冥王と獣のダンス外伝 枢機卿狙撃 〜Ageinst Greatest Trickmaker〜
上遠野浩平
「もっとも偉大な嘘つきとは、自分にだけは決して嘘をつかぬ者のことである」
〈勝利者の礎《いしずえ》、犠牲《ぎせい》者の未来〉より
1.
「問題は、我々にはあまりにも余裕がなかった、という点尽《つ》きる」
奇蹟軍条約機構の、第四方面軍副指令であるオットー・クビルパスはやれやれと肩をすくめながら言った。
「今や枢機《すうき》軍は破竹の勢いで我が陣営を圧倒《あっとう》している。ただ頭数を揃えて、我々の切り札たる奇蹟≠危険な悪魔の技だと愚《おろ》かな徴兵《ちょうへい》どもを恐怖に駆《か》り立ててるだけなのに、我々にはそれに対応するだけの数が絶対的に足りない」
絶望的だ、と言いながらもクビルパスの態度はどこかひょうひょうとしている。
「もはや通常の作戦行動ではこの劣勢を挽回《ばんかい》することは出来ない。分かるかな、リィズ・リスキィ君?」
「………」
副指令に一対一でこう言われたのは、まだ十五、六かあるいはそれよりも年下と思《おぼ》しき一人の少女である。
無言の彼女にかまわず、副指令は言葉を続ける。
「ただし通常の≠ナは、だ――」
野戦テントの中には今この二人しかいない。みすぼらしいテントに、簡易テーブルが一つあるきりのお粗末《そまつ》な前線基地の司令本部である。
「そこで君の出番だ。君の一粒の涙≠フ能力の出番というわけだよ」
クビルパスは少女の両肩に手を乗せた。
「………」
少女は無表情で、この副指令を見つめ返す。
その直線的で冷ややかな視線に、副指令は馴《な》れた調子でさっさと眼《め》を逸《そら》らした。
「何を狙《ねら》うんです」
リィズといわれた少女は、ここでやっと口を開いた。
副指令はぱちん[#「ぱちん」に傍点]、と指を鳴らした。
「そう、それだ。我々は追い込まれている。もうちまちまと細かい目標なんか狙ってる場合じゃない。だから一気に中心≠消すことにした」
リィズの表情が、ここでやっと揺《ゆ》らぎを見せた。眉《まゆ》がよって、訝《いぶか》しげな色が浮かぶ。
「どういう意味です?」
すると副指令はにやりと笑った。
「たぶん、君の思っている通りだろうよ、リィズ・リスキイ」
「まさか――今回の目標というのは〈枢機王〉ですか?」
敵勢力を統括《統括》する独裁者はそう呼ばれている。
だがその正体はだれも知らない。敵軍の兵士どころか将軍クラスでさえ、その顔すら見たことがないというのだから徹底している。
「そうだ――あの正体不明の怪物を暗殺する」
副指令は妙《みょう》に自信たっぷりな調子で言った。これにリィズは、
「無理でしょう」
とあっさり言った。
「君にも出来ないかね?」
「そうです。だから奇蹟軍の、他のどの奇蹟使いにも出来ないことになりますね」
リィズは簡単な口調で、ものすごいことを言った。自分よりも優れた者など味方にはいない、と言っているのだ。
何に優れているのか、それはこれまでの会話からも容易に推察できるだろう。
狙撃。
それがリィズ・リスキイの仕事なのだ。
「ふむ――これは言葉が少し足りなかったかな?」
クビルパスはかすかに首を振った。
「私は何も、本当に枢機王の正体を突き止めて、これを撃てとまでは言ってない。要は、敵軍の中心に撃ったのだ、と、それを敵の大多数に信じさせればいいんだ」
「……?」
リィズの眉がまた寄った。
「どういう意味ですか?」
「興味が出てきたかな?」
「話を続けてください」
枢機軍と奇蹟軍。
この二つの勢力は荒廃《こうはい》した世界でもう百年以上も戦争を続けている。
宇宙進出に失敗した人類は、再び一つの大地に縛《しば》り付けられる存在に逆戻りしてしまったのだ。ほとんど頂点にまで達したと思われる超高度技術の大半は失われた。そしてわずかに残された機械および兵器の生産プラントを独占した特権階級によって大多数の民衆が支配される、中世の貴族社会の再来の如《ごと》き世界が現出した。
だがこの状況に対して反旗を翻《ひるがえ》すものが現れた。彼らは特殊な能力を持ち、化学機械兵器に非武装、もしくはごく簡単な装備しか持たずに対抗し、これを爆破することが出来たのだ。かつての世界では超能力者やそれに類する名で呼ばれていた彼らは、この世界では新しい名である奇蹟使い≠ニ呼ばれることとなった。
そして彼らは枢機軍と呼ばれていた支配階級の連合軍に対抗するために自らを奇蹟軍条約機構と名乗り、各地の反乱分子を統合してもう一つの大勢力を築き上げることに成功した。
だが奇蹟使いの人数はあまりにも少なかった。当初ではたったの七人、それが何百万という人々を支えていた。ために奇蹟軍は一時は圧倒的な勢いで勢力を広めはしたものの、ついに枢機軍に対してのとどめを刺すことが出来ず、逆に押し返されて一進一退の状態が続いてそして――百年経《た》った今も、その状況は変わっていない。
いや、変わっていなかった、というべきか。現在も奇蹟軍の方が旗色が悪い。理由はいくつもの要因が重なっていて、どれと特定することは現在進行形で戦っている人々が判断することは難しかったが、その大きなものとしては戦線が拡大しすぎてしまって奇蹟軍の方が肝心の奇蹟使いを戦線に効果的に投入する機会を失うことが多いからだった。現在、奇蹟使いは公式には二十八人いるが、この反芻はまともに戦ったことがないほどなのだ。理由としては能力そのものが未熟で、数あわせで奇蹟使いに認定されているだけだったり、逆に能力が強力すぎて、味方を巻き込んでしまうためにここぞ[#「ここぞ」に傍点]と言うところでしか使えないためだったりした。いずれにせよ、どんな強力な抑止力でも、使われなければいずれは前線の士気になんの影響も与えなくなる。
じり貧になるか、一発逆転に掛けるか、奇蹟軍は選択を迫られているのだった。
(しかし、このひとが――)
ついている任務の重要度に比べればまだ若い、三十二になったばかりのネイトリー中佐は彼の横の席に座っている少女をさっきから横目でちらちら見ている
警備用のサイボーグ馬車のキャビンは狭《せま》い上に、装甲で覆《おお》われていて窓も小さく室内は薄暗い。
足場が悪いらしく、がたがたと車体は揺れ続けている。馬車は何時間も休むことなく疾走《しっそう》しているが、その間ずっとこうである。
だがその中で、少女は静かに目を閉じていて、その表情には全く疲労《ひろう》も憂鬱《ゆううつ》もみられない。
(この人が、本当に例の超兵器奇蹟使い≠フ狙撃手なんだろうか?)
ネイトリーはずっと黙《だま》ったままのリィズ・リスキイを見つめながら、やや息苦しいものを感じていた。
「情報部では――」
いきなり、それまで無言だったリィズが口を開けたのでネイトリーはびっくりした。
「は、はいっ?」
「情報部では、いつ頃からこの情報を掴《つか》んでいたのかしら?」
ネイトリーは情報部の所属であり、今回のリィズの任務サポートを担当しているのだ。
「自分は、直接に走らないのですが、しかし任務にはいるだけの確実性を得ているのですから、おそらく半年ほど前から尻尾《しっぽ》は掴んでいたと思われます」
ネイトリーの答えに、リィズは「ふうん」と軽くうなずいただけで、今の質問になんの意味があったか説明しようとはしない。しかしそれでもネイトリーは会話が成立したことでやっと重圧から解放された気になった。
「あの、閣下。質問してもよろしいでしょうか?」
「機密に関することでなければね」
リィズは簡単な調子で言った。もっとも、彼女に関することはほとんどが機密事項なので、これは実はほぼノーコメントといっているに等しいのだが。
「閣下は、ご家族は……?」
これは確認の意味もある。彼女は、この任務上では中立の立場にある某王国の貴族令嬢となっていて、証明書も用意されているが、実際それとどれくらい違っているのか、補佐役のネイトリーとしてもそれを知っていた方がよい。
「いないわ」
「……えーと」
「両親は私が物心つく前に死んだし、父も昨年戦死したわ」
両親≠ニ父≠ニいう言葉を彼女は区別していった。
これは要するに、彼女には実の両親と義父が別にいたと言うことだ。その義父が先代のリスキイである。彼女の属しているリスキイ家は奇蹟使いの一族であるが、そこには血のつながりはない。皆、養子である。彼女は四代目で、繊細で天涯《てんがい》孤独《こどく》になったところを先代に拾われる形で養女になったのだ。聞いたことはないが、先代も前の代のリスキイに同じように迎えられたのだろう。
生まれに共通するものはなく、ただ一つのことだけがこの一族を一つのものにまとめている。
きわめて優れた戦闘兵器であること。
それだけがリスキイの名と系統を支えているのだ。奇蹟軍最強の存在としての。
「……し、失礼いたしました」
「別に」
焦《あせ》って詫《わ》びるネイトリーに、リィズはあっさりした返事をするのみだ。
サイボーグ馬車は荒野をひた走る。目的地は近い。
2.
そのサナトリウムは辺境に近い、荒野と山脈の境目のような場所にあった。白い建物は遠目からも目立つが、それは逆もまた言えることで、緑の芝生《しばふ》がひたすらに広がるのみで障害物というものがない周囲からサナトリウムに接近するものがいればすぐにそれと分かる。
「――あれがそうじゃないですか、新しい患者さんの乗った馬車ですよ」
看護助手の何章年は、接近してくる影を窓の外に認めて医者に声を掛けた。
「だろうな。ありゃ貴族の馬車だ。お嬢様がお着きになられたぞ」
「迎えに行ってきますよ」
ナン少年はどこか浮き浮きした足取りで飛び出していった。
「やれやれ――」
医者は苦笑した。我々は呑気《のんき》なものだと思った。ここは平穏《へいおん》だが、山を二つ超えたらもうそこは枢機軍と奇蹟軍が死闘を繰り広げている戦場なのである。そこでは医者や医療設備が切実と必要とされているだろう。しかし常にそれらは不足しており、無駄な犠牲が増え続けているだろう。
それに対して、ここには医者もいるし、設備もあるが、だが患者はほとんどいない。奇病とされているモマナ病の治療を目的として、各勢力の中立地帯として建てられたサナトリウムであったが、モナマ病そのものはそれほど危険な病気ではないのだ。症状は眩暈《めまい》に指先の痺《しび》れ、それに軽い視覚障害がみられるぐらいで命に別状はなくこの病気で死亡したものはいない。それなのになぜわざわざサナトリウムなどあるかと言えば、これは発病者がどういう訳か各勢力でも高い地位にある貴族などの特権階級ばかりだったからだ。この治療には金を惜しまない、という連中ばかりが掛かる病気なのである。
それもここ数年は激減している。別に治療法が見つかったわけではない。勝手に減っているのだ。
ここに来る医者は事実上それぞれが研究を持っていて、各勢力から支払われている研究費を自分のテーマのために使っているだけなのである。
ただ患者にうまい食事をとらせ、適度に運動をさせ、規則正しい就寝と起床を命じて――要するに健康的な生活を二、三年過ごさせる頃には病気はいつの間にか治ってしまってるのである。
それでもここは閉鎖されない。
理由は、おそらく――患者が家族に接しているのが辛いからだろう。
「――どうもいらっしゃい!」
ナン少年はサナトリウムの前で停車したサイボーグ馬車に声を掛けた。
扉が開いて従者と思しき男が顔を出して「ああ」とうなずいた。奇蹟軍情報部のネイトリーである。だが彼は、ここでは当然|偽名《ぎめい》で名乗った
「ようこそ! それで患者さんは?」
とナン少年が言いかけたときにはもうその患者=\―リィズ・リスキイは馬車から自ら出てくる途中だった。
ナンは慌てて彼女の手を取ろうとした。だが彼女はそれには目もくれずに、さっさと地面に降り立つ。
「――ふうっ」
一息ついて、彼女は周りを見回す。
「なかなか――綺麗なところね?」
呟《つぶや》くその声は、とても澄《す》んでいる
しかも、人形のような美形だ。だがナンは一目見て分かった。間違いなく、こいつも病人だ、と。なんとなく、この世のあらゆることから切り離された孤独の影が差している。それはモマナ病患者に共通する印象なのである。
彼の方を振り向いた少女は、ちょっと眉を寄せて、それからためらいがちに言った。
「サナトリウムの方ですか?」
「そうです」
ナンは笑いながら言った。
「気になさることはないんですよ。僕は何に見えますか?」
「――あの猿≠フ顔に」
「猿というのは初めてだ。でも人間の顔が別のものに見えるというのは、この病気の一般的な症状なんです。心配要りません今によくなったら普通の顔に見えますよ」
「そうですか」
うなずきながら、リィズが心の中で、
(いや、実際になんとなく猿っぽい顔をしているんだがな――)
と笑っていた。
モマナ病患者のふりをして、この差サナトリウムに潜入するのが彼女の任務の第一歩なのだった。
しばらくは退屈な日々が待っているのだが、別に彼女はそのことは何とも思わない。
狙撃手は待つことに馴れているのだ。
とりあえずリィズは、彼女の担当についた医者を蛇と言うことにした。この蛇《へび》は、なかなか変わった男だった。診察している途中で、彼は上半身をさらしているリィズに向かってこんなことを訊《き》いてきた。
「君はどうしてその病気に掛かったと思う?」
「さあ? そんなことが自分に分かると思いませんが」
リィズは白々しい嘘を表情人使えずにつく。本当は知っている。それは暗殺任務のためだ。医者はかすかにうなずいて、
「よくモマナ病というのは、過剰に神経質になったものが罹ると言われている。なんというのかな――生まれついての高い地位で、しかし上に兄姉がいて彼らは自分より偉《えら》い、だが自分も他の庶民《しょみん》に比べれば偉い、でもそれが何処まで偉いものなのか分からない――どうしたらいいのか分からなくなる線の細い人間がなるというわけだ」
「本当ですか?」
「いや、実証はされていない。それに、それが原因なら簡単なものだ。私が一言こう言えばいいんだからね。あんたに病気を植え付けたのは僕です≠チてね」
蛇はウインクしながら言った。おかしな男である。リィズは小さく笑った。
「そうすれば、患者は自分が病気の因《もと》であるという意識から解放される、というわけですか」
「君は頭がいいが、そういう繊細さもこの病気には大敵なんだぜ。リラックスすることだ。ここには君を抑圧するものはほとんど無い」
蛇は自分が飲むためのお茶を入れ始めた。リィズによ「よろしいですか」といわれたので彼はうなずいた。彼女は服を戻した。そこにまた蛇が訊いてくる。
「ときに、君の御本家は枢機軍側かい、それとも奇蹟軍に寄ってるのかな」
「奇蹟軍、という言い方は枢機軍では認めていないんじゃありませんでしたかしら」
枢機軍の大本営は、未《いま》だ奇蹟という名の超常現象の実在を表向きは認めていない方針をとっている。あれは何らかの大がかりなトリックだというわけだ。
「ああ、しかし一方では教育のない、しかも前線で戦っている一般兵達にはあれは悪魔であるから滅ぼさねばならない≠ニか教育もしているわけだ。矛盾しているよね」
蛇は笑いながら言った。
「先生は奇蹟軍の味方ですか?」
「どちらでもないさ。僕は永世中立の施設に属する身だ。生まれたのは枢機軍側の陣営だが、別にそこに属しているとは思っちゃいない。研究こそ側が主君さ」
蛇は両手を少し広げて、芝居じみたものの言い方をした。
なるほど、とリィズは思った。確かにこのサナトリウムは戦争なんぞに関わらないで自分の研究をしたいと考えるもののためにあるような場所である。
「ここに入所するには、大変なの出しょうね」
「まあたいしたことはない。色々な資格をクリアして、医学関連の博士号を七つほど持っていればいいだけのことだ」
ふふん、と自慢げに鼻を鳴らした。リィズは苦笑した。
それからふと気になったので訊いてみる。
「あの、この施設というのは、最初に建てようと言い出したのは枢機軍なんですか、奇蹟軍なんですか」
「どちらでもない。辺境の貴族が提案したのさ。それがどうかしたのかい」
「……いいえ。別に」
なにか、重要なことに指先が触《ふ》れたような気がしたのだが、その感覚は既《すで》に失《う》せていた。
(なんだろう、なにが気になったのか……)
リィズは少し考えたが、すぐにそのことから頭を切り換えた。彼女の任務では、余計なことに気をとられていることは許されないのだ。
「それで先生、結局は先生としてはどうなのですか」
「どうなの、とは?――ああ、奇蹟軍を認めるかどうか、ということか。さあね、あまり真剣には考えていないよ。ただ――」
「ただ、なんです?」
「枢機軍が奇蹟軍のことをああも認めてないのは、結局奇蹟≠ェ怖いからかもしれないね」
「怖い、ですか?」
「そう、未知なるものだからね。それは人を畏《おそ》れる。しかし――これはもしかすると、奇蹟軍側もまた、同じことが言えるかもしれない」
「――どういう意味ですか?」
蛇はニヤリと笑いながら、
「だって奇蹟使いというのは滅多《めった》に戦場に出てこないじゃないか。これは自分たちもそれを畏れているんじゃないのか」
「――でも軍を支配しているのは奇蹟使いたち本人ではないですか」
よく知りませんけど、と付け加えながらリィズは訊いた。蛇は肩をすくめて見せた。
「自分たちでも、自分たちの力の使い道が分からずに、徒《いたずら》に機会を浪費《ろうひ》しているのかもしれないよ。あるいは力の目的よりも、それを使って軍のトップに立つ方が面白くなったか。いずれにせよ、あまり明確な姿勢というのが見えないよね」
「そういうものでしょうか」
「お嬢さんには難しかったかな?」
「………」
リィズは応《こた》えなかった。代わりにまた質問した。
「では先生が奇蹟使いだったら――どうしますか? 研究に役立てるのですか」
「まあ、そうだろうね。あるいは能力そのものを研究するか――なかなか面白いじゃないか。人類の歴史に前例のない能力なんて、実に興味深い」
「――かも、知れませんね」
リィズは、気のなさそうな振りをしながらうなずく。
3.
リィズ・リスキイがサナトリウムに入院してから一ヶ月が過ぎた頃、山を二つ超えた平原では奇蹟軍の大反攻作戦が開始された。
枢機軍の侵攻《しんこう》に、近隣《きんりん》の資源採掘《さいくつ》地域を奪《うば》われそうになっているその地区の奇蹟軍部隊の、最後の力を振り絞った、破れかぶれの戦闘行為――と周囲には見えた、枢機軍は守りを固めて、奇蹟軍が息切れするのを待った。しかし敵は思ったよりも粘《ねば》り強く攻撃してきた。相手に余力がないにもかかわらず、枢機軍勢は押され気味になっていた。
「援軍を求める」
と枢機軍の部隊が大本営に要請《ようせい》したのは当然のことだったろう。後一押しで敵は崩れるし、ここで退くのは明らかに下策である。無駄な消耗戦につきあうよりも、ここは数を増やして押し切った方がよい。
この要請は大本営にも認められて、だが事態が急でありすぐさま他の駐留《ちゅうりゅう》軍を派遣するだけの余裕はなかったので、中央皇都に駐在している特別軍の派遣が急遽決定された。
別名〈黒い剣〉連隊とも呼ばれている、それは枢機軍支配体制という要≠フいわば親衛隊とも言うべき精鋭《せいえい》編成軍である。その出撃はきわめて珍《めずら》しく、このようにその勝利が新しい資金確保への橋頭《きょうとう》堡《ほ》となるような重要局面にしか姿を見せないのである。いわば奇蹟軍に置ける奇蹟使いと同じような立場にある部隊なのであった。
遊軍の叛乱《はんらん》に対しての制裁軍としての側面もあるためその部隊構成は極秘であり、指揮官が誰なのかもいっさい不明である。戦場に姿を見せるのは各地から選りすぐったエリート兵たちのみで、指令を下すものは外には姿を見せない。
だから――一部ではまさにこの部隊を指揮しているものこそが、謎に包まれている枢機王≠サの人ではないか、ともっぱら噂《うわさ》になっているのだった。
「勿論あの資源採掘地帯になんぞもう、なんの価値もない」
リィズに指令を下したときに、副指令のオットー・クビルパスは得意そうに笑った。
「全部取り尽くしてしまったからな……あんなものはさっさと放棄《ほうき》してしまった方がマシなくらいなんだが、しかしこういう利用価値もあるかと思って長いこと敵も味方も欺いてきたというわけだ」
「それを餌にして〈黒い剣〉を引きずり出そうと? しかしその指揮官が枢機王本人であるはずがないと思いますが?」
「ああ、そんなことは当然だ。問題はどっちにせよ無敵だのなんだの言われているあの部隊を潰《つぶ》すことで、枢機軍陣営に動揺を呼ぶことにあるのだからな。そしてかすかにスパイスをきかせてやるわけだ……あるいは?≠ニな。あるいは枢機王がやられてしまったのではないか?≠ニ、少しでも前線の兵士にそう思わせることが出来れば、その恐怖で、支えられているだけの敵軍の士気はあっという間に崩壊《ほうかい》してしまうだろう」
士気が多少落ちても、枢機軍の恐るべきはその指揮系統の頑強さにある以上、それほどの効果は期待できないのではないかとリィズは思ったが、しかし確かにそれなりの戦果ではある。それに……
リィズがなにを考えているか悟ったようで、クビルパスはニヤリと笑った。
「そうだ。それに――真の目的はさらに、その後のことにある」
「……枢機軍の、内部の混乱につけ込んで、どこかにいるはずの枢機王《ほんもの》を引きずり出す、と?」
しかし――とリィズは改めて思う。
枢機王とは実在する人物なのだろうか?
あるいは独裁者などは、枢機軍が全体の統制を取るために作り上げた架空の存在ではないのだろうか? その可能性は高そうだ。
だがもし、本当にいるのならば、その正体の誤魔化《ごまか》し方は見事としか言いようがない。暗殺を警戒《けいかい》して隠《かく)れているのだろうが、一体何処に潜《ひそ》んでいるのだろうか?そして部下にどのような形で命令を下して、その支配力を維持しているのだろうか?
謎だらけで、確かに実在するのならばこの恐るべき敵を倒《たお》すには一筋縄《ひとすじなわ》ではいくまい。うぬぼれでなく、世界中でリスキイ∴ネ外の誰が出来るのか、とも思う。
「隠れた独裁者の尻尾を掴んだその時こそ本当に、君に枢機王を倒す仕事をして貰うことになるだろう。今回のような軽いデモンストレーションではなく、ね」
軽い、と実に簡単な調子で言ったが、しかしこの作戦ではおそらく犠牲者が相当出るだろう。特に、戦場で戦っている兵士は、自分がただのおとりとして使われているなど思いも寄るまい。
リィズはかすかにため息をついた。
「相手は一応は、枢機軍最強の部隊と言われているようですが」
「ああ〈黒い剣〉が強いのなんだのと言われているのは、半分以上が勝ち戦にしか現れないことが理由なのだ。なあに、君の力の敵ではあるまいよ」
「指揮官を暗殺すればよいのですね?」
「そうだ」
「どこで狙いますか?」
「打ってつけのところがある……。あの地帯に救援に向かうのに、絶好のコースがある。奴らは必ずそこを通るはずだ――」
……そして、リィズはそのコースのごく近くのサナトリウムに潜んで、時期を待っていたのだった。
医師たちの難しい話の相手をしたり、診察を受けたり、猿に似た助手の少年をからかったりしているうちに時間は自然と過ぎていった。そしてそれは来た。
「今日は一日、外に出ないでください」
ナン少年が朝一番にそう言いに来た。
「どうして?」
「軍隊が近くを通るらしいんですよ。物騒《ぶっそう》なので」
「軍隊って、奇蹟軍?」
「いや、枢機軍です。昨日の夜遅くに伝令が来ました。でもどっちだって大して変わりませんよ。全くこんな病人がいるところまでこなくてもよいのに――」
ナン少年は不満げに言って、猿に似た顔を正義感に歪ませた。
「へぇ――」
リィズはうなずいた。
まんまと引っかかった。内心ではこの作戦が成功する確率は五分以下と見なしていたので、やや意外ではあった。ここの病人として呑気な暮らしもなかなか悪くなかったので少し残念ではある。
しかし、彼女はそんな感慨《かんがい》など無関係に機械的にすぐさま仕事の準備にかかる。
彼女は他に誰もいなくなった個室の窓を開ける。
「―――」
空を見上げて、天候の状態を細かく確認する。
晴れている。風も少ない。雲の動きもゆったりとしていて、急に雨が降ってきそうな兆候もない。
すう、と一息吸い込んで、その味から空気の湿度を確認する。
一ヶ月以上生活してきて、この近辺のコンディションは大体分かるようになっている。今は季節の変わり目でもないから、突発的なことが起きたとしても、それほどの変化はないだろう。
やる[#「やる」に傍点]に当たって、問題は何もなさそうだった。
強風や大雨で、仕損じる危険がないとは言えないので、彼女は慎重《しんちょう》だった。本番では一度たりとも外したことはないが、演習では何度か狙ったところに当たらなかったことがある。
彼女は修練を重ねて、同じ失敗は二度としないようにしている。真面目《まじめ》なのだ。
ふと、あの蛇≠フ医者にいつか言われたことを思い出す。
「君は、割と思い詰めるタイプだろう? 病気を悪化させているのもそれが原因かも知れない。人を人とも思えないくらいに、君はなにか特別なことにとりつかれているんだ」
その通りだわ――と彼女は思う。
自分は奇蹟≠ニ呼ばれているこの能力に取り憑かれているようなものだ。
だが、そういう風になってしまった以上、彼女としてはその能力が導く人生に対してもう抵抗は感じない。世界中でこれ[#「これ」に傍点]が出来るのが自分だけであるならば、それ[#「それ」に傍点]をやるまでだった。
彼女は外から流れ込んでくる風に身をさらしながら、目を閉じる。
一粒の涙
彼女の能力はそう名付けられている。使用用途は奇襲と、それによる目標の破壊――他のことは思いつけない。
「………」
空気がかすかに揺れているのが関知できる。彼女の能力はある意味で≠フ能力とも言える。正確には風に乗せて、あるものをとばす能力と言うべきだが、別に彼女はその凶器≠他に用意しておくわけではない。そんなことをしたら警戒している相手に勘づかれてしまうのがオチだ。
遠くで、様々な種類の装甲車やトレーラーの軍団が山道を進んでくるのが彼女には分かる。枢機軍陣営の虎の子である各種機械兵器をしこたま[#「しこたま」に傍点]揃えた最強の兵団というわけだ。
(……どいつだ?)
彼女は風を伝わらせて、色々な情報を探る。関知できる有効範囲は大体五メートル半径の園内に限られるので、地図の上に虫|眼鏡《めがね》を走らせていくような要領で調べるところをずらしていく。特に人間の呼吸を調べる。呼吸していない者はいないから、全員の位置は十秒経たずに把握できる。だがその中のどれが誰なのか、指揮官を知るのはやや時間が掛かる。
頑強な装甲車内部にいる奴《やつ》らのうちの誰かが怪しいと思ったが、やがて馴れてきた彼女は連中が喋《しゃべ》っている言葉を聞き取れるようになってきた。
……帰りたいな、故郷に……
小声でぼそぼそと、装甲車のドライバーがこぼしているのが妙にはっきり認識できたのを境に後はもう鮮明に全てが理解できてていく。
(…装甲車にいるのは全員、ただの突撃兵たちか…するとあっちのホバー推進のジープとトラックが狙いか……ちっ)
リィズはかすかに舌打ちした。空気を大地に吹き付けて移動しているホバー推進の側では、彼女もうまく能力が使えない危険がある。
その時である。少し離れたところに走っているジープに、二人だけで乗っている者たちが奇妙なことを言い始めた。
……これは、ここだけの話として訊いて貰いたいのだが
はい連隊長。なんでしょうか
実は、今回の作戦決定には枢機王陛下ご自身が、何らかの形で関与されたと言うことらしい……
――す、枢機王が……いや陛下が? どういうことです?
わからんが、しかし確実なのはこれがただの資源地の一つ確保するだけの作戦ではなく、我が枢機軍陣営全体に深く関わるものであるらしいと言うことだ。だから体の副官である貴官には、私が戦死したときのために、他言無用と言われていた命令を特別に――
風が乱れて、急に聞き取れなくなる。
しかし、これだけで充分《じゅうぶん》ではある。目標の位置はわかった。だが、彼らが今話していたことは――つまり、
(……枢機王が、今回の作戦のことに勘づいている、って言うの……?)
独裁者枢機王はやはり実在している。そして、こっちのことを既に知っている。狙撃のことや作戦のどこまでバレているかわからないが、しかし資源地の囮という誘いにわざと乗っているのは確実である。
見抜かれているのに作戦を強行するのは得策ではない。だがここを逃せばおそらく〈黒い剣〉の隊長を暗殺するのは不可能となるだろう。
(――どうする?)
リィズは少しだけ、迷った。
彼女には緊急時に、この作戦の責任者であるクビルパス副指令に連絡するための手段が残されている。〈遠彦《とおびこ》〉と呼ばれている奇蹟使いの中でだけ使える遠距離更新の見えないラインが今も通じているはずだ。いざ[#「いざ」に傍点]と言うときのために、あのラインはギリギリのところまで取っておかなくてはならないのだ。
(――いや、枢機王が何を狙っていようと、ここはやるしかない!)
リィズは覚悟を決めた。
目標すぐ側の空気に意識を集中させていく。
まだ目標は副官となにやら話している途中である。だが何を話しているかは、ホバーの空気の乱れで聞き取れない。
(――だが情報が漏《も》れていて、それを副官に伝えようとしているのならば!)
それを伝えさせてはならない。
彼女の脳裏には弓矢がイメージされている。その弦《げん》をぎりぎりと引き絞っている。その想像力はそれこそ奇蹟≠ニしか言い様のない見えない力となり、目標のすぐ側で具現化して、そして――
冷える。
急速に、瞬間的に、その空間の大気が収束され、分子の動きが停止して凍《こお》りつく。それは当然大気成分の何割かを占める湿度――つまり水にも作用している。
そして水は凍ると、氷という固体になり、固体はすなわち弾丸≠ノ――
(――ふっ!)
リィズが心の中で弓矢の弦を放つと同時に、その空中に突然出現したようにしか見えない氷の矢は、違《たが》わず目標の頭部を貫通、粉砕《ふんさい》した。
目標の身体は、ばしっ、と強烈《きょうれつ》な張り手でも喰《く》らったかのようにはじけ飛んで、ホバーバギーから転落した。もうその身体はそれ自体では全く反応しない。完全に即死だった。
任務完了。
4.
「――はぁっ、はぁっ、はあっ……」
極度の集中の後なので、リィズの全身にびっしり冷や汗が浮かんでいた。荒い息をなんとかなだめて、通常の状態に持って行く。
(……さて)
さて、任務を終えたからにはここから逃げることを考えなくてはならない。
正式の手続きを踏《ふ》んで、サナトリウムから退院するか、それとも姿をくらましてしまった方がよいのか、とリィズが少し考えようとしたその時であった。
辺りを激しい衝撃《しょうげき》が揺さぶった。そして、一瞬だけ送れて爆音《ばくおん》が轟いてくる。
リィズは立っていられずに、転倒して背中を打ってしまった。
窓の外で、高々と爆炎が上がるのが見えた。あれは――
「……炸裂弾砲撃を受けているのか!?」
そしてその目標は――この区域にはサナトリウム以外のものなど存在していない。
建物が砲撃によって破壊されていく。撃っているのは、今指揮官を狙撃されたばかりの〈黒い剣〉の機械化部隊だ。戦車隊が一斉砲撃しているのである。
「な、なんで――」
反応が、いくらなんでも速すぎる……!
遠くからの、奇襲による暗殺だったのだ。まずは守りを固めようとするはずだ。それがどうして、いきなりリィズのいるところを正確に察知して攻撃できるというのか?
彼女は体を起こして、とにかくこの砲撃から逃れなければ、と立ち上がろうとした。
そこに、さらなる砲撃が建物を直撃して、リィズの体も吹っ飛ばされた。
「――目標に着弾しました!」
不あの砲撃を聞くまでもなく〈黒い剣〉の副官にはその様子が双眼鏡で確認出来ていた。
「さらに砲撃を加えろ!」
彼は少しヒステリックに命じた。目の前で指揮官をやられたのだから無理もない。
「し、しかし……あそこは本来、中立の病院ですが……」
「あそこには奇蹟使いがいると、連隊長殿は確かにそう仰ったのだ……!容赦《ようしゃ》などしている余裕はない!」
「き、奇蹟使い……!」
その単語を聞いて下士官の顔色が変わった。それは戦場では死に神の代名詞なのだ。
「わかったら、さっさと砲撃の続行だ!」
「り、了解しました!」
部下が戦車に通じるマイクにしがみつくようにして命令を伝える。
それを聞きながらしかし副官には一抹《いちまつ》の不安もあった。隊長は全部を話してはくれなかったのだ。
『奇蹟使いがあの病院にいるらしいが、それは――』
と言い掛けたところで狙撃されてしまったのだ。詳しい命令そのものは結局聞くことが出来なかったのである。
だが、現にああやって隊長はやられてしまったのだ。あんな不自然な死に方は、奇蹟攻撃以外ではあり得ない。奇蹟使いが近くにいるのは確実なのだ。
無関係の民間人を巻き込むことにためらっていたら、こっちが逆にやられてしまう……!
「完全に破壊するまで、接近するなと伝えろ」
彼は慎重に、命令を付け加えた
「…………う、ううっ……」
意識を取り戻したとき、既に周囲は廃墟《はいきょ》と化していた。
「………」
リィズ・リスキイは、倒れた姿勢のままで這って移動していった。立ち上がったら目立って、攻撃されると思ったからだ。それは正しかった。遠く離れたところから、敵部隊はなおもこの場所に目を光らせていたからだ。
(……どうして、この場所が割れていたんだ……まるでこっちが指揮官を殺すのを待っていたみたいじゃないか……)
リィズは、その点がどうしても納得できなかった。
かつては、研究者たちの楽園であった呑気なサナトリウムは、いまや戦火《せんか》に巻き込まれたそこらの田舎町と何ら変わらない様相を呈《てい》していた。無惨《むざん》に踏みにじられて、積み上げてきたものたちが蹂躙《じゅうりん》されて跡形もなくなっていた。
賢明に逃走していた彼女の動きが一瞬、硬直するように止まった。
彼女の目の前に半分埋まっているのは、あの変わったことばかり言っていた蛇≠フ医者だった。頭が割れていて、白目をむいていて、ぴくりとも動かない。
「………」
リィズは少しだけ表情を曇らせたが、しかしすぐに移動を開始した。感慨《かんがい》に耽《ふけ》っている余裕はなかった。
地べたを這いずって、安全なところまで避難しなくてはならなかった。
(どうしてだ……)
心のなかで繰り返すその疑問は、しかし既に疑問ではなくなりつつあった。
他に考えられなかった。そして、いまの死体を見たことで、言われたことを思い出して全てがはっきりした。
――あるいは力の目的よりも、それを使って軍のトップに立つ方が面白くなったか――
どうしていままで気がつかなかったのだろうか?
こんな簡単なことに、うかうかとはまってしまった自分に怒《いか》りを感じた。
そして、その時にタイミングよく、それ[#「それ」に傍点]が来た。
『――生きているかね、リィズ・リスキイ?』
副指令オットー・クビルパスからの遠彦だった。見えないラインがまだつながっていたのである。
(――ええ、残念ながらね)
リィズは声には出さずに、心の中で静かに返答した。
『おやおや――これは驚いたね。たいした悪運の強さだ。だが今、おそらく君は完全装備の機械化部隊に包囲されているんじゃないのか。脱出は難しかろう』
面白がっているような言い方である。
いや――要に、ではない。こいつは実際に面白がっているのだ。
(どういう取引だったんですか?)
リィズはむしろ穏やかな調子で聞いた。
『君は少し優秀すぎた』
『加減というものを知らない。何も参加する作戦という作戦に、期待以上の戦果を上げ続けなくともいいんだよ。君は一人で枢機軍を任してしまうつもりだったのかね?』
(それが可能であればそうしていたでしょうね)
『いかん、それはいかんね――君は全体の調和というものをまるでわかってない。我々奇蹟使いは、別に無知で愚鈍《ぐどん》な民衆を悪辣《あくらつ》なる独裁者から救う救世主などではないのだ。そんなものはどうでもよいのだ。我々は我々の、崇高《すうこう》なる立場を守るために生きるべきなのだ』
(………)
『枢機軍という敵≠ェあればこそ、我々は民衆に対して守護者≠ニして君臨できるのだ。そうでもなければ我々の偉大さをあの愚《おろ》かの民衆どもは理解できない。これは必要なことなのだよ』
(………)
『君は邪魔《じゃま》になった。有《あ》り体《てい》に言えばそう言うことだ。いや枢機軍の方にはただ、スパイを通して君の居場所を教えてやっただけだ。作戦任務そのものは本物だった。いや、ご苦労様だったね』
(――枢機王を殺す、と言う目的そのものは嘘だったのですか)
『当たり前だろう!枢機王を倒す?そんな途方もないこと出来るわけ無いじゃないか!』
せせら笑った。しかしリィズはその嘲笑《ちょうしょう》に何の怒りも見せずに、静かに言葉を続けた。
(ではあなたは奇蹟軍条約機構共通規第四〇九条の第三項〈将軍命令偽証罪〉の相当します。あらゆる奇蹟使いの間では、機密を証さぬことは許されても、偽《いつわ》りを告げて誘導することはこれを許さない――あなたは第一級軍法犯罪者として確定しました)
この、淡々とした少女の恫喝《どうかつ》に、さすがにクビルパスの気配が鼻白《はなじろ》むのがわかった。
『――リスキイ、貴様、自分を何様だと思っているのだ!?言っておくがな、この作戦そのものは第四方面軍指令であるマゼーネ提督から命じられたものなんだぞ!貴様のような小娘に軍旗がどうのこうのと言われる筋合いはない!』
しかしこれにも、リィズ・リスキイはあっさり応えた。
(なるほど――では提督もまた同罪、と言うことですね)
あまりの不適さに、クビルパスの方で絶句してしまったところに、リィズは最後に[#「最後に」に傍点]告げた。
(それではさようなら、副指令)
この唐突な言葉に、明らかな動揺した調子でクビルパスが、
『――なんだと? それはどういう――』
と言いかけたところで、しかしその気配が突然に、
――ぶつっ、
と途《と》切《ぎ》れた。
「…………」
リィズには見えないが、しかし何が起こったのかは知っている。
遠彦の、かすかなラインを伝わらせて、彼女の一粒の涙≠ェ――氷の矢の遠隔《えんかく》操作狙撃が今、クビルパスの頭をぶち抜いたのだ。もちろん、その狙いは脳天の急所で、確実に即死するところしか狙っていなかった。
ずっと仕掛けておいて、もしもクビルパスが裏切っていたときにこれを処理≠キるために。このために――いざ[#「いざ」に傍点]というときのために、遠彦で連絡はぎりぎりするわけにはいかなかったのである。一度でもラインがつながってしまえば、この罠もまた解けてしまうからだ。
「――ふぅっ」
リィズは集中を解いて、息を吐き出した。
彼女は別にクビルパスを疑っていたわけではない。
ただ、いつもの作戦行動のときにはこのような保険≠用意しておくようにと先代のリスキイから言われていたことを守っていただけだ。
(――なるほど、こういうときのためだったのね、お父様)
彼女は心の中でうなずきながらも、冷静に、地べたを這いずり回って脱出口を探し続けた。
5.
「あ、ああ……?」
廃墟と化してしまったサナトリウムで、気がついたナン少年はあまりの参上に絶句していた。
いったい何が起こったのか、まるでわからない。気絶して、そして目を覚ましたときにはこんな世界の終わりの如き光景がただ広がっていたのだ。
「な、なんなんだよこりゃあ……」
ふらふらと立ち上がって、よたよたと歩き出した。しかし周囲に動くものが彼以外誰もいない。
「こんな……こんな馬鹿《ばか》な……ここは絶対に中立で、安全だって……」
ぶつぶつと呟く声を聞くものもいない。
その彼の彷徨《ほうこう》が、びくっ、とした痙攣《けいれん》で止まる。
死体が転がっていた。それはリィズが蛇≠ニあだ名を付けていた研究主任だった。
頭蓋骨《ずがいこつ》に裂け目が出来ていて、体液が外に漏れだしていた。
「せ、先生……どうしてですか?」
彼はぼんやりとした表情で、その半分埋《う》もれた主任の方を揺すぶった。
「これはいったいどういうことなんですか、ねえ、先生……!」
ナン少年は半分気が触れかけていたのかも知れない。返事などするはずもない研究主任に向かって、盛んに反しかけていたのだから。
だが、現実は彼にそれすらも許さぬ意外な様相を見せた。
「計算を、間違えたのさ――」
と返事が返ってきたのである。
それは今の今まで、完全に死んでいるはずの、頭を割られている研究主任の口から漏れた。
「え……」
とナン少年が虚《きょ》をつかれて反応が鈍《にぶ》ったときには、もうそいつ[#「そいつ」に傍点]はバネ仕掛けのように跳ね上がって、少年の首筋にかみついていた。
そして、その血を――命のエキスを一気に啜《すす》り込む。一瞬で少年の顔がみるみる蒼白になっていく。
「あ、あう、あうう――?」
ナン少年は何が起こったかもわからずに、その場に崩れ落ちた。
「いや、全く計算違いだった――まさか本当に、この私[#「この私」に傍点]を殺そうとしていたとはな」
研究主任だったそいつ[#「そいつ」に傍点]はゆっくり立ち上がった。割れていたはずの頭が、元に戻っていた。そこに致命的な裂傷があったことなど、とても想像できない完璧《かんぺき》さで回復してしまっていた。
そいつの顔には、もう青白い研究者の色は欠片《かけら》も見られない。
代わりに、何者にも支配されず、何者をも支配するものだけが持つ奇妙な雰囲気を全身に、さながらローブのように纏《まと》っていた。
小声で、ささやくように呟く。
「今の遠彦≠聞いていてわかったが――やはり奇蹟軍の方も、私と同じようなことをしているらしい。立場を守るためにはなりふり構っていられないと言うことか――もっとも」
にやり、と笑う。
「最強の能力命喰らい≠フ奇蹟使いたるこの私に比べれば、まだまだ甘過ぎるがな。――なぁ、ナン君?」
呼びかけられると、今、新たな死体と化して崩れ落ちたはずのナン少年が、いつの間にか立ち上がっていた。その顔色に変化はないが、なんだか眼が不自然な輝きを放っていた。
「はい、マスター。なんなりとご命令下さい」
絶対的な忠誠がそこにはあった。謎であった圧倒的なまでの支配力の源泉がまざまざと証明されていた。
くすくすとそいつ[#「そいつ」に傍点]は笑った。
「全く、奇蹟軍の連中、誰も気がつかないのかな、――奇蹟使いこそが人類の次なる進化局面――やはり敵の方にもそれ[#「それ」に傍点]がいるはずだと言うことに、な。しかもこちらの方が遙《はる》かに人間≠超えてる度合いが強い」
「はい、マスター」
「絶対安全の中立領域を作り上げて、その中に潜むというアイディアは良かったが――やれやれ、こんなことで隠れ場所を失うとはな。仕方ない、もうモマナ病患者を作るのはやめるとしよう」
「はい、マスター。なんなりとご命令を」
「とりあえず、この馬鹿な砲撃を仕掛けてきた奴を殺してこい――偉大なる枢機王の名の下に」
命じられた途端《とたん》に、ナンは人間を超えた恐るべき速さで跳躍して、その場から姿を消した。
「さて――」
そいつは腰に手を当てて、辺りを見回した。
「あの娘は――既に逃れたか。全く、つまらない好奇心なの持つものではないな。つい誘いに乗って、わざと引き入れてしまったことからこんな羽目になった。とはいえ――」
少しばかり、その顔に厳しいものが浮かぶ。
「あの娘――リスキイの四番目、リィズ・リスキイか」
あだ名にされたように、どこか蛇に似た眼を光らせながら独裁者は呟いた。
「あれは珍しく、どうやら奇蹟使いとして本物らしい――おそらく普通の人間の寿命しかあるまいから、私と遭遇することは二度と無かろうが、あるいは――」
彼は遠い目で世界を見ている。
それは景色ではなく、その先にあるものを見透かしてるような視線である。
そして呟いた。
「いずれ本当の私≠フ前に敵として現れるのは、さらなる未来のリスキイかも知れぬ」
「な、なんてことだ……」
サナトリウムが砲撃されて、破壊されていくのを近くの山に潜んでいたネイトリー中佐は愕然《がくぜん》として見つめていた。
彼はリィズをサナトリウムに送り届けた後、ずっと隠れキャンプを張って、見守っていたのである。もちろん彼には任務の裏の裏に何が隠されていたかなど思いも寄らない。枢機王暗殺が真の目的と言うことさえ知らされていなかったのだ。彼に与えられていた任務は彼女から要請されたときの援護であったが、しかしこうなっては援護するどころではなかった。
「任務は……失敗したのか?それとも……」
訳がわからない。
情報が漏れていたのか、それともリィズが成功して、その反撃を喰らったのかさえ、まるで判断でいない。
「わ、私はどうすればいいんだ……?」
……だが、はっきりしていることは、あんなにサナトリウムが完全に破壊されてしまっていては、中にいたものたちは……
「あれでは、とても――」
茫然《ぼうぜん》と呟いた、その時であった。
いきなり彼は後ろから足払いを喰らって、地面に転倒してしまった。
「――わっ!」
無様にすっころろんで、そして立ち直る前にもう、彼を倒した人影は彼の首筋を完全に極《き》めていた。
「――ネイトリー中佐、また会ったな」
耳元でささやいてきた、その声は少女のものだった。
彼と一緒《いっしょ》にこの地にやってきた、その人の声である。
「――リ、リィズ・リスキイ……閣下――?」
「情報が漏れていたな。貴官が敵に密告したのか?」
「……と、とんでも……ありません……」
「クビルパスからなにか言われているか?」
「……ふ、副指令から……? な…んの……ことです……?」
彼は訳がわからなかったので、必死で弁解しようとした。だがその必要はなかった。彼の表情を素早く観察していたリィズは、その段階で手を離した。
「……そうか、待機していただけか。ご苦労だったわね」
リィズは詫びようともせず、簡単に言った。
ぜいぜいと痺れる喉《のど》を押さえながら、ネイトリーはリィズを上目遣いに見た。
彼女はこの地にやってきたときの小綺麗な格好から一転して、全身が泥まみれになっていた。煤《すす》だらけの顔は真っ黒で、服装も半分以上がちぎれていて、擦り傷も至る所で見られた。
しかし、ネイトリーはその彼女をみすぼらしいとは思えなかった。それどころか、逆にその凄絶《そうぜつ》な姿を見て……圧倒されていた。
ボロボロになっているのに、この少女の眼からは恐るべき強い光が放たれていて、彼女がまさしく、こういう過酷《かこく》な環境に生きる戦士なのだと言うことを証明していた。そこには野生の狩猟肉食獣にも似た美しさが存在していた。
(――こ、これが……)
思わず、彼はつばを飲み込んでいた。
(これが――奇蹟使い――か……)
そこにリィズが声をかけた。
「脱出しなきゃならないわ。移動手段あるかしら」
「は、はい――サイボーグ馬を用意してあります。今は昏睡《こんすい》状態で固定してありますが――」
「すぐに起こしなさい。ああ、リミッターは切ってもいい。どうせ、馬を生かして連れ帰るだけの余裕はない――」
言い切った。この言葉にネイトリーも改めて自体を悟る。そうだ。我々は枢機軍の機械化部隊に追撃を受けているのだ。無事逃げ切ることはきわめて難しい。
「り、了解しました」
「急ぎなさい」
リィズは冷ややかに言った。
ネイトリーが大あわてで準備に罹ったところで、リィズは改めて、今、彼女がそこから逃れてきた、完全に破壊されたサナトリウムに目をやった。
「…………」
研究者たちの楽園は、もはや跡形もない。
そうとも――俗世間から超然と、平穏無事に何事もなく無関係でいられる場所などこの世のどこにもありはしないのだ。
それがたとえ、圧倒的な力を持つ奇蹟使いたちの奇蹟軍資はいたい所為であっても、だ。
「――とりあえず、次はマゼーネ提督か」
彼女は誰にも聞こえぬ、かすかな声で呟いた。
そうだ。彼女が奇蹟使いとして生まれついた以上、その能力を追求しないでいることは許されないことだ。進歩すること――これを禁じようとするものは、たとえそれが奇蹟使いを特権階級として維持しようとする奇蹟軍全体であっても、彼女はそれから逃げるつもりは毛頭無かった。
それがリスキイに与えられた宿命なのだ、と彼女は思った。これをもっとも濃い形で受け継ぐことになる天と地≠フ兄弟が生まれるのは、これより実に二百年後のことである。
「――準備が出来ました」
ネイトリーが言ったので、彼女はそっちを振り向いた。
「では行きましょうか」
「しかし、ルートはかなり厳しいです――そうそう簡単には領内に戻れませんよ」
ネイトリーの弱々しい声に、リィズ・リスキイはきっぱりとした態度で言った。
「覚悟は出来ているわ」
先の長いことなど、どうと言うことはない。狙撃手は待つことになれているのだ。
馬にまたがり、蹴《け》りをくれて、そして彼女は次なる戦いへと向かっていった。
“Against Greatest Trickmaker”
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