイフの柄に、左手も添えて、腰に当てた。体当りで刺すつもりだった。
宇津木は躯を開いた。右と左から甲田と武井にはさまれていた。宇津木のうしろは、重ねて立てかけられたハードルの短い列でふさがれていた。
「くそ!」
武井は声を放ってダッシュした。宇津木の躯が回転した。宇津木の両手は、ハードルをつかんでいた。ハードルがまっすぐに武井に向って迫ってきた。武井の躯には勢いがついていた。止まることもハードルをかわすこともできなかった。
武井の側頭部と肩と腕を、ハードルが横殴りに殴りつけた。腕がしびれた。武井はそのまま突っ込んでいった。壁に立てかけてあるハードルの列が、武井の躯をはじきとばした。膝に激痛が走った。ナイフはハードルの支柱に突き刺さったまま、そこに残った。
武井は手を伸ばして、ナイフを抜こうとした。一瞬早く、横から蹴りが飛んできた。太腿の外側に重い痛みが走った。躯が横に泳いだ。躯の重みが、ナイフをつかんだ手にかかった。ナイフは横に押され、ハードルの支柱に埋まった刃先をそこに残したまま、音を立てて折れた。
横につんのめった躯を立て直そうとしたところを、ハードルで背中を殴られた。蹴られた太腿が痛みでこわばっていた。うまく足を送れずに、武井はつんのめった。腰を蹴られて、床にころがった。ナイフが手から飛んだ。探す間はなかった。臑を蹴られた。
ハードルを放り出した宇津木の蹴りが、脇腹にめりこんできた。小さいけれどスピードのある蹴りが、脇腹の同じ場所につづけて三発入った。息が詰まった。
武井は蹴ってくる宇津木の脚を腕で抱えこもうとした。だが動きが早くて捉えることはできなかった。躯が捻じれるような痛みが腹にからみついてきた。武井は甲田に眼をやった。甲田が野球の金属バットをバット立てから抜き取るのが見えた。
蹴りが止んだ。宇津木がバットを持って近づいてくる甲田に向って身構えた。武井は立ちあがれなかった。床に坐りこんだまま、宇津木の膝を抱えこもうとした。その膝がすっと引かれ、爪先《つまさき》の蹴りが顎に飛んできた。武井は意識が薄れかけた。気がついたらうしろに倒れていた。
甲田がすさまじい声をあげて、横殴りにバットを振った。宇津木は躯を回して、バットを背中で受けた。宇津木の腕が脇にバットを抱えこんでいた。一呼吸おいて、宇津木の蹴りが、バットを奪い返そうとして腰を落している甲田の開いた股間に突き刺さった。
甲田がバットを放し、呻き声をあげて床にしゃがみこんだ。宇津木が両手でバットのグリップをつかみ、甲田に向って振りかぶった。バットは宇津木の肩の上で止まり、すぐにバット立てのあるほうに投げられた。武井は立ちあがれずにいた。宇津木の血に染まったポロシャツの腹のあたりを、武井は見ていた。あと二センチ上をナイフが走っていれば、いまごろ床に坐りこんでいるのは宇津木の野郎だったのに――武井はそう思った。
宇津木が甲田の横に回った。甲田は唸り声をあげ、床に膝を突いて、痛みのために上体をねじっていた。宇津木の蹴りが、甲田の脇腹に飛んだ。甲田は頭を床に突っこむようにして倒れた。
宇津木が自分のほうに近づいてくるのを見て、武井はどこかへ飛んだナイフのことを思い出した。あたりを見回した。ナイフが見つかる前に、また脇腹を蹴られて、武井はころがった。
宇津木は何も言わずに、倉庫から出て行った。はげしい音がして、倉庫の扉が閉められた。武井はうつ伏せになった。脇腹の痛みをこらえ、脚を伸ばした。とたんに吐き気に襲われた。
呼吸が荒くなり、喉もとまで何かがせりあがってきたが、出てきたのは生あくびのような、不快な息だけだった。武井の耳に、甲田の呻き声が聴こえていたが、彼はもう口をきく気もなくなっていた。泣きたかった。
7
宇津木が帰ってきたのは、午後九時を回ってからだった。
洋子は居間でテレビを見ながら、食事もせずに夫の帰りを待っていた。帰宅の遅れることを夫が連絡してこないことは珍らしかった。それが洋子は気がかりだった。
九時半まで待って、夫が帰らず、連絡もなかったら、学校に電話をしてみよう、と洋子は考えていた。たぶん、演劇部の稽古で遅くなっているのだろう、と思いながら、甲田組との間に何か新しいトラブルでも持ちあがったのではないか、という危惧も洋子は抱いていた。
カーポートに車を入れる音を聴いて、洋子はシチューの鍋のかかったままのコンロに火をつけ、玄関に行った。洋子はサンダルを突っかけて玄関のドアを開けた。車から降りてくる夫の姿が見えた。夫の頬を白いものが覆っているのを見て、洋子はほころんでいた顔をこわばらせた。
「どうしたの? 顔」
洋子の声にふり向いた宇津木が、無言で笑った。洋子はほっとしたが、今度は玄関に向ってくる夫の姿を見て、息を呑んだ。白いポロシャツの肩と胸と腹のところが、乾いた血の色を見せて汚れていた。
「何かあったのね?」
「心配しなくていい」
「甲田組?」
「息子だよ」
「また?」
「今度は甲田の息子と、奴の仲間と、二人がかり。武井の奴だ」
「ポロシャツのお腹、切れてるじゃない。刃物でしょう、これ。顔も切られたの?」
「もう少しで切腹させられるところだった」
「いい加減にして、あなた」
洋子は思わず声を高くした。玄関のドアを閉めた宇津木が、洋子の肩に手を置いて、眼を向けてきた。哀しげな眼に見えた。
「たいした怪我じゃない。かすり傷だ。だいじょうぶ。いま話すから、とにかく冷めたいビールを一杯くれないか。頭の芯まで冷えるくらいに冷めたいのがほしい」
「わかった。頭の芯まで冷えるかどうかわからないけど……」
洋子は言った。笑顔を見せたかったのだが、笑えなかった。声を高くして夫を詰《なじ》るような態度を自分がとったことを、洋子は後悔した。
宇津木は浴室のドアの前で、血で汚れたポロシャツを脱ぎ、洗濯機に放りこむと、奥に行った。洋子は夫の腹の右に寄ったところにも、大きなテープが貼ってあるのを見た。
「病院に行ったの?」
ビールを出しながら、洋子は奥に声を投げた。
「頬を二針縫ってもらっただけだよ。腹はほんとにかすり傷だった」
古いワイシャツをはおりながら、宇津木が寝室から出てきて言った。宇津木は居間のソファに腰をおろして、すぐにたばこをくわえた。坐るときのようすが、いかにも疲れたようすに見えた。洋子は胸が疼《うず》いた。
「洋子、心配かけてすまない」
宇津木が言った。洋子はグラスと缶ビールをテーブルの上に置き、床に膝を突いて缶のプルトップを引き、グラスにビールを注いだ。
「心配しても仕方がないわ。あなたは走り出したら止まらない人だから……」
「今日、藤田君の日記の文章のコピーを、甲田と武井に見せたんだよ。塩野は欠席してたけどね」
ビールを喉を鳴らして一気に呷《あお》ってから深い息を吐いて、宇津木が話しだした。
「あなたが直接、甲田にそのコピー見せたの? 担任の二人の先生はどうしたの?」
「逃げられたさ」
「逃げられた?」
「仕方がないさ。みんな死んだふりして生きてるんだから。平地に波瀾を起すようなことをするなって、校長にも、甲田と武井の担任にも言われたよ」
「呆れた。そんなこと口に出して言うの?」
「仕方がないから、おれが甲田と武井に話ししたんだ。それでまたチャンバラさ」
「いきなり刃物出したの?」
「藤田君の日記のコピー見せたら、自首どころか、奴らはそんなもん証拠にならないと言って、やったことを認めないから、おれが警察に告発するって言ったんだ。そしたら、ナイフを頬に当てて、舐めるなとかなんとか言って脅しにかかってきたんだ。まさか切りはしないだろうと思ってたら、甲田の奴、スッとナイフを引きやがった」
「けだものね。野獣じゃない」
洋子は怒りを覚えた。
「コンロの火、だいじょうぶか? 話がすんでから食事にしたいね。気分を変えて」
「あたしもいまの話を聞いたら、食欲がどこかに行っちゃったみたい」
「ビール、もう一本くれないか」
「あたしも飲む」
コンロの火を止め、ビールの缶とグラスをトレイにのせて、洋子は居間へ戻り、ソファに坐った。
「甲田は頬を切るだけで止めとくつもりだったみたいなんだけどね。武井の奴が逆上してて、おれに殴りかかってきたんだ。甲田にだけやらせとくわけにいかないと武井は思ったのか、それとも藤田君の日記の文章が出て来たことで、恐くなってヒステリーを起したのかわからないけど、武井の奴は血走った眼になってたよ。黙って一発殴られてやれば、それで収まると思ったんでね、我慢したさ。だけど武井は逆に勢いづいたみたいだったから、蹴り倒した。そしたら武井が甲田のナイフを借りて振り回しはじめた」
「それでお腹を切られたわけね」
「また暴力教師やっちゃった」
「正当防衛よ。それより早く警察に甲田たちを告発したほうがいいわよ。そうしたら甲田組だって黙るでしょう。息子がレイプしたことがはっきりすれば、文句言えないはずだもの」
「警察にはもう行ってきた。藤田君のお母さんと一緒にね。病院で傷の手当てをしてもらったあとで……」
「じゃあ一件落着ね、やっと」
洋子は明るい声を出した。だが、宇津木はテーブルの上のビールのグラスに眼を向けたままで、黙っていた。一件落着を迎えた顔ではなかった。
「警察は、ちゃんと話を聞いてくれたんでしょう?」
「そりゃ聞くさ。だけどおれの印象じゃ、警察の態度はどうも消極的に見えたね」
「どうしてなの?」
「わからない。きっと、警察としては前に一度調べて、レイプ事件があったかどうかわからなかったということで処理ずみのものを、もう一度調べなおして事件にするのは、気が進まないってことじゃないのかな」
「調べなおして事件にすれば、前の捜査がずさんだったと言われるから?」
「それもないとは言えないだろうな。捜査主任というのが話を聴いてくれたんだけど、はっきり言って、どうも態度が迷惑がってるように見えるんだよ」
「まさか警察まで甲田組に牛耳られてるなんてことはないでしょう?」
「そんなことはないと思うけどね。まあ、一所懸命に警察がやってくれることを願うしかないって、藤田君のお母さんとも話したんだけどね」
「早くケリがつくといいわね」
「すまないな。おれがこういう頑固な性分だから、おまえにまで心配かけちゃってる」
「たしかにあなたは頑固なところがあるわ。でも、そのために今度のことではあなたは、教師として立派な態度がとれてるのよ」
「教師として立派かどうかわからんさ。ただおれは、藤田君が哀れでね。相手が甲田組の息子じゃなかったら、藤田君も考えがかわって、死なずにいたかもしれないんだから」
「あたしのことは気にしないで。だいじょうぶよ。そりゃ、あなたが怪我して帰ってきたりすると、ドキッとするし、なんて融通のきかない石頭亭主なんだろう、もっと要領よくやれないのかしら、なんて思うわよ。でもね、こんなことは初めてだし、しょっちゅうあることじゃないもの。それに、あなたが甲田たちの担任の先生みたいに、事なかれ主義の無責任な教師だったら、やっぱりあたし、情なく思うもの」
「おれも人のことは言えないんだ。藤田君に偽善者って言われなかったら、ここまで一所懸命になってたかどうかわからないもの。死んだ藤田君に汚名返上するために、やってるようなもんなんだ」
「あたし、あなたのそういう生真面目なところ、好きよ。尊敬もしてる」
「くそ真面目と言いたいんだろう。飯にしよう。もうこの話は終りだ」
「その前にあなた、躯拭いたら? お風呂は入れないでしょう、傷があるから。ほら、血の跡がついたままよ。ここもここも……」
洋子は宇津木の頸《くび》や肩や、腹のあたりをのぞきこみ、手で撫でて言った。
「そうだな。そうしよう。食卓が血なまぐさくなっちゃうといやだからな」
宇津木は立ってワイシャツを脱ぎながら、居間を出ていった。洋子も立って台所に行った。裸の夫のがっしりした肩や背中が、ふと洋子には力強さと哀しみの両方を漂《ただよ》わせているように思えた。
洋子には、いまの夫がかわいそうに思えてならなかった。
五章 乳 房
1
宇津木は高沢に呼ばれて校長室に行った。
高沢は机の前で手の爪を切っているところだった。
宇津木の姿を見ると、高沢は爪切りを置き、はずしていた眼鏡をかけて、たばこに火をつけた。表情が冴えなかった。
「なんでしょうか?」
「いま、警察の署長から電話があったよ。甲田健介と武井繁行の二名を、傷害罪で書類送検したそうだ」
「傷害罪ですか?」
「ナイフで宇津木先生に怪我させた件でね」
「婦女暴行罪のほうはどうなったんですか?」
「不起訴に決定したそうです」
「そんなばかな話はないでしょう」
「わたしもそう思いますよ。しかし、警察の結論はそういうことになったそうだ」
「理由はなんですか?」
「立件要因不充分ということらしい。簡単に言うと、被害者からの事情聴取がすでに不可能になっているし、物証の採集もできない。被害者の日記帳の中の文章は、甲田たち三人の犯行の疑いを濃厚に示しているが、具体性に欠けているから、証拠としては弱い、とこういうことだそうだよ。甲田たちが自白しない限り、どうにもならないというんだ」
「最初の捜査と同じような結論ですね」
「熊谷弁護士がだいぶん強硬に抵抗したようだよ。署長がしきりに、検事はこれだけの材料では公判維持がむつかしいと言ってる、という話をしてましたからね」
「警察の調べの段階で弁護士が口を出したんですか?」
「表立って口は出さんだろうけど、当然、熊谷弁護士は甲田たちに入れ知恵をしてるはずだし、そこはいろいろやり方があるんじゃないかな。とにかく、警察はそういう結論を出したということです」
「仕方ないですね、それが警察の結論なら」
「宇津木先生に来てもらったのは、それを知らせるためもあったんですが、もう一つ、聞いといていただきたい話があるからです」
高沢は言って、椅子の背もたれに背中をつけた。口調が改まっていた。宇津木はまだ、警察が出した結論のことを、頭の中で追っていた。あるいはと予測していなかったわけではなかったが、藤田圭子の事件が不起訴に終ったことは、宇津木の気持をくすぶらせた。
「聞いておいてもらいたい話というのはですね、宇津木先生。演劇部が文化祭に発表しようとしている劇のことなんです」
「はあ……」
「あれ、とりやめてくれませんか?」
「劇の発表を中止しろということですか?」
「なんとか頼みますよ」
「なぜです? 何か問題があるんですか?」
「わたしも台本を読ませてもらったんだけどね。題材があまりにも生なましすぎると思うんだ。まるっきり今度の藤田圭子君の事件の経過の引きうつしでしょう。レイプが万引きにかわってはいますけど、誰が見たってモデルが今度の例の事件だとわかりますよ」
「まずいんですか? わかっちゃ」
「これ以上、甲田組を刺激することはないと思うんだけどね」
「それが中止の理由なんですか?」
「それだけじゃありません」
「他にどんな理由があるんですか?」
「市の教育委員会が心配してるんです。実はこれまでにわたしは、宇津木先生の件で三回ほど教育委員会に呼ばれてるんです」
校長は、椅子の背もたれから背中を離し、机に両肘を突いて眼を伏せた。声が低くなっていた。宇津木には、高沢が言おうとしていることの見当がついてきた。いらだちと怒りが、宇津木の胸にひろがりはじめた。
「市の教育委員会では、今回の事件での宇津木先生の一連の行動を、非常に憂慮しているんです。憂慮というのは、教育委員会の学校教育部長の口から出されたことばですがね」
宇津木は口を噤《つぐ》んでいた。
「教師が検察官のように、事件の容疑者を問い詰めたり、おまけにその生徒と二度も暴力沙汰を起したりするのは、好ましくないし、行き過ぎと批判されても仕方がない、と教育部長は言うんです」
「行き過ぎですか? 弁解はしませんが……」
「先生が最初に事件を警察に届けていれば、暴力沙汰も起きなかったし、教師が暴力団に名誉毀損や誣告罪で訴えられるという事態も避けられただろうし、また、警察は当然、被害者の藤田君のプライバシー保護の配慮をするから、校内レイプ事件などというショッキングな出来ごとが、表沙汰になることもなかっただろう、と教育部長は言ってるんです」
「なるほど。すべてはぼくの行き過ぎから、騒ぎがひろがった、というわけですか。教育委員会がいちばん望んでたことは、校内レイプが世間に知られずにすむことだったんでしょうね、きっと」
「不祥事だからね。できれば知られずにすませたいでしょう。わたしだってそう思う」
「率直なことばですな」
「皮肉ですか?」
「そうです」
宇津木は平然と言った。高沢が伏せていた眼を上げた。疲れきったような、弱々しい眼だった。その眼はすぐにまた伏せられた。
「ま、いいでしょう。とにかくそういうことで、教育委員会は今度、演劇部が発表しようとしている劇の内容も、いろいろな見地から考えて不穏当だから、中止が望ましいと言ってるわけです」
「教育委員会はいつから、生徒の自主的なクラブ活動にまで口をはさむようになったんですか?」
「口をはさむわけじゃなくて、監督の義務があるわけだから」
「教育委員会はあの劇のどこが不穏当だというんですか?」
「暴力団追放というようなテーマは、高校生の演劇活動にはそぐわないということなんです。あの劇を発表するということを紹介した新聞とテレビが、劇の内容をそういうふうに捉えていたせいもあるんでしょうけどね」
「ぼくはあの劇が暴力団追放をテーマにしたものだとは思いませんけどね。あれは人間の勇気の問題を考えようというテーマなんですから」
「しかし、そうは受け取れませんよ、先生」
「それは校長や市教委の連中が、甲田組を意識してるからですよ。校長もさっき言ったじゃないですか。これ以上、甲田組を刺激することはないって……」
「もちろん、それもあります」
「かりに、それが暴力団追放をテーマにした劇だとしても、その劇を高校生がクラブ活動にとりあげるのが、どこが不穏当なのか、ぼくには理解できませんね」
「あの劇が発表されて、そのために生徒と甲田組の連中との間で事が起きることは、充分に予測できることですよ。そういう事態は避けたいと教育委員会が考えるのは当然でしょう。現実的な判断でもって、生徒たちを指導するのも宇津木先生、教師に課せられた重要な役割りだとわたしは思いますよ」
「臭いものには蓋《ふた》をして、不当な脅威は回避して曲がった道を歩き、長い物には巻かれろ、と生徒を指導するのが、現実的判断というやつなんですね」
「また皮肉ですか?」
「そうです。生徒と甲田組との間に事が起きるかもしれないということは、ぼくも考えてます。生徒たち自身も、それを覚悟してやってるんです。ぼくは彼らに劇を中止しなさいとは、口が曲がっても言えません。言うつもりもないんです。そんな、折角《せつかく》芽生えてきた生徒たちの勇気や、正義感を摘《つ》みとるような真似はできない。予測される甲田組とのトラブルに対しては、それに備えることを考えてやるのが、市教委や校長やぼくのあるべき姿じゃないですか」
「そんなことはわかってる!」
高沢は突然、大声をあげてテーブルを叩いた。宇津木は一瞬、おどろいた。高沢の頬と躯が震えていた。宇津木に向けられた眼ははげしくひきつっていた。
「あるべき姿、あるべき姿――きみはいつだってそれを錦《にしき》の御旗《みはた》にして人を責め立てるんだ。あるべき姿も、物事の扱い方も、ひとつだけが正しくて、他はみんな誤りだと言えるのかね。判断がいろいろあれば、同じ数だけの結論があるんだ。市教委もわたしも、それぞれの立場に立った判断をせざるをえないんだ」
「ぼくにも立場はあります。判断もある。クラブ活動については、ぼくは市教委と校長の判断に従わなければならないものだとは考えません。劇を止めるつもりはないんです」
宇津木は言った。高沢は大きく息を吐き、ぐったりと躯を椅子にもたせかけ、眼を伏せた。それから彼は、力のない呟くような声で言った。
「きみは演劇部から離れることになるかもしれないよ」
「どういう意味ですか?」
「教育委員会は次の人事異動で、きみを動かすことを考えているようだからね。これはわたしの感触だが……」
「動かすじゃなくて、飛ばすでしょう。甲田組だけじゃなく、校長と市教委にまで脅されるとは思っていませんでしたよ。納得できる異動ならどこにでもぼくは移りますよ。納得できる理由ならね」
宇津木は言って、校長室を出た。
2
「よかったわね、健介さん。傷害罪の起訴だけですんで……」
倉本奈保が、素裸でベッドに入ってきながら言った。甲田はベッドのヘッドボードに背中をもたせかけたままで、黙っていた。手にはブランデーのグラスを持っている。眼は宙に向けられたままで動かない。
しばらくして、倉本奈保は甲田のほうに躯を向け、甲田の太腿に手を置いた。上眼遣いに甲田を見やって、倉本奈保は彼の太腿を静かに撫ではじめた。その手が少しずつ甲田の内股に進んでいく。
「元気ないわね、今夜。疲れてるの?」
倉本奈保が言った。彼女の手は甲田のブリーフの下にさし入れられて、そこで小さく動いている。
「さっき、何か言ったか?」
甲田の眼がはじめて、腰の横にある倉本奈保に向けられた。
「いやあね。聴いてなかったの?」
「考えごとをしてた」
「健介さんのこと。よかったわね、ケリがついてって言ったの」
「ケリなんかついちゃいねえんだよ、まだ」
「だって、傷害のほうだけなんでしょう? 起訴されたのは」
「警察とは熊谷先生を使って取引きしたからすんだんだけどな。署長だって、強姦事件と殺人事件と、どっちを選ぶかって言われりゃ、点数の高い殺人事件のほうにとびつくよ」
「そうだったの?」
「そういう交渉、うまいからな、熊谷先生は。未解決のままだった三ヵ月前の殺しの犯人《ホシ》を署長に渡してやったんだよ。それで健介の強姦のほうは眼をつむってもらった」
「三ヵ月前の殺人て?」
「鈴木がやったやつ。しようがねえんだ、鈴木のばかも。どこかのチンピラが、てめえの車を追い越したってんで、競争やった揚句《あげく》に拳銃《チヤカ》で殺《や》っちまったんだよ」
口にはこびかけていた甲田のブランデーグラスが傾きすぎていて、酒が少しこぼれた。はだけた甲田の胸に酒がこぼれた。刺青が光った。倉本奈保が上体を起こして、胸にこぼれた酒を唇で吸い、舌で舐めた。甲田の表情はかわらない。
「ケリがついてないって、どういうこと?」
倉本奈保が、枕に頭を戻して言った。
「教育委員会のばかたれどもが、どうにもならねえんだ。宇津木を叩き出すお膳立てをこっちでそろえてやってんのに、教育委員会は宇津木の野郎の首を切ることも、叩き出すこともできねえんだ。教育委員会だけじゃねえな。市会議員の富沢も、県会議員の中山も、くその役にも立ちやがらねえんだ」
「富沢さんと中山さんに、教育委員会に圧力かけさせたんでしょう?」
「おれは、ただ教育委員会を突っつけって富沢たちに言ってるわけじゃねえんだぜ。突っつくだけの材料をそろえてやってんだ。それなのに、定期異動まで待たなきゃ宇津木はどうにもできねえって言いやがる」
「弱腰なのね」
「普段から富沢や中山たちに頭下げて、うまい酒しこたま飲ませて、安心な女世話して、その上にあいつらのトラブルを陰で始末してやってんのは、いったいなんのためだって言いてえよ」
「ほんとだわ。お店の夏子、彼女は中山さんの子供を二回も堕《お》ろしてんのよ。変態先生の相手した上に……」
「中山は今でも夏子の小便飲んだり、尻《ケツ》の穴使ったりしてんのか?」
「あいかわらずみたいよ」
「つぎの選挙で、変態県議って宣伝してやるって脅してやろうか、まったく。役立たずが。早いとこ宇津木を追い出さなきゃ、文化祭がきちまうってのによ」
「なあに? 文化祭って」
「三高の演劇部とかってのが、秋の文化祭に、暴力団追放の芝居やるんだよ。芝居ってことになってるけど、モデルになってんのは、健介がやった強姦事件なんだよ。宇津木はその演劇部の部長やってるわけよ」
「宇津木が生徒にやらせてるのね、その芝居……」
「やらせてんのはこのおれだ」
「えーッ。どうして?」
甲田はちょっと口もとをゆるめて笑った。得意なときに見せる笑い方だった。
「作戦だよ。そういう芝居をやるってことにさせといて、それを宇津木を叩き出す材料にするつもりだったんだ。生徒に強姦の濡れ衣着せて、それがもとでやくざとトラブル起した教師が、自分の立場を守るために生徒を巻きこんで芝居までやらせて、騒ぎを煽《あお》っているとなれば、教育委員会だって宇津木を首切るなり、どっかに飛ばすなりの口実になるじゃねえか」
「そりゃそうだわ」
「文化祭の前に演劇部の部長がいなくなれば、その芝居はつぶれる。それで万事解決ってわけだ。おれの考えついた超ウルトラC作戦だった」
「いつか言ってたのはそのことだったんだ」
「おれんとこの手塚の車に追突して、ヒイヒイ言わせられてる芝山ってクリーニング屋がいるんだよ」
「ああ、あの事故……」
「その芝山の娘がなんとうまいことに、宇津木のとこの演劇部のキャプテンみてえなことやってるんだ。それでおれは手塚にクリーニング屋をくどかせたんだよ。娘をたきつけて、暴力団追放の芝居をやるようにしむければ、追突事故のほうはクリーニング屋の言う条件で示談にするって話をまとめさせたわけだよ」
「そりゃクリーニング屋さんはとびつくわね、その話なら」
「うまくいったんだよ。芝山の娘はそういう話だとは知らねえから、親父がたきつけたら燃えちまった。そりゃそうだわな。交通事故起した親父が、やくざにいじめられてんのを目の前で見てんだから」
「度胸あるじゃない、その子」
「まあな。うまくいったのはそこまでだよ。おれがそろえたお膳立てを、中山と富沢と教育委員会のばか野郎どもがぶちこわしちまってんだよ。早いとこ宇津木を叩き出さなきゃ、文化祭で芝居やられて、それをマスコミが煽って、この土地にほんとに暴力団追放運動がおっぱじまっちまうじゃねえか、まったく」
「そこまでいくかしら?」
「おれは安心できねえと思ってる。いま流行《はやり》だからな。暴力団追放の市民運動とやらがよう。油断はできねえ。この商売もやり辛くなってきやがったぜ、ほんと」
「別のウルトラC作戦考えなきゃいけないわね」
「考えた。決めたよ、もう。やくざはやくざらしいやり方がいちばんいいのかもしれねえと思ってな」
「力でやるの?」
「そうだ。こんなふうにな」
甲田は言って、倉本奈保の乳房をわしづかみにした。奈保が声をあげて、顔を歪めた。
「痛えか?」
「痛いわよ。いきなり力まかせにやるんだもの」
「久しぶりに今夜は縛りで遊ぶか、奈保。いまのおまえの痛がった顔見たら、ムスコにズンとひびいたぜ」
「縄、出す?」
「出してこいや。バイブレーターもな」
「縄はいいけど、あたしのあそこにへんな物入れないでよ。いつかビール壜使ったときあったでしょう。あのときはつぎの日まで痛かったんだから」
倉本奈保は、起きあがって言った。
「入っちまうからいけねえんだよ。入らなきゃ指一本だって、おれも入れてみようとは思わないんだけどな」
甲田は笑って言って、片足をベッドからおろした倉本奈保の女陰を、股のうしろから伸ばした手で、また力まかせにつかんだ。奈保が声をあげて身をよじった。その声にはさっきのような苦痛の色はもうなかった。
3
雨がはげしかった。
時刻は午前十時になろうとしていた。
宇津木の家の前に、一台のワゴン車が停まった。車の窓は雨でくもったようになっていて、中はよく見えなかった。ワゴンのサイドウィンドウとリヤウィンドウには、カーテンが引かれていた。
ワゴンの助手席のドアが開き、男が一人降りてきた。塩野道夫だった。
塩野は宇津木の家のカーポートに、赤のカローラが停まっているのを確かめると、雨の中を玄関まで走った。傘は持っていなかった。ポケットの中でナイフを握りしめていた。
洋子は玄関で下駄箱からレインシューズを出そうとしていた。出勤するところだったのだ。十時半に取材の約束が入っていた。そのためにいつもより一時間早い出勤になっていた。
レインシューズを下駄箱から出して、ティッシュペーパーで汚れを拭いているとき、インターフォンが鳴った。
洋子は台所のインターフォンに出る手間を省《はぶ》いて、玄関で返事をした。
「宅急便です、宇津木さん」
ドアの外で声がした。洋子はまた返事を送り、ドアの覗き穴に眼を当てた。紺色の野球帽をかぶった男が立っているのが見えた。顔は帽子のつばの陰になっていて、よく見えなかった。手に小さな包みをさげていた。
洋子は何の疑いも持たずに、ドアチェーンをはずし、ドアを開けた。男が入ってきて、すぐにドアを閉めた。
塩野は手に持っていた見せかけの荷物を放り出し、ナイフを洋子の喉の下につきつけ、彼女の髪をつかんだ。あっという間にそこまでやった。
洋子が息を飲み、叫ぼうとして声を呑みこんだ。洋子の顔に、塩野の頭から飛んだ雨の滴《しずく》がひとつついていた。
「声を出すなよ。血ィ見るぞ。奥に行け」
塩野は雨に濡れた顔を洋子の顔にすりつけんばかりにして言った。
「お金あげるから、乱暴しないで……」
洋子はひきつった声を出した。塩野は膝で洋子の下腹を蹴りあげた。洋子が小さな悲鳴をあげた。
「声を出すなって言ってんだろうが」
塩野はナイフを突きつけたまま、洋子の髪をつかんだ手で彼女を押し、奥に行かせた。
「床に腹這いになれ」
居間に行ってから、塩野は言った。言いながら、髪をつかんだ手で洋子を引き倒した。洋子はめくれあがったスカートの裾を手でもどし、急いでうつ伏せになった。塩野はポケットから粘着テープと模造品の手錠を出した。洋子の背中を膝で踏み、両手をうしろに回して、手錠をかけた。粘着テープで口を塞いだ。
余ったテープを洋子の両足首に巻きつけて、自由を奪った。足を縛ることは計画には入っていなかった。だが塩野は、洋子が逃げ出すのではないかと考えたのだ。
それだけのことをすませるのに、押し入ってから二分ぐらいしかかかっていなかった。
塩野は急いで玄関に引き返した。ドアをそっと開けて、門の前のワゴンに向って小さく手を振った。
ワゴンから三人の男が出てきた。手塚と甲田健介と武井だった。武井は手にスポーツバッグをさげていた。三人は雨の中を走ってきて、塩野が開けた玄関にとびこんできた。
「塩野、おまえはワゴンをどこか離れたところに停めてこい」
手塚が小声で言った。甲田が車のキーを塩野に渡した。塩野はまた雨の中に駈け出して行った。
玄関のドアが閉められ、鍵がかけられた。三人は手塚を先頭にして奥に行った。洋子が床に伏せたまま、顔をあげて三人を見た。洋子の眼が裂けそうなほどに大きく見開かれ、テープを貼られた口から、くぐもった悲痛な声が洩れた。彼女は床の上で躯をちぢめようとしたが、両手をうしろに回されて動きを封じられているために、もがいただけに終った。
「会社に電話をかけさせろ」
ソファに坐って、スーツについた雨の滴を手で払いながら、手塚が言った。
甲田が洋子の横にしゃがみ、彼女の口のテープを剥がした。甲田はナイフを出して、洋子の頬にあてた。
「勤め先の電話番号は何番だ?」
「電話をしてどうする気?」
洋子が震える声で言った。
「急用ができたから二時間ばかり遅刻するって言うんだ」
「なんのために?」
「こっちの仕事に邪魔が入らねえようにだよ。連絡なしにあんたが会社に来なけりゃ、誰かが電話してきたり、宇津木に問い合わせたりするだろうが」
「やっぱりそうなのね。宇津木を知ってるのね、あんたたち」
「よく知ってるぜ。おなじみさんだ」
甲田は笑った。洋子は勤め先の電話番号を告げた。甲田は立っていって、台の上から電話機をおろし、コードを伸ばして床におろした。
甲田が武井に眼配せを送った。武井はガムテープを巻きつけられている洋子の足首をつかみ、床の上を引きずって、彼女を電話機のそばまで運んだ。洋子のスカートが腰までめくれあがった。それを元に戻すことは洋子にはできなかった。もがいただけだった。
甲田が番号ボタンを押した。甲田は電話がつながるのを確かめて、受話器を洋子の頬に押しつけた。洋子の首には甲田がナイフを突きつけていた。武井が受話器に横から耳を近づけた。
「オリジン書房です」
「宇津木です。急用ができてしまいまして、出社を二時間ほど遅らせていただきたいんですけど」
「宇津木さんは昼前に取材が一つ入ってたんじゃなかったの。高山酒造の取材」
「それも遅らせてもらいたいんです」
「連絡はしたの? 高山酒造には」
「すみません、社長のほうから連絡しておいていただけませんか?」
「宇津木さん、声がへんだね。具合がわるいんじゃないか?」
「ちょっと、胃が痛んでるんです、いま」
「わかった。無理しなくていいよ。高山酒造には電話入れとくから」
「すみません。お願いします」
「よし。切れた」
武井が床から顔をあげて言った。甲田が受話器を戻した。甲田が立ちあがって、洋子の頭を蹴った。
「急用で遅れるって言っといて、後で胃が痛いじゃ、話が合わねえだろうが!」
甲田は押し殺した声で言った。
「ま、いい。どうってことないよ、若」
ソファの上で上衣を脱ぎながら、手塚が言った。武井がスポーツバッグからビデオカメラとポラロイドカメラとフィルムのパッケージを二つ取り出した。
「そりゃあとでいい。薬の用意からやれ」
手塚がネクタイをはずしながら言った。甲田がポケットからビニールの包みを出した。ビニールの包みが、テーブルの上で開けられた。ビニールパッケージされた白い錠剤がワンシート出てきた。
「武井。スプーン見つけてこいよ」
甲田が言った。武井は台所に行った。甲田と手塚がパッケージを破いて、とり出した錠剤をテーブルの上の朝刊の上に置きはじめた。洋子が恐怖で光を失った眼で、それを見ていた。
「奥さん、妙な薬じゃないから、心配しなくていいですよ。トランキライザーだから。これ飲むと、恐さなんか忘れて、楽な気分になれるからね」
手塚が笑った顔で洋子に言った。武井がスプーンを持って戻ってきた。
「よし。武井は薬をつぶせ。若、奥さんに裸になってもらおう」
手塚がソファから腰をあげた。洋子が声を洩らしてもがいた。甲田が寄ってきて、洋子の脇腹を蹴った。洋子の躯がはずんで捻じれた。手塚が足首のテープを剥ぎ取り、洋子のスカートを引きおろした。パンティとストッキングが一緒にむしり取られた。甲田が洋子の躯を起こした。洋子は荒い息を吐き、肩を振ってもがいたが、声は出さなかった。
チャイムが鳴った。三人が動きを止めて顔を見合わせた。手塚が洋子の口を手で塞いだ。甲田はすぐにナイフを出し、洋子の首に当てた。
「塩野が戻ってきたんだろう」
手塚が囁き声で言った。武井が足音を殺して玄関に行った。武井はドアの覗き穴に眼を寄せた。傘をさした塩野が、ドアの前に立っていた。武井はドアを開けた。塩野が傘をすぼめたままで玄関に入ってきた。武井がドアを閉め、ロックとドアチェーンをかけた。塩野がせまい玄関で傘をたたんだために、雨の滴がとび散った。
甲田と手塚が、手錠をはずして、洋子を素裸にしていた。
「塩野も薬つぶせ」
手塚が言った。塩野は武井と向き合って、新聞の上に置かれた錠剤をナイフで押しつぶしにかかった。
甲田がグラスに水をくんできた。武井が裸の洋子をうしろから羽交締めにした。羽交締めから逃れようとして、洋子があばれた。甲田が殴りつけようとして拳を振りあげた。その手を手塚がすばやくつかんだ。
「若、それは止めたほうがいい。顔に怪我させると写真うつりがよくねえよ」
手塚が言った。手塚は洋子の膝を膝で押し割った。
「ナイフ貸せ」
手塚は塩野に言った。塩野がナイフを手塚に渡した。手塚は手で洋子の陰毛を掻《か》き分け、そこにナイフを近づけた。ナイフの刃先は洋子のクレバスの数ミリ近くで止まった。
「女ってのはここに固くて長いものを当てれば、みんなおとなしく言うことをきくもんさ」
手塚が笑った。洋子の全身が凍りついたように動かなくなった。
「顔を少し上に向けさせて、鼻をつまんでやれ。息ができねえから口を開けるだろう。そしたらナイフを歯の間にこじ入れてアーンさせるんだ。わかったか」
手塚が塩野に言った。塩野はテーブルから水のグラスと、新聞の折込広告の紙の上にのせた粉にした薬を持ってきた。それを甲田が受け取った。手塚は洋子の内股にナイフを突きつけたまま、彼女の膝に腰をおろした。
塩野が洋子の鼻をつまんだ。ナイフを口に近づけた。
「ゆっくりやれ。時間はうんとあるからな」
手塚が言った。洋子の白い腹が小さく震えた。唇が薄く開いた。そこに塩野がナイフをさし入れた。ナイフが歯に当って、小さな固い音を立てた。洋子はたまりかねたように口を開いた。そこに甲田が薬を溶かしこんだグラスの水を少しずつ注ぎ込んだ。
洋子の喉がかすかにうねって、ごくりという音を何度も立てた。
4
四人がつぎつぎに洋子を犯した。
洋子の口はふたたび粘着テープで塞がれていた。
洋子は最初に手塚に犯されかけたとき、叫び声をあげたのだ。口をテープで塞がれても、洋子はすさまじく抵抗した。抵抗はしばらくつづいた。三人がかりで床に押えつけておいて、一人が犯すというやり方がつづいた。
カメラはまだ使われていなかった。手塚がずっと、洋子の眼に注意を向けていた。
最後に塩野が洋子の上に躯を押しかぶせたときは、洋子の眼は焦点が甘い感じになって見えた。彼女の躯からも、力が抜けていた。
「暴れたぶんだけ、薬の効きが早かったみてえだな。もういいだろう。始めよう」
手塚が洋子の眼をのぞきこんで言った。
武井がパッケージから出したポラロイドフィルムを、カメラに入れた。塩野がビデオカメラを持って、コードをコンセントにつないだ。甲田が部屋の明りをつけた。
「若、尺八とおまんことどっちがいい?」
「どっちでもいいや」
「尺八やってもらえ。恩師の奥さんの尺八はわるくねえだろう」
手塚が笑った。洋子は細くなった力のない眼を、天井に向けて、手足を投げ出したまま床にころがっているだけだった。
「はじめに大股開きを一発いっとこう。顔もおまんこもばっちり写すんだぞ」
手塚が言って、立ったままで足を使って、洋子の両脚を大きく開かせた。洋子はひろげられた脚を閉じようとしなかった。眼も細く開いたままだった。魂を失った人のように見えた。
ポラロイドカメラのシャッターの音と、ビデオカメラの回るかすかな音がつづいた。洋子の豊かな乳房が、細くて浅い呼吸を示して小さく上下していた。
「こっちの顔が写ってたら、おまえらぶっとばすからな」
下着を脱ぎながら、甲田がカメラ係の二人に言った。手塚が洋子の躯を横向きにして、うしろから突き入れた。洋子の片方の脚は、手塚の立てた膝にかけられた。手塚に犯されている洋子の性器が、カメラにさらされた。
甲田は床にあぐらをかき、洋子の頭を自分の膝に押しつけ、彼女の口もとに男根を突きつけた。洋子が小さく首をねじって、それを拒んだ。甲田はそばにあったナイフで、洋子の口をこじあけた。洋子は諦めたように男根を含んだ。甲田はナイフを横に放り出し、洋子の大きな乳房を揉みしだきにかかった。
「これだけおまんこが濡れて光ってりゃ、誰が見たって宇津木の女房は本気出してるって思うぜ」
塩野がカメラのファインダーを覗きながら、笑い声を立てて言った。
「すげえや、こりゃ」
武井が写したばかりのポラロイド写真を眺めて言った。
「見せてみろ」
手塚が言った。ポラロイド写真は、洋子のうしろで腰をはずませている手塚に渡され、つづいて甲田に回された。手塚と甲田が低いかすれたような笑い声を立てた。
甲田はポラロイド写真を洋子の眼の前にかざした。洋子の表情はまったく動かなかった。床にポラロイドフィルムのパッケージや、印画紙から剥がした紙が散らかって落ちていた。
「よし、若、つぎ行こう」
手塚が言って、洋子から躯を離した。
「つぎはどうすんの?」
「おまんこと尻《ケツ》に一緒にぶちこむ。おれが尻やる」
「一緒になんてやれるんですか? 手塚さん」
武井の顔に歪んだ笑いが見えた。
「見てろ。女の躯ってのはすげえもんよ。なんだってできるんだから。若、そこに仰向けになってみな」
手塚が洋子の横たわっている隣の床を指さした。甲田がそこに躯を伸ばした。手塚は洋子の躯を抱え起し、塩野に手伝わせて、彼女を甲田の腰にまたがらせた。手塚と塩野の手が放れると、洋子の躯は支えを失って、甲田の胸の上に倒れ、額が床を打ってにぶい音を立てた。洋子はすっかりうつろな表情になっていた。
「若、入れていいぞ」
手塚が言った。塩野と武井が固唾《かたず》を呑んだ顔で、うしろから洋子の押し開かれた股間をのぞきこんだ。重なった腹と腹の間から甲田の手が這い出てきて、ペニスをつかみ、先端で探って突き入れた。
「ほら、カメラ、カメラ。奥さんの尻の穴と、若のをくわえてるおまんこを一発写しとけよ」
手塚が言った。ポラロイドカメラのストロボが閃いた。閃光が一瞬、洋子の尻を白く灼いた。
「塩野。今度はおまえの腕の見せどころだ。前とうしろにちんぽこ二本くわえこんでんのが、宇津木の女房だってことがわかるように、うまく撮れよ。ポラロイドじゃ何もかもいっぺんに見せられるようには写せねえからな」
手塚が床に膝で立ち、洋子の尻の谷間を両手で割るようにして押し開きながら言った。手塚はあらわになった洋子のアヌスに亀頭を押しあてた。手を添えたまま押し込んだ。武井がシャッターを押しながら、小さく口笛を鳴らした。手塚がゆっくりと腰を動かしはじめた。甲田が低い笑い声を立てた。塩野がビデオカメラを回しながら、折り重なった三人の横をそろそろと移動しはじめていた。
洋子は呼吸が苦しかった。胸を重い鉄板のようなもので締めつけられている気がした。意識がにごっていた。薬のせいだった。
いま自分が何をされているのか、よくわからなかった。下腹部には感覚がなかった。視野に霞《かすみ》がかかっていた。その中で、白く光るものが揺れていた。洋子はそれを凝視した。
魚に見えた。魚ではなかった。ナイフだとわかった。胸を押し包んでいる苦しさから逃れたかった。ナイフは床にころがっていた。
洋子は手を伸ばした。伸ばしたつもりの手は、ナイフにはまだ遠かった。無限の距離があるように思えた。自分の手が石で出来てでもいるように、重たく感じられた。ナイフがひとりでに遠ざかっていくようにも思えた。
洋子は手を伸ばしつづけた。躯が突き動かされるように揺れる。どうしてこんなに揺れるのか、と思った。船に乗っているようだった。船べりから手を伸ばして、波間に浮いているものをつかもうとしているみたいだった。何も聴こえなかった。
指先がナイフにようやく触れた。爪でナイフを掻き寄せた。光る小魚のように遠く小さく見えていたナイフが、いまは視野を塞ぐほど大きく、眼に迫っていた。洋子はナイフをつかんだ。
にごって揺れていた意識が、途端に鮮明になった。眼の前の霞が晴れた。ナイフのせいだった。
肩の下に誰かの肩があった。その先に誰かの首と頭髪が見えた。背中に誰かが手をついていた。誰かが肩をつかんでいた。誰なのかわからなかった。
洋子は肩の先に見えている赤黒い色をした首に、ナイフを突き立てたつもりだった。腕は石のように重かった。ナイフは狙いがはずれて肩に刺さった。何も聴こえなかった。脚が横に見えた。誰の脚かわからなかった。洋子はナイフでその脚を払った。
甲田が声をあげた。
つづいて塩野が声を放った。塩野はとびあがった。ズボンの臑が裂けて、血が滴《したた》った。甲田がもがいて起きようとした。塩野がカメラを放り出し、ナイフをつかんだ洋子の腕を踏みつけた。
手塚がようやく異変に気づいた。武井は床にしゃがみこんで、洋子の股間に眼を注いでいた。誰も口をきかなかった。
手塚が立ちあがった。塩野は洋子の手からナイフを奪っていた。甲田が洋子の躯を突きとばすようにして躯を起した。肩が血で光っていた。
洋子の躯が仰向けに床にころがった。塩野が呻いた。塩野は腰を折った姿勢でナイフを振るった。ナイフが洋子の右の乳房を断ち割り、左の乳首を切り落した。
「ばかたれ!」
手塚が呻《うめ》いた。手塚は洋子の腰を跳び越えて塩野の横に行き、足をとばした。腰を蹴られて、塩野がよろめいた。
「誰が叩っ斬れって言った。余計なことしやがって!」
手塚は塩野の手からナイフを奪い取り、拳で頬を殴りつけた。塩野が床にうずくまった。沈黙が部屋に生まれた。降りつづくはげしい雨の音がひびいていた。洋子は動かない。
手塚がしゃがみこんで、洋子の顔をのぞきこんだ。見開かれたままの洋子の眼も、宙に投げられたまま動かない。乳房から流れ出る血が腹にひろがり、床に落ちはじめた。
手塚が洋子の手首をつかんで脈を探った。すぐにその手を放して、手塚が首を振った。
「塩野、車をこっちに回せ。急ぐんだぞ。ほら、足の血。ガムテープで止めろ」
手塚はもう落着いた口調になっていた。塩野が臑の傷に粘着テープを貼って、居間を出ていった。
「たいして刺さっちゃいねえよ、若」
手塚が指で甲田の肩の血を拭い、傷口を見て言った。そこに手塚の手で粘着テープが貼られた。
「ぼさっと突っ立ってんじゃねえ、武井。カメラ片づけろ。撮った写真集めろ。家じゅうひっかき回せ。強盗が入ったように見せかけるんだ」
手塚が押し殺した怒声を武井に投げた。
「おっぱい切られただけで、こんなにあっさり死ぬのかね?」
服を着ながら、甲田が言った。
「おっぱいじゃねえよ、若。薬だ。トランキライザーの効き過ぎ。おそらくな」
手塚も服を着ながら言った。
やがて三人が、台所をのぞいて四つある部屋を荒して回った。
塩野が車を取って戻ってきたときは、家の中は床に散乱した物で足の踏み場もなくなっていた。
5
午後八時近くに、宇津木は帰宅した。
雨はまだ降りつづいていた。
カーポートに洋子のカローラが停まっていた。車の中からそれを見て、宇津木はふと表情をゆるめた。
車をカーポートに入れ、外に出てから、宇津木は隣の赤いカローラに、雨に濡れた跡がないのに気がついた。洋子は今日は車を使わなかったのかな、と思った。
門灯も玄関の明りも消えていた。庭に面した、カーテンの引いてある居間のガラス戸に、明りが映っていた。
宇津木はチャイムを二度鳴らした。返事もなく、ドアも開かなかった。宇津木はキーリングにつけた玄関の鍵を鍵穴にさし込んだ。鍵はかかっていなかった。
玄関に入って明りをつけ、洋子の名前を呼んだ。家の中は静まり返っていた。玄関に洋子のレインシューズと、何かを拭いたらしい丸めたティッシュペーパーが落ちていた。レインシューズは乾いたままだった。
宇津木は居間の入口で、声にならない叫び声を放った。躯がはじかれたように跳ね、揺れた。
床にはジャケットに入ったレコードや、映画のビデオテープや、本棚の本や、サイドボードの抽出しと中身や、電話機などがころがっていた。電話の受話器ははずれたままになっていた。
そうしたさまざまなものと、素裸で横たわっている洋子の姿を、宇津木はいっぺんに眼に入れた。視野が一瞬、洋子の胸を彩《いろど》っている血の色で、赤く染まった。
宇津木は躯の震えが止まらなかった。床に散乱している物を蹴とばし、踏みつけしながら、宇津木は洋子のところに走った。
血はすっかり乾いて固まっていた。見開かれたままの洋子の眼は、輝きを失って暗い穴のようにしか見えなかった。宇津木は床に坐り込んだ。手が無意識に洋子の手を取り、もうひとつの手が洋子の髪を梳《す》き流し、頬を撫でていた。瞼《まぶた》を閉じさせた。閉じ切ることはできなかった。
放心は長くはつづかなかった。放心しきれないところが残っていた。
宇津木は居間を見まわした。ソファの上に、見なれない紙屑がかたまったようにのっているのが眼についた。宇津木はしばらくそれをぼんやり眺めていた。何を考えているのか、自分でもよくわからなかった。躯もすぐには思うように動かなかった。
宇津木は立ちあがった。ソファのところに行って、見なれない紙屑に眼をやった。破られたアルミ箔の袋がまじっていた。袋に印刷された文字があった。ポラロイドフィルムのパッケージだった。つづいて宇津木は、そこに散らかっている紙片が、ポラロイド写真の印画紙から剥ぎとられた裏紙であることを理解した。
何か影のようなものが、宇津木の脳裡をかすめた。それが何であるのかわからなかった。宇津木ははげしく頭を振った。頭も心も躯も、ばらばらになって振り回されているようだった。
ソファの一つが倒れていた。宇津木の手が、無意識にそれを起した。ソファの下から写真が現われた。ポラロイド写真だった。
宇津木はショックで光を失った眼を写真に向けた。洋子が写っていた。素裸だった。躯をカメラに向けて横たわった洋子の股間が、大きく開かれていた。男が洋子にうしろから押し入っていた。男の顔は洋子の背中のうしろに隠されていた。洋子の片方の脚は、男の立てた膝にかけられ、足首を男につかまれていた。
洋子の頭は、別の男のあぐらの上にあった。あぐらの男の顔は、写真のフレームの外に切れていた。洋子は男根をくわえていた。男の手が洋子の乳房をわしづかみにしていた。
宇津木は、それに写っているのが洋子ではないかのような、表情を失った眼で、写真を眺めた。
また影のようなものが、宇津木の脳裡をかすめた。宇津木はそれを追った。今度はそれが何であるのかわかった。藤田圭子をレイプしたのが、甲田と武井と塩野であることを密告してきた、匿名の娘の電話の声や、少し舌たらずに聴こえる口調が思い出された。その娘も、藤田圭子をレイプした犯人の名前を知ってしまったために、口封じに写真を撮られている。男たちにおもちゃにされている裸の写真だと娘は言った。ポラロイドカメラで写されたとも言った――。
ショックは尾を曳《ひ》いていた。躯ごとどこかに持っていかれそうなその波の中で、宇津木の頭は少しずつ回りはじめていた。
宇津木は居間の床に丹念に眼を配った。ポラロイド写真が他にもどこかに落ちていないかどうか、気になった。警察を呼ばなければならなかった。やってくる者たちに、洋子が男たちにおもちゃにされている姿を写した写真を見られたくはない――宇津木がそのとき考えていたのは、それだけだった。頭に浮かぶ事柄は、まだ脈絡《みやくらく》を備えてはこなかった。
見つかった写真は、全部で二枚だけだった。もう一枚は、洋子の足もとの、床にころがったソファのクッションの下にあった。
その写真は、宇津木の眼には、すぐにはどういう状態を写したものなのか、理解できなかった。眺めているうちにわかった。人の尻が三つ重なった形になっていた。サンドイッチにされた女の躯は、ヴァギナとアヌスの両方に男根を突き立てられていた。
宇津木はそれを見て、唸り声をあげた。ショックでどこかに吹き飛んでいた怒りが、ようやく胸の底から頭をもたげてきた。
宇津木は二枚のポラロイド写真を、持って帰ってきた鞄の中の手帳のページにはさんだ。部屋をもう一度見回した。ソファの上の、ポラロイドフィルムのパッケージや、印画紙の裏紙も、写真と同様に、人の眼に触れさせたくないものであることに、宇津木は気がついた。それを集めて丸めた。考えた末に、その紙屑も鞄の中に押し込んだ。
はずれて床にころがっている受話器から、ツーツーという音が洩れていた。電話の台は倒れ、電話機は裏返しになっていた。
宇津木は電話機を起し、指でフックを押して離し、受話器を耳にあて、番号ボタンを押した。耳に聴こえる自分の声が、宇津木には他人の声のように聴こえた。
宇津木は、乾いた血で色をかえている洋子の乳房に眼を投げたまま、送話口に声を送り、相手の質問に答えた。乳房は深く裂けたように割れていた。片方の乳首が失われていることに、宇津木はようやく気がついた。
電話はすぐに終った。宇津木はふたたび、洋子の死体のそばに行き、そこに坐った。冷めたくこわばった洋子の手を取って、両手の間にはさんだ。
宇津木は、それが強盗なんかの仕業でないことを、疑っていなかった。宇津木の家にはポラロイドカメラはない。カメラを持ちこんで人の家に押し入る強盗などいるわけがない。
押し入ってきたのは、少くとも二人以上だ、と宇津木は考えた。洋子は二人がかりで犯されている。写真がそれを示しているのだ。他に、カメラでそれを写した男もいたかもしれない。ポラロイドカメラにセルフシャッターがついているのかどうか、宇津木にはわからなかった。
ポラロイドカメラのことも、そのカメラで写されたもののことも、宇津木は警察に話すつもりはなかった。
裁《さば》きは自分の手でつける――宇津木は熱に浮かされたように、そう思いはじめていた。何が目的で、誰が洋子を犯し、殺したのか、宇津木にはわかっていた。それを疑う気はまったくなかった。
六章 切 断
1
午後八時半になろうとしていた。
宇津木は停めた車から降りた。武井繁行の住んでいるマンションの前だった。
車の助手席に、木刀を短く切り詰めたものが置かれていた。宇津木の家の物置に放りこんであった木刀だった。宇津木はそれを自分で短く切ったのだった。
木刀を腰のうしろのベルトにさして、ジャンパーの裾で隠して宇津木はマンションの玄関に向った。
武井のマンションの居間が、甲田たちのグループの溜り場になっていることは、密告電話をかけてきた娘の話でわかっていた。
マルチーズを抱いた初老の女と、宇津木はエレベーターに乗り合わせた。エレベーターの中で、マルチーズが宇津木に向って吠えた。初老の女が宇津木に謝って、犬を叱った。宇津木は笑って女に会釈《えしやく》を返し、マルチーズの頭を撫でた。マルチーズはすぐにおとなしくなった。
武井の部屋は五階だった。廊下を進みながら、宇津木はジャンパーのジッパーをはずし、前を開いた。
ドアの横にインターフォンがあった。宇津木はそれを鳴らした。返事はなかった。鳴らしつづけた。ドアのノブを回してみた。鍵がかかっていた。ドアに耳をつけてみた。ドアの向うは静まり返っていた。
宇津木は、エレベーターで一階におりた。武井の住んでいる部屋の窓の位置の見当はつけられた。道からその窓を見上げた。窓に明りの色は見えなかった。
宇津木は車に戻った。帰る気はなかった。待つつもりだった。たばこに火をつけた。ベルトから木刀を抜いて、助手席に戻した。
洋子が殺された日から、ちょうど十日が過ぎていた。
葬儀のときを除いて、宇津木は一歩も外に出ずに、家にこもって過ごした。洋子の死亡届は、学校の事務員が代りに提出してくれた。それは単なる手続きでしかなかった。宇津木の中では、まだ洋子の死は終っていなかった。
家にこもっていて、宇津木は何度も洋子の声を聴き、姿を見た。笑っている声。怒っている声。穏やかな話し声。庭で花をいじっている姿。勤めから帰ってきたところ。台所に立っている後姿。裸で宇津木の腕の中にいる姿――声も姿も、宇津木の耳には現実のもののようにひびき、眼に映った。
なによりも宇津木の眼に灼きついて離れないのは、乳房を切り裂かれ、手足を投げ出して床にころがっていた、洋子の最期の姿だった。
十日間、宇津木はただひとつのことを考えつづけた。考えは十日が過ぎても変らなかった。否定し、打ち消そうとすればするほど、逆にその考えは打たれる鋼《はがね》のように強く固いものになっていった。
洋子を殺した犯人の捜査は、進展を見せていなかった。解剖によって、洋子の死因が、トランキライザーと思える薬物のショックによるものであることと、彼女が性的な暴行を受けていたことが判明した。
現場には、洋子のものとは異なる血液型の血痕が残されていた。そのことから、捜査本部は、ショック死の起きる前に、洋子がなんらかの方法で刃物を使い、犯人に抵抗し、そのために乳房を切られたもの、という推定を立てていた。
捜査本部は、それまでの一連のいきさつから、洋子を殺害したのは、甲田健介、塩野道夫、武井繁行の三名であるとする見方を捨ててはいなかった。
同時に、その見方を疑問視して、強盗による偶発的犯行という考え方も、捜査本部は持っていた。
藤田圭子の婦女暴行事件は立件に至らずに終っている。したがって、甲田、塩野、武井の三名には、宇津木に対して、その妻を暴行するほどの強い怨みを抱く根拠はない。甲田と武井は、宇津木に対する傷害容疑で書類送検されている事実がある。だが、そのことによる怨みで、二人がさらにまた新しい事件を起すとは考えにくい。
一方、宇津木と甲田組との間にも、はげしい対立が進んでいる。宇津木がテレビで、はっきりそうとわかる表現で甲田組の存在を非難したことで、両者の対立はいっそう激化している。だが、そのことでは、甲田組は宇津木を名誉毀損と誣告罪で告訴したばかりである。告訴した片方で宇津木の妻を襲うというような愚かな行為に甲田組が出るとは思えない――それが強盗説の根拠だった。
二つの見方のいずれを取るとしても、犯行にトランキライザーが使われている点は、大きな謎として残る。犯人は明らかに、鋭利な刃物を持っていた。刃物が犯人自身の物であることは、宇津木の家の刃物類が凶器として使われた形跡がないことで明白だった。
被害者の抵抗を封じるには、持参の刃物だけで充分のはずである。凶器としても、トランキライザーなどよりは刃物のほうが扱いやすい。刃物で威嚇《いかく》した上に、トランキライザーをショック死を招くほど大量に飲ませる必要がどこにあったのだろうか――。
トランキライザー使用という手口の大きな謎を抱えたまま、捜査は怨恨と強盗という二つの見方で進められていた。盗まれていたのは、五万円余りの現金と、洋子のわずかな宝石類だけだった。
甲田たち三名は、アリバイを主張していた。事件当日は学校を休んで、甲田の家に集まり、朝から麻雀をつづけていた、と三人は話している。アリバイの証言者は、当人たちの他は甲田の両親と、甲田組の組員二名だけだった。
宇津木の家からは、犯人に結びつく有力な手がかりは、発見されていなかった。随所に指紋を拭き取ったと思える痕跡が見られた。犯行があったと思われる時間帯に、宇津木の家の周辺で不審な者を見たという情報も得られていない。
宇津木は、新聞とテレビのニュース、訪ねてくる刑事たちの話などで、捜査のようすを知った。彼はしかし、それには関心も興味も抱かなかった。
宇津木は、犯人が警察の手で逮捕されることを期待していなかった。ただ一度としてそれを望みもしなかった。裁きは自分の手でつける。それが終ったときが、自分にとっては洋子の死が死として終るときだ、と宇津木は思い決めていた。
レイプを受けた藤田圭子に、法的制裁を受けさせるべきだと、もっともらしく賢《さか》しらに説いた自分を、宇津木は嘲《あざけ》った。浅薄だったと思わないわけにはいかない。いったんわが身に憎悪の火種を抱えこんでしまえば、それが法律や秩序などの名目《めいもく》で消しさることのできるものでないことが、痛切にわかるのだった。
事件から十日が過ぎたその日、宇津木は学校に辞表を出した。
稽古の進められている、演劇部の芝居のことだけが、心残りだった。だが、それも洋子の死の前では色あせて思える。宇津木は、演劇部の部員たちに、辞職を伝えた。
そうしようと思えば、辞職後も稽古が進行中の芝居についての助言や相談相手の役はつとまった。だが、宇津木はそうするつもりはなかった。できなかった。正しい勇気と正義を訴える芝居の助言者として、宇津木はすでに失格していた。宇津木がいま信じているのは、正しい勇気でも正義でもなかった。宇津木は、洋子を犯して命を奪った者たちへの憎悪と私怨に胸をたぎらせているのだ。
停めた車の運転席で、宇津木は動かない影のようにうずくまったまま、たてつづけにたばこを吸った。
何人もの人たちが、目の前のマンションの玄関に入っていった。ほとんどが勤め帰りか、塾から帰ってきたと思われる子供たちだった。
外灯の明りの中に、武井繁行の姿が現われたのは、十一時半になろうとするときだった。武井は一人だった。たばこを吸いながら、肩をとがらせ、眼を足もとに落して歩いてきた。
マンションの玄関の明りが、はっきりと武井の顔を照らし出すのを待って、宇津木は車の外に出た。木刀をベルトにさすのを忘れなかった。
武井は、宇津木の車のドアの閉まる音でふり向いた。武井の足は玄関の入り口のタイルの踏み段にかかっていた。それが宇津木であることが、武井にはすぐにはわからなかったようだった。髭《ひげ》のせいだった。洋子の死以来、宇津木は一度も髭を剃っていなかった。頬の新しいナイフの傷が、髭の中に埋まっていた。
近づいてくるのが宇津木だとわかって、武井は顔をこわばらせた。武井の眼の奥に走った怯《おび》えの色を、宇津木は見逃さなかった。待ちつづけた甲斐があった、と思った。
「今晩は、武井君」
「なんだい? おれに用かよう」
「きみに見てもらいたいものがあるんだ」
「見てもらいたいもの?」
「車の中なんだよ。ちょっと来てくれ」
「見たかねえよ。なんだか知らねえけど」
武井は吐き捨てるように言って、建物の中に入ろうとした。宇津木は肩をつかんでふりむかせ、襟もとをつかんで引き寄せた。
「ポラロイド写真だよ。見てもらいたいっていうのは」
宇津木は言った。表情も口調も穏やかなままだった。
「ポラロイド写真? なんだい、そりゃ」
「見ればわかるよ。来てくれるね?」
宇津木は武井の眼をのぞきこんだ。はげしい動揺と、それを押し隠そうとする気持とで、武井の眼は落着きを失っていた。
「来ないと言うんだったら、引きずって連れていくよ。どうする?」
「わかったよ」
武井は横に唾を飛ばしてから、歩き出した。宇津木は武井を車の助手席に乗せた。宇津木は運転席に乗った。
宇津木は運転席のドアを閉め、武井のほうに体を向けるなり、左の手刀を喉に当て、右の手刀を斜めに打ちおろして首に当てた。
武井は低く呻いて躯を前に崩し、ダッシュボードに肩を打ちつけた。宇津木は武井の頭を押えておいて、リアシートに手を伸ばした。短く切った針金がそこに置いてあった。宇津木は武井の両手を背中に回し、手首を針金で縛りあげた。武井は意識がにごっているようすだった。首の一撃が効いたのだ。
宇津木は車を出した。
「どこに連れてこうってんだ!」
武井がかすれ声で言った。
「わるかったな。殴って。おまえには、甲田にナイフで頬を切られたときの借りがあるからな。いまのはそのときの借りの分だと思ってくれ」
「どこに連れていくんだって訊いてんだよ」
「行けばわかる」
宇津木は言って、たばこをくわえた。
2
宇津木の車のライトが、カーポートの洋子の赤いカローラを照らし出した。カローラは薄く埃をかぶって、ボディも窓のガラスも光沢《こうたく》を失っていた。
宇津木はカローラの隣に車を入れた。
「ここはどこだい?」
宇津木は暗い車の中で、武井に言った。
「知るわけねえだろう、こんなとこ」
怯えを押し隠したような声がもどってきた。宇津木は車を降りた。外から助手席のドアを開けて、武井の腕をつかんで無言で引いた。武井は後ろ手に縛られたまま、不自由そうに躯を動かして外に出てきた。
宇津木はつかんだ武井の腕を放さずに、門を入り、玄関を開けた。武井が腕を引かれてあとじさろうとした。小さくはずんだ武井の呼吸の音を、宇津木は聴いた。武井を玄関の中に押して入れ、ドアを閉め、ロックした。ドアチェーンもかけた。
「上がれ」
宇津木は言った。武井の顔の怯えの色は、今はもう隠しようのないものになっていた。脂《あぶら》の浮いた浅黒い顔が、血の気が引いて灰色に見えた。靴を脱ごうともしなかった。宇津木は背中の木刀を抜いた。それを見て、武井はようやく踵《かかと》を踏みつけるようにして、スニーカーを脱いだ。宇津木は武井の手を縛った針金を解き、奥に向って顎をしゃくった。
武井は数歩進んで、すぐに竦《すく》んだように足を停めた。
「居間に入るのが怖いのか、武井」
宇津木はうしろから声を投げた。武井は歩きはじめた。
居間のドアは開け放ってあった。雨戸は閉まっていて、明りがつけたままにしてあった。宇津木は武井の肩を押して居間に入らせた。そこでも武井は足を停めた。肩を押した宇津木の手に、武井の体重がかかった。
「床にクッションが三つ、斜めに並べて置いてあるだろう。あの横に坐ってくれ」
宇津木は言って、武井の肩を突いた。武井は数歩だけ足をはこぶと、その場に坐りこんだ。顔は押しつけるようにして、膝につけられていた。宇津木は武井のジャケットの襟首をつかんだ。そのまま、クッションの置いてある場所まで、武井を引きずっていった。
「顔を起せよ、武井。眼を開けろ。おまえに見せたいものが、そのクッションの下にある。見てみろ」
武井は顔を上げて、宇津木を見た。眼はひきつっていた。
「おれに何が言いたいんだ? いったい」
弱々しい声が武井の口から洩れた。
「おれがそんなに怖いのか、武井。いつもの元気はどこに行ったんだ。それともこの部屋が怖いのか?」
「部屋? 部屋がどうしたってんだ?」
「十日前にはここは死体のころがってる部屋だったからな」
「だからどうだってんだよう」
「死体はおまえの膝の前のクッションのところにころがってたんだよ。そこに並んでるクッションと同じ向きで斜めにな。おまえの膝の前あたりに、ちょうど頭があった」
「おれになんでそんな話をするんだよ」
「おまえにだけ話をしたいわけじゃない。甲田と塩野にも話して聞かせたかったんだ。だからおまえの家に行ったんだよ。おまえら三人はよく、おまえの家に集まって遊んでるって話だから、行けば顔がそろってるかと思ったんだよ」
「だったら三人そろってるときに話せばいいだろう」
「三人で聞けば怖くないからか?」
「誰だって人殺しのあった部屋は気色がわるいじゃねえか」
「もっと気色のわるいものがあるよ」
宇津木は並べたクッションの一つを手で横にどかした。カーペットについた血のしみのひろがりが、クッションの下から現われた。武井はすぐにそこから大きく眼を逸らした。武井の顔は真横を向いていた。宇津木は武井の頭を両手ではさみつけ、顔を血痕《けつこん》に向けさせた。武井が喘ぐような息をしながらもがいて逃げようとした。宇津木は武井の髪をつかんで、顔を床の血痕に押しつけた。
「おれの女房の血の痕《あと》だよ。わかるだろう。切り裂かれた乳房と、切り落とされた乳首から出た血の痕だ。まだ十日しかたっていない。嗅いでみろ、武井。血の匂いが残ってるだろう」
「止めてくれ!」
「血の匂いは嫌いか?」
「嫌いだよ」
「自分の血の匂いはどうだ?」
「わかるかよ、そんなこと」
「試してみるか?」
「試す?」
「おまえの乳首かちんぽこ切り落すんだよ」
「冗談じゃねえ!」
「武井。おれは本気だぞ。おまえをおまえの血の中で泳がせてやるつもりだ」
「なんでだよ!」
「おれの女房の血の匂いが嫌いだって言ったからだよ」
「嫌いなものは嫌いだから言ったんじゃねえか」
「好きだから女房の乳房を切り裂いたり、乳首を切り落したりしたんだろうが」
「そりゃおれじゃねえ!」
「誰だ?」
「知らねえ! 知るわけねえだろう」
「知らねえで通ると思ってんのか、武井」
宇津木は武井の頭を放した。武井が顔を上げて喘いだ。宇津木は胸のポケットから出したポラロイド写真を、武井の前に突きつけた。武井の顔がひしゃげたようにひきつった。何か言いかけて開いた武井の口が、ことばを呑みこんだまま歪んだ。頬が痙攣《けいれん》を始めていた。
「よく見ろ、武井。床にあぐらをかいて坐ってる男が写ってるだろう。もちろん顔は写っちゃいないから、誰だかわからない。だがな、そいつの脇腹を見ろ。黒い痣《あざ》が出来てるだろう。まだらな大きな痣だ。蹴られて出来た痣だ。おまえと甲田の脇腹にも、これと同じ痣があるよな。おれに学校の倉庫でやられたときの痣だ」
「おれじゃねえ! 疑ってんなら、おれの腹の痣と、こいつの痣を見くらべてみろ」
「おまえじゃなきゃ甲田だ」
「知らねえよ、おれは、そんなこと」
「写真に写ってるのが甲田なら、この写真を写したのはおまえか塩野か、それとも甲田組の誰かだってことになるな」
「何の証拠があって、そんなこと言うんだよ。出してみろよ、証拠を」
「この写真持って警察に行くか、武井。ポラロイド写真はもう一枚ある。二枚の写真にはおまえらの指紋が残ってる。警察で調べりゃすぐわかる。それが証拠だ」
「くそ!」
武井は唸り声をあげて、自分の膝を両の拳で殴りつけた。
「話せ、武井。殺しやしない。わかってるんだよ、おれには。おまえらが考えついて女房を殺したんじゃないってことぐらいは。おまえらには、おれの女房を殺す理由はないはずだからな。だが、甲田組にはそれがある。そうだろう」
「殺すつもりはなかったんだよう!」
武井は呻くように声を出し、両腕で抱えこんだ頭を、あぐらの膝の中に押しこんだ。呻きながら、武井は泣きはじめた。宇津木は深々と吸った息を吐いた。たばこに火をつけた。
武井ははげしく躯を震わせて泣きつづけていた。太い項《うなじ》がジャケットの襟から出ていた。宇津木はそこに眼を据えた。
(そいつを殺して! そいつがあたしを殺した奴らの一人なの!)
洋子の叫ぶ声を、宇津木は現実の声のように、耳に聴いていた。何度も深い息を吐いた。そうしなければ、自分の両手が武井の首に伸びていきそうな気がしてならなかったのだ。息を詰めると、ふくらみきった怒りで躯が震えだしそうだった。
宇津木はたてつづけに、たばこを吸いつづけた。沈黙は長かった。武井の嗚咽《おえつ》が、少しずつ途切れはじめた。
「話せ、武井。何もかもだ」
宇津木は言った。声が低くかすれた。武井はすぐには口を開かなかった。弱まりかけていた嗚咽が、いっときぶり返した。宇津木は新しいたばこに火をつけて待った。
武井が顔を起して宇津木を見た。武井の怯えきった表情は、それまで以上のものになっていた。宇津木は無言で武井を見すえた。武井は礫《つぶて》でもよけるかのように、急いでまた顔を伏せた。
「甲田の親父さんに、けじめをつけろ、自分でまいた種は自分で刈り取れって言われたんだ」
「それで女房を狙ったのか?」
「甲田の親父さんは、宇津木は癌だって言ってるんだよ」
「おれが癌?」
「放っとけば宇津木は甲田組追放の台風の眼になって、市民運動を起すって。それの最初が、藤田圭子の事件で、つぎがテレビでの先生のインタビューで、今度は学校の演劇部の文化祭の芝居だって」
「おれは暴力団にとって癌だというのか」
「甲田の親父さんは、教育委員会にも圧力かけて、先生を首にさせるか、どこかに転勤させようとしたらしいんだよ。それがうまくいかないんで、奥さんを使って先生をおとなしくさせるしかないって……」
「甲田組の組長が言ったんだな?」
「奥さんを姦《や》って、写真とビデオ撮って、それをネタに先生を脅して黙らせろって」
「それも甲田組の組長が考えたことなんだな?」
「そうなんだ。で、宇津木がうるさく吠《ほ》えるようになった種をまいたのはおまえらだから、やれって言われたんだ。断われないよ、おっかなくて」
「ビデオも撮ったのか?」
「撮った。塩野が。おれはポラロイド」
「やったのはおまえら三人だけなのか?」
「手塚さんが仕切ったんだ。全部……」
「甲田組の若頭補佐とかって男だな?」
「おれたち三人だけだと、ドジったりするかもしれねえから、手塚をつけて仕切らせるって、甲田の親父さんが言ったんだ。手塚さんにつかれたら、言われたとおりにやるしかなかったんだよ」
「張り切ってやったんだろうが、おまえたちだって……」
「そんなことはねえよ。怖かったよ、おれは。奥さんが死んじまったとわかったときは、おれは小便ちびりそうだった。手塚さんも殺す気なんかなかったんだ」
「トランキライザーはなんのために飲ませたんだ?」
「薬でラリさせちまえば、頭がぼうっとなって、あばれたり大声出したりしないからやりやすいし、撮った写真もビデオも、無理矢理やらされてるんじゃなくて、奥さんがその気になってやってるように撮れるからって、手塚さんは言ってた」
「手塚が考えついたことなのか、それは?」
「そうだと思う」
「乳房を切られたのは?」
「あれやったのは塩野なんだよ。甲田が床に放り出してたナイフを、奥さんがいつのまにか手に持ってて、甲田の肩を刺したんだ。そのとき、塩野が横でビデオ回してたんだけど、奥さんは塩野の臑にも切りつけて、それで塩野の奴が頭に血がのぼってやっちまったんだよ。止める間なんかなかったんだ。あっというまだった。奥さんが死んだのはそのすぐあとだったんだ」
「死んだんじゃない。おまえらが殺したんだ」
宇津木の声が怒りで震え、かすれた。
「謝っても仕方がないけど、おれ、謝るよ。すまないことした……」
武井は正座にかわって、頭をさげた。
「償《つぐな》いはさせる」
「おれ、警察に自首するよ。一緒に行ってくれ、先生」
「それはあとだ。自首は一人で行け。手塚はどこに住んでるんだ?」
「住吉町。市立病院の裏側のグリーンパークマンションだよ。何号室か覚えてないけど、六階だった、たしか……」
「家族がいるのか? 手塚は」
「バーをやってる奥さんと二人だけだ」
「甲田の家はどこにある?」
「昭和町だよ。昭和町の自動車教習所の少し先。でかい家だからすぐにわかる。行くのか? 手塚さんと甲田の家に」
武井はおどろいた顔になっていた。それから彼は、竦んだように上体をうしろに引いた。
「殺す気か、おれを……」
武井は言った。声がひきつっていた。宇津木は立ちあがった。
「武井、床にうつ伏せになれ。おまえらのような屑《くず》は殺しやしない」
宇津木は言った。武井は宇津木に眼を向けたまま、そろそろと躯を伸ばして床に這った。宇津木は用意していた針金を、居間の出窓の下の戸棚から出した。
武井の手足を針金で縛り、眼と口を粘着テープで塞ぎ、居間にころがしておいて、宇津木は隣の寝室に行った。
ベッドの横のテーブルの上に、ウイスキーのボトルが置いてあった。宇津木はボトルからの口飲みでウイスキーをひとくち呷《あお》り、脱ぎ捨ててあったパジャマに着替えた。
ベッドに入ると、またウイスキーを呷った。寝酒の量が日ましに増えていた。前の晩に口を開けたボトルの中身は、半分以下に減っていた。
隣の居間で、武井がテープで塞がれた口で低く呻いた。
3
翌日の午後六時に、宇津木は家を出た。
武井は針金で手足を縛り、眼も口もテープで塞いだまま、居間にころがしてあった。
住吉町のグリーンパークマンションに着いたのは、六時半近くだった。
宇津木はマンションの裏側の道に車を停めた。リアシートの上に、切り詰めた木刀と数本の針金が置いてあった。
宇津木は運転席で、針金をジャンパーの下の腰に巻きつけた。木刀は背中にさした。ランニングシューズをはいていた。
車の中でたばこを一本吸った。たばこの味はしなかった。外はうっすらと宵闇《よいやみ》がひろがりはじめていた。
宇津木は車を降りた。歩いてグリーンパークマンションの前まで行った。マンションの駐車場のある場所は、武井から聞き出してあった。手塚の妻が、毎日六時近くには、自分の車で店に出かけていくことや、手塚がシルバーのベンツを自分で運転していることなども、武井は話した。
駐車場は、マンションの建物の裏にあった。部屋別に専用の駐車枠が決まっていて、そこに部屋の番号と使用者の名前が掲示してあった。
駐車場には、車はまばらにしか停まっていなかった。シルバーのベンツはすぐに眼についた。片屋根の駐車場の中ほどにそれは停まっていた。正面のブロック塀に木のネームプレートが出ていた。
〈六〇二号室 手塚〉
宇津木はネームプレートに眼をやり、ベンツのボンネットに手を当ててみた。ボンネットにはエンジンの熱がまだはっきり残っていた。
隣の駐車枠のネームプレートにも、手塚という名前があった。部屋番号も六〇二号室となっていた。そこは手塚の妻が使っているのだろう、と宇津木は考えた。そっちのほうには車は停まっていなかった。
宇津木はいったん車に戻った。近くに公衆電話が見当らないのはわかっていた。そこに来るときに気をつけていたのだ。
宇津木はすぐ近くの市立病院に車を向けた。
病院の玄関の脇に車を停めて、宇津木は病院の中に入った。ロビーの隅に公衆電話のブースが並んでいた。
手塚の家の電話番号は、電話帳ですでに調べてあった。宇津木はメモをポケットから取り出して、番号ボタンを押した。男の声が出た。手塚かどうかわからなかった。
「手塚さん?」
「手塚だ。あんたは?」
「垣原南署の沖田って者です」
「南署? 警察かい?」
「そうです。訊きたいことがあるんでね。近くに来てるんだが、これからちょっと邪魔させてもらうよ」
「なんだい? 訊きたいことってのは」
「たいしたことじゃないんだ。会ってから話しますよ」
宇津木は返事を待たずに電話を切った。
車はグリーンパークマンションの裏の、元の場所に停めた。
エレベーターの中で宇津木は、手塚が一人で部屋にいることを祈った。手塚の妻が留守であることはわかっている。だが、他の誰かが一緒にいる可能性がないとは言えなかった。それを確かめる術《すべ》を、宇津木は思いつかなかった。誰かが居合わせた場合は、その人間に迷惑を我慢してもらうつもりだった。
障害は宇津木には大きな問題ではなかった。目的を遂げることだけしか、宇津木は考えられなくなっていた。
宇津木は六〇二号室の前で足を停め、眼を閉じて深く息を吸った。インターフォンを鳴らした。応答があった。電話の声と同じだ、と宇津木は思った。南署の沖田と名乗った。躯はドアの横の壁につけた。ドアレンズの視野に、自分の顔をさらすわけにはいかなかった。
無造作にドアが開いた。手塚の顔を見たとたんに、宇津木は中に躍りこんだ。宇津木の両手は手塚の首にかかっていた。手塚の躯は横の下駄箱に押しつけられ、上体が反《そ》っていた。
宇津木は手塚の首を絞め、膝で股間を三発蹴った。手塚の躯が重くなった。喉が苦しげに音を立てた。宇津木はさらに手塚の臑を蹴った。手塚の眼から光が失《う》せはじめていた。宇津木は首にかけた手の力をゆるめた。手塚は下駄箱の前に崩れ落ちた。
わずかの間の出来事だった。宇津木はドアを閉めた。手塚は喉を苦しげに鳴らしながら、躯を丸くして、玄関のタイルの床に坐りこんでいた。手塚がブリーフ一枚の姿であることや、彼の髪の毛が濡れたままだということに、ようやく宇津木は気がついた。
宇津木は玄関を見回した。履き物はよく磨かれた男物の茶色の靴と、普段ばきらしい女物のピンクの飾りのついたビニールのサンダルが出ているだけだった。奥からはテレビの音しか聴こえてこない。
「立って奥に行け」
宇津木は言った。手塚が顔を上げた。手塚の眼に光が戻っていた。その眼がようやく闖入者《ちんにゆうしや》の正体を認めたようすだった。
「宇津木……」
手塚が唸るような声を出した。
「立て」
宇津木は小さくて鋭い蹴りを、手塚の裸の脇腹に入れた。手塚は呻き、床に手を突いて腰をあげた。立ちあがった手塚は、下駄箱のほうに向きなおり、そこに肘を突いて息を入れた。
下駄箱の上の端に、靴の紙箱がおいてあった。蓋はかぶっていなくて、靴磨きに使われているらしい古い汚れたタオルがひろげてかぶせてあった。
苦しげに背中を丸めて喘いでいる手塚の右手が、その靴の箱に伸びていった。宇津木はそれを見ていた。疑問は抱かなかった。躯を支えようとして、手塚の手が下駄箱の上ですべっているのだろう、と宇津木は思っていた。実際にそう見えた。
手塚の右手が、靴箱の上のタオルをつかむのと、彼の足がうしろに飛んで、宇津木の膝を蹴るのと同時だった。
不意打ちをくって、宇津木はうしろの壁まで飛ばされた。手塚が下駄箱の前で振り向いた。手塚の手からタオルが飛び、右腕が突き出された。その手に青光りする拳銃がにぎられていた。銃口の向うに、歪んだ笑いを口もとに刻んだ手塚の顔があった。
宇津木は何も考えていなかった。木刀のことも忘れていた。咄嗟《とつさ》に躯がひとりでに動いた。腰を沈め、肘を曲げた右腕を前に突き出して、肩から手塚に突っ込んでいった。
頭の上で宇津木は銃声を聴いた。宇津木の右腕が、拳銃を持った手塚の腕を大きく払い上げていた。左手は手塚の睾丸をブリーフの上からわしづかみにしていた。胸がぴったりと重なった。宇津木は右肘で手塚の右腕を脇に抱えこむことができた。
手塚が呻いた。宇津木は睾丸をにぎりつぶさんばかりに、手に力をこめた。右腕で手塚の腕を巻き込んだ。そのまま逆手《さかて》に絞りあげた。
重い物が床のタイルに落ちる音がした。宇津木は眼をやった。宇津木の踵のうしろに拳銃が落ちていた。宇津木はそれを足でドアの前に蹴りやった。拳銃が血の痕《あと》を曳《ひ》いてタイルの上をすべった。誰の血なのか、宇津木にはわからなかった。
宇津木は躯で巻き込んだ手塚の腕を放した。睾丸は放さなかった。宇津木の右の拳がまっすぐに手塚の心臓を突いた。七発目で手塚は顔に脂汗を浮かべたまま、尻から沈みこんで行った。宇津木はようやく手塚の股間から手を放した。支えを失った手塚の腰が、床に崩れ落ちた。宇津木は手塚の顎を蹴り上げた。手塚は下駄箱に後頭部を打ちつけ、そのまま横に倒れた。上《あが》り框《がまち》に手塚の頭が乗っていた。宇津木はその頭をさらに蹴った。
拳銃を拾って、ベルトにはさんだ。右の肩が濡れているのに宇津木は気づいた。手をやった。手に血がついていた。ジャンパーの腕が血に染まって光っていた。痛みは感じなかった。ジャンパーの上から傷を手でそっと探った。腕の付根の外側のあたりに、押すと痛みがあった。ジャンパーの袖に小さな裂け目ができていた。
宇津木は腕を回してみた。支障はなかった。銃弾がかすめただけの傷のようだった。
宇津木は背中の木刀を抜いた。木刀が手塚の腕を殴りつけた。
「奥に行け」
宇津木は言った。手塚は這って奥に向った。テレビから賑やかな笑い声が聴こえた。廊下の突き当りに、居間らしい広い部屋があった。手塚はその部屋まで行くと、そのまま絨毯《じゆうたん》の上に突っ伏した。
宇津木はポケットから、ポラロイド写真を出して、手塚の顔の前に突きつけた。
「武井が全部しゃべったぞ、手塚」
「そうかい」
「言うことはそれだけか?」
「何が聞きてえんだ? てめえのかあちゃんのおまんこの具合か?」
「どういう殺され方が望みだ?」
「殺そうってのか、おれを?」
「そのつもりで来た」
「殺《や》れるのか? ほんとに」
「ほんとかどうかわかったときは、おまえはもう生きちゃいないさ」
「そこまでの根性があんのかよ」
「首の骨折ってやろうか。それともゆっくり蹴り殺してやろうか。躯じゅうの骨が全部バラバラに折れる頃には、おまえはただの糞袋になってるな」
「くそ!」
「くそはおまえだ。玄関に拳銃まで隠して、長生きするように用心してたのも、なんの役にも立たなかったな」
宇津木は笑った。ポラロイド写真はポケットに戻した。
「殺す気はなかったんだぜ。ちょっとの間おとなしくしててもらいたかっただけだったんだぜ」
手塚の声が弱くなった。宇津木は立ちあがった。ランニングシューズの先の底が、手塚の脇腹に蹴り込まれた。短い間を置いて、宇津木は同じ場所を蹴りつづけた。手塚の脇腹は見る間に赤くまだら模様をひろげていった。
「他の写真と、塩野が写したビデオはどこにあるんだ?」
蹴るのを止めて、宇津木が言った。手塚は呻き声を洩らすだけだった。宇津木は手塚の右の手首を膝で踏みつけた。木刀が手塚の手の甲に打ちおろされた。手塚が声を洩らした。手の指が床の上で反って伸びた。木刀がその指を襲った。皮膚が裂けて、その下に白い骨がのぞいた。親指をのぞいた四本の指の骨が砕けて血まみれになるまで、いくらもかからなかった。
宇津木は手塚の左側に移った。左の手首を膝の下に敷いた。
「ポラロイド写真は、そこのサイドボードの抽出《ひきだ》しの中だ。ビデオは組長が持ってるよ」
手塚は喘ぎながら、途切れ途切れにことばを吐いた。
宇津木はソファの横のサイドボードの抽出しを開けた。ドスが入っていた。ドスの下にむきだしのままの写真が、重ねてあった。宇津木は写真をポケットに収めた。木刀をサイドボードの上に置いた。ドスを手に取って抜いた。
「パンツを脱げ、手塚」
「パンツ?」
「おまえのちんぽこと睾丸《タマ》を切り落す。運がよけりゃ助かるだろうが、ついてなきゃおまえは血の池の中で死ぬ」
「本気か!」
「男にパンツ脱げなんて冗談言うやつがいると思うのか」
「止めてくれ!」
手塚の声がひきつった。宇津木は手塚の腰を膝で踏みつけた。ドスを横に置いて、腰に巻いた針金を二本抜き取った。針金で手塚の両手がうしろに回されて縛られた。宇津木は手塚の両足も針金で縛った。
ソファの上に、スーツやシャツが脱ぎ捨てられていた。宇津木はランニングシャツを丸めて、ドスで手塚の口に押し込んだ。さらにその上にネクタイで猿轡《さるぐつわ》を咬ませた。
手塚の躯が裏返しにされて、仰向けになった。ドスでブリーフが切り裂かれた。ちぢみあがったペニスと陰毛の下の袋がむき出しにされた。
ドスが一閃《いつせん》した。小さく血がしぶいた。切り裂かれて尻の下にまとわりついたようになっているブリーフが、見るまに赤く染まっていった。宇津木はドスで手塚の股間を抉《えぐ》った。
切り取られたものが、ドスの先ですくいとられて、手塚の腹の上に置かれた。手塚は喉の奥にこもった呻き声をあげながら、全身を痙攣《けいれん》させていた。
宇津木は台所に行った。流しで手についた血を洗い流した。ジャンパーとシャツを脱いで、腕の銃創をしらべた。肉が小さく抉れていた。出血はすでに止まりかけていた。痛みが始まっていた。
居間に戻り、ソファの上の手塚のワイシャツを裂き、歯と左手を使って傷口を縛った。シャツとジャンパーを着た。木刀を背中にさした。ドスは置いていくことにした。拳銃はベルトにはさんだままだった。
「ゆっくり死ね、手塚。体の中の血がなくなって、絨毯の色が全部変っちまう前に、誰かが訪ねてきてくれればいいけどな」
言い捨てて、宇津木は玄関に向った。
4
甲田の家に着いたのは、八時過ぎだった。
車を停めたときは、宇津木はもう腕の傷の痛みを感じなくなっていた。
屋根のかぶった大きな構えの門の前に、白いベンツが停まっていた。エンジンがアイドリングの音を立てていて、スモールランプがついていた。運転席に人の姿があった。ルームランプが、坊主頭と太い首を照らしていた。運転席の男は、ルームランプの光で何かを読んでいた。車に乗っているのはその男だけだった。
宇津木は車を降りた。板の門扉の片方だけが開いていた。坊主頭の男に気づかれずに門を入るのは難しそうだった。
宇津木はベンツの運転席に近づいた。足音はしなかった。坊主頭はマンガ週刊誌を読んでいた。顔に見覚えがあった。甲田や弁護士の熊谷と一緒に、学校の校長室に押しかけてきた男だった。
男は宇津木に気がついていなかった。宇津木はベンツのドアを開けた。男がおどろいたようすで顔を上げた。その顔にもう一度大きなおどろきの表情がひろがった。
「宇津木か、てめえ?」
男が念を押すように言った。
「甲田はいるのか? 親父のほうだ」
「何しにきやがった」
男は大きな躯をちぢめて、車から出ようとした。男の前かがみになった上体が車の外に出るのを狙って、宇津木は鋭い蹴りを飛ばした。顎《あご》に入った。跳ねあがった坊主頭が車のトップの縁に当った。
宇津木は男の頭を手で押え込み、膝蹴りの連発を顔面に送った。重い男の躯が、その重みで車の外にころがり出てきて、道にころがった。男は起きあがろうとして、開いているドアの角に頭を打ちつけた。そこが切れて血が流れ出た。
宇津木は男の首とこめかみに、交互に蹴りを入れた。体重のひらきから考えて、立たれたらてこずる相手にちがいなかった。宇津木は必死だった。
男は呻いて動かなくなった。宇津木は気を許さなかった。腰に巻いた針金を引き抜き、男の両手を背中に回して縛りあげた。男は気を失っていた。宇津木は男を抱え起し、運転席に押し込んだ。さらに男の首に針金を巻きつけ、その端をステアリングホイールに繋《つな》いだ。ルームランプを消してドアを閉めると、ようやく坊主頭がぼんやり眼を開けた。宇津木は開いている門をくぐった。
正面の枝をひろげた木の先に、明りが見えた。そこが玄関のようだった。右手に庭がつづいていた。庭園灯がともされていた。庭のどこかで犬が吠えた。吠える声で大型犬だとわかった。
玄関の前に明りがついていた。ドアは閉まっていた。鍵はかかっていなかった。宇津木はドアを開けた。そこに甲田茂久がいた。
甲田は和服の着流しで、玄関の上り框から片足をおろしたところだった。踏石《ふみいし》の上に雪駄《せつた》が出ていた。
甲田は入ってきた宇津木を見て、一瞬、きょとんとした眼を見せた。それから眉が吊りあがり、踏石の上の足を框に戻した。雪駄の片方が小さくはねあがり、裏返しになって鉄平石《てつぺいせき》のたたきの上に落ちた。
「宇津木先生か? あんた」
「先生はきのうで辞めた」
「辞めた?」
「教師が人を殺したとあっては具合がわるいからな」
「人を殺した? 誰をだい」
「手塚だ。二人目がおまえだ、甲田」
「気が狂ったのかい? 先生」
「たぶんな」
「わけもなしに殺されるわけにもいかねえな、おれも」
甲田は笑った。眼はすわったままだった。
「呆けてもらっちゃ困る。武井がみんなしゃべってるんだ。自分でまいた種は自分で刈り取れ。おまえは息子の健介と武井と塩野にそう言って、おれの女房を襲わせた。殺させた。今度はおまえが種を刈り取らなきゃならない」
「待ちな、先生。そりゃとんでもねえ話だぞ。おれがあんたの奥さんを襲わせただと? 殺させただと? 証拠があんのかい?」
甲田は少しずつ右に移動していた。甲田の右手に半開きになったドアがあった。応接室らしい部屋の出入口だった。開いたドアの向うに、ソファや飾り戸棚が見えた。
「証拠はある。写真だ。手塚から受取ってきた。ポラロイド写真だ。ビデオテープはおまえが持ってるそうだな」
「知らねえな。何のビデオだ?」
「ビデオはおまえの家のどこかから出てくるだろう。警察が探し出してくれるはずだ。ポラロイド写真におまえの指紋がついてないはずはないしな」
「知らねえ! おれに因縁つけにくるとは、さすがにいい根性してるね、先生」
言い終らないうちに、甲田が半開きのドアの中にとびこんだ。宇津木は土足で式台にとびあがって追った。木刀を抜いていた。
ドアが風を煽《あお》って宇津木の鼻先ではげしく閉められようとした。宇津木は木刀の先をドアの残った隙間に突っ込んだ。ドアが止まった。
「健! 犬を放せ! 表《おもて》の肥沼を呼べ」
ドアの向うで甲田が叫んだ。ドアは中から押えられていた。廊下に足音がひびいた。奥から甲田健介がとび出してきた。うしろに母親らしい女がつづいていた。
「先公!」
健介が叫んだ。宇津木は健介を見すえたまま、肩でドアを押した。中の甲田と力くらべになった。健介が玄関からとび出して行った。母親は奥に駈け込んでいった。
ドアが開きはじめていた。宇津木が押し勝った。甲田の足袋の足と、宇津木のランニングシューズの足とでは、踏ん張りの効き方がちがった。それが物を言った。
不意にドアが開いた。肩すかしをくって、宇津木は前のめりになって、部屋に足を踏み入れた。
甲田は奥の壁の前に立っていた。そこにガラスの扉のついたガンロッカーがあった。甲田は手に灰皿を持っていた。灰皿がガンロッカーの扉のガラスを叩き割った。中に銃が何挺か並んでいた。甲田の手が銃に伸びた。
宇津木はためらわなかった。木刀を捨てて、ベルトの拳銃を抜いた。本物のピストルを構えることなど、生れてはじめてだった。
「手塚のピストルで撃たれる気分はどうだい?」
宇津木は言った。犬の吠える声がはげしくなっていた。甲田の動きがぴたりと静止した。だが、ガンロッカーの中の銃に伸ばした手はそのままだった。
「銃から手を放せ。そこから離れて床に伏せろ、甲田」
宇津木は拳銃を向けたまま、甲田に近づいた。甲田の唇が歪み、頬に痙攣が走った。ガンロッカーの中から手が抜き出された。しかし甲田は動こうとしなかった。
「本気で殺《や》る気かい、先生」
「先生じゃない。ただの復讐《ふくしゆう》の鬼だ」
宇津木は甲田の前に立った。口の中が乾いていた。頬をすぼめて唾を溜め、甲田の顔に飛ばした。両手で持った拳銃の銃床で、甲田の顎を横に払った。甲田はガンロッカーの扉に頭を突っ込み、腰を落しかけた。ガンロッカーの扉のガラスが、甲田の頭と頬を裂いていた。
宇津木は足をとばして、甲田を蹴倒した。甲田は這って蹴りから逃げた。宇津木は蹴りながら追った。こめかみと脇腹を狙って蹴った。
健介の声がした。犬の吠える声が、部屋の窓の外で聴こえた。
健介が応接室にとびこんできた。土佐犬の引き綱を短くして持っていた。
「健、鬼丸を放せ。肥沼を呼んでこい!」
甲田が叫んだ。犬が低い唸り声をあげた。宇津木は拳銃を犬に向けた。引き綱を放そうとしていた健介が、拳銃を見て眼をむいた。
オートマティックの拳銃だった。宇津木は引鉄《ひきがね》を引くことしか知らなかった。他の装置や操作については、全くの無知だった。
「ボヤボヤすんじゃねえ! 健」
甲田が怒鳴った。
健介が引き綱を放したのか、犬が勇み立って放れたのかわからなかった。白とグレイのまだらの大きな土佐犬の躯が、ソファを跳び越えて、礫のように一直線に宇津木に向って跳んできた。
宇津木は引鉄を引いた。銃声がひびいた。犬の躯が宇津木にぶつかった。宇津木はうしろの壁までとばされた。
犬は前肢を折って床に突き、立とうとしていた。宇津木は夢中で二発目を撃った。犬は妙な声をあげて、横倒しになった。肩口に小さな血の穴ができていた。血の穴は前肢の付根のところにも出来ていた。
土佐犬は立てないようすだった。四肢が痙攣していた。宇津木は息をついた。
健介の姿は消えていた。甲田は恐怖にひきつった顔で土佐犬を見ていた。床に手を突いて、上体を起したままだった。宇津木は走って行って、応接室の入口のドアを閉めた。内側に鍵がついていた。鍵をかけた。
ふり向くと甲田が着物の前をはだけたまま立ちあがって、ガンロッカーに向って足をはこんでいた。足どりはよろめいていた。宇津木は物も言わずに拳銃の引鉄を引いた。狙いはつけなかった。脅しのつもりだった。弾丸は甲田のうしろの壁に突き刺さった。甲田は足を停めた。
宇津木は寄っていって、高い蹴りを甲田の側頭部に入れた。甲田は横倒しに倒れた。土佐犬の上だった。宇津木は甲田の頭を蹴った。甲田の頭が撥ね、躯が土佐犬の上から床にすべり落ちた。
「手塚はちんぽこと睾丸《タマ》を切り落した。いまごろ血の海の中で死んでるだろうよ。おまえは蹴り殺してやる。あっさりとは死なせないからな。ゆっくり苦しめ」
宇津木は低く唸るような声で言った。体重をのせた鋭い蹴りが、甲田の頭と脇腹に交互に飛びつづけた。
ドアがはげしく外から叩かれた。
「親父さん、おれです!」
肥沼の声だった。
「くそ! 開けろ!」
健介の声だった。
「ドアを叩き破れ! 窓からこい!」
甲田が叫んだ。だが、声はかすれて苦しげだった。宇津木は蹴りつづけた。土佐犬はもう動かなくなっていた。
ドアに体当りする音がつづいた。庭に面した窓が割れた。そこに健介の顔がのぞいた。健介の顔は青ざめて歪んでいた。宇津木は健介を見据えながら、また蹴った。健介の顔がひっこんだ。
ドアがはげしい音を立てた。中央に割れ目ができていた。ふたたび音がした。割れ目のところにめりこんできたものがあった。薪割りの斧《おの》だった。
いくらもたたないうちに、ドアの板がとび散って穴があいた。斧を持った肥沼の姿が見えた。横に健介がいた。健介がドアの破れたところに手を入れて、鍵をはずした。
肥沼が斧を持ったまま、中に入ってきた。
健介は野球のバットを持っていた。宇津木は蹴るのを止めて、拳銃を甲田に向けた。眼は肥沼と健介のほうに向けていた。坊主頭の肥沼の手首と太い首に、血がにじんでいた。肥沼は針金で車のハンドルに繋がれた首と縛られた両手をはずそうとして、かなりもがいたようすだった。
「出て行け。斧はそこに置け。邪魔すると、甲田の頭に穴があくぞ」
宇津木は言った。宇津木の息もはずんでいた。甲田は頭と顔面を血に染めて呻きつづけていた。
肥沼が口もとだけで笑った。斧がソファの上に投げ捨てられた。肥沼はジャンパーの裾の下から拳銃を抜いた。宇津木は反射的に銃口を上げ、引鉄を引いた。
肥沼の上体が跳ねて傾いた。傾いたまま、肥沼は撃ってきた。宇津木も撃った。肥沼の首の付根に小さな血の玉が生まれた。大きな肥沼の躯がはじかれたようにうしろになり、そのままテーブルとソファをはねとばして床に倒れた。
健介がすさまじい叫び声をあげて、バットを放り出し、部屋をとび出していった。宇津木は銃口を肥沼に向けたまま寄っていった。腹が熱かった。腰に力が入らなかった。宇津木のランニングシューズは血に染まっていた。絨毯の上に血の足跡がつづいた。宇津木は腹に銃弾を浴びていた。
ソファのまわりに血がひろがりはじめていた。肥沼は血の中に頬をつけて痙攣を起していた。立ってくるようすはなかった。首の下からおびただしい血が、溢れ出るようにしてまわりにひろがっていた。
宇津木は拳銃を床に放り出した。ソファと一緒に床にころがっていた斧を手に取った。脚が異様に重たく感じられた。全身が熱かった。そのくせに首のうしろのあたりだけが、寒気を覚えはじめていた。脚が重いのは、血を吸ったジーンズのせいだ、と宇津木は思った。
斧を引きずって、宇津木は甲田のところに戻った。甲田が頭を上げて宇津木を見た。甲田は何か言いかけた。声が出ないようすだった。宇津木も声が出せなくなっていた。
宇津木は両手で斧を振りかぶった。甲田が叫んで片手を上げた。今度は声が出た。宇津木は無言で斧を打ちおろした。
斧は甲田の首にめりこんだ。斧の柄が先のほうで折れた。折れてささくれた柄の一部をつけたまま、斧は甲田の首に深々と突き立てられたまま、そこに残った。
宇津木は折れた柄を放り出し、その場に坐りこんだ。尻が床に落ちた。立てなかった。尻の下にすぐに血が溜まり、立とうとするたびに音を立てた。
宇津木は室内を見まわした。入口のドアのところに電話があるのが見えた。宇津木は這って電話に向った。部屋が暗くなっている気がした。ついさっきまで熱っぽさに包まれていた躯が、寒気を覚えはじめていた。
電話の前に辿りついて、宇津木は息をついた。細い息だった。床に坐り込んだまま壁に寄りかかった。受話器に手を伸ばした。血で濡れた手がすべった。
宇津木は台ごと電話を床に落した。受話器をつかみ、番号ボタンに眼をやった。眼がかすんでいた。一一〇番を回した。
「宇津木です。宇津木|光弘《みつひろ》。甲田組の組長と用心棒、それから手塚という男を殺しました。いま甲田の家にいます。自首します。ぼくの家に、武井繁行という者を監禁しています」
宇津木は消えそうになるかすれた声を押し出すようにして、一語一語ゆっくりと話した。話し終え、受話器を戻して眼を閉じた。
躯が傾いて、沈みこむように床に倒れた。宇津木は眼を開けた。いっそう部屋が暗くなっているように思えて、宇津木は眼を見開いた。何も考えていなかった。
パトカーのサイレンの音が近づいてきた。宇津木は躯を起そうとした。躯は動かなかった。
この作品はフィクションであり、実在する個人、団体等にはまったく関係ありません。
本書は一九八九年八月に小社より講談社ノベルスとして刊行され、一九九二年八月に、講談社文庫に収録されました。