勝田龍夫
重臣たちの昭和史 上
原田熊雄君が生まれたのは明治二十一年一月、私は二十二年七月、近衛文麿君は二十四年十月である。原田君は、途中病気で休学したので、附属中学から学習院中等科に転属して来たとき、私と同じクラスになった。以来、学習院高等科、京都大学と、九年あまり私と原田とは一緒だった。近衛君は、学習院で一年下にいた。私や原田と親しくつき合うようになったのは、彼が東大に入学したもののすぐ取り止めて、京都大学に入学し直し、京都北白川の原田の下宿に立ち寄ったときからと記憶する。
京大時代は、原田と近衛と私、それに同じ学習院出身の織田信恒君や橋本実斐君と一緒のことが多かった。西田幾多郎先生をかこんで『善の研究』を読んだり、休日には西田先生を加えて嵐山に遊んだり、近衛がロマンチックな作詩をして三高寮歌の替え歌でみんなそろって歌いながら北白川の辺を歩き回ったりしたものだ。
大学を出て、原田は日本銀行に就職、まもなくイギリスに行って、帰国後は加藤高明総理の秘書官になった。私は、農商務省に勤務した。近衛は、卒業後内務省に籍を置いて、まもなく西園寺公に随いてパリ講和会議に出掛け、帰国後は主として貴族院で政治活動に携わるようになった。こんな具合だったから、お互い三人、この頃は学生時代からの仲間としてのつき合いはあっても、政治的な意味合いは少なかった。
その後、大正十五年に原田が西園寺公の秘書をつとめるようになり、次いで昭和五年に私が内大臣秘書官長に任命されたころから、我々の活動はにわかに政治的色彩を深めた。西園寺公が、後継者として期待した近衛は、この間、貴族院議長を勤め、やがて第一次近衛内閣を組織する。原田の都合が悪いときは私が西園寺公に報告に出向き、また原田が牧野内大臣と話し合ったり、我々三人の連絡は昼夜をわかたず忙しかった。
原田は、ありとあらゆる情報を聴き込んで、西園寺公に伝えていた。そのころ、電話機をかついだ原田のマンガが新聞に出たが、朝起きてから夜寝るまで電話機を握りしめ、私の家に来てもまず電話室に飛び込む有様だった。時の総理、各大臣をはじめ、陸海軍の首脳に至るまで、原田ほど顔の広い男はまず見当らなかった。情報の集め方は強引なくらいで、一部の人々には厚かましくも思われたのだろうが、一面では注意深く、しかも政治的なカンが極めてすぐれていたことは、なんといっても原田の特性であった。西園寺公も、嘘をついたり、事実をゆがめたり、あるいはその地位を利用するということの全くない原田の正直な性格とともに、そのカンの鋭さをかって秘書として大いに重用されていた。
原田や私などが集めた情報をもとに、西園寺公は後継内閣の性格を考え、首班を推奏していった。昭和の内閣の変遷を眺め、各々の首班を見るとき、その頃の時代の流れをよく知る私としては、西園寺公の推奏に間違いはなかったものと考える。いや、あれが、限界だったと思う。西園寺公の果された任務は、同公亡き後、昭和十六年に近衛が第三次内閣を投げだした時、私に課せられることになった。
原田といえば、すぐ思い浮ぶシーンがいくつかある。学習院のころ、フランス語が不得手な彼に頼まれて教えてやっていると、いつも途中で居眠りを始めたこと、口を開けば老公が、老公が≠ニいって西園寺公を心から尊敬していたこと、誰の家に行っても極めて親しげに振舞って、戸棚から菓子を勝手につまみ出したりしていたこと、三国同盟の締結の話を聞いて近衛は富士山みたいな奴だ、遠目はいいが……≠ニ怒っていたこと、終戦近くなって身体を悪くしながらも何度か私に手紙や言伝てで和平工作を早く進めるように催促してきたことなど、走馬燈のごとく私の脳裏を懐かしくかすめ去る。
原田君の令嬢美智子さんのご亭主の勝田龍夫君が、このたび原田のことを、西園寺公や近衛、さらには私のこともまじえながら書くことにしたという。勝田君とは原田を通して戦前からつき合いがあった。この勝田君から二年ほど前に私にも原田の思い出話をしろという依頼があったので、都合二十五回ほどいろいろお話した。原田のことについては思い出す限り話しておいたし、また終戦に至るまでの昭和の政治の動きについても、包み隠さずに、事実と私の感想を述べておいた。聞けば、私を含めて、現存する関係者のほとんど全員に詳しい話を聞いたというし、面白い資料も見つけ出しているようだ。
私は、昭和の歴史を顧みて、一口でいえば、あれしか仕様がなかった≠ニ考える。一年以上にわたった原田の思い出話の間にいろいろと考え直してみた時も、つくづくそう思った。近衛の性格がもっと強かったら、という人もいる。また平和を願われた陛下が直接に指導なされたら、という声も聞く。しかし、昭和の歴史の流れは、陛下や西園寺公や我々の希望や行動と次第にかけ離れて、かかわりのないところに展開されていったところに問題があった。陛下が事に臨んで御憔悴遊ばされ、西園寺公が現実の政治の動きに次第に絶望され、また戦後相次いで世を去った近衛と原田が、私の親友として終生つき合いながらも時折激論を戦わせたのも、時の大きな流れに対する既成の力や個人の力の無力さを感じたからに他ならない。この点は私から詳しく話しておいたし、勝田君が本書で一層詳しく明らかにしてくれたものと思う。
近衛、原田が逝って、早や三十年以上になる。私一人健在であるが、せめて私の口を通して、親しかった二人の知られざる諸面を明らかにしておくとともに、そろそろ歴史的評価の対象となってきた昭和前半期について当事者としての私の考えを述べておくことが、せめてもの二人の供養になると考える次第である。
昭和五十年十月
[#地付き]木戸幸一
[#この行3字下げ]――この序文は、四十九年八月から五十年九月まで、一回一時間ずつ二十五回にわたって木戸幸一氏の談話を伺った直後に、この著作のために頂戴したものである。その後五十二年四月に木戸氏は亡くなられた。――著者
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目 次
序・木戸幸一
第一章 大正デモクラシー・政党政治のころ
――原田・西園寺・木戸・近衛――
第二章 敢然とファッショの風潮に立ち向かって
――浜口遭難と宇垣の野望――
第三章 国内と満州と同時にやろう
――満州事変と十月事件、五・一五事件――
第四章 ファッショに近き者は絶対に不可なり
――斎藤内閣と帝人事件――
第五章 議会主義の守り本尊・西園寺が牙城
――岡田内閣と陸軍の内政干渉――
第六章 朕自ラ近衛師団ヲ率イ、此ガ鎮圧ニ当ラン
――二・二六事件――
第七章 今の陛下は御不幸なお方だ
――広田内閣と林内閣――
読 者 へ
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本文中の資料注記について
* 資料注記は〈 〉で囲んだ。年号は昭和、最後の数字は該当箇所のページ数を示す。
* 同一資料が二度以上出て来る場合には、最初のみ発行年,出版社名を記し、二度目以降は簡略化して表示した。
* 原田熊雄『西園寺公と政局』8巻・別巻1(25年6月〜31年7月、岩波書店)、『木戸幸一日記』上・下巻(41年4月、7月、東大出版会)、『木戸幸一関係文書』(41年11、東大出版会)から引用したものは、原則として注記から除外し、特に重要と思われるもののみ、原田1─10または原田別10、木戸10、木戸文書10などと表示した。
* 原田家などの未公開資料は,原田資料として題名を記した。
* 著者が関係者から直接聴取してテープに納めたものについては、本文中で「氏」をつけることで区別し、資料注記から除外した。
* 資料の旧仮名遣い、旧漢字は原則として改めた。
* 下巻に「人名一覧」を収録した。(省略)
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第一章 大正デモクラシー・政党政治のころ
――原田・西園寺・木戸・近衛――
夏目漱石の作品に、「ケーベル先生」という小篇がある。明治二十六年に東京帝国大学の招きで来日し、大正十二年に横浜で客死したロシア生れのドイツ人哲学者ラファエル・ケーベル博士を漱石が駿河台に訪ねたときの印象記である。
[#この行1字下げ] 木の葉の間から高い窓が見えて、その窓の隅からケーベル先生の頭が見えた。傍から濃い藍色の烟が立った。先生は煙草を呑んでいるなと余は安倍君に云った。
[#この行1字下げ] この前ここを通ったのはいつだったか忘れてしまったが、今日見ると僅かの間にもう大分様子が違っている。甲武線の崖上は軒並新しい立派な家に建てかえられて、いずれも現代的日本の産み出した富の威力と切り放すことのできない門構えばかりである。その中に先生の住居だけが過去の記念の如くたった一軒古ぼけたなりで残っている。先生はこの|燻《くす》ぶり返った家の書斎に這入ったなり、めったに外へ出たことがない。……
この古ぼけたケーベル博士の西洋館は、原田家の家作だった。
駿河台(千代田区神田)にあるこの家の南側は崖になっていて、斜面いっぱいに植えられた椿の樹の間を縫うようにして下りたところに、原田熊雄の生家があった。これも当時めずらしい二階建の黒っぽい洋館で、明治十五年に祖父の原田一道陸軍少将が建てたものという。
原田の幼友達で白樺派の作家の長與善郎が、この洋館のことを懐かしそうに語っている。
[#この行1字下げ] これは全く一風変った類のない半洋館で、玄関のドアをあけるといきなりSの字形の階段で二階の広い洋間へ出る。その隣室に畳敷きの広い日本間がもう一部屋あったが、一階は台所と物置き、土蔵とでもなっているのか、家は広くないが、その居間でも客間でもある洋間には叔父さんの故原田直次郎画伯の洋行中に画いたといういい油絵が三、四点掛かっている。……そんな絵があるばかりでなく、そこにはピアノがあり、原田の妹の信子さん(有島生馬夫人)が兄の命令で弾くピアノが、何とも云えぬ本場のものといった感じがある。それもその筈で、聞けばその先生はケーベルさんで、ケーベルさんは原田の貸家に住んでいる。〈長與善郎『わが心の遍歴』(38年、筑摩書房)68〉
こんな様子の家に、原田熊雄は明治二十一年一月七日、東京帝国大学理科大学教授原田豊吉と妻照子の長男として生まれた。
「熊雄」――どこかユーモラスで、しかも丈夫な感じの名前を両親は選んだ。のちにこの子供は長じて、学習院、京大時代には木戸幸一や近衛文麿から熊公≠ニか熊≠ニ呼ばれ、西園寺の秘書になってからは陸軍の軍人達から原熊、原熊≠ニ警戒の目を向けられ、また米内光政や山本五十六などとしばしば遊んだ新橋の料亭では熊さん、熊さん≠ニ親しまれた。
原田の母親照子は、明治のはじめに来日して貿易商を営んだドイツ人ミカエル・ベア氏と日本女性荒井ろくとの間に生まれた。ベア氏の貿易商会は、その後ここに勤めていた高田慎蔵が引き継いで明治の三大貿易商の一つとまで言われた高田商会になるのだが、ベア氏は幼い照子を高田慎蔵の養女に入籍させて、明治十三年ころ本国に帰ってしまった(明治十三年に外国人の商売が厳しく制限された。なお、ベア氏は帰国後フランス女性と結婚してフランスに帰化、一九〇四年に死亡した)。
だから、父親恋しの照子の気持が|熊《ベア》≠フ一字を選ばせたのかも知れないし、また、父親の豊吉が肺結核を病んでいたので、なんとかたくましく育ってくれと願って、熊雄と命名したとも思われる。熊雄の次に生まれて夭折した次男が寅次と名付けられたことを考えあわせると、豊吉の健康への願いの方が強かったのかも知れないが、この熊公≠ヘ、両親の期待に反して、あまり丈夫でもなく、内気な方だった。
熊雄のたった一人の妹、信子は、長與善郎たちから「あげはの蝶」と謳われた美貌の女性で、明治四十三年にパリ帰りの洋画家有島生馬と結婚し、先ごろ(五十三年十二月)八十九歳で亡くなったが、長寿に恵まれた彼女が兄の子供のころを語っている。
「学校に行く途中に大きな犬を飼っている家があってね、兄はそこを通るのがいやで、毎朝、おい信子、犬がいるか見てこい≠チて……それで、いるわよ≠ニいうと、ずっと遠回りして学校へ行くの。それに雷がこわくてね、いつもバカ、気ちがい、トンチキ≠ネんて私のことを呼んでいばっているのに、ふとんをかぶってふるえているんだからね。なんでそんな呼び方をするのと聞いたら、かわいいってことだよ≠ナすって……。私が着物の長い袖でぶつので、お信と同じ袖の着物をつくってくれ≠チて母に頼んだのよ、よっぽど口惜しかったのね。
子供のころはよく病気で寝ていたようね。でも中学生のころから柔道を習い始めて講道館にかようようになってから丈夫になったの。おじいさんが陸軍のえらい軍人だったから、自分は海軍に入るつもりらしかったが、柔道で肩の骨を折ってから、あきらめたようね」
明治二十七年、熊雄が六歳のとき、父豊吉が三十三歳の若さで亡くなった。肺結核だった。
[#この行1字下げ] この肺患はそもそもどこから来たかと言えば、ドイツ留学中同窓に米国人でウィリアムズと言う友人があり、この人と常にアルプスにテント生活をしたり、旅行などをしていた。この人は、のちに米国ジョン・ホップキンズ大学の名誉教授となった人だが、この人の肺患が伝染したのだ。
熊雄はのちに「思い出づるままに」と題して大部の口述をしたなかでこう言っているが、そもそも豊吉はあまりに身体を酷使しすぎたようだ。
わずか十三歳でドイツに留学し、ザクセン鉱山学校、ハイデルベルヒ大学、ミュンヘン大学などで当時世界的にすぐれたドイツ地質学の最新の知識を学びとって、十年後に帰国、二十三歳で日本人としてはじめて東京帝国大学の地質学教授になった。日本地質学の父ともいうべきゴッチェ、ナウマンと精力的な論争を繰り広げるなど、豊吉の活躍は華々しかったが、そんな無理がたたって結核菌につけ入られたのだろう。
豊吉は二十六年に思い切ってまたベルリンまで行って、ちょうどツベルクリンを発見したばかりのコッホ博士に診察と治療を受けたりして、当時は死に至る病の一つとまでいわれた結核と懸命に闘った。もっとも、ベルリンに着いたときにはすでに大分病勢が進んでいて、コッホは一目見るなり、
「なぜこんな瀕死の病人が来たのか」
と叱りつけたという。豊吉は半年ほどコッホの病院にいて日本に戻り、亡くなる前の一年余りは裏猿楽町の洋館の二階で感染をおそれて家人を遠ざけたまま、淋しくベッドに横たわっていた。
明治二十七年八月、熊雄が六歳のときに日清戦争が始まり、九月には黄海海戦で日本艦隊が清国の軍艦二隻を撃沈、三隻を大破するという戦果をあげた。陸軍も朝鮮半島を抜いて鴨緑江岸に迫り、十一月二十一日には大山巌大将の率いる第二軍が旅順口を占領した。清国の重要軍港がおちたわけで、東京の街は号外がとび交い、湧きに湧いた。
あすをだに知らぬ命を永らえて
今日のおとずれ聞くぞうれしき
病床で街の興奮を耳にした豊吉はこんな辞世の句を残して、十二月一日に亡くなった。
父親を亡くした翌年、二十八年四月に熊雄は東京高等師範附属小学校に入学した。身体が弱かったのでみんなより一年遅れて就学し、三十四年四月に附属中学校に進んだ。
中学五年の夏休み、原田は大磯の路上ではじめて西園寺公望に会った。六月に日露戦争が終り、政友会総裁だった西園寺が大磯の伊藤博文の別荘滄浪閣≠ニ並んだ隣荘≠ノ来ていたときのことである。
「これが熊雄と申しまして、わたくしどもの|嗣子《あととり》でございます」〈原田熊雄編『陶庵公清話』(18年、岩波書店)157〉
母親の照子に紹介されて、いがぐり頭でまん丸顔の熊雄はペコリと頭を下げた。
西園寺は、原田家と結構なじみが深い。
幕府の大政奉還によってわずか十八歳の若さで朝廷の参与に抜擢された西園寺は、鳥羽伏見の戦いで官軍が勝ったあと、山陰道鎮撫総督、北陸道鎮撫総督を命ぜられて山県有朋や西郷南洲の弟の吉次郎などの属する軍を率いて転戦し、陸軍の三等将に任じられた。明治元年のことである。続いて新潟府知事を命じられたが、かねて福沢諭吉の『西洋事情』に非常な感銘を受けていた西園寺は、勝手に任地の新潟を引きあげてフランス留学の準備を始めた。日本を出たのは明治三年十二月だが、この二年ほどの間に西園寺は長崎まで行ってフランス語を勉強したり、また洋行帰りの人々から教えを受けたという。その一人に原田一道がいた。
「君のお|祖父《じい》さんには、自分が初めて洋行する時、前から懇意にしていた大村益次郎のところへ行って、何か参考になる話を訊こうと思ったら、いやそれなら自分より原田の方がいい、と言って、当時フランスやオランダの見学を終えて帰朝したばかりで、新知識として知られていた君のお祖父さんに紹介してくれて、それでお目にかかったんだ。度々お話を伺いに出たもんだ」〈原田熊雄編『陶庵公清話』(18年、岩波書店)155〉
のちに西園寺は熊雄にときどきこんな話をして、「いわば半分先生さ」と一道のことをいっていた。
フランス滞在十年、ソルボンヌ大学を卒業して明治十三年に帰国した西園寺は、翌々十五年に憲法調査のため伊藤博文に随行してヨーロッパに行った。このときはドイツ中心だったから、西園寺は原田の父豊吉とも「懇意に」したという。豊吉は十六年四月に、西園寺も八月に帰国したが、当時のことをのちに西園寺は近衛に話した。
「久し振りにヨーロッパから帰って、熱海に出かけたところ、原田の親父さん(豊吉)が細君づれで来ているが、大した美人を貰ったものだ≠ニみんなで噂をしていた。会ってみたら、なるほどお綺麗な方だった」〈原田熊雄編『陶庵公清話』(18年、岩波書店)156〉
十年も日本を離れていた豊吉が、すっかり日本語を忘れてしまって、よろしく≠ニいえずに、よ|しろ《ヽヽ》く≠ニいったりして、日本語の通訳を連れて歩いていたころの話だ。
こんな古くからのいきさつがあったから、大磯の路上で西園寺は、未亡人になった照子に気軽にいたわりのことばをかけ、また一道の近況を尋ねると、熊雄にも、
「いつでも遊びにおいでなさい」
と声をかけて別れた。西園寺は翌三十九年一月に第一次内閣を組織する。
幼いころ、ひ弱でナイーブだった熊雄もこのころには、すっかり世慣れて来て、活発な青年になっていた。
「いつでしたか、小学生のときかしら、兄が大磯の駅で伊藤博文公と話をしているの。母がそれを見て驚いちゃってね、一体いつの間に御縁になったんだろうってね」
妹の信子はいうが、有島生馬の実妹の高木シマによると、これもすべて母親照子の教育の成果だという。
「早いとこ後家さんになって、原田の跡を継ぐ人が世の中に忘れられるといけないっていうんで、始終偉い人が新橋から発つのを熊雄さんが送りに行かされるのよ、いってらっしゃい≠チてね……。この頃あんなことしなくなったけれど、そういう時は、入場券持って送りに行ったの」
木戸幸一氏も同じことを言う。
「原田はね、小さいころは内気だったらしいんだ、非常に。それであのお母さんがえらい人なんだ。たしか二十四歳で後家さんになったと聞いていたが、原田が内気なもんでね、しきりとえらい人に会わせたんだね。金子堅太郎(伊藤内閣の法相)、江木千之(清浦内閣の文相、明治三年に一道が大阪で開いた塾の塾生。ここで鉄砲製造と数学、語学を学んだという)とかね、そういう人がよく呼ばれて食事をしに来ていた。
僕はね、あのお母さんに可愛がられ、また信用もあったと見えて、陪席するのはいつも僕なんですよ。老人てのは話をするのが好きでね、若い人に呼ばれると案外喜んで来るんだね。それでいつまでも帰らずに得意になって話していたよ。金子さんが日露戦争のときルーズベルト大統領に働きかけた話なんかしきりと聞かされたね。
それで結局、お母さんが、内気でシャイな原田をあれだけに直したんだね。こういう点はお母さんがえらかったと思うね、えらい人と話すのに抵抗を感じないようにってね。それに彼の行動力が一致したので、非常に交際範囲が広くなったんだよね、その点が先生の特徴だろうね」
四十年三月、原田は東京高師附属中学校を終えた。柔道で肩の骨を折ったこともあって、五年で卒業できるところを六年かかった。十九歳である。一緒に卒業した学友は、あるいは一高をめざしたりしたが、原田は学習院中等科六年に編入することにした。
「交際のことばかりさせるから、学校だって遅れるじゃないか」
原田は母親によく食ってかかっていたが、「家庭教師の来られる時はいつもお留守、女中は若様、若様と探し歩く、母は怒る」〈昭和22年3月15日付、有島信子から長與善郎宛書簡〉という様子だったから、それよりは明治三十三年に一道が男爵をさずけられて華族の仲間入りをしたので、無試験で進学できる学習院を選ぶことにしたのだろう。「当時の学習院中等科は、無試験で高等科に進級出来る代り、六年制であった」〈長與善郎「異性の友を語る」(『婦人公論』22年2月号)〉から、原田も六年に入ることになった。
ここで原田は、木戸幸一と同じクラスになる。長與善郎、織田信恒、実吉吉郎なども同級生だった。木戸氏によると、原田の転校はちょっと評判になったという。
「あの頃、附属と学習院とで柔道の対抗試合を毎年やっていたんですよ。原田は講道館にかよっていてね、初段だったかな、ちょっと強かったもんだから、だいぶこっちは痛めつけられたことがあるんだよね、だからかなり名前は売れていたんだ、こっちにね。それで、先生が入ってきて、オッ、原田が入って来た、入って来たってね、みんなそういってましたよ」
原田が学習院中等科六年のとき、近衛文麿は中等科五年にいた。
学習院の新入生になった原田は、木戸や長與をしきりと自宅に誘って、友達づくりにはげんだ。母親の照子は「快活で調子のいい社交家」だったから、原田が連れてくる友人を「至極愛想よく迎えていろいろ話しかけ、御馳走したりして」歓迎したが、どうも長與は木戸とちがう扱いを受けたようだ。金子堅太郎や江木千之を照子が招くときに声をかけられるのは木戸だけで、長與は「熊さんのお仲間」として、遊びの方をつき合ったという。のちに長與は、「サンチョ・パンサ」、「漫才の相手」だったと苦笑しながら書き残している。
それでも、長與が遊びに行くと、大きなひさし髪をゆった信子も一緒にお相手をした。熊雄は家では主人然として、誰にでもすぐバカ=Aトンチキ≠乱発して威張っている。照子は、そんな熊雄の「ガラガラのやんちゃぶりがまた可愛く」、にこにこ笑っているが、それでも叱ったり注意すると、「そら、腹立てる子だ(原田照子)」と逆襲される。――「一度この家庭を訪れた者は、たちまちその親しみのある居心地のよさと一種異国的香気のある雰囲気の魅力とに捉えられたにちがいない」と長與はいっている。
信子は御茶の水の東京女子高等師範学校に在席しており、熊雄が「おい、弾け」と命令すると、にっこり微笑しながら素直にピアノに向かった。そのピアノに音楽好きの長與がすっかり感心して、「何とも云えぬ本場のもの」とほめると、原田がある時、「こんな子供のはダメだ。先生の所へ行こう。そうすれァすばらしいのが聞けるよ」と言い出した。
二人は、椿の生い茂る崖を上って、ケーベル博士の家へ押しかけた。枯れきった孤松の如きこの老哲学者は、東大で哲学を教えるかたわら、上野の音楽学校のピアノ科も受け持っていたが、「気むずかしやで非社交的」でも有名だった。たぶんケーベル博士のピアノのたった一人の内弟子だった信子が、楽譜をかかえて出て行くと、よく居留守をくわされたという。
「今日はいないよ、って、取次ぎの婆やが出て来ていうの。いないどころか、ちゃんと、そこにいる、禿げ頭が窓からまる見えなのよ。でもいないっていうもの仕方がないから、帰ってくるのよ」
ところが、この気むずかしやの「禿げ頭」も熊雄にだけは弱いらしく、崖をのぼって来た二人を招き入れて、「質素なカツレツとパン、ブドー酒一杯」の夕食を振舞った。
[#この行1字下げ] 食後、原田が無遠慮に、この僕の友達は先生のピアノを聴きたがっています。何か一つ弾いてくれませんかと所望すると、この芸術家である老哲人もこのヤンチャ小僧には敵わず、よろしいと答えて早速一曲弾いてくれたのが誰でも知っているショパンのワルツ(第七番嬰ハ短調)だった。それは無論小曲の情緒的なものだが、ポーランドという国の悲運な歴史的国情が織りこまれているかのように一種暗い短調で、しかもそれは日本音曲のような無知な情緒とはちがい、何かヨーロッパの哲学が隠然と背景となっている感じで、いかにも哲学者の楽しみに演ずる小曲にぴったりしている……。〈長與『わが心の遍歴』68〉
長與は「恍惚となり」、大いに感激したようだ。
一度、信子が、ツェルニーのような軽い練習曲にあきて、「先生の弾いておいでの曲を教えて下さい」と、熊雄の英語を通じて頼んだことがあるという。ケーベル博士はむずかしい顔付で「たとえばどんな?」と聞き、「ベートーベンのムーンライトソナタ」と答えると、首を振った。
「ムーンライトソナタは意味の深いもので、弾くのはやさしくても、やたらに弾くものではない、お前には死ぬ迄弾けないよ」〈有島信子書簡〉
この話をずっと後になって伝え聞いた長與は、「ことによると、おれは……?」と信子に淡い恋心を抱いていたことも手伝って、「西洋音楽の伝統の全くない日本人の弾くものではない、たとえ手では弾けても到底理解出来っこない、といっていたというが……今日もしケーベルさんが生きていて、日本での西洋音楽の進歩ぶりを聴いたらどんなに驚くことか」といささか憤慨したものだ。
しかし、ケーベル博士は、日本の文化や伝統についてもよき理解者だったようだ。ケーベル博士の『私の観た日本』にこんな一節がある。
[#この行1字下げ] 都市に於てはしかし、今や全然価値なき西洋の|近 代 化《シビリゼーシヨン》≠ェ日本の文化をば殆ど食い尽した。私は到る処に、ヨーロッパやアメリカの罪悪と愚昧の猿真似を見る。然るにこれらの罪悪や愚昧たる、実は日本的及び総じて東洋的精神には徹頭徹尾矛盾するものであり……。
だから、熊雄に対しても、ケーベル博士は長與がいうように単に「ヤンチャで遠慮がない」から一目おいていたというのではなく、人間性をよくつかんでいたようだ。
ケーベル博士は、ときおりチョコレートや紅茶の土瓶を下げて、「ドイツ語がぺらぺら」の照子を訪ねて崖下の原田の家まで遊びにやって来た。照子が森鴎外を招くときにも、ケーベル博士は同席してピアノを弾いて興じたが、ある時、熊雄と二人で庭を歩いたことがあった。敷石の上を毛虫が何匹か這い回っている。夢中でしゃべっていた熊雄はヒョイと足を避けて通り過ぎた。
「君はブレイブ(Brave)な人だね」
ケーベル博士は大いに感心して熊雄をたたえたという。
この話には後日譚があって、原田は長い間この話を誰にもしなかったが、晩年になって義弟に当る里見※[#「弓+享」、unicode5f34]にだけ伝えた。
「熊さんの生涯は、本当の意味でブレイブだったなあ」
里見氏は今でもこう洩らしている。
原田豊吉の弟直次郎が洋画家だったことは先にふれた。直次郎は、豊吉が帰国するのと入れ違いに明治十七年にドイツへ留学し、ミュンヘンでガブリエル・マックスに師事した。滞独三年のうち最後の一年は、たまたま同じミュンヘンに留学中だった森鴎外と親しくなり、鴎外の帰国第二作である「うたかたの記」の主人公画家巨勢のモデルは、この直次郎だという。
明治四十二年、熊雄が学習院高等科二年のとき、この原田直次郎の記念展覧会をやろうという話がもち上がった。直次郎死後十年のことである。
この年の三月、原田は駿河台南甲賀町(現在の千代田区神田駿河台)に西園寺を訪ねた。「何の用事であったか覚えていない」と原田はいうが、西園寺は四十一年に第一次内閣を終り、四十四年に第二次内閣を組織するちょうど間の時期だった。
「昨日、井上毅の法要があって護国寺に行ったところが、回廊の暗い所に立派な観音の油絵がある。よく見ると大変よい。それが君の叔父さんの直次郎氏の筆だ。ああいう所に置くのは惜しいから何とかしたらどうか」
「叔父に前に聞きましたら、西欧では名画をよく大寺院に収めるので、叔父も寺に預ける意味で護国寺に持っていったのだといっておりました」
「それは惜しい。光線のよく入る明るい、人の観られるような所に出したらいい」〈原田資料「思い出づるままに」〉
そこで原田は、直次郎の親友だった森鴎外に相談することにした。西園寺は、第一次内閣のとき文士を駿河台の私邸に招いて歓談する会を始めた。雨声会≠ニいうが、鴎外も会員の一人だからよく知っている。原田の申し出に西園寺は賛成した。鴎外の筆をかりよう。
[#この行1字下げ] この度のような催しがしたいという話は、久しい前から故人の門下生であった諸君の間にあったのである。その内に故人の兄であった理学博士原田豊吉君の子息で、今学習院に入って居る熊雄さんというのが、芸術の嗜好があるところから、同じような事を思い立って、私のところへ来て話された。私はそれを黒田清輝君に取り次いだ。とうとう黒田君と熊雄さんと会って話をする事になった。黒田君の同趣味の人の中には、故人の門下生であった和田英作君なんぞも居るので、そこで二条の地下の水脈が流れ合って、泉になって地表に出たというようなわけである。もっとも在学中の熊雄さんが余りこんな事に奔走してはならないというので、原田豊吉君の未亡人照子さんが心配せられて熊雄が代は私がすると云って、色々尽力せられる。故人の奥さんも小田原十軒町からわざわざ上京して世話を焼かれる。親戚の原田貫平君が原田家の方の代表者に立たれるようになる。そこで或日此催に関係した人々を、原田照子さんが裏猿楽町の邸へ晩餐に招かれることになったのである。その晩餐の席で、とうとう此記念会というものが組織せられた」(鴎外「原田の記念会」)
なお原田の「思い出づるままに」によると、原田が鴎外に相談すると、護国寺に懇意な人がいるからそれに話して絵をともかく引取れといわれたという。そこで寺に出掛けていって交渉すると、「寺ではそんな有名な絵とは知らずに居たから、急に惜しくなり、これは寺の所有物で、お預りではない、ご所望なら一万円也=vといい出したので、原田も始末に困って引きあげた。すると長與善郎なんかが押しかけてきて、
「貴様のようなボンクラが、父に天才的地質学者を持ち、叔父にこのような非凡な芸術家を持ち、分に過ぎた奴だ。叔父さんの絵の展覧会ぐらい森さんと相談してやれ」
と失礼なけしかけかたをしたので、原田はもう一度鴎外に会って話した。
こんな努力が実って、護国寺の騎龍観音も出品されることになり、明治四十二年十一月に上野の東京美術学校で原田直次郎遺作展が催された。鴎外はこの日のために、陳列作品を写真にとってパンフレットを作り、自作の「原田直次郎年譜」と「生前原田と交際した事のある諸君の追懐談とを添えて、来会諸君に分配」するなど、協力を惜しまなかった。当日は西園寺も会場に姿をみせ、原田の労を大いに讃えた。
これも、原田が母親の苦心の甲斐もあってすっかり活動的になり、西園寺、鴎外、黒田清輝といった一流の人々の間の連絡をとりあって仕事をすすめるという、のちに西園寺の秘書として要求される能力をすでに具えていたといえる。
ところで、鴎外が、「在学中の熊雄さんが、余りこんな事に奔走してはならないというので……」というのは解説が必要なようだ。
原田が学習院高等科一年の明治四十一年六月に学習院は四谷から目白に移転し、六棟の寄宿舎が建てられた。中等科、高等科の生徒は原則として寄宿舎で寝食を共にし、乃木希典院長自らも敷地内の「乃木室」と呼ばれる一棟に住んだ。
寄宿舎で楽しきことを数ふれば
撃剣、音読、朝めしの味
という乃木院長の歌(?)が残っている。乃木の厳格な監督のもと生活全般にわたって細かい規則があり、夕方授業が終って四時半から五時半までが唯一の自由時間で、池のある広い庭を散歩したり、息抜きが許された。しかし、休日以外の外出は認められなかったから、原田は展覧会の準備で走り回る時間がなかったのだろう。
それともう一つ、原田の成績は、「そうひどく出来ないという程でもなかったが」(長與)、あまり芳しくなかった。原田の同級生はもはやほとんど故人となったので、高等科二年のときのクラス全員の成績表を掲げておく。
(注)明治四十二年四月から四十三年三月分。他に落第二名、裁定未済一名、休学一名がいる。
成績表にある欧文課には、英語の担当教師に鈴木大拙、ドイツ語に西田幾多郎がそれぞれ四高から移って来ていた。原田も木戸もドイツ語はとらなかったので西田の授業(ヒルティの『幸福論』)には出なかったが、鈴木の講義は聴いたという。
こんな成績だったから、高等科を卒業するときも、原田はいちばん後に並ぶことになった。
「学習院と附属では大分ちがうところがあってね、学習院の奴はすれていて、ずるいんだ。卒業式でも成績順に並ぶんでね、成績の悪いのはもう出て来ないんだよ。それを原田は正直だから出て来たら、いちばんビリッカスになったんだ。そういう点では大変真面目なんだよ、原田は……」
木戸氏の回想である。
原田が高等科三年のとき、原田家に大きな事件が二つ起こった。信子の結婚と、一道の死である。
まず十一月十一日(明治四十三年)に信子が有島生馬と結婚した。有島は二月にイタリア留学から戻り、四月には「白樺」を創刊して同人になるなど目立った活躍を始めていた。七月に白樺社主催により上野竹之台で開かれた有島生馬滞欧作品展は、「華々しいセンセーショナルな出来ごとで」、二度も出かけて行った長與善郎は、「フランス初期印象派画家たちや彫刻家ロダンの紹介者としての有島の功は記念されるべきもので、その紹介者自身の作になる油絵数十点には大いに瞠若と感動させられた一人であった」という。
有島の滞欧作品展には、原田直次郎の遺作三点も原田家から特別出品された。「確か生馬さんが原田家へ直次郎さんの絵のことで訪問したら、きれいなお嬢さんがいたので、それ以来よく遊びに行ったらしいよ」(高木シマ氏談)ということだから、直次郎の遺作が契機になって生馬と信子の交際が始まったということだろう。生馬の妹のシマが嫁いだ高木(喜寛)家と原田家が大磯に別荘を持っており、熊雄と里見※[#「弓+享」、unicode5f34]は十四歳の夏に海水浴場で知り合い、熊公∞英ちゃん≠ニ呼びあう仲だったことも両家の接近を助けたようだ。
信子が結婚して一カ月後に、祖父一道が肺炎で亡くなった。八十歳だった。
もともと原田家は岡山県の鴨方藩(現在の笠岡市)出身で、一道は天保元年(一八三〇年)に医師原田碩斎の長男に生まれた。幼名を駒之進といったが、叔父の経営する寺子屋に通っていた時はあまりに物覚えが悪くて、
「家に帰って肥か|た《(つ)》ぎでもしていたほうがましだ」〈工華会編『兵器技術教育百年史』(47年)149〉
と師匠に怒鳴られたので、「肥かたぎ、肥かたぎ」とからかわれたという。その後、蘭学に興味を持ち、嘉永三年(一八五〇年)にはついに江戸にのぼって蘭学の大家伊東玄朴の門下で蘭学・兵学を学ぶようになった。
一道の勉強熱心にまつわる話は多く、ある日、門下生が連れだって両国へ芝居見物に行った時に、友人達は興行を楽しんだのに、一道だけはひとり両国橋の袂に半日たたずんで本を読みながら皆の出て来るのを待っていたという。あるいは髪を結う暇を惜しんで、顔に落ちてくる髪をこよりでまとめていたため、頭中こよりで埋って奇観を呈した、ともいう。
文久三年(一八六三年)、一道は幕府の遣仏使節団の一員として洋行し、途中からオランダに行って兵学校に入った。大小を帯び威容厳然と登校したので白人が仰天したという信じられないような逸話も残っているが、慶応二年に帰国、明治政府になってからは、兵学校頭取などを経て、十四年陸軍少将、十九年には元老院議員になった。一道が兵学校教授のとき兵学寮に学んだ人々には、桂太郎(のちに陸軍大将、首相)、寺内正毅(元帥、首相)、黒木為驕i陸軍大将)、長谷川好道(元帥)、川村景明(元帥)、乃木希典(陸軍大将)など明治の将星がずらりといる。
晩年は、裏猿楽町の屋敷のすみに「おじいさんの鍛冶屋部屋」と呼ばれる小屋をつくって兵器の試作改良に精を出したりしたが、大半は伊東や国府津の別荘へ出掛けていたという。
貴族院議員だから鉄道の無料パスを持っているのに、「庶民の、それこそ田舎の人、お百姓さんの話が面白い」といって、好んで三等車に乗った。またツギの当った着物を着ているので家人が見かねて呉服屋を呼ぶと、同じツギの当ったものを持って来いといったり、ともかくえらぶったり飾ったりすることが嫌いだったようだ。
熊雄はこの一道に『大学』を習ったが、「別に平常怒鳴るとか威張るとか言うに非ずして、黙してしかもニコニコして居てどことなく恐いのである、後から自分は西園寺公についてから、もの言いの丁寧さがよく似ており、ものの考え方もよく似ているようにつくづく思った」と回想している。
一道がなくなったので、熊雄は二十三歳、学習院高等科三年在学中に男爵を襲継することになった。
明治四十四年七月、原田は京都帝国大学法科大学政治学科に入学した。一道が去り、信子が有島家に嫁ぎ、さらに熊雄が京都に移ると、原田家は照子一人になって淋しくなるが、「この頃学習院の高等科から出た者は、東京の大学が満員だから全部京都大学に行けというような話であったので」、原田も迷わずこのコースを選んだ。同級生の木戸も織田も一緒だった。それに京都大学は、原田の尊敬する西園寺が文部大臣だったときに創立計画をたてて、明治三十年に開校になったところでもある。原田は勇躍、京都に乗り込んでいった。
洛北の銀閣寺に近い北白川に原田は下宿をきめた。現在はすっかり住宅地になってしまったが、原田が二階を借りたこの家は、鶴井牧場と呼ばれるポプラ並木に囲まれた草原の真ん中にあった。二階に六畳間が三つと三畳間が一つあり、このうちの六畳間二つを原田は占領した。京都大学へは吉田山の北を通って十分ほどで行ける。
原田たちが京大に入学する一年前の四十三年八月に西田幾多郎も学習院から京大に移っていた。文科大学助教授で倫理学担当だったから、授業で会うことはなかったが、学習院の卒業生は西田を囲んで勉強会やハイキングに出かけるようになった。西田が『善の研究』を出版したのは、原田が入学する半年前の四十四年一月である。西田の日記から拾ってみる。
大正元年十一月十四日
[#この行1字下げ] ……近衛生来訪。
十一月二十一日
[#この行1字下げ] ……夜、白川村の旧学習院学生の会合に行く。来会者、近衛、木戸、織田、赤松、第三の学生小島、及び上田、原田。
十一月二十三日
[#この行1字下げ] ……午後より旧学習院学生と修学院の離宮を見る。
大正二年三月十六日
[#この行1字下げ] 午前白川の学生と共に上賀茂に行く、久しぶりにてピクニックをなす。同行者、原田、上田、織田、赤松、浅見、天野、近衛、木戸。
大正三年二月一日
[#この行1字下げ] 午後四時頃より織田方に行く。来会者近衛、赤松、平尾、木戸、天野、原田、浅見。食後ベートーベンにつき話す。
「白川村の……」というのは原田の下宿である。また近衛が京大に来たのは原田たちより一年後の大正元年だった。当時の大学は、七月に入学が決まり、九月十日ごろから授業が始まる。学習院中等科から入学試験を受けて一高文科に進んだ近衛はこの年に東大哲学科に入ったのだが、間もなく京大に移りたくなったという。
[#この行1字下げ] 哲学者になろうと思っていた私は、高等学校の三年頃から今度は社会科学に興味を感じはじめ、京都帝大の米田庄太郎氏や河上肇氏の書いたものに親しむようになった。そんなわけで一時東大の哲学科に入り、井上哲次郎氏あたりの講義を聴いて見たが面白くない。そこで米田氏や河上氏のいる京都大学に行きたくなり、十月頃東大をやめた。京都へ行き、入学の期限が過ぎているのに、法科に入れてくれと、学生監に坐りこんでやっと入れて貰った。その頃法科は、織田萬博士などの時代であった……〈矢部貞治『近衛文麿』(27年、弘文堂)上61〉
近衛が信玄袋をかついで京都に降り立ったのは、大正元年十月十三日のようだ(七月に明治天皇が崩御して大正になった)。近衛はそのまま「人力車に乗って白川村の田圃の一軒家、鶴井牧場の邸に原田を訪ねてとび込んだ」。〈海老名菊「近衛公の陰に生きて」(『婦人公論』42年4月号)〉
ちょうどこのとき原田の下宿には、木戸、織田信恒、赤松小寅、板倉勝央、上田操(のちの大審院判事、西田の長女弥生と結婚)が集まっていた。全員、学習院出身者である。彼等は、この日の朝、一カ月前に明治天皇の後を追って自決した乃木大将の追悼会に出席し、午後からは原田の下宿に集まって、学習院院長としての乃木の追悼会をやろうとしていた。半間の床の間に乃木大将の写真が飾られ、果物や菓子も供えられた。
「ヨシ、ちょっとお経をあげてくれないか」
原田にいわれて、鶴井牧場の次男坊の義照がみんなの前に進み出た。府立一中の一年生でまだ十三歳の子供だが、前の年に四国八十八ヶ所を巡礼した時の羽織を着て、数珠とお経の本を持っている。義照の読経が続く間、近衛を加えた七人の大学生は神妙な顔で合掌していた。
それにしても、近衛が京都駅から原田の下宿に直行したというのは意外なことだ。原田と近衛は学習院で二年間だけ一緒だったが、学年が違うから、いくら社交家の原田でもそれほど親しくなったという話は聞かない。木戸も同じだったという。
「近衛なんかは、まあ知ったのは初等科のころだね。学習院でいろいろ行事があると、僕と近衛はいつでも並ぶことになるんだ。僕とは一年違いだから、僕がいちばん尻っぺたにいるわけだろう、背が低いから……、先生は背が高いから一番先頭に立つんで、いつでもふたり並ぶんだ。でも、本当にいろいろと話をしだすようになったのは、京都大学に行ってからだね」
ということだから、近衛は学習院で同級生だった赤松や上田が乃木院長の追悼会を原田の下宿でやっているというので顔を出したものだろう。夕食後、近衛は鶴井義照に案内されて、丸太町通りの旅館「樹之枝」に行き、木戸は土手町の木戸孝允の屋敷に、織田は白川村入口の家に帰った。
近衛は十日ほどして下鴨東林に一戸を構え、義照は二十八日から書生としてここに住み込んで通学するようになった。もちろんこれは原田の配慮によるものである。一年後に近衛は豊後佐伯藩主毛利高範の次女千代子と結婚して、吉田山の宗忠神社の南、与田屋呉服店の別荘に転居する。
「僕らの前の年の学習院の連中はね、京都で評判が悪かったね、みんな道楽してね。というのは、目白では朝から晩まで、ラッパで起こされラッパで寝るという本当の軍隊式の全寮主義でしょう、だから窮屈だったのに、京都へ来ていっぺんに解放されたんだ。家庭からも解放され、なんの規則もなくなっちゃった。それで、羽根を伸ばしちゃった連中が多いんだ。僕らの上なんてのは、もうメチャクチャだったな、カンニングする奴もいるしね、それで見つかって取っ掴まったりね……。それが評判になって、僕らの仲間にはかえってよかったんだろうな、そんな羽目をはずすのもいなかったな」
木戸氏の回想である。
こういうことで、彼らは、「祇園で第三の修業≠烽オたが」(木戸氏)、そんな道楽≠ヘほどほどにして、夕食会やピクニック、ときには西田幾多郎を囲む「哲学研究会」に精を出した。
原田は、近衛が京都に来た直後に鶴井牧揚を出て、白川村に一軒家を借りた。母親の照子が前田とみという料理の上手な三十歳くらいの女中を寄こしてくれたので、学習院仲間は週に一度、原田のこの家に集まって夕食会を楽しむことにした。のちに原田は西園寺の秘書になってから、平河町の自邸に陸海軍や政府、財界の要人を招いて朝食会をひんぱんに開いたが、その原型ともいえる。
この原田の夕食会のメニューは、エビフライ、ビーフカツ、コロッケなどの洋食が主で、出席者は、近衛(のちに夫人も参加)、織田夫妻、木戸、板倉、上田、赤松など十人程度、とてもなごやかな雰囲気で、「毎週、楽しみだった」(木戸氏)という。
近衛の下鴨東林の家にも、東京から家扶が遣わされ、松田すえという飯炊きの女中もいたから、彼らはすえの手料理でちょいちょい会食した。こちらは和食で、近衛は聖護院大根を油揚や牛肉と炊き合わせた料理をとくに好んだ。一高から来た浅見審三、六高の石黒義郎もこの会や原田の夕食会に顔を出すようになった。鶴井義照の日記から抜粋してみる。
[#この行1字下げ]大正元年十一月二十四日(日)晴
[#この行1字下げ] 朝八時より殿さまと木戸さんの所へ集合して高雄行きなり。殿さま、原田さん、織田さん、木戸さん、赤松さん、上田さん、学習院から来られた御方、私と八人で写真を取り、高雄まで行き、御飯を食べて、かわらけをなげ、そして帰りに嵐山の方へ回り、池のそばや嵐山の天龍寺でもうつしました。それから大堰川の渡月橋で休み、電車で四条まで、そして市営で小橋(堀川ヨリ)まで、京電で木屋町二条まで乗って木戸さんのところから自転車で帰れば五時半でした。
[#この行1字下げ]大正元年十二月八日(日)晴
[#この行1字下げ] 今朝は八時に起き、ぶらぶらと英語をして午後四時半より原田さんの所へよばれて行き、我家にも寄り、そして殿さまと一緒に帰れば十二時、ねたれば午前二時。
[#この行1字下げ]大正元年十二月十四日(土)晴曇雨
[#この行1字下げ] 学校より帰れば、原田さん木戸さん織田さんが来られ御馳走でした。十二時にねた。
[#この行1字下げ]大正二年二月三日(月)晴
[#この行1字下げ] 今日帰りに吉田神社へ参りたり。織田さん、木戸さんが来られた。又、西田幾多郎先生が来られた。
[#この行1字下げ]大正二年二月二十日(木)晴
[#この行1字下げ] ……午後白川へお使いに行きたり。夜は原田さんや織田さんや多勢来られた。机にて睡りたるのみ。
西田夫妻のピクニックに同行した「天野」というのは、戦後に吉田内閣の文相をつとめた天野貞祐である。天野は四十五年に京大哲学科を卒業し、このとき研究室に残っていた。西田を囲む「哲学研究会」にも天野は参加していたから、それが縁で、原田の借りた一軒家の二階に下宿するようになった。時折り気が向けば原田たちの夕食会にも顔を出したという。
鶴井義照の記録によると、近衛や原田に毎月親元から送られてくる金は百五十円だった。大学卒の初任給が五十円という時代だったから、相当に余裕があったようだ。
京都市左京区吉田下阿達町に、大原美佐という八十二歳の女性がいる。原田が京大を卒業して東京に戻るときに、「僕の家へ来い」といわれて上京し、大正四年から八年まで裏猿楽町の原田邸に奉公した。原田が京大にいたとき、彼女は十五、六歳だった。
「みなさま、そろってお昼には原田さまの家へ食事においでになりました。白川の街道を、近衛さま、織田さま、赤松さま、石黒さま、浅見さま、原田さま、木戸さまと背の高い順に横に並ばれて、うたを歌いながら歩いておいででした。おとみさんが食事の用意をしてお待ちしてましてね……」
この彼女が、学生時代に近衛が作詞したという三高寮歌の替え歌を、六十数年も胸の奥深く温めつづけていた。少女のころ密かに芽生えた近衛への思慕の情が、今や全く忘れ去られたはずの近衛の詩を甦えらせたということだろうか。求めに応じて、彼女はほのかに頬を紅潮させながら、若々しい声で四番まで一気に歌ってくれた。
一、霧まく朝の林にて
声朗らかな曙の
歌うたいつる若鳥に
混りて乙女 京に出づ
呼びて|販《ひさ》ぐも|生業《なりわい》や
濡れしは花の露にして
二、比叡を望む町筋に
|終日《ひねもす》響く のみの音
力を込めて |槌《つち》ふらば
みかげは砕け火は散りて
形は成りぬ|昔《いにしえ》の
今に用ふる石畳
三、(略)
四、昔ながらのさざなみや
滋賀の山越え稀にして
山の|布衣《ふい》なす板|庇《ひさし》
氷雨淋しくたたくなり
凍りて落つる谷水は
流れも清き白川や
「この詩を近衛さまが作られて、原田さま、木戸さま、織田さま、みなさんで、白川の乗願院の境内を借りまして、披露なさいました」
美佐の話は、よき昔を夢みるようで、近衛や原田の好ましいエピソードが止めどもなく続く……。
ところで、西田を囲む「哲学研究会」だが、木戸によれば、「西田さんの哲学は本当をいうと、わからないんだ、我々にね、あんまり難しくて。まあ、人格には敬慕していたからね、それで、よく宇治へ行ったり、方々一緒に行ったり……」ということで、「あんまり長く続かなかった」ようだ。たしかに、「純粋経験」で始まる西田哲学は、「学生たちも難解で試験に困った」〈上田久『祖父西田幾多郎』(53年、南窓社)166〉というから、学習院の「哲学課」の成績がずっと「乙」だった原田がどの程度理解できたか疑問だが、原田は『善の研究』という哲学書一冊を理解するかどうかよりも、もっと大きなことを学んだようだった。長與善郎はいう。
[#この行1字下げ] 原田は、学問的知能はほとんどゼロだったに拘わらず、これが正しいとか、永久不変の道だとかいうことに関する勘はよく、むしろ近衛などよりもしっかりしていた。そしてその故に畏敬する人――例えば西園寺さんとか、西田先生とかいう人――の世界的視野に立っての高見に対して徹底的に忠実であり、水火の難も辞せぬ健げさがあった。そのため終戦近くには家宅捜索をされたりしたそうであるが、その誠忠の結晶である「原田日記」によって思いがけない記録を遺したことは、ちょっと小利口ではあっても小細工の嘘の尻尾をすぐ見透かされて世の信用を失い、結局失意に終る者の好対照で、愉快に思われる。〈長與『わが心の遍歴』280〉
長與らしい辛辣な文章だが、原田の生き方に大いに敬意を払っているようだ。
少し脇道にそれるが、同じ作家で近衛に近かった山本有三も原田についてこんなことをいう。
「彼は、たんに政治の裏おもてに通じていたとか、勘がいいなんてことだけではありません。本来、正義感の強かった人ですよ。それがなかったら、おそらく『西園寺公と政局』は生まれなかったでしょう」〈山本有三『濁流』(49年、毎日新聞社)49〉
長與や山本のいう『西園寺公と政局』については、小泉信三も、長く慶応大学の塾長をつとめたこともあって、「私の職業は、原田君のよりは、歴史とか文筆とかを重んじてよいはず」と大いに赤面しながら、「昭和の始めから太平洋戦争に至る、日本の悲運なる政局の内面について、一人でこれだけの見聞を持ち、それを記録したものは、他にはない」と脱帽して、いう。
[#この行1字下げ] 原田君は西園寺公の秘書になってから、公によって鍛えられたと思う。権道を避けて、どこまでも立憲政治の正道を踏み、そのためには何物をも怖れぬという気持は、だんだん原田君の内に堅まっていたと思う。私の先輩友人で、原田君を認めていたのは、池田成彬、米内光政両氏であった。両氏はいずれも原田の無私無欲を称し、私も同感であった。〈小泉信三『私の敬愛する人々』(43年、角川書店)150〉
もう一人、小泉の挙げた池田成彬の原田評を聞こう。
「原田は非常な努力家でしてね、ああいうふうに見えて居って非常な勉強をして居った。西園寺さんに心酔して、内閣の更迭、軍縮問題などの時は寝食を忘れて動いていた。一日に何ヶ所も歩いて、西園寺さんの所に報告しに行く。翌日はまたすぐ東京に戻って来るというので、実に勉強したものですね。あれは他の人では出来ません。それに原田は、要領を得たような得ないような所もあるし、山下亀三郎のような所も多分に持って居って、実に顔が広かった。それからあの男は正義ということには非常にやかましい人物でした。決してやましいことには寛容しないのです。それからどこまでも皇室に対する忠誠――そういうことはなかなか見かけによらない点がたくさんあります。内務省、外務省等政府の各機関は勿論、民間の者、実業界の者と原田はいつでも電話一本で話せるという風でした。不思議な人物でした。ただ、口が悪い。衆人満座の中でも平気で悪口を言い放言するものだから、誤解を受けることも多かった」〈池田成彬『故人今人』(24年、世界の日本社)22〉
話を元に戻して――
京都時代の原田は、次第に持ち前の性格を発揮していったようだ。
鶴井牧場では、主人の仁蔵が大工をやっており、また次男の義照が近衛の書生として住み込んでしまったので、人手が足りなくなった。原田の食事の世話も行きとどかなくなり、しかも学習院時代の仲間が押しかけるので原田は転居したのだが、世話好きの原田のことだから、鶴井牧場に出掛けてはなにかと手伝いをしていた。
牧場では毎朝二十本ほどの牛乳を近所に配達しなくてはならない。とくに冬は冷え込む土地柄だけにつらい仕事だが、これは原田が引き受けることにした。
「勉強があるでっしゃろ」
仁蔵は大いに恐縮したが、原田は毎朝一時間ほど、厳寒の白川村の暗闇の中を駆け回っていた。
近衛が京都にやって来た二カ月後に、第二次西園寺内閣が総辞職した。陸軍の要求する二個師団の増設を西園寺が拒否したので、陸軍が陸軍大臣を引っ込めて代りを出さないという、のちに昭和十年代によく使った手で倒されたものである。
大正二年四月、西園寺は山本権兵衛内閣の成立を見とどけてから、京都田中村の清風荘に引っ込んだ。原田が京大二年、近衛が一年のときである。
原田はさっそく西園寺を「時折りお訪ね」した。西園寺は「隠居」のつもりでここに来たから政治の話にはふれないが、なんといっても総辞職した直後の十二月二十一日に、大正天皇から、「朕大統ヲ承ケシヨリ日尚浅シ、卿多年先帝ニ奉事シテ親シク聖旨ヲ受ク、将来匡輔ニ|須《ま》ツモノ多シ、宜ク朕カ意ヲ体シテ|克《よ》ク其力ヲ致シ賛襄スル所アルヘシ」という勅語を受けている元老である。それに、西園寺が総辞職して政友会総裁を辞任する大正二年二月までの間に憲政擁護運動が全国的に盛り上がって桂内閣を総辞職に追い込んだだけに、呑気者ぞろいの近衛や木戸も時勢に関心を持ったようだ。
「自分はまだ親しく西園寺侯にお目にかかったことがない。今度、君の伺う時に誘ってくれないか」〈原田『陶庵公清話』158〉
近衛がいうので原田は西園寺に伝えておいた。近衛の『清談録』から引こう。
[#この行1字下げ] 私はその頃まで政治には何等の関心もなく、むしろ反感さえ持っていた位だったが、この憲政擁護運動を毎日新聞で見て居る間に、多少政治に興味を感じ出した。そして政治家としては、桂さんよりは西園寺さんの方が何となく好きであった。
[#この行1字下げ] しかし、西園寺侯は私の父とは政敵ですらあり、同じ公卿ではあるが近衛家と西園寺家とは、古来極めて縁の薄い間柄であるから、一度も会ったことはなかった。ある日フト西園寺さんと言う人に会って見たくなって、紹介状も持たずに清風荘を訪れたら、幸いに会って呉れた。
[#この行1字下げ] しかし初対面の印象はすこぶる悪かった。大学の金|釦《ぼたん》で行った私を、侯が、閣下閣下と言われるので、こっちもムズかゆい様な気がして、人を馬鹿にしているんじゃないかとすら思えた。それから当分訪問しなかった。
近衛は、十二歳で父篤麿と死別している。父の死後、『清談録』で語るところによれば、生活は「決して豊かではなかった」うえ、「私の心の中には、知らず知らずの間に、社会に対する反抗心が培われていた。中学から高等学校にかけての私は、西欧の奇激な文学を読み耽るひがみの多い憂鬱な青年であった」という。
そんなだったから、このときまだ侯爵だった西園寺は、公爵を継いでいる近衛に敬意を表して「閣下」と呼んだのだろうが、近衛は「へんな爺さんだ」と思ったようだ。
「あなたは物質論者ですか」〈原田『陶庵公清話』159〉
近衛も奇妙な質問をして、清風荘を出ると、白川村の鶴井牧場まで行って義照が引いて来た自転車で家に帰った。
これが近衛と西園寺の最初の出会いだったが、原田によれば西園寺は、「近衛の親父さんは、正直な、いい方だったが、どうも少しわからずやで困る時もあった。思想の点では、却って当主の方がいいかも知れない」と語ったという。
木戸も、「いっぺんお訪ねしたかな、原田に連れられて」というほどであまり印象にないようだが、近衛と西園寺の関係は特別だという。
「ともかくね、西園寺さんと近衛とは、お公卿さん同士だしね、近衛が可愛くてしようがないんだよね、理屈ぬきで。我々から見れば、西園寺さんはお公卿で、こっちは野武士だからね。公卿同士というものは、何となくやっぱり肌合いが合うんだね」
西園寺は近衛の将来に「ひそかに力瘤を入れて」いる様子だった。
カチューシャかわいや わかれのつらさ
せめて淡雪とけぬ間に
神に願いをララかけましょか
松井須磨子が、可憐な少女に扮して歌う「カチューシャの歌」が大正三年三月に全国的に流行した。芸術座が上演するトルストイの「復活」の中で歌われたもので、第一節は島村抱月作詩、中山晋平作曲だった。苦しい現実を乗り越えていけば明るい将来がおとずれるという劇の筋書きとともに、抱月と須磨子が恋愛関係に陥って文芸協会を脱退して芸術座を結成したことなど、二人の恋愛は自己主張を貫くための殉難者のようにも映ったようで、芸術座の公演は大変な人気を集めた。
日清、日露の大戦のため長い間窮乏生活を強いられて来たが、明治の終りとともにその呪縛が解けて精神的自由を求める気運が盛り上がった――大正はこんな雰囲気で明けた。有島武郎、生馬、里見※[#「弓+享」、unicode5f34]の兄弟の白樺派の積極的な人間肯定の主張にもその息吹きが強く感じられた。
「カチューシャの歌」に刺戟されたわけではないだろうが、近衛は三年五月と六月の「新思潮」にオスカー・ワイルドの「社会主義下の人間の魂」の翻訳を掲載して、発売禁止処分を受けた。ワイルドの主張は、私有財産制の害悪を力説して、社会主義によって貧困を克服すれば真の個人主義が輝き得るというものである。真の個人主義が目的で、そのために社会主義と科学が必要という「新個人主義」である。
のちに近衛は、「自分は思想的に色々遍歴した、社会主義にも、国粋主義にも……」〈矢部『近衛文麿』上106〉といったが、近衛はこのようなワイルド流の社会主義に一時期傾倒したということなんだろう。
この少し前、大正二年七月に京大の沢柳学長が、「学問上、人格上、帝大教授に不適格」という理由で七人の教授を退職させる事件が起こった。明らかに文部省の企図するところに従ったもので、法学部には直接関係がなかったが、「教授の任免は宜しく当該分科大学教授会の同意を得ざるべからず」と教授会は主張した。
このとき、原田と木戸も「大学の自治権確立」のために動き回ったらしく、「いや、たいしたことはしなかったが、二人で大磯に樺山さん(資紀、海軍大将。内相、文相を歴任)を訪ねて話を聞いたりした」という。
近衛のワイルド翻訳も、木戸や原田の動きも、いわば時代の風潮だったということなのだろう。
原田が借りた家の二階に天野貞祐が下宿していたことは、さきに紹介した。
「原田は夜早く寝ちゃうんだよ、あいつはね。天野は勤勉家だから遅くまで勉強しているんだ。それで夜中に原田が眼をさましてみたら、まだ二階に灯りがついている。行ってみたらまだ天野が勉強している。貴様まだ勉強しているのか≠ニいって原田が怒ったと……ハッハッハッ」
木戸氏は昔を思い出しながら、愉快そうに笑う。
その原田も木戸もいよいよ京都大学を卒業することになった。木戸は官吏の道を歩もうとする。
「僕は高等文官試験を受けるといったんだ、じゃ、僕もやろうか、なんていってやりかけたらしいんだ、原田も、役人になりたいといってね。それで天野貞祐に相談したんだ、二階にいるね、木戸も受けるから僕も受けるって。そしたら、君は無理だよ、止した方が利口だね、といわれたんだ、エヘヘ。それですっかりあきらめてね、一時、労働運動家の鈴木文治のところへ行って、社会主義の研究なんかしたりしてね、ウン、たしか鈴木文治に会っているよ」
そんなことがあって、原田は大正四年二月に京都大学を卒業した。木戸は農商務省に(大正十四年に農林省と商工省に分離、木戸は商工省に残った)、織田は日銀に行ったが、原田の就職はまだ目途が立っていなかった。
京大を卒業する間際に、西園寺は、「原田さん、どこに行きたいですか」と尋ねてくれた。
「宮内省に出仕したいと思っています」
「今時の若い者が、宮内省を望むとは、おかしなことを聞くものだ……」
西園寺はちょっとびっくりしたようだった。原田は宮内省改革論をブった。
「あんな世の中を知らない連中ばかりでやっていたのでは、結局みずからの存在意義を失わしめることになるんではないでしょうか。あまりに陛下を神格化し過ぎているのもけしからんことです。もっと国民のものにすべきで、そうしてこそいわゆる時代に即した宮内省としての存在の意義を持つことができると思います」
西園寺はうなずくと、「あなたにそういうお考えがお有りなら、宮内省の方を御紹介して、なんとか採って頂くように計らいましょう」と言ってくれた。このとき原田は、日銀総裁の三島弥太郎や叔父の中村雄次郎(当時満鉄総裁、陸軍中将、一道の部下だった時、一道の養女の小糸くにと結婚)に就職を頼んであったので、「折角の御好意ながらお断りした」が、その三島の方の話はいつまでたっても進展しない。
やむなく改めて西園寺に頼むと、宮内省次官の河村金五郎を紹介してくれた。西園寺は元老である。その紹介なら宮内省も無視できないのだが、原田は失敗した。「志望を述べるだけではもの足りず、またもや例の改革論をもち出してしまった」のだ。河村次官は黙って耳を傾け、「なおよく考えて置きましょう」と穏やかな返事をしたが、「気がついてみれば、あなた方のやり方は全然なっていない、と悪態をついて来たも同然」である。
「原田は、京都大学で河上肇あたりの考えにかぶれたのか、だいぶ左傾しているようだから、宮内省には絶対に不向きだ」〈原田『陶庵公清話』161〉
河村次官はやはり原田の採用に反対で、紹介者の西園寺にもその理由を伝えた。
宮内省が駄目になったので、やむを得ず原田は三島と中村に頼んで日銀に入れてもらうことにし、京大を出てから一年半後の大正五年九月に日銀に就職した。この間、母親の照子から三島総裁になんとも強引に圧力がかけられたから、三島総裁も原田自身も、「不向きだが、ともかく仕様がない」とあきらめながらの就職だったという。
「まあ、日本銀行で帳簿をつけると、みんなきれいな字でつけるわね、ところが原田は太くてきたない字でつけるんだよ。それでね、とうとう帳簿を一枚破いちゃったというんだ。これは大変なことだよね、日本銀行始まって以来の空前、しかも絶後のことだという。それにね、どうしても原田のソロバンが合わない、ソロバンが合わないと全員ストップだ、帰ることができない。待っているけどどうしても合わない。それでとうとう女の事務員を呼んでね、やってくれ、と原田は頼んだらしいんだ。そしたらいっぺんでピシャッと合ったんで、ようやくみんな帰れたという話を聞いたね。原田が自分で言っていたからまあ本当なんだろうね。そんなことで彼は銀行員なんてものには全然向かないんだ」
木戸氏の話である。
有島信子もいう。
「母が入れちゃったの、中村雄次郎さんがいたし、三島弥太郎さんもいらしたから、ツテで入れちゃったの。それで、いやで、いやでね、全然自分に合わないでしょう、作業ばかりしていて……」
それでも原田はソロバン塾へかよったりしながら、計算局、国庫局、営業局と勤め、さらに大阪支店に転勤するなど、大正十一年まで五年半ほど日本銀行にいた。
日銀に就職が決まる前、大正四年十二月に原田は、吉川英子と結婚した。
英子の父吉川重吉は、岩国藩主吉川経幹の第三子として安政六年(一八五九年)に生まれた。毛利元就から数えて十三代目である。十二歳で渡米してハーバード大学を卒業、帰国後は外務省勤務を経て貴族院議員などをつとめた。重吉が、明治十九年十一月にベルリン公使館二等書記官として赴任したときには、同じ船で西園寺もベルリン駐箚公使に赴任して三年ほど一緒だったから、吉川重吉と西園寺は親しい間柄である。
英子は八人の子供の長女として明治二十六年七月三十日に生まれた。大正二年、二十歳のとき、英子は長春まで父に送られてシベリア鉄道で英国に留学し、二年間をすごした。これも、「人は一生本を読み、勉強しなければならないから眼を大切にせよ」と常々口にしていた教育熱心な父の薫陶の一つである。
文見ればそのおもかげもしのばれて
なおなつかしき なでし子の花
重吉は最愛の娘を懐しんでこんな歌を書き送っており、英子が帰国するときにはコロンボまで出迎えた。英子の帰国後まもなく、原田との縁談がまとまったが、このいきさつを有島信子は語る。
「英子さんのお母様とうちの母とは跡見女学校にいた頃のお友達なの。そんなことからでしょう、どうかって縁談がきたの。それでお見合いしたんだけれど、やはり家柄が大変な違いでしょう。こちらは岡山の一介の藩士から成った家だし、向こうはなにしろ岩国の吉川家、お殿様のお姫様ですからね。だからお断りするって、兄が行ったんです。するとどういうわけだかその断り方がとてもいいから、是非もらってくれって……。吉川(重吉)さん、その頃病気で弱ってらしたの。で、兄はお気の毒になってね、お断りしにくいから、もういいからもらうって。そんなわけで結婚したけれど新婚旅行に一晩行ってそのあくる日、吉川さんおなくなりになったの。だから武郎兄(有島)が、あの方は実にりっぱな人だから、熊雄さんいいですね、いいお父様でしたね≠チて喜んでいらしたけれど、お父様といってもほんの二日位なものでしたよ」
そんなことで、原田は父親代りに英子の弟妹の面倒をよくみた。次女の春子は木戸の実弟の和田小六に、また五女の幸子は松方勝彦に嫁いだ(のちに獅子文六夫人)が、嫁入りが決まる前には原田が変装して相手の調査をしたとか、いろいろ逸話が残っている。和田小六と吉川春子が結婚したことで、原田は木戸と縁戚になったわけだ。
原田と英子の間には、翌年十一月四日に長女美智子が生まれた。
大正八年、第一次世界大戦の講和会議がパリで開かれ、日本も西園寺を首席全権として派遣することになった。
京大在学中から「ともかくひと回り外国を見てくることだね」と西園寺から勧められていた原田は、この機会に西園寺の随員のひとりとして渡欧しようと決意し、これを長文にしたためて興津の水口屋勝間別荘に滞在中の西園寺に願い出た。日銀在職中のことである。
ところが、大正六年に京大を卒業して内務省嘱託でぶらぶらしていた近衛文麿も、「好機逸すべからず」〈近衛『清談録』(12年、千倉書房)10〉と随員を希望して、原田に相談した。
「考えてみれば、あらゆる点で、近衛公の方が予よりもふさわしい、ここは潔く身を退くべきだ」〈原田『陶庵公清話』162〉
原田は改めて西園寺にその旨を伝え、近衛にこのチャンスを譲った。
西園寺ら全権一行は、大正八年一月に神戸を出発し、六月二十八日に講和条約の調印を済ませて、八月に帰国した。まもなく西園寺はその功によって公爵を授かり、興津に竣工なった坐漁荘に十二月より入荘した。近衛は西園寺一行とは別途、ドイツ、ベルギー、イギリスからアメリカに渡り、十一月に帰国した。
原田が西園寺の随員を願い出て近衛に譲った経緯――これがその後の原田の人生に大きく影響したようだ。後でもふれるが、外国から帰った近衛は、西園寺の側近として政治向きの修業≠続ける。この間に、近衛は西園寺と相談して、原田を宮内省事務嘱託として外国に行く機会を段取りし、さらに帰国後の身の振り方も西園寺と相談して決める。西園寺の秘書に原田を推薦したのも近衛である。
日本にとどまった原田にも、大正八年から十一年にかけて私生活上の変化がいくつか起きた。
大正八年三月七日、原田が幼少より尊敬し日銀入行の際にも尽力してくれた三島弥太郎が、日銀総裁在職のまま病死した。続いて翌九年一月十四日に、当時猛威をふるったスペイン風邪で母親照子を失った。五十一歳の若さだった。
照子は、裏猿楽町の椿に埋もれる家に長く暮した。そこで毎年、照子の命日には彼女の世話を受けた人々が多勢集まって、椿を活けては思い出話をする「椿会」が開かれることになった。
のちに原田が西園寺の秘書になって、近衛泰子を相手に口述をするようになったときのことだが、「速記の最中に、ちょっと待って下さい≠ニいって、本箱の上にご両親の写真を並べてありまして、その前にきちんと正座して、両手をついて丁寧におじぎしておいででした。見ていて胸が熱くなる光景でした」と近衛泰子氏は回想する。
「平河町の家には仏間を別に作ってあって、朝晩線香をあげてたわね。お墓参りにもしょっちゅう行ったりね」
長女美智子の回想だが、そこは忙しくてせっかちな原田のこと、「お経をあげてもらっても、お願いですから今日は短いとこやって下さい≠ニいっていた」ことも多かったという。
原田の日銀入行は、照子と三島、特に母親の強い希望に従っただけで、長く勤める気は全くない。この二人が亡くなったのを機に、大正十一年一月、原田は日銀大阪支店在職中に依願退職した。
「良い機会だから一度欧州へ出かけてみるのも良いでしょう」
西園寺の勧めで原田は大正十一年五月、宮内省嘱託として「欧州に於ける社会事業視察」のため渡欧した。三年前、近衛に譲った外遊のチャンスがようやくめぐってきたわけだ。渡欧費用は宮内省から出たが、裏猿楽町の家屋敷三千坪も四十万円で売却して、一部をその費用に回した。残りは高田商会に預託して留守家族の生活費に当てることにしたが、この金は、のち(大正十四年)に高田商会がつぶれたときにすっかりなくなってしまった。原田は「しようがないや」と淡々としていたという。
さて、主としてロンドンに滞在した原田は、吉田茂、柳田誠二郎(日本銀行ロンドン代理店職員、のちの日銀副総裁、日本航空社長)、徳川家正らと友好を深め、のちに親交を結んだ山本五十六ともロンドンでしばらく一緒だった。また、パリ、ベルリン、ジュネーブなどにも足を運んだようで、ベルリンにいた正金銀行の中村貫之は「原田君はドイツ語を知らなくても結構ドイツ人とつき合っていたね、女性なんか扱うのもうまかった」という。
渡欧中の大正十二年、留守宅は多事多難だった。
六月九日、義兄の有島武郎が自殺したことは加納久朗(横浜正金銀行ロンドン支店勤務)からパリのホテルキャンベルにいる原田に知らされた。
[#この行1字下げ]大正十二年(一九二三年)七月十一日付
[#この行1字下げ](至急電報)
[#この行1字下げ]「原田君、オイ大変ナコトガ起ッタゾ。有島武郎氏一ヶ月前、家出シタガ軽井沢デ一美人(波多野アキ子)ト共ニ縊死シテ居ッタノガ発見サレタソウダ」
続いて六月十四日、ケーベル博士が狭心症のため横浜で亡くなり、有島信子は悲しい知らせを兄に書き送った。
[#この行1字下げ]大正十二年(一九二三年)六月二十九日
[#この行1字下げ] ケーベル先生が亡くなられました。おわるいと伺ってから有島とふたりすぐに伺いました。随分お苦しいのに不相変、看護婦はおきらいにて、久保勉氏が万事お世話なさるし容易なことではございません。よくよくおつくしになりました。私はアイスクリームを買いに行くとか、おねまきを上げるとか、かげで出来ることをいたしました。苦しい中で二度お目にかかり、昔の私、小さい私とおもって両手で手を握って喜ばれました。十四日午前四時御死去になりました。
さらに九月一日の関東大震災では、留守宅の神田駿河台周辺が午後三時ころ火の海になった。家族は、命からがら上野公園に避難して無事だったが、家は焼失したので大森の親戚に身を寄せた。
木戸は帰国後の原田からこんな話を聞いたという。
「ロンドンに入ってきたニュースでは、碓氷峠まで水につかったっていうんだ。これは、もう絶対助かるまい、全滅だなと思ったよ」
震災の報が各国に伝わると、大規模な救援活動が始まり、原田のいたロンドン市でも、日英同盟は一年前に失効したが親日感情が強く、原田が感激するような募金活動が始まった。
[#この行1字下げ] 市長が呼びかけた義損金募集にデイリー・メイル社五万円を筆頭に申込み殺到し、皇后メリー陛下も日本震災救済資金に二千五百円を下賜され、募集は九月七日を以て締切り、総額三十二万円に達した。一代議士の如きは、その歳費を寄付してくる有様で、応募者は各階級を網羅し国民の同情至大なるを思わしめた。尚救世軍総司令官ブース大将も救済金二千万円を募るべく全世界に檄を発し、十月一日、議会のその演説の劈頭に当って日本の震災に言及し深厚なる同情を披瀝した。(「アサヒグラフ」十二年十月特別号)
のちに原田は西園寺の秘書になり、西園寺の持論――「やはり英米と伍して、どこまでも彼等を利用し、場合によっては彼等に利用されつゝも、英米を相手に仕事をして行かなければ、世界の日本として国際的地歩を確実にして行くことは望めない」〈原田2─392〉――に深く共鳴し、右翼勢力から親英米派≠フレッテルを張られてつけ狙われる。張作霖を爆殺した河本大作などは、「ひどく原田を憎んでいて、配下の者が集まるごとに、誰よりも先にあいつを殺せ、なにを愚図々々しとる、さっさと|殺《や》っちまわんか≠ニいう風に、盛んに焚きつけていた」〈里見※[#「弓+享」、unicode5f34]「原田文書に関する記録」(『オール讀物』33年8月号)〉という。
原田が、大変にリベラルな考え方を身につけ、「英米両国につかなかったら、日本は駄目になる」という信念を貫き通したのは、もちろん性格や育った環境もあるが、やはり欧州に滞在して英国人と親交を深めたことや、大震災の際の温かい救援活動を実地に見聞したことが与っているのだろう。さらに言えば、「オレ四分の一だよ」とよく言っていたように、原田にはドイツ人の祖父ベアの血が流れている。この自覚が欧米人と実に気易くつき合いが出来るようにしていたようだ。のちのことだが、背の高いグルー米国大使にぶら下がって歩いて、線香をヒューム・コンクリート≠ニ妙訳して紹介したり、昭和四年に来日したグロスター公(ジョージ五世の三男)と相撲をとったり、そんな原田の逸話は尽きない。
大震災の報を聞いて原田は帰国を急ぎ、大正十二年十二月、一年半ぶりに横浜に帰った。
[#この行1字下げ] 帰国後まもなく東亜同文書院の幹事にならないかと院長大津鄰平氏や大蔵省の青木得三氏から勧められて、支那の文化に関与する点に興味を覚え、ほぼ引受けるつもりで興津に静養中の近衛公を訪ねてその話をすると、平素の温容にうって変えての、激越の口吻で不賛成を唱え、即座に電報と書状とできっぱり断ってしまわれた。あとでやはり興津においでだった西園寺公にその由申しあげたところ、それは、近衛の言うとおり、やめてよかった≠ニ莞爾としておられた。〈原田『陶庵公清話』162〉
十三年二月ころの話だろう。東亜同文書院と同文会は近衛の父篤麿の残した事業である。そのうえ近衛は東亜同文会の副会長で、十五年十月には大津鄰平氏のあとをうけて東亜同文書院院長になっている。それを、「激越の口吻で不賛成を唱え……」というのだから、すでに西園寺との間で原田の将来について相当具体的な話し合いが出来ていたのだろう。
原田が帰国して六カ月後、大正十三年六月九日に憲政会(のちの民政党)総裁の加藤高明に組閣の大命が降下し、同時に、原田に「木戸幸一侯や岡部長景子から加藤高明伯の秘書官に推薦したい」と話があったという。これは『陶庵公清話』の記述だが、木戸は農商務省の、岡部も外務省の一事務官(ただし木戸は貴族院議員)にすぎない。木戸氏も「それは全然覚えがないね」ということで、これは西園寺―近衛の線で筋書きが出来ていて、近衛から原田に話があったということだろう。原田が、改めて近衛を通じて西園寺に相談すると、西園寺はむろん大賛成だった。
「それは、原田のために大層いい修行の機会だから、是非そう願ったらよかろう。また、憲政会の人たちと馴染の薄い自分としても、原田がそういう位置にいてくれることは、|洵《まこと》に好都合だ」〈原田『陶庵公清話』163〉
大正十三年六月十三日、原田は加藤高明総理の秘書官に就任した。
加藤内閣の前の清浦内閣は、枢密院議長だった清浦奎吾が組閣して閣僚もおもに貴族院から選んだ。その前の山本権兵衛内閣、さらに加藤友三郎内閣も、政党とは無関係だったから、原敬―高橋是清の政友会内閣以来、政党は政権から遠ざかっていたわけだ。
しかし、原田が秘書官に就任した加藤高明内閣以来、犬養内閣が五・一五事件で退陣する昭和七年まで、二大政党の党首が交互に台閣を担う政党政治が七代八年間にわたって続く。しかも加藤内閣成立直後に松方正義が死亡したので、西園寺はこの間たった一人の元老として後継内閣首班推奏の役目を引き受けることになった。
政党政治再出発の最初を担うことになった加藤高明を、西園寺はどう見ていたのか。
「今にして思えば、木戸、大久保、伊藤、あるいは加藤高明、やや落ちるが、原敬など、いずれもひとかどの人物だった」〈原田『陶庵公清話』98〉
政党政治が終り、二・二六事件が起きた十一年の秋、西園寺は「内輪で米寿を祝い」ながら、「人材の払底を慨嘆」したことがあった。
西園寺は加藤を明治の元勲に匹敵する人物だと評価しているのだ。
西園寺が、二代目政友会総裁、元老、住友吉左衛門の兄、ということなら、加藤高明は憲政会総裁、元老政治の打破≠主張、三菱の岩崎弥太郎の女婿という、いわば対立関係にある。
第一次西園寺内閣のときも、加藤は外相でありながら鉄道国有化法案に反対して単独辞職している。このとき三菱は、自分の九州鉄道を手放すことによって筑豊炭への発言力を失うことを恐れて断乎国有化反対の態度に出た。そこで加藤は、外相の所管と関係ないことだが三菱につながる一員として辞任することで反対の意思表示をしたものだが、明治天皇が「これは異例ではないか」とたずねると、西園寺は「大臣として立派な態度だと思います」と答えている。
西園寺は、加藤のそんな出処進退をわきまえた行動、さらに英国の政党政治に深い理解をもってこれを模範としようとする態度を高く買っており、昭和二年四月にも京都の清風荘で原田に、「加藤伯は……鉄道国有に反対して閣外に出たが一言も自分の悪口を云った事もなく、又自分も加藤の悪口を言わなかった」〈原田資料昭和2年ノート〉と回想している。
さて、原田を加藤首相の秘書官に送りこんだ近衛は、この時期、西園寺のスポークスマン、情報連絡役などをつとめながら、政治の勉強に精を出していた。
大正十三年春、まだ清浦内閣のときにも西園寺が坐漁荘に滞在したので、近衛も近くの水口屋別荘に行って静養した。原田が東亜同文書院に入ろうとして近衛に相談したときだ。二月二回、三月一回、四月四回と近衛は西園寺を訪ね、三月十二日には国民新聞に、元老の後継首班奏薦方式を支持する意見を公表するなど、近衛と西園寺は緊密な関係にあった。
五月二十日に西園寺が京都の清風荘に移ると、近衛も京都へ行って、毎日のように西園寺を訪ねた。三十日に帰京した際には、西園寺訪問は全く一身上の私事で清浦首相の西園寺訪問(五月二十五日)の用件は何も知らぬと言いながら、「清浦首相が辞職された場合は、政局の現状から考えて、護憲三派に政権が行くのが至当であろう。私は加藤憲政会総裁に大命が降下するものと想像している」と新聞記者に語っている。また、五月二十七日付の西園寺から近衛宛の手紙には、「猶、東京に於て要用なる新聞貴耳に触れ候儀有之時は、御一筆御漏し願上候」〈矢部『近衛文麿』上130〉とあり、西園寺のために情報収集の役目も果たしていたようだ。
加藤高明内閣が成立すると、その翌日に加藤首相は近衛を自邸に招いて会談しており、西園寺との連絡、あるいは近衛が筆頭常務をつとめる貴族院研究会との連絡を近衛に依頼していた。
後に近衛は『清談録』に「国家と人物」という一文を載せて、いう。
[#この行1字下げ] ……国家本位の政治家は誰か、ということをよく訊かれることがあるが、凡そ一流の政治家で国家本位でない人はあるまい。例えば原さんなどは非常に政党本位、殊に政友会本位であったが、根本の考え方はやはり国家第一、政党第二だという確固たる信念を持っていたのだと思う。加藤さんはその点が一層はっきりしている。加藤さんは、政党などは自己の理想と経綸を行うための政治上の道具ぐらいに考えて居られた。更に西園寺公になると、全く国家本位というほかない。……西園寺公は、すべてをアンパイアの立場で公平に見ていられる。だから政治家というより、元老というような地位が一層適するのであろう。平素の行動も淡々として少しも豪傑ぶったりしない、物事に固執しない。
この文は、昭和のはじめに書かれたものと思われるが、間もなく昭和六年頃から近衛は、「非常に強力な、力の政治家」を期待するようになり、西園寺の政治姿勢にも鋭い批判を加える。
さて、加藤内閣は、内相若槻禮次郎、蔵相浜口雄幸、農商相高橋是清、逓相犬養毅、外相幣原喜重郎、陸相宇垣一成など粒よりの人物をそろえて発足した。憲政、政友、革新の護憲三派提携内閣であり、政友会を割って出た政友本党などの野党に対して絶対多数である。行財政整理の一環として陸軍四個師団が廃止され、また普通選挙法、治安維持法など重要法案が次々と成立するなど、政界に通じていない新米秘書官の原田はしばらくの間、随分と苦労したようだ。
加藤内閣は一年後の十四年七月三十日に、政友会から入閣した小川法相、岡崎農相が税制整理案をめぐって反対を唱えて閣議を退席したので、閣内不一致で総辞職したが、西園寺は再び加藤を推し、八月二日に加藤は憲政会単独の第二次内閣を組織した。原田も引続いて秘書官をつとめた。
この第二次加藤内閣は、大正十五年一月二十二日に加藤首相が貴族院の議場で倒れて二十八日に亡くなったので総辞職し、憲政会総裁を引き継いだ若槻禮次郎が全閣僚留任のまま組閣した。
原田はどうするか。若槻内閣は、加藤が不慮の死をとげたので、「加藤内閣の政策を成立せしめ、死せる加藤の志を遂げしめる」〈若槻禮次郎『古風庵回顧録』(25年、読売新聞社)309〉ためにその延長内閣として成立したのだから、原田もそのまま秘書官をつとめればいいのだが、政情は、憲政会、政友会、政友本党の三派鼎立状態で不安定だし、議会も紛糾を重ねている。もし政変があれば、政権は憲政会から野党の政友会に移ることも充分にありうる。原田は秘書官辞任を考え始めた。
「加藤高明伯の没後、井上準之助氏が、東邦電力へ世話しよう、と言ってくださった時にも、早速、公爵に御相談申しあげたところ、これには不賛成でもっと地道な方面で働いた方が、将来のためによろしかろう≠ニ言われ……」
原田は『陶庵公清話』でいっている。「公爵に御相談申しあげた」というのは、三月二十八日に興津に出向いたときのことだろう。この他に、五島慶太(のちの東急電鉄会長)から電鉄に入るように誘われたりして、木戸にも相談したが、結局、「西園寺さんがめんどうを見てくれるといったので、それではそっちにしろということになった」(木戸氏)。
(大正十五年)
五月十一日 午後二時、西園寺公
五月二十九日 九時半、西園寺公
六月三日 依願免内閣総理大臣秘書官
内閣総理大臣秘書官の事務を嘱託す
六月九日 住友湯川氏
六月二十一日 西園寺公、午後三時半
六月三十日 内閣総理大臣秘書官の事務を解く
七月二日 住友合資会社事務取扱を嘱託す
原田が、住友の嘱託として西園寺の秘書をつとめる話は、大正十五年五月に原田が、西園寺を駿河台に二度訪ねたときに決まった。六月九日に住友合資会社総理事の湯川寛吉に会った原田は、こんな挨拶をした。
「西園寺公から、出来るだけ早い機会に貴族院議員になることと、東京に腰を据えて働くことの二点で特に御注意を受けておりますから、どうかそれだけは、お含み置き願います」
西園寺公望は、七清華家のひとつ徳大寺公純の次男に生まれて西園寺家の養子になったが、六男の友純は明治二十五年に住友家に入り、十五代住友吉左衛門友純を名乗った。その頃までの住友家は別子銅山以外にさして見るべき事業もなかったが、友純は、明治二十八年には住友銀行を創設して金融界に進出、三十二年倉庫業、大正十四年信託業務と手を伸し、貿易、機械、電線などにも事業を拡げて、住友を三井、三菱と並ぶ三大財閥の一つに発展させた大功労者である。この年三月二日に亡くなっているが、その実兄でしかも元老の西園寺の言うことに湯川総理事が異論あるはずがない。原田は総理大臣秘書官を辞めて、七月二日付で住友合資の事務嘱託になり、湯川総理事から西園寺の秘書を勤めるように要請された。
「先日、老公から、原田には、社用の暇に自分の用をたしてもらいたいのだがどうか、というお話があった。住友としては、公爵の実弟にあたられる前男爵(友純)の御逝去後、西園寺家に対して何かと不行届がありはしないかと、それのみ気遣っているようなわけで、幼少から公爵の御眷顧に浴し、よく気心も呑み込んでおられる貴下の如き方に、公爵の御用を承わって頂ければ、これに越した幸はない。殊に公爵御自身のお声がかりではあるし、是非そういうことにして頂こう」〈原田『陶庵公清話』165〉
こうして原田は、西園寺が亡くなる昭和十五年十一月まで十四年半にわたって西園寺の「政治向きの御用」をつとめることになった。原田の交際費、車代などは住友が全額負担したし、東京駅近くの住友本社四階には原田のために一室が用意された。
西園寺の秘書になるとともに、原田は永田町の秘書官官舎を出て新坂町に移り、昭和三年三月には平河町五丁目十五番地三に移った。三宅坂から赤坂見附の方に向かって坂をのぼり切った右側、今は北野アームズのビルの建っているあたりである。
「オレが老公の秘書になったのは、近衛の口ききだよ。あなたの親戚にいい男がいます≠ニいって勧めたからだよ」
原田はこんないい方で、すでに日銀を退職したころから西園寺と近衛の間である程度話が出来ていたこの秘書就任の事情を語ったという。近衛が「親戚」というのは、原田の妻英子が吉川重吉・寿賀子の長女で、この寿賀子は伊予大洲藩主の加藤泰秋に嫁した西園寺公望の実妹の|福子《とみこ》との間に生まれたことを指している。
「西園寺さんもね、原田という男は非常にきれいな男だ、実にきれいな男だ、何にも要求しないと……。本当に西園寺の秘書に徹しておったな。普通ならば、西園寺さんを担いでね、相当西園寺さんの名前を利用したと思うんだがね、その点実にきれいなんだ、西園寺さんもほめておられた。それと、原田は、カンがよくてね、政治的なカンは抜群だった。その点は僕もずいぶん政治家とつき合ったが、あんまり知らないね、あれだけ……。それに何にも欲のないきれいな人なんだよ、それだけにだれとつき合っても平気でいたわけなんだね。そこへ行動力があるんだから……実によく電話をしたし……。いつだったかな、電話機をかついで原田が走っている漫画が新聞に載ったんだよね」
木戸氏の原田評である。原田と電話は有名な話で、平河町の家にも、グリーンのラシャを張って声が洩れないようにした電話室の他に、二階の寝室に二本、さらにトイレにまで切換えの電話機がおいてあった(九段三三―三五〇、三五一)。「歌舞伎座に行っても、いつの間にか席を立って、電話室に入り込んでいるのよ」と長女の美智子は回想するが、木戸氏も、「オヤ、原田の声が聞えたな、と思って出てみると、先生、もう電話室に入り込んでさかんにあっちこっち電話しているんだよ」と笑う。
さて、原田が西園寺の秘書をつとめるようになって半年後、大正天皇が葉山御用邸で崩御した。西園寺は半月ほど鎌倉の幣原外相の別邸を借りて泊り込み、原田も付きそった。
十二月二十八日(昭和元年)、西園寺は天皇から勅語を受けた。
[#この行1字下げ] 朕新に大統を承け先朝の遺業を紹述せんとす。卿三朝に歴事し屡機要を司る勲労殊に顕はれ倚重最隆なり。卿其れ先朝に効せし所を以て朕が躬を匡輔し朕が事を弼成せよ。
元老として輔弼せよということである。
翌昭和二年、若槻内閣は新年から苦境に立たされた。一月二十日に政友会と政友本党が朴烈事件と松島遊廓事件を理由に内閣弾劾案を提出したからだ。朝鮮人朴烈の摂政宮(今上天皇)暗殺未遂事件に恩赦を与えたのは、若槻の不敬行為であり、また大阪の松島遊廓の移転にからんだ贈賄事件の責任をとれと追及したものである。政党内閣としては、解散をもって応じ、普通選挙法はじめての総選挙で国民に信を問うのが本筋である。
「私としては、解散して選挙に勝つ望みを持てなかった。私は金の出来ない総裁であった。浜口ならばあゝはやらなかったであろう」〈若槻『古風庵回顧録』322〉
一月二十九日の夜、若槻首相は原田に、「先ず停会をしてみて、その間、もし反省の実を示さなかった場合には解散を敢行するつもりだから、その旨、老公へ申し上げてくれ」と言づけ、さらに大喪中でもあり昭和新政のはじめでもあるから、解散で予算不成立にしたくない≠ニつけ加えた。
「かような国家の重大事に、夜中も何もない。すぐ来てくれ」
西園寺がいうので、原田は夜中の二時すぎに坐漁荘に入った。西園寺は、いつものベランダに、日本酒の銚子と盃、おまけに原田の大好物のウドンまで用意して待っていた。
「さぞ、お寒かったでしょう。まあ、一杯あがってから……」
西園寺は原田をいたわりながら報告を聞いた。ここで政府が断乎解散に踏み切れば憲政会は総選挙で「多数を占めるに違いない。政友会は支離滅裂になって、或は再び立つ能わざるに至るかも知れないが、少くとも質に於ては改善される」と西園寺は見ている。
「そうか、停会したか。それではもうとても解散は出来ない。真に解散の決意があるのなら、即時断行するよりほかないのに……。元来、御大葬と解散と、なんの係りがあるのか。議会の解散が、御大葬に対して、どうして不謹慎にあたるのか。高所から大局を観得る者の極めて少なくなった政治家に責任のあるのは勿論のこととして、やはり、水準の低い国民もその一半の責は負わなければなるまい」〈原田『陶庵公清話』100〜102〉
西園寺は「密かに解散を望んでいた」から、若槻のやり方を残念がった。若槻首相は三日間の停会の間に田中義一政友会総裁、床次竹二郎政友本党総裁と政争休止の取引をして切り抜けたが、所詮一時のがれの茶番劇にすぎない。
一月半後の三月十四日には、衆議院予算総会で片岡蔵相が「今日正午ごろにおいて渡辺銀行がとうとう破綻をいたしました」と失言したことから金融恐慌が始まり、鈴木商店の倒産、台湾銀行の破綻と続き、四月十七日に台湾銀行救済のための緊急勅令が枢密院で否決されたため若槻内閣は総辞職した。
ちょうどこの日、西園寺は近衛と原田を伴って、京都の別荘清風荘へ向かった。列車が名古屋についたとき、政府案が枢府で否決されたと電報が届き、米原に着くと内閣総辞職が伝えられた。
翌朝、河井侍従次長が勅使として清風荘に着き、西園寺は天皇の下問に答えて田中義一政友会総裁を推薦、二十日に田中内閣が成立した。
西園寺は、この時から六月二十日に興津へ戻るまで、ちょうど二カ月の間、京都に滞在した。近衛は数日で東京へ戻ったが、原田もこの間ずっと西園寺と一緒に京都で過ごした。食事はもちろん一緒、時に大津へ遊んだり、散歩に出たり、のんびりした二カ月だったようだ。原田の記録から引こう。
[#この行1字下げ] 四月の半ばから京都に行かれて清風荘に滞在された。最初、自分は、とに角、京都ホテルに一室を借りて、其処から朝晩公爵の処に通うことにして置いた。その由を公爵に話すと、公爵はそんなことはしないで、清風荘は広いし、部屋も充分ゆとりがあるから、是非清風荘に泊ってくれ≠ニいうお話であったから、自分はホテルを断って、清風荘の二階に室を頂いて一緒に居った。……自分が、室でころがりながら本でも読んでいると、何だか静かなもの音がするから見ると、知らないうちに来られて、もう飽きたでしょう≠ニ公爵自身で掛物を変えたり、床の間の置き物を変えたりして下さる。また、必ず自分の室には葉巻の新しい箱が絶やさず置いてあった。食事は必ず朝昼晩、公爵と二人で小さな食堂で頂いたが、殊に晩餐に至っては、食後、葉巻は勿論のこと、とても上等のブランデーを出されて、コーヒーも極めて上手に入ったもので……いつも変らない態度で接して下さった。
西園寺七十七歳、原田三十九歳である。二人は食事の時に、こんな会話を交した。
「ドイツはビスマルクのとき三度戦争をやりましたね」
きっと原田は、「室でころがりながら」ヨーロッパ史でも読んだのだろう。
「ウン、それを真似して、ドイツが大をなしたのは三度の戦いだったから、わが国も日清、日露、それからぜひ米国としなければ大帝国の基礎は出来ないと云う馬鹿が居るよ」〈原田資料昭和2年ノート〉
西園寺は笑って答えていた。
京都滞在中、六月七日の夜、西園寺と原田は随分と風流なひとときを楽しんだ。
[#この行1字下げ] 晩餐後執事が食堂にホタルをかごに二千匹も入れたのを貰ったと云って持って来た。自分も公爵と食堂で恰度食後漫談中であったので、それを見て、一つ庭に放じて御覧になったら≠ニお話したら、それはよかろう≠ニ云うので、二千匹のホタルをかごから出すと、池の方や林や芝の上を飛び回り、実に美しい。思わず見とれて居ると、公爵は急につかぬ事を伺うが貴下は若いから既に常識として御存知かと思うが、螢の光には熱がない、彼の性質の研究は五、六十年前から頻りにされて居たが、その結果は如何なりましたか≠ニ言う問いであった。早速翌日京大の懇意の専門教授を訪ねて聞いて帰り午餐の卓上で報告したら、非常に満足されて、有難う、一つ知識を増しました≠ニ悦んでおられた。〈原田口述資料〉
六月二十日に興津へ戻った西園寺は、七月二十三日に避暑のため御殿場へ行き、九月十六日駿河台本邸、十二月二十一日興津と、季節に応じて移り住んだ。
翌昭和三年は軽い風邪を引いたので七月まで興津にいたが、その間、六月四日に奉天駅の南一キロの地点で満州の軍閥の頭領、張作霖が列車もろとも爆殺される事件が起こった。※[#「くさかんむり+將」、unicode8523]介石の率いる南京の国民政府が四月から北伐を再開して北京に迫り、張作霖は北京を退却して奉天へ帰還するところだった。すでに五月には済南で国民政府軍と日本軍の衝突が起こって、日本から第三師団が出兵、済南を攻撃している。
「どうも怪しいぞ、人には言えぬが、どうも日本の陸軍あたりが元兇じゃあるまいか」〈原田1─3〉
西園寺は、新聞の号外を見ながら心配した。関東軍高級参謀の河本大作大佐が、あたかも国民政府のスパイのしわざのように見せかけて張作霖を爆殺し、これを機に日本軍が南満州一帯を制圧して日本の勢力下に納めてしまおうという陰謀を、西園寺は鋭く見抜いたようだ。
「張横死事件には遺憾ながら帝国軍人関係せるものあるものの如く、目下鋭意調査中なるを以て、若し事実なりせば法に照らして厳然たる処分を行なうべく、詳細は調査終了次第陸相より奏上致します」〈『田中義一伝記』(35年、伝記刊行会)1030〉
田中首相は天皇に上奏し、天皇から「国軍の軍紀は厳格に維持するように」と注意を受けた。
西園寺も、「この事件だけは西園寺の生きている間はあやふやに済まさせないぞ」といって、田中首相に「もし調べた結果事実日本の軍人であるということが判ったら、その瞬間に処罰しろ」〈原田1─4〉と勧告している。
「水町独立守備隊司令官並に河本関東軍参謀以下を軍法会議に付し断罪せしむべし」〈『田中義一伝記』1037〉
田中首相はこの方針だったが、白川陸相をはじめ陸軍は頑強に反対し、事件発生後一年経った昭和四年六月二十七日に参内した田中首相は、「いろ/\取調べましたけれども、日本の陸軍には幸いにして犯人はいないということが判明致しました。しかし、警備上責任者の手落であった事実については、これを行政処分を以て始末致します」と上奏した。河本を退役処分、村岡関東軍司令官を予備役にするだけですませるということである。
「お前の最初に言ったことと違うじゃないか」〈原田1─11〉
天皇は大変な立腹で、田中が退下したあと鈴木貫太郎侍従長に「田中総理の言うことはちっとも判らぬ。再びきくことは自分は厭だ」とまで言った。これを聞いた田中は「涙を流して恐懼し、即座に辞意を決して」、七月二日の朝、田中内閣は総辞職した。
この日の昼近く参内した西園寺は、民政党(昭和二年六月に憲政会と政友本党が合同した)総裁の浜口雄幸を後継首班に推奏し、浜口内閣は手際よくこの日の夜九時に成立した。
昭和五〜七年ごろ原田は十六ミリに凝っていたらしく、一〇〇フィートの映画フィルムが十本ほど残されている。西園寺が坐漁荘の庭を歩き回っているものや、東久邇が乗馬を楽しんでいるものなどめずらしい記録だが、その中に「近衛公夫妻、於永田町」昭和五年三月二十七日現像仕上り、という作品がある。永田町の近衛邸の玄関先で和服姿の近衛がうす笑いしながらぼうっと立っていると、途中から千代子夫人とランドセル姿の次男の通隆が顔を出すというだけだが、眺めていると近衛の性格や、原田との親しさなどが窺える。
「近衛の相談相手として一番親しかったのは、まあ原田と僕だろうね。ウン。他にもうあんまり……それはいろんな機関やなんかを持っているしね、いろんなところに足をかけたり、いろいろしているけれどね、いちばん困ってくるとやっぱり僕のところへ来るね。それで女の問題だと原田のところへ行くんだ、ウフフ」
木戸氏の話である。近衛と原田の面白い関係にちょっとふれておこう。有馬頼寧の『花売爺』にこんな話が紹介されている。
[#この行1字下げ] ある日、何か緊急な用があって原田君が近衛君の寝込みを襲ったことがある。近衛君も奥さんもまだ寝室にいた。遠慮のない原田君はずかずかその寝室に入るなり、奥さん、起きて下さい≠ニいって奥さんを寝室から追い出してしまった。そして近衛君と何か用談をはじめたのだが、近衛君は床の中で起きようともせず、原田君も寒くはあるし馬鹿々々しいと思ったのか、奥さんの寝台の抜け殻に横になり、近衛君と話をつづけた。原田という奴はそういう奴だと近衛君が話していた。
ところが、近衛の秘書官だった牛場友彦氏によれば、原田の遠慮のなさはそんなものではなかったという。
「ある時、近衛さんがお妾さんの山本ヌイと蚊帳の中で寝ていると、原田さんがいきなりやって来て蚊帳の中まで入り込んでこの女だけはよせ≠ニいったというんだ、山本は意地の悪い女だからとね……。ところが、近衛さんは周囲が反対すると意地になってますますそっちへ走って面白がっているところがあったんですよ」
もっとも、原田にいわせれば、「近衛という奴は他人の迷惑などちっとも考えない、我がまま者だ。僕など一番の被害者だ」〈富田健治『敗戦日本の内側』(37年、古今書院)317〉そうだが、これはむしろ、近衛の機密漏洩癖や、よく辞めるといったり、安易に右翼や陸軍に妥協したりの政治的な話であって、原田の遠慮のなさは相当なものだ。西園寺と食事をしても、「これ戴きますよ」と手を伸ばして西園寺を苦笑させたという。
そんなだったから、原田は、近衛が風呂に入っていようと平気だ。近衛は風呂で、「スミレの花咲く頃……」という宝塚少女歌劇の歌(昭和九年に大流行した)なんかをよく歌っていた。すると原田もどんどん風呂の中まで入って行って、二人で合唱していた。
「他に、愛国行進曲とか、波浮の港とか、あなたと呼べば≠ネんて歌を、よく歌っていたわね。一緒に箱根へドライブすると、必ず箱根の山は天下の嶮……≠ニ歌い出すし、頭を雲の上に出し……≠ニいう富士の山≠烽謔ュ歌っていたわね」近衛の長女昭子と同級生で、近衛邸へ「スペイン人と日本人との間に生まれた先生がやっている洋裁を習いによくいった」原田の長女美智子の回想である。二人のつき合いは、陽気で屈託がなく、およそ遠慮など無関係だった。
前出の山本ヌイは新橋の芸者で駒子といったが、駒子の前にやはり新橋の貞龍という芸者と近衛は懇ろになったことがあった。この貞龍は大変な世話やきで、腸の弱い近衛のために、魚の刺身に熱湯をかけて食べさせたり、原田が同席したときには、リンゴをアルコールで消毒して「さ、めしあがれ」と近衛に差し出したので、原田は転げ回って哄笑したという。
「あの深情けは、どうもね」
さすがの近衛も恐れをなして、原田に相談して別れた、というウソのような逸話がある。
近衛は昭和六年一月十六日に貴族院副議長に就任、いよいよ本格的に政治の表面に立つが、この少し前、昭和五年十月二十八日に、木戸が内大臣秘書官長に就任して、近衛、木戸、原田の三人は政治の面でも一緒に行動することになった。
「内大臣秘書官長を引き受けるときはね、前任者が岡部長景君でね、岡部が互選議員で貴族院議員になるというんで辞めたんだ。それで僕にどうだ≠ニ近衛から話があったわけだ、程ヶ谷のゴルフ場で籐の長椅子に並んで休んでいた時だったな。それで僕は一番先に聞いたんだ、一体ゴルフはやれるか≠ニね。そしたら岡部が、いやもう内大臣(牧野伸顕)は鎌倉にいて、一週間に一度ご機嫌奉伺に出るくらいのもんで、別に何の仕事もないんだから、ゴルフは無論できる≠ニ……。それじゃ金曜日も出来るかな≠チていったら、金曜日も出来る≠チていう。そうか、それじゃやろうか≠チていうわけでね、半分ゴルフのためだね。それまで僕は、商工省で臨時産業合理局っていう外局が出来てね、それの第一部長と第二部長を兼ねておった、ウン。それだからもう委員会をたくさんつくって非常に忙しかったんだ。だから閑職につけて、ゴルフは出来るって、こんな魅力はないんだよね、それで早速引き受けたわけだ」
木戸氏はこう説明している。ところが、木戸が秘書官長になって半月後に浜口首相狙撃事件が起き、「この事件をまるできっかけとした様に、昭和十一年の二・二六事件に至る迄、次ぎ次ぎと血なまぐさい事件が起って、文字通り昭和の動乱期の中に捲き込まれ」、そのあと戦争が続く。木戸は、閑職だ∞何の仕事もない≠ヌころか大いに忙しくなるのだが、「ゴルフだけは寸暇を惜しんで精を出したね」と苦笑する。
さて、木戸より一歩先に、原田は、昭和五年に 海軍軍縮問|題《(注1)》が起こってから、忙しくなっていた。毎日のように浜口首相、財部海相、牧野内府、加藤軍令部長などの間を駆け回って、五日か六日に一度、西園寺に報告に行く。京都にも夜行で往復するほどで、二年前にホタルを眺めたりして二カ月を過ごした優雅な生活など夢のようになってしまった。
永田町の秘書官官邸時代から昭和十三年頃まで原田家につとめた小関文枝が、その頃の原田の生活を伝える。
「当時としては珍らしく庶民的な気さくな方で、私達にも遅くなれば心付けを下さったり、気を使っていらしたですね。
朝六時に起きて、ブザーで呼ばれました。果物から採った塩を水で溶いてコップに一杯、ミルクの沢山入ったコーヒーを一杯飲んで、寝床で電話をかけ始めるのが、毎朝のきまりでした。両手に受話機を持ちましてね……。それから八時頃、住友の車が迎えに来てお出かけになるか、あるいは朝食会でした。夕方一旦帰ってらして、お風呂に入って和服に着がえて、また人に会うためお出かけになりました」……
「家で一緒に食事したことはほとんどなかったわね、お正月ぐらいじゃなかったかしら」
長女美智子は語っている。
ところで、ちょっと脱線するが、さきほどゴルフの話が木戸から出たついでに言えば、木戸がゴルフを始めたのは大正十三年だったという。道具も東京では売っていないのでわざわざ大阪から三本のセットを買い、ロストボールを集めたのを手に入れてコツコツ練習を始めた。
「そうしている内に、あれだよ、ワンセット、原田君が持っていた、それをやろう≠ニいうんで僕は貰ったんだよ、原田からね。原田はイギリスに行ってたからね、それで買って来たらしいんだな。買ってきたっていうけど、グリップなんかずいぶん傷がついて破れていたからね、相当やったもんだろう」
「原田のゴルフはそそっかしいゴルフだったな、よく荒れていたよ、エヘヘ……」
「原田はセッカチなんだよ、終ってね、それでシャワーを浴びてお茶でも飲もうと思って見たら、いないんだよ、原田は。それでフロントへ行って原田君どうしている、どこへ行ったかね≠ニ聞くと、いやもう、サーッとお帰りになりました≠チてね、エヘヘヘ、もうすぐ次のことを考えているんだな、……こっちにサヨナラもいわずに、シャワーも浴びずに帰っちゃうから」
「近衛はね、それこそあの風貌そっくりのおっとりしたゴルフだよ。練習が好きで練習ばかりやっているんだよ。だけど背は高いもんだから飛ぶ。でも呑気に振っているからね、だからハンディも一つ上だったよ、僕は。細川(護立)と近衛が十二のとき僕は十一だったからね。原田はハンディはなかったろう。会員でもないし、レギュラーでもないからね」
木戸のゴルフ評に、近衛と原田の性格の一端がうかがえるようである。
[#改ページ]
第二章 敢然とファッショの風潮に立ち向かって
――浜口遭難と宇垣の野望――
昭和五年十一月十九日、原田は坐漁荘に西園寺を訪ねた。西園寺の秘書として原田が仕えるようになって、すでに四年半になる。
原田は、五日ごとに西園寺のもとへ出向いて、各界、ことに政界の動きを詳細に報告することにしている。今日もその定期報告のはずなのだが、浜口首相が東京駅で暴漢に撃たれてから五日しか経っていないこともあって、原田の表情はいつになく緊張していた。なにか思いつめたような表情もうかがわれる。
西園寺は、いつものように書斎のベランダの籐椅子に腰かけて、目の前に広がる清見潟を眺めながら、原田を待っていた。
「ごくろうさんどす、原田さん。どうどすか、その後の模様は……」
八十一歳になる西園寺は、京都弁でものやわらかに話しかける。
「浜口首相をやった犯人は、国本社に関係のある者ですが、背後調査は一向に進展しておりません。国本社を主宰する平沼(騏一郎)枢密院副議長方面の力が裁判所の調査を妨害しているようです」
西園寺は平沼≠ニ聞いて、一瞬きびしい表情をみせた。原田は続ける。
「一体、わが国の裁判所は、左傾に対しては徹底的に調査を進めるけれども、右傾に対しては故意に多少庇う傾向が見えます。やはりこれは、政党嫌いの平沼らの勢力が強いからで、彼らは、政党政治の積年の弊害が青年をしてかくの如き犯行に出でしめたのだ≠ニいって、この事件を利用して国民に政党政治を呪わせるように仕向けているんではないかとも思えます。今度の犯人だって、徹底的に調べれば必ず背後に何者がいたか判るのですが、国本社の会員である裁判官や司法省の役人が、それを妨害しているようです」
平沼嫌いの西園寺は、いかにも同感だというように何度か肯きながら、原田が熱心に弁じたてるのを聞いていた。
原田は、ちょっと西園寺の様子を窺ってから、思い切って言葉を継いだ。
「公爵、いかがでしょうか。浜口首相は、あるいは議会に出席するのは不可能ではないかと思われます。もし浜口首相が議会に出席できなくなったら、宇垣陸軍大臣を首相代理にする、あるいは思い切って一時、民政党総裁に据えたらどうでしょう」
「………」
「いま宇垣陸相がなにかの不平で辞任すると、軍部は喜んで迎えて宇垣を中心にひとつに纏まるでしょうし、愚かな世間は、右傾の宣伝に乗せられて、これを非常な力に思うでしょう。そうすれば、かねて中間内閣をねらっていた連中は、天皇親裁論をふりかざして、政党政治打破の機運を作ることが、懸念されます。それよりは、宇垣大将を首相にして、軍制の改革もやらせ、枢密院の改革のために平沼副議長も辞めさせるというのは、頗るいい考えではないでしょうか。公爵が話されれば、宇垣大将はきっと思い切ってやるでしょう」
いつになく原田の口調に熱が籠っている。木戸によれば、西園寺は「狎れることを許されなかった」〈重光葵『巣鴨日記』(28年、文藝春秋新社)373〉という。秘書の原田がここまで立ち入って話すのは、差し出がましいことでもある。
しかし、今日の西園寺は、原田の真剣な顔を見て、肯くと、静かに口を開いた。
「まあ、民政党の中にも、結局それがいいのじゃないかと思っている連中もいるだろう。尤もなことだ、一理ある議論だ。満鉄総裁の仙石貢民政党顧問はどう考えているのかな。ともかく、一度、牧野(伸顕)内大臣に今の話をしてみるといい。内大臣は陸軍大演習に陛下のお供をしているが、明後日には帰ってくるはずだ」
原田は、その日のうちに東京に戻った。まず、議会開会までということで首相代理に任命された幣原外相に会い、江木翼鉄道大臣、小原直司法次官、仙石満鉄総裁、牧野内大臣などの間を駆け回った原田は、五日後の十一月二十四日に、再び興津に西園寺を訪ねた。
西園寺は、原田が「仙石総裁はともかく幣原首相代理で行こうといってました」と報告するのを一通り聞いたあとで、「今日午前中に竹越(与三郎貴族院議員)が来ました」と話しはじめた。
「竹越は妙なことを言っていた。はじめは、宇垣大将を民政党総裁にする工作を、富田(幸次郎)民政党幹事長らと一緒に進めるからご承知おき下さい、といっていたのだが、そのうちに、民政・政友両党協力の中間内閣をつくって宇垣大将を擁立する運動も考えていると口走った。……
それに、二十一日には、小笠原長生(元海軍中将)がやって来た。小笠原の用事は、来年一月に、蜂須賀貴族院副議長が任期満了になるが、その後を近衛(文麿)に継がせず、松平頼寿にやらせて欲しい、近衛はどうせ議長になるのだから、今更副議長までやらなくても、ということだった。ところが、帰りぎわに小笠原は、公爵は宇垣大将の手足をしばって居られるんですか≠ニいいました。いや、そんなことはない、と答えておいたが、小笠原は東郷元帥と極めて親しく、ロンドン海軍軍縮条約のとき末次(信正)軍令部次長と通じて反対運動の先頭に立った人です。末次は平沼と通じている……。どうも、小笠原や竹越の話を考えると、この前に原田さんが心配していたように、宇垣大将をめぐって、平沼だのなんだのがいろいろ動きだしたようです」〈原田別106〜108〉
西園寺は、遠く駿河湾のかなたに目を向けながら、しばらく黙った。見事な秋晴れの空が広がっている。
「原田さん、いいですか……」
西園寺は口調を強めて続けた。
「宇垣大将が民政党総裁になって、敢然とファッショの風潮に立ち向かって、浜口首相の弔い合戦をやるというのなら、よくわかります。ところが、竹越や富田が画策している中間内閣の構想に色気を示している。しかし、もし浜口首相が再起できないようなことになっても、政権は決して民政党以外には渡せませんよ。原敬が殺されたときには同じ政友会の高橋(是清)に継がせたし、加藤(高明)首相が急死したときも同じ憲政会の若槻禮次郎に継がせた。首相が殺されたからといって、すぐ反対党に政権を渡したら、暗殺は尽きなくなる……」
西園寺は、この五月に宇垣が病気治療のため陸相を辞任したいと言い出したことを思い浮べていた。結局は自分が宇垣に頼んで、辞任を思い止まらせたのだが、このとき西園寺はこう言って原田から宇垣に伝えた。
「実は貴君をおとめしたほどにかくの如く立ち入って人にお願いしたことは、未だ嘗てないことである。この西園寺のおとめした心事については……(いずれ)ゆっくりお話を致しましょう」〈『宇垣一成日記』(43年、みすず書房)761〉
宇垣はこれを聞いて、政権を確約されたと錯覚したのだろうか――。
西園寺は、キッと顔をあげた。
「宇垣は、どうも政治と他のものとをごっちゃにして考える|癖《へき》があるが、政治は眼前のことを裁いていくのが大事です。いま重要なのは、政党政治を守るために、いかに筋道を立てていくかということです。浜口のあとを誰にするかなんてことは、その次です……。
よろしい、原田さん、東京に戻ったら、西園寺は、幣原を将来首相にするらしい、という噂をさりげなく流して、宇垣の耳に入るようにひそかに工作して下さい」
まもなく、原田が流した話は、宇垣の耳に達した。約束がちがうじゃないか――驚愕した宇垣は浜口内閣に背を向けるが、西園寺は追い打ちをかけるかのように、原田に命じて民政党幹部に一工作する。
十二月五日の夜、民政党長老の若槻禮次郎顧問、山本達雄顧問、仙石満鉄総裁は、幣原首相代理と一緒に狸穴の満鉄総裁公館で会談し、「議会中(六年三月までの予定)といえどもこのまま幣原首相代理にて押す」方針を確認し、さらに、「浜口首相万一の場合には、(後任総裁は)若槻、山本の中より出られたし」〈木戸上50〉と話し合った。この日に四人が集まったのは、浜口が仙石に託した辞表の取扱いを相談するためだったが、幣原首相代理で議会を押し切ろうと確認する根回しは、原田がやってあった。
翌日、山本顧問は興津に向かい、夕方の六時四十分から九時十五分という西園寺としては異例の時間に面会して、会談の結果を報告した。
西園寺は満足そうに耳を傾け、「このことは、牧野内大臣にだけは伝えておきます」と頷いたが、山本が「安達内務大臣にはどう致しましょうか」と相談すると、「放っておきましょう」といって、注意を促した。
「それより、宇垣を離さないように、閣内に留めておくことが大事です。宇垣はいつ陸軍大臣に戻ることになっていますか」
山本が、十日の予定になっている、と答えると、西園寺は、もう一度繰り返した。
「くれぐれも宇垣の扱いはうまくやるように……」
宇垣陸相は、西園寺の心中を訝りながらも、興津を訪れようとしなかった。
もし、訪問しても、西園寺は、「宇垣さん、陸軍大臣として政府の動静について充分尽力してください。西園寺は大いに期待しております」と繰り返すにきまっている。
それに、年末には原田がやって来て、ぬけぬけとこんなことを言って帰った。
「実に流言蜚語がさかんで、閣下もご迷惑でしょうけれど、ご承知のように、西園寺公が世間で言われているようなことを言うべき筈もありませんし、いわんや、一介の秘書にすぎない私が、西園寺公はこう言ったとか、こう思っているなんてことを言って歩いたのでは、職責を全うできませんから、むろんなにも言いません。いろいろと閣下の耳に入っているかも知れませんが、それは私の関知しないことですから、どうかご諒解おき願います」
西園寺は、民政党が浜口の後継でもめていることには、なにも関知しない、つまり、宇垣を含めて特定の人を推すこともないと、言外に伝えたことになる。
昭和六年元旦。
宇垣は、大きな野望をいだいて、新年を迎えた。
大正十三年に清浦内閣の陸軍大臣に就任して以来、田中義一内閣の二年を除いて、四つの内閣で通算五年近く彼はこの地位にある。昨年――昭和五年の正月も、「御国の将来が余の出廬を必要とするならば、万事を犠牲とし捧ぐるも辞せざる」決意に燃えて迎えたが、ひどい中耳炎に悩まされて、国府津に籠もりがちだった。止むなく次官の阿部信行中将を半年ほど陸相代理に据えたが、統帥権問題で政界があれほど混乱したのに、陸軍は宇垣がぴたりと押えて余分な波風をたてさせなかった。その手腕は、元老や宮中筋から大いに評価され、とりわけ元老西園寺公望は、「天下の後事を托するは宇垣等にあり」〈宇垣日記626〉と承知しているはずだった。
[#この行1字下げ] 世相は益々余の蹶起奮闘を要求するの局面を展開し、世望は余の無為静黙にも拘わらず、愈々出廬邁往を促すの度を高めつつあり。〈宇垣日記783〉
あれほど苦しめられた中耳炎も、十一月にようやく完治し、十二月には自分が陸相に返り咲いた。時あたかも浜口首相は倒れて入院中であり、世論は次第に浜口内閣に背を向けはじめている。すべての条件が自分に有利である。今年こそは政権獲得のチャンスだ――宇垣は決心を固めたようだった。
それに、全く偶然だったのだが、昨年十一月、宇垣が四カ月ぶりに耳の治療のため国府津から上京して東京駅に着いた時、一時間前にプラットホームで撃たれた浜口首相は、まだ駅長室で応急手当を受けているところだった。
「ドーセこの様な事のあるのは覚悟していたよ」〈宇垣日記779〉
浜口は宇垣にちょっと笑いながら呟いたが、誰の目にも再起は危ぶまれた。
この日を境に、宇垣の気持は急速に浜口内閣から離れていく。
まず浜口内閣の基本方針である緊縮財政を宇垣はこきおろし始める。井上蔵相が「非募債主義に捉われて、当然為すを有利とする仕事さえも犠牲として葬り去り、絶体絶命の借金は失業公債とか地方債に名を借りて頭隠して尻隠さずの遣り方をして居る」のは、「実に見るに忍びぬ」、「|須《すべか》らく男子らしく堂々と率直に仕事すべきである」〈宇垣日記783〉――
不況に喘ぐ世間に目をつぶって、いつまでも金解禁に固執するのは、井上蔵相個人の面子のためだけではないか、と宇垣は攻撃する。
そもそも宇垣は、井上蔵相に悪感情は持っていなかった。宇垣が気ままに書き綴った日記を丁寧に見ても、井上を酷評するのは、この時――昭和五年十二月だけである。井上は、昭和七年に暗殺されるが、その後は天下に人なし≠フ宇垣が、井上を「外的財界に信用ありし人」〈宇垣日記832〉と賞めはじめる。井上の緊縮財政についても、「事業の整理には相当効果的にして」〈宇垣日記1006〉(昭和十年)、「今日色々と外来の圧迫などありても着々と健実なる歩を以て我産業界の伸び行き得るのは、浜口、井上氏等の消極政策による苦悶の結果として、各種方面に節約改善が加えられたる余沢与りて力多し」〈宇垣日記1074〉(十一年)と、大いに評価するようになる。
宇垣が、一時的にせよ、井上を「醜悪」だと罵り始めた理由は、浜口のあとの政権担当に野心を懐いたからだった。
宇垣は、井上財政だけでなく、幣原の外交――軟弱≠フ非難が強い満蒙対策についても、強硬な意見を吐きはじめる。
大正十一年のワシントン会議で、日本は列国から満州の優先権や山東省の権益を放棄するように強いられた。以来、満州各地の反日運動は激化の一途を辿っており、とくに、父・張作霖を日本軍に爆殺された張学良は、自分の五色旗を青天白日旗に変える|易幟《えきし》≠行なって※[#「くさかんむり+將」、unicode8523]介石の南京政府に忠誠を誓い、昭和三年十二月に東北辺防総司令に任命されて以来、旅大(旅順大連)、満鉄の回収≠スローガンに、次々と反日政策を強行している。
また、満鉄に平行する打通、吉海の二鉄道がこのころ相次いで開通し、北満の大豆はこのルートで流れ始めた。中国側の東北交通委員会の管轄する十鉄道の総延長は三千五百キロに達したのに対し、満鉄の総延長は一千百キロと三分一以下にすぎず、満鉄の打撃は大きい。さらに、国民政府によって日清通商条約(明治二十九年成立)も破棄され、昭和五年五月にまとまった関税協定では中国側に関税自主権をみとめざるを得なかった。それと同時に、日本製の商品にたいする不当課税、不買運動、商標侵害も、公然とおこなわれるようになり、領事裁判権の回収、日本警察権の回収、さらには関東軍撤退と、反日要求はエスカレートする一方だ。
「このままでは、満州からの日本の総撤退の日も遠からずではないか」――明治以来、営々と続けてきた対満投資十五億円を捨てることになるのか――日本側の危機感も日一日と強まっている。
宇垣は、そもそも満州は日本が領有すべきだ、と考えていた。彼は、浜口遭難後の十二月に、集中的に満蒙問題を論じはじめる。
[#この行1字下げ] 満蒙に於ける経済的繁栄と政治的静謐は日本帝国実力のお蔭であることは何れの国民も認知せざるを得ざるべし。……|徒《いたずら》に日本の勢力を満蒙より駆逐せんとするが如きは……帝国自己の為にも東洋平和の為にも認容し難き所である。〈宇垣日記782〉
しかし、陸軍大臣の宇垣が、公式の場で井上財政を否認したり、幣原外交を批判すれば、浜口内閣は、閣内不一致で辞職に追い込まれる。
そこまで宇垣が踏み切れず、日記に不満を書くだけにとどまったのは、外見とはちがった繊細な性格もあるが、政治的な計算としてもあり得ないためだった。
もし宇垣が先頭に立って浜口内閣を潰した場合に、後継首班の大命が彼に降下することはあり得ない。
浜口のあと、政権を握るには、かつて田中義一大将が政友会入りをして政友会総裁として大命を拝受したように、宇垣が民政党に入党して浜口総裁の後を継ぐのが、正道である。あるいは、一部で言われているように挙国一致内閣の首班に宇垣が指名されるかであるが、政党政治を葬り去るこの道はよほどの非常事態でない限り可能性が薄い。
ところが、いちばん可能性のあるはずの民政党総裁の道は、すでに西園寺によって宇垣には閉されている。十二月に宇垣が日記で、井上に八ツ当りし、満蒙問題で強硬論を吐いたのには、この背景があった。
失望といらだちに駆られた宇垣は、昭和六年を迎えるとともに、挙国一致内閣の夢を追い、さらには非常手段による政権獲得を謀る三月事件≠ノも関与するようになる。
元旦の朝、恒例どおり宇垣は参内し、正殿で天皇に拝賀を済ませ、各宮家を回って家に戻ると、日記に憤懣をぶちまけた。
[#この行1字下げ] 国民一般に緊張を欠いている。殊に上層階級に於て然るを感ずる。……昭和の維新は上層階級を緊張せしめ彼等を厳粛に真面目ならしむることが第一着手であり……〈宇垣日記784〉
昭和の維新、上層階級を緊張せしめる――陸軍大臣の言葉としてはなんとも不穏当であるし、非常手段を考えているとも受けとられる。
こんな心境の宇垣のところへ、一月七日の夕方、西原亀三が訪ねてきた。寺内内閣が西原を使って中国の北方軍閥の段祺瑞に多額の借款を供与したとき、宇垣は田中義一参謀次長のもとで第一部長を勤めていたから、お互いによく知っている。西原はこのところ、民政党の富田幹事長と連絡をとって、宇垣に政権を担当させようと動き回っていた。
「いま、富田幹事長に会ってきました」
新年の挨拶を済ますと、西原はさっそく切りだした。
「民政党の内はなかなか複雑なようです。いまのところは幣原外相を首相代理に立てて二十二日に再開される議会に臨むが、幣原外相自身、長く務めるつもりはないし、とうていその手腕もないと、富田はいっている。そのあとは、若槻を再び総裁に担ぎ出そうという意見が強いが、山本達雄顧問をという声もあり、これには仙石満鉄総裁が反対している。中野正剛らは、安達内務大臣を強く推しているが、江木鉄相は反対している。宇垣閣下を推す声は、民政党内ではあまり目立たないようです……」
西原の話は、宇垣が掴んでいる情報とよく合致している――宇垣は憮然として先を促した。
「それで富田幹事長は、宇垣閣下が民政党総裁に推されることは難しい情勢だが、民政党内部も混乱しているから、ここは政友会の一部にも働きかけて、宇垣閣下を首班とする連立内閣を実現してはどうか、自分からも党内の安達派や山本達雄などに働きかけてみる、といっています」
そうはいっても、政友会への工作をどうするか――。ちょうど都合よく、政友会の森恪幹事長が宇垣に会いたいと申し入れてきている。
「森幹事長に会って、その段取りをしましょう」
西原はこういって帰っていった。森と会って話そう――宇垣は政権獲得に向かって一歩踏み出した。
[#この行1字下げ] 今や政党も官僚も元老も、大衆の信用を失し、権威を墜して居る。中心権威者の実力は消失しつつある。……匡救の大任それ余を煩わすに至る如く感ぜられる。〈高橋正衛『昭和の軍閥』(44年、中公新書)118〉
宇垣は決意を日記に認め、西園寺にも既成政党にも背を向けた。宇垣が西園寺にこんな態度をとったのは、この時がはじめてだった。
[#この行1字下げ] 一月九日 宇垣大将は政界に乗り出し内閣を組織すべき決心を固めたり
[#この行1字下げ] 一月十三日 宇垣大将は杉山次官、小磯軍務局長、建川部長、山脇(作戦)課長(但し当日は代理鈴木貞一中佐)、橋本中佐、根本中佐と共に国内改造の為め方法手段を協議す(確実なる情報)
[#この行1字下げ] 昭和六年一月初旬、参謀次長二宮中将は橋本中佐に対して左の要旨のことを示す、曰く
[#2字下げ]愈々宇垣大将が乗り出すにつき変革の為に必要なる計画を作製して出すべきこと。
「所謂十月事件ニ関スル手記」〈『現代史資料』(みすず書房)4巻650〉はこういう。筆者は当時、兵本付調査班にいた田中清大尉だが、現存の手記は皇道派の軍人が勝手に手を加えたこともあって信憑性に問題があるとされている。
しかし、田中清氏が戦後に注釈を加えたものなどを検討する限り、陸軍省と参謀本部の中枢にあった宇垣の部下は、宇垣が「政界に乗り出し内閣を組織すべき決心を固めた」と確信して、穏かならぬ工作に取りかかったことだけは確かなようだ。
一月二十一日、浜口首相は二カ月ぶりに退院し、翌二十二日に第五十九議会が再開された。しかし、浜口の退院は議会対策のためで、議会に出席できるほど回復していなかったから、官邸にこもったままだった。
議会は、政友会が「政府の弱点を衝き一挙倒閣へ進む」〈朝日新聞1月3日付〉方針に出たので、波乱含みで始まった。
二月三日の夜、予算総会で政友会の中島知久平が、ロンドン条約について幣原に質問した。
「先日、安保海相は本委員会において、ロンドン条約をもってしては我が作戦計画の遂行上、兵力量が不足である、と答弁した。首相並に首相代理はこの責任を如何にするか」
浜口内閣は、海軍軍令部の反対を押し切ってロンドン条約の批准を仰いだから、この質問は痛いところを突いていた。しかし、予算総会はこの日で打ち切って明日から分科会に移る予定になっていたこともあって、場内はだらけて、居眠りをしている委員が多い。幣原首相代理は無造作に答えた。
「現にこの条約はご批准になっております。ご批准になっているということを以て、このロンドン条約が国防を危うくするものでないということは明らかであります」
幣原が答えると同時に、和服姿で傍聴していた森政友会幹事長が、右手で幣原を指さして絶叫した。
「幣原! 取り消せ! 取り消せ!」〈山浦貫一『森恪』(18年、高山書院)678〉
続いて政友会の委員は幣原めがけて殺到し、「天皇に責任を帰し奉るとは何事か」、「総辞職せよ」とわめき、遂にこの日の総会は十一時すぎに流会になった。
森は、「|袞龍《こんりよう》の袖を楯としてその責任を回避するの暴言をなすに至った」のは極めて重大であると声明を発表し、一気に倒閣に持っていこうと動き出した。七年度予算の審議期限である二月十一日まで議事の進行を阻止し、予算を不成立に終らせれば、浜口内閣は倒れる。
四日、五日と議会は大乱闘を繰り返して議事を再開できず、六日には院外団が乱入して流血騒ぎを引き起こした。
[#この行1字下げ] 帝国の前途の為を思えば坐して機運の到来を待つべきでなく、進んで匡救実現の機会を造らねばならぬ。
一月二十七日の宇垣日記である。
たまたまこの日に、旅順では、関東軍参謀として満蒙武力占領の陰謀を練っていた石原莞爾中佐が、奉天特務機関員の花谷正少佐と会談していた。
[#この行1字下げ] 花谷少佐来 東京ノ事情ヲキク 大川一派ト提携|固《もと》ヨリ可ナルモ尤モ慎重ナル研究ヲ要ス〈角田順編『石原莞爾資料 国防論策』(46年、原書房)11〉
二人は、国内クーデターの相談をしたのだ。もし、柳条溝で鉄道爆破事件を起こし、これを口実に満蒙を占領しようとしても、関東軍をバックアップする国内体制が整わなければ、昭和三年の張作霖爆殺と同じ結果に終る。花谷はいう。
「今度は二度と同じ誤ちを冒してはならない。事件が起こったら電光石火軍隊を出動させて一夜で奉天を占領し、列国の干渉が入らないうちに迅速に予定地域を占領せねばならない。……時には中央の命令を事実上無視しても強行する必要があるし、関東軍の行動を支援するため、中央部の中堅将校を同志に引き入れて内部から助力してもらい、また橋本一派のクーデターが同時にあればますます好都合である」〈花谷正「満州事変はこうして計画された」―『別冊知性 秘められた昭和史』(31年、河出書房)所収〉
花谷のいうこの方針に沿って、河本大作(予備役)が国内工作を受け持った。河本は、五年十一月末に上京し、大川周明(満鉄の附属機関・東亜経済調査局理事長)に会って、議会政治を打倒して革新政治を断行する計画を話し合った。花谷も相前後して上京したので、この件を報告したのだが、「国内改造を先とするよりも満蒙問題の解決を先とするを有利とす」と考えた石原は、大川周明の暴走に不安感を持ち、提携に賛成しなかった。
一方、大川はこのとき参謀本部ロシア班長の橋本欣五郎中佐と組んで、満州事変に先行して「議会を混乱に導いて戒厳令をしいて、宇垣に大命降下を奏請する」国内クーデターを企てていた……。
橋本中佐は、幣原失言を耳にして、「心底にむらむらと議会撲滅の信念」〈橋本欣五郎「昭和歴史の源泉」―中野雅夫『満州事変と十月事件』(48年、講談社)所収―243〉が沸きあがるのを感じたという。橋本は前年夏に、「国家改造を以て終局の目的とし之がため要すれば武力を行使するも辞さず」という目的で、陸大出身中央部将校を中心に「桜会」を組織しており、クーデターの機会をうかがっていた。
クーデター計画は、橋本が幣原失言にむらむら≠ニして、
[#この行1字下げ] 当時の勢力者たりし陸相宇垣をして、斯如き醜悪劣等なる議会に席を共にすることは不快とする処なりとの理由の下に隠退せしめ、以て政状を混沌状態に陥れ、これと同時に東京を攪乱し、遂に宇垣の出馬にあらざれば天下を収拾し得ざるに至らしめ、以て宇垣に大命の降下に及び、之によりて宇垣を人となし、且この人により国家改造を断行せしむ。〈同243〉
という案を立てたことで、にわかに具体化しはじめた。三月事件である。
橋本は、この案をもって参謀本部の二宮治重次長、建川美次第二部長、陸軍省の杉山元次官、小磯国昭軍務局長に会って決起を促し、小磯と二宮の提案で二月十一日に大川周明が宇垣陸相の肚を探ることにした。
東京は十日の午後から、大正十四年以来の大雪になった。十一日の新聞は、天皇がスキーをはいて吹上御苑内のスロープや木立の間を二時間ほど滑走した、と報じた。
この夜、大川は降りつもった雪をわけて、宇垣を訪ねた。両者は、「昭和三、四年頃から時々会ったことがある」仲で、宇垣は大川を、「国士的な風格に明晰な識見を持つ人と思っていた」という。このときの両者の会談内容について、のちに宇垣は原田に、「自分はすべてを拒絶して別れた」〈原田2─123〉と弁明しているが、戦後になって『近衛文麿』伝を編纂した元東大教授の矢部貞治には、全く別のことを証言している。
[#この行1字下げ] 幣原の舌禍事件があって、議会と政党の堕落は輿論の認める所であった。その二月大川に会った時、彼が政党の堕落を悲憤慷慨していたので、私も同感であったから、何とかしなければならぬ≠ニ言い合った。〈矢部『近衛文麿』上189〉
当時の宇垣の心境を考えれば、こちらが真実に近いだろう。
大川は宇垣に尋ねた。
「閣下は国家のため一身を擲げ出す覚悟があるか」
「不肖宇垣、国家のためとあらば、何時にても生命を投げ出す覚悟はしている」
「若し東京市が暴動化したならば、陸軍は出動して暴動を鎮圧するや」
「軍隊の出動は大命による。大命あらば何時でも出動するであろう」〈田中隆吉談――緑川史郎『日本軍閥暗闘史』(32年、三一書房)74所収〉
これを聞いた大川は、宇垣に決起の意思があり、今度のクーデター計画に賛同したと信じ込んだ。
大川と親しい鈴木貞一中佐が、宇垣との会見の模様を尋ねると、大川はニヤリと笑って答えた。
「宇垣さんは日本農民党というものを作るといっておられた。それで自分(大川)は、日本の国全部の国民党ならよいけれど、農民党なんてのは日本を分裂させるものだから、陸軍大臣がそういうことを考えるのは非常によくない、と宇垣さんに話した」(鈴木氏談)
鈴木のこの話を裏付けるように、宇垣は戦後にこんな話をしている。
「当時既に純然たる農民の味方をしておった代議士は十数名おりました。そういう人には時々官邸に来て貰って農民の状態を聴いたり、農は国の大本であると同時に軍の中心だ、これが弱くなって来たら国軍は非常に価値が下ってくるから≠ニ、そういう話をしたりして接触しておった。……そういう人を集めて農民党をつくれと言う人がありましたけれども……(そこ)までには立ち進んでおりませんでした」〈宇垣日記1794〉
宇垣と大川は、相当打ち明けた話をしたようだ。
「宇垣閣下は同意せられた」
大川は、杉山次官、小磯軍務局長、二宮次長、建川第二部長に報告し、「それでは、手はじめに帝都の警察力を試そう」と小磯が提案したので、議会闖入の予行演習をすることになった。
二月十八日、大川の司会で大会を開いた社会民衆党などの三派無産政党は、終ると国会へ向けてデモ行進し、一部の代表が通用門を乗り越えて議会に侵入、幣原首相代理に面会して決議文を読みあげた。
「警察の実力の頗る恃むに足らざるを実験」した大川と橋本は、三月二十日頃に予定している本番の準備をはじめた。――全国から剣客一〇〇名を集めて抜刀隊を編成して警官隊を斬りくずし、労働者一万人を動員して議会を襲撃し、同時に市内各所に擬砲弾を投げて混乱をさそう――資金は徳川義親侯爵がすでに二十万円出していた。
西園寺は、このところ宇垣の動静に注意を向けていた。
五日毎に原田が興津に来て、政府や議会の動きを詳しく報告していく。原田は、一月十七日に男爵議員として貴族院議員に補欠当選したので、議会の様子にも詳しくなった。
二月一日、原田は宇垣の動きを心配そうに報告した。
「公爵のご指示どおり、二十九日の夜、住友別邸に宇垣陸相を呼んで、児玉謙次正金銀行頭取や池田成彬、吉田茂駐伊大使、木戸などと夕食会を開きました。宇垣陸相も大いにはずんで話に興じていましたが、早く辞めて病気療養につとめたいといってみたり、本心はつかめません。それに、このところ宇垣を担ぐ連中は、政友・民政両既成政党を合同させて、そのうえに宇垣を立てようとしきりに画策しているという話をよく耳にします」
やはりなにかあるのか――西園寺は首をひねった。
「牧野内大臣に、一度、宇垣といろいろ話してみるように伝えて下さい。いま宇垣が閣外に出るとは思えないが……」
東京に戻った原田は、幣原失言の騒ぎに巻き込まれた。
幸いこの問題は、政友会総裁の犬養毅が「議会の神聖を冒すような乱闘沙汰の続演を心中苦々しきこと」と考えて、息子の健を通じて原田に「失言問題は幣原首相代理が取消せばよいと思う」と伝え、原田が政府に取り次いだことから、妥協が成立した。
しかし、十二日に幣原首相代理が釈明文を読みあげると、政友会は、
「首相はただちに議会に出席せよ、登院不可能ならば、総辞職して善後処置をせよ」
と強硬に申し入れた。与党の民政党内でも、中野正剛らから、首相が登院不可能ならば総辞職すべきであるという声があがった。
やむなく幣原首相代理は、予算案が貴族院に回付された二月十九日に、
「(浜口首相は)今後意外の変化のない限りは、三月上旬中には出席致すことができるだろう」
と発表した。三月上旬の浜口登院――それまでは各派ともひとまず模様眺めということである。
二月二十六日の午後、小磯軍務局長は陸相官邸に宇垣を訪ねて、「大川が更に一度面会したいと申し込んできました」と伝えた。
「何か具体案でも献策しようというのではないでしょうか、何なら一度其の言わんとするところを書いて出させてみましょうか」
「そうだ、それがよい。会う会わんはそれからにしよう」〈小磯国昭『葛山鴻爪』(43年、丸の内出版)504〉
大臣室を出た小磯は、官邸の「第二応接」で待っていた杉山次官、二宮次長と一緒に、「例の議会の混乱と大川の問題」を検討しはじめた。やがて建川第二部長も加わったが、どうも宇垣の肚がもうひとつはっきりしない。
もう一度、二宮次長が代表して、宇垣の肚を探ることになったが、間もなく二宮は浮かぬ顔で戻ってきた。
「大臣も政局を心配している。そして若し今後とも宇垣が政治的に動かねばならぬようなことでもあるとしたならば、諸君の協力を希望する≠ニいっている……」
どうも雲を掴むような話だ――一同は首をひねったが、小磯が、「議会が混乱を続けていない限り乗ずる機会もない訳だから」〈同505〉、改めて議会を混乱させる必要がある、軍務局の鈴木貞一中佐が政友会の森幹事長と懇意なようだから、鈴木から森に工作させよう、と提案したので、一同賛成して四時すぎに散会した。
この夜、小磯は自宅に帰ると大川を呼んで、実行計画案を提出するように指示した。
大川が承知して帰ったあと、夜の九時半ごろ、呼び出しをかけてあった鈴木中佐がやって来た。鈴木氏は語る。
「小磯はまだ起きておって、森恪に会って議会を混乱に陥れてくれ≠ニいう。陸軍大臣が中心になって、議会を混乱させて軍の力でもって政権を立てるんだ≠ニ、こういう話だった。
これはとてつもない話じゃないか。僕は森恪とは非常に親しい、だから、議会を混乱させないようにということなら頼める。しかし、議会を混乱させてくれという話はだめだ、そんなことはうまくいくものじゃない、そういうことはできない≠ニ僕はすぐ反対したんだ。
そしたらね、小磯という人は、なんというか非常に人間が単純というかね、僕がね非常なけんまくで言ったものだから、それじゃもうやめた≠ニ、ね。それじゃ、そのことを陸軍次官に話してくれ≠ニ、こういうわけなんだね」
しかし、小磯はまだあきらめなかった。そればかりか陸軍内部で小磯や大川の動きを牽制する動きが出てきたのを見て、余分な妨害工作を排除する態度に出た。彼は、「大川との交渉を自己一手に引受けんことを建川に要求」して、建川がこれに同意したので、クーデター計画は、「爾後、小磯、大川両人の事業」〈前掲橋本手記245〉になった。
三月はじめ、小磯は大川からクーデター計画案を受け取った。半紙二枚に毛筆で実行要領を各項目二、三行ずつ書いた簡単なものだった。
「凡そ是程無責任な|杜撰《ずさん》極まるものはない」と思った小磯は、その場で大川にいろいろと質問して補足し、「其の夜、藁半紙約四十頁程の鉛筆書きで、大川博士建策聴取書なるものを作製」した。しかし、これも、「各事項の企画目的や相互の関連尚不明瞭な所が少くなく、自然首尾一貫性が足らず……此の儘陸相に提出するのは、子供の使いに堕するような憾が深い」〈小磯『葛山鴻爪』509〉――こう考えた小磯は翌朝、永田鉄山軍事課長を呼んで、大川博士建策聴取書を手渡して検討を命じた。
「こういうことをやった場合に、軍としてどういう措置をとったらよいか……例えば自分が中心となってやるとした場合に、どうしたならばよいか、君ひとつ考察してくれないか」
「それはいけません、およそ非合法な方法で政権を握ろうなどとは以てのほかです。たとえ一時成功しても、すぐ壊れます、軍が壊れます……」
永田は頑強に反対した。
「先ごろから何か変な噂が立っておりますので一度局長に伺ってみようかと思っていましたが、どうも局長もご関係のような話も聞くし、まさかと思って黙っていたのです。もし事実ならお止めなさい」
永田もきびしい。小磯は、「しまった、最初から永田によく旨を含めておくのだったと気がついたので、全部ありていに話した」うえで、なおも強引に頼んだ。
「具体案を作ってみてくれ、それによって研究し、駄目ならよすさ」〈高宮太平『順逆の昭和史』(53年、原書房)78〉
具体案がよければ、やるのか! 永田は呆れ果てたが、上司があまりに強引に言うので、「それでは小説でも書くつもりで書いてみましょう」としぶしぶ引き受け、二、三日後に、「陸相拝謁要領(宇垣内閣招徠の為の)」、「内閣更迭(正常の方法による宇垣内閣成立の場合)」、「合法的時局転回方策」〈菅原裕『相沢中佐事件の真相』(経済往来社)62〉の三編からなるクーデター計画書≠小磯に提出した。
「いい案だ、これで研究してみよう」
小磯は喜んで飛び付いたが、永田は冷やかだった。自分の作成した案を、「ここはこういう欠陥がある、ここにこういう支障がある」と指摘し、「そこを補う方法はない」〈高宮『順逆の昭和史』78〉と言い捨てると部屋に戻ったが、小磯は大事そうに計画書を|抽出《ひきだし》の中にしまい込んだ。
宇垣はこの頃、なにを考えていたのか。
政局は、浜口首相が議会に出席できるかどうかにかかっている。もし出られなければ政変だ。一方、陸軍の部下は大川と組んで自分を担ぎ出す工作をしきりに進めている……。
宇垣の義弟の笠原幸雄氏(陸軍中将)は語る。
「宇垣が主になって糸を引いたということは有り得ない。しかし、その事件の計画を耳にした時にだね、これはあわよくばという感じが出たかも知れない。だから、あまりすげなく扱わないというような、まあいわば不即不離の態度に出るようなことは、これはあり得る」
また、事件の関係者でもある鈴木貞一氏は、宇垣を含めた軍人の名誉欲、権勢欲を指摘する。
「大川は、非常に思想的にものを研究しておった人で、日本の改革をやらなくてはいかんという考えを持っておった。
それで大川としては、陸軍の力を使おうということになって、たまたま橋本も日本の改革をやらにゃいかんと考えているのを知って、接近していってね、それで出来たんだと思う。手段、方法としては、議会を混乱に導いて戒厳令をしいて、宇垣に大命降下を奏請する、とこういう仕組みだった。ところが宇垣は、性格からいっても自分でイニシアティブを取ってそういうことをやろうという考えはない、杉山さんもそういう考えはない、小磯もそうだ。みんな各々の立場で具合がよければ乗ってやろうという立場だから……。
当時の軍には、まず自分の軍の中における立身出世、そしてそれをだんだん大きくしていって社会的にもという、野心的に動く人間が多かった」
もうひとり、木戸幸一氏は、宇垣をこっぴどくこきおろす。
「あの人の動きというのは、どうもわからん。三月事件にしてもねえ、成功すれば乗ってやろう、担がれてやろうという野心が充分に見えるんだ。その点、先生は非常に野心家だ。で、いけなければ、俺は知らなかったと逃げちゃうという、非常に陰険なところがある人だよ。なかなかあの当時の陸軍の将官としては立派な人だったから、西園寺さんも、宇垣は大事にしておけといわれたんだよ。それで原田と二人で、住友の会館あたりに呼んだりして、食事も一緒にしたこともあるしね、いろいろやっているんだ、こっちは。ところが、どうも、ヒョコヒョコ、ヒョコヒョコ出回りゃがって仕様がないんだ、ハハハ」
木戸は宇垣を嫌いだったようだ。
ところで、三月上旬には議会に出席すると約束した浜口首相の容態は、二月二十二日ころから急に悪化しはじめた。
浜口が登院できなければ――
[#この行1字下げ] 十日頃の登院を界に或は政局に変動|ある《ママ》を保し難く、最近、宇垣氏後任説急に擡頭しつつありと云う。頗る面倒なる情勢となりつつあり。〈木戸上64〉
三月五日の夜、平河町の原田の家に、近衛と木戸が集まって、時局を検討した結果、こんな結論になった。
翌六日の夜、原田は宇垣を新橋の料亭山口に招いた。これも西園寺の指図だった。
この席で原田は、前夜井上三郎大佐の仲介で参謀本部の課長連中と歓談したことなどを話して、宇垣の反応を探った。一方、宇垣は、西園寺が政局をどう見ているか、しきりに原田から聞き出そうとしたが、原田が答えないと、「早く陸相を退いて病気静養に専念したい」と繰り返していた。
翌々八日の日曜日、宇垣は西原亀三邸へ出向いて、森恪と会談した。
浜口首相は明日参内して、十日の登院を伏奏する予定になっている。小磯―大川のクーデター計画に宇垣は本当に乗る気なのかどうか――森は懸命に探りを入れたが、宇垣は満蒙問題に話題を転じて、肚の内を見せなかった。
森と宇垣が会ったこの日の夜、近衛と木戸はまた原田邸に集まった。原田の縁戚で慈恵医大教授の高木喜寛貴族院議員も加わって、浜口の主治医の真鍋嘉一郎から聞いた話を伝えた。
「首相の病状は、出血した所に瘢痕が出来て固くなり、腎臓の一部又は輸尿管が圧迫されて腎臓水腫を起して居る。今でも毎日痛む。大声で喋っても痛む。今出すことは殺すようなものだ」〈原田別112〉
真鍋はこういって、非常に憤慨していたという。
しかし、ライオン首相の異名を持ち、いわゆる土佐っぽのいごっそう≠フ浜口は、九日の午後、おぼつかない足取りで参内して、十日から登院する旨を伏奏し、十日には予定どおり登院した。
顔面蒼白、髪もひげも真っ白になり、頬はげっそりとこけてしまい、痛々しい限りだったが、衆院本会議場は、「ワァー」という叫び声と嵐のような拍手で浜口を暖かく迎え、犬養政友会総裁も、「謹んでご慰労を申し上げます」と慰問演説をした。新聞も世論も挙って浜口に同情的だったし、天皇も「早く治って良かったと殊の外のお慶び」〈朝日新聞3月10日付〉、と伝えられた。
この様子を見て、宇垣はすべてをあきらめた。こんなときに議会乱入を企てて、万が一浜口が再び「男子の本懐だ」と叫んで倒れでもしたら、それこそ全国民の怨みを買う。宇垣の政治生命も社会的立場も抹殺されてしまう。それに、小磯らが企てているクーデター計画は、およそお粗末の一言につきる。「東京を混乱させ、議会に乱入する」役割はすべて大川に押しつけている。大川をそそのかして暴動を起こさせ、次いで宇垣を決意させ、そのあとから陸軍がついて行くという恰好だ……。
宇垣は小磯を呼びつけて、預っていた大川博士建策聴取書≠突き返した。
「こんな馬鹿げた考えが採用されるものか、大川が六日によこした手紙をみると、まだなにか続けているようだが、直ちに従来の計画を放棄するように大川に伝えろ」〈小磯『葛山鴻爪』511〉
宇垣のこの一言で、三月事件のクーデター計画は消し飛んだ。挙国一致内閣の名の下に、宇垣は自ら政権担当を夢み、二宮は陸相の地位をねらい、小磯は功を独占しようとしたが、すべての野望は、「倒れて後やむの覚悟」で議会に出た浜口首相の気迫の前に、もろくも潰え去ってしまった。
この日、西園寺は興津を訪れた木戸と対談した。木戸は、浜口の容態が悪化していることや、宇垣擁立運動が盛んなことなどを報告したが、西園寺は平然としていた。
「後任の問題等は、予め定め置くも中々その通り実現は出来ず。その時に臨み考うるの外なし。只、目下の財政経済状態に鑑み、今日、井上蔵相の実行せる方針をにわかに変更するは不可なりと思う」
ともかく浜口の様子を見守ろう、もし浜口が辞めざるを得なくなったら、後任には、井上財政を理解している若槻禮次郎を民政党総裁に据えて政権を担当させよう――西園寺の肚はすでに決まっていた。
浜口内閣は、四月十三日(昭和六年)に総辞職した。
三月十日に登院して以来、浜口は通算十日間、「体力ではなく気力で登院」〈浜口雄幸絶筆「随感録――病院生活百五十日」―朝日新聞6年8月29日所収―〉を続けた。
「実に痛々しく、見るに忍びない」
「斯くて迄も尚総理たらざるべからざる四囲の状勢、党人の心理こそは再考三思を要すべきところにはあらざるか」
議会を傍聴した木戸は憤慨したが、ロンドン海軍軍縮条約で浮いた余裕財源による減税案を含む昭和六年度予算を成立させて議会を終了させたところで、浜口の力は尽きた。
時局はもはや、病床の首相では乗り切れないことは明白だった。四月十三日、鈴木貫太郎侍従長が後継首班に関する天皇の下問を奉じて興津を訪れると、西園寺は、中間内閣案を否定して、「財政経済に関し御安心ある人」として、若槻を奉答した。
「中間内閣に就ては、今日所謂政党内閣の成立せる時代に於て、みだりに之を成立せしむるは却って政界を混乱に陥るるの|虞《おそれ》あり。中間内閣の首班たるべき適当なる人物もなしと思う故、之は採らず。又、政友会内閣説もありたれども……暗殺を奨励するが如き結果ともなり、由々敷ことなりと思う」〈木戸72〉
若槻内閣は、陸相、商相、拓相を入れ替えただけで、「浜口内閣の政策を踏襲し、浜口の志を遂げしめる」〈若槻『古風庵回顧録』375〉方針のもとに出発した。井上蔵相、幣原外相は留任したから、浜口内閣の延長にすぎず、新鮮味に乏しいと受け取られたのもやむを得ない。
陸相を降りた宇垣は、四月二十七日に七カ月振りで西園寺を訪ねた。
宇垣は前回、「閑地を得れば外遊を試み、殊に邦家将来のため米国を研究して見たく……」と西園寺に話している。今回は、病後静養のためと後進に道を開くために陸相を辞任したと説明し、八月の定期異動では現役を退いて国のためにお役に立つことを考えたい、と抱負を述べた。
宇垣ほど自発的に西園寺を訪問し、しかも素直に話をする陸軍大臣は、他にいない。西園寺は宇垣をしきりと励ました。
「現状を以てしては、お国の前途宜しき方に向い居るとは思われぬ。しかしながら、ただ心配するのみにて、老躯且微力にして如何ともすることは出来ぬ、切にあなた方のご努力により此傾向が匡救され改善さるることを祈りて止まぬ」〈宇垣日記791〉
西園寺の話には、どこか宇垣に気を持たせるようなところがある。
結局、宇垣は六月十七日になって朝鮮総督に親任され、同日付で現役を退いて予備役になった。政民両党をはじめ貴族院も「至極妥当な交代」と好意的だったが、新聞は、「敬遠の意味も含む」〈朝日新聞6月18日夕刊〉と解説した。
たしかに、宇垣は、「総裁をねらう安達内相や江木鉄相等に煙たがれて祭りあげられてしまった」恰好だった。朝鮮総督の任期は長く、前任者の斎藤総督はすでに在任十一年にもなる。「骨を韓山に埋むるの覚悟を以て、少くとも数年間は動かざるの覚悟と夫れの出来得る見込を以て臨まざる限りは、朝鮮の現状を救治することは困難である」と宇垣も認める。
あるいは政権担当のチャンスが消えるかも知れないが、それでも宇垣は朝鮮行きを望んだ。
一つには、軍制改革について陸軍と政府の間に宇垣が立たされて調整役をつとめることを回避したかったのだろう。若槻首相は、思い切った軍制改革による経費削減を唱えているが、陸軍は真っ向から反対している。この責任を追及されるのは堪らん――これが宇垣の朝鮮行きを希望する理由の一つだった。
さらに、このころ三月事件の噂が陸軍部内に広がり始めたことも、宇垣を一時朝鮮に避難する気持にさせていた。
南陸相は、就任後まもなく、軍事参議官白川義則大将の訪問を受けた。
「君は三月事件の真相を知っているか」
「何も知らない。三月事件とは一体何ですか」
「政治的に重大問題となる恐れがある。真相は君自身でよく調べ給え」〈御手洗辰雄編『南次郎』(32年、伝記刊行会)208〉
白川大将はこう言い捨てて引きあげたが、南がさっそく宇垣に訊ねると、宇垣は「そんなものは知らぬ、自分にも関係ない」と空とぼけた返事をしただけだった。しかし、大川が第六師団長の荒木貞夫中将などに事件の顛末を打ち明けたこともあって、噂は広がる一方であり、宇垣は早く陸軍から離れることを考えていた。
五月三日、西園寺は、二年振りに興津から上京して駿河台の本邸に入った。宇垣が朝鮮総督に就任する見通しのついた六月十七日の朝には、キャデラックに乗って原田邸を訪れ、ここで近衛文麿も落ち合って、三人で向島から浅草へドライブを楽しんだ。この時、駿河台の邸の玄関先で原田の手を借りながら車を降りる西園寺の写真が残っているが、その表情は明るく、とても八十二歳の老人とは思えない。
[#この行2字下げ]昭和6年6月17日 駿河台西園寺邸前で 西園寺公望と原田熊雄
西園寺は、七月四日にも永田町の近衛の家を訪問し、木戸と原田も交えて昼食を共にするなど、久し振りの東京の生活を楽しんだ。
「マルクスのフランス語の本を何冊か取り寄せてくれ」〈原田別119〉
西園寺は、大いに気の若いところを見せて原田に指示していたが、間もなく相次ぐ事件に揺さぶられ、この明るい表情は二度と見られなくなる――
このころ、原田は、軍部の「容易ならざる事実」を、相次いで耳にしていた。
関東軍参謀石原莞爾中佐は、五月三十一日の朝、旅順の板垣大佐宅へ行って、「謀略に関する打合せ」を行なった。奉天特務機関員の花谷正少佐と張学良軍事顧問補佐官の今田新太郎大尉も同席した。
「軍司令官は満鉄の保護の為には兵力を使用することを得」
「軍主動の解決の為には満鉄攻撃の謀略は軍部以外の者にて行うべきもの也」〈石原『国防論策』21〉
中国人の手により満鉄が爆破されたように装い、それを口実に関東軍が満州各地に出兵する――満州事変の基本構想が固まった。
石原中佐は、引き続いて具体的計画を練り、六月八日には「奉天謀略に主力を尽すこと」〈同22〉を決め、十九日には「奉天附近にて衝突の場合軍の行動」を起草する。それと同時に、陸軍中央と連絡して「国内輿論を喚起沸騰せしむる」〈同81〉工作のため、花谷少佐を東京へ派遣した。
上京した花谷は、参謀本部の橋本欣五郎ロシア班長と根本博支那班長に会って、まず、この三月に石原中佐が起草した「満蒙問題処理案」のなかにある或種の謀略≠ノついて相談を始めた。
「第三 東北四省内部に謀略を行い、利用すべき機会を作成する案
1 蒙古独立、間島独立、北満騒擾
2 排日大暴動」〈同81〉
満州浪人をかき集めて「満人」に変装させ、武器を持たせて日本領事館、関東軍守備隊、日本人居留民会、大和ホテル、鴨緑江鉄橋などを襲撃させ、これを口実に関東軍が出動して満蒙各地を制圧する――この工作のために五万円ほどの費用がいる、と花谷は説明した。
橋本と根本は、「此案遂行を徹底的に援助する」と即座に返答し、資金も責任をもって工面すると確約した。しかし、花谷が「国内の輿論工作をどうするか」と問い返すと、橋本はあっさり答えた。
「国内でもクーデターを起こすさ、できればクーデターの方を先にやりたい」〈花谷手記43〉
三人は話し合って、「それでは十月頃国内と満州と同時にやろう」ということにして、花谷は東京を去った。
――花谷が、浪人を使って東北四省で謀略を行なうと話したことは、信じられないほどの早さで原田の耳に達した。
「既に陸軍の強大な組織隊が漸次活動に移ろうとしている……」
原田の報告を聞いて、西園寺も「少なからず憂慮の様子」だった。
六月二十三日、原田は木戸に、この「容易ならざる事実」を伝えて、牧野内大臣に取次ぎを頼んだ。
「陸軍方面が浪人連と連絡をとり、満州に於て策動している……」〈木戸85〉
木戸はこの話を二十六日に牧野内大臣に伝えたが、宮中・政府が満州事変の謀略の一端を具体的に掴んだのは、この時が最初だった。
「自由主義全盛の数年前と異なり、今や軍部は寧ろ攻勢に転ずべき時……」〈石原『国防論策』21〉
六月はじめ、石原中佐は旅順で三浦憲兵少佐から「東京の裏面に関する講話」をきいて日記に書きつけたが、攻勢≠ノ転じた陸軍の動きは、断片的に原田の耳に入ってきた。
それに、「内外の理解を求める」啓蒙工作に取りかかった永田軍事課長は、鈴木貞一中佐を呼んで、近衛、木戸、原田らと「特に頻繁に会合」するように命じていた。
鈴木はまず原田邸に出入りしはじめる。
[#この行1字下げ] 満州問題を我々が集まってプライベートに研究していた頃、官僚だとか財界とかに永田が非常に連絡を密にしたのは、この当時であった……。
[#この行1字下げ] まず、森恪と私(鈴木)が親しくする、それで近衛とか木戸とかのそういう人たちとの関係ができた。そして初めの間は、原田熊雄の家が平河町にあったが、そこで時々みなが集まる、朝食を食いながら集まるということになり、そのうちに原田の肝煎りで……財界方面にも渡りをつけるというようなことになった。そういうことで、永田は原田のところの朝飯会に来ていた。そういう人たちと話をし、軍の現況を話し、また軍は将来こうしなくちゃいかんという企画を伝えた。……こういうような時に満州事変が起った。〈『秘録 永田鉄山』(47年、芙蓉書房)58〉
鈴木のいう朝飯会というのは、原田が「元老に其時々の問題について報告する資料を得るのが目的で」、昭和の初めから各方面の人を呼んで朝八時から十時頃まで話し合ったものである。「食事は大体銀座のスコットが入れて居て、仲々うまかった」と木戸は言うが、レギュラーメンバーは近衛と木戸の二人で、鈴木はこれに目をつけて、永田に原田邸の朝食会で満蒙問題を論じるように取り運んだのだ。
陸軍は満州でまたなにかやるつもりらしい――原田は疑念を強めた。
七月十三日の朝、原田は、作曲家・近衛秀麿夫人の泰子を、自宅に呼んだ。
昨年(昭和五年)の三月から、原田は、西園寺と近衛文麿に相談して、「職務上知り得た真相」を口述しておくことにしていた。後に原田は高松宮にその目的を説明している。
「ロンドン条約の当時、ほとんど虚偽な放送ばかりが残って真相が少しも判りません。殊に、陛下のおとりになった態度、或は元老、側近、或は大臣の輔弼の状態なんかについてもほとんど嘘が多くって、そのために政界に非常な波紋を起し、ひいて軍部内にもいろんな問題を起すようになったので、いかにも陛下の御徳といい、英邁な、極めて高い御見識なんかについても、ほとんど想像以上に悪しざまに宣伝されて、まことに遺憾だと思うような点から、自分は、職務上真相を知っていたために、これを書き残すことが必要だと思いました。で、近衛と相談をして、結局近衛の弟の秀麿の夫人を頼んで、速記をとってもらって残すことに致しました」〈原田8─371〉
泰子は、近衛文麿夫人・千代子の妹で、九州豊後佐伯の藩主・毛利家に生まれ、毛利式速記術を創始した父・高範から手ほどきを受けていた。
第一回目の口述を、原田は、昨年(昭和五年)三月六日に始めた。
「その日はたしか、みぞれまじりの寒い朝でした、一カ月ほど前から、兄(近衛文麿)を通じて、このお仕事を頼まれておりました」(近衛泰子氏)
この日から、原田は週に一、二度の割で口述を続け、清書ができると西園寺に見せて、修正を受けた。口述を始めて一カ月後には、「満州某重大事件」を二度にわたって付け加え、これは、『西園寺公と政局』第一巻冒頭に収録されている。
その後、「ロンドン条約問題」に再び戻って、昭和五年末で一区切りをつけると、原田はそのまま口述を中止してしまった。それを、半年後になって、なぜ急に再開する気になったのか――結果から見ると、原田の判断は極めて的確だった。
口述を再開してすぐ、八月には三月事件の真相を耳にし、さらに九月には、またも「日本の陸軍あたりが元兇じゃあるまいか」〈同1─3〉と疑われる満州事件が勃発して、慌てふためく政府や宮中の様子を口述描写することになり、そのまま、西園寺が死去する昭和十五年秋まで、原田は、苦悩と緊張が続く政界・宮中・軍の内幕を語り続け、当時を知る第一級の貴重な資料を残すことになった。
陸軍は満州でなにか策動している――、時勢は急展開しつつある――、こんな気持が原田を口述再開へと駆り立てたのだった。
原田は泰子に、口述再開の段取りを、口ぐせの「いいね、わかったね」を連発しながら手短かに伝えると、早速語り始めた。
「昭和七年の二月にジェネヴァで開かれる陸軍軍縮会議に対する軍の主張は、
現下の国情では、到底これ以上に軍備を縮小することは許されない……=v
書斎の窓の外は、今日も雨が降っている。もう一週間も続いているじゃないか、うっとうしい梅雨だ――こう思いながら原田は、ようやく険悪な様相を深めてきた陸軍の動きを口述していった。
この日、口述を終えた原田は、霞ヶ関の東京|倶楽部《クラブ》へ赴いた。毎週月曜日には、近衛、木戸、原田、それに岡部長景、高木喜寛らの貴族院に席をおく仲間が集まって、昼食を共にしながら、情報交換をすることにしている。木戸は説明する。
「原田君が西園寺公の秘書になってから、主として同君が各方面から情報を集める為に種々の会合が始められたが、此東京倶楽部の午餐もその一つであって、高木喜寛男、近衛公等と屡々一緒になった。西園寺公は世界第一次大戦後の世相から見て、皇室の将来について非常に心配して居られ、殊に皇族の出処進退、日常の御態度が皇室に与える影響の極めて大なることを思われ、皇族はもっと常識を持たれることが必要であり、政治上の識見についても今一段の御修練が必要であると痛感せられ、これを折りに触れて原田君に話して居られた。そこで原田君は其意を体して秩父宮、東久邇宮などを御招きして、それとなく常識涵養の資として種々の御話を申上げる機会を作ったのであった。近衛公と私(木戸)は殆ど例外なく陪席することになっていた」……
さて、この日、原田が東京倶楽部に着くと、近衛は欠席だったが、木戸が待ち構えていて、心配そうに尋ねた。
「陸軍大臣はやはり上奏するつもりなんだろうか」
原田は、一昨日の夜おそく訪ねて来た木戸に、陸軍は軍縮問題で倒閣まで持っていく肚かも知らん、と話している。原田の返事は同じだった。
「陸軍の態度は依然として硬化している。南陸相は昨日、北海道から戻ったが、すぐ奈良武官長を通じて、十四、五日に陛下に拝謁を願い出ているようだ。もし陛下が陸相なり参謀総長の上奏をお受けになると、陛下は軍部と政府の間に立たれて、どちらの主張をご採用になるか、ご裁断を迫られる虞れもでてくる……」
それでは、「輔弼に依って総て行なわるゝこととし、天皇が直接命令せられざる習慣」〈重光『巣鴨日記』415〉を、天皇自ら破ることになる。木戸は原田と打合せると、牧野内大臣に連絡のため鎌倉に直行し、さらに、天皇に供奉して葉山に滞在中の鈴木貫太郎侍従長を訪ねて、牧野の指示を伝えた。
「陸相や参謀総長が出仕していかなることを上奏しようが、陛下は深入りされないように遊ばされなければならぬ、と侍従長から陛下にすぐ申し上げるように……」
その夜、原田は、ひとまずこれで打つべき手は打ったと、ホッとしていると、遅くなって訪ねてきた新聞記者から意外な話をきいた。
「次の侍従武官長は、第六師団長の荒木貞夫中将であるということを耳にしたが……」
奈良武官長が勇退したいといっているのは事実だが、後任に荒木中将というのは、またも平沼の国本社が陸軍と連繋をとって策動しているに違いない――原田は愕然とした。
検事総長や司法大臣を歴任した平沼騏一郎は、大正十三年に、国本強化、国体の精華高揚を目的とする国本社を創立して自ら会長に就任し、軍、官、政、財界から幅広く会員を募り、右翼方面に強い影響力を持つ一大勢力を誇示している。昭和二年、第一次若槻内閣は台湾銀行救済のための緊急勅令案を枢密院で否決されたため総辞職したが、これは、副議長の平沼が、政友会の倒閣運動の片棒をかついで、伊東巳代治委員を踊らせたためといわれる。
また、ロンドン条約問題のときも、
「平沼氏は最初から徹底的に条約廃棄を主張し、ご批准あらせられぬようにという議論であって、一面にはこれで押通せば内閣は必ず倒れるという見込みをもっていた」
と原田は観察している。政党政治を基本に自由主義的な行き方をとる西園寺は、平沼からいつも妨害を受けるようになっており、日ごろ冷静な西園寺も平沼に対してだけは嫌悪感をむき出しにする。
荒木中将は、この国本社の理事に名を連ねる有力メンバーで、原田は、「陸軍でも、荒木中将は平沼の子分のように思われている」と聞いている。この荒木を侍従武官長にすることは、平沼の力が宮中にまで及ぶことになる。原田はすっかり考え込んでしまった。
翌朝、西園寺も原田の報告をきいて、苦り切った。
「いや、実は近来、平沼の宮中入りの運動は頗る露骨になって来て、現に政友会の鈴木喜三郎もこの一月に自分の所に来た時に、ぜひ平沼男を宮内省に入れてくれるように、という話もあったくらいで、実に露骨なものだ」
ともかく、ここは阻止するしかない――原田は一木宮内大臣と話し合って、奈良武官長の辞任を「なお一年ばかり延ばす」ように取り計らった。
その翌々日、七月十六日の夕方、原田は木戸を誘って、住友別邸で開かれた陸軍と新聞人の会合に出掛けた。席上、小磯軍務局長は「満州国の独立の必然性」を述べ、朝日の緒方竹虎が、「満州国の独立などとは時代錯誤もはなはだしい、そんなことにいまの若いものがついてゆくとは思えない」と反論すると、平然とうそぶいた。
「日本人は戦争が好きだから、一度鉄砲を打ってしまったら、あとは必ずついてくる」〈緒方竹虎『一軍人の生涯』(38年、文藝春秋新社)109〉
陸軍のこの強気はどこから来るのか――原田はますます不安に駆られた。
一方、三月事件に失敗した桜会急進派の橋本中佐、長勇少佐などは、五月ごろから組織の強化拡大に意欲的に取り組んでいた。
七月十七日には、偕行社で「在京の第二十八期以下の尉官の縦横二方面に亙る会合を催し、一の檄文を作為し、全国の尉官に発送」した。長少佐ほか百四十一名が署名したこの檄文は、西園寺にも送られ、彼らの一部は、「昭和維新は政党政治の打破にあり」と決議するなど、政党政治否定の態度を明確にしはじめた。
この偕行社での会合の記事を「都新聞」で読んだ原田は、七月二十七日の朝早く、南陸相を訪ねた。
「一体、陸軍の青年将校の、偕行社における行動は、あまり面白くないと思いますが……」
「いや、実は困ったことだと思って、いま小磯軍務局長を呼んで、厳重に注意をしておったところです。軍紀の維持はおっしゃる通りまことに重大でありますから」
原田が来たのは西園寺の差金によると思ったのか、南陸相は丁重に対応したが、「(青年将校が)もはや坐視するに忍びないと言って憤慨するのも、これまた已むを得ない事情と感ずる」と、つけ加えた。
このところ原田の耳に入るのは、陸軍部内は非常に強硬な態度で、政府との溝渠は日を逐ってますます深まっている、という話ばかりだ。――原田が心配していると、八月一日に、名古屋の第五旅団長の東久邇宮(稔彦、陸軍少将)が、上京して来た。
原田は早速、御殿に出たが、この日は折から小磯軍務局長が来合わせて長いこと話していたので、会えずに引き下がった。三月事件の噂を耳にした東久邇は、上京の機会に小磯を呼んで問い質していたのだった。
翌二日の日曜日、原田に招かれて住友別邸に赴いた東久邇は、
「宇垣朝鮮総督はクーデターを議会中にやろうとしたのじゃないか」
と洩らした。驚いた原田が反問すると、東久邇は「いや、詳しい内容はきかなかった」と口を濁して話題を変えたが、その様子から原田は事件の重大さを覚った。
翌朝、原田は御殿場に急行した。西園寺は避暑のため、七月十八日から御殿場便船塚の山荘に滞在している。
箱根街道で車を降りた原田は、小砂利の道を山荘の正門に向かった。今朝もよく晴れて、西の空には富士がそびえている。北には箱根連山の裾がゆるやかな起伏を見せており、また遥か駿河湾からの涼風が颯々と頬を撫でる。原田は、ちょうど朝食のオートミルを啜っている西園寺の前にすわった。
「六月の末ころ、近衛と一緒に森恪に会ったとき、宇垣大将とは言わなかったが、議会中に非常に危険なことがありかけたという話をきいて、いかにも変だと思っておりましたところ、昨日、東久邇宮様から、宇垣のクーデター計画だと聞きました……」
原田の話を聞いた西園寺は、さらによく調べるようにと命じた。あいにく夏休み中で、牧野内大臣は鎌倉に、一木宮内大臣と鈴木侍従長は天皇に供奉して葉山におり、近衛も軽井沢、木戸も逗子と、散り散りになっている。苦労して連絡をとり合った原田は、四日の夜になってようやく井上三郎動員課長をつかまえて、三月事件の具体的内容を聞き出した。
「三月某日、大衆党はかねて用意しておいて議会を混乱状態に陥れ、収拾すべからざる有様にして、政党政治はかくの如きものである、議会政治は到底駄目である≠ニいうことを世間に見せつけ、宇垣大将を担いで、一時なりとも支配者として総理の重責に就かせたいという、極めて子供じみた計画であった……」
原田が再び御殿場に行って詳細を報告すると、西園寺は「甚だ重大なこと」と、きびしい表情をみせた。
「秩父宮と閑院宮にお話をし、宮内大臣、侍従長にも適当に報告してくれ。陛下には内大臣あたりから申し上げておく方がいい。ともかく(東京に)帰ったら、近衛も呼び、木戸とも相談して、なおよく考えた上で、結局は今日元兇ともいうべき二宮参謀次長、小磯軍務局長、建川少将、この三人をある機会に辞めさせなければならん。結局三人が辞めれば、宇垣大将も朝鮮総督を辞めなければならんだろう」
東京に戻った原田は、西園寺に指示されたとおり動き始めるが、元老、宮中筋が五カ月も前の三月事件を追いかけているころ、陸軍ではすでに満州事変の準備を本格的に整えつつあった。しかも、それに呼応するかのように、橋本中佐を中心に第二のクーデター計画も練られはじめていた。
咋年末に石原中佐が永田軍事課長に要請した二十四センチ榴弾砲二門は、七月上旬に東京の陸軍兵器廠から送り出されて、七月二十五日には奉天の関東軍独立守備隊営内に、中国軍陣営に砲口を向けて据えつけられた。
八月一日、陸軍は定期異動を発令し、関東軍司令官に本庄繁中将、参謀本部第一部長に建川少将、作戦課長に今村均大佐、編成動員課長に東条英機大佐がそれぞれ就任した。
続いて八月四日、南陸相は軍司令官及び師団長会議で、かつてない強硬な訓示を行なった。
「門外無責任の位置にある者ないし深く国防に関心せざる者に至りては、ややもすれば軍部が国家の現況に盲目にして不当の要求を敢てするが如く観測し、あるいは四囲の情勢を|審《つまびら》かにせずして|妄《みだ》りに軍備の縮小を鼓吹し、国家国軍に不利なる言論宣伝を敢てするもの所在少からず……たまたま財政経済上不安を感じつつある国民の心理に投じて、国内的に軍備縮小熱を煽動せんとするが如きもの所在少からざるは誠に遺憾とする所なり……」〈『永田鉄山』444〉
この訓示は異例なことに全文が翌日の夕刊に掲載された。陸相訓示は満蒙問題にもふれ、「近時該方面の情勢が帝国にとりて甚だ好ましからざる傾向を辿り、むしろ事態の重大化を思わしむるものあるは真に遺憾」と述べていた。
世論は沸騰した。朝日新聞は社説を掲げて、陸相訓示は「満蒙外交を軍人一流の考えどおりに引きずって行こうと焦る意図の現われ」だと非難し、「政党内閣から治外法権の地位にいる軍人たる陸相」が政治演説をするのは権限をこえたものであるとともに、一方では、陸相訓示を黙過している政府の態度も無気力であると指摘した。
議会でも、尾崎行雄らが、陸相訓示は軍の政治干与であり、陸軍刑法第百三条――政治ニ関シ上書、建白其ノ他請願ヲ為シ又ハ演説若ハ文書ヲ以テ意見ヲ公ニシタル者ハ三年以下ノ禁錮ニ処ス――に違反すると攻撃した。
しかし、若槻首相は沈黙を続けた。
原田が訪ねると、若槻は、「甚だけしからんことだとは思うのだが、当分まず放置するつもりだ」と弱々しかった。余りの軟弱さ≠ノ驚いた尾崎は、「若槻は匹夫にして宰相の地位を汚すものだ」と酷評し、閣内からも安達内相が、「若槻は薄志弱行である」と非難の声をあげた。
予算編成のために内閣瓦解だけはなんとしても避けたいという若槻の弱腰を見抜いた南陸相は、翌々六日に、追い打ちをかけるかのように、各紙に「陸軍大臣の所信」を発表し、「満蒙問題を論議するを得ずとなすは失当なる攻撃といわねばならぬ。もし攻撃すべきところありとすれば、現内閣の対支政策を目標とすべきである」と開き直った。
「どうも南陸軍大臣の態度が甚だ面白くない。昨日今日にかけての大臣の態度は非常に急速な変り方……」
この晩、井上三郎大佐は原田に嘆いたが、「社会から反感を以て見られ、あたかも無用の長物であるかの如く言いなされ……今までかなり長い間隠忍自重して来た」〈原田2─13〉陸軍が、なぜかくも急に自信をもって強気に転じたのか……。
井上三郎大佐は、すべては三月事件に胚胎すると、原田に説明した。
「今度の南陸軍大臣の演説なんかも随分ひどいものであるが、ああいうことを言わせたり、青年士官の結束を思いきって暴露し得ない事情も、ここ(三月事件)に胚胎しているのだ。……そういう風な事実があればこそ、今の二宮中将にしても、小磯、建川両少将にしても、下の者に抑えが利かなくなっているのだ」
八月十八日。
この日に中村震太郎大尉惨殺事件が記事解禁になり、新聞は大々的に報道した。興安嶺方面の兵要地誌調査に向かった参謀本部員の中村大尉と井杉元曹長の一行が、六月末にチチハル西方の蘇鄂公爺府で、関玉衡中佐指揮の中国軍・屯墾第三団によって銃殺され、屍体は焼き捨てられたという事件だ。
「支那側の日本に対する驕慢の昂じた結果であり、日本人を侮蔑し切った行動……支那側に一点の容赦すべきところは無い。わが当局が断固として支那側暴虐の罪をたださんこと、これ吾人衷心よりの願望である」
朝日新聞は社説で煽りたてた。半月前の南陸相訓示に対する冷やかな反応と比べると大転換である。
「陸軍は、中村事件を拡大して、満蒙解決の道具に用いんとしている」
谷正之アジア局長は原田に告げた。「内外の輿論」は、「九月二十八日頃と予定」された満蒙武力解決に好都合なように展開し、同時に陸軍が満州で陰謀をやる、という噂は急速に広がりはじめた。
八月二十日、牧野内大臣は御殿場に西園寺を訪ねた。牧野は、陸軍の動きが心配だから、天皇から注意を与えて牽制したらどうかと提案した。
「この秋、熊本で行われる陸軍の大演習の時に、演習地で陸軍大臣と参謀総長をお召しになって、軍の紀律について厳重な御下問があったらどうでしょうか。そうすれば、目立たないで済むと思います」
「秋まで待って堪るもんか。要するに非常に急ぐから、すぐでなければならない。陸軍大臣を召されたならば、同時に海軍大臣も、日を違えてでも召されなければならん」
もはや陸軍を押えられるのは天皇だけかも知れない――西園寺はすぐその段取りを進めるように牧野を励ました。
翌日、牧野は那須に滞在中の天皇のもとに赴いた。
八月二十六日、原田は木戸から電話で、浜口前首相の危篤を知らされた。銃弾で受けた傷口に繁殖したアクチノミコーゼ(放射状菌)により左上腹部に膿がたまって肺を破り、この日の午後三時五分、浜口は絶命した。原田は木戸と連れ立って浜口邸に弔問しながら、昨年、ロンドン条約問題で、海軍と枢密院を相手に一歩も退かず「断然所信に向って邁進した」浜口の勇姿を思い浮べて、「軍部の攻勢を受けて政府が守勢に立たされている今、浜口を失ったのは残念だ」と嘆き合った。
この浜口に比べると、若槻首相は、「悪意のない善意の人」で、「頭脳明晰で明哲」なことは誰でも認める。しかし、「保身の術は官僚的習性で磨かれている」(中野正剛評)ところもある。この若槻が、満州で事を起こしてそれをテコに国内の改革を図ろうとする軍部の攻勢に太刀打ち出来るかどうか。若槻は、というよりも日本の政党政治は正念場を迎えようとしていた。――
八月二十一日、若槻首相は原田の勧めもあって、ようやく南陸相を呼んで改まって§bをすることにした。
「満蒙問題で外交上頗る遺憾な結果を生ずるようなことがあっては相済まぬ……軍紀の維持という点に一層努力あらんことを切に自分はお願いする」
ところが、南陸相は逆襲する態度に出た。
「元来、民政党は非常に新聞の操縦がうまい。また、何かにつけて陸軍無用論をやったりして陸軍を圧迫する。今日、部内がかれこれ言うのも、やはり新聞や政党が悪いからだ」
南は、若槻が軍制改革の必要性を懸命に説くのを黙って聞き流すと、そのまま陸軍省に戻り、小磯軍務局長と永田軍事課長を呼んで、いささか得意気に伝えた。
「総理大臣の所でクーデター問題(三月事件)についてきかれたから、自分は事実についてはこれを是認しておいた。そうして、かくの如きことは、結局今日の政党が悪いから――政治がよくないから起るのであって、これから先も同様な事柄が起らないとも限らない、と総理を脅しておいた」
若槻の説得が効果なかったことを知った原田は、ちょうど箱根に病気療養中の江木鉄相を南陸相が見舞う機会を利用して、もう一度、江木から注意させることにした。
知恵伊豆≠ニ評される江木は、あけすけに南に苦言を呈した。
「近来陸軍の軍紀は、非常に|紊《みだ》れているじゃあないか。現に議会中における宇垣の爆弾事件の如き、閣下はいかに思われるか。また満蒙出兵とか、とやかく言っているが、かくの如きことも、陛下の軍隊である以上、陛下の御命令なしに動くようなことを言ったりするのは、甚だけしからん話である」
しかし、南は「うやむやな返事をしておった」だけで、江木は、二十四日に訪ねて来た原田に、「どうも困ったものである」と嘆息まじりに一部始終を伝えた。
若槻や江木の会談結果に原田が失望していると、井上三郎大佐がやって来て、南陸相をこきおろした。
「陸相は、外ではおとなしく相手の言うことを肯定するふりをするが、部内に帰ると逆に事を激発するような口吻を弄する二重人格者だ、一体そういう小策を弄する人で困っている……」
これでは南陸相にいくら注意をしても、軍紀の維持は望めない。
九月四日、原田は近衛泰子を呼んで口述した。
「軍部内の空気はます/\険悪になって……軍制改革は予算の問題と不可分である点から、予算の不成立によって内閣を倒し……然らざれば、その内に満蒙に対する頗る強硬な空気を激成しておいて、なんとか転換の途を講じようとしているのだ。……
実際において統制のとれていない陸軍においては、いつ何事が起こるかもしれない。
一方、やはり大川周明の一派は、秩父宮に喰入ろうとしてあらゆる術策を弄しているらしい」
平沼中間内閣説、宇垣内閣説と、また原田の耳には政界の裏面で画策している動きが聞えてきている。
この日、原田は若槻首相と幣原外相を訪ね、満州で浪人が暗躍しているようだから、あるいは近く陸軍が武力行動に出るのではないかと注意を促した。事態の急を憂慮した幣原は、翌日、奉天の林久治郎総領事に暗号電報を打って、浪人の取締りを訓令した。
「最近関東軍板垣大佐等は、貴地方面に於て相当豊富なる資金を擁し、国粋会其他支那浪人を操縦し、種々策動に努め居り。特に中村事件の交渉|捗々《はかばか》しからざるに顧み、本月中旬を期し具体的運動を決行することとなれりとの聞込あり……」〈極東国際軍事裁判速記録第354号〉
この電報は、柳条溝の鉄道爆破には触れていないが、決行時期、浪人の動きなどについては、なかなか正確だった。
九月七日、原田らが待ちわびていた天皇が、那須から東京に戻った。早速、九日には安保海軍大臣がお召しで参内し、「軍紀について世間にとかくの批評をきくがどうか」と下問を受けた。寝耳に水の驚き≠フ安保海相は、「恐懼して軍紀の維持作興につき言上」して退下した。この調子なら、陸相のときもさぞかし効果があるだろうと、側近一同が期待していると、十一日に南陸相が参内した。
ところが、南はあらかじめ奈良武官長から下問の主旨を内報されていたから、「陛下をしてほとんど御下問の余地のない程度に、先手を打って申上げ」てしまった。
「若い将校の団結については、軍紀上甚だ面白くございませんから厳重にこれを取締ります」
「外交に関しては、勿論外務大臣の管掌するところでありますから、軍部はこれに関してかれこれ|容喙《ようかい》したり、差出がましい態度に出ることはこれを慎むべきであります」
外交とは軍の尻拭いをすることであると思って居た=q重光『巣鴨日記』71〉――南は戦後に巣鴨拘置所内で重光葵に述懐したという。こんな南が、「自分の方から」天皇に奉答したことをどれほど真剣に実行するつもりだったか疑わしい限りだが、天皇から陸軍に厳重に注意を与えるという西園寺と牧野の妙案も、奈良武官長が内報したこともあって、効果を見なかった。
翌十二日、南は御殿場に西園寺を訪れた。「軍制改革について、その後の経過を報告に行きたい」ということだったが、牧野も若槻も、この機会に「軍紀についてよく反省を求めてもらいたい」と頼んでいた。「元老ともいうべきものが、いろ/\な事実を捉まえてかれこれ言うことはやめた方がいい」と乗り気でなかった西園寺も、天皇の下問が巧みにかわされたと牧野から報告を受けて、態度を変えた。
「元来、満州の土地に無頼の徒、所謂|ごろつき《ヽヽヽヽ》とか浮浪人とか、或は右傾の暴力団のような者を送っておくことが、頗る面白くない。殊に軍部でかくの如き者を利用するというに至っては、国家の面目上、また日本軍の威信の上からいっても頗るよくないことである。もし彼等を軍部が|使嗾《しそう》したとするならば、外国から、日本の軍隊を、彼等と同等の価値のものと認められても仕方がない。これは陛下の軍隊の面目を疵つけるものである……」
西園寺が陸軍大臣に面と向かってこれほどきびしく注意するのは初めてである。驚いた南陸相は、「のべつに弁解がましいことを言っておったが」、西園寺は、一段と決めつけた。
「殊に満蒙の土地と雖も支那の領土である以上、事外交に関しては、すべて外務大臣に一任すべきものであって、軍が先走ってとやかく言うことは甚だけしからん話である。閣下の如きは、輔弼の責任上、また軍の首長として、充分慎重な態度を以てこれを取締るべきである」
西園寺が、「満蒙の土地に無頼の徒」云々といっているのは、数日前に幣原が林総領事に打電した内容と同じである。幣原からも閣議の席上で同じ追及を受けていた南は、慌てて西園寺の手前を取りつくろった。
「実は総理からもたび/\叱言を喰い、陛下からも御注意があり、まことに恐縮千万であります。一々御尤もであります。責任を以て充分注意を致します」
西園寺は、南の返答を全く信用しなかった。九月十五日、西園寺は御殿場から京都へ向かう車中で、「(南は)べらべらと一人でしゃべっていた」と吐き捨てるような言い方で、会見の模様を原田に話した。
「まるで|暖簾《のれん》に腕押しのようで、どうもあゝいう大臣では困るな。唯今甘酒を飲んで参りました、というような顔をしてしきりに述べ立てていたが、どうも実に頼りのないこと夥しい」
それでも、南陸相は十四日に御殿場から帰京すると、関東軍司令官宛に自重を促す親展書を持たせて、建川少将を奉天へ行かせることにした。
九月十五日。
幣原外相は、林総領事から
「関東軍が軍隊の集結を行ない、弾薬資材を持出し、近く軍事行動を起す形勢がある」
という機密電報を受け取った。驚いた幣原は南陸相に、「かくの如きは国際協調を基本とする若槻内閣の外交政策を根底より覆すもので、断じて黙過する訳にはいかない」〈『幣原喜重郎』(30年、幣原平和財団)466〉と厳重に警告した。
一方、同じころ花谷少佐は、橋本欣五郎中佐から、「計画が露顕して建川が派遣されることになったから、迷惑をかけないように出来るだけ早くやれ。建川が着いても使命を聞かない内に間に合わせよ」〈花谷手記45〉という暗号電報を受け取った。
夜九時四十五分、南陸相から「お前行って止めるように云ってくれ」と命令を受けた参謀本部の建川第一部長は、南から本庄司令官宛に、「十一日に、陛下から軍紀に関して御注意があり、殊に満蒙における軍隊の行動については、更に一層慎重なるべきことを言われた」として、「一年間の隠忍自重をさらに説く」〈今村均『一軍人六十年の哀歓』(46年、芙蓉書房)46〉手紙を預かって、東京駅から列車に乗り込んだ。天皇や西園寺、幣原が喧しく南に注意した効果がともかくあったようだ。
翌十六日、原田は、西園寺が京都田中村の清風荘に無事落ち着くのを見とどけて、東京に引き返した。
この日の午後、奉天では、板垣、石原以下の参謀が集まって「対策を協議」し、一同は翌日になって、計画を十日繰り上げて、「十八日夜決行」〈花谷手記46〉と決めた。
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第三章 国内と満州と同時にやろう
――満州事変と十月事件、五・一五事件――
昭和六年九月十九日、土曜日。原田は朝七時すぎに市内に鳴り響いた号外の鈴の音で、「奉天郊外における鉄道爆破事件」を知った。奉天郊外の柳条溝で「|暴戻《ぼうれい》な支那兵が満鉄線を爆破し、わが守備隊を襲撃したので」〈朝日新聞9月19日付〉、関東軍は戦闘を開始したという。
「自分は直覚的に、いよいよやったな、と思った」
原田は、建川が奉天に遣わされたのは、「目的を遂行させるために、小磯軍務局長が建川を使者に立てるよう陸軍大臣に勧めたのではないか」と推察した。
この朝、若槻首相も、南陸相から「驚くべき」電話を受けて、事件の発生を知った。
「昨夜十時半ごろ、奉天において我軍は中国兵の攻撃を受け、これに応戦、敵の兵舎を襲撃し、中国兵は奉天の東北に脱走、我兵はいま長春の敵砲兵旅団と戦を交えつゝある」〈若槻『古風庵回顧録』375〉
幣原外相も、駒込の自宅で、朝食の卓上におかれた新聞を見て、事件の発生を知った。「突発する前に、予感があった」幣原は、「これは容易ならんと、飯を中途で止して、外務省に駆けつけた」。〈幣原喜重郎『外交五十年』(26年、読売新聞社)170〉
原田にしろ、幣原にしろ、「いよいよやったな」、「予感があった」というが、事件の勃発を知ったのは、十九日朝だった。
一方、陸軍側では――南陸相は、夜半すぎに宿直将校に起こされて、奉天特務機関の軍機電報で事件発生を知った。
「嗚呼来るべきものが来たのだ……我等の堪忍袋の緒は完全に切れた」〈『南次郎』247〉
南はこのような感想をもったという。
また、小磯軍務局長は、二時ころ陸軍省からの電話で事件発生を知らされたが、不可解なことに、そのまま再び寝床に潜り込んでしまった。明け方五時ころ、塀を乗り越えて訪れた朝日新聞の高宮太平記者が、「此の事件は大きくなるでしょうか」と尋ねると、小磯は、「大きくなりそうだね」〈小磯『葛山鴻爪』533〉と答えている。
緊急閣議は、八時半から首相官邸で開かれた。
南陸相は、「事ここに至った以上は、在留邦人の保護の必要は元より、懸案の満蒙特殊権益確保のために、政府は一大決心をなすべき|秋《とき》が来た」と主張したが、幣原外相が、「国際関係も考慮し|飽迄《あくまで》小範囲に限定して事件を拡大させない方針を採りたい」〈『南次郎』250〉と反対意見を述べ、井上蔵相も同調した結果、政府は事件に対し不拡大方針で臨むことに決定した。この席で南陸相は、「朝鮮軍より増援することの必要を提議」しようとしたが、幣原外相が現地からの電報を朗読して、関東軍の謀略を匂わしたので、「提議するの勇を失えり」〈「満州事変機密作戦日誌」―『太平洋戦争への道』(38年、朝日新聞社)別巻資料編所収―114〉という。
閣議が終って、南陸相は九時四十五分に天皇に拝謁して状況を上奏し、続いて午後一時半に若槻首相が不拡大方針を上奏した。
「時局は之以上なるべく拡大せず、我軍の優勢を持したる時に之を打切る方針にて進行いたします」
関東軍は、事件勃発とともに、文字どおり電光石火の進撃ぶりを見せた。十八日夜半には奉天城、東大営、北大営などの東北軍主力を駆逐して、十九日夜明けまでに奉天全市を手中に納め、長春の二兵営も強襲占領した。続いて二十一日には遠く吉林に無血入城して、事件発生後三日間で、長春以南の満鉄沿線の中国軍をことごとく一掃してしまった。
「事態|※[#「玄+玄」、unicode7386]《ここ》ニ至レル以上、此絶好ノ機会ニ於テ先ズ軍ガ積極的ニ全満州ノ治安維持ニ任ズルハ最モ緊急ナリト信ズ。之ガ為、平時編成三個師団ノ増援ヲ必要ト認ム。之ニ要スル将来ノ経費ハ満州ニ於テ負担シ得ルコト確実ナリ」〈同117〉
十九日午後五時四十分、本庄関東軍司令官は金谷参謀総長に打電して、内地からの増援を要請した。
ところが、その夜になって、事件の陣頭指揮を担当していた石原中佐が、「俺はモウ作戦主任はやめた」〈片倉衷『戦陣随録』(47年、経済往来社)30〉と、宿舎で引っくり返ってふてくされるような事態が発生した。
「(石原の)計画では二十日朝の朝鮮軍奉天到着を待って関東軍主力を北上させハルビンまで出るつもり」でいたところ、応援の朝鮮軍が、金谷参謀総長から「国外出動ハ別命アル迄ハ行フベカラザル旨」の指示を受けて、朝鮮国境の新義州で足止めされたというのだ。
国外出兵の場合には、閣議における経費支出の承認と、奉勅命令が必要である。ところが、政府は「事件不拡大」を決めており、天皇も、国境に向かった朝鮮軍の独断的処置を「お喜び遊ばされざる様」〈「満州事変機密作戦日誌」115〉だという。しかも、南陸相からは、「帝国政府は……事態を拡大せざるよう極力努力することに方針確定せり」〈『南次郎』251〉といって来ている。
「朝鮮軍の来援なくんば、河本事件の二の舞に過ぎず……その苦心水泡に帰する」〈片倉『戦陣随録』29〉
板垣、石原以下の参謀は、奉天の旅館瀋陽館の一室で、暗然と顔を見合わせていた。
ちょうどこのころ、東京では、自宅で客と夕食中だった原田が、若槻首相から電話で呼び出されて首相官邸に駆けつけた。「非常に弱り切った様子」の若槻は、「外務省の報告も陸軍省の報告も自分の手許に来ない」と情けない愚痴をこぼしながら、陸相は朝鮮から兵を出すことを考えているようだと、憂慮懊悩≠オていた。
「自分の力では軍部を抑えることはできない。|苟《いやし》くも陛下の軍隊が御裁可なしに出動するというのは言語道断であるが、この場合一体どうすればいいのか。こんなことを、貴下に話す筋でないかもしらんけれども、なんとかならないか。実に困ったものだ」
若槻のあまりの不甲斐なさに驚いた原田は、その晩、一木宮相邸に鈴木侍従長、木戸とともに集まって相談した。
「総理があまりに他力本願であることは面白くない」
原田の報告をきいて一同も不満をもらした。とくに木戸は、「首相が今朝以来これという努力もせずに他力本願の泣き言を言うのは甚だ頼りない」と憤慨し、「政党内閣が毅然たる態度に出なければ結局政権は軍部に移ってしまう」〈東京裁判木戸幸一口供書〉と懸念した。
「内閣は宜しく幾度にても、亦何日にても閣議を反覆開催して、国論の統一に努め、内閣自身確乎たる決心を示すの外途なしと信ず」
至極同感だ――木戸の主張に頷いた原田は、翌朝、井上蔵相と幣原外相に、首相は非常に弱っているから側から激励してもらいたい≠ニ頼んだうえで、若槻に話した。
「連日閣議を開いて、閣議を以て事毎に陸軍を抑えて行くより良策などありえない」
ここはまず若槻が頑張ることだ。
この日の午後、原田は、西園寺に事件発生以来の報告をするため、京都に発った。
翌二十一日、西園寺は、「自分もこうなりはしまいかと心配はしていたが……」といいながら、原田に指示した。
「政府内に辞意があっても、今日の場合、陛下は絶対にこれをお許しになることはいけない。この事件がすべて片付くまでは、辞職を御聴許になることはよくない。また、御裁可なしに軍隊を動かしたことについて、陸軍大臣或は参謀総長が上奏した時に、陛下はこれをお許しになることは断じてならん。また黙っておいでになることもいかん。一度考えておく、と保留しておかれて、後に何等かの処置をすることが必要だ」
若槻は内閣を投げ出すんではないか――西園寺は危惧した。若槻が辞めずに頑張って朝鮮軍の越境の経費支出を認めず、しかも天皇が参謀総長の帷幄上奏を裁可しなければ、兵力二万足らずの関東軍だけで二十万の中国兵を相手に事件を拡大することは不可能になる。この限りでは西園寺の指示は適切だったが、肝心の若槻はこのときすでに腰くだけになっていた。
ちょうどこの日――九月二十一日の午前中、原田が西園寺に報告している時に、東京では臨時閣議が開かれた。若槻は、原田の勧めに従ってこの日から連日閣議を開いて陸軍を抑えようとしたのだが、その最初の閣議で、南陸相が朝鮮からの増兵が必要だと強く主張すると、「幣原外相と井上蔵相等の強硬なる自重論があった」〈朝日新聞9月22日付〉にもかかわらず、若槻は同意する気配を見せた。
[#この行1字下げ] 要すと云う者、陸相の外、首相一人にして他は全員(海相を含む)不要なりとし、問題は決せずして散会す。〈「満州事変機密作戦日誌」119〉
閣議は午後五時に終了した。南陸相が、官邸に戻ると、杉山次官が待ち構えていて、朝鮮軍がすでに独断で越境を開始したと告げた。この夜陸軍は、朝鮮軍司令官の今回の独断的行動は大権干犯にあらずと意見統一をし、明朝以降、「飽く迄剛愎執拗なる態度に於て政府と戦う」方針を決めた。
陸軍のこの強い態度を、若槻首相はどう捌くか、もし閣議で経費支出をあっさり認めれば、政府は陸軍に、というよりは出先の、独断越境した朝鮮軍や、満州で謀略を起こした関東軍に引き摺り回されることになり、政府の軍部に対する立場は著しく低下する……。
この日、政府は事件を事変≠ニ呼ぶことに決めた。
九月二十二日の朝、原田は夜行列車で東京に着いた。同じ頃、南陸相は朝鮮軍出兵の経費支出を認めさせるため、若槻を訪ねた。
「出たものは仕方がなきにあらずや」〈同123〉
若槻はあっさり答えた。
首相が諒解するなら別に心配はいらない。あとは天皇の奉勅命令を取りつけるだけだ――南がホッと胸を撫でおろしていると、若槻は九時半に参内した。
「結局、兵は出してしまったのですから、政府は経費はこれを支弁するよう、本日の閣議で決定する予定でおります」
止むを得ぬ――天皇は頷いたが、しかし条件をつけた。
「事態を拡大せぬという政府の決定した方針は、自分も至極妥当と思うから、その趣旨を徹底するように努力せよ」
拡大するな――天皇の意思は明白だった。若槻は天皇の意を受けて、その場で「(現地軍から派兵を具申している)ハルビンと間島では、居留民の現地保護を行わず、危急の場合はその引揚げを実施致します」と奉答した。
午後二時四十分、閣僚の反対を押し切って閣議決定を終えた若槻は再度参内して、政府は経費支出を認めたと上奏し、続いて金谷参謀総長も出兵の勅裁を得た。
天皇は、「非常に不機嫌な御様子」だった。若槻には、不拡大方針を徹底せよと注意し、金谷には「将来を慎め」〈若槻『古風庵回顧録』378〉と叱った。
しかし、勝ちほこった参謀本部は、政府を全く見くびってしまった。
「兵力の派遣に関しては閣議に於てとや角論議すべき限りにあらずして唯その事実を認めて経費の支出に関し議決すれば可なるものなり」
参謀本部作戦課の河辺虎四郎中佐は、この日、「満州事変機密作戦日誌」に記した。
軍のことを政府はとや角論議≠キるな――要するに統帥権の独立ということだが、参謀本部のこの態度は、まもなく若槻首相を、「日本の軍隊が、日本の政府の命令に従わないという奇怪な事態となった」〈同378〉と嘆かせることになる。しかし、そうなった原因の一つは、事変発生以来の若槻の軟弱な対応にあったといえる。
それにもう一つ、天皇が金谷総長を叱ったことを、「側近者の入智恵と見て、軍部は憤慨」した。この日の午後、近衛と木戸らが原田邸に集まったときも、軍部は「側近の動き」に憤慨しているという情報が伝えられた。
「之等に徴し、今後は不得止場合の外は御諚等はなき方よろしかるべく、又右の如き事情なれば軍部に反感を有せりと目せらるる元老の上京は却って軍部を硬化せしむるの虞あり、状況に変化なき限り、此際は上京せられざる方宜しからんとの意見の一致を見たり」〈木戸101〉
木戸はこの結論をすぐ牧野内大臣と鈴木侍従長に伝えたが、天皇が軍部の意に沿わぬ発言をすれば、軍部はこれを側近者の入智恵≠ニ憤慨し、それを伝え聞いた側近が、天皇や元老の発言や行動を抑える――このようなことが次第に目立ってくるようになった。
つまり、沈黙する天皇≠陸軍と側近はつくり上げていったともいえ、政府は軍のことを兎や角論議できず、天皇も黙認を強いられる――この点で、満州事変の影響は大きかった。
「満州事変はどうして起ったか、その原因はどこにあるか」〈幣原『外交五十年』166〉――幣原はのちに回顧していう。
「今から遡って考えると、軍人に対する整理首切り、俸給の減額、それらに伴なう不平不満が直接の原因であったと私は思う。……それでも宇垣大将が陸軍大臣のころまでは、まだ陸軍部内の統制が保たれて、彼等に爆発の機会を与えなかった。そこで彼等は国内の秩序を引くり返すことを思い止まり、国外といっても一番手近かな満州でうっ憤を晴らそうということになったのであろう」
幣原は政府が無断越境した朝鮮軍の経費支出を認めたことについても弁解する。
[#この行1字下げ] 政府や軍の首脳が優柔不断であったから、事件がますます大きくなったのだという非難がある。しかしもし鎮圧策を強行したら、日本はもっと早く軍事革命を起したかも知れない。また政府が軍人の無謀な策動に、経費の支出を拒んで置けば、戦争が出来なかったろうというのも、理窟はまさにその通りであるが、これも当時の情勢では、動乱の爆発を早めるだけである。軍の内部はいわゆる下剋上で、陸軍大臣でも、海軍大臣でも、ほとんど結束した青年将校を、押えることが出来なかった。
つまりは、経費支出を拒んで満州事変を終熄させるわけにいかなかった、というのだが、幣原が同じく「太平洋戦争は、盧溝橋事件から惹起された日華事変の発展したものであり、その日華事変は、柳条溝から発火した満州事変の発展したもので、この三者は、一連の糸のように、たがいに相関連したものである」といっていることに関連させれば、朝鮮軍出兵の経費支出を若槻内閣が認めたことが、太平洋戦争にまでつながったということになる。
さらに幣原の論法でいえば、太平洋戦争についても、「もし開戦の決定をしなければ、内乱が起きたであろう」、「陛下がそういう風(開戦の決定を裁可しない)にしたのは側近だということで、二・二六事件みたいなものが起こったと思う」と弁解するのと同じことであり、あまりに過去を正当化することになってしまう。
日米開戦直前に鈴木貞一企画院総裁は「開戦は国内政治ですから」といって、近衛を「なかなか含蓄ありといわねばならぬ」〈近衛文麿『平和への努力』(21年、日本電報通信社)34〉と感心させたが、満州事変もまさに、関東軍の陰謀に端を発した国内政治≠フ問題である。だから、「余り列国の迷惑お邪魔にならぬ満州や沿海州或は支那の或部分に経済上の勢力範囲を設定することは、日本の存在上必要止むを得ぬ方途である」〈宇垣日記975〉(宇垣)と満州事変を評価して傍観したのなら別だが、愚痴をこぼすだけで無為無策=A陸軍に引き摺られながら、「もし鎮圧策を強行したら日本はもっと早く軍事革命を起したかも知れない」というのでは、若槻内閣の態度は非難されても仕方なかろう。
九月二十九日、原田は、貴族院の公正会で話した。
「(満州事変を)単に外政的な問題だと思うと、非常な間違であって、実は陸軍のクーデターの序幕だと言っても宜しかろう。今年三月二十日、議会を襲撃しようとして事前に鎮圧された陸軍の或る一部の者達の計画が満州に飛火して、そこで爆発したとも見られる。そうして政府は徹頭徹尾、陸軍になめられてしまった。一部の軍人に、満州で成功したから必ずまた内地でもうまく行く、との確信を固めさせたことが頗る危険なのである……」
原田が恐れた内地でもうまく行く♂A謀は、このころ急速に具体化しつつあった。
二十一日に吉林へ出兵した関東軍は、引き続いて朝鮮軍と謀って、間島とハルビンに出兵しようとした。しかし、若槻首相は、天皇から、「拡大せぬという趣旨を徹底せよ」と念を押されて、間島とハルビンでは居留民の保護も行なわない、つまり出兵しないと奉答している。金谷参謀総長も同様である。
参謀本部は朝鮮軍に宛てて「間島進入は勅裁命令あるまで断じて許されず」と打電し、関東軍にも「ハルビンに対する出兵は、事態急変せる場合に於ても、これを行なうべからず」と厳命を下し、「軍の主力を南満線上に保持して動かざること」と指示した。
あとは関東軍が中央の命令を守りさえすれば……若槻や原田がこう思っていると、事変勃発と同時に奉天へ状況視察に行って来た外務省の守島伍郎アジア局第一課長が、「とんでもない」と原田に現地の情勢を伝えた。
「奉天に着いて、林総領事に、内閣ではこの事件を拡大しないように、ということでありますから、万事そのつもりで願いたい≠ニ話したところ、総領事はそれは君、とてももう駄目だよ≠ニ言って、事件はます/\拡大に赴くばかりの情勢にあることを語った。総領事の身辺すら頗る危険で、陸軍の出先の連中は非常に総領事を邪魔にして、時にはその生命をも奪おうとした形跡さえあった」
「石原、花谷、板垣らは酒を飲めば必ず、この計画は前からちゃんと企ててあったので、既に七月二十五日には奉天に砲列を布いておいた。我々はこの計画に成功したのだから、次には内地に帰ったらクーデターをやって、政党政治をぶっ毀して、天皇を中心とする所謂国家社会主義の国を建て、資本家三井、三菱の如きをぶっ倒して、富の平等の分配を行おう、必ずやってみせる≠ニ言っている」
守島の報告を暗然として聞いた原田に、清朝の廃帝溥儀(宣統帝)を擁立して独立国家をつくる、という話も伝わってきた。
十月一日午後四時、原田邸に、近衛と木戸、それに外務省の白鳥情報部長が、慌しく集まった。
この日の朝、原田が京都から戻って外務省へ行くと、白鳥は、鈴木貞一中佐から聞いた「軍人の策動なり陰謀」――具体的には、橋本欣五郎中佐を中心としたクーデターの動きを、原田に伝えた。
鈴木中佐が漏洩した橋本中佐の陰謀計画とは――
「(政府の不拡大声明を)このままに放置するにおいては到底満州事変を遂行し得ず、徒らに将兵を戦場にさらし、残るもの一物もなく、恰もシベリア出征の結果に終るべきを痛感」した橋本が、「正に九月十八日事変当日より……決然国家改造に邁進すべきを決し……具体的に大規模に実行化」〈橋本手記『回想』262〉しつつある陰謀だった。
新たに陰謀に加わった血盟団の井上日召はいう。
「我々遊撃隊は、テロ≠引受けた、暗殺を引受けた……やるとすれば誰にしようか……西園寺公、牧野伯、それから海軍側の希望なんかありまして、鈴木侍従長、一木宮内大臣、はっきり覚えませぬ、とに角五、六人です、多くても十人はいなかった、それが数えられた。……
そうして居る間に変更しました。初め士官だけを獲得するので、何少尉が賛成した、何中尉が参加して居ると言うて居る中に、其の外の兵を率いてそれに参加することが出来ると言うことになり、何連隊で何個中隊動く、一連隊ではどう、三連隊はどうとか言うようなことになって、兵隊さんが鉄砲を担いで、若くは機関銃を担ぎ出してやることになった……
そうして居る中に十月になって来ました、九月中にやるだろうと思った所が、明日々々で延びて、十月になっても明日々々で延びて行ったのです」〈『血盟団事件公判速記録』(42年、刊行会)上巻199〜203〉
十月一日に原田が白鳥から聞いた「軍部の陰謀」は、「兵隊さんが鉄砲を担いで、若くは機関銃を担ぎ出してやる」というものだった。
事態頗る急を要する――この日、原田邸に集まった近衛、木戸の顔付きは深刻だった。
「陸軍中堅分子の結束頗る強く……政党を打破し一種のディクテーターシップにより国政を処理せむとの計画なるが如く、実に容易ならざる問題なり。而して如此問題は現在の政治家連は到底リアライズ出来そうにもなく、結局、之に対する方策は頗る困難なり……真に国難なり」
それではどうするか――三人は首をひねった。それにしても、こんな重大な軍の機密を洩らした鈴木中佐の真意はなにか……。
「とにかく各方面の様子を持ち寄って、絶えず連絡をとっておこうじゃないか」
翌日から、原田と近衛、木戸の三人は、忙しく動き回った。
しかし、鈴木中佐の真意を一度詳しく確かめる必要がある。十月七日、原田と木戸は夕食後に連れ立って井上三郎大佐邸に赴き、鈴木に会った。
「われわれは、積極的に此際(国内)改革を行わんとするに非ず、大中少尉辺りの少壮連中の勃発せんとする勢を心配し、万一の場合、時局収拾の為めの画策なり」
鈴木はこう説明した。原田と木戸は、「稍々事情を諒解することを得た」思いがしたが、しかし、それならなぜ陸軍は自分の手で部内の「勃発せんとする勢」を押えてしまわないのか、容易ならぬ≠ニか、心配≠ニかいうが、実はそういいながら宮中や政府を嚇かして、反応を探っているんではないか――原田は相変らず、鈴木中佐の背後に控える永田や小磯の真意を、疑惑を懐いて注視していた。
原田の疑惑を証明するかのように、翌八日の夜、近衛は、有馬頼寧を介して、大川周明と大谷光瑞の面会申込を受けた。十月事件の決行を間近にして、首謀者の一人の大川が、貴族院副議長で西園寺に近い近衛に接近して来る――十月事件は奇怪な様相を見せはじめた。
ちょうどこの頃、十月八日午後、関東軍は、錦州を爆撃した。事変後、張学良はここに「錦州政権」を設置して、遼河以東の奉天軍を集結させて反攻拠点にしていた。しかし、錦州は華北に近い。それだけでなく、イギリス資本による北寧鉄道の沿線にあるだけに、ここを爆撃することは国際連盟理事会を敵に回すことにもなる。
案の定、次は南京を爆撃するんではないか≠ニ恐れた中国は、連盟に緊急理事会の招集を提議し、また、駐日英米大使は幣原外相に厳重抗議をした。
アメリカでも、スチムソン国務長官が、「日本に対するなんらかの形での集団的経済制裁」をフーバー大統領に進言した。フーバーは賛成しなかったが、それは、「経済制裁を大国に適用されれば戦争を意味する」と考えたのと、アジアにおける共産主義の防壁としての日本の役割を無視できなかったためという。
「もし日本がはっきりと次のように声明したらどうであるか。中国の国土の大半はボルシェビキ化し、ロシアと協力している……満州は許しがたい無政府状態にある。北方にボルシェビキ・ロシアと隣接し、またありうることであるが側面にボルシェビキ化した中国ができれば、日本の生存は危うくなる。中国の秩序を回復するには、九カ国条約の調印国が日本に協力するか、あるいは日本が自己保存のためにそれを行なうか、どちらかである=Bアメリカはこの提案に、あまり異議を唱えることはできない」
アメリカは、日本を「東洋の巨大な潜在的市場」でのライバルと見るか、あるいは防共の同盟国として「友好的に」扱うか、態度を決めかねていた、ということだ。
しかし、今までどちらかといえば「中国よりも日本を支持する」雰囲気だった国際連盟は、「錦州爆撃により日本は撤兵の約束を踏みにじった、日本の当初の行動や目的についての説明も信用できない」と態度を変えた。十月二十四日になって、理事会は、日本の反対を押し切って、期限つき撤兵案を十三対一で採択する。
「日本政府はその軍隊を鉄道附属地に撤退させることを直ちに開始し、かつ続行し、理事会の次回の会合に指定されたる期日(十一月十六日)以前に撤退を完了するよう要請する」
事変発生前の状態に戻れということである。国際世論は、急速に日本に不利に展開しはじめた。錦州爆撃を敢行した関東軍はそこまで予想しなかったのか――いや、それが狙いだった、と花谷少佐はいう。
「若槻内閣は連盟から日本が排撃を食うことを恐れていたし、軍中央部もソ連の実力を過大評価して、これ以上の行動に出るのを危険だと見た。しかしここでやめては三年前と同じく中途半端になってしまう。こういう政府の弱腰を粉砕するためにやったのが十月八日の錦州爆撃である。実害はほとんどなかったが、国際連盟に与えたショックは大きかった。この爆撃で連盟の日本に対する態度は急に悪化した。われわれの狙いは当たった訳だ」〈花谷手記48〉
錦州さえやらねば大丈夫だ=q有竹修二『昭和財政家論』(24年、大蔵財務協会)102〉といっていた井上蔵相は、すでに九月二十日にイギリスが金本位制を離脱し、「米国も再禁止しやしまいか」という観測が流れていたこともあって、大いに落胆した。内政、外交とも裏目に出たというわけだ。
暴虐な敗残兵の放火略奪=A頻々たる朝鮮人虐殺=A馬賊、列車を襲撃=A邦人婦女子の引揚げ開始=\―新聞は「|尾鰭《おひれ》をつけて、毎日朝刊の一面にデカデカと五段抜きの大見出しで載せて」〈岡田益吉「満州事変と国際連盟脱退」―林正義編『秘められた昭和史』(40年、鹿島研究所出版会)所収―6〉、満蒙の危機を煽り立てるようになった。
これならやれる――九月下旬から一旦兵力を鉄道沿線に集結して機会を窺っていた関東軍は、いよいよ北満経略の序幕ともいうべきチチハル攻撃の準備を始めた。
[#この行1字下げ] 根本博中佐、橋本欣五郎中佐等は此頃満州に於ける軍の行動を容易ならしむる為内地国論喚起に奔走し大川周明一派又共同せり、河本大作氏は彼此の連絡、軍部地方の連繋に努力しあり。
関東軍参謀の片倉衷大尉は、十月十一日の「満州事変機密政略日誌」〈『現代史資料』7巻209〉に、記した。
この日、原田も、前々から森恪や鈴木中佐から聞いていた「例の非常に大きなクーデターが来る、というような話をあちこちで聞いた」。木戸も、十三日には朝日の大塚記者から、また翌十四日には大川周明と親しい安岡正篤から、「軍の策謀は益々盛にして、之に浪人、学生等も日に日に加わりつつあり」と聞いた。――やはり、本格的なクーデターらしい、それにしてもいつ起こるのか。橋本中佐はいう。
「一、決行計画は一夜にして政府機関を倒し、之に代るべき者に大命降下を奏請するにあり、これがため、各大臣、政党首領、某々実業家、元老、内大臣、宮内大臣等も一時に殺害する。陸軍の高級者も監禁ないし殺害する。これに使用する兵力は、歩兵二十三連隊、機関銃六十丁、毒瓦斯、飛行機等。
一、この外、警視庁、新聞社も占拠する。これらの兵力は全部桜会の中少尉が引率……
一、決行の日時は、十月二十四日午前三時と予定す……」〈橋本手記263〉
さらに、組閣の大命降下は荒木中将を予定し、大川周明蔵相、橋本欣五郎内相、建川美次外相、長勇警視総監などが一案として考えられたという。
これをそのまま信じるなら、「陸海民が全国的規模で立ちあがる」ことになり、殺害規模といい、また事件の首謀者が政権の座に就こうとしたことといい、「天下の一大事となったことは明瞭である」。しかし、規模が大きければ大きいほど、実行の信憑性は薄れてくる。どこまで本気だったか――
[#この行1字下げ] 橋本中佐自ら進退|谷《きわ》まり決行の意志なく上司の力によりて一般を抑圧せんとせしものに非ずや。〈田中清「所謂十月事件ニ関スル手記」664〉
橋本から参加を求められた田中清大尉は観察している。
それに、橋本、根本、田中弥大尉、小原重孝大尉ら陸軍大学校出(いわゆる天保銭組)で陸軍省や参謀本部に陣どるエリートたちが、「クーデターが成功したら二階級昇進させる」などと広言しながら「連夜紅燈の下、女を侍らして杯を傾けて語る革新」〈末松太平『私の昭和史』(38年、みすず書房)44〉は、所詮私利私欲、上からの革新≠ノすぎない。のちの二・二六事件のように、無天≠フ隊付将校が「兵隊と一緒に、汗と埃にまみれて考える革新」に比べれば、真剣さに欠ける。
さらに、クーデターの噂はすでに全国に広がり、「地方部隊の将校は二十日を当てにして決行の指令を待っていた」〈同53〉というし、政友会の犬養総裁も息子の健に、「最近何かクーデターのようなことがあるそうだが、原田の所に行ってきいて来い」と心配したほどだ。
もはや引け時だった。
十月十六日の夕方、杉山次官、小磯軍務局長、二宮参謀次長以下の陸軍省、参謀本部の主要メンバーが集まって、収拾策を検討した。計画の詳細は、すでに九月中から田中清大尉などを通じて刻々と内報されている。
「いっそ思い切って決行させてはどうか」〈高橋『昭和の軍閥』141〉
小磯はまたも乱暴な意見を吐いたが、一同を憲兵隊に拘束させるという意見が有力だった。要するに、「押えるか、実行させるかは軍首脳部の方寸にあった」〈末松『私の昭和史』52〉ということである。
十月十七日未明、橋本中佐、長少佐など十四名は憲兵隊に検挙されて、十月事件は未遂に終った。一同は軍事裁判にかけられることもなく、橋本中佐が重謹慎二十五日、それも千葉県稲毛の旅館で「東京より芸妓を招きて遊興を専らにする」有様で、あともほんの申し訳程度の行政処分で済まされた。
[#この行1字下げ] 国軍を破壊し下剋上の精神を拡大せる者が僅かの懲罰処分と相場が決まりし以上此の如きことは将来続出せん。〈田中「所謂十月事件ニ関スル手記」667〉
田中清大尉は心配している。
井上日召も、「ひたすら政権獲得を目的とする人たちがあることを現実に見ました」と憤慨する。だからこそ、井上の血盟団は、翌年になって、井上準之助、団琢磨の射殺、五・一五事件と、血を吹く実際行動を引き起こしたのだった。
しかし、陸軍、とくに関東軍にとって、十月事件の影響は好都合だった。花谷少佐はいう。
「十月事件の陰謀が政界に洩れて、軍に反対すると命が危いという恐怖感のため、もう軍の行動をチェックしようとする意欲を政治家も失ってしまったようであった。満州事変をあの時期に起こしたのはタイミングとしては非常に良かった」〈花谷手記50〉
十月事件の意義はここにあった。鈴木中佐が原田らに陰謀計画を洩らしたのも、これが狙いだった。政治家が軍の意のままになれば、それで充分だ。あとは、軍の上層部を駆逐して橋本内閣≠夢みた橋本中佐らを放り出してしまえば、すべて片付く。十一月末に橋本は姫路師団の野砲連隊に左遷され、腹心の田中弥大尉や小原重厚大尉らも東京を追われて、桜会は事実上消滅した。
作家の永井荷風は、銀座の飲み屋で数名の壮士が大声で時局を論じているのを耳にして、十月事件を知った。
[#この行1字下げ] 頃日陸軍将校の一団首相若槻某を脅迫し、クーデタを断行せむとして果さず、来春紀元節を期して再挙を謀ると云う、……つらつら思うに、今日吾国政党政治の腐敗を一掃し、社会の気運を新にするものは、けだし武断政治を措きて他に道なし、今の世に於て武断専制の政治は永続すべきものにあらず、されど旧弊を一掃し人心を覚醒せしむるには大に効果あるべし。〈永井荷風『断腸亭日乗』6年11月10日〉
荷風はおよそ政治にも軍隊にも関心を持たない。それでも、政党政治の腐敗と武断政治に対する一種の期待が社会に広がって来たと感じるのだ。
そんな情勢の中で、西園寺は、あくまで政党政治を守りとおすか、あるいは「武断政治」に近づくか、難しい岐路に立たされることになった。
十月二十六日、西園寺は京都を発って興津に向かった。車中で原田は、若槻首相から昨日聞いた話を伝えた。
「閣議で陸軍大臣は随分乱暴な話をして、連盟だのなんかに対して、なにも遠慮することはない、脱退したっていいじゃないか≠ニか、或は世界中を相手に戦争する気なら――その肚さえあれば、なんでもないじゃあないか≠ニか述べ、そうして、婚礼に呼ばれているからこれで失礼する≠ニいって立っていってしまった。実に無責任な先生で困る」
秋晴れの気持よい日がこのところ続いている。若槻の内閣もそう長くは持つまい=\―西園寺は原田の報告を黙って聞いていた。
要するに、若槻は「全く無気力」なのだ。そのうえ、十月事件直後から「安達内務大臣の一派が井上大蔵大臣の財政政策に反対して或る行動をとる」という噂もあり、「政党の分解作用行われんとする」徴候すら感じられる。
「総理は非常に弱っているから、この内閣で議会に直面するには非常な危険を冒さなければなりません」
だから、十二月の議会開会までに新内閣を組織すべきです――原田は車中で、西園寺に「再三述べ」た。
午後二時、特急富士が静岡に着くと、待ち受けていた鵜沢静岡県知事が「総理が明日公爵にお目にかゝりに来たいので……」と原田に耳打ちした。
原田は西園寺に取次ぎ、「お待ちする」と知事に伝えた。
「按摩をとってようやく眠りにつくが、忽ち眼が覚めて朝まで眠れない」〈『南次郎』312〉ほど神経衰弱に悩まされていた若槻は、窮状打開の途を、政友会との連立内閣に托そうと思いたっていた。
[#この行1字下げ] 私は深く考えざるを得なかった。……民政党だけの内閣でなく、各政党の連合内閣を作れば、政府の命令は国民全体の意志を代表することとなり、政府の命令が徹底することとなる。……〈若槻『古風庵回顧録』384〉
そこで若槻はこの連合内閣構想を、幣原外相と井上蔵相に打診したが、両者は、「現に行なっている外交政策、財政政策は、今日の時局に最も適当のものであり、これを変更することは、国家の不利この上もない」と反対した。
翌日の午後、若槻は約束どおり坐漁荘に西園寺を訪ねた。
「まあ、要するに愚痴を言いに来たようなものだ。しかし話は実によく判る。とにかく弱っているようだが、自分としてはできるだけやりますと言うから、大いに激励しておいた」
若槻が帰ると、西園寺は原田を呼んで語った。若槻は、幣原や井上に打診して反対された協力内閣構想を、話さずに坐漁荘を去った。
十一月一日、西園寺は興津から一泊の予定で上京した。天皇が「あまりにも時局をご心痛」になるので牧野内大臣が、天皇の内意として、西園寺に上京を促したのだった。
上京した西園寺は、一晩、駿河台の私邸に若槻首相、幣原外相、安達内相、牧野内大臣らを招いて意見をきいた。
若槻は、「この政府のまゝで議会に臨む自信はない」と辞意を洩らしたが、協力内閣構想については「何も言わなかった」。安達は、「犬養総裁を首班にして我々が援ける」連立案を主張したが、西園寺ははっきりした返事をしなかった。
翌二日午後二時、西園寺は参内した。天皇は、科学博物館への行幸を早めに終えて、西園寺を待っていた。
「連盟の問題は気になる。或は経済封鎖でもされたり、それからそれへと考えると……」
西園寺は、天皇がいろいろと心配するのに奉答したあと、口調を改めた。
「明治天皇の欽定憲法の精神に|瑕《きず》をつけないようにすることと、それから国際条約の遵守ということとが、今日自分が陛下に尽す道でありまして、国家をして誤らざらしめんとするならば、この二点を以て西園寺の重大な責任としなければならないと考えております」
「まことに尤もである」
天皇は「至極ご満足のようで」、大きく頷いた。
しかし――西園寺がこの時天皇に言上したことは、その後の歴史でいろいろと議論を引き起こすことになる。
西園寺のいう天皇のあり方は、次のように言い直せる。
[#この行1字下げ] 西園寺は長らくフランスに留学し、フランスの歴史と民主主義政治を充分研究した結果、円満なる政務の運用と皇室の御安泰、御繁栄とを併せ求めんが為には、政治形態として英国流の君臨すれども統治せず≠ニあるを最上のものとし、陛下に対しても常々此の事を申上げたと聞いている。この西園寺の考え方は、牧野、斎藤、湯浅等の内大臣を経て木戸に踏襲せられ……陛下としては自分よりの指揮命令による政治は絶対になさらないで、それぞれの責任者に全てをご一任になり、その上その責任者の奏上は内容に付いてはご下問になるが、絶対に拒否せらるゝこと、拒否権の行使はない……〈作田高太郎『天皇と木戸』〉
[#この行1字下げ] 陛下が、ご遠慮勝ちと思われる程、滅多にご意見をお述べにならぬことは、西園寺公や牧野伯などが英国流の憲法の運用ということを考えて、陛下は成るべく、イニシアティブをお取りにならぬようにと申上げ、組閣の大命降下の際に仰せられる三ヶ条――憲法の尊重、外交上に無理をせぬこと、財界に急激なる変化を与えぬこと――以外はご指図遊ばされぬことにしてあるためかとひそかに拝察される。(近衛文麿)〈近衛『平和への努力』102〉
西園寺のいうこのような天皇のあり方は、輔弼の臣、とくに首相や統帥関係に人を得たときには、うまく機能する。しかし、それを欠いたとき、日華事変さらには太平洋戦争に至る過程で、どのような試練を受けるか……この点は先に行って徐々に明らかにするとして、ここでは、この問題についての戦後の天皇自身の感想など、いくつかの代表的な発言を掲げておく。
「自分が恰もファシズムを信奉するが如く思わるゝことが、最も堪え難きところなり、実際余りに立憲的に処置し来りし為にかくのごとき事態(太平洋戦争と敗戦)となりたりとも云うべく、戦争の途中に於て今少し陛下は進んで御命令ありたしとの希望は聞かざるには非ざりしも、努めて立憲的に運用したる積りなり」(天皇)〈木戸1238〉
「陛下が若し積極的に指導されて、軍を押え付けて行かれたならばと云う人もあるが、自分はそうは思わぬ。又、実際陛下は随分軍の態度の矯正には力を用いられた。然し大勢は|已《すで》に明治末期から醸成されて居たので、如何することも出来なかった。若し陛下が更に突き進んだ態度をとられたならば恐らく内乱が起きたであろう。又夫れでなくとも責任が直接陛下に及ぶ様なことになったかも知れぬ」(木戸幸一)〈重光『巣鴨日記』373〉
「天皇は側近に阻まれて行動が出来ざりしなり。天皇さえ直接軍に命令されたならば、何等問題なく、天皇の意思は実現せられた筈なり。国を誤りたるは側近なり」(荒木貞夫)〈同416〉
「英国流に陛下がたゞ激励とか注意を与えられるというだけでは、軍事と政治外交とが協力一致して進み得ない」(近衛文麿)〈近衛文麿『失はれし政治』(21年、朝日新聞社)144〉
話を戻して、久し振りに拝謁した西園寺は、続いて政局の見通しについて言上した。
若槻内閣は、すでに首相が辞意を洩らし、安達内相は連立内閣構想に走り、南陸相は部下の結婚式に出席するといって閣議を中座するありさまである。こんな弱体の内閣が、長くその任に堪えられないのは明らかだ。次の内閣はどうするか。政友・民政連立内閣か、政友単独か、それとも、平沼や宇垣や斎藤実らの超然内閣か……。「今日の如く既に立派に立憲政治が完成している場合」に、その主旨から逸脱せずに、しかも軍に対して発言力をもち、議会も乗り切るには、若槻首相が政友会の犬養総裁に協力を要請して、内閣改造をするか、連立内閣を樹立することが必要なのかもしれない。
「若槻と犬養に自分から話そうか」
天皇はこうまで言ったが、西園寺は反対だった。
「陛下からどうこうという風なことになると、或は神聖なるべき天皇に責任が帰して、――即ち憲法の精神に瑕がつくことになります……若槻が動いて犬養を説く、それができるならこれは已むを得ないですが……」
西園寺は、満州事変や十月事件を引き起こした陸軍に対する具体策を言上することなく退下した。いや、むしろ、立憲政治の大筋を示すことによって、輔弼の責任がある政府が「陛下のご意思に沿うよう努力すべき」で、天皇自身が直接に軍の意思や行動を押えるのは、その大筋から逸脱することになると説いて、興津に戻った。
そして――政局は、次期内閣構想をめぐって、にわかに緊迫しはじめた。
十一月二日、西園寺が天皇に拝謁した日に、三井銀行本店が社会党青年同盟の一隊、百余名に襲撃された。
「国民生活を蹂躙し、ドル買いに狂奔する金融資本の牙城を粉砕せよ」とか、「三井財閥を|膺懲《ようちよう》せよ」との激烈なビラを撒布した一隊は、行内一階の事務所を取り囲んで労働歌や革命歌を高唱し、テーブルの上に登って財閥攻撃の演説を始めたが、間もなく警察隊に取りおさえられた。
この日、千五百名の青年行動隊は、分散して、三井銀行のほか、三菱、住友などの財閥首脳の私邸にも押しかけて、「ドル買い財閥をブッ倒せ」と五十万枚ものビラを撒き散らして気勢をあげた。
「ビラによると、ドル買いに狂奔し国民生活を蹂躙している様に過激な言葉で書いてあるが、それは誤解である。当銀行はポンドを多く所有していることと、外国為替の取引額が多いので、銀行としてまじめな商取引の上からドルを買ったもので、金輸出再禁止を見越して買ったなぞということはない」〈朝日新聞11月3日付〉
三井銀行筆頭常務の池田成彬は、弁明に大童だったが、このころ北一輝の右翼団体が怪文書戦術で攻撃を始めたことも重なって、ドル買い糾弾で国内は騒然としはじめた。
九月二十一日にイギリスが金本位制を停止して以来、ポンドが二割ほど下落し、英国商品は中国にまで顕著に進出して、日本のメリヤス等の輸出は打撃を受けた。加えて、満州事変勃発以来、中国での排日貨運動が激しくなっており、財界は危機感を強めた。ドル買いの殺到も凄じかった。
当時日本の銀行は、国内金利の低下を嫌い、余裕資金で「ドル貨を買入れ、之を先物に売繋ぎ安全を計ると共に、之をロンドンに回金し」、短期外国証券を中心に投資していた。ところがイギリスの金本位制停止により「国際為替は一大衝撃を受け為替取引は休止状態に陥り……ドル先物約条履行の為自衛上必要限度のドル買いの必要を生じ、外に……外債利払並一般取引先の輸入為替等実需に基く為替取極の為、Cover を正金銀行より求むる事」〈池田成彬『財界回顧』(24年、世界の日本社)137〉になった。
この他に、資本逃避やドルの思惑買いも当然加わって、九月二十一日から一週間で、正金銀行のドル統制売り(決済期にドル資金が不足すれば、日銀が正貨を払下げる諒解付きの為替先約)は二億円以上、十月十五日までには四億円、金再禁止直前までには五億一千万円の巨額にのぼった。このため、日銀正貨準備は、政府の必死の|防遏《ぼうあつ》策にもかかわらず、金解禁をした昭和五年一月の十億六千万円から、再禁止の六年末には四億七千万円にまで落込んでしまった。
金本位制堅持の方針を声明した政府は、十月と十一月に二度も日銀金利を引上げ、正金銀行には正貨を現送させるなど、あらゆる手段を講じて金本位制維持の施策を強行したが、ドル買いはなかなか鎮静化しなかった。
「投機によって国の通貨制度を弄び、その制度の根本を破壊するのは売国的攪乱行為である」〈『南次郎』310〉
井上蔵相は非難声明を出したが、ドル買いのうち、五割近くはナショナル・シティや香上などの外銀であり、残りもポンドを封鎖されたために輸入資金としてドルを手当てしたものなどがあったから、井上の感情的な売国#難はいたずらに世論を煽って混乱させるだけだった。
十一月十日、政友会は議員総会を開いて、「現下の経済政策として即時金輸出再禁止を励行すべし」と決議した。
井上蔵相はさっそく、「再禁論は認識不足」と反駁したが、政友会はさらに、再禁しなければ「正貨の流出は防止すべくもなく、ために国内の金利は昂騰し、民間預金高は減ずる故、(約八千万円の)公債はこれを公募によって発行する事を得ず」〈朝日新聞11月11日付〉、来年度予算は全く実行不可能ではないか、と攻撃した。当時の日本の経済力では、「イギリスが再禁止した時に日本も止めるのが本当」(池田成彬)〈池田成彬『財界回顧』154〉だったのだ。
若槻内閣は窮地に追い込まれた。
一方、閣内でも、安達内相の「連立内閣運動が喧しくなって、所謂安達一派の策動は頗る露骨を極めていた」。
「どうしても連立でやって行きたいから、軍部の諒解を求めて、民政党と政友会と一緒にさせたらいい」
安達内相は原田に打明けた。内務大臣という職掌柄、安達は十月事件を始めとする軍部の不穏な動きについて詳細に情報をつかんでいる。知りすぎるだけに安達は焦燥感と自らの野心から、三井財閥と結んで、犬養を首班とする政友民政両党の挙国一致内閣をもって軍部と了解をつけてこの危機を突破しようとした。しかし、相手方の政友会の犬養総裁は、金再禁問題で両党の意見が全く食い違う以上、連立はあり得ない、とそっけなかった。
――若槻内閣はいつ退陣し、後継はどうするか。
「まずごた/\するのは大演習後だな」
十一月十三日、西園寺は、後継首班に犬養政友会総裁を推薦する肚をきめながら、原田に語った。
「平沼を持って来たり、宇垣を持って来たりすることもできなくはないが、(民政党長老の)山本達雄を持って来て、このまま(民政党内閣を)延長して行こう、というようなことは、一番困難な話だと思う。いずれにしても、若槻総裁も幣原外務大臣も、もう既にくたびれ切っている。財界の問題は頗る重大であって、この際よほど考慮しなければならないけれども、これもまた他の重大な点を考えると、多少の犠牲は忍ばなければならん……」
財界の問題――つまり金解禁を続けるのも、「他の重大な点」――後述の皇室に対する悪声――を考えると、この際は犠牲にせざるを得ないだろうと、西園寺は決心していた。金解禁維持をあきらめる、すなわち政友会に政権を担当させるということである。
十二月十日になって、協力内閣を声明していた安達内相が、とうとう振り上げた拳のやり場に困り、党出身閣僚会議を中座して「自邸に引揚たる儘、再三首相官邸より招請せるも、遂に再び会議に列席せず」という態度に出た。これで安達が辞表を出さなければ、総辞職だ。
翌十一日、若槻は原田を呼んで、総辞職の決意を伝えた。
「内務大臣を明け方の三時まで待っていたが、遂に帰って来なかった。それで、今日また十時からの閣議に列してくれ≠ニ言ってやっても、所労と称して出て来ない。閣僚の一人にかくの如き異論のある場合は安定しないから、辞めてもらいたい、と思っている。もし内務大臣が辞めない時には総辞職を決行しなければならない」
原田は興津へ急行した。
「それは困ったな。まあ已むを得ない。自分は今までいろ/\考えてみたけれども、結局やはり犬養を奏請するより仕方があるまいと思う。……どう思うか」
西園寺は半ば予想していたような口ぶりで話したが、原田はびっくりした。「どう思うか」といわれたのは、「今まで政変に際して公爵の所に伺うのは、これで四度目であるが、今度初めて」だ。原田は慌てて答えた。
「むろん犬養さんがいいと思います。が、安達内相と共謀した政友会の久原幹事長を閣僚にしないことが、政治道徳上必要かと思います」
午後五時半、ちょうど西園寺と原田が話しているころ、若槻は参内して、辞表を捧呈した。
翌十二日の朝、西園寺は、「老体で気の毒であるがぜひ上京するように」という天皇のお召しを受けて、上京することにした。
犬養の単独、と決めていたものの、西園寺はまだ迷っている風だった。
「外交に対していかに非難が多くとも、やはり原則としては幣原のやり方がよい、財政は不景気で困る、消極的で浮ばれない、という声がいかに国民の間に多くあっても、大体において井上の方針がとにかくいゝのではないか」
こういう気持が西園寺にはあったが、原田は、「今日、若槻、幣原という名前をきいただけで、世間はいゝ気持はしない。とにかくこの際は、空気を一変しなければ……」とすっかり見放していた。
それに、若槻内閣は安達らの陰謀で倒されたからといって、再び若槻に大命を降下できない事情があった。もし再降下すれば、「側近攻撃、宮中に対する非難中傷」が一段と強くなる虞れがあった。そうでなくても、天皇に関する悪質なデマが、まことしやかに流されている。
「近衛の勤番の兵隊が御所の中を回っている時に、陛下の御部屋に遅くまで灯がついている。これは陛下が政務御多端の折から非常に御勉強のことだと思って畏れ入っていると、あに図らんや皇后様等をお相手に麻雀……」
「最近、陸軍大臣が御裁可を仰ぐために参内したところ、三時間待たされた。どうしてそんなに待たされたかと思ってきいたところが、陛下は内大臣、侍従長を相手に麻雀……」
「青年将校の結社の行動には皇族方も御賛成で、血判をしておられる」
こんな悪質なデマがさらに広がって、「宮中に対する悪声、続いては悪感情」が強まれば、それに便乗して、「官僚出身の一部の先輩及び軍部の陰謀がある」〈原田2─168〉から――具体的には平沼一派が「単純な軍部の連中を引きずり回して、国家の前途をいかなる情勢に導くかも測り難い」。
といって、安達らの主張する協力内閣を奉答することは、倒閣の陰謀を奨励することにもなり、「陰謀を嫌い、憲政常道に立脚する」西園寺としては容認できない。
「(すると残るは)犬養の単独より方法がないじゃないか。貴下はどう考えられるか」
西園寺はこの朝も原田に再び訊ねた。
「やはり犬養の単独より已むを得ませんでしょう。財界に及ぼす影響は非常に重大でありますけれども、しかし今日の事情はこれをも忍んでなんとかしなければならない重大な時でありますから」
原田の返答に、西園寺は頷いた。
上京した西園寺は、午後四時十分、天皇に拝謁して、後継内閣首班について下問を受けた。犬養の単独――西園寺はこう奉答するつもりでいたところ、異例なことに、奉答前に「陛下からごく御内密に御依頼を受けた」。
「この際、後継内閣の首班になる者に対しては、特に懇ろに西園寺から注意してもらいたい。即ち今日のような軍部の不統制、並に横暴、――要するに軍部が国政、外交に立入って、かくの如きまでに押しを通すということは、国家のために頗る憂慮すべき事態である。自分は頗る深憂に堪えない。この自分の心配を心して、お前から充分犬養に含ましておいてくれ。その上で自分は犬養を呼ぼう」
御軫念の点も重々御尤も=\―西園寺は駿河台の私邸に戻ると、原田に命じて犬養を呼んだ。
「犬養さん、あなたがもし組閣するとしたら、連立で行くか単独でいくか、どちらですか」
「連立は大隈内閣以来、しばしば試みて失敗しているからこりごりです。もし自分に大命が降下したら、むろん単独でやります」
「単独で組閣できなかったらどうします」
「自分は単独が生命です。単独でやれます」
「それでは、あなたを奉答することにします。先ほど陛下からあなたにお言葉がありました……」〈『森恪』719〉
西園寺は犬養に、これは聖旨であるとことわって、「時局の重大なるに鑑み、軍部の統制を充分確保すること、財政外交等に就ても充分慎重なる考慮を要すること、組閣に就てはなるべく其の基礎を広きに求むること」と伝えた。至極同感――犬養は天皇の意向を充分に了解した。
犬養が去ると、西園寺は鈴木侍従長を呼んで、「後継内閣組織の大命は犬養毅に降下可然旨を」伝え、午後八時に犬養は組閣の大命を受けた。
「財閥の力、よく政変を招来せるものなり」〈木戸155〉
横浜正金銀行ロンドン支店長の加納久朗は、原田や近衛に「政変前後のドル買いの策動振り」を紹介しながら、語った。また政治評論家の馬場恒吾も同じことをいう。
「ドルを買って置いて、さてその儲けを握るためには政府をして金再禁止を行わしめなければならぬ。しかるに民政党内閣は断じてそれを行わぬ。政府をして金再禁止を行わしめるためには政変を起す必要があった」〈原田2─165〉
馬場の指摘は、金輸出再禁止という面から見れば、正しい。原田もそれは認めるが、「何物にも代えられない問題は宮中府中の関係であって、宮中に対する悪声、続いては悪感情と比べれば些細な遺憾である」と割り切っていた。
犬養内閣は十二月十三日(昭和六年)に成立した。
大蔵大臣には、元首相で蔵相を何度か経験した高橋是清が就任し、即日、金輸出再禁止に踏み切った。
内務大臣は、「従来とかく鈴木(喜三郎)、床次(竹二郎)両者の暗闘の中心であったので」、これを避けて、中橋徳五郎(元大阪商船社長、原内閣の文相)が就任した。『森恪』によれば、前年の総選挙で中橋は百万円の選挙資金を調達する代りに内相に就任する諒解を得ていたという。〈『森恪』726〉
外務大臣は、犬養の女婿で、駐仏大使、国際連盟日本代表だった芳沢謙吉(七年一月十四日就任、それまでは犬養首相兼任)、陸軍大臣は荒木貞夫中将、書記官長は森恪が就任した。荒木を抜擢したのは、平沼枢密院副議長が森に強力に推薦したためという。
犬養が閣僚の銓衡を一夜で終えて閣僚名簿を捧呈すると、天皇は、「人格につき面白からざるものはあるまいな」と念を押した。政府に対する非難や攻撃が強い今、できるだけ難点の少い人を選ぶようにという聖慮だが、犬養も、組閣参謀の古島一雄に、「おい、虫の喰わぬ材木で造ろうぜ」〈『森恪』724〉と意気込んで、組閣を終えていた。
[#この行1字下げ] 今回の内閣は高橋大蔵、中橋内務、床次鉄道、鈴木司法等、いわゆる総理級の人物を網羅せるところが特長ともいうべきか。問題の人物の排除せられたるは大に宜し。
木戸も一安心したようだったが、ちょうど政変直前に東京で令嬢の結婚式を済ませて京城に戻った宇垣朝鮮総督は、自分が推した阿部中将が陸相に就任しなかったこともあって、冷やかだった。
[#この行1字下げ] 犬養政府は最初から長続きせざる様の感じがする。老人揃い而かも病弱者の参加が多い。組閣が十三日なる縁起の好からざる日である。〈宇垣日記821〉
長続きせぬ=A縁起がよくない=\―宇垣の予感は不幸にもまもなく的中する。
陸軍は、犬養内閣を好意的に迎えた。
「荒木中将陸相就任に|方《あた》り、犬養総理は、満州問題は軍部と相協力して積極的に之を解決すべき旨言明せり」
参謀本部作戦課は、『機密作戦日誌』に記した。
しかし、陸軍が喜ぶほど、犬養首相は軍に協力的ではなかった。まず、組閣の際に天皇から、軍部の統制、外交に就て慎重配慮せよと言葉があった。さらに、犬養自身も、「成るべく早くこの事変を終熄し、この機会をもって支那との関係を改善したき理想」〈古島一雄『一老政治家の回想』(50年、中公文庫)242〉に燃えていたから、陸軍が進めている満州国建国にも反対だった。
陸軍が犬養内閣を歓迎したのは、森恪が書記官長に就任したためでもあった。森は犬養内閣で、「極端な批判をする者は森内閣だとさえ云った位」の発言力を持っている。この森が、「満州問題はどんな犠牲を払ってもこの際解決してしまわなければいかぬという固い信念」〈『森恪』786〉に燃えていたから、陸軍には好都合だった。
関東軍の意図する満州全域の武力制圧と独立国の建設は、若槻内閣の時と比べると、はるかに順調に進展しはじめた。
十二月十三日、犬養内閣成立の日に、関東軍は、石原参謀が中心になって研究を進めてきた錦州攻略要領を、中央に献策した。中央は直ちにこれを承認し、二宮参謀次長は、「匪賊討伐及其根拠地掃蕩等の目的名分を以て」錦州攻撃に賛成すると返電し、さらに混成一旅団を内地から派遣し、場合によっては朝鮮からも一旅団増派することを考慮すると付け加えた。
すでに北満州では、関東軍が馬占山の黒龍江省軍を追って、十一月十九日にチチハルに到着し、その結果、「排日気分一掃せられ……平和裡に北満経略を進め得る見込み十分……」〈『現代史資料』7巻275〉という成果をあげている。あとは、張学良が仮政府をおく錦州を攻めて、満州から追い払ってしまえば、建国の準備はほぼ整う。
錦州攻撃の了解を得た関東軍は、勇躍して攻撃準備に取りかかった。
十二月十七日、関東軍は、満鉄に最も近い兵匪≠フ根拠地の法庫、昌図県下の討伐命令を発し、これに|託《かこつ》けて錦州攻撃を行なう予定で、前進を開始した。しかし、張学良は徹底抗戦を放棄して主力を錦州から撤退させたので、関東軍は戦わずして正月の三日に錦州を占領した。
「満州が建設時期に入る」
外務省の谷アジア局長は原田に語ったし、朝日新聞も一月四日付で、「皇室の威武により満州、建設時代に入る」と報じた。柳条溝事件発生以来わずか三カ月半で、日本軍は日本本土の三・五倍、朝鮮の五・九倍の領土を征服したことになる。
東京から戻って、西園寺は風邪気味だった。犬養内閣が成立した十二月十三日に、西園寺は原田を伴って新橋駅を発ったが、この時、ホームは吹雪で荒れていた。この寒さがたたったのか、のどがはれて、軽い咳が続いた。
さらに、興津に戻った夜、日本列島は寒波に襲われ、東京は零下三度六分を記録した。興津も例年よりずっと寒さが厳しい。坐漁荘では、電気ストーブをつけっぱなしにして室温を保ち、西園寺は居間でふとんにくるまって大事をとっていたが、二十一日になって急に熱が出はじめ、三十八度二分に上った。夜半には主治医の勝沼精蔵博士が名古屋から駆けつけて徹夜で治療に当るなど、坐漁荘はにわかに憂色に包まれた。
西園寺が病気になると、もう八十三歳だから、今度は……≠ニ勝手な思惑で、あらゆる策動が始まる。天皇の側近を総入替えし、内閣を倒し、後継首班推奏の役まで狙う。
犬養内閣はようやく動き始めたばかりだし、一日も早く回復してほしい=\―原田が祈るような気持でいると、幸い西園寺の風邪は大したこともなく、年末には床をあげた。
昭和七年正月――
「やはり自分は、犬養の単独内閣を奏請したことは事情已むを得なかったし、また当然なことだったとも思っている」
元旦の昼、西園寺は原田に語った。
暖かな正月だった。駿河湾が遠く雨に煙っている。西園寺は久し振りに洋室前面のベランダの椅子に腰をおろして、政権交代の話をあれこれ始めた。
風邪も治ったし、この分ではしばらく静かにいくかな――原田もようやく正月を楽しむ気分になっていた。
しかし――
このころ、森書記官長は、できたばかりの犬養内閣を見捨てて、挙国一致内閣の画策を始めていた。
暮も押しつまった二十九日〈『伊沢多喜男』(26年、伝記編纂委員会)205〉、森はひそかに、元台湾総督で民政党に影響力のある伊沢多喜男貴族院議員を訪ねた。
「政友・民政・軍部を再結集して挙国一致の政治力を発揮し、以て事に当らねばならない。それには、平沼内閣を作って、鈴木喜三郎司法大臣を副総理に据えて、民政党からも人を入れて強い力を発揮したらどうか」〈『森恪』791〉
森はしきりと説いたが、伊沢は、「まあ、一晩考えてみよう」と軽く聞き流しただけだった。
それにしても、内閣書記官長の森が、犬養首相を見捨てて、挙国一致内閣の運動を始めるのは穏やかでない。
古島一雄によれば、森は小磯軍務局長と通じて、「自分が外務大臣になろう」と謀っていたという。「結局、外務大臣と陸軍大臣を占めてしまえば満州問題は自ら片付く」と森は考えたようだが、犬養は「満州は大事の前の小事」で、何より「支那との関係を改善したき理想」〈古島『回想』242〜243〉に燃えていたから、これも犬養が障害になってうまく行かなかった。
新年早々、森に一つのチャンスが訪れる。
一月七日、原田は満四十四歳の誕生日を迎えた。
昼から料亭桑名に、木戸と、同じく学習院、京大を通じての同級生の織田信恒貴族院議員が誕生祝いを兼ねて集まった。近衛は鎌倉で療養中のため欠席したが、三人は森の動きや陸軍の内情などを「夕方まで話して」席を立った。
明日は、陸事始めの観兵式が挙行され、それが終ると関東軍の板垣参謀が特別に天皇に拝謁を許されて関東軍に勅語を賜わる予定だという。外に出ると、雨が降りはじめていた。
「明日は登庁しても仕方ないから、ゴルフに行く予定なんだが……」
木戸が空を見上げると、原田も首をすくめて応じた。
「オレは興津だよ」
翌日、夜来の雨もやんで、東京の空は晴れわたった。毎日「暖かい日が続く」。
午前十一時ころ、原田と木戸は相次いで霞ヶ関の辺を自動車で通った。
原田は、「外務省への途次、ちょうど往来を掃除しているのを見て、やがて観兵式から還幸になるのだな、と思いながら」、外務省で白鳥情報部長や谷アジア局長と話し込んだ。
木戸は、ゴルフバッグを積んで程ヶ谷に行くため、「往路虎ノ門辺りを自動車にて通った際、何となく今日は問題が起りそうな予感があった」が、そのまま新橋から汽車に乗った。
午前十一時四十四分。
観兵式を終えて、代々木練兵場を後にした天皇の|鹵簿《ろぼ》が桜田門外の警視庁前にさしかかったとき、そこに集まった千名あまりの市民の中から、行列めがけて手榴弾を投げつけた者がいた。幸い、手榴弾は破壊力に乏しくて、「第二輛目なる宮内大臣の乗用馬車」近くにころがって白煙をあげ、車体にかすり傷をつけただけで、天皇の行列はそのまま通り過ぎた。犯人はその場で取りおさえられ、朝鮮人の李奉昌、三十歳、朝鮮独立運動に関係する男と判明した。
事件直後、木戸は東京に呼び戻され、原田も、一時の汽車で興津に向かったが、横浜駅で首相官邸からの連絡を受けて、食堂車の「勘定も払わずにすぐ飛び降りて」引き返した。
大正十二年の暮、天皇がまだ摂政だったとき、虎ノ門で難波大助が御料車に発砲した事件があった。このとき第二次山本権兵衛内閣は引責総辞職をしている。今度も同じような事件だから、犬養内閣も総辞職することになるのか……。
午後一時半、その山本権兵衛が、首相官邸に犬養を訪ねた。日露開戦の時に海軍大臣をつとめた山本は、今や八十歳に手がとどかんとする老人だった。犬養は第二次山本内閣で逓信大臣だったから、二人は虎ノ門事件で辞表を一緒に提出した仲でもある。
「大正十二年に自分があの虎ノ門事件に遭った時と今日とは、非常に事情が違う。今日の場合、このことのために内閣がすぐ総辞職をするのは面白くない。寧ろこの際は、総理から進退伺でも出したらどうか」
山本は総辞職に反対だった。ちょうどそこへ原田が駆け込んで来た。
「君はまだやっちょるか」
「まあ、一生こんなことでもしているんでしょう」
「西園寺公は出て来ぬか」
「公爵はこの間中、少し身体もお悪かったから、今すぐどうというわけにも行きますまい」
「まあ、生きとりゃあえゝ」
結局、犬養首相は午後五時すぎに参内し、犬養以下、在京中の閣僚の辞表もあわせて捧呈したが、天皇は、「その儀に及ばず」という意向のようだった。
「追って何分の沙汰あるまで国務に精励せよ」
御諚を受けて犬養が退下すると、天皇は牧野内大臣を呼んだ。
「内閣は辞表を捧呈したるが、留任せしめたい。どう思うか」
牧野は、「西園寺公に御下問可然旨を奉答」、鈴木貫太郎侍従長が興津へ急行した。
「今日の御下問は、ぜひこの内閣に留まれという陛下の思召だそうで、自分も大変結構だと思ったから、そのように奉答した」
西園寺は、夜中の二時に鈴木侍従長が坐漁荘を去ってから、原田に話した。
翌日、天皇は、「内外非常の時に当り努めて留任を希望す」と優諚を下し、犬養内閣は行幸警衛監督の最高責任者である中橋内務大臣を含めて全員が留任することになった。
「自分は大失敗をした。犬養を見損った。彼には案外弱いところがある」
一月十五日の夜、森書記官長は原田をつかまえて、「非常に興奮した様子で」まくしたてた。挙国一致内閣を夢みる森としては、中橋の留任はもちろん、犬養内閣の留任そのものに不満だったのだろう。
二日後に原田が興津に行って、森の動きなどを詳しく報告すると、西園寺は眉をしかめた。
「この内閣、どうも長くないな……。陸軍はどうしても引締めたいと思うが、まあ困ったものだ……。一体、宇垣はどうするんだ。この内閣が倒れたら、井上(準之助)もいいだろうが、宇垣と民政党の協力でやらせたらどうか。陸軍では、宇垣は駄目だ、というけれども、今から宇垣の宣伝をしておいて、思いきって宇垣にやらしてみようか」
陸軍は宇垣系が六割くらいである。「多少スペキュレーションはあるが、かえっていいかもしれません」と原田は賛成した。
しかし、原田のいう宇垣系六割≠フ勢力は、このころ急速に駆逐されつつあった。
まず犬養内閣に荒木が陸相として入閣し、かつて宇垣が「極力推輓」した南前陸相は、軍事参議官に退いた。
続いて十二月下旬には、宇垣が「聖断までも煩わして無理押して其地位に就けた」金谷参謀総長が辞任した。後任は、荒木陸相が陸軍三長官の一人の武藤教育総監と相談して「いろいろ考えをめぐらした結果」〈有竹修二編『荒木貞夫 風雲三十年』(50年、芙蓉書房)67〉、陸軍最長老の閑院宮元帥を、「実務は次長が執りますから」と担ぎだした。そして一月上旬には、台湾軍司令官の真崎甚三郎中将が、参謀次長に就任し、宇垣の腹心の二宮は追い出されてしまった。いわゆる皇道派全盛時代の始まりである。
宇垣にいわせれば、「武藤、真崎、荒木輩は上原元帥の|傀儡《かいらい》である」、そしてこの上原元帥は、「御殿女中の腐った様な奴で執念深き事蛇の如し」という表現が当てはまる男で、「一族郎党の便宜の為には陸軍を犠牲とするも辞せざるの態度があり」〈宇垣日記924〉と、悪口雑言の限りである。この上原元帥の傀儡≠ェ、陸軍省、参謀本部、教育総監部を握ったのだから、「中央要路の椅子から宇垣派を駆逐して、真崎、柳川、山岡、小畑ら自派の将星をもってこれに替らしめ」ることになるのは当然だ。このため、宇垣系六割≠ヘ急減し、宇垣が政権を握るための一つの条件である陸軍の支持は、見込み薄になっていた。
そしてもう一人、西園寺が原田と話した次期政権候補の井上準之助は、この二十日後に暗殺されてしまう……。
国際都市上海。――一八五〇年の太平天国の乱以来の共同租界には列強の駐屯軍が配備されており、イギリスは中国への総投資額九億六千万ドルの七十七パーセント、アメリカは同じく一億五千万ドルの六十五パーセントを上海に集中、フランスも独自の租界を設けるなど、欧米諸国の利権が集中している。
原田が興津から戻った翌十八日、この上海で、日蓮宗僧侶が中国人民衆に襲撃されて、一名が死亡するという事件が起った。実はこれも、「上海で事を起して列国の注意をそらせて欲しい、その間に満州独立まで漕ぎつけたい」〈田中隆吉「上海事変はこうして起された」―『別冊知性 秘められた昭和史』所収―182〉と関東軍の板垣参謀から依頼を受けて、上海駐在武官補佐官の田中隆吉少佐が企てた陰謀だった。田中少佐によれば、板垣から受けとった二万円と鐘紡の上海出張所から借りた十万円を使って「買収した中国人の手で日本人僧侶を狙撃させ」、「そのデッチあげ事件について、日本総領事館から中国政府へ抗議するとともに、上海陸戦隊を武装配置させた」〈『昭和史の瞬間』(41年、朝日新聞社)上132〉という。
二十日になって僧侶襲撃事件に激昂した日本人居留民が中国人に報復を始め、一月二十八日には、とうとう海軍陸戦隊と中国第十九路軍が戦端を開いた。当時の日本の陸戦隊兵力は二千名足らず、一方、十九路軍は三万三千名あまり、しかもアイアン・アーミー≠ニ呼ばれる中国革命軍のなかで最強の部隊であったから、日本側は、陸戦隊を増強するだけでは足らず、一月三十一日に大角海相は陸軍の出兵を荒木陸相に要請、二月二日には閣議で陸軍一個師団の派遣が決定された。
一月十八日、ちょうど上海で日本人僧侶が襲撃された日の午前、東京では、永田町の近衛邸に、原田と木戸が集まっていた。
軍部のクーデター計画が切迫している、満州では二月十一日の紀元節を期して新国家を建てるといっているが、これに呼応して、十月事件≠フような「当初の計画を飽迄実行せむ」陰謀が進んでいるという――。
近衛が、聞き込んだ噂を話すと、木戸も、牧野内大臣が「不穏の計画があるんではないか」と心配していたと付け加えた。
牧野内大臣は、二、三日前に英国大使リンドレーから、妙な質問を受けた。
「陸軍に於てクーデターを計画するものあり、荒木も加わり居るとの聞込あり、右は事実なりや」
こんな情報を突き合わせると、陸軍の一部将校が、またも大川周明や北一輝らの右翼理論家や社会民衆党の赤松代議士らと共謀して、荒木陸相を担いだクーデターを計画しているようにも思える。犬養首相を排除して荒木内閣を実現する――それに森書記官長や政友会の久原房之助も関係しているという風評も流れた。
このとき実は――
血盟団と海軍有志(古賀清志中尉、伊東亀城少尉、大庭春雄少尉、中村義雄中尉)が、二月十一日の紀元節に参内する「政党、財閥、特権階級の巨頭が一緒に皆下がって来る」ところを待ち受けて、ピストルで「集団的に襲撃する」計画を練っていた。
しかし、この計画は「海軍側同志中には上海事変で出征中の者があり、もし二月十一日に決行すれば海軍側同志は二分されることになる」〈「中村義雄証人尋問調書」―『現代史資料』5巻所収―613〉という理由で、実行が難しくなった。
一月三十一日になって、井上日召は計画を変更した。
「二月十一日は駄目だ、間に合わぬ、今から準備しても海軍の様子も分らん、分らんのに準備も出来ん、二月十一日は止める、(しかし)総選挙の期日は二月二十日だから、それ迄の間がこの政党巨頭を狙うのに絶好の期間だ、その間にやることにしよう」〈血盟団上269〉
改めて襲撃目標とその担当も割り振り直し、「民間の同志丈けでやる……一人が一人をやるということになった」。〈血盟団中200〉
政友会 犬養毅、鈴木喜三郎、床次竹二郎
民政党 若槻禮次郎、井上準之助、幣原喜重郎
三井 団琢磨、池田成彬、郷誠之助
三菱 各務鎌吉、木村久寿弥太、岩崎小弥太
特権階級 西園寺公望、牧野伸顕、伊東巳代治、徳川家達
他に、安田、住友、大倉の各財閥より各一名、警視総監
合計二十名
二月九日、襲撃目標に井上準之助前蔵相を割り振られた血盟団の小沼正は、本郷区駒込追分町の駒本小学校に出向いて、通用門の暗がりの壁に身を潜めた。|飛白《かすり》の着物に黒っぽい羽織、博多の角帯を締め、前掛けをつけている――どこから見ても商人としか見えない。
午後八時、井上は、民政党候補で浜口元首相の親戚に当る駒井重次の応援演説のため、通用門前に車で着いた。同乗の駒井に続いて井上が車を降りて、演説会場へ向かって足を踏み出したとき、待ち受けていた小沼は井上のうしろにスーと近づいた。
[#この行1字下げ] 通用門を二、三歩入って行った時に私は静かに出ました、脇と前には人が居るけれども後には誰もいない、私は背後に迫った、吸い付けられるように井上準之助と私の身体が接近してしまった……パンと引金を引いた、パン、パン、パンと三発放った、その二発目の時に、あっ/\という声を聞いたのです、三発射った時に、この野郎≠ニ私をなぐった人がある、こんなに太いステッキでなぐられた、それで意識を失ってしまった……。〈血盟団下403〜405〉
倒れた井上前蔵相はすぐ東大病院に運び込まれたが、胸腹部に当った三発の銃弾で内臓はメチャメチャに損傷しており、手当ての施しようもないまま、八時十五分ころ息を引きとった。
[#この行1字下げ] 真に痛嘆に堪えず。我国の将来に最も期待を有する大政治家を失う、国家の不幸なり。
木戸は嘆いたが、取り調べに当った警視庁は、小沼の「曖昧模糊、措信し難き」〈血盟団上3〉供述に惑わされて、血盟団の正体に気付くのが遅れた。
翌朝、原田は木戸に伝えた。
「西園寺公は、井上さんが暗殺されて大変落胆しておられる。昨夜も電話で報告すると、数日の間、だれにも面会したくないといっておられた」〈原田別134〉
このころ、西園寺の身辺にも危険が迫っていた。西園寺襲撃を担当した東大生の池袋正釟郎は、二月三日に井上日召からブローニング小型拳銃と弾丸二十五発を受けとって興津に向かった。
「頼む」
権藤成卿の空き家の門まで見送った井上は、池袋の両手を握って励ました。
「西園寺の邸宅の前の門の所には憲兵とそれから私服が二人立っております、裏の庭の方にはボックスがあって私服が一人入っております、しかし庭というのも余り広くはなく……石の壁は私の胸位までしかないので、庭に散歩に出て来れば必ずやれると思いました、それでとにかく、気候の好い十時から二時か三時の間に散歩に出て来ると大体見当をつけて見張っておって、一遍出て来たのを見たらその次の日は拳銃を持って行って、やろうと思いました」〈血盟団中349〉
しかし、いつまで待っても西園寺は庭に姿を見せない。このころ、西園寺は、「望遠鏡の最上のものを探すこと」〈原田別144〉と原田にいいつけており、海岸や付近に人影がチラリとでも見えると庭に出ないほど用心していた。
九日に井上前蔵相がやられてから、坐漁荘の警戒も一段ときびしくなった。「此のまま掴まりはせぬかと心配」になった池袋は、西園寺を一人で襲撃するのを諦め、「二人応援して貰って、三人で屋敷の中に踏込む」方針に切り替えて、二月十三日、ひとまず東京へ戻った。
井上前蔵相暗殺事件は各方面に大きな衝撃を与えた。防弾チョッキを備える人も出てきて、井上日召のいう恐怖心≠ェ広がっていった。
[#この行1字下げ] 支配階級全部に、誰それが襲われたという恐怖心が起る、我々の目的は彼等の自覚です、ともかく生命に対する危害より彼等は恐るべき何物も持たぬ、唯々それだけは本当に恐れる、金持喧嘩せずだから、それの恐怖に依って彼等は何とか自らの途を打開して行くだろう……。〈血盟団上281〉
また、陸軍クーデターの噂も飛び交って、一層恐怖感を煽り立てた。暗殺とクーデターの影に怯えながら、上海事変の成り行きを心配する――一月から二月にかけて、宮中・政府はそんな心境だった。
二月二十三日、閣議は、さらに二個師団の上海増派を決定した。
「出来る限り日支開戦を避く、戦場をなるべく上海附近に局限す」〈「満州事変機密作戦日誌」199〉
閣議でこのような条件がつけられたが、中国との本格的な戦争の危険が増した。
そして、二月二日に一個師団派遣を決定したときもそうだったが、今度も実にタイミングよく、陸軍のクーデターの噂が流れた。
「急進ファシズムの脅威を|えさ《ヽヽ》に軍部の政治的要求を次から次へと貫徹してゆく」という、後に陸軍が得意としたやり方が始まったのだ。
二月十八日、原田が興津で西園寺と夕食を一緒に済ませて、夜の十一時近くに東京に戻ると、原田の家に近衛が来て待ち構えていた。
「非常な計画が切迫しているようだ……」
近衛の口調は深刻だった。
「内政的に革命を起そうというのが主であって、荒木を中心にその一派がこれを援けるという企てで、最初まず、総理には平沼か荒木を担ぎ出し、結局は小磯を据え、平沼は宮中に入れて内大臣にしよう、というような計画らしい。要するに今日の側近連中を悉く追払ってしまって、自分達の思い通りの政治をしようというので、時期も非常に差迫った計画のように思われる……」
「そうまあ慌てる必要もなかろう」
原田は半信半疑だったが、近衛があまりに心配するので、深夜に井上三郎大佐を訪ね、鈴木貞一中佐を呼んで貰った。
「そんな乱暴なことが今日明日に起る気遣いはないが……」
鈴木はやはり否定的だったが、「森、平沼一派、安達という連絡で、所謂挙国一致内閣の名目の下に平沼が乗り出す」動きがあるのは事実だ、とつけ加えた。
やはり森と平沼か……、これに平沼と親しい荒木陸相がからんでいる――
「平沼一派の運動は漸次実力を現し来る様感じられる」
木戸も記したが、たしかに、クーデターの噂は、近衛を怯えさせ、西園寺の後継内閣構想を揺さぶり、さらに上海増派問題が起こったことも重なって、天皇も憂慮を深めることになった。
二月二十日、原田が興津に行って、近衛の話を伝えて、「軍の方では、犬養総理がやたらに陛下のお力によって軍を抑えよう抑えようという気持があると言って、反感が非常に高まっているようです」と話すと、西園寺はなぜか弱気な口吻を洩らした。
「どうも已むを得ない。かねて言うように、陰謀の計画がすっかりもう出来上っているんだから……。平沼を宮中に入れることだけは絶対にしたくないが、やはり平沼を使ってなんとかするんだな。結局まあ一時逃れのようなことだけれども、なんとかそのところを疎通させておくことを考えないといけない」
平沼嫌いの西園寺にしては、大変な変わり方である。しかし、もし平沼に組閣させることになったら、西園寺は自ら平沼を推奏するというのか?
四日後に、近衛が西園寺を訪ねた。
このところ、近衛は「第二のクーデターとか非常に危険が迫っている」のを心配し、森が平沼内閣論を強硬に主張するのを見て、「一層荒木陸相を首班としては如何」と考えている。
近衛はこの構想を西園寺に話した。
「荒木組閣の場合には平沼を枢密院議長にして、内大臣府に御用掛制を設けて内大臣を補佐することとし、内大臣には直宮をお願いして、その下に御用掛として牧野、一木、斎藤(実・海軍大将)、それに平沼も一枚入れて、ひとまず側近の位置を変えたらどうでしょうか、そんな風に先手を打つことが、あるいは平沼一派の陰謀に対する予防になりはしないか、と考えます」
近衛の得意な先手論≠ナある。西園寺は取り合わなかった。
「文臣銭を愛せず、武臣命を愛せざれば天下泰平云々、という言葉があるが、今日では、文臣命を愛せず、武臣銭を愛せざれば云々、と言いたいところだ。いや、むしろ、文臣暴力団を恐れ、武臣銭儲けを計る世の中で、困ったものだ」
西園寺は、近衛に当てこすりのようなことをいっていたが、急に元老を辞めたいと、とんでもないことをいいだした。
「昨今の政界の動向は、漸次予て考えて居り、所期せる所と相反する情勢に進みつつあり、仮りに政変等の場合に於て後継組閣者に軍人を御推薦申上ぐるが如きことは、到底自分の忍びざるところにして、今にして慎重考慮の上決定するにあらずんば、恥を後世に残すに至らん、よってこの際、元老たるの優遇栄爵等を拝辞したく……」
軍人や平沼を推奏するのは耐えられないから、元老を拝辞するというのだ。驚いた近衛は、この夜、鎌倉に戻ると木戸に連絡した。
「結局、陛下の御許が出ないであろう」
近衛から話を聞いた木戸も「真に」驚いたが、この時期に「ただ拝辞した丈のことでは……犬死となる」と首を傾げた。
「(それほど)重大なる決意を有さるゝならば、今少しく各方面を積極的に督励矯正せらるゝ方が有効ならん」
西園寺はどこまで本気だったのか。むしろ、五摂家筆頭で天皇に一番近く、西園寺が自分の後継者と期待する近衛が、陸軍大臣を首相にして、「日本のファッショのリーダー」といわれる平沼枢密院副議長を天皇の側近に入れるといい出したのに、すっかり落胆して、お前がそんなことをいうなら、オレは辞めるよ≠ニいう気持で話したのだろう。しかし、つい先日にも芳沢外相に「死にたくなりました」と洩らし、今また近衛に辞めたくなった≠ニいう西園寺の年老いた姿には、大正中期から自分が育ててきた政党政治が抹殺されようとしている、その悲しみと苦悩がにじみ出ているようである。
帝政ドイツの政治学者トライチケはいう。
「軍隊は……国家元首の意思に無条件服従をなすべく定められたるものなるを以て、毫も軍隊独自の意思を持つことなし。若し軍隊にして独自の意思を持たんか、凡ての政治的安定は失わるべし。およそ討論し党派に分裂する軍隊ほど、恐るべき害毒は考え能わず」
この恐るべき害毒≠ノ日本の陸軍もなりつつあるのだが、西園寺に陸軍を押える力はない。
「どうも今の政府には統一がない……」
天皇も、政府内の不統一、陸軍と政府の不統一に心痛の余り、「夜もろく/\お休みになれないらしく、十一時頃侍従を鈴木侍従長の家に遣わされて、すぐ来てくれ≠ニいうお言葉もあった」〈原田2─232〉ほどで、憔悴のほどが目立った。上海事変を拡大せずに終熄させるには、天皇が直々に乗出す以外に途はない。
二月二十六日午後一時、上海派遣軍司令官に新任された白川義則大将は東京駅を発った。この前日、親補式の際に、天皇は白川に異例の指示を与えた。
「事態は重大であるから、お前はなるべく早く軍の目的を達して、遅滞なく軍を引揚げて帰って来るように」〈重光葵『外交回想録』(28年、毎日新聞社)124〉
天皇は、三月三日に開かれる国際連盟総会までに上海の戦闘を終らせろ、というのである。六日間の余裕しかない。白川は決意を秘めて戦場に向かった。
一方、天皇の憔悴ぶりを心配した鈴木侍従長は、二月二十八日の午後、興津に西園寺を訪ねて、三時間余りにわたって西園寺の上京を促した。
翌二十九日、西園寺はいささか慌だしく、「とにかく会って話したい、できるだけ早く来てもらいたい」と原田を呼んだ。
「まことに畏れ多い話であるが……」
西園寺は、鈴木侍従長から聞いた天皇の近況を話して、「天機奉伺に上京して、陛下にあまりご心配にならぬように申し上げたい」から、三月五日に上京する準備を整えるように、と原田に指示した。
一方、白川上海派遣軍司令官は、天皇の命令を守って、三月三日に停戦命令を出した。参謀本部からは、真崎次長名で、「少なくも今三日中は、既定の作戦範囲内において、あくまで敵を急追し、徹底的打撃を与えらるることを期待す」と要請が来ていた。三日に連盟総会が開かれるのを承知の上で、「少くとも今三日中は」と打電する真崎の神経は相当なものだが、白川は、「独り心に期するところありしものの如く、遂に参謀等の反対を押し切り停戦を断行した」。〈木戸542〉
[#この行1字下げ] 之が為め連盟総会には極めて良好なる影響を与えたるは周知の事実なり。陛下は深く大将の果断なる処置を御嘉賞になり、その当時も、白川はよくやったとのご述懐をお洩し遊ばされたることあり。〈木戸542〉
白川大将はまもなく、四月二十九日の天長節に上海の虹口公園で行われた大観兵式の際に、独立運動に関係する一朝鮮人が投げた爆弾で負傷して、一カ月後に死亡する。
[#この行1字下げ] 白川大将は実に余の命令を守り、よくやってくれし故、その翌年靖国神社に参拝の折には和歌を詠みて未亡人に与えたることもあり。〈木戸1238〉
天皇は、夜も眠れないほど上海事変の拡大を憂慮していたから、張作霖爆殺事件のとき陸相だった白川が指示を守って停戦したことを大いに喜んだ。
一方、そのころ満州では――
上海事変は、「爆弾三勇士の美談」が大々的に喧伝され、また男装の麗人≠ニ謳われた清朝粛親王の娘、川島芳子が田中少佐の意を受けて、中国人を買収したり、日本軍の救援師団が上陸したとデマを流して中国軍を総退却させたり……とかく派手な話題で世界の注目を集めたが、この間に関東軍は着々と満州国建国の準備を進めた。二月五日には、以前に南前陸相に阻止されて見合せていた北満のハルビンを占領し、三月一日には、各地方軍閥の頭目たちを集めて東北行政委員会を組織して、満州国政府の名をもって建国宣言を行い、三月九日にはとうとう清朝廃帝溥儀が満州国執政に就任した。
新生満州国は、「五族協和」「王道楽土」を理想に出発した。しかし、執政溥儀には、「自分の外出を決定する権利さえなかった」〈愛新覚羅溥儀「わが半生」―『ドキュメント昭和史』2巻所収―109〉ほどで、すべては「日本の陸軍と日本の鉄道の首脳たち」が取りしきっていたし、国際世論は「他国軍隊の圧力の下に作られたる国家は独立の国家と認むること能わず」ときびしかった。ジャーナリストのエドガー・スノーはいう。
「新国家の創建でアジア最大のショーも終りに近づいた。フランスの一作家がマンチュリア(満州)を巧みにもじって、マヌカンチュリア(マネキン王国)とよんだが、この王国は日本の大陸制覇の基地としての運命的な役割に向かって、着々と進んでいった」〈エドガー・スノー『極東戦線』(48年、筑摩書房)192〉
上海事変は、満州国建国のための陽動作戦だったのだ。国内では天皇も政府も出兵と拡大を押えようと必死に苦労し、列国も上海の自分の租界の権益を守るのに目を奪われている間に、満州国は成立した。「上海地区に五万五千人の部隊を派遣し、一億五千万円の国費を使って」〈同185〉高いものについたが、板垣参謀に「列国の注意をそらせて欲しい」といわれて田中隆吉少佐が火をつけた上海事変は、ともかく目的を達した。
三月五日、西園寺は原田を伴なって、朝九時三十四分興津発の普通列車で東京へ向かった。
列車が大船駅に着くと、「三井財閥の代表と目され居りたる」団琢磨が三井本館前で射殺されたという兇報を耳にした。血盟団の菱沼五郎の犯行だった。
「実に気の毒なことをした」
西園寺は、顔を曇らせた。木戸も、すっかり落胆した。
[#この行1字下げ] 真に遺憾なり。井上氏の死といい、近来、我国の世相は寒心に堪えざるものあり。
血盟団の頭目≠フ井上日召は、煎じ詰めれば「典型的な精神異常の無法者」〈丸山真男『現代政治の思想と行動』(39年、未来社)100〉にすぎない。しかし、井上前蔵相と団が、単なる精神異常者に殺害されたと見るわけにはいかない。血盟団に繋がる陸海軍の将校、さらには彼等の暴挙を積極的に利用しようとする勢力の存在、そして世論の一部には彼等の主張に同調するものもあることを考えると、木戸のいうように、「世相は寒心に堪えざる」感が強い。
菱沼を捕えた警視庁は、厳重な取調べを行なって、血盟団の概要や襲撃目標をようやく掴んだ。四元、古内らが逮捕され、三月十一日になって、井上日召も自首して出た。
「赤に敏感で黒に鈍感」〈朝日新聞3月6日付〉と警視庁は非難されていたが、これでなんとか表向きは汚名挽回ができた。しかし実際は、大蔵栄一陸軍大尉宅に匿われた古内や、右翼の大物・頭山満邸内の天行会道場に潜んだ井上日召に手を出しかね、彼らが自首してきたのに救われた恰好になった。
そんな調子だから、警視庁は血盟団事件の背景と計画の概要をほぼ把握したものの、計画の共謀者である海軍軍人にまで調べを及ぼすことを手控えた。
血盟団が犯行のために用意した拳銃は、藤井斉海軍中尉(七年二月に上海で戦死)が八丁、伊藤亀城海軍少尉が二丁を提供し、他に四元義隆が海軍将校から預ったもの二丁と解明されたものの、直接行動者でない海軍軍人までも逮捕して追及するのは見合わされた。
もしそれを敢行していたら……五・一五事件は未然に防げたろう。
このころ、古賀清志海軍中尉は、土曜日毎に霞ヶ浦から上京し、日曜日に帰るという行動を繰り返していた。
三月五日、団琢磨が菱沼に射殺された夕方も、古賀は、同じ霞ヶ浦海軍練習航空隊の中村義雄中尉と連れ立って、渋谷の頭山邸の天行会道場に、井上日召を訪ねた。
「菱沼の団暗殺により、もはや民間同志の個人テロ≠ヘ出来なかろう、今度は民間同志も海軍側同志も一緒になり、集団テロ≠決行しよう」
いよいよ、「海軍側同志」の出番である。井上日召はそれから数日後に自首してしまうが、古賀は中村と相談して、二週間後の三月十九日ころ、実行計画を決める。
「四月中旬頃迄には上海事変および満州事変も|略《ほぼ》一段落を告げ、同志が内地に帰還するであろうから、その頃から五月上旬頃までの間に支配階級が一カ所に集まる好機会があったら、集団テロをやる」〈「中村義雄尋問調書」615〉
犬養首相をねらう五・一五事件が、ようやく具体的計画として登場しはじめた――。
三月十四日、西園寺は久し振りに天皇に拝謁した。
「寒いのによく上京した」
天皇は、西園寺が上京すると鈴木侍従長を遣わして|犒《ねぎら》い、西園寺の参内を心待ちにする様子だった。西園寺は、一週間ぐらいの間に、犬養首相、大角海相、荒木陸相、芳沢外相、谷アジア局長、白鳥情報部長など「多方面の人々に会って」意見を充分に聞いたうえで、参内した。
「自分等も随分紆余曲折に会って今日に至ったのでございます」
八十二歳の西園寺は、孫と同じ位の三十歳の天皇に向かって、明治維新のころの話から始めた。
「今日の時局は、その結論に達するまでには、まだなか/\の距離があるので、この間各種の困難があるかもしれませんが……決して悲観する状態ではないと考えます。大局から見て、あまりご心配のないよう、落付いておられることが最も必要だと存じます」
西園寺は、「根本のことを申上げておきたい」と考えていたから、血盟団事件や上海事変に捉われずに、楽観的な調子で奉答した。二月ころ、平沼を起用しようかどうか迷った様子を見せた西園寺も、このまま犬養で行けるところまで行こうと肚を決めたようだ。
それに、この日の午前中、上海に派遣された三個師団のうち一個師団の引揚げ命令を天皇は裁可し、停戦交渉も始まった。血盟団事件も一味が逮捕されて、目前の不安は拭い去られたかのように思える。
天皇に拝謁を済ませた西園寺は、三月十八日に興津へ戻った。すると二十一日に、近衛が後を追うように興津へやって来て、一カ月前と同じようなことを繰り返した。
――非常に時局が切迫している。
――新しく政局を担当する者はどこまでも根本的に改めて行かなければいかん、膏薬貼りではいかん。
――先手を打って、平沼を出すとか荒木を出して政権を担当させたい。
――内大臣には宮様が望ましい。
――陛下が非常にリベラルな考えをもっておられることが、主として陸軍と衝突する原因になっていはせんか。
西園寺は、ひどく落胆した様子だった。二十六日に原田が行くと、「近衛の考えというのはどういうのだろうか」と、不信の表情を見せた。
「一体、近衛は、平沼がいいと思っているのか。……(陛下が)リベラルな考えを持っておられることを、悪くいっているようにも聞えたが、どうだ。……宇垣のことを話さないが、駄目だと思っているのか」
西園寺は、八ツ当り気味に原田に問い質しながら、やはり近衛と木戸で「側近を安固ならしむる」ようにしたいといっていた。
それにしても、近衛が西園寺に逆らってまで強硬意見を吐くのはなぜか、だれかに煽られているのではないか、――西園寺が首を傾げていると、数日後に森書記官長が興津に来て、膏薬貼りではいかん≠ニブチ始めた。
「近衛は、結局森に担がれているのじゃないか」
四月一日に原田が行くと、西園寺は笑いながら、そんな「感じがした」とやや安堵の表情を見せた。
ところが、近衛を担いだ$Xは、犬養首相に見切りをつけて、「到底自分には総理のお守りは出来ない」〈原田2─244〉と辞表まで提出していた。この辞表は犬養が握りつぶしたが、このころから五・一五事件にかけての森の行動は疑惑に包まれている。
古賀清志海軍中尉は、三月二十一日に、陸軍士官候補生十名と会った。
「血盟団が社会に大きな刺激を与えたこの機会に、我々が続いて立って、革命の段階を進めて行こうと思うから、君達も一緒にやって貰いたい。我々は財閥、特権階級、政党、政治家を目標として集団テロをやる積りである。海軍の同志は十二、三名おり、手榴弾二十一個を入手している。……我々が実行するについては、陸海軍共同という意味で、陸軍の軍服を着た者の参加を必要と考えたので、諸君の参加を望む」〈「中村義雄尋問調書」619〉
候補生一同は「直ちに之に賛成」、陸・海軍の提携が形の上で成立した。
続いて、三月末に、古賀は中村中尉と、茨城県土浦の下宿で、第一次実行計画を決定した。
「首相官邸、牧野内府官邸、工業倶楽部、華族会館、政友、民政両政党本部を襲撃したる後……襲撃部隊を三組に分ち、一組は東郷元帥邸に赴き同元帥を宮中に伴い、他の一組は権藤成卿を陸相官邸に連れて行き、残り一組は井上日召等の収容されている刑務所を襲撃……東郷元帥を推戴し、戒厳政府を出現せしめ、権藤の主唱する農本自治主義を基礎として国家改造を行う……」〈同622〉
後に古賀が慚愧の至り=q司法省刑事局「右翼思想犯罪事件の綜合的研究」―『現代史資料』4巻所収―98〉と悔むように、この計画は「甚だ粗雑極まるもの」である。これは、「井上一統の後に続いて起つという誓約に対する責務感にとらわれ」、しかも「同志の全貌が発覚して再び事をあげることが不可能になるという危惧を感じ……事決行を非常にあせった」〈古賀清「五・一五事件を回想して」―『現代史資料』5巻所収―604〉ため、と古賀は釈明するが、しかし、陸海軍あわせて二十名足らずの参加人員で、しかも武器が手榴弾と拳銃程度では、とうてい集団テロは不可能になる。襲撃計画はこのため、血盟団の一人一殺を拡大した程度のもの、具体的には犬養首相個人暗殺計画に近いものに絞られていく。
第一次実行計画は、その後、議会襲撃(第二次)、首相官邸でのチャップリン歓迎会襲撃(第三次)を経て、再び第一次計画に近いものに戻り(第四次)、五月十三日になって最終計画が決定された。
襲撃目標 首相官邸、内大臣官邸、政友会本部、三菱銀行
第二段として警視庁を襲撃、別働隊として橘孝三郎の愛郷塾農民決死隊で東京一円の変電所を破壊
参加者
海軍側 古賀、中村両中尉の外、三上卓中尉(佐世保)、黒岩勇予備少尉(佐賀)、山岸宏中尉(横須賀)、村山格之少尉(横須賀)の六名
陸軍側 士官候補生ら十二名
民間側 愛郷塾決死隊ら八名
「以上の行動によって、政党内閣の首班犬養首相を斃し、君側の奸と目する牧野内府を除き、政党財閥打倒の意思を|闡明《せんめい》すると共に、警察力を破壊し、変配電所襲撃の効果と相俟って帝都の治安を紊し、戒厳令施行に導き、他の革新的勢力の発動を促し、国家改造の端緒を開く……」〈「右翼思想犯罪事件の綜合的研究」100〉
[#この行1字下げ] 決行日時 五月十五日午後五時三十分。
このころ原田の周囲は、政変になったら後継首班をだれにするかを摸索していた。
四月三日、木戸は、貴族院議員で伊藤博文の息子の伊藤文吉と話しあって、斎藤実海軍大将が後継首班に最も適任ではないかと意見の一致をみた。
斎藤は、明治三十九年から大正の第一次山本内閣まで、二度の西園寺内閣を含めて五つの内閣で通算八年間も海軍大臣を勤めている。また、十年にわたる朝鮮総督時代には、武断政治から文化政治≠ノ転換をはかり、ジュネーブ海軍軍縮会議の全権もつとめた。その温厚な性格といい、ロンドン軍縮会議のとき背後で政府を助けた働きぶりといい、西園寺が信頼する数少ない軍人の一人である。
木戸と伊藤は、翌朝さっそく原田邸に行って、近衛を交えて、斎藤内閣案を検討した。
「斎藤で陸軍が承知するかどうか、軍部の連中に確かめて見よう」
その夜、原田は自宅に、鈴木貞一中佐と白鳥情報部長を呼んだ。近衛も同席した。鈴木、白鳥と三羽烏≠フ森恪は、平沼内閣または平沼内大臣、鈴木喜三郎内閣を考えている。鈴木も白鳥も簡単に斎藤内閣に賛成するはずはなかった。鈴木は巧みに返答を避けて、「斎藤、平沼等というよりもむしろ若手の新人という意味で近衛を出馬させてはどうか」といいだした。
四月六日に原田が興津へ行くと、西園寺は近衛に組閣させることには反対だった。
「近衛は、むしろ早く貴族院議長にして、それから内大臣にした方が皇室のためにも国家のためにもいゝと思う」
それに、五摂家の筆頭で、皇室の血統を享けている近衛といえども、満四十歳で内閣の首班に立つのは若すぎるだろう。
この日、西園寺は、女中頭の|綾《あや》に命じて原田の夕食を用意させると、灘の生一本を傾けながら、穏やかな口調で語り続けた。
「誰が出たところで、とてもうまく行くものじゃあない。平沼が出るようなことはまずあるまいと思う。犬養も頑張っていることだし、斎藤がいゝかどうか、もう少し時機を見て考えることにしようじゃないか」
犬養首相は、陸軍の統制を回復しようと懸命の努力を続けていた。七十七歳に近いその姿には、憲政に生きた信念を賭けるような気迫さえ、ただよわせていた。
しかし、「満州の兵変が成功した後の陸軍は、すっかり逆上して正気では話ができない」〈古島『回想』246〉ほどだ。ところが犬養は無造作なもので、荒木陸相をつかまえて、
「満州国のことをやったら承知せん」
「満州国の承認は難しい」
とやるから、陸軍では荒木以下がそろって、「犬養はけしからん、満州事変を止めさせようとしている」〈同241〉といきり立っている。
犬養だけでなく、老蔵相の高橋是清も堂々たるものだ。閣議の席で荒木に向かって、「一体上海に何人の日本人がいるのか、皆引揚げてくればいゝではないか」〈有竹『昭和財政家論』47〉といったり、「それでは君は一体何をいいたいんだね」と軽くあしらって、多弁な荒木の口を封じたりする。
「それが五・一五事件の遠因になったともいわれたものだ」
犬養の盟友の古島一雄はいうが、少くとも犬養襲撃計画が事前に洩れたとき、陸軍上層部が拱手傍観して、テロを未然に防ごうとしなかったのは、犬養を邪魔だと思う気持が働いたからに外ならない。また、三月に中橋に代った鈴木喜三郎内相が、森恪とつながっており、陸軍上層部と同じく傍観者的態度だったことも、犬養には不幸だった。
五月初め、芳沢外相は義父犬養首相の話を聞いて、そのすさまじい気概に驚かされた。
「この度満州事変のような大事変が起きて、国家の重大事変にまで発展したのは、これは要するに陸軍の青年将校連が、いわゆる処士横議をやって、陸軍の統制が乱れているためである。自分はこれを直すためには三十人ぐらいの青年将校を免官したいと思う。それには閑院参謀総長宮に謁見して、その承認を得た上、陛下に奏上したいと思う」
「人事の任免は陸軍大臣の管轄ですから、総理の意見を実行するには、荒木陸相に交渉されるより仕方がありませんが、それはムダでしょう」〈芳沢謙吉『外交六十年』(33年、自由アジア社)144〉
芳沢がびっくりして答えると、犬養は「そうか」と困惑の表情だったが、同じ話を古島一雄にもしたという。陸軍の統制を回復するには、まず統制を乱す革新将校連を切らねばならない――これは犬養首相のいうとおりである。しかし、情勢は、首相や陸相をもってしても、三十人もの将校の首を切ることなどとても不可能になっていた。
ちょうど一年前に、陸軍大臣だった宇垣が、「なあに、一部の青年将校や、ヤセ浪人が、バタバタ騒いだ位で、なにを気にすることがある。青年将校などはクビにすれば、それで済む。ヤセ浪人などは弾圧で事が足りる」〈岡田益吉『軍閥と重臣』(50年、読売新聞社)223〉と豪語したことがあった。たしかに当時の宇垣だったら、これは可能だったろうが、荒木陸相にはそれは望めない。
五月十五日、日曜日。五月晴れの好天だった。上海派遣の全陸軍部隊に撤退命令も出されて安心した犬養首相は、終日のんびりと官邸で過ごしていた。息子の健は、来日中の喜劇役者チャップリンを案内して相撲見物に出かけた。
午後五時ころ、九段の靖国神社境内に、三上、黒岩、山岸ら海軍将校四名と、陸軍士官候補生五名が集まった。一同は、二台の車に分乗して首相官邸に行くと、表玄関と裏門の二手から官邸に侵入し、拳銃や手榴弾を手に、犬養首相の姿を追った。司法省「右翼思想犯罪事件の綜合的研究」はいう。
[#この行1字下げ] 忽にして三上卓は、犬養首相が日本館食堂に居るのを発見し、之に対し拳銃を擬し引金を引いたが、|偶々《たまたま》弾丸が装填してなかったため発射せず、首相は流石に泰然自若たる態度にて之を制し、話を聴けば判ることじゃろう≠ニいいながら、胸の辺に拳銃を擬す三上を誘導して日本間客室に至った。
[#この行1字下げ] 首相は卓子の前に端座し、三上等は起立の儘、卓子を隔てて相対した。首相はその間三、四回ソンナ乱暴をしないでも良く話せば判る≠ニ繰り返し、着座すると一同を見回しながら靴位脱いだらどうじゃ≠ニ言った、三上は我々が何の為に来たか判るじゃろう、何か云うことがあればいえ≠ニ申し、首相は何事か言い出さんとして少しく体を前に乗出した。この時、山岸は問答無用、射て≠ニ叫び、これと同時に黒岩、三上の拳銃が首相の頭部に向って射たれた。
[#この行1字下げ]乱入者≠ヘ忽ちに駆け足で去り、右こめかみと左頬に一発ずつ弾を受けた犬養首相は、夥しい血を流したまま、卓に両肘をついて身動きせず坐っていた。テルという古くからの女中が駆け込むと、犬養は、「タバコに火をつけろ」と命じ、さらに声をふり絞った。
[#この行1字下げ]「いまの若い者をもう一度、呼んで来い。話して聞かしてやる」〈岩淵辰雄『犬養毅』(33年、時事通信社)207〉
[#この行1字下げ] そのうち、非常に苦痛な状態に陥った。別に痛いともいわなかったが、テルの姿を見て、
[#この行1字下げ]「テル、もう帰ろうヤ」〈古島『回想』248〉
[#この行1字下げ] といったのが最後で、ドッと血を吐いて、それきり息を引きとった。
[#この行1字下げ] 夜、十一時二十分だった。
事件発生の時、原田は静岡に、近衛は鎌倉の別荘に、また、木戸はゴルフから戻って自宅で風呂に入っていた。荒木陸相は家族づれで逗子から鎌倉に遊びに行っていた。
森書記官長は、急を聞いてゴルフ場から官邸に駆けつけた。
[#この行1字下げ] 犬養家一門の人々の眼は、森を怨むが如くに輝いた。当時軍部と森との深い関係が知られており、首相と書記官長のギャップが益々深まっていくのを犬養周辺の人々は知っていた。若い軍人を使嗾して、総理を斃したのは森だと思い込んでいた人もあった。〈『森恪』803〉
森は、見舞いの言葉を述べると、犬養が横たわる書斎を出て、廊下続きの書記官長室に陣取った。そこへ、雑誌「政界往来」の木舎幾三郎が駆けつけてきた。森は、いくぶん上気した顔だったが、狼狽の色などみじんもなく、木舎が、「大変だね」と見舞ったら、ニタッと笑って握手すると、プイと出て行った。いまでもそのときのニタッと笑った顔≠ェ印象に残って頭を離れない、どういう意味で握手したのか、いまだに解けないナゾである〈木舎幾三郎『政界五十年の舞台裏』(40年、政界往来社)122〉、と木舎は回顧している。
事件の翌朝、森は芳沢外相にいった。
「総理はいったい間違っていたよ」
「どうして?」
「陸軍の若い連中を三十人位首切ってしまえば統制は回復できる。それには自分が参謀総長のご諒解を得て、それを陛下に申し上げる、そういうことを総理は考えていた。これがいけないんだ」〈古島『回想』249〉
やっぱり犬養はこの話を森にもしたのか、それで殺されたんだ、と芳沢は思ったという。
森と親しかった鈴木貞一中佐も最近になって一言こう注釈している。
「五・一五事件の原因は、満州問題が中心だと思うんです。それともうひとつは、森恪と犬養首相の関係が非常に悪かった、ウン。そういうものが累積して、若い人を刺戟したんではないかな」
森と「始終会見、相談」〈木戸151〉していた鈴木氏の証言だけに興味深いが、鈴木氏はこれ以上黙して語らなかった。
ところで、不思議なことに、首相官邸襲撃計画は、事前に洩れていた。後の二・二六事件の首謀者の一人で、本庄関東軍司令官の女婿に当る山口一太郎はいう。
「五・一五事件は、随分奇妙な事件である。あれだけの大事件でありながら、計画の大要は各方面に洩れていた。憲兵隊も、したがって陸軍省も、そして恐らくは警視庁も相当程度知っていた。行動の隠密性が悪かったためである。私も五月の始め頃から西田税に情勢を知らされた。かほど重大な陰謀が、こんなに知れ渡っていたのでは碌な結果にはなるまい。海軍将校が計画し、海軍や民間人がやるのなら別に云う所はないが、陸軍が巻き込まれることは避けたいと思った。
小畑少将にお会いして見ると考えは全く私と同じであった。陸軍が巻き込まれることは絶対におさえてもらいたい。西田君とも相談してよろしく頼む≠ニいうことだった。これまた随分おかしな話だ。小畑少将は人も知る荒木陸軍大臣のブレーンの第一人者なのだ。
決行時期が五月十五日ということは五月十日頃わかった……」〈山口一太郎「五・一五事件」―『現代史資料』4巻月報1〉
この証言が事実とすれば、たしかに随分おかしな話だ。小畑参謀本部第三部長なら、「お互いに終生信頼しあった」荒木陸相や、懇意の森を動かして、少くとも五月十五日に犬養首相の身辺を警戒するのは無論、一味を取りおさえることも容易に出来たはずだ。小畑や荒木らにその気がなかったのか、または、あっても青年将校らの恨みを買うのを恐れたのか、あるいは別に積極的な理由があったのか……。
いずれにしても、犬養首相の命をねらった五・一五事件は、直接には古賀らの海軍将校が企てた「粗雑極まる計画だった」が、その計画が事前に洩れたとき、知らぬふりをしたり、あるいは犬養の陸軍に対する強硬姿勢を声高に問題にして反犬養熱を煽って結果的には暗殺の遂行を幇助したり、また犬養なき後の政権抗争に野望を懐いたものが存在したことは疑いない。
五月十六日、臨時総理大臣に任じられた高橋是清は、閣僚の辞表を取りまとめて捧呈した。
次期内閣をどうするか、軍部にどう対抗するか、西園寺は極めて難しい選択を任されることになった。しかし、「犬養の屍を政友会本部に担ぎ込んで弔い合戦をやれ」〈古島『回想』261〉という古島一雄の言葉に耳をかす者もなく、「政界は急テンポで軍迎合になって」いくとき、五・一五事件が「日本の政党政治の短い歴史に終止符をうった」〈丸山『現代政治の思想と行動』71〉ことだけは、誰の目にも明らかだった。
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第四章 ファッショに近き者は絶対に不可なり
――斎藤内閣と帝人事件――
五月十七日の明け方、駿河湾では桜えびが大漁だった。蒲原沖で漁師が曳く網には淡く光を発する桜えびが溢れて、坐漁荘の浜を賑わした。
西園寺は、居間からこの大漁風景を眺めていた。坐漁荘――唐宋八大家の柳宗元が、権欲飽くなき智伯を諷した一章、「群漁者に一人坐漁する者あり」からとったという――その心境を地で行くような風景だ。九時近くなって、出入りの床屋の近藤理之助が呼ばれてやって来た。
「今朝は桜えびが大漁でなあ」
和室の廊下に椅子を出して腰掛けた西園寺は、懸命に鋏を動かす近藤に、気軽に話しかけた。明後日は上京する予定になっている。昨日、五月十六日に高橋是清臨時兼任首相が辞表を捧呈すると、その日のうちに河井侍従が興津に遣わされて、「内閣総辞職の善後措置に就き御下問あらせられ候条、参内有之度」という鈴木貫太郎侍従長の手紙をとどけてきた。
「東京はとんだ事でござんしたそうな」
「ウン、犬養も気の毒なことをした」〈北野慧『人間西園寺公』(16年、大鳥書院)156〉
坐漁荘の警備も一段と厳重になった。静岡県警察部と静岡憲兵隊が、海岸や国道、駅にまで非常警備をしき、坐漁荘の入口にはバリケード代りに自動車を横付けにして植込みの陰にまで警官を配置する物々しさだ。この日、坐漁荘にはだれも訪問客はなく、西園寺はひとり静かに過ごした。
翌十八日の昼、原田が駆け込んで来た。このところ、よい天気が続いている。西園寺はベランダで話をきいた。十六日の早朝、「一応東京に帰って、実際の空気に触れて、実情をきわめた上で出直して」来た原田は、「憲政の常道論により単純に政党をして組閣せしむるが如きことにては収まらざるべし」という意見が主流になってきている、と報告した。挙国一致内閣――そのひとつは森恪が画策しており、平沼枢密院副議長、あるいは犬養のあとを継いだ鈴木喜三郎政友会総裁を首班に、民政党の協力を得て協力内閣を実現しようというもの、他のひとつは、斎藤実・前朝鮮総督による中間内閣という案、この二つの動きが目立っている。
陸軍は政党政治に強く反対しており、昨晩も永田鉄山参謀本部第二部長は原田に語った。
「もし政党による単独内閣の組織せられむとするが如き場合には、陸軍大臣に就任するものは恐らく無かるべく、結局、組閣難に陥るべし」〈木戸165〉
一方、側近筋、たとえば牧野内大臣や鈴木侍従長は、「この際、やはり協力内閣がいゝ」、つまり「議会に基礎を有する政党の奮起を促し、これを基礎とする挙国一致内閣の成立を策する……首班には斎藤子爵の如き立場の公平なる人格者を選ぶ」という意見である。とすれば、鈴木政友会総裁では組閣困難だが、斎藤実海軍大将なら可能ではありませんか――原田は各界の動きを総合して、こう西園寺に伝えた。
二時すぎ、原田がひとまず水口屋旅館に引き揚げたあと、入れ違いに近衛が坐漁荘に入った。
近衛は、斎藤実による中間内閣に反対だった。
「過去十カ年間折角確立された政党内閣を軍部のクーデターによって一挙に葬ってしまうということは、よほど考える必要がある」〈近衛『失はれし政治』1〉
あくまで憲政を守って政友会に組閣させるか、あるいは思い切って先手を打って′R部に組閣させるか、どちらかを採ることを近衛は主張した。むろん、政友会による政党内閣の場合には「軍部と再び衝突が起る」ことも覚悟しなければならないし、軍に政治を任せるのが「極めて危い道である」のも明らかだ。しかし、時局切迫のこの際は「二つに一つを選ぶべきで、中間内閣は害あって益なし」〈『森恪』815〉――近衛は断言した。
「それは理想論というものでしょう」
西園寺は、中間内閣を否定する近衛に反対だった。このとき、二人が話している書斎の卓上電話が鳴った。近衛がとると、原田からだった。
「今、水口屋で森恪と鰻を食っているが、森がぜひ君を呼び出して話をしてくれというのだ、平沼にやらせるように老公に話をつけて貰いたいというわけだ」
近衛が伝えると、西園寺は「頗る機嫌が悪く」、吐き捨てるようにいった。
「原田に、顔を洗って出直して来い、といってくれ」〈同817〉
この夜、水口屋に泊った近衛と原田は、遅くまで話し続けた。政友会は、床次派や久原派など意見が分れ、一つに纏まっているわけではない。その上、陸軍は政党内閣を認めないというし、鈴木政友会総裁を担ぐはずの森恪が平沼を推すようでは、鈴木総裁に大命降下するのは考えものではないか……。
それにしても、西園寺は近衛の提案になぜ反対したのか。この頃、西園寺は語っている。
「わたしには、時勢を憤って、それを切り開こうとか、狂瀾を回そうとかいうようなアンビション、希望といいますか、勇気といいますか、それがない、今日でもそうです。時の流れを見る、時の勢いを見る、人心がだらけているなら、それはだらけさせる風潮が時代に漲っている、これを回転する、逆流させるという豪気努力は私の及ぶ所ではない、西園寺が冷淡だと言われる所以であろうが、自分はこれを冷淡だとは思わない。時流に逆らいもしなければ時流に従いもしない」〈小泉策太郎『随筆西園寺公』(14年、岩波書店)467〉
現職の、しかも自分が推奏した犬養首相が白昼、軍人に殺されたのにもかかわらず、西園寺があえて「上京をなるべく遅らしめ、さんざん揉みたる上にて」世論の落ちつく先を見定めているのも、時の流れを見る≠アの信条によるものだろう。それと、もし政党――政友会に組閣させるとすれば、鈴木総裁ということになるが、鈴木―平沼は密接な関係だから、実質平沼内閣になると西園寺は考えていた。
翌十九日、西園寺は、原田と近衛を従えて、「未曾有の警衛」の中を上京した。こげ茶のソフト帽に黒の単衣、羽織、それに黒竹の長い杖、いつもの上京姿である。駿河台の自邸に入ると同時に鈴木侍従長が来訪し、天皇の「後継内閣についての御注文」を西園寺に伝えた。
「首相は人格の立派なる者……ファッショに近き者は絶対に不可……軍紀を振粛……外交は国際平和を基礎とし……」
近衛の表現をかりると「非常にリベラルな考えをもっておられる」〈原田2─248〉天皇の堂々たる注文である。「穏健なる思想を有するものなること、軍国主義的ならざること」、木戸は天皇の思召をこのように原田から聞いているが、いずれにしろ天皇は、軍部、たとえば荒木陸相による組閣はむろん、平沼内閣も否定したことになる。
「いずれも御尤もな思召……」
西園寺は鈴木侍従長に答えると、天皇の思召を書きとめて原田に手渡しながら、「少し考えなければならぬ」と洩らした。
天皇の注文に適うのは、ただひとり、斎藤実だけだ。
翌日、牧野内大臣が西園寺を訪ねた。両者は、斎藤実を推奏することで「大体意見の一致を見た」。しかし、「世間は、原内閣の次の高橋内閣、加藤内閣の次の若槻内閣等、総理大臣の死亡による政変は当然その党派の延長ということに早合点」している。鈴木政友会総裁も「大命は必ず自分に降下するものと信じて疑わず」〈『森恪』813〉、早々と閣僚の銓衡に着手して、蔵相勝田主計、内相鳩山一郎、外相吉田茂、海相末次信正、拓相森恪、文相近衛文麿……などと勝手に流す有様だ。ここで斎藤実に大命降下すれば、世間は意外と受け取るだろう。その前に世論工作をして、斎藤を期待する声を高める必要がある。西園寺は牧野と相談して、明日から重臣を一人ずつ駿河台に招いて、「御下問に奉答するためでなくって、自分の参考に皆の意見を徴す」ることにした。
若槻、清浦、高橋是清、山本権兵衛、東郷平八郎、上原勇作、荒木陸相、大角海相などの意見を西園寺は聞いたが、若槻でさえ「軍の衆望を負う者を推薦する」〈若槻『古風庵回顧録』390〉といって政党内閣を否定し、高橋臨時総理も「単独内閣反対の進言をした」〈『森恪』816〉。斎藤実に反対するものはなかった。
西園寺のヨミは当った。こうしている間に「鈴木内閣は遠のいて」、代って「二十日頃からは斎藤説が高まった」〈同818〉。
五月二十二日、西園寺は参内して、斎藤実を奉答した。
――しかし、西園寺は斎藤を奉答することで、自ら政党政治の幕を引いたことになる。
「あくまでも政党内閣の成立を希望したが……」
二十一日、西園寺は近衛を呼んで、中間内閣の道をとらざるを得なくなった事情を説明した。
「政党は軍の連中の憤激を買い、また国民の信頼も薄らいでおり、もし国民に信頼のない政党にやらせたならば、軍との摩擦はますます激成されるであろう。他面もし軍に責任を採らせることにすれば、これ亦如何なる過激な方面に走らぬとも限らず、結局中間的な内閣が最も妥当である」〈近衛『失はれし政治』2〉
西園寺は、早くから中間内閣を考えていたようだ。三月ころ、原田はこんな口述をしている(未公開)。
「政友会の内閣が何時まで続くかと云うことに就ては頗る疑問がある。で次に来る可き内閣は自分の予想する所では、到底政党内閣では此状況をどうすることも出来まい。如何にも民政党は無力であり、又既成政党に対する不信用は一事を疎通するのにも到底困難であろうと思う。とに角、ファッショ内閣云々と云うけれども、かくの如きことは到底実現不可能である。しかしながら、憲法に抵触せざる範囲に於て所謂挙国内閣、協力内閣と云うような形で中間内閣的のものが出来、我々の歓迎しない人物が登場するかも知れないけれども、しかし之はほんの一時的の疎通の意味であって、之をしも長く国政に当って然るべきものと恐らく元老も考えて居るまい」
原田のいう「我々の歓迎しない人物」とは、平沼を指すようだ。二月二十日に西園寺が、「平沼を使って……なんとかそのところを疎通させておくことを考えないといけない」と語ったのを承けて原田もこんな口述をしたのだろうが、まもなく西園寺は、平沼に代えて斎藤か宇垣による中間内閣を構想するようになっていた。
大正時代にも、西園寺は原敬、高橋是清の政友会内閣のあと、加藤友三郎、山本権兵衛、清浦奎吾と、三代にわたって超党派内閣を推奏した。このうち、加藤、山本はいずれも海軍大将である。
今度もこれと同じで、西園寺は犬養政友会内閣のあとに斎藤実を、続いて九年には岡田啓介と海軍大将を推す。そのあとは再び政党に政権が戻るのを期待したかったのだろう。
それでは、この斎藤の中間的な内閣に西園寺はなにを期待するのか。
「結局軍に引張られるが、他面軍に対し極力ブレーキを掛け、ブレーキを掛けてもなお四囲の情勢から止むを得ない場合に譲歩する。譲歩してもその結果が実際に現われることを出来るだけ先に延ばすようにする。更に譲歩することによって生ずべき種々の危険も亦最小限度に止める……このことがかゝる中間内閣最大の使命である」〈同3〉
要するに、「何もなさず、ただ四方に刺戟を与えざることを念願」するのが、この内閣の使命だというのである。そういうことなら、「何もしない人として至極有名」〈近衛文麿「元老重臣と余」―矢部『近衛文麿』上所収―224〉な斎藤が適任者だと近衛も認める。
これが、時流に逆らいもしなければ従いもしない$シ園寺の、五・一五事件に臨んでの答えだった。しかし、そう答えざるを得ない時流≠ノ、西園寺自身深く失望していた。なぜこんな事態にまで追いこまれてしまったのか。
「対軍人策について、実はわれわれにも手落ちがあった……」――斎藤内閣は五月二十六日に、政友会から三名、民政党から二名、貴族院から二名を入閣させ、荒木陸相は留任、海相に岡田啓介大将が就任、外相には西園寺・原などの内閣で外相をつとめた満鉄総裁の内田康哉を予定して、組閣を終えたが、その前日、西園寺は訪ねてきた元時事新報社長の小山完吾に、深刻な反省の一端を吐露した。
「欧州諸強国には、平時といえども軍人の仕事が相当にあった。……社会の高所から見れば、これもまた、時に必要の治安維持策でなくもない。それに反して、わが国の如きは、国土狭小で、かゝる植民地はなく、軍人功業の活動舞台の全くないのに加えて、近年軍縮の機運がさかんとなり、ひたすら経費の節約をはかって、やや軍人を抑圧し過ぎたきらいがあった。小児には小児の心理があり、大人から見れば、くだらぬ玩具など必要がないようだけれども……社会の構成上すでに軍人の存在がある以上、軍人の心裡省察もまた大切の事項であるのに、やゝ等閑に付し過ぎたうらみがなくもない……」〈『小山完吾日記』(30年、慶応通信)32〉
西園寺のいうことも一面の真実であろう。しかし、現実には、抑圧し過ぎ等閑に付し過ぎた′R人のなかに、一握の「狂人といいたいが、むしろ狂犬の群れ」(信毎・三沢背山編集局長)が生れ、「祖国を守れ」と怒号しつつ政治への介入を強めている。これに、どう対抗しようとするのか、引っ張られつつ、ブレーキをかける≠セけではあまりに無策ではないか――西園寺の苦悩、そして絶望感が言外ににじみ出ているようである。
それにしても、政党の無気力――遥か京城から政変劇を注目していた宇垣は、呆れ果てていた。
[#この行1字下げ] なぜ議会の過半数を占める政友会が斎藤内閣の提灯持ちをしたのか。この際政友会は厳然として閣外に立ち、是々非々の態度でおれば、遠からざる内に内閣はつぶれる。その後にどんな内閣ができようとも、政友会が過半数を占めている限り、政権は当然政友会に戻って来るに違いない。……これは政党の堕落である。政党がこんなに意気地がなくては、一般社会はもとより、殊に軍部から軽蔑せられ、やがては軍人がますます増長して政権を左右し、政党の無力時代は相当に長く続くだろう。〈宇垣日記850〉
その後の事態は、まさに宇垣が憂えるとおりに展開していく――。
五月二十八日、西園寺は斎藤内閣の成立を見とどけて興津に戻った。
五月末には上海の日本軍が憲兵七十名を残して全員撤退し、六月一日から開かれた第六十二議会も政府は無事乗り切った。
七月十七日、西園寺は例年どおり、御殿場の山荘へ移り、九月になって京都へ赴いた。
京都御所の東側、京都大学に近い清風荘には、天保三年に西園寺の祖父の徳大寺実堅が開いた清風御殿の面影が、池をめぐる木石や数寄屋の一部にまだ残されている。ここで西園寺は嘉永二年(一八四九年)に生まれ、幼いころは馬で庭を駆け回った懐しい場所でもある。
山茶花が侘びしく織部燈籠に咲き匂い、遥かに丹頂鶴が瑞祥の声をあげるこの四千坪の清風荘も、市電が南端を通るようになって「河鹿の声が電車の響きと俗化」してきている……。
京都の秋は早い。十一月も近くなると、朝晩はめっきり冷え込むようになり、秋雨の夕方、西園寺は軽い風邪をひき込んだ。時に発熱し、ぐったりと「非常に疲労の様子で」床に臥せながら、西園寺は、東京からやって来る原田の報告を聞き、感慨を洩らした。
九月十五日に、日本政府は満州国を承認した。国際世論は激しく日本を非難しはじめたが、すでに政府は八月二十七日に閣議決定を行なって、もし国際連盟が「帝国満州経略の根本を覆し、わが国運の将来を脅威するの虞れある現実的圧迫を加えんとする」ならば、連盟から脱退すると肚を決めていた。しかも、このような事態に備えて、「軍備の充実、非常時経済および国家総動員についても充分に考慮を加える」とともに、外交面では、対英米関係の悪化に具えて「極東に於ける日仏間の一般的諒解に関する話合を促進する」〈外務省編『日本外交年表竝主要文書』(41年、原書房)206〜209〉という、従来の外交方針の大転換にもなるような内容の決定も含まれていた。――
「自分も余命いくばくもないかもしれないが、なおできるだけ御奉公をするつもりでいる……」
十月十三日に西園寺は、「どうも内田(康哉外相)にも困ったものだ」と嘆きながら、外交の低調に強い不満を洩らした。
「もっと世界の大局に着眼して、国家の進むべき方向を考えなければならない。日本は英米とともに采配の柄を握っていることが結局世界的進歩を確保する所以であって、フランスやイタリーと一緒になって、采配の先にぶら下っているのでは、どこに日本の世界的に伸展すべき余地があろうか。東洋の問題にしても、やはり英米と協調してこそ、おのずから解決し得るのである。明治以来、伊藤博文公を始め自分達は、国家の前途をいかにすべきかということについて、東洋の盟主たる日本≠ニか、アジアモンロー主義≠ニか、そんな狭い気持のものではなく、世界の日本≠ニいう点に着眼して来たのだ」
原田が宿に戻ると、間もなく雨が降り始め、寒々とした宵になった。
「老公の風邪に障らなければいいが……」
雨の中を原田は、夜行列車で東京に戻った。
日仏同盟論――二、三年前から北一輝が唱えていたものが、ここで急にクローズアップされて来たのは、連盟脱退の思惑と関係がある。
このころ、外務省の白鳥敏夫情報部長、陸軍の鈴木貞一中佐、政友会の森恪、このトリオが「連盟脱退の急先鋒」で、緊密な連絡のもとに脱退工作を着々と進めていた。
「当時国内には表面ではとも角、腹の中で連盟脱退を望んでいた者は殆どない。斎藤首相然り、内田外相然り、連盟脱退の英雄視された全権松岡洋右氏また然りで、内田も松岡も、西園寺公に会って、連盟は脱退せず≠ニ申し述べている。これが後に内田が広田に代った原因となる」〈『森恪』749〉
白鳥は語るが、この白鳥が北の日仏同盟論を支持して、「外交方面から観察して頗る理由ある所以を説いて、大いに(北を)激励して」いた。平沼枢密院副議長もこれに共鳴して、三井の池田成彬を招き、「至極尤もな話だ、君もぜひ一つ奮発して、三井から一千万円出させてフランスに行かないか」と勧める始末で、連盟脱退を狙う陸軍や外務省の一部のものが、日仏同盟論を唱えていた。
京都から戻った原田は、有田外務次官と木戸を招いて、病床に横たわる西園寺の胸中を伝えた。
「日仏同盟論など、荒唐無稽のこと、フランスが英米を敵に回してまで日本のためにどこまでも一緒に行くとは到底考えられない。やはり英米と伍して、どこまでも彼等を利用し、場合によっては彼等に利用されつつも、英米を相手にして仕事をして行かなければ、世界の日本として国際的地歩を確実にして行くことは到底望めない……」
木戸も有田も、「苦々しき今日の世相を見、老公の心中を御察しすれば、何となくしんみりさせられる……」と目を落していた。
十一月八日、西園寺は京都から興津に戻った。まだ風邪が抜けきらなかったが、「十日に陛下の関西行幸があるので、その前に興津に帰る方が地方官憲を煩わすことが少なかろう」という配慮から、やや無理をした。そのせいか、興津に戻ってからも西園寺の体調は「とかく勝れず、まあ生きてはいるがね、涙が出る、鼻汁が出る、いくじがなくなって、……いよいよだめだ。面会を求める人も多いが、なるたけご免を蒙って」〈小泉『随筆西園寺公』483〉過ごすようになった。
それにしても、西園寺の体調の悪さは、単に風邪のせい、気候のせいだけなのか、苦々しき世相≠ノ対する焦躁感、あきらめが、西園寺の精神力を殺いでいるのではないか――原田がそんな心配をしていると、西園寺はまたも元老を辞めたいと言い出した。
十二月十五日、木戸が久し振りに興津を訪れた。木戸は、西園寺から言いつけられていた「内閣総辞職願出の場合、次の内閣組織者御下命の手続」について試案を説明した。
一、元老を召され御下問あらせらる
一、元老は他の重臣と共に協議して奉答致度旨を奉答す……
西園寺は「なお考え置くべし」と答えると、口調を改めた。
「自分はもはや老齢で身体も弱るし、責任もとれず、それに始終政治に注意しているのも苦痛だから、やっぱり元老を拝辞したいと思っている」
「今日の時勢は特に元老を必要と考えます。御迷惑ながら、軍人の主動的言動の多い今日、しかも政治家の極めて低調なる態度を見るとき、政治は真に元老の双肩にかゝれるように思います」
「それだから自分は苦痛に堪えぬのだ。自分は元来隠居などと云うことは嫌いなのだが、隠居でもしたらどうだろう」
「たとえご隠居になっても、優諚がさらに下らないとは保証いたしかねます」
「そんなことになっては、なお困る」
いかにも西園寺らしい「功名心に駆られるとか、我意を通すとかいうことが少なく、物事に拘泥せず淡々としている」〈近衛『清談録』26〉性格がうかがえる対話だが、いくら辞めたいといっても許されるはずがない。西園寺がこんなことをいうのは、いつまでも自分を頼る周りの自覚を促そうという気持に加えて、現状に絶望した姿勢も感じられる。
それに一週間前に近衛が来て、二時間半にわたって、「今が転換の時期」〈原田別150〉と述べたてて帰ったことも、西園寺を苛立たせていた。近衛の主張は、「漫然たる国際協調主義に終始せず、世界の動向と日本の運命の道を深く認識して、常に軍人に先手を打って行かれたならば……」〈近衛「元老重臣と余」225〉といういつもの論だが、西園寺は「未だ静観の時期と思う」〈原田別150〉と取り合わなかった。
暮の二十九日、原田が年末の挨拶に行くと、西園寺は、新年になったら政変の際の手続きと自分の元老拝辞について相談したいから、近衛と木戸と三人で来てくれと言いつけた。
新年――昭和八年の一月七日に、近衛、木戸、原田の三人は連れ立って坐漁荘の門をくぐった。三人がそろって坐漁荘を訪れるのは初めてのこと、西園寺を交えて四人が一緒になるのは一年半ぶりである。
「元老を辞退したいという自分の希望を容れて、御下問奉答の何か名案はないか、もっとも自分が辞めたいという真意が世間に通じないで、すねたとでもとられるのは心苦しいのだが……」
「世間は決して率直にご真意を理解しません、元老は薩派の策謀に乗せられたと露骨に言うに決まっています。それよりもこの国家多難の際に、お若き陛下は元老が隠居されると聴こし召されたら、さぞや心細く思召になると思います、それを考えると、誠に恐縮に堪えません」
「それはいけない、そういうことがあっては申しわけない」
西園寺は、木戸に説かれて元老辞退の希望を引っ込めた。そして、後継首班奉答の際に、「元老その必要を認めたるときは(重臣と協議する)」とつけ加えることで木戸の試案に同意した。
西園寺は疲れていた。暖かな日が続き、この分では春も早いのではないかと思われるのに、風邪もまだ完治しない。元老として「できるだけ御奉公をする」決意を固めるためにも、西園寺は後事を託すべき近衛や木戸や原田と、政局観、対軍部策などを徹底的に話し合いたかったのだが、体力が続かなかった。三人は予定より早く辞去した。
この日、近衛は多くを語らず、西園寺と木戸のやり取りを黙々と聞いていた。坐漁荘を出て、時間つぶしに三人で安倍川方面にドライブしたときもそうだったし、帰りは、朝と同じく国府津でひとり下車していった。
「世界の現状を改造せよ」――しばらくして、近衛は時局観をまとめて発表した。
[#この行1字下げ] 歴史をひもといて世界各国の領土の消長と、民族の興亡の跡を見れば、今日の地球上に於ける国家民族の分布状態と言うものは、決して合理的のものでもなければ、確定的のものでもない事が能くわかる。……平和主義はこの世界の現状に満足している国にとりては誠に好都合であるが、現状に不満の国にとりては到底堪え得られない事である。……先進国は今日迄に、随分悪辣な手段を用いて、理不尽に天然資源の豊饒なる土地を或は割取し、或は併合し来ったのである。……この不合理を調節するには少くとも経済交通の自由、移民の自由という二つの原則が認められなければならぬと思うのである。……ただ日本はこの真の平和の基礎たるべき経済交通の自由と移民の自由の二大原則が到底近き将来に於て実現し得られざるを知るが故に、止むを得ず今日を生きんが為の唯一の途として満蒙への進展を選んだのである。欧米の識者は宜しく反省一番して、日本が生きんが為に選んだこの行動を徒らに非難攻撃するを止め、彼等自身こそ正義人道の立場に立帰って真の世界平和を実現すべき方策を速かに講ずべきである。〈近衛『清談録』247〜255〉
十四年前、近衛が大学を出てまもなく雑誌に発表した「英米本位の平和主義を排す」と同じ論旨であり、木戸が指摘する持てる者と持たざる者≠フ主張である。満州事変に始まる大陸での日本の行動は、国家生存の必要から出たことであり、持たざる者≠ニして止むを得ないことであった、と近衛はいうのだ。
近衛のいうような日本側の主張が、はたして国際社会で認められるかどうか、昭和七年末から八年にかけて、斎藤内閣は国際連盟脱退問題で試練を迎えていた。
このころ、関東軍は日本政府の満州国承認(七年九月)に合わせて、満州全域で大規模な討伐作戦を展開した。北方では、黒龍江省中原、大興安嶺方面、吉林省東境で「兵匪」を追ってソ連国境に近づき、また西南方面でも、朝鮮国境に近い東辺道から始めて、遼東半島、遼河地帯の討伐を終えた。残るは、万里の長城に接する熱河省だけである。ここを完全に制圧すれば、長城線から北平(北京)までわずか百キロに迫ることになる。
熱河作戦は七年末に計画され、年明け二月ころには作戦開始の噂が広がった。
「もし平津(北平天津)地方にまで兵火が及ぶ場合には、列国の感情を刺戟する結果となり……ます/\厄介な事態を惹起する」
連盟脱退の危機に直面したこの時期になにも列国を刺戟しなくても、と斎藤首相は心配した。一年前に上海出兵に目を奪われている隙に満州国を建国したのと同じ手法で、熱河作戦の陰で国際連盟を脱退する計略か?
一月十六日、閑院参謀総長が満州軍の異動を内奏すると、天皇は注意を与えた。
「今日迄のところ満州問題は幸によくやって来たが、熱河方面の問題もあるところ、充分慎重に事に当り、千仭の功を一簣に欠かぬように……」〈木戸215〉
熱河問題、連盟問題と重なって、天皇はますます憔悴が目立ち、「一貫二、三百匁も御体重が減」った。満州事変から一年半、ほとんど気の休まる時がなく、側近は「胸を絞るような思い」で案じていた。広幡侍従次長は語る。
[#この行1字下げ] 陛下のお部屋に伺うと、室内をグルグル回っておられる。ノックして入ってもお気付きにならない御様子のときすらあった。非常に畏れ多い表現だが、まるで猛獣が檻の中で右往左往している、あれを想起させるようなことがあった。また、窓辺にお立ちになって、外の景色を眺められるでもなし、じっと考えこんでおられるようなこともあった。側近者としては、何とお慰めしてよいかわからず……〈『鈴木貫太郎伝』(35年、伝記編纂委員会)127〉
そんな天皇の「独り|社稷《しやしよく》を憂える」気持を知ってか知らないでか、陸軍はどこまでも強気だった。
一月六日、西園寺がしきりに熱河問題を心配するので、原田が荒木陸相を訪ねると、荒木の鼻息はすさまじかった。
「自分の意図を露骨に言ってしまえば、まず三個師団くらいの兵を青島から上陸させて、済南を通って平津地方を衝こうとすれば、多分済南までも行かない内に、張学良(国民政府東北政務委員会委員長)は逃げ出してしまうだろう。やるくらいなら思い切ってそこまでやってみたい」
熱河作戦が平津地方に飛び火するどころか、最初から平津を攻撃すると荒木はいうのだ。
そんな暴挙を……原田が絶句すると、荒木は開き直ったような口調で続けた。
「かれこれ国際政局を云々されるけれども、今日の日本の立場では何をやったところでよく言われる気づかいはないのだから、よい子になろうなんかと考えたら大間違いだ」
原田が、「われわれは害あって益なき紛争はしたくないというのが根本精神だ」と大いに反論すると、荒木も「まあできるだけひとつ熱河だけの問題に局限して済ますようにしたい」と締めくくった。
しかし、荒木の話は、まんざら出まかせと思えないフシがある。同じころ、荒木はこんな言い方で、連盟脱退論を原田に説いた。
「連盟に入っていればこそ、すべての点で拘束されて自由がきかない。連盟さえ出れば、どんなことでも思いのままやっていい。たとえば平津地方だって必要に応じて占領することもできるし、どこにどう兵を出しても何らの拘束も受けない、だからこの際思い切って連盟を出てこそ、むしろ自由な立場になって自由の天地を開拓し得るのだ」
これでは、まるで「日本が孤立し、世界を相手に戦争をする段取りになることを喜んでいるような態度」だ。荒木に比較的理解を示す近衛でさえ、「非常に呆れて、とても一緒にやって行けないと、つくづく感じた」というから、西園寺や牧野、斎藤首相は一層苦々しい気持で、陸軍の熱河作戦を見守った。
この陸軍の強硬姿勢に、内田康哉外相が完全に引きずられた。
「国論というものはいつでも少数の強硬論に引っ張られて行き易い、知識階級の議論などは、いかに合理的であろうとも実行力に乏しいのだから、多少極端でも実行力の伴った強硬論を以て国力を固めた方が実現の可能性が多い」〈原田3─15〉
内田外相はこう言いながら、「今となっては連盟脱退も已むを得ない」と、外務大臣としては最後まで反対するはずの脱退に率先して賛成して、事務方を呆れさせた。
「ここで脱退してしまえば、各国の経済問題にも財政問題にも、その他日本に関係することの多い諸般の世界共通の問題に対して、これまでの立場を失うことになる。……内閣の運命とか個人の生命とか、そんな小さな話と混同してはいけない。遠く国家の前途を慮るべきであり、脱退するのはよくない」
斎藤首相は、こういって内田外相の態度に不満を表明していたが、連盟脱退といい、熱河作戦に伴なう長城以南出兵の国際的反響といい、政府では外務大臣の所管事項に属する。高橋蔵相が閣議の席で荒木陸相をつかまえて、「近来、日本の外交はまるで陸軍が引きずっているような形で、外交に関して事毎にすぐ陸軍が声明したりなんかするが、なぜあんなことをするのか」と難詰したような、そんな毅然たる姿勢が内田外相には見られなかった。見兼ねた高橋蔵相は、同じ閣議の席で内田に、「一体君はいつまで陸軍に縛られているのか、それじゃあ困るじゃないか」とまで苦言を呈したが、内田外相は連盟脱退のため西園寺を利用することまでやってのけた。
一月三十一日、「ソフト帽に和服、軽くトンビを羽織って、駒下駄ばき、海岸通りをステッキを振り振り」〈北野『人間西園寺公』149〉坐漁荘を訪問した内田は、帰途、新聞記者に「公はすべての問題を了解された」と得意気にしゃべった。伝え聞いた西園寺は、「人間は田舎(満州)に行って来ると、どうしてああ馬鹿になってくるんだろうね」〈小泉『随筆西園寺公』486〉と不興がったが、内田はさらに「西園寺公はやはり脱退に賛成され、総理もいずれは賛成するはずだ」と省内の幹部連中にまで放言した。
一方国際連盟理事会は、すでに十一月二十日から、「リットン報告書」の提出をまって討議を開始していた。リットン報告書の内容は、日本側には不利だった。満州国は中国の領土であり、柳条溝事件以降の日本の軍事行動は「正当なる自衛手段と認むるを得ず」、満州国は「日本の傀儡」にすぎないとして、日本軍の撤退を要求していた。連盟理事会は、この報告書を審査して紛争解決案を勧告することになるが、報告書の内容から見て、当然日本に不利なものになることが予想される……。
果たして、二月十四日、理事会が可決した日中両国に対する勧告案は、「日本にとって全く不利益な、非常に思い切ったことのみを強いた」ものだった。
「満州に対する主権は支那に属することを思い、南満州鉄道附属地外に於ける日本軍隊の……撤収を勧告す、……支那の主権の下に置かれ且支那の行政的保全と両立する一の機関を相当の期間内に満州に於て設立せんことを勧告す……」
要するに、満州事変以前の原状に戻せ、ということである。新生満州国≠烽ヘっきりと否定された。
「満州に於ける現制度の維持および承認は……之を排除するものなり」
この勧告内容を知った日本の「全体の空気は急激に悪化」、新聞も号外で勧告案を公表して即時脱退を説いた。
「どうも様子を見るに、とうてい脱退は免れんな。結局脱退へ引きずっていかれそうだ……」
二月十七日、西園寺も諦めたようにつぶやいた。
荒木陸相に代表される陸軍の強硬姿勢、それに迎合的な内田外相、さらに「最後まで不同意だった海軍も同意」に傾くに及んで、斎藤首相も脱退止むなし≠ニ肚をきめて、十九日には西園寺に、「大勢既に已むを得ない」と報告し、翌日の閣議で、「現在迄に発表せられたる連盟の勧告案にては結局脱退は止むを得ず」と決定した。
そして、二月二十四日――連盟総会は、日本軍の満州撤退を含む勧告案を、四十二対一、棄権一(シャム)、欠席十二で採択し、松岡洋右代表は、「総会によって採択された報告書を受諾することは為し能わざるところで……日本政府は日支紛争に関し国際連盟と協力せんとする、その努力の限界に達した」〈外交主要文書下268〉と演説、日本語で「サヨウナラ」と結んで、退場した。
これで、「丸一年半の間モミにモンだ満州問題の幕は閉ざされ」〈土橋勇「国際連盟脱退管見」―『現代史資料』11巻所収―885〉、日本は連盟を脱退して、荒木陸相のいう「自由な立場になって自由の天地を開拓し得る」途を歩むことになった。
ところで、松岡代表は、連盟脱退の政府訓令を二月二十二日にジュネーブのホテルで受け取ると、建川美次中将に向かって気炎をあげたという。
「日本を発つときに西園寺に会って話をしたが、西園寺は俺に向かって、どんなことがあっても政府に連盟から脱退するようなことはさせない、と約束した。それだのにこの最後の訓令はなんだ。……だから俺は公家政治は大嫌いなんだ」〈佐藤尚武『回顧八十年』(38年、時事通信社)〉
西園寺がそんな約束をしたのかどうか、十月に松岡が出発の挨拶のため京都に出向いた時には西園寺は風邪で面会できず、松岡は中川小十郎(立命館総長、貴族院議員)秘書に言づけて、「必ず纏めて帰るようにしたいと思います」と大見得を切って、帰っている。それに、往路、ベルリンで七田代理大使が小幡酉吉大使の意見を伝えたときには、松岡はすでに脱退論に傾いていた。
小幡大使の意見――英米も困り抜いて、何とかして日本の面子を立てて、脱退を食い止める方法はないかと躍起になっているのだから、日本側から脱退するなどといわずに、例えば、五カ年位の間、満州の現状維持案を持ち出して見たらどうか――を聞いた松岡は、七田に言った。
「君、小幡さんの意見は真人間のいうことだよ。君等外国にいる者には判るまいが、今や日本人はマッド(狂人)になっている。マッドになった者にはマッドの意見より通じないものだ」〈『小幡酉吉』(32年、伝記刊行会)380〉
七田は、ああやっぱり松岡全権は「もう軍人のとりこになっている」と痛感したというが、パラドックスに陥りやすい人≠ニ西園寺が評した松岡らしい見解である。
そんな松岡に、原田は真っ向から反撃する。
「先般来新聞の論調を不必要に、というよりも有害に硬化させて、ひいては国家の品位を疵つけさせたのは、誰あろう、ジュネーブにいる松岡全権その人だったのである。松岡全権が建川中将あたりと相談して、日本の在外記者を買収し、喧しく報道を送らせていた結果であって……自分達が余計なことをやりすぎていたことをみずから責めた方がいい」
この連盟脱退の経緯を、昭和十六年の日米開戦の際と比べると、興味深い。よく知られているように、昭和十六年十一月二十六日に、アメリカは日米交渉最終案としてハル・ノート≠提議した。
[#この行1字下げ] 日本国政府は支那および印度支那より一切の陸、海、空軍兵力および警察力を撤収すべし……合衆国政府および日本国政府は臨時に首都を重慶に置ける中華民国政府以外の支那に於ける如何なる政府若くは政権をも軍事的、経済的に支持せざるべし……
このハル・ノートの「支那および印度支那」を満州に置き換えると、連盟勧告案と同じようになる。そして国内世論の面でも、連盟脱退直前の七年十二月十九日には全国一三二紙の新聞が共同宣言を一面に掲げて、「いやしくも満州国の厳然たる存在を危うするが如き解決案は、たとい如何なる事情、如何なる背景に於て提起さるゝを問わず、断じて受諾すべきものに非ざることを日本言論機関の名に於てここに明確に(声明する)」と強硬論を展開したことも、日米開戦直前の新聞の狂躁ぶりを想起させる。また、「勧告の内容があまりに日本に対して不利である」と知って朝野をあげて即時脱退を決意し、片やハル・ノートを「最後通牒に等しいもの」と受け取って開戦に一気になだれ込む――昭和八年も十六年も、日本は外圧に遭遇して同じ反応を示した。それは、西園寺が「種々やって見たけれど、結局人民の程度しかいかないものだね」〈木戸497〉と慨嘆する、その日本国民の国際感覚のレベルを表わすものであるかも知れない。少くとも昭和八年も十六年も、日本の主張や行動は英米を中心とする国際社会から容認されておらず、連盟発足時、つまり第一次大戦終了時の状況から一歩も踏み出すなと強要されていたのだった。
ところで――
天皇は、連盟脱退について、終始反対の意向だった。
「元来日本の国是は、維新のはじめにおいて、ひろく世界と交わり、大いに知識を開発するということに、詔勅にても一定しおる」と西園寺がいうように、国際友好関係の維持と、憲法の遵守を天皇は政治上の理念としている。
政府は、「国際連盟を脱退するに就ては、通告文を交付すると共に、詔書渙発を奏請する」ことに決め、三月八日に内田外相はその旨を天皇に奏上した。天皇は、内田が退下すると、鈴木侍従長を呼んで、詔書の内容に指示を与えた。
一、脱退の不得止に至りしことは誠に遺憾なること
二、脱退を為すと雖もます/\国際間の親交をあつくし、協調を保つこと
この二点を政府に伝えて、詔書に盛り込めというのである。
天皇は、さらに牧野内大臣を呼んで下問した。
「近く国際連盟脱退の手続を進める筈のところ、幸い熱河の問題も手際よく片付きたる今日、強いて脱退するにも当らざるにあらずや」
牧野は、いまにわかに脱退の方針を変更するわけにはいかない、と答えたが、熱河問題を「手際よく片付」けたのは、実は天皇だった。
少し前の二月四日、閑院参謀総長が拝謁して、熱河作戦の裁可を求めると、天皇は、「関内に進出せざること、関内を爆撃せざること」、この二つを条件として許可すると申し渡した。関内、つまり華北に戦火を及ぼすことはまかりならぬ、という聖旨である。
二月二十三日から熱河省に進攻を開始した関東軍は、順調に作戦を進めて、三月四日には中国軍主力が在駐した熱河省の中心都市の承徳を陥れた。前後して、山海関から西に連なる長城の主要関門も、北平の北方の古北口に至るまで、次々と占領していった。
熱河作戦はこれで終了のはずである。終了したのなら、連盟を脱退しなくてもよいではないか――。いや、むしろ連盟に留まることが戦火を華北に広げないためにも必要ではないか、というのが天皇の意向だった。
三月二十七日、日本政府は連盟に脱退通告を行ない、同時に詔書も発布された。
同日、斎藤首相も告諭を発し、今後ともに日本は正義公道にのっとり、世界平和を求めるものであると、詔書の内容を引いて宣明し、大角海相も同主旨の声明を発表したが、荒木陸相の声明は、将兵の団結を呼びかけただけで詔書を無視していた。
陸軍はなにを考えているのか。
「国際平和の確立……を冀求し……文武互に其の職分に恪循し……行う所中を執り……」という天皇の希望を無視するつもりか――答はまもなく明らかになる。
万里の長城は、そもそも北夷に対する守りとして造られている。その北夷の立場にある関東軍は、長城壁に立つ中国軍から見下される位置にあった。軍事的観点に立てば、長城壁に関東軍が止まるためには、長城内作戦を進める必要がでてくる。
関東軍は、長城線を越えて南下し、|※[#「さんずい+欒」、unicode7064]河《らんが》(チャハル省黒龍山に発し、熱河省承徳を経て、喜峰口付近で長城を北から南に抜き、河北省に入り、山海関と天津の中間で渤海に注ぐ)の東側を確保する作戦を検討しはじめた。もちろん、熱河作戦のとき天皇が関内に進出するなと条件をつけたことなど無視している。
四月に入ると、関東軍はまず、山海関の西の関門の石門砦から喜峰口までの各関門を攻略した。ここから関内(長城以南)に進撃して中国軍を引きつけ、その間に板垣征四郎少将率いる天津特務機関が北平でクーデターを起して反※[#「くさかんむり+將」、unicode8523]介石政権を樹立する――相変らず謀略と二人三脚の作戦である。四月十八日には謀略を助けるため北平の北の関門の古北口にも攻撃命令を下した。
この日、天皇は奈良大将に代って新しく侍従武官長に就任した本圧繁大将に下問した。
「関東軍に対し、その前進を中止せしむる命令を下しては如何……」〈本庄繁『本庄日記』(42年、原書房)159〉
外国に対して関内に進出しないと声明しておきながら、続々と京津地方に向けて進軍するのは信義上宜しからず、もし関東軍や参謀本部が前進を強行するなら、勅命で戻すしかない――天皇の口調はきびしかった。
本庄武官長は、鈴木侍従長から聞いたばかりの話を思い浮べた。
天皇はこんなことを鈴木侍従長に語ったことがあるという。
「論語に子貢の政治を問うものに答えたる中、左の言あり。
国家に不足の事起れば
[#2字下げ]先ず兵を去れ
[#2字下げ]次に食を去れ
[#2字下げ]国家の信義に至りては、 遂に去る能わず|と《(注2)》。
国家の信義の特に重んずべきを説くところ、深く味わうべきなり」〈本庄日記241〉
いま関内に進撃した関東軍をみて、長城線まで引戻さないと日本は世界に信義を失うことになると天皇は痛感しているのだ。
本庄は暫くの猶予を乞うと、真崎参謀次長を訪ねた。
「陛下は、一旦参謀総長が明白に予が条件を承わり置きながら、勝手に之を無視したる行動を採るは、綱紀上よりするも、統帥上よりするも穏当ならず≠ニ大変ご立腹である」〈同160〉
真崎は「大いに恐懼」し、小磯関東軍参謀長に宛てて「速に兵を撤すべく然らずんば奉勅命令下るべし」〈『関東軍参謀部第二課機密作戦日誌』―『現代史資料』7巻所収―531〉と打電した。翌十九日正午には、「作戦部隊を直に長城の線に帰還」させよ、という命令が前線に発せられ、四月はじめから始まった※[#「さんずい+欒」、unicode7064]東作戦は二十三日に全員が撤兵してひとまず終わった。
「大元帥陛下が非常にお喧しいのだ」〈小磯『葛山鴻爪』571〉
真崎は、慌てて上京してきた小磯参謀長に弁解し、「要するに反撃は何度繰り返してもよいが、現状にある関東軍を長城外に撤退させる」ようにすればよい、と耳打ちした。小磯は「反撃さえ認められるものならば微塵も抗弁する必要がないのでその儘辞去し」、新京に戻ると早速五月三日に関作命第五〇三号を発令し、「敵に鉄槌的打撃を加え其挑戦的意志を挫折せしめん」〈「関東軍作戦日誌」541〉ため再び関内に攻め込んだ。
国家の信義≠重んじる天皇の指示は、真崎らによって結局は無視されたことになるが、勅命≠ナ抑えつけられた真崎は逆恨みをする。
「近来陛下には、参謀本部や陸軍からの上奏に対してなか/\御裁可がない。外務や総理からの上奏に対するのとは、おのずからそこに違いがあるように思われる。どうかしてもう少し陸下が参謀本部から申上げることに対して御嘉納あらせらるるよう、殿下のお力添えを願いたい」
真崎は東久邇に筋ちがいの要請をした。東久邇が引き受けるはずがない。「ひとり陸軍のみに偏した御嘉納を期待するが如き申し条は、甚だけしからん」と拒絶すると、「ここの宮さんは国家観念に乏しい」〈原田3─84〉と憤慨して触れ歩く始末だった。
再び関内で燃え上った戦火は、天津特務機関が仕組んだ北平クーデター工作の中心になっていた張敬堯が暗殺されて失敗に終ったこともあって、五月三十一日に天津に近い塘沽で停戦協定が結ばれて、沈静した。この協定により、日本は河北省の一部、長城内に非武装地帯を設けることに成功し、ここを根城に次第に華北分治工作を進めることになる。昭和十年の梅津・何応欽協定により停戦区域を河北省全域に拡大し、同年十一月にはここに冀東防共自治委員会を擁立し、十二年には中国全域に侵略の火ぶたをきる……。
――軍令部次長や参謀次長は、総理大臣なんかすっかり馬鹿にしきっている
――斎藤内閣は近く辞任すべしという噂が昨今高い
――皇族を戴く内閣を目論むもの近時相当にある
原田は大角海相などから、こんな話を毎日のように聞かされていた。
議会に足を持たない斎藤内閣は、三〇一議席六十五パーセントの勢力を占める政友会対策で苦心惨憺していた。政友会の強硬派は、積極的に内閣を倒して政権を奪うことを考えている。斎藤首相としては、政友会の強硬派と自重派の分裂につけ込んで、一方では「適当な時期に退いて政党に政権を譲る」〈岡田『回顧録』79〉と仄めかして期待を抱かせ、他方で議会解散をチラつかせて引っ張っていくしか手はない。
[#この行1字下げ] 総理就任以来、今日までのことを顧みて、いずれもその時々の当座の切り抜けに類することのみに精力を費しおり、政府として、さらにもう少し永遠の方針に関する政務にふるゝところなきは遺憾なり。〈小山日記50〉
就任半年後に斎藤首相は、こう慨嘆するが、斎藤、山本達雄内相、高橋蔵相の実力長老トリオは巧みに難関を切り抜けていった。この三人は、第一次山本権兵衛内閣で、それぞれ海相、農商務相、蔵相として同僚だったし、斎藤と山本は西園寺内閣の閣僚でもあったから、西園寺を加えてお互いに気心を知り合った間柄である。
それに、斎藤内閣は内務官僚と関係が深く、斎藤内閣は、政党政治を終らせただけでなく、「はじめて軍部・官僚政党の連立形態が出現した」〈丸山『現代政治の思想と行動』71〉内閣でもあった。組閣を援けた伊沢多喜男、湯浅倉平(八年二月に宮内大臣就任)、また、山本内相の相談役である後藤文夫農相、柴田書記官長、堀切法制局長官など、いずれも内務官僚出身である。政友会がこの内閣を倒そうと真っ向から臨んでもし解散でもされたら、内務官僚を敵に回すことになり、総選挙で惨敗する懸念がある。
しかも、元政友会総裁の高橋蔵相が、政友会に同情的でなかった。高橋は蔵相六度目のベテランで、財界も全面的に信頼感をもっている。高橋は就任早々、兌換条例の保証発行限度一億二千万円を平然と一挙に十億円に引上げて「正貨準備による発行高の制約を事実上解除し」〈『日本銀行八十年史』(37年)66〉、また大蔵省内に擡頭しつつあった増税論を押えて赤字国債の発行に踏み切るなど、一連の積極財政政策を展開した。高橋のやり方は「ニューディールやナチスに先んずるケインズ理論の先駆」ともいえるもので、この結果、日本の商品は為替安の波に乗って輸出がふえ、国際収支は好転し、さしもの長期にわたる不況感も薄らぎつつある。この高橋蔵相が「非常に強硬で、結局解散を賭してもどこまでもやるという意気込みで、総理もこれらの強硬意見に押される」ほどだから、なかなか政友会に有利な状況が訪れない。それに荒木陸相も高橋蔵相にかかると、「話してみるとなかなか物解りのいい人だから、自分がひとつだん/\あれを政治家に教育してやろう」〈原田2─388〉などと半人前扱いされる始末で、まるで歯がたたない。
斎藤内閣と政友会の交渉は、まず岡田啓介海相が担当した。岡田は政友会の森と田中内閣以来の顔なじみで、「話合いが出来る間柄」にある。
七年八月末に開かれた第六十三議会で、政府と政友会は早くも正面衝突し、匡救予算の編成替えに政府が応じなければ、政友会は内閣不信任案を提出するという事態に陥った。この時、岡田は斎藤首相の意を受けて、森と交渉する。
「斎藤内閣は適当な時期に退いて政党に政権を譲る、ついては臨時議会の関門は通してくれ」
そこまではっきりした話をしたわけではなく、「政治を政党政治の本道に戻さなければならぬ、ということが中心だった」〈岡田『回顧録』79〉と岡田はいうが、この話し合いで政友会は妥協し、政府は議会を乗り切った。
しかし、妥協した政友会は近い内に政権を譲り受けるものと思い込んで、「岡田海軍大臣は、本議会の予算編成後に辞める、但しその予算は政友会が踏襲してくれなければ困る、と答えた」〈原田2─396〉と触れ回って、政府に総辞職を迫る。
こんな騒ぎの最中に、たまたま森恪が死去した(七年十二月)。苦しい立場にあった岡田海相もこれ幸いとばかり、動脈硬化と高血圧のためということで大角岑生海軍大将と交代してしまった。
交渉相手を失った政友会は、高橋蔵相に辞職を迫る。高橋が辞職し、同時に政友会出身の鳩山一郎文相、三土忠造鉄相が辞めれば斎藤内閣は崩壊するというヨミである。七十九歳の高齢に加え、「小水が近くなったり、ガスが出たり」で悩まされていた高橋は、一度はごくあっさりと辞職勧告を受け入れた。
「まあ、議会後に自分は辞めるから、とにかくそれまで協力の誠を尽してやってくれ」(七年十二月)
伝え聞いた斎藤首相が高橋を慰留すると、高橋は態度を変えて、政友会をのらりくらりと翻弄するようになる。高橋は原田に語った。
「(鈴木政友会総裁は)閉院式の日(八年三月二十六日)の如きはひそかに裏口からやって来て……いつ辞めるのか、ときいたから、二十日過ぎだと答えたが、その後総理に止められたので、五・一五事件の後始末でも片付いたあとのことになろう」(八年四月)
「また総理から、この際まだ非常時は解消しないし、問題が重なって来るから、ぜひ留まってもらいたい≠ニ言われると、それを押し切って辞めるわけにも行かないから、昨晩鈴木が来た時にその話をした。鈴木はそれなら予算の編成(十一月)まで行きますか、或は議会にも臨むつもりですか≠ニ言うから、自分は勿論だ≠ニ答えた。なお鈴木に、若槻君も君も内閣に入って挙国一致の実を示したらどうだ≠ニ言っておいた」(同五月)
政府と政友会のこんな駆け引きを、西園寺はすました顔で眺めていた。原田が、総辞職の噂を耳にして西園寺に伝えても、一向に動じない。
「まあ、斎藤にまかせておいたらいいじゃないか」
「西園寺は、斎藤がこのまま続けて行くんだろうと確信していた、といっておいてくれ」
それに、二カ月に一度の割で西園寺を訪ねる斎藤首相も、坐漁荘から出てくるたびに、「自分は死ぬまでやるんだ」とか、「超党派政治によって怪しい雲を取り除いたならば、後は再び憲政に復帰させなければならぬ」などと表明して、意気軒昂なところを見せた。
共同の消極的目的のために、斎藤内閣は倒れずにいられる――原田はこのころ、こんな観測をしていた。
「現在の陸軍の幹部も、内閣の代ることを非常に嫌がっている。それは宇垣が出て来る心配があるからである。政友会も宇垣が出ることは欲しない」
たしかに陸軍は、斎藤内閣を倒すような動きを控えている。鈴木貞一中佐も、そんな陸軍の姿勢の変化をしきりと強調した。
「今度陸軍では、部内に訓示して、政治の形態がどうの、政権は誰に行くべきだのと、政治に関してかれこれ口出しすることを厳に戒めた。軍の中心勢力としても、今の内閣でどこまでもやってもらいたい、という以外に格別の註文もない」
原田は首をひねった。連盟脱退、熱河作戦の完了と長城内に足場が確保されたことで、陸軍は満足しているのかも知れない。しかし華北で次の作戦準備ができて、宇垣に対抗できる有力な候補を担ぎ出す目途がついたら、陸軍は容赦なく倒閣に乗り出すのではないか。|御輿《みこし》に乗せられるのは誰か――、近衛か。
昭和八年六月、徳川貴族院議長が辞任した。徳川将軍家十六代の徳川家達は、明治三十六年に議長に就任して以来、三十年近くこの地位にあったから、交代しても不自然ではないが、辞任は私的なスキャンダルがきっかけだったので、やや世間の関心を集めた。
後任には、近衛副議長がついた。順当な昇格で、それを待ち望んでいた西園寺も喜んだが、西園寺は一方で、近衛と陸軍の関係が深まるのを心配していた。
この頃、原田は箱根に近衛を訪ねたとき、同席した松井石根陸軍中将(軍事参議官)の話を聞いて、妙な感じを受けた。
「内閣も今のまゝではあまりパッとしない。少くとも外務大臣は代えた方がいい。広田などどうだろう。五・一五事件の責任をとって、陸軍大臣も当然辞めるべきで、後任には林あたりがよくはないか。とにかく今日のところ、内政を見るにいかにも人がない。近衛公も、そろ/\出馬していい時ではないか」
たしかに松井の話は不思議である。松井のいうとおり、四カ月後に内田外相は広田と代るし、八カ月後には荒木陸相も林銑十郎大将と交代する。松井の予言どおりである。そして陸軍はそろそろ近衛の出馬を期待している――、原田は不安になっていた。
七月十日、「五・一五事件の二の舞のようなことをやりかけた」クーデター計画が発覚した。斎藤内閣の全閣僚と牧野内府、鈴木政友会総裁、若槻民政党総裁を殺害しようと、海軍機で首相官邸を爆撃し、抜刀隊百五十人を突入させるという「神兵隊」事件である。首謀者は、全国勤労党結成者の天野辰夫弁護士らで、血盟団事件、五・一五事件の流れをくむ一派だった。たまたま一同が前夜、神宮外苑の神宮講会館に結集したところを警視庁に一斉検挙されて未遂に終ったが、皇族内閣による昭和維新≠めざすクーデター計画の発覚は、五・一五事件以後ようやく平静を取り戻したと思い込んでいた人々を驚かせた。
そして九月十四日、松井中将が原田に語ったように、外務大臣が内田から広田弘毅(前駐ソ大使)に代わった。広田は右翼団体の玄洋社と関係があり、「どちらかといえば右傾に近い」(重光葵外務次官の表現)〈原田3─145〉と見られている。親任式の際に、天皇は広田に指示した。
「陸軍は外国と事を構えたがって困る。海軍がどうにかこれを防いでいる有様だから、広田もその辺に注意して事を起さないように」〈内田信也『風雪五十年』(26年、実業之日本社)146〉
広田新外相は早速アメリカ大使のグルーを招いて、両手を握りながら、「私の政策の礎石は日米関係の改善で、これを促進するためにこのポストについたものと考えている」〈グルー『滞日十年』(23年、毎日新聞社)上134〉と語り、原田にも、「どうしてもこの五、六年の間は、外と事を醸すようなことはいかん、まず第一に、支那との間を少しでも好転させる必要がある」と力説、天皇の意向に沿う決意を表明した。しかし、陸軍が再び積極的に政治に介入するとき、どこまで頑張り切れるか――。
十月になって、荒木陸相は近衛にとんでもない相談を持ちかけた。
「今日の不安な空気を一掃するために、左傾といわず右傾といわず、法の裁きを受けた者および裁きの中にある者すべてを、陛下の思召によって恩赦あるいは大赦に浴させる、つまりすべての罪を許してその上で新たに政治をやり直す、ということで、陛下の詔勅を仰ぐことにしたい」
つまり、五・一五事件や血盟団事件の被告をすべて無罪にして釈放する、そうすれば、「陛下のお恵みに感奮して、日本国民のすべてが一丸となって、新しい雰囲気の中にすべてのことを新しくやり直す」ようになるだろう、「かくして初めて不安の空気が一掃され……非常時に処する政治なり外交なり国防なりの策を立てて行なう」ことができる、と荒木は近衛に説いた。
「まるでそれでは革命じゃあないか」
原田から報告を聞いた西園寺は、荒木の随分まあ馬鹿な話≠ノ呆れ果てたが、近衛が荒木に「返事をせずに、ただ考えておきましょう≠ニ言って別れた」と聞いて、怒った。
「なぜその時に、あっさりそれはとても駄目だろう≠ニ言ってくれなかったか」
しかし、「軍部が強く出れば、あるいは内閣もしようがなしにそんなことをする」懸念もある。西園寺が嘆くように、陸軍との力関係は「大海の水を|柄杓《ひしやく》で掬うようなもので、当分まあ、何を言ってみたところで、なかなか陸軍がおいそれと言うことをききゃしない」有様だ。
「これは少し大きいことだが……」
西園寺は改めて原田に指示した。
「自分の生存中に、何か御奉公にこういうことをしたらいいだろうというようなことがあったら、考えておいてもらいたい。斎藤にしても、まあ西園寺がいるのでいくらか足しになるというように、自分を味方にして、力になると思ってくれるならば……。木戸とよく考えておいてくれ」
その日、夜おそく帰京した原田は、木戸と話し合った。西園寺の意図がもう一つハッキリしない。「近衛にも遅くない時期にやはり相談することが必要だと思う」のだが、なぜか西園寺はその指示をしない。とにかく、「木戸に公爵の所に早速行ってもらって、なおよく話をきいておいてもらうことが必要だ」ということで、木戸は翌日興津に出かけた。
案の定、西園寺は近衛の動きに不満をもち、牽制しようと考えていた。
[#この行1字下げ] 今後の政治の動向を考うるに、軍部に軍権、政権を掌握せしめて独裁的の政治を行わしむるか、あるいは徐々に今日の情勢を転回せしめて議会政治で行くかの二つしかないと思う。近衛あたりが前者を支持するなら、自分はこれにはお伴はできない。自分は過去の人として消えて行く外ない……。
近衛が陸軍の軍人や右翼に同調するような言動を見せるのは苦々しい、むしろ軍部を牽制する側の先頭に立って、斎藤内閣を支え、再び政党政治に戻すように努めてもらいたいと西園寺は願っている。
[#この行1字下げ] 近衛の将来は、自分に近く親しいからと云う訳ではないが、何といっても相当の人材で、他にちょっとかけ替えがないから、棚ざらしになったり、きずのつかないようにしたい。本人が何かつかむところがあって立つと云うなら敢て止める訳ではないが、自分の考では、二、三年貴族院議長を続けて、その後は内大臣なり、枢密院議長をつとめさせるがいいと思う。
西園寺の狙いは、元老として今なにをすべきかを近衛や木戸に検討させれば、近衛も西園寺の後継者としての自覚を持つのではないか、ということだった。
興津から戻った木戸は、翌日、鎌倉に新築した近衛の別荘に招待された。原田も一緒だったので、「西園寺公よりご依頼の、公爵が存命中に果し置かれたき事項」を相談するよい機会だったが、他に何人か同席したので、中華料理をたべ、遅くまで漫談しただけで帰った。十日ほどして、十月二十六日にも木戸と原田は近衛を訪ねたが、この時も来客があったので、二人は「他日に譲り帰京」した。
二人は結局、西園寺の要望に答えなかった。答えにくい質問でもあるし、また、西園寺が見るように、「今日は動くべきときでなく、今暫く現内閣に仕事をさせて、推移を見るべきなのではないか」〈木戸275〉というのが、その答えでもあった。間もなく近衛は、アメリカへ行って来ると申し出て、西園寺を嬉しがらせる。
この年、昭和八年の暮に、九年度予算編成にからんで、斎藤内閣は危機を迎えた。
十一月に入って、原田は、「やあ二十日には倒れる」とか、「二十一日にはどうだ」という宣伝≠ノ悩まされた。
昭和九年度予算は、軍部のいう一九三五年危機≠ノ備えるため、膨大な要求額になった。
「陸軍は三十五年にはどうしてもロシアとやりたいという気持があるらしいし、海軍は三十六年に米国と戦いたいらしい」
重光外務次官は軍部の強硬な姿勢から「痛切にそういう風に感じた」らしく、原田に心配して語ったが、高橋蔵相は、「国防の充実は必要だが、なるべくこれを最小限度に止めなければ国の財力は耐え切れぬ」〈『大蔵省百年史』(44年、大蔵財務協会)下50〉と、陸海軍の要求額を大幅に削った。
「筆を持てばものを書きたくなるし、剣を持てば人を斬りたくなる。大きな軍備を持たせたら戦争をはじめちゃう」〈賀屋興宜「戦時財政の歩んだ道」―安藤良雄編著『昭和経済史への証言』(41年、毎日新聞社)中所収―180〉
こういいながら、老蔵相が十一月十七日の予算閣議に提出した予算原案は、一般会計二〇億一七〇〇万余円だった。これは、「蔵相に於て、国防第一主義の下に、陸軍に約六割を、海軍に約四割を、農林に約一割を認め、他は殆んど新要求を削減」〈本庄日記168〉したもので、八年度一般会計予算二二億五四〇〇万余円に比べて一割の減少になっていた。特に海軍は、軍縮条約満期後に具えて第二次軍備拡充計画を作って四億四千万余円を要求して一億七千万円に査定され、六割を削除されたが、これも高橋蔵相にいわせれば、ごく当然のことだった。
「陸海軍とも大正六年時分の価格で予算を組んで来ているようだが、調べさせてみると、今日では実際その半分で買えるということが確かめられたから、単価を半分にして大体の費用を見ておいてやった」〈原田3─187〉
しかし、海軍がこれを呑むはずがない。「海相は頑として之に反対し、特に五千万円の復活を要望し、後さらに譲歩して三千万円復活を固執」、その結果、予算閣議は「海相、蔵相正面衝突となり、互いに辞表を懐にして譲らず」、頗る険悪な模様になった。高橋蔵相が、「海軍の国防上要求する新計画に属するものは悉く之を認め、単に海軍の単価切り下げを要請」しているだけだと突っ撥ねれば、大角海相は、予算通過を見越して発注済みであるうえ、「|已《すで》に軍令部総長(八年九月の軍令部条例改正で、軍令部長を軍令部総長と改称)を経て叡聞に達しある(天皇に申し上げてある)が故に譲歩し得ず」〈本庄日記168〉とまで言い出した。
「まあ、斎藤総理のことだから、結局なんとか纏めるだろう、自分としては黙って見ているより仕方があるまい」
西園寺は静観の態度だったが、「なんとか纏める」ように政府と軍部を督励したのは、実は天皇だった。
十一月二十七日、天皇が海軍省に行幸すると、伏見総長が、予算問題を内奏した。
「海軍予算の重大にして是非成立せしめざるべからざるに蔵相の同意を得ず、海相は止むなく(辞職)決意の余儀なきに至るべし」
「然らば海軍にはもはや全然提出予算を削減するの余地なきにや」
「多少の余地なきにしもあらざるべし」〈同168〉
海軍はこの内奏をもって、叡聞に達しある≠ニ閣議で主張するのだが、事態を憂えた天皇は、十二月一日に本庄武官長を呼んで、「如何にすれば宜しからんか」と下問した。
「若し今、内閣瓦解とならば、国際的に非常なる悪影響を及ぼすべく、後任内閣とて誰に組閣せしむるとも一長一短あり、軽々に更迭すべきにあらず。又、海相、蔵相の意見の相違は僅かに三千万円の問題にして、寧ろ感情に走れるにあらずや」
天皇は、この数日の間に、たまたま参内した広田外相に言づけて、「予算は、この際だからどうか纏めるように」と二度も斎藤首相に伝えている。
「過般来、臣が荒木陸相と会見したる処によれば、荒木もいよいよの場合には乗出すべく、それに対する腹案も有せしものの如くなりし故、今回の予算も結局は纏まるべしと存じ上げます」〈同169〉
本庄武官長は確信ありげに天皇に奉答すると、荒木陸相のもとへ出向いた。このときすでに、天皇の軫念に恐懼した斎藤首相は、山本内相と三土鉄相を荒木のところへ遣わして工作させ、荒木も事態の収拾に一肌ぬぐ決意を固めていた。
「山本内相と三土鉄相がやって来て、海相が辞めるといっているから、君も手伝え≠ニいう。どうすればいいのか≠ニいうと、陸軍から差水をしてくれ、そうしないと大蔵省が金を出さない、つまり陸軍で千万円海軍に譲ってくれ、そうすると大蔵省があと千万円出す、あとは海軍が千万円譲って決着がつく≠ニいう……」〈有竹修二『斎藤実』(33年、時事通信社)202〉
そこで荒木は、「陸軍はこの際三千万円の復活要求をせざるのみならず、やむを得ざれば既定陸軍予算内より若干を吐出すの英断をも敢てする」ことにして、高橋蔵相に申し出ていた。
だから、荒木は、訪ねて来た本庄武官長にもキッパリと返答した。
「明二日の閣議にて五百万円を既定予算中より支出すべく、止むを得ざる場合には一千万円まで英断支出の覚悟を為せる次第なり」
本庄は戻って早速天皇に奉答したが、この間に天皇は出光万兵衛海軍武官を大角海相のところへ差し向けて、出光に「自己の思いつき」として大角を牽制させた。
「軍令部総長宮殿下を経て内奏せしことは、海相が予算に対する強硬なる決意を上聞に達せしめんとせしに止まるか、はたまた叡聞に達したるが故に海軍予算は譲歩の余地なしとの意味なるや」〈本庄日記170〉
正面切ってこう質されれば、大角は「むろん軍の堅き決意を上聞に達したるに止まる」と返答するしかない。――予算問題はこれで解決の見通しがつき、斎藤内閣はまたも危機を乗り切った。
それにしても、荒木陸相はなぜ陸軍の予算を削ってまで政府に協力したのか。
鈴木貞一中佐の原田への話では、十一月二十日ころ、林教育総監が荒木を訪ねて、「もう辞めたらどうか。こんな内閣では全くしようがないじゃあないか。もし留っているんなら、何か仕事をしなければ駄目だ」と、しきりに辞職を迫ったという。
五・一五事件のあと、荒木は責任をとって朝鮮軍司令官だった林銑十郎大将を後任に推したが、林大将は陸相就任を辞退して教育総監に就任したため、荒木は留任した。この林が次第に荒木から離れていく。しかも、荒木の盟友ともいうべき真崎甚三郎参謀次長が、六月に閑院参謀総長から「もうこの辺でよかろう」と辞職させられ、代って反荒木派の植田謙吉中将が就任した。いわば全陸軍あげての荒木支持が崩れ、三長官のうち、閑院総長はもちろん、林総監までが荒木に反対行動をとるようになったのである。
荒木にとって、さらに痛手だったのは、十月二十五日の五相会議(陸・海・外・蔵・首相の五相がこの月から始めた会議)で、軍務局が起案した「皇国国策基本要綱」を葬り去られたことだという。これで、荒木を支持する青年将校の強い願望だった農村救済策が、高橋蔵相の自力更生論≠ノよって日の目を見ずに終り、荒木は陸軍内部で信用を失った。
「荒木ももう駄目じゃあないのか」
仙台の第二師団長の東久邇も、原田にこんなことを言うようになった。原田の観測だと、「林教育総監を担いでやろうという一派が、松井石根大将や石原莞爾大佐など大きな範囲に連絡をとっている」ようだ。
苦境に追い込まれた荒木は、「国事犯に対する大赦」で人気挽回をねらい、予算問題では政治的妥協≠して「男を立て」ようとしたのだ。
十二月二日の閣議で、予算案がようやくまとまった。首相裁断の形式で、海軍は復活要求を一千五百万円に半減し、陸軍は満州事件予備費から一千万円を海軍に譲り、残りは赤字国債で埋めることになった。
[#この行1字下げ] さすがは高橋老巧なり。甘く先手を打ちたるの感を与え、予算の紛糾はこの小芝居にて円満解決……〈宇垣日記928〉
宇垣総督はこのように観測するが、高橋蔵相がこれほど苦慮して軍部予算を抑えたにもかかわらず、九年度予算二十一億六千万円のうち軍事費は四十三・五パーセントにまで増大した(六年度三十・八パーセント、七年度三十五・二パーセント、八年度三十八・七パーセント)。それに、予算編成に対する軍部の発言力・影響力も歴然としてきた……。
昭和九年――。
元日に風邪をひき、肺炎を患った荒木陸相は、一月二十三日に辞任し、林教育総監が代って就任、教育総監には真崎大将が就いた。
[#この行1字下げ] 御上に対し、右傾派に対し、不渡手形を交付しある躍起青年に対して、最近頗る窮境に在りと伝えられし氏の立場は、病魔と云う救いの舟によりて一時的に脱出……〈同946〉
これも宇垣総督の皮肉な観測だが、荒木は辞めるに際して真崎を教育総監に推し、「閑院宮が不同意ならば一切を白紙に返して考え直そう」〈荒木『風雲三十年』159〉とまでタンカを切って、押し切った。
続いて二月には、「足利尊氏讃美論」を「現代」二月号に掲載した中島久万吉商工大臣が、議会や右翼筋から、逆賊を讃美するとはなにごとか≠ニ猛烈な攻撃を受けて、引責辞職した。
さらに三月には、鳩山文相に汚職、綱紀問題が喧しくなって、辞職――。五・一五事件以来一年半を乗り切ってきた斎藤内閣の前途も年明けとともににわかに怪しくなってきた。
それに、個人テロの風潮は相変らず続いている。
前年十一月には、鈴木政友会総裁の暗殺計画(埼玉挺身隊事件)があったし、続いて若槻民政党総裁も上野駅で、ロンドン条約反対を叫ぶ暴漢に襲撃された(無事)。新年になっても、鳩山文相が襲われ、三月には、元鐘淵紡績社長の武藤山治が、北鎌倉の自宅から駅に向かう途中、一青年にピストルで射殺されるという事件が起こった。これは恐喝がからんだ単純な事件だったが、武藤は時事新報の社長で、同紙は財界の大御所の郷誠之助を中心とする財界人グループ番町会を暴く≠ニいう記事を連載したので、この関係が疑われたりもした。
軍人クーデターのデマも多く、近衛は一月に、「海軍の士官が来て、直接行動によって改革をやろう≠ニ強く持ちかけていた」と原田に伝えたし、三月には、「十日、十一日頃、またテロをやるという噂がある。兵庫県に拳銃九百挺と機関銃何挺とかが密輸入されて、行方が判らないというようなデマをきくが……」と心配していた。この時には、原田邸に藤沼警視総監と木戸が来て、「十三日又は十五日に敢行せむとする軍部の行動のデマ」について検討したが、藤沼総監も「少し警戒注意せるやに見えた」。
そんな雰囲気を天皇も懸念したのだろう、荒木陸相が辞任すると、本庄武官長を呼んで指示した。
「林新陸相に、克く軍人勅諭の精神を体して軍を統率し、再び五・一五事件の如き不祥事件なからしむる様伝えよ」〈本庄日記281〉
林陸相は、「折りに触れ時に応じ、部下軍人の指導に努力奮闘すべし」と答え、本庄はこの旨を復奏したが、林陸相はその翌日、「軍人が政治を論じ研究するは差支なし」と議会で答弁したので、天皇は再び本庄に注意した。
「研究も度を過ぎ、悪影響を及ぼすことなからしめざるべからず」
どうも陸軍の動きに再び不穏な気配がただよいだしたようだ。
一月三十日の昼、近衛は桑名で木戸と原田と昼食の時に、米国に留学中の長男の文隆がローレンスビル・ハイスクールを卒業するので、卒業式に参列のため米国に行きたい、といい出した。
「現内閣も、大体一般の空気も既に倦きて来たようであるし……」
三人はこの席でこんな話もしているから、五月ころ発って「都合によっては欧州まで行くかも知れない(が)、九月ごろまでには是非とも帰国したい」〈『近衛文麿』上249〉という近衛の計画には、政変に巻き込まれるのを避けたいという意図も感じられる。
原田がさっそく、斎藤首相と広田外相に近衛の米国行きを耳打ちすると、二人は「大統領始め相当な人達に充分話して来てもらいたい」と歓迎したし、西園寺も、「それは大変いい機会だ」と全面的に賛成した。
「近衛はこの際アメリカに行くことが最も適当である。まず海外から現在の日本をよく見た上で……。総理にはいつでも出る時はあろう。自分がもし近衛だったら、すべてを振り切って外国に行く。軍部に対する関係なんかを考えても、それはきれいな人物であるということとか、あるいはその家柄についての価値は勿論認めるけれども、それ以外に何を以て軍部などと対抗して行くか」
外国に行って経綸を積んで、軍部とはどこまでも対抗して行く――これが西園寺の希望である。
三月に入って、「近衛が後継内閣の噂の人になる」ことがますます多くなった。心配した西園寺は、三月十六日に原田と木戸を呼んで、「内閣の将来、後継問題」について相談するとともに、近衛の米国行きを早く決定するように促した。ぐずぐずしていたら、近衛は政変に巻き込まれて、せっかくの外遊のチャンスを失う。原田は、翌日近衛に西園寺の意向を伝えて近衛の気持を確認すると、広田外相と相談して「米国行きを確定した」。
西園寺が危惧したとおり、三月下旬になって、斎藤首相は原田に、「今まではずっと事なかれ主義で来たけれども、今後はどうしてもこのままではよくない。思い切ったことをしなければ、まず人心も倦んで行く」と政局転換の必要を強調して、「後継内閣の首班者としては近衛公が最も適当である」と言い出した。
一週間後、斎藤首相は興津へ出向き、現内閣の長老・高橋蔵相も山本内相も疲れているので、近衛に出てもらって、これに一木前宮内大臣を配する新しい陣容で政権を担当してもらいたい、と西園寺に訴えた。
斎藤が辞めるというのも、後継に近衛をというのも西園寺は気に入らない。
「とにかくこの際は、なお一層ひとつ御奮発願いたい」
西園寺は頭ごなしにこういって、内閣更迭の話に乗ろうとしなかった。
「それじゃあ西園寺公は、死ぬまでやれ、と言われるわけだね。……已むを得ない」
東京に戻った斎藤首相の話をきいて、高橋、山本両長老も「なおこのままで行く」ことにした。
斎藤内閣は、積極的に対軍部策を打ち出すこともせず、宇垣のいう「ファッショと政党の死角」に立って、「何もせずにジッとしていた」だけだ。しかし、「そのジッとしていることが、国民に重しを加えていたのである、沢庵がブクブク浮き上がらぬための重しであった」(評論家馬場恒吾)〈馬場恒吾『政界人物評論』(10年、中央公論社)73〉という点は、大いに評価しなくてはならない。のちに西園寺が、「斎藤総理をこの前奏請したのは、斎藤さんが何もしないところにあるんだ……それは喧嘩をしなかったことだ」と讃えた、その効果である。
しかし、一方で西園寺は、原田に命じて密かに次の首班工作を始めていた。
「第六十五議会が終って(三月二十六日)間もないころ、霊南坂上、麻布市兵衛町の住友別邸に集まりがあった」と、後藤文夫農相はいう。顔ぶれは、原田と木戸と後藤、それに岡田啓介の海相の四人だった。
「まあ、岡田さんを囲んで一般情勢を話し合うという会合で……その時は何のための会合であったか、私にはわからなかった」〈『岡田啓介』(31年、記録編纂会)227〉
この会を催した原田の意図は、「木戸をして岡田をよく知らしめ、岡田をして斎藤内閣の海相を辞して以来の政治諸情勢を学ばしめ……将来の宰相たるべき下地を造らしめる」ことだった。
原田が西園寺と斎藤首相の間に立って、岡田を担ぎ出す工作は、これを契機に着々と進められるが、まもなく西園寺は、やっかいな問題に直面した……。
四月二十五日、原田は西園寺に上京の打合せで呼ばれた。
「五月二日に自分もひとつ上京して天機奉伺もし、それから皇太子殿下にも拝謁願いたい」
西園寺の上京は、五・一五事件のときからだから、もう二年振りになる。それに、昨年暮に誕生した「皇太子様にお目にかかりたい」とかねがねいっていた。体調もようやく回復したし、「ちょうど気候もいい、今度出ないとまたいつその機会が出来るか判らないから」と、西園寺は久し振りの上京を楽しみにしているようだった。
そこへ、木戸から電話がかかってきた。
「今朝、枢密院の倉富議長が総理に辞意を洩らし、自ら拝謁内奏した。眼病思わしからず、この際辞意御聴許はやむを得ざるべし、と総理はいっている。後任には、倉富議長は平沼副議長を推しているが、総理は、もし更迭するとすれば、清浦伯、一木男が宜しかるべく、やむを得ざれば平沼男の昇任なるべしと考えているようだ……」
原田は急いで東京へ戻った。天皇は、「平沼を任命するとせば国本社や政治家等との交際を絶つようにせなければいけない」と心配しているという。もちろん西園寺は、「平沼が議長になれば、あるいは軍人の一部が喜ぶかもしれないけれども、弊害が残ってほとんど益はない」と大反対だ。
牧野内大臣は、清浦(奎吾、元首相、元枢府議長)の再任を望んでいるようだが、高齢でもあり、西園寺も、「清浦も近来は大分たががゆるんで世間からは愚弄されている様な点もある」と賛成しない。
「倉富枢府議長の辞任は、実は平沼、二上(兵治、枢密院書記官長)にいびられたためだ」〈原田口述資料(未公開)〉
原田もこう観察するから、平沼昇格に絶対反対だ。
しかし、一木前宮相には、昨年二月に田中光顕元宮相が持ち出した宮中某重大事件≠ナやむなく辞職した経緯が心配になる。「宮相を辞めた時の様子からすると、(一木は)とても出ないと思う」と牧野内府も案じていたし、田中がもう一度、問題をむしかえす懸念もある。田中のいう事件≠ニは、高松宮妃の血統についてたわいない難くせをつけたものだが、ことは宮中に関することだけに、関係者は一様に慎重になる――。
枢密院議長更迭問題は、結局西園寺が、「最も憲法に明るいのは一木であり、また自分が推薦するにしても、一木なら確信を以てできる」と強く推し、五月に上京して一木に会って、「一つ国家に殉ずる決心を以て、この際受けたらいいじゃないか」と激しい勢い≠ナ説得して引受けさせたことで、落着を見た。
しかし――
枢密院議長は、このところ例外なく副議長が昇格している。一木は以前に副議長をつとめたことがあるとはいえ、この慣例でいくと、今回は平沼副議長の昇格が順当なところだ。「当然副議長の昇格とのみ思い込んでいた」平沼は、反政府態度を一段と強めることになる。
「平沼男の今後の出処は、ちょっと見物なり……陽性に欠ける男の今後の出処いかがかな」〈宇垣日記959〉
宇垣はこんな感想を記したが、平沼が政府を叩こうとするなら、おあつらえ向きの事件が持ち上がりつつあった。
四月十八日、台湾銀行の島田頭取と帝人の高木社長、さらに河合良成、永野護らの財界人が一斉に検事局に召喚、収容されて、世間を驚かせた。
帝人――帝国人造絹糸製造株式会社は、鈴木商店の子会社で、昭和二年に鈴木商店が倒産した際に、帝人株式二十二万五千株が融資の担保として台湾銀行に入れられており、この株の処分をめぐって疑惑を持たれた……いわゆる「帝人事件」の発端である。
昭和七年ごろから、人絹相場の好調を反映して、帝人株も値上りしていた。鈴木商店の支配人だった金子直吉と、もと商工会議所会頭の藤田謙一が、この台湾銀行に眠っている(実際には日銀特融の見返り担保として日銀に保管されていた)大量の帝人株に目をつけ、番町会の永野護や河合良成に買取り交渉を依頼した。番町会というのは、団琢磨亡きあとの財界の中心的指導者で、経済連盟会長、全商連会長、日商会頭などを兼ねていた郷誠之助を中心とする財界人グループである。結局、八年五月になって帝人株十万株、一株百二十五円の売買がまとまった。時価より十円ほど高い値段だったが、帝人はすぐ増配と増資を行ない、業績も好調で株価は百九十円まで上ったから、この売買には政府高官や財界人の間に贈収賄などの不正があったのではないかと疑われ、第六十五議会でも質問が出た。台湾銀行首脳は不当廉価の処分であるという特別背任容疑、また売買契約のまとめに関係した中島前商工相と大蔵省担当官は収賄容疑ということである。
五月十九日にはとうとう大蔵省に手入れが行われて黒田次官が召喚・収容され、二十日には大野特別銀行課長など三名、二十一日には大久保銀行局長が相次いで収容された。当然のことながら「大蔵省は物情騒然、省内一同が愕然とし、さながら大地震に遭って眼前の大地がさけるかの想い」〈有竹修二『昭和大蔵省外史』(42年、財経詳報社)上534〉に陥った。こうなると、「大臣の地位などに恋々としない高橋翁のことであるから、信頼していた部下の検挙にいや気がさして辞職するといい出す」〈青木一男『聖山随想』(34年、日本経済新聞社)301〉心配がある。
五月二十四日、原田が高橋蔵相を訪ねると、さすがのダルマ≠烽ニまどっていた。
「今度の大蔵省の事件は、甚だおかしい。平沼が倒閣のために若い検事を煽ててやらしているんだとか、いろいろいうが、これもどうだか判らないし、そうやたらに軽率に辞めるわけにも行くまいけれども、結局辞職は致し方あるまい……」
平沼の指金――原田はさっそく小山法相に問い質した。
「黒田検事が平沼の一党だとか、司法省がファッショだとか、いろ/\いわれているけれども、みんなデマであって、実際のところは非常に慎重になっている」
原田は、念のため、小山法相によくない方≠フ三宅正太郎大審院判事にも様子をきいたが、三宅も同じ返事だった。
「非常に慎重にやっているから、そんなことは絶対にない。いろいろ言うのは、みんな為にする宣伝に過ぎない」
それならば仕方がない。原田は、政変に備えて岡田を担ぎ出す工作を急ぎ始めた――。
五月二日に上京した西園寺は、五月九日に参内し、皇后、皇太子、天皇に拝謁した。
天皇は、二年振りの西園寺の上京を犒い、枢密院議長に一木が就任したことに大変御満足の御様子≠セった。西園寺も、「別に角立たる御話は申上げず」皇太子と内親王の教育について意見を述べた。
「陛下も、常に皇太子方の御教養については、時勢と背馳せぬようにお考えになって、教育のことは御自分で御心配なさらなければなりません……」
拝謁を終って、天皇は茶菓を賜わり、牧野内府、湯浅宮相、鈴木侍従長、本庄武官長も陪席した。
「陛下が、酒、煙草を一切お用いにならないことは……」
西園寺が話し出すと、天皇が説明を引き取った。
「四、五歳のころ、日本酒に痛く酔わされたため、以来、酒を好まなくなった」
西園寺は深く頷いて続けた。
「陛下が臣民に模範たらんとすという意味は、そのようになさって、言わず語らずの間に自然に模範となられることだと思います。この微妙の間に君徳の増進を会得あらせらるるように……」
天皇と西園寺の会話は、自然で和やかである。陪席した本庄武官長は、天皇の「御態度等に感激し」、さらに「老臣の忠誠、復た敬服すべきなり」〈本庄日記255〉と感じ入っていた。
十二日に西園寺は首相官邸に赴いて、斎藤、山本、高橋の三長老と歓談し、帰途、原田邸に立ち寄った。近衛と木戸も来合せて、シャンペンを抜いて近衛の渡米を祝い、西園寺とその三羽烏≠ヘ久し振りで膝を交えて談笑した。
近衛は、予定どおり五月十七日に横浜から出立し、それを見とどけて、西園寺も二十日に興津に戻った。上京中、西園寺は政変に具えた動きは全く見せなかったし、近衛も後継首班に岡田が予定されていることを知らされずにアメリカに発った。
しかし、このころ原田は、岡田首班工作の仕上げを急いでいた。
五月二十二日の夜、原田は岡田を、野村、小林両海軍大将と一緒に料亭蜂龍に招いて、木戸に再び引き合わせ、この秋に予定されている海軍軍縮予備交渉についての岡田の考えなどを聞いた。
さらに翌二十三日の昼、原田は木戸に、岡田首班構想を正式に説明した。
「岡田大将は健康もよく、加藤(元軍令部長)一派を制し海軍部内の統制の為より見ても、海軍軍縮会議に臨む内閣としては最も適任だと思う。政友会とも、久原一派を除けば、比較的いいようだ」
「自分も、健康さえ許せば、岡田大将が一番いいと思う」
岡田案に賛成した木戸は、翌二十四日に牧野内府と鈴木侍従長に打診したところ、「いずれも非常に賛成であって、どこまでも秘しておきたい≠ニいう話であった」。
この晩、原田はひそかに岡田大将を麻布の高木喜寛邸に招いた。高木喜寛夫人のシマは有島生馬の妹で、原田とは縁戚になるから、秘密の会合にはよくここを利用する。
余談になるが、原田は他人の家も自分の家もあまり区別しない。勝手に客や仲間を連れて親しい家に乗り込むと、家人を追い出して座敷に坐り込んで要談を始める。番町の有島生馬邸など、留守だと玄関の戸を外して入ってしまう。また、近くを通りかかると、
「今日は、風呂たててあるか」
「なにか、甘いものないか」
などといって顔を出し、また風のように飛び出して行く。
「それが、ちっとも厭味じゃないし、不思議な人徳でしたね」
シマ夫人は回想している。
ところでこの晩、原田は、帝人事件の捜査の進み具合や斎藤首相が岡田を後継候補として西園寺に推薦したことなどを岡田に告げた。
翌二十五日、原田は興津に行って、総辞職の場合には岡田で行けるように準備をほぼ終えた、と報告した。西園寺も、そろそろ頃合いだと思ったのだろう、「次の政変の場合、この前に内奏してある方法で奉答したいと思うから、あの内奏の内容を木戸から総理に話しておくようにしてくれ」と原田に指示した。
この前に内奏してある方法――つまり、西園寺ひとりの意見で奉答するのではなく、前官礼遇の首相経験者と枢密院議長、内大臣を集めて重臣会議を開いて意見をきいた上で、西園寺から奉答するということである。
翌二十六日の朝八時に、原田は斎藤首相を訪ねてこれを伝え、その足で新宿角筈の岡田の家に行った。
「公爵は、斎藤首相の意見をきかれたうえ、そのあとを岡田にやってもらおうと申されている。後継内閣を引き受けるよう心の用意をしていてほしい」〈岡田『回顧録』81〉
西園寺からの正式な伝言である。岡田はその日のうちに「とりあえず斎藤さんにも会い、いろいろと意見を聞いてみた」。
「こういう時局だから、君も内閣を引受ける覚悟でいなければならぬぞ」〈馬場『政界人物評諭』75〉
斎藤はこの程度しか岡田にいわなかったというが、実際には、帝人事件の捜査の進展状況などを話して、「後藤文夫農相を組閣参謀にしたらよかろう、と推薦した」〈岡田『回顧録』82〉。
翌五月二十七日も、原田は再び高木邸を借りて、岡田、後藤、木戸と話し合った。
この日の木戸日記には岡田の名前が欠けており、「天皇陛下の御覧に供える」目的の原田日記にもこの会合のことは全く記載されていない――すべて大権干犯≠ノ対する配慮からだろうが、木戸幸一氏や後藤文夫氏の証言などを突き合わせると、この晩に四人は、「閣僚候補、政党関係など」組閣の具体的な構想にまで立ち入って相談している。
これで、約二カ月続いた原田の準備工作はほぼ完了した。
政変はいつか――
このところ天皇は、充分ご睡眠遊ばし難き%々を送っていた。例年ならば「毎年春季には神経多少御疲労の嫌あり、従って正月過、議会明けに御転地を願い来りしに、本年は各種行事多く其機を逸し居りし」〈本庄日記189〉ことに加えて、このところ毎年宸襟を悩ませる¢蜴膜盾ェ続いている。五年のロンドン条約、六年の満州事変、七年の五・一五事件、八年の連盟脱退、そして今年は帝人事件、……これで「神経多少御疲労の嫌」がない方が不思議だ。
「明け方、三、四時頃お目覚あり、少しくものがお気になる風」なので、皇后が心配して「行幸を願い出でたる」結果、六月三日に葉山に行幸の予定が決まった。これは、五月三十日に東郷平八郎元帥が死亡して国葬が五日に行われたため、六日出発に変更になったが、天皇が葉山から還幸になる十四日までは政変は避けたい。
さらに、三月一日に満州国に帝制がしかれて、執政溥儀が即位して皇帝の地位についた、この祝賀のため天皇の名代として満州に差遣わされている秩父宮が帰国する六月十八日までは、国家の体面上政変は避けたい――そうすると六月下旬以降ということになる。
五月三十一日、「政治にいつも野心を持ち続けた」(義弟の笠原幸雄氏の表現)宇垣総督が、しびれを切らして上京してきた。「政党関係並びに一般世評は殆んど満点に近きまで宇垣に纏まりおるように思われる」〈小山日記99〉と小山完吾は牧野内府に伝えたくらいで、宇垣も今度は成算ありと踏んでいたようだ。
「妙なことには、陸軍は宇垣だと喧しく言うけれど、宇垣以外の陸軍に関係のない者ならば、あまり大した反対もしない」
木戸は原田に話したが、陸軍は宇垣の上京に神経を尖らせた。
「宇垣大将が出るのは、かえって危険だ」
林陸相は、眉を引きつらせて原田に威嚇的言辞を弄した。
ここで宇垣内閣ができれば――はるか後輩の林たちが、統制派と皇道派に分れたり、また統制派内で他人を蹴落したりして楽しんでいる≠フも、いっぺんに押えつけられてしまう。さらに陸軍の政治への介入も、宇垣が相手では、全く思うようにいかなくなる。青年将校にしても同じ思いである。
[#この行1字下げ] わが陸軍の中央部の権力は次第に下に移り、いわゆる中堅将校と称する少将以下のものにヘゲモニーを握られるにいたった。それというのも上層部に中心人物が乏しく、多くは便乗主義、日和見主義の紳士だったためであろう。〈荒木『風雲三十年』168〉
荒木はいうが、こんな状態だから、宇垣が再登場して、軍律をやかましく押しつけられるのは有難くない。青年将校も猛烈に永田軍務局長を突き上げ、あまりの騒がしさに、永田も、「宇垣大将はやはり早く朝鮮に帰られた方がいい」とわざわざ原田に連絡する有様だった。
岡山が同郷の宇垣と原田は、宇垣が西園寺に特別の敬意を払っていることもあって、親しい間柄だ。原田に云えば宇垣に通じる――そんな陰口もあったが、この政変では、原田は、「有象無象に担がれないように、下手に総理大臣になるよりも、朝鮮で終りを全うされる気持でいてもらいたい」と、宇垣に出番がないことを伝えていた。あまり早々と原田が岡田だけに絞るので、西園寺は、「貴下はそう言うけれども自分はまだ宇垣に未練がある、やはり一種の人物だ」というほどだったが、西園寺のこの迷い――当面の陸軍の反発を回避せんとするために、より大きな時代の局面で取り返しのつかぬ失着を招くことになるんではないかという危惧は、のちに現実のものとなる。昭和十二年になって、西園寺は宇垣を奏請するが、陸軍の猛反撃に遭って宇垣は組閣できなかった。「毒をもって毒を制する」〈小山日記74〉のなら、用いる毒が強く、陸軍部内が混乱しているこの時機は一つのチャンスだったかも知れない。
「陸軍が非常に横暴ですから、押えなくちゃいかんという考えを老公は持っていたと思うんだ。そこでね、陸軍を押える人には誰がいいんだということになったら、陸軍から嫌われている宇垣をやるということではないかと思うんだ」
鈴木貞一氏はいうが、「狂瀾を回そうとかいうようなアンビション」に欠ける西園寺は、まだ宇垣起用に踏み切らなかった。
六月十二日、宇垣は誰から聞いたか、「斎藤氏は後継として岡田氏を意中に画きあり」〈宇垣日記960〉と確実な情報を得ると、「なるべく早く帰ろう」と原田に告げて、ひとり悄然と朝鮮に戻っていった。
六月に入って、西園寺は、ここ数年来絶えてなかったほど散歩に精を出すようになった。
六月二日、宵やみ迫るころ、西園寺はぶらりと坐漁荘表門に姿を現わした。ハンチングにいつもの黒竹の杖を持ち、国道一号線を東に清見寺の楼門前まで約十五分間歩いた。坐漁荘の警備に当っている静岡憲兵隊の憲兵とピストルを肩にアゴ紐をかけた警官二十名が慌てて前後を取り囲む窮屈な散歩だったが、これで脚力に自信を持ったのか、それから毎夕のごとく、国道を西に清見神社まで歩いたり、清見潟の浜をぶらついたり、庭先で月の出を眺めたり、元気なところを見せた。
また、天気のよい日には、パッカード≠ノ乗って由比町の方まで一時間ほどドライブにも出た。近年にない元気で朗らかな西園寺の姿である。
ところで、政変の準備は万端ととのったのだが、小山法相の帝人事件の報告は遅れていた。
「これには実に困っているけれども已むを得ない」
斎藤首相も当惑した様子だったが、そもそも帝人事件は、のちにこの裁判を担当した藤井五一郎裁判長が、全員無罪を言い渡した後で、「今日の判決は証拠不十分の無罪ではありません、まったく犯罪の事実が存在しないということです」と記者発表したように、架空のデッチあげ事件だったという。もっとも、「犯罪の事実全く無し、全部が架空の事実であるとは思われず、ただ検事側の捜査の拙劣と経済知識の貧弱から大小の魚を逃がした」(『昭和大蔵省外史』)というのが真相のようで、当時の警視総監藤沼庄平も、「無罪の判決はあったのでありますが、やっても、もろうても罪にならぬ正力松太郎氏及び鳩山一郎氏は、公判廷で既に授受の事実を証言している以上、金銭その他の授受は絶無でなく、進行の途中であったと推測せらるゝのです」〈藤沼庄平『私の一生』(32年、刊行会)182〉と書き残している。しかし、少くとも裁判で争われた大蔵省関係者および三土鉄道大臣らの罪状については、「検事団が捏造作為した」〈『昭和大蔵省外史』上630〉もので、事実無根は明白だった――。
「黒田大蔵次官は何を言っているんだかちっとも判らないので、非常に困っている。検事局からは、物的証拠はどこにも見当らないので困っているが、自白は既に黒田も大久保もしている≠ニいう報告を受けている」
小山法相も、検事局の取調べが遅れていると原田に告げたが、この黒田次官が、デッチあげの大変な役割を演じる。
六月二十二日、黒田越郎担当検事は黒田大蔵次官に、東京地方裁判所岩村検事正宛の嘆願書を書けば「これによってすぐ出してやる」と持ちかけた。一カ月以上も収容されたままの黒田は、釈放されたい一心で、検事に示唆されるままにデタラメな内容の嘆願書を書いた。
――黒田は、高木帝人社長から帝人株四〇〇株の贈与を受けた、これを島田台湾銀行頭取と相談の上で換金して「三土鉄道大臣に一万円を、政友会に二万円(或は一万円なりしか)を寄付……残金は高橋是賢子(高橋蔵相の子息)に融通」〈同595〉した。……
黒田次官は後に公判廷で、「内容についてはもちろん、まるで嘘のことであります」と陳述するのだが、この嘆願書が斎藤内閣に止めを刺し、政変を招来することになる。
この経緯から、藤沼警視総監は、帝人事件は斎藤内閣倒壊の陰謀であり、「平沼の後継者であり国本社では最高幹部、いわば平沼の子分の筆頭」〈『三土忠造』(37年、彰徳会)314〉であった塩野季彦司法省行刑局長らが「これを策して成功した」と断言している。
「塩野氏が明糖事件に関する弱点を握って居る黒田検事を指嗾してやらせたのです、私の想像でなくこの方面に通暁する人たちの明言するところです、黒田検事はこれを長崎英造氏(番町会メンバー、当時山叶証券取締役)に語ったと聞きます」〈藤沼『私の一生』181〉
だから、これは「検事ファッショ」だと藤沼はいう。黒田の書いた嘆願書は、検事側もその内容が信用できないことを十分に承知しながら、岩村検事正から小山法相に提示され、小山法相はその内容を口頭で斎藤首相と高橋蔵相に伝えた。
さらに小山法相は二十九日に、「必ず中島(前商工相)、三土(鉄相)、鳩山(前文相)を、順序を追うて取調べて行く」と斎藤に報告した。こうなっては、内閣総辞職も止むを得ない。閣僚が、辞めたものを合めて三人も「何等事実上の犯罪がないにしても検事局に召喚されるのは、総理の責任上忍びないし、また一方、新聞等の今日までのすっかりつくり上げた空気に対して堪えられない」。斎藤首相は総辞職を決意した。
西園寺も、止むを得ないと考えたのだろう、二十六日に、「やはり後は岡田でいいのか、内大臣もそうか」と原田に念を押した。重臣会議を開くにしても、その前に大体の意見調整をしておきたい。
「まず大体異存なさそうです」
原田は答えて、翌二十七日、河田烈拓務次官(元大蔵次官)を訪ねた。
「当分出張や旅行の予定はないだろうね」
「別にない」
「それでよし、万一その必要が生じたら、すぐ自分に通報してくれ」
「どうしてだ」
「実は内閣の更迭は必至だから、あらかじめ打診に来たのだ」
「まさか組閣の大命が降るわけでもあるまいし、何の必要があるんだ」
「実は内閣書記官長の候補だ」
「一体、首相は誰だ」
「岡田提督だ」
「いや、とても俺の柄じゃない、務まらんよ」
「そんなことはない、是非やれ。それにしても君の家は狭くて岡田大将の家と同様だね、これじゃあ組閣本部の用に立たない」〈河田烈『自叙伝』(40年、刊行会)81〉
原田は、そんな「すて台詞をしながら」河田邸を出た。岡田に、組閣の相談相手として河田を推薦したのは原田である。この日、原田と河田は閣僚候補の相談もしたらしく、外相そのまま、海相小林躋造、農相石黒忠篤などが一案として検討された。
斎藤内閣は、結局七月三日に総辞職した。この朝、斎藤、高橋、山本内相の三長老は、閣議前に話し合って、「これじゃ投出すより仕方がない」と決め、午後に辞表を捧呈した。辞職のきっかけは、黒田の嘆願書一通、それも全くのデッチあげの内容のものを、小山法相がチラつかせただけだった。ずっと後になって、斎藤は嘆願書をはじめて見せられて、「なんだかそうすると馬鹿気たことで辞めたんだなあ」、「一体、司法大臣ははっきりせぬものを取次いだのは怪しからぬ」〈『昭和大蔵省外史』上602〉と慨嘆したが、いずれにせよ、当時の「政情が非常に不安状態で……そのままで置くわけには行かぬ」のは明らかだったから、政変は避け難かったと見るべきだろう。
総辞職の日に、西園寺は御殿場に移った。この年(昭和九年)は、梅雨が少なく暑い日が続いている。「その暑さのために公爵の血圧が非常に上り、平常は百五十七、八なのだが、昨今は百八十余あり、かつ糖の出が多く」、主治医の勝沼精蔵博士も御殿場に避暑するように強く薦めていた。
一方、牧野内大臣からは、四日に上京してくれといって来ている。
「内大臣始め側近は、政変のような場合に、いかにも大げさに騒ぎ立てるが、元来、政変などというものは二年や三年に一度は必ずあるものだから、もう少し騒がずに普通のようなことに取扱わなければ面白くない。東京に帰ったら、内大臣なんかに、頭から水でもぶっかけてやれ」
西園寺は、このところの牧野内府の態度に不満だったようだ。一木を枢密院議長にする時も、西園寺の決めた重臣会議のやり方にも、さらに岡田を後継にすることにも、ことごとく牧野は異論を唱えて、同じ薩派≠フ清浦を推した。
「病気のため上京できない」
西園寺は一度はゴテてみせ、困った牧野は木戸を呼んで、「若し元老にして御病気の為に上京困難の様なれば、重臣は寧ろ御殿場に赴きては如何」とまでいい出したが、原田は木戸と一芝居打って、あっさり西園寺を上京させることに成功した。
「おやじが怒った時、なだめたり、つくろったりしてはいかぬ、一緒になって怒れば老人却って静まる」〈小泉『随筆西園寺公』479〉
西園寺の性格をよく知る原田は、三日の朝、西園寺の目の前で木戸に電話をかけて、「暑かろうが寒かろうが、とにかく勅使で以て上京せよ≠ニいうのは、陛下のおためにもならんし、元老を重んぜられる所以でもない」、「もし万一、更に健康を損じて、そのためにどうかという風なことがあったらばどうするか」と、大変な剣幕で怒鳴りだした。西園寺はまんまと引っ掛かった。
「まあ、そんなことを言わずに、とにかく自分は、明日でも早速上京しよう。一日で決めて、午後四時の汽車でまた御殿場に帰ろう」
翌朝、西園寺は東京へ向かった。御殿場に泊り込んだ新聞記者に、東京から原田に随いて来た記者が加わって、総勢五十人の大記者団を引きつれての上京だった。
「後継内閣の組織については、憲法の精神を守ることは勿論、内外時局多端の折柄なれば決して無理のない様に」
天皇は新内閣についての希望を伝えた。
十時十五分、西園寺は、宮中西溜間に、若槻、清浦、斎藤、高橋、一木枢密院議長、牧野内府を集めて、重臣会議を開いた。西園寺は、天皇の思召を伝えると、斎藤に声を掛けた。
「貴君は最近迄政局を担当せられて居られたので最も事情に通じて居られるであろうが、お考えは如何」
自分はいわば失敗したものですから、と斎藤は一度は遠慮したが、再度促がされて、発言した。
「自分が政局を担当してきた間に行なったことは必ずしも間違って居ったとは思いません、今日の情勢より見るに、財界その他の方面について見ても従来の方針を余り変えない様にすることが肝要かと思う、その見地よりして、若し岡田啓介海軍大将にして勇気があるならば同氏が最も適当と思われる」
この日、西園寺は斎藤と一緒に、重臣が集まっている西溜間に入ってきた。「二人で前もって話をして来たことは確か」〈若槻『古風庵回顧録』398〉と若槻は直感したし、他の重臣も同じだった。重臣一同は岡田に賛成した。宇垣、近衛の名前も一応は挙がったが、宇垣には「陸軍の少壮将校の方面がやかましく」、また、近衛は「海外に居られては問題とならざるべし」ということで外された。
「若槻さん、どうでしょう、岡田氏を奏薦することは」
「自分の平素の主義方針よりすれば多数党の総裁鈴木氏ということにもなるが、それがある事情の為に無理なりとすれば、岡田氏にて至極結構と思います」
「至極結構だけではいかん。岡田の内閣を助けるというお考えか」
西園寺に問いつめられた若槻民政党総裁は、「もし党員が岡田内閣に反対するなら、私は総裁を辞すばかりだと覚悟をきめて、躊躇なく」答えた。
「援助します」〈同398〉
この日の西園寺のねらいは、斎藤首相の口から岡田を推薦させ、民政党総裁の若槻に協力を約束させることだった。重臣会議は西園寺のねらい通りに、「角張らず和やかな気持にて意見を交換、頗る清々しき気分」で終わった。
「斎藤内閣は何もしない≠ニいうけれど、事実はなか/\いろ/\仕事をしておられたし、まことに御苦労でした」
重臣一同が斎藤を慰労すると、西園寺はいたずらっぽく口をはさんだ。
「斎藤総理をこの前奏請したのは、実は斎藤さんが何もしないと見込んだからなんだ」
斎藤首相は、すっかり白髪に覆われた頭をかかえて笑い、明るい雰囲気が流れた。西園寺が試みたはじめての重臣会議は成功に終った。
続いて西園寺は、天皇に拝謁して、奉答した。
「岡田大将に大命を降下あらせられるように……」
天皇は、西園寺の上京を慰労し、「非常に御満足」の様子だった。
「岡田ならば、自分も最も安心する」
当時、岡田内閣を予想するものは殆どなかった。新聞は、「かれこれ思い思いの人を担いでいる」だけで、大命再降下、山本達雄内相、清浦、宇垣、平沼説などが乱れ飛んだが、「新宿の陋屋によれ/\の浴衣を着て、あたかも禅坊主のような恰好」〈内田『風雪五十年』136〉でいる岡田を見逃した。
「直ちに参内を」
鈴木侍従長から連絡を受けた岡田は、「門前の豆腐屋から冷奴を一丁買って、冷飯で昼食をすまし、宮内省差回しの自動車で参内」した。
前のロンドン軍縮会議のとき、「対立した海軍をとにかく纏めて締結まで持って行ったのは彼の働き」〈幣原『外交五十年』123〉である。その海軍軍縮交渉を再び来年にひかえ、岡田は「ただならぬ時局に当たって御奉公が出来るなら、もみくしゃになるまでやってみようと決心」〈岡田『回顧録』82〉して、大命を受けた。
岡田内閣は七月八日に成立した。林陸相、大角海相、広田外相は留任し、後藤前農相は内相に横すべりした。藤井蔵相も、高橋前蔵相が「自分が十分にうしろだてになる、もしなにかのことがあったら必ず自分が収拾の役を引き受けるとの約束で」、いわば身代りだったから、斎藤内閣の延長ともみられた。
当初、岡田は、政党から人を入れない超然内閣を考えていたが、後藤農相の進言で、政友会から三人(山崎達之輔農相、床次竹二郎逓相、内田信也鉄相)、民政党から二人(松田源治文相、町田忠治商相)を迎え入れることにした。政友会は閣僚送り込みを拒否していたから、この三名を除名したが、政友会内の最大派閥の長である床次を副総理格で加えたことは内閣の安定に大いに効果があった。
岡田は、「貧乏で組閣費用も思うにまかせず」、親任式に出かけるにも冬物のフロックコートで「ずいぶん暑い思いをして」〈同92〉間に合わせ、人から借りたブカブカのシルクハットを片手で押しあげてなんとか恰好をつけたが、そんな村夫子然とした♂ェ田に、世間の目は暖かかった。
「穏健派の大勝利である」〈グルー『滞日十年』上187〉
グルー駐日大使は歓迎したし、岡田が「原田はよく面倒を見てくれた」〈岡田『回顧録』83〉と書き残すほど陰で助力を惜しまなかった原田も、「岡田氏が清貧に安んじつつ、空拳によって宰相の地位に就いたことは、一種の同情とその気概に対する敬意とを表し、好感をもたれた」と、好意的な世評に安堵していた。
西園寺も、「岡田は手足のない人だから、よほど周りから注意しておかなければならん」と、原田に引き続いて岡田の世話をみるように指示しながら、「自分も直接政治に当ってどうということはできないけれども、できる範囲内で助けになろう」と、新内閣の門出を暖かく見守っていた。
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第五章 議会主義の守り本尊・西園寺が牙城
――岡田内閣と陸軍の内政干渉――
「同族の中にも、大いに国家のために働くようなものが出なければいけません。そのためには近衛公爵の如きは、将来最も御奉公しなければならない人と思います」
昭和九年五月十五日――まだ斎藤内閣の末期に、上京中の西園寺は貞明皇太后に拝謁して、近衛の将来に大いに期待していると言上した。皇室も公卿も同族というわけだ。皇太后は「非常に御満足」の様子だった。
ちょうどこの日、近衛は天皇に拝謁して「アメリカに行くことをいろ/\申し上げ」ると、天皇も近衛の洋行を大いに祝福し、「身体を大切にするように」と言葉があった。これには近衛も感激して、「西園寺公によくお伝えしてくれ」と原田に連絡してきた。
「こういう風にして、やはり近衛がおのずから自重しなければならないような状態になって行くことは大変結構なことだと、自分(原田)はつくづく思った……」
近衛は、天皇からも西園寺からも大いに期待されながら五月十七日に横浜を発ち、政変後の八月一日に帰国した。
アメリカでは、ルーズベルト大統領をはじめ、ハル国務長官、フーバー前大統領、タフト元大統領など各界の名士に会見し、貴族院議長で皇室に一番近い名門の青年政治家として丁重にもてなされたが、近衛は、西園寺が意図した世界の日本≠認識するよりは、アメリカ側の反日感情、不信感の根強さに目を向けたようだった。
滞米中、近衛はニューヨークで斎藤内閣総辞職の報を受けた。
「政党政治を復活すべきや否やという点は、否≠ニしか答えられない」
近衛は、知らせをもたらした日本の特派員に、挙国一致内閣の必要を語った。
「渡米以来、大統領はじめ多くの有力者に会った感想は、日米関係は無条件の楽観を許さぬということだ。軍縮といい東洋問題といい、これから解決すべき重大問題が山の如く控えている。故に自分はあえていう、強力な挙国一致内閣を作れと」〈『近衛文麿』上271〉
だから、岡田に大命が降下すると、近衛はかなり興奮の色を見せ=A「こんな時期に又こんな内閣を作るのには反対だ、原田なんかがきっと岡田を出すのに大いに動いたのだろう」と憤慨して、珍らしく多弁に語った。原田が大いに動いた、というのは図星だが、原田が自分の意思だけで動くことがないのは、近衛も承知している。岡田に組閣させた西園寺に、近衛は不満を表明したと見るべきだろう。
帰国した近衛は、西園寺をはじめ要路に報告をすませると、軽井沢で静養の毎日を過ごした。九月一日に原田が招かれて近衛の別荘に行って、「二日ばかりゆっくりと話を」した時、近衛は原田の肝を冷やすようなことを口にした。
「宮中には、外から見て多少右傾的に思われる人を一人配しておかないと、左傾のいわゆる欧化主義の人ばかりで宮中を固めるということは、一部の者に変な感じを与えやしないか」
原田は、以前に近衛が「原田のようなピューリタン」〈原田3─51〉といったことを思い浮かべた。時流に合わせて妥協することを知らない、という意味で近衛はいったのだろうが、近衛の国内政治に対する見方は、アメリカに行って来たあと、ますます議会政治から離れていった。
原田はしばらく近衛の様子を見ていたが、九月末になってこの話を西園寺に伝えた。
「要するに右傾というようなものは、大体ファナティック(狂信的)である。そういう風な者を宮中あるいは宮内省に入れることは絶対に困る。物の判る者に右傾に気に入るようにしろ≠ニいうことは非常に無理な話である」
西園寺は、老いた顔に落胆の色を浮べながら、「自分はこれから先、長く生きるものでもないが、近衛や木戸や貴下なんか、絶対にファナティックな空気を宮内省や宮中に入れることはしないように」と原田に注意した。
近衛はなにを考えていたのか。
十月になって、近衛は京都の陽明文庫に移設する建物を福井県まで見に行った。途中、山中温泉に泊まったとき、初対面の富田健治石川県警察部長に語った。
「今の政党はなっていませんよ、議会はどうにもなりませんよ、これは衆議院だけじゃない、貴族院だって同じことだ。不勉強と無感覚だといって、若い軍人が怒るのも無理はないと思う。私はそこで、今の日本を救うには、この議会主義では駄日じゃないかとさえ思う。この議会主義をたたきつけなければならない。が、この議会政治の守り本尊は元老西園寺公です。これが牙城ですよ」〈富田『敗戦日本の内側』111〉
のちに、第二次近衛内閣の書記官長をつとめる富田もこの発言には驚いたというが、どうもこれが近衛の本心だったようである。近衛は翌十年末にも、同じような発言をして、原田などを落胆させた。
「西園寺公爵ももう年をとって、人に会えばくたびれるし、世の中に対する認識も大分違う、大体重臣達もそんなように思われる、まあ国是の発展の上からいうとやっぱり邪魔になるように思う」〈原田5─129〉
原田は、「極端に偏したような連中に会うから、まあそんな気持になることもあるんだろう」と考えてなんとか納得することにしたが――、それでは、近衛のいうようにすれば「今の日本を救う」ことができたのか。
のちに近衛は大政翼賛会をつくって議会主義をたたきつけ=A三度にわたって組閣して国是の発展≠ノ努めるのだが、その結果はどうだったのか。太平洋戦争たけなわの十七年夏、富田を軽井沢に招いた近衛は、畳の上に横になりながら、ポツリと深い悔恨の言葉を洩らした。
「やはり西園寺公は偉かったと思いますね、終始一貫、自由主義者であり、政党論者であった。僕は大政翼賛会なんて、わけの分からぬものを作ったけれど、やはり政党がよかったんだ。欠点はあるにしてもこれを存置して是正するより他なかったのですね」〈富田同111〜112〉
――それにしても、なぜ近衛は半ば公然と西園寺批判を始めたのか。「そういう風に言った方がこの時勢には自分の立場がいいと思って言っておるのか」と西園寺も訝る。
近衛が、西園寺を議会主義の牙城と|謗《そし》り、これを叩き潰さなければならないとまで言い切る背景には、近衛なりの時代認識があり、それは岡田内閣のもとで着々と進む陸軍の政治介入、国家総動員体制への移行を反映したものだったようだ。
近衛が富田を相手に西園寺を非難していたころ、昭和九年十月一日に、陸軍省新聞班から、『国防の本義と其強化の提唱』〈『現代史資料』5巻266〉という小冊子が配布された。いわゆる陸軍パンフレット≠ニ呼ばれるもので、この年三月、永田鉄山少将が軍務局長に就任して以来、続々と陸軍省から刊行されている『空の国防』、『近代国防の本質と経済戦略』、『躍進日本と列強の重圧』などの総仕上げをなすものでもあった。
「たたかいは創造の父、文化の母である。試練の個人に於ける、競争の国家に於ける、斉しく|夫々《それぞれ》の生命の生成発展、文化創造の動機であり刺戟である。……」
パンフレットは、冒頭から戦争を讃美し、「国防≠ヘ国家生成発展の基本的活力の作用である。従って国家の全活力を最大限度に発揚せしむる如く、国家及社会を組織し、運営する事が、国防国策の眼目でなければならぬ」と、いわゆる広義国防国家の建設を提唱していた。文中には、「国家の全活力を綜合統制する」、「国家を無視する国際主義、個人主義、自由主義思想を|芟除《さんじよ》」、「統制ある戦時経済への移行」などの文言が目立つ。
政治も経済も文化も、すべて国防≠フために再編成すべきだという陸軍のこの主張は、軍部の発言力をあらゆる分野に及ぼそうという国家改造の意図を表明したものではないか――岡田首相は心配して、林陸相に質した。
「いや、そんなじゃない。国防の方から見て、今日の制度の欠点もあり、これらの制度については、国民も知識をもっていろ/\研究しろ、という意味であって、決して実行を強いるものではない」
林陸相は否定したが、朝日を除く新聞がひどく「煽り立てるように書き立てた」こともあって、一大センセーションを捲き起こした。
陸軍パンフレットは、なにを狙っていたのか。執筆者といわれる軍務局軍事課員の池田純久少佐は、「(このころ)軍中央部と青年将校との間はしっくりしなくなって、はっきりと深い溝ができてしまった。そこで軍中央部としては、一方においては、青年将校の政治策動を封殺せねばならないし、他方において、軍独自の革新計画を確立しなければならなくなった」〈池田純久『日本の曲り角』(43年、千城出版)19〉という。
池田のいう「青年将校の政治策動の封殺」は、具体的には荒木・真崎系統、つまり皇道派を「退官させたり、あるいは地方の隊に左遷したり、相当の手荒い人事を行なう」ことになる。
それとともに、「軍独自の革新計画の確立」も着々と進められる。すでに池田少佐は、田中清少佐、四方諒二大尉と語らって、昭和七年ころから、永田少将(参謀本部第二部長)のもとに「統制派構成メンバー」を結集していた。東条英機、今村均、武藤章、富永恭次、下山琢磨、影佐禎昭など、のちに陸軍を代表するような人々が参加し、毎週一回集まって、まもなく「百ページにわたる広範な」一試案を仕上げる。
[#この行1字下げ] われわれ統制派の最初に作成した国家革新案は、やはり一種の暴力革命的色彩があった。警視庁を占領するとか、議会を占領するとか、著名政治家を監禁するとかの暴力沙汰であった。しかしそれは飽くまで軍の統率のもとに一糸乱れぬ指揮をもって行動しようというのである。
[#この行1字下げ] しかしわれわれの研究が逐次進むにつれて、暴力革命的方式を廃して、合法的手段、つまり現行憲法に抵触せずして国家革新を行なうことに頭をひねった。……陸軍大臣は軍人であるとともに政治家でもある。……陸軍大臣を通じて、政治上の要望を政府に提案してこれを推進するならば、必ずしも暴力革命の手段によらずとも、国家革新は可能である、という結論に達した。統制派は、かくして暴力革命を排し陸軍大臣を通じ行なう方式を採用することに、その態度を一変したのである。〈同23〉
この統制派≠フ研究成果の一つが、陸軍パンフレットであった。矢次一夫によれば、八年の初春に池田少佐から国策立案の相談を受け、九年のはじめころに、陸軍の専門将校を交えて矢次らが取りまとめた「総合国策大綱」が、陸軍パンフレットの基本になったというが〈矢次一夫『昭和動乱私史』(46年、経済往来社)上98〉、「陸軍の政治団体化」(清沢洌)ともいうべき陸軍パンフレットに対する反響は大きく、とくに「国民生活に対し現下最大の問題は農村漁村の匡救」を強調していることもあって、「農村各地方に及ぼした影響の大なることは、実に予想外」(中野正剛)だったという。
[#この行1字下げ] 今や全国の農村、山村、漁村は、ものすごい呻き声をあげている。昭和の聖代≠ノ木の根を食って生きている村があるという有様である。〈『ドキュメント昭和史』2巻4所収〉
大宅壮一が「一九三〇年の顔」と題して農村の窮之・飢餓状況を「エロ・グロ・ナン(センス)」と並べて記したのは、昭和五年末である。その後、昭和六年の不作、昭和九年の大凶作と東北地方を中心とする農村はどん底まで打ちのめされ、「その惨状は、かつてないほどで、今思い出しても涙を催すような哀話ばかりだった」(岡田啓介)という。
[#この行1字下げ] 東北地方から上野に着く汽車で、毎日のように身売りする娘が現われた……どんぐりばかりを、それも一日に一度か二度やっと食べてかすかに生命をつないでいるという貧農のために、ちまたでは義援金募集が連日行なわれている。どんなに東北がひどかったか、というと、雪が降っているのに子供はゴムぐつすらはけない。凶作でなんにも食べるものがないから、わらびの根をあさったり、飯米購入費の村債を起す村も多い、という状態……〈岡田『回顧録』101〉
こんなだったから、革新ムード≠かき立てたこの陸軍パンフレットは、「今までの政党の農村救済案で救われなかった農村の多数と、今一つは軍部の発案でさえあれば、それに絶対的価値ありとする少なからざる数の群衆に、強い刺激と同感を呼び起す」ことになった。
陸軍パンフレットの提唱する国家総動員体制への移行は、まもなく昭和十年とともに具体化しはじめ、天皇機関説排撃の国体明徴運動、内閣調査局(のちの企画院)による統制経済の検討など、国民生活のあらゆる面にわたって、国防・統制色を強めることになる。それだけに、陸軍パンフレットは影響するところが大きく、「昭和政治史上一段階を画す」〈矢次『昭和動乱私史』上99〉という評価もある。
再び池田少佐の話に戻る。
[#この行1字下げ] こうなると破壊工作などは、統制派にとっては無用の長物である。建設工作だけで事は足りるということになる。しかし建設計画ということになると、軍人だけでは到底できない。それには専門的知識を必要とする。……着実・実際的な立案を打ち出すことが望ましくなる。かくしてわれわれは、優秀な官僚と手を結ぶ必要に迫られた。そこにいわゆる新官僚が生まれてきたわけである……〈池田『日本の曲り角』24〉
池田少佐は、手を結んだ官僚として、後藤文夫内相、唐沢俊樹警保局長、岸信介、奥村喜和男、和田博雄などを挙げている。
斎藤内閣が「軍部と官僚の連立形態」として成立したのは既述のとおりで、岡田内閣がそれを引き継いで多くの革新官僚を取り込んだのも、このような背景を持つ。
「一体、新官僚とは何だ」
岡田内閣が成立して間もなく、八月に原田と木戸が御殿場に行くと、西園寺は出し抜けに尋ねた。
「国維会といった風な、一種の知識階級の団体を指すのじゃありませんか」
木戸はややぼかして答えたが、解説を要する。国維会というのは、満州事変後の昭和七年初めに、国家主義運動家の安岡正篤を支持する酒井忠正(伯爵、貴族院議員)、岡部長景(子爵、貴族院議員、前内大臣秘書官長)、松本学(内務官僚、斎藤内閣の警保局長)らが、日本精神に基づく国政革新を唱えて結成した団体である。安岡正篤は、大正末期に大川周明らと維新日本の建設≠綱領とする行地社を結成し、さらに昭和二年には私塾の金鶏学院を酒井らの後援で設立して国家主義的教育に力を入れており、新官僚に精神的影響を与えるところが大きかった。酒井や岡部は、同じ貴族院議員として毎週月曜日正午に東京倶楽部で近衛や木戸や原田と会食する例の月曜日の会≠ノもよく出席しており、この会を通じても、近衛や木戸は新官僚と連絡があったことになる。
国維会の会員として活動の中心になったのは、後藤文夫、吉田茂(内務官僚)、松本学、河田烈(元大蔵次官)などで、岡田内閣では、この後藤と河田が組閣参謀をつとめて内相と書記官長にそれぞれ就任、河田が三カ月後に病気で辞任すると吉田が後任にすわるなど、国維会のメンバーが中心になった。
ところで池田少佐は、「軍独自の革新計画」を検討した結果、「優秀な官僚と手を結ぶ」ことによって「合法的手段による国家革新」を進めることにしたという。これは、官僚機構を中核に据えて日本精神にもとづく国家革新を押し進めようとする平沼騏一郎、安岡正篤の路線につながるもので、片一方のクーデターによるファシズム政権樹立をめざす北一輝、大川周明、橘孝三郎らと対峙する。
この『国防の本義と其強化の提唱』と北一輝の『日本改造法案大綱』は、翌年の天皇機関説問題で激しく争い、憲法の遵守を楯に機関説擁護の立場に立つ西園寺などの「現状維持」勢力を圧倒するとともに、同じ機関説を前提とする北一輝らも理論的矛盾を露呈する。
こうして『国体の本義と其強化の提唱』は革新思想の中核に立ち、二・二六事件後の十二年五月には、形をかえて文部省編『国体の本義』として公刊されて、国民の精神総動員を担うことになる。
同時にそれは、統制派による皇道派駆逐の過程でもあった。
「林陸相も、八月には真崎大将(教育総監)を辞めさせる、できるならば思い切って今までの真崎系をすべて清算したいというつもりらしい」
十年四月に寺内寿一台湾軍司令官は原田に語ったが、荒木・真崎系の封殺が軍独自の革新計画の確立と並行して進められていたのだった。
このような準備と布陣のうえにたって、軍部―新官僚は次々と国政革新≠展開していく。近衛の議会主義、西園寺攻撃もこの動きを反映したものだった。
在満機構の改革――陸軍はまず、この問題を持ち出した。在満機構、すなわち関東軍、大使館、関東庁の三つは、それぞれ陸軍、外務、拓務の三省が所管しており、命令系列が別々になっている。これを簡素化するという名目で、陸軍は「自分たちの手で造った満州国」に関する一切の権限を掌中に収め、「要するに結局満州に軍政を布こうという下心」を持った。
組閣の際に岡田首相は林陸相に留任を求めたが、このとき林陸相は「陸軍では在満機構の改正を考えて居る。岡田内閣がそれを行う積りならば留任する」〈馬場『政界人物評論』6〉と条件をだし、岡田はこれを呑んで「然るべく考慮しよう」と内約した経緯があった。新内閣が発足すると、林陸相はこれをたてにとって、岡田に迫った。池田少佐のいう「陸軍大臣を通じて、政治上の要望を政府に提案してこれを推進する……国家革新」の始まりである。
しかも林陸相は、閣議の席でも「なお帰って相談した上で」とか、「一応、陸軍省の首脳部会議にかけてみないと返事ができない」〈原田4─98〉などというだけで、政府にとっては歯がゆく、陸軍省の下僚にとってはまことに好都合な陸軍大臣である。
「満州に関する事務を外務、拓務両省から切りはなし、内閣直轄の対満事務局≠おいてこれに移し、関東長官の職を廃止して従来その権限内であった行政事項を駐満大使にさせる、駐満大使は関東軍司令官が兼任する……」〈岡田『回顧録』96〉
これが陸軍の案である。しかも、対満事務局総裁は陸軍大臣が兼任するというのだから、対満機構は陸軍が完全に握ることになる。拓務省は反発して、一騒動あったが、九月十四日の閣議でほぼ陸軍の要求どおり決定され、暮の十二月二十六日に対満事務局が開設された。
これは、「行政機構上の陸軍の政治的進出の第一着手であった。現役軍人の下に文官がすわる、という制度がはじめて出来た。陸海軍大臣以外に武官の行政官が生まれた」ということで、のちに岡田は大いに悔む。
「これについては陛下に御意見があって、そういうことでいいのか≠ニ念を押された。わたしとしては心の中では決していいこととは思っていなかったので、申し上げようがなくて非常に困ったものである。こうして歩一歩と陸軍に押されてきて陸軍の内政干渉が浸潤していったことについては、今思えばわたしも弱かったと反省せざるを得ない」〈同98〉
しかし、問題は満州の行政だけでなく、国内の政治・外交までも陸軍が牛耳る態勢を着々と進めていることである。
在満機構問題とほぼ並行して、岡田内閣は、海軍軍縮問題にも直面していた。そもそも岡田は、「来るべき海軍軍縮会議に於て、日本をして出処進退を誤ることなからしめん為め」〈馬場『政界人物評論』42〉首相に起用されたはずで、岡田の最大の使命は軍縮会議を纏めることであった。
ところが――、岡田は大角海相にも組閣の際に内約をしていた。大角も林陸相と同じく、留任の条件として、軍縮問題については斎藤内閣の五相会議の決定に賛成することを要求し、岡田は「無論賛成だ」〈原田4─16〉と呑んでいる。
五相会議の決定――つまり昨年十月に何度か五相会議が開かれ、その席で大角は、「海軍は平等権を主張し、これに敗れたら軍縮条約を破棄せねばならぬ」と主張している。大角はこの海軍の主張を認めるように岡田に強要した。
現行の条約――大正十一年のワシントン条約で主力艦(戦艦、航空母艦)の保有比率を日米英で三・五・五に決め、さらに昭和五年のロンドン条約で補助艦(巡洋艦、駆逐艦、潜水艦)の比率を七・一〇・一〇(ただし潜水艦は同率)に決めているが、ワシントン条約は昭和十一年に有効期限が満了する。その二年前、九年末までに加盟国の一国が廃棄通告を出すと、この条約は昭和十一年末を以て自動的に廃棄になる。また、ロンドン条約も同じ十一年末に失効する。ただし、参加各国は昭和十年に会議を開いて、あとの軍縮問題について協議することになっている。だから、海軍は九年末までに廃棄の態度を決定しようと急いでいた。
七月十三日、岡田内閣が発足してまだ一週間も経たない時に、原田が官邸を訪れると、岡田は苦笑いしていた。
「実は、先手を打たれてしまった」
「どうしたんですか」
「いま大角海軍大臣が来て帰ったところだけれども……海軍の決定した意見はこれである≠ニ言って、三カ条ばかり書いたものを出し、これに御賛成願わなければならん。もし総理が賛成して下さらなければ、自分は居残ることはできない≠ニのことである。……海軍大臣はこの海軍の決定した意見については、既に軍令部総長宮が陛下に内奏されて、陛下の御承認済みだ≠ニしきりに言っていた。先手を打たれた……」
高圧的に「これは陛下の御承認済みだ」というのは、よく海軍がやる手だ、「またそんなことではないか」と疑った原田は、木戸に連絡をとった。
大角のいうとおり、たしかに伏見総長は二日前に天皇に拝謁して、「従前の比率主義を捨て、平等の主義方針の下に邁進の外なく、かくせざれば海軍は統制し得ず」〈本庄日記191〉という主旨の覚書を捧呈していた。しかし、天皇はこの上奏を認めなかった。
「責任の衝にいない者がかくの如きことをかれこれ言ってくるようではまことに困る。自分として措置のしようがないじゃないか。今日、苟くも欽定憲法が制定されている以上、責任の地位にある者が責任をとって初めて政治が正しく行われる。この書類は返して、今後かくの如きことのないように……〈原田4─18〉
天皇は、「もう二度と再び会わん」というほど立腹だった。兵力量の決定は統帥権外の事項だと天皇は考えている。それを、海軍が皇族の軍令部総長から内奏させて、陛下の御承認済みだ≠ニ政府に圧力をかけるのは、結局、海軍の政府無視に天皇が利用されることになる。しかも昨年十月にも海軍は伏見総長を使って予算問題で同じことをやっている。こういう非立憲的≠ネやり方に天皇は立腹したのだが、同時に、軍縮条約を廃棄すると決めてかかっている海軍の態度にも不同意だった。
「どこまでも軍縮会議を成立せしむる意図の下に努力すべく、たとえ会議不成立に終るとするも、日本独りその責任を負わざる如く考慮せよ」〈本庄日記193〉
天皇は岡田首相に指示していた。
しかし、岡田首相は、大角海相にせっつかれて七月十四日に五相会議を開いて関係大臣の意見をきき、次第に条約破棄の方向に追い込まれていった。八月十六日、岡田は原田に弱気なところを見せた。
「ワシントン条約は、予備交渉の状況を見て、あるいは廃棄せねばならんかもしらん……もし廃棄するにしても、他の四国の諒解を得てやるつもりだ」
西園寺は、天皇の命令で海軍を抑えることも考えて、原田に指示した。
「あまり空気の固まらない内に、良い機会に陛下から両元帥宮に、日本の今日の国際的地位及び現在の空気等について大まかな御注意があったらどうか」
しかしこの企ても、大角海相が原田をつかまえて、「万一勅命で海軍の希望が抑えられたら、それこそ一大事である。まさか、元老、重臣方面でそんなような策動はしまいと思うけれども……」と牽制し、牧野内府や木戸も、「今また陛下からかれこれおっしゃると、側近に対する非難中傷があって、前のロンドン条約の二の舞をやる。まあもう少し待った方がいい」と慎重論を唱えたので、実現しなかった。
岡田首相は、八月二十三日に天皇に拝謁して、十月下旬から開かれる軍縮予備交渉(松平恒雄駐英大使および山本五十六少将両首席代表)に対する訓令案を説明し、さらに二十八日には、大角、広田両相と話し合って、ワシントン条約廃棄通告を含む基本的態度を決定した。
「まず軍備の平等権を尊重し、攻撃力を減じ、防禦力を強くするということで軍縮をやろう、第二は、各国の兵力保有最大量を決めて、それに到達するように持って行く、そのためには相当な時間を置く必要がある、第三は、ワシントン条約は廃棄するつもりだけれども……廃棄の共同声明を発したらどうか」
要するに、平等権を認めていないワシントン条約は廃棄するということである。
九年十月からロンドンで開かれた予備交渉(六月の第一次に次ぐ第二次交渉)では、アメリカがワシントン条約の原則的存続を主張して全く譲らず、ついに十二月二十九日、日本政府はワシントン条約廃棄をアメリカに通告した。これで二年後(昭和十一年末)にワシントン条約は効力を失い、各国は無条約、無制限建艦競争に突入することになる――。
「過分の軍拡となるの虞れなきか」〈同195〉
天皇は、岡田首相や大角海相に、条約廃棄の危険性を指摘し、伏見総長にも下問した。
「軍事協定成立せば各国平等の兵力を必要とし、不成立に終れば不平等にて差支なしとの理由如何」
伏見総長は懸命に「種々奉答あらせられしも」、天皇は「御納得遊ばさるゝに至らず」に終った。天皇はさらに、海軍の無統制ぶりにも強い懸念を示した。
「海軍は重大なる国際問題を部下将校統制の為に、犠牲にするものなり」〈同194〉
昭和五年のロンドン条約のときには浜口首相を後押ししながら成立まで持っていった西園寺も残念そうにつぶやいた。
「わが国も、今日の如く大アジア主義等と云うて東洋のみに偏せず、英米と共に世界の問題を処理できるようになれば、押しも押されもせぬ世界の三大国として、確乎たる地歩を占められたのに……惜しいことをした」〈木戸351〉
今や、天皇が「御軫念あらせられる」ように、陸軍だけでなく海軍も、「部下将校の統制の為に」、国際関係や政府は無論のこと、天皇の意思さえ公然と無視しはじめている。西園寺はそのことをより一層心配していた。
「どうも打明けた話が、軍人に引摺られて行くことは当分まぬがれない様だね。無理をしてはいけないから、根本を誤らないようにして、悍馬を御する様にある程度は引摺られるのも止むを得ないだろう。しかし困ったものだ」〈同369〉
十二月五日午前九時二十分ごろ、坐漁荘の正門前に、一人の少年が姿をあらわした。紺がすりの着物にぞうり、年のころ十七、八歳だが、体つきはガッチリしている。
「西園寺公に会わせてくれ」
警衛中の美和、鈴木の両巡査が立ちはだかるようにして、何の用事か、と尋ねると、直接会って申し上げる、と答えた。目付きが尋常でない。それに、懐中を気にしているようだ。
「それでは取り次ぐから、しばらくここで待っておれ」〈北野『人間西園寺公』161〉
警衛主任の大石警部補が巧みに警官詰所に誘導して椅子にすわらせ、どうだミカンでも食わんか、と差し出した。「朝飯を食っては動作が鈍って困ると思って、なにも食わず」に来た少年は、ホッと安心したのか、ミカンに手を伸ばした。その様子を窺うと、下着も身につけておらず、ふところに白鞘の短刀らしきものがのぞいている。
その場で取り押えて、「騙したな、この犬め」〈同163〉とわめく少年の懐を探ると、短刀と、西園寺宛の長文の斬奸状が出てきた。清水署に連行して取り調べると、驚くべき暗殺計画が判明した。
興国東京神命党≠ニ名乗るこの少年ほか六名の十六歳から十九歳までの少年達は、「新聞記事にて血盟団、五・一五事件の公判概況を知り之に刺戟せられ……井上日召の大慈悲心即ち破壊なりとの信念を其の儘信奉し」、西園寺、牧野、鈴木政友会総裁、若槻民政党総裁、三井八郎右衛門、岩崎小弥太等を「暗殺目標とし、一人一殺の方法により決行することとし、各担当目標を決定し、僅少の所持金を集めて匕首を求め、目標人物の身辺を覗い寄りつゝあった」〈「右翼思想犯罪事件の綜合的研究』191〉と自供した。西園寺をねらった少年、五十嵐軍太は、この少年血盟団≠フ首領格で、二日前から興津に来て機をうかがい、もし「老公を倒せばその場で潔く自刃する決意」だったと胸を張った。
計画は無思慮でずさんだが、それにしても少年達の恐るべき一途な真剣さは無気味だ――報告を受けた原田は、近衛と木戸を自宅に呼んで、顔を見合せた。
半月ほど前にも、陸軍士官学校の生徒達が「五・一五事件類似の事件」を企てて事前に発覚した(士官学校事件)と原田等はきいている。頻発するテロ事件や不穏計画が少年達のヒロイズムをかき立て、「現下の腐敗堕落せる社会情勢の禍根は、一に支配階級たる政党、財閥及び特権階級の横暴専恣によるもので、一九三五、六年の国際的危機を脱するには速かにこの癌を取除くほかなし」と一途に信じ込んで、国家革新の捨石たらん≠ニ行動している。
原田は、近衛と木戸に相談して、たまたま原田の健康状態が思わしくないので、「静養がてら興津に行って」泊り込みながら、西園寺の身近で過ごすことにした。
十二月十一日に興津に行った原田は、水口屋旅館に部屋をとった。以来、翌十年三月のはじめまで四カ月近くにわたって、毎朝九時半には坐漁荘に出向いて西園寺と話し、また、東京と電話で連絡をとったり、東京から出掛けて来た人と話したりして過ごした。
西園寺の秘書を勤めるようになってから、原田は昼夜の別なくこまねずみのように走り続けてきた。五日に一度は西園寺のもとに報告に出て、政府や宮中への伝言をもって帰る。西園寺が秋に京都に滞在する間などは、夜行で行って、また夜行で戻ることになる。東京では、二日に一度は首相を訪ね、閣僚、政党、宮中、皇族、軍部とも連絡を絶やさない。
こうして原田は、電話屋≠ニあだ名されるほど情報連絡に精を出し、原田に好意的でない人々からは、「高等情報ブローカー」〈東条英機の表現―東京裁判速記録第347号〉だの、「元老重臣のメッセンジャーボーイ」と陰口された。岡田首相もいう。
[#この行1字下げ] 首相在任中は……西園寺さんのほうから原田熊雄が、しきりにお使いになってくる。わたしの身辺にいた連中の中には、原田のことを蓄音機≠ネどと失礼な|あだな《ヽヽヽ》をつけるものもいた。つまり西園寺さんの口上をそっくり、そのまま取りつぎに来るので、そんなことをいったのであろうが、わたしとしてはなにかにつけて西園寺さんの御意見をきき、十分に尊重することをたてまえとした。〈岡田『回顧録』94〉
歴史学者で、「まあ非常に極端な右の方」〈原田5─130〉の平泉澄東大教授が近衛に、「原田男は、何が取柄で、西園寺公に重用されているのですか」と尋ねたことがある。
「あの人は、甲の云った事、乙の述べたところ、それをそのまま再現して伝える事が出来るのです。それを園公は重宝がってつかわれるのです」〈富田『敗戦日本の内側』平泉澄序文〉
「蓄音機」といい、近衛のいう「そのまま再現して伝える」能力といい、元老西園寺に仕える政治向き≠フ秘書としては、欠かせない基本である。私情をはさまず、どこまでも忠実に――この点で原田は立派だったと原田を知る人々は一様に称える。木戸氏もいう。
「原田は、もう全く西園寺さんだからねえ。忠実なる西園寺さんの秘書としてね……本当にあの人は純粋に秘書に徹していた。それに、カンのいいことと、電話をかけることを億劫がらないこと、この点は抜群だったね、先生は。それだけに、いろんな情報も的確に掴んでいたわけだ」
里見※[#「弓+享」、unicode5f34]氏のいうBrave な男≠フ一面が、木戸や近衛によっても語られている――。
このころ、原田は西園寺と天皇のことを話していて、「感情が激して」泣き出したことがあった。天皇は、政治を立憲的に運営することと国際協調のために一貫した姿勢を崩さない、その心を知りながら軍部や政治家は……と原田は感極まったのだが、激して「一時は実に困った」原田が水口屋旅館に戻り、翌日出直すと、西園寺はいたわりの言葉をかけた。
「原田さん、私はもはや余命|幾許《いくばく》もないだろうが、日本の将来に悲観しきっているわけでもありません。現在の状況には非常に不満足ですが、明治のはじめに比べれば、大変な進歩です。それに、どこの国でも所詮はその国相当以上のことを期待しても無理です。万事は国民の智力の程度にしかいきません。もっとも、同じことを実現するにしても、そこに到る巧拙と、途中の無駄を避けるという点が、政治の要諦なんだが……」
若槻元首相は、西園寺を評して、「人一倍ものやさしい方で、その言葉使い、その態度など、いわゆるぶらず≠ニいう方で、元老ぶらず、公爵ぶらず、誰をも極く平等に待遇され、相当の敬意を払われる。だから公と話をして帰ると、みな非常に好い気持になる、誰にも好感を持たれる方であった」〈若槻『古風庵回顧録』67〉という。この日も西園寺は、慰めるように原田に話しかけたが、その顔付きは暗かった。
原田がこうして興津にいる間――昭和十年二月十八日に、貴族院本会議で、男爵議員の菊池武夫が同じ勅選議員の美濃部達吉博士の憲法学説を攻撃する事件が起きた。いわゆる天皇機関説問題の始まりである。
菊池はちょうど一年前にも議会で、中島商工大臣が足利尊氏をほめたのがけしからんと攻めたてて、辞職に追い込んだ前歴がある。
一方、美濃部博士は、陸軍パンフレットが出された時、「中央公論」誌上でこれを取りあげて、憲法違反、好戦主義的だと批判した。また、開会中のこの議会でも帝人事件を取り上げて、検事の被告取調べに数々の人権蹂躙行為があったと、政府の監督責任を追及するなど、一連の自由主義的発言で、右翼、軍部の反感をかっていた。
「美濃部博士にしても、一木喜徳郎博士のものに致しましても、恐ろしいことが書いてある。議会は、天皇の命に何も服するものじゃない、斯う云うような意味に書いてある。……実に驚くべき私は御考えであると思う。これは日本憲法を説くには日本精神で説かなければならぬ。……何処を押せばあなた方はそんな屁理窟を言うか、ヨーロッパ心酔も猥らわしい。日本人と言うことが言えますか」〈宮沢俊義『天皇機関説事件』(45年、有斐閣)上82〉
菊池はこういって、美濃部らを学匪≠ニののしった。
菊池は、平沼の国本社の一員である。
「軍部を刺戟して、ことさらかれこれやらせようとする右傾の動きは相当に注意すべきものがある。……美濃部博士は当て馬であって、要するに一木枢相攻撃が目的である」
原田は、菊池の機関説攻撃のうらにひそむ魂胆を見破ると、西園寺に報告した。
天皇機関説論争は古くからあった。明治の中頃には有賀長雄と穂積八束の論争があり、また明治の終りから大正初めにも、美濃部と上杉慎吉が論争し、この時には、自説以外の学説はすべて民主主義≠ニみなす上杉慎吉博士の「君主ありて人民があり」という神がかり的な説は時流に合わず、ひとまず「上杉の敗北に終ったかに見えた」。
天皇機関説と対立する「天皇主権説ないし天皇主体説は、国家の統治的権力は、天皇が固有するところであると説く点において、政治的には、天皇の権力を絶対的と見る方向に傾き、その結果として絶対主義政治体制となじみやすい」。一方、いわゆる天皇機関説とされる「国家主権ないし国家主体説は、国家の統治権力の主体を国家と見て、天皇の権力を法人たる国家の機関の権限だと説く点において、政治的には、むしろ天皇の権力に対する立憲的な制約を是認する方向に傾き、その結果として、立憲主義政治体制となじみやすい」〈同上7〜8〉。だから、大正デモクラシーの時期に、天皇機関説が優勢であるのは当然であるが、それが今ごろになって議会で槍玉にあげられるのは、立憲政治体制≠否定する社会的風潮を反映したものである。
[#この行1字下げ](天皇機関説問題で)政治的に学説を威圧するの感を与うるは穏かならず、飽迄学問として取扱うべきなり。……同氏の学説は十数年前より吾人は耳にしたる所にして、今日之れが問題化するのは時代思潮変転の一反映たるべし。〈宇垣日記1004〉
宇垣総督がこう記すのは正解である。しかし、「天皇機関説排撃運動は燎原の焔の如く全国に波及し、重大な社会問題政治問題となり、単純な学説排撃運動の域を脱して所謂重臣ブロック排撃、岡田内閣打倒運動へと進展し、合法無血クーデター≠ニ評されている程、稀に見る成果を収め、革新運動史上に於ける一時代を画した」(司法省刑事局)〈『現代史資料』4巻347〉という展開を見せる。
美濃部学説の憲法論は、一木喜徳郎―美濃部達吉―宮沢俊義という系列になっている。美濃部の結婚式(菊池大麓元文相の娘と結婚)の媒酌人を珍しく一木が引き受けたのも、美濃部に対する一木の並々ならぬ肩入れを物語っている。したがって、美濃部攻撃は当然に一木にまで及ぶと見なくてはならない。
岡田首相は、これは平沼などの陰謀だと、原田に断言した。
「やっぱりこれは永年彼等が計画していた陰謀の延長であって、要するに機関説という道具を使って全面的に現在の元老重臣、側近まで追っ払って、彼等の一味でこれを乗っ取ろうとする、平沼を中心にした右傾の陰謀である」
とすると、平沼の国本社は、一年前の中島商相攻撃から、帝人事件、天皇機関説問題と、一貫して政府打倒を計画し、国家主義的精神の鼓吹に努めていることになる。この陰謀説を裏付けるように、小原法相も原田に、「(一木が辞めて)議長の席が空いたら、平沼男を上に上げようというのが目的らしい」と語ったし、木戸も橋本実斐(伯爵、子供のころ西園寺邸で育てられた)貴族院議員から、「平沼は……斯かる陣容にては大命降下につき到底元老重臣と相容れざるべしと自覚し、結局実力をもって奪い取るの外なかるべしとの悲壮なる決心を固むるに至れり」と聞いた。
まもなく、この問題に陸軍も介入してきた。
美濃部の国家法人説は、「国民代表機関としての議会の地位と権限を重視し、いわゆる統帥権の独立≠認めず、少くともそれを厳密な用兵作戦の意味に限局する」〈『近衛文麿』上296〉。だからロンドン軍縮条約の時にも、美濃部は浜口内閣の求めに応じて、軍縮は政治問題であり、軍令部が「国務に関して輔弼する機関でないことは、参謀本部条例も、海軍軍令部条例も、軍令第一号も亦定める所であって、統帥に関する規定が統帥以外の事を定め得べき理由はない」〈作田高太郎『天皇と木戸』(23年、平凡社)55〉として、憲法第十二条の兵力量の決定(天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム)は、統帥権外の事項であると明解に答えた。ちょうどこの頃(昭和五年四月)、原田が美濃部を住友別邸に招いて意見をきいた時にも、「軍令部は帷幄の中にあって陛下の大権に参画するもので、軍令部の意見は政府はただ参考として重要視すればいいので、何等の決定権はない」〈原田1─42〉と美濃部は答えている。この見解によれば、軍縮条約について海軍軍令部が、統帥権干犯だといって騒ぐのは、全く根拠がないことになる。浜口首相は、美濃部のこの意見を参考に、軍令部を押し切った。
こんないきさつもあって、軍部は、「政党政治家の御用学者」美濃部の排撃に加担した。
林陸相は、「統帥上の見地と教育練成の上から遺憾なる点多し」〈宮沢俊義『天皇機関説事件』上202〉として、本議会で、「かかる説は消滅するよう努力したい」と言明したし、在郷軍人会も、過激なパンフレットを配布して、美濃部に対するめざましい″U撃を展開した。
議会でも機関説排撃機運は盛りあがり、貴族院は三月二十日に「政教刷新に関する建議」を、また衆議院は二十三日に「国体に関する決議」をいずれも満場一致で可決し、「政府は崇高無比なる国体と相容れざる言説に対し直ちに断乎たる措置を取るべし」と要求した。衆議院の決議は、政友、民政、国民同盟三派の共同提出で、提案説明は鈴木喜三郎政友会総裁が行なった。
[#この行1字下げ] そのときの天皇機関説排撃の陣営は、同時に、議会政治排撃の陣営でもあり、また、政党政治排撃の陣営でもあった。それは、その後の歴史の実際の動きから見ても、明らかである。ここでの鈴木の提案説明は、政党の総裁がみずから先頭に立って、政党政治や議会政治を排撃ないし否定しようとする運動の御用を勤めた形になったわけで、何となく妙な感じを世人に与えた。(宮沢俊義『天皇機関説事件』)
こんな政党の状態について、原田も呆れ果てたのか、翌二十四日秩父宮に呼ばれて行くと、「政党は自縄自縛、みずからお互いに墓穴を掘っているような状態でございます」と話した。
「たとえば一方に、米穀法案のように、政友会出の閣僚が担当している問題に対しては、民政党は同一の決意をしながら今日になって反対をし、また民政党出の大臣である町田商工大臣の担当している肥料問題なんかについては、政友会はこれに反対しているというような状況……」
だから「原田等も衆議院の状況を見て、建物も人も共に焼いてしまったら……と甚だ憤慨することもございます」――原田はこうまで極言した。
岡田首相も、「わたしの組閣以来、政友会の純野党的な立場のものは、手段をえらばず倒閣を策し、ついにはこういう議会政治否認をめざす右傾勢力にまで同調したのは、どうみても賢明ではなかった」〈岡田『回顧録』112〉と呆れ返りながらも、次第に押し切られていった。
当初は、「美濃部博士の著書は、全体を通読しますると国体の観念において誤りないと信じて居ります」〈宮沢『天皇機関説事件』上86〉と答弁したものが、「機関説には賛成していない」〈岡田『回顧録』114〉と言わざるを得なくなり、さらに林陸相が「消滅するよう努力したい」と答えてからは、「もしわたしや他の閣僚が、この言葉と食いちがうことをいえば閣内不統一になるし、といって陸相を押えることは困難だし、自然政府の答弁もこれと歩調を合わせなければならなくなって、また一歩押しきられてしまった」〈同118〉
ところで――
天皇自身はこの問題をどう考えたのか。
「軍部において一木枢相のプリントを非難せる由なるが、一木は忠誠のものにして断じて世論の如き非難すべき点なし」〈本庄日記203〉
天皇は折にふれ、本庄武官長を呼んで、一木枢相をこの事件で失脚させないようにせよと注意した。美濃部博士に対しても、天皇は好意的である。
「美濃部のことをかれこれ言うけれども、美濃部は決して不忠な者ではないと自分は思う。今日、美濃部ほどの人が一体何人日本におるか。あゝいう学者を葬ることは頗る惜しい……」〈原田4─238〉
天皇がこのようにいうのは、天皇機関説を天皇自身が認めているからだ。
「君主主権説よりもむしろ国家主権の方がよいと思う。君主主権はややもすれば専制に陥り易い」〈同4─238〉
「憲法第四条天皇は国家の元首云々は即ち機関説なり、之が改正をも要求するとせば憲法を改正せざるべからざることとなるべし」〈本庄日記204〉
「軍部にては機関説を排撃しつつ、而も自分の意思に悖る事を勝手に為すは即ち、朕を機関説扱と為すものにあらざるなきか……若し思想信念を以て科学を抑圧し去らんとするときは、世界の進歩は遅るべし」〈同208〉
天皇のこのような理路整然とした仰せ≠ノ陸軍は答えられない。
「軍部は学説には触れず、ただ信念として崇高なる我国体を傷け、天皇の尊厳を害するが如き言動を、絶対に軍隊に取入れざらんとするにあり」〈同206〉
本庄武官長はこのような奉答を繰り返すだけだった。
天皇機関説問題の決着がつかないうちに、岡田内閣はもうひとつ、岡田自身が「これも私の失敗の一つだったことになるかもしらん」と悔いるほど、「あとの政治に大きな影響を及ぼした」〈岡田『回顧録』127〜129〉施策を行なった。
十年五月、政府は、内閣審議会と内閣調査局を設けた。いずれもこれは、永田軍務局長が国家総動員体制を進めるために、「まだ軍事課にいる頃から考えていた構想」だと鈴木貞一大佐はいう。
審議会は諮問機関で、会長に岡田首相、副会長に高橋蔵相(九年十二月に藤井蔵相病気のため交代)、委員として、斎藤前首相、山本達雄前内相、など十一名が任命された。また、調査局は、審議会の下部機構として下請け仕事に当るとともに、首相直属の政策参謀本部としての職能を兼ねることになっていた。長官には吉田茂書記官長が横すべりし、調査官には、陸軍から鈴木貞一大佐、海軍から阿部嘉輔大佐、農林省から和田博雄、逓信省から奥村喜和男など、各省の中堅が登用された。
岡田首相はこの機構を、「とかく弱体だといって批評される内閣の補強にもなると思って乗気になって、つくってみた」〈同128〉という。しかし、審議会の方は岡田内閣退陣とともに廃止されるものの、内閣調査局の方は、「局全体を通じて革新の空気がひそんで」〈『岡田啓介』306〉おり、十二年五月には林内閣のもとで拡大強化されて企画庁となり、さらに十二年十月には近衛内閣のもとで資源局と合体されて企画院となって、いわゆる国策統合機関≠ニしての実を完備する。しかも日華事変が始まり、国策決定のための一元的中央官庁の必要が一層切実になると、企画院は「平戦時における綜合国力の拡充運用に関し案を起草するとともに国家総動員事務をも併せ担当する重要官庁」としての役割を担い、まさに陸軍パンフレットが目指した軍部政治≠担当することになった。
「この機関はへたをすると逆に内閣を指導するようなものになりゃしないかと心配していたが、果たせるかな……結局陸海軍が政策を左右する中心になってしまった」〈岡田『回顧録』129〉
岡田は悔むが、こうして、産業、経済部門の総動員体制づくりも、内閣調査局が中心になって進められることになった。
七月七日(十年)、西園寺は例年どおり坐漁荘を発って御殿場に移った。春の上京も、春秋の京都行きも、健康を考えて差し控えているので、昨年九月に御殿場から戻って以来の旅立ちである。少年血盟団事件もあったので、厳重な警備体制がしかれた。
興津駅では、静岡県知事以下が見送りと出迎えをする慣例になっている。この日も、阿部嘉七知事が、ホームで二等貸切列車を待つ西園寺のお相手をつとめた。関西方面の風水害の後だったので、阿部知事は、「あれだけの惨禍を受けるなら、何とか予報の方法もありそうなものですが」と話しかけた。
「君、今でこそ天気予報もある程度まであたるようになったがね、昔はね、もうずっと古い話だが、支那の兵隊が背中に背負っている雨傘に日本天気予報≠ニいう紙片をぶらさげたという話だよ、仲々やるじゃないか。当らないことをもじったおまじないというわけさ、弾よけだよ。アッハハハ……」〈北野『人間西園寺公』193〉
西園寺はこのところ、軍が議会政治を踏みつぶそうとするのに腹の虫が納まらないのか、痛烈に軍をこきおろすことが多かった。
「やたらに軍人が憤慨する≠ニか、軍部がどうだ≠ニか、或は武官府が憤慨する≠ニかいうことが、最近の新聞によく発表されているが、一体どういうわけなのか。国民が憤慨するというのならよく判るが、実におかしな話である」
西園寺が天気予報を話題にしたと同じに、天皇もしばらくして、不本意な政治情勢について失意のことばを洩らした。
「この頃の天気は無軌道なるが、政治も亦然り」〈本庄日記229〉
天皇の独り言≠伝え聞いた本庄武官長は、又々、「真に聖慮の平かならざるは申訳なきことなり」と恐懼するのだが、軍部や右翼の圧力に辟易≠オて、在満機構、軍縮問題、機関説問題と矢つぎ早に押し切られていく岡田内閣に対して、「断乎たる決意」が欠けていると天皇は感じているようだった。
[#この行1字下げ] 将来の政局、又現在何等か手を打つべきや等の問題は、考えれば考うる程難しい問題で、是といって策はないと思う、しかし五・一五事件以来、斎藤・岡田両内閣を奏請したることは、自分は今でも間違って居らなかったと思う。〈木戸412〉
西園寺もこう考えるが、しかし、「どうも聞いていると、総理の話もすべてロジックに合わない、筋が通らない」〈原田4─324〉と嘆くことが多くなった。
無軌道――陸軍でも、皇道派と統制派の対立で、ごたごたが続いている。八月の人事異動についても、「林陸相と真崎教育総監との間に意見の衝突」があって、七月十六日に真崎が罷免された。この時には、「林陸相は閑院総長宮に話し、真崎に君は閥を作ってその頭領となっていて、軍の統制上困るので軍事参議官に替ってもらいたい≠ニ辞任を強要」〈『永田鉄山』137〉、真崎が承知しないと、葉山に滞在中の天皇に次の主旨を上奏して真崎更迭の勅裁を得てしまった。
[#この行1字下げ] 真崎大将が総監の位置に在りては統制が困難なること、昨年十一月士官学校事件も真崎一派の策謀なり、また三官衙の人事の衝に当る課長は、悉く佐賀と土佐のもののみにて一般より批難多く……〈本庄日記221〉
天皇も真崎に好感を持っていなかった。
「真崎が参謀次長時代、熱河作戦、熱河より北支への進出等、自分の意図に反して行動せしめたる場合、一旦責任上辞表を捧呈するならば、気持宜しきもそのままにては如何なものかと思えり」
「(真崎が)内大臣に国防自主権に関する意見を認めて送りしが如き、甚だ非常識に思わる」
「自分の聞く多くのものは、みな真崎、荒木等を非難す。過般来対支意見の強固なりしことも、真崎、荒木等の意見に林陸相等が押されある結果とも想像せらる」〈同222〉
これほどまでに天皇が、無責任=A非常識≠ニいうのでは、真崎もしようがない。
真崎更迭は、一般に歓迎された。原田は、「各方面に非常な安心と好感を与えた」と記したし、新聞も、「陸相の心事につき国民大多数が共鳴支持を惜しまない」(東京朝日社説)、「一般の人心安定の上にも多大の寄与をなすもの」(大阪毎日社説)と歓迎した。
ところが林陸相は、真崎に辞任を勧告したとき、「これは永田の意見だ≠ニどうも云われたか、匂わした」(有末精三陸相秘書官)らしい。真崎は永田に怒りを向ける。
「永田が新官僚派と通じて策動しあることは、軍部ならびに一般の認識する所にして、之れを処置せずして軍の統制を計らんとすることは小官承服する能わざる所なり」〈『永田鉄山』144〉
真崎はこういって、軍の統制を乱す原因となった三月事件の中心は永田であり、その後もいくつかの陰謀事件の根源≠ヘ永田に発する、と永田を猛烈に中傷しはじめた。
事件は一カ月後に起る。
八月十二日の昼前、永田軍務局長は、陸軍省の自室で、台湾へ赴任途中の相沢三郎中佐に斬殺された。
「恐らく真崎あたりが永田の悪口を自分の所に来て言ったように、猛烈に憤慨して相沢に話したので、相沢はのぼせてあゝいうことになったのではないか」
東久邇は原田に、真崎が唆かしたようだと告げたが、陸軍としては前代未聞の不祥事である。
「誠に遺憾なり」〈本庄日記224〉
天皇は嘆き、西園寺も、日本の将来を案じて嘆息しながら、独り言のようにつぶやく。
「日本だけはロシアやドイツの踏んだ途を通らないで行けるかと思ったが、こんなようなことがしば/\起ると、結局フランスやドイツやロシアの通った途を通らなければならんか」
西園寺が憂えるように、陸軍は永田を失って「いわば桶のたががはずれたようなもので、バラバラになり、滅茶滅茶になった」〈池田『日本の曲り角』51〉感があった。永田は、「十六期の首席というよりは、日露戦争以後に任官した陸軍の将校の実質的指導者であり、昭和の陸軍は、永田時代をまさにむかえんとする寸前であった」といわれるほど抜きん出た存在だった。内閣審議会や内閣調査局も永田の発案に始まったものなら、大正十五年にできた陸軍省整備局の初代動員課長に就任して、陸軍の近代化や国家総動員体制を進めてきたのも永田だった。その永田が一刀のもとに倒され、「上官斬殺という、まさに統帥権そのものを自己の確信で斬りえた隊付将校は、この一線をこえるや否や、翌年二月に二・二六事件という空前の反乱をおこす」(高橋正衛『昭和の軍閥』)ことになる。
東海道線で、藤沢、辻堂、茅ヶ崎と平野を西に向かうと、平塚を過ぎて花水川の鉄橋を渡った右手に、はじめてこんもりした山が姿をあらわす。|高麗《こま》山――標高一八一メートルのこの山の南側の麓に、原田は別荘を新築した。敷地は千坪ほどで、紀州藩の徳川頼貞公から買い入れ、昭和九年の秋に二階建の建物が完成したので、それまでの大磯駅近くの北本町の手狭な別荘から引っ越した。眼下に大磯や平塚の家並みが見下ろせ、東海道線を隔てて、相模湾が広がっている。裏側は高麗山の急斜面の松林だ。昨年末から興津で静養していた原田は、ようやく体調も戻って来たので、三月十七日にこの新居に移り、西園寺と相談して「大磯から隔日に東京へ出、また興津にも従前通り五、六日に一度の割で通う」ことにした。原田と相前後して、橋本実斐伯も隣に引越して来た。
八月十五日、永田事件から三日後に、原田は、西田幾多郎と鈴木大拙をこの別荘に招いた。西田と鈴木は、同じ石川県で同じ年に生まれ、しかも禅に立脚する東洋的思考を説く仲間≠ナある。原田が学習院高等科のとき、二人は語学の教師だった。
日本の思想、宗教界を代表する西田と鈴木は、午前十時に、小雨の中を連れ立ってやって来た。機関説排撃――崇高無比なるわが国体=A帝国固有の大精神≠ニいうのは、東洋的思考とどう関わるのか、大拙のいう「現代社会の危機の根源は、西洋的な合理主義にあり、これを克服するのは東洋的叡智しかない」というのは、どういう意味なのか、原田はそんな関心から、西田を通じて大拙を招いて、話を聞く機会をつくった。
大拙は、「日本人と自然」と題して話し始めた。近衛泰子が、原田日記のときと同じく速記をとる。
[#この行1字下げ] 自然の静寂な処を愛するというのは自然の死んだ処でいけない。自然は山の高い処に雲がある、水はどんどん流れて動いて居る、動いて居るその処が自然として愛せられるべき処で、何もそいつを止めて川の静かになった処を見てそこが落付いた静かな、まあ渋い処であると思うかも知れんが、そいつはいけない。……
[#この行1字下げ] 東洋的というか日本人的に自然を愛するということは、自然と自分を対抗させて、自分が自然を見て愛するという愛し方でなくって、自分が自然そのものになる、自然そのものになって自然とこう一緒に生きて行く、……そんなら自分が自然と一緒になってしまって区別がないかというと、そうじゃない、区別はするけれども一緒になる処がある、一緒になる処を見て自然の愛というものが出てくる、そいつが大事だ。……
[#この行1字下げ] その一番好い例が、越後に良寛上人というのが小さな小屋に棲んでおった。便所から筍が生えたので、その根太をはずした。竹が伸びて段々天井にいったから、天井の屋根をはずそうとして蝋燭で屋根を焼いたら、押入れも焼けてしまって、竹だけ残った。便所に夜でも行って見て、筍が可哀相だと思って直ぐ蝋燭でやったと見える。焼いたら困ると思いもせず、ただフッとやったんだと思う。そこが自分が竹になっていると思う。そこが本当の自然を愛するんだ。後はどうなろうがこうなろうが、経済的に考える方から行けば焼けてしまえば困るが、そこがひょっとやった処が、禅の真髄だ。そこに自然を愛するという事が本当に出ている。そいつなしに自然と自分を対峙させて、自分が自然を愛するんだ、自然のものが美しいんだと思って見たら、自然と自分が別になって本当の愛というものは出て来ない、本当の自然は分らない。……
[#この行1字下げ] 良寛和尚が松を愛する歌があるんだ。自分の庭から見ていると、向うの方に野中の一本松がある。その松が雨に濡れているのが、いかにも気の毒だ。笠を着せてやる、合羽を着せてやろうという。そこが大変面白い。いかにもこう、細々と松が雨に濡れているのを見ると、どうもそこに松を人間に見てしまうんだな、そこが本当の自然を愛するんじゃないかと私は思うんだ。その精神が竹を愛する、屋根を焼くということに出て来たんじゃないかと思う。……
[#この行1字下げ] ただ淋しいだけを愛するんじゃない。賑やかな処でも愛して好いんじゃないかと思う。牡丹でもよし山茶花でもよし、花が淋しいものでも賑やかなものでも構わんと思う、それぞれに愛して好いんだ。そこが本当の自然で、あれが淋しいから好いんだとか、これが静寂だから好いんだといっておったら、本当の自然を愛せるものじゃない。人間でいえば、自分の愛して居る女ならどんな汚い顔でも好い処に心を注いで綺麗に見える。あゝいう女がどうして好いんだと他の人が見ても、好い処を見て居れば好いように見える。……
[#この行1字下げ] ソローの『ウォルデン、または森の生活』の中に、世間を離れて行った人なんだろう、丸太の小屋を自分で拵えて住んでいる話がある。床が裸だから、カーペットでも敷いたらどうか≠ニいって友人が呉れた。すると、カーペットを一枚貰ったらそれからそれといろいろ欲しくなって切りがないから≠ニいって返してしまったという。その人が丸太小屋に入っておって、友達はいないし、いかにも淋しいだろうと思っておったが、ある日雨が降った。雨だれがボトボト落ちるのを聞いておったら、その雨の音の中に一つ普通に考えていなかったものが認められた。それからもう自然が麗しくなって、人間の友達のようなものはいなくてもよいと思うようになったという……
[#この行1字下げ] 謡の中に雨月というのがありますね、あれは西行法師の旅した時の何だというのだが、爺さんと婆さんが雨と月の争いをしている歌がありますな……
大拙は語り続け、この辺から西田と原田も口をはさむ。
鈴木 日本の小屋だな、日本の小屋には外界と内と区別がない、日本の家は開けてしまえばみんな一つだ。内と外が一つなんだな、庭と部屋の区別がなくなる。そういう処がよほど大事だと思う。西洋ではこれだけが自分の家で、ここから先が庭だという風になっている。
原田 自然に対する愛ですな。
鈴木 自然に対する愛はそこから出て来る。近ごろ能率とか何とかいう事が旺んになって、西洋の建物できちんと洋服でも着ておらんと働きが出来んというのも大事だ。それとともに下駄を履いてコツコツ庭に出て来るのも好い。そいつとどう調和するかな。
西田 そこは問題なんだろう。
鈴木 すべての方面でねえ。西洋の窓から月を見ても面白くも何ともないからな。
原田 結局、日本人としてどう生きるか、つまり日本人として生きても好いが同時に世界人として生きなくちゃあ、やっぱり生きていけないんだから、そこをどういう風にして……。
西田 それがこれから問題なんだ。そいつにぶつかっているから、西洋文化は行詰まっている。日本人は洋服も着、西洋館にも住まい、どういう風にするか。当然新しい人間が出来て来なくちゃあならん。
鈴木 そこをはっきり文部省の当局でも意識して行かなければならん。
西田 あの連中は全く元の儘をやっている。元の日本に還そうというんだから無理だ。……これからの国家主義は、国家が単位であって、それが世界的に結びつく、そういう世界主義だ。それが本当の世界主義なんだろうと思う。今までのコスモポリタンの世界というのは、国家というものをなくした世界主義、そういうものは十八世紀の過去のものだと思う。今度は国家主義を通した世界主義。……現在の日本の国策のたて方が分らんというけれども、そこさえ把んで日本の国策をたてればいいんだ。ところが今の国策は、前の十八世紀の封建時代のものにしようというんだから……。
原田 群雄割拠時代のですね。あれが恋しくて仕方ないんですね。……
三人の話はいつまでも続く。外は雨が降り続き、大拙のいう雨だれの音が絶えない。原田はこの日、日本の知識人を代表する両者が現状に批判的で、今の国策は日本を十八世紀の元に戻すものだと批判していることを知って、心強かった。また、禅の話といい、原田にとっては心を洗われるような有益な一日だった。
しばらくして十月十一日に、一時帰国していた斎藤博駐米大使が帰任の途についた。斎藤が東京駅から臨港電車に乗り込んで新橋駅まで来ると、駅長がやって来て、「これを……」と紙片を差し出した。原田からの送別の歌だ。
晴るるとも降るとも知らず今朝の空
君を送るにふさわしきかな
斎藤は紙片をひねくり回して、「これは何とか返歌をせねばならんが、外交問題の応酬よりちと難しそうだ」とうなっていたが、海軍軍縮条約廃棄問題で政府と打合せて帰任する斎藤の胸中を巧みに表現していたようだった。
原田と斎藤大使は「大の親友」だ。前年末に広田外相が、オランダ公使だった斎藤を、「彼はまず語学に堪能であり……人をよく知っている、無論経綸もある」〈原田3─205〉といって駐米大使に抜擢したときも、斎藤は原田に宛てて、密かに決意を書き送った。
[#この行1字下げ] この次の(軍縮)会議には日本は……パリティの原則に立って、潜水艦全廃、主力艦全廃、航空母艦全廃、巡洋艦の航空装備全廃を主唱すべきだと思う……僕は今度着任早々大統領と直接談判の機会を作って、この肚で懇談して見る。そして大統領がどこまで共鳴するかを見極めた上で、一応帰朝する。そして政府及び軍部と十分の打合せをして見たいと思う。一身の安危、毀誉褒貶など顧みる|遑《いとま》がない。僕は以上の決心で行く。お気付きの点は是非言って寄こして戴きたい。
ずっと後になって、斎藤は堀内謙介と代ったあと、十四年にアメリカで客死する。この時、アメリカ政府は斎藤が日米関係の調整に努力した功績を称えて、遺骸を軍艦で日本に護送する異例の措置をとって遇した――。
ところで、原田は日米関係を「晴るるとも降るとも知らず」というが、国内情勢はもっと険悪だった。
岡田首相は、「私は船乗りなので」といって、軍部のいう「一九三五年の危機」の難しい舵とりを引き受けた。
[#この行1字下げ] どんな暴風雨にあっても、この暴風圏外に出れば、青空が輝いた静かな海があると、いつも確信している。だからじっとしていれば、いつか暴風圏外に自然に出てしまうと安心している……〈岡田益吉『軍閥と重臣』36〉
ところが、暴風雨はますます荒れ狂うばかりだった。
八月三日、政府は「国体明徴に関する政府声明」を発表した。
「……大日本帝国統治の大権は儼として天皇に存すること明なり、若し夫れ統治権が天皇に存せずして天皇は之を行使する為の機関なりと為すが如きは、是れ全く万邦無比なる我が国体の本義を|愆《あやま》るものなり……」
岡田首相は、この声明と同時に、「この問題のため一木氏の身上に影響の及ぶが如き事は断じてない」と記者発表した。しかし、もしこれが「機関説という道具を使って全面的に現在の元老、重臣、側近まで追っ払って、彼等の一味でこれを乗っ取ろうとする、平沼を中心にした右傾の陰謀である」〈原田4─340〉なら、一片の政府声明でおさまるわけがない。
「そのうちに何かまた起りはしまいかと思う」
岡田首相はこんなことを原田にいい、永田軍務局長が殺されたあと陸軍の内部抗争が一段と激しくなったことを心配していた。
「真崎一派はどうも林追い出しをやるんじゃないかと思う」
岡田が原田に話したとおり、九月に入って林陸相は辞任し、川島義之大将が後をついだ。表面上は永田事件の責任をとってということだが、これも派閥抗争の結果だ≠ニ原田は未公開の資料でいう。
[#この行1字下げ] 真崎大将は、もし林の後に渡辺(錠太郎、教育総監、二・二六事件で殺される)に出られては何をやるか分らんと思ったので、荒木大将を使って林大将を威嚇して、結局林大将の辞任を決行させ……川島大将を林大将の後任に推薦すべく強要した。
原田が「荒木大将を使って」というのは、鈴木貞一大佐も「これは極秘だけれども」と、荒木が林陸相を訪ねて辞任を強要したことを原田に伝えており、これを指すと見られる。また、「威嚇して」というのは、林陸相が岡田に、「もうとても自分は続かない。このままでうっちゃっていると、何が起るか判らない。現にもう若い将校が千人ぐらい団結して、なにかやろうとしているらしい」と辞任を申し出たことと関連していると推察される。
「林は残念なことをしたが、もうそうなれば仕方あるまいな」
陸軍の派閥争い、とくに皇道派に批判的な天皇はこんな感想を洩したが、九月五日に陸相に就任した川島義之大将は、さっそく「国体明徴と天皇機関説排撃」に意欲を燃やした。
「これで一段落でなく序幕だ。機関説信奉者にして官公職にある者は一掃せねばならぬ」
陸相がこんな声明をするから、「軍部殊に在郷軍人方面の排撃運動は益々熾烈となり」、「美濃部、金森、一木三氏に関する要望は最少限度のものであり、これをも政府が実行しないとなれば、軍部としては政府と正面衝突も已むを得ず」〈宮沢『天皇機関説事件』下332〉と伝えられたりした。
十月十五日、政府はとうとう「国体明徴に関する第二次声明」を発表することになった。川島陸相が「林に劣らず、しつっこく岡田に声明を迫った」〈岡田『回顧録』125〉結果である。
「……天皇機関説は神聖なる我国体に悖り其本義を愆るの甚しきものにして厳に之を芟除せざるべからず、政教其他百般の事項総て万邦無比なる我国体の本義を基とし其真髄を顕揚するを要す……」
この政府声明は、「陸軍軍務局あたりで起草した」原案を若干修正したものだった。
「政府に於て再声明を為す以上、軍部も機関説信奉者の人事刷新など云うことを止めては如何」〈本庄日記230〉
天皇は、再声明とともに陸軍に注意したが、それでも陸軍が人事刷新を要求するのを見て、十二月十八日に本庄武官長を呼んで、厳然たる態度≠ナ陸軍の横暴をたしなめた。
「軍部は……人事には触れずとのことなりしに、今また金森等を云々す、恐らくそれは一木にまで及ぶに至るべし。かく一歩一歩軍部の態度の変化する事あるに於ては軍部に対して、安心が出来ぬと云う事になるべし。おおよそ事は何処までと云う最後を定め置くにあらざれば、世がファッショ≠高調するときは軍部も亦、之に雷同すると云うことになりはせぬか」〈同232〉
本庄武官長は、「真に恐懼に耐えざる次第」で退下すると、「事、相当重大なりと考え」、川島陸相に会って、「人事問題に深入りするの愚」を説く。川島陸相――内田信也鉄相にいわせれば、「自主性も指導性も欠き、内閣と陸軍側との間をただウロウロと往来……天下一品の愚物」〈内田『風雪五十年』153〉も、ようやく腹を決めた。
[#この行1字下げ] 金森丈けは其現地位との関係上、如何とも致し難きも、一木枢相は政府には関係なく之には及ばざる考えなり。……部下のものよりこれ以上、やかましく要求するときは断然辞職すべきのみ。〈本庄日記233〉
こうして、天皇機関説排撃運動はようやく終熄に向かった。美濃部博士は、著作が発禁処分になり、起訴猶予と引き替えに貴族院議員を辞任した。金森徳次郎法制局長官も翌十一年一月になって辞任した。
機関説排撃を通じて、いまや軍部の意向が政治、教育面まで左右することが明らかになった。政党および議会政治も、機関説――国家主権説が「国体に悖るとして否定」された以上、もはや存在意義は大幅に減少し、教育、思想、言論界でも軍の念願とする総動員体制が整い始めた。岡田首相もいう。
[#この行1字下げ] これをきっかけにして、観念右翼がみるみるうちに勢いを得て、盛んになった。蓑田胸喜(原理日本社を創立した右翼理論家、自由主義的学者の摘発を行い、排撃運動の中心的役割を果した)一派の活動は二・二六事件後、いっそうひどくなって、一時は文部省の考え方まで支配したものだ。学生の中にも日本学生協会というものが出来て、教授の講義まで監視する……学問のためには遺憾なことだったと思う。……観念右翼は、次第にナチス流の右翼にうつっていった。〈岡田『回顧録』127〉
天皇機関説問題が一段落するのを待って、牧野内大臣が、持病の神経痛と発疹が悪化したからと辞意を申し出た。
「最近は何につけても総ては内大臣が策謀し居らるゝが如く宣伝せられ、あらゆる非難を内大臣に集中せる状態なり、……国家の全局より考うるも此まま現地位に居らるゝは考えもの……」〈木戸426〉
木戸も、八月頃から牧野内大臣と相談して、辞任が望ましいと考えていた。
しかし、いま牧野が辞めると、一木攻撃が再燃する恐れがある――天皇も西園寺も岡田首相もそろって慰留につとめたが、牧野は素志を貫徹したし≠ニ頑張り、「子や孫が隠居して、親や爺を働かしているような具合で甚だ申訳ないけれども」と西園寺に挨拶して、年末近くに辞任した。後任には、斎藤実前首相が就任した。この交代は、「後に来た人が斎藤前総理だったので当然の道行として非常に歓迎」されたし、辞めた牧野も、「少くとも側近の陣容は、実に今までにない立派な人が揃っている」と安心顔だった。
多難だった昭和十年もこうしてようやく暮れた。
このころ中国大陸では――
老蔵相高橋是清が原田に向かって、
「外務大臣(広田)が来て、北支対策の説明をしたが、まるで鎧の上に衣を着たような形だ。今日の外交は、まるで陸軍に圧迫されているような調子で、結局それに同意した総理もロボットになるようなことでは困るじゃあないか」
と嘆くような事態が進行していた。
満州事変の翌々年、昭和八年五月に長城線を越えて南下した関東軍は、|塘沽《タンクー》停戦協定によって、長城以南、河北省の東北隅に広大な非武装中立地帯を築き、満州国を中国からさらに分離させるのに成功した。
「長城方面でいつ何時でも出撃できる、という一種の威嚇は、絶えずこれを暗示しておく必要がある。そのくらいにしておかないと、とかく支那人はつけ上るからだ」
当時、鈴木貞一陸軍中佐は原田にこういって、引き続いて南下の機会をねらう姿勢を強調したものだが、中国にしてみれば、さきに「不抵抗」によって満州を失い、いままた「抵抗」によってさらに国土を失ったわけで、現在の中国の国力ではいかに抵抗しようとも日本の強力な軍事力の前には何とも仕様がないこと、――※[#「くさかんむり+將」、unicode8523]介石によれば、華北は事実上日本の支配下にあり、もし日本が軍事力発動に踏み切れば、中国の重要地点は三日以内に占拠されると認めざるを得なかった。
とすれば※[#「くさかんむり+將」、unicode8523]介石軍事委員会委員長――汪兆銘行政院長の国民政府は、「外国の勢力により、我が方(日本)を牽制せんことを夢見」るとともに、当面は対日和平策をとって、その間に破綻に瀕している中国経済の再建を進めるしか手がないことになる。
しかも、国民政府は、中共軍に対する第五次包囲作戦が成功した直後である。この作戦で中共軍は江西省の根拠地を失って西遷を余儀なくされ、兵力も三十万から数万に減少して脅威は薄らいだ。※[#「くさかんむり+將」、unicode8523]介石は排日宣伝、排日教科書もきびしく取りしまったり、また広田外相の議会演説を讃えたり、対日和協策を展開し始めた。
しかし、そんな一時的な日中親善ムードに、陸軍、とくに関東軍は白い眼を向けていた。
「支那政府の今次対日態度の変更は、支那経済界の衰微、特に浙江財閥の窮乏その極に達したるに基づくこと明らかにして、将来、英米等の徹底的援助を得る……場合に至りても、なお旧態度に復帰することなきやは、支那民族性、国民党の歴史に徴し、甚だ疑いなきあたわず……」
このような態度は、天津に本拠をおく支那駐屯軍(一九〇一年の義和団議定書にもとづいて日本から派兵していたもの、天津軍ともいう)にも共通していた。
十年五月二十九日、天津軍の参謀長酒井隆大佐は、北平居仁堂に国民政府軍事委員会北平分会主任何応欽を訪ねると、「北支より」、国民政府の軍事委員会分会、憲兵第三団、国民党部、藍衣社、および「これらのバックたる第二師、第二十五師等有害無益の中央軍の一律撤退」を要求した。
「梅津司令官が新京に発つ前に、酒井参謀長が留守中、好意的に軽い意味の警告を発したいと思いますが≠ニいって来たのに対して、それなら宜しい≠ニいうことであったのが、結局あんなことになった」
岡田首相は顔をしかめて原田に語り、天皇も本庄武官長を呼んで「事態を御軫念あらせられ、殆んど日々御下問を賜わり、あるいは文武二重外交の|譏《そし》りを招かざるやを憂慮あらせられ、あるいは欧米を刺激するなきやを御懸念あらせられ」〈本庄日記217〉たのはごく当然だったが、驚いたことにこの一参謀長独断の法外な要求は、全面的に実現されてしまう。
天津軍の要求を受けた国民政府は深刻な衝撃を受け、すぐ東京駐在の※[#「くさかんむり+將」、unicode8523]大使を広田外相に面会させた。※[#「くさかんむり+將」、unicode8523]大使は、国民政府は自発的措置として省政府を保定(北平の南三〇〇キロメートル)に移動すると申し出て、条件を緩和するように広田の斡旋を依頼した。しかし広田は、軍部出先と交渉して局地的解決を計るのがいいだろうと、斡旋を拒絶してしまった。
中国という一国の領土内での中国中央軍の移動、政府機関の撤収、地方長官の罷免などが、日本軍の出先の一大佐によって要求され、しかも正式の外交交渉を拒否されるということになって、中国側は広田の外交姿勢に不信感をつのらせた。
一方、関車軍は、酒井参謀長を支援するため、長城線の山海関と古北口に兵力を集結させて武力威嚇の姿勢を示したので、六月十日になって中国側は、日本の要望を容れて、河北省から国民党部、中央軍を全面的に撤退させ、また全国に対して排日運動禁止を命令する、と回答した(支那駐屯軍司令官梅津少将の名をとって、梅津・何応欽協定と呼ばれる)。この協定のすぐあと、関東軍は些細な事件を口実に、チャハル省(河北省の北西、満州国熱河省の西側に接する)に関して同じような協定を結び(土肥原・秦徳純協定)、この結果、河北、チャハル両省から国民党勢力は後退することになった。
[#この行1字下げ] わが北方各省は東北四省についで、事実上すでにわが国から切り離された。……これらは実際上、現在完全に日本軍の統制下にある。関東軍司令官は、いまや積極的に、蒙古国∞華北国$ャ立の計画を実現しつつある。
中国共産党の八月一日宣言は、こういって華北の危機を訴えたが、日本軍が、満州国に次いで、華北五省(河北、山東、山西、チャハル、綏遠)、とくに河北、チャハル二省の分離、独立工作を進めているのは今や明らかになった。
こんな騒ぎが一段落した九月、イギリス大蔵省顧問のリース・ロスが広田外相を訪問して、中国の幣制改革を提案してきた。
「支那の経済不況は極めて深刻なる模様にして、上海方面の状況は殊に険悪なるものあり、之を放置すれば経済破綻を来す恐れあり……」
「銀行組織を改善して、銀にベースせざる新通貨を基礎とし一時的にもせよ恐慌切抜け策としたし」〈外交主要文書下298〜300〉
リース・ロスの基本構想は、銀本位制を離脱して、ポンド・リンクの為替本位制を採用することと、列国の援助をリザーブに当てるという点にあったが、満州国承認をからませているのが注目された。
[#この行1字下げ] 支那に有力なる中央銀行を興し、紙幣発行権を独占せしめ、外国よりの援助資金を以てロンドンにリザーブを設けて紙幣はポンド貨にリンクせしめて、銀本位制より離脱、以て為替の安定を計り……他方支那をして満州国を承認せしめて時局の安定を導き、満州国は独立前支那の負担せし内外債の適当な割合、例えば関税収入の割合よりして全体の三割とし、年額約百万ポンドの負担をなし、之を支那に支払うこととし、之を中央銀行運用の資金に加うる。
これに対して広田外相は、「目下の支那にては到底見込なし」、「現状に於ては幾ら金があっても軍資に費消せらるるが精々……」と答え、リース・ロスは「日本側の所説には失望せり」と表明して、上海に渡った。日本の実力では、満州に投資するのが精一杯だということなのだが、十一月になって国民政府は突然中国幣制の改革を布告した。
前年、一九三四年夏以来アメリカが国内のシルバーメンの圧力によって銀買上げ政策をとったため、銀価格が世界的に高騰し、中国でも巨額の現銀が海外に流出して、金融も産業も未曾有の恐慌状態に追い込まれていた。為替相場は日々に暴落し、中国法幣は事実上、兌換停止の状態にある。こんな最中、十一月一日に、親日派の汪兆銘行政院長が抗日派分子によって狙撃され、中央、中国、交通の三政府銀行で取付けが始まった。
そこで国民政府は、十一月三日、幣制緊急令を公布し、現銀の買上げ(国有化)、政府銀行の発行する銀行券だけを法幣とする管理為替通貨制度の採用、ポンド・リンク制を内容とする新幣制を翌四日から実施することにした。
日本を含めて各国は、リース・ロスの構想していた列国借款も成立しないうちに、取り付け騒ぎに追われて突然断行した幣制改革だけに、成功の見込みは薄いと判断した。
しかし、もしこの現銀の全面的集中と政府銀行券の強制通用が成功すれば、国民政府は経済的中央集権により政治的にも全国統一の足がかりをつかむことになる。そうなれば、幣制改革はイギリスの援助、協力のもとに進められただけに、中国での日英の経済宗主権争いで日本は敗退することになり、「その影響する所、日満両帝国と密接なる関係を有する北支地方を経済的に枯渇せしめ、更に進んで満州国の経済的基礎を脅威する」と日本側は危機感を懐いた。
ところが、この幣制改革は、日本側の予想に反して、順調に進み、一カ月後、さすがに強気の天津軍も、「(幣制改革は)相当成功の歩を進めつつありと認めざるを得ず」と参謀本部に打電することになった。
たしかに現銀の集中は、英国系銀行の全面的協力もあって順調に進み、新幣制は着実に根づいていくように見える。
こうなれば日本軍としては華北五省を南京政府から分離独立させて、華北の現銀も関税収入も鉄道収入も押えてしまい、幣制改革の妨害をする以外に手はない。
十一月中旬、関東軍は再び「山海関付近に兵力を集中し、北支に進出する」構えを見せた。銃剣の威嚇のもとに、華北五省の自治政権を発足させる――具体的には、元チャハル省主席で平津衛戌司令の宋哲元を中心にして、河北省主席の商震、山西省主席の閻錫山、山東省の韓復などの軍閥の頭目を抱き込んで、防共委員会を組織する、この委員会は、軍事・財政を掌握し、また円とリンクした新通貨を発行するなど、南京政府から完全に独立した自治政権として、日満華三国の経済ブロックを確立する、という構想である。
関東軍は、奉天特務機関長の土肥原少将を北平に送り込んでこの工作を急がせたが、宋哲元らは躊躇して容易に動こうとしないため、土肥原はとりあえず塘沽協定非戦地区の自治を実現することにして、十一月二十五日、日本軍の傀儡的存在である戦区督察専員の殷汝耕を委員長に、冀東防共自治委員会(一カ月後に自治政府と改称)を発足させた。日本陸軍の完全な傀儡政権である。
河北省におけるこの自治委員会の発足は国民政府を大いに刺戟し、十二月十八日、|冀察《きさつ》政務委員会が北平で発足した。委員長宋哲元、河北およびチャハル省、北平・天津両市のいっさいの政務を処理することなど、この冀察政権は、日中双方の妥協の産物であった。つまり、この冀察政権はあくまで国民政府の一機関であるが、委員長は日本軍の意中の人物宋を据えたこと、また、冀察政権の管轄区域(河北・チャハル省)内の二十二県は日本軍の傀儡である冀東政権の区域であり、前者は後者の存在を認めないなど、複雑な関係になっていた。そんなだから、宋哲元委員長も日中両方に対して「専ら自己保存の為、表裏二重の策を執りつつ」泳ぎ回るだけだった。
昭和十年末――中国大陸では、日本軍が華北に勢力を拡げたが、※[#「くさかんむり+將」、unicode8523]介石の国民政府も幣制改革で経済危機を乗り切り、日本軍と中国軍は華北を舞台に次第に衝突の危機が高まってきていた。
[#改ページ]
第六章 朕自ラ近衛師団ヲ率イ、此ガ鎮圧ニ当ラン
――二・二六事件――
昭和十一年二月。
東京は雪が多かった。四日の節分の昼から降りだした雪は「たちまち降り積り、遂に五十四年振りの大雪」〈木戸460〉になった。明治十六年の節分の日に四十六センチも雪が積って「車も通せず歩行することも能わざりし」〈荷風日記〉ことがあったというが、この日も東京は夜になって停電し、「芝居見物の客は歌舞伎座はじめいずこも桟敷廊下等に宿泊」〈朝日新聞2月5日付〉した。
七日、八日にも小雪が舞い、二十三日にはまたも「夜来の雪止まず、大雪」になって、四日の三十一・五センチを破る三十五・五センチの積雪を記録した。
この雪が消えずに残っている二十六日の早朝――前日に大磯から上京した原田は、平河町の自宅で眠っていた。五時四十分、女中のふみが、「木戸さまからお電話です」と原田を起こした。いつもちょっとカン高い木戸の声が緊張している。
「いま斎藤内大臣が襲撃された。岡田、高橋両大臣も襲撃された。内大臣の私邸には寄りつくことができない。自分は取りあえず宮内省に行くからよろしく頼む」
「宮内省へ行ったら、興津へすぐ電話してくれ」
――東京の近衛・第一両師団に属する約千四百名の兵が皇道派の青年将校に率いられて、斎藤内大臣、高橋蔵相、渡辺教育総監を殺し、鈴木侍従長に重傷を負わせ、岡田首相や牧野前内府を襲った二・二六事件の発生である。
原田は慌てて身仕度をととのえて家を出ると、「宮内省に行って木戸と連絡をとりながら好い時機に興津に行くつもりで」三宅坂の交差点に向かった。外はまだ暗い。足元を見つめながら、木戸の電話のショックから覚めやらない原田が、「やや暫くして、ふと頭を上げると、前方十間ぐらいの所に兵隊が剣つき鉄砲を持って並んでいる」。驚いて「ゆっくり後戻りをして、今度は反対の方向(赤坂見附)から出ようとすると、そこにもやはり機関銃があり、兵隊も並んでいるので、ひとまず家に帰った」。
この朝の原田の行動は慎重さを欠いていたようだ。木戸は、小栗警視総監と連絡したうえで、岡田、高橋、斎藤が襲撃され、しかも斎藤は「一中隊の兵」にやられて「いけない様」という「一大不祥事の発生」を原田に伝えている。相当規模の兵力が動員されたのは明らかである。
それに、「前年の暮頃から木戸や原田・近衛等へ入っている情報――第一師団の青年将校の間で、満州に移駐するに先立ち、私利私欲に耽り、軍備に必要とする経費を出さなかった政治家・財閥を粛清する、今度は千人以上の兵が動くだろうという情報」〈木戸文書103〉――から考えても、西園寺が襲撃目標になっている虞れは多分にあったはずだ。原田は、一月末にも小栗警視総監から、「第一師団が満州に行く前に、若い将校連中が何か一仕事しようというので、ごた/\やっている」と聞いている。木戸から電話を受けた時点で、原田はすぐ西園寺に連絡すべきだった。
西園寺襲撃――実はこれも計画に入っていた。「豊橋陸軍教導学校の下士官ならびに学生約百二十名を動員し、軽機関銃六挺、小銃に十分の弾薬を携行して」二十六日午前五時に坐漁荘の正門および裏門から闖入するという計画は二月十九日に決定されていた。それが二十五日になって、「豊橋部隊同志青年将校の一人が、襲撃のため軍を私兵化することに極力反対したため、決起の直前に中止が決まった」ので、西園寺は命拾いをした。
次に、原田が徒歩で三宅坂から桜田門に出て坂下門から参内しようとしたのも無謀だった。
この事件の最中、二十七日の昼に、反乱軍の清原康平少尉は首謀者の一人の栗原安秀中尉に命令されて、華族会館を占拠した。この時、栗原は清原に、「華族会館に貴族院議員の連中が集まって何事か対策を密議しているらしい。急いで襲撃せよ、策動の中心人物は原田男爵だから手ぬかりなくしっかりやれ」と命じたという(大谷敬二郎『昭和憲兵史』)。
木戸もこのことを記録している。
[#この行1字下げ] 後で聞いたところだが、反乱軍の一部隊が侵入し来り、居合せたる会員十五、六名を一室に監禁して、しきりに私と原田を探して居たと云うことで、若し出席して居たら反乱軍の本部に連行せられたるは必定で、その後の運命はどうなっていたか、誠に危いところであった。
しかし、木戸はずっと宮中から外に出なかったし、「原田ももちろん華族会館には行かなかった」(木戸氏)。
ところが、『昭和憲兵史』で紹介されている「清原手記」では、原田が出席していたと全くの創作が語られている。
[#この行1字下げ] そうこうするうちに、そこへ五十年配の肥った背広服の紳士が、ただ一人玄関に現われた。態度は落付いているように見えるが顔色がない。一瞬これは臭いなと思ったので、待て!≠ニ大声で叫び、すぐ停止を命じた。彼はおとなしく立ち止った。誰だ!≠ニイキナリ聞いたが返事がない。私は高飛車な態度で彼の前に進み、彼の背広の上衣に手をかけ裏をかえして見た。それと殆んど同時に彼は小さな声で原田≠ニいった。まさに目ざす相手である。思わず私は軍刀の柄に手をかけた。……だが、そうしているうちに、どうしても刀を抜く気になれなくなってしまった。一種の寂寥感――勝利的な立場にある者が感ずることのできる、あの妙な空虚感なのかもしれない。次の瞬間私は傍らにいた当番兵にこの人は違う、外までお送りせよ≠ニ命じていた。もし、この時、相手がゴウ然と構えていたら斬り下げたかもしれないし、また、逃げていたら追い討ちをかけていただろう。だが、彼の態度には呆然としてなすところを知らなかったというよりも、むしろなんらの悪意のない静けさがあった。私は虚脱感の中に殺気が消えていってしまったのであった。
見事な作文である。事実は、この時間に原田は興津に向かう車の中だったから、清原少尉が人違いをしたか、全くの虚構か、どちらかである。不思議なことに清原は、「原田を斬らなかったというよりも、原田を助命したことが、どうして軍法会議に伝わったものか、死刑の求刑のあったあと、死を免れて無期禁錮の判決を受けた」〈大谷敬二郎『昭和憲兵史』(41年、みすず書房)193〉という。
この華族会館襲撃の真相は、栗原でなく野中大尉から「宿営給養の目的を以て華族会館を偵察せよ」と命令を受けた清原少尉が、たまたま午餐会があって華族が会食中だったので「一同を一室に待たしたまま首相官邸に赴いて栗原中尉の指示を受け……栗原は直ぐ華族会館に来り彼等に蹶起趣意書を朗読したる上退去を許しました」ということだった。
他にもデマが多く、「原田熊雄氏が狙われて、犬養健氏と共に築地の待合桑名に逃げこんでいる」〈木舎幾三郎『近衛公秘聞』(25年、高野山出版社)20〉とか、「西園寺公は二十五日に、既に二十六日の事変を知っておられた」〈原田5─36〉という話がまことしやかに流されたが、これも事件関係者が自分の立場を有利にするために捏造したものだった――。
ともかく、反乱軍が原田を探したのは事実で、事件突発の朝、原田は西園寺や自分の身辺の危険について楽観しすぎたようだ。
話を元に戻して――
木戸は原田と近衛に電話をしている間に、新坂町六十二の自宅に宮内省の車を呼んで宮中に向かうことにした。木戸氏は語る。
「僕は非常に早く、事件が起ったのを知ったんだ。あれは斎藤さんの書生が非常に的確な情報を寄こしたんだ、小野秘書官に。それは一中隊ばかりの兵隊が来て、内大臣夫妻は死なれましたと……。まあ、奥さんは生きておられたけれどね……。それで小野秘書官から僕のところに電話がかかって来たんだ。それじゃすぐ参内するから車を回せといったら、いま車なんか止められているというからね、そんなバカなことはないと、いかなくちゃ仕様がないんだから、寄こせといってね、それで車を回させたんだ。家にも車はあったんだけどね、やっぱり宮内省の車の方がいろんな所を通過するのに具合がいいからね。それでそれに乗って赤坂見附を登ろうとしたら、登れないんだ、剣付鉄砲を構えていてね、新坂町の乃木神社の隣から行ったんだがね。それでずっと溜池を回って日比谷から坂下門へ行ったら、また剣付鉄砲をこっちに向けているんだ。また入れないかなと思ったら、これは近衛の兵隊だったわけだ。宮内省の車だとわかっているんで、問題なく入れた。それから二週間泊り込みだったかな。
それで僕は出勤すると西園寺さんに電話をかけたんだ。そしたら、ただ今お休み中でございますというんだね、それで安心したんだ、もう襲っていやしないかと思ったから。しかし危険なんだからね、とにかく起してくれと、東京はこうこうだと、だからすぐ県庁と連絡して避難してくれといったんだ。あの時の警察部長が橋本清吉という男だった、それが自分の官舎にお連れしたんだ」
木戸が西園寺に電話で連絡したのが六時四十分。この時、西園寺はなにも知らずに電気ストーブで暖めた部屋で眠っていた。
「またやりおったか、困ったものだ」〈『西園寺公爵警備沿革史』(16年、静岡県警察部)184〉
間もなく、貴族院議員で西園寺の秘書をつとめる中川小十郎が駆けつけ、橋本警察部長の避難勧告を伝えた。坐漁荘警備詰所にも非常警戒の連絡が入る。
「本朝帝都に近衛軍人約二ヶ中隊蜂起し、重臣を襲撃殺害した。なお軍人数名の乗車せる自動車が熱海に向いたりとの情報あり、厳重警戒の要あり」
七時十五分、西園寺は周囲の進言を聴き容れて、避難することにした。
[#この行1字下げ] 公は折柄雪模様の寒さの中を何時ものハンチングに二重回し、ラクダの襟巻を巻いて竹杖を持ち、中川秘書、女中頭お綾さん、吉村警備主任に援けられて、静第一〇一号自家用自動車に乗車、警備自動車三台に守られフルスピードで東海道を驀進……(七時四十分)警察部長官舎に一先ず入られた。(静岡県警察部『西園寺公爵警備沿革史』)
西園寺が避難を終えたころ、雪は本降りになった。静岡では珍しいことだ。「悲観すべき流言蜚語は紊れ飛び物情騒然」としている。西園寺邸の八尾運転手は語る。
「みんな生きた心地はなかった。中川さんは吾々に落着け落着けと言われたが、ご自身相当狼狽しておられた。公爵は顔色ひとつ変えられず、泰然自若、終始談笑して居られた。私はつくづく偉い人だなあと感じ、笑い声に自分の心に落付きが出来ました」
この朝、西園寺は中川小十郎が避難するように勧めても、「何故か?」となかなか腰を上げようとしなかったし、さらに、「辺鄙な地へ移るよう」にという意見もあったが、撥ねつけた。
「自己の安全のみ考える時ではない。何時、陛下より御召の御言葉があるやも判らん。その時は直ちに上京するのであるから、連絡のとれぬ地に避難する事は絶対に罷りならん」〈同209〉
警察部長官舎の応接間に落付いた西園寺は、「降り続く雪を眺め、極めて平静な様子であったが、洩らさるゝ言葉の内には、上御皇室の御安泰を気遣われて居らるゝ」ようだった。ようやく東京から詳細な連絡が入り、橋本部長が報告する。西園寺は、「しばし瞑想し、悲愴な面持ちであった」。
「高橋がやられたか、立派な人を……。日本として惜しい人を失った。高橋は高齢者だが……」〈同209〉
高橋是清蔵相――八十一歳。西園寺より五つ年下だ。若い時には、サンフランシスコで間違えて奴隷に売り飛ばされたり、芸者の箱屋をやったり、日露戦争のときには日銀副総裁として外債募集をほとんど一人でやってのけた、そんな体験がこの人を「どこか禅味を帯びて実に超俗洒脱」な愛すべき人物にしていた。大正時代に原内閣のあと組閣したほか、蔵相だけでも七回勤めている。
岡田内閣の蔵相には高橋の推薦で藤井真信次官が就任した。しかし藤井は、十年度予算をまとめると同時に病いに倒れ、その後には岡田首相も西園寺も高橋の登場を切望した。
岡田は、大蔵次官の津島寿一をつれて高橋を口説きに出掛けた。
「どうもこの頃は妙な雲がかかっている、この雲は自分が出たからとて晴れるわけではないからな」
「仰せの通りなるが、自分はじーっと我慢して時を過ごせばやがてこの雲も晴れることと信じて、身命を賭してその衝に当って居る、たゞ、財界の安定はぜひ必要であるので、この際ご奮発を願いたい」
「なるほど、晴れることもあるかも知れないな、それではこの事は君に任せる」〈木戸372〉
岡田首相の懇請に続いて、津島次官が、藤井蔵相の病状を説明した。藤井は首相官邸の一室でベッドに横たわって輸血をしながら予算折衝を乗り切ったが、肺気腫などいくつか併発して瀕死の重態だ。高橋は黙って聞いていたが、「眼がしらに露のようなものが光る」のを津島は見た。
「引き受けましょう」〈津島寿一『高橋是清翁のこと』(37年、芳塘刊行会)239〉
こうして高橋は七度目の蔵相に就任した。岡田内閣発足半年後、九年十一月二十七日のことである。
西園寺は高橋の登場を大いに喜び、早速原田を遣わして、「貴下が出られたので私も非常に安心して喜んでおります。この上は、健康を充分御注意願いたい」と挨拶した。天皇も「非常なお喜び」だった。
「よく出てくれた」
岡田が内奏すると、天皇は何度も繰り返した。
しかし、高橋は死を覚悟して蔵相を引受けたという。しばらくして、十年九月に床次逓相が急死して、あとに政友会出身の望月圭介が就任した。高橋の推薦である。親任式の翌日、望月邸を訪れた高橋は、「その老齢で、さぞかし大臣になるときには、いろいろ考えられたでしょう」と問われると、静かに答えた。
「いや、これがもっと年齢が若くて、先へ行って御奉公が出来るというならば考えるということもあるが、わしはもうこの年齢で先はない、今奉公をしなければするときはない。最後の御奉公と思って入閣したのだ、わしはもうこのまま死ぬ気だ」〈有竹『昭和財政家論』56〉
悲愴なまでの老蔵相の決意である。入閣してからの高橋の言動は、実に勇気凛々たるもので、「それは国をおもうあまり、もはや何事も頓着しないといった観があった」〈『昭和大蔵省外史』中122〉。そんな老蔵相の姿を、西園寺は頼もし気に眺め、議会も高橋が登壇すると「満場拍手して迎える」。
「どうも貧乏人には何十億という予算のことはわかりません」〈荒木『風雲三十年』139〉
洒脱に答える高橋に、議会は好意的だった。岡田も、「わたしの内閣にとって、これほど大きな存在はなかったし、わたしの一つの自慢だった」〈岡田『回顧録』101〉と喜んでいた。
天皇も「高橋を愛された」〈『昭和大蔵省外史』189〉という。「オレは病体で常にガスがところ嫌わず出るから、宮中でのお儀式は一切ご遠慮する条件ならお受けする」〈内田『風雪五十年』148〉といって就任した高橋は、拝謁を遠慮していた。
十年の夏になって、高橋は、健康を案じた久保秘書官らの手で「葉山の別荘に無理矢理に避暑させ」〈『大蔵大臣回顧録』(42年、大蔵財務協会)134〉られた。ちょうど天皇も葉山御用邸に滞在中で、「たびたび、遊びに来いというお招き」があったが、やはり遠慮して腰をあげなかった。まもなく、御用邸で閣僚が二班に分れて陪食に与ることになった。
第一班の内田信也鉄相が「高橋は、何分にも病中のこととてご遠慮申し上げております」と言上すると、天皇は、病状を「ねんごろにお尋ね」になり、「是非一度気易くして出てくれればいいのに」と、高橋が来ないのを残念がる様子だった。内田がこの天皇の言葉を伝えると、高橋は「感泣して」第二班に加わった。
「おゝ高橋、よく来てくれたね、身体はどうかい、よかったね」〈内田『風雪五十年』149〉
天皇は高橋の姿を見ると、心から嬉しそうに「あたかも慈父に対するかの如く、温情をこめていたわられた」。列席の閣僚一同、改めて高橋の信任の厚いことに感激したという。
十一月になって、「あの人のやることなら間違いないという国民の信頼」を背負った高橋蔵相は、十一年度予算編成で陸軍と対決して一歩も譲らない構えを見せた。高橋は、「国力を無視した国防の充実は防止せねばならぬ」〈津島『高橋翁のこと』259〉と公債限度を強調し、結局十一年度予算を二十二億七千八百万円と、前年度に比べて六千三百万円、三パーセント弱の増加に押え込んでしまう。陸軍の要求は、「無謀なバカバカしい要求」〈『昭和大蔵省外史』中127〉だと一蹴され、老高橋一人の堅塁を抜けなかった。
十一月三十日の朝、徹夜の予算閣議を終えて高橋が官邸を出る時には、財政研究会の記者一同が門前に整列して、「万歳の叫びと感激の喝采を送って」その努力に敬意を表したという。私邸に戻った高橋は、「靴ぬぎ石の上で、玄関に脚を上げようとしたが動かない。自分の手で脚を持ち上げてようやく玄関へ上がった」〈津島『高橋翁のこと』291〉ほど老躯に疲労の色が濃かった。
しかし、三度にわたるこの予算閣議で高橋が、「一体軍部は、アメリカとロシアの両面作戦をするつもりなのか……大体軍部は常識に欠けている……その常識を欠いた幹部が政治にまで|嘴 《くちばし》を入れるというのは言語道断、国家の災いというべきである」〈内田『風雪五十年』158〉と川島陸相を手きびしくやっつけたことは、自然と外に洩れて、「高橋翁をして二・二六の兇変に遭わしめた大きな原因」になった。
「自分は年をとるに従って、将来のことが非常に心配である」〈原田4─315〉
高橋蔵相は時折り訪れる原田に慨嘆していたが、高橋の心配した「妙な雲」は晴れるどころかその命まで奪ってしまった。――
西園寺は、降る雪に目をやりながら、老いた目をしばたたき、「高橋がやられたか」と何度か呟いていた。
この日(二十六日)の夕方、西園寺は知事官舎に移り、翌日午後、坐漁荘に戻った。
「どうせ死ぬなら居間で死ぬ方がよいから帰邸する」〈『警備沿革史』186〉
東京の情勢も一段落しており、西園寺は帰邸を急いだ。
二日にわたって西園寺に付きそった橋本警察部長(十五年に内務省警保局長に就任)は、のちに西園寺が死去したとき、宇垣に語った。
[#この行1字下げ] 橋本清吉氏、二・二六事件当時の西公の態度を語れり。冷静沈着、大局把握、情誼濃厚、流石にと感歎すべく自ら襟を正すべく、以て追憶の念切なるものあり。〈宇垣日記1435〉
二十六日朝、西園寺が坐漁荘を抜け出したころ、東京では原田が太った体で懸命にコンクリート塀をよじ登ろうとしていた。
原田が剣付鉄砲に驚いて家に戻ると、やがて「各方面から電話がかゝって来て」、避難するように勧められた。
「貴様の家は危険だから、とにかく先に逃げろ。本人さえいなければ家族は助かるのだから……」
といっても、家の前――三宅坂の交差点から赤坂見附に至る道路――には、所々に軽機関銃が据えられ、歩哨が立っていて、とても逃げ出せない。已むなく原田は、女中のふみと書生に尻押しを頼んで塀を乗り越えると、隣家の青地伊一方に逃げ込んだ。息子の青地次三、三郎両氏は語る。
「朝七時前でしたか、女中にお隣の旦那様がおいでです≠ニいって起こされました。見ると庭の戸が少し開いていて、原田さんが和服姿で立っておいででした。
暴動が起きたので、済まないがかくまってくれ≠ニいわれるんで、一番奥の部屋に案内しました。もし襲われたらと思って、畳を一枚あげて、床下に逃げ込めるように準備もしました。木戸さんから、五分か十分ごとに電話がかかってきて、原田さんもよっぴて電話を方々へかけていました。夜になって、西園寺公一さん(西園寺公の孫)がおいでになり、原田さんは君は雑誌などに凝って思想的に問題だ≠ネどと、やっつけていました。翌日、 西園寺八|郎《(注3)》さんが長靴をはいてやって来て、十一時ころ、チェーンを巻いたビュイックで興津に出立されました。困ったものだ、困ったものだ≠ニいって、冷静で落付いていましたが、時折、海軍に出動を要請することなどを電話で話し合っていました」
原田が青地邸の奥座敷のこたつにもぐり込み、近衛も永田町の本邸を抜け出て府立一中前の坂を下って赤坂の通りに回しておいた車で目白の別邸に避難を終えたころ、「灰の如きこまかき雪降り来り、見る/\中に積り」(永井荷風日記)はじめた。
この雪の中で、事件収拾の必死の試みが始まる――。
事件は、「尉官級の所謂皇道派に属する連中が画策し……彼等は真崎大将に望を嘱し後図は考えず、専ら第一段階の破壊に力を集中した」(木戸文書)ものである。第一師団の満州移駐発表(十年十二月)、相沢事件の公判開始などが彼等≠一層刺戟して決行に踏み切らせた。
したがって、軍部内の派閥の思惑が事件の収拾を複雑にすることになった。具体的には、「これによって単純に強力な軍部内閣ができると信じていた青年将校と、事件を利用して皇道派の復活を計ろうとした一部の勢力と、同じく事件を利用する点では一致するが皇道派の復活には絶対に反対し皇族内閣を作ろうともくろんだ一派の策動が相交錯」して、収拾を長びかせた。加えて、陸軍の「首脳部、幕僚陣の大多数は事件処理の方向すら判らず五里霧中にさまよっていた」〈高宮『順逆の昭和史』269〉。政府も、岡田首相を欠き(岡田の生存は二十六日午後宮中に伝わったが、政府や軍には秘密にされた)、さらに治安の最高責任者で、臨時首相代理に就任すべき後藤文夫内相が、内相官邸を約六十名の兵に占拠されたこともあって、「恐がって、友人の家を転々と逃げまわり」(木戸氏証言)、午後二時半にようやく参内する始末で、「宮城内に政治の中心を確立する」〈木戸文書272〉のが一層遅れた。要するに、「どこもてんやわんやと騒ぎ回るばかり」という状況だったのだ。
こんな混乱の中で、天皇だけは、決起した兵を暴徒≠ニ決めつけ、「速かに鎮圧せよ」と命じていた。
「自分としては、最も信頼せる股肱たる重臣および大将を殺害し、自分を、真綿にて首を締むるが如く、苦悩せしむるものにして、甚だ遺憾に堪えず、しかしてその行為たるや、憲法に違い、明治天皇の御勅諭にも|悖《もと》り、国体を汚し、その明徴を傷つくるものにして、深く之を憂慮す」〈本庄日記292〉
真夜中に靖国神社に参拝する≠ニいって部隊を緊急集合させて営門を出て、実弾を放って建物を占拠することは、まず統帥大権を私議することである。本庄武官長がいうように、「陛下の軍隊を勝手に動かせしものにして、統帥権を犯すの甚だしきものにして固より許すべからざるもの」〈同275〉である。さらに、斎藤内大臣、牧野前内大臣、鈴木侍従長、岡田首相、高橋蔵相といった「朕が手足たる重臣を悉く殺戮し、これらの老人に最も残虐なる仕打ちを為す」〈同237〉のは、天皇として「精神の如何を問わず甚だ不本意」〈木戸464〉である。「不祥事件」なのである。
この日、天皇は本庄武官長を「二、三十分毎に御召あり……鎮圧方督促あらせ……」、「陸軍当路の行動部隊に対する鎮圧の手段実施の進捗せざる」のを見てとると、強い不満を表明した。
「朕自ラ近衛師団ヲ率イ、此ガ鎮圧ニ当ラン」〈本庄日記276〉
いえ、決してさような御軫念には及びません、――本庄武官長は天皇から督促を受けるたびに「真に恐懼に耐えざる」様子で奉答し、顔を伏せたまま退下した。
一方、木戸はこの朝、参内して西園寺に連絡をとると、直ちに湯浅宮相、広幡侍従次長と協議した。内大臣と侍従長が倒されたから、内大臣秘書官長の木戸と広幡は、ひとまず代理という恰好だ。
「この際もっとも大事なことは、全力を反乱軍の鎮圧に集中することである。内閣は責任を感じて辞職を願出で来ると思われるが、若し之を容れて後継内閣の組織に着手することとなれば、反乱軍の首脳はもとより、反乱軍に同情する軍部内の分子は之を取引の具に供し、実質的には反乱軍の成功に帰することとなると思う。であるからこの際は陛下より反乱軍を速に鎮圧せよとの御諚を下されて、この一本で事態を収拾すべきであり、時局収拾のための暫定内閣という構想には絶対にご同意なき様に願い度い」〈木戸文書106〉
湯浅宮相がこの意見を上奏すると、天皇の「御考えも全く同じ」だった。「早く事件を終熄せしめ、禍を転じて福と為せ」〈本庄日記272〉――この天皇の方針に沿って、側近一同は「全員、広田内閣組閣完了に至る迄、各その事務室に宿泊」して、善後処置に没頭することにした。
天皇および側近のこの方針はむろん原田を通じて西園寺にも伝えられた。青地邸の奥座敷に身をひそめた原田が、「海軍の出動はないのか」と何度も口走ったのも、反乱軍を鎮圧するのがまず先決と考えたからだ。
海軍の出動――、斎藤内府、鈴木侍従長、岡田首相は、いずれも海軍大将を経た海軍の長老である。この三人を陸軍に倒された海軍は憤激した。まず横須賀から陸戦隊が急拠上京し、さらに土佐沖で演習中だった連合艦隊も、東京と大阪に急行した。第一艦隊の旗艦長門以下の約四十隻が東京湾御台場沖に到着したのが二十七日午後四時。各艦は横に一列に並んで砲門を一斉に東京市内に向け、強力な陸戦隊も上陸させた。必要なら反乱軍のたてこもる国会議事堂に砲撃を加える、「三発で吹き飛んだろう」〈阿川弘之『山本五十六』(48年、新潮文庫)上194〉――こんな海軍の毅然たる態度も事件の収拾に役立った。
二十六日――、タ方三時半近くになって小原法相が参内して、岡田首相と高橋蔵相を除く全閣僚がそろい、後藤内相が総理大臣臨時代理を拝命した。後藤が閣僚の辞表を取りまとめて捧呈すると、天皇は、まず時局安定に尽力せよと命じた。
「今回陸軍の惹起せる不祥事件は誠に遺憾に堪えず。暴徒は全力を挙げて之を鎮圧すべし。閣僚宜しく協力一致して時局の安定を計るべし。辞表は暫く預り置く」〈木戸文書274〉
この沙汰を受けて閣議は、川島陸相から出された戒厳令の一部適用を決めるのだが、秩序が回復するまで事務に励精すべしと天皇が現内閣に命じたことにより、反乱軍が要求していた「現内閣の即時瓦解」はもちろん、参謀本部の青年将校が申合せて進言した暫定内閣構想も消しとんでしまった。この夜、大角海相は湯浅宮相に話している。
「暫定内閣の首班には伏見宮又は東久邇宮を希望するものあり、また真崎大将と云えるものもあり、伏見宮に内大臣を御願いしては如何」〈木戸465〉
二十六日午後三時すぎ、陸軍大臣告示が決起部隊に伝えられた。「主として荒木、真崎両大将の意見により」〈「杉山参謀次長手記」―高宮『順逆の昭和史』所収―246〉出来上ったものである。
「一、蹶起の趣旨については天聴に達せられあり
二、諸子の行動は国体顕現の至情に基くものと認む……」
これでは反乱行為を是認することになる。反乱軍将校は踊りあがって、「わが事成れり」と喜んだ。
「叱ってはいかんぞ、穏やかに直ぐ帰れと説諭すべし」〈同247〉
真崎軍事参議官は、告示を伝えに行く山下奉文少将にこんな注意をする始末で、陸軍首脳は事件の収拾をめぐって混乱状態を続けていた。
同じこの日(二十六日)の午後、総理秘書官の迫水久常は参内して、湯浅宮相に、岡田の生存を告げた。いつもは悠々迫らざる湯浅もこの時ばかりはエッ≠ニ驚いて直ちに上奏したが、迫水が岡田の救出作戦を相談すると、「あちらの部屋……」と軍事参議官が集まっている東溜の間を指さして迫水に耳打ちした。
「あそこに来ている将軍達は、いったいどっちを向いているのかわからんぞ。非常に危険だからよく考えて見たまえ」〈岡田『回顧録』161〉
救出作戦がたたないので、岡田首相は首相官邸の女中部屋の押入れに隠れたままこの夜を過ごすことになった。
事件発生から十五時間を経た午後八時十五分、陸軍はようやく公式発表をした。
「本日午前五時ごろ一部青年将校等は左記個所を襲撃せり
[#2字下げ]首相官邸 岡田首相即死
[#2字下げ]斎藤内大臣私邸 内大臣即死
[#2字下げ]渡辺教育総監私邸 教育総監即死
[#2字下げ]……
これ等青年将校等の蹶起せる目的はその趣意書によれば、内外重大危急の際、元老、重臣、財閥、軍閥、官僚、政党等の国体破壊の元兇を芟除し、以て大義を正し国体を擁護、開顕せんとするにあり……」
決起部隊の主張を代弁して後押しをしているとも受け取れる声明である。しかも世論の反発を恐れて、高橋蔵相は「負傷」と報じられていた。陸軍が反乱軍≠ニいう言葉を使うのは二十八日の夜になってであり、それまでは蹶起部隊≠ニいっていた。
――あるいは彼ら(反乱軍)の希望しおるがごときことができるにあらざるか――堀丈夫第一師団長はそんな雰囲気を感じたという。
「吾人の行動を是認し、まさに維新に入らんとせり」
反乱軍の村中孝次(元陸軍大尉、士官学校事件で免官)もこう信じたというが、大臣告示といい、陸軍省発表といい、二十六日の「軍当局の態度は実に卑怯の二字につきる」といわれても仕方ない。「どちらに転んでもいい」という川島陸相らのあいまいな態度の結果でもある。夜になって、反乱軍は「西園寺公の即時逮捕」を要求した。
二十七日――
午前三時に戒厳令が施行された。「兵力を用いて警戒する必要がある場合」の非常措置である。天皇は、戒厳司令部の編成を上奏した杉山参謀次長に、「徹底的に始末せよ、戒厳令を悪用することなかれ」〈杉山手記249〉と指示した。反乱軍将校が望んだ「戒厳令による軍政府樹立」とは違う戒厳令である。天皇の強い姿勢が反映して、陸軍部内では次第に杉山参謀次長――石原莞爾大佐(参謀本部作戦課長)の武力鎮圧の線が明確になって来た。
反乱軍将校は、要望事項がひとつとして実現せず、しかも情勢が次第に不利になるのを察知して、午後二時ころ、「事態の収拾を真崎将軍にお願い申します」〈磯部浅一「行動記」―『ドキュメント昭和史』2巻所収―282〉と軍事参議官連に申し出た。
真崎大将――彼は二十六日の朝四時半に、「青年将校が兵を率いて重臣を暗殺云々」という知らせを、政友会の久原房之助に近い浪人・亀川哲也から聞いた。襲撃決行三十分前である。それから四時間近く、真崎は陸軍省にも憲兵隊にも連絡せずに自宅で過ごし、八時四十五分になって、反乱軍に占拠された陸相官邸にさっそうと姿を現わした。勲一等旭日大綬章の副章をぶらさげている。
「とうとうやったか、お前たちの心はヨオッわかっとる、ヨオッーわかっとる」〈同277〉
真崎は、有名なこの言葉を反乱軍の磯部浅一(元陸軍中尉、士官学校事件で免官)らに伝えると、官邸内に入った。磯部はこのとき、「落ついて/\、宜しい様に取計う」と真崎がいうのを聞いたという(磯部浅一憲兵聴取書)〈『現代史資料』23巻455〉。
真崎は、反乱軍将校に取り囲まれた川島陸相に会うと、「蹶起趣意書とか青年将校の要望事項の原稿とかいうものにも頷きながら目を通して」、川島に話しかけた。
「こうなったからは仕方がないじゃないか」
「ご尤もです」
「来るべきものが来たんじゃないか、大勢だぜ」
「私もそう思います」
「之で行こうじゃないか」
「それより外仕方ありませぬ」
「君は何時参内するか」
「も少し模様を見て」
「僕は参議官の方を色々説いて見よう」〈「山口一太郎予審調書」―『現代史資料』23巻所収―458〉
之で行く――つまり決起趣意書を了承し、要望事項を実現することであるが、要望事項といっても、「本事態を維新回天の方向に導くこと」という他には、「皇軍相撃つなからしむるよう」とか、宇垣、小磯、建川の逮捕、荒木大将を関東軍司令官に任命せよ、といったおよそ建設計画と無関係のことが列挙されているだけである。
陸相官邸を出た真崎は、伏見邸に行くと、待っていた加藤寛治海軍大将といっしょに拝謁した。この非常時に、陸軍の真崎が海軍の総長に面会するのも変である。
「事態がかくの如くなりましてはもはや臣下では収拾が出来ません、強力な内閣を作って大詔渙発により事態を収拾する様にして頂き度い、一刻も猶予すればそれ丈危険であります」〈「加藤寛治憲兵聴取書」―同23巻所収―461〉
真崎はこう上奏すると、伏見宮に付き随って参内、真崎内閣の実現をめざして画策し続ける。すでに西園寺のところには、貴族院議員の鵜沢総明博士(永田軍務局長を斬殺した相沢中佐の弁護人)を急行させて、真崎内閣の承認を得る手はずになっている。
鵜沢博士はこの日十時すぎに坐漁荘に到着し、留守を預る熊谷八十三執事に面会して、西園寺に伝達を依頼した。
「公爵は一日も早く上京、時局の収拾に当られたい。公爵の身には絶対に危険なし。首班の選定には公爵のお考えもあらむも、陸軍の方を治めるには柳川、真崎等に当らせれば可ならむ」〈『警備沿革史』186〉
しかし、この夜になって真崎は、「宮中で努力をして見たが、思う様に行かぬ」〈「満井佐吉憲兵聴取書」―『現代史資料』23巻459〉と嘆くようになる。天皇および側近の意向からいって、当然のことである。
[#この行1字下げ] 事変中にも片手にマッチを、他の手に消火器を持ち、放火と消火を兼業してその間に何かをせしめんとする曲者の横行しあるが如くに見えるは、誠に醜怪であり又不愉快である。純真無垢の青年将校を煽動教唆して事を起さしめ隠然之を保護し鎮撫するの態度に出でて其の間に名聞や地位を獲得せんとする怪物の現存するのは、断じて排除せねばならぬ。〈宇垣日記1049〉
宇垣朝鮮総督は真崎大将の心中を見抜いて苦り切っていたし、当時、海軍大学校の教官だった高木惣吉中佐も、「真崎、荒木の輩、さかんに暗躍して陸相もこれに引きずられつつある嫌いあり」〈高木惣吉『自伝的日本海軍始末記』(46年、光人社)112〉と二十七日の日記に認めた。これが海軍の代表的見方でもあったようだ。
こうして、二十七日午後、反乱軍が軍事参議官連に「真崎大将に事件の収拾を一任」と伝えたとき、真崎はすでに撤退を考えていた。
「戒厳命令は奉勅命令なり……早く引取るを可とせん」〈高宮『順逆の昭和史』250〉
真崎は、はっきりと反乱軍に背を向けた。
「真崎……にダニのごとく喰いついて、強迫、煽動、いかなる手段をとってもいいから、これと離れねばよかった」
磯部浅一はのちに獄中で口惜しがる――。
この日も天皇は、「数十分毎に武官長を召され行動部隊鎮圧に付ご督促」になり、武官長の拝謁は十三回に及んだ。本庄日記はいう。
[#この行1字下げ] 声涙共に下る御気色にて、早く鎮圧する様伝え呉れと仰せらる、真に断腸の想あり。〈本庄日記235〉
午後になって、岡田首相は弔問客に紛れて脱出に成功した(反乱軍は岡田の義弟の松尾大佐を射殺して岡田と信じ込んでいた)。目白の別邸で表札まで変えて身を潜めていた近衛も、この日午後三時にはじめて宮中に木戸を訪ねた。また、西園寺は午後三時三十分に坐漁荘に戻り、原田も、内田鉄相が回してくれたチェーン付きのビュイックに鉄道省の制服を着て乗り込んで小田原まで行き、そこから特急「富士」で坐漁荘に向かった。
二十八日――
午前五時に奉勅命令が下達された。天皇の直接の命令である。
「戒厳司令官は三宅坂附近を占拠しある将校以下を以て速に現姿勢を撤し各所属部隊の隷下に復せしむべし」
決起部隊はこのまま永田町一帯に留まるだけで、勅命に抗した逆賊になるということである。
ところが、この日一日、事態は変わらなかった。命令実施に当る戒厳司令官の香椎中将が反乱軍に同情的で、「自分は彼らの行動を必ずしも否認せざるものなり」といって、皇軍相撃回避≠理由に命令実施を拒んだからである。
「この機会に及びて平和解決の唯一の手段は、昭和維新断行のため御聖断を仰ぐにあり、自分は今より参内上奏せん」
「全然不同意なり」
杉山参謀次長は反対した。
「もはやこれ以上は軍紀維持上よりするも許しがたし。また、陛下に対し奉りこの機に及んで昭和維新断行の勅語を賜うべくお願いするは恐懼に堪えず。統帥部としては断じて不同意なり。奉勅命令に示されたる通り兵力にて討伐せよ」
杉山次長は、奉勅命令の允裁を仰いだ手前もあるし、それに省部の幹部の意見は、真崎大将の動きを非難し、討伐の方針に固まってきている。激しいやりとりのあと、香椎司令官は「数分にわたり沈思黙考の末」とうとう折れた。
「決心変更、討伐を断行せん」〈杉山手記254〉
香椎司令官のこの一言によって、二・二六事件は一気に終結に向かう。午後十一時、香椎司令官は討伐命令を下した。
「叛乱部隊は遂に大命に服せず、依って断乎武力を以て当面の治安を恢復せんとす」
攻撃開始、二十九日午前九時。
それでもまだ、反乱軍将校が信頼を寄せる川島陸相と山下奉文少将は本庄武官長を訪ねて、「特別のお慈悲をもって侍従武官の御差遣を賜い、彼らに死出の光栄をお与え下さるよう」にと涙ながらに懇願したりした。しかし、これを伝奏した本庄に、天皇はきびしかった。
「自殺するならば勝手に為すべく、此の如きものに勅使など、以ての外なり。師団長が積極的に出ずる能わずとするは、自らの責任を解せざるものなり」
天皇は「未だ嘗て拝せざる御気色にて厳責あらせられ」、本庄に厳命≠下す。
「直ちに鎮圧すべく厳達せよ」〈本庄日記278〉
翌二十九日、事件発生四日目にようやく反乱軍鎮圧が始まった。近衛師団、第一師団、宇都宮第十四師団、仙台第二師団など二万名以上の兵力が鎮圧軍として動員され、戦車を先頭に次第に反乱軍を追いつめた。反乱軍は抵抗することなく帰順し、午後になって最後に残った安藤隊も武装解除された。
二・二六事件――「真崎甚三郎の野心と重なりあった青年将校の維新運動」〈高橋正衛『二・二六事件』(40年、中公新書)175〉は、こうして幕を閉じた。村中孝次、磯部浅一の被免官者とともに事件の中心的存在だった十九名の決起将校のうち、野中四郎大尉と、牧野前内府を襲撃した河野寿大尉は自決し、残りは全員東京衛戌刑務所に収容された。この十七名はこの年の七月に死刑の判決を受けて、一週間後に刑を執行され、また重要証人として処刑を延ばされた村中、磯部も、翌年八月に北一輝、西田税とともに銃殺された。
「帝都|戌衛《じゆえい》の我ら同志は、まさに万里征途に上らんとして、しかも顧みて内の亡状憂心うたた禁ずる能わず。君側の奸臣軍賊を斬除して、彼の中枢を粉砕するは我らの任としてよくなすべし」〈高宮『順逆の昭和史』238〉
二・二六事件の青年将校はこういって決起した。彼らの所属する第一師団が春に満州へ移駐する前に「奸賊を滅」ぼすのが「臣子たる股肱たるの絶対道」だというのである。
半年前に永田軍務局長を斬った相沢中佐が、「永田を殺さずして台湾に赴任することは不忠であり、永田を殺して台湾に行くことこそ、忠義である」〈『現代史資料』23巻325〉と上告趣意書で述べているのと同じ論理である。相沢中佐は決行の日に密かに書き記したという。
「皇恩海より深し。然れども本朝のこと寸毫も罪悪なし」〈末松『私の昭和史』257〉
相沢中佐は本心からそう思っていたから、事件後も、「これから偕行社で買物をして、台湾に赴任する」〈高宮『順逆の昭和史』225〉と、平然と人々に語った。
相沢中佐と親交があり、二・二六事件で「叛乱者を利す」罪で禁錮四年の刑を受けた青森第五連隊の末松太平大尉は、革新運動に取り組む青年将校の一人として述懐する。
[#この行1字下げ] おびただしい貧窮に泣く農村青年を部下に持つ青年将校が、抽象的に軍人勅諭の忠節を信奉し、それを部下に向かって説くだけで、わがこと終れりと、澄ましておれるかどうか。
[#この行1字下げ] 尽忠報国の義務のみあって、その国に拠って生活する権利を保障されていない兵。その兵に代表される庶民にかわって、腐敗堕落の財界、政界、軍閥権力層に、革新の鉾先を向け反省を促すことは、軍人勅諭の忠節の具体的実践であるはず。〈末松『私の昭和史』260〉
末松は、「貧窮に泣く農村青年」の実例として、こんな話を記している。末松の青森第五連隊は、昭和六年十一月に満州に出征して、熱河作戦、長城以南作戦などを終えて、九年三月に帰還する。
[#この行1字下げ] ちょうどこのころは、出征兵士の郷里である青森県農村は、冷害による凶作にさいなまれていた……困窮のすえは常識では考えられない、ひどい手紙を出征兵士に送る親もいた。
[#この行1字下げ]お前は必ず死んで帰れ。生きて帰ったら承知しない。おれはお前の死んだあとの国から下がる金がほしいのだ
[#この行1字下げ] この手紙の受取り主は真面目な兵だったが、泣いてこの手紙を中隊長に差し出したのだった。……それから間もなく、この親の希望はかなえられた。次の討伐でこの兵は戦死したからである。しかもこのときただ一人の戦死者だった。〈同83〉
また、満州から戦死者の遺骨が送還され、「遺族のなかの誰かが遺骨を抱いて一歩衛門を出ると、きまってそこで親戚間で遺骨の争奪戦が、見栄も外聞もなくはじまる」。遺骨に下がる金が目当てである。
こんな悲惨な社会的背景があったから、二・二六事件発生のニュースが流れたとき、軍の中はもちろん、報道関係者や一般大衆にも、「こんどこそは維新に持ってゆかなければ嘘だ……と目をかがやかしていったもの」〈同259〉が目立ったという。占拠地域に出入りして、「よくやった。君らがやったら、僕らもやる」と反乱軍の兵士の手を握った軍人達、あるいは、反乱軍の本部になった料亭幸楽や山王ホテルに押しかけて、「お次は○○大尉殿にお願いしまぁす」〈高橋『二・二六事件』20〉と青年将校に演説を促がした市民、これらの中にはもちろん野次馬根性のものもあろうし、不純な動機のものもあったろうが、もうひとつ、若手検事さえもが集まって思わず口にしたように、「これで世の中もよくなるだろう」〈末松『私の昭和史』259〉という期待や共感があったのも事実である。
だからこそ、鎮圧が始まった二十九日の昼すぎ、首謀者の一人の安藤輝三大尉は、拳銃で自殺(未遂)する前に、部下の兵士に向かって暗然と呟いたのだろう。
「お前に叱られたことがあったなァ中隊長殿、いつ蹶起するのです、このままでは農村は救えません≠ニいってねェ。お前の心配していた農村もとうとう救えないなァ」
青年将校達は純粋な気持で、ここで決起することが農村をはじめとする当時の社会の困窮を救うことになると信じていた。しかし、「革命をめざし、社会改革を試みる主体の純粋なモラリズム」は、これに便乗し、利用しようとする勢力によって、およそ目標とはかけ離れた結果を生んでしまう。軍部ファシズム――二・二六事件以降のわが国はすべてこの一色で塗りつぶされていく。二・二六事件の持つ歴史的意味もこの点から問われなくてはならない。「この動機の純粋に対する結果責任はどうなのだ」〈同352〉と……。
一方の真崎大将は――
彼は、前年七月に教育総監を罷免された際には、その内情をこと細かに外部に洩らし、また、自宅に訪ねてきた相沢中佐に、「永田をどうしても処分せねばならぬ、ヤッツケねばならぬ」〈小川関治郎「二・二六事件秘史」―『現代史資料』23巻所収―602〉と教唆して、永田斬殺事件を見た。二・二六事件の朝には、勲一等旭日大綬章を吊って、青年将校の前に「ちょうど親分でもあるかのような不遜な態度であたりを睥睨して」〈同596〉姿を現わした。「まさに天下を取らんとする意気」である。そして参内すると、「オレはこんな事件が起きようとは前もって少しも知らなかった」〈高宮『順逆の昭和史』241〉と寺内寿一大将に弁解して見せたりもした――その彼も事件後には「叛乱者を利す」罪状で起訴された。収監中は軍でも気を使って特設監房を設けたが、真崎は「神経を尖らして、起居動作に変化を来たし、些々たることにも非常に|囂 《かまびす》しく、夜中など僅かな足音にまで怒鳴り付け……大将とまでなった人物としての精神修養の点に於て甚だ遺憾である」〈小川手記602〉と周囲を嘆かせた。取調べに当った小川法務官はのちに語ったという。
「真崎大将は、ぼくが調べているとき、死刑になると思ったのか、両手を合わせて、小川閣下、どうか命だけは助けてください、とぼくを伏しおがんだ。……これほど卑怯な軍人は見たことがなかった」〈中野雅夫『天皇と二・二六事件』(50年、講談社)243〉
真崎は、一年半後、近衛内閣のときに、無罪判決を受けた。「あんな奇妙な判決文はないよ。ひとつひとつ、真崎の罪状をあげている。そして、とってつけたように主文は無罪=Bあんなおかしな判決文はないよ」〈高橋『二・二六事件』203〉、戦後になって荒木貞夫大将はとぼけて見せる。しかし、真崎の無罪判決は、近衛首相が真崎に同情的な動きをしたことと、「荒木貞夫大将らから、ぼくら裁判官に強い圧迫があった」〈中野『天皇と二・二六事件』243〉からだと小川はいっている。
その後、真崎は三十一年に死去するまで、とかく弁解じみた言動が目立ち、「この態度をみては、真崎を信奉した青年将校が哀れで、気の毒でならない」と多くの軍人の憤激を買った。
「あてにもならぬ人の口を信じ、どうにもならぬ世の中で飛び出して見たのは愚かであった」〈『二・二六事件秘録』別巻(47年、小学館)54〉
処刑された青年将校の一人、竹島中尉の遺書の一節である。
二十八日に奉勅命令が下ったころから、側近――一木枢相、湯浅宮相、広幡侍従次長、木戸は、原田を通じて西園寺と連絡を取りながら、善後策の検討を始めた。一木枢相は二十六日の午後に、「なるべく側近に居る様に」と天皇からいわれて、内大臣室に泊まり込んでいる。「聖旨を拝して事実上、常侍輔弼の任に当る」――つまり内大臣の代行である。
まず、岡田内閣の後継を考えなくてはならない。また、死亡した斎藤内府と、重傷を負った鈴木侍従長の後任をどうするか。
二十八日の朝、木戸は「湯浅宮内大臣の命により」原田に電話で連絡した。
「内大臣がやられた後のことであり、或は近衛を内大臣にすることも多少考えておかねばならんから、含んでおいてくれ」
続いて木戸は宮中に近衛を呼び出し、湯浅宮相が内大臣就任を交渉した。
「こういう場合は臣下の何人がやって見ても、いろいろ疑惑を受け到底満足にやれないから、むしろ宮様にやっていただいて……」〈『近衛文麿』上320〉
近衛はこういいながら、健康を理由に拒絶した。原田の見るところでは、湯浅宮相が天皇に、近衛を内大臣にと「それとなく申上げたところが」、天皇は「内大臣には、外交、殊に国際関係に相当うん蓄のある者がいい」と、近衛の起用に消極的だったという。「陛下は(近衛の)多少右がかったことを懸念されたらしく……」〈原田5─15〉と原田は観測している。
内大臣就任を断わった近衛を待ち受けたのは、組閣を期待する声である。宮中からの帰途、車中で、厚地秘書が近衛に話しかけた。
「内大臣を辞した以上、どうしても組閣の大命が来る様に思われます。もしそれも拝辞すれば、非常時局の責任を分担せぬという非難が加えられるでしょうから、二、三カ月でも常態に復するまでやられるほかないのではありませんか」
せめて暫定内閣ぐらい担当したらどうかということだが、近衛はこれも拒否した。
「一度大命を拝して大任を受ければ、この時局を常態に戻す以上に、抱負経綸を充分に行う自信と決意がなければならぬが、自分にはそれがない。だから自分は到底やれないし、また健康も許さぬ」〈『近衛文麿』上321〉
この夜、原田は木戸に電話して、西園寺の意向を伝えた。
「内大臣に近衛公が健康上困難なりとすれば、現宮相を之に当てて、その後任を考えては如何、ロボットは此際不可なりとのご意見の様なり」
西園寺は、皇族を内大臣にするのに反対で、湯浅宮相を内大臣に任命するのがよいというのだが、実はご機嫌ななめだった。
内大臣――牧野伸顕が十一年近くつとめたあと、昨年末に斎藤前首相が就任した。斎藤なら、と西園寺は信頼していたし、それに西園寺自身が元老としての重要な任務――後継首班の推奏を内大臣に任せたいといっているほどで、常侍輔弼としての内大臣の役割は一段と重要になってきている。その人選を、いくら非常時だといっても、一木や湯浅が西園寺に相談なしに勝手に決めようとするのは、黙過できることではない。
また、西園寺は、「(近衛は)結局は内大臣にするにしても、その前に一遍どうしても総理大臣をやってからの方がいい」と考えている。一方、一木や湯浅にしてみれば、牧野が昨年末に辞めたとき近衛という声も有力であったから当然ここは近衛しかないと思い込んでしまったのだが、現内閣が辞表を捧呈している以上、事件が片付けばすぐ天皇から西園寺にお召しがあって後継首班について下問がある、そのときには近衛も有力な侯補の一人だ。
「あんまりわけがわからんから……」
西園寺はいささかおかんむりだった。
翌二十九日、西園寺の不興を知った一木、湯浅、広幡、木戸らの側近は、「一刻も早く後継内閣の銓衡に入るは人心安定上必要なることに意見一致し」、「後継内閣の問題は、西園寺公に御下問遊ばされます様に御願い致します、時期はなるべく早い方がお宜しかるべく……」と天皇をせき立てた。
「鎮定の後にても可なるべきや」
天皇は怪訝な面持で一木枢相に尋ねた。あと数時間待ってもよいではないか。
「今度の内閣の組織は中々難しいだろう、軍部の喜ぶ様なものでは財界が困るだろうし、そうかといって財界ばかりも考えておられないから……」
「非常に困難と存じますが、自ずから途はあろうと存じます、西園寺は必ず考えて居ることと存じます」
午後二時になって、「本庄武官長より、叛軍の大部分は帰順して殆ど平定したる旨を奏上すると」、待ち兼ねていた広幡は、天皇の聴許を得て、興津にいる原田に電話で伝えた。
「後継内閣組織につき御下問相成度思召につき上京出仕相成度し」
原田はすぐ西園寺に取り次いだが、西園寺は「年をとると子供に帰るのでね」などといいながら、まだ機嫌を損ねていた。
「腹をこわしているし、神経痛があって非常に不自由だから、出仕できない」
万事呑み込んでいる原田は、広幡に電話で、「西園寺公は御沙汰は拝承致しました、何分腰痛が御座いますので、暫く御猶予の程を御願い申し上げます」と返答するとともに、原田個人の「心付」としてこっそりつけ加えた。
「暫時猶予を願うは慎重を期する西園寺公の屡々用いる手段でして、願わくば健康恢復次第速かに出仕する様、なお一回御沙汰を拝し得れば好都合です」〈木戸文書277〉
広幡は天皇に拝謁して西園寺の奉答を伝奏し、加えて原田「心付」の御沙汰についても内許を得た。
「身体を大事にしてなるべく早く上京するように」
こうして三月二日、西園寺は上京して、後継内閣首班について下問を受けた。
巷間の下馬評では、宇垣、平沼、近衛の呼び声が高く、西園寺も、この三人の中から選ぶと予想された。
こんな事件がなければ、西園寺は宇垣を推すつもりだった。昨年五月にも、岡田が西園寺に、「いつ何時どんなことがあるかも判りませんから」後を考えてくれ、というと、西園寺は、「君は海軍の軍人で、弾丸に中って当然死ぬべき運命にあったんだから、死ぬまでやったらいいじゃないか」と軽く受け流したが、「宇垣よりほかに人がなかろう」と原田には話していた。
しかし、こんな大事件のあとだけに、西園寺も宇垣の起用は躊躇せざるを得ない。陸軍という「コップの中の争い」(木戸氏の表現)が、永田斬殺をはじめ次々と不祥事件を引き起したのだが、二十六日朝も、陸相官邸を占拠した反乱軍将校は、まず宇垣閥≠フ排除を要望している。
「兵馬の大権を干犯したる宇垣朝鮮総督、小磯中将、建川中将の即時逮捕」
反乱軍は鎮圧されたといえ、「彼らの心情は諒察する必要があるといきり立つ将校の集団が、陸軍省、参謀本部をはじめ、東京および関東各地に駐屯する部隊の中に会合をもち、その罪は非とするも、彼等を犬死に終らすな」〈矢次『昭和動乱私史』上187〉と気炎をあげている以上、西園寺も宇垣は断念せざるを得ない。
「後継内閣の首班には平沼がいい」
一木枢相は平沼を推した。近衛は出ないと勝手に思い込んだらしい。
「時局柄、中正なる人物としては近衛公を措いて他にありません」
木戸は近衛を推した。
秩父宮は、西園寺に随って上京した原田を呼んで、「後継内閣には河合(操、陸軍大将)、荒木等いずれも不可、平沼等も不可、真崎内閣等は絶対に不可なり」と伝え、天皇にも同じ主旨を上奏している。秩父宮の意見は、要するに皇道派につながるものは駄目ということだ。また木戸は、「陸軍の意中にある首相候補は近衛公、平沼男、山本英輔(海軍)大将」と岡部長景から聞いている。
平沼はもちろん、山本大将も加藤寛治大将と親しく、皇道派のシンパである。
「自分としては平沼を奏請することはできない。河合大将というような声もあるが、これもとてもだめだ」
西園寺は、「自分の良心の命ずるところに従って奏請する」つもりだから、真崎内閣に類するような内閣は考慮外だ。
「どうだろうか」
西園寺に聞かれて、原田も近衛を推した。
「近衛は健康について多少懸念もありますが、軍との関係は、真崎、荒木が世間からほとんど叛乱軍側の者であるように見られ、また部内における勢力もかねてのようなことはない今日、近衛が出ても、軍との関係において危険を感ずることは嘗てよりも少ないと思います」
皇道派が今度の事件で壊滅するだろうから、皇道派に近かった近衛が出てもいいという原田の意見である。しかし、そうであるからこそ、近衛は大命を拝辞することになる――。
三月四日の朝、西園寺は近衛を宮中に呼んだ。
「貴下を奏請しようと思う」
「自分はとても身体が三カ月もちません……」
近衛は固辞し、代りに平沼を推薦した。
「自分としては平沼を奏請するわけにはいかん。こういう際であるから多少のことは思い切って、受けるのが当然だ。自分は自分の信念によって奉答する」
西園寺は高飛車にいうと、一木、湯浅と打合せたうえ、近衛を後継首班に推挙した。天皇は近衛の健康を心配した。
「近衛の身体は大丈夫か」
「健康は必ずしも大丈夫とはいえないようです。しかし、この際は斃れて後已むの慨なくてはなりません。現下の大事に処する上には、已むを得ないと思います」
「近衛が内閣を組織するにあたっては、憲法の条章を遵守すること、外相と蔵相にはしっかりした軍部に引き摺られない人物を配することが必要なりと思う」
「近衛に伝えます」
午後四時、近衛はお召しで拝謁した。
「卿に内閣組織を命ず」
天皇は続けて、「是非とも……」〈原田5─14〉とつけ加えた。近衛が、健康を理由に内大臣就任を断わり、今また組閣も固辞していると聞いているので、心配したのだろう。近衛は、「このような御言葉に恐懼、暫く御猶予を乞うて退出したが、その時長い廊下を歩くのに足許がふらふらして、真直ぐに歩けなかった」〈『近衛文麿』上327〉という。しかし近衛は、一木枢相と木戸がさらに熱心に勧奨したが、「健康上到底その任に堪えざるところなり」と、組閣辞退の決心を変えなかった。
「万一再び大命を拝したらどうする」
木戸は大命再降下を匂わしたが、近衛は、「その際は、決心して栄爵を辞する外なし」と容易ならぬ決意を見せた。木戸も、「近衛という男は消極的には非常に強い男」だとよく承知している。その近衛がこういうんでは仕方がない。
近衛は「どうも困った。もう一遍西園寺さんに会いたいから」といって、大命拝辞の決意を西園寺に伝えた。
「遺憾ながら健康が許しませんので、悪しからず御諒承を願います」
「已むを得まい」
この非常時だけに大命なら近衛も受けるだろうと期待していた西園寺も、あきらめた。
五時三十五分、近衛は再び拝謁すると、「臣文麿元来病弱の身、到底この非常時を負担するの重責に当り得ざることを遺憾と致します」と大命拝辞の奉答をした。
「今度ぐらい困ったことはない」
近衛は、木戸と原田に「非常に真面目な態度で」告げると、帰っていった。
――近衛の性格や健康状態を熟知しているはずの木戸や原田が、なぜ近衛を推したのか。
木戸は、二カ月余り前に近衛から「健康につき打明けたる話」を聞き、「五十歳位迄は激職に就き難き事情」を承知している。さらについ数日前にも近衛を内大臣に据えようとして、近衛と「打割りて懇談の結果」、主治医の宮川博士から、「往年の病気以来年数も余り経ち居らず、万一新聞等にて攻撃せる場合、医師として差支なしと云う能わず」と報告を受けている。
「ああいう時には、近衛はテコでも動かんからねえ……」――木戸氏は語る。
「あのときは、表向きは主治医の宮川だったかな、それに診察してもらって、まだ早いと……彼はちょっと胸の疾患があるんだよ、だから陛下に|咫尺《しせき》するのはご遠慮しなくてはいかん、というような理窟でやめたよね。じゃ、そのまゝやらないかというと、その翌年にはもう総理大臣になっているんだ。
僕には、西園寺さんと意見が違っているから自分は引き受けられないというようなことは一言もいわない。身体がわるいのだからという。で、他のたとえば胃腸がわるいとか何とかいうんならいいけど、ちょっと胸の疾患だと陛下に咫尺してしょっちゅうということになると、考えなくてはならんからね、これは。実際、喀血したこともあるんだよ、非常に隠しているがね、先生は、そういっていた、自分でね。四十日位寝ていたこともあるんだよ。
しかし、僕はあの時、西園寺さんには近衛しかお答えできなかった。軍にも政党にも財界にもともかく受けがいいというんでは近衛がいちばんだったからねえ。近衛が断わって、それではじめて広田の名が出てきたんだ、ええ」
西園寺も近衛を呼んだ時に、「貴方は陸軍にも海軍にもよく、政界にも財界にも受けがよいので、貴方以外の何人にも時局の収拾はできない」と口説いている。しかし近衛は、「四方八方に受けがよいということは、実はどこにも真の支持者がないということで……」といって断わった。
「西園寺公には多年厄介になっていて、言うことを肯かなかったのだから、破門は覚悟だ」〈同325〉
近衛は嘆いたが、健康を持ち出したのは、やはり断わるための口実にすぎなかったようだ。
西園寺から組閣の話があったとき、近衛は宮川医師のところに厚地秘書を遣って、「もし宮内省から問い合せがあったら、あの健康では堪えられぬと答えて頂きたい」と頼んでいる。しかし宮川の方は近衛を首相にしたかったらしく、「心配はありませんよ、何なら自分の女婿をつけておいてもよい」〈同325〉と答えたという。
健康の問題はそれほど決定的な要因ではなかった。だからこそ、木戸も原田も西園寺から意見を聞かれたとき、近衛を推したのだろう。
では、なぜ近衛は組閣を断わったのか。
大命を辞退した近衛は、病気と称してしばらく寝込んでしまった。しかし彼は、訪れる人々に辞退の理由をいろいろと語った。
陸軍では、事件の責任をとって、西、植田、寺内を除く十期以上の大将全員を予備役に編入することにした。林前陸相、真崎、荒木、阿部信行、それに南関東軍司令官、川島陸相、本庄武官長が次々と退くのだが、三月十日に荒木大将が退官の挨拶で近衛邸を訪れると、近衛は寝室から起きてきて語った。
「自分は大命を受けても、もう陸軍に相談するような人がいない。それに私は病身で、五十までは持たないだろうと医者にいわれている……」〈荒木『風雲三十年』204〉
もう陸軍に相談するような人がいない――同じことを本庄武官長も耳にしている。
[#この行1字下げ] 近衛公爵はその後、昵懇なる某大将に対し、自分の首相を拝辞したるは、健康の事、固より大なる理由なるも、一には元老が案外時局を認識しあらざること、また一には、陸海軍両相の地位が、現下最も重大なるに拘わらず、現在その人を見出し得ざることが、重大原因なりと語れりと……〈本庄日記284〉
昵懇なる某大将というのは荒木のことで、荒木は皇道派に同情的な本庄に話したのだろう。近衛は「予てから小畑敏四郎中将を通じ、皇道派の将軍連とは相当昵懇にしていて、陸軍の内部情勢にも通暁している」〈高宮『順逆の昭和史』285〉。ところが、二・二六事件で「皇道派は一敗地にまみれて、総帥荒木、真崎の身辺も危ぶまれている」。もし近衛が首相になれば、「叛乱部隊によって恰かもその首領であるかの如く取扱われた」〈馬場恒吾『近衛内閣史論』(21年、高山書院)50〉真崎の処分問題にも触れなくてはならず、勢い、皇道派と統制派の争いに巻き込まれる。
「軍部をどうしたらよいか私には方策が樹たない。軍のことは荒木から聞いているが、荒木にどうすればよいかと聞いたが、荒木も成算ないと言った。荒木に成算がないのに、私一人でどうにも仕様がない」〈『近衛文麿』上329〉
近衛は政治評論家の岩淵辰雄に語ったというが、終戦後に自殺する少し前にもこのことに言及している。
「いわゆる対米英自重派、対支自重派たる皇道派が全員連座一掃せられ、今後その動向も寒心に堪えぬものがあったので、余は組閣の大命を拝したがこれに対する自信無しと園公に語り、表面は病気を理由として拝辞した次第である。しかし園公は、対外的にも対内的にも最も危険な皇道派が一掃せられ、折角粛軍の実が結ぶのにと極めて余の考えに不満の様子であった」〈近衛『失はれし政治』8〉
皇道派が壊滅状態に追い込まれたから組閣を辞退したというのだが、近衛は、西園寺との意見の違いも理由の一つに挙げている。
「余は宮中で二時間元老と対談したが、元老の時代に対する考え方は、依然として従来と変化はなかった。余が大命を拝辞したのは、健康その他種々の事情もあったが、又一面園公と考え方に相当距離ありと認めたからである」〈『近衛文麿』上225〉
時局に対する考え方に、近衛と西園寺で差があったのは事実である。しかしそれが原因で組閣を辞退したというのは、近衛の勝手な言い分に過ぎない。それでは、翌年になぜ近衛は組閣したのか説明がつかない。
「近衛は自分にだけ都合のよい事を言っているね」〈藤田尚徳『侍従長の回想』(36年、講談社)185〉
戦後、近衛が「死の寸前に令息に渡した所感」と「日米交渉の概略を記述した手記」に目を通した天皇は、「ただ一言」感想を洩らしたことがあった。二・二六事件のあと組閣の大命を拝辞して、元老と意見が違ったからとか健康に自信がなかったといろいろ弁解するのも、これと同じ感じが強い。
近衛は二・二六事件のあと、二十八日に内大臣就任を断わり、三月四日には組閣を辞退し、さらに七日には「一木枢相後任云々の噂あるも絶対に御断わりす」と枢密院議長就任も逃げている。しかもこの間、木戸に電話して、「もし内大臣に皇族を戴くが如き場合、自分も此際御奉公致し度故、御用掛にでもなりて御勤め致したし」〈木戸469〉と申し出ており、「御勤めができない、したくもないというわけではなかった」(木戸氏)。
事件の半年ほど後に近衛は、「最近の時務に関する感想、時論」を集めた『清談録』を出版した。その中で彼はいう。
[#この行1字下げ] 今日のような時代には、非常に強力な、力の政治家が必要である。その意味で、原さんの言ったことや行ったことは極端ではあるけれども、あれだけ信ずること堅く、意志の強い政治家が、今日、この様な時代になければならぬと感ずる。
近衛は原敬首相とは正反対の性格である。性格が弱い=i原田の評)、移り気=A信念がない=Aよく辞めるといった=i以上木戸)、新しもの食い=i重光葵)、勇気に欠ける=i藤田侍従長)、苦労が足りぬ=i若槻禮次郎)、いい加減な人=i岡田啓介)、少し面倒くさくなると寝込んでしまう=i梅津美治郎)、薄志弱行=i高木惣吉)などと、近衛の弱さを指摘する人は多い。この勇気と迫力に欠ける#゙が、二・二六事件のあとで原敬を評価する気持はよくわかるが、近衛は暗殺された原敬にはなり得ない。「一体に怖がりだし……」と原田もいう。
「内大臣が殺され、首相も襲撃された事件のあとだけにね、まあ近衛も危いことはお断わりだと思ったんだろうね」
木戸氏の話である。
もっとも、近衛のこの恐怖感は不思議でもなんでもないのかも知れない。なにしろ、末松大尉のいた青森第五連隊では、東奥日報の竹内記者のところに、ある代議士が来て、「君は五連隊の青年将校と仲がいいようだから頼む、おれを殺さないようにいってくれ」と泣きついたというし、また、市内の有名な金持が、「五連隊が襲撃してきたら、金はみな渡すから、命だけは助けてくれるよう君からいっておいてくれ」〈末松『私の昭和史』275〉と哀願したというほどだから、近衛にも決起した軍をおびえた目で眺める気持があって当然だろう。
一方、西園寺は、近衛が「お受けできません」と固辞するにもかかわらず、なぜ奏請したのか。近衛が辞退したあと、西園寺はその心中を広幡に洩らした。
「近衛公爵が健康上の理由により、あるいは拝辞することなきやはもとより疑惧したる所なるも、苟も事局の担当者として最も適任と信じながら万一の拝辞を予想して奉答せざるが如きは、大権の発動を私意によりて左右するの類にして、採ることを欲せざりしなり」
西園寺は、「近衛が受ける受けないは別だ」、元老としてスジを通したのだ、という。木戸はこれを聞いて、「いささか元老の心境を窺うに足るものあり」〈木戸文書280〉と深く頷いていた。しかし、西園寺に近衛に代る候補があったわけではない。
近衛が組閣の大命を拝辞して、「政局の前途は誠に暗澹たるものがあった」。三月四日の夕方、近衛が宮中を去ったあと、一木枢相、湯浅宮相、広幡侍従次長の三人は、食堂で夕食をともにした。みんなすっかり滅入った表情で「黙々として箸を動か」すばかりだ。事件発生以来一週間以上になるのに、まだ新内閣の目途がたたない。
いつもは寡黙な一木枢相が、なに気ない調子で口を開いた。
「広田さんはどうでしょうか。あの人ならソ連に大使としていって居たから、ソ連との関係もうまくやっていけるのではないかと思うが……」〈同106〉
外相の広田弘毅ではどうかというのだ。二・二六事件で決起した青年将校は、「今度満州に駐屯すれば、その駐屯期間中にソ連と戦争状態となることは必至と考えられる、然るに我方の装備はソ連に比べて格段の劣勢で……政治家・財閥が私利私欲に耽り、軍備に必要とする経費を出さなかった為である、我々は満州に赴くに先立ち彼等を粛清する」〈同103〉と、対ソ戦備の立ち遅れに強い焦躁感を持った。とすれば、「ソ連との談合調整に当り充分なる成果を期待し得る人物を起用する」のは、彼等青年将校の危機意識に応えることになる。
「それはいいかも知れませんね」
湯浅宮相は木戸を呼ぶと、「一木枢相の思い付きだが、広田外相はどうでしょうか」と相談した。木戸は、内大臣候補の松平恒雄駐英大使を西園寺のところへ連れていって、就任を口説いて戻ってきたところだ。
「それはたしかに一案です」
「あなたもそう思われるなら、あなたから一つ元老にお話して御意向を伺ってくれませんか」〈同106〉
午後八時二十分、木戸は再び西園寺の部屋へ行った。西園寺にも異存はない。
「広田が御受けするだろうか」
「近衛公に頼んで極力尽力させて見たいと思います」
木戸は近衛に電話で伝えた。
「君が御断りしたので時局の収拾は真に困難を極めて居る。君がもし広田に賛成なら罪滅しと思って本人が承諾する様あらゆる手段を尽して呉れないか」
近衛も「甚だ恐懼している時であるから」、「一つ奮発しよう」と乗り出さざるを得ない。続いて原田が近衛に電話をかけた。
「吉田大使を以て広田の内意を確かめてみろ」
吉田茂元駐伊大使と広田外相は、外務省の同期入省組だ。それに、吉田の岳父は牧野前内府だから、近衛や原田とも親しいつき合いがある。
真夜中近くに、近衛は吉田を自宅に招いて、広田の説得を依頼した。吉田は快諾してすぐ広田の家へ赴いた。この夜から翌日午後まで、吉田、近衛、原田、木戸らはほとんど不眠不休で広田の説得とその連絡にかかりきった。
午前二時、吉田の報告を受けて近衛は原田と木戸に電話で伝えた。
「広田は、元老重臣一致の御援助を得るならば御引受けしようという意向のようだ」
これなら広田で行けそうだ、原田がホッとしていると、午前四時に再び近衛から電話がかかってきた。
「朝十時に目白の別邸で、広田と吉田と自分とで会うことになった」
夜が明けると、近衛は押しかけた新聞記者に、「この時局には体力の続く実力ある人が出るべきで、ロボットでなく、また単に各方面に気受けがよいというだけでなく、自分自身で中心になって難局を乗切る人が必要だ。……私に大命再降下はないと思う」と語ると、自邸を出て目白に向かった。広田と吉田も近衛の手配で、密かに目白別邸に入った。
近衛は、広田、吉田と鼎座して、改めて広田を口説いた。せっかちな原田からは、ひっきりなしに電話がかかる。十一時半、近衛は原田に伝えた。
「広田外務大臣は、もし大命が降れば、お受けする決心だ」
昼食のあと、三人は組閣の具体的検討を始めた。外相吉田茂はまず決まりだ。政友、民政両党から二名ずつ入閣させることにして、政友会は前田米蔵(政友会顧問)か中島知久平(同)、民政党は川崎卓吉(幹事長、文相)を予定する……。
近衛、広田、吉田の三人がこんな打合せをしていると、一時半頃に松平恒雄が目白に来た。松平は、内大臣就任をまだ躊躇しており、近衛と話したあと、組閣打合せの席に加わった。
「広田氏が大命を拝したる今日、自分が内府となるは如何かと思う、湯浅氏を内府とし、宮内大臣なれば御引受けしてもよい」
たしかに、首相と内大臣を外務省出身者で独占すると陸軍との関係で摩擦を生じるかも知れない。そうでなくても陸軍は、外務省を目の敵にして、害務省≠ニか皆無省≠ネどと、ことさら侮蔑、軽視する態度をとっている。のちに陸軍は、外務省から、通商局と商務官任命権を取り上げて「貿易省」として独立させようとし、対中国政策に関する部門も「興亜院」として分離して「大東亜省」に発展させるなど、一貫して外務省の権限の縮小をねらうのだが、それはともかくとして、事件のあとだけに松平の意見も一理ある。
午後二時半、松平は近衛邸を出ると宮中に向かい、木戸に、「宮内大臣なれば御引受けしてもよい」と返答した。内大臣には湯浅現宮相が横すべりするということである。続いて三時頃、広田と吉田も近衛邸を出て外務省に戻った。
この間に、西園寺は川島陸相、大角海相を呼んで軍部の意向を質したが、両相とも広田に別段異論はなさそうだった。
三時五十一分、広田は参内して組閣の大命を受けた。三月五日、「結局この日一日に、後継首班と内大臣の人選が確定した」。事件発生九日目である。
「これで安心どすな」
西園寺は翌六日の朝、隣の部屋で朝食中の原田と木戸に話しかけた。西園寺が宮中に滞在中、木戸は毎朝七時半に西園寺の隣の原田の部屋に来て、打合せをしながら一緒に朝食をすることにしている。
「一木枢相のあとは近衛でもよろしいな」
西園寺はこんなことをいいながら、四日振りに宮中を出ると、麻布市兵衛町の住友別邸に移った。
ところが――
広田の組閣は、意外に難航した。
[#この行1字下げ] 西園寺公の首相後任推挙の手筋は、斎、岡両氏の時と大体に於ては同様である。柔克制[#レ]剛、時局の紛糾を時の解決に待つ底のものにして、快刀乱麻的に時局を匡救すべきの意向は乏しい……〈宇垣日記1050〉
宇垣の感想である。ところが陸軍は、広田に斎、岡両氏≠ニ同じような行き方を許さなかった。軍部内の統制派、あるいは参謀本部の石原大佐、軍務局の武藤軍務課員を中心とする幕僚は、この事件を機に皇道派を潰滅させるとともに、他方ではこれら青年将校の要望を利用して、現状維持の穏健勢力を放逐する態度に出た。
大命を受けた広田は、五日の夕刻から外相候補の吉田茂を組閣参謀に、川崎文相と小原法相の留任、海相永野修身大将、陸相寺内寿一大将、内閣書記官長藤沼庄平など、手際よく閣僚の銓衡を進め、六日早暁には大体の顔ぶれを内定した。
ところが、六日午後二時四十分、陸相就任を内諾したはずの寺内大将が組閣本部に来て、入閣辞退を広田に申し出た。
「軍部は広田氏の対時局認識につき疑義を有する故に、その組閣方針に同調し難い」〈『広田弘毅』(41年、伝記刊行会)178〉
驚いた広田は懸命に懇請したが、寺内は陸軍省に戻ると、談話の形式で陸軍の要求を公表した。
「新内閣は……依然として自由主義的色彩を帯び、現状維持又は消極政策により妥協退嬰を事とする如きものであってはならない。積極政策により国政を刷新することは、全軍一致の要望であって、妥協退嬰は時局を収拾する所以に非ず……」〈原田5─351〉
寺内のいうのは、軍を主軸とする国防国家体制の確立を急げということである。続いて軍務局高級課員の武藤章中佐が、陸相代理の資格で組閣本部に乗り込んで、具体的な注文を出した。
「政党に金を注ぎ込んだから中島知久平はいかん」、「朝日の下村宏はいかん」、「政党出身の川崎卓吉の内相もいけない」、「小原法相の再任は、美濃部を起訴猶予にしたから反対する」、「吉田茂は重臣の女婿だからいかん」――
これでは組閣の目途がたたなくなる。天皇も心配して、本圧武官長に注意を与えた。
「組閣に対する軍部の要求の過酷なるにあらずや」〈本庄日記285〉
今までも組閣に際して陸軍が注文をつけたことはあった。しかし、組閣本部に幕僚が乗り込んで、内定している閣僚を排撃するのは、これが初めてである。しかもその武藤中佐にいわせると、「下村や吉田は個人的に知っているわけでなく、単なる思いつきで引き合いに出したにすぎない」〈大谷『昭和憲兵史』240〉という。「革新性に乏しい陣容だった(から)……どうしても清新溌剌な強力内閣でなければ困る」と考えたので手当り次第に文句をつけたというのだが、広田が、そんな武藤の無理難題をおとなしく容れて、なにがなんでも組閣を終えようとしたことが、二・二六事件の歴史的位置づけを決めていくことになった――。
すでに十日以上も政治的空白が続いている。これはもちろん大問題で、「忍べるだけ忍んで一日も速かに組閣を完了し、もって時局を安定させる」のが、広田に課せられた任務である。
「広田氏は組閣の完成で、御奉公は十分、出来ただけでよい」〈『広田弘毅』188〉
広田の先輩の小幡酉吉(元駐独大使、貴族院議員)もいったように、組閣の途中で簡単に投げ出すわけにいかない。
しかし、二・二六事件は軍が引き起こした不祥事件、集団殺人を伴なった反乱行為である。政府と側近の重臣が殺され、この行為に対して天皇をはじめ心ある人々は憤慨し、日本の将来に強い不安を抱いた。
[#この行1字下げ] 二・二六事件は、陸軍の政治干与を押える最大のチャンスではなかったか。あのとき若い将校連中が、軍紀を乱し、兵隊まで率いて反乱を起したのは、もはや軍の暴力的傾向がこんなにまでなったかという感じを与えたが、同時に国民の心に軍の横暴に対する反感がかなり強くわき上がった。それをつかめばよかったんだ。横暴な連中自身もやってしまったあとで、ハッとした様子があったし、その機を逃さずに、国民の常識を足場にして強い政治をやり、軍を押えつけてしまう、ごくいい潮どきだったと思うが、軍にさからうとまた血を見るという恐怖のほうが強くなって、ますます思いどおりのことをされるようになってしまった。〈岡田『回顧録』190〉
九死に一生を得た岡田首相の悔恨の言葉だが、事件後にいち早く開き直って攻勢に出た陸軍側は、やすやすと政治、外交を牛耳る体制をつくってしまった。この意味で、二・二六事件は、軍が政治を左右する決定的な契機として位置づけられることになる――。
三月八日、組閣準備をはじめて四日目になるのに、広田内閣はまだ成立しなかった。この日の午後、寺内大将は、海相に就任を予定されている永野修身大将と連れ立って組閣本部に顔を出した。すでに閣僚候補からは吉田茂や小原法相が抜けて、ほぼ陸軍の要求する顔ぶれになっている。ここで寺内大将は、非常時局打破の国策樹立に関する要望を提出した。
対外政策として、東亜に於ける帝国の指導権の確立、ソ連の極東に対する進出を断念させること、中国を欧米依存より脱却させ、対日反満の態度を親日に転向させること、また対内政策として、軍備の充実、国民生活の安定、国体明徴、経済機構の統制、情報宣伝の統制強化を進めること、……こんな項目を寺内は読み上げた。広田は同意した。寺内はさらに、十二年度から二十年度まで陸軍予算として八億円を支出せよと要求し、これに対して広田は、海軍予算やそれ以外の全般的な国防要費もあることだから直ちに同意はできないが、「軍備の充実については努力す」と返答した。これで陸軍の要求はすべて呑んだはずだ。
「これでよろしいでしょうな」
広田が、こう「一言せんとする刹那、真に一呼吸の間、寺内大将が、一寸≠ニ言うて座を立ち、別室に居る軍務局員(武藤中佐)と三十分ばかり」話し合ってから、戻ってきた。
「矢張り政党よりの入閣者は一名でなくては組閣は承知出来ぬ」〈藤沼『私の一生』217〉
これではすべて振り出しに戻ってしまう。広田にとっても、「両政党に対し二名と約束せし関係あり、議会を無視し能わざること故、今日となりては到底応じ得ず」〈木戸476〉という最後の一線である。陸軍がこの条件を撤回しなければ、もはや「組閣の見込みなし」と投げ出すしかない。
この夜、広田は東郷茂徳欧亜局長を新任の湯浅内府のもとへ遣わして、事態を報告させた。
「辞退の外なきに立ち至るやも知れず」
真夜中だったが湯浅は木戸を起こし、木戸は原田に連絡をとった。もし広田が組閣できなければ、「一旦宮内省から住友別邸に引揚げた元老も再び宮内省に来なければならん」ことになる。原田は最悪の事態も覚悟した。
しかし――
ちょうど木戸が原田に電話をかけたころ、組閣本部では、書記官長候補の藤沼庄平(元警視総監)が広田と打合せて、寺内に最後の通告をしていた。
「組閣遂に成らず、軍部これを阻止すると明日の新聞に発表しますから、どうか御承知願います」
こう開き直られては、事件後の世間の冷たい目や天皇の憤りを考えると、寺内も無理押しはできない。
「君、一寸待ってくれ」
またも武藤中佐らの意見を聞いた寺内は、まもなく返事を寄こした。
「いまから特使に持たせてやる一文に賛成してくれるなら、明日の組閣に同意する」〈『広田弘毅』181〉
夜中の一時半に武藤中佐が持ってきた声明文は、「要するに軍部は悪くない、政治が悪い、庶政の改革をしろ、政党は出直せ、反乱は已むを得んという趣旨」の勝手放題を羅列したものだった。広田はちょっと手を入れて、寺内にとどけさせ、ようやく組閣の目途をつけた。
三月九日午後七時二十分、広田は参内して閣僚名簿を捧呈した。天皇は、広田が兼任する外相(四月二日に有田八郎駐華大使が就任)と、潮内相兼任の文相を将来どうするか質したあと、施政について三カ条の沙汰をした。
一、憲法の条章を遵守すること
一、国際関係に於て無理をせざること
一、財界に不安を与えざる様注意すること
次いで親任式があり、広田内閣はようやく成立した。
「かくて多難なりし新内閣の成立を見るに至り、十三日振りに初めて帰宅す。九時半なり」〈木戸477〉
木戸も、ホッと胸を撫で下したが、ただ一人、事件以来きびしい目を陸軍に向けていた天皇は、陸軍に事件の責任を追及し、統制を回復させることを考えていた。
翌十日、天皇は寺内陸相に、今まで前例のない「御叱りの勅語」を下賜した。
「近来、陸軍に於て、屡々不祥なる事件を繰り返し、遂に今回の如き大事を惹き起すに至りたるは、実に勅諭に違背し、我国の歴史を汚すものにして、憂慮に堪えぬ所である。就ては、深く之が原因を探究し、此際部内の禍根を一掃し、将士相一致して、各々其本務に専心し、再び斯る失態なきを期せよ」〈本庄日記292〉
天皇は、五・一五から二・二六事件に至る陸軍の姿勢を、きびしく叱っている。天皇の激しい怒りに触れて寺内陸相が叩頭していると、天皇は言葉を継いだ。
「この趣旨を克く部下に徹底する様にせよ」
この勅語は、実は本庄武官長の発案によるものだった。本庄は、事件発生とともに、天皇がしばしば「殆んど涙を以て」、「陸軍は自分の頸を真綿で締めるのか」と嘆き、「早く鎮圧せよ」と繰返す姿に接して、事件に結着をつけるには「御叱りの勅語」が必要だと痛感していた。
「事件一段落を告げ、陸相の御詫び奏上の際、同相へ御|戒飭《かいちよく》の御言葉を賜わり可然し」
本庄が内奏すると、天皇は、「余り強きに失しては、復た内大臣を恨むに至る虞あるが」と心配しながらも、それを容れた。
天皇の「御叱りの勅語」を、その場に侍立した本庄は、深く頭を垂れ身をすぼめて聞いた。自分に対する叱責と本庄は聞いたのだろう。この日の仕事を最後に、三月二十三日、本庄武官長は、「女婿山口大尉が事変に加担せし」責任をとって辞任し、後任には宇佐美興屋陸軍中将が就任する。
本庄武官長と同じく一木枢相も、広田内閣の成立を見とどけてから、辞意を申し出た。二年前に平沼を抑えて議長に就任したことから右翼の反感を買い、天皇機関説問題で攻撃の矢面に立たされたこと……そんな事情からも一木の辞任はやむを得ないと考えられたが、後任をどうするか。西園寺はまたも平沼を排除して、近衛を据えようと考えたようだ。しかし、近衛は、「絶対に御断わりす」と固辞している。木戸も、近衛が議長になって副議長の平沼と関係が深まるのは好ましくないという意見だ。近衛がだめなら、平沼副議長の昇格が順当なところである。
三月十一日の昼、西園寺は、住友別邸に近衛と木戸を呼んで、原田や西園寺八郎も交えて、「時局収拾の思い出談等に時を過」ごした。この席で木戸は原田に、湯浅内大臣から依頼だが、平沼昇格について西園寺の意向を打診してくれ、と耳打ちした。
今まで一歩も譲らなかった西園寺も、平沼以外に候補者がいないのでは致し方ない。それに広田新首相も平沼を推していると原田が報告すると、「それなら広田君の顔を立てるかな」〈平沼騏一郎『回顧録』(30年、編纂委員会)90〉とあきらめた。
「しかし、あらかじめ国本社との関係は断ち切るように、内大臣から平沼に注意させろ」
天皇も、「昇格とすれば国本社等の関係は整理せざるべからずとの思召」だという。原田はその夜のうちに西園寺の注意を湯浅内府に伝えた。
翌十二日の朝、湯浅が平沼に会うと、平沼は万事を承知していて、自発的に「諸種の関係を断ち専念本務に精励す」〈『広田弘毅』200〉と申し出た。
平沼は十三日に枢密院議長に就任し、いわゆる重臣の一人として後継内閣首班の相談にも与ることになった。
平沼と陸軍の関係は、荒木など皇道派につながっている。しかし、事件の結果、「真崎、荒木の輩が口を出す様のことは今後断じて最早や無之かるべし」〈小山完吾日記134〉と西園寺八郎が断定するほど、皇道派は力を失っている。しかも、粛軍人事が徹底的に始められており、事件の首謀者たちの裁判も、緊急勅令により開設された特別軍事法廷で、非公開、弁護人なし、一審制という異常な迅速さで進められようとしている。こんな軍の姿勢に、「国家主義者は強烈な衝撃を受け、彼らは以後武装蜂起やクーデター主義を完全に断念せざるを得ない」状況にある。
とすれば、平沼の影響力も今や問題にするほどのこともないし、責任ある地位につけば勝手なこともできまい、むしろここで平沼を取り込むことも一つの政治的判断だ、と西園寺は考えたのだろう。
しかし、平沼については、西園寺をはじめ側近は一様に悪印象を抱いている。「非常にずるい男だ」と西園寺はいうし、湯浅内府に至っては、「国を誤まる第一線の政治家」〈『湯浅倉平』(44年、伝記刊行会)353〉の一人として平沼をあげているほどだ。公平な天皇でさえ、「平沼は利己的だね」というくらいだから、平沼の枢密院議長昇格は、西園寺の意に沿うことではなかった。
三月十二日、平沼の議長就任の前日に西園寺は住友別邸を発って、十日振りに興津に戻った。事件の発生といい、近衛の臆病な振舞い、陸軍の組閣干渉など、すべてが八十六歳の西園寺の老体にはきつかったようだ。苦難の末に成立した広田内閣の先行きも、決して明るくない。坐漁荘に帰りついた西園寺は、途方もない絶望感、疲労感に打ちひしがれていた。
[#改ページ]
第七章 今の陛下は御不幸なお方だ
――広田内閣と林内閣――
広田内閣の成立を見とどけて興津に帰った西園寺は、訪問客もほとんど断わって、ひっそりと毎日を過ごした。
朝七時ころに起き、ひげを自分で剃ってから洋間で新聞に一通り目を通し、八時すぎに粥食の朝食をとる。それから昼まで、政府からの報告に目を通したり、手紙を書いたり、読書をして過ごす。来客にもこの時間に会うが、事件後は、原田、中川の両秘書と、主治医の勝沼、三浦両博士のほかは、近衛や木戸が忘れたころに訪れるだけである。
昼食は、ラジオのニュースに耳を傾けながら軽い洋食、午睡のあと三時ころから夕方までまた読書に耽る。フランスの原書が多く、「政治、現代思想、ロシア研究、ヨーロッパ事情、伝記」など、大使館から送られて来たり、原田が丸善を通じて取り寄せている。外務省から届く外交文書にも丹念に目を通す。トランプの独り遊びに興じるのもこの時間だ。
夕食は熱かんの日本酒に日本料理。夜九時四十分のニュースを聴いて、十時ごろ就寝――熊谷執事と三人の女中が仕えているが、身内もいない寂しい生活である。
五月四日、湯浅内大臣が内大臣就任の挨拶に坐漁荘を訪れた。事件後、西園寺が政府や宮中の要人を坐漁荘に迎えるのは、これが初めてだ。海に臨んだいつものベランダで、西園寺は九時二十分から十一時まで、ゆっくりと湯浅の話に耳を傾け、自らも語った。
「自分は明治、大正、今上三陛下に仕えて来た。申し上げにくいことだが、考えてみると、今の陛下は御不幸なお方だ……」〈同353〉
西園寺の声がふと跡絶えた。両眼から涙が溢れている。湯浅は驚きながら居ずまいを正した。
「陛下は一番ご聡明な方と思うが、残念なことに最近は有力な政治家――原、井上、浜口、犬養とみんな殺されてしまい、陛下の側近に人無しの格好になっている。本当にお気の毒だ」
警視総監を経験した硬骨漢の湯浅の眼からも涙がこぼれ落ちた。
広田首相や近衛では、国を託す気になれない――西園寺はそう思っているのだろうか。
湯浅から一部始終を伝え聞いた原田も、しきりと目頭を拭ったが、この十月には米寿を迎え、上京も意のままにならない老人が、後継首班推奏の重責を負いながら、日本の現状に絶望する姿は、原田ならずとも暗然とさせられる。
木戸は、二・二六事件の後始末が一段落するのをまって、六月十三日に内大臣秘書官長を辞任、松平康昌(侯爵、貴族院議員)と交代し、宗秩寮総裁専任になった。宗秩寮は、宮内大臣の下で、皇族と華族に関する直接の業務を担当する機関で、木戸は三年前から、「華族制度の改正、皇族の問題等将来の方針」を検討するため、総裁を兼任していた。
七月四日、木戸が退官挨拶のため原田と一緒に西園寺を訪問すると、西園寺は、またも「人物がいない」と嘆きながら話した。
「近ごろつくづくそう思う、種々やって見たけれど、結局人民の程度しかいかないものだね……」
続けて西園寺は明治の功臣たちに話を転じて、「あなたのお祖父さん(木戸孝允)等に只一つ感謝することは、あの変革の際、国教を定めよとの論が随分強かったが、それを押し切って今日のように信教の自由を確立されたことだ」と懐旧談を試みるのだった。
西園寺が「人がいない」というのは、近衛が「今日のような時代には、非常に強力な、力の政治家が必要である」といったのと同じ意味だったのか。……いや、西園寺はこの方向をも否定していた。
「斎藤も岡田もいずれもぐず/\やっておるといわれた。広田もやはりそう言われるだろうが、そういう革新派の連中がかれこれ言うんなら、そんなら一つ軍部と喧嘩までしてやる気があるかといえば、それだけの気力のある者はいない。喧嘩する気でやる内閣が出なければ結局駄目だろうが、今はそういうものはとても出来ない。結局喧嘩すれば憲法なんか飛んで行ってしまう。今でも半分ぐらい飛んでいるんだから、何といわれても、まあゆっくりだん/\にやって行くより致し方あるまい」
ゆっくりだんだんにやって行く――、たしかにこの方向しか西園寺は考えられなかったのだろう。政党の沈滞と陸軍の強力な発言力を考慮すれば、「それ自体の安定性と強靱性とを具える中間的内閣」を望むしかないし、近衛のいう「強力な、力の政治家」など探そうにもどこにも見当らない。
近衛は、大命拝辞から五カ月ほどして、七月末に御殿場に避暑中の西園寺を訪ねた。
――どうしても広田に何か一つやってもらわないと困る。内閣官制の改革をやって、行政長官と国務大官とを分けてしまう、議員は行政官になることはできない……。それから、どうも外務省もただ英米にばかり気がねしておるようだが、もう日本は日本で独自の立場で行ったっていゝじゃないか――
これは寺内陸相が原田に話したことだが、「ちょうど寺内の言うようなことを近衛も」西園寺に申し立てた。翌週、西園寺は原田を前にして大いに嘆いた。
「どうも近衛も、真崎や荒木を弁護してみたり……、自分の本来の考えであるのか、言わせられておるのか、或は恐怖心からそういう風に言っておるのか、そういう風に言った方がこの時勢には自分の立場がいゝと思って言っておるのか、判らない。あゝいう人物であゝいう家柄に生れて実に惜しいことだと思う。なんとか近衛をもう少し地道に導く方法はないだろうか」
「公爵が無理に言われてもなか/\ききもしまいし、やっぱり陛下あたりがもう少し自重しろ≠ニいう簡単なお言葉でも賜わったら、と思います」
原田が答えると、「それはいゝじゃないか」と西園寺は大乗気で、「要するに明治天皇の欽定憲法に添うような空気をつくってもらいたい、というようなお話をごく座談的におっしゃることが適当ではないか。とにかく木戸にも宮内大臣にもよく話してみたらどうか」と指示した。この話は、八月になって、湯浅内大臣から葉山で静養中の天皇に伝えられ、天皇も賛成だった。
「自分の所に来てくれるといゝ。自分より歳は上だしするから、かれこれ自分から具体的にこうしろとか、あゝしろとかいうことはどうかと思うが、ただ責任の地位に立ってみると、なか/\はたで批評するようなわけには行かない、批評はたやすいが、責任の地位に立って実行することになるとなか/\難しい、ということぐらいなら話もできよう」〈原田5─152〉
近衛には、天皇でさえ遠慮するところがあるようだ。しかし、西園寺や天皇にとって大事な人≠ナある近衛は、「右翼に対しては非常に怖がって」(原田評)、「性格的にあっちにもこっちにもぶら/\する」(西園寺評)ばかりで、所詮は「木戸、大久保、伊藤、あるいは加藤高明、やや落ちるが原敬など」にはなり得なかった。
近衛を自重させようと西園寺などが苦心していたころ、宇垣が朝鮮総督を南次郎大将に譲って、八月に帰国した。気の毒なことに宇垣はその翌月、妻を亡くす。彼は「丹念に神妙に遺憾なく供養に努めた」が、まもなく「邦家内外の情勢は日々急迫を告げつつある今日に於ては何時までも仏の世話のみも為し居れず、今後は仏の供養は主として子供等に行わしめ、余は君国のため敢然として|眷々匪躬《けんけんひきゆう》の節を尽さん」と、俄然まなじりを決して立ち上がる。
[#この行1字下げ] 戦争をさせぬように抑えて行くには、政界を見渡しても、それがやれそうな人がいない。殊に震源地が陸軍なのだから、その陸軍育ちの人間として自惚れではないが、自分は年の功も積み、相当に重きをなして来たのだから、我輩は一度犠牲となって、日本が脱線しないようにするため出なければならぬ。〈宇垣日記1131〉
自分が政権を担当して陸軍を抑えよう、と宇垣はいうのである。それに「世間では宇垣の出馬は必至であると取沙汰して居る」ものが相変らず多く、いよいよ機が熟してきたと宇垣は考えている。もっとも近衛なんかは、「思い切って現役の軍人にやらせたら」という意見で、有田外相も、「責任のない者がいろんなことを言って、結局責任は自分達文官がいつもとらなくちゃあならん。むしろ陸軍を表面に立てて責任をとらしてみたらどうか」と原田にいったが、西園寺は同意しなかった。
「それも一つの考えであるけれども、まあ謂わばスペキュレーションみたようなことはとても自分としてはできない」〈原田5─207〉
とすれば、広田のあとは宇垣か、あるいは近衛に絞られてくる。
こんな動きに歩調を合わせるように、広田内閣の評判は悪化しつつあった。
広田内閣は、のちに重大な影響を与える二つの施策を行なった。軍部大臣現役制の復活と、日独防共協定の締結であり、広田はこれによって「対軍屈服の事例として、今日にいたるも激しい批判」〈矢次『昭和動乱私史』上192〉にさらされることになる。
軍部大臣現役制は、広田内閣が発足して一カ月ほど経った四月十七日の閣議で、寺内陸相が提案した。
「今まで現役及び予備後役の将官を大臣にすることができることになっていたが、今後はまた現役のみに限ることに規定を変えたい」
この場では、「この次に考えよう」ということになったが、反対意見を述べる閣僚はいなかった。原田から報告を受けた西園寺は、大正三年、山本内閣のときに予後備の大将中将でも軍部大臣に出られるようにした経緯を語った。
「ちょうど政党が非常にさかんな頃で、文官でも陸海軍大臣になれることにしようという風な気運があった。……結局本音は政党人が軍部の大臣になることを防禦するために、予後備でも軍部大臣になれるようにしたと思われる」
西園寺はこれしか話さなかったが、軍部大臣を予後備まで広げるきっかけを作ったのは実は西園寺自身だった。大正元年十二月、第二次西園寺内閣は陸軍が要求する二個師団増設を蹴とばし、上原陸相が単独辞職して後任の陸相を陸軍が推薦しなかったために総辞職に追い込まれた。当時、西園寺は正面衝突を覚悟で陸軍に敢然と立ち向かい、内閣が倒れると憲政擁護運動が全国的に盛り上がって、とうとう陸軍が譲歩して軍部大臣を予後備にまで広げただけに、忘れることのできない事件だったはずだ。しかしそれから四半世紀たった今日、西園寺は自分の内閣の存続を賭けてまで争ったことを忘れたかのように、現役制復活に反対しなかった。
「どうせ陸軍大臣の言うことをきかなければならないのなら、なるべくあっさりきいてしまった方がいいじゃないか」
寺内陸相の提案は、しばらくして五月十八日に実現した。
「もし現役制を復活しなければ、今次辞職した将軍達がいつまた復活して軍の派閥を再現するようになるかもしれない。それではわれわれは安心して徹底的に粛軍することはできない」〈『広田弘毅』197〉
寺内は、「退役させられた真崎、荒木を完封する点にねらいがあるのだ」と強く訴えていたから、現役制復活を粛軍――皇道派封じ込めのためと受けとめた向きも多かった。
「まずかった。広田はそんなつもりではなかったと思うんだが、そのため軍が政治を独裁するのにたいへん都合のいい形になった」〈岡田『回顧録』194〉
当時、二・二六事件の責任を痛感して自宅で「ひたすら謹慎の日を送っていた」岡田前首相は悔恨の言葉を吐くが、これは後になっての評価である。当時、閣議の席で政党出身の閣僚も反対しなかったし、世論も静かだった。
この現役制復活は、翌年に威力を発揮する。広田のあと組閣の大命を受けた宇垣は、陸軍から陸相を出さないといわれて、組閣を断念するハメに追い込まれる。ところが皮肉なことに、こんな煮え湯を呑まされることになる宇垣も、現役制復活のニュースを聞いたときには大いに賛成だった。
[#この行1字下げ] 軍部大臣任用資格が復旧したり。誠に結構至極である。余が過去に於て身命を賭して争いし問題も時代の力によりて安々と解決したのは祝うべきである。それについてもあれ程力を入れて争い来りし政党者流がギューの音も出さぬはその無力のほど呆れ入りたる次第なり。〈字垣日記1064〉
ところで若槻元首相によれば、この件は組閣の時に約束されていたという。
[#この行1字下げ] 内閣の組織にあたって、広田は寺内寿一に陸軍大臣を持って行った。寺内は、自分は大臣になってもいいが、とにかく陸海軍の大臣は、予備でも後備でもいいということを止め、現役でなければならぬことにしてもらいたいといい、広田はこれをたやすく受け入れて、現役の陸海軍大将ということにし、昔の山県案に還元してしまった。これは広田が、事情をよく承知してやったことか、あるいは内閣を早く作りたいので、その位のことはなんでもないと思ってやったのか知らんが、それ以来、また/\陸軍が暴威を揮うようになり……〈若槻『古風庵回顧録』441〉
広田内閣のもう一つの失策――日独防共協定についてはしばらく後に譲る。
広田内閣は、発足とともに政綱を発表し、「政府は※[#「玄+玄」、unicode7386]に確固たる決意を以て庶政を一新して難局の打開に当らんとす」と、庶政一新≠スローガンに掲げた。具体的な「施策の基本は……一君万民挙国一体の美を済すに存す」ということで、国体観念の明徴、日満両国の不可分関係を基調として東亜の安定力たるの実を挙げること、国防の充実、自主積極外交の確立、税制改革、金融改善などが列挙された。
この政綱に歩調を合わせるかのように、陸海軍では、参謀本部作戦課長の石原莞爾大佐と軍令部作戦課長の福留繁大佐が、国防方針の改訂を検討していた。
[#この行1字下げ] 満州事変以来、対外関係は悪化の一途を辿り、国際連盟脱退以後、いよいよ決定的なものとなって来たので、従来の仮想敵国の米・ソ・支の三国のほかに、東洋における深刻な利害錯綜関係をもつ英・蘭二国の敵性を考慮の外に置くことはできなくなったことが、国防方針の改訂を必要とする理由であった。〈福留繁「反古に帰した帝国国防方針」―『別冊知性 秘められた昭和史』176〉
福留は海軍の立場からこういうが、「英・蘭二国の敵性を考慮」ということは、南進――つまりイギリスが利権を持つ華中からマレー半島、シンガポール、さらに蘭領インドネシアへの軍事的進展を計画することであり、明治以来の国防方針の大転換にもなる。豊田副武軍務局長も、北守南進が海軍の方針だと新聞に発表したから、大陸政策を進める陸軍と対立するかの印象を与え、マスコミは沸き立った。
一方、石原大佐は、国策から兵力量まで全般にわたる改訂――「国防方針は時代物になって権威がなくなっているから、むしろ国防をも律するような当面の諸情勢に対処する新国策を策定した方がいいではないか、当国防方針を改訂するなら思い切った兵力改定が必要と思う」という意見だったから、福留の「北守とは国策として北はこれ以上進出しないということであり、南進とは、日本の将来の発展を南に方向づける意味である」という北守南進§_に賛成しなかった。
[#この行1字下げ] 北守という言葉は、満州経略もやめろという響きをもつので適当でない。今後十年間は、日本はわき目もふらず満州建設に専念すべきである。……南進を打ち出すのはその後にして貰いたい。〈同177〉
福留は石原に押し切られて、「北守南進主義を撤回することに」したが、この二人の議論は重大な意味をもっていた。
福留は「その頃は勿論蘆溝橋事件など夢想もしなかった」というが、一年後に蘆溝橋事件から日中戦争が始まり、日本軍は華中、華南と南進≠続け、さらに南下して仏印にまで攻め入ったとき太平洋戦争が始まる。
[#この行1字下げ] 南進ということは、僕自身が北方でやったことを、海軍が南方でやらかすのではないかという心配がある。このような方針が書き物できめられることになると、必ずそれを実行する者が出て来る。〈同177〉
石原はこういって反対したのだが、まもなく十一年六月末に陸海軍が練り上げた「国策大綱」には、「帝国として確立すべき根本国策は、国防を安固にして東亜大陸における帝国の地歩を確立すると共に、南方海洋に進出発展するに在り」と南進方針が明記され、一年後の日中戦争勃発で石原の危惧は現実のものとなった。
さて、国防方針の改訂に取り掛かった石原・福留両作戦課長は、五月一日に早くも案をまとめた。仮想敵国には従来の米・ソ・中のほかに英国が新たに加えられ、所要兵力量は陸軍が平時二十個師団、戦時五十個師団、海軍は主力艦十二隻、空母十二隻、巡洋艦二十八隻を基幹とする画期的大兵力を整備するという内容で、明治四十年に国防方針が制定されてから三度目の改定になる。
五月十一日に閑院・伏見両総長は天皇にこの新国防方針を上奏し、六月八日に裁可を得た。
新国防方針は、海軍がロンドン軍縮条約の期限切れを年末にひかえて、「海軍軍備充実拡張の基礎を得んがために海軍側より働きかけた」〈『広田弘毅』207〉ものだが、この膨大な軍拡計画の尻は政府に持ち込まれる。石原は、「軍は軍の要求する兵備を明示する。政府はこの兵備に要する国家の経済力を建設すべきである」と高飛車な姿勢をとり、寺内陸相も「それが当然だ」と原田に語った。
「一体先にやるべきことをこれだけはどうしてもやらなくちゃあならん≠ニ決めておいて、後から財政の方法を考えればいいのに、歳入がこれだけだから……と歳入の目安をつけてからどうこう言うのは、結局なんにもしないことになってしまう」
原田は呆れて、「そいつは慎重な態度でやらないといけない」と反論したが、広田内閣の予算編成は寺内のいうとおりに行なわれることになった。
陸海軍は、国防方針の改訂に続いて、国策の検討に着手した。六月末に石原は「国防国策大綱」をまとめる。
[#この行1字下げ] 先ずソ国の屈伏に全力を傾注……ソ国屈服せば適時之と親善関係を結び、英国の東亜に於ける勢力を駆逐……ニューギニア、濠州、ニュージーランドを我領土とす。……ソ英を屈せば日支親善の基礎初めて堅し……実力の飛躍的進展を策し、次で来るべき米国との大決勝戦に備う。〈石原『国防論策』183〉
これは石原独自の最終戦論に立脚したものだが、南進論を主張する海軍の賛同を得られず、代って陸海軍妥協の産物として六月三十日に「国策大綱」が作成され、外務省が参加して一部を修正したうえで、八月七日の五相会議で「国策の基準」として承認された。
[#この行1字下げ] 帝国として確立すべき根本国策は外交国防相俟って東亜大陸における帝国の地歩を確立すると共に、南方海洋に進出発展するに在り……
[#この行1字下げ] 陸軍軍備はソ国の極東に使用し得る兵力に対抗するを目途とし、特にその在極東兵力に対し開戦初頭一撃を加え得る如く在満鮮兵力を充実す……
[#この行1字下げ] 海軍軍備は米国海軍に対し西太平洋の制海権を確保するに足る兵力を整備充実す……〈外交主要文書下344〉
この五相会議の席では、「国策に遵由しこれが達成を期する」ための「帝国外交方針」も同時に報告、了承された。
広田首相は、のちにA級戦犯として東京裁判の法廷でこの五相会議の決定を検事側から突きつけられ、「軍部外交の基礎は広田内閣に依ってすえつけられた」〈重光『巣鴨日記』272〉と致命的の打撃≠蒙り、文官でただ一人絞首刑の判決を受ける一因になった。
しかし、「国策の基準」の原案になった「国策大綱」は陸海軍が共同して作成したものである。また「帝国外交方針」も、「陸海軍事務当局が外務省側に対し新外交方針の樹立を申し入れ、結局三省事務当局の会議が開かれ」〈『広田弘毅』206〉て成案をみたもので、当然「国策大綱に準拠」している。だから、広田内閣は、軍が作った国策と外交方針を押しつけられたというのが真実に近く、広田が積極的に軍部外交を主導したわけではない。
北方の脅威――極東ソ連軍と大陸駐屯の日本軍の軍事バランスは大きく崩れて、十年末に地上兵力で十対三、航空機では十対二・三にまで落ち込んでいた。「開戦初頭一撃を加うる為バイカル以東の敵に対し少くも八割の兵力を大陸に位置せしむるを要す」〈石原『国防論策』136〉という石原作戦課長の判断からいえば、「少くとも在満兵力を倍加する」とともに、「露国の極東攻勢を断念せしむる」だけの手段を緊急に講じなくてはならない。これが現下国策の重点≠ニ参謀本部の石原らは考えた。
このためには、「軍部としては先ず国家を強制しその全能力を発揮して航空機工業を飛躍的に発展せしめ……迅速適切なる北満経営」を進めなければならない。しかし、兵力の増強は内地からの移駐である程度は達成できても、航空機工業の発展といい、北満経営といい、時間がかかる。
「十年間の平和」、少くみても昭和十六年迄は――石原の試算はこうなったが、これでは当面の国防方針を放棄することになってしまう。どうするか。「英米、少くも米国との親善関係を保持」して、「開戦の已むなきに於ても英米、少くも米国より軍需品の供給を可能ならしめ」るとともに、「外交的手段によりソ国の対抗手段の緩和に努む」〈同185〉ること、たとえば西側――ヨーロッパでソ連と対抗できる国と手を結ぶことが考えられる。
「独乙の利用」〈同183〉
石原が「国防国策大綱」の草案に書き込んだように、これである。
このころ、ヒトラー総統兼首相の率いるドイツは、自給自足経済の確立と大国防軍建設を目標とした戦時経済計画を進めており、欧州最大の空軍と機械化陸軍を引っさげて共産主義撲滅のため東進する勢いを示していた。
ドイツは陽の当たる場所を占めなければならぬ
ヒトラーが、手始めにライン川沿いの非武装地帯・ラインランドに進駐したのが、一九三六年(昭和十一年)三月である。
「日本は満州事変の結果として国際的に孤立しており、この国民の孤立感を緩和し、その不安を除去する意味においても、ソ連に対し利害関係の類似している日独間に、何らかの政治的話合いをなすことが必要だ」〈有田八郎『馬鹿八と人はいう』(34年、光和堂)75〉
有田外相もこう考えたというが、つまるところ、東西からのソ連挟撃体制づくりである。
すでに昨年十月、ナチス党外交担当のリッベントロップ(十三年二月外相就任)はドイツ駐在武官の大島浩大佐に日独攻守同盟を提案している。大島武官は、対ソ攻守同盟ならばと返答し、以来両者の間で交渉が続けられた。
この交渉の延長線上で、十一年十一月、日本はドイツと防共協定を結んだ。「共産インターナショナル(いわゆるコミンテルン)の活動につき相互に通報し、必要なる防衛措置につき協議(する)」というこの協定には、秘密付属協定があり、締約国の一方がソ連から攻撃を受けた場合に他の締約国は、ソ連の「負担を軽からしむるが如き効果を生ずる一切の措置を講ぜざること」は無論のこと、「締約国は共通の利害擁護のため執るべき措置につき直ちに協議すべし」〈外交主要文書下354〉と定められていた。有田外相が枢密院で説明したように、「もし日ソ間に戦争の危険が発生した場合、この議定書の規定を越えた討議の余地はなお残っている」――つまり軍事同盟としての効果を生ずることもある、ということである。
とすれば、日独防共協定は、幣原元外相が宇垣に、「相手をロシアに限るなどということは、出来るものではない。ドイツがイギリスと戦うとか、イギリスがロシアを援けるとかしたらどうする。同盟というものは、かかわり合いが出来るもので、区別して大丈夫だなどといえるものじゃない」〈幣原『外交五十年』187〉と話したように、防共を越えた軍事同盟につながる性格のものである。翌十二年にドイツは日独軍事同盟(防共強化)を提議し、近衛、平沼、阿部、米内の歴代内閣はこの問題で紛糾を重ねた結果、十五年九月に日独伊三国軍事同盟が成立するが、これは防共協定の延長として当然予想されることだったともいえる。
「日独条約が出来たので、大体陸軍の中の空気も満足しておるように思われる」〈原田5─192〉
条約締結のあと広田首相は安心したように原田に話した。広田は駐ソ大使や外務大臣を勤めた外交官である。陸軍が満足したかどうかなどと国内に眼を向ける前に、この条約の国際的波紋――連盟を脱退した日本が、今またこの条約によりソ連や英米にどれほど悪影響を与えることになるかを見定めて、善後策に頭をめぐらすのが本筋ではなかったのか。
米国大使グルーの日記によると、防共協定の締結と同時に、駐日各国大使の間で、「秘密の軍事協定を含んでいる」という評判がたった。グルー大使は、「この新しい方針が、日本の対ソ連ばかりでなく、英国その他民主主義国家との関係の改善に不利に作用する」と観測したし、また、「日本が世界と戦う準備をする」〈グルー『滞日十年』上254〜261〉のではないかと、ひどく疑っている。
西園寺も、各国の反響に関心を払おうとしない広田首相や有田外相の姿勢をみて、「結局ドイツに利用されるばかりで、なんにも得るところはない」と甚だ不満な面持だった。
「日本人の気持というものはやっぱり英米と親しもうとする気持の方が強い。日本の地理的環境からいえば、無論英米とよくすることが最もよい。日独条約ではいくら考えて見ても、日本の価値が下ったように思われる」
春にはイギリスを仮想敵国に加え、今またドイツと軍事同盟につながる条約を結んだことで、日本はますます英米両国を敵に回すことになる――西園寺は深く憂え、落胆していた。
西園寺と同じ心配を宇垣も抱いていた。
[#この行1字下げ] 共産主義に対する方策としては……仮りにこれを国際的に始末せんとするにしても英米仏等にも呼びかけて大包囲線を作成することが緊急である。何を苦しんでカチカチのファッショである独伊に呼掛けこれのみに特に親近するの必要ありや、了解に苦しむ。〈宇垣日記1111〉
宇垣のいうのは、日本の外交の中心をどこにおくかということである。
「日本外交の中核をなすものは対アングロサクソン関係であり、又その対策の基調をなすものは対支対ソの問題である」〈同1115〉
宇垣は、対中国対ソ問題にアングロサクソンと協調して当れ、というのだ。ところが、日本がドイツと結べば、ヨーロッパの複雑な国際関係をも背負い込むことになる。英仏伊独など七カ国で国境不可侵を決めたロカルノ条約を踏みにじったドイツに対する各国の非難、あるいは、ドイツを挟撃しようと相互援助条約を結んだ仏ソ両国の緊迫した関係に日本が巻き込まれる。また、対ソ関係が悪化するのも当然で、ソ連はすぐさま漁業交渉打切りを表明し、「北方の脅威」はますます強まるという皮肉なことになった。
しかも三年後、ドイツは秘密協定にある「相互の同意なくしてソ連との間に……一切の政治的条約を締結することなかるべし」〈外交主要文書下354〉という条項を一方的に踏みにじって、ソ連と不可侵条約を結ぶ。ドイツは日本のよき味方ではあり得ず、西園寺のいうとおり「ドイツに利用されるばかり」だった。軍部主導の外交の結果ともいえるが、広田内閣の失策でもある。
[#この行1字下げ] かゝる内閣の存在は、国家の不利なり、軍部の横暴と戦うには、内閣など幾度変るも差支えなし。〈小山日記146〉
十二月二十二日、若槻元首相は民政党総裁を辞めた気軽さもあって、こう極言したが、元老としての重責を担う西園寺の失望・懊悩は深刻だった。
「どうも外交は本当に心配だ。極東における日本の立場としては、英、米、支那を外して、他にどことも接触する必要はないではないか。極東になんの利害関係を持たないドイツやイタリアと協商しても、いたずらにかれらに利用されるだけで、得るところは少ない。最近の政府の外交ぶりはあまりにヒドイ……」〈同140〉
西園寺が心配する「英、米、支那」のうち、中国との関係もこのころ一段と悪化しつつあった。
日独防共協定の前年、三十五年八月にモスクワで開かれたコミンテルン第七回大会は、ファシズムに反対する人民戦線戦術を採択し、ドイツと日本を平和の敵と指弾した。
同じ頃、大西遷を終えて陝西省北部延安に新根拠地を構えた中国共産党も、※[#「くさかんむり+將」、unicode8523]介石の国民政府と決戦を避ける方針に転換して、「抗日救国宣言」(八・一宣言)を発表、内戦停止と抗日のための統一戦線結成を呼びかけた。一方、ソ連も、中国共産党に対する支援体勢を強めるとともに、外蒙古(モンゴル)と相互援助条約を結んだ。
こういう事態になると、外蒙から天津地方へと南下するソ連機械化部隊を阻止すべき防共回廊として、また中国の連ソ抗日の動きを遮断するためにも、内蒙の存在が重要視されてくる。
そんな日本側の危惧を裏付けるかのように、二・二六事件で日本が混乱していたころ、共産軍主力が突然東進を始め、約二万の兵力を華北の山西省に進駐させた。河北、山東省に駐留する日本軍の動きを牽制しようという意図は明らかだ。事態を重視した日本側は、支那駐屯軍を二千名から五千名に増強した。続いて八月十一日、政府は八月七日決定の「帝国外交方針に遵拠」して、「対支実行策」を決定、満州国の南側で北平を含む河北省と、満州国の西に隣接して外蒙古の東端につながるチャハル省、この二省の「分治完成に専念する」方針が確認された。
そんな情勢の中で、十一月、内蒙古軍が独立を企てて、チャハル省の西の綏遠省東部に進出する事件が起きた。内蒙古軍は関東軍の支援を得ており、関東軍は、内蒙古を中国本土から切り離して独立させ、新疆、外蒙古にまで手を広げさせようと狙っている。事態を重視した※[#「くさかんむり+將」、unicode8523]介石は、二十数万の中央軍を続々と北上させて綏遠省主席傅作義の綏遠軍を支援する態勢をとった。
関東軍のこの誇大な企ては、結局失敗に終った。烏合の衆同様の混成雑軍の内蒙軍は綏遠軍に蹴散らされ、しかも関東軍が裏で操っていたことを取りあげて、中国側はこの事件で関東軍を撃破したかのように誇張して宣伝したので、排日運動が一層激化することになった。
「関東軍がどういう態度をとるか」
内蒙軍敗走の知らせが入ると、広田首相はしきりと関東軍の出兵を心配した。
「なにかこの前、内蒙古との間に約束があったように思われるが……」
西園寺も、関東軍の陰謀を見破って、出方を注意しろと原田に指示した。
十一月末、勢いに乗った綏遠軍が中央軍の支援を得てチャハル省に進出するという噂が流れ、関東軍も、事態によって「適当と認むる処置」に出る用意があると声明した。
「もし関東軍が中央の命令をきかずに出兵するようなことがあったら、職を賭してもこれを止めなければならん」
広田は「(内閣も)到底留まるわけには行くまい」と決意したが、陸軍中央が出兵しないと決めても、「関東軍が中央の統制になか/\服さないことが厄介な問題」である。もし関東軍が独断で内蒙に出兵すれば国民政府の中央軍と衝突し、日中戦争が始まる。
陸軍中央は参謀本部の石原作戦課長を新京に遣わした。十一月二十一日、飛行機で着いた石原は板垣参謀長以下の参謀連を前に、自重を促した。
「内蒙工作は、全然中央の意図に反する。幾度訓電を発しても、いいかげんな返事ばかりで、一向に中止しない。大臣総長両長官は、ことごとくこれを不満とし、よく中央の意思を徹底了解せしめよとのことで、私はやって来ました」
しかし、一同は耳を貸そうとしなかった。そればかりか武藤章大佐などは石原を揶揄した。
「私はあなたが、満州事変で大活躍されました時分、参謀本部の作戦課に勤務し、よくあなたの行動を見ており、大いに感心したものです。そのあなたのされた行動を見習い、その通りを内蒙で、実行しているものです」〈今村『一軍人六十年の哀歓』211〜212〉
青年参謀たちの哄笑を背に、石原は寂しく帰途についた。こんな状況だから、関東軍の動きは目を離せない。
十二月八日、原田は西園寺と昼食を一緒にしながら政変の危機を報告した。
「政変の起る湯合が二つあります。一つは関東軍が綏遠の状況によって中央の命令に従わないで軍隊を出すか、あるいは陸軍が政府の不同意にも拘わらず関東軍を出兵した場合、もう一つは日ソ漁業条約の調印が出来なかった場合です」
このうち、日ソ漁業条約の方はまもなく暫定協定が出来て片付いたが、もう一つの関東軍の内蒙出兵問題もとんでもない事件が起こって消し飛んでしまった。
十二月四日、※[#「くさかんむり+將」、unicode8523]介石は西安に行った。彼は、中共などが内戦停止と抗日を呼びかけるにも拘わらず、いぜん中共討伐を至上とする内戦政策に固執している。この西安行きも、張学良・西北掃匪総司令や将領たちを叱咤激励して、陜西省北部の共産軍に対する第六次掃共戦を進めるためだった。※[#「くさかんむり+將」、unicode8523]介石は、張学良に共産軍攻撃の強化を指示し、三カ月以内に殲滅するよう厳命を下した。しかし、張学良の率いる東北軍には、内戦の停止、一致抗日の共産党の主張に共鳴するものが多い。共産軍と東北軍の間には事実上の停戦協定すら出来上がっていたという。
抗日に踏み切らないと部下を統制できない――苦境に立たされた張学良は、とうとう十二日に※[#「くさかんむり+將」、unicode8523]介石を逮捕監禁するという強行手段に出た。
世界の耳目を集めたといわれる西安事件である。
張学良は、保安から共産軍軍事委員会副主席の周恩来を招いて、※[#「くさかんむり+將」、unicode8523]介石に内戦停止と抗日政策への転換を迫り、口頭で承諾を得たといわれている。東北軍や共産軍の中には※[#「くさかんむり+將」、unicode8523]介石の処刑を主張するものもあり、国民政府も討逆の大軍を動かしたりで、一時は内戦の色が濃厚だったが、スターリンから※[#「くさかんむり+將」、unicode8523]を釈放せよと指示があったりして、十二月二十五日に※[#「くさかんむり+將」、unicode8523]は張を連行して、熱狂的歓迎を受けながら南京に無事帰還した。
この西安事件をきっかけに、いわゆる国共合作の第一歩が始まり、抗日民族統一戦線結成の機運が一段と強まる。
それは同時に、国民政府内で、汪兆銘、胡適、何応欽、張群ら親日派勢力が没落して行く過程でもあった。それを見れば、日本としても外交の転換が必要なはずだ。
しかし、有田外相は、「支那より赤露の勢力は勿論、英米、連盟等の諸勢力を漸次排斥する一方、日満支間に政治上、経済上の緊密なる連繋を作り、資源の利用につき確乎たる地位を獲得し、英帝国、アメリカ、ソ連等に対峙しうるが如く措置する」〈『日米関係史』(47年、東大出版会)1巻127〉という姿勢を変えようとしなかった。日本政府が対中国政策を大きく転換して、「支那の内政を紊す虞あるが如き政治工作は之を行わず」〈外交主要文書下362〉と決めるのは、翌年四月、林内閣の佐藤尚武外相のときである。
「(西安事件で)ロシアの運動の盛んなことが国民に認識されて、かえっていいじゃないか」
防共が気掛りな近衛も原田にこんなことをいっており、中国の抗日民族戦線統一の動きに目を向けなかった。蘆溝橋事件に始まる日中両国の武力衝突は、西安事件から七カ月後に起こる。
広田首相は、西園寺から「あれはオポチュニストだ」〈小山日記142〉と見放され、宇垣からも「今日の出来栄は内外政共に誠に不出来、むしろ批判の限りにあらず」〈宇垣日記1113〉と酷評されるようになったが、陸軍も不満を嵩じさせていた。
とくに、粛軍が進むとともに政党の動きが活発になり、「陸軍与みし易しとなし、内外状勢の逼迫に対処するよりも徒らにその勢力恢復に爪牙を磨き……軍勢力抑圧の策謀に汲々たる有様」(軍務局政務課片倉衷少佐)〈片倉衷「宇垣内閣流産す!」―『別冊知性 秘められた昭和史』所収―162〉と陸軍の目には映る。また、石原大佐は、ソ連の第二次五カ年計画(一九三七年終了)を睨みながら、六月に改定した新国防方針の具体化を急ぎ、この本格的軍備拡充を支える日本の総合的経済力を検討して「計画的に国防重要産業の振興を策す」〈防衛庁戦史室『陸軍軍需動員T>』(42年、朝雲新聞社)591〉作業を進めていた。石原の構想した国策は、「北にソ連を討って大蒙古独立国を作り、満州国を強化して、支那を制し、状況に応じて南方進出の上、これを横断連合せしめて、東亜連盟≠結成する」という気宇広大なものである。この計画の為には、「大軍備が必要であり、これを早急に実現を可能と為し得る内閣を作らねばならぬ」〈矢次『昭和動乱私史』上228〉。
十一年八月に石原が満鉄経済調査会の宮崎正義を起用して立案させた「日満産業五ヶ年計画」は、「国防産業の飛躍的増産及び輸出計画の実施」〈『陸軍軍需動員T>』589〉を目標とする緊急実施国策案、言い換えれば「大軍拡案であり、国防国家建設案」〈矢次228〉だった。これは翌年「重要産業五ヶ年計画要綱」として杉山陸相の決裁を得、十月に発足した企画院に引き継がれ、十四年一月には「生産力拡充計画要綱」として閣議決定されるもとになったものである。
この草案を持って、石原は軽井沢に滞在中の近衛を訪ねて、「検討を依頼」〈同228〉した。すでに石原は、三井の池田成彬の意見も聞いている。近衛はこの草案を興銀総裁の結城豊太郎に渡して「研究を依頼し」、結城は年末近くになって、「之が実現には相当困難を伴うも実行せざるべからざるか」〈木戸542〉と返答する。
九月上旬に軽井沢から戻った近衛は、怪訝な顔で呟いたという。
「鬚の大将を総理大臣にしようというのだが、林(銑十郎)のどこが好いというのだろう」
「日独提携して三年か四年後に対ソ戦争を始めるので、いまからその準備をしないと間に合わぬというらしいんだが、ほん気なんだろうか」〈岩淵辰雄『敗るゝ日まで』(21年、日本週報社)63〉
このころの石原は、「軍を一人で背負って立っていた」感があったという(十一年六月に戦争指導課長に新任、十二年一月に第一部長心得)。満州事変の功績が彼の発言力を強め、同じ満州派の板垣関東軍参謀長、磯谷軍務局長、片倉少佐(政務課)、今田新太郎少佐(参謀本部)などが周囲を固めていた。石原は広田のあとの政治プランを作成した。首班には、近衛にも話したように、林銑十郎を予定した。
「林大将なら猫にもなるし虎にもなるし、自由自在にすることができるから……」〈原田5─211〉
どうせ石原の計画を実現するためのロボット内閣≠ネら、操りやすい方がいい。
陸相板垣中将(関東軍参謀長)、海相末次大将(軍事参議官)が候補にあがり、また五カ年計画を実施するには「大蔵と商工が大事なり」ということで、池田成彬、結城豊太郎、さらには池田の推薦する鐘紡社長の津田信吾などから選ぶことにした。「閣僚は陸海軍大臣と大蔵大臣のほか五、六人に減らして」という陸軍の方針からいけば、これで閣僚の半数のメドが立ったことになる。――
このころ、正月の新聞や雑誌は、近衛の論文を競って掲載するのを慣例にしており、十二年の元旦にも近衛の寄稿が各紙に掲載された。朝日に載った「我が政治外交の指標」という一文は、近衛には珍らしく穏健な内容で、「政治運用の要諦は政治の明朗性を保持することにある……非常時だからといって断じて憲法の埒外に出ることは許されぬ……非常時だから国民生活を忍従せしめてよいなどというのは謬論……国民生活の尊重こそ政治の大本だ」〈『近衛文麿』上356〉という主旨だった。
「大変よく出来ていた」
近衛の発言は影響力があるから、国民生活を守り憲法を尊重しろと近衛が積極的にいうのは大いに望ましいことだ。しかし西園寺は、「他の新聞のは無くもがな」〈原田別265〉と眉をしかめた。他紙で近衛が「日独防共協定」にふれて、英米などがこれに対して一大勢力の結成を企てているのは甚だ遺憾だと言っていることや、また日中問題を論じて、「中国がソ連に依存して、抗日、排日、打倒日本、ボイコットに狂奔」していることを指摘、これでは「結局日支戦争に行かねばならない」〈『近衛文麿』上355〉と断言していることなどは、西園寺の気に入らない。
ところで広田内閣に交代の気配が出てくると、西園寺はいち早く近衛を後継候補から外してしまった。
「近衛はこの際よくない。結局ロボットに終るようでは面白くない。当分誰が出ても結局ロボットかもしらんが、とにかく近衛はなお自重さしておいた方がいい」
近衛の方も、「どうか自分が出ないようにしてくれ、どうしても出たくない」と原田に繰返して念を押していた。
下馬評では、近衛、宇垣、平沼の三人が有力だ。このうち近衛を除外すると、平沼嫌いの西園寺としては宇垣を推すことになる。
「一人きりじゃあどうも心細い」
湯浅内府は心配そうだったが、西園寺は、「宇垣が出ていけなかったら、内大臣自身を推したらいいじゃないか」と、湯浅の要望に取り合おうとしなかった。西園寺は早々と、宇垣一本で行く肚を決めたようだった。
十二月後半から、原田は、宇垣でいけるかどうか、ひそかに打診を始めた。牧野元内府、岡田前首相、一木前枢相はいずれも「宇垣がいい」と賛成だった。
陸軍はどうか。宇垣を目の敵にした皇道派が追放された今となっては、陸軍部内の反対も薄らいだはずだ。原田は、親しい寺内陸相や、杉山教育総監に探りを入れてみた。
「宇垣が絶対にいけないということはない。宇垣でいいじゃないか」
寺内は「熟柿主義ではなく、はっきり堂々とやったらいい」と付け加え、杉山は「かなり危いとは思うけれども」といったが、二人とも「大概いいだろう」とあまり反対する風もなかった。陸軍がこの様子なら、宇垣で行ける――原田と湯浅はこう判断して、十一年末に西園寺に伝えた。
しかし、近衛が「絶対に自分は困る」と固辞し、西園寺が「誰が出ても結局ロボットかも知らんが」というのは、石原大佐らが林大将を担ぎ出して、「軍がロボットとして駆使しうる首班」〈大谷『昭和憲兵史』255〉を実現しようとしているのを承知しているからである。であれば、宇垣を出すにも一抹の不安が伴なう……。
一月十日、西園寺は鈴木貫太郎前侍従長の訪問を受けて歓談した。二・二六事件で鈴木侍従長は、頭と胸などに四発の銃弾を浴びて倒れた。トドメ、トドメと叫ぶ兵を指揮官の安藤大尉が「惨酷だからやめろ」〈『鈴木貫太郎自伝』(43年、時事通信社)264〉と制したため、辛くも生命を拾った。事件のあと鈴木は辞任を申し出たが、天皇は、「狙撃されたから、申訳ないというわけで側近が代るのは面白くない」と、なかなか聴許しなかった。結局辞任は十一月まで延び、後任には百武三郎海軍大将が就任した。鈴木の西園寺訪問は、辞任の挨拶のためである。
鈴木が帰ったあと、西園寺は急に発熱し、新聞は「非常に悪い」と報道するなど一時は大騒ぎになった。幸い三、四日で熱も去り、風邪も治ったが、西園寺は大事をとって、床についたまま養生につとめた。
一方、石原らの林擁立運動はいよいよ本格化した。石原の強みは、その基本となった五カ年計画について、池田成彬や結城豊太郎といった財界の有力者の了解を得ていることである。池田や結城は無条件に賛成したわけではないが、「七、八年か、まあ十カ年計画ということにでもすればやれぬことはあるまいし、時局の要請として、やらねばなるまい」と認めている。また石原は、宮崎龍介や浅原健三(元衆議院議員、日本大衆党、大正時代に八幡製鉄のストライキの指導をして入獄)を使いにたてて、「宮廷官僚や、財界上層部に絶えず働きかけていた」。
「元老や重臣たちは、石原の担ぐ林内閣なるものの実体がかようなものであるなら、やらせてもよいではないかということになり、とくに広田内閣の馬場蔵相に懲りているあとだけに、池田や結城がやってやれぬことはないという、石原の五カ年計画に、一種の安心感をもって迎えた……」〈矢次『昭和動乱私史』上229〉
十二年一月二十三日、広田内閣は総辞職した。その成立の経緯から、「ヒロッタ(拾った)内閣」などとも陰口されていたが、やはり十カ月ほどの短命に終った。
総辞職の直接の原因は、前年九月二十一日に寺内陸相が永野海相とともに広田に要望した行政改革問題だった。寺内はこれを入閣の条件にし、広田の了解を得ていたという。ところが、「政治行政機構全般にわたり、根本的刷新を行なう」この改革案は、「行政が経済を指導統制し得るように機構を改める」もので、中央と地方の行政改革とともに議会制度の改革が取り上げられていた。
「国運の進展ならびに議会の現状に鑑み、議会法、選挙法を改正し議会を刷新す」
軍部の狙いは、議会の権限縮小にあるのは明白だから、斎藤内閣以来久しく政権を離れていた政党も立ち上がり、民政党は、「官僚は独善になずみ軍は優越感にあふれ、他を排除して国家機能の万般に干与せんとす」と抗議文を発表した。
明けて一月二十一日、政党と軍部の対立はとうとう議会の停会を招く。この日、政友会の浜田国松代議士は、衆院本会議場で寺内陸相と、有名な「割腹問答」を展開した。
「吾々は粛軍の進むにつれて粛軍せられたる軍部の政治推進力が強く頭を出すという政治上の弊害の……新たに擡頭し来りたることに遺憾を禁じえない」
浜田代議士は、粛軍がもたらすパラドキシカルな結果を衝きながら、軍部の行政改革論を痛烈に非難した。豪気で一本気な寺内は憤然色をなして、「軍人に対していささか侮辱されるような感じのするお言葉がある」と反撃すると、浜田は受けて立って、ものすごい見幕で寺内に迫った。
「日本の武士は、古来、名誉を重んずる。……速記録を調べて僕が軍隊を侮辱した言葉があったら割腹して君に謝する。なかったら君割腹せよ」
政府は二日間議会を停会して収拾策を見出そうとしたが、浜田の発言を軍に対する政党の挑戦とみなした陸軍はすっかり硬化し、寺内陸相は、解散をしないなら時局に対する認識の相違により軍政を担当できないから辞任する、といいだした。海軍予算の成立を急ぎたい永野海相は、政党と陸相の間に立って解散回避の斡旋に乗り出したが、寺内は態度を変えない。陸軍と海軍の考えがこれほど違って来たら、閣内不統一にもなる。
「もう根本から話が違って来たので、これは閣議で陸海軍大臣が抗争するようなことがあったら一大事だということを一番心配して、総辞職の肚を決めた」
広田首相は原田に、「これは内閣総辞職の最も直接の原因で他の閣僚にも話してない」と前置きして語った。つまり広田は、割腹問答に端を発する陸海軍の意見対立が総辞職の原因だというのだが、むしろこれは表面的なことで、真因は別にあった。
永野海相が総辞職を回避しようと画策したのは、無条約時代最初の十二年度予算の成立を急ぎたいためだった。総額三十億四千万円、前年度より七億円、三割増加の膨大な十二年度予算原案は、すでに十一月末の閣議で承認されている。このうち直接軍事費だけで十四億一千万円と全歳出の四十三パーセントを占めている。予算編成のやり方も変わって、重要国策がまず閣議で先議され、国策事項に優先的に予算を計上するという方式が採用された。寺内が原田に語った「後から財政の方法を考えればいい」というやり方である。このやり方は以後継続されるから、国策として閣議を通れば予算はつくということで、陸海軍としては都合のよいことになった。
「あれでは、まる呑みなり」〈小山日記142〉
西園寺もこの予算編成のやり方を見て、苦々しそうに呟いたが、膨大な歳入不足は増税(六億円)と公債発行(八億円)で埋め合わすことになり、その結果当然のごとく経済運営に支障が生じる。当時大蔵省理財局長だった賀屋興宣はいう。
「軍事費急増の結果どういうことが起こったかというと、いろいろな軍需品がいる。その軍需品の製造のための原材料がいる。ところが統制的に経済を運営するために一つも準備行為をやってないわけです。だから商社は争って海外に注文を出した。てんでんバラバラにやるから実需の何倍も輸入注文が出ているわけです。この輸入代金のために皆が為替の手当をやるから、申込みが正金に殺到した……」〈賀屋「戦時財政の歩んだ道」182〉
要するに、「必要資料の裏打ちのない予算」のために外貨準備が底をつきそうになったということである。厖大な予算に加えて関税改定前の駆け込み輸入もあって十一年末から正金に輸入為替が殺到し、政府は十二年一月から輸入為替許可制を実施せざるを得なかった。しかも予算案が発表されると、猛烈なインフレが始まった。卸売物価は、十二年一月だけで八・六パーセントも上昇、十一年十一月から十二年四月までの五カ月間では二一・九パーセントの高騰になった。予算が実施されないうちにこの有様では、馬場^一蔵相が司るいわゆる馬場財政≠フ破綻は明白である。戦後、広田は戦犯として巣鴨拘置所に収容されているとき、賀屋に語った。
「広田内閣は経済でつぶれちゃった、行き詰まって動かなくなった、しようがないんだ。まったく経済でつぶれたんだから」〈同184〉
馬場財政の行き詰りで広田内閣はつぶれたということである。
「軍部の言うなりになっているロボット蔵相だ」
行政改革の動きに硬化した政党は、馬場蔵相に非難を集中し、一月の再開国会では、政府の外交・財政政策を集中攻撃する構えを見せた。馬場蔵相は予算の不成立を恐れて、軍務局の佐藤賢了少佐に「再開をまたずに議会を解散しようじゃないか」〈佐藤賢了『東条英機と太平洋戦争』(35年、文藝春秋新社)54〉と持ちかけたり、原田にも「議会で軍民衝突の醜態を演じないうちに解散した方がきれいに行く」〈原田5─234〉と、まるで寺内陸相のいうようなことをいっていた。
軍部の要求「まる呑み」の予算を成立させるために陸軍と通じて議会対策を謀るこの馬場蔵相のやり方は、今までの蔵相とは正反対である。一年前に高橋蔵相は軍部に対して懇々と説いた。
「信用維持が最大の急務である。たゞ国防のみに専念して、悪性インフレをひき起こし、その信用を破壊するが如きことがあっては、国防も決して安固とはなり得ない」〈津島『高橋是清翁のこと』275〉
これが金融財政の基本であり、蔵相としての高橋の遺言でもある。しかし、二・二六事件のあと、軍部が行政に干渉を強め、その「行政が経済を指導統制」する以上、財政の基本は無視されて悪性インフレも避けられない。広田内閣は、「腹切問答」がなくても倒れる情勢にあった。
十二年一月二十二日、広田内閣退陣の気配が強まると、石原大佐は海軍の福留作戦課長に語った。
「陸軍軍務当局は解散を実行するを必要とし、紛糾すれば、全国に戒厳令を布く、短期にても軍部の要望を行ない得る政府とする事を考えあり、後継は近衛、宇垣、南あたりが問題に上がるべきも、宇垣と南とは陸軍として問題にならず」〈「嶋田日誌」―秦郁彦『軍ファシズム運動史』(47年、河出書房新社)所収―187〉
戒厳令と聞いて驚いた福留は、「二・二六事件より重大の事起こるおそれありとの事なるか」と尋ねたが、これは意表をつく≠フを得意とする石原一流のやり方である。石原の真意は、宇垣排撃を海軍に伝えることだった。
翌二十三日、陸軍軍務局では主要メンバーが集まって、「次期閣僚に関する意見」をまとめた。
一、総理として排撃すべき者
[#2字下げ]宇垣、大角、南、山本、勝田、荒木等
二、希望すべき閣僚
[#2字下げ]大蔵 馬場 結城、内務 河田烈、唐沢、安井、吉田(茂)、文部 二荒、海軍 末次、陸軍 杉山 板垣、司法 小原、塩野、外務 外務畑たるを固守せざること
三、党籍を離脱せざる政党員は排撃す
[#地付き]〈「軍務課政変日誌」―同左所収―370〉
いまや、首班指名も閣僚銓衡も陸軍が担当することになったような態度である。
二十三日に広田内閣が総辞職すると、お召しの通知が西園寺にとどいた。病上りの西園寺には、この寒中に上京するのはとても無理だ。原田は百武侍従長に電話で返答した。
「公爵は十日ばかり前から病床にあって未だに床を離れることができないので、お召しに応じて上京することが不可能でございますから、陛下のお許しを得て、内大臣に興津に来て戴くように願いたい」
夕方、坐漁荘に着いた湯浅内府は、西園寺の病室に入って「四十分ばかり会談」して帰京すると、西園寺の奉答として宇垣を後継首班に奏請した。
「元老は思い切って所信を断行したのだと察する。……多少の無理があっても力で押切る人物を求めたものと思う」〈『近衛文麿』上360〉
近衛は新聞記者に、西園寺の意中を解説した。
この夜お召しを受けて伊豆長岡から上京した宇垣は、真夜中に参内して組閣の大命を受けた。
「広田内閣総辞職を願出たるにつき、卿に内閣の組織を命ず、しかし、不穏なる情勢一部にありと聞く、その点につき成算ありや」
「何分にも目下の事態は重大であり時局は相当紛糾致して居り、又自ら顧みまして徳薄く識乏しき身分でありますから、ここに数日間の御猶予を乞い奉り、十分考慮講究を遂げ改めて復奏致し度存じます」
一般国民も政党も財界も、宇垣を大歓迎したが、陸軍だけは「狼狽を極めた」。
それから二十九日正午まで、宇垣は四日半にわたって組閣工作を懸命に続けたが、陸軍大臣を得ることができず、組閣に失敗した。
二十五日、宇垣が寺内陸相を訪ねて、大命降下の挨拶をし、陸相を推薦するように依頼すると、寺内は答えた。
「陸軍は敢て閣下の組閣を阻止するにあらざるも、陸軍が閣下に対する考えは、政策等に関する反対にあらずして、粛軍の見地に於て閣下個人に反対しあるを以て、更に考慮されたし」〈「軍務課政変日誌」373〉
寺内のいうのは、「元来粛軍等を唱うるを要するに至りたる原因は、遡れば三月事件にあり。しかして、宇垣氏が三月事件に深き関係を有するは全軍周知の事実なり」〈木戸358〉ということである。宇垣には三月事件という前科があるではないか――寺内を背後で「威迫強圧」している軍務課、軍事課、新聞班などの中堅将校はいうのだが、彼らは林内閣か近衛内閣を目論んでおり、三月事件は宇垣を排撃するための口実にすぎない。
「鼠輩が!」
宇垣は切歯扼腕するが、かつての部下の寺内陸相や杉山教育総監は「泣かぬばかりの態度で哀訴する」。
「大局から見れば閣下の御出馬が国家のため最善なりと思いおるも、何分にも粛軍工作が破壊されるとか軍の統制が紊るるとて騒ぐから御考慮願いたい」〈宇垣日記1127〉
宇垣にいわせれば、陸軍のこの「大権干犯の行為」は、「宇垣の進出は小磯の擡頭を伴い、その結果自己の身辺危しと考え居る本省本部の局課長数名の輩」が策動しているにすぎない。「あいつが出たら、我々がわがままが出来ぬ」〈同1133〉ということであり、「軍の総意などというのは全然虚構」だ。――それにしても宇垣は、自分の古巣で、しかも数年前まで陸相として完全に掌握していた陸軍が、楯突くのは腹の虫が納まらない。
[#この行1字下げ] 小磯の軽挙が招来したる三月事件がその口実に利用せらるゝなど……〈同1127〉
逆上気味の宇垣は、日記に筆をすべらせた。「小磯の軽挙が招来したる三月事件」――これが宇垣も認める三月事件の真相である。
二十七日、宇垣は宮中に湯浅内府を訪ねて、「暗に宮中方面の尽力を望む風」な申し出をした。優詔により陸軍大臣を……≠ニいうことだが、湯浅は応諾しなかった。
「今は恰も激流を遡れるが如き有様なるところ、激流を遡る船に陛下をお乗せ申すことは余程考えねばならぬ」
木戸も同じ意見だった。
「無理押しに成立せしむべく優諚を下さるゝと云うが如きことになりては、あるいは天皇が宇垣を擁して軍と対決せられるというが如き印象を世間に与うるおそれなしとしない」
万策尽きた宇垣は、二十九日、天皇に拝謁して、「身を軍籍に有しながらのこの不始末に対しては何ともお詫びを申上ぐる言葉を有しませぬ」と、大命を拝辞した。宇垣の目から|潸々《さんさん》と涙が溢れ、奏上のことばも途切れがちである。
「今後における陸軍の動向というものは、私は実に寒心に堪えません」〈同1133〉
深く頭を垂れる宇垣に、天皇はやさしかった。
「自愛せよ、更に奉公の機あるかも知れぬから」〈同1136〉
この日、湯浅内府は坐漁荘を再び訪れ、西園寺に後継首班を相談した。西園寺は、天皇の下問に答えて宇垣を推奏したのに、陸軍の妨害で宇垣内閣は流産し、元老としての面子をつぶされた。陸軍の石原らにすれば、「すでに林や近衛が石原プランを鵜呑みにする条件で待機している時に、保守勢力の代表である宇垣を迎えて、革新の歯車を逆転させられては堪らない」ということだが、天皇が命じた宇垣を退けて代りに自分達の都合のよい林を首相に据えるのは、天皇の大権を干犯するとともに、後継候補を推奏する西園寺の元老としての立場を踏みにじるものである。
「宇垣が組閣できないようなら、元老としての御下問奉答を御辞退しなくてはならん」
宇垣の組閣が難航するのを見て、西園寺は原田に洩らしていた。二十九日、湯浅が再び天皇の下問を伝えに興津に赴くと、西園寺は「元老を辞退する」といって、応じなかった。
陸軍の気に入らない内閣は、もはや成立の見込みがない。元老西園寺は、「自分の信ずる所に従って奉答する」ことができないのだ。
陸軍では、軍務局政策班が二十六日に、宇垣のあとを見越して、「入閣の要求としては、近衛、林ならば政策的要求はなさざるも、平沼ならば政策にて押すを要し、末次ならば陸軍の軍備充実に関する了解を得るを要す」〈「軍務課政変日誌」374〉と方針を決めている。この中から選べということだ。しかし近衛を除くと、西園寺はだれも推奏する気がない。天皇の下問に奉答できないのだから、元老を辞める……。慌てた湯浅は、「帰ったら検討してみますから」と懸命に西園寺を宥めて、第一候補 平沼騏一郎枢密院議長、第二候補 林銑十郎陸軍大将、と提案した。
二人の候補を天皇に奉答することはあり得ない。奉答前に湯浅内府が第一候補の平沼に打診して、平沼が受ければ平沼を奉答する、平沼が辞退すれば林を奉答するということである。
どうせ次の内閣は「傀儡で、右向けといえば右向、左向けといえば左向」〈宇垣日記1134〉でやらなければならない。陸軍の推す林を奉答するのがもっとも安直なのだが、そこは駆け引きである。右翼方面では、西園寺が「極力平沼の進出を阻止している」〈内田『風雪五十年』253〉と恨んでいる。だれが出ても石原プランに沿って政治をやらなければならないなら、ここで平沼に陸軍のロボット≠ノなれというのも一案かも知らん……。
一方、平沼は陸軍の林擁立の動きをよく知っている。だから、「陸軍なれば林大将、海軍なれば末次大将適任なるべし、(自分は)出馬の意は積極的に有せず」と発言している。平沼は、第二候補に林大将が予定されていると聞いて、湯浅に辞退を告げた。
「自分の性格と手腕はその任に非ず、今後の情勢は右と左に分れて争うこととなるべしと思わるるところ、現在の地位に居りていささかなりともこの点の解決に努力したし」〈木戸541〉
二十九日――宇垣が大命を拝辞した日の真夜中近く、林大将は組閣の大命を受け、二月二日に林内閣は成立した。
石原大佐としては万々歳で、「石原内閣の成立」を祝うはずだったが、とんでもない誤算が生じていた。すでに二月一日の夕方、石原は腹心の宮崎正義と浅原健三を「陸軍省、参謀本部の代表」に仕立てて、林の組閣本部に遣わして、絶縁の申し渡しをする破目になっていた。
[#この行1字下げ] 林大将は、組閣の根本方針ならびに政綱政策の基礎要件を根本的に変更せられ、……軍は林大将と絶縁するの已むを得ざるに立至った。今日軍務局長以下会議の結果、宮崎、浅原両名を代表としてここに軍と林大将と絶縁の次第を通告せしむ……〈「浅原健三日記」―秦『軍ファシズム運動史』所収―395〉
民間人の宮崎と浅原に陸軍代表を名乗らせるのも妙だが、石原らの満州内閣∞植民地内閣∴トがつまずいたのも、皮肉なことに陸相選任*竭閧セった。
石原は、軍首脳の意向を無視して、板垣関東軍参謀長を陸相に据えようとした。板垣と石原は満州事変のコンビだ。しかし、梅津美治郎次官は満州内閣≠フ陰謀を阻止しようと、いち早く三長官会議を開いて板垣排撃を決め、代りに杉山教育総監を推すことにした。中将になりたての板垣は、序列からいっても早すぎる。しかし、杉山総監は、宇垣に陸相就任を固辞した手前があるので、代りに全く予想外の中村孝太郎中将を推し、寺内陸相は記者会見で、「三長官会議において中村孝太郎中将を推薦することに決定せり」と発表してしまった。さらに梅津次官は山本五十六海軍次官にも、「陸海協同してすゝみたし」と提携を申し入れ、海軍は米内光政中将を海相に推して、満州派の推す末次を退けた。
石原が組閣本部に送り込んだ満州派代表の十河信二(元満鉄理事)は、二月一日に林から、「君が居ては邪魔になるから早く引上げて貰った方が宜しい」〈同394〉と追い出され、林内閣は組閣半ばで満州派と手を切った。
こうして林内閣は満州派と手を切ったが、政友・民政両党も、「軍部の中堅どころが、板垣を入閣させなかったと林内閣に非常な不満をもったことから、恐れをなして、党の事情とかなんとかかれこれ言って、結局入閣を断わった」〈原田5─251〉ため、政党から誰も入閣しなかった。
「政党人を入れず、石原大佐との縁も切れ、また陸軍とも関係を持たない、全く浮き草のような内閣……」〈佐藤『東条英機と太平洋戦争』58〉
軍務課政策班長・佐藤賢了中佐の林内閣評である。
「浮き草」だから、組閣も「乱麻の如き」様相を呈する。平沼一派は、「林内閣ができるに至ったのは、平沼が組閣を辞退したからこそであり、実体は林、平沼の連立政権であるべきだ」と思っている。平沼は、「七、八人の閣僚を推薦して来た」〈原田5─257〉。このうちから、塩野季彦(大審院検事局次長)が司法大臣に就任する。一方、近衛も河原田稼吉元内務次官を推して内務大臣に据えた。
石原が重視していた蔵相には、結城豊太郎興銀総裁が就任した。当初予定した池田成彬は「胆石病で蔵相はできぬ」と断わって結城を推し、自分は「まあできるだけ結城氏をたすけてやりましょう」と日銀総裁を引き受けた。財界は、この結城―池田コンビの登場を大いに歓迎した。
[#この行1字下げ] 彼は必ず馬場財政の厖大な予算に削減の斧を振うであろう、彼は必ずまた馬場蔵相の増税案に適切の修正を加えるであろう。〈高橋亀吉『大正昭和財界変動史』(30年、東洋経済新報社)1700〉
この期待に応えて、結城蔵相は、馬場蔵相のつくった十二年度予算総額三十億四千万円を二十七億七千万円に減じ、また増税も六億円から三億六千万円に押え、急進的な改革はやらずに漸進的改革で進むと言明した。もっとも、陸海軍の軍拡費にはほとんど手をつけなかったから、「国防の充実」はそのまま生かされたのだが、「当面の課題を物価騰貴の抑制におく」という狙いはある程度実現されることになった。
二月八日、林内閣は政綱を発表した。
一、国体観念を愈々明徴にし、敬神尊皇の大義を益々闡明し、祭政一致の精神を発揚して国運進暢の源流を深からしめんことを期す……
敬神尊皇、祭政一致、挙国一致、渾然融和などの文字が目立つこの政綱の「復古主義は、一種奇妙な感じを国民に与えた」〈馬場『近衛内閣史論』63〉。西園寺も、林首相が「その内にぜひご挨拶に出たい」といっていると聞くと、「自分の所に来て、祭政一致などということを言われると返事にどうも困るがな」と眉をひそめた。
「強いていえば憲法違反になる。憲法では、宗教の自由も立派に許されており、信書の秘密等もちゃんと定めてあるではないか」
もし林首相が西園寺に会って、「祭政一致とか何とか憲法の本義に照らして疑点の存する事を高唱されては、同意も出来ねば、会って面と向かって反対すれば倒閣になる」〈宇垣日記1216〉ということだ。「まあ林総理もだん/\判るようになって来たようです」と原田は取りなしたが、西園寺は冷やかだった。
「なあに、判りゃあせんよ。軍人なんか、国家のためとか人類のためとかいう風なことは、本当に判るもんじゃない。挙国一致とかなんとか言うけれども、彼等の言う挙国一致は、一致でなくって要するに己れに従わせるという意味ではないか」
たしかに西園寺のいうとおり、「宗教と政治を分離することが政治の進歩の第一歩」であったはずである。それを林は敢えて逆行させようというのか。
「林の意図はそれほど深い意味があるものでなく、ただ誠心誠意、君国の為に尽さんという精神をこの言葉によって現わしたものと見られる。清盛が法衣を着た程度で、林が神主の装束を着ていると見ればよい」〈馬場『近衛内閣史論』64〉
政治評論家の馬場恒吾は敢えて意に介しない風だったが、林がこんな時代がかったスローガンを担ぎ出した背景には、国内の相剋・不信を緩和したいという意図があったようだ。
なにしろ、陸軍とも政党とも関係を断った浮き草内閣≠ナある。しかも組閣の過程で、陸軍部内の対立――石原大佐(三月に少将昇進、第一部長就任)を中心とする満州派と、梅津次官、東条英機中将(三月に関東軍参謀長に就任)を軸とする新幕僚派ともいうべき一派との対立が明らかになった。他にも、軍と政党、軍と財界、軍備拡大と国民生活など、ことごとに対立が目立っている。結城蔵相が就任早々に、「これからは軍部と抱き合っていきたい」と有名な言葉を吐いて、抱合財政≠ニ名付けられたのも、一つにはこの国内の相剋を越えようと意図したためと考えられる。
しかし、こんな深刻な対立が、祭政一致のスローガンひとつで解消されるわけがない。
林首相は、十二年度予算が成立した翌三月三十日に、閣議で突然衆議院解散を提議し、閣僚が驚いて反対すると、「このままでは、軍人として相済まぬから、解散する。不同意なら辞める」〈『近衛文麿』上374〉と言い張って、強引に解散に踏み切った。
「どうも今日のような政党の状態では非常に困る。もう少し真面目にしなければいかんということで、まず解散をやった」
林首相は自慢の髭をひねりながら原田に語ったが、原田は首をかしげた。原田は湯浅内府から、「石原とか浅原とかいうような辺から、解散をやらなければ非常に不穏なことでも起こるような風に言って嚇かして、解散を決意させた」と、満州派≠フ圧力があったことを聞いている。しかし、解散しても、再び総選挙で既成政党が大多数の議席を占めるのでは、何のための解散か、意味がわからない。
原田が林首相の動静に目を凝らしていると、四月八日、林は近衛を訪ねて、「革新的気分を混えた政党の成立」〈同375〉が必要だと力説して、近衛に新党総裁出馬を要請した。林は満州派≠フ嚇かしに便乗して新党樹立を考えていたようだ。「法衣の綻びから新党運動が露われた」〈馬場『近衛内閣史論』67〉ということである。
近衛が断わると、林は「近衛を総理にし、広田に新党をやってもらう」〈原田5─308〉とも言った。陸軍からも政党からも見放された林は、総選挙までの一カ月足らずの間に自分を支持する新党運動が起こるのを期待したのだろう。
「近衛は新党総裁に担がれても、まさか出やしまいと思うけれども、まあ願わくはいま出ない方がよい」
西園寺は、近衛が担がれるのを心配するような口振りで、近衛によく伝えるように原田に指示した。三日ほどして原田は川奈ホテルに滞在中の近衛を訪ねた。
「政党は非立憲的だ。新党が出来ればそちらに行こうかと思っていたけれども、これじゃあとても新党なんかどうこうということはできない。それにしても政党はひどい」
近衛は相変らず政党を非難していたが、林のいう新党にも興味を示さなかった。近衛がこんなでは新党は成るはずがなく、四月末の総選挙では既成政党が圧勝した。林内閣は「政党に負け」〈馬場『近衛内閣史論』82〉、「国内相剋を激成した責任を負って辞職」〈同84〉せざるを得なくなった。
林内閣が総選挙で評判を落したころ、また近衛内閣待望論が囁かれ始めた。
四月に入って川奈から戻った近衛は、十六日に予定された次女|温子《よしこ》と細川護貞(熊本藩主細川護久の孫、侯爵)の結婚式の準備に忙しかった。媒酌は木戸がつとめる。この式の前日十五日に、近衛は永田町の自邸に原田や島津(長女昭子の嫁ぎ先)の家族を招いて、仮装パーティを開いた。温子とのお別れの意味で、近衛家の多勢の使用人も参加したが、このとき近衛は、なんとヒットラーに扮した。
「つまらんものになったな、新しもの好きだからねえ、近衛は」
最近、木戸幸一氏は写真を眺めてポツリと感想を洩らした。近衛はのちに日独伊三国同盟を結び、ヒットラーの率いるドイツと運命共同体の立場に立って英米を敵に回すことになる。そんな歴史の展開を考えると、近衛がこの時期にどんなつもりでヒットラーに扮したのか、気に掛かるところである。
[#この行1字下げ] 十年前、左翼華かなりし頃は彼の姿が自由主義より、もっと左に寄った位に映ったのであるが、今では時代と共に、漸次右へ移動して、自ら国家社会主義者と、公然名乗るを辞さないまでになった。彼が仮装会で、ナチス独逸のヒットラーに扮したのも、仮装の裏に、彼の本心が潜んでいたのだった。林大将の後に、ヒットラーを気取る近衛が出て来て、どうして世の中が、後戻りしたということが出来るのだ。
「文藝春秋」十二年七月号に載った政治評論家阿部真之助の皮肉な観察である。
一週間後の二十二日に、東京会館で細川・近衛家の結婚披露宴が、高松宮をはじめ各宮家も出席して盛大に催された。そして三十日に総選挙があって民政・政友両党が圧勝――五月に入るといよいよ近衛かつぎ出しの運動が具体化してきた。
陸軍も動き出した。
「やっぱりどうも軍人が今後総理大臣になることは非常に困る。さらばといって平沼もどうも困る」
杉山陸相(二月に腸チフスに罹った中村陸相と交代)は、五月十日に原田を「ぜひ会いたい」と呼び出して、近衛に期待していることを匂わした。
「近衛公爵でも出られたら大変都合がいいけれども……」
杉山は湯浅内府にも同じ話をしたし、後宮軍務局長も木戸を訪ねて、「どうしてもこの次は近衛公爵でなくちゃあ困る」と陸軍の意向を伝えた。
五月十三日、湯浅内府は五摂家の御陪食のあとで近衛を二時間半にわたって口説いた。
「総辞職の場合には貴下が後継内閣を引受けなくちゃあならないかもしらん。或は一番いい時期かもしらん」
「到底健康が許さん、駄目だ」
近衛はやっぱり難色を示した。
「東京にいると、何とか彼とかいって面倒だから逃げようと思う」
十七日に近衛は関西へ出掛けてしまったが、このころになると、陸軍も政党も近衛担ぎ出しで一本化してきた。
「まあいろ/\あるけれども、自分は黙っていようじゃないか」
西園寺は、「この内閣も臨時議会前に辞めるようなことがあれば、無茶に|※[#「しんにゅう」、unicode8fb6]《しんにゆう》をかけるようなものだ」という意見だったから、近衛担ぎ出しの騒ぎも黙って静観するだけだった。それに、宇垣が組閣に失敗したあと、西園寺は後継首班の推察を辞退することにしている。
「自分も老齢、病床にありて上京も意の如くならず、加うるに現在の人物等も殆ど知るものなき有様なれば、政変の場合の奉答は今後拝辞したく、その手続を考えよ」
林内閣の成立直後から西園寺は原田に命じて、湯浅と木戸に督促させた。
「どう考えても、今日御下問の奉答を公爵が御辞退するとか、あるいは元老を辞するとかということは……陛下に対してまことになんともお気の毒で、到底申し上げかねる」
場浅内府もなんとか西園寺を思い止まらせようとしたが、今度ばかりは西園寺も譲らなかった。
[#この行1字下げ] 今後は元老へ御下問のことを廃し、ただ内大臣は先ず元老の意見を徴して、然る後奉答す。
木戸は湯浅と話しあって案をつくると四月二十六日に西園寺に説明した。西園寺も協議≠ワで断わるわけにいかない。木戸案に同意し、これで後継内閣首班奉答の役割は元老から内大臣に移ることになった。
こんなこともあったので、西園寺は「黙っていようじゃないか」といったのだが、月末になって林首相が杉山陸相にあとを譲ろうとする動きを見せると、がぜん態度を変えた。
伊丹の醸造元の別荘に十日あまり逃避していた近衛は、木戸の意を受けて迎えに行った細川護貞に促されて、二十九日に帰京した。近衛の帰るのを待って、林首相は総辞職の肚を固めた。
林首相は、「近衛がとても出ないと考え、近衛を当て馬に、結局は杉山陸相にやってもらう」肚だったようだ。
三十日、林は大橋書記官長を近衛のもとに遣わして、「杉山陸相に組織せしむるを最も可なりと信ず、林首相の面目も立つものと云うべく……」と伝えた。現役の陸軍大臣に組閣させる――まさに軍部内閣をつくるということである。「総理以外の全閣僚をすっかり残すつもりであった」というから、林内閣の延長でもある。
この日の夕方、湯浅内府は近衛の目白別邸へ行って、大橋書記官長を交えて話し合った。近衛が出ないなら、「杉山案も亦止むを得ず」――湯浅は不承不承に同意した。
しかしこの杉山案は、西園寺に一蹴されてしまう。
翌三十一日、朝九時の「燕」で原田は興津に向かった。林内閣はこの日の午後総辞職すること、湯浅内府は杉山首班も止むを得ないと考えていることなどを西園寺に報告するためである。同じ時刻に、近衛は朝霞へゴルフに出掛け、木戸は宮内省で松平宮相と話していた。零時十五分、原田は坐漁荘に入った。
「陸軍大臣を総理にすることはよくない」
西園寺は杉山案を認めなかった。
「この場合は近衛を出したらどうか。自分は今まで近衛を出すことを躊躇しておったし、またなるべく出したくないと思っておったが、自分に御相談とならば、自分の信念に基づかない者に賛成するわけにはいかん。やっぱり筋の立ったことで行かなければならないから、甚だ気の毒であるけれども、近衛よりほかに適任者がないと思う」
西園寺の「決心はなか/\固いようであり」、原田は湯浅内府、木戸、松平秘書官長に電話で連絡をとり、近衛にも「あるいは君のところに落付くんじゃあないかと思う」と伝えた。
午後五時、政友・民政両党から即時退陣を迫られていた林内閣は、総辞職した。在任四カ月、歴代内閣では大正初めの第三次桂内閣に次ぐ短命だった。
この夜遅く、木戸は松平内大臣秘書官長を伴なって、上野池の端の山本ヌイ方に押しかけて近衛を説得した。朝から何度か近衛と電話で話した限りでは、「必ずしも絶対拒否」という風でもなさそうだ。それに明日まで延ばせば、西園寺は近衛を「興津へ呼び寄せて、親しく説得せらるる」予定になっている。妾宅にまで乗り込んだ木戸の強引な作戦は効を奏して、「どうも困るなあ」といいながら、近衛は承諾し、その場で閣僚の銓衡も始めた。
六月一日、近衛は組閣の大命を受け、四日に近衛内閣は成立した。
林首相は総辞職の声明で、「今日の時局は国内相剋を許すべきではない、近衛新総理はこの相剋に対するリーダーシップを取るべきである」といい、近衛も大命拝受後の記者会見で、「私は元来各方面の対立を解消したい決心でいますから、この方針のもとに党人であろうが官僚であろうが、広く人材を網羅して、いわゆる強力挙国一致の実を挙げたいと思っています」と述べた。「去るものと来るもの、共に国内相剋を主眼の問題」〈同75〜77〉とした内閣交代だった。
近衛時代の幕明け――正月ころからこんな表現を使っていた新聞は、こぞって新内閣を歓迎したし、国民も四十七歳の若き宰相の登場を喜んだ。
[#この行1字下げ] 一般の人気は湧くようであった。五摂家の筆頭である青年貴族の近衛が総理大臣になったということが、何かしら新鮮な感じを国民に与えたのだ。……近衛があの弱々しい感じの口調でラジオの放送などすると、政治に無関心な、各家庭の女、子供まで近衛さんが演説する≠ニいって、大騒ぎして、ラジオにスイッチを入れるという有様だった。〈岩淵『敗るゝ日まで』119〉
宇垣も、「何というても温室育ちの貴公子なるが、之れを突破するの体験と勇断を有し居らるるや?」と一抹の危惧を抱きながらも、近衛内閣に好感を寄せていた。
[#この行1字下げ] 人格申分なく、識見もあり時局に対する認識もあり、政界の情誼にも通じ居らるる方なれば、誠に結構……新たなる時代に於て新人近衛公の出馬は、大歓迎……〈宇垣日記1148〉
国民の期待を一身に集めた近衛は、広く人材を網羅していわゆる挙国一致の実を挙げる方針で組閣を始めた。「(西園寺が)いつも最も心配している」外務大臣には広田元首相を起用し、西園寺も「まあ、広田もできるだけ一つ近衛を援けてやってもらいたいもんだ」と言っていた。杉山陸相、米内海相は留任したが、近衛が「重点を財政に置いて、特に大蔵大臣の人選に考慮を払う積り」〈『近衛文麿』上380〉と声明した蔵相の人選は難航した。
当初案では結城蔵相の留任になっていたが、結城蔵相が三月九日に実行した為替相場維持のための「金の外送で軍部の評判宜しからず」〈宇垣日記1148〉、陸軍は馬場前蔵相を推してきた。しかし、馬場に対しては「財界その他の反対が強い」〈『近衛文麿』上381〉。陸軍の意見を無視できない近衛は、馬場を内務大臣に据えることで妥協した。ところが、「馬場氏を入閣させたので、結城氏は辞することになり」、蔵相候補は、前正金頭取の児玉謙次、対満事務局次長の青木一男、さらには元文相の平生釟三郎と二転三転したのち、大蔵次官の賀屋興宣が就任することになった。
「軍部の忌避によりて結城を排せんならば、軍に屈服したる感を生ず」
宇垣は苦々しげだったし、原田も、「馬場が入ったために一般の人気はとみに悪くなった」と近衛に苦言を呈した。
「陸軍はしきりに近衛々々と言って、近衛を総理に望んでおって、一旦近衛が総理になると、今度はいろんな難しい注文をしきりにしているようだが、一体これはどういうわけか」
天皇も宇佐美武官長を呼んで、陸軍の横暴をたしなめた。
天皇は、近衛の登場を喜んでいた。一年あまり前、二・二六事件のあと、「是非とも……」と組閣を命じたのが、ようやく実現したことになる。親任式のときにも、「近衛には憲法を尊重せよと特に言わんでもいいだろう」と湯浅に語って、憲法、外交、財政についての「三カ条の御言葉」を省くほど信頼していた。それだけに、陸軍が近衛の組閣に介入するのを咎めたのだが、同時に、「近衛公のごとき門閥ある青年政治家が、何故その本領を没却してまでも、軍部に迎合して、その内閣の顔ぶれにいたるまでも、かれらの注文に応ぜざるを得ざるか」〈小山日記170〉と小山完吾が憤慨したように、近衛の陸軍に迎合しているとも思えるこの姿勢――言い換えれば陸軍と近衛の関係に、天皇は不安を感じたようだ。
天皇のこの不安は、まもなく的中する――
[#改ページ]
読 者 へ
昭和前半期の国内情勢を、「二つの国」ということばで言い表わすことがある。軍部とその他の勢力との相克という意味であり、本書下巻にも、グルー大使や阿部首相のことばなどでしばしば登場する。
同じく、「宮中グループ」といういい方もある。西園寺、牧野、木戸、あるいは近衛など宮中に近い貴族階級の政治家グループをいうのだが、これも時代の一面を突いているものの、誤解を生みやすいことばである。
悲劇に終った昭和前半史の一つの問題は、時代の風潮とともに、あるいは大陸積極論に、あるいはファッショの風潮に、さらには軍部の意向にと、目まぐるしく迎合して、自己の立身出世のみを謀った一群の人々の存在にあった。大臣病患者≠烽サうであり、政治家や軍人、あるいは宮中グループといわれる人々の中にもそれが目立ち、結果的にはこれらの人々が国論を左右していった。
だから、二つの国=Aあるいは宮中グループ≠ニいう分類は、ある局面を言い表わしているものの、歴史の展開を説明するものとしては、的はずれであると私は思う。
下巻は、太平洋戦争をクライマックスに、三国同盟の成立を聞いて「近衛はなにをやっておるのか、これで日本は亡びる」とつぶやきながらさびしく世を去る西園寺、「米国よ、速かに起ってこの狂暴なる民族に改悛の機会を与えしめよ」と呪罵する永井荷風、東条内閣成立とともに「必ず日米戦争になり、日本は没落する」と号泣する原田、そして、開戦とともに「近衛さん、惜しいことをしましたね、あなたにこの戦績の栄誉を担わせたかった」とはしゃぎ回る枢密顧問官の老人たちの姿などを織りまぜながら、敗戦直後までを綴って見たい。
[#地付き]著  者
(注1)ロンドン海軍軍縮会議
[#4字下げ] 大正十一年にワシントン会議で締結された主力艦についての海軍軍縮協定を、補助艦(大型巡洋艦、軽巡洋艦、駆逐艦、潜水艦)にまで拡大するため、昭和五年一月二十一日からロンドンで、日・米・英・仏・伊の五カ国が開いた会議。主力艦建造停止期間を十一年まで五カ年間延長し(保有トン数比率は英・米各五、日本三)、また補助艦について日本は総トン数対米七割、八インチ備砲大型巡洋艦対米七割、潜水艦保有量七万八千トンを要求したが、対米六割を主張するアメリカの反対にあい、補助艦総トン数対米六九・七五%が認められただけで、八インチ大型巡洋艦対米六割、潜水艦五万二千七百トンで妥協案が成立、浜口内閣は軍部の反対を押し切って四月二十二日に条約に調印した。しかし、翌日開会した第五十八議会で政友会が、国防計画は統帥権に属するもので、政府が軍部を無視して調印に踏み切ったのは天皇の大権を犯すものだと政府を攻撃し、統帥権干犯論議が喧しかった。
[#4字下げ] 六月には加藤寛治軍令部長が辞表と政府弾劾の上奏文を捧呈して騒ぎが広がり、条約の批准が危ぶまれたが、政府は世論の支持を背景に強硬な態度をとり、十月一日には枢密院を通過させて、翌日批准の手続きをとった。
[#4字下げ] しかしこの問題を契機に軍部、右翼の動きが激化、平沼枢密院副議長は伊東巳代治委員を使って枢密院でこの条約を否決して浜口内閣を総辞職させようと画策し、また批准一カ月後に浜口首相が狙撃される事件が起こった。さらに海軍は加藤部長、末次次長らの「艦隊派」が生れて、「陸軍の暴走に便乗して、陸軍をかくれみのにして、巧みに海軍の伝統である南進論の布石を進める」ことにもなった。
[#4字下げ]「外へ向かって戦うことは、同時に内に向かって戦うことであり、それでなければ、事はまとまらんものである」〈若槻『古風庵回顧録』359〉
[#4字下げ] 若槻禮次郎首席全権はこういい、だから「アメリカの対中政策活発化、中国の排日激化、このような事態に反発した柳条溝事件、五・一五事件など、いずれもロンドン条約の起した波乱である」(石川信吾海軍中将)――ロンドン条約は「昭和動乱の導火線となった」――という見方も出てくる。
[#4字下げ] 西園寺は、この問題を「非常に重大視」していた。
[#4字下げ]「大局から見れば、いくら強いことを言ったところで、結局しまいまで、勝ちおおせるものではない、そのようなことは国力からいって到底まだ難しい。一体一国の軍備というものは、その国の財政の許す範囲で始めて耐久力のある威力が保てるのである。……日本が先に立って六割でもいいからこの会議の協定を成功に導くように、国際平和の促進に誠意を以て努力するということを列国に認めさせて、即ち日本がリードしてこの会議を成功に導かせるということが、将来の日本の国際的地位をます/\高める所以であって、……英米と共に采配の柄を持つことができる今日の日本の立場を、七割を強調するために捨ててしまって、フランスやイタリーと同じような(采配の先にぶら下っている)側につくということが、国家の将来のために果して利益であるか不利益であるかということは、判り切った話ではないか」
[#4字下げ] 西園寺のいう国力の限界――これについては当時軍事参議官だった岡田啓介海軍大将も、「戦うだけの支度が出来ればいいが、そんなことはいくらがんばっても国力の劣る日本には出来ない、出来ないならば成るべく楽にしたほうがいい」〈岡田啓介『回顧録』(25年、毎日新聞社)〉と考えていた。
[#4字下げ] 岡田は西園寺から「条約のまとめ役になって力を尽すことを期待」されて、「対立した海軍をとにかく纏め」「御批准を仰ぐところまで漕ぎつけた」。若槻によれば、「このときの岡田の働きが、条約の成立を希望して居られた西園寺公に認められたことが、後日、斎藤内閣の後に、公が岡田を総理大臣に推薦せられた結果になったのではあるまいか」〈若槻『古風庵回顧録』366〉という。
[#4字下げ] 原田もこの問題では西園寺、浜口、幣原外相、岡田、加藤軍令部長、末次次長などの間を駆け回り、加藤部長には「軍令部主張の大勢非なるを告げ、再考を促」〈「加藤寛治日記」―『ドキュメント昭和史』(50年、平凡社)第2巻所収〉したりした。
[#4字下げ] 軍縮条約が成立したことで、政府は一億三千四百万円の減税を行なうことが出来、またフーバー米国大統領によれば、日英米三国で二十五億ドルの節約になったという。
[#4字下げ]「骸骨が大砲を引っ張っても仕方がない」
[#4字下げ] 若槻はそのころ演説して右翼団体を刺戟したが、条約が成立して日本の財政は大いに助けられたというところだった。
[#4字下げ] その後十年十二月に第二回ロンドン会議が開かれたが各国の対立が激しく、ワシントン条約とともに十一年末に満期失効して軍縮時代は終った。
(注2)『論語』顔淵篇。「子貢問政、子曰、足食足兵、使民信之矣、子貢曰、必不得已而去、於斯三者、何先、曰去兵、曰必不得已而去、於斯二者、何先、曰去食、自古皆有死、民無信不立」
(注3)周防山口藩主毛利元昭の弟。西園寺公望と新橋の芸妓玉八(小林菊子)との間に生まれた新子の養子として迎えられて、西園寺家を継いだ。