しずるさんと底無し密室たち
上遠野浩平
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)挨拶《あいさつ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)純粋|培養《ばいよう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
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[#地付き]口絵・本文イラスト/椋本夏夜
[#地付き]口絵・章扉デザイン/内藤裕之
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目 次
第一章 しずるさんと吸血植物
第二章 しずるさんと七倍の呪い
第三章 しずるさんと影法師
第四章 しずるさんと凍結鳥人
はりねずみチクタ、船にのる[#各章前後に@〜D]
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閉じこめられていると思うのか
出るつもりなどないと考えるか
自らの意志で留まると信じたか
いつかは出ようとしているのか
ここは密室――四方を封じられ
世界という不可視の壁に塞がれ
己の意志すら見ることも叶わず
[#地付き]――〈閉鎖する思案〉
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はりねずみチクタ、船にのる その@
……それはどこと知れない、真っ白い部屋のことでした。
「ところで、彼はどうしたのかしら?」
「は? 彼?」
「あのお腹に時計を持つ、あの旅人よ。まあ、人間じゃないんだけど」
「ああ―――チクタのこと? あの話の続き?」
そこには二人の少女がいました。
一人はベッドの中に入って、足から下をシーツにくるみつつ上体を起こしていて、もう一人はその傍《かたわ》らに腰を下ろしています。
「伝説の時計職人を見つけるために、お腹に動かない時計を持つ彼は、このまえは船に乗って旅立っていったのよね」
ベッドの上の方の彼女が、微笑みながら言いました。
「え、えーっと――ああ、そうだったはね」
もう一人の方は、半分忘れかけていた話をなんとか思いだそうとして眼を白黒させています。
それは、かつて存在していたはりねずみのぬいぐるみを使って、二人が創《つく》っていたお話なのでした。
チクタという名前の、その彼は、お腹についている時計のおもちゃが動くようにならないかなあ、と思って、どんな時計でも動くようにしてくれるという時計屋さんを探しているという、そういうお話でした。
時計は動かないに決まっています。だってその時計というのはただの丸い板に、時計針らしき二本の棒がくっついているだけというものだったのですから。
それを動くようにしてくれるというのですから、それはそれは、もうすごく腕のいい、伝説になんか軽ぅくなれちゃうような偉《えら》い人でないといけない――というわけで、チクタが果たしてその職人に会えるかどうか、というのが二人の話の焦点《しょうてん》でした。
でも、話はあっちへふらふら、こっちへよたよた、とチクタは職人さんに全然巡り合えないのでした。
そしてこの前に話が途切《とぎ》れたのは、チクタが古ぼけたおんぼろ船に乗って、|港《みなと》から旅立っていったところでした。
「船は、もし自分が沈《しず》みそうになっても、すぐに逃げ出したりしないという約束でチクタを乗せてくれたのよね」
「大丈夫なのかしら、そんな船に乗っちゃって。すぐに難破《なんぱ》しちゃうんじゃないの?」
「そこは経験というものよ。長いこと航海をしているから、危ない海には近づかないし、嵐の気配があったらそっちへは行かないのが、老練な船ならではの知恵というものよ」
「ああ、そういうものかしら。だったらチクタは無事に、近くの港に着いてめでたしめでたしなのかしら」
「いいえ。そう簡単にはいかないわね」
「そうなの? だって沈まないんでしょう?」
「だから沈まないように危ない海には近づけないのよ。だからかえって航路は遠回りになるわね」
「なるほどね。あちらを立てればこちらが立たずって感じね」
「だから船は、穏《おだ》やかなところを、のんびりとだらだらと進んでいくのね」
「平和でいいわね」
「ぼんやりとした時間だけが、ただ過《す》ぎていくのよ」
「うん。……で、それからどうなるのかしら」
「いや、だからぼんやりとしているのよ」
ベッドの上の彼女はこともなげに言います。そして、後はにこにこ微笑んでいるだけなのです。
もう一人の彼女も、つられてなんとなく笑っています。
「…………」
「…………」
二人は顔を見合わせたまま、曖昧《あいまい》に笑ったまま、なんだか時間が止まっています。
ちょっとは困《こま》ってきたもう一人の彼女は、やがておずおずと、
「……あの、で、それからどうなるのかしらね」
と訊《き》きました。
「さあ」
ベッドの上の彼女は、いともあっさりと言って肩をすくめました。そして逆に、
「どうなると思う?」
と訊き返してくる始末《しまつ》です。もう一人の彼女は、すっかり困ってしまって、
「え、えええ? いや、いや―――まあ、しばらくは平和に旅してる、ってことでも。いいのかもね――」
と自信なさげに言いました。
「最近は日差《ひざ》しが強いから、チクタも甲板で甲羅干《こうらぼ》しでもしているんじゃないかしら?」
はりねずみの背中は、針ばっかりで炊《や》くところなんてないけど……と彼女は思いましたが、適当なことを言ったのが恥ずかしいので、話をそれ以上は進めません。
「そうね。最近は暑いわねえ――。ここに来るのも大変だったんじゃない?」
ちょっと心配そうに、ベッドの上の彼女は訊きます。これにもう一人の彼女は首を横に振って、
「いや、来るときは割と雲があったから――でも、そうね、今度来るときはちょっと考えておいた方がいいかも。気取って日傘《ひがさ》でも差そうかな」
と笑いながら言いました。
そして二人のお喋りは、全然関係のない方向に展開していきました。
なんだかチクタは、のんびりと進む船の上で、ぼんやりとしたまま放ったらかしです。
この後彼は、無事に伝説の時計職人さんに出会うことができるのでしょうか?
なにしろこの二人の前には、他にも奇妙《きみょう》なことが一杯ですし、ね――。
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第一章 しずるさんと吸血植物 The Whitc Pink
――暑い。
道路のアスファルトが溶けだして、一歩踏みしめるたびに足跡が刻印《こくいん》されるのではないか、と思うほど暑い。ひどく暑い。
「あー……」
彼は、ふと道路の横に広がっている野原に眼を向けた。
そこには白い花が咲いていた。一本の茎《くき》にいくつもの花が密集して付いている花だった。それらが何本か、ひとかたまりになって咲いている。
そよ風に吹かれて、揺《ゆ》れている。
「…………」
なんとなく、彼はその花をぼんやりと見つめていた。
するとそのとき、どこからともなく、
ジ、ジジ……
という小さなモーターが唸《うな》るような音が聞こえてきた。機械音のようで、しかし自然音のようでもある、とらえどころのない曖昧な音だった。
「…………」
彼はふらふらと、その音のする方に近づいていく。
白い花が、風に揺れている。
その頭上では灼熱の太陽があらゆる色を掻《か》き消す眩しさで真っ白に燃えさかって、焦《じ》れるように果てしなく炊《や》けている。
暑い。
ひどく暑い……。
1.
……その通報《つうほう》してきた第一発見者が事態《じたい》に気づいた最初の兆候《ちょうこう》は、ジジジ………という奇妙な音だった。
草むらの陰《かげ》から、なにやら妙な音が聞こえてくるのだ。
(なんだ……?)
彼は不審《ふしん》に思い、藪《やぶ》を掻《か》き分けてその音の方に行ってみた。
するとそこに、白い花をつけた植物が密集して群生《ぐんせい》していた。五月から七月にかけて開花するその夏の花のことは、自然観察に慣れた彼はよく知っていたが、白いものは初めて見た。
(ナデシコ――それもムシトリナデシコじゃないか……稀《まれ》に白いやつもあるとは聞いていたが――ん?)
そこで、妙なものがちらと彼の眼に入った。
集まっている花の根元に、なにやら茶色っぽい|塊《かたまり》がある。土のようだが、それにしてはなんだか盛り上がり方が不自然だった。
彼は花の側に寄《よ》った。ジジジ………という音はだんだん大きくなっていく。
そして彼が花の何本かをまとめて横にのけると、その下からそれは現れた。
「――――」
一瞬、なんなのかわからなかった。だが次の瞬間、彼は、これは――
(眼が、合っている――のか?)
ということに思い至った。そして当然のことながら、彼は悲鳴を上げてその場から逃げ出した。
正確には、眼など合っていなかった――何しろ、その花の下に転がっていた死体の、眼球のあった場所には黒く干からびた乾涸《ひか》らびた穴がぽっかりと空いているだけだった。
全身がかさかさと乾燥しきって萎《しお》れている、それは完全なミイラだったのだ。
……たちまち大騒ぎになった。警察が来る前に、悲鳴を聞いて集まってきた人々の中の数名が写真を撮ってマスコミに売ったりしてしまったため、その衝撃的な光景は事態が解明されるよりも先に一般に広まってしまった。
白い花の中に埋《う》もれるようにして、さながらその養分を植物に吸い込まれたかのような乾涸《ひか》らびた死体が――。
そして、警察の調べが進むと、さらにショッキングなことが判明した。その死体の身元は、残留していた血液の成分分析などからすぐに判明したのだが――彼はその前日まで、平気な顔をして外を歩いていたところを目撃《もくげき》されていたのである。より正確にいうなら、死体として発見される六時間前に――。
いったいどうやったら、人間はたった半日でミイラになるほどに乾燥《かんそう》させられるというのだろうか?
人々の関心は、当然その死体の側にあった花に集まった。
滅多に見られないという、その白い虫獲《むしと》り撫子《なでしこ》≠フ花に――。
*
夏の陽射しは強い。いや、別に私は夏が嫌いって訳じゃない。じゃないけど、でもさすがに長いアスファルトの道を歩くときは、夏が鬱陶《うつとう》しい。
(しょうがないわよね――)
そう、これはしょうがないことなのだ。陽射しが強すぎるんだもの。私が、似合わない日傘などを差して歩いてしまうのは。
(うん、直射日光がきついんだから、これはしょうがないのよ、うん)
なんだか、自分が貴族のお嬢様になったみたいに、気取って日傘を頭の上でくるくる回してしまっちゃたりするのも、別に浮かれている訳じゃないのだ。最寄り駅まで畳《たた》んで持っていたわけだけど、もちろん晴天なのに傘なんか持っていたのは私だけだったから、むしろ恥ずかしいくらいなのだ。
(うん、恥ずかしい恥ずかしい――ああ恥ずかしいわ)
私は、ひとりで山の中の病院に続く坂道を登っていく。周りにはいつものように、他の人の姿はない。ほんとうにこの道で他の誰かとすれ違ったという記憶はない。
周囲は緑で、道路はアスファルトを敷《し》きたてのようにぴかぴか黒光りして、暑さで溶けだして足跡が付いちゃうんじゃないかって思うほどだ。
なんだか――作り物みたいな道だった。ここに来る度に、いつもそう思ってしまう。映画のセットというか、人が実用として使っているという気配がしない――。
「…………」
私は日傘を少し上げて、坂の上の方を見る。
緑の隙間《すきま》から、白くて四角くて大きな建物が見える。
そこから見るとそれは、周りの景色以上に現実感がない。
大きなお豆腐《とうふ》と言おうか、あるいは石碑《せきひ》というか、それも――
「――――」
その、夢の中の風景のような中を、私は日傘を差して歩いていく。強い陽射しを受けて地面に落ちる濃い影は、まるでメリー・ポピンズのようで、とても作り物めいていた。
てくてくと坂を登って、やがて私はその白い建物に着いた。馴染《なじ》みになっている警備員の人が入り口のところで帽子《ぼうし》を上げて挨拶《あいさつ》してくれたりする。
「あらよーちゃん、いらっしゃい」
受付の人が私を見て、先に声を掛けてきた。
「ちょっと早いんですけど――」
入院患者との面会時間は午後三時から六時ということになっているが、今はまだ二時ちょっと過ぎだった。
「いいのよ、あなたなら。身内みたいなものじゃない」
受付の人はそう言って笑った。私はどうも、と頭を下げて、上の階に向かうエレベーターに乗った。
「ふう――」
ちょっとため息をつく。面会時間が決められているとか言うけど、でも私はこれまで、この病院で他の見舞い客に合ったことがない。……ていうか、他にどんな人が入院しているのかさえ知らない。
エレベーターが目的の階に着くと、白い回廊が広がっている。その先に、私がいつも訪れる目的の場所がある。
この広いフロアに、たったひとつしかない病室の前に立ち、ノックをすると三秒後にきっかりと、
「――どうぞ」
という声が返ってくる。
私が病室の中に入ると、ベッドの上で体を起こした彼女が、穏《おだ》やかに微笑んで私を迎えてくれる。
「いらっしゃい。よーちゃん」
「こんにちは、しずるさん」
私も笑顔で返事をする。別にお愛想《あいそ》ではなく、彼女を前にすると自然に顔がにこやかになるのだ。
彼女はもう何年も、こうして入院しているというのに、彼女と合うと私はいつも自分が元気になるような気がする。彼女にはそういう魅力があるのだった。
病室の窓は開いていた。暑いから窓を閉め切ってクーラーをかけている病院の他の場所に比べると、だからこの部屋は少し温度が高い。空気がぬるい、という感じだ。
「エアコン、入れた方がいいかしら?」
しずるさんが言ってくれたが、私は、ううん、と首を振った。
「しずるさんがつけたくないなら、このままにしておきましょうよ。別にそんなに暑くないし」
私がそう言うと、しずるさんが少しくすくす、と笑って、
「よーちゃんは達人ね?」
と、変なことを言った。
「へ? なんのこと?」
「人生を楽しむ達人よ。普通は暑いっていうと、ただうんざりとか思うだけだけど、よーちゃんはそのことを楽しむ方法を知っているのね。強い陽射しも、なにも鬱陶しいだけのものじゃないって、ね――」
そう言ってウインクする。私はちょっと顔を赤くした。これはもちろん、私が日傘をくるくる回して、地面に影絵をつくっていたりしたことを言っているのだろう。私の方からは全然見えないのだが、どうもあの道はこっちの方からだとよく見えるらしいのである。
「いや、別にわざわざそのために傘を差してたわけじゃないのよ?」
私は、しなくてもいい弁護をする。しずるさんはそんな私を見ながらにこにこしている。彼女がこういう顔をしているのを見ると、私はとても嬉しい気持ちになる。
私たちはそんな感じで、とりとめのないお喋りをしばらく楽しんだ。
「しずるさんは夏とか好き?」
「嫌いではないわよ――どんな季節も、それなりに」
彼女は曖昧な言い方をした。
「匂いが違うし、光の色も違うから――秋も、冬も、春も、そして夏も」
彼女の声はとても澄《す》んでいて、聞いているだけで心地よくなってくる。
「そうね、私は細かいところまではわからないけど、でも四季があるってのはいいわよね」
「よーちゃんは、夏はどこか行くの?」
「え?」
訊かれて、私は少し言葉に詰まった。
私は、世界を自由に歩けるけど、でも、しずるさんは――この病院から基本的には出られない。
「ええと――」
私が言い澱《よど》んでいると、しずるさんは微笑んだままで、
「海とか、山とかって言うわよね、夏は。暑いからこそ、その暑さをしのぐような場所に行くことが憩《いこ》いと娯楽になるのよね。冬に常夏の島に行ったりするのはその逆ね。よーちゃんは海には行かないの?」
と無邪気《むじゃき》に訊いてくる。当たり前だが、そこには皮肉とか当てこすりみたいな響きは全然ない。
だからこそ、私はつらい――。
しずるさんは、自分が病人で、外に出られないということに対して、どこか達観《たつかん》してしまっているみたいなところがある。だからこんなにも屈託《くつたく》がないのだ。でも私としては、こういうときにはむしろ、外を歩けるのが妬《ねた》ましいとか、悔しいとか、そういう風に感じるぐらいであって欲しいのだ。
「……ここに来ちゃ駄目かしら?」
私が、ぽつり、とそう呟くと、しずるさんは少し眼を丸くして、
「え?」
と虚《きょ》を突かれた顔になった。
「いいでしょ? 夏休みだから、いつもより多く来ても。……迷惑《めいわく》かな?」
私が、おずおずと訊くと、しずるさんは少しの間ぽかんとしていたが、
「……まあ、山には違いないのかしら?」
と、とぼけたような口調で言った。
「よーちゃんが来てくれるなら、私は嬉しいけど。でも物好きね。せっかく夏なのに」
「そうよ、私は物好きで変わり者なんだから」
私はちょっとおどけて拗《す》ねたように言って、内心の動揺をごまかした。
「それより、夏って言えば――ナデシコって夏に咲く花だったのね」
私は適当なことを口に出した。そんな話をどこかで耳に挟んでいたからだったが、すぐに、
「……あっ」
と思ってしまった。なんでナデシコなどという名前が出てきてしまったかと言えば、それはニュースでそれが紹介されていたからであり、なんで紹介されていたかというと。それはつまり――
「夏の花に閉じこめられ、生気を抜かれた死体――なかなか興味深いわよね」
しずるさんが、それまでとは少しトーンの変わった声を出した。その眼に、さっきまでとはやや異なる光が浮かんでいる。
そう、しずるさんは穏やかで優しくて、とても素晴らしい人なんだけど――たったひとつだけ困ったところがある。
それは得体の知れない謎《なぞ》めいた事件に対して強い興味を示すということだ。それも、なんだか不気味というか、おぞましいというかそういう事件であるほど、そうなのである。以前から何度も、気味の悪い殺人事件の謎を解き明かしたりしている――確かに、しずるさんほど頭のいい人はいないと思う。でもその知性を発揮したがる状況が、私にはどうも|偏《かたよ》っているような気がしてしょうがない。
「うーん、実は私も今回はまだ、あの事件についてはそんなに知らないんだけど……」
「ああ、別にいいわ。わかっていることだけで考えればいいだけよ」
しずるさんはいとも簡単に言う。しかしわかっていることは、要するに、
「でも……なんかナデシコの花が、人の生き血を吸い取ってミイラにしちゃったみたい、ということしかわかってないんだけど」
「いきなり、想像力の豊かな方向に行ったものね――花が近くで咲いていたって、そこまで発想されないと思うんだけど」
「いや、そういう写真が出回っているのよ。死体が発見された直後に、写真を撮った人がいて」
ミイラの周りを、綺麗な白い花が囲んでいる写真である。気味が悪いというか、なんだか不思議な光景だった。
何より不思議なのは、その花は大して丈夫なものでもないのに、死体を後からその花が密集しているところに入れた形跡がまったくなく、死体を完全に覆《おお》ってしまっていることだった。
後から中に入れられるようなところがなかったのだ。
死んだ人は、発見される半日前に別のところで生きているのが目撃されているし、まさかたった数時間で生えてきたということはあるまい。そして後から死体の周りに植えたのなら、その痕跡は歴然としているはずだ。だが周囲にはそんな様子はなかったという。写真を見ても、確かにそんな感じだった。人の手が加えられていないというような――。ミイラ化した死体も謎だが、そこも不思議なところだった。しかし、
「写真ねえ――それはどうしてかしら? いきなり撮影できる人がいたのは」
しずるさんは、肝心の謎ではなくまずどうでもいいようなことに注意を向けてきた。
「ええと、なんか野草とかの研究をしている人のチームだったとかいう話だけど――マスコミ関係者がいたのよ、その中に。それで警察の前にそういう人たちが来ちゃって、それで大騒ぎになったのよ」
その程度のことは、ニュースでやっていたのを聞いて覚えている。
「ずいぶんと都合のいい話よね――」
しずるさんがそう言ったので、私はどきりとした。
「え? それはつまり、でっちあげだっていうこと?」
私が驚いて訊くと、彼女は微《かす》かに頭を振った。
「まあ、この手の話はほとんどがそういうものだっていうことだけど――」
しずるさんは少し、目の前の一点を見つめるような眼をして、
「人が世界に謎を求めるとき、そこに必ず ごまかし があるわ――あからさまな不条理や絶対的な矛盾からは眼を逸《そ》らして、あやふやで人生に影響の少ない不思議を求めてしまう――」
と奇妙なことを言った。
しかし、これは珍《めず》しいことではない。しずるさんはよく、こういう謎めいて難しい言い方をする。口癖みたいなものだ。そして彼女は、
「でも、この場合はどうか知らないわ。でもそのカメラマンの人は、結構な額の金で、撮った写真をあちこちのテレビ局や新聞社、週刊誌とかに売ったわけでしょう?」
と吐息《といき》混じりで言った。それはもっともだと私も思うけど、でも、
「……でも、現に人が死んでるわけだし、死体を勝手にいじったりしたら、なんかの罪に問われるんでしょう? わざわざそこまでするかしら?」
と、ちょっと腑《ふ》に落ちないことを反論してみた。
すると、しずるさんは素直にうなずいて、
「ええ、ましてや今回は直後に警察が来て、現場検証までやっているし――死体に動かした跡があったら、すぐにバレるでしょうしね」
と私の見解の補足をまでした。私よりもずっと細かく、事態を分析しているのである。
「伝わってくる話は、ミイラを取り囲むようにして、ムシトリナデシコの花が咲いていたということだけ、ね――検死の結果ってのも出たのかしら?」
訊かれて、私はちょっとの間、記憶を探ったが、すぐに首を横に振った。
「ええと、たぶんまだだと思う。ニュースとかに流れてないだけかも知れないけど」
「毒物を検出しようとしているんでしょうね、きっと。――無駄だと思うけど」
しずるさんはさらりと言ったので、私はその意味を掴むのが一瞬送れた。
「え?」
「ないものを探しているんだから、そりゃあいつまで経《た》っても成果は出ないでしょう?」
しずるさんは淡々とした口調で言う。
「い、いやそうじゃなくて――毒物はないの?」
私はあわて気味に訊いた。どうしてそんなことが断定できるのだろう?
「ないんじゃないかしら? 憶測だけど」
「なんで……そんなことがわかるの?」
「だって――」
彼女はここで、少し悪戯《いたずら》っぽい表情をみせた。
「これは、吸血植物が、人の生き血を吸ってミイラにしちゃったんでしょう? 吸われているんだから、注入はされていないでしょう」
その口調は真面目っぽくて、本気で言っているのか、ふざけているのか、いまひとつ判断できない。
「……ナデシコの花は人の血なんか吸わないでしょ?」
「だってほら、よく言うじゃない―― ”桜の木の下には死体が埋まっていて、養分を吸っている”って」
「あのね――」
それは誰かの詩の一部だ。しずるさんはときどき、こういう風に私を煙《けむ》に巻く。からかわれているとしか思えない。
「いずれにせよ、その花そのものに何らかの鍵があるのは確かだと思うのよ。詳しいことを知りたいわね」
しずるさんは、これは普通の口調で言った。
「うーん、そうかしら……?」
まあ、死体を囲むようにして生えていたのだから、無関係ではないかも知れないが、謎なのは死体を囲むようにして生えていたという点だけなのだから、別にどんな花でも同じような気がする。
「それに死体の人のこともね。その人はどういう生活をしていて、どんな人となりだったのか――その辺も重要だわ」
しずるさんは一人で、うんうん、とうなずいている。
「そりゃそうだけど――でもそんなことは警察がみっちり調べちゃって、そこにヒントがあったらすぐにわかると思うんだけど」
私がついそんな事を言うと、しずるさんは、
「よーちゃんは、これはどんな事件だと思う?」
と唐突《とうとつ》に訊いてきた。
「え? それは――」
人が謎の死を遂《と》げた、そういうことである。でもその人は何故死んだのか? 事故死か、それとも殺されたのか?
「……やっぱり、殺人事件なのかしら?」
犯人がいて、その策略に私たちは乗せられてしまっているのだろうか?
「そうね――私が思うに、これって 密室 だわ」
しずるさんはまた奇妙なことを言い出した。
「――は? 密室?」
死体が見つかったのは、完全な野外で、誰でもいつでも好きなように移動できた場所なのである。ふつう密室殺人といったら、鍵が掛かった室内とか、入り口が塞《ふさ》がれたトンネルの中とか、そういう舞台のことではないだろうか?
しかし、しずるさんはそんな私の|訝《いぶか》しげな視線などまったく意に介せず、
「そう、密室――これは閉じこめられた状況で起きたことだわ」
と、やっぱり断定した。そこには何のためらいも、迷いもなかった。
2.
……死体の身元そのものが割と簡単に特定できたのは、カラカラになった血液が採取でき、それがきわめて珍しい成分を含むものであることがごく早期に判明したからだ。別に他人に輸血ができないとかABO型に分けられない特殊なものと言うほどでもないのだが、成分組み合わせの率が数万人に一人というもので、三年前に彼が気まぐれで献血をしたときの記録が残されていたのである。
それ以外に発見現場の近辺には身分証名に類するものはなかった。というよりも、何もなかった。荷物もなく、足跡もない。争ったような痕跡もない。幸いというかなんというか、現場写真が豊富に残されていたので、現場検証の際《さい》には大いに役に立った。
死体の人物は、内堀《うちほり》守男《もりお》という男で、二十七歳のフリーターだった。田舎《いなか》から都会に出てきて、特にどこかの企業に就職するわけでもなく、半年に一回ぐらい仕事を変えつつ、日々を過ごしていたらしい。しかしここ二年ほどはバイク便の宅配運送業にずっと従事していた。近所の人間に訊ねると、
「いや、ぼそぼそ声で喋るくらいで、別に普通の人だった。特に交流はなかったが、すれ違ったら挨拶ぐらいはしていた」
といった、どうでもいいような印象しか残っていないという返答が多かった。引きこもりというほどでもなく、かといって目立つというほどでもなく、ありふれた内気な青年、という感じだった。
職場での評判は、可もなく不可もなし、というところで、仕事の関係上、ほとんど外に出ていたため、職場の同僚との会話らしい会話はあまりなかったという。無口な人間ではあったが、
「別にそれほど特徴がなかった。自分から話しかけてくることは滅多《めった》になかったが、こっちから挨拶すれば、ふつうに返事した」
と、これまたどうでもいいような情報しか集まらなかった。
警察は彼が最後に目撃された付近でなにか起きたのかと調べ始めたが、特に不振な物音や異常を感じたという人はいなかった。
無論、最も厳密に調べられたのは死体が発見された国道沿いの草原地帯だった。
そこは見晴らしのいいところで、近くには車がよく通るということもあり、隠れてこそこそと何かをやるということには向いていない場所だった。少し行けば人気のない山もあり、もしもなんらかの隠蔽《いんぺい》工作をしようとするならば、そこまで行ってからの方が確実であり、これが犯罪ならばやや不手際《ふてぎわ》が見られるというところだった。
そして――問題の花であるが、それ自体には何の毒性もなく、ごく普通の花であることがすぐ判明していた。しかし、その名前が人になにか不審なものを連想させてしまうのだった。
ムシトリナデシコ――まるで食虫植物のような名前がなければ、あるいはこれはそんなに騒《さわ》がれる事件にはならなかったかも知れない。
(……といっても、別に花が虫を捕ってむしゃむしゃ食べたりするわけじゃないのよね)
私は、その問題の現場の近くまで来てみていたが、他の野次《やじ》馬《うま》がいる辺りまでは近寄らなかった。
というか、本当にただの草むらっていうか、そういう景色がえんえんと、夏の太陽の下で広がっているだけだから、どこへ行っても同じって感じだ。
問題の花と同じものが、私の側に咲いている。よくある花なのだ。ただ白くなくて、紅色をしている。
夏の花とはいえ、五月頃から咲いているというから、もう盛《さか》りは過ぎている。なんとなく萎《しお》れていて、花びらが落ちてしまっているものもある。でも茎そのものはしっかりしていて、枯れる感じはなく元気だ。
触れてみると、タネらしきものがぱらぱらと落ちた。少し細長いような楕円形をしている。
そして問題の、ムシトリという名前の由来だが――花が咲いている、その部分の付け根当たりが少しねばねばする感触がある。粘液が漏《も》れだしているのだ。
そう、要するにその部分に羽虫などがひっついてしまうと、離れられなくなってしまうから、だからムシトリなのだ。それだけのことなのである。
(別にそれを栄養分にするとか、そういうものじゃ全然ないのよね――)
ふつうだったら、ミイラの死体と関係があるかも知れない花なんか、気味が悪くて触れないようなものだが、しかし私にはどうもそんな感じがしないのだった。やっぱり花は死体そのものとは無関係な気がする。
では一体、どうしてミイラの死体の周りで花が咲いていたのか――その謎は、私には残念ながら、さっぱりわからない。
でも、私は少しは謎を解いておきたかった。そう、私は約束したのだ。
*
しずるさんと一通り、事件の話をした後で帰らなければならない時間になって、私は、
「じゃあ、資料を揃《そろ》えるから、明日また来るわ」
と何気なく言った。するとしずるさんは、
「ああ――明日は無理だわ。少し検査が入っちゃってるから」
と気軽な口調で言った。しかし私はちょっとどきりとする。なんだか、最近の彼女は検査とかが多いような――。
でも、私が動揺しては彼女の負担になる。できるだけさりげない口調で、
「へ、へえ、そうなの。じゃあ、いつ頃がいいかしら」
と訊いた。しずるさんは、そうねえ、と指を折りながら数えて、
「来週の水曜日ごろかしら。その後だったら大丈夫だと思うわ」
と言って微笑んだ。しかしそれでは、一週間近くも先になってしまう。そんなに長く検査をしなければならないのか? それとも検査というのは、実は大手術をするためのものなのだろうか?
後で先生に訊いてみるにしても、ここでは素直に返答した方がいい。
「わかったわ。ばっちり調べておくわね」
「よーちゃんが謎を解いちゃうかしら?」
しずるさんは微笑みながら言った。私はできる限り明るく振舞って、
「そうよ、私だって色々と考えるんだから」
と言った。しずるさんはさらに微笑み、
「じゃあ、ちょっとした勝負ね? お互いに考えておいた推理の、どっちが正解に近いか比べてみましょうよ」
と、とんでもないことを言ってきた。私には、とてもじゃないがしずるさんのように、物事の本質の裏の裏まで見通してしまうような知性なんかない。勝負だなんて――とんでもない。
「ええ?」
思わず、すっとんきょうな声を上げてしまった。ここが病院であることを思い出して、あわてて口をおさえる。
私は、しょせんは探偵の助手以下の、ただ情報をしずるさんに渡すだけの存在だ。その私の考えなんか、全然大したものであるはずがない。
しずるさんはそんな私をにこにこしながら見つめている。
「約束よ、よーちゃん。あなたの考えを聞かせてね。楽しみにしているわ」
その眼はとてもまっすぐで、私を無邪気に信頼している。こんな眼で見つめられたら、もう私としては、
「うん――わかったわ」
と言うしかなかった。
*
(約束しちゃったもんなあ――)
夏の陽射しの下で、私はナデシコの花をいじりながらため息をついた。
どうやったらミイラの死体を、咲いているたくさんの花の茂みの中に、痕跡も残さずに入れられるのか――いやいや、それ以前にどうやったら人間をミイラにできるのか?
(わかんないわよねえ、全然――)
考えるも何も、どこから、どんな風に考えを巡《めぐ》らせていっていいかさえわからない。しずるさんはほとんど手掛かりとすら思えないことを、断片的な話からたくさん見つけてしまうけど、私は現場の近くに来てもまったく、なんにも思いつかなかない。
それどころか、暑い世界の中にぼーっと立っていると、おぞましい事件さえも そんなもの、本当にあったのか というような気になってくる。
(私は――)
眩しくて濃い、夏の青い青い空を見上げる。入道雲がもくもくと沸《わ》いていて、地面のあちこちにくっきりとした影をつくっている。
(私は、駄目だなあ――)
暑くて焦点の合わない頭で、私はそんなことをぼんやりと、しかししっかりと実感していた。あの後、先生にしずるさんの容態《ようだい》を訊いてみたけど、
「一進一退というところで、今が大事なときなのは確かだ」
というなんともあやふやな答えが、いつものように返ってきただけだった。病名は、訊くたびにややこしくなっていくし、その名は他の場所では一度も聞いたことがない。
私は彼女を治すために何の力にもなれない――そして、彼女とした約束も守れそうにない。
私は無力でちっぽけだ。なんだかとてもぐったりしてしまう。こんなことじゃいけないとは思うんだけど、でも、どうしたらいいのかわからない……そんな私の上では、大きな太陽がぎらぎら輝いていて、空気は熱でぐにゃぐにゃと歪んでいるようで、自分だけがその中に閉じこめられてしまったみたいな――とそんなどうでもいいようなことを考えていた、そのときだった。
ジ、ジジジ……
という、奇妙な音がどこからともなく聞こえてきた。
首を巡らせて、音源を探す。特にどうということのない音だったが、なんか――妙に心に引っかかって、気になった。
(なんだろう……)
私はふらふらと、その音がする方に向かっていった。
その先には、風に揺れる花が咲いている。薄い紅色をした、ムシトリナデシコが咲いている。
「…………」
私は、そのとき何も考えていなかった。ただ惰性《だせい》で、あるいは反射的に、その花に向かって手を伸ばしていた。
音は、その植物の花の部分から聞こえてきているようだった。私は、その花びらに触れて、そしてそれをかるくめくってみた。
その下に、一匹の虫がいた。
粘液に囚われて、動けなくなった虫だった。それは必死でもがいていて、羽が半分くっついた状態でなおも飛び立とうとして、いびつな羽音を立てていた。
ジジジジ、ジ……
その音を聞きながら、私はぼんやりとして立ちすくんでいた。
(……えーと――)
なんだかわからないが――何かが心に引っかかっていた。心の中に、すっ、と影が落ちて、それまで思い込んでいたことが全部、全然見えなくなって、かわりにひとつのシルエットが浮かび上がったような――
「――えーと……」
私が、その影になっていない感覚を頭の中で整理しようとした、ちょうどそのときだった。
空がいきなり、ぴかっ、と輝いた。そして次の瞬間には轟音が響きわたった。
落雷だ。
しかも、すぐ近くに落ちたらしくて、体に直接、ゴロゴロゴロ、という響きが伝わってきて、びりびりと震《ふる》えた。
「――わっ?!」
私はびっくりしてしまい、触わっていた花を、わしっ、と反射的に握ってしまった。
すると指先が、粘液についていた虫をびん、と弾《はじ》いて、花から剥《は》がしていた。自由になった虫はすぐにどこかへ飛んでいってしまった。
「――あっ」
私は、その飛んでいく虫を見つめたが、すぐに小さくなって、視界から消える。
そして、一緒についさっきまで頭の中で形になりつつあった思いつきも消えていた。
私は、何を考えていたのだろうか? あの花に囚われていた虫を見て、どんなことを思いつこうとしていたのか――
でも、私はそのことをあれこれ悩んでいる余裕はなかった。落雷からすぐに、空がどんどん暗くなってきて、雲行きが怪しくなってきた。
雨か、あるいは雹《ひょう》でも降ってきそうな感じである。今日は傘を持ってきていなかった。
(あーあ……何しに来たんだろ、私ってば)
あわてて近くの屋根付きのバス停まで走っていきながら、私は心の中で一人ぼやいていた。
……後から思ってみれば、このとき私は、しずるさんが言っていたあの不思議な一言を思い出していればよかったのだ。それで、確実な答えに至る道筋の、その入り口に立てていたはずなのである。
でも私はその言葉を、そのときは全然思い出せなかったのだ。
そう、この事件は、密室 であるという、あの一言を――。
3.
警察の捜査はかんばしくなく、ミイラ化した死体が発見されてから一週間以上の時が経ったものの、一向に事態の解明は進んでいなかった。
長い検死|解剖《かいぼう》――というよりも、あまりにも変質してほとんど土壌《どじょう》成分検査のようなものだったが――その結果、死体からは、毒物はとうとう検出されなかった。死因は不明、少なくともミイラ化したのは死後だろうという結果が精一杯だった。
最後に目撃された付近一帯にもかなりの聞き込みが行われたのだが、もともとそれほど目立つタイプでない男であったために、それらしき人物とすれ違っていても、彼だったか特定できないというような情報しか拾えなかった。
「取り立てて犯罪的な証拠が出ず、被害者の周辺にも原因と思われるトラブルが見つからない以上、きわめて特殊な自然死現象とみなして良いのではないか」
というような投げやりな意見が捜査担当部署の中から出てきており、しかし世間的に騒ぎになっている事件に対してそのような態度を取ることは警察の威信を著しく失墜させるのではという危惧も上層部の一部で根強くあり、何をどう調べたらよいのかわからぬままに捜査の続行が決定されようとした二週間目の初日に、しかし事態は意外きわまる展開を見せることになったのだった。
「……なんだって?」
最初にそのことと出逢った警官は、あまりのことに驚くよりも理解できなかった。
「何の話だ?」
しかし数十分後にはすべてが明らかになり、あわてて彼は上司に報告に行ったが、そこでも彼がそのことを説明し、相手に理解してもらうのには数十分を要することになった。
*
「……というわけで、駄目だったわ。降参よ降参。ぜーんぜんわかんなかった」
私は、ふたたび病院に来て、しずるさんの前で肩をすくめていた。
情けないことを報告せざるを得なかったわけだが、でも私はそのことにがっくりくるよりも、長い検査の後でも、しずるさんが特にやつれた様子もなく、相変わらずの笑顔で迎えてくれたことにほっとしていて、事件の謎が解けなかったことなど正直どうでもよくなっていた。
「真剣に考えたの? よーちゃんのことだから、気味悪がってあんまり真面目に検討しなかったんじゃないかしら」
しずるさんはからかうような口調で言った。そういう言われ方も、実にいつも通りで大変に好ましい。
「まあ、それは否定しないけど――でも、今回はあんまり気味悪くなかったわ。現場近くにも行ってみたけど、怖《こわ》いって感じは全然しなかったし」
「へえ? 実際に行ってみてくれたの? どんな感じだったかしら」
「いや、だから普通よ。変な感じはしなかったし」
そうとしか言いようがない。
「よくある風景の、ありふれた状況だったわけね」
しずるさんは、うんうん、とひとりうなずいている。
「当然、昼間に行ったのよね?」
「うん――夜の方がよかったのかしら?」
私が、ちょっと不安になって訊くと、しずるさんは、
「とんでもない! 夜に一人でふらふらしたりしたら危ないわよ。よーちゃんはもうちょっと自分を大切にしなきゃ。いい?」
と、まるで子供番組のお姉さんのような口調で言ったので、私はぷっ、と吹き出してしまった。
「う、うん。気をつけるわ」
「それに、どっちにしても夜じゃなかったと思うわよ、夜じゃ花が見えにくいから」
彼女はさりげなく言った。
「え?」
私は意味が一瞬わからず、きょとんとしてしまった。その間に彼女は、
「それよりも、とりあえず人間がどうしたら、あんな風に乾涸《ひか》らびてしまうのかということを検討した方がいいかしら」
と、話を先に進めてしまった。私はあわててついていくしかない。
「え、ええと――そうね。うん、私も色々と考えたり調べたりしたんだけど――」
といっても、テレビ番組なんかで 謎の死体の可能性を探る とかやっていたのを、ぼーっ、と見ていただけなんだけど。
「とんでもないところでは、真空状態になると水分がすごい勢いで蒸発するっていう話よ。フリーズドライっていうの? そういう風に食品を加工とか実際にしてるらしいわ」
「すると、そういう機械の中に人間を入れたら、カラッカラのミイラが一丁あがり、ってことになるのかしら」
「え、えーと、それはわからないけど」
「まあ、可能性のひとつだものね――他には?」
「え、えーと、これはすごくシンプルに、高熱にさらすというものもあるわね。オーブンに入れるとか」
「確かにオーブンじゃなきゃだめね、電子レンジじゃ無理だものね、それは」
「そうなの?」
「そうよ、レンジというのは電磁波で分子を振動させて温めるわけだから、水分だけを飛ばして乾燥させるのには向かないわ。そんな高熱になるほどパワーを掛けたら、対象物そのものが崩れてしまうわよ」
「ああ、生卵をそのままかけると爆発するってやつ?」
「そうそう、そんなところ。でも人が一人まるまる入るオーブンって、そうとう大きい上に、特殊な形をしてなきゃならないわね」
「パンを焼いたりしてるやつとかは駄目なのかしら?」
「基本的に、ああいう調理器具っていうのはあんまり内部が広すぎると良くないのよ。熱が全体にまんべんなく伝わらなきゃならないわけだから。大きいとそれだけ拡散してしまう危険があるわけよ。こっちは熱いけどこっちは冷たい、というようなムラがあっては困るのね」
「ああ、ピザとかが半分だけ焦げたり冷たいまんまだったりしちゃまずいわけね。でも食パンをたくさん、いっぺんに焼いたりするやつもあるんじゃないの?」
「まあ、中に段が付いているでしょうけど、でも大きさでは充分かも知れない、と」
しずるさんは、なんだか適当な調子である。
「まあ、可能性のひとつだから、他にはどんなものがあるのかしら?」
「しずるさん?」
私は、ちょっと気になった。
「あんまり、本気に検討する気がないわね?」
訊いてみた。するとしずるさんは悪戯っぽく笑って、
「だって、そういう機械的なことだったら、警察はすぐに科学的な痕跡を見つけて、犯人がわかっているはずだもの」
と、しれっとした顔で言った。
「それに人間を強制乾燥させたりしたら、ものすごい異臭が出るわよ。工場とかだったら周辺で騒ぎにならないはずないわ」
「あー、そうか――でも、山奥とかだったら?」
「機械を運ぶのにさえ苦労する山奥に、秘密基地を建てたりして、わざわざ手間掛けて創った死体を、そこら辺の道路脇の野原に放り出したわけ?」
しずるさんはさらに意地悪く言う。
「それだと、あまりにも行動に一貫性がなさすぎるわね」
「う、うーん……」
私はぐうの音も出ない。でも、それだったら――
「じゃあ、どうやってミイラ化させたのかしら?」
「まあ、それはちょっと置いといて、今度はなんで花が死体の周りを覆《おお》っていたのか考えてみましょうよ」
しずるさんは、どこか呑気そうな声で話を変えた。
「え? ま、まあいいけど――」
私は腑《ふ》に落ちないものを感じつつ、言われた通りにその事を考えてみた。
でもこれには、あんまり可能性がありそうもない。
「えーと、先に死体を置いて、後からその周りに花を植えていったんじゃないかしら?」
そうとしか考えようがない。ていうか、それで簡単にケリが付いてしまう問題だろう。人間がわずか半日でミイラ化した謎に比べたら、全然大したことない。
しかし、これにしずるさんは静かに首を横に振った。
「それはあり得ないのよ、よーちゃん。絶対にそんなことはない」
きっぱりと断定したので、私は少なからずどきりとさせられた。
「え? ど、どうして?」
動揺している私に、しずるさんは静かな声で、
「よーちゃん――世界には二種類のものがあるわ。それはごまかしが利くものと、ごまかしが利かないもの――」
と、淡々とした口調で言った。
「そしてこれは、ごまかしが利かない部類に属《ぞく》することなのよ。世界を 世の中 と称したがるちっぽけな人間が、小賢《こざか》しい小細工でどうにかできるものじゃないのよ」
「ど……どういうこと?」
しずるさんの穏やかで、落ち着いていて、だからこそ底の方に滲《にじ》む奇妙な迫力に気圧《けお》されて、私はやや口ごもっていた。
「花は咲くわ――それは何のためか、誰も知らない。受粉《じゅふん》のためとか、色々ともっともらしい理屈はあるみたいだけど、でも花がなんでああいう形をしているのかとか、受粉させるために呼び寄せているらしい虫の原始的な感覚器官ではまったく見えないはずの色で、何故かくも鮮《あざ》やかに|彩《いろど》っているのか――すべては推測の域《いき》を出ない」
しずるさんは、まるで詩を朗読しているような口調で言う。
「野に咲く花を、人はほとんどコントロールすることができない。花壇に植えた花を咲かせるようにはいかない――ましてや、この場合は、周囲は野原で、花はその中に紛《まぎ》れて咲いていたのだから、これを後から植えるとかしていたら、その周りの雑草まで全部植え換《か》えなくてはならない。土の下で複雑に絡《から》み合っている根っこにまで何の痕跡も残さずに、死体の周りだけ花を細工するなんてことはできない――絶対に」
「…………」
私は絶句している。そんな私にかまわず、彼女は続ける。
「死体は花に閉じこめられていた。そして周囲には何の人為的《じんいてき》痕跡もなかった。このことだけで実のところ、この事件にはほとんど選択肢がなくなっているのよ」
「せ、選択肢が……ない?」
私の反芻《はんすう》に、しずるさんはうなずいた。
「この 白い花の密室 は絶対に破れないのよ。死体を後から入れるなんてことはできない。だから可能性はそれを除外《じょがい》したところにしかない」
「つ、つまり……どういうこと?」
「よーちゃん――密室というのは、結局なんだと思う?」
しずるさんは少し不思議なことを訊いてきた。
「え? それは――鍵が掛かっていたり、出口が塞がれていたりすることでしょう?」
「いいえ、それは単に現象のひとつの顕《あらわ》れにすぎないわ。密室というのは、外界から切り離されているということよ。これは、そういう事件」
彼女の声は、いつものようにまったく揺らぎのない、澄《す》み切った清水のようだった。
「ミイラになったのも、花に閉じこめられたのも、すべて――彼が世界から切り離されていたからなのよ」
彼女の、その声を聴いていたら、私は、その心の中には――
(――あ)
――あのとき、雷がいきなり鳴ったために、脳裏《のうり》から消えてしまったはずの認識が、ふいに浮かび上がってくるのを感じた。ムシトリナデシコの茎に、小さな虫が囚《とら》われていたその光景が|甦《よみがえ》ってきて――。
「……ち、ちょっと待って」
私は頭がくらくらしてきて、ベッドの横の置いてあった椅子《いす》を引き寄せて、その上に座った。
「だって――だってたったの半日前に、六時間前に目撃されていたのに……」
ジジジ、という、花にくっついた虫の羽音が耳鳴りのように響いていた。
「そうね――たったの六時間だわ。そこがポイントよね?」
「でも――だって、それじゃあ――」
私は頭を何度か左右に振って、混乱を抑えようと努力したけど、無駄だった。ぐるぐるぐる、と考えが頭の中を勝手に駆けめぐっていた。
「よーちゃん――あなたの考えを聞きたいわ」
しずるさんは、一週間前にも言った言葉を、また繰り返した。
「あなたは、もう答えを出しているわね?」
「いや、でも、そんなことはないわ。あるはずがない――」
私は、自分自身の考えに狼狽《ろうばい》していた。そんなことを自分が思いつくということに、変な感じがしてしょうがなかった。
しずるさんは、どんな犯罪も根本にあるのはごまかしだという――この場合は何がごまかされているのか?
花に閉じこめられた死体には、何のごまかしも通用しないというならば、それが密室として完全であるとしたら、ごまかしがあるところはたったひとつしかない――つまり、
「も、目撃されたっていう、その人が……」
私が呟くと、しずるさんは微笑んで、
「その人が、なにかしら?」
と促した。私はそれに釣られるようにして、
「つまり――その人はその人じゃあなかった――でもその人は別に前からその人だったわけで、だから――」
自分で言っていて、何がなんだかよくわからない。
でもしずるさんはそんな混乱する私の舌っ足らずな言葉を、冷静そのものという口調で補足《ほそく》した。
「だから、入れ替わっていた――ずっと前から。そういうことにしかならないわね。目撃証言は無関係の第三者で、偽証《ぎしょう》する必要がないんだから。被害者の、内堀さんという男性は、だいぶ前から別人とすり替わっていたとしか思えない――田舎から上京してきて、周囲には彼のことを詳しく知る親しい友だちもいなかったから、それが可能だった――目撃されたのはその別人の方で、本人はだいぶ前からミイラになって、花に閉じこめられっぱなしだった――そういうことになるわね」
そう、密集する花の群生の中に死体を入れる方法は、それしかないのだ――死体が倒れているところに、時間を掛けて植物が生えて、伸びて、花を咲かせるしか、そういう現象は起こり得ないのだから――。
「じ、じゃあ……ミイラ化は、いったいどうしてそうなったのかしら……?」
「きっと、一番簡単な方法じゃない? 即身仏《そくしんぶつ》とかと同じよ。死んで、そのまま乾《かわ》いていった――。目撃情報がアテにならないんだから、そういうことになるんじゃないかしら。土蔵《どそう》で死体をそのまま埋めていた江戸時代の棺桶《かんおけ》からミイラとかよく出るそうだし、腐《くさ》るには気温とか細菌《さいきん》の有無とか、色々と条件があって、それが欠けていたんだと思うわ。ほら、よく言うでしょ?」
しずるさんは人差し指を立てて、かるく振ってみせた。
「 ミイラ取りがミイラになる って。あれは盗掘者《とうくつしゃ》が、王墓《おうぼ》の中とかに閉じこめられると、高い確率でミイラになってしまうことから来ている言葉なのよ」
あっさりとした口調で、結構怖いことを平然と言う。
「それと同じで、たぶん死因は餓死《がし》で、お腹の中には腐る原因になるような食物もなく、周囲からも微妙に隔絶《かくぜつ》した状況にもあった――まあ、この辺は情報不足で、特定はできないわね」
「餓死、って――つまり、殺されたんじゃないの?」
「殺すんだったら、ミイラになるまで放っとかないわよ。ミイラの死体っていう時点で、もうこれが殺人事件じゃないって決まったようなものだわ」
「で、でも入れ替わっていた人って、じゃあ、何が目的だったの?」
「たぶん――戸籍《こせき》じゃないかしら。というか、それがないとつくれない免許証、とか」
しずるさんの言葉に、そういえばその人の職業がバイク便の運送業だったことを思い出す。
免許がなければバイク便の仕事には就《つ》けないだろう。でも、ということは――。
「戸籍、って……じゃあ入れ替わっていた人って、外国人なの?」
「いわゆる、ビザ切れの不法滞在者ってヤツよ。珍しい存在じゃないわ」
しずるさんは肩をすくめた。
「戸籍の売り買いもね――きっと、内堀さんという人は……」
しずるさんは言いかけて「あ、そうだ」と急に言った。
「よーちゃん、テレビつけてみて、一週間経ったし、もしかすると、もう出てきている頃《ころ》かもよ」
「え?」
私は言われるままに、病室のテレビを付けた。すると病院屋上にパラボラが置かれている、CS放送テレビの二十四時間ニュースが流れ出した。
なにやら画面では「たった今、警察から驚くべき発表がありました」とか言って騒いでいる。
それは、花園ミイラ事件と一般に呼ばれていた例の事件がほぼ解決したというニュースだった。
被害者の内堀守男氏と、二年前から入れ替わっていた外国人が警察に自首してきたというのだった――この一週間、近所のホテルを転々としていたが、さすがに隠れていられなくなったらしいという。
「容疑者は、犯罪組織と関係があり、拳銃などの違法品取引の際の配達人として使われていたということで、警察には組織から消される危険があるので保護《ほご》を求めてきたという話も出ているとのことですが――」
現場の警察署前のアナウンサーが、なにやら興奮して喋っているが、私はその半分も頭に入らない。というか――デジャブのようだった。つい今の今、頭に浮かんだことが、テレビでほぼそのまま流されているのだから――。
「バイク便の会社は、きっと何も知らないで雇っていたんでしょうね――配達人が荷物を受け取って、会社を経由しないで鹿に渡すバイク便ならではだわ」
しずるさんはニュースを観ながら納得を深めているが、私にはどうにも、ぼーっ、としてしまっていた。
なんでも、内堀さんは戸籍を売って、他人と立場を入れ替えて、あてがわれたアパートの中に独りで住んでいたのだという――誰とも会わず、金はあるので働きにも出ず、部屋の中でじっとして、日々を過ごしていたのだろうか……そのうち、どういう理由でかわからないが――案外、風邪《かぜ》をこじらせただけとかだったかも知れない――外に出られなくなり、連絡する者とてない彼はそのまま室内で餓死してしまった。それを見つけた関係者が、死体がそこにあると問題なので、偽造のパスポートなどを身に付けさせて、すぐに発見されるように道端《みちばた》に放り出したということらしかった。身元不明の不法滞在外国人の死体として処理《しょり》されることを狙《ねら》ったのだ。
しかし、横を車が通っても、そこに眼をやる人がいないような野原だったために、死体は半年以上も発見されず、そのうち偽造工作は風か何かに飛ばされてなくなってしまい、死体の周りには花が咲いていた――
「でも、彼が気まぐれで献血していて、特殊な血液が記憶されていたために、すべてがあからさまになってしまったわけね。本人もきっと、そんなことは忘れていたでしょうに――皮肉なものだわ」
しずるさんは画面を観ながら、ふう、とため息をついている。
「でも、ほとんどよーちゃんが見抜いた通りじゃない? 正解よ。たいしたものだわ」
彼女は私に視線を移して、微笑みかけてきた。
「…………」
私は、だんだんわかってきていた――しずるさんは最初から、事件の概要《がいよう》を掴《つか》んでしまっていた。いつ容疑者が自首してきてもおかしくないと――事実上もう終わっていて、発展性がないことを知っていた……だから、私に事件の謎を解かせてみようと思ったのだろう。単純な構成で、ずっと前から人が入れ替わっていたことにさえ気づければ解ける。ある意味 簡単な事件 だったから――。
(単に、私を使って遊んでみただけなのかしら――だったら、いいんだけど――)
私が少し黙っていると、しするさんは優しい声で、
「よーちゃんは名探偵になれるわよ。わずかな手掛かりとヒントで、真相に辿《たど》り着いたんだから。私の代わりは、いつでもできるわよね?」
と言った。それはいつものからかうような調子のようでもあり、どこかで真剣な響きもある声だった。
「私は――」
言いかけて、ちょっと口ごもる。
私は、別に名探偵になんかなりたくない。
事件の謎なんか解けなくたっていい。
頭が良くなくたっていい。
そういうのは、しずるさんにやって欲しいのだ。
彼女がずっと無事で、いつまでもいつまでも平気な顔をして、不可思議な謎をすらすら解いていって欲しいのだ。
私は、彼女の代わりなんかできなくたっていい――そんなもの、なりたくない。
私が沈黙していると、しずるさんも少し口を閉ざしていたが、やがてテレビ画面の方に視線を戻した。そこには何度も流れてすっかりお馴染《なじ》みになった、あの白いムシトリナデシコの花が画面に映されていた。
「あの、白い花は――」
彼女は何かを呟《つぶや》きかけて、やめた。私は少しどきりとする。彼女は何を言おうとしたのか?
あの白い花は結局、偶然に生えたのかしら?
と言うつもりだったのか? でも――
(そうじゃない、そうじゃないわ――)
私には、あの白い花の理由がわかっていた。
というよりも、私がこの事件の謎で最初に引っかかったのが、そのことだったからだ。
入れ替わりのトリックとか、そんなことは全然思いつきもしないうちから、そのことだけは感覚として把握《はあく》してしまっていたのだ。
何故、白い花が咲いていたか――それは簡単だ。
彼が、その花の 種 を持っていたからだ。
ミイラからその 種 がこぼれて、周りに落ちたからこそ、かくも死体を取り囲むようにして花が咲いたのである。
彼の気持ちは、私にはよくわかる――自分が無力で、なんの力もなくてあの夏の陽射しの下でふらふらと歩いていたとき、あの ジジジ…… という音を聞いたのなら、彼も私のようについそれを覗《のぞ》き込んでしまったに違いない。そして囚われている虫を見たとき、彼は必ず、こう思っただろう――
これは、自分だ――ちっぽけな自分と同じだ
――と。それで、その花の種を特にどうという理由もなく、でも妙に切羽詰《せっぱつ》まった気持ちでお守りのごとく持ち歩くようになったのだろう。
その気持ちが、私には痛いほどよくわかる――私もまた、彼と同様に肝心のことには何の役にも立てない無力な存在だから……。
「…………」
しずるさんは、少し遠い眼をしながら、テレビから窓の外に視線を移している。
彼女は――彼女にはこの 動機 が理解できているのだろうか? 私は――私程度にもわかることが彼女にわからないはずがないと思うのと、でもしずるさんにはわかって欲しくないという気持ちが綯《な》い交《ま》ぜになって、ぼんやりと彼女の視線の先に、一緒になって眼を向けた。
そこには真夏の、青を塗り込めたような濃い空が広がっていて、雲の白が一点、その中に閉じこめられているかのように、ぽつん、と浮いていた。
[#地付き]“The White Pink”closed.
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はりねずみチクタ、船にのる そのA
……晴れ渡った青空を、ぽつん、とひとつだけ浮いている雲が流れていきます。
それを見ている二人の少女はしばらくの間、無言でしたが、やがて一方が、
「あの曇って、なんとなく船に似ているわね」
と言いました。するとその横の彼女が、どこかほっとしたような調子になって、
「うん、そうね」
と相槌《あいづち》を打ちました。
「船と言えば、彼がまだ乗ったままだったわね」
「は? ……ああ、チクタか。そう言えばそうだったわね」
「といっても、長い船旅になるのは当然のことだから、彼も覚悟《かくご》の上でしょうけど」
「でも船|酔《よ》いとかにならないのかしら?」
「そういえば、そんなこと考えたこともなかったわね――船にいるネズミとかは、酔ったりすることがあるのかしら?」
「しずるさんにわからないことが、私にわかるわけないわ」
「チクタはどうなのかしら。船がちょっと激しく揺れたりしたら」
「ああ、そういえば――私が昔、チクタをがくがくって激しく振ったら、お腹の時計の針がはずみで動いていたわよ」
「まるで時計が直ったみたいじゃない。チクタはそれを見て嬉しいのか、それとも これじゃあな と思うのかしら」
「別に、こういうことではない、って単純に思うだけじゃないかしら」
「ああ、彼は決して真の目的を見失わないのね」
「ていうか、とりあえず船の上にいる間は、あんまり時計を直したい直したいって切実に思ってないと思うけど。だって職人さんがいるところまで遠いのは決まっているんだから、あんまし深く物事を考えないって顔してたし、チクタは」
彼女がそう言うと、ベッドの上の彼女がくすくす笑って、
「それってひどくない?」
と言いました。
「だってしょうがないわ。私もあんまり深く物事を考えないんだから」
と彼女も開き直ったように、笑いながら言いました。
「持ち主がそうだったんだから、チクタもその影響を受けちゃってるのよ」
「それは言えてるかもね。チクタもあなたも、つまらないことでは悩《なや》まないものね」
「頭もあんまり良くないのよ」
「それはどうかしら? その逆だと思うけど――まあ、チクタはそんな風にして、お腹の時計の針が船の揺れで回ったりするのを、ちょいちょい、って手で戻したりしながら、ぼんやりしているのね」
「その間には船の方から 甲板を掃除《そうじ》してくれ とか頼まれたりしてね」
「ちっちゃい身体で、モップにしがみつくようにして働くの?」
「別に怠《なま》け者じゃないから、ヒマなら動いていた方がいいってタイプだから、チクタは」
「まあ、旅に出てるくらいだから」
「ごしごし、と一生懸命《いっしょうけんめい》モップ掛けしてるところなんかは、なかなか健気《けなげ》よ。濡《ぬ》れてる甲板の上で、ころん、と転んじゃったりしても、すぐに立ち上がるのよ」
「頑張《がんば》るのねえ」
「でも時々、ちょっと疲れちゃって、ふう、とか言って手が停まっちゃったりして」
「するとモップから こら、サボるな って怒られたりするのね」
「そういうときは、 僕だってちゃんとやってます って文句を言い返したりして」
「いちおう溶け込んでるみたいじゃない。いっぱしの船乗りかしら?」
「お客って感じじゃないのは確かね」
「じゃあ、夜になったら、他の船のみんなと一緒に遊んだりするのかしら?」
「ああ、それはそうなんじゃないかしら。でも、船の上でする遊びって何かしら?」
「ゲームをするんでしょうね。トランプとかのカードゲームとか……そういえば」
ここで、ベッドの上の彼女の眼が少しだけ、きらっ、と光ったようです。
何かを思いついたのか、表面的にはほとんど変化はなく、さりげない口調で、
「ねえよーちゃん、近頃は何か面白いゲームはないのかしら?」
と聴きました。そして話はまたしても、チクタから逸《そ》れていきます――。
[#改ページ]
第二章 しずるさんと七倍の呪い The Seven
1.
「それが誰であれ、カインに害を為《な》す者は七倍の呪いを受けるであろう」
[#地付き]――〈創世記〉四章十五節
*
「ええと――メディチクラフト一家は、アメリカの中西部にあるすごく大きな農場の主だった父親と、母親と、プログラマーの長男と、稼業を手伝っていた次男と三男、離婚して出戻りの娘、それに父親の従兄弟《いとこ》である農場の従業員が一緒に住んでいた、らしいって――」
「七人よね?」
「うん、そういうことになるわね――」
「七種類の、七の七倍の数枚のカードを使ったゲームの製作者の家族も七人。なかなか面白い一致ね。そして――みんな死んでしまった」
しずるさんの凛《りん》とした声が、白い病室に響いた。
「その斬られた六つの首が、暖炉《だんろ》の上に整然と並べられて、一人残っていた者は全身が傷まみれで。そこから流れ出た血が家中を真っ赤に染めていた――」
まるで歌うように、彼女はその暗黒の叙事詩として伝えられる伝説を語った。
「そのすべては、彼らがデザインしたカードゲームの中に刻まれている。謎も、矛盾も、そして彼らのごまかしも、そのすべてが、ね――」
「…………」
しずるさんの明晰《めいせき》で迷いのかけらもない言葉に、私はただ絶句していることしかできなかった。
*
……そもそもの最初は、しずるさんの何気なく聞こえるささやかな発言だった。
「ねえ、よーちゃん、近頃は面白いゲームってなにかないのかしら」
聴《き》かれて、私も深く考えず、
「えーと、そうね。よく知らないけど、そういえばカードを使ったセブンなんとかってゲームが評判だって、聞いたような記憶があるわ」
それがテレビのニュースだったのか、雑誌で見たのだったか、そのときの私にはよく思い出せなかった。
「なんか、七枚ずつ七種類のカードを使って、札を取りっこするゲームらしいわ」
「へえ、面白そうね?」
「基本ルールは同じで、カードのデザインを変えたものがいっぱい出ているらしいわよ。流行《はや》っているって言ってもいいんじゃないかしら」
「へえ、色んな種類が――オリジナルはどんなものなのかしら」
「詳《くわ》しいことはわからないけど――でも、確か大元はアメリカ製だって話を聞いたわ」
「ああ、舶来品《はくらいひん》なのね」
しずるさんは妙に古風な言葉を使った。私はちょっとおかしくて、くすくすと笑った。するとそこにしするさんが、
「ねえよーちゃん、それ、一セット手に入らないかしら?」
と言ってきた。興味を持ったらしい。
「そうね、たぶん売り切れってこともないだろうし」
私も気軽にうなずく。しずるさんとカードゲームをするというのは、とても楽しそうでわくわくする。
「できたら、そのオリジナルってのがいいんじゃないかしら」
しずるさんがさりげない口調で言う。
「うん、そんな感じね」
私は、そのときにはもう帰り道の駅ビルにある。いつも前を通り過ぎるだけのカードのお店のことを考えていた。
……で、色々なカードがたくさん置かれているその店に初めて行ってみると、あるわあるわ、カードだらけでなにがなんだかわからない。カードゲームも何種類もあって、どれがそれなのかよくわからない有様《ありさま》だ。
「えーと……」
私がおろおろと迷っていると、店員さんが、
「何かお探しですか?」
と声を掛けてきた。
「あのう、セブンなんとか、ってゲームありますか」
あいまいなことを言うと、店員さんは、
「それはセブンフォールド・カース系のカードゲームでしょうか?」
と、慣れた口調で聴き返してきた。系、という言い方に私はちょっと嫌な予感がした。
「は、はい。たぶんそうです」
「それでしたらこちらのコーナーになりますが」
と店員さんが指さしたブロックには、やっぱりたくさんのカードがずらずらと並んでいた。しかも、どうも少しの枚数のカードをバラ売りみたいにして小分けに売っているらしい。どれくらい買えばゲームができるようになるのか見当も付かない。
「あのう、これってみんな買わないと駄目なんですか」
「いえ、そんなことはありません。初めてでしたら、スターターパックがありますから、それがあればゲームは始められますよ」
にこにこしながら言われても、私はカードゲームというのはみんなトランプの親戚みたいなものだと思っていたので、何がなんだか理解に苦しむ。
(うーん……)
困った私は、しずるさんの オリジナルってのがいいんじゃないかしら という言葉を思い出して、
「あのう、そのセブンの、オリジナル版というのはないんですか」
とおそるおそる言ってみた。
すると店員さんの顔がちょっと変な感じになった。
「は? オリジナル……ですか?」
「なんか、最初の大元になったヤツみたいのないですか」
「えーと――それはハウス・オブ・メディチクラフトですか?」
長ったらしい名前を言われても、当然わからない。
「それは、やっぱりスターターパックとかなんですか」
「いえ、あれだったら、カード一揃《ひとそろ》いで全部ですけど――でも、あれですか? あなたが?」
なんだか訝《いぶか》しげな調子で言われる。でもそれは こんな難しいのはおまえには無理だ とか、そういう風に呆《あき》れているというよりも、なんだか妙な戸惑《とまど》いがある感じだった。
(…………)
私はよくわからなかったが、一揃いでゲームができるのはそれだけみたいなので、
「それでいいです。日本語ですよね?」
「ええ、輸入版は、うちじゃ扱っていないので ……」
値段が高いのかとも思ったけどそんなこともなく、レジ横に並べられている 特製ボード付きプレミアムパック とかいうヤツの三分の一くらいの価格だった。
カードだけじゃなくて、どうやら解説書らしい文庫本サイズの冊子も付いていたので、私はちょっと安心した。それを読めば遊び方は大体わかるだろう。
(とりあえず、ゲームのやり方だけでも知っておけばいいでしょ)
と、私は解説本の ゲームの基本的なやり方 という項目をまず読んだ。その他の カードの由来 とかいうところは、別に読まなくても差し支えないだろう。
(でも、由来の方がやけにページが多いみたいだけど……)
その辺がちょっと気になったが、しかしそのときの私は他にも宿題とかを抱えていたので、必要だと思うところしか見なかった。
2.
セブンフォールド・カースというゲームは基本的に、二人のプレイヤーが山から七枚の手札を引いて、お互いに一枚ずつ出し合い、その札で勝ち負けを決定して、全部を出したところで、どちらがより多くのカードを勝たせられたかを競《きそ》うものである。
カードの種類は七つある。それらには強い順に戦士、僧侶、夜盗、農民、商人、貴族、そして愚者という名前が付いている。
(強い札を多く引けたら、そりゃあ有利なんだけど――)
話はそうそう簡単ではない。というのは最初に、場に一枚、裏返しのまま引いたカードを伏せておくからである。それぞれが三枚出し終わったところで、この伏せカードはめくられて、その種類によってそれまで展開させていた勝負の内容が変わってしまうのだ。カードにはそれぞれ特殊な設定があって――
「まあ、とにかくやってみましょうよ。そうすればだんだんわかってくると思うわ」
しずるさんは、私が持ってきたカードを手に取りながら言った。
「うん、そうしましょう」
私も、実のところそんなにルールを把握《はあく》しているわけでもなかったので、そう言ってもらえてホッとしていた。
七枚の手札をそれぞれ配って、場に一枚カードを伏せる。
「ええと、これでいいのよね」
「そうみたいね」
しずるさんは自分のカードをさっそく開いて見ている。私も手札をのぞきこんだ。
戦士が二枚に、僧侶が一枚、後の四枚はぜんぶ夜盗だった。
(かたよっているなあ……でも、夜盗って確か真ん中くらいの強さだったわよね)
最初だから、あんまり考えていてもしょうがない。
「じゃあ、一枚目を出しましょう」
私としずるさんは同時にカードを場に出した。
しずるさんは僧侶だった。夜盗よりも強い手札だ。
「これはしずるさんの勝ちね。ええと、で、カードこのまま置きっぱなしにしておくのよね」
「そう、これで決着が着いた訳じゃないのよ」
私たちは二枚目を出した。今度も私は夜盗で、しずるさんは戦士だった。また彼女の勝ちだ。
三枚目も私は夜盗である。今度はしずるさんは貴族だった。強さだけなら私の勝ちなのだが、貴族というのは、戦士が場に出ていると、それに守ってもらえるという特別な設定がある。
「あーっと、だからしずるさんの勝ちなのよ、これは」
「自分には力がないのに、他のカードの力を使えるなんて、貴族とはよく言ったものね」
しずるさんはくすくすと笑った。
「で、三枚目まで進んだから、ここで伏せといたカードを開けるのよね」
場に、七枚のカードが出たところで、私は一枚だけ裏返しになっていたその伏せカードを表に返した。
それは夜盗だった。
「あら、これってよーちゃんがたくさん出している札じゃない」
「そうみたい」
「ということは、この場は夜盗の場ということになって、この札が一番強くなるのよね」
そうなのだ。それがルールなのである。強さの順番が、伏せカードによって入れ替わってしまうのである。その札を強さのトップにして、前にあったものは後ろに回ってしまう。つまり、結果としては私の手札は、最強の札ばかりが並んでいたことになる。
(……最初から、そんな良い手が来なくてもいいのに)
私はなんだかちょっと気まずい気持ちになった。
でも、残っている手札にはいまや入れ蚊わっって弱くなってしまった戦士と僧侶があるから、これで帳尻《ちょうじり》は合うかも知れない。
「さあ、続きをしましょ。あと四枚よね」
しずるさんの言葉に、私はうん、とうなずいて四枚目を出す。彼女は農民で、私は戦士だ。しずるさんの勝ちで、これで三対一。次は彼女が貴族で、私は戦士――
「あれ? この場合はちょっと違うんじゃないの」
しずるさんがすかさず指摘《してき》した。そう、貴族というのは戦士に守ってもらえる分、逆に戦いになったときにはどんなに順番が入れ替わっても、必ず戦士に負けてしまうのだ。しかもしずるさんの場にある戦士はまだ一枚だから、貴族二枚を守るカードがない。
「よーちゃんの勝ちね、これは」
しずるさんはニコニコしながら言う。必ず負けると思っていた札で勝ってしまった。私はまた少し気まずくなる。これで四対一になって、私の勝ちがほぼ決まってしまったのだ。
「でも、まだ残りの札もあるから、最後までやってみましょう」
しずるさんの言葉に、私はうん、とうなずいて続けてみた。次は彼女は夜盗で、私は僧侶で彼女の勝ちだったが、その次は当然、私の夜盗が彼女の愚者に勝って、あっけなく終わってしまった。
「出す順番を間違えたわね。夜盗で引き分けをひとつつくっておけば良かったわ」
しずるさんは微笑《ほほえ》みながら、場を見つめて言った。
「確か農民と僧侶の間にも特殊設定があったわね?」
「うん、僧侶と農民は必ず引き分けになるのよ」
「僧侶は農民からの寄付で生きているから、かしらね? 農民は信仰があるから、僧侶は攻撃しないとか、そういうことかしら」
彼女はまたくすくすと笑う。
「他にも、農民が四枚以上あると、連携《れんけい》して全部勝ちになったりもするのね――面白いことを考えたものね。ちょっとした社会の縮図になっているってことね。それとも、なにかの象徴かしら?」
しずるさんの口調に、私はおや、と思った。その言い方は、彼女がいつも不思議な事件に興味を持つときに、あの少しふわふわと空から下を見ているような、そんな口調だったからだ。
「このゲーム、商品名はなんだったかしら」
「ええと―― ハウス・オブ・メディチクラフト ね」
私がパッケージを見ながら言うと、しずるさんはうなずいて、
「よーちゃんはあの、メディチクラフト家の話は知っているかしら?」
と、唐突に言った。
「へ? なんのこと」
私はきょとんとしてしまった。でも、しずるさんはそんな私にはかまわす、
「七枚のカードを使っているって、もしかして、とは思ったけど、やっぱりこのゲームは、メディチクラフトの悲劇とつながっていたのね――」
と、淡々とした口調で言った。
「デザインしたのが、その本人の一人だったのなら、納得できるわね」
「……あの、何の話?」
私が怪訝《けげん》そうに訊ねると、しずるさんは「ああ」と笑って、
「ごめんなさい、ひとりで勝手に納得しちゃってたわね。でも結構《けっこう》有名な話だと思っていたから――こんなところにずっといると、常識とずれてきてしまうわね、やっぱり」
彼女はかるく両手を開いて、彼女を取り囲む白い空間を示した。
「こんなところ、って――」
私はちょっと胸が詰まる。私は実のところ、この病院の静かな雰囲気《ふんいき》が決して嫌いではない。それは、いつもここにしずるさんがいるからだ。
でも、いつもいつもここにいる彼女は、ここにしかいられない彼女は、この白い世界をどう感じているのだろう――そう思うと、私はとても落ち着かない気持ちになってしまう。
するとそのとき、病室のドアがノックされて、顔見知りの先生が入ってきた。
「やあ、待たせたね。それじゃ今から検査を始めるから」
いきなり言った。私はびっくりしたが、しずるさんの方は知っていたみたいで、落ち着いた態度でうなずいた。
「あ、あの――」
私がおずおずと声を出すと、先生はうんうんとうなずいて、
「やあよーちゃん、せっかく君が来ているときで悪かったね。午前中にやるはずだった検査が、機器の整備が遅れてずれてしまっていたんだよ。最新機器はどうも不安定でいけない」
と、平然とした口調で言ったが、私はどうしても動揺してしまう。
「検査って――」
「ああ、いつもの定期健診よ、なんでもないわ」
しずるさんは、先生よりもっと平然とした口調で言った。彼女はいつのまにか、並べていたカードをまとめて、パッケージにしまい込んでいる。
「でも、ごめんなさいね、よーちゃん――そういうわけで、ゲームの続きはまた今度ってことになっちゃったわね」
そう言って、しずるさんは私にカード一式を差し出してきた。私はおずおずとそれを受け取る。
「う、ううん、それは、そんなことはいいんだけど――」
不安定な機器でも、それを使わなければできないような検査って一体、なんだろう? 私はしずるさんの症状について、詳しいことは何も知らないのだ。
「いいってことは、ないわよ?」
しずるさんが妙にきっぱりとした調子で言ったので、私はどきりとした。
「え?」
「よーちゃん、ゲームに勝ってそれで逃げるって手はないわよ? 勝ち逃げするなんてずるいわ」
彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。私は、
「あ――ああ、うん、そりゃそうね。次はもっと、ちゃんと勉強してくるから」
「楽しみにしてるわよ」
「それじゃあ、悪いけど準備もあるから」
「あ、は、はい――」
先生の言葉に促されて、私は病室を出た。
ぽつん――と白くて閑散《かんさん》とした広い廊下に放り出される。
私は、でもそこに立ったままでいることはできない。しずるさんに別れを告げられた後では、私は病室にいる必要のない邪魔《じゃま》な人間なのだから。
いつもよりも、さらに寂しい気持ちになって、私は帰路《きろ》に就《つ》いた。
その途中で、あ、と思った。カードゲームを、別に私が持って帰ることはないのだ。しずるさんのために買ったものなのだから、病室に置いてくればよかったのである。でもしずるさんが渡してくれたものだから、ついそのまま持ち帰ってきてしまった。私は、相変わらず抜けている。
(……でも、メディチクラフト家の悲劇ってなんだろう――)
ぼんやりとそう思った。
3.
……その事件の、そもそもの発端《ほったん》は、プログラマーだった長男のジェイムズ・メディチクラフトが、当時はまだインターネットが普及《ふきゅう》していなかった時代のコンピュータ回線で会社と連絡中に、突然、
「……七倍の呪いに殺される」
という文章を送ってきて、それっきり音信不通になってしまったことだった。
ジェイムズは(会社の人間は彼のことをジムと呼んでいた)前から変わり者で通っていて、これも彼一流の冗談だろうと真剣には受け止められなかった。彼が当時していたプログラムの作成の仕事はストレスが溜《た》まる性質のもので、彼は許可を取って自宅で作業を進めていた。完成したら通信で本社に送ってくるはずだったのだが、しかし予定の納期《のうき》を過ぎても、彼からは一向に通信が来なかった。
確認のために電話を掛けても、誰も出ない。しかし本社から彼の家までは飛行機でも二時間以上も掛かる距離にあったために、なかなか確認を取ることができなかった。
そして一週間後、会社からの三度目の手紙を届けに来た郵便配達人《ゆうびんはいたつにん》が、自分が配達した手紙が屋敷のポストに入ったままになっているのを発見し、呼び鈴をいくら鳴らしてもなんの応答もないのを不審《ふしん》に感じたところから、やっと事態が動いた。
彼は地区の警察に連絡し、二名の警官がやってきた。
彼らは無反応の館の周囲を調べまわった後で。何の反応もないことから、鍵を壊して邸内に踏み込んだ。そこで彼らが見たものは――地獄絵図《じごくえず》だった。
その時のことを、当時の担当官はこのように語っている。
「最初は、嫌《いや》に暗い色の、模様《もよう》の変わった壁紙《かべがみ》だなと思った。乾ききっていたんだ。しかし何気なく壁に手を伸ばしたら、その黒い表面がばらばらと落ちたので、やっと異常に気づいたんだ」
彼が触れていたのは、乾いて壁に貼《は》りついていた乾燥した人間の血液だった。それは彼の汗を吸い込んで、すぐに指先でぬるぬるとした質感《しつかん》を取り戻した。
「そこで、あわてて相棒にも手袋をしろと言った。そう、そのときにはもう、事件が終わってしまっていて、やれることは現場検証しか残っていないことが、すぐにわかったんだ」
二人の警官は、それでも慎重な足取りと警戒状態を崩《くず》さずに、館の奥へと進んでいった。
血痕は至るところに見いだされた。そして、扉を開ける度に、むっとする水溜りが腐《くさ》ったような異様な臭《にお》いが漂い。その密度がどんどん濃くなっていった先に、その光景はあった。
七つの人影があった。居間の、テーブルを囲むソファーに七人の家族が揃っていた。
ただし、そのうちの六人には首から上がなかった。
ひとりだけ、首がつながっている男がいたが、彼には両肩から先が――つまり腕が二本ともなくなっていた。
そして残る六人の首は、すべて――居間の奥の方にある。見せかけだけのインテリアとしての暖炉の上に並べられていた。
「いや、それほど腐ってはいなかった。かなりはっきりと、人間の顔をそのまま保っていた。俺は何かの冗談で、暖炉の下に身体を隠しているのかとさえ思ったくらいだった」
だが、もちろん実際に、首は暖炉の上にただ置かれていたのだった。その表情はなんだかぼんやりとしていて、苦痛の痕のようなものは感じられなかったという。
死体が取り囲んでいるテーブルの上には、カードが並んでいた。そのとき、その警官たちは無論《むろん》知らなかったが、それはジムが考案して、販売しようとしていた、七種類の札を使ったカードゲームだった。
「しかし――確かに気色悪かったが、すぐに俺も相棒も、変だということに気づいた。屋敷は血まみれで、死体がゴロゴロしているのに、そこに争った跡が全然なかったんだ――そして、鍵を壊さなきゃ中に入れなかったということにも」
つまり、館は巨大な密室になっていたのである。
*
「…………」
私は読んでいて気持ちが悪くなってきた。
そう、カードゲームに付いていたあの妙に厚い解説書には、ルールなんかちょっとしか書いてなくて、そのほとんどがその、昔にあった殺人事件についての説明が詳細《しょうさい》に書かれていたのである。
(……うー、こういったことだったのね……)
このゲームを買うときの、あの店員さんの不思議なものを見る目がやっと納得できた。なんだこいつは、と思われたに違いない。
そして、しするさんがこのゲームに興味を持った理由も――彼女は当然、前からこの事件のことを知っていたのだ。
(その筋《すじ》じゃ有名、ってところなんでしょうね――)
私はため息をついた。
それから、あれ、と思った。
しずるさんは、どうして今頃になってこのゲームに興味を持ったのだろう? 以前にも不思議な事件がしばらくなくて、手持ち無沙汰《ぶさた》、みたいな時間は何度もあったのに、どうして今頃になってこのゲームに興味を持ったのだろう?
(人気のゲームってニュースで取り上げられるようになったのが最近だったかしら――ううん、ニュースでは、オリジナルがこんな不気味な事件がらみとか言ってなかったと思うし)
第一、店頭でもそれっぽいことは全然なかった。もっと一般向けにされたゲームが前面に出ていて、きっと買っている人たちも由来までは知らないんじゃないかって感じだった。でなきゃ店員さんが「それを買う」って言った客に、あんな変な目は向けてこないだろう。
そう言えば、しずるさんは妙なことを言っていた。七枚のカードを使っているって聞いて、もしかしてと思った――とかなんとか。
(……でも、それだけで連想できるものなのかしら?)
しずるさんがいくら頭がいいって言っても、それはあまりにも突拍子《とっぴょうし》もないことのように思えた。やっぱり、前から知っていたと思うべきだろう。
(とはいえ、やっぱりこの事件の話は、次に合うときには当然出るでしょうね……)
ただ呑気にカードゲームをするだけだと思っていたのに、結局こういうことになってしまう。
(と言っても、今回はずっと昔の、外国の事件だし――ね)
犯人を捕まえるとかどうか、そんな緊迫《きんぱく》した話にはならないだろう。私はその辺にちょっと安堵《あんど》しつつ、事件の資料にさらに眼を通すことにした。
……両腕を斬られていた男が、農場主の従兄弟であるケビンだった。彼は全身に傷を負っていて、それらの中にはひどく古いものもあれば、ごく最近付けられたものもあった。そして塞《ふさ》がっていない傷も多く、彼の死因は紛れもなく出血死であったが、それは必ずしも両腕の損失《そんしつ》によるものばかりではなく、全身からの出血も充分すぎるほどの致死量《ちしりょう》であったと推察《すいさつ》された。そして屋敷中にべったりとへばりついていた血のほとんどが、彼の血液であることも判明した。
他の六人の死因はすべて同じ、首を切断されたことによるものだったが、その全身の体内からは睡眠薬《すいみんやく》が検出された。眠っているところを斬られたのだろうと思われた。
完全な密室であった屋敷には当時、他の何者も立ち入らなかったと思われる。ということは死体から薬物が唯一《ゆいいつ》検出されなかった従兄弟のケビンが最も怪しいということになる――両腕がなくなっているのに?
だがその容疑は、凶器が発見されてさらに深まった。
凶器は暖炉の中に放り込まれて焼かれていた伐採用《ばっさいよう》のチェーンソーだった。燃料の軽油に引火して黒こげになっていたそのチェーンソーのハンドルを――ケビンの両腕の骨がしっかりと掴《つか》んでいたのだった。筋肉や神経は燃えカス程度しか残っていなかったが、腱《けん》や軟骨《なんこつ》の痕などから見て、それはどうやら、生前に握りしめられたものらしいと分析された。
他にやれる者はいないが――だが、いったいどうやって彼は、自らの両腕を切り落とすことができたのだろうか? そしてその動機《どうき》は一体?
だが、さらに屋敷や周辺の広大な農場を調べていくと、さらに恐ろしいものが発見された。それは警察ではなく、相続者のいないメディチクラフトの敷地《しきち》と農場を競売に掛ける条件を整えるために役所から派遣《はけん》されてきていた業者だった。
「……いや、警察も一応は調べていったんだろう。しかしなにしろ広すぎて、こんあ端《はし》っこまでは眼が届かなかったんだと思う。われわれも小屋そのものを取り壊すつもりでいたから、あれを発見できたんだ。槌に完全に埋められていたから、ショベルカーに引っかかって出てきたときは、最初は何かわからなかった。絡み合っていて、木の根っこかと思ったよ。でもそれにしちゃ、なんか――」
メディチクラフトが所有していたという人里離れたところにある資材小屋の床下から、無数の死体が発見されたのである。
すっかり腐敗《ふはい》していたそれらは、全部で十四体もあった。その内の一人は行方不明になったというので、別の州で捜索願《そうさくねがい》が出されていた少女だったが、ほとんどの人物は誰か特定することができなかった。あまりにも広すぎる国で、複数の州をまたがって行動していたヒッチハイカーなどの場合、身元不明の死者は決して珍しくないが、しかしこれはどう考えてもメディチクラフト家の敷地内での連続殺人としか思えない状況だった。
そして、その犯人といえるのは――
様々な謎を残しつつも、いちおう事件はケビンによる一家無理心中、および殺人事件として法律上はカタがついた。
しかし、その奇怪きわまる事件は伝説的な存在になり、様々な憶測《おくそく》が乱れ飛び、研究書が何冊も出され、B級の低予算ホラー映画にさえなった。
そして、被害者の一人であるジムが最後にコンピュータ回線ごしに伝えた 七倍の呪い という言葉が一人歩きして、ジムがデザインして発売しようとしていたカードゲームの名前になってしまった。ゲームは正式な特許がまだだったために、どこの業者も独占することができず、類似品《るいじひん》が|巷《ちまた》に溢《あふ》れかえることになった。そのうちライセンス料なしでルールを流用し発展させられるカードゲームとして、流行りつつあったトレーディングカードゲームにも大いに流用されて――
(……それで、日本でその手の商品があんなに売られるようになった訳ね)
私は込み入った状況に半分混乱しつつも、とにかく事件そのものは終わっているということだけは納得した。
謎だらけではあっても、これは解決済みの、過去の事件だ。
(……でも、しずるさんはどう思っているんだろう?)
私は、そのことにちょっとだけ不安を感じつつ、しずるさんの検査が終わった翌日にさっそく、カードを持って病院へと赴《おも》いた。
4.
「いらっしゃい、よーちゃん」
「こんにちは、しずるさん」
私を迎えてくれたしずるさんの笑顔がいつも通りの穏やかさだったので、私は安心した。無理な検査で疲れたりしていないかとか、実は心配だったのだ。
「この前はごめんなさいね。なんか追い返すみたいになっちゃって」
「なに言ってるのよ。全然気にしてないわよ、それより――」
大丈夫? と聞きかけて、しかし私はまたいつものように口ごもる。もう何年も病院に居続けているしずるさんに、お加減《かげん》はどうですか、みたいなことを聴くのはどこか、空々しいというか、自分だけの身勝手な押しつけになってしまうんじゃないか――そう思えて、その言葉を私はどうしても面と向かって言えない。
「ええ、ずっとイライラしていたわ」
しずるさんは穏やかな顔のまま言った。
「え?」
私はぎくりとしたが、しずるさんはそんな私にかまわず、
「だってよーちゃん、勝ち逃げしたじゃない。負けっぱなしで、とても悔しかったわ」
と、にこにこしながらうなずいた。
「あ――ああ、そう、そういうこと?」
「そうよ。そんなずるいことは許さないわよ」
しずるさんは本気かふざけているのか、とにかく笑顔で何度もうなずいてみせる。あの事件の話は全然しないみたいだ。純粋にゲームの方にしか興味がないような態度である。
「ずるいってことはないけど――でも、別に逃げたりはしないわよ、もちろん」
私も、事件のことに触れないですむならそれに越したことはない。うなずきながら、持ってきたカードを取り出す。するとしずるさんが、
「私が切るわ」
と言ったので、束《たば》を渡すと、くすくすと笑われたので、
「なあに?」
「いや、そんなにカードを簡単に渡しちゃっていいのかしら? 私がイカサマをするかも知れないわよ」
と悪戯っぽい口調で言ったので、私も笑ってしまった。
「どうぞ、できるならいくらでもやってちょうだい」
「知らないからね」
しずるさんはゆっくりとした手つきでカードを切って、場に一枚置いて、自分と私に七枚ずつ配った。
私の手札には、どういう訳か夜盗と商人ばかりが集まっていた。強さで言うと、三番目と五番目の強さだ。あんまり良い手札ではない。
私は深く考えずに勝負することにした。二人で同時に札を出す。
「はい、夜盗」
「はい、貴族――ここは私の負けね」
「そう言って、後で戦士を出すつもりじゃないの? そしたらひっくりかえっちゃうものね」
「さあ、どうかしらね――」
しずるさんは微笑んでいる。ポーカーフェイスではないけど、もちろん内心は読めない。
その後は、私の商人としずるさんの僧侶で彼女が勝ち、私の夜盗と彼女の農民で、私の勝ちになり、伏せ札を開けるときがやってきた。
「――あっ、戦士だわ」
「ということは、全然強さの順番は変わらない訳ね」
一番強い札が最初に来れば、そういうことになる。
その後の四枚は、それぞれ二勝二敗のタイだった。しずるさんは戦士を持っていなかったので、貴族はそのまま負けた。前半と後半あわせて、私の勝ちだ。
「強いわねえ、よーちゃん」
しずるさんがまたカードを切りながら言った。でもその様子が楽しげなので、私も悪びれずに、
「イカサマはどうしたのよ? 効果を発揮してないじゃない」
と笑った。
「言ったわね。じゃあ今度は遠慮なくいくわよ」
「どうぞどうぞ」
ちゃっちゃっちゃっ、としずるさんの配るカードがテンポよく手元に来る。
戦士とか僧侶とか、強い札が混じっている手札だった。こういうときは、たぶん伏せ札|次第《しだい》で簡単に逆転されてしまうんじゃないかと思う。
(ま、なるようになるでしょ――)
私が考えなしに戦士を出したら、しずるさんは農民を出して私の勝ち。次の勝負では私の僧侶に彼女の農民で私の勝ちだったが、私は、
(――あれ、もしかして――)
と思っていたら、次は私の商人に彼女の農民の勝ちで、しずるさんはずっと農民ばかりを出している――
(これって、農民が四つ揃《そろ》うと無条件で勝ちって特別ルールのヤツかしら?)
だとしたら、どうしようもない。私が彼女に視線を向けると、ちょっと意地悪そうな笑みを浮かべている。
(まあ、しょうがないわね――)
私が半分、勝負をあきらめたそのときに、伏せられていたカードが開けられた。
それは愚者だった。
「――あっ!」
と声を上げたのは、しずるさんではなくて私の方だった。そう、もっとも弱い札である愚者にも特殊設定が存在する。
それは、場に出ているすべてのカード間に働いている特別な効果が全部消えてしまうというものなのだ。つまり戦士が貴族を助けるとか、僧侶と農民が対立しないとかいったルールがまったくなくなってしまうのである。そして当然――
「あーあ、こりゃまいったわね」
しずるさんは苦笑していた。そう、農民の集結効果《しゅうけつこうか》も当然なくなってしまったのだった。残りの勝負では、彼女の手札にやっぱりあった一枚の農民は何の役にも立たず、私の三勝一敗で、またしてもしするさんは負けた。
でも彼女は特に悔しそうな素振《そぶ》りを見せずに、またしても微笑みながらカードを手に取って、切り始める。
「…………」
私は、なんだか変な感じがし始めていた。なんかずっと、私は大して考えもせずに出してるだけの、手順《てじゅん》なのに、全部勝っている――
「でも、愚者って変な設定よね?」
しずるさんはカードの束を捌《さば》きながら、淡々とした口調で言った。
「そ、そうね」
「他のどのカードにも――夜盗と商人の間にも、盗品の取り引きするからって感じで引き分け設定があるのに、愚者だけは他のどのカードともそういった関係がないのよね。あげくに他のカードの関係を壊《こわ》してしまうなんて、なんだか仲間外れになっているわね」
「う、うん」
私が煮《に》え切らない相槌《あいづち》を打った。そのときだった。
「ねえ、よーちゃん――あなた、本当に気にならないの?」
彼女は突然に言った。
5.
「え?」
虚を突かれて、私はぽかんとしたが、しかし同時に彼女が何のことを言っているのか、はっきりとわかっていた。
「い、いや――そういう訳じゃないけど、でも」
メディチクラフト家の惨劇《さんげき》のことを、しずるさんがどう思っているのか――気にならないはずはなかった。
しずるさんはなにくわぬ顔をして、平然と次の勝負のための、七枚ずつのカードを配る。
「よーちゃんは、あの事件のことをどれぐらい知っているの?」
「いや、それほどは――ただこのゲームに付いてきた説明書を見たぐらいで」
喋《しゃべ》りながら、私たちはそれぞれ自分の手札を確認する。
「デザインしたのがジムって人で、その人が最後に連絡《れんらく》してきたとか、なんとか――」
手札の中身なんか全然頭に入らないで、私はちらちらとしずるさんの顔をうかがう。でも彼女は普通の顔をして、手札に目を落としている。
「でも、いずれもせよ事件は終わってしまっているわ。それは確かでしょう?」
「そうね、その通りだわ。別にあの後に殺人が続いたとか、そういう話は全然ないし――」
しずるさんは手札を並べ替《か》えたりしながら、気のない感じの声を出した。
「でも、気にならないかしら?」
「そ、そう言われれば、そうだけど――でもそれこそ、世界中の研究家みたいな人があれこれ説を唱《とな》えていて、それもいくつか載《の》っていたけど、どれもこれも――」
「気味の悪い話だった、かしら?」
しずるさんは一枚目のカードに手を伸ばしたので、私もあわてて出すカードに手を掛けた。
農民と農民――引き分けだ。
「そう言えば、メディチクラフト家も農業を営んでいた農場主だったわね」
「そうだけど――」
「よーちゃんは、一家のことを読んだんでしょう。どんなことが書かれていたの?」
しずるさんの質問に、私はしどろもどろになりながら、教科書を丸暗記したような口調で答えた。するとしずるさんは、七人家族で、七枚のカードで――とか、ひどく暗示的なことをひとしきり語った後で、
「そのすべては、彼らがデザインしたカードゲームの中に刻《きざ》まれている。謎も、矛盾も、そして彼らのごまかしも、そのすべてが、ね――」
と言った。
私が絶句していると、彼女はまた手札の中の一枚を指で挟《はさ》んだ。私もあわてて手を掛ける。
同時に出した、そのカードは彼女が商人、私が夜盗だった――特別ルール適用《てきよう》で、また引き分けだ。
「たぶん、ジム・メディチクラフトはカードの種類を設定するに当たって、家族をモデルにしたに違いない――というのは、もう定説になっているわよね」
「う、うん――そんな風なことも、解説書には書いてあったわ」
「ということは、誰かが農民で、戦士で、僧侶で――みたいな関係性が、あの家族にはあったんでしょうね」
「そうかな、偶然かも」
私はどうも、カードで運命が決まるとか、その手のオカルトは苦手だ。
「偶然にしては出来過ぎ――というよりも、無理があるわね。七枚というのは、カードの種類としては中途半端よ。手札として持ってバランスが良いのは、トランプのポーカーを考えればわかるように五枚だし、カードゲームとして発展させようというなら、七つしか種類がないのは数が少なすぎる――だから、セブンフォールド・カース系の他のどのゲームも、七つの属性という設定は活かしてもカードの種類を増やしている訳だし」
しずるさんは、あのカード屋に行ってもいないのに、まるで見てきたような言い方をした。私は口ごもる。
しずるさんは続ける。
「七枚でなければならない理由が、彼にはあり、そして彼の家族も七人で、彼は家に篭《こ》もりきりでプログラムを組み続けるような生活をしていて、それでこの二つの間に関係がないというのは、話としてやや強引だわ」
「もう――わかったわよ。家族がモデルなんでしょう? お父さんが戦士で、お母さんが僧侶で、自分は貴族とか、そういうことだったんでしょう。でも、それと殺されちゃったことは関係ないんじゃないの?」
私はちょっとムキになってしまう。
「それで、愚者は誰だったのかしら?」
しずるさんの言葉に、私はまた口ごもる。
「それは――その、やっぱり――」
「そうね、たぶん従兄弟のケビンがその人だったのでしょうね」
言いつつ、しずるさんはまた手札に手を掛ける。私も一緒にカードを場に出す。
彼女が戦士で、私も戦士――また引き分けだ。
ここまで来ると、それこそもう偶然とは考えにくくなっている。しずるさんは、わざと――。
(……でも、自分の方が先に手札に触っているのに……)
私には訳がわからない。
「このゲームは、何人でやるものかしら?」
しずるさんは唐突に聴いてきた。
「え?そりゃあ二人じゃないの」
「そうね、同時に一緒にやるにしても、偶数でなきゃできないわね――七人では無理だわ」
しずるさんは、場に伏せられていたカードを開けた。
貴族――しかしどうせ全部引き分けなので、勝敗には何の影響もない。
ひとつだけ、ちょっと気になるのは私の残り札にその貴族が一枚あって、まず負けそうなはずだったそれが一番強い札に化けてしまったということである。
(――でも、まさか、そんな――)
私は、その札にすぐさま手を掛けてしまおうかと思った。
しかし、そこは我慢《がまん》してやっぱりしずるさんが手札に手を掛けるまでは札に触らないことにした。
そして少し迷った後で、次の札は商人にすることにした。この場では一番強い。
しずるさんの出した札は、夜盗だった。またしても引き分けである。
「…………」
私の、あからさまに|訝《いぶか》しんでいる視線にかまわず、しずるさんは涼《すず》しい顔で、
「ジムは、何のためにカードを考えたのかしらね」
と言ってきた。
「別に、大した理由はなかったんじゃないの。暇《ひま》つぶしとか」
私が適当なことを言うと、しずるさんは、ふふ、と笑って、
「よーちゃんの洞察力《どうさつりょく》の鋭いことっていったら、他の誰にも真似《まね》ができないわね」
と無茶苦茶なことを言った。
「あの、何の話?」
「だから、ゲームをつくったのは暇つぶしだろうってことでしょう? あなたがそう言ったのよ。面白いから売ろうってことになったのはたぶん、後の話だわ。その頃はまだそれほどカードゲームがブームになっていたわけでもなかったでしょうし。そして――その暇をつぶす相手というのは誰なのかしらね」
「そりゃ、家族しかいないでしょ。農場の近くにはほとんど人が住んでいなかったって言うんだから」
「それで―― 七倍の呪いに殺される ってことになるわけね」
彼女はごくさらりと言ったので、私は一瞬意味が掴めなかった。
「え――」
「殺される、という言葉を、あなただって普通に使うでしょう?」
「いや、そんなことは――」
と言いかけて、しかし私も「あっ」と気がつく。するとしずるさんはうなずいて、
「私にはよくわからないけど 宿題が大変で死んじゃう とか、体育授業でマラソンをやらされて 俺たちを殺す気か とかなんとか――普通に使っているわよね」
「それじゃあ――あの文章って ゲームを死ぬほどやってる 程度の意味しかなかったの?」
「それが自然じゃないかしら? 少なくとも。殺されるかどうかってところまで追い詰められている人間だったら、当時はコンピュータ回線なんかじゃなくて電話で助けを求めたでしょうしね」
「セブンフォールド・カースっていう名前は、あの文から付けられたんだって書いてあったけど――じゃあ、結局は本人が付けた名前と同じだったのね」
「その言葉の意味を、よーちゃんはどれぐらい知ってるのかしら」
「ええと、なんか聖書で、カインとアベルって兄弟がいて、カインが、神様にひいきされる弟をねたんで、殺して――」
言いながら、とても嫌な感じがした。家族が家族を殺したというのは、事件と妙に似ているからだ。
「それで神様が、カインにしるしを付けたとかなんとか――」
私がうろ覚えの話で困《こま》っていると、しずるさんが横から、
「旧約聖書の創世記、つまり人間社会が始まりの頃の話として伝えられているわ。神はアベルが姿を見せないので、そのことを何故かとカインに訊ねたら、彼はこう答えた―― 私は弟の番人でしょうか≠チて」
「開き直っているみたいね」
「そうね――でも弟を殺したカインを神さまは殺さないで、それどころかカインに守護のしるしを付けて 誰であれ彼を殺すものは〈七倍の呪い〉を受けるだろう ということにしてしまうのね。出会う者が誰も彼を傷つけることができないように って」
「え? 弟を殺したのに?」
「そうよ、カインは私たちの始祖《しそ》なんだから。旧約聖書によれば牧畜業とか手工業とか、現代文明の始まりみたいなものは彼によって始められたのよ」
「なにそれ、変じゃない!」
私は思わず、場違いな強い声を出してしまった。あわてて口を押さえる。
しずるさんはにこにこしている。
「変だし、おかしいわね――でも、それがひとつの世界のはじまりなのよ。そして、あのカードにその名前が付いている。これって、とっても象徴的なことだと思わない?」
そんな難しげなことを言われても、私にはわかるはずもない。
「――うーん」
と私が唸《うな》っていると、しずるさんがカードの手札に指を乗せた。私もあわてて出す札を選ぶ。
といってももう考える気なんか全然ないから、適当に指先が当たった札をそのまま出すだけだが。
どちらも同じ、愚者だった。
「――従兄弟のケビンという人は、メディチクラフト家の中ではどういう立場だったのかしら?」
しずるさんが、また答えにくいことを聴いてきた。
「ええと――解説書だと、戦争で頭に傷を負ってから、一般の職場では働くことが難しくなったので、身内の世話になる形で仕事に就いていた、とか――」
「その彼に対して、家族の者たちがどういう態度を取っていたか、というのが問題ではあるわね。……まあ、一番弱く設定されたカードに、そのことは表れているんだけど。負けた戦争で歪んで戻ってきた余計者《よけいもの》、ということで仲間外れにされたんでしょうね、ゲームの通り」
「それで、恨みに思って……なのかしらね、やっぱり」
私がおずおずという感じでそう言うと、しずるさんは、
「ああ、そうねえ――」
と少し言葉を濁《にご》らせた。そして、
「農場からは、他の死体もたくさん見つかったのよね」
と呟いた。
「農場の、とっても広い敷地を通りかかったヒッチハイカーが狙われたって話なんだけど――十四人だって」
「七の倍数ね」
しずるさんはあっさり言った。私もわかっていたけど、でもそれがそんなに大したこととも思えない。しずるさんは静かな口調で続ける。
「七というのは、孤独《こどく》な数字だって誰かが言っていたけど――でも、きっと、人間というのは何人集まろうと、そこにはさびしい孤独がつきまとうものなんでしょうね」
「いや、そういう――」
私の苦い顔を無視して、しずるさんは。
「だから――人は人を殺す」
と、きわめて穏やかな口調で、|囁《ささや》くように言った。
「え……」
その声のあまりの静謐《せいひつ》さに、吸い込まれるように私が絶句すると、彼女は、
「よーちゃんの言う通りだわ。それは過去の事件で、もう終わっていて、人がそこに付け加えられるものは何もない。メディチクラフト家の中で、その密室の中で何かあったとして、どんなことが起こっていたにせよ、それはもう、終わってしまっている――そのごまかしを暴《あば》いたところで、それは、それだけのこと」
「……?」
しずるさんの口振りに、なんだかいつもの事件に対するような鋭さがないので、私は違和感を覚えた。
彼女がカードに手を伸ばし、私も続く。彼女は僧侶、私は農民――また引き分けである。
「ねえ、よーちゃん――カインは罪を|償《つぐな》わなかったということに、あなたは腹を立てたわよね」
「え、ええ――」
「それが普通の反応よ。だけど聖書というのは、人によってはその内容に対して絶対に反論してはならないという立場にもあるわけ。そういう場合、そこには何が起こるかしら?」
「え?」
私がぼけっとしていると、しずるさんが先に言った。
「そこに生じるのは誤解と曲解よ。そんなことはありえないことが、そのままの形でそこにあるというとき、人は自分の頭の中で事実をねじ曲げて解釈してしまう。たとえばカインは一生罪の意識に苦しんで、神はその後悔を深めさせるために、彼にしるしを刻みつけたのだ、とかなんとか――」
「あ、そういうことなの?」
「いいえ、そんなことは聖書には全然書かれていないわ。後からそういう風に解釈されただけ。だからその場合、カインのその後という話は曖昧《あいまい》にされてしまう――その事件にも、そういう形で放置されたままのものが平然と転がっている――」
「え、えーと……それは――なに?」
私は、ごくり、と唾を呑んでいた。そう、私は知っている――しずるさんは、どんなごまかしも見逃さないということを。
「だから、握ったままの両腕がくっついていたチェーンソーよ。それで人の首を斬るなんてことは絶対にできないし、後から自分の両腕を斬って、それを暖炉の中に放り込むなんてことは物理的に不可能だわ」
「それは――確かにそうだけど、でもあの家って誰も入れない密室だったのよ。あ、それとも密室を抜けるトリックでもあったのかしら? 抜け穴があったとか」
私の意見に、しずるさんは首を横に振った。
「いいえ。その辺のことはまず、一番に調べまくられるから、ごまかしきれるものじゃないわ。事件はまったく、内部だけで起きていることだったでしょうね――」
「じゃあ――誰が?」
私は混乱していた。そんな私に対して、しずるさんは冷静そのものの口調で、
「だから、ゲームと同じなのよ」
と言った。
「このゲームは、二つのカードとカードを争わせて、負けたとされたものを消していく。残った札が多い方が勝ち――」
「え……」
私はぽかん、としてしまった。いやまさか、しかし……彼女はそう言っているとしか思えない。
私は指先が震《ふる》えてきて、あやうく持っているカードを落としそうになった。
「じ、じゃあ――家族同士で殺しあったって言うの?」
しずるさんはため息をついた。
「鍵は、なんということはないのよ――従兄弟のケビン以外の、全員から検出されたっていう睡眠薬っていうのは、あるところでは麻薬的な使われ方もされるものなのよ。この国だって一昔前はそういう薬が店先で売られていて、みんな ラリる とかいって寝るためでない目的のために飲んでいたっていうわ」
「薬……?」
それは、家族を眠らせるために使われていたわけではなかったのか? 家族が、みんなで ハイになる ために集まって、それで飲んでいたのか――。確かに言われてみれば、みんなから仲間外れにされているような人間が、全員に薬を同時に盛るようなチャンスなどありそうもない。
「そう、彼らは薬を飲んで、いい気分になっているところで それに殺される と言うほどに夢中になっていたカードを始めて、そして――負けたカードのモデルになっている人間を、同じようにした。カードを 切った ――カットしたのよ」
「そ、そんな! 正気じゃないわ――」
思わす言ってから、しかしその通りだったと気づく、彼らは薬で正気ではなかったのだ。
私のしぼんでいく声に重ねるようにして、しずるさんは続ける。
「そうね、そしてそれはきっと、必ずしも薬のせいだけではなかったでしょうね」
「え? どういうこと?」
「だから、チェーンソーに付いたままの腕と、そして十四人の死体よ。あれは誰がやったのかしら」
「え――そ、それじゃあ――」
「チェーンソーで腕を斬るのは、みんなの首を斬る前でなければならない。自分でハンドルを握るような体勢《たいせい》で、かつ腕が斬られるような状態というのは、周りから抱え込まれて、無理矢理《むりやり》に、身体を折り曲げられなければ不可能でしょう――それも、一人や二人ではない」
しずるさんの言葉に、私は思わず、うっ、と息を呑んだ。
「か、家族全員で――なの?」
「ケビン氏の身体には、無数の傷が残っていたそうね。それは必ずしも昔の戦争によるものばかりではなかったはず――後からのものも、きっとあったんじゃないかしら」
「ぎ、虐待《ぎゃくたい》されてた、ってこと――?」
呟きつつ、そして私も悟《さと》る。いくら農場の隅《すみ》っこだったとしても、そこに住んでいるような人間たちの眼から隠れて十四人もの人間を殺していけるはずがないということを。
「そ、それで――ヒッチハイカーたちを殺していたのも、一家が――?」
「動機が不明とか言うけど――理由なんか、きっとわからないわ。わかりたくもないしね」
しずるさんは首をすくめた。
快楽殺人鬼――そういう言葉で呼ばれるような人々が集まっていた一家だったということなのだろうか。
「だから、人の身体を切り刻むことに対して、彼らの心には最初から大して抑制《よくせい》がないのよ。薬で判断が鈍《にぶ》ったら、何をするかわかったものではないわね」
「で、でもカードの勝負をしていったとして、最後に誰かが残ったんじゃ――」
「そのはずね。その辺は推測《すいそく》の域を出ないわ。でもチェーンソーという凶器は、切断するのにただ押しつければいいということを思えば、極端《きょくたん》な話、そこに倒れ込むだけで首は斬れるわね」
しずるさんの言うことがあまりに血腥《ちなまぐさ》すぎて、私もだんだん麻痺《まひ》してきた。
「でもどうして、そんなことを?」
「カードの勝負が終わったらまず最初にすることは何かしら?」
聴かれて、私は答えるしかない。そう言われて言えることはひとつしかない。
「……札を集めて、あらためて 切る ……そういうことなの?」
しずるさんは無言である。否定しない。だがそれだと、その斬られた首がどうして他の者たちと一緒に暖炉の上にあったのか、そしてチェーンソーを暖炉の中に押し込んだのは誰なのか、それがわからないままで――と私はそこまで考えて、それからあっと思った。
そうだ――まだひとり残っていたのだ。両腕を斬られた従兄弟のケビンがそのときまで生きていれば、彼が口でくわえるなり、足で押し込むなりすれば、そのどっちも残された現場の通りに運ぶことができるだろう。そしてすぐ彼も出血死して、それで事件は謎の中に閉じこめられることになるのである。
でも――なんでそんなことを、というのは正にこの場合に当てはまることだった。
自分をいじめ抜いて、あげくに腕まで斬ってしまったりするような、しかも罪のない人々を虐殺していたような家族なのだ。それをどうして――
「…………」
私はしずるさんを見つめた。
彼女は無言だ。しかし、わずかにうなずいた。
私の思いついたようなことは、しずるさんは最初からわかっている。
(……家族だから、なの――?)
どんなに酷《ひど》い目に合わされても、許し難《がた》い殺人鬼一家であっても、それは彼にとって、唯一残されたこの世との|絆《きずな》だったから――それで、彼はすべてを謎にすることで、全部自分で背負っていったのか――
アベルを殺して|省《かえり》みることのなかったカインとは逆に……庇《かば》ったのだろうか。
しかしそれは、なんて報《むく》いのない行動なのだろうか――。
「――だから、もう終わっているのよ」
しずるさんがぽつりと言った。
「そのごまかしを解いたところで、それはそれだけのこと――もう、なにものにも影響を与えないわ」
「…………」
私がぼんやりしていると、しずるさんが残された最後の手札を出してきた。私も合わせて、手をぱたん、と落とす。
彼女は愚者だった。
私は、貴族――私の勝ちだった。後は全部引き分けだから、勝負は私の勝ちにしかならない。
「よーちゃんは、やっぱり強いわねえ」
しずるさんはしみじみとした口調で言った。
私はもう、特に反論《はんろん》する気にもならずに、ただこう言うだけだった。
「ねえ、しずるさん?」
「なに?」
「今度は、私がカードを切ってもいいかしら?」
すると彼女は、ちょっと上目遣《うわめづか》いに私を見て、そして悪戯っぽくウインクして、舌の先をちょろっと唇から出してみせた。
[#地付き]“The Seven”closed.
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はりねずみチクタ、船にのる そのB
……ええと、どこまで話しましたっけ?
なにしろこのお話の創り手たちは、実に気まぐれに、話を途切《とぎ》れさせたり、突然に思い出したり、と非常にとりとめがないものですから、我等《われら》がチクタ君は意味もなく、ぼけーっ、とさせられっぱなしだったり、働いてるのか遊んでいるのか、なんだかわからない状態で置いてけぼりです。
でも彼には文句は言えません。しかたなく待ち続けるしかないのです。
「…………」
その白い部屋の中では、ベッドの上の少女が、今は一人きりで、手にしたスケッチブックになにやら描き込んでいます。
外は夜です。
雨がさっきまでずっと降っていて、空はとてもとても暗いです。見通しが悪いので、世界全体がその雨の音の中に閉じこめられているかのようでもあります。
もう、彼女がお友だちと話ができる時間はとっくに過ぎてしまっているようです。
その中で、でも、彼女の口元にはかすかな笑みが浮いているのは、その描いているものが、友だちと一緒《いっしょ》に創っている空想だからかも知れません。
それは海の景色のようです。
波間に揺れるように、少しだけ傾《かし》いだ船が描かれています。
その甲板の上には、一匹の、お腹に動かない時計が付いているはりねずみが、ちょこん、と座っています。
船の横には、並んで泳いでいるらしいイルカの群れも描かれています。
はりねずみは、そのイルカと何やら話をしているようにも見えます。
どんなことを話しているのでしょうか?
でも、そのことはまだ、彼女は決めていないようです。
それを決めるのは、いつだって二人のときなのですから。
「……ふふっ」
ベッドの上の彼女は、はりねずみの絵を描きながらずっと微笑んでいます。
そして楽しみなことを待ちながら、ワクワクしている子供のような無邪気な笑顔です。
そのスケッチブックは、前の方のページにも、これまでのはりねずみの旅の様子が描かれているようです。それには絵本のように、言葉も書かれています。
もしもチクタの旅が終わるときは、それは単なるスケッチブックではなく、一本のお話が書かれている 本 ということになるようです。
でも、まだイルカとの会話は書かれていません。
だから絵の中のはりねずみは、何かを言いながら、まだ何も言っていないという変な状態です。
だからやっぱり、チクタは中途半端な状態のまま、置いてけぼりなのは間違いないようです。
外では、暗い空から雨粒が落ち続けています――
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第三章 しずるさんと影法師 The Double-Goer
1.
事件は雨の降っている中。祭りの日に起こった。
それは事件としては、そんなに珍《めず》しいという部類《ぶるい》には入らないはずのものではあった。野外で、突然倒れた男が死亡したというものにすぎなかったのだから。原因は様々《さまざま》であっても、路上死《ろじょうし》というものは不審死《ふしんし》事例の中では割《わり》と一般的である。
だが、そのときの周囲の証言が異常だった。
ある者は、その人物はその時間には横になって寝ていたと言い、ある者は祭りの中で踊《おど》っていたと言い、そしてある者は――これがもっとも多い証言だったのだが――死体になっていたというのだった。
同じ人物が、同時に複数の場所に現れる。
こういう事例を、常識の範囲《はんい》では定義できないが、幻覚とか妄想などの事柄を扱う分野では ドッペルゲンガー と呼んでいる。
その意味するところは、多重行動者というようなものであり、自分がここにいるのに、何故か別の場所にもう一人の自分が歩いているのを目撃するというような形で|顕《あらわ》れる――しばしばそれは影にたとえられ、伝説ではドッペルゲンガーを目撃した者はどんどん陰が薄くなっていって、いずれは取って代わられて死んでしまうのだという――。
その真偽《しんぎ》はさておき、複数の目撃証言と、そして死体がひとつ転がっていたのは紛《まぎ》れもない事実であった。
*
「あら――よーちゃん、雨が降ってきたわよ」
しずるさんが病室の窓から外を見て、言った。
「え? ほんと?」
私も後ろを向いて、さっきから暗かった空から雨粒が落ち始めているのを見た。今日は傘《かさ》を持ってきていないので、あんまり雨になって欲しはなかったのだが。
「あー、これは結構ひどくなるかもね……」
私がぼやき気味に言うと、しずるさんは、
「やむまで待ってられるようにするか、車を呼んでもらいましょうか」
と訊いてきた。私はちょっとあわてて、
「い、いやそんなことはいいわよ。傘を貸してもらえれば」
と言った。するとしずるさんは不思議そうな顔をして、
「よーちゃんは、ほんとうに遠慮深《えんりょぶか》いのね?」
と、私の顔を覗《のぞ》き込むようにして言った。素直な眼差《まなざ》しだったので、私も一瞬。なにか遠慮していることがあったような、そんな気になったほどだった。もちろんそんなものはない、遠慮どころか、むしろこうしてしずるさんのところに押し掛けてばかりでかなりずうずうしい気もしているほどなのだから。
「しずるさんは、雨は好き? 嫌い?」
私は適当なことを言って、話を変えた。
「そうね――気圧にもよるかしら」
しずるさんはまたしても難しいことを言う。
「気圧?」
「雨、と簡単に言うけど、それは同じ天候現象を示しているわけじゃないのよ。大気中に落下するほどに凝固《ぎょうこ》した水分が充満した状態を、漠然《ばくぜん》と雨と言っているだけで、そのときの環境はそれぞれ、かなりばらばらなのよ」
「う、うーん」
私は困る。何を言われているのかさっぱりわからない。しずるさんはそんな私をよそに言葉を続ける。
「だから――そうね、雨が降る前の空気はあんまり好きじゃないけど、いったん降り始めてしまうと、結構いい感じがするわ。今も、そんなに悪くないわよ」
「あ、じゃあ――」
もしかして、今までちょっと気分が悪かった、ということなのだろうか? 雨が今まさに降ってきたわけだから――それなのに私はつまらない話に彼女をつきあわせていたのだろうか?
しずるさんは私に向かってうなずきかけて、
「だから、よーちゃんがいてくれて助かったわ、気が紛《まぎ》れた、と言ったらあなたに失礼かしら」
「う、ううん、そんなことない。それならいいんだけど、でも――」
でも私は、しずるさんがそんな気持ちでいることに、今まで全然気づけなかったのだ。これまでだって、雨が降っていたり降りそうだったりした状況なんて、何回もあったのに……。
「よーちゃんは、どんなお天気でもそれなりに好きでしょう?」
しずるさんが屈託《くったく》のない口調で言ってきたので、私は、
「う、うん――まあ、そうかも」
と曖昧に返事をした。
「晴れた日も、雨の日も、雪の日も、わけへだてなく良いところを見つけられるでしょう?」
「う、うーん――」
なんっだか能天気《のうてんき》に、いつもへらへらしているみたいな感じのする言われ方のような気もするけど、でも、
「それは――まあ、そうかも」
実際にそうだから仕方がない。
するとしずるさんは、にっこりと微笑んで、
「だから、よーちゃんって好きよ」
と、いつも口癖《くちぐせ》のように繰《く》り返す、その言葉を言った。
それを言われる度に、私はくすぐったいような気持ちになる。しずるさんはそんな私に、うなずきかけつつ、
「地球は水の星だから――雨の時のように、濡れているのが本来の在り方なのかも知れないわ。今は、たまたま 乾季《かんき》 に当たっているだけで、実際のところ、雨が降り続けているときの方が世界としては自然で、でもそのときにはきっと、どんな花も枯《か》れてしまうでしょうね」
と、漠然としたことを言った。
「どんなに鮮《あざ》やかな花の色も薄《うす》れて、掠《かす》れて――夢のように取り留めのない透《す》き通った水色に、永遠に閉じこめられるのよ」
「……あの、しずるさん?」
「ああ、これは詩よ、詩。ほんとうはもっと散文的なんだけど――はっきり覚えていないから」
「詩? 誰が書いたの?」
「誰だったかしら――忘れたわ」
しずるさんはとぼけたように言った。
「でも、よーちゃんは晴れの日も雨の日も好きなんだから、こんな詩は関係ないわね」
「…………」
私は返答に困る。なにを言われているのかも、よくわからないし――しかし名前も知らない詩人などよりも、私としてはしずるさんの気分の方がずっと重要だったので、
「ええと……今のような雨が、割と好きなの?」
と再確認した。
「そうね、気圧的には」
しずるさんは相変わらずにこにこしている。
「それに――雨がいいと思えるところはもうひとつあるわ」
「へえ、何かしら」
「雨が降っていたら、よーちゃんはとりあえず止むのを待つから、帰るのを少し遅くしくれるでしょう?」
しずるさんは屈託のない口調で言った。
私は――少し言葉に詰まった。
なんと返事していいのか、迷った。
別に雨など降ってないなくても――いつまでもここにいてしずるさんとお喋りしていたい、といつでも思っている。
そう言おうとした。でも、なんだか言葉に詰まる。
彼女は――私が帰った後、どうしているのだろうか。それについては私はほとんど話題にしない。できない、のかも知れない。しずるさんは私に心配を掛《か》けるようなことを言いたがらないし、私は――私は、何年も入院している人がどんな悩みを抱えるものなのかわからないし、それを受けとめられる自信もない。
しずるさんは、そんな私の内心に気づいているのか、まったく変わらない微笑みのままで。
「だから――雨は好き」
と言った。
……すっかり暗くなってから、私が病院の一階に降りていくと、受付の人が、
「車を呼びましょうか?」
と訊いてきた。私は首を振った。
「でも、結構降ってるわよ。なかなかやみそうもないし――」
心配そうに言われたが、私は、
「いえ、平気ですから――それより、売店とかありませんか。傘を買いたいんですけど」
この病院には、一階にもそれらしい場所がないのだ。そもそも人自体があまりいないし、他の見舞い客など見たこともない。
「ああ、傘ならここにあるわよ」
受付ではなく、その後ろにいた事務関係らしき人がそう言って、私の方に持ってきてくれた。
「はい、よーちゃん」
と言って差し出してきた。私はその人のことを当然知らないのだが、向こうはこっちをすっかり馴染《なじ》みだと思っているようだ。なんとなく、病院中の人が全員、私のことを知っているんじゃないかと勘《かん》ぐってしまう。まさか。
「――え、えと、お借りします」
「いいわよ。あげるわ――晴れたら捨てちゃっていいから」
結構しっかりとした傘なのに、そんなことを言う。
私はぺこり、と頭を下げて、帰り道に就いた。
出口のところの警備の人まで「車を出そうか」などと言い出したので、私はややうんざりしながら首を振った。
雨が降りしきる中、私は坂道を降りていく。
靴はたまたま、耐水性のスニーカーだったので水が染み込んできたりすることはないのだけど、一歩一歩進む度にぴしゃぴしゃした感覚が、今日に限ってなんだか絡《から》みつくような感じがして、嫌だった。
山の上にある病院につながる道路、その途中で下に広がる街並みが見おろせるところがあるのだが、今日はそこから見ても白く煙《けぶ》っていて、よく見えなかった。
そのぼんやりとした風景の向こうから、奇妙な音が響いてくる。妙な甲高さと、重い地響きのような低音が混じり合っている。
(お祭り――かしら?)
人の踏み鳴らす足音と、歓声が混じったような音響は、そういう雰囲気だった。
そういえば、来るときに駅の側でなにやら作業していたような気もする。
私が山を降りて、バス停に着くとますます賑《にぎ》やかさが大きくなった。雨が降ってるのに、ずいぶん盛り上がっているんだなあ、と私はぼんやりと考えた。
どうやら人の群れは移動しているらしく、騒音は遠ざかったり近づいたりしている。
バス停でぼーっと待っているが、バスはなかなか来ない。そして私は、今日が休日ダイヤであることに気づいた。
(あー……そうだっけ)
どうも私はこういう根本的なところでうっかりしていることが多い。来るときは停車していたバスに飛び込んだので、時間を見ていなかったのだ。
次のバスが来るまでは、二十分以上の間がある時間帯だった。私はあきらめて、その場に立って待つ。他に客はいない。私だけだった。
人々のざわめきがはっきりと届いているのだが、自分がなんだかそれからとても遠いような、そんな感じがした。
「…………」
雨の中、私はバス停の横に立っている。なんかの映画の有名なポスター絵のようだったが、しかし私のとなりには別に、誰かが立っているわけでもない。
雨が降っているからと言って、私は別に気圧がどうのこうの、なんてことは全然わからない。それによって気分が変わったりはしない。
でも今は、なんだか気が重い――。
私はにぶい。どうしようもないほどに、それがとてもとても鬱陶《うっとう》しかった。
祭りの喧騒《けんそう》が、さらに近づいてきた。どうやら道路の向こう側の、公園に面した広い歩道をパレードしているらしい。色々な扮装《ふんそう》をした人たちが向こうから練《ね》り歩いてくる。この辺を一回りしているのだろう。
私は、普段ならお祭りとかは好きな方だし、他の人が楽しそうにしているのは嫌いではない。
でも今は、なんだか――と、私はその人の群れから眼を逸らそうとした。そのときだった。
ピエロの格好《かっこう》をした人と、パンダのぬいぐるみを着た人の間に――小さな人影を見た。
かよわくて、今にも折れてしまいそうなぐらいに細く、でも背筋《せずじ》が伸びていて、まわりのすべてを落ち着いた眼で見渡しているような、そういう少女で――いや、でもまさか、そんなことは――。
「……え?」
その姿は、すぐに人の群れの中に紛れて消えてしまった。
私はまだ、自分の眼が信じられなかった。
その姿は、はっきりとは見えなかったけれども――ついさっき私が別れてきた相手、しずるさんその人にしか見えなかったのである。
「…………」
私は、気がついたら歩き出していた。
そのパレードを追いかけて、その確かに見たと思った人影を探した。祭りの人混みを掻き分けて、バス時間のことなんか忘れてずっと雨の中、その辺をさまよい続けた。でもそれっきり、私は何も見つけることができなかった。
だから私は、それまでにないくらいそのとき、例の事件の現場近くにいたことになるのだが、そのことにまったく気づいていなかった。後から考えてみると、どうしたって私がいた時間はもう例の死体が見つかっていて。騒ぎが広まりつつあったはずなのに、私は全然、それが眼に入らず、耳にも届かなかった。
私はただ、その人影だけをずっと探していたのだった――外に出られないはずの人が、外の世界を歩いているという。あり得ないその姿を求めて。
2.
サンドイッチ・カーニバルと呼ばれるその祭りは、別にサンドイッチという食べ物には何の関係もない。それほど昔からあったというわけでもなく、その街でそれが始まったのはたかだか三年前のことになる。その辺の商店街が合同で特売セールをやったのだが、その際にひとつイベントめいたものを適当に企画して。それは普段はチラシなどを専門にしている弱小広告代理店が適当に出した企画で、それぞれ店の路上広告担当者、つまりサンドイッチマンを一般に広く募集し、ギャラが払えない替わりに思い思いの扮装《ふんそう》を好きなようにしてもらって、それのコンテストを行おうという、きわめてありふれた催《もよお》しであった。優勝者の商品も、その街とは全然関係のない温泉宿の宿泊券だったりしたくらいで、適当そのものであった。
実際、第一回目のそれは実に地味にしか人が集まらなかったし、最初はどうでもいいような感じで始まったのだが――そこに一人の男が現れた。
安物のアコースティック・ギター一本を抱えてやってきたそいつは、顔に適当な白塗《しろぬ》りのメイクをしているだけで、髪の毛もぼさぼさであった。並んでいるときもやる気なさげで、それほど目立ってはいなかった。
だがこの男が街に出ると、様相《ようそう》は一変した。
ギターを陽気に掻き鳴らし、その場で即興《そっきょう》でつくった洋品店の歌を奏《かn》でながら、周囲の人たちを明るく煽《あお》り立てる。子供たちがまず反応し、覚えやすい男のメロディーを一緒になって歌い出し、たちまち周囲には人集りができた。男はそのまま街中を歩き回りながら歌いまくり、いつのまにか他のサンドイッチマンたちも一緒になって男の歌を歌っている始末だった。
特売セールも大成功し、当然男が優勝ということになったのだが、そのときには男の姿はそこにはなかった。そして半月ほど経った頃に、人々は仰天《ぎょうてん》した。その男が派手なプロモーションと共にメジャーレコードのレーベルから〈灰かぶり騎士団〉というバンドのリーダー兼《けん》ボーカリストとしてデビューしたからだ。当然、あのカーニバルの時にはもうデビューが決まっていたことになる。
そんな奴が飛び入りで、こんな地味な催しに参加していたのだった。
男のバンドはその後はもうトントン拍子に大出世で、出す曲は片っ端《ぱし》からチャートに入り、その年にはもう大晦日に生放送のテレビ局で歌ったりしていた。
そしてその男の伝説の中に、この街のカーニバルがあったというので、翌年からはもう、別にイベントをやるとも決まっていない内から参加者が殺到《さっとう》し、なし崩《くず》しに祭りは行われることになり、今年で三年目になるというわけだった。雨も降り出していたし、さすがに去年ほどの勢いはないが、まだまだ祭りとしてそれなりに盛り上がっていた。
そんな中で、この奇妙な事件は起きた。
最初は公園の隅《すみ》に設置されていた救護所《きゅうごしょ》テントに一人の、痩《や》せていて背の高い男が、
「気分が悪い」
と言ってやってきたところから始まった。狭《せま》いテントであり、ベッドもないので、係の者は最初は帰るように勧《すす》めたが、男はうなだれるように顔を伏せたままで、
「いや――少しで良いから、横にならせてくれ」
と掠れた声で懇願《こんがん》するので、しかたなくテントの奥の方にスペースを作って、タオルを何枚か毛布代わりに貸してやった。そのタオルは雨が降っているというので急遽《きゅうきょ》用意された、ホテル用のものを借りてきたもので、厚手《あつで》で大きくてそこらのタオルケットよりも毛布っぽかった。
頭痛薬をくれとか子供が転んでするむいたとかいう他の客たちに対応していた係が、ちらと後ろを向いたら、そのときには男はタオルを何枚も重ねて、ほとんど寝袋《ねぶくろ》のような外見で横になっていた。
そうしてしばらく経って、訪れる客も一区切りしたところで、係は男に、
「そろそろ起きて、ちゃんと帰った方がいいですよ」
と声を掛けた。だが返事がない。係は男の肩に手を掛けようとした。
だが、その何枚もの重なったタオルの出っ張っているところは、係が触れた瞬間に、ぼこり、とへこんだ。
係の者は仰天した。何枚ものタオルをむしってみたが、その下には男の姿もない。
男は、いつのまにかどこにもいなくなっていたのだ。
まるでミイラ男が、包帯だけ残してどこかへ消えてしまったように、男の形だけを残して、その中身は――中身だけが忽然《こつぜん》と消えてしまっていた。
「…………」
係の者が呆然としていると、遠くの方から悲鳴が響いてきた。
「ひ、人が――死んでいる!」
その絶叫はたちまちのうちに、祭りの喧騒を掻き消してしまった。
パレードに加わっていた男がひとり、突然に倒れたらしい。いや、倒れたところは誰も見ていなかったのだが、ぐったりと横になって、動かなくなっていたのを誰かが踏んで、それで騒いだときにはもう、息絶えていたらしい。
救護所の係も、人々が集《つど》っているその現場にやってきたのだが、それを見て、なんとも言えない気持ちになった。
やっぱり――という感じなのだが、どうしてそれがそうなっているのか、そのことは全然理解出来ないのだった。
死んでいるのはさっき、タオルにくるまって横になっていたはずの男だった。
だが――この男はどうして、テントから数百メートルも離れたこんなところに倒れているのだろうか?
(俺のすぐ後ろに寝ていて、這い出る隙間なんかどこにもなかったのに――テントの裏は完全に塞《ふさ》がって、出ることなんかできなかったのに――)
通報を受けて、たちまち警察が飛んできた。
事情聴取が即座に、周囲の人間たちに対して始められたが、救護係の者の証言に、当然警官は眉をひそめた。
「――なんだって? そいつは確かか? なにかの勘違《かんちが》いじゃないのか」
「いや、私も信じられないのですけど――でも本当なんですよ」
「いや、しかし――本当にその人だったのか?」
警官はしつこく聴いてきたが、しかし嘘を言うわけにもいかない。
「はい、そうです」
「しかしなあ――」
警官は渋《しぶ》い顔をして言った。
「あんたがそう言っているのと同じ時間には、別のところで被害者が踊っているのが目撃されているんだぞ」
「……は?」
ぽかんとなってしまった。何を言われているのか、いまいち理解できない。
「証拠が食い違っているんだ。どっちかが嘘をついているか、適当なことを言っているかという話になる」
「え、ええ? で、でもだって――」
彼は眩暈《めまい》がしてきた。ただでさえ訳がわからないのに、ますます混乱した。
同じ人間が、同時にまったく別の場所にいたって?
そういう話は聞いたことがある。たしかドッペルゲンガーとか、なんとか……そしてその何人にも見えた者は、その分の影が薄くなって死んでしまうとか、なんとか……
……だが、混乱はそれでは収まらなかった。その後、警官が死体を検死に掛けたところ、死亡時刻がきわめて不安定な様相を呈したのだ。
雨に打たれていて、体温残留や血液の凝固などの特定が不明確ではあったが――それでも、死亡していたのは当日の午前中あたりではないかとされたのだが、これは――死んでいるのが見つかった時から、実に六時間以上も前のことなのであった。
*
……私は呆然《ぼうぜん》としながら、でも早足で、病院に続く坂道を登っていく、息がぜいぜいと切れて、かなり苦しいが、でも停まることができない。
今日の空は晴れ渡っている。むしろ暑いくらいだ。
でも私は、その中を急ぎ足で進んでいく。
いつもなら立ち寄る途中の自動販売機も、今日はなんだかそんな気分になれず、そのまま横を素通りする。
普段の、半分くらいの時間で私は病室の前に来てしまった。でも息が切れているとおかしいかなと思って、ちょっとだけ物陰で呼吸を整えてから、病院に入った。
私に対応する人たちに、いつもと変わった様子はない。相変わらずにこにこしている。 そうとも、何の異常もあるわけがないのだ――私は心の中で自分にそう言い聞かせながら、彼女のいる病室に向かった。
そう、そんなくだらないことなどあるはずがない。
たまたま、その人とちょっとだけ似ている人間が、いるはずのないところを歩いていたからと言って、その人が、その影が薄くなって、その――そんな馬鹿らしいことなんか、ただの迷信だ。あるわけないじゃないか。
(そうそう、意識しない、意識しない――)
私は、息を吐いて気持ちを落ち着かせる。
とにかく、いつもと変わったところなんかあってはいけない。私はエレベーターから降りて、廊下を少し歩いて、普段のようにノックする。
どうぞ、というあの変わらない声が聞こえてきたときは、安堵《あんど》でもう全身の力が抜けてへたりこむかと思ったが、しかしそんなことを表に出してはいけない。
私はドアを開ける。
そして彼女の姿を見ながら、これだけは意識することなく自然に出た笑みを浮かべて、彼女に言う。
「こんにちは、しずるさん」
「いらっしゃい、よーちゃん」
彼女も、いつもとまったく変わらぬ笑顔で私を迎え入れてくれた。
「今日はいい天気ね」
しずるさんが窓の外を見ながら言った。
「この前は雨だったけど――よーちゃん、帰りは濡れなかった?」
「ええ、大丈夫だったわ。そんなひどい雨ってわけでもなかったし」
私はできるだけ、平気な顔をして言う。
でもつい、ベッドの上の彼女の、その光を受けて落ちる影を確認してしまう。でも室内だし、光は壁の反射などであちこちから来ている。ぼんやりと幾度《いくど》にも見える影はとても不安定だ。
「でも――ええと」
私は言葉の途中で、何と言っていいのか迷った。
「ん?」
しずるさんが、そんな私の態度に少し首をかしげる。
「どうしたの、よーちゃん」
その眼差しはとても穏やかなので、私はそれに助けられて、自分のつまらない不安が溶けていくような気がした。そしてふと見ると、足元の自分の影も、彼女と同じくらいに、いやそれ以上に頼りないのに気づいて、ほっとした。
「いやね。それが――その雨の帰り道で、祭りの横を通ったんだけど、その私のすぐ近くで」
と、私が例の事件のことを言おうとすると、しずるさんの顔が少し強張《こわば》った。
「え――それって……」
その様子はややただ事ではない感じであり、私はどきりとした。
しずるさんはさらに、私に詰め寄るように、
「事件の、横を通ったの? そこにいたの?」
と訊いてきた。それはなんだか、見られては困るものを見られた人の態度のようにも見えて、私は動揺した。
「え、えと――まあ、それは」
そこで何かを見なかったか、とか訊かれたらどうしよう、と私は思った。しずるさんに嘘は、つけないではないか。
しかししずるさんは、この上なく真剣な顔をして、こう言った。
「駄目よ、よーちゃん――そんな危ないところに近づいたりしたら!」
「……は?」
「事件が終わって、もう調べたりしているときならまだしも、そんな事件が起きてる最中とか、その直後とか――とんでもないわ!」
「……へ?」
「あなたは絶対に、そんな危険に近寄るようなことをしちゃいけないのよ。わかる?」
まるで小さい子供に言い聞かせるような、噛《か》んで含めるような言い方をする。
「…………」
私はちょっと茫然とする。
それから、ぷっ、と吹き出した。くすくすと笑いがこみ上げてきて、停まらない。
「何笑っているのよ。これは笑い事じゃないのよ」
しずるさんはまだ怒った顔をしている。
「う、うん――いや違うのよ。そうじゃないの。別に事件の側にいたとかじゃないのよ。その逆で、事件には全然気がつかなくって」
私がそう言うと、しずるさんは、
「ほんとうに?」
と念を押してきた。私はやや大袈裟《おおげさ》にうなずいてみせて、
「ほんとうに、ほんとよ。誓《ちか》ってもいいわ」
と胸に手を当てて言った。
するとしずるさんは、ふう、とため息をついて、
「それならいいんだけど――もう、よーちゃんたら」
と、あきれたように首を左右に振った。
私はなんだか、とっても胸の奥が熱くなった。指先で触れているとそこが、他の部分の体温とは違う暖かさの元があるような、そんな不思議な感じがした。
「でも、私だけじゃなくて、私の周囲の人たちだって、全然そんな変なことが起きているって気づいていなかったから、実際に危ないことは何にもなかったと思うわ」
「そもそも、それってどういう事件なの? 私はいい加減なニュースしか見てなかったから、とにかく大勢の人が死んだ人を目撃していたとか、そういうことしか知らないわ」
しずるさんはややうんざりしたように言った。
「でも、不思議だったみたいなのよ」
私は例によって、色々と調べておいたので事件のあらましはだいたいわかっている。そのことについてざっと説明した。
要するに、とっくに死んでいたはずの人がどういうわけか、雨の祭りの中であちこちをふらふらとしていて、しかも一人の人間が何人もいたという。そういう話を。
「ふうん――」
しずるさんはなんとなく、どうでもいいような感じでうなずいた。私も、もう変な感覚は綺麗《きれい》になくなっていたので、
「なんかね、これってただの見間違えとか、錯覚とか、そういうことで片づけても問題ないのかもしれないけどね」
と、彼女に合わせるようにうなずいた。
するとしずるさんは、静かに首を振った。
「まあ、片づけてもいいんだけど――一応、これって密室だし。その辺はごまかしを消しておいてもいいんじゃないかしら」
さらりとした口調で言う。
私は、口をまるくぽかんと開ける。
「――密室? なんのこと」
「いや、この事件が」
しずるさんは、相変わらず適当な感じでありながらも、そう断定した。
「これって密室よね――まあ、よーちゃんが危ないことに近づいたわけじゃないってわかったから、正直どうでもいいんだけど」
「え、えとその、しずるさん……?」
私にはもちろん、何がなんだかわからない。
3.
死体で発見されたその男を、はっきりと殺人事件の被害者として取り扱うことになったのは、発見から二十時間も経ってからのことだった。
男の名は安田《やすだ》隆史《たかし》といい、年齢は二十四歳で、大学を卒業してからは無職だった。
サンドイッチ・カーニバルに彼がやってきていた理由そのものは、すぐに推察された。
彼はミュージシャン志望だったのだ。灰かぶり騎士団に|憧《あこが》れて集まってきていた連中の一人であった。ちゃんと本名も住所もイベント参加登録書に記載されていた。
死因は、実際のところ心臓発作であろうと思われ、そのために警察も事件性の有無に関して慎重でもあったのだが――彼の家が金持ちの有力者であったために、徹底的な捜査が命じられたのだった。
その結果、彼の体内からは薬物反応が検出されて、違法なドラッグを過剰摂取したために心臓に負担がかかったのだが、誰かに無理矢理打たれたのか、その辺も曖昧なままであったが、特に関連した前科もないため、その件に関しては保留とされた。
いずれにせよ目撃証言などが重なっていたり、いつ倒れたのかを見た者もいないということから、何者かの任意による殺人事件の疑いが濃厚《のうこう》であるという判断が下されたのである。
目撃者たちは何度も何度も事情聴取されたが、彼らとしてもそれほど注意していたわけでもないことであったため――なにしろ祭りの最中は大勢の人間たちが次々と往来していたわけで、その中の一人についてそんなに注意を向けたりはしない――不明瞭さがさらに浮き彫りになっただけだった。
救護所でタオルにくるまって寝ていたという男についても、それが本人だったのか、係の者は結局、
「――自信はないです。別人だったかも知れない」
という弱気な発言で、もしも反する確たる証拠があったら、たちまち無視される程度のものになった。
被害者は誰かに恨みを買っていたのか、という話になると、これはいとも容易《たやす》く話が出た。
彼は名うてのプレイボーイだったので、複数の女と平気でつきあって、その度に修羅場《しゅらば》になっていたという。なまじ家が金持ちなだけに、そういうことになっても揉《も》み消したりしていたために問題がこじれたりしていたらしい。女性がらみになると、その後ろに別の男もいたりするので、怪しい者はかなりの数になりそうであった。
だが――時期が祭りであったからある程度は騒ぎになり、大勢の人間が関わったために噂としてもそれなりに広がりはしたものの、事件としてはよくある行き倒れに過ぎないので、テレビのニュースなどでも、一々紹介されるというほどのものでもなく、怪しげな現象として興味本位で|扱《あつか》うところだけが扱ったという程度だった。もしも解決しても、当事者や関係者以外ではほとんど話題として広まることもないだろう。
そういう事件だった。
*
「……で、よーちゃんはその怪しげな噂の方なんかで、色々と情報を集めたわけでしょう。まさか直接聞き込んだりはしなかったえしょうね?」
しずるさんはまだ心配げである。
「まさか」
私は苦笑した。
「私は、そんな探偵みたいな聞き込みができるほど器用じゃないわ。いや、ほんとうに話としては広まっているのよ。インターネットとかでも」
「ドッペルゲンガー現る、とかいって?」
その単語を言われると、私はまだちょっとどきりとしたけど、でももうそんなでもなかった。
「まあそんなところ。都市伝説っていうのかしら、そういう感じで面白がられているっていう雰囲気」
「興味半分よね。それ以上被害が拡大しそうにないし、自分たちに影響もなさそうだし。でも身近でちょっと怖い――典型的な都市伝説のパターンではあるわね」
「今回のも証言者が誰とか、そりゃ警察とかでははっきりとわかるんでしょうけど、でも誰が見たのかはっきりしていないみたいな話にはなっているわ。その辺も噂っぽいわね」
「実際、中には怪しい証言も多いんじゃないかしら?」
「うん。私も中には これってでっち上げなんじゃないかなあ って思っちゃった話がいくつもあったしね」
「まあ警察とかじゃあ、その辺の話は全部疑ってかかっているでしょうね。ましてや違法ドラッグの|類《たぐい》が事件に絡《から》んできたあたりから、そっちのルートを追及する方が主要関心事になっているだろうし――わかってるわよね、よーちゃん」
「はいはい。そんなものには一切近寄りません」
「よろしい」
私たちは大真面目な口調で言い合って、それからくすくすと笑った。
「でも、よーちゃんが特に これは信じられないなあ って思ったのはどんな話かしら」
言われて、私はうん、とうなずいた。
「そりゃやっぱり、救護所で寝ていたらタオルの下から消えていた、とかいう話よ。まるっきり怪談じゃない」
私が言うと、しずるさんもうなずいて、
「タクシーの後部座席から客が消えて、そこがぐっしょり濡れてるとか、十三人でエレベータに乗ると一人減ってるとか、そういう話みたいな?」
と真面目な顔をして言った。
「ええ? エレベータから?」
そんな噂話は初耳だったので、私は驚いた。
するとしずるさんは重々しくうなずいて、
「うん、そういうことがあるらしいのよ。十三時、つまり午後一時きっかりに、十三人で昇《のぼ》りのエレベータに乗ると、降りるときは十二人になっているとか、いないとか」
と、さらに大真面目な顔をして言った。
「そ、そんな馬鹿な――そんなことあるわけないじゃない」
私はなんだか、ちょっとあわてた。この病院では上下階の移動はエレベータだけなので、なんだか妙に――それにここのエレベータはやけに広くて、十三人ぐらい余裕で乗れると言えば乗れてしまうのだ。
私がひきつっているのを見て、しずるさんは、
「あくまでも噂よ」
と、これまた妙に真剣な表情で言う。
「噂って――別に誰かが確かめたわけじゃないんでしょう?」
「それを言ったら、なんだってそうじゃないかしら? 確かめた人は、それこそ二度とそのことについて何も語らなくなるってこともあるだろうし」
「い、いや、だって――」
「どっかの都市伝説の、その人が一番美しいときにそれ以上|醜《みにく》くなる前に、なんたら――とかいうのだって、確かめた人はきっと他の誰にもそのことを言わないと思うしね」
しずるさんはまたしても訳のわからないことを言う。なんのことやらさっぱりである。しかし彼女はそんな憮然《ぶぜん》としている私にかまわず、
「噂っていうのは、往々にしてそういうものよね――これって噂臭いけど、とかいうものの方が人々の無責任な口の端《は》に乗りやすいっていうか。確かめた人は、あんまりそのことについて逆に語らなくなるから、真実は先に消えていってしまうんじゃないかしら」
と言った。
「ええと――」
私はまだ頭の整理がついていなかったが、なんとなくしずるさんの言わんとすることがわかった。
「それじゃあ、その――しずるさんは、あのタオルの中から人が消えたのは、本当だっていうの?」
だから彼女はさっき、これが、密室 とか言ったのだろうか?
しずるさんは肩をすくめて、
「少なくとも、その話だけを特に噂だと断定するのはどうかと思うわ」
と静かに言った。
「どんなにそれが一般常識的にあり得ないように見えても、別に世界には人の認識範囲内で事態を起こす義務がある訳じゃないから、ね――」
「うーん、でもねえ」
私はどうにも信じられない。でもしずるさんは落ち着いた調子で言う。
「なんていうのか、その話にはちょっと意味がなさすぎるのよね」
「意味? 何のこと?」
「そういう話をしなきゃならない意味が、その発見者の人に全然ないのよ。どうして噂を広めなきゃならないのか」
「ええと、単純に目立ちたいからじゃないの?」
「死体が見つかって、そのすぐ側にいて、それでいきなりそんな噂を思いついて、それを言いふらしたわけ? しかも直後の警察の事情聴取での話でしょう、それは」
「うーん……」
私は悩んだ。確かに嘘を付いたにしては、あまりにも込み入った話が急に飛び出してきたようでもある。
「そもそもその話が噂として広まった最大の理由は、その件で複数の目撃者がいたから、じゃないのかしら。確かに噂って言うのは無責任だけど、同時に適度な信憑性も伴うものだしね」
「そういうものかしら、でも、そうね……たぶんそうだと思う」
「となると、その全員が突然に、皆で共謀して話をでっち上げたというのは、これはいくらなんでも無理があるわ。その話自体には、嘘やごまかしが内在している要素が、他の、死体が祭りで踊っていたとかいうような話よりも、ずっと少ない」
しずるさんはかすかに、自分の言葉には自分でうなずいた。
私は、彼女がこういう風に論理的な話をするのを聞いてるだけでとても楽しいので、もう自分の混乱など半分以上どうでも良くなっている。
「うんうん。なるほどね」
私が能天気に同意すると、しずるさんはちょっと意地悪な微笑みを浮かべて、
「だから、とりあえずはそのタオルの下からの消失は、ほんとうに起きたと仮定してみるとどうなるかしら、ねえ、よーちゃん?」
と突然に頭を使えと話を振ってきた。彼女に任せっきりにしようと思った途端にこれである。
「ええ? またそんな――そうねえ、あれって要するに人の形をしたまま、タオルだけが残っていたっていうんでしょう?」
「私は直接その情報に接した訳じゃないから、あなたがそう言うならそうなんでしょう」
「うん、そういう話だった。となると――うーん。子供が服を脱ぐときに、パンツとかズボンとかをそのままの形で残すっていう遊びがあるんだけど、そういうものかしら」
「つまり寝ている人間が、ごそごそと身を捩《よじ》って、上に掛かっているものを崩さずに抜けるってことね」
しずるさんは私の話をまとめるけど、しかし言った本人である私には馬鹿馬鹿しいようにしか聞こえない。
「そんなことをする理由が、それこそないわね」
思わずため息をつく。第一これはその人間が既《すで》に死んでいたという話とまったく関係がない。ところがここで、
「そうかしら?」
と、しずるさんが悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「タオルを人の形に残す理由は、まったくないのかしら?」
「は?」
きょとんとする私に、しずるさんは変わらずにこにこしている。
「…………」
もう何度も何度も、私は過去にこういう雰囲気を体験している。
しずるさんは穏やかで、私はぼんやりしていて、そして――話が妙に続かなくなる。
それは、もうこの段階で、事件に関してすべての説明材料は揃ったという、そういう空気なのだった。
「えーと……もしかしてしずるさん、ここに例の……?」
私がおそるおそる訊くと、彼女はうなずいて、
「そうね ごまかし が現れているのはきっとここでしょうね」
と言った。
4.
それは新聞記事の片隅に、小さく載っているだけだった。
祭りでの不審死、裏に麻薬取引が
その見出しに続いて書かれている記事もほんの数行で、とあるホテルの従業員が一味の一人で、その仲間も芋《いも》づる式に検挙されたとかいうような散文的なことばかりが書かれていて、それが一部であやしげな噂として広まっていたことも、複数の矛盾した証言のことなども綺麗さっぱりなくなっていた。常識的な 解決 さえ伝えれば、あとはその周囲にあるもののことについては言及の必要なし、とでも言うかのように。
「…………」
それを読んでいる男は、実に渋い顔をしていた。
場所はテレビ局スタジオの、その楽屋である。男の周りには派手《はで》な衣装に派手なメイクをした男たちと、ギターやベースと言った楽器がずらずら並んでいる。音楽番組の収録前だった。
男は、メイクをするために髪を上げていて、しかしまだその顔には何も塗られていない。その半端な顔で、新聞を読んで――憮然としている。
「どしたんよ、カニさん」
横にいるバンド仲間が、男に話しかけた。こっちも鏡に向かって、自分の顔になにやら塗りたくっているところである。
「いや――別に」
男は投げやりに言った。すると仲間が、
「あの祭りのこと、まだ気にしてんのか? ありゃもう関係ないだろ。カニさんはだいたい色んなこと気にしすぎなんだよ」
と心配そうに言った。
「ま、関係はもうねーんだけど、な……」
男は、彼が知りたいことなどまったく書かれていない新聞を放り出した。
「祭りに出たこと、後悔してんのか? もう何年前の話だよそれ、だいたいあれデビュー前だったろ」
仲間に呆れたような口調で言われて、男は肩をすくめた。
「後悔っつーのとも、ちと違うんだがな――なあ、しげる、おまえ――なんでわざわざ人前で演《や》るのか、考えたことはあるか?」
いきなりの質問に、仲間は顔をひきつらせて、
「――は?」
と男の方を向いた。しかし渋い顔の男は返事をせずに、
「……まったく、メンドくせえ――」
と忌々しげに呟いただけだった。
*
「実際のところ、狭いテントの中でタオルをそのままの形にした状態で身体を抜け出して、見つからないで逃げるなんてことはまず無理でしょうね」
しずるさんは言った。
「そうよねえ。すぐ後ろには係の人がいたわけだから」
私もうなずいた。
「つまりこれは、大前提が間違っているということね。問題そのものが引っかけに近いんだわ」
しずるさんは自分が寝ているベッドの、そのシーツを掴んで、それを少しだけ盛り上げさせた。
「こういう風に、布だけで形を保持させることはできないわけじゃないわ。生地《きじ》が丈夫であれば尚更《なおさら》ね」
「じゃあ、最初から誰もタオルの下には寝ていなかったってこと? そういう形に、最初からタオルを置いたっていう、ただそれだけなのかしら?」
私は呆れた。ずいぶん簡単だ。
「係の人は仕事があったから、寝るところはよく見てなかったって言うし、その作業そのものは難しくなかったでしょうね」
しずるさんは納得したように言うけど、でもこの話はやっぱりおかしい。
「でも、それだと前もってそのタオルの布地の固さとか、どうすれば人が寝ていたように見えるのか、その辺を練習というか、前もって確認していなきゃ駄目っぽい――そんな簡単にうまくできっこないわ」
「うん、そうかもね」
しずるさんはまた簡単にうなずく。私もうなずき返して、
「それじゃやっぱり、これにも無理があるのかしら」
私の出す仮定はみな中途半端である。
しかし、しずるさんは首を横に振った。
「とにかく、それしかありえないのだから、そういうことにしてみるしかないわ。それで次の問題は、そうやってタオルで人型を作った者が、どこかへ消えてしまったということの方だけど、これはどうかしらね」
「えーと。無理があっていいのなら、脇からこっそりと抜け出したということだけで」
「周囲は祭りで、人が大勢いて、目撃者の数にも事欠かない状態で、どこを通っても人目を避けることができない状況だったけどね」
しずるさんの言葉は淡々としていて、別に嫌味っぽくはないのだが、なんとなく――まあいいけど
「うーん、そうかあ。ほんとうに密室なのね」
私はやっと、さっきのしずるさんの言葉の意味がわかってきた。
祭りのただ中、というのは、これは正に密室なのだ。広い広い空間ではあるのだが、そこには常に他人の視線という壁が立ちはだかっていて、しかもそれを開ける鍵がないのである。
「で、こっそりと抜け出せたとして、その人は次に何をするのかしら」
仮定だけで話をつないでいるので、だんだん問いかけの方も漠然《ばくぜん》としてきた。
「何をする、って――だから別の場所に行って、倒れて、その――」
「死んでしまう、と」
しずるさんはうなずいて言った。
それが一連の流れではある。もっともその間に、同時に色々な人たちに目撃されている訳だけど。
「さて、これ以外で、論理的に説明できる状況はあるかしら」
しずるさんは私にそう訊いてきたが、そもそも私は何もわからないのだから、訊かれてもしょうがない。
「ええ、それって話の穴から、別の切り口を見つけようとかそういうこと? 私はもう、すっかり頭がこんがらがっちゃったから、他の流れなんて思いつけないわよ」
私の降参宣言に、しかししずるさんはぱちぱちと小さく手を叩いた。そして言った。
「そうね、きっとその通りなのよ。それ以外には解答はないのよ」
微笑みながら、大真面目な調子で言う。
「……は?」
私はきょとんとしてしまう。しずるさんはそのまま、
「どんなに無理があるようでも。それ以外に論理的に状況が説明できない以上、あなたが今組み立てた推理こそが真実なんだわ」
と言葉を続けた。
「あ、あのねしずるさん――」
からかうにしても、もうちょっとひねってもよさそうなものだ。
でも彼女はうなずいて、
「無理があるように見えるのは、その前提が不足しているからだわ。逆に言えば、今の話で欠けているところにこそ、単純な答えが存在している――」
と、静かな口調で言った。
「ええと――」
私がその調子に呑まれて少し絶句すると、しずるさんは、
「そもそも、どうしても大量の人間が同時にその人の姿を見ることができたのかしら?」
と言った。質問のようだが、別に彼女は私の答えを求めることなく、
「それは簡単なことで、似たような姿をした人が大勢いたから――」
と断定した。
私はさすがに、
「それこそみんなの勘違いだったっていうの?」
と口を挟んでしまった。まあ確かに、最初からそうなんじゃないかなって言ってはいたのだけど。でもなんかすっきりしない。
しかししずるさんは首を横に振った。
「勘違いしにては、ちょっと明確すぎるわ。どうしてみんなは、他の誰でもない、その人だと思ったのかしら? だって祭りで大勢の人間がいたのよ。その中で、自分が見た人がその人であったということを、どうして彼らは一々覚えていることができたのかしら?」
「……え」
私は虚を突かれて、言葉に詰まった。そう言えばそうだ。どうしてなのだろうか?
「そもそも、最初に広まったのが噂であるっていうのが、この件の面倒くさいところだったのよ。肝心なところが抜けている」
彼女はやれやれ、といった調子で首をかすかに振った。
「どうして見分けられたのか――それは当日がサンドイッチ・カーニバルという特別な状況であったことと無縁ではない。大勢の参加者たちは、そもそも何のために集まってきているのか。それはサンドイッチマンを演じるためで、その際に彼らは何をしていたのか」
――あっ、と私はここで、彼女が何を言おうとしているのか、やっとわかった。その私の顔色を見て、しずるさんはうなずきながら、
「そう、そのモデルとなったミュージシャンがしているように、彼らは――」
と私に、どうぞ、という感じで手を差し出してきた。うう、と呻いた私は仕方なく、
「――顔に、派手なメイクをしていた――のね」
とぼそぼそと言った。そしてすっかり脱力して、
「それじゃあ――大勢の人間が、同じような人を目撃していてもちっとも不思議じゃないわ。要は同じメイクをしていればいいだけのことなんだから――」
ぐったりしながら、私はすっかり馬鹿馬鹿しくなってきてしまった。サンドイッチ・カーニバルは、とにかく目立つために人とは異なるメイクをするのが当然になっていることが、この噂の盲点になっていたのだろう。なんともいい加減な話だ。
ところが、ここでしずるさんが、静かに、
「だからこそ、その目的が問題になる」
と言った。その声には強い力があったので、私はどきりとした。
「え――」
「大勢の人間が、同時にその死んだ人間と同じメイクをしてふらふらしなければならない理由というのは何か、そこが最大の問題なのよ。この件には大勢の人間が関わっていて、しかもどうやら、きわめていい加減なことと、何がなんでも隠蔽《いんぺい》しなければならないことが、同時にある」
彼女の表情には、もうふざけたところが全然ない。
「…………」
「ここからは推察の域を出ないので、なんとも言えないんだけど――その人の死因は、急性の薬物中毒である可能性が高いんでしょう?」
「え、ええ――そういう話だったわ」
「それで、その人は家が金持ちで、アーティスト志望とかいって無職の癖に優雅な生活で、大勢の女性の人と同時に交際があった、と」
「う、うん」
「つまり彼は、はっきり言ってあまり感心できないようなタイプだった。と、確かに恨みを買っていたかも知れないけど、それ以上に自分の方に原因があるんじゃないかという――」
「…………」
私は、さすがにこの辺になってくると、暗い気持ちになってくるのを抑えられなくなってくる。
そう、またしても――だんだんわかってきてしまった。
「死因は薬物中毒ね?」
しずるさんがまた繰り返した。私はうなずいた。
「たぶん……自分で手に入れて、自分で調子に乗ってたくさん、その、やっちゃたんでしょうねえ――それでそのときに一緒にいた人たちが、その――」
ごまかして、回っていたのだ――そう考えると、辻褄《つじつま》はうんざりするほどに一致する。もちろん一緒にいたのは、彼のその 取り巻き の女性たちだったのだろう。色んな所で姿を見せて、とにかく 別の場所で死んだ という アリバイ工作をした というだけの、それだけのことにすぎなかったのだ。ただ、関わった人間が複雑で、しかも打ち合わせ不足だったから、あちこちで同時に出現なんていう失敗をしてしまった。
まさしく ごまかし だ。かなり適当で、詰めも全然なっていない。
「ものすごく、その――浅はかだったのねえ――」
私はなんとなく、しみじみ、といった調子で呟いてしまう。
「でも、どうして祭りだったのかしら……本人が 自分はあれに出る って以前から周囲に吹聴《ふいちょう》していたとか」
「まあ、そんなところでしょうね。言ってはなんだけど、犯人たちが別に、本当はその彼のことをあんまり好きでもなかったから、自分たちのすぐ側で死んだということにしたくなかったという、それだけのことだと思うわ」
しずるさんは淡々としている。
「だから、生前の彼とのつながりがあったとしても、もう隠しているかもね」
「ああ、そうね――履歴の残った携帯電話を捨てたりしているかも――じゃあ、これって犯人たちが捕まらないのかしら」
これだけでは大した罪ではないような気がするから、それでいいのかも知れないが――でも、なんか嫌ではある。
これにしずるさんは、ゆっくりと首を振った。
「いいえ、そうはいかないわ。見逃すわけにはいかない――それだけの理由も、推察できる」
「え? どういうこと」
「どうして彼は女たちの前で麻薬を打つ必要があったのか。しかも大勢の前で。それを考えると、とても見逃してはおけない」
「みんなの前で、打つ必要……」
私はぼんやりとその言葉を頭の中で転がして、そして気づいてあっ、と叫んだ。
「……そ、それってつまり―― 売人 ってこと?」
私の声に、しずるさんはうなずいた。
「麻薬を仕入れてきて、女たちにこれをさばけ――他の奴に売りつけろ、みたいな話をしていたんだと思うわ。そして、別に危なくないんだとかいって自分に打ってみせて、それで――ころり、と」
肩をすくめて静かに言う。
「――た、確かに……」
私はだんだん焦りだしていた。
「確かに見逃しておけない感じになって来ちゃったわね――麻薬取引って、その拡大って――でもどうしよう? 犯人たちは薬を隠しているんでしょう?」
慌《あわ》てる私に、しずるさんはにこりと微笑んで、
「だから――その答えは、もうよーちゃんがさっきぱっぱと推理しちゃったじゃない」
と言った。
「は? なに言ってるの?」
私は眼をぱちぱちとしばたいた。彼女の言ってることがまるで理解できない。
「私、何か言ってたっけ――」
「前もって練習が必要とか、それはそれは、ずばりと明確に」
しずるさんがさらりと言った言葉に、私は一瞬ぎょっとして、それから気づいた。
「……って、あのタオルのこと?」
例の、タオルで人の形を作った者がその後で、テントから抜け出せたことは今となっては謎でも何でもない。
単純に、顔のメイクを拭いて、上着を脱いで脇に抱えたりして印象《いんしょう》を変えて、他の客と一緒に出れば良いだけなのだから、そう、前を向いていた係の人はそいつが狭《せま》いテントの出入口から出ていったのをしっかり見ていたはずである。
ただ、すっぴんのそいつを、寝ていると思っていた男だと思わなかっただけだ。
「そう、手早く人の形にするのには事前の練習が必要で、ということは身近にそれと触れる機会《きかい》が多くて、しかもそれがどこかのホテルの物だったりして、さらにそれがあの祭りの救護所に貸し出されているみたいな――そういったことを事前に、全部知っている人物というのは、どれくらいいるものかしら? さらにその中で、生前の死者と接触がありそうな人といったら――」
しずるさんは色々と条件を挙《あ》げてみせる。でも私はそれ以上聞く必要はなかった。それだけわかればもう、充分である。
そう、そんなものは、そのタオルを使っているホテルの従業員か、その関係者以外にあり得ない。
なまじのアリバイ工作が、自らの姑息《こそく》なごまかしが、逆に自分自身を特定する決定的なものになっている――のだった。
「あ、あの――しずるさん」
「今すぐに電話した方がいいんじゃないの、よーちゃん。あなたの家の名前を出せば警察も即座《そくざ》に動くから」
しずるさんはそう言って、病院のインターホンを指し示す。もちろん外線にもつながっている。
「う、うん――」
私はすぐに、言われたとおりにした。
*
窓の外では日が暮れかけている。いいお天気のまま、夕方に移っていく。
警察に連絡したところで、私にはそれ以上することもできることもないので、そのまま帰らずにしずるさんとおしゃべりを続けていた。正直、事件のひとつやふたつでは動じなくなってきている自分がちょっと怖い。
「ああ、今日は雨は降ってこないわね」
しずるさんが窓の外を見ながら言う。
「うん、だから雨のことを心配しないでいいから、もうちょっといるわ」
わたしはそんなことを言う。するとしずるさんは私の方を見て、
「ありがとう、よーちゃん」
と嬉《うれ》しそうに言った。
あの後――あちこちに話が流れたおしゃべりが事件のことに少し戻って、どうして人はドッペルゲンガーなどというものを見るのか、という話題になったとき、彼女はこんなことを言っていた。
自分を見たら、死んでしまう――それは要は、人が如何に普段は自分というものを見ていないか、ということの裏返しに過ぎないと思うわ。見たくないわけじゃない。でもそんなものを直視したら自分は耐《た》えられないかも知れない
そう言った。そして、
でも、見たくないわけでは決してない――むしろ切実に見たいとすら思っている。そのズレが大きければ大きいほど、そこに何ものかが潜《ひそ》む可能性が出てくる。きっとそれがドッペルゲンガー。それは人の心の世界の有様《ありさま》との歪みの間にいる、どこにでもいて、どこにもいない存在なんだわ
とも、言っていた――私は、それにとても納得した。理解した、と思った。
どうして私が、もう一人のしずるさんの姿を街の中で見たのか。
私はしずるさんのことをどう思っているのか、それは自分でもわかっている。よく知っている。でも――彼女は、私のことをどう思っているのだろうか?
私はそれが知りたいのか、知りたくないのか。
それを思うとき、確かに私の心に、何かがそこにいるような気がする。ほんとうはどうなのだ、と暗がりから私に話しかけてくる。はかない影法師《かげぼうし》の姿が。
それはどこにでもいて、どこにもいない――。
「…………」
私はしずるさんを、なんとなく見つめている。
「ん? なあに」
彼女はちょっと首をかしげる。
私は、今この瞬間にも、彼女が心の奥底では何を思っているのか、それはわからないけれど――でも、
「ううん、何でもない」
私は、少なくともそのことでは悩《なや》むまい。そう思った。
「よーちゃんって、本当に面白いわ。あなたっていつも何を考えているのかしら?」
しずるさんの何気ない言葉に、私は笑って、
「あんまし考えていないのよ、きっと」
すると、しずるさんはくすくすと笑ってくれた。
[#地付き]“The Double-Goer”closed.
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はりねずみチクタ、船にのる そのC
「そういえば、チクタは船の上で何をしているんだっけ? どこまで話してたっけ」
久しぶりに、二人の会話にはりねずみが戻ってきたようです。
「海を進んでいるんだから、イルカとかに会っているんじゃないの?」
「ああ、なるほど、イルカね――そう言えば私、イルカのぬいぐるみも持っていたわ」
「あらあらそれは初耳《はつみみ》ね」
「うん、だって今思い出したんだもの」
「それは彼、彼女?」
「いや、イルカってだけで。名前も付けてなかったからなあ。イルカっち、って感じで」
「イルカっち、ねえ。他に何か特徴は?」
「えーと、普通は青いんでしょう。でもイルカっちはなんかオレンジだったのよ。ころころと丸くて」
「オレンジのイルカ、かあ」
なんだかベッドの上の彼女は、ちょっとため息をついています。
「描《か》き直さなきゃ」
「え? なんか言った?」
「いえいえ、なんでもないわ。じゃあ、チクタが船の上にいて、下を見たらそのイルカっちがいたら、彼は何か話しかけるのかしら?」
「ああ、そりゃイルカっちから挨拶すると思うわ」
「チクタはちょっと人見知りするものね」
「ああ、なるほど。気のいいやつなのね」
「でもチクタは、ちょっともじもじして こ、こんにちは って感じで」
「どんな話をするの?」
「イルカっちが 調子はどうだい とか適当なことを言って」
「チクタは いや別に、その――普通ですけど なんて」
「イルカっちは 君の船はずいぶんとくたびれているねえ なんてちょっと遠慮のないことも言ったりして」
「チクタは、船に怒られるのが嫌だから そ、そんなことはないです とか慌てて弁護したりするのね」
「でもイルカっちにはそんなこと通じないから いやいや、嵐が来たら危ないよ とかさらに詰め寄られたりして」
「チクタは困ってしまうわねえ」
「船が沈みそうになっても、逃げちゃいけないんだものねえ、彼は」
「するとイルカっちだけじゃなくて、空を飛んでいる鳥なんかも そうだそうだ、ずいぶん危ないぜ とかはやしたてたりして」
「うーん。どうもチクタって、そういう風にみんなに責められるわねえ」
「海に行こうが、彼の運命からは逃れられないのよ」
「き、厳しいわね」
「そのうちイルカっちに おや、君のお腹の時計はどうしたんだい、動いていないようだけど なんてことまで言われちゃうのね」
「でもチクタは、その辺は素直だから。 そうなんです。だから直せる人を探しているんです ってちゃんと言うわ」
「ああ、つまらない見栄は張らないのね、彼は」
「イルカっちは何か知っているのかしら?」
「そうねえ―― そう言えば、そんなような人が別の船に乗って、どこそこの島に行ったらしい って噂ぐらいなら聞いたことがあるんじゃないの?」
「ああ、それは手掛かりね? そうよね、そろそろ話が進まないと、いつまでも航海してなきゃならないものねえ」
「見も蓋《ふた》もないわね、そういう言い方は」
二人はくすくすと笑いました。
「でもその島って、どんなところなのかしら?」
「さあ――それはイルカっちが知らなきゃ、どうしようもないんじゃないかしら」
「うーん。あ、そうだ、ならその近くを飛んでいた鳥たちにも聞いてみましょうよ・それならどうかしら?」
「さすがね、ちゃんと伏線を回収しているわ」
ベッドの上の彼女は、感心したようにうなずきました。二人は明確に意識していないようですが、明らかにこの話は、どちらかが質問したことをもう一人が答えて、話を進めて。そして次の質問を相手に返して、という風に、キャッチボールのように進んでいます。そういうルールのようです。今は、ベッドの上の彼女が答える番なのです。どんな島に行ったのか、彼女の方がそれを言わなければなりません。
「そうねえ――」
彼女は少し考えて、そして言いました。
「鳥たちはきっと、人の区別なんかつかないでしょうね。空から見おろしたら、人間は皆、肩と頭しか見えないから――小さな点に過ぎないわ。だから、その中で見分けがつくってことは、伝説の時計職人さんは、きっと……」
「きっと?」
「うん、よっぽど目立つ何かがあるんでしょうね」
「それって何?」
「何かしら?」
ベッドの上の彼女は、そう言って悪戯っぽく微笑みました。そうです、とりあえず次の質問に、話が移っていたのでした。今度は彼女の番です。うまいこと誘導されてるような感じも、なきにしもあらずですが……。
「うーん」
もう一人の彼女は、そう言われて考え込みました。
「とりあえずは、空から見ていると、すごく目立つのよね。でも今までの話で、そんな目立つ人がいたって話はないから――空から見ると、わかりやすいけど、でも地上からだとピンと来ないってことで――鳥かあ」
これはなかなかの難問のようです。彼女がこれを思いつくまで、またしてもチクタのことは放ったらかしです。
さてさて――。
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第四章 しずるさんと凍結鳥人 The Ice Bird
1.
――鳥を見た。
そんな感じだった。と目撃者たちは一様にそう語った。
「そう、そんなものだとは全然思えなかった。ふわふわしていたっていうか、すーっと飛んでったって感じで、だからそんなにびっくりもしなかった。元気なんだなあ、ぐらいの感じで――でもあれ、やっぱりそうだったんでしょ? びっくりですよねえ」
中には、絶対に羽ばたいていた、と証言する者までいて、イメージ的には食い違いを見せるどころか完全に一致していた。その移動していった方角には大時計があったため、目撃時刻も大抵の者が記憶していた。
午前九時すぎ――出勤ラッシュが一段落ついて、また人が交差点に溢《あふ》れかえるようになるまでの、わずかな間に――それは街に飛来した。
冷たく、芯から凍りついた、鳥とも人ともつかぬもの――。
それは無言で、やや回転しながら、時計台の先端に付けられた避雷針《ひらいしん》の上に降り立った。
なんだなんだ、と人々が見上げたが、もうそれっきり、二度と宙には飛ばなかった。
やがて、誰かがおかしいと気づいた。
それの末端部分から、きらきらとした粉末のようなものが流れるように出ていた。後からわかったことだが、それは水だった。水滴が風にあおられて、細かく砕けて飛散していたのである。
水は、溶けた氷だった。
そしてその空から舞い降りてきたものは、やがてぐしゃり――と折れるようにしてその場から墜落した。
あっ、と見ている者が思わず声を上げたが、しかしその必要は実のところなかったのだった。
それはとっくに死んでいて、そして――死んだまま宙を飛んできていたことが、後に司法解剖で明らかになったからである。
*
「これって空飛ぶ男の大冒険のお話なのよ、結局」
だいたい、終わりの方に近づいたところでしずるだんは私にそう言った。
「うーん、冒険ねえ……」
私はどうしても、不満げな声を漏《も》らしてしまう。まさかそういうことに落ち着くことになるとは、私には思いも寄らないことだった。
「イカロスの話って、よーちゃんは知っているかしら? そう、今回の話はあれとちょうど逆と言った感じね。空を高く飛びすぎて、太陽に近づきすぎて、蝋《ろう》で造られた羽を溶かしてしまって墜落した男の話の、ちょうど正反対――地を這《は》うようにして生きて、そして凍《こお》りついて空を舞った人の、興味深い冒険|譚《たん》――」
そう、それはそもそも、しずるさんが何気なくといった感じの口調で、突然に言った一言から始まったのだった――。
*
「飛躍――ということをどう思うかしら、よーちゃん?」
しずるさんが、唐突《とうとつ》とも感じることを、いきなり言ったので、
「え?」
と私はとまどった。
「ヒヤク?……って、あの秘密の薬、とか?」
「それは秘薬よ。飛んだり飛躍したり、という方の飛躍よ」
「ああ――え?」
何を言っているのか、やっぱりよくわからない。私たちは今の今まで、今年は雨が多いような気がするけど、じめじめしていることは人の気持ちにどこまで影響するか。ということを話していたのだ。
「たとえば、今の私みたいなものね。突然に話が変わることを、飛躍している、っていうわね」
「う、うん」
「あんまりいい感じの使われ方はしないわね――論理の飛躍、なんていうのは話のすり替えの時に相手から言われる言葉だしね。飛躍とか躍動とか、同じような意味の言葉よりも、なんか変な使われ方をしているわよね」
「う、うーん」
私はそれこそ、話についていけない。
「なんでかしらね? よーちゃんはどう思う?」
「ええと――なんか漠然としているから、かな?」
私は適当に言ったのだが、これにしずるさんはしみじみ、という感じでうなずいて、
「なるほど。それを表す具体的な現象があまりないということは、あるかもね。それこそバッタが高く跳ねるぐらいしか 飛躍 という言葉そのまま、ということはないのかもね。飛躍とかなら飛行機とか、鳥とか、色々とありそうだけど。ねえ?」
と言ってきた。
「…………」
私は、そのときはまだ例の事件のことを知らなかったので、しずるさんが振っている話の意味が掴めなかった。
「えーと……そうね」
あやふやにうなずくしかない。
「具体的でないことが、悪い方にばかり取られるというのは、これはどうしてなのかしら。まあ 今年は飛躍の年だ なんて言い方もあるけど」
しずるさんは私を放っておいて、一人で思索《しさく》に耽《ふけ》るように話し始める。
「飛ぶ、という言葉自体はいい方面にも悪い方面にも、どちらにも使われているわね。データが飛んだとかは悪い意味よね。飛ぶように売れる、っていうのもあるわ……勢いかしらね、この場合は」
「うんうん」
彼女が何を言っているのかはわかるのだけど、なんでそんなことを言っているのか、これが全然わからないのだけど、しずるさんの声を聴いているだけで、私は楽しいので、彼女が喋っているとそれだけでにこにこしてしまう。
「でも飛ぶということは、必ずしも勢いのあるものでもないわよね。蝶々とかはひらひらって感じだし、嬉しくて空を飛んでいる気分とか言うときでも、決してイケイケってわけでもなさそうだし……」
「飛ぶことは、どこか夢があるんじゃないかしら」
私は話の接《つ》ぎ穂《ほ》に、どうでもいいようなことを言う。
「人間は飛べないから、だから飛んでみたいって気持ちがあるんじゃないのかしら?」
「ははあ、よーちゃん。さすがに確信を突くわね」
しずるさんは、にっこりと笑って私にうなずきかけてきた。感心されたらしいのだが、何にかは当然私には見当も付かない。でも彼女の笑顔は素敵だ。
「人間は飛べない――だから飛びたいと思う。だから色々と喩える。でもそれは所詮《しょせん》は夢だから、だから極論じみた表現には、片っ端から使われる――夢物語の代名詞、みたいなところかしら」
「メリー・ポピンズとか?」
「ふわふわしてて。地に足が着いていないって感じよね――まあ、勇ましいスーパーマンとかもあるけど」
「そういえば、しずるさんは空を飛ぶ夢って見たことある? 私はなくって。結構よくあるらしいいんだけど、どういうものかわからなくって」
「ああ、私は夢を見られないから」
しずるさんはすごくあっさりと言うので、私には彼女が何を言っているのかよくわからなかった。
「……え?」
「空を飛ぶ夢は、不安定な精神状態の反映とかいうから、だから落ち着いているよーちゃんは、見なくてもいいんじゃないかしら?」
「え、えと、いやそうじゃなくて――あの」
……しかし、何と言って訊いたらいいのかわからない。何を意味しているのかも、私には不明確だからだ。
「よーちゃんは、すっごく落ち着いているものね。しっかり者だわ」
しずるさんは相変わらず、にこにこしながら言う。
「そ。そんなことは……ないけど」
今だって、ものすごくどきどきしている。どこが落ち着いているというのだろうか。
「よーちゃん、最近はちょっと忙しかったんでしょう?」
「え?」
言われて、私はびっくりする。確かにこのところは実力テストなどがあったりして、結構大変なのである。今日はその息抜きで――といってはなんだけど――しずるさんと会うと私は元気になれるので、押し掛けてしまったのである。
「悪いわねそんなときに私に会いに来てくれて。とても嬉しいわ」
どうしてわかったのか、とかは訊いてもあまり意味がないのだろう。私の態度とかで無抜かれていてもおかしくないだろう。それよりも、私はそのことでしずるさんが気を悪くしていないとわかって、むしろほっとしてしまった。
「――で、でもそんなに大して忙しいってわけでもないのよ?」
「無理しちゃ駄目よ、よーちゃん」
しずるさんはなんだか、優しいお姉さんのような口調で言う。私はつい、
「うん、わかった」
と素直にうなずいてしまった。
しずるさんがくすくすと笑ったので、私も照れ笑いを浮かべる。
そんな風にして、その日の面会時間は取り留めもなく過ぎてしまった。
……しかしどうしても気になったので、私はすぐに先生のところに質問に行った。
「あの、しずるさんが 私は夢を見られない とかなんとか言っていたんですけど……どういうことですか」
私としては、いつも彼女の様態について訊いている、それと同じだったのだが、その日に限っては先生の反応が違っていた。
「なんだって? それは彼女がそう言ったのか?」
「え、ええ――」
なんだかすごい剣幕《けんまく》なので、私はちょっとびっくりしつつ、うなずいた。
「夢を見ないって――それはどういうことだ?」
先生の方が首をひねっている。
「あ、あの――なんか大変なことなんですか?」
「いや、まだわからない――別に普通の人間でも睡眠時に夢を見ない者も結構いる。しかし彼女の場合――いやいや」
何度も何度も頭を振って、考え込んでいる。
「だ、大丈夫なんですか?」
「もしかすると。投薬の中の睡眠作用があるものが多すぎるのかも知れない――以前には、彼女は夢を見ていたのかな?」
訊かれても、私は知らない。むしろ先生がそれを知らないのか、と私は動揺していた。
「うーん、また検討し直す必要があるな……」
先生はぶつぶつ言って、何やら紙に書き込み始めた。日本語ではないので、私には読めない。
「あ、あの――私は――」
私がおろおろしていると、先生ははっと我に返ったように、
「あ、ああ――そうだね、すまなかった。君が心配するようなものじゃないんだ。彼女の病気が急に悪くなったとか、そういう話じゃないから。君は今まで道り、彼女の話し相手になってくれればいいんだよ」
穏やかな笑みを浮かべて先生がそう言ったが、
「そ、そう――ですか」
私はもちろん、心配しないわけにもいかない。
しずるさんは、私と会うようになってから決して悪くなっているようには見えない。でも良くなっていくようにも、思えない……。
私は、とぼとぼという感じで帰路に就いた。
(あーあ……)
夕暮れの空を見上げる。
雲がやたらに多く、しかもかなりの速さで動いていた。
2.
……で、私はその夜に、凍りついて空を飛んできて、時計台に引っかかって落ちたという、その奇妙極まる死体の話をやっと知ったのだった。
「え、えええ……?」
ニュースで説明される、その異様な事件は私を唖然《あぜん》とさせた。
人が空を飛んできた――それだけでも驚きなのに、その人は身体の内部からこちんこちんに凍りついていたというのだ。
当日は、大変に風が強く――前日は暴風雨で、その余波がまだ残っていたという。
(ああ、あの日か)
私はすぐに思い出した。
そういえば台風で電車が遅れて、学校に行くのに苦労した日があった。テストだったので遅刻《ちこく》しちゃ大変だと思って焦《あせ》っていたのだが、行ってみたら特別に試験時間がずらされることになっていて、非常にがっくりきた覚えがある。
(まあ、そのおかげでノートを見返したところが、ばっちりテストに出たんだけど……いやいや)
つい考えが余計な方に転がる。私はいけないいけないと思って、ニュースを見ようと思ったが、その番組ではもうその話は終わりだった。
次に、問題になっている感染症状にかかっていた食肉を、それと知りつつ出荷しようとした問屋ですが、組織的な犯行であることが検察庁の調べで判明しつつあり、さらに……
別のニュースが始まってしまっていたので、私はチャンネルを替えた。だいたいニュースの時間はどの局でも一緒なので、私はすぐに別の番組で同じものを見つけることができた。
……空を飛んできた。その被害者は顔などが転落した際に砕けてしまって、身元が全然わからないのだという。指紋なども採取が難しい状態で、早い話が、
(……正体不明、か)
そして、当選のことながら前日が台風で、当日もなお強風下にあったというわけで、スカイダイビングという可能性などあるわけもない。第一、もしそうだとしても凍ってしまった理由がわからない。
当日は飛行記録にも不審なものはなく、目撃証言もありません。彼が飛んで来たときには、その辺りの人たちのほぼ全員が空を見上げていたのですから、飛行機がいたとはとても思えません
服装などは、これはごく普通のスーツ姿で、ネクタイさえしていたらしい……。そこら辺を歩いているサラリーマンが、突然空を飛んで、地面に降りたときには完全に凍ってしまっていた――そんなイメージが浮かぶ。
(なんのことだか、さっぱりわからないわ……)
しかし、わかったことがひとつだけある。
そう、しずるさんはこの事件のことを知っていて、それで私に向かって 飛躍がどうのこうの という話を振ってきていたに違いないということである。
(それなのに。私ったら全然知らなくって……あんな風にとんちんかんなことばかり言ってしまって……)
思い出すだに恥ずかしい。
(――と、とにかく次に行くときまでには、この事件のことをしっかり調べておかなきゃ……)
私は、うんうん、とテレビに向かってうなずいていた。
*
私はテレビもなんとか終わったので、さっそく事件のほうを調べに掛かった。しずるさんに面会できるのは明後日以降だと言われていたので、ちょうど一日空いていたのだ。
(でも、私もいつのまにか普通に 調べに行こう とか思えるようになっちゃってるわね……)
それを思うと、ちょっと複雑な気持ちになる。気味の悪い事件を怖い怖いって思っていたのはほんの少し前のことなのに――とも感じるし、じゃあ全然殺人事件とかは怖くないのか、もうへっちゃらなのか、というと――
(……やっぱり、まだかなり――よね)
しずるさんがあれほど 犯罪はごまかしだから、そこには理不尽はあっても不条理はないわ とか言って説明してくれても、私はどこかで根本的に、怖くて怯えている部分が多くある。
(でも。そんなこと言ってられないわ)
ニュースなどでやっていることは一通り押さえたけど、あるいはしずるさんであればもうそれだけで充分かも知れなかったが、私はもちろん全然わからないので、自分が少しでも納得できるために現場などにも行ってみた。
しかし――そのビジネス街の最寄《もよ》りの駅前の、問題の時計台が見えるスクランブル交差点というのは、これは――
(う、うわっ)
私は正直、かなり圧倒された――とにかくスーツ姿の大人の男の人が、ものすごくうじゃうじゃいて、ひっきりなしに動いている。
信号が青になる度に、道一杯の人がどっ、と押し寄せてきて、その底が見えない。
時間が悪かったのか、別にそんなに混みまくる時間帯というわけでもないはずの夕方だったのだが――甘かったのかも知れない。
事件からそれほど時間が経っていないはずなのに、誰も問題の時計台など、ちら、とさえ見もしない。それぞれの日常の仕事で手一杯で、余計な好奇心など発揮してられない、という雰囲気《ふんいき》だった。
(え、えーと……)
私はひとり、かなり孤独にぽつん、とその場に立っていた。
なんだか交差点の方に近寄れないのだった。
誰かに邪魔されている、というわけでもないのだが――大人の男たちが妙に無表情で、それがたったかったったかと脇目《わきめ》もふらずにどこかへ歩いていく――しかも誰も、周囲の人々に視線を向けずに。
その光景に、私はなんだか事件以上に圧倒されて、要するに――腰が引けていたのだった。
(い、いけないわ。こんなことじゃ)
私は首を何度か左右に振った。現場に行くどころか、その前で、しかも人がたくさんいるというだけで怯んでいてはどうしようもない。
信号が青になって、みんなが一斉に走り出した――実際には早足で歩いているだけなんだろうけど、私には百メートル走のスタートにも等しく見えた――そこで私も、思い切って、だっ、と駆け出した。
走り出したつもりだったのに、周りの人たちよりもなんだか遅くて、私はあたふたしながら人混みを掻《か》き分け、必死で横断歩道を渡った。
「ふ、ふう――」
道の反対側に着いたときには、ぜいぜいと肩で息をしている始末だった。
もちろん後ろから後ろから人は押し寄せてくるので、息が切れていても停まってなんかいられない。私は押されるようにして道路の隅《すみ》っこへと追いやられた。
そうこうしていると、やっと信号が赤になり、人の流れも収まった。
「……はあ、やれやれ……」
なんだかおじさんみたいなことをつい口にしてから、私はやっと問題の時計台を見上げることができる場所に来た。
その問題の、凍りついた死体が引っかかっていたという尖塔《せんとう》部分には、大きく覆いがしてあった。工事しているみたいで、全然恐ろしげではなくなっているが、もし丸見えだったとしても、たぶんそこで不思議なことが起きたのですとか言われてもぴんと来ないような、そういう風景だっただろう。とにかく周囲にあまりにも人が多すぎる。
時計は、半分覆われていたが、その下では針が動いているのが見えた。どうしてとめないのだろうか。私には電気の無駄のような気がした。
(とにかく、その下の方に行ってみよう――)
そう思って、私はまた歩き出したが、すぐそこに見えているはずの所に行くだけなのに、迷ってしまった。
ビルが建ち並びすぎていて、どこの角を曲がればどの方向に進むのか、歩いているときには今人一つわからないのだった。
(わ、私は――やっぱり鈍《どん》くさいなあ)
少し悲しくなりながら、いったん駅に戻って、それからやっと目的地につくことができた。
……といっても、そこにもやっぱり、何もなかった。
もっとも物々しく立入禁止とか野次馬とかが群れているかと思ったが、そんなこともなかった。たぶん、通行人が多すぎる道なので、早々に捜査は終了して、現場検証も終わったのだろう。事件からもう何日も経っているし。
一応、簡単な柵《さく》で囲ってはあった。マンホールの部分と重なっていたので、知らない人が見たら、マンホールの工事をしているのかと思うぐらいだ。
ただ――その近くまで来て見ると、人が両手を開いて、まるで羽ばたいているような姿勢のあの死体の周りを囲む白い線が地面にくっきりと残されていて、それが妙に……
(浮いているわ……)
そう感じた。なんだか、そこを中心として、この人通りの激しい街がぐるぐる回転しているような、そんな変な気分になった。
地面に描かれた二次元の男の周りで、三次元の私たちが動き回っているのか、それとも――この絵の男はまだ飛んでいて、動いているのは彼の方で、街の者たちはただ、その横をすり抜けていく雲のような存在なのか――大きな一枚の、空飛ぶ白線男のアニメーションの背景としてしか、この街は存在していないのかも知れない……そんな変なイメージが急に、私の脳裏《のうり》に訪れて、なんだか――くらくらしてしまった。
(――うう、いけないいけない)
私はどうも、変な思いこみをしすぎるところがある。しずるさんにもよく、笑われてしまう。
(まあ、しずるさんが笑うなら、別にいくらでもぼけっとしてていいんだけど――)
ここは彼女の前ではないのだ。しっかりしなくては。
地面から顔を上げて、上のほうを見る。
覆いに囲まれた時計台を探したが、しかしそれは街並みの連なる建築物の中に紛れて、正直どこにあるのか今一つ見えにくい。
(……ああ、あれかな?)
さっき見つけた。半分隠れた時計を見いだして、私はやっと凍れる男が引っかかって、落ちてきたその先を発見した。
(ずいぶん遠いわね……)
そう感じた。引っかかって、落ちたというから、もう見上げればすぐ上かと思ったのだが、どうもそうではなかったらしい。かなりの距離を滑空《かっくう》して、そして地面に降りたみたいだ。
(ほんとうに飛んでたみたいじゃない……)
そう言えば目撃証言の中にも、確かに羽ばたいていた。というものがあったのを思い出す。
そのときの様子を想像しようとして、私はすぐに怖くなってやめた。下手にイメージとして捉《とら》えてしまうと、またさっきみたいに強い刷《す》り込みが入ってしまって、情報を正確に受け取ることができなくなる気がした。
(私は、あくまでもしずるさんがこれに興味を持ったときに、そのための材料を集めているだけなんだから……)
うんうん、と一人うなずく。
何メートルあるのか、歩幅で見当を付けてみようかと思ったけれど、なにしろ人が多いので、どうも無理っぽかった。
(まあ、その辺のことは週刊誌とかに乗ってそうだしね)
また空を見上げてみた。
そして、なんだか違和感があるな、と思った。時計台の見つけにくさもそれに由来するような、そんな自分の中の感覚と光景の微妙なズレが――
(――ああ、そうか)
私はふいに気がついた。
ここに来て、そしてずっと感じていたものの正体に、ようやく思い至った。
空が狭い。
周囲を人々が作り上げた建造物に取り囲まれて、すこーんと見上げることのできる頭上というものが、ここには存在していない。
だからこの飛躍してきた凍れる男の事件と、イメージが一致しないのだった。これでは飛んできたというよりも、足を踏み外して、深い深い穴の中に転落してきた――そんな風でさえあった。
*
……そして私は、病院に続く坂道を登っていく。
もう、風もほとんどなくなって、からっと晴れた陽気になっていた。
私は、しずるさんが入院している病院の坂の下からいつも見上げるのだが、その真っ白い建物の、どの部屋にしずるさんがいるのかわからない。でも彼女は窓から外を見ているときであれば、私が坂を登ってくるのが見えるという。
(私の方からも見えるはずなんだけどな……)
しかし私の方からしずるさんを見つけられたことは一度もない。建物が大きすぎて、窓が散らばる小さな点にしか見えないから、ということもあるけど――でも、いつも探しているのにやっぱり今日もわからない。
私は、いつもだったらすぐに病室に向かうのだが、今日はその前に先生のいる部屋のドアをノックした。
「――どうぞ」
「あの……いいですか?」
私はおそるおそる顔を出した。仕事中かも知れない、と思ったのだ。だが先生はカルテらしき物を読んでいるその顔を上げて、
「ああ、かまわないよ。君ならいつでも来てくれて、いつも言っているだろう?」
と言って私の方に向き直った。私が来たことは、どうも下の受付からここに伝えられているらしく、確かにいつ来ても、この先生は私が来ていることを前もって知っている感じである。
「しずるさんなんですけど――この前の、薬を変えるとかなんとかいう話はどうなったんですか?」
「ああ、それなた大丈夫だ。問題はないようなので、現状のままということになったから」
「でも、しずるさんは夢を見ないとか言っていたんですけど――強すぎる睡眠薬とかのせいじゃないんですか」
「いや、むしろ逆で、ぐっすりと寝入っているから薬も大して必要ないんだよ。彼女の精神状態が安定しているのは君のおかげだよ。よーちゃん」
「はあ……あの」
「なんだい?」
「ちょっと気になっているんですけど……どうしてこの病院の人は、私のことをよーちゃんって綽名《あだな》で呼ぶんですか?」
「気になるかい?」
「ていうか、逆になんだか、優しくしてもらいすぎな気がするんです」
私がそう言うと、先生は笑って、
「ははは、それはむしろ反対だよ。君の本名を呼ぶのはどこか畏《おそ》れ多いんだよ、みんな。ここで働いているような優秀なスタッフで、君の名字の持つ意味を知らないような不見識《ふけんしき》な者はいないからね」
「いや、別にそんな大した名字って訳でもないんですけど……」
私は反論をしようとしたが、先生は首を横に振って、
「まあ許してやってくれ。それに君は可愛いらしいからね。よーちゃんという方がふさわしい気がするんだよ。私も含《ふく》めてね」
と、ズレたことを言った。
「はあ――まあいいですけど」
なんだか誤魔化《ごまか》されたような気がする。そんな私に先生は、
「さあ、今日はまだお姫さまに面会していないんだろう? 私の方に先に来たりして、今頃はへそを曲げてしまっているかも知れないぞ。早く行ってあげてくれ」
と言った。私は仕方なく、席を立った。
あんなことを言われたものだから、しずるさんの病室の前に立ってノックしようとしたときに、ちょっとため息をついてしまった。すると室内から、
「――大丈夫、へそを曲げたり、怒ったりはしてないから」
という。ちょっと笑いの混じった声が聞こえてきた。
「あ、いやその……」
私はノックもそこそこに、しずるさんの病室のドアを開けた。
彼女はにこにこと、私を出迎えてくれた。
「いらっしゃい、よーちゃん」
その彼女の微笑みに包まれて、私は……ちょっと言葉に詰まった。
それはいつもの光景だし、いつもの声だ。でも私はしずるさんと会う度に、なぜかとても新鮮な感じがする。
(ああ……)
それは不思議な感覚だ。なじみ深くて落ち着く、くつろいだ雰囲気と、初めての高揚が混じり合った、とても――
「――こんにちは、しずるさん」
私はいつものように、挨拶を返した。
それはどこにでもあるような、ありふれた会話に過ぎないのかも知れない。でも――私はこれと少しでも似たような雰囲気を、他の場所で受けたことは一度もなかった。これは、そういうものなのだった。
3.
「ええと――それでね」
私が言おうとしたら、しずるさんはそれを制するように、
「よーちゃん、まずは水かジュースを飲んだ方がいいわ。今日は、あの坂道を登ってくる途中で何も口に入れなかったし、ここに来てからも、あの気の利かない先生じゃあ、お茶の一杯も出してくれなかったでしょう?」
と言った。やっぱり、彼女からは私のことが見えていたのだ。
「う、うん――ありがとう」
彼女が勧めてくれるままに、私はグレープフルーツジュースを口にした。ほどよい酸味が喉に心地よい。飲んで初めて、私は自分がいかに喉がカラカラだったのか思い知った。
「ああ――おいしいわ」
「それは良かったわ」
私が一息つくまで。しずるさんは穏やかな眼差しで私を見つめてくれている。
「よーちゃん、今日はずいぶんと上ばかり見ていたみたいだったけど――なにか面白いものでも飛んでいたのかしら。私からは見えなかったわ」
「いや、それは――」
私はしずるさんの姿をこそ探していたのだ、と言いかけて、でもそれは見つけることができなかったので――言うのをちょっとためらった。
「あなたは、私には見えないものをよく見ているみたいね、よーちゃん」
しずるさんの優しい声に、私はどきっとする。この白い病室に閉じ込められて、しずるさんは世界のほとんどを見ることができないのだ。
でもそれは、そういう意味ではないようだった。彼女は続けて言ったのだ。
「あなたはとても感性が豊かだから、誰にも見つけられない真理を簡単につかまえてしまうものね、いつでも」
「あ、あのね――もう」
いつでもしずるさんは、こんな訳のわからないことを言って私を煙《けむ》に巻くのだ。
「そ、それよりも――資料を集めてきたわよ。興味あるんでしょう?」
「え、何の?」
唐突すぎる私に、しずるさんはとまどったようだった。
「だから、あの凍結死体が街に飛んできた事件よ。この前もそんな話をしていたじゃない。今度はちゃんと私も下調べしてきたんだから」
「へえ――」
しずるさんはやや眼を細めて、そしてうなずいた。
「――じゃあ。最初から順を追って説明してくれる訳ね?」
「もちろんよ。まかせて」
私はふざけた調子で胸を反らしてみせた。しずるさんも合わせて、ぱちぱちとかるく両手を叩いたりしてくれる。
私は、最初の目撃されたときの様子からちゃんと説明することにして、話し始めた。
「――それで、ちょうど通勤ラッシュの途切《とぎ》れ目、っていうのかしら、比較的人道りが少なくなった時間だったので。そこに、見た人の表現によるとひらひら、って感じで上の方から下りてきたっていうんだけど」
「人道りが減《へ》ってたってことは、ひたすら目立つために落ちてきた、って訳じゃなさそうね」
「え?」
「いや、そういうこともあるかな、って思っただけ。大した意味はないわ」
「――ええと、それで誰かが見つけて、みんなが空を見て――」
「はっきりと見えたって訳ね――誰が最初に見つけたのか、それはわからないのね」
「そうみたい、とにかくたくさんの人がいたから――」
「たぶんカメラで撮影された例も多いんでしょうね」
「ええ、携帯に付いてるデジカメで、写真とか動画とか、かなり撮られていたみたい――テレビで衝撃映像とかいって紹介してて、私も見たけど、でも」
「死体には見えなかったでしょう」
「そうなのよねえ。小さ過ぎてよくわからないってこともあるんだけど、ほんとうに――なんかふわふわしてたわ。空中をひらひら舞《ま》ってて。それが時計台の先端に引っかかった途端に、がくっ、と落ちたって――そこの映像はなかったけど」
「で、地面に着いたのを見たら、こちんこちんに凍《こお》っていた、と。――砕けなかったのかしら」
しずるさんはさらりと、かなり怖いことを言った。しかし私もそれは思ったから、確認はしていた。
「……ヒビが入ってて、かなり潰れていたらしいけどバラバラにはなってなかった、って」
「よーちゃん、さすがに注意深いわね、チェックが行き届いているわ」
誉められても、あんまり嬉しくない領域の話だった。私はちょっとため息をついて、
「それで、顔とかは全部滅茶苦茶になってて、身元とかは全然わからないんだって」
「死後どれくらい経ってた、とかもまったくわからないんでしょ?」
断定口調で言われた。それはニュースでも触れられていたことだった。だから私はこくんとうなずいた。
「そうらしいけど、でもどうしてわからないのかしら。割とその辺の技術って進歩しているんでしょ?」
「それは死体が凍っていたからよ。体内の未消化物とかも全部ひっくるめて冷凍保存されていたわけだから、どうやって死んだかはわかっても、いつから凍らされていたのか、それが判断のしようがないのよ」
「……ええと、つまりそれはアイスクリームに賞味期限がないとか、そういうことと同じなのかしら」
「あら、アイスってそうなの?」
しずるさんが訊き返してきたので、私はうなずいた。
「そうなんだって、凍ってるから――それで溶けると、もうその時点でどっちにしろ食べられないから、って――」
「よーちゃんは博識《はくしき》ねえ」
しずるさんはしみじみと感心したように言うが、こんなものはどうでもいいウンチクで中身がないことである。
「いや、そんなことはいいから――それより、ということは、もしかしたら死体の人は、何年間もずっと凍っていたかも知れないってことなの?」
「可能性は否定できないわ。これがどういうことか、わかるかしら」
「ええと――」
私はしずるさんの言葉の意味を考えてみた。
「つまり――行方不明者とかを探すにしても、その期間がいつからいつまでなのか、特定できないってことかしら……」
何年前まで遡《さかのぼ》ればいいのか、見当もつかないことになるわけだ。それじゃあ確かに身元はなかなかわからないだろう。
「でもその分、死因ははっきりとわかっているんでしょう?」
「ええと……もっとも、だからわからないんだけど」
私の自信なさげな言い方にしずるさんは確信に満ちてうなずいた。
「凍死ね」
「うん……そうみたい」
落ちたときに死体は手酷《てひど》く壊れてしまったわけだが、それでもその破片を調べたら、死ぬ前にどこかを怪我《けが》していたとか、あるいは毒を盛《も》られていたとか、どういうことは一切なかった――ということが全部わかったらしい。確かに検死解剖の技術は進歩しているのだ。
「凍りついた、それ自体が死因というわけね」
しずるさんはしみじみとうなずいた。
「ええと、彼がどこまで飛んでいたのかはわからないんだけど、かなりの高空で。それこそ酸素が少ないところまで昇っていたら窒息《ちっそく》していた可能性もあるらしいんだけど、それもなかった、って――」
私は記事に書かれていたとおりのことを言った。
「凍ってから飛んだのかしら?」
「当日は、上空に飛行機の類《たぐい》は飛んでいなかったらしいんだけど――レーダーに映っていなかったから、これは確からしいんだけど、でもかなり離れたところから投棄《とうき》したものが、風に乗って飛ばされてきた可能性も捨てきれないそうよ」
中国で舞い上がった黄砂《こうさ》が日本にまで降ってくることもあるそうで、気流の流れというのはかなりの力と勢いがあるものなのだそうだ。
「まあ、そうね――だんだんスケールの大きな話になってきたわね」
しずるさんはくすくすと笑った。
「その場合は何かしら? スパイが任務《にんむ》に失敗して、成層圏《せいそうけん》近くの高度を飛んでいる大統領専用機とかから放り出されたのかしら? 血沸《ちわ》き肉踊《にくおど》る大|冒険《ぼうけん》ね」
彼女はとぼけた口調で言う。
でも――確かにそういう感じの話ではあるのだ。
「……ほんとうにそんな感じなのかも知れないわ。なんだか逆にすごすぎて、ニュースとかでも話題にも微妙になりにくいって感じで、とにかく解決されるのを待ってるみたいな」
マスコミにしても、どう取り上げていいのかわからないし、人々もどう噂していいのか困惑している――そんな風なのだ。
「仕方ないわね、これだけ飛躍した事件なんだから」
しずるさんがやれやれ、という調子で言った。
「日常から離れすぎているように見えるから、自分たちの世界と接点がないようにしか見えないのね。鳥のように、凍りついた人が空から降ってくるなんて、有り得ない――だから考えない、そんなところかしら」
ふう、とかすかにため息をつく。
「それで、しばらく経ってそれ以上に何も起きないということになると、安心して日常から切り離して 世の中にはこんなに不思議なことがあるのです。たとえば―― というリストのひとつに加えられることになるんだわ。ごまかすにしても、もうちょっとスマートにやって欲しいわね」
……なんだか難しいことを、投げやりな調子で言う。
「ええと――しずるさん?」
「よーちゃんは、これはどういう事件だと思う?」
「え? う、うーん……確かにどう考えていいのか、よくわからないっていうのが正直なところ、かしら……?」
歯切れの悪いことを、もぐもぐ、と口の中で言う。なんとも情けない。しかししずるさんは、そんな私にあっさりと、
「そうじゃないでしょう?」
と微笑みかけてきた。
「むしろ、その反対じゃないかしら、あまりにも簡単な事件すぎて、そういう風に考えるのがなんだか馬鹿馬鹿しい、みたいな――そんな感じじゃないかしら」
4.
「……へ?」
私は、きょとん、と目を丸くしてぽけっとしてしまった。
しずるさんはそんな私にかまわず、穏やかに微笑み続けている。
「――いや、だって、そんな――全然わからないわよ?」
「それは違うわ」
私が抗議しても、彼女はとりつく島もない。自信たっぷりである。
「あなたはもう答えを知っているし、世間のみんなも知っている。ただ、知らない振りをしているだけだわ」
かすかに首を左右に振る。
「そ、そ、そ――そんなこと言われても」
私は目を白黒させるしかない。
「じゃ、じゃあ――しずるさんはどうなの? この事件はなんだっていうのかしら?」
「ああ――そうね」
しずるさんは指を一本立てて、あごの先にそれをあてて、ちょっと考えるような素振りをして、そして悪戯っぽく、
「これはまたしても、密室の事件といえるんじゃないかしら」
と言った。
「み、み、密室う?」
私は素《す》っ頓狂《とんきょう》な声を上げてしまった。
「な、何の話なのよ? 空を飛んでるのよ? それなのに――」
「空を飛んでいるから、密室なのよ」
しずるさんはしれっとした口調で、ぬけぬけと言う。そして逆に訊ねてきた。
「そもそも、彼はどうして空を飛ぶ羽目になったのかしらね」
「え? いや、だからそれがわからないから――」
「本当に? 本当にわからないって言っている?」
「…………」
私が押し黙ると、しずるさんは、
「だって、前日は電車が停まるほどの台風で、その当日も強風が残っていて、それで――他に何があるのかしら」
と、平然とした口調で言った。
「――――」
私は口をぱくぱくとさせた。言葉がうまく出てこなかったのだ。
「――で、でもそんな風ぐらいで、人間がそこまで飛ぶものなのかしら?」
すると、しずるさんは、肩をすくめて、
「飛行機って、何キログラムあるのかしら。それが宙を舞うなら、それより軽いものも飛んでもおかしくないわね」
と言った。
「――そりゃ、何トンもあるけど……でも、それとこれとは違うんじゃないかと」
「どうして人間は、強風で飛ばされないのかしら」
「だって……だってそんなことになったら、近くの物に捕まるとか、身体を丸めたりとかするから――」
言いながら、私はだんだん嫌な感じがし始めていた。まさか――という気持ちになってきていた。
しずるさんが、そんな私をにこにこしながら見ている。
「――つ、つまり……凍っていたから、飛ばされたってことなの……?」
「例えばコートか何かを着ていて、それを大きく広げるような形で丸ごと凍っていたなら、ほとんどこれは 凧《たこ》 みたいなものだったでしょうね。それこそ、風を受ける面積さえあれば、落ちたら大事故になるような看板だって飛ぶんだし」
しずるさんはうなずく。今回の彼女は、とにかく自信たっぷりである。
そして……私にもその理由がなんとなくわかりつつあった。
「……で、密室……」
「そう、密室」
しずるさんはまたうなずいた。
私は仕方なく、おずおず――という調子で言うしかない。
「つまり――アイスと同じってことなの……?」
「いや。私は何にも知らないから。地図とか、その辺のことを見てみないとなんとも言えないけど。でも港の側にあれば、台風が押し寄せてきたら、さぞ強烈に浜風が吹き寄せていたでしょうね。山とかで遮《さえぎ》られていないんだから」
彼女はもう、私に問いかけもしない。わかっているんでしょ、と言外に言っていた。
そして不快なことに――ほとんどその通りなのだった。
「いや――密室かあ……そういう意味なの?」
「そういう意味よね、この場合は」
私の半端な言葉に、しずるさんも半端な相槌をうつ。
「でも……なんか嫌だわ」
「よーちゃん、この世の中で心地よいことってあまりないものよ。大半は不愉快なことばかりで構成されているんだから」
お説教のような口調で、適当なことを言われる。
「うーん……」
「これって空飛ぶ男の大冒険のお話なのよ、結局《けっきょく》」
彼女は淡々と言う。
「うーん、冒険ねえ……」
「イカロスの話って、よーちゃんは知っているかしら?」
言われて、私はうなずいた。知っているというか、私は子供の頃に聞いたあの話にかなりショックを受けたのである。
空を飛びたかっただけなのに、その夢をただ叶えようとしただけなのに、どうして残酷な結果に終わるのか……それが納得できなくて、泣いてしまったものだった。
しずるさんはそんな渋い顔の私を諭《さと》すように、
「そう、今回の話はあれとちょうど逆と言った感じね。空を飛びすぎて、太陽に近づきすぎて、蝋で造られた羽を溶かしてしまって墜落した男の話の、ちょうど正反対――地を這うようにして生きて、そして凍りついて空を舞った人の、興味深い冒険譚――」
と静かな口調で言った。
「冒険とかというけど、でも――イカロスと一緒にして欲しくないわ」
私はちょっとムキになっていた。
「だって――これって結局、ごまかしなんでしょう?」
「あら、よーちゃん――珍しいわね」
しずるさんがからかうように言う。
「今回の事件は、全然解決してやろうって気がないみたいじゃない」
「だって――」
私はぷん、と頬を膨らませる。
「どうせほっといても、そのうちわかるじゃない、これこそ――こんなに簡単な」
そう、私はこの事件を調べるにあたって、ニュース番組を何本も見たのである。
そこでは、だいたい同じようにニュースをやっていて、そしてこの事件と一緒に、むしろ大きな扱いで紹介されていたのが……
次に、問題になっている感染症にかかっていた食肉を、それと知りつつ出荷しようとした問屋ですが、組織的な犯行であることが検察庁の調べで判明しつつあり、さらに……
……というものだ。それこそしずるさんの言い草ではないが、前日だの当日だのに事件が起きていて、無縁だと考える方こそ無理があるというものだ。
「要するに――病原菌に汚染されていたお肉を、黙って市場に卸そうとしていた人たちの、その中の一人が――冷凍庫に隠そうとしていたのか、出そうとしていたのか、それはわからないけど、とにかく――間違って閉じこめられてしまって、それで――ってことなんでしょう?」
「いや、だから私は知らないわよ。そんなに情報があるわけじゃないし」
しずるさんはまだとぼけている。私はいらいらして言葉を続ける。
「だから、暴風雨の中でも無理して作業をしていたんだわ。警察が目星をつけているのがわかったから、慌てていたんでしょうね――で、仲間が見つけたときにはもう、こちんこちんで」
「とにかく外に出したら、ぴゅう、と風が吹いて、飛んでちゃった――まあ、そんなところじゃないかしら?」
しずるさんはひらひら、と手を蝶々のように揺らした。
「大した冒険だったはずよ――風に乗って、上へ下へ、風に飲まれて津波に吹き飛ばされて、最後には上空にくるくると舞い上がったまま――翌朝まで落ちてこなかったんだから、細かいことはそのうち専門家が 天候の急激な変わり目によくある気圧のズレに伴う対流現象が とか、事細かに説明してくれるでしょうね」
「まったく――全然つまんないじゃない、こんなのは!」
殺人事件ですらない。ただの馬鹿馬鹿しい悪人の自滅だ。今頃は警察に尋問《じんもん》されているであろう仲間がそのうちに自供して、事件の全貌はすぐに世間に知れ渡ることだろう。
そして、みんな幻滅するのだ。私のように奇妙な詩美性をそこに見いだしてしまっていたような者は、なおさら――。
こそこそと人目を忍《しの》んで、それこそ密室の中で行われた悪質な犯罪の、無様な失敗――それだけのことだった。
しずるさんはそんな怒っている私を、穏やかな瞳で見つめている。
「ねえ、よーちゃん」
「なあに」
「あなたはやっぱり、今回の事件でも色々と調べてくれた訳よね。現場も見に行ったの?」
なんだかすごく優しい声なので、私は少なからず戸惑った。
「いや、街に行ってみただけで、肝心の冷凍倉庫とかはもちろん、全然――なんだけど」
「街に行って、どう思った?」
「……ていうと?」
「あの辺の場所に立ってみて、それで空を見上げて、何を考えたかしら?」
「…………」
私は何と言えばいいか、迷った。
でも、結局は正直に言うしかない。
「空を見上げて……狭いな、って思ったわ。あと、自分がすごくちっぽけな気もして、それで」
「空から何かが降りてきたら、その実体を見定めるより先に、その事実そのものが信じられないような、そんな感じがした?」
「……うん」
人がたくさんいて、そのことに気を取られて、実際のところ空では何が起こっているのかとかそんな風な気にならないような場所だった。都会というところは……。
「舞い降りた鳥人は、その上で羽ばたいたのよ、きっと」
しずるさんの言葉は、たくさんある目撃証言のそれと完全に一致していた。
それはたぶん、凍りついたコートの裾《すそ》が溶けかかっていて、ややひるがえっていた――それだけのことだったのだろう。
でも、私にはそのときにその人が見たであろう光景がはっきりと想像できた。
今日も昨日と同じ一日が始まる――そう思って交差点を渡ろうとしていた人の上で何かが飛んでいたら、誰だってきっと、そう思うのだ――。
「それで――それでね」
私はどこかすがるような口調になってしまった。言わなくてもいいようなことを言ってしまっう。
「地面にね、その――白い線が引いてあって、ほら、被害者の。あれが、なんだか――逆に」
どう言えばいいのかわからないような、幻想とも妄想ともつかぬような、あのイメージをどう説明したらいいのか全然わからない癖に、私は口走っている。
「なんだか二次元の世界の中で、私たちの三次元を塗りつぶして、その中を飛んでいるように見えたりして、周りで動いている人たちが全部、ただの背景みたいな――ああもう、私なにを言ってるんだろう?」
ぐちゃぐちゃになって、私は頭を抱えてしまった。
でもそんな私にしずるさんは、
「そうね――わからないわね、でもよーちゃん、私にはあなたが何を思っているのか、それだけはわかるわ」
と微笑みながら言った。
「え?」
「あなたは、きっと――そこで世界の広さと、そして狭さを一緒に見てしまったのよ。それこそ空よりも広い、何もないような茫漠《ぼうばく》に包まれているのに、たくさんの人がいて無数の方向があるはずなのに、壁だらけで密室に閉じ込められているのに等しい、その世界――でもそれは、特別なことではないのよ」
彼女の表情はあくまでも穏やかだ。
「そう、珍しくもない――だから自分が変かも知れないなんて思わないで」
「そう――なのかしら」
私は、彼女が何を言っているのか、正直のところ難しすぎてわからない。でもひとつはっきりしているのは、その言葉が私を落ち着いた気持ちにさせてくれるということだった。
「そうよ、変なのは私なんだから」
しずるさんはやや胸を反らせて、ふざけた調子で言った。私は思わず、ぷっ、と笑ってしまう。
「もう、またそうやって」
うふふ、としずるさんも笑う。
「だってよーちゃん、あなたは私のためにその気味の悪い事件のことをわざわざ、前もって調べておいてくれたんでしょう? 何も話していなかったのに」
「え? いや。違うわよ。だってしずるさん、言ってたじゃない。飛躍がどうとか――」
私がそう言うと、滅多《めった》に見られないものが私の前に現れた。
しずるさんは、私の言葉にきょとんとしていた。
目を丸くして、ぽけっとした顔になっていたのだ。
「……へ?」
それはほんとに無防備な顔だったので、私の方もつられて、同じような顔になってしまう。
「……え?」
「……何のこと、よーちゃん?」
「いや……ええ? だって――」
私はよく考えてみようとした。そしてやっと、自分の早とちりに気がついた。
「――えーと……そ、それじゃあもしかして、しずるさんは……」
彼女は、あの事件に興味など最初からなくて、私が一人で先走っていただけだったのだろうか。どうもそうらしい。
「――あの、あれ――つまり……」
私がしどろもどろになっていると、しずるさんが、ああ、と言って手をぽん、と叩いた。
「飛躍かあ、飛躍ね。そうそう、確かそんなことを言っていたわ、私」
「……あの?」
「ああ、悪かったわ――うん、ごめんなさい、よーちゃん」
謝られても困る。私がぽけっとしていると、しずるさんはさらに、
「いやいや――あれは違うのよ。あのとき飛躍って言ったのは」
と首を左右に振った。
「今年は雨が多くて、じめじめしているって話をしていたでしょ? それで人の気分は天候がどれぐらい影響するか、って――それって気圧なのか、風速なのか、湿度なのか、気温なのか、それともその人の天気にまつわる思い出なのか、どれだろうって思ったら、その間の関係がずいぶんと離れている気がして、それで――」
「……論理が飛躍している、って?」
「そうそう。言葉が足りなかったわね。飛躍してたのは、私自身だったみたい」
しずるさんは苦笑とも照れ笑いともつかない顔をしてみせた。
「いや――飛躍って言葉からあの事件のことだって思い込んだ。私の方こそ――よっぽど飛躍してたわ」
私も笑うしかない。
私たちはふわふわと、なんととりとめもなく、地に足が着いていない話をしているのだろうか。
飛躍し、循環《じゅんかん》し、明瞭な結末もない。そして、それは他に喩《たと》えようもなく、なんとも――馴染《なじ》み深い癖に、とても新鮮だ。
しずるさんも笑い、私も笑う。
それは世界がどんな天気であろうと、窓の外で何が飛んでいようと、変わることのない実感だと私は思っていた。
[#地付き]“The Ice Bird”closed.
[#改ページ]
はりねずみチクタ、船にのる そのD
「――あ、そうだ」
彼女が突然、声を上げました。
「そう言えば、あれを思いついたわ。そうそう、忘れるところだった」
うんうん、と一人でうなずいています。
「なあに? なんのこと」
ベッドの上の彼女も、首をかしげて訊きます。
「あれよ、あれ――鳥が空から下を見おろして、目立つ人っていうの。チクタが探している、伝説の時計職人の」
彼女が言うと、ああ、とベッドの上の彼女もうなずきました。
「そういう話もあったわね。でも、地上から見ていると、あんまりわからないっていうことになっていたわね」
「うん、思いついていたのを、今思い出したわ」
あぶないところだったようです。そのまま彼女が思い出さなかったら、チクタはまたしてもぼんやりと放ったらかしになるところでした。
「それで、なんなの?」
「これは要するに、帽子よ」
彼女は自信たっぷりに言いました。
「帽子のてっぺんに、きっと仕掛けがあるのよ。実際に動いている時計があるの。そういうものを被っているの」
「ははあ、なるほどね、時計職人としての、風変わりなお洒落《しゃれ》ってわけね」
「おとぎ話だから、シルクハットかも知れないわ。よくある紳士のたしなみってところ」
「英国風味だったのねえ。それは知らなかったわ」
「とにかく、空から見ると一目瞭然、時計が歩いているんだから」
「なるほどね、他の人間はみんな、上から見おろされることなんて考えないのに、その職人さんだけは鳥が見ているかも知れない。と考えているのね。なかなか想像力の豊かな人みたいじゃない?」
「とにかく、鳥は彼のことを知っているし、よく噂にもなるのよ」
「チクタには盲点だったわねえ。彼は逆にちっちゃいから、いつもみんなを見上げているんだから」
「でも、帽子の時計さえ動かせるんだから、はりねずみのお腹の時計なんか簡単に動かせるようになりそうじゃない?」
「希望が出てきたわね。でも鳥は、なまじ自分たちがすいすいと世界を動けるものだから、ちっちゃなチクタがあちこちへと行くために、どれだけ大変な思いをしているかを知らないから、とんでもなく遠い場所のことを すぐ近くだよ なんて言っちゃうんでしょうねえ。時計職人さんがいるのは、どこかの島だっけ?」
「ああ、イルカっちがそんなことを言っていたわね。そうそう。でもイルカもその辺は鳥と同じよねえ。海なら簡単に、どこへでも行けちゃうんだから。どうしようか?」
彼女の質問に、ベッドの上の彼女は、
「まあ、チクタはとりあえず、船が次に行く港に行くしかないんでしょうけど、船は都合《つごう》良く、その島に向かっているわけでもないでしょうし、行くには、ちゃんと仕事としての理由がいるわ」
「ああ、荷物を運ぶとか。船としてのきちんとした仕事でもないと、そんな遠くの島には、居候《いそうろう》のチクタのためだけには行けないわねえ。ましてやオンボロ船だし」
「というわけで、チクタが次にしなければならないことは、その理由を探すことね」
「うわ、仕事を取ってこい、って? さらに厳しくなってきたわね――」
*
「その理由があれば、別にワシのようなオンボロでなくても、きちんとした船に頼んで島まで乗せていってもらえるだろう。頑張《がんば》れよ」
と船に言われて、チクタは港に降りました。しかし困りましたね。なんの当てもないのですから。
するとそこに、面白そうだからとついてきていたイルカっちが、
「とりあえず時計の元締《もとじ》めの所に行ってみちゃどうだ。案外《あんがい》簡単に、職人さんのことを教えてくれるかも知れないぞ」
と提案しました。チクタは言われたとおりに、時計の問屋さんに向かいます。イルカっちは川を泳いでついてきます。
時計の問屋さんは、チクタの話を聞いて少し驚きました。
「いや、あの人はもう何年も行方知れずなんだ。見つけて欲しいものだが――でもあの人は、とっても気難しいから、頼んでも聞いてくれるかどうかわからないぞ」
なんてことを言われてしまいました。チクタは少し悩《なや》みましたが、とりあえず会ってみなければ始まりません。
「そうか、それなら探してみるのもいいだろう。もし彼に出会えたら、この手紙を渡してくれ」
といわれて、チクタは荷物を渡されます。
「実はここ数年、正しい時間が微妙にわからなくなっているんだ。世界中すべての時計が、みんな微妙に違う時間を指している。それを合わせることができるのは彼だけだ。頼むぞ」
なんだか余計な責任まで背負わされてしまったようです。チクタはちょっと後込みしつつも、仕方ないのでこくんとうなずきました。
色んな乗り物に乗れるパス券ももらって、チクタはまた新たなる旅に向かいます。今度は、とりあえず目的地にもっと近い港に向かう列車です。
「じゃあ、向こうの港に先に行って待ってるよ。また合おうぜ」
と、ひとまずイルカっちと別れて、チクタはひとりで駅の入り口をくぐっていきます。
*
「……でも、これっていつ終わるのかしら? なんだか話も大きくなってきたし」
「まあ、いいんじゃないの? すべてはチクタ次第よ」
二人はとぼけたような、でも同時に妙に真剣にはりねずみの行方を心配もしているような、不思議な調子で話を続けていきます。
そこは白い部屋で、四方は壁に囲まれて、でも二人の心の中では、期待と不安でちいさな胸を一杯にしているはりねずみが世界をめぐる冒険を続けているのです――。
[#地付き]“The Bottomless Closed-Rooms In The Limited World”
[#改ページ]
あとがき――密かなるは密にして
密室という言葉には独特の響きがある。密室の中で決められたこと、とか、密室で会う、とかいうとなんだかものすごくいかがわしく感じるし、密室で殺された、というとこれはもうこの世の不条理を一身に背負った奇妙なものの象徴、という風にミステリーでは扱われる。外にいて落雷で死ぬ人の方が密室状況で死ぬ人よりも遥かに少ないと思うが、珍しいだけで異常さはない。密室はそれに比べて、変な言い方をするならば――親しみ深い存在である。己の周りに、心に、秘密を隠した小さな密室を持っていない者はいないし、それは密室であるが故《ゆえ》に、無関係の者にそれについて話したり、相談したりすることもできない。だからそれに似たものが現れると、人は不安になり、恐れ、そして惹《ひ》かれる。密室状況の中で、不可能と思われることが起きる。それが我々に与える印象の質というものはそういうもののような気がする。それはある意味で、自分の秘密が暴かれるときのあの恐怖と、同時に身軽になった開放感が入り混じった、あの感覚に近いような、なんというか。
密室の中は当然隠されている。だからこそ密室なのだ。隠されていて、外に出られない。そして外からも入れない。中で何が起こっているのか他の者が知ることはできない。ただ開かれたときの結果だけがあるのみだ。そこで何があったのかはわかっても、何は起きているのかを前もって知ることも、同時に体験することもできない。開けられた後の密室に我々が感じるのは気安さだ、もはやそれが起こってしまったことで、とうに取り返しはつかなくなっていて、我々の出来ることは何もない――何もしなくていい。ただ、謎があるならばそれを暴き立てるだけでいい。隠されていたものを白日の下にさらけ出す――だがそれはなんのためだろう?
誰しも心の中に密室を抱え込んでいる。誰にも言えないこと、表沙汰には決してできないことを、その中に貯め込んでいく――最初は、それは自分のささやかだがとても大切な壊れやすい気持ちを守るためだったかも知れない。しかしあまりにもそれを放ったらかしにしておくと、密室それ自体が強固なものになってしまう。隠すのにはそれなりに目的があったはずなのに、いつのまにか隠すことそれ自体が目的になってしまう。ただ意味もなく、大した理由もないのに、重要なことを密室で決めるようになってしまう。色々なものを隠し続けてきたあげくに、自分でもどんなものを貯め込んでいったのか把握しきれなくなってしまった密室で、大きな組織などの意思決定というものもそんなところがあるが、どんな組織でもそれを創っているのが人間である以上、個人の在り方と大して変わることはなく、我々はみな他の者の目から逃れて暗がりでこそこそと 自分の気持ち を決めてしまっているような気がする。
隠されていた真実、閉じこめられていた意図、それらを探偵が不条理な密室の中から見つけだすのを目にするときに感じる奇妙な喜びというのは、つまるところ僕たちがいかに自分の心の中に、表沙汰にできないことを濃密《のうみつ》に、たくさん抱え込んでいるかということの裏返しに過ぎないと思う。本当はそれをこそ暴いてほしい――自分でも何がなんだかわかわなくなっているものを、そのすべてを明確なものとして整理してほしいというだけのことなのではなかろうか。密室の謎を見つけたときの不思議な興奮は、そのまま――そういうものはやはり実際に存在するんだ、自分のモヤモヤと同じものがあるんだ、という確認なのであって、しかし、それを暴き、何もかも白日の下にさらすのは、やっぱりなんだかんだ言ってどこぞの者とも知れぬ探偵などでなく、自分自身しかいないように思うんだが――それはなにしろ閉じこめられて殺されている被害者と、探偵が同一人物というわけで、かなり理不尽ではある。でもまあ、それが人生とか簡単にまとめます。ちと無茶ですが、以上です。
(たとえ話なのか本題なのか、曖昧なまま振り回すなよな……)
(色々とそういうものですから、仕方ないですね、ええ)
[#地付き]BGM “EVERYTHING'S GONNA BE ALRICHT” by SWEETBOX
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初 出
「しずるさんと吸血植物」 ……「月刊ドラゴンマガジン」2003年8月号増刊
[#地付き]「ファンタジアバトルロイヤル」
「しずるさんと七倍の呪い」 ……「月刊ドラゴンマガジン」2004年2月号増刊
「しずるさんと影法師」 ……書き下ろし
「しずるさんと凍結鳥人」 ……「月刊ドラゴンマガジン」2004年8月号増刊
[#地付き]「ファンタジアバトルロイヤル」
「はりねずみチクタ、船にのる」その1〜その5 ……書き下ろし
底本:しずるさんと底無《そこな》し密室《みっしつ》たち
he Bottomless Closed-Rooms In The Limited World
上遠野《かどの》浩平《こうへい》
[#地付き]平成16年12月15日 初版発行
[#地付き]富士見書房