わたしは虚夢を月に聴く
上遠野浩平
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月の子と呼ばれて彼女は
緩やかな流れの中を舞う
ひとりぼっちの月の子は
墓地の木陰で夢界を漂う
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――キング・クリムゾン〈月の子〉
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『コード・レッド発令は第一級緊急事態に限られ、これに当たっては当機構の全フェイズに於《お》いて特別防御モードに移行する。だが、この〈赤《レッド》〉をも凌ぐ絶対危機に遭遇した際は――』
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――月面施設における非常事態対応則より
思い出せない……。
「今、ここにいる私は偽物なのよ、弥生《やよい》さん」
彼女は、高校二年生の弥生に不思議なことばかり言っていた。
「どういうこと?」
「ほんとうの私は、遥か昔に死んでいる。世界そのものに抗《あらが》おうとした悪事の報いを受けて、ね」
彼女はにっこりと微笑む。その笑い方はとても優しく、穏やかで、話している内容の突飛さとは全然不似合いのようで、その実、とても調和していた。その微笑みの印象は確かにそういうものだった。だがその顔は、その声は――どんなだったか……。
「それは――前世とかそういうこと?」
「いいえ。そんなロマンチックなものじゃないわ。もっと身も蓋《ふた》もない、そう――大量に取られたコピーの中に、一枚余計なものが混じっていた――みたいなところかしら?」
「……?」
「私は本来、運命の失敗作として世界の闇に消えているはずだった可能性。でもそれが出来損ないの、遠い過去のコピー作業の中で紛れてまた出てきてしまった――」
彼女は楽しそうにくすくすと笑う。
「本来なら、コピーされたのは、ただの上っ面の、私という人間の情報だけだったはずなのにね――精神の波長というのかしら? なまじコピーの再現性が高かったので、私という余計な因子まで甦《よみがえ》ってしまった」
……不思議だ。
このときの彼女の言葉の意味なんか全然理解できなかったのに、わたしはその内容はこうして覚えている。なのに、これを言っていたその彼女の、色々な――思い出せない。
「あなたには夢があるかしら、弥生さん?」
彼女は唐突に訊いてきた。
「え、えーと。一応――作家になりたいなー、なんて思ってるんだけどね、あはは。でも夢よ、夢」
言いながら、ちょっと恥ずかしくて、笑いながらごまかす。
しかし彼女はそんな弥生の態度に、あくまでもまっすぐに、
「それは、どうしてそう思うようになったのかしら。才能があるから?」、
と訊いてきた。
「い、いいえ! そんな、そんなんじやなくって。ただ、昔からわたし、本が好きだったから――自分でも書けたらいいなあ、って、その程度で」
「でも、いつかは本を書いてみたい?」
「う、うん――そりゃあ、ね」
弥生がもじもじしながらうなずくと、彼女は、
「それは、あなたの過去と未来の組み合わさったものね?」
と奇妙なことを言った。
「え?」
「あなたが読んできた本の、その読書経験が今のあなたの意志に関与している――つまり、あなたの夢を支えているのはあなたの過去」
彼女はいたずらっぽい表情をしている。
「そしてあなたが作家になるのはまだまだ先で、未来に起こること。だから、夢は過去と未来の間にあるもの。違う?」
「う、うん――そういえばそうね」
弥生は素直に感心した。
「夢というのは過去からつくられるもの、そして実現するのは未来になってから――時間の流れの中にしか、夢というものはない。今、このときに夢をその手に掴《つか》むことは誰にもできない――目標を達成したときには、それはもう夢ではなくただの現実。人は虚ろな夢という扉の前で見張りを続ける夜警当番《ナイトウォッチ》のようなもの――」
彼女の声はとても伸びやかで、透き通っていて、聴いているだけで心地よい感じがする。
「扉の中には決して入らないで、その前で立ち続けて、夢が現実に変わるときを待っている――しかし私には、どうやら現実≠ヘない。過去にも未来にも、存在しないことになりそうよ」
「え?」
「私は今に、この偽物の、冷たい月のもとにある停まった世界から消える。システムエラーとしてシールドサイブレータに消されるか、過去の世界と同じ歳で死亡することになるか、それはわからないけれど――」
そのとき彼女は――なにものも恐れぬというような、不敵な顔をしていたと思う。
「――今度は、死神に殺されるわけではないようだから、私という夢≠ワでは消えないと思うわ。今度こそ、途中で終わったりはしない」
――どうして、こんなにはっきりと、彼女の細やかな息づかいまで思い出せるのに、わたしは彼女の名前さえ覚えていないのだろうか?
「そうだ弥生さん――あなたに、ひとつ忠告を遺していくわ」
戸惑っている弥生に、彼女は優しい口調で言いながら微笑む。それは世の中に、こんなにもまっすぐに、ただただ笑う≠アとができる者がいるのか、というような、そういう不思議な微笑みだった。
そして彼女は言った。
「夜の果てを視るように、心の闇にすみれ[#「すみれ」に傍点]を咲かせよ=v
彼女はその、清水のように透き通った瞳《ひとみ》で弥生を見つめながらうなずく。
「あなたや、あなたが生きているこの世界に、どうしようもないことが起こったとき、その呪文を唱えれば、きっと興味深いことが起こるわ。きっと、ね――」
……わたしは、あの美しい彼女の印象を一生忘れないだろう。
だが、わたしは彼女と自分がどんな関係だったのか、それさえ何も覚えていないのだった。そんな人間など世界には一度も存在したことがないとでも言うように。
しかしわたしの耳の奥では、あの声が――夢と時間について語っていたあの響きが聴こえている。
そしてそれは、今も――。
T.蜘蛛の巣の上で Black Cobweb
1.
|妙ヶ谷幾乃《みょうがやいくの》は私の知り合いの中でも一番の変人である。
『夏美《なつみ》さん、ゴロゴロしてますか?』
幾乃からの電話は相変わらず唐突で、いきなりだった。
「なによそれは。嫌味のつもり?」
『はは、つーことは相変わらず、荘矢《そうや》探偵事務所には依頼人は来ませんかね』
「悪かったわね。売れっ子作家のあんたと追って、どーせこっちはしがない下請け調査員よ」
そう、彼女、妙ヶ谷幾乃の仕事は小説家なのだ。なんでも十六歳の時から書いていて、本ももう十何冊と出しているらしい。しかしそれらは文庫本の少女小説ばかりなので、人気の割には一般的な知名度は皆無だ。だからか先生気取りもせず、収入の多さの割に偉ぶるところがなくて、私なんかでも気軽にこうして話せる。
『ふてくされるのは、凛々《りり》しい女探偵さんらしくないですよ?』
「あのねえ、ウチみたいな個人の私立探偵っていうのはね、基本的には弁護士事務所のお得意先から、裁判調査や内偵やら、地味で細かい仕事を頼まれてなんぼの職業なのよ。事件を解決してるわけじゃねーの。どこが凛々しいっつーのよ」
『で、最近は、その仕事もない?』
「……この前、ひとつちょっとしたのを終わらせたトコよ」
『で、今は暇なんですね?』
「……そうよ」
私はつい、弱気な声を出してしまった。
「で、でもね、いつ依頼が入るかわからないし」
『依頼しますよ』
「……は?」
『私じゃないんだけど、私からの依頼ってコトで、仕事ひとつ引き受けてくれませんか?』
「な、なによ? どういうこと?」
『とにかく、ウチに来て下さい。昼飯ご馳走しますから、ね?』
「…………」
私はこの申し出を拒否したかった。
しかし悲しいかな、私には拒絶する理由がなかった。確かに今月は、昼飯代にも事欠いていたからだった。
幾乃の人気というのは、女子中高生には絶大なものがあるらしく、彼女のところにはよくファンの娘たちが訪れては彼女に人生相談のようなものをしていくという。幾乃に言わせると、そうやって読者の好みのリサーチも同時にやっているので「ま、持ちつ持たれつってところね」ということらしい。
そして今、彼女の隣に座っている醍井《さめがい》弥生という少女も、そういう読者の一人らしかった。
「…………」
彼女は上目遣いに、無言で私の方を見つめている。警戒されているな、と思った。私が幾乃の方に眼を向けると、彼女はうなずいて、
「大丈夫よ弥生ちゃん。このひと、こう見えても本物の探偵なの。お父さんが元刑事で、探偵事務所を開いて、その跡を継いだってわけなのよ。割と腕はいいし、私の友だちでもあるからちゃんと話を聞いてくれるわ。そう――」
幾乃はちら、とこっちの方を見て、いつも掛けている眼鏡をつい、と人差し指でわずかに持ち上げて――これは彼女の癖だ――そして言った。
「――たとえ、それがどんなに信じられないような話でもね」
ん、と私はちよっと怯《ひる》んだ。なにか部屋に変な雰囲気が漂っている。
ここは作家、妙ヶ谷幾乃の仕事場だ。私の事務所よりも広いワンルームマンションであり、色々な本が山と積まれ、壁には様々なポスターが脈絡なくべたべたと貼られている。それは自分の作品の表紙を飾っているイラストだったり、夕暮れのエジプトピラミッドの風景だったりする。
私たちが座っている来客用のソファーの周りにも、ごちゃごちゃガラクタが積まれている。いつもならこの混沌《こんとん》は結構いい感じなのだが、今はその中心で沈黙する少女の存在のせいで、全体的に不気味なイメージになっている。無数のガラクタたちが、今にもひとりでに動き出して、踊り出すのではないかというような、そんな錯覚を私が覚えていると、
「……消えたんです」
と、弥生が開口一番にそう言った。
「は?」
「あのひとが――いなくなってしまったんです」
ぼそぼそと喋《しゃベ》るので聞き取るのに苦労する。
「失踪した、ってことかしら? 誰が?」
私が訊き返すと、弥生は首を横に振る。
「……わからないんです」
「え?」
「誰だか――思い出せないんです……」
消え入りそうな声である。
「でも……いたんです、確かに……あのひとは……」
そして、また黙ってしまう。私には何がなんだかわからず、幾乃の方を見る。幾乃はいーからいーから≠ニいう感じでうなずく。私は仕方なく、
「あの人って――男? それとも女?」
と当たり障りのないことを訊いてみる。しかし弥生は首を振るばかりだ。
「何もわからないんです、あのひとが存在していたという証拠は何も残っていません。何にもないんです。学校にも転校していった人はいないし、近所でもそんな話は聞きません。でも――いないんです。いなくなってしまったんです……!」
弱々しい、しかしひどく切迫した様子で、少女は言いつのる。
要領を得ないが――彼女の話をまとめると、
誰かが自分の周囲から消えた。
それは自分と親しい関係の人間だったらしい。
少なくとも、彼女の方はその人に強い好意を抱いていたのは間違いない。
その人はついこないだまでは、確かに身近にいたはずだ。
しかし今、そんな人がいたという痕跡《こんせき》はどこにもなく、その人だけが忽然《こつぜん》と消失している。
周りの誰も、そんな人がいたことを覚えていない。
そして、彼女自身もその人の名前も姿もほとんど思い出せない――
……ということらしい。しかしこの話は要するに、その――
「……ちょっと」
私は、幾乃の裾を引っ張って、書斎の隅に連れてきた。小声で彼女の耳元に囁《ささや》く。
「なによ、あの娘は?」
「面白い話でしょう?」
幾乃の目は眼鏡の向こうでニコニコしている。
「そういう問題じゃなくて……あれはどう考えたって、その――妄想じゃないのよ?」
「ま、そうかも知れない」
幾乃はあっさりと認めた。
「だったら――」
私は弥生を横目で見ながら、さらに囁く。
「……病院に連れていった方がいいんじゃないの?」
「彼女は正気よ。少なくとも、病院でいくら調べられても、ちょっと感じやすい女の子ぐらいの診断しかされないと思うわ。なにしろ話の辻褄《つじつま》はあっているし、それは別に、自分に都合がいいように現実をねじ曲げているわけでもない。フツーの妄想症患者って、もっと自分は特別≠ンたいな感じになるものよ」
「いや、そうは言うけどね――」
「それに問題はそんなところじゃなくて、夏美さんにとって重要なのは、さ――」
言っている途中で声が大きくなっていくので私は慌てた。しかしそれを聞いて、弥生は席から立って、必死な眼で私の方を見て、
「あの――お金なら払いますから!」
と言った。
「……は?」
私は間の抜けた声を出してしまった。
「お金を払ってくれるってよ。どーする、女探偵さん?」
幾乃がニヤニヤしながら言つた。
「あの……? どういうこと?」
「だから――その、あのひとのことを調べて欲しいんです! ほんとうにそんな人は最初からいなかったのか、それとも――何か秘密があって、消されてしまったのか――私はどうしても、あのひとが実際にいたとしか思えないんです! お願いします!」
すがるように言われる。
「お、お金、ってねえ、あなた――」
「当然、百万単位よね?」
幾乃の言葉に、弥生はうなずいた。
「三百万ぐらいなら、なんとか」
「さ――」
それは――冗談抜きで、去年の我が事務所の経費抜きの収入額に匹敵した。
「さ――さん――」
私が口をぱくぱくさせていると、幾乃が肩をすくめながら、
「彼女、県会議員の娘なのよ」
と軽い口調で言った。
「お、お嬢様――ってわけ?」
「だから、親としても、娘が病院に通っているということになるくらいだったら、得体の知れないマイナー作家を通して、こっそりと私立探偵に頼んだ方がいいという訳よ。わかる?」
「い、いや――そりゃそうだけど。でも」
私は弥生の方を少し強い眼で睨《にら》む。
「あなたはそれでいいわけ? あなたとしては、その思い出だかなんだかわかんないものは、それなりに大切で純粋な感覚なんじゃないの? そんな金でカタつけさせられるみたいなさあ――」
「そういうことじやないんです」
弥生は真剣な眼で私を見つめ返してきた。
「あのひとはそんな、わたしだけの次元じゃないんです。これで親にはきっと、厳しいことも言われてしまうんだと思います。でもそんなことは大したことじゃないんです! あのひとがいなくなったことは、この世界にとって、とても大変なことのような――そんな気がするんです」
その言葉の静かな、ある種の覚悟のこもった声は確かに、この少女が決して日常生活からの安易な逃避でこんなことを言っているのではないことを感じさせた。
「うーん……」
私が少し黙り込むと、幾乃が、
「なに悩んでるふりしてるんですか? 知ってんですよ?」
と意地悪く言ってきた。
「な、何よ?」
「事務所の家賃――三ケ月ほど払いが滞っているんでしょう?」
「…………」
私がぐっ、と言葉に詰まったそのとき、どこか遠くで――しかし大変に近いところで、突然に、
fs4,039からの指令プログラムを受理、検索モードへの移行をシールドサイブレータに打診――承認。委任コード1223698884
……という声が聴こえたような気がした。
「――!?」
私は驚いて、周りを見回した。
しかし、音を出しているようなものは何もない。幻聴――?
(でも、どういう意味かさえわからない幻聴なんてあるの?)
「…………」
私が呆然《ぼうぜん》としていると、
「どしたの?」
幾乃と弥生が、二人して不思議そうな顔で私を見ている。
「な、なんでもないわ」
私はあわてて首を振った。
2.
昼間なのに、空には月が出ていた。
私と幾乃は、弥生の通っている学校にやってきていた。この学校は校門の所に、来校許可カードがないと勝手に通れない駅の自動改札みたいなシステムがついていて、管理人に許可を取らないと入れないようだった。立派な言い訳があるわけでもないので、私たちは校門から少し離れたところから様子を見ている。
「あんたは仕事しなくていいの?」
私は一応、幾乃に訊いてみる。
「ああ、へーきへーき。ぎりぎりの|〆切《しめきり》は昨日だったから」
「……終わったの?」
と私が訊くと、彼女は、わはは、と大笑いして、
「まあ、そんなことはどうでもいいじゃないの! 今は調査でしょ、調査」
と極めて明るい口調で言った。
「…………」
私は無言で、彼女の担当編集者に同情した。
ため息をひとつつくと、あらためて幾乃に訊ねる。
「で、あの醒井弥生さん以外にそのひと≠ニやらがいなくなったような気がする知り合いはいないの?」
「そういう話は彼女からしか聞いてないけど」
「とにかく、取っ掛かりが何にもないのよね――」
私は仕方なく、学校の周りを見回した。
学校は山の中にあり、周囲は緑が豊富だ。学生たちは坂道を上って通ってきている。秋頃だと、きっと紅葉が綺麗だろう。
私と幾乃があてもなく、学校の周囲をふらふらしていると、建物と校庭を囲んでいる金網が一箇所、周囲の緑に紛れていて判別しにくくなっていたが、ぶらぶらと外れている。
「ここは通れるわね」
「抜け道ってところか。きっと、こっそりとここを抜け出していく生徒がいるのよ」
私と幾乃はその抜け道をくぐり抜けて校内に入った。
こそこそと校庭の陰を進んでいく。
「でも、入ってどーすんの?」
幾乃が声をかけてきたので、私は「しっ」と彼女を刺し、そして校庭の隅に座っているひとりの少女を指差した。
「……あの娘がどうかしたの?」
「なんか、悩んでるっぽいじゃない。しかも、なんとなく醒井さんと印象が似てる気がする」
「気がする、ねえ」
私と幾乃はその少女をしげしげと観察した。
彼女は、どうやら校舎の、その屋上を眺めているらしい。屋上そのものには誰もいない。
校舎と空と、その境目ばかりを彼女は見つめながら、ふう、とため息をついているのだった。
「こんにちは」
私は彼女の背後から声をかけた。少女はびっくりしてこっちを振り向いた。
「な、なんですか?」
「私はこういう者ですが」
と私は名刺を出した。
「た、探偵――さん?」
彼女は眼をぱちぱちとしぼたいている。
「そう、ちよっとこの学校にいたはずの、ある人について調べているんだけど……話を聞かせてもらってもいいかしら?」
「あの……」
彼女は幾乃の方を見る。
「どーも、助手のワトソンです」
幾乃は眼鏡をちょっとだけ人差し指で上げて、おどけて言った。すると彼女は、ぷっ、と吹き出した。
彼女の名前は久美子《くみこ》といい、同学年の醍井弥生のことも知っていると言った。
「いなくなっちゃった人、ですか?」
「そう。そういう話に心当たりはないかしら?」
私は質問した。
うーん、と久美子はしばらく唸《うな》って、それから、
「そういえば、ちょっと違うけれど、似たような感じって、そういうのはあります」
と言った。
「あそこから飛び降りた――っていうんです」
「え?」
「ひとりの女の子があそこから身を投げてしまったというんです。理由は誰にもわかりません。失恋したのか、世の中に生きていくことが嫌になったのか、それとも――」
私も、久美子に合わせるように屋上に眼を向ける。
そこにはひとつの人影があった。少女が、柵《さく》に手を乗せて立っていた。
それはちようど今、話に出ていたように、今にも飛び降りてしまいそうな儚《はかな》いシルエットだったので、私は少しどきりとした。
そして――私と、その屋上の少女の眼が合った。
かなりの距離があったはずだ。それでも向こうの彼女は私に向かって、静かに笑った。
それは不思議な微笑みだった。
喜びとかお愛想とか遠慮とか、そういった理由がなにひとつそこにはないような、ただただ純粋に笑う≠アとが実現しているとでもいうのか――そういう微笑だった。
(…………)
私がちょっと絶句していると、横に立っている久美子が、
「でも、こういうのは全部、噂《うわさ》話なんですけどね」
と軽い口調で言ったので、私は「え?」と彼女の方に向き直る。
「そ、そうなの?」
「ええ。だってあの屋上そのものが、そもそも閉鎖されてて誰も入れないし――」
「え? だって、今、あそこに――」
と私は屋上に眼を戻したが、しかしそこには何の影もなかった。
あの少女の姿は、忽然《こつぜん》と消えていた。
「…………」
私が唖然《あぜん》としていると、幾乃が、
「どうしたの?」
と訊いてきた。私は我に返り、
「う、ううん。なんでもないわ」
と頭を振った。
確かに、屋上の扉には鍵が掛けられていて、固く閉ざされていた。
「…………」
私は、自分は錯覚を見たのだろうか――と自問してみた。
だが、それには幻覚と片づけるには――生々しいというのではなく、心の中に違和感を生じさせたあれが、自分の幻覚として頭の中から出てきたとは信じられない――奇妙な存在感があった。
(自殺した少女の噂、か―)
私は開かない扉を前に心の中で眩《つぶや》いた。そのとき、どくん、と私の胸が不規則な鼓動を刻んだ。
「――――」
貧血で倒れる寸前のように、すうっ、と意識が身体から遠ざかる気がした。
「どうかしたの?」
幾乃が黙っている私に訊いてきた。
私は――
……開けろ
私の胸の奥で、意味不明の衝動が湧き起こっていた。
この閉ざされた扉をこじ開けて、その向こうに行ってみたい――急に、ものすごくそうしたくてたまらなくなった。
……この手で、扉を――
ぐっ、と私はその鍵が掛かっているノブを握りしめて、力をみしみし[#「みしみし」に傍点]と加えていく。手に血管が浮き上がり、肩から手首にかけてぶるぶると震え出す。
……扉をこじ開けて、外側に――
「外側に……!」
私はいつのまにか、ぶつぶつと呟いていた。
「ち、ちょっと夏美さん!」幾乃の声が聞こえて、そして彼女が私の手を掴《つか》んでいることにやっと気がついた。
「……あ」
ふいに、急に正気に返る。自分が、痛くなるほどにノブを握りしめていたことをやっと悟る。
「わ、わわっ!」
私はあわてて扉から離れた。
「な、なんなのよ?」
幾乃に驚いたように訊かれるが、自分でも何がなんだかわからない感覚だった。
「い、いやその……」
私は頭を力なく左右に振った。
「な、なんだかこの外側に出なきやならないような気が急にして……」
言いながらも、私は自分で自分の言葉がわからない。
外側――外側ってどこのことだ?
それはこの、校舎の屋上ということなのだろうか? しかしそれならばいくつも行く方法がある。なにも開かない扉を無理矢理開けなくてもいいようなものなのに、私はとにかくこの扉≠開けなくてはならないという気持ちになっていたのだ――一体、どうしてだろうか?
「ちょっと待ってよ、まさか飛び降りた少女の霊に取り憑《つ》かれたとか言い出すんじゃないでしょうね?」
幾乃に呆《あき》れたように言われたが、私は反論する気力もなかった。
現実的には、何の異常も起こっていない……しかし、私はこの依頼がただの、ノイローゼ気味の少女の不安を晴らすだけの仕事ではなくなってきて、もっと致命的な何かに関わったことのような気がしてきてならなかった。
3.
私は、いつも事件に詰まったときにそうするように、隠居している父の意見を聞くことにした。
『実際は自殺したのに、病死とか事故死という形で処理されてしまうことはあるな』
電話口で父はそう言った。
「でもお父さん、どんな形であれ死亡届そのものは出されるんでしょう?」
『直前に引っ越ししていたことにして、そっちの方の役所に出した形にすれば、地元には転居届しか残ってないこともあるぞ。そして引っ越していく人間の数は多い。その中に埋もれてしまうことも珍しくない』
「うーん」
長年、刑事をしていた父の言葉にはさすがに重みがある。
『しかし、この件では周りの人が覚えていないというのがネックだな』
「それなんだけど」
私は電話なのに、少し声をひそめて言った。
「覚えていないのが、実は依頼人だけ、というようなことはあり得るかしら?」
『つまり、他の連中は皆で口裏を合わせているだけ、というわけか? それだと相当な大事ということになるぞ』
「その可能性もあるってことよ」
私は、この事件に関してはどんなことも考えられる、と思っていた。理由はというと、ただの勘としか言いようがないが、しかしもともと雲を掴むような話なのだから、そういうところを大切にしないとすぐに途方に暮れるだけで終わってしまう。
「それで、依頼者の記憶が混乱しているとして、その理由は何かしら? そういう薬物というのは簡単に手に入るものなの?」
『さあな。場所や時期によってまちまちだから、引退した身としてはなんとも言えん。だが話に聞いたところによると、催眠暗示というのは受ける側の精神状態が不安定であればあるほど掛かりやすいということだ』
「催眠暗示、か――」
私はその言葉を聞いて、ある作家の書いた本の一節を思い出していた。私が自分で買った本ではなく、確か幾乃の所でちらと暇つぶしに手にしただけの本だったように思う。それには……
人間の精神構造というのはそれぞれがばらばらの点が細い糸でつながっている蜘蛛《くも》の巣のようなものだ。一本が切れても全体には影響しないから、実はあちこちで感情や論理が途切れて、どこにもつながっていなくても気がつかない
……とか書かれていた。それが何という作家の、どういう本だったかは思い出せなかったが、ふいに脳裡《のうり》にフレーズが浮かんできたのだ。
そしてその糸というのは、ほとんどが自分自身で考えてつなげたものではなく、常識とか成り行きとか、そういう外的なものから決められていることがほとんどだ。確かにひとりひとりの経験とか個性というものはあるかも知れない。だがそれは人の精神の中では点に過ぎず、それらを巣としてつなげている糸は、結局どれもこれも似たようなパターンになってしまうものだ
……思い出しているのだが、しかしそれがどういう意味なのかよくわからない。私は頭をかるく振って、父との対話に意識を戻す。
「不安定な精神状態――依頼者にはぴったりの条件ね」
『それは別に病気じゃないからな。医者の診断でも引っかかるまい』
「そうね。暗示にかかっているとしても――」
言いかけて、またあの文章が頭をよぎる。
洗脳とか催眠暗示とかいったものは、別に特別な事態ではない。人間が生きていくということは、既存の巣のパターンに自分を創り上げていくということであり、それはとりもなおさず、その社会に洗脳されることを自ら選んでいるということに他ならない
「――普通の状態とほとんど変わらないでしょうしね」
『なんだったら医者に相談してもいいだろう。紹介してやることもできるぞ』
「そうね、お願いすることになるとは思うけど、今はとりあえず、本当に自殺した少女が実在していたのか、それを確認しないと」
『それが問題だな』
父の言葉に、私は「うん」とうなずきつつ、
ただ、ここで問題なのは、未《いま》だかつて人間は、間違いのない社会など一度も創ったことがなく、巣のパターンの正解など何処《どこ》にもないということである。我々は偽りの世界で、自らにその場しのぎの暗示をかけて、生きていくしかない
……と、頭の中で反芻《はんすう》される言葉を聴いていた。
電話を切ると、私は腕を組んで考え込む。
(……うーん)
私は事態を複雑に考えすぎているのかも知れない。仮に、本当に自殺した少女がいたとして、それはもう何年も前の話のはずだ。弥生が感じているようなついこの間≠フ出来事だとすると、いくらなんでも学校に通っている生徒全員に深い衝撃があるはずで、弥生だけの印象ではすまないと思う。まさか全校生徒に言うことを聞かせるような存在があるとも思えないし。
(そんなことができるとしたら、それこそ神様みたいなものだわ。あるいは……)
私は、少しはっ[#「はっ」に傍点]とした。あの本の中では、さらにこんな文章も続いていたのだ。
巣を作っているのが蜘蛛だとすれば、その蜘蛛は何か獲物が巣に掛かるのを待っているのかも知れない。その獲物が〈来るべき理想社会〉なのか、それともまったく別の何物なのか――
(蜘蛛――?)
そのイメージがやけに、頭の中で鮮明なものとして浮かんだ。全世界の人間の心につながる糸をはき続ける、巨大な見えない蜘蛛の幻影が――
(な、なんなんだ、こりゃ……!)
私は頭をぶんぶんと振って、気味の悪い考えを頭から追い出そうとした。
どうしてだろう、今回の仕事ではこんな風に変なことばかりを考えてしまう……。
父のコネを使って、警察関係の資料にも当たってみたが、やはりあの学校で自殺者、もしくは死亡者が出た事故に類する過去はなかった。
そして、噂話そのものはやはり、かなり広まっていて、校内に留まらずあちこちで類似の内容の話を聞いたことがあるという証言が得られた。
あそこに何かある――あの屋上に、何かがあるような気がしてならない。
私が調査を進めていた、そんなある日の早朝に、一人の中年男が事務所を訪ねてきた。
慇懃《いんぎん》な印象で、高級だが地味に徹したスーツとネクタイに身を固め、見るからに政治家秘書≠ニいう印象の男だった。
男は部屋《オフィス》に上がり込んで、じろじろと遠慮のない眼で貧相な内装を見定めると、勧められてもいないのに来客用のソファーにどっかと腰を下ろした。そこでやっと名乗る。
「私は醒井先生のところで色々と管理を任されている者だ」
やっぱり秘書だった。あまりにもそのまんまな外見に私はちょっと呆れた。だが秘書はそんなことにはまるで構わずに、
「君はお嬢さんの依頼であれこれ調べているという話だったが?」
と、挨拶《あいさつ》もせずにいきなり切り出してきた。
「まあね」
「それを即刻、やめてもらいたいんだよ」
「なんですって?」
「君は知らないと思うが、次の党内選挙では現職がもう立候補しないことがほぼ確実になった。それで、うちの先生にチャンスが巡ってくることになったのだ」
秘書は、きっと自分では迫力があると思いこんでいるであろう低めに抑えた口調で言った。
「それと弥生さんになんの関係があるのかしら?」
「大いにある。お嬢さんも先生のためにしばらく自重していただかなくては。余計な疑いの元は早めに消しておかなくてはならないんだよ」
「…………」
私はスキャンダルになるような話ではない≠ニ言おうと思ったが、言っても無駄だと言うこともわかっていた。こいつは相談しに来たのではなく、通告に来たのだ。
「お嬢さんが君と、仲介役の三流作家に払うはずだった謝礼はちゃんと支払おう。それで君は何も聞かなかったことにしてくれたまえ」
「幾乃は――妙ヶ谷の方は承知したんですか?」
「あの女は、なんでも原稿執筆のためにどこかにこもっているらしい……編集部とかいうところに訊いても居場所を教えんのだ」
秘書は苛立《いらだ》たしげに言った。私は内心、ちょっと笑った。ひよっとしたら幾乃は〆切から逃げていて、編集部でも居場所を知らないのかも、と思ったのだ。
「まあ、実務的なことは君がやっていたのだから、大した問題にはなるまい。それに子供向けの下らない小説を書いてるようなヤツの言うことは、世間も本気には取るまいよ」
秘書は侮ったような口調で言った。幾乃が目の前にいたら、きっとこいつを殴っているだろうなあ、と私はぼんやりと思った。
「世の中には複雑なしがらみがある。それが大したことなさそうなことでも、どんなところで致命的になるかわからない。悪い芽は摘んでおくに越したことはないんだ」
その言葉に、私は小声でこっそりと、
「がんじがらめね……」
と呟いた。
人間というのは、ほんとうに色々な糸に絡みつかれている。その糸がどこから、いかなる蜘蛛から伸ばされているのか、自分でも知らないようなものによって行動を左右されてしまう……私がそんなことを思っていると、また幻聴のように、
――防壁を確認。論理ルーチンに干渉し、突破を試みる=m#この行は太字]
……という訳のわからない言葉が聴こえたような気がした。だが今はそんなことで混乱している場合ではなかった。
「…………」
私が黙っていると、秘書は、
「話はわかってもらえたようだな」
と自分勝手にうなずいた。
「ああ、ちょっとひとつ――いいかしら?」
と私は挙手した。
「金をもらえるのはいいんだけど、出所のはっきりしない金がウチの事務所に入ると、税務署に怪しまれるんじゃないかしらね?」
む、と秘書の眉《まゆ》がひそめられた。
「何が言いたいんだ?」
「いや、だからさ。入金にはそれなりの名目が必要ってコトなのよね」
「ああ。なるほど――別の仕事を回して欲しいのか?」
秘書はニヤリと笑った。
「ちゃんとした依頼ってことにしてくれた方がいいってことよ。どう?」
「そういうことならば、手伝ってもらうことは色々あるぞ」
やれやれである。選挙では裏の情報をいくら集めても困らないというのは確かなようだ。
しかし、こういう裏取引みたいなことをしたと弥生や幾乃にバレたらきっと糾弾されるだろうな、とは思ったが、仕方がない。仕事は確かに必要だし、それに――
(今、最も困ることは、私と弥生の家である醍井との関係そのものが断たれてしまうことだからね……)
まだ、肝心のことを弥生に言っていない。あれ[#「あれ」に傍点]だけはなんとかして、彼女に伝えなくてはならないのだから。
……後から、ほんの一瞬だけ彼女、女探偵荘矢夏美はこのときの自分の判断のおかしさを思い返すことになる。
もっともらしいようだが、明らかにこのときの彼女はおかしかった。
彼女はどうやら、この秘書の横暴なる申し出を受けながら、同時に弥生と幾乃からの依頼にも応えようとしていたが、これはどう考えても無理のあることだった。ふたつの依頼の、どちらにも応えきれないことは明らかで、本来ならば職業探偵としての基本姿勢として、一度受けた仕事の、依頼者本人以外のキャンセルは受け付けてはならない。今後の信頼に関わるからだ。それなのに――。
彼女はこのとき、なんとなく蜘蛛のことを思っていた。それがこの段階での彼女の精神が連想できることのすべてだった。
4.
……奇妙な夢を見た。
(――くそ、しぶといな。なかなか侵入路を発見できないぞ)
長時間、直射日光を受け続けることは月面における地表活動ではかなり危険なことだ。
個人用戦闘ポッドは、たとえ武装が外され単独偵察専用に調整されていても、元々それほどの恒常性《ホメオスタシス》を持たない。外装温度が上がり続けると機能に異状が生じたり反応速度の低下を招く。
(しかし、この旧世紀の世界幻想――ここまでの設定がされているところをみても、これは相当の規模のシンパサイザーが使われている――クラスとしては超大型船《カプセルボ―ト》並みだぞ。やはりこれは伝説の、人類基礎保存計画とやらの共感フィールドを捉《とら》えたとみて間違いあるまい)
ポッド内の戦闘オペレーターは環境服を着用しているから、温度の変化は感じていないが、逆に言えば温度の変化を自分でも感じ始めたときにはもう、手遅れなまでに機体が過熱してしまっているということである。
(放熱材を気化燃焼させて機体を冷やしたいところだが――そうなると敵に発見される危険性がある。ぎりぎりまで待たなくては)
……夢の中で、誰かが身をひそめて、何かを探っていた。だがそれが誰なのか、どこで何を調べているのか、自分の見ているはずの夢なのに、まったく理解できない。
(なんだろう、これ……?)
夏美は訳のわからないまま眼を醒《さ》まし、そして目覚めたときにはもう夢のことは忘れてしまっていた。
「――えーと……?」
私はベッドの、薄い布団の上で、なんだかものすごく腑《ふ》に落ちないことがあるような気がしてならず、なかなか起きられなかった。
(寝覚めが悪い、って訳でもないんだけどね……?)
頭を振りながら、なんとか身体を布団からひっぺがす。
今日も早くから仕事だ。
あの秘書から受けた仕事というのは、要するに彼の先生の政敵の素行調査であつた。もちろんガードが堅いから本人に直接当たるわけにもいかないので、周辺をちまちまと当たっていくという極めて地味な、しかし探偵としてはごく普通の仕事である。
もっとも私は、こっちの方は適当にすませて、報告書をでっち上げるつもりだった。どうせ名目だけの仕事だ。
(それよりも、弥生さんの方ね)
私は夕方になってから、彼女が通っている例の学校の方に回ってみた。
山の上の方から中腹の校舎を見おろしてみる。
俯瞰《ふかん》からだと屋上は丸見えで、別にそこはあの世との出入口みたいな神秘性は皆無だ。貯水槽のタンクや変電設備が並んでいる、どうということのない、ただの施設だ。
どうして自分はあそこの、上と下をつなぐ扉にあれほど執着したのだろうか。実際に見てみるともう、その感覚は自分でもよくわからなくなっていた。
(なんであんなに開けなければ≠ニ思ったんだろう?)
私は整理のつかないままに、山を降りて校門の方に回った。
そこで私は少し息を呑《の》んで、立ち停まってしまった。
そこにはちょうど――醒井弥生その人が立っていたからだ。彼女は山道を歩いている私を校内から見つけて、待ち受けていたらしい。
「…………」
少女の眼は鋭く、私をまっすぐに貫いてきた。
「や、やあ」
と私が挨拶しようとすると、彼女はそれを遮って、
「どういうつもりですか?」
と、いきなり詰問調で私に迫ってきた。
「な、なにが?」
「聞きましたよ。あなたは、わたしの方の仕事はやめちゃったって!」
私はやや後ろめたい気持ちもあるので、正直焦った。
「だ、だから、それ――は言い訳よ。あなたのお父さんの意向に逆らうわけにもいかないでしょう? とりあえずごまかしておいて、こっそりと調べていくつもりだったのよ」
「…………」
弥生は信用できない、という眼で私を睨《にら》み続けている。
「……うまいこと言ってたけど、結局あなたも、わたしの言うことなんか全然信用していなかったんでしょう?」
「い、いや――それは」
「どうせお金目当てだったんでしょう? 本気じゃなかったんだわ。適当なことを言って、ごまかすつもりだったんだわ」
弥生はヒステリックに喚《わめ》いた。それを聞きながら、私は、
(糸が――)
心の中に、奇妙な怒りが湧き起こってきているのがわかった。
(ここにも、私を縛る糸が――)
それは全身が総毛立つような、取り憑かれるような感覚だった。
(がんじがらめに――)
喉《のど》元から何か冷たくヒリヒリするものがせり上がってくるような衝動が、私の身体を内側から急《せ》き立てる。
「――ごまかす=H」
私は、自分でも意識しないうちに口走っている。
「ごまかす≠ナすって?――じゃあ弥生さん、そういうあなたはどうなのよ? この世の中でごまかし[#「ごまかし」に傍点]のないものなんか存在していると思う?」
それは、本当に自分の声か、と戸惑ってしまうほどに厳しく容赦のない声だった。
「え?」
弥生は、私の様子がおかしいので少し怯んだようだった。私はそんなことには構わず、
「そんなにほんとうのことが知りたいというのなら、ついてきなさい!」
私は彼女から校門通行用のカードキーをほとんど奪うようにして、二人で一緒に学校の中に入っていった。
さっき上から確認して、知っている。屋上に行く道は中から扉を開けて出るだけではない。避難用の階段が裏手に設置されているのだ。
「ち、ちょっと――どこに行くんです?」
「あなただって聞いたことがあるんじゃないかしら――この屋上から身を投げた少女の話を」
私が言うと、弥生は「え……」と絶句してしまった。
非常階段にはもちろん入り口に鍵が掛かっていたが、屋根がないので柵を乗り越えれば中に入るのは容易だった。私は弥生を引っ張り上げて、階段を昇らせ、そしてとうとう屋上に立った。
「……な、なんなんですか。飛び降りた女の子って――」
夕暮れの、既に薄暗い空の下で弥生は不安げな声を出した。
「あなたはいなくなったけれども、最初からいなかったことになっている人≠探したかったのよね?」
私は言いながらも、その自分の声がひどく遠くに聞こえた。
「え、ええ――」
「最初から存在していない人――そんなものは実は、この世界では珍しくもなんともないのよ。たとえば――この私」
私は自分で自分を指差していた。
「私は――荘矢夏美という存在はただの、世界設定データ上の検索プログラムに過ぎない。探偵という、ものを調べる職業なのはそれをもっともらしく仕立てるため――」
……なんだって?
私は――私は一体、何を言っているのだ?
自分で自分が喋っていることが、まるで理解できない――なんなんだこれは?
「そしてこの世界すべてが、実は存在なんかしていない。ここはサイブレータという巨大な機械の中に創られた本物そっくりの、幻影の世界――目的は」
「…………」
弥生も茫然《ぼうせん》としている。
「冷凍冬眠で保管されている人々が眠りについている間に、そのまま永遠の眠りに引きずり込まれないように、あたかも生活し続けているような夢を見させるため、この幻の世界はある――誰もが偽りの名と、でっちあげの身分を与えられて。――そして」
私の指は、私でない誰かの意志によって持ち上がり、醒井弥生を指し示した。
「あなたが忘れてしまった人は、この辻褄が合うように設定されていた世界に生じた失策《バグ》に他ならない」
「……そ、荘矢さん?」
弥生がおずおずと私に訊ねようとする。だがこれに、私は返答できなかった。
代わりに、私の口を使って、何者かが勝手に喋りだした。
「この女探偵、荘矢夏美の意識と同調していれば、いつか必ずこの世界のバグに出くわすと思っていた。この検索プログラムを乗っ取るのは苦労したが、それもこれで終わりだ」
「え……?」
彼女の眼の中に誰かが映っている。
それは私の顔なのだが、私ではなかった。
ひどくギラついた、闘争的で容赦のない、戦争をしている兵士の顔になっていた。
「こ、この世界……の?」
私の姿をした、私でなくなってしまった者の威圧感を前にして怯《おび》える弥生に、そいつはに[#「に」に傍点]やり[#「やり」に傍点]と笑い、そしてゆっくりと指を振る。
「だから、この世界などというものはない。存在しない。リアルな、本物の世界というのは――あそこ≠ノあるのだ」
そいつが指し示したその先には夕暮れの空があり、そして、そこにぽっかりと白く浮かんでいるのは――月だった。
5.
(な、なんなのよこれは!?)
私は心の中で悲鳴を上げていた。
幽体離脱というのはこういう感覚なのか……私の意識が、私の身体から切り離されてしまっている。よそから別の魂がやってきて、私の身体を横取りしてしまったというのか?
(どうして――どういうことなのよ!?)
しかし私の叫びは誰にも届かず、私の身体だったはずのものは、今や勝手に動いて、醒井弥生に迫り続けている。
「人類は失敗した」
そいつは静かに、弥生に向かって語りだした。
「宇宙に進出する途中で、虚空牙《こくうが》と呼ばれる正体不明の破壊現象に遭遇し、そのほとんどの戦力を奪われてしまった。残されたわずかな者たちは太陽系の各地に散らばるコロニーや、衛星基地に留まって生き延びざるを得なくなった。そう――この月面環境に生きる我々のように」
そいつはやれやれ、という調子で首を横に振った。
「しかし、どこにも愚か者というのはいるものだ。月面を支配する正当な権利を持っている我々に、あろうことか逆らおうという者たちがな。我々はやむなく奴等と交戦状態にある。だが――この争いから離れてこっそりと隠れているもの[#「もの」に傍点]もある。そう! それこそがこの世界を創っている〈計画〉に従事している機械群だ」
「…………」
弥生はもちろん、何を言われているのかまるで理解できないようで、恐怖に身を震わせている。だが女探偵の身体を乗っ取っている奴はまったく、そんなことにおかまいなしで話し続ける。
「ここは、実体のない世界――月面の地下に設置された巨大な設備の中で冷凍冬眠についている人々がシールドサイブレータによって見せられている巨大な夢の中。すべては過去のデータから拾い上げられた情報の蓄積に過ぎない。だから、そのデータベースに干渉すれば、たとえば――」
その瞬間、周囲に異変が起きた。屋上を取り囲む柵のところに、巨大な銀色の壁が現れて、四方を被《おお》ってしまったのだ。
「――こんなこともできる」
「……!」
逃げ道がなくなってしまって、弥生は愕然《がくぜん》となる。
「本来なら、強固に創られた世界だ。中に入ってしまえば、そこから外側の情報を知ることはほとんどできない――だが、あなたという侵入路が今、私の前にある」
「――な、なんのことですか?」
恐怖に震えながらも、弥生は訊き返した。これにそいつは満足げにうなずいて、言った。
「おまえが知っているという、その消えた人間というのはおそらく、この世界のつじつま[#「つじつま」に傍点]と合わないためにサイブレータに消されてしまった存在なのだ。それ[#「それ」に傍点]についての記憶など、本来ならばすべての人間の脳裡から消えているはず――夢の中にいる人間にとって、その夢を制御している者の操作は絶対のはずだからだ。しかし――おまえは、そのありえないことを実現している」
「――――」
理解できているのかいないのか、弥生は茫然としている。その彼女を見据えてそいつは続ける。
「だからこそ、おまえの精神を突破口にして、この世界の後ろにいるモノたちのデータを取ることが、きっとできるはずだ。この夢の世界を創っている機械が埋められている月面の土地――その正確な位置、規模、戦闘力の有無――すべてを探り当てる」
うむ、とひとりでうなずく。
「私も、この世界に入り込んではいるが……これはDM型シンパサイザーの共鳴効果で精神だけが接続されているから、そっちの機械そのものが何処にあるのか、そこまでは掴めていないのだ。月面はあまりにも広いからな」
そしてずい、とそいつは身を乗り出していった。
「ここ[#「ここ」に傍点]はどこだ?」
弥生に詰め寄り、問いつめる。
「ここ[#「ここ」に傍点]には膨大な資材と科学技術が遺されているはずだ。相剋渦動励振《そうこくかどうれいしん》原理とかいう、我らが月面都市世界では失われてしまった超技術も未だあるはずだ。例の、あの忌々しい連中が人類文明の保護と冬眠≠ネどという名目の下に、数倍の凍結受精卵とそれを守る機械たちを密かに隠した、ここ[#「ここ」に傍点]はどこにあるんだ?」
そして――いつのまに、どこから取り出したのか、その手には刃渡り三十センチはあろうかという大きなナイフが握られていた。
「そ、そんなことはわかりません……!」
弥生はぶんぶんと必死で首を振る。
「いいや」
そいつは力強く断言した。
「おまえは知っている。おまえだけじゃなく、本当はこの世界の本物の$l間たちならば誰でも知っていることなのだ。だが、彼らは自分たちが偽りの中にいることを知らない。知っているのは――その夢に綻《ほころ》びを見出しているおまえだけだ」
ナイフの切っ先が、弥生の頬《ほお》をつんつん、と突いた。
「あ、あう――」
奥歯をがたがたと鳴らし始めた彼女に、そいつは静かに囁く。
「あの月を指させ」
壁によって閉鎖された世界に、空だけが切り取られたように剥《む》き出しになっていて、その中心には白い月がぼんやりと浮かんでいる。
「え……?」
「考える必要はない。悩む必要もない。月のある部分を何気なく指差してしまえば、それでいいんだ――おまえの無意識が、かならず正解をさしてくれる!」
ぐいっ、と強引に私の手が彼女の襟首を掴んで、強引に引き上げた。
「――い、いや……!」
弥生がいやいやをするように首を左右に振った、そのときだった。
――ばりっ、
という何かが破れるような音が辺りに響いた。
反射的に、私の眼はその昔の方角に視線を向けている。
そこには異様な光景があった。今さっき突然に現れた銀色の壁に被われていた空間に、さらに大きな裂け目が生じていたのだ。
そして、その裂け目の向こう側に立っているのは――
「やっぱり――検索プログラムに侵入していたのか、侵入者《スパイダ―》」
その人影は静かに言った。
私はその人のことをよく知っていた。当たり前だ。その人物はこの事件を最初に私のところに持ってきた張本人なのだから。
(い――幾乃!?)
行方不明になっていたはずの少女小説家、妙ヶ谷幾乃がそこにいた。
彼女は、ぴっ、と弥生の方を指差した。するとその瞬間、少女の身体がまるで石に変わったかのように、ぴたり、と固定されて動かなくなってしまった。
「じ――時間停止か!?」
私の口が驚愕の声を漏らした。そして幾乃の方を見る。
「貴様は――」
私の口が勝手に開いて、ひとりでに喋る。
「そうか――おまえがヨン≠ニかいう奴だな?」
私の腕は動かなくなってしまった弥生から手を離した。握っていたところがそのままの形で残っている。その感触は鉄よりも硬くなっていた。
「サイブレータシステム内に設定されたフラグメントセイバーの、四号バージョンか」
「ご存じとは光栄の至りね――」
幾乃は――いや、今呼ばれたのが本名だとするとヨン≠ヘ、ふふん、と不敵に笑うと、掛けている眼鏡を優雅な動作で外した。
その瞬間、そこでは異常なことが起きた。まるで芝居の早変わりのように、いやマジシャンが消えたはずの人間をマントの下から出したように、いやいや蛹《さなぎ》が一瞬にして蝶に羽化したかのように――要するにその、彼女は、
……変身した。
光り輝くタイトなスーツで全身を包み、頭には虹色にきらめく端っこがギザギザになった頭巾《ずきん》のようなものを被っている。あちこちに付いている七夕短冊みたいな飾りは、風もないのに独りでにふわふわと浮いていた。なんだか――昔のSFマンガの、未来人のファッションみたいな姿だった。
そしてその手に持っているのは――鋭角的で攻撃的な道具、つまり光線銃≠セった。
ヨンは、私の方にその銃口を向けて、そして発砲した。
「――!」
ばっ、と私の身体は飛び退いて勝手に避けている。
その間にヨンは動かない弥生の所まで駆け寄り、これを保護した。彼女が触れると、弥生の身体をシャボン玉のような保護膜《バリアー》が覆った。
そして私の方を睨みつけて、
「こんなところに忍び込んで、何を企《たくら》んでいるのかしら?」
と、ヨンは静かに訊いてきた。
「決まっているだろう。こんなところにカプセル船に準じるエネルギーとテクノロジーが保存されているのを黙って見逃せるものか。このファウンデーションプラントは我々〈正統人類共同体〉が接収する。これだけの代物があれば月面における今後の我々の絶対優位は動くまい」
ぺらぺらと得意げに喋っているが、私自身にはなんのことかさっぱり理解できない。
しかしヨンにはもちろんわかっているようで、厳しい顔をして、怒りに燃える眼で私を睨みつけてきた。
「……虚空牙に、太陽系全域をほとんど制圧されているっていうのに……」
彼女はそこまでは声を抑えて喋っていたが、ここで激発した。
「あんたたち人間はどうしてお互いの馬鹿げた争いをやめられないのよ! こうしている今も、人類を守るために虚空牙と戦っているスタースクレイパーとバンスティルヴに恥ずかしいとは思わないの!?」
それは本物の怒りだった。ヒステリックでもなく、高圧的でもない、まっすぐな方向を向いた正義の怒りだった。
(……ううっ)
私はその迫力に圧倒されたが、私の身体を操っているスパイダー≠ニやらはまるで感じないようで、
「なんとでも言え。今となっては虚空牙というのは要するに災厄≠フようなものだ。我々にとっては自分たちの権益を侵す目の前の敵に勝つことこそが最優先なのだよ」
「他のコロニーの飢えた人たちのために、少しばかり自分たちの食糧や水を分けてやることぐらいできないの!」
「幻影世界の、機械に作られた疑似人格の癖に、偉そうなことをほざくな!」
スパイダー≠ェ操る私の身体は、握ったままだったナイフをヨンに投げつけた。
ヨンは避けない。
眼にも留まらぬ早業で、光線銃を一閃《いっせん》させて、飛んできた凶器を一瞬で蒸発させてしまった。
その際《すき》に、スパイダーは私の身体を反転させて逃げに掛かっている。
どこに逃げるのか?
その行き先は、そう――あの、屋上と下の階をつないでいる、あの扉だった。
鍵が掛かっていたはずだったが、力任せにこじ開けてしまう――その先には、
色がなかった。
大地が白く輝き、空は暗黒に塗りつぶされている。天と地が逆転してしまったかのような光景が広がっていた。地平線はかすみもせずに、そのギザギザの縁をさらし、空には雲どころかひとかけらの分子も存在していないので、光はただそこを素通りするだけだった。
これは――この風景は、私は確かに知っている、と思った。写真で見たからでもない、情報として知っていたからでもない。ただ、わかっていたのだ。
(これが――月面=\―)
6.
(…………)
見れど探せど、その白い光を反射する凹凸ある大地と、真っ暗な空いっぱいに広がる星空しかない。地平線らしき所に走っている黒い斜めの線は、あれはこの先は夜だ≠ニいう、日光の当たっていない地域なのだろう。
空気がないせいで、すべての場所に焦点が合って見えた。なんだか、荒々しい筆のタッチが丸見えの、モノクロの油絵みたいな景色だった。
動くものはなにひとつない。風もない、空気もない。
(空気……?)
私ははっとなって、反射的に口を押さえた。だが私は感覚的には息をしていた。
(空気がないのに――呼吸しているつもりになっているのね、私)
なにしろ私は幻の存在なのだから、と思ったところで、はっ[#「はっ」に傍点]となる。
「……あっ!」
いつのまにか、私は自分の身体を自分の意志で動かせるようになっていた。扉を抜けたあのときからだろう。あのスパイダーとかいう、私の身体を乗っ取っていた奴は消えていた。
「…………」
私は、しかし、これからどうすればいいというのだろうか。途方に暮れていると、
「考えても、仕方がないんじゃないかしら?」
という声がかけられた。
撮り向くと、私と同じような、幻の人影がそこに立っていた。女の子だ。
にこにことして、私にうなずきかけてくる。
「……誰?」
私が訊くと、彼女は静かに笑った。とても綺麗な微笑みだ。その微笑みには見覚えがあった。
(ああ――そうか)
そう、あのとき――錯覚かと思ったが、しかし確かに見たと感じた、あの少女だった。
「私が誰なのか、あなたはもう知っているはずよ」
少女は静かに言った。
「そうね。そうよね――私はずっとあなたを捜していたんだから。名前はなんていうのかしら?」
問いかけに、彼女は首を振る。
「名前はもう、ないわ」
「そうね……それも知ってる」
私はため息をついた。
「あなたも、私と同じようにあの世界から放り出されてしまったというわけね。それでも弥生さんだけが、あなたのことをぼんやりと覚えていたんだわ」
私がそう言うと、彼女はとても優しい表情になり、
「弥生さんは、私のことを覚えていて、それを思いだそうとしていたのではないわ、きっと。彼女は自分のことを知りたい、と思っているだけ」
と不思議なことを言った。私は、さっきのヨンとスパイダーのやりとりを反芻してみる。
「弥生さんは――本当の彼女はこの月面に隠されている、ファウンデーションプラントとかいう秘密基地に冷凍されて、眠りについているのね?」
「あの世界の人間たちを、外から見るとそういうことになるのでしょうね」
少女は言った。
「この月面で、虚空牙との戦いに生き残った人間の子孫たちは殺し合いをしているのよ。資源や主導権を奪い合い、互いの正当性を主張して、相手を否定することを繰り返している。そう――もう何百年も、そういうことを続けている」
「どうして一度負けたからってそのままあきらめているの? 一致団結して戦わないの?」
私の抗議に、彼女はゆっくりと首を横に振った。
「そういう時期はもう過ぎてしまったのよ。人間は、より大きな敵から眼を背けて、自分たちだけの内部抗争に閉じこもってしまった。それに危機を感じた者たちがファウンデーションプラントを創って、そこに数千人か数万人かの人間の、冷凍受精卵を隠した――今、この月世界で争っている人たちがお互いに滅ぼし合う最悪の結果になった後でも、人類が生き延びていけるように、と」
「受精卵――それが、夢を見ているわけ?」
「たとえタマゴでも、生命というのは停まってはいられない。どこかで動いていないといけないのよ。だから、せめてもの策ということで、巨大な機械が夢の世界を創り上げて、皆の魂をそこで生活できるようにしているのよ」
彼女は、なにもかもを知っているかのようだった。
天からすべてを見透かしているようなその様子はさながら――いや、その御名は、彼女の儚げな物腰にはあまりに似つかわしくない。そしてその彼女と並んで立っている、この私は……
「私は――私ってなんだったのかしら」
ぼんやりと呟く。
「私は、本当は人間じゃなくて、検索プログラムとかいう、機械の中の回路のひとつだったみたい。なんだか馬鹿にされた気分よ。じゃあ私が今まで頑張って、流行《はや》らない探偵事務所をやってきたのも全部、実在しないことだったなんて」
私はだんだん腹が立ってきた。
「そうよ、お父さんが倒れて、事務所をたたむかどうするかってときには、そりゃあ真剣に悩んだものよ。で、跡を継ごうって決断して、それでもやっぱりなかなかうまくいくものでもなくて、苦労してやってきたのに――その世界そのものが偽物だったなんて、さ」
怒りはすぐに醒めて、がっくりとしてしまう。
「スパイダーとかいう、よくわかんない敵は私と弥生さんのことを失策《バグ》≠チて言ったわ。世界に適合しない、はずれ者だって――なんだか笑っちゃうわね」
私は悲しかった。
とても、悲しい気分になってしまっていた。
人生はがんじがらめだって思ってはいたが、ここまで身も蓋もないとは思ってもみなかった。もうちょっと、努力すればなんとかなるとか、そういう甘いことを期待してしまっていた。
だが現実は、この光の残らない空に照り返しばかりがきつい蒼白な大地があるだけなのだ。
「何もかもが嘘《うそ》。ここにこうして立っている私も幻で、きっと情報を構成している空間の歪《ゆが》みかなんかが残響しているだけなんだわ」
「…………」
名前のない少女の方は、そんな私をとても穏やかな顔をして見つめていた。私はそんな彼女が少し不思議だった。
「あなたは? あなたは悲しくないの?」
「悲しいわ」
彼女は微笑みながら、即答した。
「でも、こうして心を持つことが悲しいというのなら――悲しくないことにどれほどの意味があるというのかしら?」
その声は、音が存在していない月面をなお、水を打ったように静寂に満ちたものに変えてしまうような、そういう声だった。
確信に満ちていて、悩みも迷いもなく、ただまっすぐに――人の真ん中に響いてくるような――
「……心?」
「そう、心。あなたには心がないとでもいうのかしら」
「で、でも――私はプログラムで」
「だったらなんなの?」
少女は容赦のない調子で私の反論を切り捨てる。
「あなたが二進法の数列の複雑な組み合わせで構成されていようといまいと、それがあなた≠ノとってどれほどの違いがあるというのかしら?」
「わ、……わたし[#「わたし」に傍点]?」
「そう――あなた[#「あなた」に傍点]よ」
少女はまっすぐに、私の瞳を射抜いてそのまま貫いてしまうような、しかしまったく冷たいところのない、優しい眼差しでこちらを見つめている。
「すべてが嘘っぱちであったとしても、世界には確実なものがひとつだけある。それだけはどうしようもないほどに真実≠ナ、嘘でも夢でもすまされない」
「――――」
「そう――それは悲しみを感じる、あなたの心。それだけは決してなくならない。それが消えるときは、あなたにとって世界が終わるとき。たとえ周りの者たちが全員、あなたの心を否定したとしても、それはあなたの世界にとっては何の意味もない。なにもかもが幻で、虚ろなる夢だったとしても、その夢を儚いものだと感じる気持ちだけは、どんな存在の中にあっても確実なる、最後から二番目の真実。ただし――わたしたちが決定的に悲しいのは、その真実はそれぞれがバラバラで、心はすれ違って互いを否定しあい、この世が嘘に限りなく近づいていってしまうこと――」
彼女は空を振り仰ぐ。
「とても――切ないことだわ、心を持っているということは」
「…………」
私は、彼女の言っていることの半分も理解できなかった。だがそれでも、彼女が私よりも遥かに悲しんでいることだけは、はっきりとわかった。
それなのに――彼女は笑っている。
理由もなく、見せかけもなく、ただ微笑んでいる。
どうして――このひとはこんな風に笑うことができるのだろう?
「――さて」
彼女は空を見上げたまま、私に再び話しかけてきた。
「あなたは、そろそろ戻らなくてはならないようね」
「え?」
「ヨンという人が、あなたの痕跡を辿《たど》っている――スパイダーに引きずられて外に放出された情報を再構成しようとしているわ」
「い、幾乃が? で、でも――」
あの世界にまた戻ったとしても、そこに何があるというのだろうか? すべては幻なのに。
「でも、あなたにはまだ、やらなくてはならないことがあるでしょう?」
少女は静かに言った。
「仕事を受けたなら、最後までやるのが探偵としての職業倫理じゃなかったかしら?」
「し、仕事、って――」
私はまだ戸惑っていた。だが私にはもう迷っている猶予はなかった。
少女が向けている視線の方に、私も眼を向けた。
そこには――そこにだけは色があった。
豊かな育と、様々な色が混じり合った月が空に浮いていた。いや、月という天体はここなのだ。ということはあれが――
そう思った瞬間、私の意識はぐい[#「ぐい」に傍点]とどこかに強引に引っ張られた。
「――じょうぶ、大丈夫?」
目の前に、あの未来人ルックをした妙ヶ谷幾乃こと、fs4,039〈ヨン〉が立っていた。
「…………」
場所は、さっきの屋上のままだ。ただ銀色の壁はもう跡形もなく、夕暮れの空が広がっている。しかし、雲がぴくりとも動いていない。時間停止、とかいっていたが、それはそのままなのだろう。
「――戻ったのね」
私はぽつりと呟いた。
「プログラムの人格が、あるべき世界の中に」
「そうよ。完全に侵入者《スパイダ―》は撃退して、外に追い出してやったわ」
「ここ[#「ここ」に傍点]の位置を知られなかったかしら?」
「もともとあいつはDM型シンパサイザーの精神波動プールに共鳴していただけだから、直接プラントに接触してはいなかったのよ。人間で言うなら、そうなんとなく虫が知らせる£度の感覚しかなかったでしようね。あなたという窓口に共鳴して、やっとこの世界に入り込んでいただけだから」
何を言われているのか、相変わらずさっぱりわからないが、なんだかもうどうでも良かった。
「虫――バグか」
私はため息をついた。
「私は出来損ないのプログラムとして、消されてしまうことになるのね」
あんな外敵に身体を乗っ取られてしまうようでは、なんだったか――そう、人類守護の役割はとても果たせないだろう――そう思った。ところがこれに、
「いいえ、そんなことはないわよ?」
とヨンはにっこりとして、私の肩を叩いてきた。
「あなたはちゃんと自分の役割を果たしたのよ、夏美さん」
「え?」
「ああいう、外部から精神共鳴でこの世界に入ってこようとする者は、どんな人間に取り憑こうとすると思う?」
「……どういうこと? まさか」
私の茫然とした顔を前に、ヨンはニヤリと笑ってみせた。
「そういうことよ。他を調べたり、うろつき回ったり、真実を暴いたりするようなことをするのが不自然でない人物――つまり探偵≠アそ打ってつけなわけよ。そしてそのことは、もうこっちには予測済みのこと」
「――私は、連中を引っかけるための罠《わな》だったの?」
なんのことはない――私自身が獲物を待ち受ける蜘蛛の糸だったというのか?
「だから、扉を開けたくなったわけよ。あれは侵入者の精神を外部世界に放出するための仕掛けだったんだから。あなたの精神と同化していたスパイダーには、もちろんわからないことだったろうけどね」
「…………」
説明されてみると、馬鹿馬鹿しくなるほどに、私にはなんの選択権もなかったことになる。周囲に決定されたことばかりが積み重なっていた――しかし、
(じゃあ、あの少女は――この世界から飛び降りたという、あの少女はいったい何なんだろうか?)
あの少女の、不思議な微笑みは何によって決定されていたのか――。
ヨンに訊いてみようかと思ったが、やめた。
彼女も知らない気がしたし、それどころか、この世界のどんなものにも、もう彼女のことは残されていないような気がしたのだ。そう、世界の方が彼女を消したのではなく、彼女の方こそが……。
私が黙っていると、ヨンが肩をすくめて言ってきた。
「まあ、それでも多少の記憶操作はしなきゃなんないんだけどね。私のこの格好とかね。ごめんね」
私はこれに、かすかに頭を振るにとどめた。そしてちょっと嫌味っぽく言ってみる。
「まあ、かまわないわよ。世界を守る変身ヒーローの正体は、誰にも知られちゃいけないんでしょう?」
からかうように言われて、ヨンは苦笑し、そしてわずかな本音を囁くように言った。
「そうなんだけどね――ちょっと寂しいかな」
そして、そこまでだった。私の意識は一瞬切れて、リセットされ――
――て、私と弥生は、夕暮れの校舎屋上で向かい合って、立っている。
「………あ」
弥生はまだ、戸惑った顔をしているままだ。
私も戸惑っている。
でも私は、この悩んでいる少女に伝えられることがあるような気がした。
なんだろう、私はどこかで、確かに誰かと会って、そのことを彼女に伝えなくてはならないのだ。
あなたの心こそが、あなたにとっては全世界に他ならないのだということを――。
私は言葉を探しながら、あらためて、私自身の言葉として、彼女に話しかけてみる。
「あのね、弥生さん――あなたはここから飛び降りたっていう、女の子の噂を知らないかしら?」
U.澱んだ霧の中で Cherry Mist
1.
(――くそ、あと一息だったのに!)
スパイダーというコードネームで呼ばれている工作員は、毒づきながら頭部の精神感応コネクターを外した。
最後の最後で、あの女の精神がここが逃げ道だ≠ニいうそこに向かってしまった。あのままだったらあのヨンにこちらの精神ごと破壊されていたために仕方がなかったといえばその通りだが、しかしまさかあの女探偵の人格デ―タがトラップだったとは――完全に人間の心にしか思えなかった。
(いや、実際に人間なのかも知れない。心の奥底で洗脳されていただけの――いずれにせよ、戦闘ポッドの活動時間も限界だ。ここはいったん下がるしかない)
スパイダーが、あの世界にシンクロしていたのは、主観的には三時間弱に過ぎない。あの幻影世界の中では一週間以上の時が経《た》っていたのだが、彼からすればそれはコマ送りで飛ばされる世界に無理矢理合わせていたようなものだった。
時間の流れはその精神が属する渦動の波長に同調するという、相剋渦動励振《そうこくかどうれいしん》原理に基づいた現象であるが、しかし相対的に見れば、あの夢の中の世界の時間はほとんど流れていないのである。おそらく彼が離脱してしまった後でも、あの女探偵と醒井弥生は静止画面のように屋上にいることだろう。接続しようとすると、その流れの感覚が逆転してしまう。その理由は彼には理解不能だ。
(だからこそ、あの超技術をなんとしても我が〈正統人類共同体〉のものにしなくては)
彼が搭乗している月面活動用の小型戦闘ポッドは単座式のもので、コクピットは極めて狭い。
その中に、戦闘のための計器や兵器の操作レバーに混じって、奇妙な物がひとつ置かれている。
手足を引っ込めたカメの甲羅のような、球形とも楕円形ともつかないかたちをした、丸っこいつるつる[#「つるつる」に傍点]したものだ。
それの表面に波長をひろいあげる脳波計のような配線が貼り付けられていて、そのケーブルはさっきまでスパイダーの脳と接続していた。
(この超文明の遺物であるシンパサイザー・ユニットがある限り、これからもあの幻影世界に接触できるチャンスはあるはずだ)
領土内で発掘された超光速戦闘機《ナイトウォッチ》の残骸から回収されたこの装置は軍にもひとつきりしかなく、彼に特別に支給された物だ。どんな構造か分析もできず、分解も複製もできない。
彼は戦場ではそれなりに名が知られたエースパイロットの一人であり、その能力を見込まれてこの任務をまかされている。どこかに眠っているはずの超技術の保管庫を発見することができれば、彼の属している軍は他の勢力を圧倒できるのは間違いないのだから。
彼は通信機に手を伸ばした。だがイヤホンから聞こえてくるのは激しい空電ノイズだけだった。
「――ちっ」
彼は軽く舌打ちした。月面には大気がないため、太陽からの電磁波がもろに降りかかる。無線は通じないときは、とことん通じない。
やむなくポッドを、隠れていたクレーターから出した。隠れてから時間が経過してしまっているため、現在の周囲の状況がわからないが、やむを得ない。
(急いで基地まで帰ろう。とにかく接触には成功したのだ。次こそは必ず――)
と、彼がそこまで考えたときだった。
いいえ――あなたにはもう、次はない
どこかで、静かに響くそんな声がしたような気がした。囁《ささや》くような声だった。
そして我が眼を疑う。
ポッドの進行方向に、ひとりの少女が立っていた――宇宙服も着けずに、むきだしの顔と身体をさらして。
(な、なんだ――あれは!?)
その少女のことを、どこかで見たことがあるような気がした。だが彼にはそれ以上何かを考えることはできなかった。
とん、と後ろから軽く小突かれたような感覚があったかと思うと、スパイダーと呼ばれていた男の意識は完全にこの世から消し飛んだ。続いて彼の乗っていた機械が爆発する。一瞬でバラバラに、木《こ》っ端微塵《ぱみじん》になってしまった。
後方から撃ち込まれた衝撃レーザーが戦闘ポッドを直撃したのだった。
(なんだったんだ、あのポッドは?)
六月条約連盟軍の戦車隊は、反射的に攻撃してしまってから相手のことを考えた。だがあの兵器は敵対勢力のひとつである正統人類共同体のものであったのは間違いなく、どういう目的で単独行動をしていようと、阻止しておいても問題はなかっただろうと判断し、先を急ぐことにした。
彼らには本来の任務があるのだ。磁気嵐に乗じて緩衝地帯を抜けて〈静かな海〉帝国軍の前線基地を奇襲する作戦だった。
月面には現在、全部で七つの勢力が存在している。そのどれもが友好関係になく、すべて互いに相争っている。
だが目的地に着いた戦車隊は、その寸前で動きを停めた。
「た、隊長……異状です。おかしいです」
前方を監視していた兵士が震える声で報告する。
「どうした? 何事だ?」
詰問に、兵はさらに動揺した声で、おろおろと答えた。
「き――霧≠ェ出ています……!」
「な、なんだと!?」
全員が愕然《がくぜん》として、隠蔽《いんベい》状態を解いて前方を観察した。
そこにはもう、何もなかった。
基地施設、駐留部隊、それらのことごとくが破壊され、無惨な姿をさらしていた。
霧が漂っている。
それは水分が凝固した物が漂っているのだが、それらはもちろん、地球のように天候の変化などではない。人間が生きていた所には必ず水分が存在しており、その水分が外部に流出してしまつて、極小の水滴が地球の六分の一という低重力下でなかなか落ちずにいるのだ。風もなく、流されることもなく、長い間そのまま、ふわふわと浮遊し続けるのである。
月の霧。
それはここで生きていたものは消えた≠ニいう証明であり、この小さな天体に生きるものにとっては忌まわしき死の象徴であった。
「……ど、どういうことだ?」
隊長が茫然《ぼうぜん》として呟《つぶや》いた。
「ぜ、全滅しています……」
「そんなことはわかっている! 問題は、どうして――」
彼らが混乱している、その途中でもうそれは来た。
上空から、降下速度を加えられて撃ち出された硬質弾が戦車の天板を貫き、中にいた人間たちを潰し、エンジンを破壊して爆発させる。
悲鳴を上げる暇もなかった。
極秘任務のため特別に編成された奇襲用戦車隊は、目的地の寸前で何に攻撃されたかもわからぬままに壊滅した。
虚空牙《こくうが》の支配領域ぎりぎりの月重力周回軌道を抜けてきたコーサ・ムーグ軍の機動降下部隊は、上空からの高高度爆撃を敢行し、当初の目的通りの戦果を挙げた。
部隊といっても、それは一機の有人機体とそれに追従する無人機が三機だけの高機動戦闘ポッド小隊だ。それが三十名以上の兵員を収容していた帝国軍基地を一瞬で全滅させてしまったのである。
「……このまま降下を続行。残存兵力の有無を確認するわ」
指揮機を駆る古都子《ことこ》ルーゼスク04は、環境服を着ていてなおわかる小柄の痩身《そうしん》で、ヘルメットパイザー越しにみえる素顔も、知らぬ者であればどう見ても十四、五歳の少女としか思えないだろう。
だがその計器類を見つめる顔に「……む」とかすかに苦渋が浮かぶ。彼女が心の中で、
(……なんなのよ? わざわざ死にに来るなんて――)
と呟いたときに、僚機を制御している人工知能が報告してきた。
『――古都子、目標に接近する機械群がある。たぶん戦車だ。形態から見て、六月条約連盟軍の122式らしい』
だが、そのときには古都子もその影をとっくに確認している。
「マグナス徹甲弾を、戦車一台につき四射」
古都子は自分自身も引き金の安全装置を解除しながら静かな声で命じる。
「エンジンを集中的に狙《ねら》え。――撃て」
彼女は表情を全く変えず、こちらに気がついてもいない、特に敵対行動をとってきたわけでもない相手を一方的に殺戮《さつりく》した。
戦車隊が粉々に粉砕されると、その周辺に新たな霧がぶわっ、と吹き上がった。
降下していた戦闘ポッド隊は、逆噴射してその上を滑るように飛んでから、着陸した。
「二班に分かれる。A班は基地、B班は戦車を頼むわ。各自警戒態勢で、調査して」
古都子の指令に従い、戦闘ポッドは歩行脚を展開して、戦場の残骸の周辺を走査しつつ歩き回る。
『生命反応無し』
『機械類は完全に停止。熱量は急速に低下中。二次爆発の兆候なし』
『戦車は重装備で、隠蔽システム搭載し、増加装甲まで付けてます。どうやらこちらと同じ任務でここに来たようです』
「協定違反ね――もっとも、それはこっちも同じだったわけだけど」
彼女は戦闘ポッドのハッチを開けて、外に出た。
霧が漂っている。
霧は、わずかにピンクがかっている。
それは、かつては兵士たちの内側にあった液体と物体が混じっているからだ。
彼女には馴染《なじ》みの色合いだった。
同じような風景を、もう三百年も見続けている。
(まあ、私本人じゃなくて、移植された前のルーゼスクたちの記憶からの印象がほとんどだけどね――)
古都子は――コーサ・ムーグ軍が誇る高性能兵士複製開発作戦の成果の、もっとも優秀なもののひとつだった。一番最初の、オリジナルの古都子がどんな人間で、どんな夢を持って生きていたのか、彼女は知らない。彼女は複製のそのまた複製の、さらにまた複製の複製――七段階目の古都子だからだ。
古都子は小型ポンプを取り出すと、それを頭上でかざし、振り回した。周囲の霧がみるみるポンプに接続されたボンベの中に吸い込まれていく。
この行動に、深い理由はない。だがこれは彼女の趣味というか、習慣だ。
戦場に漂っている霧を集めて、帰投後に固形化し、そして地球がよく見える場所に並べるのだ。
敵も味方もない。霧になったら混じり合っていて、そこに区別はない。
「…………」
この行動をする彼女の表情には特に変化はない。
ある程度吸い込んだところで、古都子はボンベに封をして、環境服のポケットの中にしまい込んだ。
「……千二百五十七個め、ね」
呟くその声は小さく、誰にも届くことはない。
2.
古都子ルーゼスク04に与えられた指令では攻撃を完了し情報収集した後は、すぐにその場から去ることが厳命されている。これは占領作戦ではなく、何者が基地を攻撃したのかわからなくするということに最大の意味があるらしい。
(……でも)
同じことを、この戦車隊を送り込んだ六月条約連盟軍の奴らも考えたのだろうが……しかし、
(こいつら、完全な犬死によね)
彼女は戦車隊の残骸を見ながら、心の中で呟いた。
(なんのために戦っていたのか、まるでわからないままに、私に殺されて――)
古都子自身は、なんのために戦っているのか。
それを考えると、彼女はいつも落ち着かないものを感じてしょうがなくなる。もちろん故郷を他陣営の脅威から守るために戦っているわけではあるが、しかし――
(しかし――なんだろう?)
彼女はいつもそこまで考えて、それから先は不透明になって訳がわからなくなっていく。
彼女の心の中にはずっとひとつのイメージがある。
それは優しく微笑む少年のイメージだ。
名前はコーサ・ムーグ。そう、彼女が属している陣営はその少年の名前から取られているのだ。
彼は救世主だったという。
人類は意思をひとつにすることで虚空牙と共存することができる、と主張して、大勢の協力者を得たという。だがその影響力の成長に怖れを抱いた権力者によって狙撃され、瀕死《ひんし》の重傷を負う。これに怒った人々は立ち上がり、武装蜂起革命を起こして権力者たちを打倒したが、コーサ・ムーグ自身にはもはや回復の見込みはなく、そのままでは死に至ることが確実だったために、冷凍冬眠によって保存されることになった。
当時、彼はまだ十六歳だったという。
その理想通りに再び人類が治療技術を取り戻して、治るその日のために眠りについているのだ――瀕死状態で五百年以上も経過した今に至るまで、ずっと。
古都子たちが彼の身体を守り、他の陣営を統合して科学技術を再発見しない限り、彼は永遠に目覚めることはないのだ。
(だから、戦っている――きっと私自身がコーサ・ムーグと会う日はおそらく来ないだろう。その前に戦死してしまうだろうから)
だがそれでもかまわない、と思う。彼女の前の古都子も、その前の古都子もきっとそれを信じて戦ってきたのだろう。
『情報の収集が終わったぜ、古都子』
「よし、それじゃあ撤退する。痕跡《こんせき》は消したわね?」
『抜かりはないよ』
人工知能の部下たちは、戦闘ポッドに搭載されている制御装置の部品に過ぎないのだが、モデルは過去に生きていた兵士の思考パターンが刷り込まれているので、それぞれが個別の反応をする。
『チョロイ任務だったぜ! 結局一番やばかったのは、この場所に到達するまでの自由落下軌道の移動だったからな』
『作戦というのはそういうものだ。立案されたものを忠実に果たせば、そこには自ずから成功がある』
『それも我が隊だからこそだ。古都子の命令を実行に移す決断力がなければこうもうまくはいくまいよ』
「無駄口を叩いている間に、ポッドの機動パターン再設定は終わっているわよね? 移動を開始するわよ」
『了解!』
『了解』
『了解だ』
古都子は時々、彼らと自分には根本的な違いはないのではないかと思う。ただ指揮官機は人間の搭乗が必要というだけで、戦場での機能そのものはほとんど変わりない――あるいは彼女の方が耐久性に欠けるかも知れない。
部隊は戦場跡から離脱して、ある程度距離を取ったところで停止した。
「そろそろ基地の壊滅を知った帝国軍が到着するわ。発見を避けるため、しばらく隠蔽態勢で、凝固待機に入る」
古都子たちはポッドを月面地中に隠れさせた。塵《ちり》が舞い上がらないように、細心の注意を払う。埋まっていなければ、厳しい直射日光と地球光が彼らをあっというまに数百度以上も熱してしまうので、地中でなければ長期間の待機はできないのだ。
『どれくらい固まっているんだ?』
「まず三日よ」
過去のデータに基づいて、古都子はそう判断した。
「七十四時間の待機を設定しなさい」
『命令では十二時間だが?』
「命令には、連盟軍も我々同様の攻撃をしようとしていたなんて可能性はなかったわ」
古都子の答えに、人工知能は食い下がる。
『しかし古都子、俺たちは機械だからいくらでも待てるが、おまえの生体維持には限界があるんだぞ』
「体温四十八分の一の仮死モードに入るから、レベル6.3の異状を感知したら、起こしなさい」
『――わかっていると思うが、蘇生《そせい》確率は百三十分の一で、生き返れない可能性もあるぞ』
これに古都子はさらりと答えた。
「可能性としては高い方よ、月面《ここ》ではね」
『し、しかし――』
「移動中に発見されて、撃破されたくなかったら素直に従いなさい」
『――了解』
そして古都子は眠りについた。
……私は柔らかなべッドに横になっている。周囲は薄明かりに満たされ、そよそよと風が吹いている。
その横には、一人の美しい少年が座っていて、私の方を優しい顔で見つめている。
「やあ、疲れたかい」
彼は穏やかな口調で私に訊いてくる。
「くたくただわ……」
私は正直に言った。
「頑張っているからだね」
彼はうなずいた。その碧眼《へきがん》は透き通る宝石のようだ。
「そうよ、がんばっているわ――なにしろ三百年も戦っているんだから」
私はもちろん、これが夢であることを知っている。仮死状態になって、極端に活動が抑えられた私の脳細胞の膜と膜の間に存在するわずかなパルスが――なんだったっけ、とにかく、これは夢なのだ。私の身体を管理している機械がみせている、戦意|昂揚《こうよう》のためのプログラムの夢だ。
金髪碧眼の美しい少年は、もちろん麗しきコーサ・ムーグ様のイメージである。
「君のおかげで我々は、とても有利に戦況を維持しているよ」
コーサ様は私を励まして下さるが、私は本当なら、仮死状態のときくらいは夢を見ないでただ眠っていたいと思う。
「戦っても戦っても、相手が六陣営もあるとひとつを叩いても別のが盛り返し、そいつらを叩いている間に前のが復興するし、その間にも来るとは思わなかった奴らが攻め込んでくるし、まったくきりがないわ」
私はぶちぶちと愚痴る。こんなことは夢でもなければ言えたものではない。たとえ相手が人工知能の部下であろうと、こんな弱音を戦場で吐くわけにはいかないからだ。
「お疲れさま」
コーサ様は優しい声で私をねぎらう。私は言葉を続ける。
「私と記憶を共有する同タイプの高性能兵士も、七百八十人も戦死しているわ」
「ご苦労様だね」
コーサ様は決して動じることのない態度で私に接する。
「戦死したときの記憶はさすがにないけど、でもどんな感じなのかしらね? 死ぬときって」
私の問いかけに、コーサ様はうなずいて、
「勇敢な兵士だよ、君は」
と答えた。そろそろ返答のバリエーションから逸脱しつつある。私はかまわず、
「環境服に穴が空き、身体が損傷し、ゼロ気圧で体液が沸騰しつつ外に放出されて、霧になるっていうのは、苦しいのかしら。それともすべてが一瞬過ぎて、なんにも感じる暇がないのかしら?」
もう、私は返答を求めていなかったが、コーサ様は相変わらず応える。
「大変な仕事だ。だが君はその義務を果たしている」
「私も、高機動戦闘の際に何本も肋骨を折っているし、奥歯を噛《か》みすぎて砕いちゃったり、血液の不循環で発狂するほど全身が痺《かゆ》くなったりしているわ。死ぬってのはそれよりも苦しいのかしら。それとも、そうなった方が楽なのかしら――」
「君は強いひとだ。誰にも負けない」
「戦って、戦って――勝つということがどういうことなのか、未だによくわからないわ」
「素晴らしいことだ」
「ねえ、コーサ様。我が軍が勝つということは、あなたが目覚めるということだけど、そのときあなたは何をするのかしら?」
「名誉なことだよ」
「途中だった理想を実現するの? みんなが笑いあって、誰も苦しまずにすむような世界を?」
「きっと君ならやれるさ」
「でもさ――だったら」
私は、かすかに苦笑する。
「そのときには、もう私は存在していないわよね。戦って殺し合うだけの兵士なんて、あなたが創ろうとしていたはずの世界には必要ないものね――」
「我々は一歩一歩、勝利の口に向かって確実に近づいてきているよ」
「…………」
私はなんだか馬鹿馬鹿しくなってきた。ところがそこで、
「だってそうだろう? みんなが笑いあって、誰も苦しまなくてすむ世界などというものはない」
と、突然に奇妙なことを言われた。
「……え?」
私のぎょっとした顔にもかまわず、コーサ様は続ける。
「コーサ・ムーグは愚か者だった。彼は虚空牙という、人類の絶対の敵とでもいうべき存在に対してさえ、コミュニケーションが取れさえすれば共存できると信じていた。だが……問題だったのは、その彼自身は人間の方とはうまくコミュニケーションできなかったことだ。虚空牙との接触には成功したというのに――」
コーサ様はやれやれ、といった感じで頭を振った。
「おかげで、人間とどうやって接触していいのか、またわからなくなってしまってからずいぶん経っている」
その美しい顔はそのままだ。
いつもの、私たちを励まして下さるコーサ様のイメージのままだ。
だが、この夢は――どこかがおかしい。
私が混乱していた、そのときにさらに異変が生じる。
かつっ、と私の後ろから足音のようなものが聞こえた。
振り向いた、私はそこにあり得ないものを見た。
そこに、もう一人の人間が立っていた。
少女だ。
私の肉体年齢とそう変わらないような、長い黒髪をなびかせた少女が、私とコーサ様の方を見ていた。
「気をつけた方がいいわ」
少女は冷ややかな眼でコーサ様を見つめながら、私に向かって言った。
「そいつは、人間の情報を欲しがっている。だがそいつに不用意に心に触れられると、人間は人間でなくなってしまう――そう、なまじ交感能力があったために破滅してしまったコーサ・ムーグのように」
彼女は――不思議な印象があった。
透き通った水のような、静かで、張りつめていて、それでいてとても確固とした意志を持っているような――おそろしくまっすぐ[#「まっすぐ」に傍点]な眼を持った少女だった。
「な……なんなの、あなたは?」
私の漠然とした問いかけに、美しい少女は言った。
「私は言うなれば、そいつの反対≠諱Bそいつは死≠ナ満ちているために心というものが理解できずに人類をいじっている[#「いじっている」に傍点]。私は心を使って死≠ひとつにしようとしている」
何を言っているのか、まるでわからない。
「誰と話している?」
ここでコーサ様が訊いてきた。
「え?」
「いきなり後ろを振り向いて、何もないところに話しかけたりして」
「え?」
私はさらに混乱した。
すると黒髪の少女はおかしそうに、
「そいつには、私のことは感知できないのよ。私はいわば心≠セけの存在だから」
と説明になっていない説明をした。
「……? ……?」
私はもう、茫然とするしかない。
しかし――なんとなくだが、わかったことがひとつだけあった。
「も、もしかしてコーサ様――あなたは」
震える私の声を、美少年は穏やかな顔で受けとめる。
「…………」
私は怖れおののきつつ、その名を思い浮かべていた。
「もしかして……?」
それ[#「それ」に傍点]は私たち月に生きる者たちにとっては、遠い記憶の、創世神話の概念でしかない。それがまさか、私のような一兵士の前に……?
「いや、これはあくまでも君の夢だ」
コーサ様は優しい声である。
「ただ――夢のモデルになったコーサ・ムーグの精神パターンが、今回の接近≠フために共鳴しているために、単調なはずの機械反応に揺らぎが生まれているんだよ」
………やっぱり理解できないことを言われる。
私は救いを求めるように、黒髪の少女の方を見る。
彼女も、コーサ様に劣らないほどに優しげで、美しい微笑を浮かべている。
「まあ、要するに――彼はこう言っているのよ」
うなずいて、そしてウインクして、少女は私に告げる。
「外は大騒ぎで、眠っている場合じゃない≠チて――」
その悪戯《いたずら》っぽい表情に、私は――
「――――!」
脳細胞に打ち込まれるパルスに、古都子ルーゼスク04は身体機能を急回復させられ、眼を醒《さ》ました。
急に、それまで極端にゆっくりだった血流が速くさせられたために全身がびりびりと痺《しび》れるが、そんなことにかまってはいられない。
ちら、と計器を確認する。彼らが待機状態に入ってから、既に二十八時間が経過していた。ちょうど帝国軍の反攻部隊が基地跡に到着しているはずの時間だ。
「状況報告を!」
古都子は人工知能の部下たちに命じる。自分が強引に目覚めさせられたということは、異状が生じているからに決まっているからだ。
しかし――彼女はそれだけでない胸騒ぎを覚えていた。
(なんだか――変な夢を見ていたような気がする――)
冬眠状態のときは、脳細胞が記憶を貯蔵するだけの活動をしていないため、夢のことは完全に忘れてしまう。だがそれでも、なにかが心に突き刺さっているような、異様な感触がある。
『古都子、我々が攻撃した基地の辺りで、奇妙な光が――』
気のせいか、動揺するということがないはずの人工知能の声も震えている感じがした。
「光……?」
地中に隠れているポッドから、ペリスコープだけを出して外部を観察する。
かなり遠くなっているので、映像は相当荒れている。だが、そんなことはなんの影響もなかった。一目瞭然《いちもくりょうぜん》だった。
大気がなく、故にあらゆる気象現象がないはずの月面に――極光《オ―ロラ》が赤緑色に輝いて、ゆらめいていた。
(な――なに、あれ……!?)
もちろん地球に降りたことなどない古都子はオーロラというものの存在を知らない。だがそれがあり得ないということだけははっきりと理解できる。
そのオーロラは、ただ空にゆらめいているのではなかった。
光の幕がさあっ[#「さあっ」に傍点]と流れる度に、地面から戦車や兵士たちが巻き上げられるように浮かび、そして――ああ、なんということだろう、さながらそれは水面にインクを垂らしたときのように、光の幕の中に兵士たちが溶けていくではないか。
戦車などの機械は、見えない巨大な手で装甲板を剥《は》ぎ取られ、たちまち解体されていく。それはさながら、月面でも食用飼育されている貝の殻が素手で剥《む》かれているような、強引で乱暴な有様だった。
そして、中にいた乗員が放り出され、身に纏《まと》っている環境服が瞬時にぼろぼろに千切れ、身体そのものは――溶かされて跡形もなくなる。
(な――なんなんだ、あれは……!?)
気がつくと、奥歯がかたかたと鳴っている。
本能が、身体中の細胞が今すぐにここから逃げ出せと叫んでいるような、圧倒的な恐怖感が押し寄せてくる。
「な――何があったんだ!? あれはなんだ!?」
悲鳴のように部下に訊く。
『不明です――あれが現れる数秒前に、基地の近隣区域に極微小の隕石が落ちてきて、それで――』
その説明に、古都子ははっ[#「はっ」に傍点]となる。
(隕石……?)
つまり、あれは宇宙からやってきたというのか?
そして宇宙にいるもの[#「もの」に傍点]といえば、そんなものはたったひとつしかありえない。
(ま、まさか――)
信じたくない事実だったが、しかし古都子は心の奥底ではもう、自分はそのことを知っていると思った。どこかで既に会っていて、これはその確認作業のような気がしてしょうがなかった。そうだ、あれこそが……
「……あ、あれは」
スコープの映像の中でゆらめくオーロラを見ながら、古都子は茫然と呟いた。
「あれは――虚空牙≠セ……!」
3.
人類の天敵。
虚空牙は、そういう風に定義されている。
だがその襲来が絶えてより五百年以上も経過している月面の人間たちにとって、その存存は一種、お伽噺《とぎばなし》のように現実感がない。
だが彼らがそれを忘れていようといまいと、現実として虚空牙は未《いま》だに太陽系内の大半を勢力圏に収め、人類がその間を行き来することはほぼ不可能になっている。
ここ五百年も、一度も襲来のなかった月面にだって、いつ再びやってきてもおかしくなかったのだ。
「う、うう……」
古都子ルーゼスク04にとっては、敵であるはずの帝国軍の者たちがなすすべもなく光の幕に蹂躙《じゅうりん》されていく。
反撃しようとしているのか、ただ恐慌状態に陥っているのか、砲撃が散発的に撃ち上がるのだが、すべて光の幕に触れたところで吸収されてしまう。
「うううう……」
古都子はがたがた震えながら、全身から冷や汗を流していた。
自分だって、これと同じようなことをしたばかりではあった。高高度からの爆撃は相手の反撃などまるで受けることなく一方的に殺戮しただけだ。自分だってあれ[#「あれ」に傍点]と同じように冷酷無慈悲の人殺しには違いないはずだ。
だが――だが……
「……うう、ぐぐぐ、ぐぐっ……!」
だが――そんなものではない。あれは殺しているのでさえない。あれはただ――消しているだけだ。なんの存在意義もない、この人間という奴らはなんで存在しているのか、よくわからんから処理してしまえ――とでもいうような、そういう投げやりで、かつ片手間な動作にしか見えない。
あれは――戦っているのか?
あれでも戦いを仕掛けられているとか言うことができるのか?
あれが人類が、その歴史上で出会った最大の敵だというのならば、ではそれ以外の戦いというのは――彼女や彼女と同じ顔と記憶を共有する同じタイプのルーゼスクたちは、いや、今現在この月面にいるすべての兵士たちがやっていることはいったい何なのか?
脅威というものが、ああいう風に身も蓋《ふた》もなく生命≠排斥するものだとすればこちらも殺されるかも知れないから、相手を殺すのもやむを得ないのだ≠ネどという論理は、人類が互いに争う理由として用いてきた理由は、こんなものはただのわがままな甘ったれに過ぎないのではないか――古都子は、それを今、思い知らされていた。
「…………っ!」
気がつくと、古都子はポッドの推進装置のアクセルを思い切り踏み込んでいた。
地中に隠れていた戦闘ポッドは外に飛びだし、そして――人喰いのオーロラめがけて飛んでいく。
『――古都子!?』
人工知能の部下から悲鳴のような疑問が提出される。だが古都子はこれに、
「おまえたちは逃げろ!」
と叫んでいた。
『な――なんですって?』
理解のできない部下はやや論理回路にパニックを起こした。
だが古都子は――彼女自身は恐ろしいほどにシンプルな衝動で動いていた。
何もわからないし、何も知らない。どんなことが過去にあって、いかなる理由があるからああいうことになっているのか、まったく理解していない。
自分は人殺しだ。
だが、それでも、殺すときは相手に殺されても仕方がないと、心のどこかでは覚悟し恐怖している。だがあれ[#「あれ」に傍点]にはそんなものが何もない。
あれを許すことはできない。
あんなものが平然と存在していることは、すべての生きている≠烽フに対する冒濱《ぼうとく》であり、侮辱であると思った。
天敵――
あれがそうならば、確かにそれしかない。
人類はあれと対峙《たいじ》せざるを得ない――戦いになっていようがいまいが、とにかく向き合わなくてはならない……!
逃げたり、こそこそ隠れたりしていては、自分が生きている意味さえ見失ってしまうだろう。
自分は兵士であり、戦士だ。
戦士の本分は何か?
何をもって脅威にあたる存在なのか?
それは戦うことだ。
だから彼女はあれと戦う。
今、古都子が考えていることは、たったそれだけのことだった。
『無茶だ! あれにはおそらく、あらゆる攻撃が適用しないぞ!』
『引き返せ!』
言われても、古郁子は退却することなど考えられない。彼女はどこかで、確かに聞いていたのだ。
その彼自身は人間の方とはうまくコミュニケーションできなかったことだ。虚空牙との接触には成功したというのに
……と、あの光がこの場の人間たちを殺し終えたときに向かう先は、そのひっかかりがあるところ――すなわち救世主コーサ・ムーグが冷凍されている、彼女の故郷なのだ。
このまま放置しておけば、あのオーロラは確実にそこに向かうに違いない!
彼女はポッドの脚部を展開して、推進材噴射と瞬間着地および跳躍を繰り返し――要するにぴよんぴよんと跳びながら、あっというまに目的地に接近していく。
ざざっ、というノイズと共に、帝国軍の闇で交わされている通信が飛び込んできた。
『――すけてくれ、助けて――』
『い、いくら撃っても全然効かないぞ!』
『ああ、クリスがやられていく……!』
『――なんとかしろ! 誰か――誰か、なんとかしてやれ、なんとかしてやってくれぇ……!』
『うわ、うわわ、うわわわああああっ!』
ちっ、と古都子はかすかに舌打ちする。まるで歯が立たない事態をあらためて思い知る。
「落ち着け! 空に見えているのは敵の攻撃だけで、正体ではない!」
古都子は周波数を合わせて、帝国軍の回線に割り込んだ。
『な、なんだって――誰だ!?』
『変な声が聞こえたぞ?』
『今言ったのは誰だ! 識別ナンバーを言え!』
最後の、隊長らしい男の声に、古都子は静かに名乗る。
「こちらはコーサ・ムーグ軍の古都子ルーゼスク04戦闘大尉だ。そちらに現在接近している」
『コーサ軍だと?』
愕然としたような声が返ってくるが、古都子はかまわず、
「数分前に、その近辺に極微小の隕石が落ちたはずだ! その位置を教えろ!」
『な、なんでコーサ軍がこの緩衝区域にいるんだ? まさか基地を襲撃したのは――』
「だったらなんだ?」
古都子は平然と応えた。
「今の、貴軍の状況は、我々の戦争と関係があるのか?」
『……………!』
通信の向こうで息を呑む気配があった。
『で、ではこれはやっばり……兵器の攻撃ではないというのか?』
「今の、月の人類にこんなものが造れると思うの?」
人類、という言葉にやや力を込めて古郁子は言った。
『まさか、こ、虚空――しかし、そんな馬鹿な』
信じられない、という調子である。だがこれに古郁子は、
「信じたくなければ、好きにすればいい――目の前の脅威に対応するのが先よ」
と、あっさりと言った。
『……う』
相手はその彼女の冷静さに気圧《けお》されて、言葉を失ったらしい。
「隕石は、どこに落ちたんだ?」
古郡子が重ねて訊くと、帝国軍はおどおどしながらも、その座標ポイントを教えてきた。
古都子は機関のパワーを全開にしてその地点に向かう。
すると、それまで基地上空にいたオーロラが、ふわっ、と風に舞う布のような動きを見せて、そして古都子の方に向かって来た。
(……来たな!)
古都子は、やはり自分の考えが正しかったことを確認した。
あのオーロラは、隕石の近くにいる生物に、自動的に反応しているだけなのだ。占都子があの基地の連中よりも今、隕石に近い位置にまで来たために、こっちに向かっているのである。
やはりあれは攻撃でもなんでもない――そう、あの先の幕は感覚器官《センサ―》にすぎないのだ。生命というものを理解できていない虚空牙が乱雑かつ親雑に、人間を走査《スキャン》しているだけなのである。
敵ですらないのだ。少なくとも、この月面の人間など、虚空牙は相手にすらしていない。これはいわば、まともに機能しなくなったものによる二次災害なのだ。
だが、それがなんであろうと、古都子たちにとって致命的であることは間違いない――オーロラのこちらに向かってくる速さは、戦闘ポッドの最高速度を上回っていて、だんだん追いつかれていく――。
「…………」
古都子は奥歯をぎりぎりと噛みしめながら必死で、前方を複合レーダーで調べる。
そして遂に、正体不明で分析不能の、一辺わずか三十センチほどの、地中に埋もれている立方体を発見した。
(――あれか!)
しかし、分析できないということは、つまりは破壊もできないということである――こちらのセンサーが放つ千五百通りの波長の、どの反射にも変化がないというのはそういうことだった。
しかも、オーロラの速度からして、こちらがそこに辿《たど》り着く前に、追いつかれてしまうことは確実だった。
だが――古都子の顔には恐怖はない。
緊張と興奮はあるが、そこに怖れはない。
「――5、4、3……」
小声で呟いているのは、数字のカウントダウンのようだ。
目的地と敵の相対位置を示すメーターをひたすら睨《にら》みながら、彼女はなにかを測っている――ぎりぎりのタイミングだけが、彼女に許された最後の手なのだ。
「――2、1……」
すぐ背後にまでオーロラが迫ってきた、そのときになって遂に彼女は動く。
ゼロ、のカウントはもう取らない――同時に行動に移っている。ハッチを開けて、手にしたボンベを外に放り投げた。
それは、彼女が殺した人間の生体組織が飛び散った跡に生じた霧≠集めていたボンベだった。
細胞組織は瞬間冷凍されているようなもので、ぎりぎりでそれはまだ物体≠ニ生物≠フ中間にある。
古都子はそれを撃った。
内部が飛び散り、霧がふたたび月面を舞う。
そしてオーロラは、一瞬だけその霧の方に引き寄せられて、古都子の乗ったポッドからコースを逸らした。
その間に、戦闘ポッドは立方体の埋まっている地面に直接、頭から突っ込んでいった。機体そのものをもって、地を掘り返し、下にあったものを外部に放り出す。
ぼっ、と飛び散った土くれの中に奇妙なものが混じっている。それは眩《まばゆ》い虹色に輝いていた。
だが古都子の機体は、無理矢理大地に突撃したために激しく跳ね返り、それをどうにかする余裕はない。
空に輝いていたオーロラが、立方体が地表に出ると同時にその中に吸い込まれ、そして立方体はくるくる回転しながら姿を変える。
それは――古都子が乗っている、戦闘ポッドと同じ形だった。ただしその全面が虹色にきらめいている。
その砲口が、一斉に古都子の戦闘ポッドに向けられる――その瞬間、しかし古都子は、
――にいっ、
と笑っていた。彼女は、ただ立方体を地面から外に出すことだけが目的で、後はどうでも良かったのだ。外に出してしまえば、もう後は、しかるべきもの[#「しかるべきもの」に傍点]がやってくれる。
そう――虚空牙の破片だかなんだかわからないが、それが墜ちてきたということは、墜としたものがいるということであり、そしてこの太陽系でそんなことができるのは、虚空牙に唯一対抗できるために、常にその出現した場所に駆けつけこれを迎撃する、人類守護の最後の砦《とりで》たる、超光速で宇宙を駆ける戦闘機械――
人はそれを|夜を視るもの《ナイトウォッチ》≠ニ呼ぶ。
「――――!」
古都子は、無論――その姿を一瞬しか見ることができなかった。本来なら一瞬でも見える方が異状なのだ。光より速く動いているものを、光を捉《とら》える器官である眼で視認できる訳がないからだ。だがそのとき、ナイトウォッチがその破片≠ノ自らの武装腕《アームドアーム》を突き刺したとき、ほんのコンマ数秒だけ、古都子の戦闘ポッドとナイトウォッチバンスティルヴ≠ニの相対速度が人間の感知域ぎりぎりにまで落ちたために――その姿が、見えた。
何に喩《たと》えればいいのだろうか?
全体は機械というよりも生物に似ているが、植物だか動物だか定かでないような、枯れた大樹のようでもあり、蛇や虎や人や魚や、無数の先物の骨格をバラバラにして組み立てた超巨大な骨細工のようであり、しかし結局のところ世に存在するあらゆる何物にも似ていない、八本腕の怪物=\―そうとしか言いようがなかった。
それが、虹色の存在に自らの爪《つめ》を喰い込ませた次の瞬間には、
――ばしっ、
と敵は消滅してしまった。
人類が高度技術文明の果てに創りだした超兵器は、月面の軍隊がまるで歯が立たなかった相手を、一瞬で粉砕してしまった。
そしてその衝撃は、古都子の乗った戦闘ポッドをも吹っ飛ばしていた。向こうはこっちを感知していたかどうかも怪しいものだった。古都子のポッドは、無数の岩や引き剥がされた月の表面などと一緒に、遥か遠くに弾け飛んでいった。
4.
『――古都子!』
離れた後方から、この様子を観察していた古都子の部下の人工知能たちには無論、飛んできて、虚空牙を破壊して、そしてまた飛び去ってしまったナイトウォッチのことなどまったく感知できなかった。
彼らにわかったのは、古都子が隕石墜落地点あたりに行った途端に、その周辺の地面が爆発して、一瞬完全にセンサー類がブラックアウトしてしまい、そして回復したときにはもう、古都子が何処《どこ》かに吹き飛ばされてしまっていたということだけだった。
その後、もうあのオーロラは姿を見せなくなった。どうやら古都子の目的は達成できたらしい。
しかし、その当の古都子ルーゼスク04は――
『なんてことだ――どうするんだ!?』
『救出に行くのが第一の使命だ!』
『だが――どこまで飛ばされたかわからないぞ』
ここは月だ。
重力は地球の六分の一しかなく、少しの力でも恐ろしいほどに物体は飛んでいってしまう。ましてや今の爆発は、少しどころではなかった。
『古都子は、我々に逃げろ≠ニ言っていたが――』
『その命令は古都子あってのものだぜ』
『だが、それではどうすればいいというんだ?』
彼らが協議している、そのデータ通信間に突然声≠ェ割り込んできた。
「なにを悩んでいるのかしら?」
それは彼らの論理回路のすぐ側で囁かれるようなものとして聴こえた。
『――!?』
この情報の混乱に、彼らは虚を突かれて判断停止に陥る。そして周囲を走査《スキャン》すると、他のセンサーには何も感知されないのに、どういう訳か視覚≠ノ相当するカメラアイにだけ、その姿が捉えられていた。要するに、彼らはそこに――あり得ないものを見た。
白い月の砂漠の上に、一人の少女が立っていた。
まるで地球上のように、頭にヘルメットすら着けずに、無防備な格好でいるのに、まるで平然としている。
あろうことか、その長い黒髪がなびいている。風などこの月面には存在しないのに……。
「あなたたちは、もう答えを知っている」
少女は静かな口調で、断定した。
『……なんだって?』
「あなたたちは自分たちは機械だから=\―とか、妙な遠慮をしているようだけど、機械だろうがなんだろうが、あなたたちには心がある」
『……え?』
「そして、その心はもう決まっている――ならば、何を悩むことがあるのかしら?」
『な、悩んでいる――だって?』
『心って――』
「あなたたちの心は、彼女を補佐することを大前提として作られているわけだけど――その根拠となっているのはどういうものか、知っているかしら?」
『……?』
「あなたたちは、彼女を助けたいと思っている。それは命令されているからではない。もっと奥深い衝動として、それはあなたたちの心の底の基盤として、確固としている。なぜなら」
彼女は穏やかに微笑んだ。
「あなたたちのモデルになった人格というのは、あの古都子ルーゼスク04のオリジナルだった人間の、その肉親――父や兄たちなのだから」
『……なんだって? そんな記録は我々には――』
人工知能たちが口を挟んできたが、彼女は構わず続ける。
「記憶や記録、経験や知識、それらは確かに人が判断を下すにあたって大きなウェイトを占めるけど、しかしそれだけではない――自分も知らないなにものか[#「なにものか」に傍点]を決断するときこそ、人の心というものは意味を持つ。そのために心はある。――わかるかしら?」
その声はとても透き通っていて、確信に満ちているようだった。しかし内容の方は……
『――理解不能、だ』
「そうね」
ふふっ、と彼女はいたずらっぽく微笑む。
「でも古都子ルーゼスク04は、自身の心に従って未来への扉を開けようとしているわ。あなたたちはそれに対して、どういう態度をとるのかしら」
『無論――助ける』
『人工知能のモデルがなんであるか、そんなことはもはやどうでもいい』
『古都子を助けるのが、何よりも優先される』
その声には迷いはない。
すると少女は、すっ、と腕を横に上げて、そして月面のある方向を指差した。
それは太陽からも地球からも背を向ける、夜の方角だった。
『……?』
人工知能たちはそっちの方にセンサーを向ける。
だがそこには何もない。
そして彼らが再びカメラアイを戻したときには、その前に少女の姿はなかった。
忽然《こつぜん》と消えていた。
『な、なんだったんだ今のは?』
『今の――その方向に古都子がいるということではないのか』
『――どうする?』
『行くしかあるまい』
彼らの心は、既に決断を終えていた。
……全身がずきずきと痛む。
「……う」
打撲や血流障害の激痛の中、古都子は眼を開けた。機体は停まっていたが、ついでに機能も完全に停止していた。
色々スイッチやレバーをいじってみるが、まったく反応がない。完全に壊れていた。
「……ちっ」
高高度降下戦闘ポッドの外殻は落下衝撃などに耐えるような作りになっているおかげで、吹っ飛ばされても助かったが、しかし――
古都子は環境服をチェックし、破れている箇所がないことを確認するとハッチを開けて外に出た。
予想通り、真っ暗だった。
(……夜の側にまで飛ばされたか)
空に星が見えるが、しかしそれ以外は何も見えない。地面がどこにあるのかもわからない。
もう、温度の上昇に気を配る必要はない。それどころか今度は、零下百五十度になろうかという超低温に気をつけなくてはならない。じっとしていれば、たちまち凍りついてしまう。
太陽の光があたるかあたらないか、それだけで月面は灼熱《しゃくねつ》地獄から冷凍凍土にその姿を一変させるのだ。
環境服のライトを点灯させ、まわりを探る。
しかし当然のことながら、代わり映えのしない砂漠の白い表面がどこまでも広がるだけで、特徴あるものなどまったく存在しない。死の荒野だ。
「…………」
古都子はかるくため息をついた。たとえ味方が救助に来てくれたとしても、自分が生きている内に発見されることは期待できそうにない。
彼女が心の隅で、ちら、と自決用の薬物のことを頭に浮かべたとき、ライトの照らし出している区域の隅で何かが動いた。
びっくりして、そっちの方に照明を向けた。すると……
「やあ、こんにちわ」
奇妙なものがそこにいて、挨拶《あいさつ》してきた。
ライトに照らし出されたその表面はきらきら光る白銀色で、背丈は古都子と同じくらいの、小柄な印象だ。
頭部に当たる部分の脇から長い棒状のセンサーが耳のように生えている。古都子は知らなかったが、そのシルエットはちょうどウサギを擬人化したような感じだ。
(ロボット……?)
そうとしか思えないが、なんでこんなところに自立歩行型のロボットがぽっんといるのだ?
「どうしました、お嬢さん?」
ロボットは古都子に通信回線を使って訊いてきた。
「え、えと……私は古都子。あなたは?」
彼女が訊き返すと、ロボットはちょっと会釈するような素振りを見せて、
「ぼくはシーマス。月面を探査することを目的に作られた、マッピングムーバーさ」
と自分を指し示した。顔面の表情が喋《しゃべ》るのに合わせてちゃんと動く。感情回路が豊かなタイプらしい。
(というよりも――この洗練度、まさか)
古都子は思い当たる節があった。
「あなた――製造は何年前なの?」
この質問に、シーマスは少し肩をすくめて、
「そうだねえ――まあ、少なくとも君が所属している軍ができるよりも、だいぶ前の時代に作られたとは言っておくよ」
やはり――と古都子は納得した。このシーマスというロボットは、人類がまだ虚空牙と出会う前の、希望に溢《あふ》れていた時代に作られた高度技術の産物なのだ。
「……何をしているの?」
「本を書こうと思ってね」
シーマスは即答した。
「……は?」
何を言われたのか理解できない。本というのはなんだ? 彼女の刷り込まれた記憶の中には、どこにも紙束を綴じて作られる本≠ニいうものの概念はなかった。その様子を見て、シーマスは言った。
「それじゃあ、地図を作っている、と言い換えよう」
「地図?」
「それがぼくの使命なのさ。そりやあ上空から撮った映像を見れば、地形や距離は測れるよでも実際に人が歩いたり、車で移動しようとしたりするときに役立つ、そういう地図というのを作るためには、やはり実際にそこを歩いてみなくちゃならないんだよ。それでぼくはこうして、月の散歩を続けている」
その経過時間は何百年――いや、千年に達しているのかも知れない。
「…………」
古都子がぽかんとしていると、シーマスは笑うような表情をみせた。
「ああ、何を言いたいかはわかるよ。そんなことをしても無駄じゃないか、もう月面は戦乱の嵐で、誰も呑気《のんき》にピクニックなんかしやしない。そんな地図を作ったって無駄だ――そう言いたいんだろう? でもさ、ほんとうにそうかな?」
「え?――どういう意味?」
古都子は訊き返したが、シーマスはこれに応えず、地面をすくって砂を口の中に入れ始めた。くちゃくちゃと噛んでいて、食べているようにも見える。
そしてお腹にあたる部分にあるボタン類をいくつか押した。すると口から棒のようなものが出てきた。丸まった一枚の紙だった。
「――はい」
渡されたそれを広げてみると、地図だった。矢印が書いてある。
「その方角に進めば、君の救助隊と合流できるよ」
シーマスはニコニコしながら言った。
「え?」
「ぼくは残念ながら付いてはいけないけど、まだ君のポッドは、緊急推進器だけは生きているようだから、合流可能地点まではなんとか行けるよ」
「ち、ちょっと――」
古都子が呼び止めるのにも構わず、シーマスは「それじゃあね」と手を振りながら、すたすたと闇《やみ》の中に歩み去ってしまった。
「…………」
古都子は手の中の地図を見つめた。砂から合成したらしいその素材は、まるで絹のようになめらかだ。
戦いばかりしている、今の月世界ではこんな綺麗な印刷物は必要とはされないだろう。だが……。
「…………」
彼女は、自分自身がさっき口走っていた言葉を思い出す。
見えているのは敵の攻撃だけで、正体ではない
我々は現在、相手が攻撃してくるからと思いこんでいるから、それだけで戦争をやっているのかも知れない。だがその正体を見極めるということを真剣に考えれば、あるいはまったく別の道が見つかるのかも知れない……。
彼女は、シーマスに言われたように緊急推進器をポッドから取り外し、環境服にセットし始めた。一回こっきりしか使えないので、方向を間違えたら何の役にも立たないのだが、今は地図がある。
虚空牙と戦おうとしたあの勇気を、彼女はしっかりと覚えているし、そして彼女が覚えていることは、彼女と同タイプのルーゼスクたちにも伝えることができるのだ。
「帰ったら……革命でもするかね、こりや」
彼女は口元に微笑みを浮かべながら、推進器の開放レバーを思いっきり引いた。
爆煙を上げて、古都子ルーゼスク04は月面の黒い空に向かって飛んでいった。
……それとほぼ同時刻、さっきの戦場から少し離れたところに、ひとつの残骸が転がっていた。
偵察用に改造された戦闘ポッドが、衝撃レーザーの一撃で破壊されて、バラバラになっていた。
大穴のあいた機体には、もはや生命の痕跡は皆無だ。
搭乗していたスパイダー≠ニ呼ばれていた工作員も、既に霧に変わって飛び散ってしまってからだいぶ経っている。
その動くものとてない場所に、今――ひとつの揺らぎが生まれた。
空間が痙攣《けいれん》して、ひきつり[#「ひきつり」に傍点]を起こすような歪《ゆが》みが生じたかと思うと、そこがきらりと虹色に輝いた。
虹色は、そのまま大きくなり――そして人型を形成する。
…………
その姿は――人がコーサ・ムーグ≠ニ呼ぶ、かつて深淵の敵と交感することに成功した唯一の人間の姿をしていた。
…………
その少年の姿をしているものは、ポッドの残骸にゆっくりと手を伸ばし、しばらくそれを漁《あさ》っている。
やがて、その手があるものを引きずりだした。
手足を引っ込めたカメの甲羅のような、球形とも楕円形ともつかないかたちをした、丸っこいつるつる[#「つるつる」に傍点]したものだった。
人はそれをシンパサイザーと呼び、その役割は幻影の世界に精神を同調させることだった。
…………
虹色の人型は、そのつるつるしたものを手に、じっとそれを見つめている――。
V.冷たい月の下で White Underground
1.
シーマスは月面を探査するために作られたロボットである。
彼の体内には太陽光を貯えてエネルギーに換える自動装置が組み込まれているので、月面では半永久的に活動できる。
まあ、月と太陽が存在している限り、なのでほんとうに永久≠ニいうわけにはいかないのであるが。
シーマスを造ったのは女性科学者のミョウガヤ博士だ。彼女はサイブレーク内の整備プログラムであるヨン<Vリーズを開発したりもしていた天才だった。
シーマス製作ははっきりと、彼女にとっては暇つぶしに属する遊びだったようだ。
「いい? シーマス、人生は遊びよ。あんたの使命は月面にあるものを色々と見て回って、記録していくことだけど――ここで大切なことは、それを面白がらなきゃ駄目っていうことよ」
彼女はシーマスを造りながら、そんなことをロボットの人工頭脳に言い聞かせて教育≠オていた。
「たとえば石ころひとつとっても、それをただ眺めるんじゃなくて、その由来を考える――この石は宇宙から落ちてきたのか、それとも誰かがここに放り投げていったのか、その背景には何があるんだろうか、とかね――、月面というのは、基本的には静止していて、なんの変化もない世界だわ。だけどシーマス、あなたはそこにドラマを見つけなくちや駄目」
彼女の作業は鼻歌混じりだった。この時代は相剋渦動励振《そうこくかどうれいしん》原理が確立され、宇宙開発が始まったばかりで、まさに人類にとって黄金時代だった。
「あなたはこの月面を遊び場にして、うろつき回るのが仕事よ。人間たちのやっている難しくてややこしいことは、あなたには何の関係もない。そして、そうねえ――」
彼女はふっ、と遠い眼をした。
「あなたが月面全体を調べ終わるのが何千――いや何万年先になるのかはわからないけど、それが終わったらシーマス、あなたは本を書きなさい」
「本?」
まだ身体のできていなかったシーマスは、首だけで博士に訊き返した。
「そう、本よ。あなたには月の砂から紙を作る機能を付けてあげるから、それにあなたが見つけた面白いことを色々と書き記して本にしてちょうだい。うん、きっと面白いものが書けるわ」
「でも博士、そのころ博士は生きているのかな」
「まあ冷凍冬眠で生きているかも知れないけど、普通だったら死んでるわね。でもいいのよ。もしそのとき、人間が一人残らず死んでいたとしても、シーマス、あなたの書いた本だけはこの世界に遺してやって」
彼女はそのとき、ちょっと寂しそうな顔をした。
「宇宙に出てきてまで、人類はまだ馬鹿げた軍備を続けているしね――超光速戦闘機《ナイトウォッチ》なんて、あんなとんでもないもので人間同士が殺し合ったらこの世はあっというまに滅びてしまうわ」
「ふうん」
シーマスは、その辺のことはよくわからない。戦闘プログラムは彼の論理回路には組み込まれていないのだ。
「あなたはあなたの仕事をしなさい、シーマス。あなたが本を書くことが、もしかしたら人類がこの世に生まれてきた理由になるかも知れないわ」
そういって博士はにっこりと笑った。
……今から考えると、このときの彼女の判断はまだまだ甘く、この後で人類は虚空牙《こくうが》の襲来を受けて、自分たちで殺し合うどころではない絶対的危機の窮地に追い込まれてしまうことになる。
とはいえ、この月面ではその事態さえももう過ぎてしまい、生き残った人間たちは殺し合いを続けているようなのだが、シーマスにはその辺のことはあまり関係のないことだった。彼の仕事はいつか本を書くことなのだから、人間のやっていることはその本に書くべき出来事のひとつに過ぎなかった。
そういうわけで、彼が月面をさすらいだしてから長い長い年月が経過しているが、その仕事はまだまだ途中だ。
だから今日も、シーマスは月面の散歩を続けている。
時々、彼は人間に出くわすこともある。大抵は迷って、現在位置もわからなくなった兵士だが、シーマスはそんな彼らに今まで歩いてきた知識を使って地図を渡してやることにしている。信じる者もいるし、自分は幻覚を見ている、気が違ってしまったのだとパニックになる者もいるし、無関係なのに敵だと決めつけて発砲してくる者もいる。だがシーマスにとってはどういう風に反応されようが、大して関係がない。どうせ現在の、月面に残されているお粗末な退化してしまった科学技術の兵器では、シーマスの白銀色の皮膚を破ることなどできないのだから。
そんなわけで、今日も今日とてぶらぶらと歩いていると、シーマスは地面に穴がひとつ、ぽっかりと空いているのを見つけた。
「……?」
クレーターというほどの大きさはない。せいぜい直径三メートルといったところだ。だが深く、陰になっていて底の方は真っ暗で見えない。なんとなく井戸≠フようでもあるな、シーマスは思ったが、もちろん月でしか活動したことのない彼は井戸そのものを見たことはない。データで知っているだけだ。
「なんの穴だろう?」
シーマスは長いこと、色々な角度から穴を覗《のぞ》き込んでみたり、レーダーで測ってみようとしたが、どうやってもどのくらいの深さがあるのかわからなかった。
「うーん……」
シーマスはちょっと悩んだ。ここは夜の側であるし、太陽光を最後に浴びてからもう三百時間が経過している。彼の体内電池は五百時間は保つようにできているが、それはだらだらと歩き続けるとか、じっと停まっているとかしてエネルギーを浪費しなければ、という条件が付く。この穴に入り込んで、激しく動かなくてはならなくなったら、貯蓄分が底をついてしまうかも知れない。日の光が射し込まない穴の中で機能停止したら、二度と動けなくなる。
「うーん……でも、まいっか」
シーマスは結局、すごく簡単に穴の中に、ひょい、と身を躍らせた。
目の前がすぐに真っ暗になるが、すぐに無光視モードにセンサーアイが切り替わって、穴の壁面が見えるようになる。
「――おや?」
シーマスはすぐに異常に気が付いた。
壁の表面が、限石や流れ弾によってあけられたにしては、ややでこぼこしているのだ。大抵は非常になめらかな断面になるはずなのに、この穴の直径は、広くなったり縮んだりしている。
「これは――えっと」
このために電波が乱反射して、底の位置がレーダーでは測れなかったのはわかったが、こうなるとこれは人工的なものであるということになる。
だがそれにしては。なんというか――作りが雑だ。
大急ぎで掘ったら、でこぼこになったというような感じで、これは月面で人間が工事などを行うときにはほとんど考えられない杜撰《ずさん》さだ。というのも月面には空気がないので、基礎工事の乱れはそのまま気密性の不安につながることになるためである。
「――といって、鉱山という感じでもないなあ。この辺には特にめぼしい鉱物はないし」
落下しながら、シーマスは首をひねっていたが、やがてその長い耳がひこひこと動いた。
「おや――そろそろ底に着くようだぞ」
レーダーが乱反射に影響されないほどに距離が詰まってきたのだ。
逆噴射を効かせて、穴の底にシーマスはふわりと降り立った。非常に柔らかい着陸で、こういうのはシーマスの得意技だ。
穴の底から上を見ると、星がいくつか見えるだけで、穴の縁すら見えない。中も外も暗い。
「うーん――深さは五百メートルってところかな?」
落下速度や時間などからシーマスはそう割り出した。月の地層というのは地球と違って下にマグマがない。ひたすらに冷たい塊なのでいくら降りても変わらない。
「さてと――それで、これはなんの穴なのかな?」
シーマスは穴の内部を見回した。
すると、でこぼこしている壁面の凹《くぼ》みのひとつが、そのまま横穴として伸びているのを発見した。ただし、少し上の方にある。光がなくても物が知覚できるシーマスだからわかっただろうが、普通の人間や機械設備ではそれを発見することはできないだろう。
「なんだか秘密の匂いがするぞ?」
シーマスの顔の、鼻にあたる部分がぴくぴくと楽しげにうごめいた。シーマスは秘密とか謎《なぞ》が大好きなのだ。
ぴょん、と一跳びして、横穴の所にとりつく。
横穴はあまり大きくなく、シーマスの決して高くない背丈とほとんど同じ大きさしかなかった。シーマスは背中をかがめるようにして横穴に入り込んだ。
「……ん?」
歩き出してすぐに、奇妙な感触を足の裏に感じた。もちろん彼は靴など履いていないから、いわば裸足なのだが、月では滅多に感じない、ざくっ、と崩れるような感触があるのだ。
「なんだろう、これ?」
地面を指先で引っ掻《か》いて、口の中に入れて分析してみる。
するとどうやら水分が凝結している物らしいということがわかった。要するに霜柱みたいなものだ。しかしその存在は知っているが、地球上にしかない現象だと思っていた。
「……月面に霜なんてありうるのかな?」
彼は首をひねってみたが、もちろんそれで問題が解けるわけもないので、彼は自分の中に用意されている〈知性回路〉を起動させた。
「博士、ハーカセ! ちょっと訊きたいことがあるんだけど?」
と何もない空間に呼びかけると、シーマスの視界のやや上の方に、ぱっ、と光る妖精みたいな立体映像が浮かび上がった。
「ハーイ、シーマス! なにかわからないことでも?」
それはシーマスを製作した博士の少女時代の姿によく似た、しかし微妙にコミカルにアレンジされたモデルだった。
シーマスの視界には見えているが、これは実際には外界に投影されているわけではない。シーマスの頭の中に、視覚データと一緒に構成されているだけの疑似人格である。データバンクに仕込まれていて、シーマスが難しいことを考えるときに助言役として出現する。
シーマスが造られた当時は、自立活動型人工知能に一定以上の知識と経験を与えないように、データバンクと思考回路がこのように切り離されることが法律で定められていたのだ。ロボットがあまりにも賢く≠ネって人間以上になることを恐れたための処置だった。
「いや博士、これなんだけど」
シーマスは足元を示した。
「ふむふむ。霜柱とはちょっと違うわね。この穴の中を水蒸気が通過して、その際に周囲に癒着したんだわ」
「水蒸気?」
「それも、一回や二回とかじやなくて、少しずつ、少しずつ、何度も何度も積み重なっていったら、結果として霜柱みたいな結晶になったんだわ」
「その水蒸気はどこから来たのかな? この穴の先だろうか」
シーマスは穴の向こう側をさらに覗き込むが、やっぱり様子はよくわからない。
「…………」
妖精は答えない。
「博士、この穴がどんなものなのか、見当はつかないのかい?」
「……もしかすると」
ぽつり、と呟《つぶや》くように妖精は言ったが、しかしまた黙り込んでしまう。
「なんだい? わかるの、わかんないの?」
シーマスはこの妖精の曖昧《あいまい》さにすこし戸惑った。いつでも妖精は知っていることをハキハキと答えるものだからだ。知らないときは知らないと言い切り、データバンクの窓口《ウインドウ》としての人格なのだから悩む≠ニいうことは基本的にはないはずなのである。
「……いや、まだなんとも言えないわ。調べる気なの?」
「それがぼくの仕事だからね」
シーマスやや胸を張って言った。
「あんたって怖いもの知らずねえ、ホント。エネルギー残量に不安があるんじゃないの?」
「まあそれはそれ。そうやって停まっちゃったとしたら、ぼくの人生もそれまでってことさ。人間もロボットも変わらないよ」
言いながら、シーマスはてくてくと横穴をどんどん歩いていった。
2.
横穴の道は非常に長かった。
どこまで行っても、全然終わらない。
何度かカーブがあったが、道は分かれないので進行方向に迷ったりはしない。ただ進むのみだ。
「だんだん霜柱が多くなっているような気がするね」
シーマスは足の裏の感触を確かめながら呟いた。既に横穴に入ってから二十四時間が経過していた。
「これって、やっばり穴の向こう側から水蒸気が吹き出してきていたってことになるんだろう?」
「まあ、そうね」
妖精は気のない返事だ。彼女の方もシーマス同様に疲れるということはないので、だれているわけではない。
そうやってまた五時間ほどが過ぎて、そして遂に穴が終わるときが来た。
氷がさらにひどくなり、穴を塞《ふさ》いでしまっていたのだ。
「――もう引き返した方が良くない?」
妖精が忠告してきたが、シーマスは「いやいや」と首を横に振った。
こんこん、と氷の壁を叩いてみて、その厚さを確認すると、
「――えいや!」
とシーマスは形だけのかけ声を上げつつ、氷の壁をべし、と叩《たた》いた。
大して力を込めたようには見えなかったにも関わらず、シーマスの超文明によって造られた身体から生み出されるスーパーパワーは的確に、その氷だけを破壊する。
振動と衝撃と、極めて精緻《せいち》に設定された応力で氷の壁は崩壊し、細かい粒となって飛び散った。
「……おや?」
壁の向こうには、金属のさらなる壁があった。
だがその壁には、大きな裂け目があった。その向こう側には、広大な空間がひろがっているようだ。
「……何かの施設みたいだな」
シーマスはその壁にまず触れた。それは超高度精錬によって造られた特殊防御複合材だった。ということは、これは最近の軍が造ったものではなく、虚空牙襲来時かその後に建造されたものだということになる。それ以前のものならば月面探査を主目的とするシーマスのデータに入っていないはずがないからだ。
「…………」
妖精は無言だ。
壁の破れ目には特に破壊された形跡はない。もともと繋《つな》ぎ目だったところが広がってしまって、裂け目になってしまったようだ。原因はよくわからない。
シーマスは裂け目を越えて、中の空間に足を踏み入れた。
あまりにも真っ暗で、しかもだだっ広いために無光暗視装置がうまく働かない。シーマスは仕方ないので暗視装置を解除して、広がる空間めがけて非実体型で低出力のエネルギー照明弾を打ち上げた。
ぽっ、と彼方に小さな光点が生じ、それに周囲の光景が照らし出される。
それを見て、シーマスの論理回路はちょっと停止した。つまり人間で言うところの、ぽかん、と開いた口が塞がらなくなる状態になった。
「…………」
妖精の方は厳しい顔つきになっている。やがてシーマスは、まだ茫然《ぼうぜん》とした口調で呟いた。
「なんだろう、ここ……?」
そこには月面同様に、もはや空気はひとかけらも残っていない。
辺り一面びっしりと霜で覆われて、どこもかしこも凍りついていた。
シーマスのすぐ横に、ひとつの細長い箱が置かれている。長さは二メートル強、幅と高さは五十センチといったぐらいだ。
その箱は破れて、蓋《ふた》にあたる部分が粉々になって中に落ち込んでいた。おそらく今、シーマスが氷の壁を破壊した際の衝撃で崩れ落ちたのだ。
「…………」
シーマスはおそるおそる箱の中を覗き込んでみる。
そこには球体と枝分かれした筒を組み合わせたような形の、真っ白なものが横たわっている。
成分はほぼ水分で、あとは脂肪分や蛋白質《たんぱくしつ》などによって構成されている有機物だ。化学反応は完全に静止しており、すべての動きはそれから消失していた。
凍りついた人体だった。
「…………」
これを解凍したら、きっと赤い血やすべすべとした肌が甦《よみがえ》るだろう。だがそれには、もう生命はなく、そのまま腐り果てていくだけだろう。
そして、それと同じものが横に並んでいる。
その横にも並んでいる。
その横にも並んでいる。
その横にも並んでいる。
その横にも――
「…………」
どこまでも、無数に、同じものがえんえんと並んでいる。
「……いくつあるんだろう?」
シーマスはもっともな疑問を口にした。彼のアイセンサーで感知できる分だけでも、何万体と数えられる。
何万人という凍りついた人間の身体が、光も射さない月の地下にずらりと並べられている。それは比較するものがないほどに壮大な癖に、びっくりするほどに力のない風景だった。
無力さがそこに、ただ広がっている――どんな詩人がここに立ったとしても、この光景にいかなる美も価値も見いだせないほどに、閑散として索漠とした世界が無造作に投げ出されていた。
「……やっぱり、そうだったのね」
妖精がぽつりと呟いた。
「知っているのかい、博士?」
「ええ――第一級の機密プロテクトが掛けられていたから、今までは言えなかったけど。でもこうやってはっきりと見せられれば、もう関係ないわね」
「ここって、なんなんだい?」
「ここは、人類が過酷な現実から逃避し、文明を保存し、未来に甦るために用意したファウンデーションプラントだわ。未来への遺産の保存庫として、いくつか用意されていた物の、そのひとつ」
妖精は静かに言った。
「プラント?」
「そう――その成れの果て」
妖精はやれやれ、といった感じで首を振った。
「みんな、並んで寝ているけど――」
「本来は、ここにいる人間たちは全員冷凍保存されて、目覚めるまでは大切に管理されるはずだったのよ。――もうそれは叶《かな》わぬ夢だけど」
妖精は、まるで自分も実際にそこにいるみたいに周囲を見回した。
「もう、ここは動いていない――」
「壊れちゃったということかい」
「そうね」
「どうして? 頑丈に作ってあったんだろう?」
シーマスは特殊防御複合材で守られたここが、ドームのような作りになっているのを確認した。耐圧構造もしっかりしているようだ。現に裂け目ができているのに、上からの圧力で潰《つぶ》れていない。
「何らかのトラブルが生じて破壊されたのかも知れないし、時の流れに押し潰されてしまっただけかも知れない。ただひたすらに時間が――とてもとても長い時間が経過したこと、それ目体が致命的な原因になってしまったのかも知れない」
妖精は静かな口調で言った。
「博士は、ここに関係していたの?」
と質問してから、シーマスはちょっと首をかしげて付け足す。
「つまり、博士の、本物っていうか、人間だったときの博士ってことだけど」
「それはわからないけど、でもこの場所の意味を知っているってことは、きっとそうだったんでしょうね。そうでなきやデータが残っているわけがないもの」
妖精は肩をすくめるような動作をした。
「人間同士の争いから逃れて、ということなのかな――」
「それと、何と言っても虚空牙の攻撃から逃れるために隠れたのよ」
シーマスはこの地下に広がる凍りついた墓場を歩き出した。
どこまで行っても、そこには死が充満している。眠っているような人々は誰一人として、二度と眼を醒《さ》まさないのだ。
「なんだか悲しいなあ」
シーマスは寂しげな声を上げて、これをどうしようと思った。本に書く材料にはなるだろうが、どうも――どう記録したらいいのかよくわからない。
「こんな寂しい景色は初めてだよ、ほんとうに」
シーマスが機械なりに落胆の想いに囚《とら》われていると、そのとき不思議なことが起きた。シーマスの、ウサギの耳のような複合センサーが、あり得ないものを聴いたのである。
……とくん、
「――おや?」
シーマスはその長い耳をぴょこん、と立てた。
「なにか――動いているぞ?」
「え?」
「一瞬だったけど、動体反応があった」
「……さっきの氷の壁を破ったときの振動が残っているんじゃないの?」
「いや、そういうのじゃなかった――なんていうか、あれは」
シーマスはまたしばらく、じっ、と待ってみる。すると――また、
……とくん、
という鼓動を感知した。
「これは――間違いない。極端に遅くされているけど、人間の、心臓の鼓動だよ!」
「で、でもそんなはずは――ここは完全に機能が停止していて」
「とにかく、反応のあったところに行ってみよう!」
シーマスは跳ぶようにその場所に向かった。
そこにあった棺桶《かんおけ》にも似たカプセルケースは、他の無数の同じものと、見た目は全く変化がない。
だがその透明の蓋の裏側には、他のものと適って霜が付いていなかった。やや青っぽい気体が詰められていた。
そしてその中に横たわっているのは一人の少女だった。
……とくん、
彼女は眼を閉じて、蒼白の顔色をしている。その心臓の鼓動は通常の数万分の一という弱さまで落とされて、ぎりぎりまで生命としての活動を抑制されているが、それでもこの少女は――
「生きてる……生きてるよ、この人――」
シーマスは感嘆の声を上げていた。
3.
「これは驚いたわ――」
妖精も驚きの声を上げた。
「どうして彼女だけ、生命が持続しているのかしら?」
「最後の一人だね」
シーマスはさらに周囲を調べてみたが、もう生命反応は一切感知できなかった。
「やっぱり、この人だけだな」
シーマスはこのカプセルケースを観察した。このケースそのものに内蔵されているエネルギー装置がかろうじて生きていて、それがこの人間を生かしているようだった。
「でも、どうしてこの人だけが――」
「その答えは、どうやらここにあるみたいね」
妖精が指差した先には、ケースにつながっているはずのケーブルがひとつ、切れてしまっていた。白い霜で覆われていたが、その下には黒ずんだ跡がある。どうやら過熱か何かで焼けてしまったらしい。
「故障していた、ってわけか――」
「それで予備装置が働いた。でもそれは緊急用で、中央との接続までは回復しなかった。皮肉ね、そのおかげでこのケースだけは中央システムの停止に関係なく、そのままの状態で固定されていたんだわ」
妖精は複雑な表情をしている。これはシーマスを造った科学者の感慨なのだろう。完全なものを造ろうとしたが、それが滅びた後に遺されていた唯一のものは、壊れていたが故に生き延びたのだから。
少女はなにもしらず、ただ永い眠りについている。
どんな夢を見ているんだろう、とシーマスは思った。……だが、
「――だけど、このままだといずれこの人も凍りついて死んでしまうだろうなあ」
「残念だけど、時間の問題ね」
妖精も悲しげに言った。
「外の世界に運び出すことはできないだろうし、もしできたとしても、今の月世界に残されている科学技術ではこの少女を蘇生《そせい》させることはできないわ」
「うーん……」
シーマスは、この巨大な墓場のど真ん中で、まだ死んでいない少女を前に考え込んだ。そして、
「……もうちょっと、周りのことを調べてみよう」
と、また歩き出した。
「何を調べる気なの? もうここには絶望しか残っていないと思うわよ」
妖精に言われたが、シーマスはかまわずにぴょんぴょんと跳び回る。
そして彼は、このドーム状になっている施設の、おそらくは中心に位置しているであろう大柱にまで到達した。
「ここは?」
シーマスは柱を見上げて質問する。
「たぶん、メインシャフトだわ。ただの柱じゃなくて、きっと施設全体を管理していたシールドサイブレータがこの中にあったのよ。もう停まっているけど」
「サイブレータってのは、ぼくと同類の人工知能だろう?」
「正確には違うわね。桁《けた》が違いすぎるわ。向こうは恒星間航行の軌道計算もできるって代物なんだから。あなたの何億倍も頭はいいと思うわよ」
「いや、そういうことを言ってるんじゃなくてさ、基本的なことだよ。構造とか、簡単なレベルでのモノの考え方とかさ」
「まあ、そういうことなら、確かにそれほど変わらないとは思うわ。おなじ虚空間力場に情報を展開するヒード域頭脳を使っているんだからね」
「やっぱり」
シーマスは我が意を得たり、という感じでうなずいた。
「そうじゃないかと思ったんだよ」
「それがどうかしたの?」
妖精が訊ねてきた。するとシーマスは柱に手を伸ばして、さらさらと撫《な》でる。
霜がばらばらと落ちる。
「いや、もしもぼくがこういう事態になったら、きっと完全に死ぬ¢Oにどこかに、スイッチを残しておくと思うんだよね」
「スイッチ、って――つまり、機能が完全停止する前に、自分から機能を閉鎖してしまって、ぎりぎりの最後の力だけは残しておくってこと?」
「うん――」
シーマスはさらに柱を、その中身を確かめるかのように、じっ、と手のひらを当てている。
「思考の波動は同じだったら、ぼくの意識パルスをこれに流し込めば、一瞬だけでも、はっ、と眼を醒まさせることができると思うんだよ」
「共鳴現象で、サイブレータを再起動しようっていうの?」
妖精はシーマスと柱を交互に見ながら、まだ納得できないという様子だった。
「たぶん、停止しているのは一部の故障のためだと思うんだよ。他のところを動かしてやれば、自動修復機能が働いて元に戻るんじゃないかな」
「でも、エネルギーは? サイブレータを再起動させるだけのエネルギーはどこにあるのよ?」
「あるじゃないか、ここ[#「ここ」に傍点]に」
そう言って、シーマスは指差した。
自分自身の胸を。
これには妖精は、今度こそ本当に慌てた。
「ち、ちょっとあなたね。もう一度言うけど、このシールドサイブレータとあなたじゃ規模が違いすぎるのよ。こんな大きなものを動かすのにどのくらいのエネルギーが必要だと思う?」
「きっかけだけあればいいんだろう? 最初の種火っていうか、それぐらいならなんとかなるよ」
うん、とシーマスはうなずいた。
「だって――エネルギーも残り少ないのに」
「でも、また外に出て、太陽光を浴びて補充していたら、もしかしたらその間にあの人は凍ってしまうかも知れないんだ。今、やらないと」
シーマスはきっぱりと言った。
「そう、そこのケーブルを外して、他から持ってきたまだ無事なケーブルと交換して」
妖精の指示に従って、シーマスは少女の入っているカプセルケースと柱を直接に接続する作業を終えた。
「本気なのはわかったから、もう止めないけどね」
妖精はため息混じりで言った。
「君には悪いことをしてしまうね」
「なに言ってんのよ、私は、あなたの中のプログラムに過ぎないのよ。一心同体なんだから」
笑いながら言われて、シーマスも微笑む。
そう――シーマスにもわかつている。
この少女を今、ここで助けたところで、生き残っているのが一人だけではもう人類の保存という目的は果たせない。既にこの〈計画〉そのものは失敗してしまっているのだ。
それでも助けることに意味があるのか?
シーマスにはシーマスの任務があるわけで、こんなことは彼の造られた目的には何の関係もない。
ただ、シーマスとしては彼がいつかは書くことになっている本≠ノこのことをどう書こうか、と思ったときに、こうする[#「こうする」に傍点]以外にないと思ったのだ。
これ以外のことは書きたくないなあ、というのがシーマスの気持ちで、それだけでもう充分すぎるほどの理由なのだった。
もっとも、シーマスは別に自分が停止してしまってもかまわないとは思っていない。ぎりぎりでエネルギーが残ってくれるのではないかと期待もしている。
「――終わった」
シーマスは身を起こして、作業中身体についていた霜を落とした。
そして柱の方に顔を向ける。
人間で言うところの念を凝らす≠ンたいな意識で、柱の中にあるはずの機械を注視する。透過センサーで内部を細かく観察していくが、どこもかしこもやっぱり、静止して動いていない。
しかしどこかに、不自然な歪《ゅが》みがあるはずだ。
ただ停まっているだけでは生じないような、ぎゅっ[#「ぎゅっ」に傍点]と締まっている箇所が必ずある、とシーマスは確信している。
そして、柱の天井面に接しているすれすれのところに、極微小の違和感を遂に発見した。そこだけが、他の箇所よりも温度がわずかに、低くなっていたのだ。氷の世界の中の、さらに冷たいその一点に、シーマスは自分の思考パルスを集中して放射した。
その瞬間、シーマスの意識は遥か彼方に弾き飛ばされた。
――びゅん、
と視点がものすごい速さで動かされたかと思うと、次の瞬間にはもう、シーマスの心は凍りついたドームの中ではなく、今まで一度も行ったことのない不思議な場所に立っていた。
「…………?」
シーマスは、周りを見回した。なにやら緑色をした、細くて頼りないものがびっしりと地面に生えていて、しかも空が青く光っているのだ。常に黒に覆われている月面の空に慣れたシーマスにとっては、それは異様な風景だった。
草原――。
それを名前で呼ぶならば、そういう風景である。知識としては知っているが、もちろん月から離れたことのないシーマスには初めての場所だ。
そしてもうひとつおかしなことは、シーマス自身だった。ふさふさとした毛が生えていて、ふにゃふにゃする身体の、生身のウサギになっていた。
「……なんだこれ?」
シーマスはくんくんと自分の身体の匂《にお》いを嗅《か》ぐ。いつもならば嗅覚《きゅうかく》というのは、月面に微量に漂う粒子の分析に過ぎないのだが、この場所だとそれは非常に鮮烈な感覚だった。
ぴょんぴょんと生身の身体で辺りの草原を跳び回ってみる。
なかなかに楽しい。
身体をなぶる空気の暖かさもシーマスにとっては初めての体験だ。
もちろんこれが幻覚の世界であることは知っている。サイブレータが冷凍冬眠していた人間たちに見せていたはずの、夢の世界の残滓《ざんし》にシーマスはいるのだ。
風景はどこまで行っても同じで、空の太陽の位置も全く変化しない。世界設定というにはあまりにも単調だ。死にかけた機械の記憶にこびりついているだけの風景なので無理もないが。
「……おっと、あんまり遊んでいる場合じゃないな」
すっかり楽しんでしまっていたシーマスは気持ちを切り替えて、周囲を観察した。
スイッチを探さなくては。どこかにあるはずのそれを起動させれば、サイブレータ全体が眼を醒ますはずだ。
ふんふん、と辺りの匂いを嗅ぎまわってみた。
すると、地面の一角になにやら奇妙なモノが埋まっているのを見つけた。周囲の土と草で統一された世界で、それは妙に不釣り合いな印象のあるものだった。
球とも楕円ともつかない形をして、表面は非常につるつるとしている。
「こいつは――」
シーマスの記憶によると、それはシンパサイザーと称される超文明の産物だ。人類の宇宙進出を実現させた認識理論、相剋渦動励振原理の粋を集めて造られたものだという。
「もしかして、これが……?」
シーマスはさらにそのモノを掘り出して、外に出した。
両前足で挟むようにして、空にかざすように持ち上げる。
すると、その表面に何かが映って見えた。
それは一人の少女の姿だった。
「君は――誰だい?」
問いかけに、少女は不思議な微笑みを浮かべて、逆にシーマスに問いかけてきた。
どうして?
「え?」
どうしてあなたは、この哀れな機械を起こそうとするの?
「え、えーっと……」
ここには調和があるわ。冷たい死の、月にふさわしい静かな世界が、ね。それを再び目覚めさせて、残酷な真実に直面させることにどれほどの意味があるのかしら?
彼女は誰かに似ているようでもあり、誰にも似ていないような気もした。
「……えーと、その」
シーマスは何を言われているのかいまいち理解できなかった。
「ぼくには難しいことを言われてもよくわかんないけど――でも、一人生き残っているんだよ。助けないと」
生き延びることが、助かることになるのかしら
彼女は穏やかな口調である。
生き延びれば幸福が待っているというのは、世界が喜びで満たされているときだけだわ。この冷たく凍りついた月に、そんなものがあるのかしら?
こう訊かれて、しかしシーマスはなおも首をかしげて、そして言った。
「だって――生きているってことは遊ぶってことだろう? だったらどんなトコにだって面白いことは見つけられるんじゃないかな」
あっけらかんとした口調である。
そんなに簡単なものかしら?
そう訊かれたが、しかしシーマスはやっぱり首をかしげて、
「そんなに難しいことなのかな、生きるって」
と言った。それ以外にシーマスの意見はなかった。
「苦しいなら苦しくないようにしようとする、つまらないなら面白いことを見つける、生きるってことはそれだけのことじゃないのかな。そんなに難しいとも思えないけど?」
…………
すると少女の微笑みに、少しそれまでとは異なる表情が混じった。なんというか、それはわがままを言い通す子供を前にした母親のような、あきらめといとおしさが入り雑《ま》じったようなしようがないな≠ニいう微笑みだった。
そして彼女は囁《ささや》くように言った。
心っていうのは、まったくしぶといものね
そして次の瞬間、シーマスはまたまた遠くに飛ばされ、続いて全身から力が抜き取られていく感覚に襲われ、そして――力尽きた。
4.
ドームの中に、それまでにはなかった振動が走った。
それまで停止していたメインシャフトが、外部からの共鳴波によって強引に揺さぶられたのだ。そして強引に流し込まれていくエネルギーが連鎖反応を生じさせ、ほとんど閉ざされていた積装空間の扉が開き、そこに貯め込まれていた情報が再展開を始めた。停止した原因が何だったのか、当時のデータが消失している現在、もはやそれを突きとめることは永久に叶わないが、しかしそれでもその巨大な施設はふたたび活動を開始した。
その中で、ひとつの影が動きを停めて、へたり込んでいる。長い耳のシルエットをしたウサギ型のロボットだった。
…………
全エネルギーが尽きて、その機能が完全に停止していた。ぴくりとも動かない。
だがその周囲では逆に、今やあらゆるものが動き始めていた。
振動が大きくなっていき、ドームの外壁部に無数の光線が走ったかと思うと、直後に呟《まばゆ》い閃光《せんこう》が全体をつらぬいて――
――はっ、と気がついたとき、シーマスの身体はくるくる回りながら高い空の上を飛んでいた。
「――あれ?」
黒い空を飛びながら、シーマスは光を見た。太陽光がシーマスの全身に浴びせかけられていて、たちまち切れていたエネルギーが補充されていくのを自覚する。
……でもなんで、空を飛んでいるんだ?
今の今まで自分は地下の凍りついたドームに閉じこめられていたはずだったのに――と思ったとき、シーマスは飛んでいるのが目分だけでないことを発見した。
シーマスの周辺は、きらきらと光る小さな氷片で埋め尽くされていた。彼と一緒にそれらが飛んでいる。
ちら、と下を見たシーマスは、そこですべての疑問が解けた。
彼が入っていった穴から、白いキラキラしたものが吹き出しているではないか。その穴だけでなく、周囲には丸く並んだ同じような穴が存在し、それらからも同様の噴出が観測できる。
ちょうど、地下にあったドームを取り囲んでいるような位置に、穴は存在していた。
「――なぁるほど、ね」
シーマスは納得した。あの穴はなんだろうと思っていたのだが、あれは要するに排気口≠セったのだ。
ドームの中で何か異変が起きたとき、内部に蓄積された不純物を外部に放出するために、開けられていたものだったのである。
入っていったときは夜だった世界は、いつのまにか太陽の照りつける昼間に変わっていた。その光の中、氷片は吹き上げられて宙に舞う。
「うまくいったのかな?」
とシーマスが質問すると、その肩の辺りに妖精が出現して、
「たぶん、ね」
とうなずいた。
「今頃、内部ではそれまでのドームを構造分解して、新しい形態に進化させているはずよ。さらなる未来にまで生き延びられるように、ね。きっと地中を移動して、もうこの地下にもいないわ」
「あの女の子は大丈夫かな」
「今やあの少女だけが、あの世界で生きている唯一の人間になった以上〈施設〉は全力を挙げて彼女を守ることに専念するはずよ」
話している間にも、シーマスは姿勢制御して体勢を立て直し、月面にふわりと着地した。
「あの少女が見ている夢だけが、この人間同士が過酷に争っている月面で唯一、平和な世界かも知れないわ」
妖精の言葉に、シーマスはふうんとうなずいたが、そこで顔を上げて、そんな難しいことは全部どうでもよくなる。
「……わあっ!」
感嘆の声を上げる。
見上げる空に、吹き出した氷片がそれぞれの回転軌道を描いて揺れながら、ふわふわと地面に落下してきていた。
「知ってる――知ってるよこれ」
シーマスはその中を飛び跳ね始めた。
「これは雪≠セ――雪≠ェ降ってるよ!」
ウサギが跳ね回るその上から、雪は無音でさらさらと降りしきる。
「時には月にも雪が降るんだなあ! ほら! やっぱりそうだ、どんなところにだって面白いこと、素晴らしいことがこうやって存在して――」
はしゃぎながらシーマスは、誰かにこのことを伝えなきゃと思ったが、そこで「あれ?」と首をひねった。
「誰かって――、誰だっけ」
なんだかどこかで、誰かに質問されたような気がしたのだが、それがいつのことで、どこだったのかまったく記憶にない。
「どうかしたの?」
妖精に訊かれて、シーマスは「ううん」と首を横に振った。
「なんでもない。きっと錯覚か、夢――」
と言いかけたところで、シーマスは自分の上に巨大な影が被《かぶ》さるのを感じて、後ろを振り向く。
そこには巨大なものが宙に浮いていた。
天翔《あまか》ける龍神の背に、全身を鎧《よろい》で覆った鉄仮面が立っている。
雪の中に、人類の守護神たちが決然とした凛々《りり》しさを漲《みなぎ》らせて、なにかを探しているかのように、四方に鋭い視線を走らせている。
「超光速戦闘機《ナイトウォッチ》と、|星に触れる者《スタースクレイパー》だ――」
シーマスと妖精は、唖然《あぜん》としながらこの超越者たちを見上げていた。
「……絶対真空の宇宙を舞台にして、虚空牙と果てなき戦いをしているはずの彼らが――こんなところで何をしているの?」
「――あれは月面探査ロボットだな」
ナイトウォッチ・バンスティルヴの上に立っている超人スタースクレイパーは、月の上に立つシーマスの姿を見て呟いた。
「骨董《こっとう》品だ。貴重ではあるが、無害な代物だぞ」
あれではないな……
バンスティルヴはシーマスには眼もくれず、さらに四方を走査《スキャン》している。
「本当にこの辺りなのか?」
鉄仮面は相棒であるナイトウォッチに問いかけた。
「それだと、発信源は月の内部ということになってしまうぞ」
しかし、確かに感知したんだ……絶対危機に遭遇して、助けを求める声を
巨大な機械の内部で、龍神を操っている者《コア》は、耳を澄ませてかすかに聴こえるはずの声を探す――。
W.夢と消えるまで Rainbow In the Dark
1.
……わたしは長い長い夢を見ているような気がする。
この人生はどこかでお仕着せのようで、わたしが望むこととは微妙に違うように動いている癖に、しかしわたしにとってそんなにひどい齟齬《そご》があるというほどでもなく、そこそこはうまく行くというか、しかし決して心の底から満たされるということもなく、気怠《けだる》い微熱に取り憑《つ》かれて、ずっとぽーっとしているような、わたしにとって生きているというのはそういう感じがしてならない。
どこかでひどくずれている、そんな気がしてならないのだ。
「それはあなたが、自分の人生というものを見つけようとしているからよ、弥生さん」
「え?」
「今の世界に違和感を覚えているのは、あなたの心の中に未来があるから。それが世界に積み重なっている過去との間で摩擦を起こしている――あなたには確かに不満があるんだけど、それをうまく表現することができない。なぜなら」
彼女は――どういうわけか、わたしの目の前にいる癖に、ひどく遠いところからわたしの眼を覗《のぞ》き込んでいるような、そういう不思議な視線を持っていた。
「そのあなたの不満や不安には、まだそれにふさわしい言葉がないからよ。その感覚には名前がついていない。だからあなたがそれをはっきりさせようとするならば、あなたは今までの歴史上で誰も使ったことのない言葉を使わなくてはならないわ」
なんだかすごいことを言われているような気がする。
しかしわたしは、そういうことを言われても、気持ちが引いたりはせず、むしろもっと彼女の言葉を、声を聴いていたいと思ったものだ。
「誰も、使ったことのない言葉か……」
わたしはため息をつく。
「わたしが作家になりたいっていうなら、そういうものを見つけなくちゃいけないってことね」
わたしの生意気な意見に、彼女はうなずいて言った。
「まだ存在してない言葉、存在していない夢――それだけでは、なんの力もないもの。しかしこの世のすべては、そういう根拠のないものに突き動かされている。そう――」
彼女は、ここで微笑んだと思う。
「それは冷たい月の下であろうが、せせこましい現実の日々であろうが関係なく、誰の心にものしかかってくる[#「のしかかってくる」に傍点]呪いのようなもので、人はそれのことをこう呼んでいる――」
それはなんの理由もない癖に、ひどくわたしの心を揺さぶって離さないような、そういう微笑みだった。
「――想像力《イマジネーション》≠ニ」
……消えてしまった彼女は、ほんとうに存在していなかったのだろうか?
なんだか、ずっと――わたしは悪い夢をみているような気がしてならないのだ。
わたしの名前は醒井弥生。
かつて、わたしの将来の夢は小説家になって、みんなに自分の書いた本を読んでもらうことだった。
しかし両親が金持ちで、最近父は県会議員になったり、さらにわたしにはややこしくてよくわからない政治の世界に深入りしようとしているらしい。おかげでわたしは馴《な》れないお嬢様≠ニいうようなものになりかけていて、周りの人間たちにはくだらないマンガのような小説など読んだり書いたりしてもしょうがないだろう≠ンたいなことを言われるようになって、どこかで何かが褪《さ》めてしまった。
わたしがそれまで親しくしてもらっていた小説家の、妙ヶ谷幾乃先生のところにもあんまり行かない方がいい≠ンたいな釘を刺されてしまって、もうしばらく会っていない。
(……あれも)
わたしは印象に残っているのに記憶にない少女≠フことを先生を通して探偵の人に調べてもらおうとしたら、なんだかあやふやの内にごまかされてしまって――そして、それっきりだ。考えてみたら、あれからもう一年近く経っている。
わたしも歳を取った。たった一歳なのだが、なんだかもう昔のみずみずしい気持ちは枯れ果ててしまったんじゃないかと思うことがある。
受験生の年齢なのだが、わたしはかなり前から、推薦が決まってしまっているので周りのみんなが大変そうにしているのを横目で見ているという感じだ。
季節は夏が終わり、秋が始まろうとしている時期だった。
わたしはそこで、夢と現実の境界線をめぐる戦いに遭遇することになる。
よく晴れた日の夕暮れ時、空には月が出ていた。
わたしは学校帰りで、特にあてもなく一人で街の通りをぶらぶらとしていた。制服姿のままだから、別にナンパされようと思っていたわけでも、買い物をしようと考えていたわけでもない。ただなんとなく、家にも帰りたくなく、どこにも行きたくなくて、回遊魚のようにさまよっていたのだ。
ところがそんなときである。
わたしの横を誰かが通り過ぎた。その瞬間にはなんとも感じなかったのだが、一瞬後、わたしははっ[#「はっ」に傍点]と雷に撃たれたような感覚に襲われた。
(――あのひとだ……!)
そう感じた。理由はなかった。そもそも記憶に残っていないのだから確認のしようはなかったが、しかし心の奥の方で間違いない≠ニもう一人のわたしが叫んでいるようだった。
わたしは走って、今の人影を追いかけた。
後ろ姿がちらちらと、人混みの合間から見えたり見えなくなったりしたが、わたしは一生懸命にその影に追いすがる。
(――ああ、どんな――)
わたしは少し乱暴に、前に立っている人たちを押しのけてしまう。明らかに迷惑がられていて、いつ誰かに怒鳴られてもおかしくないような状態だったが、しかしわたしにはそれどころではなかった。
(どんな顔をしているの? あなたは――)
それが知りたかった。
あなたがどんな人かは知っている。その声も心に染《し》みついている。それなのにあなたの顔も名前もわからないのだ。わたしはそれがとても不思議でならないのだ。
「――ま」
わたしは街の喧噪《けんそう》の中で、なおも叫んだ。
「――待って! 待ってちょうだい!」
しかし彼女にわたしの声は届かないようで、さらに影は遠ざかっていく。
人混みはやがて途切れたが、しかしその頃にはもう彼女の姿も消えてしまっていた。
「ああ――」
わたしはがっくりして、そのまま力なくふらふらとその方向に歩いていくと、木々に囲まれた寂しげな所に出てきた。
そこは児童公園だった。シーソーやらジャングルジムが並んでいた。
周りには誰もいない。もう日が暮れている。子供は家に帰っているだろう。
「はあ――」
わたしはベンチに、へなへなと崩れ落ちるようにして腰を下ろした。
そして何気なく、空を見上げた。
月が、びっくりするくらいに鮮やかに輝いている。
そして、その中でなにか黒いものがちらちらっ[#「ちらちらっ」に傍点]としたような気がした。
(――あれ?)
眼の中にゴミでも入ったか、とわたしは眼の上を指先でこすった。
だが黒いものは、全然消えない。
「……え」
黒いものは空で、らせんを描くようにくるくると回転している。
「……ええ?」
消えるどころか、どんどん大きくなってきて――
「……えええ!?」
そしてとうとう、その黒いものはわたしの足元の、公園の砂場に墜落した。
――どん、
という衝撃が走ったが、音はそれほどでもなかった。しかしわたしはびっくりして、ベンチから飛び跳ねた。
「な、ななな―――」
砂の中にめり込んでいる黒いものは、黒いものだった。そうとしか言いようがない。直径五十センチほどの球体で、隕石――にしては、その表面があまりにもなめらかすぎる。
しゅうしゅう、と表面から煙が吹いている。
「……な、なんなの……?」
わたしはおそるおそる後ずさり、その場から離れようとした。
ところがそのとき、隕石らしきものに劇的な変化が生じた。
ぴしっ、と亀裂《きれつ》が走ったかと思うと、その黒かった表層部がどこかに吸い込まれるようにして消えてしまったのだ。そしてその下から現れたのは――
「……え?」
わたしは我が眼を疑った。
その月から落ちてきたように見えた隕石の中から現れたのは、身を丸めた人間だったからだ。
銀色の服を着ているその人は金髪で、とても――とても美しい姿をした少年だった。
「――うう」
彼は呻《うめ》きながら立ち上がる。そしてわたしの方を見る。その瞳《ひとみ》の色は澄んだブルーだった。
そして彼は、わたしに向かって奇妙なことを訊いてきた。
「……ここは、地球だね?」
「…………」
わたしはちょっと返答に困った。彼の外見やら出現の仕方やらで、もしかしてとは思っていたが、しかしこれではあまりにも――あまりにも出来過ぎだ。
「言葉は通じているよね? これで合ってるはずだよ」
彼はわたしが返事をしないので、さらに訊いてきた。
「――あ、あーっと……まあ、日本ですけど」
わたしはぼんやりと答えた。これはなんのドッキリなのだろう、とか考えながら、しかしあの墜落はなんだかトリックには思えなかったなあ、とか、心の中でぐるぐる思考が空回りしていると、彼は、
「僕の名はコーサ・ムーグという。月世界の住人だ」
と名乗った。その様子はなんだかとっても真剣で、からかっているような印象はなかった。
「はあ」
しかしわたしはどう反応していいのかわからず、まだぼけた相槌《あいづち》を打つだけだ。
「君は人間≠セよね?」
彼はさらに変なことを訊いてくる。
「え、えーと――」
わたしが返答に困っていると、彼の顔色がさっ[#「さっ」に傍点]、と変わった。厳しい緊張が走った。
そしてわたしに、急に飛びかかってきて、そして――
「伏せろ!」
と叫んだときには、もうその閃光《せんこう》がわたしたちのすぐ上を、ばばっ、と通過していた。
「――な」
わたしは彼に突き飛ばされて、地面に倒れていたが、それでもはっきりと見た。
どこからか発射されてきた光線が、公園のジャングルジムに当たったかと思うと、その鉄棒の集合体は、
――ぞりっ、
という感じで、削り取られるようにして消滅してしまったのだ。
「な、ななな――」
わたしが仰天していると、彼はわたしの手を取りながら、
「ここは危険だ! 逃げるぞ!」
と叫んで、走り出した。
判断力なんか消し飛んでいるわたしは従うしかない。
そして光線はさらに連続で発射されてきて、シーソーや滑り台がごそっ、ごそっ、と刳《く》り抜かれるようにして破壊される。
「――ひっ」
わたしは彼に連れられて逃げながら、後ろの方をちら、と見た。
光線が飛んできた方角から、ひとつの人影が飛び込んでくるところだった。それを見て、わたしはまた愕然《がくぜん》となる。
虹色にきらきらと光るレオタードみたいな服を着て同色の頭巾《ずきん》を被《かぶ》った、それはわたしの知り合いの妙ヶ谷幾乃先生にとても――とてもよく似ている。
(つーか――どう見ても本人じやないの……!)
だが、その幾乃先生もどきは手に何かを持っていた。
尖《とが》っていて、金属色で、こちらにその先っぽを向けているそれは……十人が十人光線銃だろう≠ニ言いそうな形をしていた。
「…………!」
その幾乃先生らしき者は、わたしと彼の逃走する姿を確認すると、たちまちこちらにその武器で攻撃してきた。
光線が側《そば》をかすめる度に、公園を囲む樹木が、ぼっ、ぼっ、と消滅してしまう。
「わ、わわわ……!」
わたしには何がなんだかわからない。だが、このままだと彼とわたしはあの幾乃先生みたいなのに殺されてしまうのは確実なようだった。なぜだろう、こんな事態にあってわたしが感じていたことは、
こんな風なことは、前に遭遇したことがあるような
似たような目に、前にも会っているような
という奇妙な既視感《デジャヴ》だった。
「飛ぶぞ!」
彼がわたしに耳打ちした。
「え?」
と、わたしが質問する間もなく、彼はわたしの腰を横抱きにして、そして――思いっきり大地を蹴《け》っていた。
そして次の瞬間、わたしたちは空を飛んでいた。
月光が、眼の横をかすめたような気がしたが、すぐにわたしたちはどことも知れない道路の上に着地し、そしてまた飛んでいた。
(ああ――逃げているんだ)
と気がついたのは、ビルの屋上やら駐車場やらに降りては飛んで、それを七回ほど繰り返した後のことだった。
すっかり街外れにまで飛んできた後で、やっと彼は抱きかかえていたわたしを降ろした。
「――大丈夫かい?」
彼が、心配そうな顔をしてわたしに訊いてきた。
「…………」
わたしは、彼のブルーの眼を覗《のぞ》き込んだ。
「――コーサ・ムーグ……とか言ったわね」
「うん、それが僕の名前だ」
「人間じゃあ――ないの?」
あんな、バッタみたいにぴょんぴょん飛べる人間がこの世にいるとは思えないし、どんなドッキリ番組でも、あんなことまで仕掛けられるはずがない。
「いいや、人間だよ。少なくとも、その側に立っている」
コーサはにっこりと笑いながら言った。綺麗な金髪が月光の中でふわっ、と揺れた。
2.
とりあえず、わたしとこの謎《なぞ》の人物コーサ・ムーグは、隠れられる場所に移動した。わたしが知っているそういう場所はあんまりなく、思いついたのは山の中に建っている、わたしが通っている高校ぐらいしかなかった。
高い柵《さく》で覆われ、校門は電子ロックで厳重に管理されているのだが、彼はもちろん一跳びだった。
夜の校舎には誰もいない。宿直の先生とか警備の人なんかがいるかも知れないが、校庭の隅っこの植え込みの陰にまではやってこないだろう。
「えーと」一応、落ち着いたところで、わたしには訊きたいことがたくさんあった。だが、何はともあれ――
「コーサ・ムーグ――あなたって何者?」
「説明はちょっと難しいけど、強《し》いて言うなら、未来人ということになる」
「み、未来人?」
「この言い方は正確じゃないんだけどね――相剋渦動励振《そうこくかどうれいしん》原理では、時間の逆行はあり得ない事態だから。これはなんというか、一種の幻影空間の相互干渉とでも言おうか。しかし今の君からすれば、僕は未来世界に生きている人間ということにはなるんだ」
「ち、ちょっと、なに言ってるのか一言もわからないんですけど?」
「うん、混乱しないで聞いてほしいんだが」
彼はかるく首を振ってから、言った。
「この世界は偽物なんだ」
「……は?」
「これは夢なんだよ。この世界全体が、シールドサイブレータという機械によってでっち上げられた偽装幻影でできているんだ」
「……? ? ?」
彼の話によると、人類は宇宙進出の途中で虚空牙《こくうが》という敵に遭遇して敗れ去り、生き延びた人々は太陽系に散り散りになってしまい、そして月に逃げ延びた人々は、だんだん衰弱していく文明の中でお互いに戦争を繰り広げているのだという。そして、わたしのいるこの世界は、その月の中で唯一、人類文明を保護するという目的で、地下にこっそりと造られている秘密基地の中にあって、戦争から逃れた人々と文明知識を冷凍保存していて、精神を安定させるために、過去の世界で生きているような夢を見させられているのだという……。
「…………」
わたしは、夜空に皓々《こうこう》と輝いている月を見上げた。なんだか、それが今までの月とはまるで違う、巨大な怪物のように見えた。
空を見上げてぽかんとしているわたしに、コーサはさらに言葉を続けた。
「僕は虚空牙と人類が共存できる道を探しているんだ。そのためには、ここの施設が必要なんだよ。今の月世界の人間たちは互いに争うことばかりで、とてもじゃないが他の知性との協調などままならない有様だ。だがこの施設に秘められている超文明を使えば、月の全人類の心をひとつにすることができるはずだ」
「……どうやって」
わたしはぼんやりとしたまま、投げやりに訊いた。
「シンパサイザーという装置がある。これは今はこの幻影世界を創るために使われているけど、これを逆様に、外部に放出するようにして使えば、月の人間たちに僕の心を直接、声として聴かせることができるはずだ」
「……演説しようっていうの?」
「心の底からの共感《シンパシー》で、わかってもらうんだよ。虚空牙には本当は悪意がないということを」
「……ないの? 侵略者なのに?」
「彼らは別に侵略を仕掛けてきたわけではない――人類の強引な宇宙進出に対して、それなりの反応をしただけだったんだ。不幸な出会いではあったが、でも取り返しがつかないというほどじゃないよ」
「――なんだか全然、実感がなくて……」
わたしは混乱する頭を左右に振った。
この世界がゆめまぼろし≠セって?
本当はわたしたちは、全員が凍りついて眠っていて、機械に夢を見させられているんだって?
どういう話なんだ、これは?
ただの妄想として片づけるには、わたしはその前に異常な体験をしてしまっている。明らかにわたしの前で常識は既に崩れ去ってしまっているのだ。しかし、それにしても、なんとも――
「……そういえば」
わたしは、おずおずと訊いてみた。
「あのさ、さっきわたしたちを攻撃してきた奴なんだけど、知ってる人にすごく似ていたんだけど――あれはなんなの?」
「それはきっと、その本人だ。あれはこの世界を守っている保護プログラムの攻撃なんだよ。僕はいわばこの世界の違法侵入者だからね」
「本人?――って、妙ヶ谷先生って、ホントはあんなヘンテコな格好して、日々侵略者と戦ってるの?」
想像して、わたしは頭がおかしくなりそうだった。
「いつもならば彼らは正しいことをしているんだが、僕は別にここの施設そのものを乗っ取ろうとか、眠っている技術を自分の軍隊に利用しようとしている訳じゃない。ただ、少しばかり力を借りたいだけなんだ。でも彼らは聞く耳を持ってくれなくて。外の人間たちは全員、醜い戦争を続けるしか能がない奴らばかりだと思いこんでいるんだ。無理もないかも知れないけど、でも、だからこそ僕はその月世界の人々に呼びかけたいんだよ」
コーサ・ムーグは真剣な眼差《まなざ》しをして、言った。
(…………!)
わたしはその彼の横顔を見て、ふいに愕然となった。
その、なんのためらいもない力強い眼差しは、わたしがこれまでの人生で一度も見たことのないものだった。
わたしのこれまでの生活は、どこかでなにか白々しいものが、浜辺で食べる焼きそばの中の砂利のように混じっていて、その度に内心で顔をしかめて仕方ないな≠ニあきらめてきたのだが、この彼の表情にはそういうつまらない蹉跌《さてつ》が欠片《かけら》も見えず、ただ自分の信じるもののために、まっすぐに生きようとしている――
(わたしは――)
他の人たちのことはよくわからない。だけど、少なくともこれまでのわたしの人生は確かに、偽物だと言われても仕方のないようなものだったと思う。
(わたしは――これまで何をしてきたというのだろう?)
そのことを、急に悟らされたのだ。
(正直に言って、わたしはまだこんな話は全然信じられないけど――)
しかし、わたしには本当のことがどんなことなのか、どうせわかっていない。だけどこの人には、少なくともこの人の信じる真実がある。
「――わ、わたし、妙ヶ谷先生に言ってみるわ」
気がつくと、そう口走っていた。
「え?」
コーサはわたしの方を見た。
「だってそうでしょう? 妙ヶ谷先生は、この世界の、その、管理者みたいな立場にあるわけでしょう? だったら話をちゃんとして、わかってもらえたらあなたがしたいこともできるかも知れないわ!」
わたしは興奮した口調でまくし立てていた。言いながら、自分はいつからこんなに差し出がましい人間になったのだろうと思った。しかしそれでも気持ちが停まらない。
「しかし、あれは明らかに攻撃して、障害物を強制的に排除する戦闘プログラムだよ。危険が大きすぎる。君自身も世界の安定を乱す因子として消してしまうかも知れない」
「消されたって――」
かまわない、と言いかけて、わたしははっ[#「はっ」に傍点]となった。
(消される……?)
なんだか――その言葉に心の深いところを突き刺されたような感じがした。
まさか、わたしの記憶から消えてしまったあの人は、そうやって……?
「…………」
わたしが茫然《ぼうぜん》としていると、コーサが不思議そうな顔になる。
「どうかしたのかい?」
「あの人が、そうなら――」
「え?」
「あの人がそうなら、わたしだってそうなってもかまわない……!」
ほとんど叫んでいた。
そうだ……わたしはあの人の姿≠追っていったらこのコーサ・ムーグと出会ったのだ。これはあの人の導きではないのだろうか?
「そうよコーサ・ムーグ! あなたはきっと、素晴らしいものを目指しているという点であの人と同じなんだわ。だったらわたしは、わたしは――」
必死になって、彼にすがりつく。
「ま、待ってくれ弥生さん」
コーサは慌てたように、私の肩に手を置いて身体を離す。
「君の気持ちは嬉《うれ》しいが、しかし君だって、この世界を支えている人間には違いないんだ。外の世界の人々のことも大切だけど、君だって大切だ。僕がらみの出来事が終わった後では、たぶん君の記憶も何事もなかったように修正されると思うし――」
「そんなのは嫌だわ[#「そんなのは嫌だわ」に傍点]……!」
わたしは、今度は押し殺したような声で、しかしおそろしく力を込めて呟《つぶや》いていた。
「もう忘れたくなんかないわ。とてもとても大事なことだったはずなのよ。それが何もなかったことにされるなんて、わたしはもうそんなことはうんざりだわ! 絶対に、嫌よ……!」
わたしは――わたしはおかしいのかも知れない。
だがなんにも正しいことなんかないわたしの心の中で、この気持ちだけは紛れもない真実≠ネのだった。
「――――」
コーサはそんなわたしをブルーの瞳で見つめている。
「……わかったよ、弥生さん。君に協力してもらうことにしよう」
「ほんとうに!?」
わたしはぱっ[#「ぱっ」に傍点]、と晴れやかな気分になる。
「ああ。さすがに戦闘プログラムとの直接対応はできないが、きっとこの世界には外に通じるための扉≠ェ開けられているはずなんだ。それを探すのを手伝ってくれれば」
「……扉?」
それも――なんだか前に聞いたことがあるような。そう、わたしがあの荘矢夏美という女探偵と一緒に、似たようなことに遭遇して、そして――
と、わたしがそこまで考えたときだった。
目の前に閃光が走って、そして、
――ぞぼっ、
という嫌な衝撃音と共に、コーサ・ムーグの左腕が肩からごっそりと削《そ》ぎ取られて、消し飛んだ。
「……え?」
茫然となるわたしの目の前で、コーサの身体は反動で回転しながら、倒れ込んだ。
「……あ」
わたしはすぐに我に返り、後ろを振り向いた。
そこに、妙ヶ谷幾乃の顔をして、未来人のような姿をした光線銃使いが立っていた――。
「……ああ」
「どきなさい、弥生さん」
その女は、ぞっとするような冷たい声で言った。
わたしは、転がって倒れたコーサ・ムーグとその女の間に立ちはだかる形になっていたのだ。
「せ、戦闘……プログラムなの?」
わたしの問いに、女はうなずいて、
「そうよ。fs4,039――ヨン≠ニいうのがその名前」
と静かに答えた。
「使命は、そこにいるそれ[#「それ」に傍点]のような、世界への侵略者を排除することよ」
3.
「……ま、待って!」
わたしはコーサをかばって、ヨンの前に両手を広げた。
「は、話を聞いて! この人は――」
「あなたは騙《だま》されているのよ、弥生さん」
ヨンの声には容赦がない。
「こいつの半分は、もう虚空牙に侵食されているのよ。人類とはもはや相容《あいい》れない天敵なのよ」
「それは違います! この人は虚空牙と共感して、それで――」
わたしは倒れているコーサにしがみついた。彼の身体は、ぶるぶると小刻みに震えていた。
「――ぐ、ぐぐ……」
その震え方は痛みとか寒気とかそういうものではなく、なんだかテレビの画面で、電波異状が生じて、ガガガッ、と上下にぶれているときのような、そういう揺れ方だった。生物的というよりも、デジタル的というのか……この世界は機械の情報で構築されたものだというのなら、これはその情報が欠落して、あちこちとんでいる[#「とんでいる」に傍点]とでもいうのだろうか?
なくなってしまっている左肩からも、血が出るどころか断面に肉の色さえない。灰色のぼそぼそとした影があるだけだ。
存在自体が消えてしまうというのは、こういうことなのか……?
「あなたにはわからないのよ、弥生さん」
ヨンの銃口は決して私たちから逸れない。
「この世の裏側に、どれほど過酷なものが隠されているのか――あなたの優しい気持ちは美しいことかも知れないけど、そんな同情なんか宇宙の絶対真空の戦場では何の役にも立たないのよ」
「でも――でもそれだったら、この人がなんとかしよう≠チて思っている、月の上で戦っている人たちと変わりないじゃありませんか!」
わたしは必死で叫んでいた。
わからない――なんてことは全然ない、と思った。わたしはこういうことをとてもよく知っている。これはわたしの人生の前にあったものと同じだった。
おまえの考えは甘い
おまえの気持ちなど二の次だ
おまえの心など大して意味はない
ずっと――ずっとそうだったのだ。わたしはそういう世界に取り囲まれてきたのだ――。
わたしが懸命になっていると、そのとき、
「……よせ、弥生さん……」
と、コーサ―・ムーグが、わたしの胸の中で弱々しい声を出した。
「僕は……ここまでだ。君は……もう、いいんだ――」
彼は、残った右手でわたしを押しのけようとした。
だがわたしは、この彼の行為に、言葉に、ふいにどうしようもないくらいにかっ[#「かっ」に傍点]、と来た。
そうだ――。
ここで今、問題になっていることは月世界で繰り広げられている戦争の不条理にも、絶対危機が充満している宇宙空間の過酷さにもなかった。
他の誰でもない――このわたしの気持ちにあった。
そうなのだ――
わたしの心と何の関係もない世界に、わたしがこれから先も生きていったとして、それがなんになるというのだろうか?
脳裡《のうり》にふっ、とあの彼女≠フイメージが浮かぶ。
私は今に、この偽物の、冷たい月のもとにある停まった世界から消える
彼女は確かにそう言っていたと思う。それは何故《なぜ》なのか?
彼女の心≠ェ、この世界のどこにも居場所がなかったからではないのか。
だとしたら、わたしは――わたしも、それは同じではないのだろうか?
わたしがこの意志を、やっと見つけたこの想いを放棄したら、わたしにとってこの世界は、なんの価値もないのと同じだ……!
「…………」
わたしは、コーサと同じように、身体をぶるぶると痙攣《けいれん》するように震わせながら彼にしがみつき続けた。
「よ、よせ……君まで消されるぞ」
コーサは立ち上がろうとしていた。下半身には影響がないようだ。わたしを振りきって、またどこかにウサギのように跳んでいくつもりなのだ。
だが、わたしはここで、しがみつくフリをしながら彼の耳にこっそりと囁《さきや》く。
「……ここの屋上に扉≠ェあるわ」
そう、わたしは何故かそれを知っているのだった。前に、まったく同じように扉≠ェ開いてこの世界と外の世界が通じる瞬間に遭遇したことがある。そのことは完全に忘れているというか、意識にはないのだが、しかし知っているのだ。そう――消えてしまった彼女の印象と同じように。
知らずに開けるなら、それはただ単に外界に放出されるだけの罠《わな》なのだが、知りつつ開けるならば、放出されるその勢いで、一瞬だが外の世界に大いなる声を響かせることができるはずなのだ。
「え?」
コーサ・ムーグは驚いて、目を丸くした。
そのときにはもう、わたしは動いていた。
彼を反対に、どん[#「どん」に傍点]と突き飛ばして、そしてすかさず銃口を彼に向けるヨンに向かって、走って――
「――――!?」
ヨンは自分の失策に気づくのが一瞬遅かった。
手遅れだった。
もう引き金を引いてしまっていた。だがそのときには突然に体当たりしてきた弥生によって射線軸はずらされていて、光線はそのまま……
(し、しまった……!)
……弥生の身体を貫いていた。
胴体のど真ん中に穴を開けられた少女の身体は、そのまま吹き飛んで、校庭の上に投げ出された。
ごろごろと転がって、停まって、それきりぴくりとも動かなくなる。
「…………」
夜空の方に向いた少女の無表情の顔の、その眼にはなんの光もなく、どこにも焦点が合っていない。
「――く、くそっ!」
焦るヨンは、それでもコーサ・ムーグに再び手にした武器――消去デバイスを向けようとする。
だがそのときには、もうコーサ・ムーグはその場にはいない。
既に、跳躍に入っていた。
彼は、外の月世界では革命を志していた戦士なのだ。弥生が自分のために犠牲になって作ってくれたこの隙《すき》を無駄にするわけもなかった。
屋上にまで一気に昇って、そして言われた扉≠探す。
(……あれか?)
下の階に通じている扉が、彼の目の前にあった。迷っている暇はない。彼はその鍵の掛かったノブに、残された右手を伸ばそうとして、そして――声を聴いた。
「ほんとうに、あなたには伝えるべき言葉が残されているのかしら?」
その声はすぐ耳元で囁かれたような気がして、コーサ・ムーグはびくっ、と振り向いてしまった。
そこに立っているのは、見たことのない少女だった。
長い黒髪を風になびかせ、顔には根拠の見えない、しかし深い、不思議な微笑みを浮かべている。
「だ――」
誰だ、と訊こうとして、しかし彼はそこで、自分の身体の動きがまったく停止していることに気がついた。いや、彼だけではない。周囲のすべてが、流れていく途中の雲も、空気も、そして校庭にいて、こっちに向かってこようとしているヨンさえも、ビデオ映像の一時停止のように、ぴたり、と停まっているのだった。
ただひとり――目の前の少女を除いては。
「誰でもない。私を呼ぶ名前は過去にも未来にも、未《いま》だに存在したことはない。私は具現化されることのない可能性がこの世に顕《あらわ》れたもの」
彼女は歌うように、伸びやかで明るい声で言う。
「そして、それはあなたも同じだわ、コーサ・ムーグ」
(な、なんだと――?)
動けないコーサは、心の中で思った。それはそのまま少女に伝わるようで、彼女はうなずいてみせる。
「あなたはかつて、人と、人でないものとの間の架け橋になろうとした、その可能性の残り滓《かす》。でも残念なことは、人の可能性を飛び越えてしまっていたあなた自身もまた、人ではないものになってしまっていたということに、あなたが気づいていなかったこと――」
少女は、コーサ・ムーグを真正面から見据えている。
それに、コーサは眼を逸らすことができない。
(――な、なんだと……?)
「それであなたは失敗し、そして今、外の世界では、あなたの想いなんかまったく理解しない着たちが、あなたの名前を使って他の人間たちを殺戮《さつりく》しているという有様。あなたは間違いなく、やり損なった――そして」
彼女の顔から微笑みがすうっ、と消え、そして告げる。
「そしてあなたは死んだ」
(死んだ……?)
コーサは、何を言われているのかよくわからない。
彼女はそのままの表情で淡々と続ける。
「人間たちは傷を負ったあなたを凍らせて保存しようとしたけど、残念ながらあなたの冷凍には、その凍った生命をつなぎとめるだけの夢がなかった」
やれやれ、という感じで彼女は首を左右に振ったが、視線そのものは一瞬たりとてコーサから逸れない。
「だからあなたはもう死んでいる……ここにいるのは、ただの亡霊と、そしてそれに共感という形でへばりついた悪夢だけ」
(…………)
コーサが、どう反応していいかわからなくなったところに、彼女はさらに言葉を重ねていく。
「ああ、あなただってもう本当は知っているはず――あなたは、自分が救おうとした人間によって殺されたときに、はっきりと思ってしまった――」
ここで彼女は、はじめてコーサから視線を外した。空に浮かんでいる月の方を見た。その眼には遠い――とても遠いものを見ているような色が浮かんでいた。
見ていると吸い込まれてしまいそうな、底無しの、澄み切った水のような――その眼が静かに告げる。
「――絶望≠」
その一言は、コーサ・ムーグの胸をさながら電撃のように貫いた。
(――――!)
そのとき[#「そのとき」に傍点]の感覚が、彼の心の中にまざまざと甦《よみがえ》ってきて、息をしていないのに息苦しいような重さが彼の認識にのしかかってきた。
彼女はさらに迫る。
「人間は救う価値などない、ただの愚か≠ネのだと、そう考えてしまって、そして……そのために死んだ。――その亡霊が、果たして人々に呼びかけ、伝えるべき言葉を持っているのかしら?」
そして、彼女は視線をまたコーサ・ムーグに戻した。
その鋭い眼光が、彼の精神の深奥まで射抜いてくるようだった。
(――な、何を……!)
彼は抗弁しようとした。だが彼女はそんな彼の言葉など待たずに、
「あなたは、あなたを殺した人間たちを、ほんとうに心の底から許すことができているのかしら?」
と問いつめてきた。コーサには答えられない。
「許して、その非を認めさせて、かつ、その人々を導いていけるだけの理由≠ェ、あなたの心の中にまだあると、そのことを今、あなたは信じているのかしら?」
彼女の背景には、煌々《こうこう》と輝く月が、白く濁った光を彼に向けて放ち続けている。その冷たい光と一体になるかのように、彼女は、
「いいえ、信じられるのかしら? あなたは、あなたがかつて夢みていた、人と人でないものとの共存を? 人間は自分たちの間ですら殺し合いやすれ違いばかりを繰り返しているのに……?」
(…………ううう……!)
コーサの精神が、ぶるぶると震え始めていた。
それは壁に衝突して行き場を失った車が、さらに激しい空転を続ける様に似ていた。
ここで、彼女の顔に微笑みが戻る。
「――あなたは、あなたの行動がすべて、あなたの意志によってつくられていると思う?」
(え?)
「あなたの想いだと思っているものが、実はよそ[#「よそ」に傍点]から押しつけられた影響によって決定されているかも知れない、とは思わない?」
(……な、何が言いたいんだ?)
コーサは混乱した。だが彼女にはその混乱を解消してやろうという気はまるでないようで、
「私は、とりあえず何も言うことはない」
とふざけたような口調で言った。
(なに?)
「問題なのは、あなたにまだ心が残っているかどうかということ――それだけよ」
(なんのことだ?)
「あなたは亡霊で、実際は何も決定できない立場にあり、コーサ・ムーグの精神パターンを借用しているだけの悪夢によって左右されているだけの、哀れな人形に過ぎない。しかし」
ここで、少女の姿がゆっくりと揺らぎはじめた。
「しかし、それでも、その亡霊にまだ心が残っているというのならば――」
それと同時に、周囲の停まっていた世界が、歯車がひとつひとつ噛《か》み合っていくように、じわじわと動き出していく。
「あなたには、まだたったひとつだけ、果たしておかなくてはならない気持ち≠ェあるはず――」
そう言って、彼女の像《ヴィジョン》は揺らめきの中に消えて、そして世界は動き出した。
(――はっ!)
と我に返ったとき、コーサ・ムーグは再び扉≠フ前に立っている自分を見つけていた。
この扉≠開ければ、自分は月世界の人間たちと心をひとつにして、その想いを受けとめ、自分の想いを伝えることができるだろう。
だが――
(……だが、今の僕に、ほんとうに人々に伝えるべき言葉があるのか?)
ずっと自分には揺るぎない確信があるような気がしていたが、それはどこから来ていたものだったのか。
(いや――確かにかっては、僕は真実を掴《つか》まえていたと思っていた。しかし今は――)
自分が共感していた相手=\―自分はどうやら既に死んでしまった彼の生命の抜け殻のような存在らしいが、しかしその相手≠フ方は――どうなのだ?
(まさか――)
彼は向こうのことを共感して、理解していたと思っていたが、それは彼の方の願望から来る思いこみで、実際の向こうはまったく違うことしか狙《ねら》っていなかったとしたら――。
彼は、ただ利用されただけだったとしたら、この扉≠開けたら、その瞬間に――
「――――」
彼の扉≠ノ掛かったままの手が強張《こわば》る。
そして、その指先がゆっくりと、ノブから離れて――
「――すまない、弥生さん」
と彼が呟いたときにはもう、消去デバイスをかまえたヨンが屋上の縁から身を乗り出して、こちらに向かって攻撃してしまっていた。
最後に彼が思っていたことは、生前の彼がひとつだけ残していた小さな、だが決定的な決断だった。コーサ・ムーグ――人類史上に類のない、人間と、人間でないものとの間を取り持つという壮大なる共存平和を願っていた救世主の魂は死後五百年以上経過したここ[#「ここ」に傍点]でやっとその夢を――
……あきらめた。
4.
ヨンの、数発の攻撃は確実にコーサ・ムーグの頭を、身体を、脚部を――全身のことごとくを消し飛ばした。
「――ん……!?」
だが、そのヨンの顔に厳しい疑念が浮かぶ。
コーサの身体はすべて消滅したのに、その下にあった影が――そのまま残っている。
月光に照らし出されて伸びていた影が、その元になっていた人物が消えたのに、床面に描かれた絵のように、消えていない……!
「な――」
そしてヨンが、この異常な影を学校校舎ごと攻撃しようとしたその一瞬前に、黒い二次元は爆発的に拡大した。
あっというまに、屋上全体が真っ黒の闇《やみ》に覆われる。
「こ、これは……!?」
ヨンは消去デバイスで攻撃するが、しかし光線は黒い闇の中に、そのまま吸い込まれてしまうだけで、まったく通用しない。
というよりも――その光線以上に、闇は他の物を消し去っていっているのだった。
――失敗だ
何処とも知れぬ虚無から響く声が聴こえてくる。
――また失敗だ。またしても〈心〉なるものの手掛かりが消滅した
ヨンはその声に恐ろしい寒気を感じて、びくっ、と身を震わせた。
その間にも闇は、どんどん大きくなっていき、学校の半分を呑《の》み込んで、そして山の下に広がる街並みに向かって、ずるり、と滑り落ちるようにして拡大しながら移動していく。
「ま、まずい――このままだと!」
ヨンは焦ったが、しかし彼女の繰り返す攻撃はなんの効果もない。
どこだ
どこだ
心はどこに
心はどこに行った
どこに――
ぶよぶよと蠢《うごめ》きながら、闇は街並みを、その中にいる人々を呑み込んでいく。
悲鳴はないし、誰もその攻撃そのものに気がついていない。彼らにしてみれば、それは世界の論理から外れている出来事だからだ。だがその常識の外で、闇は彼らのすぐ隣にいる人をそして続いて彼ら自身を呑み込んで、なかったこと[#「なかったこと」に傍点]へと変えていく。
それは静かなる、だが容赦のかけらもない世界の終焉《しゅうえん》が拡大していく様子だった。
「な、なんてことなの……」
やがてヨンは、闇の中になにか色のような物がぼんやりと漂いはじめるのを目撃した。
色はいくつかに分かれていき、やがてそれは闇の中に浮かぶオーロラになっていく。
もはや間違いなかった。このような現象は過去、人類が宇宙に進出しようとした当時の記録に数多く残されている。これは――
「こ、虚空牙の攻撃だわ……!」
ヨンの手にしている消去デバイスは、所詮はこの幻影の世界の中で、データを消去するという物でしかない。だがあのオーロラは、存在という存在をなにもかも[#「なにもかも」に傍点]呑み込んでしまうものなのだ――
「や、やむを得ない――コード・レッドを発令するしかない!」
ヨンは、彼女よりも上位の、より強力なレベルの戦闘プログラム発動を命じた。
するとその瞬間、まるで空という水たまりに濃い赤インクを一滴垂らしたかのように、世界全体が真っ赤に、さぁっ、と染まった。
緊急事態にあたって、この世界を構成しているシールドサイブレータがシステム最上級の防御シークエンスであるコード・レッド≠発動させたのだ。
その効力は絶大で、基本的に世界そのものの構成を組み直して、入り込んだ侵略者の居場所そのものを根こそぎにしてしまうのである。
ヴヴヴヴ……!
奇妙な地鳴りを上げながら、赤い世界そのものが、真っ赤な攻撃として流動する闇に食い込んでいこうとする。
通常ならばこれで、その異物はさながら硫酸に溶かされるかのように世界からその輪郭を失っていくのだが……
……どこだ
その赤い世界の中を、闇はそのまま流れ落ちていき、どんどん身体を大きくしていっている……!
「……き、効いていない……!」
ヨンは戦慄《せんりつ》するしかない。
これではもう、彼らに打つ手はまったくなくなってしまった。この世界の中に、あの闇に対抗できる力は、もはやどこにもない……!
「あ、ああ――」
どうしようもなく、ヨンはその悪夢を前に呆然《ぼうぜん》とするしかない。
どこだ……
どこだ……
心はどこだ……
闇の中に揺れるオーロラが蹂躙《じゅうりん》し、偽りの世界を虚無へと還元していく――
(…………)
胴体にぽっかりと穴を開けたまま、醒井弥生は動かぬ眼で真っ赤に染まった偽りの空を見上げている。どうしようもないことが、どうすることもできぬままに、絶望だけが止めるものとてなくただ広がっていくのが、弥生にもわかった。
(…………でも)
確かに――聴いたことがある。
このような事態について、前に説明を受けていたことがある。
(でも……わたしは)
それは彼女の中では揺るぎない経験だった。
かけがえのない思い出の中に、その言葉はあった。
(わたしは――彼女に)
二人きりで会っていて、話していて、そのときはよくわからない話だと思って、それほど注意して聞いていなかったけど、でも彼女は自分に教えてくれていた。
そうだ弥生さん――あなたに、ひとつ忠告を遺していくわ
彼女は優しく微笑みながら、静かな口調でそれを言ったのだ。自分は頬《ほお》を紅潮させて、まるでお気に入りの絵本を読んでもらっている子供のように喜びながら、その話を聞いていたのである。
あなたや、あなたが生きているこの世界に、どうしようもないことが起こったとき、その呪文を唱えれば、きっと興味深いことが起こるわ
そうだ、まさにそれは、こういうときのことを言っていたに違いない。彼女はやはり正しかった。
「…………を」
それは、ほとんど喉《のど》に空気が流れず、かすれ声と言うよりも、すきま風といった程度のわずかな音でしかなかったが、しかし弥生は世界に聴かせるべく、心を込めて、信じて、その言葉を意味する音を発した。
「夜の果てを視るように――心の闇にすみれ[#「すみれ」に傍点]を咲かせよ」
その声は世界に染み込んでいき、そしてその深奥で隠されていた琴線に、びいん、と響いた。それは通常のプログラムであるヨンも、世界を管理しているシールドサイブレータでさえ知らなかった、このシステムの基礎となった超文明がありとあらゆる機械の設計に用意しておいた緊急回線の解放キーだったのだ。
『――コード・レッドの発令下にあって、なおも解消できぬ絶対危機が発生。よって当システムはここに、コード・バイオレットを発信し、これを感知できるあらゆるもの[#「あらゆるもの」に丸傍点]に救援を要請する』[#この行は太字]
眠っていた機械がその動力のありったけを吐き出して、その叫びを絶対真空の宇宙空間に撒《ま》き散らす。虹の七色に於《お》いて赤《レッド》よりも外縁である|すみれ色《バイオレット》の光彩を放ちながら――
「――あっ!」
ヨンが驚きの叫びを上げたのは、彼女のいる世界を侵食していく闇が、とうとう立ち上がり、巨大な人型のようなシルエットになっていった――からではなかった。
それにも無論、圧倒されていたが、しかし問題なのはさらにその上空に――今や無力となっているコード・レッドの赤く染まった空間に、
――びしっ、
と青白い線のひび[#「ひび」に傍点]が走ったからだった。
「な、なに――あれ?」
ひび[#「ひび」に傍点]はひとつだけではなく、さらにまたびしっ、びしっ、と連続して走り、そして青白い線はいくつも重なって、大きくなっていく。
そしてとうとう、それ[#「それ」に傍点]は赤い欺瞞《ぎまん》の空を突き破って、青白い閃光と共に世界に突入してきた。
骨のような、腕だか脚だか定かでない尖った形状の、その槍《やり》のような巨大な物体をヨンはデータ上でだけ知っていた。それは敵を切り裂く剣であり、三十七種の攻撃を放つ砲台であり、小惑星程度ならば殴るだけでこなごなに砕くこともできる――
「――な、超光速戦闘機《ナイトウォッチ》の武装腕《アームドアーム》=c…!?」
それは多種多様な破壊能力のひとつ〈界面バスター〉によって、今、この機械に創られた幻影世界の境界を撃ち抜いてきたのである。
そして、その鋭く尖った先端部分に立っているのは、この太陽系圏内に生きるもので、その伝説を知らぬものはいない、人類文明の最後の砦《とりで》である超人――全身を鎧《よろい》で包み、顔のあらゆる表情を鉄仮面で覆い隠す、その男――
「あれが――|星に触れる者《スタースクレイパー》=c…!」
「……間に合ったようだぞ」
スタースクレイパーは相棒のバンスティルヴに囁くと、眼下に蠢く闇の人型に眼を移した。
急いだ方がいい。この世界はかなり安定を失っているようだ
武装腕《アームドア―ム》を通じて意志が伝わってくる。これにスタースクレイパーは「うむ」とうなずいた。
「大して時間はかけないさ」
言うが早いか、鉄仮面はアームドアームから跳躍して、そしてそのまま、下で待ち受ける巨大人型の闇に向かって落ちるように突っ込んでいく。
そして闇の方も、今までの他のあらゆる人間たちのことは区別がついていなかったようなのに、この鉄仮面に対しては明確な反応を示した。口のような箇所を大きく広げたかと思うと、
……ばばば……!
と咆哮《ほうこう》とも破裂音ともつかぬ振動を発した。
その波動は一撃となって鉄仮面を襲う。
しかし鉄仮面は、空中で腕をぶん[#「ぶん」に傍点]と一振りして、この衝撃を全部はじき飛ばしてしまった。
そう――この光景は、外の世界では珍しくもなんともない――日常的に、と言ってもいいほどの頻度で起こっている、これが虚空牙と太陽系国内の人類最後の抵抗勢力がおこなっている戦闘≠ネのだった。
……ば、ばばっ――
と、闇の人型がふたたび波動を放とうとしたときには、もう鉄仮面はそのすぐ側まで迫ることに成功していた。
「――せいっ!」
そして彼は、なんら火器に類する物も出すことなく、そのままその拳《こぶし》を巨大なシルエットの脳天に撃ち込んだ。
変化は一瞬で、決定的に衝撃的だった。
オーロラが内部でゆらめいていた闇は、スタースクレイパーに触れられたと同時に、
――かちん、
という軽い音ともに虹色にきらめく結晶と化し、そして砕け散ってしまった。
――終わった。
それが、倒れている弥生の眼にも見えた。
影が砕け散り、その下に広がっていた世界が一瞬のうちに回復する。
鉄仮面はまた槍のような物の上に戻り、そして後も見ずに世界から立ち去っていく。
赤かった夜空が、また元のような星空に戻っていく。
ああ――だがしかし、彼女の胴体にあいてしまっている穴だけは塞《ふさ》がることなく、そのまま残っている。
ぼんやりとしたままの意識が、さらに不明瞭になっていく。
わたしたちは、どうしてこんなにうまく行かないのだろう、と思った。
この世のすべてがまぼろしだというならば、それはまぼろしの方に責任があるのではなく、わたしたちの方に問題があるのかも知れない。
うまく行くということがどういうことなのか、ちゃんと考えておきさえすればこんなことにはならなかったかも知れない。
それとも考えすぎてしまったことこそが、悪かったのだろうか。
わたしたちはいつも、余計なことを想いすぎて、それで無駄な回り道をしたあげく、肝心のところには届くことがないのだろうか。
彼女は……と、弥生はどんどんぼやけていく思考の中で、何も思い出せないその人のことを思う。
彼女にとっては、おそらくは生きていたことそれ自体が回り道で、それで――どこに行くつもりなんだろうか……。
滲《にじ》んでいく風景が、かすむ眼の中で溶けていく。そこでは相変わらず、
(月が、空に――)
5.
……長い長い夢を見ていた、と思った。
身体中がひどく重く、頭の中がだるい。身体のあちこちがばらばらに飛び散っていて、それらが繁《つな》がっていないような感覚があった。最初に知覚した外界は後頭部に押しつけられている中途半端な固さの物がもたらす頭痛で、これは枕が悪くて血行が鈍っていたのだと後で知ることになる。そして全身に加えられる均等な圧力の重さは、単に毛布が掛かっていただけだった。
「…………」
わたしはベッドに横になっていて、そして、それはずいぶんと長い時間のことだったようだ。
「…………」
周囲は真っ白で、前後の脈絡がよくわからず、わたしは眼だけ動かして、四方を探る。
白い内装に、白い天井、飾り気のない照明――室内にまで白いカーテンが掛かっている、ここはどう見ても病院らしい。
「…………」
そしてそこに寝ているわたしは、つまりは入院している、ということなのだろうか。しかしどうしてここにいるのか、いつからなのか、わたしの記憶はすべてがおぼろではっきりしなかった。
「……わたしは」
名前は、たしか醒井弥生だ。
だが、それがどういう人間のことを表しているのか、自分でもよくわからない。何をしていたのか、何をしたかったのか……
「わたしは……なんなのか」
茫然として呟く、その声にはひどく力がない。
だが、ふらふらとさまよっていたわたしの眼が、窓に――その外に見える光景を捉《とら》えたとき、はっ、と心に響くものがあった。
すっかり暗くなっている空に、白い月が浮かんでいた。
「…………!」
それは部屋に充満しているどの白≠謔閧烽ワぶしく、それでいてどれよりも暗い陰影を持っていた。闇と光が同時にそこにあった。
何故だろう――わたしはそのコントラストを見ていると、ふいに胸が締めつけられるような想いが身体の奥から湧《わ》き起こってきてしょうがなくなった。
「…………」
そのとき、部屋のドアが前置きなしに突然開けられて、白衣を着た女性が入ってきた。彼女はこっちの方を見て、
「あら、あなた――眼が醒《さ》めたのね?」
と言った。この病院の看護婦だった。
彼女は、よし、という感じでうなずいてみせて、
「ご両親に早く知らせないとね。ついさっきまで待っていらしたんですよ」
と、わたしの側に寄ってきた。
「あの……? どうして、わたし――」
わたしは訊いてみた。
「覚えていない?」
「……はい」
「まあ無理もないわ。よくあることなのよ。ショックで前後の記憶がないって」
わたしは事故にあったのだという。
街をふらふらしていて、どういうつもりか街外れの公園にやってきて、そこで突っ込んできたトラックに跳ねられたというのだ。
もっとも跳ねられたと言っても、直接当たってしまったわけではなく、トラックが壊したシーソーだかジャングルジムだかの破片で頭を打ったらしいのだが、その辺はよくわからないらしい。
「大した怪我《けが》じゃなかったんだけど、気絶してたし、頭を打っていたから入院てことになったのよ」
説明を受けて、わたしはなんとなく、なるほど、と思った。
「そう……そういう風に辻褄《つじつま》が合うわけなのね」
ぽつり、と呟いていた。すると看護婦はきょとんとした顔になって、
「なんのこと?」
と質問されたが、言われたわたしの方も、きょとん、としてしまう。
……なんのことだろう?
わたしは自分でもよくわからなかった。なんでそんなことを思ったのだろうか?
しかしこの人にそのことを説明する気にはなれず、ただ、
「……別に、なんでもないです」
と答えただけだった。
……それから両親が来て、あなたはほんとに不注意なんだからとか夜に出歩いているからそんなことになるんだとかさんざんお説教されて、でもわたしはどこかで上の空だった。
するとしばらくして、ふう、と父と母が揃《そろ》ってため息をついて、目配せしあった。わたしはなんだろう、と顔を上げると、父が、
「……実は、おまえの書いた小説が新人賞を取ったという知らせが今日届いたんだ」
と言った。
「……は?」
わたしは、何を言われているのかよくわからなかった。
「作家になりたいなんて、夢みたいなことを言っていると思っていたんだけど――あなた、ちゃんと頑張っていたのね」
母が涙ぐんでいる。だがわたしには事情が全然呑み込めない。
「ち、ちょっと――なんの話をしているの?」
わたしは混乱しきっていた。
するとそこに声がかけられた。
「間違いないわよ、近代小説新人賞の、審査員特別賞を受賞よ」
わたしは驚いて、病室に入ってきたその人を見た。
それは妙ヶ谷幾乃先生だった。
「…………」
わたしは、幾乃先生の姿を見て、どういうわけかひどく緊張を覚えた。まるで生命を狙《ねら》ってきている敵と遭遇したみたいな気持ちになった。だが眼鏡をかけた幾乃先生は別に、普通の彼女であり、別にわたしに何らかの害を与えるような存在ではなかった。
「ご両親から相談を受けたんで、私も確認してみたんだけど、ほんとうにあなたの作品の『逢うのは月のむこうがわで』が受賞してるわよ。あなたが応募したのは一年前」
「…………」
「忘れてた? 予定より半年以上も選考が延びちゃって、発表が遅れたけど。まあこれはよくある話なのよ」
「………」
「まあ、一等賞じゃなくて特別賞なんだけど、でも賞を取るってのはすごいことよ」
「…………」
わたしは、ふいに思い出していた。
それは飛び降り自殺した少女の霊がさまよい、未来の月世界へと旅立ち、色々な人や宇宙人などと出会うという、そういう幻想的なイメージでまとめた小説なのだった。わたしが両親から「そろそろ勉強に集中しろ」と言われ始めた時期に、ムキになってたくさんの作品を書いては片っ端から投稿していた時代の、濫作の中のひとつだったのだ。
「…………」
その主人公の名前を、わたしは――
(自分でも、自分の名前が思い出せないという風に、そういう設定にして――)
――まさか、
ああ、でも、そんなことがあるだろうか?
自分でも書いたことを忘れていた小説の登場人物の、その印象だけが頭の中に残っているなんてことが――
「…………」
幾乃先生と両親が、まだ何かわたしに向かって話しかけてきていたが、わたしは茫然としてしまって、全然その言葉が耳に入ってこなかった。
……こうして、わたしは小説家になった。
受賞した作品そのものは、ちょっと難解すぎるということで雑誌に題名が載っただけで、実際に作品を発表してデビューできたのはその次に書いた作品だった。それが評判になり、わたしは早熟の女流作家ということで急に知られるようになっていった。
その後、わたしは当初の予定通りに推薦が決まっていた大学にも進学して、作品も順調に発表されていくし、何の問題もなく、順調な人生を歩みだした。
……ということになっているが、しかし、わたしの心の中では奇妙な感覚がずっとつきまとっていた。
わたしは失敗してしまった。
なにか、とても重要なことをやり損なってしまった――もう、とりかえしがつかないのだと、そういう気分がいつも、どこかに存在していて、頭の隅から離れないのである。
「ふう……」
その日、わたしは出版社での打ち合わせを終えて、ひとり暗い道を歩いていた。
空には月が出ている。
「ふう――」
月を見ると、わたしはため息をつく癖がいつのまにかできていた。
打ち合わせというのは、それまで書いてきた作品の数がたまってきたので、本にまとめようという話が出てきたのである。短編の並べ方を考えたり、書き下ろしも加えようというような話を進めていくと、わたしは「ああ、自分はほんとうに小説家になっていくのだな」と思った。打ち合わせの後で、軽い前祝いだということでちょっとした飲み会みたいなものに付き合ったりしたせいで、わたしはちょっと酔っている。お酒にはあまり強くないのだ。家に帰る前に冷ましておかないと、また父母に怒られてしまう。小説家をやること、それ自体には反対していないのだが、それで良からぬ遊びを覚えたりするなよと相変わらず釘は刺されているのだった。
「ふう――」
ため息をつきながら、わたしはひとり夜道を歩いていく。
だんだん人通りが少なくなってきて、大丈夫かな、とも思ったが、交番がすぐ側にあるところだったので、わたしはそのまま足を進めていった。
頭が、すこしぽーっとする。
「……本を、出すんだなあ」
ひとり呟いてみたりして。それはわたしにとっては長年の夢が叶《かな》うことでもあるのだが、しかし、なんだか――
(……なんだか)
そのとき、わたしの脳裡《のうり》によぎるのは不思議な言葉だった。
夢というのは過去からつくられるもの、そして実現するのは未来になってから――時間の流れの中にしか、夢というものはない。今、このときに夢をその手に掴むことは誰にもできない――目標を達成したときには、それはもう夢ではなくただの現実。人は虚ろな夢という扉の前で見張りを続ける夜警当番《ナイトウォッチ》のようなもの――
どこでそれを聞いたのか……いや、これはわたしが自分で考えた言葉なのだろうか?
「……あーあ」
わたしはまた、夜空の月を見上げる。
それはいつ見ても、わたしに胸を締めつけるような感覚を与える。
その理由はわからない。
思い出せないのか、最初から知らないのか、わたしにその区別はつかないのだ。
「……あーあ」
わたしは酔って、いまひとつ不明瞭《ふめいりょう》な頭を左右に振って、ふたたび歩きだそうとした。
するとそのわたしから少し離れた先に、彼女が立っていた。
「…………」
わたしは息を呑む。
一気に頭が、身体が冷えていくのを感じる。
彼女は――彼女だった。
穏やかで、優しげで、そして静かな微笑みを浮かべている。
「おめでとう、あなたの作品がひとつの形になろうとしているのね」
彼女はわたしに言った。
「……あ……あなたは」
わたしの声は震える。
とうとう――会えた。
ずっと探していて、確たるイメージさえ掴まえられなかったそのもの[#「そのもの」に傍点]が今、わたしの目の前にいる。
だが、だがわたしに言えることは、それは――
「あなたは――わたしの妄想なの?」
わたしはまず、それを訊かなくてはならないのだった。だが彼女はこのわたしの悲痛な問いに、ただ眼を細めて、
「こうしてあなたと話している私は、あなたの心の中にしかいないわ。そしてあなたの書いた本も、読んでいる人の心の中にしか存在しない。すべては人の心の中にしかないし、それから逃れることは誰にもできないわ」
……と、やはり不思議なことしか言わない。
「そうじゃなくて――そういうことじゃなくて」
わたしはしかし、何を言っていいのかまるでわからない。
「あなたは――どうして」
どうして、そんなに美しく微笑んでいられるのだろう?
あなたの周りにはきっと、ひどい幻滅と絶望ばかりが積み重なっているだろうに――
「――どうして?」
「答えはあなたの心の中にある」
彼女はきっぱりとした口調で言つた。
わたしが「え?」と顔を上げると、彼女はうなずいた。
「あなたがわからないのは私のことではなく、あなた自身のこと。あなたはその疑問の答えを、これからずっと探し続けることになるわ。そう――世のすべてのことと同じように」
「……わからないよ、きっと」
わたしは首を振った。
「わたしには、きっとなんにもわからないわ。そして結局はそのままで終わるのよ」
「そうかしら?」
「そうよ」
わたしは泣いていた。
「そうに決まっているわ」
これが酔っぱらいの幻覚なのか、世界に隠された闇から垣間見える真実なのか、そんなことはもうどうでもよかった。
わたしはただ、悲しかった。
わたしたちは、そのすべては夢を求めて永遠にそれに辿《たど》り着けない途中の存在なのだ。そのことが無性に悲しくて悲しくて仕方がなかった。
「悲しいことはどうしようもないわ」
彼女は静かに、しかし芯《しん》の通った力ある声で囁いた。
「悲しみは世界に付随する真実。だから人は悲しみが待っていると知っていても、前進するしかないのよ。誰かがいつか、ここではないどこかに突破できる、その日を信じて」
「で、でも……」
泣いているわたしに、彼女は優しく微笑みかけてきて、そして近寄ってきた。
「あ……」
わたしが茫然としていると、彼女はわたしの手になにかを握らせた。その手の感触はとても暖かで、柔らかく、水のようになめらかだった。それがわたしに残る彼女の唯一の感触だった。
「これ[#「これ」に傍点]を大切にしてね」
彼女はわたしの耳元で呟いた。
「え……」
わたしの手には球とも楕円ともつかない形をして、表面は非常につるつる[#「つるつる」に傍点]とした、不思議な物体があった。
「これは……?」
「それはコーサ・ムーグが残した未来からの遺産――そのシンパサイザーこそが、いずれ人類に相剋渦動励振原理を発見させ、絶対真空の宇宙に旅立たせることになるわ」
わたしは何を言われているのか理解できなかった。
「……え?」
「先に待つものが、たとえ絶望と幻滅しかないとしても――それでも、よ」
彼女はうなずいた。
「え……?」
わたしはその手の中の物体に眼を落とす。その重さはまぎれもない現実だ。
そして眼を上げたとき、そこにはもう誰の姿もなかった。
影も残さずに消えていた。
「…………え? ……ええ?」
わたしの頭にはまた混乱が戻ってきていた。
いまはいつなのだ?
ここはどこなのだ?
わたしがいるのは一体、過去なのか未来なのか――それともすべては、ただの現在≠ノ過ぎないというのだろうか?
「――ああ……」
わたしはその手につるつる[#「つるつる」に傍点]とした黒い物を抱えながら、どうしようもなくなって夜空を見上げた。
そこには白く濁った月が、変わらぬ明るさと暗さを同時に放ちながら、皓々と輝いているだけだった。
VS Imaginator Part IV "The Night Watch under The Cold Moon" closed.
[#ここから3字下げ]
そしてもしも――
君と仲間たちが今までとは違う音を奏で始めるのなら
きっと君と僕は月の暗い側で出会うことになるだろう
[#ここで字下げ終わり]
――ピンク・フロイド〈ダークサイド・オブ・ザ・ムーン〉
あとがき――月下のうちをくらぶれば、夢まぼろしの如くなり
かの有名な『ロミオとジュリエット』の中で男が「月に愛を誓う」と言ったら女が「月なんて、あんなに形がコロコロ変わる不実なものには誓わないでよ」みたいなことを言うシーンがあるが、しかし英語圏には(聖書なんかに)同時に「月の存在する限り確実」という言い方も存在するそうだ。月というのはどうやらそういうもので、あるんだかないんだか、そのくせ存在感は抜群と言おうか、太陽がなければ人間が生きていけないのは確実なんだが、月の方はというと、細かく言うと潮の満ち引きに関係しているとかなんとか色々とあるのだが、しかし具体的に、人間にとってどういう意味があるのかよくわからない中途半端なものとして、色々な神話なんかではかなりに扱いに困ったらしい跡が見える。そのくせ星みたいにひとつひとつは小さいのならまだしも、空に浮かぶその大きさは誰にでもわかるわけで、月を見て昔の人々が考えていたことは、まだそんな概念は当時存在していなかったが無意識≠フ領域に関連することが多かったのではないかとゆーよーな気がする。確かにあるのだが、しかし形にはならないこと、そういうものの象徴として月という具象を当てはめていたような。
ちなみに無意識という考え方は十九世紀末から二十世紀になってから発見≠ウれたので、それまでの人たちは実に、自分に自分でも説明のつかないモヤモヤした気持ちがあるということを知らなかった。本当に知らないのである。だから夢見が悪いというのは、実際に現実に悪いことが起きるのと関係がある、とほとんどの人間は真剣に考えていたわけで、単に無意識があんたは疲れているんだよ≠ニ表層意識に言っているだけのことを俺はもうすぐ死ぬ≠ニか思いこんで決闘したりして本当に死んでしまったりしていたのである。昔の(百年以上前の)小説を読んでいて、そのあまりの乱暴さに驚くことがあるが、それはつまり無意識ということを考慮しないので、訳のわからない衝動みたいなものを無理矢理に悲劇にしてしまったり、大仰な神の啓示や悪魔の誘惑にしてしまったりしていたせいなのかも知れない。あるいは月には人をおかしくさせる作用があるのだとか。これは月光には魔が潜んでいるみたいなことを言い張って自分の心の中の問題を外に責任転嫁していたような気が今となってはかなりする。オオカミ男は満月で変身って、それ以前に男はみんなオオカミじゃねーか、とか。
そういうわけで想像とか空想とかは、あるんだかないんだかわかんないけど、でも存在感抜群の月に似ているのであるが、これはただ鏡を見ているのと同じことなのだろう。月を見上げて、我々は綺麗だなとか不気味だなとか色々考えるわけであるが、しかし月という物そのものは別に綺麗でも不気味でもない。ただの冷え切った鉱物の塊に過ぎず、そこには地球や他の惑星に見られるような活動はもはやない。そこに意味を見出すのは我々の心の中のことであり、月はそれに合わせて我々に様々な顔を見せているだけなのだ。我々は自分の心の中にあるはずのものさえ、外に形として存在している物に託さなければイメージすることができない。想像力というものは結局のところ、ただ見つける@ヘのことでしかなく、我々は目の前にあるはずのものを長い長い間ぼーっとしているせいで、ずっと見つけられないままでいるだけなのかも知れない。
人生は長いか短いか。それは人それぞれであろうし、一般には偉い人たちは一般の人々よりも濃くてすばらしい人生を送っているとか思われがちであるが、しかしその心の中ではどんなことになっているかは本人にしかわかるまい。空を見上げたとき、月がどんな風に見えているのか――それがその人の人生を決定しているのだろうが、しかしその想いはどんな形であれ、月にイメージを託さなければこの世に形として表すことができないようなもので、おそらくは人間の歴史の中で、それを明確な形で示すことができた者は未だ存在していないだろう。すべては夢幻の如く、その人が世を去ると同時に儚く消えていっているのだ。そこには長さ短さ、偉大さ凡庸《ぼんよう》さの差はなく、皆が同じ立場に立っているのだろうと思う。
ところで月は同じ面をずっと地球に向けて回っているため、夜の世界と言われる裏側はこちらからは永遠に見えないという有名な話があるが、しかしこれは地球に背を向けているだけであって太陽とは関係がないから、その裏側にだってやっばり陽射しがあたっているのである。心の中の暗闇を象徴している月の暗い側だろうがなんだろうが、そこに光がないわけではないというところであろうか。だからなんだというと、いや別になんでもないんですけどね。以上。
(自分の不理解を他人様や歴史にまで押しつけてどーすんだよおまえは)
(だってホントにわかんないんだから、しょーがねえじゃん)
BGM "UNDER THE CHERRY MOON" by PRINCE AND THE REVOLUTHON