勝田龍夫
重臣たちの昭和史 下
目 次
第八章 総権益を捨てるか、不拡大を放棄するか
──盧溝橋事件と近衛内閣──
第九章 二つの国──陸軍という国と、それ以外の国がある
──防共強化問題──
第十章 どこに国を持って行くんだか、どうするんだか
──三国同盟と西園寺の死──
第十一章 太平洋戦争を招く二つの誤算
──独ソ開戦と日米交渉──
第十二章 終戦をめぐって
──近衛と原田の死──
跋・里見※[#「弓+享」、unicode5f34]
あ と が き
人 名 一 覧(省略)
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本文中の資料注記について
* 資料注記は〈 〉で囲んだ。年号は昭和、最後の数字は該当箇所のページ数を示す。
* 同一資料が二度以上出て来る場合には、最初のみ発行年,出版社名を記し、二度目以降は簡略化して表示した。
* 原田熊雄『西園寺公と政局』8巻・別巻1(25年6月〜31年7月、岩波書店)、『木戸幸一日記』上・下巻(41年4月、7月、東大出版会)、『木戸幸一関係文書』(41年11月,東大出版会)から引用したものは、原則として注記から除外し、特に重要と思われるもののみ、原田1─10または原田別10、木戸10、木戸文書10などと表示した。
* 原田家などの未公開資料は,原田資料として題名を記した。
* 著者が関係者から直接聴取してテープに納めたものについては、本文中で「氏」をつけることで区別し、資料注記から除外した。
* 資料の旧仮名遣い、旧漢字は原則として改めた。
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[#地付き]西園寺公望(昭和14年8月)
[#地付き]木戸幸一(昭和49年8月)
[#2字下げ]昭和15年2月1日 西園寺の病気見舞に来た近衛文麿と原田(興津水口屋で)
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第八章 総権益を捨てるか、不拡大を放棄するか
──盧溝橋事件と近衛内閣──
近衛は組閣以来、なにかあると原田と木戸に相談し、援助を求めた。
近衛内閣は、まず革新政策樹立の中心機関である企画庁の総裁を選任しなければならなかった。組閣直後の六月七日、近衛が急に「会いたい」というので原田が行くと、近衛は、「陸軍の方は馬場を総裁にというのだが、これは絶対にできない。自分としては広田に副総理ということで総裁を兼ねて貰いたい」といって、広田の説得を頼んだ。原田はすぐ外務省に行って、外交専門だと躊躇する広田を口説いて、企画庁総裁を引き受けさせた。この人事は好評裡に九日に発令された。
次いで原田は、風見章書記官長に貴族院の重だったメンバーを紹介したり、木戸も貴族院議長の後任の件で近衛に頼まれて奔走したが(十七日に松平頼寿副議長が昇格)、まもなく近衛は、大変な難題を持ち出した。
近衛は、五日の初閣議のあとの記者会見で、「出来るだけ相剋摩擦を緩和して行きたい」と強調した。この言葉の裏に、実は具体的な目論みが隠されていた。大赦──「政治の貧困から引き起こされた国内の相剋摩擦の所産たる種々の事件の受刑者に、大赦を施すべきだ」というのである。
かねてから近衛は、「二・二六事件に対する処罰が、それ以前の諸事件に対する処置と比し、著しく不公平で苛酷であることを内心憤り、真崎大将に同情」〈矢部貞治『近衛文麿』上412〉している。
「自分の使命はできるだけ相剋摩擦を少くすることにあるので、そのために出馬した。殊に真崎大将の問題は一年もかゝって調べて何にも出て来ないじゃないか。その辺はよほど考えなくちゃあいかん」
近衛は組閣中から大赦を考えていたらしく、就任式の翌日には風見書記官長に「今日から用意に取りかかろう」と指示していた。
十八日の朝、木戸は牧野元内府に呼ばれた。
「真崎大将の処分が一向判然せざる為、少壮軍人中不穏なる状況にあるものあり、との相当確かにして信頼し得べき情報あり、深憂に堪えず。近衛公にも伝えて、善処せらるゝ様希望す」
牧野は大赦を考えていたわけではないだろうが、こんな流言の裏に、真崎を無罪にしようとする運動があることをうかがわせる。
木戸は、この日の午後、ちょうど拝謁を終えた近衛と内大臣室で懇談した。木戸が牧野の話を伝えると、近衛も大いに大赦の必要を強調し、さらにつけ加えた。
「原田にいうと、すぐ荒木の差し金だろう≠ニかなんとか言うから、まあ原田、松平(秘書官長)には黙っていてもらいたい」
荒木の差し金というのは、昭和八年秋に荒木陸相が「すべての犯罪人を恩赦によって御聖徳に浴さしめ、更始一新の実を挙げて政治を新たにしたい」と猛烈に運動したことがあったからだが、近衛がわざわざこういうのは、荒木が真崎を無罪にしようと近衛に働きかけているからだろう。
「さあ、そいつはどうかな」
木戸は近衛のいう大赦に反対だったが、近衛は「強情なしつこさと粘り強さ」を発揮して、「就任以来日夜一時も忘れることのできない問題であって、もしこれができなければ辞める」〈原田6─85〉とまで口走るようになった。
二十八日、近衛は木戸を呼び出した。
「真崎問題は、事件発生後一年有半を経過して、尚片付かず……首相としては傍観すること能わず、必要と認めたる場合には政治的解決に乗出す考えなり」
近衛は断乎とした口調で決意を述べて、木戸に「西園寺公を訪問、自分の考えを御伝えして、老公の諒解を得られたし」と依頼した。
「何分にも目下裁判中の事件故、政治的解決は極めて困難と思わる。極力判決を急がしむるが関の山にて、それ以上、例えば取下げしむると云うが如きことを為さしむるときは、結局割り切れざるある問題を後に残すこととなる故、不得策なり」〈木戸574〉
木戸は気がすすまなかったが、近衛の熱意に負けて、「ともかく老公に伝えてこよう」と興津行きを引受けた。木戸から話を聞いた原田も、「どうも困ったものだと思ったが」、やむを得ず木戸の訪問を西園寺に取り次いだ。
六月三十日、雨の中を木戸は重苦しい気分で坐漁荘の門をくぐった。西園寺は、木戸の話す「首相の心境」に黙って耳を傾け、最後に一言、「よく諒解せり」と頷いたが、全く相手にしていなかった。
西園寺は、二・二六事件の関係者を「早く重い刑に処した方がいいんじゃないか」、「真崎等の背後関係の処断もなるべく早い方がいいじゃあないか」と、喧しくいっている。
「どうかしてこの大赦の詔勅だけは食い止めてもらいたい」
木戸が帰った翌日、西園寺は原田に指示した。原田は猛然と、近衛の大赦運動ぶっ潰しの工作を開始する。
大赦については、天皇も、湯浅内府も、陸海軍首脳も揃って反対している。天皇はのちに近衛がいつまでも粘るのを見て、「自分はこの問題には反対だ」〈原田6─122〉と直々に話したし、湯浅も、「近衛総理は名総理だと思うけれども、あの(大赦の)詔勅の問題だけはいかにも残念だ」と皮肉って原田に話した。また、米内海相は「動機不純で同意できぬ」といい、陸軍も杉山陸相、寺内、阿部大将など、「近衛公としてはこの問題には一切関係されないのが最もよい、陸軍大臣に委せておかれた方がよい」という意見だ。
原田はこれらの人々を訪ねて大赦反対の意向を確かめ、さらに工作を依頼する。杉山陸相には、「もう少し総理を安心させるように具体的な話をしてくれないと困るじゃないか」と注文し、米内海相にも、「軍の裁判には絶対に干与しないようによく総理に話して、他の閣僚を固めてもらいたい」と依頼、さらに風見書記官長には、「近衛はかなり性格が弱いから、つまらないデマをきかせないようにしてくれ」と注意した。「原田が一人で立回って、つぶしたのだ、という人もあるくらい」熱心に暗躍したのだが、このことで近衛は原田を恨んだり嫌った風はない。「寛容の人」〈池田『故人今人』24〉といわれる|所以《ゆえん》でもあるが、どうせ原田は反対すると思っていたし、西園寺が原田に指示したのも察している。
「近衛の前途がこれによって非常に小さくなり、また右傾等の傀儡に終ってしまうようなことは、すこぶる惜しいことだ。やっぱり近衛はもっとのびて、いわゆる文明政治の旗ふりでなければならない」
西園寺は、「困ったことだ」と老いた目をしばたたき、時には「筋の立たないことをやる位なら、辞めた方がいゝじゃないか。別に総理大臣が近衛でなければならんということでもない」と語気鋭く怒りをぶつける。
近衛が大赦問題に固執し、天皇や西園寺が眉をひそめて凝視している最中、七月七日の夜に、北京西郊十一キロの永定河に架かる盧溝橋付近で、日中両軍の小さな衝突が起こった──。
このところ、中国側の高姿勢が次第に目立って来て、近衛が正月の新聞で言ったように、「結局日支戦争に行かなければならない」危険が高まっていた。
この年(十二年)のはじめ、須磨南京総領事が内地転勤の挨拶のため張群外交部長に会うと、張は「冀察取消し」を公然と口にして、広田首相に伝えるように要求した。
──「蒋介石や自分は、日本との衝突を避けつつ、中国の平等な立場を回復してゆこうとする方針」であるが、日本が「過去に於て不当に作為せる既成事実を解消し、今後かかることをなさずとの保障を与えらるゝにあらざれば……人民戦線を結成し、抗日戦線の強化を主張する」勢力を押えることが出来なくなる──張はこういって、「著しく日本の圧力を惧れざる」〈「須磨南京総領事帰朝談要旨」─現代史資料8巻417〉態度を示した。また、中央銀行総裁で、親英米派の孔祥煕は、もっと露骨だった。彼は須磨に、従来完全に「セット・アサイド」されて触れたことがなかった満州問題を持ち出して、「之に対する日本の既成施設は之を認むるも、とも角一応之(満州)を支那に返還し、然る後にアイルランド、カナダ等の如き自治領となさん」と提案、また「日本は支那に対し何等援助をなし呉れざるに他国が之をやらんとすれば必ず文句を言う……今後は日本としても遣らぬならば遣らぬで他国の援助を阻害せざる様致され度」〈同418〉と警告する有様だった。
中国は、満州を含んだ国権回復を決意したのか──須磨は「支那は時々刻々強くなりつつある」と痛感して帰国した。
張外交部長や孔総裁がこれほどまで強気に転じた背景には、幣制改革や豊作によって中国経済が活気を取り戻して、「支那は事実上、漸次統一に向いつつあり」〈同419〉という確信があったのである。
中国側のこの自信回復も反映したのか、十二年四月、林内閣は、陸・海・外・蔵の四相間で、新しく「北支指導方策」を決定して、今までの対中国方針を変更しようとした。
「帝国に於て停戦地域の拡張、満州国の国境推進ないしは北支の独立等の企図を有するが如き誤解を……与うるが如き行動は厳に之を慎しむ……経済開発に当りては……第三国特に英米との提携共助にも留意する……」〈主要外交文書下361─2〉
広田外交とは大きな違いである。経済諸工作に重点を移して、「北支の分治を図り、若くは支那の内政を紊す虞あるが如き政治工作は之を行わず、以て内外の疑惑並に支那の対日不安感の解消に努むる……」という方針といい、また英米との提携といい、「満州事変以来堅持し来れる対支根本方針の急転回」を意味するような内容である。
政府のこの方針転換と歩を合わせて、吉田茂駐英大使は、「支那の問題について日英協調」の話し合いを英国政府と始め、近衛内閣になって広田が外相に就任してからも、この方針は継続された。六月二十一日、英国外務省は吉田大使に、中国から二千万ポンドの借款申し込みがあり、これを日英米三国で供与しようと提案してきた。もしこの提案を日本が受け容れれば、幣制改革を成功させた英国の中国に対するイニシアティブを日本は認め、日中両国の問題は両国限りで解決するという従来の対中国方針の大転換になる。日中国交調整の正念場である。
一方、華北では、いよいよ国民政府の積極的進出が始まった。両国の国交調整には、日本の傀儡政権である冀東政府の解消が前提になる。国民政府は四月下旬に、密輸取締りの税警団という名目で、中央軍五千名を山東省青島に進駐させてきた。
「今日の事態にしてこのまま推移するに於ては、日本側は山東に於て日一日と萎縮するのみなり」〈「税警団問題に関する大鷹総領事の第165号電」─現代史資料8巻436〉
日本側は焦ったが、続いて国民政府は六月に、宋哲元の冀察政権に対して、日本との経済合作の禁止、二十九軍の国府軍編入、河北省銀行券の発行停止と法幣への強制兌換を指示し、窮した宋哲元は故郷の山東省へ逃げ出してしまった。国共合作の進行とともに国民政府は全国統一を目指し、華北に対して政治的、経済的、軍事的進出を始めている。いわゆる華北の中央化≠ナあり、この地域が果してきた緩衝効果が失われて、日中両軍が直接対峙する危険が強まって来た。
六月下旬、天皇は湯浅内府に下問した。
「北支の中央化は、結局時の問題にて必然的と思わるゝが、若し然りとすれば寧ろ先手を打ちて支那に希望を容れてはどうか」〈木戸575〉
しかし、湯浅は、「支那従来のやり口は、是を以て決して日本の態度を徳とせず、却って侮日の因を作ることとなる」と奉答した。湯浅の奉答は、当時のごく一般的な日本側の感覚を代弁するものだった。
中国側の対日要求は、単に冀東、冀察などの特殊地域の撤廃に留まらず、満州国の解体にまで及ぶのではないか──日本側領事や武官は一様にこう見ていたし、ここで日本軍が一歩退却すれば、中国はさらに百歩前進してくるという意見もあった。
しかし天皇は、湯浅に下問したと同じころ、閑院総長と杉山陸相にも下問した。のちに(十五年七月)、天皇は木戸に語った。
「盧溝橋の起らざる前だったが、どうも支那とは結局戦わなければならぬ様に思われたのだが、しかし一面ソビエトに備えなければならぬ、そうすれば支那とは一度妥協するの外なかろう(出来得れば支那と話合いの案を作らせたい)と思い、総長宮と陸相を招きその点はどうかと尋ねたところ、陸軍としては対ソの準備は心配はない、支那は万一戦争となっても二、三カ月で片付くという様な意味の答申であったので、その儘となってしまった……」〈同802〉
天皇は、中国との戦争の危機が高まってきたのを深刻に憂慮していたのだ。
六月九日、関東軍は東条英機参謀長名で一撃≠参謀本部に上申してきた。
「現下支那の情勢を、対ソ作戦準備の見地より観察せば、我が武力之を許さば先ず南京政権に対し一撃を加え、わが背後の脅威を除去するをもって、最も策を得たるものと信ず……南京政権に対し我より進んで親善を求むるが如きはその民族性に鑑み却て彼の排日侮日の態度を増長せしめ……」〈東京裁判速記録85号〉
しかし、陸軍中央には、対華再認識論もあって、関東軍が上申する武力行使に必ずしも賛成していない。一方、中国側でも、武力衝突を望まない蒋介石と、華北を中心に抗日民族戦線形成を進める共産党との意見の食い違いがあり、これに総兵力十万の第二十九軍を擁する冀察政権の宋哲元や、国民政府を援ける英米両国、さらに中共の背後に控えるソ連など、それぞれの思惑がからみ合っているが、すべては間もなく盧溝橋の夜陰に鳴り響いた銃声によって、抗日という線に一本化されていく。
「六月頃でしたが、妙な噂がちょい/\耳に入って来ました──近く北支方面でこの前の柳条溝事件のようなことが起る──それを今、支那駐屯軍の幕僚が企画して居るということを民間の人から聞きました」〈「河辺虎四郎少将回想応答録」─現代史資料12巻412〉
参謀本部戦争指導課長・河辺虎四郎大佐の回想である。河辺大佐はこの噂が気になって石原第一部長に報告し、陸軍省軍務課長の柴山兼四郎大佐と軍事課の岡本清福中佐を天津と北平に派遣して実情調査に当らせた。また河辺大佐の実兄で支那駐屯歩兵旅団長の河辺正三少将にも私信で問い合わせた。河辺旅団長は、「安心せよ」と返信を寄こしたし、また岡本中佐も、支那駐屯軍の幹部に会い、さらに「盧溝橋附近駐屯小隊の所でも一泊してよく話したが、小隊長以下自重しているから何も心配することはない」と報告したので、後宮軍務局長以下、「愁眉をひらくおもいであった」〈田中新一「日華事変拡大か不拡大か」─別冊知性219〉という。
ところが、その後も「七日の晩に、華北で柳条溝事件の二の舞の事件が起る」という類いの謡言が絶えなかった。
七月六日の夕方、北京駐在の今井武夫少佐は、冀北保安総司令の石友三から、「武官! 日華両軍は今日午後三時頃盧溝橋で衝突し、目下交戦中だ」〈今井武夫『支那事変の回想』(39年、みすず書房)11〉と告げられた。今井が否定すると、なぜか石総司令は「事実間違いないと固執し続け」、のちになって今井少佐は、「これは、多年に亙る交遊から考え、翌七日の陰謀計画を、日時を六日に仮託した、好意的な予備通報」〈同45〉と思うようになったという。
翌七月七日。──初夏の北平は堪えられないような酷暑に見舞われ、「朝からうなぎのぼりに上った温度計の目盛りは、夜になってもそのまま上りっ放し」だった。
この日の午後、北平郊外の豊台に駐屯していた支那駐屯軍第一連隊第三大隊第八中隊の清水節郎中隊長は、百三十五名の部下を率いて、夜間演習のため盧溝橋西北約一キロの龍王廟に向かった。
永定河に架かる盧溝橋は、全長三百五十メートルの石橋で、橋の東側に宛平県城(盧溝橋城)がある。東西七百メートル、南北三百メートルのこの城内には二千人の住民がおり、宋哲元の第二十九軍に属する兵も駐屯している。盧溝橋の北側二百メートルのところに京漢本線の鉄橋があり、さらにその北方八百メートルの永定河左岸の堤防上に古ぼけた龍王廟が建っている。ここから北東の一帯は鉄道用砂礫を採取する荒蕪地で、「夏期|高梁《こうりやん》繁茂時期に於ては豊台駐屯部隊唯一の演習場」として日本軍が常時使用している。「他人の領土で連日の夜間演習などするのはもってのほか」〈酒井三郎『昭和研究会』(54年、TBSブリタニカ)72〉という論があるのも当然であるし、中国軍の目と鼻の先でやる夜間演習だけに予想外の事件が起こる危険もあるわけである。
さて、清水大尉の第八中隊は、午後四時半ころ演習地に着いた。この夜の課題は、「敵主陣地に対し薄暮を利用する接敵、ついで黎明突撃動作」〈「盧溝橋附近戦闘詳報」─現代史資料12巻341〉で、龍王廟付近の永定河堤防から東方の大瓦※[#「穴/缶」、unicode7a91]に向かって演習を行なう予定になっていた。要するに、少兵力による対ソ戦法の訓練である。
ところが、来てみると堤防の上では、二百名以上の中国兵が白シャツ姿で散兵壕を掘ったりしていたので、清水大尉は、堤防の手前一キロの位置で休憩し、中国兵の作業終了を待つことにした。周囲を観察すると、二十日ほど前には何もなかった永定河堤防上に、鉄橋付近から上流の龍王廟北側にかけて、一連の散兵壕が完成しつつある。堤防の手前には、今まで土砂で埋めて隠してあった十数個のトーチカが掘り返されて、こちらに銃眼を開けている。
「今夜はなにか起りはせぬか」〈「清水節郎手記」─秦『日中戦争史』所収164〉
清水大尉は、最近になって中国側が日本軍の宛平県城内通過を拒否したり、演習に抗議したり、また日本軍が少兵力だとわざと銃に弾を装填するなど、「不遜の態度を示す」こともよく承知している。午後六時を過ぎても中国兵は作業を止めようとしない。清水大尉は予定を変えて、「堤防の手前約百メートルの附近からこれを背にして部隊を配置につけ演習に入」った。東側には仮設敵を置いてある。
午後十時半ごろになって、前段の「薄暮を利用する接敵」訓練を終えた。明朝黎明時までは休憩(野宿)である。清水大尉は前方に配置した各小隊長や仮設敵司令を呼びかえすために伝令を遣わした。
この夜はまったく風もなく、空は晴れているが月もなく、星空に盧溝橋城壁が遠くかすかに見えるばかりである。ラッパを吹けば早く集合できるが、夜間訓練ではなるべく使わないことにしている。
清水大尉が立って集合状況を見ていると、突然、前方の仮設敵の軽機関銃が射撃を始めた。
「ウム、伝令を間違えて射っているな」
むろん演習だから空包である。
すると突然、後方から弾丸が風を切って清水大尉の頭上を飛び去り、数発の銃声が聞こえてきた。
「実弾だ!」
後方にいるのは、龍王廟あたりの堤防の上で作業を終えてからも兵営に引き揚げる気配を見せなかった中国兵だけである。仮設敵はまだ気づかずに、空包射撃を続けている。
「ラッパ手、集合ラッパを吹け」
清水大尉の命令で、傍らのラッパ手が集合ラッパを吹きならすと、今度は右手後方「鉄橋に近い堤防方向から十数発の射撃を受けた」〈同165〉。これも実弾だ。振り返ってみると、盧溝橋城壁と堤防上で中国兵が懐中電燈を点滅して合図しあっているのが認められる──。
清水中隊長は直ちに伝令を豊台の一木清直第三大隊長のもとへ報告に走らせ、一木大佐は北平にいる牟田口連隊長に電話連絡して、「現地に急行し戦闘準備を整えたる後、盧溝橋城内に在る営長を呼び出し交渉(せよ)」〈「盧溝橋附近戦闘詳報」341〉と指示を受けた。
八日午前三時すぎ、豊台から急行した一木大隊が暗闇の中を盧溝橋城東の八文字山まで進んだとき、龍王廟方面の中国軍陣地から三発の射撃を受けた。一木大隊長は再び牟田口連隊長に連絡したうえ、堤防上の中国兵を攻撃するため前進を開始すると、中国軍は堤防上の散兵濠から一斉射撃を始め、トーチカの機銃も鳴り出した。日本軍も直ちに応戦し、「機関銃の掩護射撃の下に敵陣地に突入、逃げるを追っていっきょ龍王廟南側に進出した」〈清水手記169〉。ときに七月八日午前五時三十分、あとから見れば長い長い日中戦争の始まりだった。
盧溝橋での日中両軍衝突の知らせは、八日早朝に国内に伝えられ、各方面に衝撃を与えた。
近衛首相は、風見書記官長から報告を受け、「杉山陸相は、わが方にとっては、まったく偶発事件であるといっている」と聞くと、反問した。
「まさか、日本陸軍の計画的行動ではなかろうな」〈風見章『近衛内閣』(26年、日本出版協同)28〉
近衛が組閣する前から、「陸軍の一部には、あわよくば華北を第二の満州国たらしめんとする計画をたてて策謀しているものもある」という噂が流れていたから、反射的に陸軍が華北で謀略を始めた、と疑ったのだろう。
「一体、盧溝橋事件というものが、今もって真相がはっきりしない。……どちらが先に手を出したかといえば、どうもこちらの方が怪しいと思う」〈近衛『平和への努力』11〉
「かかる事件が勃発することは政府の人は勿論一向に知らず、陸軍の本省も知らず専ら出先の策謀によったものである」〈近衛『失はれし政治』10〉
太平洋戦争末期になっても近衛は日本軍の策謀だと疑っていたようだ。近衛だけでなく、外務省も同じ疑いをもった。八日早朝、外務省に呼び出された石射猪太郎東亜局長はいう。
「事端は中国軍の不法射撃によって開かれたとあるが、柳条溝の手並みを知っている我々には、またやりあがった≠ナあった」〈石射猪太郎『外交官の一生』(47年、太平出版)238〉
要するに、政府関係者にとっては、「日本の北支駐屯軍の策謀によるとしか思えぬ事件であった」〈酒井『昭和研究会』74〉のである。しかし、盧溝橋事件を出先の策謀=Aまたやりあがった≠ニ見たことが、政府の事件対策を誤らせることにもなる。
「政治家──近衛首相、広田外相等、当時は軍にオベッカ≠使って居った政府であります」
河辺戦争指導課長はいう。
「何ごとでも、軍はどういう風に思って居るか≠ニいうて心配する非常に勇気のない政府でありまして、軍に問うては事を決するというやり方で、政治的に全責任を負い、戦うも戦わざるも国家大局の着眼からやって行こうというものはなかったことをつくづく思います。広田さんは、相当な見識を持った人でありましょうけれども、何しろ軍の意向を聞かなければ外務大臣としての仕事が出来ないという状況で……近衛公爵は、当時は大いに軍の鼻息を窺って居るかの如く、真に戦争指導の根元を把握してやる大政治家としてのやり方はなかったと思います……」〈河辺回想応答録416〉
これは河辺大佐が第二次近衛内閣が成立した昭和十五年七月に、大本営参謀だった竹田宮恒徳大尉と交した回想応答録である。不拡大方針を堅持しようとして果たせなかった河辺の個人的憾みもあろうが、十五年という時点での話だけに注目される。
七月八日──
参謀本部は閑院総長名で支那駐屯軍司令官(重病の田代皖一郎中将の後任に香月清司中将が内定)に、「事件の拡大を防止する為、更に進んで兵力を行使すること避くべし」と現地解決の方針を指示した。
日中両国首脳ともに、この時点では、盧溝橋での偶発事件を全面戦争に発展させる意図はなかった。また現地の中国第二十九軍も支那駐屯軍も、少くともその幹部は「緊密に提携し、決して衝突など起こしたくない心境は一致していた。ただ彼の背後には中共があり、我の背後には関東軍並に一部東京の主戦派があり、これ等が盛んに煽り立てた為、現地相互の間では一旦停戦協定まで出来上ったものが、再び崩れて砲煙渦まく修羅の巷と化し」〈寺平忠輔「盧溝橋畔の銃声」─現代史資料9巻付録月報〉て行くことになる……。
この日、彼我の背後に控える関東軍と中共軍は、戦闘拡大を煽る態度に出た。
関東軍はこの朝八時十分、声明を発表した。
「暴戻なる第二十九軍の挑戦に基因して今や北支に事端を生ぜり、我が関東軍は多大の関心と重大なる決意を保持しつつ厳に本事態の成行を注視す」
そして、関東軍参謀部付の辻政信大尉は翌九日夕刻には豊台に姿を現わして、牟田口連隊長に、「関東軍が後押しします。徹底的に拡大して下さい」と申し出た。辻参謀は北平広安門上から中国軍に発砲するなど、一貫して煽動活動を続ける。また昨年十一月に蒙古軍をけしかけて内蒙独立の綏遠事件を起こした田中隆吉参謀も天津に来て、幕僚をけしかけたり、今度の事件は「茂川天津軍秘密機関長が中国兵を買収してやらせた」〈同寺平〉と宣伝して歩くなど、妙な煽動を始めた。
一方、中国共産党も関東軍に遅れず、八日朝という異常に早い時点で、対日開戦を促す通電を全国に発した。
「七月七日夜十時、日本は盧溝橋において中国の駐屯軍馮治安部隊に対し攻撃を開始し、馮部隊に長辛店(永定河右岸)への撤退を要求した。……全国の同胞諸君! 北平、天津危し、華北危し、中華民族危し。全国民族が抗戦を実行してのみ、われらの活路あり!……国共両党は親密に合作し、日本侵略者の新たな進攻に抵抗し、中国から追い返そう!」
北平特務機関の寺平忠輔補佐官の観察では、中国共産党は「つとに逆九・一八決起を画策していたが、西安事件後は大ッピラに南京に乗り込んで行って、中共と国府、両軍の参謀は机を並べて抗日計画を練り始めた。その発動の時期は昭和十二年秋……、事件後は、この機乗ずべしとばかり、ウチワで煽ったり、ガソリンをブッかけたりして、この火を中日全面戦争に拡大させるべく、畢生の努力を傾倒した」〈同寺平〉という。
中国共産党は、事件の当事者である宋哲元の第二十九軍幹部にも、毛沢東、朱徳、林彪らの連名で、「国土防衛のため血の最後の一滴まで流されんことを敢えて願い……」と打電、また蒋介石にも「願わくば……全国総動員を実行して北平・天津を防衛し、華北を防衛し、失地を回復されんことを」と打電した。
盧溝橋の衝突を機に、華北、さらに満州を武力で奪回しようという中国共産党の方針、これと一撃≠加えようという日本軍の思惑とが、事件を拡大させて本格的な戦争にまで発展させて行く……。
七月九日──
臨時閣議が開かれ、杉山陸相は「具体案による出兵」を提議した。
「五千の兵隊を救うために早速三個師団の兵を国内から出したい。この点すべて自分に委せてもらいたい」〈原田6─29〉
しかし、米内海相が「成るべく事件を拡大せず、速かに局地的にこれが解決を図るべき」〈『海軍大将米内光政覚書』(53年、光人社)13〉と主張、近衛も「陸軍大臣にすべての責任を委すわけには行かん」〈原田6─29〉と反対したので、杉山陸相は申し出を撤回した。
この日未明、盧溝橋の現場では、第二十九軍と交渉に当った牟田口連隊の森田中佐、北平特務機関の寺平補佐官、大使館付武官補佐官の今井武夫少佐らによって、停戦の話し合いがまとまり、盧溝橋城内の中国軍は午前四時に盧溝橋を渡って永定河右岸に撤退することになった。その後、中国軍の撤退が遅れたので日本軍が城内を砲撃したり、新たに城内防備についた保安隊が日本軍と交戦するなどの小競り合いがあったが、午前十時半には中国軍が撤退を開始し、日本軍も一部の監視兵力を残して豊台に引き揚げた。
八日、九日の戦闘で、日本側は戦死十一名、戦傷三十六名、中国側は約百名の死者を出したが、ようやく「現地軍の抑譲により解決の曙光を見出し得るものと期待」できるようになったのである。
ところが奇妙なことに、日中両軍が撤退した盧溝橋付近で、夜になるとしきりに銃声が鳴り響いた。北平に到着した支那駐屯軍参謀長の橋本群少将もその報告を聞いて首を傾げたが、銃声は毎夜続いた。
「後から考えますと事件を起そうとする共産党系の策動だと思います」〈「橋本群中将回想応答録」─現代史資料9巻323〉
橋本参謀長は回想するが、共産側だけでなく、第二十九軍の兵士や、さらには日本側でも同じ陰謀をやっていた者がいた。天津軍秘密機関の茂川少佐はいう。
「両軍の衝突を拡大するために部下を使って爆竹を鳴らしたのは私である。しかし不思議なことに我々以外にも同じような陰謀をやっている者があった」〈茂川秀和談話─秦『日中戦争史』209収録〉
消えかかる火種を懸命に煽いで大きくしようとする者が日中両側で暗躍していたことだけは確かなようである。
七月十日──
橋本参謀長は、参謀本部の指示により、「支那軍の盧溝橋附近永定河左岸駐屯の停止」などを冀察側代表に要求した。しかし、中国側は、陳謝、責任者の処分、将来の保障などの要求は了承したものの、撤兵の件は、その後に日本軍が進駐するのではないかと疑って応じないので、現地の交渉はもつれ出した。
この日、参謀本部は重大な決意をする。
当時、北平・天津地方には、約一万二千名の民間在留邦人と五千名の日本軍がいたが、現地軍の報告により、「中国側の無統制な挑発的態度は一向に止まず、事態の推移するところ支那駐屯軍と居留民は優勢な中国兵の重囲に陥る危険がある」と憂慮された。中国軍は、華北一帯に東北軍十一万、西北軍五万、山西軍九万、宋哲元などの地方軍十数万が配置され、このほか徐州・隴海線一帯に三十五万の中央軍が後詰している。陸軍部内には急速に出兵論が盛り上がってきた。
陸軍省および参謀本部は、この事件の処理について二つに意見が分れている。八日の朝、現地から電報が着いたとき、陸軍省軍務局の柴山軍務課長は「厄介なことが起ったな」〈河辺回想応答録414〉と眉をひそめたが、参謀本部の武藤章第三課長(作戦編成動員担当)は「愉快なことが起ったね」〈同414〉と何かを期待するような口振りだった。事件処理の中心は、陸軍省では軍務局(後宮局長、柴山軍務課長、田中新一軍事課長)、参謀本部では第一部(石原部長、河辺第二課長、武藤第三課長)である。
参謀本部の石原部長は、前年に国防方針の大改訂を行なっており、陸軍五十個師団、海軍戦艦十二隻、航空母艦十二隻を基幹とする国防国家建設を急ぎたい。このためには、日満ブロックを強化し、十七年三月までの五カ年計画で重要産業を拡充しなくてはならず、その間はソ連に対しても中国に対しても戦争を始めるべきでないと考えている。
十二年五月に陸軍省が決定した「重要産業五カ年計画要綱」の基礎は、石原のもとで第二課長の河辺大佐が指導して作らせたものである。したがって河辺大佐も、この新国防方針に沿う立場から石原の意見を支持して、盧溝橋の事件は「何とか揉み潰しをしなければならぬ」〈同414〉と思っている。柴山軍務課長も同じ意見だった。一方、武藤第三課長や田中軍事課長は積極意見で、「此奴は面白いから油をかけてもやらそうという気持」〈同414〉でいる。
この日、各新聞社の特派員は、国民政府中央軍の北上を一斉に打電してきた。
「蒋介石は十日の廬山会議の結果、徐州を中心に駐屯中の中央軍四個師団に対し、十一日払暁を期し河南省境に集中進撃準備を命じた」(漢口十日発同盟)
同主旨の特電は天津、上海などからもとどき、さらに北平からは、冀察当局が十日午後六時に外国記者団に対し、「今夜中に日支開戦ある見込みだが、我方では日本側の発砲を待ち我方よりは射撃せぬ意向である」と非公式に語ったと知らせてきた(朝日新聞七月十一日)。
国民政府が本当に「飛行部隊の出動及四個師団の北部河南省集中」を行なえば、兵力五千の支那駐屯軍は数十倍の敵と戦うことになる。石原も、「派兵するには数週間かかるので、不拡大を希望しても形勢逼迫すれば万一の準備として動員を必要とする」〈「石原莞爾中将回想応答録」─現代史資料9巻306〉と考え直して、夕方になって、「関東軍、および朝鮮軍から各一個師団、内地から三個師団を基幹とする歩兵、機械化部隊、飛行隊を派兵する」という第三課の派兵案を決裁した。石原はいう。
「中央では豊台が完全に包囲されて居るので不名誉な事が起るのではないかと思い、綏遠事件の失敗もありますので……包囲されているのをそのまま見殺しにすることは出来ない気持で……」〈同307〉
これに対して河辺第二課長は、「真に不拡大の精神で行かんとするならば内地の動員はかけない方が良い」〈河辺回想応答録419〉と反対意見を具申したが、石原は苦渋に顔をゆがめながら机上の地図を指して、「この配置を見たまえ。貴公の兄貴の旅団が全滅するのを、おれが見送っていてよいと思うか」と、承知しなかった。
当時の参謀本部は、閑院総長が、「実務は次長が執りますから」〈高宮『順逆の昭和史』131〉ということで昭和六年に就任した陸軍最長老の元帥であり、また、次長の今井清中将と第二部長の渡久雄中将はいずれも病臥中のため、参謀本部の中枢である第一部長の石原少将は、事実上参謀総長に近い立場にあった。その石原が派兵を決断したことにより、盧溝橋事件は、拡大の方向に動き出すのである。
十日夜九時、風見書記官長は杉山陸相から電話を受けた。
「現地の兵力が、余りにも手薄である。これでは安心できない。ある程度の派兵が必要であるから、至急派兵を決定したい。そうなると政府としても態度方針を内外に明かにするのが適当だと思うから、あす閣議を開いて決定するよう、首相に相談してくれ」〈風見『近衛内閣』30〉
風見はすぐ永田町の近衛邸に行って相談し、「その申し出はきくよりほかあるまい」ということで、明け方近い三時に全閣僚に臨時閣議召集の連絡をした。議題は、派兵の件と政府声明である。
十一日──日曜日にもかかわらず、政府にも陸軍にも、目まぐるしい一日になった。
朝八時すぎ、石原第一部長は永田町の私邸に近衛を訪ねて、「本日の閣議で陸軍側の動員案を否決してくれ」〈『広田弘毅』259〉と意外な申し込みをした。同じころ、軍務課の重安中佐は外務省東亜局の太田首席事務官に電話して、「省内の大勢いかんともしがたく、後宮軍務局長も判を押してしまった。このうえは、閣議において、外務大臣に頑張ってその決定を阻止してもらうよりほかはない」〈『日本外交史』(46年、鹿島研究所出版会)20巻72〉と伝えた。柴山軍務課長の指示だったのだろう。それにしても、参謀本部を代表する石原が、自分で決裁した派兵案を閣議で否決してくれと頼むのだから、異常である。のちに石原は「部内すら統制する徳と力に欠けていた」〈藤本治毅『石原莞爾』(39年、時事通信社)256〉と自己反省し、「私としては何となく薄暗がりの中で仕事をやった気持」と悔恨する。参謀本部内の拡大強硬論を自分で抑えられなかったから、こんな奇妙な行動をとったのだろうが、事件拡大について石原も責任の一端を担わなくてはならない。
九時、石射東亜局長は東京駅に行って、週末休養先の鵠沼から上京した広田外相を迎えた。
「本日の閣議で動員案が提出されるらしいが、是非食い止めて頂きたい。この際、中国側を刺戟する事は絶対禁物ですから」〈石射同右書239〉
石射局長が、軍務局からも要請があったとつけ加えると、広田は頷いた。
九時五十二分、閑院参謀総長は天皇のお召しで葉山に伺候するため、東京駅を発った。
十一時半、首相官邸で賀屋蔵相を加えた五相会議が開かれ、杉山陸相は、「五千五百名の天津軍と平津地方に於けるわが居留民を皆殺しにするに忍びずとして、たって出兵を懇請」した。これに対して米内海相は、「諸般の情勢を観察するとき、陸軍の出兵は全面的な対中国作戦の動機となるであろう」と反対意見を述べた。杉山陸相は、「出兵の声明だけで、中国軍の謝罪と将来の保障は確保できる」と極めて楽観的だったが、米内は「(派兵により)事件が拡大することは火を見るより明らか……その余波は一ないし二カ月にして華中に及ぶであろう」〈米内覚書15〉と懸念していた。上海には海軍の特別陸戦隊二千四百が駐屯しており、陸軍が華北に出兵して戦火が上海に飛火すれば、海軍も全面的に戦争に巻き込まれる。
結局、五相会議は、「あくまで事件不拡大・現地解決を強調する」、「動員後も派兵する必要がなくなったならば、ただちにこれを中止させる」〈同15〉などと確認したうえで、「渋々ながら派兵に同意」した。続いて午後二時からの閣議で、陸軍省の派兵案が承認され、近衛首相は天皇の裁可を得るために葉山に向かった。
この日の昼近く、葉山では閑院総長が天皇に拝謁していた。
「もしソヴィエトが後から立ったら、どうするか」
参謀本部では、欧米諸国とくにソ連の参戦を誘発しないと判断して、華北出兵を決めている。
「陸軍では立たんと思っております」
天皇はひどく不満気な面持で、重ねて反問した。
「それは陸軍の独断であって、もし万一ソヴィエトが立ったらどうするか」〈原田6─30〉
閑院総長は即答できない。致し方ございません、と奉答するばかりで、天皇はますます不満をつのらせた。
夕方四時すぎ、葉山御用邸に着いた近衛首相は、直ちに拝謁して、「出先軍一部の転用と共に内地動員三個師団基幹、予算三億円」の出兵案を上奏し、裁可を得た。
近衛が退下すると、湯浅内府が昼の閑院総長拝謁の模様を伝えた。天皇が華北出兵に反対なのは明白だ。近衛は天皇に上奏したと同じ主旨を湯浅に話した。
「もしこの際派兵に反対して陸軍の希望を容れない場合には、陸軍大臣は職を辞めなければならん。従って内閣も辞めなければならん。結局自分が辞めても誰かがまたこの地位に立たなければならないのであるし、とても軍を抑えて行く人はあるまいから、自分が責をとってこれに当るよりしようがあるまい」
湯浅が翌日原田に語ったところでは、近衛はこの時「非常に悲壮な決心」だったというが、近衛は、「軍を抑えて行く」決心をしたわけでなく、全面戦争突入のおそれのある派兵を閣議決定したことで気が高ぶっていたのだろう。
天皇の裁可をまって、六時二十四分、政府は出兵を声明した。
この「中国に反省を求めるために派兵し、平和交渉を進める方針」という政府声明が現地に伝えられたとき、中国側と交渉に当っていた人々は、政府の真意を疑った。
「近衛首相の頭は狂っていないか」〈松本重治『上海時代』(49年、中公新書)下137〉
一方、事件の拡大を望む天津軍の一部の参謀は、「政府自ら気勢をあげて事件拡大の方向へ滑り出さんとする」〈石射『外交官の一生』240〉ものと受け取って、「多年懸案であった中国問題を解決するため、今こそ絶好の機会である。今さら現地交渉の必要もないし、既に協定が出来たなら、これを破棄せよ」〈今井『支那事変の回想』30〉と強硬論を展開した。
しかし、ここで見逃せないのは、近衛が「和平のために出兵する」というロジックで天皇を説得したことである。三年後に、近衛は再びこのロジックを使って日独伊三国軍事同盟について天皇の承認を強引に得る。
「ソ連と日本の交渉は、ドイツが間に入ってこそ可能になります。日支の和平交渉も首尾よく行くようにドイツが努めます。つまり平和政策のために日独軍事協定をやるのでして、それが目的です」
そして近衛のいう平和政策のため≠フ軍事同盟と中国からの撤兵問題をめぐって、日本は英米と戦端を開くことになるのである。近衛には、盧溝橋事件の時にも、軍事同盟の時にも、「事件がある毎に、政府はいつも後手にまわり、軍部に引き摺られるのが今までの例だ。いっそ政府自身先手に出る方が、かえって軍をたじろがせ、効果的だ」〈石射同右書240〉という前|のめり《ヽヽヽ》な姿勢が目につく。西園寺が日頃注意する近衛の先手論≠ナあるが、対陸軍という国内問題を軸に、対中国や英米ソなどの国際関係をも律していく、その結果は当然のことながら、国際面で破綻を生じて自縄自縛の結果に陥ってしまう。
さらに指摘すれば、「陸軍の政治的地位というものは中国の要地を確保していることに基くから、また日本における政治権力の均衡が陸軍の地位を土台にして保たれていたから、中国から兵を引くことは不可能」〈米国戦略爆撃調査団『日本戦争経済の崩壊』(25年、日本評論社)11〉(米国戦略爆撃調査団報告)という事情である。近衛が、盧溝橋で燃え上がった火の手を消そうとすれば、陸軍の強力な発言力との正面対決を覚悟しなければならなかったのかも知れない。
この夜、近衛は葉山から戻ると、九時から三回に分けて、言論界、政界、財界の各代表百名近くを首相官邸に招き、政府の方針決定を自ら説明し、挙国一致の協力を要請した。
「……中国に反省を促すために派兵し、平和的交渉を進める方針で、関東軍、朝鮮軍、それに内地から相当の兵力を出すことは、この際、已むを得ぬことであります」〈松本『上海時代』下135〉
近衛のこの挨拶は五相会議で確認した「派兵の目的は威力の顕示により、中国の謝罪、将来の保障をなさしむるにあり」〈『日本外交史』20巻73〉という主旨に沿ったもので、要するに出兵という恫喝によって中国側は引っ込むという観測に立っている。民政党、政友会も、近衛の呼びかけに応えて、「この政府の挙国的重大声明に国民的支援を望む」と声明を発表した。
[#1字下げ] 国策の遂行に責任のあった者達が固く信じていたところは、中国政府は直ちに日本の要求に屈して、日本の傀儡の地位に自らを調整してゆくであろうということであった。中国全土を占領することは、必要とも、望ましいとも考えたことはなかった。軍隊は中国に派遣されたが、軍事的決意を強行するためにではなく、ただ日本の権力の象徴として役立たせるつもりであった。交渉で──或いは威嚇で──あとは万事片がつくと考えていた。(米国戦略爆撃調査団報告)
近衛は、石原から派兵案を葬ってくれと頼まれたにも拘わらず、五相会議や閣議でその努力を払った形跡がみられない。広田も同様だ。もちろん石原の要求自体が筋の立たないことであって近衛としても対処しにくいのだろうが、諾々として陸軍の要求に従ったのみならず、今回の事件を「北支事変」と呼ぶことを早々とこの日に決定した。また、夜おそく各界の代表を集めて協力を要請するなど、戦争気分を掻き立て、拡大する方向に積極的に動いている。そんな近衛の暴走ぶりを、原田など一部の人々は当惑気に、また「非常に心配」して眺めていた。
盧溝橋の現地では、今井武夫少佐らが懸命な努力を続け、十一日正午ごろには冀察側と停戦協定の内容をほぼ了解し合うところまで漕ぎつけた。そこへ出兵の閣議決定である。
「よせ/\とさように言いながら、内地からはどし/\兵を出して来るじゃないか、これを見れば向うだって兵を多少出して来るだろう」〈「西村敏雄中佐回想録」─現代史資料12巻459〉
香月天津軍司令官(十二日天津に赴任)は数日後にこんな感想を洩らしたし、また国民政府の陳介外交部次長も日本大使館の日高参事官に、「日本はどん/\兵力を増加して、そうして此方には兵力を増加するのを止めて外交交渉に移せというのはおかしい」〈「香月清司中将回想録」─同12巻536〉と強硬な態度で抗議して来た。
「ちょうど現地で日華双方が局地解決に努力中の、極めて微妙な時期だっただけに、この廟議決定はわれわれ現地の日本側代表の行動を困難にすると共に、他方中国側にも連鎖反応を惹起して態度を硬化させ、両方面に破局的な影響を及ぼした……」〈今井『支那事変の回想』32〉
今井少佐は嘆くが、それでも今井少佐は橋本参謀長に「協定調印の決定に変化なきを確かめ」たうえで、この日午後八時に日中両代表は停戦協定に調印を終えた。内容は、第二十九軍代表の謝罪と責任者の処罰、永定河左岸からの中国軍の撤退、抗日団体の取締り強化の三カ条だけの簡単なものだった。
この夜十時ころから五相会議が開かれ、杉山陸相は、現地停戦協定が成立する見込みだから、「内地部隊の動員は見合わすこととなり、中国側において、もしわが要求を文書をもって受諾したならば、全員を復員させてもよろしい」〈米内覚書17〉と報告した。しかし、満州および朝鮮からの約二個師団の出兵については、すでに午後六時三十五分に発令されており、停戦協定成立後も華北の情勢が未だ楽観しがたいことなどを理由に、取り消されなかった。
陸軍──とくに中堅クラスには、停戦協定の成立を喜ばない者が多い。この夜、陸軍は停戦協定に対する不信を表明した。
「一片の口約束で支那側を信用したならば、またまた煮湯を飲まされるに決っている。従って我方としては……情勢の推移を厳重に監視しつつこれに対処する」(朝日新聞七・一二、陸軍当局談)
陸軍新聞班は、停戦協定成立の号外を出そうとした新聞社に真実性に問題があると差し止めをし、さらに一部の強硬派は、協定成立に水をかけるような原稿を放送局に渡した。夜半近く、東京のラジオ放送は、「停戦協定成立との報告に接したが、冀察政権従来の態度に鑑み、果して誠意に基くものなるや否や信用が出来ぬ、恐らくは将来|反古《ほご》同然に終らん」と報じて、天津軍の幹部や中国側を驚かせた。この放送を聴いた中国側が、「日本こそ誠意がない、今日既に協定破棄の口実を設けているではないか、不拡大方針も、停戦協定も、作戦準備完了までの時間をかせぐ|緩兵《かんぺい》の策に過ぎない」〈松井太久郎「涯なき日中戦争の発火点」─別冊知性204〉と不信を募らせたのも当然である。
原田は、事件発生以来注意深く観察していたが、十四日になって口述した。
「出先の官憲がばかに強いと言うけれども、寧ろ出先では、閣議で派兵を決めたことだとか、あるいは陛下が葉山からお帰りにならなかった方がよかったとか、非常に慌て過ぎたという風に内地を見ており、現地は現地だけで局部的に必ず解決のできるものと思っている。東京で我々がきいているのだと、出先が非常に強くて抑え切れないというけれど、寧ろ参謀本部あたり、或は陸軍省あたりの若い士官が喧しいのである」
たしかに、陸軍の現地と東京の関係は原田の観察通りだった。都合の悪い電報を握り潰したり、電報で天津軍をけしかけたり、拡大派の若い士官は暗躍していた。もう一つ、原田はあえて指摘しようとしないが、政府にも進んで事件を終結させようとする気概が欠けていた。「当時の所感として記憶に残って居りますることは……」と河辺戦争指導課長はいう。
「日本の政治家は無暗に右翼系の鉄砲の弾丸を怖がっている。だから、口で強そうに言って居れば大丈夫だと考えるように思いました。よく考えて見ますれば、軍人が長期持久戦を心配する以上に、文官が之に関して深思熟慮すべきではないか、戦期の長びくことも戦面の拡張をも考えず、ただ相手を|敲《たた》けということは間違いだと思います」〈河辺回想応答録448〉
六年前の満州事変の際には、朝鮮軍の越境や上海への出兵問題で、政府は陸軍と激しく対立した。幣原外相や高橋蔵相は、南や荒木陸相に一歩も譲らぬ気構えで立ち向かった。だが近衛内閣には、一人の幣原も高橋も見当たらなかった。一宮(房治郎、民政党)海軍政務次官は、広田外相に怒りをぶつける。
[#1字下げ] 広田氏のごときは、外相にてありながら、諸問題につき深く考慮するところなく、いたずらに軍部に迎合、一国の大事をあやまらんとしたるがごとき、言語道断にして、海軍側にても失望憤慨を禁ぜざりし。甚だしきは、いまにして(出兵を)中止するが如きことあらば、外務省の若い者が第一承知しませんなど、大臣としてあるまじき無責任な言を吐き居りし。真に呆れ果てたる次第なり。〈小山完吾日記176〉
河辺大佐も、「軍の意向を聞かなければ仕事が出来ない外相」〈河辺回想応答録416〉と広田をくさすし、「そう気概のある人じゃない」という声を原田も聞いた。
出兵の閣議決定のあと、近衛首相は胃腸をこわして五日ほど寝込んでしまった。
十三日の朝、原田が行くと、近衛は床に臥せったまま、「漫然と人の愚痴など」こぼし始めた。
「外務大臣もまるで報告してくれないし、陸軍大臣もいかにも頼りない」
満州事変のときの若槻首相の愚痴と全く同じだ。原田は、西園寺が「思わぬところに国を持って行かれちゃあ困る」と大変心配して「やっぱり英米とは相当緊密な関係を保ちつゝ、日本の国運を進展して行くことが日本の歩むべき道である。……どうか近衛に宜しくいってくれ、本当に頼むから」と繰り返していたことなどを近衛に伝えた。
盧溝橋事件は、宇垣がいうように「出先の子供の喧嘩に親が飛出し、それが叩き合いを始めるなどは、余りにも大国の動きとしては大人気なく余りにも大義名分に欠けて居る。アッサリと片付けるべきである……日本政府の態度は余りに落ち着きを欠いて居るの感じがする。挙国一致の矢継早やの督励の如きも静観すればいささか情なき気持がする」〈宇垣日記1160〉──つまり、現地で成立した停戦協定をもって終りにすべきであった。
それが日本側の出兵決定により、中国側も中央軍を北上させたので親の喧嘩≠ノ発展した。
十七日、蒋介石は廬山(江西省北部)で有名な「最後の関頭(瀬戸際)」声明を発表した。
「われわれ百年の古都、北方の政治文化の中心であり、また軍事上の重要都市、北平はたちまちにして瀋陽(奉天)の二の舞になり果てよう!……盧溝橋事件が終結するかどうかは、取りも直さず最後の関頭になるかどうかの別れ目なのである」〈『ドキュメント昭和史』3巻15〉
蒋介石は悲痛な調子で、「徹底的な犠牲と徹底的な抗戦」の準備を呼びかけた。この中で蒋介石が「弱国外交の最低限度」として打ち出した四点──中国の主権と領土の完全な保全、第二十九軍の駐屯地区は拘束を受けないこと、冀察政権の非合法的な改変を許さないこと、人事不介入──は、十一日の現地停戦協定の内容に背馳するものである。今や中国側も「すべての者が一切を犠牲にする決心」で抗日のため立ち上がろうとしているのだ。
[#1字下げ] 中国と日本の戦争は、華北の中国軍隊の下士卒連中の自然発生的な抵抗によって、ついに始められた。その抵抗は、極めて広汎なものであり、またそれに呼応した民族主義の熱情の爆発も、圧倒的に大きいものであったために、(中国)政府はそれに引きずられたのである。〈オーエン・ラティモア『アジアの情勢』(28年、河出書房)78〉
アメリカの中国通ジャーナリスト、オーエン・ラティモアは言うが、その結果は現地解決の途も閉ざされようとしている。
「この際思い切って北支にあるわが軍隊全部を一挙に山海関の満支国境までさげる、そして近衛首相自ら南京に飛び、蒋介石と膝づめで日支の根本問題を解決すべし」
石原部長は陸相室に乗り込んで、「肺肝をえぐる気魄で迫った」が、梅津次官は冷静に突き放した。
「実はそうしたいが、総理に相談し、総理の自信を確かめたのか。北支の邦人多年の権益財産は放棄するのか、満州国はそれで安定しうるのか」〈田中新一「日華事変拡大か不拡大か」−別冊知性221〉
すでに石原は、風見書記官長を通じて近衛に蒋介石との頂上会談を打診していた。「聖諭を奉戴し」ということで、近衛も「それがいいかもしれぬ」と大分乗り気だったが、風見は「幸い相手とうまく話し合いをつけたにしても、それはそっちのけにして、現地軍が勝手気ままに行動するようなことがあったら、総理の面目はまるつぶれ」と慎重だった。「それでは、瀬踏みという意味合いで、一足先きに広田外相に南京へ乗り込んでもらったらどうだろうか」と近衛が言い出したので、風見が広田に打診したが、「さあ、そういうことをやってみても、どうかネ」〈風見『近衛内閣』69〉と広田は気がなさそうだった。近衛は原田に頼んで、西園寺から広田を説得してもらおうとしたが、西園寺は「支那に不信用な広田をやるよりも近衛自身が出かけた方がいい」と答え、結局この話も打切りになってしまった。
「一応、華北駐屯軍を満州領内にまで撤退させることにした方がよくはないか」〈同38〉
近衛のところにはこんな進言が、同盟通信の岩永社長や朝日の緒方竹虎から寄せられている。しかし、そうすると国権回収熱に燃える中国に押されて日本は満州からも追い落されるのではないか、という見方が一般的だった。
盧溝橋の衝突も、もとを辿ればすべて満州国の存在にあることは明白である。
「満州が、果して将来子孫のために幸福になるか、あるいは永く憂いを残すようなことになりはしないか」〈原田5─170〉
西園寺は十一年の秋に綏遠事件が起こったころ、こんな感慨を原田に洩らしたが、いまここで支那駐屯軍を撤退させるなら満州国の将来についても肚を決めておかねばならず、そんなことは国民感情からいって難しい。田中新一軍事課長はいう。
「今や不拡大を貫くには一切の動員派兵を拒否する一法あるのみ……一切の動員派兵を拒否すれば、支那駐屯軍は山海関方面に後退する外なく……今や不拡大に徹して総権益を捨てるか、権益 擁護の為不拡大を放棄するかの二者択一の関頭に立たされたり」〈田中新一221〉
八月に入って、上海で武力衝突の危険が高まったとき、石原は「居留民を全部引揚げたらよい。損害は一億でも二億でも補償しろ、戦争するより安くつく」〈佐藤賢了『東条英機と太平洋戦争』77〉と怒鳴ったが、その一億二億を捨てることでも、一千六百人の上海居留民は「帝国商権の擁護進展上将来の建設に対し断固抜本塞源的措置に出でられんこと」を望んで陸軍省に上申書を提出して抵抗したのを見れば、満州国喪失につながる華北からの撤兵を近衛内閣が決断するのは、不可能に近かったろう。
しかし、木戸がこの頃いっているように、「日支難局の由来は、他国の領土内にわが国の軍隊のあることにして、この事態の続く限り、両国の紛争は、出先き軍人の思うままに、いつにても惹起さるべき状態におかれある」〈小山完吾日記183〉というのが現実である。
七月二十五日、天津・北平間で、朝鮮から出動した第二十師団と中国側の第二十九軍第三十八師が武力衝突し、翌二十六日には北平広安門で入城中の日本軍に中国軍が楼上から射撃を加える事件が起こった。
「もう内地師団を動員する外ない、遷延は一切の破滅だ」〈田中新一222〉
数日前に「肺肝をえぐる気魄」で華北からの撤兵を説いたはずの石原も、匙を投げた。二十七日の閣議で十一日から延期されていた派兵案が承認され、参謀総長から香月支那駐屯軍司令官宛に「平津地方の支那軍を膺懲して同地方主要各地の安定に任ずべし」と命令が発せられた。二十八日、日本軍は各地で総攻撃を開始して、翌々三十日には、北平を含む永定河以北の平津一帯を平定した。
こうして華北で本格的に燃え上がった戦火は、米内海相が「その余波は一ないし二カ月にして華中に及ぶであろう」と危惧したとおり、八月には華中の上海に飛火した。
政府は八月はじめ、揚子江流域、とくに漢口より上流の居留民の引揚げを命令、八月九日に大山勇夫海軍中尉が上海で中国保安隊に殺害される事件が起きたのを契機に、十三日に日中両軍の本格的戦闘が始まった。
蒋介石は八月八日、「全将兵に告ぐ」演説で、総決起を呼びかけた。
「九・一八以来、われわれが忍耐・退譲すれば彼らはますます横暴となり、寸を得れば尺を望み、止まるところを知らない。われわれは忍ぶれども忍ぶを得ず、退けども退くを得ない。いまやわれわれは全国一致して立ちあがり、侵略日本と生死をかけて戦わねばならない」
十五日、中国は全国総動員令を下し、大本営を設置して蒋介石が陸海空三軍の総司令に就任した。この日、日本も「帝国としては最早隠忍その限度に達し、支那軍の暴戻を膺懲し、以て南京政府の反省を促す為め、今や断乎たる措置をとるの已むなきに至れり」と政府声明を発表、上海派遣軍を編成し、長崎県大村を飛び立った海軍機は南京に渡海爆撃を敢行した。八月十五日をもって、日中両国は全面戦争に突入したのだった。
九月二日、政府は、「北支事変」を「支那事変」に改称した。華北の支那駐屯軍は北支那方面軍に改編され、寺内寿一司令官のもとに北津地方から西進(チャハル、山西省)、南進(山東、江蘇、河南省)を続け、また松井石根司令官の率いる上海派遣軍は、南京、漢口へとひたすら西進する。
「もうこの辺で外交交渉により問題を解決してはどうか」〈石射『外交官の一生』245〉
日本軍が華北で総攻撃を開始した翌日、七月二十九日に、天皇は近衛を呼んで下問した。近衛にしても、あるいは広田外相や杉山陸相も、好んで中国と戦争を拡大しようとしているわけではない。つねに逡巡と遅疑がつきまとっている。だが、「若い士官達が喧しく」暴支膺懲を叫び、「首相官邸附近で某歩兵連隊の百数十名の部隊が夜間演習を実施したり」〈宇垣日記1165〉の威嚇的行為さえ起こった。近衛は、「戒厳令の話が陸軍にある」と原田に不安そうに話したが、身辺を脅かされる気持があったのも事実である。
杉山陸相も八月十五日に、外交交渉で解決できないかと広田に訴えた。
「これでいよいよ全面戦争になるが、陸軍としてはまことに困ったことになった。自分から弱音を吐くことは対敵宣伝上できないが、外交でなんとか治める方法はないか」〈安倍源基『昭和動乱の真相』(52年、原書房)281〉
しかし、「世を挙げて、中国撃つべしの声」〈石射同右書254〉の中での外交交渉である。八月上旬に始められた石射東亜局長発案による船津工作、九月に着任したクレーギー英国大使による蒋介石との連絡などの和平工作が密かに進められたが、陸軍の出す和平条件は戦線が広がるにつれて厳しくなって、成功しなかった。
近衛も、蒋介石との頂上会談に未練を持ったのか、七月下旬には宮崎龍介(宮崎滔天の子)を密使として南京に派遣して和平交渉をさせようとしたが神戸で憲兵にスパイ容疑で取り押えられてしまい、また右翼の大物の頭山満を起用することも考えたが、この直接交渉の試みはいずれも失敗した。
八月に入って、すっかり気をくさらせた近衛は、またも六日から暑気当り≠ナ寝込んでしまった。七日午後、木戸が呼ばれて行くと、近衛は床に横たわって、「思いつめたる面持」で、「国内の相剋を解消する為に、大赦の恩典を奏請しようかと思う」と言い出した。すでに二十七日に、近衛はこの大赦問題を天皇に内奏している。近衛は、「皇道派の荒木、真崎などが追放されずに当時表面に出ていたら、支那事変は、或は起らずに済んだかも知れない」〈近衛『平和への努力』10〉と思っているから、ここで一層熱心に「真崎問題の解決」を考えたのだろう。
しかし、上海に飛火するかどうかの重大な時期である。それを、寝込んでしまって大赦に|現《うつつ》を抜かす近衛の態度に、西園寺も湯浅もすっかり呆れ果てたようだ。
「長袖事を誤るなくんば幸なり矣」〈宇垣日記1165〉
宇垣も冷やかだったが、この宇垣でさえ、「非常時チンドン屋が……北支喧嘩以来矢継早に煽り立てて愈々真の非常時近くに持ち来した様である」と認めざるを得ない世の中である。新聞は連日今や断乎として膺懲を加えよ∞今は只一撃あるのみ≠ニ煽り立て、財界も「株式は買いだ」と判断している。閣僚の中にも「いっそのこと中国国民軍を徹底的に叩きつけてしまうという方針をとるのがいいのではないか」(中島鉄相)〈風見『近衛内閣』46〉などと強硬論を吐いて杉山陸相を呆れさせるものさえ出てきた。議会も度々「出征将兵感謝決議をして、軍部の御機嫌をとり、事変費二十億二千万円を鵜呑み」〈石射『外交官の一生』253〉にしている(九月臨時議会)。また、国民精神総動員実施要綱が告諭され、国民は熱心に国防献金を拠出し、「中国を膺懲するからには華北か華中の好い地域を頂戴するのは当然」と期待している。
そんな非常時の掛け声や、立川の飛行部隊の連日の猛練習ぶりに、国立に住む宇垣もさすがに気圧されたのか、「猛暑なりしも暑いと云うて昼眠を貪る筋合でもないと考えて、午後一時より三時まで炎天下で庭の草取りを行いたり」〈宇垣日記1162〉と苦笑まじりに記している。政治から一番遠い永井荷風も、深夜の下町の公園で若い男女が相携えて散歩する姿を眺めて、「戦争もお祭りさわぎの賑さにて、さして悲惨の感を催さしめず、要するに目下の日本人は甚だ幸福なるものの如し」〈荷風日記12年11月19日〉と書き記すような、熱っぽい世の中である。
こんな時に、近衛がいくら努力しても戦争は止められなかったという見方もある。日本が専守防禦に徹したとしても、中国の国権回収熱は日本を大陸から追い出すまで燃え盛っただろう。しかし、そうした点を十分に考慮したとしても、事変勃発当時からの近衛の姿勢には、一国の首相としての政治的権威と責任を放棄した、無気力さだけが感じられる。
だが、陸軍にとって近衛は実に都合のよい首相である。重臣や政治家はもちろん、天皇まで近衛には遠慮がちであるから、陸軍は近衛さえ完全に操っていればいいことになる。
[#1字下げ] 内閣の支柱としての力は、どこまでも陸軍だけで担当するが、首班はやはり近衛がよい。純然たる陸軍内閣では、国民の前にコブシを突き出すようで、荒っぽい感じを与える。近衛を頭に頂き、そのブレーン・トラストの協力によって、知的にして強力な印象を国民に与えなければならない。内閣を支える力は、あくまで陸軍が持つ。〈酒井『昭和研究会』198〉
これが参謀本部の一将校のいう、近衛の位置づけである。近衛は、陸軍が意のままに国民を欺くための知的なシャッポ≠セということである。
十二年十月、木戸が文部大臣に就任した。
十月十九日、アメリカのプロゴルファーのサラゼンが朝霞ゴルフ場でプレーをしたので、木戸が見物に行ったら近衛と一緒になり、「君に頼むよ」と文相就任を|慫慂《しようよう》された。
「ちょうど安井君が辞めるといっていたらしいんだな。で、どうだ君、文部大臣にならんかっていうんだよ。ウン、安井が辞めるっていうんなら、まあ君を助ける意味でなら入ってもいいよ……。まあ呑気なもんだよ、その頃はね、エヘヘ」
木戸は宗秩寮総裁を辞めて転じるから、松平宮内大臣の承認、つまりは天皇の内諾が必要になる。この夜、近衛は原田に電話で「宮内大臣に賛成してくれるよういって貰いたい」と頼んだ。原田は電話で西園寺の了解を得たうえ、翌二十日の朝に松平を訪ねて話し、松平は天皇に取り次いだ。
「木戸は宮内省にも必要な人だが、政府の方も大事のみならず、木戸が入れば大赦の問題につき近衛を説いて無理をさせない様に骨を折って貰えるだろう」
天皇は嘉納した。
近衛は、まだ大赦問題に固執していたのだ(真崎には九月に無罪判決があった)。
ちょうどこのころ、原田は「二間にも及ぶ長い激情的な手紙」〈『近衛文麿』上418〉を近衛に送りつけた。
「例の恩赦の詔勅の問題は、会って話すとまた感情的になったり、言おうと思うことの十分の一も言えなかったりすると困るから、手紙に書いて君に送ろう、まあ一つよく読んでくれ」
内容は、「西園寺公も近衛は困ったもんだといっている」というような主旨を血涙ともに下る£イ子で延々と述べたもので、近衛はこの手紙を牛場秘書官に見せて、「涙のあとが残っているよ」と辟易した風だった。
木戸もいろいろと近衛を牽制し、翌年二月になって、近衛はようやく天皇から「斎藤内閣の時には皇太子が生れたので恩赦があった。そのときは減刑のみであったが、その程度ならば宜しい」という許しを得、この問題は八カ月ぶりに、「減刑と復権のみに食止めて、大赦、特赦はやらない」ということで片付いた。文相に就任するときの天皇の「厚き思召に添い得るやをひそかに危惧」していた木戸も、ホッと一安心した。
木戸の文相就任と相前後して近衛は、「支那事変に関する重要国務」を諮問するために臨時内閣参議官制を定め、陸軍から宇垣と荒木、海軍から末次と安保、政党から町田、前田、秋田、財界から池田と郷、それに松岡満鉄総裁の十名を任命した。
「国策審議会でも作って、宇垣、荒木、末次といった連中を入れ、陸軍も一致して、藩閥なんかの関係もだんだんなくなって来たということが判るように、いわゆるヂェスチャアにそういうものをつくりたい」
近衛は原田に大赦問題と関連して話しており、内閣参議制も大赦も国内の相剋摩擦解消の手段と考えたようだった。
参議は十月に初顔合せをやり、以来週一回(のちに二回)、近衛を交えて中国問題を中心に懇談したが、決議をするわけでもなく、せいぜい近衛に進言する程度だった。もっとも翌年五月に外相に就任した宇垣によれば「外相就任は参議になる時すでに諒解済み」〈同516〉というから、近衛としては内閣改造に具えた人材プールの狙いもあったようだ。
「威容を張ることの好きないわゆる関白好みが、|偶々《たまたま》策士に乗ぜられたとしか考えられない」〈緒方『一軍人の生涯』36〉
朝日の緒方竹虎は酷評した。西園寺も、「まあ大体において人選にもよるが……」と賛成しない様子だったし、松岡や秋田が入ったことを面白く思わないらしく、「近衛は半分平沼なんかに、捕虜になったような具合だな」と失望していた。
ところが十二月になって、馬場内相が「心嚢炎にて到底議会中の出勤は困難なり」と辞任すると、近衛は木戸と相談して後任にこの内閣参議の末次信正海軍大将を据えることにした。
しかし、「艦隊派の巨頭」の末次はロンドン条約の当時政府攻撃の急先鋒に立ち、その右翼的行動や発言に天皇や側近はよい印象を持っていない。
「事前に原田にいえば、また反対されるか、あるいは同意しないだろうから、言わないでおくか」
近衛は、木戸とこんな相談をすると参内して、天皇に「強いて末次を」と上奏し、「まあ已むを得まい」と許しを得た。
原田は木戸の家に押しかけて、「末次が何者であるかよく知っている筈じゃあないか。陛下との関係も従来非常に悪かったし、平沼との関係がどうだということもよく知っていると僕は思うけれども、どうしてこれに同意したのか」となじった。
「だって、近衛が辞めるよりもいいじゃあないか。どうせ責任の地位に就けば、大したことはできやしない」
木戸はバツが悪そうだったが、「これでよほど右翼の勢力が強くなりゃあしないか」と池田成彬などが心配したとおり、末次内相は翌十三年になると、排英運動の取締りが手緩いと非難され、天皇も「末次内務大臣についてはいろ/\評判があるが、どうだ」と近衛に質すほどだった。
そんなだったから、近衛の末次起用に同調した木戸も、のちにこの人事を酷評する。
「どうも人事については近衛というのはわからないんだな、末次をもってきてみたりね。で、米内と末次とは犬猿のただならぬ仲なのはわかっているのに、そいつを……まあ自分がその間をうまくコントロールするという自信をもっていたのかも知れないけど、事実はちっともコントロールしていないんだよね」
牛場友彦秘書官もいう。
「人事だけが総理の自由といっていた。だから、他のことはともかく、人事については人のいうことを聞かなかった。しかも、アッといわせようという気持があったから、末次を内相に持って来たりしたんだね。ともかく複雑な人だったね、こっちのこと、あっちのことといろいろ考えてやっていた。だから、平沼さんと気が合うわけではないが、右翼の総帥として無視できないと考えて、塩野(法相)を身代りに使ったり、荒木を入閣させたりね……」
そんな人事を近衛はするから、「今の内閣の閣僚というものは、どうも督軍みたようなもので、みんな背後に何かもって、おのおの違った意見を代表しておる」ことになり、「いつも理想主義」の風見書記官長を、「政治の車は少しも動いておらない」〈原田7─217〉と嘆かせたりするのだ。
盧溝橋事件から五カ月後の十二年十二月、日本軍は国民政府の首都南京を陥落させた。
「南京が陥落して蒋介石の政権が倒れる。で、日本は蒋政権を否認した声明を出すが、その時がちょうど自分の退き時だと思うから、その時に辞めたい。いま辞めなければどこまで引きずられるか、この事変がどこまで続くか判らないから、自分としてはいま辞めたい」
十二月十二日の朝、原田が荻窪の近衛邸(荻外荘)をはじめて訪れると、近衛は辞めたい≠ニしきりにいっていた。
それにしても近衛の話は筋立がおかしい。南京が陥落して蒋政権が倒れる→蒋政権を否認する→事変がどこまで続くか判らない、となぜなるのか。
「蒋政権の覆滅は尚望み難く……辺疆尺寸の国土存する限り国民党を中心に長期に亙り我に抵抗すべきは疑を容れざる処……」〈石原『国防論策』224〉
石原少将は拡大派に追われて参謀本部を去る直前九月に、「対支戦争指導要綱」を作成し、南京攻略に否定的だった。一方、参謀本部第三課長の武藤章大佐は、十月に中支那方面軍参謀副長に転じると、「南京をやったら敵は参る」〈河辺回想応答録437〉と主張した。
武藤に代表される、蒋介石政権崩壊という観測は中堅将校の間で支配的で、陸軍では手回しよく南京陥落の翌日、十二月十四日に中華民国臨時政府を北京に樹立し、「漸次本政権を拡大強化し更生新支那の中心勢力たらしむる」〈主要外交文書下381〉ことにした(他に蒙疆連合委員会を十一月に設立)。同じ中国に国民政府以外の政権をつくる以上、国民政府否認が前提になる。
臨時政府は成立式で国民政権否認を内容とする宣言を発表し、これを受けて日本政府も「支那事変処理要綱」を閣議決定し、「今後は必ずしも南京政府との交渉成立を期待せず……北支に於ては防共親日満政権の成立を計り……」〈同381〉と態度を決定した。
ちょうどこのころ、トラウトマン中国駐在独大使から蒋介石に和平斡旋が行なわれていた。十月二十七日に広田外相が英米仏独伊の各国大使に斡旋を依頼した、その結果である。蒋介石にしても、軍事的敗北を重ねたうえ、北京、上海に続いて首都南京も失うことになった心理的衝撃は小さくない。
蒋介石は十二月二日、トラウトマン大使を招いて、華北の宗主権、領土保全、行政権に変更を加えないことを前提に、日本の先日の要求を受諾すると伝えた。日本の先日の要求というのは、「従来の行懸に捉われざる、画期的国交調整条件」〈同371〉を出発点にした大乗的≠ネもので、中国側が「これだけの条件ならなんのための戦争かわからない」と驚いたほど寛大なものだったはずである。
ところが──
十二月十四日、南京陥落の翌日に開かれた大本営政府連絡会議で、日本の和平条件は一変した。席上、新任の末次内相は、「なまじっかな講和条件では駄目だ」〈原田6─187〉、「かかる条件で、国民が納得するかね」〈風見『近衛内閣』95〉と煽り立て、華北の特殊地域化、華中占拠地の非武装地帯化、戦費賠償要求など、華北を植民地にする方向で和平条件が決定された。米内海相は、「和平成立の公算はゼロだと思う」と反対したが、沈黙を続けた広田外相は「マア三、四割は見込みがありはせぬか」と無責任な放言で応じ、杉山陸相も「五、六割は見込みがあろう」〈同97〉と同調した。
「こんな条件で蒋が講和に出てきたら、彼はアホだ」〈石射『外交官の一生』264〉
石射東亜局長は記したが、蒋介石が呑むはずがない。
広田─ディルクセン駐日独大使─トラウトマン─孔祥煕行政院副院長と伝えられた新条件に対する中国側の回答は、十三年を迎えても届かなかった。
南京攻略──これは、近衛のブレーンとして昭和研究会を主宰していた後藤隆之助が、十一月末に上海で同盟通信の松本重治から進言されたように、「和平の千載一遇の好機」として逃すべきでなかった。
「日本軍は決して南京を陥落させ、これに入城して、中国人のメンツを失わせてはならない。南京を包囲しておいて、これを落さず、蒋介石と和議を結ばなければ、事変は中国全土に拡大されて、結局収拾の道がつかなくなるであろう」〈酒井『昭和研究会』86〉
しかし、松本の話に大いに頷いて帰国した後藤が、十一月二十七日に勢い込んで近衛に進言すると、近衛は「首をうなだれて傾聴したが、やがて今の自分にはもはやそうする力がない≠ニ答えた」だけだった。
──とすれば、十二日の朝、近衛が原田に話したことは、南京が陥落しても蒋政権は倒れないだろう、でも行きがかり上、日本政府は蒋政権を否認する、その結果、事変はどこまで続くか判らないから自分は早く辞めたい、というように解釈した方がよさそうだ。
明けて十三年一月十六日、日本政府は「爾後国民政府を対手とせず」という問題の声明を発表し、二日後には「国民政府を否認すると共に之を抹殺せんとするのである」〈主要外交文書下386〜7〉と補足声明までつけ加えた。
このとき、参謀本部は、多田次長を先頭に交渉打切りに反対し、「蒋介石を相手に和平を結びたい」と頑張った。しかし近衛や木戸は反対意見だった。
「まるで敗戦国のような態度で、こっちからわざわざ肚を見せた条件を出して、これで講和したらどうか≠ニいうようなことは、今日連戦連勝の国の側から示すべき態度じゃあない」〈原田6─208〉
杉山陸相も「蒋介石を相手にせず、屈服する迄作戦すべし」〈堀場一雄『支那事変戦争指導史』(48年、原書房)130〉といい、広田外相も「どこまでも支那に対抗して行く決心を固めなければよくない」〈原田6─207〉と主張した。それでも参謀本部はあきらめず、閑院総長が参内して「御裁断を仰いで」、一挙に和平に持ち込もうとした。
しかし、天皇は、大本営政府連絡会議で決定したことはそのまま嘉納することにしている。
参謀本部の早期和平論は結局取り上げられなかった。参謀本部が、和平方針で陸軍全体を完全に統一し、それに政府も同調するのなら、天皇は心から歓迎するのだが……。
しばらくのち、十三年九月に再び参謀本部内に早期和平論が強まり、秩父宮が「参謀本部の若い方は、もう即時戦争をやめてもらいたいという希望でございます」と上奏したとき、天皇は閑院総長を呼んで、「和平を望む者で全部を統一して行くことはできないか」と尋ね、「政府の政策として和平に落着いた時は、参謀本部は随いて参ります」〈同7─97〉という奉答を得た。しかしこの時も日本軍は漢口・広東攻撃を開始し、政府も、「敢て之(国民政府)を拒否するものにあらず」と対手とせず≠フ第一次声明を取り消したものの、首相官邸で声明の説明のためマイクを握った近衛は、「今や支那を如何ように処理するとも、その鍵は日本の手にある」〈風見『近衛内閣』166〉と発言、天皇が希望する和平の方向へ「全部を統一して行く」ことはできなかった。
それにしても、一月十六日の「対手とせず」の近衛第一次声明の影響は重大だった。なによりも、国民党中央宣伝部長の周仏海がのちに東久邇に語ったように、「蒋をして大いに憤慨せしめ、彼をして最後まで抗戦する決心を固めさせてしまった」〈東久邇稔彦『東久邇日記』(43年、徳間書店)126〉。
「大きな失策だ。日清戦争にしても李鴻章をツカマエタからこそ話ができたのだ。相手にシッカリしたものをツカマエテ、それと話をつけるということが定石ではないか」〈小山完吾日記213〉
西園寺は目をむいて怒ったが、近衛ものちに「非常な失敗であった。余自身深く失敗なりしことを認むる」〈近衛『失はれし政冶』17〉と大いに後悔する。
近衛は、「あれは余計なことを言ったのです」〈宇垣日記1241〉と宇垣にも打明けたし、また「僕の力が弱いんですよ」〈木舎幾三郎『政界五十年の舞台裏』202〉とも自嘲するが、若槻元首相が指摘するように、「日本の外交の大失敗」〈若槻『古風庵回顧録』415〉である。風見書記官長が「相済まぬことをしてしまったと、自責の念に胸はうずきにうずく」〈風見『近衛内閣』80〉とどんなに嘆こうが、南京攻略前後からの和平の絶好の機会を逃した以上、日中戦争はいよいよ泥沼に踏み込み、日本軍は蒋政権を追って漢口ヘ迫り、さらに援蒋ルート遮断のため、華南の広東を攻撃するなど、戦線をますます拡大せざるを得なかった。南下の先に英・米との衝突──太平洋戦争がある。
十二年末ころ、原田は湯浅内府から、天皇が疲れていると聞いていた。
「良い情報が陛下のお耳に入ると、なんとなく急に御安心になると見えて、お疲れが出る。なんとかお気持の転換を遊ばすようなことができないと困ると思うが、お好きな微生物の研究所にお出でになると、この非常時に生物学の御研究なんか甚だけしからん≠ニ批評するものが陸軍武官の中にいるので、それに気がねをされて少しもお出でにならない……」
原田は、けしからん=A不忠な奴等だ≠ニ激怒して、米内海相のところに飛びこんだ。
「元老とか側近とかいう方面から下手に申し上げると難しいことになるから、ひとつ陸軍大臣と協議して、陸軍大臣が責任を以て陛下に申し上げ、同時に武官府によく話してもらいたい」
米内海相は快諾して杉山陸相に話し、杉山は宇佐美侍従武官長と百武侍従長を掴まえて、「陛下には、お忙しい間に気持を転換されるようないい機会がなくては困る。お好きな生物学の研究にちょいちょいお出でになるようにお勧めしたらどうか」と強く説いた。
十三年を迎えて、天皇は一段と憔悴の度を増した。日中戦争は一層拡大し、「対手とせず」の声明で、和平の望みも遠のいた。
二月一日、天皇はカゼをひいた。「軽微」と発表されたが、なかなか回復せず、二月十一日の紀元節を過ぎて十三日まで床を離れられなかった。その間も、天皇は外交のことが一時も念頭を去らないらしく、広田外相が「この際外交工作によって英米をこちらに引付ける」、「イギリスとの親善関係はますます増進して行くつもり」と上奏したいといっていると聞くと、御寝所に広田を呼んだ。拝謁した広田は天皇の憔悴ぶりに驚いた。
「いかにも憔悴しておられる。まことに見上げるのもお気の毒な御様子……なんとか病後の御養生が必要じゃあないか」
広田は、心配に耐えぬという様子で原田に告げた。原田は、西園寺に電話で連絡した上で、松平宮相に「西園寺公も、ぜひ葉山にお出でになるように取り計らえ≠ニいうことであるから、一つ考えてくれんか」と申し入れた。松平は、「広幡侍従次長や甘露寺侍従が、この時局に陛下が御静養とはなんだ≠ニ世間から云われるのを気にしているんだ」と弁解していた。
原田は甘露寺侍従を呼んで、大声を張りあげた。
「いたずらに世間がどう言う≠ニか、軍人や右傾がどうだ≠ニいうような、世間の非難ばかり気にして、玉体にもしお障りになるようなことが出来たら、一体君達はどうするか。伺うところによると、生物学の研究所にも一遍もお出ましにならないではないか。早速、侍従長、侍従次長にもよく言ってくれ。殊に広幡には原田が来て非常に怒っておった≠ニよく話しておいてくれ」
翌十六日の朝、原田は松平宮相から、「宮内省関係は葉山行幸に決したが、大本営が残っている。陸海軍大臣が陛下に直接に御転地のことをお勧めしてくれるよう、なんとか手配してくれ」と頼まれて、杉山陸相と山本五十六海軍次官に連絡をとった。杉山陸相は早速米内海相と相談して、閑院・伏見両総長から、「葉山にぜひ行幸を遊ばすように」と上奏するように取り計らった。
「自分がこの際僅かな病気で転地するようなことがあっては、第一線にいる将士に対してどういう影響があるか、大丈夫か」
「無論大丈夫でございます。玉体にお障りになるようなことがあれば、なおのこと士気に関しますから……」
天皇はまだ躊躇する風もあったが、やはり久し振りの葉山行幸を心待ちにしていたようで、松平宮相に話しかけた。
「両総長宮も言われるし、養生に行こう。なお葉山に行ってから、舟で微生物の採集に出るようなことはどうだろうか」
「侍医と御相談の上、天気の好い日などはよろしいかも知れません……」
松平宮相から報告を受けた原田は、陛下はまだ世間がかれこれ批判することを気にしておられると同情し、また、「側近の忠誠がすこぶる足りないためじゃあないか」と憤慨した。
翌々十九日、天皇は葉山御用邸に向かった。
第七十三議会──近衛内閣として始めての予算審議を含む通常議会は、十二年十二月二十六日に開院式があり、一月二十二日から審議に入った。この議会は、いろいろの点で象徴的だった。
三月二十六日の閉会までに、議会は「提出法案八十六、その他予算案等百十数件、全部成立の新記録を以て」終ったが、審議は近衛が風邪で休むと停滞し、近衛がふらつく足で登院して「答弁をしたり説明をしたりすると非常な人気で、今まで難航と思われていた法案に対する空気も緩和する」という有様だった。
「この内閣は総理以外に政治家という者がほとんどいない」
古島一雄議員は原田に嘆いたが、近衛で保っている──それも近衛自身にいわせれば、「ただ空漠たる名声だけ」でもっている内閣ともいえた。近衛の答弁のうまいことも、議会で有名になった。
この議会では、予算案のほかに、国家総動員法、電力国家管理法などの重要法案が、可決された。
[#1字下げ] 第七十三議会の特色は、第七十一特別議会及び第七十二臨時議会を経て、わが社会・政治・経済の戦時体制をほとんど完璧に近く整備した点に求められる。特に四十八億五千万円の厖大な軍事費を許容し、国家総動員法を通過せしめた第七十三議会は、まさに純戦時議会の称呼に値いするものである。また、国家統制経済の新方式たる電力管理法が結局成立した所以も、この議会を通じて特に高揚された戦時意識の裡に見出すことができる。(日本経済年報・第三十二輯)
近代戦の特質は、国家の全智全能を挙げてのみ遂行される、したがって、武力だけでなく国の物的・精神的全能力を総動員して非常時に備える、という広義国防の考え方に立つ。大正九年に永田鉄山が「国家総動員に関する意見」を発表し、さらに昭和二年に内閣に資源局が設置されて以来、総動員法を制定すべしという主張が軍部側からなされてきていた。
こんな経過ののち、二月二十四日の本議会に上程された国家総動員法案は、諸物資の生産、配給、輸出入、保管はもちろん、運輸、通信、金融、教育や、労働、国民徴用、会社の設立と経営などの一切について、統制運用を勅令によって行なうというものだった。当然、運用次第では憲法と議会の停止も含むことになる。
「実質論としてこの法案は結局憲法無視だから、まあ通過しない方がいいな」
西園寺は反対意見だった。同じ意見は議会でも出たが、近衛は、「一朝有事の際に、或は緊急勅令とか、或は非常大権の発動に依りまして、総動員の実施を行うというよりは、予めその大綱だけでも議会の御協賛を得て、法律として制定しておく方が、むしろ立憲の精神に適う」〈『近衛文麿』上478〉という論法で成立を急いだ。
もう一つ、総動員法と並んでこの議会の最大法案であった電力国家管理法案は、電力事業を民有国営体制にしようとするもので、広田内閣以来の懸案であった。
「国民の財産を一文の現金も使わずに政府の掌中に収め、しかも国民の財産に減価を招来すること無きか」〈日本経済年報(14年、東洋経済新報社)32─221〉
当然に反対論が強く、一時は近衛も、「この案は流してしまおう」と諦めかけたが、「民政党が大いに努力したことと、軍部が後押ししているぞという宣伝がききめがあった」〈風見『近衛内閣』147〉ため、成立してしまった。
そんなことで、法案は全部成立したが、一面では「この議会はさんざんだった」。
二月十七日、政友・民政両党の本部は、政党解消を叫ぶ防共護国団六百名によって占拠された。彼らは、「数日分の食糧まで用意、地下室に陣取って炊き出しまで」始めた。政党は暴徒の排除を末次内相に頻りと要求したが、末次は「党員同士の争いに官権が介入するのはどうかと思う」と腰を上げなかった。結局、「警視庁は十時間ばかり黙認していた」挙句に、重だった者を検束して暴徒を解散させた。
ちょうどこの夜、原田は大磯から上京して、自宅に斎藤前警視総監、河原田元内相、大谷拓相、賀屋蔵相らを招いて会食しており、一同は末次内相の緩慢な処置を非常に憤慨≠オ合ったが、原田は「やっぱりこれは久原の陰謀であった」〈原田6─238〉という。久原房之助──二・二六事件で検察当局の取調べを受けて政友会を除名された久原が、政友会内の分裂や新党運動の背後で暗躍していたのを原田は鋭く見抜いたようだ。木戸が驚嘆する「カンのよさ」の一例である。
続いて三月三日、陸軍省軍事課員の佐藤賢了中佐が、衆院総動員法案委員会で説明中、委員のヤジに対し黙れ≠ニ大喝した事件が起きた。
佐藤中佐によれば、日頃陸軍を目の敵にして議会で口汚く罵ったり嫌がらせの質問をする陸軍OBの宮脇長吉議員が、この日も野次り立てたので、「黙れ、長吉」といいたかったが、「長吉」だけは危うく呑み込んだのだという。この前代未聞の事件も、杉山陸相が陳謝してあっさり納まり、佐藤中佐は「いぜん意気揚々と議事堂の廊下を闊歩」〈風見『近衛内閣』145〉していた。
「かくして議会は亡びつつあった」──石射東亜局長は嘆息するが、議会政治のこんな惨憺たる状況の中で、近衛を担いだ新党運動が次第に具体化してくる。
「もう既に大体尊氏が天下をとっているような時代だから、困ったもんだが……」
三月十日に原田が行くと、西園寺は黙れ℃膜盾フ感想を述べ、建武の中興の当時の関白には「尊氏に迎合した者もあったなあ」〈原田6─262〉と呟いた。関白近衛を皮肉っているのだな──原田は西園寺の顔を見詰めたが、西園寺はそれきり何も言わずに二人の間に用意された昼食の卓に向かった。
しかし、西園寺はやはり近衛のことを意識して話したのだろう、一週間後に原田が口述原稿を持参すると、この下りを青鉛筆で消してしまった。
こんな調子の議会だったから、木戸の文部大臣(一月に新設の厚生大臣を兼任)としての答弁も、いやに右寄りの姿勢が目立った。かねてから、国粋論者や天皇親政論者は、「自由主義的傾向のある大学教授の著書を研究し、之を排撃」しようと狙っていたが、この議会も帝国大学に対する攻撃などで喧しかった。
ところが、原田が驚いたことには、「それに対する木戸の答弁がいかにもはっきりし過ぎて……更に輪をかけて右傾の言うところに共鳴の意を表する」。
原田は「多少失望」して、「始終喧しくいえば、君もうるさくなるだろうから、遠慮しているが、はたから見ていて心配だ」と木戸に諌言し、近衛にも、「君はもっと学問の権威とか、最高学府の権威について理解をもっているものと思ったが……」と苦言を呈したりした。
十三年四月一日、「議会が済んだら辞めたい」といっていた近衛は、天皇に拝謁して、「なんとか辞任したい」と上奏した。近衛は三日前にも、「実力のある者に時局を担当せしめることが適当と存じます」と上奏している。
「どうも自分のような者はマネキンガールみたようなもので、何にも知らされないで引張っていかれるんでございますから、どうも困ったもんで、まことに申し訳ない次第でございます」
「近衛は陸軍からかねて尊敬されているから、その尊敬されている近衛から陸軍に向ってよく注意を与えてやったら、陸軍は近衛の言葉に従うんではないか」
天皇もなかなか辛辣だ。
「もうとてもそういうことは駄目でございます」
近衛が官邸の日本間に戻ると、原田がやって来た。近衛は上奏の模様を詳しく話した。
「なにか陸軍とあったのか」
「実は急に一昨日陸軍大臣が飛行機で北支に行ったが、行く目的を少しも自分達に打ち明けない。……陸軍のやり方はすべてこういう風だ。自分なんかまるでマネキンガールのようなもので、実に危険千万な話だ。だから、どうしても陸軍の痛いところを抑えることのできる、あるいは痛いところの筋を知っている者が衝に当ってやるよりしようがない。やっぱり宇垣なんかよくはないか」
そんなたわいないことで腐っていたのか──「まあ少し待て」と原田は座を立った。それから原田は、木戸と電話で話し、山本海軍次官、広田外相を訪ねたあと、夜遅い汽車で興津へ行った。西園寺は腹をこわして昨日から寝ている。翌二日は一日中、水口屋で西園寺の容態を気遣い、三日の朝ようやく西園寺に会った。原田がマネキンガールの話に及ぶと、西園寺は苦笑した。
「近衛はなぜ、むしろ大元帥である陛下におっしゃって戴けば、なおさら有効じゃあございませんか≠ニ申し上げなかったか」
尊氏に迎合する関白では……ということか、原田はまたも感じたが、この日すっかり気を腐らせてしまった関白≠ヘ、「急に風邪を引いたため」伊勢、桃山参拝の予定を延期して、寝込んでしまった。
六日の朝、原田は華北から帰った杉山陸相と電話で話した。「近衛は議会後辞めやせんか」という噂が以前からあったので、杉山は「一体この頃、総理の心境はどうだろうね」と原田に探りを入れてきた。ちょうどいい機会だ。
「貴下が黙って北支に発ってしまったので、近衛はすっかり腐ってしまって辞めるといい出して、慰撫するのに非常に困っているんだ。ここで近衛が辞めたら、すべて貴下の責任だといわれても仕方ないな」
原田は杉山を嚇かした。驚いた杉山は、「早速総理に会おう、なんとかしよう」と荻窪の近衛邸へすっ飛んでいった。木戸邸、結城日銀総裁邸、池田成彬邸を回って、原田が昼すぎに近衛邸に行くと、近衛は明るい顔付で床の上にすわっていた。
「さっき陸軍大臣が来て、非常に謝って帰って行った。なにか自分が怒っているかのように恐縮しておった」
「いや、実は今朝、電話で嚇かしてやったんだ」
「あゝそうか。杉山は何でも御用があれば早速来てお話しするから、遠慮なく呼んでくれ≠ニしきりに言っておったよ」
近衛は愉快そうに笑っていた。この分なら辞めることもないな──原田は、先ほど聞いた池田成彬の意見を近衛に伝えた。
「中国には経済工作を中心にして外交を一元化し、軍人は外交から手を引かせよう。なんとかそんな手だてをしたいと、自分も宇垣も結城さんも同じ意見なんだ。近衛が辞めることは絶対によくない。陣容を代えてやり直すことが必要だ」
池田の話は、早く戦争を止めて、経済工作を中心とする外交──いわゆる経済外交で日中関係の局面打開を図りたい、そのためには軍人が外交に介入するのを排除しなくてはならず、それが出来るのは宇垣だから、内閣改造をやれということである。宇垣を外相にして「国民政府を対手とせず」の声明を取り消し、また、「何も言わないで事をしておいて、しくじれば政府に責任をなすりつける」陸軍のやり方を改めさせるために陸相も変えよう……。近衛は大いに気を動かされたようだった。
四月十三日、原田が興津へ行くと、このところ、近衛が辞めたいというのをずっと黙視していた西園寺も、必要なら内閣改造をやれと指示した。
「二、三もし適当でないと思う国務大臣があるなら、それは総理の権限で、陛下のお許しを得てどんどん代えりゃあいいじゃないか。陛下もすこし強く近衛に辞めないように親しくおっしゃることが必要である。内大臣にいって、陛下にお伝えしてくれ」〈原田6─286、284〉
東京に戻った原田は、十五日に近衛に会って西園寺の言葉を伝え、湯浅内府にも「公爵の話を一伍一什伝えた」。
十八日、近衛は、「いよ/\健康が恢復したから心機一転、一両日中に登庁して、新たな気分で一生懸命やる」と書記官長声明を出させ、二十一日は久し振りに閣議に出たあと、参内した。原田の観測では、「公爵からの言づけが結局近衛をして決心させたのに違いないように思えた」。
しかし、陸相を気に入らないという理由で交代させることができるかどうか……。近衛は天皇を巻き込んで、行動を開始する。
二十一日の午後参内した近衛は、天皇と「二時間も話して帰った」。近衛の場合は、「椅子を賜わる」のはもちろんのこと、足を組んで「無造作に或は漫談的に、愚痴や批判」も口にする。
「近衛さんが拝謁すると、あとで椅子の背が暖かくなっていた、つまり背にもたれて話をしたというんですから……」(牛場友彦氏)
そんな評判すら立ったほどで、天皇も近衛には「いかにも気楽にお話し」〈同6─86〉になる。
「陛下も公卿さんというものはね、ちょっと違って見ておられるよね。親しみを持っておられる。殊に近衛なんてのは(公卿の)筆頭だからね、ウン」(木戸氏)
このとき、近衛は陸相更迭を天皇に内奏した。三長官の推薦、つまりは陸軍の意向で決定される陸相を政府が更迭するのは、「尊氏が跋扈している」時代だけに思いもよらないことのはずだ。のちに天皇は木戸に語った。
「あれは近衛が初めにその希望で、参謀本部も同様希望して居たので、自分が閑院宮に話して梨本宮(元帥、東久邇宮の実兄)から杉山に話した、ところが、杉山は辞めるとは言わず……それならばその問題(日中和平)が一段落してからでもよいではないかと思って、参謀本部の方へ話して見たところ、その時はもう是非この際更迭を願うという希望が強くなって居たのだった」〈木戸809〉
久し振りの拝謁を終えて近衛が荻窪に戻ると、午前中に興津で西園寺と会った木戸がやって来た。木戸は西園寺から「この際近衛を助けて、一層努力するように」と言われ、近衛にも「一段の奮発を望まるゝ旨の伝言」を持って来た。この夜、近衛と木戸は「三時間半ばかり、いろ/\改造問題なんかについて話し……外務大臣と陸軍大臣をどうしても代えなければ駄目だ。他に無任所大臣を置いて、まず参議をすべて無任所大臣にしたり、各省大臣の三、四人辞める者ができるから、そこに補充したりすればちょうどよくなってくる」と相談した。
二日後、木戸は湯浅内府から、「閑院宮と梨本宮両元帥が、杉山陸軍大臣が旅行から帰って来るとすぐ呼ばれて、ぜひお前は辞めろ≠ニ辞職の勧告をされたが、陸軍大臣は辞める必要は全然ないと存じます≠ニお答えしたと、陛下から伺った」と聞いた。しかしこの日深夜に閑院総長から近衛に、「杉山陸相は辞めることを承諾した」と内報が入り、二十五日に近衛は、「今日からでも板垣工作にとりかかろう」と風見書記官長に指示した。風見は、同盟通信社の古野伊之助理事長を徐州の戦場まで派遣して、第五師団長の板垣征四郎中将から陸相就任の内諾を取りつけた。一方、「何事もない様子で……いかにもケロッとして」いる杉山には、「参謀総長が四月と五月に三回にわたって辞職を勧告」、とくに最後は「あけすけに辞めた方がいいぞと勧め」〈風見『近衛内閣』113〉、とうとう辞職に追い込んでしまった。
このとき、閑院総長は、「近衛のやりいいようにしてやるがいい」〈同113〉と近衛を支持し、その近衛は「総理として今日、板垣以外の人とは一緒にやって行かない、総辞職する」と大変な決意を固めていた。近衛が板垣に執着するのは、「対支政策の転換のため石原少将の不拡大方針を実行しうる者として……石原と思想的に連絡のある板垣を……」〈近衛『失はれし政治』22〉ということで、杉山とともに次官を退く梅津美治郎は、「近衛公は頻りに石原と連絡……皆石原の策動」〈重光『巣鴨日記』335〉と口惜しがるが、ともかく、「やりいいようにしてやるがいい」と天皇をはじめ皇族や側近が支援を惜しまないのは、歴代首相のうちでも近衛だけである。もし近衛が、この絶大な支援をバックに、参謀本部の早期和平論を支持して行ったら、中国との戦争は全く異なった経緯を辿ったろう。言い換えれば、「僕は、支那事変に責任を感ずればこそ、この事変解決を最大の使命とした」〈『近衛文麿』下609〉と書き遺して自殺するほど責任を感じていたのなら、十二年末の漢口攻略、トラウトマン工作から、この内閣改造の時期が和平のチャンスであり、近衛ならそれを実現できたかも知れないということである。
陸相交代に一歩先んじて、五月二十六日に、外相は広田から宇垣に、蔵相は賀屋から池田成彬に、文相は木戸が厚相専任になって皇道派巨頭の荒木貞夫大将に、それぞれ交代が行なわれた。外相交代には原田もいろいろと尽力し、広田に「辞めてもらうように話をつけ(たのは)原田熊雄氏を煩わし、広田氏も、あっさり辞意を表明してくれた」〈風見122〉と風見書記官長はいう。
宇垣は、「外相になったのは、既に参議になったとき諒解済み」〈『近衛文麿』上514〉というが、入閣の条件として、外交の一元化、中国との和平交渉の開始、国民政府「対手とせず」の声明は必要あれば取消すことの三つを改めて近衛に確認した。近衛はしばらく考えていたが、「一月十六日の声明は、実は余計なことを言ったのですから──しかしうまく取り消すように」〈宇垣日記1240〉と了解した。
この宇垣新外相と、早期和平論の参謀本部が推す板垣新陸相(六月三日就任)ならば、「事変の拡大を防ぐとともに、一挙に解決をはかる」ことも可能かも知れない──近衛は板垣の親任式のあと官邸に戻ると、「ずいぶん苦労したが、苦労しがいがあった、ほんとによかった」〈風見129〉と秘書官室に菓子を持って来させて頬張りながら、珍しくはしゃいでいた。
しかし、西園寺はこの改造にあまり期待しない様子だった。西園寺には、「万一内閣が辞めた時に、なんといっても相当に押しも利けば骨もあり、実力もあるという政治家としては、やはり宇垣が第一人者のように思われる。その取っときの人物に疵をつけられるというのも困る」という気持がある。それに、近衛の政治に対する態度にも西園寺は不満を抱いていた。
「近衛のやっている様子を見ておると……自分が大政|燮理《しようり》の任に当っているという強い自信が欲しいように思われる。自ら自主的に出て、もっと積極的に指導する気持があって欲しいと思うが、どうもそういうところがない。いかにも奉公人のような気でやっているようではとても駄目じゃないか」
近衛は「道具立てのみに一生懸命」だが、それよりも、全責任を負って「自ら敢然としてやる」ことだよ、ということだろう。西園寺の危惧したとおり、近衛は「障害があるたびにだんだん熱がさめていって」、せっかくの内閣改造も日中和平のためにはさして効果をあげなかった。
陸相交代の目途がついた五月三十日、近衛はとんでもないことを口走って、原田を憤慨させた。
「どうも陛下は少し潔癖過ぎる。もう少し清濁併せ呑むようなところがおありになって欲しい。今の内大臣のように気宇の小さい者が附いているからじゃあないか」
「潔癖であられてちっとも差支えないじゃあないか。かえって尊いんじゃないか」〈原田7─3〉
原田は目をむいて反論したが、近衛がこんなことを言い出したのは、どうも天皇が末次内相にきびしい目を向けることに原因があるようだ。
しかし、末次内相については、右翼とのつながりが喧伝されている。池田蔵相も、「今日のように末次内相の所に、あゝ右翼がはびこり、或は対ソ関係、或は対英関係、或は金融国営断行、或は革新云々と言って、乱暴に方々立札を立てて宣伝するので……とてもやって行けない」と非難する。
ところが近衛は、今回の改造でも末次を代えなかったばかりか、しきりと弁護した。
「右翼を抑えようとして末次を内相にしたのに、みんなが寄ってたかって末次を駄目なものにしてしまうから、結局右翼を抑えることもできないじゃあないか」
木戸も近衛に同調するようなことをいう。
「内閣に一人ぐらいは、不人気をひとりで背負いおるものあるも、あるいは可ならん」〈小山完吾日記202〉
──要するに近衛は「(天皇に)お親しみをもって勝手気儘なことを申上げて」いるんだ、それで愚痴も出るのだろうが、それほど気にすることもあるまい……原田は無理に自分を納得させて家に戻った。
ちょうどこの時、原田は平河町から千駄ヶ谷に引越しを始めていた。二・二六事件で平河町の自宅周辺が反乱軍に三日間も包囲されたし、神兵隊事件のときも襲撃目標の一人に挙げられたので、「あんなところは危いと親戚一同が一斉に反対した」ので、千駄ヶ谷二丁目三八五番地の敷地(現在の鳩森八幡の向い側)を、親しい松平康昌内大臣秘書官長から譲り受けて、六月五日はこの新居で初めての朝を迎えた。
その朝、松平康昌がさっそく新居を見にやって来た。
「陛下は内大臣に、近衛は板垣のことを、会って見ましたけれども、ぼんくらな男だ、と言っておったよ≠ニ言って、笑っておられて、近衛はすぐ変るね≠ニつけ加えておっしゃった」
松平は続けて、「陛下の御近情について……御態度のまことに立派なこと」をいろいろと話した。
「近衛が勝手気儘なことを申上げても、陛下は筋の違った方向に向われることは絶対にない、まことに有難いことだ」
原田はようやく安心した。
こんな経緯をすっかり忘れたのか、近衛は秋になって、「どうも末次はこの内閣の癌でございます」と上奏して、天皇を失笑させ、伝え聞いた原田も、「だから近衛の新しもの好きも困るというんだ」とぼやいた。
このころ中国では──
五月十九日、日本軍は徐州城内に突入した。
それより前、二月十六日の第二回大本営御前会議は、参謀本部起案の「当面対支消極持久の方針」を承認した。参謀本部は、「対ソ戦備上の欠陥を補填する」ために、積極的な大作戦を行わずに既占領地域の治安維持と新政権の育成に専念すべきだと主張したのだが、現地では、前年末に黄河の線まで到達した北支那方面軍と、南京占領後停止していた中支那派遣軍(二月に呼称を改めて畑俊六大将が軍司令官に就任)が、南北の占領地区をつなげるため、天津─浦口を結ぶ津浦線に沿って南北両側から進撃を始めていた。
「対支長期戦、対ソ準備と海軍拡張のこの三つを同時に成立させることができるか」〈原田6─248〉
天皇は呆れ果てた表情で杉山陸相に下問したが、このように陸軍の省部、出先ともに思惑が食い違うときは、強硬論、あるいは出先に引きずられるものである。
三月一日、不拡大方針の河辺作戦課長(十二年十月に戦争指導課長から就任)が更迭されて、稲田正純中佐が陸軍省から乗り込んできた。稲田新作戦課長は、「事変一応の処理を目途とする積極作戦という逆手」に踏み切り、四月七日、参謀本部は徐州作戦の奉勅命令を現地軍に伝えた。
「徐州作戦は消極持久思想の破綻にして、かくの如き自然拡大に委するの統帥を以てすれば、戦面の拡張は際限なし。戦理上次は鄭州、次は漢口なること必然なり。即ち徐州は漢口に通ず」〈堀場『支那事変戦争指導史』163〉
参謀本部戦争指導課の堀場少佐はがっくり肩を落して嘆息した。
中国の地図を眺めると、揚子江が大陸の真ん中を横切っており、その河口の上海から西に、南京、漢口、重慶の重要都市がほぼ一直線に並んでいる。そして北京から二本の鉄道が南下し、東側の津浦線は天津─済南─徐州─南京を結び、西側の平漢線は石家荘─鄭州─漢口を経て長沙から広東にまで延びている。
いま、北京郊外の盧溝橋に始まった日中戦争は、徐州作戦によって津浦線を確保し、次は西進して平漢線を制圧することになる。「次は鄭州、次は漢口なること必然なり」と堀場少佐がいうのはこういう意味だが、まさにその通り、六月十八日に参謀本部は北支・中支の両司令官に「大本営は初秋の候を期し漢口を攻略するの企図を有す……」〈現代史資料9巻259〉と奉勅命令を伝え、北支那方面軍からの転属を加えた総兵力三十万を越す中支那派遣軍は、漢口を目ざして典型的な分進合撃¢ヤ勢をとりながら前進を開始した──
内閣改造後、近衛は「なるべく速かに戦争を終熄に導きたい」と上奏したが、その数日後の六月八日に参内した閑院参謀総長は、「漢口はどこまでもこれを攻撃します」と上奏した。
「片方は戦争をやめたいと言い、片方は漢口までやると言い、そこに何にも連絡がないのは非常に遺憾である。近衛を呼んで連絡会議でもやるなり、なんとか方法はないものか≠ニ訊ねてみようか」〈原田7─8〉
天皇は湯浅内府に下問したあと、近衛を呼んだ。近衛は、「連絡会議よりも五相会議を開いて、なんとかだん/\に片付けて行きたいと思います」と奉答した。
この五相会議(陸、海、外、蔵、首相の五相)は六月十七日に初顔合せをして毎週火金の二回開くことを決め、近衛はこれ以外にも、木曜正午に外・蔵の両相と三相会議を、また月曜は陸相、水曜は文相、木曜は内相と朝食を一緒にするなど、閣内融和に力を入れているようだった。「それが近衛さんのやり方」〈池田成彬『財界回顧』290〉と池田蔵相はいうし、「威容を張ることの好きないわゆる関白好み」といわれた内閣参議制度と同じと見るものもいたが、内閣改造で「やや満足を覚えた」近衛の前向きな姿勢は見てやらなくては……と原田は考えていた。
七月に入って、事変一周年記念日(七日)を目前に、天皇は板垣陸相と閑院総長に下問した。
「この戦争は一時も早く止めなくてはならんと思うが、どうか」
ところが両者は、「蒋介石が倒れるまでやります」と異口同音に奉答した。いままで参謀本部は、「この戦いを止めたい。そしてソビエトに具えたい」と遮二無二¥繿tしたのにどうしたことか──天皇は「非常に御心配になった」。
七月十五日、西園寺は例年どおり坐漁荘を出て御殿場の山荘に向かった。昨年九月に御殿場から戻るときには車中で貧血を起して意識を失ったので、原田も熊谷執事も用心したが、御殿場についた西園寺は居並ぶカメラマンに軽くステッキを上げて元気なところを見せるなど、なかなかご機嫌だった。
原田が西園寺を送りとどけて東京に戻ると、張鼓峯でソ連軍進攻≠フニュースを耳にした。
張鼓峯──満州国は国境線の大半の四千キロをソ連と接しているが、その東南端、日本海にそそぐ豆満江の河口近くの、満州国、ソ連、朝鮮の三国の国境が接するところに、標高わずか百四十九メートルのこの小さな山があった。周りは小杉や灌木が点在するだけで、西は朝満を結ぶ鉄道が六キロ先に見え、南は十八キロ先に朝鮮の羅津港が、東には遠くウラジオストックの海域が監視できる絶好の地点だ。国境線は複雑ではっきりせず、朝鮮軍の第十九師団がこの一帯の守備に当っていた。
七月六日、この丘の上にソ連の騎兵が姿を現わして付近一帯を偵察して帰った。続いて十一日正午には四十名ほどのソ連兵が丘を占拠して工事を始め、十三日頃には満州領に向いた西側斜面に鉄条網や監視壕が出来上がった。日本側は稜線を国境線と考えているから、これはソ連の国境侵犯ということになる。
「国境紛争地域内の山頂を彼が先取しただけの問題……言わばお互の所、それほど大切なら事前から取っておくべき……」〈稲田正純「ソ連極東軍との対決」─別冊知性278〉
報告を受けた小磯朝鮮軍司令官は、あと二日で中村孝太郎大将と交代することもあって、「支那事変の最中、こんな場末の丘一つ位問題にしなくてもよい、放っておけ」と、外交交渉に任せる方針だった。だからこの事件は「放っておけば、それで済んだソ連のおちょっかい」だったはずだ。
ところが、中央──稲田作戦課長は、「支那事変は漢口作戦に進みつつある、その事前にソ連は心配ないとの保証を得るため、偶々この限定地域に起った事態を利用して対ソ威力偵察を試みる」〈同278〉ことを思いついた。
十六日夕方、参謀本部は中村朝鮮軍司令官に宛てて、「在鮮の隷下部隊を国境に近く集中することを得」〈朝鮮軍司令部「張鼓峯事件の経緯」─現代史資料10巻4〉と大陸令を発し、稲田大佐も「少兵力を以てする張鼓峯の夜襲奪回」を考えていると朝鮮軍に連絡した。
一方、天皇は──
張鼓峯で日ソ衝突の危険が高まると、葉山に行幸の予定を延期して「非常に御軫念」の様子だった。閑院総長からは、「あの問題の地点は天王山とも言うべき所で、武力を行使しても取らなければなりません」と強く上奏して来ている。
「いまソビエトと戦争すべきではないと考えます」
湯浅内府が心配すると、天皇は深く頷きながらも下問した。
「自分が許さなくとも、独断専行をやったらどうするか」
「かりにそんなことが起って、それを陸軍が抑え得ぬ状態で引きずられて戦争にでもなれば、日本の運命はどうなるか、甚だ不安な感じを抱きます」
「そこまで行かなければ、陸軍は目が醒めないのではないか」〈原田7─49〉
二十一日に原田は御殿場へ行って、この話を西園寺に伝えた。
「陛下の御観測はどうも違うようだ。どこまで行ったって、今日の様子じゃあ目が醒めることはない。今の内に、陛下は断乎としてお許しにならないことが必要だと思う」
西園寺が話したころ、すでに天皇は、その「断乎としてお許しにならない」行動を起こしていた。
前日(二十日)の朝、閑院総長と板垣陸相は拝謁を願い出た。しかし、天皇は宇佐美武官長に内意を伝えて、拝謁を避けようとした。
天皇の真意は、「二人が面と向ってお願いしてから、そこでお許しにならんというのも面目に関わることだろうから、という極めて慎重な同情あるお気持」であるが、両者は「どうしても拝謁を願いたい」と参内した。参謀本部はすでに、天皇の允裁を前提として作戦行動を指示してしまっている。
閑院総長は一度は参内したものの、天皇の「断乎としてお許しにならない」気配を察して、「実力行使認可」の大陸命案の上奏を取止めて帰ったが、続いて参内した板垣陸相は、大陸命は允栽があったと思い込んで、大陸命実施に伴なう将兵の損耗補充の応急動員下令について允栽を仰いだ。
「関係大臣との連絡はどうか」
「外務大臣も海軍大臣も賛成致しました」
板垣の奉答をきいて、天皇は激怒した。板垣の前に宇垣外相が拝謁して、「事件は外交交渉にて収め得る見込にて出兵の必要はなかるべしとの意味の奏上」をしている。
「またしても軍部が内閣の方針を無視して独走せんとするものならん」
天皇は、板垣を「満州事変の張本人として信用されてなかった」(稲田作戦課長)〈稲田「ソ連極東軍との対決」281〉という。
「元来陸軍のやり方はけしからん。満州事変の柳条溝の場合といい、今回の事件の最初の盧溝橋のやり方といい、中央の命令には全く服しないで、ただ出先の独断で、朕の軍隊としてはあるまじきような卑劣な方法を用いるようなこともしば/\ある。まことにけしからん……」
着任して日も浅い板垣は、思いもかけぬ天皇の怒りにふれて一層深く頭を垂れると、天皇は「非常に語気強く」下知した。
「今後は朕の命令なくして一兵だも動かすことはならん」〈原田7─51〉
動員の允裁を仰ぐどころの事態ではない。板垣は「恐懼措くところを知らずして、退出した」。
「とても再び陛下のお顔を見上げることはできない。ぜひ辞めたい」
翌二十一日の朝、板垣は近衛に辞意を洩し、閑院総長も「輔弼の責に任じ得ない」といったが、近衛が参内して「その経緯をすべて陛下から伺ったところ、陛下は比較的簡単に考えておいでになって」、両者に「なおこのまゝ続けてやるように」と内意を示した。
しかし、天皇の激怒は、参謀本部が、この威力捜索を単なる火遊び≠ニして簡単に考えていることに発している。「一度叩いてみて、相手の出様を見さえすればいい」〈稲田同右書280〉つもりであっても、中国と不可侵条約を結び中国共産党をバックアップしているソ連が漢口攻撃を牽制しようと本気で出て来たら、相当規模の戦争になる。もしそれが日ソの全面戦争にまで拡大すれば、板垣が上奏した兵力の転用の便宜などという問題をはるかに超えて、国運そのものを左右する重大問題である。
ところが、天皇の板垣叱責事件は、一つ面倒な問題を残した。宇垣外相が板垣の前に参内して、武力行使を不適当とする上奏をしたことである。
「陛下に対して、武力を用いさせることは絶対によくございませんと申上げておきながら、陸軍大臣が、特に武力を用いることがあるかも知らんと外相に言ったとき、聴きおくと言った……」〈原田8─10〉
湯浅内府は「宇垣は常に二股をかける」と批判する。木戸はもっときびしく、「宇垣外相が、陸相の奏上直前にこのごとき奏上をなしたるは諒解に苦しむ……宇垣外相の行動はこの頃から時に腑に落ちないことが多く……新橋付近と虎ノ門に事務所があって次期政権を目ざして着々工作が行われている、との噂がしばしば伝えられて居ったことは遺憾であった」〈木戸文書117〉と非難する。もちろん陸軍も、宇垣に公然と敵対行動をとるようになり、しばらくして宇垣は辞任に追い込まれる……。
しかし、宇垣は外相就任以来、中国との和平交渉に本格的に取り組んでいた。
国民政府は、宇垣の登場を「日本政府で何等か方針の変更があったもの」〈中村豊一「知られざる宇垣・孔秘密会談」─別冊知性261〉と見て、行政院長孔祥煕の秘書で香港駐在の蕎輔三に密命をさずけて、中村豊一香港駐在総領事に接触してきた。六月二十六日のことである。
孔院長が提示してきた和平条件は、満州国は日満中三国条約締結により間接的に承認する、内蒙の自治を容認する、共産党との関係は清算する、また非武装地帯は日本の具体的要求をまって解決する、しかし、華北の特殊地域化は困難であり、賠償金支払いも能力的に不可能である、というようなものだった。
日本側は、華北の特殊地域化を承認しないことや駐兵問題に触れていないことに不服だったが、それよりも「蒋介石の下野」が交渉開始の前提条件であると、七月八日の五相会議で確認した。近衛声明の面子にこだわり、「国民政府対手にせずという看板は、いますぐ降ろすわけにはいかない」〈同262〉というわけだが、三年後の日米交渉の際の米国側要求と比べたら、この国民政府申し出の条件は日本側に大変有利である。和平のチャンスだった。
宇垣は中国の現状について、「蒋を支持し推進するこの隠然たる気流の大なる力を無視してはならぬ……われわれはむしろこの気流を増進せしめ、民族国家強化を達成せしめ……」〈宇垣日記1251(13年7月15日)〉と記しているほどで、蒋下野の要求が非現実的なことをよく承知している。しかし、旧態依然とした分割統治的な中国観が支配的な陸軍の主張に阻まれ、宇垣の目算は完全に覆えされた。
続いて七月十二日、五相会議は、「時局に伴う対支謀略」を決定した。
「敵の抗戦能力を崩壊せしむると共に支那現中央政府を倒壊し、又は蒋介石を失脚せしむる為、現に実行しある計画を更に強化す……新興政権成立の気運を醸成……敵戦力の分裂弱化……法幣の崩落を図り……」〈主要外交文書下389〉
これは五相会議を設置したとき掲げた課題の一つの「蒋政権を崩壊分裂さすための軍事以外の謀略等の措置」を具体化したものであるが、蒋政権を倒すために軍事力以外に謀略も用いるということでは、宇垣外相の進める蒋政権との和平交渉も謀略のひとつ≠ニ受けとられかねない。
さらに八月二十二日、参謀本部は、「中支那派遣軍は海軍と協同して漢口附近の要地を攻略占拠すべし、この間なるべく多くの敵を撃破するに努むべし」〈現代史資料9巻271〉という漢口進撃命令を発した。
「武漢を陥し広東を陥したら、支那は失うべき何ものもない、だから広東も漢口も陥さずに、それを切札にして交渉し、早く和平にした方がいい」〈中村「知られざる宇垣・孔秘密会談」265〉
中村総領事はしきりと宇垣に進言したが、進撃を始めた軍隊を留めて外交交渉をするには、政府と統帥の完全な意思統一はもちろんのこと、まず政府に断乎たる和平の決意がなくてはならない。
案の定、九月一日に蕎輔三は、蒋の下野を先決とする日本の条件には応じられないと、交渉打ち切りを中村総領事に通告してきた。代って、陸軍省軍務課長の影佐大佐らが進める汪兆銘切離し工作がクローズアップされ、同時に事変処理のための中央機関を内閣につくるという対支院設置要求が陸軍側から急に持ち上がってきた。国民政府との和平工作もこの対支院(のちに興亜院と改称)の権限内に含まれるわけで、「対支外交を取上げて封じ込んでしまうという魂胆だ」〈宇垣日記1264〉と宇垣が受けとったのも当然だ。宇垣は、日本軍の占領地域に限って外交権限を譲渡するなどの修正案を出したが容れられず、近衛までが陸軍案に同調するに至って、九月二十九日に辞表を提出した。外交の一元化、和平方針の速かな決定、蒋政権を相手とせずの声明にこだわらないなどを入閣の条件とした宇垣としては、当然のことだろう。
「陸軍から邪魔されてどうにもならず」〈風見『近衛内閣』136〉
風見書記官長は宇垣辞任の理由を説明する。近衛も、「熱心に対重慶工作を行なったが、これまた軍の妨害によって僅か三カ月間で代ってしまったが、宇垣氏の努力は評価さるべきである」〈近衛『失はれし政治』21〉という。しかし、近衛は、こういう結果になるのを宇垣が外相に就任したときからある程度予想していたようで、「いま宇垣にとって一番邪魔なのは、やはり陸軍の中堅階級で、何か外交のことをしようと思っても、あれをよく抑えながら、また一緒にやって行くような形でないと、何にもできない」〈原田7─13〉といっていた。
とすれば、宇垣を辞任に追い込んだものは、宇垣と陸軍の対立を「対岸の火災視して、一切無関心のような態度をとった」〈木舎『政界五十年の舞台裏』203〉近衛のいつもの無気力な態度そのものだったともいえる。
「まあ結局、近衛が宇垣をいやになったんだな」
西園寺は、陸軍の宇垣排撃を傍観した近衛の心中を見抜いたようで、しかも宇垣という「取っときの人物に疵をつけられた」のに落胆していた。一方、宇垣は近衛を明らさまに非難することはなかったが、密かに鬱憤を書き記した。
「御公卿様を擁して平家と同様に壇の浦まで行かねばなるまい! 仕方がなく国民もその御伴を為さねばなるまい」〈宇垣日記1266〉
しかし、宇垣が、「事変の解決を自分に任せるといっておきながら、今に至って私の権限を削ぐような近衛内閣に留まり得ないのだ。余の心境を諒とせよ」〈石射『外交官の一生』282〉と言い捨てて外務省を去ったことで、事変解決の芽はまたも摘まれてしまった。
あとは、「剣先で抑えつけ」〈宇垣日記1264〉、「謀略を進める」ことぐらいしか、日本に残された手段はない。
宇垣が辞任して一カ月後、日本軍は漢口を占領し、相呼応して行なわれた広東攻略にも成功、日本国内は祝勝の旗行列で埋まった。
漢口攻略に参加した日本軍は三十万を越え、戦死九千五百、戦傷二万六千の損失を蒙った。この作戦終了時の日本の兵力配置は、中国に二十四個師団(華北八、華中十三、華南三)、満州に八個師団、朝鮮に一個師団、内地は近衛師団だけ、台湾は軍司令部があるのみで、手持の動員可能師団は皆無に陥った。
十二年七月、盧溝橋で戦闘が始まったとき、石原参謀本部第一部長は陸軍省に対して、「現在の動員可能師団は三十個師で、そのうち十五個師しか支那方面にあてられないから到底全面戦争は出来ない。然るにこのままでは全面戦争化の危険が大である。その結果は恰もスペイン戦争におけるナポレオン同様、底なし沼にはまることになる」〈田中「日華事変拡大か不拡大か」221〉と切々と訴えたが、事態はまさにその通り、「重慶軍はどんどん奥地へ引揚げて日本は手のつけようがなくなってしまった」〈中村「知られざる宇垣・孔秘密会談」265〉。
対ソ軍事バランスも大きく崩れ、十三年末の在極東ソ連軍二十四個師団に対し、在満鮮日本軍は十個師団に過ぎない。もっとも、日本にとって安心材料は、張鼓峯で「ソ連が立たないことを確かめる」ことが出来たことである。
張鼓峯事件は、二十日に天皇が板垣陸相を叱責して動員案の裁可を留保してから、わずか十日後に本格的な戦闘が始まった。現地の第十九師団長の尾高亀蔵中将が張鼓峯北西の将軍峰を占拠したのに刺戟されたのか、二十九日に付近の高地でソ連兵が工事を始め、日本軍がこれを撃退するとソ連軍は戦車を配備して逆襲、日本軍は「真に恐懼措く能わざるものあり」と大命違反を承知のうえで、張鼓峯と北方の沙草峰を攻撃したのである。またも、「出先の独断」だ。
八月一日になって、ソ連軍は重爆撃機も動員して反撃を開始し、十一日にモスクワで停戦交渉が妥結するまでの間に、「国境線を固めて絶対にそれ以上出ないようにせよ」〈稲田「ソ連極東軍との対決」283〉という聖旨にそって前進反撃を許されない日本軍を攻撃しつづけ、日本軍は一四四〇名の戦死傷者を出した(ソ連軍は八四七名)。
「所期の目的を十分に達成することが出来た」〈同285〉
稲田大佐は都合のいい評価をしたが、ともかくソ連側にも戦線を拡大しようとする積極的意図がないのを確認した上で、八月二十二日、漢口作戦実施の勅命が下ったのだった。
漢口陥落を見とどけて、グルー大使はハル国務長官に報告した。
「……日本の態度を考慮するに際しては、本国政府と出先軍部との間に著しき懸隔の存在する事実を常に留意するを要す……日本を相手とするに当り、吾人は実際隠れたる二個の政権を相手としつつありて、この二政権は外交政策の概念に於て時に全く懸隔あり、現在日本は、陸海軍部の天下なり、彼等の明白なる目標は、外国権益の駆逐及び日本の支那市場の専有に在り……」(十三年十月二十八日打電、日本側盗聴、原田資料)
「どうも今の陛下は科学者としての素質が多過ぎるので、右翼の思想なんかについての同情がない。そうしていかにもオーソドックスで困る」〈原田7─120〉
九月十一日、木戸は原田に、右翼を含めた新党の組織のことや宇垣の悪口をいいながら、天皇に対する不満を洩らした。
──近衛に次いで、お前までそんなことを言い出すのか、陛下は今のような態度でいらっしゃることが、国家として最も望ましいではないか──原田は木戸を睨みつけたまま暫く絶句していたが、やがて憤然と反撃した。
「僕はやっぱりある程度まで立派に法によって処断して、秩序を維持することが、いずれの時代、いずれの社会においても必要だと思う。……陛下が徒らに右翼に同情したり、どうということは望むべきでない……」
木戸がいうのは、このところ急に活動が活発になっている右翼にもっと理解を示せということである。
たしかに、「建川(美次、陸軍中将)なんかの右翼は」帝国大学を全滅させようとして動いているし、英国の在中国権益の調整について宇垣外相がクレーギー駐日大使と会談を始めると、一部の過激将校が近衛の所に怒鳴り込んで対英交渉の中止を強要したりしている。また、宇垣の大磯の別荘にも外務省の若手事務官八名が乗り込んで、クレーギー大使との会談中止を要求した。
「漢口攻略を目前に控え、帝国外交も、蒋政権潰滅、防共枢軸の強化、及び在支英仏ソの政治勢力の排除のため、断然たる措置に出るべき|秋《とき》と思う。この際アングロ・サクソンと、東亜で中途半端の妥協などする必要はないではないか」〈『近衛文麿』上531〉
宇垣外相は丁寧に応答し、最後に「自分の如き老人が出馬したのは、国民の要望たる、一日も早く急速に戦争を中止することを実行することにある」〈石射『外交官の一生』279〉と結んだ。しかし、時期を同じくして、陸軍を背景にする右翼団体は、「対英媚態外交を葬れ」、「打倒! 宇垣」と叫んで街頭運動まで繰り広げ、宇垣自身、「自分は右翼に狙われている」〈原田7─96〉と原田にこぼしたほどだった。
もっと奇怪なのは富田健治(前警保局長)で、近衛を訪ねて、「閣下も犠牲になる場合があるかも知れない。閣下なんかは犠牲にしたくないけれども、場合によってはそれも已むを得ないかも知らん」〈同7─87〉と、「だいぶ脅した」りした。近衛はこの手の脅しにいちばん弱い。
そんなこともあって、宇垣が辞めたとき近衛は、「身辺に危険を感じた様なことでもあるのではないか」〈『近衛文麿』上546〉と臆測したが、米内海相も「(宇垣が)辞めた理由はまず自分の身辺に危険を感じたこと」と原田に話したところを見ると、事実なのかも知れない。
しかし──原田は木戸に反論を続けた。
「元来右翼というものは内容は何もない。ただ感情で尊王攘夷みたような忠君愛国とか、排外的な|なに《ヽヽ》だけで、一定の職業もなく、何等の見識もなく、ただ徒らに感情によって他を排擠することをのみ考えている。自分ぐらい忠臣はない、自分ぐらい皇室を思う者はない≠ニ言って、徒らに自分の存在を誇っているだけで、何にも認むべき内容がないのが今日の現状である」
原田は、木戸とのこのやり取りを半月ほど口述しなかった。木戸が天皇を非難したことは驚きだったし、西園寺に知らせるのを躊躇したのだが、ますます右翼の動きが活発になるのを見て、九月末に口述して西園寺のところに持っていった。
「以下同感の至り」
西園寺は、原田が「右翼には何にも認むべき内容がない」と口述した個所に青鉛筆で大きく記入し、「自分のいおうとすることが書いてある」と頷いた。
「どうもまだ現在日本というものは、政治的にはすこぶる低調で、君子の争いというものは少しも見られない。徒らに小人の争いのみで、国家の政治がいかなるものかということについての理解がまるでない。やっぱり教育が悪かったんだな」
自分が目をかけている近衛と木戸が、右翼に理解が足りないと天皇を非難するのは、西園寺には耐え難い。木戸は四月に、近衛は九月に西園寺を訪ねたが、二人の話を聞けば聞くほど、西園寺は「どうも近頃、自分にはまるで政治の筋がわからなくなった」と痛感する。「眼孔が極めて狭い。実に困ったものだ」と慨嘆するばかりだ。
「その内、十年なり二十年なりの後には空気も変って来るだろうし、もっと進歩した政治も現われるだろうけれども、現在のところはまず我慢して黙っているより仕方があるまい」
なにしろ、グルー大使のいうように「現在日本は陸海軍部の天下」である。西園寺は嘆きながら、皇室の将来を心配していた。
「自分なんかがいなくなってから後のことだろうけれども、木戸や近衛にも注意しておいてもらいたいが、皇室のことはよほど大事である。まさか陛下の御兄弟にかれこれいうことはあるまいけれども、取巻き如何によっては、日本の歴史にときどき繰り返されたように、弟が兄を殺して帝位につくというような場面が相当に数多く見えている……」
機会を見まして、よく話しておきましょう──原田は答えたが、西園寺は、木戸や近衛の天皇に対する言葉に不安を覚えたのだろうか……。
のちに原田は記した。
「西園寺公の意思は、この世界の形勢に見て、日本の国体を護るということに集中されていたのではないか、……公爵は常に皇室の御安泰を護るということ、帝国をして世界に於ける第一等の品位の国にしたいということ、しかして、国際平和、人類福祉の増進に貢献させたいと思っておられた」〈原田資料〉
盧溝橋事件をきっかけに日中両国の戦争が始まったとき、杉山陸相は、「事変は二、三ヶ月で片付きます」〈木戸802〉と上奏した。ところが、いざ戦場に臨むと、中国兵の抵抗は強かった。原田はこんな話を書きとめている。
「支那軍は予想以上に強い。十七、八の青年が決死の勢いでやって来て、日本兵と組討ちして崖の上から落ちる。落ちた支那兵のポケットを探ると、母親からの激励の手紙があって、決してお前は生きて帰って来るな≠ニいう具合で、祖国に対する非常な愛国心なり、抗日の精神なりが強く教育されている……」
昭和八年ころ、青森県の農村の父親が出征した息子に、「お前は必ず死んで帰れ、おれはお前の死んだ後の国から下がる金がほしいのだ」〈末松『私の昭和史』83〉と書き送ったのと比べると大変な違いだ。要するに日本軍には明確な戦争目的がなかったのだ。参謀本部は、「(支那事変の目的は)我が国国防圏の設定と日満支結合のための一歩前進とに在り」〈堀場『支那事変戦争指導史』188〉といい、政府も、「東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設」が征戦究極の目的であるという。しかし、こんな抽象的な目的では、祖国防衛に燃える中国兵に比べて「士気が振わぬ」のも仕方ない。
[#1字下げ] 今次の事変も国民は出兵の目的も必要をも意識せずに一種の疑惑を抱きつつも、非愛国者とか非国民とかいわるるのが厭さに追従して居るのが多い。出征兵士の様子を……伝聞するに、意味の分らぬ戦の為に犠牲になるのは遺憾なり、との声を漏して居る向が相当にある様である〈宇垣日記1181〉。
だから──と宇垣はいう。「南北戦線の様子を見れば存外将校の戦死傷者が多い、殊に高級将校に於て然り──かくの如き結果の生ずるのは概して敵の抗戦が頑強であり、或は部下が萎縮して奮進なし能ざる情況に於て起るものである」〈同1180〉。
それでも日本軍は、「戦術的には連戦連勝を誇り」、十三年秋には、平津地方から揚子江沿岸、広東など「中国領土の五分の一ほどが日本の占領地域内におかれている」(周恩来講演)〈周恩来講演「抗日戦争の新段階」─『ドキュメント昭和史』3巻39〉ことになった。
南京には梁鴻志を行政院長とする中華民国維新政府が十三年三月に発足し、これに華北の中華民国臨時政府と蒙疆連合委員会の三政府が、日本の占領地行政に当ることになった。また、国策会社として北支那開発と中支那振興が十三年十一月に営業を開始し、華北・蒙疆一帯の鉱山、炭鉱、製鉄事業、交通運輸、商業や、華中の紡績、製粉、タバコ、セメント、印刷などを日本の各会社に委託経営させることになった。要するに、これら地域における産業は「すべてが日本の息のかかったものとして存在するようになったのである」〈満鉄調査部『支那経済年報』15年版344〉。日本政府の対中国中央機関として興亜院≠熄\二月に設立され、これで中国に関する政治、経済の機関はほぼ整ったことになる。しかし、それも形式上にすぎない。
「外国の協力と外国の資本がなければ、日本は中国が提供する巨大な商工業の潜在力を、再建することも開発することも出来ない」〈グルー『滞日十年』上356〉
グルー大使は、日本が「外国の権益と貿易を完全に締め出」そうとしていると非難しながらも、日本の統治、開発力に疑いを持っていた。グルーの見るとおりで、日本軍は中国軍やゲリラの遊撃作戦に手を焼き、また共産勢力が滲透して治安が攪乱されるので、大軍を中国に釘付けにせざるを得ない。一方、中国側の疲弊もひどい。
[#1字下げ] なけなしの金を絞り無理算段をしたる金で他国より兵器を輸入し、それで東亜の同民族隣同士のものが相殺戮し互に相弱めつつあることは、実に一大悲劇である、大馬鹿者の所為なり〈宇垣日記1273〉。
国民党則総裁で、かつて行政院長として対日妥協政策を唱えた汪兆銘は慨嘆し、これを伝え聞いた宇垣も、「余も|夙《つと》に此感を抱くものなり」と共鳴していた。
当時、国民党内部には、共産勢力の急伸を警戒するものがふえていた。共産勢力は、軍紀の厳しい兵士が民衆の信頼を集めることもあって、顕著に拡大している。十月十二日、汪兆銘はロイターの記者と会談し、「もし日本が提出する和平条件が、中国国家の存続を妨げなければ、われわれは、これを接受して討論の基礎とすべきであり……」〈今井『支那事変の回想』84〉と語って、大変な反響を引き起こしたのも、共産勢力の伸長に危機感を強めたためでもあった。
すでに、国民政府の中で汪につながる人々には、密かに日本側と連絡をとるものがあった。外交部亜州第一科長の董道寧、外交部亜州司長の高宗武はそれぞれ二月と七月に来日して、多田参謀次長や板垣陸相、影佐参謀本部第八課長(謀略担当)、今井武夫支那班長らと会談し、日本側の希望は蒋介石の下野と汪兆銘出馬にあることを知った。彼らの背後には、蒋介石の第二侍従室長で中央宣伝部長の周仏海、四川党務主任の陳公博らがおり、また連絡役は中央宣伝部香港特派員の梅思平、日本側は同盟通信南支総局長の松本重治らがつとめていた。
十一月二十日、高宗武と梅思平は、上海で影佐大佐、今井中佐に会って、日華協議記録をまとめ、和平後の日本軍は、防共のための内蒙駐屯と連結線確保のため平津地方に駐屯するものを除き、即時撤退を開始する(二年内に完了)、華北の資源開発や利用には日本に特別の便宜を供与するが、一般的な経済提携は互恵平等の原則に立つ、中国は満州国を承認し、汪兆銘は蒋介石と絶縁して新政府を樹立する、などの点で合意に達した。日本側の狙いは、汪兆銘引出しによる蒋介石政権崩壊である。
十二月十八日、汪兆銘は重慶を脱出して、ひとまず仏印のハノイに向かった。
宇垣外相が辞めたとき、近衛は「僕も辞める」〈『近衛文麿』上554〉といった。宇垣が辞めるのは、事変解決が全面的に行き詰まったことを意味するし、それに「内閣の不統一と奏請の責任」もある。その日(十三年九月二十九日)の昼、宇垣が辞表を出して国立の私邸に引っ込むと、近衛も五相会議を中止して、荻窪の私邸に帰ってしまった。木戸は原田に、「海軍大臣にぜひ一つ援助に来るように、君から電話をかけてくれ。それから池田蔵相は多少近衛に同情しているようなところがあるから、とめてくれ」と頼むと、近衛を慰留しに出かけていった。
「何か起こるとすぐに病気といって引込むし、辞めると言い出すしね、お守りするのに骨が折れたよ、なにしろ殿様だからね」(木戸氏)
あいにくこの晩、原田は西田幾多郎博士を自宅に招いて、近衛や木戸と会食する予定になっていた。その前に……、と原田は内大臣府に行った。
「原田はせっかちだからね、宮中に行っても先に立って歩いて、内大臣の部屋を通り越して陛下の部屋のところまで行ってしまうんだよね。侍従が大慌てで引留めていたよ」
これは木戸氏の話だが、この日も慌しく飛び込んだ原田に、湯浅は、「こういう場合に辞めるなんて、徒らに一身の安きをのみ望むという風で、まことにけしからん」と憤慨していた。
「陛下もお止めになるお心組みである……陛下から元老の意思をきく術はないか≠ニいうお言葉であったが……」
原田は、元老の考えは聞かなくても明らかだと答え、内大臣室から米内海相に電話をした。米内は、先ほど近衛に辞めるな≠ニいっておいたという。
「君は近衛の性格をよく知らないんで、近衛に対してはもう参るというところまで続いてぐんぐんやらなければ駄目だ。一遍きりで帰って来たら元に戻るのだ。木戸もいま近衛のところに行っているから、板垣でも据えて、御苦労だけどももう一遍、行ってくれないか」
米内は「ぜひ行こう」と荻窪に急行した。続いて原田は池田蔵相に電話で、「(近衛は宇垣を奏請した責任を痛感しているというが)こういう場合は大乗的に特にその点は陛下によくお詫びを申上げて、このまゝ続いてやることが必要である」と説いてから家に戻り、待っていた西田博士と食事をした。この夜、高松宮からも原田に、「今やめるのは言語道断だと近衛に伝えてくれ」と電話があり、近衛も、木戸、米内、板垣の三人に詰め寄られて、「理窟を言われると参ってしまうんで……」と辞意を撤回した。
「まあ、運命だと思って、気の毒だけれども、もう少し続いてやれ」
翌日、原田は近衛に言ったが、近衛は、できるだけ早い機会に辞めようと決意を固めたようだった。
十一月になって、汪兆銘の重慶脱出が具体化して来て、近衛はこれを辞任のチャンスと考えた。事変はますます深刻化する一方で、対ソ準備を犠牲にしてまで兵力を動員したのに、それでも「大分不足で占領地の治安が思うように行かない」〈原田7─154〉。汪兆銘工作を進めた今井武夫中佐もいう。
[#1字下げ] 事変解決の転機として最も期待を寄せられた南京陥落も、無為に見送ってからは、或いは徐州作戦を行い、或いは武漢を攻略し、更に広東に進撃したが、遂に事変解決の端緒すら掴み得ず、徒らに戦面を拡大して兵力を増加するに止まり、何人も泥田に足のはまった感じで、単純な作戦一本槍では、到底事変解決の見透しのないことを自覚した。この時、思いがけなくも汪兆銘が躍り出し、時局解決策として南京に和平政府を樹立するという計画は、有り体に言って、たとえ地獄で仏ほどの信頼感はなくとも、渡りに舟の気安さを覚えた〈今井97〉。
汪兆銘の重慶脱出は当初十二月初旬に予定されていた。
「十二月三、四日頃、結局辞めることになりはしないかと思う」
近衛は原田に伝えたが、汪の脱出が延び、さらに「年内に辞めることは絶対によくない」、と周囲の反対もあって、近衛内閣は、十四年一月四日、仕事始めの日に総辞職した。
十二年六月に発足してから一年七カ月、この間、「歴代にない名総理」〈岩淵『敗るゝ日まで』119〉と農村の青年達にまで期待されて、湧くような人気≠ニともに颯爽と登場した近衛も、辞める時にはずいぶんと評価を下げた。宇垣はいう。
「近公の遣り方は各方面に気兼ねして釣合を取り調和を計ることに汲々たり……千余年来伝統の公卿根性を発揮し居らるる様にも見える……」〈宇垣日記1213〉
広田・宇垣外相の下で東亜局長を勤めた石射猪太郎も毒づく。
「陸軍のまにまに動くくせに、あまりに虫のよい首相の他力本願……」〈石射『外交官の一生』274〉
しかし、こんな声を知ってかどうか、近衛は「一体、世間が自分を買い被り過ぎている。総理大臣なんかということは実は柄でもないので、まことに僣越至極な話だ」〈原田7─201〉といって、辞任することばかり考えているようだった。
辞める前に近衛は二度にわたって声明を出し、「固より国民政府といえども、従来の指導政策を一擲し、その人的構成を改善して更生の実をあげ、新秩序の建設に来り参ずるにおいては、敢てこれを拒否するものに非ず」と、先の「対手とせず」声明をともかく修正した。
西園寺も今度は近衛の辞職に反対しなかった。
「あゝいう風に嫌だ/\と言っている者を責任の地位につけておくことこそ、すこぶる無責任な話で、嫌な者が嫌々ながらやることは甚だ無責任であると同時に、それをやらせることもまた無責任な話である」
木戸も、「近衛がどうもあゝ気力がない──露骨にいえば多少真剣味を欠いておるようなら、やっぱり代った方がよい」といっており、年末に小山完吾が訪れると、「近衛にはなんらの主義主張なく、また悪物食いにて、内閣の不一致、いまや如何ともいたし方なし。本人も素行に関してかれこれ言われだしたれば、ぜんぜん闘志を欠如、辞職真に止むを得ぬ」〈小山完吾日記217〉ときびしい口調で話していた。
「変わらざるを得ないというより、近衛がもう腰が抜けちゃっただけの話だ、何にも変わらなくちゃならない客観情勢はないんだよ。あれはもうねえ、だんだん厭きてきちゃうと駄目なんだ。理窟じゃないんだからね。まあ、その地位にいても、やる気をなくしちゃったら、始末にいけないんだよ」
木戸氏の話である。西園寺も、近衛の辞職が決まると、きびしい批評をした。
「最初は近衛もいろんな力を持ってきてなんとかして纏め、それを間切って自分が連れて行こう、という気持だったんだろうが、結局どうすることもできないで、まあ乗せられて行くまゝに行った、という情況だ。これも時勢かもしれないが、一体どうも何をしておるんだか……」
西園寺と同じことを、若槻元首相も洩らした。
「近衛公は初め軍人を利用する積りだった。ところが政治は難しいもので、利用しようとしているうちに利用されている。気がついた時はもう遅い。東亜の新秩序などというのもその一例で、これは広田外交の失敗の尻拭いであったが……」〈『近衛文麿』上526〉
ところが陸軍は、近衛の辞職に猛反対した。中堅幹部は、「近衛は絶対に辞めさせぬ」と策動し、暮の三十日には閑院総長と板垣陸相が相次いで天皇に拝謁して、この際の政変は中国との関係からも絶対にまずいから近衛をお留めいただきたい、と上奏した。
「それはとても難しかろう」〈原田7─254〉
天皇は答え、さらに宇佐美侍従武官長に注意を与えた。
「そんなに近衛が辞めるのが困るのなら、例の防共強化の問題を最初の五相会議で決定した通りに決めて、ソビエトのみに対する純然たる防共協定ということにしてはどうか。参謀本部に行って伝えよ」〈同7─280〉
例の防共強化の問題──つまり日独の軍事同盟を結ぼうという話は、ちょうど一年前の十二年秋から十三年春にかけて、大島駐独武官(十三年十月に大使就任)とカイテル将軍の間で始められていた。木戸は、この動きをトラウトマン工作の関連で耳にしたのか、十三年一月十日に原田に心配して話した。
「陸軍は、対ソ戦備にいちばん欠陥を生じている悪い時に支那事変を起したわけで、この回復のため或はドイツあたりとひそかに何年かの後に、もしドイツが立ったら、日本も立つ。日本が立ったら、ドイツも立つ≠ニいう攻守同盟のようなものを話し合っているんじゃないかという懸念もある」
十三年二月にリッベントロップが外相に就任すると、大島武官との間で交渉が本格化し、七月上旬になって、リ外相は三カ条からなる同盟案を大島に提示してきた。
第三条 締約国の一が締約国以外の第三国より攻撃を受けたる場合に於ては、他の締約国は之に対し武力援助を行う義務あるものとす
大島はこの提案を、ドイツ出張中の笠原幸雄少将(宇垣外相の義弟)に依託して八月五日に東京に持ち帰らせたが、八月二十六日に開かれた五相会議は、「防共協定の延長として目標を英仏にまで広げることを避け、脅威とか、攻撃とかいう文句には純然たる守勢の意味をはっきりするため、一々挑発によらざる、という副詞を冠せる」〈高木惣吉『山本五十六と米内光政』(25年、文藝春秋新社)192〉ことにして、「日独伊防共協定強化案」を決定した。あくまで「防禦的なる相互援助の協定」にとどめ、英仏を対象に加えないということである。これが防共強化問題に対する日本政府の基本的態度であり、宇垣の後任の有田外相(十月二十九日就任)も、十一月十五日の五相会議で、「ソに対するを主とし、英仏等はソ側に参加する場合に於て対象となるものにして、英仏等のみにて対象となるものに非ず」〈「防共枢軸強化問題経過日誌」─現代史資料10巻189〉と確認していた。
しかし、この問題でも陸軍は近衛に策動したらしく、十二月十七日にも近衛は木戸に、「英仏に対しても軍事同盟的の協定を為さんとする意向、大島駐独大使方面にあり」と憂慮し、「これらの事情を綜合すれば、尚一層辞職を決行することの速なるを要す」と強調した。
天皇の発言や近衛のこの話からみると、近衛の辞任の理由には防共強化の問題も絡んでいると見られ、有田外相も、「近衛公辞職の弁は、表面を取り繕ったもので、その真の動機は、三国同盟問題に関する陸軍との意見の対立に気を腐らしたからだと思う」〈有田八郎『馬鹿八と人はいう』93〉と言っている。
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第九章 二つの国──陸軍という国と、それ以外の国がある
──防共強化問題──
近衛が辞職したあとは、平沼枢密院議長が組閣し、近衛は代って枢密院議長に就任した。板垣陸相、米内海相、有田外相、塩野法相、八田拓相が留任し、内相には木戸が厚相から横すべりしたから、蔵相に石渡次官が昇格、他に農相、鉄相、厚相などが交代しただけで、「近衛内閣の延長らしい内閣が誕生した」。
「近衛内閣の退却は結局は末次排斥の意味以外に何事もなし」〈宇垣日記1295〉
宇垣はこういうが、ともかく新味に欠けることだけは事実だった。
近衛は、辞めるまでの一年間に実に多くの後継候補をあげて原田に相談した。
南次郎朝鮮総督、木戸、町田民政党総裁、児玉秀雄前逓相、宇垣、米内海相、有田外相、荒木文相……手当り次第、要するに辞められるんなら後は誰でもいいという恰好だ。
このうち、米内だけは西園寺も賛成のようで、「米内がよいなら、米内でもよかろう」といったが、あとの候補については原田の報告を聞き流すだけだった。十二月中旬になって、池田成彬蔵相も米内案を支持したので、風見書記官長が米内に会って打診した。すると、米内は、「ふざけるな」と一蹴し、「以ての外だ、そんなことを言うなら、海軍大臣も辞める」〈池田『財界回顧』292〉と怒り出したので、風見はほうほうの態で逃げ帰った。
「あとはどうも平沼よりしようがないじゃあないか」
近衛が言い出したが、問題は、平沼嫌いの西園寺が了解するかどうかである。十二月十八日、原田が近衛に頼まれて、平沼ではどうですか、と西園寺に打診すると、西園寺は反対しなかったが、一つ条件を付けた。
「日本の外交の基調は対英米以外にない、これはよほど考えないと国家の前途を誤る」
西園寺の持論である。これを平沼に確認させろ、というのである。西園寺は日頃、外交が大事だと強調しているし、ドイツとの防共強化──軍事同盟の話が進んでいる今こそ、平沼に「英米を相手にしなければ外交などというものはありゃあしない」ことを承知させておこうと考えたのだろう。
原田は東京に戻って、近衛や木戸に伝えた。池田蔵相も同感で、「英米を相手にしなければ、財政経済の点からいっても、日本の前途に対して力になるものはない、という点を(平沼に)もっとうんと確かめてみなければ安心ができない」と言い出した。そこで池田が平沼の意向を確かめることになり、二十九日に平沼と会った。
「英米を敵に回すことは日本としてよくない」
平沼はあっさり自分から言って、「万一大命が降ったらお受けするよりほかあるまい」〈同292〉と付け加えた。
[#1字下げ] 平沼氏……政権獲得の為に同志に背きて平素多年の主張を放棄して元老重臣の意向に阿附したり。近公と政権|壟断盥《ろうだんたらい》回しの策謀を行えり〈宇垣日記1335〉。
宇垣の嘲りの声である。
平沼内閣成立の翌日、六日の朝に、西園寺はただ一言、「平沼はエラスティックだからね」と感想を洩らした。
平沼という人は融通性があるから、「外交の基調は対英米」という西園寺の条件を呑んで組閣したが、いつまた豹変するかわからないよ──そういう意味だな、と原田は理解した。そして、西園寺は、平沼の組閣を黙認せざるを得ない時勢に改めて落胆したらしく、孫の公一に洩らしたという。
「もはや如何に憂うるとも、我が力の及ぶ所でない」〈『近衛文麿』上628〉……
一月六日、平沼内閣成立の翌日、リッベントロップ独外相は、「ヒトラー総統の承認を得たる正式の案文を決定せり」と、日独伊三国軍事同盟案を大島駐独大使に送付して来た。
「締約国の一つが……攻撃の対象となりたる場合には、他の締約国は……あらゆる使用し得る手段を以て助力と支援を与うる義務を有するものとす……」〈「防共枢軸強化問題経過日誌」10─202〉
これは、十一年に日独間で締結した防共協定秘密附属協定が、ソ連一カ国だけを対象にし、しかも必ずしも武力援助を決めていなかったのに比べて、対象国をソ連以外に広げ、しかも武力援助──参戦を義務づけるなど、軍事同盟そのものである。陸軍はこれに飛びついた。中国戦線に三十三個師団、全兵力の七割を投入したままで終結の目途がつかず、対ソ防衛も破綻を来たしているが、この同盟が出来れば好転できるかも知れない──陸軍中枢部はこう目算したようだ。
以来、平沼内閣は八月末に辞任するまで、このドイツ側提案をめぐって「七十有余回の五相会議を開催、協議したが容易にまとまらない。之は陸軍が熱心に主張するに対し、海軍が頑として同意せざる為」〈木戸文書11〉という経緯を辿る……。
一月十九日、五相会議は、「激論の末、有田外相の提出した妥協案」〈有田『馬鹿八』94〉を採択した。もちろん陸軍の要望も一部取り入れられて、「状況により第三国をも対象とすることあるべし」、「ソ以外の第三国を対象とする場合之(武力援助)を行うや否や及その程度は一に情況に依る」〈「日独伊三国協定問題経緯」─現代史資料10巻162〉というところまで譲歩してしまった。
近衛内閣時代の八月二十六日の五相会議決定──「防共協定の延長として、目標を英仏にまで広げることを避け……」というのに比べると、軍事同盟の色彩がぐんと強まった。
有田外相はこの成果を天皇に内奏し、八月二十六日の決定に固執するのは独との親善関係を損なうことにもなるから「独伊案の主旨を取入れたるも、実質的に出来得る限り我国の蒙ることあるべき不利を少なからしむることに努むる一方、外部に対しては防共協定の強化に外ならざる様説明して第三国より来ることあるべき悪影響を少なからしめ……」〈「経過日誌」210〉と説明した。
しかし、どう説明しようとも、有田としては「陛下に申し上げるのはまことに甚だ畏多い」気持だったし、湯浅内府も「一体今度の陸軍の仕打は実にけしからん、中佐ぐらいの連中が寄って、先に立って、日独伊の防共強化などと勝手なことを決めて、それを以て閣僚を威嚇して、そうしてお上にこれを強いる」と憤慨して原田に話した。湯浅によると、天皇は「まあ、已むを得ないだろう」と有田の内奏を容れたが、陸軍のやり方に「非常に悲観して」、話したという。
「どうも今の陸軍にも困ったものだ。各国から日本が強いられ、満州、朝鮮をもと/\にしてしまうまで、到底目が覚めまい」〈原田7─273〉
前年七月に張鼓峯で日ソ両軍衝突の危険が強まったとき、湯浅が「戦争にでもなれば、日本の運命はどうなるか」と心配すると、天皇は「そこまで行かなければ、陸軍は目が覚めないのではないか」と慨嘆したことがあった。西園寺はそれを聞いて、「どこまで行ったって、今日の様子じゃあ目が醒めることはない」と感想を洩らしたのだが、半年ほどで天皇の心配は一段と深刻になったわけだ。
しかし、陸軍だけを責めるわけにはいかないようだ。
海軍の高木惣吉大佐(臨時調査課長)は、原田に「海軍が陸軍に賛成した所以」を文書で手渡した。
[#1字下げ] ……新協定の目標をソ連に限定するは海軍軍備充実の名目と矛盾撞着す。……我が海軍軍備充実の対象としては英米を想定し……敢て十数億の予算を要求して憚らざるに、独り日独伊協定強化の外交工作に於ては全く右の趣旨を放棄して対ソ一点張りに合流せんとするは|啻《ただ》に海軍政策の矛盾撞着を暴露する……。
[#1字下げ] 英仏に対する御機嫌取り政策は試験済みなり……英米仏は適当の時機と手段さえ之を見出せば、日独伊を個々に、あるいは同時に打倒せんと図るは火を|睹《み》るよりも明白なり〈同268〉。
要するに、「対ソ一国とすると海軍は用がなくなる。……英米をも対象とするようにというのが海軍部内の大体の意嚮」〈現代史資料13巻月報「座談会・満州事変、日中戦争の刊行を終えて」9〉だったということだ。しかし、米内海相は、「海軍の腹は英米を敵とするにあらず」と明言しており、この交渉が、英米を対象とする軍事同盟に進展するのをどこまでも阻止する気構えだった。
ところで、「これ以上の譲歩はとても出来ない」という決定案を有田から打電された大島大使と白鳥敏夫駐伊大使は、その執行を拒んできた。「一にその情況に依る」という項、つまり「ソ連の参加せざる攻撃の場合には我方に於て兵力援助の義務を負わず」という点と、「第三国へ、コミンテルンを対象とすと説明す」の二点(秘密了解事項)を削除しなくては、独伊両国に「訓令の趣旨を取次ぐは何分にも良心の許さざる所……」〈「経過日誌」221〉というのである。
「政府として取消したりすることはできない。出先の大使達がいけない、というんなら、大使達を代えればいゝんだ」
有田外相は憤慨して原田に話したが、「当時の国内事情は外務大臣が部下の大使さえ自由に更迭することが出来ないような状態」〈有田『馬鹿八』99〉(有田外相)である。とくに大島大使は「陸軍の注文を容れて」〈重光『巣鴨日記』314〉任命しただけに、「陸軍の支持によってその主張を貫徹できると考え」〈有田『馬鹿八』96〉て、一歩も譲らない。
三月中旬になって、とうとう政府=五相会議の方が折れて出た。有田外相を除く四人が、「根本を変えないで、なんとか大島、白鳥から言って来たこと(秘密了解事項の削除)に色をつけてやれ」〈原田7─316〉と言い出したのだ。その結果、三月二十二日の五相会議で、「(一月十九日案に)独伊側が応ぜざる場合の妥協案」が決定された。秘密了解事項を削除せずに修正する第一案と、削除した場合の細目協定の精神を述べた第二案である。
第一案 兵力的援助は、ソ連が単独に又は第三国と共同して締約国の一を攻撃したる場合に行わるるものとす……ソ連の参加せざる攻撃の場合に於ても締約国が状況により兵力的援助に関し協議決定することあるべきを妨ぐるものに非ず
第二案 ソ連を対象とする場合は武力援助を行うこと勿論なり。その他の第三国を対象とする場合は、条約文の趣旨は武力援助を行うを原則とするも、帝国諸般の情勢に鑑み現在及近き将来に於て之を有効に実施し得ず……〈「経過日誌」236〉
もちろんこの程度の修正では、「この機会に完全な対英仏ソ軍事同盟の形に逆戻りさせようと企てた」〈有田『馬鹿八』96〉陸軍の希望からはかけ離れていたが、翌二十三日午前中に平沼首相がこの妥協案を内奏すると、天皇は強い懸念を表明した。
「もし、大島、白鳥両大使が中央の訓令を奉じない場合にはどうするか」
「これ以上さらに協定の内容を変えるようなことはないか」
天皇は、英仏を対象とする攻守同盟を認める意思がないから、一月十九日決定をギリギリの線と考えているのだ。七十一歳の老宰相は、三十七歳の若き天皇の前に、厳粛な態度で奉答した。
「もし両大使が中央の訓令を奉じない場合には、召還または然るべき処置を致します。またこれ以上更に内容を変えるようなことがございましたならば、……交渉を打切るのも已むを得ないと存じます」
平沼首相が続けて、「有効なる武力援助はできない、という趣旨の下に細目協定を決するつもりでございます」と上奏すると、天皇は、「有効なる武力攻撃とは何か」と下問した。
「独伊と第三国との間に戦争のある場合、局外中立ということはできません。あるいは示威行動のために軍艦を出して独伊の便宜を図るという如きことはしなければならないと存じますが、シンガポールを攻めたり、欧州を攻撃するようなことは絶対に出来ません」
天皇は頷いたが、「初めの第一点、第二点について内奏の要旨を書類にしたためて届けるように」〈原田7─325〉と異例の指示をした。ドイツや大島大使の要求に押されて、五相会議決定が度々変更されることに対する不信の表明である。平沼が恐懼して退出したあと、天皇は湯浅内大臣に語った。
「外務大臣も承知をしたそうだ……。どうもまあ已むを得ないが、やはり書類ではっきり見ないと困るから、書類を出させることにした」
三月二十八日、平沼は、外務大臣が作成し、陸海蔵を加えた五相が花押した文書を天皇に捧呈した。
「……万一両大使に於て今次の訓令にとかくの意見を挟みその執行を肯ぜざるが如きあるに於ては、政府は両大使を召還し余人をして代りて交渉に当らしむる等適当措置を講じ……交渉を重ぬるも我が方針を変改せざる限り独伊側との間に本件妥結の見込なきに至りたる場合は結局本交渉は之を打切るの外無し」
日独軍事同盟をめぐるこれらの経過を原田は詳細に西園寺に報告していった。西園寺は三月十一日に軽い気管支炎を起して三十七度七分の熱が出た。食欲もなく、勝沼博士が真夜中に名古屋から駆けつけ、原田も水口屋に泊り込んで容態を見守ったが、二、三日で山を越した。といっても、八十九歳の老人の回復は遅い。二十一日も二十八日も、西園寺は微熱が去らないので床の上にすわったまま原田の報告を聞いた。病後のせいもあるが、西園寺は一段と弱々しかった。
「どうも何をやっているんだか、内政も外交も自分にはもうちっとも判らんね」
西園寺の嘆きを裏書きするように、妥協案を受け取った大島・白鳥両大使は、これは「日本政府が何を措きても条約の成立を絶対必要」と考えたから一月十九日決定に根本的変更を加えたもので、交渉に当っては「難きを忍び種々譲歩をも辞せざるの御趣旨と拝す」〈「経過日誌」239〉と勝手に解釈してきた。しかも訓令では、まず一月十九日案を「先方に伝達し先方之に応ぜざる場合」妥協案を提出せよとあったにもかかわらず、いきなり「政府の最も重視した秘密諒解事項を除いた妥協案」を独伊両国に提示してしまった。それだけではない。四月二日にチアノ伊外相から「独伊が英仏と戦う場合、日本は独伊側に立ち参戦の用意ありや」と問われた白鳥大使は、「日本は勿論独伊側に立ち参戦すべし」〈同241〉と答え、大島大使も、リ外相に「第三国の攻撃ありたる場合他の締約国は参戦の義務を負うものなりと了解せるがその通りなりや」と問われて、「貴見の通りなり」〈同243〉と返答した。これなら対英仏軍事同盟と同じだから独側に異論はないはずだ。
四月四日、リ外相はヒトラー総統の意向を大島大使に伝えた。
「本件協定を一日も早く締結する必要あり。要は三国の精神的結合こそ最も肝要なるを以て、この際ドイツ側不満の諸点をも忍び、日本の案文そのまま変更なしに承諾すべし」〈同247〉
日本案のままでやろうというのだ。三国同盟は急速に成立気運が高まって来た。
しかし、今回の大島大使のやり方はあまりに問題が多い。
「独断専行、甚だしく非難すべきである」〈有田97〉
有田外相は声を震わせて息巻いたが、両大使の勝手な振舞いは、なによりも「天皇の外交大権を干犯している」。
「両大使が何等の権限なきに拘わらず参戦の意思を表示したことは、権限外の行為であって、甚だよくない」
天皇もこう考えて、十日に湯浅内大臣に「陸軍大臣を呼んで叱言を言おうかと思うが、どうか」と下問したうえで、板垣陸相に、「叱言という意味ではないけれども、諄々とお話しになった」。
「出先の両大使が参戦の意を表したことは、天皇の大権を犯したものではないか。かくの如き場合に、(陸軍が)あたかもこれを支援するかの如き態度をとることは甚だ面白くない。また(陸相が)閣議ごとに逸脱せることを言うのも甚だ面白くない」
これほどまで言われても、板垣陸相、というより陸軍は、「対支問題の打開には、日独伊の同盟が出来なければ駄目だ。戦線の将士が英仏の蒋介石援助に非常な不満を持っている。……参戦が何が悪いのか」といきり立って、あくまで同盟成立に突進する。
大島大使も、五月五日に再びリ外相から、「独伊が攻撃を受けたる場合、日本は有力なる武力援助を為し得ざる場合にも、交戦国関係に入らるる覚悟は有せらるるものと解し、誤りなきや」と質されると、またも、「その通りなり」〈「経過日誌」269〉と返答した。
「前に参戦≠ニいうことを出先だけの独断で申し入れ、またこゝに再び独断でかくの如きことを答えたのは甚だけしからん」
有田外相はまたも激怒したが、「ドイツ駐在ドイツ大使」というあだ名までつけられた大島大使は、「リッベントロップの小使いになっておる」(湯浅内府)と非難されようとも、「日本の大使であるか、ドイツの大使であるかまるで判らないような電報」〈原田7─316〉(有田外相)を打って来る。
「日本は独伊からバルカンの一小国扱いされているじゃあないか」
西園寺も呆れ返って、「まことに筋がちっとも通らないし、外交も政治もあったものじゃあない」と嘆くのだが、大島の動きに呼応するかのように、「あせり気味」の陸軍の中には、右翼と結んで有田外相などを脅迫するものが現われた。
原田のところにも、影佐軍務課長がやって来て、「外務大臣だけがどうしても妥協して来ないのはいかにも遺憾である。どうも重臣に引っ張られている」といって、原田と有田の密接な連絡を難詰する様子だった。西園寺が原田を通じて有田に指示しているとでも影佐はいいたかったのだろう。「右翼が動いている」とか、「治安が保たれないと警視総監が言った」という影佐の脅しを、原田は「そんなことはよくある話で、なんでもないじゃないか」と適当にあしらっておいたが、このころ萱場警視総監は原田に「目下貴下は注意を要す」と心配して伝えていた。その萱場総監も、岩畔軍事課長に乗り込まれて、「もう少しなんとかならないか」とすごまれる始末で、少し後のこと(七月末)だが、岩畔大佐は警保局の幹部と会合したときにも、「反英運動はあの通り非常に成功……今度は日独伊の軍事同盟に向かって邁進する。その時にやはりデモンストレーションをやるつもりだから、警保局は取締らないでくれ。庇ってくれ」とうそぶいていた。
有田外相、山本五十六海軍次官にも陸軍や右翼の手は伸びた。有田のところには、陸軍から「人をもって、しきりに軍事同盟成立を慫慂して生命への脅迫を仄かす反面、地位その他の代償供与の意を伝えて有田の譲歩を望んだ」〈現代史資料10巻解説〉というし、山本五十六が遺書を認めて海軍省の金庫に入れたのも有名な話だ。
そんな情勢の中で肝心の平沼首相が、「だいぶ軟化して大勢順応になって」来た。
「もう少し総理がしっかりしてくれなくては困る。やっぱり判らないんですかね」
池田成彬はぼやいたし、結城日銀総裁も「総理に会ったところ、どうもやはり親独というのが時の勢いだから、已むを得ない、なか/\重臣達の言うようにも行かない≠ニ言っていた。どうも困ったもんです」と原田に告げた。
平沼首相は、次第に中立的立場から、「どうしても独伊を支持したい」と陸軍寄りに姿勢を変えて、四月末には「陛下の御意思とは全く違うことをするかもしれないが、それも已むを得ない」と近衛に打明けた。
「やはり平沼という男は非常にずるい男だ」〈原田7─373〉
西園寺は苦々しげに原田に洩らし、原田が持ってきた口述原稿の欄外に、「国ノ利害国民ノ利害私一個ノ事にあらず」と書き込んだが、「英米寄りの外交路線」を条件に平沼の政権担当を黙過した西園寺には、改めて悔恨の気持があったのだろう。
軍事同盟問題で紛糾が続いて、重苦しい空気が政府や宮中を包んだ四月、天候もなぜか不順で、「二日の夜もふけて降り出した雨は、三日は止んだが、四、五、六と降り続き、七日も午後から」雨になった。
「雨深更に至るも|歇《や》まず。桜花の好時節北風吹きすさみて後※[#「さんずい+徭のつくり」]雨数日に渉りて猶|霽《は》るゝ模様もなきは、虐殺せられし支那人が怨霊の祟りならむと言うもの多し」〈荷風日記14年4月7日〉
永井荷風は街の噂話を書きとめ、二十七日にも再び異常気候にふれた。
「終日風雨雷鳴。日暮に至って霽る。九段招魂社祭礼中この雷鳴果して何の故なるや。怪しむ可し」〈同4月27日〉
荷風の目に映る世相もまた暗かった。一週間の点灯禁止が繰り返されたり、ダンスホールが閉止されて、「この次はカフェー禁止、そのまた次は小説禁止の令出ずるなるべし」と思われるし、粋人荷風としては「戦争起りて見ること聞くこと不愉快ならざるはなし」と慨嘆するばかりだ。町を歩いても、暗く荒れすさんだ顔ばかりが目につく。
[#1字下げ] 著しく目立ちて見ゆることは、四十才以下の日本人の顔立のいよ/\陰険になり、その態度のます/\倨傲になりしことなり。安洋服をきて中折帽眉深にかぶりしものはいずれも刑事の如くに見ゆ。……東京の良風俗は大正十二年の震災以降年々に滅び行きて今は全く影を留めざるに至りしなり。〈同13年10月31日〉
陰鬱な雨が続く中で、原田もこの春を重苦しい気分で過ごした。
西園寺の風邪はなかなか抜け切らず、四月に入っても床に入ったままで過ごす日が続いている。近衛は、枢密院議長を辞めると言ったり、満州やアメリカ行きを口にして取り止めたりで、相変らず「あっちにもこっちにもぶら/\」〈原田7─104〉している。
さらに、治安維持の最高責任者である木戸内務大臣の態度も、原田には「もの足りない点」〈同7─294〉が多かった。
四月中旬の五相会議で有田外相が、「独伊側で日本側の案に応じないなら、交渉を打ち切る以外に手はない」〈有田『馬鹿八』98〉と提議したころから、木戸は板垣陸相と「打開のため努力すべき」約束をしたり、有田に会って「万一本件の処置を誤らんか、内政問題として往年のロンドン条約問題以上の禍根を残し、恐らく重臣層は徹底的に排除せらるゝの余儀なきに至るべく……陛下の側近は如何なるべきか」〈木戸711〉と行詰り打開≠説いたりした。
木戸は、平沼首相にも、「不成立の場合の国内情勢の危険、支那事変処理に与うる決定的の不利を力説し、更に一段の努力を希望」〈同712〉、さらに湯浅内府を訪ねて、「駄目な時には内閣は辞める。であるから内閣の後のことも多少考えておいて戴きたい」〈原田7─343〉と申し出た。
これではまるで、「半分脅迫……一種の捨台辞」じゃないか──原田は憤慨して朝早く木戸の家に乗り込むと、「木戸はいつの間にか総理やなんかの考えに同意を表しており」、しかも天皇批判をまた始めた。
「今の陛下は科学者であって、非常に自由主義的な方であると同時に、また平和主義の方でもある。そこで、この陛下のお考えになり方を多少変えて戴かなければ、将来陛下と右翼との間に非常な隔りが出来ることになる……陸軍に引きずられるような恰好でいながら、結局はこっちが陸軍を引っ張って行くということにするには、もう少し陸軍に理解をもったような形をとらなければならん」〈同7─339〉
原田は、幼なじみの木戸を睨みつけた。右翼なり陸軍をできるだけ陛下のお気持に添うように引っ張って行くのがわれわれの使命ではなかったのか! それが内務大臣としての木戸の責任ではないのか!──「君と僕あたりが、今日に至った情況の筋道を一番よく知っているんで、根本に何物があるかと言えば……」、原田は猛然とまくし立てた。
「くだらない右翼の雑駁な、人の前にも出せないような連中が勝手な放送をし、勝手な人間に力を与えるような空気をつくりながら、それをどうすることもできなかったことが、今日、陸軍の不統制を来し、極めて面白くない社会の情況を生み出したんじゃあないか。その根本を断ち切ることくらい今日の地位にいる君にできないことはないと思う……」
赤坂新坂町の木戸邸は、宮内省の建築技師が特に設計した和洋折衷式の豪邸で、応接間には「それこそ絹張り金色菊模様の格天井と大きなシャンデリアが輝いている」。その応接間のソファーで、二人は睨み合った。
「もう已むを得ないから、将来邪魔になるような連中でこれはと思うような者を五、六人叩き殺してやろうかと思う。その時に君にいくらか迷惑をかけるかもしらんが、問題じゃああるまい」
「まあ、そう極端なことを言っちゃあ困る……」
原田の剣幕のすさまじさに閉口した木戸は、憤然と席を立った原田を玄関まで送りながら、「まあ、なんとか自分も考えるから、そう心配しないでくれ。西園寺公にもあんまり心配かけないように話しておいてくれ」と機嫌をとっていた。
原田と木戸のこのやり取りは、原田が口述したので西園寺の目にも触れ、さらに戦後は東京裁判でも取り上げられて話題になった。のちに木戸は弁明して、
「余の立場は飽く迄国内治安の保持という点にあった……」〈木戸文書11〉
というが、太平洋戦争の前後にも再び同じような態度で臨み、このときは西園寺すでになく、木戸は内大臣の立場にあっただけに、終生さまざまの批判を受けることになる。
「木戸はなか/\聡明なところがあるが、性格的に右傾のところがある」〈原田8─32〉
しばらくして、西園寺はこんな木戸評を洩らした。
「寺内大将をナチス大会に派遣したいと思います。防共強化の意味においてもそれは必要であります」
七月五日、板垣陸相は上奏した。しかし、天皇は、板垣陸相が軍事参議官会議で「有田外相も軍事同盟に賛成である」と虚偽の報告をしていると耳にして、「非常に不愉快にお思いになっておられた」際である。「お前は自分の考をよく知っているじゃあないか」〈同8─14〉と強くたしなめて裁可しなかったうえ、天津問題などを下問した。
天津では、四月に親日派の中国人税関長がイギリス租界内で抗日分子に刺殺され、日本軍の犯人引渡し要求をイギリスが拒否したため、六月十四日に日本軍がイギリス租界を封鎖する事件が起こった。日本国内では一部の新聞が煽動し、しかも「軍事課長の岩畔大佐が軍務課の国内政治関係課員富田直亮中佐を直接指揮して」〈『有末精三回顧録』(49年、芙蓉書房)516〉そこここに排英の立看板を立てたり、「陸軍が金を出し、憲兵が先に立って」排英運動を繰りひろげており、排英運動をテコに英仏を対象とする日独伊軍事同盟にまで持って行こうという魂胆は明らかだ。
加えて、天皇は、満州の西北部、外蒙古との国境のノモンハンで五月中旬から始まった関東軍と外蒙古・ソ連軍との戦闘でも宸襟を悩ましていた。満州国はハルハ河を国境と主張しており、戦闘は外蒙古兵がこのハルハ河を渡って進出したことから始まり、ソ連軍の参戦を経て五月末に日本軍が捜索隊など二九〇名の損害を出したところで終熄したと見られたが、六月十八日になってソ連機三十機が関東軍の燃料・糧秣集積場に爆撃を加えてきた。これは、第一次ノモンハン事件の際に関東軍がハルハ河を越えてソ連軍を爆撃した報復にすぎなかったが、関東軍は受けて立って、「第二十三師団を基幹とする相当有力なる兵力を用い関東軍としては未曾有なる大規模の地上作戦をなす」〈「ノモンハン事件機密作戦日誌」─現代史資料10巻83〉ことに決定した。
関東軍はこの決定を「関作命一五三二号」として発令したのち、二十日夕に参謀本部に通報してきた。事後報告であり、関東軍の独断専行である。当然陸軍中央には反対論が出たが、満州事変以来自ら独断専行を繰り返して慣れっこになっている板垣陸相は、「マア一ヶ師団位なら、ソオ堅く言わずに関東軍にやらせヨオ」〈同巻頭解説〉と簡単に裁決してしまった。
二十七日、関東軍は重爆撃機二十四機、戦闘機七十七機などでタムスク飛行場を空襲した。ソ連機撃墜九十九機、地上撃破二十五機、飛行場の半分を破壊、味方機の損害四機と大戦果をあげたが、ノモンハン西方一三〇キロのタムスクは明らかに外蒙古領であり、外蒙古・ソ連軍の出方によっては全面戦争を招く惧れがある。天皇大権の無視である。天皇は参謀総長に、将来もこの種の越軌行為を起さぬように注意せよ、と戒告し、参謀本部も懸命に関東軍の自重を促したが、辻政信少佐などの参謀はこれを無視し、七月一日未明を期して第二十三師団一万五千が、ハルハ河に向けて一斉に進撃を開始した。第二次ノモンハン事件だ。
天皇の憂慮は今や深刻であった。天津ではイギリス租界を封鎖し、ノモンハンではソ連軍と戦闘を開き、しかも陸軍はソ連以外に英仏を対象とする軍事同盟をドイツと結ぼうとしている。
こんな最中、七月五日の板垣陸相の参内である。軍事同盟の件で板垣を叱責した天皇は、続いて天津問題を下問し、板垣は答えた。
「陸軍がイギリス租界のもっている四千五百万元の引渡しを要求するのは、結局為替相場を維持するためでございます」
「それだけでいゝのか」
「とてもそれは駄目なんでございます」
板垣のいう四千五百万元の法幣および現銀の引渡し要求というのは、六月二十三日に中華民国臨時政府が天津市長の名をもって英仏租界に対し、法幣流通禁止、現銀引渡しを要求したことを指している。華北では臨時政府発足とともに中国連合準備銀行が発券銀行として設立され、連銀券による幣制統一工作が進められているが、「天津英仏租界を中心とする南方系民族資本及之を支持する英米系諸銀行は、新幣制樹立に対し強力なる抵抗を以て答え、北支経済はその心臓部を敵側に握られたも同然であった」。英国系銀行は三月にも五百万ポンドを出資して「法幣没落を堰止める為の一千万ポンドの為替安定資金を設定し、之がたとえ短期間とはいえ法幣の安定を|齎《もた》らし武漢戦によって打撃を受けた蒋政権を甚だしく鼓舞した」(満鉄調査部、支那経済年報十五年版)。
日本側は直ちに、華北に於ける連銀券の統一と為替集中政策をもって対抗したが、それまでほぼパーに近かった法幣に対する連銀券の相場は、次第に軟化し、四月から五月初めには五割近くまで下落した。一方、国民政府は、イギリス政府が派遣したリース・ロスの勧告によって幣制改革を進めて法幣建直しに成功して以来、「中英合作による金融支配力の北上」に懸命な努力を続けている。迎え討つ連銀券は、日本円とリンクした、いわば北支円≠ナある。つまり、法幣対連銀券の角逐は、ポンド対円の葛藤であり、天津租界問題は、「支那全土に亘る日英の利害の対立抗争が英国勢力の一つの牙城たる租界を問題たらしめた」〈『支那経済年報』15年版65〉ということである。
板垣が奉答した四千五百万元の現銀引渡し要求はこのような背景をもっているのだが、「とてもそれは駄目なんでございます」という板垣の奉答には天皇も驚いた。「今までのいろんな御不満」も重なっている。
「お前ぐらい頭の悪い者はない」〈原田8─13〉
またも天皇の怒りにふれた板垣は、「非常に恐懼して」引き退ったが、天皇がこうまで言って板垣をたしなめたのは、湯浅内府の内奏も影響していたようだ。湯浅は七月一日に、防共問題やノモンハン事件について原田に話したあと、天津問題に触れ、「要するに中央の統制がとれていないために、出先が勝手なことをして困る。……陸軍大臣が低能のために、これが原因になってすべての問題が紛糾を極めるようである」と板垣を強く非難した。常時輔弼の責にある内大臣の意見は、天皇に伝わるのがごく自然で、天皇は板垣の上奏を聞いているうちに「御不満が爆発して」露骨な表現になったようだ。
「いかにもどうも陸軍は乱脈でもうとても駄目だ。今日国を亡ぼすものは陸軍じゃあないか」
湯浅は、板垣上奏の一部始終を原田に告げながら深く嘆息を洩らしていた。
天皇がこれほどまでに英仏を対象とする軍事同盟に反対の態度を示したためもあって、陸軍の思惑にも拘らず、この問題はなかなか進展を見なかった。ドイツ側も陸軍と協力して懸命に画策を続け、オットー独大使は六月十二日に本国へ打電した。
「大使館は日本の新聞界や政界の主要人物を適当な方法で動かし、それによって日本のアメリカに対する悪感情を激化しようと努力している。……大島、白鳥両大使と親密な関係にある人々は、ひそかに大使館と協力して同じ目標を目指して行動している」〈有田『馬鹿八』104〉
日本側の行詰りを見たドイツは、妥協案を提出し、五相会議は五月からこの案の検討に入った。これは、「要するに、表現は非常に遠回しながら、日本の拒否したドイツの要求事項に重きを置いて、結局それを容れた案」で、ドイツ外務省のガウス条約局長の私案ということで、ガウス案と呼ばれたが、出元を辿ると「日本の陸軍からアタッシェを通してドイツの外務省に出した案」〈原田8─353〉と見られた。当然、有田外相はガウス案を相手にしない。
「甚だけしからん話で、こう陰謀を重ねるようなことでは、自分はとても責任がとれん」
有田は、組閣のとき平沼首相がした約束──「対象は、これをソ連に限るべきもので、英、仏を対象に加えるようなことは適当だと思わない。自分はこの方針の下に善処し、もしその考え通り行かなければ、その時にはともども辞職しようではないか」〈有田『馬鹿八』92〉──を平沼に突きつけて、陸軍の主張に同意しようとする平沼を牽制した。
天皇も平沼に対し、「総帥権について──言葉を換えていえば陸軍について、何か難しいうるさいことが起ったならば、自分が裁いてやるから、何でも自分の所に言って来い」〈原田8─45〉といって、平沼の「自分の身が可愛いから陸軍と一緒になって、一気にこの問題を乗切ろう」とする姿勢をたしなめた。
海軍首脳の態度も一貫していた。
「最初から一切不動である。海軍側としては何等譲歩する余地はない」〈原田7─367〉
米内海相は断言していたし、山本次官も新聞記者に思い切った発言をして物議をかもすほどだった。
「三国問題では海軍はこれ以上一歩も譲歩できん。いずれその内政変だろうから、君等は天幕でも張って待っていたほうがいいぞ。一体、総理と陸相は怪しからん。前に五相会議で決まって内奏もすんだ方針を勝手に変えるなどとは何事だ」〈高木『山本五十六と米内光政』58〉
こんな天皇の発言や海軍の態度が反映されたのだろうか、八月八日になって板垣陸相が五相会議で留保なしの三国同盟締結を主張すると、平沼首相は珍らしく逐条的に板垣を追及し、有田外相、石渡蔵相も反対意見を述べた。また、石渡蔵相が米内に向かって、「日独伊の海軍と英仏米ソの海軍と戦って我に勝算があるか、どうか」と質問すると、米内はニベもなく否定した。
「勝てる見込みはありません。だいたい日本の海軍は米英を向うに回して戦争をするように建造されてはおりません。独伊の海軍に至っては問題になりません」〈緒方『一軍人の生涯』58〉
三国同盟を結べば、一応、英米との戦争を覚悟しなくてはならないが、その際は八割までが海軍の戦争になる。その海軍が、「勝てる見込みはありません」というのなら、三国同盟を強行するわけにいかない。窮した板垣は、十日に町尻軍務局長をオットー大使のもとに遣わして、口上書を手渡した。
「陸軍は八月八日五相会議に於て同盟のため奮闘せるも……何らの進歩を示さざりき……陸軍大臣は最後の手段としては辞職を賭すべく決意しおり……当初に於ては強烈なる後退を生ずるやも知れず。然れども辞職を決意する以外可能なる方法はなし。右決定は八月十五日に行わるゝ予定なり……」〈『太平洋戦争への道』5巻134〉
町尻はこの口上書をオットーに手渡しながら、日本側提案を「承認するよう殆ど嘆願的に要請」したというが、オットーが観測したように、板垣が陸相を辞任するのは「宮廷、財界、海軍および外務省等にたいする陸軍の国内争いの最後の手段」〈有田『馬鹿八』102〉である。板垣が辞任して後任を出さなければ、平沼内閣は瓦解する。天皇から、「どうして止めにしようかという時機にまだそんなことをいうか」〈近衛『平和への努力』119〉と三国同盟の件でも相手にされず、「頭が悪い」とまで叱られる板垣には、辞任するしか手がなかったのだろう。しかし、倒閣の陰謀を日本の陸軍大臣がドイツ大使に相談するのは、「屈辱的」であるし、いくら陸軍が「ノモンハン事件を考えても、日独伊の軍事同盟は絶対に必要」と締結を急ぐにしても、板垣の行動は「いかにもおかしい、どうも頭脳が悪いばかりではない」と平沼首相までも嘆かせるものだ。
防共強化問題──これは有田外相がいうように「要するに英、仏対象の軍事同盟を締結するかどうかという、問題自体としては極めて簡単なもの」〈有田『馬鹿八』103〉である。ところが平沼内閣は七十有余回も五相会議を開いて揉め抜き、とうとう板垣陸相は辞任を口走る事態になった。国内は、排英運動で騒然とし、山本五十六や湯浅内府、平沼首相らの暗殺計画も発覚、またノモンハンではソ連軍の一斉攻撃が始まるなど、行き詰まりの様相を呈してきた。なんらかの転換なしには、近衛や木戸が怖れるように、「二・二六事件以上のことがまた起る」〈原田7─300〉、「一人一殺というようなことが流行し始める」〈同8─29〉ことも心配しなくてはならないかも知れない。
こんな気分が強まってきたとき、ドイツがこともあろうにソ連と不可侵条約を締結するというニュースが飛び込んできた。事実なら、防共協定なんか全く無意味になってしまう……。
このころ、原田は熱心に写真をとっていた。昭和五、六年ごろには十六ミリシネにこって、西園寺や近衛の映画を撮ったが、今度は井上三郎(侯爵、陸軍少将)が十三年暮に日独文化協会の仕事で渡欧して六月に帰国した際に、ドイツからスーパー・イコンタをみやげに持って帰ったので、これに熱中した。カール・ツァイス社製ブローニー版蛇腹カメラで、テッサーF3.5、距離計連動式の最新鋭機だ。日本国内での定価は五五〇円だったが、輸入制限下の当時はプレミアム付でもなかなか入手出来なかったという。
七月六日に長女の美智子が夫の勝田龍夫(著者)と龍田丸で横浜からアメリカヘ発ったときに初めてこのカメラを使ったが、以来、原田はこのカメラが気に入ったらしく、どこへ行くにもぶら下げて行って、西園寺、近衛、木戸、あるいは米内や山本五十六との宴会の席などで貴重なスナップを残した。
八月二十二日、この日も原田は御殿場で西園寺のスナップを撮って大磯に戻ると、東京から次々と電話がかかって、独ソ不可侵条約成立のニュースを知らせてきた。
「もしこれが事実ならば、今までの日独伊の軍事同盟ということは自然に解消し、また内政上にも変化が起らざるを得ない」
原田がこう考えているころ、近衛も軽井沢でニュースを聞いて急遽上京してきた。ドイツがソ連と結ぶことは、三年前の日独防共協定秘密附属協定第二条の「締約国は本協定の存続中相互の同意なくしてソ連との間に本協定の精神と両立せざる一切の政治的条約を締結することなかるべし」に違反するのは明らかだ。といって、ここで平沼内閣が辞めるのは「日本の内部に動揺があるような印象を与えて面白くない」。
「独の背信行為により直に総辞職の要なし」〈木戸742〉
近衛はこう考えていたが、上京して木戸から、「臣節より見て責任の地位を去るが当然」と力説されて、内閣交代に同意した。
近衛はこの一カ月の間に、「次は荒木(文相)がまあ無難だと思う」、「荒木でもどうかと思うが、広田の方がよくはないか」などと口にしている。近衛が荒木を推したときには、平沼も賛成で、八月七日に原田が西園寺に報告すると、西園寺も「どうも平沼も早く辞めた方がよくはないかと思う。已むを得なければ荒木でもしようがあるまい」といっていた。原田はこれを荒木に仄めかしたらしく、荒木の『風雲三十年』には、「原田君は電話で、平沼内閣が総辞職し、後継内閣組閣の大命は貴下に降下することに西園寺公がきめた。ついてはそれに対する準備をして下さい≠ニいうのである」〈荒木『風雲三十年』216〉と誇張して記されているが、原田も荒木もいささか早とちりをしたようだ。
八月十六日に原田が口述原稿を持参すると、西園寺は前回語った「荒木でもしようがあるまい」という個所に青鉛筆で、「総理たる人と誤解ナキを要す」〈原田8─41〉と書き入れた。発案者の近衛もとうに意見を変えて広田を推すようになったので、荒木案は消えてしまった。
八月二十三日、近衛は湯浅内府や木戸と話して、「広田を第一候補とすることに意見が一致し」、松平秘書官長が湯浅内府の指示を受けて大磯の原田邸にやって来た。
「まず御殿場に行って元老の意見を徴し、もし元老に異存がなければ、すぐそのまゝひそかに広田に会って内意を探ってみてくれんか」
松平の報告では、平沼首相も湯浅に辞意を表明したという。
「とても今日のような状態では政治はとれない。この独ソ不可侵条約の成立によって、日本の外交はほとんど捨身を喰ったような状態である。これもやはり陸軍の無理から来た外交の失敗である。自分が日本独自の臣節の道を尽すことは、一は以て陸軍に反省を求めるというか、範を示し、他は以て陛下に対して申訳ないからお詫びのために辞めることだと思う」
翌朝九時、原田は御殿場山荘に行った。第一候補は広田ということで湯浅と近衛の意見が一致したが、第二候補は、近衛は宇垣といい、湯浅は池田成彬といっている。
「自分には考え及ばない、意見がない」
西園寺はこう答えて、あとは、「外交は有史以来の大失敗である。どうも今日のような陸軍の勢力では困る。誰がやっても非常に難しいように思われるが、日本はどうしても英米仏と一緒になるようにしなければならん」と持論を繰り返すだけだった。
原田は大磯に戻ると広田と連絡をとり、鵠沼の広田の親戚の別荘で人目を避けて会った。広田は「近衛公が最も適任である」といい、もし自分が組閣するとすれば「内閣の陣容をもっと具体的に内大臣あたりから指図してもらいたい」という感じだった。
「これはとても駄目だ、いかにも頼りない」
これで第一候補は敢えなく消えてしまった。原田が大磯に戻ると、またも東京から「陸軍方面は広田排斥の運動を起している」などと電話があった。広田に代る新たな候補を選ばなくてはならない。
翌二十五日の朝、原田は箱根に行って富士屋ホテルで池田成彬に会った。
原田は、池田に「捨身で……外交の大転換」を手掛ける決意があるかどうか、探りを入れた。池田と別れて、原田は近衛と木戸に電話で連絡した。
「思い切って池田で行ったらいゝじゃないか。葉山(に随行中の湯浅内府)も、池田には大いに賛成なんだ」
近衛は、あっさり広田と宇垣をあきらめて池田を推した。原田がその足で御殿場に回ると、西園寺は昨日と打って変わって、積極的に意見を述べた。
「宇垣でも池田でもいゝから、はっきり捨身でやるような人が欲しい。池田なら池田で一つやってみようじゃないか。しかし、これには条件がある。近衛が同意をし、決心して、近衛の発意で池田を推すならば、自分は賛成である」
池田は日頃、「英、米を相手にしなければ、財政経済の点からいっても、なにからいっても、ほかに日本の前途に対して力になるものはない」といって、日独軍事同盟にも強く反対している「親英派の巨頭」だ。七月の「親英派大官暗殺不穏事件」のときにも、湯浅、山本五十六とともに池田が狙われた。その池田を近衛が全面的にバックアップするんなら……と西園寺がいうのは、近衛に親英米の立場に立って軍事同盟に反対しろということである。そんなことをすれば、「血の雨までも覚悟しなければならぬ」〈近衛『平和への努力』113〉と近衛は恐れた。
近衛は二日間、周囲から催促されたが、結局決心がつかず、二十七日に「池田に決めることについてはなんら異存はないけれども、自分が進んで推す、という決心はつかん」と原田に断わって来た。陸軍が「最初は勝田(主計・元蔵相)を総理に担いでおったが、阿部(信行大将)ということも言って来た」こともあるし、陸軍に対抗して池田を推す決心がつかなかったのだろう。
二十八日朝、平沼内閣は「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」と声明して、総辞職した。クレーギー英国大使はこれを「政治的ハラキリ」〈T・ゾンマー『ナチスドイツと軍国日本』(39年、時事通信社)386〉と表現したが、木戸氏によれば、「あれはもう辞めたくて仕様のない時だったからね、ちょうどいい機会だと思って、あれ(独ソ不可侵条約締結)をとっつかまえたわけだよ、ウン」ということである。
平沼が辞表を捧呈すると、直ちに湯浅内府は、後継首班の下問を受けて、西園寺と協議するため御殿場へ向かった。
ちょうど湯浅が東京を発ったころ、小山完吾が西園寺を突然訪問していた。西園寺は、「必ず前もって都合を打合せの上にあらざれば、大抵の場合には、何人に対しても面会を謝絶する慣例」〈小山完吾日記235〉にしている。しかし、小山は、吉田茂などから「なんでもかんでも西園寺さんのところに行って、是非、宇垣氏推薦を勧請しなければだめだ」〈『池田成彬伝』(37年)336〉と急き立てられて、断られるのを覚悟でやって来た。夕刻に湯浅が「勅命により元老の所に協議」に来るのも承知の上だ。
有難いことに、西園寺は侍女のお綾に助けられて「足元すこぶる危うげに」応接間に姿を現わした。「すこぶる好機嫌」のようだ。
[#1字下げ] 近衛公、木戸侯等、とかく、軍部をおそれすぎ、それのみを対象として政局を思索し、ひろく国民の経済的動嚮、ならびに世論の帰趨に沿わざるうらみあり。後継内閣首班につきても、今回は、ぜひ思い切ったる御決慮を願いたく……非礼を顧みず、突然参上したる次第……〈小山完吾日記236〉
小山は単刀直入に用件を切り出した。
「そんなことは、わかっている。君の言わんとする名前もわかっている。……近衛や、木戸に誤まられるようなことがあるものか」
西園寺は威勢がよかった。小山が、排英運動に対して木戸内相は「阻止することがかえって治安を紊す虞れがあるといって取締りに乗出そうとせず……」と非難すると、西園寺も「アレは長州人のくせだ」と冷罵した。小山は、宇垣の名前を切り出せずに口ごもった。へたに口をきくと、西園寺から「そんなことを知らずに、自分の役目がつとまるか、自分の眼をなんと思う」と一喝されそうな気配だ。小山が逡巡する様子を見て、西園寺はふと口調を変えた。
「自分は、池田成彬を推挙してやらせるつもりだ。断わるかも知れぬが、とにかく、彼をして一切の掃除を断行せしむるを可とす。大島、白鳥の輩を召還せしむるを可とす」
これを聞いて、小山は宇垣案を「心中に豁然一擲」した。
「老公においてそこまでお考えの今日、私よりなにも申上げることはありません」
小山が答えると、西園寺は「良い人はみんな殺されてしまった。池田を出して大掃除させるより外にない。あるいはわれわれの一身が危険になるかも知れんが、仕方ないじゃないか、こうなっては」〈『池田成彬伝』338〉といい、「しかし……自分は内府の諮問に接して、意見は陳するが、決定には与らぬことになっているから……」〈小山完吾日記237〉と呟いていた。
小山は十五分ほどで辞去し、三時に湯浅内府が御殿場駅についた。御殿場山荘はすでに初秋の清新な山気に包まれ、萩や桔梗が咲き乱れている。パナマ帽に夏のモーニング姿の湯浅は、邸内の木々から降るような蝉時雨をくぐり抜けて、洋館応接間に入った。
池田成彬には、原田や湯浅の筋から交渉しているが、頑として受けるといわない。湯浅は西園寺と相談した結果、陸軍が推している阿部信行大将を推奏することに決めた。あれほど意気込んで池田を推すといっていた西園寺が、なぜあっさり諦めたのか──。「それについては聖慮のあるところ」と原田はいう。
「陛下は、阿部を総理として、適当な陸軍大臣を出して、陸軍の粛清をしなければ、内政も外交も駄目だ≠ニ深く感じておられたので、阿部ならば協力してやるだろうし、陸軍のことも判っているから一つやらせてみよう、というお考えであった」
木戸氏はズバリ真相を語る。木戸の長女の由喜子は阿部信行の長男の信男と結婚している。二人の見合いは十三年十月に原田の家で行われた。
「湯浅さんが閉口したんだなあ、内閣の後任できずということで。それでまあ、阿部なんて大臣もしたこともないんだからねえ。宇垣さんの病気の時に臨時に(陸相代理を)ちょっとやったくらいのもんでね、陸軍次官だったからね。だからまあ、不思議だ。だけど、たまたま湯浅さんが陛下に拝謁しているとき、阿部なんかも≠ニいうことをいったらしいんだね。軍事学と国際法を陛下にご進講する時間があって、阿部は軍事学のご進講をした経験があるんでねえ、それで、阿部なら軍事学で会っていて、懇意だ、よく知っている≠ニいう意味のことを陛下がおっしゃったんだな。それで急に阿部になってしまったんだ。まあ阿部もびっくりしたらしいがね」
この夜八時五十分、天皇は阿部に組閣を命じると、続いて「厳然たる」口調で指示した。
一、陸軍大臣は梅津、畑の中より選ぶべし
一、外交の方針は英米と協調する方針を執ること
一、治安の保持は最も重大なれば内務大臣、司法大臣の人選は慎重にすべし
すべて異例の指示である、二・二六事件以後慣例になっていた三カ条の御諚(国際協調、憲法遵守、経済安定)に比べるとずっと具体的で、英米協調路線や陸相の人選まで決めている。
天皇は、「独ソ不可侵条約の成立によって、日本の外交はほとんど捨身を喰ったような状態」をとらえて、国内政治、外交の建直しを一気に進めようと自ら乗り出したのだ。陸相の人選に注文をつけて、「それ以外の者は三長官の議決によるも許す意思なし」と断言したのも、板垣陸相に「余程のご不満」があったからだ。この朝も板垣が他の閣僚と同じ辞表を捧呈すると、天皇は「今度のことは陸軍の責任が最も重いのではないか。平沼は寧ろ辞職の必要が無い位であるのに、陸軍大臣が外の大臣と同様な辞表を出すとは怪しからん」〈近衛『平和への努力』119〉と湯浅に話していた。また、内相と法相の人選を注意したのは、今までの木戸内相と平沼系の塩野法相のやり方では駄目だ、ということである。
阿部は、「御叱りを受けた様な感じ」で、恐懼して退下した。予期しない突然の御諚で、「全く当惑」するばかりである。「顔中まるで朱の瘤が出来たような様子で」〈原田8─65〉阿部が廊下に出ると、湯浅内府に出合った。謹厳な湯浅は、ニヤッとしかけて慌てて笑いを噛み殺した。さきほど御殿場で西園寺が、「首相の印綬を帯びる程の人物は、三斗の酢を鼻で吸う程の苦難を舐めた者でなければその資格がない」〈北野『人間西園寺公』190〉と寓意を洩らしたのを聞いたばかりである。西園寺は人物の払底を嘆いてこういったのだが、阿部はまさに鼻から酢を三斗呑んだような顔をしている。その顔のまま阿部は大命拝受の挨拶をすると、湯浅の好意的な眼差しに送られて、あたふたと飛び出して行った。すべては天皇が湯浅と相談した筋書き通りである。
阿部内閣は、陸相に畑侍従武官長、内相に小原元法相、蔵相に青木一男企画院総裁を据え、懸案の外相は阿部首相が一時兼任して、八月三十日に成立した。畑は五月に武官長に就任したばかりだが、天皇が「今度の武官長はいゝよ」と喜んだほどのお気に入りだし、小原内相についても、天皇は「司法大臣の時には非常によくやってくれた」と評価していたから、「極めて御満足のようであった」。「陸軍大臣に御自分の思う者をお置きになって、総理と協力してどうしても徹底的に陸軍の革正をしなければ、外交も内政も駄目だ」〈原田8─62〉と痛感した天皇の異例の指示は、成功したかに見えた。
林内閣以来、三つの内閣で二年七カ月にわたって海軍大臣と次官をつとめた米内・山本のコンビは、吉田善吾中将、住山徳太郎中将と交代した。
「海軍というところは、誰が来てもその統制と伝統には少しも変りない」
山本五十六は、交代を惜しむ原田に断言すると、連合艦隊司令長官に転じていった。
「なんだか常識的で割合に評判がいゝじゃないか」
西園寺は、「相変らず外交の点を最も心配」しながらも、ホッと安堵の表情だったし、宇垣もかつて阿部と陸相─次官のコンビを組んだだけに、「世間で弱体内閣と云うものもあるが、余は必ずしも左様には考えぬ……好漢奮起時局の収拾を図れ」〈宇垣日記1354〉と好意を寄せた。
しかし、寝耳に水の独ソ不可侵条約成立で、「少し、|しまった《ヽヽヽヽ》と思い」〈近衛『平和への努力』113〉、「後継内閣について発言権はない」はずの陸軍は、早くも有末軍務課長を先頭に暗躍を開始していた。そもそも阿部を担ぎ出そうとしたのも彼らだし、組閣についても「閣僚は十名以内のこと、三井系(池田成彬を指す)は入閣させないこと、外務大臣は外務省から採らないこと」の三つを要求した。阿部内閣はこの条件に沿って成立していたから、陸軍方面では「近衛と軍の合作」内閣と思い込み、一方では「この政府はお上の命令で出来た」と見る者もあった。陸軍の方を向くか、あるいは「陛下の御意思を奉戴して行くか」、また、親独か親英か、阿部首相や畑陸相は相反する方針の間を複雑に揺れ動いていた。
九月三日、原田は大磯の家に有田前外相夫妻を迎えた。有田と原田は気が合うらしく、親しい仲間だ。この日も原田は有田夫妻をからかった。
「この前、お前に電話したら、女中が風呂に入っているという。それじゃ奥さんをといったら、奥さんも一緒だと言う。いい年をして仲がいいねえ」
よく晴れた初秋の日曜日だ。有田は辞職後の心境を披瀝した。
[#2字下げ]サーベルの音もとだえて秋日和
独ソ不可侵条約と内閣総辞職で日独軍事同盟は霧散したし、身辺への脅迫もなくなったし、有田には何カ月ぶりかの心安まる休日だったのだろう。
五月からくすぶっていたノモンハンでは、八月二十日にソ連軍がすさまじい大攻勢に出て、第二十三師団は全滅に近い損害を受けた。独ソ不可侵条約成立と軌を一にしたようなソ連軍の出方だが、八月末に全戦線は平穏に戻り、モスクワで外交交渉が始まった(九月十五日に停戦協定成立)。この事件で日本軍は、戦死八千四百名、負傷八千八百名の莫大な犠牲を出したが、これも、湯浅内府のいうように「兵驕るものは敗る、あまり驕慢をきわめた結果この失敗あり、わが国のためには非常の打撃なれども、大局の上には、よき教訓を得たるものなり」〈小山完吾日記245〉ということだろう。国内的にも「政治はやや明るくなる見込み」である。
「陸軍の中に、今度は独ソの不可侵条約に日本も加わって、日独ソという軍事同盟をやってイギリスを叩こうという運動がある」
有田が原田とのんびりこんな話をしていたころ、ヨーロッパでは、第二次世界大戦の火蓋が切って落された。
八月二十三日に成立した独ソ不可侵条約は、附属秘密議定書で、バルト海諸国、ポーランド、東南ヨーロッパの領土分割を取り決めており、ポーランドは「領土的=政治的変更が行なわれるときは、ほぼナレフ、ヴィスツラ、サンの三河を結ぶ線をもって、独ソ両国の利益範囲の境界とする」〈ワルター・ホーファー『ナチス・ドキュメント』(45年、ぺりかん社)311〉ことになっている。ヒトラーがポーランド攻撃(白色事件)準備をドイツ国防軍に指令したのは、五カ月近く前の四月十一日であり、九月一日払暁、ドイツ軍はポーランド領内に侵攻を開始した。
ポーランドと相互援助条約を結んでいた英、仏両国は九月三日に最後通牒をドイツに発し、ヨーロッパは五年八カ月にわたる長い戦争に突入することになった。
「今次欧州戦争勃発に際しては帝国は之に介入せず専ら支那事変の解決に邁進せんとす」
阿部首相は四日に声明を発表して、欧州戦争不介入、中立維持の方針を明らかにした。続いて九月末には野村吉三郎海軍大将が外務大臣に起用された。野村はルーズベルト大統領と親交があり、親英米派と見られている。
[#1字下げ] 独、英両勢力を比較するに結局国力戦となれば独の敗亡に帰するは明かである。ヒトラーにして賢明であり真に祖国を思うならば戦争に突進することを避くべきであると思惟するも、彼もナポレオン式の成金豪傑であるから、乾坤一擲自己の名誉欲、功名心を満足せしむる為祖国を賭しても大博奕を打ち兼ねまじき男である。今次の対ポ挑戦は此気分の現われであり……
宇垣は九月一日の日記で冴えた観察をしたが、十五年に入ってドイツがデンマーク、ノルウェー、オランダ、ルクセンブルグ、ベルギー、フランスを二カ月あまりで占領すると、宇垣やあるいは西園寺のように「独の敗北」を確信するものは、ほんの僅かに減ってしまう──。
九月七日、原田は、御殿場を引き揚げる西園寺に付き添って興津に行った。
一昨年や昨年のように車中で貧血を起すのではないかと周囲は気を揉んだが、西園寺は元気よく興津駅で迎えのリンカーンに乗り込んだ。だが、西園寺の御殿場避暑はこれが最後になった。
翌日、原田は軽井沢へ行って、近衛の別荘で、「近衛公夫婦の消夏法の一つ、白髪探し」などの傑作写真をものにした。
[#この行2字下げ]原田の書き込み「昭和十四年九月初旬軽井沢訪問の際 近衛夫婦の銷夏法の一つ・白髪探し」
相変らず近衛のところには、「右翼がかった連中がちょい/\行って嚇かしている」ようで、「どうも何か起りはしないか」などと近衛は口走っていた。
いいじゃあないか──原田は笑いとばした。
「起ったら起ったで立派に処置ができるし、できなければできないで誰か次の奴がやればいい。騒ぎを起そうとする奴が、起るだろう、起るだろう≠ニ言いふらして宣伝しているんだから、それに乗らないようにしろ」
それよりも、「君の一言一行は相当反響が大きいから、注意してくれ」と原田は釘をさして別れた。
近衛は枢密院議長だが、平沼内閣の無任所大臣もはずれて、久し振りに気楽な立場にある。軽井沢から戻った近衛は、箱根湯本に原田を招き、また大磯の原田の家を訪ねたりして、しきりと原田と親交を重ねた。あるいは、「陛下も近衛、宇垣に対しては御信任がいくらか薄らいでおった」〈原田8─57〉と政変の時に湯浅が原田に話したのを、感づいたのかも知れない。十月に入って、原田が西田幾多郎博士を自宅に招くと、近衛も駆けつけて一緒に会食したりした。
木戸も二年振りに閣外に出たので、湯河原へ行って静養したりしていたが、「重臣方面で、木戸は右翼に色目を使って怪しからんと苦情があった」〈近衛『平和への努力』120〉ことを気にしている様子だった。
こんな近衛や木戸の気楽な様子をよそに、天皇は、外交の建直しと陸軍の統制回復に懸命な努力を続けていた。
野村が、学習院院長を辞めて外相に就任するのを躊躇しているときくと、天皇は、「国家のためならば、学習院の方はどうでもいゝじゃないか」と裁きをつけた。
「陸軍も手間がかゝるかも知れないけれども、だん/\統制を回復することはできると思う。陸軍と外務の陣容が整って来れば、必ずよくなるだろう」〈原田8─78〉
天皇は政治と外交の建直しに燃えているようで、ややせっかちと思えるほどにテキパキと指示した。「外務省は栗原東亜局長が一人で掻き回しているような状態」ときくと、阿部首相兼外相に「どうしても東亜局長を代えなければ困る」と言って、侍立した湯浅内府を驚かせたこともあった(栗原局長は十月に交代)。
それにしても、天皇のこんな積極的な姿勢は、翌年五月に湯浅に代って木戸が内大臣に就任し、続いて近衛が内閣を組織するとともに消え失せてしまう。不思議なことだ。宇垣の観察を聞こう。
[#1字下げ] 長袖者流の政治的跋扈は国基を危くする。自己の一門郎党縁故者に依りて天下の政権を壟断し来りし藤原一門の為したることは何か? 夫れは結局源平両氏を擡頭せしめて遂に八百余年に亙る武家政治を馴致して皇室の見るも御気の毒なる式微を招来したではないか! この意味に於て近衛や木戸の跳梁する様な趨勢は必ず是正せねばならぬ、との声が坊間に高い!〈宇垣日記1357〉
坊間に高いのか、あるいは宇垣の実感なのか、ともかく宇垣のこの言葉は、戦後になっても「本当にずるいのは長袖どもだ」という非難の声が強かったように、なかなか説得力を持ち、一面の真実を突いていることに間違いはない。
「高橋といい、斎藤といい、みな政治の犠牲になった……」
九月十九日、西園寺は原田に語った。原田は、昨晩は箱根の近衛のところに泊り、今日も午後から近衛が大磯の自分の家に来ると報告したから、あるいは、近衛に聞かせたいと思ったのかも知れない。
「そういうことは政治家にありがちだが、そんなことに構わず、やって来るなら来いという気概が政治家には欲しいと思う。……外務省の電報を見ると、大島はベルリンでリッべントロップから、日本はソビエトと不可侵条約を結べ≠ニ非常に勧められている。そうすると無条件で大賛成をしている。あたかも自国の君主に対する態度のようで、どうも見ておれん」
それから二カ月ほどして、西園寺は原田の顔を見つめながら、「どうも近衛のことをいろ/\言って来るが、結局公卿は役に立たん、という者がたくさんあるどすなあ」と、反応を探るような言い方をした。原田はそれに直接答えず、近衛にアメリカ行きを勧めてみたい、と提案した。
近衛の存在が政局の不安定要因になることは否定できない。
西園寺は近衛のアメリカ行きに大賛成で、自分の勧めとして近衛に伝えるように原田に指示し、十一月末、原田は近衛に説いた。
「君が自由な、責任のない身で、日本に対する空気の最も悪い真最中にアメリカに行って国際政情を見、日本がどういう風に外国から見えるか、また外国がどういう風な見方をしているかを見ることは、君のためにも、国家のためにもなろう。アメリカの一流の政治家と交わって友人を作っておくことは、将来日本の国際政局に処する上に非常によいことではあるまいか」
原田のいうのは、役に立たない公卿≠アメリカに行かせて、やるなら来いという気概≠もつ大政治家にしたいということである。
「それはもういつでも行きたい。しかしなか/\喧しくいろ/\言うだろうな」
近衛は陸軍方面の思惑を気にして、決断しなかった。
原田の健康はまたも悪化していた。太りすぎだから心臓に負担がかかるんだと周囲はいっていたが、血圧も高かった。そこで、十月四日から「養生がてら一月余り興津に滞在する」ことにした。いつも原田専用に空けてある水口屋の松の離れ>氛汾テ岡にあった徳川慶喜の葵の間≠移設したもの──に泊り込んで、朝早くから、阿部首相、湯浅内府、小原内相、野村外相、青木蔵相などと電話で連絡をとってから、十時に西園寺のところへ報告に出て、午後は時折り連絡に来る松平秘書官長と会う外は、もっぱら静養という日課を一カ月続けた。
十一月七日、原田は西園寺の使いで、沼津御用邸に百武侍従長を訪ねた。天皇が沼津に行幸になっているが、「身体の自由が利かないので」天機奉伺を失礼させていただくと伝える用向きだったが、原田は天皇に直接言上することになった。原田にとって初めての拝謁で、「椅子まで賜って、光栄にすこぶる感激した」。
「西園寺の健康はどうですか」
天皇は親し気に話しかけ、原田が「一通りお話をして、あまり長くなると悪いと思って立とう」とすると、ちょっと名残り惜しそうな表情を見せた。天皇は、西園寺の「日常のいろんな話をおきゝになりたかった」ようで、西園寺の健康についても心配していた。
原田が退下したあと、天皇は甘露寺侍従次長に話した。
「初めて原田に会ったが、もう少しいろんな話をきゝたかったけれども、なんとなく初めてでお互いに話が出ないようだったので、已むを得ず立って来たが……」
この頃から健康も回復したので、原田は再び忙しく動き始めた。
十一月三十日、かねてからの約束で、原田は山本五十六連合艦隊司令長官を、横須賀に停泊中の旗艦長門に訪ねた。
原田と山本は、二人とも歯に衣を着せない話し方で、カラッとした性格といい、せっかちなところといい、よく気が合った。山本が二年七カ月も米内の女房役を務めたときも、三国同盟について「海軍はこれ以上、一歩も譲れない」と断言すれば、原田も「苟くも陛下の御允裁を経た五相会議の決定を覆して軍事同盟を促進しようというのが断然けしからん」と応じるなど、二人は考え方にも共通するところがあった。
原田は長官室で山本に話した。
「内大臣が多少身体が弱っておられるので、池田成彬氏の如きは、内大臣の後継者に米内大将を持って来ようと言い、また米内大将の声望が非常に高いので総理にしようとする向きもある。……軍人が政治に出るのは非常時は別として、軍の統制上面白くないということもあろうし、……君はどう思うか」
「万一軍令部総長宮が辞された場合、後を受け継いで行く識見人格ともに真に信頼するに足る軍令部総長は、やはり米内大将以外にない」
原田は大きく頷き、「自分の考をちょうど裏書きしてくれるような話であったので、それならそのつもりで事に当らなければならん」と思いながら、長門を離れた。
十二月十六日、山本は連合艦隊を率いて演習のため横須賀を出航することになったので、夕方から新橋の料亭山口に米内と原田を招いて送別の宴を催した。原田は、今朝松平秘書官長から聞いたことなどを話題にした。
松平の話では、米や石炭の不足が深刻になって来て「ガスの使用制限せらるべし」などと風評もあるし、やはり内閣が代らないと人心の機微からいっても乗り切れないのではないか……内閣に対する地方の人気もこの一カ月で急に悪化したという。
原田はほどほどに酒も飲むが、山本はほとんど飲まない。米内は斗酒なお辞さずという酒豪だ。近衛がある時米内に、「どのくらい酒を飲みますか」と聞いたら、米内は「いくらでも」と答えて悠然としていたという(牛場友彦氏談)。「ああいう人物は陸軍にはいない」と近衛は感嘆したが、今宵も米内はぐいぐい杯を口に運びながらニコニコと二人のやりとりを聞いている。原田は、「平沼内閣の晩節、米内、山本両君将に別れん時」、両者を官邸の玄関に引っぱり出して、記念写真を撮ったが、今宵、米内と山本は大きく引伸したこの写真に署名して、原田に送った。
原田も、山本が遠く海上勤務に去るので、寂しかったのだろう、ぶら下げてきたスーパーイコンタで何枚かこの晩の宴の記念撮影をした。
[#この行2字下げ]原田の書き込み「山本五十六中将連合艦隊司令長官として赴任後約三ヶ月の後、愈々出航に際し山本君主催、米内大将と共に招かる席上山口≠ノて写す 昭和十四年十二月十六日」
[#この行2字下げ]左から 山本、一奴、米内、梅龍、原田
昭和十五年一月──。元旦から静穏温暖な天気が続いた。元旦に西園寺は珍しくドライブに出た。ほんの二十分ほどだったが、坐漁荘前で東京日日の記者が写真撮影に成功し、二日の紙面を飾った。西園寺は数え年で九十二歳になる。町の様子も不景気なのかいくぶん活気を欠くようにも見えるが、皇紀二千六百年を祝う正月風景を車の中からジッと見つめていた。
二日の朝、原田が年始の挨拶に行くと、西園寺はなかなかご機嫌で、「元旦のドライブを東日が撮ったよ」などと話していた。政局は極めて不安定だが、「まあともかく様子を見てようじゃないか」と、政変を好まない様子だった。
「新しいものを作るために、倒すということはよくない」
西園寺はこういったが、原田は年末に阿部内閣に見切りをつけていた。
阿部内閣は十月に、外務省の高等官一三一名から辞表を突きつけられるという大失態を演じた。外務省の通商局を新しく貿易省を設置してここに移管しようとすることに反対したものだが、外務省としては一年前には興亜院問題で宇垣外相が辞職している。今度もまた通商局をとられるわけで、軍の外交圧迫に対する憤懣が爆発した。しかしそういう背景はあるにしても、湯浅内府が嘆くように「この内閣は政治的能力が足りない」ことを暴露したようなものだ。
加えて、十四年は台湾や朝鮮が大雨や旱魃のため米が不作で、「東京なんかもう三、四日の米しかない」と、食糧危機の虞れさえ出ていた。米の公定価格も十一月に上がった。
政情不安──「内閣が弱体であるということから、いかにも何が起るか判らない不安な空気」が強まって来たと原田は感じている。
「ノモンハンの事件やらいろ/\とにかくすべて陛下の命令だというのでやって、出先の兵隊も、兵隊以外の働いている者も陛下をお恨み申すという空気が非常に強いようだが、これはよほど注意しなければならん」
西園寺も国民の不満が天皇に向けられるのを心配していた。
「天皇バカ」(陸相官邸の塀に落書、十四年十二月)
「戦争は天皇陛下がさせるのだから、天皇陛下が止める様に命令すれば止むのである。天皇陛下が戦争をさせるから益々人民が困るのである」
「木炭もない、こんな世の中になったのもあの天皇陛下の為だ。あんなもの五、六人行って叩き殺せば楽になるかも知れぬ」
これは昭和十四年度の「特高月報」に収録されているごく一部の声だが、戦争を怨み、生活の困窮を訴える声は原田にも聞えてくる。
原田家に仕えた人々が異口同音にいうように、原田は当時の華族としては「大変気さくで庶民的」だった。大磯の町の人々は誰でも原田を知っていたし、原田も町を散歩する時など、行き交う人々に気軽に声をかけた。好物のラッキョウを商店で見かけると自分で買ったし、店のものが秤っているうちに何個か口に放り込んだりした。漁師と町中で話しこんで、そのまま家に連れて来たり、ともかく華族と庶民の区別はもちろん、職業や貧富の差別も原田には全く見られなかった。三島日銀総裁は、「原田という男は、赤ん坊でも、もうろくした人でも、ルンペンでも、身分や年齢、男女を問わず話が出来る」と評したが、ツギの当たった着物を着て好んで三等車に乗った祖父一道の性格を継いでいたのかも知れない。
そんなだったから、原田は庶民の生活の苦しさや不満をよく承知している。
年末の二十五日、原田は口述した。
「内閣に対する一般の空気は非常によくない。いつまで続けて行けるかということについて、ほとんどすべての人が疑問をもっているような情況である」
宇垣も、「阿部内閣は無定見……出鱈目」と見放してしまったし、十二月二十六日には衆議院議員二四〇名余が内閣不信任案を議決して、決議文を阿部首相に提出していた。
一月四日、またも暗殺計画が発覚した。陸軍の「後方勤務要員養成所訓練係の伊藤佐又少佐を首謀者とする神戸の英国領事館襲撃未遂事件」である。もっとも計画はお粗末極まりないもので、伊藤少佐は兵庫県警察部に応援を求めるなど、およそ正常な神経では理解できない行動をとった。これなら半狂人の妄動≠ニ片付けてもいいのだが、陸軍中央も政府も、さらに湯浅内府も微妙な反応を示した。
阿部首相は、予備役ではあるが、陸軍大将である。その内閣のもとでの陸軍軍人の暗殺計画だっただけに、陸軍は「これを非常に秘して」葬り去ろうとした。米をはじめ日用品の欠乏やインフレに悩む国民の間には、阿部内閣の失政を追及する声が高い。そんなときにこの事件が知れ渡れば、国民の不満や非難は陸軍に集中しかねない。
畑陸相は吉田海相と打合せた上で、阿部首相に「解散だけはやめてもらいたい」と申し入れた。阿部首相は内閣不信任決議を突きつけられて「しきりに解散すると力んでいる」。しかし、もし解散──総選挙になれば、「代議士連の言動など、反戦、反軍的になる虞れがあるから困る」というわけだ。軍部両大臣は、「この内閣は一刻も早く辞めた方がよいと思う」と阿部に進言した。
陸軍はまたも近衛担ぎ出しに動き、武藤軍務局長は九日に近衛を訪ね、「陸軍大臣とも相談の上、軍の意向を代表して」出馬を要請し、断わられると、「宇垣だけは出さない様に願います」〈近衛『平和への努力』128〉と釘をさした。
この日、原田は大磯から上京した。西園寺からは、「近衛については、とにかく門閥でもあるし、相当に近衛を信頼している向きもあるので、……自重して行くべきであると思う。なんとかしてアメリカにでも行って更に勉強して来るといゝ」と注意があり、原田も陸軍の近衛担ぎ出しを警戒している。その代り、原田は、海か、山か>氛汪C軍の米内、やむを得なければ陸軍の杉山を考えている風だった。
午後二時、原田は赤坂の小料理屋に杉山軍事参議官を招いた。有田前外相も同席した。
「武藤軍務局長から電話で、後継内閣の首班になったらどうだ≠ニいう話があったが……宇垣なり林なり阿部大将なりの陸軍軍人が失敗に失敗を重ねている以上、自分がいま出ることは思いもよらん。……現役の大将が総理になってまたしくじったら、反陸軍の空気がます/\強くなって、火に油を住ぐようなものだ」
杉山は自分が出る意思のないことを強調し、また畑陸相という声もあるが「総理に、辞めた方がいい、と言い出す」のは畑陸相になるだろうから、倒閣したものが次に組閣するのはまずいともいった。しかし、杉山は「頼りない」ことでは定評がある。強く押されればいつグラつくかわからない。原田と有田は、組閣の心得として、書記官長と内相の人選が重要なことや外交問題を一応話しておいた。
杉山と別れたあと、六時に原田は吉田海相を自宅に招いた。「口述」ではわざと外しているが、「メモ」にあるように米内も同席した。吉田は、六日に阿部首相に会って、解散反対、進退善処を要望したこと、天皇から昨日「時局について海軍大臣の考をきゝたい」と話があったのでこの経過を上奏したことなどを報告した。原田は、「宇垣、池田あるいは米内という人々に総理大臣になってもらわないと納まりようがない」と考えており、早くも米内一人に絞って政治情勢をよく掴んでもらうために同席を求めたようだった。六年前に原田が岡田を担ぎ出した時とよく似ている。
翌十日、湯浅内府は近衛に、「貴方より他にない」と勧めてみたが、近衛はきっぱり拒絶し、「池田か宇垣」といっていた。しかし湯浅に宇垣を推す気はないし、近衛も断わっているから、あとは池田に絞られるが、これも陸軍が絶対に反対で、畑陸相も「強いて出したら二・二六のようなことでも起りはせぬか」〈同138〉と近衛にいっているから、なかなか難しい。
十一日、阿部首相は、「解散をやめて、十三日か十四日に辞表を出す」ことに決めた。湯浅と原田は、「結局どうしても米内大将を引っ張り出すよりしようがあるまい」と確認し合った。すでに、湯浅は七日ごろから「岡田大将に工作させることにして」、岡田の旧藩主(越前藩)に当る松平秘書官長から岡田に通じてある。岡田は快諾し、「西園寺公の意向もあったので、原田といろいろ画策」(岡田秘話)〈『近衛文麿』下44〉しているが、この仕上げを急ぐことにした。
十二日、原田は早くも組閣準備を始め、松平秘書官長に「広田を外相に入れること。陸相留任出来ぬと云いて、辞せしめ度き意向あり。早く誰かを米内に付すること」〈原田別314〉と連絡した。米内の組閣参謀になる書記官長の人選を急ごうということである。この夜、原田は山本五十六に宛て、米内を「余儀ない事情」で出さざるを得なくなったと手紙を書いた。
十四日朝、阿部内閣は総辞職した。四カ月半──昭和の内閣のうちでは林内閣に次ぐ短命だった。
今までの慣例だと、ここで天皇から湯浅に下問があり、湯浅は「元老と協議致しまして」と奉答して興津へ赴くのだが、すでに西園寺は原田から百武侍従長を通じて、「今回は事情が大分明瞭に解り居る故、速かに事を運ぶ必要上、内大臣が自分を訪問せずして事を処理せしめらるゝ様」〈作田『天皇と木戸』116〉と上奏していた。米内で結構ということだ。
湯浅は昼から、岡田、平沼、近衛の意見を個別に聞いた。清浦は病気、若槻は旅行中だった。岡田は立場もあって近衛≠推したが、本音はわかっている。平沼は「荒木か畑」といったが、湯浅が米内の名を出して説得した。近衛は、「財政問題に見識あるものという建前から、米内を推すわけに行かぬ。自分は池田を適任者として飽く迄も推す外はない。しかし第二候補者としてなら米内に賛成しよう」〈近衛『平和への努力』141〉と答えた。近衛は、「陸軍だのなにかに対して断わった関係」もあるが、前に岡田内閣成立をニューヨークで聞いたときも「こんな内閣を作るのには反対だ。原田なんかがきっと岡田を出すのに大いに働いたのだろう」といきり立ったように、斎藤内閣に対する態度も含めて、どうも海軍の内閣には賛成しないようだ。
湯浅と別れた近衛は、「浮かぬ顔つきで」錦水に待たせていた内田信也と会った。
「やはり畑?」
「いや、それが米内なんだ」
「でも関白も、それは承知の上なんでしょうが……」
「いや、僕が宮中に行った時には、もう湯浅と岡田の間で話が決まってたんだ」〈内田『風雪五十年』256〉
近衛には「大いに心平らかでないものが、その面上に漂っていた」。近衛は「湯浅内府が真先に岡田大将と話し合って、自分に米内大将を押しつけたのが気に喰わぬ、つまり湯浅と岡田との画策」に立腹している、と内田は察した。
一方、重臣の意見を調整した湯浅は松平秘書官長を興津に遣わして西園寺の了解を得たうえで、米内を奉答し、この夜七時すぎに組閣の大命は米内に降下した。
新聞は畑や荒木を予想していて、朝日など号外で「畑俊六大将を奏薦」と報じたくらいだったから、米内の登場は一般に意外と受けとられた。それほど機密保持に成功したともいえ、近衛でさえ一日前の昼に湯浅から「米内のことは陛下の思召もあるので……」〈近衛同右136〉と打ち明けられたほどだった。この時、近衛は、「米内は果して受けるだろうか」と半信半疑だったし、木戸は前日の夜に原田から聞いて初めて知った。
天皇は米内に組閣を命じたあと、畑陸相を呼んだ。
「米内に大命を下したが、陸軍は之に協力するか」
「陸軍は纏まって、新しい内閣に随いて参ります」
「それは結構だ。協力してやれ」
天皇は満足そうに頷いた。二、三日前から、陸軍は気に入らないものが首班に指名されたら陸相を引っ込ませるという風評があったから、天皇が畑陸相を呼んだのはごく当然なのだが、陸軍はやはり反撥した。
米内に大命降下する前、天皇は蓮沼侍従武官長を通じて畑を足止めした。そこで陸軍は畑に大命降下と信じ込んで、武藤軍務局長は大慌てで書記官長の選出や組閣本部探しに取りかかったほどだ。それだけに、米内に大命降下とわかって武藤は「海軍の陰謀にしてやられた」と地団駄踏んで口惜しがり、天皇が畑に話したことも、優諚の降下≠ニ曲解して、「陰謀呼ばわりする」ことになった。
「原田の如きは、重なる罪悪だからやっつけてしまえ」
陸軍の中にはこんな声も出たし、近衛までがこれに同調するように、「米内内閣組閣の黒幕は原田だ」、「原田は米内のいぬ≠セ」〈『近衛文麿』下49〉などと口走って、伝え聞いた原田を憤慨させた。
米内内閣は一月十六日に成立した。畑陸相、吉田海相は留任、外相に有田八郎、内相に児玉秀雄が就任、また民政党から勝正憲が逓相に、政友会革新派から島田俊雄が農相に、政友会正統派から松野鶴平が鉄相に就任し、財界からも王子製紙社長の藤原銀次郎が商工相に入った。組閣参謀をつとめ、書記官長に就任した石渡元蔵相は原田が引っぱり出したし、法制局長官の広瀬久忠(元厚相)も原田の推薦だった。
大命降下の際に、天皇は「極めて簡単に」、
「第一に、憲法の運用を誤らないように。第二に、大臣の人選は極めて慎重にせよ」
と米内に指示した。「かねて米内大将には御信任もあるので……」と原田は注釈しているが、すでに有田が外相に予定され、畑の留任も確実だったから、英米協調外交路線がとられると天皇は安心していたようだ。
原田は阿部内閣が総辞職した十四日に興津に行き、そのまま米内内閣の成立を西園寺と興津で見守った。西園寺は七日ごろから風邪気味で、胃腸の調子もよくないらしい。原田は容態を気遣ったが、内閣交代の挨拶もあるので十八日夕方に上京し、翌朝、阿部前首相を訪ねた。阿部はつくづくと慨嘆していた。
「今日のように、まるで二つの国──陸軍という国と、それ以外の国とがあるようなことでは、到底政治はうまく行くわけがない。自分も陸軍出身であって、前々からなんとかこの陸軍部内の異常な状態を多少でも直したいと思っていたけれども、これほど深いものとは感じておらなかった。まことに自分の認識不足を恥じざるを得ない」
陸軍の支持を失って総辞職した口惜しさもあろう……と原田は思いながら深く頷いた。阿部の感想は、年末にグルー大使がルーズベルト大統領に宛てて意見具申した内容とよく似ている。
「単純な事実は、われわれが相手にしているのは、統一された日本全体ではなく、頑強な軍部に対して徐々にしか成功を収めないが勇敢に闘っている日本政府であるということである。日本政府は、この闘いにおける支持を必要としている」〈『日米関係史』1巻74〉
いかにもハト派のグルーらしい暖かい見方である。
頑強な軍部に対する闘い──このために天皇も西園寺も湯浅も真剣に努力している。阿部が組閣を命じられたのもそのためだし、今また米内がその役目を継いだところだ。米内の登場で、陸軍は「出抜かれ背投を喰わされ、月夜に釜を抜かれた感に打たれて呆然」〈宇垣日記1381〉というが、その陸軍にとって米内は防共強化問題以来「不倶戴天の仇」である。いつまた陸軍が牙をむいて反撃に転じるかわからない。
「いま陸軍は非常に不評判で、反軍思想が地方に相当強いと感じたためか、淋しがっているところだから、この間にこちらから手を出して誤らないように引っ張ることが必要である。……思い切ってやれば、陸軍だって随いて来させることができるんだ」
満州国総務長官の星野直樹は原田の家に来て力説したが、松平秘書官長は「内大臣に対する反感が非常に強くなった」と右翼と陸軍の動きを警戒しており、早くも米内内閣に対する反撃を察知したようだった。また、「陸軍の態度如何によって態度が決まる」というほど親軍的な政党がどうでるかも問題だが、それよりも近衛の動きが焦点になる。米内内閣は、大命降下の経緯からも閣僚の人選でも、近衛には最も縁の薄い内閣である。近衛が米内内閣を公然と批判したりすると、再び陸軍に担ぎ出されて倒閣運動が始まる──原田があれこれ心配していると、それが適中するような事件が次々と持ち上がった。
一月二十一日の日曜日、原田は次女の智恵子と長男の敬策、次男の興造をつれて箱根宮ノ下の富士屋ホテルに出かけ、滞在中の野村前外相夫妻と夕食を一緒にした。
ちょうどこの日の昼すぎ、千葉県野島崎の沖合三十五カイリの洋上で、ホノルルから横浜へ向けて帰航中の日本郵船の客船「浅間丸」が英国の駆逐艦に停船を命じられ、ドイツ人船客五十一人のうち兵役に関係ある二十一人が連行されるという事件が起こった。日本近海といっても公海上であり、英独両国は交戦状態にあったから、国際法上イギリス側に違法な点はなかったのだが、昨年夏の有田・クレーギー会談以来くすぶっていた排英運動を煽り立てる絶好の口実になった。
事件の翌日、外務省は、「領土間近かの不愉快事」、「帝国の意全く無視」と見解を声明し、クレーギー英国大使にこの非友好的な行為を厳重に抗議した。右翼陣営も排英を一斉に叫び、新聞も「此の敵性! 此の挑戦! 英国を撃て!」、「対英媚態をやめ、断乎! 交戦権を発動せよ!」などと激烈な見出しで反英運動を煽った。米内内閣成立五日目、英米との国交調整に重点をおく有田外交は、出鼻をくじかれ、グルー大使の見るところでは「日本全国の感情的愛国心と好戦主義とが、解き放たれた」〈グルー『滞日十年』下36〉。
一月二十二日の新聞で事件を知った原田が、「元老重臣に対して、親英米はけしからんという声が起る前兆だ」と心配していると、その日の夕刊で西園寺が発熱したと報じられた。やはり風邪が悪化したのか──驚いて興津に電話すると、昨日の夕食時に貧血を起して卒倒してから容態が悪化して、気管支炎のため熱も出たし、神経痛や糖尿病も再発しているという。名古屋から勝沼博士が駆けつけて泊り込みで治療に当っているが、病状は楽観を許さない模様だ。原田は、「その内に新聞社が非常に騒ぎ立てて来たので、わざとゆっくりして」、翌二十三日の晩に興津へ行った。
「晩遅く、よくやって来てくれた。政治の話もいろ/\きゝたいが、今晩は遅いし、またゆっくりきこうじゃないか」
西園寺は病室に原田を招いて、なかなか元気そうだった。この様子なら大丈夫、と一安心して原田は水口屋に引きとったが、翌二十四日から熱が上がりはじめた。木戸、広田、湯浅内府、近衛、岡田、松平宮相、宇垣など続々と見舞いに駆けつけ、天皇、皇后からは「立派な蘭の鉢を三つばかりお見舞に賜わり」、御料の牛乳やスープも毎日とどけられた。
原田が興津に駆けつけた二十三日に、内閣参議だった末次信正、松岡洋右、松井石根の留任拒絶が発表された。海軍、外務省、陸軍出身の大物が早くも米内内閣に公然と背を向けたのだ。
松岡は参議辞任を米内首相に告げたあと、十九日、二十日と荻外荘に出向いて、「いまどき八方美人的外交など有り得るはずがない」と熱弁を振るった。
「米国の主張に屈して支那事変以前に立ち還るのでない限り、日米関係の将来は衝突という事態に立ち至ることは免れないと思う。……外交の方針は此の線に沿って立てられなければならぬと思う」〈近衛『平和への努力』145〉
松岡の参議辞任は、「政党代表を入閣させたこと」と、米内内閣の国際協調路線に反発したものだが、それから数日後の二十六日に、日米通商条約が失効した。
日本の貿易構造は、輸入がとくにアメリカ依存が高く、四一・八パーセントをドル・ブロックが占める(欧州・アフリカ・蘭印などのポンド・ブロック四三・二パーセント、円ブロック一五パーセント、十三年実績)。しかも戦争遂行に欠かせない石油、屑鉄、機械、飛行機材料などはアメリカに依存しており、十四年一月から始められた飛行機とその部品の対日「道義的禁輸」が全般に拡大されると、中国との戦争はもちろんのこと、現状でも「中支はもとより北支における経済開発の核心をなす国策会社の事業……は、いずれも機材不足のため、これが計画の実行は遅々として進まず、当分お預け」にあるものが、破綻を来たす。
原田は、坐漁荘と水口屋を毎日往復しながら、明治四十四年以来の日米通商条約がこの時期に失効して、無条約状態になったことの重大さを考えていた。「アメリカ政府は、そのために国交を害することのないようにする、としきりに言っておった」が、しかし国民感情は条約失効で逆に反米に傾き、浅間丸事件と重なって、右翼や陸軍の、親英米派──米内内閣に対する攻撃が強まって来た。
西園寺の容態は、二十六、二十七日とますます悪化し、体温も一時は三十九度まで上がった。二十八日には、甘露寺侍従次長が駆けつけて天皇の見舞いの言葉を伝え、皇后からスープもとどき、秩父宮の御使いや湯浅内府も坐漁荘の門をくぐった。憂色が興津の町を包み、坐漁荘前には百名近い大記者団が詰めかけた。
二十九日、ようやく体温が三十七度に下がった。幸い食欲もある。「注射は嫌いだ」と受けつけないが、牛乳、卵黄、いちご、オートミル、鯛の刺身などを少しずつ口にした。今度こそ大丈夫だ、と原田が安堵していると、この日、恒例の歌会始で天皇のご詠歌が披露された。
[#2字下げ]西東むつみかはして栄ゆかむ
[#3字下げ]世をこそ祈れ年のはじめに
西というとき天皇は英国を思い浮べていたのだろうか。原田は、西園寺が回復したら見せようと新聞を切り抜いて保管した。
三十一日、体温三十六度七分。明らかに快方に向かった。
二月二日、再開された帝国議会で代表質問が行なわれ、民政党の斎藤隆夫代議士が演壇に登った。二・二六事件のあとの議会で斎藤は、「国家の重臣が軍人の銃剣によって虐殺されるなどというが如きは……断じて許さるべき性質のものでない……今や国民に言論の自由なく……これでは専制武断の封建時代と何の変るところがあるか」と陸軍の責任と粛軍の徹底を求めたことでも有名だ。この日も、「五寸そこそこ、十貫ぐらい」で、鼠の殿様≠ニあだ名された斎藤は、伊藤博文の『憲法義解』を片手に首を振り振り二時間にわたる大演説を始めた。
「畢竟するに政府の首脳部に責任観念が欠けている。身を以て国に尽す所の熱力が足らない……外においては十万の将兵が倒れているに拘わらず、内においてこの事変の始末をつけねばならぬところの内閣、出る内閣も、出る内閣も、輔弼の重責を誤って辞職をする……」
立派な演説だった。近ごろこれほど歯切れよく軍部を攻撃し、中国との戦争の欺瞞性を|剔抉《てつけつ》した演説は議会でも絶えて久しい。事変処理を急げという斎藤の演説は、「たいへんな拍手かっさい」で終った。
「なかなかうまいことを言うもんだな」
畑陸相も感心していたし、政府委員室に戻った武藤軍務局長や鈴木貞一少将(興亜院政務部長)も、「斎藤代議士ならばあれ位のことは言うだろう」〈大谷『昭和憲兵史』367〉と顔を見合わせて苦笑していたが、やはり陸軍には「聖戦を冒涜する非国民的演説だ」と激昂するものがあり、夜になって陸軍は政府にねじ込んできた。時局同志会や政友会も、斎藤非難の声明をそろって発表した。民政党も、「代表としての質問演説ですから、斎藤をかばえば、軍を敵に回さなければならない。それは民政党としてはできない」と斎藤を見捨てたので、議会で斎藤除名が可決されてしまった。今や議会政治は言論の自由も許されないほど形骸化してしまったということだ。
「奈落の底だよ」〈朝日新聞15年2月4日付〉
斎藤は淋しく洩らして議会を去るが、翌々年の翼賛選挙で非推薦のまま兵庫県から立候補して、最高得点で当選した。斎藤の演説に共感をもち、除名を不当なものと受け取った国民が多かった証拠である。
斎藤除名で見事に意見が一致した各政党は、このころから新党樹立の方向に動き出し、原田の耳にも、陸軍現役将官内閣の話や、近衛を担いだ新党組織、さらに、「右翼の暴動」や「陸軍の中の妙な空気」の噂がしきりと流れた。
どうもなにか進行している気配だ──原田は動きを掴もうと懸命な努力を続けたが、近衛が一歩早く反応を示した。
三月二十九日の昼、近衛は箱根の帰りに大磯の原田のところに来て昼食を一緒にした。
「自分は六カ月ばかりヨーロッパからアメリカに向って政情視察に出かけてみたいと思うが、どうだろうか。ひとつ西園寺公にも話してみた上、政府にも話してみてくれないか」
近衛はゴロリと畳の上に横になりながら、伊藤述史元ポーランド公使と陸海軍から一人ずつ随員を連れていきたいといい、続いて内乱の噂を口にした。
「どういう動機か、本当のことを知りたい。或は逃げたいんじゃあないか」
原田から近衛外遊の話をきいた米内首相は首をひねった。近衛が六カ月間もいなくなると、枢密院議長の後任を考えなくてはならない。
「とにかく趣旨は国際情勢の視察と言っているから、そうとってやればいゝじゃないか」〈原田8─216〉
原田はニヤッと笑って受け流したが、近衛が右翼の暴動とからめて外遊の話を切り出したので、「逃げたい」、「難を避ける」意図だと察している。しかし、動機はどうあれ、近衛が「各国を回って実際の政情を見て、その中におのずから向うの立派な政治家と知り合う」ことは国家のためにもなる、というのが西園寺の意見だ。木戸氏は、「西園寺公は、近衛の書生論をいくらか心配しておられたんじゃないかと思う」という。
「つまり、持てるものと持たざるものなんていうような、これは書生論だよね、国家の政策を決めるのにそんなことをいっていたんじゃ、どうにもならん。だからね、そういうことを心配されて、アメリカの実力を見て来たらいいだろうということだと思う。イギリスはともかく、アメリカはそう書生論で片付けてしまうわけにはいかん国だからね」
近衛の外遊はまたも実現しなかった。「時局重大化の折、日支事変の起った時の総理大臣が漫然と国際情勢を視察に行くのは無責任だ」という声が挙がり、また「ソビエトとドイツとイタリーよりほかやらない。英米などに行く必要はない」と近衛側近が言い出し、さらに近衛が米内の意向を無視して枢府議長の後任を勝手に平沼に依頼したことなどが重なって、西園寺も「いろいろ考えてみると、やめた方がいゝかもしらん」とあきらめた。
しかし、近衛の恐れた右翼暴動の計画はこのころ着々と進行していたし、また近衛を担いだ新党運動──第二次近衛内閣の成立──三国軍事同盟の締結というその後の半年の目まぐるしい展開を考えれば、近衛が国内にいない方がよかった≠ニいう感じが強い。
中国との戦争は、十三年秋の漢口および広東作戦以来、「政略攻勢、戦略持久」方針に転じたため、小規模な作戦が繰り返されるだけで、汪兆銘工作などの政略・謀略に力が入れられていた。それでも、華北、内蒙、揚子江下流三角地帯、武漢、広東地区を中心とする「占領地域を確保してその安定を促進し健実なる長期攻囲の態勢を以て残存抗日勢力の制圧衰亡に努む」〈陸軍省部決定「政略攻勢・戦略持久期に於ける作戦指導要綱」─現代史資料9巻555〉ために中国大陸に送られて広大な戦線で敵軍と対峙する日本軍は、十四年末で、約八十五万に達していた。
こんな泥沼状態を脱して、一つにはノモンハン事件で痛切に思い知らされた質量ともに優れたソ連軍に対する備えを急ぎ、さらに欧州戦争勃発以後の国際情勢の激しい変化に対処できる態勢を整えるためにも、「十五年中に支那事変が解決せられなかったならば、十六年初頭から、逐次支那から撤兵を開始、十八年頃までには、上海の三角地帯と北支蒙疆の一角に兵力を縮める」〈種村佐孝『大本営機密日誌』(27年、ダイヤモンド社)13〉という構想が陸軍中央で検討され始めた。十五年を転機にしようというもので、そのためには汪兆銘を中心とする中央政府を樹立して育成し、重慶政権(蒋政権)との間の和平工作を強化する政略攻勢が進められることになった。
三月三十日、汪兆銘は南京還都宣言を行ない、「国民政府」を樹立した。主席を林森に、汪兆銘は主席代理に就任して「万端重慶合流の用意」も整えた。また、北京の臨時政府は華北政務委員会と改称、南京の維新政府は解消されて新政府に統合されることになった。これに伴ってそれぞれの政府の背後にあった北支那方面軍と中支那派遣軍も統合されることになり、これは一歩早く十四年九月に支那派遣軍として一本化されていた。
「柳芽を吹きゃ政府が出来た。梅も桜も皆咲いた」〈堀場『支那事変戦争指導史』389〉
新都南京はその日「桜、桃、梅、李皆花」を開き、街頭は到るところに「和平来」と書かれて「人心喜々たり」──堀場一雄参謀は記した。
しかし、新政府はできたというものの形だけで、日本側は、駐兵地域の拡大、華北の事実上の半独立など新政府の死命を制するような苛酷な要求を次々と突きつけており、かつては国民党副総裁として名声をうたわれた汪兆銘も、いまや日本の完全な傀儡政府の首脳として、中国国民の支持も得られず、わずかに日本の占領地域内で、日本軍の武力によって支えられるにすぎない。
「江南の春、花匂えども志成らず……」〈同389〉
堀場参謀は汪政権成立を目の当りに長嘆息したが、たとえば「一旗組ないし利権屋の、時勢に便乗し軍の権威をかりて横行する」様一つを取りあげてみても、聖戦、東亜共栄圏の掛け声がいかに白々しく響くことか……斎藤代議士が指弾するとおりである。
「利権屋を相手とする国策実践の努力は蝿を逐うが如し」〈同380〉
これも堀場中佐の感想だが、日本軍の中にも「権益思想は抜くべからざるものあり」、その動きは「百鬼夜行」だったという。
日本軍が支那事変をもて余して、漸次撤兵≠考えたころ、欧州の戦局は俄然進展を見せていた。四月九日、ドイツ軍はデンマーク、ノルウェーに進入を開始し、デンマークはわずか三時間で降伏した。北海を制圧して背後を安全にしたドイツ軍は、翌五月十日、機甲部隊と降下部隊を主力にオランダ、ベルギー、ルクセンブルグの三国に一斉に進攻した。今回も戦闘は一方的で、第一日目に三国の首都はドイツ軍の手に陥ちた。ドイツとの国境付近に設けられた難攻不落のマジノ要塞もたちまち突破され、五月末には、ドイツ軍は三十万のイギリス軍をダンケルクに追い落し、六月十四日にはパリを占領、その四日前にイタリアも英仏に宣戦した。ドイツ電撃作戦の華々しい大勝利である。
「まだ前途は判らん」
さすがに西園寺だけは、明治維新の戦火をくぐり、ナポレオン三世がプロシャに敗れた普仏戦争の半年後にパリに入ってパリコンミューンの反乱を目の当りに体験し、さらに第一次大戦の講和会議に出席したりの長い体験を踏まえて冷静に観測していたが、そんな落着いたことを言うものは、西園寺くらいだった。
六月二十二日、ヒトラーはパリに乗込み、郊外のコンピェーニュの森に置かれてある第一次大戦でドイツが降伏調印した記念の客車の中で、フランスとの休戦協定を結んだ。この報道が日本にも入り、さらにドイツ軍の英本土上陸近しの噂が高まるにつれ、日本国内はもちろん世界中が興奮に包まれた。ヒトラーがイギリス上陸作戦の準備(オットセイ作戦)を指示したのは、七月十六日である。
「ドイツ軍の英本土上陸作戦は間もなく行われ、そして成功するであろう」
「たとえドイツ軍の英本土上陸作戦が行われなくとも、ドイツの欧州大陸制覇と大英帝国の没落崩壊は今や決定的である」〈参謀本部編『杉山メモ』(42年、原書房)上巻5〉
陸海軍はこのように情勢判断した。
オランダ、フランスが降伏し、イギリスの命運も旦夕に迫ったとなると、この三国がアジアに持っている広大な植民地──インドシナ半島、マレー半島、インドネシア、それにインド、ビルマ、香港などは主を失って空っぽになる。
もしこの間隙をぬって日本軍が進出できれば、インドネシアの石油をはじめ、米、錫、ゴム、ニッケル、ボーキサイトなどを確保することができるし、ビルマやインドシナ半島、香港を経由して英米から蒋介石に送り込まれている武器、弾薬の援蒋ルート≠断ち切って、事変解決も容易になる。
──南進論、それもドイツのヨーロッパ制圧を千載一遇の好機に空白の東南アジアに進出しようという便乗論であるが、参謀本部はドイツの進撃ぐあいを横目で睨みながら、六月に入ると東南アジア各地の用兵地誌を作成するため、作戦および情報担当部員を一般商社員の資格で続々と派遣しはじめた。
「米国が連合国の依頼によってこれらの植民地を委任管理する様な事態が起った場合には、我国は米国の包囲を受ける状態となり、由々しき事となる」〈木戸文書125〉
こんな議論が木戸や原田の耳にも聞えてきた。
五月に入って、湯浅内府が「到底堪えられない」と辞意を口にしはじめた。疲労が嵩じて衰弱が甚だしく、それに「肺気腫で、多少肺に孔があいて空気が出て困る」病原も判明したので、松平と原田が走り回って後任選びが始まった。
湯浅は、「若槻、宇垣、木戸の順」で後任を推薦していた。しかし、原田が「やっぱり木戸がいいと思う」と西園寺に話すと、西園寺も異存ない様子だった。
五月二十九日、松平宮相が、湯浅の「辞める時期と後任の問題」を上奏すると、天皇は「已むを得ないから、原田を興津にやって自分の気持を伝え、また西園寺の意見をきけ」と指示して、次のような言葉があった。
「若槻なども候補者の一人だけれども、ロンドン条約の問題と、永年民政党の総裁であったということで、反対党の気持がいつまでも解けず、それが邪魔になりはせんか。近衛はいゝが、いろいろな者が大勢付き過ぎているのと、将来政権を担当する必要もあるので差し控えたいと思う。平沼は機密は守るようだが、これは興津がとても賛成はすまい。木戸はいいと思うが……」
原田は翌日、近衛、岡田、米内などに会って、「木戸が一番無難だ」と意見をまとめたうえ、三十一日に興津へ行った。天皇の下問を伝える役割である。
「この御下問には奉答致しかねる、と言ってお断わりしろ」
西園寺は撥ねつけた。この間から西園寺は「今一番大事なのは内大臣の後任のことだ」、「人選のことなどは話さないでもらいたい」といっている。
「それくらい重大に思っておられたんですから、なんとか陛下にこの範囲でお考えを言われたらどうでしょうか」
原田は懸命に説得したが、西園寺は、「もし人を求めたら、一木あるいは岡田の如きはどうか」と言い出す有様で、頑として受けつけない。西園寺が天皇の下問に答えようとしないのは、「前任者が後任者を推薦し、副署すべき大臣すなわち宮内大臣がそれに同意し、陛下が御裁可になる」という手続きを踏んでいないからだ。さらにいえば、「立憲政治の本義」にのっとって運べということだ。
原田は電話で松平宮相に連絡し、松平は病床に横たわる湯浅を改めて訪ねたうえで「後任者として木戸を推薦する」手続きをやり直して、天皇の裁可を得た。
「これくらい結構なことはない、自分は非常に満足で、決して異存のありよう筈はない」
この夜、西園寺は原田の報告に満足そうに頷いたが、西園寺がこの下問に応じようとしなかった理由はもう一つあったようだ。
しばらく前、五月六日に原田は西園寺に、後継内閣首班奉答の方式について、近衛が「制度上においてはっきりとしたらいゝ」といっていると、手続きの組織化について報告した。
「木戸の内府兼侍従長は同意なるも、機構組織を新に造る事は疑問だ」〈原田別321〉
西園寺は近衛の提言を容れなかった。近衛枢密院議長の案は、内大臣が侍従長を兼ねて「権力のない本当の常侍輔弼」に徹し、御下問奉答は首相経験者を全員枢密顧問官にして、枢密院議長がこの顧問官と相談したうえで「その決定を以て奉答する」〈原田8─232〉ことにしたい、というものだ。
近衛案を実施するとどういうことになるか。枢密院議長の交代、人選は内閣が天皇の裁可を得て実施する。だから、もし内閣が自分の都合で強引に枢密院議長を代えてしまえば、時の内閣、あるいは陸軍や右翼の意向で後継首班推奏が行なわれることになる。西園寺がこれに賛成するはずがない。しかも近衛は、枢府議長を平沼と交代すると、この三月にも申し出たばかりだ。
そんな重大事を内大臣交代と一緒に取り運ぼうとし、しかもその内大臣交代についても正式の手順を踏もうとしない──西園寺はこの点で側近、あるいは天皇を含めて、注意を促そうとしたようだ。
六月一日、木戸は内大臣に就任した。商工省に十五年間つとめ、その後、内大臣秘書官長、宗秩寮総裁、さらに文相、厚相、内相を歴任した木戸なら「宮中のことも相当知っており、最近の政治の事情にも精通している」からまず常侍輔弼の適任者と見られる。「もっとも、枢府に近衛あり、内大臣に木戸」ということで、「側近が華族的華族により囲繞せらるゝ」〈『湯浅倉平』416〉という批判は当然あるが、これも木戸のくだけた「野武士」(木戸氏の自評)的性格により緩和されるだろう、という者もいた。
ところで木戸内大臣を一番歓迎したのは、陸軍だったようだ。
「木戸はいくらか革新勢力に近いと見られ、また将来の政治に理解をもっている、という風な意味から、非常な歓迎を受け、新聞の論調も比較的よかった」
「陸軍は非常に喜んで、蓮沼侍従武官長の如きも、ほとんど毎日、内大臣の所に詰切りというような状態……」
内大臣交代の反響を原田は注意深く記録した。のちに近衛は、「(木戸を内大臣に推したのは)元老だが、主として原田だ。自分も一寸相談にあずかったが……」〈細川護貞『情報天皇に達せず』(28年、同光社磯部書房)上188〉といったほどで、原田は木戸を推した責任からも陸軍が木戸の登場を歓迎するのが気に掛かったようだ。
木戸が内大臣になって──
「新党問題は促進された気分がある」〈原田8─255〉と近衛はいう。つまり、「国民各層を打って一丸とし、脈々として血の通う様な」〈『近衛文麿』下91〉強力な国民組織を作りあげて、それで軍部の独走を押え、泥沼にはまった日華事変をなんとか解決しようという近衛を中心とした動きは、三月頃から木戸を有力な相談相手として進められてきた。その木戸が、内大臣の要職についたことで一段と勢いづいたというのである。
近衛は、すでに五月二十六日の夜、木戸と有馬頼寧(貴族院議員、第一次近衛内閣の農相)を紀尾井町の錦水に招いて、「この次は再び内閣組織の大命を拝するならんとの見透しで、それ迄にいかにして自己を支持する政治力を結集し得るや」と相談している。
このあと木戸が内大臣になって「新党問題は促進され」、ヨーロッパでは英軍のダンケルク総退却、続いてパリ陥落と、ドイツ軍が破竹の進撃を見せたから、軍部も、三国軍事同盟の締結、ナチス流の一国一党組織の結成を叫び、「外交の転換と国内新体制」のスローガンが掲げられた。
しかしこれを実現するには米内内閣が邪魔になる。米内と有田外相が固持する方針──「国内新体制とかいうようなものには絶対に反対であり、あくまでも立憲的に行動すること。三国同盟……には絶対に反対。欧州戦争の渦中に巻き込まれることを避けて静観の態度をとり、みだりに妄動しない」〈米内覚書99〉という、要するに組閣の時の天皇の御諚に沿う政策を放擲しなくては、軍部の要求は実現しない。軍部──特に武藤軍務局長を中心とする幕僚は、東亜建設連盟(会長末次信正、中野正剛、橋本欣五郎、白鳥敏夫ら)を中心とする革新右翼と結んで、「弱い性格」〈同99〉の米内内閣を打倒し、三国同盟締結、一国一党組織の結成をめざして動き出した──。
六月十二日の朝、原田は近衛を荻窪に訪ねた。近衛は相変らずの調子で、「已むを得ず出てもいゝ、あるいは出なければならない、という様子」で愚痴って、「現在のような空気の世間で新党と称するものは、到底自分の理想と遠い」と言っていた。
どうせ西園寺や原田が新党運動に賛成するはずはないからと、近衛は新党に気乗りしないふりを装っている風だ。
「そんなことを言わずに、断わってしまったらいゝじゃないか」
「はっきり断わるとも言えないし……」
「とにかく、いま君が枢密院議長を辞めて新党を作るとかなんとかいうことで世の中を騒がせ、結果において倒閣のようなことになると、非常に面白くない」
「実際、自分がいま議長を辞めたら、それはもう大変だ。もう少しこの内閣にやってもらわなければ、とてもあとを引受ける準備ができない」
近衛はこういって、原田には「まあ自重しているようなことを言って」いたが、その口の下で、別室に来合せていた松岡洋右の方を指差して、原田に耳うちした。
「松岡の外務大臣はどうだろう」
「まあ、有田あたりとよく相談して、慎重にやれよ」
原田はまた近衛の新しもの好き≠ェ始まったと呆れ顔で引上げたが、近衛の秘書官だった牛場友彦氏によると、この頃松岡は猛烈な猟官工作を続けており、牛場に「草履とりでもいいから近衛さんに仕えさせてくれ」と頼んだという。また、なんだかんだと口実を作って荻外荘に近衛を訪ね、近衛家の女中達からなりたやさん≠フ呼名を奉られるほどだった。
近衛のいう松岡の外相案は周囲がほぼ全員反対だった。天皇も反対の意向だったというが、天邪鬼の近衛は、周囲が反対すればするほど、松岡に固執するようになっていった。
それから五日後、近衛は夜の十時に木戸を訪ねると、「東京にいると、いろんな人がやって来て、同じような話を毎日のように聞かされるんで、うんざりだ。あすの朝からしばらく京都に行こうと思う」〈木舎『政界五十年の舞台裏』254〉といって、枢密院議長を辞任する決心だから内閣に伝えてくれ、と依頼した。
「まあ止むを得んだろう。この内閣もそう長くはないようだから、そろそろ後の用意でもした方が……」〈原田8─268〉
木戸も了解し、翌朝石渡書記官長を招いて近衛の辞意を米内に伝えるように頼んだ。
「木戸が内大臣の地位にありながら、しかもこういう運動に近衛と相呼応して策謀しているのはけしからんじゃないか」
米内首相は原田を前に、非常に憤慨して木戸を非難した。原田も、近衛や木戸から何も知らされていない。京都から戻った近衛は二十四日に枢密院議長辞任の声明を発表した。
「内外未曾有の変局に対処するため、強力なる挙国政治体制を確立するの必要は、何人も認めるところである。自分は今回枢密院議長を拝辞し、かくの如き新体制の確立の為に微力を捧げたいと思う」〈『近衛文麿』下92〉
もっとも、近衛は、「倒閣の意思は絶対にない」〈原田8─266〉と強調し、「米内内閣ができるだけ続くことを望んでおった」〈同270〉という。
しかし、近衛の気持がどうあれ、客観情勢は別であった。近衛の辞任とともに「新体制運動は俄然活気づき、政党の解党運動が滔々たる勢いとなり、陸軍や右翼の倒閣運動がこれに絡んで来ることになった」〈『近衛文麿』下92〉。既成政党は、七月六日に唯一の合法無産政党の社会大衆党がすすんで解党し、続いて、十六日政友会久原、鳩山両派、二十五日民政党永井一派、二十六日国民同盟と次々と大勢迎合の態度を示し、八月十五日に民政党主流派が解党するに及んで、政党は全く壊滅してしまった。
一方、ドイツの日本接近も目立ちはじめた。オットー駐日独大使は六月二十四日にベルリンに打電して、小磯拓務大臣が「インドシナおよび蘭領印度(インドネシア)に於ける日本の植民地獲得の希望」を表明したので、「アメリカが対独戦争に参戦した場合……日本は太平洋地区に於てアメリカを拘束する義務を有する」ことを前提に、「異議なし」〈東京裁判速記録75号〉と答えた、と報告した。日独軍事同盟が、南方進出計画とからんで検討されはじめたことを示すものである。
こんな動きの中で、天皇と西園寺だけは、際立った意見を持っていた。
六月三日、就任早々の木戸内大臣は天皇に呼ばれ、「新党問題につき新聞紙によれば一週間以内に解党云々等と見ゆるが、真相はどうか、末次等の一国一党運動は発展性があるのか」と下問を受けた。数日前まで近衛を援けて新党運動の中心にいた木戸は、「最近迄の情勢を詳しく言上、御安心を願う」と、天皇は「わかった」とうなずいて、声を高めた。
「状況の変化あれば格別、然らずんば米内内閣をなるべく続けしむる方よろしからん」〈木戸789〉
天皇は、米内内閣に対して陸軍が「当初からおだやかならぬ反感」〈米内覚書93〉を持っているのを承知している。しかし米内内閣に対する天皇の信任は厚く、湯浅内府が「近来、歴代内閣の総理が拝謁する場合に、御不機嫌なことが多かったけれども、最近米内総理が拝謁した時は非常な御機嫌で、総理も不思議がっておった」と原田に話したほどである。天皇は新任の木戸に、米内信任の思召しをはっきり表明しておきたかったのだろう。
六月十七日、原田は興津に行った。今年は五月はじめからほとんど雨が降らず、東京は水飢饉だと騒いでいた。それがようやく昨夜半から雨が本格的に降り始め、坐漁荘の目前に広がる海も今日は雨にかくれ、波の音もかき消されている。
「これで水不足も解消どすかノオ」
年始めからの病いで一段とおとろえた西園寺は力なく椅子に掛けて、原田に話しかけ、続いてヨーロッパ戦線に話を転じた。
「アメリカは軍需品だけを供給して、恐らく出兵などということはしまい。……いかにヒットラーが偉くても、十五年続くかどうか問題だし、ナポレオン一世の場合を考えてもそうだ。ちょうど百年前のドイツの情況を繰り返しているようにも思われる。まだ前途は判らん」
ちょうどこのころ、陸軍省軍事課は「シンガポール奇襲作戦をすぐやれ」〈種村『大本営機密日誌』16〉と参謀本部に提案していたし、久原参議などは「直ちに多数の飛行機と戦車をもってシンガポールを襲撃すべし、この意見が容れられなければ辞職する」〈有田『馬鹿八』121〉と政府に申し出たほど、軍や政党人の間に千載一遇論≠竍バスに乗り遅れるな≠ニいう焦燥気分が強まっていた。西園寺のような達観した意見は少なかったが、西園寺が原田と話した三日後の二十日に、天皇は奇しくもナポレオンを例に出して木戸に心境を述べた。
「我国は歴史にあるフリードリッヒ大王やナポレオンの様な行動、極端に言えばマキャベリズムの様なことはしたくないね、神代からの御方針である八紘一宇の真精神を忘れない様にしたいものだね」
天皇は、日華事変の収拾がつかないまま戦火が南に広がるのを憂慮し、さらに木戸に「末次等の運動は発展性ありや」と尋ねたように、ナチスばりの一国一党結成の動きにも不快の念を持っていた。しばらくのち、近衛が組閣を終ったあとで木戸を通じて、「憲法の解釈が時代とともに発展しなければならない」〈『近衛文麿』下107〉という主旨の意見書を内覧に供したときも、天皇は、近衛の新体制運動に疑念を表明した。
「近衛はとかく議会を重んぜないように思われるが、わが国の歴史を見るに、蘇我、物部の対立抗争以来、源平その他常に二つの勢力が対立している、この対立を議会に於て為さしむるのは一つの行き方で、わが国では中々一つに統一ということは困難の様に思われる……」〈木戸818〉
だから、一国一党の幕府的存在≠ノなることはまずいヨ、というのが天皇の気持である。
「新体制の下には大きな軍独裁の調べがある」〈矢部貞治日記332〉
新体制運動の理論構築を受け持った矢部貞治東大教授はいう。また牛場友彦氏も「ナチスの組織」との関係を指摘する。
「やはり何といっても、ナチの組織が近衛さんの頭にあったことは否定できない。ナチの組織のようなものを背景に政治に当るということが一つのやり方だと思っていたんでしょう。(十二年に仮装パーティで)近衛さんがヒトラーに扮したのも、皮肉る意味とともに、憧れもあったんだろうかね」
しかし──
西園寺がヨーロッパ戦線について「まだ前途は判らん」と冷静な見方をし、天皇が「マキャべリズムのようなことはしたくないね」といっているころ、陸軍は倒閣の具体的行動に取りかかった。
六月三十日、外務省の須磨弥吉郎情報部長が、突然東京憲兵隊の佐藤太郎憲兵大尉の訪問を受け、「有田外相のラジオ放送問題で、ちょっとお尋ねしたいことがあるので、特高課長に会ってもらいたい」〈須磨弥吉郎「在支十有一年と外交秘話」─『秘められた昭和史』(40年、鹿島研究所出版)所収74〉と憲兵隊本部へ同行を求められた。日曜日の朝である。有田外相が二十九日の午後に「国際情勢と帝国の立場」と題してラジオ放送をしたが、須磨が放送予定原稿から日独伊の関係強化の個所を削除してしまい、しかも「陸軍の真意はあまり枢軸接近ではないので、わざと触れなかったのだ」と記者会見で語った疑いだという。
須磨はそんなことを言った覚えはない。単なる誤解じゃないか──須磨は、東京憲兵隊で放送問題のいきさつを簡単に聴かれ、ウナギ丼をご馳走になって三時ごろ外務省に戻った。しかし、憲兵隊が須磨を呼んだのは、どうも倒閣を企んでいる気配があった。
「軍部のいきり方は非常なもので、まず須磨を槍玉にあげて辞職させ、そうすれば有田外相は当然辞職するから、米内内閣は倒れる……」
こんな確実な情報≠ェ原田にも聞えてくる。
「陸軍の態度は卑怯で甚だけしからん」
原田が大いに憤慨して放言していると、石渡書記官長から電話があって、「軍の一部でも君の態度を憤慨しているから、政府を露骨に庇うことはやめた方がいい」と逆に注意を受ける始末だった。
「あんまりうるさいから、二、三日大磯に行こう」
七月三日に原田は東京を逃げ出したが、畑陸相もこの程度のことで、天皇の信任の厚い米内首相に内閣を投げ出させるような陰謀に加担するわけにいかない。畑は二日に阿南陸軍次官を木戸の許に差向けて、「(須磨の件は)造言蜚語の取締りが主で、これを倒閣には絶対に利用せず」と言明させ、三日には畑と有田外相の間で、「外務、陸軍両者間に意見の不一致でもあったかの如き報道は全然事実無根である」と陸軍外務共同声明を発表することで話がついた。それに、事件を聞いた近衛が、「軍部がこんな手まで使って倒閣に出るなら、自分は新党などに関係するのは真っ平ご免だ」〈同83〉と言ったと伝わったので、陸軍も急に弱気に変ってきた。
須磨部長のところにも武藤軍務局長が来て、「君をねらったわけではないのだが、迷惑をかけて済まなかった」と詫びを入れ、参謀本部の土橋勇逸第二部長も須磨の肩をたたいて言った。
「実にすまなかった。いわば陸軍の熊公、八公がやった仕業なのだから水に流してくれ」
「国家の大事は水に流してすむ問題ではない」〈同84〉
須磨は心中大いにむくれたが、ともかく事件はこれで片付き、倒閣の動きも沈静化するはずである。
ところが、畑や有田がホッと一息つく間もなく、陸軍の熊公、八公≠ヘ、米内内閣の死命を一気に制する行動に出て来た──。
このころ、陸軍では参謀本部起草の「情勢の推移に伴なう時局処理要綱」の検討を急いでいた。ほんの三カ月前まで日華事変の処理に困り果て、三月三十日には自発的撤兵方針≠ワで決定したのに、百八十度の大転換である。
「帝国は世界情勢の変局に対処し、速に支那事変を解決すると共に、特に内外の情勢を改善して、続いて好機を捕捉し対南方問題の解決に努む。支那事変の処理未だ終らざる場合に於ける対南方施策は内外諸般の情勢を考慮し之を定む。右両場合に応ずる戦争準備は概ね八月末を目標とし之を促進す」〈『太平洋戦争への道』別巻資料編316〉
この「処理要綱」は、六月二十五日に第一次案が参謀本部で完成し、七月三日には陸軍省と参謀本部の首脳会議で陸軍案として決定を見、翌四日に陸軍から海軍に提案説明が行われた。この席で、内容説明に当った参謀本部作戦課長の岡田重一大佐は、重大な発言をした。
「南方に武力を行使する場合には独伊軍事同盟に入ることとなる」
「国内強力政治機構の確立については、少数閣僚(陸海外三省)主義が宜しい。外相には松岡洋右の外交実行力を買っている。陸相には東条英機または山下奉文がよかろう。陸軍が内閣を引受けることは好まない。人がいない」〈防衛庁戦史室『大東亜戦争開戦経緯』(49年、朝雲新聞社)1巻387〉
岡田大佐の説明は、米内内閣打倒──近衛内閣の擁立はもちろんのこと、外相松岡洋右、陸相東条英機、日独伊三国同盟締結までも予定していることを示している。これが七月四日の時点である。すべてはこの陸軍の構想どおりに展開されて行く。
すでに、近衛が「松岡外相案」を原田に打診したのは六月十二日である。また、木戸が「陸相に東条云々の説」と天皇から聞いたのは六月二十八日であり、六月中旬から下旬にかけて近衛内閣の基本人事構想は固まったと見られる。
さて、「時局処理要綱」が出来上ると、米内内閣は無用になる。とくに八月末を目標に南方進出の戦争準備をするということになれば、倒閣を急ぐ必要がある。
七月四日午後、畑陸相は閑院参謀総長名の一通の要望書を沢田茂参謀次長から受け取った。
「……現内閣の施策する所を視るに消極退嬰にして到底現下の時局を切抜け得るとも思われず……以てこの際挙国強力なる内閣を組織して|右顧左眄《うこさべん》することなく断乎諸国策を実行せしむること肝要なり。右に関しこの際陸軍大臣の善処を切望す」〈同右別巻資料編315〉
この要望書は、「時局処理要綱」の陸軍案が完成した時機をとらえて、「ドイツの勢力を利用して事変の解決を促進する」考えの閑院総長が、沢田次長に命じて作成させたものという。
「陸軍大臣の善処を切望す」という意味は、畑から米内に総辞職を勧め、もしそれが容れられないときは畑が単独で辞表を提出して内閣を倒せ、ということである。
「非常手段に出ると云う事は陸軍大臣に対しては真に気の毒であるけれども、かかる国家の大事に際しては国の為め忍ばねばならぬ」〈東京裁判速記録391号〉
陸軍最長老で皇族の閉院総長は、沢田次長にいったという。畑は「たとえ陸相と云う地位にあっても臣下の分として閑院宮の強い要望に服従せざるを得ない」。
東京でそんな倒閣の陰謀が進んでいるとも知らずに大磯に待避していた原田は、四日の未明四時二十分頃に東京の自宅からの電話でたたき起こされた。
「四時頃警視庁から電話がかかって、また二・二六みたいなことが起こって、正六時を期して襲撃するというので、そちらに警官をたくさん送りますから……≠ニいうことでした。大磯を一刻も早くお引取りになった方がいいと思います」
原田は大慌てで警護の脇谷喜蔵に鞄ひとつを持たせ、浴衣のまま高麗山の坂を駆け下りて、東海道線伝いに二宮の方に向かった。二宮には里見※[#「弓+享」、unicode5f34]の別荘がある。ともかくそこまで……と六キロほどを原田は懸命に急いだが、夜明けの町の様子は別に変わりない。
「ラジオは聞こえるし、電話のベルも鳴っているようだし、これは大したことじゃあないな」
ほっとして原田が足をゆるめると、数歩先を歩いている脇谷は懐の拳銃を握り直して、「まだ安心できませんから」と懸命に原田を急き立てた。
この日、原田は里見の別荘に泊り、翌五日の朝、児玉秀雄内相から、「一味を逮捕した」と連絡を受けて大磯に戻った。
事件は、昭和八年七月の神兵隊事件に関係した前田虎雄、影山正治が、影山の主宰する「大東塾」の塾生三十人ほどを率いて、五日午前七時に首相官邸を襲撃して米内首相を暗殺するとともに、「重臣の代表として牧野、岡田大将、宮相の松平、財閥の代表として池田成彬、親英派のお使い番として原田熊雄」など、自由主義ないし現状維持勢力の巨頭らを殺害しようというものだった。しかし警視庁では事前にすっかり探知しており、午前五時に一味が五隊に分かれて出発しようとするところを全員逮捕した。
事件はもちろん記事差し止めになって一般に報道されなかったが、関係方面にはすぐ知れわたり、倒閣の直接行動とみられて大きな衝撃を与えた。
「彼等の行動は|悪《にく》むべきも、その心情については為政者も亦大に反省せざるべからず」
木戸内大臣は米内内閣を見限るような奉答を天皇にして、原田にも「どうも陸軍は、現内閣の陣容では、事変処理は到底駄目だ、殊に外交転換のためには、内閣の更迭を望まざるを得ない、というようによほど空気が怪しいから、内閣も永くないかも知らん」と電話で話した。
六日に近衛は軽井沢へ行き、天皇も八日に葉山に行幸した。この夕方、ラジオは政変近しの放送を流した。
「近衛が十日に軽井沢から帰って来れば、早速陸軍は倒閣をやり、近衛を担いでいわゆる新党で新しい内閣が出来る」
こうなれば、政変は必至だ。
翌九日、畑陸相はいよいよ行動に移った。畑は閣議前に米内首相に会い、「近衛公がやるというならば、軍人宰相らしく快く政権を近衛公に渡し、我々も近衛公に協力するという態度が宜しくはないか」と、円満退陣を勧告した。
「同感である。何も政権にかじりつきたいなどという考えはない。我々はベストを尽しているが、ベターをなすものならば独り近衛公のみではなく、誰にでも快く渡す考えである」〈開戦経緯1─316〉
米内は軽く受け流したが、畑は単独辞職もあると仄めかして会談を終った。
米内の自発的辞職なしと見た陸軍は、十一日に阿南次官と武藤軍務局長がそろって石渡書記官長を訪ね、「近衛新体制を現実にするために、引退ってもらいたい」と再度勧告し、石渡が拒否すると、「それならば陸軍大臣を辞せしめるより途はない」〈原田8─284〉と言い捨てて帰った。最後通告である。
もはや、陸軍の政治介入などという生やさしいことでなく、自分の邪魔になる内閣、それも天皇の信任が厚い米内内閣を正面から叩きつぶそうというのである。
十四日、天皇は再度木戸に伝えた。
「米内内閣に対する信任は今日も変っておらぬ。内外の情勢により内閣の更迭を見るは止むを得ずとするも、自分の気持は米内に伝えるように」
結局、十六日朝になって、畑陸相は米内に辞表を出して執奏を依頼した。米内は「陸相後任を出すように」と求めたが、陸軍は三長官会議の結果、「後任になる人はあるまい。選定は至難である」〈木戸804〉と回答してきた。
こうなれば仕様がない。この夜、米内は葉山に赴いて辞表を捧呈した。「いつごろ帰京しようかと困っていた」近衛は、この夜おそく軽井沢を発ち、クライスラーをとばして荻外荘に帰って来た。
「内閣総辞職の後、畑を私の部屋に呼び、私の記憶では次の様にいいました」〈東京裁判速記録391号〉
米内は後に東京裁判で証言した。
「貴下の立場はよく分る。苦しかったろう。しかし俺は何とも思って居らぬよ。分っている。気を楽にして心配するな」
米内は畑の手を握った。──「畑は淋しく笑いました。この笑は日本人に特有なあきらめの笑でありました。彼の立場は全く気の毒なものでありました」。
わびしい光景だ。こうして米内内閣の幕は閉じられたのだが、しかし、米内にしろ畑にしろ、次に来るものは痛いほどよくわかっていたはずだ。日独軍事同盟であり、南方への進出であり、その結果は英米を敵に回して戦争の危険を招くことになる。その途はすでに軍部の手で準備が整っており、近衛に大命が降下すれば半ば自動的にその方向に滑り出す……。
米内は知っていたかどうか、海軍はすでに南方進出に伴なう対米戦争について一つの重大な結論を出していた。
ドイツ軍が四月九日に北欧に進撃してから、海軍省部の目は蘭印(インドネシア)に注がれた。石油などの資源獲得が目的である。しかし、蘭印に対する軍事行動は、英仏蘭、さらに米国との開戦を招くだろうということで、軍令部では五月十一日から二十一日にかけて、「対米持久作戦」について図上演習を試みた。海軍省、航空本部、艦政本部からも参加した大規模なものだった。
演習の構想はこうであった。
「大演習の名の下に、企図を秘匿しながら応急戦時編成(平時と戦時の中間編成)の艦隊をもって、海軍独力でパラオ群島方面から、まず蘭領ボルネオの油田地帯およびニッケル鉱産出のセレベス島など、蘭印の資源要域を占領する。勢いイギリスおよびアメリカが日本に対し参戦し、対米英蘭三国作戦のやむなきにいたり、英領マレーの攻略並びにハワイを根拠地とする米太平洋艦隊に対する長期作戦へと発展する」
演習最終日の二十一日には、近藤軍令部次長以下の部課長も出席して研究会が行なわれ、「極めて有益なる研究を遂ぐ」結果になった。
「海軍は開戦後二カ年半の作戦所要を賄い得る燃料を貯えているが、米英の全面禁輸を受けた場合、四、五カ月以内に南方武力行使を行なわなければ、主として燃料の関係上戦争遂行が出来なくなる」〈開戦経緯1─368〉
二カ年半の燃料所要量(備蓄量)というのは六〇〇万トンである。この演習の結論は、重大な意味を持っていた。翌十六年に山本五十六司令長官が「初め半年か一年の間は随分暴れて御覧に入れる。しかしながら二年三年となれば全く確信は持てぬ」〈近衛『失はれし政治』47〉と近衛にいったとき、石油のことを頭においていたし、さらに重要なのは、日本が経済封鎖=石油禁輸を受けた場合の開戦期限を四、五カ月以内と明確にした点である。周知のように、アメリカは翌十六年八月一日から対日石油禁輸を行なった。この時の日本の貯油量は九四〇万トン(陸軍八七万トン、他に民間貯油を含む)だった。日米戦争はそれから五カ月目に起こる。
しかし、これだけ明確に図上演習で結論が出ているのに、日本はなぜ「米英の全面禁輸を受ける」ことになったのか。問題は、南部仏印に進駐しても米国が対日石油禁輸を行なわないだろうと見た日本側の判断の甘さ、情報欠落にあった。この点はあとでまた触れる。
さて、米内内閣が総辞職した翌日、宮中西二ノ間で開かれた重臣会議は、「陛下より内大臣に対し、後継内閣首班者を選定につき、枢密院議長、元内閣総理大臣たりしものの意見を徴し、尚、元老と相談の上奉答すべき旨、御下命あり」〈木戸804〉という方式で、候補者選定を行なった。米内を選定したときは「総理大臣の前官礼遇者」に限ったのを、「元内閣総理大臣たりしもの」と広げたのは、木戸である。
「初めの考えはだね、前官礼遇を受けている総理大臣ということにしようとしたんだ。ところが当ってみると、陸軍がみんな抜けてしまう、海軍が入ってね。林も阿部もみんな抜けてしまう。これではまずいからというので、かつて総理大臣をした人ということにしたわけなんだ」(木戸氏)
当日の出席者は、原嘉道枢密院議長、若槻、岡田、広田、林、近衛、平沼、それに木戸で、清浦は病気、阿部は中国旅行中のため欠席した。
近衛はこの段になって、「倒閣の責任は陸軍にあるのだから、一つ陸軍にやらせてみたい」と政治的発言≠して、事前に原田に頼んで広田に工作したりした。
「自分はこの際は近衛公を除き他に適任者なしと思う。近衛公の出馬を希望す」〈同806〉
若槻の発言に全員が賛成した。新党運動から枢府議長辞任、米内内閣総辞職の経緯を見れば当然である。
しかし、重臣会議のあと松平秘書官長が木戸内大臣の代りに坐漁荘へ行って近衛を推薦することに同意を求めると、西園寺は冷たく答えた。
「自分はもう老齢であり、実際世の中のことが的確に判らない。自分は何とも言えない。この奉答だけは御免蒙りたい」
松平の報告を受けた木戸は、仕方なしに、「返事を強いて求むるは気の毒と存ぜらるゝ故、このままとし、近衛公をお召願い度」と奉答し、この夜八時すぎに組閣の大命は近衛に降下した。
「今ごろ、人気で政治をやろうなんて、そんな時代遅れな考えじゃあ駄目だね」
西園寺は突き放すような言い方で原田に話した。「公爵は近衛を出してしくじらせたくないし、今日のような空気では近衛では駄目だ、という気持だ」──原田はこう解釈したが、西園寺の予想したように、近衛は大いにしくじることになる。
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第十章 どこに国を持って行くんだか、どうするんだか
──三国同盟と西園寺の死──
近衛が組閣の大命を受けると、陸軍は東条英機中将を陸相に推し、海軍は吉田善吾海相の留任を決めた。この決定をまって、十九日午後三時から、近衛は荻外荘に外相候補の松岡洋右を加えた三人を招いて、「根本国策の検討」を始めた。「先ず国防、外交、陸海軍の協調、統帥と政治の関係等を充分協議し、一致を見るに至りたる後、始めて他閣僚の銓衡に入る」〈同807〉という段取りである。
この組閣力針は、木戸を通じて上奏してあり、天皇も「御満足の御様子」という。もっとも吉田海相の目には「慎重なのか自信がないのか、とにかく変ったやり方」と映るが、「国民的支持を基礎に軍部を抑制せん」〈『近衛文麿』下74〉という近衛の言葉を一応信じるなら、「ゆっくりやる」組閣方法も、「軍部を抑え、日支事変を解決する」ためと期待してよいかも知れない。
「第一次内閣における余の首相生活の結論は……」と近衛はいう。
[#1字下げ] 内閣従って国務は、統帥に操られる弱い造作に過ぎなかった。国民生活も外交政策も、もはや国民の総意輿論とは全く離れたもの、軍部の意思、更に極言すれば、漠として捕捉し難い統帥の影によって、決定、修正、放棄せられるものであった。……余自身むしろ支那事変拡大の責任を負うがため自己の中間的存在を放棄清算し、自ら国民輿論の後楯を得て軍部を抑制せんとの決意と希望を抱いていたのである。……既存政党とは異った国民組織、全国民の間に根を張った組織と、それの持つ政治力を背景とした政府が成立して、初めて軍部を抑え、日支事変を解決することができるとの結論に達し、これが組織化について研究することが、余が第一次内閣総辞職に際し、心に持った大きな希望であったし、第二次内閣組織の時の中心的希望であった〈近衛『失はれし政治』24〉。
これは、近衛が終戦後、自殺する直前に記述したもので、いささか美化されているようである。
さて、荻窪会談で四人はなにを話し合ったのか。東条陸相は、「この会合は単に意見の一致を見たというに止まり、特に国策を決定したという性質のものではありません」といい、吉田海相も、「他愛のないフリートーキング程度のもの」という。しかし、これも戦後に東京裁判などで述べられたもので、額面どおりには受けとれない。
近衛家の陽明文庫に、「松岡原案──親しく御説明申上ぐべく候」と註記され、荻窪会談で検討されたと見られる資料が残されている。この松岡原案に若干の字句の修正を行なって、「元老西園寺公が見たいというので、近衛首相がこれを金庫の中から取り出して来て、私(富田書記官長)が直接写を取って原田熊雄に手渡した」〈開戦経緯1─414〉ものが、『西園寺公と政局』に収録されている。
近衛は、大命を受ける前の十二日に、松岡を密かに軽井沢へ招いた。当然、外相就任を前提とした話し合いで、松岡はこの時に「松岡原案」を持参し、近衛はこれに少々手を加えて荻窪会談に持ち出したと見られる。
「とにかく完全に根本において意見は一致した。……会議の課題となったものについてはこちらから案を示した。それは支那事変処理の問題をはじめ、独伊枢軸の問題、対ソ対米問題等で、また国政と統帥の関係についても最後に話は出た」〈朝日新聞15年7月20日付〉
会談終了後の記者会見での近衛談である。それにしても、この会談で意見が一致した「こちらから」の案の内容は、重大である。
「速かに東亜新秩序を建設するため日独伊枢軸の強化を図り……」
「対ソ関係は之と日満蒙国境不可侵協定を締結し……」
「東亜及隣接島嶼に於ける英仏蘭植民地を、東亜新秩序の内容に包含せしむるため、積極的の処理を行う」
「米国に対しては無用の衝突を避くるも、東亜新秩序の建設に関する限り、彼の実力干渉をも排除する」
「支那事変処理に関しては作戦の徹底ならびに援蒋勢力の遮断に重点を置く……」
「全国民を結合し得べき機能を有する新政治組織の結成に邁進する……」〈『太平洋戦争への道』別巻資料編320〉
これらの方針は、翌十六年にかけてわずか一年余りの間にすべて実現されて行く。国家総動員法の拡充発動、日独伊三国同盟、大政翼賛会、日ソ不可侵条約、南部仏印進駐、そして日米開戦と、結果的には太平洋戦争に至る重要な道標が、すべて荻窪会談≠ナ確認を見たことになる。「松岡は、日米戦争でもやるような風に言い出すので、初めの内は海軍大臣なども驚いていたようだが、結局は穏健な論で安心したようだった。あゝいう柄にもないことを一応言って、人を驚かしたりすることは、どうも彼の欠点だ」
会談の翌日、近衛は原田に話したが、内容については「その内、ゆっくり話す」といって触れなかった。
すでに近衛の手元には、軽井沢滞在中に海軍から「時局処理構想」が提出されていた。また、荻窪会談の前夜遅くには陸軍から武藤軍務局長が荻外荘にやって来て、「綜合国策基本要綱」を提示し、「本案を諒解の上、政綱政策の基本とされるならば、陸軍は新内閣に対し万全の協力を惜しまない」〈開戦経緯1─411〉と脅しともとれる口上を述べた。
「帝国の国是は八絋を一宇とする|肇国《ちようこく》の大精神に基き、帝国を核心とし日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設するに在り」
という「根本方針」に始まり、「国防及外交」と「国内態勢の刷新」について二十項目ほどの具体的方向を示したものである。これを近衛はあっさり受け入れ、二十六日には「基本国策要綱」として閣議決定し、各項目を関係省庁に検討させることにした。
組閣に際して陸軍から註文が出るのは、二・二六事件以降ずっと続いていることであるし、また宇垣のときには陸相を出さずに組閣不可能に陥れるような暴挙もあった。しかし、天皇の信任厚い米内内閣を陸相辞任で倒し、国民の輿望を担って登場した近衛にも、重要国策を具体的に指示して、不承知なら内閣の寿命も永くはないぞと言外に脅しをかけるのでは、近衛の役割は、天皇の信頼や国民の人気をバックに、陸軍の要求を具体化、制度化するだけになってしまう。つまり、主観的にはどうあろうと、結果として近衛は「陸軍の隠れみの」としてロボットの役割を演じることになる……。
「陸軍というのはちょうど則天武后のようなものだな」
二十二日に西園寺は原田から報告をきくと長嘆息した。エッ、という表情で原田が顔を見つめると、西園寺は続けた。
「唐の太宗が、非常に立派な政治をやって世の中をよくしたところ、則天武后が出て儒者を斬り、乱暴なことをして、結局世の中をすっかりぶち毀してしまった……」
たしかに、西園寺の嘆くとおりである。しかし、近衛には、「テコでも動かない頑固さ」、「人を信じない」というふてぶてしい一面があった。矜持の高い近衛は、武藤の持って来た要綱を唯々諾々と受けとりながらも、いずれドタン場で引っくり返すことを考えていたのだろうか。十六年になって、南部仏印進駐のあとアメリカが対日石油禁輸に出ると、近衛はルーズベルト大統領との頂上会議で一気に局面打開を図ろうとした。そのために中国大陸からの撤兵が不可欠なら、天皇に聖断を仰いで陸軍の反対を一気に押えつけることも考えたという。陸軍という強力な組織を相手にすれば、ある時にはこのような最後の手段しかとれないこともあるだろう。しかし、そうであるからといって、日々の政治姿勢に強さや粘りがなくていいというものではない。西園寺が強調するように、「政治は眼前のことを裁いて行くのが大事である」。これを欠いたからこそ、近衛はドタン場構想にもすべて失敗するということだろう。
大命を受けた近衛は、その直後に鈴木貞一(興亜院政務部長)が電話で「三国同盟はペンディングにするか」と尋ねると、「それでは組閣は出来ないかも知れぬ」と否定したという。
「松岡君も外相として入る。平沼、阿部、米内三内閣の政情不安の根本原因は三国同盟問題であった。これを推進するのは陸軍であり、陸軍の主張を容れなければ政情は安定しない。勢い三国同盟の方向を認めざるを得ないだろう。それが政治家としての常識的感覚である」〈同1─416〉
やはり近衛は、三国同盟に踏み切る肚だったようだ。政情が安定するのなら、三国同盟も結構ではないか、というのが近衛の政治感覚なのだ。七月十三日に軽井沢で矢部貞治東大教授と話したときにも、近衛は独伊との関係強化を口にしていた。
「大命に際し、天皇は通常、憲法の条章を守ること、財界に動揺を与えないこと、米英と協調すること、という三カ条の御注意を与えられる。自分がもし大命を受ければ、恐らく同じ御言葉があると思う。……自分としては、また右の様な御言葉があったとき、そのままでは大命を拝受するわけに行かない。憲法の解釈が時代とともに発展しなければならないこと、また現下の国際情勢では、英米の態度に鑑み、その英米との交渉をやるためにも、ある程度独伊との関係を強化する必要もあることにつき、率直に申し上げて御許しを得たい」〈『近衛文麿』下107〉
独伊との関係強化、憲法の新解釈という近衛のこの要望は、木戸を通じて天皇に伝えられた。木戸氏は語る。
「いや、あれは近衛がいって来たんだ。陛下から三カ条のお言葉があるだろうが、自分としては新体制のこともあるし、陸軍は独伊との関係強化を望んでいるから無視するわけにいかん、あるいは陛下のお言葉に背くことにもなり兼ねないから、その点のお許しがないと、自分は出るわけにいかん、とね。それで僕から申し上げたんだ、陛下に、近衛がこういっておりますとね。それで陛下は、憲法を尊重せよ、英米と協調せよ、という二つをおっしゃらなかったんだ」
それにしても、これは重大な変更である。天皇も気懸りだったのか、十七日、近衛に組閣を命じる前に、木戸に下問した。
「木戸から予て話もあったが、この位のことは近衛に云っても宜しかろうか。つまり、内外時局重大の際故、外務、大蔵両大臣の人選には特に慎重にする様にと云うことはどうだろう」
木戸は、結構ですと奉答し、近衛はこの言葉だけを天皇から受けた。憲法尊重──つまり議会政治を守ることと英米との協調という国政の基本は、今や外されてしまったわけだ。
しかし天皇は、この二つを言わなかったから、近衛の要望を容れたというわけではなかった。組閣後しばらくして、近衛は原田に大いにこぼした。
「陛下にお話しするたびに、陛下は憲法の精神に牴触しやせんか≠ニお訊ねになる。到底やりきれんから、決して憲法に牴触してやるんでない、ということを文書にして申し上げることにした」
この文書は、既述のように「憲法の解釈が時代とともに変化しなければならない」などと説いたものだったが、八月三十日に木戸からこれを受けとった天皇は、「近衛はとかく議会を重んぜないように思われる」と不満を洩らし、加えて、対米問題についても独伊との関係強化の影響を心配して木戸に話した。議会政治の尊重と英米協調──この二つを天皇は従来どおりに重視していたのは明らかだった。
第二次近衛内閣は、七月二十二日に成立した。内相安井英二(元文相)、法相風見章(元内閣書記官長)、蔵相河田烈(元内閣書記官長)、商工相小林一三(東京電気会長)、企画院総裁星野直樹、内閣書記官長富田健治(長野県知事)などの顔ぶれだった。
「安井で治安の方は大丈夫か」
「司法大臣が政治体制の運動をしては困るが、その心配はないか」
天皇はこまかに木戸に下問したうえ、「これで嘉納しても宜しいか」と確認した。
安井は第一次近衛内閣の文相で、「恩赦の詔勅について……最も熱心」に運動し、「文部省でも学界でも非常に評判が悪かった」〈原田6─123〉人物である。国粋主義の歴史学者の平泉澄東大教授や末次信正海軍大将と親交があり、この点を天皇は危ぶんだのだろう。風見法相についても、全くの素人だけに意外であるし、風見が新体制運動の中心メンバーであることを天皇は懸念していた。
もっと意外なのは、内閣書記官長の人選である。富田は「内務省きっての極端なファッショ的傾向のある人で」、十二年末に富田が警保局長に起用されたときには、天皇も「富田という男はファッショだときくが、どうだ」〈同6─196〉と末次内相に質したほどである。原田もびっくりしたが、近衛は富田に、「右翼の方は、もう貴下にすっかりお委せするから」と言って、「右翼をもって右翼を制する、近衛らしい発想」〈木舎『政界五十年の舞台裏』141〉で起用を決めた。第一次内閣で末次を内相に起用したときと同じだ。
近衛内閣成立の日、陸海軍は検討を続けていた「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を正式決定した。これで陸海軍は、「日独伊三国提携の方針を決定し、帝国の方向を南に向け、バス乗り入れの気構えを示した」〈大本営機密日誌20〉ことになる。
二十三日の夕方、近衛は「大命を拝して」と題してラジオ放送を行なった。政党政治を攻撃し、経済を外国依存から脱却させるため、満州、中国との経済提携や南方への発展が必要だとか、一億一心で大政翼賛をしなければならぬ、などと述べたものだった。
「昨夜近衛の放送をきいたが、声はいゝし、言うことは大体判るが、内容は実にパラドックスに充ちていたように思う。自分にはちっとも判らなかった。うまくやってくれればいゝけれども……」
西園寺は首を傾げながら近衛のスタートを危ぶんだが、近衛は暑さにもめげず、精力的に国務に取り組んでいった。二十六日には早くも「基本国策要綱」を閣議決定し、続いて二十七日には大本営政府連絡会議で「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を決定した。
「近衛も松岡も東条も、みんな組閣と同時に、大本営提案のお供えものを食ってしまった」
『大本営機密日誌』はいうが、「基本国策要綱」も武藤軍務局長から近衛に提出されたものであるし、また「時局処理要綱」の内容の重大さを考えれば、たしかに安易に決定してしまったという印象が強い。
連絡会議終了後、閑院・伏見両総長は列立して「時局処理要綱」を上奏したが、武力行使を伴なう南進政策に「きわめて御不満または御不安である」天皇は、改めて二十九日に両総長と沢田・近藤両次長を呼んで下問した。
「日米海戦に際し、海軍は日本海海戦の如き快勝を得る自信があるか」
「海軍はそれ程の自信はありません」
「海軍はこういうが陸軍はどうか。参謀次長答えよ」
「この要綱はドイツがどの程度の成果を収めるか否かが問題でありまして、ドイツの対英作戦が成功した際にはこの案の如く行なわれるものであります」
「陸軍は好機があればその際は南方進出を図るという考えか」
「その通りでございます」〈開戦経緯1─441〉
陸軍は南進積極論だが、海軍は必ずしも同調していないようである。しかし、陸軍は南方進出を強行するのではないか? 天皇は一層懸念を強めた。
三十日、天皇は木戸に、「陸海両統帥部の気持がしっくりしておらぬ」点を指摘した。
「政府・陸軍・海軍三者は何れも彼の案の実行に就ては考を異にし居る様に思わる。すなわち、近衛首相は支那事変は中々片付かないと見て居るものの如く、むしろ此際支那占領地域を縮小し、南方に向わんとせるものの様だ。言い換えれば、支那事変の不成功による国民の不満を南方に振り向け様と考えて居るらしい。
陸軍は好機あらば支那事変その儘の態勢で南方に進出しようという考えらしい。
海軍は支那事変の解決を先ず為すにあらざれば南方には武力を用いないという考えの様に思わる」
実情は天皇の観察のとおりだったが、まもなく北部仏印進駐問題が起きて政府、陸海軍ともその具体的処理に目を奪われ、さらに滔々たる南進の掛け声の中に個々の意見の食い違いも呑み込まれてしまう……。
八月一日、グルー米国大使は、日本の将来を危ぶみ、近衛の慎重な行動に期待して記した。
[#1字下げ] 一目見ただけで……近衛内閣は、逆落しに枢軸国に接近することと、東亜新秩序の建設に邁進し、米英両国の権益や主義主張や政策を蹂躙するであろうあらゆる徴候を持っている。……実際上これがどういうふうに実行されるか……十中八九、近衛公爵は、天皇と老臣の推測に難くない態度を反映して、相当に無茶な連中≠統制し、少くとも英国が勝つか負けるかはっきりするまでは、ゆっくりと、ある程度の慎重さをもって行動することに努めるだろう〈グルー『滞日十年』下51〉。
グルーの観測は、余りに希望的すぎた……
この夏、西園寺は御殿場に避暑するのを見合わせた。一月の大患で体力が衰え、また、一昨年もその前の年も、御殿場─興津一時間半の汽車の中で人事不省に陥ったこともあって、すっかり自信をなくしたようだった。
坐漁荘に冷房装置をつけて、フランスから取り寄せた書物を読み耽る日が続いた。疲れるとたばこをくゆらしながら、窓ごしに駿河湾に目を向ける。足腰が弱って歩行も人の手を借りないと危いので、散歩もほとんど出来ない──机の上のツァイス製の双眼鏡を取りあげて、右手に延びる三保の松原や、遥か遠くにかすむ伊豆半島に焦点を合わせるぐらいしか、外界を直に見ることもなくなった。
内大臣に就任した木戸も、組閣した近衛も、なぜか一度も挨拶に来ない。名古屋大学の勝沼博士と原田が、定期的に門をくぐるだけである。
それでも七月二十二日には、久原房之助が予約なしで突然に坐漁荘を訪れた。政友会久原派が十六日に解党したので、その領袖として挨拶に来たのだが、新党運動にも久原にも好意を持たない西園寺は、引見しようとしなかった。止むなく久原は水口屋で、「政友会解党については、時代の推進によるとはいえ、第二代総裁の老公が現存して居られるので挨拶に伺った。いよいよ新体制への第一歩を踏み出したと云う力強い迫力を覚える」〈北野『人間西園寺公』133〉と勝手な放送をして引き上げていった。
八月に入って、原田は昭和八年に起きた神兵隊事件の証人として公判廷に呼び出された。被告らが、「元老とか重臣に対する嫌がらせで」牧野元内府や湯浅前内府など十六、七人の証人喚問を要求し、大審院としても一月前に第二次神兵隊事件が決行直前に摘発されたこともあって、「なんとか早く片付けたいという気持から、まず宥めるような態度で」、真崎甚三郎、徳富蘇峰(国家主義傾向の強い評論家。蘆花の兄)、白鳥前駐伊大使、それに原田の四人を証人として出廷させることにしたためだ。
原田に対する訊問は二十三項目にわたり、「大体西園寺公の忠誠ならざる証拠を突きつけ、元老として国家に対し不誠実ということを示して、自分達の気勢を揚げようという」類いのものだった。
「関東大震災当時、西園寺公が遂に天機奉伺のため宮中に参内せざりし事実並にその理由を知るや」
「大正天皇の御悩重らせ給い国民挙って憂慮中、西園寺公が……御見舞をせず、侍女を伴いて興津へ帰り……」
「昭和九年五月……皇太子殿下の初の端午の御祭儀当日なりしも西園寺公は参内せず……」
「証人は米内内閣の成立に関し、湯浅内大臣と共に画策したりと伝えらる、その事実如何」
「証人は西園寺公望、牧野伸顕、幣原喜重郎、若槻禮次郎、鈴木貫太郎、米内光政、有田八郎、美濃部達吉等が今日なお親英主義を捨てざる理由を知るや」
原田はこれらの訊問に一つ一つ答えて退廷したが、明かに親英派≠ノ対する嫌がらせである。
それに原田は気付かなかったが、このころ東京憲兵隊では、原田を「防諜上の容疑人物として内偵中」だったという。
「防諜事件として原田を検挙し、上層部への警告としたい」〈大谷『昭和憲兵史』361〉
東京憲兵隊は原田の行動を虎視眈々とつけ狙い、十月になって検挙に踏み切ろうとする……。
大審院が神兵隊事件の被告の要求を容れて原田を出廷させたのも、また憲兵隊がつけ狙うのも、二年以上にわたって進められてきた国家総動員体制づくり、国民精神総動員運動がいよいよ仕上りに近づいたことを物語る。
また、「政治的実践力をもった国民運動組織」、つまり新体制の掛け声とともに経済統制も一段と強化され、国民生活は一層窮屈になった。
四月には、米、味噌、しょう油、塩、マッチ、木炭、砂糖などの切符制採用が決まり、砂糖は一人一カ月半斤、マッチは一日五本の切符制が十一月一日から実施されることになった。また七月から、指輪、ネックレス、ネクタイピン、絹レース、象牙製品などの製造販売が禁止され、さらに十月一日にはダンスホールが閉鎖されて、永井荷風を口惜しがらせた。荷風の日記から拾ってみる。
[#1字下げ] 日本橋辺街頭の光景も今はひっそりとして何の活気もなく半年前の景気は夢の如くなり。六時前後群集の混乱は依然として変りなけれど、男女の服装地味と云うよりはぢゞむさくなりたり。女は化粧せず身じまいを怠り甚しく粗暴になりたり。空暗くなるも灯火少ければ街頭は暗澹として家路を急ぐ男女、また電車に乗らむとする群集の雑沓、何とはなく避難民の群を見るが如き思いあらしむ。法令の嵐にもまれ|靡《なび》く民草とはこれなるべし。(十五年十月二十六日)
[#1字下げ] 浜松辺にては妾の取締きびしきこと東京の比にあらず。ある商人の妾にてわけもなく数日拘引せられしものあり。その旦那は呼出されて厳しく説諭せられし上、妾を解雇し、その給金若干円にて国庫証券を買わされたりしと云う。京都にては、女子同伴の男を捉え交番にて衆人の面前にて|罵詈《ばり》せし巡査ありしと云う。……若し真実なりとせば日本人の羨望嫉妬は実に恐怖すべきものと云うべし。(十五年十月十三日)
荷風のいうように、日本人特有の体質が、日用品さえこと欠く窮乏生活に精神的重圧まで加えて一層窮屈な思いを強いたようだ。新聞は、「毎日、何か新しい制限を発表する。あるものは重要で、他のものは下らないが、それらの累積的効果は威圧的」である。ゴルフ場のコンペも、キャディも、自動車でゴルフ場へ行くことも禁止になった。妾宅の電話も強制買上げになった。
「天下の色男にとって、これは何という大打撃だろう!」〈グルー『滞日十年』下55〉
グルー大使は皮肉っぽく記したが、グルーのいうように「八月は近衛内閣の下で日本の新体制≠築き上げた月であり、新体制≠ヘ着々進行して、日本は迅速に組織化された国家になりつゝ」あった。
八月一日には、国民精神総動員本部が東京市内に贅沢品は敵だ!≠ニいう立看板一五〇〇本を立てた。また、大日本国防婦人会や警防団、在郷軍人会の幹部が街頭に繰り出して、「華美な服装は慎しみましょう」、「指輪は全廃しましょう」と叫び立て、各家庭にまで目を光らせて私生活に公然と干渉するのが目立ってきた。
こんな風潮を決定的にしたのは、九月に入って内務省が、新体制の下部組織として部落会、町内会、隣組を整備強化する方針を打ち出したことだった。十戸程度の隣組組織が行政の末端機構として位置づけられ、物資の配給、貯蓄、公債の割当て、出征兵士の見送り、金属回収まですべて取りしきることになったから、下士官さながらに張り切って国策協力に熱意をもやす隣組長や町会長などの下に、いまや国民は精神面に至るまで公≠ノよって把握されるようになってしまった。
[#1字下げ] 私は己が身のほどに適った最小限の自由、すなわち怪物と狂行とから身を隔離する自由、そして幾坪かの畑に蔬菜をつくるとともに、庭前の一本の薔薇の木にせめて少しばかりの花を咲かせたい自由を確保しようとする以外に、何の希望も抱かなかった〈林達夫『歴史の暮方』(51年、中公文庫)序文〉。
評論家の林達夫の感慨だが、知識階級やサラリーマンにはこんなやり切れなさが心の奥深くずっしりとのしかかっていた。
精神面の「新体制」は、「徒らに天皇、天皇と口にする」ことでもあった。八月一日に発表された「基本国策要綱」は、今まで「帝国」と言ったのを「皇国」と言い換えた。また同時に、松岡外相は「皇道を世界に宣布することが、皇国の使命である」という皇道外交を声明し、天皇を現人神≠ニみなす傾向が実に強くなった。神社の前で脱帽したり、宮城遙拝の風潮も一般的になった。
──軍部や右翼勢力がことさら天皇を神格化しようとしているのは、天皇の権威を擁して自分達の恣意を貫こうとするためではないか──西園寺は眉をひそめて原田に注意を促した。
「どうも皇室や神様を担いで、世の中を悪化させようとするような情況があるじゃあないか。これは困ったものだ」
こんな動きが強まったのも、近衛が「国民各階各層を打って一丸とし、脈々として血の通う様な組織を成就する」と声明して新体制運動に乗り出したのと軌を一にしている。
「近衛は、人の手配が揃った時分に、結局また辞めなくちゃあならないような情況に至りゃあしないか。そこを踏みとどまって思い切ってやるだけの決心があるだろうか。せっかく近衛が出た以上は、少くとも軍の統制がとれたとかなんとか、一つ仕事が残らなければならない。その辺が心配だ」
春からのドイツの快進撃に引きずられた国内の異常な興奮ぶりや、近衛内閣成立前後の陸軍の政治干渉を考えれば、この西園寺の近衛へのはかない期待も到底かなえられそうにない。それでも原田が木戸に西園寺の言葉を伝えると、「前のようなことはあるまい。辞めるにしても、相当にねばって辞めやしないか。その代り、非常に華々しいことは今日近衛には望めない」と木戸はいっていた。
近衛は、組閣以来連日閣議を開いて、米内内閣が留保したり消極的だった重要課題に次々と取り組んでいった。次女の|温子《よしこ》(細川護貞夫人)が肋膜を病んで重態だったが、大命を受けた日の朝、軽井沢から持って来た山百合を携えて見舞ったきり、ほとんど顔を見せることもできないほど多忙だった。
温子は八月十日の夜、死去した。この夜遅く荻外荘に戻った近衛は、そのまま黙って机にすわると、筆をとった。
国の重荷
背負う身なれど
父のみの
父なるわれは
悲しかりけり
近衛は、墨痕鮮かな色紙を女中のトクに手渡し、娘を喪った近衛の胸中を思ってトクが述べる悔みの言葉に軽く肯くと、寝室に姿を消した。
こんなことが重なったので、原田は近衛とゆっくり話す機会もなく、電話で用を済ませていたが、八月二十四日に近衛が風邪気味で軽井沢へ行く予定を止めて「一日家におるから、やって来ないか」というので、久し振りに午後ゆっくりと話した。近衛は、組閣以来の話をしんみりとして、「いつになく気の毒なほど不平を漏らしていた」。
──組閣の最中に、近衛の「側近と称する」犬養健や西園寺公一などが食堂に陣取って、「彼等の好まない者」を近衛が大臣候補として呼ぶと、ワイワイ騒ぎ立て、近衛が「こんな所でそういう風に騒ぎ立てるなら、みんな帰ってくれ」と大変な剣幕で怒鳴ると、しばらくして西園寺公一が、「ほんの御参考ですが」と、犬養健を逓信大臣に、松本重治を外務大臣にという閣員名簿を提出してきたこと。
第一次内閣で近衛が陸軍から「口が軽い」と非難されたのも、風見書記官長から「側近と称する彼等がきいたこと」が洩れたことが多かったこと。
また、昨日、新体制準備会の設立と二十六人の委員、六人の常任幹事を発表したが、二十八日に発表する予定の新体制構想の声明文には、「ナチスまたはファッショなどではないということを強く書いておいた」ところ、武藤軍務局長がこれを削って来たので、陸軍に突っ返しておいたこと。
さらに、年初来試みられている蒋介石との和平工作──宋子文の弟の宗子良という人物を相手にした桐工作>氛氓ェ進展し、蒋介石宛の親書を近衛が書いて陸軍の鈴木卓爾中佐に渡したが、「これは、むかし秀吉がだまされたように、或はだまされるのかもしれないが、それも已むを得ない」……
こんな愚痴っぽいことを、近衛は次々と話した。
原田が先日近衛から「元老限りに見せてくれ」と預った「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」には、支那事変の解決と南方施策の推進、独伊との政治的結束の強化、国防国家の完成、を重要国策として掲げてある。
このうち、国防国家の完成については、新体制準備会も発足し、急進展をみせている。もっとも武藤軍務局長は、「ナチスばりの親軍的一国一党」を主張して近衛と対立しており、平沼の旧国本社系や頭山満の玄洋社系の観念右翼陣営からは「幕府的存在」という非難が出ている。新体制運動は、「政治、経済、文化の各般に亙る旧来の個人主義的体制を完全に清算し、一切を挙げて天皇に帰一し奉る万民輔翼の国体観念を基調とする」(代議士が結成した新体制促進同志会の八月十七日発表案)〈『近衛文麿』下140〉もので、財界や貴族院の一部は、ドラスチックな「革新性」をもつものと見て、警戒の眼を向けている。
「新体制はアカだ」
「ソヴィエトの真似をするんじゃあるまいか」
こんな声が原田の耳にも入り、勝田主計も「今度の内閣は満州内閣だ。満州の協和会というのをやっておって、その裏にはやはり赤がいる」といっていた。海軍の高木惣吉大佐も同じで、星野企画院総裁に会ったりして調べた結果を原田に報告した。
「新体制は、ヒトラーのフューラー・システム(Fuhrer-System)と満州の協和会のやり方を一緒にしたようなもので、よほど疑問が多い」
たしかに、自由主義者や左翼運動家には、新体制運動が持つ革新性に着目し、国家改造の契機として利用しようと積極参加の姿勢を示すものがあり、近衛の政策立案機関である昭和研究会にもその徴候があったから、アカ≠ニいう指摘があって当然かも知れない。
ともかく、そんなことが新体制樹立に夢をかけた近衛をくさらせ、意欲を失わせたのだろう。しかし、そんなことは、既成政党が先を争って解党宣言をして無党時代になったときに、わかっていたはずだ。近衛が、いくら「統帥権の独立を言う軍部と、その軍部内の不統一を非難し」、「官僚統制の欠陥と限界を衝き……政治の民主化を意図して……国家意思の一元的体制の必要を説」〈同144〉いても、すでに軍部組織と官僚組織以外に見るべきものがなく、これを近衛が自分の力で叩き壊すことができない以上、新体制といえどもこの二つの組織の上に樹立せざるを得ないのは、自明の理だ。とすれば、近衛の新体制運動は、政党政治を壊して国防国家の完成を促進しただけであり、西園寺が「一体新党というのは、どういうんだろう」と冷やかに言い放った、まさにその通りの結果になったということだ。
──だからといって、新党運動の責任が全部近衛にあるわけでもあるまい。原田は愚痴を並べる近衛の顔を見ながら考えていた。
他の重要国策である「支那事変の解決と南方施策」については、近衛は蒋介石宛の親書を書いたというし、援蒋ルート遮断のため北部仏印に日本軍を進駐させる交渉も、東京で松岡外相とアンリー仏大使の間で進められている。また蘭印(インドネシア)との石油、ボーキサイト、ニッケル、ゴムなど十三品目の供給交渉は、前拓相の小磯陸軍大将を使節団代表として派遣することにしていたが、小磯が記者会見で、「蘭印の住民は経済的には白人と華僑の極端な搾取を受け、政治的、文化的に実に低いレベルにある」と放言したのがロイター電で全世界に報道されたので、オランダ側は「小磯大将に対してはアグレマンを出さない」といってきた。しかし、これも近衛が「代りに小林商工大臣を特派することに決した」といっているから、いずれも近衛の気持をくさらせる問題ではないはずだ。また、「独伊との政治的結束の強化」については、なにも進展がないようで、近衛は一言もふれようとしない。
「まあ、娘(細川夫人)が亡くなったのと、風邪で気が滅入っているんだろう」
原田はこう考えて、釈然としない気持で近衛邸を辞した。近衛も、さんざん愚痴って少しは気が晴れたのか、「今度の週末には軽井沢へ行くよ」などと呑気なことを言っていたが、このころから内外の情勢は、近衛や原田が予想しなかったほどの急展開を見せる──。
近衛と原田が話した日に、松岡外相は来栖駐独大使から、ナチス党外交部員のハインリッヒ・スターマーが日本を三週間の予定で訪問する、と連絡を受けた。スターマーはリッベントロップ外相の命令で公使として来日するから、日独軍事同盟が目的なことは明らかだ。
ドイツは八月下旬に入ってイギリス本土に大規模な空襲を繰り返しており、とくに九月八日から九日朝にかけての大空襲では、ロンドン全市が炎上するほどの被害が出たと報道された。十日には、「ドイツ機大英博物館爆撃」の記事が朝日新聞に出たので、天皇は「文化の破壊につき御心配」になり、木戸を呼んで「何とか独英両国に申入るゝ方法はなきや」と下問したが、そんな騒然とした雰囲気の中をスターマーは七日に東京に着き、九日の夕方には、オットー独大使とともに人目を避けながら千駄ヶ谷の松岡外相私邸を訪れた。松岡邸は原田の家の隣りにあるが、両家はあまりつき合いがない。
この日の会議でスターマーは、「ドイツの日本に求むる所は、日本があらゆる方法に依りて米国を牽制し、その参戦を防止する役割を演ずるにあり」〈主要外交文書下452〉と、三国の提携はアメリカの参戦防止に狙いがあることを強調した。これを受けて、松岡外相は翌日の夜、試案に過ぎないと断わって、四カ条からなる三国条約松岡案をスターマーに提示した。
第一条は欧州におけるドイツとイタリア、第二条は大東亜における日本の指導的地位をお互いに認め合うもの、第四条は世界新秩序の建設を三国が整合的に進めようというものである。注目の第三条は次のようになっていた。
(三) 日本、ドイツおよびイタリアは前述の趣旨にもとづける努力に付、相互に協力し、かつ各自の目的達成に対するすべての障害を除去克服せんがため適切有効なる方法に付、相互に協議すべきことを約す〈『太平洋戦争への道』資料編334〉
この夜遅く、オットー大使は大島前駐独大使を招いて不満を述べた。
「松岡外相提案の四カ条は抽象的で適当でない、ドイツは軍事同盟を考えている」
たしかに、これでは軍事同盟にまで進むかどうか不明瞭である。
このころドイツには、積極的に対日接近を図らなければならない理由が生じていた。
スターマー来日が日本側に知らされたのは八月二十四日だが、すでにヒトラーは七月十六日にイギリス上陸作戦(オットセイ作戦)の準備を決意し、「この作戦全般の準備は八月半ばまでに完了しなければならない」〈『ナチスドキュメント』326〉と全軍に指令していた。続いて十九日のドイツ国会演説では、「この戦争を継続すれば、交戦国の一方(イギリス)の完全な瓦解をもって終るだろう」〈同325〉と半分脅しの対英講和提議を試みて、イギリス側の出方をうかがったが、チャーチル新内閣のハリファックス外相は、ヒトラー提案を一蹴して勝利への不退転の決意を表明してきた。
こうなれば、オットセイ作戦の発動しかないわけだが、ドイツ軍にとってドーバー海峡が邪魔になる。圧倒的に優勢なイギリス海軍を前にして、ドイツ海軍は逡巡せざるを得なかった。
オットセイ作戦を指令して半月後、七月三十一日に、ヒトラーは一転してソビエト攻撃を仄めかす総統訓示を行なった。
「イギリスの希望はロシアとアメリカである。ロシアにかけた希望が消えるなら、アメリカも消えてしまう。何となれば、ロシアの消滅は東アジアにおける日本の価値を恐ろしく増大させることになるからである。ロシアは、イギリス、アメリカ両国が東アジアで日本に向けて振りかざす剣である。……ロシアを打倒するならば、イギリスの最後の希望は消えるのである。……
決断──以上の分析から見て、ロシアを清算せねばならない。四十一年春。……」〈同327〉
ヒトラーの心中で、対英勝利の見込みが薄れ、長期戦にならざるを得ないことに対して焦りが生じていた。
そのうえ、八月中旬に、米─英、カナダは、親密な支援関係を次々と誇示してきた。
十七日、ルーズベルト大統領はカナダのキング首相と会談し、両国の常設共同防衛会議の設立を宣言した。続いて二十日には、英国のチャーチル首相が、米国に基地を貸与する見返りに五十隻の駆逐艦を譲り受けると発表した。米国の参戦が次第に現実化して来ているのだ。
ヒトラーの英国上陸作戦は米国が参戦しないことを前提にしている。こうなれば、米国参戦を食い止める有力な手は、日本に牽制させるしかない。
ドイツ側のこのような事情を、松岡外相はもちろん充分に承知しており、八月十三日には、オットー独大使を呼んで、「アメリカは一方では、日本を主目標にした石油・屑鉄の輸出許可制を宣言するとともに、他方では、大規模借款を保証する意向を示している」と日米接近の可能性を仄めかした。だから早く軍事同盟を結ぼうということである。
松岡は、スターマーが着く前に、「軍事同盟交渉に関する方針案」を作成して、九月六日の四相会議で了解を得ている。これは、陸海外事務局が検討作成した「日独伊提携強化に関する件」を修正して、「対英」に加えて「対米武力行使」を書き入れたものだった。だから九月十日に松岡がスターマーに提出した「抽象的」な案は、松岡の外交テクニックだったのだろう。
松岡提案の翌日、スターマーは第三条修正案(乙案)を提出した。「(日独伊三国は)適切有効なる方法に付、相互に協議すべきことを約す」という松岡案が、スターマー案では、「三国の中一国が現在の欧州戦争又は日支紛争に参入し居らざる一国によりて攻撃せられたる場合には、有ゆる政治的、経済的及び軍事的方法により相互に援助すべきことを約す」〈『太平洋戦争への道』資料編334〉と修正されていた。
「このまま呑んでもよい」〈同332〉
松岡は異論ないようで、近衛にも伝えた。
三国同盟は、この松岡─スターマー交渉でまとまった案をもとに、十四日にドイツ側が第二次案として「日独伊三国とソ連邦との間の現在の政治的関係にいかなる影響をも及ぼさざるべきこと」という条項などを追加し、十六日の臨時閣議決定、十九日の御前会議決定、二十六日の枢密院での審議を経て、九月二十七日にベルリンで調印された。第一回松岡・スターマー会談から二十日足らずである。
「松岡は斎藤良衛(外務省顧問)一人を使って自分の私邸でね、スターマーとコソコソと二、三日でまとめちゃったんだよ。だから、西園寺さんへ報告に行く余地もないくらいで、我々も知らなかったんだ」
木戸氏のいうように、まさに電撃的$ャ立だった。
だが、ここに至るまで、天皇の懊悩は深く、「非常に御軫念あらせられた」。
「この同盟を締結するということは結局日米戦争を予想しなければならぬことになりはせぬか」〈木戸文書18〉
天皇は、三国同盟に反対の意向を洩らしていたが、松岡や近衛は「この同盟は日米戦争を避くるがためであって、この同盟を結ばざれば日米戦争の危険はより大なり」〈同右〉と説得した。近衛は原田にも、「平和政策のために日独協定をやるんで、それが目的だ」〈原田8─338〉と話している。
三国同盟を進んで成立させた松岡外相は、次のような大構想を胸中に秘めていたという。
「まず三国同盟の成立をはかる。次にこの同盟の威力をかりて日独伊ソ四国協商の実現をはかる。その際、とくにドイツのもつ対ソ影響力≠活用して、ドイツをして日ソ国交調整の斡旋の役割を担当させる。さらに四国協商が成立すれば、この提携の力の威圧を利用して対米交渉に乗出し、諸懸案の妥結をはかると同時に、アメリカをしてアジアおよびヨーロッパでの干渉政策から手を引かせ、同時にこれらの地域での平和回復に共同協力することを約束させる。なお、この間三国同盟および四国協商の力で英米を牽制して、日本の南進政策を推進する。こうしてヨーロッパ、アジア、アフリカで四国間に生活圏を分割し、世界新秩序を樹立する」〈『太平洋戦争への道』5巻261〉
要するに英米勢力をアジアから引き揚げさせて支那事変を解決しようということである。そうなれば、近衛の好きな新秩序≠熾ス和的手段で達成できるのかも知れない。ところが、この筋書きは根本から誤っていた。まず独ソ関係である。
八月、アメリカはヒトラーのソ連攻撃計画を早くも探知した。この月の末、ベルリンにいたアメリカ大使館のサム・ウッズ商務官に、一枚の映画の指定席券が送られて来た。送り主は、ナチスの反対者で、政府やナチス党の高級幹部に深く食い入っているドイツの友人だった。彼は薄暗がりの映画館でウッズの横に座ると、ポケットに一片の紙切れをすべり込ませた。
「ヒトラーの司令部で、対ソ戦の準備についての会議が開かれている。英国空襲は、ヒトラーの本当の練り上げた計画と不意にソ連を攻撃しようという準備をかくすための煙幕だ」〈コーデル・ハル『回想録』(24年、朝日新聞社)150〉
報告を受けたハル国務長官は半信半疑だったが、検討を指示されたエドガー・フーバー連邦検察局長は、「本物だと思う」と返答した。まもなく、ドイツ軍がソ連占領後に具えて帝制ロシア時代の「二十一の地方政府を担当する組織」を検討していること、ルーブル紙幣を山のように印刷したこと、さらにヒトラーが「ウラジオストックからジブラルタルまでドイツ軍でうずめるつもりだ」と語ったなどの決定的な続報が届き、アメリカは独ソ開戦を確信するようになった。
一方、松岡は、「おれが、おれが」で押し通し、「博覧強記で、何でも知っている、他の閣僚でも、総理でも、みんなやられる、太刀打ち出来ない」(斎藤良衛)〈斎藤良衛『欺かれた歴史』(30年、読売新聞社)5〉と驚嘆されるほどの異才と積極性を具えていると評されたが、その彼も、独ソ関係の悪化について判断を誤ったようだ。
「日ソ親善については、ドイツは正直なブローカー≠フ用意がある」
来日したスターマーは松岡外相に申し出たし、三国同盟附属議定書にも、「日本とソビエト連邦との関係に関してはドイツ国はその力の及ぶ限り友好的了解を増進するに努む」と明記された。三国同盟によって最悪の場合には日米戦争も覚悟せざるを得ないと考えた海軍も、「大事なことは、ソ連を同盟に入れることだ」と強調したし、枢密院での審査委員会でも、日ソ関係への影響が議論された。
「日ソ国交の調整はまたドイツの利益ともなるところから、ドイツはこの仲介を行なうことを希望しています」
松岡は十九日の御前会議でも強調していたが、ちょうどこの日、ローマでチアノ伊外相に会ったリッベントロップ独外相は、「同盟について、二重の効能──ロシアとアメリカに対する効能がある。アメリカは日本艦隊の脅威をうけて大胆な行動に出なくなる」〈『太平洋戦争への道』5巻215〉と上機嫌で語っていた。すでに七月末にヒトラーは対ソ戦の検討を始めていたから、リ外相が対ソ関係でもこの同盟の「効能がある」という真意は、独ソ戦が始まったとき「日本が東方よりソ連打倒に参加」することだ。日本側は、三国同盟締結のとき独ソ開戦を予想しなかったし、ために四国協商の「威圧を利用して対米交渉に乗出し……」という狙いも、単なる作文に止まった。
対米関係についてもまた誤算があった。
「今や米国の対日感情は極端に悪化していて、単なる御機嫌とりで恢復するものではない。ただわが方の毅然たる態度のみが戦争を避け得るであろう」〈大本営機密日誌31〉
松岡は御前会議で三国同盟締結の意義を説明した。十三歳で渡米し、十年近く苦学してオレゴン大学を卒業した松岡は、「一般的に米国人は傲慢で東洋人を軽視している。だから、米国を相手に交渉する場合、日本が少しでも下手に出たり、弱気を示したならば、米国はバカにして圧倒的態度に出るから、交渉は失敗してしまう。……米国人に対してはどこまでも強気に出て、決して弱気を見せてはいけない」〈東久邇日記193〉という信念を持っていた。
しかし、松岡がこんな「毅然たる態度」で三国同盟あるいは四国協商の「力の威圧を利用して対米交渉に乗出」そうとしたとき、米国側のハル国務長官も同じ態度に出ようとしていた。
「私は弱さを見せることによって日本の目下の行動をさらに促進するような結果になることに対しては、それを防止しなければならなかった」〈現代史資料34巻12〉
ハルと松岡がこんな態度では、日米交渉の前途は甚だ難しいことになる。
アメリカは、「東亜新秩序の確立」に強く反発しており、三国同盟締結と相前後して強行された日本軍の北部仏印進駐に対して直ちに報復措置をとっている。九月二十八日に発令された屑鉄の対日全面禁輸、蒋介石政権への二千五百万ドル借款供与などであり、スチムソン陸軍長官やモーゲンソー財務長官は石油の対日禁輸も主張したが、これだけはハル国務長官らの慎重論で見送られた。だから、「オーストラリアおよびニュージーランド以北の東亜の全地域」を対象に大東亜共栄圏を確立するという日本の方針は、当然に米国との全面衝突をもたらすものであった。
千番に一番の瀬戸際政策──この危険な途に、松岡外相は踏み込んでいった。
九月十六日、近衛は午前と午後の二度にわたる臨時閣議で三国同盟案を決定して、午後四時半に参内した。この場合、天皇としては、「明治天皇以来の慣習として、閣議決定上奏せる事項については、意見を仰せあり御注意あそばさるることもあり、また反省を求めらるることもあるが、なおかつ国策として上奏せらるる場合、拒否権は御行使にならないのが方針」〈木戸文書18〉である。
しかし、事態を憂慮した天皇は前日にも木戸を呼んで、「近衛はあゝ掻回しておいて、少し面倒になるとまた逃げ出す様なことがあっては困るね。こうなったら近衛は真に私と苦楽を共にしてくれなくては困る」〈原田8─359〉と話し、木戸は「その覚悟と自分は存じますけれども、それは近衛が参内したときに、陛下からじかに近衛におっしゃって戴きたいと思います」〈木戸822〉と奉答している。
天皇は近衛の上奏を沈痛な面持で聞き、「今暫らく独ソの関係を見究めた上で、締結しても遅くはないではないか」〈『近衛文麿』下172〉と下問した。
「あれほどドイツが確信をもって申す以上、これを信頼してもいいと思います」
「対米平和のためにドイツと条約を結ぶのでして、それが目的です。もう他に施すすべがありません」〈原田別8─338〉
近衛が次々と奉答すると、天皇は「わかった」と大声で頷いた。
「今回の日独軍事協定については、なるほどいろ/\考えてみると、今日の場合已むを得まいと思う。アメリカに対して、もう打つ手がないというならば致し方あるまい。しかしながら、万一アメリカと事を構える場合には海軍はどうだろうか。海軍大学の図上作戦では、いつも対米戦争は負けるのが常である、ときいたが、大丈夫だろうか」〈同8─346〉
天皇は自問自答するような口調だった。それに、「対米平和のため」と近衛はいうが、天皇は日米戦争を招来するのではないかと懸念していた。
「自分はこの時局がまことに心配である。万一日本が敗戦国となった時に、一体どうだろうか。総理も、自分と労苦を共にしてくれるだろうか」
近衛は「自分はまことに冷静な、極めて冷やかな者である」と自評する。その近衛も、さすがにこのときは目頭が熱くなり、三十数年前に日露開戦を決めた御前会議のあとでの明治天皇と伊藤博文枢密院議長との故事を引いて奉答した。伊藤博文は、明治天皇から「いよいよ廟議決定の通り、わが国は露国と一戦を交えなければならないことになったが、万一戦いに敗れた場合に、一体どうするか、まことに憂慮に堪えん」と下問を受けて、「万一、国が敗れました場合は、我は爵位勲等を拝辞、単身戦場に赴いて討死致す覚悟でございます」と奉答したという(西園寺は、この話を「可疑」という)。
「陛下の御軫念は、まことに御同情に堪えません。自分も及ばずながら誠心御奉公申し上げる覚悟でございます」〈同8─347〉
近衛の奉答に天皇は頷いたが、二十四日にも木戸に下問した。
「今度の場合は日英同盟の時の様にただ慶ぶというのではなく、万一情勢の推移によっては重大な危局に直面するのであるから、親しく賢所に参拝して報告すると共に、神様の御加護を祈りたいと思うが、どうだろう」
木戸は「充分御気持の御満足遊ばさるよう取り計らいます」と奉答したが、これほどまでに天皇が懸念を表明するのは異例のことである。
近衛や木戸からこんな経緯を聞いた原田は、激怒した。
「これらから見ても、いかに陛下が御軫念になっているか、また今度の近衛のやり方について、全幅の御同意があったかどうか、すこぶる疑問の点が多い。それやこれやを考えると、いかにも陛下にお気の毒である」
「あれまでに、陛下は絶対に許さんぞ≠ニ言っておいでになったものを、どういう風に説いて御承諾を得たか、西園寺も非常に疑問に思っている。木戸や近衛にきくと、要するに海軍が承知した、そうして結局は、外務大臣や総理も、アメリカに対してもう打つ手がない、アメリカをして参戦せしめない方法は、日独伊の軍事同盟によってやるよりしようがないんだ、という風に陛下に申し上げたという……」
原田が三国同盟の説明を近衛から聞いたのは、九月十六日である。西園寺が「どうも様子を見ていると、近衛はのたれ死にしやせんかと思って気になるが、どうか」というので、原田が伝えると、近衛は「いや、のたれ死に以上で、実に困っている」と苦笑しながら、はじめて三国同盟の原案を原田に手渡した。
「十四日の大本営政府連絡会議で、日独軍事協定をやることに決まった。九月九日にスターマーとオットードイツ大使と松岡とが初めて会ったんだ。その案がここにあるから、西園寺公に持っていってくれ」
あまり唐突なので原田は驚いたが、風邪気味のこともあって興津行きを延期して、二十日にもう一度近衛を訪ねた。
「君も知っているように、自分としては日独協定なんか絶対に反対だ」
原田の剣幕は物凄かった。
「君は、対米戦争を避けるための同盟だと云うが、自分はむしろ対米戦争を招来することになりはせんかと思う。山下亀三郎の所にきた西山財務官(勉・米国駐※[#「答+りっとう」])の手紙を見ても、アメリカはドイツのイギリス上陸作戦は失敗と見ており、イギリスは十月過ぎからます/\強くなる。大統領選挙が終ればアメリカの参戦はます/\確実になるだろうという。こんなときに、なぜ日本がドイツのために一役買わなければならないのか。今日、国民が一時も早く戦争をやめたい、負担を軽くしてもらいたいという矢先に、何を好んで対米戦争を買って出るのか」
「いや、ドイツは、ソビエトと日本が不可侵条約を結ぶのを中に入ってやるといっている。日支の平和工作もうまく行くように努めるといっているんだ」
「ドイツと結んでみたけれどもソビエトは承知しない、アメリカに引張られて邪魔されるということにならないか。いろんな関係をみると、うまく行くかどうか、非常に不安だ」
「自分も非常にスペキュレーションであると思う。殊にドイツは、ソビエトの方に大軍を集中しており、ドイツとソビエトの話がうまく行くかどうか疑問だ。まあ、イギリスが勝ってアメリカと一緒に太平洋に出て来る、ということが日本にとって一番心配だ」
近衛も独ソ関係を危惧していた。しかし、いくら原田が反対しても、「ここまで来てはやらざるを得ないんじゃないか」というだけで、「この条約の締結によって、米国あたりを牽制して、支那事変を解決させることに役立つような効果を生むのではないか、という淡い希望さえ抱いているようだった」〈木舎『政界五十年の舞台裏』301〉。原田は二時間ほど粘ってから、官邸を引揚げた。
ところが、もうひとつ、原田には我慢できないことがあった。近衛からは三国同盟について「元老に持って行ってくれ」とともかく話があったが、「木戸からは何もなかった」ことだ。国運を賭するようなこんな重大な決定は、内大臣として一刻も早く元老に伝えるのが木戸の任務であるはずだ。
原田は木戸をつかまえて、「公爵に、はっきりいうべき筋合のものじゃあないか」と糾弾した。
「実は、俺も話しに行きたいと思うけれども、非常に公爵にお気の毒で、お話しすることが実につらいんだ」
「それは感情の上のことであって、仕事の上から実際嫌いだろうが好きだろうが、事実だけは話してもらいたい、陛下に対する義務だ」
木戸は、「わかっている。今後はできるだけ話そう」としきりに弁解したが、のちに東京裁判の判決文でも、木戸のこの行為は通謀≠セと非難される。
[#1字下げ] 天皇は元老西園寺公の進言を非常に頼りにしていたが、西園寺は強くこの同盟に反対であることが知られていた。海軍の同意を得た後も、近衛内閣はこの困難を克服しなければならなかった。それは木戸の通謀によって乗り越えられた。
[#1字下げ] 内大臣としての木戸の義務は、交渉の経過について、元老に報告することであった。まさに行なおうとする決定の重大性を充分に承知しながらも、木戸は西園寺に対して、何が起こっているかをまったく知らせずにおいた。これについて義務を怠ったことを責められると、元老の病弱を考慮してのことであると答えるだけであった。……西園寺は大いに憂慮し、天皇の周囲に人がいなくなったと感じた〈東京裁判判決速記録〉。
本来ならば、木戸なり近衛から前もって西園寺の意見を求めるべきであるが、今回は反対されると分かっているから、二人とも逃げたのだ。
「原田は西園寺さんに言わなかったとしきりに怒ったんだ。それはまあ、たしかに後からでも報告しておく必要があったかも知らん、その事情をね。しかしまあ、厭なことはなるべく言いたくないからね、こっちも……」
木戸氏は語るが、木戸も近衛も逃げてしまったので、原田が「厭な」役目を引き受けることになった。
「木戸も仕様がないと思っているんだな」
原田は感じたが、ともかく九月二十六日に条約案文一式を持って興津へ出掛けた。西園寺の意見は明らかだ。この春以来、「結局はやはりイギリス側の勝利に帰すると自分は思う」と繰り返し、「我国の外交政策は英米との提携を基調とせざるべからず」といっている。
西園寺は、黙って原田の報告を聞いて、何もいわなかった。十月三日、再び原田が興津へ行って、「松岡が不可侵条約を結びにモスコーに飛行機で行くかも知らん」という近衛の話を伝えて、「松岡は、ことによると気が狂っているんじゃないか、という人があります」と話すと、ようやく感想を洩らした。
「気でも狂えば、それはいい方だ。かえって今度は正気に返るかも知れないよ。……近衛は、道具立てのみに一生懸命で、実際の政治の仕事をやっておるかどうか」
西園寺はついでに、はやりの防空演習について、「自分は外に出ないので判らないけれども、いろんな様子をきくと、まあ、馬鹿げたことだらけで、どうしてこんなことだろうと思うほど馬鹿げているが、一体これでいいのかね」と呆れ果てていた。馬鹿げたことは防空演習にとどまらない。永井荷風も「鰻は万人悉くうまいと思って食うものとなさば大なる|謬《あやまり》なり。勲章は誰しも欲しがるものとなさば更に大なる謬なり。都会に成長する女生徒をして炎天に砂礫を運搬せしめ、又は樹木の毛虫を取らしめて戦国の美風となすは、|抑《そもそ》も何の謂ぞや。教育家の事理を解せざるも亦甚しと謂うべし」〈荷風日記15年10月8日〉と憤慨していた。
原田には、西園寺の嘆きや悲しみが、痛いようによくわかる。西園寺八郎の話では、西園寺は「陛下の周囲にはもはや人がいなくなった」と嘆いて、女中達に洩らしたという。
「これで日本は亡びる。お前たちも畳の上では死ねないようなことになったから、いまからその覚悟でおれ」〈立野信之『太陽はまた昇る』(26年、六興出版社)上巻179〉
西園寺の心中を知るだけに、原田は近衛と木戸の今回の所業は我慢できない。
近衛は、天皇が「決して同意を与えない」〈東京裁判判決速記録〉という意向なのを知りながら、敢えて独伊との軍事同盟に踏み切った。東条がのちに東京裁判で豪語したように、「日本国の臣民が、陛下のご意思に反してかれこれするということはあり得ぬことであります。いわんや、日本の高官においてをや」〈同速記録345号〉ということであるなら、近衛は天皇に背いたことになる。この頃の近衛の心中を窺うに足る資料が近衛のポケット日記巻末(十五年)にある。
「君君たらずんば臣臣た|らず《(注1)》」(論語顔淵篇)
「君の臣を視ること土芥の如くなれば、即ち臣の君を視ること|寇讎《こうしゆう》の|如し《(注2)》」(孟子離婁章句下)
「君臣を|択《えら》べば臣亦君を択|ばん《(注3)》」(後漢書馬援伝)
「君命受けざる所あり」(孫子九変篇)
[#3字下げ]注1 孔子と斉の景公との対話「公曰、善哉、信如君不君、臣不臣、父不父、子不子、雖有粟、吾豈得而食諸」をこう読んだのだろう。
[#3字下げ]注2 寇讎=仇敵
[#3字下げ]注3 当今之世、非独君択臣也、臣亦択君矣
なぜこんな不穏≠ネ語句ばかり近衛は書き連ねたのか? 天皇の意思に逆らって三国同盟を強行した近衛の心境、近衛の天皇に対する感情など、いろいろと推測させる興味深い資料だ。
同じ手帳には、「最大の不道徳は自分の知らない職業を営むことだ」、「責任というものは常に人間を高めて偉大にするものだ」という書き込みもあり、揺れ動く近衛の心の一端を映し出している。
「近衛という奴は、富士山みたいな奴だ」
原田は義弟の有島生馬邸に行って憤慨していた。
「どうして?」
生馬の一人娘の暁子が聞き返すと、「遠目にはきれいだけど、近づいて見ると岩ばかりゴロゴロしているだろう。近衛と同じだよ」と答え、「老公が気の毒だよ」と涙を見せた。
「クマの目にも涙だね」
妹の信子が冗談で原田を励まそうとしたが、原田の悲嘆は深まるばかりだった。
近衛は四十八歳である。第一次内閣の時と違って、今回は春から新党運動の中心に立ち、枢密院議長も辞め、政治に乗り出す意思を明確にしていた。
有田外相や池田成彬は、三国同盟に踏み切った近衛について、「近衛は定見はあっても性格が弱くて、軍の圧力を抑え切れなかった」〈酒井『昭和研究会』203〉と見ている。好意的な解釈だ。また木戸氏は、「松岡を起用したことが致命傷だね」という。たしかにその一面もあるが、そもそも近衛内閣は三国同盟締結を前提にして成立している。スターマーとの交渉は松岡一人が密かに取り運んだが、富田書記官長によれば「松岡外相は三国同盟問題について、近衛首相に緊密に連絡していた。話の時間が長くて困った」〈開戦経緯2─179〉という。
だからこそ、近衛は、終戦近い昭和二十年五月になっても、「余は今以て三国同盟の締結は、当時の国際情勢の下に於ては止むを得ない妥当な政策であったと考えている」といっており、三国同盟が失敗だったと認めようとしない。
「しかしながら、昭和十五年秋に於て妥当なりし政策も、十六年夏には危険なる政策となったのである。何となれば独ソ戦争の勃発によりて日独ソ連携の望みは絶たれ、ソ連は否応なしに英米の陣営に追い込まれてしまったからである」〈近衛『平和への努力』27〉
近衛はこういうが、同じ結果論からいえば、独ソ開戦や英米陣営の出方を見抜けなかった国際感覚、情報活動のおそまつさは、近衛をはじめとする政府当局者が負うべき責任であろう。
松岡外相は、翌年六月に独ソ戦争が始まると、「私はほんとに戦争が始まってしまうまで、そんな戦争が起るかどうか疑いを抱いていた」〈『太平洋戦争への道』5巻298〉と洩らした。松岡の本心は、「疑いを抱いていた」でなくて、「思いたくなかった」というところだろうが、その六カ月後の日米開戦の日、病にやつれた松岡は、涙ながらに、「三国同盟の締結は、僕一生の不覚だった……死んでも死にきれない」〈斎藤『欺かれた歴史』5〉と悔む。
このように近衛も松岡も、一年と経たないうちに、危険だ=A不覚だった≠ニ後悔することになるのだが、三国同盟締結が発表された当時は、東京朝日が社説で「国際史上画期的の出来事として誠に欣快に堪えざるところである」と手離しで讃えたように、国民一般は、国際的な孤立感や支那事変の行き詰まりから解放されたような錯覚を感じたようだった。
ところで海軍は、米内の時にあれほど三国同盟に反対し、米内は天皇から「海軍がよくやってくれたおかげで日本の国は救われた」とおほめの言葉さえ受けたというが(岡田啓介回顧録)、今や反対の声もあまり聞かれなかった。それでも、吉田海相は、組閣前の荻窪会談で枢軸強化の方針が確認され、陸軍の沢田茂参謀本部次長らが「独伊と共倒れの決意が必要である」と強硬に主張するので、大いに煩悶したらしい。
「吉田は反対したが、結局神経衰弱ということで辞めた」〈岡田回顧録197〉
岡田啓介はいうが、吉田海相は、岡田、米内らの反対論と、海軍部内の賛成論の板ばさみになって、すでに衰えの目立っていた健康を一気に悪化させ、九月五日に辞職、及川古志郎大将と交代した。近衛の「覚書」によれば、吉田海相は「アメリカとは戦争は出来ぬ。物資は足りぬ。大変なことになります」と大いに苦悩し、これが「辞任事情」〈『太平洋戦争への道』資料編335〉だったという。
及川になっても海軍は慎重論だったが、今や陸軍に加えて外相、首相も同盟賛成に回る状況下では、「事実上参戦の自主的判断を各国政府がもつ」、「対ソ国交調整を進める」、「海軍軍備の強化促進に関して之が完遂に真剣なる協力を望む」〈開戦経緯2─236〉という条件つきで賛成せざるを得なかった。しかし、この条件のうち「海軍軍備の強化促進」云々は、三国同盟により対米戦争の危険が増すのだから至極もっともに見えるが、翌年に日米交渉が行き詰まったとき海軍を対米開戦へ追いやることになる。九月十六日の大本営政府連絡会議で、近藤信竹軍令部次長は次の発言をした。
「海軍は対米開戦準備は完了しておらず、来年四月になれば完成する。それまでに既設艦艇を艤装し、商船二百五十万トンを武装する。それが完成すれば、米国に対しては速戦即決ならば勝利を得る見込がある。しかし米国が遠養長期に出れば非常に困難である」〈同2─213〉
この軍備拡大の結果はどうなったか。十六年末の日米開戦時に、日本の連合艦隊はアメリカの太平洋・アジア艦隊に比較して、戦艦(それぞれ十隻、八隻)、空母(九隻、三隻)、重巡(十八隻、十三隻)、軽巡(十八隻、十一隻)、駆逐艦(九十三隻、六十七隻)、潜水艦(五十七隻、五十四隻)、さらに航空兵力でもすべて勝ることになった。これだけの軍備を具えたとき、海軍は対米戦に自信ないと言えなくなったのである。
十月十四日の夜、山本五十六連合艦隊司令長官は、原田と会食しながら、「実に言語道断だ」と三国同盟を痛罵した。
「アメリカと戦争するということは、ほとんど全世界を相手にするつもりにならなければ駄目だ。ソビエトと不可侵条約を結んでも、ソビエトなど当てになるもんじゃない。アメリカと戦争している内に、その条約を守って後から出て来ないと誰が保証するか。
自分は、もうこうなった以上、最善を尽して奮闘する。そうして長門の艦上で討死するだろう。その間に、東京あたりは三度ぐらいまる焼けにされて、非常にみじめな目に会うだろう。そうして、近衛だのなんかが、国民から八ツ裂きにされるようなことになりゃあせんか」〈原田8─365〉
同じころ、山本長官は近衛に招かれて、「万一日米戦争の場合の見込は?」と尋ねられた。
「それは是非やれと言われれば、初め半年か一年の間は随分暴れて御覧に入れる。しかしながら二年三年となれば全く確信は持てぬ。三国条約ができたのは致し方ないが、かくなりし上は、日米戦争を回避するよう極力御努力を願いたい」〈近衛『失はれし政治』47〉
岡田啓介はのちに、「三国同盟が日本のわかれ道だった」〈岡田回顧録198〉という。近衛や松岡がいくら、対米和平のため、支那事変解決のためと説明しても、日本はこの軍事同盟によって、対アングロサクソン陣営に対する一大闘争の渦中にあえて身を投じることになったのは、動かし難い事実である。
[#1字下げ] 愛国者は常に言えり、日本には世界無類の日本精神なるものあり、外国の真似をするに及ばずと。然るに自ら辞を低くし腰を屈して侵略不二の国と盟約をなす国家の恥辱之より大なるはなし。その原因は種々なるべしといえど、余はひっきょう儒教の衰滅したるに因るものなりと思う〈荷風日記15年9月28日〉。
永井荷風の日記である。原田の師、西田幾多郎も嘆き悲しんでいた。
「私はドイツ語の教師をつとめ、ドイツ哲学のお世話になって今日になっている。だから学問的にはドイツに|贔屓《ひいき》したい意識が働く。しかし、ナチスという野蛮人どもは文化に対する良識がない。ナチスになってからドイツの哲学はじめ学問は皆壊された。こんな政治の国と手を握るなんてトンでもない」〈高木『聯合艦隊始末記』(24年、文藝春秋新社)38〉
宇垣も、同盟成立のニュースを聞いて、「むしろ英米を手なずける方が事変結了の捷径であり、また危険率も少ないと考える」と首をかしげ、「実に心細き限りである」〈宇垣日記1428〉と日本の将来を案じていた。
三国同盟の成立と前後して、松平宮内大臣が憲兵の取り調べを受けるという事件が起こった。七月末に英国人二人がスパイ容疑で東京憲兵隊に拘引され、このうちロイター通信東京支局長コックスは軍事機密を収集してクレーギー英国大使に報告していたとみられたが、取調べ中に窓から投身自殺してしまった。この事件の参考聴取ということで憲兵隊は松平宮相に簡単な問い合わせをしたものだが、親英米派に対する厭がらせであるとともに、側近に対する牽制である。
「陛下の御許しを得てしたか。宮内大臣辺のことを調べるなら、一応御裁可を経ねばならぬ」〈原田別330〉
西園寺は原田に注意したが、三国同盟後の日本は、西園寺自身「尊氏が勝ったと云うことだ」〈同330〉と嘆かざるを得ないほど、軍部の天下になってしまった。西園寺が口癖のように念願してきた英米協調≠フ望みは断たれ、アメリカは対日禁輸を始め、イギリスもビルマ援蒋ルートの再開を通告してくるなど、敵対的態度に出ている。
「とにかく、なんといっても英米を向うに回したことは、外交の非常な失敗だ。近衛がもう少し敢然としてやってくれるといゝけれども、なんといっても、誰が出ようが日本の陸軍がこんな風な状態で勢を振るっている時には、なんともしようがない。まことに困ったもんだ」
西園寺は嘆くが、近衛が「軍部を抑制せんとの決意と希望を抱いて」〈近衛『失はれし政治』25〉始めたはずの新党運動も、すっかり骨抜きにされてしまい、十月十二日に発足した大政翼賛会は「大政翼賛の臣道実践ということに尽きる」公事結社として妙なもの≠ノなってしまった。
「なにしろ新政党を組織するということは、一国一党によって将軍政治を再現するのか、と右翼方面から頻々といって来るので、厭になって、どちらにもつかぬ翼賛会みたいなものになってしまった」〈木舎『近衛公秘聞』52〉
近衛は弁解するが、こうなったらもう西園寺が心配するように「近衛は、道具立てのみに一生懸命で、実際の政治をやっておるかどうか」などというのを通り越して、「のたれ死にしやせんか」ということになる。
十月になって、興津もすっかり秋の気配になった。夏の暑さで西園寺の健康は一段と衰えたが、内外の情勢に絶望して生きる気力を失いつつあるようでもあった。十月二十三日には満九十一歳の誕生日を迎えた。
それでも二十八日の午後、小春日和の天気に誘われて、女中頭の綾の手を借りながら裏庭を五分ばかり散歩した。これが最後の散歩だった。
原田は西園寺の健康状態を見、さらに松平宮相にまで憲兵の手が延びる時勢を考えて、昭和五年から十年以上にわたって口述しつづけて来た一万数千枚にのぼる原稿──『西園寺公と政局』──を高松宮に預かってもらうことにした。いずれ「西園寺の加筆した現物をそのまゝ陛下のお手許に差出す」予定だが、住友信託の貸金庫に保管していることが世間に洩れ始め、「右翼の一部では、ある場合にはこれを破棄しよう」という動きもある。西園寺も、「殿下さえお宜しければ、それは非常に結構だろう」と賛成した。
十一月四日、原田は西園寺に、高松宮が原稿の保管を快諾してくれたこと、また木戸が「松岡は、一体どこへ国を持って行くやら、困ったもんだ」と心配していたことなどを報告した。
「どうも困ったもんだ」
西園寺も同じことをいい、近衛の政治姿勢を問うきびしい質問を原田にいいつけた。
「一体政治の目標はどこに置いているのか、支那事変はどうこれを纏めて行くつもりなのか、なお、日本の外交はこのまゝでいゝと思っているのか、という三点について、近衛に聞いてくれ」
簡潔だが、ずばり核心を突く質問である。西園寺は、「外相はあれでつっぱって行く気か?」〈原田別332〉とも言っていた。松岡をいつまで外相に据えておくのか、ということである。
原田は六日に近衛に会って、西園寺の質問を伝えた。
「そいつは困ったな。なか/\ちょっくらちょっと話せないし、やっぱり自分が行って直接お話ししよう。ご無沙汰しているし……」
近衛は即答できなかった。原田も強いて追及せず、「また来るよ」と別れた。
十一月十日、「紀元二千六百年」式典が日本晴の皇居前で行われた。文武高官、外国使節、地方代表など五万五千人が参列し、君が代合唱のあと、近衛が帝国臣民に代って寿詞を述べ、天皇の勅語朗読、陸海軍軍楽隊による紀元二千六百年頌歌斉唱と続き、最後に近衛の音頭で「天皇陛下万歳」が三唱されて式を終った。首相の寿詞と万歳はラジオで中継放送され、国民も万歳に唱和した。原田は貴族院議員として式典に出席し、西園寺は坐漁荘でラジオ中継に耳を傾けた。
翌十一日も快晴にめぐまれ、皇居前では引続いて奉祝会がおこなわれた。高松宮が奉祝会総裁(秩父宮)代理として奉祝の詞を奏上し、天皇の勅語があって、野戦食による奉祝宴になった。
二千六百年を祝う祭典は全国各地でも大々的に催された。五日間に限って許可された御輿、|山車《だし》、提灯行列、旗行列などが街を練り歩き、昼酒の販売も特別に認められた。東京でも十四日まで東京市主催の奉祝会などが続くのだが、国を挙げてのお祭り騒ぎの中で、ひとり原田だけはすっかり沈み込んでいた。西園寺の発病──である。
十一月十二日の朝、原田は首相官邸に行った。十三日に興津へ行くので、その前に「まず外交のことをきいておきたい」と思ったからだった。
近衛は「重慶の蒋介石に渡りをつけようと思っている」といって、対重慶工作や大政翼賛会のことをボソボソと話した。
「これではとても、老公の三つの質問の返答にならないな」
原田は捨台詞を残して官邸を出た。
その晩、原田は千駄ヶ谷の自邸に、阿部信行元首相夫妻、小倉正恒住友本社代表取締役夫妻などを招いて会食した。その最中に、朝日新聞社から電話があった。
「興津の公爵が、チフスか腎盂炎か判らないけれど、非常な高熱で悪いそうです。ご存知ですか」
驚いた原田は坐漁荘の熊谷執事を呼び出した。
「老公は十日の夕食後にやや気分がすぐれなかった。だが、勝沼博士が二千六百年祝典参列のため上京していたので、御遠慮されて、式典終了の十一日夜に電話で来診を求めた。それで勝沼博士は今朝十時半においでになって、今もこちらにつめておられるが、悪寒戦慄、尿の混濁があって、腎盂炎と診断された。よほど悪いようだ」〈『西園寺公爵警備沿革史』246〉
これは最悪の事態も覚悟しなくてはならないか──原田は近衛と木戸に連絡し、翌十三日の朝も木戸と打合せたうえで興津に向かった。
車中で原田は、西園寺がこの八月七日に「懇親の者に今日より漸次形見を頒ち置かむと思う」〈原田口述資料〉といって、手始めに中国の水晶の花瓶を橋本実斐にとどけるように原田に言いつけたことなどを思い浮べていた。今度は興津滞在も長くなるだろう。
この夜、原田は勝沼博士と水口屋で食事をした。昨日三十九度四分まで上った熱は、投薬によって三十六度九分まで下がり、記者団には「経過良好」と発表されたが、勝沼博士の顔色は沈痛そのものだった。
「自分は何十年も公爵についているが、病気になられても国事についていろんなことを自分にいわれたのは、今度が初めてです。どうも内外の政情についての心配が、お身体に障っているようで、新体制とか言って、国が二つできるようなことじゃあ困る≠ニか、外交もどうもこれじゃあ困る≠ニか、いろんなひとり言をいっておられます」
やはりそうですか──原田が暗然とつぶやくと、勝沼博士はつけ加えた。
「いい話があったら、なるべく公爵におきかせ下さい。それが精神的な注射になりますから」
原田は、野村吉三郎海軍大将(元外相)が駐米大使を引受けたことを報告することにした。野村はルーズベルト大統領とハーバード大学で同窓の仲であり、アメリカに知己が多いから、日米国交調整も少しは期待が持てるかも知れない。
松岡は外相に就任すると、人事の大異動を行なった。松岡旋風≠ニまで騒がれたが、八月二十二日には在外外交官四十名に一斉に帰朝命令を出し、この中に堀内謙介駐米大使も含まれていた。
「舞踏とお世辞のみに浮身をやつしているから、そんな外交官は芸者外交官というのだ。……そういう外交官は一斉に土性骨を入れ代えてやる」〈三輪公忠『松岡洋右』(46年、中公新書)158〉
松岡はかねがねこう考えていたというが、木戸氏によればこれは近衛の発議でもあったという。「ただそれはね、近衛だけを責めるわけには行かない。というのはだね、それまでの外交がキャリアの外交官が主流でずっとやっていて、一方から言えば、軟弱なんだよね。それで軍部が喧しく言い出す。だからひとつ松岡を外相にしてすっかりリシャッフル≠オてしまおうという考えを持っていたんだね、近衛はね。で、松岡ならやるだろうと思ってやったら、逆に松岡に食いつかれてしまった……」
その結果は、「キャリアの外交官を排除するとかなんとかいって、大事なときに本当の情報が入って来ないようになってしまったんだ、一種の書生論なんだよ」(木戸氏)と、大誤算≠招くことになるのだが……。
八月二十六日、松岡は野村を訪ねて、吉田海相も同意であるからと駐米大使就任を慫慂した。
「政府の枢軸強化政策と日米親善とは二兎を追うものであって、極めて難しい」〈野村吉三郎『米国に使して』(21年、岩波書店)12〉
野村は受けなかったが、三国同盟によって対米戦争の危険が高まったと見た海軍も、積極的に野村を駐米大使に推した。
「一方において充分対米戦争の準備はするけれども、もしできるならば戦争なしに済めばこれほどよいことはない。今日、無用な対米戦争には乗出したくない、そこで、野村大将に対してぜひ一つ決心して犠牲になって行ってもらいたい」
原田は高木惣吉大佐に頼まれて、大磯の別邸に野村を招いて何度か口説いた。
「どうも松岡外相のような、ものを表面的にのみ見て、ほとんど信頼のできないような人がかれこれ言ったところで、自分は、それに乗るわけにも行かない」
野村は、松岡や近衛に対する不信もあってまだ渋っていたが、「大事な海軍を徒らに犠牲にしたくない」〈原田8─388〉と、ようやく引受けた。──このことを西園寺に報告しよう!
十一月十八日、原田は病室に入った。西園寺は、高熱と食欲不振が続いて衰弱が激しく、昨日は膀胱炎を併発したので泌尿科の権威の遠山郁三東京逓信病院長も治療に駆けつけている。
原田は、西園寺が安心するように気を配って報告した。
「(海軍はもちろん)陸軍もまた対米戦争は肚から望んではいないのです。……で、政府は、進んでは野村大将をして不可侵条約まで結び得るような権限を与えてもよい、というような近衛の話でありました」
西園寺は、野村にアグレマンが届いたと聞いて、かすかに微笑みながら頷いた。
「野村は、本当に行くのかね」
「無論参ります」
「どうか野村に宜しく言ってくれ」
続いて原田は、近衛が蒋介石に対する工作を進めようとしていると報告して、「近衛も頑張っております」と告げたが、西園寺は独り言のようにつぶやくだけだった。
「蒋介石に関する限り、いまなんとしたって日本の言うことなんかきくもんか」
原田は五、六分で引き退ったが、これが最後の報告になった。
西園寺発病以来、天皇、皇后からは牛乳やスープが毎日とどけられ、皇太后からも果物や菓子の見舞いがあり、各宮家からも心のこもった品物がとどけられた。
医師団も、勝沼博士が十七日から坐漁荘に泊り込み、三浦謹之助東大教授も駆けつけ、静岡日赤病院の中村惣治院長も毎日来診するなど、懸命な努力を続けた。
西園寺は、原田が病室を出たあと勝沼博士に話しかけた。今までも西園寺は、夜も眠らずに看病する勝沼を尻目に、「洒々落々としてしばしば奇警な言葉で揶揄する」〈『西園寺公爵警備沿革史』267〉ことがあった。
「一体、診療の目標をどこに置いているのか。局部的なディテールズにわたることはいいから、全体の体力恢復に努めてもらいたい」
「局部的にやるのと並行して参るつもりでございます」
勝沼が答えると、西園寺は頷いた。
「意識は非常に明瞭です」
あとで勝沼は原田に伝えたが、食欲は依然なくて、「牛乳四合、アイスクリーム三十匙、メロン、ゼリー等少々摂取」〈同248〉などと発表されるが、実際はほんの少しを口にするだけだった。
十九日には木戸が見舞いに来た。
「陛下もたいへんご憂慮になられている」
木戸は西園寺八郎から容態を聞いて見舞いの言葉を述べると、水口屋に引き上げた。夕食は水口屋で、西園寺八郎、勝沼博士、橋本実斐、原田、木戸が一緒に黙々と済ませた。
二十一日の午前中、原田は近衛泰子を水口屋に呼んで、いつもの口述をした。ちょうど十日分ほどたまっている。
「……十九日も、まず非常な警戒の中に過ごし、二十日になって多少また脈が上って来ておったが、それはその後の疲労が脈に現われたので、結局この脈の高いのは、熱や呼吸と並行してずっと降りて来れば大丈夫だ、という……。いずれにしても勝沼博士の非常に熱心な看護の結果、なんとなく漸次快方に向かわれるような気がしている」
原田は祈るような気持でこう結ぶと、この日の口述を終えた。原田の期待も空しく、十年半にわたって続けられた膨大でしかも貴重な口述は、この日が最後になってしまった。
それにしても、「漸次快方に向かわれるような気がしている」という結びは、含蓄に富んでいる。西園寺の回復を必死に願ったのは当然だろうが、日本の政治社会情勢も「快方」に向かうことを原田は念じたのだろうし、さらには死の床に横たわりながら日本の将来を憂える西園寺の心境も代弁したかったのだろうか……。
[#1字下げ]十一月二十一日
[#2字下げ]疲労と衰弱加わり、注射によりその恢復に全力を集中、体温三十六度七分、脈搏八十三、呼吸十七
[#1字下げ]十一月二十二日
[#2字下げ]経過不安、憂色一段と募る
[#1字下げ]十一月二十三日
[#2字下げ]……午後三時体温三十六度四分、脈搏八十八、呼吸二十、仮眠多くして腎盂炎と膀胱炎は大体消退せるも疲労大いに加わり容態極めて重態、日赤中村博士も泊り込み、高島園子夫人も徹夜枕頭にありて憂色いよ/\濃い。この日三浦博士来診ありしも即時帰京、八田侍医頭も来荘せり。
[#1字下げ]十一月二十四日
[#2字下げ]|畏《かしこ》き辺りのお見舞として勅使百武侍従長、皇后陛下御使広幡大夫、皇太后陛下御使大谷大夫の御差遣を賜る。
[#2字下げ] 近衛首相、松平宮相、岡田大将等の見舞ありたり。……午後六時三十分病勢急変し、午後九時五十四分、遂に薨去あらせられたり。(静岡県警察部『西園寺公爵警備沿革史』)
西園寺は、臨終一時間前に、ふっと目をひらき、「愛用の安全剃刀で|身嗜《みだしなみ》を命ぜられ」〈同245〉、死の旅立ちの用意を整えるとそのまま眠るがごとく大往生を遂げた。
この夜、興津の町は、そぼ降るこぬか雨に冷たく濡れていた。
「老公は亡くなられた。九時五十四分だ」
原田は十時五分に坐漁荘から木戸に電話で伝えた。
「嗚呼、国家の前途を思い真に感慨無量なり」
翌朝、木戸は出勤するとすぐ天皇に拝謁した。天皇は、即位と同時に西園寺に「朕カ|躬《み》ヲ匡輔シ朕カ事ヲ弼成セヨ」という勅語を与え、たった一人の元老として西園寺のいう憲法擁護・国際協調の政治方針に深い信頼をおいて来た。それだけに西園寺の薨去を深く悼み、一時間にわたって思い出を語った。
「陛下は、西園寺さんのことを非常に尊重していらしたね」(木戸氏)
近衛も、ポケット手帳に二重丸をつけ、「園公薨」と書き入れた。
西園寺は、国葬をもって遇されることになった。葬儀委員長は近衛首相、司祭長は幼いころから西園寺に養育された橋本実斐が任命された。
十一月二十八日、西園寺の遺骸は坐漁荘を出て、興津町の警防団、青年団、在郷軍人など五十四人の人々に担われて興津駅に運ばれ、霊柩特別列車で東京に向かった。原田も柩の横につきそって上京した。
列車は、途中沼津駅で停まるだけだが、「どこの駅でも三つや四つの幼児まで合掌を捧げ」、車窓から見ると、「沿道の人は皆脱帽し、工場の人達は手を休め窓を開けて列車を拝し、農夫達は手にする鍬を捨てゝ首を垂れている」〈同276〜9〉。
東京駅には、近衛首相をはじめ各閣僚、原枢密院議長、木戸内府、松平宮相、陸海軍将星が出迎えた。
「怪しむべきは目下の軍人政府が老公の薨去を以て厄介払いとなさず、却て哀悼の意を表し国葬の大礼を行わむとす。人民を愚にすることも亦甚しというべし」〈荷風日記15年11月27日〉
永井荷風の日記である。荷風は、附属中学の学生だった明治二十七年に西園寺が文部大臣として巡視に来て机のすぐ近くに立ったので、西園寺を間近に見た。また、西園寺が首相のとき始めた文士との会合の雨声会にも途中から参加しており、フランス文学に造詣の深い西園寺に好意を寄せていた。
[#1字下げ] いつもの如く銀座に行かむとて箪笥町の陋巷を歩みながら不図思うに、老公の雨声会には斎藤海軍大将も二度程出席したりき。この人は二月内乱の時叛乱軍の為に惨殺せられし事は世の周知する所。老公も亦襲撃せらるべき人員の中に加えられ居たりしことも裁判記事にて今は明なり。しかして叛乱罪にて投獄せられし兇徒は当月に至り一人も余さず皆放免せられたるにあらずや。二月および五月の叛乱は今日に至りて之を見れば叛乱にあらずして義戦なりしなり。彼等は兇徒にあらずして義士なりしなり〈同右〉。
荷風は、西園寺の死がもつこの時代の意味を的確に見抜いていたというべきなのだろう。
グルー米国大使も訃報を聞いて、大使館の米国旗を半旗にし、西園寺八郎と原田に弔電を打った。
「巨星墜つ」
宇垣も深く悲しんでいた。
「近年政治的には左して支配力を有し居られざりしも、あの高潔にして透徹せる識見、明朗玉の如き人格の所有者たりし公の永逝は御国の一大損失であり、痛惜に堪えぬ」〈宇垣日記1435〉
そして──原田の嘆きは誰よりも深かった。
原田は五十二歳になる。十七歳のとき大磯の路上で西園寺に挨拶して以来、三十五年が経った。とくに大正十五年に西園寺の秘書として仕えるようになってからは、西田幾多郎がいうように「実に能く公の為に尽した、寝食を忘れて公の為にした」〈『陶庵公清話』序文〉。それだけに、西園寺の死を迎えて、原田は「一生の仕事が終った如くに感じた」のも無理はない。
かつて「園公三羽烏」といわれた近衛と木戸は、今や首相と内大臣という最高の地位にある。しかしこの二人は、三国同盟の際にも見せたように、西園寺の政治理念とは違った方向に歩み出している。その方向は、西園寺が死の瞬間まで何とか回避しようと努力して来たもののはずだ。
「老公に気の毒ではないか」
原田は裏切られたような思いだった。
十二月五日に日比谷公園で国葬が済むと、原田は各方面に挨拶をして回り、今一度興津に戻った。主の去った坐漁荘には冷たい木枯しが吹き抜けるばかりだ。西園寺が生前大事にして、毎年京都から職人を呼んで一本一本丁寧に拭いた矢竹の葉ずれの音が、一層悲しみを誘う。女中たちも次々と家に帰り、長く世の注目を浴びてきたこの建物も、いまや歴史の中に忘れ去られようとしている。
二日、三日──原田は朝早く水口屋を出ると坐漁荘に来て、かつて西園寺と対座した洋間の椅子に坐ったまま、ぼんやりと海を眺めて過ごした。
いつも賑やかに振る舞い、陽気だった原田にも、淋しさがひときわ身に滲みる。原田が、西園寺の発病を聞いて東京を発った翌日の十一月十四日には、東京憲兵隊から留守宅に呼出しの電話があったという。「公爵の病状が悪化したので、昨夜急いで出かけました」〈大谷『昭和憲兵史』362〉と家人が返答すると、電話はそのまま切れた。「どうせ老公の身代りにオレをねらったんだろうから、もう来ないだろう」と原田はタカをくくっており、事実そのとおりになったが、このこと一つを見ても、西園寺が言い残したように「やはり尊氏が勝った」と痛感せざるを得ない。政界にも西園寺の遺志を継ごうとする人は見当らない。
「これからどうしたらいいのだろう」〈西園寺公一『貴族の退場』(26年、文藝春秋新社)177〉
主なき坐漁荘で原田が大きな顔をクシャクシャにしながら呟くのを、何人かが聞いた。この十数年、「電話と、来客と、要人回りと実に忙しい」〈同173〉毎日を送って来た原田は、疲れ果てていた。そのうえ、西園寺という生き甲斐を失った原田は、翌年三月に「高血圧病兼、脂肪心にて心衰弱」を起こし、さらに開戦後の十七年には脳血栓で倒れる──。勝沼博士が「精神的な注射」が必要といったように、原田にもそれが必要だった。
「園公亡き後においては、この三羽烏の間も従前の如く円満にゆかず……水臭いものと化して行った……」〈内田『風雪五十年』264〉
元鉄相の内田信也はいう。まず木戸幸一氏の近衛観を聴こう。
「悲劇の宰相とか近衛はいわれているが、実際もうちょっと意志が強かったら、局面はずいぶん違って来たろうと思ったね。なにしろ、熱意がどんどんさめていっちゃうんだよ。最初のとき(十五年春に新党運動に乗り出したとき)は、それは枢密院議長をやめてまでやろうなんて意気込みで立ち上がるんだけど、さてやってみるうちに、だんだんいろんな障害が起るわね、これはもう新党運動とかいったら大きな問題だから障害がないわけはない、そう素直に行くわけはない。ところが障害が出る度に熱がさめていっちゃうんだよね、先生は」
三国同盟のとき、原田が、「裏切られた」、「富士山のような奴だ」と近衛に憤慨したことは前に紹介した。木戸も、松岡と、松岡を起用した近衛にきびしい目を向ける。
「まあ、三国同盟のとき、アメリカと戦争になる危険性は一応考えたんだ。結果はやっぱり、このときから何となく戦争気分になってきているんだよね。近衛としては、孤立することを非常に恐れてだね、それでともかく勢力均衡に立とうと……、で、もともと近衛は若いときから持てる国と持たざる国の関係とかいろいろ考えて、必ずしも西園寺さんの考えていた英米一本槍じゃないんだからね、それでドイツと結ぶのも案外簡単にいっちゃったんだね。松岡なんてのを使ったのもそうだ。どうもやり損なったわけなんだよ、一種の性格異常者だからなあ、松岡は、ウン。あれを松岡でなく、もう少しまともなあれだったらね、また歴史は変わっていたかも知れない」
だから、木戸氏によれば、「もう少し近衛が指導力を持っていれば、いけたと思うんですよ、まだ。松岡は僕のところにやって来て、近衛さんのためなら身命を賭すし、何でもといっているんだ。ところが近衛が言わないんだ、なんにもね、あなた任せなんだよね。人を迂回していうから、迫力もなく、指導力もなし。それでただ上っつらの世間の人気はえらい人気なんだからね。そこに彼の悲劇があるわけなんだよ。だから彼がいろいろ批判されるのは、悲劇の宰相などといわれるが、結局やっぱり自分がつくっているんだよ。指導力がちっともない……」ということになる。
「近衛の世話は全く大変だったよ、すぐに病気といって引っ込むし、やめると言い出すしね、お守りするには骨が折れたよ、なにしろ殿様だからね」
これが、大学時代から近衛をよく知り、しかも第二次、第三次近衛内閣のとき内大臣だった木戸の近衛評である。
この三人の中では原田と特に親しかった池田成彬は、戦争中のことを含めてこんな話をしている。
[#1字下げ] 近衛、木戸、原田というのは、京都大学在学中からの親友で、また西園寺門下生というので非常に仲がよかったが、晩年木戸の内大臣在職時代にはそのやり口に対して不満があり、原田は非常に憤慨して、木戸に電話で、貴様何して居るか≠ニいう調子でやっつけるから、木戸の方でも原田を嫌いになったようです。近衛は寛容の人だから、喧嘩はしなかったし、最後までこの両人(近衛と原田)は仲がよかった〈池田『故人今人』24〉。
たしかにある時期この三人にはこんな面もあったようで、「大変にリベラルな人で、英米両国と対立したら日本は駄目になる」という原田と、近衛、木戸との間には意見の違いもあった。しかし、それも一面で、家族ぐるみ、あるいは血縁などこの三羽烏は概して終生、仲のよい面を持ち続けていた。
ところで、近衛の心境はどうだったか。
近衛は、「議会政治の守り本尊は元老西園寺公です。これが牙城ですよ」〈富田『敗戦日本の内側』111〉、「国是の進展の上からいうと、やっぱり邪魔になる」〈原田5─128〉と口走って、「徹頭徹尾自由主義者の化身のような」〈木舎『近衛公秘聞』122〉西園寺にタテ突いたこともあったが、さすがに西園寺の死を迎えて、淋しそうだった。第二次内閣を組織してからも興津へ行こうとせず、「園公もお年で、政治上の情報も余り聞かれないし、従って政治についても意見も吐かれない。政治的にすでに無縁の人である」〈富田112〉などといっていたが、国葬の葬儀委員長も務めたし、白木の墓標にも自ら筆を振るった。
明治以来の首相のうち公卿出身者は、西園寺と近衛の二人だけである。そして、木戸氏によれば、「西園寺さんと近衛とは、お公卿さん同士だしね、近衛が可愛くてしようがないんだよね、理屈抜きで……」ということで、西園寺は近衛にとりわけ期待をかけ続けた。しかし、近衛は「生命ということについては、実にティミッドで随分気を使われました。時には少し卑怯ではないかと思われる位」〈『近衛文麿』下623〉で西園寺を嘆かせることが多かった。
「もっと人物がしっかりして欲しい」
「みずから自主的に出て、もっと積極的に指導する気持があって欲しい」
「あれは性格的にあゝあっちにもこっちにもぶら/\するのか」
木戸氏はいう。
「もっとも、近衛はだんだん西園寺さんから離れて行くようなところがあったな。なんとなく飽き足りないようなね。それでまた西園寺さんが希望しているようなことを具体的にまとめて行く能力がないからね、先生は……」(木戸氏)
こうして西園寺は近衛に裏切られ、「一体、どこに国を持って行くんだか、どうするんだか」と絶望しながら、ひっそりと死んでいった。
西園寺亡きあと、日本は一年して太平洋戦争に突入する。しかも、「ともかく近衛内閣のときすべての礎石は置かれたわけだよ、それで結局東条はそれを遵守してやった……」(木戸氏)というわけで、対米開戦にまで日本を追い込んだ近衛の責任は重い。
こんな近衛に、浪人中の幣原元外相もきびしい批判を浴びせる。
「近来時局が国民の日常生活に及ぼす圧迫逐次加重して怨声巷間に満ち、情勢|寔《まこと》に寒心に不堪候。……西園寺公時世の深憂を抱きたるまゝ遂に逝去せられ候。若し我政府当局が公の苦言を聴きて反省せしならむには、公に取っては盛大なる国葬よりも又幾万の弔辞よりも快く、安心して瞑目せられたるならむと|荐《しき》りに思い浮び、今更痛嘆に|勝《た》えず候」〈『幣原喜重郎』515〉(十五年十一月)
しかし、近衛は相変らずしっかりしなかった。西園寺の国葬の翌日、閣議は選挙権を戸主にだけ与え、兵役終了者は別に考慮することを決定した。新体制運動で近衛を援けてきた矢部貞治東大教授は、「愚も亦大」と怒る。
[#1字下げ] どうも近衛の弱体にもほとほと愛想が尽きる。黒龍会あたりで家長選挙を言い出し、新体制反対の倒閣運動があったと云えば、もうこんなところで妥協をしている。暗黒政治だ。弱体だ。……こうして国民を差別し、挙国一致の心を自ら破壊している。国民は益々議会に関心を失うであろう。〈『矢部貞治日記』(49年、読売新聞社)376〉
そして荻外荘には、なんと血盟団事件の井上日召が「引越して来て泊り込む」ようになった。「一人一殺の首領」を時の首相が居候させる──これも自分の性格の弱さに対する「心理的な|補 完《コンペンセーシヨン》」(丸山眞男)であろうが、第二次内閣組閣直前に近衛が軽井沢にいたときから、「安井、富田などという連中も、三上、菅波などという二・二六の連中も、皆ここに集まって……」〈同330〉という状況だったことを見ても、近衛にどれほどの信念があったか、疑わせる。
「当時の日本政治は、常に暴戻なテロの脅威の中にあった……近衛などはその好例で、新体制運動における彼の意図が何であったにせよ、その後態度頗る一貫せず、常に動揺し易かったのは、とりわけ観念右翼のテロ性を慮っていたことを、無視しては理解できない」〈『近衛文麿』下200〉
矢部貞治はこういい、また近衛の秘書官だった牛場友彦氏は、「ともかく観念右翼には近衛さんは弱かった、ものわかりがよかった、頭山満とも会食したことがあるしね」と語る。
「政局緊迫しテロ事件頻発の虞あり、万一の場合、時局の収拾は頭山(満)翁の外なし」〈木戸849〉
近衛に食い込んだ井上日召は、木戸内大臣を訪ねて、テロ≠匂わせて脅しをかけることさえ始めた。
近衛は、また国葬の翌日、内閣官制改正の勅令によって無任所大臣制を正式に官制化し、平沼騏一郎元首相を入閣させ、十二月二十一日には、それまで新体制運動の推進役をつとめてきた安井内相と風見法相を辞職させ、平沼と柳川平助陸軍中将(予備役)をその後に据えた。平沼は観念右翼の陰の巨頭と目されているし、皇道派の柳川はもと国本社の会員でもあった。
「右傾団の盲動ありと聞きしが、今次平沼男を入閣せしめたるはこの盲動緩和の為……」〈宇垣日記1436〉
宇垣の観察だが、ともかく近衛としては「国論統一の上から平沼を中心とする政治勢力を無視できず」、それだけに平沼入閣の背景や影響は、複雑かつ深刻だった。
[#1字下げ] 当時計画した経済統制、企画経済は、共産主義に輪をかけたようなものである。これが実現すればロシアよりひどい共産主義となる。……戦争遂行のために組織を変えようというのは表面で、国内に革命を起こすために戦争する魔の手が動いている。〈『平沼騏一郎回顧録』127〉
平沼は当時、こんな情勢判断をしていたという。
近衛内閣は発足早々の七月二十六日に「基本国策要綱」を閣議決定し、その中で「官民協力による計画経済の遂行、特に主要物資の生産、配給、消費を貫く一元的統制機構の整備」を打ち出した。企画院はこの方針に基づき、九月以降、「経済新体制確立要綱」を立案、資本と経営の分離を含む経済新体制づくりに取り組んでいた。
「企画院にはアカがいる。それを後押ししている陸軍省軍務局内にもアカが巣食っている」〈『昭和史の天皇』(42年、読売新聞社)18巻157〉
ところが、こんなウワサが「どこからともなくフワフワと流れ出し」、企画院原案は財界などの猛反対で骨抜きにされてしまった。さらに十二月中旬、近衛は平沼、東条陸相と会談して、「赤の粛清が急務なり」〈木戸844〉と確認し合い、平沼が内相就任後、企画院の新官僚である和田博雄(戦後の農相)、正木千冬(後の鎌倉市長)、勝間田清一(後の社会党委員長)、稲葉秀三、佐多忠隆といった人々が十六年一月から四月にかけてその背後関係がアカだということで検挙されるという企画院事件≠ェ起こった。
こうして、経済新体制については、「多くの点において原案の原則としたものを例外とし、例外としたものを原則とした」ほどに手が加えられ、東京朝日の解説によれば、「現状維持勢力と革新勢力の双方の政治力が時々刻々経済新体制案の上に反映して行く有様は、まさに現在におけるわが国政治情勢の縮図であった」〈東京朝日新聞15年12月8日〉という。また、政治面の新体制であったはずの大政翼賛会は、違憲論がやかましく、とうとう平沼内相が「政治結社以外の公事結社と認める」と断定したことで、単なる精神運動の一つになってしまった。
こうして、近衛が意図した新体制運動は、現状維持勢力によってアカ≠フ刻印を押されて、十五年中にはほぼ全面的に雲散してしまった。
十五年末、近衛は自分の政治理念とした新体制運動に破れ、しかも西園寺にも去られ、ひたすらアカ≠ニテロの脅威に怯えている様子だった。
[#改ページ]
第十一章 太平洋戦争を招く二つの誤算
──独ソ開戦と日米交渉──
昭和十六年元旦──。
いい天気だった。気温も高く、「冬とは思えぬ南国のような暖かいうららかな日」〈矢部貞治日記384〉に誘われたかのように、東京の市内は和服姿の男女で賑わった。
永井荷風は、炭もガスも乏しいので、|湯婆子《ゆたんぽ》を抱いて一日寝床の中で過ごした。昼には餅を焼き、夕食はソーメンとリンゴで飢をしのいだ。荷風の元旦の日記を引く。
[#1字下げ] 思えば四畳半の女中部屋に自炊のくらしをなしてより早くも四年の歳月を過したり。始は物好きにてなせし事なれど去年の秋ごろより軍人政府の専横一層甚しく世の中遂に一変せし今日になりて見れば、むさくるしく又不便なる自炊の生活その折々の感慨に適応し今はなかなか改めがたきまで嬉しき心地のせらるゝ事多くなり行けり。……哀愁の美感に酔うことあり。此の如き心の自由空想の自由のみはいかに暴悪なる政府の権力とても之を束縛すること能わず。人の命のあるかぎり自由は滅びざるなり。
もはや空想の自由しか残されていないというのである。荷風はまた、「現代の日本人ほど、馬鹿々々しき人間は世界になし……野蛮人または獣類にアルコールを飲まして見れば、これら日本人の感情および生理的行動を察知するに難からず」〈荷風日記15年12月22日〉と毒づいてもいる。
三日の夜、近衛は矢部貞治を荻外荘に招いた。「翼賛会は之を精神運動とし、議会には勝手に政党を作らせるということにしたい」と近衛はいい、矢部は、分立政党の状態に戻すことは逆転ではないかと不満だった。
「一億一心と口では言うが、みんな私が先で一人一心だからね」〈矢部貞治日記386〉
近衛は浮かぬ顔で呟いていた。
軍事参議官だった東久邇宮は、新年から日記をつける決心をした。
[#1字下げ] 近き将来において、世界の思想、社会、国際情勢上に大変化が起り、日本にも歴史上、未曾有の大変動が……起るような気がする。そこで本年から、また改めて日記を書くことにした〈東久邇日記17〉。
東久邇は、元旦の午後に参内して、各国の大使、公使が天皇に拝賀する式に参列した。グルー米国大使もクレーギー英国大使も参列している。
「日本としては、はやく欧州大戦が終了し、英米両国とも、以前のような親密な関係になりたいものである」
東久邇は念じたが、まさか一年足らずの内に米英両国と開戦するとは想像しなかった。
元旦の翌日、大蔵次官の広瀬豊作は、阿南陸軍次官を訪ねた。
広瀬は晦日に義父の勝田主計から意外なことを聞いた。
「どうも陸軍はアメリカと戦争をする気があるようだ」
広瀬は、「これはおかしい」と思ったが、どうも「この話は想像話ではあるまいと感じ」、阿南に確認することにした。
勝田主計は陸軍の内情に通じている。第二次近衛内閣成立の直前にも、参謀本部謀略課長で、「時局処理要綱」の採択を推進した中心人物の臼井茂樹大佐などは、「政局を担当する者は、たとえば勝田氏の如きが適当だ」〈原田8─284〉と運動しており、人脈のつながりもある。また、アメリカ大使として赴任する野村吉三郎大将は、庭つづきの隣家にいる。
しかし、「戦争をやるなら相当の準備、即ち資材関係、物資関係、労力関係、資金関係等、大蔵省は一番多方面に亙って準備しなければならない」はずだが、大蔵次官の広瀬にはそんな動きが感じられない。
阿南は、訪ねて来た広瀬に断言した。
「そういうことはない。アメリカと戦争する気持は持っておりません」
「そうか、それならばよいけれども、もしそういうことが今後あるならば知らせてもらわなければならない」〈勝田龍夫『中国借款と勝田主計』(47年、ダイヤモンド社)352〉
広瀬は安心して退出したが、その五日後、一月七日の国民新聞は、「日米戦争は必然的だ」と長文の社説を掲げて論じた。そして、グルー大使が、「東京では日本が米国と断交する場合、大挙して真珠湾を奇襲攻撃する計画を立てているという意味の噂が、さかんに行われている。私がこれを米国政府に報告したことは勿論である」と記したのは一月二十七日だった。
真珠湾攻撃直後の十六年十二月十九日に山本五十六連合艦隊司令長官が原田熊雄に宛てた手紙によると、「開戦劈頭の作戦計画は昨年十二月決定」したという。
山本の決めた真珠湾攻撃計画が、一カ月後にグルー大使の耳に入ったということだろうか?
そんなで、十六年の正月は、好天に恵まれてうららかな日が続いたが、人々の気持は暗く、戦争の影に脅かされていた。
「殿下が最近赤坂でハダカ踊りをやったという噂が流れてるよ」
原田は東久邇にこんな電話を平気でかけた。若くしてフランスに学び、画家のモネーと親交を重ね、資本論の研究もした、というほど皇族ばなれした東久邇とはウマが合うようだった。
一月十二日、原田は東久邇邸を訪ね、「野村駐米大使の送別会を十五日にやるから出席してくれ」と伝えた。東久邇稔彦氏はいう。
「原田は軍人に頭を下げなかった。また、話すことや行動にウソはなかったね。私にもいろんなことを遠慮なく言ってくれ、考えも述べていた。原田の動きは平和的でよかった。原田、木戸、近衛のグループはよかったと思うね」
さて、十五日の昼、東久邇は千駄ヶ谷の原田邸に出掛けて、野村大使、広田元首相、堀内謙介前駐米大使、結城日銀総裁、小倉正恒住友総理事、井上三郎、松平内大臣秘書官長、和田小六航空研究所所長、高木喜寛などと会食した。
「もし欧州戦争で、ドイツ側が不利となり、絶望的となった場合、ドイツは、自国の危機を脱するため、あらゆる手段を尽して、日米を戦わしめるように動くだろう。この時こそ、日米戦争の起る可能性があり、もっとも危険な時だ」(広田)
「自分は、これからアメリカヘ行き、日米戦争が起こらないように、懸命な努力をする決心であるが、今後、日米の外交関係が緊迫するにつれ、日本人が熱して、日本から戦争を仕掛けないように注意してもらいたい」(野村)
「支那を視察して感じたが、蒋介石は、米英ソの三国の真剣な援助を受けることになり、非常に気が強くなっている。また、支那各地における共産党の勢力のさかんなことは驚くばかりで、将来どんなことになるか、まったく憂慮すべきことである」(〃)
「日米両国で協議し、両国協同して、欧州の平和問題に口を入れては如何」(結城)
「現在、日独伊三国同盟があるが、日本は依然、米、英と国際関係を親善にし、国交断絶とならないようにしなければならない。日本が米、英と国交を継続することによってのみ、ドイツをしてわがまま勝手をさせず、日独伊同盟を有効ならしめることができる」(東久邇)〈東久邇日記20〉
賑やかで楽しい昼食会だった。スコットの出前の洋食もうまい。原田はニコニコしながらみんなの話に耳を傾け、ときどき「そうだ、そうだ」と大きな声で合の手を入れていた。
野村大使は、こんな励ましの声に送られて二十三日に横浜を出帆し、ホノルル、サンフランシスコ経由で、二月十一日にワシントンに到着した。
[#1字下げ] 彼は英語を話すことが、明らかに得意ではないのである。私には彼がしたたかな米国の上院議員や下院議員、さては新聞記者や官吏に取り巻かれて、自分の議論を押し進めるところを想像することも出来かねる……〈グルー『滞日十年』下105〉
野村大使を見送ったグルー米国大使は、密かに危惧していた。
一月二十八日、宮中では恒例の歌会始の儀が開かれた。
[#2字下げ]峰つづきおほふむら雲吹く風の
[#3字下げ]早くはらへと只祈るなり
天皇は国際平和をねがう新春歌を披露した。
三国同盟以降──天皇の懊悩は深まるばかりだった。
蒋介石との和平工作もことごとく失敗し、昨年十一月末に、日本政府は阿部信行全権大使を遣わして汪兆銘の国民政府と「日華基本条約」を結び、汪政府を正式に承認した。もはや蒋介石との和平工作に見切りをつけたということである。英米両国も、日本軍が北部仏印に進駐したのに反撥して援蒋活動に本腰を入れ始め、蒋政府の抗戦意識も強まっているから、天皇が木戸に語ったように「事変は当然長期態勢を執るの外なき」と諦めざるを得ない。
汪兆銘政権を承認した日、天皇は、杉山参謀総長が編成事項の上奏のため参内すると、「少しことは重大であるが」と前置きして下問した。
「我国も愈々汪政権を承認した以上、所謂全面和平は当分難しいと思うが、そうすれば、政治的に見れば持久戦と云うことになるのであるが、この際徹底的に蒋介石を撃破する方策があるか」〈木戸840〉
「それは難しいと思います」
「それならば、我国の財政物資等の見透しからしても、この際戦線を整理して国力相応に調整する必要はないか」
「急に兵を退くと敗戦したとの宣伝を受ける虞があり、また、漢口は維持する要がございます」
「それはそうかも知れないが、この際思い切った案を立てないといけないのではないか」
「充分に研究して見ます。とくに財政物資等の問題は充分考慮するつもりです」
「南方問題は慎重に考えねばならぬ。作戦計画はできたのか」〈大本営機密日誌38〉
杉山総長は恐懼し、改めて奉答することにして退下したが、「この御下問は参謀本部にとっては全く痛いところ」を突くものだった。天皇の意思は、「長期持久戦に入った以上、いつ迄も中途半端なやり方ではいかぬ。兵力と経費を徹底的に節約することを本旨としなければならぬ」〈開戦経緯3─314〉ということである。それほどに日本の国力は限界にあった。
すでに九月の北部仏印進駐と三国同盟の影響により、「国際関係は相当悪化の兆候を示し、情勢の如何によっては、日本は経済封鎖によって主要な物資が外国から入らない、という懸念も出て来た」。このため、繰り上げ輸入のほか、三億円の「特別輸入も始まり、総ての物資を、南米、カナダ、濠州、インド等から入れる計画を着々実施」〈陸軍軍需動員2巻398〉したり、陸軍は、鉄鋼、銅、錫を回収するため軍部内の扉、門、ベンチ、欄干まで徹底して取りはずして、資源備蓄に努めている。
その効果はどうだったか。
十五年暮から、参謀本部は次の三つの場合についての国力検討を行なった。
(一)対ソ戦生起の場合
(二)昭和十六年四月ころ対南方作戦生起の場合
(三)米英に膝を屈し支那事変処理に専念する場合
その結果、(一)の場合は、「作戦兵力二十五個師団基幹、六カ月でバイカル湖畔まで進出」するとして、石油は、内地産油三十万| 竏、《キロリツトル》樺太石油三十〜四十万竏だけで、英米からの購入は期待薄である。したがって、「燃料エネルギー資源不足のため、第一期作戦目標達成後、英米に屈せざるを得ないだろう。英米に対して起てる力はもう残っていない」という判断である。
(二)の場合は、対米英蘭戦に突入するが、対ソ戦は避けるという前提である。結果は、「物的国力は開戦第一年にやや低下して八〇〜七五パーセント、第二年は七〇〜六五パーセント、船舶の損耗が造船で補われるとしても、南方の経済処理には多大の不安がある」と判断された。
「日本から生糸と綿製品が出、外国から石油と綿花が入る情勢にある限り、隠忍して戦争事態に持ち込まず、国力の強化を図る方がいい」〈同410〉
これが結論である。とすれば、支那事変の処理──戦線縮小が、物資、労働力、インフレ対策としてもっとも効果的なはずである。たとえば、十五年下半期の民需用普通鉄鋼材は年度物動計画値に対して六十七パーセントに、電気銅は六十パーセントに圧縮されてしまったが、こんな状態が続けば民需生産は急激に落込み、国力の維持に重大な障害を生じるのは、目に見えている。
一月十八日、杉山総長は「対支長期作戦指導要綱」を上奏し、あとで天皇は木戸を呼んで、またまた不満の意を伝えた。
「それによれば、支那事変を持久態勢になすはいまだその時期にあらず、漢口方面よりの撤退も不可にして秋ごろ迄に大勢を有利に転回させたしとの趣旨であった。種々突込んで質問もして見たが、要するに総長の意見は、用兵上漢口方面を撤退し主動作戦より受動作戦となせば到底戦争は有利に解決すること困難となるべきこと、および将来平和会議等の場合、東洋方面に於ては枢軸国が負けたるかの如き印象を与うるの虞あり、いずれにしても戦線の整理縮小は慎重を要すとのことにて、総長の言は尤もとは思うが、財政上の見地よりして果してわが国力堪え得るや否やは政府としても充分研究準備するの要あるべく、首相に案を見せて意見を徴する積りなるが如何」
「結構と考えます」
木戸は奉答し、要綱案は近衛に提示されたが、近衛から特に意見は出なかった。
「もっとほかに考える余地はないか」
「何か別にうまい方法はないか」〈杉山メモ上163〉
天皇はその後も支那事変の処理を急ぐように杉山総長に下問し続けたが、一月下旬になって日泰軍事協定案が上奏されるに及んで、懸念と不審の意を一層強めた。
タイと仏印(現在のベトナム、ラオス、カンボジア三国)の関係は、十九世紀中頃にフランスがインドシナ三国を支配下において以来悪化し、一八九三年にはフランスがメコン河以東のタイ領を占拠したことから、タイは失地回復を狙っていた。第二次大戦が勃発してフランスが降伏したのは、タイにとって長年の悲願をかなえるチャンスである。
日本が十五年九月に北部仏印に進駐したあと、十一月二十三日にタイ軍はカンボジア西部国境方面で越境し、仏印軍との間で戦闘が始まった。
これは日本にとっても、「帝国の仏印・泰両地域に於ける指導的地位を確立する」絶好の機会である。
「泰の失地回復に協力することに依り日泰緊密関係を確立すると共に、仏国を利導して仏印に対する帝国勢力の進出拡充を図り、以て帝国の大東亜に於ける指導的地位の確立に資せんとす」〈開戦経緯3─184〉
日本政府と軍部は早々とこの方針を固め、陸軍は南方作戦準備を進めた。南方作戦に充当する十一個師団の編成改正を行ない、杉山総長は十一月二十二日に、マレー、インドネシア(蘭印)、フィリピンを含む南方要域の攻略作戦は「概ね六ヶ月以内に完了し得る確信を得たり」〈同3─288〉と上奏している。また海軍も八月以降、戦時編成改定準備を進めており、十一月十五日には「出師準備第一着作業」を発動した。この半年の間に就役艦艇は一〇九隻から一六八隻と五割も増加し、空母二隻、重巡二隻などを加えて戦力は大幅に増加しているが、さらに未成艦船の建造促進、人員の充足、軍需品の整備などを急ごうというものである。
日本政府は泰、仏印に斡旋を開始し、仏印には「ルアン・プラバン」および「パクセ」を泰に返還し、南部仏印への日本軍の進駐や米の売渡しを要求した。もちろん仏印は「領土割譲には応じ得ない」と拒絶して来た。
「直ちに威圧を加えろ、それでもきかなければ、武力圧迫から進んで仏印の軍事占領まで発展することもやむを得なくなる」〈同3─191〉
松岡外相は十二月二十六日の連絡懇談会で南部仏印、さらにシンガポール奪取を軍部に提案した。及川海相と東条陸相は、「慎重にしかもヂリヂリと進めて貰いたい」と慎重論だったが、一月になって陸海軍は「仏印に対し所要の威圧行動を開始」する決定をし、飛行部隊の北部仏印派遣と爆撃、第二遣支艦隊の南支那海での「顕示行動」などが指令された。
そこで杉山・伏見両総長は一月二十三日に日泰軍事協定案の要綱を上奏したのだが、天皇は、「外務大臣は日泰軍事協定は反対だと言うが、話はついているか」と下問し、「一応考えるから置いておけ」〈杉山メモ上163〉と裁可を保留した。稀有の事態である。
このあと、天皇は木戸に「ともかく五時に松岡外相が来る故、その上にて決定すべし」と伝えた。
五時、松岡は参内して木戸と打ち合わせた。
「総長の奏上には反対なきも、実行の時期については、慎重に研究するを要す」
松岡はこういって、天皇に拝謁した。
「私の言葉不足からの陛下のお考え違いかと思われますが……、本協定の締結に関しては、外務、統帥部はよく連繋して実行しますからご安心下さい」
「勘違いしているわけではない。軍事協定の重大性に鑑み、統帥部が独断で協定締結に乗り出してはいかぬと憂慮しただけである」
翌二十四日、天皇は両総長を呼んだ。
「昨日上奏の件は充分考慮したるが、総長も承知の通り、泰国の政治には英米の勢力が非常に強き実情にあるを以て、之を実行するときは英米を刺戟し、重大なる結果を惹起することなきを保せず、かつ今日、|米《こめ》の問題等につき仏印との関係は良好に推移し居るに之を刺戟することも考慮するを要するを以て、実行の時期につきては、政府と充分協議し意見の一致を見たる上のことにせよ。右の条件を以て本件は承認す」〈木戸851〉
こうして日泰軍事協定案は裁可になったが、「両総長としては全く面目ない次第であった」〈大本営機密日誌43〉。木戸はこの間の天皇の配慮について、「陛下は……統帥部の独立と云うことに非常に御不安を御感じになって居られた様で、結局、陛下が御自身でこの間(政府と統帥部)にお立ちになって調整するより外ないと御決心になって居られた様に拝察される」〈木戸文書124〉と観察している。軍事同盟はむろん統帥事項外で、天皇の大権に属する。それを統帥部が独走して条約締結に乗り出したので、天皇は憂慮を深めた。そのうえ、南方に進出して英米と衝突するのは、英米との協調を願う天皇の気持に反する。
天皇は、両総長の上奏を条件つきで裁可したものの、極めて不本意だったようだ。翌二十五日、杉山総長が、南部仏印に対する作戦準備について上奏すると、天皇は異例の不興≠態度に表わした。
[#1字下げ] 総長、御前に入るや天機特に麗しからず、総長の敬礼に対しても天顔を向けられず、最初より異状の空気を呈しあり。〈杉山メモ上164〉
天皇は誰に対しても丁寧すぎるくらいに儀礼を尽くす。それだけに杉山総長は天皇の不興の大きさを改めて思い知ることになった。
杉山総長の上奏が終ると、天皇はきびしい下問を次々と浴びせた。
「お前の云う対仏印作戦は最悪の揚合行わるゝと思うが、若し協定が順調に進んだらやらずにすむと思う、如何」
「作戦をやれば戦面拡大し国力に影響する。支那事変処理に就ては……何か別にうまい方法はないか」
「近衛歩兵第二連隊は交渉が進めば返すだろう」
杉山総長は「戦線整理は敵に戦勝感を与え、我が自主的に実施するとしましても敗北感を生じ……」と所信を繰り返したが、参謀本部に戻ると「この際お上に戦線整理の思召あるものと拝察せり」と部下に告げざるを得なかった。
「|上《かみ》は陸軍がすべてを強行しありと深く思召されあるものゝ如く、また総長は本回の御下問により大なる心境の衝撃を受けたること確実にして、統帥部として将来に於ける国策推進の態度要領について慎重なる考慮を要すものあるを痛感す」〈同164〉
戦争指導を担当する大本営第二十班(十五年十月新設)の註記である。南部仏印に対する武力進駐は、天皇の希望どおり、ひとまず「やらずにすむ」ことになるのだが、二月一日、近衛首相は両総長とともに「対仏印・泰施策要綱」を共同上奏した。
「帝国の当面する仏印、泰に対する施策の目的は帝国の自存自衛の為、仏印、泰に対し軍事、政治、経済に亙り緊密不離の結合を設定するに在り……之が為所要の威圧を加え已むを得ざれば仏印に対し武力を行使す……本施策の目的達成は三月末を目標として外交上最善を尽す……」〈同165〉
原案では三月末と期限をつけていたが、松岡外相から、「三月末では出来ん」、「六月末頃なら出来るかも知れぬ」〈同165〉と頑強な反対意見が出て、削除されてしまった。
松岡外相は、なぜ三月末が駄目で六月末なら出来るというのか。同じ一日に松岡は木戸に説明した。
「近く訪独して、ヒトラー、リッべントロップ等と対英作戦の真相を聴き充分打合せを為すと共に、ソに対しても国交調整を為し、しかして四月一杯に支那との全面和平を図り度く、しかる後に南方に向って全力を挙ぐる積りなり」
松岡の真意は、ドイツの対英作戦とからめて南方進出をやりたいということである。こんな腹案≠ェあるから松岡は要綱を「実質的には骨抜き」にしたのだろうが、天皇は要綱を裁可したあと、木戸に語った。
「自分としては主義として相手方の弱りたるに乗じ要求を為すが如きいわゆる火事場泥棒式のことは好まないのであるが、今日の世界の大変局に対処する場合、いわゆる宋襄の仁を為すが如き結果となっても面白くないので、あの案は認めて置いたが、実行については慎重を期する必要があると思う」
木戸は、「聖旨の程を拝察、誠に恐懼に堪えず」、深く頭を下げて退下し、その夕方、原田が来たので、一部始終を打ち明けた。
原田はハラハラと涙を落しながら、南方武力進出──英米との衝突を何とか回避しようとする天皇の強い意思に感激していた。
「陛下は筋の違った方向に向われることは絶対にない」
原田の感激の様子を見て、木戸も感じるところがあったのだろう、三日後に松平康昌秘書官長夫妻の銀婚式の祝いに行く途中、原田の家に立ち寄って「木戸孝允公七絶の幅」を贈った。
「いや、多年の交誼を感謝してということでね、大した意味はなかったんだ。たまたま手元に出ていたかなんかして、こいつひとつ原田にやろうかな、ぐらいのもんなんだよ」
木戸氏は特に意味はないと笑うが、原田の「大変リベラル」な考え方、それに「英米両国につかなければ、日本は駄目になる」という強い信念に改めて感動したようだった。
その後、「対仏印・泰」問題は東京で調停会議が続けられ、仏印側が調停案を呑まないので武力発動を決定したこともあったが、三月十一日になって調停が成立、日本軍の南部仏印進駐は回避された。
仏印交渉成立の翌日、三月十二日に松岡外相は訪欧の途についた。
[#1字下げ] 東京駅頭は人の波だった。──だが、確たる腹案もなくして外相は渡欧するのである。……発車のベルが鳴り響いたとき、松岡さんは突然、つか/\と見送りに来ている杉山さんに近づいていった。シンガポールはどうしてもやらないかネ=B杉山さんはいえない≠ニ答えるのみ……参謀本部に帰った杉山さんは、松岡という奴は、実にしつこい奴だ≠ニ漏らしていた。
大本営機密日誌は記している。「確たる腹案もなく」というが、松岡は、ドイツは対英上陸作戦を進めているはずだから、「英国の極東の重要拠点たる」シンガポール攻撃をみやげに訪独すれば、ドイツは日ソ国交調整に乗り出すはずだ、と踏んでいたようだ。
すでに松岡は、一月二十七日に建川駐ソ大使から、日ソ国交調整促進の進言を受け、次のような意見をきいている。
「ドイツは三月頃にはギリシャを片付け、五、六月の候英国と決戦を交うべく、有利に展開せば秋迄には欧州方面は一応交戦行為終局を遂ぐ……我国もこのドイツの戦果と照応し、南方に軍事的進展を試みらるるものと信ず。大東亜を制するにはシンガポールを攻略すること絶対必要なることは申す迄もなきこと……」〈開戦経緯3─361〉
建川大使のこの進言はいかにもピントはずれである。ドイツはすでに昨年夏から対ソ戦の検討をはじめており、十二月十八日にヒトラーは、「ナチス国防軍は対イギリス戦争の終結以前に、ソビエト・ロシアを電撃作戦によって撃滅することを目標として準備を整えること」〈『ナチスドキュメント』328〉というバルバロッサ作戦≠指示している。もちろん日本側も独ソ間の不調和には気付いたようだが、重光がいうように、「松岡外交はドイツの勝利を信じ、これに一切を賭したもの」〈重光『昭和の動乱』(27年、中央公論社)下巻23〉である。松岡は、ドイツの最大関心事は対英上陸作戦だと決め込んでいたようだった。
米内光政は松岡を評していう。
[#1字下げ] 松岡は思いつきのいいところもあるが、間違った方向をしゃにむに突進する。日独同盟問題のときでも、ドイツと手を握ればアメリカは引っ込むというのが、松岡のかたい信念であった。物事を客観的に判断しないで、自分の主観を絶対に正しいと妄信するから危険である〈米内覚書115〉。
この危険≠ネ松岡は訪独を焦り、二月三日の連絡懇談会に「対独、伊、蘇交渉案要綱」を提出し、三月上旬出発四月中旬帰国の予定を決めた。訪欧の主目的は、日独伊の三国が共同してソ連を三国同盟の趣旨に同調させて領土尊重を約すとともに、日ソ国交調整(北樺太の買収、ソ満国境紛争処理など)を期す、ということである。
二月十日、松岡は訪欧について天皇の裁可を得ると、オットー大使を招いてリッべントロップ外相の招待に応じて訪独すると告げ、さらに内話した。
「日本政府はシンガポールに予防的攻撃を考慮している」〈開戦経緯3─365〉
先の懇談会で陸海軍から「軽々に言質をとられては困る」〈杉山メモ上175〉と条件を付けられた上で訪独が採択されたことなど、全く無視した松岡の言動である。
しかし、すでに松岡出発の一カ月前、来栖駐独大使は独ソ関係の悪化を打電して来ていた。来栖は三国同盟が自分の頭越しに締結されたのを見て辞意を表明し、二月三日に離任挨拶のためヒトラーを訪ねると、「独ソ関係は表面上は友好的であるが……何時変化するか判らない」〈来栖三郎『泡沫の三十五年』(23年、文化書院)43〉と仄めかされた。
来栖駐独大使の報告を読んだ天皇は、二月七日に木戸に下問した。
「もし独にして近き将来ソ連と戦うが如き事態となる様なれば、我国は同盟上の義務もあり、南方に手を延ばしたる上に、又北の方にても事を構うるが如きこととなりては由々敷問題となるを以て、南方施策については充分慎重に考うるの要あるべし」
「近く松岡独伊を往訪致すべき様なれば、その機会に充分ヒトラー、リッベントロップ、ムッソリーニ等の真意をつかましむるの要あるべく、我国はとに角今春より初夏頃に起り来るべき欧州の動きを冷静に観察して対策を決定するの要あるべし」
木戸はこう奉答して退下したが、天皇の意思は明らかである。南方進出を考えるよりも、ソ連との国交調整、支那事変の終熄、対米交渉を進めることが先ではないかということだ。天皇は、今までも何度となく木戸に話している。
「(松岡は)対ソ国交調整を急がないが、どういう積りなりや」
「米国に対する見通しの充分に立ち居らざるは遺憾なり」
「支那事変はこの際戦線を整理して国力相応に調整する必要はないか」
来栖の電報に続いて、松岡が出発する直前にも、後任の大島浩駐独大使から同主旨の報告が届いた。
大島は三月一日にヒトラーに信任状を捧呈したが、このときもヒトラーは独ソ関係の悪化を明言した。
「自分は独ソ間の条約には何等信頼を置きあらず、東方へ配置したる百個師団の兵力に信頼しある」〈『太平洋戦争への道』資料編385〉
大島はすぐこれを松岡に打電したし、三月二十八日に松岡をベルリンに迎えて開かれたヒトラー主催の招待会の席上でも、大島は、ヒトラーが「ドイツは現在一五〇師団をソ連邦に対し配置しあり、もし日本を攻撃することあらば、ドイツは武力を以てソ連邦を攻撃することを辞せず」〈同386〉と断言するのを耳にした。これらの情報を見れば、ドイツがソ連に|矛先《ほこさき》を転じようとしていると判断できるはずである。
「私はいまだそれはおそらく双方のコケオドシで結局戦争にはなるまいと考えていましたが、しかしそれでも危険だと申しました」〈開戦経緯3─408〉
松岡の告白である。
一方、ドイツ側の意図は、三月にヒトラーが発した「日本との協力に関する第二十四号指令」に明示されていた。
「三国条約に基く協力の目的は、出来得る限り早く、日本を極東における積極的作戦に引入れることであらねばならない。これにより英の大軍は釘付けとなり、米国の関心の中心は太平洋に転ぜられるであろう。敵側における未だ進展していない戦争準備に鑑みて、日本側の成功の見込は、日本が早く参加すればする程大きくなるであろう。バルバロッサ工作は、このために特に好都合な政治的軍事的必要条件を提供するであろう」〈同3─371〉
つまり、ドイツのソ連攻撃と相呼応して日本がシンガポールを攻撃することで英米の大軍を太平洋に引きつけ、その結果ドイツ軍の英本土上陸作戦も可能になる、ということである。
こうして、日本はシンガポール攻撃を思わせぶりにちらつかせ、ドイツは独ソ開戦の決意を日本に秘匿し、しかも互いに相手の肚を見抜けないまま、四月十三日、モスクワに戻った松岡外相は、スターリンと日ソ中立条約を結んだ。
しかし──
松岡が日ソ中立条約を結んだ真意はもう一つはっきりしないところがある。
日本とドイツは同盟国である。ベルリンを訪れた松岡は、三国同盟締結のときの約束に従ってソ連を加えた四国協商をヒトラーやリッべントロップ外相に打診し、これに対してリ外相は、「スターリンの政策が総統の是とするところと一致しなければ、総統はソビエトを粉砕するであろう」と答えている。それを無視して日ソ中立条約を結んだ松岡のねらいは、三国同盟と中立条約をテコにアメリカとの国交調整を電撃的≠ノ図ることだったのだろうか。モスクワでスタインハート米国大使と再三接触したこと、モスクワからの帰途にアメリカから日米了解案≠ェとどいたと聞くとこの成果と勘違いして、「さあ、これでいよいよ幕が上がるぞ」と意気軒昂だったこと、さらにその後の日米交渉に対する冷やかな態度を考えると、「手ぶらで帰れない」という理由の他に、独ソ開戦があるとしても先のことと考え、その間に電撃的≠ノ日米国交調整を図ろうという意図があったのだろう。
十六年二月、ちょうど泰・仏印調停問題が一段落したころ、原田はアメリカ行きを考えていた。十五年十二月に長女の美智子がニューヨークで長男の康夫を出産したので、初孫に会いがてら、ワシントンで日米交渉のため奮闘中の野村大使を激励しようということだったが、もうひとつ原田の気持としては、西園寺が亡くなり、日々に日用品も不足し、精神動員ばかり続く国内情勢に嫌気がさしたこともあったようだ。
三月三日には西園寺の百日祭も済み、原田は渡米準備を急いだが、三月七日の夜、大磯の別邸で激しい息切れ、動悸を訴えた。脈搏が不規則で、咳嗽も続く。翌日、名古屋から勝沼博士が来診し、「高血圧病兼、脂肪心にて心衰弱を起こせしもの」と診断した。
脂肪肥満、心臓拡大甚し、プルス一二〇至、血圧一八〇─一三〇。
訪米計画も中止。肉食喫煙も禁じられ、好物の菓子、饅頭、ようかんなどの甘いものも厳禁である。
四月、五月、六月……原田は大磯で専ら療養につとめた。
独ソ開戦のヨミを日本側は誤ったが、もうひとつの大きな誤算──日米交渉がこのとき進展していた。
十六年四月十六日、ちょうど松岡がシベリア鉄道で帰国の途中、ワシントンでは野村大使とハル国務長官がウォードマン・パーク・ホテルの一室で話し合っていた。二人の前には、「ジェームズ・ウォルシュ司教、ドラウト神父、ウォーカ郵政長官が、野村大使を含めた日本側の代表との間ですすめていた非公式の話合いで四月九日にまとまった草案」が置かれていた。これが「日米了解案」として野村大使から日本政府に打電され、日米交渉の基礎となるものである。
「日本政府が……次の四原則を採用する用意と力を持っていることを、まずもって明らかにしてもらいたい」〈現代史資料36巻262〉
ハルはこう言って四原則を提示した。
一、各国の領土の保全と主権を尊重すること
二、他国の国内問題に対する不干渉の原則を支持すること
三、通商上の機会均等を含む平等の原則を支持すること
四、平和的手段による変更の場合のほか、太平洋の現状維持を妨害しないこと
「これらの四点が承認され、非公式日米了解案≠ェ正式に日本政府側から米国政府へ提案されるならば、この了解案は会談発足の基礎≠ニされ得よう。そうすれば、米国側は対策や独自の提案≠提出するであろう」
しかし、ハルが提示したこの四原則は、アメリカが「日中戦争勃発以来一貫して堅持・表明しつづけてきた国際政策原則」であり、これを呑むことは、実質的には「少くとも支那事変勃発以来における日本の東亜ないし大東亜における既成事実の全面的放棄に通ずるもの」である。しかも、ハルは、「日米了解案」について「提案の大部分は血気の日本帝国主義者が望むようなものばかり」〈ハル『回想録』159〉と失望しており、「わが政府側において、同文書中の提案に関し、いかなるコミットメントもなしたことを意味するものではない」と野村に念を押したうえ、「この案について、修正、拡大、抹消、拒否、別個の示唆、反対提案、独自提案等の自由を留保」すると明言した。要するにアメリカ政府の提案でもないし、承認したものでもないというのである。
ところが、野村大使が日本政府に打電するに際して、奇怪なことが起こった。
この「日米了解案」と称された草案は、十五年十一月にアメリカからウオルシュ、ドラウト両神父が来日し、元ワシントン駐在財務官だった井川忠雄産業組合中央金庫理事と話し合って「原則的協定案」をまとめ、その後に岩畔豪雄軍事課長が野村大使から「日華事変に通暁する人物を特派してほしい」と依頼されてワシントンに赴いて大幅に修正してまとめ上げたものである。岩畔にいわせれば、「ドラウト師、井川君、および私の三人がデッチあげた」もので、実質的には「岩畔案とも呼びうるもの」だった。ところが岩畔大佐は、この「日米了解案」を野村大使の名前で日本政府に送るとき、「これらの四点が承認され、非公式日米了解案≠ェ正式に日本政府側から米国政府へ提案されるならば」という点に触れないばかりか、「ハル長官の提案という主旨にした」〈『松岡洋右 その人と生涯』(49年、講談社)930〉(岩畔電では、「第二次試案即ち外務電所報のものは、ルーズベルトの同意を得あり寧ろ確実なるも、若し日本政府に於て蹴られたる場合、米国は立場を失うこととなるを以て、本日の会談に際し、ハルより野村大使に対し先ず東京政府の意見を聴かれ度との提案ありたる次第にして……」とある)。もっとも野村大使の電文には、「ハル長官の提案」という文言はないが、ともかくこれでは、「知らず知らずの誤り以上の対内謀略」と非難されても仕方がない。
こうして「日米了解案」は四月十七日午後から十八日朝にかけて日本に送られてきた。
「まるでタナからボタモチのようないい話なのである。満州国も承認しよう、金も貸そう、三国同盟もそのままでいい、……というようなビックリするようなものだった」
大橋外務次官は「あわてふためいた喜びようで」、閣議中の近衛首相を呼び出して、第一報を耳に入れた。近衛は暗号電報の解読が夕方に完了するのをまって、大本営政府連絡懇談会を開き、自ら了解案≠説明した。
「……日本政府の……枢軸同盟に基く軍事上の義務は……ドイツが現にヨーロッパ戦争に参入しおらざる国により、積極的に攻撃せられた場合においてのみ発動する……
アメリカ大統領が左記条件を容認し、かつ日本政府がこれを保障したるときは、アメリカ大統領は之により蒋政権に対し和平の勧告をなすべし。(イ)中国の独立 (ロ)日中間に成立すべき協定に基く日本国軍隊の中国領土撤退…… (チ)満州国承認……
日米両国はおのおのその必要とする物資を相手国が有する場合、相手国よりこれが確保を保証せらるるものとす。……アメリカは日本に対し……金クレジットを供給するものとす……
日本の欲する南西太平洋方面における資源、例えば石油、ゴム、錫、ニッケル等の物資の生産および獲得にかんしアメリカの協力および支持をうるものとす……」
これが了解案の骨子である。初めの「枢軸同盟に基く軍事上の義務」云々というのは、「積極的」とか「おいてのみ」の辞句を挿入することによって、日本を三国同盟から実質的に離脱させようというアメリカ側の意図が感じられるが、それも支那事変の一挙解決と比べれば、日本側に有利な内容である。
連絡懇談会は、「出席者が了解案の趣旨に大体賛成で会議は稀に見るなごやかな空気のうちに終え」〈大橋忠一『太平洋戦争由来記』(27年、要書房)117〉、「東条陸相も武藤軍務局長も、岡軍務局長(海軍)も大変なハシャギ方の喜びようであった」〈富田『敗戦日本の内側』140〉という。
近衛首相も「非常な乗気であった」〈木戸文書25〉。木戸によれば、「近衛公は、日独伊三国同盟がその当初の目的に反して米国抑制には失敗し、かえって日米関係が悪化しつつある事に気付き始めて居ましたので、この電報をうけとって大層喜ばれました」〈東京裁判木戸口供書〉という。
「主義上賛成」
懇談会はこんな雰囲気で、岩畔大佐から「為し得る限り無修正かつ迅速に」と言って来ているから、すぐ返電すべきという意見もあったが、大橋次官が「外相の帰るまで回訓を延期すべき旨を」主張、「それでは……」と近衛はいつになく積極的に口を挟んだ。
「私が軍艦に乗って大連まで出迎え、艦上でこの案を松岡君に示して協議することにしたらどうかな」〈大橋『由来記』118〉
一体、近衛は閣議でも発言らしい発言をせずに、「何時も手習いをして居る」〈池田『故人今人』240〉、「ポカンと口をあけて大臣達の熱弁を夢うつつに聞いている」〈富田『敗戦日本の内側』309〉のが普通だが、この日だけは大変な意気込みだった。
しかし──
日本政府は、野村の送って来た日米了解案をアメリカ政府の正式提案と受けとり、「日本側の意思表示あり次第、その大綱は一、二日中に決定する」(岩畔大佐電報)〈『太平洋戦争への道』資料編393〉と信じ込んでいたうえ、ハル四原則については全く報告を受けていなかった。さらに、ハル国務長官らのアメリカ政府内の対日強硬派の真意を掴む努力も怠っていたようだ。
「野村大使の(ワシントン)到着に先立って」というから、二月初めのことだろう、ハル長官は「大統領と共に対日関係全般と、東京との協定に達する見込について極めて詳細に検討した」。
[#1字下げ] 余は最初成功の見込は二十分の一、又は五十分の一、或は百分の一もないものと判断した。日本の過去及び現在の経歴、同国の隠れもない野心、我々が混乱に陥っている欧州に大部分の注意を払っている間、同国の前に横たわる勢力拡大の好機、及び国際関係に関する我々の見透しの間の根本的な相違は、みなかような協定の実現性を肯定するものではなかった。〈ハル『回想録』985〉
同じころ、ハル長官は、ウォルシュ神父がまとめた覚書を国務省内で検討させて、ルーズベルト大統領に報告している。
「もし我が政府の斡旋によって、日本を支那における現在の泥沼から引き出すであろうような取り決めが作り出されるならば、日本は十中八、九、現在の侵略コースを平和的方法に変更するよりは、むしろその南方侵略を拡大し加速するであろう」〈開戦経緯3─492〉
つまり、日華事変を片付けてやれば、日本はその大軍を南方に振り向けるだろう、というのである。それほどアメリカの対日不信は強かったということだろうが、岩畔らの手による日米了解案≠ェ提出されると、国務省は次のような「主旨」の驚くべき結論的態度をまとめたという。
(一) 太平洋日米共同支配、すなわち日本の中国支配と極東特殊権益承認を構想の基礎におく日米了解案は絶対に受け入れられない。
(二) しかし日本は会談の不成功が明白になるまでは行動に出ないから、それを材料として日本を会談にまき込め。
(三) そして会談に先立って、日米了解案とは根本的に矛盾するアメリカの国際政策原則、日中戦争勃発以来一貫して堅持、表明しつづけてきた国際政策原則を再び明確に表示しておき、後になって、もともと日米了解案などというものは受け入れ難いものだった、と証明できるように記録を明らかにしておけ。〈『太平洋戦争への道』6巻362〉
ハル長官が四月十六日に野村大使に示した四原則は、この決定に沿ったものである。そして、野村電報からハル四原則が脱落していたため、日米交渉はますますアメリカの思惑に嵌り込むことになる。日本側が近衛・ルーズベルト会談に幻想を抱いてしがみついたこと、十一月二十六日のハル・ノートの提出、日本がこれを最後通告と見なして戦争に突入したことなど、すべてこの筋書きどおりになったということである。
「日米交渉の最初の段階ほど奇怪なものはない。これが松岡外相と近衛首相との背反の直接の原因となるのである。日米交渉は初めより定まった運命を|有《も》って居たのである」〈重光『巣鴨日記』243〉
駐英大使だった重光葵の感想である。
日米了解案がとどいた日、外務省はもう一通、大島駐独大使から重要な電報を受け取った。
四月十日、大島大使はリッべントロップ外相から、「ソ連邦の出方如何によりては、ドイツは或は今年中にもソ連邦に対し戦争を開始することあるべし」と打ち明けられた。そこで、スターマーを呼んで確認すると、スターマーも「実は全く口外を禁ぜられ居り、この場限りのこととせられたし」と前置きして、「ソ連邦の態度如何によりては、対英攻撃と併行して速にソ連邦攻撃を行うを有利とする」〈16年4月16日付大島大使電報─『太平洋戦争への道』資料編386〉と述べたという。
「同時に東西より重要なる問題発生したることとて、これが判断は容易ならず。近衛首相の苦心察するに余りあり」
近衛から、野村、大島両大使の電報内容を聞いた木戸は、大いに同情していた。
[#1字下げ] 画期的な日米交渉が始まろうとしているところに、今またわが日本の同盟および中立締約国が相互に|戈《ほこ》を交えんとしている──世界の情勢は、まことに複雑となって来つつあった。……〈大本営機密日誌55〉
[#1字下げ] 独及米大使より独ソ開戦の可能性近きに在る長文電(独大使は故に日本は南進すべし、米大使はあく迄局外中立を守るべしと云う)来る。怪電文、情勢は誠に複雑怪奇なり。大政治家の出現を望む今日より急なるはなし。〈開戦経緯3─406〉
参謀本部戦争指導班の感想である。「大政治家の出現を望む」というのは、近衛に対する不満というよりも参謀本部の判断自体が混乱していたことを示すものだろう。
すべては、まもなく帰国する松岡外相から直接にドイツの真意を確めなくてはわからない。松岡は、三国同盟にソ連を同調させる目的で訪欧したのだし、日ソ中立条約もドイツと充分打合せたうえで結んだはずである、そのドイツが突然ソ連を討つというのは何とも不可解であるし、軍人の目には、たとえナチス・ドイツでも「英・ソ両面作戦を敢行するとは考えられない」。もし独ソ開戦が本当なら、ドイツ政府と松岡外相の間に特別の密約があるのかも知れない。軍部も政府もこう判断したようで、松岡の帰国を待ちわびた。東条陸相は、陸相用飛行機を大連まで迎えに飛ばし、近衛も大連に着いた松岡に電話して、一刻も早く帰国するように促した。
四月二十二日、松岡外相は、小雨降る立川飛行場に到着した。
「松岡君は感情の強い人だから、日米諒解案に、政府も大本営も応諾に一致したということを、初め言い出す人物によっては、その時の松岡君の気分でどう出るか判らない。私が出向いて、帰途の自動車の中でも話をすれば、案外スラスラ行くかも知れない」〈『近衛文麿』下260〉
近衛は、本来極度にものぐさなのに、「恐ろしく細かい心遣い」をして、立川まで松岡を出迎えに赴いた。
[#1字下げ] 松岡氏宣伝の妙、深く感服致候。遠からず首相の後継者となる段取の由、その景気を煽る策士政客も少からざるよう聞及候。ただ外交は固より軽業に非ず、国運の前途は頗る暗澹たるものあるやに予感せられ、焦慮致居候。スターリンが松岡氏をモスコー停車場迄見送りたりとて随喜する向あるも、小生は寧ろス氏が松岡氏を馬関辺まで見送り来らざりしを不審に覚え候……〈『幣原喜重郎』517〉
松岡外交を「児戯に類する無軌道外交」と冷笑する幣原元外相の感想である。
一方、松岡外相は、「当時世界的に日の出の勢であったヒトラーやムッソリーニと会談し、最近他国の外交官には絶えて逢ったこともないといわれるスターリンと日ソ中立条約を結び、モスクワの駅頭で、その見送りを受けて」〈富田『敗戦日本の内側』141〉意気揚々と帰って来たところである。大橋外務次官の言葉を借りれば、「欧州の独裁者と世界の視聴をそばだてつつ堂々四つ角力を取り、日本に帰って自ら独裁者となり……予め準備させておいた支那事変解決に関する妥協案を携えてワシントンに飛び、ルーズベルトと対等の資格で、ギブ・アンド・テークして支那事変を解決し、進んで英独戦の調停という大芝居を打たん」〈大橋『由来記』125〉と大いに野望に燃えているところである。そのために、モスクワでスタインハート米国大使と会談し、「対米国交調整ないしは米国政府首脳との直接会談のきっかけたらしめよう」と布石も打って来た。
「米国からの提案は、恐らくモスクワに於てスタインハートに話したことが実現したのだろう」〈近衛『失はれし政治』65〉
大連で近衛から日米了解案が到着した≠ニ電話を受けた松岡は、すっかり信じ込んだという。
立川飛行場に降り立った松岡は、上機嫌で近衛と握手すると、臆面もなく痛烈な発言をした。「総理、あなたのようではいかん。リッベントロップでもスターリンでも違うんだ」(牛場友彦氏)
近衛は目をパチクリして黙ってしまった。松岡は、近衛が辞職して後を自分に譲ると思い込んでいたようだ。戸惑い気味の近衛をしり目に、松岡はカメラの放列に向かって「帰国第一声」を済ませると、車に乗り込んだ。一緒に乗るはずだった近衛は別の車に乗り、松岡は大橋次官と一緒だった。松岡は車中で日米了解案の説明を聞き、「自分が工作した筋でないことを知って驚き、そして怒った」〈『松岡洋右』893〉という。
[#1字下げ] 松岡は当日直ぐ参内することになっているに拘らず、その前に二重橋で皇居遙拝をしたいと言い出した。勿論数十台のカメラマンの車も随いて行って、その情景を撮るわけである。松岡はそういうことに非常な魅力を感ずる人物であった。しかし近衛は、そういうことは考えただけでも、悪寒を覚える人であった。松岡と一緒に皇居遙拝している所を、ニュース・カメラに収められるという様なことは、どうにも我慢ができなかった。折角松岡と同車して、重大案件を巧みに話す心算で出て来た近衛の意図は、この騒ぎですっかり挫かれてしまった〈『近衛文麿』下261〉。
近衛側近はこういうが、松岡側は、「二重橋参拝は自動車が進行を始めてから外相が命令した」〈大橋『由来記』122〉といい、対立している。ともかく、松岡は了解案の内容を知ってから、留守中の自分を出し抜いた大がかりな策謀だと憤慨し、「いじけて、いじけて、いじけ切ってしまった」(牛場友彦氏)。
宮城遙拝──首相官邸での閣僚に対する帰朝挨拶──外相官邸での歓迎会──記者会見、と松岡は忙しく予定をこなし、午後七時半に参内・拝謁、みんなが待ちわびていた連絡懇談会には九時二十分に顔を出した。
[#1字下げ] 松岡氏は、ロレツも回らぬ位酩酊してこの連絡会議に臨んだ。そして、ヒトラーさんや、チアーノさん≠フ話をして、ひとしきり吹きまくったのである。皆の顔はいかにも不快そうに見えた〈富田同右書143〉。
堪りかねて近衛が日米了解案≠切り出すと、「この問題は支那事変処理以外に相当重大な事が含まれているから、二週間か、一ヶ月か、二ヶ月位慎重に考えなければならぬ」〈杉山メモ上200〉と言い放って、「十一時頃に一人で先に退出してしまった」。
翌二十三日の夜にも、近衛は松岡を官邸に招いて協議しようとしたが、松岡は「しばらくヨーロッパのことを忘れてから判断させてもらいたい」〈『近衛文麿』下263〉というだけだった。松岡はこの頃から「近衛首相に対して軽蔑的な行動を屡々とり」〈東京裁判木戸口供書154〉、近衛側近は「あれが一年前のなりたやさん≠ゥねえ」と呆れ果てることが多くなった。
この翌日、近衛は風邪≠ナ荻外荘に引き籠もってしまった。「国事多難の時にまたも……」という感じだが、これが近衛の習性である。ところが松岡も、止むを得ない公式行事に出席するほかは、病気≠ニ称して千駄ヶ谷の私邸を出ようとしない。出張の疲れと持病の肺結核で静養が必要だったこともあるようだが、近衛を含めて、「いささか勝手で無責任」といわれても仕方ない。
日米了解案に対する日本政府の結論は、なかなか出なかった。岩畔大佐からは、「こちらから送った魚の干物は至急料理しないと腐敗するおそれがある」と督促してくるが、松岡一人が「研究すると称し又は病気の為と称し案を進めず」〈木戸文書25〉、しかも「私邸にあって怏々として楽しまず、苦り切って吾々(大橋次官)が行っても受けつけない」〈大橋『由来記』124〉からだ。
松岡は、三国同盟と日ソ中立条約を武器にアメリカを威嚇して、「独伊首脳は勝敗は既に決まったと思っている。今さらアメリカが参戦しても何にもならない」と牽制する肚で、野村大使にも、「已に日米間直接了解提携の途なしとせば……たとえ之を圧迫脅威してもその対日開戦又は欧州参戦を予防せざるべからず」〈主要外交文書下478〉と訓令済みだ。
もっとも、松岡が日米了解案≠ノ同意したとしても、それで日米交渉が軌道に乗ったかどうかは、疑わしい。
日米了解案≠ノしても、米国国務省は「絶対に受け入れられない」という態度であり、牛場友彦氏のいうように「ちょうどいいものが出来たから、それなら日本の出方を探る意味で送ってみるか、という程度のもので、外交的に了解がついた上で送られてきたものではなかった」。
「あれは会談 conversation と云うべきなり」
日米交渉≠ェ半年以上も続いたはずの十六年十一月になって、グルー駐日大使は、東郷外相が「ワシントンに於ける交渉 negotiation」という言葉を使うと、わざわざ言い直したという。アメリカ側は、開戦に至るまでの日米交渉≠単なる会談£度に考えていた(あるいは考えようとした)ということだ。
「三国同盟を結んでおいて日米国交調整をやろうというのは、無理な相談です」〈小泉信三『私の敬愛する人々』145〉
米内前首相は断言していたが、三国同盟の骨抜きを狙うアメリカと、「支那事変は全く行詰まっており、日米の了解案により支那事変を解決し得れば好都合と考えた」〈木戸文書25〉日本との国交調整は、ハルのいうように「百分の一も(成功の見込が)ないもの」だったのかも知れない。
五月三日、松岡帰国から十日以上たって、ようやく連絡懇談会が開かれた。松岡は、「ソ連と中立条約を結んだ筋で、先ず米との間に中立条約の締結を打診し、その反響を見たいと思うが如何」〈杉山メモ上203〉と、新たに日米中立条約を提議し、また、日米了解案≠ノ対する極めて高姿勢な日本側対案を提出して、この席で決定した。
五月七日、野村大使は訓令にもとづいて、日米中立条約をハル長官に打診した。
「それは四月九日の文書に述べてある提案とは全然別の問題だ。米国政府はいまは交渉の基礎になる基本原則のことだけを考えている」〈ハル回想録160〉
ハルは素っ気なかった。ハルの言うのは、日米中立条約なんて日米了解案≠ノも入っていないではないか、まずハル四原則を認めてからでないと交渉は始まらないよ、ということである。野村は、松岡が中立条約提案の訓令とともに送って来た「オーラル・ステートメント」について、「いろいろよくないことも書いてある、お渡ししますか」と打診したが、ハルは「そっちにとっておいてもらって結構だ」と答えた。ハルはすでにその内容を知っていたのだ。
マジック>氛氓ニ呼ばれた暗号解読情報により、アメリカは十六年初めごろから、日本側の電報をほとんど完全に解読していたという。
「これらは、日本政府がわれわれと平和会議を行いながら、一方では侵略計画を進めていることを示していた。これらの傍受電報を見ていると、自分のいい分と反対の証言を行う証人を見ているような気がした」〈同161〉
ハルは回想するが、これでは日本は外交の初戦で負けていた、としかいいようがない。
続いて五月十二日に野村大使は、日本側対案をハルに提出した。五月三日の連絡懇談会で可決された外務案である。
ハルは、「今はまだ"talk"であって、交渉"negotiation"には入っていない」とことわったうえで対案を検討、「支那事変が終了したならば、日本はその兵力を以て南進をやるのではないか」〈開戦経緯3─591〉と痛烈な発言をした。対案は、日米了解案の西南太平洋に対する発展に関する事項の「武力によることなく」を削除してしまったのだから、ハルの懸念は尤もである。
米国側は六月二十一日になって、米国対案をようやく提出して来る。
五月八日、松岡は参内し、野村への回訓、ドイツに日米交渉の経緯を内報する件などを内奏、その際にシンガポール攻撃と独ソ開戦の場合の対応策に言及した。
「米国が(欧州戦争に)参戦すれば日本はシンガポールを撃たざるべからず、また米国が参戦すれば長期戦となる結果、独ソ衝突の危険あるやも知れず、その場合は日本は中立条約を棄てドイツ側に立ち、イルクーツク位まで行かざるべからず」〈近衛『失はれし政治』72〉
驚いたのは天皇だ。松岡の発言は、「ドイツの徹底的勝利を確信しているから、弱気になって対米国交調整をするに及ばない」〈開戦経緯3─573〉という信念から出ているのだろうが、これでは米ソを相手に戦うことになる。三国同盟も日ソ中立条約も、戦争回避のためのものではなかったのか!
「外相を取り代えては如何」〈近衛同右書73〉
松岡上奏の翌日、天皇は木戸に洩らした。あとで木戸は、「訪欧後の外相は余りに議論が飛躍的になって、御信任を失った」と近衛に伝えたが、十日に近衛が拝謁すると、天皇は松岡上奏の内容を詳細に語って、大変憂慮の面持だった。
近衛は、「支那事変処理の為には米国を利用する以外に途なく、従って今回の米国提案は絶好無二の機会なるが故に速に之を進行せしめん所存」と、日米交渉を積極的に進める決意を上奏した。近衛が日米了解案≠「今回の米国提案」といっているのは、米国政府が正式に承認したものと未だに誤解しているものだが、さらに近衛は重大な決意を披瀝した。
「第一、ドイツが不同意を表明し来りたる場合、第二、修正案に米国が修正を為したる場合、第三、日米了解は成立するも米国が参戦したる場合、に起り得べき閣内の意見対立、更に広くは国論の分裂に就て(考慮致しますと)……余としては能う限り円満に事を運ぶべきも、尚かつ不可能なる場合には非常の手段を用うる要あるやも知れず……」〈同73〉
近衛のいう非常の手段≠ニは、松岡外相の更迭である。天皇は「悉く御納得」になり、「その方針にて進むべし」と言葉があった。
近衛が天皇にこんな上奏をした半月後、松岡は近衛を訪ねて、痛烈な議論を展開した。
「陸海軍首脳部は、多少は独伊に不義理をしても日米了解を成立させようとしているらしいが、そんな弱腰でどうなるか」
近衛は黙って松岡を見つめた。
「米大統領の肚は参戦に定って居るのである。その場合は日米了解も何もあったものではない。その時、今のような陸海軍の態度では国民が承知せず、焼打が始まるかも知れない。何れにしても日本は英米か独伊か、態度を闡明する必要に迫られるであろう。その時外相としてはあく迄も独伊との結合を主張する決意である」〈同78〉
松岡が「対米交渉妥結は三分の公算しかない」〈大本営機密日誌58〉と公言しているのを知っている近衛は、「外相はドイツ滞在中、シンガポール攻撃などの重大な約束でもしてきたのではないか」と疑ったが、松岡のこんな態度に符合するように、オットー独大使は、日本がドイツの同意を待たないで日本側対案を米国に提示したことを「高飛車的」(近衛の表現)に非難し、「ドイツ政府は米国の参戦を抑制する最良の方法は、日本が米国の提案につき交渉するを断乎拒否せらるゝにあるべしとの見解なり」〈開戦経緯3─590〉と申し入れて来た。日本はドイツの属国か? 日米交渉の先行きはますます暗くなった。
六月二十一日 ハル長官、米国公式対案提出
六月二十二日 独ソ開戦
七月 二日 御前会議、「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」決定
七月 十八日 第三次近衛内閣成立
七月二十八日 日本軍、南部仏印進駐
八月 一日 米国、対日石油輸出禁止
六月、七月の内外の情勢は目まぐるしく展開した。
六月三日、大島駐独大使はヒトラーとリッベントロップ外相からベルヒテスガーデンの山荘へ招かれ、「独ソの関係は益々悪化し、独ソ戦争は恐らく不可避」と告げられた。
「独ソ開戦は今や必至なりと見るが至当なるべし。開戦の時期に付ては……短時日の中に之を決行するものと判断せらる」〈『太平洋戦争への道』資料編426〉
大島大使の電報を見た陸海軍当局は、沸きかえり、対策の検討を慌てて始めた。
「独ソの関係は協定成立六分、開戦四分と見る」〈木戸879〉
それでも松岡はこんな見通しを上奏したが、独ソ開戦になれば外交戦略が根本から崩壊するだけに、信じたくなかったのだろう。
六月二十一日、ハル長官は、独ソ開戦を明日と確信したうえで、五月十二日の日本側対案に対する米国対案を野村に提示した。ハルは、独ソ開戦により日本政府、とくに松岡や軍部の枢軸路線が大きく動揺すると見て、その機会を狙って対案をぶつけて来たものである。対案の内容はきびしかった。
「三国条約の目的(は)……防禦的にして挑発に依らざる欧州戦争の拡大防止に寄与せんとするもの……合衆国の欧州戦争に対する態度は……自国の安全と之が防禦の考慮によりてのみ、決せらるべきものなること……」
この項目一つを見ても、米国がドイツから「挑発」されて参戦した場合には、日本は参戦しないと確認するものである。日華事変についても、日本側が削除した和平条件を復活して、「支那領土より日本の武力を撤退すべきこと」と明記し、また、「太平洋地域」全体について「平和の維持及保全」を謳っていた。
ハル長官はこの時、オーラル・ステートメントを野村に手渡し、その中で、「不幸にして……日本の指導者の中には、国家社会主義のドイツ及びその征服政策の支持を要望する進路に対し、抜き差しならざる誓約を与え居るものある」と松岡外相を暗示し、「かかる指導者達が、公の地位に於てかかる態度を維持し、且つ公然と日本の輿論を上述の方向に動かさんと努むる限り……実質的結果を収むるための基礎を提供すべしと期待するは、幻滅を感ぜしむることとなるに非ずや」〈開戦経緯4─217〉と松岡忌避の意向を明らかにした。また、「内蒙及北支の一定地域に於て日本軍隊の駐屯を認む」ことにも否定的な意見を述べていた。要するに、満州を除く中国全土から軍隊を引き揚げろということである。
「外交儀礼としては勿論、普通個人の交際にも、紳士として全くあるまじき無礼きわまるものであった。松岡外相のやり方も適当とはいえなかったが、その怒るのも無理からぬものがあった」〈佐藤『東条英機と太平洋戦争』181〉
日本側はハルの態度をこう受けとったが、見方を変えれば、ハル長官をはじめとする米国政府の対日強硬姿勢を示しているともいえる。
「外交をやれと云うても、米との工作はこれ以上続かぬと思う」〈杉山メモ上246〉
松岡は激怒して投げ出してしまい、陸軍省の佐藤賢了軍務課長も、了解案に気乗りしていただけに、「眉に唾をつけたり、我が身をつねって見たりするような気にまでなった」〈『太平洋戦争への道』7巻199〉が、これを契機に陸軍部内には、アメリカ側の誠意を疑い、日米交渉は謀略ではないかという見方が強まって来た。
翌日は独ソ開戦である。
「ヒトラーは馬鹿をした!」〈佐藤同右書182〉
第一報をきいて真田穰一郎軍事課長は陸軍省で叫んだ。かねて期していたことではあったが、まさかという気持も強かっただけに、軍部も政府もやはりショックを受けた。
大島大使はこの朝四時にリッベントロップ外相から「今朝黒海より北氷洋に亙る全軍に攻撃を命じ、既に戦闘を開始せり」と通告を受け、またムッソリーニもドイツ軍のソ連攻撃十五分前に眠りから叩き起こされて、「人生最大の決定的決意」を通知したヒトラーの手紙を受けとった。
「どういう意味ですか」
妻の問にムッソリーニは答えたという。
「つまり戦争は負けたということだ」……〈A.&M.ミッチャーリッヒ『喪われた悲哀』(47年、河出書房新社)13〉
アメリカは直ちに「ソ連に出来るかぎりの援助を与える」〈ハル回想録149〉方針に踏み切った。『ルーズベルトと第二次世界大戦』(バーンズ)によれば、トルーマン上院議員(二十年四月に大統領就任)は、「ドイツが勝ちそうなら、われわれはロシアを援助すべきである。ロシアが勝ちそうなら、ドイツを援助すべきだ。そうすることによって、彼らにできるだけ多くのものを殺させたらいい」といったというが、たしかにアメリカでも、ドイツの勝利を予想する声が強く、「最少限一カ月、予想しうる最大限三カ月」(陸軍省)、「六週間から二カ月のあいだ」(ノックス海軍長官)、「一九四二年七月までに、白海=モスクワ=ボルガ河をつらねる全線の西方のソ連領を一切合財占領するであろうし、ソ連はその時期以後は軍事的に無力となる」〈『松岡洋右』1018〉(参謀本部)と見ていた。
さて、独ソ開戦の公電が大島大使から到着した時、松岡外相は汪兆銘南京政府首席を歌舞伎座に招待して観劇中、また木戸は風呂に入っていた。松岡は加瀬秘書官に指示して木戸に拝謁の手続きを依頼し、タオルを腰に巻いて電話口に出た木戸は、急いで宮中に向かった。
「独ソ開戦した今日、日本もドイツと協力してソ連を討つべきである。この為には南方は一時手控える方がよいが、早晩は戦わねばならぬ。結局日本はソ連、米、英を同時に敵として戦うこととなる」〈近衛『失はれし政治』83〉
松岡の上奏に驚いた天皇は、「即刻総理の許へ参り相談せよ」と命じたが、これは松岡が「近衛首相を差しおいてシベリア出兵説を唱える」と読んだ木戸が、松岡より一歩先に拝謁して、「今回の事件は極めて重大なれば充分首相と協議すべしとの意味を仰せ戴き度く、首相中心の御心構えを御示し願い度し」〈木戸884〉と上奏してあったからである。
木戸は、このところ松岡が、「もしハーケンクロイツがウラジオストックに翻えると……我国にとっては危険である。独ソ開戦となった揚合には我国は直に行動開始し、少くともイルクーツク以東を我軍で抑え、我国の勢力範囲とする必要がある」と放言するのを耳にして、「独伊を往訪して帰朝して以来の(松岡の)言動は常軌を逸するものがある」〈木戸文書125〉と警戒していた。
松岡上奏騒ぎは、その夜に近衛─松岡会談があり、翌日近衛が「外相は彼個人の最悪の事態に対する見通しを申上げた」と上奏して一応ケリがついた。しかし、松岡の対ソ主戦論はその後も主張され、オットー大使から「事件は急速に終熄すべきものと期待せらるるに鑑み、日本は躊躇せず対ソ軍事行動を起す決定を行うべきなり」と申し入れがあったあと、六月三十日の連絡懇談会でも、「英雄は頭を転回する。我輩は先般南進論を述べたるも、今度は北方に転回する」〈杉山メモ上249〉といって、対ソ開戦を強く主張した。南進か、北進か──国論は独ソ開戦で大きく揺れ、日米交渉はかすんでしまった。
「あのとき、三国同盟を解消しておけばよかった」
近衛は暫くしてつくづく後悔する。たしかに日米交渉の最大の難関は、支那からの撤兵とともに三国同盟だっただけに、近衛の気持はよくわかる。独ソ開戦は、「ソ連との外交関係調節のため日独両国とも大きな一歩を進める必要ありとの原則を破ったことになる」のだから、「首相としては、同盟を更に継続すべきや否やについてこの際慎重に考慮せねばならぬ筈」〈東京裁判木戸口供書155〉である。近衛も木戸に、「直ちにその事を研究しよう」といったのだが、松岡が「真剣に取りあげず、独外相に対して抗議の打電をしたのみ」で、ウヤムヤに終ってしまった。木戸氏はいう。
「近衛君も、ちょっと破棄をやったらよかったかなあ、というくらいのことをいった。しかしまともに検討したというまでは行かなかった。あとから述懐として、あのとき解消してしまえばよかったといったんで、政府の問題として考えたんではないね」
七月二日、御前会議は、「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」を決定した。
[#1字下げ] 帝国は世界情勢変転の如何に拘らず大東亜共栄圏を建設し……自存自衛の基礎を確立する為南方進出の歩を進め、又情勢の推移に応じ北方問題を解決す……
[#1字下げ] 帝国は……対英米戦備を整え、先ず「対仏印泰施策要綱」および「南方施策促進に関する件」に拠り、仏印および泰に対する諸方策を完遂し、以て南方進出の態勢を強化す……
[#1字下げ] 帝国は本号目的達成の為め対英米戦を辞せず……
[#1字下げ] 米国が参戦した場合には帝国は三国条約に基き行動す。但し武力行使の時機及方法は自主的に之を定む……〈主要外交文書下531〉
この席で原枢密院議長は、対ソ開戦を熱望≠オて注目された。
「……国民はソを討つことを熱望している。この際、ソを討ってもらい度い。……日本より進んで対米戦争行為を避くべきだと信ずる」〈杉山メモ上256〉
これに対して杉山総長は、「五、六十日たてば独ソ戦の見通しはつくと思う(ので)……暫く介入することなく密かに対ソ武力的準備を整え自主的に対処す≠ニなっているのであります」と説明し、南部仏印進駐に積極的な姿勢を見せた。
「現在に於ては泰仏印に英米の策動が多くなる一方で、将来どうなるかわからぬ。この際日本は今考えている施策を断行せねばならぬ」〈同258〉
結局、御前会議は原案どおり帝国国策要綱≠決定したが、果して軍部は「対英米戦を辞せず」本気で南進を決定したのだろうか。
「七月二日の御前会議は、松岡外相が非常に積極論を唱え、また陸軍も満州に兵力を集中しており、いつでも対ソ戦に乗り出すという情勢であったので、これを抑えるのが主目的であった。その結果多少代償的な意味で仏印進駐を認めた」〈開戦経緯4─188〉
近衛手記はいう。しかし、これは事実に反する。
六月三十日の連絡懇談会で松岡外相が「北に出る為には南仏進駐を中止しては如何」と提議したとき、杉山総長は永野(修身、十六年四月に伏見宮と交代)軍令部総長と協議したうえ、「統帥部を代表し断乎(南部仏印に)進駐すべき旨を表明」している。近衛も「統帥部がやられるならばやる」と述べたので、松岡も「統帥部総理に於てあくまで実行する決心なら……不同意はなし」〈杉山メモ上249〉と承服したものである。このとき松岡は、「南に手をつければ大事になる……それを総長はないと保障出来るか。南仏に進駐せば、石油、ゴム、錫、米等皆入手困難となる」と警告したが、無視された。
南進論──これは、「日本の経済は特定の致命的戦略資源に於て完全に米英ブロックに依存……国防の咽喉部を直接米英に把握せられ……」〈現代史資料43─135〉という状態を脱却しようとするものである。つまり大東亜共栄圏の建設であり、大陸の石炭・鉄に加え、南方のゴム・錫・ニッケル・石油を獲得できれば、自給体制はほぼ整う。一月二十一日の議会で松岡外相が、「蘭印、仏印等は地理的情勢その他のうえよりも我が国と緊密不可分の関係にあるべき……」〈開戦経緯4─7〉と演説したのも、蘭印の石油や錫、ゴム、ボーキサイト、ニッケルなどを欠くと自給体制をとり得ないからである。
この蘭印との経済交渉は、十五年九月に小林一三商相が特使として派遣されて石油購入の話がまとまり、続いて小林に代って元外相の芳沢謙吉が派遣されたが、蘭印側は次第に反日態度を強めて来た。ABCD包囲陣──米英中蘭四国は十六年初めころから結びつきを一層強めて、太平洋の共同防衛、飛行機などの軍事機材の供給、軍事教官の派遣などを進めていた。経済的にも、米英両国は、対日締めつけ策をとって、仏印の対日米穀輸出削減、ニューカレドニア、オーストラリア、香港からのニッケル鉱、クローム鉱、屑鉄の対日輸出禁止(または制限)を行なっている。また仏印やタイに撹乱工作をして日本の南進を食い止めようとする動きも活発である。
六月六日、蘭印は、重要物資の対日輸出量を回答してきた。日本側第一次要求と回答をみると、生ゴム三〇千トン→一五千トン、錫一三・六千トン→三千トン、ニッケル鉱一八〇千トン→一五〇千トン、ボーキサイト四〇〇千トン→二四〇千トンに減少していた。生ゴム、ボーキサイトなどが大幅に削減されたのは、日本からドイツに転送されるのを防ぐためだが、芳沢代表は七日に松岡外相に宛てて、「蘭側回答は我方の希望を若干容れたる点あれども、入国、企業、通商の問題に亙り、先方従来の主張を固持……蘭側回答をそのまま受諾することは……到底不可能……代表部を引揚ぐる外なし」〈同4─49〉と打電した。しかし、交渉打切りが石油輸入に影響することは不利である。芳沢代表は十六日に、一般通商経済関係を維持することで合意に達したうえで、会商の打切りを通告した。
しかし、これを契機に対仏印・泰施策に論議が進み、南部仏印進駐が具体的計画として検討されるようになった。それは「やがてシンガポール、蘭印に進む第一歩」〈同4─389〉である。
ところで、南部仏印進駐に対する米英の出方をどう読んでいたのか。もし全面禁輸に遭えば自存自衛上戦争に訴えるという方針は一年前から陸海軍とも確認している。
「当班仏印進駐に止まる限り禁輸なしと確信す」〈同4─395〉
したがって、「対米英戦」云々というのは、多分に「景気づけの匂いが濃かった」〈同4─470〉と大本営第二十班はいう。さらにつけ加えれば、七月二日の御前会議のあとも、参謀本部は、「一言にしていえば、対北方対南方戦略準備陣の強化案である。だがしかしいずれに対しても、まだ/\決心の時期ではない」〈大本営機密日誌67〉と慎重な態度だった。もし近衛が断乎として南部仏印進駐延期を主張したら、陸軍は北方にも関心を寄せていただけに……と惜しまれる。
七月三日 南部仏印進駐準備の奉勅命令下る。
海軍部隊は七月十六日までに三亜(海南島南部)に集結完了、陸軍部隊も十八日以降集合開始、二十四日完了
七月十四日 加藤駐仏大使、フランス政府(ビシー政権)に、仏印進駐などを申し入れ
七月二十一日 フランス政府、日本政府の要求を受諾
七月二十三日 現地軍に進駐発進の大命発せられる
七月二十八日 日本軍、南部仏印ナトランに上陸開始
南部仏印進駐準備の最中、七月十六日に第二次近衛内閣は総辞職した。理由は、松岡外相を辞めさせるためだった。木戸はいう。
「余は日米交渉の最中でもあり総辞職をなすことなく寧ろ松岡を辞職せしめよと説いたのであったが、近衛公はかくすれば恐らく松岡側は米国の注文により外相を辞職せしめたりと宣伝すべく、之は国内に与うる影響憂慮せらるるとして総辞職を決意せられた」〈木戸文書27〉
要するに、「近衛は、松岡のまわりに寄っている若い連中があばれるのを心配して、一遍やめると言ったんだ」(木戸氏)ということであるが、「松岡と会うのは嫌だ、身震いする」(牛場友彦氏談)とまでグルー米国大使に毛嫌いされた外務大臣は、日米交渉のためにも更迭しなくてはならなかったということだ。
組閣の大命は当然近衛に再降下した。第三次近衛内閣は七月十八日に成立し、外相には豊田貞次郎商工相(海軍大将)が、河田蔵相のあとには小倉正恒国務相が横すべりし、他に鉄相、厚相なども入れ替ったが、実質的には内閣改造に過ぎなかった。
この政変のころと思われる。幣原元外相は近衛に招かれて千駄ヶ谷の徳川家正邸で会見した。
「いよ/\仏印の南部に兵を送ることにしました」
「船はもう出帆したんですか」
「エエ、一昨日出帆しました」
「それではまだ向うに着いていませんね。この際船を途中台湾か何処かに引戻して、そこで待機させるということは、出来ませんか」
「すでに御前会議で論議を尽して決定したのですから、今さらその決定を翻えすことは、私の力ではできません」
「そうですか。それならば私はあなたに断言します。これは大きな戦争になります」
近衛は「目を白黒させ……非常に驚いた」風だった。
「しばらく駐兵するというだけで、戦争ではない。……それではいけませんか」
「それは絶対にいけません。見ていてご覧なさい。一たび兵隊が仏印に行けば、次には蘭印へ進入することになります。英領マレーにも進入することになります。そうすれば問題は非常に広くなって、もう手が引けなくなります。……この際思い切って、もう一度勅許を得て兵を引返す外に方法はありません」〈幣原『外交五十年』203〉
二人の会談はここで打切りになり、近衛はなにも手を打とうとしなかったが、結果は幣原のいうとおりに展開しはじめた。
七月二十五日、アメリカは対日資産凍結令を発令、翌日から発効させた。イギリスも、「仏印侵略というよりシンガポール攻撃準備だ」と受け取り、二十六日に資産凍結を発表、続いて二十七日には蘭印が資産凍結と対日輸出入制限を発表、さらに八月一日にはアメリカが石油類の対日輸出許可制を実施すると発表した。建て前では完全な禁輸ではないが、実際には石油の輸出許可が全く下りなかったから、この日以降日本は一滴の石油も英米ブロックから入って来ないことになった。
「いよいよ報復とこれに対する反撃行為との悪循環がはじまった。……その成り行きの赴くところは、不可避的な戦争しかない」
グルー大使はこのように記し、二十六日に豊田外相と会談して、本国に打電した。
「余がありのままに受けた印象は、外相を合む日本人は、いつも米国による重大な報復の可能性を割引きして考えていたこと。我々の報復は全く彼等の不意を突いたということである」〈開戦経緯4─398〉
参謀本部機密日誌も七月二十六日に「当班全面禁輸とは見ず、米はせざるべしと判断す」と記したが、八月早々にはこの頁の欄外に「本件第二十班の判断は誤算なり。参謀本部亦然り、陸軍省も亦然りしなり」〈同395〉と朱記した。誤算>氛氓サれは太平洋戦争を招く大誤算だった。
このころ、陸軍は八月下旬までに在満鮮陸軍部隊の人員を三十五万から八十五万に増強する「対ソ武力的準備」──関特演──を進めていた。独ソ開戦によって極東ソ連軍がヨーロッパ戦線に西送されてその戦力が半減したときに、武力行使に出て北方問題を解決しようという計画であり、九月初頭に作戦開始を予定していた。
「北にも支那にも又仏印にも兵力をさき、八方手を出すことになるが、支那事変処理の信念はあるか」〈同280〉
関特演に最初から反対だった天皇は「已むを得ないものとして認めた」が、石油禁輸の結果、関特演は一八〇度方向転換して南に向けられることになった。木戸氏はいう。
「十五年のノモンハン事件のあと陸軍はソ満国境のことは諦めかけていたのだが、これで決定的になったんだね。一時は関特演とかなんとかいって独ソ開戦のあと大軍をあそこに集中したんだが、あっさり下げてきたもんね。それで結局南の方へ、と陸海軍が一致しちゃったわけなんだよ。これは近衛が非常に心配していた。今までは海軍を使って陸軍のいろんなことを阻止してきたのに、今度は陸海軍が一緒になったので非常に困ると。こうなってくるといよいよ戦争になりそうで心配だ、といってね。それは実際そうなんだ」
その石油の見通しはどうか。
六月五日に海軍省内で成案になった「現情勢下に於て帝国海軍の執るべき態度」によると、十六年九月に対英米開戦として、その時点の貯油総量は九七〇万竏。供給は一年目八〇万竏、二年目二〇五万竏、三年目三七五万竏を見込む。うち、蘭印からは二年目一〇〇万竏、三年目二五〇万竏を予定し、人造油は、三〇万竏、五〇万竏、七〇万竏と見ている。一方、消費量は一年目六〇〇万竏、二、三年目各五五〇万竏、その他主力決戦のある時には五〇万竏ずつを費消する。すると、主力決戦がなくても、三年後にはマイナス七〇万竏、主力決戦が一度あればマイナス一二〇万竏になる……。
この見通しの上に、「帝国海軍の執るべき方策」が確認された(十六年六月五日成案)。
帝国海軍は左記の場合は猶予なく武力行使を決意するを要す。
(イ)米(英)蘭が石油供給を禁じたる場合
(ロ)蘭印、泰、仏印が生ゴム、米、錫、ニッケルの全面禁輸を為したる場合……〈同4─75〉
今やその時が来たのである。この「方策」に従えば、ためらわずに対米英蘭開戦を決意すべきであったが、実際はなお紆余曲折を極めることになった。
企画院は七月二十九日に、「戦争遂行に関する物資動員上よりの要望」を起草した。
「現状を以て英米等に依存し資源を獲得して国力を培養せんとするも今や極めて困難とする所にして、現状を以て推移せんか帝国は遠からず痩身起つ能わざるべし。即ち帝国は|方《まさ》に遅疑することなく最後の決心を為すべき竿頭に立てり」〈杉山メモ上103〉
開戦せよ、というのである。同じ日、永野軍令部総長は、「英米戦決意の必要」を上奏した。
「伏見前総長は英米と戦争することを避くる様に言いしも、お前は変ったか」
「主義は変りませぬが、物がなくなり、逐次貧しくなるので、どうせいかぬなら早い方がよいと思います」〈同286〉
「戦争となりたる場合……日本海海戦の如き大勝は困難なるべし」
「日本海海戦の如き大勝は勿論、勝ち得るや否やも覚つきません」〈木戸895〉
これでは、「捨てばちの戦をする」〈同896〉ことではないか。永野総長は、「天機極めて御不満にて対英米戦の不可なるをお考えの様子に拝察」〈杉山メモ上284〉して退下したが、天皇は木戸を呼ぶと、「誠に危険なり」と深く憂慮の様子を示した。
「日米国交調整については未だ幾段階の方法あるべく、粘り強く建設的に熟慮するの要あるべし」
木戸は奉答した。何とか日米交渉を成功させようというのである。
ところが──
日本軍の南部仏印進駐が明らかになった七月二十三日、ハル長官はウェルズ次官に指示して、日米交渉打切りを野村大使に伝えさせていた。
「日本の南部仏印侵略は、南西太平洋に全面的な攻撃を行う前の最後の布告だと思われる。日米交渉の最中にこういうことをしたのだから、交渉を継続する基礎はなくなったと思う」〈ハル回想録163〉
ハルは、すでに日本との戦争を覚悟したようだ。
「彼らを止めるのは武力以外はないであろう」
「要点は欧州における軍事的事態が結末をもたらすまで、いかに長く我々が事態を巧みに操縦することができるかにある」〈開戦経緯4─406〉
ハルは八月二日にウェルズ次官に語り、「それから後、日本に対するわれわれの主な目的は国防の準備のために時をかせぐことであった」〈ハル回想録164〉と後に回想している。
日本は石油の禁輸に驚き、困惑した。唯一の希望は、途絶している日米交渉を再開することである。たまたま七月二十四日に野村大使はルーズベルト大統領から、仏印中立化を提案されていた。政府はこれを手がかりに日米交渉を軌道に乗せようと、八月四日の連絡会議で、「軍隊を南西太平洋地域に於て仏印以外の地に進駐せしめざるべく……」と決めてハルに回答したが、ハルは「さしたる興味を示さず、日本が武力政策を捨てない限り会談続行の余地がない」〈近衛『失はれし政治』101〉と受けつけなかった。
八月四日、近衛は、東条陸相、及川海相を招いて、日米首脳会談の構想を打診した。四月の日米了解案≠ノ盛られてあった近衛・ルーズベルト会談を実現して、一挙に事態の打開を図ろうというのである。
「尽すだけのことは尽して、遂に戦争となるというのならば之は致し方ない」〈同102〉
日米交渉の最大の難問は、中国からの撤兵だが、軍部は到底承知しそうにない。ところが近衛は、「どんな譲歩をしても日米妥協を図る。それには直接御允裁を仰ぐという非常手段をとる」〈開戦経緯4─415〉と、なかなか悲壮な決心を固めていたようだ。聖断により中国から撤兵するということであり、木戸氏によれば、「近衛君と僕との話では、そのトップ会談で話がついたら、それを僕のところへ電報で寄こすと……、で、それを陛下に申し上げると……。陛下がそれをご嘉納になればだね、陛下のご命令で軍隊を撤兵するということなら、陛下のご命令とあらば終戦のときでも収まったからね、結局収まるわけなんだ。まあ、年を貸すぐらいのことは認めるだろうと……そう考えていたわけだ」という。
「これをやれば殺されるに決まっているが……」〈『近衛文麿』下340〉
伊沢多喜男が心配したら、近衛は「生命のことは考えない」と言い切ったという。
「この頃は見上げたものだ。あれならものになりそうだ」〈池田『故人今人』36〉
原田は、近衛が松岡を辞めさせたり、生命の危険も顧みずにアメリカヘ行くと聞いて、池田成彬や東久邇たちと、「なかなか粘りも強いし意思が強くなって来たようだ」と感心するほどだった。
「大統領との会見は速かなるべし」〈近衛『平和への努力』76〉
天皇も日米首脳会談に乗り気で、近衛を呼んで督促するほど熱を入れはじめた。
近衛・ル会談の申し入れは八月七日に野村大使に打電され、八月十七日、チャーチル英国首相との洋上会談から帰ったばかりのルーズベルト大統領と野村の間で話し合われた。
「ホノルルに行くことは地理的に困難なり。自分は飛行機を禁じられているから、アラスカのジェノアはどうだろう。日本から何日位か」
「十日間位だろう」
「十月中旬頃の気候は如何」
「その頃まではよろしからん」〈野村大使第709号電報〉
ルーズベルト大統領は、近衛との首脳会談に乗り気な様子を見せた。しかし同時に、ル大統領は対日警告文を野村に手交した。
「……もし日本国政府が隣接諸国を武力もしくは武力的威嚇による軍事的支配の政策もしくはプログラム遂行のため更に何らかの措置を執るに於ては、合衆国政府は時を移さず……必要と認むる一切の手段を講ずるを余儀なくせらるべき旨言明する……」〈野村『米国に使して』付録文書95〉
戦争警告である。野村は打電した。
「今や和戦の分岐点に臨みつつあり……官民相侯って大局を保全する様切望に堪えず」〈同96〉
であれば、近衛・ル会談だけが救いである。近衛はルーズベルト宛にメッセージを送り、野村は二十八日にルーズベルトに手渡した。
「先ず両首脳者直接会見して、必ずしも従来の事務的商議に拘泥することなく、大所高所より日米両国間に存在する太平洋全般に亙る重要問題を討議し、時局救済の可能性ありや否やを検討することが喫緊の必要事にして、細目の如きは首脳者会談後必要に応じ事務当局に交渉せしめて可なり。……会見の期一日も速かなることを希望……」〈同103〉
ルーズベルト大統領は、近衛メッセージを「非常に立派なもの」〈同101〉と賞讃し、「自分は近衛公と三日間位会談したい」〈近衛『平和への努力』79〉、会談場所はジェノアかシアトルでどうか、といっていた。
「この時が日米の一番近寄った時であったかも知れない」(近衛)〈野村同右書101〉
陸海軍も随員の人選を始めた。陸軍は、土肥原大将、武藤軍務局長、塚田参謀次長ら、海軍は、吉田前海相、岡軍務局長、近藤軍令部次長らが選ばれ、乗船は優速船の新田丸が予定された。随員の中には、中国からの撤兵を呑んでも会談を成功させたいという気持があったという。
しかし、大きな障害が生じた。ルーズベルトに会ったあと、野村はハル長官と打合せをした。ハルは、「予め大体話を纏め置きたる上、愈々両者の会見とならば、之を最終的に決定する形式と致し度」といって、撤兵問題、三国同盟問題について日本側の「確たる意向」を求めた。「大綱に付双方の意見|略々《ほぼ》一致せざる限り、首脳者会見の運びに至らざるべし」〈同108〉ということである。
「まず日本側が二階に上って美しい景色をみようと誘うと、米国側は予め如何なる景色かいえという、日本側はとにかく上ったら分ると主張する」
木戸はこんなたとえで近衛・ル会談についての日米の意見の食い違いを表現し、来栖前ドイツ大使も、「自分の見るところでは、米国側は二階に上ったところで梯子を取られはしないかと心配したのではないかと思う」〈来栖『泡沫の三十五年』110〉という。
「二階に上って」云々というのは、要するに日米の考え方の基礎の違いである。
野村大使の出発を見送ったグルー大使が、「彼は英語を話すことが、明かに得意ではない」と危惧したことは前に紹介した。この野村が「朴とつな英語」で、ルーズベルト大統領と同窓だったことだけを頼りに日米交渉に臨んだのは、余りに甘いというか、東洋的な考え方である。
同じことは、しばらくして、日米開戦の十二月八日の朝、グルー大使を招いた東郷外相が、外交交渉打切りの通告文を手交しただけで、すでに攻撃が終った「真珠湾については一言も言わなかった」〈グルー『滞日十年』下261〉ことについても言える。
「承知して居るものと考え、不愉快な出来事を更に自分から繰り返す必要はないと考え、それを既成の事実として挨拶したのであった」〈東郷茂徳『外交手記』(42年、原書房)282〉
東郷は弁解するが、グルーはこの時まだ開戦の事実を知らなかった。一年前の三国同盟の時に木戸が、「厭なことはなるべく言いたくないからね」と西園寺への報告を怠ったのとよく似ている。
これより三時間前、つまりハワイ攻撃一時間後に、ワシントンでは、ハル長官に交渉打切りを通告した野村・来栖両大使が、ハルの痛罵を浴びていた。
「交渉九カ月を通じて自分は一言も嘘言は述べなかった。五十年の公生涯を通じて、かくの如き歪曲と虚偽に充ちた文書をみたことがない」〈来栖三郎『日米外交秘話』(27年、創元社)185〉
両大使は、ハルが「アゴでドアの方を」指すのに従って、「なにもいわないで頭を垂れたまま」〈ハル回想録177〉退出した。
この朝のハルと東郷外相の対応の仕方にも、「二階に上って」と同じように、日米の基本的な考え方の差がよく表われているようだ。──
さて、参謀本部は、近衛・ル会談で撤兵問題を譲歩することになるのではないかと懸念した。
[#1字下げ] 何でもかでも、近衛・ル会談を開き、その上で事を決しようとする肚らしい。もと/\近衛総理と豊田外相の腹中は、全面撤兵案であることは明らかで、問題は支那撤兵をやす/\とは容認しない陸軍をどうして引きずって行こうかというところにあり、両巨頭会談でこの点を取極めてから、陸軍にはそれを押しつける肚であるらしい。それならばそれで、何故ハッキリとこの連絡会議で堂々の議論をしないのだろうか。〈大本営機密日誌82〉
大本営機密日誌はいう。しかし、近衛にしてみれば、全面撤兵をいえば近衛・ル会談が国内の反対で実現できないと見たのだろうし、全面撤兵、つまり日中戦争以前の状況に逆戻りするだけの決定は、巨頭会談という舞台装置なしには強行しえないと考えていたのだろう。
十六年九月──
海軍は一日を期して、「昭和十六年度帝国海軍戦時編制」に移行した。これで海軍は「有事即応の態勢」を現有することになり、十月中旬までには、対米英蘭戦争の準備が完了することになった。
三日、軽井沢にいた原田は、近衛に電話で呼び出されて上京した。
「新しい日米会談が進み、近いうちにルーズベルト大統領と会見するため、軍艦でアラスカの某所に行く予定である。陛下には、日米国交調整を非常に御心配されていたので、この日米会談の進捗に、非常にお喜びになり、ご期待されている」
だから、東久邇の協力を得られるように仲介してくれ、と近衛は頼んだ。原田はまだまだ静養が必要だったが、久し振りの近衛の意気込みと、首脳会談の準備が進んでいるという話に喜んで、翌四日十一時に東久邇邸を訪ねた。
「近衛は、自分の留守中、日米会談に対し、日本におけるドイツ第五列が活動することによって日本内地が動揺し、あるいは、陸軍部内が不一致を来たすことを大いにおそれている。それで近衛は、近いうちに殿下に会って、いろいろ話したいといっている」〈東久邇日記79〉
近衛の伝言を、東久邇は快諾した。
この午後、ルーズベルト大統領から近衛にメッセージがとどいた。先の近衛メッセージに対する返答である。
ルーズベルトは、「我等両人の協力を妨げるような観念が、日本のある方面に存在する」と指摘して、まず「基本的かつ枢要なる諸問題につき、速かなる予備討議をなして、慎重を期することが必要」〈有田『馬鹿八』185〉と返答していた。巨頭会談はその後だというのである。それとともに、米国政府はオーラル・ステートメントで、四月十六日にハルが野村に示した基本四原則──領土と主権尊重、内政不干渉、通商の平等、太平洋の現状維持──の確認を求めてきた。
これで、近衛・ル会談は一気に遠のいた感じである。
翌朝、近衛は原田に電話して、今夜東久邇と会えるように手配してくれと頼んだ。原田はすぐ東久邇に電話して、夜七時に千駄ヶ谷の松平康昌邸で二人が会う段取りをしたが、この午後、宮中では重大なことが起こっていた。
四時半、近衛は木戸を訪ねて、明日の御前会議の議案──「帝国国策遂行要領」を見せた。
一、帝国は、自存自衛を全うするため、対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に、概ね十月下旬を目途とし、戦争準備を完整す
二、帝国は右に並行して、米、英に対し外交の手段を尽して、帝国の要求貫徹に努む……
三、前号外交交渉に依り十月上旬頃に至るも、尚我が要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては、直ちに対米(英蘭)開戦を決意す……
木戸は一読して仰天した。「この日迄、何の話もなく突如として持って来られたるにその内容が余りに重大」である。聞けば、一昨日の連絡会議で採択されたという。
「こんな重大な案を陛下に突然申し上げても陛下はお考えになる暇もなくお困りになる外ないではないか」
木戸は近衛を難詰した。
「それにこの案を見ると、十月上旬と期限が切ってあるが、期限を切ることは頗る危険だ。せめてこれ丈でも変更できないか。この案では結局戦争になる外ないではないか」
木戸のいう通りである。
「いや、これは連絡会議で既に決定したことなので中止変更は困難だ。この上は日米交渉に極力努力する外ない」
近衛は、「最善の努力を尽してアメリカと和平の交渉をするから」(木戸氏談)と弁解して、天皇に拝謁した。
開戦はもちろん天皇の大権である。といっても、政府と軍部が一致して、「十月上旬頃に至るも……直ちに対米(英蘭)開戦を決意す」と決定して上奏すれば、天皇として裁可せざるを得ないが、あまりにも唐突であるし、天皇軽視でもある。
「之を見ると、一に戦争準備を記し、二に外交交渉を掲げている。戦争が主で外交が従であるかの如き感じを受ける……」〈近衛『失はれし政治』120〉
天皇は次々と下問を続け、作戦上のことにまで及んだ。当然である。開戦決意を含む上奏なら両総長も上奏しなくてはならない。近衛は「奉答が出来ないので、両総長の御召を願う」ことになり、六時に両総長と一緒に再び拝謁した。天皇の下問は鋭く、「この重大事項を一回の連絡会議で決めた」安易さを突くようだった。
「なるべく平和的に外交でやれ。外交と戦争準備は平行せしめずに外交を先行せしめよ」
「南方作戦は予定通り出来ると思うか」
「予定通り進まぬ事があるだろう。五カ月と云うが、そうはいかぬこともあるだろう」
「お前の大臣の時に蒋介石は直ぐ参ると云ったが、未だやれぬではないか」
杉山と永野総長は懸命に奉答し、近衛も口を挟んだ。
「両総長が申しましたる通り、最後まで平和的外交手段を尽し、已むに已まれぬ時に戦争となることは両総長と私共とは気持は全く一であります」……〈杉山メモ上311〉
この夜、近衛は原田に頼んだ段取り通り、松平邸で東久邇に会った。
「自分としては(日米交渉を)ぜひ成功させたいと思っている。しかるに陸軍は、本問題にたいして熱意なく、部内の意見も一致していないので困るから、殿下から東条陸相に会って、よく話してもらいたい」
近衛は力説した。日米交渉に力を入れようという意欲は見えるが、相変らずの他力本願である。日米交渉を成功させるには撤兵を陸軍に呑ませなくてはならない。ところが片方では「十月上旬頃に至るも……」と開戦期日まで決定しておき、他方では天皇の聖断にすがろうとし、そのための地ならしを東久邇に頼もうというのである。
翌六日十時、御前会議が開かれた。
この朝、天皇は木戸を呼んで、「今日は御前会議でいろいろと質問したいがどうか」と下問した。天皇は「帝国国策遂行要領」に反対なのだ。
「重要な点は原枢相が質問する筈ですから、陛下としては最後に今回の決定は国運を賭しての戦争ともなるべき重大な決定であるから、統帥部は外交工作の成功に全幅の協力をせよ≠ニの意味のご警告を遊ばすことが最も然るべきかと思います」
木戸の奉答に天皇は大きくうなずき、東一の間の御前会議に出御になった。
まず、近衛、永野・杉山両総長、豊田外相および鈴木企画院総裁から説明があり、これに対して原枢相から質問および意見が出た。
「……戦争が主で外交が従と見えるが、外交に努力をして万已むを得ない時に戦争をするものと解釈をする」
これに対して及川海相から、「書き表わした趣旨は原議長と同様にて出来得る限り外交交渉をやる。また近衛首相が訪米をも決定したのは左様な観点であると思う」と賛同の意見があり、続いて原枢相から「日米戦争に伴う米ソの関係」などの質問があった後、「帝国国策遂行要領」は決定された。
ところが、今回の御前会議では異例のことが起こった。会議の途中、「原議長の質問に対し及川海軍大臣の答弁あり、その後」〈同311〉、天皇が「突然御発言あらせられ」たのである。
「私から事重大だから両統帥部長に質問する。
先刻、原がコン/\述べたのに対し両統帥部長は一言も答弁しなかったが、どうか。極めて重大なことなりしに、統帥部長の意志表示なかりしは、自分は遺憾に思う」
天皇はこう言うと、懐中から紙片を取り出して読み上げた。
「私は毎日、明治天皇御製の
よもの海 皆はらからと思ふ世に
など波風の立ちさわぐらむ
を拝誦して居る。どうか」〈同311〉
天皇の厳然たる「外交により目的達成に努力すべき御思召」である。「満座粛然、暫くは一言も発する者なし」。やがて両総長は、「原議長の言った趣旨と同じ考えでありまして……」と奉答し、「かくて御前会議は未曾有の緊張裡に散会した」。
このあと、陸軍省に戻った武藤軍務局長は、「戦争などとんでもない」といって速記録を読み、「これはなんでもかんでも外交を妥結せよとの仰せだ。一つ外交をやらなければいけない」と部下に話すと、声をひそめて付け加えたという。
「どうせ戦争だ。だが、大臣や総長が天子様に押しつけて戦争にもっていったのではいけない。天子様が御自分から、お心の底からこれはどうしてもやむを得ぬとお諦めになって戦争の御決心をなさるよう、御納得のいくまで手を打たねばならぬ。だから外交を一生懸命やって、これでもいけないというところまでもって行かないといけない」〈開戦経緯4─556〉
たしかに、陸軍はそれから外交にも熱心な姿勢を示した。しかし、たとえ外交を一生懸命やろうとしても、「十月上旬頃に至るも、尚我が要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては、直ちに対米(英蘭)開戦を決意す」という御前会議決定がある限り、外交の猶予期間は一カ月である。とすれば、この一カ月の間に日米交渉を電撃的≠ノ成功させるだけの条件、とくに撤兵問題と三国同盟解消について、政府─統帥部の間に何らかの了解が成立していなくては、望み薄である。
企画院総裁だった鈴木貞一は、九月四日ごろの夜、ひそかに近衛を訪ねて、「こんなものを決めたら大変なことになる。辞めた方がいいですよ」と止めたという。この時、近衛は、「いや、それは最後の時に決めればいいんでね。最後の結論は戦さをやらないということに持っていくんだ」と答えた(鈴木証言)。いつもの近衛のやり方である。だが、それだからこそ、日中戦争の拡大も、三国同盟も止められずに、今また日米戦争を決定するところまで追い込まれたのではなかったのか。
御前会議の翌朝、東久邇軍事参議官は東条陸相を自邸に招いて、一昨夜近衛から依頼されたとおり、日米交渉に協力するよう説いた。東条陸相の態度は頑なだった。
「アメリカが日本に対して、支那全土から撤兵して支那事変以前の状態に復することなどを要求しようとしているが、陸軍大臣として、また日本陸軍として、支那大陸で生命を捧じた尊い英霊にたいし、絶対にみとめることはできない……」
東久邇は、「いま天皇および総理大臣が日米会談を成立させたいというのだから……」と懸命に説得したが、東条陸相は「見解の相違である」と耳をかさず、「日本がジリ貧になるより、思い切って戦争をやれば、勝利の公算は二分の一であるが、このままで滅亡するよりはよいと思う」〈東久邇日記84〉と言い捨てて、引き揚げていった。
天皇もこの決定には、よほど不満の様子だった。前日の両総長への下問にもそれは如実に示されていたが、しばらくして、天皇は東久邇に、杉山総長を辞めさせて東久邇が代ってはどうかと話した。
「陛下より東久邇殿下に直接、杉山参謀総長を辞せしめ東久邇殿下に後任になられては如何との御内話あり、予て聖上は参謀総長に対し不満の御面持であられた。東久邇殿下は御辞退被遊れた」
これは原田が十一月五日に東久邇から聞いて書き取ったメモである。
こうして近衛は、「戦略計画を中心とした国策案」を不用意に決定し、「この上は日米交渉を極力努力するの外なし」と自らを窮地に追い込むことになったが、その日米交渉は案の定、中国からの撤兵問題で紛糾を重ねた。
「陸軍が十月十五日を期し、是が非でも戦争開始と云うことであれば、自分には自信がないから進退を考えるより外ない」
九月二十六日、近衛は木戸を訪ねて苦衷を訴えた。
「九月六日の御前会議を決定したのは君ではないか。あれをその儘にして辞めるというのは無責任だ。あの決定をやり直すことを提議し、それで軍部と意見が合わないと云うのならとに角、この儘では無責任ではないか」〈木戸文書30〉
木戸は難詰したが、これを近衛に要求しても出来るはずがない。翌二十七日から十月二日まで、近衛は例によって鎌倉山の別邸に病気≠ナ引き籠ってしまった。
近衛が休んでいる間、日米両国は巨頭会談実現について最後の応酬をした。九月二十七日、豊田外相はグルー大使を招いて、「当方としては総理一行を輸送すべき船舶は勿論、陸海軍大将を含む諸随員も夫々内定し、何時にても出発しうる姿勢にあり」〈開戦経緯5─60〉と申し入れた。しかし、ハル長官の考えは変らず、十月二日に野村大使に、「米国政府としてはあらかじめ了解成立するにあらざれば、両国首脳者の会見は危険なりと思考する」〈野村『米国に使して』125〉と従来の主張を繰り返した。
また、この席でハルは長文の覚書を手渡し、改めてハル四原則≠日本が承認し、日本軍の中国・仏印からの撤退、三国同盟の死文化について日本の態度を明確に宣言するように迫った。
「少くとも先方は十月二日の書物のラインに副い我方の譲歩を要求しおる次第にて、右譲歩なき限り首脳部会見は絶対に見込みなしと観測す……」〈野村923号電報〉
野村大使は打電してきた。国内の意見も分裂し、海軍は近衛の指導力に期待した。
「米国の覚書につき、陸軍は望みなしとの解釈なるが、海軍は見込みありとして交渉継続を希望す。しかし陸海軍とも中堅は一致して強硬決意を要望す。海軍側は、首相は此際遅滞なく決意を宣明し政局を指導せられたしと要望す」〈木戸911〉
そこで近衛は、東条陸相に会って、協力を求めることにした。十月七日夜である。
近衛は、「あくまで対米交渉を成立せしめ、以て一応支那事変を解決せん」〈『近衛文麿』下395〉と考えている。
「撤兵を原則とすることにし、その運用によって駐兵の実質をとることにできないか」〈開戦経緯5─105〉
近衛は東条を説き、御前会議決定の「十月上旬頃に至るも……直ちに対米英蘭戦を決意す」の直ちに≠再検討するように、提案した。
「絶対にできない」
「人間たまには清水の舞台から目をつぶって飛び降りることも必要だ」〈近衛『失はれし政治』131〉
──東条陸相は受けつけなかった。
「対米交渉に見込みがあればおやりになるが宜しい。ただし期限は統帥部要望の十月十五日である。十五日には和戦の決定をとらなければならない」〈開戦経緯5─106〉
いよいよ近衛は、「最後の時に決めればよい」といっていた事態に直面したわけだ。陸軍は武藤軍務局長と東条が、「駐兵は最後まで頑張る。優諚があっても頑張る」〈同116〉と、天皇の命令さえ撥ね除ける決意を固めていたから、残された一週間も絶望的だ。
「政界を引退し、僧侶になりたい」〈東京裁判鈴木貞一口供書〉
近衛は無責任なことを言い出した。木戸は近衛に会って、九月六日の御前会議決定を再検討して対米開戦を回避し、「十年ないし十五年の臥薪嘗胆を国民に宣明し、高度国防国家の樹立、国力の培養に専念努力すること」にしたらどうだと勧めた。たしかに九月六日の御前会議決定を白紙に戻すことができれば、外交交渉は可能になる。しかしそれには、日米戦争は出来ない──つまり日米戦争の主役になる「海軍がこの際は戦争を欲しないと公式に陸軍に言って」くれれば、好都合である。
「撤兵問題の為日米戦うは愚の骨頂なり。外交により事態を解決すべし」〈開戦経緯5─109〉
海軍首脳部は十月六日に鳩首研究の結果、こんな結論に達しているから、これを正面切って陸軍にぶつけてくれれば、陸軍としても撤兵問題を再考せざるを得なくなる。
しかし、海軍は近衛の望むようには動かなかった。十月十一日の夜、及川海相は、近衛の意を受けて来訪した富田書記官長に返答した。富田は、「海軍として、総理大臣を助けて、戦争回避、交渉継続の意思をハッキリ表明してもらえないだろうか」と申し出ている。
「明日の会談では海軍大臣としては、外交交渉を継続するかどうかを総理大臣の決定に委すということを表明しますから、それで近衛公は交渉継続ということに裁断してもらいたい」〈富田『敗戦日本の内側』185〉
翌十二日午後、荻外荘で五相会議が開かれたが、及川海相は、「外交で進むか戦争の手段によるかの岐路に立つ。期日は切迫して居る。その決は総理が判断してなすべきものなり。もし外交でやり戦争をやめるならばそれでもよし」〈開戦経緯5─123〉と発言するにとどまった。和戦──いずれに決定するにもその責任を負いたくない、つまりゲタの預け合いである。鈴木企画院総裁は巧みに表現する。
「海軍は日米戦争は不可能であるとの判断を内心有するが、之を公開の席上で言明することを希望せず、陸軍は戦争を必ずしも望むのではないけれど、中国からの撤兵には反対し、しかも外相は中国の撤兵を認めなければ日米交渉は成立しないというのでした。従って首相が戦争を回避しうる途は、海軍にその潜在的な意向を明らかに表明せしめるか、或は陸軍に海軍の内心有する判断を暗黙の中に了解させ、日米交渉成立の前提条件たる中国からの撤兵に進んで同意させるかの何れかでした」〈鈴木口供書〉
だから鈴木氏によれば、「大東亜戦争というのは海軍の全責任なんですよ、南部仏印まで行くのは海軍が主張したんだ、上海事変の時と同じだ。十月十二日の荻窪会談でも、海軍大臣が戦さは出来ないと言えば、東条でもやっぱり止めているでしょう」と、いささか極論も聞かれることになる。
十月十六日、近衛は内閣を投げ出した。「近衛が辞める瞬間においては、争いは東条の意固地なことが原因になっていたね」と鈴木氏はいうが、東条陸相が「近衛首相と会って話すと喧嘩になるといって、近衛と直接会わず」〈東久邇日記91〉、閣内不一致──つまりは和戦に対する態度の不一致が、総辞職の原因になった。
「二千六百年、永い夢でした」〈内田信也『風雪五十年』289〉
近衛は、ルーズベルトとの会談も実らず、軍部説得にも失敗し、色紙に「夢」と大書しながら暗然と呟いていた。
原田は、九月半ばからまた大磯に引っ込んでいた。
「尊兄どこか御体によくない所があるのではないかと存じられます」〈西田幾多郎書簡集(岩波書店)10月15日付〉
西田幾多郎は原田の体調が悪いのを察して書き送ったが、原田は大磯に引っ込んでも近衛・ル会談の成り行きを心配して近衛や木戸に電話したり、池田成彬、吉田茂、西田幾多郎、高木惣吉大佐(海軍省調査課長)を招いて相談を続けていた。
九月六日の御前会議決定は、原田にも衝撃だった。
「どうも万事もうだめの様なり」〈同10月7日付堀維孝宛〉
原田は西田に伝え、西田は高木大佐に質して、「時局もいよいよここまで切迫してしまっては、もはや一戦する外に方法はありますまい」と聞くと、目の色を変えて叱咤した。
「君たちは国の運命をどうするつもりか! 今まででさえ国民をどんな目に合わせたと思う。日本の、日本のこの文化の程度で、戦さでもできると考えてるのか!」〈高木『聯合艦隊始末記』39〉
それでも十月に入って、原田は心配のあまり上京して近衛を訪ねた。
「決死の覚悟で、平和維持のために奮闘せん」〈小山完吾日記313〉
追いつめられていた近衛は、珍しく決意のほどを見せた。感激した原田は、近衛の手をギュウギュウ握りしめながら励ました。
「君がこの決心を、もっと早くつけてくれたら、時局はこれほどまでに追い込まれなかっただろう。ここは近衛内閣をなるべく長く存続させ、それがだめなら改造をしてでも、平和維持に努力することだ」
こんな約束をしたのに、近衛はあっさりと投げ出してしまった。原田はひとり大磯で政変の成り行きを見守った。政変の時に原田が自邸に居るのは、絶えてなかったことである。
十月十六日、近衛は辞表を捧呈したあと、内大臣室で木戸と話した。
木戸と近衛は、八月二日にも後継首班について話し合っている。この時はアメリカの石油全面禁輸を予想して海軍部内に対米強硬論が擡頭しはじめたときで、木戸は、「後は陸海軍をして収拾に当らしむるの外なかるべし」と述べた。
もしこの方針に従うなら、陸海軍から後継首班を選ぶことになる。木戸は、「この収拾には実に苦慮している」と長嘆息した。
「一部に声のある宇垣大将を奏請することも容易に決心がつかない、そうなれば、この間の経緯を充分に承知して居る及川大将か東条中将に担当せしめる外ない、即ち及川に担当せしむるとせば、それにより海軍をして政府に一任と云わせず自ら責任を以て自信ある方策を立てさせるか、或は東条をして彼の今日迄築きたる統制力を以て海外に於ける不測の事件を起さしめず、しかして、陛下より御命令ありて御前会議を白紙に返し更に事態を検討せしめる外ないと思う」〈木戸文書34〉
つまり、木戸は陸海軍、それも及川海相を第一に考えたいというのである。
近衛は、東条陸相を推した。
「政治的にみれば、海相よりは陸相の方が適任と思う。かつ、陸相は表面は日米交渉の継続に反対したことになって居るが、両三日来の話によっても分るように、海軍の意向がはっきりせぬ以上は、一度全部御破算にして案を練り直すということも言っている位だから、陸相が大命を拝したからと云って直ちに戦争に突入することもないと考える……」〈開戦経緯5─157〉
近衛がいう、この両三日に東条の考えが軟化したというのは、近衛が内閣を投げ出す直前に東条が木戸を訪ね、「九月六日の御前会議は癌にして、実際海軍の自信なくして此戦争はできざるなり」と語って、必ずしも日米開戦一点張りでなくなったことを指している。そうなら、近衛としても投げ出すばかりでなく、もう少し踏んばりようもあったのではないか。東条と話した木戸は、「この分ならば近衛公とも話し、今一息首相が努力すれば或は打開の途を発見するにあらずや」と考えて近衛に連絡したが、このときすでに辞表を取りまとめていたので、「機会を逸してしまった」。だから、有田元外相など、「逃げた近衛も近衛だが、逃がした木戸も木戸だ」〈有田『人の目の塵を見る』(23年、講談社)185〉と毒づくのである。木戸氏の話を聞こう。
「近衛とも話したんだけど、要するにね、海軍の方が僕もいいと思うけど仮に海軍を出したら陸軍が出さないだろうと近衛はいうんだ、陸軍大臣を。いつでも癌になるのは三長官会議の決定なんだ。それと現役の陸軍大・中将ということでね、予備からこっちが起用するというわけにはいかない。あれは広田内閣のとき、また戻しちゃったんだよ、一時予備でもいいということになっておったんだけどね。そのために、海軍じゃどうも難しいだろうと……。まあ及川か東条かということだったんだ。で、まあ及川に持って行ったって結局は組閣はできないだろうと、それじゃしようがないから、アレにしようと、東条かな、というような話でね。それでその時はもう一遍よく考えようといって別れて、明くる朝、近衛とたしか電話で話をしたんだよ。それでまあ東条にするかなといって、まあそれがよかろうというような話だったんだな」
こうして、木戸の及川案、近衛の東久邇案ともに潰れて、東条に決まった。
この夜、木戸と別れて荻外荘に戻った近衛は、興奮気味で牛場秘書官に語った。
「どうしても戦争を止めさせなくてはならん。木戸は海軍といったが、それだと陸軍は反撥するだろう。ここはどうしても統制力のある東条を起用するしかないから、東条を推した」(牛場証言)
牛場は、「毒をもって毒を制す」いつもの近衛のやり方だと感じたが、近衛はこの夜、牛場をグルー大使のもとに遣わして、「顔ぶれだけを見て落胆しては困る」と伝えさせた。
翌十七日の昼すぎ、宮中で重臣会議が開かれた。九十二歳の清浦奎吾をはじめ、若槻、岡田、林、広田、阿部、米内の首相経験者と原枢相、木戸が出席、近衛は出たくなかったので、「咋夜来病気発熱」ということにし、総辞職に至った経緯を文書にして届けた。
会議では、林から「皇族の御出馬……海軍方面より御出ましを願ったら……」と意見が出たが、これは木戸が強く反対した。
「万一皇族内閣の決定が、開戦ということになった場合を考えると……皇室をして国民の怨府たらしむる恐れなきにあらず」
林のいう皇族内閣は、東条陸相も十四日ごろから主張し、十五日には鈴木貞一総裁を通じて木戸に、「近衛首相にして翻意せざる限り政変は避け難きものと思わる……結局、東久邇宮殿下の御出馬を煩わすの外なかるべし」と申し入れがあった。近衛も一時はこれに乗って、天皇に東久邇案を上奏したりしたが、木戸は「陸海軍一致にて平和の方針と決定せるならば……」と条件をつけて退けた経緯がある。
皇族内閣が退けられたあと、若槻が木戸に、「後継内閣に対する意見を伺いたい」と問い、木戸は、東条陸相を推した。
「東条陸相ということになれば、外に対する印象は悪いと思う。外国に与える影響もよほど悪いと思わねばならん」〈木戸文書484〉
若槻は反対し、「木戸さんの考は少しやけのやん八°C味ではないか」とまで極言した。若槻は、宇垣を推した。岡田も東条案には消極的だった。しかし、宇垣案は阿部が「今日の状態ではやはり宇垣大将では仲々収拾が難しい」と反対し、木戸は「自重論である海相に担当せしむるも亦一案である」とも言ったが、これも岡田と米内が「絶対にいけない」と強く反対した。
結局、意見をまとめると、阿部、広田、原、木戸などの東条案、若槻の宇垣案、清浦の東久邇案ということになる。
午後四時、木戸は天皇に拝謁し、「功罪共に余が一身に引受け善処するの決意を以て」東条を後継内閣首班に奉答した。
この朝、朝日新聞は「有題無題」欄で勇ましく咆哮した。
「国民の覚悟は出来てゐる。ひじきの塩漬で国難に処せんとする決意は、すでに立ってゐる。待つところは、進め!≠フ大号令のみ」
こんな世論の中で、東条はよく天皇の意を汲んで、進め!≠フ大号令を回避できるかどうか。木戸や近衛は東条の動きを注視した。
[#1字下げ] 九段の祭礼なれば例年のごとく雨ふり出してやまず。此日内閣変りて人心更に恟々たり。日米開戦の噂、益々盛んなり。
十月十八日の荷風日記である。東条内閣はこの日に成立した。外相東郷茂徳前駐ソ大使、海相嶋田繁太郎大将、蔵相賀屋興宣、そして内相と陸相は東条首相が兼任した。
原田は、東条に大命降下と聞くと大磯から近衛に電話した。
「これは必ず戦争になる……」〈東久邇日記96〉
こういって電話口でオイオイ泣き出して、近衛を閉口させた。「いや、九月六日の御前会議の決定は白紙に戻すことになったから……」
近衛はしきりと説明したが、原田は、「東条内閣では必ず日米戦争となり、日本は没落する。君がもっと頑張っていればよかったんだ」といって電話を切った。
このあと近衛は軽井沢に引っ込んだ。十月末に三日ほど上京したがまた軽井沢に戻り、十一月中旬まで一カ月近くをここで過ごした。
「東条は学習院の後輩、これで大丈夫と思って軽井沢にいっている間にすっかり変えられてしまった」
結果は原田のいったとおりになって、近衛は間もなく大いに落胆するのだが、白紙還元の御諚で開戦を回避できると思い込んだり、軽井沢に引っ込んでしまうなど、近衛の態度は、「政治家としてはよっぽどいい加減な人」(岡田啓介)〈岡田回顧録195〉と非難されても仕方がない。木戸氏は面白い表現で近衛と東条の戦争責任を比較する。
「近衛が生きて東京裁判に出ていたら、広田は助かったろうね。近衛が犠牲になったろう。それはもう、ともかく近衛内閣のとき、すべての礎石は置かれたわけだよ。それで東条はそれを遵守してやったと……。いわゆる東条の三段論法でだね、単純だから、あの人は」……
ところで、近衛の辞職──東条推薦の評価は難しい。
木戸氏は、三十年以上経ったあとも、大変に深刻な、自問自答するような口調で、「どう考えてみても、僕としてはあれしかなかった」、「東条推薦は失敗だというのは、結果論だ」という(五十年七月談)。
鈴木貞一氏は、東久邇内閣だったら戦争にならなかったんではないかという。
「僕は、東久邇宮さんが総理になり、陸相に東条のような上に対して絶対に服従する人を置いたら、戦さにならなかったと思うね。陸軍大臣がしっかりしておって総理と一体になって動くということであれば、軍はそれに従って動いていく。なんといっても陛下の軍隊なんだから、国よりも、陛下ということに中心があったわけだから、陛下のご一言が、大元帥としての陛下のお言葉がこうだということになってくると、これはちょっと戦争に突っ走れないですよ。服従しない奴は大義名分でやれる、反逆者だから。ここのところが木戸さんとはちょっと違うんだね。木戸さんは、戦さをやらなきゃ、軍がクーデターをやりゃせんかと心配されておった……。
それで、近衛さんが辞めた時に武藤(軍務局長)が僕のところにやって来て、近衛さんは無責任じゃないか、支那事変をあのままにしておいて、しかも戦さをするかしないか決まりもしないうちから辞めてしまうのは、けしからん≠ニいうんだ。それで、近衛さんが辞めたんじゃ、日本を率いる人がもういないから戦さは出来ない。近衛さんで固まらないものは、もう誰が出て来ても出来ない。来春暖かくなったら満州で演習でもやるんだ≠ニ、こういっておったですよ」
つまり、東久邇内閣を持ってくるとしても、鈴木氏は天皇の戦争回避の御諚を前提にし、木戸は「陸海軍一致して平和の方針と決定」することを前提にしているわけである、しかし、鈴木氏のこの話は、参謀本部の動きを考えると、割引きする必要があるようだ。参謀本部は十七日に、主戦論を引っ込めるようにという天皇の指示、いわゆる優諚を予想して、「如何なることありといえども新内閣は開戦内閣ならざるべからず。開戦、これ以外に陸軍の進むべき途なし。……軍令部総長は戦争断行すべきを上奏し職を辞すと云う」〈開戦経緯5─163〉と開戦決意を固めており、少くとも戦争を諦める態勢ではなかった。
さて、東条を推すことになった木戸によれば、「政変の意義は……少くとも九月六日の御前会議の決定を一度白紙に返すこと」だったという。だから東条は、十七日の夕方、大命降下のあと木戸から、「国策の大本を決定せられますに就ては、九月六日の御前会議にとらわるゝ処なく、内外の情勢を更に広く深く検討し、慎重なる考究を加うることを要すとの思召であります」と聖旨を伝えられている。有名な白紙還元の御諚だ。
一方、大命を受けた東条は、予期していなかっただけに、「茫然自失の体であった」という。「しばらくご猶予を……」と奉答するのも忘れて、天皇の方から云われたくらいだった。
「白紙還元と云うことは私もその必要ありと思って居ったことであり、必ず左様せねばならぬと決心した。なおこの際、和か戦か測られず、|孰《いず》れにも応ぜられる国内体制が必要であると考えた」
東条は東京裁判宣誓供述書でいう。
近衛は、「東条内閣に代るや、米国政府は日米交渉もはや見込なしと観念したそうである」〈近衛『失はれし政治』141〉という。また、スターク米海軍作戦部長は、「次期内閣は強い国家主義で、しかも強い反米的なものになるおそれがある」と各艦隊司令官に打電したが、東条内閣成立の日、ハル長官はルーズベルト大統領に覚書を送り、「近衛の支持者であり、穏健派≠ナある東条将軍が新内閣を組織するように天皇によって指名された」と述べたという。アメリカ政府も東条の登場を必ずしも日本の開戦決意とは受け取らなかったようだ。
とすれば、木戸のいうとおり、東条内閣は「あれしか手がなかった」ということかも知れない。東条首相が現役のままで陸相を兼ね、さらに、「和と決する場合には相当の国内的混乱を生ずる恐れがあるから」内相を兼摂したことを見ると、他の候補者の方がよかったとは一概に言いがたい。
しかし、木戸氏も認めるように、東条内閣は和戦いずれをも睨んだ内閣である。白紙内閣ということは、国策再検討の結果によって開戦内閣に変わるわけである。あくまで「交渉妥結」、「和平」の立場に立てば当然これは非難されるわけだが、当時の情勢、とくに石油の輸入途絶に苦悶し、アメリカからは「十二年七月以前の状況」に戻って中国から全面撤兵せよと迫られている状況では、無条件に非戦論に徹することが国家のためであるという確信は、政府、軍部の指導者はもちろん、側近一同も持てなかったという方が、実情に近いのかもしれない。
もう一度、木戸氏の話をきこう。
「結局、もう選択の余地がなくなっちゃったんだ。政治家はみんなどこかに隠れてしまって無力でしょ、また政治家を出してきたって軍部がやっかいなんだ、三長官会議の決定で陸軍大臣を出すという制度があるでしょう、これが邪魔なんだ。自分が気に入らない内閣を持って来たら、たとえば宇垣内閣なんて考えたって、陸軍は大臣を出さないでしょう。湯浅さんが宇垣を出そうとして出し損なったでしょう。僕の代になってみりゃ、いまさら一遍しくじったものをまた推薦するわけにはいきませんよ。そうするともう他にはないんだ。結局、陛下のご命令を一番忠実に遵守するのが東条ですよ、軍人の中で。杉山なんてのは、チャランポランで始末にいかんのだ、あれは。近衛も閉口しちゃって僕に確かめてくれというくらいでね。ところが東条は生真面目だ。政治家でもないんですよ、あの人は、軍人ですよ。だから東条を持って来たんでね、おそらく他の大臣を持って来ても戦争は始まったでしょう。
東久邇さんという意見もあったがね、僕はその時に、要するに戦争は避けられないと思っていたんだ。だから戦争を皇族が始めたとなると、皇室が国民の怨府になると、だからやるんなら平民、むしろ軍人でいいじゃないかと、その方がスッキリしていると。まあ、こういうつもりだったんですよ、僕はね」
木戸は、「戦争は不可避」と考えたから東久邇をやめて東条を推したという。別の表現でもっとハッキリいうと、「東久邇さんを持っていったら、軍がみこしにしてね、いよいよ押し切って来ると見たんだ、僕は。だから戦争を皇族がやったとね……。そして戦争すれば負けると思ったんだ、僕は。だから、戦争はもう仕方ないから、何とかしてネゴシエーテッド・ピースを捉まえようという考えだったんだ、僕は。しかしそれはとうとう出来ないわけだ、世界中が戦争だから」ということである。
これが、東条推奏のときの木戸の本心だった。しかし、戦争は必至で、しかも敗戦間違いないと見たから東条にやらせたんだ、という木戸談話は、考えれば考えるほどショッキングである。
東久邇内閣案──これは、近衛が天皇に上奏して一度は内諾を得たのだが、木戸氏は、「そう思ったから僕は反対したんだよ。それを僕が天皇を操ったというなら、その通りなんだ。陛下もそこまでお考えになっていなくって、(東久邇で)よかろうと(近衛に)おっしゃったのかも知れないけどね」と事もなげにいう。いずれも興味深い証言だ。
とはいうものの、東条を推奏したとき、内大臣として木戸がなんとか戦争を避けたいと考えていたのは間違いない。十月九日、近衛が内閣を投げだす一週間前にも、木戸は、九月六日決定は「いささか唐突にして、議の熟せざるものあるやに思わる」といって、対米戦争回避を近衛に説いていた。
一方、参謀本部は──
東条登場を、「遂にサイは投ぜられたるか?」〈開戦経緯5─169〉と受けとめた。戦争内閣と直観したのだが、間もなく白紙還元内閣であることが判明し、一部では「非戦内閣というべきであろう」と見るものさえでてきた。大本営陸軍部の『機密戦争日誌』はいう。
「晴後曇の感逐次濃化し来る」
十月二十日、木戸は天皇から「内閣更迭につき余の尽力に対し優渥なる御言葉を拝し」、感激しながら、「之が唯一の打開策と信じたるが故に奏請した」と言上した。
「いわゆる虎穴に入らずんば虎児を得ずと云うことだね」
天皇も、戦争をひとまず回避できたことに満足の様子だった。
ところで、木戸が東条を選んだ理由の一つに、東条の律義な性格があった。
「天子様がこうだと云うたら、自分はそれ迄だ。天子様に理窟を述べえない」〈同163〉
東条は大命降下直前にもこういっていた。しかも重光葵(のちの外相)も認めるように、「彼が軍部を押え得る唯一の軍人であったことは確かであった」〈重光『巣鴨日記』59〉。しかし、東条のこの性格・資質が、戦争回遊の立場からいえば大きな誤算を生むことになる。
木戸氏は、「あれは事務屋で、政治家じゃないんだよ、東条というのは」、「非常に論理的な男でね、東条の三段論法というようなことをいわれた人だ」という。その「事務屋で、政治家じゃない」男が、組閣とともに、「内外の情勢を更に広く深く検討」することになったのだが、統帥部は天皇から何の御諚も受けたわけでもなく、永野軍令部総長は「内閣更迭後といえども決心変化なし」と杉山総長に語ったし、両統帥部は十月二十日に、開戦第一日は十二月八日が妥当と合意していた。統帥部には白紙還元≠フ気持がなかったのである。
国策再検討は、欧州戦局、作戦見通し、対ソ関係、船舶・主要物資の需給、財政などの各項目について、政府と統帥部が検討を進めて連絡会議の場で報告したが、前提条件は九月六日の御前会議決定と同じことである。項目や担当する部局にも大差はない。数字や理窟で論理的≠ノ積み上げて行く限り、結論にも大きな差異は生じ得ない。しかも作戦準備はその間にも着々と整えられている。
十月二十三日から連日のように連絡会議が開かれ、さらに十一月一日には十六時間ブッ通しの会議の末、出された結論は、やはり「九月六日御前会議決定そのままではないか」〈開戦経緯5─240〉と杉山総長がいうようなものになった。それも、「長期戦になるも大丈夫戦争を引受けると云う者なく、さりとて現状維持は不可、故に已むなく戦争すとの結論に落ち着」〈杉山メモ上378〉いた。事務屋≠フ東条が、開戦決意を固めた統帥部と検討を進める限り、当然に予想される結果である。繰り返しになるが、もし政変のときにあくまで避戦主義を貫こうとしたなら、東条起用は誤算だったということである。しかし、鈴木貞一氏のいうように、「木戸は、戦さをやってもいいというようには考えなかったが、戦さになる場合もあるということはハッキリ考えておった」のであって、木戸氏もそれを肯定する。
「まあ、外から見ると、軍人宰相になったんだから、戦さの心構えだと見られるのも無理はないんだね。ところが、宇垣なんかも候補としてはあったんだけど、陸軍が陸軍大臣を出さなければ、また組閣できないんでねえ。それにもう、戦争ということになればだね、どうしても軍人でやって行く外ないんでねえ……」
こうして、律義な東条は、「殆んど隔日に宮中に参内して陛下に奏上」〈木戸口供書〉、詳細な数字を用いて国策再検討の経過を報告し、天皇はそれを容れていった。
「開戦前の僕の気持としては、ひとつ峠を越したら、また峠という状態だったねえ、ウン」
木戸氏の言葉である。近衛は言う。
「天皇は戦争に御反対であったが、時には幾分かずつ開戦の方へ、近づいておられると思えることもあって、近衛の非戦論を御批判になることもあった」〈『近衛文麿』下410〉
十一月五日、御前会議は、「帝国国策遂行要領」を決定した。
「武力発動の時機を十二月初頭と定め、陸海軍は作戦準備を完整す……対米交渉が十二月一日午前零時迄に成功せば武力発動を中止す」
これに先立って、東条首相は両総長とともに拝謁し、連絡会議で決定した「要領」を、「涙を流して」〈杉山メモ上387〉上奏した。十一月二日午後五時のことだった。天皇は沈痛な面持で耳を傾けた。
「事態謂う如くであれば、作戦準備を更に進むるは止むを得なかろうが、何とか極力日米交渉の打開を計って貰いたい」〈東京裁判東条英機口供書〉
天皇は続いて開戦の場合の大義名分、陸海軍の損害見込み、ローマ法皇による戦争終結などを下問した。対米交渉に期待するが、一方では最悪の事態を気遣っているようだった。
ところで、十二月一日午前零時と期限を切られて対米交渉を進めることになった東郷外相は、撤兵問題について、仏印からは日米協議成立とともに直ちに撤兵、中国には二十五年間駐兵するという同意を連絡会議で取りつけた。その上で、甲案、乙案の二つを用意し、「従来のものに幾分筆を加えた程度の甲案」をまずアメリカに提示し、それで駄目なら、「本年七月仏印進駐前の状態に復帰すること」でひとまず協議を成立させようという乙案で行くことに決定した。この乙案は、東郷外相によれば「幣原元外相が局面収拾の方策として立案せしものなりとて、吉田元大使が持参した」〈東郷『外交手記』222〉もので、「何らかの代案を急速成立せしめ、もって事の発するも未然に防止する」〈開戦経緯5─582〉意図のものだった。内容としては、去る八月に米国の資産凍結の一喝に驚いた日本側が六日に野村大使からハルに提案して無視されたものを簡単にした程度のものに過ぎない。
「交渉としては成功を期待することは少ない。望みは薄いと考えて居る。ただ外相としては万全の努力を尽すべく考えて居る」〈杉山メモ上410〉
十一月五日の御前会議で、東郷外相はこんな悲観的な見通しを述べた。
十一月五日、御前会議のあと杉山総長は、南方作戦計画の允裁を仰ぎ、併せて南方軍の戦闘序列を規定する大陸命などの允裁を得た。翌六日、寺内寿一南方軍総司令官に、南方要域攻略準備の大陸命が下った。
「南方軍総司令官は海軍と協同し、主力を以て印度支那、南支那、台湾、南西諸島及南洋群島方面に集中し、南方要域の攻略を準備すべし」
同日、山本五十六連合艦隊司令長官も奉勅命令を受けた。
「帝国は自存自衛のため十二月上旬米国、英国及蘭国に対し開戦を予期し、諸般の作戦準備を完整するに決す。連合艦隊司令長官は所要の作戦準備を実施すべし……」
さらに、十一月十五日には宮中東溜りにおいて、陸海軍作戦当局による御前兵棋が行われた。
「近く発動を予期せらるる作戦計画を大本営陸軍部同海軍部協同して具体的に御説明申し上ぐ」るものである。
その翌々日、十七日には、いよいよハワイ攻撃の機動部隊が九州佐伯湾を出発して、待機地点のエトロフ島ヒトカップ湾に向かった。開戦予定日十二月八日に焦点を合わせて、陸海軍は南方を含む広大な地域で待機の配備をとったのである。
一方、ワシントンでは十一月七日に甲案が野村からハルに提示された。ハルは、「何等の意向」も示さず、十日に会見したルーズベルト大統領も、「不得要領」だった。そこで野村は二十日に、新たに派遣されて来た来栖大使とともに乙案を提出、二十二日に回答を促すと、ハルは「極めて不興にて、要求せらるる理由なく自分は斯く迄も努力しつつあるに拘らず、遮二無二当方諾否の決定をのみ迫らるるが如き只今のお話には失望する℃|述べた」〈開戦経緯5─464〉。
「これは非常に極端な内容のものだった……最後通告だった」〈ハル回想録169〉
ハルは乙案をこう判断したと戦後に回想しているが、乙案の内容を検討すれば、ハルの言い方はこじつけであり、暴論である。むしろ、ハルの肚も開戦に決まっていたから、こんな態度を野村にとったと見るべきだろう。ハルは、マジック情報によって、甲案、乙案の内容はもちろん、日本政府が野村宛に「本交渉は諸般の関係上遅くも本月二十五日迄には調印をも完了する必要ある処……」と指示して、交渉に期限をつけているのも承知していた。日本側は二十二日に、この交渉期限を二十九日まで延期し、「これ以上の変更は絶対不可能にしてその後の情勢は自動的に進展するの他なきに付……」と打電したが、これもマジック情報でハルは承知していた。
「その後の情勢は自動的に進展する」──これは、交渉打切り、開戦を意味する。
十一月二十六日午後五時、ハルは野村・来栖両大使を招くと、日本に交渉を断念させるための新案≠手交した。
「合衆国及日本国間協定の基礎概略」──いわゆる「ハル・ノート」である。
[#1字下げ] 日本国政府は支那および印度支那より一切の陸、海、空軍兵力および警察力を撤収すべし。
[#1字下げ] ……臨時に首都を重慶に置ける中華民国国民政府以外の支那に於ける如何なる政府もしくは政権をも、軍事的、政治的、経済的に支持せざるべし。
[#1字下げ] ……第三国と締結しおる如何なる協定も、同国により本協定の根本目的、即ち太平洋地域全般の平和確立および保持に矛盾するが如く解釈せられざるべきことを同意すべし。
要するに、中国・仏印から全面撤兵し、三国同盟も骨抜きにしろというのである。他に、日、米、英、支、蘭、ソ、泰の七カ国の多辺的不可侵条約など、春の交渉開始以来のアメリカの主張が盛り込まれていた。
「我国としては四年間の今次事変が全く無益に帰することとなる……」〈来栖『日米外交秘話』146〉
野村と来栖は反駁したが、ハルは多くを語らなかった。
日本側は、ハル・ノートを受けとると二十七日の午後に連絡会議を開いたが、「一同、米国案の苛酷なる内容には唖然たるものがあった」〈東条英機口供書〉という。これでは、「明らかに日本に対する最後通牒」と受け取らざるを得ない。
「内容は満州事変前への後退を徹底的に要求しあり。その言辞誠に至れり尽せりと言うべし。……今や戦争の一途あるのみ」
参謀本部機密日誌はいう。
東郷外相も、「長年に渉る日本の犠牲を全然無視し、極東における大国たる地位を棄てよと云うのである。しかし、これは日本の自殺と等しい」〈東郷『外交手記』253〉と受け取った。のちに東京裁判でインド判事R・パールは、「同じような通牒を受け取った場合、モナコ王国やルクセンブルグ大公国でさえも、合衆国に対して戈をとって起ち上がったであろう」、「自由主義的な内閣であろうと」〈『パール判決書』(41年、東京裁判刊行会)611〉同じ行動をとっただろう、という意見を開陳した。たしかに、ハル・ノートの内容の厳しさは、外交交渉の可能性を完全に打ち砕くものである。
ジョン・ガンサーは『回想のルーズベルト』の中でいう。
「日本軍の真珠湾攻撃は、アメリカの政策が、日本国民を自暴自棄に駆りたてたために行われたものである」〈ジョン・ガンサー『回想のルーズベルト』(25年、六興出版社)下239〉
十二月一日──御前会議。対米英蘭開戦の聖断下る。
いよいよ開戦である。「聖断」をめぐる話を聞こう。
「この戦争は私(天皇)が止めさせたので終った。それが出来たくらいなら、なぜ開戦前に戦争を阻止しなかったのかという議論であるが……」
開戦の聖断について戦後いろいろと議論が起こったとき、天皇は藤田尚徳侍従長に語った。
「そうは出来なかった。申すまでもないが、わが国には厳として憲法があって、天皇はこの憲法の条規によって行動しなければならない。……内治にしろ、外交にしろ、憲法上の責任者が慎重に審議をつくして、ある方策を立て、これを規定に|遵《したが》って提出して裁可を請われた場合には、私はそれが意に満ちても、意に満たなくても、よろしいと裁可する以外に執るべき道はない。もしそうせずに、私がその時の心持次第で、ある時は裁可し、あるときは却下したとすれば……これは明白に天皇が、憲法を破壊するものである」〈藤田尚徳『侍従長の回想』203〉
この天皇の言葉に対して、高木惣吉少将は、「重大な点が欠けている」〈高木惣吉『私観太平洋戦争』(44年、文藝春秋)122〉と反駁する。
──事は「開戦、終戦というような重大事」である。明治天皇の時代、山本権兵衛海相が戦時大本営条例の改正案を奏請したとき、五年の長い間、幾度奏請しても、考えおく≠フ言葉だけで裁可にならなかった前例もあるではないか、開戦についても考えおく≠ニいうことで裁可しなければいいじゃないか──。高木は次のようにも言う。
「一国国政の最高責任者は、国利民福のためには、危難にのぞんで憲法違反の責を負うて断頭台に登る覚悟と勇気とを願うものである。……現に陛下が満腔の不安を懐いたまま守り通された明治憲法は、戦後紙屑のごとく破棄されてしまった」〈同123〉
「終戦のとき御聖断を仰いだのだから、開戦の時に近衛か東条が最後の決定を陛下に仰ぐようにすればよかったじゃないか」
これが高木惣吉氏の意見だ。また、鈴木貞一氏も、「陛下がピシャッとおっしゃれば流れは変わった」と言う。
「戦争か、戦争をやめるかという時期の決断というものは、それは流れに従うことは誰でも出来るんですよ、馬鹿がやっても出来る。そうじゃなくて流れに逆らってピシャッとやることは、これはもう余程の力でなくてはならない。その力はね、日本には陛下以外にないんですよ。ただ、問題はね、陛下がそれをおっしゃらなかったのは、陛下のね、政治に対する本来の慣わしですね、軽々にものをおっしゃるものじゃないと──。だから僕にいわせれば、その時に木戸さんでも近衛さんでもね、そろって陛下のお言葉を戴かなくてはどうしても戦さは止まらんとね、いうことになればね、これは陛下はおっしゃるですよ、側近がみんなそういうんなら。しかしそれがなかった。政府からもなかった……」
これらの意見に対して、木戸氏はまず、「高木君は米内の懐刀でね、なかなかいいんだが、やっぱり|読み《ヽヽ》は浅いね」と論駁する。
「今の陛下の時勢と、明治天皇の時勢をごっちゃらかにしている言い方でね……。明治天皇のあの頃は、世界中どこも皇帝がいた時代でしょ、それでほとんど独裁でやってた時代だ。その時代と、ほとんど皇帝とか天皇とかがなくなった世界とは同じに考えられないし、それから陛下のご性格もあるんだ。だから、その時の空気と時勢と陛下の性格とみんな組み合わされて出来上がって来ているわけだ、時代はもう変わっちゃっていたしね。明治天皇のようにだ、強い大酒飲みのご性格とはちがうんだからなあ……。それに開戦の時には日本の軍備が溢れんばかりになっておって、そこへ持って来てハル・ノートみたいなものを突きつけられた。そういう空気と、もう終戦ですっかりへばっちゃって、日本が潰れるかどうかという時期とだ、それを同じに考えて言うのは、どうかしているよね」
木戸氏は、鈴木貞一氏の発言についても、「鈴木という男は、まあ白を黒と言い替えることのうまい奴でね、物動計画なんてのをあれはやっていたけど、戦争は出来ると言ってみたり、出来ないと言ってみたり、しょっちゅう変わっていた。やらないという空気になるとやれないというんだ。やろうという空気になって来ると、やれるというんだよ、貞一は。それに相当のハッタリ屋でね、あれは」と苦笑しながら、反論する。
「一度は、白紙に戻せ、考え直せ、調べろとおっしゃっても、再度もってくるとやはり裁可になるということに一応|懐《なつ》けられているからね。また、それでなかったら、まるでカイザーやヒトラーみたいになってしまうんでね、自分一人の責任になってしまう。だから結局、日本の政治は内閣の輔弼によって行われるということを守っておられるわけだ。だからむしろ、陛下は終戦の時に自分で裁断されたことを誤ったと思っていらっしゃるらしいんだ、ウン」
要するに、国体護持をどう考えるかの問題だということである。
十二月八日午前七時、ラジオは開戦の臨時ニュースを伝えた。
「帝国陸海軍は今日未明西太平洋に於て米英軍と戦闘状態に入れり」
この日、東京は「珍しく好晴」だった。
朝七時十五分に木戸は出勤した。赤坂見附から坂を上り、平河町の以前の原田の家の前まで来ると、前方、皇居の森の右上に朝日が赫々と昇って来た。ハワイ空襲の成否は?──木戸は「思わず太陽を拝し瞑目祈願」した。
文学者で大政翼賛会文化部長の岸田國士は、「やっぱりモヤモヤが取れて、すっきりした思いがする」〈酒井『昭和研究会』255〉といった。たしかにいままで長い間鬱結していたものが吹き払われて、国民の顔がパッと明るくなったのが印象的だった。長與善郎は言う。
「生きているうちにまだこんな嬉しい、こんな痛快な、こんなめでたい日に遭えるとは思わなかった。この数日と言わず、この一、二年と言わず、我等の頭の上に暗雲のごとくおおいかぶさっていた重苦しい憂鬱は十二月八日の大詔渙発とともに雲散霧消した」
しかし、松岡や近衛の気持は暗かった。この日、松岡は千駄ヶ谷の私邸で、病にやつれた眼に涙をためながら、駆けつけた斎藤良衛に語ったという。
「三国同盟の締結は、僕一生の不覚だったことを、今更ながら痛感する。……事ことごとく志とちがい、今度のような不祥事件の遠因と考えられるに至った。これを思うと、死んでも死にきれない」〈斎藤『欺かれた歴史』5〉
斎藤良衛の伝えるこの松岡の言葉は、ちょっと出来すぎのようだ。終戦間近、二十年八月十三日に松岡は病を押して東久邇邸を訪ね、徹底抗戦を力説した。
「わが国はポツダム宣言を受諾するとのことであるが、これはわが国を滅ぼすことになるので絶対にいけない。……わが国を救う道は、戦争を継続し、本土決戦を決意して、死中に活を求めるよりほかに方法はない」〈東久邇日記201〉
この発言を見ると、やはり松岡は、原田が嘆くように「昨日の話を、馬耳東風と聞き流すような男」〈原田2─270〉であったし、木戸氏が苦笑するように「松岡はいろんなことを言うんだよ、言うたびに変わるんだ。それでどこが真意かわからん」ということなのだろうか。
近衛は開戦のニュースを箱根湯本の別荘で聞き、東京に向かう自動車の中で実に渋い顔付きで呟いていた。
「……山本(五十六)君の気持としては緒戦に最大の勝利を挙げ、その後は政府の外交手腕発揮に待つというのが心底らしかったが……」〈内田『風雪五十年』296〉
宮中で近衛は松平恒雄宮相に会った。
「だまし討ちなら誰だって勝つよ」(牛場友彦氏談)
外交官出身の松平は、シラケ切ったことを言っていた。
そして、山本五十六は、ハワイ奇襲作戦は「桶狭間とひよどり越と川中島とを併せ行う」ものだといっていただけに、その成功を喜びながらも冷静に構えていた。
「寝込を襲うての一撃などに成功したりとて賞めらるゝ程の事は無いと恐縮に候……」〈反町栄一『人間山本五十六』(53年、光和堂)468〉
山本は十二月二十七日に郷里長岡の上松蓊に宛てた手紙でいった。十二月十九日付で、山本は原田にも書き送った。
「……昨夏三国同盟の締結により、既に今日あるを覚悟して憂心措く能わず、開戦劈頭の作戦計画は昨年十二月決定……幸に天佑天皇の御上に在り、開戦当初の戦果|概《おおむ》ね順当なるは幸運尚お皇国を護るが如く被感候、此際特に自粛自戒、奮励御奉公致度覚悟に御座候……」
そして、日本が開戦したこの時、モスクワまで三十二キロに肉迫していたドイツ軍は、厳寒の訪れとともに始まったソ運軍の反攻を受けて、総退却を始めた。それは、あたかも日米戦争の将来をも暗示するような出来事だった。
[#改ページ]
第十二章 終戦をめぐって
──近衛と原田の死──
開戦のあと、原田の心は楽しまなかった。山本五十六とは親しかっただけにハワイ作戦の成功を祝福したが、原田は、もっぱら出征した身内や知人の身の安全を心配しているようで、里見※[#「弓+享」、unicode5f34]のいう「ゴム毬ほどにも円く」、「およそ陰影というものに縁のない顔」〈里見※[#「弓+享」、unicode5f34]「原田文書に関する記録」〉も、かつてない深い悲しみに沈んでいた。
「アメリカなんかにとてもかなうもんじゃないよ。なんだってあんなことを始めるか、実際バカだよ、トンチキだ」
十七年一月十四日、原田は母親照子の二十三回忌の記念午餐会を上野精養軒で開いた。
今までも毎年命日には木戸や近衛や長與などを招いて母親をしのんで「椿会」を催していたが、二十三回忌ということで、近衛、木戸、長與、織田、松平、有島、里見、高木など知人、縁者が家族ともども多勢出席した。
木戸は、学習院時代に裏猿楽町の西洋館に招かれたときの懐旧談をひとしきりやった。長與も話し、原田も挨拶かたがたユーモラスな思い出話をして、楽しい午餐会だったが、近衛ひとり、どこか浮かぬ風情だった。
この年の元旦──
木戸は、「一天雲もなき日本晴にて暖かく、真に戦勝の元旦と云うにふさわしく、殊に心気清爽なり」と緒戦の勝利に大いに気をよくしていた。宮中では恒例の年賀式があり、閣僚、枢密顧問官、軍事参議官などが続々と参内したが、このとき「枢密顧問官の老人連中までが逆せ上がってしまって」近衛にこんな挨拶をした。
「近衛さん、惜しいことをしましたネ。あなたにこの戦績の栄誉を担わせたかったんだが……、いや実に惜しいことをした」〈内田『風雪五十年』297〉
あとで近衛は、「全く返事の仕様がなかったですヨ。あの連中までもやはりこのまゝ勝つと信じているのですかナ。来年の年賀式には何と僕に挨拶することだろう」と呆れ果てたが、近衛はこんな戦勝が一年も続くとは信じていなかった。
「今なら勝てる」──
開戦前に統帥部の責任者は強調した。たしかに開戦とともに日本軍は破竹の進撃を続け、十二月十日にはシンガポールを基地にしていたイギリス東洋艦隊の主力戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスが日本機の集中攻撃によって撃沈された。極東におけるイギリスのもう一つの拠点である香港も、十二日に九龍半島が陥ち、香港島のイギリス軍は二十五日に降伏した。明けて一月二日にはアメリカの支配下にあったフィリピンのマニラも陥ち、またマレー半島を一気に南下しつづけた日本軍は一月三十一日に最南端のジョホール・バルーに到達して、シンガポール島を指呼の間に望んだ。ビルマ作戦、蘭印作戦も快調に進んでいる──。
「余り戦果が早く挙り過ぎるよ」〈木戸949〉
天皇もニコニコと御満悦だった。
一月三日、小山完吾は荻窪の路上で、車に乗った近衛に出会った。
「戦いは大勝利で結構でした」
小山は挨拶した。「まあよかった」と返事があるものと思ったのに、近衛は「なんとなく浮きたたぬ、ちょっと、戸まどいの態」〈小山完吾日記278〉で、口をにごしたまま走り去った。
一月十三日、小山はまた近衛に会った。近衛は「戦争の前途を悲観」している様子で、「日米交渉の経過を追想して、いく度か平和の機会を逸して、今日にいたりたることにつき、ふかく責任を感じ居る」〈同281〉ようだった。
「いまにして思えば、独ソ開戦の節、日独同盟の脱出をはかればよかりしとも思う」
「バイヤスの著にもあるとおり、結局、われわれシビリアンは勇気不足……」
近衛は小山に嘆いたが、そんな心境だったから、十四日の原田たちとの席でも、近衛は陰鬱な表情だった。
一月二十日、近衛は木戸と会食し、戦争終結の時期を早く考えるべきだと強調した。続いて二月五日午前十一時、勝田龍夫(著者)は原田の伝言をもって、木戸を内大臣府に訪ねた。松平秘書官長が同席した。
原田の木戸への言づてはこんな内容だった。
日露戦争のとき、満州軍総司令官に親補された大山巌元帥は、山本権兵衛海軍大臣を訪ねて頼んだという。
「いったいこの戦の、勝負はどこまで行ったらつくものか、この軍配の揚げかたを決めるのが、なかなかむつかしいところと思われ申す。領内の狭き国にて、たちまち城下の盟をさせられるような相手ならば、軍配を揚げる必要もないが、ロシアのごときはそうはいき申さん。軍隊はただ進んでさえいればそれでよろしかろうが、国家というものはそうはいき申さぬ。時と場合を見きわめて局を結ばねばならぬことは、いまさらいうまでもないことでごわす。……およそ連戦連勝という場合には、国民全体が、みな勝つことのみを知って負けるということを想わず、有頂天となって手の舞い足の踏むところを知らず、という状態になりがちでごわす。このような場合に軍配を握るということはまことに大役で、一身を犠牲にする覚悟がなければできぬものにごわす」〈江藤淳『海は甦える』(51年、文藝春秋)2巻419〉
大山は戦場に赴いても戦局の将来に悲観的な見通しを抱いていて、奉天大会戦中のある朝には、息せき切って報告に駆け込んで来た参謀に、茫乎として、「今日も戦さがごわすか?」と冷水を浴びせかけたりしたという。
同じころ、大山の下で満州軍総参謀長だった児玉源太郎大将は、「戦争を始めたものは戦争を止める技倆を有せねばなりませぬ。貧乏国がこの上戦争をつづけてはなにになりますか」〈同447〉と政府と軍の首脳に口を極めて進言していたという。
勝田は原田からの伝言として、こんな話を木戸に披瀝した。木戸とて、この程度の話は知らないわけではない。ウン、ウンと頷きながら耳を傾けていた。まもなく、「陛下からお呼びです」といわれて、木戸はフロックコートを身につけて奥へ入った。
十一時三十五分、天皇に拝謁した木戸は、早期和平の必要を上奏した。原田の伝言や近衛の進言が契機になったのかも知れない。
「大東亜戦争は容易に終結せざるべく、結局建設を含む戦争を徹底的に戦い抜くことこそ平和に至る捷径なり……」
このとき木戸は、「結局は国力の相違がものをいう時の来るは必至なれば……一日も早く機会を捉えて平和を招来することが必要……」〈木戸文書44〉とも上奏したと戦後に記しているが、しばらくして十日に東条首相は天皇から戦争終結の時機を考えておくようにと言葉をうけた。
「戦争の終結につきては機会を失せざるよう充分考慮しおることとは思うが、人類平和の為にもいたずらに戦争の長びきて惨害の拡大し行くは好ましからず。……南方の資源獲得処理についても中途にしてよくその成果を挙げ得ないようでも困るが、それらを充分考慮して遺漏のない対策を講ずる様にせよ」〈木戸945〉
木戸によれば、これは「私が陛下に申し上げたことを深く御考えになった上、進んで御話になった」〈木戸文書127〉というが、この天皇の指示も勝利に酔う東条首相にはあまり効果がなかったようだ。開戦とともに防衛総司令官に就任した東久邇が、勝ちに乗って戦線を拡大しすぎないようにと注意したときも、東条は「この調子なら、ジャワ、スマトラはもちろん、オーストラリアまでも容易に占領できると思う。この時機に和平など考うべきではない」〈東久邇日記106〉と答えていた。
その五日後の二月十五日にシンガポールが陥落した。開戦時の予定では三月十日だったから、ずいぶん早い。
「皇軍の神速果敢なる行動により、かくも短時日の間にシンガポールを陥落せしめたるは真に感激の至なり」
木戸も、十日前に「結局は国力の相違がものをいう時の来るは必至」と上奏したことをすっかり忘れたかのように記している。
「次々に赫々たる戦果のあがるについても、木戸には度々いう様だけれど、全く最初に慎重に充分研究したからだとつくづく思う」
天皇も「天機殊のほか麗しく」木戸に話し、木戸は「感泣」していたから、早期和平など、だれも言い出すものがなくなってしまった。近衛や原田がせっかく木戸を説いて天皇から東条にすすめた「戦争の終結」も、すっかりかすんでしまった。
「マライや南洋人を相手に勝っているだけのこと……先日も企画院の鈴木君と会ったら、ゴムが余って仕方がなくなるから、ゴムの箪笥や文庫でも作らなければならなくなるだろう、というような話だったが……後が心配だ」〈木舎『近衛公秘聞』89〉
近衛はシンガポール陥落の報にも浮きたたず、書生の塚本義照が記念の色紙を乞うと、「何がめでたいものか」と吐き捨てるようにいっていた。
近衛の他にもう一人、苦り切っていた男がいた。元英国大使の吉田茂だ。
「こういうことは武士のすることではない。いまに自分がこういう目に会う」
山下奉文第二十五軍司令官が英極東軍司令官パーシバルに無条件降伏を迫る写真が新聞に載ると、吉田は坂本喜代子に洩らした。
三月九日にはジャワ島が占領され、これで第一段作戦は概成された。
「近衛という人も不運な人だねえ」
四月七日に華族会館に行った近衛は、枢密顧問官の石塚英蔵が華族の老人達と、自分を|さかな《ヽヽヽ》に盛んにオダを上げているのを耳にした。
「あのまま軍部の要求した通りに戦争をやっていたら、いま頃は神様のようにいわれているんだが、決断が出来ぬばかりに、折角苦労しながらバカな目をみたものサ。一体あの人の悪いのは本を読むことだよ。本を読むと右顧左眄して決断が出来なくなるんだねえ。そのために、日本一の馬鹿者になってしまった……」〈同193〉
さすがの近衛も目を白黒していたが、特権階級を笠にきた国士気取りが今までも時局に便乗して勝手に煽り立て、それがどれほど社会の冷静な判断を失わせることになったか、近衛は身にしみて思い知らされている。
永井荷風は「元来日本人には理想なく強きものに従い其日々々を気楽に送ることを第一となすなり」〈荷風日記16年6月15日〉という。この荷風の十六年六月二十日の日記は、ちょっとしたものである。
[#1字下げ] 余はかくの如き傲慢無礼なる民族が武力をもって隣国に寇することを痛歎して措かざるなり。米国よ、速に起ってこの狂暴なる民族に改悛の機会を与えしめよ。
庶民の中にも戦争に鋭い批判の目を向けるものがいた。
「日本は支那や米英と戦って勝っているというが、後には敗戦する。それは日本には物資が不足しているからだ」〈16年12月10日、東京渋谷の陸軍貯水場土木工事現場での一土工の発言〉
「今度のシンガポールの陥落こそは日本の大勝ではなくてむしろ敗け戦であろうと思う。米はなし、食糧品はなし……」〈17年2月15日の都新聞校閲係の警視総監宛投書、いずれも稲垣真美『天皇の戦争と庶民』(50年、国書刊行会)による〉
六月に原田は、西園寺の遺墨を複製して、同時期に刊行された『西園寺公追憶』(中央大学発行、駿河台の西園寺邸の写真を中心に、関係者の追憶談などをまとめたもの)と一緒に親しい人々に配った。
[#2字下げ]静夜有佳光 間堂乃独息 念身幸無恨 志気方自得 楽哉何所憂 所憂非我力
西園寺が没してまだ一年半、日本は西園寺がもっとも憂えた方へ大きく走った。所憂非我力──「同公晩年の心事を偲び、無量の感慨を相催し候」〈『幣原喜重郎』529〉と幣原元外相は嘆じた。
初夏に入り、近衛は軽井沢へ移った。原田は、高山樗牛の作品でも読んだのか、感想を手紙で送り、八月一日に近衛も返書した。
「御手紙正に拝受、今も尚樗牛に感傷する貴公の若さに羨望を禁ずる能わず。小生の如き最近殊に腰痛以来心身共に老境に入りしか、起きるに|懶《ものう》く動くに懶く只ベランダの籐椅子に凭りて、白雲の去来と樹間を飛びまわる尾長鳥や|栗鼠《りす》を眺めて茫然と致し居候。一年来ぬ間に庭の樹木繁茂、殊に楡の木最生育、そこで句あり。
[#2字下げ]楡に来て遊べる栗鼠や夕立晴
池田翁は日光の由、山下翁によろしく御伝願上候」
前に触れたように、近衛が「西園寺公は強い人であった……識見といい、勇気といい、やっぱり偉い人であった」〈『近衛文麿』下106〉と洩らしたのは、この時のことである。
ところで、原田には気懸りなことが一つあった。口述速記を高松宮に預ける件である。
八月に入って、里見※[#「弓+享」、unicode5f34]は原田から電話で、住友本社に来るように連絡を受けた。里見が住友本社へ行って、「原田の用件一切を弁じる」益田兼施と雑談していると、原田が大きなトランクを二個運ばせて来た。
「この夏は軽井沢に行くつもりだけど、気になるから、その前に、こいつをひとつ君にやっといて貰おうと思って……」
原田は里見に早口で説明した。
「ずうっと以前から、軍の一部では、俺の手記について頻りと気に病んでいるのだが、次第に、なんとかして奪い取り、焼き捨てて了わなければいかん、という気勢が|亢《たか》まって来ている。奴等のことだからいつなんどき何を仕出かすかわからず、やる段になれば、こゝの地下金庫だって決して安心とは言えない。そこで、高松宮さんに保管をお願いし、快く承知して頂いたから、君と益田とで、全部このトランクに詰め込み、社の自動車で宮家へ届けてくれないか」〈里見「原田文書に関する記録」〉
原田が口述した原稿は、近衛泰子女史が速記を浄書して原田から西園寺に見せたもの、里見※[#「弓+享」、unicode5f34]が一昨年秋から取りかかっている文章整理作業のため一行おきに書き直したもの、それの浄書など合わせて二万枚に達する。それが原田の持って来た大きなトランク二個にピッタリ納まった。
「まぐれ当りにせよ、原田の勘はいいね」
里見と益田は妙なことに感心しながら、トランクを高松宮邸に運び込んだ。原田からは、「宮さんの方には、君のこともよく話してあるから、あっちへ行って今までどおり仕事は続けて貰いたいんだ」と話があったが、里見は「宮家とは、聞くだに気が重く」、文豪の手によるこの改訂作業もわずかに全体の六分の一を終えたところで中断してしまった。高松宮邸に保管された原田日記は、東京に空襲が始まると宮内省図書寮に移される。
気懸りなことを片付けた原田は、八月十六日に軽井沢へ行った。十九日には、伊沢多喜男が山下亀三郎の別荘に、近衛と原田と細川護立を招いた。
山下亀三郎は山下汽船の社長で、「政党の領袖とか陸海軍々人などとは交際が随分広かった」(池田成彬)〈池田『故人今人』224〉財界人である。原田とも親しく、いつだったか山下が台湾に行ったとき、原田は「カメ オヨギツイタカ」と電報を打ったりした仲だ。
[#2字下げ]頑爺のお招きうけて来て見れば
[#3字下げ]施主は遙かに大磯の
[#4字下げ]山亀爺と我れ知りぬ〈『伊沢多喜男』308〉
原田はこんな戯れ歌みたいなものを伊沢の書画帳に書いて、興じていた。
三日後の八月二十二日、原田は軽井沢を発って東京へ向かった。途中安中駅辺りで体調がおかしくなったようだ。上野駅に出迎えた英子夫人が驚いて親しい村山医師に連絡して、新橋駅の駅長室で診察を受けた。暑さで心臓に負担がかかったのか……。夜の九時ころになって「大丈夫だ」と原田がいうので、そのまま列車で大磯に行くことにした。村山医師がつきそう。
ところが途中で原田は大きな|欠伸《あくび》をし始め、辻堂辺で右半身不良、舌ももつれだした。茅ヶ崎─平塚─大磯。夜十時二十八分着。ちょうど原田邸に長く奉公した角田文枝の亭主の龍利が、大磯駅にいたので、村山医師と二人で両腕を支えながら原田の別荘まで歩いて運び込んだ。
右半身不全麻痺および失語病──脳血栓である。右手が動かないから文字も書けないし、舌が強く右に偏るために発語も不能である。原田は大磯の別荘で寝たまま長く療養生活を送ることになった──。
十七年の暮、山本五十六はトラック島、春島に停泊中の連合艦隊旗艦大和から原田に手紙を送った。
「……平時ならばあとがつかえるつかえるといわるべきに、如何なることにてかとんと左様の噂もきかず、遂に艦隊第一の勤続古物という次第に候
|依而《よつて》古歌の真似をすれば
荒潮の高鳴る海に四年経つ
|京《みやこ》の|風俗《てぶり》忘らえにけり
というところにて候、呵々、何れ汗をふきつつかびくさい御雑煮に新年を可迎、それ迄に爆弾の一発も喰えばオジャン、祈御自愛」
原田はまだ右手が利かないので代筆で返事を送っていたが、この少し前十七年十月に山本は内田信也元鉄相に手紙でこんなことを書き送っていた。
「長谷川氏の怪我、原田氏の病気等皆初耳に御座候、小生も大分敵をやっつけ部下も殺し候えば、そろそろ年貢の納め時と存候」〈阿川弘之『山本五十六』下237〉
山本が「年貢の納め時」といったり、同じころに「あと百日の間に小生の余命は全部すりへらす覚悟」〈反町『人間山本五十六』480〉と知人に書き送っていたのは、六月のミッドウェー海戦で日本側が大敗し、戦局が一挙に逆転したのが響いているようだ。
ミッドウェー海戦で日本海軍は、赤城、加賀、飛龍、蒼龍の四空母と一重巡洋艦、三二二機の飛行機と三千五百名の兵員を失って惨敗した。この四空母は当時の保有艦十隻のうちでも精鋭中の精鋭で、実力の三分の二を失ったに等しい。また熟練したパイロットの損失も痛手だ。連合軍の本格的反攻はこの後すぐ始まり、八月からのソロモン諸島ガダルカナル島攻防戦は凄惨な消耗戦の末、年末に撤退方針が出された。開戦一周年の十七年十二月までに推計された海軍の戦死者数は一万五千。
山本が開戦前にいっていた「初め半年か一年の間は随分暴れて御覧に入れる」といった期間も過ぎて、「ヂリ貧どころか下痢貧」が始まろうとしていたのである。
同じころ(十七年十一月)、永野軍令部総長は、財界有志の八日会(池田成彬、結城豊太郎、小倉正恒、深井英五、渋沢敬三など)に招かれて、「南方遠洋の戦況必ずしも我れに有利ならざるに至れり」と早くも開戦を悔む発言をした。
「三国同盟……締結後は対米英戦争に到るべき情勢殆んど不可避となれり。即ち米英の圧迫を受けて萎縮するか、反撥突破を試むるかの外なきに至れるなり。放置すれば衰死を免れざることの判明せる病人に、二、三パーセント回復の望を掛けて手術を施すが如し。洵にえらいところへ這入ったものなり。空に天佑を頼むは宜しからず」〈深井英五『枢密院重要議事覚書』(28年、岩波書店)206〉
永野の話は一同に「少からざる衝撃」だった。
ガダルカナル撤収を終った十八年二月、山本五十六は原田に手紙を送った。
「……臣下百僚たるものは、あらゆる方面に対し、陛下に先んじて御心配申上げ手当すべきものと信じ居り候に付ては、小生も微力乍ら第一線海軍に関する限りは先きの先き迄も考え善処致すべく候。
[#1字下げ]一昨年出征に方り拙いながら
[#3字下げ]大君の矢楯と直に思う身は
[#4字下げ]名をも命も惜しまざらなむ
と申せしは優勅を拝したる瞬間自分自身に申しきかせたる信条鉄則のつもりに候
従って世評の如き、又失礼乍ら大臣総長の言の如き全て馬耳東風ながら、ひとり陛下の御軫念に対しては兢々たる次第にて、大神宮御親拝の御一事こそ恐懼悲愧至極、|憤《ママ》励一番数段の努力を要する儀と深く自戒せしことに御座候……」〈原田資料〉
山本らしくない焦りを感じさせる文面である。「大臣総長の言の如き全て馬耳東風」というのも、日露戦争の時のような終戦の目途をもたない首脳部を批判していると受け取れる。大神宮御親拝というのは、天皇が十二月十二日に伊勢神宮に参拝し御告文を奉納したことをいう。
山本の手紙の調子を心配した原田は、すぐ隣家の橋本実斐夫人に代筆を頼んで返信を出した。返信一つにしても言葉が出ないから大変だ。「いろは……」を書き出した紙から一字一字を左手で指していく。苦心惨澹して出した返書だったが、山本からの便りはとどかなかった──。
三月三十日、木戸は天皇から「戦争の前途、見透その他につき珍しく長時間に亙り御話」を聞いた。
「今度の戦争の前途は決して明るいものとは思われない。……ミッドウェーで失った航空勢力を恢復することは果して出来得るや否や、……もし制空権を敵方にとられる様になった暁には、彼の広大な地域に展開している戦線を維持することも難しくなり、随所に破綻を生ずることになるのではないか。木戸はどう思うか」〈木戸文書128〉
木戸は、昨日も天皇からアリューシャン列島のアッツ島沖で二十六日に海戦があったと聞いている。この方面でも連合軍の反攻作戦が始まる前兆だ。
「木戸の考えて居りましたことも陛下の御考えになられて居りますことと全く同じで御座います」
木戸は、「先ず安堵の思い」で奉答をはじめた。
木戸が天皇と「戦況の推移を基礎として将来の見透」について話すのは、シンガポール陥落以来一年二カ月ぶりである。ミッドウェーの敗戦以来、木戸は「陛下の御心の中を|忖度《そんたく》することが出来ず、落付かぬ気持で過して居た」というが、「総ての戦況を御承知」の天皇がなにもいわないのに、自分の方から「悲観的の見透を申し上げることは何となくはばかられ」、口をつぐんでいた。しかし、今日は直々の下問である。木戸は、制空権を敵に奪われていては到底軍がいう「不敗の態勢をとる」ことは危ぶまれ、いたるところで第二のガダルカナルが生じる虞れがあると指摘して、言葉を継いだ。
「出来ますれば敵に大損害を与え、殊に出来得るならば敵の艦隊に大損害を与えて、これを機会に速に戦争を終結することに努力する外ないのではないかと思います」
天皇はうなずいて、「そう出来ればよいのだがね」〈同129〉と答えた。
戦後になって木戸は、
「これをきっかけに陛下の御気持がよく判ったので、それから後は和平の問題を申し上げることが自由にできるようになった」
という。
しかし、同じくあとから見れば、「敵に大損害を与え……これを機会に速に戦争を終結する」という方針は、その後も終戦に至るまで主張され続けたのである。二年後の二十年四月に終戦内閣と目されて登場した鈴木首相すら、「すぐに終戦に持って行こうという気持じゃなかったねえ、もう少し戦さしてからという意味のことをいっていた」(木戸氏)というし、天皇はそのたびに「そう出来ればよいのだがね」と答えていたのだが、「そうはいってもなかなか困難だろうね」というニュアンスを感じさせる天皇の言葉の方が、戦争の実情をよく見抜いていたようだ。
四月になって山本長官は、ガダルカナル島と東部ニューギニアの連合軍飛行機基地をたたく「い」号作戦を実施した。天皇と木戸が話した「制空権」奪回のためである。十六日までの作戦で、撃沈巡洋艦一隻、駆逐艦二隻、輸送船二十五隻、撃墜機百三十四機の戦果をあげ(戦後のアメリカ側発表ではずっと少ない)、味方の損害は五十機足らずにとどまった。
四月十八日、作戦終了とともに、山本長官は、ガダルカナルの戦線に最も近いショートランド島方面の海軍基地を激励するため、ニューブリテン島のラバウル基地を出発した。
ここでまた、アメリカ軍は暗号を解読していた。一行の飛行スケジュールは完全に盗まれ、山本の乗った一式陸上攻撃機はラバウルの南東約三百キロのブーゲンビル島南端で、待ち受けていたP38米軍戦闘機に撃墜された。
「山本大将遭難云々の御話あり、驚愕す。痛嘆の至なり」
翌日、天皇から山本の遭難をきいた木戸は絶句した。
山本戦死の公表は、一カ月以上たって連合艦隊旗艦「武蔵」(十八年二月に大和から移る)が東京湾に入港した五月二十一日にようやく行われた。
「……本年四月前線に於て全般作戦指導中敵と交戦飛行機上にて壮烈なる戦死を遂げたり……」
同じ日、山本に、大勲位、功一級、正三位、元帥の称号、国葬を賜うと発表された。天皇は、山本の戦死を悼む気持もあったのか、戦死の公表を決めた翌日、「武蔵」に行幸の思召を示したが、海軍の「作戦上の理由」で延期になった。
原田は、病床に横たわったまま、山本の戦死を知らずにいた。三月、四月と山本から手紙がとどかないので、ようやく少しは話せるようになった不自由な口で、「まだ来ないか」と金井看護婦に尋ねたりしていた。
しかし、いつまでも隠しておくわけにはいかない。五月二十三日、山本の遺骨が木更津沖の「武蔵」から横須賀に移され、特別列車で東京へ帰還することになった日に、隣家の植田謙吉大将が、原田に告げることにした。近くの曾根田医師は、できるだけショックを与えないようにしてくれという。
「明日からまた四、五日旅行をしますのでね、その前に一寸あなたにお詫びを云わんければならない事があって伺いました」
植田は原田の枕元にすわると、何気ない調子で話しだした。
「僕にお詫びって何ですか」
「この二、三日新聞を御覧じゃなかったろう。それは私がお見せせんように隠したんです」
「何かあったんですか。戦争のことですか、それとも……」「マアマア、一寸、先ずお詫びを先に言わせて下さい。決して悪気があってしたんじゃありませんから、悪く思わんで下さい」
「ええ、それはいいけれど、何なんです。いい事ですか、わるい事ですか」
植田と原田のやりとりはこんな調子で続いた。
原田は山本が戦死したと知って大いに驚き、がっかりしたようだった。あふれ出る涙を拭おうともせずに「そうか、山本が死んだのか」と何度も呟き、機上で戦死したのでは「軽率の|譏《そし》りを受けませんか」と植田に尋ねたりもした。
六月五日、山本の国葬が日比谷公園で行なわれた。九年前の東郷平八郎元帥の国葬と同じ日だった。原田はもちろん出席できなかったが、何度かふとんから起き上がって、黙祷を捧げ、かつて米内、山本、原田の三人で撮った写真をとり出して眺めながら涙を流していた。
十八年十月、原田は療養をかねて湯河原の天野屋に滞在した。看護婦がつきそっているが、歩行も言葉もそれほど不自由を感じないほどに回復していた。手紙もなんとか書けるようになり、西田幾多郎から「今度の御手紙はどうも尊兄の御自筆の様にて、こういう手紙を書ける様になられたのかと思えば涙の出る程喜ばしく思いました」〈西田幾多郎書簡18年7月31日付〉とか、「見事な野菜一籠本日拝受、難有御座いました」〈同7月28日付〉などと返信が来たりした。原田に合わせるように、近衛も隣りの中西旅館に来たので、二人は毎日のように食事を共にした。
十月二十七日にも近衛が原田の部屋に来て、前日から泊っている高木惣吉海軍少将と三人で昼食を一緒にした。
近衛は一時間余り一人で、三国同盟はソ連が入らなければ無意味と思ったとか、第三次内閣総辞職の事情などをしゃべり続けた。食事のあと、近衛は高木に、高松宮に会ってくれと頼んだ。
「先日、高松さんにお会いしたら、時局がこのように急迫してくると、いろいろの方面の人の意見を聞きたいが、時間もないし、それに目立つので、原田のように方々駆け回って、各方面の意見を集めて話してくれるものはなかろうか≠ニ頼まれたが、私は細川(護貞、近衛の女婿)はどうかと思う。もしあなたが賛成だったら殿下におすすめしてほしい」〈高木『自伝的日本海軍始末記』229〉
高木は快諾した。
舞鶴鎮守府参謀長だった高木は一カ月前に軍令部出仕を命じられて、「ある特殊な戦争過程及び戦訓の研究」〈『終戦への決断』(50年、サンケイ新聞)25〉を始めていた。この研究はソロモン諸島における莫大な損害と原料資源の輸入難の分析に基いたもので、五カ月後の十九年二月に高木は重大な結論に達する。
「勝利は不可能であり、たとえ中国、台湾、朝鮮から撤兵する犠牲を払っても戦争を終結させる努力を開始しなければならない」
以来、高木の戦争終結のための暗躍が始まり、十九年九月には米内海相(小磯内閣)から「終戦のための対策をこっそり研究しはじめるよう」命令を受け、本格的な終戦工作に没頭するようになる──。
さて、細川の件を高松宮に伝えた高木は、岡田啓介に会ったりしたあと、三十日に再び湯河原に原田を訪ねて、依頼した。
「東条内閣を倒すことについて、近衛、岡田両重臣の考えに食いちがいがありますから、ひとつなんとか調停していただきたい。戦局収拾にはこの両人の結束が絶対要件です」
高木のいうのは、「東条内閣でこのまま行けば国は潰れる故」、まず東条内閣を倒さなくてはならんという点では近衛、岡田の両重臣とも意見が一致している。しかし、その先二人の考えは食いちがっていて、近衛は、「岡田が海軍を動かして倒閣をやる」のを期待しているが、岡田にいわせれば、そんなことは「万事武家まかせの伝統をもつお公家さまの近衛」の考えそうなことで、「ズルイことでは近衛さんが一番だ……後継の成案がなくて倒閣できぬ。陸軍が陸相をボイコットすれば組閣はできないんで、前線の将兵数万のことを考えると、当てもなく倒閣などやれるものじゃない」〈高木同右書229〉という。
高木の話を原田はうなずきながら聞いたが、要するに「積極的に倒閣の案は二人ともない」ということだ。
「心配はない。昭和十八年には物の関係は戦争をした方がよくなる」〈杉山メモ上373〉
開戦前に鈴木企画院総裁は断言した。この時鈴木は、船舶消耗を海軍が提出してきた年間八十万から百万総トンとみていた。この程度の損害にとどまれば、作戦が一段落したあと軍徴用の船舶を民需用に返還できるから、南方の占領地から石油やボーキサイトや鉄鋼石を運搬でき、「物の関係」はよくなるという判断だった。
ところがガダルカナル攻防戦で日本は多数の輸送船を失って徴用船舶の民需返還ができなくなり、さらに連合軍は日本の海上交通破壊のため潜水艦戦術に力を入れたので、計画に大きな狂いが生じてきた。八十〜百万トンという被害見込みが、第一年度百二十五万トン、第二年度二百五十六万トン、第三年度三百四十八万トンにも達した。これだけで開戦前の保有船舶総量六百三十五万トンを超える。その結果は、物動貨物輸送量をとってみても十七年にはピークの四百万トンを記録したものが、十八年半ばを境に急速に低下し、十八年末二百万トン、十九年末一百万トンにまで落ち込んでいった。
日米の国力比較──これはいろいろの形で長く検討の対象にされて来たが、たとえば十六年の時点で石油、石炭、鉄鋼石、銑鉄、アルミニウム、その他の重要物資の単純平均生産値は七十八対一である。懸絶する国力のこの差は、船舶の喪失で一段と拡大したのだが、東条首相は「今次戦争は元来自存自衛の為、やむにやまれず起ったものであり……最後まで戦い抜かねばならぬ、今後の戦局の如何に関せず日本の戦争目的完遂の決意には何等の変更はない」〈杉山メモ下471〉(十八年九月三十日の御前会議発言)と断言して、頑なに戦争遂行の姿勢を変えようとしない。とすれば、それがどんなに絶望的で、石原莞爾が冷笑するように「負けますな。勝つめどがあって、やっているのでないから、だめです」〈藤本『石原莞爾』275〉ということであっても、全国民を根こそぎ動員し、産業や生活のあらゆる面に統制を強化して軍需生産を強化するしか途はない。
「企業整備が盛んに進行中である。交易業者六千商社を一割の六百程度に、また出版業者は同じく約一割といった調子である。が、どんなことをやっても、もう手遅れである」〈清沢洌『暗黒日記』(54年、評論社)180〉
清沢洌は記すが、新聞の社説にも「皇軍の精鋭は戦闘に勝ちつゝも、これら醜類の擁する鉄量と飛行機のために圧倒されているのである。慨嘆に堪えないではないか」という、見方によれば微妙な記事が載るようになった。
終戦時までに日本が建造した空母は二十四隻、アメリカは百九隻、これひとつ見ても彼我の差は大き過ぎ、醜類に圧倒される≠フは当然である。
同じことは、日本に終戦を決断させることになった原爆の開発についてもいえる。
十六年五月、ナチスに追われてブラジルに逃げる途中、プエルト・リコに着いた文化人類学者のレヴィ・ストロースは、のちに原子力委員長になったバートランド・ゴールドシュミットから、原爆の原理を説明され、「列強は一種の科学競争に入ったこと、この競争で一位になった国に勝利が保証されると思われること」〈レヴィ・ストロース『悲しき熱帯』(52年、中央公論社)上45〉と打ち明けられた。
日本ではこの一カ月前、十六年四月に陸軍が理化学研究所の仁科研究室に原爆製造の研究を依頼したが、仁科博士は行動に移そうとしなかった。アメリカがアインシュタインの勧告を容れて原爆開発に乗り出したのは、これより二年近く前である。
十八年十一月、湯河原から大磯に戻った原田は、西田幾多郎が「大分よし」と喜ぶくらいに回復していた。例によって原田のところには、なにかと人が集まってくる。
「ずいぶん元気になってよかったね」
「ああ、イタリアが降伏したからね」
原田は親しい人にはそんな挨拶をしていた。九月にイタリアが降伏して三国同盟の一角が崩れ、木戸なんかは「早晩この事あるを予想せざるにあらざりしが、今更の如く憮然たり」〈木戸1051〉と落胆していたのに比べると、原田はむしろ平然としていて、永井荷風のように、ドイツ軍が振わず、連合軍がイタリアに上陸したという噂をきいて「願わくばこの流言真実ならんことを」〈荷風日記18年1月19日〉と記したその心境に近かったようだ。
八日に高木少将が大磯に原田を訪ねると、西田も岩波茂雄(岩波書店店主)とやって来た。
西田はさかんに近衛内閣のときの荒木文相のやり方を批判し、「あれはなにもわかってやしない。人間を作ることを、機械をつくるのとまちがえている。機械は寸法さえ合えばいいが、人間はそうはいかん」などと気勢をあげていた。
原田は岩波をからかった。
「君んとこは面白いね。漱石と頭山満の写真がにらみ合ってるし、西田先生をたてまつるかと思うと、石原莞爾も祭りあげる。ハッハッハ」〈高木『自伝的日本海軍始末記』231〉
岩波は大きな目をむいて、「君は石原という男を知らんからそんなことをいう。あれはただの兵隊じゃないぞ」とやっきになって弁解していた……。
原田がこれほど元気になったのは、高木にとっても心強い。高木は原田と相談して、木戸に会って「両統帥部の無能な首脳を代えること」を進言することにした。
十九日、高木は内大臣官邸に木戸を訪ねて、「航空機を中心としての戦争の実状、将来の見透等の意見」を述べ、さらに進言した。
「元老なき今日、内大臣は官制を超越し国務、統帥のすべてにつき常侍輔弼に任ずべき……」〈同250〉
木戸から天皇に進言して杉山、永野両総長を代えたらどうかというのである。「元老なき今日」という言い方をみると、多分原田の意見だったのだろう。木戸は、「統帥事項については官制上、ふれることを許されない」と原則論を繰り返し、嶋田海相に対する不満も口にしたが、また「軽々に改変をやると国民の気合いが抜けて、最悪の場合、戒厳令を要する始末となりかねない」〈同235〉ともいった。
「木戸内府は、政治力に弱い海軍に冷たく、いたずらに陸軍と争いを重ねているようにみておられる」
二十五日に高木は大磯へ行って不満を洩らした。
「あれは官僚だから……」
原田はにが笑いし、近衛も「内府は、やゝ陸軍を恐れすぎるにあらずやと思えど、地位として慎重の上にも慎重を期するは止むを得ず」〈『近衛日記』(43年、共同通信社)49〉と見ていたが、木戸がみこしを上げない以上、重臣が結束するしかない。あいにく近衛は持病の痔疾が悪化して東大病院で手術をしたばかりで、退院まで二〜三カ月かかるという。すべては年明けだな、原田と高木は暗い顔で話し合った。
原田も、元気になったというもののまだ東京に出掛けるには不安がある。それに長男の敬策に続いて、次男の興造も十二月一日に岡山で入隊することになって、東京を発っていった。原田は大磯の山を下って国道を横切り東海道線近くの畑の中まで行って、ハンカチをふりながら息子の出征を見送ったが、身辺も一段とさびしくなってきた。
十九年──
新春早々、木戸は天皇から「戦争の見透、之が対策等につきお話」をうかがい、ドイツが無条件降伏した場合に「日本も同時に戦争終結に導く手を打つや否や」を検討した。和平の条件は相当に譲歩せざるを得ないだろう、たとえば満州を除く日本の占領地は永世中立国にし、ソ連に講和の斡旋を依頼する……。
もちろんその場合に東条内閣は総辞職すると木戸は想定したが、その東条は、戦局不振や反東条の声が高まるのに思いつめて、挙国一致体制を一段と強化する方向へ走り出した。
戦況はますます悪化してラバウルは孤立化し、マーシャル群島トラック島に対する米軍の攻撃は熾烈である。これが陥れば連合軍はフィリピンをめざして直進し、日本本土と南方資源地帯の連絡を遮断する作戦に出るだろう。
二月に入って、近衛が退院するとともに、政局は動きを見せ始めた。二月十日、大磯の原田邸に、近衛、池田成彬、松平秘書官長が集まって、嶋田海相を辞めさせることなどを相談した。
ちょうどこの日、木戸は自分が文相だったとき政務次官を勤めた作田高太郎代議士と会った。作田は東条の評判が議会でも悪くなったから、そろそろ辞めさせることを考えたらどうかと打診した。木戸の機嫌はよくなかった。
「東条のことを世間でかれこれいうが、いったい内大臣にどうしろというのか、東条奏請の責任をとれというのか。それならどんな人物でも年月が経てば評判が悪くなるにきまっている。現に御信任を得ている東条に、私から辞めたらどうかという筋道でもなければ、お上に東条を辞めさせられたがよろしゅうございますと申し上げる筋でもない。近衛君のようにサッサと引き上げる人ならいいが、本人があくまでやるというのは仕方があるまい。第一、いま政権に動揺がおこることは、はなはだ適当でない。……海軍のごときは、自分の親分(嶋田海相)が気に入らないから、ついでに内閣を代えようと望んでいるようだが、それは実にズルイ考えかただ……」〈高木『自伝的日本海軍始末記』253〉
木戸のこの話を高木少将から伝え聞いた近衛と原田は、「木戸得意の一席だよ」と顔を見合せて苦笑したが、この頃、木戸の気持も東条から離れ始めていた。
二月十八日の夜遅く、東条は木戸を訪ねて、「一段と一億結集に対する施策の必要を痛感」するから、統帥一元強化──つまり杉山参謀総長を辞めさせて自分が兼任したいと申し出た。
「果して兼任の参謀総長、つまり片手間仕事でこの難局を乗り切れるかどうか、また国民に与える影響はどんなものだろうか、むしろ有力な総長を任命する方が宜しいんではないか」〈木戸文書51〉
木戸は消極意見だったが、東条は耳を貸さなかった。
「統帥権の確立に影響なきや」〈木戸1090〉
天皇も賛成しかねる様子だったが、東条は「今日の戦争の段階は作戦に政治が追随するが如き形ならば、弊害はなしと信ずる」といって、二十一日に嶋田海相ともども両総長を兼任してしまった。
「評判の最低の海相が総長兼任ではなにをかいわんや」〈高木同右書248〉
高木少将はすっかりむくれたが、その気持は海軍部内に共通していたという。木戸氏はいう。
「嶋田という人は一体におとなしい性格の人だ、伏見宮さんに引立てられた人でね、ごく従順な、むろんレベル以下じゃない、レベル以上の人だけど性格的にはごく従順なんだ、組閣のときに陸海軍がよく協調しろということを陛下の思召で僕は伝えたわけだ、それをはきちがえたんだな、後から考えてみるとね。だから何でも東条のいうなりになるようになっちゃった。でよく協調しろということはだ、海軍をして陸軍を牽制しようと、陸軍の暴走を、海軍がそれではいかんと、それでは戦さは勝てんという風にいくべきだったんだ。それを何でも東条のいうなりになっちゃった。協調して行くことが、くっついて行くことになっちゃったわけだ、そこが一つの失敗だな」
海軍は、十八年秋頃から「徹底した空軍中心に変えるのが、残された唯一の挽回策である」〈高木惣吉『終戦覚書』(23年、アテネ文庫)6〉と考えて資材配分を陸軍に交渉していたが、二月の陸海両相、両総長の会談で海軍の要求は通らなかった。しかも東条が「アゴで使っている」〈高木『自伝的日本海軍始末記』243〉嶋田海相が軍令部総長を兼ねたのだから、海軍航空力の強化どころか、海軍全部が東条に握られてしまったと同然だ。
嶋田追出し──このためには嶋田を引立てている伏見宮を説得しなくてはならないが、その前に海軍部内をまとめる必要がある。
「米内、末次の両巨頭を現役に復帰させて海相と総長に就かせよう」
岡田啓介は考えて、六月三日、米内と末次を藤山愛一郎邸に招いた。米内は条約派、末次は艦隊派の代表として、海軍部内で長い間対立関係にある。
「この際日本のために仲直りしてくれんか。今やもう非常な事態に立ち至っているんだ」〈岡田回顧録216〉
岡田の懇請に、二人は「国を救うため一個の感情などどうでもよい、一緒に力を尽そう」と快く応じた。これで海軍内部の最大の問題が解消したわけだ。
岡田、米内、近衛、若槻の四重臣は連絡を密にし、高木少将、吉田茂などの動きもめまぐるしく、原田もなにかと忙しくなってきた。
六月二日、木戸は鶴子夫人と三女の和子を伴って大磯に出掛けた。夕方、山下亀三郎邸で、井上準之助元蔵相の息子の五郎と見合いをする予定だが、その前に木戸は原田を訪ねた。
「同君発病以来約二年振りの面会なり。想像以上に恢復せる姿を見て、且つ喜び且つ安心す」
原田も嬉しそうだった。木戸は、昔のようにざっくばらんに打ち明け話をした。
「東条が困る」
「毎週宮中で御直宮様方で映画を御覧になる会があるが、お上と高松宮さんだけのとき、時局を御心配の余り激論されたことがあった」〈細川『情報天皇に達せず』(以下「細川手記」)上219〉
このところ木戸は、近衛とも長男の「文隆君と大谷光明氏令嬢の縁談」のことなどでよく会うようになっているし、また、近衛と原田はひんぱんに会っている。昔の「西公三羽烏」の仲に戻ったのか──
細川護貞が尋ねると、原田は笑いながら、まだまだというふうに首を振った。
「木戸は近衛は苦手だという。それは近衛にいえばみな漏れるからだというのだが、その近衛にいわせれば、原田にいえばみな漏れるからと木戸に注意する始末だ」〈同220〉
しかし、木戸は四月頃から「東条のことを悪くいうようになり、あれは不熟慮断行だよ≠ネどと批判し」〈高木『自伝的日本海軍始末記』263〉、いまや近衛も「顔負けするほど反東条になって」いた。近衛が「最近お上も東条に人心離れたる由御承知遊ばされたる様なり」というと、木戸は「それは自分が申し上げるからだろう」〈細川手記」215〉と答えた。木戸氏はいう。
「僕はね、赤松(貞雄大佐)という東条の秘書官にもいったんだ、こう切羽つまってきたら、なるべく人材を登用してやらなきゃいかんじゃないか、それを東条はいろんなものを兼ねてだ、いわば手拭いを絞っているような恰好だと、絞ってだんだん自分のところへ固めちまっている、それじゃ人心は離れちゃってだめだ、とね。それで赤松は東条に伝えたらしいんだが、駄目だったね、東条は。それであの頃から岡田さんが中心になって重臣の東条打倒という運動が盛んだったからね、僕もどっちかというと東条を激励するよりも、ディスカレッジして、そのお膳立てをつくってやろうと考えたんだ」
木戸は、「内大臣が上奏して政局転換をはかることは宮中クーデターになるのでできない」〈高木『自伝的日本海軍始末記』289〉といいながらも、「首相本人が手を挙げるか、国内各方面が活発に動いてむしろ直接行動でもある情勢に至る」〈矢部貞治日記727〉のをじっと待ち続けた。こうなれば改変は近い。
このころ、近衛に近い富田健治、高村坂彦、細川などは、焦燥の余り「高松宮を中大兄皇子に見たて、近衛を先祖の鎌足公にし、蘇我入鹿を宮中に誅伐された例にならって、宮中クーデターを考えた」〈高木同右書276〉という。また高木少将も、東条首相が民情視察と称して「ゴミ箱の中をのぞいたり、魚河岸を回った帰りの四叉路か三叉路で、三方から自動車で挟み討ちにして、ピストルでパーッとやっつける」〈高木惣吉談─『昭和史 探訪』(50年、番町書房)4巻242〉計画さえ練り始めた。
六月六日、連合軍がフランスのノルマンディに上陸した日に、米軍はマリアナ諸島攻略を開始した。制海、制空権を失って孤立したラバウルや、五万の日本軍の立て籠るトラック島を通り越して、一気に日本の「死守決戦線」を突く作戦である。グアム、テニアン、サイパン……空母十五を含む七百七十五隻の米軍大部隊は六月十一日から攻撃を始めた。日本軍は戦艦五、空母九を含む七十三隻と母艦機四百五十、さらに陸上航空部隊約千機を各基地に結集したが、敵の陽動作戦にひっかかったうえ、搭乗員の航空技術の劣悪さもあって緒戦で潰滅的打撃を受け、「難攻不落」と東条首相が豪語していたサイパンも三万余の兵士と一万の市民の犠牲者を出して七月九日に陥落してしまった。
サイパンが陥ちたとき、日本の主戦力は空母四隻、実働航空機千五百機に激減した。大和、武蔵の六万八千トン、四十六サンチ主砲九門をもつ世界最大の戦艦は健在だが、この劣勢な航空兵力では正面切っての洋上決戦は不可能に近い。しかも、サイパンは、「西太平洋における戦略中枢」である。ここに米軍が飛行場を完成させれば、本土はB29の爆撃範囲に入り、東京も空襲で焦土と化すことになる。
「この一両日、首相の顔色はこの世の人と思えざるほど青ざめ、意気銷沈の有様なり、自殺の恐れあり」〈細川手記240〉
サイパン陥落は、首相、参謀総長、陸相を兼ねる東条には、大変な衝撃だった。
しかも、重臣たちは東条を引っぱり出して、「総理はもう少し荷を軽くしてはどうか。四役を兼ねていることは容易でない。殊に参謀総長となると、夜、電報が来るかも知れず夜中屡次起こされては碌に睡眠もとれない訳だ」〈『近衛日記』6〉と責め立てた。四役というのは、陸相、参謀総長、軍需相、それに首相である。
「戦争の前途も不利となり、内閣も行詰って来たから、自分はやめようと思う」〈東久邇日記133〉
六月二十三日、東条はとうとう東久邇に辞意を洩らした。
「だから私は、はじめから戦争をやってはだめだ、といったではないか」
東久邇はうっぷんばらしのようなことをいっていたが、今まで辞めろ、辞めろと言っていた近衛は急に態度を変えた。
「このまゝ東条が自殺する様なことがあったら、政治的には非常にやりにくゝなる。東条が、自分が悪かったと遺書でも書いて死ねば、国論は多少違うかとも思うが……」〈細川手記239〉
近衛や東久邇が考えているのは「太平洋戦争の全責任を東条に負わせ、陛下に責任を及ばないようにする」(東久邇)〈東久邇日記136〉ことである。
だが東条内閣をこのままにしておいたら、戦争終結の目途はたたない。米内は、「今度の戦争は遺憾ながら、確実に負けだ、誰がでてもどうにもなるまい、要はこれをどう収拾するかだ」〈高木『終戦覚書』16〉といっていたが、重臣、皇族の意見は次第にひとつにまとまって来た。
「海軍が最後の一戦をやるためには、陸海空三軍および国力を総合しなくてはならない。それがためには、東条内閣を替えるべきである。海軍の最後の一戦をやった後で、和平を提議するのがよい」〈東久邇日記137〉
ところが、七月十三日、東条は木戸に会うと、「この際サイパン失陥の責任問題は暫く御容赦を願い、戦争完遂に邁進することに決意せり」〈木戸1117〉といって、「内閣前途の方策案」を提示した。辞意を撤回するというのである。
──陸海軍の真の協力一致、大本営の強化、重臣二名(米内、阿部)を国務大臣に加える、内閣の改造、閣議の刷新……。
木戸は、「内閣の施策や統帥事項に干渉する意思はないが」と注意深くことわりながら、統帥の確立──つまり兼任総長をやめること、「嶋田海相の海軍部内の不評不満は……圧倒的」だから更迭すること、また重臣の包容把握の必要の三点を呈示した。
東条一人に国家の運命を御任せになってそれで宜しいか──そんな声も聞くから、「一歩を誤れば御聖徳に言及批判する傾向を激化する虞れ」がある、というのが木戸の立場である。と同時に、「ディスカレッジして、倒閣のお膳立てを作ってやろう」という魂胆だ。東条は嶋田海相を辞任させることに同意せず、木戸・東条会談は物別れに終った。
このあと、東条は陸相官邸に戻り、「この三条件は私に詰め腹を切らそうとするものだ。内府の態度もまるで変っておる。重臣ら倒閣運動の一味の手が回っておるようだ。そればかりでなく、これはお上のご意図を体しての言葉だと思われる。ご信任は去った」〈佐藤賢了『大東亜戦争回顧録』298〉と辞意を洩らした。それでも、佐藤賢了軍務局長から「ご信任が去ったかどうか確かめもせずに軽率な真似はできませんぞ」と言われて参内し、「御聖慮を尋ねた」が、天皇も木戸と同じことを「更に強く仰せ」になった。あらかじめ木戸は「あるいは陛下に直々にこの問題を持ち出して聖断を仰ぐという予感があったので、官舎で人に会う前に拝謁を願い出て、委曲東条首相と会談の様子を言上しておいた」〈木戸文書131〉のだった。
こんな経緯のあと、東条首相は、木戸の呈示した三条件を満たすため、嶋田海相を更迭し、さらに米内、阿部の両重臣を総理級の国務大臣として入閣させて大本営連絡会議の構成員に加えようと必死の工作を試みた。しかし、米内は入閣を断わり、さらに重臣一同が集まって「内閣の一部改造の如きは何の役にも立たないと思います」〈木戸1121〉と申し合わせて天皇に伝えたこともあって、七月十八日、東条内閣は総辞職に追い込まれた。
「これくらい乱暴、無知をしつくした内閣は日本にはなかった」〈『暗黒日記』378〉
清沢洌は記し、矢部貞治東大教授も、「岡田さんが矢張りやってくれ、木戸も最後は立派であり、近衛もワキ役位はやってくれた」〈矢部貞治日記731〉と満足気だった。この日、後継推薦の重臣会議を終えて荻外荘に戻った近衛は、短刀で相手を刺すような仕草をしながら、千代子夫人に上機嫌で語ったという。「今日は、昭和の入鹿をやっつけたよ」〈山本有三『濁流』159〉
大変に暑く、「暑気本年第一なり」と報道された日のことだった。
東条内閣のあと、重臣会議は、陸軍から寺内寿一元帥(南方軍総司令官)、小磯国昭朝鮮総督、畑俊六元帥(支那派遣軍司令官)の三人を後継候補に立てた。このうち、寺内と畑については、東条参謀総長(十八日に梅津美治郎と交代)から、「反抗の苛烈なる際、第一線の総司令官を一日にてもあけることは不可能なり」と反対論が出て、「それで朝鮮総督の小磯と、三番人気が出て」(木戸氏)、次の内閣を担当することになった。
「重臣も内府も、東条更迭に息切れの気味で、新政権首班の推薦には全く精彩を欠いた」〈高木『終戦覚書』14〉
高木少将は嘆いたが、重臣会議で「小磯が特に総理大臣として適任であると発言した人は誰もなかった」〈若槻『古風庵回顧録』432〉し、米内と平沼は、自分の内閣で小磯を閣僚に登用したときに「陛下は三月事件と小磯の関係を御尋ねになった」〈木戸1127〉といって、気乗りしない風だった。また、東条に同情的だった阿部信行元首相などは、「それ見たことか、といってやりたかった」〈細川手記279〉とうそぶいたくらいで、誰しも後継の小磯に期待したわけではなかった。
「小磯には何にもしっかりした判断はなかったね。あの人は若いとき、満州や蒙古の方でいろんな謀略をやるのに魅力を感じる風なタイプの男でね。こちょこちょした、謀略的な……陸軍の軍務局にはそういうのがちょいちょいいたね、謀略で何かやってやろうというのがね、それはちょっとは成功しても結局だめなんだね」
小磯を推奏するはめになった木戸も、小磯を全く評価しなかった。近衛も同様だった。
「小磯一人に国家興亡の運命を托し、国民は果して、東条同様、不安を感ずることなきや。否、大いに不安なるに相違なし。かく考え……(米内の)海軍における信望に至っては全く圧倒的なれば、この両人をして連立内閣を組織せしむるは、すこぶる妙なるべし……」〈『近衛日記』98〉
重臣会議の翌日、近衛は小磯・米内連立内閣を考えて、自ら米内を口説いた。米内は、ちょっと躊躇した風もあったが、「海軍大臣としては、おこがましいが、自分が最適任だ」〈同101〉といって引受けた。自分なら海軍部内を押えて、戦争終結に持って行けるということである。近衛が連立内閣を考えたのは、陸海軍の感情的対立をこの二人に調整させようというねらいがある。
「卿等協力内閣を組織せよ。憲法の条章を遵守すべきこと及び大東亜戦争完遂のためソ連を刺戟せざる様すべし」
小磯と米内は二十日に組閣の大命を受けたが、天皇からは「戦争完遂」というだけで、戦争終結についての言葉はなかった。しかも、協力内閣といっても、「首班は小磯」で、米内は小磯に「君の思うようにやりたまえ。ただ右か左か、君が迷うときだけ呼んでくれ」〈米内覚書168〉といっていたから、「事実は連立でも何でもないものになっちゃった」(木戸氏)。もちろん戦争終結を前提とする内閣でもなかった。
「(終戦を本格的に考えたのは)陛下のお気持を察して二十年二月頃じゃないかと思うな、何とかやらにゃいかんと……。サイパン陥落のころはまだやろうとは思わなかったな」(木戸氏)
小磯内閣は七月二十二日に成立した。陸相杉山元、海相米内光政、外相重光葵……。
この日、昨夜から降り出した雨は富士山では雪に変わったほどで、ハダ寒い日だった。
「戦いは絶望なり。しかも小磯には何も確信なし。かゝる内閣は一日も速く倒れ、和平内閣を作るべし」〈細川手記287〉
新内閣の内相に就任した大達茂雄は就任の挨拶で近衛を訪ねると、早くもこんなことを口にしていた。小磯首相がラジオでいった「天皇に帰一し奉る」どころか、閣内すらも乱れ、外からは「木炭車」などと頼りないアダ名をたてまつられる有様だった。
一方、米軍の進攻は続く。
九月九日、フィリピン・ルソン島の南に隣接したミンダナオ島ダバオ市に米艦載機群が襲来した。いよいよフィリピン攻略のまえぶれである。続いてセブ島、ルソン島レガスピー、タクロバン島が空襲を受け、十月二十日には台風襲来下のレイテ島に米軍が上陸した。一方、連合艦隊は二十四日に総力を結集してレイテ湾突入作戦を敢行した。空母四隻を基幹とする小沢中将の第三艦隊十五隻、栗田中将の第二艦隊三十九隻、志摩中将の第五艦隊七隻、計六十一隻を投入して敵撃滅をめざす「捷」一号海上決戦であったが、結果は、空母四隻の他、戦艦「武蔵」を含む二十四隻が撃沈され、二十二隻が撃破されてしまった。
ところが──大本営発表によると日本側の被害は、空母一、巡洋艦二、駆逐艦二が沈没し、空母一が中破したにとどまった、とされた。しかも戦果は、空母八隻など十三隻を撃沈、空母七隻その他を撃破したとなっていた。実際の米軍の損害は、小型空母一、護送空母二、駆逐艦三隻の沈没にすぎなかったから、全く逆である。この他にも十月十二日から十五日にかけての台湾沖航空戦で、「敵空母十隻を撃沈、三隻を撃破」と発表されていたから(実際は巡洋艦二隻大破だけ)、合せて空母だけでも十八隻を撃沈し、十隻を撃破したことになる。
「今や皇軍は……決戦の序の口において見事に突撃路を開いた。この突撃路より断乎戦争目的の完遂に邁進し……最後の勝利を獲得せん」
小磯首相は朝鮮の虎≠ニあだ名されただけあって、十月三十日、大阪中央公会堂の「一億憤激米英撃摧国民大会」で咆哮した。新聞も、敵空母は全滅したから「追撃戦より殲滅戦へ」移れと呼号、一般国民もこれでようやく戦勢は転機を得た、とぬか喜びした。小磯首相は、参謀本部から実際の戦況を知らされていなかったのである。
海のレイテ決戦が終ったあと、レイテ島の陸上の戦いが二カ月つづく──。
[#1字下げ] |南瓜《カボチヤ》の蔓塀より屋根に這上り唐もろこしの穂の風にそよげるさま、立秋の近きを知らしむ。蔵書を曝すべき日なれど……明治の文化も遠からず滅亡するものと思えば何事をなす元気さえなし。ただ絶望落胆愛惜の悲しみに打たるゝのみ。……この度の戦争はその原因遠く西郷南洲の征韓論に萠芽せしものと見るも|過《あやまり》には非ざるべし。
荷風日記十九年八月四日である。このころ、近衛も原田も軽井沢にいた。近衛は、炭焼きをしたり、「戦争は勝てると思わん」〈『暗黒日記』409〉と平気で言って歩いている鳩山一郎とひんぱんに会ったりして、連合国の日本処理──国体護持の問題で、思い悩んでいたようである。
また、近衛、平沼、若槻、岡田の四重臣は毎月第二火曜日に近衛の目白別邸で会合をもつことに決めて、九月から定期的に意見交換をはじめた。
原田も軽井沢から帰って湯本や湯河原に行ったりしながら、吉田茂、池田成彬、野村吉三郎、高木惣吉などと、小磯内閣のあとの相談などをしていた。
十九年秋になって、米軍のマリアナ航空基地が完成すると戦略爆撃機B29が東京の空に姿を現わすようになった。すでに北九州は六月十六日に中国基地のB29二十機で空襲を受けていたが、十一月一日にはマリアナ基地を飛び立ったB29が東京を偵察飛行し、二十四日には七十機の編隊で集中爆撃を加えてきた。最初は軍事施設や航空機工場、輸送機関がねらわれ、続いて一般民衆の戦意を喪失させるため無差別じゅうたん爆撃が始まった。
加えて十一月七日にはソ連第二十七周年祝賀会でスターリンが演説し、「真珠湾攻撃を以て最も不愉快な事実」と「侵略国たる日本」を非難した。十六年に結んだ日ソ中立条約は有効期間中なのに、スターリンが公然と敵意を表明したのは、ソ連も米英陣営の一員として日本に対する軍事行動に出る予告ではないのか……。
「南方の資源がそのまま使われると思ったのは誤りであった」〈細川手記319〉
東条前首相も弱気になって、名古屋で死亡した汪兆銘を弔問した帰りの車中で近衛に洩らすようになった。
十二月十一日、日曜日。日本国民は、全員午後一時二十二分から伊勢神宮に必勝祈願をした。小磯首相の発案によるという。
「神風を吹かせるようにというのである。二十世紀中期の科学戦を指導する日本の首相は、神風をまき起す祈願を真面目にやる人なのである」〈『暗黒日記』496〉
清沢洌は呆れ果て、荷風は全く無視したが、祈願とか神風特攻隊による体当り、それに主婦にまで竹槍を持たせることぐらいしか、日本には残された手はなかったともいえる。
昭和二十年──
東京は除夜の鐘の代りに空襲警報のサイレンで明けた。午前五時にも発令されたので、天皇は元旦の四方拝の儀式を御文庫の庭にタタミ一枚を敷き、六曲の金屏風を持ち出して軍服のままで済ませた。かつてない異常事である。
「レイテに敵の上陸軍をむかえて二カ月余……今や比島全域が天王山である」
小磯首相は新年の決意をラジオで語ったが、米軍はすでにレイテ島作戦を終了して、一月九日にはルソン島に上陸を開始、首都マニラに向かった。
一月六日、天皇は御文庫で木戸と話した。B29の空襲が始まった十月末から、天皇はコンクリート造りで地下に防空壕のある御文庫暮しを余儀なくされているが、「湿気のつよいところでね、ひどいもんだったよ」という生活である。
「米軍はルソン島上陸を企図し、リンガエン湾に侵入し来りしとの報告あり。比島の戦況は愈々重大となるが、その結果如何によりては重臣等の意向を聴く要もあらんと思うが如何」
小磯首相は「レイテ島の戦闘の勝敗は天王山とも目すべき」とラジオで呼号して国民を引っぱって来た。しかし、レイテ島を見棄て、さらにルソン島まで危機にさらされた今となっては、戦争終結策を考えなくてはならないし、内閣交代も必要だろう、そのためには重臣会議を開いたらどうかという聖慮である。
「まず第一に我国の戦争指導の中心たる陸海両総長の真の決意を御承知遊ばすことが必要と考えますので、……両総長を同時にお召の上御懇談遊ばされては如何かと存じます。……とも角ここ数日の推移を御覧願いたく存じます」
木戸は、重臣の意見聴取に消極的だった。それよりは、両総長、閣僚関係の意見を聴く方が先だという筋論である。作戦の実情は両総長がいちばん詳しいのだからまずこの意見を聞くのが当然なのだが、もうひとつ木戸氏はのちにつけ加える。
「重臣といっても陛下に対しては、ご遠慮申し上げる点もあるだろうし、それと情報の欠如だな、重臣の勉強が足りない。いわゆる重臣とはたで言われるほど自分が自覚していないというのか何か知らんが、国を背負って立つといったような気概のある重臣が一人もいないんだ、張り子の虎みたいなもんでねえ……」
重臣をあまり信頼しなかったというのだ。岡田は「たぬきおやじ」、米内は「淡白」、東条には「陸軍がついている」、平沼は「ニガ手」、近衛には「ものをいえない、オフレコが漏れる」とも木戸はいっている。
しかし、こんな木戸の姿勢は外部から見れば、「木戸内府が宮中に壁をつくって、在野の人々の自由な意見を陛下に取次ぐことをしない、宮中参内すらも相当に制限する」〈藤田『侍従長の回想』43〉と非難の的になる。
「要するに木戸内府が一番のガンである」〈細川手記334〉
「一切の問題は挙げて木戸内府にあるのだから、何とか是を辞めさせる方法はないものか」〈同338〉
細川護貞などは終戦工作が進展しない焦りから、こんな過激な意見を吹きまくって、高松宮からきびしくたしなめられた。
「一体君達は木戸を替えると云うが……木戸を替えたらすぐにも和平が出来る様に思うのは大した間違いだ。みんな駄目だ駄目だとばかり言っていて、それではどういうプランでやるかと云うことは誰も言わぬ。木戸が阻止すると云うが、プランを持って行った者が居るのか」〈同340〉
たしかにその通りで、そのプラン──終戦工作は難しい。最大の難問は軍部とくに陸軍をどう説得するかである。
「あの戦争のさ中に和平を言い出したら大変な内乱になっただろう、国内を二つに分けるような騒ぎになっただろう」〈『昭和史の天皇』1巻135〉
終戦後まもないころ天皇は藤田侍従長に語ったというが、宮中クーデター≠フ風説すらあるのだから、「キド・ザ・クロック」〈加瀬俊一『ミズリー号への道程』(26年、文藝春秋新社)258〉の綽名を頂戴している正確無比の現実家の木戸としては慎重にならざるを得ない。
一月六日、ちょうど天皇と木戸が重臣拝謁を話題にしているとき、吉田茂、小畑敏四郎陸軍中将、岩淵辰雄(政治評論家)の三人が、小田原、入生田に近衛を訪ねていた。小畑は皇道派の代表者とみられており、その皇道派に親近感をもつ岩淵は皇道派の起用によって統制派陸軍の粛正を企図しており、吉田は開戦直後から、宇垣内閣、小林躋造内閣、鈴木貫太郎内閣などを考えながら戦争終結のために動き回っていた。
このころ吉田は、近衛の秘書官だった牛場友彦から、戦況について詳しい情報を得ていた。牛場はNHKの対敵放送を担当しており、NHK幹部がアメリカの短波放送をきいて本当の戦況を知るグループをつくっていたので、ここから情報を得て平河町の吉田邸にとどけていたという。近衛も吉田も、それにつながる人々も戦局の実状はよく知っていたわけだ。
三人は、風邪気味だといって毛糸のえり巻に首をうずめている近衛に、近衛内閣をつくって終戦に持っていくこと、その第一歩として近衛から天皇に和平の緊要を進言するように説いた。近衛は天皇に上奏する件については大いに賛成の様子だった。しかし、新しもの好きだが「己の所信を貫く勇気に欠ける」〈藤田『侍従長の回想』185〉近衛が、自ら組閣して陸軍を相手に終戦に持って行くとは到底信じ難い。
「近衛がどれだけ腹を決めているか、君わからぬか」〈細川手記330〉
この日の夕方、細川護貞が入生田から大磯に回ると、吉田茂から逐一報告を受けている原田は尋ねた。細川は「返答に窮し」たが、近衛は小田原、熱海、湯河原を転々としているだけで容易に腰を上げようとしなかった。
一月十三日、天皇は再び木戸に重臣拝謁の件を下問した。
「篤と考究すべき旨奉答す」
しかし木戸もまだ腰を上げようとしなかった。「もし重臣との会合が軍部に発見されたならば、危険に直面」〈木戸口供書─東京裁判速記録483号〉すると心配したし、また「僕はいい子になろうと思えばむやみと拝謁させればいいんだよね、だけどそれじゃ陛下にご迷惑だし、ご心境も乱すしね、実質的に考えて何の価値のないことをしてもしようがないということなんだ、露骨にいうとね。どうせ遠慮して本当のことはいわないだろうし、勉強もしていないんだからね。まあそういうところが近衛君とちがって僕は人に憎まれたり何かするわけなんだよ、ウフフ……」ともいう。そのまま、また数日がすぎて、とうとう吉田茂がしびれを切らした。吉田は、小畑を湯河原に遣って近衛に早く上奏を行なうように強引に説いた。近衛もようやく上奏文を自分で起草すると断言した。さらに吉田は、原田を訪ねて、上奏の機会をつくる工作を相談した。
「鈴木貫太郎枢府議長を煩わすほかあるまい」
鈴木は、西園寺亡きあと天皇のいちばん親しい重臣として相談相手をつとめてきているから、天皇の気持も充分に知っているはずだ。原田は鈴木宛に「戦局重大化の折から天皇の判断の正鵠を期するために天皇の重臣に対する意見聴取の機会を作るように斡旋されたき旨」〈日本外交学会『太平洋戦争終結論』(43年、東大出版会)106〉の書簡をしたため、吉田はこれをもって上京した。
さらに原田は近衛と岡田に電話して二十二日の夜、星ヶ岡茶寮で会食させることにした。以前から高木少将に依頼されていたが、いまこそ岡田と近衛の緊密な連絡が必要だと判断したのだ。しかし二人が会う段取りは、原田の体調がまた思わしくなかったので、内田信也が代って引き受けた。
二十二日、近衛は入生田にいる山本ヌイを伴なって大磯に原田を訪ね、木戸に直接働きかけて説得したらどうかと相談した。
ところが、木戸と吉田は「東京駅のホームで喧嘩した」という話もあるくらいで、ソリが合わない。ここで吉田が出向くと木戸はかえってヘソを曲げてしまう虞れすらある。といって、空襲の中を原田が上京するのは体調が許さない。
原田は早速、木戸宛に「外交財政等の専門家として、幣原、有田、池田等を直接御上が御招き遊ばしては如何」〈細川手記339〉という主旨の書簡をしたため、その中で吉田を藤田侍従長に会わせてくれと依頼した。また二十七日には宗像久敬を木戸のところに遣わして重臣拝謁の機会を早く作れと督促した。木戸はすんなりと吉田と藤田の会見を取りもった。
「いやあ、原田はせっかちだからね、思いつくとすぐ電話をしょって走り出す方だから、あっちこっち。しかし、こっちは気を配ってやらないとだね、いろんな空気の中にいるんだから」
一月三十日、岡田、近衛、若槻、平沼の重臣四人が集まって、「御上よりこの際、軍に対し戦争の見通しにつき御下問ありて然るべし」〈同335〉と意見をまとめ、近衛が木戸に伝えた。木戸は、軍部に対する天皇の下問は「時機に非ず」と消極的だったが、重臣の拝謁を考慮していると告げた。
「天機奉伺の形にて、一人々々重臣を御招きある様計画中なり」
近衛はあとで細川に、「あく迄形式的だな」と笑ったが、しかしこれで平沼、広田、近衛、若槻、牧野、岡田、東条の七重臣は二月七日以降ひとりずつ天皇に拝謁して時局に対する意見を上奏する機会を与えられたことになる。戦争終結を上奏することも出来るわけだ。
「外からみると、いかにも僕が防波堤になって重臣を遠ざけているような印象を受けているとなるとだね、あとで文句が出るおそれがあるから、それでまあ、あゝいう形をとったわけだよ。一旦はみんな集めて一遍にしちゃおうかと思ったんだけどねえ、それだとお互いに牽制してなかなかものを言わないんだよね、陛下の前ではね、それで一人ずつ……。だけど、内容が貧弱なことは初めっから想像していたんだ、僕は。あたらずさわらずのことを申し上げるだけでね……近衛君だけだよ、まじめに答えたのはね。近衛は非常に左翼、共産党の問題を心配したんだね」(木戸氏)
重臣拝謁の結果は、木戸のいうとおり「実につまらんもんだった」。若槻によれば「どうも直接、陛下の御前で、目のあたり陛下の御英姿を拝して降参なさい≠ニは、なんとしても言上できなかった」〈若槻『古風庵回顧録』42〉というが、広田は対ソ工作を、若槻は「大方針としては勝敗なしの状態に於てこの戦争の終結をつけること」〈木戸文書498〉を、また岡田は「目下の急務は国内に残されたる全力を集結して迅速果断に戦力強化を図るべし」〈同504〉と上奏するにとどまった。ひとり東条だけは強気で、「只今深刻に太平洋上に起りつつある進展に対しては、全体的に観察して成功不成功相半すと見る……本土空襲も近代戦の観点よりすれば序の口なり。この位のことにて日本国民がへこたれるならば、大東亜戦完遂などと大きなことは云えぬ」〈同507〉と上奏した。東条上奏の一週間前、二月十九日に米軍は硫黄島に殺到している。東京都小笠原支庁硫黄島村──ここから東京までは千二百五十キロである。それを知りながら、補給線の延びた米軍の方が不利になるという東条のこの強気、いや無謀さ──「陛下の御表情にも、ありありと御不満の模様がみられた」〈藤田『侍従長の回想』79〉。
近衛の上奏は二月十四日だった。この日に備えて、近衛は二日前に上京して吉田邸に泊り込んで上奏文を練り上げた。
「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存じ候……」
原稿にはこう認めてあったが、さすがに近衛も敗戦≠ニは言えず、最悪なる事態≠ニ言い換えて上奏を始めた。
「……英米の輿論は今日迄の所、国体の変更と迄は進み居らず。……国体護持の立前より最も憂うべきは、最悪なる事態よりも之に伴うて起ることあるべき共産革命に候。……勝利の見込なき戦争をこれ以上継続するは、全く共産党の手に乗るものと存候。従って国体護持の立場よりすれば、一日も速に戦争終結の方途を講ずべきものなりと確信仕候……」〈『近衛文麿』下529〉
そのためには「その前提として軍部内のこの一味の一掃が肝要」であり、皇道派を起用しろと近衛は上奏した。
「僕らとしては、それほどに思ってはいなかったが、近衛は非常に共産革命を心配したんだね」
木戸氏の感想だが、天皇も「内心でその特異さに驚かれた御様子」〈藤田同右書64〉だった。しかし、「一日も速に戦争終結」を実現するには、陸軍を説得しなくてはならない。その方法は、近衛のいうように皇道派が早期和平論なら、これを起用して「軍部の性格が変り、その政策が改まる」のに期待するか、あるいは潰滅的打撃を受けて軍部が自信を喪失するのを待つかである。そのどちらかしかないが、本土決戦以前にタイミングを見つけないと、およそ和平工作とはいえない。
二月はじめ、重臣拝謁を決めたあと、木戸は松平秘書官長に語ったという。
「あの人たちと会ったところで私と同一意見だ。彼らは和平論者と世間から認められている。内大臣たる私が彼らと会えば、私が和平運動に関係することになり、ひいては陛下もその中に数えられ、陛下を全くその反対の勢力の中にとられてしまったりしては、事が破れる。ここしばらくは木戸は頑迷だ、戦争継続論者だと思われてもよろしい。今に解る時も来る。国家が救われればそれでよろしいのだから」〈木戸日記(東京裁判期、55年、東大出版会)405〉
松平は木戸のこの言葉に強い感銘を受けたが、木戸はこのころから本土決戦前に和平の機会を捉える決意を固めて動き始めた。
重臣拝謁は、木戸のいうように直接にはあまり意味はなかったが、これを契機に和平運動が半ば公然化し、しかも天皇を頂点とする形で進められるようになった効果は見逃せない。「上からの和平」、「官制運動」などと非難もあるが、下からの運動が取るに足らない以上、終戦への途はこれ以外に現実にはあり得ないわけだ。「重臣拝謁をやれ」と最初に言い出した原田の狙いもここにあった。
再び近衛上奏に戻る。
近衛が上奏を終えると、天皇は下問した。
「梅津(参謀総長)は、米国が皇室抹殺論をゆるめざるを以て、徹底抗戦すべしと云い居るも、自分もその点には疑問を持っている。梅津および海軍は今度は台湾に敵を誘導し得れば、たゝき得ると云って居るし、その上で外交手段に訴えてもいゝと思う」〈細川手記342〉
天皇は親しみを込めて統帥部の話も打ち明け、「外交による転換の場合、陸軍は動揺するだろうが、杉山はそれだから元帥が必要だと云って居った」と苦笑した。すでに天皇は杉山陸相に外交による転換を下問したのだろう。
「元帥と云う様な肩書では抑えられますまい」〈同右〉
近衛も吹き出し、侍立していた木戸も笑い出した。
上奏のあと、木戸は内大臣室に退ると、近衛に「どうも陸軍があんなことを申し上げるから困る」とこぼし、「軍のことでも内閣のことでも、具体的なプランがあれば、御上は御採用遊ばされるだろう」とつけ加えた。
具体的なプラン──まず終戦内閣をどうするかである。木戸と近衛は構想を練り始めた。
「木戸がもう少し申し上げればよい。直接軍事を申し上げずとも、軍の云うことはいつも違いますと申し上げればそれでよいではないか」〈同343〉
宮中を出た近衛はニコニコしながら上奏文を片手に吉田邸にひとまず戻り、そこから鎌倉の細川邸に向かった。久し振りの上奏に満足したのか、木戸に対するこんな不平も口にしたが、まもなく近衛はこの上奏の件で憲兵隊につけ狙われて、キモを冷やす。
三月六日、原田は木戸に手紙を書いた。
「一度会って話し度いと思いつゝ、未だにその機を得ない事を残念に思う。今年の冬は如何にも烈しい。二・二六の朝を思い出す。かの時の事は夢のようだ。今日は空前絶後の有史以来の事だ。そして今、老兄は側近の一人者として御奉公に身命を賭して居られる。その御苦心の程は深く御察しする。恐らくその辺の事情および経緯を察し得る者は、近衛と小生位いなものと思う。……近衛にはよく会う。この度、拝謁後非常に安心した様な風であり……陛下の御親しみが旧の如くであったか、いずれにしても非常に彼に一種の自信が出たと思う。……近衛が果して出るのがよいか。彼の決心が果してどうか、いろいろな点を考えるのだ。……会い度い」
原田は、近衛に終戦内閣をやらそうとも考えていた。それには近衛の決心と、木戸の同意が前提になる。「近衛公の出馬と御上よりの御言葉とを期待して」〈同359〉終戦に持ち込もうということだ。原田の手紙は九日に細川が持参して、松平秘書官長から木戸に渡った。
この日、木戸は天皇に、「統帥一元の問題、戦争終結等を考慮したる場合の国内体勢、側近の陣容等」について言上した。戦争終結を前提とした相談が天皇と木戸の間で始まったのだ。
その夜十時半、空襲警報が鳴り渡り、真夜中から東京は猛烈な焼夷弾爆撃を受けた。グアム、サイパン、テニヤンから発進したB29、二百七十九機は、うち十四機が対空砲火で撃墜されたが、一万二千二百二発、千六百六十五トンの焼夷弾を下谷、浅草、神田、日本橋、京橋などの下町を中心に投下、折からの強風にあおられて「帝都の約四割は灰燼に帰した」。
損失家屋二十六万戸、罹災者百十六万人、死者七万二千人余、負傷者二万人……。わずか二時間半の空襲で被害はこれほど甚大だった。二週間前に東条前首相が天皇に上奏して、「本土空襲も序の口……この位のことにて日本国民がへこたれるならば」と強気なことをいったのを嘲笑うようなB29の「波状絨毯爆撃」の猛威である。陸軍記念日への皮肉な贈り物でもあった。
この日(三月十日)、二時から重臣四人が第一生命館で会談した。空襲の話が中心だったが、平沼が突然意外な提案をした。
「もう小磯内閣はだめですね。後は鈴木貫太郎さんに頼んだらどうです」〈内田『風雪五十年』355〉
二・二六事件のとき侍従長で負傷した鈴木貫太郎海軍大将は現在枢密院議長だが、七十七歳の老齢である。岡田啓介は鈴木と縁戚にもなるので、「終始黙々」、若槻も黙ったまま、近衛は自ら出馬するという気もあったのか、「意外な提案」と受け取ったようだった。
翌日近衛は原田に連絡して湯本で会うことにした。近衛は鈴木案に賛成でないらしく、「かねて開戦反対論者であり、若槻男がかつて推薦したことのある政界の惑星、宇垣大将」〈同356〉はどうかと原田に言い出した。宇垣と原田は親しい。
「最近は宇垣の考えも知らない。それより、フミが出たらいいじゃないか」
原田は、近衛の「決心が果してどうか」、まだ探っているようだった。それでも原田は、「宇垣の決意と方寸を確かめてみよう」と、十八日に近衛と宇垣が会う段取りをした。原田は、近衛が決心しないなら鈴木貫太郎がいい、長く侍従長をつとめた鈴木なら天皇の気持を察してうまく動くだろうし、海軍のバックアップもあるだろうと考えていた。
三月十日の東京大空襲のあと、米軍は名古屋、大阪にも来襲し、「旧市街は大半焼失」するほどの被害が出た。
三月十三日、作家の高見順は鎌倉から上京した。「妻はまだ東京の大爆撃跡を全然見たことがない」〈高見順『敗戦日記』(34年、文藝春秋新社)114〉というので、二人は上野駅に出てみた。
[#1字下げ] 上野で降りて、汽車の乗車口の方へ行って驚いた。あの広い駅前が罹災民でびっしりと埋められている。……夕闇が人々の頭上におりてきた。
[#1字下げ] 大声が聞えてくる。役人の声だ。怒声に近かった。民衆は黙々と、おとなしく忠実に動いていた。焼けた茶碗、ぼろ切れなどを入れたこれまた焼けた洗面器をかかえて。焼けた蒲団を背負い、左右に小さな子供の手を取って……。既に薄暗くなったなかに、命ぜられるままに、動いていた。力なくうごめいている、そんな風にも見えた。
[#1字下げ] 私の眼にいつか涙がわいていた。いとしさ、愛情で胸がいっぱいだった。私はこうした人々とともに生き、ともに死にたいと思った。否、私も、──私は今は罹災民ではないが、こうした人々のうちのひとりなのだ。怒声を発し得る権力を与えられていない。何の頼るべき権力も、そうして財力も持たない。黙々と我慢している。そして心から日本を愛し信じている庶民の、私もひとりだった。
[#1字下げ] 車中で新聞を見る。煙草が日に三本になると書いてある。七本から三本になるのだ。……
五日後の三月十八日、天皇も「突然お出ましと云うが如き姿」で、東京下町の被害地を巡幸した。
「一望涯々たる焼野原、真に感無量なるものあり、この灰の中より新日本の生れ出でんことを心に祈念す」
供奉した木戸はあまりの被害に呆然としながらも、新生日本≠ノ思いを馳せて戦争終結の決意を固めていた。焼け跡にはまだ死臭がただよい、焼木をひろい集める罹災者は「ふと陛下のお姿をみて、驚きの表情でお迎えし……陸軍の軍装を召された陛下は、都民のモンペ姿、防空頭巾姿にいちいち会釈する」〈藤田『侍従長の回想』85〉。
「大正十二年の関東大震災の後にも、馬で市内を巡ったが、今回の方が遙かに無惨だ。……今度はビルの焼け跡などが多くて一段と胸が痛む……」〈同86〉
天皇は沈痛な面持で藤田侍従長に語り、「これで東京も焦土になったね」と嘆じながら、二時間近い巡幸を終えた。
一月四九〇機、二月一、四六〇機、三月三、五四五機……米機の来襲延機数である。七月にはこれが二〇、八五九機にまでふえ、東京も四月十三日と五月二十五日にさらに大空襲を受けて、皇居も飛び火で炎上する。
天皇の災害地巡幸があった日、近衛は熱海の内田信也の別荘で、宇垣と対談した。
「国内において決戦する」
「陸軍を抑えるには板垣が一番ですよ」
宇垣は徹底抗戦論を吐いて、近衛の毒気を抜いた。あとで宇垣は「いや、近衛公があまり弱気だから激励したんだヨ」〈内田『風雪五十年』358〉といったが、「余は大局的に見て強気で押通し得ると確信するにより……」〈宇垣日記1632〉と日記にも記したところを見ると、あるいは本心だったのか……。いや、「いつでも内閣をやるという看板を掲げている」さすがの宇垣も、近衛や東条が好き勝手にやりちらしたシリなど、馬鹿らしくて引き受ける気になれないというのが本音だったのだろう。
そんな雰囲気を察してか、小磯首相は三月二十一日、木戸に「適当の機会に」辞職すると表明した。
「敵内地上陸を予想せらる。……組閣の当初は比島に於て戦勢を決する計画の下に進みたるに、之を実現し得ざりしは、即ち内閣の企画せしことに錯誤を来せしことになる。人心既に内閣に離反せり」
木戸は、「事重大なるを以て、余に於ても篤と考慮し置くべし」〈木戸1179〉と答えたが、「頗る冷淡なる態度」だった。ところが小磯は三日後に天皇に「三つ許り重要なことを」上奏した。
「側近に線の太き者を御使い相成度し」〈同1181〉
木戸を代えろということである。その他、内閣の辞職にもふれたが、「改造云々とも云い、その間矛盾あり、真意の那辺にあるやは頗る不明瞭」だった。
三月二十六日、小磯はまた参内して、聖断を仰ぐ上奏をした。
「現在の情況は内閣としてこの際大改造を断行するか、しからずんば進退を考うる外なしと考うるところ、思召によりては何れとも致し度し」〈同右〉
天皇は、「いささか御当惑」の様子だった。内閣を改造するか総辞職するかは、小磯が判断することで天皇が決定することではない。しかも小磯は、木戸と「内閣進退の問題は、今暫く二人丈にて、他に話さず、熟慮する」〈同1180〉と約束したことを無視しての上奏である。
翌二十七日、重臣四人が集まり、「別個に会見」、小磯の後継を相談した。まず岡田が平沼と話した。
「小磯の次に鈴木貫太郎を首相に、阿南を陸相とする内閣を作ったらどうか」〈細川手記363〉
平沼は当然賛成である。次に岡田は若槻と話した。若槻は「近衛内閣説なりしも、岡田氏が近公は更に後にとって置くべき人なりと説きたる結果、鈴木氏に同意」した。
午後一時半、近衛は、岡田から「内府の意向を聞くべき由依頼」されて、木戸を訪ねた。木戸は「小磯をまるで問題とせず」、鈴木内閣構想に賛成した。
「小磯は、今日自分以上に忠誠なるものなし≠ニ自ら言うほどの馬鹿者なり。陸軍に人がなければ、鈴木氏でよいだろう」〈同364〉
後継内閣構想はこれで決まった。あとは鈴木内閣がどのように戦争終結に持って行くかである。
二十年四月一日、米軍はとうとう沖縄に上陸した。「今また第二国防圏と定められた内濠の一角さえ敵手に渡るに至った」わけである。
[#1字下げ] 硫黄島は已に取られ、また琉球にも敵軍が上がったそうだから、敵の飛行機は今までよりはもっと頻繁にやって来るだろう。たゞ思う事は、寿命の縮まる様なこわい思いをした後で、空襲警報が解除になり、ほっとした気持ちで今度もまた無事にすんだかと思う時、お酒か麦酒があったらどんなにいいだろうと云う事で、いつもそればっかり思うなり。〈内田百閨w東京焼尽』(30年、講談社)94〉
作家の内田百閧フ日記である。
四月五日、小磯内閣は総辞職した。小磯と一緒に組閣の大命を受けた米内海相が「辞職の真相」をいう。
「小磯が重慶の密使と称する|繆斌《みようひん》という者をひきよせて内密に工作しつつあった。たまたま天皇から海相、陸相および外相にたいし御下問があり、いずれもあれは駄目と思います≠ニいう意味のことを答えた。そこで四月四日、天皇は総理を召され、ほかの閣僚はいずれも不同意であるのに、かれ(繆斌)をどうするのかとの御下問があり、小磯はかれを帰国させるように取り計いますと答えたものの、御信任がすでに傾いたことを直観した」〈米内覚書105〉
小磯内閣が担当した期間は、サイパン失陥から沖縄上陸までの十カ月足らずである。「この小磯内閣の十カ月間の存在は、少くとも結果から申して何もしなかった、何にも為にならなかった」〈迫水久常『終戦の真相』(31年、私家本)27〉と迫水久常(鈴木内閣の書記官長)はいうが、開戦の東条内閣と終戦の鈴木内閣の間で、何度か「一発勝負決戦講和」を模索しながら、とうとう本土決戦一歩手前まで押し切られてしまったということだろう。
小磯が辞表を出すと、午後五時から重臣会議が宮中表拝謁の間で開かれた。
木戸と四重臣(近衛、若槻、岡田、平沼)、米内の間では鈴木推薦に決まっているが、会議の模様は当時の上層部の時局観、意見を反映しているので一部を引用してみる。
広田 どうしても勝たざるべからず……次の内閣は戦に勝抜く為の内閣ならざるべからず。
木戸 国内の実情は甚だ憂うべきものあり。国民は必ずしも政府の施策に熱心なる協力をなさず、いわゆるソッポを向いて居ると云う傾向相当あり。
平沼 鈴木大将に御引受け願度く希望す。
近衛 同感なり。
若槻 そうなれば申分なし。これより結構なることなし。
東条 畑元帥を適当と信ず。
広田 軍の中心に立つ人が担当するが適当と思う。
岡田 人を知らない故、意見を申上難し。
木戸 自分はこの際、鈴木閣下に御奮起を願い度しと考う。
東条 国内が戦場とならんとする現在、余程御注意にならないと、陸軍がそっぽを向く虞れあり。陸軍がそっぽを向けば内閣は崩壊すべし。
木戸 今日は反軍的の空気も相当強し。国民がそっぽを向くということもあり得べし。
岡田 この重大時局大国難に当り、苟も大命を拝したるものに対しそっぽを向くとは何事か。国土防衛は誰れの責任か、陸海軍にあらずや。
東条の発言が特に異常である。しかしこれは、東条個人の性格もあるが、内地に二百万、外地に三百万の軍隊を擁し、内地軍はもちろん、支那派遣軍、関東軍、仏印・ジャワ派遣軍も無傷で、中堅将校の意気も盛んな陸軍の情勢を反映したものでもある。
重臣会議のあと、木戸は「自己の所信と重臣多数の意向に基づき、鈴木貫太郎男を奏請した」。木戸によれば「鈴木さんていうのは肚のすわったしっかりした人だから、どうせこれはもう終戦に持って行かなければいかんと僕は判断していたから、それであの人を持って行ったんだ」という。
「卿に内閣の組織を命ずる」
この夜十時、天皇は、深く叩頭して前に立つ老臣に組閣の大命を下した。慣例の「憲法の条規」云々の言葉はない。無条件だ。木戸氏によれば、「ごく懇意に思ってらしたから特別に注文をなさらなかったんだろうね。それと、戦争終結もお考えになっていたわけだから、いまさら憲法がどうのこうのという問題じゃなくなっているよね、そういうこともあったんじゃないかな」ということである。
鈴木は深く一礼すると、口を開いた。
「聖旨のほど、畏れ多く承りました。唯このことは、何とぞ拝辞の御許しを御願いいたしたく存じます。……鈴木は一介の武弁、従来、政界に何の交渉もなく、また何の政見をも持ち合わせませぬ。……」
鈴木をみつめていた天皇は、ニコリと微笑した。
「鈴木の心境は、よく分る。しかし、この重大な時にあたって、もう他に人はいない……」
天皇は一度言葉を切り、鈴木も顔をあげて天皇を見上げた。
「頼むから、どうか、まげて承知してもらいたい」〈藤田『侍従長の回想』98〉
まことに異例のこと──侍立した藤田侍従長は目をみはった。「陛下はたのむ≠ニ言われた。御信任は並大抵ではないのだ。鈴木氏こそ、陛下の持ち駒として唯一の人であった」と藤田は驚嘆したが、木戸と鈴木、天皇と木戸の間では事前に相当の打合せが出来ていたようだ。
重臣会議のあと、木戸は鈴木に「陛下の御命令あらば御引受け相成たし」と誠意を披瀝して懇請した。鈴木を推すから、組閣の大命を受けろということだ。このとき木戸は「戦争の如何にも重大なる実情を語り、それとなく戦局の転回の必要」を匂わしたという。
「自分が拝命すれば自分の使命は全くそれ以外はないと思う」〈木戸文書68〉
鈴木も木戸の意図するところを察して賛同し、木戸はこのやりとりを詳しく天皇に伝えてあったのだ。もっとも木戸と鈴木のこのやりとりは、木戸が巣鴨刑務所で記した「戦争終結への努力」によるもので、木戸氏の直話によると、内容は微妙に異なっている。
「四月五日に重臣会議をやってね、若槻さんはちょっと遅れてやって来て……。それから鈴木さんを別室に呼んでね、今度あなたが大命を拝するのは、重大な決心をする必要があるからなんだということをまあ話したんだ。で僕はその意味は、終戦ということだったんだ、僕の意味は。ところが鈴木さんはね、必ずしもそう取らなかったらしいな。無論終戦ということは考えているけれども、もう一戦やってという、やっぱり軍人の……阿南なんかもやっぱりそうだったからね、みんなそういう感じなんだな……」
鈴木首相の登場は、「各方面共に好感」をもって迎えられた。
「なか/\面白いと思う。第一、御上の御信任が厚いと云うこと、第二に御上の御思召通りに政治を運用しようと努力するだろうこと、第三に意志が強固だと云うこと……」〈細川手記370〉
高松宮も大歓迎で、「御親政と云うことならば、思召を具体化することのみやればよいのだ」ともいっていた。御親政=思召の具体化──鈴木内閣の足取りは、終戦に至るまでこのとおりに展開していく。
鈴木内閣は四月七日に発足した。陸相阿南惟幾、海相米内光政、外相東郷茂徳、内相安倍源基、蔵相広瀬豊作……。また書記官長には迫水久常が就任した。これは、「組閣の知恵袋は岡田啓介大将で、その関係から婿の迫水久常を参謀とし、結局書記官長にした」〈『暗黒日記』639〉ものである。「雑多な構成……フォーカスが合わぬ」〈同639〉、「重臣の身代り内閣」〈同643〉などという評も聞かれた。近衛は、迫水や秋永など革新官僚が多く入閣したのをみて、「新内閣の前途も見通しが暗いですね」〈高木『終戦覚書』22〉と落胆していた。
組閣当夜、鈴木首相は、「国民よ、我が屍を越えていけ」と勇ましい放送をやった。
「鈴木大将の言説は時として国際親和論に傾くことあり、時として武力進出を主とするものの如くに聞ゆることあり、包容大なるによるか、定見無きによるかを測るべからず」〈深井『枢密院重要議事覚書』89〉
枢密顧問官の深井英五は首をひねったが、鈴木首相はなかなか「一介の武弁」どころではない。久し振りの大物政治家の登場というところであった。
「終戦も、最後は結局、鈴木さんと僕とでやったようなもんだね」
木戸氏はいう。木戸と鈴木は、その最後≠目指して行動を開始した。
しかし、鈴木内閣発足の日、日本海軍最後の戦艦「大和」が沖縄をめざす途中、徳之島北方で撃沈された。帝国海軍の実質的終焉である。しかもその前々日、ソ連政府は日ソ中立条約不延長を通告して来ていた。これで現条約は来年四月に自動的に失効することになり、鈴木内閣の門出にとってはいずれも衝撃的な出来事だった。
四月十五日、日曜日、大磯。昨年十一月二十九日の夜に空襲を受けたが、町の西はずれ小磯の高台にある吉田茂邸は、戦争とは別世界ののどかなたたずまいを見せていた。
朝六時半、五人の憲兵が吉田邸の門に立った。前夜から張込んでいる張込班、検挙班のうち東京憲兵隊司令部特高警察隊木村准尉を長とする吉田茂検挙班のメンバーだった。犯罪容疑は次のとおり。
[#1字下げ]一、軍事上の造言蜚語
イ、近衛上奏の内容を流布した疑い
ロ、陸軍はすでに戦争に自信を失い士気沈滞しありとの反戦言動の流布
ハ、関東軍は赤化し、陸軍中央部もまだ赤の分子に動かされているとの中傷言動
[#1字下げ]二、軍機保護法違反
関東軍の編成装備行動等につき諜知したところを洩らした容疑
木村准尉から九段の憲兵隊司令部に同行を求められた吉田は、憲兵たちを待たせたままゆっくりと洋服に着がえ、二月の近衛上奏文の写しを近衛、原田、殖田俊吉らの手紙とともに「これは大事なものだから隠しておいてくれ」と同居の坂本喜代子に手渡した。坂本は包みを素早く箪笥の中に隠し、机の上にあった手紙なども帯の中にしまい込んだ。
「原田に、今うちに憲兵が来ているから、そっちにも行くと思うと連絡してくれ」
吉田はこう言い置いて、八時半ごろ憲兵に連行されて出て行った。
当時吉田邸には電話がなかった。あったとしても憲兵に盗聴されただろうが、坂本は書生の東に命じて、近くの牛乳屋から原田に連絡させた。原田と吉田の家は大磯の町を真中に東西に隔たっており、四キロ近くある。
「いま憲兵が来て旦那さまが連れていかれるところですが、原田さんのところにもこれから行くようです」
吉田邸からの連絡は、土屋よし子看護婦が受けた。
ところが──坂本喜代子氏の話をきこう。
「この書生がスパイだったんですよ。近衛さんの上奏のことは私は知りません。かえってこの書生から聞いたんです、スパイの方からね、ハハハ。ともかくひどいもんで、本宅の書生を憲兵が買収し、大磯の方の書生は陸軍省で買収してました。本宅の門には憲兵の乗った自動車がつけっぱなしで、犬まで肉で買収、女中も買収していたんですよ。電話は全部盗られてしまうし……。
旦那様はそれから一月半して五月の末に帰っていらしたんですけど、入れ替りにこの書生が姿を消しましてね、その足で箱根の近衛さんの床下にマイクを仕込んでスパイをやったんですよ。終戦後しばらくしてやって来て、職務とはいえ、大変申し訳ないことをしました≠ニ謝ったら、旦那様は、この男、勤務振り誠に良好なり≠ニ紹介状を書いて就職のあっせんをしてやったんですよ。それにその弟を書生として使ったりしてね」
面白いことに、十九年十二月七日の清沢洌『暗黒日記』に、「加納久朗氏の話によると、吉田茂のところにも憲兵隊からスパイを書生に住み込ませたとのことである」とある。長く正金銀行ロンドン支店長をやった加納は吉田が英国大使のときも一緒だったし、原田、加納、吉田の三人は|眤懇《じつこん》の間である。加納はスパイの話を誰から聞いたのか、もし他人から聞いたなら吉田にも当然注意したろうが、たぶん吉田本人から聞いたと思われる。吉田は書生がスパイだと承知のうえで平気で使っていたのだろう。
東京憲兵隊司令官だった大谷敬二郎によれば、この大磯邸のスパイ書生は陸軍省の軍事資料部の指導で潜入した者で、近衛上奏文を吉田が岳父の牧野伸顕に見せるために筆写したのを盗写したのもこの書生のしわざだったという。
吉田が憲兵に連行されて一時間ほどして、やはり原田のところにも憲兵がやって来た。感心なことに、吉田邸のスパイ書生は坂本のいいつけを守って電話連絡したので、原田は戸棚に入れてあった近衛や吉田からの重要な手紙類を土屋看護婦に預け、自分は重病人を装って布団にもぐり込んでしまった。土屋看護婦は預った手紙を着物の下に隠したが、憲兵の方も原田を逮捕する予定はなく、病状を土屋看護婦に質したうえ、原田に吉田や近衛と会った事実を確かめ、簡単な家宅捜索をしただけで昼近くに引き揚げてしまった。
「電話をもらってから三十分したら憲兵が来たよ。助かった」
あとで原田は吉田や坂本に話していた。
吉田が憲兵隊本部に連行されると同時に、殖田俊吉(戦後の法務総裁)、岩淵辰雄も逮捕された。いずれも近衛に近く、近衛上奏文の作成や和平運動に関係している人々である。
近衛はこの時、軽井沢にいた。原田は、憲兵が近衛の上奏内容を問題にしていると知って近衛に電話で連絡し、近衛は翌々十七日、軽井沢から大磯まで出て来て、原田と夕食を共にした。
「余は重臣として、御上の御召により、素直に自己の所見を申し上げたるまでにて、その時何のお咎めもなかりしが今憲兵にその内容を調べらるゝいわれなし。かくては重臣としての責を尽す能わざるを以て、この際、位階勲等一切を拝辞する決心なり」〈細川手記384〉
温厚な近衛もさすがに激怒していた。池田成彬とも相談しようというので、二人は稲荷松の池田邸(元西園寺の別荘)まで人力車で出掛け、夜おそく近衛は入生田へ発って行った。
近衛は、吉田逮捕について牛場友彦や次男の通隆に語った。
「僕なら絶対にあゝいうことはさせない」
「ではどうするんですか、立ち回りでもやるんですか」
通隆がきくと、近衛はにやりと笑って、手を首の辺に持っていって、「手はあるさ」とうそぶいた。「捕縛されるはずかしめを受けたくない」という気位の高さなんだろう。牛場は十八年秋ごろ、「近衛が青酸カリを用意した」〈風見『近衛内閣』274〉という噂をきいたのを思い出したという(牛場証言)。
二十一日に近衛は伊東に出かけて若槻と会い、その翌日は湯本まで出て来た原田と昼食を一緒にし、さらに翌日には重臣会議に出席するため小田原から日帰りで上京した。
「二十三日重臣会議のあと、米内大臣に会っていろいろ話を聞き、日本を救うは此の人を措いて無いと感じ、心強く考えると共に眼頭の熱くなるのを覚えた……」
近衛は、二十四日付の原田宛の書簡で米内との連絡に手をかすように原田に頼んでいる。
近衛のこんな派手な動きが憲兵隊を刺戟したのか、四月二十六日にまたも憲兵隊が原田邸にやって来た。東京憲兵隊本部総務課政経班に所属する三宮寛曹長と田草川基好軍曹、その他一名の三名である。この夜から三宮は近くの旅館に泊り、二人の憲兵は原田の病室の隣りに泊り込むようになった。二十七、二十八、二十九日と憲兵の泊り込みは四晩続き、昼間の取り調べでは、「憲兵は近衛上奏草案の写しを所持していて、この上奏に至る手順を原田が取り運んだのではないかと厳しく訊ねた」〈内田『風雪五十年』351〉。
彼らは、原田が鈴木貫太郎に手紙を出して、「鈴木から侍従長の藤田尚徳という海軍大将に話をして、何とか近衛が拝謁できるようにしてもらいたいと頼んだ」〈殖田俊吉「日本バドリオ事件顛末」(24年12月文藝春秋特別号)〉ことを問題にしているようだった。臨床訊問は執拗で、毎朝九時に三宮軍曹が来て、床の間を背にすわり、原田はきちっと和服に羽織はかまをつけて正座したまま答えさせられた。取調べ中に憲兵の一人が縁側から庭に放尿したり、棚の書類を部屋中にぶちまけたり、傍若無人な振舞も目についた。
この時憲兵は、同じ大磯に住む樺山愛輔邸にも行き、また小畑敏四郎中将も取調べを受けた。
「吉田一派を検挙したことの狙いは、野放図なことをいいふらしていると、いつでも憲兵の鉄槌が下るぞという警告のふくみを多分に持っていた。わたしは、この検挙でその警告が十分に利いたとみたので、それ以上深追いすることをあえて中止した」〈大谷『昭和憲兵史』502〉
大谷東京憲兵隊司令官はいう。しかし、もう一つの狙いは、近衛上奏書にある陸軍の赤化防止のため皇道派を起用しろという策動を叩きつぶそうとしたものとみられる。逮捕された岩淵と訊問を受けた小畑中将は皇道派の代表とみられる人々である。
憲兵の嫌がらせがいつまでも続くのを見て、近衛は木戸を訪ねて、「(阿南に)事の理否を問い質す」とまくし立てたが、木戸は「まずオレから阿南に話すから思い止まれ」〈細川手記384〉となだめた。
さて、憲兵隊本部に拘引された吉田は、老齢だったこともあって、「取調べは厳重でも、取扱いはしごく丁寧」で、新しい寝具にくるまり、毎日麹町の本宅から女中が運んでくるものを食べ、取調べ終了とともに五月三日に東部軍軍法会議に身柄を移された。代々木の陸軍監獄である。そのうちにここが爆撃で焼けて、目黒刑務所、目黒小学校と四度移り変わったあと、五月三十日に仮釈放になった。
「それで目黒の山口のおかみの家に行って風呂に入り、囚人服を脱ぎ捨て、年寄りの黒っぽい着物を借り、兵児帯を巻き、黒い足袋をはいて、翌日大磯に帰ってきました。シラミに食われた跡が化膿したとかで頭に包帯をまいて、ほんとうに汚らしかったですね」(坂本喜代子氏)
大磯に帰って一週間ほどすると、また呼出しがあって吉田は上京し、「阿南陸相の裁断で不起訴と決定した」〈吉田茂「思い出す儘」(時事新報30年7〜8月連載)〉と言い渡された。近衛が木戸を突っついて阿南陸相に抗議させて、「これ以上は拡大せず」との返答を得たことや、また重臣牧野伸顕の女婿だったことも吉田に有利に働いたのだろう。怒りっぽい吉田としては腹に据えかねる事件だったろうが、鳩山一郎が指摘したように「吉田君はこれで最高の免罪符を手に入れた」ことになり、結果からいえば戦後の政権担当の道が開かれることになる(二十一年五月吉田内閣成立)。
吉田の性格は、重光に言わせれば「あの人はそこにある土瓶でも茶碗でもすぐ持って駆け出す人だよ」〈木戸文書128〉というし、木戸も、吉田の和平工作について「手段が非常に粗放なんだよ。だから実現が非常に困難なんだ、議論だけが先走っちゃっているんだね。スイスヘ人を出すといって来たときも、道を考えているのか、行きようがないじゃないか≠ニいったんだ」と苦笑するのだが、それだけに戦後の吉田政権については木戸も評価する。
「終戦のあのゴタゴタの際に先生が総理になったってことは、非常にうってつけな人事だったわけだよ。もう細かく考えていたらニッチもサッチも動くことの出来ない時期だよ、あの時は。それをとにかく、どんどんやったから。今度は秩序が少し戻ってくるとだね、ちゃんとしてくると、大した成績はあがらなくなってしまうんだがね。ともかくあれは日本にとって持って来いの人事だったな、よかったと思う」
戦後のことはともかくとして、憲兵隊の手を脱した吉田は、虱に食われて化膿した頭に包帯をまいて相変らず原田を訪ねた。それまでも、「マントを着て、書生さんの自転車の後に乗ったり」、「田んぼ道を通ったり」してやって来て、食事をするとまた迎えにきた書生の自転車に乗って帰っていったが、事件後もしばしば原田のところにきて、あるときなど勝田(著者)が自転車につけたリヤカーに乗せて家まで送りとどけたりした。
このころ吉田は麹町永田町一ノ十七の本邸が五月二十五日に焼けてしまったので、着物や食物に大いに不自由していた。「米君の火に遭われぬ貴家の御蔵品羨望の至に候」
「米と酒(二升位)トラックに便乗せしめられ度」
「御願の酒と梨頂戴に使差出候、その内米も買入度、御心配願上候」
こんな吉田の手紙が原田のところに次々と舞い込むようになった。
原田のところには、水口屋から米や油が届いたし、曾根田医師のところに宿泊している本土決戦のための陸軍部隊長に頼んで曾横田が「特級のいい酒」を回したりした。昔の使用人や知人からの差入れも多く、近衛も「原田はいいなあ」とうらやましがるほどだった。
「……己にて別段饑餓に瀕し候次第に無之、古河に水絶えず人徳高き小生何処になりほしきものは入り来候、呵々」
強気の吉田はこんな手紙を原田に送ってやせ我慢したのはよかったが、「頓首 茂」と結んだあとに、「両三日中に酒と果物買に使出候間宜敷願上候」とつけ加える始末で、人徳高く、欲しきものは入り来るのはむしろ原田のようだった。一方、原田は惜し気もなく、着物も食物も吉田や近衛に配って、自分の分がなくなるのも一向に気に掛けない様子だった。
「困ったことがあったら僕のところへ言って来いと原田さんがおっしゃったんですよ、おやさしいから。あんないいお友達があって旦那様もお幸せでしたね。吉田=A原田≠ニ呼び合って手を握ってね……」
坂本喜代子氏はいまでも目をうるませて回想している。
さて、吉田が四十五日間留置されている間に内外の情勢は大きく変化した。
東京は四月十四日未明と十五日夜にB29機群二百二十七機と百九機の空襲を受け、蒲田、大森、目黒、世田谷、品川、芝、麻布、向島など七万戸が焼けた。赤坂の木戸邸も麻布市兵衛町の東久邇邸も焼失した。
「五十数年の住居……今は皆灰となる。感慨なき能わず。愛惜の情あるは免れざるところ、しかも亦一面、何となくさっぱりとしたる心持となりたるは不思議なり」
木戸はやむなく弟の和田小六の貸家に移ることにした。
東久邇邸も母屋が焼けたので、防空壕に移り、東久邇自身は「もと孔雀を飼っていた小屋を移して、書見および応接、食堂」にすることになった。
「私の家の周囲の家々が焼かれて、私の広大な家だけが残っては国民に対して申訳がないと思っていたところ、このたび私の家も焼け……何となく気が楽になったと感ずる。……警戒警報のサイレンが鳴っても、もう焼けるものがなく、サッパリした気持である」〈東久邇日記186〉
木戸も東久邇も共通の気持だったようだ。しかし高見順によると、人心の荒廃もまた恐ろしかった。
「焼け出された当座は、さっぱりしたなどと云っていても、やがて気持がひねくれて荒んでくる人が多いという。なかには、国のために焼かれて、無一物になったのだと云って、知らない人の家でもどんどん入って行って、国のための犠牲者、罹災者なんだから泊めてくれというのもあるとか。ひどいのになると、焼け残った家から、いろんな物を堂々と持ち出して行く。
焼かれるより、焼け残される方が、こわいそうだ
と某君は云っていた」(『敗戦日記』、二十年四月二十四日)
四月三十日、ちょうど泊り込んでいた憲兵が原田邸から引きあげた日に、ナチス・ドイツ総統ヒトラーが夫人エバとともに自殺した。イタリア・ファシスト党首ムッソリーニもその二日前にゲリラ部隊に処刑された。ヒトラーは遺書でいう。
「一九三九年にわたしが、いやドイツ人の誰かが戦争を買って出たというのは嘘である。あの戦争が起るのを望み、けしかけたのは、もっぱらユダヤ人の子孫たる国際政治家か、あるいはユダヤ人の利益のために働いていた国際政治家たちであった……」
この遺書と二カ月半前の近衛上奏文の一節がよく似ているといったら、近衛に酷であろうか。
「……そもそも満州事変、支那事変を起し、これを拡大し、ついに大東亜戦争にまで導き来たれるは、これら軍部内一味(共産分子)の意識的計画なりしこと今や明瞭なりと思わる……不肖はこの間二度迄組閣の大命を拝したるが、……彼等の背後に潜める意図を充分看取する能わざりしは全く不明の致す所……」〈木戸文書496〉
ヒトラーの遺命でドイツ国家元首に任命された海軍大将カール・デーニッツは、五月五日、連合軍最高司令官アイゼンハワー元帥に全面降伏を申し入れ、ドイツ第三帝国とヨーロッパ戦争はこれで終りを告げた。
アメリカでは四月十二日にルーズベルト大統領が脳溢血で急死し、副大統領ハリー・トルーマンが後を継いでいたが、五月八日、トルーマン大統領は対日戦続行の決意を表明しながらも、無条件降伏を呼びかけてきた。日本政府はこれを無視したが、さすがに「陸軍もどうやら戦局に自信を失ってきたようで、ソ連のこれからの出かたを非常に気にしはじめた」〈高木『終戦覚書』41〉ようだった。
五月上旬、鈴木首相は迫水書記官長から「我方の戦争遂行能力」について報告を受けた。組閣直後に鈴木が「本当の国力を調べてくれ」と命じ、迫水が綜合計画局を中心に陸海軍の軍務局などを総動員して一カ月かかって調べ上げたものである。
「調べてみますと驚くべき結果が出てきてしまいました。鉄鋼の生産計画では昭和二十年は三百万トンほどですが、一月以降の実績は月平均十万トン足らずですから、計画の三分の一です。
飛行機は月産千台と予定されていたものが半分も出来ず、しかも原料アルミニウムがなくなって九月以降は計画的な生産の見込が立ちません。石油は全く底をついており、海軍の艦隊は重油に大豆油を混ぜて使っている現状です。
空襲による本土の被害も予想以上に大きく、B29一機当り平均焼失戸数は二七〇戸余り、この状況でいけば九月末迄に全国の人口三万以上の都市にある総戸数に相当する家がなくなってしまう計算です。
外航の船舶もどんどん沈められ、年内には一隻もなくなります。要するに日本の生産は九月迄はどうにかこうにか組織的に運営されるでしょうが、それから先は全く見当がつかないと判りました。そのうえソ連も兵力をどんどんソ満国境に集め始めまして、その状況では九月迄に何とか戦争の結末をつけなければならないということであります」〈迫水『終戦の真相』30〜31〉
鈴木首相は迫水の報告を頷きながら聞き、「七、八月頃には重大な危機に直面する」〈鈴木貫太郎『終戦の表情』(21年、労働文化社)17〉と痛感した。しかし、「当面の問題として沖縄戦においてある程度先方を叩いたら和議を踏み出して見よう」〈同19〉という態度だった(鈴木貫太郎口述『終戦の表情』)。
五月二十四日未明、東京はまたもB29群五百六十二機により焼夷弾三千六百トンの大空襲を受け、二十五日夜にも五百機が来襲、永田町、霞ヶ関をはじめ、「山の手方面一円殆んど全滅」の被害を受けた。
三宅坂の参謀本部も燃えたが、折からの烈風にあおられて火焔がお濠を越えて宮城内にふり注ぎ、正殿を含む六千坪余の宮殿のほとんどが焼失した。
二十六日早朝、まだ赤黒い焔が見える宮城に向かって、濠の前に立ちつくす和服姿の老人がいた。宮城を拝してはハラハラと涙を流していつまでも動こうとしない。米内海相の姿であった。木戸に「人柄があまり淡白」といわれた米内も、皇居炎上を目の前にして、自分から終戦の口切りをする決意を固めたらしい。
五月三十日の重臣会議で、米内海相は突然、講和問題について重臣の意見を求める発言をした。しかし、その場には東条大将がいることもあって、他の重臣たちは「事が事だけにうかつに相槌も打てない、たゞ顔を見合せるばかりで、遂に尻切れトンボに終った」〈内田『風雪五十年』353〉。しかも東条は会議終了後に顔色を変えて陸軍省に行き、「今日の海相および外相の話を聞くと、今にも降伏しそうだが、陸軍はしっかりしてもらわねば困る」〈細川手記388〉と阿南陸相を督励したという。
そのあと米内は、鈴木首相、阿南陸相と臨時議会を召集する可否について相談した。
「たゞ漫然と議会を召集することはどうかと思う、総理と陸相は、どのように考えるか」
「戦争をトコトンまで遂行する決意である」
「そんなことをして皇位、皇統がまもれるか、国体が護持できるかどうか、それでは策も略もない話だと思うが……」
「トコトンやることによってのみ、皇位も皇統もそこなわれず、国体も護持できるし、またそこまでやらなくてもすむことになる」〈米内覚書117〉
鈴木首相と阿南陸相は徹底抗戦一本槍で同一意見だった。それでは仕方ない──米内は辞意を洩らしたが、二人に引き留められて撤回した。
六月八日、午前十時、御前会議は、「今後採るべき戦争指導の基本大綱」を決定した。
「方針
[#1字下げ] 七生尽忠の信念を源力とし地の利人の和を以て飽く迄戦争を完遂し以て国体を護持し皇土を 保衛し征戦目的の達成を期す
要領
[#1字下げ]一、速かに皇土戦場態勢を強化し皇軍の主戦力を之に集中す……」
要するに本土決戦である。高木惣吉は「八千万の運命を定むる最後の土壇場に、この人達は空疎な形容詞の陳列を以て、自らの良心を寝かしつけたものとしか思えない」〈高木『終戦覚書』46〉と嘆き、鈴木首相の「頼りない舵の取りよう」を呪った。
御前会議のあと、天皇は木戸を呼んだ。
「戦争は最後までやることに決定した……」〈木戸談話─毎日新聞49年8月12日付〉
天皇の顔は沈痛そのものである。秋永総合計画局長官の説明は「何れの点よりも戦争不可能なりとの結論」〈細川手記392〉である。その結論の上に立って「なお戦争を本土決戦へと指向する」というのだから、これほど「乱暴で矛盾きわまる」〈高木『終戦覚書』45〉ことはない。
「みな誰か言い出すのを待っているようだ」〈細川手記392〉
天皇の言葉は、木戸にやれと暗示しているようでもある。
「これはいかん、そんなことをしたらえらいことになる、到底このまま|荏苒《じんぜん》と日を過すことを得ない!」〈木戸文書75〉
木戸は天皇の「御軫念の御様子」を見て深く決心して御前を退いた。木戸のところには高橋三郎前高知県知事が来て、「木の大砲で演習をしているんですよ、あゝいうものを国民に見せたらとても志気はもちませんよ」などと告げ、木戸はこの話を天皇にも伝えている。もはや戦争を続けられる状況ではなくなっているのだ。
[#1字下げ]六月八日(金)晴一時雨
[#1字下げ] 十時出勤……
[#1字下げ] 一時五十分より二時二十五分迄、御文庫にて拝謁。一旦帰宅。鶴子、春子同伴、染井に墓参す。時局収拾の対策試案を起草す……
[#1字下げ] 一、戦局の収拾につき、この際果断なる手を打つことは今日の我国に於ける至上の要請なり……
[#1字下げ] 一、極めて異例にしてかつ誠に畏れ多きことにて恐懼の至りなれども、下万民のため、天皇陛下の御勇断をお願い申上げ、左の方針により戦局の収拾に邁進するの外なしと信ず。
[#1字下げ] 一、天皇陛下の御親書を奉じて仲介国と交渉す……
[#1字下げ] 一、御親書の趣旨……
[#1字下げ] 世界平和のため難きを忍び極めて寛大なる条件を以て局を結ばんことを御決意ありたることを中心とす。……
翌九日、木戸は対策試案を内覧に入れた。天皇は「深く御満足の様子で、速に着手するようにと仰せ」〈同77〉になり、この試案を木戸から鈴木首相、米内海相、阿南陸相、東郷外相、平沼枢相に説明するように指示した。木戸の活躍が始まる。一応は聖旨を拝してということだが、御前会議で徹底抗戦を決定した直後だけに、それを表に出すわけにはいかない。
[#1字下げ]六月十三日(水)晴
[#1字下げ] 一時四十分より二時二十分迄、御文庫にて拝謁。
[#1字下げ] 米内海相と御文庫にて会談、時局収拾対策を話す。
[#1字下げ] 三時半、鈴木首相来室、時局収拾対策を話す。憂を同うせらるゝ心境を聴き安心す
木戸はまず米内海相に試案を示した。米内は「全然同感」だったが、「どうも今もって首相の考えが充分判明しないので、閣内にあってこの方面に踏み出すことも出来ない」と慨嘆していた。
五月末に、鈴木首相と阿南陸相が米内を前にして、「戦争をトコトンまで遂行する」と気炎を上げたのが、気に掛かるのだろう。
「このさい陸海軍から切り出させることは無理だ。政治家が悪者になるべきだ」〈米内覚書122〉
木戸はこういって、政治家とは自分のことだと仄めかした。
続いて、木戸と鈴木首相の会談も上首尾に終った。
「一体我国の戦力はいつ頃まで続くお見込か」
「自分は八月になったらガタ落ちになるだろうと見て居る」
「皇室の御安泰、国体護持のため、この際ぜひ戦局終結に尽力せられたし」〈木戸文書77〉
木戸が「誠意を披瀝して説く」と、鈴木はニヤリと一笑して、「実は自分も終結を考えている。ぜひやりましょう」と答えた。
この夜、近衛は軽井沢から上京して木戸邸を訪ねた。五月の空襲で借家も焼けたので木戸は弟の和田小六の家に同居している。
「海相が言い出すかと思っていたが一向にやらぬ。この上は自分がやらねばならん。そうすれば殺されるだろうが、後は頼む」〈細川手記392〉
木戸は「いつになく決意を以て」語った。このころ木戸は『後藤新平伝』に感激していた。
「一生一度国家の大犠牲となりて一大貧乏|籤《くじ》を引いて見たいもの、東京市長はこのかねての思望を達する一端に非ざるか」
これは、後藤が東京市長に就任したときの覚書の一節だが、木戸は「今日この際殊に感銘を覚ゆ。余の心境も亦如此」〈木戸1212〉と深く共鳴していた。
翌十四日、重臣会議で鈴木首相はまたも一芝居うった。秋永総合計画局長官から国力判断の報告、鈴木首相から徹底抗戦の方針を御前会議で決定したと報告があり、若槻が鈴木に質問した。
「この国力判断は、統帥部も了承しているのか」
「統帥部も含めての国力判断だ」
「それなら、何れの点よりも戦争不可能という判断の上で、なお抗戦するという結論はどういう意味だ」
「理外の理ということもある。徹底抗戦して利あらざる時は、死あるのみ」〈細川手記392〉
鈴木首相は卓をたたき、声を荒げて若槻に食ってかかった。一人、東条だけが大きく頷いている。のちに若槻は「しかし私は、彼の言葉を、言葉通りには受け取らなかった」と回想する。
「鈴木の腹の中は、私には判っていた。……陸軍は文字通り半狂乱である。軍の情勢が悪いものだから、もうそろ/\休戦論が起りゃせんか、それが起きちゃ大変だというので、血眼になっている……。私の発言に対して、それはそうだ≠ネどといおうものなら、首相は八方から食ってかゝられ、一騒ぎ起こるに違いない。……それで彼はわざと怒ったような態度を示したのだ」〈若槻『古風庵回顧録』447〉
若槻の観察は正しかったようだ。
[#2字下げ]六月十五日
[#2字下げ] 十時、東郷外相来室、時局収拾対策につき懇談す。
[#2字下げ]六月十八日
[#2字下げ] 十一時、阿南陸相来室……余より時局収拾対策につき懇談す。
木戸の工作は着々と進んだ。東郷外相は「割合にゴツンとして」(木戸氏)、御前会議決定との調整を心配していた。阿南陸相は「本土決戦で戦果を挙げて後が寧ろ有利ならん」〈木戸文書133〉という意見だったが、「案外、絶対にいけない≠ニもいわなかった」(木戸氏)。木戸は、「もう敵が、いま日本に上陸するための展開をするのに非常に苦労しているところだ、苦労してしまってからでは遅い、その前にやらなくてはならん」と説いて、「不承々々同意」させた。
これで木戸の工作は一段落した。鈴木首相は十八日午後三時から最高戦争指導会議のメンバーを集めて、戦局収拾を検討した。鈴木、米内、阿南、東郷、それに梅津、豊田の両総長である。阿南陸相と両総長は、本土決戦を強調したが、「戦争終結、平和への機会を得るに努力することには異存なし」と答えたので、次の合意ができた。
「わが方が相当の余力を有する間に、ソ連を通じて和平を提唱し、少くとも国体護持を完うする平和に導くことが望ましい。なお九月迄に戦争を終結する目途を以て、七月上旬中にソ連側態度を内偵し、なるべく速かに終戦の措置を講ずることとする」〈高木『終戦覚書』48〉
あとは、六月八日の御前会議決定の「飽く迄戦争を完遂し……」との関係をどうするかである。
「最高戦争会議の構成員を御召願い、親しく戦争の収拾につき御下命を願うを可とす」
鈴木首相と打合せた上で、木戸は六月二十日に天皇に上奏し、二十二日、この会議が開かれた。
「戦争指導については、さきに御前会議で決定を見たるところ、他面戦争の終結に就きてもこの際従来の観念に囚わるゝことなく、速に具体的研究を遂げ、之が実現に努力せむことを望む」
天皇は続いて、一人一人の意見を尋ねた。鈴木首相、米内、東郷……いずれも異存はない。
「梅津総長の意見はどうか」
「異存はありませんが、和平提唱は充分事態を見究めた上で慎重を要すと考えます」
「慎重を要することはもちろんだが、そのために時期を失することはないか」
「速かなるを要すと考えます」〈木戸文書79〉
阿南陸相は「別に申上げることはありません」〈高木『終戦覚書』48〉と答えた。
「あゝありがたい。わたしらがいわんとして、どうしてもいうことを憚るようなことを陛下はおっしゃって下さった。これで鈴木もやりやすくなるだろう」〈岡田回顧録241〉
岡田啓介は報告をきいて手を打って喜んだ。和平への方向転換が天皇の命令で決まったわけだ。
「陸軍によるクーデターが心配だ」〈細川手記397〉
近衛は木戸に注意したが、木戸は「個人テロぐらい起こって、鈴木、米内が殺されることはあるかも知れんな」と平然としたものだった。天皇の意思に背いてまで陸軍が公然と謀反を起こすことはない、と木戸は楽観していたようだ。
六月三十日、小諸に疎開していた小山完吾は、軽井沢の別荘に近衛を訪ねた。
「一昨日重臣会議をすまして、昨夜おそくこちらに来ました」
近衛は、ソ連に特使を派遣して「国体の護持の一点を主張し、他は実質的に無条件降伏」〈同396〉ということで終戦の仲介を頼むことにした、などと話した。
「そんな虫のいい考えをしたところでなんになろう。これまで日本は露国にたいして、なんの誠意をしめしたか、あわよくば先方の困っている間に、シベリアでも侵略したい心持で、現に東支鉄道は、無理無体の主張のもとに、とうとう巻き上げてしまったではないか。いま、自分が困るから露国の好意にすがりたいといっても、快く承諾するものと期待するのは、愚にあらざれば、気違いの沙汰なり」〈小山完吾日記310〉
小山は、ソ連に全く期待できないと断言した。ソ連は「むしろ英米に組して、日本の遺産処分に参加することを考えているのだろう」と痛論し、近衛も「そうも考えられるが……」と自信なさそうだった。
ソ連を通じる和平提唱──
十八日の合意にもとづいて、東郷外相は広田を起用してマリク・ソ連大使と折衝を始め、モスクワでも佐藤駐ソ大使がソ連政府と交渉に入った。
六月二十三日、沖縄も牛島満中将が自刃して陥落した。義勇軍を含む日本車の戦死十一万人、市民の犠牲者十万人にのぼったが、三カ月近く持ちこたえたことは、本土決戦までの時間をかせぎ、また米軍の本土上陸作戦を慎重にさせた。この間に終戦に持ち込まなければならない。
七月十二日、近衛は軽井沢から上京して重臣会議に出席した。すると午後一時すぎ、席上で鈴木首相が、「近衛公に宮中からお召しです」〈『近衛文麿』下551〉と大声を張りあげた。出席していた東条がギョッとして鈴木をみていたというが、近衛は国民服姿のまま参内した。五カ月振りの拝謁である。天皇は、すっかりやつれた様子だった。
「近衛の時局収拾についての意見はどうか」
「民心は必ずしも昂揚せず、お上におすがりして何とかならぬものかとの気持ち横溢して居り、また、お上をお恨み申すというような言説すら散見する状態にあります。この際速かに終結することが必要と信じます」
「ソ連に使いして貰うことになるかも知れないから、その積りでおるように」
「第二次近衛内閣の時、陛下から苦楽を共にせよといわれたことを近衛は忘れておりません。こういう際ですから、御命令とあれば身命を賭して致します」〈木戸1217〉
近衛も「今度は大分決意している様」で、「日露戦争の講和使節小村寿太郎外相ですら、帰国の時は生命の危険に曝され、あの焼討騒ぎだったのだから、屈辱講和使節の俺などは、到底生きて帰れまい、死はもとより覚悟のうえ……」〈内田『風雪五十年』292〉と周囲に洩らしていた。
「政府の訓令などはもらうとかえって困る。無条件降伏よりほかにないではないか。自分がモスコーヘ行けば率直にこの趣旨を話してスターリン議長に仲介を頼むつもりだ」〈有田『馬鹿八』221〉
近衛は四年前に実現できなかったルーズベルト・近衛会談と「同様の手段」を頭にえがいていた。つまりソ連には何の条件も提示せず、「モスクワで話合の上、そこできめた条件をもって陛下の勅裁を仰ぎ、これを決定することとし」、天皇の許可も得ていた。
しかし、近衛特派はまたも実現しなかった。
七月十三日、佐藤大使が特使派遣を天皇親電の形式にしてモロトフ外相を訪ねると、モロトフはスターリンとベルリン郊外ポツダムの三国首脳会談に出発する前なので忙しいと面会せず、代りにロゾフスキー次官が「外相に伝達する」と書簡を受け取った。この夜おそく、ソ連側は「スターリン、モロトフがベルリンに出発するため、回答は遅延するであろう」〈東郷『外交手記』347〉と連絡してきた。小山完吾が近衛に喝破したように、ソ連側は仲介に応ずるどころか対日開戦を決意しており、それを見抜けなかった日本は、東郷外相が自省するように「甚だ迂濶の次第」〈同右〉だったが、この時点では、アメリカに無条件降伏をするか、あるいは「いささかなりとも有条件にしたい」〈同右〉と考えればソ連を通じるしか道はなかったのも事実だった。
木戸幸一氏も、ソ連を通じる和平工作の可能性を確信したわけではないが、陸軍に和平を考えさせるにはこれしか途はなかったのだという。
「まああの時は、日ソ中立条約をもっていたからね、こっちは。だから一応はこっちの仲間と見てもいいわけだね、一応ね。しかしそれは日本が負けるとなれば、勝った方についた方が得に決まっているんだから……。要するに陸軍をこっちに向けなきゃならんというのが一つの大きなファクターだね、われわれの方にね。だから、まだスイスを通じるとかスエーデンを通じるとか、議論があったんだけど、それでは仲々陸軍がウン≠ニ言わないんだよ、だからソ連を使ってというのが、まあ一番陸軍をこっちに向かせることなんだな」
これを、「日本外交の哀れな姿に、やり切れないという感じがする」と批判するのは簡単である。このころ、大本営は本土決戦、つまり、軍を中央山脈を中心にした山岳地帯に配備し、総動員法によって全国民を武装させ、焦土作戦によってアメリカの上陸軍に抵抗し、「最後には陛下を新京に動座して、大陸に於て、ソビエトをバックとして徹底抗戦の挙に出る」〈岩淵辰雄『近衛公の上奏文』─「世界文化」23年8月号所収〉という作戦すら練っていた。馬前に死すまでやるということであるが、これはソビエト立たずという前提である。だから、ソ連が対日宣戦したときに、大本営のこの計画は崩れ去り、無条件降伏に屈服するわけである。
さて、大命を受けた近衛は、箱根でソ連行きの準備を急いだ。十四日には原田を呼んで相談し、夕方から二人で大磯の原田邸に戻って夕食を一緒にした。
「自分の一身はどうなっても構わないが、たゞ皇室だけは安泰にしたい」〈池田『故人今人』38〉
近衛は「皇室に対して相済まないという責任感」からか、しみじみと語った。随員をだれにするか、二人は夜おそくまで相談した。
七月十六日、原田は昼の列車で箱根へ発った。近衛訪ソについてさらに相談するためである。この夜、大磯はB29の空襲を受けた。高麗山に抱かれている原田の家は関係なかったが、町の中心が一部焼失した。
ちょうどこのころ、現地時間十六日午前五時半、ニューメキシコの砂漠では原爆実験が行なわれた。実験は成功し、原子爆弾の一部を積んだ巡洋艦インディアナポリスはサンフランシスコ湾からマリアナ諸島のテニアン島に向けて出航し、テニアンでは爆撃隊員が硫黄島に飛び、千ポンド、五百ポンドの爆弾投下訓練をつづけていた。「日本帝国の火葬」準備である。
二日後の七月十八日午後三時、ベルリン郊外のポツダムでは、アメリカ大統領トルーマンがスターリンを宿舎に表敬訪問した。
「ニュースをお伝えしなくちゃ」
スターリンは、十三日に佐藤大使がロゾフスキー外務次官に手渡した天皇のメッセージの写しをトルーマンに渡した。トルーマンは暗号解読で内容は知っていたので、読むふりをした。
「このコミュニケーションに回答する価値はありますか」
「私は日本を信用してませんのでね」
「子守唄で日本を寝かせつける方がよいかもしれませんね。日本が派遣を申し込んできた特使の性格がハッキリしないと指摘して、一般的な取りとめのない返事を出しておきましょうか」
「………」
「それとも完全に無視して返事を出さないか、ハッキリと拒否回答を出しましょうか」〈チャールズ・ミー『ポツダム会談』(50年、徳間書店)116〉
トルーマンは第一の案が満足≠ナきると答えた。
ロゾフスキー次官はこの夜、佐藤大使にソ連政府の回答を届けた。
「天皇のメッセージ中に述べられた趣旨は一般的形式のもので、なんら具体的提案を含んでいない。……近衛特使の使命が何であるかも不分明である。したがって、ソ連政府は……なんら確たる回答はできない」〈同168〉
これは、特使の「使命具体的ならずとてソ連政府より一応拒否して来た」ことである。日本側は焦ったが、このころからなぜかモスクワとの「重要なる往復電報の遅延するのが目立ち」、交渉は進まない。……
「行かなくてよかった」──と幣原はいう。
[#1字下げ] もし行ったとすれば、それは実に笑いもの以外の何者でもなかったであろう。列国はヤルタ会談をやってスターリンを取り込み、ソ連を対日戦争に参加させ……食わすに利をもってしている時、日本からは何一つ持って行く土産がない。たゞ陛下の御親書などという、ソ連にとって少しもありがたくない土産で、スターリンがこれに耳を傾けるなどと思うのは、全く見当違いであった〈幣原『外交五十年』206〉。
来栖三郎元駐独大使も「既に罹災した家屋を担保にして、銀行から金を借りようとするのと同様だ」〈来栖『泡沫の三十五年』169〉と全く期待していなかった。
七月二十六日午後九時、ポツダムで、日本に最後の警告と降伏を呼びかける「ポツダム宣言」が発表された。
[#1字下げ] ……新秩序が建設せられ且日本国の戦争遂行能力が破砕せられたることの確証あるに至るまでは、連合国の指定すべき日本国領域内の諸地点は、吾等の※[#「玄+玄」、unicode7386]に指示する基本的目的の達成を確保するため占領せらるべし。
[#1字下げ] ……日本国の主権は本州、北海道、九州および四国並に吾等の決定する諸小島に局限せらるべし。
[#1字下げ] 日本国軍隊は完全に武装を解除……
[#1字下げ] 戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰を加えらるべし……
[#1字下げ] 平和的傾向を有し且責任ある政府が樹立せらるるに於ては連合国の占領軍は直に日本国より撤収せらるべし……
日本側は二十七日朝六時のサンフランシスコ放送で、ポツダム宣言の内容を知った。
「私はあの共同声明はカイロ会談の焼き直しであると考えている。政府としては何ら重大な価値ありとは考えない。ただ黙殺するだけである。我々は戦争完遂に飽くまでも邁進するのみである」〈外務省『終戦史録』(27年)515〉
鈴木首相は二十八日午後四時の記者会見で黙殺する≠ニ語った。真意は「この宣言は重視する要なきものと思う」という点にあり、「黙過する意味」だったというが、のちに鈴木首相は「この一言は後々に至るまで余の誠に遺憾と思う点」〈鈴木『終戦の表情』32〉と嘆き、木戸も「鈴木さんは年をとってから、大分後入斎になってたな、人にいわれるとすぐついていくようなね……」と苦笑いする。だが、ソ連を通じる終戦工作が進行中であるし、東郷外相も「ソ側との交渉は断絶せるに非るによりその辺を見定めたる上措置する」〈東郷『外交手記』354〉という意見だったから、ポツダム宣言をすぐ受諾するだけの国内の同意が出来ていなかったということだろう。
しかしこの頃から、鈴木首相の態度はあいまいなところが目立ち、東郷外相も米内海相に「鈴木総理の気持をただしてもらいたい」と頼んだりした。米内も高木惣吉にこぼした。
「いや、総理のいうこともわからない。口を開けば、やれ小牧山とか大坂冬の陣とか、そんなことばかり言っている。先日の閣議でも、戦争終末のことを、かれこれいうのは、第一線の将兵に反乱をおこさせるようなものだ。昔から、|※[#「門がまえ/困」、unicode95ab]外《こんがい》の将は君命といえども聞かず、ということがある……≠ニ言われたから、これは、まるで反乱をそそのかすようなものだ」〈米内覚書146〉
[#1字下げ]八月六日 広島に原爆投下
[#1字下げ]八月九日 ソ連参戦、長崎に原爆投下
東郷外相は八日朝、「原子爆弾に関する敵側発表並に之に関連する事項」を詳細に天皇に上奏した。
「このような武器が使われるようになっては、もうこれ以上、戦争を続けることは出来ない。不可能である。有利な条件を得ようとして時期を逸してはならぬ。なるべく速かに戦争を終結するように努力せよ。このことを木戸内大臣、鈴木首相にも伝えよ」〈藤田『侍従長の回想』125〉
天皇は「顔色も悪く、やつれ」〈東久邇日記201〉が目立った。
九日午後十一時五十分、最高戦争指導会議が天皇臨席のもとで開かれた。昼前からこの指導会議と閣議でポツダム宣言受諾を論議したが結論がでず、鈴木首相は、結論を出さないまま上奏、聖断を仰ぐ方針をとったのである。
「それでは自分が意見をいうが、自分は外務大臣の意見に賛成する」〈迫水久常「降伏時の真相」─近衛文麿『最後の御前会議』(21年、時局月報社)所収67〉
外務大臣の意見──「(ポツダム)宣言に挙げられたる条件中には天皇の国家統治の大権に変更を加うる要求を包含し居らざることの了解の下に日本政府は之を受諾す」〈主要外交文書下627〉という案に賛成するということだ。
「念のため理由をいっておくが……」
天皇は言葉を継いだ。
「本土決戦本土決戦というけれど、一番大事な九十九里浜の防備も出来て居らず、また決戦師団の武器すら不充分にて、之が充実は九月中旬以降となると云う。飛行機の増産も思う様には行って居らない。いつも計画と実行とは伴わない。之でどうして戦争に勝つことが出来るか。勿論、忠勇なる軍隊の武装解除や戦争責任者の処罰等、其等の者は忠誠を尽した人々で、それを思うと実に忍び難いものがある。しかし今日は忍び難きを忍ばねばならぬ時と思う。明治天皇の三国干渉の際の御心持を偲び奉り、自分は涙をのんで原案に賛成する」〈木戸1224〉
天皇は、白手袋で涙を拭いながら話した。参列者の中からも慟哭が起る。木戸氏は語る。
「あの時、鈴木さんが陛下の前へ出てご判断を願ったと……。それで、東郷の説のとおり、とまあおっしゃったわけなんだ。鈴木さんがいわゆる日本の憲法下の内閣としてだ、そのままやればだね、要するに閣内不統一で辞職するほかないんだよね。だから、総辞職をしないで、陛下のご裁断を仰いだということは、まことに異例なんだね。したがって陛下がご裁断したのもまことに異例なんだ。それもまあ、あゝいう劇的な終末を迎える時だから出来たんでね、普段では出来ないことだね」
十日午前七時、日本政府は、ポツダム宣言を「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に」受諾す、と米・英・ソ・中国に発電した。
十二日、連合国から正式回答が到達した。
「降伏の時より、天皇及日本国政府の国家統治の権限は、……連合軍最高司令官の|制限の下《subject》に|置《to》かるるものとす……最終的の日本国の政府の形態はポツダム宣言に遵り日本国国民の自由に表明する意思により決定せらるべきものとす……」
再び、最高戦争指導会議と閣議は紛糾を重ねた。「subject to」という表現をどう見るか、政府形態を日本国民の自由意思によって決定するということが国体護持の目的に合致するか。
──「このままこれを認めれば日本は亡国となり、国体の護持も結局不可能となる、第四項をあのままとしては認め難し」〈木戸文書90〉
阿南陸相は木戸に力説した。第四項──「人民の自由意思云々が国体論者のため問題とせらるゝ」〈木戸1225〉というのである。
木戸は情勢を天皇に「委曲申し上げた」。すると、天皇はちょっと不思議そうに木戸を見つめていた。
「それで少しも差支えないではないか」
木戸もハッとして天皇を見上げる。
「たとえ連合国が天皇統治を認めて来ても、人民が離反したのではしようがない。人民の自由意思によって決めて貰って少しも差支ないと思う」〈木戸文書135〉
木戸は「初めて目が覚めた様に思い」、退下したが、木戸といい、鈴木首相といい、あるいは阿南も平沼も、国体護持を考えるからこそ迷い悩んでいたということだろう。
十二日夜九時半、木戸は宿舎にしている宮内省内で鈴木首相に会い、天皇の今日の言葉を伝えた。
「八月十二日になってね、平沼さんがなかなかまだ強くてね、総理を説いたんだ、それで東郷がとんで来たんだよ。どうも平沼さんが来て、また戦争をやるように吹き込んだみたいだという。で僕は、いつもは総理官邸になんか行くとすぐ新聞記者に見つかって大騒動になるから、電話か、そうでなけりゃ向うから来てもらっていたんだ、宮中に入るとわからんからね。が、これはまあしようがないから僕は行ってやろうと思って電話したら、今非常に忙しいからそのうちこちらから上るからという返事だったんだよ。それから待っているとなかなか来ないんだ。で九時すぎてやって来られたな。それから、まあいろいろ話して、今これをひっくり返したらそれこそもう何にもならなくなる、ここは決心のしどころだと思うと。どうせこれは負けたんだ、平和で進駐するのと、戦って進駐するとでは大変なちがいなんだと、いろいろ話をしてね、この際決心したらどうですと、思い切ってやりましょうと、そのために殺されるのは、我々三人か四人ですむんだと、これをグズグズグズグズしていたら、一千万近い人間が殺されるかも知れないんだと、だからやろうじゃないかと。で、やりましょうと鈴木さんもいったよ。それでようやくね……。こっちは九時になっても来ないから、寝まきを着ていたんだよ。そしたら向うはフロックコートでやって来て、エヘヘヘ、まあいかにも恰好がつかなかったね、宮中に泊っていたからね」
今日となりては、たとえ国内に動乱等の起る心配ありとも断行──二人の意見は一致した。具体的にはどうするか、──「この際、閣僚・最高戦争指導会議員連合の御前会議を御召集願って一気に戦争の終結の御下命をお願いし、終戦の詔勅の起案を御命令願う外なし」〈同136〉。木戸と鈴木首相は、会議の引き延しをはかる軍部の首脳を天皇のお召しということで引っぱり出すことにして、十四日午前十時五十分、再び御前会議が閣僚と最高戦争指導会議構成員を集めて開かれた。梅津、豊田両総長、阿南陸相は、声を振り絞って国体護持に対する不安といま一戦の必要を奏上した。
「お聞きのとおり、意見の一致を見ません。この上は陛下の御聖断に従います」
鈴木首相は、再び聖断を仰いだ。
「今日においても、私の考えに変りはない。このまま戦争を継続しては、国土も、民族も、国体も破壊し、ただ単に玉砕に終るばかりである。多少の不安があったとしても、今戦争を中止すれば、まだ国家として復活する力があるであろう。どうか反対の者も、私の意見に同意してくれ。忠良な軍隊の武装解除や、戦争犯罪人としての処罰のことを考えるならば、私は情においてはどうしてもできないのであるが、国家のためやむを得ないのである……」〈池田純久『日本の曲り角』198〉
天皇の頬にも涙が流れ、「満堂声なく、ただすゝり泣く声のみ聞こゆ」。
「わたしが国民に呼びかけることがよければいつでもマイクの前にも立つ」〈『終戦史録』697〉
「陸海軍の統制が困難ならば、自分が陸海軍省に至り、将校に訓示してもよい」
天皇の思召が伝えられ、阿南、米内は「陸海軍の統制は、大臣において責任をもってこれに当る」〈池田同右書199〉と答えた。
御前会議のあと、天皇は木戸を呼び、会議の模様を「涙を浮ばせ」ながら話した。
「私は遂に頭を上げ得なかった」
木戸の両眼にも涙があふれていた。
八月十五日──。
正午に天皇の終戦の詔書放送があり、三年八カ月、いや、盧溝橋事件から数えれば八年も続いた戦争はようやく終った。
「大ばくち、もとも子もなく、すってんてん」
関東大震災の混乱に乗じて大杉栄らを殺害した元憲兵大尉の甘粕正彦はこう書き残して服毒自殺し、阿南陸相、杉山元帥、本庄繁大将、大西軍令部次長など次々と自決者が続いた。
原田は終戦を大磯で迎えた。松平秘書官長や高木少将から詳しい報告を受けていたので別段驚いたりがっかりする風もなかったが、天皇のこと、戦争責任者の処罰のことをいろいろと心配して木戸に手紙を書いた。
「陛下の玉音を拝し、言い知れぬ感激に涙滂沱たるを禁じ得ざりし……西園寺公が陛下は常に国民の側に立たれなければ≠ニ、殊に陸軍の例の二・二六事件前後より心配して居た。……今日是を明かに国民に仰せ下さった事は実によく、老兄の気持を尊く思う。……近衛ソ国行中止は却ってよかった……文を失敗させずにすんだ。……」
どたん場の十三日に天皇が「人民の意思によって決めて貰って少しも差支ない」と木戸に語ったのを想起させるような原田の手紙である。
原田は戦後の日本についても楽観的だった。七月のはじめに大磯の大内館の女主人のミチに「この二カ月、草の根を分けても生きのびろよ」といっていたし、同じころ長男の敬策が訪れたときにも「もう戦争が終るぞ」と洩らしていた。戦争さえ終れば……≠ニいう確信が、原田にも吉田茂にもあったようだ。
高見順も、永井荷風も、それまでの生き方にふさわしい受けとめ方で、終戦を迎えた。
[#1字下げ] ラジオが、正午重大発表があるという。天皇陛下御自ら御放送をなさるという。かかることは初めてだ。かつてなかったことだ。
[#1字下げ]何事だろう=c…
[#1字下げ]ここで天皇陛下が、朕とともに死んでくれとおっしゃったら、みんな死ぬわね
[#1字下げ]と妻が言った。私もその気持だった。……
[#1字下げ]十二時、時報。
[#1字下げ]君が代奏楽。
[#1字下げ]詔書の御朗読。
[#1字下げ]やはり戦争終結であった。
[#1字下げ]君が代奏楽。つづいて内閣告諭。経過の発表。
[#1字下げ]──遂に敗けたのだ。戦いに破れたのだ。夏の太陽がカッカと燃えている。眼に痛い光線。烈日の下に敗戦を知らされた。蝉がしきりと鳴いている。音はそれだけだ。静かだ。(高見順『敗戦日記』)
永井荷風は疎開先の岡山から、谷崎潤一郎を訪ねて勝山に行っていた。
[#1字下げ] 陰りて風涼し、宿屋の朝飯、鶏卵、玉葱味噌汁、はや小魚つけ焼、茄子香の物なり、これも今の世にては八百膳の料理を食するが如き心地なり……午前十一時二十分発の車に乗る……新見駅にて乗替をなし、出発の際谷崎君夫人の贈られし弁当を食す、白米のむすびに昆布佃煮及牛肉を添えたり、欣喜措く能わず、食後うとうとと居眠りする中山間の小駅幾個所を過ぎ……午後二時過岡山の駅に安着す、焼跡の町の水道にて顔を洗い汗を拭い、休み/\三門の寓舎にかえる、S君夫婦、今日正午ラジオの放送、日米戦争突然停止せし由を公表したりと言う、恰も好し、日暮染物屋の婆、鶏肉葡萄酒を持来る、休戦の祝宴を張り皆々酔うて寝に就きぬ、
食べ物に夢中で、終戦も祝宴の添えものぐらいにみているが、その荷風も数日してつくづくとつぶやいた。
「とに角に平和ほどよきはなく、戦争ほどおそるべきものはなし」〈荷風日記20年8月20日〉
終戦後、近衛は身の危険と戦争責任の追及を恐れるようだった。
そのため、十五日は入生田、十六日細川邸、それ以降も世田谷の長尾欽弥邸、後藤隆之助邸、麻布の石野邸などを転々と泊り歩いた。鈴木内閣が終戦の日に総辞職して、十七日に東久邇内閣が成立、近衛は「東久邇の補佐役的な国務大臣として入閣」したが、「何となく近衛は首相の取巻き達から敬遠主義をとられ、孤立の傾きがあった」〈内田『風雪五十年』370〉。
「戦争責任者を連合国に引渡すは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人引受けて退位でもして納める訳には行かないだろうか」
天皇はマッカーサー最高司令官が厚木に到着する前日、八月二十九日に木戸に話した。木戸は、連合国はその位のことでは承知しないだろうと考えていた。
「御退位を仰せ出さるゝと云うが如きは或は皇室の基礎に動揺を来したるが如くに考えられ、その結果民主的国家組織(共和制)等の論を呼起すの虞れもあり、これは充分慎重に相手方の出方も見て御考究遊ばさるゝ要あるべし」
木戸はあくまで慎重だった。東条元首相が自殺未遂で逮捕されたり、マッカーサーが「日本は四等国に下落した」〈高見『敗戦日記』325〉と語ったり、暗いニュースが多かったが、そんな中で吉田茂の外相就任だけは近衛や原田にうれしいことだった。
九月十七日、重光外相が辞意を表明し、後任には「マッカーサー元帥と話の出来る外相」〈木戸1235〉ということで吉田に白羽の矢が立った。「近衛、緒方の推薦」〈東久邇日記238〉である。吉田の大磯の家には電話がない。
「あの日の夕方、野村駿吉さんの娘さんが飛んできて、緒方さん(書記官長)からだが、モーニングを持ってすぐ上京せよ、という電話がありましたと連絡して下さいました。それで旦那様は六時ころ出発しました。本邸が焼けてモーニングもなくしたんで、他人さまからお借りしたんですよ、原田さんからお借りしたのかも知れませんね。なに、ことわって来るよ≠ニいってお出掛けになったまま、二十二日まで戻りませんでしたねえ」
坂本喜代子氏の回想である。吉田自身も、この間の事情を語っている。
「外務大臣になったとき、戦争で焼け出された僕に、原田君はモーニングからカバンにいたるまで一式くれたんだ。助かったねえ。親切なやつだよ、原田は。親切でね、困ったよ」(昭和三十年十二月三十一日付毎日新聞)
ついでにいえば、この日、参内した吉田は黒靴を忘れてきたので、手近な人のを借りたが、生憎、これが大靴だった。「陛下のおそばに歩いて行くのにゴボッ、ゴボッと音が出る。辺りが静かなだけに馬鹿に大きく聞える。気になって足に力を入れると小男の私は前につんのめりそうになる。いやはや全く冷汗をかいた。ともかく御前を下がってから敗戦国の外務大臣にふさわしい状況であったと苦笑を禁じ得なかったものだ」〈吉田「思い出す儘」8月4日〉
九月二十三日、原田は吉田の外相就任祝いを大磯の自宅で開いた。米内光政、小林躋造、野村吉三郎、池田成彬、それに吉田と原田というメンバーだった。話は尽きず、吉田と野村はとうとう泊り込んでしまうほど一同は久し振りに話に興じた。
十月に入って幣原内閣が成立し、近衛は憲法改正の作業に取り組んだ。マッカーサー元帥から、
「公がリベラルを集めて、帝国憲法を改正すべし。しかもこの改正は、出来うる限り急速に、一刻も早くなし遂げらるゝことを要す」〈細川日記20年10月7日〉と云われて着手したのだが、近衛が「内閣と別個に調査を進める」〈木戸1246〉のもおかしなものである。さらに近衛が外人記者に、
「御上は大元帥陛下として、戦争に対する責任がある。敗戦の責任をおって御退位になるべきで、それでないと連合国の一部から戦犯指定の声も出ないとは限らぬ。天皇が在位のままで戦犯指定を受けては、国体護持とは言えぬ。今のうちに退位されて京都にでも隠居なさった方がよい」〈藤田『侍従長の回想』178〉
と発言して、木戸や幣原のひんしゅくを買い、近衛に自重を求める声が高まった。
「近衛公へは……なるべく当分世間注目より遠ざかられ候様勧説致候処、御同意に御座候。憲法問題も調査終了、本日内奏と承知致候処、……公には本日内奏などと騒ぎ立てられぬ様、何時となく内奏をすまし、何時となく憲法問題より手を引かれ候様に致され度と希望申陳置候……」〈木戸文書638〉
十一月二十一日付の吉田外相から木戸への手紙である。吉田は近衛を戦犯として逮捕しようというGHQの動きを察知して、目立たぬようにしろと勧めたものと見られる。
十一月二十二日 近衛、憲法改正案を捧呈
十一月二十四日 内大臣府廃止、木戸栄爵等拝辞
十一月二十七日 近衛栄爵等拝辞
これで近衛も木戸も「自由な、責任のない身」になった。
十一月二十五日、近衛は、小田原から車で大磯に来た。
「憲法改正についても奉答をすませたので、この冬は軽井沢に籠るつもりだ」
近衛はまず吉田外相邸で挨拶した。樺山愛輔邸と池田成彬邸に寄ってから原田のところへ行く、というので坂本喜代子が近衛の車の助手席にすわって案内し、吉田は真直ぐに原田のところへ行って近衛を待った。一同は夕食を共にしたが、近衛はふさぎ込んでいた。原田も病状が芳しくなく、前日にも勝沼精蔵博士の診察を受けたほどだったが、一同はなんとなく、「近衛は別れの挨拶に来ているんだな」と感じていた。
「ヨシ(塚本義照)が冬ごもりの準備をしてから、クマのところに寄るから、すぐ軽井沢へ来るようにいってくれ」
近衛はこう言い残して東京へ行き、二十七日に軽井沢へ向かった。原田は勝沼博士のほかに、飯久保、曾根田、川崎、佐々の各医師に診察、治療を受けながら、しきりと近衛の身を心配し、吉田外相と、近衛に逮捕令が出るかどうか、出ても「ハウス・アレスト(自宅監禁)とか入院」でなんとかならんか、などと話し合っていた。
十二月六日、近衛、木戸、酒井忠正元農相、大島浩元駐独大使など九人に逮捕令が出た。十日後の十二月十六日までに巣鴨拘置所に出頭しなくてはならない。
「午後七時のラジオニュースにて、マ司令部の発表にて近衛公等と共に余にも逮捕令の発せられたることを報ず。予て期したること……」
木戸はすでに、土蔵を整理したり、「引っぱられる前にお墓参りをやっておこう」と京都へ行ったりして、この日のあるのを覚悟していたから、「淡々たる」〈木戸1255〉様子だった。
一方近衛は── この日の夕方、外務省の職員が電話で、逮捕令が出た、と軽井沢の近衛に通知した。近衛は「ベロベロに酔っていて」、電話口で怒鳴った。
「そんなバカなことを、なぜ言ってくるんだ」(牛場友彦氏談)
この夜、元秘書官の高村坂彦が軽井沢に駆けつけると、近衛は二、三度つぶやくように繰り返したという。
「法廷で首相としての自分の責任を明らかにすることになると、結局国務に関することに限られ、統帥の責任は大元帥たる天皇に帰することになる。……アメリカがもし天皇処罰の方針をとっているとすれば、自分には天皇を弁護できないことになる。……自分は、戦争容疑者として裁判を受ける屈辱には堪えられない」
原田も、近衛と木戸の逮捕令をラジオで聞いた。ちょうど塚本が鳥肉や砂糖を山のように背負って軽井沢へ行く途中寄ったので、「いよいよ来たよ」といって、近衛への手紙を塚本に託した。「唯今ラジオにより承知、之も亦運命と存じ候……何れにせよ驚く事なかるべく然るべく悠々されて、食物着物用心せられ充分寒さ御用心あり度候。外部に於て出来る丈けの事は、野村、吉田等を相談相手に充分可致候。大に決心されて堂々とやって来られむ事を望み居り、何処迄も自重せられん事を祈り候」
原田は木戸にも励ましの手紙を書いた。
「老兄堂々所信を述べられ悠々たる態度を持せられんことを、忠節は必ずしも生死に係るものに非ず。今日は断然生きて聖上の孤淋を慰さめ奉り、又影ながら御力になることこそ真に御奉公をなし、一身を以て国難を突破する所以と存じ候……」〈木戸文書639〉
十二月十日──
近衛はまだ軽井沢にいた。千代子夫人が牛場友彦とやって来たほかは、八日、九日と「今日も誰も来なかったねえ」と塚本に話す日が続いたが、この朝早く、塚本は三井弁造夫人の栄子(岡部長景の妹)からいわれた。
「ヨシさん、殿様はねえ、もう……あなた知っているでしょう……青酸カリを隠して下さいね」「いえ、私は足軽、殿様がお決めになられたことは私には変えられません、お伴するだけです」
すでに塚本は近衛にいわれて、京大時代に京都の芸妓藤菊≠ニの間に生まれた幸子に一万円、軽井沢で近衛の世話をしていた赤坂の芸者ミチに二万円などの金を渡しており、近衛の最後の決心を感じていた。この日も近衛は、日本酒やウィスキーを手当り次第に飲んで、「ほとんど黙りこくっていた」。
この日午後五時、木戸は天皇に拝謁した。天皇は、木戸に逮捕令が出たあとも、「米国より見れば犯罪人ならんも我国にとりては功労者なり」といって、別れの晩餐に招いた。
「今回は誠に気の毒ではあるが、どうか身体に気をつけて、予てお互に話合って居り、私の心境はすっかり承知のことと思うから、充分説明して貰いたい」〈木戸1256〉
天皇は机の上の硯をとって、「これは政務室にて使用し居りたる硯なるが永く記念として遣す」と木戸に下げ渡した。
宮中を出た木戸は、和田小六邸で和田の女婿の都留重人と話した。
「米国の考え方は、内大臣が罪を被れば陛下が無罪とならるゝと云うにはあらず、内大臣が無罪なれば陛下も無罪、内大臣が有罪なれば陛下も有罪と云う考え方なる故、充分弁護等につき考うるの要あり」〈同右〉
木戸は都留の話をきいて、「何か腹の決まりたる様な感を得た」。都留のいうのは「日本には古来臣下が主人の身代りとして責任を負い、一切を解決するような道徳的慣習もあるが、外国には通じまい」〈作田『天皇と木戸』2〉ということである。木戸は、戦争責任について考えをまとめた。
[#1字下げ] 一、戦犯者としての責任は政府と統帥部にある。
[#1字下げ] 一、お上は、憲法第三条(天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ)により、政務、軍務に関し絶対に責任なきのみならず、実際問題として今次大戦は政府、特に軍部の独断によって行なわれた。
[#1字下げ] 一、内大臣の職務は政務、軍務に関係なき事項に関する輔弼責任者に過ぎないから、戦争の開始遂行上の責任はない。
[#1字下げ] 一、自分は以上の見地に立って徹底的に争う積りである〈同右〉。
木戸はこの方針で裁判の準備を着々と進める。
余談になるが、巣鴨拘置所に入った木戸は、トルストイの小説を読みながら感想を洩らす。
「自分が、何か知らん息詰まるが如き日々の生活から、巣鴨のどん底生活に落ちて過去の責任から解放せられ、何もかも失って裸となり、何だか自由の空気に生活することを得て大に愉快である」〈重光『巣鴨日記』230〉
木戸はまた、「孤独を楽しむと云う気持も悪くはない」〈木戸63〉という「大げさに云えば厭人主義的な傾向」があったので、巣鴨の生活は「この私の性癖に最も適して居る、退屈するどころか大いにエンジョイ」〈木戸文書100〉したという。同じA級戦犯の重光葵はいう。
「木戸侯は新しく差入れられたスバラシク立派な下駄を穿いて、颯爽として濶歩して居る。顔と下駄とが歩いていると冷やかされた。……木戸は今日巣鴨に於て確かに毎日を愉快に、裁判が如何なろうと何の未練もなしに過ごして居る。他の多くの人々の様な不平は同君の口からは聞く事を得ぬ。彼は自由を奪われた自由の人である」〈重光『巣鴨日記』199、同230〉
重光によれば、「巣鴨は狂宿なり」〈同125〉、「平沼男突然異様の奇声に泣き出し、監視兵を慌てさす。同老は時々此の発作あり。夜オソワレルなり」〈同399〉と異常な精神状態に追い込まれるものが多かったというが、木戸の態度は立派だった。
一方、近衛は十二月十一日の明け方に軽井沢を出発して、世田谷のわかもと本舗社長、長尾欽弥邸に移った。
「僕は運命の子だ。戦争前は軟弱だと侮られ、戦争中は平和運動家だとののしられ、戦争が終れば戦争犯罪人だと指弾される……」〈近衛『最後の御前会議』55〉
近衛はこんな嘆きを洩らしていたが、目前に迫った十六日については、「犯罪人としての出頭は、拒否するのが当然ではないか」〈『近衛文麿』下601〉、「人に裁かれるところになんか出るものか、はずかしめだ」(牛場氏)ときっぱりいい切っていた。
十四日近衛は荻外荘に戻り、数多くの来客と応対した。牛場友彦と松本重治は十五日の夜も近衛と話した。吉田外相がマッカーサー司令部と交渉して何とかしてくれているはずだ──近衛はずいぶんと期待していたようだ。
「あすは巣鴨へ行って下さい、陛下をお守りする意味で法廷で堂々とやっていただきたい」
「いや、それは木戸がやるよ」(牛場氏談)
近衛はひどく沈んだ様子でそっと眼頭を拭ったりした。十時すぎに入浴。塚本義照が背中を流しながら藤菊の娘幸子の手紙をみせた。近衛は原田の病状を心配していた。
「熊さん、この頃どうだねえ」
「ちょっと……あんまりよくないようです」
「可哀想だねえ」
「私、またお見舞に行ってきます」
「そうしてくれ」
夜十一時、近衛は千代子夫人にいって水を枕元に運ばせた。夫人は、唐紙をしめる前にきちんとすわると、「さよなら」と別れの挨拶をして退いた。
千代子夫人は近衛の自殺をある程度予期していたようだ。前日も、近衛家の裁縫室で千代子が、巣鴨に持って行くようにと特に丈の長い布団を作っていたとき、近衛が廊下を通りかかった。
「千代子、そんなのいらないよ」
近衛が声をかけると、夫人は「あ、そう。殿様、どうぞ東条さんのようにならないようにしっかり遊ばせ」と答えたという(森よし子証言)。
千代子夫人が去ったあと、次男の通隆が夜中の二時頃まで近衛と話した。近衛は、支那事変や日米交渉などいろいろ話したが、通隆が「何か書いておいて下さい」というと、「僕の心境を書こうか」と、鉛筆を走らせた。
「僕は支那事変以来、多くの政治上過誤を犯した。之に対し深く責任を感じて居るが、いわゆる戦争犯罪人として、米国の法廷に於て裁判を受けることは、堪え難いことである。……」
十六日未明──
近衛の寝室の隣りで、「万一の場合をおもんぱかって」聞き耳をたてていた牛場は、「コトコト」とかすかな音を聞いた。近衛が青酸カリを仰いでコップを下においた音だったのだろう。同じころ、やはり隣室の千代子夫人は、「あゝッ」という声を夢うつつに聞いたような気がしたという。
朝六時前、近衛の部屋に入った千代子夫人は、すでにこと切れている近衛を発見した。近衛文麿──五十四歳だった。
近衛の自殺を聞いて以来、原田はすっかり気落ちしたようで、次第に病状が悪化した。
「近衛が僕を迎えに来るよ」
そんなことを口走るので、妻の英子が「近衛さんは美人がお好きでしたから、あなたなんか迎えに来やしませんよ」〈碓氷元『著名人と犬』(45年、高陽書院)89〉と冗談をいって力づけると、「あゝそうだな」とうなずいていた。
十二月十六日、脈搏朝七十八、血痰、夜中呼吸難
十二月十七日、脈搏九十、呼吸難有、吸入、血痰
十二月二十日、脈搏八十、吸入、血痰少々、有島信子泊り込む
一月四日、脈搏八十二、結滞不整有、時々呼吸難有
二月二十六日の未明、原田は傍らに寝ている英子に、「牛乳が飲みたい」といった。英子が牛乳を沸かしてもって来ると、「ありがとう」といって半分ほど飲んだ。
「お残しになるんですか」
「あゝ」
そのまま原田は寝入ったようだった。
夜が明けて英子が気づいたとき、原田はすでに冷たくなっていた。
この朝、大磯はめずらしく雪が降った。ちょうど十年前の二・二六事件の朝も雪が降り、原田は平河町で反乱の発生に驚かされた。それからちょうど十年間、日本は大変な苦難の途を歩んだ。そしていますべてが終ったとき、原田の生命も燃えつきた──そんな印象的な原田の死だった。
「熊さんが死んだらお棺に電話機を入れてやろう」
和田小六はよく言っていたが、終戦の混乱がまだ続き、だれもそんなことは忘れてしまった。
「もし入れてやったら、あの世から、バカ、トンチキといって私に電話をくれたかも知れませんのにねえ」
妹の有島信子は、本当に残念なことをしたという顔で三十年あとになってもしきりと呟いていたが、その信子も先ごろ(五十三年十二月)世を去った。
[#改ページ]
跋
本書の詳細に述べるとほり、西園寺公の私設秘書たりし時代と否とを問はず、軍部が冠する所の「英米の走狗」なる悪名の|下《もと》に東奔西走し、同時にまた近親による「電話魔」の愛称をも辱かしめずに、ポツダム宣言受諾後いくばくもなく瞑目した原田熊雄、小心翼々かと思へば、茫洋たる大器の如く、邪気のなさに於ては幼児に異らない彼は、めつたに|君《くん》づけには呼ばれず、「熊」とは昔から縁の深い「公」が常用されたもの。
同年生れの、十四歳になつた夏、大磯の海岸で、|赤裸《すつぱだか》で知り合ひ、のち彼の妹と私の兄との結婚によつて姻戚の間柄ともなり、戦時中の文士の無収入を憐んで、さながら上官の口調で職を与へてくれた。近衛秀麿の妻女・泰子に速記させた口述の記録を、読むに|足《た》る文章にせよ、との命令で、月給も自分からではなく、住友から、初め百円、のち百五十円支給させた。この原稿は、東京駅前の住友本社なる地下金庫から高松宮家、更に宮内省の図書寮へと、武力による奪略を避けて転々としたり、「原田日記」の名で極東裁判の資料に供せられたりした揚句、岩波版の『西園寺公と政局』となつてゐる。
以下は一生沈黙を守るのが至当かも知れないが、聞こえない人に聞かせたい誘惑に勝てなくて……。
前代未聞の不祥事による御憔悴の色あざやかなる天皇陛下に拝謁の機会が与へられたので、近々に献上される筈の原田熊雄の遺著は、聖上たゞおひとかたに御承知ねがひたくて書き誌したもので、一般に公開する意思は、毛頭ございませんし、またそんな日が来ようとも思つては居りませんでしたが、さういふ彼の微衷を汲んでやつて頂きたく、切にお願ひ申上げます。微かに、「あ、そう」と頷かれた。更にその十数年後、某氏によつて、 陛下の御読後感までも洩れ承ることが出来た。
こゝに、思ひきつて、皇室に関する|内輪話《うちわばなし》を|公 《おほやけ》にしたのは、霊魂なるものの、時間、空間を絶した存在を、信じはしないにしても、熊公に聞かせてやりたさに、……なに、それに及ばうか、……あのぽつてりと、赤い頬が、にこ/\と、つい目の前にある。……やつとこれで私の気も晴れた。
昭和庚申晩秋
[#地付き]於鎌倉扇ヶ谷
[#地付き]里見 ※[#「弓+享」、unicode5f34]識
[#改ページ]
[#3字下げ] あ と が き
もう五年ほど前になるか、ある日、木戸(幸一)さんがポツリとこんな感想を洩らされた。
「僕自身、全く身に覚えのないことを、木戸は、木戸はと、いろいろ書いてあるね。でも、それは仕方ないよ、いろんなねえ……。なにしろもう三十年経っているだろう。だからもう、いろんな推測が出ても、それを打ち消す手段もないやねえ。が、自分から言えば、言いわけになっちゃうしね、うん。だから、もう少しまた経てば、今後は歴史的な問題になればだね、いろいろ消化されて、だんだんと真相がわかってくるだろうと思うんだけれど、今あたりがちょうど一番悪い時だろうね、うん」
木戸さんのいうこの「一番悪い時」に、私は改めて、原田・木戸日記を手がかりに昭和史に踏み入ってみた。
原田熊雄には「昭和五年来、寸暇を得るごとに、近衛秀麿子の夫人・泰子君を招いて、公私に亙る公爵との交渉の一切を語り、夫人の得技たる速記にとらしめ、忘に備えた稿本」があり、これは戦後『西園寺公と政局』全八巻として公刊されている。また、木戸さんには、昭和五年から二十年に至る詳細な『木戸日記』があり、この『原田日記』──便宜上こう呼ぶ──と『木戸日記』を、歴史学者は昭和史文献の双璧≠ニ評価している。たしかに、その時々の出来事をほぼありのままに記したという意味での資料的価値では、原田・木戸の日記に優るものはちょっと見当たらないようだ。
しかし、木戸さんも言っているように、「日記はあく迄も日記であって、記述は簡単であり、結論だけしか書いてない」ことが多い。同じことを当時私は原田から、「なかなか本当のことは書けないよ」という言い方で聞かされていた。
原田日記を見ると、歴代総理がこれは元老西園寺公だけに伝えてもらいたいのだが≠ニいって、政治上の極秘事項あるいは軍の動きを話していることがしばしばある。また原田・木戸とともに西公三羽烏≠ニいわれた近衛文麿公は、三度にわたって、政権を担当したうえ、とかく評判の聞き上手≠セったから、各方面の情報が耳に入り、原田・木戸にも自然と流れた。さらに木戸さんも、内大臣として終戦直後まで常侍輔弼の責任者であったから、内外のあらゆる動きが敏速に伝えられていた。
こう見てくると、原田、木戸、近衛の三人が掌握した情報は、実に貴重であり、他の追随を許さぬものがあったといえよう。
そうであればこそ、原田が書けないこともあるよ≠ニ明らかにしなかったことはいったい何だったのか、また、木戸さんが激務の間に淡々と書き残した日記の事実関係の裏には、いったいどんなことがかくされているのか。私自身戦前に原田の身辺におり、木戸さんや近衛公とも連絡があっただけに、その一部は推測もつくのだが、こうした興味は戦後長い間私の中にくすぶり続けていた。
四十九年秋、私は銀行の頭取を退き、時間の面でも、また気持の上でも、ようやく余裕が持てるようになった。かねてから、一度原田日記を詳細に検討したいと思っていたので、原田家をはじめ各所に残された原田の資料も寄せ集めてポツポツ読み始めた。
原田日記については、原田が口述している現場を何度か見かけたし、昭和十六年十一月に私が二年三カ月振りにアメリカから日本に戻ったとき、留守中の日本の動きを早く頭に入れるようにということで、住友本社四階の原田の部屋で何日かにわたって原田日記の原稿に目を通したこともあった。そんなわけで、その頃を回顧し、時代の背景を考え、また、当時を知る人に会って思い出話を聞いたりしているうちに、ある日、私は木戸さんに、「原田の伝記を書きたいので、思い出話を聞かせていただきたい」とお願いしてみた。木戸さんは「それはいいね、面白いじゃないか。僕の知っていることは何でも話そう」と気軽に全面的協力を申し出てくれ、結局、二年ほどの間に、一回一時間程度で、三十回近い記録がたまった。
冒頭に掲げた話もこの時のもので、木戸さんは、「だから自叙伝なんてものは、ずいぶんいろいろの人のを見たけど、みんな自己本位だものねえ」とも語っていた。私も、回想録、自叙伝の類いにも出来るだけ目を通したが、自己弁護や誇張、誤解など、たかが三、四十年の間に歴史はこんなに変えられてしまうのかという思いが強かった。
そんな雑多な資料を吟味し、生存している関係者に何度か質しながら昭和史を構築して行く──歴史的な評価どころか、まだ事実関係すら曖昧な事がらを書き連ねていく──このために、私は最近ちょっとブームの昭和人物史などの書き方にも背を向けた。面白くするために不利な事実には目をつぶる……そんなやり方を私はとれなかった。自分の父親の一生に沿って昭和史を書くからこそ、最大限に突き離して客観的にすべきだとも考えた。そのために、確実な資料に基かない憶測は徹底的に排除したし、使用した資料、証言の出所も明らかにすることにした。結果としてあるいは煩雑になった面があるかも知れないが、人の一生なんてそんなに恰好よくばかりいくものではなかろう。
もし原田生存ならばすでに九十三歳になる。今では原田を知る人も少なくなっているのだが、どうしても話を聞いておきたい人が、それでも四十人余りになった。とても私一人では無理なので、いろいろな方法で思い出話を集めたり、疑問点を質したりしていったが、みなさんから実に好意的なご協力をいただいた。これも原田の人柄のせいと思うものの、感謝に堪えない。
原田の義兄弟で、『西園寺公と政局』の校訂にも当られた里見※[#「弓+享」、unicode5f34]さんからは、貴重な談話に加えて、跋文までいただいた。原田と同じ年生れの里見さんはまもなく九十三歳になる。「口だけはますます達者になるな」と笑っておられるが、お元気で嬉しい限りだ。また、原田邸の朝食会のメンバーだった鈴木貞一(元陸軍中将・企画院総裁)、原田と親しかった東久邇稔彦(元首相・陸軍大将)、原田が日銀に入行して以来の親友だった柳田誠二郎(元日銀副総裁・日本航空社長)と岡田才一、西園寺家で養育された橋本実斐(元伯爵・貴族院議員)、元陸軍中将で宇垣一成(陸軍大将・陸相・外相)の義弟の笠原幸雄、近衛首相の秘書官だった牛場友彦、元海軍少将の矢牧章、軍務課長だった有末精三(陸軍中将)、原田の叔父中村雄次郎(陸軍中将・満鉄総裁)の次男中村貫之(横浜正金銀行)、十年にわたって原田の日記の速記をとった毛利(近衛)泰子、松平康昌未亡人の松平綾子、吉田茂元首相の身近かにいた坂本喜代子、また、住友で「原田の用件一切を弁じた」益田兼施、原田が平河町にいたときの隣家の青地次三・渡辺三郎兄弟、大磯町役場収入役の鈴木昇、近衛邸に仕えた横井(青木)トクの諸氏からは、何度かにわたって貴重な談話や資料をいただいた。
さらに、原田の身内の人々にも、原田の実妹の有島信子、有島暁子、高木シマ、原田の妻英子の妹に当る和田小六夫人の和田(吉川)春子と獅子文六夫人の岩田(吉川)幸子、原田敬策、宍戸智恵子、晩年に原田の看護をつとめた森(土屋)よし子、身辺警護に当った脇谷喜蔵、原田邸に仕えた大原美佐と小関(角田)文枝、近衛公の書生の塚本義照、興津の水口屋の望月半十郎、湯河原の天野屋の天野弘之、大磯の大内館の大内ミチの諸氏にも当時の思い出を語ってもらった。他にも、大磯の原田邸に出入りされた方々から思い出話や手記を頂戴したし、また京都の陽明文庫の資料閲覧について近衛通隆、名和修の両氏のお世話になり、さらにみすず書房の高橋正衛氏からもいろいろと助言をいただいた。記して、厚く御礼申し上げる次第である。
これらの人々のうち、木戸さん、橋本伯、有島信子おばなど、七、八人がすでに亡い。「原田の本は出来たかね」と待ち望んでおられただけに悔むことしきりであるが、遅れた分だけ私は資料を読み返し、みなさんの話を聴き直し、当時の原田や松平康昌さんなどみなさんとの懐しい思い出に浸ることが出来たし、また志に反して戦争になってしまった無念さ、やりきれなさをしみじみと反芻することにもなった。
そんなわけで、「原田熊雄伝」でもある本書は遅れたうえに、予定の倍の分量になったこともあって、文藝春秋の方々にいろいろとご面倒をおかけした。本書がこうした体裁を整えることが出来たのは、とくに半藤一利、竹内修司、小嶋一治郎の諸氏の熱意に負うところが多く、併せて感謝の言葉を述べたい。
昭和五十六年二月
[#地付き]勝田龍夫
人 名 一 覧
(省略)