勝目 梓
その死を暴くな
目 次
一章 伝言板
二章 尾行者
三章 写真
四章 地図のない街
五章 炎と闇
六章 叫び
一章 伝言板
1
午後七時が約束の時間だった。
まだ十分余りを残している。
プラットホームの階段をおりる伊奈厚《いなあつし》の足どりは、しかし気ぜわしい。
直子は待合せの時間に遅れたことがない。待たせるのはいつも伊奈のほうである。たまには先に行ってやろう。今日は一回目の結婚記念日でもあるし――その思いが伊奈の足を急がせていた。
有楽町の駅である。銀座口の改札口は込んでいた。伊奈は人を分けるようにして足を進めた。誰かと肩がぶつかった。若い女が咎める眼を向けてきた。伊奈は眼顔で詫びた。無愛想なやり方だった。相手の女のノースリーブの肩が、白くとがっていた。
改札口を出たところにも人が群れていた。みんな待合せの相手を待っているところなのだろう。伊奈はあたりを見まわした。直子の姿は見当らない。彼は手柄を立てた気分になった。
伊奈はたばこに火をつけた。手の爪に眼がいった。癖のようなものだった。まだ下働きの身分だが、ホテルのコックである。爪はいつも短く切りつめている。けれどもうっかりすると伸びてしまうのだ。だからいつも気を配っている。
ひっきりなしに発着する電車の音が頭の上でひびく。足もとまでゆるがすようなひびき方である。
直子は渋谷からやってくるはずだった。彼女は宮益坂の洋裁店でお針子として働いている。伊奈は品川のホテルの調理場からそこにきた。
待合せの場所を有楽町にしたのは、銀座の名前の知られたフランス料理の店に行くためだった。結婚一周年の夜を記念して、外ですこしだけ贅沢な食事をする。そういう計画を立てていた。一流と言われる店の料理を味わい、メニューを見るのも、コックの修業のうちといえた。
七時になった。直子は現われない。約束の時間までにやってこないのは珍しいことである。だが、伊奈は不安やいらだちなど覚えはしなかった。
たばこが短くなっていた。伊奈はまわりを見まわして灰皿を探した。道路に近い場所に立つ大きなコンクリートの柱の横に灰皿があった。伊奈は寄って行き、たばこを捨てた。柱に取付けられた伝言板が眼についた。
緑色の伝言板に、チョークの文字が一面に並んでいた。全体が白く見えるほどである。白い罫線を無視して踊っている大きな字もある。
伊奈は並んだ短い文句を順に読んでいった。退屈しのぎのつもりだった。
思いがけない一行が眼にとまった。
〈三十分ほど遅れます 厚へ 直子〉
伊奈は首を突き出すようにしてそれを読んだ。小さな文字だった。それが直子の筆跡にまちがいないと判るまでに、すこし間があった。見なれないチョークの文字のせいである。
伊奈は首をかしげた。直子はいつ伝言板にメッセージを書き留めたのだろう?
洋裁店の用事で直子は近くまで来ているのかもしれない――伊奈はそう考えた。用事のすむ時間を見越して、三十分遅れることを直子は伝言板で伝えようとしたのだろう。電話で連絡をすれば簡単だが、直子はよほどのことでない限り、伊奈の職場に電話をかけてよこさない。伊奈がそれを好まないからだった。チーフのコックは私用の電話にはいい顔をしない。また、仕事で手がふさがっていることも多い。そういうときの電話はたしかに困るのだ。
三十分か――伊奈は時計を見て胸の中で呟いた。
ガードの先に街の明りが見えている。そこから見ると、トンネルの先の灯を見ているぐあいである。伊奈はその明りのほうに足を向けた。近くをぶらついて時間をつぶそうと考えたのだ。うまくすれば、用をすませて駅に向ってくる直子と行き合うかもしれない、とも思った。
用もなく街をぶらつくことなど、伊奈には滅多にないことだった。街には宵闇が濃くひろがりはじめていた。ネオンやビルの窓の明りが輝きを増している。わずかに暮れ残った空は、紫色にうすく光って見えた。湿気をはらんだゆるい風が、なまぬるく顔や頸すじにまといついてくる。
伊奈は日劇の前を有楽町の交差点のほうに向った。露店の玩具屋が出ていた。ひろげたせまい板の台の上で、何台もの玩具のパトカーが走りまわっている。
パトカーは板の端の桟のところまで行くと、ひとりでにバックをして向きを変え、そのまますぐにまた走り出す。どういう仕掛けになっているのか判らない。伊奈は足を停めて、サイレンを鳴らし、赤いランプもちゃんとつけて走る玩具のパトカーをしばらく眺めた。
銀座四丁目の交差点まで行って、伊奈は引き返した。駅にもどったのはちょうど七時半だった。直子はまだ来ていなかった。
十五分が過ぎた。息せききって駈けつけてきて、詫びのことばを連発する直子の姿を、伊奈は何度も思い描いた。
八時になっても、直子は現れなかった。伊奈の表情はくもりはじめた。
伊奈は赤電話を探した。駅のホールの端の小さな花屋とキオスクの並んだ横に、赤電話があった。
伊奈は渋谷の洋裁店しのむらの電話番号を回した。呼出音がつづいた。相手は出ない。伊奈はさらに十回まで呼出信号をかぞえて、受話器をもどした。しのむらにはすでに誰も残っていないのだろう。誰かが電話に出たら、伊奈は直子の行先をたずねるつもりでいた。直子が店を出て、有楽町の駅に立ち寄ったのはまちがいないのだ。伝言板のメッセージがそれを示している。
九時までの時間はひどく長いものに思えた。伊奈は当惑を深めていた。直子はいったいどうしているのか、伊奈には見当がつかない。交通事故にあった直子が、救急車で病院にはこばれる、といった想像が何度も胸をかすめた。
よりによって結婚記念日に待ちぼうけを喰うとは――伊奈は腹立ちを覚えはじめた。
駅には当然、電話もある。連絡をつけようと思えばできないはずはない。そう思うと、伊奈の顔はけわしくなった。
九時半になった。伊奈は家に電話をしてみた。何かの都合で直子が中目黒のアパートの部屋に帰っているかもしれない、と考えたのだ。だが、二人の住む部屋は無人のままだった。伊奈はそのときもむなしくくり返される呼出信号の音を聞いただけだった。
レストランでの食事はもう諦めていた。花屋が店じまいにかかっていた。せめて花でも買って帰ろう、と伊奈は考えた。直子はよほどのよんどころのない用事につかまっているのだろう。待たされていることを怒ってみても仕方がない――伊奈は気持をなだめた。
奮発して、黄色のバラを買った。包み紙の中で、わずかにほころびかけているつぼみが小さく揺れていた。
2
伊奈が中目黒のアパートに帰ったのは、午後十一時近い時刻だった。
一人である。直子はとうとう現われなかった。
部屋は暗いままだった。明りをつけて、伊奈は部屋を見回した。朝、出たときとどこもようすは変っていない。直子が帰ってきた気配も残ってはいない。
伊奈は手に持っていたバラの小さな花束を、ベッドの上に投げ出した。
部屋の隅のデコラ張りのキャビネットの上に、電話機と電話番号のリストが置いてある。リストには五十音別のインデックスがついている。伊奈は直子の雇主である洋裁店主の家の電話番号を探した。
篠村龍子は家にいた。電話に出たのは当人だった。伊奈は名前を告げてから、直子がまだ家に帰ってこないし、何の連絡もないのだが心当りはないか、訊いた。
「あら、おかしいわねえ……」
篠村龍子はそう言った。彼女は伊奈とも二度ほど顔を合わせている。四十歳をすこし出たぐらいの、賑やかな物言いをする女だった。
「直ちゃんは今夜は旦那さまとデイトだって言ってたのに……」
「その予定だったんです。七時に有楽町の駅で落合うことになってたんですが、駅の伝言板に三十分遅れるという伝言を残したまま、十時過ぎても現われなかったんですよ」
「夕方に、あたしが直ちゃんにお使いを頼んだの。横浜のお客さまに仕立て上がったお洋服を届けてもらったのよ」
「横浜ですか?」
「そう。保土ケ谷のお客さま。お店を出たのがそうね、五時過ぎだったかしら。行きがけに直ちゃん、有楽町の駅に寄って、伝言板に伝言を書いたのね、きっと……」
「五時過ぎにお店を出て、保土ケ谷までなら、七時半には有楽町にもどってこれますよね」
「そうね。用事はお洋服をお届けするだけだったから。ただ、相手のお客さま、直ちゃんのことお気に入りだったから、引き留められてお茶ぐらいごちそうになったかもしれないけど、いくらなんでもこの時間まで連絡がないというのは、どういうことかしら。じゃあ伊奈さんはデイトは待ちぼうけだったの?」
「待ちぼうけぐらいはどうってことないんですけど……」
「あたし、保土ケ谷のお客さまのお宅に電話して訊いてみてあげる。電話切って待ってらっしゃい」
「お願いします」
伊奈は電話を切った。胸に不安があった。ただごとではない気がした。
伊奈は上衣を脱いでベッドの上に投げた。服の裾がバラを包んでいる紙に当った。乾いた音がした。
腹は空いていたが、食欲はなかった。伊奈は畳に腰を落し、ベッドに寄りかかって足をのばした。
五分とたたないうちに電話のベルが鳴った。受話器に篠村龍子の声がひびいた。その声はいつになくくもっていた。
「いま中迫《なかさこ》さんのお宅に電話してみたんだけど、直ちゃんはいないのよ」
「中迫さんというんですか、保土ケ谷のお客さんというのは?」
「そう。直ちゃんは六時半近くにやって来て、お届けした服を見てもらうとすぐに帰ったとおっしゃるの」
「何時ごろだったんでしょうか?」
「七時前ぐらいじゃなかったかとおっしゃるのよ、先方さまは……」
篠村龍子は気づかわしげに、語尾を曖昧にのみこんだ。
「どうしちゃったんですかね、あいつ?」
「ほんとに。いままで、黙って帰りが遅くなるなんてこと、なかったんでしょう?」
「一回も……」
「そうよねえ、新婚ホヤホヤなんだしねえ」
「どうも夜遅く、おさわがせしました。いくらなんでも、時間が時間ですから、もう帰ってくると思います。待ってみますよ」
「そうよねえ。帰ってきたら電話ちょうだい。十二時半ぐらいまではいつも起きてるから。旦那さまに心配かけちゃいけないって、あたし、叱ってあげるわ」
篠村龍子は言って電話を切った。
電話がふたたび鳴ったのは、午前零時二十分ごろだった。伊奈はそのときも畳に腰を落して、ベッドに背中をもたせかけていた。脱いだ上衣もバラの花束もベッドの上に投げ出されたままだった。
電話は直子の勤め先のお針子仲間の一人、安部康子からだった。安部康子ははじめから喉の奥にこもったような声を受話器に送ってきた。
「直子さん、帰ってない?」
「まだなんですよ。どこに行ったか知りませんか?」
伊奈はせきこみそうな訊き方をした。
「じゃあ、やっぱり……」
安部康子の声がふるえた。
「どうかしたんですか? 直子は……」
「たったいま、八王子警察署からあたしのところに電話がきたの」
「八王子警察署?」
「直子さん、交通事故にあったらしいのよ。被害者のバッグの中に手帳が入ってて、その中にあたしの家の電話番号が書いてあったというの。定期券で名前はすぐに判ったらしいけど……」
「直子にまちがいないのかな?」
伊奈は声が詰まった。
「別の人だといいんだけど、定期券が……」
「それで、怪我のようすは?」
「訊かなかったわ。伊奈さんのほうの電話番号を教えといたから、八王子警察からそっちに連絡がいくと思うんだけど……」
「どうもありがとう」
伊奈は電話を切った。頭が混乱していた。
3
タクシーが八王子警察署に着いたのは、午前一時半だった。
伊奈はタクシーを待たせておいて、警察署に駈け込んだ。交通課の警官が、救急病院に案内してくれるはずだった。アパートを出る前に、電話でそういう手はずがきめられていた。
救急病院に着くまでの間、伊奈は一言も口をきかなかった。同乗の警官も黙りこくっていた。
事故のようすのあらましは、すでに電話で聞いていた。
直子は即死の状態だったらしい。轢いた車はそのまま逃走して発見されていない。現場は八王子市の南のはずれ、日野市との境に近い打越町の野猿街道だった。
事故の目撃者はいなかった。たまたま車で通りかかった日野市南平に住む中年の夫婦者が、路上に倒れている直子を見つけて、警察に連絡したのだった。そのとき、直子の体にはかすかなぬくもりがまだ残っていた。だが、すでに息は絶えていた。それが午後十一時五十分ごろだった。
アパートをとび出す前に、八王子警察署からの電話で伊奈が聞いたのは、それだけだった。信じられなかった。伊奈は頭に血の上がった状態で八王子にかけつけたのだった。
夕方の七時前に、服を届けに行った保土ケ谷の中迫という客の家を出たという直子は、いったい何のために八王子などに足を向けたのか?
それが大きな疑問だった。だが、伊奈はその疑問に向き合う余裕を失っていた。直子の急死という出来事だけで、彼の頭はいっぱいになっていた。
直子の遺体は、救急病院の霊安室に置いてあった。コンクリートの床の殺風景な小部屋だった。線香も花もなかった。鉄パイプの高い脚のついた手術台のようなものの上に、直子は寝かされていた。体に白布がかけてあった。頭巾をかぶったように、顔だけを出して頭は包帯ですっぽり巻かれていた。頭を打ったのが致命傷になった、と付添ってきた医師が横から説明をした。
顔には傷はなかった。朝はきれいに口紅を塗られていた唇が、紫色に変って小石のように乾いていた。
同行した警察官が、直子にちがいないかどうかをたずねた。形式的な質問の仕方だった。伊奈は黙ってうなずいた。涙があふれた。すぐに止まった。伊奈は警官に促されるまで、しばらく直子のつやを失った死顔を見おろしていた。遺体を眼にしながら、彼は直子の死を現実のことと思えずにいた。わるい夢を見ている、という気持でもなかった。直子の死と、それを迎える自分自身の思いや感情が、なかなかひとつにつながらないのだった。現実の直子の急死が眼前にあって、しかし伊奈自身はその痛ましい現実の外にはじき出されている、といったもどかしい感じが強かった。かなしみもなぜかまだ浅い。呆然としたおどろきだけが、妻を失った若い男の胸を捉えていた。
警察官は伊奈を促して、署に引き返した。何かの書類を作るために話を聞くのだ、と警察官は言った。何の書類なのか、伊奈は聞きもらした。どうでもいいことに思えた。
深夜の警察署は静まり返っていた。伊奈は交通課の隅の机に両肘を突き、頭を抱えながら、警官の質問に答えた。
直子の姓名、年齢、本籍地、現住所、職業などを訊かれた。答えるたびに、伊奈の頭には、いま見てきたばかりの青黒い直子の顔と、生きていたときの直子のさまざまな顔とが、重なり合って揺れつづけた。
警官の質問はすぐに終った。
「まちがいなく交通事故なんでしょうね?」
伊奈はぼんやりした声で訊いた。胸に浮んだ思いが、そのままひとりでにことばになってすべり出たぐあいだった。
「どういう意味なの? それ……」
警官は聞き咎めた。伊奈は答えられなかった。どういうつもりでそういうことを訊いたのか、自分でも分っていなかった。
「事故でないとすると、奥さんは自殺か殺されたということになりかねないけど、何か思い当ることでもあるのかね?」
警察官は机をはさんで、伊奈の顔をのぞき込んできた。
「心当りなんかないんです。ただ、女房はなんで八王子なんかに来てたのかと思って」
「八王子に知り合いはいないのかね?」
「ぼくの知ってる限りではいないんです。それに、今夜、ぼくと女房は有楽町で待合せをしてたんです」
伊奈は低い声でいきさつを説明した。
「なるほどねえ。待合せに遅れるなら、奥さんも連絡ぐらいはしそうなもんだなあ」
警察官は伊奈をあらためて観察するような眼になっていた。
「結婚してどれくらいになるの?」
「ちょうど一年です」
「見合い? それとも好き合って?」
「恋愛です。知り合って一年ちょっとして結婚したんです」
「仲は好かったんだろう?」
伊奈は声を出さずにうなずいた。警察官の訊き方には冷めたい固さがあった。そこに伊奈は相手の質問の真意を嗅いだ気がした。直子には夫に言えない秘密があった。たとえば夫の他に好きな男がいた、というような。そのために直子は八王子にやってきた――警察官はそういうことを考えているように、伊奈には思えたのだ。そうとれる印象があった。
「直子とぼくは、喧嘩をしたことも一回もなかったんです。仲はとっても好かった」
伊奈は間をおいてから、きっぱりと言った。事実だった。警察官の勘ぐりは不愉快だった。
「奥さんが八王子にやってきた理由には、まったく心当りはないんだね?」
「ありません……」
「現場のようすは、まあ轢《ひ》き逃げとしか思えないんだ。八メートルぐらいのスリップの跡もあるしね。遺体の脛にはタイヤの跡もついていた。病院の先生の死体の検案も、車にはねられて頭部を強打したための死亡となっているんだ」
「轢き逃げした車の手がかりはないんですか?」
「それはある。現場に車のライトのガラスの破片が散ってたし、奥さんの手首とブラウスの肩のところに、車の塗料が付いてた。いま分析してもらってるところだ。結果が出れば車種が判ると思うよ」
「それだけですか?」
「それだけだ、いまのところは……」
「それぐらいの手がかりで、犯人が見つかるものなんですか?」
「車のライトが割れてるし、ボディも傷がいくらかついてるはずだ。修理工場に出すなり、部品屋にライトを買いにくるなりするはずだよ、轢いた奴は」
電話のベルが鳴った。机の上の電話だった。警察官は受話器に手を伸ばしながら、ことばをつづけた。
「修理屋か部品屋の線から割れるよ、きっとな」
伊奈にはそれが気休めにしか思えなかった。警察官は電話に向って短いやりとりをしながら、伊奈に視線を向けていた。ことばつきに勢いがあった。伊奈は電話の内容が、直子の事故に関係のあるものらしい、と察した。それは当っていた。
「車が見つかったらしい」
電話を終えた警察官が、受話器を乱暴にもどして言った。声がはずんでいた。伊奈は思わず腰を浮かしかけた。
「ライトの割れた乗用車が片倉町の国道十六号線の近くで見つかったんだ。乗り捨てられていたそうだ。ボディの色が現場で採取した塗料と同じ色だし、該当車じゃないかというんで、いま鑑識が現場に行くそうだ」
「人は乗っていなかったんですか?」
「盗難車らしいな。エンジンコードが直結になってて、エンジンキーは付いてないそうだよ。いまナンバーを照会して、持主を探してるところだ」
盗難車――伊奈は胸の中で唸った。直子を轢き殺して逃げた車が盗難車ならば、犯人の捜査はいっそう難しくなるのではないか、と彼は考えたのだった。
4
直子の遺体が中目黒のアパートに返ってきたのは、つぎの日の正午過ぎだった。
八王子市片倉町に乗り捨ててあったトヨペットクラウンが、鑑識の結果、直子を轢き殺した車だと断定された。車の持主は、府中市是政に住む助川勇次という金融業者だった。盗まれたのは直子が轢き逃げされた日の午前十一時ごろで、取引先の国分寺市本町のインテリヤの店の近くの路上に駐車していて盗まれたものらしい。金融業者の助川はその場で小金井警察署に盗難届を出していた。盗難現場にも目撃者は見当らなかった。
直子の遺体の引渡しが遅れたのは、警察が司法解剖を主張したからだった。警察は、直子が八王子に出向いた理由が分らないという伊奈のことばに注目したようすだった。
たしかに、午後七時半に有楽町駅で夫と落合うことにしていたはずの直子が、その約束をすっぽかして八王子市に足をはこんでいるのは奇妙と言えた。
警察では、それが単なる偶然による轢き逃げ事故ではない場合も想定して、事件の取扱いに慎重になったようすだった。伊奈はあらためて、それまでの直子の日常のようすや行動などについて、詳しく訊かれた。同時に、直子の遺体を司法解剖に付することの同意を求められた。伊奈はむろん異論はなかった。
伊奈は解剖が終るまで、八王子警察署の宿直室で横になっていた。一睡もできなかった。体の芯が火照っていた。ずっと胸が重苦しかった。食欲はまったくなかったが、朝になって店があくのを待って、パンと牛乳で朝食を取った。胃がむかついた。腹が空きすぎているせいだった。前日の午後二時近くに昼食を喰べたきりだったのだ。
直子の遺体は、八王子で骨にして持ち帰ることもできた。警察官もその方法をすすめてくれた。だが、伊奈はどうしても、生きていたときの形をしたままの直子を、アパートの部屋に連れ帰りたかった。そうしなければ気がすまなかった。前の日に、いつものように勤めに出たまま、骨になって帰るというのでは、直子がかわいそうだった。
パンと牛乳の食事をすますと、伊奈にはさしあたりすることがなかった。いろんな思いや考えが、熱でふくれあがったようになっている頭に、つぎつぎに浮いては消えた。
品川のホテルの調理場に、欠勤の連絡をしなければ、と思いついた。知り合いに直子の急死も知らせなければならなかった。
連絡は警察署の一階のカウンターの横にある赤電話でした。連絡する相手の電話番号は、直子のバッグの中にあった手帳で調べた。知合いといっても、いくらもいなかった。直子の勤め先と、高校のときの友人が二人いるだけだった。
直子には身寄りがすくなかった。両親はすでに死別していた。兄弟はいない。直子は一人っ子で育っていたのだ。親戚は何人かいるはずだったが、ほとんど交渉はなかった。二人の結婚式にも、直子の意見で一人として親戚を呼んでいなかった。伊奈はその名前すら聞いていない。
伊奈には母親と、結婚して熊本に住んでいる姉がいる。伊奈は母親と姉にだけは知らせておいた。若い夫婦には、まだ自分たちの墓はない。その必要すら考えたことがなかった。骨になった直子が眠る場所は、伊奈の郷里の鹿児島の山間《やまあい》の墓しかない。母親に直子の急死を知らせながら、伊奈はそういうことを考えていた。
解剖が終ったのは、午前十時過ぎだった。
死因や死亡の状況に関する新しい所見は出なかった。直子は車にはねられ、頭部と内臓に強い打撃と圧迫を加えられて絶命したことが、あらためて確認された。
司法解剖はしかし、まったく無収穫に終ったわけではなかった。直子の体の腕の付根と首のうしろに、まだ新しい小さなひっかき傷が発見された。傷のようすから、それは車にはねられたときに生じたものではない、という結論が出された。胃の中はほとんど空っぽで、アルコールや他の薬物の反応は見られなかった。
解剖の結果はさらに、伊奈にとって衝撃的な事実を抉《えぐ》り出していた。直子の体には性交の痕跡が残っており、検出された体液から割り出した性交の相手の血液型はO型だった。伊奈の血液型はA型である。
それらの事実を告げる警察官の口調は、伊奈の気持を推し測ってかよどみがちだった。伊奈は説明を聞きながら、ことばを失っていた。直子の体に他の男の体液が残っていたなどということは、彼女の死以上に伊奈には信じ難いことだった。伊奈は何度も軽い眩暈《めまい》を覚え、体がわずかに傾いた。眠っていないための疲労や空腹のためばかりではなかった。
警察では、直子の腕と首のうしろの小さな傷と性交の痕跡とを重視しているようすだった。だが、そのことと轢き逃げの事実との間に関係があるのかどうかは、まったく謎としか言いようがなかった。
直子の遺体を運ぶ車や棺の手配は、警察がしてくれた。伊奈は棺に納まった直子と一緒に車で目黒のアパートに帰った。初夏の陽射しが強かった。車の窓から見る空はまぶしく光っていた。伊奈はその空の輝きにも、陽射しにも、何度も眩暈を覚えた。閉じた瞼の裏に、生きて動いている直子の姿が、淡い影のように浮いた。肌寒さがずっとつづいていた。車の冷房のせいではなかった。肌寒さは体の底のほうから生れてくるもののように感じられた。
アパートには洋裁店主の篠村龍子と、コック仲間の一人である辻本が待っていた。辻本はその日は遅番の勤めに当っていた。
篠村龍子と辻本は、アパートの管理人に事情を話して部屋を開けてもらって入り、中を片付けていた。
直子の遺体は部屋にはこび込まれた。伊奈は前の晩に買った黄色いバラを、棺の上に置いた。バラは龍子があり合わせの花びんにいけておいてくれた。結婚一周年記念の心づくしに伊奈が買った花が、直子の死を飾る最初の花となったわけだった。
花びんを置くと、棺の蓋が小さなにごった音を立てた。花が揺れた。花は伊奈の眼に大きくにじんで白く色を変えた。涙が棺の上に落ちた。伊奈は胸が詰まった。涙はしかしそのときも長くはつづかなかった。伊奈は大きく吸った息を吐き、棺の横にあぐらをかいた。ひとりでに肩が落ちた。思いはなにひとつまとまらなかった。
「ゆうべは寝てないんだろう? すこし横になって休めよ」
辻本が言った。気づかう言い方だった。
「葬儀屋の手配はしてあげるから、なんでも言いつけてくださいよ」
管理人の妻が部屋の入口で中腰になったまま声をかけてきた。伊奈は黙って頭をさげた。それから気づいて声を返した。
「金はだいじょうぶですから、ひととおりのことをやってもらうように、葬儀屋には頼んでください」
「わかりましたよ」
管理人の妻は湿った声で答え、廊下に出て行った。
篠村龍子が外から部屋に入ってきた。手に小さな紙袋を持っていた。龍子はそのまま、上がってすぐ横の小さな台所に消えた。彼女はやがて、茶碗を二つ手にして棺のそばにやってきた。
茶碗が二つ、棺の上に置かれた。一つの茶碗には水が注がれていた。もう一つの茶碗には乾いた土が入っていた。アパートの庭の土ででもあるのだろう。龍子は紙袋の中から線香の束を取出して火をつけた。線香は茶碗の土の中に立てられた。
「花は買ってこなかったわよ。祭壇ができるまでは、伊奈さんが買ってきたバラだけのほうが直ちゃんもうれしいだろうと思って」
龍子は言った。
辻本も線香をあげて、あらためて棺に向って手を合わせた。それから龍子と辻本は切れぎれに悔みとはげましのことばを並べた。伊奈は眼を落したまま、黙ってそのことばを受けた。龍子はしきりに眼の縁に指をあてている。そうしながら彼女は独り言のようにことばをもらした。
「それにしてもどうして直ちゃんは、八王子なんかに行ったのかしら……」
「それがさっぱりわけがわからないんです」
伊奈はうつけたような声で言った。
「ひでえ話だよなあ。盗んだ車で人をはね殺して逃げるなんて……」
辻本の言い方も独り言めいていた。
「轢いた人間がつかまらなきゃ、補償だって取れないんでしょう?」
「そういうことになるのかなあ……」
龍子のことばに、辻本が答えた。二人のやりとりは伊奈の耳を素通りしていた。伊奈は直子の遺体の解剖の結果のことを、くり返し頭に浮かべていた。
直子は死ぬ前に男に抱かれていた。あの直子が――伊奈の思いはしかし、そこからすこしもひろがらない。衝撃が大きすぎて、無感覚になったといったふうなのである。直子の体に残っていた男の体液のことや、腕と首のうしろの小さなひっかき傷のことを、伊奈は無感覚の状態のまま、うっかり龍子や辻本に告げてしまいそうになった。そのたびにはっとして口をつぐんだ。それだけは誰にも知られたくない、と思った。知られたくないと思うのは、自分自身の体裁のためなのか、直子の名誉のためなのか、伊奈には分らない。
「直ちゃん、伊奈さんと結婚して、あんなに倖せそうだったのに……」
龍子は棺に片手をかけて言い、また眼の縁に指をあてた。
伊奈はまた胸を詰まらせた。思いがけない解剖の結果を知った後も、伊奈には直子に裏切られたという思いは湧いてこないのだ。直子が自分の意志で八王子に足をはこんで男に抱かれた、とはどうしても思えない。直子の腕と首のうしろに残っていた傷が、そのことを物語っている、というふうに伊奈の考えは傾いていく。
直子は何者かに無理矢理、八王子に連れていかれて体を奪われたのだ。腕と首のうしろの傷はそのときの抵抗の跡にちがいない。直子の胃が空っぽだったこともそのことの現れだろう。相手の男と前から親しい関係があったのならば、空腹のままで時間を過ごすわけがない――。
そうした考えが、熱でふくれあがったようになっている伊奈の頭の中に、すこしずつ形を成していった。
「無理もないけど、ひどい顔色してるぞ、伊奈。ほんとにすこし横になって休めよ」
辻本が言った。
「そうしたほうがいいわよ、伊奈さん。用はあたしたちでやるから」
「だいじょうぶですよ。どうせ眠れそうもないから……」
伊奈は言った。
5
通夜も葬式もひっそりしたものに終った。
集ったのは、直子のお針子仲間が二人と、篠村龍子、直子の高校のときの友だちが二人、アパートの隣人たち、その他は伊奈の母親とコック仲間が三名だけだった。
地方から出て来て東京で知り合い、結婚した若夫婦だった。ともに下積みの暮しをしていたのだ。親しい知り合いが少ないのも当然だった。
葬式を出したつぎの日の飛行機で、伊奈は骨になった直子を抱いて鹿児島に帰った。骨を墓に納めるためだった。母の清子が一緒だった。
清子は六十四歳になる。公務員だった夫を失くしてから二十年近くになる。清子は小さな雑貨屋を開いて二人の子供を育ててきた。雑貨屋はいまもつづいている。口数の少ない、心の固いところのある女だった。そういう母親を、どこかで寂しく思いながら育った覚えが伊奈にはある。清子は伊奈と直子の結婚についても、はじめは危ぶんだ。親もいない、氏素性の知れない女を嫁にすることはない、とも言った。
『おれだって他人から見れば片親で、どこの馬の骨ともしれないってことになるんだ』
伊奈はそう言って、母親の意向は無視することにした。
そういう清子だったが、直子の葬儀には鹿児島から駈けつけてきて、ひっそりと涙を流した。伊奈はそれを見て、自分がいま味わっているのと同じ種類のかなしみを、かつて父親が死んだときに母親も味わったのだな、と思った。
鹿児島には昼過ぎについた。伊奈は空港からまっすぐ車で墓に向った。清子が一人で住んでいる家は、鹿児島市から五十キロほど北西にある串木野市という小さな漁港の街である。墓は鹿児島市の西のはずれの山間《やまあい》にある。空港からは順路から言って、墓のほうが近い。いわば帰り道に当る。
墓と住まいが、五十キロ離れた別々の街にあるのは、戦争のためだった。伊奈の父親は鹿児島市の人間で、結婚して家をかまえたのも鹿児島市だった。勤め先が鹿児島の市役所だったからだ。伊奈家の墓は、伊奈の父親が子供のころから鹿児島市のはずれにあった。伊奈の祖父が建てたものだった。
鹿児島の街が戦火で焼かれた後、伊奈の両親は母方の実家のある串木野市に疎開をした。そのままそこに住みついて、墓と住まいが離れてしまった、といういきさつだった。
山間の墓地は、初夏の午後の陽射しで、陰の部分と日向《ひなた》の部分とにくっきりと染め分けられていた。
墓地に分け入る坂道の登り口に、何軒かの花屋が並んでいた。伊奈はそこで花と線香を買い、手桶と杓子と竹の箒を借りた。手桶に買った花を入れ、箒と一緒に清子が手にさげた。伊奈は線香と骨箱を手に抱えた。小さな荷物は花屋に預けた。坂の途中の共同の水汲場で、手桶に水を満たした。重くなった手桶に伊奈は手を伸した。清子はその手を払うようにして手桶をさげた。
墓はいくらか荒れていた。陽を浴びた古い墓石が白々と見えた。墓石は陽のぬくもりを吸っていた。
伊奈は納骨室の小さなコンクリートの蓋を開けた。湿って冷めたい地下の空気がそよぐように立ちのぼってきた。ほの暗い中に、骨壺がいくつか並んでいる。伊奈の父や祖父や祖母、幼いときに死んだ兄たちのものだった。伊奈はせまい納骨室の中に降りた。小さなコンクリートの棚に並んだ古い骨壺は、かすかに水を吸って光っていた。
清子が上から直子の骨箱を渡した。伊奈はそれを棚に置いた。別れだと思った。棚に置いた骨箱に、伊奈の手はしばらくとどまっていた。
「お父さん、厚の嫁の直子さんですよ。早々と仲間入りしてしまってねえ」
清子が言った。穏やかな声だった。伊奈は骨壺の中に折り重なる直子の骨の姿を思い浮かべた。どれもみなか細く白い骨だった、という思いが残っている。
伊奈は白い布にくるまれた骨箱を、軽く二、三度叩くようにしてから、納骨堂を出た。箒で墓石のまわりを掃いた。陶器の花立の枯れた花を抜き、新しい花を供えた。墓石に柄杓で水を注いだ。線香を立て、手を合わせた。ゆるい風が線香の煙をゆらめかせた。
「母さん、わるいけど先に帰っててくれないか」
伊奈は清子に言った。
「おまえは?」
「もうしばらくここに一人でいたいんだよ」
清子はうなずいた。直子の急死以来、伊奈は一人きりになったことが一刻《いつとき》もなかった。いつも誰かが傍にいた。骨を納めたいま、伊奈はその場をすぐに立ち去る気分にはなれずにいた。一人きりでもう一度、直子と別れがしたかった。
清子にもその気持はすぐに通じたのだろう。清子は黙ってうなずくと、花屋で借りた手桶と竹箒を手にさげて、坂を下っていった。
伊奈は墓の囲いに片手を突いて、陽ざしの中を歩いていく母親の後姿を眼で追った。その姿は寡黙な強さを伊奈に感じさせた。
清子も、夫や子供や自分の両親など、親しい者の死に何度も立ち合ってきている。その悲しい痛手をどうやって乗り越えてきたのか、母親にたずねてみたい、と伊奈はふと思った。
清子の姿は折れ曲った坂道の下に消えた。伊奈は墓の囲いの石に腰をおろし、墓石と向き合った。眼は納骨堂のコンクリートの蓋にひとりでに向いてしまう。
直子は二十六歳だった。二十六年で終る人生というのは、二十九歳の伊奈にとっても、ひどく短く呆気ないものに思える。
知り合ったときの直子は、二十四歳だったわけだが、小柄で顔も小造りだったせいか、ひどく若く見えた。伊奈は交際が始まってからも長い間、直子を二十歳そこそこだろう、と勝手に思い込んでいた。ほんとうの年齢を知ったのは、伊奈が結婚の意志を直子に伝えたときだった。
伊奈と直子は、太子堂の隣り合って建ったアパートに住んでいた。二軒のアパートとも家主は同じ人間だった。
伊奈は隣のアパートに住む直子の顔だけは早くから知っていた。直子のほうもあとで伊奈の顔を覚えたとみえて、道で行き合うと会釈をするようになった。軽く眼を伏せてゆっくりと頭を前に倒すだけの会釈だった。その直子の会釈のようすに伊奈は惹かれた。眼を伏せて小さく頭をさげる直子の姿には、どこかしら古風なおとなしさを感じさせるものがあった。眼を伏せると睫毛《まつげ》の長さがきわだって、顔の表情に愁いとも翳りともとれるものが生れた。伊奈はそこにも好もしさを感じた。
はじめてことばを交したのは、町内の盆踊りが催された夜だった。
盆踊りは、近くの小学校の校庭に櫓《やぐら》を組んで行なわれた。伊奈はその日は休日に当っていた。日の暮れるころから、スピーカーに乗った民謡の歌声や太鼓の音が、伊奈の部屋にも聞えていた。歌声や太鼓の音は、はじめはただうるさいだけのものにひびいていた。それが、日がすっかり落ちて夜に入ると、不思議に風情をおびて心をそそった。
伊奈は下駄を突っかけて小学校の校庭に行ってみた。そこで直子と顔を合わせたのだった。直子にも連れはなく、人垣からすこし離れたところに一人で立って、踊りの輪に眼を投げていた。伊奈は寄って行って声をかけた。踊りを眺めながら、二人はとぎれとぎれのやりとりをした。初めて口をきく女を退屈させずにいられるほど、伊奈は器用でもなければスマートでもなかった。それでも二人は踊りが終りに近づき、人の姿もまばらになるころまで残って、一緒に帰り、アパートの前で右と左に別れた。
それがはじまりだった。はじめて口をきいた夜に、伊奈と直子はたがいの姓名と勤めの内容を明かし合った。
十日後に、伊奈は洋裁店しのむらの電話番号を番号帳で調べて電話をかけ、直子をデイトに誘った。直子は断わらなかった。伊奈は六本木の小さなレストランに直子を連れていった。食事をしながら、伊奈は料理の話や、コックの修業の苦労話などを語った。他に思いつく話題はなかった。直子は大きな眸をすえるようにして、伊奈をまっすぐに見て話を聞いていた。それが人の話を聞くときの直子の癖だった。
伊奈が結婚してほしい、と言ったときも、直子は瞬きもせずに、長いこと伊奈をみつめていた。その眼にかすかな潤みが生れて、直子は大きくうなずいた。
墓地に日陰がひろがりはじめていた。陰は伊奈の足もとにまで伸びている。線香はとっくに燃えつきていた。線香立ての中で新しい白い灰が、ゆるい風に小さく舞い立った。伊奈はまた長い間、墓石に手を合わせてから、坂をおりはじめた。
6
一週間だけ仕事を休んで、伊奈は東京にもどった。
伊奈が東京を留守にして二日目に、直子の命を奪った轢き逃げ犯人が逮捕されていた。岩淵孝雄という、二十七歳になる、建材店の店員だった。
逮捕のきっかけは呆気ないものだった。直子を轢き殺した盗難車から、岩淵の指紋が出たのだ。岩淵には窃盗の前科があり、そこから指紋が割れたものだった。
伊奈は東京にもどってすぐに、たまたま八王子警察署に電話をして、犯人逮捕を知った。岩淵孝雄がつかまったことは新聞には出なかった。そのために伊奈の知り合いは誰もそのことを知らずにいたのだ。新聞に出ていれば誰かがもっと早く、鹿児島にいる伊奈に知らせていただろう。八王子署では伊奈のアパートの部屋に何回か電話をかけて知らせようとしたのだが、留守で連絡がつかなかったものらしい。
伊奈は電話だけでは気がすまずに、八王子署に出かけて行って詳しい話を刑事から聞いた。
岩淵はギャンブル狂で酒好きの独身男らしい。生活も荒れているようすだという。事件当夜も岩淵は酔っていたという話だった。前の晩に国分寺の友人の家で徹夜の麻雀をやり、岩淵は電車賃までなくなっていた。電車賃を友人に借りて岩淵は友人宅を出た。その足で路上に停めてある車を盗み、その日は勤め先の横浜の石川町にある建材店を休み、別の友人から借りた金で江戸川競艇に行った。
競艇で七万円ほど儲けた岩淵は、盗んだ車で川崎市のトルコ風呂に行き、出てから車で新宿にまわって酒を飲んだ。酔っていたがドライブがしたくなって、八王子をまわって横浜の戸塚のアパートに帰ろうと思い立ち、車を走らせていて直子を轢き殺した。本人の自供によると直子をはねたとき、岩淵は一瞬、眠っていたらしい。酒の酔と、前夜の徹夜麻雀がたたっていたにちがいない。おまけに岩淵孝雄は無免許だった。盗難車を酒に酔って無免許で運転していたのだ。そのために怖しくなって、岩淵は車を乗り捨てて逃げていたのだった。
警察では岩淵の自供を全面的に採用し、裏付も行なって、彼を犯人と断定していた。直子の死体に残っていた精液が岩淵のものということは考えられなかった。血液型がちがうのだった。警察でも伊奈と同じ疑いを岩淵に抱いて、血液型まで調べていたのだ。
伊奈は、八王子署を出たその足で、岩淵の住んでいた横浜の戸塚のアパートと、勤め先の建材店に行ってみた。場所は八王子署で聞いていた。
行ってみてどうするというあてはなかった。警察の調べでも、岩淵のやったのは偶然に直子を車で轢き殺しただけのことと判っている。それを伊奈は疑ってはいなかった。だが、岩淵に対する怒りと憎しみは、伊奈の胸を灼いていた。
岩淵はすでに刑務所行きときまった男である。伊奈の手の届かないところにいる。伊奈は相手の顔さえ見ることができない。せめてその住んでいた場所や勤めていた所にでも足をはこべば、いくらかは胸の怒りがなだめられるか、と思っただけのことだった。
岩淵の住んでいたアパートは、いくらか古びたモルタル造りの小さな二階建だった。場所は戸塚の駅から歩いて十分余りの新興住宅街である。勤め先の建材店も小さな店だった。伊奈はアパートの管理人と建材店の店主から、岩淵の暮しぶりや性格などを聞いた。評判は当然ながらすこぶるよくなかった。
そこまで足をはこんできても、伊奈の心は少しも軽くはならなかった。屑のような人間に命を奪われた直子を哀れに思う気持が、いっそうつのっただけだった。
つぎの日から、伊奈は職場にもどった。
働いているほうが気がまぎれた。一人でアパートの部屋にいると、頭に浮かぶのは直子のことだけだった。気持が沈みすぎると、思うことも底なしに暗くなった。そういうときには、直子が死ぬ前に男に抱かれたという事実を、直子の裏切りのように思ってしまう瞬間もあった。思ってしまって、伊奈はすぐに自分のひどい想像を心の中で直子に詫びるのだった。
伊奈はアパートを越すことを考えはじめていた。一年間、直子と一緒に暮した部屋には、どこを見ても直子の影がしみついているように思えた。部屋を移り、直子と夜を過しつづけたベッドも売り払って、家具も新しいものに替えてしまえば、寂しさはいくらか薄らぐかと思えた。
そう思いながら、しかし伊奈はそれを実行に移しかねていた。伊奈は部屋にしみついた直子の影や、ベッドに残る彼女の体の匂いに哀しみをそそられながら、そこに執着もしていたのだ。
仕事をしているときはたしかに気がまぎれた。だが、勤めを終えて夜の街に出ると、放心が伊奈を襲った。伊奈は自分が酒の飲める体質であることを感謝した。酔えば気持はいくらかまぎれた。美味い酒ではなかった。酔は重かった。それでも胸のつかえは一刻だけでも薄らぐのだ。
勤めを終えて、まっすぐアパートの部屋に帰ることが少なくなった。コック仲間を誘ったり誘われたりして、賑やかな酒場をはしごして歩く夜がつづいた。
心に屈託を抱いているために、酔の回りが遅かった。量は進んだ。仲間たちと別れたあと、さらに別の店に一人で入り込んで飲むことも珍しくなかった。
その夜もそうだった。直子の死後、二週間が過ぎていた。
辻本ともう一人のコック仲間と三人で、新橋の烏森で飲みはじめた。神田に移った。神田ではキャバレーだった。さらに新宿に移った。新宿でスナックを二軒まわった。連日の深酒である。さすがに伊奈は酔っていた。
辻本たちとは新宿で別れた。辻本ともう一人の同僚は、大森のホテルの寮に住んでいた。伊奈は車で目黒まで帰ると言って、雑踏の中で二人と別れた。一人になってもう一杯だけ飲むつもりだった。
区役所通りの雑居ビルの中のスナックに行った。前に二度ばかり一人で行った店である。ロロという名だった。
ロロは込んでいた。カウンターの席があいていた。伊奈はウイスキーの水割りを頼んだ。横に若い女がきた。客だった。連れがあるのかどうか、伊奈には判らなかった。
話しかけてきたのは女のほうだった。他愛のないやりとりだった。女は大学生だと言った。伊奈は聞き流した。どうでもいいことだった。
女はすぐに親しげな口のきき方になった。スツールからはみ出た腰や太腿を伊奈にすりつけてきたりした。さりげなく装っていたが、意識的な仕種と思えた。
伊奈は誘うような女のそぶりに、半ば心が動き、半ばは自重する気持になった。揺れる心のまま、水割りのグラスを重ねた。酔はつのった。女が自分の知っている店に行こうと誘った。伊奈は女とロロを出た。女が伊奈の腕に両手ですがってきた。女の胸のふくらみが、伊奈の肘のあたりを押していた。伊奈は酔の底に沈みきれない自分を苦々しく笑った。
女が連れていったのはシャポーという名の店だった。西武新宿駅に近いビルの地下にあった。小さな構えで中は暗かった。女は隅の壁ぎわの席に伊奈と並んだ。ホステスらしい女が四人ほどいた。女たちは誰も伊奈たちの席にやってはこなかった。カウンターの中にいたバーテンが、酒のびんやアイスペールをはこんできた。びんの口には紐で名札がかけてあった。名札には名前はなかった。眼の絵が描いてあった。片眼だけである。
伊奈は名札の絵のいわれを女に訊いた。女は知ってる人のボトルだと言っただけだった。
そこでも女は伊奈に体を預けるようにしていた。客とホステスたちが、交替で歌いはじめた。伊奈は女の肩を抱いて飲みつづけた。ラブホテルのベッドで、裸の女と抱き合う自分の姿を想像した。女は承知をしそうなようすに見えた。誰にも遠慮はいらないじゃないか、という声が自分の中でした。酔はさらに進んでいた。温くて柔らかい女の体を、伊奈は全身で感じていた。骨になった直子を思った。
どれくらいたってからだったか、判らなかった。伊奈は時間の感覚が曖昧になっていた。女がトイレに立った。それっきり、いくら待っても戻ってはこなかった。伊奈はようやく帰る気になった。女が消えて、安堵もどこかにあった。
伊奈は勘定をすませて店を出た。女がどういうつもりで伊奈に近づき、その店に連れてきたのだったか、分らなかった。誘いに乗りそうで乗らない伊奈に、相手はしびれをきらしたとしか思えなかった。
タクシーで目黒のアパートに帰った。午前二時になろうとしていた。
車を降りると足もとがもつれた。泥酔に近かった。頭はかすんでいた。
部屋に入り、ドアに鍵をしたのは覚えていた。ベッドに倒れ込んで眠った。シャツもズボンも着たままだった。
眠りの中で、伊奈は物音を聞いた。波の音にも風の音にも似ていた。夢は見ていなかった。
眼が覚めたのははげしい喉の渇きのせいだった。胸もむかついていた。頭はかすんだままだった。
顔に何かがかぶさっていた。耳の下にかすかに風が当っている。空気のもれるような音がしていた。
伊奈は顔に手をやった。湿った紙のようなものが顔面を覆っていた。それがビニールだと気づいたのと、ガスの匂いに気づいたのと同時だった。
伊奈ははじかれたように体を起した。いっぺんに意識がはっきりした。伊奈はベッドからとびおりた。ガスのホースが暗がりの中で手に触れた。それは伊奈の胸元をはたくようにして足もとに落ちた。伊奈は顔を覆っているビニールを払い落そうとした。首に紐が巻かれていた。ビニールの袋を頭からすっぽりかぶせて、首のところで絞って紐で結んであった。ガスのホースもビニール袋の中に引き入れてあったのだ。
伊奈はもがきながら、頭からかぶせられたビニール袋を力まかせに引き裂いた。むしりとって足もとに捨てた。反射的に息は停めていた。暗い中を台所に走った。ガス栓はそこに一つしかない。流しの横のガス栓を手で探った。コックは開いていた。伊奈はそれを閉めた。
台所の明りをつけた。流しの前の窓をあけた。伊奈は外に向って息を吐き、はげしく吸った。部屋にもどってそっちの窓も開けた。伊奈は窓から首を突き出して、大きく息を吸い、吐いた。窓の下の道で、車のエンジンの始動する音がした。車はすぐに走り出した。タイヤが鳴った。伊奈は何気なく車を眼で追った。車がライトを消したまま走り去ったのに気づいたのは、数呼吸後だった。
伊奈は窓の手すりに両手を突いたまま、強く頭を振った。唸った。怒りが胸を突き上げてきた。誰かが自分を殺そうとした――そのことだけが頭の中にあった。思考はまだ濁っている。頭の芯は重くしびれた感じがあった。酔のためともガスのためとも思えた。
伊奈は窓ぎわにへたり込んだ。長いことかけて深呼吸をくり返した。冷静な気持がもどってくるのを待った。時刻をたしかめてみた。午前三時をまわったばかりだった。ベッドに入ったのが午前二時あたりだった。ガスを吸い込んでいた時間がどれくらいだったかは判らない。
立ってみた。頭はふらつかなかった。胸がむかついた。伊奈は部屋の明りをつけた。トイレに行った。口に指を深くさし入れて吐いた。嘔吐は何回もくり返された。濁った苦い液だけしか出てこなくなっても、伊奈は指を使って吐きつづけた。それで吸い込んだガスが吐き出されるとは思わなかったが、他には手当を思いつかなかった。何度も体が震えた。嘔吐のためばかりではなかった。恐怖と怒りは時間がたつにつれて増した。
吐くものは尽きていた。伊奈は台所の流しの前に行き、塩水でうがいをした。頭の軽いしびれと胸の不快感は、いくらか薄らいでいたが、消えてはいない。
伊奈は入口のドアの前に立った。鍵をたしかめてみた。鍵はかかったままになっていた。ドアチェーンははずれたままである。
伊奈は記憶を点検した。酔って帰ってはきたが、ドアのロックボタンを押し、ドアチェーンをかけたのは、はっきり覚えていた。ドアを閉めたらロックボタンを押す。そういう癖が手についていた。記憶ちがいということはありえなかった。
誰かが鍵をあけて部屋に入り込み、眠り込んでいる伊奈の頭からビニール袋をかぶせ、袋の中にガス管を引き込んだ――それは疑いようがなかった。眠りの底で耳にした、波の音とも風の音とも聞こえた物音は、ビニール袋を頭からかぶせるときにたった音だったのだろう。
ガス栓からベッドまで延びているガスのホースは、伊奈が見たことのないものだった。そんなに長いホースは伊奈のところにはない。ガスコンロの上に、それまで使っていた青い短いホースが放り出されてあった。
伊奈は部屋にもどった。ベッドの横に黒い大きなビニール袋が落ちている。ゴミを捨てるのに使う袋だった。そんな大きな黒いゴミ袋も、伊奈の家では使っていない。夫婦二人きりの暮しだったから、小さな袋でゴミは間に合った。黒いビニール袋は、長いガス管や、首のところで絞った袋を縛った細い紐とともに、外から持ち込まれたものである。
それがいったい誰の仕業で、何のためだったのか、伊奈には見当もつかない。伊奈は自分を押し包む黒く冷たい影を感じておののいた。ゴムホースや黒いビニール袋は、見えない敵の殺意そのもののように不気味に眼に映る。
伊奈はふたたび、入口のドアの前に行った。ノブを回してドアを開けてみた。鍵のはずれる音がしてドアは開いた。鍵をこわしたようすもないし、ドアをこじあけた跡もない。部屋に忍び込んだ人間は合鍵を持っていたとしか思えない。
部屋の鍵は二箇あった。一箇は伊奈が、もう一箇は直子が持っていた。直子が持っていた分は、彼女の死の現場に残されていたハンドバッグの中にあるはずだった。バッグは直子の新しい位牌と一緒に、整理ダンスの上に置いたままである。
伊奈は念のために、バッグを開けてみた。中の品物を全部取り出して調べた。鍵はどこにも見当らなかった。
伊奈は空っぽのバッグを持ったまま、タンスの前に坐り込んだ。バッグを八王子警察署で受取ったときは、中身など調べなかった。
伊奈は新しい胸さわぎを覚えた。
鍵は直子の死体が発見されたとき、すでにバッグの中から消えていたのではないか? そうとしか考えられなかった。直子はいつもホルダーにつけた鍵を持ち歩いていたのだ。
伊奈の胸にひとつの想像が少しずつ形を結んでくる――。
直子を車で轢き殺した犯人が、その場でバッグの中から部屋の鍵を抜き取ったのではないか? その鍵を使って部屋に忍び込み、今度はおれを殺そうとした。なんのためにだかは判らない。
その推測が当っているとすれば、直子の死は偶然に起きた轢き逃げ事故ではなくて、何人かのグループによる計画的な犯行だった疑いが濃くなる。轢き逃げ犯人の岩淵孝雄はその中の一人にすぎないのではないか。犯人たちははじめから直子を殺し、次いで自殺に見せかけておれを殺す気だったのではないか?
いま、おれが自殺をしたとしても、人は不審を抱かないだろう。いまのおれは、直子を失って、落ち込んだ気持を隠そうともせずに日を送っている。夜はいつも酒に酔ってもいる。妻に急死され、後を追って自殺したという見方が自然に生れてくる。姿の見えない敵はそこを狙ったのだろう――。
伊奈の推測はつぎつぎにひろがっていった。その夜、ロロで声をかけてきた若い女の客のことが頭に浮んだ。女はおれの気をひいて酒を飲ませ、おれを泥酔状態にするつもりで近づいてきたのではないか――そういう考えも伊奈の頭に湧いた。
さらに彼は、ついさっき、ライトを消したまま、窓の下の道を走り去った車のあったことも思いだした。ライトをつけなかったのは、車のナンバーを読みとられることを怖れてのことだったかもしれない。敵はおれの死を確認するために車をアパートの前の道に停めて、待っていたのではないのか? 時間がたって、部屋の窓が開かなければ、おれの死は確実と思ってよいわけだから――。
伊奈は背すじにおののきを覚えた。眠り込んだままでいたら、まちがいなく死んでいるところだった。目が覚めたのは幸運だったとしか言いようがない。
伊奈は立ち上がった。開け放した窓をすべて閉めた。ドアのロックを確かめ、ドアチェーンをかけた。ガスのホースとビニール袋はまるめて押入れに押し込んだ。明りを消してベッドに体をのばした。病院に行って、ガスを吸ったための手当をする必要はなさそうだった。殺されかけたことを警察に届ける気持を伊奈は捨てていた。敵は自分で始末する。伊奈はいきり立った。
直子は計画的に殺されたにちがいない――伊奈はほとんど確信した。彼自身が殺されかかったことが根拠になった確信だった。たしかに岩淵孝雄という男が、直子を轢き殺した犯人として逮捕されている。そして警察の調べでは岩淵は偶然の過失で直子を死なせたことになっている。だが、それには裏があるにちがいない。岩淵はその裏を隠すためにわざとつかまったのではないか。前科のある男が、盗んだ車に指紋を残していたというのも迂闊すぎる話だ。岩淵の逮捕は直子の死を偶然の事故に見せるための擬装なのではないか。
だが、何のために直子と自分が命を狙われたかは、さっぱり判らない。だが、二人の命を狙ったものがどこかに潜んでいることはまちがいなかった。
そいつをおれの手で探し出してみせる――伊奈は強く歯をかみしめたまま、胸に呟いた。直子は殺された、と思うと恨みと怒りが、伊奈をかり立てていた。敵を探し出せるかどうか、成算はなかった。岩淵孝雄は警察に捕えられているのだ。事件を警察に任せないとなると、伊奈にはいまのところ、手がかりはロロに現れたあの若い女の存在ぐらいしかない。その女も、身許はおろか、名前すら知らないのだ。だいいち、その女が伊奈にガスを吸わせようとした者たちの一味かどうかもわからない。だが伊奈の気持は衰えなかった。警察の手を借りようという気持はまったく湧いてこないのだ。
どんなことをしてでも、自分で敵を探し出して、ぶっ殺してやる――伊奈は低く声に出して呟いた。怒りにまかせて吐いたことばではなかった。本気だった。怒りは湧き立ったまま、胸の底で凍りついていた。
窓の外の空が白みかけていた。伊奈は眠れないまま、白く染まってくる窓に眼を投げていた。
二章 尾行者
1
つぎの夜、伊奈は遅番の勤務を終えると、その足で新宿に向った。
一緒に調理場を出た同僚が、一杯やらないかと誘ったが、伊奈は飲み疲れだ、と言って断わった。
一人でまっすぐにシャポーに行った。中は込んでいた。伊奈は入口に立ったまま、中を見まわした。ゆうべの女の姿はなかった。伊奈はしかし失望はしなかった。期待ははじめから抱いていなかった。
伊奈はカウンターの席に就いた。バーテンは伊奈の顔を覚えていた。ていねいな挨拶を送ってよこした。伊奈はウイスキーの水割りを注文した。
「ゆうべはもうちょっとというところで、女に逃げられちゃって、しまらない話よ」
伊奈は軽口を装って話を切り出した。
「うまくいってる感じだったじゃないですか」
バーテンが笑って言った。
「見てたのかい?」
「見てたってわけじゃないですけどね。お二人の席がカウンターの正面だったですからね。見せつけられちゃって……」
「あの女《こ》、よくここに来るんだろう」
「よくでもないんですけど、何回か……。その度に相手がちがうんですよ。素人の人でしょう? あの方……」
「知らないの?」
「顔は知ってますけど、何をしてる人かは知りません」
「おれもよく知らないんだ。ゆうべ他の店ではじめて会ったんだ」
「やるもんですね、近ごろの若い女も……」
「名前も知らないの?」
「ええ……」
「教えてよ。もう一度口説かなきゃ気がすまないんだ」
「ほんとに知らないんですよ、お客さん」
若いバーテンは困った顔で言った。
「ゆうべ出してくれたボトルは誰の? ボトルの首にさげた名札に眼の絵が描いてあるやつだったけど」
伊奈はようやく肝心な質問をした。それを訊くためにそこに足をはこび、無駄口も叩いたのだ。ボトルの主が判れば、そこからゆうべの女の素性がつかめるかもしれない、という期待があった。
「ああ、あれは杉江さんというお客さんのボトルですよ」
「杉江さん? 常連なの? その人……」
「でもないですけどね。ゆうべのあの女の人と何回かいらしてますよ」
「何してる人?」
「眼のお医者さんだって話でした」
「それで、ボトルの名札に眼が描いてあったのか」
「話が賑やかでおもしろいお客さんなんですよ。もう五十をだいぶ越した方ですけど、結構プレイボーイらしいようすなんですよ」
「ゆうべの彼女とはよほど親しいんだろう? バーテンさんは彼女の顔見たら、黙ってあの眼の描いてあるボトル出したもんな」
「杉江さんに、あの女の人が来たらボトル出してやってくれって言われてますからね」
「どこで開業してるの? そのプレイボーイの眼科医は」
「小平だとかって聞きましたよ」
「医者がついてんじゃ、おれががんばったってあの女見込みないな。医者は金持ってるからなあ」
「お客さん、ずいふん弱気じゃないですか」
「自信ねえよ」
伊奈は笑った。時刻は午後十一時になろうとしていた。伊奈はグラスを宙に浮かしたまま考えた。小平までは西武新宿線で行けば三、四十分のものだろう。駅前の公衆電話には電話帳が備えつけてあるかもしれない。電話帳を見れば、杉江という眼科医の電話番号も住所も判る。時間が遅いから、杉江に会うのは明日にするとして、住所だけでも今夜のうちに確かめておこうか――あせる気持が伊奈にはあった。
心を決めかねたまま、伊奈はシャポーを出た。西武新宿駅は眼と鼻の先だった。道は人と車でごった返している。街には光があふれていた。心は固くこわばっている。街にあふれる光は伊奈の眼には氷の輝きに見えた。人の群はよそよそしい黒い流れを思わせた。黒い流れの中から漂い出てきて、思わせぶりなそぶりを示し、泥酔に誘ったゆうべの女のことを伊奈は思った。
伊奈は心が変った。新宿の雑踏の中をしばらく歩いてみようと考えた。ゆうべの女にばったりぶつからないとも限らない。小平には明日行けばいい――。
伊奈は靖国通りに出た。往き交う若い女の顔にすばやく視線を走らせた。ゆうべの女の顔はよく覚えている。伊奈と眼が合って、その眼をはね返すようににらみ返してくる女もいた。
伊奈は新宿駅の東口に出た。駅の改札口のあるホールをひとまわりした。地下道を抜けて歌舞伎町の界隈をぶらぶらと歩いた。あてのない動きだった。頭にはとりとめのない思いが浮いたり消えたりした。
姿の見えない殺人者を、たった一人の力で探し出すことが、どんなに途方もないことかは分っていた。それは新宿の街のおびただしい人の群の中から、一度会ったきりの、名前も素性も知れないゆうべの女を探しだす以上に、あてどのない仕事だと言える。
伊奈はふと、自分の貯金の額を考えた。百万近い額になるはずだった。直子の名義の貯金も四十万ほどはある。小さなレストランと、小さな洋裁店を、郊外の町に出すのが、伊奈と直子の夢だった。そのために、二人はつましく暮して資金を蓄えていた。結婚式も形ばかりのものにした。新婚旅行は北海道に二泊しただけだった。レストランと洋裁店が隣り合っていて、どっちの店にもいつも花が飾ってあって、子供は二人いて――そういう将来の日々が二人の夢だった。それ以上のことを人生に望もうという気はなかった。体一つで田舎から出てきてめぐり合った二人には、それすらもまぶしいほどの大きな夢と思えていた。
伊奈はいま、その夢に執着する気持を失っていた。夢は、直子の命を奪い、彼自身の命をも奪おうとした相手を倒すという、仕返しの意志にとって替っていた。
コックの仕事をやめてもいいな、と伊奈は思った。勤めをやめれば時間はたっぷりある。行動も制約されない。百四十万円の貯金で喰いつなぎながら、敵を追い詰めることに専念しようか――思ったとたんに伊奈の心は決まっていた。軽率だと思う気持はあった。だが姿のない敵への怒りと憎しみが、その気持をおし殺した。
時刻は十一時半をまわっていた。伊奈は区役所通りに出た。あてもなく歩きまわることに、さすがに徒労を覚えはじめていた。尿意もあった。
ロロというスナックの入っているビルが近かった。そのビルの便所は共用で、各階のエレベーターホールの隅にある。伊奈はそのビルの入口をくぐった。
伊奈はエレベーターの前を通ってトイレに入った。つづいて中に入ってきた男がいた。伊奈は何気なくふり向いた。頭にパーマをかけた若い男だった。男ははじめからひきつったような表情をしていた。全身に荒々しい昂ぶりのようなものが現われていた。
伊奈は尿意を忘れていた。眼が合ったのは一瞬だった。一瞬のうちに伊奈は身の危険を直感した。直感は的中した。
「金持ってるだろう」
男は押し殺した声で言い、体を寄せてきた。右手をジーパンのうしろのポケットに突っ込んだままだった。
「金が欲しいのか」
伊奈は深呼吸を一つしてから、穏やかに言った。男は息のかかる近さに来ていた。
「出せ、持ってるだけ」
伊奈はズボンのポケットに手を入れた。伊奈の体の中にも荒々しい昂ぶりがみなぎっていた。伊奈はポケットから二つに折って重ねた紙幣をつかみ出した。男の前にそれを突き出した。男の左手が伸びてきた。伊奈は男の指が紙幣にかかる寸前に手を放した。紙幣は二人の体の間を舞いながら床に落ちて行く。男がそれを拾うために体を動かした瞬間に、膝で相手の顔面を蹴り上げる――伊奈はそのつもりでいた。だが、男は動かなかった。落ちる紙幣を眼で追おうともしない。
男は伊奈の眼を見た。ひきつったような眼の底に狂暴な光があった。伊奈は自分で紙幣を拾うふりをして身を屈めた。肩から男の腰に当っていった。両腕は相手の腕を体ごと抱え込んでいた。
不意討ちは成功した。相手の腰が砕けた。伊奈は相手に組みついたまま、壁に突進した。男は背中を壁に打ちつけて息を詰まらせた。伊奈は同じことを何回もくり返した。壁に押しつけておいて、膝で股間を蹴り上げた。それは失敗だった。男は片膝を上げてそれを防いだ。相手はポケットに突っ込んだままの右手を引き抜こうとあせっていた。
伊奈はその腕を両手でつかんだ。横から相手の腹を蹴った。男の体が泳いだ。伊奈は男の右腕を捻じりあげた。手はポケットから出た。伊奈は男の右腕と髪をうしろからつかみ、小便器の前に押して行った。男の髪をつかんだまま、顔を便器の中に押し込んだ。男はもがいた。額が便器の縁に当った。伊奈は狙いを変えた。男の顔面や額を便器の縁に何回も叩きつけた。血が飛んだ。男がうめいた。伊奈は攻撃の手を止めて、男のジーパンのうしろのポケットを探った。ナイフが入っていた。伊奈はそれをつかみ出した。
男がはげしく体をひねった。伊奈の手からつかんでいた男の右腕がはずれた。男は体を丸めて伊奈に体当りしてきた。伊奈は洗面台までとばされた。立ち直る隙に、男は入口のあおり戸に体ごとぶつかって外にとび出した。伊奈は追うのをやめた。
洗面台に手を突いて、息を鎮めた。喉が渇ききっていた。蛇口をひねって口を寄せ、水を飲んだ。
床に落ちた紙幣が散っていた。伊奈はナイフを二つにたたんでポケットに押し込んだ。床の紙幣を拾いにかかった。男の胸の前で、わざと紙幣を落したとき、相手がそれを拾おうとするどころか、眼すら動かさなかったことを、伊奈は思い出した。
目当ては金ではなかったのではないか――そういう思いが伊奈の頭をかすめた。強盗のふりをしたのは見せかけで、はじめから命を狙っていた――突飛な考えだとは伊奈には思えなかった。前の晩にガスを吸わされたばかりである。ガスの殺しが失敗したことは相手も知っているにちがいない。つぎはナイフを選んだ、と考えられなくはない。
敵は伊奈の住まいを知っている。伊奈をつけ回すことはできる。つけ回して殺すチャンスをうかがっていたのではないか? 偶発的な強盗を装ったのは、ゆうべのように殺しにしくじったときのカムフラージュのためではないか? もしかしたら殺し屋だったかもしれない男を追って捕えなかったことを、伊奈は後悔した。同時に、恐怖と怒りが新たになった。敵の顔も姿も伊奈には見えないのだ。相手が何のために攻撃してくるのかさえ、伊奈には判らない。敵は伊奈を見つづけている。いつ、どこで再び襲いかかってくるかわからない。
伊奈は便所を出た。ビルの入口に男が一人立っていた。横顔を見せている。スポーツカットの四十がらみの男だった。紺のオープンシャツにグレイのズボンをはいていた。伊奈の眼には、その男も敵の一人であるかのように、一瞬、思えた。理由はなかった。伊奈の警戒心と怯えは、一つになって異常に過敏になっていたのだ。
2
昼下りの電車はすいていた。そのせいか冷房がききすぎて肌寒いほどだった。
伊奈はシートに腰をおろして、膝の上で週刊誌のページを開いていた。眼はしかし活字を追ってはいない。ジーパンのうしろのポケットに入れているナイフが、固く尻に当っている。前の晩に新宿のビルの便所で、襲ってきた男から奪い取ったナイフである。護身用のつもりで持ち歩くことにした。
二日前までは、自分がまさかナイフを持ち歩くような身になろうなどとは、夢にも思っていなかった。それがいまは、見知らぬ他人がみな、自分の敵のように思えてならない。なぜ、直子が命を奪われ、自分までが狙われるのか、理由がわからない。そこがことさら不気味だった。
伊奈は直子の死を、単なる偶発的な轢き逃げ事故だとは思えずにいる。直子は何のかかわりもないはずの八王子で車に轢かれた。しかもその遺体には性交の痕跡が残っていたという。その二つの事実が、直子が故意に殺されたことの証拠のように伊奈は思う。その二つに加えて、伊奈自身の命が狙われたとあって、彼はいっそう直子の死を、故意の殺人だと思う気持を強くしている。
伊奈はその日の午前中に、ホテルの労務課に退職願を出していた。唐突だったので、チーフコックも辻本たち同僚も、伊奈を引き留めた。伊奈の気持は変らなかった。女房を失った後の気持が落着くまで、しばらくぶらぶらしたい、という口実を押し通した。頑固な性分であることは、職場では知られていた。それが思わず幸いした。退職は認められた。伊奈が危険で無謀な報復に手を染めようとしていることに気づいた者は、誰もいなかった。職場の者たちは、女房に死なれてすっかり気持がまいってしまっている男、というふうにしか伊奈を見なかった。
職を捨て、ポケットにナイフを忍ばせ、警戒心のかたまりとなって電車に乗っている自分を、伊奈は愚かだと思った。愚かさは承知していた。だが、その愚かな行いはそのまま、いまもなお自分が直子と一緒にいるという思いに、伊奈を誘う。鹿児島の墓に骨を納めて、別れをすませたと思った直子が、思わぬ形で身近に戻ってきた、と伊奈は思うのだ。自分がガスで命を狙われ、直子の死を故意の殺人と疑い、敵と闘う決意を抱くという経緯がなかったら、そういう形で直子が戻ってくることはなかったにちがいない――伊奈はそう思うのだった。
小学生の一団が乗り込んできて、車内はいっときひどく騒々しくなった。子供たちはランドセルを揺すりながら、車内を走りまわったりした。伊奈は走りまわる子供たちを眼で追った。その眼が、隣の車輛の端の席に坐っている男にとまった。スポーツカットの、色の浅黒い男だった。離れているので年恰好までは判らない。伊奈は男のスポーツカットの頭から、ふと、前の晩にロロの入っているビルの入口に立っていた、紺色のオープンシャツの男を思いだした。
伊奈は気になった。思いきって席を移って男との距離をちぢめてみた。ゆうべの男とは別人だった。伊奈は神経過敏になっている自分をわらった。
小平に着いたのは午後二時十分だった。駅前に公衆電話ボックスがあった。伊奈は寄っていった。黄色い電話機の下の棚に、電話帳が重ねて置いてあるのが見えた。伊奈は電話ボックスの扉を押した。
伊奈は電話ボックスのガラスの囲いに背中をもたせて、電話帳を繰った。職業別のほうだった。目次に〈医療・保健〉という項目があった。そのぺージを開くと、はじめに病院と療養所の名前が並んでいた。つぎが医院と診療所だった。あとは産院、助産婦、接骨、整骨、あんま、はり、きゅう、指圧治療、電気治療、理学療法、獣医科医、歯科技工と並んでいる。
伊奈は、病院にはじまって、歯科技工の項まで並ぶ名前を、指先でたどりながら、二回くり返して見ていった。どこにも杉江という名前は見当らなかったのだ。見落すはずはなかった。
はじめは眼科の杉江だけを探した。それが見当らず、結局は二度までもすべてに眼を通すことになったのだった。
杉江という人物はシャポーにキープしてある自分のボトルに、眼の絵を描き、自分から眼科医と名乗っているというのだ。しかもシャポーのバーテンは、杉江が小平市で開業していると聞いたという。伊奈は狐につままれた気分だった。
彼は電話帳に眼を落したまま、しばらく考えをめぐらせた。どこかにまちがいか、故意の嘘がある、と思えた。杉江という名前が嘘なのか。眼科医というのがでたらめなのか。場所が小平ではないのか。シャポーのバーテンが杉江の姓や開業の場所を聞きちがえて覚えているのか――。
伊奈は小平市の医師会に電話で問合わせてみることを思いついた。医師会の女の職員のことばは伊奈を失望させた。眼科医に限らず、小平市には杉江という開業医はいない、という返事だった。
伊奈はへこたれなかった。電話帳に載っている病院、診療所、個人名とは思えない名称の医院に、片端から電話をした。結果は同じだった。どこにも杉江という医師はいなかったのだ。
伊奈が使った電話帳は、多摩の東部版と呼ばれるもので、そこには小平市だけでなく、多摩地区東部にあたる市町村の電話番号も収録されていた。伊奈は小平市以外の分にも眼を通してみた。
小金井市と府中市に、それぞれ一軒ずつ、杉江医院というのが見つかった。小金井の杉江医院は内科医らしい。府中は歯科だった。伊奈はためらわなかった。彼は二つの杉江医院の所番地と電話番号を、用意してきたメモ帳に書き留めた。二つの杉江医院を訪ねてみよう、と思ったのだ。伊奈が持っている敵の手がかりは、いまのところ、ロロに現れ、彼をシャポーに誘って泥酔に導いたあの正体不明の女の存在しかない。それすらも敵につながるものという確証はない。だが、そこを突破口にするしか途はないのだ。ためらってなどいられなかった。
伊奈は電話帳を棚にもどして、電話ボックスを出ようとした。体の向きを変え、ガラスの扉に手をかけて、すぐに彼はその手を放した。そのまま彼は、足もとに眼を落して思案した。彼が眼を通したのは、職業別の電話帳だけである。五十音別のほうは見ていない。もし小平市の分に杉江という姓の記載があれば、それを当ってみる必要があるのではないか――伊奈はそう考えた。
伊奈はふたたび電話機のほうに向き直った。五十音別の電話帳を手に取ろうとした伊奈の体の動きが、不意に停まった。彼の眼はすこし離れた道のほうに投げられていた。そこに男が立っていた。スポーツカットの男だった。電車の中で見た男とは別人である。上下そろいのベージュ色のサハリスーツを着て、紺色のシャツの襟を出して重ねていた。伊奈はそのときも、前の晩にロロの入っているビルの入口にいた男を思い出していた。遠目ではあったが、およその顔形は見えた。顔形も体つきも、ゆうべの男に似ていた。
伊奈は汗ばんだ体が冷える気がした。尾行されているのかもしれない、と考えた。異様に鋭くなっている警戒心のために、思いすごしをしているのかもしれない、とは思った。それならそれでいい。それに越したことはないのだ――。
サハリスーツの男は、伊奈に横顔を向けたまま、タクシーでも待っているふうにそこから動かない。連れがあるようすでもない。
伊奈は相手に気づいていないふりをした。電話帳を繰った。サハリスーツの男が気になって、眼が何度も並んでいる小さな活字の上をうわすべりした。
小平市の関係分には、杉江姓の記載が一つだけあった。杉江章。所番地は小川町二丁目となっている。職業の記載はない。伊奈は杉江章の所番地と電話番号もメモ帳に書き写した。
彼はなおも電話帳を見るふりをして顔を伏せ、視線だけを前の道に向けた。サハリスーツの男はまだそこに立っていた。男の視線は伊奈のいる電話ボックスのほうに向けられていた。しかし、伊奈を見ているのかどうかは判らない。
伊奈は閉じた電話帳を棚にもどして、電話ボックスを出た。サハリスーツの男が動き出すようすはない。
伊奈は駅前の道をまっすぐに進んだ。うしろを振り返ってみたい気持を、彼は抑えた。尾行されているのなら、それに気づいていることを相手に知られたくなかった。
しばらく行くと広い道に出た。青梅街道らしい、と見当をつけた。空車のタクシーが何台も走っていた。伊奈は足を停めた。尾行されているとしても、彼は相手をまく気はなかった。尾行をつづけさせて、どこかで相手を捕えることを考えていた。
伊奈は空車のタクシーが二台つづけて走ってくるのを待った。尾行者の便宜をはかってやるつもりだった。
タクシーが近づいてきた。五十メートルほどうしろにも空車の姿が見えた。伊奈は手をあげた。タクシーは停まった。伊奈は乗り込んで、電話帳にあった小川町二丁目の杉江章の所番地を運転手に告げた。タクシーは走り出した。しばらくして、伊奈はリヤウインドごしにうしろを見た。つづいて走ってきていた空車のタクシーが、停って客を乗せるところだった。客の顔までは見えなかった。だが、伊奈は、客のベージュ色の服と、重ねられた紺色のシャツの襟をしっかりと眼に留めていた。
いくらも走らないうちに、小川町二丁目に車は入っていた。伊奈は電柱に出ている町名表示板でそれに気づいた。彼はタクシーの中でも、うしろをふりかえってみたい気持と闘わねばならなかった。
「この辺だけど、どこで停めますか?」
運転手が訊いた。
「杉江さんという家なんだけどねえ」
「家までは判んないよ。降りて見つけてくれる、お客さん……」
運転手は面倒だと言わんばかりだった。伊奈は車を降りた。降りながら彼は走ってきた道のほうに眼を投げた。別のタクシーが、すこし離れた四つ角を左に曲っていくのが見えた。空車の表示は出ていない。だが、客の姿は伊奈の眼には見えなかった。その車にもし尾行者が乗っていれば、角を曲ったところで降りる気なのだろう、と伊奈は思った。
伊奈の乗ってきたタクシーは、すぐに走り去った。伊奈は尾行者にかまわず、杉江章宅を探すことにした。人通りも車の姿も少ない静かな住宅地だった。伊奈が気にしている男が尾行者なら、彼は姿を隠しにくい。尾行の仕事は困難なものになるだろう、と思えた。
伊奈はあてずっぽうに歩きはじめた。並んでいる家の表札や、郵便受に出ている番地に、伊奈は眼を配って進んだ。杉江章という人物の家は近いと思われた。
小さな四つ角に出た。そこに町内会の案内板が立っていた。案内板には各戸の姓と番地が表示してあった。だが、杉江という家は見当らなかった。
伊奈はまた歩きはじめた。うしろに足音などは聞こえなかった。
一軒の家で、浴衣姿の老人が生垣の根方の草を抜いていた。頭に古びて形のくずれた麦わら帽子をのせていた。伊奈は寄っていって声をかけた。
「ちょっとうかがいますが、この近くに杉江さんというお宅はありませんか? 杉江章さんという方のお宅なんですが……」
「杉江さんね」
老人はしゃがんだまま伊奈を見上げた。
「もう一本先の道を右に折れると、右側に教会がありますからな。杉江さんはそこですよ」
「教会って、キリスト教のですか?」
「そうですよ。あんた牧師さんを訪ねてこられたんでしょうがね」
老人は怪訝《けげん》そうに言った。
「杉江章さんは牧師さんなんですか……」
伊奈は思わず言った。老人は草をむしる手を停めて伊奈を見ている。伊奈は礼を言ってその場を離れた。牧師が新宿のバーに飲みに行っても、別に不思議ではないかもしれない。だが、シャポーのバーテンは、杉江という客はなかなかの老プレイボーイらしいと言ったのだ。牧師のイメージとは重なりにくい。
伊奈は念のためにと考えて、教えられた教会の前まで行った。小さな教会だった。玄関の屋根に白い十字架が立っていた。玄関の入口で、小学生らしい子供たちが踏石に並んで腰をすえ、マンガを見ていた。
「きみ、この教会の牧師さん知ってる?」
伊奈は子供の一人に訊いてみた。
「知ってるよ」
「いくつぐらいの人?」
「知らない。片方、足がない人だよ。戦争で怪我して、膝のところから切っちゃったんだって」
「へえ。じゃ義足かなんかはめてるのか?」
「義足じゃないよ。松葉杖ついてるよ」
伊奈は子供たちの前から離れた。牧師で松葉杖とくれば、老プレイボーイとはますます感じがほど遠くなる――。
3
小金井市の杉江医院の医師は女医だった。伊奈は医院の前に出ている看板でそのことを知った。看板には杉江美枝子という医師の名前が出ていた。
伊奈はバスで京王線の府中駅まで行った。そこから先はタクシーを使った。
府中の杉江医院は、南町四丁目にあった。医院の主である歯科医は、三十半ばの男だった。伊奈は医院から出てきた患者らしい若い男をつかまえて、それを訊き出したのだ。
杉江と名乗る眼科医の老プレイボーイの存在は、幻となって消えた。午後四時をまわっていた。伊奈の足は重かった。
伊奈は小さな喫茶店を眼に留めて入った。客は中年の男の二人連れしかいなかった。アバの曲が流れていた。カセットテープらしい。直子はアバが好きだった。伊奈もやがて、その北欧のロックグループの曲をいいな、と思うようになった。
アバを聴き、コーヒーをゆっくり飲んで、伊奈は一時間余りをその喫茶店で過した。ときおり軽い放心が伊奈を包んだ。
レジで金を払い、伊奈は最寄りの電車の駅の場所をたずねた。京王線の中河原の駅が近いと判った。歩いて十五分ほどだという。
伊奈は中河原駅まで歩いた。十五分はかからなかった。ホームに上がると、傾きかけた陽光が眩しかった。影が足もとに長く伸びている。伊奈は自分の影に眼を落した。ふと心が萎《な》えた。ガスで殺されかけたことを、警察に話そうか、と考えた。
警察は直子の死を、盗難車による単なる轢き逃げ事件と考えている。遺体に残っていた性交の痕跡も、直子の隠れた浮気のせいと見ているようすである。
だが、伊奈がガスで殺されかけたと知れば、直子の死に対する警察の見方も変ってくるだろう。
伊奈は小さく頭を振った。萎えかけた気持を奮《ふる》い起した。事件を警察の手に委ねれば、おそらく事の真相は明らかになり、犯人は闇の中から引き出されるだろう。そして伊奈はその経緯を脇から眺めているだけですむ。そこが伊奈には気に染まない。
事件を警察の手に任せて、捜査の推移を眺めるだけの日が重なれば、それだけ直子は遠くなる――伊奈はそう思うのだ。自分の手で闇に分け入り、敵を探し出し、闘う。そうした熱い時の流れの中に身を置くことで、伊奈は今もなお直子と共に在るという気持を強くするのだ。
伊奈は自分の影から眼を放し、背すじをのばした。やれるところまでは自分でやるんだ――伊奈は自分をはげました。
アナウンスが流れ、電車がホームに入ってきた。いっとき荒い風が立った。
車内はいくらか込んでいた。空いた席はなかった。伊奈は乗降口のドアにもたれて立った。
つぎの分倍河原駅で降りる客がいた。伊奈は横に移って道をあけた。視線が動いた。伊奈は思わず息を呑んだ。二つ離れた乗降口に、スポーツカットの頭が見えた。ベージュのサハリジャケットに、紺色のシャツの襟を重ねて着ている。小平駅の前で見かけた男と同一人物と、断定はできなかった。小平駅では相手の人相の細かな点までは見定められなかった。遠目に刻み込んだ印象からいうと、似ていなくもない。
男はシートの端の鉄の柱に肩をもたせかけて、細長く折った新聞を手にして読んでいる。新聞が男の顔を斜めに隠していた。
伊奈は男から視線をはずした。新聞に眼を落している男が尾行者であることを、伊奈は願った。
電車はスピードを落しはじめていた。府中駅に近づいている。伊奈は窓の外に眼を投げたままでいた。眼の端に遠く、新聞をひろげている男の姿が、白っぽい影のようにある。それは動かない。
電車は府中駅で停まった。降りる人がたくさんいた。伊奈も降りた。ホームに人があふれた。伊奈はふり返ることをしなかった。まっすぐ前を見て階段を降りた。地下道を通って改札口を出た。
商店の並ぶせまい道を抜けた。大国魂神社の前の広い道に出た。欅の巨木の並ぶ道を大国魂神社に向って進んだ。賭けの結果がどうでるか。それを思って伊奈の心は張りつめていた。
道は旧甲州街道に突き当る。横断すれば、そこから先は神社の境内である。伊奈は信号が変るのを待った。神経が背後に集中していく。背中がこわばる感じがつづいている。尾行者がうしろにいなかったら独り芝居だな、と思う。
信号は青になった。伊奈は横断歩道を進んで、境内に足を踏み入れた。踏石の道の右手に植木市が立っていた。その先に市立図書館の建物が見える。左のほうは木立ちがつづいている。木立ちの中は影に包まれている。
伊奈は木立ちの影の中に入った。足を早めた。大きな樹の幹の陰に身を寄せた。回りこんで、樹の陰からうしろを見た。スポーツカットにサハリジャケットの男がいた。踏石の道を急ぎ足にやってくる。眼はほの暗い木立ちのあちこちに投げられている。三十半ばの年恰好である。大柄でがっちりとした体つきをしている。
伊奈は静かに息を吐いた。男の近づくのを待った。あたりに人の姿はない。境内にも人はまばらにしか見えない。植木市は店じまいをはじめている。
男は木立ちの中に入ってくると歩速を落した。視線が急がしく泳いでいる。伊奈はジーパンの尻のポケットに手をやった。ポケットの上からナイフの固い手ざわりを確かめた。取出すのは控えた。
朽葉を踏む足音が近づいてきた。伊奈は木の幹にはりついた。息を殺した。男は五、六メートル離れた左側に近づいている。その足が停まった。視線がゆっくりと回って伊奈に向けられてきた。伊奈は木の幹から離れた。男をみすえた。眼が絡み合った。伊奈の眼は燃えていた。男の眼は静まり返っていた。静まり返ってはいたが、関わりのない他人を見る眼ではなかった。伊奈はその眼にかすかな狼狽を見てとった。
伊奈はゆっくりと歩き出した。男は動かない。距離がちぢまった。伊奈は男の前を半歩通りすぎた。通りすぎて体をひねった。腕を横に振るった。バックハンドの拳が男のこめかみを強襲していた。
男はよろめいた。伊奈は容赦をしなかった。二発目の拳が男の脇腹を抉った。男はうめいて体を折った。ことばは吐かない。伊奈は膝で蹴りあげた。かわされた。はずみで伊奈の体が浮いた。伊奈は足を払われた。尻餅をついた。男の足が横から飛んできた。蹴りは頸すじに見事に入った。伊奈は息が詰り、眼がかすんだ。
二発目の蹴りは地面をころがってかわした。はね起きた。足がもつれた。男がとびついてきた。伊奈は夢中で拳をくり出した。男の顎が鳴った。伊奈の肋骨がきしんだ。伊奈は相手の喉を拳で突き上げた。男はのけぞった。腹にパンチを打ち込んだ。相手の膝が折れ、腰が落ちた。伊奈は足をあげた。男の顔面を狙った。狙いははずれた。かわされた。
男は肩から地面に転がった。男の両足がすばやく宙に躍った。伊奈の右足に男の両脚がしっかりと絡みついていた。伊奈は踏んばろうとした。無駄だった。引き倒された。
伊奈は絡みついた男の足をはずした。はね起きた。男も立ち上がろうとしていた。伊奈のほうが一瞬早かった。伊奈は跳んだ。男の胸板がにぶい音を立てた。ベージュのサハリジャケットの胸に、伊奈の靴の泥がついた。男は体をひねった姿勢のまま倒れた。倒れてすぐにうつ伏せになった。伊奈はポケットからナイフを出した。男の横脇を蹴った。男の体がはずんだ。
「立て!」
伊奈は言った。息がはずんでいた。男は顔を上げた。伊奈の手にあるナイフを見て、男の眼がすわった。
男は膝と両手を地面に突いた。頭を小さく振って言った。
「物騒なもの、しまえよ」
男の息はたいして乱れてはいなかった。口調も落着いている。伊奈は気圧《けお》された。
「ナイフしまわなきゃ、あんた、怪我するぜ」
男は言った。伊奈は男の腰を蹴った。男は呆気なく横にころがった。ころがった反動で立った。男の手が自分の腰のベルトを引き抜いた。男はベルトの端を手に一巻きした。
「やるのか? やめたほうがいいぞ」
男は身がまえたまま言った。声にゆとりがあった。なだめるような口ぶりに聞こえた。それが伊奈を脅《おび》やかし、また怒りに火を注いだ。伊奈はナイフをかまえた手をだらりと下げた。肩から力を抜いた。男も体の力を抜いた。伊奈は地を蹴った。
刺す気はなかった。が、相手を屈服させる必要があった。すこしぐらい相手に血を流させることはいとわなかった。
伊奈のナイフは男の腰をかすめた。男のベルトが伊奈のナイフを持った腕を下から払い上げた。伊奈は肘に激痛を覚えた。ベルトが手首に巻きついていた。強く引かれた。伊奈の体が泳いだ。手首からベルトがはずれた。
伊奈は踏みとどまった。男に向き直った。ベルトが空気を裂いて飛んできた。伊奈はそれを左腕で受けた。ベルトをつかんだ。男の足が伊奈の左の脇腹にめり込んだ。伊奈は夢中でナイフをふるった。男の靴の甲がナイフで裂けた。つかんだベルトが手から抜けた。
ベルトがまた唸った。伊奈はとびこんだ。男は体をひねってかわした。男の息もはずんでいた。ベルトが伊奈の頬をかすめた。伊奈はまた肩から突っ込んでいった。男の腰が砕けた。男はそばの木に腰を打ちつけていた。伊奈は男の胸に頭突きを浴びせた。相手の髪をつかんだ。木の幹に押しつけた。ナイフを振りかざした。体がふるえた。一気に刺そうとする気持を押えたためだった。男の顔に痙攣が走った。伊奈は息を吐いた。
「なんの真似だったんだ? 人をつけまわしやがって……」
伊奈は言った。
「話すよ。話すからナイフをひっこめろ。気が散るじゃねえか」
男は言った。屈した口ぶりではない。伊奈はナイフを引っこめなかった。
「気が散らないようにしてやろうか」
ナイフを男の喉笛に垂直にあてた。
「まさか刺す気じゃないだろうな。おれを刺すと、あんたもっと厄介なことになるぜ」
「刺すか刺さないかはてめえしだいだ。刺されたって文句は言えねえだろう。ガスの礼だと思え」
「ガスの礼ってのはなんだい?」
「ほう……。とぼける気か。おれにビニール袋かぶしてガスのご馳走責めにしたのはなんのためだ?」
「ちょっと待て、伊奈さん。あんた、ガスで殺されかけたと言うのか?」
男の表情が変った。眼が底光りする感じに光った。そらとぼけているようすではない。
「いつのことだ? ガスを吸わされたっていうのは……」
「てめえのほうがよく知ってるんじゃないのかい?」
「奥さんが亡くなった後か? ガスの一件というのは……」
男は喰い入るような眼を向けてきた。伊奈は気持が揺らいだ。男のようすには鋭い気迫のようなものが感じられた。それが意外だった。ナイフを持った伊奈の手にためらいが生まれていた。
「あんた、何者なんだい?」
伊奈はナイフをおろして言った。
「ある興信所で調査の仕事をしてるんだ」
男はしばらくためらった後で言った。伊奈は男の前から一歩退いた。
「興信所?」
「ガスを吸わされたという話を聞かせてくれよ、伊奈さん。おれのほうも話をする」
男は言った。言って大きく息を吐いた。
離れたところに古びたベンチがあった。背もたれに清涼飲料水の広告の文字が並んでいる。男は自分からベンチの前に足をはこび、腰をおろした。
「しかし、あんた、いい根性してるな」
男が伊奈に言った。手はポケットからたばこを取出している。顔には穏やかな笑いがあった。
「何か格闘技をやってたんだろう?」
「空手を少しかじった。ほんの少しだ」
「道理でな。パンチも蹴りも利《き》いたぜ」
「あんただって腕に覚えのないほうじゃないだろう?」
「まあな。柔道と逮捕術を習った。十年近く刑事やってたからな」
男は言った。たばこの煙を吐いた。木立ちの中の陰が濃くなっている。伊奈は相手に心を許してもよさそうな気がした。すくなくとも相手が自分の敵ではないらしい、という感じを抱きはじめていた。
4
黒崎民雄――。
それが男の名前だった。伊奈はもらった名刺でそれを知った。
「殴り合いの後で名刺出すのもおかしな話だけどな」
男はそう言って名刺を伊奈に渡した。黒崎調査事務所所長という肩書きがついていた。事務所は西新宿四丁目にあるらしい。
「おれは日東生命という保険会社の調査の下請けをやってるんだ。所長ったって、働いてるのはおれ一人で、部下なんか一人もいやしない。事務所だって名ばかりで、住んでるアパートが事務所兼用ってわけだよ」
黒崎はざっくばらんな言い方をした。伊奈は黙って聞いていた。
「あんた、生命保険のこと知ってるかい?」
「生命保険のなにを?」
「生命保険には調査がつきものなんだ。調査といってもいろいろある。保険会社が最近はじめたのは名寄せっていうやつだ」
「名寄せ?」
「生命保険金目当ての殺人事件がこのところ急に増えてるだろう。で、高額の契約者とか契約の状況に不審がある人間のリストを、保険会社各社が極秘に出しあって内容をチェックする。それが名寄せなんだ。保険金詐欺を企らむ奴は手口も巧妙になってきて、一社に大きな契約をすると目立つんで、いくつかの保険会社に散らして契約をするケースがある。名寄せはそういう疑いのある契約を事前にチェックしようという狙いさ」
「それが、あんたがおれを尾行したこととどういう関係があるんだ?」
伊奈はいくらか焦《じ》れてきた。黒崎は伊奈を見て、話をつづけた。
「まあ聞けよ。他にもいろいろ調べる。たとえば、契約してから二年以内に被保険者が死亡したら、必ず調査が入るんだ。契約の正当性、告知義務条項に違反はなかったかどうか、などを調べるのさ。たとえば、血圧が高いのを医者に隠して審査を受けたりしてたら、これは告知義務を怠ったことになるんだな」
伊奈はたばこに火をつけた。黒崎が何を言おうとしているのか、伊奈には見当がつかない。
「生存調査ってやつもあるんだ。これは被保険者がまだ生きてるけど、契約条項を検討して、不良契約ではないかという点なんかを調べるんだな。そのためには、契約者、被保険者の身辺の聞き込みもやらなくちゃいけない。相手に気づかれずにな。こういう手間のかかる難しい仕事は、トラブルを怖れて、保険会社の調査マンはまず手を出さない」
「それをあんたたち下請けの調査マンがやるってわけか」
「そういうことだ。保険会社は契約者のプライバシー厳守というたてまえをとってるから、おれたちみたいな陰の調査マンの活動については表に出さないけどな」
「それで?」
「それでって、いまの話でわかるだろう? おれがあんたを尾行したわけが……」
黒崎はそう言った。眼はまっすぐに伊奈の眼をのぞき込んでいる。伊奈はきょとんとなった。
「まるで、おれがあんたの保険の調査の対象になってるみたいなこと言うじゃないか」
「奥さんの亡くなったのは、契約してから三ヵ月後で、しかも事故死だからなあ」
黒崎は言った。伊奈はことばを失った。文字どおり、開いた口がふさがらなかった。
「待ってくれ、黒崎さん。おれの女房はたしかに死んだよ。だが、うちじゃ生命保険なんかかけてなかったぜ。まちがいじゃないのかい?」
黒崎はすぐには口を開かなかった。伊奈をみつめる黒崎の表情がひきしまっていた。
「おかしい話だな」
やがて黒崎は言った。呟くような声だった。伊奈の頭は混乱していた。混乱しながら、伊奈は体のふるえてくるような想像を胸に抱きはじめていた。伊奈は訊いた。
「どこがおかしいんだ?」
「伊奈さん、あんた、ほんとうに知らないのか?」
「何をだい?」
「奥さんが生命保険に入っていたことをさ」
「知るも知らないも、ほんとにはじめて聞く話だぜ、それは」
「光洋銀行目黒支店に、あんたの普通預金の口座があるだろう?」
「ある。給料が銀行振込みだからな」
「口座番号はおぼえてるか?」
「0779983――たぶんまちがいはないと思う」
黒崎はうなずいて、胸のポケットから手帳を出して開いた。
「同じ光洋銀行の目黒支店に、8418375という、伊奈厚名義の普通口座がある。その口座に四日前、四千五百万円が振り込まれたはずだ。日東生命からな」
「四千五百万円? 女房の生命保険の金だというのか?」
「契約高は満期で百五十万円という小さな保険だが、事故死の場合は三十倍という特約がついてたんだ。受取人はあんたの名前になってる」
「それが一昨日、光洋銀行目黒支店の、おれの名前の口座に振り込まれたというんだな?」
伊奈はあえぐような声になっていた。黒崎はうなずいた。
「契約してから三ヵ月目の事故死だからというんで、死亡調査をおれが頼まれたんだ。だが、警察は単純な轢き逃げと断定してる。契約にもおかしな点は見つからない。保険会社としては、保険金の支払いをそれ以上延ばす理由がなくなって、振込んだんだ」
「おれはそんな金、請求した覚えもないし、受取ってもいない。だいいち、光洋銀行目黒支店には、おれは預金口座を一つしか持っていない。もう一つのおれの名義の口座は、おれには覚えがないんだ。嘘じゃないぜ、黒崎さん。だいいち、もしおれが保険のこと知ってれば、わざわざ別に銀行の口座を作る必要がどこにある?」
黒崎は口を閉ざしていた。
「おかしな話じゃないか」
伊奈は言った。
「おかしな話だ。おれがおかしいというのはこういうことだ。いいか、仮にある人間が誰かを殺して生命保険金を詐取しようとしたとする。その場合、犯人は殺そうと企んでる当人に知られずにその人間を被保険者にするということはできないんだよ」
生命保険の契約が成立し、内容の審査が終ると、保険会社は生命保険証券というものを発行する。いわゆる保険証書である。保険証券は必ず被保険者当人に郵送するのが決まりである。外務員が直接手渡すなどということはありえない。郵送によって保険会社は加入者当人の居住地を確認することにもなる。したがって、生命保険に加入した覚えのないのに、保険証券が送付されてくれば、当人は不審を抱く――黒崎はそう説明をした。
「すると、女房は保険に入ってたことは知ってたわけだな?」
伊奈は言った。彼は口の中にはげしい渇きを覚えていた。喉がひりつき、舌がもつれる感じがあった。
「奥さんは保険の契約者であり、被保険者になってるんだ。それを奥さんが知らなかったということはありえない。そしてあんたには内緒にしてた。これはよくあることなんだ。万一のことを心配して、善意からこっそり保険に入ってるっていうのはな。だが、その万一のことが起きて、保険金がおりたが、その金が指定の受取人に渡っていないとなると、これはざらにある話じゃないな」
「ほんとにおれは知らないんだ。保険金なんぞ一銭も受け取っちゃいない。信じてくれ、黒崎さん」
「伊奈さん、おれはもうあんたを疑っちゃいないよ。これでも人を見る眼はあるつもりだ。だが、もうすこし質問をさせてくれ。あんたには辛い質問になるかもしれんが……」
「なんでも訊いてくれ」
「加入者自身に知られずに、第三者が保険の契約を結ぶことはできないという話はしたな」
「聞いたよ」
「さて、今度は保険金を受取る場合だ。この場合は、保険会社所定の死亡診断書、除籍を示す戸籍謄本か抄本、受取人の印鑑証明、保険証書といったような書類が必要なんだ、わかるかい? 保険証券は奥さんが持ってたはずだ。それがいつのまにか、あんたの知らない第三者に渡ってたってことになる」
伊奈はうなずいた。伊奈は黒崎が言った、辛い質問ということばの意味を理解した。
「女房がおれを受取人にして、生命保険をかけてたことを知ってる奴がいた。あるいは、女房は、保険金の受取人をおれの名前にしたが、その保険金がおれ以外の誰かに渡ることをはじめから知っていた――そういうことになるわけだな?」
伊奈は言った。声がふるえた。両の手はベンチの端をしっかりとつかんでいた。指の先が白くなるほどに。
木立ちの中はすっかり宵闇に包まれていた。伊奈は背中に悪寒に似たものを感じた。
「戸籍謄本は本籍とか現住所とか生年月日なんかを知ってて、役所の窓口で書類さえ書けば第三者でも取るのは簡単だ。あんた、印鑑登録はしてあったのか」
「必要がなかったからしちゃいないよ」
「印鑑証明を第三者があんたに知られずに取ることもできないことじゃない。印鑑を登録する場合は、登録を申請した人間が、名義人当人であることの証明が必要なんだ。運転免許証とかパスポートとかがよく使われる。だが免許証もパスポートもない人間だっている。そのときは、申請を受けた区役所なり市役所が、本人の住居地に確認のはがきを出す。届いたはがきを役所に持っていけば、それで本人だと認定されるってわけだな」
「つまり身替りがきくわけだな。その役所からきたはがきさえ手に入れれば……」
「そういうことになる」
「それに保険証券だな。これは盗み出すか、女房と納得ずくかでなければ、第三者の手には渡らないはずだな」
「そういうことになるんだ。あんたには気の毒だが……」
黒崎の声が暗がりの中にひびいた。
「気の毒か……。だが、おれには信じられないんだ、まだ……」
「何がだ?」
「女房がそういうことをしたってことがさ」
伊奈は言った。声に力がこもっていた。黒崎は短い返事をした。沈黙がしばらくつづいた。伊奈は木立ちの暗闇に眼をすえていた。きれぎれの思考が頭の中で渦を巻いていた。直子の顔が闇に浮かんだ。表情のない顔だった。その顔はすぐに頭に包帯を巻かれた直子の死顔に変った。伊奈は叫び出しそうになるのをこらえていた。
「あんたがガスで殺されかけたってのは、いつだ? その話を聞かせてくれ」
黒崎が口調を変えて言った。
「一昨日の夜だ」
「一昨日といえば、あんたの名義の銀行口座に保険金が振り込まれた日だな」
「やっぱり、保険の一件とおれが狙われたことと、つながってるのか?」
「どんなふうにガスで殺されそうになったんだ?」
伊奈はしばらく口をつぐんで、話すべきことを整理した。それから口を開いた。ロロに現われてシャポーに誘った正体不明の女のことも、女につながっているはずの杉江という老プレイボーイのことも話した。伊奈は黒崎を警戒する気持をとうに捨てていた。
「全部はじめから洗い直してみる必要がありそうだな」
話を聞き終えて、黒崎は言った。唸るような言い方だった。
「あんたの話を聞いて、はじめはおれは奥さんがあんたに内緒の借金を背負っていて、その担保にこっそり生命保険に入ったんじゃないか、とも思ったんだ」
黒崎は考えこむ口ぶりで言った。
「そういうことはなかった。断言してもいい。おれに内緒で借金するような女じゃなかったよ、女房は……」
「あんたのガスの一件を聞いて、おれもいまはそう思うよ。奥さんの生命保険が借金のかただったのなら、保険金を受取った奴は何もこそこそすることはないはずだ。借用証をあんたに見せて、堂々と請求すればいい。何もあんたの命まで狙うことはないはずだ」
「それに、おれは人に命を狙われる覚えなんかまったくないんだ」
「保険金がおりたすぐ後に、あんたにガスを吸わせたというところが、ひっかかるな。生命保険を受け取った者には、所得税なり相続税なり贈与税なりが課税されるんだ。ほっとけば課税通知があんたのところにいく。するとあんたは覚えのないものだから騒ぎ出す」
「それでその前に殺そうとしたわけか……」
「あんた、殺されかけたこと、警察には届けたのか?」
黒崎は訊いた。声を細めていた。伊奈はすぐには答えなかった。起きたことを警察に届けなかった理由を、出会ったばかりの黒崎に話すのは気が重かった。それを話せば、直子に対する熱い想いも語らずにはすまない。黒崎に対する警戒心は捨てていたが、直子に対する気持を洗いざらい話すところまでは、まだ心からうちとけてはいない。
「黒崎さん、あんた前は刑事だったと言ったなあ」
伊奈はそう言った。
「自分で言うのもなんだが、わりに腕のいい刑事だった。どうして?」
「どうしてってこともないけどな……」
「あんた、殺されかけたことを、まだ警察に届けてないな?」
「いけないか?」
「いいかわるいかは別として、普通じゃないな」
「たしかにな……」
「自分で敵を追いつめようと考えてるんだろう? だから今日も杉江とかって男を探して小平、小金井、府中と歩いた。そうだな?」
「あんたにも、殺されかけたことを言うつもりはなかったんだ。だが、おれはてっきりあんたを殺し屋の一味と思ってたから、ついああいうふうに言っちまったんだ」
「伊奈さん、おれはたしかに前は刑事だった。だが、いまは刑事じゃない。ドブ鼠みたいに人のあとつけたり、プライバシーを嗅ぎまわって歩く調べ屋だよ。昔、刑事だったからといって、その人間がいまも警察のことをよく思ってるとは限らないぜ」
黒崎は言って、なぜだか低く笑い声を立てた。
「黙っててくれるのか? おれが殺《や》られそうになったことを……」
伊奈は暗がりの中で黒崎の顔をのぞき込んだ。黒崎の白い歯が闇に浮き出て見えた。
「あんたが望むなら黙ってる」
「ありがたいが、事情《わけ》がありそうだな?」
「何の事情だい?」
「元刑事にしちゃ、殺人未遂事件があったことを警察に知らせずにおくってのは、それこそ普通じゃないと思うがな」
「わけか……」
黒崎は言った。吐息をつくような言い方だった。
「わけがないこともないが、とりあえずはおれとしちゃ、あんたのこの事件を警察に渡すのは損なんだ」
「損?」
「損というより、もったいない。おれがあんたのこの保険金詐欺の犯人をとっつかまえれば、調査屋のおれの株はあがる。腕利きってことになって仕事も増える。そうだろう? 警察のデカたちに折角のネタをさし上げたって、こっちは何の得にもならない」
「それだけか? 理由は?」
「そのほうが話はすっきりする。おれが警察をどう思ってるかなんて話はうっとうしいだけだよ、聞いてもな」
黒崎はまた短く笑った。伊奈はそれ以上はたずねなかった。伊奈自身が、ガスの一件を警察に届けずにいる気持を、初対面の黒崎に明すのをためらったように、黒崎も同じ理由から何かを口にすることをためらっているのだろう――伊奈はそう思った。
だが伊奈は、いつかは自分がためらいを捨ててそれを話し、黒崎も背負っている何かを明すときがありそうな予感を抱いていた。そうした予感を生むような何かが、二人の間に生れていた。
「黒崎さん、おれたち、組めそうだな」
伊奈は言った。ひとりでに声に親しみがこもった。
「らしいな。やってみるかい?」
黒崎の声にも柔らかいひびきがあった。
「おれは今日の午前中に、勤め先に辞表を出したんだ」
「あんたにガスを吸わせようとした奴を探し出すためにかい?」
「そうだよ。そいつはおれの女房を殺した奴でもある。多分な……。そいつをふんづかまえるのは、勤めの片手間でやれる仕事じゃないと思って、仕事は辞めた。よろしく頼むよ」
「そこまで思い込んでるのか。コックも辞めてなあ……」
「女房は殺されたにちがいないんだ、黒崎さん」
「奥さんの事故の検証結果も、解剖の結果も、犯人の岩淵って野郎の自供もおれは警察で聞いて知ってるよ。その限りじゃ、殺人だと断定はできないけど、あんたの話を聞くと、奥さんの事故もくさいって気はするな」
「女房はおれを裏切るような奴じゃなかったんだ。おれがいちばん知ってる。保険のことだって、何か裏があるにきまってるんだ」
伊奈の口調は抑えようもなく激しいものになっていく。
「何が出てくるか判らんが、とにかく一から洗い直してみよう、伊奈さん。おれは保険の契約のいきさつから調べてみる。あんたは奥さんのことを全部調べてくれ。辛いだろうが、他人になったつもりでやらなきゃだめだぜ。きっと奥さんはわけがあって、何かをあんたに隠してたはずだ」
黒崎の声は静かだったが、厳しいひびきがこもっていた。
伊奈はうなずいた。たしかに黒崎の言うとおりだった。伊奈が知らないうちに直子が生命保険の契約をし、自分が被保険者となり、死後に保険金は伊奈の名を騙る謎の第三者に渡っているのだ。そういうことが行なわれるためには、謎の第三者と直子との間になんらかの通じ合いがなければならない。事実、保険金受取に必要な保険証券だけのことを考えても、それは謎の第三者の手に渡っているのだ。伊奈の印鑑証明を取るについても、陰で直子が動いたと考えれば説明はつく。
いったい、あの直子の身に何が起きていたのか?
直子は何をおれに隠していたんだ?
伊奈は胸に重い石を抱いた気分になった。木立ちの中の闇はいっそう濃さを増していた。
「あんた、酒は飲むんだろう? ここんとこ毎晩、外で飲んでたもんな」
黒崎が言った。伊奈は短く笑った。
「黒崎さんは、奥さんに死なれたことは、まさかないよな」
「奥さんに死なれるためには、その前に結婚てものをしなきゃならないぜ。おれはまだ独り者だ。だが、まちがって結婚したとして、女房に死なれたら、おれもあんたみたいに毎晩、安酒飲むだろうな」
「その辺で、一杯やろうか」
「おれもそのつもりで酒の話をはじめたのさ。お近づきのしるしにってやつだ」
「明日から忙しくなるかもしれないな」
伊奈はベンチから腰を上げた。
三章 写真
1
黒崎と出会ったつぎの日、伊奈は昼すぎまで、自分の部屋にこもりっきりになった。直子の遺品をすべて、調べてみたのだ。
生命保険の契約者であり、被保険者でもある当人が、自分が保険に加入していることを知らずにいる、ということは、契約の事務管理のシステムからいってありえない。黒崎はそう言った。
伊奈はその朝、自分でいくつかの生命保険会社に電話をして、黒崎の言ったことを念のために確かめてもみた。黒崎の説明はまちがっていなかった。
直子の生命保険加入に、彼女自身の意志が加わっていたことは疑いの余地はない。
そして直子は死んだ。事故死であったために、保険金は特約によって四千五百万円もの高額になった。その金は、保険金の受取人に指定してあったという伊奈自身には渡っていない。四千五百万円の保険金は、伊奈になりすました謎の人物がまんまと受取っている。
謎の人物が伊奈になりすまして保険金を手に入れるためには、保険証券はむろんのこと、伊奈の印鑑証明や戸籍謄本などが必要である。印鑑証明や戸籍謄本は第三者でも手に入れられないことはない。だが、保険証券は、直子自身から受取るか、さもなければ盗まない限り、第三者には渡りようがないはずだ。
そうした点から、黒崎は、直子が謎の第三者と密かな関わりがあったのではないか、と疑っている。伊奈も気持は別として、理屈の上ではそれを否定できないでいる。
だが、最大の謎はそこにあるのだ。仮に直子が、保険金を詐取した謎の人物と、なんらかの関わりがあったとしよう。直子が保険金詐取の手助けをしたとしよう。その場合、詐取しようとするのは、直子自身の生命にかけられた保険金なのである。直子は自分の死を前提とした保険金詐取の手助けをしたというのだろうか――。
伊奈には到底、考えられないことである。だが、直子が伊奈に隠し事をしていた事実は、伊奈も認めないわけにはいかなかった。伊奈は直子が抱いていた秘密を解き明すための何かの手がかりが、彼女の遺品の中にあるかもしれない、と期待したのだった。
その仕事は、伊奈にとって二重に辛いものとなった。
手にする品物の一つ一つが、それにまつわる直子の折々の姿や出来事を思い出させた。思い出は限りがなく、すべてまだ生なましい。瞼に浮ぶ直子の姿は、伊奈が深く愛し、いまも愛している、生前のままのものである。だが、伊奈はその直子のうしろに、大きな黒い陰を見ないわけにはいかない。いったい直子の身に何が起きていたのか――伊奈は遺品の一つ一つを前にしながら、何度も胸の底で叫んだ。
調べるべき品物は多くはなかった。衣類や装身具の他には、わずかばかりの本や雑誌やアルバムや、一冊の小さなノート、あとは手紙やはがきの束とがらくたにすぎないものだけだった。
本は洋裁の関係のものが多く、あとは料理の本と文庫本の小説だった。アルバムは大判のものが一冊だけで、貼ってあるのは伊奈と一緒の写真が多い。不審な写真は一枚もなかった。すべて伊奈の知っている場所と人物だけが写っている。
ノートは青い表紙のついた、ありふれたものである。表紙には直子の名前が書いてある。一ページめに〈昭和五五年三月七日〉という日付が書き込んであった。しかし、書いてあるのはそれだけである。あとはすべてのページが白紙のままなのだ。
謎めいているといえばいえた。直子はそのノートを日記に使おうとしたのだろうか? それまで直子には日記をつける習慣はなかった。日記をつけることを直子が思い立ち、わざわざノートを買ってきたとしても、なぜ三月七日という日が初日に選ばれたのだろうか?
昭和五十五年の三月七日といえば、五ヵ月ほど前になる。そのころのことを伊奈はふり返ってみた。直子が風邪をひいて三日ほど寝込んだこと以外には、彼女に変ったことはなかった。三月七日は直子の誕生日でもない。直子が日記をつけようと思いたちそうな出来事があったとは思えない。仮に日記をつけることを直子が思い立ったとしても、なぜ、日付だけを書いてやめてしまったのか?
ノートが日記として使うために用意されたのではないとしたら、一ページめの冒頭に記された日付はなんのためのものなのだろう?
考えても答は得られなかった。伊奈は青い表紙のノートを畳の上に放り出した。
伊奈は直子宛にきた手紙とはがきの束に眼を通した。手紙もはがきも数は少なかった。差出人はどれも、伊奈の知っている直子の友人たちであり、内容も年賀状や暑中見舞が多い。他はとりとめのない近況報告といったものである。差出人が男の名前のものは一通もない。
伊奈は最後に、直子の衣類やアクセサリーまで、ひととおり眼をとおした。すべて伊奈にも覚えのあるものばかりだった。
畳の上にひろげた遺品の数々を、元の場所にもどしながら、伊奈は失望とかすかな安堵とを覚えていた。失望は直子の秘密を知る手がかりが得られなかったことによるものだった。安堵もそこから生まれていた。直子には秘密なんかなかったのだ、と伊奈は思った。けれども、その思いはその場の気休めにすぎないことも、伊奈は一方では承知していた。直子の死が、生命保険金にからむ謎をはらんでいることは事実なのだから――。
アパートの近くの定食屋で、おそい昼食をすませると、伊奈は電車で保土ケ谷に向った。八王子で車に轢かれて命を落す前に、直子が仕立て上がった服を届けに行った、中迫という客に会うためだった。死の前に最後に直子と会ったのは、伊奈の知る限り、いまのところ中迫というしのむら洋裁店の客である。
直子は中迫の家を出たあとで、なぜだか八王子に現われ、そこで車にはねられたのだ。中迫の家に現われ、そこを立ち去るまでの直子のようすを訊けば、何かがつかめるかもしれない、と伊奈は考えたのだ。手がかりはどこに落ちているか判らない。思いつくことはすべてに当ってみる必要があった。
中迫の家への道順は、しのむらの主の篠村龍子に電話でたずねて教わっていた。客の中迫景子の夫は運送業を営んでいるということだった。中迫景子も自分で横浜の藤棚町に小さなスナックを出しているという話である。住まいは西久保町で、保土ケ谷駅から歩いて十分余りのところだった。
中迫運送という看板を目当てに行くと、すぐに判った。二階建の木造の古びた建物で、道路に面して事務所があった。車庫は別の場所にあるらしい。事務所には中年の女事務員一人しかいなかった。奥が住まいになっていた。事務員に教わって、伊奈は横の細い道を入った。突当りに玄関があった。
ドアのブザーを鳴らすと、三十半ばと思える髪の赤い女が顔を出した。それが中迫景子だった。中迫景子は肩が大きくむき出しになった紫と青の縞柄のタンクトップを着て、白いコットンパンツをはいていた。
伊奈は名前を名乗り、来意を告げた。中迫景子は伊奈を玄関に招き入れ、いくらか騒々しくひびく早口のことばつきで、直子の死に悔みを述べた。せまい玄関で立話が交わされることになった。
「あの夜、ぼくと女房は外で食事をすることになっていて、待合わせの約束をしていたんです」
「あとであたし、しのむらの先生に聞きました、それ……。ご主人と待合わせの約束してて、どうして直子さん、八王子なんかに行っちゃったのかしらって、しのむらの先生とも話したんですよ」
「ぼくにもそこが分らないんです。ただ、女房は自分の意志で八王子に行ったんじゃないと思うんです。あの夜、ぼくらは有楽町の駅で落合うことにしてたんだけど、駅の伝言板に、三十分遅れるという女房の伝言が書いてあったんですから……」
「そうですってねえ。うちに見えたのが、六時二十分ぐらいだったかしら。半にはなっていなかったと思うわ。あたし、ちょっと上がってもらって、届けてもらった服を着て、直子さんに見てもらったんです」
「お宅をおいとましたのは何時ごろだったんでしょうか?」
「服を着たところを見てもらって、冷たいものでも飲んでいきなさいって、あたしが引き留めて、カルピスを飲みながらちょっとおしゃべりしたんだけど、そうですね、六時五十分かそこらにはお帰りになったんですよ。あたしもスナックをやってるものですから、お店に出なきゃならない時間だったし……」
「女房に、いつもと変ったようすなんかは見られなかったですか?」
「気がつかなかったわ、別に……」
中迫景子は小さく首を傾《かし》げたまま言った。
「お宅を出て、女房はまっすぐ保土ケ谷駅に向ったわけでしょうね?」
伊奈は言った。訊くというよりも、考えたことが半ば識《し》らぬまにことばになって出たのだった。だからことばつきは独り言の呟きに似ていた。
「そこまではあたしもなんとも言えません。見てたわけじゃありませんからねえ」
中迫景子の声には、かすかに固いひびきがこもっていた。直子が駅に向ったかどうかを確かめなければならないいわれは、当方にはない、といいたげな口ぶりだったのだ。伊奈は質問をきりあげた。それ以上、何を訊けばいいのか分らなかった。伊奈はていねいに礼を言って、中迫景子の家を出た。
2
黒崎が伊奈のアパートの部屋にやってきたのは、その日の夜八時前だった。
「いやあ、今日はよく歩いたぜ、ほんとに」
黒崎は上り口の踏込みで、立ったまま靴を脱ぎながら言った。疲れた口調ではなかった。手には酒屋の名前の入った紙袋を持っていた。中身はウイスキーのびんだった。
「あんたにガスを吸わせるのに使われたビニール袋とゴムホースはどうした?」
部屋に上がってくるなり、黒崎は小声で言った。伊奈は黙って押入れをあけ、そこに突っ込んであった赤いホースと黒いビニール袋を取出した。
「あんた、ちょっとベッドに横になってみてくれ」
黒崎が言った。
「どうするんだ?」
「いや、刑事のときの癖でね。寝てる人間に気づかれずにビニール袋をかぶせるにはどうしたらいいか、試してみたいのさ」
黒崎は笑った顔で言った。邪気のない笑いだった。伊奈はうなずいてベッドに横になった。黒崎はビニール袋を手に取った。
「言っとくが、あんたが誰かにビニール袋をかぶせられて、ガスを吸わされたってことを、おれは疑ってるわけじゃないんだぜ」
「わかってるよ」
「なんでも実際に試して確かめてみなきゃ、気がすまないんだ」
言いながら黒崎は、黒い大きなビニール袋の口を両手でひろげた。それを枕にのせた伊奈の頭に近づけ、首の下に片方を敷き込むようにした。頭を包み込んだ袋が、伊奈の顔面にかかった。袋は小さな音をたてた。
「やってみれば簡単だな。相手が泥酔してれば、気づかれる確率も少ないだろうな」
黒崎はビニール袋を伊奈の頭からはずして言った。
「酔ってなきゃ、ビニール袋が顔にかかってうるさいから目がさめるかもしれないな」
「すると、杉江って男と知り合いのあの若い女は、やっぱりおれをベロベロに酔わせるために、意識的に近づいてきたんだろうな」
「それはまだなんとも言えないが、他のことがいろいろ判ってきたよ」
黒崎は自分でビニール袋とガスのホースを押入れにしまいながら言った。
「なにが判ったんだ?」
「飲みながら話そう。あんたにはあんまりうれしい話じゃない」
黒崎は酒屋の名前のある紙袋から、ウイスキーのびんと、つまみの入った袋を取出して言った。伊奈は台所からグラスと氷と水を持ってきた。
「奥さんが入ってた生命保険は一口じゃないな」
黒崎は自分で二つのグラスにウイスキーを注いで言った。伊奈はグラスに氷を落し込みながら、黒崎の顔を見た。
「あんたが調査の下請をやってる日東生命以外にも、女房は保険に入ってたのかい?」
「他に三社あるようすなんだ」
「どうして判った?」
「おれは今日、八王子の救急病院に行ってきたんだ。あんたの奥さんが死体になって担ぎこまれた病院だよ。その病院が、保険金を受取るのに必要な死亡診断書を出してるわけだからな」
「死亡診断書は一通じゃなくて、四通出されてたわけか?」
「そうなんだ。四通とも生命保険会社が用意している、それぞれの規定に従った形式のやつだった」
「四口か……。一口四千五百万円として、二億円そこそこの保険金になるじゃないか」
「これは立派な計画的な保険金詐欺だよ」
「死亡診断書を病院に取りにきたのはどんな奴か、判らないのかい?」
「判った。といっても人相とか年恰好だけだけどな。年は六十歳ぐらいの男らしいんだ、病院に来たのは……。あんたの代理で来た、と窓口では言ったらしいな」
「六十歳ぐらいか。例の杉江っていうシャポーの客じゃないだろうな」
「品のいい、あたりの柔らかな年よりだったって話だ。メタルフレームの、色の薄いサングラスかけて、少し白毛のまじった髪の毛が、パーマをかけたみたいに波を打ってたって、病院の受付の女は言ってたよ」
シャポーのバーテンダーに、杉江の人相を聞いておかなかったことを、伊奈は悔やんだ。もう一度シャポーに足をはこぶ必要があると思った。
「死亡診断書を取りに現れたのは年よりだが、目黒の区役所と光洋銀行の目黒支店にあんたの名前をかたって現れたのは、三十歳ぐらいの男なんだよ」
「何人か仲間がいるってわけか、敵には」
「らしいな。銀行と区役所に現れた奴は同じ人間じゃないかと思うんだ。聞いた人相から考えてな。区役所には三度とも女連れだったらしい」
「三度も区役所に行ってるのか?」
「一度は印鑑証明の申請、二回目が本人かどうかのはがきを持って行ったときだ。三回目は戸籍の除籍謄本を取りにきたときだよ。二回目まではあるいはあんたの奥さんが一緒に行ったとも考えられるんだ」
「男はどんな奴だって?」
「身長が一七〇センチぐらい。体つきは痩せて見えたそうだ。クリーム色のオープンシャツと同じ色のズボン着て、白い靴をはいてたって話だ。銀行でも区役所でもな。髪はおれみたいに短くて、眼つきがするどかったらしい。銀行のカウンターの女の子は、ちょっとやくざっぽい印象だったって言うんだ」
「そいつが銀行で、おれの名前で口座を開いたのはいつだ?」
「そこまでは判らない。というよりも銀行は用心して教えてくれないんだよ。こういうときは、警察手帳があれば事は簡単なんだがな」
黒崎は言った。苦笑いに似た表情になっていた。
「日東生命から手を回して調べるって手はないのかなあ」
「日東生命にはもう話してある。上のほうで手を回してみるって言ってた」
「銀行には防犯カメラってのがあるだろう。カメラにそいつが写ってるかもしれないぜ」
「それももちろん頼んである」
「しかし、保険金を詐取されたことが判れば、保険会社は警察沙汰にするんじゃないか?」
「そこはうまくごまかしたよ。他の調査事項に使うというふうに話してある」
「くそ! うまくいってくれないかなあ」
「こういうとき、警察嫌いは困るよな、おたがいにさ。余計な苦労しなくちゃならねえ」
「保険会社に保険金の請求にきたのも、銀行と区役所に現れたのと同じ男なのかな?」
「保険金の請求を受けたのは、おれが下請の仕事をもらってる保険会社の渋谷支店なんだ。渋谷支店で応対した社員の話だと、やっぱり同じ人間らしいな。人相がだいたい一致するんだよ」
「他の三つの保険会社にもそいつが請求に行ったんだろうな」
「確かめちゃいないが、たぶん同じ奴が行ったんじゃないかな。どっちにしても、保険金の請求には、受取人に指定されてるあんたと同じ年恰好の奴が行かなきゃまずいと考えるだろうからな」
「契約はどういういきさつでやられてるんだい?」
「これは、やはり渋谷支店に、あんたの奥さんが直接やってきたそうだよ」
「一人でか?」
「一人だったらしいな。居合わせた外務員のおばさんが応対してるんだ。説明を聞いて、その場で契約していったって話だった。応対した外務員のおばさんに話を聞いたんだ」
「まちがいないな?」
伊奈は思わず念を押した。黒崎はウイスキーのグラスを口もとにかかげたまま、ゆっくりうなずいた。
「伊奈さん、あんたには気の毒だが、奥さんが自分の意志で生命保険に入ったことはまちがいない。偶然だが、その外務員は、あんたの奥さんと初対面じゃなかったらしいんだ」
「前に会ってるのか?」
「あんたの奥さんが働いてたしのむらで会ったというんだ。その外務員がとび込みの勧誘でしのむらに行ったときにな。契約のときにいろいろ話してて、外務員はそのことを思い出したらしいんだ」
「それなら、女房が自分で保険に入ったことはまちがいないな」
「そういうことになる」
黒崎は、空になったグラスに、またウイスキーを注いだ。伊奈のグラスも空になっていた。二人とも飲むピッチが早い。黒崎は伊奈のグラスにも酒を注ごうとした。伊奈は片手で自分のグラスに蓋をした。
「ちょっとつきあってくれないか?」
伊奈は黒崎を見て言った。シャポーに出かけて行って、バーテンダーに杉江という男の人相を詳しく訊いてみようと思ったのだ。伊奈はそのことを黒崎に言った。
「さしあたり、やることは他にはないわけだもんな」
黒崎は言い、もう腰を上げていた。
新宿のシャポーに向う道々、伊奈は直子の遺品を調べてみたことと、保土ケ谷の中迫景子を訪ねたことを黒崎に話した。一ページめの冒頭に日付だけが一行書かれたままの白紙のノートの話を聞いたときだけ、黒崎の眼が光った。しかし、その日付が何を意味するものか、黒崎にもわかるはずがないのだった。
シャポーのバーテンダーは、伊奈の顔をもうすっかり覚えていた。ドアを押して入っていくと、バーテンダーはにこやかな笑顔を送ってよこした。
伊奈と黒崎は、並んでカウンターの席に着いた。二人は水割りを頼んだ。
「いつかの彼女、見つかりましたか?」
バーテンダーのほうから都合よく声をかけてきた。話のきっかけができたことを伊奈はよろこんだ。
「だめなんだよ。あれっきりさ。会えるかと思って新宿うろついてんだけどね、こうやってさ……」
伊奈は笑って言った。
「そりゃ残念ですねえ」
「杉江さんて眼のお医者さんを探せば、彼女に会えるかと思って、きのうはおれわざわざ小平まで行ったんだけどねえ」
「本気なんですね、お客さん、そこまでやるところみると」
「本気っていうか、逃げられたとなると意地になっちゃってさあ。小平まで行ったけど、杉江って眼科医はないんだよ、小平には」
「あれ? そうですか。杉江さん、たしかに小平で眼医者やってるって話してたんだけどなあ」
「いったい何の話なんだ」
黒崎がそしらぬふりをして口をはさんだ。黙って話を聞いているのもおかしい、と思ったらしい。
「つまんない話だよ」
伊奈も黒崎に調子を合わせて、酔ってハントした女に土壇場で逃げられたというふうに、おもしろおかしく話をした。
「杉江って眼の医者をおれも知ってるけど、まさかあの先生じゃないだろうなあ」
黒崎は真顔で言った。彼は芝居を少しだけ凝ったものにする考えと見えた。
「年は五十ぐらいで、痩せて背が高くて、頭がうすい人じゃないのか?」
黒崎はバーテンダーに言った。八王子の救急病院に、直子の死亡診断書を取りに現われた男とは似ても似つかない人相である。
「ちがいますねえ。うちに見えるお客さんの杉江さんは、もう六十近いと思いますよ。背はそんなに高くないんです。中肉中背かなあ。恰幅がよくて、いかにも医者って感じで品がいいんです。それに頭はうすくなんかないですよ」
「黒髪ふさふさかい?」
「いくらか白毛まじりなんだけど、ふさふさっていうか、こう、パーマかけたみたいにいつもきれいにヘアスタイルきめてる人なんですよ。おしゃれでしてね。メタルフレームのサングラスなんかかけちゃって」
「じゃあちがうなあ……」
黒崎は言って伊奈を見た。伊奈は黒崎の鮮かな聞き出し方に感服した。バーテンダーの説明した杉江の人相は、八王子の救急病院に直子の死亡診断書を取りに現われた男と酷似している。伊奈は胸が高鳴った。死亡診断書を取りに行ったのが、杉江という男なら、ロロからシャポーにおれを誘って酔わせた女も敵の一味と考えてよさそうだ――伊奈はそう考えた。彼は、巧妙に張られた敵の見えない網の一端に、はじめて触れた思いだった。
「おれが例の彼女とここに来てから後には、その杉江さんて人、来ない?」
伊奈はバーテンダーに訊いてみた。
「見えないですねえ。ここんとこ、二週間ぐらいごぶさたじゃないかなあ」
「前はよく来てたの?」
「週に一回ぐらいってとこですね」
「いつごろからのお客?」
「二、三ヵ月前からだったと思いますよ。いま残ってるボトルが、たしか二本目のキープだと思ったなあ……」
「あんた、あきらめなさいよ。逃げた女なんかどうだっていいじゃないの」
黒崎が茶化す口調で言った。伊奈は話を切り上げることにした。
3
「野郎、やっと尻尾を出しやがった……」
黒崎が車のスピードをゆるめて言った。
「ほんとに、やっと、て感じだな」
伊奈は助手席で合槌を打った。黒崎も伊奈も、眼はフロントガラスの先に投げている。
午前零時半になろうとしていた。道は暗い。湯島のラブホテルの並んだ場所である。ゆるい下り坂の先の方に、タクシーが停まっている。ドアが開いたが、客はまだ降りてこない。金を払うのに手間どっているのだろう。
「頼むぜ、支店長……。ホテルに入ってくれよな」
黒崎が笑いをふくんだ声で言った。
「あそこにタクシー停めて、ホテルに入らないという手はないだろう」
伊奈は膝の上のカメラを手につかんでいる。黒崎は車を停めようとはしない。
「写真撮るのは、奴らがホテルから出てくるときのほうがいいぜ。入っていくところじゃ後姿か横顔になっちまう」
「わかった。ここまでくればもう焦ることはないもんな」
伊奈は答えた。タクシーから男が降りてきた。つづいて女が降り立った。距離がある上に夜の道である。二人の顔までは車の中の伊奈には見えない。だが、男のほうが光洋銀行目黒支店の支店長、猪股義明であることは判っている。女のほうは何者か判らない。伊奈たちが知っているのは、その女が三十歳そこそこの、細面の美人ということだけである。伊奈と黒崎は、猪股と女が銀座の八丁目でタクシーに乗り込んだところから尾行してきたのだ。
タクシーに乗る前の二人が、銀座の並木通りのレストランで食事をし、その後でバーを二軒まわったことも、伊奈たちは知っている。
黒崎は一度ゆるめた車の速度をあげた。距離が詰まっていた。タクシーを降りた猪股は、まわりを見まわす仕種をした。女が降りてくるのを待って、猪股は先に立ってラブホテルの門に入っていった。女がつづいていく。
「やった……」
黒崎はまだ停っているタクシーの横を車で走りすぎながら言った。伊奈は黙ってうなずき、ホテルの玄関に消えていく猪股と女の後姿を見送った。
「うしろを見ててくれ。満室で断られて、奴らが出てこないとも限らないからな」
黒崎は言った。どこかで車の向きを変えて、猪股たちの入っていったホテルの門の近くに車を停める気でいるようすだった。
伊奈と黒崎が、猪股の身辺を探り、行動をマークしはじめて、五日目になっていた。
伊奈たちは、猪股の泣き所をつかむ必要に迫られていたのだ。三十歳ぐらいのやくざっぽい男が、伊奈の名をかたって、彼の名義で光洋銀行目黒支店に預金口座を設けたことは判っている。
口座が設けられた日はいつか。その口座に振込まれた直子の生命保険金は、すでに引き出されているのかどうか。そうしたことを伊奈たちは知りたかった。さらに、銀行の防犯カメラが、預金口座開設に現われた男の人相を、フィルムに収めているのではないか、という期待も伊奈たちにはあった。
それらをつかむために、黒崎が日東生命の上層部を通じて、光洋銀行目黒支店に手を回そうとしたのだが、これは実を結ばなかったのだ。銀行側は預金者のプライバシーを守るため、という建前を主張して、伊奈たちの知りたい事項を教えることを拒んだのである。警察の犯罪捜査権が発動されない限り、防犯カメラが撮影しているフィルムを見せることもできない、という銀行側の返事だった。
黒崎は半ばそういうことも予測していたらしい。銀行のガードの固さに失望したようすも見せずに、伊奈に言った。
「仕方ない。奥の手を使うだけだ」
なんでもない、といった言い方だった。黒崎の言う奥の手というのが、光洋銀行目黒支店の支店長、猪股義明の泣き所を探すことだった。
「人間、どこかに人に知られたくないことの一つぐらい抱えてるもんだよ」
黒崎はそう言った。だが、マークをはじめ、聞き込みや尾行を重ねても、猪股の身辺には胡散《うさん》くさい匂いはしなかった。猪股は大宮の建売りらしい家に、妻と二人の子供と一緒に住んでいた。尾行をはじめて四日間は、猪股は大宮の家と目黒の支店との間を往復するだけだった。
黒崎は昼間は車と猪股の尾行を伊奈に任せて、自分は猪股自身と彼の家族たちについての聞き込みに歩き回った。どこからも使えそうな材料は出てこなかった。
「いよいよとなったら、何か仕掛けるしかないな。女でも抱かせるか……」
あきらめ気味に黒崎が言ったのは、つい五時間余り前だった。そのとき伊奈と黒崎は、光洋銀行目黒支店の裏口近くに停めた車の中にいた。猪股が銀行の裏口に姿を現わしたのは、午後七時半ごろだった。伊奈はその後姿を見送って、尾行のために、黒崎の車から降りようとした。猪股がいつものとおり、駅まで歩き、電車に乗るものと思ったのだ。
猪股はしかし、銀行の前の道の角まで行くと足を停めた。タクシーを待つようすだった。伊奈と黒崎は思わず眼を見交した。尾行五日目にして初めて現れた変化だった。
猪股は案の定タクシーに乗り、銀座に向い、数寄屋橋の交差点で降り、並木通りのレストランに入って行ったのだ。伊奈は黒崎の車を降り、レストランの中をのぞきに行った。レストランは古いビルの二階にあった。伊奈はドアを押して中に入り、レジの台の前で人を探すふりをして店内を見回した。猪股は奥の壁ぎわの席で女とテーブルをはさんで向き合っていた。
いま、猪股はその女と湯島のラブホテルに入っている。黒崎はそのラブホテルの、小暗い明りをつけた門の近くに車を停めていた。伊奈は助手席の窓をいっぱいにおろして、いつでもカメラを向けられるようにしている。
猪股の相手の女の素性はまだ判らない。だが、女が猪股の妻でないことだけははっきりしている。妻子のある猪股にとって、相手の女とのことは、人に知られたくはないはずである。猪股を窮地に立たせるための材料としては、必ずしも一級品とは言えないが、使えないわけではない。伊奈と黒崎は、小さいながら、獲物をつかめたことに満足していた。
車を停めてから小一時間したころ、黒崎が低い声で言った。
「退屈しのぎに、詰まらない話を一つしようか……」
「なんだい?」
伊奈も小声を返した。
「いまごろ、あのホテルの中のどこかの部屋じゃ、猪股とあの女がベッドの上で、なんて思うと肚が立ってきたんだ」
「仕方がないだろう、そんなことで肚立てたって……」
伊奈は小さく笑って言った。
「ちがうんだ」
黒崎はホテルの門に眼を向けたまま、小さく首を振った。
「おれが肚を立てたのはそういうことじゃないんだ。警察手帳さえあれば、銀行の守秘義務なんてめじゃないのに、それがないばかりにラブホテルの前で張り込みやんなきゃならない。それが口惜しかったのさ」
「それも仕方ないよ。おれもあんたも、警察の手を借りるのがいやなんだから……」
「刑事としてのおれの最後の仕事も、ラブホテルの入口での張り込みだったんだ」
黒崎の声が、ふと沈んだものになっていた。彼は何かを思い出しているようすだった。
「張り込みの相手は指名手配中の強盗犯人で、そいつが女房とラブホテルに入ったという通報があったんだ。通報してきたのはその女房なんだ」
「よく通報してきたな、その女も……」
「妙な女でね、そいつが……。もっとも女なんておれにはみんな妙な生き物に思えるけどな」
黒崎は笑って言った。伊奈は直子のことを思った。自分が命を失うことを前提にした生命保険金詐取に、手を貸した直子――それも妙な生き物ゆえの仕業ということになるのか。伊奈はそう思ったのだ。
「指名手配がきまってから、おれはベテランの先輩刑事と組んで、ずっとその女房をマークしてたんだ。あれで三十にはもうなってたと思うけど、飲屋で働いてた。これがおれたちの前で平気で裸になって服を着替えたりするんだよ」
「色仕掛けで刑事をたらしこんで、強盗の彼氏を逃そうとしたんじゃないの?」
「おれたちもはじめはそうも思ったけど、逆だったんだな」
「逆とは?」
「強盗の彼氏とは夫婦の縁を切りたがってたんだ。子供はいなかったしな。だから警察には協力的だった」
「じゃあ裸見せるのは、よっぽど自信があったからだろう」
「要するに男の気を引くのが好きってタイプの女なんだろうな。よく言えば人が好くて淋しがり屋。だからつまんない男にひっかかって苦労する。見てるとちょっと哀れなところもある女だったな」
「で、その強盗はつかまったのか」
「強盗はつかまったが死んだよ。おれはその事件で刑事の仕事を棒に振った」
「どうして?」
伊奈は訊いた。黒崎は低く笑ってからことばをつづけた。
「犯人の女房の通報がガセかもしれないという心配があったんだ。二人がホテルに入っていくところは確認してないんだから。だから中に踏み込まずに、ホテルのまわりを固めて出てくるのを待つことになったんだ」
「それで?」
「夜だったけど、夜明け近くになって二人がホテルの玄関から出てきたんだ。そこで野郎はおれたちの張り込みに気づいたんだよ」
「うん……」
「張り込みに気づいただけじゃないんだ。野郎は女房が警察に通報したことにも、その場で気づきやがったのさ」
強盗はポケットから拳銃をつかみ出して、わめきはじめた。女房と刑事たちを罵ることばだった。女房は咄嗟に亭主のそばを離れて黒崎たちのほうに駈け出してきた。強盗がその背に向けて拳銃を上げた。黒崎は女房が撃たれると思った。黒崎の拳銃と強盗の拳銃が同時に火を噴いた。亭主と女房が同時に路上に倒れた。
強盗の射った弾丸は女房の腕に当って肉を大きく抉っていた。黒崎の射った弾丸は強盗の左の胸に入って留まっていた。黒崎は足を狙ったのだが、咄嗟だったために狙いがはずれたのだ。強盗は病院に運ばれる途中で死んだ。強盗の持っていた拳銃の弾倉は空っぽになっていた。
そうした状況で犯人を射殺したとあっては、世間が警察を非難しかねない。
「そこで現場の指揮をとってた課長が余計なことをしたんだよ」
黒崎は淡々とした口ぶりで話しつづけた。
「余計なことって、なんだい?」
「課長は、亭主のほうが先に射ったから、防衛のために刑事が発砲したんだと思わせようとして、女にいろいろその場で言ったんだよ」
「なるほど……」
「ところが女は課長の姑息な狙いを見抜いたんだ。それですっかり反感をもたれてしまった。警察は汚ないってわけさ。それをマスコミにしゃべりまくったんだ。どうにもならんよ。亭主は警察に殺されたって言うんだからな」
「自分も亭主に腕を撃たれて、しかも離婚しようと思ってた強盗犯人の亭主なのにか?」
「そこが女の妙なところさ。だが、警察もたしかに汚ないんだよ」
「課長が余計なことをしなければ、女を刺激せずにすんだかもしれないな」
「それもそうだが、事が表沙汰になったとたんに、おれ一人に責任を押しかぶせてケリをつけたんだ、上のほうは……」
「あんたの判断の誤りで犯人を射殺した、ということになったのか?」
「判断の誤りならまだいいよ。現場の指揮官の指令を無視して、おれが発砲したことになってしまったんだ」
「射つなという指令があったのか?」
「そんなものありゃしない。代りに、射てという指令もなかった。射てとも射つなとも言われないのに射ったから指令無視って理屈なんだ。女は女で、裸になって着替えしてるところに、わざとおれが入ってきたこともあったとか、いろんなことを週刊誌なんかにしゃべったんだ。おれは戒告処分になった。胸くそがわるいからこっちから辞めちまったってわけだよ」
「その女、亭主と別れようと思いながら、まだ未練があったのかねえ……」
「それもあっただろうし、自分が駈け出したために亭主が撃たれたという、後味のわるい気持もあっただろうな。それで全部を警察のせいにして、自分の気持の辻褄を合わせようとしたのかもしれないしな。人間て奴はそうしたもんだよ。みんな手前のことがいちばんかわいいんだ」
「あんた一人に責任を押しつけた警察の上役たちも同じことだな」
「人のことは言えないよ。おれたちだって何の関係もない猪股の首を、自分たちの都合のために絞めようとしてるんだからな」
「そりゃそうだ」
「気にすることはないぜ、伊奈さん。みんなそうやって牙をむき出して生きてんだ。世の中そうしたもんなんだから」
「なぐさめてくれてるのか?」
伊奈は笑って言った。
「だったら気持はうれしいが、その必要はないぜ、黒崎さん。おれは必要となればどんな汚ない手だって使う肚でいるんだ」
黒崎も笑ってうなずいた。
猪股と女が、ホテルの玄関に姿を見せたのは、午前三時近くになってからだった。猪股は女の肩を抱いて現われた。それはしかし、門までだった。門までくると猪股の腕は女の肩から離れた。その腕に今度は女が両手ですがるような恰好になり、二人は坂道をくだりはじめた。伊奈は車のシートに坐ったまま、そうした二人の姿を、赤外線フィルムの入ったカメラで何枚も撮りつづけた。
二人は坂をおりきったところでタクシーを停めた。乗り込んだのは女のほうだけだった。別々の車で帰るようすだった。伊奈も黒崎も躊躇しなかった。女の乗ったタクシーを、黒崎の運転する車が追った。住いを突きとめて、女の素性をつかむためだった。
4
一週間後に、伊奈と黒崎は猪股義明と面会した。
場所は光洋銀行目黒支店に近い鰻屋の二階の小座敷だった。時刻は午後一時である。
場所と時間を指定したのは猪股のほうだった。面会まで一週間かかったのは、伊奈の側の都合によっていた。伊奈と黒崎は、その一週間を費して、猪股の情事の相手の女の素性を調べたのだ。一週間という日数をかけたことは無駄ではなかった。小さいと思えた獲物は、意外な値打を持っていたのだ。
女の名は小磯秀子といった。年齢は見かけよりも進んでいて三十四歳だった。職業は小さなサラリーマン金融会社の社長である。
鰻屋での面会に先立って、伊奈はあらかじめ光洋銀行目黒支店に電話をして、猪股に会いたい旨を告げた。
はじめ猪股は電話口に出ようともせずに、交換係の女子行員に用件をたずねさせた。それは伊奈も予想していたことだった。相手は外部に対してはことのほか神経質な銀行の支店長である。用件も明示しない未知の人間に心やすく会うはずはなかった。伊奈は用件を訊かれて言った。
「クローバー商事の事業の運転資金のことで、ご相談申しあげたいことがあるんです」
クローバー商事というのは、小磯秀子が経営しているサラ金会社である。その名前が交換台から伝えられて、はじめて電話口に猪股自身が出た。交されたやりとりは短かった。
「おっしゃるのはどちらのクローバー商事さんでしょうか?」
猪股は名乗った後でそう言った。あきらかに平静を装おうとして、装いそこなった声であり、ことばつきであると感じられた。
「あなたと親密な間柄の小磯秀子さんが経営なさっているクローバー商事です」
「分りました。とにかくお目にかかりましょう……」
そう言って、猪股は鰻屋の場所と会う時間を口にしたのだった。
伊奈と黒崎が鰻屋の二階の小部屋に行くと、猪股はすでに来ていた。襖をあけて現われた二人を、猪股はあぐらをかいたまま迎えた。表情は固かった。
伊奈と黒崎は名乗った。猪股も名乗った。名刺は出さなかった。
「こういうものを持ってきました。名刺代わりと思ってください」
伊奈は封筒に入れたままの写真をテーブルの上に置き、猪股の前に押しやった。湯島のラブホテルの前で写した写真である。
「なんですか?」
猪股は封筒に眼を落して言った。
「とにかく中をごらんください」
黒崎が横から促した。猪股は封筒を手に取った。つかみあげるといったようすの荒っぽい動作だった。その手が写真をつまみ出して止まった。猪股は口を強く引き結んだまま、写真に見入った。声を出しそうになるのをやっとこらえた、といったようすだった。眉間に深い皺が刻まれ、頬がかすかにふるえていた。
店の女が鰻重と吸物と漬物ののった大きな盆をかかえて部屋に入ってきた。猪股は急いで写真をテーブルの上に伏せ、上に封筒を重ねて手で押えた。
「支店長さんもいろいろとお忙しそうですね」
黒崎がにこやかな顔で言った。猪股は口の中で曖昧な短いことばを呟いただけだった。
「小磯秀子さんのほうのことも、いろいろ調べさせてもらいました」
店の女が部屋を出ていくのを待って、伊奈は切り出した。
「光洋銀行目黒支店からのクローバー商事への融資総額は、現在までに一億円を超えているようですね」
猪股は口をつぐんだまま伊奈を見た。戸惑いと怯えと、それをはね返そうとするような挑戦的な表情とが、猪股の顔にめまぐるしく交錯した。
クローバー商事の経営内容についての調査は、黒崎の仕事仲間である興信所の調査員がやってくれた。企業の信用調査が専門の男だった。調査の結果は、クローバー商事の運転資金の大半が、光洋銀行目黒支店から融資されていることを示していた。
「われわれの調査では、光洋銀行はまるでサラ金会社クローバー商事の、陰の金主みたいに見えるんです」
「金主だなんてことはありません。単なる融資です」
猪股ははじめて口をきいた。声に力はなかった。
「むろん、融資にはちがいないでしょう。ただ、印象としては光洋銀行がクローバー商事のサラ金の仕事を大きく助けてるというふうに見える、といったまでです」
「印象といえば、不自然な印象もありますね、支店長さん……」
黒崎が言った。やはり笑顔のままである。
「なにが不自然なんですか?」
「クローバー商事は東銀座に店を置いている。社長の小磯秀子さんの住んでる場所は川崎の生田です。それがどうして光洋銀行の目黒支店と取引きがあるのか。おたがいどこと取引きしてもかまわないといえばそのとおりですが、不自然な印象は残りますよね、事情を知らない人間には……」
「事情が判ってみれば不自然でもなんでもないですがね。小磯秀子さんは九年前までは光洋銀行に勤めてて、ずっとあなたと同じ支店にいたわけですからね。そのころからあなたと小磯秀子さんは恋愛関係にあったわけですからね」
「しかも彼女は銀行を辞めて二年目にクローバー商事を設立している。それまでの二年間は銀座のクラブのホステスをしていたようですね」
「なにをおっしゃりたいんですか?」
猪股は押し殺した声で言った。
「お話を聞いてると、まるで私が小磯秀子の会社に私情をもって不正な融資でも行なっているかのようなおことばですが……」
「そういうことは言っちゃいません。ただ、印象としてはうまくないんじゃないですか、猪股さん……」
「うまくないねえ。これはうまくない」
黒崎のことばつきには、はやしたてるようなひびきがあった。
「銀行の支店長とサラ金会社の女社長とのただれた愛欲関係、その関係を背景にしたとしか思えない、都合一億円を超すくり返しの融資――総会屋がとびつきそうなネタですね」
「あなた方、総会屋ですか?」
猪股の顔がまた大きくひきつった。
「ご安心ください。ぼくらは総会屋じゃありません」
「あなた方の狙いは何なのですか?」
「猪股さんに、ちょっとだけルールというものを無視していただきたい――ぼくらのお願いはそれだけです」
「ルールを無視しろって、何のルールですか?」
「あなたの支店に設けられている、ある人物の名義の預金口座の元帳を見せていただきたいんです。それと、その預金口座を開きにきた人物の写真が防犯カメラに記録されてるはずですから、その写真も見せていただきたい」
「あなた方、日東生命さんの調査の仕事をしている人たちですか?」
猪股は伊奈と黒崎を交互に見やった。
「まあ、そういったところなんですがねえ」
黒崎が言った。曖昧な言い方だった。
「日東生命さんから前に一度ご依頼があったときも申しあげたんですが、警察の捜査権が発動されないのに、元帳や防犯カメラの写真をと言われても困るんです」
「ルールを無視してもらうのが、ぼくらの唯一つの猪股さんへの要求なんです。いいですか、要求ですよ」
「こっちにも事情があって、まだ警察沙汰にするわけにはいかないんですよ。それができれば、こんな回りくどい方法なんかとらないですむんですがね」
「何を調べていらっしゃるんですか?」
「一種の保険金詐取――それ以上は言えません」
黒崎はきっぱりと言った。猪股は吐息をもらした。
「猪股さんがルールをちょっとだけ忘れてくだされば、ぼくらもあなたと小磯秀子さんのことはすべて忘れます」
「約束してくれますね、ほんとに……」
「まちがいなく」
「約束が破られたら、私はあなた方を脅迫罪で告訴しますよ。小磯秀子との関係はたしかに私は人に知られたくはないが、しかしただの男と女の関係にすぎない。彼女の会社への融資だって公明正大なビジネスで、疚《やま》しいところなんかないんですから」
「分っています。ぼくらが約束を破ったら告訴でもなんでも、気のすむようにしてください」
「それで、ごらんになりたい口座の名義はなんというんですか?」
「伊奈です。伊奈厚……」
「伊奈厚さん……。その方は伊奈さんとは何か縁戚関係でもおありなんですか?」
猪股は不審気に言った。
「顔も知らない相手ですよ。おたくの支店に伊奈厚名義の預金口座が二つあるはずです。一つはぼく自身の口座です」
伊奈は言い、自分の口座番号を猪股に告げた。
「もう一つは伊奈さんの名前をかたって、別人が開いた8418375という番号の口座でね。ぼくらが知りたいのは、そっちの口座の設けられた日付や、いままでの金の出入の状況なんですよ」
黒崎が説明した。
「口座の元帳のほうはすぐに写しが見られますが、防犯カメラの写真のほうはちょっと時間がかかりますよ」
猪股は言い、防犯カメラについて説明をはじめた。
光洋銀行目黒支店には、カウンターと自動支払機とに向けて防犯カメラが五台設置されている。それぞれのカメラは完全自動操作で、五秒ごとに少しずつ角度《アングル》を変えながら、連続的にシャッターがきられる仕組みになっている。使用されるフィルムはマイクロフィルムで、撮影されたものは白黒のネガフィルムのまま保管されている。フィルムの一コマ一コマの下端に、撮影された月日、時刻などが刻印されている。時刻は分の単位まで特定できるようになっている。保管の方法も、何月何日の何時何分に撮影したものと指示すれば、その時刻に撮影されたフィルムが即座に取出せるようなシステムがとられている――。
「つまり、逆に言うと、必要な写真の撮影された時間が特定できない場合は探し出すのに時間がかかるわけです。たとえば何月何日の午後としか時間が特定できなければ、その日の午後三時の閉店までに撮影されたフィルムのすべてに眼を通さなきゃならないわけですよ。おまけにフィルムはマイクロでネガですから、たいへんな数を現像しなければなりません」
猪股は言った。
「時間の手間がかかるのは覚悟しています。ただ、ある程度は撮影時刻は特定できるでしょう。ぼくの名前で口座を開きに来た客と応対した窓口の行員さんの記憶やなにかで」
伊奈は勇み立っていた。
「とにかく店のほうに参りましょう」
猪股は席を立った。テーブルの上の鰻重に手をつけたのは、黒崎一人だった。
支店に着くと、猪股は伊奈と黒崎を二階の応接室に通した。
待つ間もなく、猪股が一枚の紙片を持って応接室に入ってきた。紙片は伊奈厚名義の預金口座の元簿の写しだった。コンピューターで印字されている。伊奈はテーブルに置かれたその紙片を喰い入るように見て唸った。
口座が開かれたのは昭和五十五年七月三日となっている。直子の死の二週間前である。口座が開かれたときの預金額は五千円だけだった。そして、直子の死後十二日目の昭和五十五年七月二十九日には、その口座に四千五百万円の振込みが行なわれている。振込主は日東生命である。二日後の七月三十一日には太平生命から六千万円の振込があり、さらに八月二日には菱和生命と東洋生命からそれぞれ五千万円ずつの入金が行なわれていた。
合計で二億五百万円である。振込まれた金はすでに全額が現金で引出されている。引出された日付は七月三十一日と八月の三日である。七月三十一日には、日東生命と太平生命からの振込み分が引出され、八月の三日には、菱和、東洋の二つの生命保険会社からの振込み分が引出されていた。
伊奈と黒崎は黙って眼を見交した。予測はしていたが、二億円余りの金額の動きを目のあたりにすると、伊奈はやはり唸りたくなる気持になった。黒崎も同じ気持だったのだろう。それが眼に現われていた。
「これだと、防犯カメラのフィルムを探し出すのも楽にいけそうですね、猪股さん。七月三十一日と八月の三日と、間をおかずに一億円という金が二回にわたって引き出されてるんだ。当然、自動支払機じゃなくて窓口で金は払われてるはずですね?」
伊奈は猪股に言った。猪股はうなずいた。
「支払いに当った窓口の行員が、およその時間をおぼえているだろうと思います。大口の支払いですからね。それに、預金の勧誘もしたでしょうから」
猪股は伊奈が言おうとしたことを察していた。
「日にちもまだそんなに過ぎちゃいないからなあ。今日が八月の十三日だから、二週間足らず前ってことになるわけだ」
黒崎が言い添えた。
「しばらく待っててください」
猪股はまた応接室を出ていった。もどってきたのは十分余り後だった。手には青い小さな封筒を持っていた。猪股は光洋銀行の名前のあるその封筒をテーブルに置いて言った。
「七月三十一日の場合も、八月三日の場合も、ともに閉店時刻の午後三時前後に、さっきの支払いは行なわれています。両方の日の午後二時四十分から、三時十分までに撮影されたフィルムがこの中に入っています」
猪股は眼でテーブルの上の封筒を指した。
「支払いに当った窓口の行員の話だと、二度とも三時ぎりぎりぐらいだったと言っておりますから、三十分の幅を考えればだいじょうぶでしょう。現像が終りましたらただちにフィルムをお返し願わないと困ります」
猪股は低い声で言った。伊奈はフィルムの入った封筒をつかんで立ち上がった。猪股に礼を言い、小磯秀子のことは忘れると、あらためて約束して、応接室を出た。
心は逸《はや》っていた。だが、フィルムに写っている敵の顔を眼にするまでには、まだ時間が必要だった。フィルムを現像して、引伸ばしてプリントし、さらにそれを支払いに当った銀行の窓口の行員に見せて、記憶を頼りに問題の人物を写真の束の中から探しだしてもらわなければならない。
現像は湯島のラブホテルの門の前で、猪股と小磯秀子を撮影した、赤外線フィルムの現像を頼んだ店に、また頼むことにした。そこは黒崎のよく知っている店だった。黒崎は調査の仕事で撮影した急ぎのフィルムの現像などをよく頼んでいるようすだった。
写真のプリントが出来上がったのは、つぎの日の朝だった。仕上がった写真の数は千枚を超えていた。カウンターに向けられた三台の防犯カメラが、三十分間にわたって五秒間隔で連続的に撮影したもののすべての量がそれだけである。
伊奈はDPE屋で黒崎と落ち合い、写真とネガを受取ると、黒崎の運転する車で、光洋銀行目黒支店に急いだ。
銀行は店を開けてまだ間がなかった。猪股は前の日と同じ二階の応接室に、伊奈と黒崎を通した。伊奈はネガフィルムを返し、支払いに当った窓口の行員に写真を見てもらいたい、と言った。
「いま係の者を呼びますが、その前にお願いがあります」
猪股は口ごもるような言い方をした。
「なんですか?」
「行員たちには、あなた方二人のことを刑事さんだと言ってあるんです。そのつもりでお願いしたいんです」
「分ってます」
伊奈の声には、かすかないらだちがこもっていた。彼は一刻も早く、写真に写っている敵の顔を見たい気持でいっぱいだったのだ。猪股は応接室を出て行った。それを待っていたように、黒崎が口を開いた。
「呼ばれてくる行員が、この前おれが聞き込みをかけた女の子だと、ちょいとやばいな。あのときはおれは刑事だなんて言わなかったからなあ」
「おれの名前で口座を開きにやってきた男の人相を教えてくれた女子行員かい?」
「ああ。やくざっぽい男だと言ってた……」
「かまやしないよ」
「女の子に嘘をつくのは辛くてな。ちょっとかわいい女の子だったんだ」
黒崎は軽口を叩いた。ほんとうに気にしているようすには見えなかった。それは伊奈にも判っていた。黒崎も保険金を詐取した男の顔がやがて写真で見られるということで、気持がはずんでいるのだ。それでそういう軽口を叩いてみせているのだ――伊奈はそう思った。
廊下に人の気配がして、応接室のドアが開いた。猪股が女の行員を二人連れて入ってきた。伊奈は黒崎を見やった。二人の女子行員を見ている黒崎の眼は無表情のままだった。どうやら二人の女子行員は、前に黒崎が話を聞いた相手とは別人らしい。
「ではプリントなさった写真を……」
猪股が促した。そのことばが終らないうちに、伊奈は紙袋を大きくふくらませている写真の束を、テーブルの上につかみ出していた。彼はソファに腰をおろした二人の行員に軽く頭をさげて言った。
「お願いします。相手の顔は覚えていらっしゃるでしょう?」
「お支払いした金額が大きかったし、そう古いことじゃありませんからよく覚えています」
「ちょっとくずれた印象の強い人でもありましたし……」
二人の行員は口々に言った。それから二人は写真の束に手を伸ばした。二人とも、写真に印字されている撮影時刻の午後三時に近いものから先に眼を通していった。つぎつぎに写真を識別していく二人の女子行員の眼に、迷いは見られなかった。それを伊奈は心強く思い、息を詰めて見守った。
五分とたたないうちに、一人の行員が顔を上げた。八月三日の撮影分の写真を調べていた行員だった。
「ありました。この人です」
行員は無造作に言って手にした写真を伊奈に渡した。横から黒崎が写真をのぞきこんできた。
カウンターに右肘を突いた男が、くわえたばこのまま、預金通帳と印鑑と伝票を窓口にさし出しているところが、鮮明に写されていた。伊奈ははじめて見る顔だった。三十歳前後と思われる、眉のくっきりした、眼の大きな男である。鼻すじも通っている。唇は薄い。髪は長いが、ごく平凡なヘアスタイルである。二枚目といっていい顔立ちである。背の高さは写真では判りにくい。
大きくはだけた白っぽいシャツの胸のところに、ペンダントと胸毛がのぞいている。シャツの襟を出して、やはり白っぽい縞柄の半袖のサハリジャケットのようなものを着ている。カウンターに置いた右の手首には、ブレスレットが光っている。顔の印象にも、ペンダントやブレスレットを身につけたあたりにも、たしかに遊び人といった感じがある。女子行員たちが、その男のことをよく覚えていたのは、払い出された金額の大きさのせいばかりではなさそうだった。
やがて、もう一人の行員も、同じ男の写っている写真を見つけ出した。伊奈は渡されたその写真を見て、思わず短いおどろきの声をあげた。
「どうしたんだ?」
黒崎が伊奈の声を聞き咎めた。
「なんでもない。ちょっとな……」
伊奈は曖昧に言って、すぐにおどろきを押し隠した。
写真にはペンダントに胸毛の男と並んで、女が一人写っていた。女の顔を見た一瞬、伊奈はそこに直子が写っている、と思ったのだ。それほど、女の顔は直子に酷似していた。別人とは思えないほどだった。
むろん、それが直子であるはずはないのだ。その写真が写されたのは、七月三十一日の午後二時四十八分という時刻である。直子はその日の十五日前に死んでいるのだ。そして、写真の女の顔立ちはたしかに直子と見ちがえるばかりだが、髪形はちがうし、着ている物も直子とは趣味がちがう。女は肩の吊紐のない、胸の大きく開いた、水着のようなシャツの上から、編目のあらいカーディガンをはおっている。
その女が、ペンダントの男の連れであることはまちがいがなかった。女はカウンターに向って男と並んで立ち、腕を男の腕にからめていたのだ。
「金を受取っているところは写っていませんか?」
黒崎が行員に訊いた。
「お金は額が大きいものですから、万一の事故を心配しまして、二回とも別室でお渡ししたんです」
行員は答えた。伊奈はそのやりとりを、うつけたような気分で耳に入れていた。写真に写っている女が、直子と見まがうばかりの酷似した顔立ちをしていることが、彼には大きなおどろきだった。双生児としか思いようがないほどそっくりなのである。
「この女は、八月三日に金を引き出しに来たときは、男と一緒じゃなかったですか?」
伊奈は女子行員の一人に訊いてみた。
「ご一緒でした。八月三日の写真にも写っているはずです」
行員は答えて、また写真の束を選り分けはじめた。
「この二人が写ってる写真を全部、選り出してください」
伊奈は言った。たちまち三十枚近い写真が伊奈と黒崎の前にそろえられた。写真の下に印されている撮影時刻が、二人の写真を選り出す手間を省くのに大きく役立っていた。伊奈と黒崎は、選り出された写真につぎつぎに眼を通して行った。
カウンターの前で写されているものは少なかった。カウンターのうしろの、ロビーの椅子に坐った二人が、並んで写っているものが多い。写されている角度は少しずつちがっていた。どの角度から写されたものも、女の顔は直子に瓜二つに見えた。髪形さえ似せれば、伊奈にも見分けはつきそうにない。
直子の命を保険金に替えた男の連れの女が、直子に生き写しの顔形を持っている――伊奈はそのことにこだわった。他人の空似といったような偶然の符合と考えてみても、どこかに不気味な感じが残るのだ。
伊奈は選り出された三十点近い写真を、カメラ屋でくれた紙袋に納めると、猪股と二人の行員に礼を言った。
「ちょっとおれのアパートまで一緒に来てくれ」
銀行を出るとすぐに、伊奈は黒崎に言った。黒崎は訝《いぶか》る顔になった。
「見てもらいたいものがあるんだ」
伊奈は言って、かまわずに駐車場の黒崎の車に向った。伊奈は黒崎に直子の写真を見せようと思ったのだ。むろん、銀行の防犯カメラが捉えた、直子そっくりの女の写真と見較べさせるためだった。
写真の女と直子が、瓜二つの顔をしているということを、黒崎にことばで明かすことが、なぜだか伊奈にはためらわれた。口が重くなっていた。
アパートは銀行からは遠くはなかった。部屋に黒崎を招き入れると、伊奈は押入からアルバムを取出した。黒崎は黙って伊奈のすることを見ていた。
伊奈はアルバムの中の直子の写真の横に、銀行の防犯カメラが捉えた女の写真を置いた。彼は無言のままだった。
「おい!」
黒崎は並んだ二つの写真に眼をやるなり、叫んだ。ことばはつづかない。黒崎も無言のまま、二人の女の何枚もの写真を、とっかえひっかえしてはつき合わせ、見くらべつづけた。
やがて黒崎は顔を上げて言った。
「奥さんには双生児《ふたご》の姉か妹はいなかったのか?」
「おれもこの写真の女を見て、すぐに双生児ということを考えたよ。だけどおれは女房が双生児の片割れだという話は、本人からも他の誰からも、一度だって聞いたことがない。だから面喰らってるんだ」
「どう見てもこれは双生児としか思えないぜ。他人の空似にしちゃ似すぎてるよ」
「双生児だとしたら?」
「何か事情があったのかもしれないな」
「事情? たとえば?」
「つまり、その双生児の姉妹の間にさ」
黒崎は何かを憚るような、まわりくどい言い方をした。
「遠慮はいらないから、考えてることをはっきり言ってくれ、黒崎さん。女房がおれに何か隠し事をしてたってことは、おれももう否定はしないよ。否定しようにも、事実ははっきりしてるんだからな」
「そうなんだ。あんたには気の毒だが、奥さんが承知で手を貸さなきゃ、この保険金詐取は成立たないんだ。で、保険金を詐取した側に奥さんそっくりの、双生児としか思えない女が付いている。二人が双生児だとすると、奥さんが保険金詐取に手を貸したことも、ありえないことじゃないと思えるだろう?」
「事情と言ったのはそのことか?」
「たとえば、双生児の片方がどうしても金を必要とする状況にあったとしようか。それに対してもう片方は、自分の命を捨ててでも金をこしらえてやらなきゃならない義理なり立場なりを抱えていた――そういうことだって考えられるだろう。そういう何かの、肉親であるがためのしがらみってものが、世の中には意外に多いもんだぜ」
伊奈は黙っていた。
「とにかく、奥さんに双生児の姉さんか妹さんがいたかどうかを調べる必要があるよ、伊奈さん。その結果によって、おれたちも的が絞りやすくなるかもしれないんだ」
「そうだな。難しいが、やってみよう。なにしろ女房には血縁の者が少なくてね。両親はもう死んでるし、親戚も少ないんだ。その少ない親戚の住んでる場所も名前も、おれは一人も知らない。女房が親戚づき合いをまったくやってなかったからな。東京にいたせいもあるんだろうが……」
「奥さんはいくつだった、齢は?」
「二十六歳だったよ」
「というと昭和二十九年生まれか。年寄りの古い昔の生い立ちを調べるわけじゃない。二十六年前に生れた人間のことを覚えてる人間はいっぱいいるよ。両親はいなくったって、親戚の居所がわからなくったって、育った土地にいけば近所の人とか、幼友達とか、学校の先生とかが、何かを知ってるだろうからな」
「そうだな。誰かが何かを知ってるだろう」
伊奈は半ばは自分に言い聞かせるような口調になっていた。残りの半分は、直子に向って言っていた。
伊奈の中で、直子はまた一つ、未知の人間と思いたくなるような影を濃くしていた。
四章 地図のない街
1
伊奈は午前六時にアパートを出て、羽田空港に向った。
長崎に行くためだった。急に必要に迫られてのことである。切符の予約はしていない。空席待ちの覚悟だった。
夏休みの最中である。おまけに盆休みと重なっていた。空港のターミナルはどこも人でごった返していた。
伊奈は幸運だった。午前九時三十分の便の空席を手に入れることができた。キャンセルした客があったのだ。
光洋銀行目黒支店で、防犯カメラが撮影した写真を手に入れてから、二日が過ぎていた。
その二日間、伊奈は東京にいて直子と交渉のあった者たちを訪ね歩いた。頭の中は、直子と瓜二つの顔を持った女のことで、重く塞がれていた。
二日の間に伊奈が会って話を聞いた人間は七人だけだった。直子の高校のときの友人が二人、直子が結婚前に長く住んでいた太子堂のアパートの管理人夫妻、渋谷の洋装店しのむらの店主と二人のお針子たちである。
それらの人たちに、直子があるとき、自分が双生児として生れたことをもらしているかもしれない、と伊奈は期待したのだった。
話を聞き出すのは易しくはなかった。事は直子も手を貸していると思われる、生命保険金詐取に関わっているのだ。単刀直入に質問をぶつけるわけにはいかなかった。考えた末に、伊奈は嘘を一つ用意した。冷夏で活気の出ない湘南海岸のようすを映したテレビニュースの画面で、直子に生き写しの顔の女を見た。気になってならない。とても他人の空似とは思えない。もし直子に双生児の姉か妹がいるのなら、その人に直子の死を知らせてやりたい――そういう嘘だった。
話を聞いた人たちは、申し合わせたように困惑の色を示した。中には怪談でも聞いたかのような表情を見せる者もいた。そして誰一人、直子から双生児の姉や妹の話を聞いたという者はいなかった。
伊奈はしかし、失望はしなかった。むしろ当然の結果だと考えた。伊奈は直子にとっては、一年で終ったとはいえ、結婚した相手である。その伊奈さえ聞かされたことのない話を、直子が他の人間にもらすことは、考えてみれば、まずないと見るべきだった。
残された途は、直子の生い立ちの跡をたどってみることしかなかった。直子は戸籍の上では一人っ子となっている。もし直子が双生児として生れていれば、もう一人の姉か妹のほうは、何かの事情から、出生と同時に他の家の籍に入れられた、としか考えられない。
直子の両親が死没している以上、そこらあたりの事情は、直子が生れた土地を訪ね、近くに住んでいた人たちに話を聞くしかなさそうだった。直子を取りあげた産科の医者か産婆に当ることができたら、いっそう事は明白になる。そう考えて、伊奈は長崎行きを思い立ったのだ。
直子の本籍地は、長崎市|本原《もとはら》町二丁目二七六番地となっている。戸籍謄本の記載では、直子はその場所で、昭和二十九年四月十一日に、堀切軍次、堀切妙子を父母として出生したことになっている。直子が小学校から高校まで、ずっと長崎市に住んでいたことも、伊奈は本人から聞いていた。それが本籍地の本原町二丁目二七六番地かどうかは判らない。いずれにしても、長崎に行けば何か手がかりはつかめるだろう、と思えた。
飛行機が長崎空港に着いたのは、午前十一時半だった。
東京の記録的と言われる涼しい夏にくらべて、長崎はさすがに暑かった。空港と長崎市を結ぶバスの便があった。伊奈はそのバスに乗った。長崎は伊奈にとってはじめての土地である。地図を頼りに歩くことになる。
地図で見ると、本原町は南北に細長く伸びている長崎市の、中心よりいくらか北に寄ったあたりに位置していた。バスの終点の国鉄長崎駅前からは、そう遠い場所ではなさそうである。
終点でバスを降りて、タクシーを使おう、と伊奈はきめた。タクシーの運転手に目的地の所番地を告げれば、近くまで連れていってくれるだろう、と考えたのだ。
本原二丁目という交差点の近くで、タクシーの運転手は車を停めた。
「この近くだと思うとですが……」
運転手は前を向いたまま言った。あとは自分で探せ、と言いたげな口ぶりだった。伊奈は車を降りた。
ゆるい坂の途中だった。本原町一帯は高台に位置していた。道の端から高く築かれた石垣の上に、家が建ち並んでいた。道の下にも段丘状に人家の屋根が並んでいる。伊奈は眼についた薬屋に入って行き、二七六番地の場所をたずねた。
直子の本籍地に当る場所は、その道からさらに横に伸びている坂道を登ったあたりと判った。
たずねあてた場所には、新しい二階建ての家が建っていた。ブロックの塀の上に、ピンクの夾竹桃の花が咲きこぼれていた。門には大竹富三という表札が出ていた。門は開いていた。伊奈は門を入った。突然、犬が吠えだした。姿は見えない。
伊奈は玄関の前に立って、ブザーのボタンを押した。家の中で犬を叱りつける女の声がした。その声が玄関に近づいてきて、ドアが開いた。顔を出したのは、三十半ばと見える女だった。肩と胸が大きく開いた服を着た女は、伊奈を見て曖昧な表情のまま目礼を送ってよこした。
「ちょっとお伺いしますが……」
伊奈は頭を下げてから言った。
「以前、この場所に住んでいらした、堀切さんのご家族のこと、何かご存じじゃありませんか?」
「堀切さん、ですか?」
女は首をかしげた。心当りのないようすだった。
「堀切軍次さんという方で、親子三人でこの場所に住んでいたようすなんですが……」
「あたしたちは二年前にここに家を建てて移ってきたんです。そのときはここは空地になってて、どなたも住んでおられませんでしたけど……」
「すると、ここの土地をお買いになって家を建てられたわけですか?」
「そうなんです。土地はこの下の道のバス停の前で米屋をなさってる梅元さんという方の持物だったんです。梅元さんにお訊きになったら判るんじゃないでしょうか」
女は言って、手の甲で額の薄い汗を拭うような仕種をした。女の腋があいて、毛の剃り跡がうっすらと青くのぞいた。伊奈は眩しい思いで、それを一瞬、眼に入れていた。
礼を言って、伊奈は玄関の前を離れた。犬はまだ吠えつづけていた。それを叱る女の声を背中に聞いて、伊奈はその家の門を出た。
梅元米穀店はすぐに判った。店の奥で四十恰好の男が、テレビの甲子園での高校野球の中継放送を見ていた。
「以前に、この上のおたくの土地に住んでおられた堀切さんのことでお伺いしたいんですが……」
伊奈は大声を出さねばならなかった。テレビの音は、店先にまで聞こえるほど大きかったのだ。
「堀切さん?」
男も大きな声を返してきた。
「そんげな人の住んどったやろうか?」
男は心もとない口ぶりで言った。
「昭和二十九年の四月ごろまでは、まちがいなく、この上の二七六番地に堀切軍次という人が、奥さんと女の子の赤ちゃんと一緒に住んでいらしたはずなんですが……」
「ちょっと待っとってください。じいさんば呼びますけん。あたしは長いこと他に住んどって覚えのなかですけんが……」
男は言い、テレビのボリュームをさげてから奥に声を投げた。テレビから、金属バットがボールを捉えた音と、スタンドの喚声が流れてきた。アナウンサーが、打球が風に乗って伸びている、と昂ぶった声で告げている。画像は伊奈の位置からは見えない。
ステテコにちぢみのシャツという姿の、小柄な老人が、店と奥の住まいとの仕切りのガラス障子を開けて現われた。
「じいちゃん、堀切軍次さんて人ば覚えとるね。この上のうちの土地に昔、住んどらした人げなばってん……」
店主らしい男が老人に言った。
「堀切さんなら知っとるばってん、もう死になったばい。六、七年も前に……」
老人はしっかりした口調で言った。伊奈は老人に向って、あらためて頭を下げた。
「ぼく、伊奈と言います。東京から来た者です」
伊奈は言い、ことばを切った。自分が堀切家のことをたずねる理由を、どう説明しようか、と考えたのだ。
「じつは、ぼくは堀切さんの娘さんと結婚してたんです。直子という女ですが……」
伊奈はそう言った。さしつかえのない限り、事実のままを話そうと思ったのだ。
「うん、直子さんていうたかな、娘さんのおらしたですたい。ほう、あんたが、あの娘さんと結婚ば……」
老人はあらためて、といったふうに伊奈を見やって、表情をゆるめた。
「ところが、その直子が一ヵ月ばかり前に交通事故にあって死んでしまったんです」
「ありゃりゃ……」
老人は大仰なおどろきの表情を見せた。
「直子にはご承知のように両親もいませんし、親戚も少なかったようなんです。ぼくは直子の親戚の人がどこに住んでるのかもろくに知らない始末でして、もし長崎に直子の親戚の人が住んでいるなら、訪ねて行って直子が死んだことを知らせようと思って、こちらに来たんです」
「そりゃまた、あんたもわざわざ叮嚀《ていねい》なことですたいなあ。ばってん、堀切さんの血筋の人がどこにおらすか、わたしもそりゃ知らんとですよ」
「直子の両親は、この上の二七六番地で亡くなったんですか?」
「堀切さんも奥さんも、死になったとは茂木《もぎ》のほうですたい。上の二七六番地にあの人たちの住んどらしたとは、そうねえ、昭和の三十五、六年ごろまでやったでしょう。そのころ堀切さんが商売に失敗しなったもんけんで、あの土地と家ば売り払うて借金ば返しなったとですたい」
「それで、土地はおたくがお買いになったわけですね」
「はい。堀切さんは夫婦して茂木の割烹料理の店に働くごとなって、向うに家ば借りて移らしたとですよ。堀切さんが板前でしたけん。板前の腕はよかったとですけど、店の経営は思うごといかんやったらしかですなあ」
老人は言った。伊奈は直子の父が自分と同じ料理人であったことは知っていた。はじめてそれを直子の口から聞かされたときは、一種の因縁めいたものを感じて、それがくすぐったくもあり、うれしくも感じたことを覚えている。だが、直子の父が、自分で料理の店を経営していて、それが失敗に終ったという話は、それまで知らずにいた。
直子の父が商売に失敗して茂木に移った昭和三十五、六年ごろといえば、直子が六、七歳の時分である。子供心にも、自分の家の転変といったものは判っていただろう。その後の折々にも、父親が商売に失敗して人に使われる身になったことなどを、直子が両親から聞かされなかったはずはない。それなのに直子は伊奈には、父が板前だったということしか話してはいないのだ。
それだけではなかった。直子はもともと、両親のことについては、いくらも伊奈に話してはいない。そのことに伊奈はあらためて気づかされた。伊奈が直子の両親について知っていることといえば、父親の板前という職業のことと、囲碁が強かったらしいということと、母親が体が丈夫でなかったということ、父親が肝硬変で死に、母親のほうは肺癌で命を落した、ということぐらいである。両親の人となりや、暮しぶりについては、直子はほとんど語ってはいないのだ。
考えてみれば、それはどこか尋常なことではない。両親のことについての直子の寡黙ぶりには、なにやら冷淡な感じさえつきまとっているようにも思えるのだ。
「直子の両親とは、親しくなさってたんですか?」
伊奈は老人にたずねた。
「まあ、親しゅうしとったほうでしょうな。堀切さんもあたしも、碁と釣には目のなかほうやったですけんが、気も合うとった。よか人やった、夫婦とも。人の好すぎて、店も失敗したとでしょうな」
「子供は直子だけだったようですね」
伊奈はさりげなく訊いた。かすかに胸の躍るのを覚えた。
「直子さんだけですたい。奥さんのずっと体の弱かったけんで、でけんやったとでしょうな。直子さんば貰い子しなったぐらいやから……」
「直子は貰い子だったんですか?」
伊奈はおどろいて言った。
「あんた、やっぱり知んならんやったとですか?」
「はじめて聞きます。直子もそんなことは言ってなかったし、戸籍の上でも堀切軍次と妙子夫婦の実子となってますから……」
老人は伊奈のことばにうなずいた。思案をする表情になっている。事情を明かすべきかどうか迷っているらしい。
「堀切さん夫婦も、直子さんも死になっとるとやけん、話してもよかろうたい。直子さんは、堀切さんの奥さんの妹さんの産みなった子供ですたい。なんでもその妹さんという人が父《てて》なし子ば産みなって、その子ば生まれるとすぐに、堀切さんが引き取った、というふうに、わたしは堀切さん本人から聞きましたですたい」
「直子はそのことを知ってたんでしょうか?」
「そこですたい、堀切さん夫婦もずっと気ばもんどらしたとは。ばってん、あんたにも話さんかったとこばみると、直子さんは自分が貰い子やったことは知らんままだったとでしょうなあ」
「直子を産んだ実の母親という人は、健在なんでしょうか?」
「どげんでしょうかなあ。博多のほうに住んどらしたそうばってん」
「博多ですか」
「はい。博多からわざわざ茂木まで何度か来て、直子さんの通うとる小学校の先生に、直子さんと会わせろと頼みこんできたという話ば、堀切さんはしとんなったですよ」
「どうしてまた学校の先生に頼んだんでしょうねえ。体裁の上ではその女の人は直子の叔母ということになるわけだから、会おうと思えば叔母として会えたでしょうに……」
「それが、直子さんば引き取ってから、堀切さん夫婦とは往き来を絶っとったらしかとですよ。堀切さんの奥さんが、姉妹づき合いを絶っとったふうでした」
「どうしてでしょう?」
「ようは判らんが、直子さんの実のお母さんという人は、あんまり身持のようなかったらしゅうて、水商売の世界に入って、しょっちゅう男が変って、借金も絶えんというふうな暮しばしとったもようでしたけん、姉さんとしてはその人ば寄せつけとうはなかったとかもしれんですなあ」
「直子に会わせてくれと頼まれた、茂木の小学校の先生の名前までは、ご存じじゃないでしょうね」
伊奈は期待を抱かずにたずねて見た。
「そりゃ知っとります」
老人は造作もなく答えた。
「いまは網場《あば》の小学校に転勤になっとります。今里勉という先生やけど、これがわたしの甥っ子に当りますもんですけん、よう知っとりますたい」
伊奈はその偶然をよろこんだ。
「それは好都合です」
「直子さんの担任が、わたしの甥っ子じゃということで、堀切さんもよろこんどらしたし、直子さんの生まれや生いたちのことば、わたしには隠さずに話してくれなったとでしょう」
「網場というのはどこなんでしょう?」
「長崎の街の東側になりますたい。バスでそうじゃのう三十分もかかるやろうか」
「学校の名前は網場小学校というんですか?」
「そうですたい」
「妙なことを伺いますが、直子は双生児で生まれたというような話をお聞きになったことはありませんか?」
「直子さんが双生児ってですか? そんげな話は聞いとらんですが、あの子は双生児だったとですか」
老人に問い返されて、伊奈は視線をはずした。
「いえ、双生児だったんじゃないかと思えるくらいに、よく似た人をテレビのニュースの画面でちらと見たことがあったもんですから、ひょっとしたらと思っておたずねしただけなんです」
伊奈は、東京で直子の知人たちについたのと同じ嘘をついた。
「そりゃ他人の空似じゃなかとでしょうか。直子さんが双生児だったとなら、何かの話のときに、堀切さんが話ばしとったやろう」
「でしょうね」
伊奈は言った。彼は自信ありげな老人の答に、失望も安堵も覚えなかった。
老人に訊くべきことは、他にはなさそうだった。伊奈は礼を言って米屋の店を出た。テレビの高校野球は、どうやら延長戦を迎えているようすだった。
2
バスは市街地を抜けて、山間の坂道を登りはじめた。
日見トンネルというところをくぐってからは、道はゆるやかな下り坂となった。右手の下のほうに、ときおり明るく光る海が見えかくれする。網場町というのは、その海辺の小さな町であることは、伊奈にも地図で見当がついていた。
やがてバスは国道をそれて、海に向っている下り坂の道を、ゆっくりと進んでいった。
直子が堀切夫妻の実子ではなく、貰い子だったという話が、伊奈の胸に、直子に対する新しい思いを誘っていた。
そのことを直子はあるいは知っていたのではないだろうか、と伊奈は考えた。
直子は自分が、戸籍上の両親の子供ではなく、実母は叔母にあたる人だということを知っていたにちがいない。そして、その実母の私生児として自分が生まれたということも、直子は知っていたのではないか。自分の出生にまつわるそうした暗い影のために、直子はことさら、両親や数少ない血縁の者たちに対する一種の冷淡さを守りつづけていたのではないだろうか――伊奈はそう考えた。そう考えれば、直子が両親について多くを語らなかったことも説明がつきそうである。
考えてみれば、直子が多くを語らなかったのは、両親や血縁の者たちについてだけではなかった。彼女は自分自身のことについても、語ることの少ない女だった。そういうところが、あるときは直子を控え目なおとなしい女に見せていたし、あるときは淋しげな翳のある女にも見せていた。
伊奈は直子のそういうところにも惹かれていた。だが、いまはそこのところの気持が微妙に揺れている。
自分自身のことについても多くを語らなかった直子を、伊奈はいま、心の隅で責めているのだ。直子が隠しごとをしていたことは、もはや疑いのないところである。そのために直子は命まで捨てている。そのことを思うと、伊奈には直子が、自分の知らない別の女のようにさえ思えてくるのだ。
また、遠くで海が光って伊奈の眼を射た。伊奈は眩しさに眼を細めた。伊奈はかすかなおののきに似たものを覚えた。おののきは、そうやって自分が、死んだ妻の過去に分け入っていくそのことから生れ出てくるもののように思えた。
バスは終点の網場町で停まった。伊奈は降りしなに運転手に網場小学校の場所をたずねた。
夏休み期間中の小学校は静まり返っていた。伊奈は陽射しの強い校庭を横切り、受付に行った。今里という教師は、受付からの連絡で玄関に姿を現わした。紺色のトレーニングパンツに、白いポロシャツを着た、四十半ばの男だった。
伊奈は突然の訪問を詫び、用件を手短かに伝えた。
「まあ、どうぞ……」
今里は自分で来客用のスリッパを出してくれて、伊奈を事務所の隣の応接室に案内した。
「夏休みでも先生方は毎日登校なさるんですか?」
白いカバーのかかったソファに腰をおろしながら、伊奈は言った。
「毎日でもないですが、いろいろと用があるもんですから……」
今里は訛《なまり》のあることばで答えた。それからあらためてといったふうに伊奈に眼を向けてきた。
「そうですか。直子君は死にましたか。短命な一家ですな、あの家は……」
今里のことばつきには、感慨といったものがこめられていた。
「直子君との結婚生活もそう長くはなかったでしょう?」
「ちょうど一年でした」
「あなたも気の毒に……」
「直子は東京でほとんど親戚づきあいをしてなかったので、ぼくは彼女の血縁の人には一度も会っていないんです。それで、もし親戚の所在でもわかったら、直子の死を知らせようと思ったり、彼女が生れ育った長崎の土地を訪ねたいという気持もあって、やってきたんですよ」
「あなた、直子君にとっては、やさしい、いい旦那さんだったんでしょうな」
今里はしんみりとした口調になっていた。
「実は先生の叔父さんに当られるという、本原町のお米屋のおじいさんに、いろいろお話を伺って、それで先生をお訪ねする気になったんです」
「そうでしたか。直子君は、一年生から四年生までわたしが受持った生徒だったんです。あの子の両親と、本原町の米屋のわたしの叔父とが懇意にしてたこともあって、あの子の家庭の事情はよく知っとりますけど、しかし、親戚の方がどこにおいでかということまでは、わたしも知らないんですよ」
「お米屋さんで伺ったんですが、直子は貰い子で、実の母が何度か茂木の小学校に、直子に会いたいと言って足をはこんできたそうですね?」
「そういうことがありました。二回ほどだったですかねえ。直子君に会いたいということではなかったですがね。ただ、担任のわたしにようすを聞きがてら、遠くから直子君を見るつもり、といったふうだったんです」
「その直子の実母というのは、いまはどうしてるか、ご存じないですか?」
「ずっと博多に住んでたんです。直子君が小学校を卒業するまでは、わたしと音信を交わしとったんですが、その後は絶えとります」
「先生は直子のようすを実母に伝えてやってらしたわけですか?」
「そういう約束をしたもんですから、学期ごとの成績とか、成育状況とかを書き送ってやってたんです。その代りに、学校には姿を見せないということで……」
伊奈はうなずいた。産んですぐに手ばなした自分の子供の姿を見たくて、博多から長崎の茂木まで足をはこんできていたという一人の女の気持を、伊奈は思ってみた。
「直子の実母は、直子を育てた母親とは姉妹だったそうですが、姉妹の仲はわるかったんですか?」
「そうのようでしたね。姉のところには敷居が高くていけない、とおっしゃってました」
「どんな人だったんでしょうか、直子の実母という人は?」
「わたしも二度会って話しただけで、後は手紙のやりとりだけのおつきあいに終ってるわけですから、よくは判りませんが、気持のやさしい、いい人だったようですよ」
「水商売の世界にいたらしいですね」
「博多でも、直子君を産んだ鹿児島時代にも水商売だったようですね」
「直子は鹿児島で生まれたんですか?」
伊奈はおどろいて言った。
「じつはぼくも郷里が鹿児島なんですよ。直子が鹿児島生まれだとは知らなかったなあ」
「それはおそらく、直子君自身も知らなかったんじゃないでしょうか……」
「そうでしょうね。生まれるとすぐに堀切の家に引取られて、実子として入籍されたようですから」
「どう言いますか、直子君は私生児として、しかも双生児で生まれたそうですからねえ」
伊奈は思わず、かがめていた背を起した。すぐには声は出なかった。眼をみはったような表情になっていた。
「双生児だったんですか……」
ややあって、伊奈は嘆息まじりにことばを吐いた。躍起になって知りたいと思っていた事柄は、苦もなく向うからころがりこんでくるようにして、明らかとなっていた。その呆気なさに、むしろ伊奈は戸惑った。
「直子君は双生児の妹ということだったようです。お姉さんのほうは、実のお母さんが育てているという話だったです」
「水商売で働いていて、双生児の私生児をかかえてたんじゃどうにもならないということで、直子のほうが堀切の家に引取られたんでしょうね」
「そんなところだったようですね」
「直子の実の母親の郷里が鹿児島だったんでしょうか?」
「いえ、郷里は長崎だということでした。佐世保だとおっしゃってましたな、たしか」
「それがどうしてまた鹿児島に行ったんでしょうか?」
「そのへんはわたしも詳しくは知りませんが、結婚するということで鹿児島のほうに移ったんだが、その結婚がまとまらずに、そのまま向うで働いてるうちに、鹿児島の市役所に勤めている男の人といい仲になって、それで直子君たちが生まれた、ということらしいんです」
「鹿児島の市役所の職員だったわけですか、直子の父は……」
伊奈はそのときも、軽いおどろきを覚えた。伊奈の父親も鹿児島市役所に死ぬまで勤めていたのだ。それは偶然の符合にすぎないと思いながら、直子の過去が意外に自分に近いところで動いていたのだ、という小さな感懐が、伊奈の胸に湧いていた。
「相手の男の人には奥さんも子供さんもいるというようなことで、どうにもならなかったようですな」
「直子は自分が双生児の一人だということや、貰われてきた子供だということを知ってたんでしょうか?」
「それはどうですかなあ。貰い子だということも、双生児だということも知らなかったんじゃないでしょうか。ご両親は自分の子供のように育てていらしたし、子供ができないご夫婦だったようですから……」
「実の母に会うか、事情を知ってる人から話を聞かない限り、すくなくとも双生児だということは、直子は知りようがなかったでしょうからね」
「そうですね。それに、直子君がそういう事情を知っていれば、ご主人のあなたに話しているはずですもの」
伊奈はうなずいた。直子は何も知らずにいた――そう考えるほうが、伊奈の気持は軽くなる。
「直子の実母が鹿児島で働いていた場所なんかは、お聞きになっていないでしょうね?」
「そこまでは……」
「なんとかして、その実母と双生児の姉のほうを探し出して、直子の死を伝えてやりたいと思うんですが、実母の博多の住所をお教え願えませんでしょうか」
「音信が絶えて十数年になりますから、前の場所にいるかどうか、わかりませんが、ちょっとお待ちください」
今里はソファから立ち上がると、応接室の入口近くの電話に歩み寄った。
「家内に昔の手紙を探させますから……」
今里はダイヤルを回しながら言った。
今里は電話で用件を伝えると、いったん電話を切ってソファにもどってきた。古い手紙を探すのに手間どることを見越してそうしたのだった。
電話が鳴ったのは十分余りしてからだった。今里はメモ用紙に、彼の妻が電話で伝えてくる直子の実母の博多の住所を、いちいち声に出して復唱しながら書き取っていた。
ソファにもどってきて、今里はメモをテーブルの上に置いて言った。
「いまもそこに住んでてくださるといいんですけどね」
「移っていたらいたで、この住所を手がかりに探してみますよ」
伊奈はいった。事実、そのつもりだった。手にとったメモには〈福岡市南区屋形原本町三二〇五番地、新光アパート諸住《もろずみ》清美〉とあった。
伊奈はそのメモを札入れの中に収めて立ち上がった。
今里は玄関の先まで伊奈を送って出てきた。伊奈は礼を言って靴をはいた。
小学校の校門のところでふり返ると、今里はまだ玄関の前に立っていた。伊奈はもう一度、無言のまま頭をさげて校門を出た。
伊奈は気持が急《せ》いていた。その日のうちに福岡に行こうと思っていたのだ。時刻は午後四時になろうとしていた。長崎駅からうまく長崎本線の特急に乗れれば、三時間たらずで博多に着く、と今里は言った。
伊奈は網場町のバス停に急いだ。バスは伊奈が乗るとすぐに発車した。
長崎駅で、伊奈は長崎発十九時十五分のかもめ十四号という列車の切符を手に入れることができた。
駅の隣のビルの地下に本屋を見つけて、伊奈は福岡市の地図を買い求めた。福岡市南区屋形原というのは、福岡市の南のはずれに当る土地だった。
3
博多駅に着いたのは、午後十時近くだった。
博多も伊奈にははじめての土地である。伊奈は駅の構内の公衆電話コーナーに行き、電話帳でビジネスホテルに片端から電話をかけた。中央区薬院というところにあるホテルに部屋がとれた。駅からいくらの距離でもないという。伊奈はタクシーでホテルに向った。
部屋に入り、共同の浴場でひと風呂浴びると、疲れがとれた。疲れなど感じてはいなかったのだが、汗を流し、浴衣に着替えてみると、なにがしか気分も変ってさっぱりした。そして、知らない土地を駈けめぐったことで、やはり緊張していたことをあらためて覚《さと》らされたのだ。
伊奈は浴場からの帰りに、廊下の自動販売機で缶ビールを買い込んだ。
それを飲みながら、東京の黒崎の住むアパートの部屋に電話をした。黒崎も部屋で独りでウイスキーを飲んでいるところだと言った。伊奈が長崎ではなく、福岡にいると知って、黒崎は意外そうな声を受話器に送ってきた。伊奈はその日、長崎で知り得たことをかいつまんで話した。
「やっぱり双生児だったんだな、奥さんは」
黒崎は軽く唸るような声を出した。
「銀行の防犯カメラに写っていた女は、まちがいなく、女房の双生児の姉だと思うんだ」
伊奈は言った。言いつつ、心は重いもので閉ざされていた。
「双生児の姉が男と組んで、妹の生命保険金を詐取したわけかね。それにあんたの奥さんも手を貸してるとなると、話はずいぶんややこしいことになるぜ。もし仮に、おれたちが考えてるように、あんたの奥さんが承知で死んだか、殺されたかしたとしたら、その姉さんて奴は、妹の命を金に替えたわけだもんな」
伊奈の胸を重くふさいでいることを、黒崎は率直にことばにしていた。
「とにかく、明日、屋形原というところに行ってみるよ。うまくすれば、諸住なんとかという双生児の片割れの消息がつかめるかもしれないからな」
「そいつの居所が判れば、ふんづかまえて吐かせて、事は一件落着ってことになるわけだがな」
黒崎の声も、なぜだか重かった。伊奈は自分が泊っているホテルの名前と電話番号を告げて、電話を切った。
伊奈はベッドの横の小さなテーブルに肘を突いて、ビールを飲んだ。すぐには眠れそうもなかった。
長崎で教師の今里と別れて以来、ずっと胸にわだかまっている思いが、まぎらしようもなく心を捉えてきた。
双生児の不倫の子を産んだ女がいる。女は姉のほうだけを手もとにおいて育て、妹のほうは自分の姉に引取ってもらった。彼女は姉に引取ってもらったわが子に会いたさに、長崎まで足をはこびもした。子供を托した姉とは義絶同然の仲になっていたらしい。
双生児の姉と妹は、たがいに自分に姉妹がいると知っていたかどうか、それも伊奈にはわからない。
だが、成長して東京に暮すようになった姉妹が、何らかの糸によってたぐり寄せられてめぐり合ったことはまちがいなさそうだ。それがいつのことだかは、伊奈にはやはり判らない。
双生児の姉妹は、たがいに異なる境遇の中で育って、やがてめぐり合った。そして、一人が自分の命に生命保険をかけ、命を捨て、一人はその保険金を不法な手段で手に入れている。
そうしたいきさつの裏に、どういう骨肉のドラマが秘められているのか、これまた伊奈には窺《うかが》いようのないことだった。ただ、双生児の姉とめぐり合ったことが、直子の運命を狂わせたのではないか、という推測は、伊奈の胸から消えずにいる。
直子が双生児の片割れの姉にめぐり合わなかったら、おそらくは命を失うこともなかっただろう、という伊奈の思いは、ほとんど確信に近かった。
直子はたしかに、伊奈に隠しごとをしていた。けれども、彼女が伊奈を愛し、幸せな結婚生活を望み、それが長くつづくことを願っていたことは、伊奈がいちばんよく知っていることである。
直子の隠しごとは、まちがいなく、双生児の姉とめぐり合ってからはじまったことにちがいないのだ。結婚する前から、直子が伊奈に明せない秘密を抱いていたとは、彼には思えないのだ。
そこまで考えて、伊奈はあることに思い当った。直子の遺品の中にあった、あの青い表紙のノートである。
ノートには第一ページに、昭和五五年三月七日という日付だけが記されてあって、後は白紙のままだったのだ。なまじ、新しいノートの第一ページの冒頭の行に、日付だけが書かれているために、その日付も、その後の見事と言いたいほどの空白も、ことさら意味ありげに思えてならない。
昭和五十五年三月七日という日に、直子はなんらかのいきさつの末に、双生児の片割れである姉にめぐり合ったのではないか、と伊奈は考えてみた。
自分にそういう姉のいることを、直子がそれまで知らなかったとすれば、そのめぐり会いは彼女にさまざまの思いを抱かせただろう。直子はそれをノートに書き記そうとした。だが、あふれかえる思いはかえってことばにはならず、ノートは日付を記しただけで、空白のまま捨ておかれた。――そういうことではないのか、と伊奈は思った。その年の三月七日の直子の行動を逐一洗ってみれば、双生児の姉に至る手がかりがつかめるかもしれない、という期待も湧いた。
眠りはゆるゆるとやってきて、浅く伊奈を押し包んだ。伊奈は直子の夢を見た。目覚めたときは、夢の内容はくずれ去っていて辿れなかった。直子がどこかの川の縁に立っている情景だけが、瞼の裏に残っていた。
つぎの朝、伊奈は九時にホテルを出た。バスで屋形原まで行った。いかにも郊外の町といった感じのところだった。
バスを降りて、三十分余り歩きまわった末に、伊奈は長崎で教師の今里に聞いてきた新光アパートを探しあてた。いささか古びたモルタルの二階建のアパートだった。ブロックの塀の切れ目が入口になっていて、そこに外についた階段の入口があった。並んだドアはどれも閉まっている。
伊奈は一階の端から順に、ドアの横の表札を見てまわった。外階段を上がって二階にも行った。どこにも諸住清美という名の表札は見当らなかった。
伊奈は半ばはそれを覚悟していた。失望は湧かなかった。諸住清美と教師の今里勉との音信が絶えてから十年余りが過ぎているのだ。ましてその間、諸住清美は結婚もしていないようすであった。水商売の世界で働きながら、双生児の姉のほうを育てていたはずである。そういう境遇の女が、一ヵ所に定住しないとしても、と思えた。
伊奈は階段を降りると、一階の手前の端のドアをノックした。返事があって、三十半ばの女が顔を出した。胸に赤ん坊を抱いたままだった。
「ちょっとおたずねしたいんですが……」
伊奈は表情を柔らげて言った。女は不愛想にうなずいたまま、伊奈を見ている。
「このアパートに、前に諸住清美さんという人が住んでたはずなんですが……」
「いつごろの話ですか?」
「十年ばかり前まではいたはずなんです」
女は不機嫌そうに眉を寄せた。
「十年も前のことは知りません。あたしたちはここに越してきて三年にしかならないんですから……」
女はドアをしめようとした。伊奈はあわてて訊いた。
「家主さんか管理人さんはどこにいらっしゃるんですか?」
「家主さんはお隣の家です。管理人はいませんよ」
女は言いすてるようにしてドアをしめた。伊奈は道に出た。隣にやはりいくらか古びたモルタル造りの二階建ての家があった。倉田という表札と、書道塾の看板とが、小さな門柱に、左右に分れてかけてあった。
伊奈は門を入り、玄関で声をかけた。ガラスのはまったアルミサッシの格子戸が開いて、甚兵衛姿の老人が姿を見せた。伊奈はていねいに頭をさげてから、用件を伝えた。
「諸住さんね。あの人はもう引越されました。もうだいぶん前です」
老人は訛のある標準語で言った。
「いつごろでしょう?」
伊奈は訊いた。老人はすぐには答えずに、曖昧な眼で伊奈を見た。伊奈の素性を詮索するようなようすだった。伊奈は簡単に事情を話し、自分にとって諸住清美が義理の母に当ることを説明した。
「伊奈さん、ですか、あなた、お若いのに奥さんを失くされて、お気の毒に」
老人は小さくうなずいて言った。ことばつきに、伊奈を訝る気配は消えていた。
「たしかに諸住さんは、公子《きみこ》ちゃんという娘さんと二人で、うちのアパートに長く住んどられました」
「公子という名だったんですね、その娘は」
「そうです。もういまは二十六、七になっとるはずですよ。あの娘さんが、あなたの亡くなられた奥さんの双生児の姉さんということになるわけですなあ」
「諸住親子はいつごろまで、お宅のアパートに住んでたんですか?」
「たしか、昭和四十八年の春ごろだったですよ、越していったのは。あたしが会社を定年になるのと前後しとったから、覚えとります」
「七年前ですか……。引越先は判りませんでしょうか?」
「ちょっと待ってくださいよ」
老人は布地ののれんをくぐって、玄関につづく廊下を奥に向って行った。家の中は静まりかえっている。
しばらくして老人はもどってきた。手に紙片を持っていた。老人は紙片に眼をやって言った。
「東区の箱崎のほうに移っとられますね。これが諸住さんが置いていかれた転居先のメモです。さいわいなくなりもせずに残っとりました」
老人は紙片を伊奈にさしだした。伊奈はそれを受けとって眼をやった。いくらか黄ばんだ便箋に、ボールペンの意外にしっかりした字が並んでいた。福岡市東区箱崎三―七二箱崎ハイツ五〇二号 諸住清美とある。
「マンションのようですね」
伊奈は言った。
「そういう話でしたな。諸住さんが引越されたのは、ちょうど娘さんが高校を卒業された年だったと思います。娘さんが東京のほうに就職して、暮し向きも楽になるから、マンションに越すんだというような話を諸住さんから聞きました。いま思い出しましたよ」
「やっぱり水商売をしてたんですか? 母親のほうは……」
「中洲のキャバレーに働いとんなさったようですよ」
「なんというキャバレーだったか、お聞きになってはおられませんか?」
「あれはたしか、青い城と言いましたな」
「どういう暮し方をしてたんでしょうか、親子は?」
「うん、まあ……」
老人はふと口ごもって眼を泳がせた。
「落着いた生活というふうにはいかなかったようですな。諸住さんは派手な商売だし、年ごろの娘さんはお父さんがいないということで……」
老人はそう言った。遠回しに何かをほのめかす、といった口ぶりだった。それだけで伊奈には、諸住清美と公子親子の生活ぶりが、なにがしか家主の老人の眉をひそめさせるようなものであったらしいことが窺えた。
「遠慮なさらないで、聞かせてください。諸住親子はぼくの義理の母、義理の姉に当りますが、一度も会ったことがないのですし、気持の上ではまだ他人のようなものですから」
伊奈は言った。
「別にこれといって、諸住さん親子が騒々しい生活をしとったというわけじゃありません。ただ、ご主人がいらっしゃらないということで、諸住さんもいろいろ心細かったり、淋しかったりするふうではありましたけどね。それに、娘さんがわりにませた人で……」
「母親のほうに好きな男の人でもいたんでしょうか?」
「実は、箱崎のマンションにあの人は、ある人から囲われることになった、という話を、同じアパートの者から聞いたことはあります」
「相手はどういう人ですか?」
「博多で電気関係の商売をやっとられる人だという話でしたが、それ以上のことはわたしも聞いとらんのです。そういうふうでしたから、公子ちゃんも、不良というわけじゃなかったんでしょうが、諸住さんに心配をかけとったようですな」
「公子という娘は、自分に双生児の妹がいるということを知ってたようすでしたか?」
「そういうことまでは、わたしには分りませんなあ。アパートの家主と入居者という以上の交渉が特にあったわけじゃないですからねえ……」
老人はかすかに困惑の色を見せていた。伊奈は引揚げることにした。
「この転居先のメモ、まだおいりようですか?」
「どうぞお持ちください。わたしのところに置いておいても、もう要ることはないでしょうから」
伊奈は礼を言って、玄関を出、格子戸をしめた。
その足で、伊奈はふたたびバスを乗り継いで、箱崎に向った。福岡市を南から東に斜めに移動する形になった。
箱崎ハイツはすぐに判った。九州大学の近くだった。比較的に新しい、こぢんまりとした五階建のマンションだった。
玄関のすぐ横に管理人室があった。小さな窓口があって、窓口の台の上にブザーボタンが固定されている。横に札が立っていた。札には外来者は管理人に訪問先を告げて入るように、といった意味のことが書かれてあった。伊奈はブザーを鳴らした。胸が重く躍っていた。
窓口の小さなガラスの扉が開いて、四十恰好の小肥りの女が顔をのぞかせた。
「五〇二号室の諸住さんの部屋に行きたいんですが……」
伊奈は小窓に向って体をかがめて言った。
「諸住さん?」
女は訝るように言った。伊奈はうなずいた。手には諸住清美が自分で書いた転居先のメモ書きを持っている。
「ここは箱崎ハイツですよ。五〇二号室には諸住さんなんて人はいませんが……」
言って、相手の女は口を開いたまま、うなずいた。すぐにことばをつづけた。
「諸住清美さんのことですか、あなたの言われるのは……」
「そうです。どこかに越されたんですか?」
「いいえ。亡くなられたんですよ」
「亡くなった……いつです?」
伊奈は虚を突かれた感じになった。
「もう、三年、いや四年前ですか。肝臓の病気で入院しとられたんですが……」
「そうですか……」
伊奈は拍子ぬけした声で言った。直子は育ての親につづいて、産みの親も失っていたのだ。そして直子当人もすでに此の世にはいない。伊奈は束の間、濃い影を目の前にしたような思いに打たれた。
「あなたは諸住さんとはどういうご関係の方ですか?」
中年の女は言った。声の調子がいくらか柔らかくなっていた。伊奈はそこでも、すでにすっかり口になじんだ自己紹介をくり返した。女の顔には好奇心が見え隠れした。
「きれいな方でしたけどねえ。そうですか、双生児のお子さんがおありだったんですか。じゃあ、いまはその双生児のお姉さんだけが残られたわけですね」
「そういうことになります。姉のほうは公子というんですが、ここに親子で住んだことはないんですね?」
「公子さんという方ですか。その方、二、三回は泊りがけで来られたことがありましたけど、東京のほうで働いておられるということで、ここには諸住さんだけで住んどられたんですよ」
「公子が葬式は出したんですか?」
「ええ、まあ……」
女はことばをにごした。
「諸住清美は、電気関係の商売をしてる男の人の世話になってたという話を聞いてるんですが……」
「知ってらしたんですか」
女は安堵したような顔を見せて言った。
「いい方だったんですよ、やさしくてね。諸住さんには、娘さんの他に身寄りがないということで、江口さんが病気の治療から葬式まで、ちゃんと手を回されてねえ……」
「江口さんという方ですか?」
「江口満利さんという方で、福岡の街に何軒か電気器具店を出していなさる方です。奥さんがまたご病身で、長年寝たり起きたりだということでした。諸住さんのことは、そんな事情で、奥さんも公認の上だったようですよ」
「じゃあ、このマンションの部屋代やなんかも、その江口さんという人が払ってたわけですか?」
「月のうち半分は江口さんもこっちにおいででしたから……」
「江口さんという方には、どこに行ったらお会いできますか?」
「本店か、ご自宅のほうに行かれたら、おいでだろうと思いますが……」
「場所わかりますか?」
「いまも変らないと思いますけど、本店は渡辺通り二丁目にありますよ。江口電気商会という大きな構えの店です。自宅はわたしは聞いとりませんが」
「ついでにうかがいますが、娘の公子のほうの東京の住所なり勤め先なりはわかりませんでしょうか?」
「さあ……。江口さんならご存じなんじゃないですか」
伊奈は箱崎ハイツを出た。
渡辺通りは、福岡の街の中心を、南北に伸びる形にある。伊奈は持ち歩いている地図でそれを確かめた。箱崎からはそれほど離れてはいない。伊奈は表通りに出てタクシーを停めた。
タクシーの中から、江口電気商会という大きな看板のある店が眼についた。伊奈は店の前でタクシーを降りた。
どうやら江口電気商会は、安売り商法の店と思えた。売っているのは乾電池からクーラー、テレビまで、家庭用の電気製品のことごとくであった。どの商品にも、赤い短冊形の値札がついていて、値引きした値段が勢いのよい大きな字で書かれていた。
伊奈は店先にいた店員らしい若い男に、社長に会いたい、と声をかけた。社長なら二階の奥の事務所にいる、と店員はぶっきらぼうな返事をした。
商品がところせましと並べられた店の右奥に、階段があった。二階も売場になっていて、オーディオセットやテレビなどが並べてあった。
その奥の細い通路を進んだ先に、事務所があった。伊奈はドアをノックして入り、誰へともなく、江口の名を告げた。額の大きくはげ上がった小柄な男が、窓ぎわのテーブルの向うで腰を浮かせた。訝るような眼で伊奈を見ている。伊奈は寄っていって頭をさげた。
「江口さんですか?」
「わたしが江口ですが、あなたは?」
江口は浮かしていた腰を椅子にもどした。
「伊奈と言います。亡くなられた諸住清美さんの娘に当る人と、結婚していた者です」
伊奈は声を押えて言った。江口は何も言わなかった。短い間、テーブルに両手を突いたまま、伊奈を見ていた。その眼に戸惑いの色が生まれていた。
「娘といいますと、公子さんのほうですかな?」
しばらくして江口はそう訊いた。
「公子の妹の直子のほうです。直子は一ヵ月前に、交通事故で急死しまして……」
「ほう……」
江口は立ちあがった。さほど広くない事務所の中には、十人余りの従業員たちがいた。彼らは江口と伊奈のやりとりに耳を傾けているようすではなかった。
「向うで話しましょう」
江口は小さく顎をしゃくって歩き出した。事務室はドア一枚で隣の小さな応接室につながっていた。安物のソファセットを置いただけの、形ばかりの応接室だった。
ソファに向き合ってから、伊奈はそこでも、直子の急死を縁者に知らせるために、東京からやってきたのだと話し、江口の存在を知ったいきさつも、手短かに説明した。江口が諸住清美の病気の治療から葬式の世話まで、手厚く心を配ってくれたことに、伊奈は礼を言った。面識もなく、名前を知って間もない諸住清美だったが、直子の実の母だと思えば、礼のことばにもそれなりの心はこもった。江口はそれを、どこかばつのわるそうな顔で聞き、曖昧な返事を返した。
「あなたもしかし、わざわざそのために九州までおいでになるとは、丁重なことですな」
江口は言った。ことばつきはいくらか固かった。四年前に別れた妾の娘の亭主と名乗る男が、だしぬけに現われたのだ。江口の戸惑いは無理もないというべきだった。
「直子が死んだことを、姉の公子に知らせてやりたいんですが、東京の住所をご存じじゃありませんか?」
伊奈はすぐに本題に入った。
「たしか、世田谷のほうに住んでるという話でしたけど、詳しくはわたしも知らんのですよ」
江口は血色のいい顔を小さく傾けて言った。
「世田谷のどこなんでしょうか?」
「世田谷の梅丘とかと言うとりましたな、たしか……。なにしろ母親あてに手紙一本、はがき一枚よこしたことのない娘でしたから、わたしもよくは知らんのですよ」
「公子は東京でどういう仕事をしてるんでしょうか?」
「二年ばかりは新宿の洋品店かなにかの店員をしとったらしいんだが、その後は喫茶店につとめてるという話でしたなあ」
「諸住清美にもう一人、直子という生まれてすぐに別れた娘がいるということは、江口さんもお聞きになってたんですね?」
「一度、清美にそういう打明け話を聞いたことはありますが、聞いたのはそのときだけです」
「公子のほうは、直子という双生児の妹がいることを知ってたんでしょうか?」
「知っとったようです」
「母親から聞かされたんでしょうか?」
「偶然に事情を知ったらしいんです。清美は隠しておきたかったらしいが……」
「どうしてまた、偶然に判ったんですか?」
「あなた、知っとられるかどうか分らんが、清美は若いときに鹿児島で暮しとったらしいんです」
「知ってます。直子と公子は鹿児島で生まれたんだそうですね」
「その鹿児島時代の清美の友だちが、旅行のついでに清美をたずねて来たことがあったらしいんですな。あれがまだ屋形原のほうに住んどるころらしいが……」
「一緒に鹿児島で働いてた仲間かなんかですか、その人は?」
「鹿児島市の天文館の五番館という古くからあるキャバレーで清美は働いとったらしいんですが、そのときのホステス仲間で、いまはやっぱり天文館で小さなバーのママになっとるらしいですな」
「なんという店ですか?」
「店の名まではわたしも聞いとりませんが、この人が、気は好いんだがおしゃべりで、屋形原にあそびに来たとき、その、直子さんという娘のことを話題にしたらしいんですよ、公子ちゃんのおる前で」
「なるほど……」
「直子ちゃんはどうしてるか、というふうな世間話程度のことだったらしいんですがね」
「公子の反応はどうだったんでしょうか?」
「それはどうだったか、わたしも聞いちゃおりませんが、やっぱり複雑な気持だったんじゃないですかねえ」
「公子というのは、どんな性格の娘でしたか? 江口さんがごらんになって……」
「えらい無口な娘でしてね。わたしもしょっちゅう顔を合わしとったわけじゃないから、よくは分らんが、何を考えとるのかわからんところもあったですね。無口じゃが、肝《きも》の太い子じゃったようです」
「どんなふうに肝が太かったんですか?」
「どんなふうかはわたしもよう知らんのですが、母親がそういうふうに言うとりました」
江口と公子とは、さほど深い接触はなかったのだろう。公子のこととなると、江口のことばつきは曖昧になった。
「その鹿児島の天文館でバーをやっとるという女の人の住所はわかりませんか?」
「さあ。わたしは聞いたことがありませんので……」
江口は首をかしげて見せた。
伊奈は礼を言ってソファから腰を上げた。
五章 炎と闇
1
時刻は午後二時半になっていた。
江口電気商会を出て、伊奈は近くのラーメン屋に入った。
タクシーでホテルに帰るつもりでいたが、空車がつかまらなかったのだ。待っている間に空腹を覚えた。昼食の時間はとっくに過ぎていたのだ。
伊奈はいまは仕事を離れているが、本職はコックである。喰べることについては格別の関心を持っている。特に旅先では、珍しいものを漁って喰べたがるほうである。だが、いまの伊奈にはそうした心のゆとりはなかった。江口電気商会を出て、すぐに眼についたラーメン屋に、彼はとびこんだのだ。
大きなカウンターと椅子席が一列だけの店だった。他に二階もあるらしい。店はさほど混んではいなかった。伊奈は奥の椅子の席があいているのを見つけて、そこに坐った。カウンターの席にいた三人連れが、立ち上がって店を出ていった。入れ替りに若い女が一人、店に入ってきた。
何気なく上げた伊奈の視線が、その女の横顔にはりついた。伊奈は引き結んだ唇に力をこめた。危うく声をあげるところだった。女は伊奈の視線に気づいてはいない。空いたばかりのカウンターの席にまっすぐ進んで、そこに腰をおろした。伊奈は女の顔を検《あらた》める眼で見つづけていた。
忘れられる顔ではない。女は二週間ばかり前に、伊奈の気を引いて、新宿のシャポーという酒場に誘い込んだ相手にちがいないと思えた。シャポーで女は杉江と名乗る正体不明の男のボトルを出させて、伊奈に飲ませた。そのまま途中で女は姿を消し、伊奈は泥酔してアパートに帰り、眠り込んでいるところをガスで殺されかけたのだった。
カウンターの席で横顔を見せている女は、あのときの女と寸分ちがわぬ顔つき、体つきをしている。が、伊奈は昂ぶってくる気持を押えた。別人かもしれないという、かすかな疑念もあった。新宿にいた女が、福岡に現れたこと、それも伊奈が入ったのと同じラーメン屋にとび込んできたことが、いかにもできすぎた偶然に思えた。
伊奈ははこばれてきたラーメンをすすった。物の味はしなかった。箸が機械的に麺をつまんで口にはこぶことをくり返した。丼が空っぽになるまでの間に、伊奈の心は決まっていた。できすぎかもしれないが、伊奈はその偶然を信じることにした。
伊奈は店を出た。女はまだ丼の上に顔を伏せてラーメンをすすっていた。伊奈は店の入口近くに立って、女が出てくるのを待った。
十分ほどして、女は入口の扉をあけ、のれんをくぐるようにして出てきた。伊奈は正面から女の顔を眼にした。人ちがいではない、と彼は確信した。女は伊奈には眼もくれずに歩いていく。伊奈は追った。声をかけようとして、伊奈は喉まで出かかったことばを呑み込んだ。女は数メートル先の角を曲がって、そこに停めてあった車の横で足を停めた。バッグからキーを出して、車のドアの鍵穴にさし込んだ。伊奈は車のナンバーから、それがレンタカーであることを知った。
伊奈は足を早めて、女の背後に近づいた。女はちょうど車のドアを開けたところだった。気配を感じたのだろう。女はゆっくりと伊奈をふりむいた。伊奈は女の横に立ったまま、無言で相手の顔に眼を据えていた。女も口をつぐんでいる。沈黙は数秒だった。
「あら……」
女は言った。ぎごちなく表情がゆるんだ。
「いつか、新宿で会ったわよね、たしか」
意外にも女のほうから言った。伊奈は答えなかった。女は手に車のキーを持っていた。伊奈は女の手から車のキーを引ったくるようにして取った。女が小さく眉を寄せた。伊奈はかまわず女の肩を押して車の中に押し込むようにした。
「なにするの……」`
女は固い声を出した。伊奈も急いで車に乗り込んだ。ドアをしめた。女は助手席のドアに肩を押しつけるようにして、咎めるような眼で伊奈を見ている。伊奈は女の視線をはずして車を出した。
「どこに行こうっていうの?」
「訊きたいことがある。つきあってもらうぜ」
「いいけど、何を訊きたいの?」
「とぼけるなよ。おれが何を訊きたいか、わかってるはずだぜ」
「どういう意味? それ……」
女は怒った口ぶりになっていた。伊奈は黙りこんだ。どんなことをしてでも、女に口を割らせなければ、とそのことだけを彼は考えていた。
「こわいわ。あなた、何か思いちがいをしてるんじゃないの?」
しばらくして女が言った。伊奈は聞き流した。行先を思案していた。人の目のないところが望ましい。薬院のビジネスホテルの部屋を考えた。だが、部屋に連れ込むまで、女が騒ぎ出さずにいてくれるとは限らない。車庫と部屋がひとつになっているようなモーテルはないか、と伊奈は考えたが、地理不案内である。
「福岡の地理に詳しいんだろ? レンタカーを一人で借りてるくらいだから」
伊奈は女に言った。
「ある程度は判るわ。父の転勤で高校はこっちを出たから」
ふてくされた声が返ってきた。
「モーテルかラブホテルのあるところ、知ってるだろう」
「そこに行こうっていうわけ?」
「いやとは言わせないぞ」
「強引ね。誘うんなら、もっと他にやり方があるでしょう。おっかない顔して、へんなこと言うことはないと思うわ。おかしな人」
女はすねた口調で言った。声にかすかな甘いひびきがこもっていた。伊奈は女に短い視線を送った。女は笑った眼で伊奈をにらんでいた。相手がしたたかにとぼけているのか、ほんとうに心に疚しいものを持たずにいるのか、伊奈は一瞬、判断に迷った。それほど女のようすは落着いていた。
だが、伊奈には女が事件と関係のない相手とは思えない。女は現に、眼科医を自称する杉江という男と関わりがあるのだ。そして杉江は、八王子市の救急病院に、直子の生命保険金の請求に必要な、死亡診断書を取りに現われた男と、人相や風体が酷似しているのだ。自分の考えが早合点かどうか、伊奈はじっくりと糺《ただ》すつもりでいた。
「国道二〇二号線を東唐津のほうに行ったら、あなたの行きたがってるようなホテルがあるはずよ」
女は間をおいて言った。拒んだり逆らったりするようすはない。そこが伊奈には都合はよかったが、不気味でもあった。何か底があるのかもしれないという気もした。女が直子の生命保険金を詐取した一味ならば、あっさりモーテルのある場所を教えるのは、裏がある証拠と思えた。逆に、あっけらかんとした女の態度は、彼女が事件のことはなにひとつ知らず、ただ旅先での行きずりの情事をたのしみたいだけという気持の現われとも思えた。
だが、やはり伊奈には、女が杉江と知りあいであることや、二週間前に彼女がシャポーに誘って泥酔に導いたことが、単なる偶然とは思えなかった。
伊奈は黙りこくったまま、標識を頼りに車を走らせた。女も口をきかない。妙な具合だった。落着きを失っているのは伊奈のほうだった。
程なくして郊外に出た。モーテルの看板がいくつも眼についた。車からそのままお部屋へ――という謳い文句を入れた看板もあった。伊奈は行先をそこに決めた。生《いく》の松原というところにそれはあるらしい。
道の左手に松林を眺めて走った。松林の中に折れたところにモーテルの入口があった。門を入ったところに守衛室のようなところがあった。カーテンのさがった小窓がある。伊奈は窓ごしに部屋の鍵を受け取った。ガレージに車を乗り入れると、入口のシャッターが自動的におりて閉まった。粗《あら》い格子状のシャッターだった。
伊奈はエンジンを停め、車のキーを抜いた。女はシートに深く体を埋めて、まっすぐ前を見ている。伊奈は車を降りた。女は伊奈を見て、声を出さずに笑った。眼が揺れていた。すぐに女は笑いを消し、助手席のドアを開けて降りた。伊奈は顎をしゃくって、女を促した。ガレージの奥の隅に低い階段がある。階段を上がったところが、部屋の入口と見えた。女はゆっくりと階段を上がった。ドアの前で足を停め、ノブに手をかけた。鍵がかかっているようすだった。女は伊奈をふり向き、片手をさし出した。伊奈は女の手の上に部屋の鍵を落した。女は鍵をあけ、壁のスイッチを押して明りをつけてから、部屋に入った。伊奈もつづいた。伊奈はうしろ手にドアを閉め、ロックをした。女は奥に行き、ベッドをはずませて腰をおろした。丸いベッドだった。枕元から壁伝いに、丈の低い鏡がはりめぐらせてある。ベッドの裾のほうに浴室があった。浴室と部屋の境の仕切りは、素どおしのガラスの壁になっていた。
「お風呂に入るでしょう?」
女が言った。伊奈は黙って女の顔を立ったまま眺めた。相手をどう扱っていいのか判らなかった。相手は売春婦のように場馴れしたふうにも見えたし、ただのあそび好きの素人にも思えた。伊奈が答えないのを見ると、女はベッドから離れて、浴室に入っていった。伊奈は女の姿を眼で追った。彼女は浴槽の縁に手を突いて、蛇口をひねり、湯加減を見ている。大きくあいたコバルトブルーのタンクトップの胸もとに、乳房の谷間がのぞいていた。伊奈の体の奥に揺れ動くものが芽生えていた。彼はそれを制することはできそうもなかった。直子を失って一ヵ月が過ぎている。その間、伊奈は女に触れていない。
女が部屋にもどってきた。ベッドの端に腰をおろし、バッグをあけてたばこを取り出した。伊奈は壁ぎわの椅子に腰をおろした。
「福岡に何しに来た?」
伊奈もたばこに火をつけて言った。
「あそびよ。高校のときの友だちに誘われて、三日前に来たの。あなたは?」
「杉江という男は何者だい」
「杉江? 誰のこと、それ?」
「とぼけるなよ。新宿のシャポーであんたと飲んだ酒は杉江のもんだろう?」
「ああ、あの人」
言って女は笑った。わざとらしい笑い方だった。やっと思い当ったというふうに見せかけたかったらしいが、下手な芝居だった。伊奈ははじめて手応えを感じた。彼は唇をゆるめて笑った。
「あのプレイボーイのおじんのことね。そういえばあの人、杉江さんといったわね」
女は下手な芝居を重ねた。
「あの人、お医者さんだって言ってたわ、眼科の……」
「小平で開業してるっていうんだろう?」
「よく知ってるわね」
「小平には杉江なんて眼科の病院はないんだよ。妙な話だな。調べたんだ、おれは」
「あら、そう。あたしは小平で眼医者やってるって、あの人から聞いたわよ」
「杉江とはどういう関係なんだ、あんた?」
「どういうって、新宿のスナックで知り合って、一度だけホテルに一緒に行ったわ」
「あんた、そういう商売してんのか?」
「失礼ね。商売なんかで行ったんじゃないわ。あそびよ。あなたとここにこうして来たのと同じことだわ」
「ほんとの商売はなんなんだい?」
「ただのOLよ。ちょっと不良だけど……」
「名前は?」
「内田よ。内田久美……」
伊奈は椅子から立ちあがった。女に寄っていった。女はうっすらと笑った。口もとはかすかにこわばっていた。伊奈はたばこを指にはさんだ手で、女の頭を撫でた。片手は女の膝の横のバッグをつかんでいた。伊奈はもうためらいを捨てていた。片手でバッグの口金を開けた。そのままバッグを高くかかげ、逆さまにして振った。中身が床とベッドの上に散った。
「何するのよ!」
女はとがった声で叫んだ。立ち上がろうとした。伊奈は女の髪をつかんで引き据えた。指にはさんだたばこの火で、女の髪がすこしだけ焼けた。女は上目づかいに伊奈をにらんでいる。伊奈はベッドの端で落ちかかっている運転免許証を拾い上げた。
「内野久美子。昭和三十三年六月九日生まれ……」
伊奈は免許証にあった氏名と生年月日を、声を出して読みあげた。
「行きずりの男の人とこうなるときに、本当の名前なんか言うつもりはないのよ、あたしは」
女は言った。ふてくされたことばつきだった。
「うまい言い逃れだな。嘘の名前を言ったことはそれでいいとしよう。だが、おれが杉江のことを調べたと言ったのに、そのことについてはおまえ、なにひとつたずねなかったな。おれが杉江の名前を知ってることを不思議に思わないってのは、どういうわけだ?」
伊奈はことばつきを変えていた。
「だって、あんたが誰を知ってようと、誰のことを調べようと、あたしには関係ないんだもん」
内野久美子は眼をそむけて言った。それが言い抜けのことばであることは見えすいていた。
「着てるもの、脱げよ」
伊奈は内野久美子の髪を放してだしぬけに言った。
「どうする気?」
「風呂に入るんだろう? 湯があふれそうになってるぜ」
伊奈はガラスの壁の向うに見える湯舟に眼をやった。事実、湯は湯舟の縁を越そうとしていた。
「なんだか、気乗りしなくなったわ。あんた何が目的であたしをこんなところに誘ったのよ?」
「おまえが誰に頼まれて、おれをシャポーに誘ってベロベロに酔わせたか、それを知るためだよ」
「誰にも頼まれてなんかいないわよ」
久美子は強い口調で言った。だが、伊奈がどうしてそういうことをたずねるのか、訊こうとはしない。伊奈は内野久美子が敵の一味であることをもう疑ってはいなかった。
「シャポーにおれを誘ったのは、ただのプレイのつもりだったって言うのか?」
「そうよ」
「ならいい。いいから脱げよ。風呂に入ろうぜ」
「へんな人……。いったいなんだって言うのよ」
久美子は言い、ベッドに腰をおろしたまま、タンクトップを脱ぎ、ブラジャーをはずした。
「おまえとシャポーに行って、助平心出して飲んでるうちに、おまえは消えた。おれはベロベロに酔っぱらって家に帰って、危なく死ぬところだった。ガスを吸ってな」
「それとあたしと関係あるっていうの?」
「ないっていうのか?」
「冗談じゃないわ。それで、警察に届けたの? そのこと……」
「警察ねえ……」
伊奈は言って低い声で笑った。内野久美子はパンティ一枚の姿になっていた。伊奈は両手をあげて彼女の乳房に手をあてた。量感のある乳房だった。伊奈の手が乳房を包みこんだ。その手に伊奈は不意に強い力をこめた。内野久美子は呻いた。苦痛のために身をよじった。乳房は伊奈の五本の指の間からあふれるように盛り上がり、形を歪めた。
「どうしてそこに警察が出てくるんだい? おれはガスを吸って死ぬところだと言っただけだぜ。ガスを吸わされて殺されかけたとは言わなかった。だが、おまえは警察に届けたのかと訊いた。おれがガスで殺されかけたことを知ってなきゃ、そんなところに警察が出てくるはずはないな」
「放して、お乳……」
久美子は喉を詰まらせて言った。
「おれをベロベロに酔わせろとおまえに言いつけたのは、杉江か?」
久美子はあっさりとうなずいた。伊奈は久美子を突きとばした。久美子はベッドの上に脚をはねあげて仰向けに倒れた。パンティがずれて、端からヘアがのぞいた。久美子はそれを隠そうともしない。重々しく揺れる乳房には、伊奈の指の跡がついていた。
伊奈の胸の底に熱く黒い炎のようなものが生まれていた。
「安心しろよ。警察には届けちゃいない。なぜだか分るか?」
内野久美子は答えない。倒れたまま顔をそむけている。ふてぶてしいようすに見えた。
「おれはおれを殺そうとした奴を、自分の手でふんづかまえて、仕返しする気でいるからな。殺しを手伝った奴にも礼をする」
伊奈は久美子のパンティに両手をかけた。久美子は逆らわなかった。自分から腰を浮かしさえした。眼にはおもねるような表情が宿っていた。伊奈は素っ裸の久美子を見おろしたまま、着ているものを手早く脱いだ。
「立て。風呂場に行くんだ」
久美子はのっそりと起き上がった。彼女はいったんベッドの端に腰をおろした恰好になり、すぐに床に両膝を突いて、前に立っている伊奈の裸の腰を抱いた。
「許して、お願い。何でもするわ……」
久美子は伊奈の股間に頬を柔らかくすりつけながら言った。言い終ると、彼女は自分の口を伊奈のペニスで塞いだ。粘っこく舌がからみついてきた。伊奈は久美子を見おろしたまま、頬に笑いを浮べた。
「余計なことはしなくていい。立て」
伊奈は言った。久美子は立たなかった。舌を躍らせつづけた。唇が滑らかにすべった。伊奈はまた久美子の髪をつかんで立たせた。そのまま浴室に連れて行った。
洗い場に湯舟からあふれた湯が溜っていた。伊奈は髪をつかんだまま、久美子を湯舟に引き入れた。二人は湯舟の中に立ったまま向き合った。
「さっきしたことをもう一度やれ」
伊奈は言い、久美子の髪を放した。久美子は湯の中でしゃがんだ。伊奈の股間に顔を寄せてきた。伊奈は上から久美子の頭を両手でつかんだ。そのまま一気に湯に沈めた。頭を湯の中に押し沈められたまま、久美子はもがいた。湯がはねた。久美子の両手が伊奈の腰や腹を殴りつけ、ひっかいた。伊奈は股の間に久美子の頭を押し込み、体重をかけた。久美子の両腕は伊奈につかまれた。
伊奈は数をかぞえていた。三十までかぞえて、久美子の頭を押えている腰を上げた。久美子ははげしい勢いで顔を上げた。頭を振り、はげしい息の音を立てた。
「杉江ってのは何者だ? どこに住んでる?」
「知らないわ。街で知り合っただけよ」
伊奈は言った。久美子は首を振りつづけ、あえぎながら答えた。伊奈の手が伸びた。久美子はふたたび、頭を深く湯の中に沈められていた。はげしい湯の音が浴室につづいた。伊奈はまた三十までかぞえて、久美子の頭を放した。久美子ははげしく息をついている。
「おれを甘く見るなよ。知ってることを全部話すまではつづけるからな」
「杉江は川崎に住んでるわ。何者かって訊かれても。ただの不動産のブローカーよ、商売は……」
久美子は苦しげに息を継ぎながら言った。尻は湯舟の底につけて、ぐったりとなったままである。肩だけが湯の表面ではげしく上下している。濡れた長い髪が顔面にはりつき、湯に浮いてひろがっていた。
「諸住公子を知ってるな」
「諸住公子?」
久美子は眼をあげた。首が横に振られた。伊奈は容赦しなかった。久美子の頭はまた湯の中に沈められた。肩や腰が湯舟の側面に何度も強くぶつかった。伊奈はまた三十までかぞえた。久美子は宙に両手を泳がせ、そのまま湯舟の縁に胸をつけてすがりつき、首だけを外に突き出した。鼻と口から湯が流れ出てきた。息と共にその湯を飲み込んで、久美子ははげしくむせた。
「ほんとに、諸住なんて人は知らないわ。あたしは杉江さんに頼まれて、あんたを酔わせただけよ。杉江さんがあんたを殺すつもりでいたことは、後で知ったのよ」
久美子はあえぎを鎮めながら、必死の面持で言った。伊奈は黙って聞いていた。
「杉江さんはあんたを酔っぱらわせたら、十万円くれると約束したのよ。でも、その十万円を、いつまでたってもくれないから、うるさく請求したら、今度は百万円払うから、事故に見せかけて車であんたを轢き殺せって言ったわ。あたし怖くなって、それで福岡に逃げ出してきたのよ。杉江さんはあたしを探してるわ。人殺しをやる気でいるのをあたしに知られたから。あたしが知ってるのはそれだけよ。ほんとにそれだけ。諸住なんて人のことは知らないのよ」
久美子は泣き叫ぶように言った。伊奈は押し黙ったまま湯舟を出た。久美子の腕をつかんで洗い場に立たせた。濡れた体のまま久美子を引っ立てて、伊奈は部屋にもどり、ベッドの横に立った。久美子をベッドの上に突き倒した。
伊奈ははげしい欲望につき動かされていた。欲望は黒々とした怒りに染まってもいた。彼は久美子の濡れた体を乱暴に扱って、犬のように這わせた。久美子は逆らわなかった。怯えたようすで伊奈のするなりになっていた。犬の姿勢になると、久美子は自分からベッドに突いた両膝を大きく開いて、腰を突き出してきた。
深く長い尻の谷間の底に、丸くふくれ上がった性器がのぞいていた。クレバスは湯に濡れたままにぶく光り、ヘアがはりついていた。淡紅色をした肛門が部屋の明りにさらされていた。
伊奈は久美子の腰をうしろからつかんだ。熱く勃起したものを久美子の淡紅色の肛門に押しあてた。久美子は腰をよじって逃げようとした。伊奈は赦さなかった。手を持ち添えて力をこめた。押し返され、押し返した。浅く埋まった。伊奈は相手を引き据えておいて力にまかせて深く進んだ。久美子がするどくうめいた。頭が大きくのけぞり、背中が弓のように反った。うめき声と歯ぎしりの音を伊奈は聞いた。
「諸住公子はどこに住んでるんだ? 諸住公子に付いてる男がいるだろう?」
伊奈は言った。久美子はのけぞらせた頭をそのまま横に振った。
「ほんとに、知らないのよ。勘弁して……」
喉の詰まったような声が返ってきた。伊奈は久美子の中に埋めたものを引きもどし、すぐに腰を打ちつけるようにして突き進めた。
「ほんとに知らないんだったら……」
久美子はくり返した。声は苦痛に歪んでいた。吐く息は何度も詰まった。
伊奈は動きをくり返した。久美子は顔をベッドにすりつけて、歯ぎしりを重ねていた。伊奈は久美子から離れた。伊奈の体はうすく汚物にまみれていた。伊奈の頭には黒々とした炎だけしかなかった。
彼は久美子を引き起した。髪をつかんで久美子の頭を引きすえ、口もとに汚れた体を突きつけた。
「舐めろ」
伊奈は野獣になっていた。久美子が何か言いかけた。その口に伊奈は腰を押しつけた。久美子の舌が中でもがき、躍った。唇がふるえた。伊奈は突き立てた。熱い火の矢が体の芯を貫いて走った。伊奈は腰を引いた。ほとばしり出た白い礫が久美子の顔に散った。睫毛に白い玉を結んだ。
伊奈はなお勢いを失っていなかった。久美子を押し倒し、のしかかった。伊奈の胸の下で久美子の乳房がひしゃげた。とがった乳首が伊奈の乳首を突いた。久美子のしげみが伊奈の腹を掃いた。しげみの下に熱いうるみの気配がひそんでいた。伊奈はそこに手をかけた。揉みつぶさんばかりに扱った。しげみが音を立てて躍り、クレバスがほころび歪んだ。鮮かな色が見えかくれした。久美子は顔を歪めてうめき、腰をうねらせた。
伊奈は久美子の両の膝を肩に担いだ。久美子の体が腰から二つに折れた。膝頭が乳房を押している。性器は大きく割れてあからさまな姿を現わしていた。伊奈ははざまの中心に打ちつけるようにして体を埋めた。はげしく動いた。引きちぎろうとでもしているかのように、乳房を揉みしだいた。
久美子は息を詰まらせ、我を忘れたような声と共にそれを吐いた。伊奈は駈け抜ける勢いでふたたび果てた。久美子の胸の上に突っ伏した。肩から久美子の膝がはずれた。久美子は両脚を伊奈の腰に強く巻きつけてきた。腰がはずんで下から突き上げてきた。伊奈は久美子の脚を振りほどいて離れた。久美子が眼をあけて伊奈をにらみすえた。伊奈は表情を殺して言った。
「やりたきゃてめえでやれ、牝豚!」
久美子は唇を歪めた。起き上がろうとはしない。重ねた両手はしっかりと股間に押しあてられている。
「やれよ、ほら……」
伊奈は言い重ねた。久美子の眉がぴくりと動いた。ふてぶてしい顔を一瞬、見せて、久美子はおのれのはざまを押し開いた。ふくらみきった陰核があらわとなった。久美子はそこに指を躍らせはじめた。
「なんでもするわ、あたし。だから赦《ゆる》して。諸住という人のことは、あたしはほんとに知らないのよ」
声をふるわせ、指をはげしく動かしながら、久美子は言った。眼は強く閉じている。
「諸住公子のことをほんとうに知らないのかどうかは、そのうち判る。これから一緒に東京に行ってもらうぜ。東京で杉江をおびき出す仕事をしてもらうからな」
「いいわ。なんでもするわよ。だから、ねえ、来て……」
久美子は細くあけた眼で伊奈を見た。彼女の手はまだしげみを揺らしながら、ふるえるように動きつづけている。伊奈はベッドの上に投げすてられている久美子のパンティをつまみあげた。それで彼は自分の性器を拭った。終るとさっさと身仕舞をはじめた。湯に濡れた体は、ほとんどもう乾いていた。
2
伊奈は片手で内野久美子の手首をつかんで、部屋の入口に向かった。久美子はあきらめきったようすに見えた。
伊奈はノブのつまみを回してロックをはずし、ドアを開けた。伊奈は息を呑んだ。彼が最初に眼にしたのはナイフの刃だった。ナイフは伊奈の鼻先に突き出されてきた。同時に男が体でドアを押して踏み込んできた。伊奈はナイフの向うの男の顔を見た。覚えのある顔だった。
「貴様……」
伊奈はうめいた。相手はガスで殺されそうになったつぎの日の夜、新宿のビルの共同の便所の中でいきなり襲ってきた若い男だった。
久美子がつかまれていた手を振りほどいた。伊奈から離れると、久美子は高笑いをはじめた。体を折って笑っている。伊奈は自分が見事にはめられたことに気づかされた。久美子は囮《おとり》として、わざとあの渡辺通りのラーメン屋に現われたのだ。姿を見せれば、伊奈が喰いついてくるのを見越していたのだろう。久美子の乗ったレンタカーを、ナイフを持った男が尾行して、そのラブホテルの部屋を突き留める――そういうことだったのだろう。
男はうす笑いを浮かべたまま、うしろ手でドアを閉めた。ロックのつまみがまわされた。久美子はまだ体を揺すって笑っている。
「浴衣の帯で手を縛れ」
男が低い声で久美子に言った。久美子はようやく笑いを鎮めた。伊奈はベッドの横まで肩を押されてあとじさった。ナイフは鼻先から動かなかった。久美子がベッドの足もとに置いてあった浴衣の腰紐を手にとって、伊奈のうしろに立った。手がうしろに回され、腰紐が巻きついてきた。久美子は低い唸り声をもらしながら、力をこめて縛りあげた。
「ごくろうさんね。あんたが入ったラーメン屋にあたしが現われたことを、罠だとは思わなかったの? 甘いわね」
久美子は横から顔を突き出すようにして伊奈に言った。伊奈はその場に坐り込んだ。何の策も浮かばなかった。
「あんたがいろいろ訊いたことに、あたしが間抜けな返事をしたのはわざとやったことなのよ」
久美子はベッドの端に腰をおろして言った。勝ち誇ったような笑いを浮かべていた。ナイフを持った男は、たばこに火をつけてから久美子と並んでベッドに腰をおろした。
「こいつ、どこまで知ってた?」
男は伊奈を不気味な眼で見すえたまま、久美子にたずねた。
「杉江さんの名前と、諸住さんの名前を知ってたわ。でも二人の居場所は知らないみたいなの。それと、ガスで殺されかけたことは警察には届けてないと言ってたわ」
久美子は言って、また声をあげて笑った。伊奈は胸の底でうめいた。久美子を囮にして仕掛けられた罠には、二つの目的があったのだと伊奈は知った。一つは伊奈が事件についてどこまでを知り得ているかをつかむためだったにちがいない。そのために久美子は伊奈の質問に対してわざと尻尾をつかまれるような返事をし、それにつづく伊奈の質問を引き出すことで、追手との距離を知ろうとしたのだ。罠のもう一つの目的は明白だ。伊奈は死の覚悟を迫られている、と思った。
「杉江さんの名前は、新宿のシャポーで聞いたのかい?」
男が伊奈に言った。伊奈は答えなかった。
「そうにきまってるわよ。でも、諸住さんの名前はどうして判ったのよ?」
久美子が訊いた。伊奈はそれにも答えなかった。彼には久美子の質問が不思議に思えてならなかったのだ。諸住公子が、直子の双生児の姉であることを、久美子たちは知らないのか――伊奈はそう考えた。男と久美子がそれを知っていれば、伊奈が長崎や福岡に来たことから、諸住公子の名を知った経緯がおのずと知れるはずではないか。
「諸住さんの名前、おまえどうやって知ったんだよ。言わなきゃ死ぬ前に余計な痛い目にあうことになるぜ」
男が腕を伸ばして、ナイフの腹で伊奈の頬を軽く叩いた。
「おれを殺す気らしいが、後悔するぜ」
伊奈はゆっくりと言った。
「こっちが訊いてることに答えろよ」
「警察にはまだおまえらのやったことを話しちゃいないが、保険会社の調査マンが動いてるんだよ。おれが屍体になって見つかったら、保険調査員はまっすぐに警察に駈け込むぜ。ほう、顔色が変ったな、二人とも……」
伊奈は気持が落着いてくるのを覚えた。二人の表情は一瞬、たしかにこわばったのだ。
「心配するな。屍体が誰だか判らねえような殺し方だってある」
男は言った。動揺の表情は消されていた。久美子も同じだった。だが、彼女の顔には笑いはもうなかった。
「諸住さんの名前は、保険調査員から聞いたのかい?」
男が言った。
「ドジ踏んだな、おまえら。おれをきちんとガスで殺さなかったのがつまずきの始りだ。保険会社が、おれのことを調べてると判って、おれはおまえたちの保険金詐取を知ったんだからな」
男と久美子は険しい眼で伊奈を見ていた。伊奈はさらに、頭にひらめいたことを口にした。
「おまえら、何にも知らないで、安い金で殺し屋をやらされてるらしいな。うまい汁吸うのは諸住公子や、公子にくっついてる男や杉江だけってことにならないように、気をつけるんだな」
「どういう意味よ、それは?」
久美子が足をあげて伊奈の肩先を蹴った。不意をくらって伊奈は床にころがった。ころがったまま、伊奈はことばをつづけた。
「おれが諸住公子のことを知ってるのは、保険の調査員から聞いたからじゃない。自分で調べたんだ。調査員にはおれのほうが電話で知らせてやったのさ」
伊奈はそこだけ嘘をついた。保険調査員が諸住公子のことを知ったとなれば、相手にとっては圧力となるだろうと考えたのだ。
「おれが諸住公子の名前を知ったわけもおまえら知らないくらいだから、諸住公子たちが、いくら保険金をせしめているかも知らされていないんだろう」
伊奈はことばを切って、体にはずみをつけて起き上がった。
「そういうことを言っておれたちを掻きまわそうって肚だろうが、そうはいかないぜ」
男は言った。久美子は伊奈を見すえているだけだった。
「銀行に振り込まれたおれの女房の保険金を、諸住公子と男が受取りに来た。二人の顔は銀行の防犯カメラがばっちり写してたんだ。諸住公子は、おれの女房とそっくりの顔してた。当り前だよな、奴とおれの女房は双生児なんだから……」
伊奈は言った。久美子と男はおどろいたように、互いに顔を見合った。
「やっぱりそういうこともおまえら知らなかったんだな。やばいとは思わないのか。保険の調査員はそこまでもうつかんでるんだ。時間の問題だぜ、おまえらのやったことがばれるのは……」
伊奈は勢いづいていた。手の内を明かすことのマイナスは承知の上だった。久美子と男を怖じ気づかせて、いまの危地を脱するきっかけがつかめれば、マイナスはあとで取りもどせる、と伊奈は考えた。効果はまず、久美子に現われた。久美子はナイフを持った男の膝に手をかけてゆすって言った。
「電話かけたほうがいいんじゃない? 助川さんに……」
ささやくような声だった。
「ばかやろう、余計なこと言うな!」
男はすさまじい声を出した。彼はすぐに、自分の声の大きさにたじろいだようすになって立ち上がった。伊奈は久美子の口から出た助川という名前を脳裡に叩き込んだ。
「よく考えてみろ」
男は立ったまま、久美子へとも伊奈へともつかずに言った。低い、力のこもった声だった。
「やばいことは覚悟の上ではじめた仕事だろう。億って銭の仕事だからな。それに、保険の調査員が動いてるってのもほんとうかどうか判りゃしねえんだ。この野郎のハッタリかもしれねえだろう。とにかく、びびってちゃ仕事にならねえ。やるしかねえんだ。いいな」
久美子はうなずいた。
「といったって、仕事は夜になってからだ。ビールでも出せよ。冷蔵庫に入ってるだろ」
男に促されて、久美子は冷蔵庫のところに立って行った。男はベッドに体を投げ出した。ナイフは枕もとの台に置いた。伊奈は腰のうしろで縛られた手首をひそかに動かしてみた。自力で解くのは容易ではなさそうだった。が、伊奈はあきらめなかった。危地を脱するチャンスと方法は必ずある、と思った。そう思い込まなければ、恐怖に心が押し包まれてしまいそうだった。
久美子が栓を抜いたビールとコップを抱えてベッドにもどってきた。
「なんだかこのベッド、ばかに湿ってるな」
男が体を起して言った。伊奈は笑った。
「風呂から上がって体も拭かずに、その上でそいつがもだえやがったからな」
伊奈は言った。虚勢だった。虚勢も恐怖心を薄めるのにいくらか役立った。男は笑いを浮かべて伊奈のことばを聞いていた。
「やっぱりやられたか、久美子」
男は注がれたビールを飲み干して言い、喉の奥に笑い声をひびかせた。久美子は平然としたようすで、ビールを口に流し込んでいる。男の手が伸びて、久美子のタンクトップの胸のふくらみを撫でた。久美子はその手を避けようとはしない。
「脱げよ」
「するの?」
「いいだろう。夜までは他にすることはねえんだ」
「だって、こいつが……」
「見せつけてやろうぜ。こいつにとっちゃ此の世の最期に、いいもの見られるわけだ。それぐらいのサービスはしてやれよ」
「いいけど……」
「シャワー浴びてきれいに洗ってこいよ。こいつの後だからな」
「洗ったわよ、ちゃんと」
二人は着ているものを脱ぎはじめた。伊奈は縛られた手首を小さく動かしつづけた。気のせいか、浴衣の腰紐はいくらかゆるんでくるように思えた。伊奈は久美子と男が、体をぶつけ合って夢中になることを祈った。
久美子は素っ裸になると、湿っているはずのベッドに先に横たわった。男はブリーフ一枚になって久美子の横に体を伸ばした。久美子は不服そうな短い声をもらして、男のブリーフを脱がそうとした。男がその手を押えてすぐに起き上がった。
「待て、野郎の足も縛っとこう。念のためにな」
男はベッドを降りた。もうひとつの浴衣が、ベッドの裾のほうに押しやられていた。男はめくれた蒲団の間をさぐって、まぎれ込んでいた腰紐を見つけ出した。
「脚を伸ばせ」
男は言った。伊奈は素直に従った。逆らえば男は蹴倒してでも縛るにちがいなかった。男は前に伸ばした伊奈の両の足首をきつく縛った。さらに彼は伊奈のうしろにまわって、手首の縛り具合をたしかめた。気に入らなかったらしい。男はそこを縛り直した。細い木綿の腰紐が皮膚に喰い込んできた。伊奈は唇を噛んだ。痛みをこらえるためだけではなかった。希望の芽が一つ摘みとられていた。
「ゆっくり眺めてな」
男は言い、ベッドの横でブリーフを脱ぎ、久美子の肩を抱きにいった。
男の手が久美子の乳房をつかんでたわませた。乳房は男の手に余ってそそり立ち、重たげに揺れた。男は脚を久美子の脚に絡めつけた。久美子の息がはずみはじめた。男は乳房の片方に顔を寄せ、舌で乳首をころがしている。久美子の顎はまっすぐ天井に向けられていた。
男は久美子の胸から顔を起した。男は笑った顔で伊奈を見ながら、枕もとに片手を伸ばした。そこにはベッドを回転させるためのスイッチ盤が組み込まれていた。男の指がスイッチを押した。ベッドはにぶい音と共に旋回をはじめた。
「こうしたほうがよく見えるだろう」
男は伊奈に言った。歪んだ暗い笑いが男の頬に刻まれていた。
ベッドを半円状に囲んだ鏡に、久美子と男の体が映っていた。久美子は黒々とした男の性器の頂に指を這わせていた。男の片手は久美子の内股の豊かな肉を、軽くつねるようなことをくり返していた。男の指が久美子の内股に浅く沈むたびに、クレバスがわずかにほころんだ。ほころびの奥に、大きな陰核と、くすんだ紅色をした小陰唇が見えかくれした。それらはにぶく暗い輝きを見せている。
ゆるやかに回転するベッドが、伊奈の眼の前に久美子と男の頭を運んできた。ベッドのスイッチ盤の横に、ナイフが置かれていた。それは伊奈にも見えている。だが、伊奈は身動きができなかった。彼は奥歯を噛みしめた。口惜しさに体がわなないた。考えはなにひとつまとまらなかった。眼の前の二人がくりひろげる光景は、伊奈の眼にはただ乾いて見えるだけだった。
伊奈は首をまわしてカーテンの引かれた窓に眼をやった。外はまだ明るかった。彼は夜までの時間を思った。時計を見ることはできない。伊奈は久美子とその部屋に入った時刻を基にして、いまの時刻を推し測った。午後六時前後かと思えた。直子のことが胸に浮かんだ。それはすぐに黒崎のことに変った。助川という名前が頭をよぎった。どこかで聞いたことのある名前だと思った。思い出すことはできない。ふたたび直子に思いは移った。ベッドの上の久美子の姿が直子に重なっていた。伊奈は直子の遺体から採取されたという精液のことを考えた。死の直前に直子の体を自由にしたのは、いま眼の前のベッドにいるこの男ではないのか――伊奈は思った。むろん根拠などなかった。怒りと恐怖だけが、伊奈の気持を支配していた。脈絡のない思いが、つぎつぎに浮んでは消えていく。伊奈は眼を閉じた。また縛られた手首をひそかにゆるめる試みをはじめた。腰紐は手首の皮膚を喰い破るかと思えた。望みはうすい。だが伊奈は気力を奮い立たせた。
ベッドの回転する音がつづいている。久美子ははばかるようすもなく声をあげている。その声がやがてくぐもった低いうめき声に変った。男の笑う声がした。伊奈は眼を開いた。男と久美子は体を重ねていた。久美子は頭を男の股間に押しつけて、上から相手の両の太腿を抱いている。男は下になって、やはり久美子の太腿の間に頭を置いていた。
久美子は小さく頭を振りながら、男の体に唇や舌をすべらせている。反り返った久美子の舌が、つややかに光っている男の体の先端をなぞる。久美子の口の端からこぼれ出た唾液が、ゆっくりと男の体を伝ってすべり落ちた。男の腰骨の上で乳房がひしゃげたようになって、横に張り出している。
やがてベッドはまた一回転して、向きを変えた。伊奈は男の顔の上にすえられた、久美子の裸の腰をうしろから眺めることになった。長く伸ばされた男の舌が、久美子の赤いはざまに躍っていた。はざまは男の手によって大きく押し割られていた。はざまを囲む形に薄く伸びているヘアが、うるみを吸って光ったまま、肌にはりついている。男の頑丈そうな丸い鼻の頭は、久美子のはざまの中心に浅く埋まっていた。
伊奈はふたたび眼を閉じた。汚水を浴びたような屈辱の思いが胸を噛んだ。縛られた手首はいっこうにゆるまない。何の方策も思いつかない。気持ばかりが火で焙られているように焦る。
ふたたび久美子の声が高くなった。泣きじゃくるような声である。伊奈はその声に誘われて眼を開けていた。
久美子は男の腰の上にまたがっていた。またがったまま、久美子は腰をはずませている。男はうす笑いを浮かべたまま、下から伸ばした手で、久美子の両の乳房を揉みしだいている。
伊奈はまた眼を閉じた。ベッドの回転する音と、久美子のわれを忘れたような声と、男の低い息の音だけが、伊奈の耳にひびきつづけた。
しばらくして、ベッドの回転音が止んだ。久美子が音を立てて息を吐いた。
「野郎とどっちがよかった?」
「ばか……」
男が低い笑い声を立てた。
「どうだい、見物した味は?」
伊奈は頭を小突かれた。彼は眼を開けた。素っ裸の男がベッドを降りて伊奈の前に立っていた。男の縮んだペニスが伊奈の眼の先で揺れていた。伊奈の口から唾が飛んだ。唾は男のペニスにかかった。男は声を立てずに笑った。膝が飛んできた。伊奈は顎を突き上げられてうしろに倒れた。男は見向きもせずに浴室に行った。久美子も後につづいた。二人はシャワーを浴びはじめた。ナイフはベッドの枕もとに置かれたままである。伊奈は蹴倒されたまま、唇を噛んだ。
浴室から出てきた男と久美子は、ビールを飲み、テレビを見、またベッドで二度目の交りをはじめた。時間を気にしているようすはない。
3
二人が服を着はじめたのは、午後の十時近くと思えるころだった。
「さて、仕事にかかるとすっか」
服を着ながら、男は伊奈を横眼で見やって、笑いながら言った。伊奈は緊張した。恐怖が背筋を這いのぼってきた。男の言う仕事の中身ははっきりしていた。伊奈を死体にすることだ。だが、その方法は伊奈には見当がつかない。それが判らないということが、恐怖を増幅させていた。
「久美子、そいつの手足の腰紐、解いてやれ」
「どうするの?」
「いいから言われたとおりにしろよ」
男は寄ってきて、倒れている伊奈の髪をつかんで引き起した。ナイフが伊奈の喉にあてられた。久美子が伊奈のうしろにまわった。久美子はさすがにこわばった表情を見せている。
伊奈の手足が自由になった。男に促されて、伊奈は立ち上がった。男が伊奈のうしろにまわった。ナイフは、脇腹に移っていた。
「車のキーは?」
「そいつが持ってるわ」
久美子が答えた。男の手が伊奈のポケットを探った。キーがつかみ出された。
「先に出て、車のトランクをあけろ」
男は久美子に車のキーを渡して言った。久美子が部屋の出口に向った。ドアが開けられた。男が伊奈の肩をうしろから小突いた。伊奈は歩きだした。胸が息苦しかった。やたらに喉が渇いた。
久美子は車のトランクを開けて待っていた。ガレージのシャッターは閉まったままである。
「トランクの中にはやばいものはないか?」
男が久美子に言った。
「スペアタイヤだけよ」
久美子はトランクの中を調べて言った。
「入れ」
男は伊奈を促した。伊奈は動かなかった。ナイフが直角に頬に当てられた。男の手が伊奈の後頭部を押えつけてきた。伊奈の上体はトランクの蓋の下にかがみ込む形になった。男がうしろから膝で伊奈の尻を蹴り上げた。伊奈は自分から体を泳がせた。そうしなければナイフが頬を刺し貫きかねなかった。体の泳いだところを強く腰を押された。伊奈の上体はトランクルームの中に沈んでいた。すぐに両膝を抱えられた。あらがう術はなかった。伊奈はトランクルームの中にころげ落ちた。蓋が風を起して落ちてきた。伊奈は暗くて窮屈な場所に閉じこめられていた。
エンジンがかけられた。シャッターを上げる音がした。車はバックをし、いったん停まり、やがて走り出し、またすぐに停まった。モーテルの出口で、金を払っているものと思われた。
ふたたび車は走り出した。だが、四、五分もすると、また停まった。車が左に小さく傾いて揺れた。ドアの閉められる音と小さな震動が、トランクルームに伝わってきた。男か久美子か、どちらかが一人車を降りたらしい。男が乗ってきた車がそこに停めてあって、乗り替えるのだろう。
近くで車のエンジンの始動する音がした。やがてまた、車は走りはじめた。今度は停まらない。何回かは停車をしたが、それはたぶん信号のためと思えた。
どこをめざして走っているのか。どうやって殺し屋は仕事をしとげようというのか。伊奈は考えても判りっこないことを考えつづけた。縛っていた手足を解いたのは、モーテルの浴衣の腰紐からアシがつくのを怖れたためだろうと思えた。
『死体が誰だか判らないような殺し方がある……』
モーテルの部屋で男が口走ったことばが、伊奈の耳の底にこびりついていた。
伊奈は膝を折って体を丸めたまま、ズボンのポケットをさぐった。ライターを取出した。火をつけて腕の時計を見た。午後十一時になろうとしていた。意外に時間がたっていないことに、伊奈はおどろいた。伊奈にはそれまでの時間がもっと長いものに思われていたのだ。
伊奈はライターをポケットにもどした。闇に閉ざされて揺れつづけるトランクルームのあちこちを、手で探った。武器の代りになるものが欲しかった。それがあれば、トランクを開けて外に引き出されるときに相手に刃向える。伊奈はトランクルームの床のカーペットの下まで探った。使えそうなものはなにひとつなかった。ジャッキや工具の袋も見当らない。運転席のシートの下にでもあるのだろう。久美子がトランクルームからいち早くそっちに移したとも考えられた。
車は小一時間近くも走りつづけた。気がつくと、外の他の車の音がめっきり減っていた。国道をそれた道を走っているのかもしれない。
やがて車は徐行をはじめた。何度も方向を変えながらしばらく進んだ。鋪装道路ではなさそうである。車は何度かはずむように揺れた。柔い砂の上を進んでいるようにも思えた。
しばらくして、車は停まった。エンジンが切られた。体を固くした。息を詰め、耳をすませた。すぐ近くで車の音がした。その車のエンジンの音もやがて止んだ。
「こっちに来いよ……」
男の声がした。車のドアが閉まる音がした。伊奈が押し込められている車のドアではなかった。どうやらすぐうしろに、もう一台の車が停まっているようすだった。ドアの閉まる音につづいて、足音がひびいた。やはり砂を踏むような音だった。車が小さく傾いて揺れた。つづいてドアが閉まる気配が伝わってきた。男に呼ばれて誰かが、伊奈の乗せられている車に乗り移ったようすだった。
伊奈は状況を推測してみた。男もモーテルの近くに車を停めていたにちがいない。モーテルを出てしばらくして、伊奈を乗せた車はいったん停まり、誰かが降りた気配があった。伊奈はそのことを思い出した。降りたのはたぶん久美子だったのだろう。久美子の借りていたレンタカーは、男が運転し、そこまで伊奈を運んできた。男の車を久美子が運転した。そういうことかもしれない、と伊奈は考えた。そしていま、久美子は呼ばれて、伊奈が乗せられているレンタカーのほうに移ったのだろう。
伊奈は息を殺して相手の動き出すのを待った。そうするしかなかった。トランクの蓋は開かない。外は静まり返っている。
不意に車が揺れはじめた。走り出したわけではない。停まったまま、はずむような揺れ方をつづけている。伊奈は訝った。くぐもった人のうめき声を聞いたようにも思った。はっきりしない。揺れにまじって何か柔らかいものがぶつかるような、妙な震動も伊奈は感じた。
車はやがて、静止した。物音も人の声もしない。静かなまま、十分ばかりが過ぎた。
誰かが車を降りる気配が伝わってきた。足音がした。車のドアを開ける音がした。足音が近づいたり離れたりした。声は依然として聞こえない。水の音らしいものがする。
伊奈はこめかみに刺すような疼痛を覚えた。神経は極度に張りつめていた。
車のエンジンの始動する音がした。別の車だった。エンジンの音は遠ざかっていく。あたりは静かになった。静かな中に、風が木の枝をゆするような音が聞こえた。遠ざかっていった車の音は、もう伊奈の耳には届かない。
ふたたび伊奈が足音を聞いたのは、五、六分過ぎてからだった。足音は遠くから近づいてきた。一人の足音と思えた。車の音はしない。
伊奈が押し込められている車のトランクの前で、足音は停まった。鍵穴にキーのさし込まれる気配があった。伊奈は唾を飲み込んだ。唾は粘って喉に絡んだ。
トランクの蓋がわずかに浮いた。すぐにそれがはねあげられた。男が立っていた。ナイフをかまえている。火のついたたばこをくわえていた。ナイフが伊奈の首すじにあてられた。外は暗い。風の音がした。
「おとなしく出てこい」
男が言った。押し殺したような声だった。伊奈は体を起した。うしろ向きにさせられた。背中にナイフが当っていた。伊奈はうしろ向きのまま、トランクルームから這い出た。
「車の運転席に乗れ」
男は言った。ナイフが背中を軽く小突いてきた。伊奈は歩き出した。松林の中の空地だった。下は砂地である。
車の運転席のドアの横までくると、男がうしろから伊奈の肩をつかんだ。伊奈は足を停めた。
「乗れ」
うしろで声がした。伊奈はかすかな希望を感じた。車を運転させる気だな、と考えた。それならば、怪我を覚悟で、走っている車からとび降りて逃げることもできるかもしれない――。
伊奈は車のドアをあけた。ルームランプがついた。とたんにガソリンの匂いが伊奈の鼻を襲ってきた。伊奈は眼をむいた。助手席のシートの上に久美子がいた。久美子はぐったりと手足を投げ出して、深く首を横に向けて折っていた。久美子の髪も衣服も濡れ光っていた。ガソリンを浴びせられたのだと判った。ガソリンはシートや床にも流されて、小さなくぼみに光る水溜りを作っていた。リヤシートにポリエステルの燃料の携行缶がころがっていた。久美子はぴくりとも動かない。伊奈はさっきの車の揺れや、人のうめき声を思い出した。久美子が殺されていることは、疑いようもなかった。
伊奈は頭の芯に氷柱が立ったような気になった。男の殺しの方法を、咄嗟のうちに伊奈は理解した。
「さっさと乗れよ。おめえはその女とここで心中するんだよ。車ごと黒こげになってな」
男は言った。
「この車はレンタカーだぜ。久美子が借りたんだろう。死体になった久美子の身許はすぐに割れちまうぞ。いいのか?」
「知ったこっちゃない。あんたがその女の首を絞めて殺して、車ごと焼身自殺をはかったというふうに、新聞には出るだろうな」
「この女は、おまえらの仲間じゃないか。それを……」
「仲間だろうがなんだろうが、ドジ踏んだ奴は死んで役に立ってもらうのよ。そいつのドジがもとで、杉江の名をおまえに知られちまったし、助川って名もおまえに聞かれちまったんだ」
男は伊奈の肩をまた押した。男が口にくわえたたばこの火が小さくまたたいた。伊奈は深く息を吸った。開けたままの車のドアの縁に手をかけたまま、伊奈は体を開いた。片足を車の中にさし入れた。男と伊奈の体の間に車のドアがあった。男はドアごしにナイフを伊奈の首の横に突きつけている。
伊奈は背をかがめて、車に乗り込む姿勢になった。ドアを少しだけ手前に引いた。さらに姿勢を低くした。伊奈はそのまま、半開きになったドアに肩からぶつかっていった。
車のドアがあおられて男にぶつかった。男はよろけた。伊奈は夢中だった。足もとの砂をつかんで男の顔面にはねかけた。男は顔をそむけてそれをよけた。男のくわえている火のついたたばこが砂地の上に落ちた。伊奈は足をとばした。男の腰が砕けた。男は開いたままの車のドアの端に背中を打ちつけた。反動で前にのめってきた。伊奈はまた蹴った。男の肩が横に傾いた。男は頭から車の運転台に突っ込んでいった。伊奈は開いたままの車のドアを引いた。男の背中がドアと車のシートの間にはさまれた。伊奈はドアを肩で押え、手をのばして落ちているたばこを拾った。火は消えていない。伊奈は夢中だった。たばこを車の中に投げ込んだ。暗がりが火に染められた。一瞬のことだった。伊奈は男と久美子の全身が火にくるまれるのを見た。伊奈は走り出していた。炎が風を巻く音が背後でひびいた。伊奈は走りつづけた。足がふるえた。危地を脱した
よろこびはまだ湧いてこない。顔には一瞬に噴き出た炎の熱気がまざまざと残っていた。ふりかえると松の林ごしに火が見えた。
方角はわからなかった。細い林の中の道をただ走った。不意に林が切れて、簡易鋪装の道に出た。その道もせまい。車が停まっていた。やはりレンタカーだった。さっきトランクルームの中で、走り去る音を聞いたのは、この車だったか、と伊奈は考えた。
走るのをやめた。心臓がはげしく躍っていた。伊奈は腰を折り、膝に手を突いて、息の静まるのを待った。唾を吐いた。唾はやはり糊のように粘っていた。
遠くに車の走っている音がしていた。そっちに道があるらしい。伊奈は車の音を目当てに歩きだした。頭の中は熱をおびたまま、空白になっていた。正当防衛――ということばが不意に浮んできたりした。とにかくタクシーをつかまえてホテルに帰らなくてはならない、と思った。黒崎に事を知らせなければ、とも思った。
時刻は午前零時をまわっていた。十分ほど歩くと、広い道に出た。国道かと思えた。伊奈はタクシーの空車が通るのを待った。
しばらくして、タクシーをつかまえた。伊奈は薬院のビジネスホテルの名を運転手に告げようとして、危うくことばを呑みこんだ。
「博多駅まで……」
咄嗟に彼はそう言った。運転手はうなずいて車を出した。久美子と男の体が火に包まれた一瞬が、眼の裏に甦《よみがえ》った。男を生かしておけば、諸住公子たちの居所は判っただろう。だが、殺さなければ、自分が殺されていたかもしれなかったのだ。仕方がない――伊奈はくり返しそう思って、胸に泡立ってくるものを鎮めた。
松林の中の空地の、黒こげの車と男女の死体は、朝になれば誰かに見つかるだろう。もし殺人事件だと見られたら、前の夜に現場近くからタクシーに乗った男のことが、警察の耳に入らないとも限らない。タクシーを薬院のビジネスホテルに乗りつけることは得策じゃない。伊奈は危ういところでそのことに気がついたのだった。
博多駅に着いたのは、午前一時近い時刻だった。伊奈はタクシーを降りると、駅の近くをしばらくうろついた。ラーメンの屋台が出ていた。伊奈は忘れていた空腹に気づかされた。昼食もラーメンだったことをふと思い出しながら、伊奈は屋台ののれんをくぐった。
博多駅から別のタクシーに乗り替えて、ビジネスホテルにもどった。フロントマンは、部屋の鍵と共に、メッセージを記したメモ用紙を伊奈に渡した。メモ用紙には、午後四時と七時と十時の三回にわたって、黒崎から電話のあったことが記されていた。
伊奈は部屋に入るとすぐに、東京に電話をした。黒崎はまだ起きていた。
「収穫があったらしいな、こんな時間まで動きまわってるところをみると……」
元気のいい黒崎の声が受話器にひびいた。
「収穫は二つあった。だが、代りに命を落しかけたよ」
伊奈は、直子と双生児の姉が、諸住公子という名であること、久美子を囮にした殺し屋が現われた顛末、久美子が助川という名を口からこぼしたことなどを、かいつまんで話した。
「久美子って女は、まちがいなく助川って言ったんだな?」
黒崎は急《せ》きこむようなことばつきで聞いてきた。
「まちがいない。助川に連絡しなくていいのかって、殺し屋の野郎にせっつくみたいにして言ったんだよ」
「そいつはうまいな。いい線が出てきやがった」
「なにか判ったのか?」
「あんたの奥さんを車で轢き殺した犯人の岩淵孝雄のことを、洗い直してみたんだよ。保険金を詐欺している以上は、岩淵に轢き逃げをやらせた奴がきっといるはずだからな」
「誰か出てきたのか?」
「岩淵は横浜の建材店に勤めていて、ギャンブル狂だったってことは、あんたも知ってるよな」
「もったいぶらないで、早く言えよ。岩淵の身辺を洗ったら何が出てきたんだ?」
「助川勇次っていう金貸しだよ。岩淵は助川から三百万ぐらい借金してるんだ。もっとも岩淵の借金は助川だけでなくて、他にもあるけどな」
「助川って金貸しが、あの久美子って女がうっかり口にした助川と同じ野郎だとなると、たしかにうまいけどな」
「たぶん同じ野郎だよ。あんた、金貸しの助川勇次って名前を聞いて、何か思い出さないかい?」
黒崎はかすかに笑いをふくんだ声で言った。わざと伊奈をじらして愉しんでいる、といったふうな口ぶりだった。伊奈は黒崎にそう言われても、甦ってくる記憶はない。
「助川は府中の是政《これまさ》に住んでるんだぜ」
黒崎のことばが、伊奈の閉ざされていた記憶を開いた。伊奈は思わず眼を見開いて言った。
「盗難車の主……直子を轢いた車は盗まれて盗難届が出てた。その車の持主はたしか、府中の是政に住んでる金融業の助川勇次って名前だったよな」
「思い出したな。そのとおりだよ。これ、偶然と思うかい」
「うーん……」
伊奈は唸った。知らぬまに受話器を持つ手に力をこめていた。
「実はおれは、その殺し屋が囮に使った久美子って女が、助川って名を口から出したと聞くまでは、どう考えていいか判らずにいたんだ。岩淵は自分が金を借りてる助川の車と知らずに盗んだのかもしれないと思ったり、仮に車が助川のものだと岩淵が知ってたとしても、助川が事件に噛んでるとは限らない、と考えたり……。ただ、岩淵が金を借りてる何人かの人間の中に、あんたの奥さんを轢き殺す道具に使われた盗難車の持主がいるってことは、やっぱりひっかかるんで、それであんたの考えも聞いてみようと思って、そっちに何回も電話してたんだよ」
「久美子って女の言った助川と、府中の是政の助川が同一人物だとなると、おれたちは久美子に線香の一本もあげてやらなきゃな」
「おそらくその女は、どうせあんたが殺し屋に殺されると思ってたから、口がゆるんじまったんだろう」
「それにしてもさすが、元刑事だな。どうやって岩淵の借金のことまで判ったんだ?」
「警察に手をまわして、岩淵の肉親の居所を教えてもらったんだ。拘置所に姉さんという女が面会に来てるってことが判ったんだ。その姉さんてのに会ったんだよ。かわいそうに、その姉ってのは、池袋の大きな本屋に勤めてんだけど、弟の借金の取り立て屋に毎日のように脅されてるんだ」
「助川も岩淵の姉のところに取立てに行ってるようすかい?」
「あんたもおれと同じことを考えたな。助川が取立てに動いてないとしたら、くさいとおれも思ったんだ。岩淵が借金を棒引きにする約束で、殺しを引受けたと考えられるからな。ところが助川はちゃんと岩淵の姉のところに取立てに行ってるんだよ」
「とにかく、助川を洗ってみる手だな、とりあえずは……。おれは明日、できるだけ早く東京に帰るよ」
「じゃあ、明日会おう。今夜はあんた、ぐっすり寝てくれ。強い酒でも飲んでな」
「強い酒?」
妙なことを黒崎は言うと思って、伊奈は訊いた。
「後味がよくないだろう」
黒崎は唐突に言った。伊奈は黒崎が言おうとしていることがようやく分った。
「おれにも刑事時代に覚えがある。たとえ殺す気なんかなくても、相手が死ねばいやなもんだ。忘れることだよ。正当防衛なんだから」
黒崎はそう言った。彼は伊奈の胸の底の黒々としたわだかまりを察していたのだ。だが、伊奈は二時間近く前の松林の中のできごとを、そう簡単に忘れさることはできそうもなかった。
「ありがとう。強い酒飲んで眠るよ」
伊奈は言って電話を切った。
強い酒など手もとにはなかった。伊奈は廊下に自動販売機のあるのを思い出した。行ってみるとビールと日本酒しかなかった。日本酒を二本買って部屋にもどった。
買ってきた酒を飲み干して、部屋を暗くした。伊奈は遠くからゆっくりと近づいてくる眠りを、辛抱づよく待った。
松林の中の焼けた車と二人の焼死体は、つぎの朝早くに発見されていた。伊奈はそのことをホテルのロビーのテレビで知った。フロントでチェックアウトをすませようとしている伊奈の耳に、ニュースを読むアナウンサーの声がとびこんできたのだ。伊奈はさりげなく装って、それを聞いた。
現場は福岡県糸島郡二丈町というところだった。焼けただれた車と、車の中の男女の焼死体を発見したのは、早朝のジョギングで現場を通りかかった、近くに住む会社員だったらしい。午前五時だったという。
焼けた車は、残っていたナンバープレートからレンタカーであることが判った。レンタカーの借主は、東京都荒川区南千住六丁目に住む内野久美子、二十一歳である。警察では車の中で焼け死んでいた女性が、内野久美子当人であるかどうかの確認を急いでいる。男の焼死体のほうの身許はまだ判らないが、現場近くに、別のレンタカーが一台乗り捨てられてあり、事件との関連が疑われている。乗り捨てられていたほうのレンタカーの借主は、東京都稲城市東長沼に住む長田治、二十四歳である。警察では発見された焼死体が、長田治のものであるかどうかの確認を進めている。
また、現場からは、焼けただれたナイフも発見されており、一方、解剖の結果、女性のほうの焼死体には、生活反応が見られず、扼殺した後に焼かれたものであることが判明した。
これらのことから、警察では事件を心中、もしくは男のほうが女を扼殺した後で、焼身自殺をはかったものではないかと見て、なお、調べを進めている――。
ニュースはあらまし、そういった内容に終っていた。
伊奈は稲城市東長沼に住んでいたという長田治という名前を頭に刻み込んで、ホテルを出た。
六章 叫び
1
伊奈が東京にもどってから、一週間が過ぎていた。
むなしい一週間だった。むなしいだけでなく、伊奈と黒崎の胸には、いらだちも増していた。
その一週間、伊奈と黒崎は、府中に住む金融業者の助川勇次の身辺と動静を探る仕事に没頭した。聞込みと尾行の毎日だった。
助川勇次は、四十三歳になる小柄のふとった男だった。家族は妻の他に高校生の息子と中学生の娘、助川の母に当る老婆との五人がいる。
助川は六年前までは、不動産屋を営んでいた。その後、金融業に転身している。不動産業もすっかり手を引いたわけではなく、ときどき、大口の土地の売買などをいまでも手伝っている。
金融業としては、規模は小さいが、不動産屋時代から交渉のある韓国人の金主をつかんでいることもあって、業績は安定している。小口の金融から大口まで、取引きは活発で、名の通った会社の手形を扱うことも少くない。業者仲間や近所の評判によると、助川は金貸しとしてはあくどいところのない、人づき合いのいい陽気な男だという。生活ぶりも派手なところはなく、女がいるというような噂も聞かない。
そうした情報は、黒崎の仲間の興信所の調査員がもたらしてくれたものだった。
事実、伊奈と黒崎の連日の尾行の結果からも、助川には不審な行動は見られなかった。
助川は是政の住居の一階の一部を事務所にしていた。事務所には中年の女の事務員を一人置いている。助川は一日のうち半分以上は事務所をあけて外を歩いている。行先は同業者の事務所であったり、抵当物件の検分であったり、銀行であったりする。自分で車を運転して行く。車はクラウンの新車だった。直子を轢いたときとは変っている。人を轢いて死なせた車に乗る気がせずに、買い替えたものと思えた。
伊奈と黒崎は、尾行と張込みを重ねながら、助川の前に杉江か、諸住公子か、公子と一緒に銀行に保険金を受取りに現われた男かが現われて、接触する場面を待ち望んだ。けれどもその気配はいっこうに見えなかった。
四日が過ぎ、五日が経《た》ちするうちに、伊奈と黒崎の最初の意気込みは衰えていった。久美子が福岡のモーテルで口走った〈助川〉というのは、府中市是政に住む金貸しの助川とは別人かもしれない、という思いが、二人の間に生まれてきた。
助川勇次を敵の一味と疑う根拠は三つあった。久美子がその名を口からもらしたことと、助川勇次が直子をはねた盗難車の所有者であったことと、彼が轢き逃げ犯人の岩淵孝雄に三百万円を貸していることなどである。
だが三つの疑惑の根拠は、どれもみなそれだけでは決定的なものとはいえない。岩淵が助川の車を盗んだのも、助川に借金があったことも、すべて事件とは関係のないことだと考えることもできるのだ。
助川の金融業の業績は安定しているという。助川自身の人柄の評判もわるくない。そういう人間が、殺人を伴う生命保険金の詐取などを企むだろうか――そういった疑問も伊奈と黒崎の間に芽生えてきた。
尾行と張込みを一週間つづけた末に、伊奈と黒崎は方針を変えた。
むろん、助川に対する疑いがすっかりはれたわけではなかったが、他に突破口を求める必要も感じられたのだ。
突破口となりそうな手がかりがないことはなかった。三月七日の直子の行動を辿ってみることである。
直子はわざわざ買い求めたと思える青い表紙のノートの一ページ目の冒頭に、昭和五五年三月七日という日付だけを記して、あとはすべて余白のままにして遺していた。伊奈はその三月七日という日に、直子が自分とは双生児の姉に当る諸住公子と、なんらかのいきさつからめぐり会ったのではないか、と考えている。
もしその推測が当っていれば、三月七日の直子の行動を辿ることで、何かがつかめるかもしれない。
伊奈はそれらのことを黒崎に話した。そこで二人は、二手に分れて調べを進めることにしたのだ。黒崎はひきつづいて助川勇次をマークするかたわら、仲間の興信所の調査員の手を借りて、福岡の松林の中で焼死した、内野久美子と長田治の身辺や交友関係の洗い出しにかかることになった。そこから、杉江や諸住公子や〈助川〉にたどりつく糸口が現われることを期待した。
死んでしまった人間の五ヵ月も前のある日の行動を知ろうとする仕事にも、雲をつかむような心もとなさがつきまとった。そればかりではなかった。その仕事は、直子が秘密を抱えていたという、心の冷えるような思いに、あらためて伊奈を誘わずにはいなかった。
諸住公子にしろ、杉江にしろ、助川という人物にしろ、直子の命を奪って生命保険金を詐取し、犯行をくらますために伊奈の命まで再三にわたって狙ってきた。その者たちは、居所こそつかめてはいないが、名前は割れている。諸住公子と、彼女と一緒に保険金を受取りに銀行に現われた男の二人は、顔まで判っているのだ。
謎に包まれているのは、諸住公子がなぜ双生児の妹に当る直子の命を金に替える企みに加わったのか、という点である。さらに判らないのは、その企みを直子自身が承知の上で受入れたと思えるふしのあることである。そこに直子が伊奈にも明さなかった秘密が潜んでいそうである。それがどういう種類のものであるのか、伊奈には見当もつかない。見当がつかないまま、直子が自分に対して秘密を隠し持っていたということの憾《うら》みがましさのほうだけが、伊奈の胸にはつのっている。
三月七日という日に、伊奈は格別の記憶はなかった。伊奈の覚えでは、その日も他の日々と同じように平穏に過ぎていったとしか思えなかった。その日、直子に変ったところが見えたという覚えもない。
暦で調べてみると、三月七日は金曜日に当っていた。伊奈の知る限りでは、直子は結婚以来勤めを休んだことはなかった。当然、その日も勤め先のしのむら洋裁店に出向いたはずである。
伊奈はしのむら洋裁店で話を聞いてみようと考えた。だが、直子の生命保険金が詐取されたことは、表に出すわけにはいかなかった。相手に不審を抱かせずに話を聞き出すために、伊奈は死んだ妻に嫉妬と疑惑を抱いている執念深い男という役柄を演じることにきめた。直子が浮気をしていた形跡がある、という口実を彼は思いついたのだ。
助川の張込みと尾行から離れたつぎの日の午後に、伊奈は渋谷の宮益坂のしのむら洋裁店に出向いていった。店主の篠村龍子も、伊奈が顔見知りの二人のお針子たちも店にいた。直子の後を埋める新しいお針子はまだ見つかっていないようすだった。篠村龍子は伊奈の姿を見ると、持ちまえのもてなしのよさを示して、にこやかに迎え入れたが、突然の彼の来訪をいぶかる気配を隠そうとはしなかった。
「ちょっと、また直子のことでお聞きしてみたいことがあって……」
伊奈はそういうふうに切り出した。お針子たちは、すぐに奥の仕事場のほうに姿を消していた。仕事場と、布地やマネキンを飾った店先とは、カーテンで仕切られているだけである。伊奈の話声は仕事場のお針子たちの耳にも届いているはずだった。
「実はいままで誰にも話さなかったことなんですが、直子は車で轢かれる前に、誰かわからないんですが、男と会ってたことがはっきりしてるんです」
「直子ちゃんが男の人と?」
篠村龍子は小声で言って眉を寄せた。信じられない、といったようすに見えた。
「解剖した直子の体の中に、男の体液が残っていたんですよ」
「体液って、あのう……」
「そうなんです。性交の跡があったんです」
「信じられないわ」
「ぼくだってまさかと思ったですよ。でも事実なんです。むろん、相手はぼくじゃないことは、その体液から判った血液型で、はっきりしてるんです。体裁がわるいから、いままでぼくも内緒にしてたんです」
「どういうことかしら、あの直子ちゃんが」
「ぼくはショックを受けたんですが、直子も死んでしまったことだし、忘れようと思って努めてきたんだけど、どうも気になって仕方がないんですよ」
「たしかにそれは気にはなるわよねえ、伊奈さんにしてみれば……。そういえば、あの夜、伊奈さんと有楽町の駅で会うことにしていて、直子ちゃんが八王子に行ってたというのもおかしいことはおかしいわけだわね」
「ぼくもいろいろ思い返してみて、直子のようすにいくつか思い当ることもあるんです」
「どういうこと?」
「たとえば、今年の三月七日のことなんですけど、仕事から帰ってきた直子のようすが変だったんです」
「変て?」
「ろくに口をきかずに、なんだかしらないけど考え込んでるみたいで……。滅多にないことだし、ぼくは日記をつけてるんで、読み返してみて三月七日というのを思い出したんですよ」
伊奈はあらかじめ考えていた作りごとを口にした。
「ずいぶん前の話だわねえ」
「三月七日ごろ、お店で直子に何か変ったようすはなかったかと思って、それでお邪魔に上がったんですよ」
「三月七日ねえ……。ちょっと待って。あたしも業務日誌みたいなものをつけてるから、何かあったら書きとめてあるかもしれない。見てみるわ」
篠村龍子はソファを離れて、奥のカーテンの向うに引っ込んだ。伊奈はたばこに火をつけて待った。しばらくして、カーテンの奥から篠村龍子が声を投げてきた。
「三月七日に直子ちゃんはあたしたちより先に帰ってるわねえ」
「先に帰ったというのは、早退ですか?」
伊奈もカーテン越しに訊いた。篠村龍子は大版の大学ノートをページを開いたまま手に持って、ソファにもどってきた。
「早退じゃなくて、残業をしないで帰ったことになってるわ。お顧客《とくい》さんに食事に誘われてたのよ、この日は」
「お顧客って、どういう人ですか?」
「中迫さんからのお招《よ》ばれって書いてあるわ」
「中迫さんというのは、もちろん女のお客さんでしょう?」
「ほら、中迫景子さんよ。伊奈さん、覚えていらっしゃらないの?」
篠村龍子に言われたが、咄嗟には伊奈はその名に思い当るところがなかった。
「横浜の保土ケ谷の中迫さんよ。直子ちゃんが亡くなった日に、仕立てあがった洋服を届けに行った中迫景子さん……」
「ああ、思い出しました」
伊奈は一瞬、うつけたような思いに捉われていた。車で轢き殺された日の直子の足どりは、服を届けに行った中迫景子の家までで途切れていた。そこから直子がどういういきさつと経路をへて、死の現場となった八王子市打越町の野猿街道に行ったのかは、謎に包まれたままである。直子と最後に会ったことがはっきりしている中迫景子は、三月七日という、伊奈にとってはやはり謎をはらんで思える日に、直子を食事に誘っているというのだ。しかも、直子が食事に呼ばれたのは夜だから、その日の帰宅は遅かったはずである。遅くなった理由を彼女は説明したにちがいない。だが伊奈は、直子から店の客に食事によばれたという話を聞いた覚えはない。聞いていれば思い出すはずである。直子が店の客に食事に招かれたなどということは、他にはなかったのだから。直子は中迫景子の食事によばれたことを故意に隠している。そのことをどう考えていいのか、伊奈は迷った。
「あたしもこの日誌を見て、思いだしたわ。そうよ。あの日の何日か前に、中迫さんから直子ちゃんに、電話でお食事の誘いがあったのよ。だけど仕事がたてこんでたから、直子ちゃんはあたしたちに気兼ねして、日を延ばしてたんだったわ。で、三月七日の日に、ちょっと手が空《す》いたので、残業しなくていいから、今夜行ってらっしゃいよって、あたしのほうからおすすめしたのよ。中迫さんは直子ちゃんのこと気に入ってらしたし、お顧客さんのご機嫌伺いにもなることだしとあたしも思って……」
「よくあることなんですか? お客さんがお針子さんを食事に招くなんてことは……」
「よくあるってことじゃないけど、あっても別に不思議じゃないと思うけど……」
「中迫さんという人はそういうことが好きな人なんですね、きっと」
伊奈のことばつきは、ひとりでに探るようなひびきをおびていた。篠村龍子は、かすかに困惑気味な笑いを見せて言った。
「誰にでもお食事なんかをおごりたがる人かどうかは、あたしも知らないけど、ご自分でスナックをやってらっしゃるし、派手好きなところもおありだから、気に入った人にはそういうこともなさるんじゃないかしら」
「その夜は直子は、中迫さんの家でご馳走になったんでしょうか?」
「お家じゃなくて、横浜のホテルのグリルに行ったとか、直子ちゃんは言ってたわ」
「食事によばれたつぎの日は、直子に変ったようすはなかったんでしょうね?」
「気がつかなかったわ、別に。その夜、帰ってきてから直子ちゃんが伊奈さんに口をきかなかったっていうのは、中迫さんのおよばれの席で、何かあったのかしらねえ……」
篠村龍子は考え込む顔になっていた。
「なんだかふさぎ込んだように見えたんですよ。しょっちゅうあることじゃないから、ぼくもその夜のことはすぐに思い出したんですけどね」
「中迫さんは遊ぶことが好きな方だから、直子ちゃんをへんなところに連れて行っておつきあいでもさせたのかしら……」
篠村龍子はわずかに声を低めてそう言った。伊奈にはそれが、奥歯に物のはさまった言い方に聞こえた。
「中迫さんというのは遊ぶ人なんですか?」
「まあねえ。水商売をなさってる方だからいろいろと……」
「たとえばどういう遊びですか?」
「そんなすごいことはなさらないと思うのよ。あの方もご主人もお子さんもおありなんだから。ただ、ホストクラブに行ったり、スナックのお客さんたちと一緒にこっそり、へんな映画を見る会を開いたりはなさってるみたいなの。あたしも誘われたことがあるから」
「へんな映画というと、ブルーフィルムかなにかですか?」
「そうらしいわよ。直子ちゃん、もしかしたらそういうものを見るのに無理矢理つき合わされて、それでいやな思いをしたのかもしれないわね」
「直子に男の声でお店に電話がかかるなんてことはなかったですか?」
「そういうことは一回もなかったわ。それはあたし、責任もって言える。だから、解剖の結果のこと聞いても、いまでもあたし、信じられないわ」
篠村龍子は首を横に振って見せた。伊奈は仕事の邪魔をしたことを詫びて、腰を上げた。彼の頭の中に、中迫景子の存在が大きくふくれあがってきた。篠村龍子は、入口のドアのところまで伊奈を送って出てきた。
「伊奈さん、人間は忘れるってことも大事だと思うのよ。あなた、まだ若いんだし。早く立ち直ってちょうだい」
篠村龍子ははげますようにそう言った。伊奈は短い礼のことばを返して外に出た。直子のことを忘れられる日がくるとは、伊奈には思えなかった。だが、重苦しいこだわりを捨てられる日はやがて訪れるかもしれない。それはしかし、直子が隠し持っていた秘密の内容によるだろう――伊奈は歩道を染めている自分の小さな影に眼を落して歩きながら、そう思った。
2
洋裁店しのむらを出てから、伊奈はまず黒崎に電話をした。中迫景子のことを知らせるつもりだった。だが黒崎は西新宿のアパートの部屋にはいなかった。助川勇次の張り込みか、仕事を手伝ってもらっている調査員に会うかするために出かけたものらしい。伊奈は留守番電話に、今夜是非会いたいから遅くなってもアパートで待っていてくれるように、というメッセージを吹き込んで、受話器をもどした。
伊奈はその後で、電話帳で渋谷にあるレンタカー会社を探し、場所を聞いて足をはこんだ。
借りたレンタカーを、伊奈が保土ケ谷の中迫運送店の近くに停めたのは、午後四時近い時刻だった。覚えのある中迫運送店という看板と、事務所の出入口が、フロントガラスの先に見えている。事務所の横のせまい路地が、住居への入口になっていることも、伊奈は知っている。
車を停めたまま、伊奈は降りようとはしなかった。どう動くかは難しいところだった。
中迫景子が、直子の抱えていた秘密に、なんらかの形で、関わっていることは、ほぼまちがいはなさそうだった。直子が三月七日の夜に、中迫景子に食事に招かれながら、その事実を伊奈に明していないことからもそれは窺える。殺された日の直子の足どりが、中迫景子の家までで途切れていることにも疑惑は残る。
問題は、中迫景子も直子の生命保険金を詐取した一味につながっているかどうかである。その疑いは、状況から考えて、決して薄くはない。それだけに伊奈としては、迂闊には中迫景子の前に出ていけない。正面切って三月七日の夜のことをたずねれば、中迫景子が犯人の一味である場合は、口を閉ざしてほんとうのことを押し隠すだろう。その上、こちらの調べの進み具合を、わざわざ相手に知らせてやることにもなってしまう。
伊奈は逸《はや》る気持を押えて、中迫景子の身辺をマークしてみることにしたのだった。伊奈は中迫景子に顔を知られている。張込みは慎重を要した。顔を知られていないはずの黒崎と交替したいところだったが、連絡がつかないのでは仕方がなかった。
伊奈が中迫景子に会いに保土ケ谷まで足をはこんだのは、直子が殺された十日後だった。仕立て上がった洋服を届けに来たときの、直子のようすを訊くために、伊奈は中迫景子をたずねたのだった。伊奈は街路樹の木陰に停めた車の中で、そのときの中迫景子のようすを思い出してみた。
夕方だった。玄関に出てきた中迫景子は、自分が開いているスナックに出かけるところだ、というふうなことをたしか口にした。水商売をやっているという印象はさほど感じられなかった。それよりも神経の図太いただの家庭の主婦といった感じのほうが、より強く伊奈の中には残っている。会った場所が彼女の住いの玄関先だったせいなのか。伊奈の質問にはよどみなく答えていた。言いしぶったり、隠しごとをしたりしているふうには見えなかった。口ぶりが重かったのは、訊かれた事柄が事柄だったせい、とも思えた。そのとき伊奈がたずねた事柄は、取りようによっては相手に迷惑な気持を起させかねないものだったのだ。中迫景子の家を出たまま、直子の足どりは途切れて、やがて数時間後に八王子市の南のはずれで、死体となって見つかっている。そして伊奈は中迫景子に、直子のようすや足どりについて、かなりしつこい質問を重ねたのだから――。
伊奈が車を停めて小一時間ほどしてから、前方の道に中迫景子が現われた。彼女はどこかに出かけていたらしい。胸の前にはふくらんだ大きな紙袋をかかえていた。買物から帰ってきたところ、というふうにも見えた。伊奈の見ている先を、中迫景子は急ぎ足で歩いて行き、事務所のドアを開けた。入口に立ったまま、事務所の中に何か声をかけて、すぐに横の細い路地に姿を消した。
中迫運送店の事務所は、やがて人の出入りがあわただしくなった。車が前の道に何台も停まっては、すぐに走り出していく。トラックとライトバンばかりだった。従業員たちが仕事先から帰ってきたところだろう。そういうふうに見えた。
つぎに中迫景子が姿を見せたのは、ちょうど午後七時ごろだった。藤棚の店に出かけるところと見えた。中迫景子は、髪をアップふうに丸く結いあげて、淡い青色の和服に紺色の帯をしめていた。手には大きな手さげバッグと紙袋をさげていた。白い足袋をはいているのが、宵闇の中でぼんやりとしれた。路地から出てきた中迫景子は、そのまま車道を小走りに横切って、伊奈が車を停めているほうにやってきた。伊奈は一瞬、どきりとした。中迫景子は、伊奈の乗っている車の先に足を停めて、車の列に眼を投げた。タクシーをつかまえるつもりと見えた。そのとおりだった。彼女は空車を停めて乗り込んだ。
伊奈はエンジンをかけ、すぐに車を出した。道は混雑のピークを過ぎて、いくらかすきはじめていた。尾行は難しくはなかった。中迫景子の乗ったタクシーは、すぐに横道にそれて、小さな角をいくつか曲りながら進み、やがて停まった。赤ちょうちんや、お茶漬屋やスナックの看板が目につく場所だった。
タクシーが停まると同時に、伊奈も車を停めた。エンジンを切り、彼は車を降りた。中迫景子は、すでにタクシーを降りて、すぐ前の店のドアを押したところだった。伊奈の姿に気づいているようすは見えない。伊奈はゆっくりと足をはこんだ。中迫景子の姿はすぐに店の中に消えていた。ドアの前のプラスチックの置看板には明りが入っていた。白い地に〈スナック・景〉という青い文字の浮き出た看板だった。店主の名前の一字を採った命名なのだろう。
伊奈はその店の前を通りすぎて、しばらく進んでから、引き返した。ちょうど伊奈が景の前までもどってきたとき、不意に店のドアが中から開けられた。出てきたのは派手な化粧をほどこした若い女だった。女は小さく頭を振るような歩き方でドアの前を離れて行く。開いたドアごしに、店の中が束の間見とおせた。伊奈はすばやく視線を送った。中は薄暗かった。カウンターの一部だけしか見えない。カウンターの中に、青い和服の背中が見えていた。中迫景子にちがいなかった。店から出てきた女は、三軒先のたばこ屋の前で足を停めた。伊奈はゆっくりとその前を通りすぎた。女がたばこをカートンケースごと受取るのが、眼の端に見えた。店で客に売るための買いおきのたばこだろう、と思えた。
車にもどった伊奈は、またあてのない退屈な時間の経過に耐える覚悟をした。中迫景子が、直子の生命保険を詐取した一味と関わりがあるとすれば、その中の誰かが景に出入りしていることも考えられる。一味の中の諸住公子と、公子と一緒に保険金を引出しに銀行に現われた男と、助川勇次については、伊奈は顔を知っている。その中の誰か一人でも景に現われたとなると、中迫景子への疑惑はさらに濃くなる。決定的と考えていいかもしれない。そうなることを期待して、伊奈は張込みをつづけてみる気になった。
車を停めている道のうしろのほうに、おにぎり屋の看板が見えていた。時刻は七時半になろうとしていた。伊奈はふたたび車を降りて、おにぎり屋に行き、そそくさと夕食をすませた。日本酒を銚子一本だけ空にした。張りつめている神経を和らげようと思ったのだ。
景はさほどはやっている店ではなさそうだった。伊奈は景の看板の明りが消えるまで、客の出入りを見張りつづけた。その間に店に入った客は十人をいくらも超えていなかった。その中に伊奈の知った顔は見えなかった。
明りが消え、中迫景子が外に出てきて、ドアに鍵をおろすのが見えたのは、午前一時近くだった。店をあけてすぐに、たばこを買いに出てきた女が一緒だった。それまでの六時間余り、伊奈は車を何回か移動させながら、張り込みをつづけた。車を停めっ放しにすると、人の眼について不審がられそうだった。
そうした苦労も、ひたすら待つだけという退屈に耐えたことも、すべては徒労に終った。中迫景子と若い女は、タクシーを停めて乗り、景子のほうが先に保土ケ谷の自宅の前で降りた。それを車の中から見届けたとき、伊奈は何もかも放り出したいような、体の芯が抜けてしまったような、言いようのない疲労を覚えた。頭の中は空白のまま熱をおびているような感じがあった。いらだちは千本の針となって、胸の中で渦を巻いていた。そのまま中迫景子の家に踏み込んでいって、力ずくで相手を問い詰めたいという無謀な衝動が、いらだちと共に伊奈を突き動かしていた。
伊奈は東京に向けて走らせている車の中で、誰へともない大きな罵声をくり返しあげることで、辛うじていらだちと衝動をまぎらすしかなかった。
西新宿の黒崎の住むアパートに着いたときは、午前二時をいくらか過ぎていた。黒崎は小さくうなずいて、無言で伊奈を部屋に迎え入れた。黒崎の顔にも、疲労と焦躁が色濃くにじんで見えた。吐く息に酒の匂いがまじっていた。部屋は散らかっていた。伊奈ははじめて見る黒崎の住まいのようすに、いささかたじろいだ。乱雑というよりも荒廃と呼びたいような気配がどことなく漂っていた。人が寝起きしている場所になにがしか必ず感じられる、匂いとか息づきといったものが、ひどく稀薄に思えた。上り口の板の間は足跡がつくくらいに埃が溜まっていた。冷蔵庫は廃物のように外側が黒ずんで見えた。六畳一室の部屋は、古新聞や酒びんやインスタント食品の空っぽの容器や、その他の雑多なもので、足の踏み場もないありさまだった。押入れがあいていた。押入れの上の段に夜具が敷いてあった。下の段には衣類が段ボールに突っ込まれたまま、山を築いていた。
「ひどいだろう」
黒崎はにこりともせずに言った。
「ひどいな。すこしはなんとかしろよ」
伊奈は遠慮のないことばを返した。
「そうは思うんだが、ここまでなると手がつけられない」
黒崎は他人事のように言った。言いながら彼は、部屋のまん中に腰をおろした。そこには安物のウイスキーのびんと、くもりのしみついたようなグラスが二つ、週刊誌を盆代りにして置いてあった。一つのグラスには酒が注がれている。黒崎はそこで一人で飲みながら、伊奈を待っていたらしい。
「飲むかい?」
言って黒崎は伊奈の返事を待たずに、空いていたグラスにウイスキーを注いだ。
「汚ねえグラスだな」
伊奈は酒を注がれたグラスを、口にはこびながら、苦笑いを浮かべた。
「昧は変らないぜ。それに、アルコールには消毒作用があるからな」
黒崎も負けてはいなかった。伊奈はグラスの酒を喉に流し込んだ。黒崎との短いやりとりと、喉を灼いて走る酒とが、伊奈の気持をいくらか平らにしていた。
「是政の金貸し野郎は、今日は事務所を閉めて、家族そろって車で出かけやがったよ」
黒崎はいまいましそうにことばを吐いた。
「遊びにか?」
「千葉の白浜の先の民宿に何泊かする気らしい。くそったれめが」
「千葉までつき合って行ったのかい?」
「遊びだということははじめから見当はついたんだ。子供まで連れていったんだからな。だが、もしかして行った先におもしれえ奴でも面《つら》を出すんじゃねえかなんて、助平心出して、遠っ走りしたんだ」
「たいへんだったな」
「楽じゃなかった。行ってはみたが、さすが金貸しだ。ケチな民宿に泊りやがるのよ。泊るところでもありゃ、もっとつき合ってしつこく喰らいついていようと思ったけどな。民宿はどこも一杯だってえから、あきらめてとんぼ返りしてきた。帰ってきてみたら、ろくなことは待っちゃいなかった」
「どうかしたのか?」
「福岡で黒こげになった内野久美子と長田治って野郎たち、あんたの言った住所には住んじゃいなかったんだってさ。手を貸してくれてる仲間が調べて知らせてきたんだよ」
「住んでないってのはどういう意味なんだろう?」
「内野久美子のほうは、一年ぐらい前まで、たしかに南千住六丁目の青葉荘ってアパートにいたというんだ。だが引越してるんだ。住民票を当ってみたら横浜の戸塚に転出してることになってるんだが、その転出先にはいまはいないし、行先も判らないって話だ」
「長田治のほうは?」
「こっちも同じような話だよ。こいつは二年前まで稲城市の東長沼に住んでたことは、やっぱり住民票で判ったというんだ。ところが転出届が出てる。その転出先ってのがふるってるんだ」
「でたらめなのか?」
「まさか。でたらめな所番地じゃ役所の書類は通らないだろう。ちゃんとした転出先が書いてあったよ。静岡市東千代田三の一、これ、どこだと思う?」
「どこだい?」
「刑務所だよ。調べてみて判ったらしい」
「するとあの殺し屋は、前科者だったのか」
「けちな強盗《たたき》やって、一年ちょっと喰らい込んでたらしい。出たのは去年の十二月なんだ。これも仲間が手をまわして確かめてくれたんだ。出所後の居所は不明だとよ。もっともいまは内野久美子も長田治も、住所は地獄の三丁目ってことが、おれとあんたには判ってるけどな」
「福岡の警察が発表した、あいつら二人の住所は、奴らの車の免許証に書かれてあったのをそのまま使ったんだな、きっと。奴らはレンタカー借りるときに、レンタカー会社の窓口で免許証を見せてるはずだからな」
「そういうことだろう。免許証の住所変更の手続きをしない人間てのは少なくないって話だからな」
伊奈は黒崎のことばにうなずいた。
「あんたのほうは、なにか拾い物があったんだろう? そう願っておれはあんたの伝言どおり、寝ないで待ってたんだぜ」
「拾い物があったことはあった。だが、値打ちはまだ判らないんだ」
伊奈はそういうふうに言ってから、中迫景子にまつわる疑惑を説明した。話を聞き終えても、黒崎はすぐには何も言わなかった。彼は低くうなるような声をあげると、埃とがらくたで埋まった畳の上に仰向けになった。脚はあぐらに組んだままである。眼は天井に投げられている。
「手詰まりだもんな……」
しばらくして黒崎は独り言のようにことばを吐いた。それから黒崎ははずみをつけるようにして起き、グラスの酒をすすると、にやりと笑ってから言った。
「やってみるか、一丁……」
「何を?」
伊奈は黒崎のもくろみが読めなかった。
「ゆさぶってみるか、中迫景子を……」
「ゆさぶる?」
「眺めてれば向うで勝手に尻尾を出すってもんじゃないだろうからな。正面切って中迫景子に三月七日のことを訊いてみるのも手だぜ」
「それがいちばん手っとり早いにはちがいないけど、しかし……」
「賭けだっていうんだろう。おれもそう思う。だけど、おれたちにはいまこれという攻め手はないぜ。中迫景子がもし事件に絡んでいなかったとしたら、三月七日にあんたの奥さんに何があったのか、すんなり話してくれるだろう。そこで何かがつかめるかもしれん。逆にもし事件に絡んでたら、相手はうろたえるはずだ。あんたに三月七日のことを訊かれて、足もとに火がついたと思うだろうからな」
「こっちの動きを知らせることになりゃしないか?」
「なる。そして向うも動くだろうな。動けば何かが出てくる。奴らはこっちがどこに向ってどこまで動いてきてるか、まだ知らないはずだろう?」
「知ってれば、内野久美子を福岡までよこして囮に使って、おれにいろいろ訊かせたりはしなかったはずだよ。おれが久美子の口を割らせようとしたことを逆用して、奴らこっちの動きをつかもうとしたんだから」
「その内野久美子も、殺し屋の長田治って野郎も、福岡であんたの口から聞いたことを東京に伝える前に死んじまった」
「ただ、奴らはおれが長崎や福岡に出かけたことは知ってたわけだよ。それを知ってたってことは、奴らもこっちの動きをずっとマークしてたってことにならないか?」
「そういうことだろうな。そういうことだからなおのこと、ここらで一発ゆさぶりをかけてみるのもわるい手じゃないと思うぜ。ひょっとしたら是政の金貸しも、おれたちにマークされてるってこと知ってるから、尻尾を出さないのかもしれないんだ。奴らにしてみれば、こっちがマークだけしててぶつかってこないのを見て、決定的なネタをつかんでいないからだと見抜いて、高をくくってるのかもしれないしな」
「中迫景子に対しても、マークだけしてるのは時間の無駄ってわけか……」
「おれはそう思うよ。それに、三月七日ってネタは、そうわるいネタじゃなさそうだ。その日、あんたの奥さんに何事かが起きたことはまちがいないと思えるしな」
「やってみるか……」
話しているうちに、伊奈の考えも黒崎の主張のほうに傾いていった。
3
つぎの日の正午に、伊奈と黒崎は渋谷のレンタカーの店で落ち合った。前の日に伊奈が車を借りた店である。
伊奈はそこで、借りたままになっていた車を返し、黒崎の車に乗った。
二人が最初に行ったのは、牛込柳町だった。表通りに面した大きな金物屋の二階の窓に、探偵事務所の看板が出ていた。そこの主が黒崎の仲間だった。黒崎と同じように、元は刑事で、助川勇次の身辺調査を引受けてくれるなどして、伊奈たちに陰で力を貸してくれている男だった。
黒崎は仲間と車を取り替えて使うために、そこをたずねてきたのだった。黒崎の車の車種やナンバーが、諸住公子たちにすでに知られているおそれがないとはいえなかった。知られているとすれば、その車を保土ケ谷の中迫景子の家のそばに停めておくのは避けたほうがよい。そうした配慮から、伊奈と黒崎は仲間の車を借りて出かけることにしたのだ。
伊奈は黒崎と一緒に金物屋の二階の探偵事務所に上がって行き、そこの主に初対面の挨拶をして、手を貸してもらっている礼を述べた。事務所とは名ばかりで、粗末な事務机と電話の他には、傾きかけた書類棚があるだけの、ひどくせまい部屋だった。部屋の主は四十がらみの、色の黒い、不愛想な男だった。
伊奈と黒崎は、すぐにその部屋を出た。借りる車は近くの青空駐車場に置いてあった。古びてボディの光沢のすっかり失せたブルーバードだった。
伊奈がハンドルをにぎって、保土ケ谷に向った。道はどこも混雑していた。黒崎はシートにもたれて眼を閉じていた。眠っているわけではなかった。ときどき二人はことばを交し合った。そのほとんどが、いわばとりとめのない話だった。伊奈は緊張していた。これから訪ねる中迫景子が、敵の一味であった場合、事態はどう動いていくのかということを思うと、気持は昂ぶるのだった。黒崎も同じ思いでいることが、伊奈には判っていた。だからこそ、二人はそれぞれの心を最も多く占めていることについては口をつぐんで、とりとめのない無駄口ばかりを交していた。
しかし、すべてが無駄口だったわけではなかった。
「野郎たちを全部ふんづかまえたら、あんたどうやってケリをつける?」
黒崎がだしぬけにそう訊いた。あいかわらず眼を閉じたままだった。車は第三京浜の出口にさしかかっていた。伊奈は訊かれたことにすぐには答えられなかった。気持はとうに決まっていた。だが、ことばにはなりにくいのだ。
「ぶっ殺すか?」
黒崎が促した。冗談の口調ではなかった。
「それも考えてる」
伊奈は言った。
「他にも考えてることがあるのか?」
「問題は奴らの動機だよ。というよりも、おれの女房のほうの動機かな」
「あんたの奥さんが、どういうわけで自分の命を捨てることになる保険金詐取に手を貸したか、その理由によって、ケリのつけ方が変るってことか?」
「ああ」
「だろうな。そこんところが一番の謎だもんな」
「万が一、女房が百パーセントおれを裏切ってたのなら、おれは奴らをぶっ殺すことまではしないつもりだ。もしそうなら、おれがぶっ殺すべき相手は奴らじゃなくて、死んでしまった女房のはずだからな」
「奥さんが犠牲者だったら?」
「犠牲者?」
「なんかのいきさつから、奥さんが奴らに追い詰められたか、利用されたかして、こういうことが起きたんだとしたら?」
「そのときは絶対に奴らを赦さない。女房が殺されただけでなくて、おれの命まで何度も狙われたんだからな」
「諸住公子はあんたの奥さんとは血のつながった姉妹だぜ。それでもか?」
「姉妹のくせに、奴は妹の命を金に換えてるんだ。そんな奴、赦せるか?」
「気持は分るな」
黒崎はそう言った後で黙りこんだ。伊奈は黒崎に短い視線を投げた。黒崎はやはり眼を閉じている。伊奈はふと胸を突かれた。
伊奈は復讐の思いにかられて、その日まで敵を追い詰めてきた。だが、黒崎はそうではない。彼は高額の保険金詐取犯人を突きとめて、保険調査員としての実績を看板にしたいという、明快で実利的な願望から、伊奈と手を組んだのだ。冗談めかした言い方ではあったが、伊奈と手を組んだはじめに、黒崎ははっきりそう言った。伊奈がそれまで警察の手を借りようとしなかったのは、自分の手で敵を追い詰めて裁きたいからだ。黒崎も警察に頼ろうとはしない。それは彼の刑事としての挫折に根を発した、かたくなな意地のせいである。
伊奈がもし、追いつめた犯人たちを、復讐のために殺したら、黒崎の願望と立場はどうなるか?
伊奈は復讐が果せるのなら、殺人犯として罪を負うこともおそれてはいない。そこまで気持は一途に突き進んでいる。事実、相手を殺せば逆に警察に追われる身になるだろう。それを免れようと思えば、殺人の動機も犯行そのものも匿《かく》さなければならない。それを匿すということは、保険金詐取そのものを匿すことに他ならない。そして、黒崎のそれまでの苦労も、彼の実利的な願望も実らないままに終ってしまうことになる。だいいち、保険金詐取の事実を隠しとおすことは、実際には不可能に近いのだ。四つの保険会社が伊奈厚名義で、総計二億円を超す保険金を払い出していることは消せない事実だ。伊奈と黒崎が口をつぐんでいても、税務署は伊奈本人が保険金を手にしたものとして課税してくる。課税額はどれほどのものになるのかわからないが、伊奈にはそれを払う力も気持もむろんない。そこに破綻のひとつの芽がひそんでいる。
保険金詐取の事実を匿さずに、なお、復讐のために伊奈が一味を殺したら、黒崎も伊奈の私的な制裁に関与したとして、相応の責を負わされることはまぬがれまい。保険金詐取犯人を突きとめはしたが、それは黒崎の望むような実績にも看板にもなるまい。
にもかかわらず、黒崎は相手をぶっ殺すという伊奈に対して口をつぐんでいる。黒崎のそうした姿には、伊奈のあくなき報復を黙ってゆるそうとするようなところさえうかがえた。伊奈が胸を突かれたのは、そのためだった。彼は黒崎の気持を測りかねた。
「おれが奴らをぶっ殺せば、あんたとしてはいままでの苦労が元も子もなくなるな」
伊奈は言ってみた。黒崎は眼を閉じたままうっそりと笑った。
「元も子もなくなるかどうかは判らないさ。とにかく犯人を突きとめたってことにはなるんだからな。だが、あんたのやる人殺しを黙って見てたってことになると、おれもただじゃすまないだろうな」
「迷惑なら言ってくれ」
「人の気持は動かせないもんだとおれは思ってる。おれがあんただったら、やっぱり野郎ども生かしちゃおかねえって気になるだろうからな。おれはただ見てるしかなさそうだ」
黒崎は笑ったままの顔で言った。今度は伊奈のほうが口をつぐんだ。伊奈はことばを失っていた。黒崎の気持が胸の底にまでしみてきて、伊奈からことばを奪っていた。
保土ケ谷に着いたのは、午後二時半近かった。伊奈は中迫景子の家の前を通りすぎながら、黒崎に場所を教えた。黒崎はうなずいた。中迫景子の家を二百メートル余り過ぎたところで、伊奈は横道に車を乗り入れて停めた。無言で降りた。そのまま、いまきた道を引返した。
中迫運送店の事務所には、女の事務員と、体の大きな男の姿が見えた。男はようすから見て、景子の夫ではないか、と思えた。伊奈はそれを横眼で見ながら、事務所の横の路地を入った。
ブザーを鳴らすと、中から女の声の返事があった。中迫景子がドアを開けて中から顔を出した。中迫景子は伊奈の顔を見ると、小さな声をもらしてうなずくような仕種を見せた。格別うろたえたような表情ではなかった。三週間余り前にたずねてきた伊奈の顔を覚えていて、それでうなずいた、というふうに見えた。むしろ、軽い戸惑いを覚えたのは伊奈のほうだった。中迫景子はまったく化粧をしていなかったのだ。そのために、三週間前に伊奈が見て覚えている印象とは、かなりかけちがって見えたのだ。伊奈は一瞬、別人かとさえ思った。
「また、突然、お邪魔に上がりました」
伊奈は緊張を押しかくして言った。
「なんでしょう?」
中迫景子はわずかにほほえんで見せた。いくらかこわばったほほえみに見えた。
「女房のことで、またちょっとおたずねしたいことがありまして」
「どういうこと?」
「実は、恥をさらすようですが、女房はぼくに何か隠しごとをしてたようなんです。そのために八王子なんて、なんのひっかかりもない所で車なんかにはねられて死ぬ羽目になったんじゃないかと思えるふしがあるんですよ」
「直子さん、何をご主人に隠してたのかしら?」
「それが判らないんですよ。ただ、今年の三月七日の夜に、遅く家に帰ってきてから、ぼくにろくすっぽ口をきかなかったことがあるんです」
「三月七日なんて、ずいぶんはっきり覚えていらっしゃるのね」
「ぼく、日記つけてるもんですから、女房のこといろいろ考えて、日記を読み返してみたんです。で、どうもその三月七日から、女房のようすがおかしくなってるんですよ」
「おかしいって、どういうふうに?」
「ふさぎこんでいたり、妙に落着きがなくなったりして……」
「でも、どうしてそんなことをあたしに訊きにいらしたの?」
中迫景子の声には、かすかに固いひびきがこもっていた。だが、依然として動揺の色はない。
「奥さんなら、あるいは何か知ってらっしゃるんじゃないかと思いまして……」
「あら、どうして?」
「これも日記に書いてあったんですが、奥さんは今年の三月七日の夜に、女房を食事によんでくださったでしょう?」
伊奈は相手の眼を見すえるようにして言った。中迫景子は伊奈の視線をはずしはしなかった。彼女は一呼吸の間をおいてから、いくらか高い声で言った。
「あたしが直子さんをお食事に?」
「まちがいじゃないと思いますが……」
「そんなことがあったかしらねえ。なにせ五ヵ月も前のことだから、よく覚えてないけど、あなたの日記にそう書いてあるのなら、そうだったんでしょうね」
「ぼくは女房からその夜聞いて、そのとおりに日記に書いたんですから……」
「三月のはじめごろ、直子さんをお誘いしたような気もするわ、言われてみると」
「そのとき、何か変ったことはなかったでしょうか?」
「わたしはお食事にお誘いして、その後でお別れしただけですよ。その間には別に変ったことなんて……」
「ぼくにはどうも、三月七日を境にして女房のようすが変ったと思えてならないんです。たとえばその夜、女房がある特別な人に会ったとか」
「ある特別な人って、たとえば?」
「つまり、女房にとって、思いがけない人とか、忘れることのできなくなるような人とか、ショックを受けるような人とか……」
伊奈は言った。下手な質問であることは承知の上だった。狙いは何かを訊き出すことよりも、敵に通じているかどうかの判らない中迫景子をゆさぶってみることにあるのだ。
「それ、たとえば直子さんが好きになってしまうような男の人、という意味でおっしゃってるんですか?」
「そういう男でもいいし、あるいは、そうですね。双生児でもいいですよ」
伊奈は思いきって言った。
「双生児?」
中迫景子は鸚鵡《おうむ》返しに言った。言って彼女は唾を呑み込んだ。伊奈はそれを見逃さなかった。伊奈は胸の躍るのを覚えた。それを隠して、彼はわざと小さく笑ってから、ことばをつづけた。
「たとえば女房に、彼女の知らない双生児の姉か妹がいてですね、その双生児の片割れに突然、三月七日の夜にどこかで会ってショックを受けたとか、そういうことはありませんでしたか?」
「小説かお芝居の上にはそういうことがよく起るみたいだけど、あたしの覚えてる限りでは、あの晩には何事もありませんでした。はっきりそれは言えるわ。何か特別なことがあれば、あたしだって覚えてるはずですもの。それに、仮に直子さんが双生児の相手に突然会ったとしてもよ、どうしてそれをご主人のあなたに隠さなきゃならないのかしら。変ですわよ、そんなの……」
中迫景子は突然、雄弁になっていた。
「いや、双生児と言ったのは物のたとえで、三月七日の夜に、何かが女房の身の上に起きたことはまちがいないと思ったんです。それで奥さんをおたずねしたんです」
「お役に立たなくてわるいんですけど、あたしには思い当ることはないわ」
「そうですか……。じゃあ、奥さんのご存じないところで何かあったんでしょうね」
伊奈は言い、礼を述べて玄関の前を離れた。路地の出口で、伊奈は背後に玄関のドアの閉められる音を聞いた。伊奈はふり返らなかった。道路に出て、中迫運送店の事務所の前をゆっくりと通った。女の事務員が、ボールペンの先で頭を掻いていた。体の大きな男は、笑った顔を道路のほうに向けて、電話で何かしゃべっていた。中迫景子が、直子の命を奪った一味とつながっていることは、断定はできない。だが、伊奈の印象の上では疑いははれていない。
黒崎の乗った車は、元の場所に停まっていた。彼は運転席に移っていた。伊奈はあたりを見回してから、車の中にすべり込んだ。
「手応えがあったかい?」
黒崎が待ちかねたように言った。伊奈は小さく首をかしげた。
「なんとも言えないな。ただ、たとえ話に双生児のことを持ち出したら、ぎくっとしたみたいに唾をのみこんでから、むきになってしゃべりはじめやがった。あのようすはひっかかるんだよな」
「ともかくゆっくりと、向うさんの出方を拝見しましょう」
黒崎は語尾をはねあげて言い、車を出した。
伊奈が中迫景子の姿をつぎに眼にしたのは、四十分余り後だった。
中迫景子はさっきとはちがうスミレ色のワンピースを着て、路地から道路に出てきた。外出をするらしい。腕にバッグをさげていた。伊奈と黒崎は、中迫運送店とは車道をはさんだ真向いに停めた車の中から、それを見ていた。
「這い出してきやがったな」
黒崎が言った。彼は車のエンジンをかけた。
「双生児の一件を嗅ぎつけられたって誰かのところにご注進にかけつけるというんだったらおもしろいがね」
伊奈は言った。黒崎は中迫景子を眼で追いながらうなずいた。
中迫景子は事務所の入口に背を向けて歩きだした。だが、彼女はすぐに足を停め、歩道の端に立って、車の列に眼を投げた。
「タクシーつかまえる気だぜ」
伊奈は言った。言い終らないうちに、一台のタクシーが中迫景子の前に停まった。中迫景子が乗り込み、タクシーは走り出した。
「ここはUターン禁止かもしれないな」
黒崎は言った。言いながらすでに彼は車を出し、Uターンをはじめていた。
中迫景子の乗ったタクシーは、保土ケ谷駅の先を左折して、井戸ケ谷を抜け、蒔田町に入って、小さな道を縫うように走りながら、国道十六号線に出た。そのまま横須賀方向に進んでいく。黒崎は距離をちぢめたり離れたりしながら車を走らせた。タクシーはやがて、磯子の駅前に入りこんで停まった。だが、中迫景子は車から降りるようすはない。代りに彼女は、車の窓を開けて大きく腕を振りはじめた。誰かを呼んでいるようすだった。
黒崎は車を離れたところに停めていた。彼は中迫景子が車の窓から手を振りはじめるとすぐに、車を発進させた。車は徐行しながら道路に向った。
一人の男が駅舎の前の人混みを離れた。中迫景子の乗っているタクシーに向って、小走りに駈け出している。薄茶のサマースーツを着た、恰幅《かつぷく》のいい初老の男だった。ノーネクタイでサングラスをかけ、やはり茶色っぽいハンチングをかぶっていた。ハンチングの下に、ゆるく波を打ったような白髪がのぞいていた。
それを見届けたとたんに、伊奈は思わず無言で黒崎を見た。黒崎も伊奈を見た。見交した二人の眼がはげしい色に燃えていた。
「杉江じゃないのか、奴は……」
伊奈はひそめたような声で言った。
「ならいいけどな。お初にお眼にかかります、といきたいよ」
黒崎はおどけたように言った。が、眼は笑ってはいなかった。男は中迫景子の乗ったタクシーに乗り込んだ。タクシーはすぐに走り出した。やはり横須賀方向に向っていく。
伊奈も黒崎も、杉江を直接見たことはない。新宿のシャポーのバーテンと、直子の死亡診断書を窓口で渡したという、八王子の救急病院の職員の話でしか、杉江の人相については知らなかった。だが、いま、中迫景子とタクシーに同乗した男は、年恰好、恰幅のよさ、波を打つ白髪など、話に聞いた杉江にぴったり一致している。伊奈は期待を抱いた。黒崎も同じだったのだろう。彼は車を走らせて尾行をつづけながら、はずんだ口調で言った。
「だんだん役者がそろってきやがったって感じがするけどな。これで諸住公子と助川って野郎が這い出してきてくれれば、オールスターキャストだ」
4
陽が西に傾いていた。だが、夏の日は長い。暮れきるまでにはまだ間があった。
伊奈と黒崎は、天火で焼かれるような暑さに耐えて、借り物のブルーバードの中にいた。場所は大船の町はずれの道である。車の前方二十メートルほどのところの右側に、ラブホテルの入口が見えている。看板には〈ホテル月の瀬〉とあった。
中迫景子と、杉江ではないかと思われる連れの男を乗せたタクシーが、そのラブホテルの門の前に停まったのは、二時間近く前である。タクシーから降りた二人は、そのままホテルの中に消えていった。二人は磯子駅の前で落合うと、まっすぐそこまでタクシーをとばしてきた。
中迫景子の連れの男が、杉江かどうかはまだ断定はできない。伊奈と黒崎は、ラブホテルから出てくる男を尾行して、素性を突きとめるつもりでいた。
ラブホテルの門の手前が駐車場の入口になっていた。そこには中に停めてある車が見えないように、緑色のビニールののれんがさげてあった。そののれんがゆるやかな風に揺れている。
「風が出てきたな、いくらか」
伊奈は言った。
「すこしは涼しくなってほしいよな」
黒崎は皺だらけのハンカチで首すじを拭っている。
ブルーバードの運転席の灰皿は、吸殻があふれんばかりになっていた。ひたすら待ちつづけるだけの伊奈と黒崎には、たばこを吸うことと、ふきでる汗を拭うことと、つまらないカーラジオの放送を聴くしか、することがなかった。
伊奈はいっぱいになった灰皿をちらと横眼で見ながら、またたばこの袋に手をのばした。ホテルの駐車場ののれんが押し分けられて、一台の車が道に出てきた。伊奈はそれをぼんやりと眼で追いながら、抜き取ったたばこを口にくわえた。
駐車場から出てきた車は、道に出るとすぐに端に寄って停まった。運転席から男が降りてきた。伊奈はゆっくりとシートから背中を離した。伊奈の口から、まだ火のついていないたばこが落ちた。眼が光っていた。
「おい……」
伊奈は車から降りてきた男から眼を放さずに、黒崎の腕をつついた。黒崎ももたれていたシートから背中を起した。車から降りた男は、駐車場ののれんをくぐって中に消えた。
「見たか?」
伊奈は言った。
「似てるな。そっくりだ」
黒崎が力んだように言った。伊奈はポケットの手帳を取り出した。中に写真が一枚はさんである。光洋銀行目黒支店の防犯カメラが写した写真である。カウンターの前に立った諸住公子と連れの男が、並んで写っている。伊奈は写真を凝視した。黒崎ものぞきこんできた。
「まちがいないんじゃないか。野郎だよ」
黒崎が言った。伊奈は写真から眼を放した。ラブホテルのほうに眼をやった。緑色のビニールののれんが揺れて、また車が一台すべり出てきた。その車も道に出るとすぐに停まった。さっきの車のすぐ前だった。ドアが開き、またさっきの男が降りてきた。伊奈と黒崎は燃えるような眼で男の顔を捉えていた。
「くそ! とうとう面《つら》を出しやがった」
「絶対だ。野郎まで双生児だなんてことがない限り……」
伊奈と黒崎は口々に小声で言った。車から降りた男は、こんどは駐車場へはもどらずに、先に停めたほうの車に乗った。
「車を入れ替える気じゃないのか?」
黒崎が言った。それは当たっていた。男の乗った車は、バックで駐車場の中にもどっていった。男はすぐにまた道に出てきて、停めてあった車に乗った。その車の向きは、伊奈たちの車のほうを向いている。十メートル余りしか離れていない。伊奈は大きく息を吸い、吐いた。
「連れはいないのかね」
黒崎が言った。男の車がスタートした。車はすぐに、伊奈たちの横を通りすぎていった。車の窓はしめてあった。だが、窓ごしに男の顔は正面からも横からも、間近に眼にできた。銀行の防犯カメラが捉えたままの容貌だった。
「行くぞ!」
黒崎が言って車のエンジンをかけた。助手席で伊奈は大きく体をひねって、後方に走り去っていく車を眼で追った。道幅はせまかった。Uターンはできない。黒崎はホテルの前まで車を進めて停めた。ビニールののれんのかかった駐車場の入口に、車の後部を突っ込んで、方向を変えた。男の乗った車はスピードを変えずに百メートルほど前を走っていく。
「中迫景子の連れのほうはどうする?」
ふと思いついて、伊奈は言った。黒崎は束の間、思い迷ったようすだった。
「ほっとけ。野郎は中迫景子を張ってれば、また面を出すさ」
黒崎は言った。
「そうだな。こっちはいま逃がしたら、またいつ会えるかわからないもんな」
「あんたかおれか、どっちかがホテルを張るという手もあるけど、車が一台じゃどうしようもないもんな。どうせ奴らはホテルを出たら車をつかまえるだろうからな」
「奴には連れはいなかったのかね?」
伊奈は胸に湧いた不審をことばにした。
「まさか。ラブホテルに一人で行くばかはいないだろう。連れはまだ残ってるか、先に帰ったかだろう」
「連れの面も見たかったな。諸住公子だったかもしれないからな」
「しかし、妙だな、考えてみれば」
「なにが?」
「奴は自分で駐車場の車を入れ替えてたな。きっと他の車が邪魔で駐車場から出られなかったんだろうが、車の入れ替えを客にやらせるのかね、あのホテルは……」
「そういえばそうだな」
「もしかすると、野郎はあのホテルで働いてる人間じゃないのか?」
「だとしたら、連れがいなくっても不思議じゃないな」
「それに、中迫景子が杉江らしい男と、あのホテルに入ったのもうなずける。磯子からあそこまでの間に、ラブホテルは他にも、いくつかあったじゃないか」
「奴があのホテルの人間ならば、かみさんに双生児の相手がいるってことをおれに嗅ぎつけられたのを、奴に知らせがてら、デイトもできるってわけだ、中迫景子たちにしてみたら」
「どっちみち、もうすぐ、なにもかにもはっきりするさ」
黒崎の声もはずんでいた。
男の乗った車は、大船を出て横浜市に入った。
その車が左折のウィンカーを出したのは、上大岡を過ぎるあたりだった。黒崎は車のスピードを落した。相手は尾行に気づいているようすではない。黒崎は男の車につづいて左折した。男の車はしばらくして、今度は右に曲った。道の左側に、建って間もないと思える四階建ての小さなマンションが見えた。男の車は、煉瓦を築いたマンションの門に入って行く。
黒崎はそのマンションの門の前を、それまでと同じスピードで通りすぎた。伊奈は助手席の窓から、マンションの門の中に眼を投げた。男の車は駐車場に向ったのか、姿は見えなかった。
黒崎はそのまま進んで、最初の四つ角を左折してすぐに車を停めた。
「あんた、車に残っててくれ。野郎はあんたの顔を知ってるかもしれないからな。鉢合わせなんてことになったら面倒だ」
黒崎は言い、車を降りた。マンションに向って角を曲っていく黒崎の後姿を見ながら、伊奈は焦《じ》れた。居ても立ってもいられない、といったふうに、シートの上でひとりでに何度も腰が浮きかけた。
黒崎はすぐにもどってきた。角を曲ると同時に、彼は車に駈け寄ってきた。眼が燃えていた。
「どうだった?」
黒崎がドアを開けるのを待ちかねたように伊奈は訊いた。黒崎は運転席に乗りこんでから言った。
「諸住公子があのマンションに住んでる。三〇七号室だ。玄関のホールの郵便箱に名前が出てる」
「くそ! こんなところに住んでやがったのか。奴は諸住公子のところに行ったんだな」
「だと思うな。姿は見なかったけど。さて、どうする」
「どうもこうもない。乗り込もう」
伊奈は勢いこんで言った。
「いいのか?」
黒崎が、伊奈の顔を正面から見て言った。
「いいのかって、なにが?」
「素手で乗り込む気か? あんた、奴らをぶっ殺すつもりだろう?」
言われて伊奈はことばに詰まった。
「殺すかどうかは、奴らに一切を吐かせてから決める。とにかく行こう」
伊奈は言った。声が揺れていた。
「どっちにしても、素手はやばい。野郎がどう出てくるかわからないし、相手は何人いるかもわからない」
「スパナかなんか積んでるだろう、この車」
伊奈は言って、車から降りた。黒崎も降りてきて、トランクを開けた。工具箱があった。伊奈はモンキースパナを手に取った。黒崎はパイプレンチをつかんだ。伊奈はモンキースパナをジーパンのベルトにさして、シャツの裾でかくした。黒崎も同じようにしてパイプレンチをかくした。
マンションの玄関を二人は入った。小さなホールに人の姿はない。中は静まり返っている。突き当りにエレベーターがあった。二人は乗り込み、三階に上がった。
三〇七号室は、エレベーターを降りて右に行った突き当りの部屋だった。ドアのネームプレートには、諸住公子の名があった。ドアの中は静かである。話し声も物音も聞こえない。伊奈と黒崎は眼を見交してうなずき合った。
黒崎がドアのノブに手をかけた。鍵がかかっていた。伊奈はブザーボタンを鳴らした。返事はない。ドアの向うに足音が近づいてきた。黒崎がドアスコープを指さして、伊奈に小さく首を振って見せた。伊奈はドアの横に体を移して、ドアスコープの視野からはずれた。黒崎も横に体を移した。黒崎は、ベルトからパイプレンチを抜き取った。伊奈もそれにならった。
「だれ?」
ドアの向うで女の声がした。
「すみません、お隣にお届け物の配達に来たんですが、お留守なもんで……」
黒崎は押えた声で言った。用意した科白のように、ことばつきはなめらかだった。女は答えない。鍵とドアチェーンをはずす音がした。
ドアは無造作に開けられた。黒崎は開いたドアを体で押し開くようにして中に躍り込んだ。女が短く声を詰まらせてよろけた。黒崎はすばやく女のうしろに回り込み、口を手で塞いでいた。女は諸住公子だった。伊奈は彼女の歪んだ顔に一瞬、直子の面影を見る思いがした。
伊奈は中に入ってドアをしめた。思わず手に力が入っていた。ドアは大きな音を立ててしまった。廊下の突き当りに珠《たま》のれんが下がっていた。のれんの向うはダイニングキッチンだった。食卓や食器棚や流し台の一部が見えた。のれんを分けて男が顔を出した。大船から車を運転してきた男だった。
黒崎の腕の中で、諸住公子がうめき、もがいた。男は顔をひきつらせた。すぐに顔を引っ込めた。伊奈は土足のまま廊下を走った。珠のれんが音を立てて床に落ちた。男が肩を沈めてとび出してきた。
伊奈はせまい廊下の壁に背中を打ちつけて身をかわした。伸びた男の右手が、伊奈の腰をかすめた。男はドスをつかんでいた。伊奈は夢中だった。スパナを打ちおろした。ドスが途中から二つに折れた。伊奈は男の腹を蹴りあげた。男の丸めた背中が跳ねた。男は壁に肩を打ちつけた。伊奈はスパナを振るった。男の顎が鳴った。肉が割れて血が飛んだ。男は奥に駈け込もうとした。床に落ちていた珠のれんに足をとられて、男は前にのめった。伊奈は男の腰を蹴った。
男は白い円型の食卓の下に頭から突っ込んでいった。椅子が飛び、食卓が倒れ、上にのっていたグラスが床に散って砕けた。
伊奈は倒れた椅子と食卓を蹴とばした。男は這って逃げた。流し台を背にして立った。手には折れたままのドスを持っていた。
「くそ! てめえら」
男は唸った。
「けだもの!」
諸住公子のうめくような声を、伊奈は背中で聞いた。
「どっちがけだものだ」
伊奈は低い声で言った。黒崎の右手が躍った。パイプレンチが風を切って飛んだ。男は不意討ちをくってかわしそこねた。パイプレンチは男のこめかみを打ち、流しの中に落ちた。伊奈はとび込んだ。折れたドスがひらめいた。伊奈の左の肩口から血が滴《したた》った。スパナが男の額に打ち込まれた。ドスが床に落ちた。伊奈は膝で男の腹を蹴り上げた。男は背中を向けて、流し台の縁をつかみ、体を丸めた。伊奈は流しの縁の男の手の甲に、スパナを打ちおろした。男はうめいて体をふるわせた。伊奈の足もとにくずれ落ちた。
伊奈は男を引き起した。男の顔は血に染まっていた。伊奈はスパナを投げすてた。両手で男の頭をつかんだ。眼の前に水道の蛇口があった。そこに男の顔面を叩きつけた。くり返し叩きつけた。男の体から力が抜けていった。
「殺すのは後にしろよ。ドロを吐かせてからゆっくりやればいい」
黒崎が言った。伊奈は男を突きとばした。男は倒れた椅子に仰向けに背中をもたせかけて、手足を投げだした。男の喉が苦しげに鳴っていた。
「助川ってのはてめえか?」
伊奈は男に言った。彼の息もはずんでいた。男は眼を閉じたまま答えない。伊奈は諸住公子の前に立った。いきなり腹を蹴り、顔を殴りつけた。
「けだもの!」
公子は歯をむいて毒づいた。歯には血がにじんでいた。
「野郎の名は?」
伊奈は公子に言った。
「助川よ。助川栄。あたしは諸住公子。直子とは双生児の姉に当るってことは、どうやらあんた、もう知ってるみたいね」
公子は挑むような眼で伊奈を見すえて言った。昂然としたことばつきだった。伊奈は公子の髪をつかんだ。黒崎が公子から手を離した。伊奈は公子の髪を引きまわして、助川の横に蹴倒した。
「さあ、話してもらおうか。おまえらがやったことの一切合財をな。誰がはじめに企んだことなんだ?」
黒崎が、倒れていた椅子を起して、それに腰をおろしながら言った。
「企んだのは、直子よ」
公子が言った。伊奈はことばを失っていた。公子の声はふるえていたが、ふてぶてしく聞こえた。顔には表情がなかった。
「直子さんが何を企んだんだい?」
黒崎が言った。公子は答えず、立ち上がって隣の部屋に行きかけた。伊奈は肩をつかんで引き寄せた。公子はその手を振り払って言った。
「直子が何を企んだか、そのわけが判るものをいま見せてやるわ」
「わけの判るもの?」
「そうよ。それ見れば、あんたがけだものだってことも判るってわけよ」
公子は肩を振るようにして隣の部屋に行った。伊奈は公子のようすに呑まれたようになっていた。黙って公子の後についていった。そこはリビングルームになっていた。ソファがあり、壁ぎわにサイドボードがあった。どれもこれも真新しい家具ばかりだった。公子はサイドボードの前にかがみこみ、引出しをあけた。中から表紙の古びたアルバムを取出した。立ち上がってふり向いた公子の眼が、張り裂けんばかりになって燃えていた。憎しみと怒りの湧き立っている眼だった。伊奈はわけも判らぬままに、たじろぎを覚えた。
「見ろ、ほら、けだもの……」
公子は頬にすさまじい笑いを刻んで、アルバムを伊奈の足もとに投げてよこした。黒崎が助川を引っ立てるようにして、リビングルームに入ってきた。血に染まった助川の頬にも、笑いがはりついていた。
伊奈はアルバムを拾いあげた。はじめのぺージに、変色している白黒の写真が二枚貼ってあった。二枚とも若い男と女が写っている。一枚は男が浴衣を着て椅子に坐り、女がうしろから男の頸を抱くようにして、頬を寄せ合っている。旅館の部屋らしい。女も男とそろいの浴衣を着ている。もう一枚は林の中の細い道を背景にして、男と女が寄り添って立っているところが写っていた。二枚の写真の下には、これも色のあせたインクの文字が並んでいる。
〈公直さんと、霧島温泉にて……〉
〈公直さんと、えびの高原にて……〉
文字はそう読めた。
公直……伊奈はその名を胸の中で呟いた。何かが伊奈の中で動きはじめた。彼は息の詰まるのを覚えた。写真の男の顔を凝視した。
「なつかしい顔でしょう、その写真の男の顔は……」
公子が嘲笑のひびきのこもった声を投げてきた。伊奈はおののきを覚えた。写真に写っている男の顔が眼の中で揺らいだ。写真の男は、どこか淋しげに薄く笑っている。同じように薄く笑ったその男の写真を、伊奈も自分のアルバムの中に何枚か貼っている。伊奈の父親の写真である。
「あんたの父親の名前は、伊奈|公直《きみなお》。あたしたちのおっ母さんは、私生児の双生児《ふたご》まで産まされて、捨てられたのに、捨てた男の名前を一字ずつ取って、双生児の娘に名前をつけたのよ。ばかな女」
公子は歌うような調子で言った。声は低く、かすかなふるえをおびている。伊奈は立っていられなくなった。全身に熱気と悪寒のようなものが、交互に襲ってきた。伊奈は何も考えていなかった。両手と両の膝を床に着いて、必死に体のおののきに耐えていた。
「けだものって意味がわかっただろう、これで。あんたと直子は、腹ちがいの兄妹同士で結婚してたのよ。伊奈公直も地獄でいまごろさぞよろこんでるわね。血をわけた自分の子供たちが、こうしてめぐり合ったんだものね」
公子は言いつづけた。押し殺したような声である。黒崎は何も言わない。
「直子は、直子はいつ、そのことを知ったんだ?」
伊奈はあえぎながら、ことばを押し出した。口の中が渇き、舌がこわばってもつれた。
「今年の三月七日よ」
公子は答えた。
「おまえはどうして、そのことを知った?」
「運命よ。そうとしか言いようがないわね」
「運命?」
「偶然といってもいいわ。呪われた偶然……」
公子は自分のことばに自分で笑った。助川も声をあげて笑った。伊奈の中ではじけるものがあった。彼ははね起きた。公子が腕をあげて身を守るような仕種をした。伊奈は助川の横に立った。土足で助川の横腹を蹴った。くり返し蹴った。助川はうめきながら体を丸めた。彼は血と一緒に胃の中のものを勢いよく吐いた。吐瀉物の中に顔を突っ込んで、なお吐いた。
「けだもの! 妹とつるんだけだもの! あたしともやるかい!」
公子が低く叫んだ。彼女は立ったまま、スカートをたくしあげた。パンティをはげしい勢いで押しさげた。
「ほら、やるかい! 直子のおまんこと似てるだろう。惚れた直子のこと思い出すだろう。ほら、やってみろ」
狂ったようにことばを吐きちらしながら、公子は陰毛の上を何度も手で叩いた。はげしい手ぶりだった。伊奈は眼を閉じた。しっかりと足を踏みしめて、天井を仰いだ。すこしずつ息を吐いた。そうしなければ、とてつもない大声で叫びだしそうだった。
「話してくれ。直子は何を企んだんだ?」
伊奈の声はささやくようにひびいた。
「おまえはどうやって、伊奈さんたちのことを知ったんだ?」
黒崎が公子に向って言った。彼の声も重く沈んでいた。
「杉江さんよ。杉江さんがいきさつを全部知ってたのよ」
「杉江がどうして?」
伊奈は訊いた。公子は口もとに皮肉な笑いを浮べてみせてから言った。
「杉江さんは昔、あたしのおっ母さんと婚約してたときがあったのよ」
伊奈は長崎で、小学校の教師をしている今里勉に聞いた話を思い出していた。福岡で働いていた諸住清美は、婚約して鹿児島に移った、と今里は言った。その後、その婚約は流れたが、諸住清美は鹿児島に残って働くうちに、鹿児島市役所の職員と好い仲になり、双生児を産んだ――今里の話はそういうものだった。それを聞いたとき、その市役所の職員というのが自分の父親だなどとは、伊奈は思いもつかなかった。
「杉江さんの郷里は鹿児島なのよ。ところが結婚するつもりで、おっ母さんは鹿児島に行ったんだけど、杉江さんは詐欺で警察につかまってしまって、おっ母さんははじめて相手がプロの詐欺師だと知ったらしいわ」
「それで、婚約を解消して、鹿児島で働くうちに、伊奈公直と知り合った……そうなんだな」
伊奈は言った。彼は自分の父親を、他人を呼ぶように姓名で呼んだ。声は喉にからんだ。
「よく知ってるじゃないの。福岡で調べたの? それとも長崎?」
公子は伊奈に憎しみのこもった眼を向けて言った。伊奈は答えなかった。
「そのうちに、杉江さんが刑務所から出てきたのよ。杉江さんはおっ母さんの所にたずねて行って、おっ母さんと伊奈公直のことを知ったんだよ。伊奈公直が市役所の職員で、妻子のあることも、杉江さんは調べたらしいね。でも、おっ母さんの気持が動かないと知って、杉江さんは、伊奈公直を脅したり、あんたのおっ母さんに告げ口したりしたという話だったよ。その後で杉江さんはあきらめて、東京に出てきたってわけよ」
「その杉江とおまえはどこで知り合ったんだ?」
黒崎が大きく吐息をつきながら訊いた。
「杉江さんは助ちゃんとは同期生よ」
「同期生?」
「刑務所のね。それと仕事仲間。だから助ちゃんを通じて知り合ったのよ」
「助ちゃんよ、てめえも詐欺でパクられたのか?」
黒崎は助川に言った。助川は答えず、血と吐瀉物で汚れた唇をゆがめてみせただけだった。
「で、どうしたんだ?」
黒崎が公子に話を促した。
「世の中うまくできてるんだよ。呪われた偶然だって、さっき言ったじゃないか。杉江さんと景のママは好い仲だからね」
「景のママ……中迫景子だな」
「そうよ。今年の三月のはじめに、杉江さんに誘われて、あたしはじめて助ちゃんと三人で景に飲みに行ったのよ。そのときの景のママのびっくりした顔ったらなかったな」
公子は喉の奥に低い笑い声を立てた。
「あたしの顔を穴のあくほど見て、ぽかんとしてんのよ。無理もないわよね。直子が来たとママは思ったわけよ。ママはあたしと会ったのはそのときが初めてだったけど、渋谷の洋裁店にいた直子のことは、前から知ってたわけだから……」
伊奈ははげしい頭痛を覚えはじめていた。彼は台所に行った。流しの水道の蛇口をひねって、頭から水を浴びた。流しにパイプレンチがころがっていた。伊奈はそれで自分の頭を打ち砕きたい衝動にかられた。
手で頭と顔の水を払った。リビングルームにもどった。公子は話をつづけた。
「あたしは自分に双生児の妹がいるってことは、おっ母さんから聞いてたんだ。小学校四年のとき、おっ母さんに連れられて長崎の小学校まで、こっそり妹の姿を見にも連れていかれたよ。でも、景にはじめて行ったときまでは、妹が東京に来て、渋谷の洋裁店で働いてるなんて、思ってもみなかったよ。ましてその妹が腹ちがいの兄と結婚してるなんて」
「それが判ったのは杉江の話からってわけだな」
黒崎が言った。
「景に行ったとき、杉江さんもはじめてあたしに双生児の妹がいるって知ったのよ。その夜、景で杉江さんはあたしのこといろいろ訊いたわ。諸住って苗字にはそれまでにも杉江さん、おっ母さんのことで思い当ることがあったらしいんだけど、あたしが昔婚約したこともある諸住清美の娘だなんて、思ってもみなかったらしいね」
「それで、杉江が伊奈さんと奥さんのこと調べて確かめたのか?」
「杉江さんはつぎの日、あたしの部屋に来たわ。そのアルバムを見るためにね。伊奈公直の写真見て、まちがいないってことになったのよ。直子の結婚相手が鹿児島の男で、苗字が伊奈だってことは、景のママが前から知ってたから、杉江さんはもしやと思ったわけよ。で、たしかめようってわけで、景のママが直子を食事に誘い出した。それが三月七日よ、運命のね」
「そのとき、おまえも直子に会ったのか?」
「会ったさ。会って、そのアルバムの伊奈公直の写真、見せたわ。直子はふるえ出して、中華料理たべてたんだけど、トイレにかけこんで、喰べたものみんなもどしたわね」
公子は平然とした口ぶりで言った。伊奈はうめいた。
「あんたのところにも、アルバムに貼った伊奈公直の写真があるだろう。直子が中華料理屋のトイレで、泣きながらあたしにそう言ったわ」
伊奈は押し黙っていた。熱気と悪寒はまだ彼の全身に深く巣喰ったぐあいにつづいていた。
「あたしは直子に、すぐに離婚しろと言ったんだ。離婚の理由を言いにくかったら、あたしが伊奈厚に会って、ほんとうのことを話してやるとも言った。それを留めたのは直子だよ。直子は死ぬと言いだしたね。あんたにほんとうのことを知られないようにして死ぬって言ったよ、あの子は……。その後、会うたびにそう言いつづけたわ。それ見て、あたしは直子を楽にしてやろうと思ったんだよ」
「楽にだと」
伊奈は声をふるわせた。
「そうよ。安楽死よ。血のつながった兄貴を旦那に持ってしまって苦しんでる直子を見ちゃいられなかったからよ」
「勝手な理屈だな、ずいぶん……。安楽死と生命保険金と、どうつながるっていうんだ?」
「つながるわよ。もっとも、つなげたのは杉江さんと助ちゃんで、それに乗ったのは直子だけどね」
「公子、てめえ。自分じゃ何もやらなかったってのか?」
不意に助川がわめいた。
「あたしだってやったわよ。そのけだものを苦しめてやりたかったからね」
「保険金の話をしろよ」
黒崎が言った。
「簡単なことよ。杉江さんと助ちゃんが、直子を脅したのよ。近親結婚だってことを伊奈厚にばらすって……。そしたら直子が、生命保険をかけるって言い出した。自分は死ぬ気でいるから、事故に見せかけて殺してくれれば、助ちゃんと杉江さんが生命保険が受取れるようにする。だから厚には二人が兄妹だったこと絶対に言わないでくれって」
「だけど、そんなことすれば、保険金を誰かがだまし取ったことがすぐに伊奈さんにばれるじゃないか。それに直子さんが気づかなかったはずはないだろう」
黒崎が言った。
「問題はそこよ。直子は心底そのけだものに惚れてたのよ。ばかだから」
「どういうことだ?」
伊奈は公子をうつけたような眼で見た。
「保険金を手に入れたあとで、それがばれないように、あたしたちがあんたを殺すことを、直子は知ってたのよ。あんたを殺してくれって、直子は言ったんだから……」
「なんだと!」
「吠えるんじゃないよ、けだもの。直子は自分も死ぬし、あんたにも生きててほしくなかったのよ。直子はあんたと心中したいって言ったんだよ。だけど、なんにも知らないあんたに心中を持ちかけるわけにはいかないし、そうかって、自分の手であんたを殺して無理心中する気にはなれないって。あんたが血を分けた兄貴だと判っても、愛情は変らないんだって、あの子は言ってた。そう聞けば、あの子があんたが殺されることを承知で、保険金の詐欺を手伝った気持がわかるだろう」
公子はすさまじい眼で伊奈を見すえて言った。伊奈は胸に石を抱いた気持になった。彼は立った。ベランダの窓の前に行った。額を窓のガラスにつけた。髪についた水が、窓ガラスに条《すじ》をつけてすべり落ちていく。心中――ということばが胸に湧いた。たがいに別々に殺されることで、結果としては無理心中をはかろうと考えて、直子は生命保険金の詐取に加担したということか――。
伊奈は胸の底で唸り声をあげていた。
重い眩暈《めまい》を覚えた。体が揺れた。彼は窓のガラスに額をつけたまま、その場にくずれ落ちるようにしゃがみこんだ。
(直子がおれを人に殺させようとした……)
伊奈はそのことに、彼自身に対する直子の愛だけでなく、悲しい憎しみを見ていた。伊奈の父親は、直子自身と彼女の産みの母と姉とを棄て去って顧《かえり》みなかった男である。伊奈はその男の息子だ。直子の悲しい憎悪は、伊奈の父親にだけではなく、伊奈自身にも向けられていたのではないか――伊奈はそう思わずにはいられなかった。そう思うことで、彼は自分を人に殺させようとした直子の意志に、正当性を与えようとしていた。
「それで、どうやって直子さんを殺した?」
黒崎が公子に訊いた。
「直子は、結婚一周年が過ぎたら、いつでも自分を殺してくれていい、と言ったのよ。その結婚記念日に、直子が景のママのところに仕上がった服を届けにくることがわかったのよ」
「中迫景子が服を届けにきた直子さんを、殺し屋の岩淵に引渡したってわけか?」
「直子の結婚記念日はまだ過ぎちゃいなかったけど、チャンスだったものその日が」
伊奈はそのやりとりを遠い思いで耳に入れていた。
「岩淵を殺し屋に引きずり込んだのは、どういうわけだ?」
黒崎の声がつづいた。
「岩淵は助ちゃんの口ききで、助ちゃんの兄さんから三百万円も金借りて、返すあてがなかったのよ。そうなれば人間、なんでもやるよ」
「助川の兄ってのは、府中の是政にいる金貸しの助川勇次か?」
「そうよ。でも、助ちゃんの兄さんは何にも知らないよ。あの人は無関係よ」
「直子さんを轢いた車は助川勇次の車だったぜ」
「助ちゃんが国分寺まで兄さんの車を借りて持っていって、岩淵がそれを盗んだことにしただけよ」
「福岡に伊奈さんを追っかけてきた殺し屋と連れの女は?」
「助ちゃんの知り合いのチンピラ。あいつらドジばっかり踏みやがって……」
公子は毒づいた。毒づきが終るか終らないかのときに、電話のベルが鳴った。公子は歩いていって受話器をとりあげた。
「マネジャー? いるわよ。どうしたの?」
公子は電話に向って言った。そのまま黙って相手の話を聞いていた。やがて公子は受話器を耳から離し、送話口を手で押えて、助川に向って言った。
「月の瀬からよ。あんた、あの二人どういう殺し方をしたのよ。景のママ死んでないじゃないの。一人で帰っていったっていってるよ。月の瀬の人が」
助川がうなだれていた頭をはねるようにもたげた。血にまみれた顔がこわばった。
「殺しただと? 杉江と中迫景子をか?」
黒崎が言った。伊奈はその声を耳に入れたまま、膝をかかえて動かなかった。
「そうよ。殺したよ。心中に見せかけてね。あの二人、直子に双生児の姉がいることがばれたといって、ブルってたから、呼び出して、助ちゃんが殺《や》ったのよ。それなのにどういうこと? 女のほうだけ、すごい顔して帰っていったんで、なんとかさんていうホテルの女の人が部屋のぞきに行ったら、男の人が首に浴衣の腰紐巻きつけて死んでたんで、大騒ぎになってるんだってさ。話にならないわね。どっちみちあたしたちおしまいだけどさ。いま一一〇番して警察を呼んだから、マネジャーに帰ってきてもらわないと困るってさ。どうする?」
公子にはうろたえたようすなど、いささかも見えなかった。ひどくさばさばとして見えた。
「電話に出る?」
公子は助川に言った。助川は焦点の定まらない眼になって、ことばを失っている。
伊奈は立った。足がふらついた。公子のところに歩み寄って、受話器をとりあげた。公子は怪訝《けげん》な眼になった。
「マネジャーはそっちには帰れないよ。警察が来たら、殺された男は杉江って男で、殺したのはマネジャーの助川だと言うんだ。杉江の連れの女は、保土ケ谷の中迫運送店の社長のかみさんで、中迫景子って女だよ。わかったな。警察がこっちにくるまで、助川はここにいる」
一気に言って、伊奈は電話を切った。
「いいのか、それで、伊奈さん?」
黒崎が言った。伊奈は力なく笑い返しただけだった。
「金が欲しかったのか? おれや、おれのおやじが憎かったのか?」
伊奈は鉄の輪で締めつけてくるような頭痛と悪寒に耐えながら、公子に言った。
「あんたも、伊奈公直も、直子だって、あたしはみんな憎いよ。あたしとおっ母さんが、私生児とその母親として、どんな思いをしてきたか、あんたには分りっこない。直子だって分っちゃいなかった。長崎までおっ母さんにこっそり直子の姿を見に連れていかれたとき、あたしはあの子がうらやましかったよ。そして憎んだ。でも、そんなこと言ったって同じさ。お金だって欲しかったわね。ああ、欲しかったさ。あんた、トルコ行ったことある? 毎日、はじめて見る男のちんぽしゃぶって、尻《けつ》の穴なめてりゃ、金が欲しいって気持がどんなものか、ようくわかるよ」
公子はまくしたてた。乾ききった眼は、白い炎を噴くかと思われるほどだった。
伊奈はソファに腰をおろした。眼を閉じた。公子の吐く息の音が聞こえた。
「ようやくトルコやめられたと思ったら、これだもんね」
公子は言って、また喉の奥に笑い声をひびかせた。助川がことばにならない唸り声をあげた。黒崎が寄ってきて、うつむいた伊奈の肩に手を置いた。窓の外はようやく夜を迎えていた。伊奈はソファから立ち上がった。電話の前に行き、受話器を取りあげた。一一〇番を回した。
「警察を呼ぶのかい?」
黒崎が訊いた。
「あんた、警察とは相性がわるいだろうけど、我慢してくれよ」
伊奈はうっすらと笑って言い、受話器を耳にあてた。公子がサイドボードに背中をつけてうずくまった。
その死を暴くな
電子文庫パブリ版
勝目 梓 著
(C) Azusa Katsume 2000