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漆黒の王子
初野 晴
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プロローグ
「おまえが生きているから、クラスの問題が解決しないんだ。
な、お願いだから早く死んでくれ。
みんなのためにも、この学校の平和のためにも」
目のまえにくばられた漢字テストの用紙を、開始から十五分たってもまだぼんやりと眺めていた。「つうかてん」にあてはまる正しい漢字を、つぎのふたつから選びなさいという問題があった。
そのふたつというのが「通過点」と「痛過点」。
こんな問題、間違えるひとがいるのだろうか?
痛みを過ぎる点ってなんだろう。痛みが過ぎたあとにいったいなにが残るのだろう。
えんぴつの芯《しん》がすべて折られているふで箱を見つめながら、ぼくは考えていた。
きっかけはいまでもよくわからない。
最初はウンコのにおいがするとささやかれ、からだじゅうのにおいを気にして過ごした。鼻がおかしくなっているのか、それともみんなのウンコはレモンの香りでもするのだろうか? ようやくじぶんはにおわないと知り、それが原因でクラスメイトとささいな喧嘩《けんか》をした。逃げまわったクラスメイトは、足をもつれさせて転び、鼻血をだした。いい気味だと思って笑ってやった。――その翌日のことだった。教室での居場所が急に狭められていることに気づいた。だれもぼくをからかうことすらしなくなったのだ。その代わり、みにくいあだ名のあとに「菌」をつけられた。廊下ですれちがえばおえっと吐くしぐさをされる。それは瞬《またた》く間に女子にもひろがった。四年生になってから上履きや体操着や道具箱がひんぱんに隠され、たいていロッカーか焼却炉で見つかるようになった。グループや班づくりにしても最後まで残され、みんなの顔色をうかがえば嘲笑《ちようしよう》がもれた。
そんな学校でのできごとは両親に黙っていた。いえるはずがなかった。たまに話をすれば、しきりに勉強しろといわれる。いじめに悩み、学校にいくだけで精一杯のぼくにとって、それは荷が重すぎる使命に思えた。
学校にいって教室の扉を開けば、獣の目が待ちかまえている。クラスメイトは抜け目なく、絶対にばれないよう結束していた。ある日追いつめられたぼくは、じぶんの欠点をノートに書き連ねた。どんな人間だってすこしくらいずるくて、嘘もつくし、汚くて、くさい。頭がおかしくなるような思いでひとつずつ潰《つぶ》す努力をした。
それでもなにひとつ変わらなかった。一番つらい昼休みは、机に突っ伏して寝たふりをし、教室にいられなくなると体育館のトイレに避難した。しかしクラスのだれかに見つけられ、責任のなすりあいが裏でされ、挙げ句の果てにあてつけだと反発を買い、陰惨な嫌がらせにますます拍車がかかるようになった。やがて「ばい菌」の代名詞として学校中に知れ渡り、顔の知らない下級生からも、同情や蔑《さげす》みの目を向けられた。
生きていることを責められつづけたぼくは、みんなを、そしてじぶん自身を呪った。
だから「死んでくれ」とホームルームの時間にいわれたとき、奇妙なうれしさがわいた。
ようやく一本の藁《わら》をさしのべられた気がしたからだ。
みんなにはやし立てられながら――いままで泣くのだけは我慢してきたのに……あふれる涙をおさえることができなかった。ぼくが生きているからいけない。生きている限り解決しない問題なのだ。じゃあみんなのために早くこの世から消えよう。早く、早く……。死ぬことはテレビのなかで見てきた。あんな安らかな顔をして、みんな死んでいるじゃないか。
できるなら人目に触れずこっそり死にたい。
スズメやカラスや野良ネコを見習おうと思った。なぜなら道ばたで朽ちている死骸《しがい》を見たことがない。彼らはきっと、じぶんだけの死に場所を持っている。だれにも見つからず、じっと息をひそめることができて、おとなしく死ぬのを待てる秘密の場所を。
早く死んでこの世から消えなければ……
急《せ》き立てる心の声が背中を押した。ふらふらとした足どりで街中を徘徊《はいかい》し、うつろな目でさがしまわった。駅まえの商店街、建設中のまま放置された工事現場、空き地、公園、神社、図書館、市営プール。ぼくが生まれ育った街、端から端まで歩いていける世界、それがすべての閉じた世界……頬に雨があたって我にかえった。ぼくは傘を持っていた。ありがたかった。傘のなかにこの顔を――この姿を隠すことができる。
いけるところはすべていき尽くし、沿線沿いをとぼとぼ歩くぼくの顔は落胆していた。
雨がやみ、頭上で雲の隙間がひろがり、夕焼けの照りかえしに目をうばわれて立ちどまった。道ばたから見おろすと廃墟《はいきよ》になった浄水場があった。いままでなん度も通った道なのに気づかなかった場所だった。背の高いフェンスに囲まれ、コンクリートで仕切られた貯水槽がいくつもならび、プレハブ小屋やモーター室らしい建物も見える。ぼくはガードレールをまたぐとひとひとり通れるだけの険しい道をおりて、フェンスの錆《さ》びた金網に指をかけた。
ああ。このときのぼくは、いったいどんな表情をしていたのだろう。ばかげているかもしれないが、見たことのない死に向かって憧《あこが》れ、親しげな笑みさえ浮かべていたのかもしれない。
日が暮れるまえにどんなことをしてでも、なかに入ってやろうと決めた。
「立ち入り禁止」のプレートが邪魔だった。執念深く入りこめる場所をさがすうち、フェンスの内側から、金網に指をかけている少年がいることに気づいた。おない年くらいの少年が、きょとんと見つめかえしてくる。このとき車椅子というものをはじめて見た。鳥籠《とりかご》をひざのうえにのせた少年は、いまにも後ずさりそうなぼくの目を敏感に察知し、指をさしてこたえてくれた。指のさき――三百メートルほど離れた場所に、コンクリート造りの児童福祉施設が見えた。建物は立派だが、冷え冷えとした印象はぬぐえなかった。
それですべての説明が足りてしまった。
むかし、きいたことがあったからだ。
住民の猛反対を押し切って完成された競馬場と競輪場。その利益を還元してつくられたのが、付近一帯に建っている福祉施設やリサイクルセンターだった。街の失業者を積極的に雇い入れる予定だったらしいが、ついに動く人影を見られることはなかった。街のだれもが見捨てた空間、あるいは無意識のうちに差別してきた空間――
少年に手招きされた。なんのことはない。鍵《かぎ》が壊された入口がそばにあった。少年は直之と名乗り、よくあそこから抜けだしてくるんだ、と笑ってこたえてくれた。お父さんやお母さんは? という類《たぐい》の質問をしたおぼえがあるが、彼はからだを強張《こわば》らせるだけだったので、きくのをやめた。抱えている鳥籠を見ると、めずらしい色のインコが二羽いた。街のペット屋で見たことのある種類だった。一時期|流行《はや》ったが、ふえすぎてしまったため安く売られていることは知っていた。直之はもらいものだとはにかんだ。どうやら施設でペットは飼えないらしい。
とうとうぼくは死に損ねてしまったが、その喪失感を忘れられる、つかの間の居場所を手に入れることができた。じぶんより弱そうな人間――見下すことができ、いつでも傷つけられる対象をはじめて見つけた。口にはださなかったが、彼のそばにいることで優越感にひたれた。困ったことがあればぼくに相談すればいい。ぼくがやさしくする。ぼくが助けてやる。
それから小学校が終わると、だれにも見つからないよう、まっすぐ浄水場の廃墟に向かうようになった。そこで多くの時間を直之と一緒に過ごした。なんでもひとりでやろうとする直之には、ぼくにはない聡明《そうめい》さと意志の堅固さがあり、なにより多くの本を読んでいた。それはぼくを嫉妬《しつと》させた。車椅子のくせに、となん度その声を呑《の》んだかわからない。
そこでは両親や先生でもない大人とも接することができた。はじめてまともにふれる、他人の大人だった。あの場所は浮浪者たちの溜《た》まり場でもあったのだ。右の耳が欠けた男を中心に七、八人いて、直之がいないときは、彼らがインコにえさをあたえていた。浮浪者たちは無責任なことをいったり嫉妬深くて、決していいひとばかりではなかったが、彼らに相談すると思わぬ展望が開けることもあっておどろいた。
ぼくは直之とよく口喧嘩した。なんでもじぶんでやろうとする直之が、ぼくの厚意や親切を無駄にするからだった。あるときは激しくいい争い、目くじらをたて、勢いあまって車椅子を蹴《け》っ飛ばしたこともある。それでもぼくは、直之のそばから離れられなかった。たまりかねた浮浪者たちがぼくに敵意を向けたとき、直之は必死になって弁護してくれた。ぼくは直之を盾にして、ふるえていたというのに。
なん十日と過ごして気づいたことがあった。
彼らは直之に対して限りなくやさしかった。いま考えれば、弱者が弱者に感じるシンパシーがすくなからずあったのかもしれない。浮浪者が生きていくためには公衆のまえに「貧困」をさらけださなければならない。直之もまた車椅子にのっている限り、完全な隠れみのがない。そうやって、一般のひとびとと「区別」されている。まわりからじろじろ見られる目や、見まいとそむける目、ぼくとはなにもかもちがう世界で彼らは生きている。しかし彼らは失ったものを数えることはせず、残ったものを懸命に数えて生きているような気がした。
彼らの気持ちにもっとふれてみたい。いつか打算抜きで愛せる日がくるかもしれない。真剣にそう思えるようになってから、浄水場の廃墟に行くのが楽しみになっていた。いま考えればぼくの一生で一番輝いていた時期は、あのときだけだったのかもしれない。
終わりは――ぼくがはじめてひとを殺した、十一歳の夏にやってきた。
クラスメイトが目のまえで水の底に沈んでいった。一緒にいた連中は大人の助けを呼びに浄水場の廃墟から散っていた。もがき苦しみながら貯水槽に沈んでいく手を、ぼくは頭からつまさきまでまっ白に染まり、両目だけ剥《む》きだしの状態で眺めていた。足もとには噴射されて白く泡立つ消火器が転がり、散乱するエアガンの弾、そして血を流してうずくまる浮浪者たちがうめき声をあげていた。なによりもかわいそうなのは、直之が可愛がっていたインコだった。はがいじめにされたぼくの目のまえで、鳥籠ごと貯水槽に沈められてしまった。
逃げまわる浮浪者たちに散々エアガンを撃ちこんだあげく、「つまんね」と捨て台詞《ぜりふ》を吐いたクラスメイトを、ぼくは殺したいという憎しみがあってうしろからつき落とした。卑怯《ひきよう》とは思わなかった。後悔なんてしていない。悔しさで気が変になりそうだった。
土を踏むタイヤの音がフェンスの外から響き、ぼくは弾《はじ》かれたようにふりむいた。(他のクラスメイトたちが自転車でもどってきたんだな。親や大人たちを連れてきたんだな――)足はふるえ、目は充血して赤く濁り、口はからからに干あがった。じぶんの名をなん度も呼ばれてはっとした。なん度となく耳にしてきた声……。両肩を激しくゆさぶられるような感覚に、顔からようやく険がとれた。
騒ぎをききつけてきた直之だった。車椅子にのったまま外側から金網をつかみ、ぼくの周囲を見まわしている。聡明な直之は、なにが起きたのかを瞬時に理解したようだった。車椅子のハンドリムを懸命にまわし、フェンスの扉に片手をのばそうとした。
直之のそんな姿を見て、ぼくはその場で泣きくずれそうになった。顔をくしゃくしゃにしてつぎにしたことは、フェンスの扉を内側からかたく閉ざすことだった。
「――こっちに入ったら絶交だ」
かちかちとふるえる歯の隙間から、それだけしかいえなかった。
直之はなにかいおうとして口を開き、すぐ閉じた。いっぱいに見開かれた目は、これからぼくに降りかかろうとする不幸を察知しているように思えた。それから彼がいった言葉は、生涯耳を離れることはない。――僕を捨てないでくれ、と泣きださんばかりに懇願したのだ。前後の脈絡もなく、いきなりそう訴えた。「捨てないで」という言葉にショックをおぼえた。ぼくと出会うまでどんな辛《つら》い目にあってきたのか、その翳《かげ》りの部分をはじめて見た気がしたからだ。こんなぼくでも支えにして生きてくれた。そしてぼくがいなくなる恐怖で、ふたたびそんな言葉を吐かせてしまった。
直之、ごめんよ、直之……
ぼくは扉を閉ざす手を決してゆるめなかった。やがてパトカーと救急車のサイレンが鳴り響き、直之のすすり泣く声は完全にきこえなくなった。
それから嵐が吹き荒れるような騒ぎがなんヶ月もつづいた。
貯水槽をいくらさがしても、クラスメイトの死体が発見されなかったからだ。貯水槽の水を抜いても見つからなかった。しだいにぼくの言葉に耳を貸さないひとが増えた。自力ではいあがり、助けを求めるあいだになんらかの事故に巻きこまれたのではないかという、信じられない憶測まででた。しばらくして、似ている子供が車に乗るところを見たという目撃者があらわれ、ついに行方不明の扱いとなった。耳を疑った。そんなはずはない。ぼくはあぜんとした。この国では死体が見つかるまで「死」ではないことを、このときはじめて知った。ぼくは見たこともない大人たちに囲まれる日々を過ごし、なにをきかれても叱責《しつせき》されても耳のなかに石綿がつまったようにふさぎこんだ。考えていたことはひとつだけだった。――この街に死体が永遠に見つからない場所があった。かつてぼくがさがし求めてさすらっていた、秘密の場所が……
それまで散々ほったらかしにしてきた両親も、その渦中でようやく事の重大性に気づいたようすだった。まわりからそれみよとばかりに責任を問う声があふれ、事件が起きた経緯がいくら明らかにされようと、被害者家族のいき場のない怒りは周囲を巻きこんで、少数派であるぼくの家族に集中した。
郵便受けにごみがつっこまれ、嫌がらせ電話は鳴りやまず、買いものさえ満足にいけない状態になった。生活する場所を失ったぼくの家族は、家を手放すことになり、引っ越しを余儀なくされた。
しかしそれはまだましなほうだった。
ぼくが嘆き悲しんだことは、直之や街の浮浪者たちにも矛先が向いたことだった。ふつうのひとと明らかに区別されて生活しているだけに、まだ小さい子供でさえ差別した。知らないところでクラスメイトによる様々な物語がでっちあげられ、尾ひれがついて小さな街にひろがり、その結果、結束した住民たちの敵意に満ちた目が彼らに注がれるようになった。浄水場の廃墟は完全な出入り禁止となり、それでも飽きたらず関係のない浮浪者たちまでも居場所を追われるはめになった。きちんとたたんでおいてある段ボールやビニールシート、生活用品でさえ、ごみとして付近の住民たちに勝手に処理された。
しばらくしてあの廃墟にいた浮浪者たちが、この街から姿を消したことを知った。なんということだろう。あのクラスメイトの死体とともに、彼らも姿を消してしまったのだ!
直之ともいっさい連絡がとれなくなった。事件が起きてからあの冷たい施設に閉じこめられ、自由に外出できなくなったという。きっと直之は、大人たちになにをきかれても、口を貝のように閉ざしているにちがいない。
ある日、福祉施設の子供がひどい嫌がらせを受けたという噂を耳にした。直之のことだろうか? 噂のなかでくりかえされる「硫酸」という言葉に、ぼくの心臓の鼓動は早鐘を打った。
居ても立ってもいられなくなり、直之に会いにいこうと決心した。家を抜けだし、だれにも会わないよう道を選んだつもりだった。ひと通りの少ない路地を折れ曲がったとき、うしろから肩をつかまれてはっとした。あのときなん人待ちぶせしていたのかわからない。そのなかに見おぼえのある顔があった。ぼくが貯水槽に突き落としたクラスメイトの兄の顔だった。髪を抜かれるほど引っぱりまわされ、服をぜんぶ脱がされ、殴られ、足蹴にされ、気づいたときにはひとりで血を吐いていた。アスファルトに散乱するじぶんの歯を見て総毛立った。顎《あご》を砕かれたのだ。声をだせない。ぼくは道の砂利を指の皮がむけるまでつかみ、ぼうぜんと空をあおいだ。それでもじぶんの痛みより、直之のことが心配だった。
目が覚めたら病院にいた。鼻や口にチューブが差しこまれ、身動きがとれない状態でなん日も過ごす羽目になった。とうとう直之に会えることなく引っ越しを迎えた前日、ぼくは自室に閉じこもり、床にひれ伏してむせび泣いた。
ぼくは日本から遠く離れた、イギリスにある寄宿制のインターナショナルスクールにいくことが決まっていた。それからぼくは四ヶ国以上の学校を転々とした。イギリスがだめならアメリカへ、そこがだめならオーストラリアへと、なにか問題があれば両親の希望で、どんどん転校させられた。
どんな環境にいても、かたときも直之のことを忘れなかった。
そして誓った。
なん年なん十年とかかるかわからない。だが、かならずあの街にもどっていく。直之……。もしそのときにきみがいて、ぼくを受け入れてくれるのだったら、なんでも命じてくれ。ぼくが犯した過ちを償うためならなんでもする。ぼくたちを虐げてきたあの街に復讐《ふくしゆう》してもいい。目に入るものはすべて壊して、あのころのようなぼくたちだけの世界をふたたびつくってもいい。だからどんな辛い目にあっても、たとえ生きることを責められつづけることがあっても……辛抱して生き抜いてくれないか。再会するまでにきみの心が壊れてしまうことがあれば、ぼくがずっとそばにいて救ってやる。
――今度こそ、きっとぼくたちは一緒なのだから。
そうしておれたち[#「おれたち」に傍点]のあいだに二十七年の歳月が過ぎ、息苦しいほどの炎天下が支配する夏を迎えた。
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第一部
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上側の世界 1
千鶴から電話があったのは午後六時前だった。
事務所に詰めていた若者のひとりが電話を取り、秋庭《あきば》にまわされた。
二十四歳のママ――千鶴は、一週間以上もクラブを無断欠席した真由子のマンションを訪ねたという。すると部屋に「真由子らしい」死体があったとのことだった。俺に連絡する前に警察に連絡したのか? 秋庭が聞くと、そうしていいの? と返されて唐突に電話を切られた。
秋庭はコードレスホンを手にしたまま呆気《あつけ》にとられた。真由子という女が自宅のマンションで勝手に死んだ。正直、別にどうってことのない出来事だ。しかし千鶴の最後の一言が気になった。
組長代行の紺野《こんの》がソファで横になりながら、黙ってその一部始終を聞いていた。百九十センチを超える身長、ダークスーツに真っ白なシャツ、ブランドもののネクタイに先の尖《とが》ったサイドゴアのブーツ。無精髭《ぶしようひげ》のある顔はどこか翳《かげ》がかり、薄い氷のような目をした男――
秋庭が千鶴とのやりとりを報告すると、紺野は顔色ひとつ変えずにソファから半身を起こした。
「おれも行こう」
秋庭は止めたが、紺野は先だって事務所を出てしまった。
「代行、車を……」
弟分に外出の用意を命じたときにはもうエレベーターが到着する音が響いていた。紺野がこの時間帯になると歓楽街を歩きたがることを思い出した秋庭は、夏物のダブルのスーツをあわてて羽織り、あとに続いた。
ふたりを乗せたエレベーターが雑居ビルの三階から一階に移動する。チンと扉が両側に開いた瞬間、この街の日常が大群で押し寄せる感覚に襲われた。
囀《さえず》りがひしめきあうように街を埋めつくしている。
路上に出た秋庭は、いまいましそうに頭上を見上げた。
日が暮れはじめる空一面に、無数の飛行群の影があった。北の方角から集団で旋回し、市役所通りにある寝ぐらめがけて一羽、また一羽と、数え切れないほど下りたってくる。片側三車線道路の中央分離帯にある、背丈二十メートル以上あるケヤキの街路樹の葉が、空から矢のように注ぐ影で揺れていた。
この街をはじめて訪れる者なら、誰もが突然泣き声が空から降ってきたかと思って顔を上げる。そこにあるのは電線にぎっしりととまる鳥の群れだった。美しい緑色の羽と黄色の長い尾羽。体長は家庭で飼うインコの倍ほどある。鳥の重みで軋《きし》む電線はバス通りから歓楽街の中心部まで続き、赤いくちばしがしきりに動く様は見上げる者を圧倒させ、そしてようやくアスファルトを塗り立てる糞《ふん》の跡の正体に気づく。
いつの間に増え、今では千羽近くが大通りの街路樹を寝ぐらとして住みついていた。
キリッ、キリッ、と普段聞き慣れない囀りがピークに達する日没になると、それに呼応するように路上の人の数も増えはじめる。
あふれる人波は巨大な力に押されるように、秋庭達とは反対方向――歓楽街の中心へと流れていた。信号で立ち止まり、歩道からはみ出ながら停滞し、堤防を崩す水のように再び流れていく。そして回転看板や派手な電飾が灯《とも》る雑居ビルに、吸いこまれては吐き出されていく。乱立する雑居ビルには、ゲームセンターやパチンコ店、カラオケ、居酒屋、風俗店、雀《ジヤン》荘、高級クラブにカジノバーがテナントとして入っている。
バブル時期、東京への通勤圏内としてにわかに注目を集めた地方都市だった。
しかし駅前再開発や大型インテリジェントビル、きらびやかなショッピングセンターや美しい季節の花で彩られた公園など、地価がじりじりと上昇した頃の面影はすでにない。今では歓楽街を残して街灯の明かりが次々と間引かれ、左右に脈絡なく建つ雑居ビルも、汚れを吸収したスポンジのようにくすんでいた。その狭い空を、緑と黄色の南国風のコントラストが占拠している。
秋庭は紺野のそばから離れず歩いた。
道の端から、チンピラ風の男や客引きが大袈裟《おおげさ》に挨拶《あいさつ》してくる。通りに出たキャバクラ嬢も愛くるしいえくぼを浮かべた。どの組にも属さず、その筋の関係者から煙たがられている頭のねじが緩んだチンピラでさえ、ふたりに愛想がいい。
紺野は完全に無視し、黙殺していた。
この界隈《かいわい》で紺野の名は知れ渡っていた。五年前、武闘派を標榜《ひようぼう》する藍原《あいはら》組の組長代行として本家から派遣され、今では組の実質的な采配《さいはい》をふるっている。この界隈で紺野をつけ狙う人間は多い。しかし肝心の紺野はそんな緊張感を少しも匂わさず、普段の暴力の陰惨ささえ表に出そうとしない。
歩道の先が、学生らしいグループで占領されていた。
その中に紙バッグを下げたホームレスが立っていた。電線をぼおっと見上げている。ひどく歩き疲れ、ひと目で不健康だとわかる初老の男だった。普段は歓楽街から遠く離れた郊外、青いビニールシートのテントの群れで生活している連中のはずだった。縄張り争いからつまはじきにされたのだろうか? この時間この界隈に、運悪く迷いこんでしまったかのように佇《たたず》んでいる。通り過ぎる人々は無遠慮に視線を突き刺しているが、それらの視線を受けて返す力などどこにもなさそうな姿だった。
信号が青になり、ホームレスの頭は雑踏に呑《の》みこまれた。蹴飛《けと》ばされ、アスファルトに這《は》いつくばる嫌な音がし、いやっほう、と若い嬌声《きようせい》が湧き上がった。
秋庭は目をとめていたが、黙々と歩き進んでいく紺野の背中に気づき、あわててあとを追った。
目的のマンションは北の外れの住宅街にあった。車で向かってもこの時間帯だと、かかる時間はそう変わらない。しかし秋庭にとって車の移動が望ましかった。まずはエアコンの冷気だ。滴り落ちる額の汗をぬぐいながら、頭上を睨《にら》みつけた。
鳥の囀りはトタン屋根を叩《たた》きつける雨音のように止まない。これが深夜まで続くと思うと、うんざりした。耐え難い蒸し暑さがますます増長されていくようだった。
「気になるのか」
紺野が前方を見すえたまま言った。
秋庭の耳には、我慢できないのか、という風に聞こえ、
「すみません」
不手際とばかりに謝り、
「……あの、ひとつ聞いてもよろしいでしょうか?」
「言ってみろ」
秋庭は遠慮がちに一拍おいた。
「代行は昔、この街に住んでいらしたと聞きましたが」
紺野が黙って続きをうながした。
「自分はこの町に住むようになってからずっと不思議に思っていました。――あの群れは、インコかオウムの仲間なんですか?」
紺野は視線をわずかに上げ、
「ワカケホンセイインコ」
と、短く答えた。
「え」
「セネガルホンセイインコの亜種、だ」
誰に説明するでもなく、単に言葉を吐き出しているだけともとれる、抑揚を欠いた声だった。秋庭は聞き耳を立てながら、紺野が国立大出であることを思い出した。会社役員の父親を持ち、兄弟はなく、小学校から高校まで海外留学をくり返していたという。しかし十七歳のときに一家離散、帰国後二、三年の間自分で学費を稼ぎ、大検を経て入学したと聞いていた。なぜこの稼業に足を踏み入れたのか、その理由を紺野は語ろうとしない。
「インコと歓楽街……妙な取り合わせですね」
秋庭はつぶやくように言った。
「別に不思議じゃない。北は新潟、南は宮崎まで繁殖している。秋庭、ヒートアイランドって言葉、聞いたことないか」
突然問われて秋庭は戸惑った。「すみません。自分には学がありませんので」
「おれは謝れと言ったか?」
「いえそんな……」
秋庭は再び電線を見た。
ひしめき合う影――
まるで自分達の王国を謳歌《おうか》するように囀りあっている。
「そういえばあいつらの死骸《しがい》、見たことないんですよ」秋庭はぽつりと言った。「何度もこの歓楽街を往復しているのに、変ですね」
紺野は足をとめず、顔半分だけふり向いた。
「カラスや野良猫みたいなこと言うんだな、お前」
「そういえばここではカラスをあまり見ません」
「天敵のひとつだが、ずいぶん減らされた」
「減らされた?」
「街の景観を損ねるということだ。それに比べてあのインコは、鳥獣保護法で捕獲禁止になっている」
「へえ」
「この街を糞《くそ》まみれにしているのにな」
毎朝インコ課という腕章をつけた市の職員が、歩道の糞の始末をしていることを、秋庭は思い出した。
「カラスの末路、なんだか似ていますね」噛《か》んで含めるように言い足した。「昔の自分らに」
紺野は何も答えなかった。代わりにクラクションの音が鋭く響き、車のテールランプが連なる道路中に伝染した。
(……千鶴はマンションにいるだろうか)
秋庭は歩きながら考えた。あの様子は、現場で待っている素振りだった。だとしたら死体のそばから離れていないことになる。あの女ならあり得ることだった。千鶴は紺野が拾ってきた女だ。そして紺野が言っていたとおり、どうしようもない女だった。
かつて秋庭は、組の仕事として多重債務者達への「紹介屋」をしていたときがあった。
組と取引きのある消費者金融会社のリストから、およそ月収の三十倍以上の借金がある二十代から三十代までのひとり暮らしの人間に限定してチラシを入れる。するとだいたい向こうから連絡が入る。追加融資を紹介する代わりに借金の一本化を薦め、手数料として融資額の三割ほど頂く。相手は藁《わら》にもすがる思いだから意外と簡単に承諾してしまう。秋庭は今どきの多重債務者ほど扱いやすいものはないと思っていた。財布の中身を数えられない「目の不自由な人」か、いくら使ったかわからない、だから返済できるわけがない「頭が不自由な人」のふた通りだけだ。秋庭はとくに若い女をターゲットにしていた。若い女なら仮に自己破産させても、男と比べて取りはぐれはない。むしろどんなに切羽詰まっても免責を受けられない自己破産に追いつめたほうが、手っ取り早く身体で稼がせることができる。事実、組が仕切っている風俗店にはそうしてまわされた女が多数働いていた。
ある日のことだった。秋庭はいつものようにリストを眺めるうち、常連のふたりの名前が消えていたことに気づいた。そのふたりは高齢者であり、若い女の借金とは違い、本当に生活苦のために借金をしていた人間だった。明細を見れば明らかだった。年金を切り詰めながら、月末に法外な利息分を返済している。秋庭はこのふたりをノーマークにしていた。事前の調べでは、体調を崩してパートに出勤できなくなったひとり暮らしの老婦人と、寝たきりの兄と暮らす老婦人だった。
秋庭は偽善者ぶるつもりはない。ただ人並みの良心は少なからずある。しかしこの点で何か引っかかるものを感じた。金融会社に問い合わせてみると、このふたりが自殺していたことが判明した。寝たきりの兄と暮らしていた老婦人に関しては、無理心中を図っていたという。不審に思って資料を請求して調べてみたところ、さらに驚くべきことがふたつわかった。
ひとつは半年の間、消費者金融からまったく借金はしていなかったことだった。そしてもうひとつは、このふたりの年金が振りこまれている口座名義が、当時ホームヘルパーのボランティアで通っていた「森田千鶴」という女の名義に変更されていたことだった。
……千鶴はそういう女だ。老婦人達がただ死ぬことばかり考えるようになり、「早く死にたい」とこぼすのを聞いて頬を紅潮させる女。瞳《ひとみ》の奥に人を惑わす魅力を宿し、他人の痛みにいっさい関心を持たない女。秋庭にはそう思えてならなかった。千鶴は事件が表沙汰《おもてざた》になる前に紺野に拾われ、二十歳そこそこの若さでナイトクラブのママという地位を与えられた。しかし実際は紺野の息がかかった店のマネージャーが仕切っている。
秋庭は歩きながら、狭い歩道を占拠する人波に目をすえた。
もともとこの地方都市には、地元暴力団の間で共存共栄路線が敷かれ、無用な争いを避けてきた土壌があった。しかし新法と長引く不況のもと、暴力団は蝋燭《ろうそく》の火を吹き消したように界隈から姿を消した。単純な話だった。表社会が不況となり暴力団にまわす資金がなくなったのだ。暴力団も資金源が枯渇して金がないから盛り場に顔を出せなくなる。どの組もシノギで瀕死《ひんし》の重体となった。末端組員だけでなく系列組長でさえ追いつめられる悲哀を味わい、末端組員に関しては高校生とつるんでこそ泥まがいの自販機荒らしまでしていた。かつて一万円札一枚を奪い合う有様を秋庭は目の当たりにし、市役所を騙《だま》して生活補助を受ける組員を間近で知ったときは絶望さえ感じた。
その状況を変えてくれたのが紺野だった。
広域指定暴力団の二次団体に、沖連合というフロント企業を山ほど抱える組織がある。紺野はその沖連合から、この地方都市に根を張る傘下団体の藍原組に再建役として派遣されてきた。組長代行として采配をふるった紺野のやり口は合理的かつ迅速で、暴力の行使は新法をものともしない苛烈《かれつ》なものだった。それまでぬるま湯につかって足を引っ張りあっていた地元暴力団に、仁義を無視した一本化を強行し、そのすさまじさの片鱗《へんりん》を見せる一方で、警察の目を欺く卓越した経営手法によってこの地方都市に莫大《ばくだい》な利権を築き上げた。
秋庭は紺野の横顔を盗み見た。
どの組も資金繰りにあえいでいる中、藍原組だけが組織拡大の絶頂にいる。それなのに紺野の目は異常なほど醒《さ》めている。ときどき焦点を結んでいるとは思えないほどの漠とした視線を向け、秋庭を戸惑わせることもある。甘い成功の果実を味わい、暴力と金の権力に陶酔し、緊張しながら今の絶頂を維持しようとしている秋庭や他の組員達とは、明らかな温度差があった。その温度差が何に起因するのかは、今でもわからずにいた。
頭上で羽音が重なり合い、秋庭は顔を上げた。
翼を広げた影が飛散した。見上げた先にある電線は、伸びきったゴムのように揺れている。
異様な街だ、とつくづく思った。
はしゃぐ声、せせ笑う声、ささやく声がミキサーにかけられたように歓楽街を埋めつくし、五年前と比較にならないほど風俗店が増えた。その質とサービスは年々過激さを増し、噂を聞きつけた好き者が県外から大挙してくるほどだ。この界隈を訪れる誰もが、その先にあるイルミネーションを目に映している。
すれ違う紺野と秋庭は、黙々と死体を目指して歩いた。
頭上から何かが舞い降りた。紺野が伸ばした手を逃れるように、緑色の羽はひしめく人波にのまれていった。
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下側の世界 1
――最初にうばわれたのは「星」だった。
手のなかにあるヒナの温もりが、どんどん冷たくなっていく感覚がした。わたしがヒナの体温をうばっているようで、その恐ろしさから、からだじゅうがふるえてきた。
意識はうすれては途切れ、途切れてはさざ波のようにもどってくる。たったひとつだけおぼえていたことがあった。だれかがわたしのからだをゆらし、この手をこじあけようとしていたのだ。
わたしはからだを強張《こわば》らせ、ヒナをうばわれないよう必死に抵抗した。
やがてそのだれかはあきらめたようすで、とぼとぼと歩き去っていった。
ひとり残されたわたしは、全身の悪寒と頭の鈍痛に耐えていた。すこしからだを動かせば、骨という骨に網の目みたいな亀裂《きれつ》が走るショックをおぼえた。動くのをやめた。やがて幻覚が見えるようになり、考えるのもやめた。どのくらい時間がたったのか知る由もなく、ずっとまぶたを閉じていた。
ずるずると、だれかに引きずられていく夢を見た。
…………
…………………………
ふたたび意識をとりもどすきっかけになったのは、弦楽器の音だった。
凍りついたような静寂のなか、かすかな音がもの寂しい、ものなつかしい調べを奏でている。どうやらそれがチェロの演奏らしいと気づくまで、時間がかかった。調律が狂っている。まるで子供の戯《ざ》れ弾きを思わせた。
いったいだれが?
わたしはくの字になって横たわり、冷たいかたまりに頬をよせていた。からだは油をさし忘れた機械のようにいうことをきいてくれない。まぶたを開こうと試みて、はりついているみたいに手間どった。ようやく開いた目にまっさきに飛びこんできたのは、小さな蝋燭の明かりだった。燭台《しよくだい》の上にちょこんとのり、生きもののようにゆらゆらと石組みの壁を照らしていた。
チェロの演奏がぴたりとやむ。
(……幻聴?)
わたしは顔をあげた。あたりは暗かったが、それは夜の暗さのせいでなかった。石畳がかすんで見える。ところどころ水が溜《た》まり、白くて肢《あし》の長い、得体のしれない虫が走り去った。
視線をさ迷わせ、目が慣れるのをじっと待つ。
ようやく焦点があい、おどろきで身をよじらせた。
からだを横たえている場所は、不気味な石組みの通路だった。中世の地下牢《ちかろう》というたとえが似合う、まるで現世から隔離されたような場所に、わたしはいる。
蝋燭の炎は、わたしの手がとどかない位置でわびしげにともっていた。
左右に闇がひろがっている。その向こうに潜んでいるなにかを感じとろうと、感覚を研ぎ澄ませてみた。あまりの静けさにぶるっときた。深い水底ではいつくばっている――そんな骨まで冷えてきそうな寒気に襲われた。
この世でない気がした。
蝋燭の炎がわななき、鳥の死骸を照らした。
奇妙な死骸だった。まるでここまでたどり着いてから朽ち果て、ぼろ切れのように成り果てている。わたしは目を細め、かわいそうに……と思った。だれにも見られたくない姿だろうに、蝋燭の明かりにさらされている。
緑色の羽をした鳥だった。
わたしは両手でにぎりしめているものに気づき、恐る恐る指の力を解いてみた。ヒナはかすかにそのからだをふるわせ、つぶらな黒目をわたしに向けてくれた。まだ首のまわりだけ生えそろっていない緑色の羽、淡い朱色のくちばし……ほっと安堵《あんど》の息をついた。片翼を痛めて弱っていたヒナを、わたしは助けたのだ。
目のまえで死んでいるのは、このヒナの親鳥に思えた。
ここはいったい……
なぜわたしは、こんなところにいるのだろう?
頭がずきずきする。
暗い石組みの通路は、左右に果てしもなくつづいている気がした。どこで折れ曲がり、どういう風に岐《わか》れているのか想像つかない。石の積み方はお城の城壁に似ていた。いったいだれがなんの目的で、こんな通路をつくったのかふしぎだった。
助けを呼ぼうとして、ひどく嗄《しわが》れた声しかだせないことに気づいた。喉《のど》はひりつき、乾いた舌が上顎《うわあご》にはりついている。
石畳に寝かせていた両手を持ちあげた。さっきから妙に重いものがのしかかっている気がしていた。じゃら、という金属音を耳にする。闇に溶けてあいまいな部分から、きらりと光るものがあらわれた。
目を疑った。
――両手に手錠がはめられている。
あわててもうひとつの違和感に気づき、左足首に目を移した。そこにも手錠がはめられていた。石畳に打ちつけられた、バットのにぎりのような、錆《さ》びたくさびにつながっている。
まるで囚人だ――わけがわからないまま目に映った不運を嘆いた。叫び声をあげられれば、まだ気が紛れたのかもしれない。しかしそんなことが無意味でありそうな場所に、わたしはいる。
天井の岩肌がうっすらと見えた。一直線に亀裂が入り、わずかに濡《ぬ》れている。水滴が落ちてこないかと期待した。
そんな欲求が、すこしずつ理性の糸をたぐりよせてくれた。
左腕に巻きついている銀色の腕時計に気がついた。十二時五十分。しかし針はいつまでたっても動いてくれない。表面のガラス盤にひびが入り、砕けている部分もあった。壊れたのか。
つづいてじぶんのからだに異状はないか確認した。長袖《ながそで》のシャツにブーツカットのジーンズ、そしてワークブーツを履いている。額を締めつける違和感に気づき、ヒナを石畳に移して頭に手をふれると、包帯が巻かれていた。よく見ると、からだのあちこちに手あてがほどこされている。ひどいのは左肩と右腿《みぎもも》の部分で、そこだけ焼け焦げたような痕《あと》があり、乾いた血がこびりついていた。
思わずヒナに目を移した。朱色のくちばしになにかがついている。ふかした粟《あわ》のようなものだとわかるまで、時間がかかった。
――わたしの手当てをしただれかが、ヒナにえさまで与えてくれたのだ。
からだを芋虫のようにはいずらせると、手錠の鎖がふれあう音を立てた。一瞬視界がまっ暗になり、はっとして蝋燭に目を向ける。
短くなった蝋燭が閃光《せんこう》のような点滅をくりかえし、その儚《はかな》い寿命をまっとうしてしまった。
ああ。
なにも見えなくなった。
なにも……
からだじゅうの毛穴を黒い霧でふさがれる感覚がした。圧迫感と息苦しさが押しよせ、身ぶるいがとまらなくなってきた。じょじょに肌寒くなり、歯もかちかちと鳴りはじめる。
暗闇のなか、怖くてじっとした。
やがて耳がきこえないもの音をききつけるようになった。あの白くて肢の長い、得体の知れない虫たちにかこまれている幻覚を見て、全身の肌が粟立った。
時間の感覚がうすれてくる……
うすれ、て――
――わたしは。
いつ、から――
――ここに?
はっと意識が覚醒《かくせい》する。
からだじゅうが汗ばんでいることに気づいた。闇のなかで目を凝らし、息を潜める。
コツッ……
なにかで石畳を突く音がした。耳を澄ませる。通路の奥からだった。幻聴じゃない。その音はだんだん近づいてくる。
コツッ、コツッ……
杖《つえ》の音だと気づいたのは、足を引きずる音も一緒にきこえてきたからだった。
光がすっと闇の底から浮かび上がった。だれかくる。灰色のニット帽、地面をすりそうなオーバー、象の足のようなだぶだぶのズボン。髪も髭ものび放題のびた、みすぼらしくて汚らしいおじいさんだった。
浮世離れしたその光景に、一瞬目がくらみそうになった。
杖の音が止み、おじいさんはわたしから二メートルほど離れた位置で立ちどまった。肩に鞄《かばん》をかけ、右手に杖、左手に橙色《だいだいいろ》に光るランタンをぶらさげている。
垢《あか》と脂にまみれた黒々と光る顔が見えた。長い髭は外側に跳ね、白髪がたくさん混じっている。飛びだしそうなほど大きく見開かれた目は、海底を移動する醜い深海魚を彷彿《ほうふつ》させた。
わたしは身がまえ、声をためた。
いきなりおじいさんは、杖のさきでわたしの脇腹を突いた。
けほっと、わたしは息を吐きだした。
なにを思ったのか、おじいさんは敵意をあらわにして、杖で殴りつけてくる。しだいに容赦なくなってきた。
わたしはからだをひたすら丸めて防いだ。
「気を失っていればよいものを」おじいさんが憎々しげな声でしゃべる。「強情なやつめ。早くそのヒナをよこすんじゃ」
杖が鼻のさきをかすめたとき、ようやくわたしの目に激しい怒りの感情が宿った。
おじいさんの杖がぴたりとやんだ。鎖につながった犬をいじめていた子供が、思わぬ反撃を恐れる目になった。わたしをじっとうかがい、やがてあわてふためいたようすでひざを折り、ランタンを石畳においた。いったいなにを? おじいさんは曲がった腰に手をあてた。ちゃぷ、という水の音がした。とりだしたのは、麻紐《あさひも》でくくられた水筒だった。
「こ、これをやるから、ヒナと交換じゃ」
わたしはヒナを離さず、黙ってにらみつけた。
「早く、早く――。わしはヒナにえさをあげなきゃならんのに」
おじいさんはなにかを恐れるように狼狽《ろうばい》し、オーバーのポケットに手を入れた。でてきたのは蓋《ふた》つきの懐中時計だった。蓋をかぱっと開けてのぞきこむ。時間の経過を気にしているようだった。
わたしはそのようすをじっと眺めた。そして気づいた。このおじいさんはヒナを育てるとき、数時間おきにえさを与えなければならないことを知っている。しかしヒナにえさを与え、わたしの手当てをしてくれたのは、すくなくともこのおじいさんではなさそうだった。おじいさんが恐れているのは、そのだれかなのだ。
このままヒナを離さずにいるのとおじいさんに渡すのと、どちらが安全か秤《はかり》にかけた。考え抜いた末、杖も一緒に交換するよう訴えた。杖をうばわれることにおじいさんは抵抗したが、それでもしぶしぶ従った。
おじいさんはヒナを抱えてあぐらをかき、スポイトをとりだした。そして慣れた手つきでえさを与えはじめる。
杖をうしろに隠したわたしは水筒を手にとった。唾《つば》がわいた。しかし口に含むと、するすると空気が抜けていくような、ふしぎな感覚におちいった。
「……おまえさんはヒナを抱えたまま、たおれていたんじゃよ」
おじいさんがふいにつぶやいた。卑屈さをとりもどした声に、わたしの水筒を持つ手がとまった。
「こんな話を知っとるか?」
おじいさんがぽつりと話しはじめる。
――ある冬の日、動けなくなって歩道にたおれた浮浪者の話だった。通行人は見て見ぬふりをし、救急車が呼ばれたのは半日も過ぎたころだった。それから病院をたらいまわしにされ、最後にたどり着いた福祉病院で外傷がないから帰れといわれ、帰る場所がないと訴えると、今度は警察に連れていかれそうになった。いやだといったら、河川敷まで連れていかされて「ここでいいだろう」と救急隊員に車から降ろされた。結局その浮浪者は、河川敷で冬の寒さに耐えきれず死んだ。死体が発見されたのは、翌々日の朝だったという。
おじいさんはいった。
「まともに看《み》とられず、あんなさらし者にされるとわかっていて、もし最期の望みが叶《かな》うんだったら、その浮浪者はどんな願い事をしたじゃろうな? 力を欲しがったのかもしれん。どこかでひっそりと、だれにも見つからずに死ねる場所をさがせるだけの力を」
口を開けたままぽかんとするわたしに向かって、おじいさんはつづけた。
「≪王子≫に感謝することじゃ」
「……おうじ?」
「おまえさんみたいなよそ者、≪王子≫がここまで運んで手当てをしてくれなかったら、死ぬまでだれもが見捨てていた」
わたしはおじいさんのいった意味が呑みこめず、どう受けとめていいのかもわからず、阿呆《あほう》のようにきき入った。
「……ここはいったい?」
「地下の暗渠《あんきよ》じゃよ」
「あんきょ?」
「はるかむかしにつくられた下水道のことじゃ。網の目のようにまだ残されている。そこにわしらは暮らしている」
石を積みあげてできた下水道――わたしは天井の岩盤を見あげた。それを知った瞬間、体温が一気に下がった気がして、あやうく水筒を落としそうになった。
「この天井の上は……」
思わずつぶやいた。
「当然街があるだろうな。それはもう、きらびやかな」
もったいないから。おじいさんはそういってランタンのスイッチをひねり、明かりを消してしまった。
舞台が暗転するように、あたりは漆黒の闇に包まれた。
嫌な予感がした。わたしはとっさに杖をにぎりしめた。
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上側の世界 2
「ここだな」
紺野と秋庭は目的地に着いた。
築十五年の中古マンションで、藍原組が不良債券格みでただ同然で買い取った物件だった。歓楽街の暴力的なエアコンの放射熱から解放された、坂の多い住宅地にあった。学生や単身赴任者向けのアパートが壁と壁を触れ合わすように建ち並び、狭い道には違法駐車の車がびっしり停められている。
キリッ、キリッ。
……キリッ、キリッ……
……キリッ。
秋庭は首をまわして歓楽街を向いた。さすがにここまで離れると、息絶えるような囀りしか耳に届かなくなる。それでも完全に逃れられたわけでなく、この時刻この街のどこへ行っても、あの鳥の囀りはつきまとう。
チリリンとベルを鳴らして自転車が通り過ぎた。制服姿の少女が漕《こ》いでいた。暗がりで表情はよく見えなかったが、気分悪そうに顔をしかめていることだけは確かだった。
これが死臭か……秋庭は思った。人間の腐った臭い。はじめから頭で理解しているからたまらない。その臭いはどの想像とも結びつかなかったが、死臭を前にして、身体に変化が起きたことに気づいた。
それは汗をかいたことだった。身体の意思に反するように、大量の汗が出てくる。こんな気持ちの悪い汗をかいたのははじめてだった。
秋庭は四階建てのマンションを見上げた。ベージュ色のひび割れた外壁が夕闇に染まっている。千鶴が電話で言っていた、「真由子らしい」死体がある部屋は四〇五号室だった。カーテンがわずかに開いている。
紺野がマンションの生け垣に向かって歩いていた。何かを探す素振りで生け垣に手を入れ、青色のボストンバッグを引っ張り出した。
「行くぞ」
紺野にうながされて、秋庭はエントランスをくぐった。オートロックのコンソールに近づき、指紋を残さないよう暗証番号を押していく。電子ロックが外れると、ぶ厚いガラス扉が両側に開いた。タイル貼りのロビーを抜けてエレベーターホールに向かった。
秋庭は紺野が持つ青いボストンバッグをちらりと見た。それが何であるか、紺野は喋《しやべ》ろうとしない。聞くのをはばかる沈黙もあった。
ふたりを乗せたエレベーターが四階まで上がる。
軽いショックのあと、目の前の視界が開けた。乳白色の廊下が東に伸び、黒褐色の扉がずらっと並んでいる。反対側の突きあたりに階段があった。壁は剥《む》き出しのコンクリートで、このマンション中の暗がりが、そこに集まっている印象を受けた。
紺野は何食わぬ顔で秋庭を追い越した。四〇五号室の扉の前に立つと、ハンカチを取り出して右手に素早く巻きつけた。見えない誰かと握手を交わすしぐさで赤銅色のノブをつかみ、精密機械のように無駄も躊躇《ちゆうちよ》もない動きでドアを引く。ドアに鍵《かぎ》はかかっていなかった。
扉に隙間ができた瞬間、強烈な腐臭が押し寄せ、これ以上足を進めることを秋庭の全身が拒否した。
さすがに紺野も怯《ひる》んだ様子で後退しかけたが、半身を素早く中に入れた。
秋庭はスーツのポケットというポケットをまさぐった。期待するものがないことを知ると、あわてて上着を脱いで鼻と口をふさぎ、紺野のあとに続いた。
室内は、エアコンの冷気が充満していた。
「血の匂いがしない。蠅も湧いていないな」
紺野はハンカチを鼻に押しあてて、カツンという軽くて固いブーツの音を響かせた。
あとに続く秋庭の顔中から玉の汗が噴いた。呼吸するたびに肺が腐る感覚がした。昼食を抜いたことが幸いした。
奥行きのある廊下にドアがふたつ――浴室とトイレ。その先はキッチン、ソファを並べた居間に続いている。踏み荒らされた痕跡《こんせき》はなく、どこもきちんと整頓《せいとん》されていた。
紺野が立ち止まった。どうやら居間の隣に寝室があるようだった。秋庭のいる場所からは陰になって見えない。
紺野は汚物でも見るような目を、その寝室に向けている。
あそこに死体があるのか、と秋庭は思った。下腹部に力をこめ、紺野の隣に並び、紺野の視線をなぞるようにして寝室に目を向けた。
フローリングの床の中央に、厚いマットレスが敷かれているだけのシンプルな寝室だった。シーツはマットレスの上で乱暴にまるめられている。
そこに女物の下着が脱ぎ散らかされていた。睡眠薬と思われる錠剤とウイスキーの瓶が転がっている。どちらもまだ中身は残っていた。
マットレスのそばに異質なものが仰向《あおむ》けになっていた。茶褐色のつやつやとした塊――人体ということは理解できた。全裸の女だ。寝ている間にマットレスからずり落ちた恰好《かつこう》になっている。茶色の度合いは一様でなく、濃淡のまだらができていた。白い膜が張った目は、まったく光を持っていない。
秋庭の目がそのまま釘付《くぎづ》けになった。女の四肢がフローリングの床に張りついていた。身体の線に沿って床に染み出ているものは何だ? これが人間の脂なのか? 何よりどうやったら死体にこんな色がつくんだ?
「――まるで腐ったバナナだよね」
声がした方向をふり向いた。千鶴だった。手前にあるクローゼットを物色している。
異様な光景だった。千鶴は両手でかきまわすようにして、必死にクローゼットを漁《あさ》っていた。ミニスカートに黒のタイツ姿。茶色がかったショートヘアに男に媚《こ》びるようなアーモンド型の目。身体のパーツはすべて小ぶりにできていて、道行く人をふり向かせるだけの容姿を備える女。秋庭でさえ喉のけいれんを抑えなければならない状況なのに、彼女は平然としている。
宙をさ迷う秋庭の視線が左に流れた。千鶴の他に、もうひとりの気配を感じたからだった。
窓際のちょうど死角になる部分に、見覚えのある顔があった。上下ジャージ姿の青年が頭を下げている。まだ二十そこそこの若者で、物怖《ものお》じしない精悍《せいかん》な顔つきをのぞかせていた。四ヶ月前に藍原組で預かった新入りだった。
「……水樹《みずき》じゃないか。どうしてここにいる」
低く唸《うな》るような秋庭の問いに、水樹はすみませんとだけつぶやいた。水樹のほうは千鶴と違って、腐臭に耐えている様子が見てとれた。
「私が呼んだのよ。見張り、必要じゃん」
少し黙ってよ。そんな千鶴の態度に、
「てめえに聞いてねえんだよ」
秋庭は吐き捨てた。
千鶴が舌を出し、自制のきかなくなった秋庭が一歩踏み出そうとしたときだった。
「どけ」
紺野が右肘《みぎひじ》で秋庭を押しのけ、水樹と対峙《たいじ》した。
秋庭は狼狽したまま、紺野の視線がさっと上下に移動するのをとらえた。水樹の右手にはしっかりとタオルが巻き付けられている。うかつに指紋を残さないよう、注意していることがうかがえた。
水樹はまだ頭を下げている。秋庭はそんな水樹の姿を見て、脳裏に思い浮かべるものがあった。彼は北嶋組の跡継ぎだった。父親が一代で築いた東北の小さな組だったが、父親の病死と幹部連中からの世襲への反発、そして体力がないまま新法のあおりを受け、半年前解散に追いこまれた。水樹は父親が五分の盃《さかずき》を交わした藍原組の預かりとなっていた。そこにいたるまでの経緯で水樹が何を悟ったのかわからない。条件のいい待遇を出しても執拗《しつよう》に拒み、同世代の新入り達と同じように、一銭にもならない雑用を進んでする。
紺野は千鶴を一瞥《いちべつ》し、再び水樹に仏頂面を向けた。
「お前、平気なのか?」
「平気ではありませんが、昔これと同じ臭いを嗅《か》いで過ごしたことがあります」
水樹はそう答え、汗がびっしりと浮いた顔をわずかに上げた。
「どこで」
「高校の頃、地元の食肉センターでアルバイトをしていました」
「食肉センター? わかるように言え」
「食用の豚がゴンドラに乗って殺されていくんです。敷地の中に排水溝があるんですが、台風のあとの濁流のように鮮血が流れていきます」
「豚、か」
紺野は死体に目を向けた。
「豚、です」水樹も死体に目を向ける。「夏場は肉や脂の屑《くず》がすぐ腐ります。死んだオヤジが薦めてくれました。短い間でもいいから一度経験しろと」
「長く続いたわけか」
「思ったよりバイト金が良かったんです。小遣いなんてもらえませんでしたから」
紺野は水樹が着ている袖の綻《ほころ》びたジャージを顎でさした。
「そのジャージの説明をしろ」
「千鶴さんに呼び出されたときから」水樹は瞬《まばた》きもせず答えた。「こんなことだろうと思っていました。死臭、クリーニングに出しても取れませんから」
紺野は千鶴を向いた。
「いい人選したな」
「まあね」
千鶴はクローゼットの扉をぱたんと閉じた。
秋庭は三人のやりとりを茫然《ぼうぜん》と見て、気後れしていた自分に気づいた。「お前らふたりがきたとき、部屋の扉や窓に鍵はかかっていたのか?」と、低い声で水樹にたずねた。
「はい」水樹は正面から秋庭を見すえ、答えた。「合鍵は管理人から借りました。窓も全部、内側から鍵がかかっていました」
水樹はまだ何か言いたそうだった。秋庭は続きをうながした。
「この部屋の鍵は、居間のテーブル上に置いてありました」
「だから何だ?」
「状況から判断して、誰かがこの部屋に侵入した可能性は薄いです」
「そりゃそうだ。勝手に自殺して、勝手に腐ったんだろうが」
「勝手に死んで、勝手に腐っていればいいんですが」
それから水樹が言い淀《よど》んだときだった。
「――おい水樹」
秋庭と水樹は声のした方向をふり向いた。紺野だった。紺野は仰向けになっている死体から目を離さずに続けた。
「お前は外に出て見張っていろ」
言われた水樹の顔に困惑の色が強く出た。なぜか千鶴の顔をうかがっている。千鶴は、行けば? と肩をすくめている。
「失礼します」と、水樹は出ていった。廊下が軋む音が遠ざかり、ドアが閉まる音がした。
室内には紺野と秋庭、そして千鶴の三人だけが残された。
紺野は死体をつま先でひっくり返した。ぱりぱりと剥《は》がれる音がして、ごろんと死体がうつ伏せになった。人型のワックスをかけたような跡が、フローリングの床の上にできた。
秋庭は意識を他に移した。
「密室で下手に除湿されているからこうなるんだ」紺野がつぶやいた。「窓は南向きで、陽にさらされたから身体が黒くなった。虫がいなかったことも幸いした。これで胃や腸に残留物がなけりゃ、ミイラができあがる寸前だ」
「……ミイラ?」
信じられないことを耳にしたように秋庭はくり返した。
「何が珍しい? お前が普段食っている干物やカツオ節だって天然のミイラだろ」
紺野は無感動な声ではねつけると、居間に戻ってソファに腰を沈めた。片手で携帯電話をいじりはじめる。親指が忙《せわ》しなく動いていた。
秋庭は横目で眺めながら、金属のように変わらない紺野の冷静さを羨《うらや》ましく思った。
「千鶴、その女と連絡が取れなくなったのはいつだ?」
紺野が携帯電話から目を離さず、聞いてきた。
「一週間前。店をズル休み」
「理由はわかるか?」
「すぐ暴力をふるう彼氏に呼び出されたみたいだったけど」
「殴られても尽くすタイプだったのか?」
「骨抜きだったよ。いけない薬もやっていたし。クラブのほかにホテトル嬢も掛け持ちして、全部貢いでいたもん」
紺野が沈黙した。
「――警察に連絡しなくて良かったでしょ?」
千鶴が自慢げに付け足す。
「ああ」紺野は短く答え、再び親指を動かすことに専念した。
「どういうことだ?」
秋庭は千鶴に聞いた。
「わからないの? この間災難があったじゃない」
「……災難?」
「ここのところ続けてポックリいっちゃったじゃん、アイハラ組の組員が。働きすぎで、ろくに寝てないんでしょ? みんな昼間から眠たそうな顔してるもん」
「口のきき方に気をつけろよ」
千鶴はぷいっと横を向き、とぼけたような顔をする。
秋庭は苦々しい思いで奥歯を噛みしめた。
――梅雨が明ける前の出来事だった。天野という若い末端組員が自宅の寝室で急死した。その二週間ほど前にも、近藤という若い組員が急死している。ふたりとも自宅で寝こんでいる間に昏睡《こんすい》状態になったところを発見され、天野は救急車を待たずに、近藤は救急車に運ばれる途中で死亡した。ふたりの死亡診断書には急性心不全と書かれた。いわゆる原因不明のぽっくり死だった。秋庭は腑《ふ》に落ちなかったが、自殺や他殺の痕跡がいっさい見られなかったことと、ぽっくり死や突然死はむしろ若者に多く、睡眠中が全体の三割以上を占めるという説明を医者からくり返し聞かされ、無理やり納得せざるを得なかった。その結果、暴力団の世界で起きた過労死という不本意な噂が流れる始末になった。
「……だからどうしたっていうんだ?」
秋庭は話を戻した。
「どうしたって?」
千鶴が意外そうな顔を返す。
「お前の言ったことと、この腐った女の死体と、何の関係があるんだと聞いているんだ」
突然クスクスと千鶴が笑いはじめた。
「おい、何がおかしい?」
「へへっ。秋庭って、面白いキャラだなあと思って」
「……なんだと?」
「やめろ」紺野の叱責《しつせき》がふたりを割った。「千鶴。やくざに向かってキャラはないだろう。秋庭さんと言え」用が済んだ携帯電話を懐にしまうと、ふたりを交互に見すえた。
千鶴が唇を尖らせた。
秋庭も息を殺しながら紺野の指示を待つ。
しばらくして紺野の口が開いた。
「千鶴、もうひとつの死体を見せろ」
秋庭はその言葉の意味を呑みこめず、唖然《あぜん》とした。
調子狂うわよね、そんなしぐさで千鶴はマットレスの上にまるまっているシーツを引き剥がした。シーツがめくれた瞬間、ちぢれた頭髪が秋庭の目に飛びこんできた。
「――さて、どうするの? この二体の死体」
秋庭の視線が凝固した。
なんだこれは?
そこにはくの字になって横たわる、もうひとりの全裸の死体があった。両肩に刺青《いれずみ》を彫った若者だった。眠ったまま死んでいる……そう思える死体は、真由子と同じように一週間前から連絡が取れなくなっていた、坂口という若い組員だった。
「坂口が先に死んで、女があとを追ったのか」
紺野が自問するようにつぶやく。
秋庭は口を開いた。が、言葉にならなかった。思えばこの二体分の死臭が、正常な状況判断を狂わせていたのだ。女の死体――真由子という女と、坂口の関係を、紺野と千鶴ははじめから知っていた。千鶴が真っ先に警察に連絡しなかった理由は、これだったのだ。
とうとう秋庭は限界に達した。それまで必死に意識を遠ざけてきた死臭が急速にまとわりついて離れなくなり、もう息をすることさえできなくなった。窓ガラスに戸惑う自分の顔が映った。組の中では若頭候補として一目置かれている自分が、この状況で何の役に立たないことを悟った。
紺野を見た。あのボストンバッグを足もとに引きよせ、ファスナーを開いている。中からビニール手袋と小型ビデオカメラ、工具類、見たこともない器材が次々と取り出されていた。紺野の目は坂口の死体に向いている。退屈というまっ暗闇の中で、ようやく出口の明かりを見つけた――そんな昂《たか》ぶりを抑えるかのような目だった。
秋庭は理解した。
紺野は警察がくる前に、徹底的に調べるつもりで同行してきたのだ。そして千鶴から連絡がきた時点で、あれらを周到に準備した協力者がいる。
協力者……あの車椅子の男に違いない[#「あの車椅子の男に違いない」に傍点]。これから行われることを想像した瞬間、秋庭は胃液が逆流するほどの吐き気を覚えた。
「秋庭、水樹と交代してこい」
その一言で救われた。汗ばむ顔を背けて踵《きびす》を返した。早く――早く。廊下を走り、ノブをもぎとる勢いでドアを開いた。
藍色《あいいろ》に染まった夜景が眼下に広がった。ガラスを粉々に砕いて撒《ま》き散らしたように、窓明かりとヘッドライトが輝いている。ようやく現実感を取り戻すことができ、息を吹き返した。
遠くから聞こえるインコの囀りは、もう耳障りでなくなっていた。
視野の隅でぽつんと水樹が佇んでいた。廊下の端からじっとこっちを見つめている。
秋庭には受けて返す気力は湧かなかった。
ただ心の底から、あの寝室から離れられたことに安堵した。
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下側の世界 2
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○△市××町で下水道の再構築工事の際、江戸時代後期にこの地に屋敷を構えていた二野上羽洲《にのうえうしゆう》が池の排水用として設けたとされる、石組みの暗渠を発見した。地下一〇メートル余りの箇所で発見されたこの暗渠は、○△市の北東部まで伸び、現在でも一部が雨水を受け入れていることから存置することが決定された。ただし下水道再構築の工事にかかり一部撤去する必要があったため、その部分を掘り上げて××町処理場の敷地内に復元、展示した。存置する石組み暗渠は横幅三メートル、高さ二・七メートル、幹線長が最大五キロ弱に及ぶ、かなり長大なものになる。石の材質は江戸城の石積みと同じ安山岩で、復元・展示した暗渠は当時の土木技術の高さを伝える遺産として活躍している。
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ふたたびともされたランタンの明かりを頼りに、わたしは活字を追っていた。
ぼろぼろにすり切れた新聞の切り抜き。セロハンテープで補強され、古びたお札のように汚れや剥落《はくらく》が目立っている。
おじいさんの鞄からうばいとったものだった。
ようやくじぶんがいま、どこにいるのかがわかった。地下十メートル余りにある巨大暗渠……
ちらりとおじいさんのようすをうかがう。完全に戦意を喪失し、へたりこんでいた。怯《おび》えた目を一心に向けている。
ランタンを消されたあのとき――
とつぜん暗幕を覆いかぶされたように、身の毛がよだった。案の定おじいさんが襲いかかる気配がした。わたしは杖をふりまわして応戦した。手錠の鎖がじゃらじゃらと響き、杖のさきがなん度も暗闇を切る。
後ずさり、じりじりと距離を計る、おじいさんの気配。
わたしの息が荒れ、咳《せ》きこんだときだった。
そのときを待っていたかのように、杖のさきをぎゅっとつかまれた。
ぶへへへ。下品な笑い声。わたしは息を呑んだが、ありったけの力をこめて突きかえした。鈍い感触とともに、ぐぇと蛙が鳴くようなうめき声がした。つづいてなにかがどさっと落ちた。足もとに落ちたそれを引きよせると、おじいさんの鞄だった。
あわわ……。あわてふためく声。
石畳をはうように逃げまわる気配を追って、杖をなん度もふりおろした。もちろん、手加減はいっさいしなかった。
カチャ、とランタンにふれる音がして、ふたたび明かりがともり、おじいさんと目があった。わたしを侮っていたことを心底後悔し、目を背けたくなるほど下卑た目つきを向けている。しわだらけの顔を醜く歪《ゆが》め、
「そ、そそそそ、それをかえしてくれぇ」
と、なんとも情けない声をだした。
わたしは杖で威嚇しながら鞄のなかを調べた。なにが入っているのかたしかめたかったが、手錠でつながれているからままならない。
ようやく指さきでつかめるものを発見し、つまみあげた。
それがこの新聞の切り抜きだった。おじいさんにきくと、むかし図書館の資料室で破りとってきたものを、いまでも大切に持ち歩いているという。
新聞の切り抜きに目を移した。
いまから三十二年まえの日付があった。当然わたしは生まれていない。なによりこの暗渠が江戸時代の遺産ということに、気が遠くなるほどの歳月を感じた。
――わしらは暮らしている。
わしら。信じられないことに、この暗渠で生活する人間がほかにもいるのだ。そのなかでもおじいさんが呼んでいた、≪王子≫という人物が気になった。この暗渠の住人たちは、≪王子≫と呼ばれる人物に日々の生活を束縛されているのだろうか? ≪王子≫という呼び方だけでそんな想像ができる。どこかおかしな感じもぬぐいきれない。
わたしはモンゴルのマンホールチルドレンを思いだした。
ずっと以前、雑誌で読んだ記事だった。マンホールチルドレンと呼ばれる親から見放された子供たちが、モンゴルの首都ウランバートルに三千人以上も暮らしている。掲載されていた写真には、男か女か区別がつかないほど顔の汚れた子供が、ひょこっとマンホールの蓋を開けて顔をだしている姿があった。モンゴルの冬は厳しい。ときには気温がマイナス四十度近くまでさがる。地上で生きることができない子供たちは、暖房用の温水が通る、まっ暗なマンホールのなかで暮らしているのだ。散乱するゴミ。走りまわるネズミ。そんなすさまじいばかりの環境は、とても人間が住める場所ではない。しかし子供たちが生きていける場所は、マンホールのなか以外にない。
おじいさんが近づく気配がした。
わたしは杖で威嚇した。
おじいさんは、ひぃと肩をふるわせた。むかむかする態度だった。なん度も額をなで、わたしのせいでできたといわんばかりに、こぶをさすっている。
ランタンの明かりがその浅黒い顔を照りかえした。垢や脂が油膜のように張り、のび放題の髭には、食べもののくずがついている。見まいとしても目につく不潔さだった。街の浮浪者よりひどい風体かもしれない。
マンホールチルドレンとのちがいはどこにあるのだろう? ふと思った。子供か大人か。マンホールのなかか、それともこの途方もなく深い暗渠のなかか。肝心な部分は、生きるためにどこまで貪欲《どんよく》で真剣かだ。それにつきる。
「たのむから鞄をかえしてくれんかの」媚びた声。おじいさんは石畳に額をこすりつけた。「わしの全財産なんじゃ。もう二度と妙な真似はしないから」
存在自体が妙なおじいさんに、そんなことをいわれても困ってしまう。
視野の端でヒナを見つけた。向こう側の壁の隅でうずくまっている。おじいさんはわたしに襲いかかるまえ、ヒナを安全な場所に移したのだ。
おじいさんは顔をあげ、しわに埋もれそうな目を悲しそうにしばたたかせていた。
わたしは新聞の切り抜きを鞄に突っこみ、乱暴に投げかえした。おじいさんは四つんばいのまま鞄を抱きよせた。そこではじめて、おじいさんの動作すべてが手さぐりからはじまっていることに気づいた。この暗渠の生活で視力が弱まっているのだろうか。
「悪かった」
おじいさんはへりくだった笑みを髭面に浮かべ、
「……で、整理ついたかね?」
なにが整理だ。その立ち直りの早さに面食らったが、
「なんとか」
と、こたえ、でも、とつけくわえた。「もうすこし時間がかかるかもしれない」
おじいさんがわたしを見ていた。眺めているというよりも、目を細めて懸命に注視している。なんだかいやらしい視線に思えた。
わたしは顔を背け、首をめぐらせた。上、右、左、そして正面――石組みの壁しか目に映らない。よく見ると、白と黒の斑晶《はんしよう》が細かく散らばっている。なにかの鉱物だろうか? 通路は左右にひろがる闇に、吸いこまれるようにつづいている。
蝋がわずかに残る燭台を見つめた。たしか燃え尽きるまで蝋燭の炎はゆれていた。つまりここには、空気の流れが存在する。
「ここはふつうの暗渠じゃない」
おじいさんは見透かすようにいった。しかしわたしはふつうの暗渠なんてものを知らない。かえす言葉が見つからず、目だけを動かした。
「こう見えてもわしは、むかしは配管工をやっていたんじゃよ」
「配管工?」
「そうじゃ。三十年以上もつづけた。小さな事務所も持っていた。職人も五、六人ほど抱えていた。……だから、すこしはわかる。ここはたかだか池の排水用だというのに、ずいぶん手のこんだつくりになっている。水を流す目的にしては、高さも幅も大きすぎだ。それでいて複雑に岐れているから、構造を知らないと迷子になる」
「迷子?」また、疑問。
「なにも知らないで歩きまわると、迷うんじゃよ。そして二度とでられなくなる。わしはそんな子をひとり知っている」
混乱した。
「……そんなこと、さっきの新聞に書いてなかった」
「地上につづく、秘密の出入口のことも書いてないぞ」
「秘密の出入口?」
「いくつかある」
まったくむかしのひとのすることはよくわからないよなあ、おじいさんは同意を求めてきた。
わたしが無視すると、おじいさんは小さく咳払いして、
「おまえさんはそのひとつで、傷ついたヒナを離さずにたおれていたわけじゃ」
わたしがたおれていた場所――思いだそうとして、頭蓋骨《ずがいこつ》がしめつけられる痛みをおぼえた。なぜ怪我をしてヒナを抱えていたのか、よく思いだせない。ただヒナを生かそうとする使命感だけはあった。
ふたたび意識が遠くなりかけて奥歯をかみしめた。このからだの不調を、おじいさんに悟られてはならない。
「もしかして、具合悪いのか?」
なんで気づくんだろう? 首をちぎれるほど横にふりたくなった。
「やせ我慢するな。その怪我だ。苦しいはずじゃ。そうじゃろ? そうじゃろう?」
目をきつく閉じる。もし目を開けば、この目はイエスと訴えたのかもしれなかった。いまおじいさんにリターンマッチを申しこまれたら、勝てる見こみはない。
「だったら悪いことはいわん。ここからすぐにでていくんじゃ」
鞄をあさる気配。目を開くと、おじいさんは小さな鍵を二本つまみだした。
「――手錠の鍵じゃ。わしの知っている出口までなら案内する。ここでは、どんなささいな怪我でも死に至る。こんな暗くて狭い場所で、みじめな死に方はしたくないじゃろう?」
みじめな死に方。唇を動かして反芻《はんすう》した。おじいさんの姿がぼやけて見え、漠然と思いだす光景があった。街の公園にいる浮浪者たちの姿だった。死ねないけれど死ぬのを待っている、あきらめの心境……。時が首を絞めてくれるのを待っているような、緩慢な自殺を図っている光景――
「なあ」
おじいさんのささやき声に、わたしは顔をあげた。
「おまえさんには、家族や身よりがいないのか?」
わたしはうなずいた。はっきりと断言できないが、そんな気がした。
ひひひと嘲笑《あざわら》う声。心の底から莫迦《ばか》にする声だった。
「なあ。そんな連中は世のなかに大勢いる。いまの平和な日本に生まれておいて、じぶんだけ不幸とは思わないことじゃ」
おじいさんがひざを立てたので、わたしは杖をにぎりしめた。
「そんな怖い顔しないで、杖をおろしてくれんかの?」
わたしは首を横にふった。
「ここでのことをすべて忘れてくれるのなら、その手錠を外してやろう」
疑う視線を向ける。
「こんな場所にいつまでもいちゃいけない。そういっておるんじゃよ。おまえさんはわしらとちがう」
おじさんの手がすっと伸びた。逆らう間もなく、カチッと右足首の手錠が外れる音がした。つづけざま両手を持ちあげられた。否応なしに顔があがった。うしろで束ねていた髪が、はらりとほつれ落ちる。
「おまえさんはまだ若い」
それに、と声をためる間があいた。
「女じゃ」
両手の手錠が外れた。わたしは前髪の隙間からおじいさんを悔しげに見すえた。
「どんな事情があったか知らんが、おまえさんがわしらの仲間になることはない。その怪我の理由もきかないことにしよう。だから早くもどることじゃ」
「もどるって、どこに?」
わたしはうめくように声をもらした。
おじいさんは、枯れ枝みたいなひとさし指を天井に向けた。
上――わたしは厚い岩盤を見あげた。いまにも押し潰《つぶ》されそうな圧迫感に、思わず息がとまりかけた。
早くもどることじゃ……おじいさんの言葉がよみがえる。そこには忘れようと努めている、悲しげな響きがあったような気がした。このおじいさんは、二度と外にもどるつもりはないのだろうか?
おじいさんは石畳に指をはわせるようにしてヒナをすくいあげると、大切そうに鞄のポケットに入れた。そのままランタンをかかげ、石組みの壁にもう一方の手をついて立ちあがる。
橙色の明かりがすっとあがるのを目で追った。温度も自然の色もない、冷めた無機質な光をぼんやりと見つめた。
おじいさんの顔が天井を向く。
「おまえさんならまだ婦人保護や児童福祉系列での福祉施策に守られるはずじゃろう。わしらとちがって、なん度でもやり直しがきくはずじゃ」
わたしはあぜんとして、しばらく放心状態のまま、この得体の知れないおじいさんを見た。
おじいさんの目がわたしに注がれる。
立てないのか?
その目がそういっていた。
「待って」わたしはいった。「もどるまえに、≪王子≫に会えないの?」
とっさにでた言葉だった。このおじいさんを見た目だけで判断していた。俗世から離れてこんな暗渠に住みつくうちに、過去も現在も幻も現《うつつ》も溶けあって惰性のように生きながらえているただの変人だと思っていた。……実際そうかもしれないが、侮れるひとではなさそうだった。そのことがわたしをとどめさせ、ずっと胸の奥でくすぶっていた≪王子≫という言葉を口にださせた。わたしを最初に見つけてくれた≪王子≫なら、失った記憶をとりもどす手がかりとなるものを知っているのかもしれない。
ランタンの明かりのなかで、おじいさんの目がなにかをさぐる動きをした。そこに変化が宿るのを、わたしはじっと待った。
「……おまえさんがわしを無理やり≪王子≫のところまで案内させたとする」
「え」
「そういうことなら、わしは≪王子≫にとがめられない」
わたしに悪者になれということだ。それでもいい。そうこたえた。
おじいさんが杖を指さす。かえせということだった。迷った末、おじいさんを信じて杖をかえすことにした。
「おまえさんはその怪我じゃ。まともに歩けるかの?」
わたしは壁に背中をあずけて立ちあがった。なんとか歩けそうだった。石畳になにかが落ちていることに気づき、ふり向いた。鳥の死骸だった。さっき見たものとはべつのものだった。また一羽、こんな地下の暗渠で朽ち果てている。
「悪いが、明かりは消させてもらうぞ」
おじいさんはそういって――わたしの「えっ?」という反応を無視して――ランタンの明かりを消してしまった。よそ者には≪王子≫の居場所をそう簡単に教えない、ということだ。もう目を開いても目を閉じても闇のなかだった。とたんに平衡感覚を失った。あげたつま先をどこで下ろせばいいのか戸惑い、なにもないはずなのに足をとられそうになった。
「ほら、早くわしの服につかまるんじゃ」
いわれたまま、おじいさんのオーバーをさぐってつかんだ。苔《こけ》にふれるようなぬるっとする感触に、背筋が粟立った。
「いいかっ、わしを脅すような恰好で歩くんじゃぞ」
ひょこひょことした足どりでついていく。たしかアフリカのどこかで、こんなふうにしっぽをくわえて親についていくネズミがいることを思いだした。とてもおじいさんを脅す恰好には見えない。それでも辛抱強くあとにつづき、角をなん度も曲がった。おなじところをぐるぐるまわっている気がした。
「なぜあんな鳥の死骸が気になるんじゃ?」
暗闇のなかでおじいさんがたずねてきた。ずっと気にとめていた口調だった。
「あれを」わたしは目をさ迷わさせて、いった。「ここで食べているの?」
おじいさんの杖の音がやみ、わたしも立ちどまった。おじいさんの背中が大きくゆれた。笑っているのだ。
「ただの死骸じゃよ」
「……ただの[#「ただの」に傍点]?」
わたしたちはふたたび歩きだした。
「おまえさん、すこしまえまで上側の世界にいたんじゃろ?」
上側の世界……。なぜかここではふしぎな響きを持つ。わたしはうなずき、その行為が無意味なことに気づいた。
「街でインコが群れていたはずじゃ。しかし仲間同士の喧嘩《けんか》や人間のいたずらで深手を負ったインコや、病気になったインコは、もう群れに入れてもらえないんじゃよ。かわいそうじゃが、巣立ちに失敗したヒナも例外じゃない」
「それで……こんな地下の暗渠に?」
「秘密の出入口があるといったな。そこに集まる」
きこえだけならまるで人跡未踏の象の墓場だ。わたしが沈黙する理由を察したのか、おじいさんが言葉を継ぐ。
「――≪王子≫に会えば、わかるじゃろ」
わたしは黙って息を吸い、あの、と小声できいた。
「なんじゃ?」
「≪王子≫とおじいさんのほかに、ここになん人住んでいるの?」
「五人」
おじいさんは、危害は加えないと思うが、とつけくわえ、
「わしと≪王子≫以外はマトモじゃないがな」
と、ひひひと笑う。
わたしは口をつぐんだ。わたしとおじいさんのやりとりを、マトモじゃないほかの五人がどこかで――すぐ近くかもしれない――きき耳を立てているかもしれないのだ。恐ろしく気味の悪い想像だった。
「それと」おじいさんはつづけた。「わしには≪時計師≫という名前がある」
「え?」
ききまちがえたかと思った。時計師? たしかにそういった。ほんとうの名前であるはずがない。≪王子≫といい≪時計師≫といい、この場所はいったい……
一歩ずつ慎重に歩いていく。
依然として距離感はつかめない。
ようやく杖の音がやんだ。おじいさんが立ちどまったからだった。
「おーい、≪王子≫よ」
なにやら声をかけている。
暗闇の向こうでなにかががさがさと動き、シュッとマッチを擦る音がした。遠くでマッチをつまむ痩《や》せた手と、ランタンのガラス面がぼぅと浮かびあがった。チリチリ……という音とともに炎がランタンに移されていく。
目のまえがふわっと明かるくなり、わたしは目をしばたたいた。おじいさんは通路に吊《つ》るされた、カーテンのようなぼろ切れをひろげている。
あとからつづいたわたしは、喉の奥でかすれた声をあげそうになった。
そこは暗渠のいきどまりで、三方が石組みの壁に囲まれた場所だった。足もとに無数の鳥籠《とりかご》がおいてある。石畳にじっとうずくまる鳥もいた。どれもが緑色の羽で、傷つき、片肢やくちばしが欠けていたり、羽を無惨にむしりとられている。
そして視界の端で、ひどく鮮やかなものを見た。
壁に描かれた極彩色の絵だった。そこだけ色彩があふれている。時計をつくる男、ブラシ売りの帽子をかぶった男、つるはしを持った男、机の上で彫り物をしている男、頭蓋骨を手押し車に載せている男……西洋画から抜けでたような職人たちが、荒々しいタッチで描かれている。
いきどまりの壁にもたれるようにして、ひとりの少年が座っていた。
目がやや鋭い、痩せた少年だった。襟がほころびたジャケットをはおっている。切りそろえた髪、右目の下にある小さなほくろ、頬骨が高く端整な顔立ちは、つくりもののようなもろさを感じさせた。
褐色の肌を見て、わたしははっとした。
異国の血が混じった浮浪児……
わたしが見つめる視線に少年は過敏に反応した。両の目に、どことなく悲壮感めいた光を宿らせていた。
「――ここに秘密の出入口があるといったろう?」
≪時計師≫のおじいさんがわたしに耳打ちする。
「そこが街のインコたちにとって最後のえさ場になるんじゃよ。えさを与えたのは≪王子≫じゃ。受け入れたばかりに、自力でえさをとれないインコたちがどんどん集まってくる。それが、≪王子≫の背負った贖罪《しよくざい》なんじゃよ」
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上側の世界 3
水樹は藍原組の預かりとなったとき、感情を殺した一兵卒になることを決心した。
亡き父親が一代で築き、解散に追いこまれた組の再興を考えなかったことは一時もない。だからこそそのあてができるまで、小遣いを与えられる待遇で満足せず、息を潜めることを誓った。
それを決定づけたのは、組長代行の紺野の存在もあった。
どんな卑劣な極道でも、人間的な弱みを内包する。兄弟分や妻や子に対して情を持ち、絆《きずな》や良心のうずき、過信や裏切りを、必ず心のどこかに潜ませている。しかし紺野にはそれがない。少なくとも水樹の目に一度も映ったことがない。
紺野の目にあるものは、ある種の冷たさだった。それは、街のチンピラが口にする冷たさとは違う。これまでの人生で合法と無法、正気と狂気という両面を歩いてきたからこそ持ち得る冷たさに思えた。だから人に優しくしたり、他人に対する理解力もある。しかしどんなに親しく接していても、次の瞬間には平気で相手の喉元を切りつける剣呑《けんのん》さを秘めている。そこに予告も威嚇もない。
それがどんなに危険な人間か、水樹にはわかっていた。
世の中には理屈を越えた感情や、ただ目をつけたというだけで、蚊を潰すように人の命を踏みにじれる人間がいる。防衛の手段を持たない弱者にとって、そういった望まない人間との出会いは、不幸な交通事故と同じだ。制圧された地元暴力団の中には、紺野を八つ裂きにしたいほど怨恨《えんこん》を抱く者がいると聞いていたが、その者達が浮かばれないことを知った。
あの男が采配をふるう今の藍原組で、水樹は自分が駒《こま》にされることを恐れた。預かりの身分になって四ヶ月。これからのことを考えながら、生暖かい夜風に吹かれていた。
水樹は見張りを続けた。幸いこのマンションは藍原組の所有で、管理人を含めた住人すべてに紺野の息がかかっている。
まとわりつく死の匂い。
周りの家々から騒ぎの兆候はまだ見られない。押し入れから嬰児《えいじ》の遺体が三体も四体も発見されてから大騒ぎになる世の中だ。かすかな腐臭が風にのったくらいでは、それが死臭だという想像は湧かないし、わずらわしさをおしてまで通報する人間はいない。隣人関係が冷えきっている住宅地であればあるほど、隣の誰かに期待するものなのだ。
ドアが乱暴に開き、水樹はふり向いた。
秋庭が目を剥いた形相で飛び出してきた。今にも両足が絡まりそうで、弟分達にさえ見せたことのない顔をしている。おそらく千鶴が隠した、もうひとつの死体を見つけたのだろう。秋庭に同情した。あんな単純ないたずらにだまされるほど、あの現場は人間の感覚を狂わせる。そしてあんな現場で平然としていられる紺野と千鶴のふたりは、やはり別格になる。
しばらく秋庭の様子をうかがうことにした。
「……おい水樹。代わりに中に入れ」
ようやく秋庭が命令した。
水樹はぺこりと頭を下げ、すれ違った。ドアノブを引いた瞬間、猛烈な腐臭が押し寄せてきた。眉間《みけん》に皺《しわ》を集め、身体をすべりこませるようにして中に入った。
居間に着くと、紺野が上着を脱ぎ捨てて待っていた。足元の床にはフリーマーケットのように、ビニール手袋と妙な形状のビデオカメラ、工具類、そして手のひらサイズの小型機器が並べられていた。
水樹はそれらの道具と寝室の死体を交互に見すえ、これから起こることを想像した。
「これらを全部使って、言われたとおりに動くだけでいい」
紺野の口調は淡々としていた。
水樹は「はい」とだけ答えた。
「まずビデオだ。おれがいいと言うまで死体を映せ」
水樹はビニール手袋をはめ、二本の棒状のアンテナが伸びたカメラを構えた。ふと、床に残っている四角い小型機器に目をとめた。
「……これはいったい?」
「携帯型のガス検査器だ。デジタル表示があるだろう?」
「あります」
「おれが指示する要所要所でそれも映していけ」
やはり死因を疑っているのだと水樹は思った。カメラを担いで寝室に入り、二体の死体の頭からつま先まで念入りに撮影した。千鶴がたとえたように、本当に腐ったバナナのように思えた。
「注射針の跡やひっかき傷を見落とすな」
紺野の指示に従って、坂口の死体にカメラを戻した。まるで眠っている間に息を引き取ったような無防備な姿に、水樹は疑問を覚えた。カメラを何度近づけても、外傷らしき痕は見あたらない。
「念のため、爪の間も映すんだ」
水樹はカメラを近づけた。毛髪や繊維など、特に手がかりとなる付着物は見つからなかった。続いて坂口の両肩を観察したとき、違和感を覚えた。坂口の両肩にある、とげとげしい流線形や弧形を複雑に組み合わせた呪術《じゆじゆつ》的な紋様――部族系《トライバル》デザインと呼ばれるものだった。今まで自分が見てきた極道の世界の刺青と比べて、異世界と言っていいほどの印象を受けた。確かNBAのバスケットボール選手、ロッドマンも同じような刺青を彫っていて、精神世界の強いジャンキーやスポーツ選手などの肉体派に愛好者が多いと聞いていた。若い極道の間でも流行《はや》っているのだ。
それ以上坂口の死体から何も得られないことを悟ると、今度は真由子という女の死体にカメラを向けた。
こちらは坂口の死体と違い、自殺の痕跡が色濃く残されている。大量摂取したと思われる睡眠薬と飲み干したウイスキーの瓶が転がり、一度睡眠薬を吐いてあわてて拾い集めた跡さえあった。坂口の死を看取り、悲嘆にくれて自ら死を選んだのなら、いったいどんな修羅場が展開されたのか想像つきかねた。それが坂口に対する極度の依存症と、薬物中毒が引き起こした末路なら同情できた。カメラを移動させていくと、きらりと光るものがあることに気づいた。半開きになった口の中だった。落ちこんだ舌の上に、銀色のピアスが二個埋められている。
「とめろ」
言われて水樹は首をまわした。紺野は居間のソファで携帯電話を耳にあてながら、水樹を見すえている。
「――次はエアコンだ。カバーを外して、できる限り分解して映すんだ。携帯ガス検査器の表示も忘れるな」
水樹はフローリングに汗を落とさないよう、注意して従った。エアコンの次はベランダ、台所のガスコンロ、冷蔵庫、風呂場《ふろば》と指示は続いた。トイレの水槽まで調べた。水樹は命じられるままロボットのように動いた。
「まだなの?」
千鶴の退屈そうな声。ばたんと冷蔵庫を閉める音。
寝室に戻った水樹は、カメラから目を離し、ちらりとのぞいた。
千鶴はワインのミニボトルを片手にテレビをつけていた。ニュースが放映されていた。いじめによる中学生の自殺事件で、その初公判の模様が流れている。キャスターが遺族の痛みというコメントをした。千鶴は「……この人たち、怪我でもしたのかしら?」と、ミニボトルをくわえたままつぶやく。
千鶴はクローゼットから盗んだブランド物の服とバッグを空いた手で抱えていた。誰にも奪われないよう、強く抱きしめている。転がる二体の死体もさることながら、なんとかこの場から逃れたいという秋庭の心情を察することができた。
「どーして、そんなに調べなきゃなんないのよ」
とうとう千鶴がごねはじめる。
「調べなきゃ気が済まないからだ」
まじめにとりあう紺野も紺野だった。
「あのビデオ、いったい何なの? テープが入ってないじゃない」
「無線LAN対応だ」
「わかるように言って」
「撮った映像が電波を通じて、そのまま遠隔地に送られると思えばいい」
「じゃああの人[#「あの人」に傍点]が今、あれを通して見ているわけね」
「そういうことだ」
「……気が知れないわ」
千鶴がくすっと笑った。ビデオを通して誰が見ているのか、知っている素振りだった。
水樹はビデオカメラに意識を集中し、無心になろうとした。
「あーあ。このふたり、どうして死んじゃったんだろうね」と千鶴。
「どうしてだろうな」つぶやく紺野。
「何とも思わないの?」
「お前だって、店の女が死んだんだ。何とも思わないのか?」
「別に」
「おれのところはそうはいかない。短期間に組員がばたばたと三人死んだ。もし今回司法解剖にまわされて、女の膣《ちつ》から酸性フォスファターゼ反応が出てきたら、厄介なことになる」
「なにそれ?」
「前立|腺《せん》から出る物質だ。性交する前だったかあとだったか、それでわかる」
「どうせヤッてたんでしょ、このふたり」千鶴がしらけた声を出した。「下着、派手に脱ぎ散らかしてるもん。どうしても我慢できなかったって感じ、するもん」
「最後に坂口と連絡が取れたのは、この女と同じ日の午後十一時過ぎだ。ふたりが会って性交したのなら、あとは眠るだけだ。おそらくそれから坂口の身に何かが起きた」
「何かがって……」
「それを知っているのは、そこに転がっている真由子という女だけだ」
「死んじゃってるじゃん」
「……おれが見る限り、他殺と思われる状況証拠も物的証拠もない。前のふたりと同じように、突然死として診断される可能性がある。そうなったら結構面倒くさいことになるな」
「面倒くさいって、どーいうこと?」
「ここから出ていかせた、秋庭の立場になって説明した方がいいか?」
「そうして」
「領域を越えているんだ。拳銃《けんじゆう》や刃物で死んだわけじゃない。対処法が頭の中のマニュアルにないんだよ。学歴や理屈で渡っていくことができない世界で学んできた経験則は通じない。だからああやって混乱する」
「じゃあ、紺野さんはコンランしないの?」
「冷静に見ているつもりだ」そして含み笑いが洩《も》れた。「だが、どうも現実味が湧かない。三人とも眠っている間に死んだ。だとすればくだらないお伽話《とぎばなし》だが、思い出したことがある」
思わぬ話の展開に、水樹は聞き耳を立てた。
「ウンディーヌという、人間の騎士と恋に落ちて妻となった水の精の物語があるんだ。裏切った夫が別の妻を迎える時、水の精は再び地上に現れ、その騎士に呪いをかけて死の眠りにつかせてしまう結末だ」
「へえ」話の半分も聞き取れていない口ぶりだった。「やくざがそんなお伽話を覚えているのもどうかと思うけど」
「――千鶴」
「なによ」かまえる声。
「もしお前がウンディーヌに呪われたらどうする?」
冗談とも本気ともとれる口調に、千鶴は困惑していた。
「……呪いって、まさか眠ったら死んじゃうの?」
「そうだ」
「だったら眠らない」
「眠らなければ人間は死ぬ。しかし眠ったら呪い殺される。そんな逃げ場のない根比べをするつもりか?」
「じゃあどうすればいいの?」
「助かる方法はひとつだ。呪われたら、眠りにおちる前にウンディーヌを捜して殺すしかない」
「殺す……」
千鶴はそれ以上言葉が続かない様子だった。
「冗談だよ。真に受けるな」
ぎしっとソファのばねが軋む音が響き、水樹は我に返った。フローリングを踏む音が近づく。ふり向くと紺野が屈《かが》みこんでいた。
「撮り終わったんだろ? もう」
水樹はあわててカメラを返そうとした。
「水樹」紺野は手のひらでさえぎり、二体の死体に目を向けて言った。「お前ならどう思う?」
「自分ですか?」
「お前に意見があるなら聞きたい」
「正直言ってわかりません。こういう死体、はじめて見ますから」水樹はそこで言葉を切り、少し考えてから続けた。「ただ、これから何が起こっても、あわてないよう準備する必要があると思います」
「どういう意味だ?」
「身を守る最低限の準備です。なぜだかわかりませんが、自分にはそんな気がします」
水樹は、ここ最近藍原組の組員で、昼夜問わず過度の眠気に襲われている者がいて、中には気が立っている者さえいることを思い出した。
身を守る……紺野はその言葉を口の中で反芻していた。それからまるで暗闇の中にひとりでいるような沈黙を続けた。
耐えられなくなった水樹が口を開こうとしたときだった。
「おれは、今回の件でお前の協力が必要と思っている」
「協力?」
「どんな死に方にしろ、こっちは組員を三人失った。お前も極道の跡継ぎなら、警察より先に動かなければならない理屈はわかるだろう」
面子《メンツ》の問題だ。水樹は理解し、「はい」と答えた。
「おれはおれのやり方で、真相を探るために動く。だが、高遠《たかとう》の手も借りなければならない。おれにできないことを高遠にやってもらう。だから二手に分かれる。お前は高遠と組め。高遠のことは、知っているだろう?」
不意をつかれて目をしばたたかせた。自然と息を押し殺す口調になり、
「……名前だけは。まだ挨拶させてもらえませんが」
「皆んなそうだよ」紺野はぽつりと付け足した。「あいつ、人前に出るの苦手だから」
水樹は自分の表情が硬くなるのを感じた。まだ噂でしか聞いたことがなかったからだった。
紺野には車椅子の右腕が存在する[#「紺野には車椅子の右腕が存在する」に傍点]。
決して表舞台に出ることはないが、その右腕と呼ばれている男が高遠だった。この地方都市に根づいていた地元暴力団が制圧され、苛烈なほどの一本化を強いられたのは、紺野の他に高遠の手腕もあるとささやかれたほどだった。水樹が地元を出て藍原組の預かりになるときだった。それまで自分の面倒をみてくれた若頭補佐が、忠告してくれたことがある。坊ちゃん、あのふたりにはお気をつけなさい。とくに、人の弱みにつけこみ、傷つけ、生命をもてあそぶことに何のためらいも後悔もしない――高遠という男は危ない。
紺野は背広の内側から携帯電話を取り出すと、ほれ、と差し出してきた。
「これはいったい?」
「高遠直通の携帯電話だよ。お前にやる。今日からお前は高遠の相棒として動け。高遠の足となるんだ。秋庭にはおれからよく言っておく」
水樹は思わず顔を上げた。咄嗟《とつさ》に声が出なかった。
「不満か?」
水樹は首をふった。
「これは特別任務だ」
有無を言わさぬ口調に、水樹の思考が切れそうになった。「あの……」萎縮《いしゆく》しながら言った。「もし許していただけるのなら、ひとつお願いが」
「なんだ?」
「自分をいったん破門にして、どこかの企業舎弟の社員にしていただけませんか」
紺野はその意味を推し量るように沈黙すると、薄い笑みを浮かべた。
「……色々考えがあるようだな」
水樹は苦しげな表情でうなずいた。
「いいだろう。今日から組の雑用をすることはない。戻ってくれば、それなりの立場を用意してやろう」
「ありがとうございます」水樹は頭を深々と下げ、受け取った携帯電話を見つめた。「高遠さんの電話番号は何番ですか?」
「一番のボタンが短縮になっている。もう高遠にはおれから電子メールで伝えてある。ほら、早くお前の声を聞かせてやってくれ」
水樹は親指で短縮ダイヤルのボタンを押した。ツッツッという音とともに回線がつながった。
「――もしもし。水樹といいます」
携帯電話を握る手に汗が滲《にじ》んだ。沈黙が時間と空間を支配し、もう一度くり返した。まるで無言電話のような沈黙が続く。
もしもし、もしもし、もしもし、もしもし。
何度くり返しても反応はない。
「あの」水樹は紺野を向いた。「誰も出ませんが」
「喋ってくれないのか? しようがないやつだな。貸してみろ」
喋ってくれない……水樹はその言葉に戸惑いを覚え、紺野に携帯電話を渡した。
紺野は「おれだ」とつぶやいた。しばらくして眉をひそめ、携帯電話を切ると勢いよく立ちあがった。
「付近の住民が、臭いに気づいて騒ぎはじめているらしい。何度もドアを開けたからだ」
そのとき蹴破るようにドアが開いた。ドタドタと忙しない足音が迫ってくる。
現れたのは秋庭だった。
「紺野さん、付近の住民の様子が変です。急いでください」
紺野はミニボトルの口をいつまでも舐《な》めている千鶴を向き、
「おい千鶴」
ん? 千鶴が喉で答える。
「お前はここに残れ」
「第一発見者なんでしょ?」千鶴は不承不承といった返事をした。「あーあ、警察に電話して、この部屋から飛び出して、青ざめた顔でしくしく泣いていようかしら」
「もう少し真剣にやれ」
「はぁい」
紺野は水樹とすれ違い様に、
「……このマンションを出て坂道をあがったところに電話ボックスがある。灰色の公衆電話だ。お前はそこで待っていろ」
と、ささやいた。
秋庭は訝《いぶか》しげに水樹を一瞥したが、次の瞬間には腐臭に顔を歪め、紺野のあとをあわてて追っていった。
上着を肩にかけて歩き去る紺野の後ろ姿を、水樹は茫然と眺めた。シャツが汗で透け、背中の刺青が浮き出て見える。
まっ黒に染まった異形の刺青……
早く行けば、と千鶴にうながされ、水樹の身体がようやく動いた。
水樹はマンションの外で紺野と秋庭を見送ると、すぐに電話ボックスを目指した。
ぺちゃくちゃとうわさ話をするような鳥の囀りが、熱帯夜を予感させる風に乗って運ばれてくる。長い坂道を上りきると道の幅が急に広くなり、その端にガラスで仕切られた電話ボックスがあった。紺野が言っていたとおり、灰色の公衆電話だった。携帯電話が普及してから馴染《なじ》みのある緑の公衆電話はいたるところから撤去され、この灰色の公衆電話に置き換えられている。
付近に誰もいない。
電信柱の陰に身を潜め、十分ほど待ったときだった。
ボックス内の公衆電話が突然鳴りだした。
水樹は驚いてふり向いた。リーンリーンと鳴っている。公衆電話に電話番号があることは聞いていたが、その番号をどうやって入手できるかは知らなかった。
入手方法を知る何者かが、目の前の公衆電話に電話をかけている。
ベルは誰かが取るまで、延々と鳴り続ける様子だった。水樹は躊躇したが、ガラスドアを押し開き、受話器を上げて耳にあてた。
相手は黙っている。
水樹は息を吸い、言った。
「――高遠さんですか?」
「き、きききき、君が、水樹君かい?」
引っかかるような声で聞きづらかった。電話の向こうでひゅうひゅうと息が洩れている。
「……はい」
「きゅ、急に慈善事業をしたくなったんでね、き、君の母親の口座に、百万円ほど振りこんでおいたよ」
突然吐かれたその言葉に、水樹は動揺した。
「君の親孝行ぶりを、し、調べさせてもらったんだ。毎月母親に仕送りをしているようだね。な、なるほど。母親の姓が水樹か。生まれつき病弱で、死んだ組長とは籍を入れていない。君を身ごもった時点で身をひいて、ひとりで生んで育てていたわけか。親思いの良い子が育つわけだ。組が解散して今年の二月に引っ越している。み、身寄りがないんだな」
水樹は受話器を持つ手に力をこめた。自分しか知らない母親の口座番号を、なぜ今日はじめて接触した高遠が知っているのだ? 血の気が引く感覚に襲われた。
「だ、だだ、黙ることはないじゃないか」
すねたように高遠は沈黙した。かすかな息遣い。水樹が反応を見せるまで口を開かない沈黙だった。
「……すみません」
「そうだよな、そうだよな。これから行動を共にすることになるんだから、これくらいのことは知っておかないとな。別におかしなことじゃないだろう? でも、ぼくが君の口から聞きたいのは、すみませんという言葉じゃない」
再び沈黙が続いた。
「……ありがとうございます」
水樹は絞り出すような声で言った。
「どういたしまして。それよりちゃんと、カ、カメラは回収してきたかい?」
「はい」
「そうか。じゃあ、電話ボックスに向かってきた方向、そこから百メートルほど先に進んだところに郵便ポストがある。とりあえずそこで君を車で拾う。後部座席に素早く乗るんだ。いいね? 言っておくが、ぼくは君を見ている。き、君がひとりでなければ、ぼくは現れない。それじゃあ」
通話が切れた。
水樹は電話ボックスから出ると急いで向かった。指定された郵便ポストは背の低い落葉樹に挟まれてあった。
しばらく待つと、眩《まばゆ》いヘッドライトの明かりと共にミニバンが現れた。フロントグラス以外のウインドウすべてにスモークシールが貼られている。水樹はジャージの匂いを気にしたが、「失礼します」と素早く助手席側の後部座席に乗りこんだ。
高遠は運転席にリラックスするように座っていた。品のいいポロシャツ姿で、歳は紺野と同じ三十代後半に思えた。目じりの下がった人の良さそうな顔。表情には知的な陰があり、どことなく教会の牧師を思わせる印象があった。
ハンドルの左手にはアクセルとブレーキを操作する木製レバーがあり、助手席のシートは取り外され、折り畳み式の車椅子が置かれていた。改造されたインパネ周りには、手を伸ばせば届く位置に、ノートパソコンやモニタなどの機材が据え付けられている。
モニタには、水樹が映した死体の映像が延々と再生されていた。
高遠はふり向き、顔の左半分だけで笑顔を作った。顔の右半分が引きつっていることを、水樹はこのときはじめて知った。火傷《やけど》か薬品事故の後遺症に思えた。
「は、はじめましてと、いったほうがいいのかな?」
高遠はほとんど唇を動かさずに喋った。
「よろしくお願いします」
水樹は深く頭を垂れた。車内に澱《おり》のような沈黙ができた。水樹が顔を上げたときを見計らうように、
「……よろしくお願いします、か?」
と、高遠は小さくつぶやき、枯れ葉がこすれるような笑い声を出した。「教えてくれよ。なにをもって、よろしくお願いしますなんだい? まったく、どいつもこいつも同じことを言う。そんな無意識の言葉なんか、ぼくの前で二度と使わないでくれ」
「すみません」
水樹の顔から汗がひいた。
高遠はノートパソコンを手前に引き寄せ、キーボードの上で長い指を、這いまわる蜘蛛《くも》の肢のように動かした。
「き、君のカメラワークはなかなかだったよ。紺野が電子メールで伝えてくれたとおりだ。若者にしては度胸がある。おかげで今回の事件で興味深いことがいくつかわかった。……これからも、ぼくの手足となって動いてほしい。それで君のサラリーとは別に、君の母親の口座にも金を振りこんでおく。なんなら、優秀なホームヘルパーを送ってやってもいいぞ」
水樹は両膝の上で拳《こぶし》を握り、ふるえを自覚した。高遠は自分に警告している。いつでもお前の母親に手をかけることができる、と。それが単なる脅しでないことは、高遠が発散するどこか異様な雰囲気から感じとれた。緊張が毒のように水樹の身体を痺《しび》れさせた。
高遠はギアをDレンジに倒し、木製レバーを手前にぐいっと引いた。ミニバンがのろのろと発進する。
「……自分は手足になって、何をすればいいんですか?」
「手足が、ものを考えるのかい?」
水樹は黙った。
「いじわる、したかな」高遠はミラーをのぞき、水樹の表情をうかがい、顔の左半分でにやりと笑った。「実は、紺野とぼく宛に脅迫文が届いているんだよ」
「脅迫文?」
「そう。必ず電子メールで届く。これまで二通届いた。不可解な内容だったから今まで無視してきたが、そうはいかなくなってきたんだよ。そいつは『ガネーシャ』と名乗っている。ふざけたやつだ。これからぼくと君は協力して『ガネーシャ』の正体を追う」
(ガネーシャ?)
聞き覚えのある言葉だった。耳にしたのは高校在学中だろうか。どこかの国の神話に出てくる、動物の顔をした神様の名前だったような気がする。
「マンションで、へ、変死体を見ただろう?」高遠は続けた。「あれは殺人だ。『ガネーシャ』が藍原組に要求しているのは、組員達の『睡眠』だよ」
水樹は唖然とし、マンションの寝室での紺野と千鶴のやりとりを思い出した。まさか……
「命が欲しければ眠るな、睡眠を差し出せ、と言っているんだ。まともな要求じゃない。どうやら『ガネーシャ』は無差別にターゲットを選んでいるようだ。じ、事実これで組員が三人死んだ。もう放っておけない。こ、これは、藍原組に対する皆殺し宣告と言った方が、は、早いな」
一気に喋った高遠は、それから長いこと黙り、
「紺野……コンちゃんが、ぼくの警告に耳を貸さないからだっ」
どんと、ハンドルに片手を打ち下ろした。
「――なあ、君」
高遠は興奮気味に息を荒立てている。
水樹は戸惑った。「はい……」
「人間の恐怖はどこから生まれると思う?」
水樹は一瞬考え、答えた。「死を、意識したときですか?」
「死は想像できる。普段想像できないことのほうがもっと怖い。たとえば当たり前にあると思っていた衣食住を、何の前触れもなしにいきなり奪われたときだ」
フロントグラスを次々と透過する街灯やネオンに、高遠の左半分の顔が照らされた。
水樹は目を見張った。
高遠は泣いていた。一筋の涙が左目から伝わり落ちている。
「『ガネーシャ』がやろうとしていることは、そういうことなんだよ。みんな、死への床につくことも気づかずに、眠ったまま死んでいく。ガネーシャの正体も目的もわからない。誰かが雇った殺し屋かもしれない。ぼく達は、と、とんだ変態野郎に命を狙われているんだ。眠っている間に死ぬ、という恐怖心をうえつけて楽しむつもりなんだ。このクソ暑い夏に、冬山の遭難と同じ状況を作って追いつめていく気なんだよ。まったく、ひどいやつだよなあ」
高遠の顔に暗い影が射し、唇の半分だけが小刻みにふるえはじめた。ぶつぶつと口の中でつぶやきはじめる。
「ぼく達ふたりの……邪魔するやつ……許さない……。正体を突きとめて、つかまえる……。ぜったいつかまえる……。それから、お楽しみタイムのはじまりだ。一週間かけて、殺す……。なぶる……足を切る……少しずつ、切る……。顔を削ぐ……少しずつ、スライスしていく……」
黙って見つめる水樹は口を閉じていた。
壊れている、と思った。
藍原組の組長代行と、車椅子のナンバー2。
そして彼らふたりの命を呑みこもうとする得体の知れない悪意、ガネーシャ。
おそらくガネーシャと名乗る人物に、彼らふたりは心当たりなんてないだろうと思った。恨みを買っている人間のことなどいちいち覚えていない。だからこそ、この界隈で抗争と呼ぶにはあまりにも一方的な制圧を実現できた。
世の中には決してかかわってはいけない人間がいる。
ならば彼らふたりは、とうとうそれを味わうときがやってきたのだ。
[#改ページ]
下側の世界 3
・王子
・ブラシ職人
・時計師
・墓掘り
・坑夫
・楽器職人
・画家
その文字は、石組みの壁に極彩色で描かれた絵のなかにあった。
わたしは指をはわせた。
この暗渠で生活するひとたちとおなじ数――ぜんぶで七人。
まわりの絵にも視線を移していく。
職人たちの絵。時代はたぶんなん世紀もまえだろう。街の風景や、そこにかかわるひとびとの生活も描かれていた。職人たちは黙々と、自らに課せられた使命をかたくなに守るように働いている。苦しげな陰影を表情に刻むひともいて、過酷さや疲労やその貧困さがうかがえた。
しばらくのあいだ、魂を吸いとられたように眺めていた。
暗がりのなかで見る極彩色が、こんなにも美しいことをはじめて知った。≪時計師≫のおじいさんの仕組んだ芝居も忘れて見入った。放心したように壁画から手を離したとき、並べられている鳥籠に足がふれた。その瞬間、ばたたっとあわてふためく羽音がし、放し飼いのなん羽かの鳥たちにも伝染した。
狭い暗渠でパニックが起き、石畳をところ狭しと翼が舞い踊った。
わたしは肩越しに申し訳なさそうに、ランタンを挟んですわるふたりを見やった。ほころびた服に身を包んだ浮浪児――≪王子≫と、≪時計師≫のおじいさん。ふたりして、ランタンが鳥にたおされないようかばっている。
「すまんなあ」
と、≪時計師≫のおじいさんがこぼした。すまん、とはわたしをここに連れてきたことで、もちろん≪王子≫にいっている言葉にちがいない。
≪王子≫はあきらめたように首をふっていた。
わたしは遠慮して、すこし離れた場所に腰をおろした。ふたりに向かって言葉をさがしたが、でてこない。
「そういえば」≪時計師≫のおじいさんが、思いだした口調で≪王子≫にささやいた。「死んでたよ、キスケとアイが」そしてわたしを見る。「このお嬢さんが見つけてくれた」
「どこで?」
≪王子≫の声は大人びていた。戸惑うわたしの代わりに、おじいさんがこたえてくれる。
「B7の地点じゃ」
「……そう」
「とりにいくか?」
≪王子≫はなにもいわず、わたしに目を向けた。
歳は十四、五に見えた。褐色の肌。じっと腰をおろす落ち着いた態度と静かな表情には、なにか彼をきわだたせるものがあった。サイズがまるであわないジャケット、さらさらの髪、痩せて骨ばった頬、右目の下にある小さなほくろ……。親はいるのだろうか? 家はどこだろうか? いつからここに住みついているのか? などと押しよせてくる疑問を、俗なものと思わせる雰囲気がそこにはあった。
≪王子≫は石組みの壁に背をあずけたまま、隅によせた段ボール箱に手をのばした。わたしのことなどもう興味をなくしたように文庫本をとりだすと、ランタンの明かりのもとでページをめくった。本は箱になん十冊も積まれていた。石畳には、ビニールシートや毛布、お椀《わん》のように小さなガソリンストーブ、ガラスの食器や魔法瓶がおいてある。ここでなん年も傷ついた鳥たちの世話をしながら生活している、そんなふうに感じられた。
気後れしていたわたしは、ようやく口がきけるようになり、
「この鳥たちはいったい?」
と、たずねた。
「ワカケホンセイインコ」≪王子≫が本から目を離さずにこたえた。「集団で寝ぐらを形成する習性があるんだ。もともとアフリカからアジアにかけて広く生息していて、日本に輸入されたものが三十年ほどまえから野性化している。上側の世界で群れているのを、きみは見なかったのかい?」
上側の世界といわれて、つい天井に目が向いてしまう。なん度かつづけるうちに癖になりそうだった。
「ごめんなさい」わたしは見あげながら声を洩らした。「じぶんのことは、よく思いだせないの……」
「そうか」≪王子≫は文庫本をぱたんと閉じた。「悪いことをきいたね」
そういって≪王子≫は、足もとで動かずにいる一羽の鳥をやさしくなでた。この一羽だけ、赤いくちばしがなかった。
「ここにいるインコは……」
思わずつぶやいた。
「群れに入れてもらえないインコたちだよ。それは、『死ね』と見放されたとおなじなんだ。でも群れを責めることなんてできない。生きていくのに必死だし、そこに理屈なんてないのだから」
「……かわいそうだから、こんな地下の暗渠に集めて世話をしているの?」
その問いに、≪王子≫はこたえたくないしぐさを見せた。
気を悪くさせたのだろうか? わたしが目を伏せると、≪王子≫はため息をつき、
「ここにある絵のことなら、きみに話してあげられるけど」
と、いった。
わたしは七人の職人たちの絵が描かれている壁を見た。
「ここにある絵は、≪画家≫が描いてくれたものなんだよ。きみの手当ては彼にも手伝ってもらった。お礼をいうのなら、彼にもいったほうがいい」
≪画家≫……新しい住人の名前がでてきた。彼、ということは男だ。おぼえておこう。
「手錠でつないだのはわしじゃ」
と、≪時計師≫のおじいさんが割って入る。
≪王子≫は睫《まつげ》の長い目をしばたたかせ、
「そんなことして意味があるのかい?」
「つないでおけば、勝手に出歩かれて迷子にならんじゃろう? ≪墓掘り≫や≪坑夫≫に見つかったら、どえらいことになる」
そうまくしたてる≪時計師≫のおじいさんに、わたしはどえらい目にあわされている。わたしの棘《とげ》のある視線を感じてくれたのか、≪時計師≫のおじいさんは縮こまり、
「ここにくるような人間はゴミかクズじゃ。だいたいこんなとこ、マトモな人間がくるところじゃないんじゃよ」
と、卑屈にいった。
「そんなこといったら、ぼくだって≪時計師≫だってマトモじゃないや」
≪王子≫が軽くあしらう。
「おいおい。わしらふたりは」≪時計師≫のおじいさんが語調を強めていう。「まだ人間の言葉が通じるじゃろう?」
え?――あやうく声が洩れそうになった。≪画家≫や≪墓掘り≫や≪坑夫≫、そしてあとのふたりが、いったいどんな人間なのか想像つきかねた。
「どうしてそんな風に呼びあうの?」
思わずたずねた。
ふたりはめずらしい動物でも見るかのように、わたしを見た。ちょっと待って欲しい。なにかがちがう。立場が逆転している。
「≪時計師≫だったり≪墓掘り≫だったり。それがほんとうの名前じゃないんでしょう?」
負けじときくと、≪王子≫は短い沈黙をおき、
「――ここではほんとうの名前で呼びあうより、意味があるからだよ」
≪時計師≫のおじいさんがそれにつづいた。
「忘れちゃいないだろうな? ここは石組みの暗渠のなかじゃ。陽は決して射さん。ふだんあたりまえのように目や耳で感じてきた時間の流れはいっさい存在しない。まったく変化のない生活になるんじゃよ。……そうやってなにも考えずに暮らしているとな、一日まえはおろか、一時間まえのことさえ思いだせなくなる。それでもここしか居場所がない連中がいる。これ以上気がおかしくならないよう、お互い歯止めをかけておく必要があるんじゃよ」
「歯止め?」
ききかえすと、≪王子≫はうなずいた。
「この暗渠の生活でじぶんが必要とされていること。じぶんの存在がみんなの共同生活の礎となっていること。具体的にいえば仕事だよ」
「……仕事?」
「≪墓掘り≫はこの暗渠で守っているものがある。≪楽器職人≫はみんなのために、肌寒くなるようなここの静けさを埋めてくれる」
「あの三本指の奏者じゃな……わしはどうも好かんな」
≪時計師≫のおじいさんが小声で毒づく。
「じゃあ、≪時計師≫のおじいさんはなにをしているの?」
わたしはきいた。
「わしか? よくぞきいてくれた。十二時間おきに、目印となる燭台に火をつけてまわる。それが≪時計師≫に与えられた仕事じゃ」
それだけ? という言葉を呑みこみ、
「蝋燭なんてどこから?」
と、素朴な疑問を投げた。
「それ以上は、きかないほうがいいよ」≪王子≫が笑いをこらえて口を挟む。「ここでネズミがでないのは、≪ブラシ職人≫がきちんと掃除してくれるおかげなんだ。ほかのひとたちも、それぞれ大切な仕事を持っている。お互い敬意を払いながら、余計な干渉をしないよう気を配っている。ぼくらの呼び名は、十七世紀のオランダ、アムステルダムで実際にあった職業名なんだよ」
「職業名? どうして?」
「まんざらでもないよ。どんなに貧しくても――地に墜ちても、じぶんがなにものか、呼ばれてすぐわかる」
「たしかにそうじゃな」≪時計師≫のおじいさんがため息混じりにいった。「ここの生活では、記号としてわかりやすい名前のほうがいいんじゃよ。じぶんが果たすべき使命もすぐわかる。親からもらった名前も大切じゃが、思いださなくてもいいことまで一緒に思いだしてしまうことがある。世のなかには、それが辛《つら》いひともいるんじゃよ」
わたしはふたりの会話を黙って耳にしながら、ここにいてはいけないと本能的に悟った。わたしがここにいれば、きっとこのひとたちに災いをもたらしてしまうだろう。そう思った。だれにも迷惑をかけずに暮らしている彼らの生活を、脅かしてしまうにちがいない。
だからわたしには、心のなかで引っかかるものを抑えることができなかった。それがなんであるのか気づいたときには、もうすでに口にだしていた。
「それって結局、世間からも仲間からもつまはじきにされた浮浪者が、こんな暗渠のなかまで逃げてきたということでしょう?」
ふたりが同時にわたしを見る。
「それで、おかしなコミュニティをつくって満足している」追い打ちをかけるつもりはなかったが、つづけた。「……ちがうの?」
≪王子≫はわたしの挑戦的な目をまっすぐ見つめかえしていた。その瞳は凪《な》いだように淀みがなく、かえってわたしを戸惑わせた。
「きみのいうとおりだ。ここにいるひとたちは、ぼくも含めて、上側の世界で自活できる能力も体力もなかった。でも、ぼくらはなにかから逃げだしたとは思っていないよ。負けたとも思っていない。すくなくともここでは、弱いひとが弱者と呼ばれないだけ救いがある。たとえ陽が射さなくても、人間として生きられる場所なんだ」
≪時計師≫のおじいさんがそれを受けた。
「いいか、よくきくんじゃ。わしが子供のころはな、浮浪者はホイと呼ばれて、家々をまわってわずかなお金や食べものを恵んでもらっていたんじゃ。路上でもの乞《ご》いもしていた。そういう光景が日常にあったんじゃよ。つまり世間との接点があった。ところがいまはコンビニがあるじゃろう? コンビニの裏口で賞味期限切れのパンや弁当が手軽に調達できる。便利な世のなかになったが、そのせいで浮浪者と世間の接点は失われてしまった。いまの親御さんや子供たちは、わしらを見ても、どう接していいのかわからない。教えるひとがいなくなったんじゃよ。それがどれほど残酷な結果を生んでいるか、わかるじゃろ?……いまは浮浪者になった時点で、世間から隔離されていることを自覚しなければならない。公園で寝てようが、駅のホームにいようが、どこにいても変わらないことなんじゃよ。むしろ消火器やエアガンで襲撃されたり、酔っぱらいからいわれもない暴力を受けたり、居場所を粗大ゴミのように撤去される思いを味わうよりは、ここにいたほうがはるかに安らぐ」
「上側の世界ではね」と、≪王子≫がいった。「弱者の存在は、周囲のやさしさによって穏やかに殺されているんだ。対立や摩擦を徹底的に避ける、一方的なやさしさにね。……ときどきそれが、ひどくつらいときがある」
「わしらが求めているのは、魂の平安なんじゃよ。手に入れるのが難しい世のなかになったがな」
「……それに」≪王子≫が静かにつづける。「こんな地下の果てにいるからこそ、下を向かずに上を見あげる時間が増える。いつかここをでていくときの光のまぶしさもよくわかる」
光のまぶしさ……。わたしは黙ってふたりを見つめた。
「でていくつもりがあるのか? ≪王子≫よ」と≪時計師≫のおじいさん。
「そのときは、みんなの背中を押すぼくが一番最後になるよ」と≪王子≫。
「じゃ、わしは最後から二番目じゃな」
≪王子≫と≪時計師≫のおじいさんは示しあわせたように微笑む。
わたしは息を吐いた。ふたりは辛い出来事や経験をすべて、腹のなかにしまって話しているように思えた。このひとたちは、上側の世界よりも、もっともろくて壊れやすい世界に避難してきたのかもしれない。そしてこんな光の射さない生活を、大切にして生きている。
それをわたしが壊す権利などあるだろうか。
わたしは腰をあげた。
「そんなからだなのに、どこにいくつもりなんだい? やっぱり……」
そういって、≪王子≫の目が上を向く。
あんなことをいった手まえ、ここにいるつもりはなかった。かたい声でたずねた。「どうしてわたしを助けてくれたの?」一番ききたかったことだった。
≪王子≫は言葉に迷う表情を見せ、
「はじめて見たとき、きみは血だらけで、やつれて、くたびれて、ときどきわけのわからないことをつぶやいていた。きみみたいな若い女性が、いったいどんな人生を歩んできて、これからどんな人生を送ろうとしているのか興味が湧いた。……それにきみひとりを助けたわけじゃない」
≪王子≫は≪時計師≫のおじいさんに目を移した。≪時計師≫のおじいさんはそれを受け、鞄のふくらんだポケットからそっとヒナをだした。わたしが拾ったヒナだった。
「翼の骨は折れていないと思う」と≪王子≫はいった。
「なおるの?」
「なおるよ。時間をかければ。でも、もとの場所にもどしても、もう親はもどってこない」
わたしは沈黙した。
「きみが親代わりになるしかないんだよ。このヒナはまだ空を飛べる。上側の世界にもどるなら、一緒に連れていってくれないか」
「このヒナは群れにもどせるの?」
≪王子≫は首を横にふった。「本来親鳥から教わるさまざまなえさや生きていく知恵を、人間が教えるなんてとてもできないからね」
「そう……」
「がっかりしなくていいよ。このヒナを育てるとき、人間にはできて親鳥にはできないことが、たったひとつだけある」
「え」
「知りたいかい?」
わたしはうなずいた。
「言葉だよ。人間の言葉を教えることができる」
「……言葉?」
「オウムの仲間だからね。まだ幼いうちなら、くりかえし教えてあげればおぼえる。ヒナが生きていくには必要のないことだけど、きみが育てた証《あかし》にはなる」
わたしが育てた証……。≪王子≫が差しだしたヒナを両手で受けとめた。小さな生の温もりを手のひらに感じた。
「そろそろいこうか」
≪時計師≫のおじいさんが、ころあいを見計らうように立ちあがった。引きとめるつもりなど毛頭なさそうだった。
≪王子≫はインコたちと一緒に、心配そうにわたしを見あげている。
「――安心して。ここでのことは秘密にするから」
そう約束して背を向けた。
だれかがわたしを呼んだ。
若い男のひとの声だった。血だらけの手でわたしの腕をつかみ、懸命にひっぱりあげようとしている。
思いだした。それが、ここにくるまえにわたしがおぼえている最後の記憶だった。
…………
わたしは石畳の上で縮こまり、ふたたびうすれていく意識のなかで暗闇に目をすえていた。
なぜだかわからない。
これ以上、出口に向かってすすむことができなかった。
怖かったのだ。このからだが上側の世界にもどることを拒んでいる。
まぶたを閉じたときだった。
〈――どうしてここにもどってきたんだい?〉
だれかが、そっと息を吹きかけるようにたずねてくる。
どうしてって?
〈――きみには帰る場所がないの?〉
……ない。
わたしはかえした。胸の苦しさに耐えきれず、つづけて吐きだした。
もう、ないよ。どこにも、ない。だから……
〈――ひどいよ。だからといって道連れにすることはないじゃないか〉
道連れ?
うす目を開くと、蝋燭の明かりの中心にだれかがいた。輪郭がぼんやりとかすみ、最初はだれだかわからなかった。
わたしは目をしばたたかせた。
穴の空いたハンチング帽を深くかぶった≪王子≫が目のまえでかがんでいた。そのすぐ脇で、≪時計師≫のおじいさんがヒナにスポイトでえさを与えている。
「なぜ≪時計師≫がいったとおりに、出口にすすまなかったんだい?」
わたしにはこたえることができなかった。
「わけありなんだね」と≪王子≫。
「わけありのようじゃな」と≪時計師≫のおじいさん。
「帰る場所なんかなくても、またつくればいい」≪王子≫はいった。「――その日がくるまで、ぼくらとここで暮らすかい?」
≪時計師≫のおじいさんがスポイトの手をとめ、渋面をつくった。
「≪王子≫よ、本気でいっているのか?」
「もちろん本気だけど」
「こんなところでぐずぐずしているようじゃから、とんだ厄介者かもしれんぞ」そして鋭く尖る声で、「わしは反対じゃ」
「それじゃあ、みんなで決をとればいい。≪墓掘り≫はダメだから、残り六人で多数決をとろう」
「おいおい。≪王子≫が賛成したら、≪ブラシ職人≫と≪画家≫と≪楽器職人≫がつくじゃないか。四対二でわしの負けじゃ」
「もしそうなったら、ぼくが責任をもつよ」
そういって≪王子≫は、わたしの目のまえに手のひらを差しだしてくれた。
わたしはその手をぼんやり見つめ、片手をあげてつかもうとした。五本の指が空をさぐった。
≪王子≫はわたしの手をやさしくとり、にぎりしめてくれた。
「きみの名前をみんなで考えなきゃね」
「……名前なんていらない」
声がかすれ、涙ぐみそうになった。
「まだぼくらにあわせる必要なんてないよ。最初はきみの心のなかで思い浮かぶ名前でいい。幼いころから最近のことまで、心に残る思い出をさがしてごらん。うれしいこと、悲しいこと、いろいろあったはずだよ」
「なにもない。もうなにも……」
それでもわたしは彼らと一緒にいたかった。名前の代わりになるもの――心の奥底に溜まった、どろどろとしたコールタールのようなものに気づく。そのなかにひとつだけあった。わたしはそれを引きずりだし、口を動かした。消えいりそうな声だったのかもしれない。
「え?」
≪王子≫がききかえした。
わたしはもう一度いった。唇がふるえ、なん度もくりかえした。
「……ガネーシャ……」
ふたりは顔を見あわせる。
なんだそれ? ≪時計師≫のおじいさんの目がそう訴えている。≪王子≫が耳もとに口をよせ、「インド神話にでてくる、象の顔をした太鼓腹の神様のことだよ」とささやいた。≪時計師≫のおじいさんは、納得したようなしないような顔でうなずいた。
≪王子≫はわたしの腕を持ちあげ、肩にまわした。
「立ちあがれるかい?」
わたしは喉を鳴らしてこたえた。
深い暗渠の奥へ向いた。ランタンの明かりが、わたしが進む道を指し示すかのように、石組みの通路を照らしている。
かすかに弦楽器の音がきこえた。まただ。もの寂しいチェロの演奏。ふたりは反応しない。
わたしは、じぶんにだけきこえる音を追うように首をまわした。
「きこえるんだね、あの演奏が」
≪王子≫の声に、わたしはうなずいた。
「≪楽器職人≫が弾いているんだよ。きみなら友だちになれるかもしれない」
わたしは≪王子≫の肩を借りながら、じぶんの手のひらを見つめた。≪王子≫に手をにぎられたときの感触を思いだしていた。
汗ばんで熱を持った手だった。力もなかった。そしていま、≪王子≫に顔を近づけて、はじめてわかったことがあった。
咳を我慢するようにあえいでいる。
――この少年は長くは生きられないだろう、そんな予感がした。
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第二部
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上側の世界 4
秋庭ははっと目覚めた。
じっとりとした汗が顔を濡《ぬ》らしている。口の端にたまったよだれをあわてて拭《ふ》き、壁掛け時計に目を向けた。何分、いや、たった十数秒かもしれない。突然脱力して眠りにおちた。
事務所を見まわすと、ソファに腰を沈める自分と紺野を中心に、組員達が壁に張りつくように立ち並んでいる。
紺野はまるでスイッチが切れたようにうつむき、黙りこんでいた。
秋庭は目頭を押さえ、ここ最近疲れているのだと自覚した。最近多い。うとうとしかけたときや半分眠ってしまったときに見る、鮮明すぎるほどの夢。生々しい現実感をともなった幻覚や幻聴……。ぐちゃぐちゃだ。夢と現実の境界線の見分けがつかなくなり、眠った記憶さえないときもある。
足元にある朝刊を拾い上げた。四日前の日付だがまだ捨てていない。一面の片隅に何度も読み返した、小さな記事が載っている。
〈マンションの寝室、男女二名の遺体発見。うち死亡していた男性は暴力団組員(二八歳)〉
同じ日に県内で児童バス転落事故が発生し、そちらのほうが大きく取り扱われたため、記事としてほんの十行程度の扱いだった。
秋庭は舌打ちをこらえた。
警察の事情聴取がひと通り済んだ今日、藍原組の組員は電話番を残してこの別事務所に集められていた。郊外型の量販店が建ち並ぶ幹線道路沿いにある、十万円ほどで商号権を買い叩《たた》いた小さな株式会社だった。四LDKのマンション二部屋に改装工事が施され、奥の部屋同士がつながっている。警察が踏みこんできたときの用心策で、もちろん目張りされた窓の外から中の様子をうかがうことはできない。
藍原組に三人目の犠牲者が出てから、紺野と秋庭の元に情報が洪水のように流れこんでいた。
そのひとつが警察の動向だった。死因が不明であろうと、この界隈《かいわい》で武闘派を標榜《ひようぼう》する藍原組の組員に三人も死者が出た。五年前の陰惨な抗争を覚えている警察関係者なら、その事実を事件ととるよりも危険信号とみる者が少なくなかった。今のところ藍原組は被害者だが、いつ加害者に変貌《へんぼう》するかわからない。露骨なマークはまだされていないが、本部の事務所周辺では、私服警官と思える人間が目撃されはじめている。
マンションで遺体となって発見された坂口、それ以前に急死した近藤と天野については、藍原組の横のつながりを駆使して調べさせていた。最後に目撃されるまでの行動や接触した関係者は徹底的に洗い出され、その結果、近藤と天野については死亡する数週間前から不眠を周囲に洩《も》らしていたことがわかった。
また今朝の情報で、坂口と一緒に死んでいた真由子に関してのみ、睡眠薬五十錠とウイスキーを摂取していたことが判明している。
マンションで一緒に死んだ坂口と真由子のふたりに親はなく、施設の頃からの連れ合いだった。秋庭はそのことをふたりが死んでからはじめて知り、ほぞを噛《か》んだ。真由子は坂口の死を目の当たりにしたことによる後追い自殺と推測され、睡眠薬の入手経路については、藍原組かかりつけの医師を通じて二百錠ほど入手していたことがわかっている。つまり坂口もまた、前のふたりと同様に不眠状態で悩んでいたことになる。
不眠が続いていた三人の身に何が起きたのか、その疑問はさらに深まる結果となった。現時点で他殺かどうかの判断はできない。しかし偶然が三度続くことはあり得ない。立て続けに起きた不審死、そして被害者にもかかわらず警察が目を光らせている現状に、組員の誰もが苛立《いらだ》ちを隠せずにいた。
事務所に充満する煙草の煙の中で、歯ぎしりするような唸《うな》り声がした。
秋庭はその方向に目線を上げた。
紺野の運転手の桜井だった。目を真っ赤にうるませている。小柄で彫りの深い顔、サイのような身体つき、派手なアロハシャツ、首と手首に細い金のチェーン。普段から注意しているのだがひと目でチンピラとわかる風貌をやめようとしない。マンションで遺体で発見された坂口とは、同じ中学出だった。
坂口は傷害致死で四年のつとめを終え、去年出所したばかりだった。実際のところ傷害致死は偽装で、巧妙に仕組まれた殺人だった。出所後の出世など約束されない時世なのに、坂口は組のためにすすんで志願した。その坂口が不遇の死を遂げた。
「水樹がいねえ。なんでここにいねえ」
桜井が行き場のない怒りの爆発を抑えこむ口調で吐き捨てた。
「……なんでここにいねえんだよ?」
誰も何も答えない。桜井は血走って濁った目を動きまわらせた。兄貴分に対してもいっこうに構わない様子だった。桜井は些細《ささい》なことで激昂《げつこう》する。手がつけられない。そして何かにつけて水樹に絡む。かつて耳の鼓膜が破けるほどいたぶったこともある。
誰かが桜井に向けて舌打ちした。暗く残酷な目を返す桜井に視線が集まり、組員のひとりが動きだそうとしたときだった。
「破門にされたんだろ、あいつは」
秋庭はぽつりとつぶやいた。煙草の箱を開いた。空だった。脇から別の煙草が差し出されたが、片手で制した。
「あの野郎、こんなときになめてますよ。紺野さんに拾ってもらった恩を忘れやがって」
秋庭は立ち上がり、組員達を肩で押しのけて桜井の前に立った。
「――頭冷やせ」持っていたウーロン茶のグラスを頭から逆さに空けた。「水樹は関係ないだろ?」
桜井の顎《あご》の先から滴がぽたぽたと落ちた。秋庭は桜井の胸ポケットから煙草を取り出すと、一本くわえた。すぐにライターの火が差し出される。
しゃくりあげる声がした。荒々しかった桜井の息遣いが、せきを切るような嗚咽《おえつ》に変わりはじめた。
「坂口はきっと殺されたんです。オレたち、この界隈で恨まれてますから」涙ぐみ、秋庭を上目遣いで見た。「オレはやりますよ。……坂口のカタキ、絶対に討《と》ります」
「まだ殺されたと決まったわけじゃない」
秋庭は真顔で返した。
「殺されたに決まってます。このまま放っておくんスか? だから他の組になめられて……」
言い終わらないうちに秋庭の平手打ちがとんだ。桜井の目が裏返り、脳震盪《のうしんとう》を起こしたようにふらついた。秋庭は続けざま足払いをかけ、桜井はカーペットの上に突っ伏した。桜井の口もとがわななき、青ざめた顔で秋庭を見上げた。スーツの内側に手を入れている。
息を呑《の》む音――周囲が凍りついた。
見下ろす秋庭の形相が一変し、こめかみに血管が浮いた。
桜井の目が逃げ場を求めてさ迷い、スーツに入れた手が硬直した。
「……美しいじゃないか」
事務所中の目が一斉に向いた。
秋庭も首をねじって見た。それまで沈黙を守っていた紺野だった。ソファの背に肘《ひじ》をまわして肩越しに眺めている。
「ずっと昔を思い出しちまったよ。おれには一生のうち一番大事だった時期を、一緒に過ごせた友人がいた。お前と坂口もそうだったんだろう?」
特に大きな声ではないのに、それは事務所中に響いた。
桜井はくしゃくしゃに顔を歪《ゆが》め、涙混じりにうなずいた。
紺野は言った。
「だったらなおさら私怨《しえん》で動くな。お前みたいな直情バカがいるから、こうして集めておれの口から言わなければならない」
バカという声に揶揄《やゆ》する響きはなかった。紺野は桜井から視線を外すと、ひしめきあう組員達にも首をめぐらせた。皆わずかに視線をそらした。
「おれ達はもう社会の弱者なんだよ。おれ達の存在がそれなりの役割を持っていたのは、とうの昔の話だ。他の組になめられる以前の問題だ」
水を打ったように静まり返る中、秋庭だけが冷静な目つきを返した。
「おれ達のシノギは一方的に封殺されてきた。賭場《とば》は公営賭博に取って代わった。用心棒はガードマンを抱える警備会社に奪われた。パチンコのシノギは今や警察OBが強奪している。おれ達に対する法規制や圧力なんて、違法のオンパレードなんだよ。なりふり構わず潰《つぶ》そうとしてくる。なのに非難の声はどこからもあがらない。バブルも弾《はじ》けて、おれ達はもう社会から用済みということで黙殺されているわけだ。それでもおれ達は生きていく必然として、この世界に身を投じた。違うか?」
聞きながら秋庭は桜井を見下ろした。怒りではなく憐《あわ》れみをこの男に感じ、紺野の正面に戻った。
紺野は続けた。
「おれ達は毎日、世間が目を背けたくなるような泥水を飲んで生きている。孤立無援だ。だからこそ結束を固める。それは組織という意味じゃない。はき違えるな。行動だ。人生や友情にある種の価値観を抱く。そしてそれを重んじる。その行動が暴力によって支えられている。その看板を外したら、おれ達はもうおしまいなんだよ。おれ達は近藤と天野、そして坂口の死を誰よりも悼む。生きていくために三人の名誉を守る。その死に納得がいかないものであれば、真相を突き止める。それに命をかける」
「命を……」
かすれた声で返す桜井に、とろけるような恍惚《こうこつ》とした笑みが浮かんだ。
「そうだ、命だ」紺野は満足そうに目を細め、ソファにもたれた。「――近藤と天野、坂口の三人は殺されたと思っていい。あれは殺人だ。これからはそう考えて動け」
「代行に心当たりは?」
秋庭の顔に、ここ数日の徒労が滲《にじ》み出た。
「ひとつたどる価値のある線がある」
「それはいったい?」
「おれ宛に、奇妙な電子メールを送りつけているやつがいるんだよ」
「奇妙な?」
「内容があまりにふざけているから、今まで無視してきた」
「……そんな莫迦《ばか》がいるんですか」
秋庭は息を吐いた。インターネットや携帯電話が普及した今、驚くほどのことでもなかった。暴力団の怖さを知らない、もしくは新法のもとで高をくくっているハッカーやオタクどもは確かにいる。とくに秋庭は現代の若者を軽視していた。無軌道なくせして自分の言葉で語らない。不言実行とは無縁の饒舌《じようぜつ》さ。とにかくうっとうしい。
「そうだ。世の中にはおれ達が想像もつかない莫迦がいて、莫迦な犯罪が増えている。そいつも莫迦のひとりだが、組員の死体が発見された翌日に電子メールを送ってくる。不可解な文面だが、まだ警察発表されていない組員の死を、それとなく示唆している」
秋庭が反応すると、紺野は続けた。
「その中には犯人以外に得られない情報も含まれている。三人の死にそいつが関与していると推測するのは、決して不自然ではない」
「誰ですか、そいつは?」
秋庭の目が凄《すご》みを帯びた。
「身元がわかったら苦労しない。そいつはガネーシャと名乗っている」
「ガネーシャ?」
「そうだ。ガネーシャだ」
秋庭は気を取り直した。インターネットの中であふれかえっているハンドルネームの下らなさを思い出したからだった。「ハム次郎」、「萌《も》えっぴ」、「北極3号」、「プチ助」……あの中途半端なおどけぶり。ガネーシャという名前も同列に思え、より憎しみが増した。
「電子メールの差出人をたどっていけば、何かつかめるんですね?」
秋庭は喉《のど》から絞り出すように言い、立ち上がりかけた。
「もう調べた」
「え」
「携帯電話の番号と住所はすでにおさえた。あっけないほどにな」
秋庭の脳裏に、紺野の背後にいる有能な右腕のことが浮かんだ。「……なにか問題でも?」
「送られてきた電子メールは三通。名義上それぞれ別人だった」
「複数犯、ですか?」
「続きを聞け。住所はいずれも、三益ハウジングという不動産業者が管理する賃貸物件になっていた。そこには不法滞在の外国人|娼婦《しようふ》達が住んでいる。つまり戸籍や住民票がひとり歩きして、そういった使われ方で利用されているということだ」
秋庭の顔に驚きが浮かんだ。紺野は続けた。
「おそらくガネーシャと名乗る人物はひとりだ。複数の偽造クレジットカードを使って、電子メールを送りつけたとみていい」
「それで足がつかないようにしているとすれば、ずいぶん手がこんでいます」
「ガネーシャの正体を追うには、この界隈で身分証やカード偽造を専門とするブローカーをあたった方が早い。しかしおれ達の|縄張り《シマ》ではない」
この界隈で身分証やカード偽造を専門とするブローカーは中国人が主だった。三益ハウジングという不動産業者を含め、背後で極東浅間会という別組織とつながっている。藍原組が一本化を強行した中で、今も対立を続けている組だった。
「……だんだんつながってきた気がします」
秋庭の目に強い光が宿った。
「これも見ておけ」紺野は背広から監視カメラ用のビデオテープと写真を取り出すと、秋庭の胸元めがけて放り投げた。
「これは?」
「関連性はまだつかめていないが、坂口が死んだと思える日の前日、マンションの監視カメラに見知らぬ人間が映っていた。賭場に出入りしていた人間ではない。最後まで身元がわからなかったのは、そいつひとりだけだった。ダビングを重ねた映像だから、おれの口から特徴を言っておく。身長は百六十二から百六十七センチ、歳はおそらく三十代後半。グレーのジャケットに紺の作業ズボン姿、帽子を深くかぶっていた。持っていたトランクケースは、事務所近くのディスカウントストアのバーゲン品と一致している。細面で痩《や》せ形、左利き。最初から監視カメラを意識した動きをしていた。オートロックを難なく解除し、そのままエレベーターホールに向かっている。事前に現場を調べていた可能性は高い」
紺野の機械的な声を、集まった組員達は呪詛《じゆそ》をつぶやくように復唱していた。秋庭は弟分を呼びつけ、写真のコピーとビデオのダビングを命じた。
「お前ら」紺野は冷ややかな口調で、全員に問いかけた。「今ので人相わかったつもりか? たったそれだけしかわかっていないんだぞ」
全員が冷水を浴びせられたように押し黙ると、
「――代行、うちは被害者です」
と、秋庭はくいしばった歯の奥から言葉を押し出した。ここは新宿や池袋のように人が絶えず入れ替わる大都市とは違う。似たようなやつがいれば片っ端からあたりをつけられる。うちの組ならそれができる。イエスですかノーですか? そのことを暗にうながした。
紺野は秋庭をしばらく見つめていた。
「好きにしろ。ただし極東浅間会は、おれが指示するまで手を出すな」
「どうしてですか」
「今すぐやくざ同士で殺し合いをはじめるつもりか?」
「仕掛けてきたのは向こうです」
「まだそうと断定できない。それに沖連合の島津《オジキ》も黙っちゃいない」
秋庭は鼻先を殴られたような顔になった。五年前の忌々しい記憶がよみがえり、その興奮を静めるのに苦労した。
「……わかりました」
「ガネーシャが使用した名義はコピーしてあるから自由に使っていい。警察の動向は逐一報告しろ。マンションの賭場に出入りしていた人間は顧客リストからもう一度よく洗え。この界隈の筋者で連絡が取れなくなっている者がいれば行方を追うんだ。水商売の女も含めてな。そっちのほうは千鶴を使え」
受けた秋庭は立ちあがった。
「警察に先を越されるんじゃねえぞっ」
怒声を上げ、組員達をふりわけて行動の指示をした。身内を三人失った組員達も、冷静さを失わずに統率が取れていた。押し黙ったまま鉄扉から出ていき、残された桜井もあわててあとに続いていった。
扉が完全に閉まったところで、秋庭はようやく吐き出した。
「――そのふざけた野郎のことですが」
「ガネーシャのことか?」
「ええ。奇妙な電子メールを送ってきたと言われましたが、内容はいったい」
「脅迫だ」
「脅迫?」
「そうだ。脅迫なんて、普通なら追い詰められた莫迦がやる最後の手段だ」
言われて秋庭は思考をめぐらせた。
「その脅迫文を自分達に見せられない理由があるんですね? その莫迦はいったい何を要求したのです?」
「組員全員の睡眠だ」
現実味のない言葉に、秋庭は一瞬ぽかんとした表情になった。
「なんだってそいつは」
「どうやら命と引き替えになるのが睡眠らしい。眠ったまま死ぬ。死にたくなければ眠るな。そう言っている」
そして紺野は笑いをこらえるように口をすぼめて、
「お前だったら信じるか?」
と、付け足した。
「……おかげで今夜からゆっくり眠れそうですよ」
「現に近藤や天野、坂口は、眠っている間に何らかの異変が起きた。いくらなんでも短期間に三人もばたばた死ぬのはおかしい」
「しかし」
「それに気になることがある」
「なんでしょうか?」
「お前らのことだ。ここ最近、ろくに眠れていないんじゃないのか?」
「いえ、そんなことは」
言いながら秋庭は狼狽《ろうばい》した。
「見ればわかる。体調に響いて、気が立っている者もいるじゃないか。夜間睡眠が取れないから、その反動が昼間にくるんだよ。長く続くと睡眠と覚醒《かくせい》のリズムがばらばらになって躁《そう》状態になる。そういうのを医学的に睡眠障害というんだ。立派な現代病だよ。とくに最近うちの組員に多い。案外ガネーシャと名乗る人物に、そういうところを見抜かれているのかもしれないな」
秋庭は息を詰め、頭を下げた。「すみません。見苦しいところをお見せしました」
「お前を責めているんじゃない。気を抜くなと言っただけだ」
「うちの息がかかっている医師に、すぐドグマチールかリタリンを処方させます」
「精神賦活剤か」
「はい」
「気付け代わりに使うつもりか」
「組員全員に配っておきます。それでいいですか?」
「ほどほどにしておけ」
紺野は両手を頭の後ろで組み、ソファの背もたれに体重を乗せた。
「あの」秋庭はたずねた。「まさか代行はガネーシャという野郎の脅迫をまともに信じているんじゃないですよね?」
「組員が三人死んだ事実は変わらない」紺野の目は虚空《こくう》を向いていた。「まともに受けとめれば、おれ達を根絶やしにするという宣告だ。まだまだ殺し足りない、そんな感じも伝わってくる。いたずらにしろなんにしろ、よほどの恨みを買っていることだけは確かだからな」
秋庭は息を呑んだ。
「もう一度お聞きしますが、代行に心当たりは……」
「――お前、今まで知らずに踏んできた蟻の数を覚えているか?」
紺野はあくびを噛《か》み殺して答えた。
秋庭は押し黙った。
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下側の世界 4
ああ、人よ、汝《なんじ》の心の内を整えよ、
命の針が動き続けているうちに。
この世の短い人生の錘《おもり》が
上がりきって、終わりを迎えれば、
芸術も、富も、価値あるものも、
何もかも取り戻せなくなるのだから。
[#地付き]ヤン・ライケン著
[#地付き]西洋職人図集「時計師」
光は生い茂る木の葉に射しこみ、きれいな幾何学模様をつくっている。
わたしは日なたのなかで、ずっとホースをにぎって動かしていた。
買ってもらったばかりの花の模様がついた運動靴、そしてお気に入りの麦わら帽子をかぶって、伯父《おじ》さんが大切にしている菜園に水をまく。ジャスミン、バジル、ミント、ランタナ――おぼえた順に口ずさんでいく。
わたしと弟を引きとってくれた伯父さん夫婦はペンション経営をしている。育てたハーブを使った食事やお茶をふるまうのが楽しみだといっていた。
ホースのさきを器用にふる。そうすると水があとを追いかけてくるようで楽しい。
歩道に視線を馳《は》せたときだった。
思わず目をとめた。
そこに奇妙なものが、点々と落ちていることに気づいたからだった。歩道脇に停めてある車のボンネットにも落ちている。
先日、猛暑に熱せられたアスファルトの歩道を、幼い弟の手を引きながら歩いたときだった。「こうも暑いと目玉焼きでも焼けそうだね」と、こぼしたのを思いだした。
わたしはがっくりとうなだれた。
伯父さんが帰ってくるまでに弟に掃除させないと。おばさんに見つかるまえに冷蔵庫の卵を補充しないと。いやそのまえに、今年四歳になる弟に、「冗談」という言葉の意味を教えてやらねば。
水を止めたわたしは弟をさがしに歩いた。ふたりでここに引っ越してきてから、弟はすぐひとりでどこかへ遊びにいってしまう。そして夕食まえになると、なにやら楽しそうにもどってくるのだ。森のどこかで、わたしには内緒の遊び場でも見つけたのだろう。
立ちくらみに似た目まいをおぼえ、思わず足がすくんだ。
道が果てしもなく延びている。
恐る恐る歩いていくうちに風景は荒れ果てていき、光はうすれ、闇に溶けていった。
もう引きかえせる距離ではなくなっていた。まるで出口の見えないトンネルのようで、まえに進むことも、うしろにもどることもできない。
暗闇のなかで、弟の名前を呼んだ。
なん度呼びつづけても弟の声はかえってこない。怖くなって、うしろを向いた。
……伯父さん……
おばさん……
だれもいない。みんな、わたしひとりを残していなくなってしまった。
暗闇のなかをさ迷い歩いた。疲労、苦痛、そして悲しみがわたしを押し潰していく。それでもきょうまで歩きつづけることができたのは、あのときようやく得た温かい団欒《だんらん》、みんなの笑い声が、わたしの心を慰めてくれたからだった。
立ちどまると全身が血塗《ちまみ》れだった。血だらけでぬるぬるした両手をぼうぜんと見つめ、悲鳴をあげそうになった。
短い人生の終わり――還《かえ》らざる時の終わりに、わたしがたどり着く場所はいったいどこになるのだろう?
それがわかるまで、わたしは死ねない。
……決して死ねない。
…………
………………
夢うつつに少年がわたしを看病してくれている姿を見た。
わたしはもう夢のなかの少女でなくなっていた。時が巻きもどっていたのだ。十五年まえのわたしに。
……
どこかで音がした。
なにかをこすっている音。
だんだんさわがしくなる。
離れたところから、それはきこえた。
冷え冷えとした空気。思いだした。ここは暗灰色の壁に包まれた世界。終わりのない夜のようだった。長くいると、まるで不眠と夢が境目なくつづいているような気になる。そして、そのうちになんらかの光が射すんじゃないかと期待をおぼえてしまう。
石組みの暗渠《あんきよ》のなかで、少年が近づいてくる。
褐色の肌、異国の血が混じった浮浪児……
「ガネーシャ、具合はどうだい?」
わたしは目を開いた。
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上側の世界 5
午後六時を過ぎ、歓楽街の歩道は足並みのそろわない人達で埋めつくされた。火の点《つ》いた煙草を片手に、もう片方の手で携帯電話を握りしめる若者もいれば、三列編隊で道を塞《ふさ》ぎながら向かってくる女子高生、すでに赤い顔をしているサラリーマンの姿もある。
水樹はふたりの巡回中の制服警官とすれ違ったが、どちらも目を向けてこなかった。
人混みの中から突然声をかけられて首をまわした。色白で背が高く、髪を短く刈った男が脱いだ背広を肩にかけて近づいてくる。
「吉山か」
水樹は警戒して足を止めた。
モラトリアムの時間などかけらも与えられなかった高校時代、自分が極道の跡継ぎということが広まっても態度を変えなかった、ただひとりのクラスメイトだった。卒業後、この地方都市にある情報処理系の専門学校に進み、今は友人達と金を出しあってパソコンのウェブデザインを請け負う有限会社を立ち上げたと聞いていた。進んだ道は自分とは雲泥の差がある。これから行き着くであろう道や、かかわる人々、重ねていく経験に隔たりがあり、一生交わることもない。水樹はそう自覚していた。
「春からこの街に越してきたんだろう? 何度もお前のところに留守電を入れていたんだ。なぜ連絡をくれない」
吉山が責める口調で言った。
水樹は留守電の再生で、お前の母親から電話番号を聞いたんだ、と言っていた吉山の声を思い出した。卒業してから一度も連絡を取り合わなかった吉山が、なぜ今になって自分にかまおうとするのかわからない。
水樹は吉山を観察した。左手の薬指にプラチナリングがはめられていることに気づき、
「悪いが急いでいるんだ」
と、冷たく突き放した。
踵《きびす》を返すと、追ってくる気配がした。
「久しぶりなんだ。時間を取れないか」
背中に届いた吉山の声を、水樹は無視した。
「お前、こっちで何をしているんだ」
吉山は故郷の北嶋組が解散したことを知っている。水樹は無視して先を急いだ。
「暴力団《やくざ》か」
言われて水樹の足が止まり、吉山が追いついた。バスケットボール部でセンターをつとめただけあって、水樹は見上げる恰好《かつこう》になる。
「お前に何がわかる」
かっとなった水樹は吉山の胸ぐらをつかみ、歩道の端に押しやった。
「……すまない」
吉山が目を伏せて謝ると、水樹は舌打ちし、乱暴に手を放した。
「もう、おれにかまうな」
「だが――」
「だが、なんだ?」
水樹が凄むと、吉山は何か言いかけ、言いよどんだ。
何か隠していると水樹は悟った。吉山は自分の母親から電話番号を聞きだしてまで、連絡を取ろうとしていた。そしてさっき、「こっちで何をしているんだ」とたずねてきた。おそらく自分が藍原組に入ったことをどこかで見聞きしたのだ。その藍原組で今、原因不明の不審死が続いている。それで自分のことを心配してくれているのなら、余計なお節介だった。
落胆する吉山の姿が、水樹の目に映った。
「仕事が終わるのは何時だ?」
水樹は口を開いた。
「あ、ああ……。今日なら九時以降に都合がつく」
「駅の西口に一瀬という山形の郷土料理屋がある」
水樹はいつの間にか、自分の顔から険が取れていることを知った。吉山の顔がわずかにほころぶ。
「そんなところを見つけたのか」
「ああ。安い居酒屋だけどな」
「わかった。ありがとう。先に行って飲んでいるからな」
誘いを理解した吉山は、足早に立ち去っていった。
水樹はまったく変わらない吉山の後ろ姿を眺めながら、釘《くぎ》を刺しておかなければならないと思った。吉山は親友のためなら、放っておいても問題に首を突っこむタイプだった。どんな理由や状況があるにせよ、彼のような一般人を暴力団の世界に近づかせたくない。
とくに、藍原組にだけは――
藍原組のシノギはその背景に暴力をちらつかせているが、あくまで合法な仕事がメインだった。クラブ、ビデオショップの経営、リース業や債権取り立てなどが生活基盤になる。過去に産業廃棄物の処理|斡旋《あつせん》を手広く行ったことはあるが、警察関係者から適正処分票を巧妙に入手していたので闇処理ではない。
藍原組は紺野が組長代行となってから急成長を遂げた。それには当たり前の話だが、暴力にものを言わせる以上に多額の軍資金を必要とする。しかし五年前までの路頭に迷いかけていた藍原組には、そんな余裕などなかった。
つまり紺野はどういう方法かわからないが、元手となる軍資金をこの界隈で作り上げたのだ。今の紺野は数千万単位の金を自由に出し入れできる。どこも廃業ぎりぎりまで追いこまれている暴力団の世界では、考えられないことだった。
問題は多くの組員達が表向きの仕事に忙殺され、その実態をよく知らされていないことだった。紺野は系列の上層部にさえ隠し通している。
小規模の暴力団が関与して、莫大《ばくだい》な利益を生むものは限られてくる。
「覚醒剤」か「拳銃《けんじゆう》」の密売だ。
闇金、占有屋、非合法映像、賭博、詐欺《さぎ》、盗難車ブローカー、偽造ビジネスなど、極道で考えられるありとあらゆる悪行を水樹は想像した。
……どれも違う気がした。
紺野が軍資金を作りあげたシノギは、そんな誰でも考えつくものだろうか? 女子供や弱者を食い物にする――その程度のものだろうか? おそらくそのシノギは莫大なリスクと引き換えに、途方もない利益を生んだ。
そう感じさせてならないのが、ガネーシャから送られてきた三通の電子メールだった。
水樹は交差点を渡り、人気の少ない場所を探した。小さな印刷会社やデザイン会社が入った雑居ビルの角に身を潜ませると、背広の内側のポケットから三枚の用紙を取り出した。
紺野と高遠に送られた電子メールをプリントアウトしたものだった。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
【送信者】prince_@******.ne.jp
【宛先】konno@castrum.com,takato@castrum.com
【受信日時】7月2日 19:55
【件名】eta
「砂の城の哀れな王に告ぐ。
私の名はガネーシャ。王の側近と騎士達の命を握る者。
要求はひとつ。
彼ら全員の睡眠を私に差し出すこと」
【送信者】black_@******.ne.jp
【宛先】konno@castrum.com,takato@castrum.com
【受信日時】7月19日 20:02
【件名】zeta
「仕事を終えた靴磨きがガネーシャに言った。
王と側近が踏みにじってきた靴の汚れは、
自分には到底落とせないものだったと。
王を慕いし騎士達が一睡もせずに磨き続けるしか、
方法がないということを」
【送信者】watch_@******.ne.jp
【宛先】konno@castrum.com,takato@castrum.com
【受信日時】8月4日 20:09
【件名】delta
「眠りとともに、懐中時計の針が処刑の時をさし、
王を慕いし騎士は刑吏に引き出される。
悲嘆に暮れて自ら命を絶った召使いにのみ、
ガネーシャとは無関係ゆえに十字を切る」
[#ここで字下げ終わり]
まともな内容ではない。何度読み返しても、暴力団相手に出す代物とは思えなかった。
しかし高遠はこれを、脅迫文[#「脅迫文」に傍点]と言い切った。
おそらく文中の「王」は紺野を指すのだろう。同様に「側近」は高遠、「騎士」は藍原組の組員達、そして「召使い」は坂口の死体のそばで自殺した真由子という女になる。
意味不明なのが送信者のアドレス名だった。「prince」、「black」、「watch」と続いている。それが何を示しているのかわからない。
読みながら肌が粟立《あわだ》つ感覚を覚えた。この奇妙な電子メールには何かが隠されている、そんな気にさせられた。もしかしたらガネーシャと名乗る人物は、紺野と高遠がひた隠しにしているシノギの秘密を知っているのかもしれない。
携帯電話が着信した。
水樹は通話ボタンを押し、耳にあてた。
「もしもし」
「ど、どど、どこにいる」
高遠からだった。常に人の見えないところで紺野を支え続けてきた男。暗闇を這《は》うように紺野に尽くしてきた車椅子の右腕――
水樹は用紙をあわててポケットにねじこみ、
「指示通り、双葉町交差点の歩道橋に向かっているところです」
「だ、誰とも会わなかっただろうな」
「はい」
吉山のことを悟られないよう短く答えると、高遠は喉の奥で笑った。
「……そ、それならいい。ところで紺野達が動き出したぞ」
水樹の目が開いた。考えてみれば遅すぎたくらいだった。立て続けに起きた組員の不審死が、マスコミの注目を集めるのも時間の問題だった。暴力団の恥辱は面子《メンツ》を潰されることにある。そうなればなんらかの示威行動は避けられない。最初は目に見える形で組員を動かさず、盃《さかずき》もまだもらえない準構成員から動かしていくだろう。あの不審死が殺人だと判明し、犯人と目的があぶりだされた時点で、本格的な狩りがはじまる。
電話の向こうから、カチャカチャとキーボードを叩く音が聞こえてきた。
「こ、ここのところインターネットのあるサイトで、今回の事件に対する書きこみが急増しているんだよ。原因不明の変死説や、異常殺人犯による犯行説など、いろいろある。ほ、ほとんどが根拠のないでたらめだけどな」
水樹は疑問に思った。「なぜ、そういうことが起こるのですか?」
「ひとり、あおっているやつがいるからだよ」
「あおっている?」
「そいつはサイトの中で、『藍原組の組員達は、眠っている間に死ぬ呪いをかけられた』と触れまわっている。退屈な連中が飛びついて、様々な憶測を出している始末だよ。今話題の中心になっているのは、次の犠牲者がいつ出るかだ。ま、まったくふざけているよな。……も、問題は、藍原組の末端組員がこの噂を嗅《か》ぎつけたことだ。組の中で広めて、ちょっとしたパニックになりかけている」
水樹が黙って息を吸っていると、高遠は続けた。
「サイトで噂を流している人物と、ぼくと紺野を脅迫している人物は同一人物だ。だから追跡の手間が省けたよ。結局はサーバー管理者、つまり生身の人間との交渉になる。今回は形がどうであれ、藍原組に起きた不幸を揶揄する悪質な行為と解釈できる。それが三通も続いた。かけひきが必要になるが、弁護士の委任状を取り付けて、サーバー管理者を巻きこまずに差出人個人と協議したいと強く申し出てみた。ようは暴力団《こつち》の本気が伝わればいい」
「……それで相手はわかったのですか?」
その気になればどんな世界でも不可能はないことを、水樹は経験で知っていた。
「そ、その点について、ガネーシャはちょっとした小細工をしている」
「小細工?」
「まず電子メールを送るのに、匿名でメールアドレスを取得できる無料プロバイダを使用していない。いわゆるフリーメールと呼ばれるものを避けているんだ」
聞きながら水樹は頭をめぐらせた。
高遠の元についてから、インターネットの世界を地図[#「地図」に傍点]にたとえて頭に叩きこむようになっていた。電話回線を「道路」とたとえれば、IPアドレスはその人の「住所」となり、メールアドレスは「電話番号」、パスワードはその人の家の「鍵」となる。
電子メールを差し出した本人を追跡するには、送られてきた電話番号《メールアドレス》から住所《IPアドレス》を割り出す作業からはじまる。誰でも匿名で登録でき、無料で電話番号をもらえるフリーメールの世界でさえ、高い確率で住所を検索できてしまい、発信元のパソコンを特定する手がかりとなる。たとえ住所が判明しなくても、サーバー管理元に情報が残される。巷《ちまた》にあふれているインターネットカフェを利用しても、住所からどの席を利用したかわかってしまい、防犯カメラに記録されてしまう。頭のいい犯罪者なら、まずあそこを使わない。
高遠が続ける。
「ガ、ガネーシャが利用したのは一般の有料プロバイダだよ。クレジットカード情報や正規の個人情報を登録しなければならないが、今回に限ってはその見返りはある」
「見返り?」
「インターネットの世界では、フリーメールの信頼性はゼロなんだよ。取引きもできない。ある程度パソコンに精通している人間なら、匿名のフリーメールなど内容を読まずに削除する。ガネーシャはそれを嫌った。今回の脅迫文がいたずらでなく、本気だという表れだ」
「……その結果、ガネーシャは身元をさらしてしまうことになるわけですね」
高遠は黙っていた。
「この世の中に、個人情報を完全に隠すことのできる連絡手段はないというわけですか」
思わずたずねた。
「ひとつだけあるね」
「なんですか、それは」
「糸でんわだ」
水樹が口をつぐむと、高遠は笑った。
「続きを聞けよ。送られてきた電子メールはこれで三通。名義上それぞれ別人だ」
「別人……」
「しかし共通点はある。三人の現住所だ。極東浅間会の息がかかった不動産業者が管理する賃貸物件だった。い、いずれも不法滞在の外国人が住んでいる。そんな偶然の一致はあり得ない」
「つまり名義の貸し出し、もしくは不法売買が行われた、ということですか」
「せっかく追跡したのに、まんまと煙《けむ》に巻かれたわけだ」
高遠が言おうとしていることを、水樹は呑みこめた。この世にはクレジットカードや免許証、車検証やパスポートなど、まったく他人の身分を奪うビジネスが存在する。
「……ガネーシャの目的は時間稼ぎですね。偽造名義ビジネスの世界に足を踏みこまないと、ガネーシャの正体にたどりつけない」
「よ、ようやく話が噛み合ってきたな。この界隈では中国人グループが行っている」
「中国人?」
「日本の入国管理局は東南アジア系には厳しくて、中国や韓国には甘いからな。……意外か?」
「いえ」水樹は息を呑んだ。「自分が住んでいた故郷もそうでしたから」
高遠の言うとおりだった。しかし都心の歓楽街よりも地方の方が在日中国人の数が多いのは、他にも理由があった。学生が集まらない地方の大学や短大が、学生欲しさに中国の田舎から「日本の一流企業で働けるから」と留学生を巧みに呼び寄せるケースがたまにある。そして入学料と授業料をむしり取ってあとは知らん顔を決めこむ。悪質な学校になると、中国人留学生からパスポートを取り上げるところさえある。入管法の罰則で、途中帰国する生徒が多いと留学生を受け入れられなくなるからだ。
まだ東北の故郷にいたとき、そうやって途方に暮れた中国人留学生達を水樹は何人も見てきた。入国管理法で留学生は一日四時間しか働けない。ましてや雇ってくれるバイト先はなく、日本の隣人はアメリカ人やヨーロッパ人には優しく、同じアジア人に対して冷たい。ドロップアウトしていく彼らに残された場所は、限りなく犯罪に近い場所でしかなくなる。
「それに、やつらは腕がいいんだよ」
高遠が言った。
「腕が?」
「たとえば偽造パスポートの難しいところは、写真の印刷をはがす技術だ。その点チャイニーズは、紙幣を二枚にはがし分けることが、で、できる」
そこまで聞いて水樹ははっとした。
「まさかその元締めは」
「極東浅間会だよ。もう紺野には連絡してある。五年前、さんざん間引いたんだけどな。あのときはまだ紺野とぼくに、良心が残っていたみたいだ」
ガネーシャと名乗る人物、中国人の名義ブローカー、そして極東浅間会――水樹の中で一本の線につながりかけた。
極東浅間会は、この界隈で藍原組の強行ともいえる一本化をまぬがれた別系列の二次団体だった。当時、紺野のいきすぎた暴力が本家の沖連合で問題視され、|会費(上納金)の見返りだけでかばいきれなくなっていた。当時追いつめられていた極東浅間会の組長はその機会を逃さなかった。どんな手を使ったかわからないが、沖連合の島津という幹部に取り入り、共存共栄路線を藍原組に突きつけさせた。
おかげで極東浅間会は、今日までこの界隈で生き延びることができている。むろん藍原組に対する恨みを抱いたまま……
しかしガネーシャの出現によって、藍原組は再び極東浅間会の|縄張り《シマ》を荒らそうとしている。当然向こうも黙っていない。ましてや組員を立て続けに失った今の藍原組が、極東浅間会とまともな話し合いなどできるはずがなかった。血腥《ちなまぐさ》い衝突を垣間《かいま》見る思いがした。下手すれば、本家の幹部層を巻きこむ事態になりかねない。
電話の向こうから「水樹」と声が聞こえ、はっとした。
「な、ななな、何を考えている? まさかびびっているんじゃないだろうな。紺野の前に立ちはだかる障害を取りのぞくのも、ぼ、ぼく達の大切な役目なんだぞ」
「しかしこれは」
水樹は言いよどんだ。
「しかし、とはなんだい?」
「ガネーシャと名乗る人物の罠《わな》としか思えません」
「罠? 結構じゃないか。ガネーシャはぼくの存在を知っている。知っていて罠を張っているのなら、お手並み拝見といったところだ」
高遠はこの状況をどこか楽しんでいる。
「……指示を下さい」
水樹が苦しげに言うと、
「いい反応だ」
と、高遠はうれしそうな声で続けた。「よく聞くんだ。極東浅間会に平野という若頭がいる。き、君はその男とこれから接触する。マル秘でリークしたい情報があるそうだ」
「自分が行くんですか?」
「そうだ。紺野に打診がきたが、ぼく達に任せたいそうだ」
「秋庭さんや他の組員には?」
「匕首《あいくち》を隠し持って話し合いに望むような動物達だ。知らせて何になる?」
黙るより他なかった。
「お、おそらく平野は、藍原組組員の不審死について何かつかんでいるんだろうな。自分の組に向けられた疑いをそらしたいのかもしれないし、内容によっては盃を返す裏切り行為になる」
聞きながら水樹の目が一瞬、険しくなった。その日の朝執行部で話し合っていた内容が夕方には警察に筒抜けになっている――それはかつて目の当たりにした、故郷の北嶋組の末期だった。父親が一代で築きあげた北嶋組はそうやって崩壊した。
「平野と会うのはいつですか?」
「今すぐだ。七時にセッティングしてある」
水樹は声を失い、腕時計を見た。六時四十三分。あと二十分もない。
「双葉町交差点の歩道橋から、は、八階建てのテナントビルが見えるだろう?」
水樹は歩道橋の階段をあわてて駆け上がり、見渡した。
「に、二階に旅行会社が入っているビルだ。窓に、プーケット七泊八日の格安ツアー情報が貼《は》ってある」
「見えます」
「そこの地下一階に、榮林《エイリン》という韓国クラブがある。平野はそこの経営者だ。情婦に店のママをやらせている」
「自分は何と名乗ればいいんですか?」
「藍原組の組員を名乗ればいい。極東浅間会の系列には、君の破門状を流していない」
「しかし、系列以外から情報が漏れていたらどうするんですか?」
「そのときは、とぼけるんだな」
水樹は歯を噛み締めて黙った。電話の向こうで水樹を試すように、息がひゅうひゅうと洩れている。高遠のあの引きつった右半分の顔を思い浮かべた。古い傷で、火傷《やけど》か薬品事故の後遺症のようだった。治せるだけの財力を持っているはずなのに、なぜかそれをしようとしない。
「行ってこい」
最後は命令口調だった。
「……はい」
通話が切れた。
水樹は携帯電話をしまうと、歩道橋の上から見下ろした。
街の空気は一変していた。客引きや水商売の女、チンピラ達の喧騒《けんそう》が、普段よりおとなしくなっている。誰もがとばっちりを恐れているのだ。藍原組がこの界隈で畏怖《いふ》の対象となっていることを、改めて感じさせた。
変わらないのは――
キリッ、キリッ。
雨のように降る独特の鳴き声。この界隈で急速に勢力を伸ばした都市鳥。エネルギー消費やアスファルトの舗装で温暖化が進み、最大の天敵であった日本の冬を越せるようになった。
水樹は冷めた目で眺めた。
住民の態度はワカケホンセイインコとカラスとではまったく違う。ワカケホンセイインコにえさを与えても、カラスにえさを与える者などいない。役所では街の名物にしようと専門の課まで作っている。同じ鳥。飽食の人間達に依存する群れ。それなのに差別は生まれる。
結局は見た目の美醜なのだ。水樹はそう感じずにいられなかった。容貌などたかが頭骨に一枚のった皮にすぎないのに、そんなことのために種の生き死にが決められている。この街が抱く暗部――人間が持つ歪んだ偏愛を、垣間見ることができた。
水樹は瞼《まぶた》を閉じた。再興を誓った故郷の北嶋組のことを思い出し、薄目を開いた。
車がすれ違えないほど狭い路地の端に、ラブホテルが数軒並んでいる。汚れた外壁。この界隈では数少ない極東浅間会の縄張りだった。外国人娼婦達の姿がすでにある。肌荒れを隠すための派手な化粧と充血した目。翌朝まで通りに立ち、その間三、四人の客とホテルで過ごす過酷な労働状況がそうさせていた。
水樹は歩道橋から下り、テナントビルの裏手にまわった。手摺《てす》りのついた階段を見つけ、地下に下りた。
重厚そうな木扉の前に立つ。看板にまだ灯は入っていない。
鍵はかかっていなかった。ノックしても反応はない。扉を開けると、白いワイシャツを着た若い店員と目があった。安物のウイスキーの入った段ボール箱を抱えている。切れ長の目。歳は水樹より若い。一瞬の空白が生まれた。水樹はさっと視線をふった。右手にクロークとキャッシャー。店内に目を走らせようとしたとき、その若い店員に阻まれた。
若い店員は首を奥に向け、左右にふった。
「客か? 開店前だと言え」
平野の太い声が返ってくる。
「藍原組の水樹です」
静かに言うと、若い店員は表情を硬くさせて一歩退いた。自分を通すためでないことはすぐにわかった。奥から絨毯《じゆうたん》を踏みしめる靴音が近づき、グレーのストライプスーツを着た大男が現れた。ひと目でボディーガードとわかる風貌だった。額の生え際に昔何かで割られたような傷痕《きずあと》がある。男は入念なボディチェックをはじめた。それが済むと胸ぐらをつかまれ、カウンターの前に突き出された。
奥に隠れるママの姿が見えた。
平野は銀のストゥールに腰掛け、煙草の煙をくゆらせていた。仕立てのいい紺の綿シャツに薄茶のパンツ。品のいい眼鏡をかけているが、髪ばかりでなく眉も脱色しているため、三十六という実年齢より若く見えた。
「なんだ、お前?」
平野は肉付きのいい顎を突き出し、不愉快そうに口の端を歪めた。「――なめられたもんだな。紺野が寄越してきたのは、お前みたいな小僧か? おい檜山《ひやま》」
檜山と呼ばれたさっきの男が近づく。
「こいつの顔、知ってるか?」
檜山は無言で首をふった。
「知らねえよなあ」
平野が大袈裟《おおげさ》にせせら笑う。
「自分は藍原組の水樹といい……」
もう一度言いかけて息を呑んだ。平野の手が素早く動き、ガラス製の灰皿が飛んできた。避けられなかった。水樹の額にあたり、カーペットの上を跳ねた。額が裂け、鮮血が滴った。
「やれやれ。まともな話し合いができるかどうか」
平野は水樹を見さえもせず、溜息をついた。
「この治療費、どこに請求すればいいんですか?」水樹は額の血をぬぐって聞いた。
「泣き寝入りするんだな」
平野が一瞬笑い、かすかな合図が送られたように見えた。背後でにじり寄る気配。檜山だった。岩のように固い拳《こぶし》が胃の部分に鋭角に食いこみ、水樹は呻《うめ》いて身体を折り曲げた。そのまま髪を鷲《わし》づかみにされ、無理やり口を塞がれる。
「これ以上、絨毯を汚すんじゃねえぞ」
平野が苛々しながら言った。水樹は口の中にあふれた胃液をごくりと飲み、充血した目を向けた。
「お前のような中途半端な小僧がだぞ、おれの言葉を紺野に正しく伝える保証がどこにある?」
髪をつかむ檜山は容赦なかった。頭皮ごと引き剥《は》がされそうな痛みに、水樹は涙目になって耐えた。
平野はママに電話の子機を持ってこさせると、
「紺野につなげ」
と、低い声で水樹に命じた。子機が目の前のカウンターにごろんと転がされる。
水樹は瞬《まばた》きもせず凝視した。空いた片腕を檜山にねじ上げられ、生木が反り返るような音がしたところで止められた。
冷たい汗が全身に広がった。
水樹は残った手をふるわせてカウンターに伸ばした。子機をつかみ取り、絨毯の上に落とすと、靴の踵《かかと》で踏み潰した。キーボタンがぱきぱきとはじけ飛ぶ。
平野の顔から表情が消えた。
「若頭――」
檜山という男がはじめて口を開いた。
「なんだ」
「水樹という名前で思い出しました。こいつ、北嶋組からの預かり者です」
「聞いたことねえな。どこの傘下だ」
「どこにも属していません。山形にあった、小さいですが鉄砲玉ばかり抱えた、妙にとんがった組です。去年解散しましたが、跡目を継ぐはずだった二代目が藍原組の預かりになったはずです。こいつ、ただのガキでもなさそうです」
「ダニみたいな田舎やくざだろ」
檜山は何も答えなかった。
「父親の姓で名乗らないのは、みっともねえからか?」
水樹の身体が恥辱でふるえた。次の瞬間、水樹は衝撃を感じ、仰向《あおむ》けになってふっ飛んだ。ストゥールから立ち上がった平野に真正面から蹴《け》られたのだった。手加減はいっさいなかった。背中を打った衝撃で頭が真っ白になり、意識が遠くなった。
「一句もらさず紺野に伝えろよ」
平野は水樹を見下ろし、吐き捨てるように言った。
「天野と近藤、坂口の件は災難だと思っている。だからといって、おれらにアヤつけるのはお門違いだ。あれが殺人だと思っているのか? 下っ端の命《タマ》とって何の得がある? 損得勘定で考えてみろ。あり得ないことだ」
「……そんな……長々としたごたくも……伝える必要があるんですか?」
水樹は喘《あえ》ぎながら返した。
「せっかちな野郎だな。長生きできねえぞ」平野の声にはまだ余裕があった。「三益ハウジングの社員から聞いたよ。お前んとこの組員が四六時中、見張っているんだってな。ある物件じゃ、住人が根こそぎ消えちまったらしい」
紺野の仕業だとすぐわかった。手が早い。口をつぐんでいると、檜山にわき腹をひと蹴りされた。
「沈黙は肯定とみなすからな。お前んとこの組が、この界隈の偽造名義ブローカーを片っ端から洗っていることはわかっている。こっちは|縄張り《シマ》を荒らされて迷惑しているんだ。何か勘違いしているようだから、ひとつ情報をくれてやる。最近どこの馬の骨ともわからねえ野郎が、この界隈で勝手に商売をはじめているんだ。こんな地方都市でも、不法入国者は腐るほどいる。やつらは金を稼ぐためならどんなことでもする。当然、殺しもだ。そういうやつらの住まいを、おれやお前んとこの組に隠れて、せっせと世話している人間がいるんだよ」
はじめて聞くことに、水樹は肘をついて半身を起こした。
「おれらが偽造カードを任せていたブローカーに、安《アン》という中国人留学生がいる。日本語が喋《しやべ》れるやつだ。そいつが姿を消した。あとから安が仲間内のルールを破って、勝手に商売していたことがわかった。名義の横流しだ。……安を捜せ。こっちで安を見つけたら生かして連れてきてやる。安から色々聞くなり、苦しんで死んでもらうなり、好きにすればいい」
それから平野は安の特徴を言った。短く要点をおさえた言い方に、若頭にのし上がるだけの器量がうかがわれた。
「覚えたか? ならおれの話は以上だ。もう失《う》せろ」
水樹は動かなかった。
「早く行けよ」
平野の声が苛立つ。
「見返りのない情報提供を信じろというのですか?」
苦しげに返すと、檜山が近づいてきた。平野は待てと制した。
「他人の腹の底はわからない。――対人関係の基本じゃないのか? この小僧が」
気圧《けお》されたように水樹は口ごもった。
「いいかよく聞け。ひとつだけおれの腹の底を明かしてやる。お前んとこの組は敵を作りすぎた。内にも、外にもだ。お前んとこの本家ではな、紺野はもう飼いきれないという評価が出ているんだよ。じき誰ひとり味方はいなくなる。そうなると藍原組の組員の頭ぶち抜いたり、腹|抉《えぐ》りにいくやつはうじゃうじゃ出てくるかもしれねえ。今さら上に泣きつこうが、ほぞ噛もうが、もう遅いんだよ。てめえはとんでもねえやつの下についたんだ。わかったら、とっとと腹を決めることだな」
平野はストゥールに腰を下ろすと、不快を押し殺す表情でカウンターを向いた。もういっさい水樹を見なくなった。檜山だけが無言で見すえ、帰れと威圧している。
水樹はよろめく足で立ち上がった。
「ちょっと待て」
平野の声が背中に届き、ふり向いた。
「ひとつ聞き忘れたことがあった。不動産屋の三益ハウジングの社長が、今朝から行方をくらましている。組の若いやつに捜させているが、どうも見つかりそうもねえ」
不穏な沈黙が下りた。
「……これもお前らの仕業か?」
水樹は、いえ、とだけ答えた。
平野が笑った。高笑いはやがてひいひいという喘《あえ》ぎ声に変わり、そして言った。
「おい檜山、その小僧を丁重に送ってさしあげろ」
水樹は意識を朦朧《もうろう》とさせながら、酒と吐瀉物《としやぶつ》の臭いがしみつく雑居ビルの隙間で、崩れた豆腐みたいに寄りかかっていた。檜山という男は容赦なかった。
腕時計を見た。午後九時を過ぎている。携帯電話を取り出そうとして、檜山に真っぷたつに折られたことを思い出した。公衆電話……通りに首をまわすと、後頭部から目の奥にかけて激しく痛んだ。瞼が腫《は》れて挟まった視野に、ぼんやりとかすんだ電飾の光が滲《し》み入ってくる。
足早に歩いていく通行人達は、誰もふり向いてくれない。
うなだれたとき、近づく足音を耳にした。
気づくと目の前に二本の足が現れた。踵の高い黒のブーツ。見上げると、ダークブラウンのタイトミニをはいた千鶴が立っていた。狭いビルの隙間で腰を屈め、真っ赤な携帯電話を差しだしている。
携帯電話は通話中の状態だった。
水樹は受けとり、耳にあてた。
「……もしもし」
喋ると唇が裂けた。
「そ、その調子だと、ひどくやられたようだな」
高遠の声だった。何もかも見通したような口調。水樹は怯《ひる》まず、平野とのやりとりだけを報告した。千鶴を見ると、ビルに寄りかかって煙草をまずそうに吸っていた。通りをちらちらと向いている。そこに人影があった。千鶴は誰かを待たせているのだ。
報告が終わると、高遠はしばらく熟考するように沈黙した。
「な、なるほど。平野の言葉を信じれば、何者かが藍原組と極東浅間会に黙って、この界隈に不法入国者を呼び寄せているということか。もう不法入国者がありつける仕事などないのにな」
「どう……思われますか?」
「おそらく背後にいるのは藍原組の本家だ。沖連合だよ」
同じことを水樹も推測していた。
「ど、どうやら単独で指示している幹部がいるようだな。自分の手駒を使わずに、外部から不法入国者を集めているのは、内輪に知られたくない理由があるからだ」
「……理由?」
「大義名分のない内部抗争が起きる前触れだよ。こ、ここ数年で藍原組が築いてきた地盤を、そいつは狙っているんだ。不法入国者達は実質的なヒットマンとして、呼び寄せられた可能性が高い。ガネーシャは偽造クレジットカードをなんなく入手できたのだから、案外その仲間かもしれない。そう考えれば、藍原組の組員を無差別に殺害している説明もつく。極東浅間会はそのことを暗黙で了解しているか、協力しているかのどちらかだ。うちが嗅ぎつけてきたから、平野は焦ったとみていい」
「名義ブローカーの安は?」
「お、おそらく利用されているだけだろう。平野達は血眼《ちまなこ》になって捜しているが、安はこの界隈でうまく逃げまわっているようだ。連中は結束が固いし、仲間同士の口も堅い。それに平野は安をつかまえても、生きたまま藍原組に渡すつもりなんてないだろうな」
「自分達の手で……先につかまえますか?」
「追いかけっこはぼく達の仕事じゃない。紺野に任せるよ」
「はい……」
「どうした? 声に覇気がないな。犬だってもう少しバリエーションに富んだ返事をするぞ」
「……すみません」
水樹の目が半眼《はんがん》になった。檜山にやられた傷の痛みで、意識がじょじょにぼやけてきた。
「ぼく達は引き続きガネーシャの調査を続ける。今日ぼくは、ガネーシャの殺人方法について色々と調べものをしていたんだよ。そ、そうだ。せっかくだから、そっちの報告をしてやろう」
高遠は水樹の状況などおかまいなしに続けた。
「まずマンションで死んだ坂口と真由子についてだ。警察は現場から犯人と思われる遺留品――毛髪、血液、体液、指紋を見つけることができなかった。ふたりの身体から致命傷と思える傷や打撲痕は見つかっていない。他殺を立証できない状況だよ。よって死体は行政解剖にまわされた」
「……行政解剖?」
水樹はかろうじて返した。
「じ、自殺か病死もしくは事故に断定し、遺族の同意を得たうえで不自然な点がないか、念のため確認する解剖だ。死因特定が目的の、法のもとで強制力のある司法解剖とは異なる。行政解剖でも東京二十三区や大阪などの大都市なら監察医が行うが、ここみたいな地方都市では普通の医者がやる。何科でもいいんだよ。大袈裟に言えば、産婦人科の医師や歯科医だっていい」
水樹の目が開いた。「まさかあのふたりが、自殺か病死と思われているのですか?」
「明らかな他殺でない限り、行政解剖にまわされるのが現実なんだよ。地方では、解剖されずに検死が終了するケースさえある。とくに|この歓楽街《ここ》で起きた事件にいちいち絡んでいたら、警官が何人いても足りない。社会から用済みの暴力団をどう扱おうと、善良な市民からクレームが起きない限り、力を入れるのは無用な報復や抗争を避けるための情報規制をかけることぐらいだ」
「……そうですか」
「まあそれでも結果は出た。まず真由子の胃の内容物から大量の睡眠薬が検出されたが、坂口の胃から毒物はいっさい検出されなかったそうだ。真由子の方は、睡眠薬による後追い自殺ということがはっきりしている。問題は坂口だ。結論を先に言うと、死因はまだ特定されていない」
気を取り戻すため水樹は唇を噛み、
「きちんと血液検査をしたのでしょうか?」
と、疑問を投げた。
「なるほど。毒物を直接血液に注射すれば、経口摂取と比べておよそ百分の一の量で効果は出る。それなら血液検査をせずとも、注射の跡でわかってしまう。行政解剖を担当した医者はそう判断したようだ。確かにあの程度の腐敗なら、注射針の跡や、新しい傷ぐらい見分けがつく」
「しかし見落としは発生します」
「だ、だから君に死体のビデオを撮らせたんだよ。少なくともぼくが解析した限りでは、傷痕らしきものはなかったな」
水樹は黙った。
「それと気になる点がふたつ。まず生前の坂口の豹変《ひようへん》ぶりだ。真由子という女の身体には、古い打撲痕と皮下出血の痕が見られた」
「殴られた痕ですか?」
「坂口の仕業だよ。真由子という女にずいぶん暴力をふるっていたようだ。死亡する数週間前からはじまったと聞く。どうも夜間眠れない現象が起きていて、かなり気が立っていたらしい。真由子という女が睡眠薬を多めに入手したのも、それが理由になる」
電話の向こうで高遠は、ふんと鼻を鳴らして続けた。
「もうひとつはあの死に方だな。坂口の死体は綺麗《きれい》だよ。外傷の痕はいっさいない。前のふたりと共通するが、まるで眠っている間に死んでいるようだ。眠っている間に死ぬ症状として、脳卒中や不整脈、代表的なものとしてぽっくり病と呼ばれるものがある。ぽっくり病は老人に限ったものではない。むしろ健康な若者に起こることのほうが多い。むせぶように、喘ぐような呼吸をしながら突然死する現象だ。最近になってその正体が明らかになった。ぽっくり病の相当数は、ブルガダ症候群である可能性が高いことがわかったんだ」
「ブルガダ?――」
聞き慣れない言葉を、水樹はかすれた声で反芻《はんすう》した。
「れっきとした心臓病だよ。心臓の心室細動の自然発作によって、失神や心停止を起こす。坂口の死因が今のところこれと推測されている」
「推測とはどういうことですか」
「行政解剖の場合は、死因を推定する情報が事前に得られないんだよ。だから死因の特定が難しい。所見をした医者の数だけ意見は出る。当然それぞれの専門もある。とくに突然死やぽっくり死では意見が分かれる」
「……他殺の疑いは?」
「もしそのブルガダ症候群を自在に引き起こすことができれば、殺人は成立するな。ただしそれは現時点で立証できない。だから今は別の可能性を考えるしかない」
「ガスの可能性ですか」
水樹はあのマンションで使用した、携帯ガス検査機を思い出して言った。
「あのとき君にエアコンを調べさせただろう?」
「はい」
「一酸化炭素か二酸化炭素の中毒があやしいと思ったんだ。とくに一酸化炭素の面白いところは蓄積性があることだ。たとえ空気中に千分の一の割合しか含まれなくても、三時間経てば、血中濃度六十パーセントという致死量に達成する。その場合、眠気を催し、何も疑うことなく眠りに落ちて、昏睡《こんすい》状態に至って死に至る」
「一酸化炭素なんていったいどこから?」
「あ、あんなもの、誰でも簡単に手に入る。排気量一・五リットルの車を閉め切ったガレージで五分ほど空ぶかしすれば、致死量くらいの一酸化炭素は得られる。二酸化炭素ならドライアイスで簡単に持ち運べる。君にエアコンを調べさせたのは、あそこから循環させたと思ったからだ。……だが、どうも違ったようだな。一酸化炭素中毒で死んだ場合は、身体に顕著な痕跡が残る。それは死後半年経っても変わらない。また二酸化炭素なら肺に残る。坂口の遺族を通じて肺の中を調べてもらうよう強く申し出たが、二酸化炭素や他のガスは検出されなかった」
「……いきづまったわけですか」
水樹の挑発的な反応に、高遠は笑い声をあげた。
「ひ、ひとつ、はっきりしたことがあるよ。それを君に教えてやろう。ガネーシャという名前に隠された意味だ」
「意味? インドの大衆神ではないのですか?」
水樹はあれから調べていた。ガネーシャは、ヒンドゥー教から仏教の守護神になった太鼓腹で象の顔をした神の名前だった。智慧《ちえ》と幸運を司《つかさど》り、インド全土で広く崇拝されている。あの特徴的な姿は、日本でも目にする機会は多い。
「あ、頭のいい連続殺人犯がただの思いつきで神の名を名乗ると思うのかい? ちょっと深読みしてあげれば、立派な犯行メッセージだと気づく。ぼく達に信仰を押しつけたくてガネーシャを名乗っているわけじゃない。あの姿をイメージさせたいんだよ。ガネーシャは首から上が象の頭、首から下が人間の姿をした神だ。その姿を象男と解釈した場合、興味深い連想ができる」
「……象男?」
「象《エレフアント》 |男《マン》だよ。レックリングハウゼン病という病に冒された青年の、苦難に満ちた一生を描いた映画がある。映画のラストシーンでその青年は心優しい医師に個室を与えられ、人並にベッドで眠ろうとしてそのまま死に果てる。どうだい? ガネーシャの犯行に似ているだろう?」
水樹の身体が驚きに貫かれた。
「そ、そんな殺し屋に命を狙われている紺野とぼくの苦労を、わかってくれたかい? ガネーシャの正体がわからないうちは、君の言うとおり、身を守る最大限の努力をしなければならないんだよ」
水樹は押し黙った。
「と、ところで今日、組員達が集められたことは知っているだろう? あれは、ぼくが紺野に頼んだんだ。組員達を一ヶ所に集めてくれって。紺野はぼくの言うことなら何でも聞いてくれる」
高遠が何を言おうとしているのか、わからない。
「く、組員達の家は留守というわけだ。だから、ピッキングが得意な連中を雇って、小型暗視カメラを寝室に設置させた。電源はコンセントの裏から拝借しているから、二十四時間撮りっぱなしだ。とりあえずひとり暮らしの組員に限定したよ。……もちろん、秋庭の自宅にもだ」
水樹は携帯電話を強く握り締めた。高遠は次の犠牲者を待っているのだ。彼が言う身を守る最大限の努力とは、組員達の屍《しかばね》の上に成り立つものだということを知った。
「自分の部屋にもつけたのでしょうか?」
聞くと、高遠の声色が一変した。
「――あたり、まえだろ。取ったら殺すからな」
通話の断絶を示す信号音を耳にして、水樹は同じ姿勢のまま動けなくなった。
突然目の前に手のひらが突き出され、はっとした。千鶴の手だった。携帯電話を返したとき、思わず注視した。千鶴の右手の人差し指と中指の付け根に、ざっくりと切られたような古傷を見つけたからだった。それは生々しく映った。
「じゃね」
千鶴は一度もふり返らずに去っていった。
水樹は通りで千鶴が待たせている人物に目を向けた。千鶴と同年代の女性に思えた。長く艶《つや》のある黒髪と細い首、オーソドックスな黒のピンヒールにきつめのジーンズ、襟を立てた長袖《ながそで》シャツを着ている。顔は陰になってほとんど見えなかったが、彼女ひとりだけが心配そうな目を向けている気がした。しかしその姿は、千鶴に引っ張られるようにして消えた。
水樹の背中がビルの壁からずり落ちた。
腕時計の針は十時近くをさしていた。居酒屋で待たせている吉山の姿が脳裏に浮かんだ。吉山ならおそらく閉店時間まで待ち続けるだろう。だが、行けそうになかった。すまない……水樹は心の中で謝った。
クラクションの音、甲高い若者達の声が耳に戻ってくる。気のせいか、おびただしい数の視線を感じて、顔を上げた。
黒い電線に、無数のインコの影があった。
漠然とした闇が空に広がっている。ガネーシャが本当に実在するのなら、もうすぐその姿を現す時間帯になる。
今夜はアパートに戻っても眠れそうになかった。
自分以外の誰でもいいから、早く死ね。
水樹は心の底から呪いの言葉を吐いた。
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下側の世界 5
清潔な敷物や家具にたまった汚れと埃《ほこり》は、
きれい好きな者の手によって潔められる。
しかし、最も肝心な、かの永遠なるもの、
かの尊い魂は、おおよそ忘れられたまま。
そこにこそたくさんの罪の埃が、
飛び散り、こびり付き、
汚く取り付いているというのに。
[#地付き]ヤン・ライケン著
[#地付き]西洋職人図集「ブラシ職人」
「ガネーシャ、具合はどうだい?」
瞬いたわたしの目を見て、≪王子≫はいった。
一瞬ぼおっと視界がかすみ、悪寒をおぼえた。≪王子≫の顔はほとんど陰になって見えなかった。瞬きをくりかえしているあいだ、≪王子≫の顔が安心したように遠ざかっていく。
どこかで「シャコ」という音を耳にした。
シャコシャコ……
……シャコシャコ……
シャコシャコシャコシャコ……
その音を追って首をめぐらした。脱ぎそろえたワークブーツと、お椀《わん》くらいの大きさのガソリンストーブが目にとまった。その上にのるポットから、白い湯気が立ちのぼっている。
わたしは厚く重ねられた段ボールの上で寝ていた。肩までかけられた毛布を剥いで、首をまわす。
まわりは暗灰色の壁に囲まれていた。光沢のない石、細かく散らばった白と黒の斑晶《はんしよう》。この冷涼とした漆黒の世界を温かくさせるかのように、ランタンが煌々《こうこう》と光を放っている。
縦横にひび割れた天井を眺めながら、記憶をさぐりあてた。≪王子≫と≪時計師≫のおじいさんと、ふたたびこの暗渠におりてきたところまではおぼえている。それから気を失う寸前の記憶にあるものは、「そらみろ」という、≪時計師≫のおじいさんの冷めた捨て台詞《ぜりふ》だった。
「――わたし、どのくらい寝て過ごしたの?」
「おぼえてないのかい?」
わたしは壊れた腕時計を見た。
「時間の感覚がないの。ここには時計も日の光もないから」
「≪時計師≫が七回|蝋燭《ろうそく》に火をつけてまわったから、十二かける七で八十四時間。三日半くらいは寝たきりだった。熱はいっとき三十九度を超えていたんだよ」
ひどい寝汗の理由がわかった。
「わたし、うなされていた?」
「だれだって悪い夢くらいは見るよ」
落ち着いた声で、≪王子≫がこたえる。
わたしは汗ばんだ額に手をあてた。あれは悪夢だったのだろうか。しかしあの夢のおかげで、わたしは伯父さん夫婦と弟のことを思いだすことができた。そしてみんな、わたしひとりを残していなくなったことも。
それ以上思いだそうとしても、頭がきりきりと痛むだけだった。
シャコシャコ……
……シャコシャコシャコシャコ……
シャコシャコシャコシャコシャコシャコシャコシャコ……
あの音がむきになったように激しくなり、しだいに耳障りになってきた。
「だれかいるの?」
≪王子≫がこちらを向き、わたしの問いにこたえようとして咳《せき》を洩らした。咳はとまらなかった。口に手をあて、背中を丸めて懸命におさえている。
心配して片肘をついたときだった。胸のまんなかに杭《くい》を打ちこまれるような衝撃をおぼえ、声を失った。上半身に力を入れることができない。
「まだひとりで起きあがらないほうがいいよ」
咳を呑みこんだ≪王子≫が、わたしを支えてくれた。≪王子≫の手を借りて、ようやく石組みの壁に背をあずけることができた。
「きみの肋骨《ろつこつ》はたぶん、ひびが入っていると思う。手足のすり傷や額の傷は、縫うほどじゃないから消毒しておいた。熱のほうはあとは下がるだけだ」
思わず≪王子≫を見た。
「……ぼくたちでできる限りのことはしたんだよ」≪王子≫が静かにつけくわえる。「あとはきみしだいだ」
わたしはじぶんのからだに手をふれた。シャツとブーツカットのジーンズが、乾いた血で汚れている。左肩と右腿《みぎもも》の部分を指でなぞると、えぐられたような傷あとがあった。そこだけふしぎと痛みはない。シャツをまくりあげると、腹巻きのようなバンドが胸に巻かれ、テープでとめられていた。ふと見ると、≪王子≫の足もとにアルミで包装された錠剤や傷薬がおいてある。
「それみんな、どこで手に入れたの?」
顔をあげてたずねた。≪王子≫はこたえず、代わりに天井を見あげた。
「――外なの? 外にでることがあるの?」
「たまにね」
≪王子≫は言葉をにごして、いった。
「お金は持ってるの?」
≪王子≫はしなびた千円札を数枚だしてくれた。ずいぶん古い紙幣だった。しかし大切そうなお金に見え、申し訳なさで身を焼く思いがした。
「気にしなくていいよ」
と、≪王子≫はマグカップにお湯を注いで渡してくれた。わたしがすこしずつ飲むあいだ、≪王子≫は蓋《ふた》のついた小さな手鍋《てなべ》をとりだして、ガソリンストーブにのるポットと交換した。
……食べものだろうか? わたしは鼻をたてる犬みたいに反応した。
シャコ。
遠くであの音がやんだ。今度はコロンという、バケツになにかを放りこむ音に変わる。
「さきに顔やからだをふくといい。そこに着替えもある」
魔法瓶とタオル、そして洗面器が差しだされた。ありがたかった。一緒においてくれた紙袋をのぞくと、古着のワイシャツと綿パンツが入っている。
「これも買ってきてくれたの?」
「ああ」
短いこたえのまえに、すこし間があった。あまりきいてはいけない類の質問に思えた。見も知らぬわたしに、こうして親切にしてくれることがふしぎでたまらなかった。
わたしはタオルを絞り、まず顔と首筋をふくことに専念した。汚れはちょっとやそっとじゃ落ちなかったが、不快感がなくなるまでつづけた。
ようやく終わって、上着を脱ごうとしたときだった。
≪王子≫がランタンの明かりを消してくれた。
手鍋の底で見え隠れする弱火を残して、あたりは暗闇に包まれた。≪王子≫の姿が見えなくなった。たぶん≪王子≫からも、わたしの姿は見えない。
着ていたシャツを脱ぎ、胸に巻かれたバンドを外そうとしたときだった。かすかな明かりのなかで、わたしは見てはいけないものを見てしまったような気がした。
「ねえ」
暗闇のなかで≪王子≫の顔をさがした。
「なんだい?」
「この胸のバンド、だれが巻いてくれたの?」
「ぼくだよ」
わたしが黙って息を呑んでいると、≪王子≫は静かにつづけた。
「……ほかの住人たちには、きみのからだを見せていない。きみが記憶を完全にとりもどすまで、秘密は守るよ」
わたしは胸をなでおろした。「ありがとう」
「それより背中をふくのを、手伝ったほうがいいかい?」
「お願い」
≪王子≫が手さぐりで近づく気配がした。かたく絞ったタオルが背中にふれ、≪王子≫は丹念にふいてくれた。
「ガネーシャ」背中で≪王子≫の声がした。「きいてほしいことがあるんだけど」
「なに」
「きみのことは交代で看病してきた」
≪時計師≫のおじいさんとだろうか? そういえば≪時計師≫のおじいさんがここにいない。いったいどこにいったのだろう?
「もし感謝するのならぼくばかりでなく、ほかのみんなにも、おなじように接してほしい」
みんな――この暗渠で生活する七人の名前を思いだした。≪王子≫、≪ブラシ職人≫、≪時計師≫、≪墓掘り≫、≪坑夫≫、≪楽器職人≫、≪画家≫……彼ら七人が、この暗渠のなかで共同生活をしている。まったく想像がつかない。
「それから約束してほしいんだ」
「……約束?」
「これから彼らが、代わる代わるきみのまえにあらわれると思う。どんなばかげたことをすることがあっても、笑わないでほしい。話しかけられてこたえられない質問をされても、無視しないでほしい」
「わたしは」
そんなことしない――いいかけたときだった。
「今後トラブルがあるとしたら、きっと向こうから起こす」
息を呑んだ。
「きみがいままで接してきたひとたちとはちがう。ここではきみが異邦人だ」
「……街の浮浪者たちとはどうちがうの?」
「浮浪者は自由という神話がある」
急に話が変わって戸惑った。「どういうこと?」
「浮浪者たちは家を失っている。家を失うということは、寝ることや食べること、排泄《はいせつ》や洗面や入浴――そういったことが安全に行える場所が、なくなったということなんだ。家を失えば常にひとの目にさらされる。ひとの目にさらされながら、寝る場所や食べる場所、トイレや水がある場所を絶えずさがしまわり、食べものや段ボール、日常生活に必要なものを求めて、場所から場所へ移動しなければならない。時間を持て余しているように見えて、実は規則正しい一日を送っているんだ。だから全然自由じゃない。それがあたりまえの生活になるんだ。ここにいるひとたちは、そういう浮浪者たちの生活のなかで、自活できる能力も体力もなかった。疎ましがられ、見放され、手を差しのべてくれるひともいなかった。それがどういうことだかわかるかい?」
こたえられずにいると、≪王子≫は言葉を継いだ。
「ひとの目にさらされながら、黙って死ぬのを待つしかなかったひとたちなんだよ。それ以上の底はない」
……底。この暗渠にただよう空気が、急に冷たくなるような言葉だった。脳裏に浮かびあがるものがあった。深刻であり悲惨であるにしろ、街の浮浪者たちが好んで口にしていた「わけありの人生」や「人生の転落ストーリー」。そんなことからほど遠い場所にいるひとたちのことなど、考えたことはなかった。
「正気でいられるの? こんな場所で」
思わずきいた。
「ああ。時計の針や太陽の光の移り変わりは、いまのぼくたちにとって記号的なものでしかない」
終わったよ、と≪王子≫の手が背中から離れた。洗面器で絞られたタオルがわたしのひざの上におかれ、≪王子≫がもとの場所にもどっていく気配を感じた。
わたしは無心になって腋《わき》の下や胸をふいた。
こんな陽が射さない退廃的な暗渠に居つづけて、ふたたびじぶんが望む生き方や死に方を選べるときがくるのだろうか?……きっとこない。そう思った。しかしあのときの≪王子≫の言葉が忘れられなかった。淀みのない声でいってくれた。こんな暗渠に住んでいるからこそ、いつかここをでていくときの光のまぶしさがよくわかる――と。
コツッ。
とつぜん、通路の向こうから靴音がした。だれかがやってくる気配。わたしはあわてて着替え、脱いだものをぜんぶ紙袋に押しこんだ。
「くる」
≪王子≫の声にわたしは身がまえた。
蝋燭の炎が近づき、その中心に顔がぼおっと浮かびあがった。顔色が紙のような男が立っていた。髪はまるで糊《のり》で貼りつけたように、額やこめかみにべったりとついている。
うす汚れたクリーム色のブルゾン姿、歳は三十前半くらいに思えた。右手にバケツ、左手にシェラカップを持っている。蝋燭はシェラカップに針金で固定されていた。
男はあくびをかみ殺した状態をずっとつづけているような表情で、
「お――い。生きてるか――あ?」
遠くから声を投げてきた。
わたしは戸惑い、言葉をかえせずにいた。
「生きてるか――あ?」
男は機械的な声でくりかえす。わたしに向けてではなかった。石組みの壁によりかかる≪王子≫に向かっていっていた。
「……ああ。生きてるよ」
うなずいた≪王子≫は、そうこたえた。
――≪ブラシ職人≫のまえでなにかを落としてはいけないよ。
≪王子≫にそう注意されたわたしは、無数の油がきらめくマグカップを黙って見つめていた。キャベツをコンソメブイヨンでとろとろになるまで煮こんだスープだった。覚悟していたほどの不潔さはなく、お腹も空いていたはずなのに、なぜか食欲は湧かない。
「ぜんぜん」「眠れないんだよ」「目を閉じても」「起きていても」「夢や幻覚ばかり見る」「それでもからだを動かせば」「いつかきっと」「眠れる日がくると思って」「おれにはわかっていたのに」
興奮してしゃべりつづける≪ブラシ職人≫のせいだった。わたしに口を開く暇さえ与えてくれない。
「ガネーシャ」「黙っている」「じぶんの声を忘れてしまったみたいだ」「おかしなやつ」「どうしてそう名乗るんだろう」「わからない」「人間が神の名を名乗ってどうするんだ」「おれにだけ教えてくれないかな」「あ、≪王子≫が見ている」「ほんとうにわからない」「そうだ」「これは謎かけ」「おれたちを試している」「解いてやる」「≪王子≫といっしょに謎を解く」「もしかして」「暗示をふくんでいる?」
意識して口にだしているのか、そうでないのか、まるで見当つかなかった。心にすこしでも思ったことを細かくちぎって声にださなければ気が済まない、そんなしゃべり方におされて尻《しり》ごんだ。このひとは躁状態なのだと、わたしはじぶんにいいきかせた。
「大聖歓喜自在天《ガネーシヤ》を知ってるのかい?」
と、≪王子≫が、≪ブラシ職人≫におかわりをうながしながらいった。
「この狭い世界」「たくさんの神」「ひしめいている」
≪ブラシ職人≫は鼻を膨らませ、
「ヒンドゥー教」「シヴァとパールヴァティーのあいだに生まれた」「象の頭」「四本の腕」「ネズミの家来」「やがて仏教の守護神に」
だが、と縮こまるわたしに視線をもどし、
「ガネーシャは智慧と幸運の神」「おまえ、いったいなにもの?」「こんなところになにを運んできた?」「どうせろくなものじゃない」「きっとそうだ」「底知れない」「不幸」「災い」「悲しみ」「おれには見える」「くそっ、頭を左右にふると消えてしまう」「もしも」「救いを求めているのなら」「おれなら」「助けてやれたのに」
きき流そうと決めていたわたしの耳が反応した。≪ブラシ職人≫を見ると、わたしが口を開くのをいまかいまかと待ちかまえている。わたしは顔の筋肉をひと筋も動かさぬよう努めた。
――助けてやれたのに、と彼はいった。自信のある声だった。わたしのことをよく知りもせず、いったいどうやって助けてくれるというのだろう?……いやちがう。彼は「助けてやれた」といっていた。つまり彼にとっては、むかしの話なのだ。
わたしがかたくなに口を閉ざしていると、≪ブラシ職人≫の目が半眼になった。そこに軽い失望の色があらわれた気がした。かたい表情で、スプーンでお椀のなかをかき混ぜることに専念しはじめる。
≪王子≫はわたしたちふたりを等分に眺めると、やがてあきらめたようにガソリンストーブの炎を調整した。
わたしは≪王子≫に悪いと思い、≪ブラシ職人≫を盗み見た。
肩幅はなく中肉中背で、どちらかといえばやさ男だった。まだ外でいくらでも働き口がありそうだった。浮浪者にありがちな自暴自棄さ、無気力さ、老人の意識も敗者の意識も、このひとにはない。なによりわたしに対して異性の関心を向けてこない。≪時計師≫のおじいさんとは大ちがいだった。
「わたしの看病、してくれたの?」
恐る恐る≪ブラシ職人≫にたずねると、彼はぽかんとした表情になった。やがて下を向き、スプーンをくるくるかきまわしながら言葉を紡いだ。
「なにをいうかと思えば」「おれの知りたいこと」「そんなことじゃない」「おれを試している」「おれは……しただけ」「ほかのみんな」「じぶんの歩いてきた道の殺伐さに気づかない愚か者」「一緒にされている」「やめ」「やめて」「やめてほしい」
「さっきからあんまり性急にきくもんだから、ガネーシャが困っているんだよ」
≪王子≫が≪ブラシ職人≫をたしなめる。
「だって」「ガネーシャ」「神の名前を名乗っているくせに」「おれの質問」「なにひとつ」「こたえられない」「だから」
「どの質問だい? ありすぎて、整理券でも配らないとわからないよ」
「整理券だって?」「そんなもの」「配ってないよっ」「おれだって」「もうおぼえてないよ!」
≪ブラシ職人≫が≪王子≫に食ってかかる。
「ガネーシャという名前がいけないの?」
見かねたわたしは口を開いた。ふたりがそろってふり向く。≪ブラシ職人≫がこくりとうなずいた。
「じゃあ新しい名前にするわ。ここにいるみんなとおなじように」
「ガネーシャ」
と、≪王子≫が嘆息する。「無理しなくていいんだよ」
「でも」わたしはつづけた。「そうしないと、みんなといられないのなら……」
≪王子≫はしばらく黙ってから、静かに口を開いた。「すぐには決められないよ。それに、それまで名なしになっちゃうんだよ。こんなまっ暗闇のなかで、きみは名前までなくしちゃうのかい? それだけはだめだ」
わたしは沈黙した。
とつぜんはげしい息づかいがして、わたしは首をまわした。≪ブラシ職人≫がいまにも泣きだしそうな顔で肩をふるわせている。
「名前をなくす?」「……もしかして」「おれのせい?」
≪ブラシ職人≫がじぶんを指さしている。
「ちがうよ」
≪王子≫がなだめた。しかし≪ブラシ職人≫の耳に入らなかった。
「それじゃあ」「おれが追いつめてしまった」「あいつと」「おなじじゃないか……」
彼は息をつこうとしてあえいだ。まるで混乱の出口を求めるように、まっ黒な穴に見えるほど口を大きく開いた。
「あいつも……」「そうだった」「名前を捨てた」「家族も」「仲間も」「ぜんぶ捨てた」「あいつの仕事は」「はじめて褒められた仕事だろうに」「打ちこめた仕事だろうに」「神聖」「汚れた人間の世界」「治してまわる」「救済の」「悪行の浄化」「だったはずなのに」「おれが」「おれが……」
≪ブラシ職人≫は破裂しそうな水道管を押さえこむようなしぐさで口をふさいだ。
お椀とスプーンがぽろりと落ちた。
≪王子≫がとっさに腕をのばして受けとめようとしたが、間にあわなかった。≪王子≫がはじめて険しい顔を見せた。すぐタオルをつかみとると、スープがこぼれた石畳をおおい隠した。
はああっ、と≪ブラシ職人≫の顔が蒼白《そうはく》になった。目から大粒の涙がはらはらと流れ、やがてそれは号泣に変わったかと思うと、絞りだす声になった。
尋常でない雰囲気に、わたしは身をひいた。
≪ブラシ職人≫は四つんばいになり、石畳をきょろきょろと見まわした。なにかを懸命にさがしている。やがてわたしには見えないなにかを見つけると、つまみあげるしぐさで服のポケットに入れた。彼の目のなかでそれはみるみるひろがっていくようすだった。ひどい狼狽ぶりの末、バケツからとりだしたのは束子《たわし》だった。シャコシャコと懸命に磨きはじめた。隅から隅まで無心になって手を動かしている。
唖然《あぜん》と事の成り行きを見ていたわたしは、それがやたら儀式めいていることに気づいた。
「――おっおっ、はじまったようじゃな」
通路の奥からきこえたその声に、わたしと≪王子≫はふり向いた。
≪時計師≫のおじいさんが、汚れたビニール袋をさげて立っていた。コンビニエンスストアの袋だった。なかから桃缶をとりだすと、
「ほうら、あっちいけ」
と、高く放り投げた。桃缶は≪ブラシ職人≫の頭を越え、闇のなかに吸いこまれた。≪ブラシ職人≫は悲鳴をあげた。バケツと束子を持って追いかけていく。ずいぶん遠くまで追っていく気配がした。
「なんてことを」
≪王子≫は≪時計師≫のおじいさんをひとにらみすると、≪ブラシ職人≫のあとを追っていった。
わたしと≪時計師≫のおじいさんだけが、ぽつりと残された。
「いまのうちじゃぞ。ききたいことをきけるのは」
≪時計師≫のおじいさんが耳打ちする。
「……教えて」わたしはようやく声をとりもどした。「このままだと、あのひとがほんとうに躁《そう》状態のひとだと思ってしまう」
「それはそれでいいじゃないか」
ひひひと≪時計師≫のおじいさんは笑って、食うか? と今度はさんまの蒲焼《かばや》きの缶詰を差しだした。
わたしは首をふった。
「最近の娘はぜいたくじゃな」
≪時計師≫のおじいさんは缶詰をしまうと、しらけた声でつづけた。
「あれは強迫性障害じゃよ。わしも≪王子≫に教えてもらうまでは知らんかった。あれは不安を高める強迫観念と、不安を減らす強迫行為から成りたっているらしいんじゃ。そのふたつは通常セットでな、強迫行為は頭から離れない不条理な考えをとりはらうために行う儀式になる」
暗闇の奥からシャコシャコシャコシャコという騒がしい音がはじまった。疲れるのにやめられない。そんな悲壮感さえただよった。≪王子≫が懸命になだめている。
「……ああ見えても、もとは某新聞社の社会部の記者だったんじゃよ。やつには親はなく、歳の離れた弟がひとりいた」
≪時計師≫のおじいさんはある新興宗教の名前をいった。ききおぼえがあった。むかし、新聞をにぎわせた教団の名前だった。
「弟はそこの信者だったんじゃよ。入信したいきさつはいろいろあったんだと思う。やつは責任を感じ、仕事を辞め、脱会援助団体のメンバーになった。ある日弟を無理やり連れだすことに成功したやつは、弟を監禁して、洗脳を解こうとした。誘拐まがいだったがな、そのときは肉親の情に訴えるしかなかった。弟はもちろん抵抗した。そりゃあもう、壮絶なものだったらしい。なん日もなん日もつづいた」
わたしはぼうぜんとききいった。
「やつには脱会援助団体という強い味方もあった。長い時間と労力をかけて、教団との精神的な絆《きずな》を完全に断ちきることに成功した。しかしな、弟はある晩、こっそり家を抜けだして教団にもどってしまったんじゃよ。それまでの苦労を無にするほど、あっけなくな。その理由がわからないまま、やつは失望と怒りに身を焼いた」
「それで……どうなったの?」
「脱会援助団体を自ら先導して、その教団と徹底的に争ったんじゃ。やがて教団の内部告発から、集団リンチ殺人事件を暴くことに成功した。なん人も犠牲になっていたんじゃよ。マスコミにその情報を流した結果、大々的に報じられた。証拠も見つかって警察も動いた。そうやって教団を解散まで追いこんだ。しかしあとから教団幹部の命令で、死体の顔を潰してバラバラに処理していた信者がいたことがわかった。その信者が、内部告発者じゃったんじゃよ」
思わず呼吸がとまりかけた。
「弟は見つかったとき、その教団幹部と刺し違えて死んでいたそうじゃ。それではっきりとわかった。むかしの心をとりもどした弟は、じぶんの意志で教団にもどっていたんじゃよ。それまで死体をさんざん冒涜《ぼうとく》してきたじぶんが、もうこの世で生きられないことを悟ったのかもしれんな。たったひとりの兄に、これ以上迷惑をかけることができなかったのかもしれん。だからたったひとりで尻をふくつもりで責任をとろうとした。そしてそれを果たしたんじゃ」
≪時計師≫のおじいさんは深い暗闇に目を向けていた。まだシャコシャコと束子でこする音がつづいている。
「入信まえから弟の変化に気づいてやることができれば。抱えている悩みに気づいてやることができれば。訴えに耳をかたむけてやれれば。話しあう機会をつくってやれれば。……やつはとりかえしのつかない『もしも』に苛《さいな》まれ、じぶんを追いつめた」
はいずりまわる音。鼻をすする音。≪ブラシ職人≫はべそをかいていた。彼の目のなかでなにがひろがって、なにをあんな懸命に追いはらおうとしているのか、容易に想像することはできなかった。
「兄もまた、弟に強がってばかりみせていたが、弱い人間じゃったんじゃよ。なれの果てがあの姿じゃがな」と、≪時計師≫のおじいさんはため息とともにつづけた。「それでもここでは役にたつこともある。この暗渠でなくしものをしたときは、≪ブラシ職人≫にきくといい。たいてい彼が拾っていて、交渉次第ではかえしてくれる」
はっと≪時計師≫のおじいさんが口をつぐむ。
首をまわすと、≪王子≫がそこに立っていた。≪王子≫は≪ブラシ職人≫がまだ石畳をこすっている通路に目を向け、そしてわたしを見た。
わたしは黙って息を吸った。
「わしをおしゃべりだと責めるのか?」
≪時計師≫のおじいさんがぽつりというと、≪王子≫は、
「彼の紹介がはぶけたよ」
と、さびしげにつぶやいた。
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上側の世界 6
駅前の電光掲示板が午前一時を表示した。
歓楽街のネオン管に彩られたレタリング文字は、まだ輝きを失っていなかった。
タクシーや代行サービスの軽自動車が気忙《きぜわ》しく行き交う界隈に、ジャガーのまばゆいライトが飛びこんだ。
ビルの隙間でうごめく影が反応した。ウイスキーの瓶を耳元でふっていたホームレスが去り、どこからともなく野良犬が現れ、ダストボックスからスパゲッティを引っ張り出した。
ジャガーは六階建ての雑居ビルの前にすべりこみ、止まるのを待ちきれないようにドアがばたばたと開いた。
カツンという軽くて固いブーツの音が、界隈に響く。
靴音が入り乱れる中、紺野と秋庭、そしてガード役の手下がひとり、あとに続いた。
目的の二十四時間営業のカラオケボックスは、ビルの一階と二階にあった。藍原組の企業舎弟によるチェーン店のひとつで、他店にはない特殊なサービスがある。
紺野は酔い潰れて肩を組むサラリーマンを邪魔そうに押しのけると、ガラスドアの前に立った。自動で開いた。左手にカウンター、右手に照明を落とした通路が続いている。ナンバーのついた個室が並び、でたらめに選んで入力された曲が大音量で流れていた。
店長が待ちかまえていた。メタルフレームの丸眼鏡をかけた四十過ぎの背の低い男で、紺野達に深々と頭を下げた。
「今日は?」
紺野が抑揚を欠いた声で聞く。
「……月イチでゲイ達が集まります。さ、さすがにもう皆んな、か、帰りましたが」
店長は恐怖で引きつった顔で三人を見上げ、答えた。
このカラオケボックスのもうひとつの顔。それは各部屋に小型カメラとパソコン、そしてキーボードが備え付けられていることだった。各部屋同士のチャット交信が可能であり、交渉が上手くいけばカメラでお互いの顔を確認し、後は合流するのも「交渉」するのも自由だった。客に部屋――箱を貸す。そしてコミュニケーション手段を提供する。このふたつを与えれば勝手に盛り上がってくれる客相手に商売している。素人を含めた潜在需要が高く、繁盛していた。
「藍原組《うち》の長沢はどこだ」
紺野が聞いた。
「に、二一四号室です。ミキがドアの前にいるはずです」
「……ミキ?」
「最初に発見した客です。ですから彼だけは残ってもらいました」
「今日のイベントの客か?」
店長はうなずいた。
このカラオケボックスのチャットを使ったゲイの出会い系パーティーは、他県から客が訪れるほどの盛況ぶりだった。事実このシステムを使用し、カタギの人間までもが安易に裏社会の顧客になりつつある。
紺野は二階の階段に素早く視線を走らせた。
店長が言った。「先月、揉《も》め事が起きたんで、長沢さんに用心棒で来てもらっていたんです。ですが今日の長沢さんはひどく体調が悪いというか、疲れきっていた様子で……その、今にも倒れそうな勢いで……仮眠を取るから何か揉め事があったら起こせ、と言われて……だ、だから」そしてヒステリックな声を上げた。「だから言われたとおりにしたんですっ。まさかあんなことに――あの噂[#「あの噂」に傍点]が本当だったなんてっ」
秋庭は店長の髪の毛をつかみ、後ろの壁に力一杯叩きつけた。
「騒ぎが大きくならなくて良かったな」
紺野は吐き捨て、階段に向かって歩き出した。
秋庭はガード役でついてこようとした手下に、
「あの店長を逃がすなよ」
と、耳打ちした。
二階に上がった紺野と秋庭は、あたりを見まわした。
通路はブラックライトで照らされ、どの部屋も四角いテーブルが隅に立てかけられていた。ソファは乱れ、敷かれた毛布にはティッシュが散らばっている。
目指す部屋は通路の行き止まりにあった。
紺野が足を止める。
秋庭も立ち止まり、紺野の視線を追った。ドアの前で膝を抱える若者がいた。店長が言っていたミキだと思った。表情の乏しそうな顔でこっちを向くと、道をおずおずと空けた。
ルームナンバーに二一四とあった。金属枠で覆われた曇りガラスを見る。ガムテープが貼られ、「入室禁止」とマジックで書き殴られていた。長沢の筆跡だとわかった。
秋庭は用意したビニール製の手袋をはめると、ドアのレバーをゆっくり引いた。エアコンの冷気がふたりを包みこむ。
L字形のソファに長沢は横たわっていた。石が横たわるように固く冷たくなっている。もう二度と動き出す気配を見せないその横顔に、苦悶《くもん》の表情が刻まれていた。
外傷や血の痕はない。
秋庭は動揺を抑えた。これまで幾度も修羅場をくぐってきた。刺し殺されたり、撃ち殺された死体も見てきた。それでも恐れを感じなかった自分が、思わず目を逸《そ》らしてしまった。暴力によって命を奪われた者達とは明らかに違う。
「本当に、眠ったまま死んじまうっていうのか?」
半ば茫然とつぶやいた。
紺野は四角いテーブルに腰を落とすと、長沢の死体をまっすぐ見つめた。そしてビニール手袋をはめると眉《まゆ》ひとつ動かさずに言った。
「――これで四人目。寝室に限った事じゃないということだ」
蒸した熱帯夜だった。
水樹は五十メートルほど離れた路地から、紺野達が入っていったテナントビルを眺めていた。
あれから自分のアパートの部屋には戻らず、ビジネスホテルやサウナを転々とする生活を送っていた。最後に部屋に寄ったとき、電話の留守録ランプが点滅をくり返していた。高校時代の同級生の吉山からだった。用件をまともに聞かず消去した。その吉山とも顔を合わせることはなくなった。
……これでいいのだと思った。
テナントに入っているカラオケボックスは、女子高生や若い社会人を中心に、ていのいい合コン相手を探す場所として流行《はや》っていると聞いていた。当然藍原組が仕こんだサクラも出入りし、グループ売春まがいのことも行われている。カラオケボックスという比較的オープンな場所を利用した、人間の集団心理をつくビジネスだった。大人数であればあるほど罪の意識は麻痺《まひ》してくる。応用がいくらでもきくせいで、この界隈で犯罪の温床は広がっていた。
今夜あの場所で、ガネーシャによる犠牲者が出た。
水樹は緊張を覚えた。いくら他殺体でなくても四人も変死者が続けば、警察は重い腰を上げざるを得なくなる。当然、今まで沈黙を守っていたマスコミも騒ぎだす。そうなると情報は誇張、歪曲《わいきよく》されて広がり、無用な抗争を招きかねない。
周囲の変化に気づいて身を隠した。酔っぱらいの怒声や若者達の喧騒《けんそう》が、驚くほど静かになったからだった。ビルを取り囲むようにして藍原組の組員達が現れていた。道いっぱいに広がり威圧する連中もいれば、不審な者がいないか目を光らせている者もいる。
行動が早い。
自分の姿を見られて余計な誤解を与えるのはまずいので、水樹は引き返すことにした。狭い路地裏を選び、小さな酒場が軒を連ねる通りに足を向けたときだった。一軒の居酒屋から、若い女性が引き戸を開けて出てきた。作務衣姿の店主らしき男がうやうやしく頭を下げている。彼女の方は大きめのバッグを肩にかけ、水樹には気づかず駅前の大通りに向かっていく。
きつめのジーンズに黒いカーディガンを羽織っていた。その後ろ姿に見覚えがあった。以前、千鶴が通りで待たせていた女性に思えた。長い黒髪を後ろで縛っている。今どきの若い日本人女性ではかえってめずらしい。千鶴の知り合いにしては水商売独特の色香がないので、印象に残っていた。
彼女が出てきた居酒屋を見ると、定休日の札が下がっていた。つまり彼女は客ではない。なぜここから出てきたのか?
水樹はつかの間迷い、あとを尾《つ》けることにした。
彼女が首をまわしてきた。水樹は尾けている間、彼女の足もとを見ていたので目が合うことはない。しかし小走りで逃げていく気配がしたので、舌打ちし、彼女を追った。
彼女は一度もふり返ろうとしなかった。携帯電話を取りだし、どこかに連絡しながら明るい方、明るい方へと向かっている。
水樹はその様子を見て、自分は変質者かひったくりに思われているのかもしれない、と思った。
駅前の大通りに出た。片側三車線の道路には、緑色の割り増しランプをつけたタクシーが連なり、代行サービスの小型車が気忙しく走っている。
彼女は信号を無視して飛び出そうとした。
「おい危ないっ」
水樹は声高く叫んだ。そこまで追いつめる気はなかった。クラクションのすさまじい音とともに、彼女は道路の真ん中で座りこんだ。急ブレーキを踏んだスポーツカーはクラクションを再び鳴らし、彼女を大きくよけて走り去っていった。
水樹は駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
彼女は固まったようにその場から動かず、茫然とあさっての方向を向いていた。切れ長の二重|瞼《まぶた》が大きく開き、まだショックが抜けていないことを物語っていた。水樹が「すみません」と手を伸ばしたときだった。ふとその手を止めた。アスファルトからのぼる蒸した空気に、消毒液の匂いが急に混じったからだった。
後続車がクラクションを軽く鳴らし、彼女はバッグをきつく抱きしめた。そのまま逃げるように道路を渡ると、駅のロータリー方面に向かっていった。
ひとり残された水樹は道路で立ち尽くした。千鶴に連絡するかどうか迷ったとき、ポケットの携帯電話が着信した。着信表示を見て胃のあたりが重くなるのを感じた。
「……な、何をしているんだ? し、ししし、指示を与えるぞ」
高遠からだった。
秋庭はカラオケボックスの部屋から顔を出し、ミキをちょいちょいと手招きした。
ミキはおどおどした様子で部屋の中に入ってきた。長沢の死体の第一発見者だった。Tシャツからのぞく色白の腕に鳥肌が立っている。秋庭はリモコンを操作してカラオケに適当な選曲をし、ボリウムを上げた。ミキの顔が恐怖で増幅されたように青ざめ、言われもしないのに、ふたりの前で正座した。
「ミキは本名か」
紺野が静かに聞く。
「数字の三に、喜ぶと書きます」
紺野の目が長沢の死体に向いた。「そんなに怖がることはない。おれ達はここで長沢の身に何が起きたのか知りたいだけだ。だから覚えていることがあれば、できるかぎり教えてほしい。協力してくれるか?」
秋庭は思わず紺野を見た。紺野は必要とあれば優しい声音も出せる。しかし紺野の顔で動いているのは口だけで、ミキを見てさえいない。
ミキはためらいがちにうなずいた。
「長沢がこの店に入ったのは何時だ?」
「イベントがはじまる前……八時頃です。すぐこの部屋の鍵をかけて閉じこもったんです。気分が悪い、何かあったら起こせ、とぼくに言って」
「お前との関係は?」
ミキは一瞬口ごもった。「先月長沢さんが、ぼくが乱暴されかけているところを助けてくれたんです」
「それだけか?」
「それだけです」
「長沢の異変に気づいたのはいつだ」
「じゅ、十二時をまわっていた頃だと思います。長沢さんが心配で、この部屋をノックしたんです。最初は寝ていると思いました。でも様子がおかしくて……起きてくれなくて、何度ドアを叩いても……ぼくがもっと早く……ひっ」
ミキの拳が膝の上できゅっと固まり、ひどい嗚咽が洩れた。よく聞き取れない。
「おい」秋庭の声に苛立ちが混じる。
ミキは喘ぐように胸を上下させた。「長沢さんが起きてくれないんです。何度ドアを叩いても、呼んでも、叫んでも……起きてくれないんです」
そう言って鼻をすすり、膝の上にぽとぽとと涙を落とした。
秋庭は首をねじってドアのレバーの部分を見た。つまみを横にまわして中から鍵をかけられる仕組みだった。他の部屋も同じらしい。
「なんだって中から鍵を……」
「ここの箱には鍵が必要だからだ。ましてや今日は表でゲイの乱交パーティーがあった。長沢は寝こみを襲われたくなかったんだろう」
紺野は関心なげにつぶやくと、ミキに言った。
「ときどき様子を見にきたのか?」
「熟睡していたようでした。ですが、うなされてもいました」
「どっちだ?」
「と、と、とにかく普通じゃありませんでした」
答えになっていない。秋庭は舌打ちし、こいつはもうダメだと思った。
話を整理すると、長沢がこの部屋でひとりきりになったのは、午後八時から十二時までのおよそ四時間ということになる。鍵を使わない限り、外から入れない。この部屋に窓はなく、ドア以外には空調のダクトぐらいしかない。そのダクトも、とても人間が入れる大きさではなかった。秋庭の中でガネーシャの不気味な存在感がじわじわと現実味を帯びてきた。
「合鍵を使えば誰だってこの中に入れる。誰か入ったところを見なかったのか?」
紺野が淡々と質問を重ねると、ミキは髪をふり乱して首をふった。
「てめえいい加減にしろっ、このカマ野郎がっ」
秋庭の我慢が限界に達した。ミキの胸元をつかみ、足もとから引き剥がすように鼻を近づけた。
「本当なんですぅ」
ミキが神経を逆なでするような声を上げた。
「てめえが長沢を見殺しにしたんだろ? あ?」
「やめろ秋庭」
秋庭はふり向いた。紺野だった。紺野は長沢の死体を見すえたまま、
「不審な人物がいれば、このパーティーに参加したやつら全員に聞いてまわればいい。簡単なことじゃないか」
秋庭はミキを乱暴に放した。ミキは尻もちをつき、救いの主を見上げるように紺野に向いた。
「秋庭。そいつの服を脱がせろ」
「え?」秋庭もミキも驚いて紺野を見返した。
「第一発見者は嘘つきが多いからな」
抵抗するミキを、秋庭は一発殴った。ミキは鼻孔を押さえた。指の隙間から血が滴った。秋庭はミキの服を無理やり脱がせた。今度は抵抗しなかった。
その間、紺野は部屋に備え付けられたパソコンのキーを叩いていた。
「代行。こいつ、怪しいものは何も持っていません」
「次は長沢の番だ」紺野はミキを見た。「今度はお前がやれ」
ミキは目をいっぱいに見開き、拒否するように首をふった。
「お前が脱がせるんだ。身の潔白を証明したいのなら、おれの言うことを黙って聞け」
その場の空気に無言の圧力が高まった。ミキは涙目になって長沢の服を脱がしはじめた。長沢の身体は硬直し、思うようにはかどらない。ときどき関節が変な方向に曲がり、軟骨の鳴る音がした。
秋庭は顔をそむけた。
紺野は徐々に裸にむかれていく長沢の身体を、つぶさに眺めていた。
秋庭も我慢して一緒に調べることにした。注射針の跡やひっかき傷がないか、念入りに目を走らせる。腋の下や背中にある刺青《いれずみ》まで神経を集中させた。辛抱強く観察を続けたが、不審に思える点はどこにも見あたらなかった。
「くそっ」秋庭は歯噛みした。
「なあ秋庭」
「なんですか?」
「人間が死んで、最初に硬直する場所を知ってるか」
「いえ……」
「顎だ」紺野は懐からハンカチでくるんだ物を取り出した。「用意してきて良かったよ」そして薄笑いを浮かべた。
ハンカチから出てきたのはラジオペンチだった。ミキの血でまだらになった顔が、恐怖と怯《おび》えでさらに引きつった。
「これを使って口を開けさせろ」
紺野が命令する。
ミキは泣きながら長沢の口をこじ開けた。力のいる作業だった。カラオケの大音響に混じって、ぐりぐりごきごきと嫌な音が響く。
「舌を引っぱれ」
紺野が淡々と指示する。
秋庭はその光景を直視できず、携帯電話を持って廊下に出た。待機している手下達に、ビルのトイレやゴミ箱に不審物がないか調べるよう命じた。
部屋に戻り、パソコンのモニタを見た。チャットの交信画面が映っている。そこにはミキからの一方的な求愛メッセージが並んでいた。ここ数時間の履歴には、ミキからのメッセージしか入っていない。なるほどミキと長沢はそういう関係だったのか。紺野はそれを知ったうえで、ミキに長沢の死体を調べさせている。
ミキは血のついたラジオペンチを持ったまま、壁にもたれて放心していた。結婚や出産など男女の恋愛のような目的がない同性だからこそ、愛する者の死体を冒涜することに耐えられなかったのか。ミキはカチカチと歯を鳴らしている。それは不快な金属音に似ていた。
「カチカチうるせえんだよ」
秋庭はミキの顎を蹴り上げた。壁に後頭部を打ちつけたミキは、アラームを止められた目覚まし時計のように動かなくなった。紺野はポケットからペンライトを取り出すと、ミキの口の中にあてた。きらりと光るものがあった。舌の上に金のピアスがふたつ埋めこまれている。
「……こいつ、なんだって舌に」
秋庭は吐き捨て、マンションで死体で発見された真由子という女も舌にピアスを入れていたことを思い出した。
「これでしゃぶると気持ちがいいからだ」紺野は興味なさそうに言った。「喜ばせたかったんだろう? 泣かせるじゃないか。舌の上にピアスを入れるやつは、男に尽くす女、オーラルセックスを極めたいホモセクシャル、もしくはそういった背景で広まったことがわからないアート気取りでいる連中ぐらいだからな」
耳から血を流すミキの目に、もう抗《あらが》うだけの生気は残っていなかった。
突然、部屋の扉がノックされ、紺野と秋庭は同時にふり向いた。
秋庭の手下だった。秋庭は廊下に出て報告を受けた。ビルのトイレやゴミ箱に不審な点はなく、ビル周辺もくまなく探したが、怪しい人物を見かけなかったという。
苛立った秋庭が拳を壁に打ちつけると、紺野が部屋から出てきた。
「室内のパソコンに、ガネーシャらしき人物のアクセスはなかった。おそらくガネーシャはターゲットを特定していない。殺される準備もさせないなんて、酷《ひど》いやつだな」
「……いったいガネーシャの野郎はどうやって」
「外傷はないから凶器は使っていない。それともうひとつ。ガネーシャが今夜このカラオケボックスに侵入していたのなら、当然、女である可能性は低い」
紺野の言うことを秋庭は理解した。ゲイの乱交パーティーが行われていたのだ。女性が入れるイベントではない。仮に侵入できたとしても、異性を敏感に嗅ぎつけるゲイ達にあとで聞けば、すぐわかることだった。
紺野は続けた。
「もしくはガネーシャはターゲットに直接手をかけていない。必ず現場から離れている」
「どういうことですか、それは?」
「暴力団相手にこれだけのことをしでかしているんだ。まともな人間なら、つかまればどんな惨状が待ち受けているかわかっているはずだ。ガネーシャはもう四人殺している。これからまだ殺すつもりなら、こんな目撃者がくさるほどいる場所で姿をさらすようなヘマはしない」
「薬物の可能性は――」
「先に死んだ近藤、天野、坂口の胃から薬物は検出されなかった。さっき見たとおり、長沢の身体には注射針や小さな傷痕もなかった」紺野は部屋にある長沢の死体に目を向けた。「だがあそこまで死体をいじれば、今度は司法解剖にまわされるだろう。じきわかる」
「じき……」
秋庭は半ば、絶望的な表情で返した。それまでにいったい何人殺されてしまうんだ?
「今まで警察が見抜けなかっただけかもしれない。念のためガネーシャの手口がわかるまで、他人からもらった食い物や水はいっさい口にするな。組員全員に徹底させておけ。あと、身体に傷ができたときでも報告させろ。針に刺された傷痕や、虫に刺された些細な傷でもだ」
「わかりました」
「それと」紺野は秋庭を向いた。「三益ハウジングの社長は何か吐いたか?」
「締めあげていますが、なかなか口が堅いんです」
「あとどのくらいもつ?」
「一日もつかどうか」
「お前が手加減しないからだ」
「ですが……」
「千鶴から連絡はこないのか」
「……いえ」
秋庭が口をすぼめて答えると、紺野の表情に不満げな翳《かげ》りがさした。――なぜ千鶴なんだ? 紺野の反応は、少なからず秋庭のプライドを傷つけた。
秋庭の携帯電話が鳴った。秋庭は部屋に戻り、カラオケのボリウムを下げてから耳にあてた。
「はい、秋庭」
弟分からの報告だった。
内容を聞いて秋庭は目を見開いた。思わず顔が紅潮し、口の端から笑みが落ちかけ、あわてて引っこめた。自分はこれを待っていた。こういう展開になるのを、心の底から待ち望んでいたのだ。声を殺して慎重に指示を与えると、電話を切り、廊下で待っている紺野に近づいた。
「中国人名義ブローカーの安《アン》を見つけました」
「どこにいた?」
「ずっと張らせていた女のアパートです。今、車に乗って逃走したそうですが、桜井が追っています。郊外に出る道はすべて塞ぐよう指示しました。組の総力をあげて絶対つかまえます」
「その女はどうした?」
「事務所に連れ帰らせました。組の若いやつに相手させます」
秋庭は背広のポケットから精神賦活剤の錠剤を取り出し、噛み砕いた。ガネーシャと名乗る人物を追う手がかりは、今となっては安しかないのだ。何が何でもつかまえ、知っていることをすべて吐かせなければならない。
紺野は携帯電話を片手でいじりながら、無言で廊下を戻っていた。
「……お、おい。オリバー君が、大捕物をはじめるみたいだぞ」
高遠は秋庭のことを侮蔑《ぶべつ》をこめてそう呼ぶ。チンパンジーにも人間にもなれないというたとえだった。
水樹は携帯電話を耳にあて、歩道橋から光の集まる歓楽街に目を向けた。深夜一時半をまわっているのにまだ灯を絶やさない。
名義ブローカーの安はこの界隈から離れていなかった。仲間を頼りにずっと潜伏していたが、昔の女のアパートを訪ねたところを藍原組の組員に待ち伏せされ、盗難車で逃走したという。
これまで秋庭は独断で中国人留学生狩りを指示していた。そのためここ数日で、何人も水面下で行方不明になっている。この界隈で新たな憎しみと敵を作りあげたが、その成果が出たということになる。盗難車の車種はトヨタのカローラスパシオ、色は白、ナンバーまでわかっている。
「待ったほうがいいでしょうか?」
「オ、オリバーごときが猿軍団を指揮して、何ができると思うんだ?」
水樹は押し黙った。
「げ、現実的に考えてみろ。仮にあいつが人間でも無理だな。そんなことは紺野でもわかっている。だからぼく達に連絡を寄こしてきたんじゃないか」
高遠の言うとおりだった。
地方都市は基本的に車社会になる。さらにこの歓楽街に限って言えば、深夜になっても交通事情は都心とさほど変わらない。無謀なカーチェイスに思えた。やくざでも数の限界はある。幾ら道を塞ごうが、安を見失う可能性の方が高い。もし安が車を乗り捨てて身を隠せば、もう二度と軽率に表に出てこなくなるだろう。今の秋庭は明らかに冷静さを欠いていた。組員が四人も死亡する異常事態がそうさせている。眠っている間に死ぬ……あの不可解な死の噂から、いち早く解放されたがっているのだ。
「せ、せっかく、極東浅間会の平野を出し抜けるところなのにな。この機会を逃したら次はない。安が市外に出るまで最短距離を使って二十分弱ってところか。水樹、ぼ、ぼく達の出番だ。要領はこの間言ったとおりだ。しくじるなよ」
高遠はそう言って通話を切った。
――罪を犯し、入り組んだ都市内を逃走する犯罪者のほとんどが、ある盲点に気づかずに逮捕されている。
追う側は警察だけではない。
独自の無線ネットワークを張る業者が協力していることを、ほとんどの人間が知らない。都市内での数や道の詳しさ、迅速さなら警察の比ではない。飛びかう無線の中で隠語を使い分け、ひき逃げ犯や強盗犯人の発見、現行犯逮捕等の防犯活動に密《ひそ》かに協力している。彼らにとっては警察からの協力要請になり、しかも金一封が出るからすすんで行う。
水樹は高遠の言葉を思い出した。
(いいか。そういう日のために各社のオペレーターを買収しているんだ。ぼくの名前を使え)
水樹はタクシー会社の無線集中基地局に電話した。
この歓楽街を中心に走るタクシーの数を想像した。安に逃げ場はない。
[#改ページ]
下側の世界 6
芸術は仮象《かしよう》を見えるものにする、
それが芸術の本質と定められているから。
偉大なる絵画も、また、
始源のものを呈示する、
知恵を通じて捉えた
目に見えるものすべての内から。
[#地付き]ヤン・ライケン著
[#地付き]西洋職人図集「画家」
「きみはたしか八人目の仲間だったよね? えぇと、はじめましてといったほうがいいのかな」
暗渠のトイレに≪画家≫がいた。
汚れたナイキのウインドブレーカー姿。骸骨《がいこつ》が服を着たような痩《や》せぎすの青年。目もとにパンダのような大きな隈《くま》ができている。≪王子≫にいわれたとおりの容姿だった。蝋燭を立てたシェラカップを足もとにおき、石組みの壁のまえでひざまずいて、なにかをぺたぺたと貼りつけている。
「なぁるほど。その調子だとだいぶ具合はよくなったみたいだね」
と、≪画家≫はわたしをちらりと見ていった。顔色の悪さは冷たい刃物の切っさきを思わせたが、声の調子は軽い。なんとなく話しやすそうだった。
「≪王子≫からきいたわ。わたしの手当てを手伝ってくれたって」
「だから?」
「……ありがとう」
「まぁまぁ、そんなにかたくるしくしないでほしいな。それにしてもきみ、女性はもうすこし、身だしなみをきちんとしていないとだめだと思うよ」
わたしはぽかんとした。もってまわったしゃべり方。やっぱりどこかずれている。
「ところで、いまみんなのあいだでは、きみの話題で盛りあがっているところなんだよ」
「……話題?」
≪画家≫は足もとにおいたペットボトルを持ちあげ、なかの水をひと口飲むしぐさを見せた。
「きみの名前だよ。きみだけ≪ガネーシャ≫じゃ変だろう? それじゃあぼくたちの真の仲間とはいえない。もうすこし待ってくれれば、きみにふさわしい職業名を考えてあげるからね」
「わたしの職業名?」
「あぁ。中世オランダの職業名だけでも百以上ある。どれを選ぶか、これがけっこうむずかしくてね。そうだ、なにかヒントになりそうなものはないかい?」
わたしには即答できなかった。
「じゃあぼくたちで選んだものから、気にいるものがあればいいよね」
≪画家≫はふたたび作業に没頭した。
ランタンをかかげて周囲を見まわした。石組みの壁はここだけ黒ずみ、水の音が絶え間なく耳を刺激している。
≪王子≫の肩を借りて、なん度か訪れていた場所だった。
最初にトイレときいたとき、こんな暗渠のなかだからあれが山盛りになっているんじゃないかと不安を持った。これからはより具体的な不潔と戦わなければ生活できない、とじぶんにいいきかせたが、ひとまずそれは回避できそうなことに安堵《あんど》したおぼえがある。
広大な暗渠のなかでもこの一帯だけは、通路の半分に溝が切られ、水が流れている。墨を流したような漆黒の水面に、ランタンの明かりがにじんで映った。汚水ではなさそうだった。≪時計師≫のおじいさんに見せてもらった三十二年前の新聞の切り抜き――この暗渠の一部は雨水を受け入れている――を思いだした。≪時計師≫のおじいさんいわく、こうした水路と合流する地点は、この暗渠にいくつもあるという。
「水の枯れた暗渠だと思っていたのかい?」
≪画家≫が見透かしたように、きいてきた。わたしはうなずく。
「ずっと流れているんだよ。すくなくともぼくが見るかぎりはね、ずぅっと……」
「ふしぎね」
「あぁ、ふしぎだ。ずぅっと流れているからね」
≪画家≫はなにかいいたそうだった。わたしは、雨は一年じゅう降るものなのかとたずねてみた。
「なぁるほど。きみの疑問はもっともだ」
そういって、≪画家≫は深くうなずいた。わたしはつづきを待った。≪画家≫の手が動きはじめる。作業に熱中している。それでもわたしは辛抱強く待った。
「……あぁ、すまないね。どうやら仕事にぼっとうしてしまったようだ」
今度は考えこむしぐさで鼻梁《びりよう》をなぞってみせる。しかし彼はふたたび手を動かした。わたしはもうあきらめようとした。
「――あぁ、ちょ、ちょっと待って。ちゃんとおぼえているよ。さっきの質問のことだろう? ざんねんながら、くわしくは教えられないのだよ」
「秘密にしているから?」
「いぃや」間の長い返事がかえってきた。「≪時計師≫にきいたほうがはやいからさ」
わたしは押し黙り、話題を変えることにした。
「絵を見たわ」
「なんの絵だい?」
「≪王子≫に見せてもらったの。いろいろな職人が描かれている壁画」
あなたたちよ、という言葉を呑みこむ。
「あぁ、あれは力作でね。むかし、しりあいの左官職人からあるものを分けてもらって、あれをかいたんだ」
「あるもの?」
「そうさ。あるものさ」
≪画家≫の態度に苛々した。
「漆喰《しつくい》で下地をかためて、そのうえから極彩色《ごくさいしき》で描くとああなるわ。中国唐代の古墳壁画とおなじ技法よ」
「へぇ」
≪画家≫はそうつぶやくと、さぐるような目を向けてきた。
「ずいぶんくわしいんだね、きみは」
「え」
「それに極彩色なんて、ふつうのひとの口からはでてこないものだよ。……ねえ。ほんとうはきみ、いったいなにものなんだい?」
わたしは口ごもった。さっきの言葉は、意識しなくても頭からすんなりとでた。
「ほかにも描いてるの?」
こたえに窮して話をそらすと、≪画家≫は目をぱちくりさせ、さっきの質問をもう忘れてしまったかのように微笑んだ。
「もちろんさ。ぼくにはそれしかとり柄がない。なかには≪王子≫にたのまれて、目印がわりにかいたものもある。俗にいうマーキングというやつさ。画家はね、絵を買ってくれるひとがいて、はじめて画家になれる。だけどこんなくらやみのなかで、ぼくの絵を買ってくれるのは≪王子≫だけなんだ」それから≪画家≫は長いこと黙っていたが、話はまだ終わりでないことがわかった。「……≪王子≫は死にかけていたぼくを救ってくれたばかりでなく、ぼくの価値をみとめてくれた唯一のひとなんだよ。やっぱりそういうひとがひとりでもいるかぎり、ぼくはかきつづけるしかないだろうな。ここでずっと、ずぅっと」
そして≪画家≫は叱られた子供のように、がっくりとうなだれた。
「でも、ざんねんながら、いまはもう筆も絵の具もないのだよ」
わたしは目を見開いた。じゃあ彼はいまここでなにをしているのだろう? ランタンの明かりを、彼がいる方向に向けてみる。
≪画家≫が向きあう壁に、風景画と思える絵があった。
どこかさびしげな風景だった。緑と浅黄色の草原らしきものがひろがっている。色をともなっているのは草の部分しかない。
≪画家≫はなにかを懸命にむしり、ハケを使って貼りつけていた。ランタンをさらに近づけると、暗がりで見えなかった部分がかすかに照らされた。彼の足もとに、羽をむしりとられた鳥の死骸が転がっている。
これかい? と≪画家≫がわたしの方を向き、これがいかに仕方ないことかを早口で説明した。
「≪王子≫もきっとわかってくれるよ」
暗がりのなかで、ふふ、という声がして、わたしは後ずさった。≪画家≫はそれまできいたことのない声で歌いはじめた。楽しげに口ずさんでいる。
わたしは離れた場所にランタンをおき、その場にたたずんだ。
闇のなかにとろけるような≪画家≫のハミングに、じっと耳を澄ませた。十分ほどで彼は「じゃあね」と、機嫌よくいい残して姿を消した。
まえへうしろへ、右へ左へ……闇のなかでぼんやりと光る水たまりを避けて歩いた。
石組みの通路はうねうねと、蛇の胃袋のようにつづく。
ふつうの時間感覚、距離感覚、方向感覚は歩くたびに消耗した。漠然とひろがる漆黒の世界に、しだいに畏怖《いふ》をおぼえはじめ、目に映るものが現実か、それとも幻想か、その境界線が闇にまぎれてあいまいになってくる。
地図に目を落とした。≪王子≫と≪時計師≫のおじいさんが、古びたチラシの裏側にフェルトペンで描いてくれたものだった。きちんと北が上向きになっているが、コンパスがなければ意味がない。
○印と△印が描かれているポイント――
○印が≪王子≫
△印が≪時計師≫のおじいさん。
ふたりがよくいる場所だといっていた。よく見ると、○印と△印が重なっているところもある。
地図は碁盤の目のように、横方向にAからJ、縦方向に0から9までふってあり、入り組んだ暗渠の一部が百個のマスで仕切られている。一部というのはつまり、この地図ではおさまらないということだ。いったいこの地図が、どこまで役に立つのか疑問だった。
わたしは一番近い○印を目指していた。
注意深くランタンをかかげた。壁のどこかに場所を示すアルファベットと数字があるからだった。最後に見たのはIの5、……それともHの4? こんなに歩いているのにだれとも会わない。あのシャコシャコという、≪ブラシ職人≫の音さえなつかしく思えてきた。彼はいまごろ、なにをしているのだろう?
しばらく歩くと六畳くらいの石室に遭遇した。ここだけ天井がすこし高くなっている。こういう石室が暗渠のなかにあること自体、ふしぎに思えた。
ふたつの出口がある。
つかのま迷い、左を選んだ。
まるでこちらが正解とでもいうように矢印の絵があった。たかが矢印でも造形が凝っている。≪画家≫がいっていたマーキングとはこれのことだろう。しかし矢印の方向がなにを示しているのかわからない。
足をとめた。
いまこの通路にいるのが、じぶんひとりでない気がしたからだった。
ふり向くと、うす明かりがとどく範囲で、巨大なシルエットがさっと隠れた。
心臓が飛びあがりそうになった。だれかがわたしのあとを尾けている? しかも大男だ。ランタンを左右に動かし、注意深く瞬きをくりかえした。しかし、なにかが動く気配はない。
だんだんと気味が悪くなってきた。ランタンをやめ、蝋燭の炎を片手で隠しながら石組みの通路を歩くことにした。
……
………………
――なにも知らないで歩きまわると迷うんじゃよ――
頭のなかで、≪時計師≫のおじいさんの声がよみがえった。
……………………
気づくと目のまえに冷たい石畳があった。わたしはうつ伏せになってたおれていた。急激な目まいに襲われ、目まいはおさまる気配を見せず、おなじ方向に渦をまいている。
ぐるぐるまわる視界のなかで、左腕に巻きついた腕時計が映った。わたしがこの暗渠で目覚めたときにはめていた、銀色の腕時計だった。かちっと秒針が動いた。たしか最初に見たときは十二時五十分。あれからもう一週間以上すごしているのに、ようやく三時をさそうとしている。壊れて動かなくなったと思っていた腕時計は、ほんのすこしずつだが時を刻んでいた。わたしはあわててガラス盤に耳をよせ、秒針が奏でてくれる音をきこうとした。そんなささいなことでも、からだが恋しがった。
そういえば、もうずいぶん日なたのにおいをかいでいない……
「おぉい」
だれかが呼んでいる。
「おぉぉい」
間延びした声。立ち上がって首をまわした。アポロキャップをま深にかぶった男が手をふっていた。
≪画家≫だった。どうしてここに? 彼は蝋燭を立てたシェラカップを持って近づいてくる。
「いゃね、きみ。おどろいたもなにも、ずっとおなじところをぐるぐるまわっているから、声をかけずらかったんだよ。こぅ、ぐるぐると」
ぐるぐると……ため息が洩れた。
「で、きみはいったい、ここでなにをしているんだい?」
こたえるのをためらった。が、いま頼りにできるのは目のまえにいる彼しかいない。≪王子≫をさがしているのだと、ひどく弱々しい声で訴えた。
「あぁ、さっき見たよ。まだあそこにいると思うけどな」
それだけいえばじゅうぶんだ、という口調だった。わたしのすがりつく目を、≪画家≫はじっと受けとめ、
「……わからないのかい?」
と、いった。
わかるわけがない。ぐっとこらえ、うなずいた。
「じゃあついてくるといい。あんないしてあげよう」
助かった。わたしは石組みの壁に手をつき、≪画家≫のあとにつづいた。
「まぁまぁ、水くさいじゃないか。ぼくは礼をいわれることまでしていない」
≪画家≫は指をちょいちょいと曲げ、わたしを先導する。きた道をもどっていく。
「――お願い。もうすこしゆっくり」
≪画家≫はふしぎそうな面持ちでふり向くと、やがて「なんで」といった。
わたしはおなじことを繰りかえし、いった。
「あぁ、すまないね。ぼくとしたことが」
≪画家≫のペースがほんのすこしだけ落ちた。なんとか数歩遅れて、ついていけるようになった。
彼は歩きながら、頭をしきりにかいていた。癖のようで、だんだんそれは激しくなり、かぶっている帽子がずれた。頭がそら豆のようにへこんでいる。手術のあとのように思えた。≪画家≫が顔を向けてきたので、あわてて目線をそらした。
「いゃあ、実はさがしものをしていてね、ぼくもきみとおなじように、おなじところをぐるぐるとまわっていたところなんだよ。こぅ、ぐるぐると」
「ぐるぐると……さがしもの?」
そうだよ。≪画家≫はこたえ、岐《わか》れ道を右に曲がった。
「どぅも、うっかりしていてね、ペインティングナイフを落としたようなんだ。≪ブラシ職人≫なら見つけていると思って、彼をさがしていたところなんだ。ところで彼、どこにいるか知ってるかい?」
知らない、とだけこたえた。
≪画家≫は石室に入ると、首をきょろきょろまわし、左にいきかけ、右を選んだ。
「……まぁ、あんなものでも人は刺せる。≪墓掘り≫にでもひろわれたら、たいへんだからね」
≪画家≫は岐れ道を左に、つづく三叉路《さんさろ》をまんなかにすすんだ。この暗渠に三叉路があること自体、わたしをうんざりさせた。
「その頭の傷、どうしたの?」
きいていいのか迷ったが、結局きいてしまった。
「あぁ、これかい?」≪画家≫は頭をさすってみせる。「ある晩だったかな。ここでぼくがねているときに、変な男が侵入したんだよ。戸じまりをしていなかったぼくがわるかったんだけどね。おおごえをあげたら、なたのようなものでぼくをなぐってにげたんだ」
どこまで信じていいのかわからないので、相づちだけ適当にうった。たぶんうなずいた雰囲気だけは伝わったと思う。
ずいぶんうねうねと歩く。しだいにそれは、わたしを不安にさせた。
「もうすこしのしんぼうだからね」
石室を通り過ぎ、つぎの角を左に曲がった。
しばらく歩いてから、ここはどこなのかときいてみた。
「どこ? どこだろうね」
≪画家≫はすこし間をおいて、
「きっと、どこでもない場所だと思うよ。ここがまっ暗な世界だからいけないんだ。まえも、うしろも――きょうも、あしたも……」
「おい」
きき慣れた声がして、≪画家≫がびくっと背筋を伸ばした。ふり向くと、通り過ぎた角に、≪時計師≫のおじいさんが蝋燭をにぎって立っていた。
「そいつとなにをしておる?」
鋭い口調でわたしにきいてくる。
「じゃあ、ぼくはこれで」
≪画家≫がそそくさと去っていくのを見て、わたしは呆気《あつけ》にとられた。
≪時計師≫のおじいさんが杖《つえ》を突きながら迫ってきた。腕をとられ、ちぎれそうなほど引っぱられる。そしてわたしから乱暴に地図をうばうと、○印とはかけ離れた位置を指さした。
「――おまえ、立てなくなるまで歩かされるところじゃったぞ」
≪時計師≫のおじいさんに案内されたのは、段ボールや古雑誌が堆《うずたか》く積み上げられた、石室のひとつだった。隅には長い麻紐《あさひも》が束ねておいてあり、結び目が等間隔につけられている。あれを使って、暗闇のなかで距離をはかっているのだろうか。
どうやらここは、≪時計師≫のおじいさんの部屋のようだった。
ランタンを挟んですわった≪時計師≫のおじいさんは、ドロップ缶を逆さにふってタバコの吸殻をとりだした。フィルターの根本まで吸い、肺に蓄えていた最後の煙を名残惜しそうに吐きだしてから、わたしをぎょろりとにらんだ。
怒られると思った。すると、目のまえに食べかけのかりんとうの袋がだされた。
ひとつつまみ、もう一度つまもうと思ってやめた。≪王子≫とスープを飲んだときもそうだった。この暗渠にきてから、ものを食べても味がしなくなっている。頭を強く打って味覚が麻痺しているのかもしれない。
「しけたポテトスナックもあるぞ」
それは断り、≪王子≫はどこにいるのかとたずねた。
「ここのところ、ずっと寝ておる」
「病気なの?」
咳をこらえる≪王子≫の姿を思いだした。
≪時計師≫のおじいさんは古新聞をやぶって鼻をかみ、まるめて鞄《かばん》のなかに入れた。わたしの問いにこたえる気がないことは明白だった。
「わたし、≪王子≫のところにいってくる」
「そんなからだで」≪時計師≫のおじいさんは、しがみつくようにとめた。「どこにいくというんじゃ、莫迦め。こりないやつじゃな」
わたしがにらみつけると、≪時計師≫のおじいさんはひるみ、地図の一部分を指さした。その主体性のなさにあきれたが、どうやら指をさした場所が≪王子≫のいる場所らしかった。
「……そこはどこなの?」
「なにをいっておるんじゃ。一度おまえさんを連れていったろう?」
七人の職人たちの絵が描かれていた場所だった。ここからずいぶん歩くことになる。いまのわたしにはとうてい無理だった。
わたしは息を吐き、石組みの壁にもたれた。ずるずると背中が落ちていく。
「からだは正直じゃな」
≪時計師≫のおじいさんは、うへへ、と下品に笑うと、百円ショップで売られているような小さなブリキ鍋をとりだした。ペットボトルの水をとくとくと注ぎ、小さなガソリンストーブに火をつける。
「≪王子≫は喉の病気じゃよ」
「……喉?」
「ときどき具合がひどくわるくなる」
「なおらないの?」
「なおらんよ。もう二度と」
≪時計師≫のおじいさんがにべもなくいったので、わたしは気圧された。
「じゃが、おまえさんが心配することはない。そんなことより、≪王子≫から預かったものがある」
≪王子≫の病気を、「そんなこと」と一蹴《いつしゆう》されたことに戸惑った。≪時計師≫のおじいさんは暗がりのなかに手をのばすと、がさごそとかきまわした。でてきたのは鳥籠《とりかご》と大きな紙袋だった。鳥籠には、わたしが拾ったヒナがいた。
「それだけあれば、とうぶんひとりで動きまわれるじゃろう」
紙袋のなかをのぞきこんだ。ポケットティッシュにタオルと着替え。真新しいタオルと石けん。マッチと蝋燭。鳥のえさやウイスキーの瓶に入ったガソリン。生理用品まで入っている。底にはアルミ箔《はく》に包まれたクラッカー、レトルトの非常食もある。どれもどこかで、見たことのあるようなものばかりだった。
「……これは?」
「見てわからんか?」
そうじゃない。わたしは首をふった。
「わしらがいったいどこから食料を調達しているか、という疑問じゃな?」
わたしはうなずいた。
「まえから気になっていたんじゃな? そうじゃろう?」
辛抱強くうなずいた。
「防災備蓄倉庫というのを知っとるか?」
「……ボウサイビチク?」
「学校や公園などの公共施設に配備されているんじゃよ。上側の世界の一番大きな倉庫じゃと、二万八千食分。ほかに炊飯器や災害用蝋燭、投光器や毛布までおいてある。ここに必要なものは、ひととおりそろっているわけじゃ。わしが知っているだけでも、倉庫はぜんぶで三十ヶ所以上もある」
勝手にとってくるの? 思わずきいた。
「じゃあきくが、いったいそのことをどれだけのひとが知っているというんじゃ? 倉庫には鍵がかけられていて、その鍵は役所で管理されている。災害が起きて、ほんとうに必要に迫られたひとが倉庫にきても、だれかが鍵を開けてくれるのを待つか、その場で途方に暮れるしかないんじゃよ。そんな非現実的な使われ方をされているくらいなら、わしらが有効活用してやろうというんじゃ。なにも人命救助の道具までは盗んでおらんし、食料などすこしくらい足りなくても人間は死なん」
あきれた。「……鍵はどうするの?」
「そんなもの、こっそり開ければ済むことじゃ」≪時計師≫のおじいさんは完全に開き直っていた。「南京錠やピンシリンダー方式のところが多いから、開けかたさえおぼえれば、必要なだけ調達できる。ただしコツがいるがな」
「コツ?」
「ひとつ、夜な夜な行うこと」
わたしは黙った。
「ふたーつ、欲張りすぎないこと」
「……もういいわ」
つまりやっていることは泥棒だ。問題は、いったいそれをだれが指揮しているかだった。たぶん≪王子≫だろうと、わたしは推測した。この暗渠の住人たちが、≪王子≫に素直に従っている理由――それならなんとなく理解できる。この暗渠の住人達は浮浪者なのだ。≪王子≫に対して畏敬の念ではなく、物欲や食欲を満たすために従っていることのほうがよほど説得力はある。
「水はどうしているの?」
「そのくらいじぶんの頭で考えることじゃな」
「でも、水がないと生きていけないわ」
「たしかに、おまえさんに渡した紙袋のなかには入っていない。しかしここには、水をさがす手がかりはある」
「それは」わたしはいった。「この暗渠には地下水が漏出している。一部はそれを引いたつくりにもなっている。ちがうの?」
≪時計師≫のおじいさんは不意をつかれた表情で、目を大きくさせた。
「ほお。さわってみたか?」
「水を?」
≪時計師≫のおじいさんがうなずく。
「……思ったより冷たくなかったわ」
「地中の温度は変動がすくない。温度が一定で十五、六度くらいになる。ここに流れている地下水は、低温水になるんじゃよ」
わたしはききながら、モンゴルのマンホールチルドレンの生活を思いだした。彼らは暖房用の地下温水を目あてに、マンホールのなかに潜っている。
「すくなくともここのすべてが、ただの下水の暗渠じゃないということじゃ。歩いてみればすぐわかる。迷路になっているじゃろう? 一部には勾配《こうばい》があって、完全に浸水しない仕組みにもなっている。つまり生活するためにつくられた暗渠じゃ」
「生活?」わたしは正直な感想をいった。「それはたぶんちがうと思う」
「ほお。鋭いな。この暗渠をつくったのは、江戸時代後期に密貿易で巨富を成した人物じゃ。一代でそれを成したというから、かなりあくどいこともしたじゃろうし、敵も多かったと思う。だから身を隠す場所というほうが、ふさわしいかもしれん。もしかしたらわしらの知らない仕掛けが、まだまだこの暗渠に存在する可能性もある」
「待って」思わぬ話の成りゆきに、ぞっとした。「仕掛けだなんて、三十二年まえの新聞に書いてなかったわ」
≪時計師≫のおじいさんは、わたしの目をじっと見すえ、
「この暗渠の価値などその程度じゃったんじゃよ。……発見されたタイミングが悪かった。当時この暗渠が発見されたのが、流域下水道の工事中じゃったからな」
わたしは、かつてこのおじいさんが配管工をやっていて、事務所をかまえていたことを思いだした。
まず流域下水道とはなんなのかをきいた。
「いくつかの市町村にまたがって下水を通す仕組みのことじゃ。規模が通常よりはるかに大きい下水と考えればいい。都道府県が事業主体となるから、市町村の負担が軽くなるわけだ。しかし着工から十五年経過しても、計画の三割ほどの処理区域しか建設がすすまんかった。その計算でいくと完成まで五十年以上かかる。じゃから金食い虫の流域下水道だと非難された」
そんなにお金がかかるのだろうか? 想像つかなかった。
「半端じゃない。下水道予算が、全体の三割近くになるところもある。たしか上側の世界の街では、ひとりあたり百二十万近く税金で負担した計算じゃ。一部の人間だけが工事によって利益を得る危険性もあって、あまりにも不合理な工事になりかねない」
≪時計師≫のおじいさんは、ひひひとあざ笑い、
「長期に亘《わた》ればとうぜん反対意見もでる。それを押し切る我慢くらべみたいな工事じゃ。そんななか、この暗渠が発見された。雨水の水路と偶然ぶつかったんじゃよ。調べていくと、この暗渠が相当ひろいことがわかった。そこで遺産として派手に持ちあげ、一部を掘りだして展示もした。しかしそれ以後、調査されることはなかった。……わしが思うに、派手に持ちあげたこと自体、べつの思惑があったんじゃと思う。逆にいえばこの暗渠の価値など、その程度でしかなかった」
わたしは黙ってつづきを待った。
「暗渠の発見をこれ幸いとして、コストの安い単独下水道の建設に切り替えたんじゃよ」
「……単独ってなに?」
「下水道の方式は大きくわけて、もうひとつあってな、市町村が管理する単独下水道というものがある。下水と雨水が合流する仕組みじゃ。雨が降って処理水量が増えれば、下水場で処理されずにたれ流しになる。この暗渠が発見されてからというもの、そんな単独下水道がたくさんつくられたよ。県や市町村の役人のあいだで、どんなやりとりが交わされたのかわからんし、裏で汚い金がまわったのかもしれない。またしても汚点を増やしたわけじゃ。整備されるにしたがって水が地下にもぐっていくから、しだいに川がなくなる。最終的には都市の砂漠化をまねいてしまう。――その結果が、いまの上側の世界になるんじゃよ」
わたしが天井のひび割れた岩盤を見あげると、≪時計師≫のおじいさんはつづけた。
「いっておくが、ここにいるみんなが、あの地下水を飲んで暮らしているわけじゃない。上側の世界から調達できるときは、そうする。じゃが≪坑夫≫や≪墓掘り≫は、地下水をずっと飲んで暮らしているときく。気がしれんな」
呆気にとられるわたしを残して、≪時計師≫のおじいさんが腰をあげようとした。
「どこいくの?」
「ここではガソリンが貴重品になる。わしのぶんがなくなりかけとるから、とりにいってくるんじゃよ」
「わたしのがあるわ」
それは、おじいさんのしわだらけの手でさえぎられた。
「じぶんのぶんは大切にすることじゃな。それにおまえさんはまだ休んだほうがいい。ここはわしのテリトリーじゃから、≪画家≫みたいなやつが不用意に近づくことはない」
念のため明かりは消しておくからな、と≪時計師≫のおじいさんはランタンの明かりを消した。わたしは追いすがる目を向けたが、もうおじいさんの顔が、どこにあるのかもわからなくなってしまった。
それでも声をかけてくれるのを期待して待った。
おじいさんの杖が遠ざかるのを耳にして、わたしはひとり鳥籠を抱きしめた。
暗闇のなかでじっとしていると、まただれかの気配を背中に感じた。例の大男だろうか? 近づいてくるわけでも話しかけるわけでもなく、ただじっと、わたしのようすをうかがっている。
「だれかいるの?」
か細い声でたずねると、その気配はすっと消えた。
ここはどこだろう?
気づくとわたしは≪時計師≫のおじいさんのあとを追って、さ迷い歩いていた。頭がぼおっとして熱を持っているのがわかってもなお、歩くのをやめられなかった。
どうしてじっと待つことができなかったのだろう?
一度夢を見てから、伯父さんの言葉がたびたび耳によみがえるようになっていた。伯父さんが話してくれた、山で道迷いをしたひとの話――。きた道をもどれば百パーセント助かるものを、下流を目指し、そして死んでしまう遭難者の話。そうやってじぶんを見失うように、わたしは暗闇のなかでひとりぼっちにされるのが耐えられなかった。≪時計師≫のおじいさんと一緒だった安堵感が、そうさせたのかもしれない。まるで時間が生きもののように変化し、わたしを追いつめ、このひざを立たせた。
鳥籠と紙袋を器用に持ち歩きながら、蝋燭の炎を四方に向ける。
小さな明かりだけが頼りだった。静寂な闇のなかをひたすら歩き、やがてあたり一面、石の色が濃い場所にたどり着いた。
曲がり角にあたる部分に、文字を見つけた。
場所を示すアルファベットと数字だろうか? 蝋燭の炎を近づけてみる。
警告文だった。石組みの壁によれた字でこう書かれていた。
いちにちのはんぶんいじょうは ここからさきにいる
みつけしだい ぶちころす
知性のかけらもない字に、かえって戦慄《せんりつ》をおぼえた。
つまさきでなにかを引っかけた。左右にはった紐であることに気づいた瞬間、角の向こうで空き缶がカランコロンと転がった。
恐怖を押し殺してのぞくと、暗闇のなかでなにかが動き、暗く、はっきりと見わけのつかないなにかが飛びだしてきた。
耳が欠けた[#「耳が欠けた」に傍点]老人だった。向こうもだしぬけの来訪者におどろき、わたしを鋭く敵視した。
野生動物とにらみあったような緊張状態がつづく。
老人の右手に包丁があった。
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上側の世界 7
偽造名義ブローカーの安がつかまった。
高遠の元に引き渡される予定時刻は午後七時。
水銀灯の間隔が次第に遠くなる幅広い道路の先に、廃倉庫が並ぶ埠頭《ふとう》があった。
水樹はステンレス箱のような倉庫の電動シャッターの前で、安が運ばれてくるのを待っていた。
湿った微風が吹いている。寂れた場所。人の気配もない。夕闇に染まりかけた北の空に目を向けると、原子力発電所の長い煙突の影がかすんで見える気がした。県内だけで二基あることを、水樹はこのとき思い出した。かつてどちらかの事業所で臨界事故が起き、半径十キロ圏内の住民が屋内退避する深刻な事態が起きた。事故に触れたくない国や原発推進の役人によって真相解明に蓋がされ、今となっては人々の記憶から忘れさられようとしている。
水樹は息をつき、倉庫の電動シャッターに目を戻した。五十センチほど隙間が空き、そこから車椅子の車輪がのぞいて見える。なるべくその車椅子を見ないようにして、倉庫を見上げた。
今はもう誰も使用しない二階建ての物流倉庫だった。中は吹き抜けで、内周をぐるりとまわる通路から、倉庫全体を見渡せる構造になっている。二階にはプレハブで仕切られた管理事務室があり、高遠はそこに上がるための専用エレベーターを業者に造らせていた。荷物の積み卸し用のエレベーターを改造したものだった。
驚いたのは、この埠頭の建物すべてが高遠の所有になっていることだった。金に換えようともしない。
やがてライトをハイビームにした軽トラックがやってきた。ぎらぎらと光を放ちながら、水樹の前で停車する。国籍が判然としないアジア系外国人が運転席と助手席に座っていた。色が浅黒く、眉のせりだしたふたり組だった。
ふたりの手によって荷台から、青色のビニールシートで簀巻《すま》きにされた安が下ろされた。簀巻きの一端から安の顔がのぞき、水樹は顔を背けた。目はガムテープで塞がれ、両の頬の皮が剥ぎ取られている。片側の頬に関しては薄皮一枚でつながっていた。鋭利な刃物で切られ、手で剥ぎ取った跡だった。シャツは真っ赤に染まり、他の皮もまんべんなく剥がされていることをうかがわせた。
……キレた秋庭の仕業だ。水樹は直感的にそう思った。
安は水樹と身体が触れ合うたびにもだえ、その度に水樹は痛々しげに目を細めた。こんな状態になるまで拷問された安を、今ここで高遠に引き渡す意味がどこにあるというのか?
ふたり組の外国人の会話を耳にした。英語だった。運ばれてきたのは安だけではなさそうだった。もうひとりの男が無造作に放り出され、その男はアスファルトの上で、芋虫のようにのたうちまわった。
水樹は目を見張った。
極東浅間会の若頭、平野の姿がそこにあった。上半身を裸にされ、背中にまわされた右手と左足首が手錠でつながっている。左手は外側に九十度に曲がっていた。無防備の顔や腹にはさんざん蹴られたあとがあり、内出血を起こしていた。
平野は憎悪に燃える目を注いだ。
水樹は目を合わせられなかった。しかし平野の視線が別のところに向けられていることを知り、あわてて後ろを向いた。シャッターの隙間だった。
「ふざけやがって」
平野の口から血の泡がこぼれた。
呼応するように、きゅるきゅるとシャッターが音を立てて開いた。車椅子からのぞく腕の部分だけを残し、シャッターがぴたりと止まる。
「……てめえが高遠か。こんなところで会えるなんてな。昔の噂は聞いてたよ。おい、これだけのことして、後始末どうするつもりなんだ? え? てめえらがしたこと、どうなるかわかってんのかっ」
平野の怒声が飛んだ。
「ほお、そ、その姿は……」
シャッターの隙間から、高遠の感嘆する声が洩れた。
「そ、それが人間サッカーか。は、はじめて見るよ。む、むかし、ある少年が、留学先のイギリスで同じいじめにあった」
「何を」混乱した平野が舌を絡ませる。
高遠は平野の反応などいっこうに構わない様子で、淡々と昔話を語り聞かせるように、言葉を重ねていった。
「……その少年はな、小学生の時に事情があって海外へと転校したんだ。その少年は故郷の地での不遇な境遇が、まさか海外の地でも待っていたなんて夢にも思わなかった。当時のイギリスではアジア人、とくに日本人には強い偏見をもっていて、日本では考えられない差別、陰口、いじめを受けたんだ。もっともその少年自身、いじめられる体質があったのかもしれない。その少年は『遠い地にいる友人』の写真を持ち歩いて、暇があれば眺めていた。孤独に耐えられなかったその少年は、自分の孤独を認めないことで、なんとか精神のバランスをとっていたんだよ。
「そ、そんなことがくり返されていくうちに、親の希望でその少年の転校が決まった。――転校する前に君と仲直りがしたい。いじめのグループリーダーがそう申し出てきた。転校する喜びで気が緩んでいたのか、少年はまともに信じてしまった。イングランドと言えばサッカーだろう? 彼らはサッカーボールに寄せ書きをして、少年に贈りたいと申し出たんだよ。
「少年は宿舎の部屋につれていかれた。そこにはご丁寧に、手錠が用意されていたんだ。その少年は察しがついたよ。その手錠が本来のもつ意味通りに使用されないことを。やつらは狡猾《こうかつ》で残忍だったからな。案の定、右手と左足首に手錠をはめて、その少年でサッカーをはじめたんだ。笑っちまうよな。少年自身がサッカーボールにされるなんて、夢にも思わなかった。戸惑いながらも異国の地ではじめて心を躍らせた少年を待っていた仕打ちとしては、上出来だったよ。『遠い地にいる友人』を残して、孤独から解放される希望を少しでも持った少年がいけなかったんだ。
「し、しかし彼らは嘘をついていなかったよ。さんざん少年で遊び尽くしたあと、約束通りサッカーボールに寄せ書きをはじめたんだ[#「約束通りサッカーボールに寄せ書きをはじめたんだ」に傍点]。二度と消えない文字で彼らのサインが書かれていった。やがてグループのひとりが、その少年の持っていた鞄をあさりはじめた。日本の雑誌、日本の調味料、そして一枚の写真を見つけてしまった。『遠い地にいる友人』の写真だった。その少年は写真に映っている友人の名前を聞かれた。こいつの名前も記念に書いてやると言われたんだ。少年は『遠い地にいる友人』への想いを汚されることだけは耐えられなかった。だから必死に口をつぐんだ。……莫迦だよな。そんな意地なんて張らなければ、それから味わう辛い思いをしなくて済んだんだ。
「やがてシンナーとアルコールの匂いで、その少年は意識を取り戻した。自分がまだ生きているという絶望の中であたりを見まわすと、グループの少年達が酩酊《めいてい》状態で眠っていたんだ。ポラロイド写真が数枚落ちていて、その少年の目にふれた。自分の背中の写真だった。部屋にいた少年達全員の名前と、『遠い地にいる友人』の全身像が、下手くそな文字と絵で描かれていたんだよ。その少年が変貌を遂げたのは、そのときからだったな――」
高遠の長いひとり言を、平野は狼狽しながら聞いていた。それが自分に向けられたものだと気づくまで、時間がかかった様子だった。
「……何言ってやがんだこいつ」
「ただのやくざ者のお前には、こんな話わからないだろう? 痛みが、伝わってこないだろう?」
平野が反応に窮した。
水樹もまた茫然と、シャッターの隙間に目を注ぐ。
「さて、と」高遠は何事もなかったように声の調子を取り戻した。「お、お前は、とんだガセをつかませてくれた。だからこうしてここにいる」
平野ははっと我に返った。「ガセじゃねえっ」
「まあよく聞け。もともと安には、な、何も期待していなかったんだよ」
「……なんだと?」
「人の記憶はビデオと違う。き、記憶など、時間と共に再構成されて、都合のいいように変容してしまうものなんだよ。拷問など加わればなおさらだ。うちの秋庭はそれがわかっていないからダメなんだ。だからどうしてもお前に確認したくてね、こうして話し合いの場を持ったわけだ」
「話し合いだと?――これがか?」
「なるほど。ぼ、ぼくはお前の同意など求めないから、話し合いにはならないんだよな。それじゃあ勝手にはじめさせてもらうよ」
平野は苦痛に顔を歪め、先をうながした。高遠はじらすように間を延ばす。
「早く言えよっ」
「一度しか言わない」高遠の声が豹変《ひようへん》した。「紺野とぼくに電子メールを送りつけている脅迫者がいる。そいつはガネーシャと名乗っていてね、ここ一連の組員の死を示唆しているから、正体を追っているんだ。脅迫文の内容自体はたいしたものじゃないが、組員が死んで殺気立つ暴力団相手にあえて身元をさらすような真似をしている[#「あえて身元をさらすような真似をしている」に傍点]。このぼくに調べてくれと言っているようなものだ。案の定調べてみたら、一通目が『イクルミ マサノブ』、二通目が『ハリマ タダヒコ』、三通目が『トキトウ マサル』という名義にたどりついた」
高遠はそこで言葉を切り、平野の反応をうかがうように沈黙した。
「……三人とも、てめえが殺したホームレスの名前だろうが」
平野がつぶやく。
殺したホームレス? 水樹は驚きの声を呑み、平野とシャッターの隙間からのぞく車椅子を、交互に見た。
「し、知らなければいいその情報を、どこで仕入れたんだい?」
高遠の声が一段低くなる。
平野は一瞬口ごもり、答えた。「大谷というフリーランスのルポライターだ」
「オーケイ。ようやく合点がいったよ。お前の事務所に出入りしていたルポライターのことだな? そうか。大谷という名前か。さっそく身元を調べてみることにするよ。……ところで大谷は何を調査していたんだい? そのへんを聞きたいな」
「名義売買の市場に流れている、死人の名義だ」
「ほお」
「死亡届を出していない人間の戸籍や住民票は、価値が高いんだよ。たんなる売買や貸し出しと違って、この世に同じ人間がふたりと存在しねえ。みんな欲しがる。売るほうも欲をかく。そこから偽造カードを作れるだけ作って市場に流す。大谷はそれを執拗《しつよう》に調べていた。ハリマやトキトウのことは、大谷に酒を無理やり飲ませて聞いたんだよ。昔てめえが殺したホームレスなんだってな。まだまだいるはずだ」
高遠は黙っていた。
平野はあざ笑うように続けた。「……因果なものだな。殺したやつらの肉体は滅んだが、存在を証明する紙切れがひとり歩きしている。それが脅迫文の送り主に利用されて、てめえらを苦しめているのならお笑いだ」
高遠の反応はない。
水樹はその沈黙に危険な兆候を覚えた。平野はそれに気づいていない。
「他には?」高遠がぼそっとつぶやく。
「知らねえよ」
「ぼくの昔の噂、と言ったじゃないか」
「大谷から聞いたんだよ。若い頃からK金属興産で穴屋をやっていたんだってな。さんざん荒稼ぎして筆頭株主にもなったほどの人間が、なぜか暴力団に鞍替《くらが》えした」
水樹は思わず聞き耳を立てた。穴屋? どういう意味だ?
「それで」高遠は動じていない。
「おれが聞いたのはそこまでだ」
「ふ、ふざけるなよ。仮にも極東浅間会の若頭が、ルポライターごときの戯言《ざれごと》にふりまわされていたというのか?」
「仕方ねえだろ。大谷には手を出すな、という圧力があったんだ」
「圧力?」
「そうだ」
「お前のところの腰抜け組長か? いや違うな――」高遠は自問するように口ごもり、ふんと鼻を鳴らした。「さしずめ圧力をかけたのは、沖連合の島津というところか」
水樹は平野の顔に、何かの色が浮かぶのを見た。
高遠は続けた。
「そ、そこにいる安は口を割らなかったが、界隈に不法入国者達を呼び集めているのも、おそらく島津の仕業だろうな。お前らはそれを知っていて見て見ぬフリをしていた。島津はお前らの組に、借りを作っていたはずだからな」
島津は五年前に起きた藍原組と極東浅間会の抗争時に、強引な手打ちを突きつけた沖連合の幹部だった。その沖連合は藍原組の上層組織にあたる。
「……だとしたら醜い内部抗争じゃねえか。勝手に殺し合えよ」
平野が吐き捨てた。
「ま、まずは、藍原組の組員を四人殺したガネーシャと名乗る人物を拘束してからだ。ガネーシャについて心当たりはないんだな?」
「知らねえよ。ガネーシャなんて名前、聞いたこともねえ」
「水樹、リ、リストを出せ」
高遠がシャッターの隙間から指示した。
水樹は背広のポケットから折りたたんだ用紙を取り出した。極東浅間会の構成員の住所から電話番号まで記録したリストだった。広げて平野に見せる。
「なんだよ、それ?」
「お、お前が知らなければ、これから他のやつらに聞いていく。ガネーシャと接触している者がひとりくらいいてもいいはずだ。だから今見せているリストで足りないところがあれば、埋めて欲しいんだよ。組員の女や家族、関係者や末端構成員になりきれないチンピラまで、覚えている限りすべてだ」
「できるわけねえだろ」
「人間、死ぬ気になればなんでもできる。おい水樹。この男は手が不自由だから、ペンを取ってやれ」
「おれに組を売れっていうのか? ましてや女子供も」
「女子供? あんなずるがしこい生き物に慈悲を与えなければならないのか?」
平野の唇がわななく。
水樹は人間の顔が血の気を失う様を目のあたりにした。
高遠は英語で何か喋った。ふたり組のアジア系外国人達が近づき、これから鶏でもしめるような手つきで平野の髪を鷲づかみにした。引き抜いたコンバットナイフの刃を首筋とわき腹にあてる。
「……い、一分だけ待つよ。どこかの刑事ドラマみたいに、一分が延長されることはないからな」
平野は三十秒ももたなかった。
目尻から涙がこぼれ、荒い息は鼻水をすするような息に変わった。
水樹は感情を殺してリストに書き加えた。
「戦争をはじめるつもりか?」
喋り終えた平野は、うなだれたまま蚊の鳴くような声でつぶやいた。
「戦争? 莫迦言うなよ。これからはじまるのはただの弱いものいじめだ」
しかし平野に抗う力は残されていなかった。「……なあ、早くこの手錠を外してくれよ。痛いんだよ。……もういいだろう? 助けてくれよ……頼むよ……」
「駄目だ」
平野はコップの冷水を浴びせられたように顔を上げた。
「何のために紺野がお前らをぼくに引き渡したと思っているんだ? お前もそこにいる安も、藍原組をコケにした。いいかよく聞け。これはガキの戯言じゃない。紺野とぼくがよすがにしたこの世界は――一度コケにされて放っておいたら、もう生きていけない世界なんだよ」
平野は唖然とした表情で固まっていた。
「こ、これはけじめだ。後始末はしっかりつけるから、安心して死んでいいぞ。なにより紺野にはぼくがついているからな」
「てめえみたいな障害者がか?」
憎しみをこめて平野が吐き捨てた。
しばらく間が空いた。
「同情してくれるのかい? 人間どんなに努力しても注意しても、ある者は恵まれるし、ある者は不幸になる。五体満足で平凡な生活を送れる者もいれば、事故にあって障害を負う者もいるし、その場にいたというだけで命を失う者もいる。そんな世の中の理不尽がいったい何だというんだ? 水樹、こいつらふたりを中に入れろ」
水樹はその場から動けなかった。痛みのこもった眼差《まなざ》しで平野と安を交互に見る。
「お、おい、水樹。聞こえないのか?」
「……もう勘弁してあげたらどうですか?」
ふたりの姿に耐えきれず、思わず口にした。
その瞬間、シャッターが割れるような音がした。水樹はふり向いた。高遠が激しく叩いたのだ。シャッターがきゅるきゅると上がっていき、車椅子ごと正面を向いた高遠が現れた。軽トラックのヘッドライトが、あの引きつった右半分の顔を照らしている。
水樹を睨《にら》みつける高遠の目に、暗い光が宿っていた。紺野がときおり見せる目と同じだった。
高遠が英語で素早く指示した。アジア系外国人達が動き、平野と安を引きずっていく。その荒っぽい動作に平野は悲鳴をあげた。
それから水樹は何度嘆いても、自分が無力であることを思い知ることになった。
倉庫の中で安はガムテープを剥がされ、平野は手錠を外された。
電動シャッターが閉じて周囲は暗闇に包まれた。ふたりにはリュックサックが渡され、耳に奇妙なものを付けさせられている。
無線のイヤホンだった。
高遠は二階の事務室のマイクで、それぞれのイヤホンに向かってこう言った。
「――安、聞こえるか? 平野を殺せば、紺野には内緒で金を持たせて国に帰してやる。お前が留学生で、女房子供を残してこの国にきたことは知っている。最近その子供が病気になったんだってな。病院で手術させたいんだろう? だが、大学にだまされて身ぐるみはがされた今のお前には、どうにもできないはずだ。……安心しろよ。その願いを叶《かな》えてあげられるのは、ぼくだけだ」
「――平野、命が欲しければ、これでケリをつけるんだ。安を殺せ。逃げようと思うなよ。今お前達にうった注射は、中南米に生息する毒|蜘蛛《ぐも》の毒だ。一時間以内に激しい痙攣《けいれん》を起こして身体に致命的な障害を残す。死ぬより辛いぞ。……言っておくが毒蜘蛛の血清を日本で探すのは難しくてね、助かるにはぼくが持っている血清に頼るしかない」
水樹はあたりを見まわした。事務室にはモニタがいくつも並んでいる。モニタに映る映像を眺めるうち、あることに気づいた。ふたりの姿が様々なアングルで捉えられていた。何も見えない状況の中、ふたりはきょろきょろと首をまわしている。
倉庫内の映像――赤外線カメラによるものだった。
高遠はマイクに向かってゆっくりと喋りはじめた。
「ふ、ふたりともよく聞くんだ。リュックサックの口にダイヤル式の鍵がついているだろう? 自転車についている、あれだよ、あれ。イメージできたかい?……右に一回、左に二回、もう一度右に五回まわせば開く」
高遠はそれがいかに大切なことのように、何度も繰り返した。
「リュックサックの中にオートマチック式の拳銃が入っている。た、弾は、十四発だ。換えのマガジンもひとつ入っている」
水樹の背中に冷たいものが走った。
「高遠さん、まさか本当に殺すつもりなんですか?」
高遠は食いかかろうとする水樹に向かって、小型マイクを放り投げた。
「――だったら、君がなんとかするんだな。ふたりを死なせたくないんだろう?」
高遠は自分の小型マイクを水樹に見せると、なぜか英語[#「英語」に傍点]で喋りはじめた。
「Ann! Listen carefully, ok? You just pick the gun up. Point the damn gun at your righthand side 45 degress, ok?(安、聞えるか? 拳銃を取ったら、右斜め四十五度の位置に拳銃をかまえろ)[#「(安、聞えるか? 拳銃を取ったら、右斜め四十五度の位置に拳銃をかまえろ)」はゴシック体]」
水樹には何を喋っているのかわからなかった。しかしモニタに映る安が、高遠の声に反応してリュックサックを漁《あさ》り、銃を構えたことから察しがついた。そして理解した。これからはじまる最悪のゲームの内容を。
「平野さんっ、そこから早く逃げてくださいっ」
水樹はマイクに向かって声の限り叫んだ。予想通り平野が反応し、通信が一方通行であることがわかった。平野はダイヤルをまわす手をとめ、ひょこひょこと足を引きずりながら逃げた。暗闇の中で壁にぶつかり、あわてて向きを変える。よじれたようにぶらさがる左腕が痛々しかった。
「おやおや。何やってるんだか。あ、安に近づいていくよ」
高遠は続けて英語で指示した。
「Ann, left, he's approaching you. 20 meters away, he comes to you. Get your gun ready. NO! A bit more to the right. Yeah, hold on...don't move. Watch his steps well and listen to him with god damn care. Now, shoot him. Use two shots for each, or you'll miss him.(安。左方向、二十メートル先から、敵は近づいてくる。銃をかまえろ。ちがう。銃口はもう少し右。そうだ。そのまま固定しろ。足音を、よく聞くんだ。一発じゃあたらない。二発ずつ撃つんだ)[#「(安。左方向、二十メートル先から、敵は近づいてくる。銃をかまえろ。ちがう。銃口はもう少し右。そうだ。そのまま固定しろ。足音を、よく聞くんだ。一発じゃあたらない。二発ずつ撃つんだ)」はゴシック体]」
モニタの中で安が銃を構え直した。
水樹は息を呑んだ。安の背中と肩が激しくふるえていた。泣いているのだ。安は人殺しなどできない人間だと悟った。――撃つな、撃つな、撃つな。頼むから撃たないでくれ……。水樹は心の中で祈った。
奇声に近い悲鳴とともに、パアンと弾ける音がした。一発の銃声で理性が吹き飛んだかのように、続けて銃声が鳴る。
床を転げまわる平野。
高遠の鼻息が興奮で荒くなった。
「Ann, he is leaving. Here you go, Behind you, right at 60 degrees. Now you pay attention. he hides himself 15 meters away. You' ve got to approach him, and do not let him get ready for you. Not a single chance for you, unlsess you come close to him, ok?(安、敵は離れていくぞ。――そうだ。右斜め六十度の方向に、耳を澄ませるんだ。およそ十五メートル先に、敵は潜んでいる。体勢をたて直される前に、お前から近づくんだ。接近戦でなければ、弾はあたらない)[#「(安、敵は離れていくぞ。――そうだ。右斜め六十度の方向に、耳を澄ませるんだ。およそ十五メートル先に、敵は潜んでいる。体勢をたて直される前に、お前から近づくんだ。接近戦でなければ、弾はあたらない)」はゴシック体]」
モニタに映る安は高遠の指示に従順だった。足をふらつかせながら、平野が潜む暗闇に歩を進めている。
高遠は水樹を向き、冷ややかな声で言った。
「おい。あのままじゃ、平野が死ぬぞ」
水樹は身体の芯《しん》からふるえた。抑えようとしても止まらなかった。声が――声が出ない。
高遠は舌打ちすると、機材のスイッチのひとつを選んで指で倒した。チャンネルが切り替わり、マイクノイズが倉庫中に響き渡った。今度は英語でなく日本語で喋った。
「――平野、聞こえるか? お前の手下、名前なんだっけ……ああ思い出した、檜山という男か。あいつもこのゲームに参加してくれたぞ。足を撃たれ、胸を撃たれ、最後に頭を半分なくすまで、楽しませてくれたな」
平野の叫び声が倉庫中に響き渡った。リュックサックを逆さにふり、ようやく銃をつかみ上げると、左右にかまえた。
「Now you got him, Ann. he has no idea where to find you. Still, keep your gun that direction. Head douwn. 5 more meters to creep. Hold until I say shoot When I say it, shoot your bullets, as many as possible...(よし、安、敵はあさっての方向を向いている。……銃口はそのまま。頭を伏せろ。あと五メートルほふく前進したら、ぼくの指示通りに、ありったけの弾をぶちこめ)[#「(よし、安、敵はあさっての方向を向いている。……銃口はそのまま。頭を伏せろ。あと五メートルほふく前進したら、ぼくの指示通りに、ありったけの弾をぶちこめ)」はゴシック体]」
平野がやみくもに撃った。安が床に伏せる。平野が続けて撃つ。銃声は壁や床や天上に反響し、耳を聾《ろう》するほどの轟音に変わっていった。
「そこから逃げてくださいっ」かすれた声で水樹は訴えた。「逃げて――」
平野は壊れた機械仕掛けの人形のように撃ち続けた。もはや水樹の声は届かない。
高遠は指を折り、懸命に弾の数を数えている。
「Ann, get more closer. Try reach the box with your right hand. Yeah, use the box as your shield.(――安、もっと近づけ。右手を伸ばすんだ。そこにあるボックスに指が届いたか? そうだ。それを盾にしろ)[#「(――安、もっと近づけ。右手を伸ばすんだ。そこにあるボックスに指が届いたか? そうだ。それを盾にしろ)」はゴシック体]」
暗闇の中で安は従った。恐怖で足がもつれている。
「Point a bit more left. Merely a bit more...now shoot!(かまえろ。もう少し左。……もう少し。よし。撃て)[#「(かまえろ。もう少し左。……もう少し。よし。撃て)」はゴシック体]」
悲鳴。安は撃った。一発、二発、三発、四発――
平野は半回転して尻もちをついた。銃が足元に落ち、放心するようにわき腹を見つめている。何かをこぼすまいとわき腹を強く押さえた。それでも首をまわして銃を探している。
安の影が平野に接近した。
銃を拾い上げた平野が安に向けて発砲した。安の左手から何かが吹き飛んだ。指だった。悲鳴は耳をつんざくほどの絶叫に変わり、ふたりの憎しみの声が長く尾をひいた。
水樹の視界の中で闇がぼやけた。銃声はまだ鳴り止まない。この世の地獄だった。
「できない」ことを「無理やりさせる」。人間は守るものがあればあるほど「できない」ことも増えていく。そして「できない」ことのハードルは、守るものと比例して高くなる。高遠はそれを見抜いている。それを蹂躙《じゆうりん》する方法も知っている。この最悪のゲームの犠牲者ははたしてあのふたりだけだったのだろうか?……違う。おそらく自分も含まれているのだと水樹は悟った。高遠はそれを心底楽しんでいる。その証拠に、さっきから自分の様子をちらちらとうかがっている。
水樹は人間の断末魔を耳にし、自分が殺人に加担したことを知った。身ぶるいするほどの静けさが訪れたあと、モニタの中で白い煙が靄《もや》のように漂った。硝煙だった。ふたりは折り重なるように倒れている。
「人を殺したのははじめてか?」
高遠がぽつりと言った。
「自分は……殺していません」
「見殺しにしただろ? 変わらないじゃないか」
しらけたような高遠の声。水樹の顔が苦痛に歪んだ。
奇妙な音で我に返った。何かが巻き戻る音。
モニタの下に積んであった機材から、それは飛び出してきた。
ビデオテープだった。よく見ると棚の上に何本も並べられている。
「……何しているんですか」
「み、見てわからないのか?」
「……わかりません……」
「殺人《スナツフ》フィルムとして、アメリカに売るんだよ。ガネーシャにはもっとむごいショーを演出してやるからな」
高遠はテプラで「ラベル」を作製していた。
[#改ページ]
下側の世界 7
子供も大人もこれが終わりだ、
死を癒《いや》す薬草はそこには生えない、
いかに執着し、こだわろうとも、ここが別れだ。
だが幸いにも、
他のすべてに優る美徳、
それこそがわれらを死しても導いていく。
[#地付き]ヤン・ライケン著
[#地付き]西洋職人図集「墓掘り」
恐怖が全身に毒のようにまわったカエル。
それがいまのわたしだった。
作業服に身を包んだ老人が、このさきの通路を守る番人のように立ちはだかっていた。包丁をにぎる手が、鎌首をあげる蛇のようにあがっている。
わたしは包丁から目を離さずに、いまここで一番してはいけないことを考えた。それは平静さをなくすことだった。悲鳴をあげればこの老人に狂気となって伝染する。息を呑み、必死に頭をめぐらせた。
いちにちのはんぶんいじょうは ここからさきにいる
みつけしだい ぶちころす
よれた字で書かれたあの警告文。それをわたしは無視した。言葉の遣い方は別として、浮浪者の世界に決まりごとが多いことは知っていた。新入りが嫌われる理由も結局はそこにいきつく。
しかしいきなり包丁で威嚇するなんてふつうじゃない。こんなとこ、マトモな人間がくるところじゃないんだよ――≪時計師≫のおじいさんの言葉がいまさらながら脳裏を横切った。
欠けた右耳。寸胴体型に禿《は》げあがった頭。横に離れた目。そして干しぶどうのようにひしゃげた顔。老人は苦しそうにあえぎ、濁った目でわたしを見つめている。老人は足もとにあった小さな物体を蹴とばした。見ると、それは乾ききった鳥の死骸だった。まわれ右して逃げだしたくなる衝動に襲われた。
「し、知らなかったの」
ひかえめに、できるだけ落ち着いた声をだした。
「ここからさき、入っちゃ駄目ってこと」
老人はなにもこたえてくれない。
「……今度から気をつけます」
しぼむ声。包丁のさきが心なしか寄ってきた。
蝋燭の炎を吹き消したほうがいいか、一瞬の判断を迫られた。しかしこの老人が追いかけてきた場合、いまのわたしに暗闇のなかで逃げ通せる自信はない。どうすればいい?
老人の靴の裏がじりっと鳴り、わたしは後ずさった。
老人がなにかしゃべった。口のなかで飴《あめ》を転がすように不明瞭《ふめいりよう》で、わたしの耳にとどくころには意味をなさない音の羅列になっていた。
「…………ま………………迷った……道に?……」
最後の部分だけ、かろうじてききとれた。
「そうなの」老人のなかでつきかけた火種を消さないよう、とっさに言葉を選んだ。「≪王子≫や≪時計師≫から、きいてないの?」
あのふたりがこの暗渠で、どのくらいの地位を持っているかにかかっていた。
じっと待つ。
老人がにやりと笑った。前歯が見えた。ぜんぶ腐って紫色をしていた。
しばらく間をおいて、またぶつぶつとしゃべりはじめる。
「…………ガネーシャ?……」
わたしはじぶんを指さし、必死にうなずいた。
老人はふたたびしゃべろうとして口ごもり、うつむいて、顔をあげた。
そこではじめて老人の会話が、ワンテンポ遅れていることに気がついた。まるで時とともになにかを失いつづけているように、長い空白がそこに生まれている。
「…………ショウコ……」
老人の口が動いた。だれのこと?
「…………魔女じゃない証拠…………あ……ある……はず……」
動揺の波がよせてきた。
「…………そ…………そうだ……あぅ……影…………影……影を……見れば……」
わたしの頭のなかで、これ以上ここにいてはいけない、と警報ベルが鳴った。足がもつれて絡まった。鳥籠を抱きしめたまま尻もちをつき、籠のなかでヒナが暴れた。蝋燭の火を見た。消えていない。ほっとする。石畳がほのかに照らされ、目を疑った。一面が不気味な赤銅色に染まっている。どうやったらこんな色がつくのだろう? 老人が立ちふさがる通路の奥までつづいている。
心臓の鼓動が早鐘をうち、恐怖がわたしに耳打ちした。
ここから早く逃げたほうがいい、と。
すると予想外の展開が起きた。とつぜん老人のひざが折れ、まえのめりになって倒れこんできた。四つんばいになり、いままで立っていたことが重労働であるかのように、ぜえぜえ息を吐いている。
「…………あっ…………あうぁ……」
全身の苦しさにもだえるように呻いている。なにかの病魔に蝕《むしば》まれているようすだった。
心配になって手をのばしたとき、ひゅん、となにかが目のまえを横切った。全身の肌がさっと粟立った。それが包丁のさきだとわかった瞬間、わたしはからだをひねって逃げだした。
右足がなにかを踏み抜き、バランス感覚を失った。転んでひじをすりむいた。うすいベニヤ板を踏んだ感触――きたときは気づかなかった――石畳の一部がくり抜かれて板張りになっていた。わたしはそれを踏んだ。右足の違和感……蝋燭の火を向ける。錆びた釘が靴のさきから顔をだしていた。穴に釘がしかけてあったのだ。釘のさきになにかがついている。糞便。トラップ。破傷風――血の気が失せた。一瞬の空白のあと、釘が足の指のあいだをすり抜けていることを知り、正気をなんとかとりもどした。
老人が足にしがみついてきた。わたしは必死にふりはらい、老人の顔を左のかかとで蹴りとばした。靴から釘を抜き、散らばった荷物と鳥籠を抱えると、きたときとおなじように壁によった。息をついた瞬間、ズボンの裾をつかまれた。悲鳴を呑み、必死に足を上下させると、老人は反動でひっくりかえった。それでもはいつくばって迫ってくる。
いまにもひざがくずれそうな恐怖と目まいに襲われた。あっと気づいたときには、蝋燭を落としていた。蝋燭の炎は石畳に吸いとられていくようにみるみる小さくなり、光はどこへともなく消え失せてしまった。周囲は漆黒の闇に包まれ、獣のうなり声と、恐怖だけが残された。
鳥籠と紙袋を抱え、あわてて踵をかえした。背後でキンという音がして、背中一面に怖気《おぞけ》が走った。老人が包丁を四方八方にふりまわしているのだ。
逃げようとして壁に思いきり額をぶつけた。よろけた。水溜まりの飛沫《しぶき》がわたしの目もとまで跳ね、大粒の涙をこぼすように泥が頬を伝わり落ちた。
おぼつかない足どりで、きた道を必死にもどった。わたしを追う老人の荒い息――うしろから心臓をにぎりつぶされる恐怖に襲われたとき、通路のさきに小さな明かりを見つけた。だれかくる。助かった。蝋燭を立てたシェラカップ。赤いアポロキャップ。あれは……
≪画家≫だった。
彼はわたしと目があうなり、そそくさと逃げてしまった。そのうしろ姿が闇に溶けるように消えたとき、わたしの頭のなかがショックでまっ白になった。
あの明かりのせいで、わたしの居場所が老人に気づかれてしまった。
案の定、うしろからシャツをつかまれた。わたしは必死にもがき、呻き声をあげる老人を突き離すと、≪画家≫が消えた方向を目指した。
はっと息を呑んだ。
暗闇の向こうで、ふたたび光があらわれたからだった。涙で光がにじんだ。幻かと思った。なん度も瞬きをくりかえすと、その光はじょじょに大きくなった。≪画家≫が逃げた方向からやってくる。
べつのだれかがやってきたのだ。今度はランタンの明かりだった。
うしろから迫ってくる老人は、呪詛のような言葉をまき散らしていた。不明瞭で、わけのわからない音の羅列だったが、ふと耳を立てた言葉があった。
「……ナオユキ…………わしらも……し、幸せに…………なれる……日が……」
ナオユキ?
まるで足首をつかまれたように、わたしは立ちどまった。
ぼうぜんとうしろを向く。逃げなければならないとわかっていても、このからだがナオユキという言葉に反応した。
包丁をふりかざす老人の姿があらわになり、立ちすくんだ。
うしろから肩をぐいとつかまれた。
わたしの肩をつかんだのは、ランタンの明かりの主だった。中年の女性が、ひさしのついた黒い帽子をかぶり、ランタンをかかげて立っている。レインコートと見まちがうようなうす緑の服を着ていた。首になん重にもまいたきらびやかなネックレス、片耳につけた奇妙な形の装飾品。背は高く、髪は頬に張りつき、ガラス玉のような目がわたしに向いた。
「ここはまかせな」
女性のひび割れた唇がかすかに動く。
わたしをかばってくれるというのか? 彼女は気後れするわたしを押しのけると、老人に近づいていった。
老人の荒ぶる呼吸が、消火器で鎮火されたようにぴたりとやんだ。
「…………魔女…………三本指の魔女……」
くるなっ、くるなっ、と恐れおののく声に変わると、包丁を落とし、老人はもとの場所にもどるように逃げていった。
安堵にひざがふるえ、わたしは放心した目を彼女に向けた。
彼女はうすく笑った。
「あんたがガネーシャだね? ≪王子≫からきいている」
彼女がまともな人間に思え、からだが熱くなってきた。
「そこに落ちた包丁だけど、まさかあの≪墓掘り≫が持っていたんじゃないだろうね?」
なにかいおうとしたが、声が喉に絡まってでてこなかった。
「あらあら。そのようすじゃ、だいぶ怖い思いをしてきたようだね。……いいかい? これだけはおぼえておきな。ほんとうに怖いのは、こうなることを知っていて≪墓掘り≫にそれを渡したやつだよ」
そういうと、彼女はからだをひるがえした。どこかでわたしの悲鳴をききつけ、助けにきてくれたとしか思えなかった。この暗渠は変人ばかりじゃない。腰までのびた髪、いとすぎのような細いうしろ姿――忘れまいと目に焼きつけた。
ようやくからだを動かせるようになり、紙袋をあさった。マッチをとりだして擦る。なん度も折り、五本目でようやく蝋燭に火がついた。石組みの壁をなぞるように照らしていくと、≪画家≫が描いた、半ばかすれた矢印の絵があった。
ふと、ひじが赤銅色に染まっていることに気づいた。老人と会ったあの場所で付いたものだった。
どう見ても自然物の色ではなかった。
この暗渠はいったい……
「あ――あ、まるでサイレンじゃないかあぁ……」「あんな悲鳴をだせばさぁ……」「だれでも気づく」「小さな虫が光を求めてやってくるように」「みんな」「集まってくる」「集まる」「あっ」「おれもそうか」「そんなことより」「落ちないぞ」「この汚れ」「あと」「もうすこし」
シャコシャコ
……シャコシャコ……シャコ……シャコ……
シャコシャコシャコシャコシャコシャコシャコシャコ……
いつのまに≪ブラシ職人≫がやってきて、わたしの目のまえで石畳をみがいている。
わたしは石組みの壁によりかかり、ボロボロの人形のように足を放りだしていた。泥のような疲労に頭のさきまで浸っている気分だった。
あの老人の言葉を思いだしていた。たしかにナオユキといっていた。なぜあのとき、わたしは逃げずに立ちどまったのだろう?
束子の音がぴたりと止み、≪ブラシ職人≫がふり向いた。じっとわたしのズボンを見つめている。足がじゃまなのだろうかと思い、引っこめようとすると、ズボンがあの赤銅色に染まっていることに気づいた。
「その色……」「墓場にいった?」「あんなところ」「だれもいかない」「さがしてもいけない」「迷ってもいけない」「気がしれない」
それだけいって満足したように、≪ブラシ職人≫は作業に没頭した。
わたしは背を丸め、紙袋からあの老人が落とした包丁をとりだした。さきが折れている。それでもあの老人は、わたしを切りつけるつもりで襲いかかってきた。
ほんとうに怖いのは、こうなることを知っていて≪墓掘り≫にそれを渡したやつだよ――あのひさしのついた黒い帽子をかぶった女性の言葉がよみがえった。悪意。この暗渠にはほど遠いものだと思っていたが、現実はちがった。わたしをこころよく思っていない住人がいるのだ。じぶんでもわからないが、なんだか悲しくなってきた。
包丁はどこかに捨てようと思い、紙袋にもどして天井を見あげた。いまごろ≪時計師≫のおじいさんは、いなくなったわたしをさがしているのかもしれない。
黒々とした岩盤を見つめるうち、しだいに力が抜けてきた。
すこしのあいだ記憶が飛んだ。
まぶたを開いたとき、まだ≪ブラシ職人≫が目のまえにいた。
「とれないな」「おかしいな」「もうちょっとなのにな」
シャコシャコ……シャコシャコシャコ……
まだ石畳をみがいている。放っておこうとしたが、カリカリという耳障りな音が混ざったので注視した。彼の手のさきがきらりと光る。柄の長いバターナイフのような金具を持っていた。≪画家≫が落としたペインティングナイフ――あれのことだろうか?
「それじゃとれないと思う」
恐る恐るいってみた。仕事の邪魔をされた≪ブラシ職人≫が、
「なにをいうかと思えば」「そんなことない」「いまこうして」「がんばって」
抗議を代弁するかのように、カリカリという音がひどくなった。わたしは紙袋から石けんをとりだすと、彼に見せた。
「交換よ。これを使ったほうがいいわ」
≪ブラシ職人≫は金具と石けんを見くらべた。わたしは石けんをさらに彼に近づける。
しばらく熟考したようすで≪ブラシ職人≫は金具を渡してくれた。やはり≪画家≫が落としたペインティングナイフのようだった。ためしに石けんに切れ目を入れてみる。あんなものでも人は刺せる――≪画家≫がいっていたことはほんとうだった。
≪ブラシ職人≫はちょうど半分に切れ目の入った石けんをじっと見つめ、はぁ、というため息をひとつ洩らした。
「くれるのは」「半分だけか」「やっぱり」「そんなことだろうと思った」「おれはむかしからそうだった」「うまくやれない」「いまだって」「もしかして」「これからだって」
ああぁ、と≪ブラシ職人≫が頭を抱えた。恐慌状態におちいりそうな危うさを感じたわたしは、あわてて声をあげた。
「ぜんぶあげるっ」
「ぜんぶ?」「いやまさか」「ぜんぶ……」「ほしい」「きっとうそ」「だまされない」
わたしは石けんを≪ブラシ職人≫に無理やりにぎらせた。彼は素早くバケツに放りこみ、満足げに顔の筋肉をゆるめてみせた。
≪ブラシ職人≫がなにかを落とした。重い金属音が響き、思わず目をやると、蓋つきの懐中時計が石畳に落ちていた。見おぼえのある時計だった。
わたしが手を伸ばすと、≪ブラシ職人≫があわてて制した。
「それ、どこで拾ったの?」
「どこって」「ガネーシャ……」「関係ない」
「それは≪時計師≫のものよ」
≪ブラシ職人≫はからだを強張らせた。わたしはやさしい声で、
「……ね? きっと落として困っていると思うの。もしかしたら、わたしをさがしているあいだに落としたのかもしれない」
≪ブラシ職人≫はうつむいたまま、懐中時計をとられないようぎゅっとにぎりしめている。
「あなただって、束子をとられたら仕事ができないでしょう?」
≪ブラシ職人≫がはっと顔をあげた。しかしまだ名残惜しそうだった。わたしは紙袋の底をさぐって、アルミ箔に包まれたクラッカーを差しだした。
「――これしかないけど」
≪ブラシ職人≫はなん度もためらったが、しぶしぶ交換してくれた。
わたしは懐中時計を手にとった。表面にきれいな模様の装飾がされている。蓋を開いたとき、わたしは目を疑った。そこには時計の針がなかった。丸い文字盤に、十二個のギリシア数字だけが並んでいる。
「そうだ」「思いだした」「おれがここにきた理由――」
とつぜん≪ブラシ職人≫が高い声をあげたので、わたしは懐中時計の蓋を閉じた。
「≪王子≫の使いで」「おれは」「ここにきた」「ガネーシャを呼んできてくれ」「そういわれた」
「≪王子≫が?」
「案内する」「おれが」「≪王子≫のところに」
そういって≪ブラシ職人≫は立ちあがり、ひざをはらった。
「待って」
わたしは≪時計師≫のおじいさんの懐中時計を紙袋にしまった。ペインティングナイフはズボンのポケットにねじこんだ。あの薄情者の≪画家≫には、すぐかえすつもりはなかった。それにいつか役に立つかもしれない。石組みの壁の感触をたしかめて立ちあがると、まえにいこうとする慣性を失い、ひざが折れた。
≪ブラシ職人≫が腕を伸ばし、わたしを支えてくれた。
「ガネーシャ」「ぜんぜん」「おれたちを」「救ってくれない」「はやく」「おれたちとおなじ名前にすれば」「もっと気軽に」「職業を」「仕事を」
わたしは≪ブラシ職人≫に「ごめんね」といい、からだをあずけた。わたしたちふたりがふらついているのか、石組みの通路が屈曲しているのか、蝋燭の炎がしきりにゆらめいた。
しばらく歩くと、背後でだれかの気配がした。
まただ。
大男はうしろから距離をおいて尾けてくる。なにをしたいのかわからず、ただ黙って見つめる視線――。首をまわしたが、その姿は闇に消えてしまった。≪ブラシ職人≫はまったく気にしていない。
しばくつきまとっていたその気配が消えるのとほぼ同時に、≪ブラシ職人≫は立ちどまった。
「この奥」「まっすぐ」「そこが≪王子≫の部屋」「おれはもう」「べつのところに」
わたしは≪ブラシ職人≫に礼をいって別れた。
しばらく石畳のうえで休んだあと、壁に手をついて奥を目指した。
蝋燭の明かりで石組みの壁をなぞっていった。Aの3という文字を見つけた。カーテン代わりに吊るされたボロ切れが、うっすら視野に入る。
ぼろ切れをひろげてなかをのぞいた。うす明かりを通して鳥籠や餌皿があった。古新聞やバケツ、非常食用の缶詰、段ボール箱や毛布があちこちに積まれている。
突きあたりの壁にはあの職人たちの絵――≪王子≫、≪時計師≫、≪ブラシ職人≫、≪画家≫、≪楽器職人≫、≪墓掘り≫、≪坑夫≫があった。
近づいたわたしは、吸いこまれるようにそれを眺めた。
思わず目を細めた。
ひとり増えている気がした。七人の職人たちの隣に、描きかけの絵がある。まえに見たときはなかった。まだはっきり判別できないが、新しい職人の絵に思えた。
八人目の仲間……まさか。
背筋がぞくっとした。
ここにいるはずの≪王子≫をさがした。さんざん首をまわしても見あたらない。なにかにつまずいてはじめて、毛布のひとつに≪王子≫が寝ていることに気がついた。
「ガネーシャかい?」
≪王子≫は毛布から顔を半分だして、いった。「……ありがとう。きてくれたんだね」
わたしはひざまずき、こみあげてくるものを喉の奥で殺した。
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上側の世界 8
秋庭はジャガーのイグニッションキーを抜いた。
助手席のウインドグラス越しに、すでに降りている紺野の姿を見た。昼下がりの日射しをさえぎり、高層ビル群を眺めている。
突然秋庭の耳のなかで音が断絶した。目まいのような感覚。光を失い、首の力が抜け、危うくハンドルに額をぶつけそうになって我に返った。
わずか数秒の出来事に、全身から冷や汗が出た。
ポケットというポケットをまさぐり、その手をぴたりと止めた。精神賦活剤を朝と昼に服用して睡魔を抑えてきたが、昨日から効かなくなっていることに気づいた。自分と同じように体調を崩し、気が荒立っている組員は何人もいる。
苦労して安をつかまえても徒労に終わった。いまだガネーシャの正体はわからない。
もう四人も犠牲者が出ている。組員達の士気も衰え、徐々に焦りの色が見えはじめていた。眠れるときになっても眠れない。そしてその反動が昼間にくる。極度の睡眠不足がもたらす半覚醒状態の恐ろしさを、秋庭は身をもって知った。耳元で、あるいは背中で、誰かがひっきりなしに喋っている。電話のベルが聞こえてくる。急に色彩がなくなり、頭上を見知らぬ女がすっと通り過ぎていく。そんな信じられない光景をはっきりと見る。
秋庭はジャガーのドアを開けた。炎天に炙《あぶ》られた横断歩道の白線が溶けたように歪んで見え、あわてて首をふった。
紺野のあとに続いて、沖連合の事務局前に立った。
ジャガーは堂々と違法駐車していた。紺野の指示で、長居はしないという意思表示だった。
自動ドアが左右に開く。
「ご苦労さまです」
威勢のいい声に迎えられ、頭を剃《そ》りあげた組員に応接室まで通された。
秋庭は紺野の運転手代わりとして同行する形を取っていた。紺野のそばにつきながら室内を見まわす。いつもの倍近くの組員がひしめいていた。緊張を露わにさせている者もいれば、露骨に挑発の目を向ける組員もいた。丸腰のふたりに対して異様な警戒ぶりだった。いまここでふたりが不審な行動をとれば、間違いなく懐に呑ませている道具《チヤカ》がいっせいに向く。そう思った。
応接室では、島津がソファに腰を沈めて待っていた。
「遠いところから悪いな」
物腰穏やかな口調だが、本心は別であることをうかがわせた。シルバーグレイのスーツに、オールバックになでつけた銀髪。肉を削げ落としたようにこけた頬。眼鏡の奥にある一見眠たげで瞬きが少ない目は、君臨することに慣れた大幹部の風格を漂わせている。
ふたりのボディーガードが島津についていた。そのうちのひとりが、紺野と秋庭が座るソファの真後ろについた。威嚇する様子はないが、何かあればためらいなく飛びかかってくることがありありと知れた。
ガラステーブルに来客用の灰皿は置かれていない。ふたりの冷遇ぶりを暗に示すものだった。
島津は秋庭に目もくれず、白い目で紺野だけを見た。
「極東浅間会の組員が、ここ数日で何人も行方不明になっているそうだ」
紺野は何も答えなかった。島津はそんな態度を見越したように、
「これが俺のところに送られてきた」
と、ビデオテープをテーブルの上に置いた。黄色いラベルが貼られている。紺野は虚をつかれた表情をしたが、やがて溶けたプラスチックのように口の端を歪めてみせた。
「やりすぎなんだよ、お前」
島津の重々しい声が応接室に響く。
「……島津さん、自分には何のことだかさっぱり」状況を理解できない秋庭は口を開いた。
「お前には話していない」
島津は言い、さらに続けた。
「気でも狂ったか? 五年前にまとめてやった手打ちを、こうしてひっくり返すとはな」
「――手打ち?」
その言葉に紺野が反応した。
「まだわかってねえのか。確かにこの世界は食うか食われるかの生存競争だ。だがな、完全に乗っ取りをはかる愚連隊ばかりあふれちゃ成り立たない世界でもあるんだよ。俺らは薄汚いマフィアじゃない。実力のある組織が一定の条件の下に縄張りを借り受ける。つまり縄張りの既存権を与えてやる必要がある。平和共存だが、それが強者の論理というものだ。お前んとこは当時、それがわからずに余計な血を流していた」
「そういえば、その血を止めてくれたのがオジキでしたね」
「お前は俺の顔に泥を塗ったんだよ。極東浅間会にも面子がある。お前を野放しにしてこれ以上揉め事を起こされたら、沖連合《うち》の信用に関わる。いや、もう揉め事の域を超えているんだよ、お前のやったことは」
「……こっちは組員を四人殺されているんですよ」紺野は動じずに答えた。「身内を殺されて知らん顔できる親が、どこにいるというんですか? こっちにとっては看板を下ろすかどうかの死活問題に関わるんです」
「殺された? ただの過労死だろあれは」島津は顔をしかめ、吐き捨てた。「お前んとこの下っ端連中が泣きついてきたぞ。だいたいお前んとこは、昔から酷使させすぎなんだ」
「やくざは無理してなんぼの商売ですよ」
「なんだと?」
ふたりの間に冷たい空気が広がった。
「それに殺人ですよ、あれは」
「根拠はあるのか?」
島津の声が一段低くなる。
「確率的に偶然がこれだけ続けば、もう偶然ではないんです。うちに喧嘩《けんか》を売っている莫迦がいましてね。いや、戦争を仕掛けているんです。国とゲリラとの戦いを想像してもらえればいい。目の前で殺さない、直接手を下さない、そんなゲス野郎がいるんですよ。ですが放っておけば、これからもっと犠牲者は出る」
島津が息を吸いこむ気配がした。そのまま感情を押しこめたのか、喉仏が動く。
「それが極東浅間会とどう関係あるんだ?」
「ゲリラを匿《かくま》っている、もしくは関わっている村は、焼き払われて当然なんですよ。とくに最近うちの|縄張り《シマ》が物騒になりましてね。あんなぎゅうぎゅう詰めの歓楽街に、わけのわからない不法入国者達を押しこもうとしている輩《やから》もいるくらいですから」
紺野は明らかに挑発している。そばで聞く秋庭は、身体中の体温が逃げていく感覚に襲われた。
「……絶縁にしたら何しでかすかわからない。牙を剥きかねない。そうやって今まで野放しにされて、いい気になっているんじゃないだろうな? もう沖連合《うち》じゃ庇《かば》いきれねえんだよ。お前と心中する自殺願望者はひとりもいない」
島津は冷ややかな目で言った。
紺野の唇が動きかけ、自制するように止まった。その目に島津を探る色が浮かんでいる。
秋庭はテーブルの一点を見つめた。沖連合が不況と新法のあおりで経済がらみの仕事がしにくくなっている中、末端組織の藍原組が確かな稼ぎ頭として成長している。
暴力団の世界も変わった。組織がひとり歩きし、その付属品として親分がいる状況になった。盃関係など死語になり、親分が社長で子分が社員、そんな関係になりつつある。今や金さえあれば親分になれるし、逆に金がなければどうにもならない。上部は金を運ぶ人間を重宝し、やくざとして器量のある人間を正当に評価しない。だからこそ紺野の態度がぎりぎりまかり通る。
「――お前、この五年ですっかり変わったな」
島津がぽつりと言った。ふたりは正面から見すえ、目を逸らさずにいる。
秋庭はふたりを見ながら、あの生きているか死んでいるのかわからない藍原組の現組長[#「藍原組の現組長」に傍点]を思い浮かべた。紺野を代行という立場につなぎとめているのは、あの入院中の組長の存在だった。
携帯電話のベルが鳴った。秋庭の上着の内側からだった。
「なにやってんだよ」
島津が吠えた。
「すみません、すみません」秋庭はしどろもどろになり、電話を切ろうとした。
「秋庭、出ろ」
紺野が島津に目をすえたまま命じた。
「しかし……」
「いいから出ろ」
思わず秋庭は島津を見た。その顔が青白くなりかけているのを目のあたりにし、胃が縮みあがった。しかし紺野には逆らえず、恐る恐る携帯電話を耳にあてた。
弟分からの報告だった。内容を聞き、秋庭は思わず紺野に首をまわした。
貸せ、と手が伸びてくる。
携帯電話を取り上げた紺野は、いつ、どこで、何人だ、と相づちをうち、しばらく指示を与えてから電話を切った。そして島津に向いた。
「――またひとり死にましたよ。これで五人目です[#「これで五人目です」に傍点]」
島津が目を見開くのと同時に、紺野は立ちあがった。
「すみませんが、すぐ戻らなければならなくなりました」
「次はねえんだぞ」島津が唸るように言った。「いいのか、それで?」
秋庭にはそれが最後|通牒《つうちよう》に聞こえた。
紺野は黙礼し、応接室のドアを静かに開いた。
秋庭もあわててあとに続いた。ボディーガード達の憎悪のこもった視線を背中に浴びた。島津の怒りも臨界点に達している。これまでの会話の中で島津が我慢してきたこと自体、不思議に思えてならなかった。もしかしたらあの腹の底で何か企《たくら》んでいるのもしれない。そうならば、大事の前の小事で我を失うことがあってはならないのだ。そこまで考えて秋庭ははっとした。ガネーシャを匿っているのはまさか……
事務局の自動ドアの前で、立ちはだかろうといさむ若い組員が何人もいた。
「どけよ」
紺野が近づくと、その壁は崩れた。
水樹は公園のベンチに座っていた。
午後になってから雲行きが怪しくなっていた。
陽射しは弱まり、蒸した風が吹きはじめている。噴水から噴き上がる水飛沫はあおられて乱れていた。
水樹は隈の浮いた目をずっと落として考えていた。埠頭の廃倉庫で平野が言っていた、「K金属興産」のことだった。あれから気になり、かつて世話になっていた北嶋組の若頭補佐を通じて調べていた。
高遠が紺野の右腕になる前に在籍していた会社だった。
いくつかわかったことがある。
K金属興産は名目上、鉄スクラップの輸出を主とするリサイクル業者だった。従業員数二十名程度の小さな株式会社だったが、四年前に倒産している。
鉄スクラップの処理で問題になるのが微細な鉄くず、つまりダストの大量発生になる。ダストは売ることができず廃棄物として処理しなければならない。その処理でコストをかけてしまえば業者は採算割れを起こしてしまう。そこで悪徳業者になると不法投棄に手を染めるようになる。K金属興産の創業は今から三十年以上も前だった。当時は今日《こんにち》のようなリサイクルシステムなど確立されてなく、K金属興産は早くから不法投棄に手を染めていたことが推測された。
それは平野が言っていた、穴屋という言葉に裏付けられている。
穴屋とは大規模な不法投棄現場における、現場の人間の進行管理をする仕事をさしていた。車椅子の高遠に任せられるほどだから、よほどのノウハウとシステムを確立していたに違いない。なにより穴屋には、素早い頭の回転と人を使う能力が求められる。現場の人間が同時に聞ける無線を用いれば、穴屋は現場に出る必要などない。高遠が穴屋として能力を最大限に発揮できた理由は、そこにある気がした。
無線と小型マイクを使って、英語を器用に喋る高遠の姿を思い出した。ああやって様々な出稼ぎ労働者を仕切っていたのだろうか。人間を駒《こま》のように扱って……
そして平野の言うことが本当であれば、高遠は穴屋で得た報酬をK金属興産の株に投資したことになる。株価の上昇などとても見こめないのに、筆頭株主になるまで買い占めた理由はなんだろうか?
理由はひとつしか浮かばない。
K金属興産の実権を握るためだ。
しかし解せないところがある。所詮《しよせん》は違法行為を続けるリサイクル業者だ。その実権を握ったところでいったい何の得があるのだろう。得られる報酬よりリスクの方が多く、穴屋の立場以上のメリットがあるとは思えなかった。
その後、高遠は株を売却して藍原組に移ることになる。
藍原組の急成長を支えたシノギが、その不可解な行動に隠されている気がした。フリーランスのルポライターの大谷、極東浅間会の平野、沖連合幹部の島津、そしてガネーシャと名乗る四人の人物が、それを嗅ぎつけた。
おそらく真相に一番近い位置にいるのが、ガネーシャだろう。
水樹はポケットから折りたたんだ用紙を取り出して広げた。紺野と高遠に送られた四通目の電子メールをプリントアウトしたものだった。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
【送信者】grave_@******.ne.jp
【宛先】konno@castrum.com, takato@castrum.com
【受信日時】8月13日 20:11
【件名】beta
「働き者の四人目の騎士は、
自らすすんで墓を掘り、
二度と覚めない夢を見る」
[#ここで字下げ終わり]
四通目の送信者アドレスは「grave(=墓・死地)」となっている。日付はカラオケボックスで長沢が死んだ翌日だった。
長沢は四人目の犠牲者だった。今までの三人と共通することは、意外なところにあった。それは性格の変化だった。死亡する数週間前から恍惚とした表情を浮かべたり、突然くすくす笑い出したり、またひどい癇癪《かんしやく》を起こして暴れることもあったという。今となっては裏付けを取れないが、水樹にはそれが重大なサインのように思えた。
警察は長沢の死体を司法解剖にまわして死因を調べようとしているが、他殺と断定できない限り表立って事件を防ぐことはできない。情報規制をかけて監視の目を厳しくしているが、水面下では中国人留学生や極東浅間会を巻きこみ、犠牲者は藍原組の組員だけにとどまらなくなっている。
事態はどんどん最悪の方向に向かっていた。
水樹は用紙をポケットに戻し、公園内を眺めた。
視線の先に、カメラを構えた親子連れ、動物愛護団体らしき集団、それを取り巻くワイドショーのテレビカメラがあった。彼らの中心にケヤキの大木があり、数十羽もの野生のインコが占拠していた。
奇妙な光景だった。
かなりの数のインコが空気銃で撃たれた。その事件が全国区で放映されたのはごく最近の出来事だった。手の届く範囲にいる弱者は徹底的に無視し、手の届かない範囲にいる弱者にはやさしい人々――きっと彼らにはこの公園の隅で段ボールハウスを作って生活している者など目に入らないのだろう。鳥の糞は掃除できても、ホームレスの糞は決して掃除しない。
水樹は立ち上がると、公園の北口に抜ける通路を目指した。膝まで生えた茂みが錆びた鉄製の柵《さく》で囲まれ、至るところにコンクリートのフラワーボックスがある。そこには何も植えられていない。
周りをビルの背が囲む、谷間の底のような場所にたどり着いた。区画整理の対象となり、大根をおろすように敷地が端から削り取られている。
段ボールハウスや青テントが並び、リヤカーや自転車、キャンプ道具の一式や洗濯物が干されていた。木には柱時計が縛りつけられ、転がって身じろぎしない者もいれば、あぐらをかいて焼酎《しようちゆう》をなめている者もいる。ここにいるホームレス達は様々な地域から様々な経路を経て集まる。首都圏でいくつかの職を転々とし、その果てに辿《たど》り着く者もいれば、噂を聞きつけて地域移動してくる者もいた。
水樹はひとりひとりに視線を投じた。
「――水樹さんですね。高遠さんから話はうかがっています」
背後から声をかけられて、腕時計をのぞき見た。時間通りだった。ふり向くと、先のとがった髭《ひげ》を生やしたホームレスが愛想笑いを浮かべて立っていた。着ているランニングシャツは汗で黄ばんでいない。着替えられる余裕があることをうかがわせた。ホームレス達は日銭を稼げる人間に、数人が集まってコミュニティをつくる。この男は日銭を稼げる部類なのだと、水樹は推測した。
水樹は買ったばかりの煙草の封を切った。ランニングシャツの男は一本抜き、水樹をしげしげと眺めてくる。
水樹は顔を背けた。まだ檜山に殴られたときの痣《あざ》が色濃く残っているからだった。
「……ここも人の出入りが激しくなって、縄張りを守るだけで精一杯なんですよ」
ランニングシャツの男が言った。
「藍原組の事情は知っているか?」
「耳にしています。不幸、続いているようですね」
「何か情報をつかんでいれば教えてほしい。些細なことでも何でもいい」
「この街で高遠さんや紺野さんが知らないことを、わたしらが知っているはずがありません。それに水樹さんは――」ランニングシャツの男は嘆息して続けた。「ホームレスは情報通だと思っていらっしゃる。そんなステレオタイプな考えは、改めた方がいいかと」
水樹はランニングシャツの男をまじまじと見つめた。やがて息を吐き、
「悪かった。年長者のアドバイスとして受け取っておくよ」
そう言うと、ランニングシャツの男は意外そうな顔を返した。
「……まあもっとも、ガキどものことはわたしらの知っている範囲外ですがね」
「ガキ?」
「ホームレスまがいのガキどもです。今や普通の家庭で育ったガキでも、携帯電話を持って家出する時代ですから」
「棘のある言い方だな」
「もう戦後じゃありません。この国で浮浪児は絶滅したんです」
ランニングシャツの男は言い切った。
「例外はあるだろう?」
「もうずいぶん昔になりますが、わたしらに近いのがひとりだけいましたね。施設を抜け出してこの公園に住みついていたハーフの少年です」
「……ハーフ?」
「ええ。公園に放置されたワゴンRの中に住んでいました。なかなか礼儀正しい少年でしたよ。しかし車が撤去されましてね、埠頭の廃倉庫に移り住んだ。しかしそこも追い出されたようで、その後の姿は見ていません。街のインコをずいぶん手なずけていたから、よくおぼえています」
水樹は黙って聞いていた。
「……おそらく母親はどこかの外国人娼婦でしょう。本国で日本のビジネスマンに孕《はら》まされて、そのまま出稼ぎで連れてこられたんです。ずっと黙っていたから堕胎も手遅れになった。普通なら仲間同士で育てるんですがね、ビザを持たない彼女らにも色々事情がある」
そこまで言って、ランニングシャツの男は水樹の袖を引いた。
「それより高遠さんに言いつけられていますから、早くこちらへ」
「どこへ?」
「あなたはわたしの客人ということで。わたしが決めたことに、ここらで文句を言うやつはいませんよ」
水樹は日陰の一等地にある青テントに案内された。中を覗くと段ボールの上にゴザが二枚、古いラジカセ、カセットコンロ、そしてカバーを外した文庫本があった。さすがに毛布から異臭がしたが、覚悟していたより清潔に保たれていた。
テントの隣には、がっしりとした方形に組み立てられた段ボールハウスがあった。水樹の目がとまった。数え切れないほどの雨にうたれてぐだぐだになっているが、トウモロコシや宇宙服を着たブルドッグなど、色鮮やかにデフォルメされたキャラクター達が筆で描かれている。
「気になるんですか? あれ」
「グラフィティアートとは微妙に違う」
ストリートによく描かれているスプレーの落書きを思い出した。もともと七〇年代のニューヨークの貧民街で、黒人達の社会に対するはけ口として生まれた文化だった。しかし何不自由のないこの国の十代の若者達はそれをはき違えて広めている。彼らがまことしやかに言う世の中の不満や苛立ちや屁《へ》理屈に、水樹はまったく共感できなかった。
「一時期アーティスト気取りの若い連中が、わたしらの小屋にああいう絵を描きまくった時期があったんです。主に段ボールハウスですがね」
「それにしても、あれだけはずいぶん古い」
「供養のつもりで置いてやってるんです」
「供養?」
「以前わたしらの仲間になった若者で、勘当同然で上京してきた美大の浪人生がいましてね。いい歳で、確か二十四、五だったかな……プライドばかり高くて、どこ行っても相手にされなくて、自分の才能は一般大衆に理解されないのだとうそぶく典型的なやつでしたよ。なにしろ自分勝手で、わたしらのルールや縄張りを守れなくて、トラブルばかり起こしましたから」
水樹は黙って続きをうながした。
「案の定よその縄張りのホームレスと揉めたんです。想像つかないかもしれませんが、ホームレスの喧嘩ほどひどいものはありません。酒の取り分だけで、数人がかりでひどい暴行を加えることもあるんですから。その若いやつは、頭をかち割られて意識を失っているところを発見されました。救急車で運ばれていなくなったと思ったら、半年くらいしてまた戻ってきた」
「それで?」
「そこからは仲間から聞いた話になりますが……」
「構わない」
「その若いやつ、ちょっとここがおかしくなっていたそうです」と、ランニングシャツの男は頭を軽く叩いた。「仲間はトラブルを恐れて突き返しました。放っておけば親元に戻ると思ったんでしょう。しかしそれでも帰ろうとせず、公園にとどまり続けたそうです。仲間が最後に見たのは冬のある晩でした。ベンチでひとり凍えてうずくまっていたそうです。触ってみたら冷たい。もうダメだと思ったみたいです。しかし朝になったら、誰かが持ち去ったように消えていた」
水樹は眉を寄せ、ランニングシャツの男を見つめた。
「だれかが助けるつもりで運び去ったか、そうでなければ死体を見つけた良識のある方が通報したのかもしれません。ですが、わたしらの間には奇妙な噂がありましてね。――仲間から見捨てられたり、どこにも住めなくなったり、人前にさらされて死ぬのを待つばかりになったやつに限って、どこかへふらっといなくなってしまうんです。まるで死期の迫ったネコやカラスみたいですが、そういうやつがここ数年で何人もいました。わたしは神様の存在など信じませんが、もしこの世に神様がいるのだとしたら、最後に死に場所くらい選ぶ力を与えてくれたかもしれませんね」
「死に場所……」
「わたしだったら、もう誰の目にもさらされない場所へとひっそり行きたい」
水樹はランニングシャツの男から目を離し、段ボールの絵に顔を向けた。
「あの絵が気になるんですか?」
「いや」
ランニングシャツの男はシートに手をかけた。「長話しすぎたようです。汚いところですが、わたしには遠慮なさらずに使ってください」
「待て」
水樹は財布から一万円札を抜き取った。
「申し訳ありませんが」と、それは押し返された。「財布に貯めるつもりはありません。わたしらはそれで痛い目にあって、ここにいるんですから。今は腹だけが貯まればそれでいいんです」
水樹は無理やり握らせることはやめ、代わりに小銭を渡した。ランニングシャツの男はそれは受け取った。立ち去る足取りは歓楽街を向いていた。
テントに入った水樹は、まわりの様子が見渡せるようシートを少し広げた。中は蒸しているが我慢するしかない。
見張りを続ける間、何度か携帯電話が鳴り、連絡を取り合った。いつの間にか腕にのぼっている蟻に気づき、払い落とした。
辛抱強く待ち続けた。腕時計の針が午後五時を指した頃だった。水樹はテントの隙間を広げた。敷地にワンボックスカーが二台現れた。ジャンパーを着た男性達が車から降り、てきぱきと白いテントを張り、カセットコンロ、折り畳みの長机、湯気の立つ大鍋、発泡スチロール製のお椀を並べている。
それを見計らったように、ホームレス達が集まりはじめた。
月に一、二度やってくるボランティアの炊き出しだった。彼らの前にあっという間に行列ができる。
水樹はひとりずつ確認し、ようやく目的の人物を見つけた。
歳は四十近い男だった。ホームレス達であふれ返るこのときを、まるで逃さない様子で現れた。サファリハットを目深にかぶったオーバーオール姿で、厚底ブーツを履いている。紙袋をぶら下げ、ひとりだけ行列に加わろうとせず、きょろきょろ見まわしている。
テントから這い出た水樹は、背後からゆっくり近づいた。
手を伸ばせば肩をつかめる位置まできたとき、オーバーオールの男がふり向いた。とたんに頬の筋肉が強張《こわば》り、逃げ出そうとした。水樹はすかさず足を払い、倒れた男の首根を靴の底で踏んだ。容赦なく力をこめると、男はおぼれかけたように手足をばたつかせた。
周囲から集まる視線を、水樹は睨みつけて跳ね返した。
「この男は、あなた方の仲間じゃありませんよ」
落ちた紙袋から、ノートパソコンと数十個もの携帯電話が飛び出していた。
オーバーオールの男は観念しておとなしく従った。
水樹はその口をガムテープで塞ぎ、背中から腕をねじ上げ、そのまま公衆便所まで連れていった。障害者用の個室に入り、みぞおちを殴ってから便器に座らせた。うめき声をあげる男の両手に、電線などを束ねるタイラップを巻いて水道管に通した。
水樹はドアの鍵をかけた。
「大谷だな?」
オーバーオールの男はうなずいた。高遠のことを嗅ぎまわっているフリーランスのルポライターだった。目は充血し、罠にはめられたことを充分に理解していた。
「お前に連絡した者はこない」水樹は屈みこんで言った。「何もわからずに、こんなことをされるのは苦痛か?」
大谷は頭をたれていた。
「たいした覚悟もないのにホームレスの真似をするからだ」
水樹は大谷の口からガムテープを一気に剥がした。唇から血の糸が引く。
「……お前、藍原組の人間か?」
大谷の口が開いたが、水樹は答えなかった。大谷は察した様子で続けた。
「いったい俺が何をしたというんだ? 何もしていない。ちょっと調べていることがあってやむなくこの生活をしているだけなんだ」
「半分本当で半分嘘だな。今年の五月からこの界隈のオフィスで、顧客の情報|漏洩《ろうえい》が相次いで起きている。藍原組の企業舎弟だけでも四件あった。社員が売りに出したとしては時期が重なりすぎている。おそらくこの界隈のオフィスに侵入できる時間帯を、怪しまれずに調べることができる人間の仕業になる。実際、企業スパイや外国のハッカーは、ホームレスの真似をして調べるケースがあるそうだ」
大谷の表情が変わるのを確認して、水樹は続けた。
「この国でホームレスというのは職業なんだ。生き方じゃない。そしてこの職業には自分の時間などない。住んでいる街の時間が絶対だ。食い物、水が飲める場所、金に換えられるもの、安心して寝られる場所、すべて街の時間にそって行動しなければならない。それができなければ生きていけない。どんなに頭の悪い人間でもこの職業に就けば数日で理解できる」
はかったように携帯電話が鳴った。どうやら確認が取れたらしい。水樹は携帯電話をハンズフリー機能にし、本体に向かって話しかけるだけで通話ができる状態にした。
水樹は大谷を向いた。
「悪いがお前が持っている無登録《プリペイド》携帯電話とノートパソコン、ピッキングツールはすべておさえた。駅前の無人の私書箱をロッカー代わりに使っていたとはな。たった今、確認も取れたよ。お前みたいなにわか仕こみのハッカーほど、自分が一番頭が良いと思いこんでいるみたいだ。自分のテリトリーには誰も入ってこないと思っているんだろう? それは思い上がりだ。お前のパソコンには、数千人単位の個人情報があったそうだ」
大谷が息を呑む気配が伝わってきた。
水樹は黙って見つめた。
この大谷という男についてすでに調べはついていた。フリーのライターはよほど安定した仕事の配給先がない限り、それ一本で食べていくことはできない。もともと大手新聞社に勤務していた大谷は、フリーランスとしてのコネクションをいくつか持って退職していたが、ある仕事の不始末でそれらすべてを失った。以後兼業として、それまで関わっていたインターネット犯罪に手を染めて小銭を稼いでいる。
それでもまだ大谷はルポライターという肩書きにしがみついている。この男なりの罪悪感とプライドが、水樹には手に取るようにわかった。
大谷が顔をあげた。そこに開き直った笑みが浮かんでいた。「俺をつかまえてどうするつもりなんだ」声に威勢がこもりはじめる。「取引きをしたいのか?」
水樹は無言のまま、携帯電話を男に向けた。
携帯電話から声が聞こえた。
『――た、対等の立場にたっているなんて、思うなよ』
誰だ、と大谷の目が訴えた。
『い、いくつか質問させてもらうからな』
携帯電話の声が言った。水樹は一枚の写真を大谷に見せた。坂口と真由子の死体を発見したマンションで、防犯カメラが記録した映像だった。
『そ、そこに映っているのはお前だよ。藍原組の内情を調べていたのは本当かい?』
大谷は口を閉ざしている。
『おかしいなあ、おかしいなあ』電話の向こうから、大谷の反応をからかう声が響いた。『極東浅間会の平野が言っていたぞ。こ、殺される前の貴重な証言だったから、嘘には思えなかったけどな』
大谷の顔にみるみる苦渋の色が広がった。
「もう俺を生かしておくつもりはないってことか」
『そ、それはお前の心掛け次第だ』
大谷はしばらく黙っていたが、やがてその目の中でなにかが動いた。「……わかった。藍原組のことは調べている。だが何のコネもない俺が内情を調べてもたかがしれているじゃないか。目くじら立てるほどじゃないはずだ」
『だが、お前の背後にいるやつが気に入らない』
「そうか。その口ぶりじゃ、もうわかっているんだな」
『お前の口から聞かせてくれよ』
大谷は観念したように瞼を閉じ、
「沖連合の島津だ」
『オーケイ。だがお前は大切なことを忘れている。暴力団は利益追求集団だよ。島津が何のコネもないお前を、思いつきで利用するはずがない。お前は藍原組について、ずっと以前から個人的に調べていたんだろう?」
「……そうだ」
『まずお前は、藍原組の組長代行である紺野のことを調べるために、かつて籍を置いていた沖連合の内部を調べていた。で、少々足を突っこみすぎて、島津がお前の存在を嗅ぎつけてしまった。お前が調べていることと、島津が欲しい情報は一致する。それでお前は島津の後ろ盾を受けられるようになった。つまり島津の息がかかる極東浅間会の縄張りを拠点にできたんだ。でなければこの界隈で個人情報を集めて、小遣い稼ぎなんてできるはずがない。フリーランスのルポライター? 笑わせるなよ。中国人に習ったピッキングで勝手に他人の会社やマンションに侵入したじゃないか。やっていることはコソ泥と何も変わらない』
大谷の表情がみるみる硬くなった。
『そ、その沈黙は、肯定とみなしていいのかい?』
「……話を続けろ」
『何を調べようとしていたのかは想像つく。だが、今知りたいのはそのことじゃない』
「なに?」
『「ハカマダ シロウ」というホームレスをさがしている。お前なら、この意味がわかるだろう?』
大谷は一瞬、記憶を探る顔をした。
「そいつがいったい何をしたんだ?」
『藍原組の組員を五人殺した。おそらく殺人はまだ続く。お前の知らないところで、そういう事態が起きているんだよ』
「例の不審死か」
『おいおい調子に乗るなよ』携帯電話の声は冷たく突き放した。『お前の質問に答えて、こっちに何の得がある? お前は「そいつ」と言った。そいつとは誰なんだ?』
大谷が一瞬、口ごもる。「……先月、極東浅間会の縄張り内で中国人名義ブローカーと一緒にいたときだ。ブローカーの携帯電話に奇妙な客から連絡があった。クレジットカードの売買だが、片言の日本語で済むような内容を、わざわざ注文つけてきた」
『ほお、どんな注文だい?』
「名義の指定だ。さっきあんたが言った名義以外に、十人以上並べてきた。その名義のものを扱っていれば高く買いたい、と打診してきた。普通じゃ考えられない。当然ブローカーと押し問答になって交渉は決裂した。俺はその様子を隣で聞いていた」
『気になったお前はあとから連絡した、というわけか』
「かかってきた携帯電話に着信履歴が残っていたんだよ。それを見せてもらった。気になったのは指定した名義の中に、ちょうど俺が調べていたものがあったからだ。そこに意図があるのか偶然なのか、確かめたかった」
『相手は男だったのかい? 女だったのかい?』
「変声機を使っていたから性別はわからない。下手すれば日本人じゃないのかもしれない。売る気があるのかないのか、電話の向こうで機械のようにくり返してくる。もちろん俺は現物を扱えないし、とっくに市場に出まわったものもある。だがそいつは、偽造クレジットカードと住民票の、コピーでもいいと付け加えてきた」
『……コピー?』
「死亡届を出していない名義だ。そこから作れる身分証は高く売れるから、欲をかいて作れるだけ作る。管理のためにコピーしてファイリングするんだ。別に金庫に入っているわけじゃない。俺は事務所に自由に出入りできた」
『お前にそうさせたメリットはなんだ?』
「ひとり分につき十万円。保管されていたのが二十二人分。全部買い取ると言ってくれたよ。合計二百二十万円、即金だ。だから指定された住所に郵送した。住所からして俺と同じ私書箱を使っていたみたいだ。私書箱の契約名を調べたら案の定、架空名義だったよ。恐ろしく念の入ったやつだった」
『う、売ったのはそれだけか?』
「無登録《プリペイド》携帯電話を二、三台つけてやった」
『つまらない欲をかいたな』
「だってそうだろう? クレジットカードと住民票のコピーなんて、ゴミ屑《くず》同然と思ったからだ」
『だが一度限りの電子メールを送信する目的で、プロバイダからメールアドレスを所得できる。そいつはそのアドレスを使って、藍原組にふざけた電子メールを送りつけてきた。きっかけはお前が作ったんだよ』
「待て。そいつが誰だか、俺なら割り出せると思う。売ったコピーの控えなら、まだ家に保管してある。な? な? だからはやまったことはしないでくれ。頼む――」
『直接話を聞くよ。これからそっちへ向かう』
携帯電話がぶつっと切れ、大谷の顔が青ざめた。
水樹は懐にしまうと、ドアにもたれた。
「……今の電話、高遠だろう?」
大谷の一声に、水樹は反応した。
「そうか。その顔は当たりだな。俺はこれから何をされるんだ? どこに連れて行かれるんだ?」
埠頭の廃倉庫。高遠が生かしておくとは思えない。水樹が答えずにいると、大谷の顔に焦りの表情が浮いた。
「なあ、頼みがある。千鶴という女と連絡が取れるか?」
唐突にたずねてきた。
千鶴?…… 水樹は眉をひそめて大谷を見た。
「知っているんだな。なら今の俺の状況を伝えてほしい。頼む。それだけでいい」
必死に懇願する大谷に、水樹は訝《いぶか》しさをおぼえた。
「あの女に伝えて何になる?」
「千鶴は俺のことを知っている。もしかしたら、気まぐれを起こして助けてくれるかもしれない」
「気まぐれ?」
「千鶴は高遠の身のまわりの世話をしているんだよ」
「……何かの冗談じゃないのか」
「俺は一度、年金詐欺を働いていた頃の千鶴を見たことがある。あの女、老人が洩らした糞や小便を眉ひとつ動かさずに拭《ふ》いていた。あの辛さは、実際に臭いを嗅いだ者でなければわからない。並の若い女じゃとてもできないんだよ。あの女はそれを平然とやってのけて、老人達の信頼を得ていた。高遠が目をつけたのは、そのへんをえらく気に入ったからだ」
水樹ははっとした。何かが引っかかった。だが、よく思い出せない。
「別にあんたに伝言を頼んでいるわけじゃない。千鶴に連絡するだけなら、高遠を裏切ることにはならないだろう?」
水樹は黙った。長く沈黙を挟んだせいか、大谷が落胆する息を洩らした。
「――くそっ、結局お前も高遠の犬なんだな」
水樹は大谷を睨み、背広の内ポケットに手を入れた。汗ばんだその手にふるえを覚えた。中にある物を固く握りしめると、
「条件がある」
四枚の用紙を取りだした。ガネーシャから送られてきた電子メールをプリントアウトしたものだった。大谷の前で広げて見せる。
「これは紺野と高遠宛に送られた電子メールだ。今ここでお前の意見を聞きたい。おれにはわからないことが、お前ならわかるかもしれない」
「これに協力すればいいのか?」
そう言って大谷は水樹を見つめた。次第に血の気を取り戻し、緊張が緩んだ顔になる。
水樹は四枚の用紙すべてが見えるよう、両手で持ち直した。
大谷は顔を近づけて何度も目でなぞると、
「……この差出人はまさか」
「お前が取引きしたという人物だよ。ガネーシャと名乗って組員を殺しまわっている。使用された名義は送られてきた順で『イクルミ マサノブ』、『ハリマ タダヒコ』、『トキトウ マサル』。さっき名前が出た『ハカマダ シロウ』はおそらく四通目だ。今日五人目が殺されたから、おそらくもう一通届くだろう」
大谷の目が再び文面に注がれる。
水樹は時間を気にした。高遠が到着するまで五分か十分というところだった。それまでに聞きださなければならない。
やがて大谷が息を吐き、その顔を離した。
「簡単なことなら、いくつかわかる」
「本当か?」
「ああ。まず文面で『王』や『城』、『側近』や『騎士』という中世の言葉を使っている理由だ。まんざら意味のないことではない。宛先の欄に、高遠と紺野のメールアドレスがあるだろう?
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
konno@castrum.com,takato@castrum.com
[#ここで字下げ終わり]
「あのふたりはわざわざ自分達だけのサーバーを持って、お互い交信し合っているんだよ。@マーク以降を見てみろ。ここはドメインと呼ばれるんだ。インターネット上の住所《IPアドレス》は、この語句を数字変換したものだ。ここに『カステルム(castrum)』とある。ある個人と家族を守るための防御設備を施した家屋を意味する。英語の『キャッスル(Castle)』、つまり『城』はここから派生する。住所《IPアドレス》にそういう名前をつけているんだ。ガネーシャと名乗る人物はその点をよく見ている。たいした観察眼だ。だから電子メールの中で皮肉ることができたんだろう」
水樹は黙って聞き、続きをうながした。
「それとまだある。お前、紺野の背中にある刺青を見たことあるか? たぶん藍原組の組員はほとんど見たことがない。薄いシャツを着ているときだけ、墨をかけたようなまっ黒な絵柄が透けて見える」
水樹には見覚えがあった。「いったい何が彫られているんだ?」
「髑髏《どくろ》をかぶろうとしている王子だよ。黒い甲冑《かつちゆう》を身にまとった王子が、百合《ゆり》の花を踏みにじって玉座についている絵だ。その脇には人間の頭蓋骨の山がある。王子はその中からひとつを選びだして、頭にかぶろうとしている」
驚きで水樹の目が広がった。
「ジャンヌ・ダルクの登場で有名な英仏の百年戦争で、実在した王子がモデルらしい」
「いったいなぜそんな絵を?」
「十代の頃に海外で彫った絵を、タッチアップという技術を使って修整したらしい。それを行ったのは凄腕の彫り師だそうだ。このことは沖連合の島津から聞いた」
「修整?……」
「元の絵が相当ひどいものだったらしい。それになぜ王子なんかの絵にしたのかもわからない。普通なら、まず彫らない絵柄だ。俺も聞いたことがない」
水樹は頭をめぐらせた。思い出さなければならないこと、考えなければならないこと――
大谷は続けた。
「ひとつだけ言えることがある。刺青の王子は人間の髑髏をかぶろうとしている。王冠ではなくて髑髏だ。わかるか? 王冠は権力の象徴だ。少なくとも紺野が得ようとしているものは権力ではない。俺が知っている極道とは、考え方や思想の根本から違うんだよ。その紺野は車椅子の高遠に献身するように尽くしている。異様だよ、あのふたりの関係は」
「……他には?」
水樹は腕時計に目を落とし、緊張をおさえながら先をうながした。
「この電子メールで気づいたことは残りふたつだ。送信アドレスの欄を見てみろ。@マークの前には、そのアドレスを持つ人の名前や愛称を入れるのが普通だ。ガネーシャはここで『prince』、『black』、『watch』、『grave』という単語を入れている。それぞれ訳してみればいい。それくらい調べただろう?」
水樹は思い出し、それぞれ脳裏に浮かべた。
『prince』=王子
『black』=黒
『watch』=時計・見る
『grave』=墓・死地
意味がわからずにいると、それが表情に出たのか、大谷が付け足した。
「『black』を『黒』と訳すと混乱する。『磨く[#「磨く」に傍点]』だ。ガネーシャと名乗る人物はわざわざ文中で補足しているだろう? メールアドレスの差出人名義をもう一度よく思い出してみろ。イクルミは王に生まれると書いて、王生というんだ。王生政信の『王』、播磨忠彦の『磨』、時任勝の『時』、袴田史郎の『ハカ』……そういう形で、必ずどれかもじっている」
水樹は用紙を見直した。強引な解釈だが、確かにメールアドレスと差出人名義には関連性がある。それが四枚も続くと、意味があるように思えた。
「あとひとつは件名だ。なぜかギリシア数字で統一されている。送られてきた順に『eta』、『zeta』、『delta』、『beta』――7、6、4、2だ。そのばらばらの数字が、いったい何を意味するかはわからない」
水樹は顔を上げた。「それで終わりか?」
「四枚に共通するのはそれくらいだよ」
「お前も高遠も、肝心なことは何ひとつ言わないんだな」大谷の反応に、水樹は用紙を握り締めた。「いいか、高遠はこれを脅迫文と言っている。これのどこが脅迫文なんだ? まだ隠されている何かがあるはずだ」
大谷は口をつぐんで水樹を凝視していた。何度かためらったあと、
「告発[#「告発」に傍点]だよ。差出人に使われている名義は、高遠と紺野が殺したホームレスの名前だ」
「そんなことは知っている」
「六年ほど前、この界隈のホームレスが二十人近く行方不明になったことも知っているか? うち、極東浅間会に流出した戸籍は十一人分。俺は全員、高遠と紺野のふたりに殺されたと思っている」
その数を聞いて、水樹は怯みかけた。
「……だがあのふたりにとっては殺人など脅迫にもならない。お前はその裏に隠された何かを調べていたはずだ。沖連合の島津も知りたがる内容だ。教えてくれ。あのふたりはいったい何をしたんだ?」
大谷は無言だった。
「――言えないのか?」
大谷は答えなかった。
「言えっ。紺野と高遠はいったいどんな罪を犯したんだっ」
水樹は大谷の肩を激しく揺さぶった。大谷の首が人形のようにガタガタとふれる。
「答えろっ。高遠が昔やっていた不法投棄と関係があるのか?」
「……言えない。絶対に言えない。俺の切り札だ…………」
大谷がつぶやく。
その瞬間、水樹の中で行き場もなくたぎった怒りが噴きだした。腕をふりあげ、トイレの壁を激しく打ちつけた。
「いいかっ。生きる権利を奪われた藍原組の組員や、巻きこまれていく犠牲者にも、それを知る権利があるはずだっ」
大谷は動じなかった。
水樹の全身から力が抜けたとき、携帯電話が着信した。それに合わせるように遠くからクラクションの音が聞こえた。高遠が到着した合図だった。
顔を上げた大谷は口を歪めていた。微笑みさえその唇に浮かべている。
「莫迦野郎が」
水樹は嘆くように言った。大谷の両手首に巻いたタイラップを外し、高遠が待つミニバンまで連れていこうとしたときだった。
大谷はうなだれたままつぶやいた。
「――やつらは盗んだんだよ。誰もが手を出せなかった、漆黒の闇に包まれた星を」
水樹の困惑をよそに、大谷は足を器用に動かして厚底ブーツの片方を脱ぎ、トイレの個室に放り投げた。
夕立の前兆を思わせるにわか雨が降っていた。
秋庭は病院の廊下にある長椅子に座り、窓をパラパラと叩く雨音を聞いていた。普段は西日に力負けする冷房が、今は利きすぎるほど利いている。
目の前にある個室の扉は半開きになっていた。
奥のベッドには、蔦《つた》のように点滴のチューブが絡まっている患者がいる。
枕元の椅子に、紺野の丸まった背中があった。にわか雨で濡れた白いシャツに、まっ黒な刺青が透けていた。
酸素吸入器を口にあてがった男――藍原組の組長は、薄目を開いて紺野をじっと見つめている。その顔は老人のように老けこんで粘土色になっていた。
秋庭はふたりの様子を等分に眺め、精神賦活剤を噛み砕いた。
……もう無防備で眠るわけにはいかない。
数時間前の光景が脳裏によみがえり、秋庭を苦しめた。
五人目の犠牲者を前にして秋庭は荒れ狂った。ガネーシャ。絶対に許さねえ。見つけだしてぶっ殺してやる。憎しみをこめて叫んだ。死体で発見されたのは苅谷という、秋庭がかわいがっていた弟分のひとりだった。死体は車の中で見つかった。まるで睡魔に耐えられなかったように路肩に停め、そのまま運転席のシートをリクライニングさせて息絶えていた。アイドリング状態でエアコンをかけ続けたためにガソリンが尽き、車内が昨日の炎天下にさらされたことは水疱《すいほう》だらけの死体からうかがえた。フロントグラス以外のウインドウすべてにスモークが貼られていたせいで発見が遅れた。
秋庭はあのときの紺野の姿を思い出した。苅谷の死体を眺めるあの漠とした視線。そこにどんな感情が宿っていたのか、今となっては知る由がない。紺野のあとをあわてて追った先が、この病院だった。
モニタが発する電子音、点滴が落ちる音――
秋庭は我に返った。
静まり返る廊下の奥から、ヒールの足音が近づいてきたからだった。
「やっほ」
千鶴だった。白いブラウス、短く刈り揃えた少年のような髪。
秋庭は立ちあがった。「何しにきた?」
「知らなかったの? 私、ときどきあれの世話してたのよ」
千鶴は個室に目を向け、あれ、ともう一度くり返した。
「誰も入れるなと言われている。帰れ」
秋庭は拒絶した。
「紺野さんに呼ばれてきたんだけどなあ」
「――入れてやれ」
室内からの紺野の声に、秋庭は狼狽《うろた》えた。
「ほらね」
千鶴は機嫌良く手をふって秋庭の脇をすり抜けた。秋庭も思わず続きかけたが、自制して立ち止まった。
紺野の隣に千鶴が並んだ。ふたりして動けない組長を見下ろしている。
「ねえ」千鶴がささやく。
「なんだ?」紺野が答える。
「前から一度聞きたかったんだけど」千鶴は組長を顎でさした。「……これ、紺野さんにとってどういう存在だったの?」
紺野は短い沈黙のあと、答えた。
「最後に残った良心だ」
千鶴はベッドの機材に手を伸ばすと、ダイヤルをまわした。
カチッという音と共に作動を示すLEDが消え、組長の目尻に何かが光った。滲んだ涙だった。両手ですくい上げた砂のようにこぼれ落ちていく命を、千鶴はうっとりと眺めていた。
「ねえ。私、どのくらい姿を隠していればいいかしら?」
「……そんなに待たなくて済むだろう」
「私がいない間、あの人が不機嫌になるよ」
「あいつには、おれがいる」
踵を返した紺野は、息を呑んだまま固まる秋庭に「行くぞ」と声をかけた。
[#改ページ]
下側の世界 8
王位まで上り詰めた
分相応の者、
その幸運を人はどんなに嘆くことか
だが、それも、取るに足らぬ些事、
心を美徳で満たす人すべてにやってくる
かの救済のときには。
[#地付き]ヤン・ライケン著
[#地付き]西洋職人図集「支配者」
風圧がわたしの髪をゆらした。
地鳴りのような響きが、うねるように出口をもとめてぶつかりあっている。
暗渠にこもる空気がふくれあがる感覚。
爆発音のように轟《とどろ》く音。
闇の奥に潜んだ獣があげる咆哮《ほうこう》――そんな錯覚にとらわれたわたしは、ヒナにえさを与える手をとめて耳を澄ませた。
この暗渠の一部が雨水を受け入れていることを思いだした。
ヒナのえさを腹八分目でとめると、ヒナは不服そうにもがいた。石畳にあるほかの鳥籠や傷ついたインコたちにふれないよう、注意して鳥籠にもどす。
毛布のなかで見守っている≪王子≫に手を差しだした。
≪王子≫はわたしの手をにぎりかえした。「もっと近くに」
ランタンを近づけてひざをよせた。あらためて≪王子≫の手をにぎると、思った以上に骨ばって小さな手だった。顔色は青ざめ、どこか苦しげな表情でいる。いままでだいぶ我慢してきたようすに思えた。
飲み水をさがして首をまわした。ペットボトルに目がとまり、空いている手をのばそうとした。
「水ならきみがくるまえに飲んだ」と、≪王子≫がいった。「それより食べものがある。≪時計師≫が持ってきてくれたんだよ」
毛布のなかから甘夏がふたつ、ころころと転がった。
「≪王子≫は?」
「ぼくならいい。おなかが空かないんだ」
わたしは皮をぐいぐいとむくと≪王子≫に無理やりにぎらせた。≪王子≫は半分に割ってわたしにくれる。
「さっき、きみの悲鳴がきこえた」
≪王子≫の言葉にわたしはおどろいた。「ここまできこえたの?」
「ああ。教えてくれないか。なにがあったんだい?」
どうしてじぶんのことより、わたしを心配してくれるのだろう? わたしのほうこそ≪王子≫にききたいことが山ほどあるのに……
「わたしを呼んだ理由はそれなの?」
「ほんとうは、ぼくの方からいかなければならなかったんだけどね」≪王子≫は弱々しい笑みを浮かべた。「それができなかった。≪ブラシ職人≫には悪いことをしたよ」
わたしはいきさつを話すことにした。
「包丁を持ったひと?」
≪王子≫が怪訝《けげん》そうな顔をかえしたので、あの老人の特徴を思いだせるかぎり説明した。
「≪墓掘り≫だよ。むかしはそんなことをするひとじゃなかった。きみはこの暗渠の墓場にいったんだね」
墓場……。≪ブラシ職人≫もそういっていた。
「≪墓掘り≫がずっと守っている場所があっただろう?」
あの警告文が書かれた通路を思いだし、うなずいた。
「ぼくたちが墓場と呼んでいる場所が、あのさきにあるんだよ」
≪王子≫はいわくありげにわたしを見ると、
「きみには一度話しておこうと思っていた。そのときがきたようだね。……すこし長くなるけどいいかい?」
そういって、話す順番を整理するようにいいよどみ、言葉を継いだ。
≪王子≫の話はいまから三十年近くもさかのぼるものだった。
当時、上側の世界で産業廃棄物の処理を請け負っていた業者がいた。
下請けの下請け……という形で予算を削り落とされながら、みんなが嫌がる仕事を引き受けていた小さな業者だった。だから仕事がまわされたときにはもう、ごみをどこかに捨てる方法しか予算が残されていなかった。
その業者はある企業の下請けを通じて、特殊な金属化合物を一定期間廃棄する仕事を受けた。その金属化合物はダストと呼ばれる粉状のもので、条件としてだされたのが土中に埋めないことだった。つまり海洋投棄をうながされた。
しかし業者に船をチャーターするお金までは渡らなかった。考えた末、街の郊外にある浄水場の廃墟を捨て場所として選んだ。浄水場は規定によって、建設から五十年はとり壊せない。またとり壊しの費用も膨大なため、そのまま放置されることも多かった。
もちろんなんの許可も得ていない違法行為だった。
業者は見張りを兼ねた共犯者探しに奔走した。利用しやすく、いつでも切り捨てられる人間でなければならない。当時ドヤと呼ばれる簡易宿泊所が郊外にあり、問題をおこしてそこから追いだされた浮浪者たちを見つけて言葉巧みに利用した。まずリーダーを決め、浄水場の廃墟を寝ぐらにさせて見張り番をさせた。
彼らにとって浄水場の廃墟は天国のような場所だった。電気はとめられていたが、施設は地下十数メートルまであり、夏の暑い日のどうにも我慢できないときは鍾乳洞《しようにゆうどう》のような涼しい場所で過ごすことができる。冬になればそこで寒さもしのぐことができた。なによりそこにいれば、ひとの目にさらされずに済んだ。それがいかに得がたい場所か、浮浪者たちは骨身に染みてわかっていた。
そうして月日が過ぎた、ある日のことだった。
地下の施設で過ごしていた浮浪者のひとりが、ひび割れたコンクリートの壁を崩し、この暗渠を偶然見つけてしまった。
「――待って」
わたしは≪王子≫の話をさえぎった。きいているあいだ、ずっと引っかかっていた疑問を消せなかったからだった。
「≪王子≫はいったいだれからその話をきいたの?」
「ぼくがはじめてこの暗渠に下りたとき、先客がひとりいた」
「先客?」
「当時その業者にやとわれていた浮浪者さ。それがあの、≪墓掘り≫だ」
目を見はるわたしを見て、≪王子≫はいった。
「話はまだつづくけど、いいかい?」
わたしはうなずいた。
「この暗渠が見つかった夏、浄水場の廃墟で不幸な事故が起きたんだ」
「事故……」
「金属化合物は廃墟の水槽に捨てていたんだ。その水槽で、子供がおぼれた。かわいそうにその子供は、浮かびあがることなく沈んでいった。それを目のあたりにした≪墓掘り≫たちは途方にくれた。子供を助けられなかった後悔もあるけれど、もうひとつ恐れたことがあったからだ」
「それは」わたしは目を落としていった。「不法投棄が公になることなの?」
「ああ。子供の生死にかかわらず救出作業は行われる。上側の世界では、死体を見つけるまで死にはならないんだ。子供が沈んだ場所を熟知する≪墓掘り≫たちは生存をあきらめていた。だからつぎのことを考えなければならなかった」
わたしには察しがついた。彼らが考えたことは産業廃棄物の隠蔽《いんぺい》だ。じぶんたちの住む家を守ることが、そんなに大切なのか。
「チャンスは一度きりしかやってこなかった。子供がおぼれた日――深夜から早朝にかけて、にわか雨がひどい豪雨に変わったときがあった。そのころには救出隊も子供の生存を絶望視して、最終手段を用いることになっていた」
「最終手段?」
「ポンプを使って水を抜くことだった。その準備と豪雨がやむのを待つために、作業は一時中断されたんだ。≪墓掘り≫たちにとって、チャンスはそのときしかなかった。中断されるのは長くて三時間くらい。それを逃せば水を抜く作業がはじまって、不法投棄の事実は公になる。追いつめられた業者と≪墓掘り≫たちは、知恵をめぐらせた。しかし不法投棄の隠滅をはかろうにも、その水槽は六メートル近い深さで、捨てた金属化合物の量はトン単位だ。ポンプを使って大がかりに汲《く》みあげる真似はできないし、なによりそんな機具をすぐ調達できない。真夜中だったけど、明かりはつけられない。人海戦術に頼ることもできない。だからみんな途方にくれた」
話の流れからして、彼らがなんとかした[#「彼らがなんとかした」に傍点]ことは想像ついた。わたしは黙って聞くことにした。
「みんながあきらめかけたとき、知恵を貸してくれたひとがあらわれたんだよ。そのひとは魔法[#「魔法」に傍点]を使った。底にたまったトン単位の金属化合物すべてを、決して見つからないべつの場所に移した。しかもその作業は一時間もかからなかった」
わたしは一瞬の空白から立ち直り、「魔法?」とくりかえした。
「水槽の水に[#「水槽の水に」に傍点]、手をいっさいふれなかったんだよ[#「手をいっさいふれなかったんだよ」に傍点]。代わりにみんなで手わけして集めたのは灯油だ。でもその魔法を使った代償として、≪墓掘り≫たちは社会との唯一の接点だった浄水場の廃墟を離れて、この暗渠に隠れなければならなくなった」
わたしにはその言葉の意味がとっさに理解できなかった。魔法のことはともかく、だとしたら≪墓掘り≫はなん年ここに住んでいるのだろう? 当時の仲間たちはいったいどうしたのか? なによりなぜ≪墓掘り≫たちは、こんな陽の射さない、下手すれば生命の危険をもはらんだ暗渠の生活に、むざむざ足を踏み入れることになったのか?
「……話をつづけたほうがいいかい?」
≪王子≫がたずねてきた。いまここで力なく首を横にふれば、もう二度とこんな話をしてくれなくなる気がした。
「つづけて」
「結果的に≪墓掘り≫たちは不法投棄に関する事実をすべて抱えたまま、この暗渠に移り住むことになった。ひどい生活だったけど、リーダーを中心とした当時のかたい結束がみんなを支えていた。結束はときに、逃げだそうとするひとに制裁を加える形にもなった。気がふれたひともでてきたけれど、みんな耐えて、この陽が射さない暗渠の生活をつづけたんだ」
「そんな生活、みんなつづけられたの?」わたしはきいた。
「長くはつづかなかったよ。それから櫛《くし》の歯が欠けていくように、仲間の数が減っていった。衰弱してひとりずつ死んでいったんだ。リーダーは最後のひとりになってようやく悟ったんだ。それは、みんなよりさきに精神を病んで狂気にかられたのは、じぶんだったのではないかという自責の念だった」
「そのリーダーってまさか――」
「きみが会った≪墓掘り≫だよ」
わたしの脳裏にあの気がふれた老人の姿がよみがえった。まっ黒な顔。欠けた耳。ひどいにおい。≪王子≫がいうことを真に受けても、彼らの行動は理屈だけでは説明つかない。
わたしがそのことをいうと≪王子≫は、
「≪墓掘り≫たちがとった行動の裏には、あるひとの存在が大きかった。≪墓掘り≫たちがこの暗渠に移り住んだのは、そのひとのためでもあったんだ」
「そのひとって?」
「魔法を使ったひと[#「魔法を使ったひと」に傍点]だよ。≪墓掘り≫たちにとっては、そのひとのため――たったそれだけの理由で、この暗渠の生活を選ぶに足るひとだった。≪墓掘り≫たちは不法投棄の事実のほかに、そのひとのために隠しつづけなければならないことがあった。約束をしていたんだよ」
わたしはききながら、目がくらくらする感覚に耐えた。
三十年近い歳月……浮浪者たちの結束……仲間の死……最後の生き残り……そして約束。こんな陽の射さない暗渠で仲間の死を看取《みと》り、孤独に耐え、ひとりで生きつづけることに値する約束なんて、この世にあるのだろうか? 信じることができなかった。≪王子≫の話はわたしの理解を超えていた。あの≪墓掘り≫が話してくれたことであれば妄想にすら思えて首をふった。
わたしの表情に強くでたのだろう。≪王子≫は見透かしたように、
「無理して信じなくてもいいんだよ。≪墓堀り≫の支離滅裂な話、書き残してくれたこと。ぼくは苦労してそんな記号や断片をパズルのようにつなぎあわせた。それをいま、きみに伝えている」
その言葉に救われた気がした。わたしは墓場のことをきいた。≪ブラシ職人≫があの場所を、墓場と呼ぶ理由を知りたかった。
「≪楽器職人≫がひろめたんだよ。あの場所の秘密を知っているのは、ぼくと≪楽器職人≫のふたりしかいない」
「≪楽器職人≫ってチェロ弾きの?」
「ああ。ここしばらく弾いていないけどね。もしかしたら、まだきみを警戒しているのかもしれない」
あのときわたしを助けてくれた、黒い帽子をかぶった女性だと思った。三本指の魔女……。≪墓掘り≫はそういって逃げていった。
≪王子≫はチラシの地図を引きよせると、☆印を書いてくれた。
「墓場のことを知りたければ≪楽器職人≫に会うといい。彼女はいつもそこにいる。もし警戒したら、ぼくの名前をだすといいよ」
わたしが地図を折りたたむと、≪王子≫が毛布からはいでてきた。すわれる場所をさがしている。
「寝てなくて、だいじょうぶなの?」
「まだきみと話していたい」
≪王子≫とランタンを挟んですわった。沈黙をおいてから、わたしはたずねた
「……まえに≪王子≫がいったことおぼえている?」
「なにを?」
「じぶんが最後にこの暗渠をでていくって。一番最初にでていかなければならないのは、≪王子≫なのよ」
≪王子≫が黙ってわたしを見つめた。なにかいおうとして、口を閉じる。
「病気なんでしょう?」
わたしがいうと、≪王子≫の表情がかたくなった。やがて「首をさわってごらん」と、静かにいわれた。喉の部分に小指の爪くらいのしこりを見つけたとき、思わず手を離した。
≪王子≫はいった。
「ここに長くいると、喉の病気になるんだよ。汗の量が増えて動悸《どうき》が激しくなる。咳きこむととまらなくなるときもある。だからほんとうは長くいちゃいけない」
「だったらわたしと一緒に――」
「……きみと一緒に?」
わたしは口をつぐんだ。そこからさきはいえなかった。
「ありがとう」≪王子≫の表情から暗い翳《かげ》りが消えた。「でも、ここにいるみんなをおいてはいけないよ」
わたしは≪王子≫を見た。
とりかえしのつかない「もしも」をいまでも夢想している≪ブラシ職人≫や、自分の嘘に無自覚な≪画家≫、包丁をふりまわす気がふれた≪墓掘り≫……つぎつぎと脳裏に浮かんだ。浮浪者たちの生活のなかで自活できる能力も体力もなくて、ひとの目にさらされながら死ぬのを待つしかなかったひとたち。同情はするけれど、救いようのないひとたちだ。
「まさか、ここにいるみんなを助けようと思っているの?」
思わず口にだすと、≪王子≫はさびしげに首をふった。
「ぜんぶ背負いこんだら、ぼくがつぶれちゃうよ」≪王子≫はうつむいてつづけた。「それに、ぼくはここで罰を受けなければならない」
「……罰?」
「ああ」
≪王子≫は足もとにある鳥籠のひとつに手をのばした。そのなかに、くちばしのないあのインコがいた。翼が折れたり羽をむしりとられたり、両肢がないインコもいる。みんな身じろぎせず、まるで≪王子≫のそばから離れたくないようにじっとしていた。
「ぼくは群れに見放された鳥たちにえさを与えたんだよ。つづけていくうちに、えさを求めてぼくがあらわれるのをじっと待つようになった。みんな、おなじような仲間を連れてくる。群れに見放された鳥たちも、生きるのに必死なんだ。盲目的な行動といってもいい。そこに恥なんてない」
「……えさをあげることが、悪いことなの?」
ぽつりともらした。
「死ぬはずだった親や子供が生き残る。生まれなかったはずの卵や子供が生まれる。それをだれが面倒みるんだい? かわいそうだからといって、えさを与えるひとはたいていそれだけで満足して帰ってしまうのに」
わたしが口ごもると、≪王子≫はつづけた。
「仮にえさを与えつづけるひとがあらわれても、それが永遠につづくことはない。えさが打ち切られた時点で、捕殺によらない駆除がはじまる。目のまえでは死なない、じぶんは手を下していない、それだけのちがいになることを、みんな知らない。ぼくも知らなかった」
≪王子≫の贖罪《しよくざい》……。≪時計師≫のおじいさんの言葉を思いだした。
「本来この鳥たちが死ぬべきだった場所を、ぼくは変えてしまったんだよ」
「死ぬべきだった場所?」
「ああ。きみがまだ上側の世界にいたとき、この鳥たちの死骸を街で見かけたことはなかっただろう?」
わたしが上側の世界にいたとき……。思いだそうとして、あきらめた。
「野良ネコや野良イヌやカラスにおきかえてみてもそうだ。都市の野生動物は、事故でなければ死骸なんて見る機会はない。ふしぎなのは事故で死んだとしても、死骸をめったに見かけない動物がいることだ。カラスやスズメのような鳥がそうだ。なぜだかわかるかい?」
わからないでいると、≪王子≫がかすかに微笑んだ。
「それはね、鳥をうまいと思っているのは人間だけではないからさ。野良イヌや野良ネコがすぐに食べてしまうからだよ」
わたしは声をうばわれたような感覚で押し黙った。
「話をもどすよ。不慮の事故を逃れて寿命をまっとうし、死期を悟った野生動物は、人間が集まるような場所で決して息絶えようとしない。たとえばネコ。死期を悟ると人間のまえから姿を消してしまうってよくいうだろう? だれにも迷惑をかけずに死ぬネコを、潔いとする解釈があるけれど、それは人間のエゴだ。人間の勝手な思いあがりなんだよ。だけど実際ネコは、よっぽどの事情がないかぎり、死期を悟ると人気のない、静かな場所に移動することが多いのも事実だ。その理由はこの世に生を受けた生きものだったら、本能で知っていることなんだよ」
「……本能」
わたしは≪王子≫の言葉をなぞるように、くりかえした。
「ああ。ぼくはそれを『生命連鎖』と呼んでいる。すべての生きものにおいて、ひとつの大きな生命の輪のなかで生きているという本能だよ。食物連鎖といったほうがわかりやすいのかもしれない。でもぼくは、そのいい方が嫌いなんだ。その理由はあとで話そう」
≪王子≫は天井の亀裂の入った岩盤に目を向け、わたしにはとどかない、遠いところを見ているような目でつづけた。
「草や花を食べる草食動物、草食動物を食べる小型肉食動物、そしてその小型肉食動物を食べる大型肉食動物、この流れを生食連鎖というんだ。そして生食連鎖のなかに入らない落ち葉や小枝、動物の死骸は、細菌や菌類などによって分解されて、もともと複雑な有機物だったものが無機物に還元される。無機物は植物の栄養となって、ふたたび生食連鎖につながっていく」
≪王子≫の話をききながら、わたしはふしぎな感覚におちいった。まるで世界の理を説くように、≪王子≫はわたしに大切ななにかを教えてくれようとしている。そんな気がした。だとしたらいったいなにを? 目のまえの少年はいったい……
「すべての生きものは、個々の命を受け渡すというリレーをしているんだ。そしてそれはひとつの輪になっていく。だからぼくはその輪を生命連鎖と呼ぶんだ。野生のネコやイヌ、鳥なんかはそのことを知っているんだよ。――『じぶんの死体の使われ方』を知っているのさ。死期を悟った野生動物は、じぶんの死体を必要とするもっとも適した場所、じぶんの命が継がれるであろう環境に、本能で移動していく。こう考えることは決して的外れでないと思う。ここまで説明すれば、きみもわかってくれると思う。地球上の生きもので、この生命連鎖の輪に入らない生きものがひとつだけあるんだ。個々の都合で命を継がず、生命の輪を紡がない、絶対唯一の存在――」
そして≪王子≫はいった。
「それは人間だ。だから『賢い』スズメやカラスや野良ネコは、死期がせまれば、人間のまえでは決して『死ねない』ということなんだ。人間がつくった無機質な街のなか、人間が集まる雑踏のなか、人間が社会を形成しているテリトリーのなかでは、じぶんたちの命が継がれないことを知っているんだよ。それこそ人間の情とやらで、勝手に人間とおなじように火葬されたらいい迷惑なんだよ。彼らはぼくたちのことをどう思っているんだろう? 生命連鎖から唯一逃れている人間をどう感じているのだろう? ふしぎな存在? もしかしたらぼくたちのことを、じぶんたちとおなじ『生きもの』として考えていないのかもしれない。だとしたら、いったいどちらの生き方が尊いんだろうね」
≪王子≫は天井の岩盤から顔をもどすと、わたしを見た。
「ぼくはじぶんのエゴで生命連鎖の輪をやぶってしまった。このインコたちを死地から勝手に遠ざけてしまったんだ」
「……死地?」
わたしはようやく目が覚めたように口を開いた。
「ガネーシャ、きみはなにもおぼえていないんだね」
≪王子≫がかなしそうな顔をする。
「え」
「きみはその場所でひどい怪我を負ったんだ」
記憶になかった。沈黙し、ランタンの明かりから逃れるようにうつむいた。
「いつか思いだすときがくるよ。それまでここにいればいい」≪王子≫は気休めのようにいった。その目がかすみ、壁にもたれていた背中がずるずると下がる。
「≪王子≫、だいじょうぶなの?」
「……ごめん。やっぱ、すこし横になるよ」
≪王子≫は四つんばいになって毛布に移動すると、からだを横たえた。わたしはべつの毛布を引っぱってきて、≪王子≫の頭の下に入れた。
「教えて」
わたしはつぶやいた。
「なんだい」
「さっきの話だけど、ほんとうに人間だけが仲間外れになるの?」
「永遠に仲間外れかもしれない。だから――」≪王子≫はか細い声でつづけた。「人間を撲滅に追いこもうとする因子がこの世に存在する」
わたしは目を大きく見開いた。
「そのひとつが寄生虫や細菌、ウイルスによる感染症だよ。爆発的にひろがって大量の死者をだす。中世のヨーロッパでは、たった四、五年で人口の三分の一がペストで死に、人口が増えるたびにペストが襲い、もとの人口にもどるまで三百年以上も費やしたといわれている。ペストだけじゃない。人口が増えると、その度にいろいろな感染症があらわれて、人間を襲った。コレラやチフスやマラリア、ハンセン病やエイズ、エボラ出血熱や新型インフルエンザ、狂牛病から感染したと思われる、クロイツフェルト・ヤコブ病などがそうだ。人間が感染症と闘い、地球上から撲滅できたのは天然|痘《とう》だけなんだよ。人間は四百万年まえの誕生以来、そんな理不尽な闘いをつづけている。もし生命連鎖が大きな意志を持っているとしたら、人間に、その輪から外れて生きる代償を与えたのかもしれない」
そういって≪王子≫は気怠《けだる》そうにまぶたを半分閉じた。わたしは≪王子≫の手をにぎりしめた。
「――ぼくは上側の世界で生命連鎖のなかに入ろうとしている人間を、ふたり知っている。さっき話したインコの死地は、そのふたりがつくりあげたものなんだ」
ふたり? わたしは吸った息を吐けずに、≪王子≫を見おろした。
「そのふたりは幼いころから、おなじ人間からひどい仕打ちを受けてきた。ふたりはじぶんたちの命の使い方、じぶんたちの命が紡ぐものをさがしているけど、それがなにかわからない。じぶんたちがなんのために生まれてきて、どうして生きながらえているのかを、幼いころからずっと考えさせられる環境で生きてきたんだ。人間が生命連鎖のなかに入れない理由のひとつに、死を恐れていることがある。だけどそのふたりは死を恐れていない。すでに人間以外の野生動物とおなじなんだ。しかしその命の使い方がわからずに苦しんでいる。だからじぶんたちが人間の天敵になろうとしているんだ。それが無軌道な形で暴走し、おなじ人間を蹂躪《じゆうりん》し、あんなものに手をだすことになんのためらいも感じなくなった」
全身から血の気が引く感覚がした。なにかを思いだしかけ、いつの間にか≪王子≫の手を放していた。
「……ガネーシャ、どうしたんだい?」
≪王子≫の言葉が耳に入らなかった。
「もしわたしが」じぶんの声がかすれていることに気づき、なぜか涙ぐんだ。「上側の世界にもどってそのふたりに出会ったら、どうすればいい?」
「きみが人間でありたければ近づかないほうがいい。そのふたりは放っておいても死を選ぶ」
「……どうしてもそのふたりのまえに、立たなければならないときがきたら?」
≪王子≫は短い沈黙のあと、こたえてくれた。
「おなじ生命連鎖のなかに入った、人間の天敵になるしかないよ」
わたしは≪王子≫が深い眠りに沈むのを見とどけてから、石組みの通路をもどった。
≪楽器職人≫に会いにいくためではなかった。あの≪墓掘り≫が落とした包丁を、なるべく遠くへ捨ててしまおうと思った。
あのとき≪王子≫はわたしになにかを伝えようとしていた。しかしそれがなんであるかわからないまま、まるで夢遊病者のように地図をつかみ、ふらふらと包丁を捨てる場所をさがし歩いていた。
やがて地図に描かれた範囲を超えたときだった。
すこしずつ、頭のなかでざあざあとテレビノイズのような音がきこえてくるようになった。
蝋燭の炎がゆれて、消えた。あわてて紙袋をあさる。マッチをとりだしてなん度も擦ったが、火がつかない。……風? しかし肌には感じない。なによりマッチに火花さえ散らないのはおかしい。
まっ暗闇につつまれて、しばらくたってからだった。
急激な目まいに襲われ、頭のなかが渦をまきはじめた。渦はやまない。目頭を強く押さえ、顔を上げたときだった。
目のまえに、決してあるはずのない風景が見えた。
無数の腕や足が突きでた人間の山。
黒々とした死体が絡みあう――人間のからだの山だった。瞬きをなん度くりかえしても、その不気味な山は消えてくれなかった。
そしてそれを、おどろくほど平然と見ていられるじぶんがいる。
わたしは……
……いったい…………
ひとの近づく気配がして、その風景は煙が巻くように消えた。
「だれ」
暗闇のなかで、首をまわして叫んだ。
一度だけ足の裏がこすれる音がした。背後だった。例の大男が尾けている。いつも通り、なにをしてくるわけでもなく、またもとの静寂につつまれた。
「どうしてわたしをずっと尾けているの?」
長い、長い沈黙がおとずれた。
「包丁なら、あずがるよ。ぞれはおれのものだ」
闇の向こうからとどいたのは、濁音の多い、よくききとれない声だった。なによりその声が天井付近からでていることにおどろいた。どのくらい背があるだろう? わたしは闇のなかで目をこらした。
「だれ?」
「だれ?」あきれたような笑い声。「あんだごそ、だれだよ?」また笑った。
その態度に異様な冷たさをおぼえ、わたしは口をつぐんだ。
暗闇の向こうで男の声はつづいた。
「あんだはごの世界にやっでぎでも、まだ呪い足りないようだな」
「呪い? いったいなんの話なの?」
「あんだのせいで大勢のひとが死んだ。無関係のひども死んでいる。いわせでもらうよ。あんだは卑怯《ひきよう》ものだ。目のまえでは死なせない。直接手を下さない。苦じんで死ぬ姿、無惨な死骸を見なぐて済んでいる。だがら良心の呵責《かしやく》に苛《さい》まれない。あんだはそういう安心感でいられる環境を、手に入れたんだ」
知らず知らずのうちに、耳をふさぐじぶんがいた。
「おれの仕事は、ごの世界の用心棒だ。あんだがどんなに深く隠れようと見張っでいる。さっさど≪王子≫のとごろへもどれ。このまままっすぐあともどりしていげば、≪時計師≫が見つげてぐれるはずだ」
この暗渠の最後の住人――≪坑夫≫が近づき、石畳に落ちた包丁を拾い上げる気配がした。
「ごごでは、あんだの好きにざせないがらな」
その捨て台詞を、わたしは指の隙間からきいた。
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第三部
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上側の世界 9
藍原組と極東浅間会の間で、遂に発砲事件が起きた。
極東浅間会の若者ふたりが藍原組の事務所を襲撃し、死亡者と出血多量の重傷者を出した。ふたりは発砲したまま逃走したが、事務所を監視していた私服警官に取り押さえられて殺人の現行犯で逮捕された。藍原組の事務所から組員が続々と駆けつけ、付近は一時騒然となったという。
水樹はビジネスホテルのラウンジで、その記事が載った朝刊を眺めていた。駆けつけた藍原組の組員達が皆、目の下にどす黒い隈《くま》を浮かべていたことまではさすがに報じられていない。
藍原組はこれまで組員を五人失っている。
いずれも眠っている間に死んだような不審死だったので、その不気味な死の噂は若い組員を中心に蔓延《まんえん》していた。誰も次の犠牲者になりたくはないのだ。焦燥は不眠状態をもたらし、中には体調不良や発熱によって顔がむくんで病院に担ぎこまれる者さえいる。
それが今回の襲撃事件で、一気に殺気立つ結果となった。
極東浅間会にとっては報復だった。発砲事件が起きた現場は、壁に打ちこまれた無数の弾痕《だんこん》と何十もの空薬莢《からやつきよう》が散乱していたという。その状況は明らかに藍原組に対する憎悪の深さを示していた。現行犯逮捕された若者は、事件を起こす前に破門処分になり、取調べにおいて組の関与を否定し続けている。
極東浅間会の若頭と何人かの組員が行方不明になっていることは、まだ表沙汰《おもてざた》になっていない。連れ去られたところを目撃した人間はなく、死体もあがっていないから当然だった。そうやって弱者をいたぶるように追いつめてきた挙げ句、起こるべくして発砲事件は起きたのだ。
水樹はミルクが浮いたコーヒーを喉《のど》に流しこみ、新聞記事の一行に目をとめた。事件と関係なく触れられている一文があった。水樹は発砲事件よりむしろ、こっちのほうに緊張を覚えた。
入院中の藍原組組長が死んだ。
組長は四年前の深夜、自宅にいるところを電話で呼び出され、翌朝頭を撃たれた状態で発見された。当時の警察は顔見知りによる犯行と推測し、三日後に犯人が自首した。犯人は半年前に破門にされた元組員で、組長の情婦を巻きこんだ逆恨みによる犯行だった。組長は一命を取り留めたものの、それ以後、意識不明の状態が続いていた。その入院中の組長が、今回の襲撃事件が起こる前に息を引き取った。
組長の死をうけて沖連合で幹部会が招集されたことは、昨日の段階ですでに水樹の耳に入っていた。藍原組が生え抜きの傘下団体であることと跡目がいないことから、葬儀の打ち合わせがその名目になるが、実際は次の組長の人選が本題であることは間違いなかった。ここ数年、藍原組は急成長を遂げている。その肥大した地盤を引き継ぐために、次の組長は沖連合の幹部組員が襲名するという噂が立っていた。
組長候補として紺野の名はいっさいあがらなかったという。幹部会にも紺野は呼ばれていない。
四年前の組長|狙撃《そげき》事件で囁《ささや》かれた噂がいまだ尾を引いているからだった。証拠は見つからなかったが、事件の黒幕が紺野ではないかという根強い噂だった。当時二代目だった組長は若い頃から全身に墨を入れ、組織運用に必要な求心力と経営能力を欠いたまま酒と女遊びを好き放題重ねていた。それまで惰性で続いていた、地元暴力団との共存共栄路線に寄りかかりすぎていたのかもしれない。藍原組の弱体化を自ら招いた事も忘れ、再建役で派遣されてきた紺野をひたすら疎んじた。それどころかことごとく妨害した節さえあったという。しかし紺野は意に介さず、破竹の勢いで地元暴力団を制圧していった。いざ立ち止まって周囲を眺める余裕ができたとき、あの紺野の冷ややかな目に組長の姿はどう映ったのだろう? 紺野は語らず、結局様々な憶測が流れる結果となった。
藍原組組長の正式な襲名は喪が明けてからだった。それまでの間、紺野の動向が懸念された。いつハジけるかわからない、そう恐れる声もある。
そうした中、今回の発砲事件が起きた。
タイミングが良すぎる。
今の極東浅間会に抗争を続ける体力などない。背後につく者がいるとすれば、言うまでもなく沖連合の幹部層だった。そうなれば短期間で抗争は激化し、藍原組はさんざん痛めつけられた挙げ句、シノギを食われてしまう羽目になる。組員達を切り捨ててでも藍原組の地盤は手に入れたいと、本音を洩《も》らす沖連合幹部もいる。
――しかし……
水樹には理解できないことがあった。
高遠は例のビデオテープを沖連合幹部の島津に送りつけた。そして今回の組長の死に紺野が絡んでいるとすれば、この事態はあのふたりによって引き起こされたことになる。だとしたらあのふたりは組織の維持などまったく興味がなく、ただひたすら破滅の願望に従って突き進んでいるように思えた。
しかしあのふたりは莫迦《ばか》ではない。自己破壊もいとわない凶暴さの内で、常に怜悧《れいり》な頭脳を働かせている。唯一予測不能な事態があるとすれば、すべてのきっかけを作ったガネーシャの存在のはずだった。音もなく現れ、毒煙を吐きかけるように組員を殺害しているガネーシャは、ふたりの中でいまだ禍々しい響きを持っているに違いなかった。
いまだその正体も目的もわからない。
ガネーシャをつかまえるための情報は、いまや高遠のもとにすべて集められていた。その驚くべき情報収集力は高遠、機動力は紺野という具合に、藍原組の機能は分担されていた。高遠は警察がどのように監視しているのかを詳細に把握し、紺野は高遠に背中を預ける形で冷酷な狩りを続けている。
不審者の拉致《らち》と拷問は秋庭達の仕事だった。それらは決して表に出ない。拷問は行き場のない彼らの憤懣《ふんまん》を晴らすかのように、日に日にエスカレートしている。
あざ笑うガネーシャの声が聞こえてくるようだった。
紺野と秋庭は斎場の駐車場でジャガーから降りた。
頭を焦がすような日射しの中、蝉の鳴き声がジュワジュワと響いている。
秋庭は目頭を強く押さえ、立ちくらみをこらえた。連日の緊張と疲労がそうさせた。隣に並ぶ紺野もまた、ここ数日で急に老けこんだように頬の肉が削《そ》げ落ちていた。
藍原組組長の葬儀が行われる斎場は、住宅街から外れた場所にあった。火葬場とは別で通夜と告別式を専門で行う会館だった。鋼板を使用した現代的な外観で、出入口と欄間のみ深い色合いの木材で造形されている。また複数の喪家がぶつからないよう、専用の出入口や控え室がいくつも設けられている。
行き来するのは霊柩車《れいきゆうしや》でなく黒塗りのリムジンだった。住宅街の外れとはいえ建設の際、霊柩車が走ると気持ちが悪いという、住民と自治体の反対意見があったための苦肉の策だった。
熱と風で陽炎《かげろう》のように揺らめくアスファルトの先から、かすかな音が湧いた。
秋庭は聞き耳を立てた。それがエンジン音だと気づいたときには、シルバーのメルセデスが二台やってきた。
会館に向かいかけていた紺野も反応する。
メルセデスはジャガーの隣に停まった。ドアがばたばたと閉まり、ボディーガードに囲まれた島津が現れた。
「ご苦労さんです」
秋庭は条件反射的に頭を下げた。ボディーガード達の殺気に満ちた視線を頭上に感じ、紺野の指示とはいえ丸腰できたことを後悔した。
「人工呼吸器が都合良く止まったそうだな」島津は秋庭を無視し、紺野に低い声で言った。「どうやって揉《も》み消した、なんて野暮なことは聞かねえよ。お前んとこの組長は遅かれ早かれああなる運命だった」
紺野は無表情に島津を見つめ返している。島津は続けた。
「遺族は警察沙汰にしない意向だ。うちも今回の件を大事《おおごと》にして、世間に恥をさらすつもりはない」
警察の手に引き渡すつもりはない。秋庭にはそう聞こえ、見えない手で胃を握られる感覚がした。
紺野は目の前の出来事に興味がないといった表情だった。ボディーガードのひとりが鼻白むと、島津が片手でそれを制した。
「――ときどき組長の世話をして、姿を消した若い女がいるそうじゃないか」
千鶴のことだった。紺野の目が動き、情報の早さに秋庭は生唾《なまつば》を飲んだ。姿を消したと言っている以上、居場所を突き止めるため手を尽くしていることを示している。
「生きたまま連れてこい」島津が言った。
「できない場合は?」
ワンテンポ遅れて、紺野がはじめて答える。
その瞬間、肉を潰《つぶ》す音がした。紺野の顔がのけぞり、熱したアスファルトの上に尻《しり》もちをついた。口の端を押さえ、その指の隙間から血を滴らせた。
島津は血のついた拳《こぶし》を、固く握りしめていた。
「幹部会の結果がでるまでもねえ。絶縁だよ、てめえはよ」
「……できた場合は?」紺野が血をぬぐって聞く。
「女から全部聞くよ」
その声に酷薄な感情が秘められていた。
紺野は島津に聞こえる渇いた声で、「どのみち絶縁か」とつぶやいた。
島津が息を吸いこんだ。殺意で喉元が膨らんだように見えたが、それ以上動じることはなかった。
「紺野よ。お前が裏でやってきたシノギの情報、おれが知らねえとでも思っているのか。沖連合《うち》の後ろ盾が欲しければ、取引きに応じてやってもいいぞ」
紺野の無表情がわずかに崩れた。「何を言いたいのか――」
「とぼけるな」島津は紺野の声が聞こえないかのようにさえぎった。「決心するまで、せいぜい極東浅間会のカチこみに耐えることだな」満足そうに唇を歪《ゆが》めてみせると、ボディーガード達を引き連れて会館に向かっていった。
島津達が去るまで、秋庭は身体の緊張が解けなかった。この暑さなのに冷えた感覚が背筋にのぼってくる。それをまるではかったように携帯電話が鳴った。秋庭はポケットから取りだして耳にあてた。
「はい」返す声に緊張が加わった。「――いつ? 何人だ?」
紺野が静かに立ち上がる。
秋庭は携帯電話を切り、紺野を向いた。動揺を抑えるため深く息を吸った。
「今朝から連絡が取れなくなっていた組員ふたりですが、ひとりが死体になって見つかったそうです」
「ガネーシャか?」
一拍おいて、紺野がたずねた。
秋庭は首を横にふった。
紺野の眉《まゆ》がわずかに動いた。「状況を言え」
「今朝方、本部事務所に向かう途中でいきなり車に押しこまれて、郊外の山道まで連れて行かれたそうです。生き残ったひとりは、死んだもうひとりを埋める穴を掘らされて気がおかしくなっているそうです」
「相手は拳銃《チヤカ》を使ったのか?」
「いえ。ボウガンです。覆面をした連中は極東浅間会のバッジを落としていきました」
紺野の目が、島津が去っていった方向を向いた。
「見え透いた真似を」
「極東浅間会のバッジは警察に押収されたようです」
紺野が舌打ちした。
秋庭は踵《きびす》を返し、ジャガーのキーを探そうとした。
「どこへ行く?」紺野に肩を押さえられた。「現場に任せておけ」
「しかし」
「島津を喜ばせたいのか? このまま何事もなかったように斎場に行く」
「しかし……」
秋庭の目が一気に充血した。
「秋庭、お前」紺野が秋庭の胸ぐらをつかんで引きよせた。「あんなやつらの下で、一生やくざ者で終わるつもりか?」
長い沈黙とともに、秋庭の頬から一筋の汗がすべり落ちた。
「――自分は紺野さんについていくだけです」
自分に言い聞かせるように吐きだした。事実、今までそうしてきて間違いはなかった。代行は夢も見させてくれた。それに……。島津が言っていたシノギも、自分にだけは説明してくれる日がきっとくる。秋庭は固くそう信じた。
水樹は駅前にあるデパートの屋上に向かった。
エレベーターから降りてガラス張りの自動ドアをくぐると、人工芝が敷きつめられた小さな遊園地が広がっていた。
強い西日を片手でさえぎった。
乗り物の遊具や子供用のアスレチックが所狭しと置かれている。水樹はまだ幼い頃、こういう場所に母親と一緒にきたことを思い出し、かすかに懐かしさを覚えた。今では屋上に遊具を置くデパートなどは少なくなり、大半がビアガーデンになっている。この界隈《かいわい》ではここだけだった。大したものはないが、それでも家族連れで賑《にぎ》わっている。
水樹はスナックコーナーの裏側にまわった。フェンスを挟んだ日陰の部分で、背を丸めて車椅子に座る男を見つけた。
男は不機嫌そうにソフトクリームを舐《な》めている。
水樹は無関心を装ってフェンスに向き、ひとり言を吐くように報告した。
「事務所を確認してきました。依然として立ち入り禁止の状態が続いています」
「な、長いな」
背後の高遠がぽつりと洩らした。
「警察はホコリのひとかけらでも拾おうと躍起に動いているように見えます。現場検証に紛れて、代行をひっぱれそうなブツを捜しているのかもしれません」
「しゅ、襲撃される前から紺野には伝えてあるよ。現場から拳銃《チヤカ》が押収されるなんてヘマはしない」
フェンスの金網を見つめたまま、水樹の表情が硬くなった。高遠は襲撃を予測していたのに防ごうとしなかった。だとしたら紺野も紺野だ。姿を見せないガネーシャの恐怖に翻弄《ほんろう》され、不眠と疲労が続く組員達を犬死にさせたことになる。
「こっちを向け」
双眼鏡を投げて寄こされた。水樹は片手で受け取り、フェンスに近づいて双眼鏡をのぞいた。高遠の指示に合わせて位置を調整し、倍率を上げていく。自販機が三つ並んでいる小学校の通学路に視野を固定させた。
「そ、そこが二度目の襲撃が起きた現場だ」
水樹は確認した。まだ警察の現場検証は行われていない様子だった。
「……犯行は今朝の四時頃。く、組員ふたりが本部事務所に向かう途中、後ろからナンバーを隠した黒いオデッセイが近づいてきて、窓越しにボウガンを発射したらしい。オデッセイに乗っているやつらは一言も喋《しやべ》らなかったそうだ」
「襲われた組員はなぜそんな時間、外に?」
「その点については携帯電話の通話記録を調べてわかった。な、仲間から呼び出しがあったようだ。だが電話を寄こしたその仲間の所在はつかめていない。たぶん先につかまって電話をさせられたんだろうな。もう生きてはいないだろう」
手口から考えてガネーシャの仕業でないことは明らかだった。つまりガネーシャの連続殺人に乗じた、卑劣な襲撃になる。
「今回も極東浅間会の仕業でしょうか」
「手際が良すぎる」高遠は否定した。「ボウガンを使ったのは周囲に騒がれないことと、これ以上射殺体を増やすのは得策じゃないという考えからだ。……み、見ろよ。君が今のぞいている現場は、血の跡さえ残っていない。沖連合の島津が雇ってこの界隈に潜ませていた不法入国者達に、バトンタッチされたんだよ」
その不法入国者に住処《すみか》を斡旋《あつせん》したのは、偽造名義ブローカーの安《アン》だった。
「じゃあ安を裏で動かしていたのは――」
「島津だよ。それと公園でつかまえたフリーランスのルポライター、お、おぼえているかい?」
大谷のことだった。彼もまた島津に雇われた男のひとりだった。
「はい」
「ひとつわかったことがある。あいつ、ぼくが前の会社に在籍していた頃からずっと嗅《か》ぎまわっていたんだ。時間をかけただけあって、いろいろ余計なことまで知っていたよ」
水樹は双眼鏡を目にあてながら、埠頭《ふとう》の廃倉庫に監禁された大谷の姿を思い浮かべた。両腕を縛られ、よだれをこぼしながら床に寝そべっていた。頭が良くなる薬を注射したから、と高遠は言っていた。水樹は意識を双眼鏡に集中した。肝心の千鶴とはまだ連絡が取れていない。
高遠は続けた。
「今回、島津が雇った連中は少人数でもプロだ。短期間でケリをつけるつもりでいる。……水樹、例のものは控えてきただろうな?」
水樹はポケットを探し、中のものを後ろ手で高遠に渡した。
小さく折りたたんだ地図だった。
紺野の指示で藍原組の組員は四、五人のグループに分けて待機させられていた。地図には組員達の居場所と連絡先を細かく記入している。彼らには転売を重ね、出所がわからない無登録携帯電話を配っていた。また、どの場所で襲撃が起きても連絡を受ければすぐに応援に駆けつけられるよう配置していた。藍原組は対立組織や警察に知られていない隠れ場所をいくつか所有している。現時点で藍原組組員は被疑者でないので、警察もうかつに手をだせないことが幸いしていた。
水樹の背後で、地図をくしゃっと丸める音がした。高遠はもう記憶したのだ。
「ま、まさか組員全員に、チャカを持たせているんじゃないだろうな?」
「秋庭さんの指示でそうしているようです」
「住宅地のど真ん中で銃撃戦を起こすつもりか、あ、あの莫迦め」
水樹の喉仏が動いた。「――プロを相手に丸腰で立ち向かえと?」
「わかってないな。生きている人間を殺したことのないやつは、実戦で役に立たないんだよ。しかしその気にさせれば盾くらいにはなる」高遠は一呼吸置いてから続けた。「残っている組員で、やみくもに発砲しそうな莫迦はどのくらいいる?」
「組員の半分です」
水樹が重い口を開くと、高遠は沈黙した。不快さを伝えて余りある沈黙だった。水樹はその場の空気が張りつめる感覚に襲われ、口にしたことを後悔した。
「こ、ここここ、紺野はそんなこと言ってくれなかったぞ」
「自分の目で見た感想です。組員の大半が一種の錯乱状態です。襲撃事件が起こる前から、五人もあんな死に方をしているので無理ありません。代行に対してあからさまな不満を口にしている者もいれば、隠れ家を抜けだして極東浅間会の組員とつかみあいの騒ぎを起こした者もいます。中には藍原組に護衛の警官を寄こせとわめいた組員もいたそうです」
「……ま、まだ何か言い足りなさそうだな。言ってみろ」
「精神賦活剤では足りなくて、覚醒《かくせい》剤に手を出している者がいます」
一瞬、ぽかんとした間が空き、動揺と苛立《いらだ》ちを同時に呑《の》みこむ気配がした。
組員達は日中繰り返し襲ってくる過度の睡魔と体調不良を抑えるために、覚醒効果のある精神賦活剤を朝と昼に摂取していた。今回の襲撃事件が起きてから、量がさらに増している。夜間の睡眠が不充分なまま精神賦活剤を必要以上に服用すると、精神不安定を引き起こす恐れがある。また依存性も高いことから、服用には充分な注意が必要なはずだった。それが守られていない。指示を出したのは秋庭だった。紺野はそれを咎《とが》めなかった。そしてそれを知る高遠も口を出さなかった。紺野と高遠のふたりにとって組員などは替えのきく消耗品かもしれないが、それが裏目に出ようとしている。ガネーシャが現れてから藍原組に、目に見えない細かな皹《ひび》が入りはじめていた。
「だ、だれが覚醒剤に手を出しているんだい?」
高遠は落ち着き払うように言った。
「桜井を含めて四人。ですから固めて配置しています。渡した地図にはチェックを入れています」
「昔、きみの鼓膜を破ったあの男か」
水樹が答えずにいると、高遠は、まあいい、そう言って続けた。
「とりあえず桜井達のグループから武装解除だ」
携帯電話を取りだす気配がした。連絡は二、三のやりとりだけで終わった。相手は紺野としか思えなかった。
「……こうなったのも、すべてガネーシャが発端です」
水樹は硬い声でつぶやいた。
「た、確かに島津にとっては都合のいい方向に動いている」
「最初からガネーシャと組んでいた可能性は?」
「それも考えられるな」
高遠は一枚の用紙を水樹に差し出した。紙は風に揺れ、水樹は飛ばされないよう受け取ると、フェンスに向ってそれを眺めた。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
【送信者】coal_@******.ne.jp
【宛先】konno@castrum.com,takato@castrum.com
【受信日時】8月21日 20:13
【件名】epsilon
「大罪で築きあげた城の秘密を守るのは、
炭坑に閉じこめられた坑夫達。
五人目の死者が訪れる日を、彼らの亡霊は待ちつづける」
[#ここで字下げ終わり]
これで五通目だった。日付は五人目の犠牲者、苅谷という組の若者が死んだ翌日となっている。苅谷の死体は炎天下にさらされた車内で発見された。これで五人とも、眠ったまま昏睡《こんすい》状態になった形で死んでいる。
「その電子メールの差出人名義は『オオスミ タカシ』だ」
背後で高遠が言った。
水樹は用紙に目を落とした。オオスミタカシもまた、もうこの世にいないホームレスだと悟った。今から六年ほど前、この界隈からホームレスが二十人ほど姿を消した。おそらくその中のひとりだろう。高遠や紺野にとって、そのホームレス達の存在自体が脅迫にあたるのだ。ガネーシャはどこかでその秘密を調べ、告発の意味をこめて電子メールを送っているのかもしれない。
水樹は注意して電子メールの文章を目で追った。あのとき大谷が指摘した通りだった。名前の「スミ」という部分をもじってアドレスの先頭文字(coal=石炭・炭)にし、文中もそのヒントとなるような内容になっている。「epsilon」はギリシア数字で「5」だ。しかしそれ自体に何の意味があるのかわからない。
「もしガネーシャと島津が組んでいるのなら」水樹は言った。「今、島津が動いている以上、ガネーシャの役目は終わったはずです」
「ま、まだ続くよ」
水樹はふり向き、つかの間、言葉を返せずにいた。
「ガネーシャの呪い[#「ガネーシャの呪い」に傍点]をかけられている組員は、もう助からない」
「呪い? どういうことですか?」
「ガネーシャの殺人の手口がわかったんだよ。常識じゃ、ちょっと考えられない凶器を使っていた」
「……凶器?」
「今までの五人の犠牲者を思い浮かべればいい」
水樹は黙って息を吸い、高遠を見つめた。わからなかった。
「人間の天敵とでも言っておこうか」意味ありげに高遠は続けた。「明日の零時前に、埠頭の廃倉庫にくるといい。その頃には君に見せられる面白いものが届いていると思う」
遠くから軽い足音が近づき、高遠と水樹の目がその方向を向いた。
三歳くらいの男の子だった。高遠のそばで立ち止まり、車椅子や引きつった横顔を無遠慮に眺めている。
母親があわてた様子でやってきた。
「お子さん?」
高遠が静かにたずねた。
「え、ええ。何かご迷惑をかけたでしょうか?」
高遠が微笑む。「子供はいつだって他人に迷惑をかけて生きるものですよ」
母親は深々と頭を下げ、男の子を抱えてその場から去っていった。高遠はその母子の後ろ姿を眺めていたが、やがてその顔が醜く歪み、自嘲《じちよう》気味につぶやいた。
「――見たか?」
「何をですか」
「あの母親の同情するような目。家に帰って子供に言い聞かせるんだろうな。やさしさ? 思いやり? 気安く使われすぎているんだよ。見せかけのうわべだけのやさしさが、どれほど障害者を傷つけることか」
水樹はかすかな反発を覚え、言うまいとしていたことを口に出した。
「他人がそれ以外に何をできるというんです? それに、やさしさとか思いやりを欲しがっている人はいると思います」
「やさしさねえ」高遠は水樹の態度を咎めなかった。「やさしい人って、どういう人のことを言うんだろうな」
水樹は口ごもった。
「と、ともに苦しんでくれる人のことだよ」高遠はソフトクリームの最後の一口を、口の中に放りこんだ。「……君ならまっぴらか?」
水樹が返せずにいると、高遠は寂しげな表情を横顔に湛《たた》えた。
「そろそろ行こうか。たまには押してくれ」
[#改ページ]
下側の世界 9
弦の奏でし音、それは耳の癒《いや》し。
音楽のもたらす、
なんと心地よき、えり抜きの響き。
だが、それも、汝《なんじ》の魂を奮い立たせ、
かの源に近づけるものでなければ、
すべて虚しいものなのだ。
[#地付き]ヤン・ライケン著
[#地付き]西洋職人図集「楽器職人」
ちりん、ちりん……
ランタンの明かりのなかで、≪楽器職人≫が身につけている装飾品がきれいな音をたてた。
首にまいたきらびやかなネックレスも。
片耳にぶら下げた派手なイヤリングも。
ひどいチェロの旋律よりも、ずっと美しい音色を奏でている気がした。
≪楽器職人≫は木箱を積み重ねた椅子にすわってチェロを弾いている。力強く運ばれる右手の運弓、めまぐるしく弦を押さえる左手の指さき――左手の小指と薬指が欠けているにもかかわらず、残された指ひとつひとつが意志を持つように弦の上をはっていた。まるで、欠けた指なんてはじめから必要としなかったように。
≪楽器職人≫はときどきなにかを我慢するしぐさで下唇をかみ、眉間《みけん》に深い縦じわをつくった。そのしわは長い歳月を奏者として過ごしてきた証《あかし》のように刻まれた。どういう過去があったかわからないが、この女性《ひと》は決して趣味だけで演奏してきたのではないと思った。
しかし……
さっきから感じる違和感。それがなんであるか気づくまえに演奏がぴたりとやんだ。
「わざわざお礼をいいにきたなんてね。いいところあるじゃないか」
≪楽器職人≫と呼ばれる女性は静かにつぶやき、持っていた弓を大きな楽器ケースのそばに立てかけた。
「――いまの曲は有名だから、あんたも一度くらいはきいたことあるだろう?」
伯父《おじ》さんがよくきいていたクラシックのなかで、ききおぼえがあった。たしかバッハにチェロの組曲があってそのなかのどれかだった気がする。
わたしが口を開くよりさきに、≪楽器職人≫はいった。
「すばらしい音楽は耳だけじゃなくて頭のなかでも楽しませてくれるものさ。わたしの祖父は有名なチェリストでね、そりゃあきびしいひとだった。奏者の奏でる旋律に乗って運ばれるイメージは、聴き手によっていくつもあってはいけない。奏者による絶対的な、たったひとつのイメージが聴き手に伝わらなければ奏者は弓を持つ意味はないと、幼いころから叩《たた》きこまれてきたんだよ」
わたしはそうでもしなければ失礼なように、深くうなずいた。
「ところであんたはよりにもよって、なんでこんなところにいるのさ? ここではまともなわたしが『魔女』あつかいされてるんだよ? 王子以外はみんな狂っている。わたしも演奏の勘を完全にとりもどしたら、すぐにでもこんなところをでてやるんだけどね」
≪楽器職人≫の顔はだいぶ老けて見えた。目の下の隈は、古い家の壁にできたしみのように浮きでている。ときどきランタンの明かりが、首にまいたネックレスや、耳たぶからすこし引っこんだところにある、耳の穴にあわせたようにつくられた真っ赤な装飾品をきらりと光らせた。
この暗渠《あんきよ》にくるまえはいったいどんな生活をしていたのだろう? 想像をかきたてた。
「おいあんた、さっきからわたしの左手ばかりじろじろ見るじゃないか」
尖《とが》った声。わたしはあわてて目をそらした。失礼だと思って、なるべく見ないようにしていたのに。
「わたしはね、指がなくてもちゃあんと弾ける。一流の音だって奏でることができるんだよ。あんただって、さっきからきいててじゅうぶんわかっただろう?」
あのひどい旋律がリアルに耳によみがえってきた。わたしの視線はあっちこっちとさ迷い、≪楽器職人≫が手にしているチェロに向いた。こんな場所でも手入れを欠かさない。それがどんなに無意味であっても、彼女にとって重要なことに思えた。きっと高価なものだろう。
石組みの壁に立てかけられた楽器ケースに目をとめた。鮮やかな彫り物がされている。ひとりの女性が川に足を浸し、紡ぎ棒を持って夜空の三日月を見あげている。そんな、ふしぎな絵だった。
「祖父から贈ってもらったんだよ。楽器ケースに月の絵があるだろう? 音楽と月は、意外なところで関わりがあるんだ。三日月や新月は英語でクレセント(crescent)といってね、ラテン語で成長する・大きくなるという意味の crescere から派生しているのさ。これが英語でなくイタリア語に派生すると、クレシェンド(crescendo)といって、だんだん強く弾くという音楽用語になるんだよ」
「……このひとは?」
わたしは楽器ケースに彫られた女性を指した。
「これかい? ギリシア神話の月の女神さ。ええと、名前はなんだっけかな」
「クロト?」
わたしははっきりと口にした。
「ああ。たしかそういう名前だったよ」
「運命を司《つかさど》る三女神のひとり。『つむぐ者』という名前も持っているわ」
≪楽器職人≫はおどろいたように見かえしてきた。
「なにやら詳しそうじゃないか。だったらさきにそういいなよ。あんた、ガネーシャと名乗るところといい、神話系や神々について素養があるのかい?」
わたしは黙って目を伏せた。じぶんでもなに者かわからない。ただ楽器ケースにあるクロトのように、わたしにもかつて、夜空に浮かぶ星座を眺めて過ごした時期があったことを思いだした。
楽器ケースに目をもどすと、奇妙な点に気づいた。ケースの上の部分――夜が描かれていると思った部分は、よく見ると焼け焦げた跡だった。
「おや、この跡に気づいたのかい? あんたは見ていないようで、ちゃんと見ているんだね。火事なんだよ。この指もそうさ。あのおしゃべりの≪時計師≫からなにもきいてないのかい? そりゃめずらしいことだね。こんな小汚いおばさんでもむかしは有名な交響楽団で弾いていたことがあるんだよ。将来を嘱望された指揮者と恋におちて、結婚して、娘をひとり産んだ。それなりに幸せな生活を送ったんだけどね、この指が……この指がすべてをうばいとったのさ」
なにかにとり憑《つ》かれたような目で、欠けた指をずっとにらんでいる。
「……でも、もうじきわたしは上側の世界にもどれるんだよ。勘はだいぶとりもどした。欠けた指だって、それを補うための血のにじむような努力をしてきたんだ。また以前の生活にもどれたら、世話になった≪王子≫にはたくさんのお礼をしなければね」
「≪王子≫はいったいなにをしてくれたの?」
≪楽器職人≫は眉をひそめ、わたしの口もとを注視する。
わたしはもう一度おなじことをいった。
「ああ……≪王子≫のことかい? わたしにこの場所を教えてくれたんだよ。だれにも見られずに一心に練習にうちこめる場所をね。あんたもそうだろう? だれにも見られたくなかったんだろう? それともその目で見たくないものが、上側の世界にあったのかい?」
わたしがこたえられずにいると、≪楽器職人≫は同情する顔をした。
「なるほど。わたしがいろいろ性急にききすぎたせいで、だまっているんだね? それとも≪墓掘り≫に追いまわされたときのショックがまだ抜けてないのかい? そういえばさっきから無口だもんね。墓場に迷いこんで、あんなものを見たならなおさらだよ」
あんなもの? わたしはわからない顔をかえした。
「見なかったのかい? あれ[#「あれ」に傍点]を」
≪楽器職人≫はわたしの肩に手をかけ、もう一度「あ・れ」とくりかえした。その口ぶりは、あの赤銅色の産業廃棄物とはちがうものをさしているように思えた。
わたしが首をふると、≪楽器職人≫は半ば閉じた目でわたしを見つめた。底意を押しこむような沈黙がつづき、
「ついてきな」
その唇に浮かんだ意地悪い笑みを、わたしは見逃さなかった。
≪楽器職人≫は蝋燭《ろうそく》をかかげて先導してくれた。わたしは石組みの壁の感触をたしかめながら、あとにつづいてく。
なん度目かの曲がり角にさしかかったとき、≪楽器職人≫は足をとめた。警告文がある場所――ここからさきが≪墓掘り≫のいる墓場のはずだった。奥からぜぇぜぇと苦しげな呼吸音がきこえる。しかし≪楽器職人≫はためらうことなく角を折れた。
わたしもつづいた。
≪楽器職人≫が立ちどまり、汚いものでも見るような目つきを足もとに向けた。蝋燭の明かりが段ボールの上にある黒い塊を照らした。トドのように横たわるそれが、≪墓掘り≫の姿だと気づくまで時間がかかった。
近づいたわたしは息を呑んだ。
なんという姿だろう。わたしを追いまわしたときの面影など、どこにもなかった。苦しそうに胸を上下させるだけの、死にかけた老人がそこにいた。生気のないうつろな目、乾燥してひびわれた肌……。わたしを襲った力がいったいどこに隠されていたのか、ふしぎに思えるくらいだった。
「まったく」≪楽器職人≫がため息をつく。「死にぞこなっていたり動きまわったり、生きているか死んでいるか、はっきりさせてほしいものだねえ」
わたしはつまさきにふれたものに目をとめた。非常食用のラベルが貼られたビスケットやレトルト食品、水の入ったペットボトルがおかれていた。≪王子≫がここまで運んできたのだろうか?
≪楽器職人≫が靴のかかとで≪墓掘り≫を小突いたときだった。≪墓掘り≫が骨ばった指をのばし、彼女の足首をつかんだ。
「なんだい。はなしなっ」
「………………ナオユキ……」
わたしははっとふり向いた。≪墓掘り≫は蚊の鳴くような声で訴えている。
「はなせっ。このっ」
「………………………………あっ…………あ……ナオユキ……」
「はなせったら、このやろう」
≪楽器職人≫は乱暴に足をふって――わたしがしたこととおなじように――≪墓掘り≫を突き転がした。≪墓掘り≫は石組みの壁に頭をぶつけると、そのまま動かなくなった。
「この死にぞこないが」
≪楽器職人≫が唾《つば》をぺっと吐き、首をまわした。
「ここからさきは、あんたも蝋燭の火をつけたほうがいいよ」
急にやさしい声になった。
わたしはじぶんの蝋燭に火をつけた。石畳に空き缶やノート、衣服が散乱している。いったいなにに必要だったのか、ノコギリや旧式のカメラまであった。ひざまずいてノートを手にとった。毒々しい赤銅色に染まってよく見えなかったが、ボールペンでなにか記録されている。
歩きすすんでいくと、いきどまりの壁があった。そこに毛布がなん十枚と重ねられ、まわりに白いドライフラワーが散らばっていた。カーネーションやフリージア……西洋の葬花だった。
「ほら、これだよ」
≪楽器職人≫が乱暴に毛布をはがしていった。最後の一枚になったとき、彼女はその役目をわたしに譲った。
毛布のかすかな盛りあがりが気になった。
嫌な予感がした。
端をすこしめくりあげると、警棒とエアガン、それにつづいて白っぽいものが見えた。それがなんであるか判断つきかねた。さらにめくってみると全体があらわになった。石灰の塊のようなものが大小さまざまな形で転がっている。
あやうく蝋燭を落としそうになった。
人間の子供の骨だった。
死後かなり過ぎていることは容易にわかった。頭や肋骨《ろつこつ》や四肢は離ればなれになり、ちぎれている子供服は赤銅色で染まっている。いままでこの暗渠の奥に隠されて、ひとりぼっちで泣き濡《そぼ》ってきたようにその小さな存在を訴えていた。
ぼうぜんと見下ろしていると、横から視線を感じた。≪楽器職人≫がのぞきこむようにして、わたしを観察している。
「なんだい。おどろかないんだね」
つまらなそうに≪楽器職人≫はいった。結局それが目的だったのだ。
わたしは子供の骨を指さした。「……これはいったい?」
≪楽器職人≫には通じなかった。わたしはもう一度いった。
「ああ、骨のことかい」
わたしはうなずいた。
「≪墓掘り≫はね、仲間と一緒にこの子供の死体を隠したために、残りすくない人生を棒にふったんだよ。まったくばかだよねえ」
「……ナオユキって?」
その名前を≪墓掘り≫から耳にしたのは二度目だった。ずっと気になっていた。≪墓掘り≫が憑かれたようにつぶやく名前。
≪楽器職人≫の目がわたしの口もとを注視し、わたしはもう一度くりかえした。
「ああ、ナオユキのことかい? 上側の世界で、≪墓掘り≫たちの唯一の味方だったひとだよ」
だけどね、と≪楽器職人≫は唇を歪めてつづけた。
「手のひらをかえすように、ヒ素入りの食べものを≪墓掘り≫たちに与えつづけた裏切りものさ」
「――まるでジャンゴ・ラインハルトの再来じゃな」
不幸な事故で左手の薬指と小指の自由がきかなくなり、血のにじむような努力で独自の奏法を編みだしたジャズギターの名手。
遠くからきこえるチェロの演奏に、≪時計師≫のおじいさんはハエでも追い払うしぐさをしてそういった。再来という言葉に皮肉がこめられていた。すくなくとも≪楽器職人≫は名手でない。曲の体裁は保っているが、調律はバラバラだ。
≪楽器職人≫と別れたわたしは≪時計師≫のおじいさんとばったり出会い、小さなガソリンストーブを挟んですわっていた。≪時計師≫のおじいさんは、わたしがとりもどした懐中時計を大切そうになん度もなでている。
「≪楽器職人≫はもうすぐここからでられるの?」
「だれがそんなこといったんじゃ」
「彼女。指が欠けてもあのひとは努力している。火事なんて不幸がなければ、彼女の人生は変わっていたのかもしれない」
おしゃべりな≪時計師≫に期待した。どうしてもたしかめたいことがあった。わたしの推測が正しければ、≪楽器職人≫もまた、二度とでられない深い闇のなかで生きている。
「……でられるわけないじゃろ、危なっかしくて」
「有名な交響楽団で弾いていたことがある、っていっていたわ」
「あの女の家系は芸術家ぞろいじゃったからな」
「だれからきいたの?」
「あの女と≪王子≫の立ち話じゃ」
つまり盗みぎきだ。水を差すのはやめ、つづきを待った。
「英才教育を受けたチェリストというのも、どうやらほんとうのことらしい。あの女は将来を嘱望された指揮者と出会ってすぐ結婚した。結婚を急いだ理由は子供を身ごもったからじゃ。しかしあの女が望んだのは、母親になることじゃなかった」
彼女がチェリストの道を容易に捨てなかったことは、あの言動から想像ついた。
「じぶんの力を信じ切るという意味では、才能はあったのかもしれん。しかし裕福なお嬢様育ちだったせいか、家庭に対する憧《あこが》れはうすかったようじゃ。だから結婚してぎくしゃくした。夫と喧嘩《けんか》を重ねるたびに、雨戸を閉め切るような生活になって、ますますチェロに執着していったそうじゃ」
「娘は?」
「だいぶ手をあげていたらしいな。あの女の自宅が全焼したとき、夫は自宅にいなくて外でほかの女と会っていたそうじゃ。しかしクローゼットのなかに閉じこめていた娘は逃げ遅れた」
そして≪時計師≫のおじいさんは声を潜めた。そんなことする必要、まるでないのに。
「……あの女が火をつけたんじゃよ。表向きはタバコの不始末で処理されたがな」
わたしはおどろかなかった。頭のなかでばらばらになっていた疑問が、ようやくひとつになったからだった。
おそらく火事が起きるまえからすでに『欠けて』いたのだ。
指ではなく、聴力が。
彼女の片耳にあった奇妙な装飾品――耳たぶからすこし引っこんだところにあった、耳の穴にあわせたようにつくられた真っ赤な装飾品……あれはカラー補聴器だったのだ。
わたしに対する一方的な会話、そしてじっと唇を見つめるあのしぐさ。
彼女の聴力はいまも日に日に落ちている、そんな気がした。
≪時計師≫のおじいさんがいった。
「あの女は重度の感音性難聴じゃと、≪王子≫はいっていたな。じゃがあの女は決してそれを認めようとしない。あの女にとってチェロの演奏が困難になった理由は、聴力をなくしたことであってはならないんじゃ」
想像した。味覚を失っていく料理人が自ら厨房《ちゆうぼう》からでていく決断を。それ以外の人生の選択肢を模索できないひとなら、どれほどの苦痛をともなうか。
しかしそれでも腑《ふ》に落ちない点があった。≪時計師≫のおじいさんに、かつて難聴で苦しんだ偉大な作曲家の例をあげた。
「いったいなん世紀まえの話じゃ?」ばかにされた。「それに作曲家と奏者はちがう。極論をいえば作曲家は頭のなかでメロディが鳴っていればいい。譜面が読めればいいんじゃよ。じゃが奏者はじぶんの音で商売する。じぶんにしかだせない音が奏者の価値になる。奏者にとって必要なのは耳じゃ。それをなくせば絶望に等しい苦しみをともなう。いいか? べつにプロのチェリストにならなくてもチェロは弾ける。しかしあの女のなかでは、それは許されなかった。現に耳が悪くなったのをひたすら隠していた」
わたしは黙って息を吸った。
彼女はひとりで苦しむことに耐えられなくなったのだ。家に火をつけたのは衝動によるものかもしれない。しかし娘を失い、じぶんひとりだけ左手の指をなくして生き残ってしまった。だとしたらそれで彼女は後悔したのだろうか? いや、きっと喜んだのだ。じぶんの欠点をすりかえる材料を見つけてしまった。もうそのころにはおかしくなっていたのだろう。逃げ場をふたたびチェリストの道に求め、補聴器をつけてもなおそのことは認めず、いまは「指が動けばまた上側の世界にもどれる」とかたくなに信じている。
わたしは懸命に演奏する≪楽器職人≫の姿を思い浮かべた。
「――でも努力すれば、またもとと遜色《そんしよく》のないレベルまで上手くなれるかもしれない」
「それは認めるよ。じゃが≪楽器職人≫が指のハンデを克服したとき、つぎはなんのせいにすればいい?」
ずいぶん悲観的な言葉にきこえた。≪時計師≫のおじいさんは、さらに追い打ちをかけた。
「まさか、じぶんになにかできることはないかと考えているんじゃないだろうな?」
わたしは鋭い目をかえした。
「いい方を変えよう。偶然会ってほんのすこしかかわっただけの他人が、ひとの運命なんて変えられると思うか?」
こたえられなかった。
「せいぜいあの女に、ふだん使っているトイレの場所でも教えてもらうことじゃな。わしらが使っているところじゃ、なにかと不都合じゃろうからな」
げらげらと笑いころげる≪時計師≫のおじいさんを見つめ、わたしは胸の奥からひろがる虚《むな》しさを消すことができなかった。
[#改ページ]
上側の世界 10
埠頭に到着した水樹は、バイクのエンジンを切ると、ライダースウェアのファスナーを下ろしてフルフェイスのヘルメットを脱いだ。
まもなく零時になろうとしている。いつ訪れても人の気配はなく、古い倉庫の群れしかない。過去、暴走族による暴行事件が頻発した場所だと聞いていたが、それでもこの時間この場所に漂う静けさには不自然さを感じた。造りあげた静けさという違和感にそれは近かった。
水樹は波の音に耳を澄ませながら、故郷の方角を探した。ここを何度も行き来するうちにできた習慣だった。
目的の廃倉庫に着くと、携帯電話で到着したことを連絡した。目の前の電動シャッターが自動的に開く。中に入り、改造された積み卸し用のエレベーターを使って二階まで上がった。
「失礼します」
水樹は薄暗い事務室に入った。縦横に並んだブラウン管が鈍い光を放ち、ビデオ映像が再生されている。組員達の寝室に仕掛けられた暗視カメラの映像だった。
「――き、君の報告から聞こうか」
薄闇の中から高遠の声が届いた。車椅子に座る後ろ姿が見えた。身動きひとつせずブラウン管を眺めている。待つこと、その場に居続けることに、慣れた姿に思えた。
「組員の死体を確認してきました。ボウガンで襲われたふたりを誘いだすために、先につかまっていた組員です。警察には通報していません」
「そ、そういえば、死体を捨てた場所を示す封書が投げこまれていたな」
高遠はビデオを器用に巻き戻しながらつぶやいた。
「これで死者九人、うち五人がガネーシャによる不審死です。世間一般からすれば藍原組は一方的な被害者ですが、警察は抗争というひとくくりで見るでしょう」
「ノーマークの君でも動きづらいかい?」
「はい」
ビデオ映像が切り替わり、水樹はふと顔を上げた。見覚えのある男が映っていた。ひざまずいて命乞《いのちご》いをしている。公園でつかまえたルポライターの大谷だった。そばでコルトを持つ別の影が立つ。英語で絶叫する音声。コルトの引き金が絞られ、火花が散り、綿埃《わたぼこり》のような血しぶきとともに、大谷の首が振り子人形のように揺れた。
水樹は爪が食いこむまで拳を握った。
「ひ、ひひ、ひとつ、君に、確認したいことがある」
「……なんですか?」
「吉山という男が君を捜しまわっているそうだ。高校時代の同級生みたいだな」
吉山が? 水樹の心拍数が速まった。
「彼が何か?」
「いや。君の行動に差し障るようであれば、こっちで始末しておこうと思ってね。家族構成も住所も調べておいたよ。し、新婚なんだってな」
「やめてください」水樹は思わず声を上げた。「彼は関係ないんです」
高遠は車椅子のハンドリムをまわし、暗く歪んだ笑みを浮かべてみせた。
「それなら今まで以上に、君の忠誠に期待していいのかい?」
水樹の中で、何かの神経が切れるような感覚がした。「……はい」
高遠はうれしそうに笑った。
「これでようやく本題に移れるよ。君に見せたいものがあると言ったな。……見ておくといい。これがガネーシャの殺人の正体だ」
高遠の前にあるデスクには、理科の実験で見られるような器具が並べられていた。高遠はプラスチック製のシャーレをひとつ手に取ると、水樹の方を向いた。
「カラオケボックスで死んだ長沢を覚えているかい? 彼の司法解剖の結果がすでに出ていたんだ。これから見せるものは、遺族に知らされないし、警察から公式発表もされない」
一瞬の空白を置いて、水樹はたずねた。「いったいどういうことですか?」
「これも情報規制のひとつだ。お、おかげで手に入れるのに苦労したがね。説明するより見た方が早い」
高遠はピポットでシャーレの中身をスライドグラスに移すと、顕微鏡のステージにセットした。スタンドの照明をつけ、水樹を手招きする。
近づいた水樹は双眼鏡のような接眼レンズに目をあてた。
「な、長沢の脳内の血液から発見されたものだ」
顕微鏡でのぞく視野に、中央がへこんでいる穴の開いていないドーナツ状の物体がたくさんあった。高遠は血液と言ったから、おそらくそれは赤血球だと判断できた。
やがて水樹は、その目で見ているものが信じられないように瞬《まばた》きをくり返した。赤血球の間に、干からびた糸ミミズのような生き物を見つけた。よく見ると何匹も群がっている。
思わず顕微鏡から顔を離し、ふり向いた。
高遠は静かな目の色で見つめ返してくる。
「……調べるのに時間がかかったよ。それがトリパノソーマと呼ばれる鞭毛虫《べんもうちゆう》だ。もうすでに死に絶えているがね。この寄生虫は二分裂で赤血球とほぼ同じ数まで増え続け、やがて脳に入りこんで昏睡状態を引き起こす」
「まさかこれが」
「俗に言う眠り病だよ。ガネーシャはたかが暴力団ひとつ潰すのに、アフリカ三十ヶ国以上に広がる風土病を日本に持ちこんだんだよ」
「眠り病はトリパノソーマと呼ばれる鞭毛虫が体内に侵入して起こる感染症だ。ガンビア型とローデシア型があってね、ど、どちらも急性型と慢性型がある。藍原組の組員が発病したのはおそらく前者のガンビア型だろう。発病すると大きく分けてふたつの段階をたどって死に至る。第一期では倦怠《けんたい》感や疲労感に襲われ、ときどき発熱を起こす程度だ。この段階で治療を行わないと、二週間から数年の潜伏期を経て、今君が見た鞭毛虫が脳に進行する。この第二期になると患者の行動に変化が見られるようになる。様々な症状が挙げられるが、特徴的なのは睡眠障害だ。昼間にやたら眠くなる。それが夜間の不眠となり、ひどいと恒常的な精神錯乱をきたして乱暴な行動に出ることがある。やがて昏睡状態に陥り、眠ったような形で死に至る。眠り病と名のついた所以《ゆえん》はそこだ」
水樹は目を見開いた。
高遠の冷静な口調は変わらない。デスクの上に手のひらを置き、人差し指でコツコツと叩きながら続ける。
「末期で心筋炎を合併するケースもある。最初に死んだ近藤と天野の場合は、お、おそらく心臓の収縮不全の痕跡《こんせき》があって、心不全とみなされたんだろうな。きちんとした司法解剖を受けた長沢からは、そうはいかなかったようだ」
「治す方法は……」
固まっていた水樹の口がようやく開いた。
「い、今のところ実用的なワクチンはない。世界中で年間およそ十五万人が死んでいる。ただし、アフリカ中西部から東南部にかけて起こる風土病だがね。その理由は感染経路にある」
「――感染経路?」
「ツェツェバエという吸血バエの生息域でのみ起こる感染症だ。ツェツェバエの吸血時に、その唾液《だえき》を通じて感染する。そのハエは、生息域以外での環境下では繁殖できない。だから風土病としてとどまっている」
「しかし現に組員達が」
「仮にだ[#「仮にだ」に傍点]」と、高遠は続けた。「ガネーシャが日本の検疫をくぐり抜けて、そのハエを持ちこめたとしよう。そしてそのハエを死なせないよう何とか工夫して、ターゲットの組員まで近づけたとする。しかしそのハエをいざ放しても、ターゲットの組員を襲うとは限らない。鉄砲の弾《たま》じゃないんだ。下手すればハエが気ままに逃げて、生きている間、一般市民を襲いかねない」
水樹は今までの犠牲者を思い出した。ガネーシャは藍原組の組員だけを的確に感染させている。つまり、ハエを無造作に放ったわけではないのだ。
「き、気づいたようだな」高遠は言った。「ガネーシャ自身が直接感染させているんだよ。日本の検疫をくぐり抜けてツェツェバエを持ちこんだガネーシャは、うまい方法を思いついて、トリパノソーマという鞭毛虫を入手できた。かつ、その鞭毛虫を培養させることにも成功した。確かにそこまでの可能性はゼロじゃない。現に五人も死体が並んでいるからな」
「何か問題でも?」
「眠り病が人に伝搬する経路は血液だ。エイズのような粘膜感染はない。飲食物でも感染しないし、空気感染もない。人から人への伝播《でんぱ》はありえない感染症とも言われている。人間同士で感染させるには、直接血液に[#「直接血液に」に傍点]トリパノソーマを送るしかない」
高遠の右手が車椅子のハンドリムから離れ、その手が一直線に水樹の胸まで伸びた。刃の飛び出たポケットナイフが握られていた。
水樹はその鋭い刃先を見つめたまま、硬直した。
その反応を楽しむように、高遠は不敵な笑みをこぼした。「こ、こういうことだ。つまりガネーシャはターゲットとした組員に接触し、直接傷つけてきたことになる。毒のついた刃を隠し持った部外者が常に身近にいたんだよ。マイノリティと化した今の暴力団のテリトリー内にな。信じられるか?」
水樹は息を呑んで沈黙し、考えをめぐらせた。
「……方法はあります」
「いちおう聞いておこうか」
「歓楽街の人混みに紛れて、針を使う方法です」
高遠は笑った。「通り魔的に針で刺す、か。そんなことはまっさきに考えたよ。だが服の上からではダメだな。せっかくの鞭毛虫が肌に達する前に服に付着してしまう。ましてや血が出るほど刺せば、当然鋭い痛みが生じるだろう? 人間には反射というものがあってね、刺されたらそっちのほうを向くんだ。当然ガネーシャはその場所に立つことになる。暴力団の組員が街中でそんなことをされて、放っておくと思うかい? だいいちそんなことをしでかしてきたやつが、今まで不審者として浮かびあがらなかったのが不自然だ」
「だとしたら、医療関係者でも犯行は可能です」
「藍原組に関与している医療関係者はすべて洗ったよ。結果は全員シロだ。四人目と五人目の犠牲者――長沢と苅谷については、輸血も献血の経験もない。注射器という手段も考えたがね、今はすべて密封包装された使い捨てだ。仮に第三者が苦労して包装を解き、注射器に細工したとしても、それがターゲットに必ず使われるとは限らない」
水樹は押し黙った。普段から暴力団のテリトリー内にいて、ターゲットにした組員に怪しまれずに近づくことができ、血を流す痛みを与えても不審者として疑われない人物……
そんな人物などいるだろうか?
ふと見ると高遠の顔から余裕が消えていた。
「なんのことはない。ガネーシャとの知恵比べはまだ続いているんだよ。おそらく眠り病のことがぼくらに知られても、何とも思わないだろうな。ガネーシャの切り札は感染経路にある。――見ろよ、また届いた」
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
【送信者】crescent_@******.ne.jp
【宛先】konno@castrum.com,takato@castrum.com
【受信日時】8月29日 20:16
【件名】gamma
「時は月を打ち砕き、新月と満月をくり返す。
死者の住処、あるいは死者の国。
夜ごと、王と側近の夢も打ち砕く」
[#ここで字下げ終わり]
高遠が差し出した用紙を、水樹は茫然《ぼうぜん》と眺めた。
「ろ、六通目の電子メールをプリントアウトしたものだよ。ぼ、ぼくのところには、まだ犠牲者の連絡は入っていないけどね」
「ではすぐ組員に確認を取らなければ」
「待てよ。お、おかしいと思わないか? 今まで組員が死んだ翌日に送られてきたんだ。それが律儀に守られてきたのに、今回は違う」
確かにそうだった。
「つまりこう考えられる。ガネーシャは、藍原組組内の状況をさぐる『目』を持っていたが、それを何らかの理由で失った。もしくは機能しなくなった[#「もしくは機能しなくなった」に傍点]」
「『目』……」
「ああ。だからガネーシャは焦った。今まで存在を隠すことにかけて完璧《かんぺき》だったガネーシャが、はじめてボロを出している。近々感染者がひとり死ぬだろうという推測のもとで、六通目の電子メールを送りつけたんだ」
水樹ははっとした。「そうまでして、この不可解な電子メールを送り続ける必要があったということですか?」
「そうだよ。ガネーシャにとって意味のある行為なんだよ」
水樹は固唾《かたず》を呑んで電子メールの文章に目を戻した。
「い、いいい、今まで君だけには特別に読ませてきたんだ。ぼ、ぼくに読み取れなくて、君に読み取れたことはないのかい?」
「……差出人名義は」
「おそらく『モチヅキ ヨウイチ』だ。メールアドレスにある『crescent』は、『新月・三日月』という意味になる。文面もわざわざそれに関連づけているんだ。ガネーシャが買ったと思われる偽造名義のリストから、一文字でもそれに関連する名前を探してみた。該当するのは望月洋一の『月』だけだった。今までの五通がすべてそうだったから、今回もその可能性がある」
高遠も大谷と同様、そこまでは見抜いている。
「件名にある『gamma』はギリシア数字で『3』です」
水樹が言うと、高遠は苛立たしげに吐き捨てた。
「わ、わかっているよ。これで7、6、4、2、5、3と続くことになる。どんな規則性があるというんだ? 次にくるのは『8』か『1』か? だから何だというんだ」
「『モチヅキ ヨウイチ』も、高遠さんが殺したホームレスのひとりですか?」
静かにたずねると、高遠は一瞬沈黙した。
「仮にそうだとして、ガネーシャが復讐《ふくしゆう》を気取っているとでもいうのかい?」
そういった感情的な行動をとる人間がこの世にいるなんて信じられない、といった口調だった。
「……これ以上犠牲者を出す前に、沖連合の島津の身柄《がら》をおさえたほうがいいと思います」
「や、やはり頭で考えるより、こ、行動に出た方が早いということか」
高遠は面白くなさそうに返した。
「島津は藍原組の混乱に乗じて、殺しを専門に請け負う実行部隊をこの街に招き寄せています。最初からガネーシャとつながっていた可能性もあるんです」
「そ、その裏はまだ取れていない。それともいきなり島津をさらえというのかい? あれでも一応沖連合の幹部だ。守りも堅い」
「大義名分のない内部抗争を仕掛けているのは、島津の方です」
「だから島津と同じ真似をしろと?」
「しかし、もうこれ以上組員を死なせるのは……」
水樹が訴えると、暗がりの中で高遠は目をしばたたかせた。
「ま、まあ確かに、これ以上駒[#「駒」に傍点]を減らしたくはないな。島津の身柄《がら》をおさえる方法はある。例の襲撃部隊だ。いくら島津が極道の幹部といえど、大陸の裏社会の人間を使うには間にワンクッションかませるのが普通だ。……何人か心当たりがある。島津に対する電話の通信記録と、国際電話の通信記録の両方を持っているやつから手をつければいい」
「そんなことができるんですか?」
「さっきビデオに映っていた自称ハッカーのルポライターが、死ぬ前に手伝ってくれたよ。あ、あんな男でも最後には役に立った」
大谷だ。その行動の素早さに水樹は驚いた。
高遠は腕時計に目を落とした。「……ちょうど今頃だな」そう言って携帯電話を水樹に投げて寄こした。「短縮の一番で紺野につながる。か、かけてみるといい」
秋庭はポリタンクを使ってガソリンをまいていた。
郊外にあるリサイクルショップの倉庫だった。かつて電化製品を主に扱う窃盗品密売グループが利用した場所で、警察の目を逃れるためのガラクタがその名残として放置されている。
背後で携帯電話が鳴り、静かに取り上げる気配がした。
「――こっちは終わった」
全身血まみれの紺野が言った。
秋庭はポリタンクを持つ手を止め、顔を上げた。目に入る光景に無惨な底寒さを感じた。ガソリンの揮発する匂いと、血と脂の生臭さが充満している。
周囲は裸電球によって照らされていた。
島津が利用した連絡役は苦労せずにつかまえることができた。母親が残留孤児で定住者ビザを持つインターネットカフェのオーナーだった。電線などを結ぶタイラップで椅子に縛りつけられ、口の中でぶつぶつと何かをつぶやいている。一緒にさらってきた仲間は全員、椅子のまわりで絶命していた。
紺野の指先には、ジーリ鋸《のこぎり》というワイヤー状の外科用鋸がぶら下がっていた。肉や髪の毛がこびりついている。あんなもので人間の骨まで簡単に切断されてしまうのだ。麻酔薬とあの糸鋸を使ったすさまじい拷問を思い出した秋庭は、再びガソリンをまくことに集中した。
「そろそろいいだろう」
肩を叩かれて秋庭は我に返った。紺野がいつの間にか携帯電話を切り、脇に立っていた。
島津が連絡役を使って呼び寄せたのは、王飛《ワンウエイ》と名乗る男をリーダーとした、吉林《きつりん》省出身のメンバーだった。入国自体、入国管理局に確認されていない。日本の裏社会で同省の出身者は十数人程度で行動することが多く、チャイニーズマフィアの主流とも言われていた。
メンバーの本名や特徴、連絡方法と居場所はすべてつかみ、すでに待機中の精鋭達に伝えてある。
秋庭が驚いたのは、リーダーの王飛は、すでに始末した安《アン》の実兄だったということだ。安が偽造名義の横流しをすすんで行った理由も、それで呑みこめた。
「これで島津は表舞台に出てくるでしょうか?」
秋庭がたずねると、紺野はうなだれている連絡役を一瞥《いちべつ》した。
「島津が恐れているのは警察じゃない。こいつとつながっているチャイニーズマフィアの方だ。こいつを始末させるならよほどの覚悟が必要だが、広域暴力団の庇護を受けているわけでもない島津にそんな度胸などない」
秋庭はショック症状を起こしかけている連絡役の髪をつかみ、顔を無理やり上げさせた。「……まさか自分がまっさきに襲われるなんて、夢にも思わなかったでしょうね」そう言って覚醒剤を注射した。島津を誘いこむネタになる以上、虫の息でも生かしておかなければならない。
紺野は煙草に火をつけて紙マッチに挟み、五分ほどで燃え移る仕掛けを作っていた。その仕掛けをガソリンが染みる床の上に置く。
秋庭は連絡役を椅子から立たせ、突き飛ばして紺野のあとに続いた。ガネーシャの正体に近づく実感が湧いた。今までの犠牲者のことを考えると、事前に住所や行動を探られていた可能性は高い。しかしそれはかなり入手の難しい情報で、情報を得る者と手を下す者が必要になる。今まで尻尾《しつぽ》をつかませなかったのは、ガネーシャの正体が王飛の仲間のひとりで、島津とグルだということなら納得できる。
生ぬるい外気に触れながら、満天の星を見つめた。周囲は荒れ地で不法投棄された車が何台も放置されている。
待たせているワンボックスカーまで急いだ。
ふと足を止めた。車内になぜかルームランプがつき、ウインドウすべてが閉め切られている。合図しても、運転席で待たせている組の若者は出てこない。
見ると、運転席でハンドルに頭をもたれて眠りこけていた。
「こんなときに寝てるんじゃねえよっ」
秋庭は荒れた声で、運転席のドアを激しく蹴《け》った。
若い組員の顔が動いた。反応が鈍い。ようやくセルモーターをまわす音がし、するするとウインドウが下がった。秋庭の苛立ちが限界まで高まった。こいつはいったい何をしているんだ? 状況をわかっているのか?
空白を置いて若者の唇が薄く開いた。その目は妙に虚《うつ》ろだった。
「すみません……」
耳に届くか届かないかの声でつぶやき、再び瞼を閉じた。もう起き上がろうとする気配はない。
秋庭は茫然とした。
ドアを開けたのは紺野だった。若者を引きずり降ろすと後部座席に押しこんだ。
[#改ページ]
下側の世界 10
どれほど地底深く隠れていようと、
人は、励んでは探し続ける。
ならば、思慮深き者よ、掘り求めよ、
この世という、目に見えぬ鉱脈の中に、
目に見えない本質的なものを。
称《たた》えても称えきれぬ心の金と銀を。
[#地付き]ヤン・ライケン著
[#地付き]西洋職人図集「坑夫」
わたしは手さぐりでランタンをさがした。マッチを擦って明かりをつけると、鳥籠《とりかご》のヒナがびっくりしたように羽ばたいた。
ごめんね、とつぶやき、目が慣れるのをじっと待った。
そのあいだ、ひび割れた腕時計を指の腹でさすっていた。わたしは≪時計師≫のおじいさんの懐中時計を思いだしていた。あの懐中時計には時計の針がなかった。いったいどうやって、ここで時間をはかっているのだろう? わたしをからかっているだけなのだろうか……
わたしはじぶんの腕時計を見つめた。十日以上もまえから四時間弱しかすすんでいない。役に立たないとわかっていながら、外すことはできなかった。わたしと上側の世界をつなぐ唯一のものに思えたからだった。
墓場でこっそり拾ってきたノートに目を移した。古ぼけた≪墓掘り≫のノート。なん度も読もうとして挫折《ざせつ》したノートだった。手にとって開く。奇妙な連番にそって記録らしきものがつづられている。
読める番号と文字を根気よく目で追った。
[#ここから改行天付き、折り返して5字下げ]
『一七一 病人 高熱ト下痢 ■■ 危険ニ直面 食事 終ワラズ
二二四 刹那《せつな》ニ見ル 仲間ノ夢 感謝
二九六 病人■容態急変 嘔吐《おうと》ト筋肉痛 ■■■拡大ノ恐レ
三一二 薬モラウ 当面ハシノゲル 精神的ナ不安 苦シム
三五三 外界 非難■中傷ノ渦 永遠ニ拒絶 疲労限界 自害寸前』
[#ここで字下げ終わり]
ページをめくると、まるで涙を落としたように蝋のあとがつづいている。正気を失い、無意味な単語を並べただけではなさそうだった。連番にしているのは、ここでの日付や時間の無意味さに気づいたからかもしれない。
[#ここから改行天付き、折り返して5字下げ]
『四一一 揺ラグ 希望■支エ 食事 毒味ノ決断
四三四 塞《ふさ》ガレタ 出口 K金属■産 無念
四七六 病人 ■■歩ケズ 生命■終焉《しゆうえん》ノ合図 絶望』
[#ここで字下げ終わり]
呪詛《じゆそ》のような単語の羅列は、「病人」と記される人物が息をひきとる寸前で終了している。そこからは放りだしたようになにも書かれていない。
興味をひいたのは、途中に絵が挿入されていることだった。建物の見とり図に思えた。屋根のついた建物やプールのような絵が並んでいる。プールのなかにコンベアのような絵があり、丸と棒で描かれた人間がはさまれている。底にはバイパスのような管があり、長い経路を経てべつの絵につながっているようすだった。
奇妙な絵。
ノートを閉じ、墓場の奥に隠された子供の白骨死体を思い浮かべた。いまからおよそ三十年まえになにが起きたのだろうか? その謎を繙《ひもと》く鍵《かぎ》は、≪王子≫と≪楽器職人≫の会話のなかにある気がした。
浄水場の廃墟《はいきよ》で子供がおぼれる事故が起きた、と≪王子≫はいっていた。
≪墓掘り≫は仲間と一緒に子供の死体を隠した、と≪楽器職人≫はいっていた。
彼らに深くかかわったと思われる「ナオユキ」の存在。当時の≪墓掘り≫たちの唯一の味方だったひと。そのひとのため――たったそれだけの理由で、この暗渠の生活を選ぶに足るひと。そして、ヒ素入りの食べものを≪墓掘り≫たちに与えつづけた裏切りもの……
遠くから荒い息がきこえた。
「ぬっ、盗み見はよぐないなあ」
濁音の混じった声。腹に響くような低音。わたしはとっさにノートを隠し、ランタンを四方に向けた。なにかが動いて闇のなかに隠れる気配がした。常に距離をとってわたしを監視し、影のようにつきまとう不気味な大男――
「またあなたなの?」
わたしはいった。なにがおかしいのか、≪坑夫≫がぷっと吹きだす。
「おれを呼びだじたのは、あんだのほうじゃないが」
「わたしが?」
「そうだ」
「いつ?」
「おれはあんだの無意識だよ。あんだの無意識がおれのからだを借りて、あんだにつきまとわせでいる」
この男は頭がおかしいのか、と思った。無視するかどうか迷った。
「ひとづ、教えてぐれよ」
わたしは暗闇を見すえた。
「あんだはこの暗渠で自由に過ごしでいる。上側の世界と比べれば、そりゃあ、なんの拘束もねえはずだ。失ったのはたかが時間の変化。なぜそれを黙って受け入れない? なぜ余計なごどまで首を突っごもうとずる? そんなごどは、こごでの身の破滅を意味ずるんだよ。やっぱりあんだは、じぶんの運命がら逃れられねえんだな」
「……わたしの運命?」
「そう。逃れられない宿命」
「いっていることがわからない」
≪坑夫≫が笑った。カバが大口を開けて笑っているような雰囲気だった。わたしの困惑などまるでとりあわない。
なにか投げるものをさがしたときだった。
≪坑夫≫の笑い声がぴたりと止んだ。光がすっと、通路の奥から浮かび上がってきたからだった。ランタンの明かりが近づいてくる。≪坑夫≫が大きく息を吸いこみ、光にさらされるのを極端に恐れるように、あっ……、と狼狽《ろうばい》した。
明かり主はそれに気づいたようすで、あわてて明かりを消した。≪坑夫≫は安堵《あんど》の息をつき、こそこそとすれちがうように逃げていった。
≪坑夫≫の足音が消えると、ふたたび黄色い傘を開くように明かりがともされた。
明かりの中心に、≪王子≫が立っていた
「あれは≪坑夫≫だね」
と、≪王子≫は≪坑夫≫が逃げていく暗闇の方を向いた。
「なにかされたかい?」
わたしは首をふった。わたしさえ我慢すれば≪坑夫≫はなにもしない。そんな気がした。
「具合は、だいじょうぶなの?」
「ああ。おかげでだいぶ楽になったよ。ここにすわっていいかい?」
わたしがうなずくと、≪王子≫は石組みの壁によりかかり、腰をおろした。
「きみを見つけるのに苦労したよ」
「わたしを?」
「≪時計師≫からきいたんだ。きみを怒らせちゃったって」
きっと≪時計師≫のおじいさんは、≪楽器職人≫のことでわたしの気を悪くさせたと思い、≪王子≫に相談したのだろう。
「べつに怒ってなんかいないわ」
正直にこたえた。
「そう。きみが怒っていないのなら、あとでそう伝えておく」
「……伝えるって、だれに?」
「もちろん≪時計師≫さ」
「伝えたらどうなるの?」
「またきみのまえにあらわれる」
吹きだしそうになった。≪時計師≫のおじいさんは、しゃべってからうじうじと後悔するタイプなのだ。
≪王子≫はヒナの入った鳥籠に目を移すと、
「いいかい?」
と、わたしに断ってからその手をのばした。ヒナがくちばしをよせてくる。ふしぎだった。なぜか≪王子≫にはよくなつく。
「どこでこのヒナを拾ったんだい?」
≪王子≫がたずねてきた。
「わからない。死にかけたそのヒナを、だれかからあずかったことだけはおぼえている」
「だれか?」
「よくわからないけど」わたしは首をふった「やさしそうなひとだった気がする」
「そのひと、まわりに親鳥がいたか確認したのかな」
「……たぶん」
わたしは≪王子≫の声をききながら、伯父さんの声を重ねていることに気づいた。あれからすこしずつ思いだせるようになっていた。まだ小学生だったわたしと幼い弟をひきとってくれた伯父さん。やさしかった伯父さん。ペンション経営といくつかの仕事をかけもちして、野生動物の保護活動のボランティアもしていた伯父さん……
わたしがまだ子供のころ、おなじようにヒナを拾ってきて伯父さんにこっぴどく叱られたことがあった。野生動物の仔《こ》がおきざりにされていても、親がエサをとりにいっているか、エサを食べにいっているのを単純に待っていることがあるからだ。とくに巣立ちのヒナの場合は、親と一緒に枝を渡りながら飛ぶ訓練をする。道の上や低い枝にいても、親が近くにいる場合があるのだ。だからその場の心情に惑わされず、保護すべきか安全な場所へ移すべきかを、じぶんの目と頭で冷静に判断しなければならない。よほどの状況でない限り、親はきっとあらわれる。かわいそうだからといってヒナを持ち帰ることは、親鳥がもどってくる可能性を断ち切ることなのだ。
かつて伯父さんもわたしたち姉弟におなじようなことをした。そのことで伯父さんは、ひとり苦しんでいたおぼえがある。なにかいってあげたかった。しかしそれが叶《かな》うことなく、伯父さんとの思い出はぷっつりと途切れてしまう。
「ガネーシャ、きみは……」
≪王子≫の声にはっとした。≪王子≫は鳥籠から手を離し、石畳をじっと見つめている。そこから目を離そうとしない。白いドライフラワーが落ちていた。墓場で見つけた葬花だった。この暗渠で花が見られるとは思わなくて、ついノートと一緒に持ち帰ったものだった。
わたしは背後に隠していたノートに手をふれた。勝手に持ちだしたことをあやまろうと思い、口を開きかけたときだった。
「あの墓場を見ても」≪王子≫は声をつまらせた。「きみはまだここにいてくれるんだね」
わたしはためらい、
「……うん」
と、きこえない小さな声でこたえた。
「この絵」
と、≪王子≫はノートに描かれた絵をさした。顔から翳《かげ》りは消え、なにかをふり切ったような目でわたしを見る。「――三十年くらいまえ、≪墓掘り≫たちが寝ぐらにしていた浄水場の廃墟の絵だよ。たぶん記憶と想像で描いたものだ」
「描いたのはだれなの?」
「ノートの記録をふくめて≪墓掘り≫だと思う」
≪王子≫はノートをぱらぱらとめくってみせた。目が痛くなるほどの単語とカタカナの羅列で埋め尽くされていて、なかには世間に対する恨み辛《つら》みが透けて見える文章もある。
当時の仲間が死に絶えてもここで暮らしていけたのは、≪墓掘り≫のなかに強い支えがあったからかもしれない。でなければこんな暗闇のなかで生きていけない。しかしそれさえ失ったような記述が記録の終盤にある。
[#ここから改行天付き、折り返して5字下げ]
『四一一 揺ラグ 希望■支エ 食事 毒味ノ決断』
[#ここで字下げ終わり]
この記述のすぐあとに、例の浄水場の見とり図があらわれる。それから惰性のように記録はつづくが、誤字や脱字が増え、まともに読めるものが極端に減っていき、「病人」と記される人物が死に至る直前で終了する。
「……ナオユキっていったい?」
それは、≪墓掘り≫がうわごとのようにくりかえしていた名前だった。
「≪墓掘り≫たちが浄水場の廃墟に住みつくまえに、そこで過ごしていた少年だよ」
「少年?」
呆気《あつけ》にとられた。
「ああ。車椅子の少年だった。浄水場の廃墟は立ち入り禁止だったけれど、それでも施設を抜けだしてやってくるナオユキの身の上に、あとからやってきた≪墓掘り≫たちは同情をおぼえたかもしれない。だから追いだしたりはしなかったようだ」
≪王子≫は話してくれた。
――ナオユキは本ばかり読む大人びた少年だったという。だから歳の離れた≪墓掘り≫たちと器用に話をあわせることができ、彼らが不法投棄の片棒を担いでいることを知っても、かなしげな目をするだけでなにもいわなかった。≪墓掘り≫たちはナオユキに、しだいに歳の差を忘れて惹《ひ》かれるようになった。たとえ車椅子にのっていても、じぶんたちにはもう存在しない将来性を垣間《かいま》見たのかもしれない。身寄りのないその少年の力になりたい一心で、みんなで小銭をだしあい貯めるまでにもなった。
しかしある日、ナオユキにおない年の友だちができた。しだいにその少年にのめりこんでいくナオユキに、≪墓掘り≫たちは危惧《きぐ》をおぼえはじめるようになった。不法投棄の事実がもれる恐れもあったが、なにより社会的な弱者として結ばれていた彼らにとって、その少年の存在は水をはじく油のような部外者に映ったからだ。すくなくとも彼らのつながりには、使命感や義務感に似た絆《きずな》があったが、その少年が持つやさしさや同情は、彼らにとってとても頼りないものだった。気まぐれでいつナオユキを失望させるかわからない。
やがて≪墓掘り≫たちが抱いていた危惧は、べつの形で現実となった。
少年をいじめにやってきたクラスメイトによって、浄水場の廃墟が荒らされてしまったのだ。そればかりか怒りに身をまかせたその少年は、こともあろうに不法投棄を行っていた場所にクラスメイトのひとりを突き落としてしまった。突き落とされたクラスメイトはそのままおぼれ、ふたたび浮かびあがることはなかった。
≪墓掘り≫たちも遅れてやってきたナオユキも、青ざめた。
「――いいかい? このあいだのつづきだ」
≪王子≫は浄水場の見とり図にページをもどした。
「浄水場の工程をいうよ。絵の一番左に、地下に潜った建物があるだろう? ここで下水から大きなごみがとりのぞかれて、地上までポンプで汲《く》みあげられるんだ」
つづいて≪王子≫の指さきが隣にあるプールに移る。
「それが終わったら『最初沈でん池』に移される。絵でいうと、三つ並んでいるプールのような図のいちばん左だ。まえの工程でとりのぞかれなかった浮遊物はここで沈でんされる。だから沈でん池というんだ。そうしてきれいになった上水はつぎの工程へ、たまった汚泥は底にあるバイパスを伝って『重力濃縮槽』へと運ばれる」
「そのクラスメイトがおぼれたのは、図のどこになるの?」
わたしはたずねた。
「一番左の『最初沈でん池』だ。長さ二十メートル、幅八メートル、深さは六メートルもある。金属化合物の不法投棄を行っていたのもここだ」
わたしは目を動かした。視線のさきは、「最初沈でん池」の底にある、奇妙な形をしたコンベアだった。
「これは……」
「汚泥かきよせ機という機械だよ。『最初沈でん池』の底にたまった汚泥は、この機械で端から端までよせられる。廃墟になってから、長いあいだ使われていなかった」
わたしは深く息を吸った。
「これをふたたび動かしたのが[#「これをふたたび動かしたのが」に傍点]、ナオユキの魔法だったのね[#「ナオユキの魔法だったのね」に傍点]」
「そうだよ」≪王子≫はあっさりとこたえた。「でも廃墟だから電気なんて通っていない。問題は、どうやって動かしたかだ」
まえにきいたとき、≪王子≫は灯油を使ったといっていた。
灯油……
灯油など、ふたたび救出作業がはじまる現場にそう簡単に残せない。安全な使い道となれば、ひとつしか浮かばなかった。
「見えない場所で灯油を燃やした。つまり、機械を動かす燃料として」
わたしがいうと、≪王子≫はかすかに微笑んだ。
「こういう公共施設には、停電のときに用いられる設備は必ずある。彼らは非常用ガスターピン発電機を利用したんだよ。ディーゼル式にくらべれば騒音と振動がすくなくて、運転はずっと簡単だ」
≪王子≫はひとさし指をくるくるとコンベアのようにまわした。深夜の豪雨のなか、水槽の底でこんな機械が動いていたことをだれが知るだろうか?
「かきよせられた金属化合物は底にあるバイパスを通って、地下の『重力濃縮槽』に運ばれる。作業が終わった≪墓掘り≫たちは、錆《さ》びた鉄板を水の上からなん枚も落としてバイパスの入口をふさいだ。そういうのは浄水場の廃墟にいくらでもあったんだよ。それもナオユキの指示だった」
「……でも」わたしは口を挟んだ。「誤算があったのね」
「ああ。死体も一緒に回収してしまったんだ」
暗渠の墓場に隠された、あの赤銅色に染まった子供の白骨死体を思いだした。
≪王子≫はわたしを見すえ、
「ここからぼくの想像が入るけど、かまわないかい?」
「いいわ」
「業者や≪墓掘り≫たちにとっては誤算だったかもしれない。――でも」
「でも?」
「ナオユキは確信犯だった。おぼれたクラスメイトが確実に底に沈んでいる[#「確実に底に沈んでいる」に傍点]ことを知っていたんだよ」
黙って見つめかえすわたしに、≪王子≫はつづけた。
「ナオユキは汚泥かきよせ機を使うアイデアをだすまえに、事故が起きた状況を≪墓掘り≫たちにくわしくきいてまわったらしいんだ。おぼれたクラスメイトが瞬く間に水に沈んでしまったこと。そして必死の救出作業にもかかわらず見つからなかったこと。このふたつからナオユキはひとつの推測をたてた。それを確証するために、≪墓掘り≫にあることをたずねた」
わたしは考えをめぐらせた。脳裏に、白骨死体とともに転がっていたものがよみがえった。
「それは……」
と、わたしは言葉を継いだ。
「おぼれたクラスメイトがなにを身につけていたのか、じゃないの?」
「よくわかったね。おぼれたクラスメイトは、ステンレス製の警棒やエアガンをズボンのベルトに挟んでいたんだ。理科の実験を思いだせばいい。たった数百グラムのおもりでも、相当の浮きをつけなければ人間のからだは沈んでしまう。救出作業にあたった警察や救急隊は、そんなものを身につけているなんて知らなかった。当時、浄水場の廃墟を荒らしたクラスメイトたちが口をそろえて黙っていたからなんだ。まさかエアガンや警棒で、無抵抗の浮浪者たちを襲ったなんていえるはずがないだろう?」
当時の状況を想像した。≪王子≫の話がほんとうなら、ナオユキは最初から死体の隠蔽《いんぺい》をはかる目的で、≪墓掘り≫たちに知恵を貸したことになる。
かわいそうになにも知らない≪墓掘り≫たちは、産業廃棄物と一緒に死体も隠さなければならないはめになった。きっと死体がひどく傷《いた》んでいたからだろう。あのちぎれた服、バラバラの骨がそれをもの語っている。予想だにしない事態と犯してしまったもうひとつの罪に、≪墓掘り≫たちはひどく狼狽したにちがいない。
≪王子≫はいった。
「もともと≪墓掘り≫たちはこの暗渠の存在を知っていたんだよ。この絵のなかに、地下にもぐった建物があるだろう? 下水につづく地下十数メートルの施設だ。夏の暑い日、≪墓掘り≫たちはここで過ごしていた。老朽化したコンクリートの壁をくずしていくうちに偶然、この暗渠を発見していた」
「どうして≪墓掘り≫たちまで一緒に、この暗渠に隠れなければならなかったの?」
「だれも好きでこんな場所に隠れないよ」
≪王子≫のさみしげな目を見て、わたしは口をつぐんだ。
「業者の立場では、騒ぎがおさまるまで≪墓掘り≫たちに表にでてもらいたくなかった。直接手を下した≪墓掘り≫たちさえしゃべらなければ、秘密は守られる。だから目のとどく範囲で身を隠してもらわなければならなかった。この暗渠のいきさつは、≪時計師≫からきいただろう?」
わたしはうなずき、でも、とつづけた。
「≪墓掘り≫たちはそれで納得したの?」
「見かえりはあったと思う」
「ものやお金で?」
「たぶん口約束だけどね。それでも≪墓掘り≫たちは業者のいいなりになった」
「……どうして?」
「ナオユキがいたからだよ。ナオユキが手を貸したことは業者も知っている。事実が公になれば、ナオユキが関与したことがどんな形でひろがってしまうかわからない。事故が起きてから、街の浮浪者やナオユキにひどい嫌がらせがつづいていた。それは、≪墓掘り≫たちも骨身に沁《し》みてわかっていた」
≪王子≫は悲しそうな顔をしてつづけた。
「≪墓掘り≫たちはわかっていたんだ。じぶんたちがすでにナオユキの将来を脅かす存在になっていることを。当面の生活必需品と食料を受けとって、暗渠に身を隠すことを呑む代わりに、業者にナオユキの面倒をみてくれるよう頼みこんだ」
「そんな……」
「そして≪墓掘り≫たちとナオユキとのあいだで約束が交わされた。ナオユキはこの暗い暗渠で身を隠す≪墓掘り≫たちの安全を守るために、信頼できる命綱にならなければならなかった。いつ業者が裏切るかわからない。すこしでも不穏な動きを感じたら、ためらわずに警察に連絡する。ナオユキはその役目に泣いたそうだよ」
そこまできいて、わたしは肌寒くなるのをおぼえた。
「どうしたんだい?」
「……だったら」わたしは縮こまり、ぽつりといった。「どうしてナオユキは、ヒ素なんか食料に混ぜたの?」
ランタンの明かりのなかで、≪王子≫は目を見開いた。
「≪楽器職人≫にきいたのかい?」
わたしがうなずくと、≪王子≫は親指の腹でノートをぱらぱらとめくった。
「彼女はこのノートをなん度も読んでいる。彼女自身、かつてヒ素を手にしたことがあったから想像ついたんだと思う。ヒ素は無味無臭で、少量でも体内に蓄積されていくんだ。症状は嘔吐や下痢、発熱や筋肉痛で、目立った症状がないからほかの病気とまちがえやすい。ましてや暗渠の生活ならなおさらだ。≪墓掘り≫たちの口を封じるなら、即死するような劇薬を使って万が一に失敗するよりも、ヒ素をすこしずつ与えていく方法が確実だ。ヒ素を手に入れるとしたら業者だよ。三十年くらいまえなら、いまよりずっと簡単に手に入る」
≪王子≫はそこまでいって、あとはいいよどんだ。わたしにはわかった。ヒ素を手に入れたのは業者の役目だ。しかし≪墓掘り≫たちをだましつづけるには、彼らに信頼されているナオユキの協力が必要になる[#「彼らに信頼されているナオユキの協力が必要になる」に傍点]。
おそらく≪墓掘り≫たちとはべつに、ナオユキは業者と密約を交わしていたのだ。しかし≪王子≫の話をきくかぎり、そんな≪墓掘り≫たちに対する徹底的な残酷さがいったいどこから生まれたのか想像できなかった。
「これはぼくの想像だけどね」
と、≪王子≫は静かな声で沈黙を割った。
「ナオユキは許せなかったのかもしれない。浮浪者といえども大の大人がなん人もいて、友だちひとりを守れなかったんだ。ましてや≪墓掘り≫たちはその友だちを嫌っていた。きっとナオユキのなかで、悪い想像がどんどんふくらんでいったんだと思う」
「でも、だからといって」
わたしは反発した。
「子供の思春期はあなどれないよ。いくら大人びていても、まだそういった感情をおさえるだけの自我は発達していない。放っておけば、周囲に対する怨念《おんねん》で凝り固まってしまうことさえある」
そういって≪王子≫は立ち上がり、
「ぼく自身、そうだったんだよ」
わたしは息を呑んだ。≪王子≫の目は天井を向いている。
「問題は、ナオユキはいまもそれをひきずっているかもしれないということだ。事件後に、ひきずるだけのなにかが起きていたのであればね」
≪王子≫はランタンを指ですくいあげた。
「どこにいくの?」
たずねると、≪王子≫はかすかに微笑み、
「これを、もどしてくるんだ」
その手には――わたしが拾ってきた白いドライフラワーがにぎられていた。
わたしは鳥籠をさげて石組みの通路をすすんだ。
地図を頼りに、浄水場の廃墟につづく出口を目指した。
あれから≪時計師≫のおじいさんに会いにいき――おじいさんはおどろいたが――仲直りを条件に、無理やり地図に出口の印をつけてもらった。
今度は蝋燭の炎が消えないよう、慎重に歩いた。
……なあ。
≪坑夫≫の声。
おーい……
わたしがひとりになったときを見はからったように、暗闇の奥からきこえてくる。
もちろん無視した。
長い一本道が延々とつづく。石畳を踏む感触に土や砂が混ざりはじめた。つまさきがなにかを弾《はじ》き、かがんで蝋燭の炎を近づけると、あたり一面に瓦礫《がれき》や石の破片がちらばっていた。このさきはいきどまりだった。
石組みの壁のどこかが崩されて、浄水場の廃墟につながっているはずだった。
丹念に指をはわせていくと、ざらざらした手ざわりがある部分を見つけた。さわったことがある感触……コンクリートの感触だった。外側からひと筋の光ももらさぬよう塞がれている。叩いてもびくともしない。
心が凍りつく一瞬だった。
[#ここから改行天付き、折り返して5字下げ]
『四三四 塞ガレタ 出口 K金属■ 産 無念』
[#ここで字下げ終わり]
ノートにあったあの記述の意味を理解した。広範囲に塗り固められたコンクリートは、当時の業者やナオユキの拒絶の深さを示していた。二度とでてくるな、という意思にさえ感じとれる。彼らに誤算があるとすれば、ここ以外に出口があったことを知らなかったことだろう。だから≪墓掘り≫だけがかろうじて生き延びられたのかもしれない――
それでもナオユキを信じて隠れつづける≪墓掘り≫が哀れに思えてきた。仲間の死を見とどけ、少年の白骨死体とともにこの暗渠で過ごし、ひとりで疑心暗鬼にかられて過ごしていくうちに、あんなに気がふれてしまったのか。
ふと脳裏に、あのノートに書かれた「病人」という文字が浮かびあがった。なにかが引っかかった。
「が……感想はどうだ?」
はっとしてふり向く。濁音の混じった声。のそのそと近づいてくる足音。
≪坑夫≫だった。
蝋燭の炎を闇にかかげると、後ずさり、微妙な距離をとる気配がした。わたしは闇を見すえて身構えた。
「ごの世界に隠ざれた、みにぐい犯罪の爪痕《つめあと》を知っだんだろう? あんだが知りたがるから、ああやって≪王子≫が無理じて教えてぐれだんだ」
≪坑夫≫の声。あの話を盗みぎきされていたことに腹が立った。
「つぎはなにを知りだい?」
挑発している。わたしが一歩踏みだすと、さらに後ずさる気配がした。≪坑夫≫は決してわたしを近づけようとしない。
「ぞうやって≪ブラシ職人≫も≪画家≫も≪楽器職人≫も、みんなあんだの目に不幸に映っだんだな」
「なにを……」
「こんな場所しか居場所がなぐて、着るものはみすぼらしくて、おまげにあの言動だ。客観的に見れば、あいつらは幸せじゃないよな。じゃあ、あいづらはほんとうに不幸なのか、それをよぐ考えてみるごどだ」
わたしは黙っていた。
「あんだ」笑いをこらえながら≪坑夫≫が問いかける。「じぶんが正常と思っでるか?」
≪坑夫≫はわたしがこたえるのを、辛抱強く待ちつづけていた。
沈黙に耐えられなくなったわたしは、
「……正常よ」
と、こたえた。
「それじゃこだえは『はい』が?」
「そうよ」
「いまの質問に『はい』とこだえるひとは異常で、『いいえ』とごたえるひとは嘘つきだ。人間だれしもじぶんが正常と思いたがる。だが、心のどこかで迷いの声もきこえてぐる。だがら安心するために、ものさしが必要になってぐるんだよ」
「――ものさし?」
「そう。それはじぶんより劣った異常を見づけるごどだ。芸術や思想のように意義が認められる異常じゃだめだ。優れた異常と劣った異常の見わけをづげて、劣った異常とじぶんを器用に比較しでいく。それで人間はひとまず安心ずる」
「なにがいいたいの?」
知らず知らずのうち、わたしの声に怒気がこもった。
≪坑夫≫は肺に息をためるように沈黙したあと、
「……この世界はあんだのものさしから見で、劣った異常にあふれていだか?」
一瞬の空白。頭に血がのぼった。
「ちがうっ」
「ごごはあんだが最後に望んだ場所だ。あんだの心を満たすための世界なんだよ。いい加減、それに早ぐ気づいたらどうだ?」
わたしは数歩すすみ、闇のなかを蝋燭の明かりでくまなく照らしまわった。
そんなわたしの反応が面白くてたまらないかのように、闇の向こうで笑い声がつづく。
「ごれ以上ここでなにを知る? どこまで知りだい? 知ることであんだに残ざれたのはあとわずかだ。≪王子≫のこと、あんだの正体、あんだの職業[#「職業」に傍点]、あんだがなぜここにいるか……」
「やめて」
蝋燭が落ちて石畳の上を転がった。炎は消え、周囲はまっ暗闇になった。≪坑夫≫があざ笑う声が残る。気持ち悪い。……気持ち悪い。
「お願いだから、どっかいって」
「やめないし、消えないよーだ」
「もうやめて」
ひざのふるえが全身におよび、立っているのも難しくなり、冷たい石畳の上にうずくまった。≪坑夫≫はまだなにかいっている。でもよくききとれない。
気をとりなおそうと、大きく息を吸おうとしたときだった。
とつぜんスタスタと向かってくる足音――
ゴッ。
肉を潰すような音のあと、≪坑夫≫の悲鳴がつづいた。なに者かが棒のようなもので≪坑夫≫を殴りつけている。呼吸をするのも忘れていそうなほど、一方的で容赦なかった。≪坑夫≫の息づかいが弱々しくなってもやめようとしない。
ただならぬ事態にぞっとした。蝋燭をつかみとり、マッチを擦って火をつけた。
汚れたナイキのウインドブレーカー姿が目に映った。骸骨《がいこつ》が服を着たような痩《や》せぎすの青年――≪画家≫がそこにいた。はぁはぁと息を切らしてわたしに向き、顔に満面の笑みを浮かべた。
「ほら、きみを追いまわしている≪坑夫≫をこらしめてやったんだよ」
≪画家≫は持っていた角材を放り投げた。すぐそばの壁には、もう抵抗できないほど痛めつけられた人影が、頭をかかえてうずくまっている。
「これで≪時計師≫とおなじように、ぼくとも仲直りしてくれるよね?」
それから≪画家≫は、わたしと≪坑夫≫のあとを尾《つ》け、機会をうかがい、いかに勇敢に立ち向かったのかを雄弁に語りはじめた。
わたしは≪画家≫を押しのけた。
蝋燭の明かりを≪坑夫≫が潜む場所に近づけた。そこに潜む人影が両手をまえにひろげた。見ないでくれ、と訴えている。
明かりにさらされたその姿を見て、総毛立った。
手足や鼻や舌が異常にでかい、身長二メートルをゆうに超えた大男がからだを丸めていた。露出した肌をおおう毛深さには目を見張るものがあり、疲労感が浮いたうつろな表情は、巨体に反して筋力がないことを示していた。多くのひとからものさし[#「ものさし」に傍点]とされてきたのだろう。≪坑夫≫が恨めしげにわたしを見すえた。小さいころから隔離され、現世の快楽をすべてあきらめたような目でわたしを見る。
蝋燭の炎を吹き消すと、すすり泣く声がした。
いたたまれなくなり、冷たい石畳の上に両ひざをついたときだった。
暗闇のなかで≪坑夫≫のからだが動く気配がした。
悲鳴をあげる間もなく、≪坑夫≫の大きな手がわたしの首をつかんだ。抵抗したが、≪坑夫≫は手を離さない。力がどんどんこもっていく。
「あぁ、あれ? あれぇ?」
異変に気づいた≪画家≫が背後で狼狽していた。まさか反撃されるとは思っていなかっただろう。だからこそ、あそこまで≪坑夫≫を痛めつけることができたのだ。
「――あぁ、ぼく知らないよ、ぼくはぁ、知らないからね……」
≪画家≫が逃げていくことにいまさらショックを感じなかった。わたしはふるえる手でポケットをさぐり、ペインティングナイフの柄をつかんで引きだし、暗闇のなかで方向をさだめた。
≪坑夫≫はまだ泣いていた。差別と偏見、自己嫌悪――それらすべてを憎しみに変え、じぶんの姿をさらけだしたわたしに注ぎこむかのように、首をしめる手に力をこめている。
一度はにぎりしめたペインティングナイフを離した。
ナイフが石畳に跳ねる音をきいたとき、わたしの意識はじょじょにうすれていった。
…………
……
……わ……わた……わたし……は…………
……
お母さん?……
……どうして……そんな目で……わたしを……見るの?……
「お前なんか、産まなきゃよかった」
…………どうして…………そんなこと、いうの?
……やめて……痛い…………痛いよ……
……もう泣かない……泣かないから…………蹴るのはやめて……
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上側の世界 11
「ひとりつかまえたか? まだ殺すな。おれが着くまで生かしておけ」
マークUの後部座席に座る紺野は、ひっきりなしに鳴っている別の携帯電話を取りあげた。
「おれだ」「――今、話せるか」「お前の班は四丁目の大橋ビル二階に移れ」
エアコンの冷風が吹き荒れる車内で、複数の携帯電話に指示を与えていた。また別の携帯電話が鳴る。今度は変わった着信音だった。紺野はこの相手のときは耳を澄まし、相手の意見を尊重する。
隣の座席で秋庭の頭がふれた。あやうくまどろみかけるところだった。
「まだ仮眠は取るなよ」
紺野の抑揚のない声に、秋庭は「すみません」と謝り、煙草に火をつけた。
気づいたときには、指に挟んだ煙草が根本まで燃え尽きていた。
秋庭はあわてて精神賦活剤を探した。もつれそうな指でつまみ出し、何錠かこぼして噛《か》み砕いた。疲労と睡眠不足。神経がおろし金で削り取られるような感覚だった。たまらずにウインドウの外に視線を投げた。
夜が明けようとしている。ワンボックスカーから乗り換えたマークUは、大型パチンコ店の駐車場に停めていた。この先ジャガーでは目立つので弟分に用意させたものだった。
「またひとり死んだぞ」
紺野が折りたたみの携帯電話を閉じ、静かにつぶやいた。秋庭は自分に向けられた言葉だと気づき、首をまわした。
「まさか……」
「病院に運んだときは、もう遅かったようだ」
秋庭の気が戻り、苛立たしげにドアの内側を叩いた。全焼させたリサイクルショップの倉庫から戻る際、ワンボックスカーの運転席で意識混濁の症状を起こした組の若者のことだった。あれからまるで眠ったような昏睡状態に陥り、マークUに乗り換える前に、契約している医師の元へと送った。急患が出れば深夜だろうと関係ない。そのために大金を払っている。
沈黙のあと、紺野は続けた。
「島津が藍原組を襲撃するよう依頼した中国人グループは八人。全員銃器の扱いに長《た》けている。所持しているのは九ミリオート、二十二口径の消音銃、そしてクロスボウだ。とくにリーダーの王飛《ワンウエイ》の射撃技術は高い」
「……待機させていた組員の首尾は?」
「ついさっき、八人のうち五人まで身柄《がら》をおさえた」
「残る三人は?」
「王飛とその部下だ。しくじって手負いのまま逃がした。こっちは四人撃たれて重症だ。王飛は血眼になっておれやお前を捜している」
「捜す? なぜですか」
「やつは実弟の安《アン》が殺されたことを知っている」
秋庭は生唾を飲んだ。
「今ごろ島津と連絡を取っているだろう。こっちは連絡役と王飛の仲間を人質にしている。島津もいい加減、自分の尻に火がついたことくらい気づいたはずだ」
「……すべて島津が計画したことでしょうか?」
「そうだな」
「内輪に黙ってですか?」
「やつの腹づもりは、不法滞在者を束ねる極東浅間会との抗争に見せかけて、うちを解体することだ。島津は腹心の部下を藍原組の組長におくつもりでいる。うちの事務所がガサ入れられて、警察に目をつけられていることも知ったうえでの行動だ」
「汚ねえ真似を」
「もう事態は変わっている。島津は内輪に黙ってチャイニーズマフィアを使った。おそらく王飛は大陸の組織にも連絡し、仲間を救うために島津に圧力をかけさせるだろう。島津をかばう者が沖連合内にいても、いつまでもかばいきれるものではなくなる」
「どうしますか?」
「沖連合の事務局に電話をつなげ」
秋庭は従った。一コールで応答があり、不寝番の人間がいることに疑問をおぼえた。早朝に電話したことを形式的に詫《わ》び、代行に取り次ぐ旨を伝えてから携帯電話をまわした。
「藍原組組長代行の紺野だ。島津に至急連絡が取りたいと伝えてほしい。それだけ言えばわかる。こっちの連絡先を言う……」
切って間もなく、折り返し電話がかかってきた。ナンバー非通知からの着信だった。
今度は紺野が直接出た。電話口から相手の声が洩れる。秋庭は息を潜め、じっと耳を澄ませた。島津の口調だった。動揺している様子にとれた。今の事態を知っているのだ。おそらく王飛から伝わったのだろう。
「オジキが使った連絡役と王飛の仲間を預かっています」
紺野が口を開いた。
――何が言いたいんだ? と、島津の声。
「ガネーシャと名乗る人間をご存じですか? うちの組員を六人殺して逃げまわっているんです」
息を呑むように島津は沈黙した。端で耳を澄ましている秋庭にまで島津の動揺が伝わった。秋庭は確信した。島津は知っているのだ。それにもかかわらず藍原組には黙っていた。
――知っている。島津は苦虫を噛むように答えた。
「ガネーシャの身柄《がら》、確保できますか? その交換条件で預かっている連中を生きたままお返ししますよ」
――なに……
「オジキの後始末に応じようと言っているんです。こっちは組員を十人失い、四人重症です。それはなんとか組内をおさえられます。確かにうちにも非はある。ですがそのためには、藍原組が受けた被害を全部、ガネーシャと名乗る人間にかぶせなければならない。すべてを丸く収めるには、ガネーシャの身柄がどうしても必要なんですよ」
島津の反応はない。後始末という紺野の疑念に対し、否定も肯定もしていない。
紺野の声色が変わった。
「おれだって、これからのことをいろいろ考えなければならないんです。オジキが提案した取引きに応じる余地も出てきました。顔を合わせるなら、その辺の話もできますが」
――余裕があるんだな。島津がようやく喋った。
「状況を楽しんでいるんですよ。それにオジキのような幹部に手を出して、沖連合や広域組織に一生命を狙われたくありません。まだまだうまくやっていきたい」
再び島津は黙りこんだ。紺野は島津の自尊心をくすぐっている。しかし島津も単純ではない。それなりの計算をしているはずだった。
――ガネーシャを拘束する。それでいいのか?
「こちらもそれで人質を解放しましょう」
――時間と場所。島津は吐き捨てるように言った。
「こちらから指定させていただきます。それくらいの条件は呑んでいただきたい」
――決まったら、沖連合の事務局に連絡しろ。
通話が切れた。
「聞いたか?」
紺野は秋庭の方を向いた。
「はい」
「島津は王飛に今の情報を流すはずだ。おれが出ていけば、やつも出てくる。逆に言えば、指定する時間まで王飛はどこかで身を潜めることになる」
秋庭は言葉の意味を理解した。「……それまで、向こうから不意の襲撃を受けることはなくなるんですね?」
「こっちから狩りに出かける。残っている組員を総動員させろ」
「わかりました」
「それと気をつけろ。王飛はナイフも使う。シチリアンストレットだ」
「シチリアン? 教えてください。なんですかそれは?」
「ポケットナイフだが、刃渡り十三センチある本物だ。厚手のコートもなんなく突き通す。無防備で近づけば十秒も立っていられない。うちの組員でそれを経験した者がいる。まだ病院のベッドで口がきけるはずだ。詳しくはそいつに聞け」
紺野は言葉少なに組員と病院の名前を告げると、シートにもたれた。
紺野の目が虚ろになりかけていることに、秋庭は気づいた。考えてみれば今まで紺野がまともに眠っているところを見たことがなかった。ここのところどこかにふらっと出かけたと思えば、疲労感を増した表情でいつの間にか戻っている。荒れた顔の肌を間近で見て、紺野もまた自分と同じように心身ともに限界に近いことを知った。
「辛いか?」
唐突に紺野がつぶやいた。
「辛くないと言えば嘘になります。ですが、今はもうそんなことは言っていられません。代行のほうこそ大丈夫ですか?」
「おれは平気だ」それから紺野は薄目を開いたまま、誰にともなく言った。「……眠らなければ、昔の夢を見ることもないからな」
ウインドウをノックされ、秋庭はふり向いた。朝食を買いに行かせていた組員がコンビニエンスストアの袋を持って立っていた。運転席にまわるよう指示し、自分も助手席に移るためドアを勢いよく開いた。
風は死んだようにやんでいる。
あまりの眩《まぶ》しさに立ちくらみを覚え、目を射る光をさえぎった。
日の出間際の東の空が、黄金色に輝いていた。背の低い歓楽街のビルの山々から、まるで砂粒のような影が舞うのを見た。
えさを求めて飛び立つワカケホンセイインコの群れだった。
「車を出せっ」
助手席にすべりこんだ秋庭は、荒れた声で命じた。
午前九時。
歓楽街からやってきたワカケホンセイインコの群れが頭上で旋回していた。
(こんなところにえさ場があるのだろうか――)
水樹は立ち止まって見上げた。顎《あご》を伝って汗が滴り落ちる。
駅から車で高速インター方向に十分。寂れた田園風景と古びたロードサイドショップが建ち並ぶ旧道沿いに、麓《ふもと》の入口があった。自然に恵まれスキー場やキャンプ場も近いので、別荘地として繁盛した時期もあったと聞いていた。
しかし、実際に目で見るものは違った。
見るも無惨に涸《か》れた小川の跡が続き、根本から折れた大木が山道をふさいでいた。荒れた土地という印象は、剥《む》き出しのまま放置されている大木の根を見てひときわ深まった。
つづら折りの坂道にまだかすかに残っている轍《わだち》があった。車幅から千鶴が好んで乗っているパジェロミニだと推測できた。そこから小枝のような細い道が何本も分かれ、そのうちのひとつが古い石敷きの道に続いている。所々ひび割れて石が抜けている箇所もあり、まともに歩ける道ではない。
足元に注意して歩くと目の前に湖が現れた。ぴたりと凪《な》いだ水面《みなも》が抹茶色に淀《よど》んでいる。湖でなく人工池で、石垣を円形に積み上げて造られたものだった。その人工池を中心に丸裸の土地が広がっている。
古い武家屋敷か、もしくは何らかの遺跡を壊してできた跡地に思えた。大きな瓦礫や石が散在し、細かく散らばった白と黒の斑晶《はんしよう》が日の光に反射している。
水樹は瓦礫のひとつに飛び乗り、改めて周囲の景色を見渡した。
路肩が崩れたまま放却されている山道。冬の積雪で傷つき、横倒しになったままの木々。いずれも人の手はかけられていない。わずか数年の間に、この土地の風光は明らかに変貌《へんぼう》を遂げたように思えた。
うす暗く重なる樹木の間に光が射す箇所があった。瓦礫から下りて向かうと、急斜面の幅広い林道に出た。奇妙な林道に思えた。多くの木を切り倒し、根を掘り起こした跡がある。大型トラックが何度も往復した深い轍が続いていた。
急斜面の向こうを見上げると、白い花が生い茂っていた。野生の百合《ゆり》だった。
何かが動く気配がした。
逃げていく野犬だった。他に何匹かいる。向こうにいったい何が? 惹かれるように坂を登っていくと、視界が開けて青い空が広がった。百合の花が野生とは思えないほど華麗な姿で咲き乱れている。日射しをさえぎって空を見上げると、はるか上空に二羽の黒い影が舞っているのが見えた。鷲《わし》か、それとも鷹《たか》か。珍しい光景だった。坂道はここから下りとなり、窪《くぼ》んだ平地へと続いている。
水樹は野犬が逃げていった場所に向かった。
途中、古ぼけた私有地の看板を見つけて立ち止まった。何かを踏んだことに気づき、足を上げる。思わず目を剥いた。ぼろぼろに朽ち果てた鳥の死骸だった。羽の色から、歓楽街で野生化しているインコと想像できた。
眼前に広がる光景に息を呑んだ。
窪んだ平地に、異形とも言える巨大な三日月形の模様が盛り上がっていた。土の色が違う。地ならしした跡があり、至るところに鳥の死骸が落ちていた。ほとんどが食い散らかされた死骸で、原型をとどめていない。かろうじて羽の色で見分けがつく程度で、普段見慣れているせいか、街で野生化するあのインコばかりが目立った。
奇妙な土の形……強引に切り開いた林道……大型トラックが何度も往復した轍。
水樹は理解した。この場所で産業廃棄物の不法投棄が行われていたのだ。昔聞いたことがあった。トラックの荷台から大量の廃棄物を捨てるとき、丸い穴はめったに掘らない。三日月形の深い穴を掘るのは、内側の湾曲した部分にトラックをバックさせられるからだった。穴に落ちる危険が減るばかりか、効率もずっと良くなる。
水樹は屈《かが》んで土に触れた。ほんのり温かい。産業廃棄物は土の中で化学反応を起こし、熱を起こすことがあると聞いていた。どれだけの量がここに埋まっているのか想像つきかねた。
付近一帯の土地が荒廃した理由が、だんだんとわかりかけた。
しかし……
水樹は周囲に散らばる鳥の残骸に目をやった。付近に野犬が群がるのは、おそらくこれが目当てなのだろう。小さな鳥がここで死ぬのだ。中でも街で野生化するインコの死骸が多い。なぜこんなところに死骸が集まるのか、不思議に思えた。
平地の端から一番近い側道まで、急斜面でつながっている。密生する木立にさえぎられているが、かなり下まで降りられるようだった。
方向は間違っていない。
見晴らしが良さそうな傾斜地に木造住宅を見つけた。増築されているが、未完成のまま放置されていた。崩落の危険がないよう背の高いフェンスで囲まれている。
ペンションの廃墟だった。
水樹はこれから向かう目的地を確認した。
秋庭を乗せたハイエースは歓楽街の中央通りを抜けて、「アーバンハイツ高田」に向かっていた。
セカンドシートにどかっと腰を下ろした秋庭は、連絡を取り合っていた携帯電話を切り、乱暴に投げつけた。ポン引きや地まわり、金融、リース業のチンピラ、業界紙の地方担当記者など、組の横のつながりを駆使して情報を集め、持っているパイプはすべて使った。それなのに王飛達の行方は依然としてつかめない。むしろ藍原組の報復を懸念する警察が、張りこみを強化させていることに苛立ちを募らせた。
「冗談じゃねえ……うちは被害者だぞ」
秋庭はリタニンの錠剤をがりがりと噛み砕いた。服用しすぎだとわかっていてもやめられない。自分の拳が目に映る。指の根本の皮がむけ、骨が見えていた。拉致した極東浅間会の組員と襲撃メンバーから、王飛の隠れ場所を吐かせようとして、無駄な時間を費やしたことを後悔した。結局ひとり殺して徒労に終わった。
「着きました」
運転させていた手下がハンドルを切り、ハイエースを路肩ぎりぎりに寄せた。
「チャカを出せ」
秋庭は唸《うな》るように命じた。拳銃は切れ目を入れたシートの中に隠していた。ハイエースのカーゴルームには工具を山ほど積み、万が一警察に停められることがあっても時間稼ぎができるようにしている。
スライドドアを開け、手下をひとり引き連れて「アーバンハイツ高田」の正面に立った。小豆色をした総タイル張りの外壁を見上げる。
不動産業者が管理する賃貸マンションで、空いた部屋を利用して期間貸しするタイプだった。もちろん藍原組の息がかかっているので、正規の手続きを踏まずに借りている。普段は緊急時の宿舎代わりとして利用していた。
秋庭は非常階段を使って六階まで上がった。いつ止まるかわからないエレベーターなど一刻を争うときは使わない。長年、現場の修羅場で積んできた経験則だった。階段を上りきった直後、悲鳴に似た声が廊下に響き渡った。奥にある六〇七号室からだった。
秋庭の携帯電話が着信した。急いで耳にあてる。
「どこにいる?」
別行動を取る紺野からだった。
「二丁目のアーバンハイツ高田です。桜井が仲間を殺して籠城《ろうじよう》しているそうです」
秋庭は声を殺して答えた。
「――覚醒剤《しやぶ》、やってるのか?」
「おそらく。どこで手に入れたかわかりませんが」
「そっちへ向かう。待っていろ」
通話が切れた。
今度は長い叫び声が響いた。幸い隣と真下は空き部屋だが、このまま続けばいつ通報されるかわからない。
秋庭は舌打ちし、手下を連れて六〇七号室の前に立った。身を潜めて待機しているとドアの向こうがひどく静かになったことに気づいた。不思議に思って耳を澄ませると、カチャと鍵を開ける音がした。退くと、今度はチェーンを下げる音が続いた。
秋庭は首をまわし、廊下側にある曇りガラスの格子窓を見た。窓の向こう側はキッチンに続いている。自分は注意したのだが、手下の姿をあそこから見られたのだ。しゃぶをやっている人間は過剰なほど敏感になることを思い出した。
ドアの向こうで沈黙は続く。不用意にドアを開ければ何か仕掛けてくる、そんな気配が漂った。
次第に秋庭の頭に血が上ってきた。
「秋庭さんっ」
手下の制止をふり切ってドアを開けた。血の匂いと、しゃぶ中特有の化学的な体臭がむっと鼻をつき、あああああっ、という叫び声とともに桜井が包丁をふりかざして襲ってきた。秋庭は肩を切られたが、怒声をあげて前蹴りを浴びせた。恐怖は麻痺《まひ》していた。
桜井は包丁を握りしめたまま床に背を打ち、後頭部を打って身もだえた。
秋庭は桜井の身体を、杭《くい》を打ちこむかのように激しく蹴った。何度も何度も、容赦なく続けた。鼻がつぶれ、陥没し、桜井は胃液と血をまき散らして床の上をのたうちまわった。やがて潰れたゴキブリのように痙攣《けいれん》して動かなくなると、秋庭は桜井を跨《また》ぎ越えて部屋の中に入った。あとから続いた手下が、あわてて桜井を組み押さえる。
十畳ほどのフローリングに布団《ふとん》が何枚も押しこまれていた。ペットボトルとスプーン、使い捨ての注射器が転がっていた。その中心に組員がふたり、血だるまになって倒れている。ひとりはすでに息絶えていた。どこを刺されたのかわからないほど血に染まっている。
秋庭は、連絡を寄こしてきた佐藤という組員を見た。まだ息があるようだった。しかしもう助からないことは、ひと目見てわかった。
「おい」
秋庭は屈んで声をかけた。佐藤の呼吸は浅い。焦点の定まらない目が秋庭を探していた。やがてその視線が秋庭に固定されると、何かを伝えるように別の方向を向いた。部屋の隅だった。布団が盛り上がっている。秋庭にはそれが何なのか想像ついた。
「あ……あ」
佐藤が何か喋った。秋庭は抱き起こした。
「しっかりしろ」
気休めだとわかっても、言った。
「…………すみません……秋庭さん……この様で……」
「いいから。すぐ医者を呼んでやる」
佐藤は安堵の笑みを浮かべた。しかし突然の発作に襲われると、唇がわななき、眼球が裏返った。
「お、おい――死ぬんじゃねえ」
佐藤はもう動かなかった。顔色は蒼白《そうはく》を通り越し、土色になりかけている。秋庭は佐藤を抱き抱えたまま、途方に暮れた子供のような表情になった。
くそったれが。
部屋の隅を睨《にら》みつけた。桜井の班は四人いるはずだった。盛り上がった布団をめくると、案の定組員がひとり、背中の入れ刺青を露《あら》わにさせて眠るような恰好《かつこう》で息絶えていた。この組員だけ外傷も血の跡もない。
ガネーシャの仕業か。
秋庭は思った。おそらく深夜か今朝、この組員はガネーシャによって死に至らしめられた。謎の死……不可解な死を目のあたりにして、桜井は耐えられなくなり、ぎりぎりまで引っぱられた精神の糸が切れた。恐怖から逃れようと、精神的な疲労から解放されようと、覚醒剤の量をさらに増やしたのだ。
その結果がこの惨状だ。なぜ自分達がこんな目に遭うんだ? いったい何をしたっていうんだ? 秋庭は腹の底が煮えたぎるほどの理不尽な思いにかられた。
「痛っ」
背後で間の抜けた声とともに、どん、と何かが倒れた。
ただならない気配に秋庭は首をまわした。桜井を押さえつけていたはずの手下が、自分の首を絞めるような恰好でひざまずいている。指の隙間から鮮血がぽたぽたと落ち、足もとに血だまりが広がっていた。
秋庭は唖然《あぜん》として目線を上げた。
桜井が血に染まった包丁を握りしめ、よだれを牛のように垂らして立っていた。
「……誰のせいなんだよ。なんでこんなことになったんだよ。紺野のせい……紺野がこの街に来てからこうなったんだよ! 秋庭……なんでお前がふたりもいるんだよぉ」
桜井はろれつのまわらない声で叫び、包丁をふりまわした。まだそんな体力があることに驚きを覚えつつ、秋庭は素早く身をかわしたが、包丁の切っ先で頬を鋭く切られた。勢い余った桜井は部屋の備品を次々となぎ倒していった。
こいつはもう駄目だ。
覚悟を決めた秋庭は、懐に忍ばせた拳銃を握った。
そのとき部屋のドアが勢いよく開け放たれた。
水樹は有刺鉄線が巻かれたフェンスに近づいた。
ペンキが剥《は》げた外観やバルコニーがもう何年も手をつけられていないことを物語っている。ある建築士の夫婦が、長い歳月をかけてほとんどふたりだけの力で改築したペンションだと聞いていた。夫が大手の設計事務所を退職してこの土地に移り住み、ペンション業を営みながら、老人用ハウスを経営することを夢見ていたという。
その夢が途絶えた。それがわかる光景だった。
警察や消防は民間の土地に干渉できない。したがって持ち主の事情で建物が放置されれば、半永久的にその建物は廃墟となってしまう。
その有様だ。
水樹はフェンスの隙間を見つけると、くぐり抜けて敷地内に入った。
荒れた庭があった。そこに見覚えのある花が咲いていた。さっき見た野生の百合だった。今がちょうど花を咲かせる季節だということを思い出した。
最初に足を踏み入れたのはロビーだった。侵入者を拒むようにガラスの破片が散らばっている。壁の染みが人の顔に見え、何ともいえない雰囲気が漂っていた。
足音を立てずに歩いていく。異臭が鼻をついた。雨で腐食した建材の匂いだった。
こんなところに千鶴が隠れていると思うと、その感覚と神経を疑いたくなった。かろうじて携帯電話の通話圏内であることが救いだった。
千鶴を見つけた。食堂と思われる部屋のテーブルで、椅子に座って眠りこけている。薄い毛布を肩にかけ、交差させた腕に横顔を載せていた。テーブルには燃え尽きた蝋燭と蚊取り線香、そしてポケットナイフが転がっていた。
木の屑《くず》がテーブル一面に散らばっている。千鶴の腕の隙間から、テーブルに彫ったと思われる絵がのぞいていた。
(一晩中こんなことをして過ごしていたのか……)
食堂を見まわした。ミネラルウォーターやレトルト食品、菓子が入った段ボール箱が積まれている。テーブルの上に千鶴の携帯電話があった。水樹は気づかれないよう、そっとつかみ上げた。ストラップをいっさいつけていないところは彼女らしい。
着信履歴だけが残っていた。ボタンを押していくと、非通知のものばかりが画面に流れていく。おそらく高遠からだと推測できた。
水樹は携帯電話を元に戻すと、まだ眠っている千鶴を見た。起こすかどうか迷った。結局それはやめることにした。壁にもたれると、背中がずるずると下がっていく。自分も眠くなってきたことに気づいた。身体は連日の疲労を訴えている。
半覚半醒に似た状態の中で、自分の手のひらをぼんやりと見つめた。瞬きをくり返すうち、今まで目のあたりにしてきた陰惨な情景が浮かびあがってきた。
何人も死んで、何人も見殺しにしてきた。最初は感じていた胸の痛みも、今ではもう何も感じなくなっている。
自分が地獄に落ちるのはかまわない。
せめて……
ここまで自分達を追いつめているガネーシャの正体だけは……
水樹の耳元で、女の声がケラケラと、男の声がガヤガヤと聞こえてきた。極度の睡眠不足による幻聴――いつものことに耐えた。
ドアを開けて入ってきたのは紺野だった。
充血した目が部屋を一巡する。やがて脆《もろ》さと頑丈さが奇妙に入り混じった生き物を見るように、桜井を向いた。
包丁を握る桜井の顔にわずかな理性が戻った。何かを言おうとして息を吸い、喘《あえ》ぐしぐさで紺野を見つめ返した。喉元をひくひくさせ、その手から包丁を落とした。やがて膝《ひざ》を落とし、その場で泣き崩れた。
紺野はもはや力を失った桜井に近づくと、包丁を蹴り飛ばした。桜井の腕を取った。脇で締めて関節の反対方向にねじ曲げ、もう一本の腕も容赦なく折った。桜井はそのまま失神して崩れた。己の末路を覚悟したような姿だった。紺野は気絶した桜井を強引に起こすと、足首と手首に手錠をはめた。
「この修羅場、どういうことだ?」
言われて秋庭は茫然と見まわした。死体が三体。首を刺された手下はもう身動きひとつしない。事態は最悪の方向に向かっている。どっと疲労感が増した。体力も限界に近づきつつあることを悟った。
「これだけの後始末、どうすればいいでしょうか? 自分にはもう――」
紺野が睨んだ。しかし秋庭には受けて返す気力もなく、弱気な目を返した。
紺野は部屋の隅で息絶えている組員に近づき、つま先で転がした。
「こっちはガネーシャの仕業か?」
「そうだと思います」
皆んな……皆んな死んでいく。残らず死ぬ。このまま本当に死ぬ。死ぬ。死ぬのはいやだ。いやだ。死ぬ……。ガネーシャ。汚ねえ……姿を見せろ……卑怯《ひきよう》……
秋庭の頬に激しい平手打ちが飛んだ。秋庭は目が覚めたように紺野を見つめ返した。
「なにを話している?」
「え」
言い返して秋庭は汗をかいた。自分の気持ちを声に出して喋っていたのだ。
紺野は黙っていた。その目が死んだ組員達に向く。そして部屋のドアに向かって静かに歩きはじめた。
秋庭はあわててあとを追った。
「残った組員はあと何人だ?」
「……代行と自分を入れてあと八人です」
「ずいぶん減ったな」紺野はたいして驚かずに返した。
「今朝、何人か逃げ出したみたいです」
ふり向いた紺野は、唇に薄い笑みを宿らせた。「敵前逃亡か。軍法なら死刑だな」
「見つけたら必ず落とし前つけさせます」
秋庭は息を大きく吐き、ようやく気を取りなおした。
「その前にまず、この部屋の後始末だ」
「ええ。しゃぶを使った跡が残っています」
「お前の指紋もな」紺野は携帯電話を取り出し、番号を押して耳にあてた。「――おれだ。掃除して欲しい部屋がある。アーバンハイツ高田の六〇七号室に清掃屋をまわせるか? 中にいる全員だ[#「中にいる全員だ」に傍点]。夕方までに頼む」
紺野は廊下に出た。秋庭も続き、鍵を閉める紺野の背中を息を呑んで見守った。紺野がここにくるまでの短い時間で、合鍵を用意してきたことを知った。
紺野が鍵を抜いて言った。
「ガネーシャの手口がわかった。手短に言うぞ」
秋庭は半拍遅れて反応した。「――今なんて?」
「眠り病だよ。名前の通りだ。数週間から数年の潜伏期を経て眠ったように死亡する。ガネーシャに殺された組員は、全員その病気に感染させられた可能性が高い」
秋庭は絶句した。
紺野はその様子を横目で見ながら続けた。「タネがわかればもう恐れることはない。眠り病は血液経由でのみ感染する病気だ。それ以外の伝播経路は考えにくい」
秋庭はまだ信じられない、といった表情で首をふり、
「助かる方法はあるんですか?」
と聞いた。
「エフロルニチンという新薬が有効らしいが、すぐには入手できない」
秋庭は唸った。そして喉から絞り出すように、
「それは、エイズのように性交渉でも感染するんですか?」
「ガネーシャが娼婦《しようふ》の可能性か?」
「ええ」
「四人目に死んだ長沢はどう説明する? あいつはゲイだ。それにガネーシャ自身が感染者とすれば、もうとっくに死んでいる。眠り病は粘膜感染しない。飲食物や空気を伝播しない。血液だけだ」
「いったいどうやって」
「ガネーシャはターゲットにした組員と直に接触している。毒のついたナイフを使って時限爆弾を仕掛けていったようなものだ。ガネーシャの正体は、それを怪しまれずにできる人物だ。おれ達の身近にいる」
「そんな、まさか……」秋庭は否定した。「そんな傷を負わされて、今まで誰も気づかなかったというんですか?」
「おれ達に盲点があるとしか思えない。意外な盲点だ。頭をクリアにして考えれば、ガネーシャの正体はわかるのかもしれない」
紺野の言葉をさえぎるように、チンという音が廊下の奥から響いた。ふたりはそろって反応した。到着したエレベーターの扉が両側に開き、ハイエースで待たせていた組員が現れた。血相を変えて向かってくる。
「どうした?」
秋庭は立ちはだかり、眉を寄せて言った。
「秋庭さん……」組員はすがる目を、秋庭の肩越しにいる紺野にも向けた。「……代行。たった今、隠れ家が王飛の一味に襲われたそうです。留守番していた仲間がふたり殺《や》られました」
秋庭の頭の中が一瞬まっ白になりかけた。舌打ちする気力が戻ると、組員の胸ぐらをつかんだ。
「なぜ居所が知れたんだっ」
「今朝逃げ出した組員が、ナイフで切り刻まれて発見されたそうです。おそらくそいつが吐いたんですよ」
秋庭は怒りを抑えるため、何度も深呼吸した。
「移動するぞ」
紺野が先を急ぐように歩いた。
「――代行っ、仇《かたき》を取らなくていいですか?」
「これで警察は藍原組と極東浅間会の抗争に、中国マフィアが加わったと見るだろう。今、我を忘れてハジきまくれば本当に身動きできなくなる。それこそ島津の思うツボだ。それと王飛の他に、ガネーシャもいることを忘れるな」
「しかし」
「今日の午後八時に、島津がこの界隈にくる。場所は伝えた。おそらく王飛の一味も姿を現すだろう。……関係者が集まる最後のチャンスだ。そこで生き残れば、すべてがはっきりする」
秋庭は焦って腕時計を見た。あと六時間弱。
「場所は、どこになるんですか?」
秋庭はこの界隈にあるホテルや廃工場など、暴力団同士の取引きで考えられるありとあらゆる場所を想定し、心の中でかまえた。
しかし紺野が告げた場所は、秋庭の想像を超えていた。
水樹は瞼を薄く開いた。
コーヒーの香ばしい匂いが鼻をついたからだった。頭痛がひどい。腕時計を見て、四時間近くも眠っていたことに気づいた。足もとに湯気の立つマグカップが置いてある。
頭上に視線を感じ、顔を上げた。
千鶴が椅子にまたいで座る恰好で水樹を眺めていた。椅子の背もたれに両手を乗せ、ずずっと音を立てて呑気《のんき》にコーヒーを吸っている。
水樹は腫《は》れた目をこすり、いつもの習慣で携帯電話を取り出した。着信設定はバイブレーションにしてある。眠っている間に、高遠からの連絡が入っていないことにほっとした。
「はいこれ」
と、千鶴が何かを差し出してきた。小さなビニール袋に包まれた白い結晶だった。
「辛いんでしょ? これで眠気がふっとぶし、楽になれるよ」
水樹はその手首をつかんだ。
「こんな感じで他の組員にも分け与えていたんですか?」
千鶴は一瞬、ぽかんとする顔をした。
「どうして怖い顔するのよ。私がいなければ、あの人たちはもっと足のつきやすいところから買っていたのよ。それでも良かったの?」
水樹は言葉を返せなかった。しかし心の底でやはりこの女は危険だと思った。結果的にその行為は藍原組に追い打ちをかけている。紺野がこの時期になって、千鶴を藍原組から遠ざけようとした理由が呑みこめた。
「手、放して」千鶴が唇を尖らせる。
「すみません」
千鶴は手を払うと、じっと水樹を見つめ返した。
「ひどい顔になったわね。鏡、見たことあるの?」
「……どんな顔に見えるんですか?」
「別人」
「そうですか」
「高遠の子分になってからでしょ? あなたで三人目」
「何の話ですか?」
千鶴がくすっと笑みをこぼした。「少なくとも、前のふたりよりマシってこと。彼らがどうなったか知りたいなら、あの廃倉庫にあるビデオテープの棚を探してみれば?」
水樹の背中が冷たくなった。胸の真ん中に穴が広がる感覚――自分は母親を人質に取られているのだと言い聞かせ、何とか感情をコントロールできた。
「……もう帰ります」
「私の様子を見てこいって言われたんでしょ? コーヒーくらい飲んでいけばいいのに」
水樹は首をふり、立ち上がった。
「こんな場所によく平気でいられますね」
「私が選んだ場所だし、見た目だけ我慢すれば問題ないけど」
「自分だったらこの建材の腐った匂いが気になります」
千鶴は水樹を見た。つかのま、鋭い目になった。
水樹は続けて言った。
「最初にマンションで死体を発見したときから気づくべきでした」
「何が言いたいの?」
「匂いが、わからないんですね?」
一瞬、千鶴の顔から表情が消えた。何拍か遅れて、莫迦にしたような息を洩らした。
「だから何なのよ。物心ついたときから、これが私にとって普通のことなの」
千鶴は水樹をきつく見すえて続けた。
「……それなのに、あなた達は私達の生活を工夫とか努力とかいう言葉で理解しようとする。私は頭が悪いけど、ひとつだけはっきり言えることがあるわ。それは、障害者という言葉は少なくても私達のための言葉でなく、あなた達のための言葉だっていうこと」
水樹は黙っていた。その態度が気に障ったのか、それまで胸の奥で眠らせてきたものを目覚めさせたのか、千鶴は喋るのをやめようとしない。
「こういう昔話を知ってる? ひとつ目の人間が住む世界に、ふたつの目を持った人間が迷いこんで見世物にされるの。――たとえば頭のうしろに、もうひとつの目がある人がいるとするわ。その人はきっとあなた達よりも効率的に生活することができると思うし、他にはできない新たな仕事だってできるかもしれない。あなた達より優れた生活をする可能性があるってこと。でもあなた達はきっとその人を隔離するわ。人間として生活している限りはね」
千鶴がじっと水樹を見た。水樹はその目をまともに返せず、視線を逸らした。千鶴は薄く笑った。
「……障害者同士だって差別があるのよ」
水樹ははっと顔を上げた。千鶴の言葉が激しくなる。
「そんなの当然じゃない。あなた達だって隣の誰かが自分より貧しければ安心するし、やさしい言葉だってかけられるでしょ? それと同じよ。私がまだまじめに仕事をしていたとき、そこに生きがいを見つけようとしたとき、足が不自由なおばあさんに言われたことがあるわ。『わたしは結婚できたけれど、あなたには無理ね』って」
千鶴の目に涙がうっすらとさしていた。水樹にはそれが悔し涙に思えた。
「高遠はね、私がそばにいると安心するのよ。でも、そう感じている自分が嫌で嫌でしょうがないの。私だって嫌で嫌でしょうがない。高遠が本当に心を許しているのはひとりだけ。その人は高遠の言うことなら何でも聞いて、苦しみを解放しようとしている」
千鶴は目尻をごしごしと擦っている。
「すみませんでした」水樹は言い、背を向けた。
「……帰る前に、歓楽街の状況を教えてちょうだい」
水樹はこれまでの経緯と、高遠から聞いた今日の予定を、千鶴が知っていることを前提に話した。
「午後八時で間違いないのね」千鶴は腕時計に目を落とした。「でもどうして、そんな場所に暴力団が集まるの?」
「自分にはわかりません」
「興味あるわね」千鶴がぽつりとつぶやいた。「小学生のとき見学した以来だから」
「一緒に行きますか?」
水樹は返事を待った。そこに行けば、紺野と高遠のふたりが築いてきた暴力の世界の終わりを見られるのかもしれない。
「やだよ。流れ弾にあたって死にたくないもん」
「ここで高みの見物ですか」
「何も見えないよ、ここからじゃ」
千鶴は立ち上がると、段ボール箱からミネラルウォーターのペットボトルをつかみ取って、キャップを開いて口に含んだ。
水樹の携帯電話がワンコール鳴って切れた。それが二度続いた。高遠からの呼び出しだった。
「失礼します」
出て行こうとして、木の屑が一面に散らばるテーブルに目をとめた。草花をくわえて飛翔《ひしよう》するツバメの絵がそこにあった。反り返るように飛ぶ姿が独特で、ポケットナイフを使って羽の一本一本まで丁重に彫られている。
よく見ると千鶴の隣にある椅子が後ろにずれていた。木の屑は床にも散らばっているのに、その椅子の上だけ綺麗《きれい》だった。
「……あなたはひとりじゃなかったんですね」
水樹はつぶやいた。
「え」
「あなたの肩に毛布をかけて、ここを去っていった人のことを言っているんです」
「昨日の晩、私ひとりじゃ寂しいからって、友達がきてくれたのよ」
「友達?」
「私がそう思っているだけかもしれないけど」
千鶴が寂しげな笑みを浮かべた。
水樹の脳裏に、界隈で千鶴と一緒にいた、襟を立てた長袖《ながそで》シャツを着た髪の長い女性がよみがえった。目立たない影の薄い女だった覚えがある。
「どんな友達ですか?」
念のため聞くと、千鶴はペットボトルから口を離して言った。
「星をなくしたの。私より、かわいそうな娘《こ》よ」
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下側の世界 11
ガネーシャの職業(1)
まだコンパスが発明されるまえ、ポリネシア人の先祖は新大陸を目指して無謀ともいえる航海にでたという。なん十、なん百日も、陸地の見えない広大な太平洋を旅した。ときとして海はその海原の表情を変え、船に乗る小さなひとびとを翻弄《ほんろう》し、いきさきを見失わせた。どこにいき着くのかわからない。どこかにいき着いたとしても、帰ってこられる保証はない。
しかし彼らは夜空に浮かぶ季節の星々を指針にして、人類が到着した地球上の最後の地、ポリネシアと呼ばれる島々にたどり着いたという。たとえ波に舵《かじ》をとられようとも、星の指針は彼らを間違いのない方向へ導いてくれたのだ。
あれからわたしは星のない海をさまよっていた。
まっ黒な、だれもいない海。
いきさきのないわたしを導く星々がもし頭上に輝いてくれるなら、もう一度だけじぶんが生きていける世界を目指したい。
たとえそれが星の光でなくて、偽りの光であっても――
それでみんなの魂を救えるのなら、舵がなくても漕《こ》いでみせる。
…………。………………。
お母さんがわたしたち姉弟を捨てたことに気づくまで、三ヶ月もかかった。
六畳一間の平屋建てにわたしたち三人は暮らしていた。お母さんはいつもタバコのにおいを服に染みつかせていた。それはなん度も連れていかされたパチンコ屋のにおいだった。毎晩遅く帰ってくるお母さんはどんな仕事をしているのかわからなかったが、明け方近くに帰ってくるときはいつも機嫌が悪かった。
お母さんはわたしたちにあたり散らし、よく足蹴にした。まるでわたしたちがお母さんの大切にしてきたものをうばったとでもいいたげに蹴った。そして記憶がたしかならば、お母さんに手をあげられたことは一度もない。
お母さんが見知らぬ男のひとを家に連れてきたとき、いつもよりひどくわたしを足蹴にしたことがあった。そんな光景を見かねた男のひとがわたしをかばい、お母さんにこうたずねたことがある。
「どうしてお前は、この娘を蹴ったりするんだよ」
「だって手でぶつと、わたしの手が痛くなるじゃん」
着ていく服が二着しかなかったわたしは、そのころにはすでに小学校を休みがちになっていた。担任の先生がわたしを迎えにくると、お母さんはきまってすごい剣幕で「不登校になったのはいじめのせいだ」とまくし立てた。きっとお母さんはわたしがいじめられる理由なんて考えたことなどなかったのだ。
そのお母さんが二日も家をあけた。
いままでそんなことは一度もなかった。
冷蔵庫にある食べものは弟と食べつくした。三日目の朝、不安になったわたしは朝まで泣きやまなかった弟を寝かしつけ、玄関でひざをかかえて待っていた。
お母さんがわたしを好きでないことはわかっていた。でも、幼い弟はまだかわいがっていた。だから帰ってこないはずがない。じぶんにそういいきかせた。待っても待ってもその日は帰ってこなかった。お腹も空いて、涙がこぼれ落ちそうになるのを我慢していると、ふと郵便受けのなかになにかが入っていることに気づいた。
なかをのぞくと、食パンやお菓子がつまっていた。
お母さんが入れてくれたのだと確信した。その日、弟とふたりで大切に食べた。いつきたのかわからないけれど、お母さんはちゃんとわたしたちのことを考えてくれている。そう思うと、すこしだけ安心できた。
それから二、三日に一度、郵便受けのなかに食べものがつめこまれるようになった。それでしばらく食いつないでいけた。
ある日のことだった。
わたしは弟をさきに寝かしつけ、夜の暗闇のなか、玄関さきでお母さんを待つことにした。
もう限界に近かったのだ。目の下にはひどい隈もできていた。
お母さんはわたしたちが寝ているあいだにここにきているはずだった。なぜ昼のあいだにきてくれないの? なぜわたしたちに会ってくれないの? いいたいことも、ききたいことも、山ほどあった。
その夜わたしはカッターをにぎりしめていた。お母さんを傷つけようなんて思っていなかった。もしお母さんがあらわれれば、じぶんの腕を切るつもりだった。怪我をすればきっとわたしでも心配してくれる。看病してくれるだろうし、わたしたちに目を向けてくれる。
うとうとしかけたころ、外でもの音がした。わたしは急いで玄関を開けた。するとそこには、やはりお母さんが食パンの袋を持って立っていた。
カッターのことは忘れていた。ぼろっと涙がこぼれて、お母さんにしがみついた。とっさのことにお母さんは戸惑ったようすだったが、やがて落ち着いた声でこういった。
「あの子はちゃんと寝ているんでしょうね? ああ……起こさないうちに早くいかないと」
わたしは手を放し、その場にぼうぜんと立ち尽くした。気づいたときにはお母さんの姿は消えていた。
お母さんが夜にならないとここにこない理由がわかった。まだ幼い弟がお母さんに会えば、きっとわたしとおなじようにしがみつく。そして知っていたのだ。弟ならきっとその手を放さないことを。そしてわたしなら放すことを。
それから食べものは、まるで警戒したように週に一度くらいしか郵便受けに入れられなくなった。それでもまだお母さんがわたしたちを見捨てたわけでないことに、なんとか待ちつづける気力を保つことができた。
異臭ただよう家のなかで弟とふたりで抱きあっているところを、市の生活保護のひとたちが見つけてくれた。それからしばらくして、お母さんの兄である伯父さんがわたしたちのもとにかけつけてくれた。
そのときわたしは、お母さんに両親がいないことをはじめて知った。しかしお母さんには、絶縁していた兄がいた。
伯父さんはわたしたちを見るなり、長い時間泣いてくれた。
わたしたちは着の身着のまま、伯父さんに手を引かれて平屋の家をでた。
弟にはわたしがいる。
だけどわたしには、いったいだれがいるんだろう?
…………。………………。
伯父さん夫婦は、都心から離れた地方都市でペンション業を営んでいた。
別荘地として売りだされたばかりの土地だったが、スキー場やキャンプ場も近く、歓楽街とも遠く離れていなかったので、若者の観光客がぽつぽつとおとずれる場所だった。もちろんそれだけでは食べていけないので、伯父さん夫婦はいくつか仕事をかけもちしていた。
古い文化住宅がひときわ密集していたところに住んでいたわたしたちにとって、その場所はとても新鮮に映った。テレビでしか見たことのない自然をまえに、わたしと弟ははじめての旅行にきたような気分で、ずいぶんどきどきした。
伯父さん夫婦に子供はいなかった。もともとからだの弱かったおばさんのために、伯父さんは会社を辞めてこの土地に移り住んだと説明してくれた。
「学校の転校手つづきは済ませておいたよ。ここから通うのはちょっと遠いかもしれないけど、慣れるまでは一緒にいってあげるからね」
伯父さんはわたしたちのために用意してくれた部屋に荷物を運ぶと、そういってくれた。
わたしはこんな風にひとの厚意を受けたことがなかった。だから伯父さん夫婦に嫌われないよう、必要以上に礼儀正しく、愛想良くふるまった。
毎晩、嫌がる弟にもそうしつけた。
お母さんが親権を放棄したこと、わたしたちが伯父さん夫婦の養子になったことは、ずいぶんあとになってから知った。
…………。………………。
伯父さんがすごい剣幕で、背広姿の男性をペンションから追いだしていた。
外で弟と遊んでいたわたしは、遠くからその光景を眺めていた。
しばらくしてとつぜんそのひとに呼びとめられた。
「――ああ、ちょうど良かった。きみはお姉さんだね? 会えてほんとうに良かった。怪しい者じゃないよ。ぼくはルポライターという仕事をしていてね、きみたちのお母さんをさがしているんだ。できればきみたちのお母さんがいまどこに住んで――いや……お母さんと暮らしていたときのことでもいいから、話してくれないかい?」
わたしは弟の手をにぎりしめ、警戒した。
無理やり渡された名刺には、大谷と書かれていた。お母さんのことをすこしずつ知るようになったのは、それがきっかけとなった。
お母さんは十六歳のとき、おなじ未成年の男友だちと一緒に事件を起こしたという。その事件で、なんの罪もない若い夫婦が殺された。お母さんたちが無免許で車を運転していたとき、たまたまその若い夫婦が運転する車に割りこまれたという。たったそれだけの理由で逆上したお母さんたちは、車をとめさせ、ふたりを引きずりだして連れ去り、二日間に渡って監禁して暴行した。そして扱いに窮した挙げ句、絞め殺して山中に埋めた。そのあまりのひどさに、当時のマスコミはまなじりをさいて事件の詳細を報道したという。
しつこくきくわたしに、そのルポライターは少年法という言葉を苦々しく口にしたときがあった。わたしは市内の図書館でそれを調べた。難しい本ばかりだったが、わかったことはふたつあった。少年少女が罪を犯してもそれは罪じゃない。罪と知らずにやっていることが過ちなのだという。だけどひとを殺してはいけないことを知らずに、ひとを殺す少年少女がいるのだろうか?
ショックだった。
お母さんたちは出所後、被害者の墓参りをすることもなく、まるで示しあわせたように次々と姿を消したという。お母さんたちにとってその事件は、忘れたい過去以外のなにものでもなかった。なにもなかったようにそれぞれの生活を営みはじめ、やがてお母さんはわたしと弟を出産した。
わたしが会った大谷というルポライターは、加害者たちの更生を問うために取材をつづけていた。
事件後、お母さんのお兄さんである伯父さんは勤めていた会社を辞め、知り合いのいない土地に引っ越したという。そしておばさんの実家から借金をして細々とペンション業を営んでいる。
その理由を悟ったわたしは、伯父さん夫婦から見てどんどん萎縮《いしゆく》していったんだと思う。顔色をうかがう生活から、顔さえまともに見られず、ご飯を食べさせてもらうだけでありがたいと思う生活に変わった。
…………。………………。
夏の暑い日。
夕方、わたしはペンションにある古い物置小屋のなかで弟と隠れていた。
学校から帰ってくると弟が泣いていた。その手におばさんが大切に飼っていたインコがぐったりと横たわっていた。こっそり籠からだして遊んでいた弟はインコをポケットに入れたまま転んでしまったのだ。ポケットから、ぽきぽきと小枝が折れるような音がしたという。わたしは野良ネコの仕業にしようと思い、鳥籠をひっくりかえして荒らした痕跡をつくった。念入りに念入りに、けっしてわたしたちが疑われないようにしたつもりだった。その姿を偶然帰ってきたおばさんに見られてしまった。わたしの浅ましい姿を見られてしまった。気づくとわたしは弟の手を引っぱって、この物置小屋まで走っていた。
もうここにおいてもらえない、と思った。
物置小屋の隙間から陽が入らなくなり、しだいにあたりは闇に包まれた。弟とぎゅっと固まっていると、とつぜん扉が開け放たれ、懐中電灯を照らす伯父さん夫婦の姿があらわれた。
「ごめんなさい」
声が喉にからまり、弟をかばうように抱きよせた。しかし伯父さんは、かつてお母さんがしたように怒鳴り散らしたり足蹴にしたりはしなかった。一番恐れていた、わたしと弟を追いだすことも口にしなかった。ただわたしたちを抱き寄せ、「もう二度と黙っていなくならないでくれ」といってくれた。
いま思えば伯父さんはわたしを通して、実の妹であるお母さんの姿を見ていたのかもしれない。
それから伯父さんはインコのお墓をペンションの裏庭につくってくれた。伯父さんの手をにぎりしめる弟の背中を、わたしは黙って見つめていた。
その日の夜だった。
伯父さんはわたしをペンションの屋根裏部屋に連れていってくれた。まえから気になっていた場所だった。折りたたみの階段をよじのぼり、天板を持ち上げると、手入れのいきとどいた画材セットと、伯父さんが学生時代から趣味で描いていた油絵が並べられていた。
「いま、午後八時九分か……。この時期だとそろそろだな」
伯父さんは腕時計を見てそういった。わたしは「なにが?」と恐る恐るたずねた。
「見てごらん」
伯父さんはわたしを屋根裏部屋の隅に招き寄せてくれた。立てば頭をぶつけそうなほどの低い天井に、大きな天窓があった。そこから夜空に輝く星が見えた。まるで額縁に飾られた、星の絵を見るようだった。
「星座は人間が見た、はじめての絵本なんだよ。じぶんの好きな星をむすんで絵を描ける。いま語り継がれている星座の数々は、むかしのひとが想いをこらして夜空に描いてきた絵画と神話の傑作集と思っていい」
伯父さんの話に、わたしは黙ってききいった。
「……ここはむかし、おばさんとはじめて旅行をした場所でね。星がきれいだろう? だがいまきみに見せたいのは、田舎で見られるこういうきれいな星じゃない。北の空にこぐま座が見えるはずだ。ひしゃく形に並んだ星だよ。この地方だと、ちょうどいまごろから子午線を通過する」
伯父さんは青いアクリルでできた星座早見盤を渡してくれた。わたしは星々を目で追い、ひしゃく形のこぐま座をさがした。焦った。星はきれいだけど、暗い星も多かったので、とても見つけられそうになかった。
伯父さんは笑ってわたしを北向きにすわらせると、手を水平にのばすようにいった。わたしがのばした手のひらに、伯父さんは拳をふたつ重ね、さらに親指を立てた。伯父さんの親指のさきに、まわりの星よりひときわ明るい星を見つけた。
「あれがこぐま座のしっぽのさきだ。ほとんど真北から動かない。だから北極星――ポーラスターといわれるんだ。都会の明るい空や、夜空がくもって見えないときでも、あの星だけは輝いて道標となってくれる。まだコンパスがなかったころ、ひとびとはあれを方角を知る目印にしたんだよ」
|星の羅針盤《ポーラスター》……
わたしは呼吸をするのも忘れて見入った。どんなに足もとがぐらついても、いきさきやまわりが見えなくなったときがあっても、きみはきみだけのじぶんを見失わない星を見つけるんだ。そこに向かってまっすぐ歩いていける星を――。ここにはそれをさがせる時間も環境もあるのだから。
伯父さんは、そう教えてくれた気がした。
それからわたしは夜になると、じぶんの心をなぐさめるためにこっそり屋根裏部屋をおとずれるようになった。わたしがいなくなれば、伯父さんはわたしをさがしに屋根裏部屋にきてくれた。
…………。………………。
わたしは中学三年生になった。
生活はけっして楽じゃなかったが、伯父さん夫婦はわたしたちをほんとうに大切に育ててくれた。わたしはすすんで家事や菜園の仕事を手伝うようになり、なにより伯父さん夫婦に必要とされていることがうれしかった。
このころになると、伯父さん夫婦はわたしの進路をしきりに心配してくれた。
わたしは知っていた。伯父さん夫婦は爪に火をともすような倹約をつづけながら、ささやかな老人用ハウスの経営を夢見ていた。そのためにはペンションをもっともっと繁盛させて、融資してくれる銀行の信用を得なければならない。――どのくらいさきの話になるかわからないけどね、と伯父さん夫婦は夢物語として語っていた。
わたしは伯父さん夫婦の仕事を手伝いながら、定時制に通って高校卒業の資格をとろうと思った。高校卒業の資格さえあれば、いつでも大学は受けられる。学校なんて人生の一部に過ぎないのだ。また金銭的にも、伯父さん夫婦にこれ以上の負担をかけたくなかった。もし進学できるのなら、それは弟がするべきものだと考えていた。
伯父さん夫婦はわたしの意見に反対し、進路さきを考え直すよう諭した。伯父さんは知っていたのだ。わたしが屋根裏部屋で、伯父さんが描いていた油絵を必死に真似ていたことを。そしてわたしに芽生えた才能を……。絵なんて一円のお金にもならないのに、伯父さんが薦めてくれた高校は美術科コースも併設された私立校だった。
「子供の未来の選択肢を、すこしでもひろげてあげるのが親の役目だ」
伯父さん夫婦がいってくれた言葉を、いまでも忘れることができない。もう弟はなんのためらいもなく伯父さん夫婦をお父さんお母さんと呼んでいる。
わたしは猛勉強し、特待生として高校に入学した。三年間の授業料が大幅に免除されることを知っていたからだ。
みんな喜んでくれた。
わたしにとって絵なんてどうでも良かった。勉強する理由ができたことのほうがずっとうれしかった。早く大人になって経済的に自立して、いつか伯父さん夫婦が夢を叶えて老人用ハウスを営むとき、力になってあげたかった。叶うならば生涯、この美しい自然に囲まれた土地に根をおろしたい。
しかしこのときから、不安も芽生えはじめていた。
ペンション周辺の家々から、妙な噂が流れたのはこのころからだった。
「最近、体調が悪い」「野生動物が激減した」「目まいが頻繁に起こり、眠れない」
伯父さん夫婦も歳をとり、まだまだ元気だといってくれているが心配だった。
…………。………………。
「無理しないですこしはバイト休んだら? そんな顔色だから体育の時間、見学させられるっつーの」
利用するひとがすくない高校の美術室で、ジェンガのように積みあげられた本や画材の上に、そっとコーヒーがおかれた。
こういったデリカシーのない行動をとるのはひとりしかいない。いまにもこぼれそうなコーヒーをまじまじと見つめている彼女を向くと、すこしだけ笑いがこみあげてきた。
彼女は放課後の美術室でしかわたしに話しかけてこない。そして彼女はわたしの描いた絵を、ときにため息をつきながら、あきることなく眺めて過ごしていく。
お互い距離をおく関係だった。彼女はわたしに気を遣っていた。なぜなら他のクラスメイトはみんな、彼女を無視するか避けていたからだった。
彼女は中学時代の問題行動やいじめの陰湿さで、入学当初から噂になっていた生徒だった。しかしクラスで一緒になったとき、その立場は完全に逆転していた。彼女は息を潜めたようにおとなしくなり、一番まえの席で一心不乱に授業のノートをとるようになっていた。しかしどんなに頑張っても成績は下から上がらない。それがわかったのは、彼女のテスト用紙が黒板にはりだされていたからだった。くすくすと笑い声があがっていた。「あいつの家、見た?」「見た見た」「あんな小さなアトリエに頭のおかしい父親とふたりきりで住んでいるんだってよ」「いじめの抗議で、包丁を持って職員室に怒鳴りこんできたあの父親でしょ?」「なんであのこがこの高校に入れたの?」「だってあんなにバカだったんだよ」「中学のとき、暴力団のひとと付きあったことがあるんだって」「売春とかやってたんでしょ?」「そのときの客が、この高校のお偉いさんって噂もあるじゃん」「ゆすったんだ」「ありえるありえる」
黒板の前で立つ彼女のうしろ姿は、まるでブリーダーが繁殖させている血統種の群れのなかに迷いこんでしまった、野良犬のような哀れさがあった。
そのテスト用紙を、わたしはクラスのブーイングを浴びながらはがした。
かわいそうにと思ったからではない。
黙って立つ彼女の目に、なにかの光が走ったのを見たからだった。顔の上半分に浮かびあがったうす暗い険――かつてお母さんになん度も見た、わたしにせっかんする直前の爆発をためこむような顔だった。彼女が手を入れるスカートのポケットから、チキチキとカッターの刃がすべる音をきいたとき、そこからさきを見るのがたまらなく怖くなったのだ。
「……ばかね。あんたまで嫌われることないのに」
爆発をわたしにとめられた彼女は、弱々しくつぶやいて教室からでていってしまった。
それから半年後、彼女は一週間の停学になった。なん日も家に帰らず、歓楽街を徘徊《はいかい》していたところを警官に補導された。暴力団の事務所に出入りするところを見たという生徒もあらわれ、学校内で物議をかもした。
放課後、小さなビニール袋を持ってぶらぶらしている彼女を見かけた。
わたしはひとりだった。
「家、帰らないの?」
恐る恐るたずねてみた。彼女は無視し、まるでじぶん以外の人間はすべて敵だという目だけを向けてきた。声をかけたことを後悔し、わたしも彼女を無視しようとした。そのとき、彼女が手にさげているコンビニエンスストアの袋に目がとまった。調理パンの袋が見えた。弟と一緒に大切に食べていたときの記憶がよみがえった。わたしは考え、勇気をだして立ちどまった。
「わたしの家、ペンションなの」
「知ってる」
彼女の反応にわたしはすこしおどろいた。
「ここから遠いけど、たぶんお客さんいないし、部屋なら余っていると思う。……くる?」
彼女はポケットからくしゃくしゃの千円札を数枚とりだすと、
「これで泊めて」
「お金なんてとらないのに」
「……じゃあ、帰る」
その足が歓楽街を向いた。いったいどこに帰るつもりなんだろう? 借りを作りたくないのだと思ったわたしは、彼女を呼びもどして一枚だけ抜きとった。むろん、すぐかえすつもりだった。彼女は黙ってついてきた。
伯父さん夫婦は彼女の外見に目を丸くしたが、わたしがはじめて友だちを家につれてきてくれたことのほうをよろこんでくれた。彼女は居心地悪そうに顔をしかめたが、わたしの緊張をよそにおとなしくふるまってくれた。
それ以来ときどき、彼女はわたしの下校途中で待ち伏せるようになり、その度に顔に痣《あざ》をつくってきた。
彼女を泊めたある晩だった。伯父さん夫婦がいつもどおり彼女の家に電話をすると、彼女の父親に「帰ってきてくれ」と泣きつかれたという。心配した伯父さん夫婦にうながされたわたしは、彼女の部屋をノックしてのぞいた。彼女はひざを抱えてふるえていた。
その日、わたしたちは一緒の布団で眠った。彼女はわたしの手をにぎりしめ、朝まで放さなかった。彼女がぽつりぽつりと胸の内を明かしてくれたのは、あとにもさきにもそのときだけだった。家で父親が、彼女に隠れてガスの元栓をすこしずつ開けようとするのだという。にわかに信じられない話だったが、それが彼女をおとなしく従わせるのにもっとも効果的な方法で、また彼女にとってどれほど深刻な問題なのか、わたしはずいぶんあとになってから知った。
クラスメイトの噂どおり、彼女は父親とふたりで小さなアトリエに住んでいた。彼女が中学三年生のときだった。父親はからだの不調を訴え、仕事ができなくなってしまった。それが理由でアルコール浸りになり、じぶんと娘の将来を悲観し、うわごとのように心中をつぶやくようになっていた。アトリエに使い捨ての注射器が転がるようになったとき、彼女は父親をよく知る暴力団の幹部に泣きついた。その幹部はふたりのあいだに入り、彼女がいまの高校に入れるよう便宜を図ってくれたという。
彼女が一心不乱に勉強しようとした理由がわかりかけた。一度住んでいた世界に手厳しく拒否され、そこから必死にあがこうとしている点では、わたしと彼女はおなじコインの裏表のようなものだった。
このときのわたしには――
のちの生涯をかけた復讐のために、彼女の父親の職業を継ぐことになるなんて思いもしなかった。
…………。………………。
――それは月下美人といって、月の光が照る晩にしか花を開かないんだよ。
虫捕り籠をぶらさげた弟が、車椅子の男性と話しているのを見かけた。だれだろう? 学校から帰ってきたばかりのわたしは近づいた。
――花のなかにはね、太陽の光よりも月の光を必要とするものもあるんだ。
弟に話しかけている車椅子の男性に目を向けた。ペンションの敷地内だ。このひとは車椅子でどうやってここまできたのだろう? わたしの視線に気づいたのか、車椅子の男性は顔の左半分だけで笑顔を浮かべた。
「こんにちは」
わたしはいった。
「……きみの弟さんかい?」
「ここになにか用があって、いらっしゃったのですか?」
車椅子の男性の問いにはこたえず、かたい声でたずねた。今朝から伯父さん夫婦が不在であることを、なぜか悟らせたくなかった。本能的にいってはならないと思ったからだった。たとえ車椅子でも、このひとにはそう思わせる雰囲気がただよっていた。
「この子が私有地をずっと遊び場にしていてね。危ない場所だから、家まで連れもどしてあげたんだよ」
車椅子の男性がハンドリムをまわしたとき、わたしははっとした。木陰で白い四WD車がエンジンを切って駐車していたからだった。それまでまったく気配を感じさせなかった、もうひとりの男のひとがそこに立っていた。
黒い背広を着た、長身の男のひとだった。その目に強い寒気をおぼえた。まるで蟻や蚊でも眺めるような目つきを、わたしたち姉弟に向けている。
「きみはどうやら利口なひとのようだ。早くここからお逃げなさい」
車椅子の男性はそういった。
わたしは弟の手を引っぱり、家のなかに入って鍵をかけた。
その日、いくら待っても伯父さん夫婦は帰ってこなかった。
…………。………………。
伯父さん夫婦が帰ってこなくなって二日目の朝、それまで付き添ってくれた伯父さんの知り合いのすすめで警察に連絡した。そのひとは、ただしゃくりあげるだけだったわたしを落ち着かせてくれたあと、この別荘地について話してくれた。
わたしは耳を疑った。
数年まえまでこの別荘地は、産業廃棄物の最終処分場として地元の代議士と業者によって立地計画がすすめられていたという。それは付近の住人たちの長年にわたる反対運動で中止された。しかしここ最近、別荘地からそう遠く離れていない場所で、産業廃棄物の不法投棄が行われているという噂が立ちはじめていた。伯父さんは警察や市役所のひとたちに調査を訴えたが、なかなか重い腰をあげてくれず、それどころかペンションの立地条件に難癖をつけられて、自然災害避難勧告のもとで立ち退きをせまられていた。そこで伯父さんは不法投棄が行われたと思われる現場で、なんらかの証拠写真を撮影したらしかった。
伯父さん夫婦を最後に見た朝、そんなことが起きているなんてすこしも知らなかった。わたしたちを心配させないよう、ずっと黙っていたのだ。「急用ができた。夕方の六時までにはもどる」と、おばさんと一緒にでていったときの伯父さんの声を思いだした。伯父さん夫婦は、一度親に捨てられたことのあるわたしたちを残してでかけるとき、必ずもどる時間をいってくれる。その約束をやぶったことは一度もない。
その伯父さん夫婦が、なんの連絡もなく帰ってこないのだ。
わたしは伯父さんの知り合いと一緒に、家のなかをくまなくさがしまわった。カメラがあるはずの場所にカメラはなく、フィルムの類も見つからなかった。なにかの事件に巻きこまれたのかもしれない――そう思っただけで、立てなくなりそうなほど全身がふるえた。
居間でテレビをみている弟がわたしを呼んだ。伯父さんの知り合いにうながされるまで、弟の声はわたしの耳にとどかなかった。
助けを求める、かすれた声だったという。
弟は咳《せき》をして、苦しそうにからだをねじらせていた。
…………。………………。
わたしは伯父さん夫婦の遺骨をかかえ、葬儀にでられなかった弟が入院する病院をおとずれた。
急性の白血病に冒された弟は、集中治療室で人工呼吸器をつけていた。なにもしゃべることができない弟は、わたしが抱える遺骨にうす目をとめると、それがなんであるか察したように涙を流した。
伯父さん夫婦が見つかったのは、あれから二十日もたってからだった。
四十キロ以上も離れた場所で、崖《がけ》からガードレールを突きぬけて海に転落した車が引きあげられた。車体は激しくつぶれ、潮も強かったため、ダイバー達はガラスを割って、なかに残っている伯父さん夫婦の死体をだすことができなかった。車が引きあげられるまでの長いあいだ、伯父さん夫婦は車内に残されたままだった。
伯父さん夫婦の死が自殺と判断されたとき、わたしは激しく抗議した。しかし伯父さん夫婦には自殺の要因があるという。具体的に説明されなかったが、だいたい想像ついた。伯父さんの妹――わたしのお母さんが未成年のときに起こした事件のせいだといいたいのだ。当時の世間は加害者家族を犯人のように扱い、激しく責めたてた。伯父さん夫婦は住む場所と職場を追われ、流れ着いた土地で世間の不運に抗《あらが》うかのように、無理してペンション経営を実現したという。いきづまりを感じ、精神的に疲れ果ててしまったのではないか?――
わたしには納得できなかった。精神的に疲れ果てたひとが、あんなやさしい笑顔を浮かべられるはずがない。わたしたちをあんなに大切に育ててくれたはずがない。しかし伯父さん夫婦の死因の一端でも見るかのような目を、いろいろなひとから向けられた。それは実の子供でないわたしから、口を開く気力をうばいとった。
わたしに残されたのは弟と、伯父さん夫婦との思い出だけだった。
しかし、集中治療室から一歩もでられない弟を見て、どうしても現実感がわかなかった。
まるでキツネにつつまれたような感じだった。現実感がないという遊離した感覚が、伯父さん夫婦にとつぜん死なれ、いままさに命の灯火《ともしび》を消そうとしている弟の姿を突きつけられた、わたしの実感だった。
数週間後、弟の葬儀に大谷と名乗る男性がおとずれた。以前わたしのお母さんのことを取材していたライターだった。彼が葬儀にでたのは、べつの取材の理由からだった。
…………。………………。
ある日とつぜん、じぶんにはどうにもできないほどの理不尽で巨大な嵐が吹き荒れ、大切なものを根こそぎうばいとっていったようなものだった。すべてを受け入れるときがくるならば、それはきっとわたしが死ぬときだ。だからこそそれまでの気の遠くなるような時間を、どう過ごしていいのかわからなかった。色のついた夢を見ることはなくなり、ただ手と足だけを動かして、押しよせてくる時間を漠然と過去の時間へと押しやる日々がつづいた。
伯父さん夫婦が遺したペンションはわたし名義になっていた。涙がでそうになった。伯父さんの知り合いが、わたしの今後の学費と生活費のこともあるから売却したらどうかとすすめてきたが、それは断った。たとえ待っているひとがいなくても、帰る場所がなくなることだけは耐えられなかった。
そのペンションもわたしが留守にするあいだ、だれかの手でめちゃくちゃに荒らされていた。あれほど美しかった敷地や庭にも生ゴミがまかれ、耐えられないほどの悪臭を放っていた。
無惨な光景をまえに、力なくひざをつこうとしたときだった。
悪臭のなかでぽつんとたたずむ、見おぼえのある少女のうしろ姿があった。
彼女だった。のん気に宿泊用のボストンバッグを抱えて立っている。彼女はふり向いてわたしを見るなり、ペンションを指さして口をあんぐりと開いた。
その節操のなさが彼女らしかった。なにより周囲の慰めや気遣うための沈黙に押し潰されそうになっていたあのとき、「これからどうするの?」という彼女の言葉に救われた。おかげでその場で泣きくずれずに済み、異常なほど意識を覚醒できた。
「絵……」
わたしはそうつぶやき、彼女の手を引っぱって荒らされたペンションのなかに入った。
あのふたりの顔を描いたスケッチブックがまだあるはずだった。
伯父さん夫婦がいなくなってから、警察になん度訴えても関連性が不充分という理由で、ききいれてもらえないことがあった。弟に話しかけていたあの車椅子の男性と、彼につき添っていた長身の男性のことだった。思いだせる限りあのふたりの顔を描いて警察に渡したが、そのことで連絡がくることはなかった。
以来わたしは夜な夜な思いだし、苦しむようになっていた。あの長身の男性に見つめられたとき、追われるネズミのようにあちこち視線をさまよわせて逃げ場を求めた。怖かったのだ。世のなかには決してかかわってはいけないひとがいる。それはじぶんの意思と関係なく、ときどき交通事故のようにかかわってしまうことがある。弱者にとって絶対的な恐怖――本能でおぼえた最初のそれは、わたしのお母さんだった。
それでも記憶が風化してしまわないうちにと、わたしは憑かれたようにふたりの顔をなん枚もスケッチブックに描きとめていた。
いまだからこそ、それを手に入れたい。
わたしたちを襲った理不尽な嵐のまえに、あのふたりがいた。
大谷というライターがほのめかしていたように、もしあのふたりが伯父さん夫婦や弟の死にかかわっているのであれば、わたしひとりを生き残らせたことを後悔させてやりたかった。決してかかわってはいけないひとと出会ってしまったことを、逆に思い知らせてやりたかった。そのためにはどんなことだってする覚悟が生まれた。
わたしは彼女と一緒に屋根裏部屋を目指した。
そこだけ荒らされていないようすにほっとした。折りたたみの階段を使って天板を持ち上げたときだった。
「ちょっと待って。屋根裏部屋の明かりがつかないみたい。なにか変」彼女はなん度もスイッチを入れたり切ったりしてみせた。「ねえ。私がさきにようすを見るから、懐中電灯をとってきて」
わたしは無視していこうとした。
「いまのあんた、眼の色おかしいよ」
彼女のつぶやきにはっとした。すごすごと懐中電灯をとってもどってくると、わたしの代わりに階段をよじのぼる彼女の姿があった。天板を開けて、足だけ外にだしている。
「貸して」
と、彼女は手をのばしてきた。わたしは背のびして懐中電灯を渡そうとした。その瞬間、鋭く息を呑んだ。
彼女の手に血がついていた。
「スケッチブックだったよね?」
彼女はそういって懐中電灯をとりあげると、屋根裏部屋に潜りこんだ。あわててあとを追うわたしをとめるように、彼女は天板付近の床を照らした。最初に手をつきそうなあらゆる場所に、カミソリの刃が埋めこまれていた。事態をよく呑みこめないまま、床にひろがる血を見て総毛だった。彼女の血だった。
「……私、あんたの絵が好きよ。だからここにきちゃだめ」
彼女が諭すようにいい、わたしは足がすくんで動けなかった。「見つけたよ」という彼女の声をきいて、ようやく我にかえった。こんな陰湿な罠《わな》をわざわざしかけていく時間はあったのに、どうして手をつけなかったのだろう? ……わたしの指を? きみはどうやら利口なひとのようだ、早くここからお逃げなさい――ふいにあの余裕のある声が脳裏によみがえった。
わたしはもどってきた彼女を支えて階段を下りた。右手の出血がひどかった。横に寝かせるとハンカチできつくしばり、電話で救急車を呼んだ。
彼女は大切そうにスケッチブックを抱えていた。
救急車を待つあいだ、わたしはそのスケッチブックを開いた。あのふたりの顔を見つけて安堵するじぶんに気づいた。伯父さん夫婦や弟が死んだことの悲しみを、すべて憎しみに変えて吐きだせる出口をようやく見つけた。友だちに怪我までさせて得たのはそんな喜びだった。わたしは……。くやし涙で目がくもった。なんということだろう。伯父さん夫婦と弟が死んではじめて流したのが、そんな涙だった。
ひろげたスケッチブックをのぞきこむ影――彼女だった。あのふたりの顔は思いだせるかぎり、髪の毛やしわの一本一本まで描いていた。彼女は長身の男性のほうを指さし、拍子抜けしたようにぽつりとこぼした。
「これって、やくざの絵?」
ぼうぜんと顔をあげた。「知ってるの?」
「お父さんが仕事を断った客のひとりよ。どこかの組の幹部みたいだったけど」
わたしはさがすつもりだとこたえた。
「ばかね。仮に見つかっても、常識で考えて素人が近づくなんて無理よ。それにこのひと、警察でも手を焼いているってきいたもん」
落胆するわたしを、彼女は息をつめて見つめていた。しばらくして小さな声で、
「ほかの絵も見ていい?」
と、風景画のページをおぼつかない指で開いた。彼女の目はうつろになっていたが、それでも真剣に、それらを眺めていた。
「これみんな、写生した絵なの?」
彼女の問いにわたしは首をふった。屋根裏部屋にこもって描いたものばかりだから、記憶と想像に頼ったものがほとんどだった。
「……すごい。イメージだけでここまで描けるんだね」
彼女は感嘆するようにつぶやくと、
「さっきのひとに、どうしても会いたい?」
と、唐突にきいてきた。
「え」
「お父さんが断った仕事を、私たちのどちらかができるようになればね。たしかこのひとは、それができるひとをずっとさがしていたわ」
「どういう意味?」
彼女は途切れ途切れに話してくれた。
きくたびにわたしは目をひろげ、胸のうちで嘆息した。――そんなことがわたしにできるだろうか? やがて彼女の声がやみ、静けさがただよった。利き腕である右手を痛々しげに見つめる彼女は、気だるそうになにもしゃべらなくなっていた。
救急車を待ちきれずに麓まで迎えにいくあいだ、ずっと胸を占めていたことがあった。
この世には、どんなにひどい苦痛や不幸を抱えても、犯罪だけは起こすまいと必死に生きているひとがたくさんいるだろう。
でも、わたしには無理だ。
わたしは星のない道を歩きはじめようとしていた。
……ガネーシャ。
……
…………ガネーシャ…………だいじょうぶかい?
………………
だれかがわたしのからだをゆすっている。
心配そうにのぞきこむ影が三つ。そして遠くからきこえるチェロの旋律。調律が狂ってひどい音なのに、わたしの心に爪を立てるように意識を呼びさませた。
目を開くと石組みの天井が見えた。瞬きをくりかえし、見えているものが現実かどうかたしかめた。≪王子≫と≪時計師≫のおじいさん、そして≪ブラシ職人≫の顔があった。三人ともほっとしたようすで胸をなでおろしている。
わたしは目を横に向けた。ヒナは、鳥籠のなかでじっとしている。
「まだ無理しないほうがいい」
起きあがったわたしを≪王子≫がとめようとした。後頭部に違和感をおぼえた。そして思いだした。≪坑夫≫に首をしめられて気を失っていたのだ。痛みのある部分を押さえ、周囲を見まわした。
「……≪坑夫≫はどこ?」
「ここから離れた場所で頭を冷やしている。もう心配ないよ」
≪王子≫が静かにこたえてくれた。
「わたし、あのひとにあやまらなきゃ」
石畳に手をついて立ちあがろうとしたときだった。
「よすんじゃ」今度は≪時計師≫のおじいさんにとめられた。「もうすこしで、とりかえしのつかなくなるところじゃったんだぞ」
「おおげさだよ」
と、≪王子≫がつぶやく。
≪ブラシ職人≫はしゃべるタイミングを失ったように、≪王子≫と≪時計師≫のおじいさんを交互に見ていた。
「どうしてみんな、ここに?」
たずねると三人はそろって顔を見合わせた。代表してこたえてくれたのは、≪時計師≫のおじいさんだった。
「≪画家≫が知らせにきてくれたんじゃよ。おまえさんが死んじゃうって、赤子のようにわめいておった」
「≪画家≫が?」
「ああ。感謝するんじゃな」
わたしは起きあがって天井近くを向き、うわの空のように長々と見つめた。胸がしめつけられる思い……上側の世界に大切な忘れものをしてきたような感覚に、それは似ていた。
カランという音がして、シャコシャコ……とつづいた。≪ブラシ職人≫が腕をのばして石畳をみがいている。
「きみがいま、石畳に涙を落としたんだよ」
≪王子≫がいい、わたしはぬれた目じりをあわててこすった。
「きっと、なにか大事なことを思いだしたんだね」
≪王子≫の言葉にうなずいた。この世界はあんだから見て、劣った異常にあふれていだか?――≪坑夫≫の声がよみがえる。ここはあんだが望んだ場所、あんだの心を満たすための世界なんだよ――≪坑夫≫がなぜあんなことをいったのか、いまならわかる気がした。
わたしが選んだ道。
そうなのだ。
この世界でいちばんの異常は――
「……わたしの話、きいてくれる?」
だれも返事をしなかった。≪王子≫も≪時計師≫のおじいさんも、≪ブラシ職人≫まで黙っている。
おかげで楽になれた。
ここにいるひとたちに、わたしの歩いてきた物語をきいてもらおうと思った。しゃべることで、長いあいだわたしをおさえつづけたものから解放される気がした。
さっきまで見ていた夢は、まだ記憶として鮮明に残っている。
最初から話そう。しかし、どこまで話せばいいのかわからない。いままでだれにもきかせなかった話。長い月日とともに積み上げてきた復讐の物語。たとえ理解してもらえなくても、ここにいるひとたちだけには、「特異」という色眼鏡で見てほしくなかった。
長い時間をかけて話した。
三人はおどろき、ときに目をつむり、ときに痛ましそうな表情を浮かべて押し黙った。≪ブラシ職人≫は≪時計師≫のおじいさんに目を移し、≪時計師≫のおじいさんは≪王子≫の顔色をうかがっている。
わたしは立ち上がり、着ている長袖のシャツを脱いだ。
胸をおおっているバンドにも手をかけた。痛みをこらえてテープをびりびりとはがしていく。
半裸になったわたしを、ランタンの明かりが照らした。
≪時計師≫のおじいさんも≪ブラシ職人≫も、目を剥いた表情でかたまっている。
わたしの秘密を知っている≪王子≫だけが、いつもと変わらない眼差《まなざ》しで眺めていた。
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上側の世界 12
対決(1)
秋庭は路上パーキングにマークUを停め、人の流れに逆らって歩いた。
時刻は午後六時前。
ケヤキの街路樹が並ぶ市役所通りを進んでいくと、市役所と隣接して生涯教育センターがある。そこから公園を挟んだ場所に、巨大な円柱形の建物が建っていた。広い駐車場と中世の邸宅を思わせる白壁の外観が目印だった。
すでに秋庭の手下が、駐車場にワンボックスカーを停めて周囲の監視をしている。
携帯電話が着信した。その手下からだった。まだ島津の関係者らしき人物は来ていないという報告だった。そのまま監視を続けろ、と秋庭は命じて携帯電話を切った。
目的の建物の前に立った。夕陽を浴びて真っ赤に染まっている。自治体の緊縮財政の影響で、運営規模の縮小を余儀なくされていると秋庭は聞いていた。まわりを一周して、裏口らしき鉄扉をひとつ見つけた。内側から鍵がかけられている。その場所と正面玄関以外に入れる場所がないことを確認してから、正面玄関に戻った。
大型ガラスの回転扉をくぐり抜けると、映画館のチケット売り場を思わせる受付があった。空気穴のついたアクリル板を通して、風采《ふうさい》のあがらない中年男が猫背気味に背中を丸めている。訪れる客をまともに見ず、あくびを噛み殺していた。やる気のなさがうかがえ、かえって好都合だった。
秋庭は無言で近づき、千円札を丸めるようにしてアクリルの穴に放り投げた。
「お、おお、お客さん……。大人は四百円で……」
かなり遅れた反応だったが、秋庭は無視してホールに向かった。そのとき受付の中からキュッと自転車のタイヤを擦《こす》るような音がしたが、気にしなかった。
ホールの右手に天文グッズや書籍、天体望遠鏡などを販売するミュージアムショップがある。左手の展示コーナーには、市民が撮影した天体写真が飾られている。歩いていくとバイト風の清掃員とすれ違った。平日のせいか、来場者はほとんどいない。
秋庭は館内のトイレをまわり、不審者が潜んでいないか確認した。そして用具室のひとつから、望遠鏡のソフトキャリーケースを取り出した。
ホールに戻って二階に上がる階段を見上げた。館内に通じる扉がそこにある。
ビロウド張りの階段を上がっていくとパンフレットが落ちていた。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
本プラネタリウム館は二十二メートルドーム、座席数百九十四席で、七・四等まで約二万五千〇個の星々を表現するプラネタリウムになります。大型画面に映画や動画を投映するアストロビジョンも兼ね備え、春休みや夏休みの一般公開時には素晴しい生解説とオート番組を見ることができます。
[#ここで字下げ終わり]
秋庭はパンフレットを投げ捨て、扉を片手で押した。
座席が同心円状に配置され、ドーム中央に黒い大きなかたまりが鎮座している。館内はがらんどうとしていた。
ここは午後八時から貸しきりになる[#「ここは午後八時から貸しきりになる」に傍点]。
紺野の考えが正しいことを徐々に悟っていた。身分を偽る必要はあるが、プラネタリウムは安価で貸し切りにできるうえ、投影中は防音壁に囲まれた密室になる。その間、関係者は金を握らせて締め出す予定だった。こんな寂れたプラネタリウムで藍原組の組長代行と沖連合の幹部が顔を合わすとは、誰も思わない。
島津がボディーガードを引き連れて到着するまで、あと二時間弱。
終わりだ、これで。
秋庭は首をまわし、望遠鏡のソフトキャリーケースを隠せる場所を探した。
街道の車の流れが急に悪くなった。
上空ではワカケホンセイインコの群れが押しよせ、渦を巻くように街路樹の寝ぐらに戻っている。
水樹は大型家電店に隣接する駐車場ビルの六階にいた。双眼鏡の倍率を上げ、王飛《ワンウエイ》の一味に襲われた隠れ家に焦点をあてた。すぐにわかった。何十人もの野次馬が、警察による封鎖線の周囲に群がっている。現場検証はまだ続いている様子だった。
歓楽街を中心に緊急監視網が敷かれ、制服姿の警官もいれば私服もいて、普段目にできないほどの数が非常配備されていた。おかげでチンピラや客引きが跡形もなく姿を消している。警察からすれば藍原組と極東浅間会の抗争に、中国人マフィアが加わった形だった。今まで築かれた死体の山から判断すれば、尋常でない事態が起きていることは誰の目から見ても明らかになる。しかしその裏で暗躍するガネーシャの存在を、ほとんどの者が知らない。
水樹は双眼鏡を外した。一階の出口から、歩行者の注意をうながすブザーが鳴り響いたからだった。真下の道路を向くと、レンタカーのシビックが出ていくところだった。
王飛の一味だった。
ようやく動いた。
水樹はフルフェイスのヘルメットをかぶり、停めていたバイクで駐車場ビルの六階から一階まで一気に下った。タイヤがぎゅるぎゅるとアスファルトを噛んでいく。表に出てシビックを尾行した。渋滞中の道路でシビックは右折し、市役所通りに入っていく。間違いない。プラネタリウムの方向に向かっている。島津の合図があるまでどこかで身を潜めるつもりなのだ。
水樹はヘルメットに仕こんだハンズフリーフォンで高遠にそのことを伝えた。
「――よ、よ、予想通りだな」イヤホンから高遠の声が返ってきた。「王飛には弟の安を殺された私怨《しえん》もあるから、何が何でも紺野と秋庭を的にかけるつもりだ」
「島津の動きが気になります。代行と王飛の一味を衝突させるつもりでしょうか?」
水樹は言った。
「わかっているじゃないか。島津は王飛を押さえられなくなっている。独断で動かした以上、沖連合の力も借りられない状況だ。だから紺野と共食いさせるのが一番早い解決法なんだよ。それで生き残った方を始末すれば、丸く収まる。まぁそう簡単に、事は運ばせないけどな」
「……肝心の島津はいったいどこに?」
「や、約束の時間まで身を潜めるとすれば極東浅間会の縄張り内だ。しかし浅間会の組長は警察に身柄をもっていかれている。他の組員も同様に監視が厳しくなっているから、おそらく組の命を受けた何者かが手引きしているだろう。表立って動けないはずだ」
今夜に向けての準備が着々と進められている。水樹はそのことを実感し、シビックを見すえた。
「今ならまだ間に合います。別の選択肢はないのですか?」
「なーに言っているんだよ」高遠がしらけた声を出した。「王飛にはまだ手を出すなよ。せっかくだから働いてもらう」
「働く? みすみす襲わせるつもりですか?」
「イベントだよ。流れ弾に島津があたれば、こっけいな絵になるぞ。こっちは紺野の安全とガネーシャの身柄さえ確保できれば、何が起ころうと問題ない」
水樹はグリップを強く握りしめた。紺野と高遠のふたりなら身を守る策を立てているだろう。しかし残された秋庭や組員達はどうなるのだ?
「き、きき、君はそこから引き返すんだ。王飛達がプラネタリウムに向かっている、その事実だけ確認できればもういい」
「しかし……」
「引き返して界隈の監視を続けるんだ。不審な点があれば連絡してくれ」
「……できません」
「八時五分に、プラネタリウム裏口の電子錠を解錠しておく」
高遠は水樹の声がまるで聞こえないように言いつのると、
「敵前逃亡は死刑だからな」
と、残して電話を切った。
水樹はブレーキをかけた。後ろからクラクションが響き、バイクを路肩に寄せた。キーを抜くと荒々しい息を吐き、脱いだヘルメットを叩きつけそうになった。これから醜い殺し合いがはじまるのだ。……それに自分も加担する。
茫然と周囲を見まわした。市役所通りには、ビジネスビルから吐き出された人々の流れができていた。
むせ返るような人の波。
勢いよく肩がぶつかった。
「おーい。お兄さん、痛いよお」
四人組の若者だった。まだ高校生に思えた。脱色した髪、ピアスと指輪をたっぷりはめたひとりが詰め寄ってくる。その目に危ない光が宿っていた。水樹は見つめ返した。自分の目が赤く濁っているのを感じた。やがて若者の表情から、にやけたような笑みが消えた。唾を飲み、ばつが悪そうに去っていく。気づくと水樹は、ズボンに隠していた拳銃に手を触れていた。あわててその場所から逃げた。自分の顔に両手をあてた。……別人。千鶴の声がよみがえる。もう後戻りできない。
周りの風景が少しも目に入らなかった。背中に声が届いた。後ろから肩をつかまれるまで、自分に向けられたものだと気づかなかった。
水樹ははっとした。
高校時代の友人の吉山が、そこに立っていた。長身の身体を折り曲げ、ぜえぜえと肩を上下させている。どこかで自分を見かけ、走って追いついてきたのだとわかった。
「……水樹、捜したぞ」
言われて水樹は奇妙な感覚に陥った。久しぶりに生身の人間の声を聞いた気がしたからだった。しかしすぐに背を向けた。
吉山に腕をつかまれた。離そうとしない。勢いにのって吉山が前に立ちはだかる。
「いったいどうなっているんだ?」
鋭い語気で問い詰められた。新聞を賑わせている襲撃事件、そして界隈に配備されている異常な警備態勢――そのことを言っているのだろう。水樹は無言で吉山の身体を押しのけた。力を入れたつもりはなかったが、突き飛ばされるように吉山が倒れこんだ。
「……おい水樹、待て」背中に吉山の声が届く。「わかった。正直に言うよ。お前の母親から連絡があったんだよ。それで俺は……」
水樹は足を止め、首だけまわした。
「また入院したのか」
と、渇いた声でつぶやいた。今度手術しなければ助からない。金のかかる手術だ。覚悟していたことだった。
「そうじゃない」吉山が身体を起こし、声を張り上げる。
「じゃあ何だ?」水樹は苛立って返した。
「ここ最近、お前が母親にしてきたことだ。あんなものは受け取れないと言っていた。俺はお前にそれを伝えたかった」
水樹は奥歯を強く噛みしめた。一週間前、自分の貯金すべてを母親の口座にふりこんでいた。そして受取人を母親に、生命保険に加入していた。水樹が藍原組の破門を志願した理由はそれだった。保険証券はアパートを引き払った際、荷物に隠して母親宛に送付してある。
吉山が近づき、水樹の胸ぐらをつかんだ。
「お前は極道の跡継ぎだ。いつかは懲役をくらうかもしれないし、命を落とすかもしれない。だが、まだそんな未練を残しているのなら死ぬな。……なあ、もし俺にできることがあったら言ってくれよ。こんな俺にでも、できることがあるなら力になる」
水樹は息を吸いこんだまま長く沈黙した。吉山の左手薬指にあるプラチナリングが目に映った。たったひとりの友人を……巻きこめない。
「くっ」
言葉にならない呻《うめ》き声が、喉から洩れるのを聞いた。水樹の中で何かが弾け、それまで麻痺していた神経が次々とよみがえる感覚を覚えた。吉山の上着をつかみ、その場に膝を落とした。
水樹は大粒の涙を落とした。
水樹は吉山を離れて歩かせた。駅に向かう途中、何人かの警官とすれ違ったが、かまわず先を急いだ。スプレーで落書きされたコインロッカーの前で立ち止まると、ポケットにある鍵を使って中のものを取り出した。
「なんだ、それは?」
吉山が聞いてきた。
大谷が公園の公衆便所で脱ぎ捨てた厚底ブーツだった。とうてい咄嗟《とつさ》に脱げるものではないが、あのとき大谷は脱ぎ捨てた。
水樹はまず吉山に大谷のことを説明した。吉山はいたって冷静に聞き、質問を二、三返してきた。水樹はそれに答え、五センチはあるブーツの靴底をはがした。少し刃を入れれば簡単に外れるものだった。土踏まずの部分に、頑丈な金属に包まれた、小さな体温計のような機器が隠されていた。
「USBのメモリじゃないか」
吉山が感嘆してつぶやいた。パソコンの周辺機器で、外付けできる小型の記録媒体だった。
「この中身を見られるか」
「お前は試したのか?」
「パスワードがかけられててダメだった」
「そのパスワードは何桁だ」
「十三桁」
水樹の返事に吉山は顎に手をあて、考えこむ表情をした。「……できない、と言いたいところだが、なんとかしなければならないんだろう?」
「すまない。急ぐんだ。今日の午後八時までに頼めるか? 早ければ早いほどいい」
「おい、あと一時間半もないぞ。だったらこっちにも条件がある」
「条件?」
「すぐパソコンを使える環境が欲しい。うちの会社ではまずい。できれば大谷という男が住んでいたアパートがベストだ。さっきの話からすると、まだ残っているんだろう?」
水樹は目を見開いた。不可能ではなかった。大谷が住んでいたアパートは、線路を越えて五分ほど歩いた場所にある。一度、高遠の指示で家捜ししたことがあるので把握していた。思わず吉山の顔を見た。ひとりで行かせ、彼に「もしも」のことが起こるのだけは絶対に防がなければならない。それは、水樹が命に換えても守らなければならないことだった。
「――おれも行こう」
硬い声で言うと、吉山はほっと胸を撫《な》で下ろす表情をした。水樹は目の前にいる友人が、暴力団の世界に深入りすることに緊張を覚えていることを知った。そのことに胸が痛んだ。
「なんて顔してるんだよ」吉山が作り笑いを浮かべて言った。「それよりひとつ聞きたいことがある」
「なんだ」
「この中身、何が入っているんだ?」
漆黒の闇に包まれた星――水樹の中で、大谷が最後に残した不可解な言葉がよみがえった。
「……わからない。ただ」
「ただ?」
水樹は決意をこめた目で返した。「おそらくその中身のために大勢の人が死んだ。まだ犠牲者は出る。おれにできるのなら、それを食い止めたい」
外は夕闇に包まれ、あるタイミングを境に駐車場の水銀灯が一斉に点灯した。
秋庭はプラネタリウムの入口で見張っていた。
警察に情報が流れている可能性だけは考えないことにしていた。警察内部の張りこみの達人にでも見張られていたら、自分ではおそらく見抜けない。
秋庭は精神賦活剤の錠剤を取り出した。これで最後だと思い、残っている錠剤すべてを噛み砕いた。いっときの頭の鈍痛さえ我慢すれば、神経がすっと研ぎ澄まされる。
ロビーを左右に見た。一般投影はとっくに終了し、わずかに残っていた一般客も帰っている。清掃員の数がひとり増えていることに気づいた。小汚い顔をした初老の男だった。あっちからこっちへと、清掃用具を持ってうろうろしている。
見覚えのある顔だった。
公園で見かけるホームレスのような気がした。だったらなぜこんな所で仕事をしているんだ? 秋庭は携帯電話で、別行動を取る紺野に報告した。
「そいつには手を出すな」
紺野の声が返ってきた。
「代行は今、どこに……」
秋庭は言いかけ、それが失言であることに気づいた。仮に今自分がここで何者かに襲われ、締めあげられることがあっても、無防備な紺野の元に向かわせてはならない。紺野は藍原組そのものであり、最後の砦《とりで》でもあった。
「おれなら近くで待機している」
紺野はそれだけ答えた。まわりは静かな場所に思えた。
ふと秋庭は携帯電話を耳に押しつけた。電話の向こうにいる紺野の呼吸が乱れている気がした。苦痛をこらえている者独特の響き……まさか……首をふった。自分と同じ、ただの疲労だと信じた。
「余計な心配はしなくていい」
紺野は秋庭の動揺を察した様子で続けた。「お前は打ち合わせ通りに動いてくれればいい。何も心配することはない」
通話が切れた。
秋庭は一抹の不安を頭から消すと、ロビーと野外に潜ませた組員四人と連絡を取り合った。携帯電話ではなく、全員が同時に聞ける小型無線を使った。全員逃げていないことを確認し、ほっとした。紺野や自分に心酔し、藍原組の存続のために残ってくれた精鋭達だった。
しかし……
自分と紺野を含めて六人。これが今の藍原組の人員だった。たった一ヶ月あまりでこうなってしまった。今でも信じられない。
ただひとつの救いは、界隈の縄張りやシノギをまだ侵されていないことだった。今を生き延びさえすれば、藍原組は紺野の元に再び繁栄を極めるだろう。盃《さかずき》を受けたい準構成員など、腐るほどいる。
秋庭は大きく息を吸った。これから訪れる島津の腹ひとつで、ここは修羅場と化す。また島津が手を汚さなくとも王飛達がいる。はじめて緊張を覚えた。恐怖かもしれない。腹の底に力を入れ、それに耐えた。こっちはいくら精鋭が揃っても所詮《しよせん》は六人。人員の少なさは、いざ対峙《たいじ》したときの精神的威圧に関わる。
援軍が必要なことを噛みしめた。
援軍……
界隈にたむろしている準構成員に声をかけるのはたやすい。しかし情報が洩れる危険性がある。やはり今は、六人で対処するしかないのだ。
秋庭は歯がゆさを押し殺し、受付に目を注いだ。ぶ厚いアクリル板を通して、さっきの中年男が眠たそうに首を傾けている。
秋庭は近づいた。
「もう帰れ。勤務時間外だろう?」
親切心で言ったつもりだった。しかし男の反応はない。秋庭はアクリル板を強く叩いた。
「聞こえねえのか」
「…………………………だな」
男の口の端がにやけ、ほとんど聞き取れない声で何か喋った。その語尾に揶揄《やゆ》する響きがあった。
秋庭は鼻白み、怒気を露わにした声を張り上げた。それでも受付の男は動じない。このときになってようやく、男が発散する異様な雰囲気に気がついた。
男はこらえきれない様子でくっくっくと笑い出すと、顔の右半分を引きつらせた。
「い、いいい、威勢はいいが、あ、あいかわらず落ち着きがないよな。まわりが見えなくなる悪いクセもある。あんまり紺野を苦労させるなよ」
秋庭は目を広げ、その場に立ち尽くした。
「――久しぶりだな、秋庭」
アクリル板の向こうで、紺野の車椅子の右腕、高遠が笑って見上げていた。
大谷のアパートの部屋は、かすかに黴《かび》臭い匂いが漂っていた。スチール製のデスクや本棚、山のように積んである段ボール箱がひっくり返り、足の踏み場もない。
「水樹、あとどのくらい時間が残っている?」
吉山の問いに、水樹は腕時計を見た。
「……ぎりぎり延ばしても、あと一時間でここを出なければまずい」
水樹の答えに背中を押されるように、吉山の指がキーボードの上を走った。
いくつものウインドウがモニタ上に開き、ひとつずつ順番にチェックされていく。専門学校を卒業してウェブデザイン会社を立ち上げただけあって、その動きに無駄はない。
水樹は荒らされたまま放置されている部屋を見まわした。公園で大谷をつかまえたあと、高遠の指示で家捜しした跡だった。そのとき使用し、財布の小銭入れに入れていた合鍵がこうして役に立っている。部屋は引き払われているわけではないので、電気はまだ通っていた。しかし念を入れて照明はつけずにいた。吉山の前にあるパソコンモニタだけが薄暗く発光し、部屋を仄《ほの》かに照らしている。
「パスワードが解けるかもしれない」
吉山がようやく口を開いた。
「どうやってできるんだ」
「知らないのか? たとえばほとんどの携帯電話が、四|桁《けた》の暗証番号を使っている。四桁の暗証番号解読なら、すでにその解読ソフトを内蔵したデータチャージ器が一般で売られている」
「……そんなものが買えるのか?」
「マッチ箱くらいの大きさだ。誰でも入手できる。携帯電話のコネクタにさせば勝手に暗証番号を解読して、データを吸い上げてくれるんだ。相手がトイレに行った隙にできる。大谷は他人の個人情報を売って、小銭を稼いできたんだろう? 携帯電話に手を出すのは基本中の基本だ。だったらこの手の解読ソフトをいくつか持っていると思った」
吉山は、俺なら携帯電話に個人や友人の情報は絶対に入れないね、と付け加えて話を続けた。
「お前にもらったUSBのメモリに話を戻すぞ。大谷は十三桁の暗証番号でプロテクトをかけた。その中身がやばければやばいほど、必ずプロテクトを解除できる保険をかけておかなければならない。暗証番号を覚える人間の記憶なんて、いざというとき役に立たないことが多いんだ。大谷のような立場なら、そのために命を失うことがあってはならない。わかるか? その理屈が」
吉山は話している間でも、マウスを握る手とキーボードを叩く手を止めなかった。水樹はモニタをのぞきこみながらたずねた。
「今どうなっているんだ?」
「パスワードを解読するソフトがハードディスク内にいくつか残っている。これから順に試していく。十三桁なら長くても五分足らずで終了するだろう」
背後で見守る水樹は緊張を抑えるため、煙草を取り出した。
「俺ももらっていいか?」
吉山がせがんだ。水樹はもう一本をモニタに対峙する吉山の唇にさし、火をつけた。
立ちのぼる紫煙とともに時間が過ぎていく。
「何か話しかけてくれよ」
と、吉山が言った。
「そんな余裕があるのか」
「何もしないで黙っているより、ふたりで何か喋っていた方がいい」
水樹は考えた。ずっと頭の隅で引っかかっていたことを思い出した。言おうか言うまいか迷ったが、口を開くことにした。
「郊外にある別荘地で、奇妙な光景を見た」
「……奇妙な?」
「鳥がたくさん死んでいたよ。歓楽街に巣くっているインコばかりだ」
「人跡未踏の象の墓場みたいだな」
「お前は見たことあるか?」
「いや……でも」吉山が煙草の煙をくゆらせ、考えるしぐさをした。「高校の頃、俺がバスケットボール部にいたことを覚えているか?」
「ああ」
水樹は戸惑い、答えた。
「部員と一緒に、避暑地にある顧問の先生の実家を訪ねたことがある。避暑地と言ってもほとんど山の中だ。渓流で釣りをするのが目的だった。そうしたら後輩が妙なものを見つけてさ、それが鳥の死骸だったんだよ」
黙って目を見開く水樹をよそに、吉山は椅子の背もたれに体重を預けて続けた。
「……まわりにも同じ鳥の死骸が落ちていた。そこにいるみんなで気味悪がっていたら、先生の両親が弁当を持って来てくれたんだ。それで聞いてみた」
「なんて答えたんだ?」
「理由はわからないと言っていたよ。でもここで死ぬなら、鳥達は本望だろうとも言っていた。死骸があったまわりの土や石に触ると、温かかったんだよ。そこは温泉地だったんだ」
水樹は思わず自分の手のひらを見つめた。インコが死んでいた、あの土壌の感触を思い出した。ほんのり温かかった。土中に隠された産業廃棄物が少しずつ化学反応を起こしていたからだ。
吉山はモニタから目を離さずに続けた。
「鳥達は自分が死んだことを他の動物達に知らせたかったんじゃないかと、先生の両親は言っていたよ。死んだ土壌が温かければ、それだけ虫も湧きやすくなるし、腐敗も早く進む。だから腐敗臭を嗅ぎつけて、肉食の野生動物が寄ってくる。どこかの本で読んだことがあるけど、鷹や鷲のような大型肉食鳥類でも、エサとなる小動物の腐敗臭を嗅ぎ分ける力を持っているらしいんだ」
「鷹が? まさか」
「そうでもない。鷹や鷲でも嗅覚は驚くほど発達している。はるか上空から獲物を捕るとき、生きて駆けまわっている小動物より、むしろ死骸を探しているという説さえあるんだ。そんな高い上空から、十五センチ程度の小動物を見分けるのは難しいという観点からだよ。腐敗臭なら土壌の匂いと一緒に、上昇気流によってかなり高い上空まで運ばれることがわかっている」
水樹は口をつぐんだ。それであんなたくさんのインコの死骸が集まる理由が、説明できるとは思えなかった。
吉山はパソコンをインターネットにつなげた。やがて色鮮やかなホームページがモニタに映り、界隈に住むワカケホンセイインコの生態写真がそこに並んだ。
「ほら、ここにインコやオウムの模倣能力とある。科学的にもコミュニケーションをとる手段として証明されているようだ。たとえば、えさ場を知っている一羽がいたとする。えさをまともにとれない幼い鳥や、前の日にえさにありつけなかった親鳥は、その一羽の鳴き声を真似て伝えあうんだ。そうやってペットだった鳥が街で数を増やして生き抜いている。仲間同士、親鳥からヒナ鳥へ――さまざまな知恵を伝えあって生きていると考えるのは不思議じゃない」
「まさか」
水樹には信じることができなかった。自分達の命がもっとも生かされるであろう場所を伝え合っている……。人間には到底理解できない命のつながりが、街の郊外であのような奇妙な「墓場」を作り上げたというのか?
吉山は何かに気づいた様子で煙草の火を潰すと、インターネットの画面を閉じた。
「どうした?」
「パスワードの解析が終わった」
水樹はモニタを注視した。「どうなっているんだ?」
「いくつかの電子ファイルがある。ご丁寧に文字化けしているよ。大谷が独自にプログラミングしたアプリケーションで、コンバートしなければならないようだ」
「おれにもわかるように言ってくれ」
「暗号のような文章ファイルを見つけたんだ。でも心配するな。おそらくその暗号を変換するソフトも、このパソコンのハード内にある。探せばいいだけだ。結局パソコンが使えるやつっていうのは、検索のセンスが優れているかどうかなんだよ」
吉山は煙草をもう一本ねだると、再び作業に没頭した。
水樹は背後の壁で腰を下ろし、塞ぎこむように考えた。
紺野と高遠がなぜ、最後の舞台とも言える場所にあのプラネタリウムを選んだのかわからなかった。やつらは盗んだんだよ。誰もが手を出せなかった漆黒の闇に包まれた星を――大谷の言葉だ。しかしそれがいったい何を意味しているかわからない。
吉山は黙々とマウスをクリックさせている。
水樹は腕時計をのぞき見た。あと四十分ほどしか時間がない。吉山を無事帰し、この部屋から侵入の痕跡を消す時間を考えれば、実質三十分くらいだろう。
ようやく吉山に反応があった。水樹は立ち上がって近づいた。モニタを見つめる吉山の目が、針のように鋭くなっている。
「……変換が終わった。このまま電子ファイルで持ち出すのは簡単だが、暗号に変換してまで保存していた文章だ。ファイルと一緒に全部プリントアウトしたほうがいい。プリンターの電源を入れてくれないか」
プリンターはパソコンから少し離れた場所にあった。言われた通り電源を入れると、プリンターがかたかたと音を立て、用紙が一枚ずつ引きこまれていった。
「手分けしよう」
吉山が手を伸ばして言う。
「できるのか?」
「会社じゃ、一度に三つのモニタを見ながら仕事をすることだってあるんだぜ」
水樹は半ばあきれながら、次々とプリントアウトされていく用紙を吉山にも渡した。
最初に手にしたのは英語の書面だった。何が書かれているのかさっぱりわからない。それが何枚も続いた。やがて日本語の文面に変わった。新聞の切り抜きを電子ファイル化したものだった。「I県N臨界事故」というタイトルがついている。
「おい、K金属興産って会社を知っているか?」
吉山の声に、水樹は紙面から顔を上げた。
「金属リサイクルの会社だ。今はもう倒産している」
「二十五年前に当時の社長が、高遠を養子にしたと書いてある」
「――養子?」
水樹は平野が言った穴屋という言葉を思い出した。不法投棄現場において現場で働く人間の進行管理をする仕事だった。会社の裏の家業を、養子となった高遠が任されたことになる。
めくった用紙に目を落とした。
N臨界事故とある。六年ほど前の記事だった。原子力発電の再処理工場におけるサイクルの中で転換という工程があり、それを行う会社の事業所で爆発事故が起きたとある。国の許可を得た手順を守らなかった上、定められた量以上のウランを工程内で投入したために起きた事故だった。犠牲者を四人出し、五百十二人を被爆させ、三十一万人の住人を避難させた大惨事につながった。
「その関連記事ならこっちにもあるぞ」
吉山が言った。
「なぜこんな事故の記録が、大谷の電子ファイルの中に混ざっているんだ?」
水樹は疑問を投げた。
「さあな。お前、この事故のこと覚えているか?」
「……ああ」
この地方都市から百キロ余り離れた場所で起きたその事故を、水樹自身もまだ覚えていた。最初に思い出したのは埠頭の廃倉庫に行ったときだった。まだ北嶋組があった頃、「被爆はあったが健康被害はなかった」という被爆住民を切り捨てた政府のコメントに、たまたまニュースを見ていた当時の組員達が「見習わないとな」とあざ笑っていた。
「ここにある再処理工場って何だ?」
水樹の問いに、吉山はモニタと用紙を交互に見ながら答えた。
「プルトニウムという原子力発電における燃料を半永久的に生成する工場だ。プルトニウムは原子炉の中で生まれる人工の元素だよ。高純度のものは核兵器の原料にもなるらしい。それに当時のニュースだったら、俺もまだ覚えている。あの事故が起きたあと、再処理の転換作業を行っていた核燃料加工会社が罪に問われたはずだ。確か民間会社だった」
水樹は手にした用紙に目を走らせた。――事故原因はその民間会社の組織ぐるみの違法行為に限定されるものではなく、厳しい経営状態にもあった。当時、業績不振が続く中、その対策に汲々《きゆうきゆう》としていた。つまり業績向上のための合理化に徹底していた――
吉山が言った。
「……こっちの資料は興味深い。臨界事故が起きた事業所の組織表は、機密保持のため公表されなかったらしい。外部に配られることがあっても、肝心な部分は白紙になっているそうだ」
「白紙?」
「こっちにある大谷の記述をそのまま読むぞ。設備の改善をせずにリストラを推し進めた結果、組織表の構成が流動的に変わったことは想像に難しくない。正社員の人員削減が徹底して行われ、その穴埋めとして子会社や下請け、そのまた下請けという風に、コストダウンを重ねながら業務委託される形ができあがっていった。事故が起きた当時は、すでに常態化した違法操業を重ね、作業マニュアルも恐ろしいほど簡素なものに変わっていた。危険物を取り扱っているという意識も安全感覚もマヒし、もはや『常識的』には考えられず、『非常識的』な社会ができあがっていた……」
用紙をめくる水樹の手がぴたりと止まった。大谷によって調べられていた再処理工場の下請け業者リストに、「K金属興産」の名前があった。ちょうど高遠が筆頭株主になった時期と重なる。
吉山もそのことに気づいた様子だった。
「金属リサイクルの会社がなぜ?」
水樹は言った。
「再処理過程におけるK金属興産の業務項目に、放射性廃棄物の処理という記述がある」
「それは?」
「低レベル放射性廃棄物と呼ばれる、比較的低い放射線を浴びた廃棄物の処理も請け負っていたようだ。しかし放射性廃棄物を無害にすることは困難で、おまけにコストもかかる」
水樹は次々とプリントアウトされていく用紙を拾い上げ、目を走らせた。
まるで遺書のように、大谷の執拗《しつよう》な調査が続いている。
高遠は自社の処分場の許容量を上まわる廃棄処分を低コストで引き受ける代わりに、現場作業の下請けに社員を送りこむことで利益|補填《ほてん》をはかっていたと記されている。つまりその間に処分しきれない放射性廃棄物が発生したはずで、どこかで不法投棄されたことが推測される。そうまでして現場作業の下請けに固執したのはなぜか?
吉山の重い声が、水樹の耳に届いた。
「臨界事故が起きる半年前、K金属興産で有能な人材が不当解雇され、大幅な経費削減が断行されたみたいだ。作業現場で過酷なローテーションが組まれたらしい。コストダウンを名目にした不眠不休による醜悪な労働環境ができあがり、作業員が仕事に慣れると、その人物を解雇し、すぐさま新しい作業員を送りこんだともある」
そんなことを役員権限で行使できるのは、高遠しかいない。
それが何を引き起こすのか、いつ起こるのか――
水樹が何かをつかみかけたときだった。がたっと吉山が座っている椅子がずれた。吉山が静かに息を吸いこむのが、かたわらの水樹に伝わった。
「どうした?」
水樹の声がまるで耳に入らないように、吉山はモニタを見つめている。くわえていた煙草が口から落ちた。拾おうともしない。モニタ上で何枚かの電子ファイルを開き、ひとり言を吐くようにつぶやいている。
「……いったいこんなものを、どうやったら盗むことができるんだ? たとえ〇・五ミリグラムを隠し持っていても、検知できるセンサーが常備されていると書いてあるんだぞ。か、仮に盗むことができても、どうやって運ぶんだ?」
「おい、こっちを向いてはっきり言え」
吉山は呆《ほう》けたような視線を泳がせ、水樹を見て我に返った。
「お前の組はいったい何を売っていたんだ?」
「何をって?……」
「拳銃や薬物の密売なら、まだどんなに良かったか。お前、このシノギにかかわっていないだろうな? もしかかわっていたら、すぐ病院に行って精密検査を受けてこい。被爆しているかもしれないんだぞ」
「被爆?」水樹は混乱した。「教えてくれ。藍原組はいったい何を売ったんだ?」
「プルトニウムだ」
吉山は声をふるわせて続けた。「……まだ、この街のどこかに隠している」
水樹は言葉を失って宙を仰いだ。今まで何かに覆われていた眼が、急に視界を取り戻したように垣間見えるものがあった。
それは、今回の事件の構図だった。
紺野と高遠。
そしてふたりに挑もうとするガネーシャ。
プルトニウムと感染症――人類を撲滅させる因子を手に入れた者同士が[#「人類を撲滅させる因子を手に入れた者同士が」に傍点]、この界隈で争っているのだ[#「この界隈で争っているのだ」に傍点]。
水銀灯の明かりに包まれた駐車場から車が到着する音が響いた。
二台のメルセデスだった。ドアが一斉に開き、足音が降り立つと、入り乱れて近づいてきた。ガラスの回転扉がまわって島津が現れた。スーツを着てネクタイをしめている。五人のボディーガードを従えていた。
秋庭は手下ふたりと出迎えた。島津は秋庭と向かい合うと、ぴたっと足を止めた。
「申し訳ありませんが、検査させていただきます」
「おい」
島津の合図でボディーガード達が一斉に拳銃を取り出し、秋庭の手下に渡していった。
「念のため身体も改めさせて――」
「触るな」島津は秋庭の手を払いのけた。「いつから俺に指図できる立場になった?」
そういう問題じゃないだろう。秋庭はその言葉をぐっと喉の奥で押しとどめた。
「てめえらが拉致した人質、返してもらえるだろうな」
島津が首をまわして吐き捨てた。あまりの虫の良さに秋庭は驚きを通り越して呆《あき》れさえした。第一線で身体を張る幹部なら、決して紺野の誘いになど乗らなかっただろう。そしてこの事態そのものも作らなかった。島津は藍原組のシノギ欲しさから、内輪に黙ってチャイニーズマフィアを使い、その結果大陸の組織に圧力をかけられ、犠牲を払ってでもそのツケを払おうとしている。今の島津に見られる幹部らしい貫禄《かんろく》はひとつだけだった。スーツの下に防弾チョッキを仕こんでいない。そこまで臆病《おくびよう》ではないということだ。
秋庭は素早く目を走らせた。
五人のボディーガードの中に知らない顔が何人かいた。もしかしたらガネーシャが潜んでいるかもしれない。しかしそれはすぐに思い直した。身の安全を考えれば島津はどこかにガネーシャの身柄《がら》を確保し、情報だけを持ってきた可能性もある。
島津は二階のプラネタリウムを向いた。
「まさか本当に、あの中で取引きをするんじゃないだろうな?」
「代行にそう言われています」
秋庭は余計な刺激を与えないよう、静かに答えた。
島津が蔑《さげす》みの目を向けてきた。こめかみがひくついている。怒りを静めているのか、深々と息を吸い、
「……案内しろ。お前が前を歩け」
と、顎をしゃくり、ボディーガードをひとり残して足を踏み出した。
秋庭もまた、手下をふたり残して先導した。ビロウド張りの階段を上り、館内に入る扉を片手で押した。蔑間からロビーの明かりが流れこみ、中の暗闇を切り裂いた。
全員が入ったところで扉が自然に閉まっていく。
足を止めた島津が、訝《いぶか》しげに顔を上げた。
暗い夜空に、流れ星がすっと落ちた。まるで岩塩をまいたように、幾千もの星が頭上を埋めつくしている。ボディーガード達も落ち着きなく首をまわしていた。それがドーム天井に投影された星空と気づくまで、一拍かかった様子だった。
館内の四隅に、小さな補足照明が点のように輝いている。お互いの顔がかろうじて認識できる程度の明るさだった。胸から足もとにかけては暗闇に包まれ、十メートルも離れれば顔すら輪郭をともなわなくなっている。上映中の映画館内のようだった。
リクライニングシートが同心円上に配置され、その中心に黒い大きなかたまりと球形の機械が鎮座している。全自動プラネタリウム投影機とスターボールだった。しんと静まり返る中、羽音のような音が絶えず聞こえてくる。冷却ファンの音だった。
何かが動き出す気配も、はじまる様子もない。
「何の真似だ」
しびれを切らした島津が叫んだ。
「俺から離れるな」
歯と歯の間から言葉を押し出すような声とともに、四人のボディーガード達がぴったりとつく。
「照明だ! 照明をつけろ!」
そばにあったリクライニングシートを荒々しく蹴る音がした。
「秋庭、どこいった?」
島津はかすかな明かりを頼りに、館内の中心に向かいはじめた。
「おい、何様のつもりだ。俺をハメるための口実だったのか? つまらない小細工が命取りになるってことを知らねえのか」
「自分はここです」
秋庭は落ち着き払った声で言い、島津達を阻むように立ち塞がった。直前に館内に潜ませた手下ふたりを従えていた。
「てめえ」
島津が唸り声をあげた。
秋庭は意に介さず、背後に目を向けた。その目の方向――プラネタリウム投影機を挟んだリクライニングシートで、長身の人影が気怠そうに起き上がった。
「恫喝《どうかつ》、怒声。うざったいんだよ。まずその態度が気にくわない」
静かな声。キン、とジッポライターの蓋《ふた》を開ける音。ぽっと小さくともった炎が周囲の闇を払った。
紺野の顔がそこに映った。
「……たかが暴力団だ。この世に存在することの見苦しさ、息苦しさ、申し訳なさを自覚しろ。おれはもうとっくにしている」
島津は絶句し、凄《すご》みのこもった目を向けた。
「照明ならこれで充分だろう」
紺野も島津を見すえ、怯《ひる》むことなく煙草に火の明かりをともした。
プラネタリウムの敷地に到着した水樹は、駐車場の生け垣に身を潜ませた。
一般車に混じって、見覚えのあるシビックが駐車されていた。王飛の一味が乗っていたレンタカーだった。車内に人はいない。水樹は拳銃を握りしめ、注意深く辺りを見まわした。
心臓が激しく脈打った。
自殺行為かもしれない――敷地を大きく迂回《うかい》してプラネタリウム館に向かった。裏口の鉄扉まで無事たどり着くと、水樹は安堵で膝がふるえた。それから縮こまり、腕時計を見ながら過ごした。八時五分を過ぎるとカチャッという音とともに電子錠が解錠した。
ノブをつかんだとき、自分を何度も止めようとしてくれた吉山の姿が脳裏に浮かんだ。吉山は家に帰らせ、自分ひとりでここにきた。ガネーシャから送られてきた電子メールのコピーは渡してある。彼なら何か読み取ってくれるかもしれない。
水樹は呼吸を静めてから、扉を開いた。
真っ暗闇だった。用意してきたペンライトをつけた。従業員用の長い通路に沿って、いくつか扉が並んでいる。どれもホールとつながっているはずだった。そのうちのひとつを選んで開くと、天体望遠鏡や書籍を販売する売店の前に出た。誰もいない。水樹はホールに向かい、角から正面玄関をのぞいた。藍原組の組員がふたり、見張りで立っていた。ふたりは回転扉に目を注いでいる。正面玄関は大型ガラスの三枚扉が回転する仕組みだった。侵入者が何人押し寄せようと、ホールに入るまで円筒状のスペースに停滞する瞬間が生まれてしまう。
紺野と高遠が思いつきでこのプラネタリウム館を選んだわけでないことを知った。あのふたりにとって組員は「駒」だが、その残り少ない「駒」をいかに死なせずに活用するかを心得ている。その発想があまりにもリアルすぎた。
組員ふたりの向かい側に、見慣れない背広姿の男が立っていた。島津が連れてきたボディガードだと推測できた。
水樹は首をまわした。二階に上がる階段脇に従業員用の扉がある。足音を立てずに近づき、扉を開けると、洞穴のような通路が伸びていた。プラネタリウムのコンソール室に続いている。コンソール室は、プラネタリウムのすべてを操作する部屋だった。
水樹は天井隅に取り付けられている暗視カメラを見上げ、その前に立った。しばらくするとコンソール室の扉が開き、
「……は、はは、早く中に入れ」
と、高遠が急かした。
もはや水樹は高遠をまともに正視できず、代わりにコンソール室を見まわした。照明のついた各種操作ボタンやパソコン、音響ミキサーが整然と並んでいる。さながら宇宙船のコックピットにいる感覚だった。館内とは鉄扉と大きな窓ガラスで仕切られていて、向こう側から中は見えないことがうかがえた。
高遠は車椅子のハンドリムを器用にまわし、操作台の前についた。この部屋からワイヤレスで館内の操作ができる仕組みになっている。
操作台のまわりに液晶モニタが数台置かれ、暗視カメラによる映像が映し出されていた。各々の画面が九分割され、館内の状況が手に取るようにわかる。今日のために取り付けたものだと推測できた。
「自分は何を?」
水樹が硬い声でたずねると、高遠はキーボードを叩きながら指を下に折り曲げた。床にボストンバッグが置かれている。水樹は屈んでそのファスナーを開いた。暗視ゴーグルと小型マイク、そして銃身を切りつめたショットガンが中にあった。
高遠が言った。
「……こ、紺野の合図で館内の照明をすべて落とす。そのときが君の出番だ。心配するな。ぼくらは一度、練習済みだ。ま、まさか君は、安みたいな臆病者じゃないよな?」
水樹はふるえる手で、両目の真ん中でレンズが突起している暗視ゴーグルを握りしめた。
バッグの底に二枚の方眼紙を見つけた。
一枚目は館内の座席表だった。中心部から放射状に伸びた通路を境に、東西南北が四ブロックに仕切られ、AからDを先頭文字にした座席番号がふられていた。館内に入る扉はCブロック、非常口はAブロックとBブロックにそれぞれある。
二枚目は星座盤だった。それは座席表と重ね合わせることができた。東のAブロックにペガサス座、西のBブロックに乙女座、南のCブロックにさそり座、そして北のDブロックにこぐま座がある。
思わず紙面から顔を上げた。
「は、八月の星座だよ。いざというときに投影する。今のうちに頭に叩きこんでおけよ」高遠はにやりと笑って続けた。「それと、ここでは拳銃なんか使うな。あんなもの、よほど訓練されていない限り、十メートルも離れればあたらなくなる。――ほら、見ろよ」
高遠にうながされ、水樹はモニタのひとつに目を向けた。島津を囲むボディーガード達の姿が暗視カメラに映っていた。
「ど、どいつもこいつも五体満足でいい身体しているのに、あの様だ。あんなぎゅっと固まっていちゃあ、ショットガン一発で終わりだよなあ」
モニタに映る紺野が、面倒くさそうにカメラに向かって片手をあげた。
高遠の手が操作台に伸び、ダイヤルのひとつをまわした。館内の補足照明がわずかに明るくなった。
映像の中で、紺野と島津が館内の中心で対峙していた。秋庭と手下ふたりが、シートに座る紺野の背後に間隔をおいて立っている。手ぶらだった。しかし彼らの手がすぐ届く範囲、島津達から死角になる位置に、望遠鏡のソフトキャリーケースが置かれている。
――何の真似だ。
アンプを通して島津の声が洩れた。そして「俺から離れるな」という掛け声とともに屈強なボディーガード達が島津を中心に固まる。その結果、的[#「的」に傍点]はますます大きくなった。
高遠は舌なめずりするような表情で、オペレーター用のヘッドフォンとマイクを身につけた。
すり鉢状の中心部で、秋庭は手下ふたりに目配せした。「ある状況」になったら打ち合わせ通りに行動しなければならない。そして今日は何を聞いても驚くなと、紺野に言われている。
紺野と島津の間には、巨大な投影機が不気味な影を作っていた。ボディーガード達は島津のそばから離れず、凄んだ目をあちこちに転じている。
秋庭は相手にしなかった。
紺野はたっぷり吸った煙草を、隣の座席に置いてあるブリーフケースの上で潰した。それから気づいたように、吸い殻を携帯灰皿に入れた。
「立てよ」
島津が低い声で言った。
「具合が悪いんですよ」
紺野は二本目の煙草に火をつけ、煙を吐きながら平然と答える。
「なんだと?」
「ですから座ったままでいることをお許しいただきたい。これだけ席があるんですから、オジキ達もくつろいだらいかがですか?」
「この野郎なめやがって」と、二メートル近い身長のボディーガードが足を踏み出したときだった。
「やめろ」島津が制した。「……時間がもったいない。とっととはじめよう」
それを受けて、紺野の目が左右に動いた。
「ガネーシャはどこです?」
「あれだけ組員を殺されれば、お前でも頭にくるようだな」
「オジキが余計なことをしなければ、被害はもっと少なくて済んだんです」
島津は無表情になった。
「――まず人質の確認が先だ」
紺野はその反応を予測していたように黙り、一息ついてからポケットを探った。そして島津の胸元めがけて鍵を放り投げた。
「オジキの言う人質は埠頭の廃倉庫にいます。Aの3というナンバーを探してもらえばいい。おれの相棒の趣味でね、手首を軽く切っている。おそらく明日まではもたない。ここを出たら早めに行ってあげた方がいい」
島津は受け取った鍵を、そばにいたボディーガードに渡した。
「オジキの番ですよ」
続けて紺野が言うと、島津は煙草を口にくわえた。ライターの火が後ろから差し出される。島津の顔が一瞬、薄闇の中で照らし出された。どこか余裕をちらつかせている。
「そうせかすな。こっちにもお前らの心がけ次第でいくつか土産がある。王飛の身柄《がら》が欲しくないか?」
端で聞く秋庭は怒りを覚えた。いったいどの口からそんな言葉が出てくるんだ?
「もったいぶりますね。王飛の身柄なんて興味ないですよ。やつはすでに私怨で動いている。いずれ向こうからくる」
紺野が静かに返すと、島津は鼻で笑うようなしぐさを見せた。
「ガネーシャと王飛に面子《メンツ》を潰されているやつの台詞《せりふ》とは思えないな。王飛は暗殺のプロだ。下手するとガネーシャにたどり着く前に、お前らの命が持たないかもしれない」
紺野は島津を見すえた。「何が言いたいんです?」
「確かに王飛を使ったのは俺の失敗だ。だがやつはまだ俺の手の中にある。お前もガネーシャの身柄を拘束できるまで、やつに邪魔されたくないだろう? 見たところ藍原組も兵隊を失って限界のようじゃないか」
「オジキ……」紺野は深い溜息を洩らした。「おれはもうこの世界での駆け引きに飽き飽きしているんです。ガネーシャの身柄さえ引き渡してもらえれば、王飛といくらでも殺《や》り合ってもいい。本心を言ってくれませんか?」
「そこまで覚悟ができているのなら、少なくとも王飛に寝首をかかれないようお膳立《ぜんだ》てしてやるよ。上層の幹部連中にも釘《くぎ》をさしておく。それだけ生きてガネーシャに会える確率が増える」
紺野は考えをめぐらせるように黙り、そして言った。
「その見返りは?」
「お前らが裏でやっているシノギだ。悪いようにはしない。俺に引き継がせろ」
コンソール室で水樹は、モニタのひとつを注視した。
なんだ、これは……
ある異状に気づき、その目を何度も瞬いた。
ロビーにある大型ガラスの三枚扉付近を映す映像だった。そこで見張っているはずの組員ふたりと島津のボディーガードが、いつの間にか映っていない。
目を離した隙にカメラの死角に移動したのか?……
思わず高遠の後ろ姿を見た。マイクでぼそぼそと指示を与えている。声をかけるのをためらった水樹は、再びモニタに向かった。
静まり返るその映像に、胃のあたりが急に冷たくなるのを覚えた。
島津の言葉を受けて、紺野の横顔がわずかに微笑んだ。下を向き、誰にともなく「惑星投映機」とつぶやいた。その瞬間、ドーム天井の星々が一斉に消え、館内にどよめきが走った。投影映像が切り替わり、天井に地球外から見た惑星配置図が映し出された。九つの惑星が並んでいる。
「おい、なんだこれは……」
島津もボディーガード達も天井を見上げた。
紺野はリクライニングシートにもたれ、島津達と同じように目線を上げながら言った。
「太陽系には小惑星を除いて九つの惑星がある。水星、金星、火星、木星、土星、天王星、海王星、冥王《めいおう》星、そして地球だ。その中で太陽から最も離れている惑星が見えるだろう? あれが冥王星だ。月よりも小さい。普通の天体観測ではまず見えない。プラネタリウムでさえ投影が難しい。常に漆黒の闇につつまれ、探査機が到達したことのない唯一の惑星になるんだよ。冥王星の軌道は風変わりでな、他の大部分の惑星と反対方向に動き、ときどき海王星より太陽に近い位置にくるときもある。へそ曲がりな惑星と言っていい。本当は太陽にもっと近づきたいのかもしれない。だが、それが許されないんだろうな。……そんな冥王星はプルートと呼ばれ、古代ギリシア神話の冥王ハデスの別名プルトンに由来する。死者の国、タルタロスを支配する冥府の王だ」
曇りひとつない、硬質ガラスを連想させるような声が響いた。
「おい待て」
島津がさえぎった。
「そんなくだらねえ星の解説と、何の関係があるんだ」
「話を出したのはそっちですよ。それにまだ先がある」
館内に沈黙が広がった。
「……続けろ」
島津はすでに根本で消えている煙草を落とし、苛立たしげに踏み潰した。
「おれ達[#「おれ達」に傍点]が手に入れたのは冥王星《プルート》だ。誰もが手を出せなかった漆黒の闇に包まれた惑星《ほし》――。察しの通り、高純度のプルトニウムを手に入れて売ったんだよ。プルトニウムの名前の由来は冥王星《プルート》だ」
離れて聞いていた秋庭は呆気にとられた。何だ? 代行は何を言っているんだ? 話についていけない。手下ふたりも同じ顔をしていた。島津を取り巻くボディーガード達も、動揺を隠せない様子でいる。
館内で、紺野の声は淡々と続いた。
「日本で精製されているプルートは公式発表では燃料級のものだが、兵器級も燃料級も実は大差ない。欲しがる連中は大勢いる。だが手に入れるのは困難だ。常識で考えたら不可能と言っていい。国際査察機構の通常考査が不正なプルート生産の抑止力になっていて、生産量がたとえ微量でも、計画と使用量が合わなければ調査を求められる。ましてや工場内の計量管理区域では、二十四時間体制の監視が行われているんだ。つまりプルートを手に入れるためには、常識の範囲内では無理なんだよ。――それは冥王星が教えてくれた。無軌道な動きをする冥王星を手に入れるには、こっちも常識外の動きをするしかないんだよ。それはおれの相棒が、一度しか通用しない方法でやってくれた」
「高遠か」
島津が吐き捨てると、紺野は聞き流すしぐさを見せ、指を三本立てた。
「プルートを手に入れる方法として三つ方法がある。
ひとつ目は、鉱産物から製造する。
二つ目は、密売で手に入れる。
三つ目は、奪取する。
ひとつ目は無理だな。素人が金を湯水のように使っても何十年とかかる。二つ目においてはロシアやヨーロッパ最大のくず鉄輸入国であるイタリアに行けば、エコマフィアから質の悪いものなら買えるかもしれない。三つ目の考えは不可能に近い。さすがに専門の警備は厚く、運搬の際に襲ったとしても難しい」
「だったらどうやって手に入れたんだ?」
島津の問いに、紺野の四本目の指、小指が立った。
「常識外の方法だよ。精製現場で大事故が起こり、事故処理の間に持ち出すなら話は別だ。幸いこの国は、前例のない予測不可能な事故が起こると、恐ろしく対応が悪い。まぁそれは神頼みの偶然に頼るところなんだが、あいにく神への信仰など持ち合わせていないおれは、代わりに相棒に向かって拝んでみたんだよ。そうしたら事故が起きた。六年前に世間を騒がせた臨界事故を覚えているだろう?」
「――もういい、やめろ」島津が耐えられない様子で声を荒ららげた。人工の星明かりの下、目だけが異様な光をおびていた。
それを受けて、紺野はうっとりとするような、恍惚《こうこつ》とした表情を浮かべた。
「ふざけてなんかいない。実際に毎年数百キロ単位の高純度のプルートが、国内の再処理工程で紛失しているんだ。一時的な保管場所は用意できていた。奇跡だよ。まるで太陽が一時的に冥王星を導くような、人の目に決して触れない地下の暗渠。そこには絶えず、保存に適した大量の低温水が流れている。被爆覚悟の運搬役も確保できていた。いつの時代でも、神聖な儀式には人柱が必要だったからな。そいつらを集め、教育して、作業員として潜りこませるのは難しいことじゃなかった。事業所の管理を行う組織なんて、外部にはまったく知らされない。お役所仕事なんて、上から下へと流れていくものなんだよ。組織表も白紙同然だ。作業マニュアルも恐ろしいほど簡素なもので、こっちが寒気したほどだ。おかげで事故が起きる日はある程度推測できた。監視カメラの一時的な電源供給の切断や、運搬用の簡易ケースの用意、逃走経路の確保……プルート奪取のために一年がかりで準備していたものは、たいして必要なかったことだけが予想範囲外だったよ。そういえば事故の責任追及を恐れて、相棒の養父が自らの命を絶ったな。最後にはじめて親らしいことをしてくれたと、相棒は感激していたよ」
島津は喘ぐように息を吸い、瞬きをくり返していた。
「おれ達が手に入れた高純度プルートは約四百五十キロ。そのうち三分の二は、おれの相棒が築いてきた特別なルートで金に換えてくれた。だが残りはこの街に眠らせている。金に換えるつもりはない。この街の腹の底でずっと眠らせておくつもりだ。それは昔から[#「それは昔から」に傍点]、おれ達ふたりで決めたことだった[#「おれ達ふたりで決めたことだった」に傍点]」
言い終わった紺野の目が赤くなっていた。
「……オジキはそれでも、おれ達のプルートに手を出したいんですか?」
館内がしんと静まり返った。
秋庭も押し黙った。手下達も島津のボディーガード達も固唾を呑み、声を失ったままでいる。
「狂っているよ、お前ら」
ようやく島津は、身体中の空気を送り出すようにつぶやいた。
「正気と狂気の違いなんて、ただの多数決じゃないですか。多い方が正気で、少ない方が狂気。狂気が多数派になれば、その立場はいとも簡単に逆転してしまう。ただし少数派である限りは、常に多数派に虐げられる運命にありますがね」
「戯言《ざれごと》はいいんだよ」紺野の言葉がまるで聞こえないように、島津が大声をあげた。「隠し持っているものはすべて、俺に見えないように金に換えろ。いいか、現金でだっ」
「藍原組が生き残るには、それしか道がないってことですか」
紺野が弱々しく笑った。ひどく虚ろな笑いだった。
それが芝居じみていることに、秋庭は気づいた。
「それとお前じゃ話にならねえ。高遠に会わせろ」
島津は吐き捨てるように言った。
「都合良くありませんか、それって?」
紺野が伏し目がちにゆっくり島津を見る。その場の空気が変わった瞬間だった。島津の喉仏が動く。
「まずは王飛のことだな」
島津が言うと、紺野はうなずいた。
「……午後十時にこの館内にくるよう指示を出してもらいたい。その間にオジキは身を隠すなり、ここにいる部下全員を始末するなり、好きなようにすればいい」
ボディガード達が一斉に島津をふり返る。
島津は怯まなかった。
「余計な心配だよ。こいつらは今聞いたことを墓場まで持っていける連中だ。王飛には十時に、ここに踏みこむよう指示を出す」
「その連絡が信用できる証拠を」
島津は背広のポケットから携帯電話を取り出し、電子メールを打ちはじめた。それが済むと紺野に向かって放り投げた。
紺野の手が薄闇の中で空を切り、その携帯電話を受け取った。
秋庭も近づいてのぞき見した。数字と英語を組み合わせた短い一文が、薄いバックライトに映し出されていた。英語の隠語らしき文字が含まれている。秋庭には理解できなかったが、特別な意味があるように思えた。
間をおかずに、その携帯電話に電子メールが受信された。
その内容もまた英語と数字の羅列で成り立っていた。紺野は口の中で、まるで誰かに伝えるように電子メールの文章を復唱した。やがて隠語が解読できたのか、満足そうに顔を上げた。
「なるほど。この大陸の組織を使ったんですか。オジキも苦労するはずだ」
紺野は用が済んでも携帯電話を返そうとしなかった。島津はそれを見て、苦々しい表情で口を開いた。
「――そんなにガネーシャのことを知りたいか?」
薄暗い館内のやりとりに水樹は緊張を覚えた。
紺野に煙草を吸うよう勧めたのは高遠だった。つられて島津も吸った。両者の違いは、吸い殻を残しているか残していないかの違いだった。そんな子供だましのような罠に気づかないほど、館内にいる全員の感覚が麻痺している。
紺野も高遠も、島津をここで始末するつもりでいるのだ。
水樹は深々と息を吸い込み、さっきから違和感があったモニタに目を移した。正面玄関にある大型ガラスの三枚扉を映す映像だった。
やはり見張りの組員達は映っていない。
「高遠さん」
水樹はようやく声をあげた。高遠がマイクを口もとからずらし、車椅子のハンドリムをまわして水樹の方を向く。
「カメラ、動かせますか?」
高遠もその映像の異変に気づいた様子だった。咄嗟に腕を伸ばし、カメラのアングルを遠隔操作で左右に動かした。
モーターによって映像が少しずつ左にずれていく。床に寝そべる足が五本見えた。そのうち二本は、あらぬ方向に曲がっている。
その映像を見て水樹の背中が総毛立った。
高遠は複数のモニタに素早く視線をめぐらせた。やがてその目が一点にとまった。水樹もそのモニタをのぞきこむ。
「……この部屋は?」
「に、ににに、二階にある空調管理室の映像だ。外部から侵入できる唯一の窓が備えつけられている。素人に侵入は無理だが、念のため監視カメラを仕掛けてその窓を映している」
「窓……」
水樹は映像の中で窓を探した。ない。どこにもない。やがてその理由を悟ると、浮いていた汗が一気に引いた。
「え、映像がずれて、いつの間にか死角ができあがっているんだよ」高遠は舌打ちし、続けた。「おおかた窓の外から硬質ゴム弾でも撃って、レンズの位置をずらしたんだろう。用意周到だな」
すでに王飛の一味が、このプラネタリウムに侵入している。
水樹は反射的に拳銃を握りしめ、コンソール室とホールの通路をつなぐ扉に張りついた。おそらく見張りに立たせていた三人はすでに殺されている。
鍵を開けて出ていこうとしたときだった。
「行っても、む、無駄だよ」背後から高遠の声がした。「島津のボディーガードも殺されているのがわからないのか[#「島津のボディーガードも殺されているのがわからないのか」に傍点]」
水樹の身体が止まった。王飛は暴走している。紺野と秋庭の首を取るまで、殺《や》り続けるつもりなのだ。
「し、島津ではもうコントロールできないってことだ。肝心の島津はそれに気づいていない。まったくおめでたいよな、あいつは」
「代行に知らせますか?」
「今伝えた。だが、取引きは続ける。紺野もそれに合意した」
水樹は信じられないことを耳にしたようにふり返った。高遠は顔の左半分で不敵な笑みを浮かべている。
「……ま、ままま、まだ島津はガネーシャの居場所を吐いていないんだぞ」
「しかし」
「取引きは続行だ。幸い王飛の一味は館内に侵入していない。ホールで機会をうかがっている」
「なぜそう言い切れるんですか?」
「非常扉はすべて塞いである。侵入できるとしたら、秋庭と島津が入ってきた正面扉しかないんだよ。入った瞬間にホールの明かりが射して、館内の全員に気づかれてしまう。大勢の前で的をさらすようなものだ。いくらなんでも王飛はそこまでのヘマをしない」
「ブレーカーを落とされたら終わりです」
「彼らには無理だね。このプラネタリウムの電力系統は、ぼ、ぼくの手の中にある」
水樹はふるえる喉で息を吸い、暗視カメラによる館内映像に目を向けた。確かに侵入者らしい影は、どの座席にも潜んでいないように思えた。それならば館内から一歩でも出た時点で、王飛の一味に襲われることになる。
事態を理解した水樹の背中を、冷気がゆっくり這《は》いのぼっていった。ふと顔を戻したとき、高遠の異変に気づいた。操作台の隅にあるノートパソコンを凝視している。じっと見つめるその横顔が強張《こわば》っていた。
「……ど、どういうことだ、これは」
はじめて高遠が動揺を見せていた。
水樹もそのノートパソコンの画面をのぞいた。あっ、と声を呑んだ。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
【送信者】painter_@******.ne.jp
【宛先】konno@castrum.com,takato@castrum.com
【受信日時】8月30日 20:44
【件名】alpha
「星の器、星の羅針盤。
すべての道標は提示した。
これで今日、寝つきの悪い王と側近のために
子守|唄《うた》を歌ってガネーシャは待つことができる」
[#ここで字下げ終わり]
ガネーシャからの電子メールだった。
七通目。
なぜ今になって届くのか! 島津はガネーシャの身柄を拘束したのではなかったのか? 水樹は必死に頭をめぐらせた。少なくとも今、ガネーシャは身体の自由がきく状況下にいる。だとしたらいったいどこに?
星の器、星の羅針盤……
まさかガネーシャもまた、このプラネタリウムに?
焦って高遠を見た。高遠も同様に思考をめぐらせる横顔で、ガネーシャからの電子メールを眺めていた。
「――ど、どうやらこれで、役者が揃ったということか。水樹、そろそろ準備しろ」
「ガネーシャが憎いか?」
島津が唾を吐いてたずねると、紺野は真面目に考えるしぐさをした。
「憎い、というのは少し違いますね」
「どういうことだ?」
「……同族意識ってやつを感じるんです。お互い手に入れたものを考えれば、同族嫌悪と言い替えた方がいいのかもしれない」
島津が眉をひそめる。
「理解していただかなくて結構ですよ」紺野は自嘲に似たつぶやきを洩らした。「さあ、早くガネーシャのことを話していただけないでしょうか? すこしでもやつのことを知りたい」
「今年に入ってからだ」
と、島津は静かに口を開いた。「沖連合《うち》の事務局に電話がかかってきたんだよ。藍原組の組員をひとりずつ殺す、見ていろ、とな。その時点でイカれたやつか、とんでもねえ阿呆だ。当然俺の耳まで届かない。末端の組員が適当にあしらって、その電話を叩き切った」
紺野は無言で島津を見つめていた。続きを促している。
「組員から報告があがってきのは、それからだいぶ経ってからだ。ちょうど藍原組で最初の死人が出たときだよ。それまで何度か殺人予告の電話はあった。五人の名前を並べてきたらしい。そのうちのひとりが死んだ。電話をかけてくるやつは、藍原組の内情に異常なほど詳しい。ましてや高遠の存在まで知っている。だから次に電話がかかってきたときに備えて、逆探の指示をした」
「それで、わかったんですか?」
「若い女だ」
「……女?」
紺野が反応した。
「そうだ。あれは女だ。使っていたのは無登録《プリペイド》携帯電話だ。あとで調べてわかったことだが、ルポライターの大谷が売っていたものだった。それからガネーシャの言葉通り、お前の組で死体が増えていった。予告は気味が悪いほど的中した。だが、それと沖連合《うち》の意志は関係ない」
「つまりガネーシャと名乗る女は、オジキにとってこれ以上にないチャンスを作ってくれたわけですか」
紺野が静かに息を吐くと、島津の目の色が変わった。
「甘く見るなよ。あたりかまわず殺すような莫迦に付き合って、そいつが警察にパクられればこっちの尻に火がつく」
「だから外国人――チャイニーズマフィアを利用した。そしていつでも動かせるようこの界隈に配置した。年間二百人近くの犯罪者が、逮捕されずに国外に逃亡しているんだ。仮にパクられても決して依頼元までいきつかない。あとは極東浅間会の連中をたきつけて、機会をうかがえば済むことだ」
島津は否定も肯定もしない沈黙のあと、
「組長殺し」
と、呪詛を吐くようにつぶやいた。紺野は針で額を突かれたように顔をあげた。
「……ガネーシャからの最後の連絡がそれだ。病院で一部始終を見たと、ビデオテープを送ってきた。充分だよそれで。きっかけができた。俺はこの五年間、きっかけをなくしていたことに気づいた」
「最後までガネーシャに踊らされたわけですか」
紺野が言った。
「踊らされてなんかいねえ」
「あいつは暴力団に殺し合いをさせる状況を作り出して、どこかで笑って見ているんですよ」
「わかってねえな。ガネーシャなんかどうでもいいんだよ。お前らを皆殺しにしたいほど憎んでいるやつなんて、腐るほどいるんだ。お前らが散々|蒔《ま》いてきた火種なんだよ。沖連合《うち》の組長《おやじ》も広域の幹部連中も|会費(上納金)を吸い上げるのに夢中で、それに気づいていねえ。これだけははっきり言っておく。誰の指示でも指図でもねえ、俺は俺の筋を通して動いているんだよ」
島津は顎をしゃくった。
秋庭が声をあげる間もなく、ボディーガード達の手が素早く動いた。背広の下からもう一|挺《ちよう》の拳銃をつかみ取り、銃口を一斉に紺野に向けた。
「ハメたな、てめえらっ」
秋庭が怒声をあげて躍り出ようとすると、紺野が片手をあげて制した。その目は微塵《みじん》の動揺も見せず、島津ひとりに注がれている。
「ひとついいですか?」
「なんだ」
「――ここに何しにきたんだ、オジキ?」
冷ややかな口調だった。
「決まっているだろう。お前らの遺言を聞きに来てやったんだ。遺言を聞いてやるのは親の役目だからな。そのついでに人質を返してもらいにきただけだ。別に生きていなくても心は痛まないが、死体で返すとふっかけられるんだよ。これからというときに外国組織との摩擦を起こせば、内輪に黙っていただけに俺の足もとが崩れちまう。……おっと、ぐずぐずしていちゃ人質の命が危ないんだったな」
島津が目配せし、倉庫の鍵を預かったボディーガードが動いた。銃をかまえたまま正面扉に向かっていく。
「あの男、まさかこの館内から出ていかせるつもりですか?」
紺野はぽつりと言った。
「莫迦か。ここから出ていかなくて、どこにいくというんだ」
島津が鼻白むと、
「やめたほうがいいと思いますがね」
と、紺野は返した。
「なに?」言われて島津は首をまわした。倉庫の鍵を持つボディーガードは、すでに正面扉に手をかけている。
「あの男、死ぬな」
紺野がつぶやくのと同時に、館内に細長い光が射した。突然ドンッという破裂音がして、ボディーガードの身体がくの字に折れ曲がった。
「なんだっ」
島津が事態を理解できないまま叫んだ。
身体をくの字に曲げたボディーガードがくるりとふり返った。胸からわき腹まで真っ赤に染め、足をもつれさせながら、元の通路を戻ってくる。
彼を盾にする何者かがいた。異様な姿――館内にその影が伸び、すっと二手に分かれた。ボディーガードの背後から、長身で白皙《はくせき》の男が現れた。喪服のような黒い背広姿。切れ長の目。長めの髪を横に撫《な》でつけている。
秋庭には、その男が王飛《ワンウエイ》だとすぐわかった。二手に素早く分かれたのは王飛の仲間だった。
王飛の手元がいきなり轟音《ごうおん》を立てた。
秋庭ははっとした。
微動だにしない紺野の頬から、血が滴り落ちている。
王飛は二十メートル近い距離から紺野を狙って撃った。その命中精度の高さに、秋庭の顔から汗が引いた。王飛の顔は復讐の喜びに歪んでいた。
島津は腰が砕けたように座りこみ、茫然と口を開いていた。ボディーガード達は狼狽し、銃口をあちこちに向けている。
紺野がハンドサインを出した。あらゆる状況に備え、いくつか用意したもののひとつだった。
合図を受けた秋庭は、反射的に身体を投げた。ファスナーを開けていた望遠鏡のソフトキャリーケースに手を突っこんだ。暗視ゴーグルをすくい上げると、ボディーガードを盾にしながら獣のような敏速さで紺野に向かっていく王飛に、ショットガンをかまえた。
耳を聾《ろう》するようなショットガンの炸裂音《さくれつおん》とともに、高遠の手が操作台に伸びた。
館内の照明がすべて落とされ、真っ暗闇に包まれた。
水樹は複数のモニタに視線を移した。怒声と悲鳴の交錯に揺れ、銃口から放たれる火花がカメラフラッシュのように点滅している。事前に細工したのか、非常時のフットライトや非常口を示すランプまで消えていた。
照明だっ、照明をつけろ、撃つなっ、撃つなあっ。島津の絶叫が轟《とどろ》く。
「……王飛の一味はAブロック座席ナンバー7、Bブロック座席ナンバー12、Cブロック座席ナンバー53。右に四十五度。そのまま真っ直ぐ行って通路に行き当たったら左だ。みんな動けない。射程範囲内に敵もいない。暗視ゴーグルの狭い視界に頼っちゃだめだ。さそり座の近くまで……そう、迷ったときはゴーグルを外して上を見てくれ。流れ星で導く。……大丈夫、ぼ、ぼくがついているから」
絶叫に混じって、ぼそぼそと高遠の話し声が聞こえてきた。マイクで指示を与え、操作台とキーボードを操っている。
水樹は銃身を切りつめたショットガンと暗視ゴーグルを手に取ると、コンソール室と館内をつなぐ鉄扉に張りついた。そばにある窓に顔を近づける。ドーム一面に星が輝いていた。八月の星座盤がそのまま投影されている。その中でひときわ明るい星が動いていた。色が違う。説明用のポインターだと気づいた。何かを指し示している。
「……死なせない。ぼ、ぼくに任せれば、ぜったい死なせないからね……」
高遠はマイクにつぶやき、指先を器用に動かしている。まさか紺野は、あの銃弾の嵐をかいくぐっているというのか?
激しい音とともに、窓に蜘蛛《くも》の巣に似たひびが入った。弾痕だった。
高遠はまったく動じていない。
莫迦……撃つなっ。王飛はどこだっ。紺野だ、紺野を捜せえっ。荒れる島津の声。絶叫、悲鳴が一体となった激しい物音が館内から響き、攻撃が攻撃を呼ぶという悪循環に陥っていた。
館内の誰ひとりとして、唯一の出口である正面扉に向かわない――その謎めいた状況が、水樹の恐怖を増幅させた。足がすくみ、腹の底に力を入れた。吐く息が喉の奥でふるえる。
秋庭の悲鳴が聞こえた。はらわたがよじれたようなその声に、水樹は冷水を浴びせられたように我に返った。鉄扉を開錠し、ノブをつかんだ。開けた瞬間、館内の風圧を全身に浴びた。
館内に足を踏み入れたときだった。
すれ違う黒い影。血の匂い。
「頑張ってこいよ」
紺野だった。
唖然とする水樹を尻目に鉄扉がばたんと閉まり、外から鍵をかける音がした。
阿鼻叫喚《あびきようかん》に包まれた暗闇の中で、水樹はひとり、膝を落とした。
壁に背を押しつけ、あわてて暗視ゴーグルを頭にかけた。驚いた。視野が一気に狭まり、四、五十度くらいしかなくなった、まったく見えない部分から銃声が鳴り響いている。高遠の言葉の意味を理解した。
何かにつまずき、水樹は視野を下に向けた。
そこに奇妙な形のブリーフケースが投げ捨てられていた。開いたブリーフケースから、ひとひとりが隠れるくらいの、五つ折りの防弾セラミックプレートが垂れ下がっていた。
秋庭は左肩を撃たれてうずくまった。
左肩を削がれるような痛みをこらえ、座席の陰に隠れた。芋虫のように這いずりながら慣れない手つきで弾丸を装填《そうてん》する。弾丸が手からこぼれた。頭上では間隔を置いて銃弾が飛びかっている。王飛とその仲間が撃つのをやめないのだ。あのとき仕留め損なったことを後悔した。
島津のボディーガード達は完全に恐慌を来し、物音や他の銃声に反応して発砲を続けている。すでに島津の声はどこからも聞こえなくなっていた。
秋庭は呼吸を整えた。こうなったらなんとしても島津と王飛達を仕留めなければならない。もともと島津は内輪に黙ってチャイニーズマフィアを利用したのだ。両者のトラブルとして死体を残しておけば、沖連合の上層も、その上にいる広域の幹部連中も、この件に蓋をしようとするだろう。藍原組はまだ被害者として通るはずだった。
秋庭は暗視ゴーグルをずらした。目がひどく疲労するからだった。上を仰ぎ見る。密閉された空間だというのに、まるで星空の下で戦っている妙な気分を味わった。ときどき流れ星すら流れている。
再び暗視ゴーグルをはめ、身を屈めながら立ち上がった。
まず王飛達が先だった。あの三人は戦闘に慣れている。プラネタリウムの照明が落とされても動揺せず、威嚇射撃をしながら座席の陰に身を潜ませ、暗闇に目を慣らす時間を稼いでいた。
秋庭はすり鉢状の中心部に向かった。途中、一体の死体をまたぎ越えた。島津のボディーガードだった。視野が緑色になる暗視ゴーグルでは、今ひとつ現実感が湧かない。それがかえって恐ろしかった。
プラネタリウム投影機の向こうで、人影が焔《ほむら》のようにゆらりと動いた。
秋庭は腰だめにかまえ、ショットガンの引き金に指をかけた。
誰かが横切ろうとしている。顔の中心で、不気味なひとつ目が輝いていた。暗視ゴーグルをかけた顔だとすぐにわかった。短機関銃を持っている。自分の手下だと思った。秋庭がショットガンを下ろしかけたとき、その間違いに気づいた。
王飛の仲間だった。それらの持ち主である手下がどうなったか、おのずと知れた。
くそっ。
暗視ゴーグルに横の視界はない。向こうが気づく瞬間に、秋庭はショットガンの引き金を引くことができた。
すさまじい銃声が耳をふさぎ、王飛の仲間が腰から下を失ったように崩れ落ちた。
あとふたり。
水樹は暗闇の中、座席をくぐり抜けてガネーシャの姿を捜した。館内のどこかに潜んでいる可能性も捨てきれない。
『――お……応答できるか、水樹』
高遠の声が耳に届く。その場でしゃがみ、頭にかけている暗視ゴーグルを指でさぐった。イヤホンが内蔵されていることを知った。
「聞こえます」
『王飛の仲間がひとり死んだ。殺《や》ったのはおそらく秋庭だ』
さっきのショットガンの轟音を思い出した。
「……代行は?」
『ロビーでガネーシャを捜しているよ。き、君は君の仕事をまっとうするんだ。……状況を言う。現在生き残っているのは藍原組がふたり。島津側が見失ったのも含めて三人、王飛の一味がふたりだ』
「島津は生きているんですか?」
『まだ確認していない。先に王飛の一味を始末しろ。君がいることは、連中の計算に入っていない』
「どこに?」
『ひとりはBブロック座席ナンバー四四からCブロック座席ナンバー二〇の方向に動いている。残るひとりは見失った。おそらく王飛本人だ。どこかでじっとしている』
水樹はCブロックに移動した。投影機のある方向から再び銃声が鳴り、恐怖で胃が縮んだ。
「……た、助けてくれ」
床の方向から声がした。水樹はショットガンをかまえ、暗視ゴーグルの視野を下に向けた。島津のボディーガードがひとり、うずくまっていた。頭の上で拳銃を握りしめている。水樹はそれを奪い取ると、遠くに放り投げた。
水樹は高遠に聞こえないようマイクを握り、
「島津はどこだ?」
小声でたずねた。
銃声がどこかで鳴った。男はびくっと身体をふるわせ、首をふった。息が弱々しい。身体のどこかに被弾している様子だった。
「……殺さねえでくれ」
男が懇願する。
「島津はどこだ?……安心しろ。お前を殺すつもりはない」
男が恐怖に引きつる顔をあげたときだった。
『――な、ななな、何をしている』
高遠の声がイヤホンから刺すように響いた。今の様子を暗視カメラで見られていることを知り、水樹の額に脂汗が滲んだ。
『そ、そこにいるのは島津のボディーガードの生き残りだろう?』
「……はい」
『殺せ』
高遠はにべもなく言った。
水樹は答えなかった。短い沈黙のあと、焦《じ》れたような高遠の声が返ってきた。
『め、命令無視か? 君だけの問題ならいい。だが迷惑は、君の周囲にも及ぶことになる』
母親と吉山のことだ。水樹はきつく瞼を閉じた。
『念を押すのはこれが最後になる。き、君にとってこれは踏み絵だよ。そこにいる島津の手下を殺せ』
水樹はマイクを引きちぎった。
『……あーあ。やっぱりそうか。よ、予想通りでつまらないな……』
イヤホン内蔵の暗視ゴーグルも外し、床に叩きつけた。
水樹は暗闇の中で、負傷している男に声をかけた。
「島津はどこだ?」
「で、出口に……」
「わかった。お前らの親分は助ける。そのまま動かずにじっとしていろ」
水樹はそう約束し、頭上に広がる星を見た。
球形ドームに八月の星空が投影されている。素早く目を動かして北極星を探した。七つの星がひしゃく型に連なる星。こぐま座を見つけた。頭に叩きこんでおいた座席表と合わせて、位置関係をだいたい把握できた。
座席の間をくぐり抜けながら真南を目指した。途中、何かにつまずいた。発砲による火花が散ったとき、それが何であるかわかった。最初に王飛に襲われた、島津のボディーガードだった。死んでいる。水樹は屈んでポケットを探った。廃倉庫の鍵を見つけた。これで人質は助かる。強く握りしめた。
正面扉の方向から、銃声とともに電動ドリルのような発射音がした。短機関銃の銃声だった。火花の中、藍原組の組員が喘ぎながら撃っている。
対峙して王飛の仲間が膝をついていた。水樹が声を上げる間もなく、彼は短機関銃の銃弾をまともに浴びた。
弾を撃ち尽くした藍原組の組員も、前のめりに倒れた。
水樹はふたりに駆け寄った。王飛の仲間は絶命していた。発砲した藍原組の組員はうつ伏せのまま浅い呼吸をくり返している。呼吸はどんどん弱まり、やがて聞き取れないほど静かになった。
あたりを見渡すと、薄暗い床に死体が折り重なっていた。残りのボディーガード達だった。その真ん中で、見覚えのある顔が仰向《あおむ》けに倒れていた。島津だった。目尻が裂けているかと思うほど、目を大きく見開かせ、何かに驚いた形相で絶命している。
針のような光が射していることに気づき、水樹は目を向けた。正面扉がわずかに開いている。そこになぜか、折りたたんだハンカチが挟んであった。思わず島津の死体を見た。首を鋭利な刃物で切り裂かれている。
その意味を悟ったとき、水樹の背中が冷たくなった。
「水樹……」
自分を呼ぶ声にふり向いた。暗視ゴーグルをかけた男がショットガンをかまえて座席の間から現れた。
秋庭だった。
「――お前、なんでこんなところに?」
「ここに来ちゃいけないっ」
水樹が叫ぶのと同時に、秋庭の背後で背の高いシルエットが伸び上がった。右手に鋭い刃を持っている。
王飛だった。
威嚇のない鞭《むち》のような動きで、秋庭の喉にナイフが食いこんだ。
秋庭は膝をつき、空いた手で首をおさえた。
何が起きたのかわからなかった。指の間から生温かいものが噴出し、首の中で心臓の鼓動とともに別の生き物が暴れまわっている感覚がした。呼吸ができない。痛みを通り越して、急激な寒さが襲った。
茫然と目の前を見た。
緑色の視界の中で、水樹と王飛が取っ組み合っている。王飛の手に短剣があった。水樹はその手首を必死につかんでいる。
まわりに目を動かした。
折り重なる死体の中に、島津の死体があった。首がぱっくりと開いている。……ようやく理解した。王飛は暗闇の中でやみくもに動きまわらず、ここでずっと待ち伏せていたのだ。島津との間にトラブルがあったのか、最初から殺すつもりだったのかはわからない。もう……どうでもよかった。
水樹の呻き声がし、再び目を戻した。
かすんだ視界の中で、王飛が水樹を突き飛ばしていた。王飛は膝を折り曲げ、身体の重心を低くした。短剣が円を描くような動きで水樹を襲う。驚くほどの間合いからだった。
水樹は両腕で首から上をブロックしていた。その身体がぐらっとよろめき、王飛が一気に迫る。水樹は目覚めたように反応し、わずかな光を頼りに王飛の下半身めがけて蹴りを放った。今度は王飛が退く。
水樹はなぜ拳銃を撃とうとしないのだ?
あいかわらず甘いやつだ。
秋庭はショットガンの引き金に、指をかけていることに気づいた。その指に力をこめてみた。すさまじい轟音とともに身体が真後ろにひっくり返った。後頭部を強く打ち、そのショックで暗視ゴーグルが外れた。
薄れる意識の中で星々を見た。
白い靄《もや》のようなものが、出口に向かって伸びている。
白煙?……違う、川だ……あれが天の川……いつからだろう? もうずっと見ていない……
視界が急激に狭まってきた。もう瞼を開ける力も残っていない。
寒気がした。骨まで寒い。ふるえを越えたふるえ……
これが死――
すさまじい銃声とともに王飛の身体が横に吹っ飛び、正面扉が弾かれるように開いた。
館内に帯のような太い光が射し、水樹は目を見開いた。王飛の姿はそこになかった。
立ち上がろうとして、床についた手のひらがすべった。血――思わず自分の身体を調べた。まだ動ける。傷は浅い。
開いた扉に手を触れたとき、一度だけ後ろをふり返った。館内にガネーシャらしき人物は見あたらない。
島津と秋庭の死体を確認し、水樹は喉を詰まらせた。
王飛を捜した。
ビロウド敷きの階段を、転がり落ちた背中があった。ナイフが離れた場所に落ちている。その背中が動いた。王飛はロビーの床をかきむしるようにして立ち上がると、わき腹を押さえ、つんのめりながら回転扉に向かっていた。歩いたあとに、おびただしい量の血が続いている。
水樹はあとを追おうとして階段を踏み外した。背中を打ち、腰がしびれ、呼吸を失った。気づいたときにはうつ伏せになってロビーに倒れていた。
顔を上げると、よろよろとガラスの回転扉を押す王飛の後ろ姿があった。
「――待てっ」
水樹は声の限り叫んだ。しかし王飛の背中に届かなかった。外に向かって歩き出していく。水樹は追い、回転扉を抜けてプラネタリウムの屋外に出た。
生温かい夜風を浴びながら、目を左右に動かした。
車まで自力で向かおうとしたのか、王飛は薄闇の中で、力尽きたように四つんばいになっていた。
水樹が近づくと、王飛が顔を向けてきた。口の周囲が血で染まっている。何か喋った。言っていることがわからない。しかし言葉の中で、安という名前がくり返された。王飛は目をぎらぎらと輝かせている。水樹はその目に――この国の地方都市で不当な待遇を押しつけられた、留学生の弟の憎しみを垣間見た気がした。
水樹の胸が塞がった。復讐だ。復讐が復讐を呼び、こんなどす黒い惨状を作り上げた。秋庭も島津も死んだ。自分が見殺しにした。高遠の言うとおりだった。何もできず、ただ傍観して終わろうとしている。
失意の中で、耳を裂くような銃声を聞いた。
王飛の頬に穴が空き、のけぞった。後頭部から血が撒《ま》き散らされ、壊れた人形のように四肢をアスファルトの上に投げ出した。
その光景に水樹は茫然と膝をついた。ふり向くと、焼けるような銃口を左目に押しつけられた。
紺野だった。拳銃を突きつけて立っている。片耳にイヤホンと小型マイクをつけていた。
「生き残ったのはお前だけだ」
紺野は暗い目をしてつぶやいた。予告もなく発砲する雰囲気がそこにあった。
水樹は銃口を左目に押しつけられたまま、片方の目で紺野を見上げた。
「おれを殺さないのか?」
喉からかすれる声をふりしぼった。紺野は黙っている。水樹は続けた。
「全員が死ねば、あんたらふたりにとって都合がいいはずだ。最初からそうするつもりだったんだろう? おれを殺さないと後悔するぞ」
突然、紺野のイヤホンから笑い声が洩れた。
『……ああ言っているんだ。苦しんで死なせてやれよ』
高遠の声だった。
紺野の反応はない。やがてその口をほとんど動かさずに言った。
「その目だよ。ようやくその目になったな。生まれもった極道の目。おれが手に入れることのできなかった目だ」
「なぜ殺さない?」
「まだ解決していない問題があってな」
紺野は親指をそらし、プラネタリウムをさした。拳銃の射線をぴくりとも動かさず、その唇に薄い笑みを宿らせた。
「――問題だ。さてガネーシャはどこにいたでしょう?」
「残念ながらまだ会えないんだよ」
生暖かい夜風が吹く中、紺野はつぶやいた。「こっちは会いたくて仕方がないのに、向こうはまだ姿を見せてくれない」
水樹は片目を見開いた。このときになって紺野の異状に気づいた。落ち窪《くぼ》んだ目、痩《こ》けた頬、血の気を失った唇。まさか……
「ひとつ聞かせてくれ」
水樹は怯まずに言った。
「だめだ。かけひきなんて坊ちゃんには十年早い」
「……あんたにはもう時間がないんだな。高遠はそのことを知っているのか?」
紺野の表情がわずかに曇った。
「お前には関係ない」
水樹が死を覚悟した瞬間、紺野はその顔を素早く横に向けた。
高回転のエンジン音とともに一台の車――フォードのフォーカスが猛スピードで突っこんできた。それまで点灯していなかったヘッドライトがいきなりハイビームで照射され、水樹もふり向いた。運転席に吉山の顔があった。水樹が叫ぶのより先に、紺野が拳銃を向けて撃った。銃声が二発、三発と続き、フォーカスのフロントグラスが割れ、ボンネットに穴が空いた。フォーカスは紺野をなぎ払うように走り抜けて停止した。
紺野は撃ち続ける。水樹は紺野の腕にしがみついた。拳銃の撃鉄がかちかちと鳴っている。撃ち尽くしたのだ。紺野が空いた手でもう一挺の拳銃を取り出そうとした。水樹は紺野を突き飛ばし、フォーカスに走り寄った。粉々に砕け散ったフロントグラスに吉山の姿はなかった。しかし、車内からギアをローに落とす音が聞こえた。
水樹は気づき、横に飛んだ。
それに合わせるようにエンジンの回転数が一気に跳ね上がり、タイヤが悲鳴を上げ、ふたたびフォーカスは急旋回して紺野をなぎ払った。
水樹はブレーキをかけたフォーカスを追った。背後から銃声が響く。バックウインドウが割れた。助手席のドアを開けたとき、今度はサイドミラーが砕け散った。
運転席では、吉山が血まみれになってハンドルを握っていた。
「……修理代、払ってもらうからな」
その声に水樹は、身体がふるえるほど安堵した。
「行くぞ」吉山のかけ声とともにフォーカスは加速し、プラネタリウムの敷地から脱出した。フォーカスはスピードを上げて市役所通りに出た。
割れたフロントグラスから、街の騒音とともにネオンとビルの明かりが射しこんだ。
「おい、怪我はないか?」
水樹は吉山に声をかけた。
「ガラスで顔を切ったようだ。思ったより血が出るんだな」
それから吉山は何か言いかけ、我慢するように口を閉じた。
「どうしてあそこに?」
水樹は咎めた。
「あれからお前のあとを追ったんだよ」吉山は交差点でハンドルを切った。対向車の中には、銃撃を受けたフォーカスを見て顔をしかめるドライバーもいた。「……それで、一度家に戻ってこの車で待ち伏せしていた。あんなひどいことになっているなんて思わなかった」
ようやく吉山の身体から緊張が解けた様子だった。たった今地獄から生還したような顔つきで、シートに背中を押しつけている。
「……水樹、助手席のグローブボックスを開けられるか」
言われたとおり水樹はグローブボックスを開けた。吉山に渡した六通の電子メールがそこにあった。ガネーシャから紺野と高遠に送られてきたものを、コピーしたものだった。
吉山は片手でハンドルをまわしながら言った。
「待っている間ずっと眺めていた。それに隠されたパズルに気づいたよ。水樹、最後の一枚はもう届いただろうな?」
水樹は顔を上げた。
「どうして次が最後だとわかるんだ」
「わかるさ。ついでに件名は、ギリシア数字で『1』を示す『alpha』のはずだ。お前も薄々気づいていたはずだ。これらの電子メールに隠された共通点を。そこだけに着目すればいい」
「……ああ」
水樹は硬い表情でうなずいた。
フォーカスのスピードが落ち、赤信号で停まった。
「それならいい。……あとは今、俺の女房が調べてくれている」
信号が青に変わった。後ろからクラクションが響く。吉山はサイドブレーキを引いていた。
「おい、青だぞ」
「――ごめんな。俺にできるのはここまでだ」
吉山の目が閉じかかっていた。水樹はあわててルームランプをつけ、吉山をふり向かせた。右肩が血に染まっていた。撃たれた傷だった。シートとフロアカーペットが大量の血を吸っているのを見て、水樹は蒼白になった。
「おい、吉山っ、しっかりしろっ」
吉山はすでに気を失っていた。
水樹は悲痛な叫び声を上げた。
緊急外来の廊下で、水樹は包帯を巻いて立っていた。
そばに寝そべられるほどの長椅子があったが、とても座る気になれなかった。
人質が監禁されている廃倉庫の鍵については、公衆電話を使って警察に連絡した。匿名を使ったがあれだけ具体的に念を押したのだ。今ごろ警察が向かっているはずだった。
やがて救急治療室のカーテンをはねのけて、看護婦があわただしく出てきた。輸血のパックを持った別の看護婦が飛びこんでいく。開いたカーテンの隙間から、ベッドで酸素吸入器をつけている吉山の姿が見えた。
当直の医師がふたり、何か相談している。ひとりが苛立った表情で怒鳴り散らした。
緊急外来の入口に一台のタクシーがやってきた。水樹ははっと顔を向けた。若くて小柄な女性が血相を変えて降り、タクシーはUターンして去っていった。
結婚したばかりの吉山の妻だった。新居に連絡したのは水樹だった。彼女が真っすぐ向かってくる。
水樹は顔を合わせられず、背を向けた。
幸い吉山の命に別状はなかった。しかし彼に危険を冒させた挙げ句、こんな状況を招いたのは自分の責任だった。
やがて吉山を乗せたストレッチャーが看護婦に押されて出てきた。廊下の奥にある手術室へ向かっている。水樹の居場所がなくなった。逃げるようにその場から離れようとしたとき、ストレッチャーに続く足音の中に、ひとつだけ近づいてくる足音を聞いた。
ふり向くと彼女がいた。青ざめた顔で水樹を見上げ、唇をきゅっと結んでいる。その目に強い拒絶の色が浮かんでいた。水樹は悟った。……夫が撃たれたのだ。ただならない事態に巻きこまれたことくらいすぐ想像つく。いくら昔の友人とはいえ、自分が極道であることも察しているはずだった。そして夫が撃たれた要因が、自分にあることも。
水樹は殴られる覚悟をし、目を細めた。
彼女が手を上げた。しかし力なくその手を下ろすと、くしゃくしゃにしたメモ用紙を投げ渡した。それから彼女は一度もふり返らず、吉山を載せたストレッチャーを追いかけていった。
水樹はのろのろとしたしぐさでそのメモ用紙を開いた。読んだ途端、膝が崩れそうになった。夫の言いつけで自分のために調べてくれたことが、そこに書かれていた。
看護婦の視線を感じ、水樹は顔を上げた。吉山の銃創を不審に思い、とっくに警察に連絡している頃だった。
水樹はメモ用紙を握りしめた。
行かなければならない。――まだ終わっていないのだ。
紺野と高遠が生きている限り、自分にかかわった友人夫婦に危険が及ぶことになる。その不安だけは、未来|永劫《えいごう》取りのぞかなければならない。それが今、自分にできることのすべてだった。
そのために命を失ってもかまわない。
ガネーシャ……。お前がおれの切り札だ。お前と|紺野と高遠《あのふたり》は、必ず引き合う運命にある。
ガネーシャから送られた七通の電子メール――
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
■一通目
【送信者】prince_@******.ne.jp
【宛先】konno@castrum.com,takato@castrum.com
【受信日時】7月2日 19:55
【件名】eta
「砂の城の哀れな王に告ぐ。
私の名はガネーシャ。王の側近と騎士達の命を握る者。
要求はひとつ。
彼ら全員の睡眠を私に差し出すこと」
■二通目
【送信者】black_@******.ne.jp
【宛先】konno@castrum.com,takato@castrum.com
【受信日時】7月19日 20:02
【件名】zeta
「仕事を終えた靴磨きがガネーシャに言った。
王と側近が踏みにじってきた靴の汚れは、
自分には到底落とせないものだったと。
王を慕いし騎士達が一睡もせずに磨き続けるしか、
方法がないということを」
■三通目
【送信者】watch_@******.ne.jp
【宛先】konno@castrum.com,takato@castrum.com
【受信日時】8月4日 20:09
【件名】delta
「眠りとともに、懐中時計の針が処刑の時をさし、
王を慕いし騎士は刑吏に引き出される。
悲嘆に暮れて自ら命を絶った召使いにのみ、
ガネーシャとは無関係ゆえに十字を切る」
■四通目
【送信者】grave_@******.ne.jp
【宛先】konno@castrum.com,takato@castrum.com
【受信日時】8月13日 20:11
【件名】beta
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
「働き者の四人目の騎士は、
自らすすんで墓を掘り、
二度と覚めない夢を見る」
■五通目
【送信者】coal_@******.ne.jp
【宛先】konno@castrum.com,takato@castrum.com
【受信日時】8月21日 20:13
【件名】epsilon
「大罪で築きあげた城の秘密を守るのは、
炭坑に閉じこめられた坑夫達。
五人目の死者が訪れる日を、彼らの亡霊は待ちつづける」
■六通目
【送信者】crescent_@******.ne.jp
【宛先】konno@castrum.com,takato@castrum.com
【受信日時】8月29日 20:16
【件名】gamma
「時は月を打ち砕き、新月と満月をくり返す。
死者の住処、あるいは死者の国。
夜ごと、王と側近の夢も打ち砕く」
■七通目
【送信者】painter_@******.ne.jp
【宛先】konno@castrum.com,takato@castrum.com
【受信日時】8月30日 20:44
【件名】alpha
「星の器、星の羅針盤。
すべての道標は提示した。
これで今日、寝つきの悪い王と側近のために
子守唄を歌ってガネーシャは待つことができる」
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
●件名のギリシア数字(電子メールが送られてきた順)
・eta【7】
・zeta【6】
・delta【4】
・beta【2】
・epsilon【5】
・gamma【3】
・alpha【1】
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
●送信者アドレスの先頭文字(電子メールが送られてきた順)
・prince【王子】
・black【黒・磨く】
・watch【時計・見る】
・grave【墓・死地】
・coal【石炭・炭】
・crescent【新月・三日月】
・painter【画家・絵描き】
[#ここで字下げ終わり]
水樹はガネーシャからのメッセージを確かに受け取った。
紺野と高遠が気づく前に――。腕時計を見た。午後十時十三分。日付が変わるまで二時間もない。緊急外来を出た水樹は、結実した思いを胸にバイクを残した市役所通りに向かった。
[#改ページ]
下側の世界 12
ガネーシャの職業(2)
「こ、これは……」
薄暗い石組みの通路のなかで、≪時計師≫のおじいさんの声がふるえていた。
ランタンの明かりが、シャツを脱いだわたしの上半身を照らしている。
緻密《ちみつ》な渦巻きを組み合わせた絵――そんな幾何学的な模様が、繊細さと大胆さを両立させたバランスでわたしの肌を埋め尽くしている。
「見たことある」「それ……」
≪ブラシ職人≫だった。あぐらをかき、悲しそうな目で訴えた。「土着信仰」「異教崇拝」「……ああ」「弟の教団でも」
「わたしのはちがうわ」
かすかに笑い、そうこたえた。
「なんの模様だい?」
ひざを抱えた≪王子≫がぽつりという。
わたしはじぶんの腕を上げ、手首の近くまで彫られたそれを眺めた。
「刺青の柄のなかでも、ポリネシアと呼ばれるものよ」
「――ポリネシア?」
「これは、ポリネシア系の民族が、船を漕ぐ櫂《パドル》に装飾した模様なの」
「櫂……」
「暗い、星のない海でも、迷わないようにするために」
わたしは口のなかでつぶやいた。
「いつから彫ったんだい?」
「さっきのむかし話の、ずっとあとになるわ」
≪王子≫は短い沈黙をおき、
「きみにとって意味のあることなんだね」
と、いってくれた。
「お、おい、ちょっと待つんじゃ」
それまで気後れしていた≪時計師≫のおじいさんだった。しわだらけの顔が険しくなる。「おい、わしにはさっぱりわからんぞ。上側の世界じゃ、やくざでもないのに刺青を入れる連中は大勢いる。なぜおまえさんみたいな若い娘まで、じぶんの肌にそんな傷をつけたがるんじゃ?」
「≪時計師≫……」
≪王子≫が横目でとがめると、≪時計師≫のおじいさんはそれをふり払うように、
「まさか芸術《アート》というやつか? それならどんな理由があるにせよ、わしにはもうとうてい理解できんようになったよ」
そういって、ふてくされてしまった。
≪王子≫はわたしの方を向いた。「……ごめん。≪時計師≫には、いやな思い出があるんだよ」
「いやなじゃと?」
その言葉に、≪時計師≫のおじいさんが鋭く反応した。
「動けなくなるまでわしを殴った若いやつの腕に、刺青があった。ただそれだけじゃ」
わたしは黙って、自分の刺青を見つめた。
「ガネーシャには関係ない」
≪王子≫はいったが、
「≪時計師≫のおじいさんのいうとおりよ」
と、わたしは首をふった。
「……ただの、からだに一生消えない傷と思ってくれていい。本来なら刺青を入れるというのは、これからの生き方に制限をつけてしまうことなの。いままで世間との『区別』を自らつけたやくざが好んで刺青を入れてきた。銭湯やサウナ、ましてやプールに入れないし、ゴルフ場で湯につかることさえ許されない」
「ほんとうにみんな、そう思っているのか?」
疑わしげに≪時計師≫のおじいさんがつぶやく。
「みんな知らないだけなの」
「なにをじゃ?」
「世間にはたくさんいるのかもしれない。でも、実際大きな場所……会社やパーティーやホテルのレストランで刺青を入れているひとはいない。どこの国だってそう。結局、刺青をするひとの資質は似ているの。それは事実であり、自ら望んだ『区別』でもあるの。だから、さっきいったような世間からの差別や偏見を受け入れる覚悟がなければ、彫る資格はないの」
≪時計師≫のおじいさんの目がわたしの上半身をなぞっていく。その目が痛々しく歪んだときがあった。
「おい、まさか足にも?――」
わたしはうなずいた。「練習代わりにひとりで彫れる場所なんて、じぶんの足しかないから……」
「おまえさん、いったいなぜそこまで?」
わたしはなにかいおうとして、≪王子≫を見た。黙ってわたしを見つめている。まだ少年なのに達観した目――わたしの苦手な目だった。≪王子≫は察したようにランタンを消してくれた。わたしのからだを照らす明かりが消え、今度は暗闇のなかでマッチを擦る音がきこえた。
小さな赤い炎が蝋燭に移り、わたしは力なくひざをついた。
「そういえばむかし」「本で」「読んだことが……」
≪ブラシ職人≫が、≪王子≫と≪時計師≫のおじいさんの顔色をうかがいながら口を開く。
「ある未開の部族の話」「刺青でからだにハンデを負う」「逆に水準以上の健康を保つ」「それで」「力を誇示する」「そんな説が」「だから」「刺青の範囲がひろければひろいほど」「その力も比例して」「誇示されて」
「そんなの迷信じゃ」
≪時計師≫のおじいさんが一蹴《いつしゆう》すると、≪ブラシ職人≫は口をファスナーのように閉じた。
「でも、ガネーシャはすがりつきたかったのかもしれない」
≪王子≫の声。わたしも≪時計師≫のおじいさんも、ふり向いた。≪王子≫はつづけた。
「十代の終わりという人生でいちばんにぎやかな時代から、ひとを憎むエネルギーを燃やしつづけなければならなかった。ぼくも経験したことがあるからわかる。あんな力を維持するのは大変なことなんだ。いつ燃え尽き、疲れ果てて冷めてしまうかわからない。心が折れそうになったり、くじけそうなときもおとずれる。ガネーシャはそれを恐れた。だからじぶんのからだに印を刻んだ」
そして≪王子≫はわたしを見て、
「きみ自身が、刺青の彫り師なんだろう?」
と、いった。
わたしは口をかたく閉じた。
「きみは若い。しかも女性だ。それだけで大変な苦労をしたと思うし、十代の終わりからのほとんどの時間を、彫り師としての技術を身につけるために費やしたんだと思う。ちがうかい?」
いうまいとして結んでいた口もとが、いまにもくずれそうになった。わたしはなにかを断ち切るようにうなずくと、
「……ごめんね。わたし、やっぱりここの住人にはなれない」
泣き笑いの表情を浮かべて、いった。
「おい、どうしていきなりそんなことをいうんじゃ」
≪時計師≫のおじいさんが身を乗りだすと、≪王子≫が片手で制した。
「――どういうことだい?」
「みんなといる資格、わたしにはないの」口からあふれる言葉を、じぶんではとめることができなかった。「≪坑夫≫がいちばんわたしのことを知っていた。だからわたしを追いまわしていた。いまならわかる。……醜くて、卑怯で、ふつうじゃないわたしを。みんなの仲間には決してなれないわたしを。同情の余地のない、ひと殺しの怪物に成り果ててしまったわたしを……」
ひと殺しという言葉に、≪時計師≫のおじいさんと≪ブラシ職人≫が身をかたくさせた。
それを横目で見たわたしは、力なくうなだれた。
「きみがなにをしてきたのかは、ぼくにはわからないけど」
と、≪王子≫はつづけた。
「大切なのは、これからだよ」
「……これからって、いつくるの? なにがあるの?」
わたしはだれにともなくいいかえした。
「じゃあ訂正するよ。大切なのは、どこでピリオドをうつかだ」
「ピリオド?」
思わず≪王子≫を見た。
「きみの場合、上側の世界でまだやり残したことがあるんだよ」
「まだ……」
わたしは≪王子≫の言葉を反芻《はんすう》し、天井の岩盤を見あげた。だんだんと胸がしめつけられるように痛くなってきた。
「そうよ。まだ終わっていない。最後を見とどける瞬間に、わたしの記憶は無くなってしまった。気がついたらこの暗渠にいたの」
「きみにとって、ここにいたほうがずっと平穏で、苦しまずにすむのかもしれない」
わたしは首をふった。
「……それがどんなに辛い結果を生むとわかっていても?」
ききたくない。わたしは両手で耳をふさいだ。
「ばかな」
大声をだしたのは≪時計師≫のおじいさんだった。「おまえさんには一度もどるチャンスがあった。なのに引きかえしたんじゃぞ。それを忘れたのか」いまにもつかみかかる勢いで、唾を飛ばしてくる。
「ごめんなさい」わたしはおびえる声であやまった。「……約束する。ここでのこと、みんなのことは、だれにもいわない」
「そういう問題じゃない」
≪時計師≫のおじいさんは苛立たしげに息を吐いた。
わたしはみんなと目を合わせることができなかった。ふと、ふわりと上着をかけられて顔を上げた。そこに≪王子≫が立っていた。
「ガネーシャ、ぼくといっしょにきてくれないか。きみとふたりで話がしたい」
「おいおい。わしらはどうなるんじゃ?」と、≪時計師≫のおじいさん。
「悪いけど」≪王子≫は申し訳なさそうな顔でかえした。「あとで呼ぶから、ここで待っていてほしい」
≪時計師≫のおじいさんは、西洋人がするように肩をすくめてみせた。しかし、意外にあっさりと引き下がった。
わたしは鳥籠を抱え、のろのろとした足取りで≪王子≫のあとについていく。
「ああ」「ガネーシャが」「いってしまうよ」「どこか」「遠くへ」「ガネーシャが……」
≪ブラシ職人≫の声が背中にとどき、うしろ髪を引かれる思いがした。
「待つんじゃ」
長く口ごもるわたしを嫌うように、≪時計師≫のおじいさんが声をあげた。
「こっちを向かんでいい。さっきのむかし話のおかげで、おまえさんの生い立ちはだいたいわかった。大切なひとを一度に失った悲しみもわかる。じゃが、世のなかにはそんな不幸をかかえても、まっとうに生きている人間は大勢いる」
わたしは立ちどまった。
「おまえさんは、じぶんのことを人殺しの怪物とまでいった。いったいなにをしでかして、そんなことがいえるんじゃ?」
「……仕事よ」
ようやく口を開くことができた。
≪時計師≫のおじいさんに、一瞬の空白が生まれた。
「――おまえさんの仕事は、ほんとうに彫り師として刺青を彫るだけじゃったのか?」
その問いにわたしは息をためたまま、こたえることができなかった。
「ガネーシャ、いるかい?」
さきに歩く≪王子≫が蝋燭の火をかかげた。黒く湿った石組みの通路のなかで、ほのかな明かりが浮いた。
「ここよ」
鳥籠を抱えていたわたしは、その明るさで≪王子≫の場所を確認できた。
「いまからきみを、上側の世界の出口まで案内する」
≪王子≫が近づき、蝋燭の火がゆれた。
「みんなに別れのあいさつはいい。黙ってでていくんだ」
わたしは目を見開き、首をふった。「……そんなこと、できない」
「決めたらすぐ動かないと、動けなくなっちゃうよ。みんなと会うとなおさらだ。それでもいいのかい?」
「でも、≪時計師≫が待っているんじゃないの?」
「あれでも、うすうす察しているんだ。それにぼくひとりだけもどっても、責められることはあっても、恨まれることはない」
わたしは息をつめて≪王子≫を見つめた。そして思わず、あっ、と声をあげそうになった。
≪王子≫の鼻から血が滴り落ち、石畳にぽつぽつと染みができていた。気づいた≪王子≫はジャケットからハンカチをとりだし、あわてて鼻をおさえた。
「だいじょぶなの?」
「きみが心配することはない」
≪王子≫の額に苦しげな汗が浮いていた。わたしは察した。≪ブラシ職人≫のまえで見せたくなかったのだ。
「早くいこう」
≪王子≫がわたしの手を引きよせる。その手がひどい熱を持っていることに気づき、わたしはその場から動けなかった。
「ガネーシャ……」
≪王子≫が不安げにわたしを見あげる。
「最後に、わがままをいっていい?」
「……ああ」
「よりたい場所があるの」
長い通路を歩き、カーテン代わりに吊《つ》るされたぼろ切れをくぐった。
三方を壁に囲まれた場所に、鳥籠や餌皿がたくさんならべられている。はじめて≪王子≫と会った場所だった。籠のなかのインコたちが羽をはばたかせ、ほかのインコにも伝染した。
≪王子≫は毛布をどかしてすわれる場所をつくった。鼻血もようやくとまり、落ち着いたようすだった。腰を下ろしてわたしを見あげる。
わたしはすわらずに石組みの壁に近づいた。
七人の職人の絵――それぞれに手をふれた。≪王子≫、≪ブラシ職人≫、≪時計師≫、≪墓掘り≫、≪坑夫≫、≪楽器職人≫、≪画家≫……そしてまだ描きかけの、八人目の職人の絵に目を移した。
見ているものがたしかなのか、なん度も目を瞬いた。まえに見たときとくらべて消えかかっている。
この世界の秘密を知った気がした。
「≪画家≫に頼んで描いてもらっていたんだ」≪王子≫の声が耳にとどく。「だけど彼は、途中で描くのをやめてしまったよ」
「そう……」わたしはいった。「これ、わたしなのね」
「ああ。きみはぼくたちの仲間になると思っていた。もしかしたら、はやまったのかもしれない」
ふり向くと、≪王子≫はかすかに微笑んだ。
「それに、≪彫り師≫は西洋の職人に存在しないからね。近いとすれば、≪彫刻家≫か≪染色師≫だ。ぼくはそれでいいと思っていた」
消えかかった八人目の絵から手を離し、しばらくその場でじっとした。
「いかないのかい? ぼくのからだのことなら心配いらないんだよ」
≪王子≫の呼びかけに、わたしは首を横にふった。
「……わたしが話した物語には、まだつづきがあるの。それをあなたに伝えてから、ここをでていきたい」
≪王子≫の目が動いた。
「きみが、彫り師の道をすすみはじめたところからだね」
わたしは≪王子≫の言葉を受けて、天井の厚い岩盤を見あげた。
「――彫り師に資格なんてないのよ。とりあえず絵が上手くて、あとはお金さえ払っていい機械を買えれば、職人意識があるかどうかはべつとして彫り師を名乗れる。でも、それだと客がつかない。わたしが目的を果たすためには、手彫りの技術を習得しなければならなかった。手彫りは完成するまで時間がかかるけど、機械彫りとちがって、色の深みやぼかしのような細かいニュアンスをだせる。わたしは短期間のうちに手彫りの技術を極限まで高めて、ひろく名前を知られる彫り師にならなければならなかった。そのためには研鑽《けんさん》を尽くして極めてきた技を、惜しみなく、寝食を忘れてでも伝えてくれる師匠が必要だったの」
「師匠……」
「わたしの友だちのお父さんだった」
ランタンの明かりが射すなかで、わたしはつづけた。
「わたしがはじめて会ったとき、ひどくやつれて、入退院をくりかえすほどのアルコール中毒者に成り果てていたわ。目のまえで吐血もした。余命が短いこともすぐにわかった。でもそのひとはかつて初代零凰と呼ばれて、手彫りの熟練された技法では名を馳《は》せた職人だったの。黒墨だけで牡丹《ぼたん》の葉も彫れる、数すくないひとだった。でもそのひとに教えを乞うことは、残された時間すべてをわたしに欲しい、ということに等しかったの。ましてやそのひとは、たったひとりの娘を残して逝くことにためらいをおぼえていた」
そこからさきをしゃべるのが辛くなり、わたしは空白をおいた。
「……結果的にそのひとは、実の娘より、きみとの修行を選んだわけだね」
≪王子≫の声に、わたしはうなずいた。
「友だちがあとを継げなかったのは、わたしのせいよ」
わたしはじぶんの指を見つめて、つづけた。
「それにそのひとはわたしの思いに負けないくらい、後継者となるべき人物をさがし、あきらめていたひとだったの。でも、まだその情熱の光を失っていなかった。そこに高校をやめて、伯父さん夫婦が遺してくれた預金通帳と土地の権利書を持ったわたしがあらわれたの。女としてふつうの生活を捨てる覚悟も見せるため、全身に刺青を彫る約束もした。そのひとはアルコールを捨てたわ。そしてじぶんに残された時間すべてを、手彫りの技術を伝えるために費やしてくれた。修行は辛かったけれど、わたしにはついていくことができた。それから四年のあいだ、わたしは受け継がれた技術を余すことなく呑みこみ、さらにじぶんのものとして昇華することで、そのひとに最後の命を輝かせることの喜びを与えることができた。あのころのわたしたちは、なにかにとり憑かれていたようだった」
「……いったいなにがきみを、そこまでさせたんだい?」
≪王子≫がきいてくる。
「あるやくざの幹部に、無防備で背中を向けてもらうためよ。そのためにはどうしても成し遂げなければならない仕事があった」
「それが、刺青を彫る仕事なのかい?」
「わたしがしようとしたことは、一度入れた刺青を完全に消すことだった[#「一度入れた刺青を完全に消すことだった」に傍点]」
≪王子≫が驚きの声を呑む気配がした。わたしはつづけた。
「例をあげれば、レーザー光線で肌を焼いて刺青を消す方法があるわ。刺青という傷あとの上から、べつの傷をつけるの」
「傷?……それじゃあ原理的に、もとのまっさらな肌にはもどせない」
「そうよ。それにもとの絵しだいでは、レーザーでも完全に消せないものがある。でも、もとの絵を完全に消し去る方法が、たったひとつだけあるの。それは腕の立つ彫り師にしかできない[#「腕の立つ彫り師にしかできない」に傍点]」
≪王子≫は考える間をおき、はっとひらめくようにいった。
「もとの絵に手をくわえて、まったくべつの絵にしてしまう方法か……」
「刺青の修整《カバーアツプ》というのよ。もともと彫ってある刺青を生かして、まったくべつの絵に変えてしまう方法。そうすることでもとの絵柄は完全に消すことができる[#「もとの絵柄は完全に消すことができる」に傍点]。たとえば蝶々《ちようちよ》の刺青を消すためには、羽を増やして花びらに変えたりするの。それは一例にすぎない。もちろんもとの絵が小さいか、うすくなっていなければできないし、そうでなければ難易度は高くなる。彫り師の技量と想像力が問われる仕事になるの。想像力は絵心といったほうがいいのかもしれない」
≪王子≫はなにかを推し量るように沈黙すると、
「ところで、きみが最初から目的としていた修整は、どのくらいの難易度だったんだい?」
「わたしの師匠――初代零凰が、その背中を見るなり断った。そういえばわかる?」
≪王子≫が深々と息を吸った。
「話をもどすわ。わたしはたったの四年で二代目を襲名することができたの。そのためにひと並みの生活を捨ててきた。でもいざ独立となると、じぶんにはどうすることもできない壁にぶつかった」
「……壁?」
「わたしがまだ若い女だったことよ。女がいくら努力して技術を磨いても、やくざの親分や幹部はぜったいにおとずれない。独立するまで、そんなことに気づかなかった。わたしは泣いた。もうそのころには病にふしていた初代に、なん度も悔しさをうったえたわ」
いいかけて、胸が苦しくなった。
「初代は自ら命を絶つことで最後の使命をまっとうしてくれた。病院のベッドからはうように抜けだして、遺書を残して首を吊ったの。その死の噂はすぐにひろまった。そして往年の腕を凌《しの》ぐ弟子が、そのあとを継いだことも――。初代はそうすることで、二代目であるわたしの価値に彩りを添えてくれた。かわいそうなのは、残された娘であるわたしの友だちよ。それでもまだ、わたしを友人として慕ってくれたから。彼女にはわたししかいなかったの。わたしのためにひどいことまでして、必要なお金を工面してくれた」
わたしは≪王子≫の方を向いた。
「……これ以上わたしの物語をきくのは苦痛?」
≪王子≫が首をふるのを見て、すこしだけ安心できた。
「噂をききつけた客がやってきたわ。まい日、ほとんど眠らずに仕事をした。名実ともに二代目の名がひろまるまで一年とかからなかった。わたしはころあいを見て、かねてよりの計画を実行に移すことにした。それまで得た人脈を通じて、ターゲットにしていたやくざの幹部に打診したの。初代にできなかった仕事をわたしにやらせてほしい、と。二代目が初代の雪辱を晴らそうとしている。その構図に不自然さはない。あのひとはこういったわ。初代もさじを投げた修整だ。女でもかまわないが、ほんとうにおまえにできるのか、と。わたしはおどろくほど冷静にこたえることができた。これはわたしにとってできる、できないの問題ではないのです。命をかけてやらなければならないんです」
「それでそのやくざの幹部は、きみのもとをおとずれたのかい?」
「彼の背中を見ることが許されたの。思わず声を失ったわ。見るも耐えがたいほどの悪意に染まっていた。彼はなんとしてでも、背中一面にひろがっているその悪意を消さなければならなかった。それがよくわかるものだったの。予想以上にひどく、初代がさじを投げた気持ちも理解できた」
「……いったいなにが?」
「そのひとは隠すことなく教えてくれたわ。少年時代、留学さきのイギリスで受けたいじめの傷あとだったの。よせ書きやいたずら書きが、背中一面に彫られていた。臀部《でんぶ》から腰にかけて無数にならぶ英語のサイン。そのサインは長い歳月で、解読はもはや不可能なほど皮膚の下で醜くにじんでひろがっていた。そして右の肩甲骨にかけて、まるで幼児が描いたような人物画があったの。それは不気味な姿勢で車椅子にすわる、黒い輪郭の人間の絵だった」
≪王子≫は頭のなかで想像するしぐさを見せ、ひとつの疑問を投げてきた。
「子供が刺青なんか彫れるのかい?」
「日本だったら、針のさきに墨汁をつけて刺すひとはいる。でも彼がその刺青を彫られたのは、イギリスの寄宿学校だった」
「寄宿学校の少年たちに扱えて、墨汁の代わりになるものだね?」
「ええ」
「……インクしかない」
「そのとおりよ。万年筆のインクを使ったの。しかし腑に落ちない点もあった。ふつう黒は、皮膚を通すと青く見えるものなの。インクを使ったと思われる箇所は、たしかに青みがかかっていた。でも明らかにちがう部分もあった。とくに車椅子にすわった人間の絵は、かぎりなく黒に近い色だった。深く考えていくうちに、その違和感の正体に気づいた」
「そうか」≪王子≫がいった。「背中一面に彫られていたのなら、それに対して、手に入る万年筆のインクなんて微々たるものだ。だから途中から代用品を使った。ちがうかい?」
「わたしもそのことに気づいて彼にたずねたの。彼はこうこたえたわ。――途中で万年筆のインクが切れたんだろう。あいつらも多少は世界史の知識と、ひとかけらの想像力は持っていたようだ、と」
わたしは≪王子≫の反応をうかがった。≪王子≫はふたたび考える間をおいたあと、
「そのヒントでわかったよ」
と、つづけた。
「石炭だ。かのルネッサンス絵画でも、鉱物系の顔料として黒色に炭素を使っていた。当時のイギリスなら石炭なんて簡単に手に入る。結局、刺青を彫った少年たちはなんの思惟《しい》もなく、ただ調達が楽という理由だけでインクと石炭を使ったんだ」
わたしはうなずいた。
「恐ろしいのは、なんの後遺症もなく、長い歳月をかけてもなお、その線の輪郭すら衰えていないことだった。奇跡、いや悲劇的なことかもしれない。わたしはそのミミズがぬたくったようなおぞましい絵を見て、ただぼうぜんとし、正直逃げだしたくもなった」
「それでもきみは――」
≪王子≫は静かな声でいった。「そのひとに、修整ができるといったんだろう?」
「もちろんよ。わたしはそのために彫り師になったのだから」
橙色《だいだいいろ》の光を放つランタンのそばで、籠のなかのヒナが羽ばたいた。
その羽音がやむのを待ってから口を開いた。わたしの物語はもう終わりにさしかかろうとしていた。
「うつぶせになった彼の背中を見て、いかに精緻極まる技法をもってしても修整は困難なことを悟ったわ。ただひとつの救いは、予想外だったけれど想像外のできごとではなかったこと。わたしにはこの日がくることの心がまえができていたし、死んだ伯父さんが教えてくれた絵心とゆるぎない使命感があった。さじを投げた初代とは、そこがちがう。まず黒を完全に消すことはできないと、彼に告げたわ。だから墨一色で手をくわえさせてほしいといった。手彫りではよくあることなの。まず、その要求は通ったわ」
≪王子≫は石組みの壁にもたれ、わたしの言葉に耳をすませている。
「難関はふたつあった。ひとつ目は臀部から腰にかけて彫られた英語のよせ書き。手をくわえるのに文字が一番むずかしいの。方法がないわけじゃない。いびつになることを恐れずに彫れば、いばらや花の絵になんとか変えられる。それでもあのよせ書きに手をくわえるのは躊躇《ちゆうちよ》した。――ふたつ目は、不気味な姿勢で車椅子にすわる黒い人間の絵だった。石炭の炭を彫りこんでいるから、不気味さが際だっていた」
わたしはつづけた。
「そのふたつの難関をクリアして、それぞれがひとつの意味を持ち、かつそのひとが満足する絵柄にしなければならなかった。日本伝統の様式化された絵柄に縛られていては、それは不可能だった。そこで海外の様式をとりいれることにした。選んだ国は、あえてイギリスにしたわ。結果として彼のために、まったく新しい絵柄を創作することになったの」
わたしは、黙って見あげる≪王子≫に向きなおった。
「……こたえをいうわ。よせ書きの部分はすべて、踏みにじられて潰された百合の花に換えたの。そのうえに黒い甲冑《かつちゆう》を身にまとった王子を玉座にすわらせた。その王子は人間の頭蓋骨の山からひとつを選びだして、頭にかぶろうとしている」
「それはいったい?」
ランタンの明かりのなかで、≪王子≫の目が見開かれた。
「エドワード・ザ・ブラック・プリンス(Edward the Black Prince)。十四世紀、イングランド王国プランタジネット家、第七第目の王エドワードには長男がいたの。英仏の百年戦争で、ガーター騎士団を率いて血みどろの戦いに明け暮れた黒太子。黒い甲冑を身にまとい、死ぬまで王位につけなかった悲運の王子……。彼[#「彼」に傍点]をイメージしたつもりよ。権力を望まないひとだということは知っていた。彼[#「彼」に傍点]が望むことはただひとつ、暴力と破滅的な願望しかない。だから刺青の王子は、生涯かぶることが叶《かな》わなかった王冠の代わりに、人間の髑髏を選びだしてかぶろうとしている。そしてエドワード家の紋章にある、百合の花を踏みにじらせる構図にした」
石組みの暗渠に静けさがただよい、やがて悲しげな声がかえってきた。
「――それがきみの復讐の物語、きみがやり遂げた彫り師の仕事なんだね」
「ええ」
「彼は満足したかい?」
≪王子≫の問いに、わたしは天井の一点を見つめた。
「わたしはいまこうして生きている。きっと、満足している証拠よ」
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上側の世界 13
対決(2)
午後十一時二分。
水樹はバイクで山道に入るのを断念すると、そこから徒歩で向かった。
懐中電灯の明かりを頼りに、つづら折りの道を歩いた。生暖かい夜風が頭上の木々の葉を鳴らす中、何かにつまずき、それが散在している瓦礫や石だということに気づいた。細かく散らばった白と黒の斑晶が明かりの中で反射している。
方向は間違っていない。
袖から血が滴り、プラネタリウムで受けた傷が開いたことを知った。急斜面につながる林道に出るとその先に、かすかな月明かりの下で群生する野生の百合の花があった。まるでそこまで導くように、白い花弁を上下に揺らしている。
思わず見上げた。夜空は歓楽街の明かりから遠く逃れて澄み切っている。二時間ほど前に血の匂いを嗅ぎながら見ていたものとは違う、本物の星がそこに広がっていた。
懐中電灯の明かりを除けば、月と星の光のほかにまったく光というものがない。
林道を上りきった水樹は周囲を見まわした。深い闇に沈んでいるが、この先は窪んだ平地に続いているはずだった。
ズボンの後ろに挟んだ拳銃に手をあて、慎重に歩いていく。
過去に産業廃棄物の不法投機が行われた場所――
草木も生えない窪地に異様な盛り上がりがあった。土の色が違う。大型トラックで産業廃棄物を捨てるために、弧を描いて掘った穴を埋めた跡だった。
生暖かい空気が立ちこめている。目線を地面に向けると、至るところに緑色の羽が散り、原型をとどめない鳥の死骸が落ちていた。自分達の命がもっとも生かされるであろう場所――人間には到底理解できない命のつながりが、こんな場所で奇妙な墓場を作り上げているというのか。
音のない静かな場所で、水樹はしばらく佇《たたず》んだ。
人の気配は微塵も感じない。ここにくるまで耳を澄まし、車の轍や足跡に注意してきた。紺野と高遠が先におとずれた痕跡はない。やはりまだあのメッセージに気づいていないのだ。
ガネーシャがどこかで自分を観察しているはずだった。懐中電灯はそのために消さずにいる。姿や存在をいっさい示さない連続殺人犯。沖連合の幹部を巻きこみ、藍原組と極東浅間会の抗争を招いた確信犯……。その結果、多くの犠牲者が出た。すべてガネーシャが望んだものだろう。そして今、無関係の自分の友人までもが危険にさらされようとしている。
もう終止符を打たなければならない。
「――ガネーシャ、よく聞け」
水樹は暗闇に向かって口を切った。
「おれは元藍原組の水樹だ。ここに紺野と高遠はいない。おれがひとりでここにきたのは、あの電子メールに隠されたメッセージに気づいたからだ。今からそれを説明する」
一歩進んだ。
「紺野と高遠に送られてきた電子メールは全部で七通。いずれも中世を意識した文章で、藍原組の犠牲者を示唆する内容になっている。犯行声明ととらえても不自然ではない。しかしお前の手口から考えると、あんな犯罪の証拠となる記録をわざわざ残していることに疑問が生じる」
不気味なほどの静けさの前で、水樹は続けた。
「まずはっきりしていることがある。お前は愉快犯ではないということだ。ただの愉快犯なら犯行声明を警察かマスコミに送りつける。それをあえて紺野と高遠の電子メールアドレスを探しあて、ふたりに直接送りつけるというリスクを選んだ。それは、その行為自体に意味があるからだ。送られてきた電子メールの送信者を示すアドレスには、奇妙な英単語がつけられている。――『prince』、『black』、『watch』、『grave』、『coal』、『crescent』、『painter』の七つだ。今から六年前、二十名余りのホームレスが街で行方不明になり、彼らの名義が名義売買の市場に流れた。お前はルポライターの大谷を通じて、その名義とクレジットカードのコピーを入手した。そしてそのうち七人を選び出し、それぞれの名前の一字をもじったメールアドレスを、一般プロバイダから取得した。七通目の『painter』というアドレスも、死亡届が出されずに売買された名義リスト中に『絵原誠』という名前があったから、おそらくそれに該当するだろう。つまりお前が望んでいたことは、高遠に電子メールの差出人を調べて欲しかったんだ。高遠の性格なら間違いなくそうすると踏んでいた。あえて自分から提示しないことに意味がある。お前は紺野と高遠が想像を膨らませて、犯人狩りをすることを誘導させればそれで良かったんだ。なぜならお前は、予めターゲットにした組員以外を殺害できない立場にいるからだ[#「予めターゲットにした組員以外を殺害できない立場にいるからだ」に傍点]」
水樹はそこで言葉を切り、深く息を吸った。
「――お前の目的は復讐だ。だがお前がいったい何者で、何に対する復讐か、おれには興味ない。ただそういった古色蒼然とした匂いを、お前はできる限り消そうとしている。さっきも言ったとおり、お前は予《あらかじ》めターゲットにした組員以外を殺害できない立場にいる。だからそれ以上の殺戮《さつりく》を行う場合、他人の手を借りなければならない。それを暴力団同士の抗争に導くことで実現しようとした。その起爆剤はふたつあった。ひとつは、自己破壊もいとわない凶暴さの内側で、常に怜悧な頭脳を働かせている紺野と高遠の腰を上げさせること。もうひとつは、お前が利用した沖連合の島津だ」
暗闇からは依然として、物音も何かが動き出す気配もない。
水樹は暗闇の底を睨みつけ、
「ここで、例の七人のホームレスを指す英単語を考えてみる。王[#「王」に傍点]生政信、播磨[#「磨」に傍点]忠彦、時[#「時」に傍点]任勝、袴田史郎(ハカ[#「ハカ」に傍点]マダシロウ)、大住隆(オオスミ[#「スミ」に傍点]タカシ)、望月[#「月」に傍点]洋一、絵[#「絵」に傍点]原誠……といった風に名前の一字をもじって英単語にしているが、無理やりこじつけている感がどうしても拭えない。不自然なんだよ。ある目的を果たすために、苦労してこの七人を選びだしたことがうかがえる」
そして水樹は声を上げた。
「結論を言おう。あれは暗号だ。お前はあの七通の電子メールに、自分の正体と、あるメッセージを封じこんでいたんだ」
水樹の叫んだ声は、夜風にそよいで消えた。
懐中電灯の白い光の中で、地面に散らばる緑色の羽が陽炎みたいに揺らめく。
しばらく無音状態になった。水樹は宙を凝視した。相変わらず人の気配はない。ガネーシャは暗闇に身を潜め、沈黙することで続きをうながしている。それに賭けた。
「七通の電子メールに共通することは、ある特定の時間帯に送信時刻が集中することだ。それは午後八時前後になっている。その謎を繙く鍵は、件名にギリシア数字が用いられていることだ。ギリシア数字が星の光度を表す[#「ギリシア数字が星の光度を表す」に傍点]というところに着目しさえすれば、この暗号は解読できるんだ。そして解読の前に、知っておかなければならないことがひとつある。星座や天体を観測するのに一番適した夜空の位置、北と南を結ぶ線――子午線[#「子午線」に傍点]の存在だ。ガイドブックで星座が紹介されるときは、たいてい午後八時に子午線を通過する時期が載せられる。この時期この地方都市で、電子メールの送信時刻に子午線を通過し、アルファ(alpha)からイータ(eta)まで七つの光度の星で構成される星座はひとつしかない」
水樹はそこまで言うと、北の夜空を仰ぐように見た。
「それはポーラスター[#「それはポーラスター」に傍点]、北極星から構成される[#「北極星から構成される」に傍点]『こぐま座[#「こぐま座」に傍点]』だ[#「だ」に傍点]。夜であれば季節を問わずに必ず見える星座をお前は選ばなければならなかった。一番光度が高いアルファ(alpha)は北極星、それから光度が落ちるに従ってベータ(beta)、ガンマ(gamma)……と、ギリシア数字の順に名付けられている。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
■件名のギリシア数字(電子メールが送られてきた順)
・eta【7】
・zeta【6】
・delta【4】
・beta【2】
・epsilon【5】
・gamma【3】
・alpha【1】
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
■送信者アドレスの先頭文字(電子メールが送られてきた順)
・prince【王子】
・black【黒・磨く】
・watch【時計・見る】
・grave【墓・死地】
・coal【石炭・炭】
・crescent【新月・三日月】
・painter【画家・絵描き】
[#ここで字下げ終わり]
「だが七つの星の光度順――つまり件名のギリシア数字の順に、アドレスの先頭文字を並べ替えても文章は成立しない。しかし七通目の電子メールには、星の羅針盤とある。羅針盤――ポーラスターと呼ばれる北極星は、こぐま座のしっぽの部分、一列に並ぶひしゃく形の先端にあるんだ。北極星に近い順番で星の光度を並べ替えていけば[#「北極星に近い順番で星の光度を並べ替えていけば」に傍点]、alpha、delta、epsilon、zeta、eta、gamma、beta という順となる。それに合わせてアドレスの先頭文字を並び替えていけばひとつの文章が完成する。それが、お前が紺野と高遠に送った暗号の答えになるんだ。冠詞や接続詞が足りないが、重要なのは文法通りの配置とその意味になる。『三日月形の死地(crescent grave)』は、産業廃棄物の不法投棄が行われたこの場所を指す。『真っ黒な王子(coal black prince)』はいうまでもなく紺野の背中の刺青で、紺野本人を指している。では主語である『絵描き(painter)』はいったい何を指しているのか? 紺野のことを、背中の刺青でたとえることができる絵描きとは? そこで、ガネーシャの一連の殺人を考えてみた。あの殺人の正体は俗に言う眠り病だ。感染すれば二週間から数年の潜伏期を経て昏睡状態に陥り、眠ったような形で死亡する。お前は藍原組を殲滅《せんめつ》させるためだけに、アフリカ三〇ケ国以上に広がる感染症を日本に持ちこんだ。その眠り病による殺人を成立させるためには、ひとつのハードルを越えなければならない。それは、眠り病の病原体である微小な鞭毛虫を、ターゲットの体内に直接入れることだ。つまり暴力団相手に血液感染させなければならない。組員の肌を直接傷つけることが可能で、犯行の手口が明らかになっても、ノーマークになり得る人物。それを怪しまれずにできる職業[#「職業」に傍点]はひとつしかない」
水樹は叫んだ。
「ガネーシャ、お前の正体は刺青の彫り師だ。身体をキャンバスに見立てた絵描きは、数年前からこの殺人計画を実行に移してきた。暗号さえ解けば、お前は紺野と高遠に自分の正体を明かし、この場所で姿まで現そうとしている。七通目の電子メールにある通り、その日付が今日[#「今日」に傍点]だ」
声の余韻が消えると、暗闇の中を静寂が支配した。
水樹は辛抱強く待ち続けた。
やがて、光の輪の外で何かがゆらっと動く気配がした。
動いたのは夜風に再びあおられた緑色の羽だった。ほうきで追いはらわれるように、一方向に寄せ集められていく。
水樹は落胆を覚えた。乾ききった鳥の死骸が無意識のうちに目に映る。生気のないその光景に、底寒さが仄見えた。
「ガネーシャ……」
ひとり相撲で終わるかもしれない。徒労を覚えかけたが、水樹は口を開いた。
「紺野と高遠が失ったものは大きい。築きあげたものは崩壊し、今までのツケの代償として上層部や広域組織に追われる運命にある。お前は修羅場から遠く離れた場所で、それを導いた。このままいけば一度も姿を見せずに復讐を完結できるだろう。沈黙を守っていれば、誰もお前をつかまえることはできないんだ。それなのにお前は姿を現そうとしている。それを無謀とは思わない。お前は冷酷になれないんだ。一連の殺人だけでなく、多くの無関係な人間を巻きこむことに罪の意識を持っていた。その理性がお前にあんな暗号を作らせた。おれはそう思っている」
水樹は声を上げた。
「ガネーシャ。答えてくれ。|紺野と高遠《あのふたり》でなく、おれがお前のメッセージを受け取ったのが不服なのか? おれの前で姿を現せないのなら、その理由を教えてくれ。おれにはその資格がないのか?」
暗闇の広さに対して、懐中電灯の光量はあまりに非力すぎた。水樹の心が折れそうになり、虚しさが胸の奥から広がった。
「……頼む。出てきてくれ」
力なく両膝をついたときだった。
ぼろぼろに朽ちた鳥の死骸の陰で、何かが動いた。水樹は懐中電灯の明かりの中で目を細めた。片翼を痛めたヒナだった。まだ首のまわりだけ生えそろわない緑の羽、朱色のくちばし……野生化して、歓楽街に住みついているワカセホンセイインコのヒナに思えた。飛ぶ練習をしているうちに親鳥とはぐれてしまったのだろうか。それとも怪我をして見捨てられたのか。放っておけば朝までもたなそうな姿だった。
鳥達の墓場……この死の場所に、まだ幼いヒナが残されていることが哀れになった。片手を伸ばすと、まったく抵抗されずにつかまえることができた。助けていいのだろうか? ふと思った。いたずらに生き延びさせ、ヒナに死の不安を再び味わわせてしまうだけではないか……
それでも今の水樹の心情では見捨てることができず、虚しさから感傷的になっていた。弱ったヒナを胸元にすくい寄せたときだった。
暗闇の向こうから足音が聞こえ、はっとした。
何者かが地面を踏みしめながら近づいてくる。人の形をした黒い影が現れ、その輪郭がだんだん露わになった。懐中電灯の照り返しでわずかに見えるその顔を、水樹は凝視した。
「千鶴――」
千鶴は十メートルほど手前で立ち止まると、にやっと笑い、舌を出した。
その瞬間、水樹の耳の後ろで何かが音を立てた。背中の中心に銃口があてられた。
「……七十点よ。あなたの暗号解読は」
背後から聞こえたのは、もうひとりの若い女の声だった。
抑えた興奮が、水樹の身体の中を出口を求めて駆けめぐった。
片手に懐中電灯、もう一方の手にヒナを持ったまま身動きできなかった。背中に突きつけられた銃口はぴくりとも動かない。後ろにいる相手は拳銃を持つことで呼吸が乱れたり、早まったりするタイプではなさそうだった。なにより背後から的の小さい頭部でなく、手が届かない背中に銃口をあてること自体、冷静な判断の持ち主だといえた。
「お前がガネーシャか?」
背後の女は答えず、素早い動作で水樹のズボンから拳銃を抜き取った。そして背中の銃口の圧力を保ったまま、腰を下げる気配がした。
股《また》の間から、地面を這うように女の白い手が伸びた。次に起こることを覚悟して、水樹は奥歯を噛んだ。乾いた銃声が鳴り、呻き声をあげた。右の靴を撃ち抜かれた。
「――座ったら背中を撃つわよ」
背後の女は立ち上がり、何の感情もこめずに言った。
水樹は激痛に顔を歪め、千鶴に目を動かした。暗がりの中で片足をぶらぶらさせながら興味深く眺めている。彼女は注意を引きつけるために現れた。水樹は額に脂汗を浮かべながら、千鶴と背後にいる女の関係を探ろうとした。
「言っておくけど」再び女の声がした。「ガネーシャはその娘《こ》じゃない。ずっと、わたしの話し相手になってくれただけよ」
水樹は目を見開いた。話し相手。藍原組の内部情報を洩らしていたのは千鶴か。
思わぬ推測が浮かんだ。千鶴はあのフリーランスのルポライター、大谷にも情報を洩らしていたのではないか? ガネーシャと繋がっている千鶴は、何らかの交換条件を出した。――情報の交換。だとすればガネーシャは千鶴を介し、紺野や高遠が絡んできた産業廃棄物の不法投棄や、臨界事故の内幕を知っていることになる。……復讐。ガネーシャはその渦に巻きこまれた犠牲者、もしくは関係者のひとりではないか?
「誰だ、お前」
莫迦げた質問だと思ったが、時間稼ぎのために言った。
かたつむりが歩むような沈黙のあと、女は嘲《あざけ》るように返した。
「この場でわたしが名乗ることに、意味があるの? あなたがした功績は犯人当てじゃない。さしずめ職業当て[#「職業当て」に傍点]といったところかしら」
そして短い沈黙をおき、
「ガネーシャか、彫り師で結構。お好きな方をどうぞ」
水樹の頭の中でようやく記憶と一致しかけたものがあった。
かつて極東浅間会の檜山に痛めつけられたとき、千鶴と一緒にいた女。襟を立てた長袖シャツを着ていた髪の長い女……
二度目に会ったときは黒いカーディガンを羽織っていた。季節感のない服装。あれは身体の刺青を隠していたのだ。そして客にしか見せない。あのとき休業中の居酒屋からでてきたのは、ひと仕事を終えたあとだったのだ。
「……ガネーシャと呼ばせてもらうよ」水樹は苦しげに吐き出した。「聞かせてくれないか。暗号解読が七十点とはどういうことだ?」
「わたしに添削しろっていうの?」
「言いだしたのはお前だ」
ガネーシャは薄い笑い声を上げた。
「あの暗号は、あなたが解いても百点満点にはならないの。『coal black prince』は『真っ黒な王子』という意味だけど、あの言葉の中には、わたしと紺野しか通じない単語がある。ガネーシャの正体が真っ先にわかる手がかりを、あえてそこに残した」
水樹には理解できず、沈黙して先を促した。
「ところであなた、紺野の背中、見たことある?」
「ある」
「どのくらい?」
「正視していない」
「莫迦ね。そういうのを見ていないって言うの。でもわたしに人を見る目があるのなら――」と、ガネーシャは続けた。「まともに正視せずとも、あなたは気になって調べているはずだわ。あれが何なのかを」
「エドワード・ザ・ブラック・プリンス(Edward the Black Prince)」
水樹は言った。
「へえ」
「……大谷から聞いたあと、自分で調べた」
「大谷ね」唾棄するような声の響きだった。「ついでに教えてあげるけど、あの人とはずっと昔からの腐れ縁なの」
「なに」
ガネーシャは水樹の反応などまるで取り合わずに、
「これで電子メールの文書で、中世の世界にこだわった理由がわかったかしら? エドワード家の紋章はこの場所を特定するヒントになっている。ほんの些細《ささい》なヒントだけどね」
水樹は付近一帯に咲く野生の百合を思い出した。
「……まだ他にあるのか?」
「わたしが送った電子メールには『王』と『側近』そして『騎士』が出てくる。それぞれ誰に当てはまるのか、あなたの話を聞く限り、たぶん思い違いをしている」
「『王』が紺野、『側近』が高遠、『騎士』が組員だろう?」
「やっぱりあなたに、百点満点はあげられないわね」
水樹はガネーシャの言葉に戸惑った。ガネーシャが最初に要求したことは何だったのか? 最後にひとり残される『王』は――
背中の銃口をぐいと押しつけられ、水樹の思考が停止した。どう抗《あらが》ってもガネーシャに撃つ覚悟さえあれば、的が大きいだけに外さない。ガネーシャの真意がわからない今、苦痛をじっとこらえている他なかった。
「質問があれば答えてあげるわ」
「ずいぶん余裕があるんだな」
「ただし三つまでよ」
意地悪い口調だった。
「できれば三つという根拠を聞かせてもらえれば有り難い」
「今日の日付が変わるまであと二十分もない。あなたの気力がもつのもそのくらい。わたしなりに時間をはかっているつもりよ。それに紺野や高遠の代わりにここまできたあなたには、それなりの敬意を払っている」
「それなりか」
「それなりよ」
「日付が代わったら、おれをどうするつもりだ?」
「それが最初の質問になるけど、いいかしら?」
返すガネーシャの声色に、変化がおとずれた。水樹の目に汗が滲んだ。静かに深呼吸した。
「……まずひとつ目。組員達の殺害方法だ」
「あなたが言ったとおりよ。死んだ組員達には刺青が彫られていた。その刺青を彫ったのはわたし。刺青を彫る道具に刺し針があるの。それを使えば、仕事をしながら怪しまれずに毒物を混入できる。まず気づかれることはない」
「しかしその毒が、眠り病である必然性がない。しかもアフリカに広がる感染症だ」
「合理的に考えた結果よ。わたしの職業上、相手がすぐに死んでは困るの。そうなると彫り師であるわたしが怪しまれるし、次の標的も狙いにくくなる。だからできるだけ長い時間をおいて効果が表れるようにしなければならない。かといって徐々に毒が効いてもらっても困る。感染症の潜伏期間に着目したのは、そういう背景があるからなの」
ガネーシャは続けた。
「まだあるわよ。ワクチンが入手困難であること。日本で馴染《なじ》みのない病気で、確認と発覚に時間がかかること。どうせ死んでもらうんだったら、なるべく周囲に恐怖が伝染する死に方をしてもらいたい。……以上の理由で、藍原組のような武闘派集団を相手するのに、わたしは自分にもっともふさわしい凶器を選んだ。それを考え抜く時間は充分にあった。眠り病に感染させるには、トリパノソーマという鞭毛虫を手に入れればいい。それはアフリカの一部の地域でしか生息しないツェツェバエの唾液に含まれている。どう? これで最初の質問の答えになったかしら?」
「まだだ」水樹は唸るように言った。「そう簡単に入手できないはずだ」
「あなたの認識を正す必要があるようね。いい? この国では、人を殺す毒物を入手すること自体が困難なの。青酸カリだろうが有機水銀だろうが、それは変わらない」
水樹は生唾を飲んだ。
「トリパノソーマの入手方法を簡単に説明してあげる。まずアフリカの小国に渡航する。医療研究目的で購入されることがあるから、ツェツェバエを手に入れることは難しいことじゃない。現地に行って医療研究目的と偽ってガイドにお金を払えば、つかまえてきてくれる。怪しまれても目の前にお金を積んで、欲しいのはつがいではないと強く説明すれば、応じてくれるガイドは出てくる。わたしが誤ってハエを逃がすことがあっても、コレラやマラリアのように爆発的に感染が広がるわけじゃない。寿命の短いハエが血を吸うときだけ危険で、しかも真っ先に人間の血を吸うとは限らないからよ。むしろ標的は家畜になるの。日本に持ち帰るときは石鹸《せつけん》の空き箱を使ったわ。ハエは日本に戻るまで生き延びてくれればいい。どう? これで決して不可能じゃないことがわかってもらえたと思うけど」
「不可能だ」
水樹は言った。
「どういうこと?」
ガネーシャは驚いたように返す。
「お前、子供の頃に虫をつかまえたことがないだろう? 一匹のハエを石鹸《せつけん》の空き箱に閉じこめたと言ったな。飛行機を経由すれば、おそらく中のハエは弱って一日ももたない」
「――想像力がないのね、あなた」
「なんだと?」
「誰が成虫と言ったの?」
水樹は目を見開かせた。
「……蛆虫《うじむし》」
「ガイドに安全につかまえることができて、簡単に売ってくれた理由がわかったかしら? 石鹸箱には湿ったオガ屑をいっぱい詰めるの。そうすればバッグの中で簡単に持ち運びできる。ハエの成虫はデリケートでも、蛆虫はそう簡単に死なない」
「今の話でひとつだけわかったことがあるよ」
「なにかしら?」
「お前は渡航する前から、眠り病の感染経路を、この国でねじ曲げる方法を思いついていた」
ガネーシャがにやりと笑う雰囲気を、水樹は背中で感じ取った。
「そのとおり。トリパノソーマの宿主を替えればいい。羽化したハエに、あらかじめ用意したある野生動物[#「ある野生動物」に傍点]の血を吸わせたのよ。ハエが死んでも、眠り病に感染したその野生動物が生きていればいい。生きているうちにその血を使うことで、新たな宿主を作ることもできるし、犯行にも使える」
「特別な機材は必要としないわけか」
「注射器と針一本で充分よ」
「その野生動物はたまったものじゃないな」
「どうして?」
「お前の目的が終わるまで、いったい何匹死んだんだ。さしずめ命のリレーだ」
「何匹死のうが、その野生動物ならこの街で繁殖している。こうして自分達の墓場を持っているくらいだから」
水樹は思わず、地面に散らばる緑色の羽を見た。
「……ひどいことを」
「むかし日本で、キンメフクロウという輸入されたペット用の鳥から、トリパノソーマが発見されたことがあるの。トリパノソーマがこの国の生態系に存在しない生き物なら、もともとこの国の生態系に存在しなかった外来種の野生動物を宿主にすればいい。そうやってお互い相殺されていくの。……これって勝手な言い分かしら?」
「ただの屁理屈だ」
立っているだけで冷や汗が出るほどの痛みをこらえ、水樹は冷たく言い放った。
「生態系や自然の食物連鎖からはみ出た生き物は、お互い淘汰《とうた》されてバランスが保たれることがあるの。その渦中にいる生き物だからこそ、言える台詞だと思うけど」
「それは人間のことを言っているのか」
「人間のことを言っているのよ」ガネーシャは言い切った。「人間が再び生態系や自然の食物連鎖に戻るためには、天敵の存在が必要になるの。わたしと|紺野と高遠《あのふたり》はお互い、人間の天敵となりうるものを手に入れた。あのふたりは自己保身をいとわない破壊のために。わたしはあのふたりを殺すために。――それがわたし達の戦い。たくさんの命を巻きこむ代わりに、わたし達は最初から死に合う運命にある」
「莫迦な……」
「あなたもその娘《こ》が望んだとおりに、黙ってわたし達の行く末を見守っていればいい」
ふと顔を上げた。千鶴はいつの間にか腰を下ろしている。その黒い瞳は一点を見つめてとまっていた。
水樹の額から汗がすべり落ちた。足の痛みは次第に麻痺しはじめた。
「話が飛躍しすぎたようね。話を戻しましょう」
ガネーシャが言った。
「最初の質問で、まだ答えになっていない部分がある」
「どうぞ」
「組員達はここ二ヶ月の間に集中して死んだ。お前の犯行手口では、死亡する時期までコントロールできないはずだ」
「できる方法がたったひとつだけある。それを考えてみた?」
「ターゲットにした組員全員を同時に感染させることだ。元が同じ種のトリパノソーマなら、二ヶ月という期間は、発病から死亡までの個体差とも考えられる。しかし一度に組員を集めて刺青を彫る行為は、いくらなんでも不自然だ」
「そもそも最初から一度に彫るという考えが間違いなのよ。だいいちわたしには、それができない」
それを聞いて水樹は理解した。ガネーシャの専門は手彫りなのだ。日本古来の技法。機械彫りと違って時間を要し、たとえ刺青を完成させたあとでも、修整や手直しで呼びつければ感染させられるチャンスはいくらでも生まれる。ガネーシャが彫り師として一流の腕を持っているのであれば職人のこだわりとして受け入れられただろう。ガネーシャはそうやって、組員の人数がもっとも重なる時期を巧妙に作っていったことになる。
「――次の質問をどうぞ。あと十分もない」
ガネーシャが急《せ》かした。
「今から六年前、紺野と高遠に利用された、二十人余りのホームレス達とお前との関係だ」
「わたしは身内でも関係者でもない。それが答えよ。ただし彼らの無念さはよくわかる。高遠によってK金属工業の職場を斡旋されたときは、みんな泣いて喜んだと聞くわ。でも仕事を覚えないうちに原子力発電所の再処理工場に送りこまれ、不眠不休で働かされた」
「そんな情報、いったいどこで仕入れた」
「ルポライターの大谷」
「しかし」水樹は続けた。「大谷はホームレス達の名義を売ったとき、お前の正体を見抜けなかった」
「わたしの持っている情報が、沖連合の島津や極東浅間会の平野にも流れているのよ。あの人に特定はできないわ」
「……手に入れた名義から、七人を選び出した理由がわからない」
「あなたの推測通り、暗号を作るためよ。それ以外の思惟はない。わたしが手に入れた六年前の犠牲者の名前から、あの程度の暗号をつくるのは造作ない」
「彼らの無念さと言ったな」
「あなたが立っている場所――そのはるか下に、彼ら全員が埋められているの」
水樹は驚きで身体を強張らせた。
「ここは不法投機が行われた場所なの。地中は三層構造になっている。一番底に放射性廃棄物、その上にドラム缶に詰められた彼らの死体、その上に土砂をかぶせて、一般産業廃棄物が埋められている」
奇妙な土の形。強引に切り開いた林道。大型トラックが何度も往復した轍。それらの要素が水樹の中でひとつになりかけた。
「この土地が急に荒れ果てた理由がわかったよ。放射性廃棄物とホームレスの死体を隠すために、わざわざ強引な不法投棄を行ったんだな」
「そうよ。嵐のようだった。ただそこにいたというだけで、嵐に巻きこまれて死んだ人もいた」
水樹ははっとした。
「ガネーシャ、お前は……」
「あなたには関係ない」
それ以上は拒む声だった。水樹は黙って息を吸いこんだ。
「これが最後の質問だ。なぜ罪のない組員も狙った?」
「わたしの目的は|紺野と高遠《あのふたり》の命を奪うこと」
「だったらなぜ」
「命を奪うだけでは足りないの」
「何が足りないんだ」
「苦痛よ。親、兄弟、恋人。あのふたりには驚くほど守るものがない。紺野は高校生の時に一家離散して、高遠に関しては天涯孤独の身なのよ。それを知ったとき――わたしと同じ境遇だと知ったとき……茫然とさえしたわ」
「だからあのふたりが苦痛を覚えるまで、身のまわりにいる人間の命を理不尽に奪っていったというのか」
「人間の天敵とは、そういう理不尽なものなのよ」
「……それがお前自身、紺野と高遠によってもたらされた苦痛なんだな」
ガネーシャは答えなかった。
「そのために無関係の人間が大勢巻きこまれたんだぞ」
「別に心は痛まないわよ。どんな凄惨《せいさん》な大量殺人でも、平凡な個人でできる環境がある。目の前では殺さない。直接手を下さない。苦しんで死ぬ姿、無惨な死体を見なくて済む。だから良心の呵責《かしやく》に苛《さいな》まれない。その方法をわたしは取った」
「だがお前は、ただの薄汚い人殺しだ。どんな理由があろうと、どんな手を使おうと、関係のない人間が大勢巻きこまれて死んだ。極道やチンピラでも家族や親兄弟、恋人がいる」
ガネーシャが何か言いかけた。やがて、諦めたように空を噛む気配がした。
水樹は光の輪の外に目を移した。
「おれにはわからないことがある」
「……なに、かしら?」
「紺野と高遠はまだ生きている。今のお前にあのふたりを殺せるとは思えない。なぜ、姿を現そうとしたのか理解に苦しむ」
「あなたは本当に何もわかっていない。わたしがすることは、もう終わったのよ。今となってはあのふたりが、自力でわたしの元にたどり着いてくれればそれでいい」
水樹の目が広がった。ガネーシャがあのふたりとここで対峙しようとした理由が、次第にわかりかけてきた。
「ねえ」ガネーシャがささやく。「わたしにも、あなたに関してわからないことがあるんだけど」
「なんだ」
「ここにきたあなたの本当の目的。まさかこんな星空の下で、謎解きの演説をするためじゃないでしょう?」
「お前の身柄だった」
水樹は正直に答えた。
「それがこの様ね」
「ああ。みっともない様だ。こういう修羅場は、もうむいていないのかもしれない」
「でもあなた、足を撃たれたとき、わざと撃たれた節があったわ」
水樹は黙った。
「それにまだ、拳銃をどこかに隠し持っているでしょう? さっきから反撃のチャンスをうかがわずにわたしの言いなりでいる。あなたの方が理解に苦しむわ」
「もう必要ないんだよ」
「え」
「おれはまたひとり、見殺しにしようとしている。それですべて終わることにほっとしている」
ガネーシャが息を詰めたように沈黙した。やがて、こみ上げてくるものを押しとどめるように喉を鳴らした。
「あのふたりに会わせて」
「……会いたいか?」
「ええ。どうしても」
水樹は驚いた。ガネーシャの声から棘《とげ》が消えていた。
「わかった。だが約束はできない」
「それでもいいわ」
ガネーシャは安堵するように息をつくと、
「ねえ、わからないことがあとひとつあるの」
「何だ?」
「さっきからあなたが大切に抱えているもの」
水樹は腕の中にいるヒナに目を落とした。
「お前がさんざん殺してきたインコのヒナだ。翼が折れて死にかけているのを、ここで見つけた。せめてもの罪滅ぼしに、こいつだけでも生かしてやったらどうだ?」
「わたしには無理よ」
「お前には、命を奪うことしか能がないからか?」
水樹がきつい声で言うと、ガネーシャは沈黙した。
「――そのヒナをおいて、そのまま前を歩いて頂戴《ちようだい》」
背中の銃口はまだ押しつけられたままだった。水樹は羽をふるわせるヒナを地面におくと、足を引きずって数歩、前に進んだ。
銃口が離れ、背後でガネーシャが拾い上げる気配がした。
水樹がふり向こうとした瞬間、ガネーシャの影がすっとそばを通り抜けた。あまりに突然なことに目を疑った。顔はよく見えなかったが、長い黒髪を後ろで束ね、襟のついたシルクの長袖シャツとブーツカットのジーンズを履いていた。襟からのぞく、色白で華奢《きやしや》な首が印象的だった。
水樹は手を伸ばそうとして、やめた。
ガネーシャの無防備な後ろ姿が千鶴に近づいていく。シャワーで髪を濡らすように北極星を見上げると、その顔が千鶴に向いた。
千鶴は腰を払って立ち上がった。
「――どうするの?」
アーモンド型の目が、熱を持ったように潤んでいる。
ガネーシャは手にしたヒナをそっと差し出すと、
「あなたはもう、わたしのそばにいないほうがいい」
「え……」
「今ならまだ間に合う。あなただけでも、どこか遠くへ逃げて」
「やだよっ」
子供が癇癪《かんしやく》を起こすように、千鶴は声を上げた。
「……お願い。言うことを聞いて」
ガネーシャが懇願した。
そのとき、千鶴の顔がはっと真横を向いた。
暗闇の向こうから銃声が轟いた。
彼女達を狙った銃声だった。耳を聾するほどの残響は弾を撃ち尽くすまで続き、折り重なるようにして倒れる千鶴とガネーシャの姿が、水樹の目に映った。
「ガネーシャ!」
水樹は身体を伏せるのと同時に叫んだ。
急いで這いずり寄った。千鶴がガネーシャをかばうように倒れている。あたり一面から生々しい血の匂いが漂った。ふたりは動かない。
水樹は凄んだ目で、銃声の鳴った方向を凝視した。
暗闇の向こうから近づく足音。
「ご苦労だったな」
紺野が懐中電灯の明かりをつけて立っていた。暗視ゴーグルを外した手をあげると、その合図で遠くからエンジンが始動する音がし、ライトをハイビームにしたミニバンがのろのろとやってきた。
ミニバンが停まった。スモークシールを貼った運転席側のウインドウがわずかに開き、そこから顔半分がのぞいた。
高遠だった。ウインドウの隙間から手が伸び、数枚の用紙がひらひらと投げ捨てられた。裏返りながら舞い、そのうちの一枚が水樹の足もとに落ちた。ガネーシャからの電子メールをプリントアウトしたものだった。そこには〈painter watch coal black prince crescent grave〉と、ボールペンで書き殴られている。
「き、きききき、君より一歩遅れたのが、非常に残念だよ」
そして高遠は撃たれた千鶴にわずかに目を向けると、
「……見逃してやれたのに、最後まで莫迦な女だったな」
夜風に吹かれて消えてしまいそうな、乾いた声で言った。
水樹は反射的に、上着の内側に隠していた拳銃を抜いた。
しかし紺野の方が早かった。
顔を銃身で叩きつけられ、水樹はのけぞった。目の前が真っ赤になり、鼻筋からぬらっとした感触が唇を伝わった。続けざまブーツのかかとで鳩尾《みぞおち》を踏まれ、水樹は呼吸を失った。
紺野は拳銃のマガジンを交換すると、折り重なる千鶴とガネーシャに向き、ブーツのつま先で千鶴の身体をひっくり返した。その下には、身体をくの字に曲げるガネーシャの姿があった。
「あの彫り師か。うかつだったな」
紺野はかすれた声でつぶやき、仰向けになった千鶴の胸に銃口を向けた。
「や……めろ……」
水樹は顔をわずかに上げ、出ない声をふりしぼった。
千鶴の意識はもう半分ほど消えかけていた。その目が薄く開き、紺野をじっと見つめた。何か喋ろうとして口を開き、ごぼごぼと喉が妙な音を立てた。
それでも千鶴は唇を動かしていた。口から大量の血があふれる。呼吸が洩れるような喋り方で、ある男の名前を告げた。五年前に藍原組が強行した一本化で、真っ先につぶされた地方暴力団の若頭の名前だった。
「誰だ、それ?」
紺野は関心なさそうに返した。
「……そう。わたしを高校に入れてくれた人……なんだけどな。やっぱり……覚えてない……か」
紺野は無表情だった。その指が立て続けに拳銃の引き金を引いた。千鶴の身体がベッドのスプリングで暴れるように跳ね、やがて完全に静止した身体からおびただしい量の血が広がった。
硝煙が霧のように漂い、地面に散らばる緑色の羽とともに夜風に流れていく。
「うっ……」
ガネーシャの声だった。四つんばいになって立ち上がろうとしている。最初の銃撃で左肩と右足に深手を負っていた。ガネーシャの見開いた目が、紺野に注がれる。
「ようやく会えたな」
紺野の声は喜びに満ちていた。
ガネーシャは浅い呼吸をくり返していた。気力をふりしぼるようにしてヒナをすくい上げると、よろめく足で立ち上がろうとした。それから気を失ったように、後ろにバランスを崩した。
紺野は無言でガネーシャに銃口を向ける。
うずくまる水樹の身体に力が戻った。膝を立て、叫び声をあげて紺野に体当たりした。紺野はふり向きざま発砲し、銃弾は水樹の耳元をかすめた。水樹は頭突きを浴びせた。鼻骨が砕ける感触。そのまま突き倒した。勢いで紺野のシャツが引きちぎれ、転がった懐中電灯の明かりに照らされた。紺野の肘《ひじ》の内側に、覚醒剤の注射の跡が無数にあるのが見えた。
銃身で頬を殴られ、水樹の目が裏返りそうになった。拳銃を握る紺野の手首をつかむと、ねじり上げてその拳銃を奪い取った。水樹は紺野に銃口を向けた。今度は躊躇しなかった。引き金を引いた。
紺野がすさまじい呻き声をあげた。
水樹は力の抜けた紺野の身体を突き離し、まわりに目を向けた。
高遠がミニバンの運転席で拳銃をかまえている。紺野ともみ合いになっている間、撃てずにいたのだ。
水樹はかまわずガネーシャを捜した。ミニバンから銃声が何度も轟き、銃弾は頭上の空を切った。吐く息が荒れた。呼吸をすると、喉の奥でしゃくりあげるような音がした。
遠ざかる足音を耳にして、ふり向いた。
暗闇に消えようとするガネーシャの後ろ姿があった。前屈みで、何かを抱えるようにふらふらと歩いている。深手を負った右足が、がくんと折れそうになり、もだえるように身体をよじらせた。常人なら気を失うか、立っていられないほどの傷のはずだった。
「ガネーシャ!」
水樹は叫んだが、朦朧《もうろう》としているガネーシャの後ろ姿に届かなかった。
あんな身体でいったいどこに――
水樹は片足を引きずってあとを追った。
よろめくガネーシャの後ろ姿は、足を踏み外すように身体の重心を失った。その瞬間、ガネーシャは首をまわした。かすかな月明かりの下で、ガラスのように表情のない目が水樹に向いた。その目が何を訴えていたのかわからない。ガネーシャの姿が雑木林の急斜面に消えようとしたとき、水樹はその手をつかみとった。肩が外れそうな衝撃を受け、もだえた。
血まみれのガネーシャは気を失っていた。
水樹は空いている手を探り、密生している樹木の枝をつかんだ。力をふりしぼってガネーシャを引き上げようとしたが、限界だった。
ふたりは谷底のような急斜面をすべり落ちていった。
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下側の世界 13
きこえた。
………………
……遠くで奏でられる弦の音……
チェロの演奏……
…………
……ひどい。
……でもかすかにきく限りは……
……もの寂しくて、どこかものなつかしい調べに似ている……
わたしがこの暗渠の世界で最初に目覚めたとき、耳にした曲だった。首をまわしてしまいそうになるのを、意志の力で思いとどめた。
「≪楽器職人≫だね」
紙袋をさげた≪王子≫がふり向き、蝋燭の炎をゆらした。
「彼女とは友だちになれたかい?」
その問いにわたしは首を横にふった。≪王子≫はなにもいわなかった。
≪王子≫と一緒に暗渠の出口を目指していた。さっきから石室も岐《わか》れ道もない一本道を、ずっとまっすぐ歩いている。≪王子≫の肩越しから石組みの通路のさきを眺めた。暗闇はどこまでつづいているのかわからない。
蝋燭の明かりを頼りに、チラシの裏側に目を移した。フエルトペンで書かれた地図はもう役に立たなくなっている。片手でまるめて捨て、ヒナを入れた鳥籠をしっかりと抱きしめた。
≪王子≫はそんなわたしを見て微笑み、ふたたび歩きはじめる。そのうしろ姿がどんどん遠くなっていく感覚がした。
わたしは恐れに似た感情を抱き、あわててあとを追った。
「もうすこしだよ」
≪王子≫の声に、ほっとした。
「――出口に着くまで、ずっと話していてもいい?」
石組みの壁をさぐりながらたずねると、≪王子≫はきょとんとする間をおいて、
「ああ、いいよ」
と、こたえてくれた。
「わたし、≪坑夫≫にまだあやまっていない」
「あやまる必要があるのかい?」
「彼を傷つけてしまったの」
「≪坑夫≫もきみを傷つけた。彼はそういっていた。そんなに悪いことじゃないよ。技巧を凝らした言葉や、見た目の態度よりも、傷つけあってはじめてお互いの心がとどくこともある。……とくに、ここにいるみんなはね」
わたしは黙った。そして、
「ねえ」
と、たずねた。
「なんだい?」
「やっぱり、≪坑夫≫にあやまってほしいの。それをわたしの別れのあいさつにするわ」
「……きみがそういうなら、約束するよ」
そのとき、弦がぷつりと切れるようにチェロの演奏がやんだ。石組みの暗渠がもとの静けさに包まれた。
「≪楽器職人≫のことをきいていい?」
「ああ」
「彼女、ここをでたがっていた。……あれは本心なの?」
「彼女のチェロの練習はこれからもまだつづく。それに本心なら、彼女は口にださない。針ネズミみたいに針を尖らせているからね」
「それで、幸せかしら?」
ぽつりと洩らした。
「どういうことだい?」
「まわりに世間とか他人のいない幸せでも、それがほんとうの幸せなのかしら。彼女にはじぶんを映す鏡がない。鏡のない場所で一生懸命、チェロを弾いている」
「ぼくたちが決めることじゃない」
「わかっている。わかっているけど……」
「ひとと交われない。そういいたいのかい?」
「……うん」
ふたたびチェロの演奏がはじまった。弦が一本抜けているのがわかった。それでも彼女はやめない。
≪王子≫は暗闇の一点を見つめ、大きく息を吸っていた。こみあげるものを喉で殺すようなしぐさだった。やがてからだをひねると、ジャケットのポケットをさぐった。大切そうになにかをとりだし、わたしの目のまえで、その手のひらをひろげてみせた。
ペインティングナイフだった。
「それは」
「≪画家≫にかえしておくよ。いいかい?」
その言葉で、もう≪楽器職人≫の話が終わったことを知った。わたしはうなずき、
「≪画家≫には、ありがとうって伝えて」
≪王子≫はおどろいたように目を開いた。
「ずいぶんやさしいんだね」
「≪王子≫だって」わたしはいった。「≪画家≫の肩を持つくせに」
「彼には借りがあるんだよ」
「暗渠にあった矢印の絵のこと?」
「ああ。あれは、この暗渠で迷わないようにするためさ」
「ここにいるみんなに必要なものなの?」
「いや。……必要なのはぼくのほうだった。ぼくのために≪画家≫をさんざん働かせてしまった」
≪王子≫の目は深い後悔をたたえていた。やがてそれを断ち切るように、
「≪ブラシ職人≫と≪時計師≫に伝えたいことは?」
と、足をはやめた。
ふいに石組みの通路が暗くなった気がした。目を瞬いた。その理由がわかった。≪王子≫が持つ蝋燭の炎が、風もないのに小さくなっているのだ。
「≪ブラシ職人≫には――」
わたしは≪王子≫のあとを必死に追った。「わたしの石けんをぜんぶあげて」
「それだけでいいのかい?」
≪王子≫の声をききながら、内心あせった。どんなに歩いても、そのうしろ姿に追いつけなくなったからだった。
「それくらいしか、彼にしてあげられない」
「わかった。約束するよ。それじゃあ≪時計師≫には?」
わたしは立ちどまった。
「……もう一度、会いたかった」
≪王子≫も離れて立ちどまった。でも、わたしの方を向いてくれない。蝋燭の炎は、線香花火が最後に見せる玉のように、じょじょに小さくなっていく。
「≪時計師≫のおしゃべりが、なつかしいかい?」
暗がりのなかで、≪王子≫はいった。
「……ほんとうに、おしゃべりだったね」
わたしは消えかける≪王子≫をつなぎとめるように、声をあげた。「でも、いまだからわかる。≪時計師≫のおじいさんは、ほかの住人のことばかりしゃべるけど、わたしと最初に会ったとき、なによりさきにじぶんのことを話してくれた」
≪王子≫の輪郭がふり向いた。その表情はほとんど見えなくなっていた。
わたしは叫んだ。
「ずるいよ。防災備蓄倉庫なんて嘘までついて……みんなして、わたしをだまして……必死にかくして……」
≪王子≫は黙ってわたしの言葉を受けとめている。
「≪墓掘り≫のノートにあった『病人』の正体もわかったわ。あれは日記だったのよ」
「ガネーシャ……」
ようやく≪王子≫の声がした。
「――もう会えないの?」
たずねると、≪王子≫は沈黙をおいて、
「たぶん」
と、だけこたえた。
「……どうして?」
「できれば、もうぼくたちは会わないほうがいい」
「どうしてそんなことをいうの?」
「きみには望む未来がある。たとえそれが儚いものであっても、きみは受け入れる覚悟をした。そしてぼくらにはここで過ごす世界がある。このふたつは決して相容れることはないんだよ」
その意味を悟ったわたしは、胸に冷たい穴がひろがっていく感覚に襲われた。
「――わたし、≪王子≫のことをまだなにも知らない」
うす闇の奥にいる少年がだれなのか、最後にたしかめたかった。
「きみが上側の世界にもどって、すべての整理がついたとき」
と、≪王子≫はつづけた。
「街の公園にいくといい」
「……公園?」
「一番大きな公園をさがすんだ。その公園をとりしきっている浮浪者がいる。いまの季節じゃいつもランニングシャツを着ているおじさんだ。ぼくのことをおぼえていてくれているのは、もうそのひとくらいしかいない」
わたしは黙って息を吸った。
あのときの≪王子≫の言葉が脳裏によみがえった。
そして、伝えようとしたことも。
地球上で生命連鎖の輪に入らない唯一の生きもの――個々の都合で命を継がず、生命の輪を紡がない存在……。でも人間はお互いの記憶を紡ぐことができる。たとえ肉体が滅んでも、そのひとのことをおぼえていてくれるひとがいれば、そのひとがこの世にいたことをべつのひとに伝えてくれる。生命連鎖を紡ぐ生き物たちにはないもの……それは……記憶の連鎖……
「わたし、その公園をたずねるわ」
目に涙が浮かびそうになった。上側の世界にもどっても、≪王子≫とつながることのできる一本の線を、ようやくつかみかけた気がしたからだった。
「そして、≪王子≫の話をきいてくる。そうすれば≪王子≫のことをおぼえているのは、もうその浮浪者のおじさんだけじゃなくなる。わたしもいるわ」
「ガネーシャ……」
「≪王子≫だけじゃない。この世界にいるみんなのことも、わたしは忘れない。みんなのことをおぼえてくれるひとをさがして、きっと伝える」
≪王子≫はなにかに耐えるような間をおくと、
「だったらそれまできみは、ちゃんと生きるんだ。命を粗末にしないと約束してほしい」
わたしはうなずき、暗がりのなかを見まわして≪王子≫をさがした。
「≪王子≫の病気は、もう二度となおらないの?」
「ああ。なおらない。なおるまえにぼくは――」
と、≪王子≫は静かに口を閉じた。
わたしは≪王子≫の声を頼りに、その手をつかまえることができた。もう蝋燭の明かりはほとんど役に立たないことを知りながら、そのまま頬にふれ、すべらせるようにして喉をさわった。喉のしこりに指さきがふれる。
「きみの弟とおなじだよ」
≪王子≫がぽつりといった。
わたしは声を呑《の》んだ。
「ぼくの場合はここで迷って二度とでられなくなった。でも、きみの弟はここをでることができた」
≪王子≫はふっと、蝋燭の炎を消した。
周囲が完全に闇に溶けた。
足音がわたしから離れていく。
「そこにきみの着替えがある。最初にきみが着ていた服だ」
「≪王子≫っ、どこなの?」
沈黙が暗闇を支配した。
「――ここからさきは、ぼくにはいけない」
それが、≪王子≫の最後の言葉だった。
わたしははっとした。
まるで背後が閉ざされたような感覚だった。すばやくあたりを見まわしたが、いまはもうじぶんが完全に孤独であることを知った。
≪王子≫、≪ブラシ職人≫、≪時計師≫のおじいさん、≪墓掘り≫、≪坑夫≫、≪楽器職人≫、≪画家≫……
みんな……
……………………
わたしは鳥籠を抱きしめ、冷たい石畳に両ひざを落とした。
ずいぶん長いあいだそうしていた。手さぐりで紙袋を引きよせると、のろのろと服を着替えはじめた。
鳥籠のなかからヒナをそっととりだした。そのやわらかい感触をたしかめて、わたしは暗闇のなかを歩きはじめた。
胸をつぶしそうな悲しみと苦しみに耐えながら、さきを目指した。
やがて闇の切れ目に、光が見えた。
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終 章
目を瞬《またた》いた。
朝の光は風にそよぐ木の葉越しに、わたしのいる日陰まで射しこんでいる。まるで長い間泣いていたように腫《は》れた目に、それは鋭く突き刺さった。
わたしはいったい……
ここは……
頬に固い感触をおぼえ、冷たい土の上に横たわっていることに気づいた。
血にまみれた胸を大きく波打たせながら、目線を宙にさ迷わせた。まわりは暗い壁にかこまれていた。天井があった。草木に覆われた入口も……
どうやらここは切り立った山の斜面にできた洞窟《どうくつ》のようだった。雰囲気は、ひとの手がつけられた防空壕《ぼうくうごう》に近い。浅く掘られている。首をまわしてうしろを見ると、奥は頑丈そうな鉄扉でふさがれていた。
しばらくその鉄扉を見つめた。
喉《のど》はカラカラに干あがり、しばらく、湿った土を口の端でかんですごした。
左手が顔のすぐそばにあった。石のようにかたくなって動かないが、腕時計をのぞくことはできた。文字盤は朝日を受けて銀色に輝いている。針は六時四十分をさしていた。秒針はカチカチと狂うことなく進んでいる。
記憶をさぐりあてようとした。
わたしが撃たれたのは、たしか零時過ぎだった。それから六時間弱のできごと……思いだそうとしてあきらめた。まるで頭のなかがぐちゃぐちゃにくずれた豆腐のようだった。
入口からここまで血のあとがつづいている。
意識を朦朧《もうろう》とさせながら、自力でここまでたどりついて気を失ったのか?
拳銃《けんじゆう》が落ちていた。
わたしの右手はまだ動いた。ひどくしびれるが、指も曲がる。指さきをのばした。からだをずらしながら、ようやくそれをつかみとった。
うっすらと記憶をさすものがあった。
こんな感じで、ずっとはなさなかったものがあったはずだ。
……ヒナ。
そうだ、ヒナだ。
顔を必死に動かして、ヒナをさがした。
やがて緑色の羽が目の端に映り、安堵《あんど》の息をついた。
ヒナはうずくまるようにじっとしている。わたしは拳銃をはなして引きよせようとした。ヒナのからだは冷たくなっていた。もう、生気は感じられない。
深い喪失感がわたしを包みこむ。
じょじょにわたしも、こんなひとのいない山奥で、出血多量のために死ぬだろうということを悟りはじめた。
さくっと土を踏む音がきこえた。
幻聴?
やがて陽の光を背中に浴びた人影が、洞窟の入口にあらわれた。
その人物は沈黙をおくと、足をひきずって近づき、わたしのまえでかがみこんだ。
「ガネーシャ……」
若い、男のひとの声だった。
水樹はガネーシャを見つけた瞬間、鼻の奥が熱くなった。
紺野の銃弾を受けたガネーシャと一緒にあの急斜面をすべり落ちたとき、いったいどれほど下ったのかわからなかった。密生した夏草の漂う暗闇を転がり、樹木の幹や根もとに身体の端々をぶつけ、ガネーシャをかばって太い幹に背中を打ちつけた。意識を取り戻したときは草の上で仰臥《ぎようが》し、葉を茂らせた枝の群れの隙間から、青みがかった空を見上げていた。まわりにガネーシャの姿はなかった。ただ点々と水樹から離れていくように、血のあとが続いていた。
身体の痛みは痺《しび》れに変わっていた。撃ち抜かれた右の靴を見つめた。骨は粉砕していない様子だった。水樹は幹にしがみついて立ち上がると、足を引きずってガネーシャを捜した。
そしてようやくたどりついた場所が、この切り立った山腹の斜面にある洞窟の入口だった。
手彫りの洞窟だった。壁面に無数の穴があり、それが蝋燭《ろうそく》の燭台《しよくだい》代わりであることをうかがわせた。奥に厚い鉄扉があった。鎖が何重にも巻かれ、もうなん年も閉ざされてきたように、鉄の部分のいたるところに赤褐色の錆《さび》が噴いている。
そのそばでひっそりと横たわるガネーシャの姿を見て、水樹の目に痛みがこもった。
どうしてこんなところに?
どうしてこんな静寂に包まれた、だれにも見つけてもらえないような場所に……
だれにも見られたくない場所――
それを、ガネーシャは最後の意志で望んだのだろうか?
水樹の脳裏に、あのときのガネーシャの声がよみがえった。
(人間が再び生態系や自然の食物連鎖に戻るためには、天敵の存在が必要になるの。わたしは、人間の天敵となりうるものを手に入れた。あのふたりを殺すために――)
その末路が、こんな悲しい情景を生んだのか。
水樹は近づいてガネーシャを抱き起こした。彼女は抵抗しなかった。まるで指ですくいあげた砂がこぼれ落ちていくように、ガネーシャの生気が失われている実感がした。
「まだ……生きているか?」
声を詰まらせて問いかけると、ガネーシャは薄目を開いた。顔はうつろで、表情というものがまったくない。
「千鶴は死んだ」
水樹が言うと、ガネーシャの目が少し開いた。ひび割れた唇がわずかに開き、何か喋《しやべ》った。よく聞き取れない声だった。やがて声にするのを諦《あきら》めたように、ガネーシャは唇を閉じた。
「――もう、復讐《ふくしゆう》は終わりだ。いままで生きていたんだ。もしかしたら助かる望みがあるかもしれない」
抱き上げるガネーシャの表情に、わずかな変化がさした。
水樹は驚きで息を吸った。
ガネーシャの両目がたちまち涙であふれた。光る水はぽろぽろと耳の中に走っていく。
「憎い……あのふたりが憎い。わたしの弟……伯父さん……おばさん……家族……うばった……あいつらが……憎い」
虚飾を捨てて傷つきながら口にした、ガネーシャの慟哭《どうこく》だった。
水樹という青年にやさしく抱き起こされ、わたしの頬を温かいものが伝っていった。もう流す血は残っていないと思っていたのに、代わりに涙がでてくることに戸惑った。
「もうしゃべるな」
彼は辛そうにいい、洞窟の奥に目を注いだ。しだいにその顔が強張《こわば》っていく。
「まさかあれが……」
彼はぼうぜんとつづける。
「……あれが暗渠《あんきよ》の入口か」
わたしは彼を見あげ、でない声をふりしぼろうとした。伝えなければならないことが山ほどある。からだから抜けていく力に、必死に抵抗した。
「あなたが……ここにきては……だめ……」
彼に伝わったのか、その目がわたしに向いた。
「わかっている。あとはまかせろ。もうお前が心配することはない」
その言葉が、わたしにほんのすこしだけ体温をとりもどさせてくれた。わたしはあえいで息を吸い、つづけてなんとかしゃべろうとした。
「……お……お願い……」
「無理するな」
彼の声にさえぎられたが、わたしはやめなかった。
「……あ、あなたに……お、お願いが……あ……ある……の……」
「なにかいいたいことがあるのか?」
「……わ、わたしの……かわりに……ま……街……いちばん……大きな……公園……で……」
よくききとれなかったのか、彼はわからなそうな顔をかえした。
わたしは悲しげに目を瞬かせた。もう、声はでなくなっていた。
「――ガネーシャ。すこしのあいだここで待っていてくれ。ここをでて助けを呼ぶ」
彼はそういってくれた。
うれしい。
だけどわたしには、首を力なく横にふることしかできなかった。
それはできない。
わたしのために大勢のひとが死んだ。わたしの友だちも死んだ。わたしひとりだけ生き残ることなんてできない。それは最初から決めたことだった。わたしの物語は、じぶんの力で幕を下ろさなければならない。
そのときもうひとつの影が、彼の背後から音も立てずにあらわれた。
水樹ははっとした。
抱き起こしたガネーシャの目が、恐怖で引きつるように大きく開いたからだった。
しかしそれは一瞬の出来事だった。まるでなにもかも受け止めたような凪《な》いだ目になり、唇に薄い笑みがさした。
土を爪で掻《か》く音。地面に寝ていたガネーシャの右手が動いた。なにかをつかみ取るしぐさでその腕が宙に上がる。
拳銃が握られていた。あのときガネーシャに奪われた、自分のシリンダー銃だった。しかし銃口は自分でなく、洞窟の入口に狙いが定められている。
撃鉄は起きていない[#「撃鉄は起きていない」に傍点]。
水樹は素早く首をまわし、銃口が向く先を見上げた。
見た瞬間、全身の血の気が引いた。
紺野がそこに仁王立ちしていた。スーツの左肩の部分を血で染めている。右手がズボンのポケットから、黒いかたまりを引き抜いた。威嚇も予告もなかった。紺野の手もとで轟音《ごうおん》があがり、洞窟内に響き渡った。
両腕に体重がのしかかる衝撃とともに、水樹の顔に鮮血が飛び散った。
茫然《ぼうぜん》と視線を落とすと、顔の中心を撃ち抜かれたガネーシャが、のけぞるように顎《あご》の先を上げていた。撃鉄を起こしていない拳銃は、まだ握られたままでいる。
水樹の中で何かが急激に沸き立った。
「――紺野っ」
喉の奥から叫び声をあげ、拳銃を握ったまま放さないガネーシャの手に自分の手を重ねた。ガネーシャの腕ごと紺野に銃口を向け、撃鉄を起こし、引き金にかけられたガネーシャの人差し指に自分の指を沿える。
対峙《たいじ》する紺野の顔は、死の影に隈《くま》どられていた。もはや死人の顔つきだった。水樹に向いた銃口が徐々に下がっていき、紺野はかすれた声をしぼり出した。
「……おれを殺すのは、お前じゃない」
水樹は骸《むくろ》となったガネーシャの人差し指と一緒に、引き金を引いた。
洞窟から這い出た水樹は、強い日の光をさえぎった。
壁に手をついて立ち上がり、洞窟の中に首をまわした。紺野の死体と、その奥にガネーシャの死体があった。ふたりは互いに拳銃を持ち、撃ち合ったような姿で絶命している。
黙って見つめる水樹の顔が歪《ゆが》んだ。
ガネーシャによってすでに感染させられていた紺野には、最初の一発が限界だったのだ。それは紺野の腕に幾度となく打たれた覚醒《かくせい》剤のあとでわかった。ふたりは最後の気力をふりしぼってまで、互いの決着をつけようとした。
ガネーシャはその姿を現す前から、すでに復讐を完結させていた。復讐を完結させたガネーシャに残された行動はひとつしかない。彼女は最初から命を絶たれるつもりで、あの月夜の不法投棄の現場に姿を現したのだ。
そして……
水樹は片足を引きずって雑木林を歩いた。途中、何度もつまずき、胃の中のものを吐いた。近くにあるはずの林道を探した。
ようやく林道の幅が狭まっている場所でミニバンを見つけた。これ以上進めずに駐車している様子だった。
水樹の気配に気づき、中の人影が動いた。キーをまわし、運転席側のウインドウグラスをするすると半分まで下げた。
高遠だった。動ずることなく、シートに背中を押しつける。
「……こ、ここに紺野が戻ってこなくて、顔を血に染めた君がやってきた。それがなにを意味しているのかくらいは、ぼくにも想像つく」
「最後にひとり残された、『王』の感想はどうだ?」
水樹は何の感情もこめずに言った。
高遠は黙っていた。引きつった右半分の顔を向けているので表情はわからない。ただじっと宙の一点を見つめ、一瞬その目に苦渋の色が滲《にじ》んだように映った。
水樹は口を開いた。
「もうお前を守ってくれる側近も騎士達もいない。今まで好き放題やってきたんだ。広域の連中や沖連合、極東浅間会の残党相手のツケを、たったひとりで払うんだな」
やがて、高遠がぽつりと洩《も》らした。
「……ガネーシャの勝ちだな」
「お前らの争いに勝ち負けはない。それが、ガネーシャが望んだ結末だ」
高遠は薄く笑うと、さびしげな声でつぶやいた。
「に、二十七年前の、フェンスを越えた出会いから運命は決まっていたのかもな。……だが、間違っていたとは思いたくない」
ウインドウグラスがするすると上がり、高遠の顔がスモークシールに完全に隠された。
水樹は踵《きびす》を返した。もとの雑木林に戻っていく途中、短く乾いた銃声を聞いた。車内なので反響さえ残らなかった。
長い時間をかけて、洞窟の入口にたどりついた。
紺野の死体を確認し、奥に顔を向けたときだった。白いドライフラワーが落ちている。
水樹は息を呑み、その目を疑った。
まるで誰かが持ち去ったように、ガネーシャの死体が消えていた。
[#地付き]〈漆黒の王子 了〉
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主な参考文献
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寺脇研、藤野知美著「生きてていいの?」近代文芸社
小林頼子訳著 池田みゆき訳「――ヤン・ライケン――西洋職人図集―17世紀オランダの日常生活―」八坂書房
石井勲、山田國廣著「浄化槽革命 生活排水の再生システムをめざして」合同出版
中田薫著 写真関根虎洸+中筋純「廃墟探訪」二見書房
春日武彦著「17歳という病 その鬱屈と精神病理」文藝春秋
小原秀雄著「自然からの警告 都市動物たちの逆襲」東京書籍
宮崎学著「宮崎学のカメラ・アイ 野生動物が見つめるゴミ列島」太郎次郎社
石渡正佳著「産廃コネクション 産廃Gメンが告発!不法投棄ビジネスの真相」WAVE出版
西尾漠著「プルトニウム生産工場の恐怖 漠さんが語る六ヶ所「核燃」施設」創史社
本書執筆にあたり、国土交通省 都市・地域整備局 下水道部ホームページにある松平摂津守上屋敷跡下水暗渠の紹介記事、またこの他書籍やインターネットホームページも参考にさせていただきました。
この作品はフィクションであり、実在の人物、団体等とは一切関係ありません。
角川単行本『漆黒の王子』平成16年11月5日初版発行