勝目 梓
女教師に捧げる鉄拳
目 次
妻に捧げる惨劇
女教師に捧げる鉄拳
恋人に捧げる血刃
人妻に捧げる狂気
妹に捧げる復讐歌
妻に捧げる惨劇
夜がふけていた。
その年の最後の日曜日の夜である。
守《まもる》はパジャマに着換えながら、また室内を見まわしていた。頬がゆるんでいる。
横で美保子《みほこ》も服を脱ぎはじめていた。美保子の眼はまだ未練気《みれんげ》にテレビに向けられている。ドラマが終って、画面は車のコマーシャルに替っていた。
「ほんま、部屋えらい狭《せも》なってしもたがな」
守は言った。ことばが勝手にすべり出たのだ。守は苦笑いした。美保子が小さい笑い声をもらした。
「守、同じこと何回言ったと思う? 夕方から三回目よ、これで」
「美保もひまやねんな。しょむないこと勘定して」
「別に勘定してるわけじゃないわよ」
「見れば見るほど狭なった思うがな」
「つぎにはあたしたち、もうすこし広い部屋が欲しいと思うようになるわね、きっと」
「広い部屋か、車か、どっちかやで。つぎなる目標は……」
「どっちも欲しいわね」
「そんな無理言うたらあかん。けど、この部屋えらいムード出てきよったで。ベッドも新しいし……。美保子はん、このムードでも、セックス方面、あんじょういきまへんやろか?」
「試してみはったら?」
美保子はふざけて大阪弁になった。だが、声はふと細くなっている。守はまた、しもた、と思った。今度は苦笑しなかった。美保子の表情を盗むように窺《うかが》った。心なしか彼女の頬はこわばって見えた。
部屋がせまくなったのは、ベッドとテレビのせいである。二つとも真新しい。その日の夕方に配達されてきた。わざわざ日曜日を選んで配達日を指定したのは、ふだんは二人とも留守だからである。
守はトラックの運転手である。美保子は小さな製菓工場で働いている。二人とも年が変れば成人式を迎える。同棲をはじめて九ヵ月が過ぎた。
ベッドをずっと欲しがっていたのは守である。美保子はテレビが欲しいと言いつづけてきた。年末のボーナスで頭金を払って、二人はそれぞれ望みのものを、やっと手に入れたのだ。
部屋は六畳に小さな台所とトイレだけの、アパートの一室である。三万五千円の部屋代は、阿佐谷という場所からすれば高いとはいえない。
部屋には古道具屋で買ったファンシーケースと小さな三面鏡と石油ストーブしかなかった。それと一組の蒲団と、台所のこまごまとした日用品が、それまでの二人の家財道具のすべてだった。
そこに念願のセミダブルのベッドと、十四インチのカラーテレビが入ったのだ。ベッドは部屋の半分近くを塞《ふさ》いだ。たしかにせまくはなったが、華やかさも加わった。奮発《ふんぱつ》して、安物のカーペットを敷き、窓のカーテンも新しいのに替えたためだった。
それで二人のボーナスは、かなり痛手をこうむった。むろん苦にはならなかった。飴色《あめいろ》になった古畳や、前住者の遺産だった雨のしみのついたよれよれのカーテンを眺めずにすむのだ。部屋がせまくなった、と守がくり返すのは、ぼやきではない。くすぐったいようなよろこびのせいである。
「ほな、寝てこましたろ」
守は言って美保子を見た。美保子は素肌にネグリジェをはおるところだった。袖《そで》に腕を通すとき、乳房が固い揺れを見せた。乳房も腹も太腿も、すぐ前のテレビの光に淡く染まっていた。守はそれをひどく新鮮な思いで眼に留めた。テレビが身近にあることを、それではじめて実感したあんばいだった。
ベッドに横になると、守はわざと体を乱暴にはずませた。それも夕方にベッドが届いてから、何回かくり返したことだった。
美保子がストーブとテレビを消し、部屋の明りも消した。暗い中で、画像の消えたテレビのブラウン管が白くにぶく浮きあがって見えた。
守は枕もとのスタンドの豆電球をつけた。美保子がベッドにすべり込んできた。守は三分間、じっと動かずにいた。それ以上は我慢できなかった。ベッドやテレビやカーペットや、新しくなったカーテンのせいだ、と守は思った。彼は美保子のほうに体を向けた。美保子の腰に手を回した。美保子は動かない。
「ムードは関係ないもんやろか?」
「あたしの場合は病気みたいなものだから。でも、試してみたら?」
「ええか?」
「訊《き》かないでいいって、いつも言ってるのに。だめだったら手と口でしてあげる」
美保子は笑った顔になった。眼は閉じている。守は腰に回した手で、美保子の脇腹《わきばら》を静かに撫でた。ネグリジェの下に、柔らかくもろい感じの手ざわりがあった。
守は美保子の頸《くび》の下に手をさし入れた。美保子は守の肩口に頭を寄せてきた。唇を重ねてきたのは、美保子のほうだった。そこまではいつもスムーズに事がはこぶのだ。
守は片手をネグリジェの胸にさし入れた。ひとりでにホックがはずれた。乳房があらわになった。守は掌でくっきりと高い乳房の稜線《りようせん》を軽くなぞった。頂で赤味の勝った小さな乳首がかすかにふるえた。
乳房は守の手の下でうねった。はずみは固い。強く押すと同じ強さで守の掌や指を押し返してくる。守は体を起し、二つの乳房に交互に柔らかく頬ずりをした。美保子が守の頭を胸に抱きしめるようにした。
「寒うないか?」
「平気……」
美保子の乳首が守の唾で二つとも濡れて光った。乳首は固くとがると赤味を強め、根から盛り上がったように見える。
「下をさわってみて……」
美保子が言った。声は平静だった。美保子は自分でパンティを脱いだ。ネグリジェの前をすっかりはだけた。守は美保子の乳房に頬をつけたまま、手を下にすべらせた。美保子のしげみが守の手をくすぐった。ヘアが揉まれて、ひそやかな乾いた音を立てた。
守はその音にしばらく耳を傾けた。手をその下に伸ばすのはためらわれた。部屋のようすが変ったくらいで、美保子の体の調子が好くなるはずはない――本音のところでは守もそう思っていた。思いながら期待もあった。
守は手を開いたままで、美保子のしげみを撫でおろした。ヘアに覆《おお》われた愛らしい小さな丸味が、守の掌に添った。守は二本の指を、美保子の脚の付根のくびれにすべらせた。ぬくもりがこもっていた。二本の指は、そのまま左右から、美保子の愛らしい丸味をそっとはさみ込むように寄り合った。
「だめみたい?」
美保子がくもった声を出した。守は美保子の口を唇で塞《ふさ》いだ。舌を静かにからませた。
守の指が、美保子のクレバスを柔らかくなぞった。小さな粒のようなものが指の先に触れた。美保子は唇を重ねたまま、全身をちぢめた。守ははずみの強い小さな粒のようなものから指を離した。
クレバスの底がゆるく分けられた。守の指がそこをまさぐった。ぬくもりと、わずかな湿りが守の指に伝わってきた。それだけだった。なめらかさは生れていない。
「気にすることあらへん。気にしたら、よけいにあかんようになるでェ」
「ごめんね、守……。どうしたい?」
「このまま、寝よか?」
「いや、守がかわいそうだもん。できるだけ我慢するからやってみて」
「こんなもん、我慢してするもんとちゃうよ。無理せんかてええて」
「いや。あたしだって気持はあるんだもん」
守はいつもながら、切なくなってくる。彼は美保子の腰を覆っている蒲団をめくった。美保子はゆるゆると膝を開いた。守は美保子の膝の間にうずくまった。美保子のしげみがまわりに淡い影をひろげている。わずかにほころんだ彼女のはざまは、その影の底に沈んで暗い。
「ほんま、無理せんかてええで。ちょっといやらしけど、おれ、こないして美保のん見もってオナニーするのん、きらいやないのや」
「でも……」
「ほな、まあ……」
守は美保子のはざまに顔を埋めた。舌ではざまを濡らした。美保子は体をこわばらせたまま、息を詰めている。守は美保子の小さな肉の粒にも舌をあてた。美保子の体はこわばったままである。
守はすぐに体を起した。美保子も上体を起した。眼を開いたまま、彼女は膝立ちした守の腰を片手で抱いた。片手は守の熱く力をみなぎらせた体を捉《とら》えた。おずおずとした手つきだった。
やがて、手につづいて美保子の唇がそこを覆った。
守は自分から腰を引き、美保子の唇から逃れた。彼はもう一度、舌で美保子の体を濡らした。美保子はふたたび仰向けになった。守を迎え入れる姿勢である。守はまさぐり、押しあてた。だが、そこは固い環《わ》のように冷たくこわばったまま、守を迎えようとはしなかった。美保子はきつく眼を閉じ、眉間《みけん》に皺《しわ》を刻んだまま、唇を咬《か》んでいる。
「あかん。トンネル工事中止や。岩盤がゆるみよらへん」
守は快活に言った。言って美保子の頑《かたく》ななそこに、やさしく口づけをした。美保子はゆっくりと体を起した。眼は閉じたままである。手が伸びてきて、守の体を捉えた。
「やらせて……」
美保子の声は湿っていた。
九ヵ月間、寝起きを共にしていて、守と美保子は、まだ一度も健やかには交っていない。そのたびに、美保子は守に詫び、守は気にするなとなぐさめたり、品のよくない、しかし心は充分にこもった冗談でまぎらしつづけている。
そのことのために、別れようなどと思ったことは守は一回もない。美保子もそれを大きな負い目としながらも、守を失うことをおそれている。それが守にはよく分っていた。
美保子の体が、彼女の気持を裏切るようになった原因も、守にはよく分っていた。そこのところのいきさつを思いだすのは、守には辛いことだった。それは美保子にとっては、さらに苦痛にちがいない。
美保子は輪姦《りんかん》された経験を持っている。相手は暴走族のグループだった。美保子は中学三年生だった。それが彼女の初めての性体験となった。
守は美保子が輪姦される現場にいた。守もその暴走族のグループに加わって、うしろからついてまわっていたのだ。父の転勤で大阪から東京に転校して間もないころだった。
守は現場にいあわせはしたが、輪姦には加わらなかった。度胸がないと罵《ののし》られた。そのとおりだと自分で思った。ジャリだと言われ、一人だけいい子ぶったと責められて、ヤキを入れられた。
守は暴走族に好んで加わったわけではなかった。転校生の彼は、学校ではマンザイと呼ばれてからかわれた。大阪弁が漫才師のことばだというのだ。悪意のこもったからかい方をする子もいた。守は耐えた。からかうのに飽きると、恐喝《かつあげ》の的《まと》にされた。三百円、五百円と金を捲きあげられた。際限がないように思われた。おれも男や――そういう気持が、時間をかけて胸に溜まってきた。
あるとき殴り合いをやった。恐喝を断わったためだった。一発の拳が見事に相手の顎にきまった。むろんまぐれだった。まぐれだから余計に効いた。相手は二十秒ほど気を失っていた。それでその場の勝負はついた。
守はすっかり自信をつけた。殴り倒した相手は、学校の先輩が頭をつとめる暴走族の下っ端に加わっていた。高校生が仕返しにやってきた。守は夜の公園に呼び出された。相手は三人いた。守はふるえあがった。反面、前回のときみたいに、一発のパンチで相手が骨を抜かれたみたいに足もとに崩れ落ちる場面を想像してもいた。恐怖と緊張の中で、想像と現実の境がぼやけてきた。守は自分から拳を突き出した。むろん、夢中でしたことだった。
想像は現実になった。一瞬のうちに、相手は足もとの暗がりに這っていた。しかし気は失っていなかった。守は袋叩きにされた。顔面は無事だった。相手が避けてくれたのだ。だが、彼は二週間、体操の時間は口実をもうけて休まなければならなかった。四、五日は寝返りもうてなかった。袋叩きの一件はしかし、両親にも教師にもばれなかった。
三人に囲まれて先に手を出したことで、守は竹本という名の暴走族の頭に見込まれた。いい根性してる、と言われた。人間、いろんな認められ方があるもんや、と感心した。誘われて暴走族の集会に出た。おもしろかった。たばこも|アンパン《シンナー》もやった。グレたいと思っていたわけではなかった。だが、グレてみると心に張りが生れた。
シンナーをやりながら、はじめて女の子とセックスをした。中学三年生の子だった。相手ははじめてではなかったらしい。とろんとした眼で股を開き、守を手で導き入れながら、なぜかケタケタ笑っていた。ばかに熱いものの中にペニスが漬かったと思ったら、射精していた。つまらんもんや、と思った。だが、女の体から離れると、すぐにまたしたくなった。相手は裸の股倉を守の眼にさらしたままだったが、二度目は拒まれた。まばらな毛の下で、割れめが濡れたままよじれているのを見て、守ははじめて女のそこが傷口に似ている、と思った。
美保子の輪姦に加わらなかったのは、やはりそこが傷口に見えたためもある。
美保子はだまされて暴走族の集会に連れてこられたのだった。彼女は突っ張った中学生ではなかった。ととのった顔立ちで、男子生徒に人気があった。それを同じ学年のスケ番にねたまれて、放課後の学校の屋上でリンチを受けた。リンチといっても、太腿や背中を何回か蹴られただけですんだ。教師が見つけて停めたからだった。
スケ番やその親衛隊員《バンカク》たちは、リンチがしたりなかったらしい。先輩の暴走族の頭に、美保子を輪姦《まわ》してくれ、と頼んだ。先輩に対するスケ番のご機嫌とりもあった。
夏休み直前の土曜の夜だった。美保子は家から呼び出された。呼び出しにやってきたのは、同じクラスのグレていない子だった。彼女は深い事情は知らぬままに、スケ番に脅し半分に頼まれて呼び出し役を引受けたのだ。
途中にスケ番の乗った車が待っていた。車にはスケ番だけが乗っていた。危険を察して美保子はひき返そうとした。スケ番が車からとび出してきた。指の間に剃刀《かみそり》をはさんでいた。剃刀が美保子の髪をひとつまみ切った。それで美保子はすくみ上がった。呼び出しに来た子はいなくなっていた。
車に押し込まれた。すぐに男が二人乗ってきた。そのまま大井の埋立地に連れていかれた。そこが集会場になっていた。何台もの車やオートバイが集っていた。エンジンの音や叫び声が夜空にこだましていた。それがまた美保子を怯《おび》えさせた。
そこに着くまでの間に、美保子は車の中で半裸の姿にされていた。スケ番と男の一人がしたことだった。何人もの男たちが、その姿を車の窓からのぞきに来た。十六、七人いた。その中に、守もいた。だが、美保子は後で顔を合わせたとき、守の顔をすぐには思い出さなかった。
その夜、女を輪姦《まわ》すという話は、守も聞いていた。頭の竹本が守に言ったのだ。おまえもやるか、と言われて、守はやるでェと答えた。
輪姦は車の中ではじまった。フロントシートを二つともリクライニングにしてあった。ルームライトはつけたままだった。順番を待つ間、みんなは車を取り囲んで、陽気な声をあげながら中をのぞきこんでいた。
守も見ていた。美保子は半裸にされて、口には彼女のパンティを押し込まれていた。必ず一人が美保子の胸に馬乗りになって、両腕を押えつけていた。あばれると髪をつかんで頭をふりまわした。その間、一人が美保子の性器を好き放題に扱い、ライトで照し、やがてのしかかって貫《つらぬ》いた。馬乗りになっている男は、乳首を吸ったり、乳房を揉みしだいたりした。
四人目あたりからは、美保子は死んだように動かなくなった。ルームライトの光の中で、彼女の顔面は血の気を失っていた。乳房には何人もの男たちの指につかまれた跡が、いくつもの赤まだらになって残っていた。
赤まだらの見えるのは、乳房だけではなかった。大きく開かれたままの両の太腿や内股にも赤いまだらが光って見えた。血だった。男たちの性器が美保子の中から掻《か》い出した血だった。一人が血に濡れた自分の性器を、美保子の太腿に塗りつけて拭いたのだ。外からのぞいていたスケ番が、はやしたてる口調でそうしろと言ったのだ。それからは、後につづく男たちが同じことを重ねた。
男たちが離れても、美保子は開いた膝を合わせようとはしなくなっていた。脚は大きな角度に開かれたまま投げ出されていた。懐中電灯の光がそこにあてられるたびに、守はゆるんだまま血をにじませている美保子の性器を眼にした。性器全体が血だまりに見えもした。大きな傷口さながらだった。見ているうちに守は気持がわるくなった。
番が来たとき守は辞退した。気持のわるさは二重になっていた。美保子のそこは傷口にも見えたし、何人もの男の精液がその奥にたっぷりと溜まっているのだ、とも思った。そこに自分のペニスを送り込むのは、衛生的でないとも思った。みんなの眼の前で、裸の尻をさらしてピコピコやるのも気が重かった。
順番は守が最後だった。十六番目に当っていた。守が辞退すると、輪姦は終った。かわりに守へのヤキ入れがはじまった。竹本が命じたのだ。
はじめは根性《こんじよ》焼きを強いられた。自分で自分の手の甲にたばこの火を押しつけるのだ。左右の手に二ヵ所ずつの根性焼きが終ると、全員に殴られた。蹴られた。ヘルメットの頭突きもあった。それらはしのげた。
何台もの車に囲まれて追いまわされるのはこたえた。死物狂いで走って車をかわさなければ、ボンネットにはね上げられかねなかった。危うくかわしたと思ったら、フェンダーミラーが肘を強打した。腕から肩まで疼痛《とうつう》がはしった。
最後には膝がいうことをきかなくなって、守は草地にのびた。どうにでもしくされ、と思った。心臓が喉からとび出しそうに思えた。息がすっかりあがっていた。
リンチの仕上げはオートバイだった。地面に腹這いにさせられた守の腰の上を、前輪を浮かしたオートバイが三台駈け抜けていった。三台目で守は気を失っていた。脇腹に当り、腰を踏んで通るのは後輪だけである。だがその後輪の脇腹に当る衝撃は、閉じた眼の中が一瞬白くなるくらいだった。
意識がもどったとき、守は走っている車のリヤシートにいた。横に美保子がいた。美保子は身じまいはすましていたが、表情を失ったまま、ぐったりとシートにもたれていた。
「えらいめに合《お》うたな」
守は美保子の耳もとで言った。半分は自分に向って吐いたことばだった。美保子は声が耳に入らなかったようすだった。守を見向きもしなかった。それも守の怒りをさらにそそった。
守はリンチの怪我でまるまる二週間、学校を休んだ。今度は両親にも学校にも知れずにはすまなかった。警察沙汰にだけはならなかった。守が両親を必死にくどいて留めたのだ。美保子が輪姦されたことも、守は誰にも明かさなかった。妙な意気がりからだった。輪姦を働いた竹本たちや、美保子の体面を守ってやろうと思ったからではなかった。
それが後になって思わぬ役に立った。高校に上がると同時に、守は暴走族のグループから脱けた。本格的な大学受験の準備をはじめるように、両親から迫られていたのだ。グループをすんなり抜けられたのは、彼が輪姦事件について口をつぐんでいたせいだった。
守はおとなしくて人の好い高校生にもどった。そこにもどってみると、心の張りが失せた。陽の光までが、ひとつ色|褪《あ》せて見える気がした。暴走族の後についてまわっているころの毎日が、ひどく懐しく思えたりした。リンチの屈辱や怒りは、いつかなにやら栄光の思い出といったふうに変っていた。右のストレート一発で相手をダウンさせたことは、黄金の一瞬、といった彩《いろど》りを帯びて胸をときめかせた。
美保子に会ってみたいという思いは、ある日|唐突《とうとつ》に守の胸に湧いた。それは唐突ではあったが、根は守の黄金の一瞬や、栄光の思い出などと、ややこしく絡み合っていることはまちがいなかった。守には大学受験という目標があった。そのために、いまさら黄金の一瞬や栄光の思い出のほうに、正面からもどっていくのはためらわれた。美保子に会ってみたいと思う気持の底には、過去の黄金や栄光に、裏側からひそかに近づきたい、という思いがあったかもしれない。
美保子が私立の高校に進んだことは、守は耳にして知っていた。会うことを思い立ってはためらうということをしばらくくり返した。くり返すたびに、その思いはつのった。会ってみたいという気持を高めるために、ためらいはくり返される、といったふうだった。
高校一年の夏休みに入ってすぐ、守は美保子の通っている私立高校に出かけて行った。幸運だった。美保子と駅の前でばったり会ったのだ。美保子はクラブの集りのために学校に行った帰りだったのだ。守は降りたばかりの電車にまた乗ることになった。
二人は一年ぶりに顔を合わせたのだ。駅前の人ごみの中で声をかけられて、美保子はきょとんとした眼で守を見た。
「きみ、ぼくのこと覚えてへんか?」
守の第一声はこうだった。美保子は返事をしなかった。曖昧《あいまい》に笑って歩き出した。
「きみ、中三の夏休み前にぼくを見とんのやで。ぼくが暴走族にリンチされとるところやけどな」
守は美保子の後について歩きながら小声で言った。美保子は足を止めて守を見た。表情が変っていた。帰りの電車の中で、美保子はほとんど口をきかなかった。ことさら守を無視する態度も見せた。守はかまわずしゃべりつづけた。とりとめのない話題に終始した。別れぎわに、美保子が守の家の所番地と電話番号を聞いた。
つぎに二人が会ったのは、一週間後だった。美保子のほうから誘ってきたのだ。そうやって二人の仲はぎごちなくはじまった。
大学受験戦争の途中で落伍《らくご》したのは、勉強よりも美保子に熱をあげたからだった。けれども守はちっとも悔やんではいない。きちんとセックスもできない、輪姦されたことのある女に惚れて、どこが楽しいんや、と自分でも思うことがないわけではない。しかし、だからこそ惚れ抜いとんのやないけェ、といつも心の中で叫び、肩肘張ってるところのほうが強い。それが、両親の諫《いさ》めも振切って、勘当《かんどう》同然のまま、美保子との同棲に踏込ませたとも言える。だが、なぜだからこそ≠ネのか、守自身、きちんと納得できているわけではない。好きやから、しゃあない、と思うだけである。
ベッドとテレビが届けられたつぎの日から、美保子の勤める製菓工場は、年末の休みに入っていた。
守は大《おお》晦日《みそか》まで仕事に出なければならなかった。
大晦日の仕事は、昼までで終った。守が会社の車庫でトラックを洗い、事務所に顔を出したのは午後一時前だった。女事務員が、守に客が近くの喫茶店で待っている、と告げた。若い男だという。守には心当りがなかった。名前は名乗らなかったというのだ。
守は喫茶店に行ってみた。彼が店の入口に立つとすぐに、奥の席で男が手をあげて手招きをした。紺の縞柄《しまがら》の背広に、白いタートルネックという姿の、二十五、六の男だった。守は男の顔に見覚えはなかった。
「緒方《おがた》守さんだろう、あんた……」
席に寄っていくと、相手の男はそう言った。顔も名前も知られているのが、守には不思議だった。往き来を絶っている親の使いの者とも思えない。口のきき方もぞんざいで、どことなく威圧的だった。
「どうして、おれのこと知ってんのや?」
守は男と向き合って坐ると言った。彼もぞんざいな物言いをした。
「どうしておれがおまえのこと知ってるか、それは後で判る。見るものを見たらな」
男は笑った。いやな笑い方だった。
「見るものってなんやねん?」
「とにかく一緒に来てくれ」
男は立ち上がっていた。守もつられて立った。胸騒ぎを覚えた。根拠はないが、わるい相手だという予感だけははっきりあった。
男はさっさとレジに向っていく。ついていくしかなかった。守は先に店を出た。勘定をすませた男が、一足遅れて出てきた。
「あんたいったい誰やね? 名前ぐらい教えてくれたらどないやね」
守は言った。男はまた、いやな笑い方をしてから答えた。
「新井ってんだ、おれ」
新井は言い、道の反対側の端に停めてあった白いフェアレディのドアを開けた。守は促されて助手席に乗った。
二十分ほどで、車は大井町駅の近くの小さなマンションの駐車場に停まった。そこに着くまでの間、新井は守が何をたずねても、だんまりをきめこんでいた。
新井はマンションの三階の部屋のドアチャイムを鳴らした。そこは新井の住まいらしい。新井孝二というネームプレートがドアにあった。ドアを開けて顔を出したのは、若い女だった。髪が長く、顔に化粧はなかった。肌が乾いた感じで荒れていた。女は新井と守の姿を見ると、唇の端に笑いとも歪《ゆが》みともつかぬものを浮べて、二人を迎え入れた。守の眼には、女のその表情がひどく挑戦的なものに思えた。彼の胸騒ぎはさらに高まっていた。
「早苗《さなえ》、用意はすんでんのか?」
ドアを閉めて、新井が女に言った。女はすんでる、と低い声で答えた。
守は突きあたりのリビングルームに通された。ソファもサイドボードも、レモンイエローのカーペットも新しく、華やかな部屋だったが、散らかっていた。コミック週刊誌やビニール本が床に散っていた。ひねりつぶしたたばこの袋もいくつか投げ捨てられている。
「ま、坐れや」
新井が守にソファをすすめた。守は浅く腰をおろした。新井は早苗と呼ばれた女に小さく顎《あご》をしゃくった。早苗は壁ぎわのテレビの前に行って、スイッチを入れた。テレビの上にビデオコーダーが載せてあった。早苗はそっちのスイッチも入れた。走査線《そうさせん》だけが走っていたブラウン管に画像が現われた。
守は眼をむいた。喉から短い声がほとばしった。彼は思わずソファから立ち上がっていた。ブラウン管に美保子が映っていたのだ。美保子は素裸のままだった。レモンイエローのカーペットの上に横たわっている。一人ではない。やはり素裸の女が、美保子の脚に脚を絡め、片方の乳首に舌を躍らせていた。女の顔は長い髪と、美保子の乳房のたわみに半ばかくれている。だが、守には一目でそれが眼の前にいる早苗であることが判った。
「なんやねん、これは!」
「見たとおりだよ。レズシーンだ、おまえのかみさんと、おれのかみさんとのな。もっともおまえは美保子とはまだ正式の夫婦じゃないらしいから、かみさんじゃないと言うかもしれねえがな」
新井は眼をすえて言った。早苗が押し黙ったまま、隣の部屋に消えた。
守はテレビを見すえた。美保子は眼を閉じたまま、裸の胸の上に散った早苗の髪を撫でている。スピーカーからは、美保子のかすかなあえぎと、乳首をころがす早苗の舌の立てる湿った音が聞こえてくる。
早苗の手は、美保子の片方の乳房を静かにさすり、開いたままの掌を乳首の上で旋回させている。その手は長くはそこに留まらない。すぐに美保子の肩や腕や首すじに移り、さらに脇腹をすべって、太腿をさする。
カメラの位置は二人の足もとにあたる。美保子は片脚を早苗の脚に絡《から》めとられて、ゆるく膝を開いている。こんもりと丸くひろがるしげみの下に、美保子のゆるんだはざまがのぞいている。早苗は横向きになったまま、曲げた片膝を美保子の太腿にかけていた。大きく開かれた早苗の内股の奥に、歪んだ形にふくらんだ彼女のはざまと、しげみの先がのぞいていた。
「誰が写したんや、こんなもん……」
「早苗が写したいと言ったら、美保子はよろこんだらしいぜ」
守は知らぬ間に強く拳をにぎっていた。彼はその拳をソファに叩きつけた。胸に沸きかえっているのが怒りなのか、おどろきなのか、守にはわからなかった。わからないものが石の塊《かたまり》のように胸をふさいでいる。画面の上部に、サイドボードが写っていた。テレビの横にあるものと同じだった。画面のカーペットも、新井の部屋のものと同じ色である。守は美保子と早苗が抱き合っている場所が、いま自分のいるその部屋であることに、やっと気づいた。
美保子のあえぎに、細い声がまじりはじめた。早苗の片手が、美保子のクレバスを分けていた。守は美保子の体が立派にうるみをたたえていることを知った。守が一度も招くことのできないでいる美保子の体のうるみを、早苗の指が誘っている。守の胸の中の石の塊が一瞬、熱くなった。
早苗の指は、美保子のクレバスを上下にゆっくりとさすっている。美保子の腰が反り、のけぞった喉がふるえた。早苗の指は美保子の鮮やかな肉の芽の上で躍った。指の一本は美保子のはざまの中心の小さなくぼみや、その下の細く短い小径《こみち》を撫でさすっている。そうしながら、美保子は体に添わしてのばした手で、早苗のはざまをまさぐりはじめた。美保子の指先の躍るさまが、大きく開いた早苗の内股の奥に白くのぞいていた。
やがて早苗は体を起した。そこで画面は変った。カメラの位置も変っていた。二人の女は向き合って横たわっていた。たがいに相手の内股に頭をさし入れている。その頭が髪とともに小さく動きつづけていた。乳房がたがいの脇腹のところで、歪んだ形のまま、張りを強めている。カメラはそのようすを上から捉えていた。三脚を使用したのだろう。
「もう、ええ!」
守は叫んでソファから離れた。走るようにしてテレビの前に行き、画像を消した。
「どういうつもりや、いったい……」
ふり向いて新井に言った。新井は立ってきて、ふたたびビデオテープを回し、守の肩を押してソファに連れもどした。すっかり守を呑んでいるようすだった。
画面はまた変っていた。美保子は立てた膝を大きく開いて仰向けに横たわっている。早苗は美保子の腰の横に横坐りになっていた。早苗の手には奇妙なものが握られていた。守がはじめて眼にするものだったが、彼にはそれが何の道具であるのか、すぐにわかった。ペニスを模《も》した形をしていたからだった。横に枝が出ている。その本体と細いコードでつながった円筒が、早苗の膝の前にころがっていた。
早苗が本体の丸い球状の部分をすっぽり口にふくんだ。美保子は小さく身もだえるように体をうごめかしながら、眼を閉じていた。早苗はコードでつながった黄色の円筒についたスイッチを押した。にぶいモーターの音がテレビのスピーカーから流れてきた。
早苗はペニスの形をしたものを、美保子のはざまにあてた。美保子は腰をよじった。早苗がそこを二本の指で分けた。早苗は手にしたものをそこに埋めはじめた。濡れ光る美保子のはざまが大きくふくらんで形を変えた。襞《ひだ》が伸び、ゆるゆると内側に巻き込まれていく。美保子が声をあげた。甘やかな、訴えるような声である。守は美保子の顔を正視できなかった。早苗の手にしたものは、深く没している。
守はふたたび床を蹴ってテレビの前に走った。画像を消した。テープを取り出して、床に叩きつけ、足で踏み砕いた。新井がゆっくりと立ってきた。新井の眼が白く光ってすわっていた。新井は息をはずませている守の前に立った。新井の右手がゆっくりと動いた。その手は背広の内ポケットにもぐった。そこから先の手の動きは早かった。守の顔の前で柄《つか》と鞘《さや》に白い布の巻かれたドスが抜かれた。守はドスに小さくにぶく映った自分の顔を、短い間うつけたように見ていた。
「始末はきちんとつけてもらうぜ」
新井は言い、ドスの腹で守の頬を軽く叩いた。守は息を詰めた。
「始末て、なんの始末や?」
「きまってるじゃないか。おまえが一緒に暮してる美保子という女は、おれたち夫婦の仲にひびを入れたんだよ」
「ひび?」
「美保子って女は、おれのかみさんを寝盗ったんだよ。そうだろう」
「えらいけったいな話やな」
「どこがけったいなんだよ?」
「美保子とあんたの奥さん、どこで知り合うたんや?」
「そんなことはてめえの女に訊けよ」
「始末て、どないしろちゅうねん?」
「てめえの女ぶっ殺してやりたいとこだけどな。そうもいくめえ」
「金か?」
「こういう場合はそれが常識だろうじゃないか。誠意を見せろよな」
「なんぼや?」
「ばかやろう! 八百屋でカボチャ買うわけじゃねえんだ。誠意だよ、問題は……」
「そやから誠意はなんぼやと訊いてんのやないかい」
「払う気はあるんだな」
「払わなんだらどないする?」
「おめえらが後悔するだけだろうな」
新井は声を低めて言い、ドスの峰を守の喉笛に強く押しあてた。
「銭《ぜに》ないで、おれ……」
守はうめくような声を出した。ドスで喉を押えられているせいだった。胸の中の石の塊は、はっきり怒りに変っていた。
「なかったらどうにでもして作るんだな。銀行強盗をやるって手もあるぜ。ピストルぐらい都合つけてやるからよう」
新井はささやくような声で言った。
守が阿佐谷のアパートに帰ったのは、午後の七時をまわったころだった。大井町の新井の住むマンションを出たのは、三時前だったのだが、まっすぐ帰る気になれなかったのだ。
そのまま帰れば、きっと美保子を怒鳴りつけるか、殴るかするにきまっている、と思ったのだ。新宿で電車を降りて、ゲームコーナーと三本立ての映画館とで時間をつぶした。映画のストーリーはまったく頭に入らなかった。美保子の気持もわからなかった。映画館の暗がりの中で、早苗と抱き合った美保子の裸身が、白い波のように何度も瞼いっぱいにひろがった。ブラウン管に映った美保子のはざまが、うるみをたたえて輝いていたことが、信じられなかった。
映画館を出ると、空はすっかり夜のものに変っていた。風が冷たかった。なにひとつ考えはまとまってはいなかった。新井に金を渡さなければ、ただではすまないことだけははっきりしていた。新井は金ができなければ、守と美保子に指を詰めてもらう、とも言ったのだった。
アパートに帰ると、美保子はテレビを見ていた。食卓に夕食の用意がととのっていた。テレビの上に、小さな餅が飾られていた。ドアには紙に印刷された松飾りがはられていた。買ったばかりのテレビとベッドを売れば、なんぼになるやろ――守はふと考えた。そして、自分が新井に金を渡す気になっていることに気づいた。
「たったいままで、お母さんがいたのよ」
美保子は守が脱いだダッフルコートをしまいながら言った。屈託《くつたく》のない声だった。それを聞いて、守はなぜだか胸が詰まった。新井や早苗と会ったことを美保子に知らさぬまま、事が解決できないものか、と守は考えたりもした。
「お母さん、元気やった?」
「うん。守によろしくって。あたしたちがどんな正月迎えようとしてるか、心配で見にきたらしいの」
美保子は食卓の前に坐って言った。美保子の両親も、守とのことを認めているわけではなかった。母親と美保子の妹だけが、父親に内緒でときおりアパートにやってくるのだ。
「この煮物、お母さんが持ってきてくれたの。お節《せち》料理も重箱に詰めて持ってきたわ」
「おれ、飯喰いとうないのや」
「どうしたの? 外で何か喰べた?」
「えらいもん、喰うてしもたんや」
守は言った。自分でも声がぎごちなくこわばっているのがわかった。美保子は窺うような視線を向けてきた。守はその眼を避けるようにして、ベッドの上に体を投げ出した。
「どうしたの、守。何かあったの?」
美保子は立ってベッドの横にきた。
「いま、ぼくらの金かき集めたら、なんぼぐらいある?」
「お金? どうして? 貯金全部はたいたら二十万円ぐらいはあるけど……」
「二十万……。そない貯金しとったんか」
守は体を起した。気持がわずかに軽くなった。二十万円もあるのなら、新井を承服させられるだろうと思った。
「お金のいることが起きたの? 交通事故でも?」
「ちょっと手ェかしてみ」
美保子は心配そうに眉を寄せたまま、片手をさし出した。守はその手を取り、引き寄せた。美保子は横向きにベッドの端に腰をおろした。守は輪にした腕の中に、美保子を抱え込んだ。そうしていなければ、殴りつけそうだったのだ。
「今日な、新井いう男が会社に訪ねてきた」
守は美保子を抱いたまま、彼女の肩に額をつけて、低い声で言った。美保子は黙っている。動揺のようすはない。
「大井町のマンションに住んどる新井早苗の亭主や」
美保子の肩がはじかれたように小さく揺れた。彼女が息を詰めているのが守にもはっきりわかった。短い沈黙がつづいた。
「ビデオ写したやろ。それ見せられたんや」
不意に美保子が体をよじった。守の腕から逃れようとしたのだ。守は腕の輪を強くちぢめた。美保子はもがくのをやめた。
「あかん、動いたらあかん。こないしたまま話したいんや。おれ、怒ってえへんで」
「お金がいるって、新井早苗さんのこと?」
「亭主が、美保子に嬶《かか》盗られたよってに慰謝料《いしやりよう》出せ、言いよんね……」
「盗ったなんて……」
「新井いう男は、あれ、やくざやで。ドスちらちらさせよった。美保子、どういう気やったんや」
「ごめん……」
美保子の声が詰まった。肩がはげしくふるえはじめた。
「どこでやくざの嬶なんぞと知り合うたんや、おまえ」
「あたしのほうが誘惑されたのよ」
「話してみ」
「やくざの奥さんだなんて知らなかったわ。工場で一緒に働いてる里見《さとみ》さんという女の人と、新井早苗さんが友だちで、それで紹介されたの。何回かスナックに連れていかれて、お酒飲んだの。そのうちレズビアンバーに行って……」
「それがはじまりかいな?」
「そう。でも、ヘンなことしたの、二回だけよ。だって、あたし、自分の体どうにかしたかったのよ」
「どうにかって、どないに?」
「里見さんにだまされたのかもしれないわ」
「だまされた?」
「里見さんも、わたしと同じようなことがあったらしいの。でも、レズビアンで治って、男の人とできるようになったって言って、それで新井早苗さんを紹介してくれたのよ」
「あほみたいな話やないか」
守は輪にした腕を解いた。ベッドに背中をつけて、吐息をもらした。美保子は両手で顔を覆った。手の間から嗚咽《おえつ》がもれた。
「里見って人も強姦されたことあんのんか」
「そうだって、向うから話してくれたのよ」
「それ、ちょっとおかしいんとちゃうか?」
「あたし、信用しちゃったのよ」
新井たちが巧みに罠《わな》を張って、美保子と守をはめ、カモにしようとしたのではないか、という疑いが、守の胸に湧いていた。
「里見いうのんはどないな人や?」
「どないって、あたしより三つ上で、結婚してる人。パートで工場に働きにきてるけど」
「なんでその人、自分の体のことや強姦のこと、わざわざ美保に話したんやろ? 美保のセックスの悩み知っとったわけでもないやろうに」
「そうなのよね……」
「そうなのよね、やあらへんがな。しっかりしてくれ。おれら、新井たちにはめられたんとちゃうか?」
「ごめんなさい、守……。あたし、どうかしてたのよ」
美保子の嗚咽が高まった。その声が、不意に守を記憶の中に連れ去った。記憶の中の美保子も、いまと同じように、両手で顔を覆って泣いていた。
二人だけで会いはじめて間もないころだった。美保子が夕暮の公園のベンチで、なぜ自分につきまとうのか、と怒ったような声で守に訊いた。唐突な質問に守はきょとんとなって、返事ができなかった。輪姦されたことをタネに脅《おど》して、言うこときかせようと思ってるんでしょう、と美保子が言った。守の手は咄嗟《とつさ》に美保子の頬を殴りつけていた。そのときも美保子は泣いた。
それはどうやら二人の仲のひとつの節目《ふしめ》になった。その後、美保子はなだれを打ったように、守に心を傾けてきた。守には美保子のその心の傾きがよく理解できた。十五人の男に輪姦されたことを承知で、守が好意を寄せてくれていることが、美保子にはかけがえのない安らぎと思えたにちがいなかった。守は守で、それを安らぎと思う美保子が、いじらしくてならなかった。
どうしてあのとき、他の男たちと同じように、輪姦に加わらなかったのか、とあるとき美保子は守にたずねた。守は答えにつまった。美保子の血をにじませた性器が、傷口のように見えたからだ、とは言えなかった。言えば無残である。そしておそらく、美保子にとっては自分の性器は、まさしく傷と共に在るものとして意識されているにちがいなかったのだから。
美保子は答につまった守を、それ以上追及しようとはしなかった。代りに彼女は怯《おび》えと怖れのいりまじったような眼で守を見て、自分を抱いてほしい、と言ったのだった。守は生れてはじめて、ラブホテルの門をくぐった。高校三年の冬だった。美保子は素裸でベッドの上に体を投げ出したまま、涸《かわ》ききって守を迎え入れることのできないでいる自分の性器を、何度も拳で打ちすえるようにして泣いた。しげみを荒々しく掻きむしりもした。学校を卒業したら一緒に暮らそう、と守も眼に涙をためて美保子に言った。そう言わずにはいられなかったのだ。自分が好んで貧乏くじを引こうとしている、などとは守は思わなかった。
守はそのときはじめて、美保子の輪姦された体験と、自分が竹本たちにヤキを入れられたこととを、ほとんど無意識のうちに二人の共有の記憶のように考えていることに気づいた。それが自分の気持を美保子のほうに傾斜させているのだ、ということも、はじめて自覚された。
だが、輪姦とリンチを、美保子と守の共有記憶とすることはまちがいだったのだ。美保子の輪姦されたという記憶や体験には、なにひとつ救いがないはずである。だが、守のリンチの記憶には、それに耐え抜いたという自負に似た思いがにじんでいる。たとえ裏返しの自負であろうともだ。それは救い以上のものである。美保子にとっては、心ならずも輪姦に耐え抜いてしまったことこそ、逆に怒りと屈辱を生むもとになっているにちがいない。
そのことに気づいたとき、守ははじめて、美保子が意識の牢獄の中に自分を閉じこめている哀れな女であることを理解した。
守はラブホテルのベッドの上で、まるでそこが憎しみの対象そのものであるかのように自分の性器を拳で打ちつづける美保子の手をにぎり、一緒に暮そうということばを、何回もくり返したのだった。
初めて二人きりで迎える正月は、暗く惨《みじ》めなものになった。元日の昼すぎに、新井が守たちのアパートに現われたのだ。
ノックの音に、立っていってドアをあけたのは守だった。新井は眼を細くすぼめて、小馬鹿にしたような笑いを口もとに浮べて立っていた。そのまま口をきかずにのっそりと中に入ってきた。ドアを閉めると、新井は肩にはおっていたコートを守に押しつけるように持たせておいて、さっさと靴を脱いで上がってきた。
美保子はテレビの前に坐っていた。彼女は部屋の入口に立った新井に眼を向けた。それが新井だとは美保子は判らなかったらしい。曖昧に頭をさげた。事は一瞬のうちに起きて、終っていた。
頭をさげた美保子の肩口に、新井の足が飛んだ。美保子の体は横に崩れてベッドの脚に肩を打ちつけていた。つづいて美保子の頬が鳴った。叫び声が二つ重なった。美保子と守の声だった。守は手にしていた新井のコートを放り出して踏み出そうとした。新井が振り向いた。守の鼻先にドスが伸びてきた。
「なにさらすねん!」
「吠えるなよ、正月早々……」
「守、やめて!」
美保子が守の腰に抱きついてきた。
「坐れよ」
新井が言った。守は歯を噛みしめ、唇を強くすぼめたまま、美保子に引きずられるようにして坐った。新井は立ったままだった。守の膝の前に紙きれが一枚落ちてきた。
「そいつにサインして印鑑おしてもらうぜ」
新井が言った。守は紙きれを手に取った。借用証だった。貸主は新井孝二となっていた。借主は守で、金額は二百万円と書かれている。日付は前日の大晦日とされていた。
「なんやね、これ?」
「借用証じゃねえか」
「おれがいつおまえに金借りた?」
「借りてねえって言う気か、おまえ? おまえの女におれのかみさん貸してやっただろう。人のかみさんの借り賃てのは安くねえんだぜ、世間じゃな」
「汚ない手ェ思いついたもんやな。借用証に判子《はんこ》つかして、ゆすりやないという体裁つくろういうわけか」
「ゆすりだと? もういっぺん言ってみろ」
「ゆすりやないと言うのやったら、これと同じ借用証、おまえにも書いてもらおか。おれかて美保子をおまえんとこの嬶《かか》に貸してやったんやさかいにのう」
「なんだと? この野郎……」
新井が守と美保子の前にしゃがんだ。尻をすとんと落したしゃがみ方だった。ドスの峰が守の顎を押し上げた。刃先が喉すれすれのところにあった。美保子が守の腕を小さく揺すった。守は新井を見すえたまま言った。
「先に美保子を誘ったのは、おまえの嬶やったそうやないけ」
「指、詰められたいらしいな。それともおまえの美保子のあそこにドスぶち込んでやろか。借用証に判子おすのとどっちがいいんだよ?」
「くそがきが、ほんまに……」
「やり方はいくらでもあるんだぜ。その女を組の若い者にかっさらわせて、シャブ漬にしてトルコに売っ払ってもおもしろいやな」
新井のそのことばは効いた。たしかに新井が美保子に危害を加えようと思えば、チャンスはいくらでもあるだろう。正月休みが明ければ、二人はまた働きに出なければならない。守がいつも美保子のそばについているわけにはいかないのだ。
「ええわ。おれの負けや。金は払う。けど二百万円てな金はよう払えんで。どこにそないな金があると思てんのや」
守は言った。ドスが顎から離れた。
「いくらなら払える?」
「十万。それ以上は無理やな」
「おちょくってんのか、おれを。二百万から一銭もまからないな。金がないってんなら、おれがサラ金を紹介してやるから借りるんだな」
「しゃあない。判子押すわ」
守はあっさり言った。立ち上がって、押入れの小物入れの箱から認印とボールペンを取り出した。美保子が心配そうに守を眼で追った。守は食卓の端で借用証に署名をし、判をおした。こんなもん、一億円でも判子ついたるわい、と胸の中で呟いた。もう金を新井に渡す気は失《う》せていた。正月休みが明ければ、不動産屋が商売をはじめるやろう。それを待ってアパートめっけて、どこかに引越ししてしもたらええ。新井の前から美保子と二人で姿を消せば、それでおしまいやないか。なんやったら東京から出ていってもかまへんのや。初めから悩むことはなかったんや。なんでこない簡単なこと思いつかなんだやろ。
「金は正月休みあけたら、あっちゃこっちゃ走りまわって作るさかい、それまで待っとってくれ」
守は新井に借用証を渡して言った。新井はドスと一緒にそれをポケットに入れた。立ち上がった新井は、出口とは反対側の窓ぎわに歩いていった。そこで振り向いて、妙な笑いを浮べながら守を手招きした。守は寄っていった。新井が窓を勢いよく開けて、外に向って口笛を吹いた。すぐ下の道に黒い車が停まっていた。車のうしろのドアが開いて若い男が降りてきた。男は新井を見上げて小さく頭をさげ、すぐに威《おど》すような眼を守に向けてきた。新井が笑った顔で言った。
「おまえな、ここからトンズラしよう思ったってそうはいかないからな。きちんと金払うまでは、おれとこの若い者がずっとああしておまえら張ってること忘れんなよ。仕事がはじまったらつけて歩くぜ。おまえだけじゃない。女のほうもだ。わかったな」
守は自分の顔がこわばるのを感じた。彼はそれまでとは質の異なる恐怖を新井に感じた。新井は開けた窓を閉めもせずに、部屋から出て行った。
窓の下に、帰っていく新井の姿が現われた。守は窓の外に向って唾を吐いた。新井は道に停まっている黒い車の前にあった白いフェアレディに乗り込み、走り去った。新井が守たちを見張るための車だと言った黒い乗用車は、動きだす気配はない。
守は音を立てて窓を閉めた。坐っていた美保子の体が、ゆっくりと前に崩れて、カーペットに這った。背中が波を打ちはじめた。嗚咽の声は聞こえない。
つぎの日の夕方近くに、新井はまたやってきた。連れがあった。ダークスーツのスリーピースを着て、きちんとネクタイをしめた、三十半ばの大柄の男だった。脇に書類|鞄《かばん》を抱えていた。一重瞼の細い眼が、妙にすわって見えた。
守は二人を部屋に上げなかった。大柄な男の態度は丁重だった。名刺を守に渡した。それで相手がサラ金会社の社員だと判った。守は名刺に落した眼を新井に向けた。新井は顎《あご》を突き出すようにして、唇と頬だけで笑った。守は森田というサラ金会社の男に名刺を突き返して、新井に言った。
「えらい手回しのええこっちゃな。けど、おれ利子のつく金借りる気はないねん。折角《せつかく》やけどな」
「ほう……」
新井が眼を細くして言った。
「女と二人でやっと暮しとるおまえに、利息も担保もなしで誰が金を貸してくれる?」
「やっと暮しとろうが、贅沢《ぜいたく》に暮しとろうがいらん世話やないけ」
「そうはいくかい。おれのほうの金はどうする気だよ」
「そやから正月休みが明けたら金つくるいうとるやないか」
「じつは緒方さん……」
サラ金会社の森田が口をはさんできた。
「なんです?」
「もう書類をこしらえてきたんですよ。新井さんから事情はあらましうかがいましたんでね」
「書類て、なんの書類や?」
「緒方さんにうちから二百万円の融資をするための書類です。利息のほうも緒方さんの事情を考慮させていただいて、うんと勉強させてもらいました」
守は眼をむいた。喉が詰まってすぐには声が出なかった。
「おまえと女の健康保険証を貸せよ。それで書類に判おしてサインしたら、それで全部ケリがつくんだ」
新井が言った。森田が書類鞄を開けて、封筒を取り出した。中に書類一式が入っているらしい。守は深呼吸を一つした。格子で仕切られた横の台所に、包丁がある。守は一瞬そのことを頭に浮べた。背後の部屋は静まりかえっている。美保子が体を硬くして、息を詰めているようすが、守には手にとるようにわかった。守はもう一つ深呼吸した。
「書類、預からせてもらいまっさ。何度も言うようやけど、正月休み明けて、金策があんじょういかなんだら、書類に判子ついておたくからお金お借りします。それまで待っとくんなはれ。それでええやろ」
守はそう言った。手を伸ばして、森田の手から封筒を取った。森田は横の新井に問いかけるような眼を向けた。やはり妙にすわった感じの眼だった。
「いいだろう。ただし、待ってやるのは正月の六日までだ。明日で三箇日《さんがにち》が明ける。その後三日あれば充分だろう」
「よっしゃ。わかった。六日までに金つくるさかいに待っててくれ」
新井は森田を促《うなが》して、ドアを開け、出て行った。守はドアが閉められるのを待って、ふり向いた。美保子が部屋の入口の壁のところに立っていた。黙ったまま守を見ている。
「心配せんかてええで。おれがなんとかするさかいに」
守は言い、寄っていって美保子の肩を叩いた。そのまま彼は部屋の奥に入ろうとした。
美保子がその前に立ちはだかって、守の両腕に手をかけた。
「守、何か考えてるでしょう? 何を考えてるの?」
美保子は守の眼の奥をのぞきこむようにして言った。
「何考えてる? きまっとるやろ。金のことや」
「嘘。金のこと考えてる眼じゃなかったわ、いま。怖《おそ》ろしい眼してたのよ」
「そらそやろ。新井の奴に肚《はら》立てとるさかいな。それがどないした?」
「肚立ててるだけならいいけど……。お金のことは、あたしもなんとかするわ。いよいよとなったら、あたしホステスでもなんでもする。だから守、短気起さないで」
「おれに短気なとこどこかあるか? 自慢やないが、顔のまずいのんと気の長いことでは人には負けへんつもりやけどな。そやさかいに、ホステスてなこと言うてくれんなや」
守は言って、美保子の頬に軽く唇をつけた。美保子は束の間、泣き笑いの顔になって、守をにらんだ。
製菓工場のパート工員である里見照子の住まいは、武蔵境の駅から車で十分たらずのところにあった。
守はそれを、里見照子から美保子あてに来た年賀状で知った。彼が武蔵境に向ったのは、新井がサラ金会社の森田を連れて現れた日の夜だった。アパートの部屋を出たのが八時ごろだった。
美保子には、運送会社の社長に金の相談に行く、と言いつくろった。美保子は守が年賀状で里見照子の住所を調べたことに、気づいてはいなかった。社長に会いに行くという守のことばを、美保子は不安げな面持《おももち》で聞いていた。守はくどいほど彼女を安心させることばを並べなければならなかった。
アパートの前の道には、新井がさし向けている見張りの車が、依然として停まっていた。中に人が乗っていることはまちがいなかった。だが、車からは守たちの部屋の窓や外階段は見えるが、出入口のドアは見えない。
守はドアの外に出ると、外についた歩廊の柵を乗り越え、そこから下にとび降りた。そのまま、塀との間のせまい通路を抜け、塀を越えて隣の家の庭に出た。足音を殺して隣家の庭を抜け、反対側の道に出たのだ。
美保子を一人でアパートに残すことに、不安がないではなかった。だが、新井には金は渡すと言ってある。それまでは無茶な仕打ちに出ることはあるまい、と守は考えた。
武蔵境の里見照子の住むマンションを探しあてたのは、九時近くだった。
小さなマンションだった。四階建てで、奥に細長く建物がのびている。建物に添った形に露天《ろてん》の駐車場が付いていた。その駐車場の通路をふさぐ形に、白いフェアレディが停まっていた。
守は胸が騒ぐのを覚えた。新井の車ではないか、と考えたのだ。新井も白いフェアレディに乗っている。だが、守は新井の車のナンバーまでは知らない。
新井の妻の早苗と美保子を引き合わせたのは、里見照子である。新井の妻と里見照子が知り合いであれば、そこに新井の車が停まっていても、不思議ではなかった。にもかかわらず、守は何か釈然《しやくぜん》としないものを感じたのだ。
美保子と新井の妻がおかしな関係になったのは、元はといえば里見照子が二人を引き合わせたからではないか。しかも里見照子は、美保子と新井の妻がレズビアンの関係になることを予測して二人を会わせているのだ。そのことで、新井は里見照子を責めているのだろうか?
そこが守には疑問だった。彼が里見照子に会ってみようと思ったのは、相手があたかも美保子の輪姦された体験や、その後の性恐怖症を知ってでもいたかのように振舞っていることに、不審を抱いていたからだった。美保子にいきさつを打明けられたとき、守は直感的に新井たちの罠を感じた。
だが、そのときまでは守は新井をまだどこかで甘くみていた。だから、自分と美保子が果して罠にかけられているかどうかを、突きとめようとする気持は強くはなかった。
しかし、新井という男は、まるで獲物を捕えた網を引きしぼるように、周到に着実に守を追いつめてきている。
サラ金の書類を預るといったとき、守は新井にたとえ一銭たりとも金は渡さない、と心を決めていた。あとは新井の仕掛けた網を切り破るしかない。サラ金会社の社員と名乗った森田という男も、新井と通じているにちがいないのだ。
警察に駈け込めば、事は簡単にケリがつくだろう。それが賢明な策であることは、守もよく承知している。だが、その策をとるとすれば、美保子がレズビアンにふけったことを、警察官に明かさなければならない。わるくすると新聞種にだってなりかねない。美保子をさらしものにすることは、守には耐えられないのだ。そして、それ以上に耐えられないのは、事を警察の手に委《ゆだ》ねた後も残らずにはいないだろう胸の中の怒りのやり場がないことである。
守は、里見照子の住むマンションの玄関に向いかけて、足を停めた。白いフェアレディが新井のものだとすれば、里見照子の部屋で、新井か早苗に鉢合わせするおそれがある。それはうれしくないご対面やで――守は胸の中で呟いた。
守はマンションの駐車場の奥に足を向けた。そこは明りが届かずに暗かった。
一時間が過ぎ、二時間が過ぎた。白いフェアレディの主は現われなかった。守は寒さと焦りとを敵にしなければならなかった。
駐車場の入口に、人影が現われたのは、午前零時近くになってからだった。低い話声がした。聞きとれない。人影は三つ見えた。駐車場の明りが、フェアレディの屋根をにぶく照らしていた。その明りの暈《かさ》の下に新井の横顔が浮びあがった。助手席のドアの前に立ったのは、早苗だった。もう一人は男だったが、車の前に立っているので、顔ははっきり見えない。小さな笑い声が立った。
新井は運転席に乗り、助手席のドアを中から開けた。早苗が乗り込んだ。エンジンが始動し、車のライトが前の道路を染めた。守は眼をみはった。思わず息を詰め、喉もとまで出かかった声を殺した。車のライトの中に立っているのは、竹本だった。美保子を輪姦し、守にヤキを入れた、あの暴走族のグループの頭を名乗っていた男である。
竹本は車のライトを頬に受けたまま、笑って運転席に手をあげている。フェアレディは走り去った。竹本の顔は元のほの明るい駐車場の明りの中でぼやけた。竹本はフェアレディを見送ると、マンションの玄関に引き返していく。
守はなおしばらく、駐車場の奥の暗がりに立ったままでいた。しかし、二分とは立っていなかった。駐車場を出てマンションの玄関をくぐった。正面にエレベーターが見えた。竹本の姿はなかった。他にも人の姿はない。エレベーターのゲージ灯が点滅していた。守は小走りにエレベーターの前に向った。ゲージ灯は三階に停まった。
守はエレベーターを呼び、乗り込むとためらわずに三階のボタンを押した。
三階の奥から二番目の部屋のドアに、竹本道也という横書きのネームプレートがあった。下に照子という小さな文字が添えてある。
守はドアに耳をつけた。中はひっそりとしていた。守はジーパンの腰のベルトをはずして抜いた。バックルを下にして垂らした。端を右の手の甲にひと巻きして握りしめ、腰のうしろに隠した。左手でドアのノブを回してみた。ノブはまわった。部屋に入ったばかりの竹本が、鍵をかけ忘れていったのだろう。
守は静かにドアを開け、中にすべり込んで閉めた。奥で低い話声がした。テレビの音も聞こえた。守はブーツのまま上がった。手前にキッチンがあった。明りはついているが、人はいない。流しに汚れた食器が重ねられていた。流しの横に庖丁があった。守は足音を殺してキッチンに入り、庖丁を左手につかんだ。
廊下に出た。すぐ横にトイレらしいドアがあった。中で咳払いと水を流す音が同時にひびいた。守はドアの手前で足を停めた。ドアが開いた。たばこをくわえたままの竹本が出てきた。竹本はそこに立っている守を見て、はじかれたように小さくのけぞった。
ベルトが鋭く風を切った。バックルの頑丈な金具がにぶく鳴った。竹本が声をあげた。竹本の眉間《みけん》に血が湧いた。鼻の横から唇と顎にかけて、鮮やかに赤いベルトの跡が帯のように走っていた。竹本は腕で顔面をかばったまま、よろけた。便座も蓋《ふた》も上げられていた。竹本は便器の中に尻を落し込んでいた。
奥から若い女が出てきた。守はかまわずにまたベルトを振った。ベルトは竹本の顔をかばった腕を打った。女が叫んだ。
「騒ぐんやないでェ。静かにせえや」
守は低い声を出した。庖丁を竹本の腹に突きつけた。女が喉の奥で笛のような声を立てた。
「なんのまねだ、緒方だろう、てめえは」
便器に尻を落したまま、竹本が息をはずませて言った。
「昔のリンチの仕返しや、とりあえずはな」
「とりあえず?」
「ああ、とりあえずや。立たんかい」
守はベルトをつかんだままの拳の甲で、竹本の顎を下から斜めに払い上げた。竹本はうしろの水槽に背中を打ちつけた。すぐに立った。守は竹本の背中に庖丁を突きつけて、先に歩かせた。女は竹本よりも先に奥の部屋に駈け込んだ。壁ぎわに大きなベッドがあった。ベランダの窓の近くにソファセットがある。反対側の壁には、洋服ダンスやドレッサーが並んでいた。
女はベッドの足もとの壁に背中をつけて、ひきつった眼で守を見ていた。守は竹本を部屋の中央に坐らせた。ベルトが竹本の頬を横に払った。眼尻が裂けて血がひろがった。女の喉がまた笛のように鳴った。守は足を蹴り上げた。ブーツの先が竹本の喉にめり込んだ。竹本はうめいて横に倒れた。
「里見照子ってのはわれかい?」
守は女に言った。女はうなずいた。守は女に洋服ダンスを開けさせた。女は守に命じられたとおり、中からマフラーやスカーフやワンピースのベルトを取り出した。守はそれらを使って女に竹本の手足を縛らせた。
「さっき、おれがとりあえずはリンチの仕返しやというたわけ、わかっとるやろな?」
守は竹本と里見照子を交互に見て言った。二人とも眼をそらして押し黙っていた。守は青ざめた頬に笑いを刻んだ。
「わかっとるらしいな、とりあえずいうわけが……」
ことばが終らぬうちに、またベルトが唸った。声をあげたのは照子だった。照子の右の耳たぶが裂けていた。照子はベッドの端に肩を打ちつけて床にころがった。
「脱げ。裸になんねや」
守は言った。ブーツが照子の左の乳房を蹴りあげていた。照子はうめいた。うめきながら、セーターを脱いだ。スカートを尻の下でずらしながら、照子は泣き声で赦《ゆる》しを乞うことばを口にした。守は声を立てずに笑っただけだった。竹本は床にころがったまま、裸になっていく照子を暗くゆがんだ眼で見ている。
照子はパンティ一枚を残して、守を見上げた。守は照子に近づいた。照子は体を丸くして、額を床にすりつけた。パンティの下から尻の割れ目がのぞいていた。守はそこに庖丁の刃先をすべり込ませた。照子は体をこわばらせた。パンティは尻の割れ目に添って切り裂かれた。尻の下に並んでいる照子の踵《かかと》の間に、クレバスをはさんで丸く盛り上がった性器がのぞいていた。
守は口をきかなかった。照子の髪をつかんで立たせた。竹本の頭の横に照子を引っ立てて行った。竹本の腹にブーツが飛んだ。竹本はさらにこめかみを蹴られて仰向けにさせられた。守は照子に、竹本の頭をまたいで立つように命じた。照子は歪んだままの顔で首を横に振った。
守はベルトをベッドの上に投げた。あいた右手でいきなり照子の乳房の片方をわしづかみにした。照子は息を詰まらせた。守は乳房をつかんだまま引っぱって、照子に竹本の頭をまたがらせた。
「おのれらどあほや、新井とつるんで美保子とおれを罠にはめたからくりをさっさとしゃべらんさかいに、こないなめェにあうんや」
守は照子の背後にまわった。守の爪先に竹本の頭があった。守はその頭を思いきり蹴った。庖丁を右手に持ち替えた。照子の上体を前かがみにさせた。脚を大きく開かせた。仰向けにころがった竹本の顔の真上で、照子のヘアにうすく覆われたクレバスがゆるんだ。
「ここ、手で開くのや」
守は庖丁の峰を、照子のクレバスに浅く埋めて乱暴に小突いた。照子はまたうなずいた。前かがみになったまま、股間に両手を伸ばしてきた。照子の手が、はざまを分けた。それを仰ぎ見ていた竹本がうめいた。
守は庖丁の柄《え》を照子のはざまの中心に押しあてた。鮮かな色の襞《ひだ》の重なりが割れた。庖丁の柄が捻じこまれた。襞がひきつり、はざまの淵がうねるようにふくらんだ。庖丁の柄はすっぽりと埋まった。刃の手元の角の部分までが、浅く襞に呑まれた。光る刃にはざまの景色がにぶく映った。守は照子をまっすぐに立たせた。庖丁の刃先は垂直に竹本の顔面を向いている。守は峰の部分を指ではさんで支えたまま言った。足は竹本の額をしっかり踏みつけていた。
「庖丁から手ェ放すで。しっかり締めな、庖丁が抜けて、竹本はんの顔に突き刺さるぞ。それがいややったら、新井と組んでおれたちに罠仕掛けたこと吐くんやな」
守は言い終えて、庖丁をはさんでいる指をはなした。照子が声をもらしていきんだ。竹本が裂けんばかりに眼をむいて叫んだ。
「やめてくれ! 頼む。庖丁抜いてくれ。新井と組んでやったことは謝るから、勘弁してくれ」
竹本の運転する車が、大井町の新井の住むマンションの前に停まったのは、午前三時をまわったころだった。
車は竹本のものだった。守はリヤシートにいた。車が走っている間はずっと、竹本の首の横に庖丁が突きつけられていた。照子はトランクルームに裸のまま押し込められていた。車が大井町に着く前に、照子が新井に電話で急を知らせることを、守はおそれたのだ。
車が停まると、守は先に降りた。運転席から降りてきた竹本に庖丁を突きつけ、ボンネットに這わせた。守はジャンパーのポケットに押し込んできたスカーフで、竹本の両足を縛ってつないだ。どうにか歩けるだけのゆとりを持たせた。手はうしろ手に縛りあげた。
さらに守は車の中の工具箱から、大きなモンキースパナを取出して手に持った。竹本をボンネットからひきずりおろして歩かせた。スカーフの足伽《あしかせ》をはめられた竹本は、小さく足をはこびながら、何度もよろけた。
真夜中である。マンションの中は静まりかえっていた。新井の部屋も寝静まっているようすだった。
守は、竹本をドアの前に立たせて、チャイムを鳴らしつづけた。インターフォンに返事が送られてきた。女の声だった。早苗らしい。守は無言で竹本を促した。
「おれだよ。竹本だ。ちょっと開けてくれ」
竹本はインターフォンに口をつけるようにして言った。新井の声が返ってきた。かすかな足音につづいて、鍵とドアチェーンをはずす音がした。守は竹本を押しのけた。ドアが開いた。新井が顔をのぞかせた。スパナが斜めに走った。竹本が低く呻いて、その場にくずれ落ちた。顎を下から斜めに払い上げられて、肉が割れていた。新井は肩で息をしているだけで動かない。ドアがあおられて外の壁に当り、音を立てた。
守は新井の脇腹を蹴りつけた。パジャマの襟首《えりくび》をつかんで奥に引きずり込んだ。早苗が起きてくるようすはない。守は竹本も引きずるようにしてドアの中に入れた。ドアを閉めた。廊下にのびている新井が眼をあけた。焦点の定まらない眼だった。守はポケットに残っていた女物の布のベルトで、新井の両手を腰のうしろで縛りあげた。
土足で奥に向った。覚えのあるリビングルームの横に、半ば開いたままのドアがあった。中にほの暗い明りとベッドが見えた。
早苗はベッドの上で起き上がっていた。彼女は守の姿を見ると、ベッドの上に立ち上がった。声は出さなかった。口は大きく開かれていたが、声は声にならなかったようすだった。
守はベッドの横に立った。スパナと庖丁は腰のベルトにさしたままだった。早苗はベッドの上に立ったまま、胸の前で両手を拳ににぎり、壁に肩をつけた。守は早苗が踏んでいる掛蒲団を力まかせに引いた。早苗は足をすくわれて転倒した。片脚がはねた。ネグリジェの裾がめくれた。早苗は下着をつけていなかった。暗いはざまがむきだしになった。一瞬、守の脳裡に、ビデオテープで見た早苗と美保子のもつれ合った姿が浮んだ。怒りがふくれた。
守は倒れた早苗の長い髪をつかんだ。手に一巻きした。そのまま引いた。早苗は短い叫び声をあげた。彼女の体は蒲団と一緒に腰から床に落ちて、にぶい音を立てた。守は髪をつかんだまま、早苗のぶざまに開いた太腿の奥にブーツを蹴り入れた。乳房を蹴った。ネグリジェの袖口を手がかくれるまでに引っぱり、それを腰のうしろで結んだ。裾をたくしあげて膝のところでやはり結んだ。早苗はネグリジェの袋の中で、手足の自由を失っていた。しかし歩けないことはない。
竹本が先頭に立って廊下を進んだ。その後に早苗がつづいた。二人とも足の自由を奪われているために、滑稽な歩き方になった。しんがりに、庖丁を突きつけられた新井がつづいた。誰も声をあげなかった。足音だけが重なって、小さく廊下にひびいた。
早苗は車のトランクルームに押し込められた。そこには裸の先客があった。二人の女の体は、せまいトランクルームの中で折り重なった。
「ゆっくり二人でレズでもやりいな」
守は乾いた笑い声を立てて、トランクルームの蓋《ふた》を勢よく閉めた。
新井と竹本は、手足を縛られたまま、リヤシートに押し込められた。
守は車を出した。夜明けが近かった。道はすいていた。守のめざす目的地は、大井の埋立地だった。かつて守が竹本たちにヤキを入れられ、美保子が十五人の男たちに体を汚された場所である。
車を走らせながら、守は熱くて荒い波に心が揺さぶられるのを感じつづけていた。その波が自分をさらって運んでいってくれるところに赴《おもむ》こう、ときめていた。
埋立地までは十分余りで着いた。闇が濃かった。物音は絶えている。遠くに船の灯がまたたきながら連なっているのが見えた。守はいっとき、その灯に眼を投げた。
かつてのあの夏の夜にも、男たちに汚されて血をにじませた美保子の、傷口に似た性器から眼を反らした先に、やはり船の灯がまたたいていた。それを守は思い出した。
守は車を降りた。竹本と新井を車の外に引きずり出した。そこに土下座をさせた。
「懐しい場所やな、竹本。思い出すやろ。美保子とおれを、おまえらここで、よう痛ぶってくれたやないか」
竹本はうなだれたままで答えない。
「新井、おまえ何が暴力団の組員やね。竹本がみんな吐いたんじゃ。われ、ただのチンピラやないけェ。トルコ女のヒモやないけェ。おれも虫ケラみたいなもんやけど、おまえらもっと汚いウジ虫や」
「負けたよ、守。勘弁してくれ。あやまる」
竹本が低い声で言った。
「あやまるやて? おのれらにあやまってもらうてなこと、おれ考えてへんで。美保子を輪姦して、今度はレズの罠しかけて、金ふんだくるいうようなあくどいこと、よう考えついたもんやな、このど頭《たま》」
守の肩が不意に沈んだ。鋭いキックが竹本の頭に飛んだ。竹本は車のドアに後頭部を打ちつけて、うめいた。守はつづいて、新井のこめかみに蹴りを入れた。新井もしたたかに頬を車のドアに打ちつけて、横にころがった。
「どうする気だ、おれたちを?」
新井が言った。叫ぶような言い方だった。
「おのれら虫けら、ぶっ殺したかて、どうちゅうことないさかいな」
守は笑った。熱くて荒い波が、自分をどこにはこび去ろうとしているのか、守にはわかっていた。波は鎮《しず》まる気配はない。
「立て」
守は竹本を引き起して立たせた。庖丁で手首を縛ったスカーフだけを切った。守は竹本を車のうしろに引っ立てて行った。竹本は燃料の注入口の前に立たされた。
「開けろ」
手にした庖丁で、守は燃料タンクのキャップを軽く叩いた。竹本はあとじさろうとした。守が肩をつかんで引きもどした。竹本はしぶりながら、燃料タンクのキャップを開けた。守は車のうしろのドアをあけた。竹本を座席に押し込んだ。新井も足で蹴られてシートに這い上がり、中にころがりこんだ。守はポケットからたばことライターを取出した。
「くわえろ」
たばこを新井の口に押しつけた。竹本の顔がルームライトのにぶい光の中ではげしく歪《ゆが》んだ。新井はたばこをくわえさせられた。守がライターをつけた。新井のくわえたたばこに火が移った。守はそれを新井の口から抜き取った。勢いよくドアを閉めた。
竹本が叫んだ。ことばになっていなかった。守は火のついたたばこを持って、キャップの開いたガソリンの注入口の前に立った。彼は眼を閉じ、深く息を吸った。閉じた眼を開け、ガソリンタンクの口にたばこを放り込んだ。地を蹴った。火が走った。爆発音が守の背中をふるわせた。炎が闇を裂いた。守は走った。何も考えていなかった。ただ走った。
女教師に捧げる鉄拳
1
渉《わたる》は多摩川の土手の道を走っていた。
吐く息が鮮やかに白い。眼は足もとの数メートル先の路面に向けられている。形のくずれたランニングシューズが、軽やかに道を蹴る音がひびく。そのたびに、渉の口からはシッ、シッと、呼吸とも気合ともつかない短く鋭い声がもれる。
着ているナイロンのヤッケの脇が、肘《ひじ》ですれる音もする。渉はそれらの音など耳に入れてはいない。
頭はオレンジ色のヤッケのフードで包まれている。ヤッケの下は黒に青の側線のあるトレーニングウェアの上下。襟元《えりもと》にタオルを巻いて、手には軍手をはめている。
時刻はやがて午前六時になろうとしていた。あたりには白っぽい明るさがひろがっている。だが、すっかりは明けきっていない。
水量の乏しい川面《かわも》に、乳色の靄《もや》がうすくたなびいていた。遠くに六郷橋《ろくごうばし》がかすんだように見えている。対岸の川崎の建物の群も、黒々とうずくまったような眺めに見える。
渉は六郷橋も川崎の街も見てはいない。無心に走りつづける。ほぼ三、四分走りつづけては、足を停める。軍手の拳が交互に宙にくりだされる。パンチのスピードは殺している。左のフック、左のアッパーとダブっておいて右のストレート。小さくダッキングしてまた左――そういうコンビネーションが多い。たまに、頭を低くしてのボディ攻撃のラッシュ。すぐにまた走り出す。
渉はまた足を停めた。左のジャブの連打。蹴るようにして体は左に回り込んでいく。走ってきた方向に向き直る。そこで一歩踏み込んで低い狙いの右のストレート。
くり出した右のストレートが、途中であいまいに停まった。渉の眼は拳の先を大きくそれて、近くの土手の斜面に注がれていた。
そこに人がうずくまっていた。襟に毛皮のついた明るい茶色のコートを着ている。背中が丸い。コートの肘に泥がこびりついているのが見える。毛皮の襟から長い髪が波を打つようにこぼれ出ている。女だろう。顔は見えない。曲げてそろえた膝を抱くようにして、深く頭《こうべ》を垂れているのだ。そういう姿勢でじっと動かない。
それが、その朝はじめて渉が見ようとして眼に留めた最初のものだった。
渉はたったいま、うずくまっている女のすぐ上の道を走り過ぎてきたのだ。そのときは女の姿は眼につかなかった。
女がそこで何をしているのか、見当などつかない。冷え込みのきびしい冬の朝だ。女がひとりで川べりの土手の斜面にうずくまっていなければならないような、まともな事柄はなさそうだ。コートの肘を汚している泥も、いわくがありそうだ。
渉は好奇心をそそられた。が、お節介《せつかい》はするのもされるのも好きじゃない。渉は途中でうやむやになった左ストレートを、あらためてくり出し、左のフックを返した。
女がゆっくりとふり向いた。生気のない動作だった。風に吹かれて首が回った、といったふうに見えた。後《おく》れ毛が頬にはりついていた。青ざめた頬だった。眼が合った。渉が口をあけた。声は出ない。彼の眼が丸くなっていた。マスボクシングは中断されている。
「先生……」
かまえた拳が下にだらりと下がって、渉の口からうつけたような声がもれた。
「矢崎《やざき》先生だろう?」
渉はこんどははっきりした口調で言った。女は眼を細くした。眩《まぶ》しげな表情にも、困惑のようすにも見えた。口はつぐんだままだった。渉は土手の斜面をおりて、女の横にしゃがみ込んだ。女は自分の膝に顔を押しつけた。
女の足もとに、日本酒の容器が五、六本ころがっていた。自動販売器で売っている酒だった。コップの形をした容器はすべて空っぽだった。にじり消されたたばこの吸殻《すいがら》も、数多く散っている。
「びっくりしたなあ。矢崎先生だよね? 矢崎|圭子《けいこ》先生……。どうしたんですか、こんなところで……」
「きみ、稲垣《いながき》くん?」
女は膝に顔を伏せたままで言った。細い声がかすかにふるえていた。渉は甘ったるく粘るような酒の匂いを嗅いだ気がした。
「おぼえててくれた? おれ、稲垣渉だよ。中学三年のとき、先生に英語習った……」
「ボクシングで出世したんでしょう。新聞でときどき名前や写真、見るわよ」
「出世なんか、まだしてないけどさ。でも世界の十位にはなった。ジュニアミドル……そんなことはどうだっていいけど、先生、どうしたの? いったい」
「うん。ちょっとね……」
「女の浮浪者みたいじゃないかよゥ、こんなところで酒なんか喰らってさあ」
「浮浪者なのよ、あたし、いま……」
「こんな上等のコート着た浮浪者がいるかい。なんかあったんだろ?」
「浮浪者だってば……」
笑ったような声で、矢崎圭子は言った。語尾はやっぱり細くふるえた。
「ずっとここで酒飲んでたの?」
「そうよ」
「信じられないよ、おれ。風邪ひいちまうぜ、先生」
「だからお酒飲んで、体温《あたた》めてたのよ」
「先生いま、小田原の学校じゃないの?」
「学校は辞《や》めたのよ。クビになっちゃった」
「酔ってんな、先生。いまどこに住んでるの?」
「だから言ったじゃないの、浮浪者だって」
矢崎圭子は鼻をすすった。渉は黙って相手の顔をのぞき込んだ。膝と肘が邪魔をしていて顔は見えなかった。代りにひろがったスカートの裾からのぞいている、矢崎圭子の足の爪先が見えた。素足だった。爪先も泥で汚れていた。
矢崎圭子は太い息をついた。酒臭かった。
「トレーニングの途中でしょう、稲垣くん。早く行きなさい」
「行くけどさ、でも、どうしたんだよ、先生、そんな泥まみれの足で。コートの肘も泥だらけだぜ」
「いやなところ見られたわね」
矢崎圭子は言った。膝を抱いた手が解かれて、コートのポケットを探っている。矢崎圭子はポケットからたばこを取出した。顔をもたげて、たばこをくわえた。渉は眉を寄せて矢崎圭子の顔をみつめた。彼女の顔は、頬骨に青いあざをつけて、大きく脹《ふく》れ上がっていた。右の眼尻と上唇の端が切れて、血がこびりついていた。
「どうしたの? 先生、その顔」
「ボクサーみたいでしょう。殴られたのよ」
「誰に?」
「ばかな男に……」
渉は息を呑んだ。
「喧嘩したの?」
「あきれた? 稲垣くん……」
「それで、こんなところに坐り込んで、酒喰らってたのか?」
矢崎圭子は青く脹れ上がった頬と、血のにじんだ唇で笑った。眼が勢いよくふくれ上がったと思うと、彼女の頬に涙が走った。
「先生。おれんところに来いよ。裸足じゃ電車に乗るわけにもいかないし、だいいちみっともないぜ、こんなところで若い女が朝からコップ酒喰らって酔っぱらってちゃさあ」
2
渉が住んでいるアパートは、六郷の小さな都営団地の裏手にある。
「独り暮しだから誰もいないよ。先生、風呂入るだろう?」
渉は入口の踏込みで、ランニングシューズを脱ぎながら言った。矢崎圭子は、閉めたドアに寄りかかって立っている。
「とにかく、足洗ったり、体を温めなきゃ。せまいけど風呂はついてるんだ。朝、ロードワークやるから、なきゃ困るんだ。おれのたった一つの贅沢《ぜいたく》かな」
渉は板の間に上がって、台所の先の風呂場のドアを開けた。浴槽には水が張ってある。出がけにいつも溜めていくのだ。渉はバーナーに点火した。すぐに台所にもどって、薬缶《やかん》に水を汲み、ガスコンロにかけた。部屋は三畳と六畳の二間である。きちんと片づいている。ベッドと小さなテレビと安物のタンスが、奥の六畳に置いてある。渉はストーブに火をつけた。部屋は冷えている。
「そうだ。ポットに湯が入ってるから、あれで先生、足を洗ってよ」
渉は台所に出てきて言った。矢崎圭子は上がり口に背中を見せて坐っていた。返事はしない。渉はポットを抱えてせまい風呂場に行った。プラスティックの青い湯桶にポットの湯を注いだ。
「先生、這っておいでよ。早く足を洗って、風呂が沸くまでストーブで温まんなきゃ」
声を投げておいて、渉は部屋の入口にもどった。矢崎圭子は横の壁に肩を寄せかけてうなだれていた。肩と髪が細かくふるえている。すすり泣きの声がもれた。
「しょうがねえな。どうなっちゃってんだろうな」
渉は言った。彼は怒ったような顔になっていた。そういう顔のまま、渉は矢崎圭子の膝と背中に腕を回して、彼女を抱えあげた。矢崎圭子の頭が揺れて、渉のヤッケの胸に落ちてきた。落ちてきてそこに留まった。
渉は風呂場の小さなアルミサッシのドアを足で押して開け、板の間に矢崎圭子を抱えおろした。渉はせまい湯殿に入り、湯気を立てている湯桶を引き寄せた。
矢崎圭子は両手で顔を覆《おお》って、すすり泣きをつづけている。渉はやはり怒ったような顔でしゃがみ、泥で汚れた矢崎圭子の両足を引き寄せ、湯をかけて洗いはじめた。矢崎圭子のすすり泣きが高まって、声がもれた。渉は黙々と彼女の足を洗った。指の一本一本をつまんでこすり、泥を落した。矢崎圭子のふくらはぎの肉が揺れた。スカートの下に小さくのぞいている太腿の裏側も揺れている。
渉はふたたび、台所に戻った。コンロにかけた薬缶の口から、うすい湯気が出はじめていた。渉は薬缶を手にして、湯殿にもどった。薬缶の湯はなまぬるかった。渉は空っぽになった湯桶に湯を注ぎ、それを矢崎圭子の足にかけた。泥はすっかり落ちていた。横にタオルがかかっていた。渉はそれを取って、矢崎圭子の足を抱えようとした。
「ごめんなさい、稲垣くん。自分で拭くわ」
矢崎圭子は鼻を詰まらせて、湿った声を出した。渉はタオルを渡した。矢崎圭子はのっそりと立ち上がり、横の壁に片手を突いて足を拭いた。渉は湯殿のタイルの床に立ったまま、ぼんやりとそれを眺めていた。
「あとで洗うわね」
矢崎圭子は、足を拭き終えると、使ったタオルを小さく四角にたたんで、板の間の隅に置いた。渉はそのタオルを取って足を拭いた。彼の足も濡れていた。
「ストーブ、ついてるから……」
渉は空っぽになった薬缶に水を汲み、火のついたままのコンロにかけた。時刻は六時半になろうとしていた。隣の部屋でテレビの音がかすかに聞こえる。渉は小さな冷蔵庫をあけて、鶏卵を四個とり出した。冷蔵庫を閉めながら、奥の部屋に眼をやった。矢崎圭子はコートを着たまま、ストーブの前に坐っている。
「先生、ほんと、どうしたの?」
渉はあいているほうのコンロに火をつけ、フライパンをかけた。
「ごめんなさいね、稲垣くん」
「いいんだよ、気にしなくったって……」
「あたし、もうほんとに先生なんかじゃないの。稲垣くんが知ったらびっくりするような暮ししてるのよ」
フライパンにサラダオイルが落された。渉は口をきかない。鍋にオイルが回され、割られた卵が落とされる。
冷蔵庫から食パンとトマトが出される。食パンはすぐに冷蔵庫の上のトースターに入れられた。フライパンの上で卵の白身が色を変えていく。
「ゆうべは眠ってないんだろう、先生……」
答はない。
「おれ、飯喰って、風呂浴びたら仕事行くから、ひと眠りしたらいい。蒲団はベッドにあるのしかないけどさ。寝て酔いがさめたら頭も冷えるよ。夕方、サンダルかなにか買ってくるから、それはいて帰ったらいい」
トマトを水道の水で洗いながら、渉は言った。目玉焼の火を停めた。トマトを切って二つの皿に盛り、同じ皿にフライパンの目玉焼を器用に移した。
「夜中にとび出しちゃったけど、裸足だし、ポケットには小銭がちょっとあるだけだったの。泊るところはないし、だからお酒買って、ふらふら歩いて、六郷橋渡って、あの土手にずっといたの」
「無茶だな、先生も。六郷橋渡ったっていうと、先生いま、川崎に住んでるのか?」
また答はとぎれた。トースターからパンがとび出した。薬缶の湯が沸きはじめた。トースターのパンはそのままにして、渉はモーニングカップにインスタントコーヒーを入れ、湯を注いだ。コーヒーカップは他にはない。茶碗を使って、もう一杯コーヒーを入れた。
「先生と会うの、卒業以来だから五年ぶりだな。おどろいたなあ」
「そうね」
「おれ、高校行かなかったから、中学出てすぐ東京に来たんだ。はじめは小さな木工会社で、テレビのキャビネットなんか作ってたけど、いまはトラックの運転手やってるよ」
「えらいわね。ちゃんと一人で生活してるんだもの。ボクシングまでやって、その道で頭角あらわして……」
「頭角か……。好きだったからな。金も稼げるだろうしさ、そのうち……」
渉は話しながら、しかし手は休んでいなかった。パンも皿に重ねた。冷蔵庫からバターとミルクを出す。コップを二つ並べる。小さなプラスティックの盆に、載るだけのせて、渉はストーブの前にはこんだ。
「おれの朝飯はいつもこれだけ。ふとっちゃいけない商売もやってるからね。先生も喰べなよ。酒よりは体のためになるぜ」
矢崎圭子は泣き笑いの顔になって、茶碗のコーヒーに手をのばした。渉はその手を押えるようにして、モーニングカップを彼女の前にさし出した。
「こっち飲みなよ。インスタントだよ」
矢崎圭子はカップを受取り、口にはこんだ。渉はすぐに台所にとって返し、運び残したパンやミルクを手に持って、ストーブの前にもどった。
3
渉の仕事は、綜合食品問屋の倉庫で積んだ商品を、都内と近郊のスーパーマーケットに配達するのだった。
遅くても、いつも五時にはトラックを車庫に入れてアパートに帰れる。車庫からアパートまでは、バスで三駅の近さだ。アパートに帰るとすぐに、またバスに乗って近くのジムに出かける。練習が終るのは八時前後だ。二ヵ月余り先に試合が一つ組まれている。練習の密度が少しずつ濃くなっていた。
その日、渉は落着かない気持で仕事をした。圭子のせいだった。
朝、トーストと目玉焼の食事の後で、渉はうるさくせっついて圭子を先に風呂に入らせた。圭子はストーブの前でコートを脱ぎ、肘についた泥を落としに、入口の踏込みにおりた。彼女はコートの下には、ふだん着らしいニットのブラウスだけを着ていた。
ブラウスの胸は大きく気前よくふくらんでいた。渉はすぐにそこから眼をそらした。渉が中学の三年のとき、圭子は大学を出て教師になったばかりだった。新任の英語教師の豊かな胸のふくらみは、渉たち悪童のませた陰口の種であり、関心の的でありつづけた。渉は新任の英語教師の裸の乳房を瞼《まぶた》の裏に浮べ、それを思うさま揉《も》みしだくシーンを想像して、オナニーをくり返した。
思いがけなく、その乳房の持主を自分の部屋に伴うことになったのだ。渉の胸にその日一日、甘いざわめきと戸惑いがつづいていた。圭子の入ったあとの湯に体をつけたとき、渉ははげしく勃起した。顔に殴られて青あざを作り、足は泥にまみれ、川べりの土手で酒を飲むようなことになる圭子が、いまどんな境遇にあるのかはわからない。が、いまの圭子の暮しは、人に誇れるようなものではないらしい、という察しは渉にもつく。だから問いただすのは憚《はばか》られた。
彼はわざと、圭子が体を拭いたタオルで、自分も体を拭いた。そういうことを思いつき、実行する自分を、渉は自分で嗤《わら》った。
仕事でトラックを走らせている途中で、靴屋を見つけて、渉は女物の短いブーツを買った。圭子の足のサイズなど知らなかった。ただ、朝、湯殿で洗ってやった彼女の足が、すっぽりと手で包めるほど愛らしく小さかったのを、鮮やかに覚えていた。その感じと、圭子のおよその身長を目安に、サイズを勝手に選んだ。足に合わなければ帰るときだけはけばいいと考えて、大きめのものを選んだ。
ブーツの箱の入った靴屋の袋を手にさげて、渉はアパートに帰った。圭子はベッドの端に背中をもたせかけて、横坐りになったままテレビを見ていた。化粧気のない頬は青白く、つやがなかった。あざは小さくなっているが、その分だけ芯《しん》に黒みがさしていた。腫《は》れはかなり引いている。渉がボクサーのやる湿布《しつぷ》の方法を教えたのだ。眼尻と唇の端の傷には、テープを貼ってあった。
ブーツはいくらか大きすぎたが、はいてみてぶざまというほどではなかった。
「八時に練習が終るから、ジムでシャワー浴びて、飯喰ってると、帰りは九時半ぐらいになるんだ。先生は気が向いたとき、帰ったらいい。どうせ帰らなきゃいけないんだろう? でも、住所を何かに書いといてよ。今度の試合の入場券送るからさ」
「ありがとう……」
はいたばかりのブーツを脱ぎながら、圭子はそう言った。
練習を終えて、渉がアパートに帰ってみると、窓に明りの色が映っていた。渉は心が躍った。すぐに彼はそれを抑えようとした。そのまま圭子と夜を送ることになったら――戸惑いとためらいがあった。なんだか喉が詰まるような気がして、渉は咳ばらいをした。
鍵をまわしてドアを開けると、台所と部屋の境の戸が開いた。
「おかえりなさい」
「まだいたの? 先生……」
渉は笑った顔になっていた。圭子は何も言わなかった。
「近くまで送っていこうか、先生……」
圭子の表情が揺れた。彼女はうつむいて、細い声を出した。
「あたし、しばらくここに置いてもらったら迷惑かしら……。迷惑よね」
「迷惑なんてことはないけどさあ。いいの? 帰らなくって」
「いいのよ。チャンスだと思うの」
「チャンス?」
「そう。生活を変えるチャンス。でも稲垣くん、なにも訊かないで。話したくないのよ、恥かしくて……」
渉はうなずいて、部屋に上がった。
「飯は喰べてないんだろう? 先生……」
「お腹すかないのよ」
「朝喰べたきり?」
「いいの、心配しないで」
とりつく島がなかった。渉は黙った。眼が圭子の胸のふくらみに走りそうになる。気持がはずんでくるのを渉は隠すのに困った。
「テレビでも見てたらよかったのに……」
渉はストーブの前を離れて、テレビのスイッチを入れた。歌番組をやっていた。
「気がすむまでいていいよ、先生。要るものはスーパーが近くにあるから買ってくればいい。お金は……」
「お金はいいの。明日|都合《つごう》してくるから」
「だって、裸足で無一文みたいなままでとびだしてきたって言ったじゃないの」
「いいの、心配しないで。それより、稲垣くん、疲れてるんでしょう? 朝また早く起きて走るんでしょう。先に寝て……」
「先生、ベッドに寝てくれよ。おれはストーブつけて寝れば平気さ」
「ばかねえ。あたしはいいのよ、一緒に寝たって……」
圭子は乾いた口調で言った。真顔である。渉は返事に詰まった。
「そんなことで妙に気にしたり、気がねしたりすることないのよ」
「そんなこと言ったって……。一緒に寝たらおれ、先生を抱いちゃうぞ」
「だから、それでいいって言ってるのよ」
「どうなっちゃったんだろうね、まったく」
「なにが?」
「先生がさ……」
「その、先生ってのはやめて」
「他に呼びようがないもん」
渉はストーブの横に肘枕《ひじまくら》をついて体をのばした。
「先生、恰好《かつこ》よかったなあ、あのころ……」
「なにが?」
「先生がおれたちの学校に来たころの話。きれいにお化粧して、恰好いい服着て、すごく張切っててさ。学校の先生みたいじゃなかったから、みんな注目してたんだよ。人気抜群だった」
圭子は黙ってテレビに眼を投げていた。
「それがさあ、一ヵ月もしないうちに、先生のお化粧がおとなしくなってさ、服だって紺とか茶っぽいものとかしか着なくなっちゃったでしょう?」
「そうだったかもしれないわ」
「だからおれたち言ってたんだ。あーあ、矢崎先生も校長になんか言われて、あんなふうにただの先公《せんこう》に飼い馴らされていくんだよなって。おれたちがっかりしたんだ」
「なぜ?」
「おれたち生徒だって、自分たちが学校に飼い馴らされているの、わかってたからさ。先生ぐらいはちょっと突っ張っててくれるかなって思ったけど、そうはいかないよね」
「ごめんなさい、期待を裏切って……」
「それからだよ、気になりだしたのは……」
「なにが気になりだしたの?」
「言っていいかなあ、こんなこと……」
「言いなさいよ」
「先生のおっぱい大きいだろう。先生が突っ張ってきれいにしてるときは、特別にどうってことなかったのに、先生が地味な服着て、お化粧もおとなしくなったとたんに、おっぱいの大きいのだけが、やたら目につくようになったんだよ。それも、ちょっとだけいやらしいみたいな感じでさ。いやらしいってのはおれたちのほうが、だよ」
妙に重苦しく粘るような感じの沈黙が訪れていた。
「稲垣くんは恋人いないの?」
「いるわけないだろう。そんなもの」
「恋人こしらえると、ジムの人たちに怒られる?」
「会長は文句いうだろうな。世界ランキングに入ったばかりで、大事なときだからって」
「ボクサーってたいへんなのね」
「好きなことだから、どうってことないよ」
「もう寝ましょう。あたしも寝るわ」
「寝間着ないんだよね、先生。おれのシャツでよかったらあるよ。着る?」
「借りようかな」
渉ははね起きた。洋服ダンスの引出しからTシャツとチェックのウェスタンシャツを出した。ふりむくと、圭子はブラウスを脱いでいるところだった。渉は頭が熱くなった。ブラジャーの端に乳房のふくらみがのぞいていた。渉は喉がひきつるのを覚えた。
「どっちがいい?」
渉はまっすぐ圭子を見て、二枚のシャツを前に掲げるようにして突き出した。
「Tシャツ借りるわ」
「電気を消そうか」
圭子は渉を見たまま、静かに首を横に振った。小さく眉を寄せ、うるんだような眼になっている圭子を見て、渉は顔を歪《ゆが》めた。圭子は坐ったままブラウスを脱ぎ、ブラジャーをはずした。ためらうようすは見られなかった。ブラジャーに押えられていた乳房が、あらわになると同時に重たげに揺れて、ふくらみを増したように見えた。
渉は叫びだしたくなるのをこらえた。彼は立ち上がった。左右の拳で自分のテンプルを軽く打った。それからマスボクシングをはじめた。口からシッ、シッという音が出た。
「拳闘教えてやろうか、先生。立ちなよ」
渉はふざけた口調になっていた。圭子は答えない。彼女は坐ったまま、渉の白いTシャツを着た。坐ったまま、スカートを脱いだ。渉はマスボクシングをやめて、立ったまま着ているものを脱いだ。ブリーフ一枚になった。はげしく勃起していた。渉は圭子の前に立った。圭子がブリーフの上から渉のペニスを柔らかく捉えた。
「ボクシング教えてやるからさ、今度は旦那に殴られそうになったら殴り返してやれ。そしたら裸足で家出なんかしなくてすむぜ」
「旦那なんかじゃないの」
「じゃあなんだい?」
「蝮《まむし》よ。毒蛇よ」
「なんだっていい。殴られたら殴り返しゃいいんだ」
渉はまた、両の拳で自分の顎を軽く打ち、半歩とびさがった。渉は圭子めがけてパンチをくり出した。圭子は笑った顔になった。笑いはこわばって、ただ顔を歪めただけのように見えた。それでも彼女は、渉に調子を合わせて、腰を引き、拳をかまえた。Tシャツの下で乳房が揺れた。渉はゆっくりと左のフックを圭子の顎の近くまで伸ばした。圭子は頭を低くして、渉の腰にむしゃぶりついてきた。そのまま圭子は、渉をベッドまで押していった。渉の顔は固くひきつっていた。軽口を叩くゆとりは失せている。二人は重なるようにしてベッドに倒れ込んだ。圭子の長い髪が、渉の顔を覆った。渉はその髪に甘い女の体の匂いと、早朝の冷えきった川っぷちの風の気配とを感じた。
圭子の柔らかい唇が、渉の口をふさいだ。渉の手は、もがくようにして圭子のTシャツの下に伸び、乳房をしっかりと押えていた。
4
五日が過ぎた。
圭子が渉の部屋に寝起きするようになって、はじめての日曜日がめぐってきた。
その朝も渉は一時間かけてロードワークをした。いつものとおり四キロ走った。いつもは日曜日は休養にあてて、朝は走らない。渉が自分に休養を許さなかったのは、前の晩も彼が圭子を抱いたからだった。
罰というわけではなかった。圭子の肉体の魅力に自分が溺れていくのが、不安だったのだ。ボクサーにセックスが禁物だという説を、渉は半ば信じ、半ばは疑っていた。ただ、それに溺れて、トレーニングが粗雑になると、それが心の不安を招くだろう、ということは、渉にもわかっていた。
セックスもした。トレーニングも充分にした。そういう状態に自分を保っておきたかったのだ。
トレーニングウェアの下に、汗をいっぱい溜めてもどると、圭子が風呂を沸かしていた。風呂から上がると、トーストと目玉焼の朝食ができていた。渉はそれを喰べると、ふたたびベッドにもぐりこんだ。それがいつもの日曜日の日課だった。一週間の睡眠不足をとりもどして、疲労を溜めないように心がける必要があった。
昼前に起きて、昼食をすますと、渉はアパートを出た。圭子にはジムの会長の家に用があるのだ、と言ってあった。
それは口実だった。アパートを出た渉は、電車で板橋に向った。板橋に中学校の二年後輩にあたる男が住んでいる。佐田満夫という男で、いまは新宿のクラブでボーイをしている。佐田は中学時代は父親の名前を笠にきて、暴れまくっていた。彼の父親は、暴力団の幹部だった。
圭子が教師をやめたのは、渉が中学を卒業した二年後だった。圭子自身が渉にそう語っていた。だが圭子は、教職を去った理由については、一言も話そうとしない。それで渉は、佐田満夫のことを思い出したのだ。佐田にたずねれば、圭子がなぜ教師をやめたのか、わかるかもしれない、と考えたのだ。佐田とはつかずはなれずの交際がつづいていた。佐田が渉の試合を見に来てくれたことからはじまったつき合いだった。
圭子は、教師をやめた理由についてだけではなく、顔にあざをこしらえて、素足で家をとび出し、川原の土手で酒を呷《あお》りながら朝を迎えるような、いまの境遇についても、何一つ渉に明かさずにいる。
一日か二日もすれば、ほとぼりもさめて、圭子は帰っていくだろう、と渉は思っていたのだ。それを願ったわけではないが、圭子のためにも、渉自身のためにもそのほうがよい、と彼は自分に言いきかせていた。
だが、圭子は立去るようすを見せない。二日目に渉がアパートに帰ってみると、圭子は着換えの服や下着などを、少しだけ買いそろえていた。パジャマも買っていた。台所には新しいモーニングカップと、一人分の茶碗や皿が増えていた。代りに、圭子の手から指環《ゆびわ》と腕時計が消えていた。渉はそれに気づいたが、何も言わずにおいた。渉は正直なところ、圭子をもてあますところがあった。扱いに困惑するところがあった。しかし、そのことが、渉の心のありように、一種快いはずみをもたらしてもいた。
佐田はパジャマ姿でアパートのドアから顔を出した。アパートの踏込みには、女物のロングブーツやサンダルが乱雑に脱ぎすてられていた。
渉はしばらくアパートの外廊下に待たされた。中で女の声がした。佐田がこれにことばを返していた。諍《いさか》うような声だった。何を言い合っているのかはわからない。
やがて、佐田がくわえたばこで出てきた。赤い革ジャンパーの襟もとに、白いマフラーを巻きつけて、長く前に垂らしていた。佐田は渉を駅前の喫茶店に誘った。喫茶店に着くまでの道々、佐田は渉が訪ねてきたことをしきりに珍しがり、用向きをたずねた。渉が用件を切出したのは、喫茶店でテーブルをはさんで向き合ってからだった。
「中学のときに女の英語の先生で矢崎ってのがいただろう?」
「矢崎圭子ってんでしょう?」
「おれ、こないだ、偶然、矢崎先生に会ったんだよ」
「へえ……。どこで会ったんですか? 先輩は」
「おれのいるアパートの近くでだけど、あの人、先生やめたんだってな」
「原因はおれですよ、先輩……」
佐田は眼をすえたような笑い方をした。渉は知りたかったことにあっけなくぶつかったために、一瞬きょとんとしてしまった。
「おれ、あの先公のボインが目ざわりでさあ。それでちょっとね……」
「ちょっとどうしたんだ?」
「強姦しようとしたの。音楽室の前でばったり会ったんだ、放課後に。それで音楽室にひきずり込んで、ピアノの下で押えつけたんだけどさ、あいつすげえんだ。ピアノの椅子でおれの頭ぶん殴りやがって」
佐田ははばかるようすもなく言って、額の上の髪を手で分けて、渉のほうに突き出してきた。渉は佐田の傷など見もしなかった。
「それで、どうした?」
「音楽室から逃げ出して、あいつ職員室に逃げ込んだんだ。それで騒ぎになって、おれは結局、少年院に送られたんだ。一票差でだぜ、それも。泣けてくるよ」
「一票差ってなんだ?」
「おれの処分を決める職員会議で、停学処分にして少年院に入れろっていう先公と、穏便《おんびん》に事を収めようって先公と、意見が分れたんだ。採決になって一票差でおれは少年院だよ。矢崎のばかの一票でさ」
「それと彼女が先生やめたのと関係あるのか?」
渉は不快ないらだちを押えて訊いた。
「おれが少年院に入ってる間に、うちのおやじの組にいる若い者が、堅気《かたぎ》のふりして矢崎をコマしたんだ。おれを少年院に放り込んだ先公は許せねえってんでさ。この若い者ってのが、スケコマシ専門みたいなお兄《あに》ィさんだから、矢崎はイチコロで網にかかったらしいんだ。で、結局、学校の先生が暴力団の組員と恋仲になってるって噂を立てられて、矢崎は学校やめちまったんですよ」
「誰が噂を立てたんだ?」
「おやじの組の連中がわざと言いふらしたんだよ、はじめから」
「ひでえ話だな」
「だけど、女ってばかだよな。先生やめた後も、矢崎はスケコマシの青木さんと離れられずに、しばらくはクラブで働いてて、いまは青さんの借金やなんかで、川崎のトルコ風呂で働いてるって話なんです」
渉は返事ができなかった。
「先輩が会ったとき、矢崎はどんなふうだった? 昔、中学で英語教えてた女には見えなかったでしょう?」
「だいぶん荒れてたよな……」
「先輩は、矢崎のことをわざわざおれに訊くために、今日やってきたの?」
不意に佐田がたずねた。佐田はテーブルに両肘を突き、顔を突き出すようにして、上目づかいに渉を見た。渉は佐田の視線をはずした。笑顔をこしらえた。笑顔はこわばっていた。渉は平静を装《よそお》って言った。
「近くまで用があって来たからさ。ひょっと思いだして寄ってみたんだ」
「思いだしたって、おれのこと? それとも矢崎のこと?」
「両方さ……」
佐田は渉のその返答を、からかうようなうす笑いを浮べて聞いていた。
5
渉は、佐田と喫茶店の前で別れた。
まっすぐ六郷のアパートに帰る気にはなれなかった。佐田に聞いた話は、渉の胸を掻き乱していた。
渉は佐田にも、圭子の相手だという青木という男にも、はげしい嫌悪と怒りを感じた。嫌悪と怒りは、やくざで女たらしで、トルコ風呂で働かせることまでしたという男と離れられずにきた、圭子にも及んでいった。
渉は池袋に出て、映画館に入った。洋画のアクション物の二本立てをやっていた。映画の筋はきちんとは渉の頭に入らなかった。
アパートに帰りついたのは、夜の八時過ぎだった。食事の支度がしてあった。白い布をかぶせた小さなテーブルの前で、渉はいきなり圭子を抱きしめた。圭子はおどろき、すぐに柔らかい声で言った。
「どうしたの? 怖い顔して……」
渉は圭子を畳の上に横抱きにして押し倒して、彼女の唇を唇でふさいだ。圭子が舌で応え、渉の背中に腕を回してきた。
そういうシーンは、渉の予定にはなかったのだ。彼は何喰わぬ顔して帰り、食事をし、そのあとで、明るい調子でこう切り出すつもりで帰ってきたのだ。
『ジムの会長に先生のことを言ったら、怒られちゃったよ。隠しててあとでばれると何言われるかわからないから、正直に事情を話したんだよ。これまでにも会長にはなんでも打明けてきてたから。そしたら、登り坂のボクサーに女は禁物だって。で、先生には行く先がきまるまでこの部屋にいてもらって、おれはその間、会長の家に寝泊りするってことになったんだ』
事実、渉はほんとうに圭子のことを会長に打明けて、そうするつもりでいたのだ。
ところが、白い布をかぶせた小さな食卓と、その横で帰りを待っていた圭子の姿を見たとたんに、筋書きは狂ってしまった。渉は自分の胸に不意にあふれ返ってきたものが、いったい何と名付けられるべきものなのかわからなかった。わからないままに、圭子をはげしく抱きしめていた。
唇を重ねたまま、渉は圭子のセーターの下に手をくぐらせ、乳房をまさぐった。狂おしげな手つきだった。その手でブラジャーは上に押しやられた。渉の手の中で、乳房が固いうねりをつづけた。乳首が固くとがってきて、彼の掌のあちこちを突いてくる。
「しようがないわね。どうしたの? 急に」
「狂っちまったんだよ、おれ……」
渉はうわずった声を出した。圭子は静かに渉のセーターの背中を撫《な》でている。
「先生、ベッドに行こう」
「ごはんも喰べずに?」
「言っただろう、おれ、狂っちまったって」
圭子は下から渉の顔をのぞき込んできた。何かを探りとろうとするような、深い眼の色に彼女はなっていた。渉はその視線をはずした。立ち上がって、着ているものを脱いだ。剥《は》ぎとるような勢いだった。そのまま彼はベッドに体を投げ出した。
圭子は黙って立ち、服を脱いだ。表情は重くくもっていた。渉はどこか怯《おび》えたような眼で、裸になっていく圭子を見ていた。圭子はパンティも脱ぎ去って、ベッドにやってきた。渉は眼を閉じた。明りを浴びた圭子の白い全身の肌に、渉は束の間、黒くはりついた無数の人の手の形を視る気がした。それは中学校の音楽室のピアノの下で圭子を組み敷いた佐田の手の跡であり、スケコマシの青木の手の跡であり、圭子が相手をしたおびただしい数のトルコ風呂の客たちの手の跡である、と渉は思った。圭子の肌にしみついたそれらの黒い手の跡を消すには、それ以上の数の渉自身の手の跡を、そこに刻みつけるしかない――そんな思いが、突き上がってくる欲望とひとつになって炎のゆらめきのように渉の胸を灼《や》いた。
圭子は渉の横にひっそりと体を横たえた。渉は半ば彼女に胸を重ねて、とがったままの乳房の一つを唇で捉えた。強く吸った。圭子が渉のショートカットの頭を抱いた。渉は手で圭子の片方の乳房を捉えた。乳房の根にひろげた指をまわし、ゆすり立てるようにした。乳房はたわわに揺れて、重いはずみを渉の手に伝えてきた。
渉は乳房のあちこちに唇を押しつけた。肌をついばんだ。手は圭子の腕や脇腹や太腿などを、間断なくさすりつづけた。ときには狂おしさにつき動かされて、ひろげた手いっぱいに圭子の肌のはずみをつかみこむようなこともした。
圭子はすぐに上気《じようき》したような顔になり、息をはずませる。息の音はときおり細い声と一つになった。甘くふるえるような声だった。渉は片方の太腿を圭子の膝の間に割込ませた。その脚を圭子がやんわりと両の腿でしめつけ、すぐにゆるめた。渉は腿の固い筋肉の部分に、圭子のしげみが触れるのを覚えた。彼はそこに脚を強く押しつけた。火照《ほて》りとうるみをたたえた柔らかいものが、まといつくような感じで脚にふれてきた。圭子もかすかな声をもらして腰を反《そ》らした。
圭子の片手は、渉の太い腕や分厚い胸板の上を静かに這《は》っている。その手が渉の首に伸び、項《うなじ》に巻かれた。渉は顔をひきよせられ、唇を吸われた。眼を閉じた圭子の顔が、まぶしいほど美しいものに渉には見えた。彼女の肌に影のように見えた、おびただしい黒い手形は、渉の瞼の裏で消え去っている。
渉はたがいに唇を吸い合いながら、圭子のしげみをまさぐった。しげみに覆《おお》われた丸い小さなふくらみに掌を添わせた。指の一本が、ふくらみを左右に分けている柔らかいクレバスに浅く沈んだ。指先は熱いくぼみに当っていた。
圭子はまた強く唇を吸ってきた。吸いながら彼女は喉の奥に細い声をひびかせた。圭子の体は、渉の胸の下でうすく汗の気配《けはい》を生みはじめている。渉は圭子のクレバスの底にひそんでいる、小さくとがったものを指で捉えていた。固い弾力をそなえた小さなものは、ときどき指の下で所在をくらました。そのたびに渉は濡れた指で探索をくり返した。
「見たいな。見ておきたいんだ、先生のを」
渉はうわ言のようにことばを吐いた。圭子は小さく首を横に振ったまま、しっかりと渉の首を抱え込んだ。渉は難なく圭子の腕をふりほどいた。体を起した。圭子はそれを引き留めなかった。拒もうともしなかった。渉は大きく波を打っている圭子の腹に頬をつけた。圭子の腹はひどく頼りない柔らかさをたたえていた。渉は眼の前にある圭子のしげみを撫でた。ヘアの根方《ねかた》の皮膚は、青味をたたえていた。しげみは小さく盛り上がって、より集った穂先が低い尾根をかたちづくっていた。渉は手で尾根をなぎ倒した。クレバスがあらわになった。渉はその底をさらに明りの下にあらわにした。
小さなとがりは、鮮やかな色に輝きながら息づくような小さなうごめきを示していた。その下にくすんだ色の花びらが二枚、左右から身を寄せ合っていた。渉は花びらを分けた。小さな襞《ひだ》の重なりが、中心のくぼみになだれ込むようなぐあいに渦を巻いて見えた。渉にはそれは、生れてはじめての眺めだった。彼は必死でそれを眼に灼《や》きつけようと思った。それはひどく動物的なものに見えた。それが渉のかなしみを誘った。しかし渉は吸い寄せられるように、そこに顔を押しつけていた。舌が、唇が、ひとりでにそこに触れていた。圭子が短く声を放って腰をよじった。それがかえって渉をたきつけた。彼は両腕でしっかりと圭子の腰を抱き、低い唸り声をあげながら、荒々しく吸った。おびただしい黒い手の形が、渉の脳裡で乱舞した。それにあらがうようなつもりで、渉は圭子の性器を吸い、舌をまとわりつわせ、歯を押しあてることすらした。黒い手の形の乱舞を打ち負かすためなら、なんでもしてやろう、という気に渉はなっていた。だが、それ以上なにをすることがあるのか、どんなことができるのか、渉は思いつかない。思いつかないままに、彼は獣のような唸り声をあげながら、圭子の腰を強く抱え込んで、頭をふり立てつづけた。
6
また一週間が過ぎた。
その日曜日も、渉は朝のロードワークを休まなかった。走る距離は四キロから六キロに増えていた。一週間前からだった。ジムワークも手を抜かずにみっちりやった。トレーナーが二度ほど、オーバーワークを心配することばを吐いたほどだった。
いつからか、渉はサンドバッグを叩くときに、低い唸り声を発するようになっていた。自分では気がついていなかった。トレーナーはそれを、渉がつぎの試合を控えて燃えているためだと思ったらしい。トレーナーに唸り声のことを言われて、渉ははじめて気がついたのだ。気がついてみると、唸り声は圭子の性器に顔をつけるときに、きまって喉の奥から出てくる声とそっくり同じものだった。
渉は結局、いまだに会長の家にしばらく寝起きするという計画を実行できずにいた。計画そのものを圭子に告げることもしていなかった。
ためらいを重く胸にかかえたまま、一日一日が過ぎていった。渉は一日が過ぎるごとに、自分を叱り、その分をトレーニングで体を痛めつけて、埋合わせをはかろうとしていた。そして一日を重ねるごとに、渉は圭子への執着を深めてもいた。ある日、仕事を終えるなり、ジムの練習を終えるなりしてアパートに帰ってみると、圭子の姿が消えている――そういう形でなら、気持のケリがつけられそうだ、と思った。思いながら、外から帰ってきてドアを開けるたびに、渉の胸は騒いだ。
そうやってめぐってきた二度目の日曜日の夜のことである。
夕食が終って、渉と圭子はテレビを見ていた。映画をやっていた。洋画の刑事ものだった。ドアがノックされたのは、映画がはじまって一時間ほどしてからだった。
渉が立っていってドアを開けた。思いがけなく、佐田が廊下の明りの下に立っていた。
「近くまできたもんだから……」
佐田は愛想笑いを浮べて言い、渉の肩ごしに、奥に眼を投げた。渉は黙って廊下に出てドアを閉めた。
「ほんとはね、外車のスポーツカーが手に入ったんで、先輩にちょっと乗ってもらおうかと思って、ころがしてきたんですよ」
佐田はハンドルを操《あやつ》る手真似《てまね》をした。渉は追い返そうと思ったが、喉もとまで出かかったことばを呑み込んだ。
「朝が早いんでね。遠出はだめだけど、そのへんをひとまわりするか、折角《せつかく》だからな」
「中古なんだけどポルシェなんですよ。すげえの、加速が……」
佐田は先に立って、アパートの外階段を降りた。アパートの前に白っぽいボディのポルシェが停めてあった。佐田に促されて、渉は運転席に乗った。免許証は持って出てきてはいない。渉はほんのすこしだけ車を動かして、佐田と別れるつもりでいた。
佐田が助手席に乗ってきて、ギアの位置やライトや方向指示器の扱い方を説明した。渉は車をスタートさせた。たしかに、シートが背中を押してくるような、ダッシュの勢いのよさがあった。ロウギアで六十キロまで軽く引っ張れる、というようなことを佐田は陽気な声で言った。加速も力強かった。だが、渉にはそれはどうでもよいことだった。
前の団地のまわりを二周して、渉はアパートの前に車を停めた。さっきポルシェが停まっていた場所には、小型のコンテナートラックが停まっていた。見なれない車だった。
「なんだ、もう走らないの?」
佐田が言った。渉は予定の科白《せりふ》を返した。
「免許証を持ってきてないからな」
「先輩もマジになったなあ。中学のときはけっこう突っ張ってたのにさ」
「おれはもう二十歳《はたち》だぜ。いつまでも先見ないでばかはやってられないよ。ジムの会長にも言われてるしよ」
「重量級のホープだもんな」
佐田は言って、渉が降りたあとの運転席に移った。渉は顔の前に片手をあげて、運転席のドアを閉めた。佐田は笑ってみせてから、派手な排気音をひびかせ、タイヤを鳴らして走り去った。渉は濃い排気ガスの匂いにとりまかれたまま、吐息をもらし、肩を落した。彼はうつむいたまま、アパートの庭を横切り、階段を上りはじめた。
中学時代は突っ張っていたのに、マジになった、という佐田のことばが、走り去ったポルシェのすさまじい排気音と共に、耳に残っていた。おとなしい中学生でなかったことは事実だった。いつも頼りないものが胸の底で音を立てていた。遠くで鳴る笛の音に、それは似ている、といつも思っていた。
笛の音に似たものは、いまも耳を澄ませばどこかで鳴っていそうだった。
階段を上りながら、そういう昔の自分の話を、圭子にしてみようか、と渉は思った。思ったとたんに、階段を上る足が早くなった。
ドアを開けたとき、渉は圭子の短い声を聞いた。何かにむせたような声だった。その声を渉はたいして気に留めなかった。気に留めたのは靴だった。踏込みに二足の男物の靴があった。二足ともよく磨かれて光っている黒い靴だった。客の心当りはなかった。台所と部屋の仕切りの引き戸は閉まっていた。
渉はドアを閉め、サンダルを脱いだ。一緒に手は前に伸びて引き戸を開けていた。手前の三畳と奥の六畳の仕切りの襖《ふすま》は閉まっていた。三畳のほうには誰もいない。
「誰か来てるの?」
渉は声を投げて上がった。答はない。渉は部屋の仕切りの襖を開けた。眼の前に男の顔が迫ってきた。腹にいきなり拳が打ち込まれてきた。何を言う間も、かわす間もなかった。渉はとびすざった。ベッドに圭子が腰をおろしていた。素裸だった。横にもう一人男がいた。二人とも見たことのない顔だった。うす笑いを浮べている。
「なんだ、おまえら……」
渉の声には力がなかった。およその察しはついた。男のうちのどちらかは、圭子をトルコ風呂で働かせたり、顔にあざをこしらえたりした相手だろう、と思えた。圭子を連れもどしにきた相手だ、と考えると、渉は強くは出られない気持になったのだ。
「なんだとはよく言うじゃねえか。人の女房をこんなところに隠しときやがって……」
圭子の横にいる男が言った。
「彼が隠したんじゃないわよ。あたしが勝手に居坐っただけよ」
圭子が言った。男は渉に眼を向けたまま、腕を横に振った。圭子の頬が激しく鳴った。圭子は叫び声をあげてベッドに倒れた。
「やめろよ、先生を殴るのは……」
渉は言った。無意識に体を前に乗り出した。前に立ちはだかった男が、両手で渉の肩を押えた。同時に男は頭を突き出してきた。頭突きが正確に渉の顎をヒットしていた。渉の血が沸いた。それを必死にこらえた。頭の芯が一瞬、煙った感じになった。鼻の奥に鉄錆《てつさび》の匂いに似たものがふくれあがってきた。頭突きは効いた。
「とにかく、騒ぎはやめてくれ。頼むよ」
渉はひろげた片手を前に突き出して横に振った。頭突きをくれた男は、低くかまえたまま、上眼づかいに渉を見すえている。
「調子のいいこと言うなよ。騒ぎを起したのはおめえのほうだろう。人の女房にちょっかい出しやがってよう」
ベッドにいる男が言った。圭子はベッドに倒れたままだ。男が圭子のむきだしの乳房をわしづかみにして押えつけているのだ。男は強くすぼめた圭子の内股に片手を捻《ね》じ込んでいる。男はうす笑いをうかべたままだった。圭子は低くうめきながらもがいている。
「ちょっかい出したことは謝《あやま》るよ」
渉は頭をさげた。前から膝がとんできた。それは肘でガードした。
「謝ることなんかないわよ、稲垣くん!」
圭子が叫んだ。男がまた圭子を殴りつけた。二度、三度、圭子の悲鳴がつづいた。それが渉の耳を打った。渉は六畳の部屋に踏込もうとした。前にいた男が横からとびついてきた。渉は突き放した。男が拳を突き出してきた。渉は小さなヘッドスリップでかわした。つづいて右のアッパーが出た。ヘッドスリップが、ひとりでにアッパーを誘い出していた。考えが入り込む余地はなかった。訓練された体が、勝手に反射的に動いていた。
アッパーを喰った男の体が浮いた。渉は血の沸き立つのを抑えられなくなっていた。体の浮いた相手の顎に左のフックを叩き込んだ。泳ぐところに横からボディを突き上げた。相手は火のついたストーブに頭から突っ込んでいった。ストーブが倒れた。安全装置がはたらいて、火は自動的に消えた。男は焼けたストーブの天板に頬を押しつけてしまって叫び、畳の上でもがいた。渉はストーブを起した。その足に、倒れた男が組みついてきた。男は立てずにいた。渉は自由になる足で、男の腹を蹴った。男の背中が丸くなった。足から手がはなれた。
渉は六畳にとび込んだ。ベッドにいる男はまだ、圭子の乳房をわしづかみにしていた。渉はベッドの前で立ちすくんだ。男は圭子の乳房をつかんだまま、片手をゆっくり服の内ポケットからとり出した。その手に鞘《さや》に収ったドスがにぎられていたのだ。男は笑った顔でドスを強く一振りした。鞘が飛んだ。それが払おうとした渉の腕の下をくぐって、彼の耳に当った。
「どうしようってんだ?」
渉は言った。
「どうするかな?」
男はあざわらうように言った。男の視線が斜めにそれた。男はドスを圭子のあらわになっているしげみにあてた。乳房をつかんでいた手も、しげみにおりてきた。男の指が圭子の陰毛をつまんだ。ドスが肌すれすれに動いて、陰毛を切り取っていた。男は切り取った陰毛を、渉の顔めがけて息で吹いてとばした。渉は息を詰めた。体がふるえた。男は声をもらして笑った。男はふたたび圭子の陰毛をつまんだ。視線がそこに移った。ドスが横にすべった。つまみあげられた陰毛に引かれて、圭子の小さな丸いふくらみが歪《ゆが》んだ。刈られた陰毛がまた息でとばされた。
渉は息を詰めたまま、間をはかっていた。チャンスは一瞬しかなさそうだった。男の手がまた圭子のしげみにもどり、ヘアをつまむ。ドスがそこにあてられるまでの一瞬、男の視線は渉からそれる。
三畳の部屋でうめいている男が立ち上がらないことを祈りつつ、渉はきわどいその一瞬を待った。頭を下げて赦《ゆる》しを求めれば、いくらでもつけ入ってくる相手だとわかっていた。倒すしかない。渉の考えはそこに固まっていた。
男の眼がそれた。渉は腰を回した。男の体がベッドからころげ落ちた。ドスが畳の上に飛んだ。圭子がはね起きた。彼女はドスにとびついた。
男は頭を振って四つん這いになった。渉は男の背広の襟をつかんで立たせた。体ごと打ちつけるようなやり方で、腹に二発、拳を打ち込んだ。男の体が跳ねた。渉には荒々しい勢いがついていた。腹を打たれて、背中を波打たせている男の顔を引き起した。打ち抜くような右のストレートが、男の顎をヒットした。男は糸の切れたマリオネットの人形のように、膝を折り、前にくずれ落ちた。
三畳の部屋にころがっていた男が、這うようにして、部屋の出口に向っていった。渉は足もとに這ったままの男の襟首をつかんで、外の廊下に引きずり出した。もう一人の男が、連れの靴を抱えて、ころがるように廊下にとびだした。
「先生は、おまえのところに帰りたくなったら帰るだろう。それまではおれが預る」
廊下に坐り込んで靴をはこうとしている二人に向って、渉は言った。並んだドアが開いて、アパートの住人たちが顔を出していた。渉は中に入り、ドアを閉めた。圭子がベッドの横の壁に肩をつけて、うつむいたまま泣いていた。手にはドスを握ったままだった。
「ドスを持ってた奴が青木って男なの?」
渉は訊いた。圭子ははじかれたように顔をあげた。
「どうして青木を知ってるの?」
「先生には黙ってたけど、先週の日曜日に、おれは佐田満夫に会ったんだ。先生のこと、みんな聞いたよ」
言って、渉はあっと思った。
「佐田の野郎が、おれのところに先生がいるんじゃないかと疑って、青木たちをここに来させたんだよ」
渉は言った。佐田がポルシェを見せにきたのは口実だったにちがいない、と渉は思った。ポルシェを口実にして渉を部屋の外に誘い出す。その間に青木が部屋に踏込んで、圭子がそこにいるかどうかを確める――そういう計画だったのだろう。
「選《よ》りによって、佐田に先生のことを訊きに行っちまったんだな、おれは。それはいいとして、その後の用心が足りなかったよ」
「あたしが何も話さなかったのがいけなかったのよ。あたし、いまからここを出るわ。あいつらやくざよ。このままおとなしく引っ込んでる連中じゃないわ」
「出てどうするの、先生……」
「とにかく出る。稲垣君にこれ以上、迷惑はかけられないわよ」
圭子は立ち上がって、ベッドに投げ散らされていた下着を身につけ、服を着はじめた。
「出るのはいいけど、どこに行くつもり?」
「出てから考えるわ。ここなら絶対に青木には見つからないと思ったのに」
「行かないでくれよ、先生……」
渉は服を着かけている圭子を抱きすくめた。圭子は渉の腕を振りほどこうとした。
「先生が出て行ったって、奴らおれのところに来るぜ。おれがまた別のところに先生を隠したと思うだろうな。いいんだよ、先生。ここにいなよ。迷惑なんか平気だよ、おれは」
圭子はもがくことをやめた。
「どっちみち、稲垣君に迷惑かけちゃうわね。どうしたらいいの?」
圭子はその場にくずれ落ちるように坐って、ふたたび肩をふるわせた。
「くそー、佐田の野郎……」
渉は右の拳を自分の左の拳に打ちつけて、唇を歪めた。
7
つぎの日の夜、渉がジムの練習を終えて、アパートの部屋にもどると、圭子の姿が消えていた。書置きが、食卓の上にあった。渉は喰い入るような眼でそれを読んだ。記されていることばは少なかった。
『ごめんなさい。やっぱり出て行きます。探さないでください。あなたはとってもやさしかったわ。でも、これ以上あなたに迷惑をかけたくないの。ボクシングのじゃまもするわけにいきません。必ず世界チャンピオンになってください。こっそり試合を見に行きます。あなたのこと、決して、決して忘れません。ほんとうにごめんなさい。圭子』
渉は胸が詰まった。涙があふれそうになった。圭子が自分の意志で出ていったことは、まちがいなさそうだった。誰が来ても、絶対にドアをあけるな、と渉はくどく言って、朝仕事に出たのだ。仕事の途中で、配送先のスーパーマーケットに着くたびに、アパートの管理人に電話もした。管理人には前の晩の騒ぎの詫びを言いがてら、事情を明かしてあったのだ。ジムに行く前に、渉は一度、部屋に戻った。そのときまでは圭子は部屋にいたのだ。
渉は圭子の書置きの便箋を、四つにたたんでポケットに入れた。ストーブをつけて、その前に坐り込んだ。ストーブの芯を調節しようと、腕を伸ばしたとき、ドアがノックされた。渉は勢いよく立ち上がった。圭子だ、と思ったのだ。
渉はドアまでとんで行った。ノブを回し、体ごと押すようにしてドアを開けた。その鼻先に、拳銃の銃口が突きつけられた。銃口はすぐに渉の喉に強く押しあてられた。
「声を出すんじゃない」
見知らぬ男が顔を寄せてきて言った。うしろにも二人、若い男がいた。二人ともはじめて見る顔だった。
「ちょっとつき合ってもらうぜ。出な」
拳銃を突きつけている男が言った。ささやくような声だった。その男だけが若くない。四十近くに見えた。眼が鋭い。
「青木の仲間か?」
渉は言った。恐怖が背中を固くしていた。男は答えなかった。無言が答になっていた。
「早くしろ」
うしろに立っている若い男の一人が言った。渉はポケットに入れた圭子の書置きのことを思った。それを見せれば、圭子が自分の意志で姿を消したことを、男たちはわかってくれるかもしれない、と思った。
「矢崎先生は、おれがいない間に、黙って出て行っちまったんだよ。書置きをして……」
「わかってるよ。その先生がおまえに会いたいって泣いてるから、迎えにきたんじゃないか」
拳銃の男が、片頬に笑いを刻んで言った。
「先生は、青木のところに帰ったのか?」
「くればわかるよ。早くしな」
銃口が渉の喉を乱暴に突上げた。渉は息を詰まらせた。彼は覚悟をした。何が待っているかわからないが、男たちの連れていくところに行こう、と思った。拳銃を前にして同行を断わることはできそうもなかった。相手はやくざだ。射とうと思えば躊躇《ちゆうちよ》などしないだろう。恐怖はあるが、行けば圭子のことを見届けることもできる――。
「わかった。行くよ。ストーブを消してくるから待っててくれ」
渉は言った。拳銃の男が渉を見たまま、うしろの男に小さく手を振った。男の一人が、渉を押しのけるようにして部屋に上がり、ストーブを消した。渉はさっき脱いだばかりのウェスタンブーツをはいて、廊下に出た。ロックボタンを押してドアを閉めた。拳銃が背中にあてられていた。
アパートの塀の横に、白いセドリックが停めてあった。渉はセドリックのリヤシートに押しこめられた。拳銃の男が横に乗った。車はすぐに走り出した。
車は六郷橋を渡った。停まったのは、川崎競馬場の近くの小さなマンションの駐車場だった。渉はまた、若い二人の男に両腕を抱えられて歩いた。エレベーターで四階に上がった。部屋に連れ込まれた。青木の部屋だということは、入口のネームプレートで分った。
八畳ほどのリビングルームに足を踏入れて、渉は思わず眼をむいた。
ソファの前のカーペットの上に、素裸にむかれた圭子がいた。圭子は犬の姿勢をとらされていた。裸の圭子の腰に、佐田が抱きついていた。佐田はズボンと下着を膝までおろして尻をむき出しにしていた。佐田の尻ははねるように躍っていた。伏せた圭子の前にも、男がいた。青木だった。青木はやはりズボンを下げて、膝で圭子の前に立っていた。青木の手が圭子の髪をつかみ、顔を起していた。圭子の口を青木の黒々としたペニスが深々と貫《つらぬ》いていた。ソファに二人の男が坐っていた。一人は前の晩に、青木と共に渉の部屋に現れた男だった。その横にいるのは、四十恰好《かつこう》の小柄な男である。スリーピースのスーツを着て、ネクタイをしめていた。
そうした光景を、渉は一瞬に眼に収めていた。体全体が一気にふくれあがる気がした。
「てめえら!」
渉は叫んで佐田にとびつこうとした。抱えられていた腕を引きもどされた。拳銃の男が渉の前にまわってきた。男は拳銃を左手に持ちかえた。男の右の拳が、渉の腹に打ち込まれた。渉は息を詰め、パンチの数をかぞえた。十二発で攻撃はやんだ。素人《しろうと》のパンチにしては効いた。
「待ってたぜ。みろよ、先生、うまそうにしゃぶってるだろう」
青木が唇を歪めて言った。
「三年前に音楽室でやりそこなったんでよウ、いまやってるところさ。ゆっくり見てなよ、先輩……」
佐田ははげしく腰を突き出して見せた。佐田の手が、圭子の揺れる乳房を下からつかんだ。圭子は青い顔のまま、眼を閉じている。
彼女の唇の端から唾液がこぼれ出て床に落ちた。渉は眼を強く閉じた。唸り声が出た。
渉はソファの横のカーペットの上に坐らされた。いきなり頬を拳で殴られた。渉は眼を開けた。
「しっかり見てろよ、先生の尊いお姿をよ」
拳銃男が言った。渉の場所からは、犬の姿勢をとらされている圭子を、横から眺めることになる。圭子の尻の谷間に、濡れた佐田の性器が見えかくれしていた。佐田が圭子の尻に腹を打ちつけるたびに、圭子の背中が揺れた。圭子は眼を閉じ、唇の端から唾液を垂らしながら、青木にはげしく突きまくられている。
「やめてほしいかい?」
スーツの男が、はじめて渉に言った。だしぬけのことばだった。
「やめてほしけりゃそう言えよ。すぐにでもやめさせるぜ」
「お願いします。やめさせてくれ」
渉は間髪を入れずに言った。両の腕をつかまれたまま、頭までさげた。
「やめさせて、先生を連れて帰りたいか?」
「連れ帰っていいのかい?」
「そうしたいのなら、そうさせてやろう。ただし、こっちの頼みもきいてもらうぜ」
「どういう頼みだ?」
「試合を一つ、落してくれるだけでいい」
「試合を落す?」
「そうだ。簡単なことさ。そうしてくれれば、先生と青木はおれが手を切らせる。おれは上迫《うえさこ》ってもんだ」
「上迫組の組長さんだよ」
腕を押えている男が横から言った。
「先生と青木の手を切らせて、いますぐにでも先生とおまえをここから帰してやる。そうしたいんだろう?」
上迫が言った。穏やかなことばつきだった。渉は眼を閉じた。口は閉じなかった。
「試合を落すって、どういうことだ?」
「むつかしいことじゃない。おまえのつぎの試合の相手は浦上徹《うらがみとおる》だろう。その試合でおまえは浦上に勝たないようにするだけでいいんだよ」
「八百長《やおちよう》試合をやれってのか?」
「おまえはいま、ジュニアミドルの世界十位だ。浦上が今度の試合でおまえに勝てば、奴は世界ランクに上がれる。その上で浦上に世界タイトルをやらせようって話が前からあったんだよ。おれの息のかかったマッチメーカーがもう走りまわってるんだ。そこにおまえと先生の話を佐田が持ってきた。ボクシングってやつは、試合が終るまではどっちにころぶかわからねえ。それはおまえがいちばん知ってる。どっちにころぶかわからねえものを、どっちかにころぶように前もって段どりできれば、こいつは商売になる。おれたちはそういう固い商売が好きでね」
「浦上に勝たせて、マッチメーカーに浦上の世界タイトル挑戦試合を組ませて、興行の割もどし金を稼ごうってわけか?」
「まったくうまいときに、佐田の奴がいい話を持ってきてくれたってわけだよ。試合に勝つのは苦労だろうが、勝たないようにするのは、そんな難しいことじゃないはずだぜ。手ェ打とう。いいな」
上迫は打切るように言った。
「待ってくれ。断ったらどうする?」
「どうもしねえ。先生が半殺しのめにあって、おまえは暴行罪で訴えられるだけだ」
「暴行罪だと?」
「忘れたのか? おまえはゆうべ、青木と秋本を殴ってグロッキーにしたじゃないか。プロボクサーのパンチは、裁判じゃ凶器ということになるんだぜ。へたすりゃおまえ、殺人未遂にだってならねえとも限らないぜ」
上迫はあらぬほうに眼を投げて言った。渉は唇をかんだ。がんじがらめの罠《わな》にかかった気分だった。眼の前では、圭子の凌辱《りようじよく》がつづけられていた。渉は考えるのをやめた。
「おれは八百長を引受けてもいいよ。だが、うまくいくかな?」
渉は言った。圭子がふさがれたままの口で、何か叫んで首をはげしく振った。叫びはことばにはならなかったが、八百長試合を承知した渉を強くたしなめたものと思えた。渉にはそれがわかったが、彼はかまわずに上迫に言った。
「八百長試合ってのは、見る奴が見ればすぐにばれちまうんだ。浦上は八百長を承知してるのか?」
「心配することはねえよ。片八百長だ。浦上はなんにも知らねえ。八百長を知ってるのは、ここにいるおれたちと、マッチメーカーだけだよ。ばれっこねえんだ。おまえはいいパンチもらったら、さっさと寝ちまうか、でなかったら手数《てかず》減らして判定負けに持ち込めばいい。それぐらいやれるだろう、プロだもんな」
圭子がまた何か叫んだ。上迫は圭子たちのほうに眼を移して言った。
「青木、佐田、先生にそんな失礼なことをするのは止めろ。稲垣はおれの話をオーケーしてくれたんだ」
青木と佐田は、のそのそと圭子から離れた。圭子はのっそりと立ち上がった。
「稲垣くん。ばかなことはやめなさい」
圭子は足もとに唾を吐いて言った。渉はことばを失って、圭子の下腹部に目をあてていた。陰毛がすっかり剃り落とされていた。渉の眼には、一瞬そこが白い影のように見えた。
「先生!」
「あたしのことなんか、かまわないでよ」
圭子は叫んで隣の部屋にかけ込んだ。
「見たか。おまえ、話をちがえると、今度は先生の頭の毛を剃っちまうぜ。おまえもボクサー商売が二度とできないようにしてやる。わかったら、先生を連れて帰れ」
上迫が言った。渉は立ち上がった。
8
六郷のアパートの部屋にもどるまで、圭子は一言も口をきかなかった。渉はしぶる圭子を無理矢理に、青木の部屋から連れ帰ったのだ。その間、渉も黙っていた。口を開けば、惨めなことばしか出てきそうもなかった。
圭子は部屋に入るとすぐに風呂を沸かしはじめた。水を溜め、バーナーに火をつけるまで、圭子は風呂場から出てこなかった。渉は気になって、一度のぞきに行った。圭子は洗い場にしゃがみ、湯舟の縁にかけた腕に、額をつけたままでいた。
「どうして先生、青木のところにもどったんだよ?」
風呂場から出て来た圭子に、渉はしばらくの沈黙の末に言った。答が聞きたいわけではなかった。沈黙が辛かっただけだった。
「どうして八百長なんか引受けたのよ」
圭子はそう言い返してきた。
「先生を見殺しにはできないよ」
「あたしは、稲垣くんに迷惑がかかると思ったから、青木のところにもどったのよ。ばかだったわ。でも、ばかはあたし一人でいいのよ。あたしは三年間、ばかでいつづけたんだから」
「三年もばかでいたら、もうばかをやめてもいいじゃないか。先生、おぼえてる? おれの部屋にきたつぎの日、生活を変えるチャンスだから、しばらくここに置いてくれって、先生、言ったよな。おれ、うれしかったんだぜ」
「おぼえてるわ。そう言ったわよ。ほんとにそう思ったんだもの。あたし、あなたと会った朝、あなただと知らずに、土手の道を走っている姿をずっと見てたのよ」
圭子は、渉のことを稲垣くんとは呼ばなくなっていた。
「なんだか鞭《むち》で心を打たれるような思いで見てたのよ、あなたが走る姿を。一心不乱って感じで走っている人がいるかと思うと、あたしはけだものみたいな男にボロボロにされて、泥の中に首まで浸《ひた》った生活をしてて、酒に溺れて、体売って……。走ってるのがあなただってわかったときは、あたし、眼がくらむくらい眩《まぶ》しかったわ。自分の愚劣さ、汚ならしさをはっきり見せつけられたのよ。あなたは眩しいくらいさわやかだったわ。だから、八百長なんか、やっちゃだめ。あたしを失望させないで」
圭子は畳に両手をついて、頭を振り立てるようにして言った。渉はどう答えたら、自分の胸の内の景色を圭子に伝えられるのか、わからなかった。ことばが見つからないもどかしさがあった。
「あたし、青木たちに半殺しにされてもいいのよ。半分は自分でやけになってまいた種なんだもの、青木とのことは……」
「止めてくれよ、先生。八百長なんてめじゃねえよ。八百長やんなくったって、おれは試合で浦上に敗けるかもしれないしさ。それに八百長やって金もらうってわけじゃないんだぜ。おれが粋《いき》がって、八百長の話蹴っとばせば、恰好いいかい? 先生がひどいめにあってボロボロにさせられるのを見棄てて八百長蹴っとばして、そんなのどこがさわやかなんだよ。おれは他の女ならそんなことしないよ。おれは先生の役に立ちたいんだよ」
渉は畳の上に突いた圭子の両手に、自分の手を重ねた。
「疫病神《やくびようがみ》ね、あたしは……」
「八百長のことは忘れるんだよ、先生。たいしたことじゃないんだから。おれ、リングに上がったら勝っちゃうかもしれないぜ、熱くなってさ。敗けたとしても、またすぐ世界ランカーに返り咲くよ。自信あるんだよ。絶対だよ。先生、無駄だぜ、八百長のこと気にしたって。仮におれが浦上に敗けたとしても、わざと敗けたのかどうか、誰にも判りっこないんだ。ましてド素人の先生には判らないよ。おれが八百長じゃないって言えばそれまでさ。そんなこと気にしないで、今度こそチャンスを活かして、生き直してくれよ。おれはいやだぜ、生き直したいって思ってるくせにそうしないのは。あのとき、稲垣くんに迷惑かけたくなかったから、ずるずると元の生活にもどったんだ、なんて言われちゃ、おれはたまらないよ」
「そんなこと言わない」
「言わなくてもおれはいやだ。ちゃんとなってくれよ、先生」
渉は圭子の肩をつかんで揺すった。圭子の首が大きく揺れた。そのたびに涙が散った。
「泣き虫!」
渉はさらにはげしく圭子の体を揺すった。
「青木のせいで学校をやめなきゃならなかったときも、そんなして先生、泣いたんだろう。泣くしか能がなかったんだろう。それで三年間、ふてくされて泥の中這いずりまわってたんだろう。もう泣くのはやめるんだな、先生。泣くぐらいなら吠《ほ》えろよ。吠えて跳べばいいんだよ。ファイトだよ。闘って負けそうな相手だったら、ちっとぐらい汚ない手使ったっていいんだよ。それが勝負なんだよ。正々堂々と闘ったら負けたっていいって勝負と、敗けたら何もかもパーだって勝負とあるんだぜ。負けていいのはゲームだよ。だけど先生は青木とゲームやってきたわけじゃないだろう、これまでの三年間……」
さっきは自分の胸のうちを伝えることばを探しあぐねた渉だったが、いまはことばがつぎからつぎにあふれ出てきた。渉は自分で自分の雄弁にまごついて、ことばを止めた。そうしなければ、夜通ししゃべりつづけかねない勢いだったのだ。
「ありがとう。わかったわ。あなたの言うとおりなのよね。あたし、素直になるわ。素直になって闘うわ。だから、あなたも今度の試合、ちゃんと闘って。闘うって約束して。あたしはあなたが八百長なんかしなくても、ちゃんと立直るから。あたしも約束するわ」
「よし。それでいい。先生、もう何も言うな。おれも言わない。お風呂入っといでよ。今夜、おれ、先生を抱くからな。そのかわり、明日からおれは会長の家に泊る。試合が終るまで、先生、しっかりこの部屋、留守番頼むぜ」
渉は言って、圭子を抱きしめた。圭子は渉の胸で何度もうなずいた。圭子の湿った温い息が、セーターを通して渉の胸に伝わってきた。
9
試合までの二ヵ月足らずは、渉にはひどく長く感じる時間となった。だが、過ぎてみると、短くも思えた。
その二ヵ月の間、渉はジムの会長にあらましの事情を話して、会長の家に寝泊りした。圭子にやくざがついているということは、会長には伏せておいた。中学時代の先生が、体をわるくして職を失い、住む場所に困っているので、アパートの部屋を提供することにした、とだけ告げた。会長は渉のことばをそのまま信じてくれた。
渉と浦上徹とのその試合は、実質的には、つぎの東洋ジュニアミドル級のタイトル挑戦権の賭けられたカード、ということになっていた。同時に、そのカードの勝者が、同じクラスの世界タイトルに挑戦できる可能性も、あれこれと取沙汰されていたのだ。会長にとっては、大きな期待を寄せている試合だった。そういう試合を控えた渉が、二ヵ月間も自分の眼の届くところで寝起きをすると、自分から言いだしたのだ。会長は渉がうしろめたさを覚えるほど、よろこんだ。
二ヵ月の間、渉は一日に一回は、アパートに帰って圭子とことばを交した。そのたびに彼は、八百長をやらないという約束のことばをくり返して、圭子を安心させた。圭子は大森の蛍光灯の部品を造っている町工場に、工員として働きはじめていた。働きはじめると、圭子はいくらかふとりはじめて、それを気にしだした。渉は体重の増えることを気にしている圭子をからかったり、羨しがったりした。渉のほうは減量めざして、毎日、体重計の針とにらめっこの日々がつづいていたのだ。
渉は、圭子との約束を破って、八百長試合をうまくやりおおせる肚《はら》を決めていた。そのための試合はこびの筋書きも、彼は密かに練りあげていた。浦上という選手の試合は、同じクラスのライバルとして、渉は何回かリングサイドで見ている。浦上はいわゆるボクサーファイターと呼ばれるタイプの選手だった。よくいえば、アウトボクシングもできるしインファイトもやれる。だが、どちらにも決め手は持たない、といった喰いたりなさがある。警戒すべきは右のストレートと、カウンターパンチだけだった。
渉は徹底的なブルファイターだった。揉《も》み合いながらのボディ攻撃と、いきなり放つロングフックが武器だった。
渉は浦上をインファイトに誘い込んで、わざと反則を犯すことを考えていた。減点を稼いで、それで判定敗けに持込む算段である。インファイトに持ちこみさえすれば、反則はいくらでもやれた。ロングフックを振ってとびこみざま、頭をぶっつける。揉み合いになったら、サミングもやれる。頭で相手の顔面をこするのもいい。ローブローなどは簡単だ。ラビットパンチも打てる。ショートフックがはずれたふりをして、肘打ちをかませるのも一つの手だった。
勝負に勝って、反則で負ければ、八百長は見破られない――渉はそういう試合はこびを立てていた。
相手は暴力団である。まともにぶつかって勝てる相手ではない。浦上との試合に勝つわけにはいかないのだ、と渉は自分に言い聞かせつづけた。上迫との闘いは、自分を汚してでも、勝たなければならない戦争だ、と渉は思った。ゲームではないのだ、と自分を自分で口説き落した。
試合当日、控室に入ったときの渉は、快活に見えた。事実、彼はあっけらかんとふっきれた気持でいた。
試合がはじまるまで、二時間近くの間があった。渉はウォーミングアップを入念につづけた。頭の中では、自分で練り上げた減点稼ぎのための試合展開を、反芻《はんすう》していた。
佐田が控室にやってきた。圭子が一緒だった。圭子が試合を観にくることは渉も承知していた。佐田は会場に現れた圭子を待ち受けていて、無理矢理に控室に伴ってきたのだろう。それが渉にはすぐに分った。佐田は中学時代の先生と一緒に、先輩を激励にきたというふうに振舞っていた。圭子もみんなの手前を慮《おもんぱか》って、ことばすくなに佐田に調子を合わせていた。渉はむろん、佐田が現れたのは、上迫の牽制《けんせい》策の一つだ、と見抜いていた。渉は佐田を適当にあしらって、控室から追い出した。ちょうど、バンデージを巻く時間になっていた。それがうまいぐあいに口実の役を果した。圭子も佐田と一緒に部屋を出て行った。ドアを閉めながら、圭子はふり返って、一瞬、強い光をこめた眼で渉を見た。渉は笑顔でうなずいてみせた。
試合は定刻どおり、午後七時五十分にはじまった。ゴングの前に、渉と浦上はレフリーに呼ばれて、リングの中央で短いメッセージを受けた。浦上はゆっくり足踏みをしながら上眼づかいに渉を見すえていた。渉はわざと体の力を脱いて、静かな眼で浦上を見返していた。渉は心の底で、浦上に頭を下げていた。やはり、面と向うと、試合を汚そうとしている自分を愧《は》じる気持が湧いてくるのだった。浦上に詫びたい思いが、胸にひろがってくるのだった。
レフリーのメッセージが終り、渉は浦上と軽くグローブを合わせて、コーナーにもどった。眼が無意識のうちに、客席の圭子を探していた。席はわかっていた。だが、圭子は眼につかなかった。代りに佐田と上迫の姿が眼にとび込んできた。二人は録画のために来ているテレビの放送席の二列うしろに、並んで坐っていた。
コーナーにもどると、会長がロープごしに声をかけてきた。はげましの声だった。渉は眼で応えた。トレーナーがマウスピースをはめてくれた。渉はコーナーマットにグローブを叩きつけた。試合の前のひとつの癖のようなものだった。
ゴングが鳴った。渉はふりむきざまにとび出していった。浦上が、会釈《えしやく》がわりにグローブを合わせようとして、ゆっくり腕を前に伸ばしてきた。渉はわざとその腕を叩き落すように払って、いきなり左のフックを振ってとび込んだ。パンチは軽くかわされて空を切ったが、客席は沸いた。挨拶がわりの浦上のグローブを叩き落すようにしてとび込んでいった渉の動きが、観客たちの眼にはむき出しのファイトと映ったのだった。
客席のその反応が、浦上の反撥心をあおった。それが渉にはわかった。浦上の眼が一気に猛々《たけだけ》しく燃えたのだ。ボクサーは、グローブと共に眼でも相手と闘う。浦上はスピードのあるジャブを、矢つぎばやにくり出してきた。ジャブの何発かは、渉の額とテンプルをヒットした。渉はクラウチングスタイルをとって、上体をゆすりながら、距離を詰めた。
浦上は左に回ってフックでボディを狙ってきた。浦上の左は、ボディ攻撃のために空いていた。渉はそこにロングフックを叩き込んだ。わざとオープンブローで打った。派手な音がした。渉はとび込んだ。浦上が両の手首で上から渉の肩を押えつけた。渉はかまわず、フックで浦上の脇腹《わきばら》を攻めた。一発だけ、浦上のトランクスの下のノーファールカップを横ざまに狙ってローブローを打った。レフリーがとびこんできた。二人は分けられた。レフリーは『低いぞ』と、渉のローブローを注意した。派手なゼスチュアだった。渉はうなずいて、浦上に小さく頭を下げた。
レフリーがファイトの再開を告げた。浦上がジャブを突き出して、大きく踏込んできた。渉はステップバックしようとした。左の爪先を、浦上の左の足が踏みつけていた。渉は体のバランスを失いかけた。ガードが空いた。そこに狙いすましたような浦上の右のストレートが飛んできた。それはしかし浅かった。渉はガードを上げた。とびこもうとした。二発目の右のストレートが飛んできた。カウンターパンチになった。浦上のグローブが正確に渉の顎の先端に当った。渉はのけぞった。一瞬、眼の焦点がぼけた。腰が落ちた。踏みとどまろうと足をはこんだ。膝が突っ張っていうことをきかなかった。渉は狼狽《ろうばい》した。方角がわからなくなっていた。不意にキャンバスが眼の前に迫ってきた。渉はそのキャンバスをグローブで掻くようにして倒れていた。
レフリーのカウントの声と、客席の喚声を、渉ははっきりと耳に入れていた。浦上は、わざと足を踏んだのだ、と渉は思った。それは疑いの余地はないと思えた。ジャブを放ちながら、ワンツーを狙ったにしては、浦上の左足の踏込みは、大きすぎた。それに、ほんとうにワンツーを狙ったのだったら、浦上の左足はまっすぐ前に踏み出されるはずだった。それなのに、浦上は大きく右斜め前に左足を踏み出してきたのだ。そういう姿勢で右のストレートをくり出せば、踏み出した左足が右足と交差する形になる。そして腰の回転にブレーキがかかる。当然、パンチの効果は減殺《げんさい》される。だが、相手の体勢を崩すには有効な反則である。
渉はレフリーのカウントを聞きながら、一瞬のうちに、浦上の意識的な汚ない戦術を見抜いていた。闘争心が渉の胸に沸き返った。半分は、効いたパンチを喰ったためだった。半分は、浦上の汚ないファイトに怒りを覚えたためだった。渉はもう、自分がわざと反則を犯して、その試合を汚ないものにしようとしていたことを、きれいさっぱり忘れていた。彼の頭には闘うことしかなくなっていた。
カウント・セヴンで、渉は膝を曲げて腰を起した。エイトで両腕をキャンバスに突き、足をそろえて立てた。ナインの声と同時に、渉は立ち上がって拳をかまえた。膝に脱力感が残っていた。レフリーが渉の眼をのぞき込んできた。渉は眼をみはるようにしてうなずいてみせた。
「効いてない、渉、効いてないぞ、行け!」
トレーナーの叫び声が耳に入った。レフリーが、渉の両肩を叩いてファイトを命じた。渉は距離を取ってゆっくりとリングを一周した。ラウンドの残り時間を示す電光板に、すばやく眼をやった。第一ラウンドの終了まで一分を残していた。
渉は歩くことをやめた。体を揺すった。距離を詰めた。渉の反撃を期待して、客席が沸いた。浦上のスピードの乗ったジャブが、渉の眼の上を狙ってきた。そこの古い傷痕を破って血を出させようという戦法だった。それがわかっていて、渉はジャブをかわせなかった。体が動かないのだった。顎に受けたパンチのダメージが残っていた。
渉は右眼の上の古傷が破られることを覚悟した。短期決戦しか、途《みち》はなさそうだった。渉はガードを固めてさらに距離を詰めた。
「回れ! 距離を取れ!」
渉のセコンドがわめいた。その声をはっきりと耳に入れながら、渉はとびこんだ。浦上は体を入れ替えていた。渉は頭からコーナーに突っ込んでいった。向き直ったときには浦上のリングシューズが、眼の下に見えた。脇腹に強いのがきた。肘で脇腹をかばった。空いた顎に左のフックが飛んできた。渉はロープにもたれて肘と拳でガードを固めた。眼は浦上の足の動きを追っていた。浦上はかさにかかって攻めてきた。パターンは一つだった。左のフックをボディと顎にダブっておいて右のアッパーを顎めがけて突き上げてくる。そうやって渉の顔を起しておいて、右のストレートでフィニッシュに持ち込もうという狙いだった。それははっきり読めていた。
渉は浦上のアッパーだけをよけた。左は打たれるままに任せていた。浦上のアッパーは振りが大きかった。そこがつけ目だった。渉はアッパーを空振りさせて、浦上の両足が横にそろって並ぶのを、執念深く待った。浦上の足は注文どおりにはそろわなかった。
浦上はアッパーが当らないために焦《じ》れたらしい。あるいは渉をコーナーから誘い出そうとしたのかもしれない。一瞬、攻撃をやめて軽くステップバックした。浦上のガードがそのとき完全に空いた。一瞬だった。渉はそれまでのガードの姿勢のまま踏み込んで行って、腰を落して左のストレートを伸ばした。それが浦上のボディを直撃していた。浦上はわずかにうしろによろけた。渉はとび込んだ。左のフックが浦上の顎を捉えた。右のフックがスムーズに出た。手応えがあった。浦上は吊りあがった眼で渉を見たまま、右の肩からキャンバスにくずれおちた。渉は浦上の両の膝が、完全に攣《つ》っているのを見届けて、ニュートラルコーナーに向った。彼はうつむいて、レフリーのカウントの声を聞いた。テンまでがひどく長かった。浦上は一度、腕と膝で体を支えて腰を上げたが、そのまま、ふたたび、顔をキャンバスに突っ込むようにして前にのめった。そのままの姿で、浦上はレフリーのカウントアウトの宣言と、試合終了のゴングを聞いていた。
10
「タクシーを呼んでくれ」
控室にもどるとすぐに、渉はついてきたジムの後輩に声をかけた。前座試合に出て負けた後輩は、眼の下の傷にテープを貼った顔でうなずくと、控室を出ていった。ばかに帰りを急ぐようすの渉に、会長が訝《いぶか》る眼を向けてきた。
「会長。ちょっと事情《わけ》があるんです。詳しいことは後で話しますから、今夜はこのまま帰らせてください」
渉は会長の前に立って言った。
「なんだよ、いきなり……」
会長は戸惑った顔になった。渉は黙って頭をさげ、トランクスの上からジーパンをはいた。リングシューズもはいたままだった。体には汗はほとんど出ていなかった。会長もトレーナーも、ジムの仲間も、呆気《あつけ》にとられていた。口々に何か言った。渉はそれを無視した。
圭子には、もし勝ったら試合が終りしだいに、会場をとび出して、浅草の小さな旅館に行くように言ってあった。上迫たちの仕返しを避けるためだった。渉も会場からまっすぐに浅草のその旅館に駈込むつもりだった。そこにしばらく潜《ひそ》んで、上迫たちの出方を窺《うかが》う肚《はら》でいたのだ。万一の場合は、渉は警察に駈込む覚悟もきめていた。
セーターを頭からかぶったときに、タクシーを呼びに行った後輩が、控室にもどってきた。車がつかまった、と聞くと、渉はスポーツバッグと革ジャンパーを、グローブをはめたままの手でひっつかんで、部屋をとび出した。タクシーをつかまえてくれた後輩が、あわてて後を追ってきた。会長とトレーナーも、渉の名を呼びながら追ってきた。
渉は外に出ると、後輩の指さしたタクシーにとび乗った。渉は行先を告げた。車はすぐに走りだした。渉は息をつき、シートに体を埋めた。歯を使ってグローブの紐を解きにかかった。
ようやく、片方のグローブの紐がゆるみかけたとき、渉は背中に強い衝撃を感じた。同時に運転手が声を上げた。追突されたのだ、とすぐにわかった。渉はうしろをふり向いた。大型トラックがリヤウインドウをふさぐ形に停まっていた。
「お客さん、だいじょうぶですか?」
運転手が声をかけてきた。渉はだいじょうぶだ、と答えた。運転手は車を道の端に寄せて停めた。トラックもすぐうしろについてきて停まった。ほとんど同時に、タクシーの前に白いリンカーンコンチネンタルが、すべるように回り込んできて停まった。運転手が車を降りて、トラックのほうに歩いて行った。それを待ち受けていたように、渉の横のドアが外から開けられた。男が立っていた。いつか拳銃を持ってアパートに押しかけてきた男だった。男は背広の裾で陰をこしらえて、そこに拳銃をかまえていた。
「先生は逃げそこなったよ。車を降りろ」
男は言った。渉は迷った。男はことばをつづけた。
「うしろのトラックの運転席を見てみろよ」
渉はうしろをふり向いた。トラックのルームランプがついていた。その明りの下に、佐田と並んだ圭子の顔があった。圭子は眼をむいた顔で渉を見ていた。渉はスポーツバッグをグローブの手でつかんで、車を降りた。男はタクシーの坐席の上に、千円札を二枚放り投げた。それから彼は、トラックから降りてきた男とやり合っているタクシーの運転手に声をかけた。
「運転手さん、彼、おれの知り合いなんだ。急ぐらしいからおれの車に乗っけるよ。タクシー代はシートの上に置いといたぜ」
男は運転手の返事を待たずに、渉の肩を抱いて、リンカーンコンチネンタルのほうに連れていった。渉の脇腹には、巧みに隠した拳銃があてられていた。渉はリンカーンコンチネンタルのリヤシートに押し込まれた。つづいて、佐田に抱えられるようにして、圭子が並んで車に乗せられた。最後に佐田が圭子の横に乗ってきた。拳銃の男は助手席に乗った。男は助手席から渉に拳銃を向けたまま、運転席にいた男に声をかけた。車が走り出してから、渉はハンドルをにぎっているのが青木だと気づいた。
車は白山通りを一ツ橋に向って進み、日比谷通りを抜けて田町に出た。そこからさらに鮫洲《さめず》に出て、自動車修理工場の看板のある小さな建物の前に停まった。青木が降りていって、工場のシャッターを開けた。青木は車にもどってきた。リンカーンコンチネンタルはそのまま、明りのともされた工場の中にすべり込んだ。工場の中はガランとしていた。中には車は一台も停まっていなかった。まん中に男が三人立っていた。一人は上迫だった。上迫はそのときも、スリーピースにネクタイという姿だった。上迫の右に、秋本がいた。青木と一緒に最初に渉の部屋に現れて、ストーブで頬をやけどした男だった。もう一人の若い男の顔にも、渉は見覚えがあった。拳銃の男と一緒に、渉を川崎の青木の部屋に引きずっていった男だった。
渉と圭子は、車から引きずり出された。青木と佐田が、圭子を渉から離れたところに引きずっていった。圭子はたちまち、二人がかりですっ裸にされた。青木と佐田は賑やかな笑い声をあげていた。
渉は拳銃男と秋本と、もう一人の若い男の三人がかりで、奥の作業台の前に連れていかれた。秋本が、渉の右腕を脇にしっかりと抱え込んで、グローブの紐を解いた。若い男が前にまわって紐の解かれたグローブを引っこ抜いた。その間、拳銃の男は、渉の後頭部に銃口を押しあてていた。腕を引かれるたびに、渉の頭が小さく揺れ、銃口が小突くように何度も後頭部を叩いた。
渉の前の作業台の上に、大きな万力《まんりき》があった。右手のグローブがはずされかけたとき、渉は相手の意図を察して、背すじをおののきが走るのを覚えた。渉の推察は当っていた。グローブをはずすと、秋本と若い男は、二人がかりで渉の右手を万力にあてがった。秋本が渉の手を押えたまま、足をあげて万力のバーを勢いよく蹴った。渉は左手も腰も押えられていた。回転するバーを停める術《すべ》はなかった。開いていた万力の歯はすべるように縮まった。厚い鉄の歯が、バンデージを巻いたままの渉の手に喰い込んできた。歯がしっかりと右手に噛みつくと、勢いよく回っていたバーが停まり、反動で小さく逆回転した。秋本がすぐにそのバーを両手でつかんだ。バーがゆっくり回された。渉は腹の底からしぼり出すような呻き声をあげた。渉の体が跳ねた。
「もう稲垣渉の右フック一発という試合は見られないな」
横で上迫の声がした。上迫は渉の頬にドスをあててきた。ドスは渉の頬の肉を突いたまま、静かに押してきた。渉はドスから逃れるために、顔をそむけた。すぐ横に、圭子がいた。圭子は無残な姿になっていた。彼女は大型のジャッキを抱いていた。いっぱいに揚げて開いたジャッキに、圭子の足首はロープで縛りつけられていた。ジャッキの開いた分だけ、圭子の両脚も押し開かれていた。圭子は片足を上にはね上げて、横向きにジャッキを抱かされていた。
「おもしろいもの見せてやるからな」
青木が笑った顔で言った。佐田も笑った。青木は手に小さなハンマーを持っていた。佐田は両手に大きなドライバーを一本ずつ持っていた。佐田が陰毛を失った圭子のクレバスを、ドライバーの先で割った。はざまの中心にドライバーの先が沈められようとした。
「圭子、ここは東京湾が眼の先だ。ていねいに海の底に沈めてやるからな。何も心配しなくていいんだぜ」
青木が言って、ハンマーを振り上げた。渉は息を呑んだ。思わず顔をそむけた。上迫が突きつけていたドスが、渉の頬の肉を貫いた。青木は叫んだ。同時に、圭子がすさまじい声を放った。
渉は頭の中が空っぽになった。妙に静まり返った空白が、渉を押し包んでいた。手足がひとりでに動いた。グローブをはめたままの渉の左の拳が、万力のバーをつかんでいた秋本の顎を突き上げた。秋本の手がバーから離れた。渉はバーを膝で蹴り上げた。バーが回った。万力がゆるんだ。渉の右手が万力から抜けた。同時に渉は拳銃で腰の上を射たれた。上迫のドスが渉の顔面を斜めに斬り下げた。渉は工作台にすがって、片膝を床に突いた。工作台の下に鉄敷《かなしき》が二つ三つころがっていた。渉は両手でそれをつかんだ。右手に激痛が走った。グローブをはめたままの左手で鉄敷をつかんだ。体をひねってそれを投げた。鉄敷は拳銃男のこめかみを打ち砕いた。上迫のドスが渉の右の肩口を刺した。渉はグローブをはめた左手で、ドスをつかんだ。足をとばした。上迫は腹を蹴られて腰をはねあげた。ドスは渉の肩に残った。渉はグローブの手でドスを引き抜いた。そのままドスを突き出した。拳銃男の首から血が音をたてて噴《ふ》き上がった。上迫が背中を見せて逃げはじめた。渉は追いすがった。上迫の背中にドスが突き立てられた。
青木と佐田が入口めがけて走っていた。渉も走った。青木と佐田が、閉めてあったシャッターの前で揉み合うような形になった。渉はリンカーンコンチネンタルの運転席にころげ込んだ。グローブをはめた手でエンジンをかけた。ギアをバックに入れた。そのまま走り出した。青木と佐田は、シャッターを押し上げて逃げようとしていた。コンチネンタルが、低く上がったシャッターに激突した。青木と佐田は上げかけたシャッターと車の屋根に首をはさまれていた。二人は叫び声すらあげなかった。
渉は車を停め、前に出した。佐田と青木は人形のように倒れ落ちたきり動かなかった。渉は車を停めて外にころがり出た。たった一人だけ無傷で残った若い男が、工場の壁伝いに外に走り出ていった。渉はそれを見向きもしなかった。渉の視線は、ジャッキを抱いたままの圭子だけを見すえていた。渉は立って歩けなかった。這った。這ったあとの床に血の航跡が曳《ひ》かれた。渉は圭子のところまでの距離がどんどん遠くなると思った。眼がかすむと思った。渉はもう、同じ場所で床を手で掻いているだけだった。
恋人に捧げる血刃
1
ゴミの収集車は、週に三回やってくる。
月曜日、水曜日、金曜日だ。その日の朝以外にゴミを出すことは禁じられていた。町内会の申合わせなのだ。町の美観をそこねるし、野良猫などが生ゴミをあさり散らして不衛生だ、というのがその理由だった。
申合わせはしかし、必ずしも守られてはいなかった。決められた日の前の夜に、こっそりゴミを出す者が後を絶っていない。
江原明夫《えばらあきお》もその一人だった。彼の場合はルール違反の常習者といっていい。
明夫はアパートの部屋に一人で住んでいる。ゴミの量も知れている。朝食以外は外食だから、部屋で炊事をすることも少ない。だから生ゴミもたいして出ない。若くて独り者の明夫にとって、朝の出勤前の時間は貴重である。毎朝、彼はぎりぎりまでベッドの中から出ないのだ。眠くて仕方がない。一分の睡眠がダイヤモンドほどにも思える。ダイヤモンドの時間を、ゴミごときもののために奪われたくはない。そこで明夫は、ゴミ収集日の前夜にこっそり出す、ということになる。
なにが町の美観だ、なにが不衛生だ、くそくらえ、といった気持も明夫にはある。
大田区|森《もり》ケ崎《さき》といえば、羽田空港に近い。騒音がひどい。小さな町工場がひしめいている。どこかくすんだような感じの場末だ。明夫の住んでいるアパートも、その町に似合って、古くてくすんだモルタル造りの二階建である。明夫はそこから、品川区|鮫洲《さめず》の小さな自動車修理工場に通っている。
その夜も、明夫はルール違反をする気になった。
テレビの連続ものの刑事ドラマが終ると十時だった。明夫はテレビから眼をはなしてベッドを降りた。
ベッドの足もとにゴミ入れが置いてある。金属製の円筒形のもので、外側は外国たばこの袋のデザインがそのまま使われている。明夫はゴミ入れを手に持って台所に行った。二畳敷ぐらいのせまい台所である。
小さな流しの下の物入れに、ゴミ用の青いビニール袋が突っこんである。明夫はその中にゴミ入れの中のものをあけた。丸められた汚れたティッシュペーパー、たばこの袋、クリーニング屋の薄いポリ袋、ちぎりとられた何かの正札、たばこの吸殻《すいがら》、紙屑、抜けた髪の毛――。
生ゴミは流しの隅《すみ》の三角のゴミ入れに詰まっている。ハムやソーセージの皮や切れっ端、卵の殻《から》、野菜屑、魚の骨、喰べ残し。三角のプラスティックのゴミ入れは、滅多《めつた》に洗われたことがない。手で触れるとぬるっとする。そのたびに明夫は眉をしかめる。そこに詰まっているゴミは明夫がこしらえたものである。ゴミ入れがぬるりとするのも、明夫が不精《ぶしよう》して洗わないからである。けれども明夫は、それがまるで自分以外の誰かのせいであるかのように、不快になり、かすかな肚立《はらだ》ちを覚える。そういう自分をどこかで嗤《わら》ってもいる。
生ゴミも青いビニールのゴミ袋に放り込んで、袋の口を結んでしまえば、あとは人目を忍んで、決められた場所に置いてくるだけである。
明夫は袋の口を結ぶと、流しで手を洗った。廊下に人の足音はない。明夫はゴミの袋を手にさげて、ドアを開け、廊下に出た。
ドアを閉めようとしたとき、隣の部屋のドアが開き、若い女が出てきた。隣室に住んでいる平井由美子《ひらいゆみこ》だった。
眼が合ったとき、二人は一瞬どぎまぎした。が、平井由美子が、すぐに口もとに笑いを浮かべた。彼女は左手を自分の体の前に小さく掲げるようにした。その手にも青いゴミ袋がさげられていた。明夫も笑った顔になった。由美子は出てきたドアを閉めると、明夫のそばにやってきた。
「かしなさい」
由美子があいた手を、明夫が手にしているゴミ袋にかけた。
「いいよ……」
明夫はゴミ袋を体のうしろに引いた。袋が脚に当って小さな音をたてて揺れた。
「二人で行くことないわよ」
由美子は強引《ごういん》だった。ぶっきらぼうに言って、明夫の手からゴミ袋を引ったくるようにして取った。そのまま彼女はサンダルをすこし引きずるようにして、廊下を進み、階段を降りていった。鉄製の外階段に足音がつづいた。明夫はその足音が消えるまで、ドアの前に立っていた。
明夫がそのアパートに越してきてから、まだ三ヵ月しか過ぎていない。平井由美子はそのときから隣の部屋に住んでいた。
越してきてからその日まで、明夫が由美子と口をきいたことは、数えるくらいしかなかった。隣室の住人が、若い女らしいとわかったのは、越してきてすぐだったが、顔を合わせるまでには、いくらか間があった。由美子もどこかに勤めているらしく、朝は早く出ていくし、夜の帰りはおそかった。
壁一枚をへだてて、隣同士に住みながら、明夫には由美子は別の世界の人間のように遠くに思えていたのだ。
明夫は部屋に入ると、窓をあけてみた。左右の手にゴミ袋をさげた由美子が、アパートの門を出ていく後姿が見えた。そのときになって彼は、自分の気のきかなさに気づいて、舌打ちしたい思いになった。自分が由美子のゴミもついでに捨ててやればよかったのだ、と思った。こういうふうだから、寄りつく女もいないのだ、などとも彼は考えた。
明夫は窓を閉め、テレビのチャンネルを回した。歌番組をやっていた。明夫はベッドにひっくり返って、テレビに眼を投げた。熱心には見ていなかった。なんとはなしに、外の階段にサンダルの足音がひびくのを待っていた。
階段の足音は耳に入らなかったが、入口のドアがノックされた。まさかそれが由美子だとは、明夫は思わなかった。彼は返事もせずに立っていって、ドアを開けた。そこに由美子の姿を見たとたんに、明夫の無愛想な表情がゆるんだ。
「ゴミ捨ててきたわよ」
由美子は言った。やはりぶっきらぼうなことばつきだった。いつものことらしい。
「どうもありがとう」
「まだ誰も出していなかったわ。あたしたちだけみたいよ、夜ゴミを出すのは」
「誰にも見られなかった?」
「だいじょうぶ。気分いいわね」
「なにが?」
「きまりを破るのが……。なんにもない道路端にこっそりゴミの袋置くでしょう。いつもあたし、胸がすっとするの。おやすみ」
由美子は真顔《まがお》のまま言って、ドアの前を離れて行った。明夫はそのうしろ姿に、おやすみ、と声をかけた。ドアを閉めてから、明夫は独りで笑いをもらした。胸がすっとする、という由美子のことばがおもしろかったのだ。変った女だな、と思った。
その夜、明夫は珍しく、長いこと寝つけなかった。
2
そういうことがあってから、明夫はゴミを捨てる夜が待たれるようになった。
明夫も由美子も一人暮しである。週に一回出せばすむくらいの量しかゴミは溜まらない、一週間後の夜、明夫は由美子の部屋に明りのついていることを確めて、ドアをノックした。
「ゴミ捨てに行くけど、溜まってない?」
「ゴミ捨ての御用聞き?」
「まあね。こないだのお返しと思ってさ」
「待ってて。いま袋に詰めるから。中に入ってて。ゴミ袋さげて廊下に立ってるとまずいじゃない。人に見られるわよ」
そんなやりとりがあった。由美子のゴミと自分のゴミを捨ててもどってくると、明夫はまた隣の部屋のドアをノックした。顔を出した由美子に、明夫は浮き浮きした気分で言った。
「胸がすっとすること、してきたよ」
そういうことがくり返されて、二人の間は一挙に近しいものになった。ゴミが取りもつ縁だった。ゴミの御用聞きのついでに、とりとめのない短い話を交すことが重なった。由美子が五反田《ごたんだ》の小さな会社で、事務の仕事をしていることも、そうしたやりとりの中でわかった。由美子が二十二歳だということも、明夫は知った。由美子が明夫に年をたずね、彼が答えると、あたしより二つも若いのね、と彼女が言ったのだ。『二つも若い』という由美子の言い方が、明夫にはおかしかった。
由美子がはじめて明夫の部屋にやってきた夜も、二人はルールを破ってゴミを出した。その夜は由美子が御用聞きにやってきた。あずかったゴミ袋を捨てた帰りに、由美子はいつものように明夫の部屋のドアをノックしたのだ。
「ちょっと上がって遊んでっていい?」
由美子はそう言った。
「ちょっとじゃなくて、朝までだってかまわないよ」
明夫ははずんだ声を出した。由美子は躍《おど》るような身ごなしで踏込みに入り、体の向きを変えてドアを閉めた。
「ベッドの上にでも坐ってよ。せまいからなあ」
「うちはもっとせまいわ」
「女の人は道具が多いんだろう? 鏡台とかなんとか」
「江原さんて、きれい好きみたいね。きちんと片づいてるじゃない」
「だって夜しか部屋にいないんだから、散らかる間がないよ」
「恋人いないの?」
「いたらおそらく夜もこんなしけた部屋にくすぶってなんかいないだろうな」
「まじめなんだ、江原さんは」
「恋人いないのがまじめなの?」
「男の人って、恋人がいなくても、よく遊ぶじゃない。お酒飲みに行ったり、トルコに行ったりとか……」
「行きたいけど金がないよ」
「あ、やっぱりトルコとか行きたいわけ?」
「妙な話になってきたな。何か飲む?」
「お酒飲もうか? 江原さん、お酒は?」
「強くはないけど、飲むよ。あんたは?」
「あたし強いの、お酒……」
「安物のウイスキーしかないぜ」
「いいわよ、なんでも」
明夫は台所から、ウイスキーのびんとグラスを持ってきた。由美子も台所にやってきて、勝手に冷蔵庫を開け、氷を出した。
一人用の小さな食台に酒のびんやグラスが並んだ。水割りのグラスを手にとって、二人はそれを宙にかかげて軽く合わせた。
「ほんじゃまあ……」
「ゴミ・ゲリラ万歳……」
それが乾杯のことばだった。
「いつか、あんたの部屋に遊びに押しかけたいなって、ずっと思ってたんだ、おれ……」
「遠慮しないでくればいいのに。江原さんが来ないから、あたしがしびれ切らしておしかけてきたんじゃない」
「恋人いるんだろう?」
「いないわよ、そんなもの。でも、あたしはまじめじゃないから、結構あそぶわよ」
「まさかトルコには行かないよね」
「女の人が行くトルコってあるらしいわね。うんと年とったら、あたし行くかもよ」
由美子はあけすけに言って、にこりともしなかった。とりとめのないやりとりがつづいた。酔いが進んでいった。話がとぎれると、二人はつけっ放しにしていたテレビに眼を向けた。夜のワイドショーがはじまっていた。画面で裸の女が踊っていた。カメラが煽情《せんじよう》的に下から踊り手の体を舐《な》めるようにして写していく。スパンコールのついたバタフライが光り、女の乳房がはずんでいた。
明夫は由美子を気にして、ふと画面から眼をそらした。由美子と眼が合った。由美子はいたずらっぽく笑った眼で、明夫をにらんだ。彼女はブラウン管の裸の女を眺めている明夫を、横からずっと見ていたらしい。
「見てたな」
「見てたわ。かわいい顔してたわよ、江原さん……」
「助平と思ってばかにしてたんだろう?」
「当り。でもばかにはしてないわよ。助平な人って正直でいいと思うもの」
「もっと正直になろうかな」
「どうぞ……」
「今夜、おれの部屋に泊っていけよ。壁の向うに寝るか、こっちに寝るかのちがいだけじゃない」
「それがたいへんなちがいじゃないの」
「やっぱりだめか……」
「だめとは言ってないわよ」
「ほんと?」
「江原さんがあたしを帰さなきゃいいんじゃない」
「よし」
明夫は食台の横から手をまわして、由美子の手を取った。由美子が明夫の手をにぎり返してきた。明夫は食台を横に押して、由美子を抱き寄せた。由美子は明夫の腕に体をあずけて眼を閉じた。すました感じの唇が上を向いていた。口紅の色が明るくつややかだった。明夫は唇を重ねた。ぶつけるようなやり方になった。明夫はそれを恥ずかしく思った。そういうことにあまり馴《な》れていない、と思われるのは癪《しやく》だった。だが、そう思われないためにはどうすればいいのかわからなかった。
明夫は由美子の唇を吸った。由美子が小さく舌をのぞかせた。二人の舌が絡《から》み合って舞った。由美子は明夫の肩にあてていた手を彼の頸《くび》にまわした。明夫は力まかせに由美子を抱き寄せた。舌を吸った。深くさし入れた。由美子が舌で唾液《だえき》を送りこんできた。明夫は頭に熱い火を浴びせられた気分になった。彼は夢中で由美子の唾液を飲み下した。お返しをした。由美子の喉がひっそりと鳴った。明夫は唇を離すと、由美子にはげしい頬ずりをした。愛《いとお》しさが胸にあふれてきた。
「本気に好きになりそうだよ」
明夫は言った。喉に何かが詰まったような声になってしまった。由美子は返事をしなかった。代りに彼女は明夫の耳たぶに軽く歯をあてた。明夫はそれに対してもお返しをした。耳たぶをそっと咬《か》まれて、由美子は体を小さくわななかせて、細く尾を曳《ひ》く声をもらした。由美子の胸が反《そ》った。ポロシャツの下の乳房が明夫の胸の横を柔らかく押してきた。明夫は由美子のポロシャツの胸に手をあてた。そのときはじめて彼は、由美子がブラジャーをしていないことに気づいた。シャツの下の乳房は固い張りをたたえていた。下から支えると、すばらしい重みが掌《て》に伝わった。
「ベッドに連れてって……」
由美子がささやいた。息がはずんでいた。明夫はうなずいた。体には火が燃えさかっていた。胸の中は甘い思いでいっぱいだった。
彼は由美子を抱え上げてベッドに移した。ドアの鍵をしに行った。もどると由美子は寝かされたままの姿でベッドで眼を閉じていた。明夫はテレビを消した。スタンドをつけて天井の明りは消した。
「脱いで……」
由美子は眼を閉じたまま言った。やはり息がはずんでいた。明夫はベッドの横に立って、着ているものを脱ぎはじめた。由美子も脱ぐものとばかり思っていた。由美子は眼を閉じたまま動かない。
「おれだけ脱ぐの?」
「江原さんに脱がしてほしいの」
明夫の胸に甘酸っぱいものが湧いた。明夫はブリーフ一枚の姿になると、由美子のジーパンのボタンをはずした。柔らかく息づく由美子の腹が、ポロシャツの布地ごしに明夫の手に触れた。それはひどくもろい柔らかさに思えた。
明夫の手が小さくふるえた。その手がジーパンのファスナーをおろした。白い小さなパンティの下に、しげみが影のようにうっすらと透《す》けて見えた。黒い木の葉の形を思わせた。由美子は腰を浮かせた。明夫はジーパンの端《はし》に両手をあてて引いた。白い太腿があらわれて、スタンドの明りににぶく輝いた。ジーパンと一緒にパンティが少しずり下がった。パンティの端からヘアがわずかにのぞいた。明夫は胸が詰まる思いに包まれた。
ジーパンを足から抜くと、由美子は上体を起した。眼は閉じたままである。明夫は由美子のポロシャツの裾をたくし上げた。乳房がたくし上げられたシャツの下から現われた。とび出す感じだった。むきだしになった乳房は固く揺れた。由美子は眼を閉じたまま、両手を万歳の形にあげた。明夫はポロシャツを脱がせた。シャツと一緒にたくしあげられた由美子の長い髪が、彼女の裸の肩や顔に散りかかった。
明夫は顔にかかった由美子の髪を、指先でていねいに横にさばいてやった。額にキスをした。由美子が眼を開けた。
「あたしも脱がせてあげる」
由美子は体をねじって、明夫のブリーフに手をかけた。明夫は照れて笑った。ブリーフは下にすべらされた。はげしく勃起したものがはじかれたように跳《は》ねて、明夫の腹を打った。すごいのね――由美子が言った。明夫はブリーフから足を抜いた。由美子は明夫の性器を片手で包んだまま、ベッドに横たわった。明夫は由美子のパンティに手をかけておろした。由美子が腰を上げた。パンティは細く丸まって、つややかな太腿《ふともも》の上をすべっていった。
由美子の愛らしい小さなふくらみの上に、ヘアが薙《な》ぎ倒されたようにはりついていた。しげみの下に、クレバスが淡い陰をつけて短くのぞいていた。
明夫はベッドに上がるなり、由美子の腰を抱き、唇を重ねた。由美子がすぐに舌で応えてきた。明夫は片方の膝で由美子の膝を分けた。明夫の太腿に、由美子のしげみが当っていた。明夫はその下に、火照《ほて》りとうるみの気配をたたえた柔らかいものを感じていた。
3
明夫はたちまち由美子に夢中になった。
由美子はふだんのぶっきらぼうな物言いとはうらはらに、ベッドの上ではひどく愛らしい女に変るのだった。愛らしくて大胆だった。自分も夢中になり、それが明夫を夢中にさせた。
由美子はいつも、自分では着ているものを脱がなかった。脱がしてほしい、と明夫に言った。明夫さんに脱がしてもらっていると、心がとっても柔らかくなるの、といつも言った。明夫も由美子の服を脱がせてやっていると、心が柔らかくなるのだった。
はじめての夜のときから、由美子は明夫の性器にキスをした。させてほしいの、とうるんだような眼で彼女は言った。彼女は明夫の腹や胸や太腿をさすりつづけながら、長いこと明夫を口で愛《いとお》しんだ。明夫はそれでたちまち回復した。
明夫もむろん、返礼を怠《おこた》らなかった。それは明夫には初めての経験だった。そこに口をつけることも初めてなら、女の体をそうやって間近に眼にするのも、初めてのことだった。
明夫はそれを美しいと思った。燃え立つ炎のような色に輝いて見えた。ふくらみは愛らしく、クレバスはつつましいもののように眼に映った。
クレバスの間にひそむ、小さなとがったものも、火の色をしていた。莢《さや》にくるまれて、小さく頭だけのぞかせているそれは、何か魅惑《みわく》的な秘密をはらんでいる芽のようにも思えた。
芽の下には二枚のピンクの双葉が、左右から身を寄せ合っていた。触れるとそのまま溶けてしまいそうに、柔らかい双葉だった。
双葉を分けると、そこにも鮮やかな炎が舞っていた。小さな起伏に囲まれた中心は、わずかにくぼみ、そこに透明に光る滴《しずく》が揺れながら溜まっていた。
そうやってつぶさに眼にしたものは、明夫の眼にしっかりと灼《や》きついているはずだった。だが、由美子と離れて一人でいるときは、もどかしいほどその像《すがた》はぼやけてしか眼に浮かんでこない。すると明夫は、由美子自身が遠くに去っていったかのような、心もとない気持に襲われるのだった。
はじめての夜のときは、由美子は明夫の望みどおりに泊っていってくれた。夜が明けて、まだアパートの誰もが起き出さない前に、由美子は足音を殺すようにして帰っていった。そうやって自分の部屋に帰っていく由美子を見送りながら、明夫はそのことにも甘やかな物思いを抱いた。
その夜も由美子は遅く帰ってきてから、明夫の部屋にやってきた。しかし、泊ってはいかなかった。明夫のほうから由美子の部屋に忍んでいく、ということはない。由美子が隣の部屋の住人の耳が気になる、と言ったからだった。明夫の部屋は四室並んだ中の一番奥の端だから、隣を気にする必要はない。
週のうちに三回か四回は、そうやって二人は明夫の部屋で会った。部屋で会わないときは、仕事が終った後で、明夫が由美子の勤め先のある五反田まで行って落ち合い、新宿や渋谷に出た。休みの日は、朝から外で落ち合って、レンタカーでドライブをたのしんだ。
恋人同士が、壁一つへだてたアパートの部屋に、隣同士で住んでいるのだ。明夫は部屋にいる間はいつも、由美子の部屋のようすに注意がいってしまう。二人とも、アパートの人たちの前では、親しさを押し隠していた。わかったところで、別に困ることはなかったが、噂の的にされるのはいやだった。
そうやって、一ヵ月ばかりが過ぎるころには、明夫は由美子の夜の帰宅時間に、一定のパターンがあることに気がつきはじめた。
由美子はいつもは遅くても夕方の六時半か七時にはアパートに帰ってくる。だが、月曜日と木曜日だけは、帰りが午前零時より早いことは珍しい。ときには帰ってこない夜があることも、明夫は知るようになった。そういう夜は、むろん明夫がデイトや部屋に誘っても、由美子は応じなかった。応じられない理由は、そのつど変っていた。残業、会社の仲間との約束、結婚した友だちの家に呼ばれている等々だった。
明夫ははじめはそれを疑わなかった。だが、きまって月曜日と木曜日に、由美子が誘いに応じないし、帰りも深夜になり、ときに外泊もするとなると、明夫も不審を抱かずにはいられなくなった。
だが明夫は、由美子に向ってその不審をあからさまにぶつけることはしなかった。ためらいがあったのだ。うるさく問いただして、由美子の機嫌をそこねたくはなかった。
たださずにいると、疑心はふくれあがって、ときに胸を塞《ふさ》いだ。疑心はまた、どうかすると嫉妬《しつと》に変った。由美子には他にも親しい男がいて、週に二日はその男のためにあけてあるのではないか――明夫はそういう妄想《もうそう》も抱いたりした。それが逆に鏡のようなぐあいに働いて、由美子に惚れきってしまっている自分の姿を明夫に視《み》せることにもなった。
知らない男が、由美子の固くはずむ乳房をたわませ、愛らしい乳首を吸い、炎の色をしたはざまに口をつける、と思うと、明夫の胸は詰まった。殺してやりたいとまで思った。
明夫は、そうした自分の妄想の生む嫉妬を、一方で打ち消したり、軽蔑したりした。重苦しい思いから逃れたかった。
彼はある日、決心して私立探偵のまねごとをした。
木曜日だった。その日、明夫は勤め先の工場を早退けして、五反田に行った。由美子の勤めている会社の場所はわかっていた。中原《なかはら》街道沿いにあるネオンサインの施工をやっている会社だった。広い道路をへだてた向い側に喫茶店があった。明夫はその店の中から、由美子の会社の正面に眼を投げて待った。
由美子は六時近くに、歩道に姿を現わした。会社の同僚らしい女二人が一緒だった。
明夫は喫茶店を出て、由美子たちの後をつけはじめた。さすがに気が咎《とが》めた。卑劣《ひれつ》なことをしている、と思った。そういうことをさせる種をまいている由美子を恨む気持も湧いた。そして、それらの気持をうわまわって、彼は由美子への強い執着を同時に覚えていた。由美子を失わずにおくためなら、どんなことでもすると思った。
由美子は五反田の駅の山手線のホームで、連れと別れて、外回りの電車に乗った。森ケ崎のアパートに帰るのとは、逆の方向になる。明夫は胸がさわいだ。彼は由美子とは別の乗降口から電車に乗り込んだ。車輛は同じだった。
車内は混んでいた。ラッシュアワーのピークを迎えていた。それが明夫には半面好都合であり、半面では不利にはたらいた。ラッシュだったために、明夫は由美子に気づかれることなく、同じ車輛に乗りこめた。だが、車内の厚い人垣の中では、電車を降りる由美子を見失うおそれがあった。
由美子がどこで電車を降りるか、むろん予測はつかない。明夫は最低料金の切符を買っていた。降りた駅で精算する肚《はら》でいた。
新宿でたくさんの人が降りた。明夫はいつでも電車を降りられるように、乗降口に近いところにいた。そのために、彼は新宿駅でホームに押し出された。彼は幸運だった。ホームに押し出されて、あわてて車内に窓ごしに眼をやった。ちょうど一つ先の乗降口から由美子が降りるところだった。
由美子はホームに降りると、人の流れにもまれて歩きだした。彼女はしかし、階段を降りずに、反対側の総武線のホームに足を停めた。乗り換えるつもりと見えた。
結局、由美子は東中野駅で電車を降りた。駅を出て、由美子は歩き出した。商店街の途中の道を左に折れた。道はすぐに、ひっそりとした住宅街に入った。
その先に小さな新しいマンションらしい建物が見えてきた。隣はお寺だった。人通りはまばらになっていた。宵闇《よいやみ》が細い道にたちこめはじめていた。
由美子はお寺の隣の建物の中に消えていった。ゆったりとした足どりに見えた。
〈東中野ハイツ〉と、建物の小さな門に表札が出ていた。門のすぐ前にマンションのガラスのはまったドアがあった。ドアごしにせまい玄関のフロアがのぞけた。正面にエレベーターがあった。由美子はエレベーターの前に背中を向けて立っていた。
明夫は門の前を通りすぎながら、マンションの建物を仰ぎ見た。各階の廊下は道に面して外についていた。廊下の手すりごしに、それぞれ色のちがう各室のドアが見えていた。そのドアを廊下の明りがにぶく照している。
明夫はそばのコンクリートの電柱の陰に立って、マンションを見上げた。興信所の冴《さ》えない調査員になった気分がつのった。かなしみに似た気持が湧いた。それが胸を汚してくるようにも思えた。
同時に、明夫は濃さを増している宵闇の中に、由美子のつややかな白い裸身を視《み》てもいた。柔らかくて温くて、なめらかでよくしない、はずむ由美子の体を思って、明夫はわけもなく吐息をついた。
マンションの四階の廊下に人影が揺れた。着ているブラウスの色と髪形などで、由美子だとわかった。
由美子は明るい緑色に塗られたドアの前で足を停めた。そこで彼女はバッグをあけて、何かを取り出した。それからドアに向い、うつむいて腕を動かしている。
明夫はそれを見ながら、首をかしげた。由美子の動作は、ドアの鍵をあけているところに見えた。解《げ》せないことだった。もちろんそこは由美子の住まいではない。それなのに由美子はその部屋の鍵を持っている――。
ドアが開き、由美子は中に消え、ドアはすぐに閉められた。
明夫は胸苦しい思いに捉えられた。彼の頭には、一つのことしか思い浮かばなかった。由美子はその部屋の鍵を持っている。それはその部屋の主と由美子が、他人同士以上の間柄にあるからこそではないか。たぶん、その部屋の主は男だろう。そして新しいマンションに住むくらいだから、森ケ崎の古ぼけたアパートに住んでいる、しがない自動車修理工よりは裕福な男にちがいない――。
明夫は自分がけわしい眼つきになっていることがわかった。叫びだすか、走り出すかしなければ、収《おさ》まりがつかない気分だった。まさかしかし、叫んだり走ったりするわけにもいかなかった。
明夫は電柱の陰からはなれた。足がひとりでにマンションの門の中に入っていた。そのまま彼は玄関のドアを押した。エレベーターは四階で停まっていた。明夫はボタンを押してエレベーターを呼んだ。どうしよう、というはっきりした考えはなかった。叫ぶか走るかする代りにそうしている、といったところがあった。
明夫は四階でエレベーターを降りた。左側に廊下への出入口のドアがあった。ドアを押して廊下に出ると、明夫は識《し》らぬまに足音を殺していた。
彼は緑色のドアの前で足を停めた。廊下の明りが、ドアの横の表札を照していた。それを見て、明夫は一瞬、うつけたような顔になった。わけがわからなかった。表札には、平井由美子とあった。由美子と同姓同名である。一字もちがわなかった。
予測がはずれて、表札に男の名前がなかったことは、大して明夫をよろこばせなかった。よろこびはわずかに胸に生まれかけてはいた。が新たに芽生えた不審の芽が、たちまち胸いっぱいに育っていって、その他の思いを覆《おお》いつくしていた。
目の前の緑色のドアを開けて、由美子と顔を合わせるのはためらわれた。そんなことをすれば、いまより事態はわるくなりそうな気がした。明夫は、来たときと同じように、盗っ人さながらに足音を殺して、廊下を引き返した。
その夜、明夫はアパートの部屋で、由美子の帰りを待ちつづけた。とにかく由美子を抱きたかった。由美子の気持をたしかめたかった。抱けばたしかめられると思った。詮索《せんさく》はしないつもりだった。
明夫は浅い眠りをくり返しながら朝を迎えた。由美子が帰ったようすはなかった。明夫はいつも由美子が起きて物音を立てる時間に、彼女の部屋のドアをノックしてみた。応答の声はなく、部屋の中は静まり返っていた。
4
一週間が過ぎた。
その間、明夫は由美子から遠ざかっていた。あれほど抱きたいと思っていた由美子から離れていることを、明夫は自分に課した。
どうしてそういうことをする気持になったのか、明夫自身にもよくはわからなかった。由美子に対する執着がさめたのかというと、そうではなかった。遠ざかっていることで、逆に彼女に対する熱い思いはつのっていた。
ただ、由美子の不審な行動を知りながら、その不審を胸にたたんだまま、何喰わぬ顔をして彼女と一緒に時を過せる自信はなかった。顔を合わせれば、由美子を問いたださずにはいられない。それが明夫にはよくわかっていた。不審をよそに、そしらぬふりをして相手ができるとしたら、明夫はそういう自分が自分でいやになるだろう、と思うのだった。
由美子から遠ざかるためには、明夫自身がアパートの部屋をあけるのがいちばんだった。明夫は仕事が終えると、そのまま盛り場に出て時間をつぶした。
その間に、明夫の足は何度も、東中野のマンションに向けられた。
東中野ハイツの、由美子と同姓同名の表札のかかった部屋は、明夫にとってはますます謎の場所となった。
由美子はその週も月曜日と木曜日の夕方に、その部屋に足をはこんだ。明夫はさらに、夜おそく、由美子と男がその部屋から出てくるのを目撃した。体の大きな、四十がらみの男だった。派手な格子《こうし》の服を着て、色の薄いサングラスをかけていた。
男と一緒に廊下に出てきた由美子は、自分でドアに鍵をかけていた。それから、男の運転する車で走り去った。その夜、明夫がアパートに帰ってみると、由美子の部屋には明りがついていた。
マンションの緑色の部屋から、由美子が中年男と一緒に出てくるのを見たとき、明夫の胸にくすぶっていた嫉妬は、はじめて実体を与えられたふうだった。彼は由美子とその男とが、なんでもない仲だなどとは、どうしても思えなかった。明夫は体の大きな中年男と由美子が、裸のままベッドで絡み合っているところを思い描いた。振り払ってもそれはくり返し、脳裡《のうり》に浮かんできた。まるで現実に眼にした光景のように――。
明夫の頭に浮かぶシーンの中で、由美子はいつも明夫自身にするのと同じ愛撫を、相手の中年男に施《ほどこ》していた。明夫は、年齢のわりには由美子がセックスについてさまざまな味わい方を心得ているわけを、理解したように思った。すべてはあの中年男の仕込みだったのだ、などと彼は考えた。
東中野ハイツのその部屋が、どうやら由美子と中年男の密会の場所だということは、そうやってわかった。
だが、それで謎のすべてが解けたわけではなかった。
緑色のドアのついた部屋に出入りしているのは、由美子たちだけではなかったのだ。由美子たち以外に、二組の男女が、それぞれ日時をちがえてそこに出入りするのを、明夫は一週間のうちに何回か見ていた。まるでそこは、共用の密会の場所、といったふうだったのだ。そして、誰がこの部屋の主で、誰がそこに住んでいるのかはわからない。
そうやって一週間が過ぎた夜、明夫は由美子を抱いた。由美子のほうが明夫の部屋にやってきたのだ。土曜の真夜中だった。
あたりをはばかるようなノックの音を聞いたとたんに、明夫にはそれが由美子だとわかった。明夫は返事をせずにいた。とんでいってドアを開けたい気持を必死に抑えた。それは長くはつづかなかった。
意志に逆《さか》らって明夫はベッドから降りていった。ノックをつづけている姿を、アパートの誰かに見られたら、由美子が気の毒だ、などと明夫は自分に弁解した。ドアを開けて、風邪か腹痛を口実にして追い返そう、と思った。それができる自信はなかった。
明夫は急ぎ足でドアに向った。返事はせずにいきなりドアを開けた。由美子は固い表情を見せて立っていた。臆《おく》したふうにも見えた。明夫はなんとはなしに、胸を突かれた。いつもの由美子の顔ではなかったのだ。明夫は自分もこわばった表情をしていることを忘れて、気づかわしげに由美子の眼の底をのぞきこむ眼になっていた。
「入っていい?」
由美子は小声で言った。他人行儀な言い方だった。明夫はうなずいた。由美子は入ってきてドアを閉めた。ふりむいた由美子が、胸をぶつけるようにして明夫の胸に倒れこんできた。由美子の髪に香料が匂った。明夫の意地はもろくくずれた。彼は由美子を腕の中に抱きしめた。唇を吸った。由美子の体から力が抜けていった。
部屋に上がると、由美子はつけっ放しになっていたテレビを黙って消した。そのまま彼女はベッドに仰向けに体を横たえた。
「脱がしてほしいの」
由美子は言って明夫を見上げた。眼がうるんでいた。うるみが見るまに盛り上がって滴《しずく》を結び、眼からあふれた。嗚咽《おえつ》をこらえているのが、腹のふるえでわかった。
「どうしたの?」
明夫は呑まれた顔でたずねた。
「脱がせてくれないのね、やっぱり……」
「やっぱり?」
「一週間、声もかけてくれなかったわ」
由美子は眼を閉じて言った。涙が閉じた瞼《まぶた》の間から湧き出た。明夫は返事に詰まっていた。気持がはげしく揺れた。一週間、声もかけずにいたわけを話そうか、と思った。どこからほぐして、どう話せばいいのかわからなかった。わからないままに、彼の手は由美子を脱がせにかかっていた。脱がせながら、彼は由美子の涙を唇で吸った。それが何の涙なのか、彼にはわからなかった。わからないままそれを唇で吸った。するとはげしいいとしさが彼の胸に湧き返ってきた。
由美子をすっかり脱がせてしまうと、明夫はむしりとるようなすばやさで、自分も着ているものを脱いだ。
ベッドに体を伸ばすと、由美子が彼に抱きついてきた。由美子はそのままぴったりと全身を合わせて、明夫の上に重なってきた。唇が合った。明夫は由美子の舌を強く吸った。由美子がうめいた。明夫は吸うのを止めた。二人の舌がはげしく絡み合った。唇が吸われた。由美子の温い唾液が、あふれるようにして明夫の中に送りこまれた。明夫はふるえる思いでそれを飲み下した。
「好きよ。大好き……」
由美子は明夫の頸《くび》すじを唇でついばみながら言った。狂おしげな声だった。明夫は下から由美子の背中を強く抱きしめた。東中野ハイツの緑色のドアの部屋のことや、体の大きな中年男の姿が、明夫の胸にちらついた。しかし、裸の由美子を腕の中で抱いていると、由美子に欺《あざむ》かれているなどということは、ありえないできごとと思えてくる。
由美子は明夫の耳たぶを甘く咬《か》み、頸すじに唇を這《は》わせ、胸にキスの雨を降らせた。そうしながら、由美子は上から押しつけた腰を小さくゆらめかせ、あるいは反らせた。明夫も下から由美子の頸すじに唇をつけ、耳たぶに舌の先を這わせた。明夫の両手は、肉の薄い由美子の背中を撫《な》で、脇腹をさすり、丸く盛り上がった臀部《でんぶ》の丘を這いまわった。
明夫はやがて、由美子と体を重ねたまま、体を反転させた。仰向けになった由美子の胸から太腿までを、何度も静かに撫でた。
乳房が明夫の手の中で固くはずんだ。白く輝く乳房だった。それが明夫の指をしっかりと押し返してくる。乳首は小さいまま、固くふくらみきって、明夫の掌《てのひら》を突いてきた。
明夫は両の乳首を吸った。二つの乳房を中央に寄せて、そこに彼は顔を埋めた。はげしい頬ずりをした。不審も嫉妬も熱い思いの中で溶け去っていた。明夫は大きく口をあけて、乳暈《にゆううん》ごとすっぽりふくんだ。喰べてしまいたい、と思った。胸に湧きかえるいとしさに、愛撫の手が追いつかない、といったもどかしさがあった。由美子は自分の胸におかれた明夫の頭を抱きしめ、頬ずりした。片手は明夫の髪をまさぐり、片手は彼の性器を捉《とら》えていた。そこに由美子の指が這うたびに、明夫は全身に熱い疼《うず》きが走るのを覚えた。
明夫は由美子のしげみに手を移した。そこを静かに掻き撫でた。下着に押えられて伏せていたヘアが、少しずつ身をもたげてくるのを、明夫は眺めた。そこもこの上なく愛らしいものだった。こんもりとなったしげみは、おだやかな丸味を備えた半球体に見えた。そこに明夫は頬ずりした。ヘアを唇にはさんでついばむようなことをした。
しげみの下はすっかり熱くうるんでいた。うるみは由美子の内股にも及んでいた。明夫はそれがうれしかった。そうやって由美子をよろこばせていることがうれしかった。明夫はうるみに浸《ひた》された由美子のはざまに指を這わせながら、彼女の腰に唇をつけた。唇はそのまま脇腹を伝い、由美子の細い腕に移り、腋窩《えきか》の奥にもぐり込んだ。由美子の腋《わき》の下のくぼみは、かすかな影のような青味をおびて湿っていた。明夫はそこに唇を押しつけ、歯をあて、鼻をすりつけた。由美子は体をわななかせてあえいだ。
狂おしい火が明夫をかり立てていた。彼はふたたび由美子の乳首を舌ではじき、吸った。乳房のいたるところに唇を押しつけ、頬ずりをした。
「キスマークつけて。明夫のキスマークがほしいの。明夫のしるしがほしいの」
由美子がかすれた声で言った。由美子のことばつきにも、狂おしげなひびきがあった。明夫は由美子の乳房の内側に唇を押しつけた。強く吸いつづけた。できればそのまま、由美子の全身の血液を吸いつくして、自分の体の中に納めたい、と明夫は思った。
由美子の両の乳房の内側に、それぞれ鮮やかな唇の跡が生まれていた。由美子はそれを見て、涙のあとの残る眼で切なそうにうなずいた。
「他にもつけてやる」
明夫は言った。彼は由美子の内股に顔を埋めた。ひろがったうるみが明夫の顎《あご》や頬を濡らした。由美子が大きく開いた膝を立てた。明夫は由美子の内股の深いところに唇をつけた。吸った。片方の内股にも同じことをした。薄く細いヘアの列の両側に、小さな花のようなしるしが生まれた。明夫はそこを撫でた。指がうるみに濡れた。由美子の炎の色をしたはざまが息づくようにうごく。すると明夫がつけた小さな花も、わずかにうごめいた。
明夫はほころんだままの由美子のはざまにもはげしい頬ずりをした。うるみを吸った。それでも思いは足りなかった。もっとはげしいしるしが欲しかった。手だては思い浮かばなかった。明夫はベッドに突かれている由美子の足の甲にキスをした。足の爪先を頬ばった。足指の一本一本を口にふくんで舌でなぞった。由美子はあえぎながら、子供の泣き声に似た声をあげつづけた。
明夫はふたたび、由美子のはざまに顔を埋めた。思いつきがひらめいた。明夫は自分のその思いつきにおののいた。彼は由美子にうつ伏せになってほしい、と言った。由美子はそのとおりにした。うつ伏せになった由美子の両脚を、明夫は大きく開かせた。
うすいヘアに覆《おお》われたはざまの丸味がのぞけた。その上に、くすんだピンクの小さな花に似たものがあらわになっていた。明夫は由美子の豊かな臀《しり》の丘に顔を埋めた。舌を伸ばした。舌は臀の谷間の奥の小さな花に押しつけられた。そこを這いまわった。はげしく躍りもした。由美子はふるえる声を細くもらし、体をわななかせた。由美子の腰が揺れた。
「明夫……明夫……」
由美子はうわ言のように明夫の名を呼びつづけた。泣いているような声だった。明夫は舌を動かしつづけた。舌は小さな花に似たものと、その下の熱くうるんだはざまにものびて躍った。
不意に由美子は押し殺したような叫びをもらした。彼女の背中が強く反った。明夫の伏せた顔の下で、由美子の臀がうねりながらふるえた。由美子の頭も宙に浮いて強く反っていた。
その頭がベッドに落ちて、由美子の体から力が抜けていった。明夫は体を起した。そのまま、彼は由美子の背中に胸を重ねた。由美子はすぐに明夫の体の下から抜け出ると、彼の性器に頬ずりした。明夫は自分の内股に、由美子の唇が押しつけられ、強く吸われるのを感じた。
5
「明夫ってやさしいのね……」
由美子がだしぬけに言った。明夫は裸のまま、ベッドに仰向けになってそれを聞いた。彼はことばを返さなかった。代りに由美子の髪を静かに撫でた。由美子も裸のままである。彼女は明夫の胸に頬をつけて、彼の腰に腕を回している。
二人ははげしい抱擁の後で、体をはなしたばかりだった。由美子の胸の谷間に、明夫のつけた二つの唇の赤い跡が、両側から寄り合って一つに見えている。
「あたし、おどろいたわ、あのとき……」
しばらくして由美子がぽつんとことばを吐いた。それも唐突《とうとつ》な言い方だった。
「おどろいたって、なにが?」
明夫は深い息を吐いて、訊《き》いた。
「今週の木曜日の夜……」
「今週の木曜日?」
「そう。だってあたしがマンションの駐車場で、車に乗って、ひょっと前を見たら、明夫がマンションの門の陰にちらと見えたんだもの……」
由美子はそう言った。静かな声だった。明夫はぎくりとした。彼は一瞬、息を停めていた。
「知ってたのか……」
明夫は頭の下に手を重ねて言った。
「明夫も知ってたのね、東中野ハイツのあの部屋のこと……」
「部屋のことはよくはわからないけど、由美子が月曜日と木曜日にあの部屋に行くことは知ってたさ」
「どうしてわかったの?」
「だって、月曜日と木曜日に限って、由美子はおれから離れていって、帰りもおそかったり、泊ったりだったから、変だと思ってたんだよ」
「でも、どうして東中野ハイツにあたしが行くことがわかったの?」
由美子は訊いた。明夫はすぐには答えなかった。尾行をしたことの疚《やま》しさが、胸を刺した。
「怒らないでほしいんだけど、おれは汚ないまねをしたんだ。由美子のあとをつけたんだよ。先週の木曜日に……」
「そうだったの」
由美子は明夫の胸を手で撫でながら言った。声が沈んでいた。明夫は由美子が気をわるくしたか、と思った。
「どうして尾行なんかする気になったのか、自分でもよくわからないんだ。とにかく、なんだか不安だったんだ。怒らないでくれよ」
「怒ってなんかいないわ。ほんとよ」
由美子は明夫の胸に唇をつけた。
「おれ、由美子が、月曜日と木曜日だけじゃなくて、だんだんずっと離れていくんじゃないかと思って、それが不安だったんだよ」
「ばかねえ。どうしてそんなこと考えるの? 反対よ。あたしはもっともっと明夫にくっついちゃおうと思ってるのよ。そう決めたの」
「東中野ハイツのあの部屋には、どうして由美子の表札がかかってるの?」
明夫は訊いた。彼は由美子のほうから話の糸口をつけてくれたことで、大きく気持が救われていた。そうなると、それまでわだかまっていた由美子に対する疑惑のすべてを、一気にはらしてしまわなければ、落着けない、と思った。
「話すわね。あたしもいろいろあったのよ」
「みんな、それぞれ、いろいろあるよ」
「怒らないで聞いて。軽蔑したかったらしてもいいわ」
「一緒に車に乗ってた、あの中年の男と、体の関係があるんだろう?」
「あるわ。二年越しよ。彼はあたしの勤めてる会社の社長なの」
「東中野ハイツの部屋は、あの社長が借りてるか、買ったかしたものなのか?」
「湯浅《ゆあさ》さんてちゃっかりしてるのよ。あの部屋は、湯浅さんがあそびの仲間三人で、共同でお金を出して借りてるのよ」
「社長は湯浅って名前なのか?」
「そう。湯浅|忍《しのぶ》。忍なんて女みたいな名前でしょう。名前だけじゃないわ、根性も女みたいな奴」
「湯浅のあそび仲間の二人も、あそこに女を連れ込んでるのか?」
「そうなの。それぞれみんな週に二日ずつ、あの部屋を使う日を決めてるの」
「どうして表札が由美子の名前になってるの?」
「部屋借りるときの名義人があたしになってるからなの。便宜的《べんぎてき》にそうしてあるだけ」
「いろんなこと考えるんだな、中年てのは」
「そうよ。いろんなくだらないことをつぎつぎに思いつくのよ、中年の男たちって。湯浅さんたちは、あの部屋でスワッピングをやろうって話してるようすなの」
「スワッピング?」
「それぞれ自分の愛人をとっかえっこしようって計画らしいの」
「ふざけた野郎だ。そんな奴と由美子はどうして二年間もつきあってきたんだ?」
「仕方なかったのよ」
「なにが? 金をくれるのか? 湯浅が」
「あたし、湯浅にだまされたのよ」
「だまされた?」
「結局、あたしがばかだったんだけどね」
「かみさんがいるんだろう? 奴には」
「子供もいるわ。奥さんとは離婚して、あたしと結婚するって、二年間ずっとあきもしないで、同じ科白《せりふ》を言いつづけてるわ」
「好きだったのか? 由美子は……」
「女って、熱心にくどかれつづけるとわるい気はしないものなの。それに、あたし湯浅さんが初めての男性だったのよ。あたしもひところは夢中になったわ、やさしくされて。だから、彼を憎んだり恨んだりはしないつもりよ」
「やさしくしてくれたけど、結局はおもちゃにされてるんだろう?」
「そうなのね。何度も別れようと思って、彼に話をしたわ。でも、絶対にいやだっていうの。別れたら殺してやるって……」
「無茶苦茶じゃないか」
「無茶苦茶なのよ」
「そのくせ、スワッピングして、由美子をあそび仲間の男たちに抱かせようなんてことを考えるんだろう?」
「あたしもいけなかったのよ。明夫とこうなるまでは、本気で彼と別れようとはしなかったのね。別れなきゃいけない、別れたほうがいいって考えるだけで……」
「いまは?」
「決心したわ。だからキスマークつけてほしいって、さっき言ったのよ」
「キスマークを奴に見せるのか?」
「わざわざ見せたりはしないわよ。でも、好きな人ができたから別れるって、湯浅さんにはもう言ったわ。彼は半信半疑らしいけど」
「おれが湯浅に会って話をつけてやろうか?」
「だいじょうぶ。あたし自分でやるわ。明夫は表に出ないほうがいいの。明夫が出ていくと湯浅も意地になるわ」
「由美子をおもちゃにしてて、何がいまさら意地だよ」
「そりゃそうだけど、湯浅は女みたいに執念深いし、ちょっとうるさい男だから……」
「うるさいって?」
「賭け事が好きなのよ、彼は。それで暴力団が開いている賭場《とば》に出入りしてて、そっちのほうの人たちとも親しいの」
「湯浅が暴力団を使って、おれに何かするかもしれないって思うわけ?」
「そういうことが絶対にないとは言いきれないわ」
「汚ない野郎だな。やってみろってんだ。暴力団には勝てないかもしれないけど、おれも黙ってやられてはいないぜ」
明夫は言った。由美子への見栄《みえ》や虚勢もいくらかはあったが、本心でもあった。
「とにかく、あたしにまかせて。もう東中野ハイツにはあたし絶対に行かないわ。約束する。そして、後くされのないように、湯浅とはきちんと話をつけて清算するから、あたしを信じて……」
「ケリがついたら結婚しないか? 一緒に暮そうよ。そうしたいんだ」
「ありがとう。うれしいわ」
由美子の声が湿ってふるえた。明夫の裸の胸に、由美子の涙が落ちてきた。
「あたし、ずっと明夫のこと好きだったのよ。明夫がこのアパートに越してきた日のことを、あたし、よく覚えてるのよ」
「なにかあったっけ? あの日……」
「雪が降ってたでしょう。明夫は雪の中を一人でトラック運転して荷物はこんできたのよね」
「そう言えば雪だったなあ、あの日は」
「日曜日だったけど、あたし風邪でその三日前から熱出して、ずっと一人で寝てたの。隣の部屋で物音がするから、誰か越してきたのかな、と思って、お手洗いに行ったついでに窓から外を見たら、明夫が一人で階段を昇ったり降りたりして、荷物はこんでたわ」
「手伝い頼めそうな知合いもいなかったし、無理言えそうな友だちは、みんなスキーとかデイトとかで予定組んでたから、言えなかったんだよ」
「ベッドでも洋服ダンスでも、なんでも一人で運んじゃうんだもの。すごい力だなと思って、あたし見てたの」
「みんな小さくばらせるからね」
「荷物はこぶ明夫の姿見てるうちに、あたし、熱のせいか、なんだか自分がとってもさみしくなっちゃったの」
「どうして?」
「はじめは、雪の中で一人で引越をしている明夫を見て、あの人、手伝ってくれるお友だちもいないのかしら、なんて思ってたんだけど、考えてみたら、人のことどころじゃないわけ。あたしだって、風邪で熱出して、三日も一人で寝てて、誰も見舞いにもこないような身分なんだって気がついたの。そうしたら、いろんなこと考えちゃったわ」
「それでさみしくなったのか?」
「秋田県の田舎の高校出て、東京に働きにきて、会社をいくつか変って、二十歳になったときはもう、四十歳を越した世帯持ちの男の愛人になって、でも、そういうことは誰にも打明けられないから、一人で悩んだり、辛くなって夜、ベッドの中で泣いたりして、病気したら青い顔して、ろくに物も喰べないで一人でせまい部屋に何日も寝てる――それがあたしの東京での生活なんだって思ったら、なんだか体の中に大きな穴があいちゃったみたいだったわ。そして、隣に越してきたあの人も、きっと田舎から出てきて、東京でひとりぽっちのさみしい毎日を送ってるんだろうななんて考えたの。そんなことがあったから、余計に明夫のこと意識しはじめて、いつか声をかけよう、いつかいろいろ話をしよう、なんて思うようになってたの」
「誰の歌だっけ? 東京砂漠とかって歌あったよね」
「あった……」
「湯浅が、別れないとか、好きな人ができたと言っても信用しなかったら、かまわないからキスマーク見せてやれ」
明夫は言った。それから彼は体を起して、由美子の胸に顔を伏せた。明夫は乳房の横のキスマークにまた唇を押しつけて強く吸った。顔を上げて、彼は言い足した。
「ただし、湯浅に見せるのは一回だけだぜ。それも胸のところのやつだけだ。下のほうのは絶対に見せるな。湯浅とはもう絶対に寝ないでほしいんだ」
「あたりまえじゃないの。そう決めたから、あたし何もかも明夫に話したのよ」
「うれしいよ、おれ……」
二人の唇が重なった。明夫は唇を重ねたまま、また由美子の温いはざまに愛撫の手を伸ばしていた。
6
つぎの週の月曜日の午後に、明夫は由美子の勤め先に、工場から電話をした。由美子がそうしてほしいと言ったのだ。
由美子は会社では社長秘書といった立場にいるらしい。由美子の席は、湯浅のデスクのすぐそばにあるのだ、と彼女は言った。由美子に明夫がデイトの落合い場所や時間を電話で連絡すれば、そのやりとりは湯浅の耳に入る。それが由美子の狙いだった。
月曜日と木曜日は、湯浅にとっては由美子と東中野ハイツで夜を過す日に当っている。その日を由美子は、湯浅の前で明夫の電話を受けてつぶそう、というのだった。それくらいのあてつけをしなければ、湯浅はほんとうに由美子が関係を清算したがっているとは思わないだろう、と彼女が言ったのだ。
その週の木曜日の午後にも、同じように明夫は、工場の事務室の電話を借りて、由美子の会社に電話をした。
つぎの週も同じだった。明夫と由美子は、その二週間、それぞれの仕事の時間をのぞいては、ほとんど一緒に時をすごした。
日曜日には、二人は午後から外に出かけていって、不動産屋を何軒かまわった。二人で住むためのアパートを探すためだった。
由美子はアパートが見つかりしだい、湯浅の会社を辞《や》めるつもりになっていた。湯浅との関係を断ち切ったあとも、彼の会社に残るというのはぐあいがわるい。明夫にとってもそれは不安なことに思えた、新しい仕事は、アパートがきまってから、新聞広告で探すことにしていた。
二人はできれば、大森か大井町あたりに住みたかった。明夫の工場が鮫洲だから、大森か大井町|界隈《かいわい》なら通勤に便利だった。そして由美子の新しい勤め場所も、その近くに探せたら、言うことはない、と二人は話し合った。いずれにしても、新しい住まいは、第一京浜国道より北側に、と二人は望んだ。森ケ崎は出たかった。埃《ほこり》っぽい場末《ばすえ》の町はもうまっぴらだったのだ。夜ふけに近所の人の眼を盗んでゴミを捨てるのが、気がひけるような町に行こうよ、と言って、二人は笑い合った。
不動産屋の店のガラス戸に貼り出してある物件は多かった。だが、二人の経済的な条件に見合うのは、ほとんどが第一京浜国道の南側にあるもので、場所はちがっても、森ケ崎と大差のない、ごみごみした場末でしかなかった。
明夫と由美子は、しかしあきらめなかった。つぎの日曜日にまた不動産屋めぐりをしようということで、その日は外で食事をして、アパートに帰った。はじめて一緒に住む部屋に、二人はそろって夢を抱いていた。安易にあきらめて妥協する気なんかなかったのだ。
つぎの日の月曜日にも、明夫は五反田の由美子の会社に電話をした。その日の夜に落合う場所と時間がきまった。新宿駅の東口のリーフという喫茶店に六時半、ということになった。
リーフでは明夫はそれまでにも由美子と何回か落合ったことがある。
明夫がその日、リーフに着いたのは、約束の時間の十分前だった。由美子はまだ来ていなかった。小さな店である。一階と二階に分かれていた。明夫は由美子の姿がないことを確めて、一階の入口に近い席に着いた。コーヒーを注文して、たばこに火をつけた。
六時四十分になり、五十分になり、七時になった。由美子は現われなかった。三十分も遅れているとなると、さすがに明夫は気がもめてきた。遅れるなら遅れるで、電話ぐらいかけてきそうなものだ、と思った。それもなかった。明夫は由美子の身に何か異変が起きたのではないか、と胸騒ぎを覚えた。はこばれてきたコーヒーはとうに飲んでしまっていた。灰皿には吸殻が並んでいた。
七時十分に、入口のドアが開いて、体の大きな中年男が店に入ってきた。それが湯浅だとは、明夫はすぐには気がつかなかった。無理もなかった。明夫が湯浅を見たのは一度だけだった。それも東中野ハイツの前の暗い中で、距離をおいてのことだった。人相の細かいところまでは確認していない。
湯浅はリーフの店内に入ってくると、すぐに明夫を見つけた。彼は明夫の前にまっすぐに寄って行き、無言のまま、テーブルをはさんで坐った。明夫はいきなり眼の前の椅子に坐った男を見て、はじめてそれが湯浅だとわかった。
「由美子は来ないよ、いつまで待ってもな」
湯浅はかすかな笑いを見せて、低い声で言った。明夫は咄嗟《とつさ》にはことばが返せなかった。そんなところにやってきた湯浅の魂胆《こんたん》を測りかねて、明夫は身がまえるような気持になった。
「ぼくが誰だか、わかるでしょう?」
湯浅はていねいな口をきいた。
「湯浅さんだろう?」
明夫は気負った表情になっていた。
「そんな怖《こわ》い顔しなくてもいいですよ。由美子のことで、ぼくはあんたを恨んだりはしていないんだから」
湯浅の表情は変らない。
「由美子はどうしてここに来ないんだ?」
「それは、ぼくの口からは言えないなあ」
「どうしてだい?」
「ぼくはあんまり他人のことをペラペラ人にしゃべるのは好きじゃないんだ。それに、由美子のことは、あんたが直接、由美子に聞けばいいことだからな」
「もってまわった言い方はよしてほしいな、湯浅さん」
明夫はまっすぐ湯浅を見すえて言った。いくらか気色《けしき》ばんだ口調になった。明夫はそれを押えられなかった。
「あんたは、何かおれに言いたくて、わざわざここに来たんだろう? おれが今夜ここで由美子と会うことは、あんたはおれと由美子の電話のやりとりを聞いてて知ってただろうからな」
「そんなに喧嘩腰になるなよ、江原君……」
湯浅は笑った顔で言って、通りかかったウェイトレスにコーヒーを注文した。
「言いたいことがあるんなら、スパッと言ったらどうなんだ。言っとくけど、由美子があんたから離れたのは、あんたが彼女をおもちゃにしてたからなんだぜ。結婚するなんて言って、若い女たぶらかす中年男なんて、最低じゃないか」
「言ってくれるねえ。おもちゃにされたというのは、由美子が言ったことかい?」
「そうだよ。由美子もはっきり言ったし、あんたのやってることは、誰が見たってそう見えるんじゃないのか?」
「どうも、こういう場所でする話じゃないとは思うが、場所移して話すほどのことでもないから言うけど、ぼくはあんたに忠告をしたいと思って、ここに来たんだ」
「忠告?」
「江原君ねえ、由美子はありゃあんたが考えてるような、しおらしい女じゃないんだぜ」
「おれが由美子をどう考えてようと、勝手だろう」
「まあ、聞けよ。ぼくが由美子にふられたから言うわけじゃないが、あの女はしたたかなんだよ。あんたは由美子に利用されてるんだよ」
「由美子が何のためにおれを利用するんだ?」
「いいか、江原君。ぼくはたしかに、由美子がこれまでに何回か別れ話を持ち出すたびに、聞き流して相手にしなかった。別れたら殺す、なんてことも言ったよ。まあ、痴話喧嘩みたいなものだから、それくらいのことはことばの綾《あや》として口に出すよ」
「何を言いたいんだ? いったい」
「だからおれと本気で別れようと思ったら、由美子としては何か仕掛けが必要だったんだよ。あんたはその仕掛けに利用されてるんだよ」
明夫は笑いだしてしまった。
「要するにあんたが言いたいのは、由美子はおれには惚れちゃいなくて、ただ、あんたと別れるためのダシに使ってるんだ、ということなんだな」
「そのとおりなんだよ、江原君」
「なにが江原君だ。あんたの言ってることは忠告でもなんでもない、ただのお節介《せつかい》。やきもちから足ひっぱろうとしてるだけのことじゃないか」
「あんたはぼくのことばを素直に受取ってくれないらしいな」
「あたりまえだろう」
「断言するけど、由美子はあんたのことなんか屁《へ》とも思っていないよ。あんたはぼくと別れるためのダシに利用されてるだけ。由美子には他にほんとうに惚れてる男がいるんだから」
「いいかげんなことばかり言うねえ、あんたも。ふられたらふられたで、もっとさっぱり男らしくしろよ。由美子が言ってたのは本当だなあ。湯浅って男は女みたいに執念ぶかいって……」
「あんたも気の毒な男だな、江原さん。由美子はね、今ぼくが言った、ほんとうに惚れた男と一緒になるために、ぼくと別れようと考えて、あんたをダシに使ったんだよ。嘘じゃない」
「そうかい。それなら訊くけど、ほんとうに惚れた男とやらのために、あんたと別れるのに、由美子はどうしておれをダシにする必要がある? その男のことをあんたに言って別れちまえばすむことじゃないか」
「そこがちがうんだよ。由美子は、その惚れてる男に、ぼくとのこれまでの関係を知られたくなかったんだよ。ぼくと別れるためにその男のことをぼくに言えば、ぼくがその男に会うといいだすのを、由美子はおそれてたのさ。そこで、あんたを防波堤に利用したってわけさ」
「防波堤だと?」
「だってそうだろう。江原君を好きになったから別れてくれと由美子が言えば、おれは江原君にぶつかっていく。そして由美子にとって本命の男は、あんたという防波堤で守られる。由美子は過去の中年男とのただれた愛欲関係を、本命の男には知られずにすむ。そういうことを考えつく女なんだぜ、由美子ってやつは」
「どこまでいっても、あんたの話はおかしいじゃないか」
明夫は薄笑いをうかべて言った。彼は湯浅の言うことは、てんから信じていなかったのだ。
「ぼくの話のどこがおかしい?」
「あんた、どうして由美子におれ以外の本命馬がいるってことを知ってるんだ?」
「この二週間かけて、興信所に調べさせたんだよ。好きな男ができたから別れてくれって由美子が言い出したからね。そしたら、興信所はあんたの他にも由美子に男がいるってことをつきとめてきたんだ。相手は一流大学を出て、大きな商事会社に勤めてるエリート社員だ」
「そこまでわかったのなら、防波堤のおれにじゃなくて、そのエリート社員のほうに由美子の悪口を吹き込んでやればすむことだろうが」
「もちろん、そうしたよ。今日の午後に本人に会った。顔色変えてたよ、エリート社員は。嘘だと思ったら、これから東中野ハイツの四〇五号室に行ってみるんだね」
「なにしにそんなところにおれが行かなきゃならないんだ?」
「東中野ハイツのその部屋は、ぼくが由美子と会うために借りてたんだ。由美子はその部屋で、ぼくの眼を盗んでエリート社員とずっと前から逢い曳きしてたんだ。それも興信所の調べでわかったことだ。いまごろ由美子はあの部屋で、必死になってエリート社員に弁解してるよ、ぼくとの関係についてな」
「由美子はそこに行ってるのか? いま」
「ぼくが昼間、エリート社員に何もかもぶちまけたからな。エリート社員が由美子を電話で呼び出したんだよ。信じないんだったら行ってみたらどうなんだ」
明夫は時計を見た。七時三十分になろうとしていた。由美子は現われそうにもない。
明夫は伝票をつかんで席を立った。湯浅の話を信じる気にはなれなかった。だが、由美子が東中野ハイツにいると聞けば、事情もわからず、それが事実かどうかもわからないまま、明夫はやはり行ってみずにはいられなかったのだ。
「わるいな、ぼくのコーヒー代も払ってくれるの?」
湯浅は立ち上がった明夫に言った。明夫は返事はせずにレジに向った。湯浅が席に坐ったまま声をかけてきた。
「部屋に入れないといけないから、鍵を貸してあげるよ」
湯浅はホルダーからはずした鍵を投げてよこした。明夫は、それを手で受けた。
「向うは用心して、あんたを入れないかもしれないからな」
席に残ったまま、湯浅は笑った顔で言った。粘りつくような感じの笑いだった,明夫はそれを気にしつつ、店を出た。
7
新宿から東中野ハイツまでは、いくらも時間はかからなかった。
その僅《わず》かな時間の中で、明夫の気持はすこしずつ揺れを増していった。
由美子が一時間たっても約束の場所に現われなかったことから、明夫はすこしずつ、湯浅の話がまんざら嘘ではないのではないか、と思いはじめていた。
しかし、湯浅の話が事実だとすれば、それは明夫にはおそろしいことだった。自分が由美子に利用されているのだなどとは、信じられなかった。
東中野ハイツに近づくにつれて、明夫の胸ははげしくざわついた。四〇五号室の緑色のドアの前に立ったときは、明夫は自分の心臓の音が耳に届きそうな気がした。
ドアの横の表札は、前のままだった。それを見るのはいい気持のものではなかった。
明夫はドアチャイムのボタンを押した。中でチャイムの鳴る音がした。それ以外には物音はしない。返事もなかった。明夫は間をおいて三回チャイムを鳴らした。やはり返事はなく、ドアも開けられなかった。
明夫は湯浅が貸してくれた鍵を鍵穴にさしこんだ。息苦しいような圧迫感が胸に高まっていた。小さなにぶい音がして、鍵が開いた。
明夫は鍵を抜き、ポケットにもどし、ドアをそっと細く開けてみた。奥に明りが見えた。玄関の踏込みに、覚えのある由美子の靴があった。男物の靴も一足あった。話声も物音も聞こえない。
明夫は自分の顔がこわばり、歪《ゆが》むのを覚えた。踏込みの靴を見た瞬間、彼は湯浅の話を信じる気になっていた。胸に炎がひろがった。何の炎かわからなかった。
明夫は音のしないようにドアを閉めた。自分がこれから何をしようとしているのか、よくはわかっていなかった。ドアは音を殺して閉めたくせに、明夫は踏込みに立ったまま、奥に向って由美子の名を呼んだ。
「おれだよ、由美子。いるんだろう?」
「来ないで! 明夫……」
するどい声が返ってきた。最後は悲鳴に変っていた。明夫は平手打ちの音をはっきり聞いた。
「由美子、どうした!」
明夫は叫ぶなり、土足のまま奥に走った。明りのついている突当りの部屋に駈込んだ。
そこで明夫は足を払われて、床にころがった。はね起きようとした鼻先に、ドスが突きつけられた。
「騒ぐんじゃないよ、ばかが。隣近所が迷惑するだろう」
男がうす笑いを浮かべた顔で、明夫を見おろしていた。とても一流商社のエリート社員とは思えない男だった。一見して暴力団員とわかった。
明夫は男から眼をそらした。部屋の隅に、由美子がいた。素裸だった。由美子の頸すじや乳房や太腿には、いくつもの鮮やかなキスマークがついていた。それだけではなかった。明夫がつけた乳房の内側のしるしは無残な赤い火ぶくれの跡に変っていた。由美子の顔や体には、殴られた痕《あと》が赤紫色に残っていた。顔もむくんだように腫《は》れ上がっていた。由美子は乱れた髪に半ば覆われた顔を明夫に向け、小さくいやいやをするように首を横に振った。見る間に彼女の眼に涙が盛り上がってきた。
明夫はおよその事情を察して、思わず唸《うな》った。ドスを突きつけている男を、明夫はすさまじい眼で見た。
「うまくはまりやがったな。いまさらそんな面《つら》したってはじまらねえよ。おどろいたか。おれが湯浅さんの言ったエリート社員よ。もっとも勤め先がちょいとちがうけどな」
男は言った。
「湯浅に頼まれたんだな?」
「おれは頼まれなくったって、おもしろい仕事なら自分から買って出たい性分さ」
「湯浅の野郎、汚ない手を使いやがって」
「えらそうな口をきくなよ。人の女かっぱらやあ、ちっとは痛い目にあうのは仕方がねえだろう。それがいやなら、あの女、湯浅さんにもどせ。もどさねえってんなら指を詰めるんだな」
「それが湯浅に頼まれた仕事かい?」
「そうだよ。わるく思うな。人の女に手を出したおまえがわるいんだ。どうする? 指か、それとも女をもどすか?」
「どっちも断わる」
ことばの終らないうちに、男の腰がくだけた。床に腰を落していた明夫が、男の脛《すね》を靴で蹴ったのだ。明夫に恐怖はまるっきりなかった。あるのはたぎり立つ怒りだけだった。
男はうしろによろめいた。明夫ははね起きた。男が腰を落して身がまえた。横に開いた右手にドスが光った。
「ばかが。意気がると怪我するぜ」
男は唇を歪《ゆが》めて言った。眼が不気味にすわっていた。明夫はジーパンの腰のベルトを引き抜いた。端を右手に一巻きした。
ベルトが風を切ってひるがえった。それが男の眼の横を打った。バックルの金具が男の皮膚を裂《さ》いた。血が滴った。由美子がはりさけそうなほど眼を見開いて立ち上がった。
ベルトはふたたび鋭くうなって宙を走った。男は左腕をあげてそれを払った。男は突っ込んできた。明夫は右の手首の上に刺すような痛みを感じた。そこに血が噴き出た。由美子が喉に息を吸う音を立てた。由美子は壁伝いに走って、その部屋を出た。
男はまたドスを突き出してきた。明夫は足を飛ばした。ドスが明夫の靴の甲を切り裂いていた。そこにも血がにじみ出てきた。明夫は滅茶滅茶にベルトを振り回した。男のこめかみが破れた。
由美子が部屋にもどってきた。由美子はうしろから男の背中めがけてまっすぐに走ってきた。男がうめいて、がくんと首をうしろにのけぞらした。男の手からドスが落ちた。明夫は事態を呑みこめないまま、落ちたドスにとびついた。そうしないと、男がそれを拾ったら、由美子が刺される、と思った。それしか考えていなかった。
明夫はドスをつかんで体を起した。男は体をねじって、由美子につかみかかろうとしていた。明夫は何も考えていなかった。迷いもためらいもなく、ドスをまっすぐ突き出していた。
男の喉が嘔吐《おうと》のときに似た音を立てた。ドスは男の左の脇腹に柄まで埋まっていた。男は腕を宙に突き出し、白く眼をむいたまま、体をひねるようにして床にくずれ落ちた。男の背中に、果物ナイフが埋まっていた。ナイフの柄が、男が体をふるわせるたびに、一緒に小さく揺れるのを、明夫は荒い息を吐きながら見おろしていた。
由美子も焦点の定まっていないように見える眼で、手足をふるわせている男を見おろしていた。火ぶくれといくつもの唇の跡をつけた由美子の乳房と腹は、返り血で赤く染まっていた。
先に床に坐りこんだのは、由美子のほうだった。明夫は倒れている男の頭をまたいで、由美子の前にしゃがんだ。どっかりと尻を落したしゃがみ方だった。そのまま明夫は由美子の頸のうしろで両手を組み、額をつけた。ことばはすぐには出てこなかった。長い時間、二人はそうしていた。どこか遠くで、テレビのものらしい音楽や人の声が聞こえていた。床にころがった男は、すでに動かなくなっていた。
はじめに口を開いたのは明夫だった。
「おれが殺したんだ……」
明夫の声はしわがれた老人の声のようだった。
「ちがうわ。あたしよ。あたしが先に刺して殺したのよ」
由美子の声も細くて病人のように力がなかった。それきり、二人はまたしばらく押し黙ったまま、額をつけ合っていた。まるで二人の脳を一つにして、同じことを考えようとするかのように。
「二人で殺したんだ。それが正解だよ」
明夫がまた、ぽつりと言った。由美子の眼からつづけさまに涙が落ちた。しかし由美子は肩をふるわせもしなければ、洟《はな》をすすることもしなかった。涙だけが、勢いよく噴きこぼれて落ちた。
「二人で刑務所に行く?」
由美子は言った。言って由美子は短く笑った。乾いた風のような笑い方だった。
「二人で刑務所に行こう。そのまえに、湯浅を殺してな」
明夫も笑った。喉に笑い声が詰まったようにひびいた。
「リーフに行けなくてごめんね」
「いいんだよ、もう……」
「あたし、ばかだったわ」
「どうして?」
「湯浅が脅《おど》したのよ、あたしを」
「なんて言って?」
「別れたら、暴力団を使って、明夫を半殺しにするって。指の一本も詰めさせるって。それがいやなら、暴力団の一人と一度でいいから寝ろって。そうしたら明夫を半殺しにもしないし、きっぱり別れてもやるって」
「いつ湯浅はそんなこと言ったんだ?」
「今日のお昼。明夫が電話をくれた後で。暴力団の男は、この部屋で待ってるって、湯浅は言うのよね。だからあたし、夕方までには全部すませてリーフに行けると思ったから、湯浅に行くって言ったの。そしたら湯浅は車であたしをここに連れてきたわ」
「キスマークつけたのは、この野郎か?」
明夫はしゃがんだまま、片足をのばして、息絶えている男の頭を蹴った。
「ちがう。キスマークつけたのも、明夫のつけてくれたキスマークをライターの火で焼いたのも、湯浅よ」
「やっぱり殺すしかないな」
「殺すしかないわよ。湯浅とそいつは、二人がかりであたしをいいようにおもちゃにしたわ」
「下のキスマークも焼かれたのか」
「下も焼かれたわ」
「見せてみろ」
由美子は立ち上がった。膝を曲げて小さく腰を落した。左右の内股に赤い火ぶくれが並んでいた。細く短い毛もこげて、そこは黒ずんでいた。明夫は火ぶくれの痕《あと》にそっと唇をつけた。由美子が小さく声をもらした。
「痛かった?」
明夫は立ち上がって訊いた。由美子は血の気のない顔でうなずいた。
「電話で湯浅をここに呼び出そう」
「来るかしら」
「来させるよ。ダイヤルしてくれ。おれが出る」
明夫と由美子は、サイドボードの前に行った。電話はサイドボードの上にあった。由美子がダイヤルを回した。明夫は受話器を耳にあてて、相手の出るのを待った。若い女の声が受話器に流れた。湯浅の娘だったらしい。相手は電話口で『パパァ』と大声をあげた。受話器に湯浅の声がひびいてきた。
「湯浅さんですか? 江原です……」
明夫は神妙な声を出した。
「どうした? 指にしたか、それとももう一つのほうか?」
湯浅はひそめた声でそう言った。
「いろいろすいませんでした。由美子は湯浅さんにもどします。それで、ここにいる男の人が、湯浅さんをここに呼んで、きちんと頭を下げろって言ってますから、すいませんが、こっちに来てくださいませんか」
「由美子はそこにいるのか?」
「はい、います」
「よし。すぐ行く。二十分だな。二十分でそっちに着くよ」
湯浅はそのときだけ、はずんだ声を出した。明夫は受話器を置くと、また喉の奥にかすれたような笑い声をたてた。
「来るよ、奴は……」
明夫は由美子に言って、彼女の肩を抱いた。そのまま彼は、由美子に浴室の場所を聞き、彼女をそこに連れて行った。シャワーで由美子の体についた血を洗い流してやるためだった。
8
ドアチャイムが鳴った。
明夫が湯浅に電話をしてから、二十分余り後だった。
由美子はすでに服を着て、ソファに坐っていた。明夫が由美子の肩を抱いていた。向き合ったソファの向うに、男の死体が、倒れたときのままの恰好でころがっていた。腹に刺さったドスは抜いてソファの端に無造作に置かれていた。男の背中の果物ナイフは、刺さったままだった。
チャイムが鳴るとすぐに、由美子がソファを立って、玄関に向った。由美子の脹れ上がった顔には、表情がなかった。明夫は由美子の後姿を見送りながら、ソファの上のドスを手に取った。ドスは血で汚れたままだった。
玄関でドアの開く音がした。
「ざまあみろ。江原の奴、泣きを入れただろう」
低い声で湯浅が言うのが聞こえた。由美子は答えなかった。靴を脱ぐ気配が伝わってきた。口笛が聞こえた。由美子が部屋に入ってきた。一足おくれて湯浅が姿を現わした。明夫はソファから立ち上がった。
湯浅の眼が吊り上がった。彼はソファのうしろの血溜まりの中にころがっている死体を見ていた。湯浅の口から、ことばにならないうめき声のようなものが洩れた。明夫は湯浅の前に立った。湯浅の唇と頬がはげしく痙攣《けいれん》した。由美子は部屋の入口の格子のドアを閉めると、ドアにもたれて立った。
「決着はこういうことになったよ、湯浅」
明夫は言った。湯浅は何か言いかけて唇を動かしたが、声が喉に詰まったようすだった。眼だけがひきつったまま、明夫の顔と、彼の手にあるドスとに、あわただしく向けられていた。
「おれたちがなんのために、おまえをここに呼んだか、わかってるだろうな?」
「わかってる。よくわかってる」
湯浅は言った。言うと同時に、湯浅は床に膝を突いた。土下座の形で、彼は頭を床にすりつけた。
「謝る。勘弁してくれ。このとおりだ。由美子とはきっぱり別れる。だました埋合わせに、すこしぐらいなら慰謝料《いしやりよう》を払ってもいい。ぼくがわるかった。ほんとにわるかった。赦《ゆる》してくれ」
湯浅はまくしたてた。声はふるえていた。明夫ははずみをつけるようにして、土足で湯浅の頭を蹴った。湯浅は横にころがって逃げようとした。
明夫は重いうなり声を発しながら、汗が流れるまで、湯浅を靴で蹴りつづけた。湯浅の耳のうしろから血が流れ出た。湯浅は大きな体をせいいっぱい小さく丸めて、腕で頭をかばっていた。その腕の下から明夫の靴の爪先が蹴りこまれた。湯浅の顎が鳴った。
「謝らせるために、あたしたちがあんたをここに呼んだと思ってるらしいわね」
由美子が言った。明夫は乾いた笑い声を立てた。
「あたしたちがあんたをここに呼んだのは、あんたに死んでもらうためよ。うじ虫みたいなあんたに死んでもらうためなのよ」
由美子は呟くように言った。
「赦してくれ、赦してくれ、赦してくれ!」
湯浅は体を丸めてうずくまったまま、くぐもった声で言いつづけた。
「車のキーを出せ」
明夫が言った。
「出すよ。なんでも出す。あんたがこの男を殺したことも、警察には黙ってる。約束するよ。誓う、誓うよ。だからおれを赦してくれ。頼む。車でもなんでもやるから、勘弁してくれ」
湯浅は言って、ポケットからキーホルダーをつかみ出して、明夫の前に投げた。
「冗談がきついんじゃないか、湯浅。殺されたあとで、おまえはどうやって何を警察に言うっていうんだよ」
「殺さないでくれ、頼む!」
「あたしたちが欲しいのは、あんたの命だけよ。うす汚ないうじ虫の命だけ。他はなんにもいらないわ」
由美子が言った。湯浅は床に額をすりつけたまま、すすり泣きをはじめた。泣きながらなおも湯浅は赦しを乞うことばをはきつづけた。
明夫は足もとに投げられたキーホルダーを拾いあげて、ポケットに納めた。由美子は部屋を出て行った。彼女は隣の部屋からベッドカバーをはがして持ってきた。手順はすべて決めてあった。
明夫は由美子にドスを渡した。代りに彼女の手からベッドカバーを受け取った。由美子は強く唇をひき結んでいた。
明夫はベッドカバーを投網《とあみ》のように投げひろげて、うずくまっている湯浅の体の上にすっぽりとかぶせた。湯浅が叫んではね起きようとした。その背中に、由美子が両|逆手《さかて》で持ったドスを突き立てた。
湯浅の喉が鳴った。高くはね上がった背中が反って、そのまま床にくずれ落ちた。ベッドカバーにゆっくりと血がにじんできた。
明夫はベッドカバーの下ではねている湯浅の頭を足でしっかりと踏みつけた。彼はさらに、ベッドカバーの上から、湯浅の首の位置をなぞってたしかめた。耳の下と思えるあたりに指をあて、明夫は由美子に眼配《めくば》せを送った。
由美子は能面のような顔で、立膝をした。ドスが低く突きだされた。ベッドカバーの下で、湯浅の頭が揺れた。噴き出す血が内側からベッドカバーを打つ音が、一瞬、強くひびいた。
湯浅と、関野洋一という名の暴力団員の死体が発見されたのは、つぎの日の夜だった。
見つけたのは、湯浅と共同で東中野ハイツの四〇五号室を使っていた、インテリヤの店の店主だった。店主が警察に通報して、事件は明るみに出た。
つぎの日の昼前には、森ケ崎のアパートの庭に停められていた湯浅の車が発見された。それが、明夫と由美子の死体の見つかるきっかけとなった。
二人は明夫の部屋で、農薬を飲んで息|絶《た》えていた。遺書はなかったが、二人の片手が、ネクタイでしっかりと結びつけられていたことから、自殺と断定された。
人妻に捧げる狂気
1
ホテルの入口は暗かった。
先に美那子《みなこ》が、躍りこむ、といった感じで中に入った。則夫《のりお》はあとにつづきながら、まだそのなりゆきが信じられずにいた。
美那子は、係の女に案内されて部屋に入るまで、一言も口をきかなかった。則夫は、美那子が後悔して、不機嫌になっているのではないか、と気になった。四階まで上がるエレベーターの中でも、その場の沈黙が、則夫には息苦しく思えてならなかった。
案内の女は、抱えてきたポットを、座敷のまん中のテーブルに置き、湯舟の湯の蛇口をひねると、短いことばを残して、部屋を出て行った。鉄製のドアが、にぶくひびく音を立ててしまった。
「お茶でも飲む? それともお酒?」
美那子は坐卓の前に坐ったまま言った。視線は則夫を避けて正面の壁に投げられていた。則夫は坐卓の角をはさんで、美那子の横に坐った。
「菅井《すがい》さんはどっちがいいのかな?」
「あたしはどっちでも……」
「じゃあ、すこし酒飲むか」
則夫は言って、自分で冷蔵庫の扉を開けた。ビールを取出し、グラスと一緒に坐卓の上に置いた。
「おれ、まだ信じられないよ」
ビールの栓《せん》を抜きながら、則夫は言った。
「こういうところによく来るの?」
美那子が言った。眼が合った。美那子はわずかにこわばった笑いを見せていた。眼には揺れる光があった。
「相手がいなくちゃ、来たくても来れないもん。そうでしょう?」
「あたしもはじめてよ」
「でも、どうしていきなりおれを誘ったんだろうなあ?」
「そんなこと言われたって……。誘いたくなったからよ」
美那子は言って、則夫の注いだビールを半分ほど、一気に呷《あお》るようにして飲んだ。
(誘いたくなったから、か……)
則夫は美那子が吐いたことばを、胸の中で呟《つぶや》いていた。
まったく思いがけないなりゆきだった。
則夫は仕事を終えて、アパートで着替えると、新宿に出てきた。あてはなかった。ぶらりと出て行けば、何かいいことがあるかもしれない、といった気持からだった。しかし、ほんとうに、いいことなんかを期待していたわけではなかった。街明りと雑踏の中にまぎれていれば、それでいくらか気持がはずむ、というだけのことだった。
美那子とは、新宿駅東口を出たところで出くわした。先に声をかけたのは、則夫のほうだった。美那子は立川市にあるスーパーマーケットに勤めている。則夫は三日に一回はそのスーパーに行く。彼は食肉の配送をするコンテナートラックの運転手なのだ。
スーパーマーケットで美那子と顔を合わせれば、二言三言、ことばを交す、といった程度の間柄でしかない。だが、則夫のほうは、美那子のことを、それまでいくらか特別の意識で眺めてきた覚えがある。小柄で、色白で、どことなくいつも沈んだ感じに見える美那子だった。沈んだ感じのところに、やさしさと色気のいりまじったものを、則夫は感じていたのだ。それに惹《ひ》かれていた。美那子が結婚している身だ、ということも、いつか誰からともなく、則夫は聞いていた。
新宿駅東口の人ごみの中で眼にしたとき、美那子はかすかに眉を寄せて、怒ったような横顔を見せていた。則夫が近づいて声をかけると、美那子は一瞬、どぎまぎしたようすをみせた。声をかけられて迷惑だったのではないか、と則夫は思ったほどだった。
『買物かなにか?』
『そうじゃないの。柏原さんは?』
『おれはなんとなく新宿をぶらつこうと思ってさ』
『あたしもそうなの。お茶でも飲む?』
『いいのかな? おれが相手で……』
『あたしこそ、いいのかしら』
雑踏に押されて二人は歩きだしていた。肩が何度か触れ合った。そのたびに則夫は、触れ合ったところが温かく柔らかくほぐれていくような思いにひたった。
思いがけないことが起きたのは、並んで歩き出して間もなくだった。美那子がすっと体を寄せてきて、則夫の腕に腕をからめてきた。二人とも半袖だった。美那子の腕はひんやりとして滑《なめ》らかだった。則夫はいっぺんに喉が詰まったような心持になった。
『柏原さん、あたしとつき合わない?』
美那子はまっすぐ前に眼を投げたまま、そう言った。聞きちがえではなかった。声が固く、一本調子にひびく科白《せりふ》だった。
『人がわるいな、菅井さんも。からかわないでよ』
『からかってなんかいないわ。本気よ。二人きりになれる静かなところに、このまま行っちゃいましょう。いいでしょう?』
『おれはいいけど……。でも、本気なの?』
『疑い深い人ね。こんなこと、本気じゃなくちゃ言えないわ』
『どうなってんだろうなあ』
『どうもなってはいないわ。黙ってついてきて。お願い……』
美那子は腕を絡めたまま、いっそう体を寄せてきた。コバルトブルーのブラウスの下の胸のふくらみが、則夫の肘《ひじ》に当っていた。則夫は、美那子の乳房のはずみを、ほとんど全身で感じていた。
彼の胸には、有頂天《うちようてん》の気持と、半信半疑の戸惑いとが、混じり合ったまま揺れていた。彼は、生れてはじめて、予期しないいいことにめぐり合った気分だった。その気分が、彼を落着かせなかった。
美那子は、その後は黙りこくったまま歩きつづけた。則夫も口をつぐんでいた。なまじことばを吐けば、事がすべてぶちこわしになりそうな、妙にきわどい思いがあった。
美那子は足早になって歌舞伎町を抜け、暗い裏道に入り、最初に眼についたラブホテルの小暗《おぐら》い入口にとびこんでいたのだ。
2
「一緒にお風呂に入りましょうよ」
浴室に湯を止めに行った美那子が、もどってきて言った。そのときも、美那子はなんだか怒っているような顔になっていた。則夫は黙って坐卓から離れ、立って着ているものを脱いだ。美那子も部屋の隅《すみ》に行って、則夫に背中を向けてブラウスを脱いだ。ぬめるようなつやをたたえた美那子の白い背中が、眩《まぶ》しく則夫の眼を射《い》た。則夫はブリーフだけの姿になると、立ったまま、坐卓の上の飲み残しのビールを飲み干した。
「先に行ってて……」
美那子が細い声で言った。彼女はスリップを脱いだところだった。則夫はいくらビールを飲んでも、喉の渇きが止まらなかった。彼は美那子が飲み残していたグラスのビールも飲み干した。ふり向くと、美那子が両手を背中に回して、ブラジャーのホックをはずそうとしていた。
則夫は吸い寄せられるようにして、美那子のうしろに立った。彼は背中に回した美那子の両手をそっと下におろさせた。美那子が一瞬、体をこわばらせた。則夫はブラジャーのホックをはずした。手がかすかにふるえた。則夫はブラジャーの吊紐《つりひも》を、肩を撫でるような手つきではずした。
「本気だったんだね……」
則夫は言い、うしろから腕をまわして、美那子を抱きしめた。両手が乳房のふくらみにかかっていた。則夫は美那子の肩に唇を押しつけていた。肌が甘酸っぱく匂った。則夫はその匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。美那子の夫の影が、則夫の頭をよぎった。則夫の心はふるえた。
美那子は小さく肩をすくめるようにして、則夫の腕から脱け出た。彼女はそのまま、浴室に向って行く。顔は伏せていた。表情の見えないのが、則夫を物足りない思いにさせた。則夫は美那子の後を追うようにして、浴室に行った。
浴室の入口で、美那子はパンティを脱いだ。それを小さくたたむようにして、足もとの脱衣籠に入れた。そのまま彼女は浴室の中に入っていった。そうした美那子のようすを、則夫はスーパーマーケットで見るときの彼女の印象と重ねていた。うまく重ならなかった。自分から男をラブホテルに誘い、ためらいもなく裸身をさらす美那子は、則夫が見知っているいつもの美那子とは別人のように思えるのだ。裸をさらして、ことば少なにしている美那子を見ると、則夫には彼女がどういう女で何を考えているのか、見当がつかなくなるのだった。そして、美那子の裸の姿だけが、あらがいようのない力で彼の眼を惹《ひ》く。
美那子は先に湯舟に体を沈めた。則夫はしゃがんで体に湯をかけた。則夫の頭は熱くふくれ上がったまま、いくらかかすんだようなぐあいになっていた。
則夫が湯舟に片足をつけると、美那子が体を横にずらして場所をあけた。美那子は則夫から視線を逸《そ》らしていた。透明な湯の中で、美那子の白い肌がわずかに赤味をおびてゆらめいていた。
則夫は湯の中に体を沈めた。湯舟はひどくせまかった。腰と腰が触れ合った。則夫は湯の中で美那子の細い肩を抱いた。美那子は小さく息をはずませていた。彼女は則夫の太腿に肘をつけ、体をもたせかけてきた。きっちりと合わされた美那子の太腿の付根で、しげみが小さくゆらめき立っていた。乳首は美しい色に輝いて見えた。則夫の手はそこに吸い寄せられるように伸びた。
「恋人いないの?」
だしぬけに美那子がたずねた。
「だから、相手がいないって、さっき言っただろう」
則夫は美那子の乳房を手で押し包むようにした。乳房は重くはずんだ。則夫の体に火がついた。彼は美那子の頬に唇をつけた。美那子が唇を寄せてきた。則夫は夢中で美那子の唇を吸った。舌をからませた。美那子が小さくうめくような声をもらした。美那子の片腕が則夫の腰を抱いていた。その手に強い力がこめられていた。則夫は、美那子の夫の影を、頭の中から追い払っていた。
美那子は唇を離すと、すぐに湯舟から出た。たったいまキスをしたことが信じられないような、とりすました顔に彼女はなっていた。則夫ははぐらかされたような気持になった。美那子は洗い場にしゃがみ、体を洗いはじめた。則夫は美那子に夫のことを訊《き》いてみたいと思い、訊けば美那子が困るだろうな、と考えて、ことばを呑み込んだ。
体を洗い終ると、美那子は何杯も湯を浴びて、そのまま体を拭きはじめた。湯を浴びる美那子の手つきは、何かいらだっているように見えた。手桶に汲んだ湯を体に叩きつけるような浴び方を彼女はした。則夫は黙ってそれを眺めていた。彼の顔にも湯がはねた。自分から誘ったにしては、美那子の態度には、どこかしらほぐれないしこりのようなものがつきまとっていた。ぎくしゃくしていた。見ようによっては、それはやはり悔やみの現れとも思えた。そこが則夫の気持をもうひとつ、浮き立たせてはくれない。
則夫もそそくさと体を洗い、浴室を出た。美那子は部屋に備えてあった浴衣《ゆかた》を着て、テレビを見ていた。則夫がブリーフ一つの姿で座敷に入っていくと、美那子はテレビを消し、床ののべられた隣の部屋に行った。
「いらっしゃい……」
美那子は床の上に体を横たえると、笑った顔で言った。笑いはやはりぎごちなくこわばっていた。
則夫は美那子の側に体を横たえた。胸を重ねるようにして、キスをした。美那子が一瞬強く舌をからませてきた。美那子の胸は、はずむ呼吸につれて、大きく上下した。
則夫は美那子の浴衣の腰紐を解いた。浴衣の前をはだけた。美那子は下着をつけていなかった。しげみがにぶく光って、こんもりと盛り上がっていた。濃いしげみだった。則夫はそこに手をやって撫でた。そうしながら、乳首を吸った。乳首は固くふくらみきって、則夫の舌の先で躍った。しげみは柔らかい手ざわりを備えていた。
「トルコ風呂なんて行くの? 柏原さん……」
美那子は眼を閉じたまま、まただしぬけに言った。息がはずんでいた。則夫は返事に詰まった。
「二、三度行ったことがあるよ」
結局、則夫は正直に答えた。他に返事を思いつかなかったのだ。
「愉《たの》しかった? トルコ風呂……」
にこりともしないで美那子はことばをつづける。
「味気なかった」
「でも、いろいろ女の人がしてくれるんでしょう? うちの亭主がそう言ってたわ」
「トルコに行くの? ご主人……」
「行くんでしょう、そう言うんだから」
「物分りがいいんだな、菅井さんは……」
則夫はそう言った。手は美那子の乳房を静かに揉んでいた。ご主人がトルコ風呂に行くから、奥さんも浮気するのか、と本当は則夫は言ってみたかった。
「物分りなんかよくないわ。諦《あきら》めてるだけ」
美那子は小さな声で言った。則夫はまた返すことばを失った。
「トルコに行けば、二万円か三万円はかかるんでしょう?」
「まあ……」
「トルコに行ったつもりで、あたしにもお金ちょうだい……」
美那子はそう言った。はじめての誘いのことばと同じように、そのときも美那子の声は固く、ことばつきも一本調子にひびいた。美那子の乳房の上で、則夫の手の動きが停まった。則夫は自分の表情を変えまいとして苦労した。美那子の顔を上からのぞき込んだ。美那子は眼を閉じていた。唇が強くひき結ばれていた。意地の強そうな顔に見えた。則夫は、美那子が冗談で金をくれと言ったのではないことを知った。彼は美那子の言ったことを意外と受取り、しかし心のどこかには、なるほどそういうことだったのか、と納得するところもあった。冷えびえとする納得だった。
「あたし、お金がいるのよ」
「あげるよ。でも……」
「おどろいた?」
「いつもこういうことしてるの?」
「はじめてよ。ほんとにはじめてなの。でも、今夜、柏原さんに会わなかったら、他の知らない男の人とこうして、お金もらってたわ」
「そんなに困ってるの?」
「どうにもならないのよ、借金で……」
「でも、いやだな。菅井さんがトルコ風呂の女みたいなことするなんて……」
「女に変りはないでしょう。恰好《かつこう》つけることないのよ。遠慮しないで好きなようにして。あたしもサービスするわ」
美那子はこしらえた笑顔になって、則夫のブリーフの中に手をさし入れてきた。則夫は心が冷えた。体はしかし勢いを失わなかった。彼は美那子のしげみの下に指を進めた。指は柔らかいものの中に浅く埋まった。火照《ほて》りとうるみが指に伝わってきた。美那子が腰をうねらせて、小さな声をもらした。それが則夫をそそった。彼は美那子をトルコ風呂の女と同じように思おう、と考えた。同時に彼は、ポケットの中にある金を全部、美那子に渡そう、とも考えていた。それは、トルコ風呂に二回はいけるぐらいの額だった。
3
三日後に、則夫は食肉を積んだコンテナートラックを運転して、立川のスーパーマーケットに行った。
肉の売場に、美那子の姿はなかった。顔なじみの若い店員に、則夫はさりげなく美那子のことを訊いてみた。
「菅井さんは休みじゃないよ。店やめたんだ。昨日までで……」
「なんだ、やめたのか」
「ばかにがっかりした顔するじゃないの。あんた、菅井さんに気があったのか?」
「そうだよ。気があったんだよ。そうか。やめたのか。残念だな」
則夫はわざとあけすけに言った。そう言ったほうがごまかせる、と思ったのだ。狙いは当った。相手は笑っただけで、真《ま》に受けたようすではなかった。
「菅井さんもたいへんらしいんだ、ご主人がギャンブル狂で、借金に追われてたって話だからな。きっとここより給料のいい働き口が見つかったんだろう」
若い店員はそう言った。則夫は配送伝票に印鑑をもらってトラックにもどった。若い店員の言ったことばが、耳に残っていた。心が揺れた。則夫はトラックの運転台に上がると、乱暴にドアを閉めた。いらだっていた。いらだちの原因が、自分でもよくわからなかった。
三日前の夜、新宿のラブホテルで、金を渡したときの美那子のようすが思い出された。則夫のポケットの中には、五万円と少し入っていた。則夫はホテル代のことを考えて、四万円だけを美那子に渡すことにした。トルコ風呂の女に金を払うときとは、気持がまったくちがっていた。金に困っている美那子の役に、すこしでも立ちたい、と則夫は思っていた。直接、金を手渡すのは、なんだか気が咎《とが》めた。美那子も催促などしなかった。
則夫は、美那子が背中を向けて服を着ている間に、黙って金を坐卓の上に置き、トイレに行った。用を足したかったわけではなかった。トイレのドアにもたれかかって立ったまま、則夫は早く美那子が坐卓の上の金に気づいて、それをバッグの中に入れてくれることを願っていた。その上、美那子があらたまった礼のことばなど言わないでくれたら、どんなに気が楽か、と彼は思った。
頃合《ころあい》を見はからって、則夫はトイレを出た。美那子は坐卓の前にきちんと坐って、入口に背中を向けていた。坐卓の上の金は消えていた。則夫は気が軽くなった。足音で、美那子がふり向いた。美那子の眼は暗くうるんでいた。涙があふれるのではないか、と則夫は案じた。美那子はすぐに視線をそらした。涙もこぼれず、ことばも吐かれなかった。代りに、美那子の片手が坐卓の上に伸びた。その手が元にもどると、坐卓の上に小さくたたまれた紙幣が残った。
「半分でいいわ」
美那子は言った。細い声だった。
「いいよ。全部持っていきなよ。遠慮するなって」
「いいって言ったらいいのよ!」
突然、美那子は低く叫んで立ち上がり、座敷の入口に立っていた則夫を押しのけるようにして、ドアに向って行った。則夫は美那子の勢いに気圧《けお》された。戸惑いながら、彼は坐卓の上の紙幣をつまみ上げて、美那子の後を追った。
そのまま、二人は、入ってきたときと同じように押し黙ったままホテルの外に出た。則夫は手にした紙幣を黙って美那子の手ににぎらせようとした。
「ありがとう。でもいいの。沢山もらったから」
則夫の手を握り返したと思ったら、美那子は突然、駈け出していた。則夫は数歩追いかけただけで、足を停めた。それ以上追えば、自分が意地になって、美那子に金を渡そうとするだろう、と彼は考えたのだ。それが美那子の気持をかき乱すらしい、ということに、則夫はようやく気付いていた。
また三日後に、則夫は配送のために立川のスーパーマーケットに行った。食肉売場の若い店員が、則夫の顔を見ると、笑った顔で寄ってきた。
「菅井さんの新しい働き場所がわかったよ」
店員は小声で言った。
「どこで働いてるんだい?」
「女はいいよな。金に困れば、いろいろ手があるからな」
店員は意味ありげな眼になっていた。則夫は胸がさわいだ。
「菅井さんはね、新宿のトレビアンナイトっていうマンモスキャバレーでホステスしてるんだって」
「キャバレーか……」
則夫の胸さわぎは収まっていた。彼は店員のことばや表情から、もっとよくない想像を胸に浮べていたのだ。美那子がトルコ風呂に働いている、というふうなことばを、店員から聞かされるのではないか、と則夫は思ったりしたのだった。
「歌舞伎町のビルの七階にあるキャバレーらしいんだけど、菅井さんはそこで、忍《しのぶ》って名前で働いてるんだって」
「ほんとかね?」
「ほんとだろう。カメラ売場の浦《うら》さんが、その店に行って、菅井さんと会ったっていうんだもの」
「やっぱり旦那の借金のために、ホステスになったのかな?」
「らしいね。菅井さん、ここで働いてるときも元気なかったし、ここに借金取りが押しかけてきたことも一、二度あったもんな」
「苦労してるわけだ、あの人も……」
「惚れてんだろうな、旦那に……」
「惚れてるのか?」
「だって、ギャンブルで借金こさえた旦那のために、キャバレーで働くっていうんだもの。別れもせずにさ」
「やっぱり惚れてるわけか」
則夫は言って、店員と別れた。
美那子が亭主に惚れてるわけはないよ――と則夫は胸の中で呟いていた。亭主に惚れている女が、他の男に体を売るはずはないじゃないか、と則夫は思うのだった。
新宿のラブホテルでの美那子のようすが、則夫の頭の中になまなましく甦《よみがえ》ってきた。
美那子は、裸のまま、則夫の体の下ではげしく腰を踊らせて、よろこびの声をほとばしらせたのだ。美那子の四肢はしっかりと則夫を抱えこむようにして、汗ばんでいたのだ。体を重ねるまえは、美那子は自分から則夫の体を口にふくむこともした。夫を愛している女が、あんなに熱心にそんなことができるはずはない、と則夫は思うのだった。
その思いと、美那子の新しい働き先が判ったということが則夫を落着かなくさせた。美那子に会いたい、と思った。美那子の細くてよくしなう柔らかい白い体を、もう一度抱いて、汗ばんだ肌の匂いを胸一杯に嗅ぎたい、と則夫は思った。そう思いながらトラックを走らせていると、体が熱く勃起してきた。
給料日までは、まだ二週間余り間があった。則夫は銀行に七十万円近い預金を持っていた。それが二十二歳の則夫の全財産だった。キャッシュで中古の乗用車を買い叩いて手に入れるつもりで、少しずつ貯めた金だった。
スーパーマーケットの店員に話を聞いてから数日間、則夫は貯金をおろすべきかどうか迷いつづけた。一回、貯金をおろして、美那子のいるキャバレーに行けば、あとはなしくずしにおろしつづけて、遂に車は買えなくなるだろう、という予感が則夫にはあった。
車より美那子だ――そういうふうに肚《はら》が決まったのは、五日後だった。その日の朝、則夫はキャッシュカードを運転免許証入れの中にはさみこんで仕事に出た。トラックで走りまわる途中で銀行を見つけて、彼は十万円だけ金を引出した。キャバレーに行って忍という名の美那子を指名して酒を飲み、ホテルに誘い、残りの金を全部彼女に渡そう、と考えた。
美那子の体を金で買うのだという気持は、則夫にはまったくなかった。美那子を抱くことができなければ、それでもかまわない、と思っていた。店で客とホステスとして一緒に酒を飲み、ことばを交すだけでもいい、と思った。それでも、余った金は美那子に渡そうときめていた。そういうふうに、自分以外の人間に対して気持を注いでいく、そのことが則夫の気持に快い張りを与えていた。新鮮な張りだった。
4
トレビアンナイトは、客が立てこんでいた。大広間といった感じの店内は照明が暗く、音楽と物音と人の話し声が、ひとつになって渦巻いている感じだった。店に入ったとたんに、則夫は耳鳴りを覚えたほどだった。四方の壁ぎわにしつらえられた高い丸い台の上で、トップレスの女たちが、乳房と腰をゆすりながら、踊っていた。
奇妙な抑揚《よくよう》をつけた早口のアナウンスが流れた。忍の名が呼ばれた。暗い水底《みなそこ》を思わせる客席の間を縫って、黄色いミニドレスの小柄な女が、則夫の席に近づいてきた。すぐ近くにくるまで、それが美那子だとは、則夫は気付かなかった。
美那子も、自分を指名した客が則夫だとは気付かなかったらしい。テーブルのすぐ前まできて眼が合ったとき、美那子は一瞬、呆《ほう》けたような顔になった。則夫は笑って迎える顔になっていた。
「どうしてわかったの?」
それが美那子の口から出た最初のことばだった。則夫は立川のスーパーマーケットの店員の話をした。
「前からスーパーマーケット、やめる気でいたの?」
則夫は訊いた。美那子が突然、スーパーマーケットを退職したことが、則夫の気持に小さなこだわりを生んでいたのだ。
「やめる気でいたのなら、このまえの夜、ちょっと教えてくれればよかったのに」
則夫は気持のこだわりを率直にことばにした。美那子はビールを注いだ。二人はグラスを合わせて、ビールを飲んだ。美那子のドレスの胸が大きく開いていた。そこに乳房のふくらみがのぞいていた。則夫は甘くねっとりと絡みつくような香水の匂いを感じた。
「あの後、あんたに会うのがいやだったから、急にスーパーやめる気になったのよ」
ビールを飲み干してから、美那子が言った。ささやくような声だった。則夫は耳を美那子の口もとに寄せるようにして、彼女のことばを聞いた。体が触れ合った。薄いドレスの布地を通して、美那子の肌のはずみが伝わってきた。
「どうしておれと会いたくなかったの?」
「だって、あんなことして、お金もらっちゃったんだもの。恥ずかしくて……」
「おれは、あんなことしたからお金上げたんじゃないぜ」
「じゃあどうして?」
「あんたがお金に困ってるんだな、と思ったからさ」
「でも、あんなことしなかったら、ただじゃお金くれないでしょう? 柏原さんだって」
「相手があんたなら、上げてたよ、ただで」
「口が上手なのね……」
「お世辞で言ってるんじゃないよ」
則夫はむっとして言った。美那子は黙りこんだ。バンドの演奏がはじまった。歌手が賑やかなおしゃべりの後で歌いはじめた。則夫も美那子も黙りこくったまま、歌を聞いていた。
ビールを三本飲んでしまうと、則夫は席を立った。勘定をすませると、ポケットには八万円余りの金が残った。美那子はエレベーターに乗って送ってきた。エレベーターの中には他に人はいなかった。
「あと一時間でお店終るの。このまえのホテルに先に行ってて……」
美那子は、則夫の両手を取って、眼を合わせたまま、真顔で言った。則夫は大きくうなずいた。腕がひとりでに伸びて、美那子を抱き寄せていた。
「口紅がついちゃうわ」
「かまうものか」
唇が重ねられた。短いキスだったが、濡れた舌が深く絡んだ。薄いドレスにくるまれた美那子の柔らかく息づく腹が、則夫の下腹部を押していた。
一時間余り後に、美那子はベージュのスカートにクリーム色のブラウスといった姿で、ホテルの部屋に現われた。黄色のミニドレスのさっきの姿とは別人のように地味に見えた。地味なその姿の美那子のほうが、則夫には好もしく思えた。
美那子はいくらか酔っていた。着ているものを脱ぎながら、足がふらついた。則夫はうしろにまわって支えてやった。すると美那子は向き直り、自分から唇を重ねてきた。美那子の眼に不意に涙があふれた。涙は重ねられたままの二人の頬の間でつぶれて横にひろがった。
「どうしたの?」
「ごめんね。自分でもよくわからずに、すぐに涙が出てくるの」
「泣き虫かい?」
「みたいね。柏原さんてやさしい人なのね」
「好きなんだ。前からずっと好きだったんだ。だから、この前の夜はびっくりしたり、うれしかったり……」
「このまえの夜のことは言わないで」
則夫はうなずいた。唇で美那子の瞼や頬についた涙を拭ってやった。
二人は風呂に入った。則夫は美那子の体を洗ってやった。二人は口数が減っていた。美那子は眼が合うと笑ってみせた。はずんだ笑顔ではなかった。笑った顔がそのままさびしさを現わしているように、則夫には思えた。美那子も則夫の体を洗ってくれた。則夫は美那子の石鹸の泡にまみれた両手の中で、はげしく勃起していた。美那子はそのときも、さびしげに見える笑顔で、則夫を甘くにらむようにした。
則夫の勃起は、浴室を出ても続いていた。二人は素裸のまま、手をつないで、床ののべてある部屋に行った。則夫は美那子を床に横たわらせると、彼女の唇をはげしく吸った。甘いおののきが、則夫の全身に満ちていた。ようやく彼は、美那子の心に向きあった思いを抱いていた。
則夫の手が、張りの強い美那子の乳房をはずませた。乳房は押すとふくらみの形を変えて輝いた。則夫は左右から寄せ合った二つの乳房に頬ずりをした。乳首を吸った。舌ではじいた。美那子は則夫の髪を両手でまさぐりながら、息をはずませ、細い声をもらした。子供の甘え泣きに似た声だった。美那子の腋《わき》の下に淡く青い影のようなものがひろがっていた。そこに石鹸の匂いと、美那子の肌の匂いがうっすらとこもっていた。則夫はそこに顔を埋めるようにして、いっぱいに息を吸った。美那子のすべてをそうやって吸いつくし、呑みつくしたい――則夫は狂おしい思いにかられていた。どんなことでもして、美那子に自分の胸にあふれる愛しさを伝えたかった。伝える術《すべ》は限られているように思えて、それが則夫にはもどかしかった。
則夫は美那子の腋の下から脇腹に唇をすべらせた。美那子の腰が反《そ》り、脇腹にさざ波のようなふるえが走った。則夫は美那子のしげみにも熱っぽく頬ずりをした。頬の下で柔らかいヘアがかすかに鳴った。風の音に似ている、と則夫は熱くふくらんだ頭でふと思った。しげみに頬ずりをしながら、則夫はその下の小さなふくらみを、口の中に捉えようとした。美那子は一声、高くあえいで、うつ伏せになった。
白く光る美那子の背中が、小気味よく反り返ったまま、ひきしまった臀部《でんぶ》のスロープにつづいていた。則夫は美那子の背中や腰に、キスの雨を降らせた。手はうつ伏せになった美那子の胸の下にすべりこんでいた。乳房が則夫の掌《てのひら》の上で固くはずんだ。
則夫は美那子の尻にも頬ずりした。柔らかい尻の丘に歯を押しあてた。尻が揺れた。美那子の腰が小さくゆらめいていた。ゆらめく肉の谷間の底に、ほの暗く輝く濡れたはざまが見え隠れした。ひろがったうるみは、美那子のうしろの部分にも及んでいた。そこはくすんだピンクの小さな花を思わせて、ひっそりと息づいていた。
則夫の頭に火が走った。則夫は火に誘われて、白い谷間を押し分けた。小さなピンクの花に、則夫は唇をつけ、舌を這《は》わせた。快楽も愉しみも、則夫の中には湧いていなかった。そこに舌をあて、唇をつけることで、則夫は美那子に自分のあふれる気持を示したかった。
美那子がくぐもった声で短いことばを吐いた。則夫は聞きとれなかった。彼は美那子の腰を強く抱いたまま、そこに舌と唇を押しつけていた。
美那子が腰をひねり、体を起した。美那子の眼がうるんでいた。彼女は則夫の胸にすがるようにして、彼の乳首に唇をつけた。則夫はそのまま押されて体を横たえた。美那子の唇と髪が、則夫の腹をすべり、腰に移った。美那子は、則夫の力にあふれた体に手を添え頬ずりをした。則夫は深くふくまれた。舌がまとわりついてきた。乳房が則夫の脇腹に当っていた。則夫は眼を閉じ、美那子のかがめられた背中を撫でた。美那子の片手が則夫の太腿をさすり、内股にすべってきた。則夫は背すじに熱い波を感じていた。彼は自制心を失いそうになった。美那子の唇は、しっかりとすぼめられたまま、ゆっくりと上下にすべった。それが停《と》まると舌がけずるようなぐあいに則夫の体の上を這った。
則夫は美那子の頭を小さく押してはずさせようとした。美那子は則夫の腰を抱えたまま、いっそうはげしくむしゃぶりついてきた。則夫は低く叫んだ。爆発しそうだ、と彼は言った。美那子は熱く昂《たか》まりきったものを口から放そうとはしなかった。則夫は腰に熱くて甘い衝撃を感じた。彼は低くうめいていた。美那子が吸っていた。則夫はそれがうれしくて美那子の名前を思わず呼んでいた。しばらくして、ようやく顔をあげた。則夫は自分の中から放たれたものを、美那子が飲み下したことを知った。遠ざかっていく快感の後に、則夫は言い知れぬ思いが胸に湧くのを感じた。
「はじめてよ、男の人のを飲んじゃったの」
「おれもはじめてさ。今度はあんたのを飲みたい。飲ませてくれ」
則夫は美那子を抱き寄せ、床の上に横たえると、彼女の膝の間に這った。美那子のしげみの下に、ほころんだクレバスがのぞいていた。そこは明りを受けて光っていた。則夫はそこに唇をつけ、舌を這わせていった。
5
十日ほど後の真夜中だった。
則夫は小さなノックの音で目を覚《さ》ました。ノックはあたりを憚《はばか》るようにして、長い間つづいていたのだ。則夫はそれを夢の中で耳にしていた。夢が途切れて、現実のノックの音だけが則夫の耳に残った。
叩かれているのが、自分の部屋のドアだと気づくまでに、またいくらかの間があった。時刻は午前四時になろうとしていた。
則夫は明りをつけ、ベッドを降りて入口に行った。明りをつけると、ノックの音は止んだ。則夫はドアを開けた。美那子が両手で頬を押えた恰好で立っていた。
「どうしたの?」
則夫は美那子を抱えるようにして中に入れた。美那子は深くうなだれたまま答えなかった。垂れた髪が美那子の顔を覆《おお》っていた。則夫がドアを閉めると、美那子は立ったまま、せまい踏込みの壁に背中をもたせかけた。
「ごめんね。行くところがなくて、逃げてきちゃったの」
美那子はかすれたような声で言った。則夫はおよその事情を察した。夫婦喧嘩でもしたにちがいない、と思った。
「今夜だけ泊めてほしいの」
「おれはかまわないよ。いつまででもいてほしいくらいのもんだ。上がってよ」
則夫はつとめて明るい口調で言った。美那子はサンダルを脱ぐと部屋に上がった。部屋の明りの下で美那子を見て、則夫は胸を突かれた。美那子の頭のてっぺんあたりの髪の毛が、ひとにぎりほど切られていた。そこだけ切られたあとの髪がそそけ立ったようになっている。
それだけではなかった。美那子の唇の片方の端が大きく腫《は》れあがって血をにじませていた。頬にあてられた両手の下にも、紫色の殴られた痕《あと》がのぞいていた。
「ひどい顔と頭になってるでしょう」
美那子が上眼|遣《づか》いに則夫を見た。
「ご主人にやられたのかい?」
「しょっちゅうよ。でも馴《な》れないわ。殴られるたびに殺されるかと思っちゃうの」
「どうしてそんなに喧嘩するんだ?」
「あたしがキャバレーやめたから……」
「やめたの?」
「三日前にね。いやだったの。ああいう仕事はあたしには合わないわ。だってみんなお客は体さわるんだもの」
「おれはやめてくれてうれしいよ。でも、おれがうれしがったって仕方ないけどな」
「あんたはきっと、よろこんでくれると思ったわ。だからやめたの」
「でも、ご主人はそれが気に喰わないんだろう?」
「あんな男、主人なんて呼べないわ」
「子供さんはいないの?」
「二歳の女の子がいるけど、あたしの実家に預けてあるの。あたしが働かなくちゃ借金が返せないんだもの。子供がいたらパートぐらいしかできないでしょう?」
「ご主人のこしらえた借金?」
「みんなギャンブル。競艇と麻雀ね。結婚して五年のうち、あの男がまともに働いたのは一年とちょっとだけなのよ。ひどいものなのよ」
「恋愛結婚?」
「まあね。あたしがいけなかったのよ。見てくれだけに眼が眩《くら》んで……」
「子供、なんて名前?」
「美由紀っていうの」
「かわいいだろう?」
美那子は頬に両手をあててうなずいた。涙が不意につづけさまに美那子の膝に落ちた。則夫は子供のことなんかを訊いたことを後悔した。美那子を泣かせてしまった、と思った。則夫は立って台所に行った。タオルを水に濡らし、小さな冷蔵庫から氷を出してくるんだ。
「汚ない部屋だろう。掃除なんか月に一回すればいいほうだもんな。顔冷やしたほうがいいぜ」
則夫は氷をくるんだ濡れタオルを、美那子に渡した。
「ありがとう……」
美那子は湿った声で言い、タオルを受取って頬にあてた。美那子は片手で顔にかかった髪をかき上げた。眼がひどく脹れあがっていた。そこにくるまでにも、はげしく泣いたことが、それでわかった。
「相当、借金があるの?」
「全部で六百万円を超《こ》えるわね」
「いまもご主人は働いてないの?」
「友だちのスナック手伝ってるけど、遊んでるのと変らないわ。お金はうちには入れないんだもの」
「やっぱりギャンブルで使っちゃうの?」
「病気ね、あの男のギャンブルは」
「別れちゃえよ」
「だって、絶対に別れないっていうんだもの。別れたら殺すって……」
「勝手だな、ずいぶん……」
「あたしがいままで、何もかも我慢してつくしてきたからね。あの男にとっちゃあたしほど都合のいい女はいないのよ」
「だろうな。あんた、やっぱり惚れてたんだ、ご主人に……」
「前はね。わるい夢を見てたのよ。いつかきっとギャンブルやめてくれる。いつか働くようになってくれる。いつかやさしくなってくれるって、いつか、いつかで五年が過ぎちゃったわ。でも、もう夢からさめた、あたし。いくら金に困ったからって、自分の女房に売春やらせたりする男なんていないわよ」
「ご主人が、やらせたのか?」
「でも、一度だけよ、あたしがそういうことしたのは。その一度の相手があなただったのよ。知らない人とホテルに行くなんて、あたしどうしてもできなかった。でも、お金を持って帰らなきゃまた殴られると思って、それで柏原さんを誘っちゃったの。あのとき柏原さんにお金もらって、とってもあたし惨《みじ》めだったわ」
「おれはそういうつもりであんたにお金を渡したんじゃないよ」
「わかってるわ、その気持。わかってるから惨めだったのよ。柏原さんがあたしを金で買った女として扱ってくれてたら、あんなに惨めにはならなかったかもしれないわね。誤解しないでね。責めてるんじゃないんだから」
「わかってるよ。とにかく今夜はもう寝たほうがいい。ご主人と別れる肚《はら》がきまったら、おれ、力になるよ。なんて言っても大したことはできないけど、引越の手伝いぐらいはやれるぜ」
「ありがとう。柏原さん寝なきゃね。明日仕事があるんだものね」
美那子はまるで老婆のように精気のないしわがれた声で言った。則夫はクリーニング屋から取ってきてあったワイシャツを、美那子にパジャマ替りに出してやった。しかし美那子はそれを着ようとはしなかった。彼女はパンティだけの姿で、ベッドに入ってきた。ベッドに入ってからの美那子は決して老婆のようではなかった。
美那子の腕の肩に近い部分にも、青黒い打撲《だぼく》の痕が残っていた。則夫はそこに唇をつけた。二人はすぐに腕を絡めるようにして抱き合った。則夫はたちまち体が熱気をはらむのを覚えた。美那子は自分から下着を脱いだ。則夫はすぐに美那子のしげみに頬ずりをした。ヘアはやはり風の音を則夫に連想させて、ひそかに鳴った。
則夫はヘアを撫で上げ、クレバスを押し分けた。美那子と離れている間じゅう、瞼の裏にたえず揺れていたものが、いまは現実の姿を眼の前にさらしていた。
クレバスは深く長かった。鮮かな色で輝いていた。莢《さや》にくるまれた芽のようなものが、かすかな息づきに似たうごきを見せていた。則夫は見すえた。見すえずにはいられなかった。それがまるごと自分のものだと思えないことが切なかった。
6
つぎの日、則夫が仕事を終えてアパートの部屋にもどると、美那子の姿はもうなかった。部屋はきちんと片付けられていた。見ちがえるようだった。テレビの上に、白いプラスチックの籠に入った、小さな草花の鉢が置かれていた。紫色の花が咲いていた。スミレに似ていたが、スミレではなさそうだった。則夫にはその花の名前は判らなかった。
ベッドもきちんと整えられていた。枕カバーが新しいものと替わっていた。新しい枕カバーの上に、置手紙があった。新聞のチラシ広告の裏に文字が書き並べられていた。
〈夜中におじゃましてごめんなさい。家をとび出すときから、あなたのところに行こうときめていました。泣き虫の美那子をゆるしてください。とっても好きになりそうです。でも自信がありません。またきます。美那子〉
名宛のところには〈則夫さま〉とあった。
則夫の住むアパートは大塚にある。美那子は立川と国分寺市の境のアパートに住んでいる、と則夫は聞いていた。則夫はチラシ広告の裏に書かれた美那子の置手紙を、ていねいな手つきでたたんで、免許証入れの中に入れた。大塚と立川のはずれとの距離を、則夫は胸の中で測っていた。そこをタクシーをとばして真夜中にやってきてくれた美那子の心を則夫は測った。いじらしくいとしい思いが胸にあふれた。前の夜に、美那子が走ったその道を、逆にたどって美那子に会いに行きたい、と則夫は思った。
しかし、もちろんそういうことはできなかった。則夫ははじめて、会ったことのない美那子の亭主に、冷たい怒りとも嫉妬ともつかぬ感情を抱いた。
則夫はいつもの習慣で、着替えをすませると、近くの銭湯に行き、帰りに行きつけの定食屋で夕食をとった。いったん部屋に帰ったが、気持が落着かなかった。テレビを見ていても、美那子のことが頭から離れるということがなかった。朝、目を覚まして、横に美那子が寝ているのを眼にしたときの、穏やかに満ち足りた気持が、何回も胸に甦《よみがえ》ってきた。肌にふれてくる空気までもが、ひどく清新に感じられる気がした。
則夫はテレビを消して、ウイスキーをすこし飲んだ。やたらに人恋しい気持が募《つの》った。則夫は大塚の駅前のどこかのスナックあたりで、酒を飲もうと思って、部屋を出た。行きつけの店など則夫にはなかった。ふだんはわざわざ酒を飲みに出かけるなどということはなかった。ひまがあれば、テレビを見るか、盛り場をあてもなくうろつくかしか、時間のつぶし方を知らない男だった。熱中を感じるものは何ひとつなかった。毎日がつまらないということが、ときおりおそろしく思えることがあるのだった。貯金が百万円に達したら、気に入った車を探しあてるまで、都内の中古車売場をめぐり歩こう、と則夫は決めていた。それほど車が欲しいわけではなかった。どうしても欲しければ、月賦ででも手に入れていた。ただ、いつか何かをしようという心のあてがなければ、つまらない毎日を一日、また一日とやり過していくことが、ひどく苦痛に思えたのだ。気に入った車を探し求めて、百万円のキャッシュでそれを自分のものにするというのは、その心のあてのために思いついたことだった。
それがいまは、圧倒的な勢いで、車より美那子だ、ということになっていた。そういった熱中が、自分の中に芽ばえるなどという予想は、則夫の中にはなかったのだ。美那子は申し分のない熱中の対象にはちがいなかった。だが、美那子との間柄は、そのままでは、いつか何かをしてどうにかなる、というものではなかった。則夫にはそこがひどく頼りなく思えるのだった。いつか何かをしてどうにかなるために、いま美那子との間をどうすればいいのか、則夫にはわかっているようで、いまひとつはっきりとした手応《てごた》えのあるわかりかたが頭にも胸にも浮かばない。
大塚の駅の近くの、行きあたりばったりに入ったスナックで、則夫はウイスキーの水割りを四、五杯飲んだ。酔わなかった。いくらでも酒が入るような気がした。カラオケで、何人かのグループが歌っていた。則夫はカウンターで一人、黙々と飲みつづけた。カウンターの中には、四十は越していると思える細面《ほそおもて》の小柄な女と、若い女がいた。細面の女の親しい仲間らしい中年の女が、カウンターで飲んでいた。その女は、離婚した夫の悪口を、おそろしく早口でまくし立てていた。それがその女のいつもの酒癖らしい。女はカウンターに肘を突いて、頭をゆらめかせながら、しゃべりつづけていた。ことばの絶える間がなかった。カウンターの中の女たちが、酔った女の話をうわの空でしか聞いていないことは、はっきりしていた。
則夫は、酔った女のくり言を、聞くともなしに聞いていた。女の話はうっとうしくもあり、もの哀しくもあった。則夫はカウンターの中の女に勘定を頼んでおいて、酔った女に、そんなつもりもなしに声をかけていた。「おばちゃん、元気出してよ。生きてりゃ、いつか何かいいことだってあるかもしれないじゃないの」
カウンターの中にいた中年の女が、ふっと柔らかい笑顔を則夫に向け、すぐに酔った女に視線を移して言った。
「そうよ。いつかいいことがあるよ。がんばんなきゃ」
カウンターの中の若い女が笑った。酔った女は、じっと則夫を見ていたが、その顔が不意に歪《ゆが》んで、女の眼に涙があふれた。
「ありがとう、お兄ちゃん。あんた、知らん顔してあたしの話、ちゃんと聞いててくれたんだね。ありがとう」
女は声をふるわせて言い、則夫に握手を求めてきた。則夫は女の手を握り返した。冷たくて骨ばった手だった。
アパートの部屋に帰りついたのは、十一時近くだった。アパートの塀の横に、見なれない乗用車が停まっていた。中の人影がぼんやりと眼についたが、則夫は気にもとめなかった。
ドアがノックされたのは、則夫が部屋に入っていくらもたたないときだった。則夫の胸はたちまちときめいた。彼は急いで入口のドアに向った。ドアの前に、顔を伏せるようにして立っている美那子の姿が、則夫の脳裡《のうり》にあった。ドアを開けながら、則夫の表情はゆるんでいた。その顔はしかし、たちまちくもった。ドアの前に見識《みし》らぬ男が立っていた。
「柏原さんはあんたかい?」
男がいくらか上眼遣いになって言った。二十七、八歳の、整った顔立ちの男だった。髪をきちんと整え、白っぽいスーツに、白いシャツの襟を重ねて着ていた。シャツの胸ははだけられていて、そこにペンダントが揺れていた。
「あんたは誰?」
則夫は訊き返した。男の眼がすわった感じに光っているのが、則夫を緊張させた。予感が生れていた。予感は当った。
「おれは菅井だ。美那子が世話になってるっていうから礼を言いに来たんだ」
菅井は口もとにうっすらと笑いを浮かべた。眼は笑っていない。則夫は返すことばに詰まって、口をつぐんでいた。
「ちょっとそこまでつき合ってもらうぜ」
菅井は体を斜《はす》に開いて顎《あご》をしゃくった。
「何をつき合うんだい?」
「話があるんだよ。きまってるだろう」
菅井は声を低くして、凄んだようすを見せた。則夫は最初の戸惑いから脱け出ていた。胸のどこかに怒りが芽生えはじめていた。
「話なら部屋で聞こうか。入ってくれ」
「けたくそがわるいんだよ、おまえの部屋はな。ゆうべ、美那子とおまえが抱き合った部屋なんかで、話ができるかよ」
「おれもけたくそがわるいよ。女の髪切ったり、ぶん殴ったりする奴の面《つら》見るのはな」
則夫は言った。菅井は笑った。笑いながら彼は片手をスーツの内ポケットに入れた。その手がポケットの中からドスを取り出した。則夫は背すじが冷えた。同時に、胸の怒りは一気にふくれ上がっていた。
「つべこべ言うんじゃないよ。さっさと来いよ、ほら……」
菅井は半分だけドスを鞘《さや》から抜き、刃の部分を則夫の頬にあてた。則夫は息を詰めた。たくさんのことは考えられなかった。体がひとりでに動いた。則夫の膝が、菅井の股間をしたたかに蹴り上げていた。ドスの刃が則夫の頬をかすめた。血が噴いた。針で刺したほどの痛みしか覚えなかった。
菅井は低くうめいて体を曲げた。そのままドスの鞘を払った。則夫は部屋の中に駈け込んだ。菅井はドアを閉めると土足のまま、ゆっくりと上がってきた。菅井は唇を歪めて、うす笑いを浮かべていた。則夫は何も考えていなかった。菅井をぶちのめしたい、という思いだけが胸に沸き返っていた。部屋はせまかった。武器となりそうなものはなかった。則夫はベッドの横の台の上の、ラジオカセットを手に取った。
「ラジオでディスコダンスでもやろうってのかよ」
菅井が言った。
「ぶっ殺してやる。てめえみたいなヒモ野郎は……」
則夫はうめくような声でいった。
「おれがヒモならてめえは泥棒猫だな。人の嬶《かかあ》をつまみ喰いしてて、ただですむと思ってんのかよ」
菅井はドスを突き出してきた。則夫はラジオカセットを振りまわした。ドスがラジオカセットをかすめて固い音を立てた。則夫は手首にまた刺すような痛みが走るのを感じた。赤い腕輪のような形に、手首に血がにじんできた。則夫はラジオカセットを振りまわすのをやめた。菅井が一歩踏み出して、ドスを低くくり出してきた。則夫はそれをラジオカセットで横に払った。にぶい手応えがあった。ラジオカセットが菅井の手首を打っていた。菅井はドスを斜めに払い上げた。ドスは則夫の顎の先の肉を裂いた。同時にラジオカセットが、菅井の頭に打ちおろされた。菅井の額に血の縞《しま》ができた。則夫はラジオカセットを横に振った。菅井のこめかみが鳴った。菅井が一瞬ひるんだ。則夫はラジオカセットを菅井の顔面に叩きつけ、ベッドの上の蒲団《ふとん》をつかんだ。それを菅井の頭に叩きつけるようにしてかぶせた。うしろにまわって腰を蹴った。
菅井はベッドの横の台の上にのめって、台と一緒に畳の上にころがった。蒲団の下で菅井がもがいた。則夫は菅井の腹を狙《ねら》って足をとばした。蒲団の端からドスが突き出されてきた。則夫はその手首にとびついて両手で押えた。腕ごと捻《ねじ》りあげた。その腕を則夫は蹴った。菅井の肘の関節が鳴った。にぶい不気味な音だった。肘の関節が折れていた。菅井は喉のつぶれたような声をあげた。蒲団の下で菅井の体が大きく反《そ》った。ドスは則夫の足もとに落ちた。
則夫はドスを部屋の隅《すみ》に蹴りやった。菅井の体を覆《おお》っている蒲団をはいだ。菅井は関節の折れた腕を胸の下に抱え込むようにしてうずくまった。則夫は菅井の脇腹を蹴りつづけた。菅井は畳の上を這って入口に逃げようとした。則夫は髪をつかんで立たせ、頭突きを浴びせ、腹に拳《こぶし》を打ち込んだ。菅井は膝を突き、ころがったまま、口から血を吐いた。血とともに折れた歯がとびだした。
則夫は菅井の襟首《えりくび》をつかんで、ドアのところまで引きずっていった。ドアを開け、菅井を蹴り出すようにして、廊下に出した。菅井は廊下を這って階段に向った。則夫はもう追わなかった。並んだドアから、アパートの住人たちが顔を突き出していた。則夫は黙ってドアを閉めた。頬と手首と顎《あご》の傷は、どれも深くはなかった。則夫は流しで傷口を洗い、テープで塞《ふさ》いだ。
ベッドに体を投げ出し、荒い息を吐いた。心は妙にうつろになっていた。なぜだか知らないが、泣きたかった。
7
つぎの日、則夫が仕事を終えて、トラックを車庫に入れたのは、午後六時だった。
会社のすぐ近くの空地が車庫にあてられていた。則夫はトラックから降りて、空地の入口に向った。そのとき、走ってきた一台の白い乗用車が、空地の入口を塞《ふさ》ぐようにして停まった。中に三人の男たちが乗っていた。
則夫は停まった車のうしろをすりぬけて、道に出ようとした。白い車のうしろのドアが両方開いて、男が二人降りてきた。
「柏原ってのはおまえか」
前に立ち塞がった男が、だしぬけに言った。体の大きい、顎がいくらかしゃくれた、若い男だった。髪を短く切っている。
「なんだい、あんたたち?」
「いいから車に乗れよ」
男は表情のない顔で言った。則夫は二人の男に両方から腕を抱え込まれた。きのうのきょうだった。則夫は男たちが、菅井の仕返しにやってきたのではないか、と思った。則夫はわめいた。だが、腕を抱えこまれたまま、引きずり込まれるようにして、車に乗せられた。車はタイヤをきしませて走り出した。
「おまえら、菅井の仲間か」
則夫は、シートの上で腕を抱え込んでいる二人の男を見て言った。
「わかってるじゃねえか」
左側の男が言った。三十前後のふとった男だった。指に大きな指環をはめていた。髪にパーマをかけている。運転している男は、まだ二十歳前と思える小柄な男だった。
「菅井の家に行くのか?」
「菅井のかみさんに会わせてやるからな」
顎のしゃくれた大柄な男が、笑った顔で言った。
「奥さんに会ってどうするんだ?」
「行けばわかるよ。おまえだって、人のかみさんに手を出して、おまけに旦那を半殺しのめにあわせて、ただですむとは思っちゃいねえだろうが」
「おとしまえつけてもらわなくちゃな」
「菅井に頼まれたってわけか?」
「おれたちだって、仲間が顔つぶされたのを黙って見てるわけにはいかねえんだよ」
「指ぐらいつめてもらわなくちゃな」
男たちは口々に言った。則夫は口をつぐんだ。恐怖がすこしずつしみ出してきた。
車は川越街道を西に向って走り、やがて所沢に入り、一軒のマンションの駐車場にすべりこんだ。
則夫は男たちに車の中から引きずり出された。腕をとられ、背中にはドスが突きつけられていた。ドスを突きつけているのは、車を運転していた若い男だった。男は則夫の背中に体をつけて、突きつけたドスを隠していた。そのまま、エレベーターの中に連れ込まれた。その間、誰にも会わなかった。
エレベーターは四階で停まった。小杉という名札のあるドアの前で、男たちは足を停めた。一人がブザーを押した。ドアが中から開けられた。菅井が開いたドアの向うに立っていた。菅井は頭に包帯を巻き、腕を白い布で吊っていた。
「よく来てくれた、まあ上がれよ」
菅井は腫《は》れ上がったままの眼と唇を歪めて言った。笑ったつもりらしかった。則夫は背中を小突かれて中に入った。靴を脱ぎ、短い廊下を進んで、奥の部屋に入った。則夫はそこで眼をむいた。ソファの横に、美那子が坐っていた。美那子は素裸のままだった。彼女の顔の腫れも引いてはいなかった。
美那子は則夫を見ると、すぐに眼を伏せた。うなだれたまま、美那子は小さく頭を横に振った。
「まず、ゆうべの礼を言わなくちゃな」
菅井が言った。菅井は言い終えぬうちに、則夫の腹を蹴った。則夫は腰が砕けてよろめいた。すぐうしろから羽交《はがい》締めにされた。顎のしゃくれた大柄な男が、いつの間にが則夫のうしろに回っていたのだ。
菅井は顔を歪め、低い声をもらしながら、則夫の腹を蹴りつづけた。しかし、彼も傷が痛むらしい。攻撃は長くはつづかなかった。若い男と、三十前後の指環をはめた男が、則夫の前に立った。二人は革の手袋をはめていた。二人は則夫を見て、声を立てずに笑った。拳が顎を突き上げてきた。腹にも拳が打ち込まれた。二人の男は、笑った顔のまま、交互にパンチを繰り出してきた。腹と顎だけが狙われた。
則夫はうめいた。眼がかすんだ。美那子がすすり泣きをもらしはじめた。すると菅井が美那子の肩のあたりを蹴った。美那子はうしろに倒れ、壁に頭を打ちつけた。そろえられていた脚が乱れ、しげみとその下のはざまが一瞬あらわになった。
どうして美那子は裸にされているのか?
菅井が自分の妻の裸の姿を、仲間の三人の男たちの眼に平気でさらしているのはどういうつもりなのか?
則夫は靄《もや》のかかったようになっている頭でそんなことを考えた。考えながら、則夫は腰からくずれ落ちて、意識を失った。意識を失う寸前に、彼は美那子の叫び声を聞いたように思った。
気がついたときは、則夫はせまい浴室のタイルの上にいた。頭から水を浴びせられていた。横に大柄な男と若い男が立っていた。濡れたシャツが肌にはりついていた。
「立てよ」
大柄な男が言った。若い男がタオルを投げてよこした。則夫は体を起した。だが立てなかった。殴られた腹が火をあてられているように火照った。痛みは内臓に深くこもっているようだった。呼吸のたびに胸まで疼痛《とうつう》が走った。吐き気もあった。頭の芯《しん》にも、にぶいしびれがあった。
則夫は濡れたタイルの上にあぐらをかいたまま、頭を振った。水滴が飛んだ。タオルで頭と顔を拭いた。そのタオルを水で濡らして、きつく鉢巻をした。いくらか頭がしゃんとした。
「さっさとしろよ、ほら」
大柄な男が、則夫の腕をつかんで立たせた。足がふらついた。腰と膝が鉛を埋め込まれでもしたように重たかった。則夫は大柄な男に腕を引かれたまま、リビングルームにもどった。
美那子が眉を寄せた暗い眼差しで則夫を見た。まだ裸のままだった。則夫は意味もなく、美那子に小さくうなずいてみせた。美那子の眼は充血したまま濡れていた。
菅井と指環の男は、ソファに腰をおろしてウイスキーを飲んでいた。大柄な男が、則夫を床に坐らせた。
「おまえの話から聞こうか。どうやっておとしまえをつける肚《はら》なんだ? 柏原……」
菅井が言った。則夫はうなだれて吐息をもらした。頭を起しているのが苦痛だった。
「おとしまえはもうついたんじゃないのかい?」
則夫はうなだれたまま言った。菅井と男たちが笑い声を立てた。
「さっきのは、ゆうべの礼だよ。美那子に手を出したことのおとしまえは、まだだぜ」
「人並みなことを言うなよ。おまえは奥さんに体を売らせた本人じゃねえか」
則夫は言った。言うと怒りがあらためて湧いてきた。
「美那子はおれの女房だ。おれが何をやらせようとおれの勝手だよ。一千万円、慰謝料をよこせよ。そしたら美那子をおまえにくれてやる」
「一千万円だと? 冗談じゃない。そんな金があったら、トラックの運転手なんかやっちゃいないよ」
「いくらならあるんだ?」
「一銭もねえよ。てめえみてえなクソ野郎に払う金は」
「おまえ、美那子に惚れてるんだろうが?」
「ああ、惚れてるさ」
「そうか。ならいいもの見せてやるからな」
菅井は言った。菅井の横にいた指環の男が、笑った顔で立ち上がった。他の二人の男もソファから離れた。
指環の男は、美那子を無造作に床にころがした。二人の男が、美那子の両の足首をつかんでひろげた。美那子は身をよじった。指環の男が、美那子の乳房をつかみ、しげみを撫でた。男は二本の指で美那子のクレバスを押し分けた。あからさまな形になったはざまが、則夫の正面にあった。
「けだものめら!」
則夫はうめいた。立ち上がろうとしたとき、菅井がドスを則夫の鼻先に突き出してきた。則夫は腰を浮かしたまま、菅井と三人の男たちを見すえた。手が出せなかった。美那子が苦しげな声をあげた。美那子の赤いはざまに、指環の男の指が深々と埋められていた。指は埋められたまま、抉《えぐ》るような動きを見せた。指の動きにつれて、押しひろげられたはざまがうねるような形になり、しげみが小さく揺れた。男はうす笑いをうかべたまま、美那子の乳房を絞るように揉みしだいた。
「くそ!」
「惚れた女があんなめにあってるんだ。一千万円で救ってやれるんだぜ。男だろうが、柏原。なんとかしてやれよ」
「てめえ、それでも亭主なのかよ」
「美那子はおれを裏切っておまえと浮気しやがったんだ。そんな女に未練はないよ」
「なら慰謝料なんて言い出すことはねえだろう」
「そうはいかねえ。一千万円の儲け口を教えてやるから、おまえ稼いでおれに払え」
「ばかやろう!」
「吠えるな。話を聞け。誰もおまえが一千万円なんて払えるとは思っちゃいねえよ。でもな、ひと働きすれば、そんな金はすぐに手に入る」
「なにをやらせる気だ?」
「強盗だよ。おめえが腕っ節が強いってことは、ゆうべでよくわかってる。強盗に向いてるよ、おめえは」
「強盗だと?」
「立川にパチンコ屋がある。あいつらの勤め先だよ」
菅井は、美那子を辱しめている男たちをドスの先で示した。
「明日の晩は、あの二人が宿直で店に泊っている。事務所の金庫には売上金が入ってる。宿直の二人を縛り上げてゼニをかっさらうんだ。二人はおまえの相棒だからな。おとなしく縛られてくれるよ。どうだい。簡単だろうが。一千万円は無理だろうが、毎晩、二、三百万の金は金庫に入ってるって話だ。金庫の中に入ってた金全部をおれのところに持ってこい。それで手を打とう。そうすりゃ美那子はおまえのもんだ」
「断わる」
「なら仕方がねえ。指つめるか」
菅井の笑った眼が、笑ったまま冷たくすわった。
「そっちもはじめてくれ。石頭野郎には、話しても無駄だ。痛いめに会わせるに限るらしいな」
菅井は言った。美那子は腰を抱えられてうつ伏せにされた。若い男が則夫の前にやってきた。則夫は蹴倒され、床についた右の手首を膝で踏みつけられた。小指の付根にドスがあてられた。則夫は歯ぎしりをした。
美那子は、四つん這いにさせられていた。大柄な男が、ズボンとパンツをおろし、性器をむき出しにした。勃起していた。指環の男も同じことをした。指環の男が、美那子の髪をつかみ、顔を起して、口もとに勃起した性器を押しつけた。美那子ははげしく首を振って顔をそむけた。しかし男は強引だった。
「くわえろよ。くわえなきゃ好きな男の指がとぶぜ」
菅井が粘っこく笑って言った。美那子の体がふるえた。美那子は則夫を見た。眼が暗く歪んでいた。
「ごめん、則夫さん……」
言ったかと思うと、美那子はむしゃぶりつくようにして、突きつけられた男根を受け入れていた。指環の男が笑った。菅井もかすれた笑い声を立てた。大柄な男が、美那子の腰を抱え、うしろから彼女を貫いた。美那子の尻の谷間に、黒々とした濡れ光る男根がゆっくりと見え隠れした。
「やめてくれ! 頼む。強盗でもなんでもやるから、もうやめてくれ!」
則夫はうなだれたまま、低く叫んだ。
8
つぎの夜、則夫は会社の駐車場の、食肉運搬用のコンテナートラックを、無断で借り出した。
彼は、トラックの運転台に、野球のバットと、立川のパチンコ店までの道順を書いた地図を置いて、走り出した。地図は前の晩に、所沢のアパートで、指環の男が書いたものだった。バットはその日、仕事の途中に通りがかったスポーツ用品店で買い求めたものだった。
渡された地図は正確だった。立川の繁華街にあるパチンコ店に着いたのは、午前一時だった。大きな店だった。
則夫は店の前にトラックを停めると、バットを持って運転台から降りた。そこで彼は、二、三回、バットを素振りした。空気がするどい音で鳴った。則夫の顔には表情がなかった。眼だけが異様に大きくみひらかれていた。唇が乾いて、白っぽく見えた。
パチンコ店の横に、人一人がやっと通れるくらいの通路があった。則夫はそこを入って行った。建物の裏は二坪くらいの空地になっていた。そこには木箱や、パチンコの玉を入れるプラスチックの箱などが散乱していた。小さなアルミサッシのドアがついていた。則夫はノブを回した。鍵はかかっていなかった。そういう手筈《てはず》になっていたのだ。
則夫はドアを開けて中に入った。細い通路の先に、明りのついた部屋の窓が見えた。窓からもれる明りが、暗い通路をほのかに照していた。則夫は急ぎ足に廊下を進んだ。バットは無造作に手にさげていた。足音に気がついたのか、部屋のドアがあいて、ゆうべの若い男が顔をのぞかせた。男は則夫を見ると、にやりと笑って、すぐに顔を引っこめた。
則夫は開いたままの入口をくぐって、室内に入った。小さな踏込みの先が、畳敷きの部屋になっていた。蒲団が二組敷いてあった。下着姿の若い男と、ゆうべの大柄な男が、蒲団にあぐらをかいてウイスキーを飲んでいた。若い男が安部《あべ》という名で、大柄の男が鎌田《かまた》という名であることは、ゆうべ則夫は聞かされていた。
安部と鎌田は、則夫の手にあるバットに気づいて、曖昧《あいまい》に笑った顔をわずかにこわばらせた。
「おまえ、ロープは持ってこなかったのかよ?」
鎌田が言った。則夫は首を横に振った。
「事務所は隣の部屋だ。先に金をかっさらうか?」
安部が言った。
「強盗やる気ははじめからなかったのさ」
則夫は言ってかすかに笑った。同時に彼は土足のまま畳の上にとび上がった。バットが風を切った。安部が脇腹を殴られて横に倒れた。ふたたびバットが一閃《いつせん》した。鎌田は立ち上がったところを、脛《すね》を払われていた。鎌田の体は跳び上がり、すぐに蒲団の上に落ちてころがった。酒びんとグラスが畳にころがった。則夫はまたバットを打ちおろした。鎌田は腕で腹をかばった。バットはその腕に打ち込まれた。骨が鳴った。鎌田の手首のあたりが異様にふくれ上がった。折れた骨が皮膚を盛り上がらせているのだった。
安部は転がりながら部屋の入口に向っていた。則夫は追い、安部の腰を蹴った。安部は横にころがり、仰向けになった。安部は両手を合わせて則夫を見た。何か言った。その声は則夫の耳を素通りした。則夫はバットの先を安部の喉に突き立てるようにした。安部の喉が異様な音を立てた。安部は背中を反らせて眼をむいた。バットは安部の股間に打ちおろされた。安部は背中に火でもつけられたかのように、はげしくもがいて踏込みのコンクリートの上にころがり落ちた。
「外に出ろ!」
則夫は二人に言った。二人ははじかれたように体を起した。揉み合うようにして通路に出た。
「這って行くんだ。けだものみたいにな」
則夫はうしろから、二人の首の付根に一発ずつバットを打ちおろした。二人はくずれ落ちるように膝を突き、そのまま這いはじめた。鎌田は片方の手首の骨を折られているために、膝と肘でいざるようにして進んだ。通路はコンクリートだった。二人の膝が擦《す》れて、たちまち血がにじんだ。そのまま二人は、コンテナートラックの所まで、うしろからバットで小突かれながら這いつづけた。
則夫はコンテナーの扉をあけた。タクシーが何台か走り去った。則夫はそれをまったく気にとめなかった。バットで殴り、小突き、足で蹴りして、安部と鎌田をコンテナーの中に追い込んだ。則夫もコンテナーの中に入った。内側から扉を閉めた。コンテナーの中の明りをつけた。食肉の血なまぐさい匂いが中にこもっていた。安部と鎌田はコンテナーの汚れた床に這って、荒い息を吐いていた。怯《おび》えきった眼で、二人は則夫を見た。
「てめえら赦《ゆる》せねえ。ぶっ殺す」
低い則夫の声が、コンテナーの中で低くこだました。則夫はやはり無表情の顔のままだった。わずかに唇が引き結ばれていた。則夫はバットを振り上げた。天井に渡した金属の横棒にかけてある鉤《かぎ》に、バットが当った。食肉をかたまりのまま吊るすための鉤だった。安部と鎌田が悲鳴を上げた。
バットが安部の額に、にぶい音と共にめりこんでいた。鎌田は立ち上がろうとして、足をすべらせた。鎌田の顔面に、バットが横ざまに打ち込まれた。血がしぶいた。鎌田はコンテナーの壁まで飛ばされ、反動で立木のようにまっすぐに倒れた。二人の手足が痙攣《けいれん》をはじめた。
則夫の眼は鎮《しず》まり返ったまま、それを見ていた。則夫は半ば狂っていた。彼はコンテナーの天井で揺れている、するどく光る鉤を手に取った。
「けだものめら!」
則夫は低く呟いた。鉤が安部の顎の下に突き刺された。安部の体がかくんと揺れた。声は出なかった。則夫は怪力を発揮した。安部を抱え上げると、則夫は鉤を天井のパイプにかけた。安部の体が、顎に打ち込まれた鉤一本で宙吊りとなって、重たく揺れた。鉤の先は顎の下から口の中に突き出ていた。伸び出た舌の下に、血にまみれた鉤の先がうっすらと光ってのぞいていた。
鎌田も同じように、顎の下に鉤を打ち込まれ、宙に吊るされた。則夫の手や腕やシャツが、血にまみれていた。新しいバットも血を吸っていた。則夫はバットを手に持って、コンテナーの中から出た。扉に外から閂《かんぬき》をかけた。
運転席にもどると、則夫はすぐにトラックをスタートさせた。
所沢の小杉の住むマンションに着いたのは、午前二時をいくらかまわったころだった。小杉というのが、例の三十前後の指環の男の名前だった。小杉の部屋には、小杉と菅井と美那子がいるはずだった。小杉と菅井は、そこで、則夫がパチンコ店から盗んできた金を持ってくるのを待っているのだった。
則夫はトラックをマンションの前の道に停めると、血まみれの姿のまま、バットをぶらさげて車をおりた。彼はゆっくりとマンションの玄関をくぐり、エレベーターに乗った。
小杉の部屋のドアには、鍵がかかっていなかった。則夫はドアを開け、土足のまま廊下を奥に向った。すぐに小杉がリビングルームから姿を現わした。小杉の顔がいっぺんにひきつった。
「なんだ、おまえ……」
小杉はリビングルームの入口に立ったまま、おどろいたように言った。則夫は答えなかった。無言のまま、バットを力いっぱい突き出した。小杉は顎を突き上げられてのけぞった。則夫はさらに、小杉の腹をバットで突いた。前かがみになった小杉の首の付根に、バットが打ちおろされた。美那子がソファの横で立ち上がり、眼を皿のようにした。菅井はソファから立ち上がり、声も出せずに、眼をひきつらせていた。
「表に鎌田と安部が、札束を持って待ってるよ。行ってやれ」
則夫は言った。菅井と小杉が怪訝《けげん》な顔になった。
「行けって言ってんだ!」
則夫は低く叫び、菅井の腰をバットで殴りつけた。菅井と小杉は、逃げるようにして入口に向った。
「待っててくれ。すぐ帰ってくる」
則夫は美那子に言った。美那子はまだ裸のままだった。彼女は、則夫のことばに、ただこくりとうなずいただけだった。事情が呑みこめないまま、則夫の勢いに呑まれているようすだった。
則夫は、誰に見咎《みとが》められることもなく、菅井と小杉をコンテナートラックのところまで追い立てていった。
「コンテナーの扉を開けろ」
則夫は小杉に言った。小杉は馴れない手つきで閂《かんぬき》をはずし、重い扉を開けた。コンテナーの中の明りが暗い道路にこぼれ出た。小杉と菅井の口から、喉の詰まったような声がもれた。二つの死体は宙でゆっくりと回りながら揺れていた。
「中に入れ」
則夫は言った。菅井が身をひるがえして逃げようとした。バットが唸《うな》るような音で風を切った。菅井は後頭部を一撃されて、尻から先に路面にくずれ落ちた。菅井は声すらもらさなかった。小杉はとび上がるようにしてコンテナーの中に這い上がった。小杉はすぐに立ち上がり、天井の鉤をはずして両手に持った。
則夫は道にころがった菅井の体を肩にかついだ。菅井はかすかなうめき声をもらすだけで、ぐったりとしていた。則夫は菅井の体をコンテナーの荷台に放り上げた。小杉が則夫の頭めがけて、鉤を打ちおろした。則夫のこめかみのあたりから血が噴き出した。則夫は動じなかった。バットを拾い上げた。ステップに足をかけ、バットを振るった。小杉はあとじさった。則夫は荷台にとび上がった。扉を閉めた。
バットを片手にぶらさげたまま、則夫は小杉に歩み寄った。散歩をしているときのような、無防備な歩き方だった。則夫の顔の左半分が血で染まっていた。血が明りを受けて光った。小杉は則夫のようすに鬼気迫るものを感じたようすで、顔をひきつらせたまま、あとじさった。
すぐに小杉はコンテナーの奥の隅に追い詰められていた。則夫はバットを横に振った。小杉が身をかわした。バットはコンテナーの壁を打っていた。すさまじい音がひびいた。小杉の振るった鉤が、則夫の腕を裂き、つづいて肩に打ち込まれた。則夫は身をかわそうとはしなかった。振りかぶったバットを打ちおろした。小杉の額にバットがめり込んだ。同時に、鉤が則夫の首に深く突き立てられていた。
小杉は則夫にもたれかかってきて、そのままずるずると床にくずれ落ちた。則夫はうつ伏せに倒れた小杉の後頭部に、狙いすましたバットの一撃を加えた。小杉の頭がはね上がり、床を鳴らした。
「けだもの。死ね!」
則夫の口から呟きとも叫びともつかぬ声がもれた。則夫の手からバットが落ちた。則夫はふらつく足を踏みしめて、天井の鉤をはずした。それを小杉の喉にあて、足で蹴って突き刺した。小杉の体を抱え上げ、宙吊りにしながら、則夫はあえぎとも、笑い声ともつかぬものをもらしつづけた。
小杉の体も、安部と鎌田と並んで宙に吊るされた。則夫はそこで、床に坐り込み、ぜいぜいと喉を鳴らした。首とこめかみからの出血がひどかった。
則夫はすぐにまた立ち上がった。菅井の喉にも鉤が突き立てられた。則夫は菅井の体を抱え上げ、そのまま抱き合うようにして倒れた。則夫の荒い呼吸が、しばらくコンテナーの中でつづいた。
やがて則夫は体を起した。ふたたび、彼は菅井を抱えあげ、すぐにまた、腰が砕けて床に倒れた。
四回同じことをくり返して、やっとのことで、則夫は菅井の顎の下に埋め込んだ鈎を、天井のパイプに掛けた。
終ったとたんに、則夫は床に腰を落した。ゆっくりと上体がうしろに倒れた。頭が床を打ち、小さくはずんだ。則夫は虫の息になっていた。
美那子が、コンテナートラックの扉を外から開けたのは、二十分余り後だった。彼女は中をのぞき込み、すさまじい悲鳴をあげると、マンションの中に駆け込み、管理人室のドアをはげしく叩きはじめた。
妹に捧げる復讐歌
1
北本明《きたもとあきら》は、アパートの庭に車を停めた。
夜が明けはじめていた。帰りがいつもより一時間余り遅い。最後に乗せた客に手を焼いたためだった。
アパートはまだ寝静まっていた。車を降りた北本は肩をすぼめた。冬の夜明けの空気が頬《ほほ》を刺した。背中が丸くなった。表情がけわしく見える。疲れのせいだった。タクシードライバーの勤務は二十時間を超える。
北本はアパートの外階段に向いながら、足もとに唾をとばした。最後に乗せた客のことを思い出していた。
中年のサラリーマンふうの客だった。態度が横柄《おうへい》だった。女を連れていた。ホステスと一目で知れた。
走り出すとすぐ、男が女の肩を抱いた。キスをはじめた。二人の重なった頬がルームミラーに映っていた。ときおり女が鼻声を出し、男が含み笑いをもらした。
女は中野坂上で降りた。男は調布までと言った。すぐに鼾《いびき》をかきはじめた。調布に入って北本は客を起した。客は泥酔状態で、道がわからなくなっていた。からみはじめた。右だ左だと指示をするのだが、それがすべて見当ちがいだった。一時間余り走った末に、ようやく客は降りた。
車庫にもどって洗車にかかった。リヤシートの上に、パンティストッキングとパンティが、一つに丸まったまま残っていた。最後の客の連れのものにちがいなかった。北本はそれをつまみあげて捨てた。胸に怒りに似たものが湧いた。
そうしたことは、北本には珍しい出来事ではない。リヤシートで、女を膝に乗せて交《まじ》わっている客を運んだこともあった。やくざとはっきり判る客だった。
北本は外階段を上がった。吐く息が白かった。ドアの郵便受けに、前の日の夕刊が突っ込まれていた。新聞を抜いてドアを開けた。中は暗い。部屋の空気は冷えて澱《よど》んでいた。北本は明りをつけ、ストーブに点火した。
六畳一間の一人暮しの部屋だが、きちんと片付いていた。三日に一度、妹の典子《のりこ》が掃除と洗濯にやってくるのだ。北本にはそれはありがたい。反面、うっとうしく思うこともある。
夕刊を放り出し、北本は小さな台所に行き、水割りの濃いのをこしらえた。アパートには風呂がついていなかった。熱い風呂に入って寝たいところだが、そうはいかない。酒に風呂の代りをつとめてもらうしかない。
北本はストーブの前に腰をおろし、夕刊を引き寄せてひろげた。片手はグラスから離れなかった。
口に運ばれかけていたグラスが、不意に宙に停まった。グラスが揺れ、酒が少しこぼれた。北本の眼は新聞の社会面に向けられたままだった。眼におどろきの色があった。
〈多摩川に男の惨殺死体〉
そういう大きな見出しのついた記事だった。被害者の顔写真が出ていた。下に緒方淳一《おがたじゆんいち》さんと名前が添えられていた。北本の眼はそこに釘づけになっていた。
前日の早朝に、多摩川にかかる日野橋近くの河川敷の草むらに、男の死体があるのを、ジョギング中の会社員が発見した。通報を受けた日野警察署で調べたところ、死体の身許《みもと》がわかった。死体には八ヵ所の刃物による傷があり、右腕と脛骨《けいこつ》が折れており、全身に打撲の跡も残っている上に、両手の指の爪がすべて抜きとられていた。日野署はこうした死体の状況から、殺人事件として捜査をはじめた。
殺された緒方淳一さんは板金工《ばんきんこう》として働いていたが、かつては暴力団|友永《ともなが》組の組員で、半年ほど前にやくざの足を洗って組を脱けている。日野署では、友永組と、組を脱けた緒方さんとの間に、新しいトラブルが生じて、緒方さんがリンチを受けた末に殺されたのではないかと見ている――。
記事はあらましそうした内容だった。
北本は読み終え、手にしたグラスを畳の上に置いた。氷が揺れてグラスを鳴らした。
北本は這《は》うようにして電話にとびついた。蒲田《かまた》に住んでいる典子のアパートの部屋の電話番号を回した。
「はい、緒方です……」
受話器に女の沈んだ声がひびいた。典子ではなかった。
「典子の兄の北本ですが、典子は?」
「あ、お兄さん。淳一の母親です」
相手はうるんだ声になった。
「いま仕事から帰ってきて、きのうの夕刊見て、淳一さんのこと知ったんです。すぐそちらに行きます。典子にそう伝えてください」
「待って、いま典子さんと替《かわ》ります」
待つ間もなかった。
「兄ちゃん!」
典子の叫び声が、受話器を通して北本の耳を打った。
「いったいどういうわけだ?」
北本は怒鳴《どな》る口調になっていた。典子は何か言ったが、声ははげしい泣き声とまじってことばにならなかった。
「どうして早く知らせなかったんだ? 会社に電話すれば、無線で知らせてもらえたんだぞ」
「ごめん……。ごめん……」
それだけが聞きとれた。北本はすぐ行くと言っておいて、電話を切った。ストーブを消し、明りを消して部屋をとび出した。
外階段をかけおりた。ロックしたばかりの車のドアを開け、運転席にとび込んだ。閉めたドアが、閉まらずにはね返った。ポンコツのカローラである。ドアのノブのバネがゆるんでしまっていて、留具がもどらないときがあるのだ。北本は運転席から身を乗り出して、ドアのボッチをはじいた。留金がとび出した。ドアは無事に閉まった。
中板橋から典子の住む蒲田までは近くはない。東京のほぼ北の端と南の端に離れている。夜明けで道はまだ込まないはずだった。それが北本の気持をいくらか救った。
典子は五ヵ月ほど前に、緒方と結婚した。それまで、兄妹は中板橋のアパートで一緒に暮していた。
典子がはじめて緒方との仲を北本に打明けたのは、一年余り前だった。
典子はそのころ、池袋の喫茶店で働いていた。容姿は人並だが、非行が因《もと》で高校を二年で中退した典子に、北本が満足と安心を得られるような勤め先は見つからなかった。おまけに、兄妹には両親がいなかった。
北本の母は、彼が九歳のときに病死した。大工だった父親は、一年後に人の世話で再婚した。そして生れたのが典子だった。
北本の父は無口なおとなしい性格の男だった。大工の腕も確かだという評判で通っていた。それが、典子が生れてしばらくしてから、酒を飲むようになった。それまで飲まなかった酒の量が、見る間に増えていった。酔うと眼がすわり、家の中であばれた。後妻はしょっちゅう殴られた。
北本はあばれる父親に組みついていってははじきとばされた。父の暴力は、後妻にしか向けられなかった。『父《てて》なし子を腹に仕込んでおれのところに嫁にきやがって』と、父はにごった声でわめきながら、義母を殴り蹴りした。父なし子を、という父のことばの意味を北本が理解したのは、後になってからだった。
典子は、北本の父親が再婚して九ヵ月目に生れていた。早産だったのか、正常|分娩《ぶんべん》だったのか、北本にはわからない。また、典子の顔立ちは、北本の父親の面《おも》ざしを留めているようでもあり、そうでないようにも見える。典子が北本と血のつながった兄妹か、赤の他人なのかは、典子の母親だけが知っていることだった。
やがて、典子の母親は家を出て姿をくらました。亭主の酒乱と暴力に耐えられなかったのだ。彼女が典子を置いて家を出た気持は、北本にはわからない。典子が五歳のときだった。
北本の父親は、ふたたびやもめになった。酒乱は収まったが、酒はつづいた。父親が仕事に出ている間、北本は十歳年下の典子の面倒を見ることをいとわなかった。彼は典子を妹と信じて疑わなかった。北本の父親はしかし、典子に対しては、どこか冷たかった。彼は二度と再婚をしないまま、北本が高校を卒業する一ヵ月前に死んだ。凍死だった。酔いつぶれたまま、降り積もった雪の上に倒れて眠り込んでしまったのだ。
北本は高校を卒業するとすぐに、トラックの運転手になった。牛乳を運ぶトラックだった。朝四時に家を出て、小売店に牛乳を運ぶ仕事だった。午後三時には家に帰れた。
典子は小学生になっていた。北本は午前三時に起きて、朝食の仕度をすませて家を出る。典子は一人で起きて食事をし、学校に行く。昼食は学校の給食で間に合った。北本は午後三時に帰ってくる。夕食はゆっくり作れる。典子が一人で家にいる時間も少なくてすむ。そうした理由から、北本は朝の早い仕事を選んだのだ。
そうやって、兄妹二人きりの暮しがはじまった。いつも仲睦《なかむつま》じかったわけではない。罵《ののし》り合うことも珍しくはなかった。北本には典子の淋しさがよくわかっていた。両親のいない家庭の、手ごたえのない頼りなさは北本にも身にしみていた。そのために彼は、中学に入ってからの典子がぐれはじめたときも、殴ったり叱ったりしながら、どこかで典子を赦《ゆる》していた。北本自身もまったくぐれていなかったとは言えないのだ。
典子が高校を退学させられたのをきっかけに、二人は札幌での生活を捨てて東京に出てきた。働いて自分で金を稼ぐようになってからは、典子も落着いてきた。何人かの男と恋愛沙汰はあったようだが、北本が手を焼くような不始末は、典子は起さなかった。
東京での暮しが四年目になって、典子は緒方と知合った。二人は喫茶店のウェイトレスと客としてはじめて顔を合わせたのだった。
緒方をはじめて北本に引合わせたとき、典子は緒方のことを真面目《まじめ》な板金工だと言った。
だが、北本はすでに三十歳を超して、人を見る眼は備わっていた。タクシーの運転手として東京を走り回った経験も、彼の人間に対する直観力を養っていた。北本は初対面で緒方が真面目な根性を持った男ではないと見抜いていた。それは眼の動き、口のきき方、物腰などで知れた。
やがて緒方は傷害事件で逮捕された。これは不起訴に終ったが、事件は小さく新聞に出た。それで北本は、緒方が暴力団友永組の組員であることを知った。
北本は典子をどなりつけた。結婚などもっての他だと言った。典子はあきらめはしなかった。緒方も足しげく北本に会いに来て、堅気《かたぎ》になるから典子と一緒になることを許してほしい、とくどきつづけた。
日がたつうちに、北本の心が動きはじめた。一途《いちず》に緒方に思いを寄せる典子が、いじらしく思えてきた。緒方という男の典子に対する気持も、うわついたものとばかりは思えなくなってきた。それに、緒方という男も、やくざにはちがいないが、反面、一本気のさっぱりした性格も見えてきて、北本の反感はうすらいだ。
典子だって、万引き、シンナー、不純異性交遊などと、ひととおりのぐれ方をして高校を追い出された身だ。はんぱ者同士、結婚をきっかけに、足が地についた暮しをしてくれれば、と北本は考えはじめた。典子を結婚させれば、自分も身を固めるふんぎりがつく――そうした気持も北本の中で育っていった。北本にも、女出入りがないわけではなかった。だが、どの相手も結婚というところまではいかなかった。北本のどこか片意地の強い性格も、相手をのびのびとさせなかった。妹を嫁に出すまでは、とはっきり口に出して結婚を先にのばす北本に、しびれを切らして遠のいていった相手もいた。
半年ほど前の夏の暑い午後だった。緒方が左手の小指に包帯を巻いて、北本のアパートの部屋に一人でやってきた。緒方は指を詰めて組を脱けたのだった。その一ヵ月後に典子と緒方は形ばかりの式を挙げて所帯を持った。典子は喫茶店勤めをやめて、新宿の靴屋の店員として働きはじめた。緒方は品川の板金工場に仕事の口を探した。
二人の新婚生活は順調のように見えた。典子は店の早番勤務のときに、帰りに中板橋まで足をのばして、北本の部屋を掃除し、洗濯物の世話をしていく。典子としては、兄の気に染まぬ結婚をしたことに負い目を感じているようすだった。それが、三日おきに部屋の掃除や洗濯に通う、といった行為に現われていた。それが北本にはよくわかる。
2
思ったとおり、夜明けの道はすいていた。四十分余りで、北本は蒲田の典子の住むアパートに着いた。
典子は入口の踏込みのところで、北本に抱きついて、はげしく泣きはじめた。北本の胸に額《ひたい》をすりつけるようにして、身をもんで泣いた。絞り出すような泣き声だった。
北本は、典子を抱きかかえるようにして部屋に入った。緒方の遺体が部屋の窓ぎわに安置されていた。小さな祭壇がしつらえてあった。部屋には緒方の母親と弟がいた。報《し》らせを受けて福島から駈けつけてきたのだった。緒方の遺体が、警察からもどされてきたのが、前日の夜遅くだったという。北本はそれを緒方の母親から聞いた。典子は泣きつづけるばかりで、話ができなかった。
北本は線香をあげ、遺体に向って手を合わせた。棺の蓋《ふた》をずらして、中をのぞき込んだ。緒方の顔は土色に変色して、大きく腫《は》れ上がっていた。胸のところで合わせた両手には、真新しい包帯が厚く巻かれていた。緒方の両手の爪がすっかり抜かれていた、という新聞記事を北本は思い出した。
「結婚して、やっと淳一もまともな暮しをはじめたと思っていたら、こんなことになって、お兄さんにも申訳ないことです」
緒方の母親が言った。北本はぼそぼそと悔みのことばを口にした。
「警察では暴力団の奴らがやった、と見てるようですね。新聞にそう出てましたが……」
北本は緒方の母親と弟を交互に見て言った。典子は部屋の隅の新しい整理ダンスに肩をつけ、みんなに背を向けて泣きじゃくりをつづけていた。
「典子さんの話だと、顔見知りだった人が、おとといの夜、淳一を呼びに来たんだそうです。それっきり、淳一は帰らんかったそうですよ」
「そのまま、死体で見つかったというわけですか?」
「そうらしいんです。典子さんの話だと、淳一は組を抜けて足を洗ったことで、やっぱり友永組の人たちに怨《うら》まれておったそうです」
「しかし、淳一君は指まで詰めて、ちゃんと組とは話がついていたはずですよ」
「それはわたしも聞いております」
母親は顔をしかめたまま、小さく首を横に振った。指を詰めるまでした息子の胸のうちと、残酷な痛みを思ったようすだった。
「淳一君と友永組の間に、最近になって何か新しい揉《も》め事が起きたようにも、新聞には出ていたけど、典子は思い当ることはないのかい?」
北本は典子に訊《き》いた。典子は背中を見せたまま、首を弱々しく横に振った。
「淳一君を呼出しにやってきた男のことは、警察に言ったんだろうな、典子?」
「言ったそうですよ、典子さんは……」
典子が答えないものだから、淳一の母親が替って返事をした。
「でもね、迎えに来た人は、友永組の人じゃないんだそうです。友永組とつき合いのある人で、淳一とも親しかった果物屋さんらしいんです。一杯やろうって誘いに来たんだそうですが、大森の駅前のバーで二人で飲んで、そこで別れたそうです」
「淳一君はその店に一人で残ったんですか?」
「いえ、淳一もその店を出て、帰ると言って駅まで一緒に行ったそうです。駅前で二人は別れたって話ですよ。その果物屋さんの家は、駅から歩いて帰れるところらしいんです」
「その後の淳一さんの足どりはわからないわけですか?」
「ええ……」
北本は黙り込んだ。また典子がはげしく泣き狂いをはじめた。典子はタンスに頭を打ちつけ、拳《こぶし》を叩きつけながら、喉の裂けそうな泣き声をあげた。
北本は立っていって、典子の肩に手を置いた。
「泣いてばかりいたって仕方がないぞ。気持をしっかり持たなきゃ」
北本は典子の背中を撫でた。典子が体をひねり、北本の膝に突っ伏した。スカートが大きくめくれて、膝の上までがむき出しになった。北本は眼をみはった。典子の左の太腿《ふともも》に、赤い火ぶくれがいくつも眼についた。指の先ほどの火ぶくれは、皮膚がただれたようになって、うっすらと濡れたように光っていた。典子はすぐにスカートでそこを覆《おお》った。
その傷はどうしたんだ、と北本は訊《き》きかけて、危うくことばを呑み込んだ。火傷《やけど》にしては、場所も傷のようすも妙だった。偶然の火傷でないとすれば、わざと誰かがそこに火を押しつけたとしか思えない。新婚早々の典子が、自分の太腿に火など押しつけるはずはなさそうである。
そうなると、考えられるのは、緒方が何らかの理由で典子にわざと火傷を負わせた、ということだ。夫婦喧嘩がこじれた末か、とも思えた。そうだとすれば、緒方の母親や弟の前で、典子の太腿の火ぶくれの原因を問いただすのは憚《はばか》られた。
「ごめんなさい……。あたしがいけなかったのよ」
いくらか泣き声を鎮《しず》めて、典子が言った。
「どうしておまえがいけなかったんだ? おまえが何かやったのか?」
「そうじゃないけど……」
「じゃあ、何なんだ?」
「わからないよ、お兄ちゃん」
典子はまたはげしい泣き声をあげ、背中をふるわせた。泣きながら典子は、北本の手にすがるようにした。強く手を握ってきた。
北本はその手を握り返した。彼は口をつぐんだ。典子のようすに、北本は何か気がかりなものを感じとっていた。
腿の火傷も気になった。典子がごめんと詫《わ》びていることも、何か詫びたくなる事情があってのことと思えてならなかった。そこに駈けつける前、中板橋のアパートから電話をしたときも、典子は開口一番『ごめんなさい』と言って泣きじゃくりつづけたのだ。典子の泣きようも、見方によっては並ではなかった。
それらが、北本の胸にひっかかりを残した。そのすべてが、緒方の惨死と関係があるとすれば、緒方が殺された事件には、警察も、緒方の母親や弟もまだ知らない事情が背後にあるのではないか。それを典子は知っていて口に出せずにいるのではないか――北本はそう考えた。
夜はすっかりあけていた。葬儀の準備は、緒方が勤めていた板金工場の社長や同僚たちがしてくれる手筈《てはず》になっている、と緒方の母親が言った。アパートの人たちも手を貸してくれるようすだった。
七時前に、ドアの郵便受けに朝刊が投げ込まれる気配がした。北本は立っていって、新聞を取ってきた。社会面からひろげた。
〈多摩川の惨殺死体はリンチ死 暴力団員二名が自首〉
そういう見出しが、北本の眼にとびこんできた。北本は新聞を畳の上に置き、緒方の母親と弟にその記事を指で示してみせた。母親と弟が、新聞の上に身を乗り出してきた。記事のあらましはこうだった。
緒方は友永組を脱けた後で、組員の愛人であるキャバレーのホステスに言い寄り、強引に関係を持った。その後、その女から百万円近い金を脅《おど》しとった。金を出さなければ、組員である女の相手に、女のほうが誘って自分から体を許したとして、二人の関係をばらしてしまう、と緒方は迫った。
緒方には百万円近いサラ金からの借金があった。それを清算するために、女から金を脅しとろうとした。女は緒方に脅かされて金を渡したが、その後も脅迫がつづいたために、困り果てて、友永組の組員である愛人に、一切を打明けた。激昂《げつこう》した愛人は、もう一人の親しい組員に手助けを求めて、緒方を狙い、大森の駅で一人でいたところを捕え、車で連れ去り、立会川《たちあいがわ》のマンションの一室で、二人がかりでリンチを加え、死に至らせた。警察では、自首した犯人の供述をもとに、裏付捜査を行なった。その結果、緒方が競輪に入れ揚げてサラ金から九十三万円の借金をしていたことや、キャバレーのホステスとの関係も立証されたとして、自首してきた二人を真犯人と断定した――。
「あのばかたれが!」
記事を読み終えて、緒方の母親が吐き出すように言った。
「ごめんなさい、お兄さん……。淳一の奴は、組は脱けたけど、やくざの根性は抜けちゃいなかったんですね。情ない奴です」
母親は声をふるわせた。弟はうつむいたまま、口はきかなかった。
北本は、まだ打ちひしがれたようにタンスに向ったままでいる典子に、記事の内容を話して聞かせた。
「淳一君には、この記事にあるようなようすがあったのか?」
「あたしは気がつかなかったわ」
典子は湿った細い声を出した。
「競輪に行ってたかどうかぐらいはわかるだろう。一緒に暮してたんだから」
「結婚してからは行ってないはずよ。サラ金の借金ていうのは、結婚する前の、うんと昔のものよ、きっと……」
「キャバレーのホステスと、おかしなことになったのは、組を脱けた後らしいじゃないか。記事にはそう書いてあるぞ。それもおまえ、一緒に暮してて気がつかなかったのか?」
「だから、あたしがいけなかったって言ってるじゃないの」
典子はまたすすり泣きをはじめた。
3
あわただしく日が過ぎた。
緒方の初七日が明けるのを待って、典子は蒲田のアパートを引払い、北本の部屋でふたたび同居をはじめた。蒲田のアパートの部屋には、緒方との短く終った新婚生活の思い出がしみついていて辛いから、と典子は言った。その辛さは、北本にもよく察しがついた。
北本と同居をはじめたころには、典子はいくらか気持も落着いたようすだった。だが、まだ、靴屋の勤めに出るだけの気力はなさそうだった。靴屋の主人も、冴《さ》えない顔で客の応対をされても困ると思ったのか、しばらく休みつづけることを許してくれた。
典子の気持が落着いたようすであるのを見て、北本は彼女に、腿の火傷のことをたずねてみた。典子が再度の同居をはじめた日の夜だった。北本の気がかりはつづいていたのだ。典子はスカートの上から、火傷のあるあたりをそっと手で押えて言った。
「ああ、これ。なんでもないの。てんぷらをテーブルで揚げてて、油が飛んだのよ。ちょっと行儀のわるい坐り方してたもんだから、肌にもろに油が飛んできたの」
なんでもない言い方だった。油が飛んだにしては、ずいぶん大きな火ぶくれになったもんだ、と思いつつ、北本は典子の説明を、いったんは納得した。
その納得が揺らいだのは、説明を聞いた二日後の明け方だった。
仕事を終えて帰り、台所で一杯やって、北本は寝床にもぐり込んだ。飲み足りない気持があって、彼は新しく水割りをこしらえて、寝床の枕もとにはこんだ。電気スタンドの豆電球をつけて、北本は寝床に腹這いになって飲みはじめた。
隣の寝床に寝ていた典子が寝返りを打った。ネグリジェの胸がはだけていた。両の乳房が半分ほどのぞいた。豆電球の光が、乳房をほの暗く染めた。
北本はまぶしいものを見る思いで、すぐに眼をそらした。典子の結婚前にも、そういうことはしょっちゅうだった。年ごろになって、さすがに典子は、北本の前で平気で肌をさらすようなことはしなくなった。が、狭い部屋で一緒に寝起きしていれば、はずみで北本がまぶしい思いにさせられるようなことは、しばしば起きる。
そのたびに、北本の気持はいっとき、平静を乱されるのだった。一瞬のどぎまぎした思いの底で、北本は、もしかしたら典子とおれは血のつながらない間柄かもしれないのだ、ということを考えることもあった。その考えは、北本の胸に甘酸っぱいものを生むのだった。
夏の夜ふけなどに、寝乱れた典子の姿を眼にすると、北本の胸はざわついた。そういうとき、北本は急いで夏掛けを典子にかけてやることで、獣になりかけているおのれを制した。
そのときも、北本は手にしていた水割りのグラスを枕もとに置き、わずかに体を寄せて、典子の胸に夜具をかけてやった。しかし、北本はそのときだけは、いったんかけてやった夜具を、もう一度そっと剥《は》いだ。典子の豊満な乳房に眼をこらした。彼は獣になろうとしていたのではなかった。
典子の両の乳房に、北本はまだ新しい火ぶくれの跡と思える傷跡を見つけていたのだ。それは、乳首よりいくらか上に寄ったあたりに、横一列に並んでいた。左右の乳房ともそうだった。傷跡はそれだけではなかった。乳房と乳房の間にも、ひときわ大きな赤褐色の瘢痕《はんこん》が見られた。それらの形や大きさは、みな典子の腿の火ぶくれの跡とよく似ていた。
北本はあらためて、典子の胸に夜具を着せかけ、体を元にもどした。水割りをすすった。てんぷら鍋の煮油が飛んで火傷した、という典子の説明を、北本ははっきりと疑った。
いくら行儀のわるい恰好《かつこう》をしていたにしても、乳房までむき出しにしててんぷらを揚げていたとは思えない。仮にそうだとしても、左右の乳房の上に、横一列に計ったように油が飛ぶなどということがあるだろうか。
傷跡は指の先ほどの大きさはたっぷりあるのだ。鍋でもひっくり返せば別として、そんな大きな油が果して飛ぶものかどうかも、疑問だった。
疑問をはらすために、典子を問いつめることは、北本にはためらわれた。太腿ぐらいならまだしも、乳房の傷について話を切り出すことには、やはりこだわりがあったのだ。それに、傷がただの火傷でないとすれば、典子は嘘をついてごまかしていることになる。
傷の由来自体よりも、典子が嘘をついてごまかしている理由のほうが、北本にはより大きな謎に思えた。
緒方が殺された経緯《けいい》については、犯人たちが自首し、警察がそれを真犯人と断定したことで、北本は納得がいっていた。
だが、その納得も、典子の乳房の傷痕《きずあと》を見てからは、やはり揺れはじめた。緒方が殺された事件には、新聞に出なかった別の真相が隠されているのではないか。その真相を典子は知っているのではないか。
そうした疑念が、あらためて北本の胸にひろがりはじめた。
さらに三日が過ぎた。その間に、北本は二つの新たな疑惑の種にぶつかっていた。
はじめに彼は、アパートの部屋のトイレに置かれた灰皿の中に、見なれないたばこの吸殻を見つけたのだ。ラークの吸殻だった。北本自身はハイライトを吸う。典子はマイルドセブンである。灰皿の中には白いフィルターのマイルドセブンの吸殻が一本と、黄褐色のハイライトの吸殻とが二、三本まじって入っていた。
北本は用を足しながら、吸っていたハイライトを、灰皿の底で揉み消した。中に入っていた吸殻が押しのけられる形で動いた。その中に、フィルターに三本の白い横線が入っている吸殻が眼についた。北本は不審に思ってそれをつまみ上げた。フィルターのすぐ下に、赤い文字でLARKとあった。ラークを吸う人物が、北本の留守の間に訪ねてきた、としか思えない状況だった。
誰が訪ねてきたのか、虚心に典子にたずねる気には、北本はなれなかった。典子の不可解な乳房や腿の傷跡が、北本にこだわりを生みつけていた。
つぎの日の夜明けに、北本はふたたびアパートのトイレで、不審の種にぶつかった。ウェスタン式のトイレの便座が、蓋と一緒に上にあげられたままになっていたのだ。
北本は前日の早朝にアパートを出ている。勤務を終えて夜明けに帰り、トイレに入るまで、二十時間余り経っている。その間、典子が一度もトイレを使わなかったなどということは考えられない。典子がその間にトイレを使えば、そして典子が立ったまま用を足したのでなければ、便座は当然おりているはずだ。それが上がったままになっているということは、北本が留守の間に、誰か男性がトイレで用を足した事実を示してはいないか。
ラークの吸殻の一件といい、便座のことといい、北本にはそれをどう考えていいのかわからなかった。胸が騒いだ。吸殻のことも便座のことも、どう考えるべきかは北本にも見当はついていた。彼はそこに男の影しか見ることができなかった。わからないのは典子のことだった。
典子が何を隠し、何を考え、北本自身が留守の間に何をして日を送り、夜を送っているのか、そこが北本にはわからなかった。北本には、典子がにわかに人がちがったように思えはじめた。信じきっていた妹を、疑心を持って見なければならないことに、北本はいら立った。
便座の異常を発見した翌々日の勤務日に、北本は仕事を休んだ。典子には欠勤は告げずに、いつもと同じ時刻に彼はアパートを出た。そのまま彼は、近くの同僚の家に、ポンコツのカローラで向った。同僚にはその日、車を借りる約束をとりつけてあった。ドライブに行く、という口実を使った。遠乗りのドライブには、ポンコツのカローラは疲れるから、と北本は言った。
同僚の車を借りると、北本はすぐに中板橋のアパートの近くまで引返した。彼は自分の部屋のドアの見える位置に、車を停めた。そうやって、終日見張りをつづけ、誰が典子を訪ねてくるのか、見届けてやろうと思ったのだ。
車を停めた位置は、アパートからはいくらか離れていた。出入りする者の人相までは見きわめられそうもなかった。だが、斜めの視角ながら、出入する人の姿だけは見落す心配はなかった。
正午が過ぎ、やがて夕方が訪れ、すぐに夜がはじまった。誰も典子のいる部屋のドアを開けて入っていく者はいなかった。
昼食と夕食は、二食ともパンと牛乳ですませた。近くの菓子屋で買ってきたのだ。北本は自分の忍耐強さに自分であきれた。自分が何をしているのか、わからなくなりそうだった。
緒方の死の真相を知るというのは口実で、実は自分は、部屋に男をこっそり呼び入れている典子に嫉妬を抱いているのではないか、などと北本は考えたりした。その考えは、ひどく北本を狼狽《ろうばい》させた。
典子は心底《しんそこ》、緒方に惚れていた。それは北本自身、よく知っているつもりだった。緒方が殺されて、まだ二週間余りしか過ぎていない。典子が部屋に男を引入れることなど、あるはずがなかった。にもかかわらず、自分の胸の底に嫉妬めいた気持のうごめきを見て、北本はうろたえたのだ。
だが、北本は見張りをやめなかった。その甲斐《かい》があった。
夜の十時すぎに、タクシーがアパートの前に停まった。人が一人降りてきた。人影はすぐに、アパートの小さな門を入っていった。やがてその人影は、典子のいる部屋のドアの前に立った。北本は息をつめ、眼を皿のようにしていた。気持が昂《たか》ぶってきて、喉の渇きを覚えた。
外廊下の明りが、人影をシルエットのようににぶく照し出していた。やがてドアが開き、人の姿は中に消えた。
そうなった後のことを、北本は考えていなかった。どうすべきか、すぐには考えが定まらなかった。
途《みち》は二つありそうだった。いますぐに部屋に踏込んで、相手の正体をつかみ、事態の説明を求めるのが一つだった。もう一つは、相手が部屋から出てくるのを待って、こっそり尾行して、素性《すじよう》をつかんだ上で、つぎの対策を考えるというやり方である。
いますぐ部屋に踏込むというのは、いかにも事を荒立てそうだった。事情がつかめないうちにそこまでやるのは、軽率だろうと思えた。
北本は相手を尾行するほうを選んで待った。しかし、彼は十五分と待たなかった。台所の窓を染めていた部屋の明りが、不意に小さくなったのだ。北本にはそれが、スタンドの豆電球の明りか、部屋の明りを小さくしたためだと、すぐにわかった。典子のいる部屋で、何がはじまろうとしているのか、北本には考えるまでもないことと思えた。
北本はためらいもなく、車の中からとび出していた。
4
北本は、アパートの外階段を昇るとき、足音を殺していた。なぜそうするのか、自分でもわからなかった。
部屋のドアには鍵がかかっていた。北本はやはり物音をたてないようにして鍵を開け、ドアの内側にすべり込んだ。
部屋の仕切りのガラスの格子戸《こうしど》は閉まっていた。ガラス戸に奥のほの暗い明りが映っていた。物音はしない。詰めた息を吐くような音が聞こえているだけだった。
北本は胸苦しさを覚えた。そっと靴を脱いだ。ガラス戸の前に立ち、一気にそれを引き開けた。
畳の上に、裸のままの典子が横たわっていた。典子の腰のところに、男がうずくまっていた。男も素裸だった。ストーブの火と天井の豆電球が、二人の体をほの暗く照らしていた。
二人は北本が中に踏込むと同時に、体を起してとび離れた。誰も声をあげなかった。北本は男の前に立つなり、相手の腹と顔面を蹴った。男はうめいてころがった。
「止めて! 兄ちゃん」
典子が叫んで、北本の背中にむしゃぶりついてきた。北本は腰をひねって典子をはねとばした。北本の平手打ちが典子の頬に飛んだ。男は立ち上がっていた。
北本は電灯のスイッチの紐を引いて、明りを大きくした。男が北本にとびついてきた。北本は腰をかかえられた。体が浮きかけた。男の頭が北本の脇腹に押しつけられていた。
「窓を開けろ、典子!」
北本は叫んだ。北本は叫びながら、腰を折り、男の背中の上から相手の腹を両腕で抱えた。男の腰が浮いた。
「くそ!」
北本はうめいた。男は体をくの字に折ったまま、北本に抱えあげられた。北本はストーブのうしろにまわった。ストーブの上には薬缶《やかん》がのっていた。湯気が出ていた。
「典子。薬缶を取れ!」
北本は言った。典子は部屋の隅に身をちぢめて立ちすくんでいた。動こうとはしない。北本は抱えた男の体を振りまわした。男の足が、ストーブの薬缶をはねとばした。湯煙が立った。
北本は逆さまに垂れた男の頭を、ストーブの上部の鉄板に押しつけた。男がうめいた。歯ぎしりをした。
「窓をあけろ、典子。こいつを外に放り出してやる」
北本はふたたび言った。典子は動こうとしない。北本は畳の上に、男の体を叩きつけるようにして落した。
男はすぐにはね起きた。額の皮膚が焼けただれていた。男は畳の上に脱ぎすててあった服に手をのばした。北本の足が飛んだ。よけられた。北本は体勢を崩していた。
男が北本の腹を蹴った。北本は息が詰まった。男の拳《こぶし》が北本の顎《あご》を突き上げた。北本は腰を落しかけた。そのまま、男の腰に抱きついた。北本はそのまま腰をのばした。男は北本の肩に担《かつ》ぎあげられていた。
北本の足がふらついた。彼は窓ぎわに進んだ。窓を開け放った。そこで北本は、体にはずみをつけるようにして腰をひねった。肩が回った。振り回された男の頭が、窓の端の柱を強く打った。にぶい音がした。
北本は同じことを二度、三度とくり返した。そのたびに男の頭が柱を打って鳴った。
北本は窓から身を乗り出した。ためらいはまったく湧かなかった。彼は腰をはずませ、肩をはげしく振って、両手で肩の上の男の腰をはげしく突いた。
男の体が宙に放り出された。男は宙でもがくように手足を振りながら、下に落ちて行った。
にぶい地ひびきがした。二階の窓から放り投げられた男の姿が、夜の暗がりの中に白くにじんだ。それはしばらく動かなかった。北本は畳の上に落ちていた男の衣服をひとまとめにすると、窓の外に放り出した。男が起き上がるのが見えた。北本は窓ぎわに坐り込んだ。息がはげしくはずんでいた。
男は立ち上がり、衣服をつけはじめた。北本は窓を閉めた。ふり向くと、典子はまだ裸のまま、壁に背中をつけていた。
北本は息を呑んだ。典子の腹や内股にも、乳房や太腿に見えるのと同じ、赤褐色の丸い傷痕が並んでいた。
それだけではなかった。典子の陰阜《いんぷ》は、一目で陰毛を焼かれたとわかる無惨なありさまを見せていたのだ。そして典子は、そうした姿を北本の眼から隠すこともせずに、放心の表情で立ちつくしている。
「典子!」
北本はうめくような声をあげた。典子は答えなかった。視線は宙に投げられたままだった。北本は立ち上がった。
廊下にいくつもの足音がした。低い話声も聞こえていた。
「見世物じゃねえぞ!」
太い怒声が廊下にひびいた。ドアの開く気配があった。部屋の仕切りのガラス戸は開いていた。さっきの男が、ドアを開けて入ってきた。
「靴をもらっていくぜ」
男は言った。顔が歪《ゆが》んでいた。息も苦しげだった。男は立ったまま靴をはいた。左の肘《ひじ》を右手で抱えるようにしていた。
「くそ! 腕を折っちまったぜ。だが、忘れてやるよ。おれも悪かったからな。典子、おまえもみんな忘れろ。わかったな」
男はあえぎながら言った。そのままドアを叩きつけるようにして出て行った。
北本はしばらく立ったまま動かなかった。頭が混乱していた。何からどう考えていいのかもわからなかった。いちばんわからないのは、部屋にとびこむなり、わけも聞かずに男に躍りかかったことだった。男と典子に対する憎しみにかられていたことが、いまになって、すこしずつ北本にわかりはじめている。だが、その憎悪のいわれは必ずしもはっきりしない。
北本は入口のドアの鍵を閉めに行った。部屋にもどって、ころがっていた薬缶を拾った。台所に行き、薬缶に水を満たし、もどってストーブにかけた。また台所に行き、雑巾を持ってもどった。畳にこぼれた湯を拭いた。典子はいつまでたっても、服を着ようともしない。立ちつくしたままである。
「いつまで裸でいるんだ」
北本は叱りつけるように言った。典子はわれに返った、とでもいうように北本を見た。視線はすぐに横に逸《そ》れた。典子はのそのそと動いて、下着を身につけ、服を着た。終るとその場に坐り込んだ。崩れ落ちるような坐り方だった。
「どういう男なんだ? あいつは……」
北本は訊いた。典子はうつむいたまま、口を開こうとはしなかった。
「亭主が死んで、まだ二週間ちょっとしか過ぎちゃいないんだぞ。どういうつもりなんだ?」
「ごめん……」
典子はうつけたような声を出した。
「謝ったって仕方がない。おれに謝るような話でもないぞ。わけがあるんだろう? 話してみろ。体の傷はどうしたんだ? まさかすっ裸でてんぷら揚げてたわけじゃないだろうが。下の毛だって焼かれてるじゃないか。緒方には変な趣味でもあったのか?」
「淳一がやったんじゃないわ」
「じゃあ誰だ?」
典子は答えず、うつむいたまま小さく首を横に振った。
「話せないのか?」
北本は声を荒らげた。典子はうつむいたまま、呟くような声で言った。
「兄ちゃん、札幌に帰ろう。札幌じゃなくてもいいわ。どこか田舎の知らないところで暮そう。東京を離れなきゃだめだわ」
「何がだめなんだ?」
「危いのよ、東京にいると……」
典子の声とことばつきに、力がもどっていた。
「何が危いんだ? はっきり話せ、典子」
「東京にいたら、あたしもお兄ちゃんも殺されるかもしれないのよ」
「殺されるだと? 誰にだ?」
「友永組の連中よ」
北本は典子のほうに向き直った。典子が顔を上げた。典子の眼に暗い怯《おび》えが見えた。
「淳一は新聞に出たようないきさつで殺されたんじゃないのよ、兄さん」
「話せ。おれに何もかも話してみろ、典子」
「サラ金に淳一が借金してたとか、キャバレーの女をゆすったなんて、みんなでたらめなのよ。友永組の連中が、サラ金会社とキャバレーの女たちに、偽の証拠をでっちあげさせたのよ。そういう段どりをした上で、淳一を誘い出して殺したのよ」
「緒方を大森の駅前のバーに誘った男、果物屋かなんかの、あいつも友永組に頼まれたってことか?」
「果物屋なんか、淳一を誘いにはこなかったわ。友永組の連中は、淳一を誘い出すのに、あたしを使ったのよ」
「おまえを?」
「電話がきたの、あたしに友永組の織田って奴から。淳一がトラブル起して怪我してるから、すぐにおれのマンションに来いって」
「それで?」
「大井町の織田のマンションの部屋に行ったけど、淳一はいなかったわ。織田と竹中と小松原という男がいたわ。そいつらが、あたしの体にたばこの火を押しつけたのよ。他にもいろいろしたわ。あたしに淳一を電話でおびき寄せろっていうのを、あたしが断わったからよ。でも、さんざん三人におもちゃにされて、あたし、頭がばかになって、負けちゃったのよ。あいつら電話口であたしが泣き叫ぶようなことをしたのよ。その声を淳一に聞かせるためよ」
「それで淳一は、織田って野郎のマンションに行ったんだな?」
「あたし、受話器を口につきつけられて、声をあげまいとして歯をくいしばってたんだけど、あいつら三人がかりであたしを……」
「緒方は、織田のマンションで殺されたのか?」
「殺したのはマンションじゃないわ。どこか知らないけど、外よ。マンションでは半殺しにされただけ」
典子は不意に声を詰まらせ、肩をふるわせた。泣き声を必死にかみ殺していた。
「あいつら、淳一の見てる前で、あたしを三人がかりでおもちゃにしたわ。淳一は手足を縛られてて、何もできなかったのよ。歯をくいしばって、顔をくしゃくしゃにして、淳一はあたしがされること見て、ぼろぼろ涙流してたわ」
「どうしてそんなことになったんだ? 緒方は友永組とはきれいに縁が切れてたんじゃないのか?」
「切れてたわ。誤解されてたのよ、淳一は」
「なんで?」
「友永組に、淳一と仲の良かった若宮《わかみや》ちゃんて人がいるの。若宮ちゃんも新宿のデパートで働いてる女の子と結婚しようって話になってたんだけど、相手の親が、暴力団員と結婚するなんてとんでもないって反対してたの。それで若宮ちゃんは、淳一みたいに、指詰めて組を脱けようとしたの」
「抜けられなかったのか?」
「そうなの。織田は友永組の若頭《わかがしら》なんだけど、織田は淳一が若宮ちゃんをそそのかして、組を抜けさせようとしてる、と思いこんじゃったの」
「理由もなしにか?」
「理由なんてないのも一緒よ。若宮ちゃんが、緒方は抜けさせて、なんでおれはだめなのか、と言ったとか、織田が淳一の仕事先に会いに行ったら、淳一が居留守使って会わなかったとか、そんなことなのよ、織田が理由にしてるのは……」
「それだけで緒方が殺され、おまえがおもちゃにされたのか?」
「見せしめだって」
「見せしめ?」
「組抜けて、堅気《かたぎ》になって嫁さんもらったって、一度やくざの飯喰った人間は、いつこうなるかわからないって、若宮に見せてやるんだと言ってたわ、織田は……。若宮ちゃんも淳一が織田のマンションに来たあとで、呼ばれてやってきたのよ。あたしがおもちゃにされるところも、淳一が半殺しのめにあうところも、若宮ちゃんは見てたわ」
「けだもの野郎たちが!」
北本はうめいた。
「淳一を殺したといって自首した一人が、若宮ちゃんよ。もう一人は身替りを勤めたら、組のバッジをやると言われてその気になった、暴走族あがりのチンピラよ。若宮ちゃんは出所したら組を抜けていいって約束で、身替りを引受けたの」
「どいつもこいつも、救いようのないばか野郎どもだ」
「さっきここにいた男は、竹中っていうのよ。織田のマンションで、あたしをなぶりものにした一人だわ」
「どうしてそんな野郎を部屋に入れた? 今夜がはじめてじゃないだろう? 野郎がここに来たのは……」
北本は叱責《しつせき》の口調になっていた。典子がおどろいたようすを見せた。
「知ってたの? 兄ちゃん……」
「知ってたから、おれは今日、仕事休んで、ずっとアパートの前で見張ってたんだ」
北本は、ラークの吸殻のことや、便座の一件を典子に話した。
「淳一が殺されたほんとうのわけと、実際に殺した人間を知ってるのは、やった織田たち三人と、身替り犯人の若宮ちゃんたちの他にはあたしだけよ。織田が竹中をあたしに張りついてろって言いつけたのよ。竹中はあたしの裸の写真とか、三人になぶりものにされてるところを撮《と》った写真とかで、あたしに何もしゃべるなって脅して、口留めしたわ。あたし、しゃべったら殺されると思ったし、織田も竹中も怖《こわ》いから、仕方なしに言うこときいてたのよ」
「いまも怖いか?」
「竹中はいまごろ、織田のところに向ってるわ、きっと。このままじゃすまないわ、兄ちゃんも」
「怖くなかったらどうしたいか? 典子」
「奴ら、ぶっ殺してやりたいわよ」
「だろうな。おれもぶっ殺してやりたいよ。おまえをおもちゃにして、緒方をなぶり殺しにした奴らをな」
「でも……」
「やれないってのか? おれに……」
北本は典子を見つめた。眼がはげしい色を見せていた。
5
つぎの朝早く、典子は札幌に向った。友永組の眼から身を隠すためだった。
北本は午後になってアパートを出た。友人に借りた車を返し、自分のカローラを受取った。
その足で北本は、勤めているタクシー会社の営業所に行った。父親の法事で帰省するという口実で、一週間の休暇を取った。
営業所を出た北本は、池袋のデパートに行った。まっすぐスポーツ用品売場に足をはこんだ。買い求めたのは、野球の金属バット一本、バットのケース、大型の登山ナイフ、ドライバー用手袋などだった。
街は夕暮れを迎えていた。北本は新宿に出て、夕食をすませた。すぐに大井町の織田のマンションに行った。北本は尾行に気を配った。つけている車はいなかった。
織田のマンションは、南大井の国鉄の線路沿いにあった。場所は典子から聞いてあった。部屋もわかっている。
北本はマンションの前の道にカローラを停めた。マンションの外廊下が、道に面していた。廊下に明りがついていた。各部屋のドアが並んでいた。ドアの横に、浴室かトイレと思える小窓が見えた。小窓に明りがついている部屋もあるし、消えているところもある。
織田の部屋は、三階のいちばん奥の端だった。織田の部屋のドアの横の小窓には、明りはついていなかった。
北本は車を降りた。マンションの小さな門を抜け、建物の裏手に回った。そこは駐車場になっていた。駐車場からは、各室のベランダと窓が見わたせた。三階の奥の端の窓は、すべて暗かった。織田は部屋を明けているようすだった。
北本は車にもどった。織田の帰りを待つしかなかった。
北本はシートに体を埋め、たばこに火をつけた。気持は昂《たか》ぶっていた。だが、いらだちはなかった。心は張りつめたまま、一種の鎮《しず》まりを備えていた。これからやろうとすることに、迷いやためらいはまったくなかった。
典子は、北本の決意を聞いて、涙を見せた。『あたしのために命を張るなんて……』典子はそうも言った。警察に駈け込んで、すべてを話す、とも典子は言った。北本は耳をかさなかった。
決心をひるがえさせようとする典子のことばを聞きながら、彼は典子の肌につけられたいくつもの火傷《やけど》の痕《あと》を瞼《まぶた》に浮かべていた。陰毛を焼かれた典子の体の姿を思い出していた。たばこの火を押しつけられたのだ、と典子は言った。陰毛もたばこの火で焼かれたのだという。思い出すと、北本の体は怒りでふるえ出しそうだった。
北本にはわかっていた。典子や緒方のために、北本は命を張ろうとしているのではなかった。彼自身の怒りのために、北本はそうしようと肚《はら》を決めたのだった。
典子と二人だけで生きてきた、十年余りの日々が思い返された。典子が、血のつながらない間柄の相手であるかもしれない、といった思いが、北本の胸の底をよぎることが、ときおりあった。典子を一人の異性として意識して、はげしくうろたえたことも北本には何回もあった。
典子は血のつながった妹だ、肉親だ、と自分に言いきかせ、思いこませることで、北本は道を踏みまちがえそうになる自分を殺してきた。
だが、典子は血縁のない他人かもしれないという思いが、胸の底にあったからこそ、十年余りも一緒に暮してこれたのかもしれない、という意識が、いまは北本の中に生れている。典子がまぎれもなく肉親だということがはっきりしていたら、とうの昔に別々に暮すことになっていたのではないか、と北本は思う。
妹だということで世話をやき、面倒をみ、手もとに置いてきたが、実は、妹だとする意識に隠れて、長い間、典子に恋をしていたのではないか――北本はそう思うのだった。そして、いまはもう彼は、胸の底深くにたたみこまれた恋情を、自分の眼から逸《そ》らそうとはしなかった。
典子はおれの妹であり、恋人でもある――北本は憚《はばか》るところなくそう思った。その思いが、織田たちに対するはげしい怒りを、さらにはげしいものにしていた。その怒りに、北本はほとんど生き甲斐に似た、荒々しい心の充実を覚えてさえいた。心はそこにしか向かなかった。
午後九時が過ぎ、十時が過ぎた。すぐうしろを、ひっきりなしに電車が走りすぎた。電車が走るたびに、車窓からもれる明りが、暗い道を縞模様《しまもよう》に彩《いろど》った。北本がそこに車を停めてから、二時間が過ぎていた。
何人かの人間や、何台かの車が、マンションの門をくぐった。そのたびに、北本は車を降り、建物の裏の駐車場に足をはこんだ。そこから見上げる織田の部屋の窓は、暗いままだった。
午前零時半に、一台の白いベンツが、マンションの門の中にすべり込んだ。北本は間《ま》をおいて、駐車場に行った。織田の部屋のベランダのガラス戸が、カーテンを引かれたまま、部屋の明りを映していた。
北本は暗がりの中で、静かに太い息を吐いた。車にもどった。ナイフをブーツの中に押込んだ。金属バットをケースから取出した。手袋をはめた。
心はずしりとすわっていた。背すじにかすかなおののきが走った。ためらいは生れなかった。
北本は車を離れ、マンションの門を入った。バットは体に添わせてさげた。誰とも会わずにエレベーターに乗った。三階で降り、廊下に出て奥に進んだ。またすぐそばを電車が走り過ぎた。北本の顔が、車窓の明りを受けてにぶく染まった。
織田の部屋の前で、北本は足を停めた。ドアのブザーボタンを押した。女の声の短い返事があった。足音がした。ドアチェーンをはずす音がした。
「だれ?」
男の声がドアごしに送られてきた。
「隣の者です。預り物をしてますから……」
北本は言った。ドアが開けられた。北本はドアを力まかせに引いた。泳ぐようにして男が上体をよろめかせた。ドアに手をかけていて、はずみで引き倒されそうになったのだろう。北本は男の喉をバットで思いきり突き上げた。男はせまい踏込みに尻餅をついた。
北本は男の顎《あご》を蹴り上げ、中に踏込み、ドアを閉めた。男が立ち上がろうとした。
「てめえ、この野郎、どこの者だ!」
男はわめいた。バットが突き出された。男の鼻がひしゃげ、血が噴き出した。
「でかい声出すな。てめえが織田か?」
北本は男の股間《こかん》にバットのはげしい突きを入れた。男は尻餅をついたまま、背中を丸めてうめいた。奥に女が姿を見せた。若い女だった。女はおどろきの声をあげた。
「騒ぐな。奥に行け」
北本は織田の肩を蹴った。織田は壁に手を突いて立った。女は奥に引込んだ。北本は織田の襟首《えりくび》をつかんで押した。土足のまま廊下を進んだ。
突きあたりが八畳ほどのリビングルームになっていた。女がサイドボードの前に立っていた。顔がひきつっていた。女の片手は、腰のうしろに隠されていた。その手が前に突き出された。
黒いものが宙に飛んだ。拳銃だった。織田が躍り上がるようにして、両手で拳銃をつかんだ。織田がふり向いた。北本の体が沈んだ。バットが横に走った。にぶい音がした。織田が喉の詰まったような声を放ち、足を払われてその場に倒れた。バットは一撃で織田の左足の脛骨《けいこつ》をへし折っていた。
織田は倒れたまま、北本に拳銃を向けた。引金《ひきがね》が引かれた。発射音は小さかった。弾丸が北本の肩をわずかにかすめて、うしろの柱にめり込んだ。北本はバットをゴルフのスイングふうに振った。拳銃が織田の手から飛んだ。織田の右手の拳が血を噴いた。北本は拳銃を拾った。それを腰のベルトにさした。
織田は骨の折れた脛を胸に抱え込むようにして、倒れたままでいた。女は怯《おび》えきった表情で、サイドボードの前に坐りこんだ。
「典子と緒方をいたぶったのは、この部屋か?」
北本は織田に言った。
「てめえか、緒方の嬶《バシタ》の兄貴ってのは」
織田はあえぎながら言った。北本は答えなかった。折れた足を抱えている織田の腕に、バットが打ちおろされた。また骨の折れるにぶい音がした。織田はすさまじい声をあげた。全身に痙攣《けいれん》が走った。
「声を出すな、みっともない」
北本は織田の口もとめがけて、バットを突き出した。唇が裂け、血が飛んだ。織田は仰向《あおむ》けに倒れた。北本は床に片膝を突いた。バットを打ちおろした。織田の体がはげしく反《そ》った。うめき声が立った。織田のもう片方の脛《すね》の上で、バットが反動で大きくはね返った。女が悲鳴をあげた。
北本は女の前に立った。女は這って逃げようとした。北本は女のスカートの裾を土足で踏みつけた。女は逃げることをやめた。
「おまえは織田の何なんだ?」
「一緒に暮してるだけよ」
「織田のかみさんか?」
「そんなようなもんだわ。でも、あたしは緒方のこととは関係がないわ、何も……」
「運がわるかったと思ってくれ。おまえは関係がなくても、こっちはおまえに用がある」
「何の用よ?」
「脱げ。裸になるんだ」
「いやよ!」
「いやが通ると思うなよ」
北本は女の頬にはげしい平手打ちをくれた。バットをサイドボードの上に置き、ブーツの中からナイフを取出した。女がすくんだ。北本は女のセーターの背中をつまんだ。そこにナイフを浅く突き刺した。セーターの背中が切り裂かれた。ブラジャーのバンドが断ち切られた。下着の肩紐《かたひも》もナイフで切られた。
「何をしやがる!」
織田が床にころがったままわめいた。織田は両脚の脛の骨を折られて、立ちも這いもならずにいた。血の気を失った額《ひたい》に、脂汗《あぶらあせ》を浮かべていた。
北本は口をきかなかった。女のスカートをむしり取った。下着も引きはいだ。パンティはナイフで切り裂いた。女は素裸にされた。
「織田を裸にむけ」
北本は女の腰を蹴った。女は怯えきっていた。織田を見た。北本は女の乳房をつかんだ。乳房をつかまれたまま、女は織田の横まで這って引きずられて行った。
「脱がせてやれ」
「脱がしてどうするのよ」
「この野郎が典子にしたことをして返す」
北本は言った。女はためらった。北本は拳銃を腕のベルトから抜いた。女は織田の横で四つん這いになっていた。深い尻の谷間の奥に、ヘアにうすく覆《おお》われた性器が、丸く盛り上がって見えていた。
北本はそこに拳銃を押しあてた。はざまがひしゃげた。銃口がヘアを巻きこみ、くぼみに浅く沈んだ。女が息を呑んで、体を固くした。北本は銃口ではざまを押し分けた。照星《しようせい》が赤い襞《ひだ》をかき分けた。くぼみの上の二枚の花びらが、銃口にまとわりつくように揺れた。銃口はうっすらと濡れた。北本はさらに強く抉《えぐ》るようにした。女ははげしく首を振り、痛みをこらえている。埋めこんだ。女が細い悲鳴をあげた。北本は撃鉄《げきてつ》を起した。
「言われた通りにしろ」
北本はのばした片手で、女の乳房を揉みしだいた。織田が北本のその手を、ひきつった眼で見ていた。
女は織田のシャツの前をはだけた。胸に彫物《ほりもの》があった。織田は性器もむき出しにされた。北本は女の乳房から手を離した。たばこをくわえて火をつけた。女にそれをくわえさせた。女は怪訝《けげん》な顔を見せた。
北本は、女の体に埋めた拳銃を、抉るように動かしながら、たばこをくわえた女の頭を押し下げた。たばこの火が、織田の彫物のある胸を焼いた。織田は歯ぎしりの音をたててもがいた。北本は容赦《ようしや》しなかった。
女にたばこをふかすように言いつけた。そうしないと火が消えてしまうのだった。織田の胸から腹にかけて、いくつもの赤い火ぶくれが生まれた。女はたてつづけに三本のたばこをくわえさせられた。織田の陰毛はすっかり焼き払われていた。最後に、たばこの火は織田の性器の亀頭《きとう》の部分にねじりつけられた。織田は失神した。
「小松原と竹中って野郎をここに電話で呼ぶんだ」
北本は女に言った。女は逆《さか》らわなかった。裸のまま立っていって、電話をかけた。北本も女と並んで立ち、受話器に耳を寄せた。呼出音がつづくだけで、相手は出なかった。竹中も小松原も、両方とも留守のようすだった。北本は女に受話器をもどさせた。
頭を靴で蹴とばされて、織田はうめき声と共に意識をとりもどした。北本は、織田の頭の横に立ち、ズボンのジッパーをさげた。性器をむき出しにした。女を引き寄せた。手にはナイフを持っていた。女は北本が何をさせようとしているのか察していた。顔の前に突き出された北本の性器を、口にふくんだ。ためらいがちに舌がまとわりついてきた。
織田が唸《うな》り声を立てた。北本は女の頭を片手でつかみ、深く突き入れた。女がうめいて体をふるわせた。織田は眼を閉じた。北本の足が飛んだ。織田は折れた腕をしたたかに蹴られていた。
「しっかり眼を開《あ》けて見とけ!」
北本は叫んだ。北本はすっかり勃起していた。女を這わせ、高く腰をかかげさせた。女のアヌスとクレバスが、明りを受けて暗いつやを放っていた。
北本は昂《たか》まりきったものを、女のはざまにあてた。女が腰をゆすった。性器は女のうるみにまみれた。北本はそれを女のうしろの部分に押しつけた。逸《そ》れた。手を添え、強引《ごういん》に割った。女がうめいた。はげしい息をもらした。くぐり入ったとき、女は強く息を吸い、高く頭をもたげた。女が喉を詰まらせた。北本は容赦なく突いた。低い気合いに似た声が、北本の口をついて出た。女の体が揺れた。
「くそ! てめえ、いい根性だ。だが、このままですむと思うなよ」
織田がかすれた声をあげた。北本は女から離れた。女の腰を拳銃の先で押した。押されるままに、女は這って進んだ。織田の顔の上に、女は膝を開いて這った。織田は女のはざまを下から仰ぎ見ることになった。
北本は女にその姿勢を保たせたまま、うしろから乱暴に体をつないだ。はげしく突いた。アヌスとヴァギナが、交互に塞《ふさ》がれた。女はあえぎはじめた。織田は女と北本の交接の局部を、顔のすぐ上に見ていた。わめいた。北本は声を立てずに笑った。残忍な笑いだった。
女はあきらかに、よろこびの声をもらしはじめた。自分から腰を強くゆすり立てた。北本は女の乳房をもみしだいた。前に回した手で、女のしげみを分け、露頭《ろとう》している陰核を指の腹で荒々しくこすった。女ははばかりを捨てて身を揉み、声を上げた。
北本は唸りながら腰をはずませた。女が前に突っ伏した。女の腹の下で、織田が苦しげな声をあげた。北本は女の奥深くに生れる律動《りつどう》を感じつつ、放った。ふぐりが織田の頬に当っていた。
北本は女から離れた。女も体を起そうとした。北本は女の腰を踏みつけて、動きを封じた。女は織田の顔面を腹で覆《おお》ったまま、荒い息を吐きつづけた。
やがて女の濡れ光るはざまの中心から、白い体液がゆっくりと流れ出てきた。それははざまの小さな起伏を静かに辿《たど》りながら、織田の血に汚れた頬に滴《したた》り落ちた。滴るものが絶えてから、北本はようやく女の腰から足をはずし、身仕舞《みじまい》をした。
北本は女には服を着ることを許さなかった。裸のまま、竹中と小松原の住むアパートの部屋に電話をかけつづけさせた。何度かけても、二人とも電話には出なかった。
6
つぎの日の午前十一時に、織田の部屋の電話が鳴った。
北本はソファの上で、浅い眠りの中にいた。ベルの音で、彼ははね起きた。織田と女は床にころがったままだった。女は織田のネクタイで、手足を縛られていた。織田は三ヵ所に及ぶ骨折の痛みで、すっかり生気を失っていた。
「電話に出ろ」
北本は、女の手足を縛ったネクタイを、ナイフで切って言った。女は立って行き、受話器を耳にあてた。北本も横から受話器に耳を寄せた。
「姐《あね》さんですか? 小松原です。兄貴は?」
「いるわよ。でも……」
女は北本を横眼で見た。北本は強く横に頭を振って見せた。
「いま電話に出られないのよ。ちょっと具合がわるいの。なんか用?」
「伝えてください。緒方の嬶《バシタ》を、事務所のほうに移したって……」
受話器にひびく男の声が、はっきりと北本の耳に届いた。北本の眼が燃えた。
「わかったわ。言っとく」
「兄貴、具合がわるいって、どうしたんですか? 飲みすぎかな……」
「らしいわよ」
女は言って電話を切った。顔に新しい怯えが生れていた。
「典子を事務所に移したってのは、どういう意味だ?」
北本は織田の横に立って言った。
「どうもこうもねえ。おめえの妹はいまごろ組の事務所で、若い者のいいおもちゃになってるってことよ」
「典子をとっつかまえたのか?」
北本の声がふっと沈んだものになった。ことばつきに力がこもった。
「きのうな。アパートを出てすぐだ。張られてることも知らずに、旅支度で出てきたそうだぜ、あの女は……。あいつに逃《ふ》けられちゃちとヤバいんでね」
織田は言った。北本は小さく何度もうなずいた。頬が小刻みにふるえていた。
「毛布を持ってこい」
北本は女に言った。女はすぐに隣の部屋に行き、たたんだ毛布を持ってきた。
「そこに置け」
北本は言い、床に落ちていた女の切り裂かれたパンティとストッキングを拾い上げた。それを固く丸めた。ドスが女の口に当てられた。
「口をあけろ。声を出されちゃ困るんだよ」
北本は言った。女は眼を大きくみひらいたまま口を開けた。丸められたパンティとストッキングが、女の口に押込まれた。
北本は毛布を大きくひろげた。それを織田の頭から全身にすっぽりかぶせた。織田は毛布の下でもがいた。北本はサイドボードの上の金属バットを手に取った。毛布がはがれて織田の頭がのぞいていた。北本はそれをかぶせ直し、はがれないように土足で踏んだ。
バットが織田の頭に打ちおろされた。にぶい音がした。織田の悲鳴は毛布の下でくぐもったものになった。血がゆっくりと毛布ににじみ、ひろがった。女は猿轡《さるぐつわ》をかまされたまま、喉の奥で声をあげた。女の眼ははり裂けんばかりにみひらかれ、すぐにしっかりと閉じられた。北本は、毛布の下の織田の体が動かなくなるまで、バットをふるいつづけた。頭しか狙わなかった。
終わって北本は長く太い息を吐いた。女に服を着るように命じた。女は血の気を失った顔で身支度をした。友永組の事務所の場所を聞くと、女は新宿の三光町のビルの一階にある、と答えた。北本は、女にベンツの鍵を出させた。車のキーを受取ると、北本は女の腕をつかんで部屋を出た。ナイフはブーツの中だった。織田の拳銃は腰のベルトにさし、上衣の裾で隠した。バットは血を拭《ぬぐ》い、手にさげた。
女を助手席に坐らせ、北本はベンツを走らせた。
日が高く上がっていた。空はきれいに晴れていた。風が強かった。
新宿の街は人と車で賑っていた。北本は女に道案内をさせて、ベンツを走らせた。
友永組の事務所は、三光町の交差点に面した角のビルの一階にあった。友永興業という金文字の看板が出ていた。
北本はいったん、その前を通りすぎた。事務所のガラス戸ごしに、中のようすが見えた。二、三人の人の姿が中にあった。
「中はどういう間取りになってるんだ?」
北本は女に訊いた。
「入ってすぐが事務所で、奥に応接間と組員たちが寝泊りする部屋がつづいているわ」
女は細い声で答えた。
北本はその一角を一周した。友永組の事務所を斜め正面に見る位置にもどった。信号は青だった。北本は車のスピードをあげた。ベンツは交差点をわずかに斜めに横にそれる形で進んだ。
女が叫んだ。北本は両手でしっかりとハンドルをつかんでいた。クラクションを鳴らした。歩道の人たちが駈け出した。
車は歩道に乗りあげてはずんだ。ベンツはそのまままっすぐ、友永組の事務所のガラス戸を突き破って中にとびこんだ。
事務机や椅子が飛んだ。電話をかけていた男が、机とともに奥の壁まで飛ばされた。怒号《どごう》と、ベンツのエンジンの音が一つになった。ベンツは奥のコンクリートの壁に当って、車体をきしませて停まった。助手席の女は、ダッシュボードに額をつけたまま、肩で息をしていた。
北本はバットをつかんで、車からとび出した。倒れた椅子を蹴とばして、男が二人、北本の前に立ちふさがった。二人とも手にドスを持っていた。北本はバットを振った。男の一人がこめかみを殴られて、横にふっとんだ。男の顔の半分が、たちまち血に染まった。男は立つようすがない。
残りの一人は、身をひるがえして、隣の部屋にかけこんだ。事務所には誰もいない。
北本は隣の部屋に逃げこんだ男を追った。ドアは開け放たれていた。北本はとびこんだ。広い応接間だった。竹中がいた。他に四人の男たちがいた。竹中は片腕を包帯で首から吊っていた。他の男たちは、それぞれドスを持って身がまえていた。
「表のシャッターを閉めろ」
竹中が横にいる男に言った。遠くでパトカーのサイレンの音がしていた。
「妹はどこだ!」
北本は竹中に向って言った。竹中がうす笑いを浮かべた。
「連れてきて見せてやれ、緒方の嬶《かかあ》を」
竹中が言った。一人が奥の部屋にかけ込んだ。典子の叫ぶ声がした。北本はバットを振り回して奥に進もうとした。ドスを持った二人が、進路をふさいだ。
北本は怒声をあげた。バットが男の肩をしたたかに打った。バットはさらに横に振られた。別の男の側頭部から血がしぶいた。一人が部屋の外に走り出して行った。シャッターの閉められる音がした。パトカーのサイレンの音が近くなっていた。一台や二台ではなかった。応接室の窓から外が見えていた。歩道に人垣ができていた。
「典子!」
北本は叫んだ。叫びながらバットを振った。ドスで突きかかってきた男が、顔面にバットの突きをくって尻餅をついた。ソファが倒れた。
典子が三人の男に囲まれるようにして、隣の部屋から引き出されてきた。典子は素裸にされていた。男の一人はブリーフ一枚の姿だった。
兄妹は、声をあげなかった。典子は北本を見て表情を歪《ゆが》めた。北本は唇を噛んだ。ブリーフ一枚の男の手が、うしろからのびて、典子の乳房をわしづかみにした。もう一つの手が、典子のヘアの焼かれたふくらみをつかんだ。そこを揉み立てた。
「よく来たな。だがもう遅いぜ。妹はゆうべからやられっ放しよ。十人は相手にしたぞ」
裸の男が言った。
「小松原ってのはどいつだ?」
北本は訊いた。
「この男よ」
典子が強い声で、裸の男のほうに顎《あご》をしゃくった。
北本は二、三歩退いた。バットが不意に斜めに走った。竹中がそこに立っていた。バットは竹中の顎を斜めに払っていた。竹中は足でもすくわれたように、その場にくずれ落ちた。北本はまたバットを振り上げた。竹中が床にころがったまま、体をひねった。拳銃の音がした。竹中が射ったのだった。弾丸は北本の左の肘《ひじ》の上の肉を抉っていた。
北本は、竹中の眉間《みけん》にバットを打ちおろした。骨の砕ける音がした。竹中は眼をむいた。体が信じられないほど反《そ》った。北本は休まなかった。バットはまた正確に打ちおろされた。竹中の髪が血で光った。拳銃が手から落ちた。竹中の手足がひきつるような痙攣《けいれん》を見せた。
北本は、竹中の持っていた拳銃を拾い上げた。そこに男が横からとびついてきた。ドスが北本の尻の肉を切り裂いた。北本は拾った拳銃を、男の首に押しつけたまま、引金を引いた。男は腰から先に壁ぎわまで飛び、そのまま前に突っ伏した。首から血が勢いよく噴き出ていた。
外で男たちが叫んでいた。警官たちだった。外から窓を叩いてわめいている警官もいた。シャッターをはげしく叩く音がした。北本はそれを耳に入れなかった。拾った拳銃を、典子を押えている男たちに向けた。典子が楯《たて》にされた。
典子の両腕は男たちに抱えられていた。典子の腋《わき》の下から、小松原の腕が出ていた。その手に拳銃がにぎられていた。小松原の頬に歪んだ笑いが刻まれた。
「兄ちゃん、こいつらぶっ殺して。あたしはどうなってもいいんだから!」
典子が叫んだ。北本は拳銃を腰のベルトにさした。バットを握り直した。典子がもがいた。男の一人が典子の裸の腹に拳を打ちこんだ。
北本は一歩進んだ。男たちは、典子をひきずるようにして、奥の部屋までさがった。北本は距離をつめた。奥の部屋に踏みこんだとたんに、小松原が拳銃を撃った。北本は横に跳んで床にころがった。二発目の銃声がした。北本は右の肩に火を当てられたような痛みを感じた。バットが手から離れてころがった。北本はそれをつかもうとした。その手のすぐそばで、銃弾がはねた。
北本はころがりつづけて逃げた。背中が壁に当った。北本はブーツの中のナイフを抜いた。男が一人、眼の前にとび出してきた。北本はナイフを男の太腿に突き立てた。男は北本の上に覆いかぶさるようにして倒れた。男の手にしていたドスが、北本の背中を斜めに切り裂いた。
北本ははね起きた。男の顔面を蹴り上げた。男の体が跳ねた。北本は典子の叫び声を聞いた。小松原が典子の髪をつかみ、こめかみに銃口を突きつけていた。
「動いてみろ。妹は生きちゃいねえぞ」
小松原がわめいた。応接間の窓が破られる音がした。警官たちがなだれこんできた。警官たちが、部屋の入口に殺到してきた。
「女を放せ!」
警官の一人が叫んだ。北本はベルトの拳銃を抜いた。それを右手に持った。ナイフは左手に移された。警官の何人かが、北本の背後からとびかかる構えを見せた。北本は警官たちに銃口を向けた。
「来るんじゃない。邪魔したらぶっ殺すぞ。これはおれの仕事だ」
北本は低い声で言った。言い終らないうちに、北本は走った。銃声がした。典子が叫んで、くずれ落ちた。典子の耳が裂けて、血を噴き出していた。
北本はまっすぐ小松原に体当りした。ナイフが小松原の腹に柄まで埋まっていた。
北本は拳銃を小松原の胸にあてたまま、引金を引いた。小松原の体が一瞬浮いた。そのまま、床に落ちた。
典子を押えていた男が、壁のところに這いつくばった。警官たちが、また北本にとびかかろうとしていた。
北本は警官たちに銃口を向けた。そのまま彼は床に膝を突いた。典子が北本の背中にむしゃぶりついて何か叫んだ。
北本は壁ぎわにうずくまっている男の頸《くび》に、血に濡れたナイフを突き立てた。男がわめいた。壁を蹴った。北本は男の頭に銃口をあてた。腕がすでにしびれていた。肩から流れ出る血が、手まで滴って指を濡らしていた。北本の右手には、撃鉄を起すだけの力がすでに失せていた。
北本はナイフを捨てた。両手の拇指《おやゆび》を重ねて、撃鉄を起した。引金を引いた。男の頭がはねて、壁を打った。
典子が北本の手から拳銃を奪った。典子は拳銃を放り投げた。そのまま彼女は北本の背中にしがみついて泣き叫びはじめた。
警官たちが、兄妹を囲んだ。兄妹はすぐに警官たちの輪に押しつぶされ、下敷きになっていた。警官たちは、北本にしがみついている典子を引離すのに苦労した。
本書は一九八二年六月小社より刊行されました。
本電子文庫版は、講談社文庫版(一九八五年八月第一刷刊)第十四刷を底本としました。