パーム あるはずのない海
伸たまき
1
暗いな、とカーターは思った。
暗いな、と頭の中でつぶやくのが最近の彼の癖になっている。
それから、頭の中でつぶやくのが癖になっている、もうひとつの言葉を続いてつぶやいた。
今、何年の何月だろう?
シュ、シュ、シュ、と、軽い、耳慣れた音がした。
ああ、あれはスプリンクラーの音だ。もう朝。今は一九八一年。七月。カーターは顔を窓側に向けたままあおむけに横たわって、石のように硬くなった首をまだ動かすことができないまま大きく息をついた。
この二階の寝室の芝生に面した側は、左から右、天井から床まで全部が窓だった。それでもこんなに暗いのは、長年の埃が布の織り目の間に詰まった、重い、分厚いシェードがおろされていたからだ。シェードには所々傷口のような破れ目があって、そこから水色の空がのぞいていた。
カーターは長いこと家のことを何もせず、また人に家政を頼むでもなかったので、部屋はひどいありさまだった。上げ下げもはばかられる泥色のシェードをはじめとして、蜘蛛の巣のはりめぐらされた天井、煙草の煙に黄色く染められた壁。シーツはピクニック用のシートみたいに、しわくちゃなのがベッドの上にただ投げ出されており、カーペットはろうそくの蝋だらけだった。部屋のスタンドの電球は、家中の照明のそれと同じようにずいぶん前から切れていて、彼は代わりにろうそくを使っていたのだ。
蝋のほかに、床には女物の衣類が散らばっていた。毛皮のコートに、絹のドレスに、その下に着けるものとか、まあそんなもの。衣類の主は、カーターの背後にいた。寝息は聞こえないし、体は触れていないけれども、彼女の息遣いを感じることができる。カーターのよく知っている、かすかな熱と湿り気と重みが、ベッドのスプリングをつたわってきた。
彼女はビアトリスといって、カーターが会ったこともない男の妻だった。彼女がこんなふうに、カーターのベッドに滑り込んでくるようになってから、もう半年はたったろうか? ビアトリスは非常に美しいことと、社交界において独身ではない何人かの社会的地位の高い、有力な、名のある男たちの身をスキャンダルでもちくずさせたという、若さに似合わぬ悪行で有名だった。
○
ビアトリスとカーターが初めて会ったのはまだカーターがメディカル・センターにいたころ、まだ心臓外科医として社会に属し、生き生きと働いていたころで、ビアトリスはカーターの患者のところへやってきた見舞い客だった。患者は六十代の実業家で、ビアトリスが彼の孫かなにかだろうと決めこんだカーターは早々に席を外してしまった。実業家は死期が迫っていたので、身内の悲しく親密な会話が病室で交わされるはずだった。だが実際には、ビアトリスは実業家の愛人だったのだ。しかもビアトリスには、すでに夫がいた。
カーターはなにしろ新聞の社交欄などろくに読んだこともない人間だったから、ビアトリスが誰かはわからなかったが、彼女の、黄金色の扇のようなまつげや、ベルベット赤のバラのような唇といった豪華絢燗たる装飾に彩られた美貌と、自意識の強そうな攻撃的なまなざしから、彼女はモデルか女優か、とにかく派手な職業についている女だろうと推測した。彼はそういう類いの女にいつもするように、彼女の美しさと価値を認める穏やかな視線を保って、自分が彼女の前で虚勢を張ったり、面目のために彼女を傷付けたりする意思のないことを相手に知らせてやり、また礼儀に反しない程度に二、三度ほほえみかけるくらいはしたが、仕事中で性急でもあったので、礼を尽くしてドアを閉めると彼女のことはすっかり忘れてしまった。
だがカーターがビアトリスにそれほど注意をひかれなかったのに対し、ビアトリスは彼に興味津々だった。彼女は死にゆく実業家の後釜を探していたのだ。いや、たとえ相手が死ななくても、ビアトリスには常に後釜が必要だった。この間あれほど夢中になって、やっと手に入れたドレスにすぐ飽きてしまうように、彼女は新しい恋人にすぐいや気がさしてしまうのだ。
病室の情景の一部である見舞い客の、脇役風のさりげない表情を装いながら、ビアトリスは目の端で、病人に話しかけるカーターをあますところなく観察していた。
カーターは生まれながらに、特に意識しないでも相手を安心させることのできるあたたかさを持っていた。それはこの人間になら何を話しても即座に批判されたり馬鹿にされることなく、理解され、受け入れてもらえると感じさせる何かであり、カーターはよく初対面の人間から「まだ誰にも話したことがない」という前置き付きで、個人的な悩みごとを打ち明けられたりした。そしてその才能は病の不安に苛まれた患者を前にしたとき、最大限に発揮され、心臓外科の病棟では、ヒステリックになった患者を鎮めたり、親族に患者の死を知らせたりするのに、ほかの誰もがお手上げというときはカーターが呼ばれるきまりになっていた。
死にかかった老人実業家を前にして能力をフル回転させている、そのときのカーターを見ながらビアトリスは、この男はいかにも精神のバランスがとれているというふうに終始笑みをたたえながら穏やかに話しているけれども、本当はかなりの気むずかし屋だわ、と思った。鹿のように神経質で、ロパのように頑固に違いない。もしかしたら、蛇のように毒があるかも知れない。ビアトリスの男を見る目は、カーターの患者を診察する目と同じくらい鋭かった。
カーターが退室したあと、ビアトリスは実業家に、今出ていった主治医の名を尋ねた。しかし、アプローチは開始しなかった。カーターは、ビアトリスのような見かけの派手な女に色めきたつような、うわついた人種には見えない。男の中には手を出していい人種とそうでない人種がいること、そうでない人種に媚態を呈すれば、手痛い屈辱を受ける可能性があることを、ビアトリスはよく心得ていたのだ。
実業家が死んで、さらに時が流れ、別の用件でメディカル・センターに足を運ばねばならなくなったとき、ビアトリスは寄り道のつもりで心臓外科を訪ねた。
カーターはいなくなっていた。センターを辞めたというのだ。ビアトリスは理由を尋ねたが、誰もがビアトリスをいぶかしげに、目をそらしがちに見て、口ごもった。辞職の理由が女であることと、自分がカーターの新しい恋人か恋人候補と思われていることを、ビアトリスは気付かなかった。
そこにいないものを求める狩人の本能で、ビアトリスはカーターの所在を調べ出した。
夜の夜中、今いるベッドの中で、カーターはビアトリスからの電話を受けた。もし寝ぼけていなかったら、受話器を取らなかったかもしれない。カーターはかすれた声で応答した。
「……はい」
「オーガスさんのお宅?」
「……ええ」
「カーターね?」
カーターは本能的に、あるいは機械的に、相手が誰か思い出そうと努力を始めた。だが記憶は霧のようにどんよりとして、まさぐってみてもさっぱり手応えがなかった。ほとんど食事代わりになっているアルコールと、慢性化した絶望と、眠気とで、知覚はバラバラになっていた。そうこうしているうちに、意識が再び遠のいてきた。睡魔に引きずられながら、カーターは心のどこかでつぶやいた。
とにかく彼女でないことだけは確かだ。
「ちょっと、起きてちょうだいね」
女のいらだった声で、カーターはほんの少しだけ我に返った。
「失業中なんでしょ? あした早いからなんて言わせなくてよ」
「……どなたです?」
「名前? 言ってもいいけど、どうせあなたは知らないわ」
どうやらいたずら電話らしい、とカーターは合点がいった。
「あなたの仲間よ。つまりわたしも失業中なの。言ってみればね」
「話し相手がいないということですね?」
言いながらカーターは、うっかりとってしまった電話の、本体のほうを仰ぎ見た。まだぐっすりと眠っているらしい、感覚のない腕を伸ぼして受話器を置くには、少し遠いように思える。
「話す相手や寝る相手ならいるのよ」カーターが決意する間もなく、子供をたしなめるような声で女は言った。「ただあなたがどうかと思って」
「それはご親切に」カーターは掌で目をごしごしこすった。「どうぞおかまいなく」
「ねえ、どうせだから、失業中でなきゃできないことをしましょうよ」
女は唐突に話題を変えた。
「あなたとですか?」
カーターはついて行くのが精一杯だった。
「自由じゃなきゃできないこと。たぶんなにか思い切り馬鹿げたことね」
「知らない人と?」
「そうよ。少しは冒険しなさいよ」
「いいですね」
カーターは相手の活発な、芝居がかった調子にうんざりして、投げやりに答えた。
「それじゃあ、これからさっそく相談しましょう。計画を立てなくてはね」
「はいはい」
「これからうかがってもよろしい?」
「いいですとも」
カーターには、相手の言っていることがはったりだという確信があった。電話で、顔や正体を明かさずにすむ安全な場所からいたずらをしかけて喜んでいるような人種は、住所や名前を知っていて今にも押し掛けそうににおわせはしても、決してそれを実行したりはしないのだ。
「本気にしてないのね? からかってると思ってるの?」
「いやそんな」
「じゃあ、とにかくこれからお邪魔するわ。ほんとにいいのね?」
「どうぞどうぞ」
こんなふうにして、ふたりのずぼらな関係は始まった。
ビアトリスは、あまり自分にやさしいとはいえない女だったので、不倫の相手にもたいがいは、あまりやさしくなかったのだが、カーターが相手だとそうトゲトゲしくもしていられなかった。
カーターの家を見ても、カーター自身を見ても、彼が何もかも失っているのは明らかだったし、第一、相当な皮肉も聞きのがしてしまうほど無感動になっていた。
カーターのやることは、山気がみじんもないという意味でこの上なく上品だった。ビアトリスが付き合ってきたほかの男たちと違って、カーターは地位も野心も見栄も体裁も失っていた。自分を人より大きく見せる必要も、言いわけも必要なく、アクセサリー代わりにビアトリスを連れ歩くことも、反対に人前でわざと遠ざけることもしなかった。
ふたりは時々、失業中でなければできないことをしよう、というはじめの約束を思い出しては、ベッドの中でだるそうに計画を立てた。
「無茶なことをするのよ。ふつうだったら、クビになっちゃうからできないっていうようなことを」
ビアトリスはいつものように、芝居がかった議論を口先だけでしているという感じだったが、なにやら無法なことを思い浮かべているらしく、シャンデリアのパーツのような金色の目をぎらぎらさせていた。カーターは笑った。ビアトリスはカーターがメディカル・センターで、よほど不自由な宮仕えを強いられていたと想像しているらしい。
「君とこうして不倫してるだろ」
カーターは自分の手の中にあるビアトリスの拳をゆすって言った。
「それよりもっと無為なことをしよう。なんのためにもならないことをするんだよ」
そしてカーターはビアトリスを、自分の生まれ故郷だというニューポートの海岸に車で連れ出し、桟橋を延々と歩いたり、誰かの犬をふたりでかまったりするのだった。
時々カーターはボートやヨットを借りたが、この扱いがまた特別へたくそで、一度などはあたりが暗くなっても港に戻れず、一晩ヨットの上で夜明かししたこともあった。星空の中、洋上に取り残されても、カーターは気にするふうでもなく、ビアトリスもそんな彼をおもしろがって笑った。
「あなたニューポートで育ったくせに、ヨットに乗ったこともないの? それに船に乗るのに、腕まくりしたワイシャツにネクタイ締めてる人なんて誰もいやしないわよ。あなたってスーツしか服を持ってないの?」
そして、自分の言ったことが、両方とも本当かもしれないことに思い当たって口をつぐんでしまう。
カーターはまるで意に介さないふうで、デッキにもたれ、星を見上げたままビアトリスの肩を抱きよせた。
カーターはその目に、最初に会ったとき医者として死に瀕した患者をいたわっていたあのときよりもっと穏やかな笑みを浮かべ、海と空の間をわたる風のように、静かで、自由で、おおらかで、所在なげだった。
ビアトリスは彼が好きになった。カーターといると、心が休まった。
ビアトリスは、カーターも自分を好きなことを知っていたが、彼にとって自分は、汚れた部屋の中でひとつだけきれいなままで残った、透かして見ると小さな虹の映る、水晶の灰皿のようなものだと感じていた。
カーターはビアトリスをていねいに扱ったし、愛しもしたが、彼女にどう思われているのか、彼女がいつ去ってゆくのか、気にもかけていないようだった。いつかカーターが気まぐれを起こすか、そう手持ちぶさたでもなくなれば、水晶の灰皿はどこかにしまい込まれてしまうか、床に落とされてばっくり割られてしまうかもしれない。
カーターは罪悪感を感じないだろう。
そんなふうに考えると彼女はいつもほんの少し胸が苦しくなって、肩をすくめ、ため息をつくのだった。
ビアトリスには、これがお決まりのパターンに思えた。彼女が気を許せる男があらわれると、相手は決まって彼女に無関心で、別のなにかに心をとらわれているのだ。ビアトリスの夫のハーディも、親から継承したばかりの事業に夢中だった。ましてやカーターは、海と空の間の空気なのだ。
カーターを空気にしてしまった原因を、ビアトリスはやがてベッドの脇のひきだしの中で見つけた。ひきだしの底には、クリーム色の長い髪をした、目の大きな、童顔の女の写真が、額に入ったまま、伏せて置いてあった。
写真の女、辞職の原因、カーターをふぬけにしてしまった張本人のジャネット・カーマイケルは、別段特別な女ではない。
カーターと同じくかつてメディカル・センターで働いていて、信頼できる看護婦だったが、ほかの看護婦より秀でているわけではなく、時々人をはっとさせるようなことを言うわけでもなく、ビアトリスのように異性を引きつける強烈な魅力があったわけでもなく、かといって希少価値の出るほど純潔でもなかった。
一方、メディカル・センターでジャネットに会ったころのカーターといえば、三十になるかならないかのところで、同時に専門医になるかならないかのところ――つまり、非常に早い出世株で、忍耐強い野心家だった。その上、人望もあった。周囲の人々は、彼が誰の反感も買わずに、巧みに自分の意見を通してしまうのを見て、感心するというよりは驚きあきれたりした。
そして何より、プレイポーイとまではいかなくても、およそ恋人に不自由したところを誰も見たことがなかったので、カーターがほかには何も見えないかのようにジャネットにぞっこんでいる姿に、友人たちは内心首をかしげていた。
なぜカーターがそれほどジャネットに夢中になったのかはわからない。
最初にメディカル・センターの入り口で、宵闇の中に立っているジャネットを見たとき、カーターは天使の来訪を目撃したものと信じた。天使はクリーム色の髪と衣をふわふわさせながら青い夜の中に浮き上がり、カーターのほうへ近付いてきた。
「すみません」天使はおずおずと言った。「シンプソン婦長には、どちらへ行けばお会いできるでしょうか?」
「西の棟の詰所に行けば会えますよ」
カーターは、相手が自分の視線に戸惑ってうつむいているのを知りながら、どうしてもジャネットをじろじろ見るのをやめることができなかった。ジャネットの、マシュマロのような白い頼と伏せた大きな目は、白いウサギを連想させた。それもディズニーの漫画映画に出てくるウサギだ、とカーターは思った。
「玄関を入ったら、床の青いラインをたどって行くんです。すぐわかりますよ」
「ありがとう」
ディズニーの白ウサギは頬をバラ色に紅潮させ、とうとう最後まで顔を上げることができないまま、カーターとすれちがって玄関に消えた。
看護婦として勤務するようになつてもしぼらくの間、ジャネットはカーターに会うたび堅くなっていた。それが自分のせいばかりではなく、馴染みの浅い新しい職場の中で緊張しきっているためとわかると、カーターは自分の食い入るようなまなざしを大いに反省して、人の心をときほぐすあの才能を、ジャネットにも極力行使するよう努めた。
「疲れてるみたいだね」
廊下の隅の壁にもたれて、けだるそうに肘を曲げたり伸ばしたりしているジャネットに、カーターはいつものように声をかけた。
「そうでもありません」そう言ってからジャネットはカーターの軽く覗き込むような目を見て、やはり打ち明ける気になったらしく肩をすくめた。「でもペルメルさんが、いつもペースメーカーの交換を遅らせるんです。わたしの来る前からずっとそうなんですって。ご自分の命にかかわることなのに、注意しても鼻で笑ってるんです。スチュワート先生はなにも言ってくださらないし」
カーターは、なんだ、と言うように笑って答えた。
「じゃあ、ふたりで行って、脅かしてやろう」
そしてジャネットの目の前でベルメル氏に、ペースメーカー交換の遅れによって彼が死んでも病院側の責任を一切問わない、という誓約書をつきつけて、サインを求めてやった。目を白黒させているペルメル氏を見て、ジャネットはカーターの後ろで必死に笑いをこらえなくてはならなかった。
ジャネットの醸し出す雰囲気は、ちょっと現在のカーターのそれと似ていた。
彼女はとても善良だったが、あまりにも素朴だったので、ロサンゼルスのスノッブたちとはどうも歯車がかみあっていなかった。しかもそれに気付いていないのか、全く気にならないのか、彼女はちぐはぐな会話を、ちぐはぐなままでうっちゃっておいて、周囲に自分を合わせようとか、反対に人を遠ざけようといった反応を見せなかった。
ジャネットに小むずかしい議論をふきかけた者は、全員ぎょっとさせられた。彼女は相手が話し終えるのを優しげな表情でじっと待ち、そのあとすぐさまアパートの窓辺に植えた赤い花や、最近見た芝居で主役の着ていた衣装の話などを平気で始めてしまうのだ。
「だってねえ、ばからしいわよ」カーターの腕に自分の腕をからめて歩きながらジャネットは告白する。「議論や、言い争いなんて。そんなの、何にもなりゃしないわ。カンザスの家にいたときは、みんな農園で働いたり、学校に行ったりして、週末には家族や友だちとピクニックに出かけたの。家から車でちょっとの丘や川に。そこより遠いところへなんて、行きたいと思わなかったわ。あそこにはすべてがあるんですもの。生活が。ここの人たちはドラッグを吸ったり、無用な議論ばかりしててなんだか変な感じ」
そして未来に思いをはせて、大きな目を見開いた。ドームのような瞳は、広大にひろがるエメラルド・グリーンの草原を連想させた。
「いつか、あそこに帰るわ。経験を積んだ、いい看護婦になって」
カーターの同僚や看護婦たちは、ジャネットを人のいいだけの田舎娘と考えてばかにするようになっていたが、カーターは彼女に尊敬の念をいだきはじめている自分に気がついた。確かにジャネットは自らを利口に見せる努力をしないし、大きな野心も持っていない。だがそれは、現在のカーターのように何かのきっかけでおちぶれてるからでも、世をすねているからでもないのだ。
無垢。
その真っ白な印象の言葉を胸に描いて、カーターはなぜだか心がしめつけられるような気がした。
カーターはメディカル・センターで闘争の日々を送っていたわけではない。彼は世渡りがとてもうまかった。次々起こる大病院のトラブルを収めるべきところに収めたり、上下の人間とのかけひきを繰り広げたり、そんなことは何でもないのだ。
なのに自分はこんなにも疲れ切っている。
天使のような女が、何時間でも人畜無害な話をする。相槌を打つのに飽きたら、彼女を適当なところに押し倒してしまえばそれでいい。彼女は彼を、決して責めない。疑うこともない。そんな天国のような毎日が続けば続くほど、カーターの心の中に痛みと恐れが広がった。
カーターの顔に触れるジャネットの小さな白い手は、彼に望んでも得られなかったものを思い出させた。寛容、理解、愛――みんなと同じ、平凡で幸福な少年時代。
カーターには、このロサンゼルスに来て大学に入る以前のことが、別の人間の人生に思えた。あんな絶望的な、恐ろしい、息の詰まるような世界で自分が生まれ育ったとは、とうてい信じられない。しかしやはり、それは彼の人生で、そのことがカーターの思考と呼吸をからめとる。
「ねえ、カーター」ある夜、レストランでカーターと向かい合っているときジャネットが言った。
「わたしもう、何もかも話してしまったわ」
「何を?」
「自分のことをよ。あなたその気になればわたしの伝記だって書けるんじゃないかしら? 今度はあなたのことを話してちょうだい。小さな頃のことや、あなたのこと、全部」
カーターは一瞬返事につまったが、すぐにほほえんで言った。
「わたしの話なんて、聞いてもつまらないよ」
ジャネットはそれでもいくどか粘って話をせがんだが、その晩も、それからあとも、カーターはいつも笑って話題をそらしてしまうのだった。カーターは恐れ、その恐れがジャネットに、カーターが彼女に気付かれたくないと願っていた何かを気付かせた。
ジャネットはカーターをまじまじと見て、彼についてあれこれ思い巡らすようになった。カーターは前から他の男たちとは違って見えたが、彼女はそれを、彼の東洋風の容貌や、女医にだってめったに見られないほど長く伸ぼした髪のせいだと思っていた。カーターはただ優しくて頼もしいだけでなく神秘的な恋人で、それがジャネットを夢中にさせていたのだ。
だが、何かが違う。カーターはどうして大学より前の話をしたがらないのだろう? 大学でのことや、センターでのことなら、おもしろい話をいくらでもしてくれるのに。生まれ故郷のことも、両親のことも何も言わない。
いつかオハラ先生が、ぼくも本人に聞いたことはないけれども、誰かがカーターの両親は以前に亡くなったらしいと言っていたよ、と漏らしていた。あれは本当かしら? それにみんなはカーターが日系か中国系だというけれど、自分ではそんなことも話さない。
ジャネットにはカーターについて知らないことが山ほどある。
互いの部屋に寝泊まりする仲なのに、カーターには生活感というものがまるでない。男が誰でも持っている子供っぽさもない。相手が恋人ならするという類いの、無理強いや嫉妬もしない。ふたりの間には痴話ゲンカすらなかった。
ジャネットはこのことを持ち出して議論したかったけれども、できなかった。ふたりの間にもめごとがないといって怒るなんて、いくらなんでも馬鹿げている。だが快適さは失せてしまった。目を凝らして見れば見るほど、カーターはなにを考えているのかわからない。どんなに態度は優しくても、カーターは今やひどく人間味がないように見えたし、冷たくも思えた。ジャネットはおそらく生まれてはじめて焦り、いらだった。
「実はねえ」カーターはそうやって、自分がジャネットに打ち明ける場面をいくどとなく想像した。
「わたしの母は気が狂っていたんだよ」
自分がそんなふうに言うこと自体は何でもない。声も震えず、冷や汗もかかず、ほかの話題と並べてすんなり口にできるのだ。母――ジーンの行動は、なにかの化学反応のように思えたし、今でもそう思える。
幼児のカーターが自宅のプールに落ちたとき、彼女は発作にみまわれた。我が子ができればこのまま死んでくれればいいという願いで金縛りにあったのだ。たまたま家にいた父親のレナードがカーターを助けあげたが、この経験のためにカーターはニューポートでおそらくただひとりの、泳げない人間になった。ジャネットと大失恋でもしなければ、救命胴衣もつけずに自分でヨットを出すなんてことは一生しなかったかも知れない。
妹のジョイを身籠ったときには、ジーンはカーターをスライス用のナイフで切り刻もうとした。ジーンはカーターを悪魔だと信じていて、彼からお腹の子を守ろうとしたのだ。
悪夢のような日々だが、カーターは他の子供時代を知らない。他の母親も知らない。カーターにはそれが日常だったし、思い出のひとつとしてほかの人間に話すことだってできるのだ。だが問題は、聞くほうの反応だった。これらのエピソードを口にしたとたん、自分の周りにたちこめる重苦しい空気のことを、カーターはよく知っていた。それは取り返しのつかないものであり、降りはじめたら最後、止むことのない長い雨のようなものだった。相手の態度は同情と、理解しがたいものに対する戸惑いといぶかしさと、時には敵意でねじまげられ、二度と元には戻らない。
だがカーターは、ジャネットに、ジャネットにこそ、その話をしたかった。世界中の誰よりも、彼女に打ち明けたかった。彼女にだけは本当のことを言い、すべてを知ってほしい。そしてそのあとも彼女が変わらず自分を愛してくれるなら、すべてが永久に解決するような気がした。
カーターがジャネットに、どれほどその話をしたかったか。
狂った母のこと。母が狂っていることを知らずに、彼女の憎しみを鎮めようと必死だった子供の頃のこと。真実を知りながら世間を偽り、子供より妻を守ろうとした父のこと。一家の異常になかば気付きながら、聖書の文句を説くだけだった神父のこと。
教会の祭壇を破壊して、家を出たこと。
それからひと月もしないうちに両親が事故死したこと。
彼らの死を聞いて駆けつけ、小型機のタラップに降り立った伯父に、ジャンボ機が突っ込んだこと。
その伯父が、たったひとりの理解者だったこと。
だが、カーターにはできなかった。
そんな話をジャネットに聞かせることなど、到底できない。
花と小鳥の声に、囲まれているようなジャネットに。
結局、ジャネットは去って行った。
表面化こそしなかったが、天使と悪魔の取り合わせだったのだから無理もない。
ジャネットは聖人君子のようなカーターの、見えない闇の部分の抑圧に耐えきれなかった。
こうしてカーターは敗れ去った。
彼は自分が長い間かけて克服してきた過去に、あっさり逆襲されたのだ。彼は、自分が本当に求めていたものは何かを知り、同時にそれを永久に手に入れられないことを知った。
カーターはすべてをひっくり返してしまった。看護婦のひとりが、ジャネットがメディカル・センターを辞めたことをカーターに告げたときは、カーター自身もセンターを辞めていた。
こんなにも辛抱強く、分別もあり、恵まれてもいた男が、自分の積み上げてきたものを一気に叩き崩すとは誰も思わなかったので、カーターの上役も友人も、彼を止めたり、なだめたりする暇がなかった。
彼らがあんぐり口をあけている間に、カーターはすたすたと歩いてセンターを出て行ってしまった。
カーターがすぐに世捨て人の生活に入ったわけではない。家でごろごろしていれぼ、センターの友人たちが彼を連れ戻しに来るに違いなかった。
センターを出たその日のうちに、カーターは私立探偵の免許を取る決意をして、ただちに作業にかかった。
数ある職業の中から探偵を選んだ理由はただひとつ、とうてい自分がそんなものには向いていそうになかったからだ。カーターのどんな美点も、特技も、専門知識も、この商売の役には立ちそうになかった。
最初に決意を打ち明けられた、カーターの友人で弁護土のジョン・ミハリクは、即座に君には無理だと断言した。つづいてジョンがカーターに引き合わせた古強者の探偵、キャスパー・マグラシャンも同じように決めつけた。
「ふん」
窓にブラインドが、まるでくたびれた中年男のように斜めにぶらさがっているマグラシャンのオフィスで、客用の椅子に掛けたカーターと向かい合って一瞥するなり、彼は鼻で笑ったものだ。カーターはマグラシャンの軽蔑を誘う、いかにもお上品なスーツ姿で、しかも長い髪と膝で組んだ手は、ダ・ヴィンチのモナリザみたいだった。
カーターの経歴の中で探偵免許取得の足がかりになる唯一のものはベトナムでの兵役だったが、それさえも実戦への参加がゼロとあっては、マグラシャンがふてくされるのも無理はなかった。
どうにか戦闘訓練をおえたカーターは、ほかの新兵たちといっしょに戦地に送り込まれたのだが、乗っていたヘリは現地に着く前にローターの故障で墜落した。ヘリは横倒しになったが、地面への激突をまぬがれたので怪我人は少なく、大腿部を骨折したカーターが一番の重傷者だった。
カーターにお大事に、と言って前線におもむいた、そのときの軽傷者のうちの何人かは死んだ。カーターがふたたび歩けるようになったときは、戦争は終わっていた。
「行って帰ってきたわけだな」
机の上のカーターのプロフィールをいかにもかったるそうにめくりながら、マグラシャンは皮肉を投げかけた。なんの経験も持たないカーターが、書類上ぎりぎりセーフの条件を満たしているというだけで免許取得資格を有しているということが、彼には腹立たしかった。「しかしなぜ志願した? 黙っていりゃ、医学部の学生にお呼びがかかることなどあるまいに」
カーターは肩をすくめた。
「もちろんそうでしょうね」
カーターの態度も、マグラシャンに負けず劣らずふてくされていた。ジョンがしっこくすすめるので、この老兵に会うことにしたのだが、相手と意気投合するなどという期待ははなから持っていなかったし、ジョンが探偵免許取得をあきらめさせたくてマグラシャンとの面会をお膳立てしたのもわかっていた。
マグラシャンはカーターがそれ以上なにも言わないので、カーターが少なくとも何かのきっかけで、徴兵制の不平等やホワイトカラーの特権に反発して志願したことを察知し、少しばかりカーターを見直した。
マグラシャンの想像は、当時ほかの学生といっしょにカーターの家に下宿していて、仲間に黙って志願兵となり、戦死したウォーレンという学生の存在を除いて、だいたい当たっていたが、態度をやわらげたマグラシャンを見て、カーターのマグラシャンヘの評価は地に堕ちてしまった。
足を折って本国に送り返されたあと、カーターは自分が危険の中に身を挺して飛び込んだのではなく、人殺しにおもむいたのだと気付いて良心の呵責にさいなまれたのだが、目の前の老人は、いまだにそんなことにも気付いていないらしい。いや、もしかしたら気付いたところで手遅れなので、気付かないふりを他人にも自分にもしているのかもしれない。そう考えるとカーターは、ひとりしゃべりつづけるマグラシャンの顔を直視できなかった。
「とにかくあきらめるこった」殺伐としたコンクリートの部屋の中の気味の悪い時間を、マグラシャンのしゃがれ声が締めくくりにかかった。「自殺志願者が戦場に飛び込むのは構わんが、ここは街なかだ。しかも探偵の看板を背負ってそんなことをされちゃあな。同業者の面目ってものもある」
これにはカーターも頭にきて、思わず顔をあげた。プロの探偵が、その道についての自分の可能性をどうくさそうと構わない。しかし自殺志願者のレッテルを貼られるいわれはない。実際に、何度かその誘惑と闘った覚えがあるだけに、この大きなお世話にはどうにも我慢がならない気がした。
「マグラシャンさん」
カーターは、センターにいたときには聞いたこともないような、自分の不機嫌な声を聞いた。彼は背中を古い革張りの椅子の背につけてまっすぐに伸ぼし、肘掛けに置いた両手を卵を持っているようにゆるく握ったままでその言葉を発していた。マグラシャンは机にもたれるようにして前に乗り出していた上体をゆっくりと起こし、あごに手を当てた。「わたしは無痛で苦しみもない自殺の方法を少なくとも五つは挙げることができます。しかもそのために必要な薬品はいつでも手に入るところにあった」
「これは失礼したね、先生」
マグラシャンは両手をあごの下で組んだまま、目だけを、見えない卵を抱くカーターの手の片方にちらりとやった。「だが、自分のその手をごらんなさいよ。メスより重いものは、ろくに持ったことがないとお見受けするがね」
マグラシャンはやや悲哀をこめて続けた。「悪いことは言わん。ここはあんたの世界じゃないんだ。きつい世界だ。わかるだろう? 俺だつてこの齢になって、ほかに芸がありゃ、こんな商売からはとっくに足を洗ってるさ。大学出の医学博士が、なにを好きこのんでやくざな男のやることに首を突っ込む? あんたなら、ほかに行くところがあるだろうに。あんたが大学で仕込んだ知識や技術が役に立つ場所は、いくらでもあるはずだ」
カーターは反論できずにその場を引きさがった。マグラシャンは正しい。カーターにはとにかく、周囲の人間の心情や社会の利益を考慮するゆとりはなく、ひたすら自分のために暴走していたのだから、甘ったれているという点でも、無謀という点でも、思春期の同じ状態の少年とどっこいどっこいだった。
しかし思春期の少年のように、マグラシャンやジョンの想像以上に思いつめて追いつめられてもいたので、ふたりが自分たちの説教の効果について話し合う暇もなく、カーターはあっという間に探偵免許を取得してしまった。カーターが目の下にくまを作り、頬をげっそりとこけさせて、射撃の練習でつぶれた手のマメに黄色の薬を塗りたくっているのを見て、ジョンは少なからず肝を潰した。カーターが、別人になるほかに生きる道がなかろうとは、ジョンには思いもよらなかった。
こうして、医師カーター・オーガスは、探偵カーター・オーガスヘと生まれ変わった。
そして、無気力が襲ってきた。
もはや、メディカル・センターの友人たちが自分を連れ戻しには来るまいという安心感からか、失恋のあとで、がむしゃらにがんばりすぎたからかもしれない。探偵免許を取ったところで、電話帳に広告を載せるなり、看板を出すなりして世間にそれを知らせなければ仕事は舞い込んで来ないわけだが、カーターは腰を上げる気にはなれなかった。
そして今の、世捨て人の暮らしが始まった。
そしてビアトリスとの再会。
カーターは時々電話で様子を聞いてくるジョン・ミハリクに適当な言いわけをしながら、無目的であることが天命の猫のように、同じ猫族のビアトリスと怠惰な日々を送りつづけた。
そのジョンからも、電話がかからなくなってずいぶん経つ。
だが、そういえばきのう、彼から連絡があった。
――そうだ。
ベッドの中で、カーターはジョンとの会話を思い出した。彼はきょうの昼、いっしょに食事をしようと言ってきたのだ。
今は何時だろう? 目が覚めてから、もう一時間は経っている。
少なくとも、きょうはやることがある。カーターはようやく起きる決心をして、毛布から這い出した。
○
カーターは日系の三世だった。
カーターが自分の人種についてあまり触れたがらなかったのは、自分の肌や髪の色が、いつも母を怯えさせていたからだった。
母の恐怖が、第二次大戦のさなかに初めて自分の父――つまりカーターの祖父――がどこの誰なのかを知らされたことに起因しているのはわかっていた。自分までが母の恐怖に感染するのは馬鹿げている。もうそろそろ、そんなものからは抜け出さなくては。どっちみち、自分にはもう失うものなど何もないではないか。と、カーターは、シェードのつくりだす薄暗がりのなかに、自分の裸の腕を透かして見ながら考えた。
ジャネットが去ってからしばらく続いた重苦しい朝の感覚また一日が始まるという絶望感は、ずいぶん薄らいでいた。すべてはゼロに戻りつつあった。カーターは荒れ果てた寝室の中を気楽に歩き回って自分の衣類を拾い上げ、パスルームに行き、戻ってきたときには、きれいに髪をまん中から分けてネクタイを締め、すっかり身支度を整えていた。カーターはこころもち上半身を後ろにそらして顔を横にそむけ、意を決してシエードの紐を力いっぱい引いた。ひとつのシェードを引き上げると、すばやく次のシェードに移る。埃を吸い込まないように息を止めている必要があるから、酸欠にならないうちに部屋の端から端までシェードを引き上げてしまわなくてはならない。
つづけざまに起こる、なにかを引き裂くような大きな音と、突然差し込んだ光に眠っていた五感を打たれて、ビアトリスがもそもそやりだした。彼女は、ななめに部屋を横切っている光の帯と、帯の中にだけ降っていて雪のように見える埃を透かして、カーターを見つけようと目を細めた。
目が慣れて、カーターがネクタイまで締めたシャツの上にローブをはおり、今ちょうど愛用の度の入ったサングラスをかけつつあるのを確認すると、ビアトリスは眉をひそめた。自分がまだエデンの園のイブの姿でいるのに、お気に入りのアダムが勝手に二十世紀に戻り、どこかの高級クラブの会員然としてとりすましているのが、彼女には腹立たしい。
だいたいなんだろう、あの色のついためがねは? カラーの雑誌をながめるときでもなければ、部屋の中だろうと、雨が降っていようとかけている。いったい何から目を守るの? 他人の視線からかしら? ビアトリスは牝獅子のように這いつくばったまま、きらきら光るみごとな金髪をたてがみのように震わせ、唸り声のような皮肉をカーターに投げかけた。
「あらまあ、誰かと思ったわ。いつの間に紳土にお戻りになったの?」
「お目覚めですか」
カーターはにっこりした。もうすっかり化けてしまったあとだったので、ビアトリスの皮肉など屁でもなかった。カーターは今やストイシズムのかたまりといったように洗練され、情事や、暴力や、あらゆる青臭くてドロドロしたものにはまるで縁がありませんという顔をしていた。アーモンド型に切れ上がった目は、彼の顔面の筋肉か、あるいは心のどこかの指令かで、まぶたの開き具合が微妙に調節され、優しげな光を放っていた。
ビアトリスは食い下がった。
「服を着ていいなんて言った覚えはなくてよ。早くここに戻ってらっしゃい」
「もう朝ですよ」
カーターは、ときどき思い出したように慇懃な態度になることがある。いや、もしかしたら、ときどきビアトリスと深い仲であることを忘れて、初対面のような言葉遣いになってしまうのかも知れない。いずれにしてもカーターがそんな態度をとるたびに、ビアトリスはおいてけぼりをくったような気がして不安にかられるのだが、カーターはそんなことには気付いていなかった。
「あらそう、でもそれが何なの?」
ビアトリスはカーターをにらみつけながら、裸体にシーツを巻き付けて立ち上がり、けだるい、ゆっくりとした、挑戦的な足取りで、散乱した衣類の間をカーターのほうへ渡ってきた。
ビアトリスは本気でカーターをベッドに引き戻したかったわけではなかった。しかし、彼女の心の底でぱっくり口をあげている何かわからない隙間が、彼女をしつこくさせていた。ビアトリスはカーターのすぐ脇の椅子に腰をおろすと、彼の腹のあたりに顔を押し付け、ローブのタオル地を噛んだ。
カーターはビアトリスの金色の頭部をそっと抱えてこれに応じた。カーターはビアトリスをいたわってやりたかった。だが、そう思うばかりで何の感情も起こらず、あとは空っぽな自分の心に、内心戸惑っていた。
「また朝が来たのかと思うとぞっとするわ」ビアトリスはカーターのローブに頬を押し付け、頼りなく腰紐の結び目をつかんでつぶやいた。「わたしみたいな女は、昼間は行き場がないの。誰も会う人がいない。だってオフィス・アワーはみんな別人になるんだもの。特に男の人はね。夜はすごく優しかった人が、街でばったり会っても、君なぞ知らんという顔をするんだわ。みんな同じよ」
カーターは胸の中に、冷たい、滴のようなものがしみこんでくるのを感じた。たぶん、ビアトリスの切ない気分に感染したのだろう。自分の髪に差し込まれたカーターの指に少し力が入ったので、ビアトリスは安心してカーターを見上げた。
「もちろんあなたは別。だから好きなの。いつだっていっしょにいられるもの。ねえ、きょうは何をする?」
「実はきょうは」カーターは自分の胴体に回されたビアトリスの腕に手を添えて、きまり悪そうに少し肩をすくめた。「人に会わないと……」
ビアトリスはおおげさに目をむいた。
「まあ、まさか! 働きだしたんじゃないでしょうね?」
「いや、ただジョンが……ジョンを知ってるね? 弁護士の……」
「丸いめがねの人?」
「そうだ。彼が昼食をいっしょにというんでね。よかったら、君も来るかね?」
「いいわよ。ついでにハーディも呼びましょう。不倫妻と、夫と、愛人と、弁護士。すごくおもしろそう」
「そういう話じゃないんだよ」カーターは笑ってビアトリスの腕をぱたぱた叩いた。「いっしょにおいで。ジョンはわたしがミイラになってないかどうか、ときどき確かめたいんだ」
「いやよ。どうせ仕事の話でしょ」
「仕事じゃないさ」
「いいえ。あの人、この間も仕事の話ばかりしてたわ。あの人、あなたを働かせたいのよ」
カーターはどういうわけだか、何となく後ろめたい気分になって、言葉が継げなくなってしまった。ビアトリスは、カーターが働かずにぐうたらしているのを心から歓迎してくれているこの世でただひとりの共犯者で、いつもはそれが心地よいのだった。カーターが目をしばたたいて、どうして自分がそんな後ろめたさに襲われるのか探ってみようとしたそのとき、邪魔が入った。
ビアトリスとカーターが、きらめきながら降り積もる埃を浴びて寄りそっている窓の下、芝生の前の道に、箱型の荷台の小さなトラックが止まり、バタン、パタンとドアを鳴らして、中から三人の男が出てきたのだ。
はじめは何事かわからなかった。しかし、二階からでもはっきりと作業服とわかるふたりの男が、荷台から大きな檻のようなものを降ろしはじめ、もうひとりの、黒っぽいチョッキにネクタィの男がすっとんきょうな声をあげると、カーターの顔から鷹揚な表情が消えた。男は叫んでいた。
「さあさあ諸君! さっさと片付けよう! 仕事はすみやかに! そら、急いで! 急いで!」
「シンじゃないか……あの野郎!」
カーターは唸った。ビアトリスはびっくり仰天して眉をひそめ、カーターから身を離した。カーターの口から、そんな乱暴な言葉を聞くのは初めてだったのだ。
「あなたでもあの野郎なんて言うの? あの人いったい誰?」
「わたしのはとこです。ちょっと失礼」
そう言い残すか言い残さないかのうちに、カーターはそそくさと身をひるがえして、階下へ駆け降りて行った。
はとこのシンは、カーターにとって疫病神的な存在だった。シンはカーターよりふたつみっつ年下で、カーターのような突発性のものでなく、慢性的な遊び人だった。
彼はいわばジゴロで、年中違った女性が彼の面倒を見ており、彼自身はときどき危なっかしい仕事に手を出している、とカーターは見ていた。本当のところははっきりしない。シンの自分の職業に対する説明は、そのつど違っていてあいまいで、紹介されるガールフレンドは、なぜかいつも別人だった。
だがシンが手を出した仕事のツケが、借金の取り立て人や、彼の居所を探しているというガラの悪い用心棒風の男、という形でカーターに回されてくることはよくあったし、そんなときカーターがシンをつかまえて締め上げようとすると、いままでの居所は引き払ったあとで、数ヵ月もたってからふいに、今どこそこの誰それちゃんのところでやっかいになっているんだけど、などと連絡してくるのだった。
一番我慢ならないのはシンがものすごく酒癖が悪く、ときどき、唐突に、酔っ払ってカーターのところに押しかけてきては、彼をきりきり舞いさせることだ。シンはずんぐりしていたから、ちょっと見ると小男という印象だったが、実際にはカーターと同じくらい――つまり標準的な背丈で、ゴリラのように頑丈で、うんざりするほど腕っぶしが強かった。
一方カーターはというと、学生時代以来、何年も人を殴ったことなどなかった。
酔っ払ったときのシンは、不快な匂いと不快なののしり声と暴力を発散させる傍迷惑な塊で、しかも人語を解せず、見るもの聞くものすべてが気に入らなくて爆発と燃焼を繰り返していたから、カーターには彼をおとなしくさせることも、追い出すこともできなかった。
そのシンが、また何か問題を持ち込んできたのだ。
シンが問題を持ち込む以外の目的でこの家に立ち寄ったことは、ただの一度もない。
カーターが玄関の短い階段を降りきったとき、作業服のふたりの男は、荷台から大きな檻を降ろし終えたところだった。男たちの作業服の胸と腕には、どこかの会社か組織に所属していることを示すワッペンがついていた。
檻の中には、大きな犬が入っていた。カーターは二階からちらりと檻を見たとき、猛獣か怪物のようなものを無意識に思い浮かべていたので、それが犬なのを見て、不本意にも少し安心してしまった。
シンは煙草を片手に、男たちの仕事を見物していたが、息せききっているカーターを見つけて勢いよく声をかけた。
「やあカーター、久しぶりだな!」
彼はいつも元気いっぱいだった。
「朝っぱらから、いったい何の騒ぎだ?」
カーターはシンヘの日頃の慣りを思い出して、歯をむいて見せた。
「まあまあ、そうカリカリしなさんなよ」シンはおかまいなしだった。「おい、おまえら、この男を見ろよ! 俺のはとこだ。医学博士だぜ! 見るからに育ちがよさそうだろ? 寝るときもネクタイを締めて、直立不動を崩さねえんだ」
そしてカーターがうんざりして、腰に手を当てるか当てないかのうちに、ずかずかとカーターのほうに歩み寄ってきた。
カーターはシンとの距離を、なるべく十フィートより縮めないように心掛けている。この図々しく、押しつけがましく、自分勝手な男が機関銃のように発射する意味のないやかましさから、できる限り遠ざかっているためだ。
カーターの防衛本能が割り出したその十フィートの距離を、シンは無遠慮に、大股で渡ってきた。カーターは、棒か何かで彼を殴ってやりたいという衝動を必死にこらえて、じっと立っていた。するとシンは、カーターのところへたどり着くなり、いきなりカーターの襟元に顔を近付けてくんくんと匂いを嗅いだ。カーターはあやうく、ぎゃっと叫ぶところだった。
「いい匂いだねえ」シンはにんまりした。「この香水からすると、相手は上流階級のレディだな。それも、ミスじゃない。有閑マダムってとこか。あんたも危ない橋を渡ってるじゃねえか」
カーターは内心愕然とした。ビアトリスは本当にその通りの女なのだ。遊び人の中には時折、勝負師特有の透視能力を発揮する者がいる。しかしカーターは、かろうじてショックを隠しおおせ、犬の檻を指さした。
「シン、あの犬はいったい何なんだ?」
「ああ……」シンは檻を振り返った。作業服の男たちは檻を抱えたまま立ち止まって、カーターとシンの妙なやりとりを見つめていた。「――ふたりとも、何をポサッと突っ立ってる? さっさと運べよ! 裏庭に置いてくれ」シンは命令した。
「裏庭だと? ちょっと待て」
カーターは身を乗り出したが、シンは両手でこれを制した。
「いいから運べ!」
シンは早口で叫び、男たちは動き出した。カーターが反論する前に、シンはすばやく彼に向きなおり、家畜の群れを追い立てるように腕を広げて数歩前進した。カーターはシンとの距離を一定に保とうとする哀れな習性から、反射的に数歩後退した。
「あれはプレゼントさ、カーター」
「プレゼント?」
「そうとも。カーター、そりゃジャネットにふられてショックだったのはわかるさ。しかし、あれからもう二年も経ったんだ」
シンは、含みのあるねっとりした声で唐突に言った。カーターは、ジャネットという名を聞いて一瞬たじろいだが、それがシンの常套手段であることをすぐに思い出した。そして思い出すよりも早く、カーターの体はシンをすりぬけるようにして、ふたたび男たちのほうに首を伸ぼしていた。カーターの反射神経は、シンが彼を混乱させたがっているときこそ、ぐずぐずしてはならないことを、いやというほど学習済みだったのだ。
「わたしの失恋と犬と、どういう関係があるというんだ? おい、君たち、ちよっと待て!」
「いいから運べ!!」シンはどなると、ゴリラの腕でカーターをわしづかみにして無理やり男たちに背を向けさせた。そしてカーターの顔に噛みつかんばかりに、もう一度どなった。
「二年だ!――」
つばを飛ばされて、カーターは顔をそむけた。
「二年! いいかい、もう二年だ!――なのにあんたは、こんなお化け屋敷に閉じこもって、いまだに隠者生活を続けてる。苦労してなった医者も辞め、人間としてのプライドも捨て、酒に溺れ、女に溺れ、埃にまみれ――」
そこまで言ってシンは、カーターの頭や肩に、ほんとうにかすかな埃が積もっているのを見つけて、それを手で払った。
「まったく見ちゃいられねえ。そこで俺は俺に言った。なあシンよ、おまえの大事なはとこは人間嫌いになっちまった。奴にはリハビリが必要なんだ。そうだ、犬だ。犬は人間の最良の友。ワンとしか言わねえのを気にしなけりゃいい話し相手になるし、いっしょにお散歩すりゃ、運動と気分転換にもなる。うまくすりゃ、予防注射に行った先で美人の獣医と出会うかも知れねえし……」
「リハビリが必要なのは君だろ」カーターはさえぎった。「酒にしたって、女性にしたって、わたしは君ほど溺れちゃおらんよ。もういい、シン。親切ごかしはやめて、ほんとうのことを言いたまえ。あの犬はどうしたんだ?」
カーターには、ペットヘの熱狂はなかった。まして自分の面倒も見きれない今、生き物の世話など、まともにできるはずがない。そんなことは、いくらシンでもわかりそうなものだった。問答のひまひまに、カーターはあの犬がシンの何らかの不始末の産物に違いないと判じていた。これは正しかった。
「わかった、ほんとうのことを言うよ」シンは両手を上げて、とりあえず降参のポーズをとった。「俺のガールフレンドが……」
「どのガールフレンドだ?」と、カーター。
「茶化すなよ。とにかくそいつの飼っていた犬が、一年前、どっさり子を生んでよ。六匹のうち五匹までは貰い手がついたんだが、一匹あぶれちまって。なにせその一匹ってのは、生まれつきのろまなんだか、いつも乳を吸いはぐれるんで、ヒョロヒョロ痩せて、ほかの子犬どもよりちっこくてよ。母犬も見放してろくになめてもやらねえんで、ばばっちくて、見るも哀れでさあ。女はそいつを、しかるべき所で処分してもらうなんて言いやがる。で、つい悪い癖が出て――」
「どの悪い癖だ?」と、カーター。
「ひでえな。だからかわいそうになって、そいつを貰っちまったんだよ」
シンの声が急に、叱られた子供がもごもご言うような調子になったので、カーターの表情も条件反射的に子供をたしなめる母親の表情になって、二、三度まばたきをした。
これは、ありそうなことだった。日頃の行いにぴったりしないことではあるのだが、シンには虫一匹殺せないような面があるのだ。酔ってカーターの顔をポコポコにするのは何でもないとしてもだ。たぶんそれが、カーターがシンとの腐れ縁を断ち切れずにいる唯一の理由だろう。だが、そのあとが悪い。
「こんな子犬だったんだ」シンは両手で、さきほどの大型犬がどれほど小さかったかを示した。
「それが一年であんなに膨脹しちまってよ! いや、参ったね。アパートの住人は吠え声がうるせえって騒ぎ出すし、部屋ん中で暴れるから物は壊すし、それに、でけえ犬がどのくらい食うもんか、あんた知ってるかい? バケツで量るほど食うんだぜ! 女は、餌代がかかる上に、なんで散歩や、ウンコの世話までしなくちゃなんないのってわめくし……」
カーターはあきれて顎が麻痺した。シンは要するに、ひとりのガールフレンドがもてあました犬を、別のガールフレンドに押し付けたのだ。そして今度はそれを、カーターに押し付けようとしている。だが当のシンにはまるで罪の意識がないようで、気力を失ったカーターの前で、なおもまくしたてていた。
「置いてきましたよ! もういいスか!?」
ありがたいことに、シンの勝手な言い分の羅列を、誰かが大声でさえぎった。裏庭に檻を据えて、さっきの男たちが戻ってきたのだ。
「いやだめだ!」カーターは目を覚まし、話の通じる相手があらわれたことに元気づけられてはっきりと言った。「君たちはもう一度、あの檻ごと犬を抱えてきて、元通りトラックの荷台に乗せるんだ」
「冗談じゃないっスよ! いいかげんにしてください! なんだって俺たちがこんなわけのわからねえことに、付き合わなきゃならねえんだ!」
男の片方が、意外な抗議の声をあげたので、カーターは眉間にしわをよせた。
「君たちいったい何者なんだね?」
「鳥獣管理局の野犬係っスよ!」作業服の男は絶叫した。その哀れな高音で、カーターは彼らがシンの仕打ちに耐え続けてきたことを悟った。「アパートで狂犬が暴れてるっていうんで、こちとら家で寝てるのを叩き起こされて、朝メシも食わずに駆けつけたんだ。でも着いてみたら、キーキー言って暴れてんのはガウン姿の女の子で、犬はぐうすか寝てやがる。それでも犬を連れてけって言われりゃ、俺たちは連れていく。仕事だからね。しかし、そいつが――」
男はシンを指差しながら、かすれかけた声を元に戻すためにつばを飲み込んだ。
「――その男がいっしょに車に乗り込んできて、どこを曲がれとか、そこをまっすぐとか、あれこれ指図しやがる。そしてここに着いて、檻を降ろせと言う。ああ、俺たちは何でもやったね! それもこれも一秒でも早くこんなこた切り上げて、せいせいしたいからだ。だがもうごめんだ、いいですか、あんたになにか言い分があるなら、その男を訴えなさい。だが俺たちにはもう関係ない。もう付き合えねえ。これで失礼しますよ! もう終わりだ!」
そして男たちはきびすを返し、ぷんぷんと肩を怒らせてアプローチを渡ると、トラックのドアをひしゃげるほど思い切り閉めてその場を立ち去った。
2
その日の昼、カーターは市内のレストランのバーに、世捨て人とは思えないスーツ姿ですわっていた。
レストランの中には、昼食を楽しみに集まった人々の穏やかな会話が、心地よいざわめきとなって満ちあふれ、薄暗いバーからいくらも離れていない出入り口は、真昼の陽光のために白い白いスクリーンのようで、時々そのスクリーンの中を、水銀色の糸を引きながら車の影がよぎっていった。
カーターの頭上には、たくさんのタンブラーが、幾本も並んだステンレスの棒に引っかけられて逆さにぶらさがり、夢のようにちかちかと光っている。カーターの前には、オリーブの入ったマティーニのグラスがあった。
それと、ドッグフードの包みがひとつ。
長年の社会生活でつちかわれた約束の順守という律義な習慣のなごりで、機械的にここに足を運んだものの、カーターはジョンに会うのがおっくうだった。カーターが探偵免許を取るか取らないかのころ、あの親身な友人は彼に無謀な計画を中止させようと必死だったが、それができないとわかると今度は百八十度転じて、開業へのできる限りの協力体制に入ったのだ。今やカーターは、いつまでぶらぶらしているつもりだと、せっつかれる立場になっていた。
そうでなくても、しゃべるという行為は気が重い。誰かと向き合って椅子にすわったら、いやでも何かしゃべるはめになるのだが、カーターの顔や顎の筋肉は、閉鎖的な生活と長い沈黙のために、すっかりなまっていた。
やがて出入り口のスクリーンの中から、ビジネス・スーツを着て丸めがねをかけ、いつも笑っているような細いたれ目と、頭の切れそうな薄い唇の、弁護土ジョン・ライオネル・ミハリクが後光を背負ってあらわれた。
ジョンは遅れたことをあやまり、すわりながらカーターの前の包みを指差して、これは何だい? と、尋ねた。
「ドッグフードさ」
カーターは頬杖をついたまま、眉を少しあげて答えた。
「ドッグフード? 犬を飼ったのかい?」
「不本意ながらね」
「そうか」
カーターは、ジョンがしゃべりながら上の空でいるのに気がついた。そわそわして、妙にうれしそうだ。何か楽しいハプニングでもあったのだろうか?
「なんにしても、いいことじゃないか」
ジョンはにっこり笑って幸せそうに言った。ジョンがあまりにこにこしているので、カーターも戸惑いながら、つられて少し笑った。「なにがいいんだい?」
「いやつまり犬を飼ったりするのはいいことだよ。それに君は元気そうだ。ひところに比べたらね。ほっぺたにも、どうにか肉が付いたし」そしてカーターの頬を親しげに軽く叩いた。「要するに、君には休養が必要だったわけだ」
「そうだな」
「君が病院を辞めてから、もうどのくらい経つか知ってるかい?」
ジョンはにこにこするのを一段落して、少し真顔になった。
「二年かな」
「二年以上だ。休養には、十分な時間だと思わないか?」
「そうだな」カーターは、居心地が悪くなってきた。「それで君は、また電話帳に探偵事務所の広告を出したかとか、看板を注文したかとか聞くんだろ?」
「カーター、助手を雇いたまえ」
ジョンは真剣な表情で、カーターをまっすぐに見て言った。一瞬沈黙があって、カーターはすぐには息ができなかった。温度も湿度も吹いてくる方角もいつもと全く違う風が、顔に当たった気がした。
「助手?」
カーターはおうむ返しに、やっとそれだけ言った。
「適任なのがいるんだ」
ジョンはふたたび、こみあげてくる期待と浮き立つ心を抑えきれなくなって、頬を紅潮させた。カーターにはやっと合点がいった。ジョンは彼を隠者生活から脱却させるための計画をたずさえてきたのだ。そして計画に対する自信と、友だちを救い出せるかも知れないという希望で、さっきから光り輝いていたのだ。カーターはカウンターに両腕をついたまま少しだけ体を引き、ジョンから顔を遠ざけてうさんくさそうにしばらく相手を見ていたが、やがて不自然なほどきっぱりした声で、にべもなく言った。
「助手など必要ない。まだ仕事も始めていないんだ」
ジョンは少なからず驚いた。カーターが自分の提案に対して、はじめ当惑するだろうくらいのことは予想していた。だがよもや一言切り出した途端に、こんなあからさまな拒絶反応が立ちはだかるとは思ってもみなかった。身を遠ざけて、明らかな疑いのまなざしを自分に向けているカーターは、ジョンがまだ一度も見たことのないカーターだった。
彼は手負いの獣の一面をあらわにして、この新しい情報に対して身構えていた。
「まあ話を聞けよ」出鼻をくじかれて、戸惑いながらジョンは言った。「すまんな。僕は世話をやきすぎるか? 君がへきえきしてるのはわかってる。だが別に、押し付けようってんじゃない。そりゃあ確かに、いいきっかけになったらとは思ってるよ。ちょうど仕事を探してる人間がいて、もし君が彼を雇ったら、君だってもう働かんわけにはいかんだろうからな。もちろんそれは、僕の勝手な想像さ。おせっかいには違いないよ。だから君がこれ以上話を聞きたくないと言うんなら、僕は引っ込むしかないが――」
ジョンは軽く拳を握って開き、また握り、うつむいていた顔を上げてカーターを見た。「だがもし未来のことを話し合うんでなかったら、僕は君と何を話したらいいんだろう? 君は過去のことは話したがらない。それに君には、現在というものはないじゃないか」
ジョンは口をきゅっと結んでいたが、その両端はほほえんでいるように優しげに見えた。そして彼の思いやりのこもった深いまなざしは、カーターにジョンが友人の中でも最も誠実な男であることを思い出させた。ジョンにはカーターをほったらかしておくことも、彼の存在を忘れてしまうこともできた。彼がそうしなかったことに今まで不思議を感じなかった自分を、カーターは恥じた。
「ありがとう、ジョン」カーターはジョンの拳の上に自分の手を置きたかったが、肩のあたりがしびれたような感じがして、だめだった。「すまない。君には心配ばかりかけているな。だが、もう少し時間をくれないか。わかるだろう、まだとても人を雇える状態じゃないんだ。とにかく自分でも、なにひとつ試してないんだからな。勝手も何も、わかったものじゃないんだよ」
「もしほんとうに君が現実的に探偵の開業を考えているなら、いきなりひとりで始めるのは無理と言うものだよ。経験者の協力が必要だ」
「マグラシャンのような?」
カーターは苦笑して、肩をすくめた。
「君がどれほど好き嫌いの激しい人間かはよく知ってるよ」ジョンも笑った。「それにあの男では、共同経営者になってしまう。僕が言ってるのは、助手の話だ。僕が君に紹介しようと思っている男は、きっと君の役に立つ。何かと経験豊富な人物だからね」
「プロとはいっしょにやりたくないんだ」
カーターはまだ笑みを浮かべたまま、マティーニのグラスのふちを指でなぞって首を横に振った。
「プロじゃないんだよ」
「じゃあ、どんな経験があるというんだ?」
「君が彼に会ってみるというんなら、詳しく話すよ。でなきゃ説明するだけ、時間の無駄だからな」
そう言ってジョンは、カーターのうつむいた横顔に浮かんだ笑みが、降参の色を帯びるまで一拍待った。
「僕はね、カーター、僕なりに君という人間をよく知ってるつもりなんだ。もちろん君の何もかもを知ってるわけじゃない。君は秘密主義だからな。だが少なくとも僕は知ってるだろ。君が変人だということを」
これにはカーターもすっかり観念して、ほんとうに笑い出した。ジョンは我が意を得たりというふうにカーターの腕をつかまえて、たたみかけた。
「だから僕が、君をマグラシャンのような手合いと組ませようなんて思うはずがないじゃないか。君に会わせようと言うからには、それなりの根拠があるんだ。ただ、外見では判断しないでほしいな。つまり、彼は相当若いんだ。しかし、非常に有能だ。君とはある意味でとても対照的だが、共通点もある。要するに、彼もかなり変わってるんだ」
「変わり者は、自分だけでたくさんだよ」
「まあとにかく、一度会ってみたらいいじゃないか。どうせ暇なんだし、損はないだろ」ジョンは袖口を人差し指でまくって、腕時計を見た。「今からちょっと行ってみようじゃないか。ちょうど面会時間に間に合う」
「面会というと? 病気入院中かね?」
「いや。刑務所にいるんだよ、彼は」
刑務所と聞いて目を白黒させたカーターは、そこへ向かう車の中で問題の助手侯補の本名を告げられて、再び目を白黒させるはめになった。
「マイケル・ネガット? あの誘拐事件のか?」
「現在の名はジェームス・ブライアンだよ。大物だろう。興味が湧いてきたかい?」
マイケル・ネガットという名は、かって非常に有名だったことがある。ひとつはそれが、齢四歳で戦略研究所の特別研修生となった天才児の名であったため、もうひとつはその天才児が、強大な力を持っシンジケートの大親分アーサー・ネガットの義子であったため、そして何よりその名が全米に広まったのは、マイケル・ネガットが最終的に迷宮入りした誘拐事件の被害者となったからであった。マイケル・ネガットはその事件のために、十一歳で死んだことになっていた。だが実際にはジェームス・ブライアンと名を変えて生きのびており、これはありとあらゆる新聞やゴシップ誌が、長年にわたって真相を取りざたしつづけた公然の秘密だった。
「まだ子供じゃないか」
カーターは顔をしかめて言った。ジョンにはカーターのその反応の意味がのみこめていた。カーターは、マイケル・ネガット誘拐事件がどのくらい昔に起こったものか、よく把握していないのだ。
ジョン自身も数ヵ月前、初めてジェームス・ブラィアンと会ったときには、かってテレビのニュース・ショーや新聞紙上で見、頭の隅に残っていたマイケル・ネガットの残像と、いま現在の彼との大きなギャップに、どぎもを抜かれたものだ。ジョンはメディアの中でしか見たことのないジェームスに再会するにあたって、せいぜい十五、六歳の男の子をイメージしていた。だが実物のジェームスは二十歳で、とても男の子と呼べるような外見ではなかった。誘拐された当時の彼は、十一歳の小柄な半ズポンの坊やだった。今や彼は六フィートの大男になっていた。ジョンは彼を、見上げて話さねばならなかった。
「十年前はね」ジョンは簡潔に答えた。「今年で成人だ」
「――あの事件からもう十年にもなるのか」カーターは三度目を白黒させ、誘拐事件の報道を、今の家の今はないテレビで、間借りしていた学生仲間たちと見ていたことをおぼろげに思い出しながら唸った。「齢を感じるな」
そして錆びついた頭でどうにか情報を整理しようと、煙草に火をつけた。ジョンはよく理解していたが、カーターほど世俗を離れた人間にとってはどんな有名人といえど、名前とながらで見たニュース・ショーの継ぎはぎのイメージを思い起こすだけで精一杯だったのだ。「しかし、二十一やそこらでは、やっぱり坊やだ」
「わかってるよ。だから若いと言っただろう? だが彼は並の坊やじゃない。即断は避けてほしいね」
「だが雇用試験に不利な条件が揃っていることは君だって認めるだろ? 成人前で、親はマフィアで、現住所は刑務所内だ。あたりまえなら、書類選考で落ちてるぞ」
「いつからそんなに、体裁を気にするようになったんだい?」
「するさ。有名人と仕事をするのもいやだ」
「向こうは大いに乗り気だったよ。君の話をしたらね」
ジョンが新しい事実をつきつけたので、カーターは思わずぐるっと首を回して彼を見た。向こうはもう自分のことを知っている。ジョンがジェームス・ブライアンと会ったのも、おそらく一度や二度ではないのだ。
突然、相手が思ったよりも身近な存在に感じられて、カーターはもう一度ニュースで見た幼少のジェームス・ブライアン――マイケル・ネガットの姿を思い出そうと試みた。しかしカーターの記憶の中のマイケル少年の姿は、ときどき擦れ違うだけの近所の子供の印象より頼りなく、これから会おうとしている人間と、それを結びつけることはできそうになかった。
カーターの胸に、かすかに焦りのようなものがこみあげてきた。自分は早く、もっとはっきりと何かを感じ、決断を下さねばならない。でないとジョンはどんどんと話を進め、ぐんぐん車を走らせて自分をとんでもないところへ連れていってしまう。とにかく情報が少なすぎた。カーターは冬眠から覚めて穴からノロノロ出てきたばかりの熊といい勝負なくらい、世の中にもジョンにも遅れをとっていた。
「おい……いったい君、どういうきっかけで彼と知り合いになったんだ?」
カーターは、一番はじめに思いつくべきだった質問を、今になって思いついて、そろそろと尋ねた。
「彼が少年刑務所にいたころ、中で工ール大に入学したの知ってる?」
工ール大はジョンとカーターの母校でもあった。ジョンが後輩の噂話でもするように軽く言ってのけたので、カーターは目を丸くした。「いいや。知らん」
「少刑に入って、すぐに入学したんだよ。特例でね。彼は小学校に行くべき年齢のときにはシンクタンクにいたが、誘拐のあとは監禁生活がつづいて学問や研究どころじゃなかったから、天才児に教育の遅れを取り戻してやらなくちゃならんと気張った教授連中が、彼をバックアップするグループを作って、少刑にコンピューターやなんやらを持ち込んで、彼にテレビで受講させたんだ。そして彼は大学院修士課程までを四年で終了した」
カーターはちょっと肩をすくめて反応したが、目はさっきからずっと、真ん丸に見開いたままだった。ジョンは続けた。
「そこで教授グループは、今度は彼を少年刑務所から出して、博士号を取得させようとした。しかしこれは失敗して、十九になった彼は自動的に本物の刑務所送りになった」
「彼の少刑内での態度が良くなかったからだな?」
「ジェームスはわざとやったのさ。シャバヘ出たら、エリーが組織を率いて飛びかかってくるに決まっていた」
「知ってる。有名な話だ」
カーターはうなずいた。エリーは、死んだはずのマイケル少年を犯人の手から高額で引き取ったという、テキサスから西側に勢力を持っていたギャングのボスだ。カーターの記憶では、エリーはマイケル少年を自分の後継に仕立てようとしたか何かで失敗し、彼――ジェームス・ブライアンと名を変えたマイケル・ネガット――はエリーの手を逃れるために少年刑務所に逃げ込んだはずだった。カーターのような浮き世離れした人間でさえ知っているそんな噂をも、その教授たちは知らなかったらしい。
「教授連中というのは、いつもどこかネジが抜けてるな」
カーターは自分のことを棚に上げて言った。
「だが、そのエリーも半年前に死んだ」ジョンは本題に戻ってカーターに目くばせしてみせた。「先生方は彼の今後について相談しにきたよ。弁護土としての僕のところへね」
そこでふたりは少しの間、会話を中断しなくてはならなかった。車が刑務所のゲートに着いたので、IDカードの提示が必要だったのだ。
刑務所は塀と、その外側のフェンスで二重に囲まれていたが、そのどちらもさして高くなく、有刺鉄線も見当たらなかった。軽犯罪者や模範囚の送られてくる、農場形式の刑務所なんだ、とジョンがカーターに耳打ちした。カーターはうなずきながらあたりを見回した。そして低いコンクリートの建物と点在する灌木の味気ない風景に何かを感じようと試みたが、学校か工場のようだな、と思えるだけでどんな感情も湧き上がってこなかった。やがてゲートが開いて、ふたりは会話を再開した。
「それで、彼の弁護土に任じられた君は、親切に働き口の世話までしてやろうというのか? しかし教授たちの計画はどうなってる? まさか連中まで彼を探偵助手に推してるわけじゃあるまい?」
「もちろんこのことは、連中は知らないよ。いずれにしたって彼の就職先だからな。最終的には彼が決めるわけだ」
「彼と、彼の雇い主とがな。それでいったい、彼は何が気に入って、この話に乗り気なわけだね?」
「それは彼に聞けよ。僕がいま何もかも話したのでは話題がなくなる」
「なあジョン、探偵助手など、雑用係だぞ。天才児が電話番をするのか?」
カーターは表情こそ柔らかだったが、明らかに尋問調だった。彼が心の中で一度は消し去ろうとしたジョンヘの不信感と格闘していることは疑いなかった。ジョンは駐車場のスペースを探すふりをして、黙っていた。
「どうも妙だな。民間企業は尻込みするかもしれんが、政府機関とか、その類いなら、彼の経歴にはびくともしないだろう。天才で、逸材。波瀾万丈のスケールからしても、ワシントンか、ペンタゴン向きの人材だとわたしは思うね。引く手あまたのはずじゃないか」
「まあそういう所からの話も、あるにはあるんだよ」ジョンは前方を見たままで、ぼそぼそと言った。「しかしとにかく、話してみることさ。経歴うんぬんを取り沙汰してるだけじゃ、どだい何も始まらん。プロフィールも、資質も、状況も、そりゃないがしろにはできん。だが一番重要なのは、君たちが互いにうまくやっていけるかどうかだ。僕は君と彼の両方を知っているから、君たちは協力して、補い合っていけると直感してる。しかしこればかりは、会わせてみないことにはな」
「なにか隠してるな」
腕を組んで、ジョンと同じく前を向いたまま、カーターはつぶやいた。ジョンはため息をついた。
「とにかく会ってみたまえ」
そしてジョンは、駐車場の中ほどに車を停止させ、ふたりは外に降り立った。
3
ジェームス・ブライアンは、死後、伝説上の存在となった人物である。そして、生きているときも、肩よりも頭の大きかったほんの子供のころから、伝説の中に棲む生き物だった。
彼には作為的に造られた特別のスタイルの気配はなく、世の中にアピールするような、派手な演出を、故意にぶったためしもない。にもかかわらず、彼には会った人々に、何かが違うと思わせる魅力があり、たとえどんなに平凡な身なりをしていても――刑務所のお仕着せのジーンズ姿であっても――人々は群衆の中の彼を見分けることができた。
彼は口を開いたときは、とてもはっきりものを言ったけれども、普段はおとなしい青年で、大男に育った今も、顔かたちは若々しくてあどけなさすら残していた。亜麻色の髪は、切りっぱなしで撫で付けてもおらず、筋肉や肌は若葉のようにきれいさっぱりとして、洗いたての子猫や赤ん坊のように無菌的で、清潔で、ういういしい感じがした。
しかし、まあたらしい、淡い灰色の両眼がたたえている光は、百歳を越えた老師のそれに近く、口許には枯れきったような辛苦と、老成した意志が漂っていた。
その声は、よく通るが低く、中年の男のようだった。
彼は周りを寄せつけないほどすばやく動き、集中して仕事をした。しかし岩石のように不動でいたり、えんえんと怠惰に寝そべっていたりすることも得意だった。冷静な態度でまっすぐに相手を見、じっと話に聞き入っているかと思うと、突然、何かの気配に耳をそばだてる動物のようについとあごを上げ、虚無の目でどこかわからない一点の何かを、探索しはじめたりした。しかも、彼がよそ見をしているにしろ、怠けているにしろ、誰もが文句を言うタイミソグをつかめなかった。何かしら彼なりのわけがあって、やっているように見えたからである。
ジェームスが、自分を非几な人間であると自覚することは、終生なかった。
にもかかわらず、はたから見れば、彼は非日常的なもの、理解を越えたものの、いわばオブジェだった。
ジェームス・ブライアンは己の持つ不可解な雰囲気と、新聞の見出しになるようなフィクションまがいの経歴と、それから天才児、シンジケートの申し子といった、デフォルメされた過去の肩書きが及ぼす先入観とで、出会う相手を硬直させ、戸惑わせ、不安がらせ、警戎させる名人だった。だがジェームス自身は、そこのところをどうもよく掌握していなかった。
彼の唯一最大の野望は、身分不相応にも、彼が信頼し、彼を信頼してくれる友人と、彼が愛し、彼に愛されることに至福を感じる家族に囲まれて暮らし、人々と喜びを分かち合うことだった。
一方、人々のほうは、彼に愛や喜びという観念があるのかどうかも、はっきりしないでいた。
○
そもそもカーターは、刑務所と名の付く場所に足を踏み入れるのさえ初めてだったのだが、そんな素っ堅気の目から見ても、明らかにこの刑務所の雰囲気はどこか妙だった。まず、カーターは面会室のようなところでガラス越しにジェームス・ブライアンと対面する場面を想像していたのだが、若い看守によってジョンと共にいきなり、鉄格子の並ぶ房棟へと案内されてしまった。
ゲートから建物の全景を見て、学校や工場しか連想できなかったカーターもこれにはどぎもを抜かれた。初めて見る刑務所の内部は暗くひんやりとして、軍の宿舎のような匂いがし、しんとした中に遠くから電動ノコギリのような機械音が響いていた。目前に立ちはだかる鉄格子は異様にどっしりと重々しく見えた。
「大丈夫ですよ」
看守は鍵束をガチャガチャ鳴らして房棟と看守の詰め所を仕切る二重の鉄格子を開けながら、彼の手元を、いきなり沈み出したボートの水の吹き出す船底の穴を見るような、飛び出した目で凝視しているカーターに、笑いかけて言った。
房棟は、ほんの数人の囚人が開け放した二人用の房の中でくっろいでいるほかは、ほとんどが空だった。
房の間を突き抜けて、また別の仕切りを通って狭い廊下に出ると、突き当たりのほうから大勢の笑い声が聞こえてきた。
「黙れ、黙れ! みんなうるさいぞ!」
がやがや、ぎゃんぎゃん言う、お祭り騒ぎのような騒々しいざわめきの中から、カーターの耳に一番初めに飛び込んできたのは、そう叫んでいる若い男の声だった。
そこは古ぼけた図書室のようだった。ゆがんだ木製の本棚に囲まれた広い部屋の中央に、中心が低い本立てで二分された大きな木机があり、囚人たちがその周りにわいわいと群がっていた。
だいたいの者は机に腰掛けたり、周囲の折りたたみ椅子にいいかげんに身を投げ出したりして、だらしない様子をしていたが、ひとりだけ若い黒人が、カーターやジョンや看守の入ってきた出入り口のほうに背を向けて、写真入りの大きな本を広げ、学生のように机に向かい、蝿を追うように、彼を構いたてるほかの囚人たちに拳を振り回している。怒鳴り声をあげたのは、どうやら彼らしかった。
「ジェームスは俺に話してるんだ」彼は続けて抗議した。「騒ぐんなら、みんな出て失せろ!」
ジェームスという名を聞いて、カーターはすばやく助手候補がどこにいるか見定めようとした。囚人という囚人が、みんなざわざわとうごめいているカーターの視野の中で、ひとつだけまったく動かない、大きな、白い物がすぐに目に飛び込んできて、カーターはどきりとした。そして恐れとも期待ともつかない動悸が無感動な自分の体内を駆け巡るのを感じて戸惑った。それはほんの短い間だったけれども、数分にも思えた。
なぜ自分はこんなふうになるのだろう? 相手があまりに有名な人間だからだろうか? それとも、あの微動だにしない、落ち着き払った態度に威圧されたのだろうか?
一瞬、向こうもこっちを見たような気がしたが、カーターが近視の目で焦点を合わせたときには、彼は目の前にいる、例の若い黒人のほうに目を落としていて、カーターに気付いた気配はなかった。
それがジェームスだった。
「わーった、わーったよ、ボアズ」血気盛んなその黒人青年ボアズに向かって、痩せた、調子のよさそうな白人の男がへらへらと言った。「ちょっと合いの手をいれただけじゃねえか。そうカリカリすんなって」
「なにが合いの手だ! さっきからゴチャゴチャと−」
相次ぐ茶々入れに業を煮やしていたボアズが、男の冷やかし半分の態度に触発されて、黒人特有のリズミ力ルな動きでぱっと立ち上がり、相手につかみかかろうとしたので、ジェームスが反射的に彼の後ろ襟を押さえた。その手の動きは、ボアズの動きとほとんど同時で、ジェームスの顔面と同じように無表情だった。手はボアズを責めてはおらず、遠慮してもいなかった。ただ、あるものを本来の位置に戻すために、無造作に動いたのである。カーターのところからは、ジェームス本人は少しも動かず、手だけが動いたように見えた。
「こら」その声があまりにも齢不相応な、老けたものだったので、カーターには一瞬、どの男の口から発せられたものかわからなかった。「もめるな」
ジェームスは短く言って、つかんだときと同じように、無造作に手を離した。
ボアズは粘らなかった。ジェームスの手といっしょに気が萎えたように、おとなしく椅子にすわり、苦々しげに口の奥でごもごもと言った。
「続けてくれ。どうして太陽系じゃ、地球にしか、海がないんだ?」
ボアズの言葉でカーターは、この光景が科学かなにかの授業であるらしいことに気がついた。そういえば、ジェームスの後方にあって、彼の白い頭部をますます浮き上がらせている黒板には、白いチョークで大小の円がぽんぽんと描きなぐってあり、その中で桁外れに大きく黒板に収まりきらないために、弧の一部だけが端の方に記されている円には、カーターのところからでも見える大きな大ざっぱな字で太陽≠ニ書かれていた。
「アンモナイトはいつ出てくるんだ?」
安全圏にいる別の囚人が、またはやしたてた。
「何だね、これは? 新しい更生プログラムか何か?」
カーターが看守に、こそこそ声で聞いた。
「いえね」若い看守は、肉付きのいい、健康そうなピンクの頬の上で、青い目をいたずらっぽく細めて説明した。「あのボアズって最年少が、ここへ来てから向学心に目覚めましてね。ジェームスに、読み書きやら、いろんなことを習ってるんですよ」
「ほかの連中は? 野次馬かい?」
「ええ、ひやかし組ですよ」
カーターは、ジェームスのことを尋ねたかった。彼について少しでも多くのことを知りたかった。だが、眼が目前の光景に釘付けになるばかりで、質問を思い付けなかった。
ジェームスのほうも、カーターが図書室の向こう側のドアから入室して来たときに、いち早くカーターよりも早く彼に気付いていた。この図書室にいる大勢の中で、ジェームスにとっての新参者はカーターだけだったし、ジョンに付き添われている様子から、一目で彼がそうだとわかった。
ジェームスは、ジョンに聞いたカーターのだいたいの素性や今の生活の様子から、カーターについて、痩せこけて、あまり櫛の入っていない短い髪の、灰色がかった背広の上着のボタンをはだけた、皮肉な感じに体をはすに構えた男を想像していた。
しかし、ジェームスの前に現れた実際のカーターは、真っ黒い長い髪で、すっきりした白いスーツを着て背筋をしっかり伸ばし、黒いインクとペンで描いたような、はっきりとした、遠目にもそうとわかるような端整な顔をした男だった。それでジェームスはどういうわけか、いきなりものすごい美人と対面したような気分になってしまい、目の端でほんのちょっとだけ彼をとらえたきり、二度と彼のほうが見られなくなってしまった。
しかし彼のそんな心境を、彼の外見から読み取ることは誰にとっても不可能だった。彼は終始一貫してまったくの無表情で、淡々と、いま行っている授業に集中しているように見えたから、さきほどからときどき本に目をやったり野次馬に気を奪われる以外はずっとジェームスを見上げつづけていた黒人青年のボアズも、ほかの大方の仲間たちも、カーターらの入室には気付かずにいた。
ボアズの、ジェームスの黒板をさす手元や、話している顔を見る目は真剣そのものだった。それは学びたいという情熱のためでもあったが、何より彼はジェームスにぞっこんだった。
そもそも、ジョンがカーターとジェームスを会わせる決心をした動機のひとつが、このボアズ青年である。ジョンがジェームスに会うため、何度目かに刑務所に足を運んだとき看守たちから、ジェームスにはほかの受刑者を更生させる才能がある、と打ち明けられた。場合によっては、手のつけられないほど凶暴であるために、エスカレーター式に少年刑務所からここへ送られてこなければならなかったような青年を、「ジェームスのところへ叩き込む」こともあるというのだ。
「みんな、洗われたみたいになって出ていくぜ」と、看守のひとりはジョンに目くばせした。
叩き込まれたかどうかはともかく、ジョンが刑務所を訪れるようになったころ、ジェームスと同じ房にいたのがボアズで、すっかり「洗われた」あとだった。彼は十代半ばに、チンピラ仲間と銃を捌いていて、殺人を犯した。最初にこの刑務所のゲートをくぐったときのボアズは、狂犬病のオオカミそっくりだった。いまはさしずめ、訓練されたシェパードである。
看守の口調からジョンは、ジェームスがボアズやその他の若者を力で屈服させたものと想像した。なにせジェームスは、上背がある上にいかにも強靱そうで、どんなに静かにしていても、ネコ科の大きな猛獣がくつろいでいるようにしか見えないような男なのだ。
それでジョンはある日、ジェームスが房を空けている隙を狙ってボアズに面会し、彼に探りを入れた。
ジョンが想像していることを知って、ボアズはげらげら笑いだした。そして笑ったことをあやまると、自分がジェームスにどんな感情を持っているか、またジェームスが自分に何をしてくれたかを、苦心惨憺してジョンに伝えようとした。ボアズは話がたどたどしく、うまくなかった。読み書きですら、ここへ来てからジェームスに習ってようやくできるようになったばかりなのだ。数少ないボキャブラリーを頭の中でこねまぜながら、彼は笑みを浮かべたまま少しうつむき、もどかしそうに両手を動かした。
「あいつはおもしろい奴よ」
ボアズは次の言葉を探して考え込んだ。ジェームスのことを話す彼は照れくさそうで、幸福そうだった。その目はリスのようにつぶらで、澄んでいた。
「……あいつは、クソまじめなんだ。――いや、どうかな。こういう言いかたは当たってねえか。そうだな……あいつは当たりめえにやってたんだ。あいつなりにさ。あいつは……みんなとも俺とも、うまくやっていきてえんだよ。まあ、そういうことなのさ、ミハリクさん」
彼はまた黙り込んだ。
「俺はじゃまもんだったしよ」
ややあって、彼は言った。
「おふくろは、俺に出てろって、いつも言ってたもんな。それからほかの連中も」彼の言っているのは、彼の子供時代の話らしかった。「大きくなってからもそうだったしな。つまり、俺はクズだったわけさ」
彼は急に饒舌になった。今まで何度も、心の中で繰り返し考えつづけてきたことを、話し出したのだ。
「俺がクズだったのは、俺が自分のことを、クズだと思い込んでいたせいだ。俺が自分のことを、クズだと思い込んでいたのは、みんなが俺をそう呼んでいたせいなんだ。俺も連中が大っきらいだった。それっきゃ知らねえんだもんな。だけど奴は変な奴で、飛び込んできた奴とはみんな、うまくやりたがるんだ。相手がスズメでもクズでも知ったこっちゃねえ。見分けがつかねえのかも知れねえな。ミハリクさん、今ここに紙クズが投げ込まれたとして、奴がそのクズにあいさつするとこ考えてみなよ。くそまじめな顔で、『やあ』ってな」ボアズは、また笑いだした。「クズだって、飛び上がって人間にならねえわけにゃいかねえぜ!」
そして、ますます笑いだした。笑いはやがて、泣き声に変わった。
ボアズは、目の前にいる弁護士がひんぱんにジェームスを訪ねるわけを知っていた。ジェームスは一週間後か、一ヵ月後か、とにかくそう遠からぬ日に、彼を必要とする人々が大勢待っているであろう外界へ、去ってゆくのだ。
ボアズには、ジェームスが、初めての、たったひとりの親友だった。
「問題は、太陽からの距離と、星そのものの大きさにある」ジエームスは全員に聞こえるように底力のある朗々とした声で、なぜ太陽系の、地球以外の星々には海ができなかったのか、そのわけの説明を続けた。「つまり太陽に近すぎる星では水は蒸発してしまうし、逆に遠すぎると凍ってしまうわけだ」そう言いながら彼は、黒板に描いた地球より太陽に近い惑星の下に赤い線を、遠い惑星の下に青い線を引いた。
離れたところで授業を参観しているカーターは、ジェームスが慎重に言葉を選んで、できる限り易しく話しているのに気付いて感心すると同時に、心のどこかにもどかしい思いが湧き上がるのを感じた。
そんなふうに感じる自分が傲慢であることも、徳や英知がそもそも知識や専門用語から遠く離れたところにあることも、カーターにはよくわかっていた。だが、アイビー・リーグに属するいわゆる名門の大学や、エリートの集うメディカル・センターの中で、一生ものごとの神髄に近付くことはなくとも難解な言葉や理屈で着飾るにはことかかない、薄っぺらな、しかし執拗で攻撃的な反論者たちと、ことあるごとに渡り合ってこなければならなかったカーターの目には、ジェームスの行動はひどく無防備にも映ったのだ。
「待て、待てよ。じゃあ、地球だけがたまたまちょうどいい所にあったってわけかよ?」
今はすっかり気分の落ち着いた弟分のボアズは、目をぱちぱちさせ、ジェームスに彼をほんとうにいとおしいと思わせるような純粋な驚きをむきだしにして言った。
「なら、この星が今より太陽に遠いか近いかしてたら、俺たちゃあ生まれて来なかったってえんか?」
ボアズの興奮につられたのか、さきほどから茶々入れをしていた野次馬のひとりの髭面の男も、興味をそそられた様子で聞き返した。
「そうなるな」
ジェームスの返事に、その場にいた囚人たちは一様に口を半開きにした、子供のような、善良な表情になって、うう、とか、おお、とか、声にならない呻きをあげた。
「えれえツイてたなあ」
彼等といっしょに感嘆の唸りをあげるボアズに、ジェームスは愛情を込め、抑揚のない声で言い含めるように忠告した。
「本当にそう思うんなら、こんな所に入るような人生を送るんじゃないぞ」
それを聞いた一同は大笑いした。何しろジェームスは、十五歳で刑務所に逃げ込んで以来、刑期が切れそうになるたびにわざわざ問題を起こしつづけて鉄格子の中を根城とし、一度もシャバの空気に触れぬまま成人刑務所へと格上げされて今に至ったというキャリアの持ち主なのだ。
「監獄の主のくせしてよく言うよ!」
ボアズはすっとんきょうな声を上げ、ウッドペッカーのようにけたたましく笑ってみせた。
「だけどよう、じゃあ、月は?」
ぼうぜんとこの賑やかなパーティを見守るカーターと同じに、みんなの笑いに加わらなかった中年の黒人男が、もそもそと尋ねた。
「ええ、何だって? おい、カービーが、なんか質問してんぞ」
別の誰かが、笑いざわめく一同を制する。
「ほら、月はよ、地球にひっついてんじゃねえか」カービーは自分の顔の前でボールをつかんでいるような形にした両手をゆすり、真顔で言った。「だのに地球に海があって、月にねえのはどういうわけなんだ?」
「月は小さすぎて、水蒸気を含むガス体を引き止めておくだけの重力がないんだ」
「おいらも質問!」相変わらず無表情で受け答えするジェームスに、別の囚人が手をあげた。「なあ、さっき生命が生まれたなあ三十ウン億年前とか言ってたけどよ、それってどのくれえ前なんだあ?」
「イエスさまが生まれるより前だろ」
お手上げというように自信なげに、けれども楽しげにニコニコ笑いあう囚人たちの中から、誰かが言った。
「んなのはわかってんだよ。だからイエスさまが生まれる前の、どのくれえ前だと聞いてんのさ」
質問者は両手を広げた。
「イエスさまが生まれる前はみんな大昔さ」と、また別の囚人。
「そうさ、大昔だ。おい、どうだっていいだろう、そんなこと。なんだっておまえらは、そう寄ってたかって話の腰を折るんだよ?」
再びいらだって、歯噛みをはじめながらボアズは質問者を振り返って睨めつけた。その肩に、ジェームスがそっと大きな手を置いた。
この質問には実は、学校の生物の時間や、博物館のガイド・ツアーに用いられるような、お定まりの回答が普及していたのだ。学校でも、博物館でも、誰もが「地上に生命が誕生したのは三十五億年前のことです」という地球生物史の前口上を聞くたびに、その時間的スケールをつかみかねて上目遣いで一瞬考え込んでしまうので、どこかの気の利いた人物が、このわかりやすい物差しを考案したらしい。
物差しの必要性を裏付けるように、ボアズ以外の囚人たちは、全員上目遣いになってしまっていた。
「三十五億年を一年に置きかえて、一月一日に生命が生まれたとする。十二月三十一日が現在だ」
ジェームスはただでさえ簡潔な定番の回答を、さらにこれ以上できないというほど無駄を省いてきりだした。「すると、人類が地上に現れたのは?」
「六月ぐらい!」
野次馬のひとりが叫んだ。
「三月!」と、別の誰か。
「八月だ!」
これはボアズで、独立記念日やら、クリスマスやら、「五月二十五日!」などと自分の誕生日を叫んでいる者もいる。ジェームスは首を横に振りつづけていた。
「十二月三十一日の夕方だ」
誰かがそう言って、ジェームスの首の動きが止まったので、一同はしんとなって、全員がきょろきょろと辺りを見回し、正解者を探した。そしてジェームスの視線を追って、図書室の向こう側にいる声の主を発見した。そこには囚人たちが名前を知らない、明らかに外部の人間が、顔馴染みの看守と弁護士に挾まれて立っていた。
「つい最近じゃないか……」
ボアズは見知らぬ男に見入ったまま、つぶやきをもらした。
「生命は化学物質からスタートする」
カーターは、ジェームスをまっすぐに見て、ゆっくりと前に歩み出てきながら言った。「そのプロセスが一般の知るところとなる一世紀ほど前、ダーウィンはすでにそれをほぼ言い当てていた。彼は何と書いたのか、ジェームス?」
カーターはボアズを挾んで、ジェームスの目と鼻の先までたどりついていた。ジェームスは、もうカーターを見ないわけにはいかなかったけれども、淡い色のサングラスの下から、エジプトの壁画や日本の浮世絵に出てくる人物のような、くっきりと切れ上がった両眼で見据えられて、眩しそうにほんの少し首をそらして目を細めた。
カーターは、理由はわからないが自分が多少なりと相手を威圧し、優勢な立場にあることを感じて腕を組み、威厳を持って相手の答えを待った。カーターは自分がこの刑務所にどれほど似つかわしくない存在か、自分の姿が監禁生活を送った農場の屋根裏部屋や鉄格子しか知らないジェームスの人生の中で、どれほどきらびやかで豊かに映るかを知らなかった。そして目の前の、神話の中の龍のように見える大男がまだほんの二十歳で、幽閉された場所から外に出たこともなく、先生の言うことは何でも鵜呑みにしてしまう小学生のような、素直な、うぶな一面を持ち続けていることにも気付かなかった。
「……あたたかくて小さな水たまりの中に」ジェームスの、きれいな女の先生に名指しされて立ちん坊になった小学生そのものといった心境の奥深くから、美しい言葉に始まる一連の文章が浮かんできた。それは、いにしえのダーウィンが、誰かに宛てた手紙の中に書き残されていたものだった。ジェームスの心の内とはうらはらに、高いところから発される彼の声はどっしりと重みがあり、神の声のように響いた。図書室は礼拝堂のように静まりかえった。「アンモニア、燐酸塩、光、熱、電気力など、あらゆるものが存在して科学的に蛋白質が形成され……それはたちまちもっと複雑な物質へと変わってゆく――」
カーターは、何かとても聞き慣れたもの――自分の世界の音を聞いたという気がして、心が満ち足りるのを感じた。ジェームスの答えは、彼の記憶力のよさだけでなく、カーターとジェームスが少なくとも一時期、同じ分野の学問に関心を持ったことを証明していた。
息吹のような、きらめく光のような何かがカーターの全身を包み、カーターはそれがダーウインの、あるいは別の偉大な学者、偉大な作家らの言葉に酔い痴れた遠い日の情感――世捨て人の今にあっても、十九歳、あるいは十七歳の彼方から時折カーターを訪れ、彼に生きていることを思い出させる、あの情感であることを悟った。しかし彼は、笑っているともいぶかしんでいるともつかぬ表情でほんの少し目を細めると、すぐに次の質問を投げかけた。
「生命誕生に大役を果たした五大濃集メカニズムは?」
「蒸発、凍結による濃集、プロテノイドミクロスフェア、リポプロティン・ペクシル、コアセルベート液滴」
「生きている物体を定義するコード言語を提唱した人物は?」
「レスリー・オーゲル」
「そのコード言語とは?」
「CITROENS」
ふたりはよどみなく、しかし一言一言を確かめ合うようにやりとりしていた。囚人たちには、長い長い時間だった。彼らはテニスの試合を見ているように、質問者と回答者の間で目玉を行ったり来たりさせていた。彼らのほとんどは、魂を抜かれたような、ぽかんという表情をしていたが、中には見るからにへばっている感じの者もいた。
「何という文の単語群の頭文字を連ねた言葉だ?」
とうとうカーターが、とりわけゆっくりした調子で質問した。
「自然選択によって進化する、情報伝達、自己再生が可能な複合物体」
ジェームスが答え終わったところで、カーターが彼を見上げたままにっこりと笑ったので、囚人たちは問答がこれまでなことを知った。
素朴な頭脳の集まっているところでカーターのやったことは、紛れもなく衒学趣味だった。しかしともかくジェームスは、テストにパスした。彼はその気になればハッタリのひとつもかませることを証明し、先生の期待に応え、青春のよき日の感動のおまけつきで彼を満足させることに成功したのだ。
カーターの笑みにはリードをとった年長者の貫禄と、相手への尊敬の念がこもっていた。カーターとジェームスの距離は短いやりとりの間に急速に縮まり、ふたりはお互いにすっかり安心しきった、なれなれしい気分になってしまって、自分たちが初対面だということも、周囲の状況も忘れていた。
あっけにとられている囚人たちの静寂を破って、見つめ合うふたりの間に挾まれたボアズが、そろそろと尋ねた。
「ジェームス……この人、あんたのお客さんかい?」
「ああ」
ジェームスは上の空で、カーターから目を離す気など毛頭なさそうな様子で言った。
「そうか。それじゃ、俺はこれで失礼するよ」ボアズは行儀よく言って、手早く本をそろえ、さっと立ち上がった。「またあとでな」
「すまないね」
カーターはボアズの動きを目で追い、彼と目が合うのを待って、ていねいに詫びた。
「どういたしまして」
ボアズは白い歯を見せてカーターに応え、周りの囚人たちをあごでうながし、先頭に立って戸口に向かった。ボアズには、カーターが何者かの見当がついた。きっとあの人が、出所後のジェームスの雇い主になるのだろう。髪の長いところがちょっとイカレてるが、よさそうな人じゃないか。親切そうだし、まともにジェームスの話し相手になれるくらい、頭もよさそうだ。きっとジェームスは、あの人のところでうまくやっていくだろう。ボアズは覚悟を決めていた。
カーターはカーターで、ボアズの後ろ姿を見送りながら、感じのいい青年だな、と思った。子犬のような黒目がちのその青年が、少し前まで狂犬病のオオカミだったなどとは、カーターには思いもよらなかった。
そしてボアズを変貌させた魔法が、自分にも行使されんとしていようなどとも。
囚人たちが去り、ジョンがふたりのそばへやって来て、窓際の机に移動しようと誘ったので、ジェームスは今まで本棚にかがめていた身を起こした。カーターは、それまでもほかの囚人たちより頭ひとつ分は大きく見えたジェームスが、さらに大きくなったので驚嘆した。彼はすっとして、伸びあがったキリンのようだった。カーターはその体の大きさと、神々しい様子に感心したことを示すために、彼に向かってほほえんで、小さくかぶりを振ってみせた。
ジェームスは、カーターがとても暖かく、魅力的に笑うのに見とれ、家に帰って来たような、のうのうとした、満ち足りた気持ちになっていた。カーターに会う人は最初誰でも、この笑顔にほだされてしまうのだ。ジェームスの知るよしもないことだったが、カーターにとってはそんなものは、誰かれかまわずぶっ放すことのできる、常備の小型拳銃と同じだった。
「刑務所で科学の授業が見られるとは思わなかったな」
机に向かう短い距離を歩きながら、ジェームスを振り向いてカーターは言った。カーターの斜め後ろを歩いていたジェームスは、彼の言葉を聞き取ろうとして身をかがめたが、そのとき同時に、相手をかばうようにカーターの背中に手をかざした。カーターは気付かなかったが、カーターの長い髪は後ろから見るとまるで女だったので、ジェームスは本能的にエスコートの体勢を取ってしまったのだ。
図書室の窓は開かないもので、菱形に組んだ格子にガラスがはめこまれていた。外には明るい水色の空と、陽光の落ちたところがちらちら動く金色のまだらとなった、硬そうな小さい葉のぎっしり茂った木が見える。それは、ひんやりと薄暗い図書室に飾られた、あでやかな絵のようでもあり、黒いビロードのような夜の闇から、なまめかしい昼を覗く、異次元の窓のようでもあった。
窓に沿って図書室のすみに置かれた大きな木机のところまで来ると、まずジョンが窓に背を向けてすわり、つづいてカーターがジョンと窓の向かい側にすわった。ジェームスはカーターの椅子を引いてやり、自分は窓を右にしてジョンとカーターの間にすわった。
ジェームスは窓の外の木に目をやった。人の背丈ほどのその木は、ジェームスが、日陰でひょろひょろになっていたのを見つけて条件のよい今の場所に移し、回復をはかったものである。近くを通りかかったときに、一瞥をくれてやることが、彼の木への挨拶だった。木を見て、問題のあるときは手を加えてやり、そうでないときはただ見るだけでよい。木は元気に育っているようだった。緑の葉は生き生きと群れ、何か志の高い集団のように、一様につんつんと上を向いていた。
ジョンとカーターは、すわるなり会話の体勢に入ったのだが、ジェームスがそっぽを向いてしまったので、開きかけた口をぱくぱくさせて待っていなければならなかった。
彼のよそ見が数秒以上かかると判断したカーターは、付き合いよく、ジェームスといっしょに窓の外を観察した。いくらか熱心に観察してふと我に返ると、ジェームスはもうこちらに視線を戻して、カーターの話し出すのを待っていた。カーターは、きまり悪そうに肩をすくめ、きわめて品よく笑ってみせた。そしてジェームスに、
「こんなにいい天気だと、外へ出たいだろうね」と、言った。
「そうだな」
相手が自分に心を合わせようとしていることをうっすらと察知して、ジェームスも穏やかにうなずいた。
立っているとき、カーターがジェームスの肩から上を見ることは首の疲れる作業だったが、双方がすわっている今は、たやすく互いの顔を観察することができる。楽な姿勢で、そして窓辺の光の中で改めて見るジェームスは、カーターが今まで見たこともないような、真っ白な人間だった。
肌の色が磁器のようなら、髪の色も黄色味のほとんどないブロンドである。瞳は、明るい曇り空のような淡い淡い灰色で、あまりに薄い色なものだから中心の黒い瞳孔を浮き上がらせ、目全体を、まるで白目ばかりのような、不気味な印象にしていた。その視線は、いつかカーターがどこかでカラーの写真を目にした、世界で何頭とかいう、あの白い虎にそっくりだった。顔立ちそのものは、コリー犬に似ていた。目も鼻も口も、どことなく先端がすんなりとしていて、美しかったが、同時に無機的で鋭い感じもした。
まるで人間じゃないみたいだな、と、カーターは思い、その瞬間にジェームスと自分が初対面であることや、ジェームスの、カーターの想像を越えた経歴や、今いるここが刑務所であることを思い出した。ジェームスは未知の、人間には思いもかけない力を持った、もしかしたら危険かも知れない一匹の獣なのである。彼と鉄格子も隔てずに、こんな間近で向き合っていることが、カーターには突然不思議に思えてきた。
「刑務所というところは初めてなんだが」心中の戸惑いとはうらはらに、カーターは感じよくほほえみながら言った。「ここは変わっているな。模範囚の来るところだと聞いたが、みんなこんな感じかね? その……こういうところは」
「さあ」
ジェームスが小さく言って、簡単に肩をすくめたので、ジョンは彼に熱心に自分を売り込む心得がないことを思い出してあわてた。
「いやいや」ジョンはさっそく代弁者の役を買って身をのりだした。「とんでもない。どこだって、こんなふうにはいかんさ。ここは更生者の数じゃ西部一なんだ。ちゃんと社会復帰を果たして、二度と刑務所には戻ってこない人間の数だよ。それも、彼が来てからこっちのことだ。ここは、彼が改革したんだ」
「ほう、それは大したものだね」
カーターが笑ったので、ジェームスもうれしそうににっこりと笑った。ふたりが顔を見合わせて笑っているのを見て、ジョンは興奮のあまり、心臓が飛び出しそうになった。
ジェームスは、めったなことではそんなふうに笑わない。それに、君は気付いたかい? 彼は自分を売り込まない代わりに、謙遜もしない。ほんとうにうれしいときでなけれぼ笑わない。僕は、彼のそういうところが気に入っているんだ。天才と呼ばれながら、波瀾万丈の人生に揉まれながら、これほど自然体で、素朴であり続けられる人間が、ほかにいるだろうか? 君にはそういう人間が必要なんだよ。この刑務所は彼が変えた。――君にも変革が訪れるんだ。
ジョンはカーターの腕をゆすぶって、そう言いたかった。ジョンはカーターが大好きだった。そして、カーターにとっても自分が最も親しい存在なのを知っていた。だがジョンは、カーターの私生活や過去の、かんじんな部分を何ひとつ知らなかった。カーターがこんなにも打ちのめされ、傷付いているのがわかっていても、そのわけにさえ手が届かないのだ。しかし、今ついにカーターは、彼の生涯で最も親密な友人となるべき人間と向かい合っている。僕にも、恋人にも、肉親にも話さなかったことを、カーターは彼に話すだろう。
ジョンに予知能力があったかどうか、彼の想像は結局現実のものとなる。しかし、現段階では、それはキューピッド役に熱中するジョンの楽観的な幻想にすぎない。ジョンは胸を高鳴らせていたが、カーターはすでにジェームスを、白い虎とコリー犬をかけあわせた化け物ではないかと疑い始めていた。しかもさらに始末の悪いことに、カーターはその疑念を、それこそ小指の先ほども表に出さないのだ。
「君の記憶力はすばらしいな」カーターはまだまだあいそよく、うちとけた様子でジェームスに言った。「大学では生物を?」
「いや」
ジェームスは見かけほど複雑な人間ではなく、カーターのような気分の変わりやすい人種への免疫もなかったので、彼の態度を額面通りに受け取って、無警戒に答えた。
「来てくれて、ありがとう」ジェームスは自分の意思がよく伝わるように、低いが決してぼそぼそ声でなく、はっきりとカーターに言った。「考えは決まったか?」
「いや、まだなんだ。君のことは、きょう聞いたばかりでね」カーターはジェームスの朴訥なしゃべり方にもちょっと驚いたが、親しみの表示を打ち消さぬよう、つとめて穏やかに言った。「君はこの話に乗り気だというが、どんな仕事をするか、わかっているのかね?」
「わかっている」
ジェームスはうなずいた。ジョンは少しもどかしくなった。ジェームスは普段から口数の少ないほうだが、きょうはどういうわけか、ことさら無口に思える。ジェームスがカーターの前で、人並みに緊張しているなどということは、ジョンの想像外だった。しかし、ジェームスのわかっている、は、本当にわかっている以外の何ものでもない響きを持っていたので、カーターは続けた。
「だが、ほかにも話はあったろう? その……もっと有利な」
「ふたつばかり」
「たったの?」
「無理もない」
このあたりで、ジェームスの表情が浮いたようになってきた。ジョンは、彼のマイナス・イメージにつながるような情報を、カーターに伏せているらしい。カーターの疑念も、ついにその顔の上にふつふつと姿を現し、眉間のくぼみに濁った泉を湧きあがらせはじめた。ジェームスはカーターから目を離し、ゆっくりとジョンを見た。カーターもジョンを見た。ジョンはすでに、あらぬ方を向いていた。
「どういうことだ?」と、カーター。
「ジョン、何も話してないんだな?」と、ジェームス。
どちらの声も、冷めたコーヒーのようにまずくなっていた。
「さあ」カーターはうながした。「ふたりのうち、どちらでもいい。話してくれ」
「その……」
ジョンは逃げ出したい気持ちだった。ふたりを会わせさえすれば、とんとん拍子に何もかもうまくいくものと、心の底で信じていたのだ。「少刑に入ってすぐのことだが、彼は階段から落ちてね。つまり……突然意識がなくなったんだ。それであちこちの骨を、何本か折った」
「今でも?」カーターは、奇異の目をジェームスにまともに向けて尋ねた。「急に意識を失うことがあるのかね?」
「いや、それっきりだ。それはな」
ジェームスは、今まで机にのんびりとついていた肘を、ゆっくり起こしながら言った。そしてそのまま机から身を遠ざけて、椅子の背に深々ともたれてしまった。
「……まだあるのか?」
カーターはジョンに目を戻し、あきれ顔でつぶやくように聞いた。
「次の年には、突然失明した。三日間だけだが」ジョンはもはや、カーターの目を直視できなかった。「翌年と翌々年には、順に手と足がね……」
「今年はどこだね?」
カーターは明らかに皮肉っぽく、ジェームスに尋ねた。
「今年はまだです」
ジェームスも中年の声で、失望をあらわにして答えた。
「それで? ここでは君に何をしてくれている?」
「週一回、精神分析医をよこしてくれている」
カーターは、すっかりしらけてしまった。何かひどく裏切られたような、ハメられたような気がした。カーターは目の前にいる男を、危険な獣かも知れないと疑った。だが彼にはそれ以前の問題があったのだ。わずかに残っていた彼への好意も消え果て、今は彼が、何かとても不誠実なものに見えてきた。
カーターのそういう感情はジェームスにも伝わった。ジェームスは、人間に小言を並べられても聞いていることのできない猫のようになってしまい、もうカーターのほうを見ようともしなかった。
カーターは立ち上がり、図書室の隅にジョンを引っぱって行った。
「たいへんなことを黙っていてくれたな」うつむいて、自分の足元を見たままカーターは言った。
「言ったらその場で断られると思ったんだよ」ジョンはカーターを覗き込むようにして、こそこそ声で言った。彼はどうしたら、このこじれた状況を元に戻せるだろうと考えていた。「とにかく彼に会ってほしかったんだ」
「わたしも神経症だったことがあるからか? 勝手知ったるというわけだな」
カーターが苦々しくねじこんだので、ジョンは心底当惑し、怖じ気づいてしまった。カーターは、狂った母と体裁屋の父の板挾みとなっていた子供時代に陥った病のことを持ち出したのだが、ジョンのほうは以前神経をわずらっていたと匂わされたことがあるのみで、それがいつ起こったことか、なぜ起こったかはもとより、病名さえ知らなかったのだ。
「そんなんじゃないよ」ジョンは押し殺した、小さな叫びをあげた。「カーター、環境が変われば、あんなものはたちまち治るさ。自分が檻の中に閉じ込められたと想像してみろよ、誰だっておかしくなるさ。前は何ともなかったんだ」
ジョンは何かにすがりたい気持ちだった。カーターは、すべてを悪いほうへ転がしてしまう。こんなはずではなかった。だいたいいつから、カーターはこれほど取り付く島もなくなったのだろう? 彼はこんな男じゃなかったはずだ。
過去のカーター像にまでさかのぼって希望の光をまさぐるジョンの目の前で、カーターはぴしゃりとシャッターを降ろしてしまった。彼は言った。
「君には悪いが、わたしはこれからこの話を断る。いいな?」
カーターはジェームスのところへ戻り、すわるなり彼に尋ねた。
「ジェームス、ほかにもふたつ仕事の話があると一言ったな。どことどこだね?」
「セオテック、ベネフォード機器」
ジェームスは無表情で、短く答えた。カーターはうなずいた。ふたつの会社はどちらとも、名だたる合衆国政府の軍需下請け企業だ。そこでは多くの人々が本当に人間に必要かどうか怪しんでいるはずの、ありとあらゆるものが生産され、ワシントンや、ぺンタゴンの需要を満たしていた。
「それらは君の症状のことも承知なわけだな? 治療費は出してくれるのか?」
カーターのしゃべり方は、すっかり事務的になっていた。
「ああ」
ジェームスはうんざりしていた。これから自分に悪いニュースを伝えるための相手のみえみえの伏線に、いちいち相槌を打たねばならないのだ。
「ではこれで決まりだな」
カーターは巧妙だった。直接には相手に手をくださずに、しかし結局は切り刻んでゴミ箱に投げ込んでしまう政治家風の手口で、やんわりとジェームスをからめとっていた。カーターがたとえ黒い腹や、鉤のついたシッポを丸出しにしていたとしても、ジェームスには手も足も出ないのだ。
「わたしはそこまで面倒は見ない。君はふたつのうち、どちらかへ行くべきだ。どちらも巨大企業だし、君にふさわしい。仕事の内容も手当ても、わたしのところの比じゃない」
カーターはしゃべりながら、自分の言っていることが本当に正論であることに気がついた。ジェームスに欠陥があることを知って買い叩いたとしても、自分たちのもとへ迎え入れる気になったからには、彼らはそれなりの報酬や待遇を用意しているだろう。少なくとも、一介の探偵助手とは、比べるべくもないはずだ。ジェームスは迷うことなくそちらを選んでしかるべきである。
カーターは、ジェームスという人間を知らなかった。
「ふたつのうちどちらへも行く気はない」ジェームスは顔を正面に向けたまま、目だけでカーターを見て言った。「知っているだろう、あそこは何かを生み出す場所ではないし、維持や管理をする場所でもない。それに大金は必要ないんだ」
カーターは、早熟な天才児の口から、無欲な言葉の発せられるのを聞いた。善行や徳のために、たいへんなチャンスを棒に振る場面は映画や物語の中ではよく見るが、カーターには現実にその例を見た覚えがない。何しろお話の中では、チャンスを捨てた善人は、必ずあとでさらに大きな幸運をつかむことが約束されているのだが、現実にはそんな保証は何もないのだ。
一瞬のうちに、半身白トラ、半身コリー犬の化け物は、重々しい声で野蛮な人類に平和の秘訣を説きに来た、白い顔の高潔な異星人に変身してしまった。だが純白の宇宙人は、下界での世渡りには少々不慣れだった。彼は事実や本心を、あるがままに語ることしか知らなかった。
「そして治療も」
と、ジェームスは結んだ。
「どうして治療が必要ないんだね?」
ジェームスのもっともらしい口調にひかれて、カーターは思わず尋ねた。
「神経症じゃないからだ」
ジェームスはきっぱりと答えた。
カーターは、あやうく大笑いするところだった。ジョンは頭を抱え、机に突っ伏してしまった。ジェームスは、相手が医者なら自分のせりふが冗談に聞こえるだろうことを知っていた。彼は眉ひとつ動かさなかった。その乾いた表情から、カーターはジェームスが本気なのを知った。彼はいつも本気なのだ。
カーターは、今度はそら恐ろしくなった。目前の大柄な男は、マーライオンのような異種合体の怪獣かも、白い宇宙人かも知れなかったが、今はその上に、本当に気のふれた囚人である可能性まで加わったのである。どんな理由があれ、檻も監視もなしにこんなものと面会させる刑務所の体制を、けしからんとさえカーターは思った。
カーターは静かに立ち上がった。医者の本能で、その表情はこの上なく優しいものとなっていた。
「ジェームス……気持ちはよくわかる」カーターは、きわどい状態にある巨大な病める生き物を刺激しないように、おだやかに言った。「誰だって、神経症だなんて診断されたら、いい気持ちはしないさ。だが、それを認めるところから治療がはじまるんだ。――お大事に」
こうして、面接試験は失敗に終わった。カーターは、きょうのことをきれいさっぱり忘れてしまうために、帰り道の途中、刑務所の廊下でも、車の中でも、ジョンにこの話を蒸し返させなかった。ジョンはおとなしく引き下がり、カーターの要求するままに、二度とジェームスの話を持ち出さないことを誓った。カーターは片手をあげたジョンの誓いの言葉を聞いてどうにか機嫌を直し、ふたりは握手して別れた。
だがカーターは知らなかった。
カーターと別れた後、オフィスに戻る車の中でジョンが、自宅の書斎にしまってある、ジェームスについての資料のつまったファイルの置き場所がどこであったか、煙草の煙をくゆらせながら思い出そうとしていたことを。それを鞄に入れて持ち歩き、何気なくカーターの家に置き忘れるか、タイミングをはかって有無を言わさず押し付けるかするのは、まだ印象の新しい明日か、二、三日中か、それともほとぼりのさめた一週間後がよいか、などとあれこれ算段をめぐらせていたことを。
そして数日後、同室のボアズに出所後の連絡先を尋ねられたジェームスが、彼にカーターの住所を告げたことを。
(おわり)
●参考文献リチャード・コウ工ン著、浜田隆士訳『生命の歴史』