夜のエージェント
勝目 梓
目 次
一章 落ちこぼれ社員
二章 猟 犬
三章 背後の視線
四章 牙城の布石
五章 黒い天使
六章 闇の空白
一章 落ちこぼれ社員
火曜日だった。
野々山和夫は午前六時半に寝床を離れた。いつもより三十分は早い時刻である。
「くそったれ……」
床を離れてすぐに、野々山は口走った。ふてくされた気分だった。
その日に会社を解雇されるという確実な予感が胸にあった。クビになったあとの不安と自由の予感もあった。二つが胸の中で渦を巻いていた。いつもより早く目覚めたのもそのせいだった。
部屋には他に誰もいない。高円寺の古ぼけたアパートの一室である。野々山は一年前からそこに独りで暮している。
それまでは会社の独身寮にいた。寮の門限は午後十一時だった。寮には自衛隊上がりの堅物の寮監がいた。野々山は門限破りの常習者だった。
束縛感のつきまとう寮生活を嫌って、野々山はアパート暮しに変ったのだ。しかし、うるおいに欠ける点では、寮生活もアパート暮しも似たようなものだった。
早起きしても、別にすることはなかった。パジャマのまま、朝刊を読んだ。韓国の学生の暴動のようすが一面のトップに出ていた。学生たちは軍から奪った武器で武装しているという。
日本にも暴動が起きないものか――野々山は無責任で物騒なことをふと考えた。会社をクビになるかもしれない不安を抱きつつ、一方では彼は石のような退屈を覚えていたのだ。
牛乳を飲み、トーストをかじった。それがいつもの彼の朝食だった。アパート暮しをはじめて以来、変らない。会社に遅刻しそうになっても、喰うものだけは喰っていく。
野々山は時計を見て、安物の洋服ダンスの扉をあけた。夏物の背広が三着ぶらさがっている。紺と茶と淡いグレイである。着るものには気を配るほうだった。身だしなみのためというより、女とあそぶためだった。
野々山はグレイのスリーピースの服をハンガーごと取り出した。グレイというよりは白に近い色である。会社に着ていくにはいささか目立ちすぎる。
たぶん今日はクビを宣告されるだろう。ならばせめて晴れやかな服装《いでたち》で行ってやれ――野々山は考えた。ワイシャツは白、ネクタイは黒にした。黒タイは、クビになる自分自身への弔意のつもりだった。
地下鉄の電車は込んでいた。大手町まで三十分たらずである。
いつもなら野々山は込んだ車内で器用に朝刊を読む。その朝は起き抜けにすでに読んでしまっていた。駅のスタンドでスポーツ新聞でも買ってくるべきだった、と後悔した。
三十分たらずの車内の時間を、野々山は持て余した。乗っているのはほとんどがサラリーマンだろう。この中に、今日、会社をクビになるという不安を抱いている人間が一人や二人ぐらいはきっといるだろう――野々山はそんなことを思った。
思いはゆうべの出来事に移った。それがクビの不安の原因だった。思い出したくなかった。瞼の裏に、湯気と滴に包まれた女の裸の姿が揺れた。彼はそれを掻き消し、振り払った。すぐには消えなかった。うす赤く色づいた乳房と、湯の滴をつけた黒いしげみとが、最後まで、それだけが独立した形で残像を結んでいた。
ゼネラル通商株式会社――それが野々山和夫の勤務先だった。一流商社である。野々山は厚生課に属し、独身寮と社宅の管理事務を受け持っている。
会社のビルの正面入口を入ると、さすがに野々山の足は宙に浮いた感じになった。
ゆうべの今朝である。厚生課の野々山が独身女子寮の風呂場をのぞいて、現行犯で寮監につかまったという話は、まだ社員の間にひろまってはいない、と思えた。
だが、廊下で行き交い、エレベーターに乗り合わせた者たちの中には、女子寮に住んでいる人間の顔もまじっていた。
ゆうべは寮ではあれだけの騒ぎになったのだ。すくなくともその寮の寮生たちはすでに事件を知っているはずである。野々山は眼を伏せるようにして厚生課のあるフロアに向った。
午前中は何事もなかった。
午後二時に、厚生課の課長が野々山の席にやってきて無言で肩を叩き、廊下に向って顎をしゃくった。一緒に来い、といっているようすだった。
野々山の胸がやはり鳴った。彼は立ち上がった。課長の池崎は黙って先に立って歩きはじめた。
廊下に出て、野々山はふり返った。何人かの者が机から顔を上げて野々山を見送っていた。視線が合うと、彼らはあわてたように眼を伏せた。野々山は覚悟した。
小会議室に総務部の部長と人事課長が待っていた。池崎課長が最初に口を開いた。
「なぜここに呼び出されたか、きみ分ってるね……」
「はい」
野々山は足もとに眼を落したまま言った。もう一度、彼は覚悟をしなおした。
「残念だが、会社を辞めてもらうことになった」
人事課長が言った。宣言の口調だった。
前日の午後七時に、野々山は野方にあるゼネラル通商独身女子寮の門をくぐった。
そのときまでは彼には、女子寮の風呂場をのぞこうなどという考えはなかった。
毎月、第四月曜日の午後七時から、寮では運営懇談会なるものが開かれる。寮生の代表と寮監と会社側の三者の懇談会である。会社側からは厚生課の寮、社宅担当者が出席することになっていた。
退屈な会議である。出される話は、施設や備品の補修の話、給食の問題、さまざまな寮生からの苦情などが多かった。
その定例の退屈な会議に出るために、その日、野々山は女子寮に足をはこんだのだ。
会議は例によって退屈なまま、九時に終った。
野々山は事務所で二十分ばかり寮監と雑談をして、寮の玄関を出た。
寮の懇談会のときは、野々山は朝から自分の車に乗って出社していた。夕方、寮にまわって、そのまま帰ることになるからだった。
車は黄色いチェイサーである。寮の裏庭に停めていた。
玄関を出た野々山は、建物の横にまわって裏庭に出た。
裏庭に出る角が寮の浴室になっていた。浴室には明りがついていて、湯の音がした。話し声は聞こえない。
窓の前には、ビニール板の眼隠しがしてあった。眼隠しのビニール板には、一箇所、長い亀裂が入っていた。つい先だっての突風で、寮の隣の家の老朽化したテレビアンテナが折れて飛び、眼隠しに当って割れたものだった。
その補修の話が、終ったばかりのその夜の懇談会にも出され、野々山は厚生課の寮、社宅担当を代表して、早急に補修すると答えたばかりだった。
風呂場の前を通りながら、野々山が浴室の窓に眼を投げたのは、眼隠しのビニール板の補修の件を思い出したからだった。
そこまでは彼は職務に忠実な社員と言えた。そしてとたんに彼は落ちこぼれの途を踏み出していたのだ。
眼隠しのある浴場の窓に眼を投げたとたんに、野々山は足を停めた。窓が半分ばかり開いたままになっていたのだ。
ビニール板の眼隠しは、窓の下三分の二ぐらいまでを覆っているだけだった。窓が開いているかどうかは、ひと目で判った。
野々山は誘惑に抗しきれなかった。彼は足音を殺して窓の下に歩み寄った。
湯の音はつづいていた。話し声のしないところをみると、湯に入っているのは一人らしいと思えた。
野々山は身長が一七六センチである。長身と言えた。それもこの場合、彼にとっては不運だった。
彼は割れている眼隠しのビニール板に指をかけてそっとめくった。さほど広くない浴室の半分近くが視界の中に入ってきた。奥にビニールのカーテンのさがったシャワーが二つ並んでいる。生理に当っている者が使う専用のシャワーだった。
そのシャワーの手前にカランが並んでいる。カランの前に一人の女がしゃがんで顔を洗っていた。
野々山は息を呑んだ。分別はあっけなく失せていた。片膝を立ててしゃがんだ女の裸の姿がまぶしかった。腰にくびれの線が生まれていた。湯に濡れた豊かな尻が、顔を洗う手の動きにつれて小さく上下に揺れていた。
やがて女はカランの前で立ち上がった。形のいい豊かな白い乳房がはずんだ。湯に濡れた黒いしげみが、つやを放って盛り上がって見えた。張り詰めた太腿の上を湯の滴がすべった。
野々山は息が詰まった。喉に何か熱いかたまりを押し込まれた気分だった。
女の横顔には覚えがあった。役員秘書室にいる及川友美だった。社内でも評判の美人である美しい顔立ちに見合って、体つきも見事なプロポーションを備えていた。
野々山は完全にわれを忘れていた。及川友美は濡れた髪を掻き上げ、タオルで頭を丸く包んだ。ゆっくりと体の向きを変えて、野々山のひそんでいる窓のほうを見た。
濡れた乳首の鮮かな色や、淡い色合いの短冊形のしげみの形が野々山の眼を射た。
野々山は唾を飲み込んだ。喉がひきつれた。危く声を出すところだった。及川友美が、野々山のほうを見て、はっきりとほほ笑んだのだ。偶然? 野々山はそう思った。及川友美のほうからは、眼隠しの外に誰かがひそんでいるのが見えるはずはなさそうだった。
野々山はしかし、及川友美のほほ笑みを見て、いくらか大胆になった。彼はビニール板の亀裂をさらに押しひろげた。
ビニール板が小さな固い音をひびかせた。同時に叫び声があがった。及川友美は叫んで脱衣場に駈け込んだ。彼女の姿は野々山の視界から消えた。
「寮監さん、のぞきよ! 痴漢よ!」
脱衣場で及川友美の大声があがった。野々山は一瞬、体が硬直した。自分の車のほうに駈け出した。すぐに庭に足音がたった。懐中電灯をつけた自衛官上がりの寮監が駈けつけてきた。
補修の申し出のあった風呂場の窓の、眼隠しのビニール板の破れを確認するために窓の下に立った――そういう野々山の弁解を、寮監はその場ではあっさり聞き入れてくれた。
だが、集ってきた寮生たちは、野々山のことばを言い逃れだとして耳をかさなかった。その中には髪をタオルで包んだまま服を着た及川友美の姿もまじっていた。及川友美は何も言わなかったが、寮生たちの代表格の一人が、起きた事実をその場で厚生課長宅と総務部長宅に電話で告げた。
小会議室では野々山は、寮監と寮生たちに用いた弁解のことばを、総務部長たちには一切口にしなかった。
彼は人事課長の解雇の宣言と、直接の上司である厚生課長の池崎のことばを黙って聞いた。
「この際、思いきって出直すんだな。そのほうがきみのためだと思うよ。いずれ寮生たちの口から、きみがゆうべしたことは社内に知れ渡るだろう。そうなったら、きみだって会社に居づらいだろう。自分から会社を辞める気になるかもしれない。そうだろう?」
池崎はそう言った。
「野々山君の将来も考えて、部長とも相談の上で、依願退職ということにするつもりだ。いいね」
人事課長はそう言った。
「おさわがせいたしました。会社を辞めます、今日限り……」
野々山はそう言って頭を下げ、部屋を出た。気持は平穏だった。覚悟していたことだったからかもしれない。
入社以来三年間、特別優秀な社員でもなかったし、ゼネラル通商に入社できたこと自体が、まぐれだったという思いが、野々山には強くあった。
野々山は二流と目されている私立の大学を出た。卒業したときは二十四歳になっていた。二年、浪人をしていたからだった。
卒業して四つの会社の入社試験を受けた。ゼネラル通商だけが世間に名の知れた一流企業だった。
合格通知を手にしたとき、野々山はよろこぶまえに不安を抱いてしまったほどだった。何かのまちがいではないか、と真剣に思ったりした。
まちがいでないと判ったとき、彼はラグビーをやっていたのがよかったのかもしれない、と採用の原因を自分で分析した。スポーツできたえたガッツが認められたのだ、と――。それ以外には理由が思い当らなかった。
ならば大いにガッツを発揮してやろう、と張りきって入社した。が、ガッツを示す場はついに与えられなかった。
はじめから野々山は総務部厚生課に配属されて、そこのいくつかの仕事を受け持っただけだった。相手にするのはさまざまな書類や数字やリストだけだった。ガッツで物を売りまくるという夢を抱いて入った野々山は、一日一日、確実にくさっていった。
いつか、彼のガッツのほうは、プライベートタイムにおける酒や女や麻雀などのほうに振り向けられていった。
そうした三年間だった。だから解雇されてみても、さほどこたえはしなかった。
小会議室で解雇を言い渡されたとき、野々山の頭の中にあったのは、後悔や無念の思いではなかった。
彼は課長や部長たちのことばを聞きながら、及川友美のことを考えていた。
及川友美は、浴室で窓のほうを見ながら、なぜほほ笑んだりしたのか?
眼隠しの外にひそんでいる人影に、及川友美はなぜあんなに簡単に気づいたのか?
その疑問が、前の晩から野々山の胸にわだかまっていたのだ。解雇という事態が現実のものとなると同時に、前夜からの疑念が大きく野々山の胸にせり上がってきたのだ。
野々山は会社を辞めたことで、いささか野放図な気分になっていた。もう誰に気兼ねすることもない、といった思いがあった。
小会議室を出ると、彼はエレベーターで一階のフロアに出た。
フロアの隅に赤電話が置いてある。エレベーターを降りた野々山は、まっすぐ電話に向った。
ゼネラル通商の代表番号をダイヤルし、役員秘書室の及川友美を呼んでほしい、と交換係に言った。
「野々山だよ。ゆうべはどうも……。おかげで会社クビになった」
電話に出た及川友美に、野々山はつとめて淡々とした声で言った。数呼吸の間をおいて友美のひそめた声がもどってきた。
「あたしを怨んでる?」
「別に……。覚悟してたからね。ただ一言、お知らせしとこうと思ってさ」
「皮肉に聞こえるわね、やっぱり」
「気にしないでいいんだよ。ただ、きみにちょっとたずねてみたいことがあって電話をしたんだよ」
「なに?」
「電話じゃ困るな。微妙な問題でね」
「会いたいってこと?」
「そのほうがいいな」
「いいわ。あたしも思いがけないことになって、お詫びも言いたいし……」
及川友美は言った。意外に素直な言い方だった。野々山は思わず頬をゆるめかけた。友美の裸像がなまなましく彼の脳裡に舞った。おとしまえ――物騒なことばが胸をかすめた。
待ち合わせの場所は銀座のホテルのコーヒーショップにした。
及川友美は約束の時間に現われた。さすがにようすがぎごちない。当然だろう。前の晩に彼女は、寮の風呂場で裸の姿を野々山に見られているのだ。
野々山のほうもぎごちなさはあった。のぞきをやったばつのわるさが残っている。
その上、彼の眼は衣服に包まれた友美の裸の姿を、瞼の裏に視《み》てしまう。
「どうもコーヒー飲んで話すというのも落着かないな。食事でもしない?」
野々山は水を向けた。予定の行動だった。
「微妙な問題であたしに話を訊きたい、と電話で言ったわね」
そう言って、友美は食事の誘いに応じた。
野々山はビルの二階の名の通ったフランス料理の店に友美を案内した。
運ばれてきたメニューとワインリストを、野々山は鹿爪《しかつめ》らしい顔で眺めた。ワインの知識など彼にはない。
ボージョレという名に聞き覚えがあったので、ワインはそれにした。ソラマメのスープにウサギのテリーヌ、カモの煮込を頼んだ。友美も同じものにした。
ボーイが栓を抜いたワインを野々山のグラスに注いで味見を求めた。野々山は一口すすり、もっともらしくうなずいてみせた。
「あんなに騒ぎ立てる気はなかったのよ、あたし……」
料理に手を出しながら、友美が言った。
「ただ、びっくりしたものだから……」
「ほんとにびっくりしたの?」
野々山はことばつきにいささかの皮肉をこめるのを忘れなかった。それは友美に通じたらしい。
「どういう意味? びっくりしないわけないでしょう?」
「しかし、きみは風呂場で窓のほうに眼をやってちょっと笑ったぜ」
「笑ったりするはずないでしょう。笑ったとしたら、きっとなにか思い出して、ひとりで笑った顔になったんだわ」
「不思議なことはまだあるんだよ」
「なあに?」
「きみは簡単に、のぞかれてることに気づいたようだね」
「女って、裸でいるときは油断しないものなのよ。いつも四方に気を配ってるわ」
「それは結構。だけど、あんなにあっさりと気づかれるわけはないんだがなあ」
「自信たっぷりにのぞいてたってわけ?」
今度は友美の口調に皮肉がこめられた。顔はしかし、柔和に、いくらかいたずらっぽく笑っている。チャーミングな笑顔である。
「自信たっぷりなんてことはない。ビクビクしてたよ。でも……」
「でも、なあに?」
「どうしてあんなにすぐばれちまったのかなあ」
「女の警戒心をみくびっちゃだめよ」
「おれの影でも眼隠しのビニール板に映ってたのかい?」
「影は映っちゃいなかったわ。でもビニール板の破れめに人の眼がはりついてるのはすぐにわかったわ」
「それにしても、派手な叫び声あげたもんだよ、きみも」
「ごめんなさい。まさか野々山さんがのぞいてるとは思わなかったもんだから」
「おれも、窓があいてなきゃのぞいたりしなかったんだ」
「あたしにも落度があったって言いたそうだわね。そうかもしれないわ。窓あけなきゃよかったんだわ。暑かったもんだからつい」
「仕方ないさ。不徳の致すところだ、こっちの」
「会社、やめさせられてどうするの。これから?」
「まだ考えてないよ。なんとかなるさ。それにしても、きみのヌードはすばらしかったな」
「いやねえ」
「会社クビになったことより、きみのヌードを見ちゃったことのほうが、いまだにショックだよ」
「それを言いたくて呼びだしたの?」
「他人じゃなくなったみたいな気がするんだ、きみとは、もう……」
「ヌード見たから?」
「そう。もう一度見たいよ」
「ばかねえ……」
友美はナイフとフォークを器用に操りながら、柔らかく野々山をにらんだ。明らかに媚をふくんだ仕種だった。野々山にはそれが意外だった。脈がある、と思った。
脈は立派にあった。
食事を終り、新宿に移って二軒、バーをまわった。友美は酔っているふうに見えた。歩きながら肩を抱くと、体を寄せてきた。
野々山はさっぱりした口調でホテルに誘った。友美は答えずにうつむいて笑った。しばらくして歩きながら言った。
「いいわ。連れてって……。野々山さんはあたしのために会社クビになったようなものだもの。埋め合わせするわ」
「すばらしい埋め合わせだ」
「さっき、ヌード見たら他人じゃなくなったみたいって言ったでしょう」
「ほんとなんだ」
「変ねえ。ほんとうはあたしもそんな気がしてるの。見られたせいかしら?」
友美は言ってまた小さく笑った。挑発的なことばであり、笑いだった。
歩いて西大久保のラブホテル街に行った。構えの大きいところを選んで門をくぐった。
「はじめてじゃないんだろう? こういう場所は」
部屋に二人きりになると野々山は言った。
「ご想像におまかせするわ」
友美は言った。野々山は友美を抱き寄せた。柔らかい体が腕の中にもたれ込んできた。唇を重ねた。友美は舌で応えてきた。軽くしなやかな舌だった。
「クビにはなったが、代償はすばらしい。後悔しなくてすむよ」
野々山は調子のいい科白を吐いた。半分ぐらいは本音ともいえた。
「変な女と思うでしょう、あたしのこと」
「どうして?」
「のぞかれて、騒ぎたてて、つぎの日は誘いに乗ってこんなところに来るんだもの」
「おれは素直によろこんでるぜ」
「なんだか申し訳ないって、ずっと思ってたの、あたし……」
「申し訳ないのはこっちさ。いいじゃないか、こうなったいきさつなんかどうでも。気軽にたのしめばそれでいい」
野々山は言った。二度目のキスをした。前よりも踏み込んだ感じのキスになった。
湯舟に湯が溜るのを待って、野々山は浴室に行った。ひと足おくれて友美もやってきた。タオルで体を隠していたが、おざなりなやり方だった。
腕の上から豊かな乳房があふれるようにのぞいていた。タオルの端に、しげみが見え隠れした。
友美の肌は浅黒く、つややかな光沢を備えていた。体つきはひきしまっている。とりわけ腿とふくらはぎの形が、すっきりと小気味よかった。
小さな湯舟だった。二人並んで体を沈めるのがやっとだった。友美の厚い腰と太腿が、野々山を押してきた。野々山は失職した気落ちを棄てていた。心はまことに無邪気にはずんでいた。
彼は肩を半ば重ねるようにして、友美のうしろに体を入れた。両手で友美の肩から腕を撫でおろした。友美は背中で野々山の胸を押し、わずかに息をはずませた。
野々山の両手が、うしろからまわって友美の乳房をすくい上げた。重くて張りの強い重い乳房だった。野々山の親指が、小さな豆粒ほどの友美の乳首を軽く掃いた。友美の体に小さなふるえが走った。二掃き、三掃きするうちに、乳首はたちまち固くするどくとがってきた。友美の体から力が脱けていく。彼女は野々山の肩にのけぞった頭をもたせかけて、深い吐息をもらした。
二人は体を洗って浴室を出た。二人ともバスタオルを体に巻いたままだった。
野々山は友美の肩を抱いたまま、床ののべてある部屋に誘った。明りは消さなかった。友美は厚い夜具の端に腰を置き、そろえた両脚を伸ばして体を横たえた。はずみでバスタオルが解けた。乳房がこぼれ出た。太腿の奥があらわになった。
野々山は友美の太腿に軽く口をつけた。湯と石鹸の匂いがそこにこもっていた。唇を受けた太腿はなめらかだった。小さなさざ波のようなふるえが肌の表面にひろがった。
友美が腕を伸ばしてきて、野々山の体を引き寄せた。野々山は友美に手枕をしてやった。半ば胸を合わせてキスをした。友美の舌が大胆に躍った。野々山は一瞬、強く吸われて、火をつけられた。
唇を重ね、舌をからめながら、野々山は片手で乳房を柔らかく包み込むようにした。乳房は手からこぼれて形を変えた。指を強くしっかりと押し返してくる。乳首が掌の中心を柔らかく突いてきた。
くっきりとした稜線を保った乳房だった。サンゴ色の乳暈は広く、かすかに盛り上がっている。乳首は明るく透明な色調に輝いている。
野々山は舌をとがらせて乳暈の縁をなぞった。乳首を唇ではさみ、舌を躍らせた。友美がかすかな声をもらした。友美はゆっくりと首を横に振った。髪がシーツの上でうねった。唇が濡れたように明りを受けて光る。
野々山は友美の頸すじや喉に唇を移した。友美はのけぞり、背すじを伸ばした。腰が反った。こんもりと盛り上がったしげみが、明りの下でにぶいつやを見せている。
ちぢれの強いしげみに、野々山は手をあてた。柔らかいヘアだった。湯の湿りが残っていた。黒いレースのかたまりを置いたように見える。底に青味をおびた肌が透けていた。
野々山は指を一本立てた。指先でしげみの底のクレバスをたどった。指先にかすかに触れるものがあった。それは小さく、強い弾力を秘めていた。友美があえぎ、腰を小さくうねらせて、両手で顔を覆った。合わせられていた友美の膝がゆるんだ。
野々山は手で大きく友美の腿を分けた。友美は気を許した姿勢になった。野々山の手は熱いはざまに押しあてられた。一本の指が長い尻の切通しの底に沈められた。うるみが指に伝わった。その指はゆっくりとせまい道を這いのぼりはじめた。
柔らかいものが指にまといついてきた。やがてそれは、弾みの強い小さなものの上に留まり、ひそかな旋回をはじめた。友美の口からこらえかねたような声が放たれた。声は細く高く尾を引いて消え、するどいあえぎに変る――。
つぎの朝、野々山は七時に目を覚ました。まっ先に頭に浮かんだのは、自分がもう会社に行く必要がない身だ、ということだった。
目が覚めたのは、三年間の会社通いによる習慣からだった。それを思うといまいましかった。
もうひと眠りしようと思ったが、眠気は去っていた。野々山は寝そべったままたばこに火をつけた。
失業の身の上の心細さが襲ってきた。が、あわてる気持は湧いてこない。
彼は及川友美のことを頭に浮かべた。昨夜は彼にとってすばらしい一夜だった。
昨夜の友美には終始、ひょんなことから肌を合わせることになったいきさつにこだわるようすはなかった。彼女は存分に明るく、放胆に乱れた。
野々山は友美のうるみにまみれた輝くはざまを思い返して、体が熱くなるのを覚えた。彼はそこに唇と舌を使うことまでやった。友美はそれをよろこんだ。返礼に同じことを野々山にもしてくれた。
そうしたよろこびが、失職を代償に得られたかと思うと、野々山は苦笑を覚える。しかし、慎しもうなどという殊勝な反省は湧いてこなかった。
野々山はそのまま、昼近くまでふたたび眠った。目が覚めたのは、電話の呼び出しブザーが鳴ったからだった。
ブザーは各室についている。電話を受けた管理人が、そのつど当の本人の部屋のブザーを鳴らす仕組みである。
電話は玄関の階段の上がり口にある。ピンク電話である。野々山はパジャマのまま部屋を出た。受話器をつかみ、ぶっきらぼうな返事を送った。
「野々山君かね?」
横柄な声が返ってきた。年配らしいさびのある低い声だった。
「野々山ですが……」
相手の見当がつかず、野々山は曖昧なことばつきになった。
「鹿取だ」
「鹿取?」
「ゼネラル通商の鹿取常彦だ」
「鹿取専務……」
野々山は言って思わず声を呑み込んだ。思いもかけぬ相手だった。
「なにかご用でしょうか」
野々山は声もことばつきも改めた。それが自分でもしゃくだった。おれはもうゼネラル通商の社員じゃないんだ――胸に呟いた。
「解雇されたそうだね、きみ……」
鹿取の声には表情がなかった。
「仕方ありません。身から出た錆です」
「ばかにいさぎよいね」
「あきらめはいいほうなんです」
「仕事の目処《めど》はあるのかね?」
「きのうのきょうですから、まだ……」
「きみに仕事を頼みたいんだがね」
「専務がですか?」
「いやかね?」
「いやじゃありませんが、急なお話なので」
「今夜、八時、銀座の七丁目の島村という小料理屋に来たまえ」
鹿取はその小料理屋の場所を要領よく説明した。
「どういう仕事でしょうか?」
「おもしろい仕事だ。報酬もわるくない。詳しいことは今夜会って話そう」
鹿取はそう言って電話を切った。
部屋にもどって、野々山はしばらくぼんやりとなってしまった。
鹿取専務と野々山とは特別な関わりはなにひとつない。三年間の在職中に、顔を合わせたのは、入社試験の面接のときの他にはかぞえるぐらいしかない。いずれも社内で偶然に行き会っただけである。個人的にことばを交したことなどいっぺんもないのだ。
その鹿取常彦が、失職した野々山に新しい仕事を頼みたいと言ったのだ。野々山が面喰うのも無理はなかった。
鹿取は、新しい仕事を『頼みたい』という言い方をした。仕事を『世話する』とは言わなかった。
野々山はそのことをあらためて思い返した。頼みたいという以上は、鹿取自身のなんらかの仕事をさしているのではないのか?
しかし、鹿取が個人的に他に仕事を持っているとは考えにくい。
鹿取常彦は手腕家だという社内の評判だった。しかし、現在は彼は役員としては陽の当る場所にいない。無任所大臣にひとしい立場にいる。それは、彼が現在のゼネラル通商の社長に対して、アンチの人脈に属しているかららしい。
そのくらいのことは、落ちこぼれ社員だった野々山の耳にも入っていた。
その夜、野々山は約束の時間を待ち兼ねる思いで、銀座に出向いた。島村という小料理屋はすぐに判った。しかし、野々山は島村の磨きぬかれた格子戸を開けなかった。うしろから肩を叩いた見知らぬ男が、野々山を引きとめたのだった。
「野々山さんですね?」
相手はふりむいた野々山に言った。ダークスーツに身を包んだ、こぶとりの男である。年は三十半ばに見えた。
野々山は曖昧にうなずいた。相手の見当がつかない。
「鹿取さんの使いの者です。都合でお会いする場所が変りました。ご案内します」
男はていねいな口調で言った。だが、表情や物腰には有無を言わせない感じがある。
「どうしてまた急に場所が変ったんです?」
野々山は訊いた。男は答えなかった。眼顔で促して歩きだした。野々山はついていくしかなかった。
すこし離れた場所に、黒いクラウンが停まっていた。人は乗っていない。
男は足を停めて車のうしろのドアを開けて言った。
「どうぞ……」
野々山はまだまごついていた。野々山が車に乗ると、男は外からドアを閉め、運転席にまわった。
「鹿取専務はどこにいるんですか?」
車が走り出してから野々山はたずねた。
「これからご案内する場所でお待ちです」
そういうことばが返ってきた。男のことばつきは丁重だが、声は冷たい。野々山はむっとした。同時に、どこかしら不気味な感じもあった。
仕事を世話するという鹿取の話も唐突だったが、会う約束の場所を急に変更して、使いの者を迎えによこすというやり方も、なんだかいわくありげである。
「あなたはゼネラル通商の方?」
野々山は運転席の男に訊いた。相手は一言も答えない。まるで聞こえなかったように。野々山はあらためて、うしろから男の横顔を眺めた。男の顔には何の表情も読みとれなかった。なにか相手を無視するための特別の修練を積んだ、といったふうにも見えた。
野々山はシートに深くもたれた。ひとりでに吐息がもれた。たばこに火をつけた。愉快な気分ではなかった。よくないことが自分を待っているような気さえした。
夜の銀座はにぎわっていた。着飾った男たちや女たちが行き交っている。得体のしれない外国人の姿も眼につく。
窓の外に眼を投げて、野々山はしばらくぼんやりした。
鹿取が世話をするという仕事の内容は、見当がつかなかった。気のすすまない種類のものなら断わればいい――野々山はそう思った。一刻も早く仕事に就かなければならない、といったあせりはなかった。
車は晴海通りに入り、スピードをあげた。運転している男は口をきかない。車は九段に向っていくようすだった。
わけのわからない相手に、行先も判らずに車で運ばれていく――いい気分のものではなかった。そのために野々山は、仕事を世話するという鹿取の突然の誘いに、軽い警戒心を抱きはじめていた。
車はやがて停まった。九段の大きなホテルの地下駐車場だった。
野々山はふてくされた顔で、シートから動かずにいた。運転席から降りた男が、外からドアを開けた。ハイヤーの運転手さながらだった。
野々山は車を降りた。男は先に立って歩きはじめた。地下の駐車場に二人の靴の音がこだました。
エレベーターで十九階に上がった。男は、やはり、ほの暗い廊下を先に立って進んだ。
やがて男は足を停め、ひとつの部屋のドアチャイムのボタンを押した。1977室という部屋だった。
ドアが細く中から開けられた。顔をのぞかせる者はいない。男は開けられたドアを押して、野々山を中に促した。
野々山は中に入った。部屋の奥に向って行く人の後姿があった。それが鹿取かどうかは野々山には識別できなかった。後姿で判るほどの接触は、野々山と鹿取の間にはない。
うしろでドアの閉まる音がした。野々山はふりむいた。連れてきた男の姿はドアの外に消えていた。
野々山は奥に進んだ。カーテンを引いた窓ぎわの椅子に、男がゆったりと坐っていた。鹿取常彦だった。他には誰もいない。
鹿取は無言のまま、向い合った椅子を手でさした。野々山は一礼して椅子を引き、腰を下ろした。
「ごくろうだったな」
鹿取は野々山を見すえるようにして言った。野々山は曖昧な会釈を返した。
「厄介な仕事をきみに頼みたい」
鹿取はそう言って話を切り出した。
「ぼくにできる仕事でしょうか?」
野々山は言った。早く仕事の内容を知りたかった。
「たぶん、きみならやれる。厄介な上に外聞をはばかる仕事だがね」
「外聞をはばかる、といいますと?」
「ずばり言おう。何人かの人物にスキャンダルをプレゼントしてほしいのだ」
「スキャンダルをプレゼント……」
野々山はおどろいた顔になった。鹿取はみつめる野々山の視線をはね返すように見返してきた。
「目標は三人いる。一人はゼネラル通商社長の倉島輝信だ」
「社長のスキャンダルをでっちあげるんですか?」
「必ずしもでっちあげる必要はないかもしれない。人は誰しも他人に知られたくない事柄の一つや二つは隠し持っているもんだ。それを探り出すというのも、きみの仕事のうちだと思ってくれ」
鹿取の口調によどみはなかった。
「あと二人の目標は、ゼネラル通商専務の宮沢義也と内藤宗夫だ」
「しかし、どうしてそんなことをするんですか?」
「しなきゃならんのだ、どうしてもな。倉島社長と宮沢、内藤の両専務を追放しなければ、ゼネラル通商はそのうちにえらいことになる」
「鹿取さんは、アンチ社長派だという評判が社内でもっぱらでしたね」
野々山は言った。ようやく彼には鹿取の肚の内が見えてきたのだった。
「それがどうかしたかね?」
鹿取は表情を変えなかった。
「つまり、ぼくに、役員間の派閥争いの裏工作を手伝え、とおっしゃるわけですね?」
「派閥はゼネラル通商にはたしかに存在している。が、わたしが考えているのは、そういう低い次元のことではない」
「ゼネラル通商の将来を憂えて、とおっしゃりたいんですね」
「そのとおりだ。倉島たちがやっていることを、わたしは黙って見てはおれんのだよ」
「社長が何をしてるとおっしゃるんです?」
「はっきり言って不正が行なわれている」
「不正? たとえば背任横領というようなことでしょうか?」
「それもある。政治家がらみの危い橋も彼らは渡っている」
「贈賄ですか?」
「そうだよ。自衛隊の第三次防がらみの商売で、それをやっておる。これが何かのきっかけで表沙汰になったら、ゼネラル通商の社会的な信用に傷がつく。まず、わたしはこれを止めさせたい。倉島たちの私的な横領も許せない。あの三人の横領はそれぞれ億単位にのぼるはずなんだよ、きみ……」
「それが事実ならば、しかるべき手順を踏んで問題提起をなさったほうが……」
「なにもわざわざスキャンダルなどあさったりしなくとも、ときみは言いたいんだろう」
「はい」
「わたしもそう思う。だがね野々山君、硬直した組織というのはどうにもならんもんでね。ゼネラル通商は動脈硬化を来した巨人みたいなものでね。しかも社長派はがっちり経営の中枢をかためてる。何人かの反倉島派の重役たちが何か言っても、負け犬の遠吠みたいなものでね。クーデター以外には手がないところまできてるんだよ」
「クーデターですか……」
野々山は呟くような言い方をした。正直言って、彼は持ちかけられた仕事に意欲など湧かなかったのだ。
「クーデターには、多少、非合法な裏工作はつきものだよ。わたしとしては、倉島一派の横領行為や多額の政治家に対する贈賄を表に出さない形で、彼らに引導を渡し、身を退いてもらいたいんだ」
「そのためには、個人的なスキャンダルをネタに社長一派を恫喝して、表向きには適当な口実をもうけて退陣させるのが上策だ、というわけですね」
「そのとおりだね。それしかない」
「ぼくがその仕事をお断わりしたら、どうなさるんですか?」
「野々山君、きみは断われないね。断わるおそれがあれば、はじめからこんな話はせんよ」
鹿取は傲然としたようすで言い放った。
「自信がおありなんですか?」
野々山の口調にも思わず皮肉がこもった。
「きみが断われないと判ったから、わざわざ銀座の小料理屋から、このホテルの部屋に場所を変えたんだよ。ここなら誰にも話を盗み聞きされる心配はないんでね」
鹿取は言って頬に笑いを刻んだ。手は背広の内ポケットに入れられていた。鹿取は内ポケットから、白い角封筒を取り出した。封筒は無言のまま、野々山の前のテーブルの上に置かれた。
金か――野々山は一瞬そう思った。金でいうことをきかせようという鹿取の考えは気に喰わなかった。が、同時に野々山は心が揺れてもいた。金はいくらあっても邪魔にならない、などとも考えた。
「中を見てみたまえ」
鹿取が言った。野々山は封筒を手に取り、中をのぞき込んだ。入っているのは金ではなかった。何かの写真だった。野々山はそれを引き出した。野々山の表情がくもった。
写真には野々山自身が写っていた。一人ではなかった。及川友美が一緒だった。背景は一目でラブホテルとわかる建物の入口の前である。ゆうべ友美と行ったホテルだった。
「覚えがあるだろう?」
鹿取が言った。野々山はうなずいた。
「どう見ても、いやがる女をホテルに連れ込もうとしている光景にしか見えないな」
鹿取はうっすらと笑った顔で言った。そのとおりだった。写真の中の友美は、野々山に肩を抱かれたまま、腰をひねり、体を傾けている。まるで野々山の腕から逃れようとでもしているかのように。
「冗談じゃないですよ。彼女はゆうべ、合意の上でぼくと……」
「しかし第三者の眼には写真の光景はそうは見えない。おまけに及川友美という女は、きみに入浴中をのぞかれて騒ぎ立てて、きみの解雇の原因を作った人間だ。それに肚を立てたきみが、及川友美につきまとってラブホテルに連れ込んだ、というストーリーは説得力を持つと思うがね。及川友美はそういう危険を感じて、後日の証拠に備えてあらかじめ手を回して、きみの脅迫現場の写真を人に撮らせた、と言えばその写真の存在の説明にもなる」
「脅迫されてるのはぼくのほうのようですね、鹿取さん……」
野々山はそういうのが精一杯だった。
「及川友美に脅迫で訴えられて恥を世間にさらすのと、わたしに力を貸してくれて、仕事が終った後で、ゼネラル通商のしかるべきポストに返り咲くのと、どっちが得か、考えるまでもないはずだ」
鹿取は言った。
「一つだけ教えてください」
「なんだね?」
「及川友美は鹿取さんを手伝ってるんですか?」
「それは、きみがぼくの仕事を引き受けることになれば判るさ」
「たしかにこれじゃあ、断われませんね。断わったらまた何を仕掛けられるかわからない……」
野々山は言った。鹿取は満足そうにうなずいた。野々山は肚を決めた。鹿取に味方をするという気持はなかった。話を聞くうちに、ゼネラル通商の重役陣内部の、何やらキナ臭くドロドロした暗がりの世界に、野々山は首を突っ込んでみたくなったのだ。
それは、女子寮の風呂場ののぞきという破廉恥な行状が因《もと》で追い出された会社を、外から牛耳ることになる仕事とも言える。そこが野々山には痛快なことに思えたのだった。
「話はこれで決まりだ。わたしは退散するが、きみはこの部屋に残りたまえ。ある人間が最初のきみの仕事を指示しにやってくる」
鹿取はそう言って椅子から立った。
ドアチャイムが鳴った。
鹿取が部屋を出てから、五分とたっていなかった。野々山はカバーのかかったままのベッドに体を伸ばしていた。
チャイムの音で野々山ははね起きた。入口のドアの前に行き、ドアスコープから外をのぞいた。及川友美が立っていた。野々山はおどろかなかった。予感があった。
野々山は無言でドアを開けた。友美も黙ったまま入ってきた。友美は野々山を一瞥して声を出さずに笑い、さっさと部屋の奥に足をはこんでいく。
野々山はドアを閉めると、友美の後から奥に引き返した。友美は先に窓ぎわの椅子にかけ、野々山を迎えるように笑った顔を向けてきた。
「運命が変った――そんな気持じゃない?」
友美はいたずらっぽい眼を見せて、そう言った。
「きみを殴ろうかな、と考えてるところだよ」
野々山はわざと突っ立ったままで言った。顔は笑っている。友美は肩をすくめてみせてから、膝の上のハンドバッグの口を開いた。中から青い封筒を取り出し、テーブルの上に置いた。
「今度はどんな写真だい?」
野々山は皮肉をこめて言った。
「当座の行動資金ですって。お金の心配はしないでいいということよ」
友美は言い、たばこに火をつけた。野々山は封筒を手に取って中をのぞいた。帯封をしたままの一万円の札の束だった。百万円――厚みでわかった。
「きみは鹿取さんとはどういう関係なんだい?」
「別にやましい間柄じゃないの。鹿取専務はあたしの父の友人で、あたしの父は生前はゼネラル通商の関連会社の社長をしてたの」
「きみがゆうべ、ぼくの誘いにあっさり応じたのは、鹿取さんの罠だったんだな?」
「あなたのほうから罠に近づいてきたのよ。もっともあなたが電話で誘ってこなきゃ、あたしのほうから声をかける気でいたけど」
「もしかしたら、寮での風呂場ののぞき、あれもきみがわざと風呂場の窓をあけといて、ぼくにのぞきをそそのかしたんじゃないのかい?」
「のぞかなくても、あなたはどっちみち出歯亀さんに仕立てあげられて、会社をクビになってたはずよ。のぞかれなくても、あたしが騒ぎ立てれば、証人は他にいなかったんだから……」
「やっぱりそうか。それも鹿取さんの仕組んだことか?」
「あなたをゼネラル通商に入社させること自体からすでに鹿取さんのシナリオははじまってたの。はじめからあなたは工作者として狙われてたのよ、鹿取さんに……」
野々山は唸った。
「ところで最初の仕事はある女に近づくことなの」
友美はたばこを揉み消して声を低めた。
10
「ある女に近づいて、手なずけた上でこの女を内藤宗夫にはりつけるのよ」
及川友美はこともなげに言った。
「ゼネラル通商の内藤専務にかい?」
野々山は言った。ぼんやりしたような声になっていた。
「そうよ。かなり厄介でダーティな仕事」
友美は野々山を軽く見すえるようにした。野々山は不思議な思いに打たれていた。
ほの暗いホテルの部屋である。静かだ。及川友美は窓ぎわの椅子に野々山と向き合っている。見たところ平凡なオフィスレディにしか見えない。
だが、彼女の口からもれてくるのは、黒々とした謀略のことばである。それを友美は平静な調子で並べている。
そんな友美が、野々山には別人のように思えてならない。
同時に野々山は、自分もつい数時間前とは別の人間になり、別の世界に足を踏み入れようとしていることを思った。野々山の胸にはおののきが生れていた。それを野々山は不快には思わなかった。
「手なずける女というのは何者なんだ?」
「銀座に円卓というクラブがあるの。そこの早苗というホステス」
「どうしてその早苗という女じゃなきゃいけないんだい?」
「円卓では早苗が新人で狙いやすいということと、もう一つは早苗が内藤好みの女だからよ」
「それは誰の見立てなの?」
「鹿取さんよ。内藤は小柄で骨の細い体つきの女がお気に入りなんですって」
「鹿取さんは、早苗を内藤に絡ませて、スキャンダルの罠にはめようって魂胆なんだな」
「それもあるけど、早苗をスパイに仕立てようという狙いもあるのよ」
「スパイ?」
「こういうことなの」
友美は話しはじめた。
ゼネラル通商の社長倉島輝信は、もともとはメインバンクの東日銀行から送り込まれてきた人間だった。
倉島は金融筋に強いだけでなく、政界にもたいへん顔が広い。それが倉島の武器だった。倉島はその武器を最大限に活用して、社内で実力を発揮し、社長になった。
一方、専務の鹿取常彦はゼネラル通商の生えぬきの人間である。鹿取はいわば外様である倉島が社長の椅子につくことを好ましく思っていなかった。
その思いは当然、倉島にも伝わる。二人の間には長い間にわたって眼に見えない対立がひろがっていった。
倉島は鹿取につながる社内の人間たちを、つぎつぎに陽の当らないポストに追いやることで、力を蓄えてきた。
及川友美の父も、倉島に冷飯を喰わされた一人だった。友美の父はゼネラル通商の経理担当重役までなった身だったが、後では経理担当を解かれ、宴会接待重役と陰口をきかれるような仕事ばかりをやらされた。
必要に応じて担当者が設営した取引相手の接待の席に、会社の代表として顔を出す仕事である。代表といっても実質は飾りの置物にすぎなかった。
そして最後は小さな関連会社の社長に追いやられ、病死をした。
「それできみは、鹿取さんの手伝いをして、お父さんの仕返しをしようってわけか?」
「それができると鹿取さんは言うの」
及川友美の眼に、そのときだけ一途な光が宿った。
「それで、内藤専務は倉島社長の腹心の一人だから、まずこれを射ち落とすってわけなんだな」
「内藤は住宅部門の重役なんだけど、建築業者からリベートを取ってるらしいのね」
「マンションや造成宅地の工事にからむリベートかい?」
「建築関係の業界では、総工費の二パーセント程度のリベートというのは常識らしいのよね。どこでもやってるんですって」
「どこでもやってることなら、それをあばいたって、内藤のスキャンダルにはならないじゃないか」
「普通ならばね。そのリベートが会社の裏金に注ぎこまれるというのなら、スキャンダルにはならないわ。でも、内藤がそのリベートを着服してたら、立派なスキャンダルになるわ」
「内藤はその金を私的に着服してるのか?」
「そこを早苗という女をスパイに仕立てて、調べさせるのよ」
「着服の事実がなかったら?」
「そのときは着服させるという手もあるわ」
「なるほどね……」
野々山は笑って言った。いくらか皮肉な笑いになった。
「ところで、早苗のいる円卓という店には、内藤はよく行くのかい?」
「しょっちゅうということじゃないらしいわ。でも、月に一度ぐらいは行ってるって話なの。とにかくやってみて」
友美はいとも気軽な調子でそう言った。
「やるしかないよな、ここまで仕組まれたんじゃあ」
野々山は苦笑いした。
11
円卓は銀座の七丁目のビルの八階にある。高級クラブらしく、落着いた雰囲気の店だった。
野々山は鹿取と友美に計画を打明けられた夜から、円卓通いをはじめた。
といっても、日参することは避けた。野々山のような若い客が、自前で毎晩通えるような店ではない。妙な勘ぐりを避けるために、彼は二、三日おきに円卓に通うようにした。
三回目に行ったとき、はじめて早苗が横についた。
友美の言ったとおり、早苗は小柄で骨の細い感じの体つきに見えた。いくらか奥目がちの眸が明るい。頬骨が丸く目立ち、頬はうすいが、それが欠点にはならず、彫りの深い印象を与える。上唇がわずかにめくれたようになっている。それがどうかするといたずらっぽく、コケティッシュな感じに見えるのだ。
野々山は円卓では自分の職業を、フリーの映画プロデューサーというふうにふれこんでいた。
はじめて早苗が席についた日、野々山は店がはねた後の食事に彼女を誘った。早苗はよろこんだ。
早苗の希望で六本木の小さなフランス料理の店に行った。そこでワインを飲むうちに、早苗は酔いがまわってきたようすだった。店ではお酒を殺して飲んでいるから、と彼女は言い訳がましく言った。
早苗の住まいは四谷三丁目に近い小さなマンションだった。野々山が送っていくというのを、早苗はよろこんだ。いい感じだ、と野々山は思った。
帰りのタクシーの中で、早苗のほうから同伴出勤をしてもらえないか、と持ちかけてきた。野々山は快諾し、日を決めた。
野々山はあわてなかった。ゆっくりと時間をかけて網を絞るつもりでいた。
失敗は避けたかった。自分が二重三重の仕掛けで、鹿取の工作者として捕《と》りこまれたように、早苗も逃げ道のない形で押え込む必要があった。
早苗にやらせようとしている仕事は、どう考えても外聞をはばかる種類のものである。持ちかけて断わられたら後にはひけない。有無を言わせずに承知をさせなければならなかった。
野々山はそうやって、獲物の早苗に近づきながら、自分がすっかり鹿取の依頼に応えてその気になり、工作者として腕をふるおうとしていることに、ときおりつまずく思いをした。
だが、それは次第に消えた。伝票も清算も必要のない機密費が野々山には与えられている。その金で彼は身を飾り、高級クラブに通っている。
それも野々山には物珍しく、刺激があった。うしろめたさは感じなかった。
むしろ逆だった。彼はゼネラル通商を解雇される前の、落ちこぼれ社員だった自分をふり返ってみる。
それがいまは、陰の工作を通じて、ひとつの巨大な会社の中枢の命運を左右する立場にいるのだ。その痛快さがこたえられない、と野々山は思うようになった。それは大声では快哉を叫べない、影に覆われた痛快さではあったが、だからといって野々山の心のはずみがそれで損われることはなかった。
はじめての同伴出勤以来、野々山が円卓に行くと必ず、早苗が席につくようになった。
二週間あまりの間に、野々山は四回、たてつづけに早苗の同伴出勤の相手をつとめた。中の一回は、野々山のほうから誘ったのだった。
そういうときも、野々山は映画を見て食事をしたり、早苗の買物につき合った後で食事をする、といった程度にとどめていた。
誘えば早苗がベッドまでついてくる、という感触はすでに充分にあった。機は熟した、と野々山は思った。
ある夜、野々山は円卓で、ゼネラル通商の内藤専務と顔を合わせた。といっても、野々山は相手の顔を見覚えていたが、内藤のほうは平社員だった野々山のことなど見知ってはいなかった。
内藤には連れがあった。どこかの会社のいずれは役職者といった感じの三人の男たちと一緒だったのだ。
店は混んでいた。野々山は機転をきかせた。彼は帰るからと早苗に言い、席を立った。体のあいた早苗が、内藤の席につくことになることを野々山は狙ったのだ。
狙いは当った。店のママが寄ってきて、早苗に耳打ちした。野々山を送ったら内藤たちの席に行くように、とママは早苗にささやいたのだった。
野々山は勘定をすませて店を出た。早苗が送ってきた。エレベーターの中で二人きりになると、野々山は帰りの車代にと言って、一万円札を早苗の手ににぎらせた。そして彼は言った。
「明日、午後三時、キャピタルホテルのコーヒーハウスで会おうよ。また飯でも喰おう」
早苗は笑顔でうなずいた。
12
「今日はおまえさんを抱きたいんだ」
つぎの日、日比谷のキャピタルホテルのコーヒーハウスで顔を合わせるなり、野々山は早苗に言った。
だしぬけの、小声のそのことばを、早苗は聞こえなかったというふうに聞き流した。だが、彼女は野々山がそれを言ったとき、一瞬だけ眼の表情を変えた。野々山は自分のことばが相手に届いたことを確信した。
野々山はそれまでの慎重なやり方を一転して、果敢に強引に出る気がまえになっていたのだ。
コーヒーを飲みながら、早苗は夏の靴を買うからつき合ってほしい、と言った。銀座の靴屋に行くつもりらしい。
野々山は車をキャピタルホテルの駐車場に置いたまま、早苗と一緒に銀座に行った。靴屋で野々山は早苗にイタリー製の白の夏の靴を買い与えた。
靴をプレゼントしてくれればベッドのお相手をする――そういう早苗の心づもりのようすが、野々山には見えていたのだ。
ホテルの駐車場で車に乗った。行先は言わなかった。早苗は黙ってついてきた。
赤坂のラブホテルの駐車場に車をとめた。助手席の早苗は無言で野々山をにらむふりをしてから、肩をすくめて笑い、小さく舌を出してみせた。上唇のめくれがきわだって、色っぽく愛らしかった。
ホテルの部屋で二人きりになるとすぐに、野々山は早苗を抱き寄せた。腕の中の早苗の体は、いかにも華奢な手応えを伝えてきた。唇を重ねると、早苗は熱心に応じてきた。早苗の舌はひどく軽やかで、ときおり思いきった動きを示した。
「あたし、野々山さんてこういうことをしない人だと思ってたわ」
唇を離すと、早苗は上体だけを反らして、野々山の顔を見上げて言った。彼女の腕は野々山の両の肩にかかったままだった。
「こういうことって?」
「もっと紳士だろうと思ってたの」
「失望した?」
「その逆よ」
「もっと紳士じゃなくなるぜ」
「期待してます」
二人は浴室に入った。早苗はさばさばしたようすで服を脱いだ。浴室に行くときも、格別に体をかくすようなことはしなかった。
服を着たときの感じからすると、早苗は思いの他厚味のある体つきをしていた。手足や肩や頸は細いのだ。けれども、胸や腰はボリュームを備えていた。肌は浅黒い。野々山はなんとはなしに、黒人の体つきを連想した。浅黒い肌のせいではない。体のプロポーションのためだった。
二人は一緒にシャワーを浴びた。たがいに相手の体に石鹸を塗りつけた。石鹸の泡にまみれた早苗のとがった乳房が、野々山の手の下で重々しく揺れた。とがった乳首が泡の中で野々山の手のひらをくすぐった。
きめのこまかい早苗の肌は、小気味よく湯をはじいた。窓からさし込む外の光を受けて、浅黒い肌や、湯の滴をつけた早苗のしげみがにぶく輝いた。
ちぢれの強い、色の濃いヘアが、そこにカードを置いたように生えひろがっていた。野々山はそこも泡だらけにした。
クレバスに指をすべり込ませて洗った。小さな角を思わせる固いものや、指にまといついてくる柔らかい舌先のようなものの感触が、野々山を愉しませた。
早苗はそこを野々山に任せたまま、彼の肩につかまって立っていた。野々山の指が、固い角のようなものの上をすべるたびに、彼女は低くうめいて腰をふるわせた。
野々山の指は、はざまを過ぎて早苗のうしろの部分にも及んだ。固くひきしまったその小さな部分は、野々山の指が行くと、小さくうねるようにひきしまる気配だった。
早苗が替って野々山の体を洗いはじめた。彼女も野々山と同じように、彼の男の部分については特に入念に洗った。
跳ねるように勢いづいている野々山の体を、早苗は手馴れた扱い方で泡まみれにした。彼女の指も返礼のように、野々山のうしろの部分にまで伸びてきた。
そうしたやり方に、野々山は早苗の性的なキャリアの豊かさを感じた。
洗いあげた野々山の体に湯をかけると、早苗は身をかがめて彼の勢いのいいものに軽く口づけをした。野々山も返礼をすることにした。
彼は早苗を立たせ、しげみに頬ずりをした。しげみについている湯の滴をすすり、クレバスを舌で割った。うるみがあふれていた。
早苗は立ったまま、野々山の頭を両手で強く抱きしめた。
野々山は押される恰好で舌を伸ばした。固い角を思わせるものが触れた。うるみはそこにも及んでいた。
「早くベッドに行きたい……」
早苗はささやくような声で言った。野々山は眼を上げた。早苗は大きく頭をのけぞらせたまま、ゆるやかに上体を揺すっていた。
二人は体を拭き、裸のまま浴室を出た。
「ビール一杯だけ飲みたいな」
野々山はベッドに向いながら言った。
「持っていくわ」
早苗は言い、野々山の背中を片手で軽く押した。
早苗は部屋の隅の冷蔵庫の扉をあけた。ベッドの野々山に背中を向けている。張りつめた早苗の内股の小さな隙間に、冷蔵庫の庫内灯の光が透けて見えている。ヘアの先ものぞいていた。野々山はその眺めにも満足を覚えた。
二章 猟 犬
野々山は慎重だった。
彼は折原早苗と体の交渉が生じても、すぐには彼女に企みを明かさなかった。
野々山は週に二回ぐらいは、早苗が働いている銀座のクラブ円卓に飲みに行くことをつづけた。
一方で野々山は、早苗の身辺の調査を進めていたのだ。その仕事は人に頼むわけにはいかなかった。
野々山は円卓に顔を出さない夜は、店がはねる頃を見はからって銀座に出かけ、仕事を終えた後の早苗を尾行した。
早苗は客と食事に行くこともほとんどなかった。店が終るとタクシーをつかまえてまっすぐ四谷のマンションに帰る日が多い。
昼間は野々山は、レンタカーを借りて、早苗のマンションの近くに停め、早苗の行動をマークしてみた。
レンタカーを借りたのは、自分の車が早苗に知られているためだった。
野々山としては、早苗のウィークポイントをつかむ必要があったのだ。それを押えた上でなら、スパイ役としてゼネラル通商の内藤専務に近づくことを切り出しても、早苗は断われないはずだった。
『人は誰しも、他人に知られたくない事柄の一つや二つは隠し持っているもんだ……』
野々山にその暗い、手の汚れる仕事を押しつけてきた鹿取常彦はそう言った。野々山は早苗の身辺を探りながら、何回もそのことばを胸に浮かべた。
野々山は、自分が猟犬になった、という思いを消せない。
だが、その思いは野々山を苦しめたり、たじろがせたりはしなかった。どこかで彼は、酷薄な、腕の立つ猟犬になってやれ、と開き直った気持を抱きはじめていた。
鹿取常彦は、野々山に命じた外聞をはばかる仕事が、ゼネラル通商の将来を救うためのクーデターだと言った。いわば正義のためである、と。
だが、野々山は鹿取の言う正義を、さほど真に受けてはいなかった。それは野々山にはどうでもいいことだった。
野々山にとっては、落ちこぼれの果てに会社をクビになった男が、思いがけない陰の世界から、重役室の内部の暗闘に関わっていくそのことに、痛快な意趣がえしに似た手応えを感じるだけだった。
早苗のマンションを見張りはじめて二日目のことだった。
早苗は三人連れの女たちと一緒に、マンションを出てきた。連れの三人の女は、一見して外国人とわかった。一人は白人だった。一人はフィリピン人らしい。もう一人はタイかマレーシアあたりの人間と思えた。三人とも若い。
女たちはことばを交しながら、野々山が乗っている車の横を通り過ぎていった。野々山は早苗に気づかれないようにやり過し、女たちの行方を眼で追った。車を降りて、こっそりと後をつけた。
表通りに出た早苗は、やがて一軒の美容院のドアを押して中に入った。他の三人の女たちとは、そこで別れた。
女たちはタクシーを停め、三人で乗り込んで走り去った。
つぎの日も、早苗の住むマンションに、外国人の女が入っていくのを、野々山は車の中から目撃した。二人連れだった。二人ともフィリピン人らしい。前の日に見かけた女とは別人である。
野々山は車を降りて、女たちの後からマンションの玄関に入っていった。彼女たちが早苗の部屋を訪れるのかどうか、確めようと考えたのだ。
野々山はさりげないようすを作って、二人の女と一緒にエレベーターに乗った。女たちは五階で降りた。野々山も降りた。女たちは野々山に注意を向けるようすはなかった。
野々山は女たちの後から廊下を進んだ。女たちはひとつのドアの前に足を停めた。野々山はその前を通り過ぎ、いちばん奥の部屋のドアの前に立った。
ふりむくと、二人の女の姿は消えていた。野々山は引き返し、女たちが入っていった部屋のドアに眼をやった。ドアスコープの下にネームカードがついていた。そこには折原早苗とあった。
野々山は廊下に人影のないことを確めた。早苗の部屋のドアに耳をつけてみた。中は静まり返っていた。
早苗とあの外国人の女たちとは、いったいどういう関係なのか?
むろん見当はつかない。だが、野々山はそこに何かを嗅ぎ取ったような気がした。勘のようなものだった。
マンションを出て車にもどった野々山は、女たちがふたたび現われるのを待った。
退屈な時間が流れた。そして、さっきのフィリピン人らしい若い女が、マンションから出てきた。二時間後だった。早苗の姿はない。
野々山は車を出した。女たちを追い越して表通りに出た。そこに車を停めて待った。
案の定、女たちは表通りに出てタクシーを拾った。野々山は尾行をはじめた。
尾行はすぐに終った。女たちは千駄ケ谷のラブホテルの前でタクシーを降りたのだ。そのまま二人は、ラブホテルの中に入っていった。
野々山は混乱した。二人のフィリピン人らしい女は、レズビアンなのか?
つぎの日もつぎの日も、野々山は四谷の早苗のマンションをレンタカーの中から見張った。車は毎日変えた。
マンションへの外国人の女の出入りはつづいた。野々山がはじめて見る顔もあった。二度目、三度目の女もいた。
女たちは早苗の部屋を訪れた後、必ずタクシーに同乗し、千駄ケ谷のラブホテルに行くのである。
ようやく野々山にも事情がおぼろげながら見えてきた。
コールガール――野々山が考えたのはそれだった。早苗の部屋に出入りしている外国の女たちがコールガールで、早苗の部屋は彼女たちの仕事の連絡場所になっているのではないか?
野々山のつけた見当はそういうものだった。それを確める術は限られている。野々山はためらわなかった。
彼は的をしぼった。一人のフィリピン人らしい女を、野々山は二日にわたって追った。アプローチを果したのは、二日目の夜だった。女はその日も千駄ケ谷のホテルに行った。
出てきたのは午後七時近い時刻だった。連れは先に姿を消したらしい。女は一人でホテルの前の道に出てきた。
タクシーをひろって高円寺の小さなマンションに行った。小一時間後に女はふたたび外に出てきた。服装が変っていた。黒のサブリナパンツに、同じ黒のタンクトップという姿だった。女はそのマンションに住んでいるらしい。
野々山は車の中から思いきって女に声をかけた。日本語が通じた。
「コンバンハ……」
女はものおじするようすもなく声を返してきた。ことばつきはいくらかたどたどしかった。
野々山はプレイボーイを気どった。強引に押しまくって、女をハントすることには修練を積んでいた。ゼネラル通商に勤めていた三年間、会社では落ちこぼれ社員だったが、プライベートタイムには、彼は果敢なガールハントを重ねてきたのだった。
三時間後には、野々山はフィリピンの女を相模湖に近いモーテルの一室に連れ込んでいた。食事、ディスコ、そしてモーテルという経路だった。
女はリサと名乗った。リサも野々山との行きずりのプレイをたのしんでいるようすだった。
モーテルの部屋に二人きりになるとすぐに、リサは自分から野々山の頸に腕をまわしてきた。野々山は唇を重ねた。キスの技巧には自信があった。
唇を強く押しつけるのは禁物だった。やさしく重ねるようにした。舌はあくまでも軽やかに舞うように動かす。はげしく吸うなどはもっての他というべきだと心得ている。
そうやって唇を合わせ、舌をそよがせているうちに、女の体から力が脱けていくのが判る。リサもそうだった。野々山の腕の中で、リサの体はほどけるように柔らかく、軽くなった。
リサの体には、かすかな汗の匂いがまといついていた。体臭かとも思えた。ディスコでの踊りの名残りが、彼女の中に尾を曳いているふうでもあった。
二人はシャワーで体を洗った。リサは引きしまった体つきをしていた。乳房と腰と太腿の量感は圧倒的だった。湯に濡れた褐色の肌は、どこもかしこもつややかに光って、野々山をそそった。
ベッドに横たわったリサは奔放さを見せた。野々山は乳房に手を這わせながら、リサの唇を味わった。舌をからませたまま、リサは喉の奥でかすかに甘くうめいた。
乳房はしっかりした張りを野々山の手に伝えてきた。野々山は静かに乳房を揉み、さすった。手に余るほどの乳房が、重々しいうねりを見せた。
乳暈は大きく、明るい紅紫色に輝いていた。乳首はひどく小さい。それが野々山の手の下で細長くとがり、赤味を増していた。
野々山は乳首に舌をあてた。リサはうすく眼を閉じて息を乱した。野々山の手は下にすべってリサのしげみを覆った。
ちぢれの強いひどく柔らかいヘアが、見事な逆三角形を見せている。こんもりとしたしげみの底に、うっすらとした陰をつけたクレバスがすけて見えた。
野々山はクレバスに指を添わせた。火照りとうるみの気配がうかがえた。リサはあえぎをもらしながら、腰を反らし、そろえて伸ばしていた膝をゆるめた。
野々山は指をすすめた。温かく、柔らかいものがまとわりついてきた。野々山の指はクレバスを這いのぼった。
固く息づく感じの小さなものが指に触れた。野々山の指がそれをはずませた。リサは高い声をもらし、ときおりはげしく息を吸い込んでは、小刻みに体をふるわせた。しゃっくりのようすに似ていた。
やがてリサのほうから、たまりかねたように体を重ねてきた。リサは自分が動きやすい体位を求めてきた。野々山はリサを下から捉えながら呼吸を合わせた。
乳房が野々山の顔の上におりてきた。固くとがった乳首が彼の額や鼻や唇を撫でた。
リサの体はにじみ出た汗で光っていた。野々山は下からリサのしなやかな腰に両手をあてて、ときおり強くゆすり上げた。
リサの腰は野々山の上で旋回し、あるいははげしくダッシュをした。彼女は愛らしい顔をゆがめ、アルトの声を放ちつづけた。
野々山の指は、リサの豊かな臀部をすべりおりて、彼女のうしろの部分をまさぐっていた。リサの動きにつれて、指はそこに浅く埋まったり押し出されたりをくり返した。
リサはそれを歓迎した。彼女はことばにならない高い声を放ち、はげしく首を振った。長い髪が野々山の顔や胸を掃いた。
不意にリサは声を詰まらせた。彼女の体は束の間、野々山の上で直立し、やがて彼の上にくずれ落ちてきた。野々山は自分を捉えているリサの体に、うねりとも痙攣ともつかぬものが生れるのを感じとっていた。それはそこを源として、リサの全身にゆるやかな波となってひろがっていった。
リサの楽しみはそこまでだった。野々山が早苗の名を口にしたとき、リサはまだ彼の胸の上に突っ伏していた。野々山はだしぬけに早苗の名を言ったのだ。リサは鞭でもくらったように体を起した。
秘密を守る約束と、何枚かの一万円札がリサの口をほぐした。
「早苗はあたしたちのアルバイトのマネジャーなのよ」
リサはそう言った。
早苗のマンションの部屋に出入りする外国の女たちは、みんな留学生だ、とリサは言った。女たちはディスコやデパートなどで早苗に声をかけられ、コールガールのアルバイトに誘い込まれたらしい。
彼女たちが相手にする客は、早苗が円卓の前に勤めていた、やはり銀座にあるクラブの常連たちだという。
「人は誰しも、他人に知られたくない秘密の一つや二つ、持ってるもんだなあ」
野々山は早苗に言った。
赤坂のラブホテルの一室である。二人はベッドの上にいた。早苗も野々山も素裸のままだった。
早苗は乱れたシーツに胸をつけて這っていた。野々山の胸は早苗の背中にあずけられている。早苗の息はまだすっかりは鎮まっていない。二人の体はかすかに汗ばんだままである。早苗は勢いの失せかけている野々山を、温かくなめらかな場所にまだ危うく捉えたままだった。
「何の話?」
野々山のだしぬけのことばに、早苗はけだるそうな声を返してきた。
「クラブのホステスが、サイドビジネスにコールガールの斡旋をしてるって話さ」
野々山は軽い口調で言った。早苗が息を詰めるのが、重ねた体に気配となって伝わってきた。
早苗は口をつぐんだまま、身じろぎをした。つながっていた体が離れた。野々山は早苗の背中の上からすべりおりた。早苗が野々山の顔に眼をあててきた。底に強い光がこもった眼だった。
野々山はその眼をはずして腹這いになり、たばこに火をつけた。一服吸ってから、火のついたたばこを早苗の乾いた唇に持っていった。早苗はそれをくわえ、吸った。彼女は細くゆっくりと煙を吐いた。
「頼みがあるんだ。礼はたっぷりする。これも割のいいサイドビジネスになると思うよ」
野々山は静かな声で言った。早苗は押し黙っている。
「ゼネラル通商の内藤専務の愛人になってほしいんだ。むつかしい仕事じゃない」
早苗が今度は、野々山の口にたばこをくわえさせた。
「どういう人なの? 野々山さんて……」
早苗は低い声で言った。
「どういう人か、段々わかるよ。フリーの映画プロデューサーでないことは確かだ」
「ゼネラル通商と関係のある会社の人?」
「どこの会社とも、どんな組織とも関係はない。おれは一匹狼さ」
「内藤さんをどうしようっていうの? あたしに何をさせる気?」
「頼みたいことは二つある。一つは内藤専務のペットになって、彼にあんたのためにうんと金を使わせることだ」
「たしかにむつかしい仕事じゃないわね」
「もう一つは、スパイだ」
「スパイ?」
「内藤はゼネラル通商の不動産部の最高責任者だ。不動産屋、建築屋とのつきあいが多い。そこには汚ない金のやりとりもある。それを探ってほしいんだ」
「野々山さんは内藤さんに怨みがあるの?」
「怨みも憎しみもないよ。口をきいたことさえない」
「なのにどうして?」
「おれの仕事だからだ。断わらないね?」
「あたしのサイドビジネス、どうして判ったの?」
「そういうことを調べるのもおれの仕事さ」
「あたしのギャラは高いわよ」
早苗は顔を寄せてきてささやいた。野々山は笑ってうなずいた。
午後五時半になろうとしていた。
大手町のビル街の歩道は賑わっている。仕事を終えて会社から出てきた人たちが大半と見えた。
野々山はガードレールに寄せて停めた車の中にいた。一人である。すぐ前にゼネラル通商のビルがそびえている。野々山の車の停まっている場所は、そのビルの地下駐車場の出口に近い。
野々山が顔を知っているゼネラル通商の社員が、さっきから何人も車の横を通っていく。野々山のほうは気づいているが、相手は誰一人野々山に気づかない。そこに停まっている車の中をのぞき込む者はいなかった。
野々山は苦笑した。かつての同僚たちは、いま一日の仕事から解放されて、自分の時間の中にもどっていく。一方、野々山のほうの仕事は、これから始まるところなのだ。そのことが野々山に苦笑を誘ったのだ。
折原早苗に、内藤専務に近づくことを承知させてから二日が過ぎている。
野々山はすぐにつぎの仕事にかかった。ゼネラル通商の専務の一人、宮沢義也をスキャンダルで仕留める仕事である。
宮沢についての予備的な情報は、鹿取専務と通じている秘書課の及川友美が提供してくれた。
宮沢はゼネラル通商の食料部担当の専務である。内藤専務などとちがって、社内では特別な切れ者というふうな存在ではなかった。ただ、サラリーマンとしての遊泳術、人心掌握の呼吸にかけては、なかなかのものを持っていると言われている。
倉島輝信が社長になって間もなく、これまで常務だった宮沢が専務に昇格した。それも宮沢の実力よりも、遊泳術が物をいった結果だと見られている。
宮沢は食料部の最高責任者だが、その立場を利用して、傘下の取引業者からのリベートを着服している疑いがある。
野々山が及川友美から聞いたのは、そういった事だった。
野々山は手はじめに、宮沢専務のプライベートな行動を探ることからとりかかった。宮沢の会社での一日のスケジュールは、あらかじめ友美が手を回して調べてくれた。野々山としては、それをもとに尾行の計画が立てられる。
宮沢の尾行はその日が二日目である。前日は野々山は夜の九時から宮沢の尾行を開始した。前の日、宮沢は終日、会社の自分の部屋にいて、何人かの客の応対をした。夜は取引のある缶詰会社の創立記念パーティに出た。
パーティの会場は赤坂の中華料理の店だった。野々山はそのパーティ会場から出てきた宮沢を尾行したのだ。
収穫はゼロだった。赤坂の中華料理店を出た宮沢は、会社の専用車でまっすぐに用賀の自宅に帰った。
尾行二日目に当る今夜は、宮沢の夜のスケジュールは空白になっている。野々山はそれを友美にたしかめた。夜に社用のないときは、宮沢は五時か六時には会社を出るのが、いつもの習わしらしい。
そのために野々山は、五時前からゼネラル通商のビルの前に車を停めて待機している、というわけだった。
宮沢が専用にしている会社の車のナンバーは、すでに野々山は憶えている。めざす車が駐軍場の出口から現われれば、いつでも尾行ははじめられる。
それにしても、いつ現われるかわからない相手を待ちつづけるのは、楽な仕事ではなかった。いつも時間が停止しているような気分にさせられる。退屈の余り、眠気を覚えることもある。だが、居眠りは禁物だ。
野々山はカーラジオを聴きながら、ビルの駐車場の出口から眼をはなさなかった。
六時十五分に、ようやく宮沢の車が姿を見せた。駐車場の出口の短い急傾斜の道を、車はゆっくりと上がってきて、歩道を横切った。リヤシートには、宮沢の姿があった。野々山はそれを確認した。
宮沢の乗った車は、内堀通りに向うらしい。右側のウインカーをつけている。野々山はUターンする必要があった。
野々山は車のうしろを見た。停まっている車はなかった。野々山は車をバックさせて、細い横筋に半ば突っ込んだ。
車道の車の流れが途切れていた。宮沢の乗った車は、車線をまたいで反対側の車の流れの中へ入り込もうとしていた。
野々山も車をスタートさせた。うまく反対側の車の流れに乗ることができた。宮沢の乗った車は、タクシーを一台はさんだ先を走っている。
宮沢の車が停まったのは、九段下のホテルの玄関の前だった。
野々山はホテルの前庭に入ったところで車を停めた。
運転手が車を降り、小走りにうしろに回ってドアを開けた。宮沢が車を降りた。そのままホテルの中に入っていく。
運転手は宮沢の後姿に頭を下げ、ドアを閉めると、運転席にもどった。車はすぐに走り出した。駐車場の入口には向わず、そのまま前の道路に出て行く。
野々山はその車を眼で追った。宮沢の乗ってきた車は、すぐに道路に出て走り去った。宮沢が車を帰したものと思えた。時間を決めてまた迎えにくるということなのか?
野々山は思案した。彼は車を降りてホテルの中へ入ってみようか、と考えた。宮沢はまだロビーあたりにいるかもしれない――。
だが、彼は車を降りる必要はなかった。ホテルのドアから、いま入ったばかりの宮沢が出てくるのが見えたのだ。
宮沢は外に出てくると、足を停めてあたりを見回した。それからタクシー乗場に向った。客待ちをしていたタクシーのドアが開いた。宮沢はその車に乗り込んだ。
野々山は収穫と予感した。会社の車を帰して、ものの三分とたたないうちに、宮沢はタクシーに乗り換えたのだ。いわくありげな行動である。たぶん、会社の専用車の運転手には、ホテルで用があるという口実を述べて、帰したのだろう。ということは、会社の車を乗りつけるわけにはいかない所に、宮沢がこれから行こうとしている、ということではないか――。
宮沢を乗せたタクシーは、麹町、紀尾井町と抜けて、赤坂見附から青山通りに入った。宮沢はいったいどこに行こうとしているのか? 尾行をつづけながら、野々山の胸は躍った。
タクシーは神宮前の交差点を左折して、さらに細い道を右に入って停まった。こぢんまりしたマンションの前だった。タクシーを降りた宮沢は、マンションの中に入っていく。
野々山はマンションの入口の手前で車を停めた。間をおいてから、彼は車を降り、マンションの玄関に向った。
車寄せに長く屋根だけを突き出させた玄関があった。人の姿はない。野々山はためらわずに玄関をくぐった。右手に管理人室があった。中に人の気配はない。左側の壁にメイルボックスが並んでいた。
野々山はメイルボックスのネームカードを順ぐりに見ていった。三〇六号室に、宮沢という名前があった。姓だけしか出ていない。他はすべてフルネームで表示してあるのだ。そのことにも野々山は、胡散くさいものを感じた。
ハイツ青山というそのマンションの三〇六号室の主が、ゼネラル通商専務の宮沢義也である可能性は大きい、と思えた。
用賀の住まいの他に、青山にもマンションの部屋があり、しかも宮沢はそのマンションに行くのに、会社の専用車を使わずに、わざわざタクシーでやってきたのだ。ハイツ青山三〇六号室に、宮沢は愛人でも囲っているのだろうか?
野々山はそう考えた。順当な推測と思えた。が、それを確める方法はない。
野々山は車にもどった。マンションから出てくる宮沢を待ってみよう、と考えた。宮沢が女を囲っていれば、うまくするとその女と一緒に姿を現わすかもしれない。野々山の胸にはそういう期待もあった。
さんざん待った末に、期待は裏切られた。宮沢は一人でマンションから出てきたのだ。時刻は午後十時をまわっていた。
野々山はもうすこしのところで、マンションから出てきた宮沢専務を見すごすところだった。居眠りをしていたのではなかった。宮沢の服装が、すっかり変っていたのだ。
マンションに入って行ったときの宮沢は、濃紺のスリーピースのスーツにネクタイをきちんと締め、髪をなでつけていた。だが、数時間後に現われた彼は、ほとんど白に見えるべージュのズボンに、茶色の縞柄のポロシャツ、という姿だった。上衣はない。靴まで白っぽいものに変っている。
それだけではなかった。宮沢は眼鏡をかけ、髪型まで変っていた。眼鏡はうすく色のついたメタルフレームのものだった。髪は鬘《かつら》なのだろう。軽くウェイブした髪が額を半分、斜めに隠し、頸すじや襟足を覆っていた。
そういう身扮《みなり》の男がマンションから道に出てきたのは、野々山も知っていた。まさかそれが宮沢だとは思ってもみなかったから、彼はすぐに眼をそらした。そしてすぐに野々山は、声をあげそうなほどおどろかされたのだ。車の横を通っていくその人物に、何気なく眼をやって、はじめて野々山はそれが宮沢だと気がついた。
服装を変えたというよりも、それはもう立派な変装だった。どう見ても、宮沢のその姿は、一流商社の重役には見えない。芸能関係の世界の人間か、自由業にたずさわっている男、といった感じだった。
宮沢の変装を野々山が見抜けたのは、観察の力もあったが、一瞬の直観に大きく助けられた結果というべきだった。姿形は変わっていたが、宮沢だと思って注視をすると、巧みな変装の下から素顔が浮かびあがってくるのだった。
野々山はまた胸を躍らせた。宮沢が何のために手のこんだ変装などをするのか、その目的はまだ判らない。いずれにしても変装などとはただごとではない。
一つはっきりしたことは、ハイツ青山の三〇六号室の主が宮沢だという点である。その部屋は、変装をして何事かを行なう宮沢の、秘密のアジトのようなものなのではないか――野々山はそう考えた。
宮沢はゆっくりした足どりで表通りに向っていく。またタクシーを拾う気と見えた。
野々山は車をスタートさせた。百メートルほど先に四つ角があった。野々山はそこで車の向きを変えた。
宮沢はちょうど表通りに出たところだった。野々山はスピードをあげた。宮沢にタクシーに乗られたら、見失ってしまうおそれがあった。
表通りの四つ角に出て、野々山は歩道に眼を投げた。すこし先に、宮沢の姿があった。タクシーを停めるようすはない。宮沢は何台も通っている空車のタクシーを無視して、やはりゆっくりと歩いていく。行先は近くらしい。野々山はそう思った。
相手が歩いていくのに、車で尾行するのは困難だった。野々山はためらわずに決心した。彼は車をバックさせて、建物の塀に寄せて停めた。車をとび出して、宮沢の後を追った。
宮沢は青山通りを横断して右に進んでいく。そのまま青山三丁目の先を左に曲り、神宮球場の横を抜けた。すこしも急ぐようすはない。夜の散歩をたのしんでいる、というふうにしか見えない。
だが、むろん、ただの散歩であるはずがなかった。変装までして散歩する物好きはいないだろう。
神宮外苑の中の道には、アベックの姿が眼についた。数はさほど多くはない。車を停めて、中で話をしている男女もいる。宮沢はしかし、そうした光景には眼もくれずに歩いていく。
やがて宮沢は、絵画館の前まで行った。そこで彼の足どりは、さらにゆったりとしたものになり、そのまま木立ちの中に消えていった。
木立ちの中は暗かった。だが、宮沢の白っぽいズボンは、暗がりの中でも眼についた。それが野々山の尾行を助けた。
宮沢はまるで誰かを探すように、四方に眼を配りながら歩いていく。木立ちの中はひっそりとしていた。その中に人の姿がまばらに眼につく。それらがほとんど宮沢同様に、一人歩きの男ばかりであることに、やがて野々山は気がついた。
人影は大きな木の陰にもいくつも見られた。それらも男ばかりだった。見事に女はいない。
宮沢は何度も足を停めた。あいかわらず近くを行きかう男たちに眼を投げている。
そのうちに、宮沢は一人の男に近づいていった。顔は判らない。肩にカバンをさげた小柄な髪の長い男だった。その男も白いズボンをはいていた。宮沢は短い距離を置いたまま、小柄なその男のあとから歩いていく。
男は二度ばかり宮沢のほうを振り返った。男の足は早くなったり遅くなったりする。どこに向って歩くという目的があるわけではないらしい。そういう歩き方だった。そして宮沢は少しずつ男との距離をちぢめながら、ついて行く。二人が顔見知りでないことは明らかだった。
木立ちの間をぬって歩いていた小柄な男が、やがて大きく枝をひろげた木の幹に寄りそって足を停めた。宮沢は木の幹をはさむ形で男と向き合った。
野々山は離れた暗がりに足を停めた。息をつめて眼をこらした。
宮沢と小柄な男は、二言、三言、何かことばを交した。声はかすかに聞えるのだが、ことばは聞きとれなかった。やりとりの後で宮沢と小柄な男とは、木の幹をまわって陰にかくれた。野々山は二人の姿が見えるほうに回り込んだ。
野々山は数メートルの近さまで二人に近づいた。野々山は息を呑んだ。宮沢の腕が小柄な男の肩を親しげに抱いていた。肩を抱いた宮沢の手を、男がにぎっている。二人の腰はぴったりと重なっているのだ。
野々山は唸った。思いがけない光景だった。野々山は息をつめた。
宮沢はやがて、相手の男の頬に顔を寄せていった。宮沢はしばらく男の頬や頸すじに顔を埋めていた。男が身じろぎをした。あっという間だった。宮沢が両腕で小柄な男の肩を胸に抱え込んだ。二人の唇が重なった。一本の木のように寄り合った二人の体が、暗がりの中でゆるやかに揺れている。
野々山は大いに好奇心をそそられた。彼は足音を殺して、宮沢と男に近づいた。木の幹の反対側に回り込んだ。首をのばしてのぞきこんだ。
野々山の眼の前で、宮沢の手が動いた。その手は相手の男のズボンの前をはだけた。中のものをつかみだした。小柄な男の手も、宮沢の股間でうごめいている。二人はまだ唇を重ねたままである。
やがて宮沢は腰をかがめ、小柄な男の前にうずくまった。二人のはずむ息が野々山の耳に伝わってくる。宮沢ははだけたままの男の股間に顔を埋めた。宮沢の片手は相手の男の腰を抱き、片手は相手の手をにぎっている。小柄な男はゆっくりと腰を揺すりはじめた。
野々山はその場を動けずにいた。ようやくつかんだ宮沢のプライベートな秘密は衝撃的だった。彼はあたりを見まわした。近くの別の木の陰にも、抱き合っている男たちの姿があるのに、野々山ははじめて気がついた。そこはそういう趣味の男たちの溜り場となっているらしい。おどろきが去ると、野々山の頭はいそがしく回転をはじめた。
あたりの闇は異様な熱気をはらんで、静まり返っている。
木陰に身を潜ませた野々山は、息苦しさを覚えていた。
宮沢と若い男の姿は暗がりに溶け込んでいる。だが、野々山の眼には、二人の息づかいも、身動きも手にとるように判る。手を伸ばせば届く距離に宮沢たちはいるのだ。
野々山には、ひろがる闇が妖しい光を放つかのように思えた。
長い時間が過ぎた。たっぷり一時間は、宮沢と小柄な若い男とは身を寄せ合っていた。
最後に二人は、またしっかりと抱き合って唇を重ねた。唇を離して、宮沢が男の耳もとに何かを短くささやいた。聞きとれない。
二人は手を握り合ったまま、木陰を離れた。野々山は木の根方にうずくまったまま、二人をやり過した。
宮沢と男は、植え込みの間を抜け、広場のほうに向っていく。野々山は距離を置いて二人のあとをつけはじめた。
道に出ると、宮沢と男は握り合っていた手を離した。
宮沢の足のはこびが速くなっている。相手の男の歩速は変らない。そうやって二人は、ことばも交さずに離れていく。この場面だけを見た者の眼には、宮沢と男は何のかかわりもない者同士にしか見えない。
宮沢は青山通りに抜ける道のほうに曲った。男はまっすぐに歩いていく。野々山は迷わずに小柄な男のあとをつけることにした。野々山の頭の中には、すでに一つの計画ができあがっていた。
タクシーの空車が何台か通った。だが、男はそれには眼もくれない。千駄ケ谷駅から電車に乗るつもりらしい。野々山はそう見当をつけた。
そのとおりだった。男は千駄ケ谷駅までゆっくりと歩いて行った。
駅の自動券売機の前で、野々山は男のすぐうしろに立った。彼は男が押したのと同じ金額のところのボタンを押して、切符を買った。野々山は獲物を追いつめた猟犬のゆとりを味わっていた。
男は総武線の下りのホームに上がった。野々山は男とすこし離れたところで足を停めた。男は片手でショルダーバッグを押えるようにして、遠くに眼を投げている。
造作の華奢な、整った顔立ちをした男である。二十歳そこそこの感じだった。額にかかった髪がゆるくカールしている。唇が薄い。
宮沢はその若い男と、前から特殊な関係があったのだろうか? それとも、その夜はじめて二人は行き会ったのか?
野々山は考えてみた。断定はできないが、野々山は、後者のほうではないか、と推測した。
二人が以前から秘密の関係をつづけていたのなら、わざわざ絵画館の前の木立ちの中などで抱き合う必要はないだろう。青山の宮沢のマンションで逢えばいいはずだ。
ハイツ青山の三〇六号室で、宮沢は別人と見まがうような変装をして出てきたのだ。つまり、その部屋には、宮沢が憚らなければならない他の人間の眼はない、ということにならないか。
だとすれば、宮沢としては、暗がりの木立ちの陰などより、マンションの部屋で特殊な愛の趣味を愉しむほうが、心は伸びやかになるはずではないか――。
しかし、それは野々山の計画にとっては、たいして重要な問題ではなかった。
電車がホームに入ってきた。野々山は小柄な男のあとにつづいて電車に乗った。
男は吊革につかまって、窓の外に眼を投げている。野々山は奇妙な思いで男の横顔に眼を注いだ。
車内は込んでいた。多くの乗客の中で、ショルダーバッグを肩に吊り、白いズボンをはいている小柄なその男が、ホモであることを知っているのはおれ一人だ――野々山はそう思った。そして、野々山とその男とは、何のかかわりもない赤の他人である。相手は野々山の顔すら知らない。
野々山はそのことに一種のよろこびを感じた。
男は東中野で電車を降りた。タクシーには乗らず、表通りをすぐに折れて、住宅地の中に入り込み、一軒のアパートの中に入っていった。
路地の奥の古びた二階建のアパートである。ブロックの塀の入口に、東荘という小さな表札が出ていた。各戸の入口はそれぞれ外から出入りできるようになっている。二階へは外階段を上がることになる。
野々山は塀ぎわに身を寄せて、男の入っていく部屋を確めた。男は外階段を上がって、一番奥のドアの前に立った。部屋の明りは消えているようすである。
男はショルダーバッグの中から鍵を取り出して、ドアを開けた。開いたドアの奥は暗かった。
男は中に入り、ドアが閉められた。すぐにドアの横の台所らしい小窓が、明りの色に染まった。
そこまでを見届けて、野々山はブロック塀から離れた。彼はアパートの小さな門をくぐり、外階段を上がった。足音を殺していた。男が入っていった部屋のドアの前で足を停めた。
ドアに白いプラスチックの小さな名札が出ていた。小谷輝正――野々山は名札の文字を読みとると、その場を離れた。
折原早苗が京都駅に着いたのは、午後五時ちょうどだった。
早苗はタクシーに乗ると、運転手にホテルの名を告げた。
野々山に、脅しまがいでスパイの役を引き受けさせられてから、一週間が過ぎていた。
ゼネラル通商の内藤専務に色仕掛けで接近するという仕事自体は、早苗にとっては難しいものではなかった。
内藤をたらしこんで金を使わせ、彼と建築業者や不動産業者たちとの交際の実態を探ってほしい、と野々山は言ったのだ。
それを断われば、早苗が陰で手を染めている、外国人の女たちをコールガールとして客に斡旋するという仕事を明るみに出す、と野々山は脅した。
早苗はしかし、その脅しを怖れる気持だけで、野々山の申し出を呑んだわけではなかった。早苗は、野々山の求める仕事も、コールガールの斡旋業と同じで、金づるの一つになると踏んだのだった。
早苗はそういう女だった。自分がそういう女であることを、彼女はうしろめたくなど思わない。疾《やま》しさのつきまとわない大金儲けの方法など、この世にはないのだ、と早苗はさっぱりと割り切っている。その信念はゆるぎがない。
内藤が京都に誘ってくれたのは、前の晩だった。内藤は遅くなってから、珍しく一人で円卓にやってきた。彼は、一緒についた他のホステスの眼を盗んで、早苗に京都のホテルの名を耳打ちしたのだ。
『明日、京都に出張する。夕方、いらっしゃい。それまでに仕事を片づけとく』
早苗はわざと返事をしなかった。代りに内藤に強く体を押しつけて、すぐに離れた。それが返事のつもりだった。
ホテルに着くと、早苗はロビーを横ぎってフロントの前に立った。内藤の名を告げると、フロントマンは鍵の柵の棚から部屋のキイを取り出して渡した。内藤は連れのあることをフロントに伝えてあったらしい。
部屋は八階のスイートルームだった。奥の部屋にセミダブルのベッドが二つ並んでいた。
内藤の荷物は部屋にはなかった。仕事を終えてからホテルに入るつもりと見えた。
早苗はベッドに腰をおろし、電話の受話器をとりあげた。東京の野々山の連絡先の電話番号を回した。野々山はそこが自分の住むアパートの部屋だと言った。早苗はしかし、まだこれを確めてはいない。
呼出音を十回までかぞえて聞いて、早苗は受話器をもどした。
野々山はまだ、早苗が内藤に誘われて京都に来ていることを知らない。早苗は前の夜、円卓の勤めを終えてマンションに帰ってから、何回も野々山に電話をかけている。そのたびに、相手は留守だった。
早苗は野々山という男については、ほとんど何も知らない。スパイの役を引き受けろと迫ったとき、野々山はそういうことをするのが自分の仕事だ、と言った。それ以上のことは、なにひとつ明かそうとしなかった。
早苗には、野々山という男が、何か暗い裏の世界を歩きまわっている男、ということしかわからない。だが、野々山当人には、そうした翳りはうかがえない。だからこそ、早苗もうかうかと彼の手の中に落ちたと言える。
そのことを早苗はいくらか口惜しくは思うが、肚は立たない。むしろ、晴ればれとして屈託のない印象を持ちながら、仮借のない振舞いに出る油断のならない男として、早苗は野々山に興味を抱きはじめているのだ。
早苗はベッドから腰をあげると、入口のドアのロックを確め、バスタブに湯を溜めた。
湯が溜まるのを待って、早苗は服を脱いだ。湯の中に体を沈めた。
シャワーを浴びている最中に、早苗はドアチャイムの鳴る音を聞いた。
早苗はバスタオルを急いで体に巻きつけて浴室を出た。体は濡れたままだった。
チャイムはくり返し鳴りつづけている。内藤がやってきたにちがいない。早苗は念のために、ドアスコープに眼をあてた。ドアの前に立っている内藤の姿が見えた。
早苗はドアを小さく開けて、すぐに体を横にずらせた。内藤は入ってきた。彼はドアの陰に身を寄せた早苗を見て、笑顔になった。ドアが閉められ、内藤がロックをした。
「待ったかい?」
「たったいま着いて、お風呂に入ってたところよ」
「いいときに来たってわけだ」
内藤は手を伸ばしてきた。バスタオルが内藤の手ではずされた。早苗は笑った顔のまま立っていた。内藤は一本だけ立てた手の指を早苗の形のいい鼻の頭に軽くあてた。
その指がまっすぐにおりて唇の上を通り、顎から喉を過ぎて、二つの乳房の形をなぞった。
内藤の指は静かに掃くようなやり方で、湯の滴をつけた早苗の胸から腹をたどり、しげみに達した。
「時間はたっぷりあるのに……」
早苗は言った。ひとりでに息がはずんでいた。内藤の眼の奥には、よどんだ感じの光が揺れている。
「おいしそうだな、きみ……」
内藤は言い、顔を寄せてきて、早苗の乳首を唇ではさんだ。しげみに達した指は、さらに這いおりて、早苗のクレバスをゆっくりと上下にさすっている。
早苗は小さく体をふるわせた。甘い波が体の芯からざわめきたってくる気配があった。
「まず、おれも風呂だ」
内藤は言って早苗から離れた。早苗は裸のまま、内藤の手から書類鞄を受け取った。店で客の荷物を預るときと変らない手つきだった。
「大金が入ってるんだ。部屋に置いてだいじょうぶかな」
内藤が言った。本気で心配しているようすではなかった。
「大金てどれくらい?」
「たしかめちゃいないが、まず五百万から一千万だろうな」
「キャッシュ?」
「キャッシュさ」
「会社のお金なんでしょう?」
「会社に入れる金なら持っちゃ歩かないよ。銀行に振り込ませる」
「じゃあ、ご自分の?」
「ご自分のものにしてくださいってつもりだろうな、くれた奴は……」
「すごいわ。五百万から一千万ものお金をくれる人がいるの?」
「まあな……」
「あたしにもそんな人いないかしら。どなたにおもらいになったの?」
「不動産会社の常務だ」
内藤はすらすらと話しながら、着ているものを脱いだ。早苗は内藤の鞄を壁ぎわの棚に置き、内藤の脱いだものをハンガーにかけた。内藤は素裸のまま、浴室に消えた。
早苗は浴室のシャワーの音を聞きながら、内藤の鞄をあけてみた。中にふくらんだ書類封筒が二つ入っていた。早苗は二つの封筒の中をのぞいてみた。中身は札束だった。内藤の言ったとおり、全部で一千万円あった。封筒には、西日本土地開発という社名が印刷されていた。
早苗の胸はかすかに躍っていた。野々山の顔が浮かんだ。早苗はすぐに鞄の蓋を閉じた。バスタオルで体を拭いた。体は汗ばんでいた。バスタオルを巻きつけた体のまま、早苗はソファに腰をおろしてたばこを吸った。
浴室のシャワーの音がやんだ。内藤が腰にタオルを巻いたままの恰好で出てきた。
「食事は外でしよう。うまい水たきを喰わせる店がある」
「たのしみだわ」
「その前に、こっちにおいで」
内藤はさっさとベッドルームに足をはこんでいく。早苗はあとにつづいた。
内藤は早苗の体からバスタオルをはぎとった。早苗を抱えるようにして、ベッドに横たえさせた。
内藤はベッドに上がり、早苗の横にあぐらをかいた。両手が早苗の乳房を押し包んできた。
「よく立派にみのったもんだな」
内藤はたわわな感じの二つの乳房の量感をたしかめるふうに手を動かした。親指は絶え間なしに乳首を静かに掃いている。
「みのったなんて、西瓜か南瓜みたい。いやだわ」
早苗は笑った。内藤はときおり、二つの乳房を柔らかく絞りあげるようにした。乳首が固くとがり、早苗は体の芯に甘い疼きが走るのを覚えた。
内藤の腰のタオルがひとりでに解けた。早苗はまばらな黒い毛に覆われた内藤の太腿を手で撫でた。その手を伸ばして、内藤の股間をまさぐった。
早苗は手の中で、内藤の体に力のみなぎってくるのを感じた。夢中にさせてやろう、と早苗は考えていた。半分は野々山からひきうけた仕事のためだった。半分は内藤の懐を軽くしてやろうという、彼女自身のもくろみのためでもあった。
内藤の片手は、早苗のしげみを撫でてそよがせていた。早苗は相手を夢中にさせてやろうというもくろみとは関わりなく、自分の体が熱くうるんでくるのを感じていた。
彼女は体をひねり、内藤の太腿に唇をつけた。内藤は体を倒し、早苗の腰を横抱きにした。内藤の顔は、早苗のしげみの上に押しつけられていた。
そのまま、内藤は自分の体の上に早苗を抱えあげた。内藤の力のこもった体が、早苗の頬を突き刺すように当ってきた。早苗はためらいもなくそれを引き寄せ、開いた唇を押しかぶせた。
内藤の頭が早苗の太腿を割った。舌がのびてきた。舌は強い力で早苗のクレバスを押し分け、彼女の望みの場所を探りあてていた。早苗は喉の奥に声をもらし、体をふるわせた。そうしながら自分でも舌を躍らせた。
電話のベルが鳴ったとき、二人はまだ頭の位置をたがいちがいにして体を重ねていた。
内藤が早苗に受話器を取らせた。早苗は受話器をすぐに内藤に渡した。内藤は浮かせた早苗の腰の下で、受話器を耳にあてた。
「やあ、平田さん。先ほどはどうも……」
内藤が言った。息が早苗のしげみにかかった。
10
奇妙な恰好というべきだった。
早苗は裸のまま、這って高く腰をかかげて、内藤の腰を胸に抱え込んでいる。彼女の厚味のある唇は丸くすぼめられたまま、猛り立った内藤の分身を深く捉えている。
内藤の頭は、這っている早苗の開いた太腿の間にあって天井を向いている。しかし内藤の視線は天井にではなく、濡れて暗い輝きを放っている早苗の女の谷間に向けられているのだ。
眼だけではない。内藤の指は、ゆるくほころんだ早苗のクレバスに浅く沈んでいる。そうしたことをつづけながら、内藤は電話の受話器を耳にあて、短い返事を通話の相手に送っているのだ。
早苗はときおり腰をゆらめかせ、乳房をわざと強く内藤のゆるんだ腹に押しつけながら、熱心を装って舌を躍らせ、唇をすべらせつづけた。
だが、彼女の耳は、内藤の電話のやりとりを余さず捉えていた。電話の相手は平田という名の人物らしい。電話を受けたときに内藤はそういう名を口にして、相手に短い挨拶を送った。
平田と内藤は、その日にどこかで会ったようすだった。『先ほどはどうも』ということばを、内藤は通話のはじめに言ったのだ。平田と内藤がその日一度会ったとすれば、あるいは平田は、内藤に書類封筒に入れた一千万円の札束を送った主かもしれない。封筒には西日本土地開発株式会社という社名が入っていた。
早苗はそういうことを思いめぐらせながら、平田の名前を頭に刻み込んだ。
電話は長くはつづかなかった。内藤は短い相槌を打ったり、笑ったりするだけだった。それだけで通話は終えた。
「じゃまが入っちまったな。受話器かけてくれ」
内藤は笑った声で言って受話器で早苗の白い尻を軽く撫でた。早苗はふくんでいるものから口を離さずに、手だけをうしろにまわして受話器を受け取った。それをベッドの横の台の上の電話器にかけた。
「なかなかやるなあ。どこで修業してきたんだ? かわいい顔してて……」
内藤が言った。片手が早苗の乳房に伸びてきた。早苗は体を浮かして内藤のひろげた手の上に乳房を押しつけた。
内藤の舌が早苗のはざまにひそむ小さな肉の芽を捉えた。内藤の片手は、息づくようにかすかにうごめいている早苗のはざまの中心にあそんでいる。その指はときおり早苗のうしろの部分に移る。そこはくすんだスミレ色の小さなボタンの形を思わせた。ボタンは内藤の指ではこばれるうるみをのせて、うっすらと光っている。
内藤はボタンの縁を静かになぞるようなことをくり返した。早苗の口からたまりかねたような声がもれる。そのたびに内藤は低く短い笑い声をたてた。
やがて、内藤の指の一本は、ボタンの中心に静かに埋められていった。早苗は高くかかげた腰をはげしくふるわせた。
早苗は声をあげ、あえぎを重ねながら、しかし口におさめたものを放そうとはしなかった。内藤の広い胸板の上で、早苗の腹がはげしく波打つように揺れている。
内藤はときおり喉の奥にこもった笑い声をひびかせながら、別の指を早苗のはざまの中心に埋めた。
「どうだね。前もうしろもふさがった感じは――。いいだろう」
内藤は鼻の頭を早苗のしげみに埋めたまま、にごった声で言った。
「あたし、どうかなりそうだわ。やめて!」
早苗は頭だけを高くもたげて、低く叫ぶように言った。
「よし、よし、やめてやるぞ。ほんとにどうかなったらやめてやるぞ」
内藤は笑った顔で言った。早苗のそれぞれの場所に埋まった内藤の指は、窮屈な中でいっときも動きを止めない。
早苗はあえぎながら、何度も息を詰まらせた。思い出したように、彼女は内藤の分身に手を添え、それをふくみ直し、しかしまたすぐに大きく頭をのけぞらせて体を痙攣させるのだった。
「とうとうどうにかなったな。指がへし折られるかと思ったぞ。いいもの持ってるな、おまえ。おれがにらんだとおりだよ」
内藤は言った。彼は仰向けになったまま、早苗の腰をおしやるようにした。早苗は髪をかきあげながら、内藤をふりむいた。眼がうるんだようになって焦点を失っていた。
内藤は体を起した。早苗の手を引いてベッドから降りた。そのまま彼は、壁ぎわの化粧台の前に早苗を連れていった。壁には鏡がはまっている。内藤は鏡の前に早苗を立たせ、前の化粧台に両手を突かせた。
早苗の裸の腰が突き出された。早苗は甘い声をもらして腰をゆるやかに回した。内藤が笑った顔でその腰をつかんだ。内藤は早苗の足もとにしゃがんだ。早苗の白い豊かな尻に彼は顔をすりつけた。早苗は大きく脚を開いて、腰をおとした。
内藤の舌が伸び、早苗の尻の丘を這いまわり、やがてそれはうしろの深い谷間に沈んでいった。早苗は腰をゆらめかせながら、何度ものけぞった。
内藤の愛撫は執拗をきわめた。彼が早苗に体をつないできたのは、彼女を鏡の前に立たせてから三十分ほど後だった。内藤は鏡に向って立ち、化粧台に手を突いた早苗の腰をうしろから抱いて、腹を打ちつけてきた。
11
午後六時になろうとしている。
野々山は八重洲の地下駐車場にとめた自分の車の中にいる。
及川友美は、約束の時刻、六時ぴったりに現われた。彼女はまるで自分の車に乗るような自然な身ごなしで、野々山の車の助手席にすべり込んできた。
「いろいろ報告したり、調べてもらいたいことがあったんだ」
野々山は言った。
「あたしも、その後のようすを聞きたいと思ってたところだったの。鹿取専務にもあなたに会って進展ぶりを聞くように言われてたのよ」
友美は低い声で言った。
「おれのほうは、結構はかどってる。まず報告したいことが二つある」
「どういうこと?」
「銀座のクラブ、円卓の折原早苗が、内藤専務に張りつくことを承知したよ」
「さすがね、野々山さん……」
「もう一つは、宮沢専務のスキャンダルをつかんだ。これは決定的なものだ」
「女のこと?」
「そんななまやさしいことじゃない。これを見てくれ」
野々山は、スーツの内ポケットから、白い角封筒を取出して、友美に渡した。友美は封筒の中身を取出した。二葉の写真だった。友美はそれを、通路の明りにかざすようにして見た。
「どうだい、すごいだろう?」
「宮沢専務にとっては、メガトン級の爆弾だわね」
友美は声をひそめて言った。
「これ、場所はどこなの?」
「神宮の絵画館の前の木立ちの中だ」
「よく写真撮れたわね」
「赤外線のフィルムを使ったんだ」
一葉の写真は、宮沢と若い男が、木に体を寄せたまま、抱き合ってキスをしているところが写っている。もう一葉は、宮沢が立っている若い男の前にしゃがみ、相手に口で奉仕をしているところのスナップである。
二葉とも、宮沢の顔が、やや横向きながら鮮明に捉えられているのだ。
野々山は五日間、絵画館の前まで通って、ようやく撮影に成功した。現像はプロのカメラマンの助手をしている、高校時代の友人に、破格の現像焼付料を払ってやってもらったのだ。赤外線フィルムも、その友人から手に入れた。
「宮沢専務も、折角の変装だけれど、これじゃあ素顔を知っている人の眼はごまかせないわね。道ですれちがったくらいじゃ判らないかもしれないけど……」
「相手の若い男は、東中野一丁目の東荘というアパートに住んでいる、小谷輝正という会社員だ。西新橋の中華料理の材料を輸入してる小さな会社に勤めてる」
「それで?」
「小谷輝正は結婚してるんだ。女房は京橋のタイプ印刷の会社に勤めてる」
「両刀遣いってわけ?」
「らしいな。こっちには小谷が結婚してるってのは好都合さ」
友美は問いかける眼で野々山を見た。野々山の言ったことばの意味を解しかねたようすである。
「女房持ちの男がホモだったってことが世間に知られちゃ、当人は困る。それを隠すためにはどんなことでもするはずだ」
「小谷に何をやらせる気なの?」
「宮沢がゼネラル通商の専務であることを小谷に教えて、奴に金儲けをさせるのさ」
「小谷に宮沢専務を恐喝させるのね?」
「小谷は断わらないと思うよ」
「やるわね、野々山さん……。鹿取専務が言ったとおりだわ」
「鹿取さんは何て言ったんだ?」
「地味で目立たなくて、一見、まじめそうで、だけど心の中に何かをくすぶらせている男――そういう人間ほど、陰の工作の仕事に向いてるって……」
「よろこんでいいのかね、そう言われて。まあ、いいや。きみに調べてほしいことがあるんだ」
「なに?」
「円卓の早苗が早速、収穫をもってきた。早苗は内藤に誘われて京都に一泊旅行をしたんだ」
「それで?」
「京都で内藤は誰からか一千万円のキャッシュを受取ったらしい。会社に入れなくてもいい金だという意味のことを内藤は早苗に言ったというんだな」
「リベートね、きっと、何かの」
「一千万円の現ナマは、西日本土地開発株式会社という社名入りの書類封筒に入っていたという話だ。その夜、ホテルの内藤の部屋に平田という人物が電話をかけてきてる。電話のやりとりから、内藤がその日に平田という人物と会ってることはまちがいないと思う、と早苗は言ってるんだ」
「一千万円を内藤専務に渡したのが、その平田という人じゃないかってわけね?」
「一応、そう考えられる。ついでのことに、平田が西日本土地開発って会社の男なら、事情はもっとはっきりする」
「調べてみるわ。西日本土地開発って会社とゼネラル通商と取引きがあるかどうか。平田が何者か……」
「できるかい……」
「不動産と住宅部門には、鹿取さんとひそかに通じている社員もいるはずだから……」
「じゃあ、そっちは任せた。おれは今夜これから、ホモのお兄ちゃんに会う。早苗にももっとがんばらせなきゃな。それにゼネラルの社長の倉島の泣き所をつかむ仕事も残ってるんだ」
「野々山さん、会社にいたときとは別人みたいよ。生きいきして、迫力がでてきて……」
友美は野々山を甘くみすえるような眼で見た。
「からかってんのかい?」
「本当よ。本当にそう見えるの」
「どうせおれは、陰の仕事向きの人間だよ」
「それはおたがいさまじゃない?」
野々山は友美を見やった。友美はシートの上で、ふっと体の力を抜き、背もたれに頭をあずけた。友美の眼の奥に光が揺れた。誘っている風情だった。野々山は体を傾けて友美の唇に唇を重ねた。短いキスだった。
唇を離すと、友美はドアを開けて車を降りた。そのまま、ふり向かずに歩み去った。さばさばとした態度だった。
(妙な女だな)
野々山は胸に呟いて、うっそり笑った。
12
その夜、野々山は千駄ケ谷の駅前で、小谷輝正をつかまえた。駅前の広場に車を停めて、小谷が現われるのを待っていたのだ。
思ったとおり、小谷は神宮の外苑のほうから、いつものようにショルダーバッグを肩に吊って現われた。時刻は午前零時に近かった。小谷はその夜もブルーのサハリジャケットに、白っぽいズボンをはいていた。
野々山は車を降りて、自動券売機に向う小谷を追って近づいた。券売機の前で、笑顔で声をかけた。
「今夜もすてきな男と会えたかい? 小谷さん……」
小谷は振り向いた。眼が揺れ、表情がけわしくなっていた。
「ちょっと相談したいことがあるんだ。来てくれないか」
野々山は笑いを消して言った。
「あんた誰?」
小谷は身がまえるように体を開いて、野々山を見上げるようにした。
「名乗るわけにはいかないんだ。だが、名刺替りの物はある」
野々山はポケットから、赤外線フィルムで撮った写真の入った封筒を出した。写真を中から引き出し、小谷の前にかざして見せた。小谷の表情が歪み、頬がふるえた。小谷はすぐに写真から眼を放して、まわりを見回した。怯えた仕種だった。券売機の前には、何組かのアベックらしい人の姿があった。
「どこに行くんですか?」
小谷は重い口調で言った。野々山は小谷の腕をつかんで歩き出した。
車のところまでくると、野々山は小谷を助手席に押し込むようにして乗せた。小谷には逃げ出そうとするようすは見えない。野々山は車の前を回って運転席に乗った。
「小谷さん、あんたのことは全部調べてあるんだ。西新橋の勤め先も、東中野のアパートも、グラマラスな奥さんのいることも……」
野々山は言った。小谷はショルダーバッグからたばこを出して火をつけた。ライターの明りがふてくされたような小谷の顔をいっとき照らし出した。
「あんた、誰なんだ、いったい?」
小谷は言った。息のはずむのを押えているのが声で判った。
「おれが誰かを知るより、あんたはさっきの写真の相手の素性を知るほうが利口だと思うけどな。知ってるのかい? あんたの相手のこと……」
小谷は小さく首を横に振った。ほんとうに知らないのか、知っていて隠しているのか、野々山には判別がつかなかった。
「あんたといい仲になってる相手は、ゼネラル通商の専務で、宮沢義也って奴だよ」
小谷は顔を伏せたまま黙っている。
「金になる相手だと思わないか?」
「金? 金をどうするんだ?」
「宮沢に、一流商社専務としての体面と名誉を守ってやるからといって、そうだな、一千万円ぐらい吹っかけるか」
「彼を脅迫する気か?」
小谷は飛んできた何かを避けようとでもするように、体を斜めにしてのけぞった。
「いやかい?」
「いやかいって、おれに彼をゆすれっていうのか?」
「断わってもいいぜ。だが、そうなるとあんたの体面が危なくなる。あんたがホモだって判ったら、奥さんや会社の人間たち、どんな顔するかねえ。よく考えるんだ。ゆすった金はあんたが全部取れ」
「いったい、あんたの狙いは何なんだ?」
小谷はふるえる声で言った。
13
「おれの狙いは何かだと?」
野々山は助手席の小谷の顔に顔を近づけて、言った。凄んだ声になっていた。
「そういうことは訊かないほうがいい。言っとくが、そのほうがあんたのためになる」
小谷は弱々しく首を振り、吐息をもらした。野々山はさらにつづけた。
「あんた、奥さんには夜の義理はちゃんと果してるのかい?」
「関係ないだろう、あんたには……」
小谷はわずかに語気を強めた。だが、怯えたようすに変りはない。
「関係なくはないと思うぜ。あんたの奥さんの勤め先は、京橋の光プリントっていうタイプ印刷屋だったな」
「そんなことまで知ってるのか……」
「ホモが原因で離婚となったら、慰謝料は安くないぜ。慰謝料で金を失うか、宮沢をゆすって金を稼ぐか、あんたには道は二つに一つしかないんだぜ」
野々山は言った。もう凄んだ声ではなかった。ことばつきは穏やかだった。野々山が自分が緩急自在な脅しの科白を吐けることに満足していた。そういう役柄を、それほどまで巧みに演じることができるとは、自分でも思ってはいなかった。
「やるよ。やるから、終ったらもうおれにつきまとわないと約束してくれ」
小谷はまるで何かの塊りを吐き出すような言い方をした。
「おれは野郎のケツを追い回す趣味はないから安心しな。頼んだ仕事をきちんとやってくれたら、あんたのことは忘れよう」
野々山は、小谷のすぼめられた肩を、すこし乱暴に叩いた。それから彼は言った。
「メモするもの、何か持ってるかい?」
「何を書くんだ?」
「これは、実際にやるのはあんただが、おれの仕事だ。おれのやり方で、指示どおりに進めてもらう。これから段取りを説明するから要点を書き留めてくれ。忘れたり、段どりまちがえたりしたら、あんたの責任だ。いいな。責任だぜ。ドジ踏むとどうなるかわかってるな」
「くどいよ……」
「まず、宮沢の自宅と、ゼネラル通商の電話番号を言うから控えてくれ。ゼネラル通商のほうは、代表番号と、宮沢の専務室直通のと両方をメモするんだ」
野々山はそれぞれの電話番号を言った。専務室の宮沢用の直通電話は、及川友美が調べたものだった。小谷は車のルームライトの下で、ショルダーバッグから取出した手帳にボールペンを走らせた。
「はじめにゼネラル通商の代表番号に電話をしろ。名前を訊かれたら、神宮の絵画館の近くでお目にかかった男だと宮沢専務に伝えてもらえば判る、とそう言うんだ」
「相手が電話に出なかったらどうするんだい?」
「出なかったら、つぎは直通電話を使え」
「で、どういうふうに言うんだ?」
「科白ぐらい自分で考えろ。まとまった金が手に入るんじゃないか。とにかく、ホモの一件を世間に知られたくなかったら金を出せということを言うんだ」
「いくら出させる?」
「三百万円ぐらいは出すだろうな。話がまとまるまでは、会社にも自宅にも電話攻勢をかけろ。その上で宮沢を昼間、日比谷公園に呼び出せ。場所は野外音楽堂のベンチにするんだ。そこにおまえは小型録音機を持っていって、奴とのやりとりを録音する」
メモをつづけながら、小谷は何度も不安を顔に現わした。野々山はかまわずに話しつづけた。
「奴と会う日は三日後。時刻は正午だ。録音機はそこのダッシュボードの物入れの中に入ってる。持っていけ」
小谷は座席の前の物入れをあけた。小型の録音機とカメラが入っていた。小谷はこわばった表情のまま、録音機を取出し、自分のバッグに入れた。
「わかってるだろうが、録音してることを宮沢に知られないようにしろよ。そのショルダーバッグの中でまわせ。マイクはタイピンに見せかけてあるからばれっこない」
「会って何を話すんだ?」
「金の受渡し方法だ。銀行に振り込ませろ。あんた、どこかの銀行に口座があるだろう」
「あるけど、新しく作るよ」
「そうだな。人に知られたくない金が振り込まれるわけだものな」
「ほんとにあんたは金はいらないのか?」
「いらない。ゆすった金は全部あんたのものだ。ただし、金が振り込まれてきたら、銀行からあんた宛に振込通知書が郵送されてくるはずだ。その振込通知書だけをおれがもらう」
「なるほど。振込通知書には、金を振り込んだ人間の名前が記入されてる。それがあんたほしいんだな?」
「宮沢がホモにゆすられた証拠品になるからな」
野々山はにんまりとして見せた。
14
「きみたち、もう夏休みだろう。アルバイトしない?」
野々山は銀座のデパートの正面玄関で声をかけた。相手は二人連れの女の子だった。一見、十六、七歳に見える。それはパンツにTシャツという私服のせいで、じつは二人が都内の私立中学校の二年生と三年生であることを、野々山は知っている。名門といわれている女子中学である。
二人の女の子は、デパートから出ようとしているところだった。手にはそれぞれ、デパートの紙袋をさげている。中身が買ったばかりのビキニの水着であることも、野々山は知っている。尾行していたのだ。
二人の女子中学生は、野々山の声に足をとめてふりむいた。二人とも愛らしい顔を、わずかにぎごちなくこわばらせている。
「いいアルバイトがあるんだけどな」
野々山は明るい声で言った。
「二、三時間で、一人二万円になる仕事だよ。どう?」
二人の表情が揺れた。気を惹かれたようすだった。背の高いほうが訊いた。
「どういう仕事?」
「たぶん、きみたちにははじめての仕事じゃないと思うけどな」
今度は二人の表情が小さくくもった。野々山は内心で、よし、とうなずいた。
「きみたち、よく、熱海のエメラルド・ハイツってマンションに行くだろう?」
野々山は思いきって訊いた。相手が否定したら、こっそり写した一枚の写真を突きつけてやるつもりだった。写真には、その二人の女子中学生と他にもう一人のやはり女子中学生が、熱海のエメラルド・ハイツの玄関を出てくる姿が写っているのだ。
野々山には、ポケットから写真を出す必要はなかった。相手の二人は、たがいに短い視線を交し合うと、うつむいた。すぐにまた、背の高いほうが顔を上げて言った。
「アルバイトって、あたしたちが熱海でやってるような仕事なんですか?」
「そうだよ……」
「どうして熱海のこと知ってるの?」
「どうしてって、エメラルド・ハイツのきみたちが行く部屋の持主と、ぼくは知合いなんだもの。あの人、倉島輝信さんという名前で、ある大きな商社の社長さんだろ?」
「そうなの? 知らなかったわ。ねえ……」
背の高いほうの子は、連れをみやって言った。連れはうなずいて答えた。
「だって、相手が誰かなんて、あたしたち関係ないもん。ギャラさえもらえれば……」
「じゃあ、ギャラさえ払えば、ぼくとだっていいんだな」
「いいわよ。でも、あたしたち、都内のマンションやホテルはいやよ」
「東名高速すっとばしていって、御殿場あたりのモーテルはどうだい?」
「いいわ。車あるんでしょう?」
「行こう。車は駐車場だよ」
野々山は二人を促して歩きだした。
野々山がゼネラル通商社長の倉島輝信の尾行をはじめてから、十日余りが過ぎていた。その間に、倉島は二回、熱海のエメラルド・ハイツに出かけていた。倉島がそのマンションに部屋を持っていることは、及川友美が確認していた。
倉島がエメラルド・ハイツに出向いたのは、二度とも土曜日の午後だった。彼は一人で新幹線に乗って出かけた。そして二度とも、熱海の駅で二、三人連れの少女たちと落ち合って、エメラルド・ハイツに向ったのだ。
少女たちの顔ぶれは、背の高い一人をのぞいては、二度ともそれぞれちがっていた。少女たちは、夕暮どきになってから、エメラルド・ハイツから出てくる。そのときは倉島は一緒ではない。二度ともそうだった。
野々山には、エメラルド・ハイツの倉島の部屋で、何が行なわれているのか判らなかった。彼はそこで、二度にわたって熱海に現われた背の高い少女を尾行しはじめたのだった。
その結果、彼女が名門の私立女子中学校の三年生で、河合良子という名前であることや、いささか非行の傾向のあることが判った。非行といっても、ばかに金づかいが荒く、ときおりデパートや喫茶店の化粧室で化粧をしたり、ディスコに出入りする、といった程度だった。河合良子の家庭は、平凡な中流の暮しぶりに見えた。住まいは吉祥寺にある。父親は会社員らしい。
それ以上のことは判らない。野々山は河合良子に直接ぶつかるしかない、と考えた。その結果、尾行のすえにデパートの玄関で声をかけたのだ。河合良子の連れが、やはり熱海のエメラルド・ハイツに現われた一人であったのは、野々山にとって幸運だった。
もっと大きな幸運は、河合良子たちが熱海で倉島を相手にどうやら売春のアルバイトをしていたらしいことが判った点である。
野々山のさりげない誘導訊問に対して、河合良子とその連れは、『ギャラさえもらえば相手が誰だろうと関係ない』とか、『都内のマンションやホテルはいやよ』とか言ったのだ。
そのことばは、彼女たちのエメラルド・ハイツでのアルバイトの内容をうかがわせるのに充分だ、と野々山は思った。現に、二人の少女は、御殿場のモーテルに誘われても動じるようすは見せなかったではないか――。
15
河合良子の連れは、笠原光子という名だった。
御殿場のモーテルは、ガレージから直接、部屋に入れる仕組みになっていた。
建物はコテージふうのもので、一切、人と顔を合わさずに中に入れる。野々山は以前にハントした女と一度来たことがある。
河合良子と笠原光子は、部屋に入ると、肩をすくめて笑い、ベッドの端に並んで腰をおろした。
「倉島さんは熱海じゃきみたちとどんなことするの?」
野々山は冷蔵庫から飲物を出しながら訊いた。
「どんなことって、きまってるじゃない。セックスよ」
良子が答えた。あっけらかんとしたようすである。
「セックスって、きみたちいつも二人連れとか三人連れだろう。それを倉島さんは一人で相手にするのか?」
「そうよ。あんただっていまからあたしたちと一対二でやるんでしょう?」
「そりゃそうだけど、おれとちがって倉島さんはご老体だぜ。元気なもんだな。どんなふうにあの人、やるんだ?」
「お風呂にみんなで一緒に入ったり、いろいろよ……」
「倉島さんとのときと同じようにやってみせてくれよ」
「お金かかるわよ。あの人、特別注文が多いんだから」
「ほう……。どんな注文?」
「いやらしいの……」
「たとえばどんな?」
「あたしたちにレズらせて眺めたり、ね」
良子は光子を見て、ふくみ笑いをもらした。光子はうなずいた。
「この光子なんて、一回、飲ませちゃったことあるんだから……」
「何を飲ませたの?」
「おしっこ……。だってせがまれたんだもの。よろこんでたわ。気が知れないね。おとなって……」
「そんなことまで?」
「そうよ。ほかに、写真とったり……」
「どんな写真?」
「いろいろ……。お馬さんごっこのところとか、ね」
「自分が馬になって、裸のあたしたちを背中にのせて歩くのも好きなのよ。靴であっちこっち踏まれたりとかもね」
「おどろいたなあ」
野々山は唸った。
「そういうところを写した写真を、どうしてるの、倉島さんは?」
「アルバムにして持ってるわよ。見せるんだもの、あたしたちに。ああいうのヘンタイって言うんでしょう?」
「マゾっていうんだって……」
良子と光子はしかし、あくまでも明朗快活だった。
「おれはそういう変った趣味はないから、ごく平凡なやり方であそぼうぜ」
言いながら、野々山は倉島の秘蔵のアルバムを、手に入れる手だてを思案しはじめていた。むつかしいことではなさそうだった。
「ヘンタイの趣味はおれにはないけど、カメラの趣味はあるんだ。きみたちのヌード撮らせてくれよ。ギャラは別に払うぜ」
「誰にも見せないって約束してくれたらね」
野々山は約束した。彼はガレージに行き、車のダッシュボードの物入れから、カメラを取り出してきた。
良子と光子は、すでに服を脱ぎはじめていた。ためらいなど毛すじほどもない。うす汚れた陰も見えないのだ。
すっかり裸になった二人の少女の姿に、野々山は妖しい昂奮を覚えた。
二人とも乳房が愛らしくふくらんでいた。ともにほっそりした体つきである。しげみは薄い小さな陰のようにしか見えない。陰の中心に、細い一本の条《すじ》のようなクレバスが、短くのぞいている。
成熟にはまだほど遠い。しかし、未熟な固さの中に、そそるものがあった。野々山は、二人の、おとなでもないし子供でもない、細く青い体を押しひしぐことを想像して、残酷で妖美なおののきを覚えた。わずかにたじろぐ思いもあった。
野々山は並んで立った良子と光子の裸の姿をカメラに収めた。それはいわば捨石のようなものだった。彼がほんとうに必要としているのは、もっと決定的な構図の写真だった。
野々山はすぐにカメラを放り出し、裸になってベッドに横たわった。良子と光子は、心得顔に左右から寄りそってきた。野々山は二人を同時に抱き寄せると、交互に軽いキスを送った。
二人の小さな固い乳房が、野々山の胸を押してきた。乳房の固さの中にも、野々山はなにやら倒錯的な気持のたかぶりを誘われた。
「キスしてあげようか」
良子が野々山のたかまりを手で包むようにして言った。笑っている。
「倉島さんにもしてやるのかい?」
「たまにね。でもこっちがしてもらうほうが多いわ」
「じゃあ、おれもしてやるよ」
野々山は二人の間で身を起した。稚いしげみをのせた二人の小さな丘に、野々山は手をかけた。そこを静かに撫でた。クレバスがわずかにゆるんで、小さな赤い芽のようなものがのぞいた。野々山は体を前に倒した。
三章 背後の視線
ドアチャイムを鳴らすと、奥で返事がきこえた。野々山はドアから少し離れて待った。
そこは赤坂の国際ホテルの一室である。会う場所としてそのホテルの部屋を指定したのは、及川友美のほうである。時刻は午後九時になろうとしていた。
ドアをあけた友美は、ドアの陰に体をかくすようにして、小さく顔だけをのぞかせた。
野々山は無言でうなずくと、中に入り、ドアをしめた。友美がドアのうしろに体をかくすようにしていたわけが、すぐに判った。友美は体にバスタオル一枚を巻きつけただけの恰好だった。
「シャワーを浴びたところだったのよ」
友美は笑って言った。
「今夜はただですみそうじゃないって予感がするけどな」
野々山は部屋の奥に進みながら言った。
「そうよ。このまえは八重洲の地下駐車場なんて、殺風景な場所で会ったから、今夜はすこし趣きを変えようと思って……」
「いささか変りすぎという気がしないでもないな」
「ご不満?」
「とんでもない。大歓迎さ……」
野々山は窓ぎわの椅子に腰をおろし、友美の手を取って引いた。友美は野々山の膝に腰をおろし、肩に手をかけてきた。二人は唇を重ねた。
野々山の手は、バスタオルの合わせ目をくぐって、友美の太腿をさすっていた。すんなりと伸びた太腿はひきしまっていた。肌はまだ湯の湿りを残している。伸ばした野々山の指の先に、やはり湯の湿りを吸ったしげみの先がわずかに触れた。
「ここで止めるのは辛いけど、まずは仕事を片付けちまおうぜ」
唇を離して、野々山は言った。しげみに触れた手は、友美のむきだしの肩に移した。
「さすが優秀なエージェントね、野々山さんは……」
友美も軽口の調子で言い、野々山の膝からおりた。
野々山はスーツの内ポケットから、角封筒と小型録音機を取り出して、前の小さなテーブルの上に置いた。友美は野々山と向い合って椅子に腰をおろした。
「宮沢専務の首をふっとばすメガトン級の爆弾だ」
野々山は言って、封筒の中身をテーブルの上に並べた。写真が三点と、銀行の振込通知書である。
三点の写真のうち、二点はすでに友美も一度眼にしたものである。その二点を脇に押しやりながら、友美は言った。
「何回見ても、この写真、気色がわるい」
脇に押しのけられた写真には、宮沢と小谷の男同士のラブシーンが写っている。
残りの一点は、日比谷の野外音楽堂の客席のベンチに、並んで腰をおろした宮沢と小谷を、望遠レンズで写したものだった。
「さすがに宮沢さん、顔がひきつってるわねえ」
友美はその写真を眺めて言った。
「顔がひきつってんのは、ゆすってる小谷のほうだって一緒だよ。どっちが脅迫者で、どっちが脅迫されてるほうだか、わからない」
「ほんとね」
「このときの二人のやりとりを録音したのがこれだ。聞くかい?」
野々山は小型録音機のスイッチに指をかけて言った。友美はうなずいた。野々山はスイッチを押した。はじめは小さな砂利を踏む足音と、潮騒を思わせる遠いざわめきしか聞こえない。やがて声が入る。
『き、きみだったのか!』
低く叫ぶような声である。
「宮沢さんの声だわ……」
友美が言った。またしばらく声はとぎれる。そのつぎは小谷の声である。
『要求を呑んでくれるな?』
『いくら出せと言うんだ? きさま……』
小谷の声も、宮沢の声もこわばって、語尾がかすかにふるえている。
『三百万円……』
『はじめから金が目当てだったんだな?』
『ちがうよ』
『じゃあ、なぜだ?』
『あんたがゼネラル通商の専務の宮沢さんだと判ってから、金が欲しくなったんだ』
『どうしてわたしのことが判ったんだ?』
『それは……』
小谷は口ごもっている。宮沢は別のことを訊いた。
『金をゆすろうと思ったのは、きさま一人の考えか?』
『もちろんだよ。一人で考えたことだ』
『どうやってわたしの素性を知った?』
『偶然だよ。見たんだよ、ゼネラル通商のビルの中で……』
『金は払う。だが、これっきりだぞ。今度ゆすってきたら、こっちにも考えがある』
『わかってるよ。もうやらない。金はここに振り込んでくれ。銀行名と口座番号を書いてあるから……』
会話はそこで途切れていた。野々山は録音機のスイッチを切った。
「これが銀行から小谷に郵送した振込通知ね。振込人が宮沢さんだってこと、これではっきりするわね」
「爆弾の材料、一式とりそろえて鹿取さんに渡してくれ」
「鹿取さん、野々山さんがよくやってるってほめてたわよ」
「サラリーマンでいるときなら、ほめられて感激しただろうけどね」
野々山は皮肉な笑い方をした。
「西日本土地開発って会社のこと、判ったわよ。内藤専務が京都で会った平田という人のことも……」
友美は話題をかえた。
「どういうことになってたんだ?」
「ゼネラル通商と西日本土地開発とは取引きがあるの。内藤専務が責任者になってる不動産部で、名古屋と広島と福岡に、それぞれ大がかりな宅地造成をはじめてるわけ。西日本土地開発は、その用地の買収ととりまとめをやってるの」
「西日本土地が買いまとめた土地をゼネラルが買って、造成して宅地として売り出すわけだね」
「そうなの。内藤専務が京都で会った平田という人は、西日本土地の常務だと思うわ。西日本土地でゼネラルのための用地の買いまとめに当ってる責任者が、平田良一という常務らしいのよ」
「すると、内藤が京都で受取った一千万円はやっぱり西日本土地からの、土地代のバックペイだろうな」
「考えられるわね。西日本土地が、内藤専務にバックする額だけを土地代に上乗せしてゼネラルに請求して、それがリベートとして内藤専務に還流するという仕組み……」
「よし。なんとかウラを取ろう」
「あたしたちの推測が当っていれば、西日本土地から内藤専務に渡る金は、一千万円どころじゃないわよ。きっと。だって西日本土地から買いあげる計画でいる土地の総面積は、名古屋、広島、福岡を合わせると二十万平方メートルを超えるって話だもの」
「よし。西日本土地の平田の身近にいる奴を誰かスパイに仕立ててみよう」
「そういうことで、もういいんじゃない? 仕事の話は……」
友美の眼に柔らかい光が揺れている。
「シャワーを浴びてくるよ」
野々山は言って浴室に向った。
野々山が浴室からもどると、友美はベッドに入っていた。野々山は友美の体を覆っている毛布をはいだ。友美は体に何もまとっていなかった。
形のいい乳房が、明りをうけてにぶくつやを放っていた。しげみはこんもりと丸く盛り上がって、小さな丘を覆っている。丘の裾に短く深い切れ込みが、縁に淡い翳をつけてのぞいていた。
野々山はベッドの横に立ったまま、片手で友美の乳房からしげみまでを、静かに撫でた。その手を友美が太腿の間に挟みつけて捉えた。
「妙な仲だな、おれたち……」
野々山は笑って言い、ベッドに上がった。
「鹿取さんに感謝する?」
「それほどの義理はあの人にはない。きみのすばらしい体には感謝は惜しまないがね」
野々山は言ってから、友美の乳房に頬ずりをした。固くとがった乳首が頬をやさしく突いてくる。乳首も乳房もしっかりとしたはずみをそなえていた。
「鹿取さんは倉島一派の追い落しに成功するかね?」
野々山は友美の乳房をもてあそびながら言った。乳房は野々山の手の下でさまざまに形を変えながら、彼の指を押し返してくる。
「倉島という人は戦略家らしいわよ」
「だろうな」
「倉島が社長に就任してから、内藤、宮沢という二人の重役を重用したのは、ゼネラル生え抜きの役員たちの間に対立を起させるためだった、という見方があるらしいの」
「わざと対立を起させたのか?」
「対立が起きれば、ゼネラル生え抜きの役員同士が争ってつぶし合いになるわ」
「その隙に自分の勢力をひろげようってわけか……」
「そうよ。その上に、自分はなにもしなくても、何人かの役員が、たがいのつぶし合いでゼネラルを去っていったわ。あたしの父もその一人よ」
「去っていった役員のあと釜には、倉島の息のかかったのを据えるって段どりだ」
「つぶされなかったのは、鹿取さん一人よ。いまとなるとね……」
「すさまじいものだな、権力争いってのは」
野々山は言った。手は友美のしげみの底に伸びている。友美はゆるく膝を開いて、野々山の手を誘い、小さく腰を反らした。
野々山は深いクレバスに指を漂わせた。火照りとうるみの気配が、はざまの底から伝わってきた。野々山は指を沈めた。柔らかいものが彼の指先にまとわりついてくる。野々山は探った。小さくとがったものが指を突いてくる。野々山はそこに眼をやった。とがったものは鮮やかな色に照り映えて、頭をもたげている。野々山はそこに指をあそばせた。友美はもう話をしようとはしない。眼を閉じて深い息を吐いている。吐いた息に、細く尾をひく声が重なる。
野々山は体を起した。友美のしげみの上に顔を伏せた。柔らかいヘアが野々山の口もとをくすぐった。
野々山はいっとき、友美のうるみのひろがったはざまの眺めをたのしんだ。小さなとがりも、その下の短い舌に似たものも、襞の重なりも、明るい色に輝きながら、息づくようにふるえている。
やがて野々山は、ゆっくりと舌をおろした。舌は小さくとがった肉の芽を捉えた。友美が高い声を放って息を詰まらせた。まっすぐに開いて伸ばした友美の足の先で、小さな足指がそろって反ったり、きつくまげられたりということをくり返している。
野々山ははざまの中心のあたりを、静かに指先で掃くようにしながら、舌と唇を動かした。指はときおり、はざまの中心に浅く沈み、あるいはうしろの部分をうかがうふうに深く這いおりていく。
友美は息をはずませてあえぎ、押えた声をもらしつづけた。彼女の片手は野々山の髪をまさぐり、片手は彼の力のあふれた部分を柔らかく包み込んでいる――。
「今日はきみに、もう一つ別のアルバイトを頼みたいんだよ」
野々山は河合良子の稚い乳房を静かにさすりながら言った。
横浜の郊外のラブホテルの一室である。ベッドの中には野々山と河合良子の二人がいる。二人とも裸である。二人の肌はいくらか汗ばんでいる。野々山の分身は、力を失いかけたまま、まだ河合良子の中に留まっていた。良子はときおり、捉えているものを逃すまいとするかのように、下から腰を押しつけてくる。その仕種は、体つきや顔つきにくらべて稚くはない。
「なあに? 別のアルバイトって……」
良子はうすく閉じていた眼をあけて言った。野々山は指の先で良子の赤い小さな乳首を撫でながら言った。
「仕事自体はむつかしくないんだ」
「なにがむつかしいの?」
「タイミング……」
「ちゃんと説明して……」
「鍵をこっそり盗み出してほしいんだ」
「鍵? どこの鍵を?」
良子は枕の上で顔を引くようにして、野々山を見た。
「熱海のエメラルド・ハイツの倉島さんの部屋の鍵がほしい」
「なにするつもりなの、鍵なんか盗んで」
「アルバムを見たいんだよ。倉島さんがきみたち相手に、いろいろヘンタイみたいなことしてるところを写した写真が貼ってあるアルバムをさ」
「見てどうするの?」
「どうもしない。見るだけさ」
「嘘……。なにかする気だわ。そうでしょう。いやよ、あたし鍵なんか盗まないわよ」
良子は言い、野々山の裸の胸を押した。野々山は良子から離れてベッドを降りた。良子は足もとの毛布ですぐに体を覆った。たったいままで、野々山のものだった小さな固い乳房や、細い腰や、淡い影のようなしげみをのせた愛らしい丘が、毛布の下にかくれた。良子の顔には野々山に対する強い警戒心が現われている。
「いやならいやでもいいが、断わるときみ、困るんじゃないか?」
野々山は言った。彼は窓ぎわの椅子の上に脱ぎすててあった自分の服のポケットから、何枚かの写真を取り出した。ベッドにもどった野々山は、黙って写真を良子の胸の上に置いた。良子はその写真を手に取った。彼女の顔が歪んだ。写真には、裸で立っている良子の姿や、男の体を口にふくんでいる良子が写されていた。前に御殿場のモーテルの部屋で野々山が写したものだった。
「この写真であたしを脅迫する気ね」
良子は写真を床に投げ捨てて言った。
「写真なんかなくたって、きみはぼくの言うことをきくことになるさ。きみたち、ベッドでのアルバイト、学校や家に知られたくはないよね」
「…………」
「ぼくだって、きみたちを困らせるようなことは、なるべくしたくないんだよ」
「ほんとに、倉島さんのアルバム見るためだけなの? 鍵を盗む目的は……」
「そうだよ。ぼくはそういうものを見るのが趣味でね。マニアといってもいいな。そういうものがあると判ると、どんなことしてでも見なきゃ気がすまないんだ」
良子は吐息をついた。両腕を毛布の上に投げだした。ふてくされたような顔になっている。
「鍵を盗んだら、すぐにばれるじゃないの」
しばらくして、良子は言った。
「倉島さんに気づかれないようにして鍵を持ち出して、鍵屋でスペアキーを作って、こっそり元にもどすんだよ。できるだろう?」
「あたし一人じゃ無理よ。誰かと組まなくっちゃ」
「こないだ一緒に御殿場に行った笠原光子くんと組めよ。途中で買物に行くとかいって、倉島さんの部屋を出ればいい。ぼくが途中で車で待ってて、鍵屋まで走るから……」
「やってみるわ」
良子は言った。案外さばさばした口ぶりだった。野々山は笑ってうなずいた。
エメラルド・ハイツは、熱海の街の一部と海を見おろす位置にある。
うしろに山を背負った、五階建の瀟洒な白い建物である。門の前は急なコンクリートの坂道になっている。
野々山がその坂道に車を停めてから、三十分余りが過ぎている。
河合良子に、エメラルド・ハイツの倉島輝信の部屋の鍵を手に入れてくれと迫ってから、五日目になる。
良子から連絡がきたのは、二日前の午後だった。その連絡で、倉島がその日に四人の女子中学生を連れて、熱海に行くことを野々山は知ったのだ。
野々山がその場所に車を停めて十分後に、エメラルド・ハイツの門の前にタクシーが停まった。午後四時四十分だった。降りてきたのは、倉島輝信と四人の女子中学生たちだった。
その中に、河合良子と笠原光子もまじっていた。野々山は坂の途中に停めた車の中から、それをオペラグラスで確認した。四人の少女たちは、品のいい私服姿だった。
野々山は、河合良子がうまく、倉島の部屋の鍵を盗み出してくれることを祈った。
倉島は、河合良子たちと熱海に来ても、泊ることはない。彼は秘密の愉しみを終えると、先に少女たちを帰し、一足遅れて自分も東京に帰っていく。
それは度重なる尾行で、野々山はよく知っている。
河合良子が盗み出した鍵で、大急ぎでスペアキーを作り、盗んだ鍵は気づかれないようにもどしておく。倉島が帰った後で、スペアキーを使って室内に入り、倉島の秘蔵のアルバムを8ミリフィルムに写し取る。ネガフィルムが見つかったら、それも無断で一時借用する――それが野々山の計画だった。
野々山は目当ての倉島の秘蔵のアルバムの中身を想像してみた。
河合良子と笠原光子の話によると、倉島にはマゾ趣味があるという。少女たちに裸の自分の体を踏ませたり、馬になって裸の少女たちを乗せ、部屋の中を這いまわったりするという話である。
野々山は頬に皮肉な笑いを浮かべた。大商社ゼネラル通商社長の倉島輝信といえば、財界では切れ者と呼ばれている。世間的にも名士である。
その倉島が、おそらくは呆けた顔で裸のまま横たわり、何人もの少女たちに顔や体を踏まれ、馬になって這いまわる――考えると哀れで滑稽な場面ではないか。
倉島と四人の少女たちが、エメラルド・ハイツに入ってから二十分余り過ぎてからだった。エメラルド・ハイツの門の前に河合良子が現れた。
河合良子は坂の上に停めてある野々山の車に短い視線を送ってよこした。そのまま彼女は坂の下に向って歩いていく。
野々山は胸が躍った。急いで車を出した。短い距離を走って、野々山は車を停めた。エメラルド・ハイツの建物のどの窓からも、そこは死角に入っていた。
河合良子は、助手席のドアを開けるのももどかしい、といったようすで、車の中にとび込んできた。
「うまくいったわ。いまおじさんは光子たちとお風呂に入ってるの」
河合良子は手の中に握った鍵を見せ、早口で言った。野々山は車を出した。
「きみは一緒に風呂に入らなくても変に思われなかったか?」
「後で入ると言ったの。おじさんのお風呂はいつも長いんだもの。あたしたちの体を順番に隅々まで洗うんだから……」
「何と言って出てきた?」
「カルピスどうしても飲みたいから、買ってくるって。あの部屋の冷蔵庫にないものを考えつくのに苦労したわ」
「よし、よくやった。ギャラはずむよ」
「それより、早くして。遅くなって怪しまれたら、あたし困るわ」
「わかってる」
野々山はすでに充分、車のスピードを上げていた。
曲りくねった坂道を、車は何度もタイヤをきしませながら下って、熱海の街に降りた。
野々山は周到だった。スペアキーをこしらえてくれる店も、前もって見当をつけてあった。
野々山はその店のすこし手前に車を停めた。河合良子から、ホルダーについた鍵を受取ると、野々山はサングラスをかけたまま、目当ての金物屋に入っていった。店の奥にスペアキーを造る機械が置いてあった。
スペアキーは、看板に謳《うた》ってあるとおり、三分間でできた。
金物屋の三軒先に酒屋があった。野々山はその店でカルピスの三本詰の箱を買った。
車にもどると、河合良子は、また「早く、早く」と野々山をせきたてた。
倉島輝信がエメラルド・ハイツの門から出てきたのは、午後八時半だった。
門の前には、呼ばれたものと思えるタクシーが待っていた。
倉島はすぐに乗り込み、タクシーは坂道を走り去った。その三十分ばかり前には、やはりタクシーで河合良子たち四人の少女が、そこから帰って行った。
野々山はすぐには倉島の部屋に忍び込むことはしなかった。逸《はや》る心を押えて、彼はその場から車をスタートさせた。倉島の乗ったタクシーをつけるためだった。
野々山は、倉島が新幹線に乗り、列車が発車するのを見届けてから、部屋に入るつもりだった。万が一、忘れ物などを思いだして、倉島が引き返してくることも考えられる。そこまでの用心を野々山はしたのだ。
現実にはしかし、心配は無用に終った。倉島はタクシーで駅に着くと、さっさと切符を買い、ホームに上がり、すぐにやってきたこだま号の上りのグリーン車に乗り込んだ。
野々山は入場券を買ってホームに出て、それを見届けた。倉島は列車の時間を調べてエメラルド・ハイツを出てきたのだろう。ほとんど待たずに彼は列車に乗り、東京に向っていった。
野々山は、駅前に停めた車で、ふたたびエメラルド・ハイツに引き返した。
エレベーターで五階に上がった。倉島の部屋のドアには、表札は出ていなかった。
野々山は廊下に人の姿のないことを確めてから、用意の手袋をはめて、ドアの鍵をあけた。中にすべりこんだ。明りはすべて消えている。
野々山はドアを閉め、ロックをし、念のためにドアチェーンもかけた。
ライターをつけて、スイッチの場所を探した。玄関に明りがついた。玄関の踏込みはゆったりしている。上がると狭い廊下が左右に伸びていた。
左に行くと二十畳はありそうなリビングルームがある。廊下を右に進むと、ドアが左側に三つ、右に二つ、突き当りに一つついていた。
左側の手前のドアをあけた。中はダイニング・キッチンになっていた。その隣は八畳の和室だった。
突きあたりが寝室らしい。キングサイズのダブルベッドがあって、これも大きな洋ダンスと壁にはめこまれた飾り棚、姿見などが並んでいる。
廊下の右側に並んだドアは、トイレと浴室のものだった。
部屋の中は、どこもかしこもきちんと片付いていた。寝室のベッドカバーも、皺ひとつない。ついさっきまで、そこで初老の男一人が四人の少女たちを相手に、秘密の暗い愉しみにふけっていたとは思えないほどである。
野々山は窓のカーテンに隙間のないことを確めてから、仕事にかかった。
まず、リビングルームからはじめた。そこの二面の壁は、天井まである本棚と、扉のついた収納棚と、大きなサイドボードでそれぞれ塞がれていた。
サイドボードの中には、骨董品と思われる壺やガラス器などが並んでいる。上の空いた壁には、暗い色調の抽象画のリトグラフが、高さをちがえて、間隔をあけて飾ってある。
書棚に並んでいるのは、画集や、歴史小説のベストセラー作家の全集、百科事典、翻訳物のミステリー、伝記など、雑多な書籍類である。ステレオのスピーカーも並んでいた。アルバムは見あたらない。
野々山は収納棚の扉を片端から開けていった。中はほとんど空だった。下の段にはずらりとレコードが詰め込んである。野々山は道草を喰って、レコードのジャケットを何枚か見てみた。クラシックと邦楽が多い。たいへんな数のコレクションである。
そうやって眺める限りでは、書棚に並んだ本といい、レコードのコレクションといい、サイドボードに飾られた品々といい、部屋の主の趣味と教養はまあ一流と思えた。
しかし、一流の趣味と教養の裏に隠された、もう一つの部屋の主の貌《かお》を、野々山は知っている。
目当てのアルバムを探す野々山の顔には、装われた人間の仮面を暴こうとする、皮肉で意地のよくない、張りのある表情があった。
リビングルームを隈なく探し終えた野々山は、ダイニング・キッチンの前を素通りして、隣の八畳の和室に移った。
そこには立派な坐卓と、紫檀らしい飾り彫のある棚の他には、家具も調度品もない。床の間に南画の軸がかかっている。押入はない。床の間の横が、違い棚をつけた平床ふうの作りになっていた。
野々山は違い棚のいちばん下の引戸を開けてみた。奥行きが深い。奥の左の隅に小型の金庫が入っていた。金庫は開かない。五十センチ正方ぐらいで、高さが四十センチほどの、がっちりした鉄製の金庫である。
もし、他にどこにもアルバムが見当らなかったら、この中だな、と野々山は考えた。
野々山は和室を出て、寝室に行った。洋ダンスの中からベッドの下まで調べてみた。どこにもアルバムはなかった。
最後に野々山はトイレと浴室をのぞいた。念のためというつもりだった。トイレには変ったところは見当らなかった。便器の横に小さな棚があって、その下が扉のついた物入れになっていた。扉を開けたが、中にはトイレットペーパーとタオルが重ねて置かれてあるだけだった。
浴室は、湯殿と洗面所を兼ねた脱衣場とに分けられていた。洗面所のほうにはどこにも窓がなかった。そして壁はすべて黒い壁布が張られていた。ドアの内側にも黒い壁布が張ってある。そして壁の一隅に、赤い電球をはめたソケットがとりつけられてある。大きな洗面台の下の棚には、現像液や四角いホーローびきのバットが突っ込んである。
そこが暗室としても使われていることはまちがいなかった。倉島は少女たちとの痴態を写したフィルムを、自分の手でそこで現像し、プリントもしているのだろう。
そうした用意がされている以上、そのマンションの部屋のどこかに、アルバムが隠しおかれていることはまちがいない、と思えた。野々山はふたたび八畳の和室に引き返した。金庫を戸棚から引き出して、野々山はあてずっぽうにダイヤルを回しはじめた。ダイヤルは左右に二個並んでついていた。
野々山はその金庫の中に、目当てのアルバムが入っていることを確信した。倉島にとってはアルバムは、人の眼に触れれば、自分の地位と名誉をまちがいなく失うことになる品物である。滅多なところに置いておくはずはない。事実、隅々まで家探ししても、それは見つからなかったのだ。厳重に鍵のかかった金庫――そこ以外には隠し場所は考えられなかった。
五時間後に、野々山は折原早苗と、千駄ケ谷のラブホテルのベッドの中にいた。
午前三時をまわっている。野々山は疲れ果てていた。奇妙な疲労だった。体が重いわけではない。頭の芯が熱をおびてしこったようになっていた。
疲れの原因は、エメラルド・ハイツの倉島の部屋にあった小型金庫である。野々山は金庫についていた二箇のダイヤルと、三時間余りにわたって格闘をしたのだ。
金庫はどうやっても開かなかった。二箇のダイヤルの数字をすべて組み合わせてみたが無駄だった。どうやら二組以上の数字を組み合わせる必要があるらしい。そこまでは判ったが、その先はもう野々山の手にはおえなかったのだ。神経も根気も限界にきていた。
野々山は何回も低い唸り声をあげ、和室の畳の上に仰向けにひっくり返った。そしてとうとうその場は断念した。新たに金庫を開ける手を考えるしかなかった。
エメラルド・ハイツを出て、車を東京に向けて走らせる間も、フロントガラスの先の暗がりに、二箇の金庫のダイヤルがゆっくりと回転する幻影が浮かんできて、野々山を悩ませた。
野々山は無性に女が欲しい、と思った。神経を酷使したせいだと思えた。相手は誰でもよかった。たっぷりと味わいたい、と考えるだけだった。
途中で公衆電話を見つけて、早苗のいる円卓に電話をして、会う約束をとりつけた。その時間に呼び出せるのは、早苗ぐらいしかいなかった。
早苗には、ついでに頼みたい仕事もあった。ゼネラル通商の専務の内藤宗夫を通じて、彼に土地代のバックペイを渡している、西日本土地開発の平田常務の身辺の情報を集める仕事である。
早苗とは、電話での連絡は絶えず取り合っている。しかし、会うことはさほど多くはない。
千駄ケ谷のホテルには、野々山のほうが二十分ばかり早く着いた。野々山が湯から上がり、ビールを飲んでいるところに、早苗がやってきた。
早苗が服を脱ぎ、風呂場に向おうとするのを、野々山は呼びとめた。早苗は素裸のままふりむいた。野々山は早苗の前に立っていき、抱きしめ、乳首を吸い、膝を折って彼女のいくらか濃いめのしげみにはげしく頬ずりをした。早苗の裸の姿を見たとたんに、野々山の体には火がついてしまったのだ。
「ばかに今夜はあせってるじゃない」
しげみに頬ずりする野々山の頭に手を置き、髪をまさぐりながら、早苗は笑った。
「そうなんだよ。すさまじく燃えてるんだ。ひととおりのメニューじゃすみそうもないって感じさ」
「たのしみにしてるわ。とにかく、お風呂に入らせて……」
「汚れてるのもまたいいって感じだ」
「内藤が言いそうなこと言わないでよ」
「内藤はそうなのかい?」
「まあね……」
「その話も聞きたいもんだ」
「ばかね。どうかしてるわ、今夜……」
「金庫のダイヤルのせいさ」
「ダイヤルがどうしたの?」
「まあいい。早く、風呂に入っといで」
早苗が風呂から上がってくるのを待ち兼ねて、野々山は彼女をベッドに誘った。
「どういうメニュー?」
早苗はベッドの上で野々山に胸を合わせてきながら、笑って言った。
「内藤とはいつもどういうメニューなんだい?」
「しつこいのよ、あの人……。でも、近いうちに外車を一台買わせるの」
「ほう。頑張ってるね」
「内藤にうんとお金を使わせることと、スパイをすることが、あたしの役目なんでしょう」
「それと、おれのジュニアのお守りをすることとな」
野々山は早苗の胸にまたがって、お守りの必要な当のジュニアを、彼女の乳房に突きつけた。早苗が手を伸ばしてそれをつかみ、引き寄せた。早苗の舌が静かに伸びてくる――。
野々山の体の下で、早苗は突っ伏している。早苗の裸の背中はわずかに汗ばんでいた。彼女の体には、まだよろこびの余韻が残っている。
それが、早苗の中に力を失いかけたまま留まっている野々山にも、はっきり伝わってくる。早苗は野々山を捉え直そうとするかのように、腰を浮かし、微妙な力と動きを見せる。
野々山はそれに応えたい誘惑を覚えた。彼は退出しかかっているジュニアに、再起を命じた。ゆっくりとそれを深みに送り込むようにした。
早苗は気配でそれを察し、甘い声をもらした。野々山を捉えている彼女の部分が、力強いうねりを甦えらせてくる。
「ああ……。またよ……」
早苗はベッドに沈んでいた腰を高くかかげるようにした。野々山は早苗の背中から胸を離した。体を起した。野々山の眼の下で、早苗の背中が波を打ちはじめる。豊かな二つの臀部の丘が、白く光りながら躍る。
野々山はその丘に手を置いた。濡れてうっすらと光る早苗の尻の谷間に、野々山は眼を落した。谷間は深くて長い。紅紫色の小さな花のような、うしろの部分も、濡れて光って見える。
そのすぐ下を野々山のジュニアが貫いている。ジュニアがすでに、見事というべき再起を果している。それは二人の腰をつないだまま、ゆっくりと見え隠れしている。
隠れていくときは、周囲の襞を中に巻き込むようにして沈み、現われるときは逆に、まわりが広く盛り上がってくる。周辺の薄く短いヘアの列が、浮き沈みしながら、まるでふるえているように見える。
野々山は片手を伸ばして、早苗の乳房を下から受け、強く揉みしだいた。片手は彼女の腰の前にまわってしげみを分け、小さな肉の芽を捉える。早苗は高い声を上げ、腰をはげしく躍らせた。
早苗は不意に声を詰まらせた。頭が強くうしろにのけぞり、背中が反った。野々山は早苗の深奥に、律動とするどい痙攣を感じた。
野々山はくずれ落ちた早苗の腰を抱えあげた。ゆるやかに深く埋め、引き上げることを野々山はくり返した。
「もうだめよ。だめ。前からきて……」
早苗はあえぎながら言った。野々山は体を離した。早苗が仰向けに変り、手足を投げ出した。野々山は早苗の両膝を肩に担いだまま、ジュニアを押しあてた。それは滑らかに埋まった。野々山は早苗の腰を二つに折るようにして胸を重ねた。
野々山ははげしく動いた。一気に駈け上がった。早苗はふたたび高い叫び声を放ち、すぐにその声を詰まらせて、全身をわななかせた。
「死ぬかと思ったわ……」
野々山の肩からはずした両膝を伸ばして、早苗がかすれた声で言った。野々山は早苗の体の横にうつ伏せになって、低い笑い声を立てた。野々山の片手は、早苗のしげみの上に投げ出されている。
「おれも殺されるかと思ったよ」
「やっぱりセックスって、ダイナミックでパワフルなほうがいいわ」
「内藤のじいさん相手じゃパワフルは無理かい?」
「力不足を技で補おうとするのは分るんだけど、その技が妙にひとりよがりで自信過剰だから、見てるとおかしくって……」
「よくない?」
「何か勘ちがいしてるって感じ……」
「外車買ってもらうんだろう。文句言わずに勤めなくちゃ」
「勤めてるわよ、バッチリと」
「そこで相談なんだがね」
「もう仕事の話? ムードないなあ」
「ムード不足はパワーで補ったはずだぜ」
「なあに、相談て?」
「西日本土地開発の平田常務に、あんた直接会ったことはないのかい?」
「お店に内藤さんが何回か連れてきたわよ」
「平田のこと探ってほしいんだよ。平田の身近にいる人間が誰か、あるいは平田の会社の中でのライバルがいれば、それは誰か、そいつが知りたいんだ」
「内藤さんが平田さんから、土地代金のバックペイを受取ってることの、はっきりした証拠がほしいってわけね」
「よく分ってるじゃないか。内藤はおそらく平田に、バックペイの秘密領収証のようなものを発行してるはずなんだ」
「でしょうね。内藤の口ぶりだと、西日本土地開発がまとめた土地をゼネラル通商が買い上げるたびに、バックペイを取ってるようすだから、相当な額になるはずだもの」
「相当な額の金が動くんだから、平田だって社内の経理処理の上で、領収証かそれに類するようなものがなきゃ困るだろうからな」
「やってみるわ」
「頼むぜ」
野々山は、早苗のしげみのあたりを、軽く手で叩くようなことをした。
一週間後の夜、野々山はふたたび、熱海のエメラルド・ハイツの倉島輝信の部屋に忍び込んだ。河合良子を使って手に入れたスペアキーがあるから、部屋に忍び入るのはたやすかった。
中に入ったのは野々山一人ではなかった。連れがあった。小柄で、陰気な昆虫を思わせるような皺だらけの顔をした老人が一緒だった。老人というのはしかし、正確ではない。年はまだ五十半ばらしい。しかし、見かけはひどく老け込んでいた。おまけにおそろしく口数が少ない。そのために、陰気な印象がことさら増して感じられる。
無口なのは性分だろうが、実際の年齢以上に老け込んで見えるのは、数多く刑務所暮しをくり返したせいらしい。
その男は牛尾という名だった。牛尾は通算すると、五十半ばまでの人生の、ほぼ三分の一に当る年月を、刑務所で暮したという話だった。犯した罪はすべて金庫破りだという。その道のプロというわけである。
牛尾を野々山に引き合わせたのは、鹿取だった。野々山が及川友美に、倉島輝信の秘蔵のアルバムのことを話し、友美が鹿取にそれを伝え、鹿取がどこをどうたどったのか、牛尾を調達してきた、というわけだった。
友美の連絡で、野々山が指定された喫茶店に行くと、あらかじめ知らされていた通りの服装と人相の老人がいて、声をかけるとそれが牛尾だった。
野々山はあらためて、ゼネラル通商専務の鹿取常彦という男の、一種、得体の知れない不気味さを思い知らされた。
鹿取は、社長の倉島輝信一派を倒すために、はじめからその工作者として使う目的で成績優秀とはいえなかった野々山をゼネラル通商に入社させ、やがて罠をしかけて野々山をクビにし、本格的に工作者として起用したのだ。
そして、必要となると、牛尾のような金庫破りのプロという、世の中の裏側に住む人間を調達してくるのだ。野々山としては、自分の雇い主である鹿取を頼もしく思いながら、反面では不気味な思いにもさせられる。敵に回すと怖い、という思いが強いのだった。
倉島輝信の部屋に忍びこんだ野々山は、まっすぐに八畳の和室に牛尾を案内し、違い棚の下の物入れから、金庫を引き出した。
牛尾は突っ立ったままで、金庫を眺めおろし、口の中で何か呟いた。何を言ったのか野々山には聞きとれなかった。訊いても答えてくれないことは判っているから、野々山はたずね返さなかった。
牛尾はやがて金庫の前に坐り込んだ。あぐらだった。手袋をはめた手で金庫をひと撫でした。それから二つのダイヤルの並んだ正面に耳をつけ、金庫のあちこちを拳の先で軽く叩いた。
やがて牛尾は金庫を両手で抱え起した。ダイヤルの並んでいる側面が天井に向けられた。中の物がすべってくずれる音がした。
牛尾は金庫の上に体を覆いかぶせるような姿勢になった。
「物音をたてないでくれよな」
牛尾は低い声で言い、ダイヤルとダイヤルの間に片方の耳をつけた。皺に囲まれた眼は細められたまま一点を見つめている。細い枯枝のような牛尾の、手袋に包まれた両手の指が、ダイヤルをつまみ、静かに回しはじめた。
その作業が三十分近くつづいた。野々山は息を殺して見守った。
やがて牛尾は体を起した。金庫は元の向きに戻された。牛尾の手が小さく動くと、金庫の扉が苦もなく開いた。牛尾は頬をふくらませて息を吐いた。口はきかない。誇らしげな顔をするわけでもない。金庫の中をのぞいて見ようともせずに、牛尾は立ち上がり、場所をあけた。
野々山は金庫の中をのぞき込んだ。茶色の皮の表紙のアルバムが二冊あった。他にフィルムを入れてあるらしい袋の束があった。野々山はそれらをすべて取り出した。
アルバムの中身は、野々山が河合良子から聞き、想像していたとおりのものだった。
どの写真も、数人の全裸の少女と、やはり裸の倉島とがもつれ合ったシーンばかりだった。倉島が河合良子たちに、顔や胸や腹や股間を踏まれているシーンもあった。倉島が馬になり、その背にまたがった裸の少女に、タオルの手綱を咬まされているものもあった。
首に犬の首輪をはめられた倉島が、洗面器の中の牛乳を舐めている。洗面器の中には、少女の素足がつけられていた。
倉島の胸にまたがってしゃがんだ少女が、放尿しているところも写真に写されている。尿は倉島の顔の上で小さなしぶきをあげている。
野々山はそれらのアルバムのページをくりながら、用意してきた8ミリカメラをまわして写し取った。牛尾は何の興味もなさそうに押し黙ったまま、野々山のすることを見ていた。
二冊目のアルバムは、いささか趣きを変えていた。写っている裸の少女たちの数も多いが、男のほうの顔ぶれが三名になっていた。一人はむろん倉島である。他の二人も倉島同様に、六十年配の男たちである。男の一人は、稚いしげみをのせた少女の性器に顔を寄せ、長い舌の先でクレバスを割っている。
野々山はその顔に見覚えがあった。だが、すぐにはそれが誰であるか思い出せなかった。野々山は他の写真の中のその男の、あらゆる角度から写された顔を見くらべた。
それが誰であるか思い出したとき、野々山は思わず短いおどろきの声をあげた。
堂崎信一郎。民政党に属する有力政治家。閣僚経験も豊富で、前回の民政党総裁選に立候補し、政敵の原田政之に敗れた人物である。野々山はもちろん、堂崎信一郎本人に会ったことなどないが、新聞の写真やテレビで馴染みの顔だった。
その堂崎信一郎が、少女たちの細い体を巨腹の下に組み敷き、未熟な乳房を手につかみ、あるいは淡い影のようなしげみに頬ずりしているのである。
野々山は自分でも説明のつかないおののきを心に覚えた。思いがけなくつかんだ獲物の大きさに、野々山は昂奮した。獲物の使い途など思いつかないまま、彼は夢中で8ミリカメラを回しつづけた。
「どうです、鹿取さん……」
部屋の明りをつけて、野々山は言った。鹿取は答えずにたばこを取出してくわえた。その顔にはとりたてて昂奮の表情は見られない。だが、眼にはするどい光が宿っていた。
そこは日比谷のホテルの一室である。部屋には野々山と鹿取しかいない。壁には8ミリフィルム用のスクリーンがかけられている。スクリーンにはたったいままで、倉島輝信や、堂崎信一郎たちが、少女たちを相手にくりひろげた痴態の数々が映し出されていた。倉島の秘蔵のアルバムの一冊に、堂崎と一緒に登場している男は、倉島をゼネラル通商に出向させた都市銀行の重役の一人で、岩見茂雄という男だった。野々山はそれを、映写中の鹿取のことばで知った。
「いいものを手に入れてくれた。礼を言うよ、野々山君……」
しばらくしてから、鹿取は静かな声で言った。
「これで倉島君も苦しい立場に立つことになるな。相手の女の子たちは未成年だからな。公になればえらい問題が起きる」
「倉島社長もさることながら、堂崎信一郎のほうだって、下手すれば一大スキャンダルになって政治家失脚ですよ、これじゃあ」
野々山はフィルムを巻きもどしながら、勢いこんだ口調で言った。
「政治家は放っとけばいい」
鹿取は冷たい声を出した。
「野々山君、言っとくが、きみ、身の程知らずの欲を出して、このフィルムで堂崎信一郎をゆするなんてことを考えると、命だって失いかねないぞ。きみはぼくの頼んだ仕事だけに専念するんだな。そうすれば将来を保証する。妙な欲を出すのはやめなさい」
「分ってます」
野々山は言った。たしかに鹿取の言うとおりだと思った。堂崎信一郎を相手にするのは、野々山一人で手に負える仕事ではなさそうだった。ただ、野々山が鹿取に言いたかったのは別のことだった。彼はそれを口にした。
「欲なんか出そうとは思ってません。ただ、ぼくが心配してるのは、鹿取さんがこのフィルムを使って倉島社長を攻めれば、当然、なんらかの形で堂崎信一郎にも事が波及するんじゃないか、ということです」
「倉島君は政治家を敵に回すほど愚かな男じゃないよ。堂崎信一郎に累が及ぶか及ばないかは、倉島君が考えて処理するだろう」
野々山はうなずいた。
「それよりも、きみに至急、やってほしいことがある」
鹿取は口調を変えて言った。
「なんでしょう?」
「宮沢専務のクビを叩き切るには、きみが手に入れたホモの現場の写真と、脅迫されて金を銀行に振込んだ振込通知書だけでは、まだ不十分なんだ」
「といいますと?」
「ぼくは写真と銀行の振込通知のコピーを宮沢君に突きつけたんだ。ところが彼もしたたかだよ」
「なんと言ってるんですか?」
「写真は合成したものだと言い張ってる。振込通知に対しては、金を小谷という男に振込んだことは認めるが、それはホモでゆすられたものじゃなくて、悪質な美人局にひっかかったんだ、と言い逃れを並べてる」
「何が写真が合成なもんですか。日比谷公園で宮沢さんが小谷と会って、話をしたときの写真と録音テープだってあるじゃないですか……」
「録音テープには残念ながら、宮沢君がホモだということを示すことばは出てこないんだ。日比谷公園で小谷と会ったことは彼も認めている」
「それも美人局の脅迫者と会っただけだと言い張ってるんですね?」
「そういうわけだ」
「なら、小谷と宮沢さんを対決させましょうよ。ぼくが小谷を押えて承知させます」
「急いで頼みたい仕事というのは、実はそのことなんだ」
「早速やります。今夜これからでも」
「そうしてくれたまえ。宮沢君のほうが先に小谷に手を回すおそれもあるんでね」
「鹿取さんが写真なんかを宮沢さんに見せたのはいつですか?」
「きのうの夜だよ」
「ならだいじょうぶでしょう。宮沢さんはたぶん、小谷の住んでる場所なんかは知らないはずですよ。二人は匿名同士の人間として、神宮の絵画館前の暗がりで何回か密会しただけというようすでしたからね」
10
野々山は日比谷のホテルを出た。
時刻は午後十時をまわっていた。小谷は神宮の絵画館の前に秘密の愉しみを味わいに行かない限り、ほとんど夜は家に帰っている。野々山はそれを知っていた。
仮にその夜、小谷が絵画館前に出かけているとしても、間もなく家にもどる時刻であった。
野々山はそれを見越して、車で東中野に向かった。
小谷のアパートの近くに車を停めたのは、やがて十一時になろうとするころだった。
車を降りた野々山は、歩いて小谷の住むアパートに向った。
小谷の部屋の明りは消えていた。野々山は迷った。小谷と彼の妻はすでに床に就いたのか、それとも二人とも留守なのか判らなかった。
野々山はアパートの前の道で足を停めたまま、思案した。車を停めた場所の先に、公衆電話のボックスがあったことを、彼は思い出した。
引き返して電話をしてみよう、と野々山は思った。小谷と妻が眠っているのなら、電話の音で目を覚ますだろう、と考えた。
野々山は車のダッシュボードの物入れを開けた。中に手帳が入っている。手帳のページを開き、小谷の部屋の電話番号を探した。
電話ボックスの扉を押し、ダイヤルを回した。意外なことに、電話は話し中だった。野々山は番号を回しちがえたのだと思った。小谷の部屋の明りの消えた窓を眼にしてから、三分とはたっていない。その間に他から電話が入ったのでなければ、ダイヤルの回しちがいである。
野々山はふたたびダイヤルを回し直した。やはり話し中だった。
彼は電話ボックスを出た。急ぎ足で小谷のアパートの前まで引き返した。電話が塞がっているのだから、小谷か彼の妻が部屋にいるのはまちがいないと思われたのだ。
ところが、小谷の部屋の明りは消えたままだった。野々山は首をかしげた。
彼はアパートの小さな門をくぐり、外階段を上がっていった。
小谷の部屋は奥の端である。野々山はドアの前に立って耳をすました。中は静まり返っているのだ。電話で話しているような声は聞こえない。通話は終ったものらしい。それにしても、明りもつけずに電話で話していたのだろうか――野々山は奇異に感じた。
ドアをちいさくノックしてみた。小谷が留守でもかまわない、と思った。妻が出てきたら急ぎの用だと言って、外で待つことにすればよかった。
ノックをくり返したが、返事はなかった。野々山はためしにドアのノブを回してみた。ノブはあっけなく回った。中は暗い。
野々山は小さな声を中に送った。返事はなかった。彼は入口のたたきに足を踏み入れ、ドアを閉めた。なぜとも判らずに、野々山は軽い胸騒ぎを覚えた。
ライターをつけて明りの代りとした。せまいたたきの先はビニタイルの床の、小さなダイニング・キッチンになっている。そこはきちんと片づけられていた。
奥の部屋との仕切りのガラス戸は閉まっていた。
野々山はすこしためらった末に、靴を脱いで上がった。仕切りのガラス戸を静かに開けた。
揺れるライターの小さな炎が、奥の部屋をほの暗く照らし出した。
野々山は息を呑んだ。畳の上に倒れている人の姿が眼にとび込んできたのだ。一人ではなかった。一瞬、二人とも三人とも見えた。その上全裸で倒れているのだ。眠っているのでないことは、寝息がまったく聞こえないことで判った。
野々山は部屋の中に踏み込んだ。天井の電灯のスイッチの紐を引いた。
倒れているのは二人だった。小谷と彼の妻である。二人は素裸の体を半分、斜めに重ねるようにして倒れていた。
小谷の伏せた腰の端に、彼の妻の下腹部のしげみがのぞいていた。乳房の片方は、小谷の胸の下で押しひしがれている。
野々山は畳に投げ出された小谷の手にそっと触れてみた。体温はすっかり失われていた。
外傷はどこにも見当らない。首を絞めたようすもなかった。野々山はあらためて室内を見回した。壁ぎわのデコラ張りの小引出しの上に電話器が置かれていた。受話器ははずれて畳の上に落ちていた。小谷の妻の手が、受話器の近くまで伸びている。
窓の横の壁ぎわに、小型のテレビが置いてあった。テレビを載せた台の端に、注射器のケースがあった。
注射器のケースは開いており、中に針をさしたままの注射器が置かれている。注射器の中は空っぽである。
どういうことだ――野々山は胸の中で呟きつづけた。彼は動転していた。
小谷夫婦は殺されたのか、それとも夫婦は心中でもしたのか、その場のようすだけでは判らなかった。
殺されたとすれば、醜聞で窮地に追い込まれたゼネラル通商の宮沢専務が、小谷の口を封ずるためにやった、とも考えられるのだ。
そこまで思考がめぐったとき、野々山は自分がいま、たいへん危ない立場にいることに不意に気づいた。小谷夫婦が殺されたのだとすれば、その部屋は殺人現場ということになる。野々山はそこに明りをつけて立っている。明りは窓を染めて、外を行く人の眼につくのだ。
長居は危険である。あらぬ疑いをかけられかねない。野々山は明りを急いで消した。ライターをつけて、手の触れたところをすべてハンカチで強くこすって拭った。
11
野々山は誰にも見とがめられずに、小谷の住むアパートの門を出た。
門を出て、歩き出したところで、野々山はうしろに足音を聞いた。振り返らなくても、距離の近いことが判った。
野々山は胸がさわいだ。アパートの門を出るときに、彼はいったん外の道の左右をそっとうかがったのだ。そのときは道に人影はなかった。
だが、野々山が道に出て歩き出したとたんに、暗がりから湧くようにして人影は現れた。まるで待ち伏せていたとしか思えない。
野々山は歩調を変えずに、車を停めている場所に向った。そこまでは百メートル余りの距離である。
その百メートルを歩く間に、野々山はすっかり冷静になっていた。
うしろからついてくる人影が、もし、待ち伏せていたのなら、相手はそこに野々山が現れるのを知っていたことになる。
野々山が小谷を訪ねることをあらかじめ知っていたのは、鹿取のほかにはいない。
だが、人影が鹿取か、彼の代りに動いている者ならば、隠れて待ち伏せる必要はないはずである。
小谷の死が他殺だとして、うしろからついてくる人間が、小谷を殺した当の本人だとしたら?
そして、その人間が宮沢義也と通じているとしたら?
宮沢は、神宮の絵画館前の植え込みで、小谷と抱き合っているところを写した写真を、鹿取に突きつけられている。それだけではない。鹿取は宮沢が小谷に三百万円を送金したことを示す、銀行の振込通知のコピーも見せている。日比谷公園での小谷と宮沢のやりとりを収めた録音テープも聞かせた、と言った。
宮沢としては、脅迫者である小谷が、どこかで鹿取とつながっていると見るのは当然である。宮沢はその接点をつかみたいと思うだろう。
宮沢は鹿取に対して、小谷の脅迫の種は美人局であり、ホモ行為の写真は合成されたものだと言い張っている。したがって、鹿取が小谷を証人として押えようとすることも、宮沢には予測できたはずである。
そこで宮沢は、心中か薬物中毒死かに見せかけて小谷を殺し、口を封じる。そして、鹿取の手の者が、小谷を証人として押えにくるのを待ち伏せる。そこから小谷と鹿取の接点がつかめる――宮沢にしてみれば一石二鳥という手でないか。
停めた車にもどるまでの間に、野々山はそれだけのことを考えた。
うしろからついてくる人影が、もし宮沢の意向を受けた者ならば、どこかで襲いかかってくるだろう。それを待とう。
野々山は自分の車の前で足を停めた。ポケットから鍵をとり出して、ドアをあけた。足音はゆっくり近づいてくる。野々山はそっちに視線がいきそうになるのを、こらえた。
車に乗り込み、ドアをしめた。すぐにルームミラーに眼をやった。暗い道を近づいてくる男の姿が、ミラーにうっすらと映っている。白っぽいシャツ姿の長身の男である。
男は野々山が車に乗り込んでも、すこしもうろたえるようすには見えなかった。
やがて男は、野々山の車の横を通りすぎて、先のほうに歩いていく。野々山は安堵と失望とを同時に覚えた。待ち伏せされたと思ったのは思いすごしというものだったらしい。野々山は苦笑いした。
野々山は、歩いて遠ざかっていく男の後姿を見送りながら、エンジンをかけた。ライトをつけ、車を出した。
そのとき、野々山の車のルームミラーがにぶく光った。野々山はそこに眼をやった。彼はミラーの中に、スタートしたばかりと思える一台の車の姿を見た。
走ってきている車は他になかったのだ。ミラーに映っている車のライトは、道に対して斜めの方向に向いていた。それまでそこに停まっていた車が、いまスタートするために、道の中央めざして小さく向きを変えた、という状況を、それは示していたのだ。
生れたばかりの野々山の安堵と失望はたちまち消えていた。替って新しい緊張と期待が湧いた。
野々山は車を進めた。うしろの車もついてくる。
野々山は試しに角を一つ曲ってみた。うしろの車も同じ角を同じ方向に曲ってくる。尾行されているとみて、ほぼまちがいはなさそうである。
うしろから歩いてついてきていた男が、野々山が車に乗るのを見て、尾行をこっそり仲間の車にバトンタッチした――そうとれる状況だった。
12
尾行する側にとっては、仕事がやり易かったにちがいない。
野々山は相手をまこうともしなかったし、スピードをあげて振り切ろうともしなかった。同じスピードで、広い道だけを選んで走りつづけた。
新宿からは首都高速道路に入った。下りたのは銀座である。
銀座から晴海に出た。埠頭に近い、人気のない広い道に、野々山は車を停めた。彼は尾行者を捕える肚でいた。相手は一人と見当がついていた。尾行車のうしろからのライトの光が、運転席に一つだけ浮かぶ人影を、何度かシルエットにして見せていたのだ。
野々山が車を停めると、尾行車もスピードをおとした。しかし停まらない。
野々山はシートの下を手で探った。工具を入れてあるズックの袋をそこから引きずり出した。袋の中からスパナを抜き取った。
うしろで車が停まった。すぐうしろである。ライトが消された。エンジンはかけたままである。
野々山は動かなかった。ミラーでうしろの車のようすをうかがいつづけた。
運転席から男がおりた。男はゆっくり近づいてくる。野々山はシートに背中をつけたままにしていた。スパナをつかんだ手は、ドアとシートの間のせまい空間に垂れている。
男は野々山の車の運転席のドアの横に足を停めた。閉めてある窓をノックした。野々山は窓をおろした。
「おとなしく車を降りてもらおうか」
声と一緒に窓からナイフがさしむけられてきた。大型の登山ナイフだった。
野々山は息を詰めた。スパナをつかんだ手をゆっくりと上げた。その手が不意に躍った。スパナはナイフをつかんだ男の手首を殴りつけていた。男はするどくうめいた。
ナイフは野々山の膝に当り、足もとに落ちた。野々山は勢いよくドアを開けた。ドアで押されて男はよろめいた。ドアははね返ってきた。野々山はシートに腰をつけたまま、ドアをもう一度、両足で蹴った。
外にとび出した。片手でドアを閉めた。男は腰を落して身がまえている。
野々山は横に動いた。男を車を背負う位置に立たせたかった。相手は心得ていた。野々山の望むようには動かない。
野々山はあきらめた。まっすぐに寄って間合を詰めた。相手はナイフを奪われて素手である。野々山はスパナを持っている。
距離が詰まった。野々山は左足をとばした。相手の腹をかすめた。男は不意に踏み込んできた。野々山はスパナを振り上げた。男の体が開いた。そのまま相手は背中を見せ、跳ぶようにして駈け出した。
踏み込むと見せたのはフェイントだったのだ。野々山は追った。追いながらスパナを投げた。
スパナは短い距離を風を切って飛んだ。男の体がのめった。スパナが道に落ちる音がした。男の首か頭かに当ったようすだった。
野々山は跳んだ。跳んで男の腰を蹴った。男はたたらを踏み、道に手を突いた。野々山は横から男の顔面を蹴り上げた。男は体を丸め、両腕で頭をかばった。
脇腹が空いていた。野々山はそこを蹴った。高校から大学まではげんだラグビーが、思わぬところで役に立った。蹴りは男の脇腹をきしませた。野々山は男の髪をつかんで立たせた。男は戦意を失っていた。体の力を失ってあえいでいる。野々山は留めを刺すように、男の頭を押し下げ、顎に膝を蹴り込んだ。男は路上にくずれ落ちて呻いている。
野々山は自分の車に引き返した。運転席の床に落ちていたナイフを拾いあげた。それを手にして男のところにもどった。
「どういうつもりで、おれを尾行したり、ナイフを突きつけたりした?」
野々山はナイフの側面で男の頬を軽く叩いて言った。男は答えない。
「この仕事をおまえに頼んだのは誰だ?」
男はやはり黙っている。
「口をきかないつもりなら、おれにも考えがあるぜ」
野々山は言った。彼はナイフの刃先を男の頬に直角にあてた。左手でポケットからライターを取り出した。ライターの火がつけられた。炎が長く伸ばされた。
炎はいきなり男の眉の片方を舐めた。男は喉の詰まったような声をあげた。顔を動かして炎を避けようとすると、ナイフが頬に噛みつくおそれがあった。
「止めてくれ。頼む!」
男は呻いた。
「宮沢義也に頼まれたんだな。ゼネラル通商の専務の……」
「そうだ」
「宮沢はおれを消せと言ったのか?」
「そうじゃない。身柄を押えろって……」
「小谷って男とかみさんとを殺したのはおまえか?」
「小谷? 誰だい、そいつは?」
「知らなきゃいい。一緒に来てもらうぜ」
野々山は男を立たせた。ナイフを突きつけて歩かせた。野々山は自分の車の運転席の窓から手をさし入れて、エンジンキーを抜いた。トランクを開けて男に言った。
「中に入れ」
男の顔が歪んだ。
13
野々山は男の首にナイフを突きつけたまま、膝で男の尻を蹴り上げた。
男は前にのめった。両手は開いた車のトランクの縁をつかんでいた。のめった拍子にナイフが男の耳たぶを小さく裂いていた。
「さっさと入れよ。乗り心地はよくないだろうがな」
野々山は顎をしゃくって、トランクをさした。男は観念したふうに、トランクに入り、体を丸めて横たえた。野々山は勢いよくトランクの蓋をおろした。
運転席にもどると、野々山はすぐに車を出した。
晴海通りに出ると、すぐに電話ボックスが眼に留まった。時刻は午前一時になろうとしている。
野々山は電話ボックスの前に車を停めた。鹿取に連絡を取る必要があった。金庫破りの老人まで動員できるコネを持っている鹿取である。捕えた男の身柄を確保しておく場所の用意ぐらい、鹿取には簡単な仕事だろうと思えた。
深夜である。鹿取の家の者たちは眠りこんでいたらしい。
長い間、呼出信号が鳴りつづけた末に、いかにも寝起きらしい中年と思える女の声が受話器にひびいた。
野々山は名乗り、ゼネラル通商の者だと言いつくろって、至急の用だから鹿取専務を起してほしい、と言った。
鹿取はすぐに電話に出た。彼の声も寝起きらしく、くぐもって聞こえた。
「男を一人押えたんですけど、こいつを閉じこめとく場所が要るんですよ」
野々山は、小谷と彼の妻が殺されていたことと、小谷のアパートから尾行してきた男を捕えたことを、かいつまんで話した。
「捕えた男は、宮沢に頼まれてぼくを尾行したことは白状したんですが、小谷と奴の女房が死んでいることは知らないと言い張ってるんです」
「小谷夫婦の始末をしたのが宮沢君だということを、その男の口から確かめようというわけだね、きみは……」
鹿取の声は、いつもの低いけれども明瞭な調子に変っていた。彼は家の者の耳を憚ってか、言いよどむふうにして、ことばを選びながら話している。
「小谷が死んだ以上、宮沢のホモ行為の証人は消えたわけです。ただ、宮沢が小谷を消したという証拠をつかめば、ホモ行為の暴露以上のダメージを与えることができます」
「いま、その男はどこにいる?」
「ぼくの車のトランクルームの中です」
「ひとまず、わたしの家に来てくれ」
「お宅に男を閉じこめるんですか?」
「まさか……。天城高原まで行ってもらうことになる。とにかく、こっちに来てくれたまえ」
鹿取は自宅までの道順を説明して電話を切った。
鹿取の家は成城だった。門にも玄関にも明りがついていた。門は開いていた。野々山は門を入って玄関のブザーを鳴らした。浴衣姿の鹿取が現われた。
「尾行はつかなかっただろうな?」
鹿取は玄関の式台に立ったまま、まず、そうささやいた。野々山は一瞬、きょとんとなった。尾行者は捕えて車のトランクルームに入れてあるのだ。
「わからないのかね?」
鹿取は野々山の表情を読んだようすで言った。
「きみが捕えた尾行の男は囮《おとり》かもしれない、とふと思ったのでね」
「囮?」
「きみの動きや背後関係をつかむための囮だよ」
「はあ……。でも、尾行されているようすはありませんでした」
野々山は言った。尾行の心配まではしなかったが、車の往来の減った成城の住宅街に入っても、後続車がなかったことは確かだったのだ。
「それならいいが、気をつけたほうがいい。小谷夫婦を消したのが宮沢君の指示だとすると、殺し屋を雇ったはずだ。向うも必死になっている。人も何人か動くだろう。囮を使ってきみとぼくのつながりをつかもうとするだろうからな。いま、きみが向うにマークされると、あとの仕事ができなくなる」
鹿取は言った。マークされた工作者は仕事を失うぞ――野々山は鹿取にそう言われたように思った。そう思えるだけの冷徹な表情を、事実、鹿取は見せたのだった。
「これがわたしの天城の別荘の鍵と、道順を書いた地図だ。別荘は人里はなれている。誰もいない。相当のことをやっても、人に騒ぎを聞きつけられる心配はない。大事な証人だから、しっかりやってくれ。連絡を待ってるよ」
鹿取は紙片と鍵を野々山に渡して言った。
14
東名高速――厚木、小田原バイパス――箱根バイパス――伊豆スカイライン、というコースを野々山は走った。
鹿取の別荘に着いたのは、午前四時近い時刻だった。
別荘はすぐに判った。湯ケ島温泉に近い場所だった。山荘ふうのこぢんまりとした別荘だった。なだらかな林の斜面に立っている。道路からは二十メートル近く入り込んでいて、建物は自然の林に囲まれていた。
まわりには他の建物はない。鹿取の言ったとおり、人を閉じ込めたり、痛い目にあわせて口を割らせたりするには、もってこいの場所と思えた。
野々山は別荘の庭に車を乗り入れると、ダッシュボードの物入れから、小型の録音機とカメラを出し、まず、一人で建物の中に入った。ライターの明りで、電灯のスイッチの場所を探した。
一階は小さなキッチンと、それにつづく三十畳ほどの洋間になっていた。自然石を組み上げた大きな暖炉があった。
二階には寝室が三つと和室が一つあった。南側の廊下の外はバルコニーふうの広いベランダが張り出している。
野々山は車のトランクルームを開けた。男は耳たぶから流れる血で顔を汚したまま、ぐったりとなっていた。
トランクルームの中には、古タオルが二本入っていた。野々山はタオルを二つに裂いて即席のロープをこしらえた。男はトランクルームの中にころがったまま、野々山のすることを眺めていた。怯えと険しさのまじった暗い眼だった。
野々山はタオルのロープで、男の両手をうしろ手に縛った。口はきかなかった。夜は白みかけていた。
手を縛り終えると野々山は顎をしゃくって男を外に促した。男はよろけながら体を起した。トランクルームの蓋に頭がぶつかった。手を縛られたまま、男はころげ落ちそうにしてトランクルームから出た。
野々山は男を一階の広間の暖炉の前に正座させた。
まず、カメラで男の顔を写した。正面と横顔をフィルムに収めた。テープレコーダーのスイッチを入れた。テープリールがまわりはじめた。
「名前と住んでる場所と仕事は?」
野々山はだしぬけに言った。男は答えようとしない。野々山はテープレコーダーを停めた。男の正面に立った。男の腹を思いきり蹴った。男の体が前に倒れた。髪をつかんで起し、膝頭で男の顎と顔面に二発、蹴りを入れた。
男の鼻と口から血が流れ出た。野々山はポケットからナイフを取り出した。血で濡れた男の鼻孔にナイフの先を浅くさし入れた。男の眼がひきつった。
「名前は湯浅ってんだ。湯浅和昭……」
男はあえぎながら言った。野々山は男から離れて、テープレコーダーを回した。
「もう一度、言ってくれ」
「湯浅和昭。住んでるのは江戸川の南小岩二丁目の江戸川荘というアパートだ。職業はない」
「表向きの職業がないだけで、ほんとうは殺しが仕事じゃないのかい?」
野々山は言った。男はうなだれたまま答えない。
「おれを尾行して捕えろとおまえに言いつけたのは誰だ?」
「さっき言っただろう。ゼネラル通商の専務の宮沢義也って人だよ」
「宮沢からその仕事を直接たのまれたのかい?」
「そうだよ」
「おまえは宮沢とはどういう知り合いだ?」
「どういうって……ただの知り合いだよ」
「どこで知り合ったんだ?」
男は口ごもった。野々山は笑った。
「隠すなよ。おまえに仕事を頼んだのは宮沢じゃないだろう。宮沢に代っておまえを動かしてる奴がいるはずだ。おまえはそいつから宮沢の名前を聞いただけじゃないのか?」
「そうじゃねえよ」
「なら、宮沢の人相を言ってみろ。背丈はどれくらいだ? 眼鏡をかけてるか?」
男は答に詰まった。野々山は笑ったまま、また男の髪をつかんだ。ナイフを鼻の孔にさし入れた。
「ここは山の中だ。わめこうが叫ぼうが誰も来やしない。鼻をぶっ刺されたほうがいいか、知ってることしゃべったほうがいいか、よく考えるんだな」
言って野々山は男の耳もとで囁いた。ナイフをつかんだ手が小さく横に動いた。男がうめいて息を詰めた。鼻翼の片方がナイフで切り裂かれていた。
「仕事を持ってきたのは、熊井って人だよ」
男は怯えきったようすで言った。
「熊井ってのは何者だい?」
「おれが世話になってる人で、一匹狼の総会屋だ」
「熊井、なんていう男だ?」
「熊井悟。住んでるのは笹塚のパールって名のマンションだよ」
「そいつが宮沢の仕事をお前にやらせたんだな?」
「そうだ」
「東中野のアパートの仕事もかい?」
「東中野?」
「とぼけるなよ。東中野のアパートで若い夫婦者が、素裸で死んでたぜ。小谷って野郎だよ」
「知らないよ、おれは……」
「もう一回鼻に訊いてみようか」
野々山はまた囁き、男の無事で残っているほうの鼻孔にナイフをさし入れた。
「止めてくれ!」
男は悲鳴に近い声をあげた。
「鼻のつぎは耳だぜ。耳のつぎは手の指だ。口を割らなきゃいくらでも訊く場所はある」
野々山は男の耳もとで囁きつづけた。テープに自分の脅しのことばを入れたくはなかった。
「小谷を殺《や》ったのも、熊井さんの言いつけだよ」
男はふるえる声で言った。
「どうやって殺した?」
「シャブだよ。混ぜ物のすくないシャブを射ったんだ」
「ショック死か?」
「部屋に押し入って、縛り上げてからシャブを射ったんだ。あとで裸にしてころがしといた」
「殺し方も熊井って野郎が考えたのか?」
「熊井さんと二人で考えたんだ。シャブは熊井さんが用意した」
「そういう仕事をしたのは、おまえ、はじめてじゃねえだろう?」
「はじめてだよ。ほんとにはじめてさ」
「で、いくらもらった?」
「三百万だ」
「いま、おれにしゃべったことを、宮沢の前でもう一度しゃべってもらうぜ」
男は上眼づかいに野々山を見て、弱々しくうなずいた。野々山は男のそばを離れて、玄関に向った。玄関のホールの隅にある電話で、鹿取に首尾を報告するためだった。
鹿取が、宮沢を連れて、天城の別荘にやってきたのは、それから五時間後の、午前十時近くだった。
庭に車が停まる音を聞いて、野々山は急いでサングラスをかけ、ハンカチで顔の下半分を隠した。宮沢に顔を見られないための用心だった。
15
三日後に、宮沢義也は一身上の都合という名目で、ゼネラル通商を退社した。
天城の別荘で、宮沢は殺し屋の湯浅和昭と対決させられ、遂に、小谷とのホモ行為と、小谷を殺すことを総会屋の熊井という男に依頼したことを認めたのだった。
その場での鹿取の言動は、迫力に富んでいた。追い詰められてうろたえる宮沢に対して、鹿取はていねいなことばづかいを崩さず、取引きを迫ったのだ。商談を進めてでもいるような、乾いた口調だった。
鹿取は、宮沢のホモ行為はむろんのこと、彼が小谷を消すために殺し屋を雇ったこともふくめて、一切を誰にも口外しないことを条件に、宮沢に辞職を求めたのだった。
小谷夫婦の死が他殺であることが発覚しない限り、湯浅も熊井も警察に追われる心配はない。鹿取はむろん、湯浅と熊井のやったことを表沙汰にしないことを、宮沢に約束した。
湯浅と熊井が警察に追われない限り、二人の反撃を鹿取と野々山が警戒しなければならないこともなさそうだった。
そのために、野々山は小谷夫婦の死が他殺と見破られないことを祈った。まるで彼自身が殺し屋になったかのように――。
野々山の心配は消えた。小谷夫婦の死体は、野々山が天城の別荘から帰った日の午後に発見された。小谷の妻の勤め先の同僚が、無断欠勤を訝って、会社の上司の命令でアパートをたずねたのだ。
ドアに鍵はかかっていなかったために、同僚は中に入り、死体を発見した、といういきさつだったらしい。
小谷夫婦の死は、事故死と断定された。覚醒剤によるショック死という解剖結果は、湯浅のことばを裏書きしていた。
それらのことを、野々山は新聞の記事で知った。記事には覚醒剤が一般市民の間にもひろがっている事実を指摘し、好奇心から手を出すことの危険を警告するくだりが加えられていた。
その記事で、野々山は湯浅と熊井の反撃を気づかう気持を捨てた。宮沢にも湯浅たちにも、野々山の正体は知りようがないはずだった。彼らは野々山の名前すら知らないでいるのだ。
宮沢の辞職が決定してさらに三日目の夜、野々山は及川友美と、銀座のホテルの一室で会った。
場所は例によって友美のほうが電話で指定してきた。
部屋に行くと、友美は先に来て待っていた。野々山が入って行くと、友美は彼をベッドの横の小さな椅子に案内した。
椅子の前のテーブルの上に、新聞紙の包みがあった。
「鹿取さんから預かってきたの」
友美は新聞紙の包みを眼でさして言った。野々山は包みを開いた。中身は一万円札の束だった。束は三つあった。
「三百万円かい……」
野々山は言った。
「宮沢さんの件のボーナスだって……」
「ボーナスか……」
「少ない?」
「わからないな。だがどっちにしても後味のいい金じゃないな」
野々山は苦笑した。
「でも、使うときは後味のわるさなんか関係ないと思うけど……」
「そりゃそうだ」
野々山はうなずいて言った。
四章 牙城の布石
ゼネラル通商専務の宮沢義也の唐突な辞職がきまってから、一週間が過ぎていた。
野々山は博多にやってきていた。博多に来たのは四日前である。
いま、野々山は、西中洲の那珂川沿いに立つ、小さな和風のラブホテルの一室にいる。
連れがあった。久保圭子――西日本土地開発株式会社秘書課勤務の女である。
野々山が博多にやってきた目的は、久保圭子を籠絡することにあった。
西日本土地開発の本社は、福岡市中央区大名町にある。久保圭子は東区の箱崎の自宅からそこに通っている。
野々山は博多に来てからの四日間、久保圭子の身辺をマークしつづけ、彼女に特定の恋人のいないことを確めた上でアプローチを果した。そして今夜はじめて、久保圭子をラブホテルに誘うことに成功したのだった。
久保圭子のことを野々山に知らせてくれたのは、折原早苗だった。
早苗は、野々山の指示で愛人としてはりついている、ゼネラル通商専務の内藤宗夫から、久保圭子のことを聞き出してきたのだ。
久保圭子は会社では、常務の平田良一の秘書役をつとめている。
平田は女好きであるらしい。久保圭子はかつて平田に強引に体を奪われて、そのために同じ会社で働いていた恋人を失った、という話もある。平田が久保圭子に恋人のいることを知って、その社員に無法ないやがらせをしたというのである。恋人はそのために、久保圭子と平田常務の関係を知り、彼女から遠ざかった、という経緯であった。
平田はそうやって、久保圭子を自分のものとして、いまだに金銭の力で久保圭子との関係をつづけている。
早苗の話によると、平田はあるとき京都まで久保圭子を連れてきて、内藤と商談をした。そのとき、内藤も早苗を連れて京都に一泊した。
四人は同じホテルの隣同士に部屋を取り、平田が持ちかけて、愛人交換を行なった。つまり、そういうことにも応じるほど、久保圭子の心は平田との関係によってすさんでいる――早苗は野々山にそう語ったのだ。
そうと判れば、久保圭子は野々山にとって、内藤宗夫を専務の座から追い落すための、この上ない手駒となる。
野々山が勇み立って博多にやってきたのは当然である。
京都での愛人交換の一夜以来、早苗は積極的に久保圭子と交渉をつづけてきた。むろん早苗としては、久保圭子を野々山に売り渡すための布石のつもりだったのだ。
久保圭子のほうは、同じ秘密を分け合う女として、また、銀座のクラブのホステスとして、一種自由な日を送っている女への、好奇心や羨望に似た気持などから、早苗に好意と関心を示しつづけた、ということのようである。
野々山が博多にやって来た日、早苗も彼に同行した。早苗はふらりと博多にあそびに来た、という体裁をこしらえて、夜の街に久保圭子を呼び出した。
二人は名のあるてんぷら屋の座敷で食事をし、中洲のバーを二軒ほどまわって別れた。野々山はてんぷら屋からバーまで二人を尾行した。そうやって早苗は、久保圭子をこっそりと野々山に引き合わせたのだ。
野々山は、早苗と別れた後の久保圭子をさらに尾行して、彼女の住いも突き留めた。
四日間、野々山は遠くから久保圭子の行動に眼を注ぎつづけた。二十六歳になるという西日本土地開発秘書課員の日常は、一見、まことに穏健なものに見えた。
四日のうち、二日間だけは、彼女は自宅と会社の間を往復しただけだった。小柄でおとなしそうな顔立ちや、まじめそうな生活ぶりからは、愛人交換などに応ずる女にはとても見えなかった。
残りの二日間のうち、一日は久保圭子は勤務時間中に、唐津のラブホテルに行った。相手は常務の平田良一であった。平田が会社の外から久保圭子を呼び出す、という方法で二人は落ち合ったのだ。
野々山がはじめて久保圭子に接触したのは、前の晩――つまり博多にやってきて三日目の夜だった。
久保圭子は前日は、会社がひけた後で、同僚たちと天神のスナックに出向いた。彼女が同僚たちと別れて一人になるのを待って、野々山は声をかけたのだ。
特別な策などは用いなかった。野々山は東京からの旅行者だと言い、夜の街を案内してほしいと持ちかけた。むろん、案内役を頼んだのは口実で、旅先でのガールハントが目的であることが、相手にも判るような態度を野々山はとった。
ハントに失敗したら、彼は単刀直入に平田良一の名をあげ、京都での愛人交換の一件なども持ち出して、久保圭子をすくみ上がらせる気でいた。
が、その必要はなかった。野々山が旅行者だと知って、久保圭子も行きずりのプレイを愉しむ気持になったらしい。
その夜はディスコで踊り、中洲の高級クラブで飲み、さらに野々山が泊っているホテルのバーで飲んで別れた。
誘えばそのまま、ホテルの部屋に足を向けそうな感じが、久保圭子のようすにはにじみ出ていた。が、野々山はその夜は誘わなかった。あわてる必要は全くなさそうだったからだ。
今夜、野々山は久保圭子の望んだ、中洲のフランス料理の店に彼女を伴って行った。その後で、那珂川添いのラブホテルに足を向けたのだ。久保圭子は予定のコースを踏む、といったようについてきた。
バスタオルを体に巻きつけたままの姿で、野々山と久保圭子は浴室を出た。
座敷の座卓の上には、飲みさしのビールがのっていた。二人は立ったまま、残りのビールを呷って、手を取り合ってつぎの間に入った。
部屋は夜具でふさがれる恰好になっていた。夜具に体を伸ばすとすぐに、圭子が体を寄せてきた。
野々山は手枕に貸した腕で圭子を抱き寄せ、唇を重ねた。野々山ははじめ、圭子の唇の形を舌の先でなぞるようにした。圭子は低い短い声を喉の奥にこもらせて、全身をゆるやかにうごめかせた。
圭子の舌が伸びてきて、野々山の舌を絡め取った。圭子は腰を反らして野々山の太腿に押しつけるようにしながら、彼の背中にまわした腕に力をこめた。
圭子が性的な感受性の豊かな女であることは、すでに浴室で野々山は承知させられていた。
野々山は浴室で圭子の全身を石鹸の泡だらけにして洗ってやったのだ。野々山の手は、洗うというよりも、愛撫するというふうにそのとき動いた。
彼の手が白い泡と共に、胸や脇腹や首すじを這うたびに、圭子は吐息をもらし、体を細かくわななかせ、野々山に体重をあずけてもたれかかってきた。
それだけのことで、圭子の眼はいくらか暗い光を宿したまま、うるんで焦点を失っていた。彼女のはざまは、すっかり熱をおびて、うるみをたたえていたのだ。
それだけではなかった。圭子は野々山と交替して、彼の全身を洗ってくれた。そのとき野々山は、圭子が性的にもかなり練達した女であることを知らされた。
彼女は石鹸の泡を洗い流した後で、勇み立っている野々山の体を、ためらいも見せずにふくんだのだ。そうせずにはいられない、といったふうのやり方だった。
立っている野々山の腰を両手で抱き、深くふくんで舌を躍らせるときの圭子の表情には、恍惚の色が現われていた。それをつづけながら、やがて圭子は、片手で野々山のクルミの実を思わせる丸い附属物を愛撫し、その手指はやがて彼のうしろの部分までを窺ったのだ。
野々山は、圭子が侮りがたいキャリアの持主であることを知らされた。
野々山は唇を圭子の頸すじに移しながら、彼女の胸を覆っているバスタオルに手をかけた。それは造作もなく解けた。湯の湿りと石鹸の香りをうすくとどめた乳房が現われた。
服の上からの予測を大きく裏切る、豊かな乳房だった。仰向けになっているために、それはいくらか標高を低くしてはいるものの、稜線はくっきりと保たれている。はずみも強い。うっすらと明りを映すほどに、つややかに張りつめている。
乳暈も乳首も明るいワインレッドを見せている。小さな乳首はするどくとがっていた。
野々山は指を反らした掌で、乳房を静かにさすった。乳首が掌の中心をくすぐった。
圭子は首をのけぞらしてあえいだ。彼女は手を伸ばし、野々山の腰からバスタオルをはぎとった。
圭子の手が静かに野々山を包み込んできた。野々山は圭子の乳首を舌でころがした。乳首は唾にうっすらと濡れてつやを増し、ふるえた。ふるえは乳房全体に、さざ波のようにひろがり伝わっていく。
野々山は圭子の胸に顔を伏せたまま、彼女の脇腹や臀部や太腿に手をすべらせた。きめの細かい白い肌は、野々山の手の下で小さくふるえ、指先にまといついてくるようだった。
圭子は膝をゆるくゆるめていた。野々山の手はそこに割り込んだ。腕はしげみを押えたままだった。
しげみにもかすかな湯の湿りが残っていた。ちぢれの弱い、柔らかいヘアが、もつれ合ったまま、こんもりとした隆起を見せている。野々山はそれを指先でそよがせた。
ヘアの底に、青い翳りをおびた短いクレバスがすけて見えた。野々山はそこに指の一本をそっとあてた。ほてりとうるみの気配が、底から伝わってくる。
野々山はその指にわずかに力を加えた。圭子は低い声と共に強く腰を反らした。野々山の指はクレバスに浅く沈み、指先は深いはざまの中心に包み込まれた。熱いぬめりがあふれかえっていた。指先にまとわりついてくるものは、すべて熱く、柔らかかった。
野々山は放埒な気分にひたされていた。圭子がそれをそそっているところもあった。
圭子は夜具の上にうつ伏せになっていた。彼女はいま、野々山の手指による愛撫だけで、最初の歓びをきわめたばかりだった。高い声をあげて全身を硬くわななかせた後で、圭子は手足を投げ出すようにしてうつ伏せとなったのだ。
野々山は、肉の薄い、小気味よく反った圭子の背中から、くびれた腰、張りつめた臀部、しどけなくゆるんだ太腿などの眺めを、充分に愉しんでいた。
やがて彼は、圭子の背中に唇を這わせはじめた。圭子はそれをよろこんだ。低く高く尾を曳く、赤ん坊の甘え泣きに似た声をもらしながら、圭子はゆったりと腰をうねらせつづけている。
野々山の唇と舌は、ゆっくりと這い降りて、圭子の繊細な感触の脇腹にあそび、臀部の丘に移った。野々山はそこに甘く歯を当てたりした。
深く長い尻のわれめの底に、うすいヘアに囲まれたもう一つのわれめがのぞいていた。そこはうるみにまみれたまま、うっすらと光っている。
野々山の舌は、われめの底に伸びた。圭子はあえぎを強めながら、曲げた膝を突いて腰を高くかかげた。
野々山はうしろから顔を寄せていった。圭子のうしろの部分が、紅紫色の小さな花を思わせた。それは濡れたまま、小さく息づいている。
その先に、はざまがゆるくほころんで、暗い輝きを放っていた。そこも、濡れたけものの口に似て、小さくうねるように息づいている。
野々山は舌を伸ばして、紅紫色の小さな花を捉えた。手はその先のはざまの縁をやさしく撫でさすった。
圭子は賑やかな声を放ちはじめた。短いことばがいくつか、彼女の口をついて出た。彼女はしきりに、野々山を招くことばを重ねた。野々山は体を起した。
膝立ちして、圭子のうしろににじり寄った。気配で圭子は、彼を迎えるために腰をうしろにさしだす姿勢を取った。
野々山は突きつけた。圭子が下から手を伸ばしてきて持ち添え、さぐって導いた。
野々山は一部始終を眼下に収めながら、体をつなぐことができた。それが愉しかった。
襞は押し分けられ、ふくらみ、巻き込まれるようにして、野々山の体と共に中に沈み込んだ。浅く引揚げると、巻き込まれた縁の部分は、湧き返るようにして誘い出されてくる。野々山はそのさまを眺めて愉しみながら、力強く、ゆるやかに動いた。
圭子はもたげた頭をしきりに打ち振りながら、はばかるところなく、よろこびを口に現わした。
野々山はゆるやかに動くことで、圭子の内部の変化に富んだ感触と律動を、余すところなく味わうことを心がけた。
やがて圭子ははげしく息を吸い、すぐに声と共にその息を詰まらせ、体を痙攣させた。到達を伝える彼女の短いことばは、ほとんど叫び声に近かった。
圭子は声と共に突っ伏していた。そのために、野々山はあらためてつなぎなおさねばならなかった。
野々山は圭子を上にして体をつないだ。深く届く感触が、野々山をよろこばせた。圭子はまたひとしきり、狂乱の体で野々山の上で腰をおどらせ、髪を打ち振った。野々山の眼の上で、二つの乳房が揉み合うように揺れ、やがてそれは崩れるようにして彼の胸の上に落ちてきた。
野々山は圭子の臀部を両腕で抱え込んでいた。彼の片方の手の指は、圭子の紅紫色の小さな花の芯に、浅く埋まっていた。圭子が三度目の到達を迎えたことを、もっとも明白に感じとったのは、浅く埋まったその指だった。
野々山は指に伝わってくる強靱なその鼓動をかぞえながら、心おきなく果てた。それを察してか、圭子は上から胸を重ねたまま、しっかりと腰を押しつけてきて、また声をもらした。
「まだ体が浮いてるみたいだわ」
野々山の胸に顔を伏せたまま、圭子が少ししわがれた声になって言った。彼女はまだ野々山を引きとめたままである。
「すばらしかったよ。誰のお仕込みだい?」
野々山は軽口めかして言った。圭子は笑って答えない。野々山は話を一気に核心に移すことにした。圭子は笑ったままで答えない。
「よく耕されているよ、きみの体……。鍬を入れた男はよほどの名人だな。若い男じゃなさそうだぜ」
「そう思う?」
「思うな。ぼくには判るんだ。当ってるだろう?」
「ご想像におまかせするわ?」
はぐらかすように、圭子は言った。
「おれの想像だと、きみの体に鍬を入れたのは、相当に女好きの年配の男だ。ひょっとすると、そいつはあんたの勤めている会社の上役かもしれないな」
圭子はまだ笑っている。野々山の企みになど気づいてはいない。
「きみは心では自分にふさわしい若い男を求めながら、セックスのよろこびの深さに惹かれて、その年配の男との関係をつづけているって感じもするな。心の中ではその男との愛慾をうとましく思いながら、体で惹かれているというやつだ。ちがう?」
久保圭子は深い吐息をもらした。息が野々山の裸の肩先にかかった。
「あなた、小説家になれそうね」
圭子は笑いをふくんだ声で言った。
「どうして?」
「人の身の上話を創作するのが好きみたいだから」
「もう少し創作しようか」
野々山は言い、圭子の顔をのぞきこんだ。圭子は野々山の絡みつくような視線を避けて寝返りを打ち、仰向けに変った。乳房がひと揺れふた揺れした。
野々山はその乳房に手をあてた。静かに撫でた。柔らかく押し返してくるはずみを愉しみながら野々山はつづけた。
「どこまで話したんだっけ?」
「あたしが会社の上役に性のよろこびを教えこまれて、心では反撥しながら、体で惹かれて関係をつづけてるってとこまでよ」
「そうだったね。そういうことは創作でもなんでもなくて、事実としてきみの肉体が物語ってる」
野々山は言いながら、手を乳房から圭子の下腹部のしげみの上に移した。指がひとりでにクレバスに添っている。圭子はよろこびの名残りを追うように腰を小さくうねらせた。
「創作にきまってるじゃないの、そんな話」
「きみはその好色で初老の上役に、さまざまなよろこびを教えられただけでなくて、滅多に経験できないような、性的冒険も体験させられたにちがいないな」
「どんな冒険?」
「たとえば二組のペアがたがいに相手を交換して愉しむとか……」
「ばかばかしい」
圭子の声にかすかなこわばりが生れていた。顔はそむけたままである。野々山の手は依然として圭子の柔らかいヘアをそよがせ、クレバスを静かになぞっている。
「きみにはかつて、若い恋人がいた時期もあったはずだ。だがその恋人はきみから去っていった。彼がきみに年長者のセックストレーナーがついていることを知ったからだ。しかも彼にとって、きみのセックストレーナーは会社の上役でもあった……」
野々山はそこで、思わせぶりにことばを切った。圭子が野々山を見やった。表情はすっかりこわばっていた。
「どうやらぼくの創作は、きみにとってはリアリティ抜群だったようだね」
野々山は言った。圭子はしげみにあてられた野々山の手を取ってはずさせた。彼女はゆっくりと起き上がり、腕で体を支えて、上から野々山を見おろした。表情が固くひきしまり、そのために顔が小さくなったように見えた。みはった眼が暗く揺れている。
「あなた、誰? 何を言いたいの? あたしに……」
圭子は押し殺したような声を出した。
「心配しなくていい。ぼくはきみの味方のつもりだよ」
「誰なの、あなた。教えて。どうしてあたしのこと知ってるの?」
圭子は頬をふるわせた。野々山は体を起した。片手で圭子の髪を撫で、その手を彼女の裸の肩に置いた。そのまま野々山は圭子を抱き寄せた。
圭子はあらがった。野々山は強引に抱きすくめ、そのまま体を横たえた。胸が重なったまま、圭子はなおももがいた。
「平田常務が憎くはないかい?」
野々山は圭子の耳にささやいた。圭子はもがくことを止めた。息のはずみが野々山の胸に伝わってきた。
「きみとぼくとは手を組めると思うけどな。ぼくはちょっとわけがあって、きみが秘書として付いている西日本土地開発の常務の平田良一のことを調べてるんだ」
「どういうこと?」
「簡単に言えば、ぼくは平田常務が会社の仕事にからんで行なっている不正をあばこうとしてるんだ」
「その手伝いをあたしにさせようっていうのね」
「察しがいいね。平田常務の不正が明るみに出て、会社をやめさせられたりすれば、きみだって厄介払いができるんじゃないか」
野々山はささやきつづけた。ささやきながら、彼の手は圭子の背中や腰をさすりつづけている。圭子はすでに体の力を抜いていた。顔を野々山の裸の胸に伏せたまま、彼女は押し黙っている。
「平田常務が、ゼネラル通商の内藤宗夫という専務と親しいことは、きみもよく知ってるはずだ。きみ、京都で内藤専務に会ったこともあるだろう。むろん平田常務と一緒にね」
野々山はさりげなく言った。
「あたしに何をしろと言うの?」
圭子は顔を上げずに言った。野々山のさりげないことばで、彼女は京都のホテルでの平田と内藤の間で行なわれた愛人交換の一件も知られていることを察したのだろう。
「西日本土地開発はゼネラル通商に何回か土地を転売している。そのたびに平田を通じて内藤にリベートが渡ってるんだ」
「知ってるわ」
「内藤はリベートを着服してる。ぼくが欲しいのは、リベートを受取ったことを示す証拠の品なんだ」
「領収証?」
「それがあればベターだ」
「あるわ。ただし、秘密領収証だけど……」
「きみはそれを見てるんだね」
「秘密領収証はわたしが経理課長に直接渡してるんだもの。経理課長がそれをもとに帳簿上の操作をして、辻褄を合わせてるのよ」
「これまで内藤に渡ったリベートは総額でどれくらいになる?」
「領収証の額面では八千万か九千万ぐらいかしら。でもその全額が内藤さんに渡ったわけじゃないわ」
「どういうこと?」
「八千万のうちの三割ぐらいは平田常務のポケットに入ってるのよ」
圭子は顔をあげて言った。頬が紅潮していた。眼がするどく光っていた。獲物を狙う猫を思わせる顔になっていた。
「うまい話じゃないか。やっぱりぼくたちは組めるぜ」
野々山は言った。圭子は野々山を上から抱きしめるようにしてささやいた。
「うまくやってね。平田を会社から追い出せるようにね」
「領収証さえ手に入れば、絶対だよ」
「それはもう、コピーをとってあるわ」
圭子の声はくぐもってひびいた。
つぎの日、野々山はふたたび圭子と中洲の喫茶店で顔を合わせた。圭子は会社の昼休みだった。
席に就くとすぐ、圭子は白い角封筒をテーブルの上に黙って置いた。野々山も黙って封筒の中身をあらためた。内藤が平田あてに書いて渡した領収証のコピーだった。
領収証は市販の用紙が使われていた。すべてに内藤のサインがあり、印鑑が捺されている。肩書はない。全部で九通あった。もっとも古い日付のものは一年余り前になっている。九通の総額は九千五百万円にのぼっていた。
圭子は、力ずくで体を奪われ、さらには恋人に去られる原因までもたらした平田を、いつか懲らしめてやろうと思って、領収証のコピーを集めておいたのだ、と野々山に話していた。前の晩、那珂川べりのホテルでのことである。
平田はリベート分を上乗せした土地代金をゼネラル通商から受取り、リベートの中からさらに三割ほどをピンはねして着服していたというのだ。むろんそのことは、内藤も承知していたらしい。
平田は他にも、土地の売買を通じて不正を行なっていた。西日本土地開発が、土地を買い求める際に、実際の購入価格を水増しして会社に支払わせ、土地買求めに動いた小さな不動産会社をトンネルに使って、水増し分を回収し、着服しているというのだ。
久保圭子はそういうこともつかんでいて、野々山に話してくれた。圭子はすっかり野々山と組むつもりになっていたのだ。圭子は、平田がトンネルに使っている不動産屋や、ブローカーの名前も何人か口にした。
「ゆうべ、きみと別れてから、どうやって平田を攻めるか、考えた」
「きまった?」
圭子はコーヒーカップを掲げたまま、野々山を見て言った。
「きみに迷惑のかからない方法を、と思ったんだが、領収証のコピーの出所を探れば、当然、きみにも疑いがかかる」
「それはあたし、覚悟してるわ」
「覚悟なんかすることはない。平田に問いつめられたら、きみは徹底的に否定すればいいよ。領収証なんかコピーした覚えはないってね」
「でも、あたしいつまでも会社で働こうって気はないの」
「というと?」
「東京に出て水商売の世界にとび込んで、お金を稼ごうと思うの。OLなんてつまんないわ」
圭子は強い光のこもった眼を見せた。野々山は圭子のことばにうなずいた。
「だから、平田から手切れ金をたくさん取れたら、今日にでも会社やめたいわ」
「なるほど……。そういう手もあるわけか」
野々山は独り言のように言った。彼の頭には咄嗟に新しいプランが生まれていた。
「平田から手切れ金がふんだくれて、その上に平田が会社を追い出されるようなことになれば、きみとしてはこれまでの鬱憤がはらせるってわけだな」
「手伝ってくれる?」
圭子は野々山のほうに顔を寄せてきて、眼をのぞきこむようにしてささやいた。
「つまり、この秘密領収証をネタにして、平田を脅迫する役を、ぼくにやってくれということか……」
「あたしと組むと言ったわね、あなた……」
圭子は迫った。野々山は声を出さずに笑った。圭子はそこでも見かけによらぬしたたかさを見せていた。そのしたたかさを失わない限り、彼女は水商売の世界でも充分に伸びていけそうだ、と野々山は思い、その思いが彼の笑いを誘っていたのだ。
「平田を会社にいられなくするだけじゃなくて、金の分け前も欲しい、ときみは言うわけだな。オーケイだよ」
野々山は言った。彼はまだ、自分の素性を久保圭子に明かしてはいない。平田と内藤のリベート着服の事実を嗅ぎつけて、それをタネにひともうけを企んでいる、ただの脅迫屋だというふうに、圭子には思わせてある。野々山の企みの裏に、ゼネラル通商の重役陣の暗闘がからんでいることなど、圭子は考えてもいないはずだった。
野々山としては、圭子の平田に対する脅迫を手伝い、それを梃子にして内藤をころばせるという手が、新しく可能となるわけだった。福岡における一人の女子社員の上役に対する脅迫事件が、ゼネラル通商専務のリベート着服の事実を証明する梃子になる――というわけだった。
平田が圭子の脅迫に応じれば、それはとりもなおさず、土地代金の水増し分を内藤と分け合って着服したことを認めたことになる。野々山としては平田の前で、あくまでも圭子とだけ組んでいる脅迫屋であるかのようにふるまえば、鹿取との背後のつながりはカムフラージュできるだろう。野々山はすばやくそういう読みをめぐらせていた。
「お金は平田から取れるでしょうけど、あの男を会社にいられなくすることもできるかしら?」
圭子は思いをめぐらすような眼で言った。
「できないことはないが、かなりあくどいやり方が必要だな。平田は口留料としてだけぼくらに金を払う気になるはずだ。会社に不正を知られたくはないからな」
「口留料を取って、その上で会社にあの男の不正をばらすしかないわけね」
「金と平田の首と両方を手に入れようと思えばそれしかないな。どうする?」
「仕方ないわ。平田の首のほうはあきらめてもいいわ。あたしだって平田との関係は人に知られないままにしておきたいし……」
「そうときまったら、仕事は早いほうがいいな。今夜からはじめよう」
野々山は言った。
その夜、野々山は圭子と一緒に東唐津までタクシーで出かけた。
野々山のショルダーバッグの中には、カメラと小型のテープレコーダーがしのばせてあった。
二人は東唐津のラブホテルの手前でタクシーを降りた。ラブホテルには、すでに平田が先に行って圭子を待っているはずだった。圭子がそういうふうに仕組んだのだ。逃げようのない窮地に平田を追い込んでおいて、一気に攻めようというのが、野々山の考えついた作戦だった。圭子がその作戦にのって事を仕組んだのだ。
ホテルの入口近くの路上で、野々山と圭子はうなずき合った。口はきかなかった。
圭子だけが先にホテルの玄関をくぐった。一足おくれて、野々山もすぐに後につづいた。圭子は帳場の小窓の前に立っていた。二人はわざと眼を交さなかった。
小窓の横ののれんを分けて、中年の女が出てきた。
「平山という人が先に来てるはずですけど」
圭子が女に言った。平山は平田の偽名である。
「ああ、見えてます。三階の玄海の間です」
言ってから女は圭子の肩越しに、野々山を見た。女の表情がくもった。
「あのう、そちらさんはご一緒じゃないんでしょう?」
女は言いよどむようにことばを吐いた。
「ちがいますよ。別口です。たまたまここで、一緒になっただけなんだ。連れは後から来るんだけど、部屋あいてる?」
野々山は言った。女は納得した顔になってうなずいた。
野々山はしばらく待たされた。女は先に圭子を三階の玄海の間に案内していった。小窓の奥で、別の案内係を呼ぶ男の声がした。姿は見えない。
やがて湯のポットを脇に抱えた案内の女が出てきた。野々山は女に案内されて四階に行った。彼の部屋には虹の松原という名がついていた。
女は湯舟の蛇口をひねっておいて、すぐに部屋を出て行った。
野々山はテレビをつけた。プロ野球の中継放送をやっていた。彼は野球中継を見ながら三十分間だけ時間をつぶした。時間についても、圭子としめし合わせてあった。
野々山はテレビを消して立ち上がった。ショルダーバッグからカメラとテープレコーダーを取出した。テープレコーダーは服のポケットに押し込んだ。カメラは手にさげた。いつでもシャッターが切れる。フィルムは高感度のものが入れてある。最後に野々山は色の濃いサングラスをかけた。そのまま部屋を出た。
三階に降りて廊下を進んだ。各部屋のドアには、部屋の呼び名が書かれたプレートが掲げてあった。玄海の間は、廊下の突き当りになっていた。
ほの暗い廊下に人の姿はない。野々山は玄海の間のドアの前に立った。部屋の中からは物音も話し声も聞こえない。
野々山はノブに手をかけた。ノブは音もなく回った。圭子がわざとロックをはずしたままにしていたのだ。
野々山は静かにドアを開けた。小広い踏み込みにスリッパが二足脱いである。野々山はドアをしめた。座敷に通じる入口の襖は閉まっている。奥でにごった男の声がした。ことばは聞きとれない。
野々山は座敷の入口の襖の取手に片手をかけた。
彼はそれを静かにあけた。ほとんど音はしなかった。
座卓の横の畳の上に、素裸の平田が仰向けに横たわっていた。平田の顔の上に、やはり裸の久保圭子が、大きく膝を開いてしゃがみこんでいる。
圭子の両の内股が、平田の耳のあたりをぴったりと塞いでいた。平田は入口に立った野々山に気がついていない。圭子はいくらかこわばった顔で野々山を見た。野々山は口もとをゆるめて笑い、カメラをかまえた。圭子が静かに顔をそむけた。
圭子の尻の下に平田の横顔がのぞいていた。野々山はシヤッターを切った。シャッターの音で、平田が顔をもたげた。野々山は二歩ばかり前へ進むなりシャッターを押した。
平田は顎の先を圭子のしげみにつけたまま、眼をむいた。短く唸るような声をもらして、平田ははね起きようとした。圭子は平田の胸に尻をすえたままである。
平田は圭子の胸を突いてもがいた。野々山は三回目のシャッターを押した。平田はようやく圭子を突きとばして起き上がった。
「なんだ、貴様!」
平田は怒鳴った。そばの座布団を引きよせて、あぐらの膝の上にのせ、股間をかくした。圭子は夜具ののべてあるつぎの間に行って浴衣を着はじめている。
「お静かに。そのほうが身のためです」
野々山はカメラを肩に吊って小声で言った。平田は怒りで顔を赤くしている。息をはずませて、また怒鳴ろうとした。野々山は手を上げてそれを制した。
「西日本土地開発株式会社常務、平田良一さんですね」
「貴様は誰だ?」
「こういうことの専門家です。したがって名前は名乗らないことになっています。あしからず」
「なんだと?」
「平田さん、あなたに買っていただきたいものがあるんです」
「なんだかしらないが、出て行け。出て行かなきゃ帳場の者を呼ぶぞ」
「呼んだって同じです。あなたがわたしから買物をしなきゃならないことに変りはないんですから」
「久保君、帳場に電話をしなさい」
平田はうしろをふりむいて言った。その鼻先に、圭子がたたまれた浴衣を放ってよこした。
「それより浴衣でも着たら?」
圭子は落着きはらった口調で言った。平田は一瞬、きょとんとなったようすだった。
「じつは平田さん、もうおわかりでしょうが、わたしは久保圭子さんのご依頼でここに参上したんです」
野々山は言い終えると、ポケットの中に手を入れた。録音機のスイッチを入れるためだった。
「圭子の依頼だと?」
平田は圭子と野々山を交互に見やった。うろたえは隠せなかった。
「どういうことだ。圭子、これは?」
「見たとおりよ」
圭子は言い、座卓の角をまわって、野々山の横に来て坐った。
「商談は手ぎわよく、スピーディに進めましょう、ねえ、平田さん」
平田は返事をしなかった。怒りと怯えの色を浮かべた眼で圭子をにらみすえている。浴衣を着ることも忘れて、荒い息を吐いているのだ。
「お買いあげいただきたいのは、ある情報です」
「情報?」
「あなたの命取りになる、しかも事実にもとづいた正確な情報です」
「ふざけたことを言いおって……」
平田は野々山をすくいあげるような眼で見た。それから手につかんでいた浴衣を荒々しい手つきでひろげ、はおって袖を通した。立ちあがろうとはせずに、ひろがった浴衣の裾をかき寄せるようにして腰を覆った。
「ふざけたことかどうか……。平田さん、ことわっておきますが、わたしはこの道のプロです。応対をまちがうと後悔なさると思いますよ」
「そんな脅しにわしが乗ると思っとるのか、貴様ら……」
「思ってます。あなたはわたしの脅しに乗る。乗らないわけにはいきません。乗らなきゃ困るのは平田さんだけじゃない。東京のゼネラル通商にも怪我人が出ます」
「ゼネラル通商?」
平田は新たな困惑の表情を見せた。声はいくらかかすれて、語尾がふるえた。
「ビール欲しいな」
野々山ははぐらかすように言って、圭子に眼を投げた。体を固くして、野々山と平田のやりとりを聞いていた圭子が、黙って立ち上がって、部屋の隅の冷蔵庫の前に行った。
座卓の上にグラスが二つ並べられた。
「飲みますか?」
圭子は平田に訊いた。ぶっきらぼうな物言いだった。平田は怒った顔になってうなずいた。圭子は二つのグラスにビールを注いだ。
「ゼネラル通商の内藤専務とは、平田さん、ずいぶんお親しい仲だそうですね」
ビールのグラスを一気に空にしてから、野々山は言った。平田はビールをすこしずつ喉に流し込んでいる。返事はしない。
「京都のホテルでは、たがいに女連れで内藤専務と落合って、ずいぶんおもしろい愉しみ方もなさったそうで……」
平田はまた、すさまじい眼になって圭子をにらんだ。圭子は挑戦的な仕種でそっぽをむいた。
「あなたと内藤さんは、女のほうだけで呼吸が合うのかと思ったら、土地代のごまかしのほうでも名コンビなんですね」
「なんの話だね?」
息をひそめたような声を平田は出した。
「ほう、お忘れになったようですね。思い出させてあげましょうか?」
「思い出すことなんか、ありゃせん」
「内藤さんがあなたにお渡しになった秘密領収証が全部で九通。領収証に記入された金額の総計は九千五百万円になります」
「秘密領収証なんて、わしは知らん」
「九千五百万円はすべて、西日本土地開発株式会社が、ゼネラル通商不動産部に売却した土地の代金の一部ということでしたね」
「作り話にしちゃ、もっともらしいな」
「本来の土地代金の上に、バックペイ分を上乗せした価格で、西日本土地開発がゼネラル通商に土地を売る。売る側のキャップは平田さんで、買う側のキャップは内藤さんだから、価格でもめることはないわけです」
「でたらめもいいかげんにしろ」
「上乗せした金額はあとで平田さんがバックペイとして内藤さんに渡す。もっとも全額じゃない。バックペイの中からそのつど、三割程度を平田さん、あなたが取る。あとは経理課長が帳簿の上で辻褄を合わせてくれる。いい商売ですね」
「どこに証拠がある?」
「さっき申し上げました。秘密領収証が九通あると……」
「そんなもの、あるわけがない」
「あるわよ、常務。あたしが知ってます」
圭子が横から冷たい声で言った。
「わたしは何度も現物を見たし、全部コピーもとってあるわ」
「コピー!」
平田は悲鳴に近い声をあげた。
「コピーだけじゃないわ。土地代のバックペイのからくりを、常務、あなたはあたしに自慢そうに話してくれたわよね、ベッドの中で……」
「どういうつもりだ、圭子、おまえ……」
平田は今度はうめくように言った。
「おまえだなんて、気やすく呼んでほしくないわ」
「くそ!」
「まあまあ、昂奮しないでください、平田さん。ゼネラル通商の内藤さんとの間に、土地代のバックペイの受渡しがあること、その一部はあなたのポケットに入っていること、これ、作り話やでたらめじゃありませんね」
「欲しいのは金か?」
平田は膝に眼を落して言った。
「やっと商談に入りましたね」
「いくら欲しいんだ?」
「この情報、お買い上げくださるんですね? 平田さん」
「買う」
「作り話だとか、でたらめだとかという前の発言はお取り消し願えますね」
「取り消そう。で、いくらだ?」
「お金の話は、久保圭子さんが決めます。わたしは彼女の代理人としてここにいるだけですから」
「代理人?」
「久保圭子さんは、要するに平田さんにうばわれた青春の代償を、こういう形であなたに求めてる、ということです。安いものですよ、金でカタがつくんですからね。本来なら平田さん、あなたは久保圭子さんから、婦女暴行の罪で訴えられても、申し開きはできないはずでしょうからね」
「くそ! もういい。圭子、金はいくら欲しいんだ?」
平田はまた悲鳴に近い声で言った。
「多いほどいいわ」
「だから、いくらかと訊いてる。さっと言えよ、圭子」
「久保さんと呼んでほしいわね」
「調子にのりやがって……」
「いままでの三年余りは、あなたのほうが調子にのりっぱなしだったでしょう。今度はあたしの番だわ。お金は五千万円いただきます」
「五千万!」
平田は眼をむいた。
「一銭も値引きはしないわよ」
圭子は追い討ちをかけた。野々山は圭子の気迫に感嘆した。OLをやめて、東京で水商売に進むという圭子の選択を、野々山は正解だと思った。
「おどろくことはないでしょう。ゼネラル通商の土地代からのピンハネ、小さな不動産屋から土地を買い上げるときに、業者から吸い上げるバックペイ、あれやこれやふくめて、平田さんが着服した不正な金は、五千万円どころじゃないじゃないですか。それを全部いただこうっていうんじゃないわ。これでも遠慮深い要求よ」
平田は口をつぐんだ。深くうなだれたまま、彼は三十分あまりも押し黙っていた。その間は、圭子も野々山も沈黙を押しとおした。やがて平田は、その沈黙に耐えかねたように言った。
「わかった。五千万円払おう。ただし、いっぺんにそれだけの金はそろえられない。一週間待ってくれ」
「一週間ね。約束を守らなかったら、秘密領収証のコピーと、さっき写した写真が会社やお宅に内容証明付で送られるわよ」
「わかってる……」
平田は言った。彼はすっかり圭子に呑まれていた。平田の眼には圭子が、彼の知っている圭子とは別人のように映っているにちがいない、と野々山は思った。
つぎの日の夕方、野々山は東京に帰った。福岡での成果のあらましは、すでに電話で及川友美に伝えてあった。
東京に着いて、その足で野々山は日比谷のホテルに行った。そこの九階の一室に、鹿取常彦が待っているはずだった。友美がそのことを福岡に電話で知らせてきていた。
鹿取は、ホテルの部屋でスコッチを飲みながら、英字新聞をひろげて読んでいた。
「福岡で働いてきたそうだね」
野々山の顔を見ると、鹿取は低い声で言った。表情は動かない。いつもそうである。
「及川君からあらましのことは聞いたよ」
鹿取は言い、野々山に椅子をすすめ、グラスにスコッチを注いでくれた。
「うまい攻め口が見つかりましたから、案外手をやかずにすみました」
野々山は、福岡での収穫を詳しく説明した。内藤宗夫が平田に渡した、九枚の秘密領収証のコピーと、福岡のラブホテルの一室での、平田と圭子と野々山の三人のやりとりを録音したテープを、鹿取の前のテーブルの上に置いた。
鹿取は領収証のコピーに眼を通し、テープを再生して、内容を聞いた。
「これだけ材料がそろえば充分だ。内藤君には反撃の余地はないだろう」
鹿取は領収証のコピーとテープのカセットを、かたわらのアタッシェケースに納めながら言った。
「もし、内藤専務が反撃してきたら、場合によっては平田と久保圭子を証人に使いましょう。平田と久保圭子を、内藤専務との対決の場に引っぱり出す手は、ぼくが考えます」
野々山は言った。自信はあったのだ。
「その必要はあるまい」
「ならいいんですが、宮沢さんも退陣を呑むまではわるあがきしましたから……」
「社長の倉島君が、戦略を変えたようだからね。内藤君があがいたってだめだろうな」
「倉島社長の戦略が変ったというのは、どういうことですか?」
野々山の問に、鹿取はすぐには答えなかった。鹿取はスコッチを口にふくみ、束の間、野々山の眼を見すえるようにした。
「倉島って男はなかなかのものだよ」
しばらくして鹿取は言った。野々山は黙って鹿取のつぎのことばを待った。
「機を見るに敏なりさ。倉島君はどうやら、宮沢君と内藤君を切る潮どきが来た、と前から見てたようだね」
鹿取のことばに、野々山はおどろいた。
「それは、どういうことですか? 宮沢さんと内藤さんは、倉島社長のいわば腹心の人たちだったわけでしょう?」
「百鬼夜行。倉島君はゼネラル通商に銀行から出向してきた外様大名だ。そこで彼はゼネラル直系の重役たちの間に内部亀裂を起させるために、ぼくらと宮沢、内藤らといがみ合わせることを企んだ」
「そのために、鹿取さんたちが冷飯を喰わされ、逆に宮沢さんや内藤さんの一派を、倉島さんが重用したわけですね」
「そうやって内部亀裂を起させて、倉島君は勢力基盤を作りあげたわけだ。その基盤はほぼ固まった、と彼は見てるんだろう。そこで倉島君としては、危い火種をかかえている宮沢、内藤一派を切ってしまえば、彼自身の牙城は安泰というわけさ」
「宮沢さんや内藤さんと、スキャンダルなんかで心中するのは、倉島社長としてはごめんだから、問題を起した二人をかばうことはしないってわけですね」
「それもあるし、宮沢、内藤を切ってしまえば、あとの役員たちはぼくを除いて、全員が倉島君の子飼いみたいなものだからね。そして倉島君は鹿取常彦はすでに、相撲でいえば死に体だと見てるからね」
鹿取はうっそりと笑った。
「内藤専務の失脚がきまったら、いよいよ倉島社長の牙城を攻めることになりますね」
「大敵だぞ」
「倉島社長が女子中学生の体を金で買ったという証拠をつかもうと思うんです。当然、しかるべききっかけなり、ルートなりがあったはずですから」
「証拠固めとしては、いい手だな。しっかりやってくれ」
野々山は頭をさげて椅子から腰をあげ、部屋を出た。廊下に一人の男が立っていた。男は野々山の姿を見ると、歩き出した。
10
野々山はゆっくりした足どりでエレベーターホールに向った。
廊下に立っていた男が、後から歩いてくる。野々山はそれを気配で知った。足音は廊下に敷かれた絨毯に消されている。
三十歳前後と思える、背の低い、小肥りの男だった。ダークスーツを着ていた。野々山は部屋を出た一瞬に眼に留めた男の姿を、検《あらた》めるように思いうかべた。
男の動きが気になってならなかったのだ。野々山が鹿取の部屋のドアを押して出てきたとき、たしかに男は廊下に足を停めて立っていた。野々山にはそう見えた。
廊下に出た野々山が歩き出すと、男もうしろからついてくる形で歩き出した。
尾行か、野々山は考えた。だが、尾行にしてはいかにもやり方がお粗末すぎはしないだろうか?
それに、いったい誰が何のために尾行をつけるというのだ?
野々山は自問を重ねた。
エレベーターホールに人の姿はなかった。野々山はボタンを押して、うしろをふり向いた。廊下の角をまがって男が現われた。眼が合ったが、男の表情は変らない。自分の思いすごしだったか、と野々山は思った。
エレベーターの扉があいた。初老の外国人の夫婦らしい男女と、日本人の若い二人連れの女が乗っていた。
野々山はエレベーターに乗り込んだ。ダークスーツの小肥りの男もつづいて乗ってきた。
一階でエレベーターを降りて、野々山はホテルの正面玄関に向った。小肥りの男は、野々山の横をすり抜けるようにして、先に立っていく。
野々山はようやく安堵を覚えた。自分の神経過敏をわらった。
タクシー乗場には短い人の列ができていた。野々山はどこかで食事をすませて、その夜はまっすぐアパートの部屋に帰るつもりでいた。タクシーを待つ人たちの列のうしろについて、彼は食事をする店をどこにするか、あれこれ考えた。
「野々山さんですね」
不意に耳もとで声がした。うしろに男が立っていた。四十がらみの長身の男である。黒っぽい地に白のストライプの入ったスーツを着て、色のうすいサングラスをかけている。
「あなたは?」
野々山は訊き返した。
「鈴木、といいます。すこしお時間をいただきたいと思いましてね」
押しつけがましい言い方だった。そればかりではない。男は言いながら、野々山の背中に腕を回して押すようにした。
野々山は押されてタクシー待ちの客の列から離れた。
「あいにくだが、時間はないですね」
野々山は言った。いくらか声がとがっていた。
「なければ作っていただきます。ぜひともきいていただかなきゃならない話があるんですよ」
「なんの話です? 話ならここでうかがいましょう」
「外聞をはばかる話です」
「あんたも強引な人だね」
野々山はたまりかねてそう言った。
「もっと強引になりましょうか」
男は横から体を寄せてきた。鈴木と名乗った男は、左の手で自分のスーツの前を小さく開いてみせた。脇腹に拳銃のグリップが見えた。それはすぐに服の裾で隠された。
「人がたくさんいるから、まさかハジキぶっぱなしたりはしまいなんて考えたら、おおまちがいですよ」
鈴木は小声で言った。野々山は自分の顔色が変るのがわかった。鈴木のことばつきには、それが脅しでないと思わせる、不気味な力があった。ハジキということばで、野々山は相手が暴力団の者だろう、と考えた。
「まいりましょう」
「どこまで行くんだ?」
「そこに車を置いてありますから」
鈴木は野々山の背中を押した。野々山は肚をきめた。歩き出した。
タクシーの列の間を縫って、道路への出口まで行った。そこに黒いクラウンが停まっていた。
「どうぞ……」
鈴木は車のうしろのドアを開けて野々山を促した。彼はふたたび慇懃《いんぎん》なことばつき、物腰にもどっている。
野々山はあけられたドアから、リヤシートに乗り込んだ。運転席に別の男が乗っていた。男の顔がルームミラーに映っていた。それを見て、野々山はひそかに舌打ちをした。ルームミラーには、ホテルの廊下に立っていたあの、小肥りの男の顔があったのだ。
ミラーの中で、野々山と男の視線が合った。そのときも男の表情はまったく動かなかった。  鈴木と名乗った男は、野々山につづいて、白いカバーのかかったリヤシートに乗り込んできた。
ドアが閉まり、車は走り出した。外はすっかり暗くなって夜を迎えている。
「恐縮ですが、これをかけていただきます」
鈴木は言い、ポケットからアイマスクを取出して、野々山の膝の上に置いた。野々山の胸に恐怖がせりあがってきた。
「かけてください。こちらにも事情がありましてね」
「行先を知られたくないわけかい?」
野々山は虚勢を張って、ぞんざいな物言いで通すことにした。
「察しがよろしい。そのとおりです」
鈴木は表情を殺した顔で言った。野々山はアイマスクをかけた。逆らっても無駄だと思った。
11
小一時間ばかり走って、車は停まった。
途中で、高速道路を走ったようすだった。信号で停車する回数が急に減ったことで、野々山はそうと察したのだ。
鈴木は車の中ではなにひとつ、野々山の知りたいことには触れなかった。
『あたしはただの案内役です。用件についちゃなにも知りません』
その一点張りだった。野々山は、鈴木たちのうしろにいるのは、西日本土地開発の平田常務か、さもなければ、すでにゼネラル通商の専務の座を退いた、宮沢義也あたりではないか、と考えていた。
特に、平田が、ゼネラル通商の内藤専務と組んで重ねてきた、リベート着服の一件が明るみに出ることをおそれて、野々山を押えようとはかる可能性は高かった。
車が停まると、鈴木がアイマスクをはずしてもいい、と言った。野々山はむしり取るようにして、アイマスクをはずした。
車は地下駐車場と思えるところに停まっていた。さほど広い場所ではない。乗用車が何台か停まっていた。
野々山は鈴木に促されて車を降りた。運転していた小肥りの男も降りてきて、押し黙ったまま、野々山の横に立った。野々山はその男と鈴木との間にはさまれる恰好になった。
すこし離れたところにエレベーターのドアがあった。野々山はそこに連れていかれた。
エレベーターのドアはすぐに開いた。乗り込むと男は七階のボタンを押した。そこが最上階らしい。ボタンは七階で終っていた。マンションだろう、と野々山は考えた。
廊下に出ると、それがはっきりした。ホテルやオフィスの廊下ではなかった。
エレベーターを降りて、左に進んですぐの突当りの部屋の前で、男たちは足を停めた。ドアには表札はなかった。七〇三という部屋番号を示す数字だけが、ドアに記されてあった。ドアには鍵がかかっていた。小肥りの男がそれをあけて、野々山を中に促した。
大きな白い猫が、玄関の上り口の花柄のマットの上にうずくまっていた。猫は野々山たちの姿を見ると、のっそりと廊下の奥に消えて行った。
廊下を左に進んだところに、二十畳もあろうかと思えるリビングルームらしいしつらえの部屋があった。
野々山は促されるままに、ソファに腰をおろした。小肥りの男が部屋を出ていった。鈴木は無表情のまま、野々山の坐ったソファのうしろに立っている。
待つ間もなく、別の男が部屋に入ってきた。三十半ばと思える、がっちりとした体つきの男だった。ベージュのオープンシャツに、同系色のスラックスをはいている。濃いサングラスをかけていた。
「突然こんなところにお連れして、申訳ありませんな。田中といいます」
男は言った。低い声である。ことばはていねいだが、口もとに笑いなどはない。
「用件を聞きましょうか」
野々山は固い声を出した。
「あなたのお仕事のお手伝いをしたいと思いましてね、野々山さんと……」
「仕事? なんの仕事ですか」
「はっきりいえばゆすりです。だが、ゆする相手は超大物ですね」
田中と名乗った男は、口もとにかすかな笑いを見せた。
「おっしゃることが、よく分らないな」
野々山は言った。
「野々山さん、もう一度、熱海のエメラルド・ハイツに行ってくれませんか」
「エメラルド・ハイツ……」
野々山はおどろきを隠しきれなかった。胸が騒いで息苦しさを覚えた。
「おどろくことはありませんよ。エメラルド・ハイツの倉島輝信氏の部屋に侵入していただきたい、と申しあげているだけです。倉島輝信氏、つまりゼネラル通商の社長です」
野々山は口をつぐんでいた。迂闊な返事はできない、と思った。
「倉島氏の部屋に忍び込んでいただいて、倉島氏が誰にも見せずに隠している、おもしろいアルバムをコピーしてきてほしいんです。そう言えば、おわかりでしょう?」
「失礼ですが、田中さん、あなたはどういう方なんですか?」
野々山は言った。声が喉に詰まった。
「あたしは田中って者です。どういうもこういうもない。プロのゆすり屋です。ごらんのとおりですよ」
「どうしてぼくが、あなたのゆすりの手伝いをしなきゃならんのですか?」
「この仕事は野々山さんでなきゃできないからですよ。あなたはエメラルド・ハイツの倉島氏の部屋の合鍵を持っておられる。倉島氏の秘密のアルバムが入っている金庫の開け方もご存じだ。それに、あなたは手伝い人なんかじゃありません。むしろ、あたしのほうがそういう意味じゃ手伝い人というべきでしょうな。最初にそう申しあげたはずです」
「どうして合鍵のことなんか知ってるんですか?」
野々山はギブアップした。田中と名乗る男が、倉島の秘蔵のアルバムについてすべてを知っていることは、疑いの余地がなかった。シラを切るだけ無駄だ、と野々山は覚悟したのだ。
「あたしはいろんなことを知ってますよ。たとえば、野々山さんが、ゼネラル通商の鹿取常彦専務の陰の仕事をひき受けてやってらっしゃるということもね」
「鹿取さんはあなたのこと、知ってるんですか?」
「ご存じじゃないでしょうな。もちろん、あたしが野々山さんのゆすりの仕事を手伝うなんてこともね」
「ぼくはまだ、あなたの言うことに従うとは言ってませんよ。だいいち、素性も知れない、眼隠しして連れてきて人と会うような、そんな人の言うことは、危なくてきけません」
「野々山さん、あなた、断われませんよ、この仕事……」
「なぜです?」
「断わると、あなたは堂崎信一郎に消されることになる」
「堂崎信一郎!」
「倉島輝信氏と一緒に、女子中学生相手の乱交パーティに加わった、民政党の有力政治家ですよ。堂崎信一郎が女子中学生を抱いている写真も、倉島氏のアルバムの中にあったでしょう。野々山さんがこの仕事を断われば、あたしは堂崎信一郎の耳に、あなたが倉島氏のアルバムのコピーを持っていることが知れるように、手を回す。あなたは堂崎が飼っている番犬たちに命を狙われますね」
「汚ない手だな」
「商売はきれいごとじゃやっていけないですからね」
「ゆする相手は倉島ですか?」
野々山は言ってみた。標的が倉島輝信ならば、田中に手を貸してもいい、と彼は考えたのだ。田中のいう仕事≠ノ便乗して倉島をゆすり、そのことをタネに鹿取が倉島の首をしめれば、結果は鹿取が本来望んでいたものと同じことになる――。
「ゆする相手は倉島氏ではありません。倉島氏は小物です」
「では、堂崎信一郎を?」
「承知してくれますね。むろん、鹿取氏には内緒ですよ。これはあなたのサイドビジネスとお考えいただくべきです」
田中は押しかぶせるように言った。
12
野々山はふたたびアイマスクをかけられて、車ではこばれていた。車は田中のいたマンションの地下駐車場を出て、やはり小一時間の後に停まった。
「着きましたよ」
鈴木の声がした。野々山は顔の横に誰かの手が伸びてくるのを感じた。その手が野々山の頬をはさんだ。柔らかい手だった。相手はそのまま野々山に体をあずけてきた。野々山は胸に柔らかくはずむ丸いものを感じた。
そうやって胸を合わせたまま、相手は野々山のアイマスクをはずした。野々山の顔の前に、笑った若い女の顔があった。彫りの深いハーフのような顔立ちをしている。
「よろしく……。マリと呼んで」
女は野々山の耳に唇をつけんばかりにしてささやき、もう一度強く乳房を押しつけてきてから、体を離した。野々山は女が車に乗っていたことをまったく知らなかった。マンションの駐車場で車に乗り込むとすぐに、彼はアイマスクをかけさせられたのだ。横に並んで乗っているのは、鈴木だとばかり思っていたのだ。
その鈴木は、助手席に乗っていた。運転席にはダークスーツの小肥りの男がいた。
「どうぞ、お降りになってください」
鈴木が言った。野々山は車の外の暗がりに眼をやった。そこが高円寺の彼の住むアパートの前であることに、すぐに気づいた。野々山は背筋に冷いものの走るのを覚えた。田中と名乗った男たちは、野々山の住まいの場所までつかんでいたのだ。野々山のほうは田中たちについてはなにひとつ知らない。そこが野々山には不気味だった。田中とか鈴木という名も、本名かどうかは疑わしい。鈴木や小肥りの男やマリと名乗る女は素顔をさらしていたが、田中は濃いサングラスをかけて野々山と応対をした。素性もなにも分らない相手と組んで、政界の大物である堂崎信一郎をゆする仕事を、野々山はひきうけさせられてしまっていた。
とにかく、冷静に考えをめぐらせて、事態を見きわめなければならない。野々山はそう考えて、車を降りた。マリと名乗った女も、野々山につづいて車を降りた。そのままマリは、野々山の腕に腕をからめてきた。
「行きましょう、あなたのお部屋に……」
マリはにこやかな顔で言った。車のドアがしまり、助手席の鈴木が、窓ごしに野々山とマリに向って黙礼した。車は走り出した。
「どういうことだい。これは……」
野々山は言った。マリは野々山を押すようにして、アパートの門をくぐった。
13
ドアの郵便受けに、夕刊がさし込んであった。マリが横から手を出して、それを抜き取った。
野々山は憮然としたようすで、ドアの鍵をあけた。ドアを開けると、踏込みにも細長くたたまれた新聞が折り重なって落ちていた。福岡に行って、部屋を明けていた間の分がたまっていたのだ。
マリは、踏込みに落ちていた新聞も、心得顔に手早く拾い集めた。まめまめしいようすである。
「どういうつもりだい?」
「なにが?」
「ばかに気をきかすじゃないか」
「あなたに気に入られたいんだもの」
「そうしろと、田中とかってあの男に言われたんだな」
「別にそんなこと言われはしないけど、誰だって仕事はしやすくてたのしいほうがいいと思うでしょう」
「仕事?」
「あたしは今夜から、野々山さんのアシスタント、兼ベッドメイト。それがあたしの仕事なの」
「もう一つ、抜けてやしないか?」
「あら、なにが抜けてる?」
「おれの見張り役」
「それはちがうわ。見張り役はちゃんと別にいるわ。あなたに気づかれないようにして」
マリは冷たい眼で言った。それまでのコケティッシュな笑顔は消えていた。野々山には、マリが冷酷さと媚《こ》びとを巧みに使い分けるしたたかさを持った女、と思えた。
一筋縄ではいかない女だ――野々山はそう思い、自分が正体の知れない田中一味に、まんまと取り込まれたことを、あらためて思い知らされた。
「まあ、なんてひどい部屋なの」
部屋に足を踏み入れると、マリは大仰に顔をしかめ、鼻と口を手で覆った。眼は笑っている。
「おまけに変な匂い……」
マリは言い、もうてきぱきと、散らかった部屋の中を片づけにかかった。新聞や週刊誌、酒びん、脱ぎすてた衣類、たばこの空袋をねじったもの、紙ひも――それらが足の踏み場もないありさまで散乱していた。
マリはそれらをたちまち大きな紙袋の二つのゴミにまとめて、台所の隅に集めた。さらにマリは、片づいた部屋に掃除機をかけた。野々山は乱れたままのベッドにひっくり返って、ふてくされていた。
掃除機をかけ終えると、マリは野々山をベッドから追い立てた。勝手に押入れをあけ、クリーニングをしたシーツと夏毛布を見つけだしてきて、ベッドメイクをすませた。
「あなた、夕食はまだなんでしょう?」
ひととおりの片づけと掃除を終えて、マリが言った。野々山は忘れていた空腹を思い出した。夕食をとろうと思っている矢先に、車に連れ込まれ、眼隠しをされて、田中のいるマンションに連れていかれたのだった。
「飯を喰う気になんかなれないな」
野々山は言った。マリはいなすように笑ってから言った。
「来るとき眼についたんだけど、近くにまだあいてるスーパーがあったわね。何か見つくろって買ってくるわ」
そのまま、マリは出て行った。まことに甲斐がいしいメイドぶりというべきだった。
一人になった野々山は、いまいましい気持に包まれた。身動きのならない思いがあった。ぬかりのない田中一味のことである。アパートも見張られているにちがいなかった。マリのいない間に、部屋を出て姿をくらますことはできそうもなかった。マリがなんの懸念も見せずに、野々山を部屋に残して出ていったことでも、それははっきりしている。
田中と名乗る男は、いったい何者なのか? なぜ、倉島輝信の秘蔵のアルバムを野々山が8ミリフィルムに写し取ったことを知っているのか?
野々山は考えた。答が出ないうちに、マリが大きな紙袋を二つかかえてもどってきた。
「ピクニックの食事みたいだけど、がまんしてね。そのかわり、あしたの朝はおいしいごはんをちゃんと喰べさせてあげるから」
マリは言った。そのときのマリは、気だてのやさしい、魅力的なただの女の子にしか見えなかった。
マリは台所の小さなテーブルの上に、パンやハムやワインを並べたてて、野々山を呼んだ。
14
時刻は午前一時になろうとしていた。
野々山は食事を終えて、寝酒のウイスキーを飲もうとした。マリはようすを察してテーブルから離れ、手早くグラスに酒を注ぎ、氷を入れた。
野々山はそれを持ってベッドのそばに行った。グラスを枕もとの台の上に置き、彼は服を脱いだ。マリがそばにやってきて、野々山の脱いだものを、つぎつぎにハンガーにかけていく。
ブリーフ一枚になった野々山は、そのままベッドに上がろうとした。
「待って……」
マリが言った。彼女は野々山の前にまわると、ブリーフに手をかけて脱がせにかかった。顔には誘うような笑いを浮かべている。
「下着、着替えるでしょう。あとで洗ったのを着せてあげるわ」
マリは野々山の前に膝を突き、彼の足首からブリーフを抜き取りながら言った。そのあとで、マリは野々山のジュニアに頬をつけ、そのまま顔を横にまわした。
ジュニアはマリの唇に束の間はさまれ、一瞬、強く深く吸いこまれて、放された。
「あとでつづきはゆっくりと、ね……」
マリは立ち上がって言った。彼女の手は野々山の股間にあるものすべてを、やんわりと包み込んでいた。その手もすぐに放された。
「いたれりつくせりだなあ」
野々山はせいぜい皮肉をこめて言い、ベッドにもぐり込んだ。枕もとのグラスを取り、口にはこんだ。
マリは野々山の前で、服を脱ぎはじめた。服といっても、サマーセーターに、白いスカートだけである。セーターの下は素裸だった。スカートを脱ぐと、彼女の身につけているのは、白いパンティだけだった。
パンティの下には、黒い小さな木の葉のような形に、しげみがうっすらと影をつけていた。
マリはそんな姿のまま、台所の流し台の前に立って顔を洗いはじめた。
野々山はウイスキーを舐めながら、マリの後姿に眼を投げていた。エロティックな眺めだった。
かがめた背中から腰、尻、脚にかけての線が、ひどく優美だった。小さなパンティの端から、尻の谷間のはじまりの部分がのぞいている。腕と脇の間で、白い乳房が重たげに揺れていた。
野々山は気持の昂まりを覚えた。マリは田中が懐柔策の一つとしてさし向けた餌だと知りつつ、野々山の血は熱くなっている。
洗顔をすませたマリは、ベッドのそばにもどってきた。野々山を見て、また誘うような眼の色を見せながら、彼女は立ったままパンティを脱いだ。いくらか栗色がかった、ちぢれの弱いヘアが、肌にはりつくようになって伏せていた。濃くはない。地肌がすけて見える。短く弧を描いているクレバスが、いかにももろそうなにぶいつやをたたえていた。
マリは野々山の手にしたグラスに自分も手を添えて、ひと口すすった。それからベッドに上がり、体を横にして野々山に寄り添ってきた。
片方の乳房が野々山の脇に押しつけられている。もう一つの乳房は、野々山の胸にのせかけた形になっている。
マリは野々山の胸に唇をつけ、手で彼の胸をさすり、乳首を指先で掃くようなことをした。
野々山は手を伸ばして、グラスを置いた。その手をマリの乳房にのせた。しっかりとしたはずみが彼の手を押し返してきた。固くとがった乳首が、掌を柔らかくくすぐる。
野々山は、その乳房をわしづかみにしたかった。田中の一味であるマリをいたぶることで、せめて鬱憤をはらしたかった。
野々山はその衝動を押えた。田中との関係では、いまのところ野々山は手も足も出ない。下手に突っ張って逆らうよりは、懐柔されたと見せかけて、相手の出方をさぐるほうが賢明だと考えた。
相手がしたたかでぬかりがないのなら、こっちも負けずに、二枚腰を使おうというわけである。
野々山はマリの白い豊かな乳房を、賞でるように静かに手で撫でた。くっきりとした稜線を、掌でなぞった。頬ずりをした。乳房はさざ波が立つ風情で固く小さくふるえた。マリが深い息をもらし、仰向けに変った。
野々山はマリの栗色がかったしげみを手でそよがせた。ひそやかな音が立って、伏せていたヘアがこんもりと丸く盛り上がる。しげみの底には、熱いうるみの気配があった。
野々山はしげみに置いた手を横にすべらせて、マリの脇腹に五本の指先を這わせた。指の腹だけが、軽やかに踊るように肌に触れた。マリは小さくあえぎ、声をもらした。眼を閉じ、瞼をふるわせている。うすく開いた口の奥に、濡れた舌がうごめいていた。ひどく煽情的な表情である。それだけに、どこかわざとらしい。
野々山の手は、マリの脇腹から、腰をたどり、太腿に移った。マリはそろえていた膝をゆるめ、小さく腰を反らした。クレバスの縁にうるみがにじんで光っている。
野々山は体を起し、マリのふくらはぎの横に唇をつけた。舌を這わせた。舌と唇はそのまま太腿をめざして這い上がっていく。
野々山の伏せた顔が、内股近くまで移ると、マリは細い声をもらして体をふるわせた。わざとらしさは消えていた。マリは野々山の手をとって、自分から乳房に導いた。
野々山は乳房と乳首をもてあそびながら、マリの内股に舌を這わせた。マリは大きく体を開いてあえいだ。
野々山の頬に、熱いうるみが触れた。野々山は顔を上げた。マリのほころんだはざまが眼の前にあった。細いヘアの列に囲まれたそこは、鮮かな輝きを見せたまま、息づいていた。
野々山は手をかけて、ほころびをさらにひろげた。赤い芽のようなものが、莢《さや》の中から頭をのぞかせた。その下には小さな舌のようなものが、左右不揃いのまま寄り合って低くそびえている。
野々山は赤い肉の芽に、舌を躍らせた。舌状のものを分けて、折り重なった起伏を舌と唇でなぞった。
マリは声を放ってのけぞった。野々山はマリの両の膝を抱え込むようにした。マリの腰が浮いた。野々山の舌と唇は、マリの肉の芽をついばみ、赤いはざまを辿り、まっすぐに這いおりて、彼女のうしろの部分にまで伸びた。マリの口からは絶えまなしによろこびの声がこぼれ出た。
「あなたのもちょうだい……」
あえぎながらマリは言った。その声も少しもわざとらしくはなかった。
野々山は、マリの脚の間に顔を埋めたまま、体の位置をすこしずつずらしていった。野々山の膝が、マリの顔の上をまたいだ。乳房が野々山の腹の下でつぶれて形を変えた。
マリの舌が伸びてきて、野々山に触れ、すぐに温い唇がそれを捉えた。
15
野々山の体は、まだマリの中に留まっていた。捉えられているといったほうが正確だろう。捉えられたまま、野々山はまだ、強く刻むような、あるいは吸い込むようににぎってくるような感触を覚えている。
ついさっきまで、野々山はそこに何枚ものざらつく舌を持った別の生き物がひそんでいるような感覚に酔わされていたのだ。彼は田中がマリをさし向けてきた一つの狙いを、はっきりと察した。
田中の狙いどおり、野々山はマリの持つ類いまれな肉体の魅力に感嘆した。男を懐柔するには、マリの肉体はたしかに強い威力を備えているのだ。
野々山は大きな息を一つ吐いて、マリの背中からすべり降りた。マリは甘くすねたような声をもらして身じろぎし、野々山をなおも引き留めようと、力を集めてきた。
野々山は引き抜くようにして腰をずらした。マリはけだるそうに体を起した。髪をかき上げ、野々山を見て小さくわらった。そのあとでマリがしたことも、野々山の気持を揺り動かした。彼女は舌と唇を使って野々山の体を清め、最後に申しわけのようにティッシュペーパーを使った。さらにマリは、たばこに火をつけて、野々山にくわえさせ、彼の胸に腕を回して、横からぴったりと体を添わせてきた。
「アシスタントとしては、明日はとりあえず何をすればいい?」
マリは言った。
「やってもらうことは何もないな」
野々山は突き放すように答えた。
「熱海のエメラルド・ハイツにはいつ行くつもり?」
「その前に、やらなきゃならない仕事があるんだ。むろん、おれの本業のほうだ」
「倉島輝信や堂崎信一郎が、どういう方法で女子中学生たちの体を金で買うようになったかそれを調べる仕事でしょう」
マリは言った。野々山はおどろいた。
野々山はたしかに、鹿取に、つぎに取りかかる仕事として、中学生の河合良子たちの身辺調査をする、と約束した。倉島輝信が女子中学生の体を金で買ったという証拠をつかむためだった。
そのことも、田中はすでに知っている。野々山はことばを失って、マリを見た。
「その仕事は、あなたの本業でもあるけど、あたしたちにも必要な仕事よ。わかるわね。あたしたちも、堂崎信一郎が、女子中学生の体を金でおもちゃにしたという証拠が必要なわけだもの。あたしも手伝うわ。使ってごらんなさい、あたしがどんなに役立つアシスタントだか、すぐにわかるわ」
マリは言った。野々山は黙りこくったまま、たばこの煙を吐いた。
「寝るぞ」
たばこを灰皿でもみ消して、野々山は言った。マリが明りを消して、また裸の体を添わせてきた。
野々山は眼を閉じた。眠気は訪れてこない。田中がなぜ、なにもかもを知りつくしているのか?
糸はどこにつながっているのか?
野々山は考えつづけた。いきさつをたどれば、鹿取につながりそうに思える。日比谷のホテルの、鹿取のいた部屋の前から、田中の手の者が野々山をつけてきたのだ。当然相手は、野々山と鹿取のつながりを知っていて、張込んでいたのだろう。
だが、鹿取が田中と組んで、堂崎信一郎をゆすることを企むはずはなかった。鹿取の狙いは倉島輝信だけのはずである。現に鹿取は野々山に『政治家はほっとけ。欲を出して堂崎信一郎をゆすることなど考えるな』と、前に釘をさしたことがあったのだ。仮に鹿取が堂崎をゆすろうと考えたのなら、田中一味を動かすなど、回りくどい途をえらぶはずはない。田中も堂崎をゆする仕事は野々山にも内密でやれ、と言っているのだ。だからこそ田中は、倉島の秘密のアルバムのコピーを欲しがっているではないか――。
もう一人、疑わしい人物がいる。倉島のアルバムの入った金庫のダイヤルを合わせた、牛尾という老金庫破りだ。牛尾がひそかに情報を田中に売ったということは、充分に考えられる。野々山は眠れぬままに大きな吐息をもらした。
五章 黒い天使
河合良子は、素裸で立ったまま、コーラをラッパ飲みしている。
彼女は湯からあがったばかりだった。髪がすこし濡れて、額にはりついている。
太腿や腰や乳房は、女の形を示してはいるが、十五歳という稚さはかくせない。
裸でコーラをラッパ飲みしている姿には、やはりあどけなさ、といったものが感じられる。
野々山は腰にバスタオルを巻いたままの姿で、ベッドのヘッドボードに背中をもたせかけ、たばこを吸っている。
彼の眼はどうしても、河合良子の下腹のあたりに伸びていく。
こんもりと盛り上がった彼女の恥骨のあたりは、白じらとした柔らかい光沢を放っているのだ。しげみはない。
前にはじめて河合良子とベッドを共にしたときは、淡い影のように稚くはあったが、黒いものが這うようにしてそこをまばらに覆っていたのだ。
ついいましがた、一緒に風呂に入って、野々山は、河合良子の股間の小さな異変に気づいたばかりである。
「この前、おじさんに剃られちゃったの。でも、ないのもかわいいと思わない? マシュマロみたいにフワフワしてて……」
風呂場で、河合良子は立ったまま、そこを撫でてみせながら、けろりとして言った。
そこに剃刀をあてたおじさんというのは、倉島輝信か、堂崎信一郎かにちがいない。野々山はそう思ったが、わざと詮索はしなかった。
もっと大事なことを詮索するために、野々山はその真鶴岬に近いモーテルの一室に、河合良子を連れ込んだのだから。
「飲む?」
河合良子は、中身の半分ほど残ったコーラのびんを、野々山のほうに突き出すようにした。
「あたし、もういらない」
「じゃあ飲むよ」
良子はびんを野々山に渡して、ベッドに上がり、うつ伏せになった。
野々山は良子の飲み残しのコーラを飲み干した。空っぽになったびんを、良子の裸の尻の上にころがすようにした。
ふざけてみせて、相手に気を許させておいて、不意に目的の詮索をはじめよう、という魂胆だった。
「わァ、チメタイ……」
良子は笑い声をあげて、腰をゆすった。白い尻は、底に光の粉でも沈めたように、つややかに光りながら、揺れた。
野々山は、良子の尾〓骨の下の小さな浅いくぼみに唇をつけ、そこに舌を這わせた。
「くすぐったいんだなあ、そこ……」
言いながら、良子は伏せたまま、そろえていた膝をすこしだけゆるめた。深くて長い尻の谷間が、うすい陰をまとっている。
「おもしろいこと思いついた」
良子は言い、はねるようにして仰向けに変った。
「ここにコーラのびんをはさんで……」
良子は自分の内股を指さした。いたずらっぽい、くもりのない笑いを彼女は浮かべている。
野々山も笑った。笑いながら、彼はコーラのびんを良子の内股に垂直に立てた。良子がゆるめていた太腿を合わせた。
良子の太腿や、しげみのない小さな丸いふくらみに、コーラのびんの緑色がうっすらと映っている。
「おちんちんみたい……」
良子は言ってまた笑う。無邪気なのか、すれているのかわからない感じがある。倉島輝信や堂崎信一郎に金で体を売り、乱交パーティに加わる女子中学生が、無邪気なはずはないのだが、良子にはとにかくくもりがないのだ。
野々山は良子の内股から、コーラのびんを抜きとって、ベッドの横の台に置いた。そのままにしておくと、びんを使ったもっとあくどいいたずらを、良子に対してはたらきたくなりそうだった。
いくらなんでも、そこまでするのは、十五歳の少女にはむごすぎる、という思いが、野々山には残っていた。
彼は、つややかに光っている良子の太腿に手を置いた。
その手は彼女の白いデルタを撫で、丸い愛らしい腹をさすり、脇腹をたどって乳房の上に留まった。
乳房は野々山の掌の中に包み込まれた。小さなとげのような乳首が、固くとがって野々山の掌をくすぐる。
乳房は青味をおびて透きとおるように輝いている。小さいながら、はじけそうに固くはりつめている。
静かににぎりしめるようにすると、同じ力で底から押し返してくる。
良子は笑いを消して、あらぬところに眼を投げている。表情はない。
野々山は良子の胸の上に顔を寄せ、舌の先で、乳房の上に螺旋状の線を描いた。ふくらみの裾野から、円を描きながら、乳首の頂まで這い上がっていくのだ。
野々山は時間をかけて、二つの乳房に同じことをした。唾で濡れた小さな乳首が、明るい色を見せている。
良子はようやく眼を閉じていた。瞼がふるえている。甘い波がゆるやかに彼女の体の芯に生れているようすだった。
野々山の手は、良子のしげみのないふくらみの上にあった。一本の指が、くっきりとしたクレバスに添って下に伸びている。
野々山は指先に、熱くぬめるものを感じていた。
「おれと組んで、金儲けをやる気はない?」
野々山は言った。河合良子は、裸の野々山の腹の上に頭をのせている。顔は野々山の股間に向けられていた。
「何の金儲け?」
良子はすっかり鎮静状態にもどった野々山の分身を、手でもてあそびながら言った。
「いろいろと方法はあるけどね」
野々山は良子の髪や裸の肩を撫ではじめた。良子の肌はまだ抱擁の後の火照りをとどめている。
「いろいろって、たとえば?」
「たとえばさ、いま、きみたちが倉島輝信とか、政治家の堂崎信一郎たちを相手にやっているような金儲けなんて、どう?」
「それをやるとして、あたしとどういうことで組むの?」
「おれが、うんとお金持ちで、絶対に信用のおける客をきみたちに世話をするわけだよ」
「それで?」
「それでって、それだけさ」
「あんまり利口な金儲けじゃないわね」
「どうして?」
「だって、それだと、儲かるのはあたしより、そっちのほうなんだもん」
「そうかね?」
「そうよ。お客を世話するだけでお金が入ってくるのなら、これはうまい話だけど、お客を相手にするあたしたちには、特別もうかるって話じゃないじゃない」
「そりゃそうだけど、でも、きみたちが倉島輝信さんたちの相手をするようになったのも、はじめは誰かの世話があったからじゃないのかい?」
野々山は、さりげなく、話を本来の彼の目的のほうに引き寄せていった。
河合良子は返事をしなかった。野々山の腹の上に置いた頭をもたげて、彼女は視線を向けてきた。
「誰がきみたちにアルバイトの世話をしたの?」
「それ聞いてどうする気?」
「どうもしやしないさ。ただ、きみたちを客に世話して金を稼いでる人間が現にいるんだから、おれも同じことをしてお金を儲けたいと思っただけだよ」
「おとなってずるいんだから……」
「そうかな?」
「そうよ。結局、あたしたちを利用して、お金を手に入れようという考えでしょう?」
「お金はきみたちの手にも入る。倉島さんの熱海の別荘に一回行くと、いくらもらえるの? きみたち……」
「なにか勘ちがいしてるみたい」
「誰が?」
「あなたがよ」
「どうして?」
「熱海に行っても、あたしたち、お金なんてもらってないのよ」
「おいおい、からかっちゃいけないよ」
「ほんとよ。からかってなんかいないわ」
「へえ、こりゃおどろいた。すると、きみたちは、セックスだけが目的で、よりによってあんないやらしい変態のじいさんを相手にしてるっていうわけなの?」
「おかしい?」
「おかしいね。ぜんぜん、おかしい」
「わかってないのよ」
「そうかね」
「セックスしたいからって、若い男なんか相手にしてたら、厄介なことになるわ」
「妊娠?」
「それもあるし、若い男ってうるさいわけ。そこにいくと、年寄りはあたしたちを妊娠させるようなヘマはやらないし、やさしいし、あたしたちの言いなりになるから、ずっと気が楽なのよ。それでいて、あたしたちの性的な好奇心だって満たされるし……」
「変態の性的好奇心かい?」
「気味がいいのよ、変態のおじさんたちの相手してると……」
「気味がわるいんじゃないのかい?」
「逆よ。だって、大会社の社長とかいってさ、外では立派そうにしてるおとながさ、裸になると、あたしたちの馬になったり、おしっこかけられたりしてよろこんでるじゃない。化けの皮を剥がれたおとなを見てる気がして、ざまあみろって思っちゃう。それが気味がいいのよ」
「でも、前にはきみ、倉島さんたちの相手するのはアルバイトだって言ってたじゃないか。おれとはじめて会ったとき」
「そりゃ、お小遣いぐらいもらうわよ。向うがくれるって言うんだもの。でも、アルバイトとか、そういう商売的な気持はないわ、あたしたちには……」
「商売じゃなくても、とにかく最初のきっかけはあったんだろう? 倉島さんたちの相手をするようになったきっかけは……」
「きっかけなんて別にないわ。ただ、なんとなくよ」
「まさか、大会社の社長の倉島さんが、街できみたちに声をかけてきたわけじゃないだろう?」
「こだわるわね、そのことに。なぜ?」
河合良子はベッドの上に坐った。眼には警戒の色があらわになっていた。野々山は聞込みの失敗を感じた。
「こだわるわけじゃないけどね。ただ、大会社の社長とか、有力政治家とかと、女子中学生という取合わせが、ちょっと不思議に思えただけだよ。誰かマネージャーみたいなことしてるおとながいるのかな、と誰だって思うだろう?」
「思うのはその人の勝手だけど、マネージャーなんて絶対にいないわ」
河合良子は必死の面持を見せて言った。野々山は詮索をやめた。それ以上深追いをしては、後がやりにくいと思ったのだ。十五歳の女の子だと思って、甘く見たのが失敗の因だった。
相手は意外にしぶとかった。それがしぶとさの現われではないとすれば、河合良子は、彼女たちのグループの売春をとりしきっている人物を、よほど怖がっているのだろう。だから口が固いのだ。彼女らの黒いアルバイトに、マネージャー役の人物がいないはずはないのだから――野々山はそう考えた。
つぎの日から、野々山は河合良子の尾行をはじめた。
プロの恐喝屋を自称する、正体不明の田中という男がさしむけてきたマリという女が、尾行のアシスタントをつとめた。
河合良子の行動をマークしていれば、必ず彼女は、売春のマネージャーに接触するはずだ、と野々山は考えた。
そのマネージャーを証人にすれば、倉島輝信と堂崎信一郎が、金で女子中学生の肉体をおもちゃにしている事実は立証される。
それは鹿取の意を受けて、倉島輝信をゼネラル通商の社長の椅子から追い落すための工作をしている野々山にとっても、堂崎信一郎をゆすろうとはかっている恐喝屋の田中たち一味にとっても、ともに必要な事柄だった。
そのために、マリはばかに張りきって、アシスタントの仕事についたのだった。
河合良子が通っている私立中学校は、九段にある。いわゆる良家の子女が集る学校として知られていた。
良子の家は吉祥寺にある。彼女はそこで両親と弟の四人で暮らしている。そこまでは野々山はすでにつかんでいた。
尾行をはじめたその日に、河合良子は気になる動きを見せた。
彼女が九段の学校の校門から、下校のようすで姿を現わしたのは、午後四時近くだった。野々山とマリは、校門の見える場所に車を停めていた。
校門の二百メートルほど先にバス停があった。河合良子はそのバス停で足を停めた。マリが車を出して、バス停との距離を詰めた。マリはすぐに車を停めた。河合良子がバスに乗れば、そのままバスを尾行するつもりだった。
だが、河合良子はバスには乗らなかった。彼女は五分ばかりそこに立っていたのだが、タクシーの空車が通りかかると、手をあげて停め、乗り込んだ。同じ中学の制服を着た女の子たちが、バス停にたむろしていた。彼女たちはタクシーに乗る良子を見て、ちょっとはやしたてるようなようすを見せた。
河合良子の乗ったタクシーは、新宿駅の東口に停まった。車を降りた良子は、駅ビルの階段を降りて行く。マリはすぐに車を降りて、河合良子のあとを追った。
十五分余り後に、河合良子は、降りていったのと同じ場所の階段を上がってきた。服装が変っていた。彼女は学校の制服姿ではなかった。黄色いコールテンのパンツに、白の長袖のTシャツを着ていた。靴はスニーカーに変っている。
階段を上がってくる河合良子のうしろに、マリの姿があった。
良子は階段を上がりきると、タクシー乗場のすぐ近くにたたずんだ。タクシーの空車の列には見向きもしない。
マリは階段を上がりきったところに、目立たないようすで立っている。
やがて、一台の乗用車が河合良子の立っている前に停まった。銀色のポルシェだった。河合良子が、ポルシェのほうにゆっくりと足を踏み出した。
野々山はポルシェの運転席に眼をやった。派手な格子柄のジャケットを着た、四十前後の男が乗っていた。長い髪を形よくまとめて、メタルフレームのサングラスをかけている。まともな商売の男には見えない。
思ったとおり、河合良子はポルシェに乗りこんだ。男はそれを待って車を出した。
マリが客待ちのタクシーの列を突っきって、野々山の車にかけ寄ってきた。
「あの子、駅の有料トイレで、服を着換えたわ。着換えはコインロッカーに入れてたの」
言いながら、マリは車を出し、ポルシェを追いはじめた。
「何者かね? あのポルシェの男……」
「なんだかにやけた中年男だったわね。芸能人て感じじゃない?」
マリは言った。たしかにそういう感じはあった。ポルシェは青梅街道に向って行く。
青梅街道は、夕方をひかえて車が込みはじめていた。
河合良子を乗せた銀色のポルシェは、急ぐようすもなく、車の列に加わって走っていく。マリは間に車を二台はさんだまま、尾行をつづけた。
「河合良子の住んでる家はどこ?」
マリが訊いた。
「吉祥寺だよ」
「家まで送っていく気かしら?」
「それはないと思うな」
野々山は言った。相手の行先など、見当のつけようがない。だが、河合良子は、新宿駅の有料トイレの中で、学校の制服を私服に着換えているのだ。そのまま家に帰ったら、家族の不審を招くはずである。
「そうか。そうよね。あの子、私服に着換えたんだものね」
マリもそのことに思いついたらしい。そう言った。
ポルシェは環状七号線に出ると、そこを左折した。マリもあとについて曲った。マリの運転する野々山の車は、ポルシェのすぐうしろにつくことになった。
マリはすぐに、スピードを落して、ポルシェの距離をあけた。間に眼隠し用の他の車をはさむためだった。
その短い間に、前を行くポルシェの車内が、野々山とマリの眼に遮るものなしに見とおせた。
ポルシェの助手席の河合良子は、運転している派手な格子柄の中年男のほうに顔を向けて、何かしきりに話していた。
野々山は車のダッシュボードの下の物入れから、望遠鏡をとり出して、眼にあてた。望遠鏡は、鹿取の陰の仕事をするようになってから買い求めて、いつも車に積んである。
レンズが捉えた河合良子は、ひどく真剣な表情の横顔を見せていた。唇がさかんに動いている。野々山は読唇術の心得のないことをくやんだ。
やがて、ポルシェと野々山たちの車の間に、また二台の乗用車が割り込んできた。野々山は望遠鏡を物入れに押し込んだ。
ポルシェは代田橋の交差点が近づくと、左側の車線に移った。左折の準備というふうに見えた。
代田橋を左折すれば、甲州街道をふたたび新宿に向うことになる。
「わけがわからんな」
「そうね。まさかまた新宿にもどる気じゃないでしょうね」
野々山とマリは言い合った。
「ただのドライブにしては、コースが妙だしな」
案の定、ポルシェは代田橋を左折した。そのまま新宿に向っていく。
結局、ポルシェは、ふたたび新宿駅の東口に停まり、そこで河合良子をおろした。
「くそ。ぐるりと一周しただけか」
「あたし、河合良子を追うわ」
マリは言いすてて、車を降りた。
河合良子はポルシェのドアをしめると、もう運転席にいる男を見向きもせずに、駅の構内に向っていく。マリがその後を追った。
ポルシェは河合良子をおろすとすぐに、走り出した。甲州街道の下をくぐって、新宿駅の南側に出る、細い道を進んでいく。野々山は運転席に移って、ポルシェの後を追った。
ポルシェは細い道を進んで明治通りに出た。そこから右折して、渋谷の方向に進んでいく。
野々山には、ポルシェの男が、なんのために河合良子を車に乗せたのか、わからない。
考えられることは、一つだけだった。男と河合良子が、会談の場所として、走る車の中を利用した、ということである。
もし二人の話の内容が、密談というふうなものであったとしたら、そのための場所としては、まことにうまい選び方をしたものだった。
ポルシェは明治通りと表参道との交差点を左折して、青山通りに出た。
青山通りを突っ切ると、すぐに右折して細い道に入った。
マンションらしい建物がいくつか並んでいた。
ポルシェはその建物の一つの門の中に、やがて消えた。門柱にサンハイツ青山という表札があった。
野々山はその門を過ぎたところで車を停めた。すぐに車を降り、マンションの門の前まで引き返した。
派手な格子柄のジャケットの男が、マンションの玄関を入っていくのが見えた。ポルシェは駐車場に停めてきたものと思えた。
野々山は思いきって、マンションの門をくぐった。
玄関のガラスごしに、男のうしろ姿が見えている。男は入口のすぐ横手の壁の前で足を停めた。メールボックスの前らしい。
男はすぐに玄関ホールを奥に向っていく。その手には郵便物の束と新聞らしいものがにぎられている。それまで男は手ぶらだったのだ。
野々山はマンションの玄関を入った。男はちょうどエレベーターに乗るところだった。エレベーターのドアはすぐに閉まった。
野々山はメールボックスに歩み寄った。メールボックスには、部屋番号と居住者の名前を記した、透明のプラスチック板の蓋がついていた。
その蓋の一つがまだ小さく揺れていた。男が郵便物や新聞らしいものを取り出したのは、その函にちがいない、と野々山は確信した。
郵便受の透明な蓋には〈四〇八 牧プロダクション〉というネームカードがあった。
野々山は急いでエレベーターの前に行った。エレベーターのゲージランプは、四階を示したままである。男が四階で降りたまま、エレベーターはそこに停まっているのだ。
野々山はあらためて、ポルシェの男の派手でどこか軽薄な感じのする身なりを思い出した。
芸能プロダクションとしての牧プロダクションの名前は、野々山も知っている。芸能プロダクションとしては新興勢力だが、若手の人気歌手を何人か抱えて、ここ数年の間にのしてきている会社だった。
ポルシェの男が、その牧プロの者か、あるいは親しく出入りしている者であることは、メールボックスから郵便物を抜き取って行ったことからみて、ほぼまちがいない、と思えた。
野々山はそれ以上、男を深追いすることを、ひとまず断念して、マンションの玄関を出た。
マンションの門の先に停めた車にもどって、野々山は運転席に乗り込んだ。
河合良子の後を追った、マリの動きが気になったが、連絡はつけようがない。高円寺のアパートにもどって、マリからの電話を待つか、彼女の帰りを待つかしかない。
野々山はふと、及川友美に会うことを考えた。
会わなければならない用は、さしあたりなかった。鹿取とは前日の夕方に、日比谷のホテルで会って、必要な連絡と打ち合わせはすんでいる。
当面の攻略目標である、ゼネラル通商専務の内藤宗夫の首を吹っとばす材料も、福岡で仕入れてきて、前日に鹿取に渡したばかりだった。
及川友美に会ってみようと考えたのは、彼女にそれとなく、恐喝屋の田中と名乗る男のことを当ってみることを思いついたためである。
考えてみれば、及川友美も、野々山が倉島輝信の秘密のアルバムを8ミリフィルムにコピーした事実を知っている一人である。
鹿取の忠実な味方である及川友美を、野々山は疑ってはいない。
疑ってはいないが、さりげなく及川友美を突ついてみれば、恐喝屋の田中の素性をつかむヒントぐらいは、あるいは得られるかもしれない――野々山はそう考えた。
彼はスカイラインのエンジンをかけた。数メートル先に、黒いクラウンが一台停まっていた。野々山がそこに車を停めたときには、クラウンの姿はなかった。
野々山はそれを気にもとめず、車をスタートさせようとした。
とたんにクラウンがすばやくすべるようにバックをしてきたのだ。野々山はあわててアクセルをはなし、ブレーキと踏みかえた。彼はムッとして、フロントガラスごしに前に目を向けた。
クラウンの運転席のドアがあいた。野々山は車から降りてきた男を見て、眼をすえた。相手は田中の下ではたらいている若い小肥りの男だった。前の日の夕方、日比谷のホテルの、鹿取の部屋の前の廊下にいて、後で鈴木と名乗る男と合流し、眼隠しをした野々山を田中のマンションに運ぶ車を運転していた男である。
男が鈴木に、佐藤という名前で呼ばれていたことを、野々山は思い出した。田中に鈴木に佐藤にマリ――いずれもよくある名前である。それだけに偽名くさい。
「ごくろうさまです……」
佐藤は野々山の車の助手席のドアを開けると、そう言って黙って乗り込んできた。にこりともしない。無表情である。
「尾行してるそっちこそごくろうさんだな」
野々山は皮肉を言った。こっちの動きを田中がマークしていることは、野々山はマリに聞かされて知っていた。
「あなたが尾行してた、さっきのおしゃれな男のことを、ちょっと知らせてあげようと思って、待ってたんですよ」
佐藤はあいかわらず表情を変えずに言う。
「知ってんのかい? あの男を」
野々山は意外に思った。
「面識はないが、素性は知ってます。奴は牧プロダクションの社長で、牧信夫って男ですよ。若いころはジャズのトランペット吹きとして、ちょっと鳴らしたって話です」
「どうしてあんた、そういうこと知ってんだい?」
「うちの田中は情報通でね。その下にいればこっちもいろんなことを知るようになりますよ」
「なるほど。で、ついでに情報通の手下のあんたに訊くけど、芸能プロの社長の牧が、どういうわけで、堂崎信一郎たちに体を売ってる女子中学生を、ポルシェに乗っけて、わけのわからないドライブなんかしたのかね?」
「それを調べるのはあなたの仕事です。こっちはただ、横からお手伝いをするだけ。いわば、下働きですよ。しっかりやってくださいよ、野々山さん。じゃあ……」
佐藤は言って、車を降りた。
「あ、あの女子中学生のほうは、マリがうまくやってくれますよ。ああいう小娘を扱うのは、あなたよりはマリのほうがうまいはずです」
佐藤は言って、ドアを閉め、クラウンにもどっていった。
野々山は、走り出していくクラウンを眼で追いながら、歯がみしたまま、くそ! と呟いた。田中の一味に完全に操られている自分が、くやしくてならなかった。
三時間後――。
マリは赤坂の会員制ホテルの一室にいた。河合良子が一緒だった。
二人は外で食事をすませて、ホテルの部屋に入ったばかりだった。時刻は午後八時をまわったばかりである。
マリも河合良子も、手に大きな紙袋をさげていた。いずれも原宿の高級ブティックとして知られた店の名の入った袋である。
マリが河合良子に声をかけたのは、新宿駅の有料トイレの中だった。
河合良子はそのとき、その前とは逆に、私服から学校の制服に着換えるために、有料トイレに入ってきたのだった。
『やるわね。あなたも……』
マリは河合良子にだしぬけにそう言った。河合良子はきょとんとなって足を停めた。
『今度は私服から制服に着換えて、お家に帰ろうっていうんでしょ? 品行方正な女子中学生に化けて……』
マリは柔らかく笑った顔でことばをつづけた。河合良子は表情を固くした。
『そんな、警戒しなくったっていいのよ。あたしだって、覚えがあるわ。あたし、あなたみたいにかわいらしい顔してて、ちょっとワルって感じの子って、好きなの。お友だちにならない?』
マリは強引で巧妙だった。
原宿で買物するから、見立てを手伝ってほしい、と言ってたちまち手なずけてしまった。原宿のブティックでは、マリは河合良子にもパンツとブルゾンを気前よく買ってやった。そのころには、河合良子もかなりうちとけたようすに変っていた。
原宿から、六本木の小さなフランス料理の店に行った。席がふさがっていて待たされた。ボーイがアペリチーフを持ってきた。マリは店の者の眼にも明らかに未成年と判る河合良子にも、食前酒を持ってくるように平気でボーイに命じた。
マリがたばこをすすめると、河合良子はこれも平気な顔をして、器用に火をつけ、煙を吸った。
マリは食事をしながら、自分は横浜の関内と銀座でクラブを経営しているのだ、と問わず語りに言って聞かせた。仕事で東京に出てきたときは、ホテルに泊っているとふれ込み、ことば巧みに河合良子をホテルに誘ったのである。
河合良子は、マリにすっかり好奇心を抱いたようすだった。マリはそれをそそるように、いかにも金に不自由しない、美貌のクラブのママであり、ちょっぴりプレイガールでもあるふうにふるまって見せた。
「疲れたでしょう、あちこち引っぱりまわしちゃったから……」
ホテルの部屋に入ると、マリは言った。
「平気です……」
河合良子は言い、マリがベッドの上に放り出すようにして置いた買物の紙袋を、部屋の隅の荷物台の上に片づけたりした。
「おそくなってもお家の人、心配しない?」
マリは窓ぎわの椅子に腰をおろして言った。河合良子も向き合って椅子に坐った。
「だいじょうぶです」
「信用あるのね」
「だって、原宿のお店出るときに、電話をしたでしょう」
「ああ、そうだったわね。それじゃあ、あと一時間ばかり、あたしにつき合ってくれるかしら?」
「新宿駅のコインロッカーが十一時には閉まるから、それまでならかまいません」
「そうね。そんなにおそくはならないわ」
「なにをおつき合いするんですか?」
「たいしたことじゃないの。あたし、お風呂に入るから、一緒に入ってほしいの」
マリはなんでもないといった口調で言った。河合良子の眼に困惑の色が生れた。
「お風呂にですか?」
「あたし、お風呂で人に体洗ってもらうのがとっても好きなの。いいでしょう?」
「はい……」
ばかに神妙な返事をして、河合良子は眼を伏せた。
「じゃあ、バスタブにお湯を溜めてきて」
「はい……」
河合良子は立ち上がって、浴室に行った。
マリはベッドの横の台に組み込まれたラジオのスイッチを入れた。すぐにバックグラウンドミュージックにダイヤルを変えた。静かな音楽が部屋に流れはじめた。
マリは服を脱ぎはじめた。河合良子が浴室からもどってきた。
「あなたもお脱ぎなさい」
マリは言った。河合良子はうなずいた。
マリはバスタブに体を沈めた。
河合良子は、バスタブの横に立っていた。体を洗ってくれとマリに言われたものの、どうしていいのかわからない、といったようすだった。両手は股間を覆っている。
「あなたもお入りなさい」
マリは河合良子を見上げて言った。柔らかい表情だが、ことばつきにはさっきから、ある種の強さがこめられている。
そのために、二人の間には、美しい女主人と、それにかしずく美しい稚い召使いといった空気が生れていた。
河合良子は、促されてためらいがちに、バスタブに足を入れた。
だが、マリが湯の中に体を横たえて、両足をのばしているのだ。河合良子がしゃがむ場所はない。
「かまわないから、あたしの脚の上にお尻をのせて、あなたもあたしのほうに足を伸ばしなさい」
「はい……」
河合良子は、まるで呑まれたように従順だった。
湯の中で二人は離れて向き合った。二人の女の脚が、バスタブの底で交錯した。
「あの、洗いましょうか……」
河合良子は言った。
「お願いするわ」
マリはシャワーキャップをかぶった頭を、バスタブの縁にのせて、眼を閉じたまま言った。
河合良子は、石鹸の袋を破り、バスタブの底に両膝を突いて、マリににじり寄った。マリは片方の膝を折り、それを河合良子の膝の外側に出して伸ばした。
河合良子は、バスタブの幅いっぱいにひろげられたマリの膝と膝の間にはさまれる恰好になっていた。
湯の中に横たわったマリの姿は、たいそうしどけないものになっている。
河合良子は、マリの両腕、肩、胸という順に、石鹸を塗りつけた。そこを河合良子の両手が、おそるおそるといったようすで、静かに洗いはじめる。
河合良子がマリの手の指を洗いにかかると、マリは良子の指に自分の指を小さく絡めるようなことをした。
良子がマリの乳房を洗いはじめると、マリはうっとりとしたようすで眼を閉じ、長い息を吐いたりした。
「乳首もよく洗ってね」
「はい……」
良子はマリの乳首を指先で揉むようにした。マリの口からかすかな声がもれた。
やがてマリはバスタブの中で立ち上がった。良子はその前にしゃがんで、マリの体に石鹸を塗り、その後を手で洗っていった。その手はマリの黒いしげみのあたりだけを避けて動いた。
「だめよ、洗い残しちゃ。隅から隅まで洗ってちょうだい」
「はい……」
良子の声はかすかにふるえていた。彼女はマリのしげみを泡で白く染め、さらにマリのゆるく開いた両脚の付根に手をさし入れた。
その手はマリのクレバスに沈み、そこを石鹸の泡で埋め、さらにうしろの部分にも伸びて、固くひきしまった小さなくぼみを洗い立てた。
そのときもマリは、立ったまま大きく首をうしろに折って、細くふるえる声をもらしてみせた。
良子が足の指まで一本ずつすべて洗い終ると、マリは言った。
「あなたも洗ってあげるわ。立ちなさい」
「だって、恥かしいわ」
「なに言ってるの。女同士で恥かしいはないでしょう。いい気持よ、人に洗ってもらうのって。はい、立って……」
良子はそろそろと立ち上がった。マリはたちまち、良子の全身を泡だらけにした。
マリの手つきは、体を洗うためというよりも、もうはっきりと愛撫を目的としたものになっていた。
「かわいいおっぱいね」
マリは言いながら、指を伸ばして強く反らせた手で、良子の稚く固い乳房の表面を、掃くようなやり方で、静かにさすった。
そうしながら、マリのもう一つの手は、河合良子の頸すじを這い、背中や腰をゆっくりとさすり、太腿に移り、していた。
河合良子が、快感を覚えていることははっきりしていた。彼女は眼をうすく閉じ、小さくあえぎながら、何回も小刻みに体をわななかせた。小さな乳首が透明な明るい色に輝いてとがり、泡の下から頭をのぞかせていた。
マリの手は、河合良子の下腹部の、白いふくらみを撫ではじめていた。
「あなた、ここのヘア、剃ってるでしょう」
だしぬけにマリは言った。
「はい……」
「道理で、ちょっとざらつくと思ったわ。剃ったあとが伸びかけてきてるのね。どうして剃ったりしたの?」
「ちょっと、いたずらしただけです」
「ほんとかしら。誰かに剃られたんじゃないの? 気をつけなさいよ。世の中にはお金持ちの変態中年が意外に多いのよ。そんなのにだまされると、ほんとにここのヘア剃られちゃうわよ」
「はい……」
河合良子はこわばった声で返事をした。
「さあ、シャワーを浴びましょうね」
マリはすぐに話題を変え、シャワーの湯を出した。ひろがって落ちるシャワーの湯の中で、マリは良子を腕の中に抱きしめた。
マリの唇が良子の唇に重ねられた。強い力で腰を抱き寄せてきたのは、河合良子のほうだった。
「ベッドのカバーをはずしなさい。毛布もはぐってちょうだい」
浴室から出て部屋にもどると、マリは言った。河合良子はベッドカバーをはずして、かたわらの椅子の上に置いた。毛布も足のほうにめくって折った。
「あなたもいらっしゃい……」
マリは素裸のまま、ベッドに横たわって言った。良子も体に何ひとつまとっていなかった。
マリは並んで体を横たえた良子の胸に胸を重ねた。マリの豊かな乳房が、良子の小さな乳房を押した。形を変えたのは、マリの乳房だった。
マリはわずかに体を浮かして、自分の乳首で、良子の乳首を静かに撫でるようにした。
「ああ……」
良子は声をもらした。閉じた瞼が小さくふるえていた。声は二度、つづけてもれた。
良子が下からマリの頸を抱いた。マリも良子の頸を抱いた。
深いキスが交された。マリの舌はゆるやかに舞いながら、良子の舌を捉え、唇の縁をなぞり、やがて良子の喉や頸すじを這った。
二人の手が、たがいに乳房をまさぐり合った。二人の乳房は何回となく重なって、一つになった。
マリの手は絶えず良子の全身を撫でさすりつづけた。そのときも彼女の手は強く反っていて、しかし良子の肌には常に触れるか触れないか、といった微妙な動き方を終始変えなかった。
良子はいつか、ただもう一方的に愛撫を受けるだけになっていた。彼女は押し殺したあえぎと声をもらしつづけ、ものうげに体を動かした。
やがてマリは、しげみを失った良子の丸い小さな丘に唇をつけた。マリの赤い舌が長く伸びて、丘の裾に向って伸びた。
「いやァん」
良子は泣き声に似た声をあげた。マリは小さな白い丘に唇や舌をつけたまま、良子の膝を開かせ、その間に自分の体を移して腹這いになった。
マリの舌は、良子の太腿を這い、内股を唇がついばみまわった。良子の白いクレバスは、湧き出るもので濡れて光っていた。
マリの舌や唇が、太腿や内股を這うたびに、そこにさざ波のようなふるえが生れて、それはすべて、良子の白いはざまの中心に集っていくふうに見えた。
マリは長い間その愛撫をつづけた末に、ようやくとがらせた舌の先で良子のクレバスを分けた。舌ははじめ、クレバスの下方の小さなくぼみに当てられ、そこからゆっくりと這い上がり、良子の花の芽を捉えた。
とたんに良子は短く高い声をあげ、喉を詰まらせた。
舌は良子の花の芽の上で、やはり掃くような柔らかさで静かに躍りつづけた。マリはそれをつづけながら、伸ばした手で良子の乳房をさすり、柔らかく揉み、指の間にそっと乳首をはさみつけたりした。
また、マリの手はときどき、良子の熱いはざまの中心の、柔らかいくぼみの周辺を、やはり静かにさすり、うるみをたたえた淵に浅く沈んだりもした。
「ああ、お姉さん……」
長いその愛撫の間に、良子は何回もうわ言のようにそう口走った。声はかすれていた。
二人の女の白い肌が、部屋の明りをにぶく映して光り、たがいの肌の色を映し合っていた。
やがて、良子は体の横に伸ばした手で、しっかりとシーツをつかみ、はげしい呼吸を見せはじめた。丸い腹が、その呼吸につれて大きく波を打った。背すじが強く反って、小さなアーチをこしらえた。良子の花の芽を捉えている舌の動きは、良子の呼吸のせわしなさとは逆に、かえってゆったりとしたものに変っている。
不意に良子は短くするどい叫び声を放って、深く腰を沈めた。全身に固い痙攣が走った。マリは舌の動きを停め、花の芽と、その下の小さなくぼみとに、交互に強く唇を押しつけた。
良子は詰めていた呼吸を、強い声と共に吐き、身をよじるようにして、とぎれとぎれの甘い声を出した。
シーツをつかんでいた良子の手がゆるみ、大きな吐息がもれた。
マリはそれを見届けると、体を起した。そのまま彼女は上から良子に胸を重ねて抱きしめた。
「かわいい子……」
「お姉さん……」
二人の女の唇が重なった。舌が深く絡み合った。
「こんどはあたしにさせて。お願い……」
良子はマリの形のいい腰や臀部をさすりながら言った。
マリは笑って良子の体の上から降り、仰向けになった。良子はすぐにマリの乳房に手をかけ、片方の乳首を口にふくんだ。
そうしながら良子は、太腿の間にマリの片方の腿をはさむようにした。良子の太腿は、マリのしげみの下のふくらみに、軽くあてがわれたまま、静かにさするようにうごめいている。
マリのこんもりとしげったヘアが、良子の白い太腿に映えた。
「いい子ね。なかなか上手よ……」
マリは乳首に舌を這わせている良子の髪をまさぐりながら、笑った顔で言った。
「たばこ、取ってちょうだい」
ベッドに手足をしどけなく投げ出したまま、マリは言った。
良子はまだ、仰向けになったマリの腰を抱き、しげみに頬をつけたまま、静かに息をはいている。
「あたし、お姉さんによろこんでいただけたかしら……。自信ないわ」
良子は言ってから、裸のままベッドを降り、窓ぎわのテーブルの上のマリのたばことライターを取ってきた。
「たばこ、くわえさせて」
マリは眼を閉じたまま言った。良子は袋から抜きとったロングサイズのケントを、マリの唇にくわえさせた。
「火もつけて……」
「はい……」
良子はライターを鳴らし、たばこの先に炎を近づけた。マリは深く煙を吸い、静かに吐いて言った。
「おどろいたわ」
「なにが……」
「あなたにすっかり夢中にさせられちゃった。まだ眼もあかないぐらいよ」
「ほんと。うれしい」
良子は言い、マリにしがみついてきて、乳房に頬ずりした。
「正直に言って、あたしわれを忘れたわ」
「あたしだってよ、お姉さま」
「どこで覚えたの、あなた?」
「覚えたなんて……。あたし、こんなことしたのはじめてよ」
「ほんと? 良子」
「嘘なんかつかないわ」
「女同士というのは、たしかにほんとうかもしれないわね」
「いや、そんな言い方。ほんとうかも、だなんて……」
「でも、ちょっとひっかかるのよね」
「なにが?」
「どこかちがうの」
「ちがうって?」
「良子の愛し方って、まるで男が女の人にするのみたいなところがあるの」
「あたし、そんなことわからないわ。ただお姉さまによろこんでいただきたくて、夢中でしただけだわ」
「あたし、してもらったことに文句つけてるんじゃないのよ、良子。でも、正直に言ってほしいの」
「なにを?」
「あなた、女の人とははじめてでしょうけど、男の人とは経験あるわよね。あるはずだわ。あたしにはわかるの。あたしだって、男の人とも経験あるもの」
「わかるんですか?」
「わかるのよね。あなたがあたしにしてくれたやり方は、さっきも言ったけど、男の人のやり方ね」
「わかるんですか?」
「わかるわよ、それは。あなたは男の人に自分がしてもらったようなやり方をまねて、あたしをよろこばせてくれたの」
「どうちがうの?」
「微妙なちがい、としか言いようがないけど、ちがうのよね」
「すごいわ、お姉さま、そんなことまでわかっちゃうんだから……。でも、男の人よりお姉さまのほうがすてきだったわ」
良子は、マリの魂胆には気づかず、うっとりした口調で言って、マリの乳房を静かにさすりつづけている。
「もう一つ、あたしにわかったことがあるのよ」
「あたしのことで?」
「そう。あなたの経験した男の人の中には、うんとお年を召したおじちゃまか、おじいちゃまがいるはずよ」
「どうして?」
「あなた、そのおじちゃまかおじいちゃまに、ここ、剃られたんでしょう。ちがう?」
マリは良子の下腹の、白い小さな丘に静かに手を置いて言った。眼は良子の眼の奥をのぞき込むようにしている。良子はしばらくは、押し黙ったまま、マリを見返していた。その眼ははげしく揺れている。
「いやだわ、あたし……」
しばらくして、良子は呟くような低い声で言った。
「なにがいやなの?」
「だって、お姉さま、怖い……」
「どうして?」
「まるであたしのこと、なにもかも知ってるみたいなんだもの」
「だって、あたしと良子は、もうなにもかも知り合った仲じゃないの。そうでしょう」
マリのことばに、良子は固い表情でうなずいた。
10
「聞かせてちょうだい。あたしのかわいい良子のここを剃ったりした、わるい男のこと」
マリはベッドに横たわったままで、河合良子を胸に抱きしめ、片手で良子の白いままのデルタを撫でてささやいた。マリの指先は、デルタを撫でながら、ときおり良子の細い線のようにしか見えないクレバスの底に、浅く沈む。
「だって、恥かしいわ」
良子はまたあえぐような息づかいになりながら、細い声で言った。良子の唇は、マリの乳首にかかっている。
「いいから言いなさい。もうあたしたちの間に秘密は許されないのよ」
マリはわざと強い口調で言った。
「言わなきゃだめ?」
「だめよ。ここのヘアを剃った人は、どこのおじちゃまなの? 名前は?」
「おじちゃまにはちがいないけど、名前は勘弁して……」
「どうして?」
「地位のある人なの、その人たち……」
「たち? その人たちって、相手は一人じゃないのね」
良子はマリの乳房に顔をつけたまま、小さくうなずいた。乳房が押されてはずんだ。
マリの手は、良子の内股やデルタや太腿を這いまわっている。
「何人なの、相手は。かわいい良子をおもちゃにしてよろこんでいる変態おじちゃまは、何人いるの?」
「二人だけなの。ごめんなさい」
「どういうことからそういうおじちゃまの相手をするようになったか、ちゃんと話したら許してあげるわ」
マリの二本の指が、良子のクレバスをゆるく分け、小さな芽のふくらみに似たものをむき出しにした。そこにマリの別の指がやさしく躍りはじめた。河合良子は細い声をあげてマリの乳首を吸った。
「早く、正直に話しなさい」
「だって、お姉さまの手が……」
「手がどうしたの?」
「いたずらするから、頭がかすんで口がきけないわ」
「じゃ、やめる」
「いや、やめないで。誘われて、おじちゃまの相手をするようになったのよ」
「お金でおじちゃまに誘われたの?」
「お金もあるけど……」
「他になにがあるっていうの?」
「女優にあたし、なりたいの。だから」
「女優に? おじちゃまたちの相手をしたら女優になれるとでもいうの?」
「そう言って誘われたし、同じことをして歌手になった人が、あたしの学校の先輩にいるの」
「誰?」
「青柳純子って歌手……」
「売れっ子じゃない」
「その青柳さんが直接、あたしにそう言ったの」
「おじちゃまたちの相手をすれば、歌手や女優になれるって?」
「社会的な地位もあるし、力もお金もあるおじちゃまたちだから、コネとしてはとっても有力だって……」
「じゃあ、良子をその変態おじちゃまに紹介したのは、青柳純子なのね?」
「それはちがうの。青柳さんは口添えをしただけよ」
「なんの口添え?」
「あたしたちをスカウトして、おじちゃまたちに世話をした男の人のために、青柳さんはあたしたちを説得しただけなの」
「世話した男の人ってのは、どういう人?」
「お姉さま、誰にも言わないって約束してくださる?」
「誰にも言いはしないわよ。もしあたしが誰かにしゃべったって判ったら、あなたはあたしがあなたを誘惑してホテルに連れこんで、レズの相手をさせたって言いふらしてもいいわ」
「あたし、お姉さまを信用してるわ。ただ、世話した男の人もこわいし、おじちゃまたちだって、世の中では力を持ってる人たちだから、こわいの」
「安心しなさい。聞いたことはあたしと良子の二人だけの秘密にしとくわ。ただ、あたしは、良子のかわいい体をおもちゃにしてる男たちが、にくたらしいだけ。だからしつこく訊くの。聞かなきゃ気がすまないの」
マリは言い、両腕でまた良子を胸に強く抱きしめ、唇を重ねた。
「あたしたちをおじちゃまたちに世話した人は、青柳純子さんが所属している芸能プロダクションの社長さんなの」
「なんというプロダクション?」
「牧プロダクション……」
「社長さんはなんていうお名前?」
「牧信夫という人よ」
「その人が、おじちゃまたちのベッドのお相手をすれば、やがて女優にしてもらえるって言ったのね?」
「そうなの。それに、青柳純子さんに、自分の体験をもとに説得されて、あたしたちもつい、その気になって……」
「あたしたちって、他にもいるのね?」
「四、五人いるわ」
「近ごろの女子中学生はすごいって聞いてはいたけど、ほんとにやるわね、なかなか」
「ごめんなさい。でも、あたし、男の人っていや。好きになれない。お姉さまがやめなさいって言えば、あたし、おじちゃまたちの相手をすること、やめるわ」
「やめることはないわよ。第一、あたしには良子を女優にしてあげる力なんかないもの」
「でも……」
「しょっちゅうお相手するの?」
「月に一、二回、多いときで三回ぐらい」
「向うからお呼びがかかるわけ?」
「そう。牧さんを通じて……」
「牧さんとはしょっちゅう会うわけね」
「でもないわ。連絡はいつも電話ですますから。でも今日は牧さんに呼び出されて会ったわ」
「何の用だったの?」
「あたしのほうが連絡したんだけど……。あたしいま、へんな男の人につきまとわれてるの。そのことで牧さんに相談したの」
「へんな男って?」
「正体は判らないんだけど、その人、あたしたちがおじちゃまたちの相手をしてること知ってて、あたしたちに近づいてきたの」
「それで?」
「脅迫まがいのこと言ったから、口留めのために、一、二度、ベッドを共にしただけ」
「なんて男?」
「名前は言わないの。牧さんに今日話したら、牧さんのほうで調べるって」
「どうやって調べるのかしら」
「このつぎに、その男が現われたら、誘いに乗って、隙を見て牧さんに電話することになってるのよ」
「なんだか、すごいような話ね。かわいい顔してて……」
マリは言い、あきれた、といった顔をしてみせた。
11
マリがホテルの部屋のベッドの上で、巧妙に河合良子の口を割らせているころ、野々山は赤坂のラブホテルの一室で、及川友美を待っていた。
友美とは電話で連絡をとって、野々山がそのホテルに彼女を呼び寄せたのだった。
友美は午後七時にはホテルに行けると言ったのに、やってきたのはそれより二時間余り後だった。
途中で遅れる旨の電話を友美はかけてよこした。会社を出ようとしているところに、鹿取専務から電話がかかり、秘書課で待機しているようにと言われた――それが友美の電話でのことばだった。
友美は遅れてホテルの部屋に現われると、笑みをたたえた顔で野々山のそばに寄ってきて、いきなり唇を求めてきた。
野々山は面喰った。つられて友美を腕の中に抱きしめ、舌をからませた。
「おめでとう、でいいのかな、この場合」
唇を離すと、友美はいきなりそう言った。
「なんだい? だしぬけに」
野々山は立って友美の腰を抱いたまま、たずねた。
「あなたが福岡で仕入れてきたメガトン級の爆弾、もう爆発したわよ」
「鹿取さんは、もう内藤専務にあれをつきつけたのか?」
「今日ね。それであたし、いままで会社に居残らされてたの。普通の残業のふりして」
「で、どうだったの? 爆弾の効き目は」
「だから、おめでとうって言ったでしょう」
「じゃあ、内藤専務のクビは飛んだのか?」
「見事に一発でよ」
「おどろいたなあ。だって、おれが福岡の西日本土地開発の平田常務から、内藤専務の書いたリベートの秘密領収証を手に入れてきて、それを鹿取さんに渡したのは、きのうの夕方だぜ」
「そうよね」
「前の宮沢専務のときは、ずいぶん手間どって、小谷ってホモ野郎の夫婦の死体まで出たというのに、内藤さんのときは、電光石火じゃないか」
「鹿取さんて、読みの深い人ね。それだけに怖いところもあるわ」
及川友美は、野々山を促してソファに並んで腰をおろしながら言った。
「鹿取さんはきっと、社長の倉島さんの肚を読んでたのね」
「どういうこと?」
「鹿取さんは、リベートの秘密領収証のコピーを、はじめ、内藤専務に突きつけたらしいの。そしたら内藤専務が謀略だって言って、領収証の自分のサインも偽物だと言いはじめたんですって」
「そんなおとぼけは通らないよ」
「そうなの。それで鹿取さん、領収証のコピーを社長に渡したわけ。社長の鶴の一声で、内藤さんのクビは飛んだらしいのね」
「そういえば、きのう会ったとき、鹿取さんは社長の役員人事に対する戦略が変ったらしい、という話をしてたよ」
野々山は言った。彼の頭の中には、きのうの夕方、日比谷のホテルの一室で聞いた、鹿取の話が甦ってきていた。
ゼネラル通商社長の倉島は、外様大名としてゼネラル通商の役員陣の中に乗り込んできて、譜代というべき、ゼネラル生え抜きの役員たちの間に、分断の楔《くさび》を打ち込んだ。その一つの現われが、鹿取や及川友美の父たちの冷遇と、一方での、宮沢や内藤たちの重用であった。
分断策は成功し、社長としての倉島の地位は固まった。そこで倉島は今度は、もともと勢力争いの道具としてしか見ていなかった、宮沢や内藤を失脚させて、自分の地位を盤石なものとするチャンスを狙っている――それが鹿取の観測だった。
野々山は鹿取のその観測を、友美に話した。友美は大きくうなずいて言った。
「そうなのよ。だから、鹿取さんは、その観測が当っているかどうかを試す狙いもあって、内藤専務の秘密領収証を、さっさと社長にぶつけてみたんだと思うの」
「なるほど、一石二鳥の手をとったわけか、鹿取さんとしては」
「だと思うの。社長が仮に内藤さんをかばうほうに出てきたとしても、証拠があるから最後まではかばいきれないわね。社長が即座に内藤さんを切れば、それはそれで鹿取さんとしては、自分の読みが正しいかどうかの判定がつくわけでしょう」
「たしかに、シャープというか、読みが深いというか、一筋縄でいく人じゃないな、鹿取さんは……」
「そうよ。おまけに、鹿取さんとしては、社長が重用してきた、宮沢、内藤という二人の重役のスキャンダルを突きつけて、首を飛ばしたんだもの。社長は鹿取さんに大きな失点を負ったことになるわ」
「そういうわけだね」
「それもこれも、みんな、元はといえば野々山さんの働きのお陰よね。鹿取さんも今夜、あなたに会ったら礼を言ってくれと言ってたけど、あたしからも、倉島社長に煮え湯を呑まされた父に代って、お礼を言うわ」
友美は眼を伏せ、ていねいに頭を下げた。
「よせよ、他人行儀なまねは……。つぎは倉島社長を追い詰めてしまえば、おれの仕事は終りだ」
野々山は言った。
「早く終らせて、せいせいしたいでしょう。気持わかるわ」
友美はしんみりとした声で言い、ソファに坐ったまま、野々山に体を寄せてきた。
「あんまり公明正大な仕事じゃないからな」
野々山のことばつきにも、思わず本音がにじんだ。
「あたしだってそうよ。鹿取さんのスパイだもの。父の怨みをはらすという一念がなきゃ、やれないわ」
友美はうつむいて、重い声を出した。野々山は友美の肩に腕をまわした。友美は体をひねり、野々山の肩にすがるようにして言った。
「抱いて……。ベッドでいやなことを忘れたいの」
12
「言おうか、言うまいかと迷ってたんだけどねえ……」
野々山は裸でベッドに横たわって、たばこに火をつけてから言った。
「なあに?」
友美は曲げた腕で眼を覆ったまま、けだるい声を出した。友美は野々山の腕を枕にして、やはり素裸のまま、横たわっている。
二人はたったいま、つないでいた体を離したばかりだった。友美の胸は、まだときおり間を置いて大きくせり上がり、吐く息と共にふるえながら沈むことをくり返している。
「迷ってなんかいないで、なんでも言って」
友美が促した。
「じつは、けさ、妙な電話がかかったんだ」
野々山は、ことばを探しながら話をはじめた。田中と名乗る正体不明の男の一味に、有力政治家の堂崎信一郎に対する恐喝を迫られている、などとあからさまに事のいきさつを友美に明すのは、やはりまだ、ためらわれるのだ。
「妙な電話って?」
「うん。男の声だったんだけど、どうもそいつは、おれが鹿取さんの陰の仕事を引き受けていることを知ってる口ぶりなんだ」
「なんて言ったの? その電話の男……」
友美は眼を覆っていた腕をはずして、野々山を見た。真剣な眼差しだった。
「はじめは、わけのわからないことを言ってたんだ。だから、おれは電話を切るぞって言ったの」
「そしたら?」
「鹿取からいくらもらってるんだって、そう言うんだ」
「はっきり鹿取さんの名前を言ったの?」
「はっきり言った。だからおれは、きっと、首を切られた宮沢さん本人か、代りの人間が電話してるんだろうと思ったんだ」
「どうして?」
「だって、宮沢さんのホモの相手を脅したときは、おれを尾行したりした奴が実際にいたんだから」
「そうだったわね。でもそれは、重大なことだわ。あなたが鹿取さんの陰の仕事を引き受けて動いてるってことを知ってる人間がいるってことは……」
友美は起き上がって、ベッドにあぐらをかきながら言った。
「そうなんだ。重大なことなんだよ。そういう人物の心当りはないのかい?」
野々山も起き上がって言った。
友美はそれには答えず、自分もたばこに手を伸ばした。彼女は思案をする表情になっていた。
13
午後四時になろうとしていた。
野々山は、新宿駅東口の、グリーンベルトの横に停めた車の中にいた。
マリが巧妙な手口で、中学生売春のからくりを河合良子の口から聞きだした、つぎの日である。
その日の朝早く、マリは野々山と一緒に寝ているベッドの中から、吉祥寺の河合良子の家に電話をかけた。マリはずっと野々山の部屋に寝泊りしているのだ。
電話に出たのは、河合良子の母親らしい、とマリは送話口を手でふさいで、野々山にささやいた。マリは電話に向って、中学生らしい稚い声とことばつきをまねてしゃべっていた。河合良子の学校の友人のふりをして、マリは母親に良子を呼んでほしい、と言ったのだ。それは堂に入っていた。野々山は感服すると同時に、マリのようなしたたかな手駒を抱えている、正体不明の、プロの脅迫屋を自称する田中という男を怖れる気持を、あらためて抱いた。
やがて電話口に、呼ばれた良子が出たらしい。マリはベッドに横たわったまま、黙って受話器を野々山に渡した。
『おれだよ……』
良子は友人からの電話とばかり思っていたところに、不意に男の声を聞かされてとまどったようすだった。小声で訊いてきた。
『だれ?』
『熱海のエメラルド・ハイツにはその後行ってる?』
『ああ、あなたね』
河合良子はようやく相手が誰であるか判ったらしい。
『きょう、学校の帰りに会いたいんだ』
『いいわ。四時に新宿駅の東口に待ってて』
『オーケイ……』
電話はそれで終った。
河合良子たちを、ゼネラル通商社長の倉島輝信や、保守党の大物政治家である堂崎信一郎に世話しているのが、芸能プロの社長の牧信夫であることは、すでに野々山はマリから聞いている。
牧信夫のほうは、正体不明の男が、河合良子たちの売春の事実を知っていて、良子にうるさくつきまとっていることも知っている。河合良子が話したからだ。
牧信夫は、河合良子を囮にして、その正体不明の男――つまりは野々山をおびき寄せようとしている――そういう話をマリから聞いた野々山は、おびき寄せられたふりをして、逆に牧信夫をおびき出そうと決めたのだ。
中学生売春の世話人である牧信夫の証言と、倉島輝信の秘蔵している乱交パーティーの8ミリフィルムのコピーがあれば、倉島輝信も堂崎信一郎も、スキャンダルを否定することはできないはずだった。
新宿駅東口の雑踏の中に、学校の制服姿の河合良子が現われたのは、約束の午後四時を五分過ぎたころだった。
河合良子は、そのまま駅の構内に入っていった。野々山は車の中からそれを見送った。彼女が駅の有料トイレの中で、私服に着換えてくるのは判っていた。
ついでに彼女は、構内の公衆電話で、正体不明≠フ男とこれから会うということを、牧信夫に連絡するかもしれない。野々山はそう考えた。
十分余り後に、赤い丸首セーターとジーパンに着換えた河合良子が、駅の構内から出てきた。タクシー乗場の横で、あたりを見まわすようなことをしている。
野々山は車を降り、手を上げて大きく振った。河合良子はすぐに気づいて、小走りに近づいてきた。
野々山はあたりを見まわした。覚えのある牧信夫のポルシェの姿は見当らない。野々山の車からすこし離れたところに、黒いクラウンが停まっている。
クラウンに乗っているのは、マリと、田中の配下の鈴木と名乗る不気味な男である。それは野々山も知っている。しめし合わせてあったのだ。
野々山は自分の車の運転席に乗った。河合良子も助手席のドアを開けて乗り込んできた。口はきかない。表情も固い。
「どこに行く?」
野々山はエンジンをかけて言った。
「どこって、どうして?」
河合良子は前に眼を投げたまま言った。
「どうしてって、きみを抱きたくなったからさ。都内のホテルじゃいやだって、いつか言ってたなあ」
「じゃあ、また、この前行った真鶴岬のそばのモーテルに行って……」
「よしきた」
野々山はおどけた口ぶりで言い、車を出した。バックミラーに、鈴木とマリの乗ったクラウンが走り出すようすが映っていた。
「どこか、公衆電話があったら、ちょっと停めて。家に帰りが遅くなるって、連絡しとかなくちゃ」
河合良子は言った。野々山は承知の返事をした。河合良子が電話をかける先は、彼女の家ではなくて、牧信夫の自宅か事務所のほうだろう、と思いながら――。
14
真鶴のモーテルに着いたのは、午後七時をまわってからだった。
野々山は河合良子を誘って、風呂に入った。河合良子は、モーテルの部屋に入ってからは、ばかに陽気に振舞いはじめた。野々山の風呂の誘いにも素直に従った。
小さな湯舟の中で、河合良子の稚い乳房をさすり、ヘアを剃られた白い丸い小さなふくらみに手を這わせたりしながら、野々山も屈託なげに振舞った。
しかし、野々山はほんとうに屈託を抱いていないわけではなかった。
河合良子からの知らせをうけた牧信夫が、いつ、どういう形で眼の前に現われるのか、そればかりを野々山はひそかに考えつづけていた。
いつどんな形で牧信夫が現われようと、野々山には怖れる必要はなかった。同じモーテルの別の部屋で、鈴木とマリが客を装って待機しているはずであった。
野々山がどの部屋に泊っているかは、部屋とつづきになっているガレージを見れば、鈴木たちには簡単にわかる。車が格子状のシャッターごしに見えるからだ。同じことが、牧信夫の場合についても言えるわけだった。
簡単に体を洗って、河合良子は先に浴室を出た。
野々山が風呂から出てみると、河合良子は素裸のまま、ベッドの上に仰向けになっていた。ゆるく膝を開いている。野々山を誘うようなポーズである。
固いひっそりとした乳房と、ヘアのない恥骨とその下の小さなふくらみが、同じような淡い光沢を放っている。一本の細い条《すじ》のようにしか見えないクレバスは、かすかに青い陰をおびている。
野々山はベッドの縁に腰をおろして、青い陰のついた場所に指をそっとあてた。河合良子が小さく笑った。
野々山の指は、そこから丸いふくらみを縦に這いのぼり、腹を過ぎて胸まですべっていった。
その手を河合良子がつかんで引いた。野々山は河合良子に胸を重ねた。固く張りつめた小さな乳房が、野々山の厚い胸板の下でつぶれた。
どこかまだ、中性を思わせる未成熟な河合良子の裸像が、野々山を一種倒錯的な気分に誘ってくる。
野々山は乳房の片方を手に包み込むようにしながら、河合良子に唇を重ねた。
思いがけないはげしさで、野々山は舌を吸われた。河合良子の両腕が、野々山の頸に巻かれた。その腕にも強い力が加わっていた。
野々山は乳房をさすりながら、舌をからませた。掌の下で乳首がひっそりととがってくるのが判った。
体や手に触れてくるもののすべてが、甘く快かった。
そこに不意に、快くない感触がまじった。野々山は首の付根のうしろに、固く冷めたいものが押しつけられるのを感じた。
押しつけられたものには、少しずつ力が加わってくる。野々山は動かなかった。背後で低い男の声がした。
「両手を頭の上にあげて、ゆっくり女から離れてもらおうか」
野々山はベッドを囲むようにしてめぐらしてある鏡を見た。ベッドに片膝を突いて、首のうしろに拳銃を突きつけている男の姿が、鏡の中にあった。
野々山は一瞬、首をかしげる思いに包まれた。鏡に映っている男は、待ち受けていた牧信夫ではなかった。二十七、八に見える、頬のそげた坊主頭の男である。サングラスをかけている。
野々山は河合良子を抱いていた腕を解き、頭の上にあげた。膝で立った。
「誰だい、あんた?」
野々山はベッドの上に膝立ちし、ホールドアップしたまま、背後の男に言った。男はそれには答えず、河合良子に言った。
「さっさと服を着て、部屋から出ていけ」
河合良子は、ベッドを降りた。表情はこわばっていたが、恐怖の色はない。野々山を見ようともしない。たぶんしめし合わせてあったにちがいない。モーテルを出れば、河合良子を無事に東京に送りとどける車が待っているのだろう。
「どこからこの部屋に入ってきたんだ、あんた?」
野々山は男に言った。
「こういう場所じゃ、ドアの鍵はちゃんとかけといたほうがいいぜ」
男はせせら笑うような声で言った。野々山は納得した。ドアの鍵は河合良子がわざとかけずにおいたにちがいない。彼女のほうが後から中に入ってきたのだから。それも事前に牧信夫と打合わせずみだったのだろう。野々山は、いささか敵を甘く見すぎたことを後悔した。
拳銃を持った男を倒さない限り、野々山のほうから、別の部屋に待機している鈴木とマリに連絡をつけることはできない。鈴木かマリかが、気をきかしてこっそりようすを見に来てくれることを、野々山は期待した。それも、淡い期待というべきものでしかなかった。
15
河合良子は、そそくさと下着をつけ、身じまいをすませると、急ぎ足に部屋を出ていった。
「やっと二人きりになれたな」
男は野々山の首のうしろに拳銃を突きつけたまま言った。
「くそ! いままでの二人きりとはえらいちがいだ」
野々山は毒づいた。なんとか相手の隙を誘い出したかった。
「それともなにかい。てめえ、こういう場所で野郎同士二人きりになるのが趣味かい」
野々山はことばを重ねた。
「そういう気《け》があったとしても、おめえが相手じゃごめんだぜ」
相手はまた、せせら笑った。
「けっ! オカマ野郎が……。うしろからピストルなんぞつきつけやがって」
「いくらでも吠えろ」
相手は言った。野々山は耳もとに風を感じた。右の耳の下に重い打撃を見舞われた。拳銃のグリップで殴られたらしい。
野々山は前にのめってベッドに突っ伏した。同時に彼の両足は、勢いよくうしろに蹴り出されていた。
手応えがあった。腹を蹴られて、相手はうしろによろけた。
野々山ははね起きた。手はベッドの上の掛布団をつかんでいた。それを男の頭からかぶせようとした。
もくろみは半分だけ成功した。男の頭と丸めた背に、ひろがった布団は網のようにかかった。が、野々山は頭から突っ込んで来た男に、裸のままの腰に組み付かれていたのだ。拳銃の銃口が、強い力で野々山のむきだしの脇腹を抉ってくる。
野々山はようやく、男に引金を引く意志のないことに気づいた。
撃つ気があれば、腰に組み付いてくる前に撃てたはずである。男はそうはしなかった。野々山は冷静さをとりもどしていた。モーテルの部屋で銃声がすれば、誰かがとんでくるだろう。
それを男がよろこぶはずはない。野々山としては、飛道具としての拳銃ではなく、殴打の道具としてだけ、それを怖れればいい。
野々山は気が楽になった。勇み立った。腰に抱きつかれた相手をさばくのは、学生時代に熱中したラグビーで馴れている。
いまはラグビーをやってるわけではない。ルールなどないのだ。野々山は相手にかぶせた布団を払いのけた。
男の両の耳をわしづかみにした。膝で相手の腹を蹴った。一発目は効果は期待できなかった。
二発目が男の鳩尾に入った。胸骨がきしんだ。男の背が丸くなって浮いた。三発目も鳩尾を捉えていた。
野々山は耳をつかんだまま、相手の顔を起した。男はあっさり顔を上げた。坊主頭がいきなり突き出されてきた。
野々山は一瞬、眼がくらんだ。強烈な頭突きだった。耳をつかんだ野々山の手はそれで離れた。
拳銃が風を切った。それが野々山のこめかみをかすめた。こめかみの皮膚の裂ける気配があった。血が滴った。
拳銃の二撃目が、下から野々山の顎を斜めに払いあげた。野々山は一瞬、膝の力が抜け、頭が軽くなるのを覚えた。彼は膝を折った。床に手を突いていた。あえいだ。男の足が野々山の喉に蹴り込まれた。
野々山は床に這った。いきがりすぎたかな、という思いが湧いた。
「服を着ろ」
男の声が頭の上から落ちてきた。男の息も荒くはずんでいた。服を着ることには野々山も異論がなかった。そういう場合には何の役にも立たない股間のピストルを、むきだしにしたままの立ちまわりは、そのことだけでも気勢がそがれるというものだった。
野々山はよろよろと立ち上がった。ことさら足をふらつかせてみせた。
脱いだ服は、冷蔵庫の前の椅子の上にある。野々山は椅子の前に立った。男は拳銃の銃身をつかんだまま、うしろからついてきた。
野々山はわざと肩を落して、ブリーフをはいた。ワイシャツを着た。ネクタイはない。椅子に腰をおろしたまま、靴下をはき、ズボンに足を通した。立ち上がり、ベルトをしめた。
あとは上衣を着ればおしまいである。男は一メートル前に立っている。ナイフのような険しい眼で野々山を見ている。
「負けたよ。しかし、いったいこれは何のつもりなんだ。強盗でもなさそうだな、あんたは……」
野々山は言いながら、椅子の背にかけた上衣に手をのばした。
「何のつもりかはあとでわかる。服着ておれについてくればな」
男は言った。言い終るか終らないうちに、野々山の腕がひるがえった。手につかんだ上衣が男の顔面をはげしくはたいた。男はひるんだ。野々山は飛びついた。拳銃を持った男の腕を両手で逆に取った。股間を蹴り上げた。拳銃が床に落ちた。
野々山は男の首を脇に抱えて固めた。浴室の入口の白い洗面台が眼についた。野々山は男の首を抱えたまま、洗面台の前に引きずっていった。洗面台の縁に、男の坊主頭をくり返し打ちつけた。男の前頭部が割れた。白い陶器の洗面台がたちまち血に染まり、やがてひびが入り、欠け落ちた。男の体から力がぬけていった。野々山は男の首を抱えた手を放した。男はせまい床に這って、荒い息をはいていた。
16
拳銃は冷蔵庫の前のテーブルの足もとに落ちていた。
野々山はそれを拾いあげた。男は洗面台の前から動こうとしない。頭から流れ出る血が眼に入ったらしい。しきりに眼をこすっている。そのために血が塗りひろげられて、男の顔はいっそう無残に汚れていた。
「見当はついてるが、誰に雇われておれを襲いにここにやってきたか、おまえの口からはっきり聞いときたいな」
野々山は拳銃をつかんだまま、男の前にもどって言った。
「見当ついてるなら、訊くことはねえだろうが」
男はまだ息をはずませている。
「見当ちがいってことも、ないとは言えないんでね」
野々山は笑ってみせた。男は答えない。床に突いた手で上体を支えて、荒い呼吸で喉を鳴らしている。
野々山は拳銃をにぎりかえた。それをいきなり床に打ちおろした。グリップが男の手の指の上でにぶい音を立てて、跳ねた。男はうめいて、肩から先にまた床にころがった。
「まだ分らないらしいな、おれを甘く見るとどういうことになるか……」
野々山は脅した。
「誰なんだ、おまえをここにさし向けた野郎は?」
「知ってるんだろう?」
「はっきりおまえの口から聞きたいんだよ」
「牧、牧さんだよ」
「牧じゃわからない。どこで何してる牧なんだ?」
「牧プロっていう、芸能プロダクションの社長の、牧信夫ってんだよ」
「そいつに何を頼まれた?」
「あんたを消せって……」
男の口はほぐれていた。拳銃のグリップの一撃で、男の右手の指の関節か骨が折れたらしい。男はうめきながら、その手を胸にかかえ込んで、歯をくいしばった。
「どうやって消す気だった?」
「ここから車で連れだして、覚醒剤でショック死させる段どりになってたんだ」
「シャブのショック死だと?」
野々山は眼をむいた。ゼネラル通商を同性愛のスキャンダルで追われた、宮沢義也のホモの相手だった小谷も、女房と一緒に覚醒剤のショックによって殺されている。野々山はそれを思い出したのだ。
「おまえ、東中野の東荘ってアパートに夫婦で住んでた、小谷って奴を知ってるな」
野々山は訊いた。
「小谷? なんだい、そいつは?」
男は眼をあげて野々山を見た。
「とぼけるなよ。おまえ、小谷って夫婦者をシャブでショック死させただろう?」
「なんでおれがそんなことしなきゃならねえんだ。小谷なんて知りもしねえ野郎を……」
男は憤然とした言い方をした。しらばっくれているようすには思えなかった。
「おれをショック死させるって手は、誰のアイデアなんだ?」
「牧さんだよ」
「なるほど……」
野々山は言った。牧は河合良子たち中学生を、ゼネラル通商社長の、倉島輝信に斡旋している。倉島は宮沢義也のホモの相手が、覚醒剤でショック死したことを覚えていて、牧になにかの折に話したかもしれない。そこから牧が、ショック死という殺しの手を思いついて、それを野々山に対して用いようと考えたとしても、不思議ではない。野々山はそういう推測を抱いた。
「おまえ、名前は?」
「内田ってんだ。内田昭二……」
「免許証あるか?」
男は無傷なままの左手を使って、ポケットから免許証を取出した。内田昭二というのはどうやら偽名ではないらしい。
「仕事が終ったら、どこで牧と会うことになってる?」
野々山は訊いた。内田はうなだれたままで答えた。
「あさっての午前二時に、青山の牧プロの事務所におれが行くことになってるんだ」
「よし、分った。それまではおまえの体はこっちで預かる。安心しろ。傷の手当てもちゃんとしてやるからな」
内田はうなだれたまま、窺うような眼を野々山に向けてきた。
眼の奥に不安の色があった。
野々山は、部屋に備えてある浴衣の腰紐で、男の手足を縛りあげておいて、部屋を出た。モーテルの庭は静かだった。鈴木とマリの乗ってきたクラウンの入っているガレージは、すぐに分った。
野々山はガレージの格子のシャッターを押し上げ、中に入って部屋の入口のドアをノックした。
ドアを開けて顔を出したマリは、殴打の跡を残している野々山の顔を見て、眼をみはった。
「どうしたの?」
「やられたんだ、殺し屋に……」
「それで?」
「なんとか片づけた。部屋に来てくれ。野郎をはこび出す。預かってほしいんだ」
マリはうなずいた。声を聞いて、鈴木も部屋の奥から出てきた。二人はそのままガレージを出て、野々山の後についてきた。
「やるねえ、野々山さん。ハジキ持ってる野郎をここまでさばくなんぞは、トウシロの仕事としちゃ立派なもんだ」
鈴木は、洗面台で頭を割られて顔を血で染めている内田を見て言った。マリはおどろいた顔でうなずいている。
五分後に、鈴木の運転するクラウンと、野々山のスカイラインが、前後してモーテルを出た。クラウンのトランクルームには、内田が押し込められていた。
マリはスカイラインの助手席にいた。モーテルから国道に出たところで、クラウンは小田原の方に向った。スカイラインは熱海に向った。エメラルド・ハイツの倉島輝信の部屋に忍び込み、彼の秘蔵のアルバムを盗み出すためだった。
「油断がないな、そっちも……」
車を熱海に向けてから、野々山は助手席のマリに、皮肉な調子で言った。
「なにが」
「鈴木のクラウンをおれに尾行させまいとして、あんたがおれに張りついた。あの殺し屋はどうせ、田中のいるマンションあたりに押し込んどくんだろ。クラウンのあとをつければ、田中のマンションも判って、あんたたちの素性もつかめたんだがな」
「余計なこと考えないほうがいいわよ」
マリは笑った顔で言った。冷めたい感じの笑いだった。
17
野々山とマリが、高円寺のアパートに帰り着いたのは、午後十一時を過ぎてからだった。
熱海のエメラルド・ハイツでの仕事は、何の苦労もなく終った。
野々山はエメラルド・ハイツの倉島輝信の部屋の合鍵を持っていた。前にその部屋に忍び込むために、河合良子の協力で手に入れたスペアキーを、彼はそのまま持っていたのだ。倉島の秘蔵のアルバムの入った、金庫のダイヤルの番号は、金庫破りの牛尾という老人の仕事を見ていて、記憶に留めていた。
まるで自分の部屋から品物を持ち出すのと変らないたやすさで、野々山はそのアルバムとネガフィルムを盗み出した。
その間、マリは見張りを兼ねて、エメラルド・ハイツの前に停めた車の中で待っていた。仕事を終えて、二人はまっすぐ、東京にもどってきたのだった。
フィルムのコピーではなく、アルバムの現物とネガフィルムを押えることに、方針を変えたのは、脅迫屋の田中の指図だった。そのほうが、相手に対する圧力が増すから、というのが、田中の言い分だった。
アパートの部屋にもどると、マリはすぐにアルバムのページをくりはじめた。
「あら、あら、すごい写真ばかり……」
マリは言って笑いながら、写真に見入っていた。その眼はやがて、暗くうるんだような光をたたえはじめていた。
「へんなもの見てたら、あたし、なんだか欲しくなっちゃったわ」
マリは率直なことばを吐いて、小さく笑った。アルバムを閉じると、マリは横で水割りを飲んでいた野々山の手から、グラスを取り、酒を口にふくんだ。
そのままマリは野々山に唇を重ねてきた。冷めたい酒が、マリの口から、舌を樋代りのようにして、野々山の口の中に移されてきた。酒はわずかにあふれて、野々山の口の端をぬらした。それをマリの舌が拭った。
「ねえ、ベッドに行こう……」
マリは甘えた声を出した。野々山に異論はなかった。彼は真鶴のモーテルから熱海に向う車の中で見せた、マリの冷たく冴えざえとした、凄味のある笑顔を思い出していた。
いま、甘い声で誘ってくるマリには、あの刃物の冴えのような笑いなど、想像ができない。陰と陽と、両方を見事に使い分けて見せるマリの、その応変のさまが、なぜかまた、野々山の欲情をそそってもいたのだ。
マリはベッドの横で手早く着ているものを脱いだ。野々山も裸になった。
「お願い……。今夜はあたしをいじめて」
マリは素裸で立ったまま、野々山に言った。どこまでが本気で、どこからがふざけなのか判らない。
「縛りがいいか。それとも鞭か。蝋燭責めなんてのもあるぜ」
「あなたがよろこぶんなら、なんでもいいわ。やって……」
「趣味じゃないからやめとくよ。ごく普通に、健全なスタイルでやろうぜ」
「なら、あたしに好きにやらせて」
「いいよ。トルコ風呂ふうに迫ってくるのかい?」
「マリふうよ」
マリは言い、ベッドに横たわった野々山のジュニアに、乳房を寄せてきた。そそり立っているものの先端を、乳首が這った。這いながら、乳首がたちまちするどくとがってくるのを、野々山は敏感な一帯に感じとっていた。とがった乳首は、ときに虫のように這い、ときにきしみながら勢よくすべった。
やがてマリは、低い笑い声をひびかせながら、野々山を二つの乳房ではさみつけた。マリの手が二つの乳房を揉み合わすように動いた。その動きは、豊かな量感をたたえた二つのすばらしいものを通して、野々山に伝わってくる。野々山は思わず吐息をもらした。
乳房で捉えたものの頭部に、マリは唇をかぶせ、そこに舌を躍らせはじめた。
そうしながら、マリはすこしずつ体の位置をかえ、やがてうしろ向きに、野々山の腹の上にまたがっていた。
野々山の眼の先に、マリの高々と掲げた腰があった。よく張ったなめらかな太腿の奥に、はざまがゆるいほころびを見せている。はざまはまばらなヘアに囲まれたまま、鮮かな色をのぞかせている。
それを野々山の眼にあからさまにさらす姿勢をとりながら、マリは誘うようにゆるやかに腰をゆらめかせた。野々山は小さく息づくようなうごめきを見せているマリのはざまに、指をすすめた。指が軽く触れたとたんに、そこは小さな収縮を見せて、透明な滴が湧き、淵にひろがっていった。
18
翌々日の午前二時に、野々山はスカイラインを青山のサンハイツ青山の門の近くに停めた。
「鈴木さん、来てるわね、もう」
助手席のマリが、前方の暗がりを指さして言った。そこに車の尾灯が赤くにじんで見えていた。鈴木の運転するクラウンだった。
野々山は小さくクラクションを鳴らした。クラウンからも、同じように短いクラクションの音が返ってきた。
野々山は車をおりた。マリは助手席に残った。クラウンには、鈴木と佐藤と名乗った小ぶとりの男が乗っていた。佐藤が運転席にいた。
野々山が近づくのを待って、鈴木と佐藤がクラウンを降りてきた。三人は声は出さなかった。暗がりの中で眼顔でうなずき合っただけだった。
佐藤が車のトランクルームを開けた。ガムテープで両眼をふさがれた、殺し屋の内田が、トランクルームの中に、手足をちぢめて横たわっていた。内田の頭には白い包帯が巻かれていた。右手も副木をあてて包帯が巻かれている。
真鶴のモーテルの部屋での傷を、内田は田中のところで手当てしてもらったらしい。
「出ろ」
鈴木が低い声で言った。内田は左手で眼のテープをはがし、トランクルームから這い出してきた。鈴木が内田のうしろに立ち、すぐに拳銃を突きつけた。真鶴のモーテルで、野々山が内田から奪った拳銃だった。野々山はそういう扱いなれないものを手もとに置く気はなかったので、鈴木に求められるままに、渡したのだった。
内田を先に立たせて、野々山と鈴木と佐藤は、マンションの門をくぐり、玄関を入った。エレベーターで四階に上がった。
「足音を立てるなよ」
エレベーターを降りるとき、鈴木が野々山と佐藤に小声で言った。
内田はすっかり投げやりなようすで、鈴木の言いなりになっていた。彼は牧プロダクションという、ネームプレートのついたドアの前で足を停めた。ためらうようすもなく、ドアのブザーを鳴らした。
段どりは鈴木が伝えてあったのだろう。インターフォンの声が送られてくると、内田は素直に自分の名を、インターフォンに向って名乗った。
ドアの向うに、かすかな足音がひびき、やがて、鍵とドアチェーンをはずす音がした。
鈴木は内田の襟首をうしろからつかみ、背中に拳銃を当て直した。ドアが無造作にあけられた。そのドアを、佐藤が足をあげて強く蹴った。
いっぱいに開いたドアの向うに、牧信夫が立っていた。牧の顔ははげしく歪んでいた。声は立てなかった。鈴木が内田を押して中に入った。野々山と佐藤がうしろにつづいた。佐藤が今度は静かにドアを扱って閉めた。
「火の始末はいいかい? すぐに外出してもらうことになるんだがな」
鈴木が牧に言った。野々山は鈴木と内田の横をすり抜けて、牧の前に出た。
「なんだい、あんたたち……」
牧はかすれた声で言った。
「なんだいはないだろう。あんたが雇った殺し屋の内田の姿を見ればわかるだろう」
「殺し屋なんて、おれは知らない!」
牧は吐き出すように言った。野々山は笑った。笑いながら、牧の股間を蹴り上げた。体が前に折れてくるところを、さらに膝で顔面を蹴り上げた。
「知ってるか、知らないか、あとで話はゆっくり聞いてやる」
野々山は言い、牧の腕をつかんで、うしろに捻じ上げた。佐藤が二人の横を通って、奥に消えた。
「他には誰もいない。火の始末も戸締りもよさそうだ」
佐藤はすぐにもどってきて言った。牧は廊下に血のまじった唾を吐いた。いかにも忌まいましい、といった仕種に見えた。
佐藤がドアを開けて廊下に出た。そこで小さく手を振った。鈴木が内田を廊下に押し出した。野々山は牧を引っ立てた。
「後悔するぜ」
エレベーターの中で、牧が言った。野々山は笑って答えなかった。鈴木も佐藤も、それが聞えなかったかのように、表情を変えなかった。
六章 闇の空白
マンションは静まりかえったままである。
玄関に人影はなかった。
鈴木が内田に拳銃を押しあてたまま、野々山に向って、小さく顎をしゃくった。先に行けと言っているのだった。
野々山は牧の肩をつかんで押した。牧は歩き出した。うしろに鈴木が内田を押し立てて進み、その後から佐藤がつづいた。
「おれたちの車に連れていってくれ」
玄関を出たところで、鈴木が声を投げてきた。野々山はうなずいた。
クラウンの前で、一団は足を停めた。佐藤がトランクルームを開けた。
「二人とも押し込めろ」
鈴木が言った。野々山は無言で牧を促した。牧は怯みを見せた。野々山は牧の頭を押え、トランクルームの中に押し込むようにした。牧はあがいた。
野々山は膝をあげて、牧の脇腹を蹴った。牧は低くうめいた。
佐藤がナイフを取出した。ナイフは牧の歪んだ頬に当てられた。牧の体が凍りついたようにこわばった。
「手間とらせると、怪我することになるぞ」
佐藤が押し殺した声で言った。牧はあきらめたようすで、バンパーに足をかけ、自分からトランクルームに這い込んだ。
「連れがあるんだ。場所をあけてやれ」
鈴木が横から言った。牧は曲げた体を横向きにして、奥に背中をすり寄せた。殺し屋の内田は、あきらめきったようすで、さっさとトランクルームに身を沈めた。
佐藤が無言のまま、すばやくトランクルームを閉めた。
「八王子まで行く。あとをついてきてくれ」
鈴木が野々山の肩に手を置いて言った。佐藤はもう運転席について、エンジンをかけていた。
野々山はうしろに停めた自分の車にもどった。マリがのっそりと助手席で体を起した。
「うまくいったらしいわね」
マリは笑いをふくんだ声で言った。
「八王子に行くんだってよ」
野々山は車を出しながら言った。マリは何も言わなかった。行先は知っているらしい。
「いよいよ、大仕事が近いわね」
しばらくして、マリは言った。今度は野々山が口をつぐんで答えなかった。
八王子のどこかに、牧の口を割らせるための場所が用意されているのだろう。
そこで牧に、彼が河合良子たち女子中学生を、堂崎信一郎や倉島輝信に斡旋したいきさつを吐かせ、さらに牧の身柄を証人として押える。
それだけの準備が終れば、堂崎信一郎をゆする仕事だけが残ることになる。それはたしかに大仕事である。それを表に立ってやるのは、野々山一人である。
ゆすりの本番では、田中たち一味は陰にかくれてしまうのだ。それを断われば、田中たちは、野々山が堂崎信一郎の、女子中学生との乱交パーティの現場を写した写真をにぎっていることを堂崎に知らせて、命を狙われる結果を招いてみせる、と脅しているのだ。
野々山が持っている写真やネガは、たしかに大物政治家である堂崎信一郎にとっては、メガトン級の爆弾をつきつけられるにひとしいものだ。
スキャンダルを怖れる堂崎は、ためらわずに手をまわして野々山を消そうとするだろう。
野々山としては逃げ路ははじめから塞がれているのだ。彼としては、手に入れた写真とネガフィルムを堂崎信一郎に売り渡して、早いところ田中一味と手を切ることしか、当座は手がない、と思えた。
スキャンダルの証拠の品である、写真とネガフィルムを売り渡してしまえば、堂崎だって危ない橋を渡って、殺しまではやるまい、と野々山は考えていた。
むろん、その考えが甘いものであることにも、彼は気がついていた。場合によっては、自分の命を守る万全の策も講じなくてはなるまい。だが、問題は、鹿取がいつ、倉島を追い詰めるための動きをはじめるかにかかっていた。鹿取は倉島のスキャンダラスな写真を集めたアルバムを、8ミリフィルムに写したものを、すでに野々山から受取っているのだ。
それを武器にして鹿取は倉島を攻め、社長の席から追い落とそうとはかっているのだ。
鹿取が倉島攻略をはじめてから、野々山が堂崎をゆすったほうが、その後の展開に利があるのか。それとも逆の場合のほうが好都合なのか――。
野々山は判断に苦しむのだ。野々山の胸には、証拠の8ミリフィルムを渡したときの、鹿取の一言が刻みつけられている。調子にのった野々山が、そのフィルムで堂崎信一郎にダメージを与えることができるのではないか、と口走ったのに対して、鹿取は言ったのだ。
『政治家は放っとけばいい。野々山君、言っとくが、きみ、身の程知らずの欲を出して、このフィルムで堂崎信一郎をゆするなんて考えると、命だって失いかねないぞ。きみはぼくの頼んだ仕事にだけ専念するんだな。そうすれば将来を保証する。妙な欲を出すのはやめなさい』
きめつけるような言い方だった。野々山はむろん、欲など出していたわけではなかった。しかし、いささか調子に乗ってはいた。
というのは、やはり保守党の実力者であり、堂崎信一郎の政敵とされている原田政之と鹿取が、近しい間柄であることを野々山は知っていたからだった。
倉島を追い詰めるための、スキャンダラスなフィルムを用いて、堂崎をも攻めれば、鹿取との間にパイプの通じている原田政之が、政争の上で優位に立つのではないか、と野々山は考えたまでのことだった。
それがいらぬ世話だといわれれば、それまでのことだった。野々山としても、余計な仕事まで買って出る気はなかった。
だが、脅迫屋の田中一味の出現で、事情は大きく変ってしまった。
野々山は、心ならずも鹿取のことばにそむいて、堂崎信一郎をゆすらなければならない羽目を迎えているのだ。
鹿取が倉島をフィルムで追い詰めれば、倉島は堂崎に泣きつくだろうか?
あるいは倉島は、類が堂崎に及ぶことをおそれて、自分のところで火の手を収めようとするかもしれない。
だが、逆に、堂崎はゆすりを受ければ、当然、写真やネガフィルムの出所を問題にして、倉島を責めるだろう。
そのとき、倉島がゼネラル通商社長の椅子を追われていれば、彼の巻き返しは鹿取には及ぶまい。
逆にその時点でまだ、倉島が社長の地位に留まっていれば、鹿取と野々山の陰のつながりまで洗い出されてしまいかねない。そうなったとき、鹿取がどこまで野々山自身を守ってくれるか?
八王子に向って車を走らせながら、野々山はふと、自分が冷えびえとした不気味な闇に、独りで囲まれているような気持を覚えた。
中央高速道路の八王子インターをおりると、佐藤の運転する車は、国道十六号線を八王子市に向けて進んだ。
しばらくして、先導のクラウンは右折し、小高い丘を登りはじめた。
丘の中腹に、白いビニールの布地で外を囲った建造中の建物があった。立てられている看板で、マンションの建築工事現場だとわかった。人影もなく、物音も絶えている。
佐藤の運転する車は、すっぽり外を囲われた建物の横を抜けて、道路の反対側に回り込み、停まった。野々山は、そのすぐうしろに車を停めた。
ライトが消え、二台の車のエンジンが停まった。佐藤と鈴木が車から降りてきた。野々山も降りた。マリも野々山につづいて車の外に出た。
佐藤がクラウンのトランクルームを開けた。誰も口をきかなかった。内田と牧がトランクルームから引き出された。マリはクラウンの助手席に上体をさし入れて、何かしていた。
鈴木が内田を引っ立てて歩き出した。佐藤は牧の服の襟をつかんで、鈴木たちの後につづいた。野々山もあとに従った。
鈴木は建物の外囲いをくぐって中に入った。打ちっ放しのコンクリートの外壁が、すっかり出来上がっていた。あちこちに、窓やドアがはまるらしい、四角い穴が並んでいる。そこを入ると、地下に降りる階段があった。階段もむき出しのコンクリートのままである。
あとから追いついてきたマリが、階段の降り口を懐中電灯で照らした。マリは肩にカメラと小型の録音機を吊っていた。クラウンの中に積んであったものらしい。
階段を降りきると、そこはガランとしただだっ広い部屋になっていた。冷暖房用の機械室にでもなるものと思えた。
マリが懐中電灯であたりを照らした。天井に裸電球がぶらさがっていた。マリがそれをつけた。まぶしい光がひろがった。それが地下室の外にもれる心配はなさそうだった。
鈴木は無言で内田をコンクリートの床に坐らせた。佐藤が手にしていたナイフの先で、牧に床をさした。牧もおとなしく内田の横に坐った。マリが録音機のスイッチを入れた。
「隣に坐ってる男、知ってるな、牧さん?」
鈴木が押えた声で言った。牧は答えなかった。内田を見ようとはしない。
佐藤がナイフを牧の頬に垂直にあてた。牧はナイフを避けるために、内田のほうに顔を向けざるを得なかった。
「どうだい? 知ってるな?」
「知らん。おれは何も知らんぞ」
牧は力んだ声を出した。佐藤がナイフを牧の頬から離した。同時に佐藤の膝が飛んだ。牧の顎が鳴った。牧は坐ったまま、横に倒れた。
佐藤は牧のうしろにまわり、彼を立たせると羽交締めにした。鈴木がうす笑いを浮かべた顔で野々山に言った。
「牧さんは、あんたを消すために雇った殺し屋の内田をご存じないんだってさ。信じるかね、この話を……」
「あんた、牧さんに殺されるところだったんだぜ。お礼をしてやったらどうだ?」
佐藤ももがく牧を抱きかかえたまま、野々山をそそのかした。野々山は牧の前に歩み寄った。鈴木と佐藤が、野々山に牧を痛めつけさせて、口を割らせようとしていることは、はっきりしていた。
それが判っていて、野々山は牧の腹に拳を打ち込んだ。自分の命を奪おうとした牧への怒りが、野々山の血を暗くたぎらせていた。
野々山はゆっくり間を置いて、牧の腹にパンチを叩き込んだ。口はきかなかった。重い気合のような声と共に、彼は殴りつづけた。
牧はサンドバッグ同然に、殴られるたびに体を折り、うめき、すぐに佐藤に引き起された。
野々山の額に汗がにじんできた。牧も口を割る気配はない。殴りつかれて、野々山は牧の股間を膝で蹴り上げた。牧の口から唾が泡となってこぼれ出た。
「よし、まずはそれくらいで一服しよう。こいつだって口を割れば命にかかわるかもしれないんだ。そうそう素直にはなれないさ」
鈴木が言った。佐藤が羽交締めを解いた。牧は前にのめって膝を突き、床に這った。
「マリ、顔がこわれないうちに、お二人さんの写真を撮っとけよ」
佐藤が言い、牧を起して坐らせた。マリがカメラをかまえると、内田も牧も顔をそむけた。鈴木が乾いた笑い声を立てた。鈴木は牧と内田に歩み寄ると、あぐらをかいた二人の向う脛を蹴った。
「無駄だよ。カメラにいい顔向けな」
鈴木はもう一発ずつ、脛を蹴って、二人の前を離れた。牧も内田もしぶしぶ、カメラのほうを向いた。ストロボが閃いた。
「ここから先は、素人には無理だ。おれたちにまかせてくれ」
鈴木が野々山に言った。
野々山は上半身はランニングシャツ一枚になっていた。ランニングシャツは、汗と牧の血とで汚れていた。
牧の顔は、血とあざですっかり汚れ、形を崩していた。すべて、野々山一人の拳や蹴りや頭突きによるものだった。
牧はしぶとかった。内田は早々と牧の前で、彼に野々山殺しを頼まれたことを吐いていた。にもかかわらず、牧は一切、口を割らずに粘りとおしているのだった。
「今度はすこしきついぜ。プロの仕事だからな」
鈴木が牧に向って言った。言い終らないうちに、鈴木の手が、牧のパーマのかかった髪をわしづかみにした。
牧の顔が仰向いた。横に佐藤が立った。佐藤の手のナイフが、牧の片方の鼻孔の入口にあてられた。ナイフはそのまま進んだ。鈴木も佐藤も眉一つ動かさない。牧がうめき、歯ぎしりをした。
鼻翼の片方がふくらみ、そこからナイフの刃が血を塗りつけたまま、浮き上がるように現われた。ナイフがそこから離れた。鼻翼は二つに裂かれたまま、たちまち血にまみれた。牧はためていた息を吐き、がっくりと首を落した。
鈴木がすぐにまたその顔を起した。鈴木の頬には冷たい笑いが刻まれていた。
「あんまり人相がわるくなると、芸能プロの社長としちゃ商売がやり辛くなると思うけどな」
鈴木は言った。佐藤は牧の無事なほうの鼻翼に、ナイフを移した。
「止めてくれ!」
牧はかすれた声で叫んだ。
「おれたちが聞きたいのは、そういう科白じゃないんだよな。どうしておまえが殺し屋を雇ったか、そのわけだけ聞かしてくれりゃいいんだよ」
鈴木が言った。佐藤はその間もナイフを進めていた。一気に鼻翼を切り裂くというやり方ではなかった。ナイフは一寸刻みといったぐあいに、僅かずつ進んでいった。
牧の体がわなないた。はげしい歯ぎしりの音と、喉からしぼり出すようなうめき声がつづいた。
歯ぎしりとうめき声が、苦しげなあえぎに変ったとき、ナイフは切り裂いた鼻翼を離れて、一瞬、宙に止まっていた。
「殺せ! 殺してくれ!」
牧は叫んだ。
「短気を起すもんじゃないぜ。死ぬ気になれば、ゲロするぐらいなんでもないさ」
鈴木はさとすようなことばつきを見せた。
「マリ、そこのブロックを二つぐらい持ってきてくれ」
佐藤が離れた場所でたばこを吸っていたマリに声を投げた。マリはたばこをくわえたまま、壁ぎわにころがっていたコンクリートブロックを、牧の前まで運んだ。
ブロックが牧の膝の前に二箇、重ねて置かれた。佐藤は血に染まったナイフをマリに渡し、代りにポケットから千枚通しを取り出した。
鈴木が牧をその場に引き倒した。牧は腹這いにさせられた。佐藤が牧の左手をつかんでブロックの上に置き、手首を膝で押えた。
牧が喉の裂けそうな叫びを放った。もがく牧を鈴木が髪を両手でつかみ、背中を足で踏みつけて押えていた。佐藤は、牧の左手の人さし指の爪と肉の間に、深々と千枚通しを埋め込んでいた。
「爪全部に千枚通しを刺し終えたら、つぎはペンチで爪抜くからな。足の爪まで二十本ある。ゆっくり考えて肚を決めろよ」
鈴木が言った。
「止めてくれ。話すから止めてくれ」
牧はついに弱音を吐いた。
「牧信夫という男を押えたそうだね」
鹿取は窓ぎわの椅子を野々山にすすめながら言った。
八王子の、建築途中のマンションの地下室で、牧を痛めつけた日の夜である。
場所は、鹿取が野々山と密談するときにいつも使う、日比谷のホテルの一室だった。
椅子の前のテーブルには、ルームサービスのスコッチのボトルや氷などが並んでいる。
「牧は、今日の明方に口を割りました」
野々山は椅子に腰をおろしてから言った。
「ご苦労だったな」
鹿取は低い落着いた声で言った。言いながら、野々山のために水割りをこしらえにかかった。
「あ、自分でやります」
野々山は鹿取の手からグラスを取った。
「で、牧は、証人として使えそうかね?」
「充分だと思います。倉島社長に反論の余地はないと思います」
野々山は言い、牧が吐いた、女子中学生売春のいきさつを語りはじめた。
牧と倉島輝信との交際は古かった。倉島がゼネラル通商役員に出向してくる以前からの知り合いだった。
当時、倉島は、ゼネラル通商のメインバンクである東日銀行の専務だった。
そのころから、倉島には秘密の暗い愉しみがあった。彼はマゾヒストたちだけが集まる秘密クラブのメンバーだったのだ。
秘密クラブは、麻布の高級マンションの一室で、月に二回、定例的に開かれていた。クラブの主は、そのマンションの部屋に住む、銀座の名の知られたクラブのオーナーママである。メンバーには、各界の知名人が少なくない。
だが、原則としてメンバーの素性は相互に明かされていない。どうしても素性を知られたくない者は、変装と偽名で例会に出席する。したがって、そこにかり出されるサディスト役の若く美しい女たちにも、客同士にも、メンバーの素性を隠しておくことができる。
だが、クラブの主宰者であるママだけには、客の素性はすべて知れている。客たちはママを信頼していたのだ。
牧はこのママの別れた亭主だった。当時、牧は売れはじめた新人歌手一人を看板に、芸能プロダクションをおこしたばかりだった。金策に明け暮れる毎日だったらしい。
そこで牧は、ママに隠れて、秘密クラブのメンバーリストを盗み見て、そこに東日銀行専務、倉島輝信の名前を見つけたのだ。
牧が倉島に対してやったことは、脅迫すれすれだった。牧は倉島がマゾクラブのメンバーであることを知っているとほのめかして、彼に融資の世話を求めたのだ。
牧と、政治家の堂崎信一郎とのつながりもこのときに始まった。堂崎も倉島と同じ、秘密のマゾクラブのメンバーだったのだ。
牧に融資の世話を迫られた倉島は、堂崎信一郎の口きき、という体裁をととのえて、融資に応じたのだ。東日銀行専務の倉島が、弱小芸能プロのために、直接口をきいて融資の話をとりまとめては、周囲の不審を招く。
牧と堂崎信一郎が旧知の間柄で、その堂崎の口ききという形をとれば、多少の無理は行内で通る、という思惑がはたらいたのだ。
融資はきまった。しかし、倉島も堂崎もただではころばなかった。二人は融資に当って、交換条件を牧に提示した。
牧が自分のプロダクションにかかえている歌手やタレントたちを、秘密裡に堂崎と倉島のために提供する、という条件だった。牧はこれに応じた。こうして、堂崎と倉島は、自分たち専用の秘密のマゾヒストパーティを、好きなときに開けるようになったのだ。
そのために倉島はわざわざ、熱海のエメラルド・ハイツに一室を購入した。
牧が抱えていた看板歌手の青柳純子も、何回となく、エメラルド・ハイツに足をはこんだ。青柳純子は、堂崎と倉島にすっかり気に入られた。二人は青柳純子の陰の後援者となって、彼女をスターダムに押し上げるのに、有形無形の力添えをした。
そのことで、牧はエメラルド・ハイツに、女子中学生を送り込むことを思いついたのだ。堂崎と倉島が、少女にいじめられることを好むのを、牧はかねてから察知していた。
牧は芸能プロダクションの社長である。その仕事に名を借りて、女子中学生や高校生をスカウトし、エメラルド・ハイツに送り込む。その子たちを芸能界に売り込むについては、実力派政治家の堂崎と、財界人の倉島の力は大いに頼りになる。いわば牧にとっては、一石二鳥の策である。
金の力と、芸能界入りが果せるという餌が効いて、たちまち何人かの女子中学生たちが、エメラルド・ハイツ行きを承知した――。
「倉島さんも、厄介な趣味にのめりこんだもんだな」
話を聞き終えて、鹿取が言った。顔にはうす笑いが生れていた。
「まったくです。趣味が命とりになるわけですから、まあ、自業自得というべきですね」
野々山はいくらか薄くなった水割りをすすってから言った。
「で、牧の身柄はどこに押えてある?」
「信頼できる友人のマンションです。友人が見張ってくれているんです」
野々山はこう言いつくろった。野々山は、牧と殺し屋の内田がどこに押しこめられているのか、知らなかった。
八王子のマンションの工事現場から連れ出された牧と内田は脅迫屋田中の配下の鈴木と佐藤が、ふたたび車のトランクに押し込んで、どこかへ運び去ったのだ。
野々山の車には、マリが乗っていた。尾行はできなかった。替りに野々山は、建築中のマンションの地下室で、マリが撮った牧と内田の写真のフィルムと、牧の吐いた話を録音したテープを渡されていたのだ。
友人のマンションの部屋に、牧の身柄を押えている、という野々山の話に、鹿取は疑うようすも、不安がるようすも見せなかった。
野々山は、牧たちの写真と録音テープを、鹿取に渡して言った。
「これで、倉島さんの息の根をとめる材料は全部、完全に揃ったわけです。邪魔の入らないうちに鹿取さん、一刻も早く倉島さんを攻めてください」
野々山としては、田中に迫られている堂崎をゆする仕事にかかる前に、鹿取に倉島のほうの決着をつけてほしかったのだ。倉島のほうのケリさえつけば、堂崎をゆする仕事から逃げ出す手はありそうだ、と考えたのだ。最悪の場合は、田中たち一味の前から姿を消してしまえばいい。あるいは、寝返って堂崎の懐にとび込み、田中たちの企みを告げて身を守ってもらうという途もある。
それもこれも、倉島のほうのケリがつかないことには、はじまらない話なのだ。
「邪魔の入らないうちにって、どういう邪魔が入るというんだね?」
鹿取が野々山のことばを聞き咎めた。
「どういう邪魔かわかりませんが、倉島さんのうしろには堂崎信一郎がいます。相手に対応策をほどこすひまを与えず、一気呵成に事をはこんだほうがよさそうだと思ったんですが……」
野々山はそう言った。まさか、脅迫屋の田中一味のことを、鹿取に明かすわけにはいかなかった。
「たしかに、そうだな。判ったよ。一気呵成にやろう」
鹿取は言って、椅子をはなれた。
「きみ、今夜、この部屋を使いなさい。及川友美君も、間もなく来るだろう」
鹿取はそう言うと、コートを抱えて、部屋を出て行った。
鹿取とほとんど入れ替りのようにして、及川友美が部屋にやってきた。
「今夜はオフ・ビジネスよ。鹿取さんがそう言ったの。あたし、泊ってもいいわ」
友美は部屋に入ってくるなり、そう言った。野々山は苦笑した。
「オフ・ビジネスで鹿取さんはわざわざ、きみをここに呼んでくれたのかい?」
「ちょっとお使いもあったの」
友美はハンドバッグをあけた。中から四角の厚い紙包みを取出して、野々山の前にさし出した。
「はい、これ。鹿取さんから。ギャラですって……」
野々山は包みを受取り、開いた。銀行の帯封を巻いた札束が三つ入っていた。
「あなたの仕事は、ほぼ終ったみたいね」
「まあね。あとは鹿取さんの領分だ」
「だから、今夜はゆっくりたのしみなさいって、これ、鹿取さんからのメッセージよ」
「ご配慮かたじけない。じゃあ、ゆっくりたのしませてもらうか……」
野々山は笑って言い、友美を抱き寄せた。
「せっかちねえ……」
友美は野々山の腕の中で柔らかく体をゆすり、甘い眼で彼をにらんだ。野々山は唇を重ねた。舌が絡み合った。友美の体から力が抜けていく。
「もう一つ、鹿取さんのメッセージがあったわ。忘れてた」
唇を離して、友美は言った。野々山は椅子に坐って、飲みかけの水割りのグラスを手に取った。友美もテーブルをはさんで坐った。
「あなたがいつか言ってた、変な電話の話だけど……」
「変な電話?」
「いやだ。忘れたの? あなたが鹿取さんの陰の仕事してること知ってるらしい男から、匿名の電話が来たって言ったじゃないの」
「ああ、あの電話ね……」
野々山は言った。数日前に、野々山はたしかに友美に会ってそういう話をした。脅迫屋の田中の正体について、鹿取に思い当ることがないかどうかを、友美を通じて小当りに当るためだった。むろん匿名電話の話は、そのための口実に思いついた創作だった。田中との関わりを表に出すわけにはいかなかったのだ。
「変な電話、その後もかかってくる?」
「いや、あれっきりだった。それで、さっき鹿取さんにそのことで相談するの、うっかり忘れてたんだけど……」
「鹿取さんもそのことを忘れてたらしいの。それであたしにメッセージを托したんだけど」
「なんだって?」
「鹿取さんはこう言うの。とにかくその怪電話の主の見当はつかないけど、気になるから対策を用意したほうがいいって」
「どういうふうに?」
「問題は、倉島社長攻略だから、万一にそなえて、倉島さんの秘蔵のアルバムの所在か、あの人の女子中学生相手のご乱行の一件を文書にして、あたしがそれを預かることにしたほうがいいって……」
「万一にそなえてって、具体的にはどういうことを鹿取さんは予想してるんだろう?」
「言いにくいけど、鹿取さんのことばをそのまま伝えるわね。万一というのは、たとえば野々山さんが命を失うというような場合のことだって」
「つまり、倉島さんか堂崎信一郎が雇った殺し屋に、おれが消されるおそれもあるってわけか?」
「鹿取さんはそう言ったわ。まさかとは思うけど、事が倉島、堂崎の二人にとってはメガトン級のスキャンダルだから、ありえないことではないって」
「だから、それに備えて、おれにそのメガトン級のスキャンダルの真相を文書にさせて、きみに預からせようってわけか。つまり、おれが妙な死に方をして、その文書が表に出れば、倉島さんたちは、スキャンダルの上に殺しの疑いまで向けられることになるもんな」
「あたしが野々山さんの恋人だった、というふれこみで、あなたが万一に備えて恋人にその文書を預けておいた、という体裁にする、というのが、鹿取さんの肚なの」
「すごい人だね、鹿取さんて人は……」
野々山は言って皮肉に笑った。彼はその話に、あらためて鹿取の非情な心を感じとる思いに包まれた。鹿取は万が一の野々山の死まで想定して、冷静に策をめぐらそうとしているのだ。
そこに鹿取の倉島打倒に寄せる執念の深さを見ることはできる。その執念は、野々山の万が一の死をも利用しつくそうとする、冷たい意思に支えられているのだ。
「すごい人よ、鹿取さんは。あたし、言っちゃわるいけど、好感はもてないわ」
友美が眼を伏せて、低く吐き出すように言った。
「いいよ。その文書こしらえてきみに預けるよ。しかし、おれはむざむざ殺されはしないよ」
野々山は言った。彼は突然、自分でもよく判らない闘志にかられていた。
「鹿取さんに頼まれて、おれはこれまでずいぶん汚い仕事をしてきた。おれにだって意地があるさ。汚い仕事をさせられただけで殺されてたまるか。最後まで鹿取さんと組んで、あの人から約束どおりの見返りを取らなくちゃ、ただの汚い犬に終っちまう」
野々山は熱した口調で言った。本音だった。それに、野々山にも、鹿取の抱く万一の不安とは別の理由で、自分が消されかねないという怖れはある。
鹿取の不安は、野々山がでっちあげた怪電話の一件に発している。いわば根のない不安である。だが、野々山の抱く不安には理由があった。彼は田中一味に迫られて、堂崎信一郎をゆすろうとしているのだ。ゆすられた堂崎の出方によっては、野々山の命は保証の限りではない。それこそ、万一にそなえて、倉島と堂崎のスキャンダルの真相をつづった文書を用意しておけば、彼に殺されたとしても、犬死には終らない。その文書が明るみに出れば、それをきっかけに、鹿取は野々山が預けた牧の自供≠フテープや写真を公表するだろう――それが野々山の計算だった。
友美の肌には、まだ湯の湿りと石鹸の香りが、かすかに残っていた。同じ湿りと香りは、彼女の丸く盛り上がったしげみにも、こもったように残っている。
野々山は、友美のしげみに鼻をすりつけるようにして、その残り香を嗅いだ。野々山の片手は上に伸びて、友美の乳房をはずませている。友美は仰向いてうすく眼を閉じたまま、かすかなあえぎをもらしていた。
二人はホテルのグリルで食事をすませ、さらにしばらくメインバーで酒を飲んで、部屋にもどってきた。すぐに二人でバスを使い、そのまま裸でベッドに移ったところだった。
野々山はいつになく、欲望が熱くふくらむのを覚えていた。ベッドの上で友美を相手に羽目をはずして、どぎついたのしみ方をしたがっている自分に気づいていた。堂崎たちに命を狙われかねないという不安が、さっきの友美とのやりとりで、如実なものになっていたせいかもしれなかった。
野々山は友美のしげみから顔を離した。しげみの底にクレバスが淡い翳をつけてのぞいていた。野々山はそこをあからさまに割りたいと考えた。
彼は体を起した。友美の両膝を左右の手で抱えあげた。さらに彼は友美の膝頭を彼女の脇腹に押しつけた。友美の腰が、大きく膝を割られたまま浮いた。彼女のはざまは、野々山の望みどおりに大きく割れ、くすんだ紅紫色の花を思わせるうしろの部分までが、部屋の明りにさらされた。
野々山は眺めた。クレバスの上端に、赤い小さな芽のようなものが息づいていた。厚い小さな双葉のようなものの下の、ピンクのくぼみには、露がたたえられている。野々山は体を倒し、はじめにくすんだ紅紫色の花めがけて、舌をおろした。友美が声を放って体をふるわせた。
電話が鳴ったのはそのときだった。思いがけないベルの音に、野々山も一瞬、はじかれたように体をこわばらせた。
「鹿取さんじゃないかしら?」
野々山に大きく膝を押し割られたまま、友美が言った。眼は鳴りつづけている電話に向けられている。
「ここにおれたちがいることを知っているのは、鹿取さんだけだもんな」
野々山は、むき出しの友美の内股から顔を離して言った。言いながら彼は、マリのことを頭に浮かべた。
野々山がその日比谷のホテルで鹿取と会うことは、マリも知っている。マリは脅迫屋の田中の言いつけで、野々山にべったり張りついているのだ。だが、マリたちのことを友美に告げるわけにはいかない。
「よし。おれが出る」
野々山は体を起した。友美がベッドの枕もとの台に手を伸ばして、受話器を野々山に渡した。友美は受話器を持っていた手を、すぐに野々山の熱くそそり立っている体に伸ばしてきて、声を殺して笑った。
野々山も、片手を友美のしげみやクレバスにあそばせながら、電話に応答の声を送った。太い男の声が返ってきた。
「田中です。マリにそっちだと聞いたもんだから……」
野々山は押し黙っていた。
「そばに誰かいるんですね。仕事を急いでやってもらわなきゃならない事態になったんです。倉島輝信の動きがおかしいんだ。あとでマリに話を聞いてください」
それだけ言うと、田中は電話を切った。野々山は受話器を友美に渡した。友美はそれを電話にもどしながら訊いた。
「鹿取さん、なんだって?」
友美は電話の主は鹿取だと思い込んでいるようすだった。
「変な電話なんだ」
「変な電話?」
「例のやつだよ。いつか名前を名乗らずに、おれに電話してきて、鹿取さんからいくらもらってるんだって言った奴だ。まちがいない。声が一緒だった」
野々山はそう言いつくろった。
「それで、なんて言ったの? 今度は……」
友美はベッドの上に起き上がった。
「鹿取さんの陰の仕事から手を引けって。引かないと後悔することになるって……」
「野々山さんのこと、気づかれたのかしら、倉島社長に……」
「わからない」
「でも、鹿取さんの仕事から手を引けっていうんだから、考えられるのは倉島社長の線しかないんじゃないの?」
「そうだな」
「どうする?」
「どうするって、手を引くもなにも、おれの仕事はもう終ったようなもんだろう。倉島社長の秘密のアルバムを写したフィルムも、スキャンダルの証人の牧の証言を録音したテープも、鹿取さんに渡したんだもの」
「そうね。そこまでこっちの手が進んでるってことを、相手のほうは知らないのね、きっと」
「だろうな。だからまだ、手を引けなんて言ってるんだろうな」
「早いところ、事のいきさつを文書にしといたほうがいいわね。こんなこと言うと、野々山さんに万一のことがあるって、きめてかかってるみたいで、いやなんだけど」
「おれもそうあっさりは殺されはしないさ。でも、文書は書いとこう」
野々山は打ち切るような口調で言い、友美に胸を重ねた。架空の怪電話の主の話なんかは、彼にはどうでもいいことだった。
それよりも、野々山には、倉島輝信の動きがおかしい、と言った田中のことばのほうが気がかりだった。
「今夜、ここに泊るのは止したほうがよさそうだな」
野々山は、友美の裸の胸に頬をつけ、手で彼女の熱くうるんでいるはざまをまさぐりながら言った。彼は早くマリに会って、田中が電話で伝えてきたことの詳細を知りたい、と思ったのだ。「そうね。変な電話の男は、野々山さんがここにいること、知ってるんだものね」
友美は答えた。
「残念だけど、ゆっくりたのしむわけにはいかないらしいや」
「いやあね」
友美はわずかに甘い声になった。
「だけど、はじめたことはやり遂げるのがおれの主義なの。途中でやめると寝つきがわるくなる」
野々山は笑って言った。ふたたび友美の両膝を大きく割って、その間に顔を伏せた。
「たのもしい主義ね」
友美も軽口の口調になって言い、腰を浮かせた。濡れて輝く彼女のはざまが、野々山の口を塞いだ。野々山の舌は、友美の会陰部から、ゆっくりとクレバスに添って這い上がりはじめた。
友美より一足おくれて、野々山はホテルの部屋を出た。
一階のロビーを横切って、駐車場に向う途中で、マリが人ごみの中から歩み寄ってきた。
「ついてきて……」
マリは言った。表情が固かった。
「田中から電話があったよ。どうしたんだ、いったい?」
「鈴木さんと佐藤さんが車の中で待ってる」
マリはそれだけ言って、正面玄関のほうに足を向けた。野々山も歩きだした。
黒いクラウンは、ホテルからすこし離れた横道に停まっていた。佐藤と鈴木が前のシートに乗っていた。
「いったい何が起きたんだ?」
リヤシートに体をすべり込ませて、早速、野々山は前の二人に訊いた。マリが乗り、ドアをしめるのを待って、鈴木が言った。
「きょう、倉島輝信が熱海のエメラルド・ハイツに行ったんだ」
「それで?」
「行ったと思ったら、ものの十分もしないうちに、倉島は東京に引返した。呼んであったらしい中学生のかわい子ちゃんたちも、東京に引返した」
「アルバムとネガがそっくり消えていることに、倉島は気づいたんだろう」
野々山は言った。田中が電話で言ったことの意味が、ようやくわかった。
「おれたちは倉島をこっそりマークしてたんだ。こっちが堂崎信一郎にゆすりをかける前に、倉島がアルバムを盗まれたことに気づいた場合のことを考えてな」
横から佐藤が口を添えた。
「熱海から引返した倉島は、平河町の堂崎信一郎の事務所に直行したんだ」
鈴木がつづけた。
「それで、堂崎をゆする仕事を急げと、おたくのボスが言ったわけか」
野々山は言い、背中を倒してシートに体を埋めた。困惑が重く野々山の胸を圧してきた。これでは鹿取が倉島攻略に手をつけるのとほとんど前後して、堂崎信一郎をゆする仕事をはじめるしかない。
倉島攻略を終えるまで、堂崎をゆする仕事を延ばしておく口実は、もはやなさそうだった。堂崎へのゆすりを引延ばしておいて、田中たちの前から姿を消そうという野々山の算段はくずれ去った。
「そういうわけだから、今夜これから、早速仕事にかかってもらうぜ」
鈴木が言った。
「仕方がないな」
野々山は眼を閉じて答えた。
「段どりを説明する」
「段どり?」
「相手は政治家で、しかも大物だ。一筋縄じゃいかない。金を引き出すまでは、こっちもいろいろと策をめぐらせなきゃならない」
「どうやるんだ?」
「まず今夜、堂崎信一郎の邸に行ってもらわなきゃならない」
「堂崎に会うのか?」
「まさか。堂崎にあんたが会うのは金を受取るときだけだよ。今夜は堂崎の邸の門の前まで行くだけだ。ジャブの一発目をくり出しにな」
「門の前まで?」
「倉島のアルバムの中の写真を一枚、郵便受にだまって放り込んでくるんだよ」
「なるほど……」
「写真を放り込んだら、近くの公衆電話から堂崎に電話をするんだ」
「郵便受の中を見ろと、奴に告げるわけだな」
「それだけ言ったら、すぐに電話を切っちまえ。他のことは言うな」
「堂崎が留守だったら? 留守じゃなくても本人が電話に出なかったらどうする?」
「午後十一時以後なら、堂崎は必ずといっていいくらい家にいる。調べてあるんだ。仮に今夜、十一時まで奴が帰っていなくても、かまわない。電話に本人が出なかったら、秘書でも堂崎夫人でもいい、呼び出して写真のことを告げるんだ」
「それで?」
「電話して、十分後に、もう一度、堂崎の邸の前までもどる」
「郵便受の写真を向うが取ったかどうかを確めるんだな?」
「そうだ。写真が消えていたら、それでひとまず今夜の仕事はおしまいだ」
「写真が郵便受に残っていたらどうする?」
「もう一度、電話をする。ただし、二度目の電話の後は、相手が写真を取ったかどうかを確めに行くのは止めとくんだな」
「なぜ」
「考えてみろ。二度目の電話で、写真がまだ郵便受に入ったままだってことをこっちが知っているとわかれば、向うは確めに来たんだなと気づくだろう」
「なるほど。だから、もう一度、郵便受の中を見にくるかもしれないと思って、待ち伏せるおそれがあるってわけか」
「とにかく、金をふんだくるまでは、少しのミスも命とりになる」
「わかってるよ。おれだって、あんたたちの操り人形になって犬死になんかしたくはないからな」
野々山は皮肉な口調になった。
「明日の夜の仕事がたいへんだぞ」
「明日はなにをやるんだ?」
「堂崎信一郎の事務所に忍び込んでもらう」
「忍び込む?」
「泥棒のまねをしなきゃならん」
「忍び込めるのかい?」
「鍵のことは心配しなくていい。あんたが行くまでに、そっちのほうのプロが、ドアの鍵も、堂崎信一郎のデスクの抽出しの鍵も、まえもって開けておく」
鈴木は自信たっぷりに言った。野々山はひそかに舌を巻いた。さすがにプロの脅迫屋の一味だと思った。手がそろっているらしい。
「事務所に忍びこんで、どうするんだ?」
「また写真を置いてくる。こんどは二枚だ」
「二枚?」
「一枚は倉島のアルバムの中から選んだやつだ。もう一枚はおれたちが牧信夫を八王子の工事現場で口を割らせたときに写した、奴の写真だよ」
「なるほど……」
「事務所に忍び込むのは明日の夜だが、その前に、明日の朝七時に、堂崎の邸にもう一度電話するんだ」
「なんといって?」
「倉島のアルバムとネガを、三億円で買いとれって堂崎に伝えるんだ。これは本人を直接電話口に呼び出して伝えるんだ」
「三億円! その場で奴は返事をするかね?」
「しなかったら、二十四時間待ってやる、と言うんだ」
「わかった」
「大仕事だぜ、三億円のな」
鈴木は言い、目黒の平町にあるという堂崎信一郎の邸の所在地を示す地図と、写真の入った封簡を、野々山に手渡した。
午後十一時二十分になろうとしていた。
野々山は、目黒区平町の住宅地の道に車を停めた。一人だった。マリは野々山のアパートで、彼の帰りを待っているはずだった。
道には大きな構えの邸が並んでいる。道は暗く、静まり返っている。人も車も通らない。野々山は車を降り、静かにドアを閉めた。
堂崎信一郎の邸は、そこからは近いはずだった。野々山がそこに車を停めたのは、すぐそばに、公衆電話のボックスの灯が見えていたからだった。
車のドアのロックをすると、野々山は歩き出した。肚はもうきまっていた。
田中一味から逃げるという考えを、野々山は捨てていた。逃げれば逃げられないことはない。
堂崎信一郎をゆする仕事をはじめたふりをして、逆に堂崎に寝返るという手もあるにはあった。堂崎に寝返って、田中たちが三億円をゆすりとろうとしていることを告げれば、田中一味の始末は、堂崎がつけてくれるだろう。
だが、堂崎にとっては、野々山はスキャンダルを知られている人間である。田中たちのゆすりの計画の端緒をこしらえた人間である。そういう人間を堂崎が野放しにしておくだろうか。
また、堂崎は当然、野々山がどうして倉島の秘密のアルバムの存在を知ったのかを詮索するはずだ。そこから野々山と鹿取との隠された関係が明るみに出れば、鹿取にもなんらかの影響が及ぶだろう。
それを梃子にして、倉島は堂崎と組んで鹿取への逆襲をはじめるにちがいない。そのなりゆき次第では、鹿取が野々山に約束した将来も、どうころぶかわからない。
野々山としては、田中一味のゆすりの手先をつとめたほうが無難だと考えざるをえなかった。堂崎に寝返れば、新たに事態を錯綜させ、敵を増やすことになりかねないのだ。
堂崎信一郎の邸はすぐに判った。大きな冠木門に、堂崎とだけ、古びた銅板の表札が出ていた。
横のくぐり戸の脇の塀に、郵便受の口が見えていた。野々山は門灯の明りを避けて塀にはりつくように体をすりつけ、足をすすめた。郵便受の蓋を上げ、中に写真の入った封筒をすべり込ませた。静かに蓋をもどした。金属の蓋がきしんで、小さな音を立てた。野々山の耳には、それがばかに大きな音のようにひびいた。
急いで公衆電話の前まで引き返した。堂崎家の電話番号は、地図を書いた紙に書かれてあった。野々山は、電話ボックスの明りの下で、その紙をひろげた。
「堂崎でございます」
女の声が受話器に送られてきた。若い感じの声だった。
「堂崎先生に直接お伝えしたいことがあるんですが……」
野々山は下腹に力を入れて、低い声を出した。
「失礼ですが、どちらさまでいらっしゃいますか?」
「事情があって名前は名乗れません」
「しばらくお待ちください」
女は言った。受話器は静まり返ったままである。すぐに男の声が送られてきた。
「わたしは秘書です。先生はすでにおやすみなので、代りにご用件を承りましょう」
「お宅の門の郵便受に、物騒なものが入ってるから見てください」
野々山は言い終えると同時に、電話を切った。
車の中で十五分間、時間をつぶした。ふたたび堂崎の家の門まで行った。そこで野々山は自分の迂闊さに気づいた。郵便受の取出口は塀の内側にあるのだ。外からは、中の写真が取出されているかどうかを確めようがないのだ。野々山は自分がやはり動転していたのだ、と知らされた。彼はあきらめて引返そうとした。そのとき、門の中に足音が聞こえた。
10
野々山は息を詰めた。門の中の足音は近づいてくる。
野々山は足音を消して、大きな冠木門の前を離れた。道に出て、堂崎の邸の塀に背中を押しつけた。
聞こえてくるのは、門の中の足音だけである。その足音が停まった。郵便受の扉を開けるらしい小さな音がした。
つづいてそれが閉められる気配が伝わってきた。足音が遠ざかっていく。
堂崎の秘書か家の者が、郵便受の中の写真を取り出したことはまちがいない、と思えた。野々山は、やはり足音を殺して、塀から離れた。
もう後へは引返せないな――車にもどりながら、野々山は思った。気がつくと、背すじがこわばっていた。
大物政治家の破廉恥なスキャンダルを暴くというのなら、また気持の向き方もちがうだろう。スキャンダルを種にゆするのだから、たがいに闇の中での駆引きになる。闇の中の駆引きならば、堂崎が脅迫者を殺すことだってありうる。
現に鹿取はそういう危惧を抱いていて、及川友美を介して、野々山に堂崎と倉島のスキャンダルを綴った文章を用意させようとしている。
そうしたことを考えると、野々山はたったいまはじめた仕事の大きさと、危険の度合に、あらためておののきを覚えるのだった。
高円寺のアパートの部屋に帰り着いたのは、午前零時半だった。
マリがベッドの中で眼を開けていた。マリはもうすっかり、その部屋が自分の住まいでもあるかのようにふるまっている。
「どうだった?」
「堂崎の手に、おそらく写真は渡ったと思うよ」
「おそらく?」
マリはベッドの上で起きなおって訊いた。野々山は、堂崎家の郵便受の中が、門の外からではのぞけないことや、門の中の足音を聞いたことなどを説明した。
「それならだいじょうぶよ。敵は写真を取り出しているわよ」
マリは言い、ベッドから降りてきた。ネグリジェの下で、嵩のある乳房が躍っていた。彼女はパンティをつけていなかった。マリが動くたびに、黒いしげみがネグリジェの下で、影のように濃くなったり薄くなったりした。マリは服を脱ぎかけている野々山の前に立ち、笑った顔で彼の肩に両手をかけた。
「野々山さんて、意外に頼もしいのね。引受けた仕事は必ずきちんとこなすもの」
野々山は笑った顔になった。返事はしなかった。野々山の手がマリのネグリジェの前をはだけた。野々山はマリの内股に手をさし入れた。マリが笑った。
野々山の手は、マリのクレバスに添うようにして上にすべっていく。しげみが野々山の手の下でかすかな音を立てた。手は腹の上を這って、マリの乳房の片方に届いた。
そこで不意に、マリがするどくうめいてのけぞった。野々山の手が、マリの乳房をわしづかみにしていた。マリは苦痛に顔を歪めた。乳房には指の数だけの深いくぼみができていた。野々山の指先は、まるで乳房に突き立ったぐあいに埋まり、力の余りふるえていた。
「てめえら、ハイエナだ。人に汚ねえ仕事させやがって!」
野々山は吐き捨てるように言って、乳房をつかんだ手でマリを突きとばした。マリはベッドに倒れ込んだ。ネグリジェの裾が大きくはだけた。マリの性器があらわになった。それを部屋の明りにさらしたまま、マリは事もなげに笑って言った。
「みんなハイエナよ。あんただって鹿取とかいう男の手先になって、ずいぶん汚ない仕事をやってきたじゃないの」
野々山は黙っていた。返すことばはなかった。どす黒い怒りが滓のように胸の底で重く揺れた。
「大仕事に手をつけたばっかりだから、気が立ってるのよ、あんたは。そういうときは、お酒飲んで、たっぷりセックスして眠るのが一番よ。眠って起きれば、また気分が変って、悩みも不安もどっかにいっちゃうものよ」
マリは明るい声で言い、ベッドを離れて台所に行った。野々山は服を脱ぎ、パジャマに着換えて、ベッドに上がった。マリがウイスキーとグラスを持ってもどってきた。
マリはベッドの横に立ったまま、枕もとの台の上に置いた二つのグラスに、ウイスキーを注いだ。
野々山はグラスを受取った。ベッドのヘッドボードに背中をもたせかけて、酒を口にふくんだ。マリはベッドの縁に肘をかけて、畳の上に横坐りになった。
二人は口をきかなかった。マリの手が伸びてきて、野々山のパジャマのズボンの下にすべり込んだ。野々山はやがて、アルコールの刺激をわずかに留めたマリの舌を、ジュニアに感じた。
11
午前六時四十分に、目覚し時計のチャイムが鳴った。
野々山は眼をあけてチャイムを停めた。マリも横で眼をあけた。野々山は腹這いになって、たばこに火をつけた。マリが野々山のほうに体を向けた。
「いよいよ、商談のスタートね。堂崎がどう出るか、楽しみだわ」
マリの裸の乳房が、野々山の体の脇に当っている。マリはさらに、野々山の腰を腕で巻き、片方の膝を大きく曲げて、野々山の尻の上に置いた。野々山の裸の太腿を、マリのしげみがくすぐっている。
野々山はたばこを灰皿でもみ消した。ベッドを降りてストーブをつけた。台所に行き、冷たい水を二杯飲んだ。頭の芯が重かった。酒の酔いがしこったまま残っていた。寝不足もある。
時計が七時をさした。野々山は電話の前に立って、受話器を取った。堂崎の家の電話番号をまわした。マリは裸の胸をさらしたまま、ベッドでたばこを吸いながら、野々山に眼を向けている。
「堂崎です……」
受話器に男の声がひびいた。堂崎本人にしては、声が若い感じがする。
「ポストに入ってた写真、ごらんいただけたでしょうね」
野々山は低い声で言った。相手は一瞬、口ごもったようすだった。
「堂崎先生ご本人と直接お話したいんです。先生個人の私生活上の問題ですからね。電話にお呼び願いますね、先生を……」
「わたしは秘書の田川って者だ。先生に代って、わたしが言い分を聞こう。望みはなんだね?」
「田川かタヌキかしらないが、秘書なんかに用はない。本人が電話に出ないんだったらそれでもいい。ゆうべそっちに届けたような写真が、国会周辺に出まわるだけの話だ」
野々山は言い終えると受話器をもどした。マリが声を出さずに、ベッドの上で笑って野々山を見た。
「あんた、結構やるじゃない。啖呵もきれるし。こないだまでただのサラリーマンだった人とは思えないわよ」
「教育されたんだよ、おまえの仲間たちに」
「素質がなきゃ教育だけじゃそうはならないわよ」
野々山はベッドの横に行き、たばこに火をつけた。立ったまま吸った。吸い終るとまた電話のところに行って、ダイヤルをまわした。秘書の田川と名乗った男が出た。
「堂崎先生ご本人をお呼び願います」
野々山は言った。相手は電話をかけてきたのが誰であるか、野々山の声でわかったようすだった。重々しい声の返事があった。
「しばらく待ちたまえ」
野々山は受話器を耳にあてたまま、天井に眼を投げた。
「堂崎だ」
低くこもったような声が受話器に送られてきた。
「写真はごらんいただけましたね」
野々山は下腹に力をこめて声を出した。
「見た。よく撮れておるな」
「落着いてますね。虚勢は政治家につきものですが、ぼくには通用しませんよ」
「どうかな?」
「あなたや、ゼネラル通商の倉島社長のおたのしみの相手が、成人した女性なら、スキャンダルはあなた方のマゾヒストぶりだけですみます。だが、あなた方がマゾプレーの相手をつとめさせたのは、女子中学生です。この点で、あなた方のスキャンダルは、まさしくスキャンダルたりえている。ちがいますか?」
「よくしゃべるな、若僧」
「どうです? ぼくの持っている写真とネガ、お買上げいただけますか?」
「値段によるな」
「いささか高いですよ。しかし、堂崎信一郎に買えない値段じゃない」
「いくらだ?」
「一切合切で三億円……」
「なるほど安くはないな」
「当然です。かつて文部大臣であった時期もある堂崎信一郎が、女子中学生にマゾプレーの相手をさせたことが世間に知れたら、あなたといえども議員バッジを失わずにはいられないでしょうね」
「これはおまえ一人の仕事じゃないな、若僧。どうやって倉島の写真やネガを手に入れた?」
「あなたは物を買うときに、商品価値だけじゃなくて、その物の製造過程や流通経路まで気になさるんですか?」
「当然だね。賢明な客はそうするもんだよ。製造過程や流通経路も、その商品の価値をきめる一つの大きな要素だからな」
「では申上げましょう。この商品は密輸品ですので、流通経路を明すわけにはいきません。ただし、品質は保証付です」
「いますぐ返事をせにゃいかんかね?」
「ぼくは商談は速戦即決を尊ぶ男でしてね」
「わかった。買おう、言い値でな」
「ありがとうございます。お断りになったら、他に買主を探そうと思っていたんです。とびついてくる客はいくらでもいますからね、これだけの値打物ですから……」
「金の用意にすこし時間がかかるぞ。おおっぴらに出せる金じゃないからな。いろいろ手がかかる」
「どれくらい?」
「まず一週間だな」
「だめです。三日だけ待ちましょう。それでだめなら、他に客を探します。さしずめ、あなたの政敵の原田政之氏あたりが上客になりそうですね」
「三日の間に闇の金を三億集めるのは難しいな。待てないかね、一週間」
「待てませんね。一週間あれば、あなたならぼくの商品の流通経路を調べることができないとも限らないですからね。三億円を手に入れるか、あなたに正体突きとめられて消されるか、この差は大きいですからね」
「仕方がない。なんとかしよう」
「三日後の午前七時に、こちらから電話をさしあげます」
野々山は電話を切った。受話器を置いて、彼は太い息をついた。
12
堂崎信一郎と商談≠まとめた日、野々山は夜まで一歩も外に出なかった。及川友美に渡す、堂崎たちのスキャンダルの顛末を綴った文章を、彼は夕方までかかって書き上げた。
野々山が車でアパートを出たのは、午前一時過ぎだった。
野々山は平河町の暗い裏路に車を停めた。時刻は午前二時になろうとしていた。
野々山は車を降りると、四角を一つ越して、大きなビルの裏手に出た。通用口のドアの上に、にぶい明りがついていた。
野々山は、ビルとビルの間に体をすべり込ませた。彼は小さな窓の下に足をとめた。窓のガラスが一ヵ所だけ、小さく破られて穴があいていた。田中がさしむけたプロの鍵開け屋の仕業である。窓の鍵ははずされていた。
野々山はそこから中にすべり込んだ。降りたところはトイレだった。ビルの中は物音が絶えていた。
野々山は廊下に出た。エレベーターを使うわけにはいかなかった。足音を消して、階段を五階まで上がった。
堂崎信一郎の事務所は、五階の奥の三部屋を占めていた。三つの部屋は、中についているドアでそれぞれつながっている。それも野々山は、プロの鍵開け屋の報告として、鈴木から伝えられていた。
堂崎信一郎の机は、三つ並んだうちのいちばん奥の部屋にあった。広い部屋だった。机は窓を背負う形に置いてある。部屋は明るいグレイの厚いカーペットが敷きつめられている。部屋の中央には、十五、六人は楽に並べそうな、ソファの席がしつらえてある。
野々山は堂崎信一郎のデスクの前に立った。机の袖に、鍵穴のついた抽出しがあった。抽出しの鍵はあいていた。野々山は服のポケットから、二枚の写真を取出した。
一枚の写真には、裸の堂崎と、やはり裸の河合良子が写っていた。河合良子は、床に仰向けに横たわった堂崎の顔の上にまたがり、放尿している。尿を浴びた堂崎の顔や胸や肩が、にぶく光って写っていた。
もう一枚の写真には、芸能プロの社長の牧信夫と、牧が雇った殺し屋の内田が写っている。写した場所は、八王子の建築途中の地下室である。
野々山は、二枚の写真をむきだしのまま堂崎の机の抽出しに入れた。
そのまま彼は、すぐに部屋を出た。階段を降りた。ガードマンの巡回にぶつかる心配はないはずだった。プロの鍵開け屋は、ガードマンの巡回の時間まで、ぬかりなく調べていたのだ。
野々山はふたたび、トイレの窓から外に出た。ビルの裏手の道に出ると、さすがに緊張が解けて、野々山は体の力がぬけるのを感じた。
彼は歩きながら、たばこに火をつけた。暗い空に向って、勢いよく煙を吐いた。遠くで車のクラクションの音が聞こえた。
角を越して、車を停めた場所にもどった。野々山はたばこを足もとに捨てて踏み消した。鍵を出して、車のドアを開け、乗りこんだ。ドアを閉め、エンジンをかけたとき、野々山は不意にうしろから髪をつかまれた。
声を出そうとして、彼はそれを呑み込んだ。頭がうしろに引っぱられて、安全枕の上でのけぞらされていた。反りかえった野々山の喉笛に、ドスがあてられていた。
「おとなしくしてたほうがいいぜ」
うしろで声がした。野々山はルームミラーに眼をやった。ミラーはあらぬ向きに曲げられていた。うしろの席はそこには映っていない。
「おとなしくしてるだけでいいのかい?」
野々山は必死に動揺と恐怖を押し隠して言った。
「車を走らせろ」
「どこへ?」
「仙石原だ」
「仙石原……。箱根のかい?」
「行け……」
つかまれていた髪が放された。喉笛にあてられていたドスが、野々山の左の耳の下に移された。
「その物騒なもの、すこし離してくれないか。そうくっつけられちゃ、危くて運転できないぜ」
野々山は言った。相手はあっさりドスを引いた。だがそれはこんどは野々山の左の脇腹にあてられた。野々山は車を出した。走り出してすぐに、彼はルームミラーに手をのばした。向きをなおそうと思ったのだ。
「余計なことするな」
声と共にドスの峰打ちが手首に飛んできた。野々山はあきらめた。口をつぐむと恐怖が湧いてきた。相手は堂崎の手の者にちがいないと思った。野々山は、堂崎のすばやい立ち上がりに舌を巻く思いだった。
13
仙石原に着いたのは、午前三時半だった。
車のライトの先に、一軒の山荘の門が浮かびあがってきた。自然石を組んだ、丈の低い門だった。
リヤシートの男が、その門の中に車を乗入れるように、野々山に命じた。男の顔は依然として野々山には見えない。だが、そこに着くまでの間に、リヤシートに二人の男が乗っていることを、野々山は気配で察していた。一人の男は終始、押し黙ったままである。一言もしゃべらなかった。それが野々山には不気味だった。
野々山は命じられるままに、山荘の門に車を乗入れた。砂利を敷きつめた道が、玄関の車寄せまでつづいていた。庭が広そうに思えた。
男たちは、玄関の車寄せのところで、野々山に停車を命じた。野々山は車を停め、ライトを消した。
男たちが車から降りた。一人が外から運転席のドアを開けた。一人は明りの消えたままの玄関のドアの前に立っていた。
「降りろ」
開いたドアの前に立った男が、手にしたドスを小さく振って言った。野々山は車から降りた。恐怖がまたあらためて胸をふさいだ。
男は野々山の肩をつかみ、うしろから背中にドスをあてた。そのまま玄関のドアに向った。
立っていた男が、玄関のドアを開けた。男は中に入って明りをつけた。光が先に立った男の顔を染めた。野々山は思わず声をあげた。ことばにならなかった。男が声を立てずに笑った。脅迫屋の田中の下で働いている鈴木だった。
野々山は体をひねって、うしろの男を見た。ドスをつきつけている男は、はじめて見る顔だった。男たちはてっきり堂崎信一郎の手の者だと思いこんでいた野々山は、はげしいおどろきに包まれていた。
「入れよ」
鈴木が言った。ドスが野々山の背中を軽く押してきた。野々山は中に入った。うしろで、ドアが閉められた。
「どういうつもりだ?」
野々山は鈴木に向って言った。
「どうもこうもないさ。おまえの仕事はもう終ったんで、ゆっくり休んでもらおうと思って、ここに連れてきた」
「仕事が終った?」
「そう、なにもかも、全部終ったよ。ごくろうだったな、長いこと……」
「まだ、堂崎信一郎から、三億円を受取る仕事が残ってるはずだぜ」
「それは必要ないんだよ、もう」
「必要ない? 堂崎から金は受取らないということか?」
「そんなところだ。上がれ」
鈴木はやりとりを打切って、野々山を追い立てるように手を振った。
廊下に足音がした。佐藤とマリが、薄笑いを浮べて姿を見せた。
「くそ!」
野々山は低い声で唸った。マリも佐藤も口をきかなかった。ドスを持った男が、うしろから野々山の肩を小突いた。野々山が靴を脱いで上がった。
「連れていけ」
鈴木が、横の階段のほうに顎をしゃくって、ドスを持った男に言った。野々山はドスで押されるようにして階段を上がった。殺される――そういう予感がした。鈴木も佐藤もマリも、玄関のホールに残っている。野々山は階段の途中で、下の三人に眼を向けた。三人は無理に表情を殺したような顔で、野々山を見ていた。
階段を上がると、広い廊下が奥に向って延びていた。ドアが四つ並んでいた。どのドアも、厚味を感じさせた。
廊下の奥の端のドアの前に、男が一人立っていた。そばに木の丸椅子が一脚置いてあった。
男は野々山たちが近づくと、立っている前のドアのキーホールに、鍵をさし込んで開けた。ドアが開けられた。部屋の明りは消してあった。
野々山は暗い部屋に足を踏み入れた。廊下のほの暗い明りが、わずかに部屋にさし込んでいた。スチームが入っているらしく、部屋は温い。奥は見えない。
「ゆっくりしてろ」
うしろで声がして、ドアが閉められた。鍵のかかる音がした。野々山は立ったまま、耳をすました。廊下を足音が遠ざかっていく。足音は一つだ。
ドアの前で、椅子を動かす音がした。つづいて、ドアに人がもたれかかる気配が伝わってきた。ドアの前に立っていた男は、見張り役らしい、と判った。
野々山はライターをつけた。電灯のスイッチを探すつもりだった。ライターの光が、奥でうごめくものの影を捉えた。
野々山は身がまえた。ドアのすぐ横の壁に、明りのスイッチがあった。野々山は身がまえたまま、片手をのばしてスイッチを押した。野々山はまた低いおどろきの声をあげた。明りの中で彼が最初に眼にしたのは、素裸のままの、及川友美の姿だった。
「野々山さん!」
友美も低い声をあげた。彼女は壁ぎわのベッドの上で、裸の胸を両手で覆って坐っていた。
14
野々山は、ベッドの端に腰をおろしたまま、友美の話を聞いた。
友美は前日の退社まぎわに、鹿取から電話をうけた。電話はいつものように、外線からかけられてきた。鹿取は、午後七時に、日比谷のホテルのロビーに来るように、と友美に言った。用件は言わなかった。
友美はいつもの連絡か、野々山の仕事について何かの指示があるのだろう、と思って、ホテルに出かけた。
七時になったが、鹿取は現われなかった。代りに、鹿取の使いと称する女がやってきて、友美をホテルから連れ出し、停めてあった車に乗せた。都合で、鹿取が会う場所を変更したのだ、と女は言った。
車には、男が二人乗っていた。友美は疑わずに乗った。そのまま、彼女は仙石原のその山荘にはこばれてきたのだった。
友美はさすがに不安を覚えて、途中の車の中で騒ごうとした。するとリヤシートにいた男が、ドスを友美に突きつけてだまらせた。
山荘に着き、部屋に押込められるとすぐに、着ているものをすべて脱がされた。逃亡を防ぐためだ、と言われた。
友美はそうしたいきさつを、ささやくような声で話した。
野々山は、日比谷のホテルのロビーから友美を連れだしたのが、マリや鈴木たちであることが、すぐにわかった。
「でも、野々山さんはどうして?」
友美が訊いた。野々山も、そこに連れてこられたいきさつを、小声で話した。彼は、脅迫屋の田中に強いられて、堂崎信一郎をゆする仕事をしたことも、友美に話した。それを隠しておく必要はもうなくなっていた。
話しながら、野々山は、深夜に平河町の堂崎の事務所に忍び込まされたのも、田中のしかけた罠だった、と気づいた。
田中たちは、それも堂崎へのゆすりの仕事の一つと見せかけて、野々山を堂崎事務所に忍びこませる。出てきたところを捕えて箱根まで連れ去るという計画だったにちがいない。深夜だから、仮に野々山に騒がれても、人に見咎められる心配はない。その上、リヤシートにいる鈴木が顔を見られない限り、箱根に着くまでは、野々山は相手を堂崎の手の者と思い込んでいるにちがいない――田中たちはそう踏んだのだろう。
話しおえて、野々山は黙り込んだ。友美も黙っている。沈黙の中で、二人は何度か眼を見交した。先にことばを吐いたのは、野々山だった。
「鹿取さんが仕組んだことじゃないかね?」
「鹿取さんよ。鹿取さんがあたしたちをここに閉じこめてるのよ」
すかさず友美が言った。二人の声は思わず高くなっていた。
「田中と鹿取は、裏でつながってるんだよ、きっと……」
「まちがいないわ」
友美は眼をむいた。裸の膝に置かれた彼女の手が拳ににぎられたまま、ふるえている。
野々山はまた口をつぐんだ。怒りが胸にふくれ上がってきた。彼は恐怖を束の間忘れた。
鹿取と田中が裏で通じ合っている、と思える状況証拠はいくつかある。
野々山が、はじめて田中と顔を合わせたのは、鹿取と日比谷のホテルで会った後だった。ホテルの部屋を出たところに、佐藤が待ち伏せていて、野々山を車に乗せたのだ。車には鈴木がいた。鈴木は拳銃を持っていた。野々山はそのまま眼かくしをされて、どことも知れぬマンションに連れこまれ、そこの一室で、田中とはじめて会い、堂崎信一郎をゆする仕事を承知させられたのだ。
田中は、野々山が鹿取の陰の工作を一人で引受けてやっていることも知っていた。田中と鹿取が通じていれば、鹿取に会いにきた野々山を押えて車に乗せることも簡単にできるわけである。
友美も鹿取の電話で呼び出されて、そのまま仙石原まで連れてこられているのだ。鹿取と田中が通じていることは、疑いの余地はなさそうだ、と野々山は考えた。
「だけど、どうして鹿取さんが、あたしたちをここに閉じこめなきゃならないの?」
友美が言った。
「おれたちが、いろんなことを知りすぎた、ということだろうな、鹿取に言わせれば」
「知りすぎたから、どうするっていうのかしら?」
殺す気だ、というのは野々山にはためらわれた。彼は自分の頭の中にあることを整理して、友美に話してみようと思った。
野々山にとって大きな謎の一つは、田中たちが、堂崎信一郎から三億円をゆすりとることを中止した点だった。鈴木はさっき、堂崎から金をゆすりとる必要がなくなった、と言ったのだ。それはでまかせではなさそうだ。
堂崎から実際に金をゆすりとるつもりでいるのなら、田中はその仕事を野々山にやらせるにちがいないのだ。なぜなら、金を受取る仕事には大きな危険が予測されるからだ。
その金は堂崎にとっては、スキャンダルの揉消し料である。表に出せない性質の支出である。銀行振込や小切手など、後に痕跡の残る形での支払いは避けるはずだ。現金の支払いになるだろう。それを受取るには、なんらかの形で相手と直接、接触しなければならない。そこに危険がひそんでいるのだ。その仕事を田中が自分たちの手でやるはずはない。
田中が堂崎をゆすっておきながら、金を受取ることを中止したのは、金以外の利益が、田中たちにもたらされたからではないか。
そして、その利益は、鹿取と田中に共通する類のものであるにちがいないのだ。
「鹿取は、おれが渡した、倉島の秘密のアルバムを写したフィルムや、女子中学生を倉島たちに世話した牧の証言のテープやらを、原田政之のところに持込んだんじゃないかね」
野々山は、自分の頭にあることをひととおり話してから、友美に言った。
「原田政之って、堂崎信一郎の政敵の?」
友美が言った。野々山はうなずいて、ことばをつづけようとした。そのとき、廊下を近づいてくる足音が聞えた。野々山は口をつぐんだ。緊張が体を貫いた。
15
ドアの鍵を開ける音がした。友美は急いでベッドの上で毛布をひき寄せ、裸の体を覆った。野々山はベッドの横に立った。
ドアが開けられた。男が三人入ってきた。鈴木と佐藤と、ドスを持った男だった。佐藤は便箋とボールペンを手に持っていた。
「遺書を書いてもらうぜ」
鈴木が無造作な口ぶりで言った。
「遺書だと?」
野々山は唸り声をあげた。
「二人で心中してもらわなきゃならないんでな」
野々山は声を失った。友美が手を伸ばしてきて、野々山の手首をつかんだ。彼女の顔は恐怖でひきつっていた。
「まさか、わけも話さずにおれたちを殺すなんて礼儀知らずなまねはしないだろうな」
野々山は虚勢を張るしか、恐怖を押し殺す術がなかった。
「わけか。わけは簡単さ。もう芝居は終ったんだよ。手打ちも無事にすんだしな」
「手打ち? 堂崎から金を取ったのか?」
「金なんか取ろうとは、はじめから思っちゃいなかったのよ、こっちは……」
「じゃあ、何が目あてで、おれに堂崎をゆすらせたんだ?」
「原田先生にとっちゃ、三億円なんてはした金さ」
「原田先生? 原田政之か。手打ちってのは、原田と堂崎の手打ちのことか?」
「そうだ。やっと気がついたか。鹿取さんは頭の切れる人だね。あの人は、おまえが手に入れた倉島のエロアルバムを写したフィルムや、牧のテープを原田先生のところに持ち込んだんだよ」
「やっぱりそうか……」
「原田先生は、堂崎と大きな取引きをしたはずだ。それがなんだかはおれたちにはわからないけどな。そして、鹿取さんは原田を通して、倉島を社長の椅子から引きずり落したってわけさ」
「そんなところだろうと思ったよ。だが、どうしてわざわざ、おれに金をゆすりとるつもりもないのに、堂崎をゆすらせたんだ?」
「そこが鹿取さんの頭の切れのすごいところさ。おまえに堂崎をゆすらせておいて、鹿取さん自身はうしろに隠れる。原田先生は、堂崎がゆすられていることを知っているぞと、堂崎本人にほのめかして、相手を取引きに引込む。取引きに応じた堂崎は当然、ゆすりのネタの出所を原田先生から聞き出そうとする。原田さんはおまえのことを堂崎に告げる。もちろん、おまえと鹿取さんのつながりは隠したままにしてだよ。おまえが偶然、熱海のエメラルド・ハイツに空巣狙いに入って、倉島のエロアルバムも見つけたことにしてあるのさ。そのアルバムを写したフィルムを、おまえが直接、原田先生のところに持ち込んだ、と堂崎は信じてるよ」
「くそ!」
野々山は歯ぎしりをした。どす黒い怒りが体じゅうにふくれあがった。
「そういうわけで、鹿取さんは堂崎から狙われる心配はなくなる。そしておまえたちが死ねば、鹿取さんがおまえにやらせた汚ない工作の数々は、すべて闇に葬られるってわけだ。おまえたちは、堂崎にとってはもちろん、原田先生にとっても、鹿取さんにとっても、おれたちにとっても、いろんなことを知りすぎた邪魔者ってことになったわけだ。みんなの仕合わせのために死んでくれよな」
「鹿取は、自分の手を汚さずに、社長の椅子を手に入れたってわけか。おれたちの命と引き換えに……」
「そういうことになる。世の中、頭の切れる者と力のある者が勝ちと、相場がきまってるんだ」
鈴木はせせら笑った。
「楽屋話はもういいだろう。早いとこ、遺書を書けよ」
佐藤が言って、便箋とボールペンを突きつけてきた。それを見て、野々山はアパートに残してきた、堂崎と倉島のスキャンダルをつづった文書を思い出した。おそらくそれはすでに、マリが処分してしまったのだろう、と彼は思った。その文書を用意しろと言ったのは鹿取だった。鹿取は、原田と堂崎との取引きが成立する前に、野々山に万一のことがあることをおそれて、そういう文書を用意させたにちがいなかった。
野々山は鹿取のその周到さに舌を巻き、また怒りの増すのを覚えた。
16
〈事情があって、二人で旅立ちます。ご迷惑をおかけしますが、よろしく。みなさん、ありがとうございました。さようなら――〉
野々山が書かされた遺書の文面は、そういうものだった。末尾に名前を書き添えさせられた。横に友美も自分の名前を書き並べた。
野々山は逆らわずにそれを書いた。逆らってみても、その場には活路は見出せそうもなかった。友美も野々山に従って、こわばった表情のまま、署名をした。
野々山は友美の手から、署名の終った遺書≠取り、鈴木に渡した。友美の手にボールペンが残っている。鈴木一人なら、そのボールペンを相手の眼にでも突き立てて、反撃できるだろうに――野々山は歯噛みする思いを味わった。
「死んでもらう前に、もう一つやってもらわなきゃならないことがある」
鈴木が受取った遺書≠服のポケットに納めて言った。ドスを持った男が、口もとに薄笑いをうかべた。
「こんどは何をやらせようっていうんだ?」
「恋人同士で心中する奴らは、いよいよ死ぬっていうときには、やってやって、やりまくると思わないか?」
佐藤が言った。
「あの世じゃいくら二人一緒でも、セックスはできねえからな」
ドス男が笑った顔で言った。
「あの世でセックスできようとできなかろうと、大きなお世話だ」
野々山はドス男を見すえて言い返した。
「そうはいかない。やってもらわなくちゃならないんだ。おまえらの死体が出たら、どこをどう疑われるかわからない。だが、遺書があって、女の体の中におまえの血液型を示すザーメンが残ってれば、文句なしに心中ってことになる。おれは文句のない仕事をすることで知られた殺し屋なんでね。おれの流儀に従ってもらう」
鈴木がまるで諭《さと》すような口ぶりで言った。
「はじめろよ、早く……」
ドス男が、ドスの腹で野々山の顎を下から軽く叩いた。友美は横を向いている。
「あんたの流儀に従うから、出てってくれ。人に見られながら女を抱く趣味はないんでね、おれには」
鈴木が眼を細めた。鈴木の拳が野々山の胃のあたりに打ち込まれた。よける間はなかった。
「ぐずぐずされるのはおれは嫌いでね。まもなくこの世とおさらばする奴が、恥かしいなんてことを気にしたってはじまるまいが……」
鈴木は言った。野々山は観念した。友美を見た。友美は唇を噛んでいた。
野々山は無言で裸の友美の背中を押した。友美も肚をきめていたらしい。野々山と短い視線を交すと、素直にベッドに仰向けに体を伸ばした。
野々山は眼を閉じた。天井を仰いでズボンのベルトをゆるめ、ファスナーをおろした。野々山がブリーフを押しさげると、鈴木が友美に言った。
「役に立つようにしてやれ。しゃぶってやるほうが早いだろう」
友美はもう表情を殺していた。恐怖と屈辱が彼女の神経をにぶくさせているのだろうか。友美は鈴木に言われて、ベッドの横に立っている野々山の腰に手をまわし、彼の股間に顔を寄せてきた。
力なく垂れている野々山の分身を、友美の舌がすくいあげた。すぐに唇がかぶせられた。野々山は眼を閉じていた。早く事を終えたかった。友美の屈辱を思うと、早く彼女をいまの苦役から解放してやりたかった。たとえそのすぐ先に待っているのが死であっても、と野々山は思った。
彼は眼を閉じたまま、友美の髪を撫で、片手を彼女の乳房に伸ばした。
「やり納めだ。しっかりやれよ」
ドス男がはやしたてた。鈴木と佐藤は黙っている。野々山は勃起をはじめていた。
友美が野々山から離れた。野々山はベッドに上がった。友美が彼を迎える姿勢をとった。陰毛が妙に白っぽい感じに見えた。その下にすけて見えるクレバスは、わずかに赤い翳をおびて乾いていた。
「濡れてなきゃ女が痛がるぜ。おめえも舐めてやれよ」
佐藤が笑った声で言った。野々山は友美のしげみに額をつけた。舌をのばしてクレバスを押し分けた。ふと心が萎えそうになる。屈辱が背中を灼いた。
野々山は背中を立てた。おのれのものに手を添えて、友美のピンクのはざまの中心にあてた。腰を進めて浅く静かに埋めた。わずかにひきつる感じがあった。かまわず彼は深く埋め込んだ。友美に胸を重ねた。
友美はひっそりと動かない。眼を閉じたまま、両手はシーツの上に静かに置かれている。野々山は一瞬、女を犯している気分に包まれた。
「ちゃんといけよ。あとで流れ出てくるかどうか、ばっちり調べるからな」
鈴木が言った。ドス男と佐藤の笑い声がひびいた。
野々山は急いだ。快感はなかった。ないままに彼は射精を迎えていた。友美は終始、死体のように横たわったままだった。
野々山は友美から離れた。急いで身仕舞をした。友美は起きあがろうとして、佐藤に胸を押えられた。ドス男が、友美の膝を開かせたまま押えていた。ドス男の眼は、あらわな友美の性器に注がれている。鈴木は野々山に眼を配っていた。油断はなかった。
「オーケイだ。こぼれてきやがった」
ドス男が言って、友美の膝から手を放した。友美はあいかわらず表情のない、白く粉を吹いたような顔を天井に向けていた。
佐藤が部屋を出て行った。彼はすぐにまたもどってきた。佐藤は手に友美の服をかかえていた。その服をベッドに投げて、着るように促した。服を着ながら、友美はすすり泣きをはじめた。いよいよ殺されると思うと、気持が乱れたのだろう。
野々山も、胸の底に大きな氷の塊を抱いたような思いに包まれはじめていた。
恐怖とは別に、鹿取と原田政之に対する怒りも、野々山の胸をふさいでいた。怒りを爆発させることもないままに殺されることを思うと、野々山は叫び出しそうになる。
だが、鈴木たちの手から逃れられるという自信はまったくない。脱出のチャンスの訪れることも、期待できそうにない。
17
友美が服を着終えると、鈴木と佐藤とドスを持った男たちは、野々山と友美を部屋から連れ出した。
佐藤が友美の腕をつかんで引っ立てた。ドスを持った男が、野々山の肩をうしろからつかんで押し立てた。いちばんうしろに鈴木がつづいた。鈴木が拳銃を持っている可能性は充分にあった。はじめて日比谷のホテルの前で顔を合わせたときも、鈴木は拳銃をちらつかせて、野々山を車に押し込んだのだ。野々山はそのときのことを思い浮かべた。
玄関の外に連れ出された。車寄せに野々山の車が停めたままになっていた。鈴木が運転席のドアをあけて言った。
「乗れ」
「どこに行こうってんだ?」
鈴木は答えなかった。ドスを持った男が野々山の背中を押した。野々山は運転席に乗り込んだ。佐藤が助手席のドアを開けて、友美を中に押し込んだ。
ドスを持った男は、すばやくリヤシートに乗り込んできた。ドスが野々山のうしろから頸すじにあてられた。鈴木もリヤシートに乗り込んだ。佐藤は別の車で行くらしい。すぐに庭先と思える方角で車のエンジンが始動する音がした。
「エンジンをかけろ。あの車の後について走るんだ」
鈴木が言った。野々山はエンジンをかけた。ライトをつけた。ダッシュボードの時計に眼をやった。午前四時四十分になっている。
佐藤の運転する車が走り出して、山荘の門を出た。野々山もつづいた。
小一時間走った。佐藤の車が停まったのは、熱海の錦ケ浦の路上だった。道はまだ暗い。
「なるほど。錦ケ浦は自殺の名所だもんな」
野々山は鈴木に言われて車を停めると言った。鈴木はそのときも答えなかった。友美が助手席で身をちぢめていた。野々山の恐怖は限界を超えていた。そのせいか、彼は開き直ったように冷静な自分を感じていた。
ドスを持った男が車を降りた。男はすぐに外から運転席のドアを開けた。男はドスを小さく横に振って、野々山に車から降りるように言った。
脱出のチャンスの訪れるのを待つには、もう時がさし迫っていた。チャンスは自分でつくるしかなかった。自分が逃げれば、鈴木たちは友美を殺すわけにはいくまい、と野々山は考えていた。友美までを連れて脱出することは望めなかった。
野々山は車を降りた。ドアをはさんで、正面にドスを持った男の顔があった。野々山は男と向き合って吐息をついた。同時に野々山の両手が男の髪をつかんでいた。車のドアをはさんでの頭突きは、見事に決まった。男はドアにはばまれてドスを使えなかった。それだけではなかった。男は頭突きの不意打ちをくらって、ドスを取り落していた。
野々山は落ちたドスを拾おうとして、あきらめた。そのゆとりはなかった。彼はドスを車の下に蹴り込んだ。二発目の頭突きを男に浴びせた。
鈴木が叫んだ。野々山は地を蹴った。闇に向って走った。夢中で走った。迫ってくる足音がすぐに途絶えた。代りに車の音が近づいてきた。ライトが足もとに迫った。野々山はガードレールを越えて、下の木のしげみの中に駈け込んだ。
しげみの中は急な勾配を持っていた。野々山は手に触れる木の幹や枝につかまって、闇の中を進んだ。車の急ブレーキの音がした。ドアの閉まる音もした。足音が近づいてくる。野々山は足を停め、息を殺した。足音は二つと思われた。それはやがてしげみの中に入ってきた。
野々山は斜面を這って、静かに道路に向った。男たちの二つの足音は、絶えたりつづいたりしている。距離は測れない。近いようにも遠いようにも思えた。
野々山は五分余りをかけて、ガードレールまで這い上がった。彼はガードレールの横に這った。
すぐ先にライトをつけたままの車が停まっていた。中に人影は見えない。野々山はガードレールの下をくぐり抜けた。路面を這うようにして車に近づいた。
車のうしろで野々山はそっと背を伸ばした。車のリヤシートに二つの人影がほのかに見えた。一つは頭の先だけしか見えない。それが友美だろう、と野々山は見当をつけた。
野々山はまた路面に這った。車の左側にまわった。うずくまった姿勢で、車のうしろのドアのノブに手をかけた。ノブを押し上げた。ドアはあおられたように開いて、男の上半身がこぼれ出てきた。ドスが道に落ちた。
野々山は立った。夢中だった。男の後頭部を蹴り上げた。すぐにうしろから相手の頸を絞め上げた。男は重いうめき声をあげた。車の奥から友美が顔を出した。
「ドスを拾え!」
野々山は小さな声で友美に言った。友美は車からころがり出てきた。ドスを拾って野々山に渡した。
「この車で先に逃げろ。寮に連絡する」
野々山は言った。友美は大きくうなずいた。車が走り出した。野々山は男の頸に腕を巻きつけたまま、片手で男の太腿の裏にドスを突き立てた。にぶく重い手応えがあった。
男がうめいた。体がはねた。野々山はドスを引き抜いた。男の頸を絞めている腕をはなし、腰を蹴った。男は体を捻じるようにして肩から路面にころがった。
野々山は男の顔面を蹴りつけた。頭を蹴った。男はうめき声をあげた。
「声を立てると喉にドスが立つぞ」
野々山は男の喉にドスを突きつけ、胸を膝で踏みつけた。相手の顔は闇に溶けて見えない。片手で男の服のポケットをさぐった。腰のところに固い手ざわりがあった。拳銃だった。野々山はそれをつかみ出し、腰のベルトにさした。
野々山はなおも男のポケットのすべてを探った。ハンカチがあった。野々山はドスで男の首を叩いた。
「口をあけろ」
男は口をあけた。あいた口にドスが浅くさしこまれた。そうしておいて野々山は、男の口にハンカチを押し込んだ。男の襟首をつかんで立たせた。
「歩くんだ」
男は荒い息の音を立てながら、刺された腿の傷をかばって、踊るような恰好で歩いた。道の先に、野々山の車が停まっていた。野々山はトランクルームを開けた。男に中に入るように言った。男は渋った。野々山はベルトにさした拳銃を抜いた。グリップで男のこめかみをしたたかに一撃した。男は腰を落しかけ、トランクルームの中に上体を突っ込んだ。あとはひとりでに中に這い込んだ。
トランクルームのにぶい明りが男の血に汚れた顔を照らし出した。鈴木だった。野々山は鈴木の顔に唾をとばしておいて、トランクルームの蓋を閉めた。運転席の車のキーを抜き取ってポケットに入れた。
野々山は、車とガードレールの間に坐り込んだ。車のドアに背中をもたせかけた。そうやって、佐藤とドス男が車にもどってくるのを待った。額に汗が浮いていた。その汗が次第に冷えていった。
闇の中に話声を聞いたのは、十分余りが過ぎてからだった。足音もひびいた。それが近づいてきた。野々山は車のドアから背中をはなした。路面に据えた尻を上げた。背を屈めてガードレールをまたぎ、そこにうずくまった。
「車がないじゃないか。鈴木さんはどうしたんだろう……」
佐藤の声だった。
「野郎を追ったのかねえ。道路を逃げるわけはねえんだがな」
ドスを持っていた男がそう言っている。二人は車に近づいてきた。そこで左右に分れた。佐藤が運転席のほうにやってくる。もう一人が助手席にまわっていく。
野々山はガードレールの陰で息を殺した。佐藤が運転席のドアの前に立った。野々山は静かに立った。ガードレールをはさんで、佐藤のすぐうしろだった。野々山はドスを低く突き出した。狙いは佐藤の太腿だった。
佐藤が叫んだ。野々山はドスを抜いた。ガードレールに足をかけて道路にとび出した。助手席にまわった男が、車の前にまわってきていた。野々山はそのまま距離をつめ、足をとばした。男が体を折ってボンネットの上に這う形になった。
野々山はとびついた。男の首を押えた。ドスを脇の木立ちの闇に投げた。拳銃を抜いた。男の体を引き起した。拳銃のグリップで男の顎を殴りつけた。
18
野々山は、鈴木たちに遺書≠書かされた仙石原の山荘にもどった。
夜が明けはじめていた。野々山は拳銃を手にしたまま、車のリヤシートにいた。車を運転してきたのは、ドス男だった。鈴木と佐藤は、車のトランクルームに折り重なって押し込めてあった。
車が山荘の車寄せに停まると、野々山は男にエンジンを切らせ、キーを抜かせた。野々山は男の手からキーを取りあげ、ポケットに入れた。
野々山は車を降りた。運転席にまわり、ドアをあけて、男に拳銃をつきつけた。車から降りさせた。男を前に立たせて、玄関のドアの前に行った。野々山に促されて、男はドアのノッカーを鳴らした。返事が遠くでした。足音が近づき、ドアが開けられた。
野々山は男の腰を強く蹴った。男はつんのめり、ドアをあけた留守番役の男ともつれ合った。野々山は躍り込んだ。留守番役の男に拳銃を向けた。
「車のトランクの中に荷物がある。中にはこび入れるんだ」
留守番役の男は、そういう事態を思ってもみなかったにちがいない。呆然とした顔で、彼はもう一人の男を見た。ドス男の顔は頭突きや、拳銃のグリップで殴られたために、血とあざでどす黒い紫色で彩られていた。
「さっさとやれ」
野々山は留守番役の男の頬を拳銃のバックハンドで殴りつけた。男はふっとび、玄関のドアの横の壁に肩を打ちつけた。
二人の男は車寄せに出た。野々山は車のキーをトランクルームの蓋の上に投げた。男の一人がそれを取って、トランクルームを開けた。血の匂いが立った。刺された太腿から血を流しっ放しの鈴木と佐藤は、青ざめた顔でぐったりとなっていた。
「一人ずつ担いでいってやれ」
野々山は言った。ドス男が佐藤を抱えおこし、肩に担いだ。動くと傷が痛むのか、佐藤はうめいた。留守番役の男が鈴木を担ぎあげた。鈴木は顔を歪めただけで、声は立てなかった。すっかり気力を失っているようすである。
野々山はトランクルームを閉め、キーを抜きとると、男たちにつづいて玄関に入った。ドアを閉めた。
野々山は四人の男を、玄関ホールの電話の横まで行かせた。佐藤と鈴木は肩に担がれたままだった。
「田中に電話をかけろ。田中が出たら、仕事は文句なしにすませた、野々山和夫と及川友美は、めでたく心中した、とそう言うんだ」
野々山は留守番役の男に言った。
「連絡は鈴木さんがすることになってるんだ。鈴木さんか佐藤さんしか、向うの連絡先を知らないんでね」
男は怯えた眼で言った。野々山は鈴木を見た。鈴木は男の肩の上で体を折ったまま、眼を閉じていた。刺された太腿を包んでいるズボンには、まだ新しい血がしみ出てきている。野々山は拳銃の銃口をズボンのドスの跡のところに押しつけ、傷口を抉った。鈴木は高い叫び声をあげた。
「だいじょうぶだ。それだけでかい声が出るんなら、電話でしゃべれる。ただし、妙な声出して田中に怪しまれるようなヘマしやがったら、おまえら四人とも死んでもらうぞ。田中の電話は何番だ?」
「下におろしてくれ。自分でダイヤルを回すよ」
鈴木はあがきながら言った。
「おろしてやれ。そいつもだ。おろしたら鈴木以外は床に這え」
野々山は言った。拳銃は四人の男たちに向けたままだった。鈴木と佐藤が下におろされた。鈴木は床に両脚を投げ出して、壁に寄りかかった。他の三人はその場にうつ伏せになった。
鈴木が台の上から電話器をおろし、床に置いた。彼はダイヤルを回しはじめた。回し終えて、鈴木は受話器を耳に持っていこうとした。野々山は受話器をひったくって、自分の耳にあてた。
呼出信号が繰り返された末に、相手が出た。田中と名乗った声は、野々山の聞き覚えのあるものだった。野々山は受話器を鈴木に渡した。鈴木は息をととのえるようにしてから話しはじめた。彼は野々山に言われたとおりのことばを受話器に送り込んだ。
通話は短かった。終ると鈴木は受話器をもどし、肩を落した。
「上出来だ。さすがに文句のない仕事をする男だな」
野々山は皮肉に笑ってみせた。それから彼は、ふたたび二人の男に鈴木と佐藤を担がせて、二階に四人を追い上げた。二階の野々山と友美が押し込められていた部屋に、こんどは鈴木たちが閉じこめられることになった。
野々山はその部屋で留守役の男に、シーツやカーテンを裂いた布地でロープをこしらえさせた。さらにでき上がったロープで、鈴木と佐藤とドス男の手足を縛らせた。最後に留守役の男も、野々山の手で手足の自由をうばわれた。
四人をその部屋の床にころがしておいて、野々山は玄関ホールに降り、友美の寮に電話をかけた。
友美はすでに寮に帰りついていた。野々山は、友美に二つのことを告げた。
一つはその日の鹿取の行動スケジュールを、ゼネラル通商の秘書課員からさりげなく電話で聞き出すことだった。
もう一つはその日、二人が落ち合う場所の指示だった。
友美からは折返し、返事が来た。鹿取はその日は午後六時まで、ゼネラル通商の自分の部屋で執務する予定だ、と友美は言った。
19
午後六時ちょうどに、野々山はゼネラル通商の鹿取が使っている専務室の前に立った。
友美が一緒だった。受付は通さずに野々山はそこまでやってきたのだ。友美が一緒だったために、誰も怪しまなかった。
野々山はノックをせずにドアのノブを回した。ドアの前に衝立《ついたて》があった。衝立の陰から女が顔をのぞかせた。鹿取の秘書係だった。秘書は野々山と友美を見て、怪訝な表情を見せた。
野々山は秘書を無視して奥に進んだ。広い部屋の中央にソファと大きなテーブルがあった。その向うの窓際にデスクがある。鹿取はデスクの前の椅子に坐り、窓のほうに体を向けて、パイプをくゆらせていた。本を読んでいるところだった。彼は野々山と友美が部屋に入ってきたことにまだ気づいてはいない。
野々山はソファの横に足を停め、手を伸ばして壁をノックした。その音ではじめて鹿取はふりむいた。鹿取の表情が一瞬、揺れた。危うく手にした本を取り落しそうになった。野々山は無言で鹿取を見すえていた。誰も口をきかない。秘書係の女は、ようやくその場の沈黙の奇妙さに気づいたようすで、うかがうような視線を鹿取に送った。
「ああ、きみ、もういいよ。帰りたまえ」
鹿取が秘書係に言った。その声はわずかにうわずって聞こえた。秘書係は一礼して部屋を出て行った。
「社長就任がきまったようですね。おめでとうございます」
野々山が言った。鹿取は答えず、椅子から立った。そのままゆっくりとソファに近づいてきた。壁に片手を突いていた野々山の体が半転した。鹿取の顎が鳴った。眼鏡が飛んだ。鹿取は床に膝を突きかけ、ようやくもちこたえた。ゆっくりと腰を伸ばしたところに、野々山の足が飛んだ。するどいキックが鹿取の脇腹を抉っていた。のめった鹿取の襟首を野々山はつかんだ。引き起しておいて、頭突きを顔面に浴びせ、拳を顎に打ち込んだ。鹿取の体がデスクまで飛んだ。そのまま鹿取は、デスクを背負う形に、床に腰を落した。
友美がゆっくりと鹿取の前に近づいてきた。鹿取は荒い息を吐きながら、友美を見上げた。友美は火の出るような眼差しで鹿取を見すえている。友美の頬がくぼみ、唇がすぼめられた。白い礫のような唾が飛んで、鹿取の顔の中心に当った。
鹿取は一瞬、顔を歪めた。しかし、彼はすぐに表情を殺した顔にもどり、手の甲で顔の唾を拭った。
野々山は、デスクの上の電話の受話器を取って、鹿取に突きつけた。
「原田政之をここに呼んでもらいます」
「原田先生を?」
鹿取が訊いた。声がかすれていた。
「至急、お目にかかりたい。内密の話だから一人で来てほしい、とそう言ってください」
「ぼくが原田先生を呼びつけるなんて、できないよ。失礼に当るからね」
「死ぬか生きるかというときに、失礼もくそもないでしょう」
「ぼくと原田先生をどうしようというんだね、きみは……」
「あんたがぼくたちにしようとしたのと同じことをして、お返しをしようというだけの話ですよ、もっとも、あんたたちはしくじったけどね」
「殺そうってのかね、ぼくと原田先生を」
「不服ですか? 鹿取さん……」
野々山の声に不気味な力がこもった。鹿取は口ごもり、押し黙った。野々山は受話器を鹿取の手に押しつけた。鈴木から奪った拳銃を鹿取のこめかみにあてた。友美が電話器をデスクからおろして、鹿取の前に置いた。鹿取は弱々しく吐息をもらし、ダイヤルを回しはじめた。
20
午後十一時きっかりに、鹿取の専務室のドアがノックされた。
野々山はノックしたのが原田政之であると信じて疑わなかった。その時刻まで体がどうしてもあかないから待っていてほしい、というのが、鹿取の電話に対する原田の返事だったのだ。
ノックを聞いて、野々山は友美に眼配せを送った。友美がうなずいて、衝立の横を通り、ドアを開けに行った。
ドアの開く気配がした。同時に、にぶい小さな何かの音がした。音に友美の低いうめき声が重なり、衝立が揺れた。
野々山は咄嗟のうちに、自分の迂闊さに気づかされていた。彼は衝立の横まで走った。
衝立の横を回ろうとした野々山の足もとに、友美の頭がころがり落ちるように現われた。野々山は危うく、友美の頭を蹴とばすところだった。
踏みとどまった野々山の前に、衝立の陰から男が現われた。よれよれのレインコートを着て、ハンチングをかぶり、サングラスをかけている。手には警棒のようなものをさげていた。片手はレインコートのポケットに突っ込まれたままである。
野々山は男を見たとたんに、とびさがった。腰のベルトから拳銃を引き抜いた。
「原田の使いか」
野々山は言った。男は答えなかった。表情も動かない。
「手に持ってるものを放して床に這え」
野々山は言った。男は野々山のことばが耳に入らないかのように、立ったままである。
野々山は拳銃をかざして、男に歩み寄った。息のかかる近さまで距離をつめて、野々山は足を停めた。
「手に持ってるものを床に落せ」
野々山は言った。男はこんどは言うことに従った。彼は右手に持っていた短い棍棒状のものを床に落した。思ったほど固い音はしなかった。野々山は床に落ちたものに眼をやった。彼ははじめて、それが珍しい凶器であることに気づいた。棍棒と見えたのは、棒状の革の中に砂を詰めたものらしかった。友美はそれでどこを殴られたのか、床にころがったまま、びくりとも動かない。
野々山は男に眼をもどした。眼が合った。男の眼が不意に笑ったように細くなった。
「床に……」
這え、と野々山は言うつもりだった。言い終えないうちに、男のレインコートの裾が小さく揺れ、野々山は腹に鋭く熱い痛みを覚えた。拳銃が野々山の手から落ちた。男の右手は、レインコートのポケットに突っ込まれたまま、ポケットごと野々山の腹に押しあてられていた。野々山の服が血に染まり、血はすぐに男のポケットにも移りひろがっていく。
「トウシロがいきがると、こうなる」
男がささやくような声で言った。ポケットの中でドスかナイフをにぎったまま刺したのだ、と野々山はようやく事態を納得した。
男は床に落ちた拳銃を足で遠くに飛ばした。男の体が一瞬、安定を欠いた。野々山は男の肩を突きとばした。相手はよろけた。レインコートのポケットから、血に光るドスの刃が突き出てぶらさがった。
野々山は足もとの棍棒をつかんだ。重かった。男が体を立て直し、腰を沈めた。野々山は凶器を横に振った。かわされた。男はレインコートのポケットからドスを引き抜いた。
男は突っ込むと見せて、横に飛んだ。野々山の体が泳いだ。男は横から体ごとぶつかってきた。野々山の脇腹をドスが深々と抉っていた。同時に、革の棒が、男の脳天に打ちおろされていた。男は膝を突いた。体の芯を抜かれたように、男はくたくたと床に崩れ落ち、顎を床につけてころがった。ドスは野々山の腹に残った。
野々山は眼がかすむのを覚えた。下半身が酔ったように力が入らない。彼は床に両膝を突いた。もう一度革の棒を両手で振りかぶった。まっすぐに打ちおろした。男のこめかみが鳴った。頭が床の上で大きく跳ねた。それっきり、男は静かになった。見開かれた両眼は、斜めに天井を見上げたまま動かない。
野々山は鹿取を振り向いた。鹿取はソファの上で小さなもがきをくり返していた。立ち上がろうとしているのに、腰が抜けたようすで、うまく立てないらしい。
野々山は両足を踏みしめて立った。腰は伸ばせなかった。手から革の棒が落ちた。彼は脇腹からドスを引き抜いた。栓を抜かれたように血がしぶいた。ドスをつかんで、彼はソファの端をまわり、鹿取のうしろに立った。髪をつかみ、鹿取の頭をソファの背もたれに押しつけた。
鹿取の喉がのけぞって伸びていた。そこにナイフが突き立てられた。ナイフは突き立ったまま、ゆっくりと横に動いた。頸動脈が断ち切られ、血が音を立てて噴き出した。同時に野々山はまっすぐうしろに倒れて、それっきり動かなかった。
本作品は、一九八一年三月サンケイ出版より刊行され、一九八七年九月に講談社文庫に収録されました。