しずるさんと偏屈な死者たち
上遠野浩平
人は誰しもなにものかを隠し、誤魔化しつつ日々を過ごす――況《いわ》んや、死者に於いてをや
[#地付き]――〈錯誤に埋もれる虚偽〉
第一章 しずるさんと唐傘小僧 The Umbrella
1.
第一発見者は、よりによって山の中で迷子《まいご》になっていた遭難者からのものだった。やっと電波が届くところにまで来られた携帯電話からの通報で、彼は自分の助けを求めるよりも先に、その恐怖をどうにか処理してくれという感じだった。
「――もしもし?」
相手は非常に動揺しているので、通報を受けた婦人警官は最初、何を言われているのかまったく理解できなかった。
「落ち着いてください。なんですって?」
『み、見つけて――だから。なんかこう、とんでもなくって』
「見つけた? 何をですか?」
『だから――』
ぜいぜいと息を切らした声の後、
『――い、生きてるはずがないと言っているでしょう!』
と疲れてかすれた金切《かなき》り声で言われた。
「何がですか? 生きていない?」
『たぶん人間だ――うん。女だと思うけど、でも』
「ちょっと待ってください。人間がどうかしたんですか?」
『どうかしたのは、きっとだいぶ前で』
声は震《ふる》えっぱなしで、要領《ようりょう》をまったく得《え》ない。
「順序立てて言ってください。何かを見つけたとおっしゃいましたよね?」
『だから――人間だよ。だと思う』
「人間が生きていないって――死体ですか?」
『だから死んでるよ、完全に! 死んでなきゃなんなんだよ――あ、あんなの[#「あんなの」に傍点]!』
「死体を発見したんですか? 本当にそれは人間なんですか?」
『い、いや――なんていうか』
声は自信なさげに震えている。
『形は、その――』
「遺体は誰《だれ》のですか?」
『し、知らないよそんなの。知るわけないだろう』
「どんな状態なんですか?」
彼女はまだ、これが悪戯《いたずら》なのか本当の通報なのか迷っていた。激しい動揺は演技には思えないが、言っていることはなんだか支離滅裂《しりめつれつ》だ。しかし、この通報者はさらにとんでもないことを言い出した。
『なんていうのかな――その』
しばしの絶句《ぜっく》の後、その声は、
『あのさ――からかさこぞう≠ンたいなんだよ、なんか』
と告《つ》げたのである。
「……は?」
『知ってるだろ。ほらあの、足が一本で、眼《め》がひとつで、傘《かさ》だからてっぺんから骨がだらんと下に伸びていて――』
――一分後、彼女はとにかく上の方に通報を報告し、直《ただ》ちにその緑の深い山中の現場には近辺の警官が派遣《はけん》されて、待っていた通報者とその問題の死体≠確認した。女性のものと確認されたそれ[#「それ」に傍点]は死後三日ほどが経《た》っている腐敗《ふはい》しかかった死体で、どう見てもただの事故死ではない状態だった。
その死体は異常だった。
右脚が腰から消失しており、両腕は鉈《なた》のようなもので切断されていた。それだけならばバラバラ死体の一種ということになるのだが、しかしこの両腕は、正確に言うならば身体からは離れていなかった――肩の所では完全に鉈のような刃物によって分断されている。
だが、その切り離された腕のその手≠ェ――その指先が頭部に喰《く》い込んでいた。
死体の顔面を、その皮膚を突き破って頭蓋骨を直接、その切り離された手ががっしり[#「がっしり」に傍点]と握りしめているような状態になっていたのである。
脚がひとつ、そして両腕は頭部とくっついていてだらりと下に垂れている――その全体はまるで矢じるし[#「矢じるし」に傍点]のような――あるいは確かに、通報にあったようなオバケのからかさこぞう≠ノ似たシルエットだった。
ご丁寧《ていねい》に、死体には激《はげ》しい苦悶《くもん》のせいか、口から長い舌が飛びだしていて、右手の中指と薬指は右眼を突き破っており、一つ目になっていた。ざんばら[#「ざんばら」に傍点]になった長い髪の隙間《すきま》から、その光の失せた器官が虚空《こくう》を睨《にら》み付けていた。
県警本部はこれを殺人事件の可能性が高いとして対策本部を設けて付近の詳《くわ》しい捜査に入った。同時に女性の身元の確認も急がれていたが、服は元より身元を証明するものは何も身につけておらず――というか、これは犯人が隠蔽《いんぺい》工作したものと思われたが――判明には時間が取られそうだった。
そしてそのころにはマスコミが既《すで》にこの猟奇《りようき》事件を嗅《か》ぎつけていて、騒ぎはだんだんと大きくなり始めていた。
「ふう――」
その病院は都市部から少し離れた山の中腹《ちゅうふく》にある。ちゃんと舗装《ほそう》されて、ガードレール付きの歩道もある道で下界とつながっているのだが、その道はほとんどの場合、誰も通っていない。
「ふう……」
私は、その道を一人てくてくと歩いていく。
まわりはびっくりするぐらいに静かで、風が木の葉をゆらす音なんかが鮮烈《せんめい》に響いたりする。
最初にここに、お見舞《みま》いに通《かよ》い始めたときはなんだか、少し怖《こわ》いというか、いつ来てもまっさらで新しいアスファルトの路面にひるんでいたりもしていたけど、もう今となってはすっかり慣れてしまった。
誰も通っているところを見たことがないのに、なぜか歩道の途中には唐突《とうとつ》にジュースの自動販売機が置かれている。
私は歩いてきて、喉も渇《かわ》いているのでいつもここでジュースを買って飲む。今日はオレンジにした。
(でも、私以外にここでジュースを買う人っているのかしら?)
それはいつも考える疑問だ。なにしろこの自販機はいつ来ても必ず新製品が揃《そろ》っているからで、放置されて忘れられているという訳でもなさそうだからである。病院の人たちは建物の中にもちゃんとあるからここまで来て買うはずがない。
私は缶を片手にふたたび歩き出し、やがて病院の建物が見えるところまで来た。
(――うーん、いつもながら……)
とにかく、白い建物である。
病院なんだから当たり前じゃないかとも思うのだが、それにしても白さが目立つのは、形が妙にシンプルで真四角《ましかく》というイメージだからだろう。なんてのか、縦に細長い豆腐みたいなのだ。あるいは――
(……いやいや)
私は脳裡《のうり》からそのイメージを振り払う。そんなことを考えてはいけない。
「おっ、よーちゃんじゃないか」
すっかり顔なじみである警備の人が私を見つけて声をかけてくる。
「こんにちは」
私も返事をする。持っていた缶を彼に渡した。彼は側にあるゴミ箱にそれを放《ほう》り込む。
「今日はどのくらいいるつもりだい?」
「ええと、いつもと……」
同じ、と言いかけて、私はすこし迷《まよ》う。もしかすると、長話をすることになるかも知れないな、と思ったのだ。
「……いつもより、長いかも知れません」
「そうか。まあお姫さまにはよろしく言っておいてくれ」
「はい」
私は警備のゲートを通って病院の敷地内に入る。
やたらに広くて大きい病院の受付に行く。いつもながら、私以外にそこに申請《しんせい》をするとか呼び出しを待っている人は誰もいない。
「あの、入院している人に面会したいんですけど」
私は、受付にいる人が初めて見る人だったので少し緊張《きんちょう》しながら言うと、彼女はニコニコして、
「あなた、よーちゃんでしょう? 話は聞いています。あなたならいつでも通っていいんですよ」
と言った。私はどうも、とお礼を言ってエレベーターに向かった。
エレベーターに乗って、昇って、そして降りるとそこはもう、ひとつの大きな病室の前なのだった。
このフロアにはベッドはひとつしか置かれていないし、そして入院患者も一人しかいない。他のフロアには、他の患者さんもいるとは思うのだが、私は誰とも会ったことはない。この病院がどういう基準で入院患者を選んで受け入れているのか、私もよくは知らない。
こんこん、と私はドアをノックした。
いつものように、きっかり三秒後に返事がかえってくる。
「――どうぞ」
ドア越《ご》しなのに、その声はとても明瞭《めいりょう》に聞こえる。
私が扉《とびら》を開《あ》けると、上体をベッドの上に起こして彼女は、相変《あいか》わらずの穏《おだ》やかな笑《え》みで迎《むか》えてくれる。
「いらっしゃい、よーちゃん」
私も彼女みたいな笑顔をしながら喋りたいと思うのだが、どうもうまくいかない。
「しずるさん、ご機嫌いかが?」
「退屈していたわ。でも、あなたが来てくれたので今はいい気分よ」
開けられた窓から入ってくる風で、彼女の長い髪の毛が少しふわっ、と流れる。
「何か食べる?」
私は置かれているフルーツバスケットに手を伸ばす。
「なんでも。好きなものをどうぞ」
「いや、私じゃなくて」
「でも、オレンジはさっき飲んできたから、いらないかしら?」
言われて、私はどきっとした。
「え?」
「果汁《かじゅう》百パーセントでしょう? 口の中には味がまだ残っているんじゃないかしら」
まっすぐに見つめられて、言われる。
「…………」
私はちょっと絶句する。しかしすぐに、しずるさんはとても匂いに敏感だということを思い出す。普段は病院の消毒液の匂いに囲まれているものだから、神経が細《こま》かいのだ。
「ご、ごめんなさい――」
私は頬を熱くして、口元を押さえる。
するとしずるさんは、くすくすと笑って、
「よーちゃんは、ずいぶんと恥ずかしがり屋さんね?」
とからかうように言った。
「だって――」
「あなたはいい香りがするわよ、うん。なんていうか、お日様のような匂い」
「どういう匂いなの、それって?」
「うーん、良く晴れた日に干した後のシーツみたいな?」
「誉め言葉ってことで受け取っておくわ」
私がため息混じりで言うと、しずるさんは悪戯《いたずら》っぽくウインクした。
「単にかわいい≠チて言われるのは慣れてるでしょう? だからたまには少し屈折《くっせつ》した誉められ方もいいんじゃない?」
「それは冗談? それとも皮肉なの?」
どう見たって、誰に訊《き》いたところで私よりもしずるさんの方が遥かに可愛らしいし、美人さんである。
「とんでもない」
しずるさんは首を様に振る。
「私は心にもないことは、決して言わないわ」
やっぱり本気なのか、ふざけているのかよくわからない、ふわっとした口調だった。
私もくすくすと笑った。なんにせよ、しずるさんの明るい表情を見ているのはホッとすることだった。
「ところでよーちゃん、最近はどうなの」
軽い調子で訊かれて、しかし私はその訊き方に嫌な予感を覚えて、
「どう、って? 学校の成績なら相変わらずよ。もう少し英語が上がれはいいんだけど」
とぼけようとしたが、しずるさんはそんな私にかまわずに、さらにニコニコして、
「なかなか、面白いことが起きているんじゃないかしら?」
と、私の顔を見つめながら言った。
「そう、なんて言ったかしら。例のからかさこぞう≠セっけ」
「…………」
しずるさんにはひとつだけ、とても困るところがある。
それはなんというか、私からすると眼を背《そむ》けたくなるような残酷《ざんこく》な事件とか複雑に込み入った謎《なぞ》とかに、ひどく執着《しゅうちゃく》して興味を示すという癖《くせ》だ。
前にも、大きな長いトンネルの中で何台もの車が追突《ついとつ》して、十数名という人が死ぬという痛ましい事故があったのだが、どの車の残骸《ざんがい》にも後ろから追突された跡があって、一体最初に衝突していった車はどれなのか、まったくわからないという不思議な状況になっていたことがあった――しずるさんはその話を聞くと、私に色々な新聞やらテレビのニュース特集なんかを調べさせて、推理して、その原因を突き止めてしまった。私もそのときは、事件の意外な真相に驚いたものだが、何よりもしずるさんの頭の良さに一番驚いた。警察や色々な人が調べに調べて誰もわからなかったことを、彼女は現場に行くどころか、病院から一歩も外に出ることなく解明してしまったのだから……。
(……でも)
でも私自身は、そういう人が死ぬとか殺されるというような話は基本的に苦手なのだ。
しかし、しずるさんは逆に、そういうものにむしろ自分から深入りするようなところがあるのだった。
「…………」
私が黙り込んでしまうと、しずるさんは私の手をそっ、と握《にぎ》ってきた。彼女の手は少し冷たいので、いつも私はその感触《かんしょく》にいつもはっ[#「はっ」に傍点]となる。
「お願い、よーちゃん。お話を聞かせて。私はあなたとしか、ほとんど会えないんだから」
しずるさんはやや上目遣《うわめづか》いに、眉《まゆ》を寄せ気味《ぎみ》にして私の眼を直接に見つめてくる。
「う……」
どこか甘える猫のような、しかしとても遠いところから見つめてきているような――私は、しずるさんのこの眼にとことん弱い。
「わ、わかったわよ。協力すればいいんでしょう?」
私はため息をついて、持ってきた鞄《かばん》を開けた。中には新聞とか週刊誌が入れてあった。
そう――こんなことになるんじゃないかと思って一応資料≠用意しておいたのだ。使わないに越したことはなかったのだが。
「やっぱり、よーちゃんは優《やさ》しいわ」
しずるさんはまた微笑んだ。
「もう――でも、これは普通に売っているものばかりだから、捜査資料みたいな細かいことまでは書いてないわよ?」
「その辺は空想で補《おぎな》うから、大丈夫よ」
資料を手にとって読み始めながら、しずるさんは簡単に言う。
「空想って――」
たしか名探偵とかそういう入って、明確でないことははっきりするまで調べたりして、事実でないことは推理に加えなかったりするものじゃなかったかしら? ――と私は訝《いぶか》しんだが、頼りないのは私の方なので文句も言えない。
「よーちゃんからも話を聞きたいわね」
しずるさんは新聞を読みながら、私に話を振る。これはいつもそうで、しずるさんはとにかく、私の観点から事件のことを知りたがるのだ。
「でも――どう言えばいいのかしら。つまり――」
私は嫌々《いやいや》ながら、しずるさんにその不思議な死体の話をしてみた。
「――というわけで、脚が片方なくなっていて」
「両手が顔面に喰《く》い込んでいた、と。それなのに肩の付け根の所で胴体から切断されていた――ふむ」
しずるさんは冷静な表情でうなずいた。全然怖がっていない。
「他の傷はないのね?」
「そうみたい」
「体内から睡眠薬等は検出されなかったのよね?」
「うん。普通の薬のはあったらしいけど」
正確には、それは日常的に飲み続けなけれはならない経口避妊薬《ピル》で、どうやら非合法のものらしい。でも別に毒とかではないのは間違いないという。
「死因は出血とショック、でしょうね」
「たぶん」
「両腕が鉈《なた》のようなもので切断されていた、ということから、ただの事故である可能性はゼロになっている訳ね」
「でしょうね」
「発見されたのは針葉樹《しんようじゅ》が生《お》い茂《しげ》る、傾斜のきつい山の中、か。運び込んで捨てた、と見てもおかしくはないような場所ってことにはなっているのね」
「いるみたい」
「右脚の発見はまだなのよね?」
「という話よ」
しずるさんは淡々《たんたん》と、資料を見ながら私と話を進め、状況を検討している。読むのと話すのを同時にやるのがしずるさんのやり方なのだ。でも私は、
(あんまり質問しないでほしいなあ)
と弱気なことを考えていた。訊かれると、気味の悪いことを答えなければならないからだ。しかしもちろん、しずるさんはそんな私の気分などおかまいなしで、
「脚がもぎ取られた腰のところとか、両腕の付け根には、生活反応があったのかしら?」
と訊いてきた。
生活反応というのは、なんというか――生きているときに切断された傷跡に見られるものだそうだ。しずるさんと付き合っていると、そういう単語に詳しくなってしまう。
「ええと――あったみたい」
ニュースでははっきりとは言っていなかったが、一部の週刊誌にはそういうことまで書かれていた。
「つまり――まだ生きているときに、脚がもがれて両腕は切られていた訳ね? それで、頭を握りしめている手の方はどうだったのかしら――」
しずるさんは囁《ささや》くように言いながら、何度かうなずくような動作をしている。もう資料は手にしていない。知るべき情報はぜんぶ得てしまったようだ。
「――いやいや、きっと確認していないわね」
「なにを?」
私が訊いても、しずるさんは答えず、さらに何度か首を上下に振る。
そして何分か、そのまま考え続けている。
私としては、こういうときは邪魔《じゃま》にならないように黙っている。
するとしずるさんが突然、ぽつりと、
「……かみなり、かな」
と不思議なことを言い出した。
「は?」
カミナリ? なんのことだろう。死体には感電した跡などはなかったので、これは死因が落雷によるものとかそういう話ではあり得ない。
しかししずるさんは考え込んでいるので、私としても特に質問するのは控《ひか》えた。どうせ聞いても理解できないだろう。
しずるさんはそれからも考え込んでいたが、やがて、
「――うーん、理由がわからないわね――」
と呟《つぶや》いて、ほう、とため息をひとつついた。これは考え事は一応終わったということだ。
「はっきりと、私たちにわかるような理由なんてあるのかしら?」
私は俗っぽい感想を口にする。そう、この事件で一番の謎は正にその理由≠ノあるのだった。
犯人はどうして、あんな変な形に死体を細工《さいく》する必要があったのか?
その理由こそが、この事件を得体の知れない恐怖小説じみた印象にしている原因なのだった。
週刊誌では狂気の産物、恐怖の人体アート≠ニかなんとか書いてあったけど、人間の両腕を切り離した後で、その手で顔を強引《ごういん》に掴《つか》ませるなんて、どういう心理でそんなおぞましいことができるのかと思う。理解の範囲を超《こ》えている。……というか、私としてははっきり、理解したくない。それがつまらない臆病《おくびょう》さによるものであっても、私としてはそんなことがわかるようになるくらいなら、臆病のままの方がマシだと思う。
ところがこんな私の、どうでもいいような意見に、
「え?」
と、しずるさんは顔を上げて、私の方を見た。
「なんですって?」
驚いたような顔をされたので、私の方も驚いてしまう。
「――え? な、なに?」
「わかるような理由はない、って――」
茫然《ぼうぜん》と、信じられないというような顔をしている。
「よーちゃん、あなたが、そんなこと――」
ふるふる、とその細い肩を震わせている。
「え――え?」
私は訳がわからなくて、ひどく慌《あわ》てた。必死で弁解《べんかい》する。
「い、いや――だって。なんていうの、異常性格犯罪っていうの? そういうものは難しくって、その――私は鈍《にぶ》くって、その、よくわからないから」
おどおどしつつ言うが、しかし弁解といっても、なにをどう思われているのか、さっぱりわからないのでは弁解にもなんにもならない。どうしようと思った。
ところがこれで、
「ああ――」
と、しずるさんは明らかにホッとした顔になり、
「ああ、うん――そういう意味ね」
と胸に手を当てて、ゆっくりとうなずいた。その様子は元の、落ち着いたしずるさんである。
「ごめんなさい。ちょっとした勘達《かんちが》いだったわ」
「へ? ――い、いや、いいんだけど別に」
私も安堵《あんど》したが、しかし落ち着かない。
「でも……どういう意味だと思ったの?」
「いやいや、つまらない誤解よ。私の勝手な思いこみ」
しずるさんはくすくす笑いながら首を横に振った。
「ちょっと人生について考えていたものだから。てっきりあなたが人間には自分の生きている意味など決してわからない≠ネんて退廃的《たいはいてき》なことを言い出したのかと思ってしまったのよ」
「……は?」
何を言われているのか、ちょっとわからなくなる。
(……殺人事件について話していて、人生とか言われても……)
頭が混乱してしまう。しかし、しずるさんはもうすっかり平静に戻っており、
「理由っていうか、わからないのは」
と穏やかな口調で言う。
「普通こういう場合、警察の捜査力だったらもう見つけて≠「るはずだと思うのよね」
言われて、私は少し息を呑む。
「……つまり犯人の方が、一枚|上手《うわて》ってこと?」
これは単なる異常性格者の、衝動的な事件ではないということなのか? 後ろには何か大きな策謀《さくぼう》が存在しているのだろうか?
「どうかしら? まあ犯人は捕まえられないかも知れないけど」
しずるさんは簡単に言う。
「……それじゃ困るでしょう」
私がほんとうに困った声を出すと、しずるさんは、ふふっ、とかすかに微笑んで、
「だったら、もう少し資料が必要だわ」
と言った。
「現場あたりの、細かい地図が欲しいわね」
「地図? それは現場の見取り図ってこと?」
そういうものは警察の極秘資料ということで、私たちみたいな一般人には手が出せないんじゃなかろうか。しかし、しずるさんはこれに首を横に振り、
「そうじゃなくて、もっと大きい範囲の地図よ。――ああ、地図よりも航空写真の方がいいかもね」
「航空――?」
「大きな公立図書館なら、全国各地の、最新のものが揃っているはずだわ。お願いできるかしら」
「……いいけど」
しずるさんはどうやら、やる気満々のようだ。これは私も、このからかさこぞう≠フ事件に本格的に巻き込まれざるを得ないらしい。
私は、何やら活《い》き活《い》きとしているしずるさんを前にして、少しだけ眩暈《めまい》を感じていた。
そんな私に、しずるさんは静かな声で続ける。
「ねえ、よーちゃん。人が人を殺すときというのは、その段階で既に失敗をしているということなのよ。だってそうでしょう? 殺したら、法律とか道徳とか常識とか、そしてあるとするならば良心とか、世界は犯人を糾弾《きゅうだん》し彼の行為を否定するものばかりになる。そんな可能性を招《まね》くことは、やらないに越したことはない。それでもやってしまうという、その時点で既に彼は失敗している。その前にやっておかなくてはならなかったことを怠っていたから、そんな人殺しなんていう無理のあることをしなければならなくなった。……つまり殺人というのは、基本的には失敗の埋め合わせであり、自分の怠惰《たいだ》をごまかそうっていう姑息《こそく》なものなのよ」
しずるさんは決して大きな声を出さないし、早口になることもない。身体に負担が掛かるからだろう。ベッドから立ち上がることも滅多《めった》にない。
「よーちゃん、異常とか謎とか不思議というのは人間のモノの見方のひとつに過ぎないわ。それがどんなに異様でありえないことに思えても、それはただの現象に過ぎないのよ。すべてのことにはそれなりの論理が、必ず存在しているものなのよ」
凛々《りり》しい感じで断言されるが、しかし私としてはそんなに自信満々にはなれない。
「で――でもあんな風に、人間をからかさこぞう≠ノ見立てるなんて、ただ惨《むご》たらしいだけのことにしか思えないわ。あれが理に適《かな》ったことなんて、私には信じられないわよ」
私が愚痴《ぐち》っぽく言うと、しずるさんはゆっくりと白い首を左右に振った。
「よーちゃんは優しいから、そんな風に思えるのよ」
「え? ど、どういう意味?」
「この私みたいに、少しばかり荒《すさ》んだ心の持ち主からすると、どんなに不思議なコトを前にしても、そこにある種の穴≠どうしても探してしまう――人を、世界を信頼せずに、そこにどんな欺瞞《ぎまん》が――ごまかしが隠れているか、それを探さずにはいられないのよ」
しずるさんはかすかに、口元に笑みを浮かべた。
「もっとも、一番のごまかしはこうやって私が生きていること、そのものかも知れないわね。本来ならとっくに死んでいるはずの病気なのに、私の身体は、どうやってごまかしているのかしら?」
そして、しばし黙り込む。
「…………」
私はしずるさんが好きだけど、でも彼女のこういう態度は嫌《いや》だ。
「駄目よ、しずるさん。そんなのはごまかしじゃなくてただの弱気よ。きっと良くなるわよ。先生たちだって頑張ってくれているじゃない」
私が少しきつめの口調で言うと、すると彼女は優しく微笑むのだ。
「ありがとう、よーちゃん。もしかすると私を生かしているのは薬でも治療でもなく、あなたの応接かも知れないわね」
彼女の微笑みはとっても柔らかで穏やかで、私はなんだかドキドキする。
「そ、そんなことはないけど、でも応援はしてるわよもちろん。うん」
「でもね、よーちゃん――今回の事件もそうだけど、人っていうのは死ぬものよ。そして、そこには不可思議な謎なんかない」
しずるさんは穏やかな口調のまま、言った。
「あるのはただ、中途半端《ちゅうとはんぱ》で見苦しい様《さま》を晒《さら》しているだけのごまかし≠セけ――だから、私はこの事件を解決させてもらうわ」
「…………」
こういうときのしずるさんは、その眼は、この人がほんとうに二年も寝たきりに近い難病の重症患者なのかと信じられなくなるほどに――強く、するどいのだった。
2.
「――はあ」
私は少し疲労感を覚《おば》えながら、しずるさんの病室を後にした。
そのままの足で、同じフロアにあるドクタールームに向かう。ノックをすると、どうぞ、という張りのあるバリトンが返ってきた。
「こんにちは」
「ああ、よーちゃん、いらっしゃい」
しずるさんの主治医の先生は若い。少なくとも見た目は二十代後半から三十代前半くらいにしか見えない。
先生は背が高く痩《や》せていて、眼鏡《めがね》の奥の眼はやや青みがかっているから、もしかすると外国の人とのハーフなのかも知れないと時々思う。
「姫さまのご機嫌はどうだった?」
「ええ、いいみたいです。私はちょっと困りますけど――」
私の弱気な様子に、先生は笑った。
「例の道楽《どうらく》か。あの猟奇事件だろう? まあそんなことになるんじゃないかと思ったよ」
この先生も、ずいぶんと簡単に言う。あんなに残酷な事件なのに。
(まあ、お医者さまなら人の身体がバラバラになっていても気持ち悪いとか思わないんだろうけど)
私の感性は、この病院内では少しずれているようだ。それでも一応訊いておく。
「大丈夫なんですか? あんまり頭を使わせたら、しずるさん疲《つか》れませんか」
「いや、彼女の場合は、あの程度なら軽いレクリエーションだろう。彼女は頭がいいからね」
「それはそうですけど――」
「それも話相手《パートナー》が君だからだよ。君と一緒にやっているから、彼女もリラックスしていられるんだ。君には迷惑かな?」
「それは――いいんですけど」
そんなつもりはない。迷惑なんて思ったことはない。しずるさんのお見舞いに来て、彼女と話すのは、何よりも私自身が楽しいからだ。
でもこの先生から見れば、きっと私はしずるさんの病気の検査の、そのひとつなんだろうな、とは思う。
「君と会っていると、彼女の病状の進行がやや鈍る傾向があるんだ。ストレスの軽減《けいげん》になっているからなのか、他の理由があるのかは不明だけど。なにしろ彼女の症例には決定的にデータがないからね」
「しずるさんは――なんだか自分は助からないみたいなことばかり言ってます」
「彼女は頭がいいからね」
先生はさっきの言葉を繰り返した。
「自分の身体のことも、かなり冷静に分析してしまう――だからだろう」
先生はため息をついた。
「……病気、治らないんですか?」
私は思い切って訊いてみた。もう何度もしている質問である。そしていつも先生の答えは、
「――なんとも言えない。症状の原因が特定できない以上、治るとも治らないとも言えないのが現状だ」
と変わらない。
「…………」
時々、私は考えてしまうことがある――この病院施設は、ほんとうに彼女を治療しているのだろうか、と……もしかすると、極《きわ》めて珍しい病気である彼女のことを研究していて、わざと積極的に治さないでそのままにしているのではなかろうか、と――。
「とにかく」
先生は顔を上げて、私の眼を覗《のぞ》き込むような視線を向けてきた。
「彼女に何かおかしなところがあったら、すぐに私に知らせてくれ。我々には今一つ心を開ききっていない彼女も、君にだけはなんでも話すようだから」
「…………」
私は、もしかするとただ利用されているだけなのかも知れない。しかしだからといって、しずるさんが私を必要としていてくれるのなら、私はもちろん、できる限りなんでもするつもりだ。
……私は、病院を後にして、今度は坂道を下って街に戻っていく。
しずるさんから頼まれたあれこれを調べて、また来られるのはたぶん来週になってしまうだろう。その前に警察が事件を解決してくれないかなあ、とかちょっと歪《ゆが》んだ期待をしてしまう。
(……でも)
きっとそうはならないのだ。おそらくこの事件は、普通の常識で考えていたら、絶対に解決できない――しずるさんが興味を示すということは、そういうことなのだ。
私はちら、と背後を振り返る。
白くて四角い病院の建物が眼に入る。
私は、やっぱりそのシルエットが好きになれない。しずるさんが以前に言っていた、ある言葉がどうしても思い出されるからだ。
ここにやってきて、はじめて建物を見たときに思ったわ――なんだか大きな、白い墓石みたいだな、って――
謎の死体の身元は、発見から三日後にやっと判明した。検死から若い女性だろうと見られていたが、その通りで、年齢二十五歳の赤塚真理子《あかつかまりこ》という無職で一人暮らしの人間だった。身近な係累《けいるい》は確認できず、遺体の引取先はなさそうだった。
無職といっても、住んでいたところは高級マンションで、ローンの支払いもすべて済《す》んでいて、銀行には預金が数千万円も遺《のこ》されていた。
強《し》いて職業を言うならば、コールガールというのが最も近いが、しかしこの娼婦《しょうふ》はとんでもなく高額で、しかもやり口があくどかった。
彼女が手を伸ばすのは、ほとんど結婚が決まりかけている男に限定され、しかもそれは常に、結婚相手の方が立場が上の、逆玉《ぎゃくたま》の輿《こし》というべき状況にある者ばかりだった。
そういう男に手を出し、深みにはめさせ、そしてあるところで脅迫《きょうはく》する。自分たちのことを結婚相手に知らせたら一体どうなるか、と――彼女の富はそうやって築かれたもので、中には結婚そのものが破綻《はたん》してしまった後で、その婚約者の方にこの醜聞《しゅうぶん》を隠しておきたくば、と迫《せま》ったことさえあるらしい。
だが、それらはほとんどが闇の中に隠れてしまっていることで、被害者も名乗り出ることはほとんどなく、彼女は好き勝手にやり続けていたのである。
身元は、彼女がまだ仕事になれていなかった頃に一度、結婚|詐欺《さぎ》の容疑で送検されたことがあり、そのときの資料が残っていたからかろうじて判明したのであり、そうでなかったらそのまま身元不明死体のままだったろう。
彼女の写真は自宅にもどこにもなかった。写真を撮られるのを嫌っていたであろうことは想像に難《かた》くない。だから身元がわかっても、彼女がどんな顔をしていたのか、警察では明確に掴《つか》むことはできなかった。近所の住人やマンション管理人なども「綺麗な人だったけど、さて、あらためてどんな顔かと言われてもなあ」と言うばかりだった。おまけに彼女の顔には整形された跡さえあって、頭蓋骨から復元《ふくげん》しようにも正確性に欠けるものしかできそうになかった。
警察が知る彼女の顔とは結局、自らの指が顔面に深々と突《つ》き刺《さ》さって、見る影もなくなってしまったものでしかなかった。
これらの情報はマスコミには伏《ふ》せられた。
そしてこれと平行して、警察ではその後の捜査でさらにある重大な事実をひとつ、確認していたのである。
3.
「……え?」
病院の受付で、私は絶句した。
「そうなの。今、彼女は面会謝絶《めんかいしゃぜつ》なのよ」
受付の女の人は気の毒そうに言った。
「ど、どうなっているんですか!?」
私はつい大声を上げてしまう。だが私の前の彼女はそれを咎《とが》めるでもなく、ただ落ち着いた眼で私の方を見つめてはうなずくだけだ。
「とにかく、申し訳ないけれど今は彼女と会うことはできないのよ。集中治療室に入っているから」
「ど、どんな具合なんですか? ま、まさか……」
先週会ったときには、割と調子よくて元気そうだったのに――。
「私には詳しいことは知らされていないわ。ごめんなさい」
「せ、先生と話はできますか?」
「それもできないのよ。とにかく今は治療中だから。また明日にでも来てちょうだい。ね?」
穏やかに言われるが、その裏には厳《きび》しいものが明らかにあった。要するに邪魔だから帰れ≠ニ言われているのだ。
「――はい」
私は弱々しくうなずくと、
「あ、あの……これ、彼女に頼まれていたんです。渡しておいてもらえますか」
と、持ってきた資料入りの封筒《ふうとう》を差し出した。
「わかりました」
彼女は気の毒そうな顔をして、それでも一応は封筒を受け取ってくれた。
「よ――よろしくお願いします」
私は頭を下げると、すごすごと病院を後にするしかなかった。
休日の午前中なので、太陽はとても高い。私のうえに燦々《さんさん》と陽射しが降り注いでくる。いい天気だった。
でも私は、その明るさの中でどうしていいかわからず、ふらふらとさまようだけだ。
(……どうしよう。私はどうすれば――)
駅前まで来たところで、茫然と料金表を眺めていて、私ははっ[#「はっ」に傍点]となった。
(――そうだ)
私は今、すっかり例の事件について詳しくなっている。でも、もちろん現場付近に直接行ったことはない。
(でも――今からなら、暗くなる前に向こうに着ける時間だわ)
いつもの私だったら、絶対にそんなことは考えないだろう。でも今は、私は何かせずにはいられなかった。そして私としずるさんが一緒にやっていたことは、この事件のことだけなのだ。
私が、きちんとした資料を揃えることができるならば、それを彼女の所に持っていけば、彼女はまた元のしずるさんに戻って事件を解決してくれるかも知れない。
(きっと――きっとそうよ。だってしずるさんは解決させてもらう≠チて、あんなにきっぱりと言っていたもの)
私は切符《きっぷ》を買い込んで、問題の死体が発見された山に向かって出発した。
電車を三本乗り継いで、さらにバスも二回乗り換えて、私がその山に着いたときにはもう、陽が半分暮れかけてしまっていた。
目の前を見ると、山はびっくりするぐらいに大きく、私は呑《の》み込まれてしまいそうな感覚に襲《おそ》われていた。
とりあえず、途中で買った使い捨てカメラで大雑把《おおざっぱ》に山を撮影する。
しかし、バスは確かに最寄《もよ》りの交通機関だったわけだが、現場そのものはここからもさらに遠いはずである。そこまで行くことはできそうにない。というか、そもそも具体的な地点は最初から知らない。ニュースでも山中≠ニしか言っていないし。
それでも、景色そのものは大して変わらないはずだと思って、山の中に私は足を踏み入れた。心理捜査官とか呼ばれる人は現場に行って、そこでの犯人の心の動きを色々と想像して推理するのだそうだ。私にはもちろんそんな想像はできないけど、でも現場と似た所を歩いた印象をしずるさんに伝えられれば、あるいは推理の手助けになるかも知れない。
しばらくそうやって、薄暗《うすぐら》い山の中をふらふらとさまよった。
そこは異様な感じがする空間だった。
うすら寂《さび》しいのだが、しかし周囲は緑と茶色に覆《おお》いつくされているのだ。空気は澄《す》んでいるのに、どこか息苦しい。
緑の自然、とか言うけれど、それは逆に言えばそこは人間の世界ではないということだ。足元にコンビニのビニール袋が落ちていたりして、人間の痕跡《こんせき》は歴然《れきぜん》としているけれど、でもそれでも、なにかすべてが放《ほ》ったらかしになっている、底無《そこな》しの沼の中にいるような感じがしてならない。
(……確かに)
私は思う。確かにここならば、どんなに異様なことが起こっても、それはごく当然のことで、私たちの常識などは意味がないような気がしてくる。
そう、今にも無数にある木の陰《かげ》から何かがぬっ、と顔を出してきそうな……と私がそんなことを考えていたときのことである。
視界の隅《すみ》の方を、ふっ、と何かがよぎった。
(…………?)
私がそっちを向いても、そこには何もない――と思ったら、上の方でがさがさっ、という音がしたので私は、
「きゃっ!」
と小さな悲鳴を上げてしまった。そして足元で、ずるっ、という嫌な感触がした。しまった、と思う間もなく私は湿った土に足を取られて山の傾斜を滑《すべ》り落ちてしまった。
転んでみると、それはかなり急な傾斜だった。私は三メートルぐらいそのまま滑っていってしまった。
かなりの勢《いきお》いがつきかけて焦《あせ》ったところで木に当たって、やっと停《と》まる。
「――ふうっ」
と、ほっとする私の前に、今度ははっきりと視界の正面にそれが現れた。
光がひとつ、ふらふらと揺《ゆ》れながらこっちの方に向かってくるのだ。
ぎくりとした。
(まさか――からかさこぞう≠フ一つ目?)
そんなことを考えてしまったのは、やはりこの山の中の雰囲気《ふんいき》に呑《の》まれていたからだろう。だが、そのすぐ後に、
「おーい、大丈夫かね?」
と少し間延《まの》びしたような声が頭の上から降ってきた。
そしてよくよく見ると、ふらふら揺れていたのは懐中電灯の光で、声をかけてきたのはそれをかまえた警官なのだった。私は全身にどっ、と疲《つか》れがのしかかるのを感じた。
「だ、大丈夫です――」
私はよろよろと起き上がって、お尻の辺りについた木の葉をはたき落とした。
「君はこんな所で何をしているんだ?」
近寄ってきた警官は厳しい声で私に詰問《きつもん》してきた。
私はしどろもどろになりながら、しかしどう説明していいのかわからないので、
「ええと。その――事件を」
と、ぼそぼそと言うと、警官はやっぱり、という顔で首を左右に振った。
「困ったものだな。君もあれだろう、ミステリーマニアとかいう人種か? そういう輩《やから》が結構集まってきて困るんだよな本当に。ただでさえこの辺りは厳しい場所なんだから、遭難したら大変なんだぞ」
「す、すみません」
私はひたすらに小さく縮《ちぢ》こまっているしかない。
「君の住所と名前は?」
つっけんどんな口調で言われる。
「当然|親御《おやご》さんや学校からも注意してもらうからね。覚悟《かくご》しときなさい」
「はあ」
名前を訊かれて、私はちょっと嫌な予感がした。でも仕方ないので、素直にフルネームを名乗る。
「……え?」
するとその途端《とたん》、警官の顔色が明らかに変わった。
「なんだって? き、君は――いや、あなたはもしかして」
「はあ。まあ――そうだと思います」
やっぱり、警察関係の人は誰でも私の家の名字を知っているようだ。
「こ、これはとんだ失礼を――い、いやしかし、本当に?」
警官は少し疑《うたが》いの混《ま》じった目で私を見つめる。こういう目で見られるのは慣れているけど、やっぱりあまり好きではない。
「確認しますか?」
私は控《ひか》えめに言ってみる。
「い、いえ――それには及《およ》びません。私の不手際《ふてぎわ》になりかねませんから!」
警官は慌《あわ》てて首を激しく横に振った。
(別に、私や私のお父さんお母さんがどうってわけでもないんだけど)
住んでる家だって普通の一戸建てで通っているのもただの県立高校だし。私はちょっと複雑な気持ちになりながら、
「あの、それでですね。良かったら事件のこと、無理のない範囲で教えていただけないでしょうか」
ここは退《ひ》かないで、質問してみる。私の意志だけだったらもちろん、ここはさっさと連れて帰ってもらうところだが、今はそうはいかないのだ。
「ああ――は、はい。それはもう」
警官は意味もなく、頭に被《かぶ》っている帽子を正したりしながらせかせかとうなずいた。
「ですが、あの事件はどうやらマスコミなどの騒ぎからすると、期待はずれのものに終わってしまいそうですよ」
「え?」
私はどきりとする。
「どういうことですか?」
「いや、実はまだ公表していないんですが」
彼は周囲には誰もいないに決まっているのに、それでも声をひそめて言った。
「被害者《ガイシャ》の右脚が発見されたんですよ。それも、だいぶ山の下の方で」
「……それで?」
「脚は、倒木《とうぼく》に絡《から》まるような形になっていました。どうやらその木が、右脚をもぎ取っていった張本人《ちょうほんにん》らしいんです。つまり」
警官は山の上の方を振り仰いで言った。
「木が倒れて、それでこの傾斜でしょう。当然それはずるずると滑り落ちる。結構な速さだったはずです。そして大きいから、重さも相当なものになる。だから――」
「つ、つまり」
私は焦りつつ訊いた。たった今、自分が滑り落ちた傾斜の勢いのことなら実感できた。
「被害者の人に、その滑り落ちてきた倒木が当たって――?」
「脚がもぎ取られ、それが直接の死因になったんですよ。この事実だけなら、これは事故ですよね」
「そ、そんな――でも死体はあんな風に」
「あれが問題なんですよね。おそらく、タチの悪い悪戯の類《たぐい》だろうとは思われるんですが、誰がなんのためにやったのか。まあガイシャはかなり悪どいことをしていて、相当色々なところから恨まれていたみたいだから、怨恨の線だと思われますがね。腹いせですよ」
「で、でも、確か腕は生きている内に切られたって」
「瀕死《ひんし》だったのか死体だったのか、そんなものは素人目《しろうとめ》にはわかりませんからね。しかし、けしからん話であるのは間違いないですよ。死体|損壊《そんかい》は立派な犯罪ですから。ええ」
「――――」
私は絶句していた。
なんだか事件はつまらない形で終わってしまったようだ。このことをしずるさんにどうやって報告すればいいのか――いや、もしかすると私はもう、二度と彼女と――
そんな動揺している私に構わず、警官はさらに付け足した。
「それで、その間題の木が倒れた原因ですが、これは倒木の方に痕跡がありました。落雷のようです」
言われて、私はびくっ、と顔を上げる。
「そ――それはつまり」
その単語には聞き覚えがあった。それはもちろん、あのときに病室でぽつりと呟くのを聞いていた――
「――かみなり=c…?」
「そういうことですね。多いんですよ、山岳地帯の雷っていうのは」
警官はうなずき、私はさらに愕然《がくぜん》となる。
しずるさんが言っていた、あの意味不明の一言は、まさかこのことだったのか?
つまり彼女は、もうこの事件が、殺人事件ではないことは推理してしまっていた、ということなのか……?
(わ、私が――)
私がここまでやってきたことは、まったくの無駄足だったのだろうか。私は結局、しずるさんのために何の役にも立てないままなのだろうか……。
私は警官の運転するパトカーで、駅前まで送ってもらうことになった。
「…………」
私はすっかりしょげかえっていた。
するとそのとき、私の胸元で携帯電話の着信が生じた。電波が届く範囲に入ったのだろう。
「――はい」
私は元気のない声で、とりあえず電話に出た。すると電話の向こうでくすくすと笑う声が聞こえてきた。
『よーちゃん、ご機嫌いかが?』
それは聞き慣れた、とても綺麗な優しい声だった。私はびっくりした。
「――し、しずるさん!?」
『よーちゃんたら、なかなか電波がつながらないんだから。あんまり人を心配させるものじゃないわよ?』
彼女の声はいつもの調子だった。
「そ、それはこっちの方よ! 具合はどうなの?」
『大したことはないのよ。集中治療室に入るのもいつものことで、そんなに珍しいことじゃないから』
「い、今は? 大丈夫なの?」
『午後にはもう普段の部屋に戻っていたわよ。ああ、これは先生から借りた電話よ。もちろん有線の。病院内じゃ携帯電話は禁止だからね』
そんなことは別にどうでもいい。私は、わたしは――力が抜けていた。
「よ、よかった……」
心底《しんそこ》ほっとしていた。もし今、車の席に着いていなかったら、へなへなとその場にへたり込んでいただろう。
『よーちゃん、今どこにいるの?』
「え、えーと……」
私は気まずい思いをしながら、しずるさんに事のあらましを説明した。でも、横では警官の人が私の方をちらちらと見ている。どこと話しているのだろう、と疑っているのだろうから、一応、彼に教えてもらった事件のことはここでは言わない方がいいだろう。
「それで、今は山を降りているトコ。警察の人に送ってもらっているわ」
『警察では、もう山の下に滑り落ちていた倒木と脚は見つけたんじゃないかしら?』
話をしていないのに、しずるさんは自分から言った。
「う、うん。そうみたい」
ぼそぼそと小声で返事をすると、しずるさんは、
『それで理由≠フ方はどうなの?』
と奇妙なことを訊いてきた。
「え?」
なんのことかわからず、私はきょとんとした。
『まだみたいね。じゃあよーちゃん、そのあなたの横に座っている親切なお巡りさんに教えてあげなさいよ』
くすくすと愉快《ゆかい》そうな口調で言われるが、私には何がなんだかわからない。
「なんのこと?」
『だから、犯人が被害者の身体から両腕を切り離した、その理由≠諱x
至極《しごく》簡単な口調で言われる。
「え? ……え?」
『あなたが病院に置いていってくれた航空写真を見ると、現場から少し離れた車道|沿《ぞ》いに白っぽい影が見えるわ。方角は北北東ってところね。そこに問題のもの[#「もの」に傍点]がある可能性は、かなり高いと思うわよ』
しずるさんは確信に満ちた口調で、断言した。
「ち、ちょっと、なんの話をしているの?」
私はさっきから混乱しっぱなしである。
しかししずるさんはそんな私に遠慮《えんりょ》なく、さらに、
『私には細かいことはわからないし、突きとめようもないけど、警察の捜査力なら手掛かりさえあれば、必ず容疑者の身元までたどりつけると思うわ』
と言い切った。
4.
事件の、最有力容疑者の男はこの一週間後には警察に任意同行《にんいどうこう》を求められ、翌日にはもう送検されていた。事ここに至って警察は公式発表をしたが、しかしその内容は残虐非道《ざんぎゃくひどう》の殺人鬼の所業《しょぎょう》を期待していたマスコミにとっては大いにがっかりしてしまうようなものでしかなく、事件はある程度は報道されたものの、翌日にはその次の話題に移っていてすぐに忘れられた。男の犯行事実を確定させる裁判はまだ開廷《かいてい》していないが、死亡時刻に関連した証拠類《しょうこるい》がどれも不確定のものばかりだったので、裁判は長引くことが予想された。
「犯人と被害者の女性は、どうやら山の中腹にある温泉宿に行く途中だったみたいね」
私は、すべてが終わった後でしずるさんの所にお見舞いに来ていた。
「それで、喧嘩《けんか》でもしたのか、あるいはちょっとした遊びだったのか、理由はよくわからないけど途中で車から降りて、それで山の中に入ったところで、女性に落雷による倒木がぶつかるという悲劇が襲った――結局はそれだけの事件で、後のことは全部付け足しみたいなことで、決着はついてしまったわ」
「そうね。まあ、そんなものでしょうね」
しずるさんは穏やかな顔をして、窓からそよ風が流れ込んでくる病室のベッドの上で微笑んでいる。
「――でも、まだわからないことがあるわ」
私は、しずるさんに向かってぽつりと呟いた。
「なにかしら?」
「しずるさん、どうしてあの証拠≠ェあそこにあるってわかったの?」
彼女は小さく頭を振った。
「わかっていたわけじゃないわ。ただ可能性が高そうだなって思っただけ」
「でも、私に航空写真を取ってきてくれって言ったときには、もうああいうものが近くにあるんじゃないかって思っていたわけでしょう? あの」
私はため息をついた。
「ゴミの不法投棄場《ふほうとうきじょう》が。あの山の近くに」
それが写真に写《うつ》っていた白っぽい影≠フ正体だったのだ。山を抜ける車道沿いに、ドライバーたちが投げ捨てていく空き缶やらどこから持ってきたのか粗大ゴミなどが積み上がっていた。
「ああいうところって、どうしてゴミが溜《た》まり始まるんだと思う?」
しずるさんは逆に私に訊いてきた。
「ええと、誰かが最初に何気《なにげ》なく捨てて、それで他の人も捨てていって、どんどん溜まっていくんでしょう?」
「そうね。そして車道沿いの場合、もうひとつ条件がつくわね。つまり車を運転するのに、ちょっと一息つくような、信号が長いことなくて、運転していて間が空くような、そういうところで空き缶でも捨てるか≠ニいうことになるわけね――そして」
見つめられて、私もうなずいた。
「そうか。それは今回の犯人≠ナも同様だった、というわけね」
「そういうこと。必死で逃げるために運転していて、それで心理の余裕ができるような場所にちょうど、ゴミが大量に捨てられているのを見つけたはずなのよ。彼としてはそれを一刻も早く捨てたかったんだけど、でもどこに捨てればいいのかわからなかった。だからゴミの中にまぎれこませて捨てれば見つからないだろうと思ってしまったのよ」
「なんでも漬《つぶ》れた空き缶の中に押し込められていたらしいわ。でも、あんなに山が大きいんだから、山のどこかに埋めてしまえばバレなかったんじゃないかしら?」
「そりゃあ、まともに考えたらそうなのよ。でも彼はあのとき、かなり慌《あわ》てていた。慣れない作業の後だったしね。ブレスレットを取ったら即、車に乗って逃げ出したんだと思うわ。そしてゴミが積まれているところに差し掛《か》かる――たくさん不要物が捨ててある、ここはそうしてもいい場所だ、と思いこんでしまったらもう、あれを捨てずにはいられなかったのよ」
「――それは、そうでしょうね……」
私はため息をついた。
「あの証拠=\―結局は、被害者の女性が男の人を脅迫《きょうはく》する、そのときに使うものだったんでしょう? 二人の名前入りの、あの」
私は、ちょっと一息入れた。わかってしまってからも、それに絡む事実は私の心に戦慄をもたらすものだったからだ。
「――腕輪《ブレスレット》≠ヘ」
私の声は少し震えていたが、うなずくしずるさんの方はまるで平然《へいぜん》と、
「そうね。だから死体の側《そば》に置いておくわけにはいかなかったのね。彼はまだ脅《おど》されていたわけじゃないみたいだけど、でも二人の関係が周囲にバレたら困ることには違いない」
「でも――でもどうして腕輪《ブレスレット》≠取るのに肩から腕を切断しなきゃならなかったのかしら?」
訳がわからない。だがしずるさんは静かに、きっぱりと、
「それはもう、手の方が塞がっていた[#「手の方が塞がっていた」に傍点]からよ」
当然のことのように言う。
「彼が滑り落ちた死体を――正確にはそのときにはまだ、ごくごくかすかに息があったわけだけど――見つけたときには、もう両手の十本の指がすべて、思いっきり顔面に喰《く》い込んでいて、いくら引っ張っても取れなかった。当然そのままだとブレスレットも取れない。――だから、腕の方を切って、そっちから抜き取った、というだけの話」
「…………」
「これは被害者が女性だったから成立した方法でしょうね。男性の太い腕だったら、そっちから抜き取ることはできなかったはずよ」
「…………」
私がまだ憮然《ぶぜん》とした顔をしているのに気がついて、しずるさんはさらに補足する。
「手首から切れば、もっと簡単だろうという話もあるけど、でもそれだと手首に邪魔なものがありました≠ニあからさまに説明することになってしまうことを恐れたんでしょうね。だから肩から切った。両腕を切ったのも同じ理由。どっちの手に填《は》めていたのかは知らないけど、片方だとその腕の方に注意が向けられる可能性があった。まあ、考えてみれば、そもそもブレスレットだけを鉈《なた》で無理矢理切断するという方法があったのに、それをしなかったのも、手首も一緒に傷つけて、そこに何かがあったという印を残す危険があったからということなんでしょう。終始一貫して、犯人はバレないようにバレないように≠チて考えて、びくびくと怯《おび》えながら行動しているだけだったわけね」
しずるさんは流れるような口調で語るが、しかし私としてはそんな説明よりも、
「……いや、ていうか、そもそもなんで」
なんで手は、もう顔にくっついていたんだろうか。倒木で跳《は》ね飛ばされたはずみ[#「はずみ」に傍点]で、なんていうのはあまりにも強引すぎるだろう。どう考えても不自然だ。
しかしここで、しずるさんはいともあっさりと、
「それは、最初から考えるまでもないでしょう?」
と言った。
「え?」
私がぎょっとするのにもかまわず、しずるさんは決定的なことを告《つ》げる。
「誰がやったわけでも自然になったわけでもないのだから、できた人間は一人しかいないでしょう」
「…………」
私が絶句していると、しずるさんは静かにうなずいて見せた。
「そう本人≠ェ自分で、皮膚を突き破るほどに強く強く顔面を握りしめたのよ。最初からそれ以外の可能性はないわ」
しずるさんが口を閉《と》ざすと、病室には恐ろしいほどの静寂《せいじゃく》が落ちた。
「…………」
しばらく経《た》って、やっと、
「……だ、だって、そんなこと」
と私は喋ろうとするのだが、口がぱくぱくとなるだけで、うまく言葉が出てこない。
「ありえないかしら? そういう状況というのは考えられない?」
「そ、それは……そうでしょう?」
「そうでもない」
しずるさんはわずかに顔を横に振ると、私から少し目を逸《そ》らした位置に視線を据《す》えて、言った。
「少なくとも、私にはわかる。いきなり脚に激痛が走って、身体が吹っ飛ばされて、そしておそらくは急激な激しい出血による体熱の喪失《そうしつ》と、文字通り身を引き裂かれる激痛に襲われていったときに、彼女が何を思っていたのか。それは――」
そして彼女は両手を目の前にかざすと、じっ、と強い眼差《まなざ》しで見つめたかと思うと、いきなり顔面をわしっ[#「わしっ」に傍点]、と掴《つか》んだ。私はぎくっとする。それはまさしく、伝えられる被害者の顔面に喰い込んでいた指の位置と同じだったからだ。
そして彼女は、手の下で唇《くつびる》を歪《ゆが》めて、ぎりぎりと絞《しぼ》り出すように、声を出し始めた――
「――たくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない――」
……それは地の底から響いてくるような、魂《たましい》の奥に北風が直接吹き込んでくるような、そういう寒々《さむざむ》とした、冷え切った声だった。
そして、その両手の指には恐ろしい力が、最期《さいご》の執着がすべてそこに集中するかのように、みしみしと込められていき、それは皮膚を突き破り、頭蓋骨に達しても力が収まることなく、めりめりとどこまでもどこまでも喰い込んでいき――
「――やめて!」
と、私は彼女の手を掴んで引き剥《は》がした。
ばっ、とその手は簡単に取れてしまった。
その下には、別に傷ついた顔はなかった。私の錯覚だった。しずるさんはただ、いつものように穏やかに微笑んでいるだけだった。
「――ね? あり得るでしょう」
同意を求めるように、ウインクされた。
「……あ、あの」
私はなんと言っていいのかわからず、もじもじとするしかない。
しずるさんは窓の外に目を向けた。
「最初から、これは殺人じゃないだろうなって思っていたわ。でも私としては、そのままで放《ほ》っておく気にはなれなかった。被害者の彼女はきっと、彼女の方こそが罪に問われて裁かれなければならないような人間だったんだろうけど、でも――私には」
しずるさんの眼はとても遠くを見ていて、それは窓の外の景色に留《とど》まらない、そこではないどこかを見つめているようだった。
「そう、私には、彼女の気持ちがわかる。これは、それだけの話――」
窓の外からは爽やかなそよ風がゆるやかに流れ込んできており、それが彼女の髪の毛をわずかに、さわさわと揺らしていた。
[#地付き]“The Umbrella”closed.
はりねずみチクタのぼうけん その1
……そこは風がさわさわと、気持ちよく流れ込んでくる真っ白い部屋でした。そこではいつも、二人の少女が微笑みを浮かべながら話し合っていました。
「――じゃあ、昔はどんなものを気に入っていたの?」
一人はベッドから身を起こして、もう一人の少女に質問しています。
「そうねえ――色々と好きなものがあったわよ」
「というよりも、あんまり嫌いなものがなかったんじゃないかしら」
「まあ、そうね。――でも、なんでそう思うの?」
「だって、よーちゃんはなんでも素直に受け入れるでしょう?」
「……なんか、鈍いって言われているような気がするんだけど」
「いいえ。いいところを見つける天才って言っているのよ」
少女がにこにことしながら言います。すると、もう一人はちょっと不満そうな顔になりつつも、相手の話を促《うなが》す笑顔につられて、くすくすと笑ってしまいます。
「もう、ほんとにすぐに私をからかうんだから――うん、そうね。今でもちょっと覚えているのは、チクタのことかしら」
「チクタ?」
「うん。ハリネズミのぬいぐるみなんだけどね――お腹のところが時計になっていて、いつもそれを見ては今は何時かって気にしているのよ」
彼女は懐《なつ》かしそうな顔をしました。
「時計って本物なの?」
「ううん。プラスチックかなんかでできていたわ。私は、いつもチクタと遊ぶときは、時間を合わせよう合わせようとして、すぐに取っちゃってたわ。その度《たび》に直したものだから、そこだけ妙に、だんだんゴツくなっちゃって――」
「男の子なの? そのチクタ君は」
「そう、神経質で、細かいことが気になる子って――ハリネズミでしょ、とげとげした感じだったのかなあ。でも私は彼が大好きだったわ。いつのまにか、どこかへなくしてしまったけど――」
彼女が少し寂《さび》しそうに言いました。するとベッドの上の少女が、
「彼は今、どこにいるのかしらね?」
と明るい声で言います。
「え? そ、そうね――」
たぶん捨てられてしまって、とっくにどこかの焼却炉で焼かれてしまったでしょう。ふつうの常識で考えたらそういうことにしかなりません。だが少女はそういうあたりまえな考えはまるっきり無視して、
「あなたのところから離れて、どこかで元気にやっているんじゃないかしら。今頃彼は、どこにいると思う?」
と、屈託のない声で言いました。その調子を聞いて、彼女もああ、と納得します。これはちょっとしたもしかしたら≠ニいう仮定の話を楽しもうというのでしょう。彼女もそういう話は嫌いではありません。
「そうねえ――でもチクタって、割と臆病《おくびょう》というか、いつも隅っこで縮こまっていたから、外に出てもなかなか進めなかったでしょうね」
「電柱の陰に隠れながら、こそこそと道を歩いていったんでしょうね」
「そうそう、そういう感じ。人とか車とかが通る度にひえっ≠ニか言って身体を丸めちゃうのよ」
「でも彼は健気《けなげ》に頑張《がんば》る訳よね。僕は男の子なんだから、びくびくしてちゃ駄目だって、またおそるおそる歩き出すのよ」
「……でも、チクタはどこに行く気なのかしら?」
「それはもちろん、世界のどこかにいる、彼のお腹の時計をちゃんと動くようにしてくれる時計職人さんを探すためよ」
「ああ、なるほど! いつも気にしてたものね」
「どんな時計でも動くように直してくれる、伝説の職人の噂を聞いて、彼は冒険に旅立ったというわけよ」
少女はまるで、その旅立ちを実際に見送ったことがあるかのように、ふつうの口調で言います。
「ううん、でもチクタはその人がどこにいるのか、具体的には知らないのよね?」
「周《まわ》りの誰に訊いても、そういう人の噂を耳にしたことはあっても、どこに住んでいるのかは誰も知らなかったわ」
「じゃあ――とにかく手掛かりを知っている人から探さなくちゃならないのね」
「彼はまず、時計屋に向かうわ」
「うん、そりゃそうね。普通そうだわ」
「でも彼が時計屋の店先に並んでいる他の時計たちに、
職人さんのことを知りませんか
と訊いても、時計たちは、
おまえはハリネズミじゃないか。私たち礼儀《れいぎ》正しく規則正しい時計の世界のことをそうそう簡単に教えられるものか
と言われて、追い返されてしまうのね」
「ええ? そりゃひどいわ!」
「でも時計たちの言うことももっともなのよ。彼ら時計が正確に時を刻《きざ》むものだから、仕事や勉強をさぼりたいさぼりたいと思っている怠《なま》け者たちがいつも、隙《すき》があればその針を進めてしまおうとしているので、時計の仕組みのことなんかを軽々しく他の者に教えられないのよ」
「ううん、それにしても――じゃあチクタは、今度はどこに向かえばいいのかしら? ぬいぐるみの仲間がいるおもちゃ屋かな」
「ところがそこに行ったら、今度は、
おまえは時計のおもちゃじゃないか。僕ら柔らかで暖かなぬいぐるみの仲間だなんておかしいや
とか言われて、これまた追い返されちゃうのね」
「えええ? そんなに冷たいの?」
「おもちゃ屋の世界というのも厳しいのね。買ってくれる子供たちに自分の方が素敵《すてき》ですよといつもアピールしなきゃならないから、競争意識が強いのよ。子供は飽《あ》きっぽいし、気まぐれだし、おもちゃたちもぴりぴりせざるを得ないのよ。あなただって、昔は大人からプレゼントをもらっても、時にはいらないなあ≠ニか思ってたでしょう?」
「……まあ、そう言われると反論できないけど……でも、だったらチクタはどうすればいいのかしら?」
「道は厳しいわね。彼はどうするのかしら?」
「どうするって――うーん」
少女の、半《なか》ば面白がっているような突き放した言い方に、彼女は困ったように身をくねらせます。しかし彼女にも、チクタがどこに向かえばいいのか、どうもよくわからないのだから仕方ありません。
「まあ、彼の行き先はそのうちわかるわよ。今はなんとも言えないけど」
ベッドの上の少女は微笑みながら言います。
……こうやって、これからもこの二人が仲良くチクタの話を続けるならば、お腹に動かない時計を付けたハリネズミだって、いつかは伝説の時計職人さんのところに行き着けるのかも知れません。
でも、この二人が話さなきゃならないことは、どうも他にも色々とありそうです。二人で話して解決しなきゃならない事件がいっぱいあるみたいです。
そういった事件たちを前にして――チクタは旅を続けていくことができるのでしょうか? さてさて――。
第二章 しずるさんと宇宙怪物 The Space-Monster
1.
「ふう――」
病室の窓から、すっかり陽が落ちている外を見ては、しずるさんはため息をつく。
「――ふう」
今日はもう、これで七度目だ。
夕暮れと言うには暗すぎる空の中には、星がいくつか輝いて見えた。
「……どうしたの?」
私は、さすがに心配になって訊いてみる。
「……なにが?」
しずるさんは気のない調子で訊き返してきた。
「いや、その――」
私は何と言っていいか迷って、口ごもる。元気がないみたいだけど、と言っていいものかどうか――なにしろしずるさんは長い間入院している病人なのだから。
私は心配になる。
「ご、ごめんね」
私があやまると、しずるさんは、
「……なんのこと?」
とまた訊き返してきた。
「い、いや――なんか私って、暇《ひま》さえあれば押し掛けてきちゃったりして。迷惑《めいわく》だったかも、って――」
私はしどろもどろに言う。
「…………」
しずるさんはぼんやりとした眼で私を見つめていたが、やがて、
「――よーちゃんって、変わった人ね」
と言った。
「え?」
「わざわざ時間を作って、私のために来てくれていることを暇さえあれば≠ネんて変な言い方をして。……ほんと、変わってるわ」
ぼそぼそと、投げやりな口調で言った。
まわりくどい、少し斜《しゃ》に構えた言葉はしずるさんらしいのだが、全体的にどうにも脱力している感じがつきまとっている。
そして、また窓の外に眼を向けて、ぽつりと、
「――あーあ、いっそのこと、みんな星になってしまえばいいのに……」
と呟いた。
私はぎくりとした。
しずるさんの病状は良くないらしい。彼女は苦しそうな様子を決して私に見せないが、しかしいつ治るか≠ニいう目処《めど》はまったく立っていないと医師の先生は言っていた。
私はもちろん、彼女はいつかきっと元気になれると信じているけど、でもその彼女自身が希望を失ってしまったら――私はひどく焦った。
「ほ、星って綺麗だけど、でもちょっと怖いところもあるわよね?」
私はとにかく、話を途切《とぎ》れさせて沈黙が落ちるのが怖くて、慌てて適当なことを言った。
すると「ん」と、しずるさんが私に視線を戻《もど》す。
「ほ、ほらさ、あれってただの光の点じゃないわけでしょう? 電球なんかとは違って、とっても遠いところにあって、それで宇宙人とかもいるかも知れない訳だしさ」
私が無理矢理に言葉を探《さが》していると、しずるさんは、
「――宇宙人?」
と、ちょっと眉《まゆ》をひそめた。
「宇宙人、ねえ」
「しずるさんは信じていないの?」
私はとにかく、会話を続けるためだけに訊いてみた。
「うーん、信じているかいないか、ということなら正直、わからない、という意見ね」
「でも宇宙というのは広いし。星だっていっぱいあるんだから、そこに地球みたいに生き物が住んでるものだってきっとあると思うんだけど」
私は、しずるさんの気が紛《まぎ》れるならなんでもいいというつもりで、どうでもいいようなことを殊更《ことさら》に言ってみた。
「うん、それについては賛成するわ」
「でしょう?」
「でも、問題がひとつあるわね」
「……なに?」
「人間は生きている≠ニいうことがどういうことなのかわかっていないのに、まったく異《こと》なる環境に生きているはずの者たちを生き物≠セとわかるかどうか――そこがきっとネックだと思うわ。宇宙には無限の可能性があるかも知れないけど、人間の認識《にんしき》には悲しいかな、限界があるから」
「えーと……どういうこと?」
せっかくしずるさんが話し始めたというのに、私は彼女が何を言ってるのかよくわからなかった。自分の頭の悪さが疎《うと》ましい。
「宇宙人はもう、地球にいくらでも来ているのかも知れないわよ。ただ人間がそれ≠ェ宇宙人だ、と気がついていないだけで」
そんな私にしずるさんは優《やさ》しげな口調で言ってくれた。
「ああ! つまりとても生き物≠ノは見えない、たとえば水みたいな液体とか石ころみたいな鉱物《こうぶつ》とか、そういうものが宇宙人だったとしたら、私たちにはわかんない、ってこと?」
宇宙から落ちてきた隕石《いんせき》それ自体が生き物だった、というような話がなんかのテレビ番組か映画とかにもあったような。
「向こうの方も、地球に来ているんだけど、でもこの地表付近で動いている有機化合物はなんだろう? くっついたり離れたりしているなあ≠ニか思っているかも知れないわね」
「そうだったら面白《おもしろ》いわね、うん」
私は別に宇宙人なんかどうでもいいのだが、しずるさんが自分から話してくれることが嬉《うれ》しくてつい大袈裟《おおげさ》に相槌《あいづち》を打っていた。
しかし、そんな脳天気《のうてんき》っぽい私を見て、またしずるさんは少し暗い顔になった。
「よーちゃんはいい人だから、そうやって素直に笑えるけど、でも一般的には自分からかけ離《はな》れたこと≠ノ対して人は心を閉ざしてしまうものなのよ。だから自分の常識から外《はず》れたものと出会うと、逆にそれを盲信《もうしん》して他の可能性から眼を瞑《つむ》ってしまう――」
難しいことをすらすらと、しずるさんは話すが、私は正直、全然ついていけない。
「…………」
そうしているうちに面会時間が終わってしまい、私は病室から出なくてはならなくなってしまった。
「じゃあ、またね」
「ええ。待っているわ」
しずるさんは微笑みながらうなずいてくれたが、私は見てしまった――扉を閉じる瞬間、その隙間の向こうでしずるさんがまた窓の外に眼を向けて、
「ふう――」
とため息をつくのを。
――その夜、都市|近郊《きんこう》部全域で大規模な電波異常が観測《かんそく》された。
あちこちで携帯電話のメモリーが消えてしまったり、モバイルコンピュータのハードディスクがクラッシュしたりする事件が続発し、関連業者はトラブルの収拾《しゅうしゅう》に時間をとられることになった。空港などのレーダーにも乱れが生じ、一時は離着陸《りちゃくりく》に支障《ししょう》が出たりもした。
異常の原因は不明であり、太陽黒点からの異常放射ではないかという推測が学者などによってなされたが、それを裏付けるものはなく、電波を使ったテロ行為ではないかとか、秘密の研究所が違法な実験をしたためであるとか、文明に対応した悪霊の崇《たた》りであるといった無責任な噂ばかりが面白半分に広まっていた。
問題の死体が発見されたのは、ちょうどその騒ぎのまっただ中でのことだった。
岸義夫《きしよしお》は高層建築の高級マンション〈メゾン白波《しらなみ》〉で警備員をしている。
一応、大学生なのだがほとんど自主休学中と言った感じで、ここ半年は一度も講義を受けていない。
彼は心の中で自分は詩人である≠ニ決めているのだ。だから心に何の感動も与えない大学生活には価値を認めないということで、バイトに明け暮れる生活をしているのだが、彼の友人たちには勉強するのを面倒《めんどう》くさがっているだけだということを見抜かれている。本人は今一つ自覚していないのだが。
(うーむ、なにか心にビビッと来るフレーズはないものか)
今日も彼は、そんなことをぼんやりと思いながらマンションの通路を巡回《じゅんかい》している。六時間に一度、異常がないか見回ることが仕事に入っているのだ。
(人生は旅のようなもの――だから、すぐに穴が空《あ》く――って、それは足袋《たび》だっつーの)
などと心の中でどうでもいいようなことを考えつつ最上階の通路まで来ると、そこの住人である松野《まつの》氏の奥さんに出くわした。
ただでさえ家賃の高いこのマンションで、最も高価な部屋に住んでいる初老の夫人は、義夫を見て少しぎょっとしたような顔になった。
「どうもこんにちは」
義夫の方は屈託《くったく》なく、上から「住人と会ったときは相手が子供でも大人でもきちんと挨拶《あいさつ》」と言われているので、その通りに頭を下げた。
「あ、あー、えーと……こ、こんにちわ」
奥さんはおどおどと落ち着かない様子で、ややぶっきらぼうに返事した。そしてすぐに部屋の中に入ってしまった。
乱暴にドアが閉じられる。
(……なんか、あの奥さん金持ちっぽくないよな)
義夫は前からなんとなくそう思っていた。お世辞《せじ》にも美人とか上品とは言えない容姿《ようし》だし、着ている服もどこかみすぼらしい感じで、化粧《けしょう》っ気《け》もない。そして旦那《だんな》の方はと言うと、家の中に閉じこもってばかりで、ほとんど外に出てこないという変人だ。しかし住人の生活をあれこれ勘《かん》ぐったりするな≠ニいう指示もされていることだし、あまり深くは考えない。
通路を見回ると、非常階段の方もチェックする。外から誰かがこっそり入ってくることのないように、ここには特殊な鍵がかかっている。内側からしか開けられない上に、子供が悪戯できないようにプラスティックのカバーが掛《か》けられているのだ。いざというときはそれを壊して鍵を解除するのだが、しかし、
(火事とかで、子供とか力の弱い老人だけが残ったりしていたら開けられないんじゃないかな)
という気もする。
すべてのチェックを終えて、義夫は一階のフロアにある管理センター室に戻《もど》ってきた。
「点検終わりました」
と同僚の田中さんに声を掛《か》けると、
「うん……」
と彼の様子がおかしい。顔がやけに赤く、椅子の上に座っているというよりも、へたりこんで立てないという感じだ。
「どうしたんですか? ――うわ、すごい熱じゃないですか!」
田中さんは風邪気味だったのだが、年金だけだと払いきれない家のローンのために無理をして出勤してきていたのだ。しかし急に病状が悪化したらしい。
「駄目ですよ、今日はもう帰った方がいいんじゃ――」
「しかしなあ、早退すると時給がなあ」
ぶつぶつ言って、ちっとも腰を上げようとしない。
「うーん、しょうがないなあ」
義夫は別に、仕事に対してそれほどの使命感はないので、本来なら完全な規定違反なのだが、このまま田中さんを勤務中ということにして、自分だけで今夜を乗り切ることにした。
「とりあえず仮眠所で横になっててくださいよ。後は僕がやりますから」
「すまないな兄ちゃん」
田中さんは風邪薬を飲むと、布団《ふとん》に横になって、すぐに寝息を立て始めた。薬が効《き》いたらしい。
(夜中の点検の時はどうするかなあ――その間に通報が来たら対処できないよな)
そんなことを思っていると、音を絞りつつも点《つ》けっぱなしになっていたテレビの画面が激しく乱れた。
「な、なんだ?」
今まさに、都市部を襲《おそ》った電波異常がここにも影響を及ぼしたのだが、もちろんこのときの義夫にそんなことがわかるはずもない。
異常はすぐに収《おさ》まり、テレビも元に戻った。
義夫がひとりで不安を感じていると、十分後に今度は突然、停電が起きて真っ暗になった。
すぐに非常回線が開いて、照明は復旧《ふっきゅう》したが、原因がわからない。
(今のテレビと何か関係が?)
そう思うが、確かめる術《すべ》はない。とにかく、停電が起きたときには入居者たちに「何か不都合《ふつごう》はないか」と問い合わせをしていくことになっている。本来なら二人で分担してやるのだが、田中さんはぐっすり寝入っていてまったく起きそうもない。
まず、一番上の階から連絡を取ってみる。例の松野氏のところだ。
しかしいくら呼び出しても、まったく応答がない。
(おかしいな――?)
なにか非常に嫌な予感がした。よりによって一人きりの時にこんなことになるとは――義夫は悩《なや》んだが、仕方ないので合い鍵を持って上に行ってみることにした。
エレベーターは正常に動いていた。最上階につくと、周囲は不気味に静まり返っていた。
とりあえず、呼《よ》び鈴《りん》を押してみる。だがやはり反応はない。
おそるおそる鍵を開けて、部屋の中に入ってみる。
すると中から激しい風が吹いてきた。こんなことはありえない。ここは高くて危険なため、基本的に窓は開けられないようになっているのだ。
「ま、松野さん――?」
部屋の中に入っていくと、果たして窓は壊《こわ》れていた。窓枠ごとガラスが取り外されていて、横に置かれていた。
そして、この部屋の主である松野|泰三《たいぞう》氏は居間の中央で大の字に横たわっていた。
「…………」
義夫は立ちすくんだ。声を掛けてみようとか、そういったことはまったく思わなかった。そんなことをしても無駄だということは一目でわかっていた。
明らかに死んでいる。
「…………」
そのとき、義夫はさっき考えたことをまた思い返していた。あのときはどうでもいいと思ったことが、ここに来てこれ以上ないくらいにビビッと来るフレーズとして頭の中で反響していた。
(人生は――すぐに穴が空く――)
その言葉のように、松野氏の裸になっている上半身には――その胸には穴がひとつ空いていた。大きな穴だった。
その死体には傷らしきものはそれだけで、別に手足がもぎ取られていたり首が分断されていたりということはなかった。だがそれでも、それを見た義夫はそこに、決定的なまでの欠落《けつらく》を見た。それはもう人のイメージから完全に逸脱《いつだつ》していると感じずにはいられなかった。
心臓が、なかったのである。
……そしてこの室内のどこにもいなかった奥さんは、後でわかったのだが、実は松野氏の妻ではなかった。身の回りの世話をさせている専属《せんぞく》の家政婦《かせいふ》に過ぎなかったのだ。そのことを何故《なぜ》か周囲には知らせないでいたのである。彼女はこのとき、少し離《はな》れた場所にいた。
窓から落ちて、墜落死《ついらくし》していたのだ。そこにはちょうど電信柱が立っていて、この接触事故≠ノよって付近に停電が発生していたのだった。
だがその位置がどうにも奇妙なことに、マンションから百メートルも離れた場所だったのである。
被害者が二人も出たこの事態のすべてはあの、問題の電波異常が生じてからほんの十数分の間に起こっていた。
そして松野氏の方は調《しら》べれば調べるほど異常さが露《あらわ》になった。
ぽっかりと胸に空いた穴は、肋骨《ろっこつ》までもが丸く切り抜かれていた。傷口は他に類《るい》のない奇妙なものであり、血管などの切断|箇所《かしょ》そのものはまるで引きちぎったような乱雑《らんざつ》さなのに対して、その位置がみな一線に並んでいて綺麗な円を描いていたのだ。
最も有力な死因として浮かんだのは、その異常すぎる死体に似合わず意外にもありふれたもの――睡眠薬だった。血液から多量の成分が検出されたのだ。だが致死量になるかならないか微妙なところであり、それが死因なのかどうかはすぐには決められないということだった。しかし、少なくとも失血死ではない≠ニいうことは確実であるらしい。その種の状態が死体に見られなかったのだ。つまり心臓をえぐり出された傷が因《もと》で死んだのではない――そういうことになる。
このような死体の様子が報道されたとき、誰もがある一つの単語を連想《れんそう》した。
アメリカの一地方で発見された牛の死体には、身体の一部だけがぽっかりと刳《く》り抜《ぬ》かれているという奇妙な痕跡が見られたのだ。
キャトル・ミューティレーション。
それはそう呼ばれていて、科学者の出したいくつかの見解にも関わらず、一般的にこの現象はあるものの仕業《しわざ》だとして考えられている。すなわち――
これはUFOで飛来《ひらい》した宇宙人の実験である、と。
2.
……というような事件が起きたことをテレビのニュースで知って、私は普段《ふだん》ならゾッとするのだが、このときは、
(――これだわ!)
と思ってしまった。
そう、しずるさんはこういうおどろおどろしくて訳のわからない事件の謎を解くのが得意で、そして好きなのだ。この前のお見舞いの時にも、宇宙人がどうのという話でそれなりに彼女は喋《しゃべ》ってもいたし。
(これならきっと、しずるさんは興味を持ってくれるわ!)
そう思って、さっそく週刊誌とかチェックしてみたのだが……しかし、
(こ、これはいくらなんでも……)
私にはまったく、どういう事件なのか理解できなかった。ほんとうにUFOがこの被害者たちを襲《おそ》ったのだ、と言われても信じるしかない状況にしか思えなかったのだ。
そこで私は、それまで全然知らなかった宇宙人とかUFOの目撃談とかの本なども読んでみた。するとこれまたすごく説得力があるとしか思えないような話がたくさんあり、私は「うーん」と唸《うな》ってしまった。
広大な麦畑に、謎の円形や扇形《おうぎがた》といった複雑な幾何学模様《きかがくもよう》が突如《とつじょ》として浮かび上がるミステリーサークルの話は聞いていたけど、まさかそれが何百種類もあるものだとは知らなかった。しかもその、それぞれの出現場所はあまりにも離れすぎていて、プラズマなどの自然現象にしては、それぞれの気候風土が違いすぎるのだという。
音もなく夜空を飛び回るUFOの目撃例も無数にあり、しかもその動きは飛行機ではあり得ないジグザグ飛行だったという。誰かが一人で言い張っているのならば嘘をついている可能性もあるけど、同じ光景を何人もの人が同時に見ていることも多いのである。ビデオ撮影されたものもあるらしい。
そしてなんと言っても、問題のキャトル・ミューティレーションのことだが、最近では肉が抉《えぐ》られている以外にも、南米などで全身の血が抜き取られてしまっている馬の死体が見つかった例もあるという。
これは目撃例から、チュパカブラと呼ばれている謎の生物の仕業だと言われているらしい。その姿は不気味な、大きな牙を持つ猿《さる》といった感じで、とてもおぞましいイメージだった。噂だとこの生物は宇宙人がUFOで連れてきたものが逃げたとか、あるいはわざと離して観察しているのだという。まさしく宇宙から来た怪物、といった感じだ。
(うわあ……)
私としては謎めいた殺人事件の参考のために調べようとしていたのに、こっちの方の謎もなんだか、底無し沼のように深いものに感じられて怖くなってきた。
(で、でも――私は怖いけど、でもしずるさんならきっと、不思議なことを前にしたら、謎を解こうと元気を出してくれるはずだわ)
私はそう思い、気味が悪くて仕方《しかた》がなかったけど、集めた資料をバッグに詰めて、しずるさんのいる病院に出掛けていった。
自称《じしょう》詩人の岸義夫は、ぼーっとして白い天井と壁に囲まれた室内に座っている。
ここは警察の事情|聴取《ちょうしゅ》をする部屋、つまり取調室だ。まさか自分の人生でこういうところに来る日が来ようとは昨日まで夢にも思わなかった。
「いや、これはあくまでも被害者の第一発見者に対する、捜査《そうさ》資料のための聴取だから」
と刑事《けいじ》は穏《おだ》やかな口調で言ったが、義夫としてはやはりなんだか落ち着かない。
「松野泰三氏のところには、いつも誰かが訪《たす》ねてきたりとかしていたのかな」
「えーと、いいえ。そういえば僕が仕事に就《つ》いていたときには、誰かが来たと言うことは一度もなかったですね。なんか仕事からはもう、引退してたとかいう話でした」
「そうらしいな。彼の昔の知り合いも、今の住所を知らなかったらしい。こっそりと隠れて住んでいたみたいな感じだよ。それで、誰がここに住んでいるのか、というような問い合わせの類《たぐい》はなかったかな」
「えーと……あんまり大きな声じゃ言えませんが、入居者の中には芸能人の方もいますんで、そっちの方ではそういうことも何度か。でも松野さんにはその手のことはなかったと思いますよ」
「なるほどなるほど」
刑事は合点《がてん》した、というように何度もうなずく。
「――で、君が入るまで、その部屋に入った者はいないのかね?」
「はあ。わかっている限りでは」
「あのマンションは出入口で、入る者を完全に監視しているんだろう?」
「はあ。そういう規定になっていますから」
「君が被害者の木原静子《きはらしずこ》さんと会ったのは停電の一時間ほど前だというのは確かなのかな」
「はあ。巡回の時刻は決められていますので」
「それからマンションに入ってきた者はいるのかね」
「いや、いませんでした」
「入居者の方たちも帰ってきたり出掛けたりしなかった、と?」
「はあ」
義夫は何を訊かれても同じようなことしか答えられない。
刑事も彼の言葉にいちいちうなずいていたが、やがて、
「侵入者は皆無。出ていった人間もいない。おかしいじゃないか、では誰が二人を殺したんだ?」
と言い出した。
「見当《けんとう》もつきません」
義夫は正直に言った。それ以前に、どうやったら人間はああいう殺され方をするのか、ということ自体がまったくわからないのだが、どうやら警察はそういうことにはあまり興味がなく、犯人を捕《つか》まえてから直接訊けばいいと思っているようだ。
(でも、もしも本当に宇宙人の仕業だったら捕まえようがないんじゃなかろうか……)
確かアメリカ政府は墜落《ついらく》したUFOから宇宙人の死体とか捕虜とかを隠匿《いんとく》していて、研究をしているとかいう話があったが、日本はどうなんだろう――と、ぼんやりとそんなことを考えていると、刑事が、
「ところで――」
と改まった口調になった。
「君は、同僚の田中|信介《しんすけ》さんが風邪気味であるということで、薬を飲んで寝ることをすすめたそうだね」
「はあ、田中さんの具合《ぐあい》が悪そうだったので」
深く考えずに、義夫は素直に認めた。すると刑事の態度が一変した。
「それはその薬が、催眠効果のあるものだと知っていて飲ませたのか?」
「え?」
急に厳《きび》しい声で言われて、義夫は絶句《ぜっく》してしまった。
「規定では、警備員の中に急病人が出たら、すぐさま本社の中央管理センターに連絡して、代わりの者を派遣《はけん》してもらうことになっているな。なのに君がそれに従わなかったのは何故だ?」
刑事は容赦《ようしゃ》なく責《せ》め立ててきた。
「そ、それはその――」
田中さんにはローンが、とか言いかけて、しかしこんな場所ではそういう理由はすべてつまらない言い訳にしか聞こえないことを悟《さと》る。
「君は同僚を眠らせて、他にマンションを監視する者がいない状況を作ったわけだ。それは何のためだ?」
「あ、あー……その……」
「外から誰かを、こっそり中に入れるためじゃなかったのか? それとも誰にも邪魔されない状況を作りたかったのか?」
「……えーと」
既《すで》にして、ただの捜査資料作成のための聴取ではなくなっていた。
これは尋問《じんもん》であり、そして義夫は殺人事件の犯人か、そのグループの一味として完全に疑《うたが》われてしまっているのだった。
私がしずるさんの病院に向かうときは、いつも彼女に会えるという嬉《うれ》しさと、しかし彼女の容態《ようだい》が悪化しているのではないかという不安がないまぜになっている。
山の上に建っている病院に続く坂道を、とぼとぼという調子で昇《のぼ》っていくと、白い大きなシルエットが目に入ってくる。
山の緑の中に聳《そび》える真っ白い建物は、本当に四角くて、なんだか人が中にいるように見えないことがある。
(なんか――大きな豆腐みたいにも見えるのよね)
私はいつものように、入り口の所で警備員の人に挨拶して、病院一階の受付に、面会に来たことを告げると、しずるさんのいる階までエレベーターに乗った。
そういえば、私は上に行くのに階段を使ったことがない。ていうか、この建物のどこに階段があるのかも知らない。この病院には案内の見取り図のたぐいもないので、他の階にどんな病気の患者さんがいるのか、私はまるで知らないのだ。
エレベーターを降りると、すぐ前のフロアにしずるさんの主治医の先生がいた。
彼は背が高くて痩《や》せていて、眼鏡を掛けていてやや彫りが深い顔立ちである。白人系の血が混《ま》じっているんじゃないかと思うが、別に訊いてみたことはない。
「やあ、いらっしゃい、よーちゃん」
先生は私を見ると、挨拶してきた。どうでもいいのだが、この病院の人は皆、私のことを名字でなく友だちのようによーちゃん≠ニ呼ぶ。なんでだろうと思うが、あんまり気にしないことにしている。
「こんにちは先生、しずるさんの具合はどうですか?」
彼女が少し塞《ふさ》ぎがちなのは、やっぱり身体の調子が悪いからでは、と私は気にしていたのだが、これに先生は、
「うん、最近はかなりいい調子だよ。ここ一週間ほどは投薬《とうやく》も抑《おさ》え気味にしているんだ。これが続いてくれるといいんだがね」
と意外なことを言った。
「そ、そうなんですか?」
喜ばしいことなのだが、私はそれで逆に不安にもなる。ではしずるさんは、なんであんな風にため息ばかりついているのだろうか?
先生はそんな私の戸惑《とまど》いなどまったく気づかずに、さらに明るい調子で、
「きっと君のおかげだよ、よーちゃん」
と言った。
「は?」
私が目を丸くすると、彼は苦笑を浮かべて、
「いや……医者としては情けないことなんだがね。やはり患者自身の気力というか、生きる張り合いというか、そういうものがないと治《なお》る病気も治らない。あのお姫さまは頭が良すぎて、世を達観《たっかん》しているみたいなところがあるが――君だけがその例外だからね」
と自分の言葉に自分でうなずきながら言う。
「れ、例外――ですか?」
変なことを言われて、私はやや困惑《こんわく》する。
「そうだ。なんていうのかな――人間が生きていくのに、すべてを理解する必要は必ずしもないんだ。それよりもたったひとつでいいから、何かを信じることができる方がいい。お姫さまにとって君はきっと、理解よりも信頼が先に立っている唯一《ゆいいつ》の存在なのだと思うね」
「……はあ」
しずるさんの主治医だからなのか、この先生も相当《そうとう》に訳のわからないことを平気で言う。
それじゃあ、と私は先生と別れて、しずるさんの個室に足を向けた。
こんこん、とノックすると中から「どうぞ」という声が返ってくる。
ドアを開けると、しずるさんはベッドの上に身を起こして、窓枠に頬杖《ほおづえ》をついて外をぼんやりと眺《なが》めていた。
とても気怠《けだる》い、力の抜けたような空気が漂《ただよ》っている。やっぱり元気がない。
「……あ、あの」
私が声を掛けようとすると、同時に、
「ねえ、よーちゃん――人間の認識には限界があるわね」
と唐突に言った。
「――は?」
「ここから四万キロメートル先というと、あなたは何を連想するかしら?」
何を言おうとしているのか、まったくわからないので私は仕方なく、
「……す、すごく遠いわね?」
と、どうでもいいことを言った。するとしずるさんは、
「そうね……でも四万キロって、地球一周の距離なのよね。それだけ進んだら元の所に戻ってしまうのよ」
と、もの悲しそうな顔で言った。
「…………」
「ふう――」
しずるさんはまたため息をつく。すごく切《せつ》なそうな雰囲気《ふんいき》だが、たそがれている理由がさっぱりわからない。
「あ、あのさ――今日は私、色々持ってきたんだ、ほらあの、厳重《げんじゅう》に警備されていたはずの高層マンション最上階で起きた、その」
二人も殺されて、ひとりは心臓がなくなっていて、わぎわざ開けられないはずの窓から墜落《ついらく》した人は百メートル離れた場所に落ちていた――というようなことを私はしどろもどろに話した。しずるさんは当然、もうおおよそ知っていたみたいで、
「ああ、あの事件ね――」
と疲《つか》れたように呟く。
意外にも、しずるさんは話を聞いてもさほど興味のなさそうな様子である。いつもなら、私が嫌がっても強引に事件となると調べたがるのに。
「なんだか気の滅入《めい》る事件よね。ああいうのは正直、あんまり関《かか》わりたくないわね」
なんて、普段なら私の科白《せりふ》のようなことまで言う。
「で、でもすっごく不思議な事件じゃないかしら?」
私は無理矢理《むりやり》に話を続けた。
「きっとこの世に、しずるさんしか解決できる人はいないと思うわ」
これはお世辞《せじ》でいい気分になってもらうのが目的の言葉だったが、半分は本音《ほんね》だった。正直な話、私は彼女ほど頭のいい人間を他に見たことがないのだ。――しかし、
「そうでもないと思うけど――あれは専門家なら、誰でもわかるような事件じゃないかしらね」
と、しずるさんはどうにもやる気のない調子で、また窓の外に目をやってしまう。
「…………」
私は困ってしまい、持ってきた資料の入ったバッグを急に重く感じて、持っているのが苦痛になってきた。
するとしずるさんは「ふう……」とため息をひとつついて、仕方ない、という感じの声で、
「まあ、でも、よーちゃんがどうしてもって言うのなら、一緒に考えましょうか」
と言ってくれた。私は嬉しくなって、
「う、うん!」
と答えた。
3.
いつものように、しずるさんに資料を渡して読んでもらいながら、同時に私があらましを説明した。今回は説明|途中《とちゅう》での質問はほとんどなく、一通り私が喋《しゃべ》った後でやっと、
「この被害者の、松野寮三という人はどういう仕事に就《つ》いてたのかしら?」
と訊いてきた。
「うーん、それがよくわからないのよね。お金持ちなのは確かなんだけど、どうやってそのお金を儲《もう》けていたのか今一つはっきりしていないというか、発表されてないわ。でもなんか、株関係でどうの、って話がちょっとここに載《の》っているけど」
私は週刊誌のページを開いてしずるさんに見せた。
「ああ、なるほどね。裏情報を取り引きしてた闇ブローカーってところね」
しずるさんは、私には難しいその記事を読んで納得したみたいだ。
「ブローカーって何?」
「色々あるけど、この場合は簡単よ。要するに大《おお》っぴらにはできないことを利用して金儲けをしていた悪徳商人≠チて感じ。あんまり誉《ほめ》められた立場にはいなかった人ってことね」
「恨《うらみ》みを買うことも多かった、ということかしら」
「さあね、二年くらい前に事実上引退していた、って書いてあるから、そうだとしても過去の話にはなっていたわね」
「でも、ずっとしつこく恨んでいたとかいうのもあるんじゃないかな?」
「まあね、でも基本的にはこの人、お金関係だからね――金の恨みって、意外に長続きしないものなのよ。別の所で儲かったり損したりしていると、前の取り引きのことはそんなに気にならなくなるというか」
「そういうものなの?」
「恨みが持続《じぞく》するのは大抵《たいてい》、社会的地位を奪《うば》い合う権力争いとか、財産の相続などの血縁《けつえん》関係とか、目の前にあって、自分にとって直接的なことが原因なのよ。でもこの人の場合ブローカーだから、実際に金を搾《しぼ》り取った相手とも顔を合わせることはほとんどなかっただろうし」
「うーん、よくわかんないけど……じゃあしずるさんは、これはそういう恨みとか、えーと、なんて言ったかしら?」
「そうね。いわゆる怨恨《えんこん》の線≠ナはないと思うわ」
彼女はきっぱりとした口調で断定《だんてい》した。こういうときはもう、完全にそうじゃないことを私はこれまでの経験で知っていた。しずるさんがと思う≠ニ言うとき、それはそのことが確実だと見ているときなのだ。
(でもまあ、私のことをよーちゃんは素晴らしい人だと思うわ≠ニか、ふざけることもあるけど)
私は心の中で苦笑しながら、さらに訊いてみた。
「でも、だとしたら犯人は、なんでこんな惨《むご》たらしい殺し方をしたのかしら? 心臓をえぐり出すなんて――」
「心臓を取り出す、ということだけで言うなら、別にそれは恨みつらみから行《おこな》われるとは限らないわよ」
「え? ど、どういう意味?」
「十六世紀に、スペインに滅ぼされたアステカ帝国では神に生《い》け贄《にえ》を捧《ささ》げるとして、戦争|捕虜《ほりょ》の心臓を神殿の上でえぐり出したと言うわよ」
「……いや、そういうのとはこの場合、違うんじゃないかしら」
「しかし、相手に対して恨みを思い知らせるという役には立たないわね。心臓をえぐり出した瞬間には、もうその人は即死してしまうのだから」
「……そういえば、そうだけど」
「あらゆる儀式《ぎしき》は、受ける本人もさることながら、周《まわ》りの人間にそれを見せるという目的があって、心臓をえぐるというのは、殺すよりもそっちの方に効果のある方法よね」
「儀式?」
その言葉に私はぎくりとした。
「これって、そういう事件なの? ――カルト宗教かなにかの、歪んだ教義の実践《じっせん》のために、心臓をどうにかする必要があったのかしら?」
「どうかしらね――まあ、殺人事件なんて、多かれ少なかれそういう適当な思いこみによるものばかりだけど、ね――」
しずるさんは相変《あいか》わらず、投げやりな調子である。
「…………」
私がちょっと困った顔になってしまったのを見て、しずるさんは、
「そうね、何かの儀式のために人の心臓が必要だった、そういう考えも確かにあり得るわよ。でもその場合、なんでこの松野さんが、その対象に選ばれたのかということが問題になってくるのよ」
「――ああ、そうか。そうね。それこそ神様に捧げるというのなら、特別な心臓じゃなきゃいけないでしょうね」
しずるさんが私に気を使っているみたいになってきたので、私は少し焦りながらうなずいた。
「悪徳商人じゃあ、あんまりそういう対象にはならないでしょうね」
それに、適当に相手を選んだというのもこの場合は考えにくい。なにしろ厳重に監視されている高層建築のマンションの、その最上階の住人なのだから。
「でも、そうなるとどんな動機なのか、全然わかんないってことになっちゃうわね……」
私はまた途方《とほう》に暮れはじめる。
「だから、宇宙人の仕業なんじゃないの?」
しずるさんの口調がまた投げやりになってきた。
「宇宙の常識は、きっと人間のものとは違うのよ」
「……本気でそう思うの?」
「その可能性は捨てきれないでしょう?」
むっ、と私は少し腹が立ってきた。しずるさんは何かに悩んでいるのかも知れないけど、だったらそのことを私に言って欲しい。それをしないで、ただこういう適当なことばかり言われるのは、なんか嫌だ。
「じゃあ、しずるさんは宇宙人のことをわかるっていうのかしら?」
私は、ついでに下調べした宇宙人の謎を、しずるさんに言ってみた。
するとしずるさんは、ちょっと顔をしかめて、
「そういうのは、色々と厄介《やっかい》なのよ」
と迷っているような言い方をした。
「どう厄介なのよ? 結局わかんないんでしょう?」
私はぷりぷりしていたので、つい強めの声を出してしまった。しかししずるさんはそんな私に対して、落ち着いた調子で、
「宇宙人がらみのミステリーが厄介なのは、その謎としての魅力と、実際の現実のトリックとのバランスが悪いことよ」
と静かに、さとすように言った。意味はよくわからないが、彼女の声には真面目《まじめ》さが戻《もど》っていた。
「……バランス、って?」
気がつくと素直に質問していた。私の腹立ちは彼女の穏やかな調子に、あっという間に消えていた。
「たとえばミステリーサークルだけど」
しずるさんは空中に指先で、くるっ、と円を描いてみせた。
「麦畑に、自然界にはあり得ない綺麗な同心円を基本とした幾何学模様ができているという神秘」
しずるさんはちょっと間を置いた。
「うん」
と私がうなずく。しずるさんもうなずいて、
「そして横にした棒を麦にあてて、丁寧《ていねい》に足で押す≠ニいうだけの、あまりにも身も蓋《ふた》もない作り方」
と言った。
え、と私は驚《おどろ》いた。
「あれって、足で踏むと作れちゃうの?」
「そうよ。円形になっているのは、中心に棒を刺《さ》して、端《はし》を輪にした縄《なわ》を通しておくのよ。後はその縄を掴《つか》んで動けばコンパスの要領《ようりょう》で綺麗な円になる訳ね。複雑な模様と言われているものも、このやり方の応用でできるはずよ。扇形《おうぎがた》とか、円の周りに輪ができているとか。前もって図面を引いておくといいんじゃないかしら。あとはそこで算出された数字に合わせて西に五歩進んで、東に七歩進む≠ンたいなことをきちんと守れば、たぶん小学生にもできるわ」
どうということはない、みたいな調子で言う。私はすっかり毒気《どくけ》を抜かれてしまって、
「……で、でも悪戯だったら、あんな広大な麦畑の真ん中に、わざわざ作ることはないんじゃないかしら?」
と弱々しく訊いた。だけど彼女はこれにもあっさりと、
「広大な麦畑だからこそ、悪戯なのに効果があるのよ」
と切り返してきた。
「え?」
「多少いい加減《かげん》に場所を決めても、周りはみんな同じ風景なんだから、意味ありげでもっともらしく見えるわけね」
「……で、でも確か、人の手で折ったものとでは植物|繊維《せんい》の破壊が違うとかなんとか」
「だから丁寧に≠ネのよ。テレビとかの実験映像って、必要以上に乱暴に踏んでるわよ。あれとでは、そりゃあ結果は違って当然ね」
しずるさんは淡々とした口調で言った。私は半ば信じていたので、かなり茫然《ぼうぜん》としてしまった。しずるさんはかまわず続ける。
「こういうつまらない説明と、広大な麦畑に突如パズルのような図形が出現したという謎めいていて魅力的な光景。そのふたつが人の心の中で今一つ噛《か》み合わないのよ。あれだけ不思議に見えるものが、そんなに簡単にできるというのが、理解はできても、納得できない――」
しずるさんは少し、遠くを見るような目つきをした。私は訳もなく、胸がきゅん、とした。
そう、時々しずるさんは、この世のどこにもない場所を眺《なが》めているような、そういう視線を空間に投げかける。それを見ると私は、彼女こそ一番のミステリーなのではないかと考えてしまうのだ。
「UFOなんかの目撃例もその辺が厄介《やっかい》ね。見た人はその存在を納得して過剰《かじょう》に信じ込むか、理解できず全然信じないかのどっちかで、その中間の冷静な態度というのがないのよ。ちなみに音がしない、ジグザグに飛んでいるUFOは大抵《たいてい》、風にあおられている気球か、風下《かざしも》にいるのでローター音が聞こえてきてないヘリコプターであることが多いわね。あるいは地上の光が反射している雲とか。特に山の上では、かなり近くに雲が浮いていたりするから、ぼんやりした影を見たら幽霊とかUFOの心配よりも、雨への対策を考えた方がいいでしょうね」
彼女はこともなげに言った。
「はあ――これからはそうするわ」
私は力なくうなずくしかない。
「で、今問題になっているキャトル・ミューティレーションだけど」
「う、うん」
「これは実際、今回の事件とはたぶん、まるっきり関係ないわね」
「そうなの?」
「あれは要するに、牛の死体の一部分が腐《くさ》って、脆《もろ》くなった部分を野犬などがそこだけ齧《かじ》ってちぎり取った痕《あと》だというのが一般的な見解よ。腐っているところだけもぎ取ってる訳だから、そこには牙の痕も、刃物の痕もないのは当然ね。血液が抜けてしまっている馬の死体というのは、たぶん身体に傷がついている状態で、恐慌《きょうこう》状態になってしまって全力疾走してしまったんじゃないかしら。それでいざ倒れ込んだ死体の側には血が全然ない、ということになるわけね」
(…………)
しかし、しずるさんは本当に、どうしてこんなことを知っているのだろうか? 暴露《ばくろ》本とか読んでいるとはとても思えないのに。
(もしかして、その手のテレビ番組を見ながら同時に、どんどん推理しちゃってるのかしら?)
それしか考えられない。なんだか一生懸命どうです、不思議でしょう≠ニ視聴者を説得しようとしているはずの番組スタッフに同情的な気持ちさえ湧いてきた。
「基本的に、UFO関係の目撃例とかいうものは、場所や時間があやふやなことばかりで、今回の事件みたいに警備の人が監視している状態でなんか起こらないのよ」
しずるさんはかすかに首を振《ふ》った。
「今回のことがもしも、本当に宇宙人の仕業だったとしたら、それこそ人間には絶対にわからないでしょうね。人間の犯罪というのは大抵、その前になにか致命的《ちめいてき》な失敗を犯《おか》していて、それをごまかすために行われるものだから」
犯罪はごまかし=\―これはしずるさんの口癖である。
「そのごまかしがないのなら、隙《すき》を見つけようがないわ。そういう方向からいくら当たっても手掛かりがないことになる。お手上げね」
彼女は肩をすくめてみせた。
どうも、やっぱり彼女は本質的に、この事件に対して完全にやる気がないみたいだ。
「――うーん」
ここまで来てしまったら、私はこれは言わないでおこうか≠ニ思っていたことを言わなくてはならないようだ。
「あのね、しずるさん――実はね、この事件、もう容疑者が捕まっちゃってるのよ」
その、監視していた当の警備員の身柄《みがら》をもう警察は押さえてしまっているというのだ。確かにどんな不可能状況でも、警備員自体が犯人だったらなんとでもなってしまう。
でもどうして心臓がなくなっているのかとか、その辺のことはまだわかっていないので、それをしずるさんに解《と》いてもらおうと思っていたのだ。
ところが話を聞いて、しずるさんは急にぎょっとしたような顔をした。
「なんですって? そんな馬鹿な」
呆れたような顔になっている。
「容疑者なんか出る訳ないわ。これはそんな事件じゃないんだから」
まるでどんな事件なのか、もうわかっているみたいな口調である。
「え?」
私が呆然としていると、彼女は「はあ」とため息をついて、やれやれと首を横に振った。
「しょうがないわね、そういうことなら――白黒はっきりさせる必要があるか」
「あの、しずるさん……?」
私はおそるおそる訊《たず》ねてみる。
「もしかして、最初っから事件のからくりとか、わかっちゃってたのかしら……?」
すると彼女は少し、バツの悪そうな顔になった。それから、
「こんな事件は、ガイガー・カウンターがあればすぐに解決したはずのものでしかないのよ」
と不思議|極《きわ》まることを言った。
「ガイガー……なんですって?」
それは確か、放射能を検知する装置じゃなかったか? そうUFOを探《さが》せ#ヤ組などでお馴染みの「がーがー」と音を立てるあれのことか?
「とにかく、私じゃなくても専門家ならわかるわよ。そうね、この病院の先生にでも言ってみればいいわ」
しずるさんは面倒くさそうに言った。
「なんだって? 私が殺人事件の犯人を知っている? なんのことだい」
先生は少し憮然《ぶぜん》とした表情になった。私もそりゃそうだと思ったが、しかし、
「でも、しずるさんがそう言ったんです。あの事件は先生ならわかって当然だ、みたいなことを」
と一応言ってみる。
「おいおい、私は探偵でもなんでもないんだぜ。そんなものわかるはずがないじゃないか」
勘弁《かんべん》してくれよ、みたいな顔である。
私もいい加減こんな質問はやめたかったが、でもとりあえず、
「あの、なんかしずるさんは変なことも言ってました。ガイガー・カウンターがあればいいとか、なんとか……」
と補足《ほそく》してみた。すると先生は首をひねって、
「ガイガー・カウンターねえ? 放射性物質でも探すっていうのかな」
とぶつぶつ言っていたが、やがて急に「あ」と顔を上げた。
「まさか――そういうことなのか?」
先生の顔に驚きと共に理解≠フ色が浮かんだので、私もびっくりした。
「わ、わかっちゃったんですか、やっぱり!?」
「いや――もし本当にそうなら、これは驚いたなあ……いや、これは警察に通報する必要があるな」
先生は「ううむ」と唸《うな》りながら、自分の顎《あご》を指先でいじっている。
4.
県警に設置された捜査本部からの指示で普段は使わない機器を渡された所轄《しよかつ》の警官たちは、さっそくそれを使って現場近辺の探索《たんさく》を開始した。
普段の証拠品の探索は、それこそ川底の泥《どろ》の中から一個のコインを探したりするようなものであるから、そういうのと比べたら明確《めいかく》なしるしがあるというそれ≠探すのは、彼らにとってはさほど難しい作業ではなかった。
マイクのような形をした検出器を地面の近くで左右に振っていると、やがて、
ガー、ガガガー、ガガッ
という反応音が響いたので、音がどんどん大きくなっていく方角に向かっていく。
事件現場の高層マンションから一キロほど離れた住宅地の、建て売り住居の庭の茂《しげ》みに落ちていた。
「こいつが……そうなのか?」
それは小さな装置に過ぎなかった。考えてみれば大きなものであるはずはないのだが、警官たちはもう少し気味の悪い物を想像していたのだ。
直径三センチほどの寸詰《すんづ》まりの筒が二つ、組み合わさったような形をしたそれを彼らは慎重に回収すると、鉛《なまり》の縫《ぬ》い込まれた絶縁袋《ぜつえんぶくろ》の中にしまい込んだ。ガイガー・カウンターの反応の少なさからして、心配された漏洩《ろうえい》による汚染《おせん》の心配はなかったが、そういう指示がされていたので、それに従《したが》ったのだ。
「原子力電池?」
私は話をしずるさんから訊《き》いて、目を丸くした。
「そ、そんなものがあるの?」
「別に、そんな特別なものというんでもないのよ。要は小型で、何十年も交換不要の乾電池みたいなもの」
「でも、放射能が出てるんでしょう?」
でなければガイガー・カウンターで探すことはできないだろう。
「大した量じゃないけどね――それも壊れてしまったからで、普通だったらきっと検知《けんち》できないレベルだったと思うわ」
しずるさんは平然と言う。
「でももちろん、製造は禁止されているでしょうね。でもそれを使わないと、作ることができなかったのよ」
「――でも、なんかちょっと信じられないんだけど」
私はまだ、今一つその存在を信じられなかった。
「その――人工心臓≠ネんて」
それが今回の事件の、すべての理由だったというのだ。
「機械で、心臓の代わりをする物が作られていたなんて聞いたこともなかったわ」
「研究自体は別に秘密にもなんにもされてないのよ。原子力を使うこともね」
「まあ……先生も知っていたんだから、きっと医学関係の学会とかでは発表されていたんでしょうねえ」
「そう、ただ実用化にはまだ至っていないと言うだけ。もっと正確に言うなら、完全に安全だと確認されている形では、ということだけど。その気になったら、いつ壊れるかわからない危険を覚悟して付けることもまあ、不可能ではなかった訳ね」
「……死んだ松野さんは、危険があると知っていて、それでも移植手術を受けたわけ?」
闇ブローカーとかいうのは、確かにそういう裏の世界には通じてはいただろうけど――。
「納得いかないかしら? まあ、最初から人工臓器に替《か》えるつもりはなくて、普通の手術が失敗したときの緊急手段だったんじゃないかとは思うけどね」
「…………」
法律で禁止されていようが、そういう可能性があるのなら使いたいという気持ちはわからないでもないが――
「――でも、それを使っていることは誰にも知られてはならなかったのね」
「そういうこと。それで彼は、その秘密を守るために、身の回りの世話を共犯者に任《まか》せることにした訳ね。それがもう一人の被害者、木原静子さんだった。彼女の本当の仕事は松野氏の人工心臓の秘密を守ること――」
「緊急時の機械の取り扱いとか、そういうことを教わっていたのかしら」
「そうでしょうね。そして、遂《つい》にそのときは来た。その夜、松野さんの人工心臓は機能不全を起こして停止してしまった。間の悪いことに、彼は寝るのに睡眠薬を使っていたので、そのまま苦しむ間もなく息を引き取ってしまった。ここまでだったら何の問題もなかったのよ」
しずるさんは悲しげに首を左右に振《ふ》った。
「…………」
私も、なんとも言えない気持ちになった。
木原さんという人がどういう人なのか私は知らないが、きっと彼女にもまた後ろ暗いことがあって、それで松野氏に協力していたのだろう。その彼女が彼の死体を発見したときの恐慌は想像するに余《あま》りある。
「木原さんは――とにかく問題の、人工心臓をなんとかしなければ、と思ってしまったのね」
「そういうこと。それで彼女は慌《あわ》てて、その証拠品≠処分しなければと思った。彼女はこのマンションは警備員によって厳重に見張《みは》られていることも知っていたから、死体を運び出したりすることもできなかった。そこで」
しずるさんは少し声の調子を落として、そして言った。
「彼女は人工心臓を、死んだ松野氏から引き剥がしてしまったのよ」
「…………」
傷口が丸くなっていたはずだ。それは機械の心臓が填《は》め込《こ》まれていた穴そのものだったのだから。
「そしてそれを捨《す》てなくてはと思ったけど、でもマンションの中にはどこにも安全な場所などなかった。そこで彼女は――それを窓の外に捨てることを思いついた。窓を外して、そして思いっきり外に向かって投げようとしたら――強い風が彼女の身体ごと、外に放り出してしまったんでしょうね」
それが、百メートルも離れた場所に墜落した理由だったのだ。彼女の服がちょうど帆≠ゥ凧《たこ》≠フような作用をして、その身体を空中で移動させたのだろう。
「なんか――虚《むな》しい話ね。悪かったと言えばみんな悪かったわけだけど、でもそんなに悪かったかというと――そこまでとは思えないわ」
私はどうにもやりきれない気分だった。事の真相を察《さっ》していたしずるさんが原因|追及《ついきゅう》にやる気が出なかったのもわかる気がした。
しかし――まだはっきりしていないこともある。
「でも、どうして人工心臓が急に停《と》まってしまったのかしら? やっぱり不良品だったのかな」
「いいえ。きっとそれはあの夜≠サのものに原因があると思うわ」
しずるさんはきっぱりとした口調で言った。
「あの夜=H どういうこと?」
私が訊くと、彼女は逆に、私に質問をしてきた。
「精密《せいみつ》な電子機器にとって、もっとも注意しなければならないのは何かしら?」
「精密機器にとって? ――って、あっ!」
私は声を上げていた。
「あ――あの電波異常≠ネの……?」
そういえば電車内などでしょっちゅうペースメーカーなどに悪影響が出る怖《おそ》れがあるので、携帯電話等の電源はお切り下さい≠ニ放送されているけど――まさか、あれが原因だったのか?
しずるさんはうなずいた。
「可能性に過ぎないけどね。その確率は極めて高いと思うわよ。少なくとも偶然の一致と考えるよりはね」
「で、でも――あの電波異常って結局、なんだったの?」
私の問いに、しずるさんは肩《かた》をすくめた。
「それこそ、私たちにはわからないわよ。太陽風かも知れないし、黒点放射かも知れない。専門の学者に聞かないとね。でも、もしかすると本当にUFOの仕業だったのかも知れないわ」
しずるさんは私から視線を逸《そ》らして、薄暗《うすぐら》くなりつつある窓の外に目を向けながら、言った。
「だから、そう言ったでしょう?」
「――――」
私は絶句していた。
しずるさんも黙《だま》ってしまう。
考えてみれば、この事件にしずるさんのやる気が出なかったのも当然だった。これは病気の人が死にたくない≠ニ足掻《あが》いたあげくに他の人を巻き込んで犠牲を拡大させたようなものではないか。
そう、これはしずるさんの置かれている立場に、微妙に似ている――。
「で、でも無実なのに捕まっていた警備員の人もこれで釈放《しゃくほう》されるだろうし、良かったわ」
私は、なんとか気を取り直して言った。しずるさんにも、いくら気が進まなかったと言っても、いいことをしたのだと思って欲しかったのだ。
「…………」
しかししずるさんは答えず、相変わらず窓の外をぼーっ、と眺めている。
「あ、あの」
私は、やはり彼女にあやまらないといけないんじゃないかと思った。――だけど、そのとき唐突に、
「うん! これなら一安心かしら?」
と、しずるさんが明るい声を出した。
「……は?」
私は戸惑う。
彼女の声の張《は》りはとても活《い》き活《い》きとしていて、それまでのふさぎ込んだ様子は全然ない。
「いや、あそこに小さな星があるでしょう?」
と言ってしずるさんは、窓の外の空を指さしてみせた。だけどまだ夕暮れの中であり、私には星なんかよくわからない。
「……それがどうかしたの?」
「たぶん、打ち上げ実験のためだけに使われた人工衛星だと思うのよ。最近なんだか、やけに明るくなってきていて――もしかしたら大気|圏《けん》に落ちて、燃え尽《つ》きてなくなっちゃうんじゃないかって、ここのところ心配だったの。他の星座とのバランスが、なんか気に入っていたから」
「……人工衛星?」
「でも、少しだけ光が弱くなったところを見ると、どうやら元に戻《もど》ったみたいだわ。一安心というところね」
しずるさんはニコニコしている。とてもご機嫌だ。
私は――ちょっと茫然《ぼうぜん》となってしまった。
(――もしかして、最近元気がなかったのは――それが理由……?」
地上からでは見えるんだか見えないんだか、わかんないくらいに小さな星のことを気にしていて、それで彼女は――そして私はそんなこととも露知《つゆし》らず、気味が悪いのを我慢《がまん》して、色々と調べたりして――
(…………)
私は、急に全身の力が抜けて、座っていた椅子の上からずり落ちそうになった。
「あら? どうしたのよーちゃん。なんか疲れてるみたいね」
しずるさんが明るい調子で訊いてきた。しかし私には答える気力が湧かず、ただ窓の外に目をやって、
「……ふうっ」
とため息をつくので精一杯《せいいっぱい》だった。
それまで勾留《こうりゅう》されて取り調べを受けていた岸義夫は、ほとんど説明らしい説明もなしにいきなり釈放《しゃくほう》された。
「どうしたんですか? 犯人、捕まったんですか?」
訊いてみたのだが、
「あー、いや、君は一般の方の善意《ぜんい》の通報によって無実が証明された。あれはどうやら事故だったらしい」
と、なんだか要領《ようりょう》を得ない調子で言われただけだった。
そう、不正に製造された人工心臓のことは、同様の症例に悩んでいる病人たちにいらぬ混乱を招《まね》くことから、この件は非公式のものとして扱われることになったのだった。だがそんなことまで義夫に考えが及ぶはずもない。
「…………」
ぼんやりしたまま、義夫は再び自由の身となって外に立った。
(――なんだったんだ、一体……?)
見上げる夕焼け空は薄暗く、うっすらと星が透《す》けて見える。
(善意の、一般の方って……誰なんだろう)
何もかも、まるっきり見当がつかない。
会社は、馘首《くび》になっているだろうなあと考えた。そうでなかったとしても、義夫の方にもうやる気がない。とりあえず学校に戻《もど》るべきなのだろうが、どうにも――
(……うー、めんどくさいなあ……)
自由人を自称している彼にとって、逃げてきた義務に帰るというのはどうにも気が進まないのだった。
でも、とりあえず大学の友人のところに電話してみるか、と彼は携帯を取り出した。
番号を押して、耳に当てる。
だが、そこから聞こえてきたのは異様な声だった。
――キレキレテ、クラトウ、パラダ――
甲高《かんだか》い電子音のような声が、最大ボリュームで鼓膜《こまく》に直撃した。
「――わっ!?」
義夫はびっくりして耳から携帯を引き剥がした。
「な、なんだこりゃ――混信《こんしん》か?」
そう、それはラジオを聴《き》いていて、近くを違法電波を飛ばしているトラックが通り過ぎたときのような割り込まれ方だった。
そのとき、彼はふいに頭上に気配を感じた。
はっ、となって空を見上げると、星空の中に奇妙な物があった。明らかに他の星々と色が違う緑色の光点が、ふらふらと揺れるように動いていた。
そして、急に空間にぱっ、と溶け込むようにして消え失せた。
「…………」
義夫は茫然としてそれを見ていたが、やがて手にしていた携帯から、
……もしもし、義夫? 義夫だろう?
という声が聞こえてきたので、はっとして手にしていた携帯を耳に当てた。混信が解けたので、あらためて掛けた番号に繋《つな》がっていたのだ。
「――ああ、悪い」
義夫はぼんやりとしたまま、電話に出た。
おまえ、どうしたんだよ? もう釈放されたんだろう?
友だちの声は呑気《のんき》なものだ。
どうする、どっか呑《の》みに行くか?
「あ、あのさ――」
義夫は相手に、
「あの、今さ――」
と言いかけたが……しかし、
なに? なんだよ
「――あー、別に――なんでもない」
と、力なく呟《つぶや》くだけだった。
その辺が厄介ね。見た人はその存在を納得して過剰に信じ込むか、理解できず全然信じないかのどっちかで――
[#地付き]“The Space-Monster”closed.
はりねずみチクタの冒険 その2
……いずれにせよ、二人はとても仲が良かったので、たとえどちらかが機嫌が悪くてすねていたとしても、すぐに元通りになってしまうのでした。
でも少しばかりどんよりした曇り空のような感じだったのに、いきなり元のように話を盛り上げるのはなかなかむずかしいですよね。でも大丈夫。そんなときのために、中途半端だったあの話が役に立つのです。
「ああ、そう言えば――覚えてるかしら? この前、なんか話してたチクタのこと」
「あの健気《けなげ》な、お腹に時計のあるハリネズミでしょう? 彼はあなたのところから旅立って、どこかに向かっていたのよね――」
いきなり、だいぶ前に途切《とぎ》れていた話を振られたというのに、少女は彼女の話にすぐについてきます。この辺が仲良したる所以《ゆえん》というところですね。
「そうそう、で、思ったんだけど――チクタはきっと、あれから色々なところをまわって、とにかく時計職人さんを探そうと思ったんじゃないかしら」
彼女は、少女が喜びそうなことなら、積極的に話さなきゃと思っているところがあって、その口調もなんとなくそんな感じでした。あんまり真剣には考えていないで、適当なことを言っているようにも聞こえます。
でも、少女はそんな彼女の言葉に、
「彼は、苦難《くなん》の道を自《みずか》ら選択したのね――」
と、大真面目な表情でうなずきます。
「え?」
この態度に彼女の方はとまどいます。
「そ、そんなに大変なのかしら――」
「ええ、とっても」
少女はさらにうなずきます。
「彼にはあてはないわ。つまり目につくもの、少しでも関係のありそうなもの、それらすべてを訪《たず》ねないと、目的には辿《たど》り着けないわけだから――」
「ううん……そう言われると、そうね――」
彼女の声が弱気なものになります。適当なことを言ったつもりだったのに、すっかり深刻な雰囲気です。そんな彼女に、少女が言葉を続けます。
「まあ、彼としてはまず、時計と少しでも関係のありそうなところから行くしかないわね。それはどんな相手かしら」
「え? ええと――オルゴールとか? ほら、どっちも歯車とかあるし」
「そうね。時計仕掛けのオルゴールも多いし、それはいい着眼点だわ」
「で、でしょう? じゃあチクタはオルゴール職人さんの所へ行ったのかしら」
「時計職人も見つからないのに、いきなりオルゴール職人の居場所はわからないでしょう」
「あ――まあ、そうね。じゃあやっぱり、オルゴールのところに訊きに行くしかないのかしら。でも時計たちからあんなに冷たくされて、大丈夫かしら」
前のときのことを思い出して、彼女はちょっと心配そうです。そんな彼女に少女はにこにこと微笑んで、
「オルゴールは、音色《ねいろ》で人を楽しませるのが仕事だから、時計のように正確で冷徹《れいてつ》ってことはないわよ」
と言いました。彼女の顔がぱっと輝いて、
「そう? じゃあ手掛かりを教えてくれるのかしら?」
と言うと、少女は微笑みながら首を横に振って、
「でも、オルゴールが歌うことのできる歌は一曲だけで、何を訊いても返ってくる答えはその歌ばかりなのよね。愛想《あいそ》はいいんだけど」
と言いました。彼女はがっくりです。
「うーん……じゃあオルゴールの側にあるものに訊くとか。えーと、場所はアンティークショップかな。骨董品《こっとうひん》とか。壷《つぼ》?」
「壷って見た目は綺麗なんだけど、花束とか何かを入れるために存在しているものだから、店とかにあるそれだけのものは、入れてくれ入れてくれ――って何を訊いてもぼそぼそ言っているばかりで、壷の中を見たら真っ暗だったわね」
少女はしみじみ、という口調で言います。
外では夕陽が沈み始めていたりして、空気がまた妙に重い感じです。
「と、とにかくそこからは出ましょう。うん、チクタは次の場所に向かうのよ」
「そうね。彼は前向きだわ」
彼女のやや強引な明るい声に、少女は相変わらず穏やかな微笑みで返事をするのでした。
そのとき、この白い部屋にチャイムが鳴り響いて、
……面会時間は、まもなく……
というような放送が始まりました。
「あっ、もうこんな時間か――」
彼女は残念そうに言って、ベッドの横のシートから立ち上がります。
「じゃあ、またね。今度はいつもの時間でいいんでしょう?」
「ええ――待ってるわ」
彼女に向かって、少女はその白くて細い手を振ります。
その光景は何度繰り返されたことか――でもその度に、彼女はその少女の手を握って、ずっとつないでいたいという気持ちになるのでした。
でも、彼女は帰らなくてはなりません。チクタのように、同じ場所にいつまでも居続けることはできないのでした。
第三章 しずるさんと幽霊犬 The Ghost Dog
1.
山の上に建っている病院の、その病室の窓からは外がよく見える。
眼下《がんか》の緑も、それを区切《くぎ》る道路も、その向こうに広がる都市の街並みも、すべてが一望《いちぼう》できる。
空は晴れ渡っており、雲一つない青空がどこまでもどこまでも続いている。
「――――」
その窓から、今日もしずるさんは世界をぼんやりと眺《なが》めている。
「――ふう」
時折《ときおり》つく吐息《といき》はため息か、それとも眺望《ちょうぼう》に対しての感嘆《かんたん》なのか、彼女のあいまいな表情からはよくわからない。
彼女の腕には昨日の、ちょっと長く打っていた点滴《てんてき》のために血管にあいた傷を包む包帯が少し厚めに巻かれている。
「――よーちゃん、今日は来てくれるかしら……」
ぼんやりと呟くその声は、あまりにもかすかなので、彼女以外の誰の耳にも入ることはない。
(…………?)
いつまでも続く暗がりに、彼はおや、と思い始めていた。彼は嗅覚が優れている分、視力は人間のそれよりもはるかに弱いが、それでも光量に関しては極めて敏感だ。
いつもならば、今の時刻はとっくに明るくなっているはずだった。夕方よりも夜の方が明るいのが、彼のいる環境では普通のことだった。そしてさらに深夜になると、突然にすべてが闇に包まれるのである。
要するに室内は、夜になると電気がつけられて、そして住人が寝るときには消されるということであるが、彼にはデンキなどというもののことは理解できない。
だが、今日はなんだか様子がおかしい。
いつまで経っても、光が戻らずに夕暮れのままにどんどん暗くなっていく。
(…………)
それに対して、彼は別に不安を感じなかった。
というよりも、彼としてはやたらに明るいよりも、少しくらい――いやはっきりと暗い方が好ましいと前から感じていたのだ。
光は彼をどこか不安にさせる。
それは彼の遠い祖先が、他の肉食獣との戦いの中で、自分の姿を見られることを恐《おそ》れたことに原因があるのかも知れないが、もちろん彼にそんなことはわからない。
彼は、どんどん暗くなっていく室内で、ひどくおだやかな感じを味わっていたが、もしその場に人間が一人でもいたら、部屋の惨状《さんじょう》に悲鳴を上げただろう。
彼が、短い四つ足でぱたぱたと歩いているフローリングの床にはべったりと赤黒い液体――血がこぼれ落ちていて、そしてその流出源たる人体は、床の上に倒れ込んでいるのだった。
そいつはぴくりとも動かない。
彼も、最初の内はその存在に少し心を乱したものだが、別にそいつは彼が認識する群れ≠フ者でもなかったし、前に何度か遭遇したときにも、どうにも嫌な感じしか受けなかったので心配の対象にはならないのだ。動かないなら無視するだけだ。
それに、そいつからは生きた人間の臭《にお》いもとっくにしなくなっている。警戒すべきものだという意識は本能から湧いてこなかった。
(…………)
彼の飼い主は、どこかに行ってしまっている。もっとも彼からすると飼い主は決して主人≠ニいうような存在ではなく、単《たん》に自分の群れの中で、己よりもやや高位にある相手という意識だ。
鉄分が豊富な血の臭いを嗅いでも、彼は特に興奮したりはしない。お腹は空いていないし、その臭いは彼にとって世界中に充満する臭いの中のひとつでしかなかった。
ただ、暗闇の中で光に邪魔されず、彼としては意識がさえてくるような感じがして、いつもなら隅でうずくまっているだけなのに、今日はつい部屋中をうろうろと歩き回ってしまうのだった。
(…………)
彼は、機嫌がいいときにいつも何か欠落感を覚える。何かが足りない。そんな気がするのだ。特に意識はできないが、お尻の辺りに妙な物足りなさが貼りついているような気がするのである。
それは尻尾を振りたい≠ニいう感覚なのだったが、彼の同類はすべて、生まれてすぐに人間によってそれを切り落とされてしまうので、その感覚は彼の記憶の中にないのだった。
(…………!)
彼の耳がぴくりと、外の物音に反応した。鼻でも人間の接近は確認していたが、はっきりと部屋のドアに手を掛《か》けるときの音がしたのである。
その人間も彼の群れの者ではないし、そして神経がピリピリしているときの人間に特有の臭いを漂わせていた。こういうときの人間には近寄らない方がいいのだ。以前には蹴飛《けと》ばされたこともある。
(…………)
ドアに近づくべきか離れるべきか、彼は決断を迫られた。
問題の事件は繁華街から離れた郊外の高級住宅街で起きた。
近所の人の、その家からおかしな物音がしたという通報を受けた警官が現場に到着したときには、もう事件は終わった後だったと報告された。
被害者は、その住宅に三年前から住んでいる女性の恋人である二十四歳の男性で、身体は決して虚弱というわけではなく、むしろ大男といってもいい体格の持ち主であった。警察にも何度か、傷害の前科で記録が残されているチンピラまがいの男だった。
死体が発見された室内はいたるところ血まみれで、傷を負った後で被害者がもがき苦しんでのたうち回ったことが容易に推察された。即死ではなかったのだ。解剖の結果、死因は急激な出血多量によるショック症状であることが確認された。
傷口は身体に二つ確認された。いずれも喉部《こうぶ》にあり、表面には激しい衝撃を受けて裂けたと思《おぼ》しき創傷《そうしょう》が見られた。内出血と裂傷《れっしょう》が重なったような傷口がふたつ、首の左右にそれぞれついていた。どちらもほぼ同時につけられたものらしいことも判明した。凶器は室内からは発見されず、その特定もできなかったのでその方面の捜査は難航《なんこう》することが予想された。
そして検死官から、ひとつの例外的な事例が報告された。それは殺人事件としてはほとんど見られず、しかしある状況の事故ではよくある現象だった。
「なにい……」
その報告を聞いて、事件を担当することになった部長刑事は眼を剥《む》いた。その頃には彼のところに、その事件の背後関係が色々と報告されていて、その現象の条件に合う存在は一つしかなかったのである。
その記者会見で発表されたニュースは、記者たちには最初よくあるものとしか捉えられていなかった。殺人事件というものは身近に起きたら甚《はなは》だ非日常的なものだが、テレビや新聞などでは毎日紹介されるものだからだ。人が死んだだけでは、誰も驚かないし興味も持たれない。被害者が有名人であればそれなりに関心も呼ぶが、普通の一般人の死など話題としては弱すぎるのだ。
しかし、最初は地味だと思われたその事件は、警察から発表されたある事実によって一気に衝撃的なものとなった。
「――えー、被害者の死因と思われる創傷部からは、家の世帯主《せたいぬし》である女性が飼っていた犬のものと思われる体液が検出《けんしゅつ》されました」
体液というのはなにか、という質問に、その対外担当者は言いづらそうに、
「――唾液《だえき》、ということです」
と言ったので、たちまちその場は大騒ぎになった。
「ち、ちょっと待ってください。被害者の傷は、喉《のど》の左右を挟《はさ》むようについていたって言いましたよね?」
「そ、それはつまり――飼い犬が飼い主に噛《か》みついて、喉を喰い破って殺したということですか?」
「まだそうは断定できませんし、被害者は犬の飼い主ではありません。しかしながらその犬は事件以来、一度も目撃されておらず――」
「なんだって!?」
「そ、それじゃあ凶悪な人喰い犬が野放しになったままだというのか?」
「そんな危険な!」
記者会見場は大騒ぎになった。
「えー現在、当局の方でも犬の探索《たんさく》は行っていますが、付近の方で、もしこの犬を目撃したという方がおられましたら、是非《ぜひ》とも通報をお願いしたいと――」
そう言って担当者が取り出した大判の写真に、その場にいた者たちは一人残らず唖然《あぜん》とした。
そこに写っていたのは、大きさが三十センチに満たない、耳の大きい小型愛玩犬の可愛らしい姿だったからだ。
「え――、犬種はウェルシュ・コーギー・ペンブロークと呼ばれる種類で、手足が短いのと尻尾がないのが特徴で――」
担当者が説明する間にも、記者たちは一斉《いっせい》に他の者に報告を入れたりカメラをバシャバシャと撮り始めたりしていた。この事件が多大な関心と興味を呼ぶものとして大きく扱われることになったのは間違いなかった。
「死体はどのような状態だったんです? 激しく喰い荒らされていたんですか?」
マスコミからの明らかな興味本位の質問が飛んだ。担当官はそれを聞いて少し複雑な顔になった。
「えー、それで、被害者の遺体が発見されたときの状態なのですが」
その説明を聞いて、記者たちは最初少し期待外れだというような感じになったのだが、話が進んでいくにつれて、また眼の色が変わってきた。
「――ち、ちょっと待ってください。そ、それじゃあ――その飼い主を噛み殺した犬は、完全密室のはずの状況から、忽然《こつぜん》と姿を消したって言うんですか?」
この質問に担当者は、むしろ開き直ったように決然と答えた。
「通報を受けてその家に行った巡査の報告では、家の鍵は裏口や窓も含めて、すべて完全に掛けられており、外からも中からも出ることが不可能だったということです。問題の犬は死体の側《そば》にも家の中にも確認できませんでした」
「じ、じゃあその犬は人を喰い殺して、その後で自分で鍵を開けて出ていき、そして締めてから逃《に》げたとでも言うんですか?」
このさらなる詰問《きつもん》には、担当者は決まり文句で無感動に答えただけだった。
「現在、捜査中です」
……いつものように、私は山の上に建つ病院に続く坂道をてくてくと歩いている。
いつもなら、しずるさんに会えるというので浮き浮きと楽しい時間なのだが、しかし今日ばかりはちょっと、私の足は少し速めになっている。
(……やっぱり、坂道だけど自転車で来た方がよかったかしら?)
そんなことをつい考えてしまう。
そう、病院に続く道の周囲には森があって、少し薮《やぶ》の深いところだと向こう側が全然見えなくなるのだ。
なんか、今にもその木陰から例の犬が飛び出してきて、私に噛みついてくるような気がしてならなくなる。
(き、気のせいよ気のせい。そうよ、ここからあの事件の現場はすごく離れているじゃない)
自分にそう言い聞かせるのだが、別に私はそれほど理性的な人というわけでもないので、怖いという気持ちを理屈ではなかなか消せない。
がささっ、と風で茂《しげ》みが揺れるだけで、びくっ、と身体が十センチほど跳《と》び上がる。
いつもなら道の途中《とちゅう》にある自動販売機でジュースとか飲むのだが、今日はそこもそのまま素通《すどお》りする。
びくびくしている自分が少し情けなくなる。しかしそれでも、森の方から物音がしたりするともう我慢《がまん》できずに走り出してしまう。
しかし、病院のすぐ近くまで来ると、はっ、と我に返って慌てて停まった。
「――ば、馬鹿みたい……」
息をぜいぜい切らしながら、自分に呆《あき》れた。まさかハアハア言いながら病院に入るわけにもいかない。しようがないので私はしばらくその場で深呼吸した。喉が渇いているが、今さら自販機のところまで戻ることもできない。我慢することにした。
(……よし、もういいでしょ)
なんとか落ち着いた私は、いつものように病院の門をくぐって、受付を通り、エレベーターに乗ってしずるさんが入院している病室に向かった。
ドアをノックしようとすると、その寸前で、
「――どうぞ」
という柔らかな声が中から聞こえてきた。しずるさんはドアの前に人が立つとその気配がわかるのだ。でも、いつもなら、ノックしてから三秒間は返事をしないのがしずるさんなのだが――今日はやけに反応がいい。
「こんにちは、しずるさん」
私は、さっきまでの間抜《まぬ》けな息切れを感じさせないように、精一杯元気な調子でドアを開けて挨拶《あいさつ》した。
すると中では、ベッドに腰掛《こしか》けたしずるさんがニコニコしながら一杯のジュースが入ったコップを手にしていて、
「はい、よーちゃん」
と私に差し出してきた。
「…………」
私はちょっと固まる。
「喉が渇いているんでしょう? よく冷えているわよ」
しずるさんは笑顔で私にコップを渡《わた》した。
「……あ、ありがと」
私はしょうがないので、それを飲む。身体は正直なもので、一息で飲み干してしまった。
(……全部、窓から見えてたのね……)
顔が赤くなっているのを自覚する。もちろんこれは走ったせいなどではない。
するとしずるさんが、ふふっ、と微笑んで、
「よーちゃんって、ほんとうに優しい人ね」
とよくわからないことを言った。
「は?」
私がきょとんとすると、彼女はうなずいて、
「だって、そんなに怖いなら私に会いになんか来なければいいのに、わざわざ走ってまで来てくれるなんて」
「い、いや――だって約束してたし」
私はどうにも恥ずかしくてたまらない。しずるさんは時々、馬鹿な私をこういう風にかばってくれるようなことを言うのだが、これがどうにもくすぐったいのである。
「別に来てもいいでしょう? 来たかったんだもの」
「ありがとう、よーちゃん」
しずるさんは私をまっすぐに見つめている。この彼女の眼差《まなざ》しも、私を落ち着かなくさせる。
「そ、それはこっちの科白よ。ジュースありがとう、おいしかったわ」
私はコップを、自分で病室の脇《わき》にある小さな流しに持っていって洗った。蛇口を閉めると、それが合図だったかのようにしずるさんが口を開いた。
「それにしても、よーちゃんを怖がらせるなんて許せないわね」
「え? 何を」
私は聞き返しながら、しかし同時にどうも嫌な予感がしていた。
そう、しずるさんはいつだって、私からすると気味が悪いとか恐ろしいことに、とても興味を持って深入りしたがるという――そういう癖があるのだ。
「もちろん、例の犬のことよ。密室だった現場から忽然《こつぜん》と姿を消したことから、幽霊犬とでも名付けましょうか」
しずるさんはニコニコしながら、実に楽しそうに言った。
2.
(…………)
彼は、外をふらふらと歩いている。
例の不安感がお尻に貼りついている。別に尻尾を振りたいのではなく、逆に縮《ちぢ》めこませたいのだった。
本来、彼に限らず犬は自分の知らないところをあまり歩きたがらない。誰か人間が、つまり群れの仲間が側にいるときは遠出も楽しいが、それだって人間に不安がないからである。自分だけになると、果たしてどこまでが安心できる縄張《なわば》りの範囲なのかわからず、常にやや警戒状態でいなければならない。
彼にとって、ほとんど唯一の生活環境であったあの家から出てしまったのはまずかった。もっとも、出ないわけにはいかなかったのだが……。
(…………)
あれから家に戻ってみようともしたのだが、周囲は殺気だった人間たちに取り囲まれており、とてもではないが近づける空気ではなかった。彼の飼い主も近くにはいなかった。
それで、仕方なく彼は辺りをさまよっている。
高級住宅街である周辺は緑が多く、家々も離れて建っている。彼はその森の中を昨日からずっと眠らずに歩き続けていた。どこなら安全に寝られるのかわからなかったからだ。
(…………)
何も食べていないので、空腹だった。彼は基本的に人から餌をもらう以外の方法で飢えを凌《しの》いだことがないので、周辺の地ネズミといった獲物の獲り方なども知らない。ゴミの日は不幸にも昨日だったので、彼が漁るべきものも近隣にはなかった。
水は近くを流れている川から飲むことができたが、そこに長居をするのは危険だという本能が働いて、すぐに森の中に戻った。
かろうじて、辺りの臭いがよくわかる風の通り道のようなところを見つけて、そこにうずくまった。色々な臭いがしてくるそこならば、どこから何かが近づいてきてもすぐにわかりそうな気がしたのだ。
(…………)
彼は、昨日まではぬくぬくと暖かい家の中で、特になんの危険も感じない生活を送ってきた。それが一転して、こんな野ざらしの環境に放り込まれてしまったことに、まだ馴《な》れることができていなかった。
……あれ≠ェ欲しいな。
と彼はぼんやりと思う。しかしあれ≠ヘ家に置きっぱなしにしてきてしまった。持ってくることがどうしてもできなかったのだ。あれには身体の一部のような感覚があったので、それがないままうずくまっているということがどうにも彼としては落ち着かない。いきなり親から引き離された雛鳥《ひなどり》のような感じであった。
彼は啼《な》きたかった。鼻を鳴らして、弱々しく呻《うめ》くと、たいてい人間は彼の頭を撫《な》でてくれたものだ。しかしあの、血まみれで床の上に倒れていた人間はそうではなかったし、あいつが原因らしいこの状況でも、その行動はあまり好《この》ましくないように思われた。
だから彼は声を殺して、じっと耐《た》えていた。飢えが耐えきれなくなるまではそうしているしかなさそうだった。
(…………!)
だが、そういうわけにもいかないようだった。彼の鼻に、それまでとは異なる臭いが感じられたのだ。
自分は風下にいるので、向こうからはこっちのことがわからないだろうが、それはまぎれもなく、他《ほか》の犬の臭いだった。しかも一匹や二匹ではない。
警察犬による山狩《やまが》りが開始されようとしていたのだ。
「えーっとぉ……私にはよくわからないんだけど」
私は可愛いぬいぐるみのような犬の写真を見ながら言った。
それは飼い主が撮ったというスナップ写真を引き伸ばして紙面に載せたものだ。毛布にじゃれついていたりして、とても可愛らしい。つぶらな瞳《ひとみ》が上目遣《うわめづか》いにこっちの方を見ている。
「この犬って強いの? そりゃあ猛犬《もうけん》注意とか看板《かんばん》があるところのような番犬は、身体も大きくて怖いけど――」
襲われたとして、どういう風に襲う≠フかさえ、具体的なイメージとして掴めない。
被害者の男性は喉を噛まれていたという。背の高い男の人の喉元まで、この犬の短い足でジャンプできるかどうかさえわからない。なにしろ彼の足の長さは十センチくらいしかないのだ。
「そうねえ、一応このコーギーって犬種は、もともとは牧羊犬《ぼくようけん》で、広い牧場で羊とかを追い回したりもしていた犬よ」
しずるさんも資料を見ながら冷静に言う。なんだかんだ言っても、こうやって前もって新聞やら何やらの事件資料をお見舞いに来る際に揃《そろ》えている自分がちょっと恐ろしい。
いや、しずるさんならきっと興味を持つだろうと思ってのことなんだけど、なんか自分自身でもこういう不気味な事件に適応《てきおう》してきているみたいな気もするのだ。
(それで、来るときにあんなに犬が出そうな気になったのかしら……しずるさんが言い出す前からもう、私が彼の敵になるつもりだったから……いやいや)
こんな風に負い目を感じていてもしょうがない。私は気を取り直して、しずるさんの言葉に対して訊き返した。
「牧羊犬なの? こんなに小さいのに――」
「小さいとか大きいとか、動物をそういう風に考えるのは間違いの元よ。基本的に、人間よりも犬の方がずっと強い生き物なんだから」
しずるさんが断言したので、わたしはちょっと驚く。
「そんなに犬って強いの?」
「というよりも、人間が弱いのよ」
しずるさんは少し肩をすくめた。
「たとえばほとんどの生き物は攻撃するときに、相手に噛みつくわね。それが一番強力な攻撃方法だからよ。足を振り回すときにも爪を立てるし」
「――まあ、人間は確かに、あんまりそういうことをしないけど」
「基本的に生物同士の戦いっていうのは、喰い合うってことだから、真剣さが人間の常識とは全然違うわけね。子供が野良犬に石を投げたら逃げ出したので、あいつらは弱虫なんだとか思っていると、手酷《てひど》いしっぺ返しを受けることがあるし」
「はあ」
「なんで逃げるかというと、それが一番安全な方法だからなのね。だって人間がどういうつもりで自分に向かって来ているのか、犬の方はわからないわけだから。でも反撃するしかないと判断したときは、これはもう容赦も何もないわけね。生命が掛かっているんだから」
「えーと……つまり、この事件は別にそれほど不自然なものではないってこと? 犬に殺されても、無理のないことだって――」
「いいえ。そんなことはないわ。むしろ、そういう点からして、この事件はとても異常である、と言ってもいいのよ」
「どういうこと?」
「相手は大男よね?」
「ええ、そうらしいわね」
被害者の写真は顔しか出ていないけど、でもとても厳《いか》つい感じで強そうだ。
「そんな相手に対して、正面から戦いを挑むことはまずあり得ないわ」
「……ということは、しずるさんはこの犬が自分から攻撃したんじゃない、と?」
「そうとしか思えないわね」
「じゃあ、被害者が彼をいじめようとして、それで反撃したのかしら」
「それもどうかしらね――」
しずるさんは頭を振った。
「さっきも言ったけど、動物はよっぽどのことがない限り逃げるものよ」
「でも密室だったんでしょう? 逃げられなくって、必死《ひっし》で反撃したとは考えられない?」
「逃げられなかったら、隠《かく》れるわよ。犬はすごく小さいってことを忘れちゃいけないわ」
「あ、そうか――ベッドの下とか、ソファの裏側とか、いくらでも隠れる場所はあるわね――」
私はしずるさんの言葉にうなずきつつ、おや、と気がつくことがあった。
「――あれ? ということは――しずるさんは、この事件は犬が犯人じゃないと思うの?」
私の言葉に、しずるさんはくすくすと笑って、
「犬は犯人≠カゃないわ。それを言うなら犯犬≠ナしょ」
と少しふざけたように言った。私はちょっとムッとして、
「まあ、どうでもいいけど――とにかく、殺人は犯《おか》していないと?」
「まあ、そういうことになるわね」
「でも、噛み傷があったんでしょう? だったら――」
「警察の発表では、ただ傷口に唾液が付着していて、両側から挟まれるような形になっていたってことだけよ」
……それがつまり噛み傷ということではないのか。でもしずるさんの言うことはほとんどが正しいので(ふざけてない限りは――だけど)一応逆らわないで意見に沿ってみることにした。
「じゃあ――誰かが犬のせいにして殺したっていうこと?」
「犬がやったと考えるよりは、その方が自然なのは確かよ」
しずるさんはうなずいた。
「えーと――じゃあ、その場合は誰が犯人なの」
私は、例によってマスコミが発表している資料を見ながら検討《けんとう》してみることにした。
「たとえば、死体が発見された家の主の、この犬の飼い主は会社の社長だっていう女性だけど――彼女は事件当日には、その家にはいないで会社にいたって言うわよ」
で、殺された人とは恋人関係だったっていう話だが、年齢差が二十歳もあったらしい。もちろん女性の方が年上なのだ。
(うーん……まあ、ほんとうに恋人というのも考えられないこともないけど)
世間的には、あんまり見られない話ではある。で、殺された被害者は全然仕事をしていなかったとも言うし――。でも派手に遊び回ってもいたらしい。恋人なのに婚約していた、ということもなかったらしい。
なんだか、あんまり考えたくないドロドロとしたものが後ろにありそうな、そういう状況だ。
「彼女にはアリバイがある訳ね。その辺《へん》はまあ、警察がいくらでも調べているでしょうから、きっと確かでしょうね。もっとも……それも事件の推移によるけど、ね」
しずるさんは意味ありげに言った。
「え?」
私はきょとんとした。
「それって――アリバイ工作をしたってこと?」
私の質問に、しずるさんは少し肩をすくめて、
「アリバイ工作とか、推理小説ではもっともらしく使われてるけど――そんなものは現実にはあんまり意味のないことよ。だって警察って、あんまりアリバイとか気にしないもの」
と皮肉っぽいモノの言い方をした。
「というと?」
「アリバイってのは現場不在証明のことだけど、基本的に警察の仕事は疑うことだから、誰かが嘘《うそ》をついているに決まっているって態度で事件に臨《のぞ》むのよ。だから多少の矛盾《むじゅん》や食い違いがあっても、あやしい人間はあやしいって態度で接するわよ。アリバイ工作を犯人がしたとしても、それを解明《かいめい》することだけが警察の仕事じゃないって考えているでしょうね」
「じゃあ――どうするの?」
「そんなもの、本人に教えてもらえばいい[#「本人に教えてもらえばいい」に傍点]のよ」
しずるさんはけろりとした調子で言った。
「は?」
「だから、しつこく質問して、どういう工作をしたのか、その本人が答えるまで訊き続けるわけよ。どうやったのか考えるよりもその方が早いわ」
「……尋問、ってこと?」
あまりにも身も蓋《ふた》もない言葉だ。推理もへったくれもない。
「そうよ。事情聴取ってのはそのためにするんだから」
しずるさんはあっさりと言った。
「じ、じゃあ――その、犬の飼い主も疑われているのかしら?」
「簡単な事情聴取はされたでしょうね。でも重要参考人として勾留《こうりゅう》されたとか、そういう話もないんでしょう?」
「ええ――でも変ね」
私は首をひねった。しずるさんの言う通りなら、彼女は警察から見ればとてもあやしい部類に入るのではないか。
「アリバイがよっぽど完璧だったのかしら?」
「自分の会社にいたっていうのが? 証言するのはきっと、みんな彼女が雇っている人たちばかりでしょうね」
しずるさんはまた皮肉っぽい言い方をした。
「……それもそうね」
そういえば、家族の証言は裁判ではあんまり証拠として採用されないって話があるらしいし。この場合もそれに近いような気もする。ワンマン会社らしいから社長が捕《つか》まったら社員は職を失うことになるだろうし。
「じゃあ――どういうこと?」
「だから、警察が手を抜いているんでしょ」
しずるさんはすごくあっさりと言ったので、意味を掴むのに少し時間が掛かった。
「――へ?」
私は、間抜けな声を出してしまった。
3.
風溜《かぜだ》まりの中、接近してくる警察犬の気配を感知した彼がまず考えたことは、
相手に、こちらの臭いを直《じか》に感じられるところまで来られたらおしまいだ
というようなことだった。今、警察犬は彼が歩いてきた足跡の臭いを辿《たど》ってきている。風上にいるからだ。しかし、相手が彼の臭いを直接に捉えられる位置まで近づいてきたら、そのときはもう彼は逃げることができない。
向こうの方が絶対に足が速い。彼はほとんど外に出ないで室内でばかり飼われていたが、たまに外に散歩に出されたりしたときに、他の犬と出会うこともあった。人間よりは自分に近い臭いを放つが、しかし自分とは体格も性質も異なる存在と。
それでわかっていることは、彼は犬の中ではかなり速度の面で劣るという事実だった。足が短かすぎるのだ。本気になって走ってこられたら、彼がいくら走ってもまず振り切れない。
(…………)
彼はすぐに立ち上がった。
歩き出すが、しかし警察犬とそれを連れている人間の気配は四方から迫ってきている。その間を抜けていかなければならないのだが、しかし天気の気まぐれで風向きが少しでも変わったら、たちまち彼の臭いが奴等の鼻先に届いてしまう。
(…………)
彼は懸命《けんめい》に、走り出したくなる衝動と戦った。本能的に、思いっきり走ればその足が地面を踏《ふ》む音が大きくなりすぎて、追っ手の耳に異音《いおん》として感じられてしまうことを悟《さと》っていたのだ。彼自身の耳にかすかに聞こえている警察犬の足音がそう教えていた。
彼は慎重に進んだ。彼の低い背丈は、周囲に生えている草の中に埋没《まいぼつ》してしまって、もし近くに人間がいたとしても、その視界からではまったく見えないだろう。
彼の周囲を薮蚊《やぶか》が飛び回っていて、うるさい。しかしいつものように身体をぶるぶると震わせて追い払うこともできない。彼は辛抱《しんぼう》しながら、冷たく湿った地面の上を進む。フローリングの床などばかり歩いていた彼には、その感触も少し嫌な感じがある。
しかし我慢しなければならない。もうすぐで目的の場所にまで着けるのだ――だがそのときであった。
(…………!)
風向きが急に変わって、彼の鼻に警察犬の臭いが届かなくなった。ということは、こっちが風上になって、向こうが風下になったということである。
まずい……!
彼の思考の中を激しい焦りが走り回った。
警察犬たちは一斉《いっせい》に、びくっ、と顔を上げて、空中に漂う臭いを捉えて鼻をうごめかせた。
「む?」
それは犬を連れている者にもすぐにわかった。
「よし、行け!」
彼らが綱を離すと、警察犬たちは即座に臭いの元に向かって走り出した。人間ではとても追いつけない速さだ。
森の中を疾走して、茂みの中にたちまち消えてしまう。
警官たちも、その犬の向かっていった方向に急ぐ。
普段ならば、追跡対象は人間なので、噛みつくにせよ手に喰いつくとか、上に乗っかるだけとかなのだが、今回は特に訓練されていない小型犬が相手なので、警察犬たちが目標を捕らえた際にどういう反応をするのか、警察関係者もよくわかっていない。しかし、誰もが死んでしまったら、それはそれでしょうがない≠ニ思っているのも事実だった。一応、犬が人を殺しても、それは飼い主の管理責任不足で犬そのものには罪がないということに法律ではなっているが、だからといって人を喰い殺した犬をそのままにしておこうという意見もない。もし仮に飼い主が自分の財産を破壊した≠ニ警察を訴えることになったとしても、裁判所だってこういう事態ではほとんどその訴えを取り上げないだろう。
警官たちが茂みをかきわけて進んでいくと、向こうの方で犬が、わん、と一声|啼《な》いた。
それは目標を見つけたときの合図なのだ。それ以外の、小型犬が悲鳴を上げる声とかはまったく聞こえてこなかった。
「よし……!」
彼らは警察犬が目標を押さえたことを確信して、その場所に走った。茂みを抜けて、道路まで出てきた。
「例の犬はどこだ?」
警察犬が一箇所に集まっているところまで来た警官たちは、その足元に小型犬の死体が転がっていると思って、辺りを探した。しかし、
「……おい、どこにもいないぞ?」
それらしき姿は見当たらない。
「おい、まさか全部喰われちまったんじゃ」
と警官の一人が犬を管理している者に言うと、彼は腹を立て、
「うちのものに限って、そんなことはしません! 仕事中は何も食べないようにちゃんとしつけてあります!」
と強い声で抗議した。
「うーん……じゃあ一体、ヤツはどこに?」
警官たちは首をひねった。またしてもヤツは、密室から幽霊の如《ごと》く消え失せたように、姿をくらませてしまったのだろうか?
すると警察犬の様子を見ていた者が、あっ、と声を上げた。
警察犬たちはみな、同じところに集まっている。
そしてその道路を囲《かこ》む柵《さく》のすぐ下には、川が流れている。
「お、おい――もしかして」
もし例の犬が川に落ちたとしたら、臭いはそこで途切れてしまう。
「まさか――追いかけすぎて」
それとも――自ら水の中に身を投じたのだろうか?
いずれにせよ川の流れは速い。小型犬の短い足で犬掻きしたとしても、はたしてうまく泳げるかどうか――もし泳げなかったら、
「……見つけられるかな?」
警官たちは暗い水面を見ながら呟いた。それはもちろん、川の底をあさって発見できるか、という意味であった。
「だいたい犬ってのは動物で、人間とは違うんだからさ、いつ噛みつかれたっておかしくないわけだよ本来は」
ラジオ番組で、毒舌《どくぜつ》で鳴らしているタレントが喚《わめ》いている。
「ヒグさんは言うことがきついなあ」
「でも実際そうだろう。だいたい人間の方だって他の動物の肉を喰っているだろう。それなのに他の動物がちょっと人に噛みついたってだけでこんなに騒ぐのは馬鹿馬鹿しいんだよ」
彼は、他にも出演しているテレビ番組などではとても言えないようなことを、このラジオ番組では平気で喋《しゃべ》ることで知られていた。
「でも、危ないことは危ないだろう」
「危ないなら車だって危ない。自動車事故でくたばる人間がどのくらいいるか知らないわけじゃないだろう。車の方が犬に噛まれるよりもずっとタチが悪いじゃないか」
「車は関係ないだろう」
「どっちも人のすぐ近くにいて、しかもやかましいじゃないか。大して変わらないよ」
「ムチャクチャ言うなあ」
「でも別に、俺は犬を弁護する気は全然ないからね。危ないって言うなら全部の――犬を殺しちまえばいいんだ。ペットとして飼うなんてもってのほか、飼ってるヤツは一人残らず犬の喉に噛みついて、鍋にして喰っちまえばいい。ついでに事故を起こす車もみんなスクラップにして、そいつで鍋を造ればいい」
「おいおい」
「要するに危険なものは世の中にいっぱいあるってことだよ。最近のおたくのワンちゃんは大丈夫ですか?≠ンたいな、ああいう騒ぎをする前に、もっと別のことで危ないことはいっぱいあるんだよ」
「ペット自由だったはずのマンションで、他の住人から危険だから禁止にしろって話が出たりしてるっていうしなあ。町内会で犬の散歩をするなって決められたトコもあったってよ」
「そうそう、そういう風に雰囲気でみんなが偏ったことを言い出すからなんか変なんだよ」
「一番偏ってんのはヒグさんのような気もするけどな」
「俺はいいんだよ。自分が偏ってることなんぎハナから承知《しょうち》なんだから。でもよ、犬が危ない危ないって今騒いでるヤツらは、自分が偏ったことを言ってるなんて意識はないぜ。自分は絶対に正しいって思ってんだよ。そういうヤツのガキが犬飼っている家の子供をいじめたりするんだよ」
「うーん、嫌な話だなあ」
「それにペットを飼ってるヤツの方だって、意味もなく猫かわいがりしてるから舐《な》められて噛みつかれるんだよ。犬を飼ってるなら噛まれることぐらいは予想しておけってんだよ。噛まれ慣れてないからコトが大事になるんだよ」
「噛まれ慣れるって――ヒグさんちだって猫飼ってるじゃないか」
「おう、俺はさんざん噛まれたり引っかかれたりしてるぞ」
「駄目じゃんそれ」
「だいたいなあ――え? なんだよ?」
「ニュースだってさ。さっき警察から発表されたって――あれ、今話してた事件のことなの?」
「あ? なんだって?」
……ラジオのイヤホンから流れてくる声が騒ぎ出している。
「…………」
それを聞いていたしずるさんは無言でスイッチを切った。もう夜も遅く、病院の消灯時間はとっくに過ぎている。
彼女は起こしていた上体を再び倒して、ベッドに横になる。
闇の中には静寂だけが落ちている。
横たわった彼女は、時が静止しているかのように動かない。
眠っているのか、起きているのか。
外見からではまったくわからない。眠っているとして、彼女はどんな夢を見ているのか。
夢の中では、彼女も病院に閉じこめられたりせずに、自由に外を駆け回ることができているのだろうか。
あるいは今の、この入院生活の方がほんとうは夢で、どこかで元気な彼女が眼を醒《さ》ますと、すべては少しばかり寝汗をかいただけの、ちょっと嫌な夢を見たということですむのかも知れない。
闇の中、彼女は動かない。
周《まわ》りでどんな事件が起きようと、どんな解決の仕方をしようとも、彼女がこうして静かな闇の中に横たわることだけは変わらないままだ。
4.
私がしずるさんのところに面会に行った翌日にはもう、事件はあっさりと解決してしまった。
私も、しずるさんの頭の良さは知っていたけれど、今回のこれに関してはほんとうに驚いてしまった。彼女は、私が事件の資料を持っていって、私と一緒にそれを見て、そして――それだけで、表に出ているよりも裏に隠されていることの方が遥《はる》かに多い事実をほぼすべて暴《あば》き出してしまったのだから。
「よーちゃん、犯罪とか、それにからむものはすべてごまかしであると、私は何度か言ってきたわよね」
あのとき、私に向かってしずるさんはそう言ってきた。
「え、ええ――すると今回の事件の中にも、無理矢理にごまかしてることが?」
「そう、そして――事件の外にもね」
「外? ……って、それが警察が手を抜いているってことなの?」
「まあ、そういうことね。警察が本気になってくれないから、あの幽霊犬くんはお腹を空かして世界をふらふらとさまよう羽目になったのよ」
彼女は人差し指と中指を下に向け、ふらふら歩いているようなジェスチャーをしてみせた。
「で、でも手を抜くって――そんなことが本当にあるの?」
私は、一応警察というのは真面目に、みんなの生活を守るために働いてくれているものだとばかり思っていたのに。
「まあ、なんというかね――自分たちにはそういう意識はあんまりないかも知れないけど。でも、結果としてそういうことになってしまっているのよね」
しずるさんは窓の外に眼をやって、ふう、とため息を一つついた。
「人間の生活というのはそういうものよ」
「――よく、わかんないんだけど」
私としては、事件もそうだが、しずるさんが時折見せるこういう投げやりな雰囲気が大変に気に掛かる。
「でも、人間はどうとか、あんまり決めつけない方がいいと思うんだけど。世の中には色々な人がいるし」
私が適当なことを言うと、しずるさんはにっこりと笑って、
「だから、よーちゃんって好きよ」
と、唐突に脈絡《みゃくらく》のないことを言った。
「は?」
私はどう反応していいか困る。しずるさんはそんな私には構わず、
「まず、この事件ではおかしなことがいくつかあったわ」
と、説明を始める。
「だいたい捜査のごく初期の段階から、容疑者の女性のアリバイが完璧であるとされたことが、かなりあやしいわ。普通はこういう断定はあまりされないわ」
「そうか、何でも疑うのが警察、だったわね」
私はうなずいた。
「でも、どうしてそういうことになったのかしら」
「そうね――そこがわかると、実はもう全部がわかってしまうんだけどね」
しずるさんは少し肩をすくめて見せた。私はきょとんとする。
「へ? どうして? 殺人事件と警察の手抜き捜査が関係があるの?」
事件がどんな形であれ、警察が乗り出してくるのはその後のはずだ。後から警察が何をしても、起こってしまった事件を左右することができるとは思えない。
しずるさんは腑《ふ》に落ちない感じの私を優しげな眼で見つめている。
「いや、正直な話、こんなことはわからない方がいいのよ。見抜けたからと言って自慢にもなんにもならないわ」
「さっきからなんなのよ、もう!」
私はもったいつけているようなしずるさんの態度に少しイラついてきていた。
「結局のところ、この事件はなんなのよ?」
「そうね――もしかすると、犯罪としては殺人ではないのかも知れないわ」
しずるさんは奇妙なことを言った。
「それは要《よう》するに、犬が殺してもそれは殺人にはならないで、事故、ってことになるから?」
私の問いに、彼女は首を横に振った。
「きっと裁判では、殺意があったのかどうかということよりも、傷害致死《しょうがいちし》か、遺棄致死《いきちし》かどうかということが問題にされると思うわよ」
しずるさんは法律関係のものらしい言葉を使った。
「イキチシ――って何? 傷害って――人に怪我《けが》を負わせるってことだったっけ?」
「要するに、人に怪我を負わせて、それで死んだのか、それとも怪我をした人を、そのまま放っといたら死んでしまったのか、それが問題になるということよ」
「……同じじゃないの? それって」
「罪状《ざいじょう》としては微妙に違うわ。罪の重さもね」
しずるさんはやれやれ、という感じで軽く首を振った。
「あと、事実を隠そうとした罪も加わるわね。ごまかし方としてはすごく下手だけど」
「……あの、しずるさん?」
私はどうにも気になっていることを確認したくなった。
「つまるところ――犯人は例の、犬の飼い主の女性なの?」
私がそう言うと、しずるさんは少し驚いたような顔になって、
「犯人を特定できるなんて、よーちゃんは超能力でも持っているの?」
と、ふざけたことを言った。
「あのねえ――」
話の流れからして、犬がやったとは思っていないことは明らかではないか。
頬を膨《ふく》らませた私を見て、しずるさんはふふっと笑った。
「いや、その可能性が高いってだけで、私の知る情報の範囲では誰が犯人なのか特定できないわよ。そもそも犬の飼い主の情報自体があんまり公表されてないでしょう」
「……まあ、それはそうね。社長ってぐらいで、どんな人なのか」
普段ならマスコミは、こういうときには根ほり葉ほりいらない情報まで記事にするものだが、今回は犬がやったに決まっていると思われているからか、飼い主のことはあやふやだ。
「で、あんまり情報がないということ、それ自体がある程度は事態を表しているのね」
「どういうこと?」
「つまり、隠しているわけよ」
しずるさんはあっさりと言った。
「隠して――って誰が?」
「だから警察とか、マスコミとか」
しずるさんは説明してくれるが、私には何がなんだかよくわからない。
「要するに、この事件には最初からなにか、圧力みたいなものが掛かっているな、という感じがあったのよ。報道のされ方も不自然だし、警察は特定もできてないのに犬の仕業《しわざ》かもとか言い出すし」
「ち、ちょっと待って――圧力って、そんな闇の組織みたいな」
「いや、そこまでではないと思うわよ。それだったらそもそも事件が表沙汰《おもてざた》になることもないだろうから。ただ、犯人がどっかの県会議員か何かとコネがあって、県警本部にでも少しばかりその人のことをそんなにしつこくつけ回すな≠ンたいなことを匂わせた、という程度だと思うわ。それで警察もそこそこ手心を加えたと。事件はなんだか犬の仕業っぽいしね。でマスコミは、警察の発表に素直に従ったと。それにきっと、その辺は嗅ぎ回ってもあんまりニュースとして面白くないような話だったんでしょう。それよりかは犬が人を喰い殺したって方がセンセーショナルだし」
しずるさんは淡々と、澱《よど》むことなくすらすらと話す。頭の中で言うべきことが完全に整理されてるみたいだ。
でも、事件を検討しだしたのはさっき私が資料を出したときからなのである。一緒に考えていた私は混乱の極みにあるのに、いったい彼女の思考というのはどうなっているのか。
「……そういうものなの?」
「マスコミが知っていて、報道しないことなんかいくらでもあるわよ。ニュースとして面白味がないのに、後で関係者から訴えられそうなことなんか絶対に公表しないわ」
「……まあ、それはそれとして、でも被害者の首には犬が噛んだような傷口があって、血が飛び散っていて、それで唾液も検出されたとかなんとか」
「そうね――その唾液だったのよ、私がこの事件の仕組みが見えた焦点は」
しずるさんは、うんうん、とうなずいた。
「死体を検死した人もきっと迷ったと思うんだけど、そもそも警察の発表それ自体がなんだか曖昧《あいまい》だったのよね。傷口には唾液が検出、なんて言い方それ自体が。だって噛みついたのなら、歯形がくっきりとあるはずよ。わざわざ唾液がどうのなんて言うよりも簡単に犬がやりましたって言えるはずだわ。きっと傷口そのものはあやふやというか、どうして傷がつけられたのか、凶器を発見しないと確定できないという性質のものだったに違いないわ。まあ、たぶん表面に凹凸《おうとつ》のある棍棒《こんぼう》のようなものじゃないかと思うんだけど」
さっき私に特定できない≠ニか言った癖にしずるさんは、ずばずばと色々なことを特定していく。
「それで犯人は、被害者を殴《なぐ》った。犯人よりも被害者の方が背が高かったので、それは頭に当たらずに首に当たった。そして被害者は転倒して――こればっかりは現場の様子を知らないとなんとも言えないんだけど、きっとドアのノブか何か、部屋の中で出っ張っているところに、首の反対側をぶつけたのよ。それで両側に傷がついたんだわ」
しずるさんの説明はまるで現場で見ていたかのようである。
「当然そこにも血がついたはずだけど、でも警察はそれを他の、この後で部屋中に飛び散ることになる血痕《けっこん》に紛れて見過ごしてしまった。それで両側に傷がついたということの説明がうまくつかなくなってしまったので、挟まれたみたいな感じだから、噛んだのかなあ、という推測をするしかなくなってしまったのね。もしかすると犬の歯形にも微妙に似ていないこともなかったのかも知れないし」
「その凶器って何だったのかしら?」
「そうね――まあ、とりあえず思いつくのは釘バットとか」
しずるさんは無表情で、ずいぶんと変なことを言った。
「――って、不良が喧嘩《けんか》とかで使う、木のバットに釘を何本も打ち込んだってヤツ? なんでそんなものをわざわざ用意したの?」
「用意したのは、きっと犯人じゃなくて被害者の方よ」
「……なんで?」
私には訳がわからない。しずるさんはこれにため息混じりで、
「きっと、それで幽霊犬くんを殴るつもりだったんでしょう。理由は知らないけど、ただの腹いせだったとか」
と言った。私はぎくりとした。
「え? じ、じゃあ――もしかしてそれを見た飼い主の女性は、必死でそれを止めようとして、それで――」
もつれ合って、その忌まわしい武器を取り上げて、それでつい――。
「かも知れないし、やる寸前には、もう飽きていて鬱陶《うっとう》しくなっていた男に対して明確な殺意が湧いていたのかも知れない。その辺は特定できないわね」
しずるさんは肩をすくめた。
「でも、その後の行動は、これは明らかに意志的なものよね。倒れ込んだ男を見て、おっかなくなった犯人はその場から逃げ出した。そしてある人間に連絡して、その後の始末を依頼するのよ」
「ある人間って? 共犯者がいたの?」
私のその問いをしずるさんは無視して、話を続ける。
「そして、殴られて首をひどく傷つけられた被害者は、その時点ではまだ死んでいない。逃げた容疑者が会社に着いて、アリバイとなるようなものを作ることになる時間のあいだは生きていたと考えられるわ。つまり出血多量にならないように、必死で――傷口を両手で押さえていた。少しでも動けばたちまち血がほとばしり出るから、電話口にも立てないままでね」
「傷口を――?」
私はちんぷんかんぷんだ。しずるさんはなんでそんなことを推理できるのだろう? 私のその疑念《ぎねん》を見て取ったしずるさんは、テーブルの上に並んでいた資料のひとつを指さしてみせた。
そこには、例の幽霊犬が写った写真がある。さっき私も見たものだ。これがどうかしたのか、と私が眉をひそめたそのとき――あるものに私の眼が止まる。
犬が、じゃれついている毛布に。
「――ええっ! ま、まさか――」
私が驚きの声を上げると、しずるさんは無言でうなずいた。
「じ、じゃあ――これが唾液が傷口に付着していた理由なの? 犬がさんざん噛んだりしていた毛布で、傷口をずっと押さえていたから――」
「少なくとも、私の前にある情報ではそう考えるのが自然ね」
「で、でも――それだけだと、犬が密室から消えたとか、その毛布はどこに行ったのかとか、凶器はどうしたのかとか――あ、だから共犯者が? で、でもそんな都合のいい人が――」
私がおたおたしていると、しずるさんは穏やかな声で、
「だから、ここで圧力≠フ存在が一層《いっそう》明らかになるのよ。容疑者は以前からコネで、ある種の人間を自由に動かすことができていた。その中には、もしかしたら被害者の個人的な都合をつけているうちに深い仲になったりしていた者がいたかも知れない――」
「――って、まさか……」
しずるさんが話している途中《とちゅう》で、私もそのこと[#「そのこと」に傍点]に気《き》が付《つ》いた。まさかそんな、そんなことがあり得るなら、はっきり言って何でもアリじゃないかとか思ったが――しかし、それならひとつのことがはっきりする。
「それで……警察はそのこと[#「そのこと」に傍点]に気が付かなかったの?」
私の問《と》いに、しずるさんはため息をついた。
「ま、確かにその方面[#「その方面」に傍点]には手も抜くでしょう?」
私は絶句してしまった。そしてしばらく経って、ぽつりと、
「じ、じゃあ……どうしよう?」
「よーちゃんは気が進まないだろうけど……あなたの家の名前で、県警本部とかに直接言うしかないかもね」
しずるさんは、私が考えていた通りのことを言った。
5.
当初は飼い犬が人を噛み殺したとされていた事件は、急転直下の解決を迎《むか》えた。
犯人はやはり、被害者と恋人関係にあったという女性であり、そして何よりも世間を驚かせたのは、その共犯者が、事件の通報を受けて駆けつけたというその警察官本人だったからである。
警察官は以前より、その区域の担当で犯人とは顔見知りであり、色々と便宜《べんぎ》を図《はか》っていたことも判明した。彼は近所の通報と共に犯人からの依頼を受けて現場に駆けつけるとすぐに凶器の、釘を打ち込んだ角材《かくざい》と、既《すで》に息がなかった被害者が喉に押し当てたままだった毛布をこっそりと隠してしまった。この作業の間に、どこかに隠れていた犬は家の外に出ていってしまっていたのだが、彼は工作をした時間がバレるのを恐れたために、犬はどこにもいなかったと報告した。これが後の混乱を呼ぶことになったのである。身内の偽証に関しては、警察としてもそうそう疑うことがないという、これはそういった失策だった。
凶器と毛布は警察官の自宅からすぐに発見され、容疑はその時点で確定した。この逮捕に当たっては県警本部にある筋からの情報提供があったが、その事実は警察内部だけで処理され、外部に漏《も》れることはなかった。
そして、警察犬を使って山狩りまでして追跡していた例のコーギー犬の方は結局、川からも遺体が発見されず、そのままということになった。一時期はこの犬をさんざん悪者にしていたマスコミはそれをごまかすためかあの犬は今どこに?≠ンたいな特集を少しのあいだ扱っていたが、やがて――忘れられた。
――夜。
それはほとんどのものが眠りにつき、安らいだときを過ごす弛緩《しかん》した闇《やみ》の時間である。
冷たい空気が肌に染《し》み込むようで、それを温《あたた》めてくれる陽《ひ》の光も空にはない。ただ酷薄《こくはく》な月と砂のような星の粒があるだけだ。
だが――今となっては、その冷たさの方が彼には心地《ここち》よかった。
(…………)
彼は確かな足取りで森の中を進む。
あのとき、川の水の中に入っても、彼はまったく焦ることがなかった。
自然に泳いで、充分な距離を取ったと判断したら、流れに逆らわない形でそのまま川岸に上がった。特に足を掻《か》いたりする必要さえなく、短い足も特に問題にならなかったのだ。
それからどうしていたのか、彼には特に記憶らしきものはない。
ただ本能の赴《おもむ》くままに、風を嗅ぎ、餌となるものを探し、眠るのに安全だと思えるところを求めていった。
いつか、どこかに自分が住めると思える縄張りを見つける日も来るのだろう。だが今はまだ、あちこちをさまよっている。群れの中にいないことはやや不安ではあったが、彼にとってはあの家の中にいた頃から不安そのものとは身近な関係にあった。ただその質が変わっただけだ。
何度か、人間と出くわしたこともあった。彼を見て人間たちは少し驚いて、それから、「もしかしてあの犬じゃない?」とかなんとか声を発して、彼に餌を与えて導《みちび》こうとしたりしたが、彼はその度に餌だけありがたく頂戴《ちょうだい》しては、すかさずその場から逃げた。別に人間を敵視しているわけでもなく、ただ彼にはもう人間が群れの仲間には見えないという、それだけだった。いつか仲間と思えるものと会うこともあるかも知れないが、それも彼にはどうでもよかった。
今日も彼は夜の中を歩く。昼にはもう、滅多《めった》に動かない。夜が彼の時間だ。暗くなってから餌を求め、明日の寝場所を探す。
そして、そんな彼が森から、少し広い場所へと出てきた。餌の臭いがしたのだ。
そこは何やら、真っ白くて四角い大きな建物がある場所だった。壁面が月光を浴《あ》びてぼんやりと光っている。
周囲に物音はない。しかしそこで彼は、自分を見つめてくる妙な気配を感じた。
(…………?)
彼は顔を上に向けた。
建物の一角《いっかく》の、窓がひとつだけ開いていて、そこから彼を見おろす一つの人影があった。
見つめられているのは、その両眼が月の光を反射《はんしゃ》する点が二つともこっちを向いていることでわかる。彼の視力は色を識別《しきべつ》するのには向いていないが、光量だけには敏感なのだ。
(…………)
彼もその人影を見つめ返す。しかしその人間は他の者たちのように、彼を見ても驚いて声を上げたり、同情っぽい素振りを見せたりはしない。
ただただ静かに、彼のことをその柔らかな光を放つ瞳で見つめてくるだけだ。
(…………)
彼も、そんな人影をしばらく見つめ返していたが、やがて、くるっ、ときびすを返して森の中に戻ってしまった。ゴミ箱の中にあるであろう餌の臭いも気になってはいたが、別にここでなくとも他のところでも見つけられるだろう。
彼が森の中へ去《さ》ろうとするとき、どこかで、
「ふう――」
というため息が聞こえたような気がした。
しかし彼が振り向いたとき、もうその窓は閉まっていて、どこに人影があったのかさえ、既によくわからなくなっていた。空には三日月が、茫洋《ぼうよう》と輝いている。
[#地付き]“The Ghost Dog”closed.
はりねずみチクタのぼうけん その3
……彼女は白い部屋の少女と別れて、夜の中ひとり家路についていました。
「ふう……」
彼女はいつも、帰り道はどこか茫然としながら歩いています。
行くときはあれこれ考えたり、悩んだり、浮き浮きしたりするのですが、帰りはなんだか、物思いにふけったりするのが面倒《めんどう》くさいような、ぼーっ、とした感じになっています。学校の課題などもあるはずなのですが、忘れているというわけでもないのですが、頭に浮かびません。
「はあ……」
彼女は月の照らす夜道をぶらぶらしながら、なんとなくこういうイメージを知っているなー、とふと思いました。
(なんだったっけ……前にもこういうことを言ったか聞いたかしたような)
暗い道を、とぼとぼという感じで歩いているちっちゃな影が、ひとつ――
(ああ、そうだ――チクタのことだわ)
話の中で、少女と彼女が旅をさせている、お腹に動かない時計を持つハリネズミのことを思い出しました。
(そうか、チクタもこんな風に、ふらふらとさまよっているわけね――)
はっきり言って、彼女としてはかつて持っていたぬいぐるみの、仮定の行く末などを本気で心配しているわけではありません。ただ、彼女の大切な友だちである少女が、そのことで面白そうに話すので、それで嬉《うれ》しくなって一緒にあれこれ考えているだけです。少女が側《そば》にいないときは、チクタのことなどろくに思い出しもしませんでした。
それがふと、どういうわけか頭に浮かんだのでした。
(私、どうしてチクタのことがあんなに好きだったのかしら――)
確かあれはお父さんがプレゼントしてくれたものだったはずですが、それが誕生日のだったか、クリスマスのだったか、それも彼女はいまひとつ思い出せません。
(お腹の時計を、直してもらいに旅に出た、か――)
少女はそんなことを言っていましたっけ。それはとてもありそうな気がしましたが、どうしてそう思ったのでしょう。彼女も、子供の頃、チクタの時計が動かないことを内心では哀《あわ》れんでいたのでしょうか?
(私は――チクタがかわいそうだと思っていたのかしら?)
そう考えて、彼女はちょっと立ち止まってしまいました。
かわいそうだと、哀れむ――なんだか、それはとてもとても嫌な言葉のような気がしました。自分がすごく傲慢《ごうまん》な人間になってしまいそうな、そんな感じがしてなりません。
そういう気持ちを、それこそチクタの動かない時計のように腹の中に持っているのは、彼女にはとても落ち着かないことでした。そんなんじゃない――そう大声で言いたいくらいですが、どうしてそう思うのか自分ではよくわかりません。
チクタが伝説の時計職人さんに会えるといいな、と彼女は本気でそう思いました。それがただのお話に過ぎなくても、それでもチクタの時計がちゃんと時《とき》を刻《きざ》むようになったらな、と彼女は思うのでした。
(そうだ、今度チクタの話をする機会があったら、彼は海に行こうとするっていうのはどうかしら?)
ふと、そんなことを思います。どうやらチクタ君はこれから、彼女の思いつきで海に向かうようです。
はたしてその先に何が待っているのか――もちろんこのときは、彼女はまだなんにも考えてはいないのでした。
第四章 しずるさんと吊られた男 The Hanged Man
「人間は何のために生まれてくると思う?」
闇に近い暗がりの中で、そいつは横にいる者に話しかけていた。
「さあな、そんなことは誰も言えないんじゃないかな」
相手が適当なことを言うと、そいつはうなずいた。
「その通り、誰にもそんなことは言えない。正にそれだよ。何のために生まれてくるのか、わからない――そこにこそ答えがある。生きていることは不条理《ふじょうり》だ。そして人間は有史以来、ずっとその不条理を積み上げて生きてきたんだ」
「何の話だ?」
「科学文明を考えてみればいい。よく人は科学が進んで、色々なことがわかるようになったとか言っているが、実際にはその逆だ。昔の人間は風邪をひくのは物《もの》の怪《け》が取り憑《つ》いたからだと思っていて、そこには何の疑問もなかった。だが今はどうだ? 薬が効《き》かない新種のウィルスだ、いや見落としていたストレスの結果だ――年中、これまでにない謎にばかり出くわしているじゃないか。科学でひとつのことがわかるということは、それ以外の百のことがわからない事実に気づくということに他ならない。これには終点がない」
「訳がわからないな。あんたは何が言いたいんだ?」
「不条理や矛盾、説明のつかない謎、そういうものを創ることこそが人間が生きるということだよ。この世になにかを残したいと思ったら、それを実現させる以外の方法はないんだ。謎と不条理こそ不滅《ふめつ》の存在なんだ」
「……あんたは頭がいいんだか、それともイカれているのかわからなくなってきたな。まあ、今に始まったことじゃないが――で、結局何をすればいいんだ?」
相手の質問に、そいつはゆっくりとうなずいて言った。
「ぶら下《さ》げるんだ。それがおそらく、もっとも適切な行動になるだろう――ぶらぶら、ぶらぶらと、な――」
1.
とにかく世間は、その話題で持ちきりとなった。何かと言えば、もちろんかの吊られた男≠フ話である。
彼が公衆の面前から忽然《こつぜん》と姿を消してから遂《つい》に丸三日が過ぎて、事態を静観《せいかん》していた警察もさすがに、もしかして本当に――と思い始めて本格的な捜査を開始したが、既に遅かったのか、それとも最初から手の打ちようがなかったのか、吊られた男の消息は香《よう》として知れなかった。
山の上の病院に続く坂道を登りながら、私の足取りは少しばかり軽かった。
しずるさんと会うのはいつも楽しいし、それで浮かれているという詰もある。でも何よりも私は、今日は気楽なのだった。
いつもだと、しずるさんが興味を持つ謎めいた事件というのは殺人とかがからむ恐ろしいものばかりだけど、でも今回の例の事件は、確かに不思議さでは例がないけど、でもマジシャンが仕組んだトリックに決まっている。謎を解くのもクイズのようなものだ。しずるさんならきっとあの不思議な消失の謎も解けるだろうし、私は浮き浮きしていた。
受付で「今日は駄目です」と言われることもなく、私は無事にエレベーターでしずるさんのいる病室にやってきた。
ドアをかるくノックする。普段ならば、そのかっきり三秒後に「どうぞ」という返事が返ってくるのだが、今回は十秒以上過ぎても返事がない。
(あれ?)
検査中で不在とかだと、ドアの前に色つきの札が掛《か》かっているので、中に彼女がいるのは間違いない。それに――あんまりこういうことは考えたくないけど、彼女の容態《ようだい》が急変とかしているなら、すぐにお医者さんたちとかが大勢来て、とっくに大騒ぎになっているはずなので、そういうことでもない。
私は仕方なく、返事のないままにドアを開けた。
「あの、しずるさん……?」
おそるおそる声を掛けたが、やはり返事はない。私は思わず、あっ、と声を上げそうになって、あわてて口を塞いだ。
彼女は、ベッドに横になってすやすやと寝息をたてていた。
(わー……)
しずるさんの寝顔を見るのは珍しい。ベッドに横になっているところもなかなか見ない。いつも私が行くと、身体を起こして笑顔で迎えてくれるので、私は彼女が一日のほとんどを寝て過ごしているのだということを忘れかけていたくらいだ。
(……でも、やっぱり綺麗だわ、しずるさん――)
私は彼女の顔をぼーっと見ていた。寝息も規則正しく、苦しそうな気配もないので私も穏やかでいられた。
片腕が掛け布団から外に出ている。そんなに寒くもないし、これで冷えるということもないんだろうけど、私はそっとその手を取って中に入れてあげようとした。
すると、きゅっ、と手を逆に握り返された。
(起こしちゃった?)
と私は思ったが、そうではないようだった。彼女の瞼《まぶた》は閉じたままだ。反射的な動作らしい。力もほとんどこもっていない。
無理にほどくのもなんなので、私はそのまま彼女と手をつないでいた。
しずるさんの指は細くて、繊細《せんさい》で、ちょっと力を入れすぎたら壊れてしまいそうだった。
(…………)
私は、静かな病室の中でぼんやりとしていた。そう、この静けさはしずるさんがいつも感じているものだった。
私は今、こうして彼女と一緒だから寂しくないけど、でも彼女がひとりのときはどうなのだろう、とあらためて思った。確かにナースコールを押せば人はすぐに来てくれるから孤独というわけじゃないけど、でも――私だったら、きっと切なくなって泣いてしまうだろう。
しかし私はしずるさんが涙を流しているところを見たことがない。いつでも穏やかに微笑んでくれる。辛《つら》そうな顔をしている彼女を、私には想像することも難しい。
(でも――)
それは見せかけだけなのかも知れない。私は彼女に無駄な気を使わせてしまっているのかも知れない。お見舞いに来ているというのに、私の方が彼女に寄り掛かっているようなところも、確かにある――。
(――私は、もっとしっかりしなきゃいけないわ)
しずるさんの寝顔を見ながら、私はそう自分に言い聞かせた。彼女の負担になったり、悲しませるようなことは絶対にしちゃいけない。
「う、ううん――」
しずるさんの口から吐息が漏もれた。瞼が二、三度ぴくぴく震えて、そしてゆっくりと開いた。
「…………」
まだ焦点が今一つ合っていない瞳が、私の方を向く。
「…………」
すごくまっすぐに見つめてくるので、私は少し、ぽーっ、となってしまった。
「…………」
しずるさんはきょとんとしている。寝惚《ねぼ》けていて、私のことを、私だと確認できていないのかも――と私が思ったとき、彼女は、
「ああ――やっぱり、よーちゃんだったのね」
と、どこか不思議そうな表情で言った。私の手を握ったままの自分の手に目を落として、そして変なことを口にした。
「天使かと――思ったわ」
真顔なので、冗談なのか本気なのかわからない。
「は?」
私はぎくりとした。天使って――それはつまり、天国からの使いとか――そういう意味だろうか?
私の顔を見て、しずるさんはくすっと微笑んだ。
「いや、そういう意味じゃないわよ。よーちゃんがとっても綺麗だったから」
あまりにも見え透いたお世辞《せじ》である。私は苦笑した。
「なに言ってるのよ」
「ほんとうよ。とても暖かい感じがしていたわ。手を握っていてくれたのね」
彼女は起きようとしたので、私はその腕を支えた。なんだか自分がお姫さまに仕えているような感じがしておかしくなった。
「ありがとう、よーちゃん」
「なに言ってるのよ、しずるさん」
私は同じ言葉を二回繰り返したことに気づいて、ますますおかしくなった。
「ごめんなさい、せっかく来てくれていたのに寝ちゃってて」
彼女は言いながら、髪の毛に手を伸ばして少し整えた。それを見て私は、そうだ、と思った。
「ねえしずるさん、私に髪を梳《と》かさせてくれないかしら?」
「え?」
「いいでしょ? 私って結構うまいのよ」
私はベッドの横の台に置かれていたブラシを取って、
「ね?」
と彼女にウインクした。しずるさんはにっこりと笑って、
「それじゃあ、お願いするわ」
とうなずいてくれた。私はそれこそ、ほんとうにお姫さま付きの侍女《じじょ》になったつもりで、彼女の髪に丁寧《ていねい》に櫛《くし》を入れていった。
とても楽しい。
やっぱり私にとって、しずるさんと一緒の時間はとても大切なものだと実感する。彼女にとってもそうであってくれたら嬉しい。
彼女の髪を梳かしながら、私たちはしばらくの間、このところ雨が続いていたから晴れて良かったとか、最近の天気は不安定だとか、そういうどうでもいいようなことをとりとめもなくお喋《しゃべ》りした。
「でも、季節っていいものよね」
私はさして深い意味もないことを言った。
「春が来て、夏になって、秋が深まって、冬が訪れて――そういう変化があるって、なんかいいわ」
「そうね、季節の移り変わりは人の感性を豊かにするわね。人はそこに世界の変化と、そして巡《めぐ》り来る普遍性《ふへんせい》を同時に見ているんでしょうね」
しずるさんは相変わらず、少し哲学的なモノの言い方をする。その口調も私にはとても心地よい。そして彼女は、
「よーちゃん、今日は機嫌がいいみたいね」
と、やや唐突に言った。
「え? そうかしら」
「ええ、声に迷いがないわ。すごく伸び伸びしているみたい」
「なにか、いつもはびくびくしているみたいね?」
私はちょっと怒った感じで言ってみる。でも自分でも声が笑っているのがわかった。確かに機嫌が良いのだろう、今日の私は。くすくす笑ってしまう。
するとしずるさんは、
「思うに、それはあの手品≠ネら怖《こわ》くないからかしら?」
と、さらりとした口調で言った。
「え? なんのこと?」
私は一瞬、彼女の言った意味がわからずきょとんとしたが、すぐに、ああ、と思い至る。
「あの吊られた男≠フこと? ああ――」
そう言えば、そんなことを考えていたっけ。すっかり忘れていた。別に私にとっては、しずるさんとお喋りができれば話題など何でもいいので、もうほとんどどうでも良くなっていた。
「しずるさんは、あれに興味ある?」
「そうね――」
彼女は珍しく、少し言い淀《よど》むように言葉を切った。私はおや、と思った。謎の類《たぐい》には、なんでも関心があるのがしずるさんだと思っていたのだが。
(しょせんは話題作りのためのトリックだろうから、あんまり気にならないのかしら?)
私としては、いつもの殺人事件とかよりああいうものの方がわかりやすい謎で取っつきやすいのだけど、しずるさんには反対なのかも……と、私があれこれ思いを巡らせていると、
「よーちゃんは、あれを解いた方がいいと思う?」
と逆に訊いてきた。
「へ? い、いや別に――ええと」
こういう質問をされたのは初めてだったので、少し面食らった。何にでもはっきりとした意志を持つしずるさんが私に、どうすればいいか、なんて言ってくるなんて。
「まあ、話題にはなっているから、解ければ面白いかなー、ってちょっと思うけど、でもどうせ来週になればどこかから出てくるんだろうしね」
私は当たり障《さわ》りのないことを適当に言う。するとしずるさんは、
「よーちゃんがいいと思うなら、解いてみるのもいいかもね」
と優しい口調で言った。
「そ、そう?」
まるであなたのために考えてみよう、と言っているみたいな調子だったので、私はどうにもくすぐったくなった。正直なところ、嬉しい。しかし同時に、
(でも――)
なにか、ちょっと引っかかるような違和感を胸の奥で感じていた。しずるさんがなにか、私の知らない理由で、あの事件の謎を自ら解こうと思わなかった理由があるような、そんな漠然《ばくぜん》とした印象が、なんとなく――。
「じゃあよーちゃん、事件の話を聞かせて。大体でいいわ」
「う、うん」
私は、彼女の髪の毛を梳かしながら、この前のテレビで観たことを思い出していった。
2.
そもそものことの起こりは、海外から公演のために来日したミラージュ≠ニ称する奇術師がテレビ番組で『華麗なる空中脱出』という生放送の企画をやることになったところから始まった。
とある高層ビルの、七階まで通じる大きな吹き抜けのエントランス・ホールを借り切って、鉄の箱に閉じこめられて、鎖《くさり》で吊られる――当然、周囲には何の手掛かりもないし、どこかから何かが近寄っていったらすぐにわかるという状態で、まったく何の助けもなく消えてみせよう――ミラージュはそう宣言したのだった。
テレビカメラが、ホールの天井に無数にセットされ、その監視の中で彼は一辺が六十センチほどの鉄の箱の中に身体を綺麗に折り畳《たた》んで入り、鎖でがんじがらめに縛《しば》られた状態で、ホールの宙空に吊り上げられていった。
そしてビルの周囲には監視する役目の者たちと、そして何よりもこの大奇術を見るために集まった一般公募の客たちが取り囲んでいた。吹き抜けは東側がすべてガラス張りになっていて、外から丸見えなのである。
その衆人環視の中、奇術師を詰めた箱がどんどん上げられていく。
そして予定通りに、空中の一点で固定された。
実は、当初の計画ではこの後、箱を吊り下げている鎖を伝って、火花が上から導火線《どうかせん》のように下りてくるという仕掛けになっていた。それを見てみんなが固唾《かたず》を呑《の》んで見守る中、遂に火花は箱に到達《とうたつ》、爆発して木《こ》っ端微塵《ぱみじん》になる――しかしその中には誰もいない、ということでマジックは完成するはずだった。これはもうテレビ局側との打ち合わせも済んでいることだった。
だが、そこから事態は異常な方向にねじ曲がっていく。
ぶらぶらと揺れていた箱が突然、がたん、と激しく跳ねるように動いたのだ。
客たちはどよめいたが、スタッフたちの方がもっと驚いていた。箱を捉えていたカメラマンは、ここでズームアップすべきかどうか、箱に合わせてカメラを揺らすべきなのか判断に困った。
そして、箱の四隅から黒っぽい染みが広がり始めた。
それはみるみるうちに大きくなり、角の所で雫《しずく》になって――ぽたぽた落ちていく。下に置かれていたマットの上に垂れていくその色は――深紅に染まっていた。
(え……?)
その馴染《なじ》みの色に、周囲の者たちが息を呑んだそのとき、上の箱の底が抜けた。
それが一斉に、マットと言わずフロアの床中に飛び散りながらなだれ[#「なだれ」に傍点]を打って流れ落ちていった。
ひたすら真っ赤っ赤で、誰でも知っている、誰の身体の中にも流れているその液体は、まごうかたなき――鮮血《せんけつ》だった。
絶叫が上がり、皆が一斉に後ずさった。
底の抜けた箱は相変わらず、鎖で宙にぶら下げられたまま、ぶらぶらと揺れていた――その中には、既《すで》に何者の姿もなかった。
そして、別の場所から現れるはずだった奇術師はいつまで経っても姿を見せず、待機していたマジシャンの助手たちも彼の姿を確認できておらず、一体何が起こったのか、誰も知らなかった。テレビは当然、なんの解決もないまま尻切れトンボに終わってしまったが、終わった後になって大騒ぎになり、テレビ局側が謝罪《しゃざい》するような事態に発展した。
そして流れ出た血液は、正真正銘の人間の血液であることがわかり、それはパスポートに記載されていたマジシャン本人の血液型に一致した。
「事で、最初はただのテレビの話題作りだろうってことで動かなかった警察も、本物の人の血とかが出てきてしまった以上、無視することもできなくなって本格的に調べ始めたというわけなのね」
私は、その番組そのものは見ていなかったが、その後でいろんなところであらましを放映したので(しかも問題の局が独占するのをやめたとかでどこの局でもやっている)すっかり詳《くわ》しくなってしまった。
「箱の中に入ったわけね」
「ええ。その様子はちゃんとカメラに映っているわ。しかも生放送だったからCG加工とかも無理でしょうし」
「底が抜けた、と――それはつまり、本来なら吊るされる前にそこから抜け出して、床下にでも隠れるための仕掛けがされていたのね」
「そうなのよ。しずるさんもテレビを観たの?」
「いいえ、ここのところしばらく、検査が長引いていたから――詳しくは知らないわ」
しずるさんは少しどきっとすることを言った。検査が長引いた、って――それはつまり、悪いところが見つかったとかそういうことではないだろうか。
私の顔に浮かんだ動揺《どうよう》を見て取ったのだろう。しずるさんは優しく微笑んで、
「大したことじゃないわ。いつものことよ。それよりも話を聞きたいわ」
と穏やかに言った。私は、さっきしっかりしなきゃと思ったばかりだったのに、もうこんなことでは駄目だ――と、なんとか気持ちを彼女が不快にならないような陽気なものにしなきゃと思う。
「え、ええ――そうなの。抜け穴だったのよ。でもよくわかったわね?」
「ああ、それはもう、この種の脱出トリックの定番だから。厳重に、時間を掛けて封をするのは、その間にこっそり抜け出るためだってね」
「定番なの? でも脱出マジックといったって色々な種類があるじゃない」
「そうね――でも物理的に考えれば、密閉された所から抜け出す方法は二つしかないわ」
「二つ?」
そんなに絞《しぼ》れるものなのだろうか? 不思議がる私に、しずるさんはちょっと眉を上げて、
「この世から完全に、跡形《あとかた》もなく消えてしまうことなんて、誰にもできないわ」
と言った。私がきょとんとしていると、
「簡単なことよ? よーちゃんだってわかると思うわ。この場合、マジックの印象はこの際忘れて、単に箱の中に何もないということがどういうことなのか、頭に浮かべてみればいいわ」
と辛抱強《しんぼうづよ》い先生みたいな口調で言った。
「簡単に考える――ええと」
私は言われたとおりに箱を思い浮かべて、それをあれこれいじってみた。
「ええと――ひとつは抜け穴があることで、もうひとつは――えーと」
私はまず、ひとつ思いついたものの、それはあまりにもしょうもないものだったので口にしなかった。
「――うーん、やっぱりわからないわ」
私は首を振ったが、しずるさんはそんな私に呆《あき》れる様子もなくニコニコしている。私は話を戻すことにした。
「まあとにかく、今回は抜け穴だったのよ。吊られた男は鎖を縛っていく間に下に敷いてあったマットに開けられていた穴に逃げておくはずだったらしいの。でも彼は出てこなかった。そして箱から血が落ちた直後に、ビルは完全に警備の人がかためちゃって、誰一人として建物の外には出ていないって話らしいわ」
彼は忽然と姿を消した――ただし、唯一残した痕跡は、
「落ちてきたのは血液だけだったのね?」
「うん。だからビニールパックとかに血を入れていたとしたら、区別は付かないのよ」
「他に何かなかったのかしら。肉片とか」
しずるさんはぎょっとすることを言う。
「え、ええと――なかったんじゃないかしら。少なくとも、画面で見ているとないみたいね。血だけだったと思うわ」
「でも、致死量ではあった――ということでしょう」
「こぼれている量を画面上で見るとそうらしいけど、でもその後でマットの上に人が乗ったり、拭《ふ》いたりしちゃってるから、具体的な量はわからないのよ。警察が来たのは翌日だったっていうし」
私がそう言うと、しずるさんはちょっと片眉を上げて、
「よーちゃんは、やっぱりマジシャンのトリックだと思うわけね?」
といたずらっぽく言った。
「まあ――だって、そりゃそうでしょう?」
普通ならそう思う。だからこそ、逆に話題になっているのだ。もしこれがただの事故ならば、ここまでミステリアスにはならないだろう。なんというか演出≠感じずにはおれない。みんなそう思っているのだ。
「でも、その場合の目的は何かしら?」
しずるさんは静かに言った。
「目的? ――って、だから目立つことが」
「売名行為って言うけど、彼はマジシャンなんでしょう? ここまでの騒ぎになったら、この後で出てきても、当然タネを明かすことを強要されるわ。それはマジシャンにとっては致命的――というより、職業的なプライドに反する行為じゃない?」
彼女の言葉に、私は、あっ、と声を上げてしまった。
「そ、そういえばそうね――」
「今のところ、まだタネが割れていないから、みんなこの事件のミステリアスさばかりに注目してしまうけど、でもタネの割れた手品ほどシラけるものはないわ。それを誰よりも知っているのは奇術師本人のはず。どこまでやればいいのか――そのことに気が回らないはずがないわ」
「そうか――そうよね」
ミラージュとかいう外国の人がどんなマジシャンなのか私は詳しく知らないが、でもそれなりにその世界では有名で人気もある人なんじゃないだろうか。そういう人ならわざわざ騒ぎを起こしてみせなくても、みんなを驚かすマジックができるだろう。
「これはね、きっと逆転が起きているのよ。吊られた男って名にふさわしく、どこかで物事が――論理がひっくり返っているんだわ」
彼女は不思議なことを言った。
「ひっくり返っている? 何が?」
しずるさんの言うように、タロットカードにおける吊られた男≠フイメージとは足首を縛られて、逆様《さかさま》に吊られているというものではあるのだが。
「たぶん、ことの最初の、前提からして逆転しているわね」
彼女の口調には、いつもながらためらいがない。
「えと、あの――しずるさん? もしかして、あのマジシャンがどうなったのか、もうわかっているの……?」
私は、おずおずと訊いてみた。どうもそうとしか思えない。
「完全にわかってはいないわ。でも、世間の人たちとは別の考えをしているとは思うけど」
しずるさんは少し回りくどい言い方をした。私は生唾《なまつぼ》を飲み込む。
「つ、つまり――本当に殺されちゃっているって――?」
「そうね――生きている可能性はあまりないんじゃないかしら」
彼女はさらりと言った。そして、ふっ、とかすかに微笑んで、
「この辺でやめましょうか? よーちゃんはこういう話はあんまり好きじゃないんでしょう?」
「いや、それは――だって」
どうせ、いつもいつも彼女に付き合っている。気味の悪い事件に対して、今さら気後れしてもしょうがないではないか。私のそんな気持ちは顔に出ていたらしく、しずるさんはくすくすと笑った。
「よーちゃんって、ほんとにいい人よね」
「もう――からかわないでよ。それよりマジシャンが死んじゃってるって、どうして思うの?」
「少なくとも、致死量の血を抜かれて生きていると考える方が難しいんじゃないかしら。生き血というのは、保存も利《き》かないし」
それは私も知っている。だから献血車はあんなに毎日毎日、色々な所を回っては皆に血を分けてくださいと呼びかけているのだ。
「でも、血の量を水増しするっていうか、多く見せるやり方はたくさんあるんじゃないかしら」
「豚《ぶた》の血《ち》を混ぜるとか?」
しずるさんは悪戯っぽく言った。なんかの映画の話だ、それは。
「化学分析ですぐにバレちゃうわよ、そんなの」
だいたい血が分析されたのは、翌日以降になってからで、現場に残されていたわずかな痕跡からだけなのだ。そこだけ本物であればいいのであって、別にすべて本人の血である必要はないのである。誤魔化《ごまか》すのは簡単だろう。
するとしずるさんは、
「バレて困ることがあるのかしら?」
と、私に訊き返してきた。
「え?」
私は虚《きょ》を突かれて、ぼけっ、となる。
「これがマジックで犯罪ではないのだとしたら、血が偽物であるとすぐにわかった方がいいんじゃないかしら。すぐにバレた方が、警察とかが乗り出して来なくて済むわ。それを避《さ》けた辺りからも、これがちょっと異常なことであるのは確かでしょう?」
何のために本物の血を使ったのか、あるいはそうと思わせたのか?
「うーん……」
私はいつものように、既に頭の中がこんがらがってきている。トリックだとわかった方がいいのか、謎の方がいいのか、犯人というのがいるとして、目的は何なのか、事故だとしたら一体どういう過失なのか、何がなんだかさっぱりわからない。色々なところで辻褄《つじつま》が合っていない感じだった。
「――ああっ、もう訳がわかんないわ。混乱させようとしてるとしか思えないわよ」
私は思わず愚痴《ぐち》ってしまう。ところがこの無意味な言葉に、しずるさんが、
「そうね。きっとそれこそが目的なのよ」
と奇妙なことを言った。
「え?」
「訳がわからず、辻褄が合わず――そうなることそのものが、おそらくは目的」
彼女の静かな言葉は、白い病室の中に凛《りん》と響いた。
3.
警察に限らず、あらゆる者がまず第一に疑ったのは当然のことながら、箱を吊り上げていた鎖だった。流れ出た血は、そこから伝わって染み出てきたと考えるのが自然だったからである。
しかしながら、鎖にはやはり当初予定されていた爆発のための導火線しか付けられておらず、液体を通すためのチューブのようなものは確認できなかった。
「箱を降ろしたとき、なにか異常はなかったのか?」
もっとも重要な質問に関しては、しかし誰も明確な答えがなかった。
底が抜けていたそれを降ろしたとき、そして内側を表に返したとき、それらはすべてカメラに捉えられていて、なんの異常もないように思える。だが、それがなによりも異常なことだった。なにかおかしなところがなくてはならないのである。だがあまりにも完全に箱の中身は空っぽであり、たとえば箱の内側で誰かが腕をつっぱらかして落ちないようにしながら隠れていたとか、実は二重底になっていたとか、そういうことがなくてはならなかった。
だが箱を厳重に調べても、何もない。
他のマジシャンのところにも、この事件についてどう思うかという質問が殺到したが、大抵の者はノーコメントであり、その誰もが不快感を隠さなかった。
「あれは単なる失敗でしょう。私にはそうとしか思えませんね」
一流と呼ばれる某《ぼう》マジシャンはそう切り捨てた。
「しかし、見事に消失してしまったではないですか」
「消えることは当たり前です。彼だって奇術師の端《はし》くれなのですから。しかし彼はその現象をコントロールしていたようには思えない。どこかで偶発的な事態が生じて、それがあのような結果になったのでしょう。奇術師としては、むしろ恥ずべき結果ですよ」
「驚きをもたらしても、それが意志によるものでなければ意味がない、と?」
「そういうことです」
「しかし世間の人間はそうは思っていないようですが――」
「それは彼が現れていないからです。はっきりしないものは人の心に印象として残りますからね。彼が出てきたら途端《とたん》に皆は幻滅《げんめつ》してしまうでしょう」
「ああ――そういうものですか。演出がなっていない、と」
「この事の消失マジックにはタイミングというものがあります。いつどこで現れるか、それが少しでも狂うと観客の喝采《かっさい》を浴びることはできない。彼はそれにも失敗しています」
「トリックは、あなたにもわかりませんか?」
「同じようなマジックをやれと言われれば、できますがね――マジックには何千何万通りという様々なやり方があります。彼がそのどれを、どのように組み合わせて使ったのかは、推測の域《いき》を出ませんし、それを教えることも意味がありません。彼は失敗しているのですから。うまくやれる方法は参考にならないでしょう?」
失敗、という言葉を彼は何度も繰り返した。
「彼に対して、何を感じますか?」
「どういう意味ですか?」
「いや、少なくとも彼は今、最も注目される奇術師となっています――生死は不明ですが。誰もが彼に注目し、話題を独占しています。その彼に対してジェラシーのようなものをお感じにはなりませんか?」
この不躾《ぶしつけ》な問いにマジシャンは失笑《しっしょう》をみせた。
「ジェラシーねえ――そりゃあ、奇術師も人気商売ですし、同業者で見事な術を見せた者にそのようなものを感じることがないとは言いませんが、今回はねえ、マジシャンとしてははっきり、無様《ぶざま》としか言いようがありませんしね」
嫌味っぽい、少しムキになっているとも取れるような言葉だった。
「我々は別に宗教家ではない――本物の奇蹟《きせき》そのものを起こしてもしょうがないんですよ。あくまでも本物のようにしか見えないことをやり、人々にささやかな驚きを提供して楽しんでもらうことが喜びであり、目的なんです」
……テレビの中で、マジシャンの人が事件についてそんなことを喋っているのを見ていて、私は、
「――あ」
と思わず声を漏《も》らしていた。
「あ、ああ――ああっ!」
思わずひとりで、部屋の中で大声を上げて立ち上がってしまう。
「そうか――そういうことだったのね……!」
しずるさんは、はっきりと事件の謎について私に教えてくれなかったけど、でも彼女がぽつりぽつりと言っていた手掛かりみたいなことが今の人の言葉で、全部つながったような気がした。
ビデオに撮ってあった事件のときの様子をあらためて頭から見直してみた。
奇術師が現れる。
観客やカメラに向かって、手などを振ってみせる。
そして箱の置かれているマットの上に昇り、箱の中に入って――吊るされていって――。
「…………」
もちろん、私にはそのトリックなんか全然わからない。マジックに関しては完全な素人《しろうと》なのだから。
だが、ここではそのわからないことが、そのまま答えになっている――私はそのことにふいに気がついたのだった。
しずるさんは言っていた――
どうして、本物の血をわざわざ使う必要があったのか
――と。そしてその目的が、一般的常識ではあり得ないものだと――でも、
(でも、そうだわ――目的が、そういうことならば――)
私は頭がくらくらしてきて、ベッドの上にぱたりと倒れた。
「…………」
やっぱり――私はこういう事件に向いていない、と思った。しずるさんは、今回の事件だって最初からわかっていたはずなのに、それでも平然としていて、とても落ち着いていた。私にはその真似《まね》はとても無理だ。動揺せずにはいられない。
(でも――どうしよう……)
私は困惑《こんわく》していた。この事件は解決すべきものなのだろうか? それとも放っておいても問題ないのだろうか?
いや、いずれは解決――というか見つかる≠フはわかっている。そう……しずるさんの言っていたように、この世から跡形もなく、完全に消えてしまうことなど、誰にもできないのだから。
(そ、そうだ――たぶん、もう載っているわ、きっと……!)
私はすぐに、最近の新聞を次々と見ていった。それほど時間はかからず、私はその目的の記事を見つけだすことができた――。
4.
事件の起きたビルの前は、今日もたくさんの人集《ひとだか》りができている。
わいわいと騒《さわ》いでいる人たちは、今にもどこかから問題のマジシャンが湧いてくるのではないかと期待している。
元々がエントランス・ホールであり、人通りをシャットアウトするとビルの機能が停止してしまうので、問題の箱を降ろした付近にだけロープが張られ、警備の人間が二人立っているだけだった。
「…………」
そこから少し離れたところに、高校生ぐらいの一人の少女が立っていた。少しおどおどした感じで、周囲を見回している。事件のあった場所の方はあまり見ない。視線を向けたくないという感じだった。
「……うーん」
などと小声で唸《うな》ったりしていて、なにかを悩んでいるようだった。
するとその彼女に近寄る人影があった。
「はい、ちょっとすみません」
声を掛けられて、彼女はびくっ、と振り向いた。
「ちょっとインタビューさせてもらってよろしいですか?」
言われて、彼女は明らかな戸惑いを見せた。
「え? ええと――なんの、ですか?」
「いや、この事件について、色々な人から印象をうかがっていまして――吊られた男についてどう思いますか?」
「どう、って――その、別に……」
彼女は歯切れが悪い。
「でも、わざわざこの場所にまで来ているんですから、興味はおありになるんじゃありませんか?」
「いえあの、私はそんなんじゃなくて」
「お友だちとかはどうなんです? この事件のことを不思議がっているのかな」
「いえ全然……っていうか、そうじゃなくて」
彼女は首を横に振った。自分でも混乱しているらしい。
「ただ――警察がいないかな、って思っただけで」
と口にして彼女は、はっ、と口をつぐんだ。つい漏《も》らしてしまった、そんな感じであった。
「へえ、警察? あなたは警察になにか言うことでもあったんですか? しかもこの場所ということは、この事件を担当している人にですよね?」
「い、いえその」
「警察ってのは縄張り意識が強いですからね。管轄外《かんかつがい》の所に話を持っていってもなかなか通らないんですよ。知ってました?」
「ええ――いやその、そんな真剣ってわけでもなくて――」
「犯人でもわかりましたか? 名推理が働いちゃいましたかね」
そう言われて、彼女はぎくりとした顔になった。しかしすぐにそれを打ち消すように、
「そ、そんなことはありません!」
と急に強い口調で言った。
「はははっ、冗談ですよ。それがわかったら誰も苦労しませんものね」
「そ、そうですよ」
「しかし――この事件そのものはさっさと解決した方がいいんでしょうねえ」
「え?」
彼女の顔に、はっきりと動揺が走った。
「それ――どういう意味ですか?」
「あれ、ご存知ありませんか? いやね、あのマジックの助手たちが、これはほとんど外人なんですが、彼らが警察に勾留《こうりゅう》され、事情聴取されていて――なんでも助手の一人は、母国に妊娠《にんしん》してる奥さんがいるとかで、急いで帰らなきゃならないのに、この事件が解決するまで出国できないんじゃないかって話ですよ」
「え? ええ?」
彼女はひどくおろおろし始めた。
「で、でもだって、これトリックだったら、それを警察に話せば」
「マジシャンは、手伝う人間にもそのトリックの全体を説明しないのが普通なんだそうですよ。それに契約がありますからね」
「契約……?」
「ええ、トリックのことを他人に口外《こうがい》しないって契約ですよ。これを破ると莫大《ばくだい》な違約金《いやくきん》を取られるそうです。今回は、これがマジックの一環なのか、それとも事故なのか特定できていないから、警察の事情聴取でも喋っちゃまずいらしい――大変な話ですよね、どうにも」
「…………」
彼女の顔が、それまでになく緊張したものに変わっていく。
思い詰めたようになり、そして何も言わなくなったと思うと、目の前の男を完全に無視して、その場から急に走り去って行ってしまった。
「…………」
しかし、インタビューしていた者は、その彼女を呼び止めようとはしなかった。
ニヤニヤ笑っている。
(これであの話が広まってくれるかな――まさか、こんなところに接点があるとも思うまいしな)
そいつは心の中でひとりごちてにんまりし、それからふと眉を寄せた。
(だが――あの娘、なんか変なことを言っていたな。友だちはどう思っているかって訊いたら、全然、とか……)
全然不思議がらなかった、とでも言うのだろうか?
(いやいや、そんなまさか――)
……翌日。
警察の方から、吊られた男が発見されたという発表がなされ、記者会見の席が設けられた。
だがその内容を聞かされたマスコミ関係者は一様に唖然となってしまった。
「――ち、ちょっと待って下さい――なんですって? 死んだ?」
「はい、被疑者は遺体で発見されました」
警察の担当者は無表情で言った。どこか憮然《ぶぜん》とした表情で、俺だって訳わからんよ、とでも言いたげだった。
「当初は、遺体に身分を証明するものが何もなく、容貌も変化しておりましたので、身元不明の遺体として扱われていたのですが、再調査によって安置されていたその外国人の遺体が本人と断定《だんてい》されたものです。発見場所は――」
そこは何の変哲《へんてつ》もない路地裏だった。繁華街からもさほど離れておらず、それまで外人の行き倒れだろうと思われていたのだった。それは既《すで》に小さなニュースとして、一部の新聞の地方版の隅《すみ》で報道されてもいた。
それはとある人物の通報による判明事項だったが、そのことは伏せられていたし、発表している彼はまったく知らないことだった。
「そ、それで死亡推定目時は――それは本当なのですか?」
「分析は状況に左右されますので、多少の誤差《ごさ》はある可能性もあります」
「で、でもそれにしたって――それじゃあ……」
皆のざわめきがどんどん大きくなっていく。
「彼がその――我々の前で箱の中から消えてみせた、その前日には、もう死んでいた[#「もう死んでいた」に傍点]って言うんですか!?」
そう、発表された日時が正しいと、そういうことにしかならないのだった。
「分析上はそうです。死因は病死で、被疑者はかねてより重度の合併症《がっぺいしょう》をわずらっていたようで、現在、担当の医師に照合《しょうごう》を急いでいるところです」
彼はさっき言った正式な病名を、今度はずいぶん簡単にしてしまった。難解《なんかい》な単語ばかりで二百字以上になる病名など、繰り返すのが面倒になったのだろう。
「なにぶん医師は海外の方ですので、時差の関係でまだ正確な発表はできない状況です」
「そ、そいつは本当の本当に病死なんですか? だって――」
混乱しきっているマスコミがさらに質問を重ねたが、警察官はぶっきらぼうに、
「わかっていることは以上です」
と突き放したように言った。
奇術師は、自分が死んだときに公表するようにという書類を、前もって弁護士に預けていた。
そこには、自分の死は誰の責任でもなく、間違いなく自分の覚悟の上のものであること、そして他の何者も、自分が行つたことの全容を知らないということが、正式な内容証明と共に明記されていた。
この件に関して何らかの被害を受けた者がいた場合、彼の財産の中から補償されるということも記《しる》されていて、それ以外の全額は自分と同じ病気で苦しんでいる人々のため研究機関に寄付するとあった。
それは法律上、何の問題もなく、というよりもあまりにもなさすぎて、どこから問題を追及してよいのか見当もつかないものだった。
そしてそこには、例のマジックのトリックに類する事柄については一切書かれておらず、果たして彼が如何《いか》なる奇術を成したのか、あるいは真に奇蹟が起こったのか、それは永遠の謎となってしまった。
5.
「――で、よーちゃんはその妊娠した奥さんのために、この事件を見事に解決してあげたというわけね」
しずるさんがそう言うと、私はちょっとバツの悪い感じを覚《おぼ》えた。
「そんな――私が解決した訳じゃないわ」
「よーちゃんが言わなかったら、警察は既に死体を持っていたことに、いつまでも気がつけなかったわよ、きっと」
しずるさんはウインクしてきた。私はますます居たたまれない感じがする。
「しずるさんだって――ううん、しずるさんが教えてくれたから、私だって新聞記事を見つけられたのよ」
「私は特に、何も言ってなかったと思うけど」
「もう、そんな風にとぼけたってしょうがないでしょ」
だいたい死んでいる≠ニ断定したのはしずるさんではないか。彼女はくすくすと笑った。
「でも、はっきりしたことは言わなかったわよ。見抜《みぬ》いたのはよーちゃん、あなたの頭がいいからよ」
「あのねえ――」
私はさらに文句を言いそうになったが、ため息をつくにとどめた。その代わりに質問をする。
「でもしずるさんは、どうしてすぐに奇術師は死んでるって断定できたの? もしかして――」
それだけは謎のまま残ってしまった奇術のことも、しずるさんにはわかっているのだろうか。
「いや、それはなんとも言えないわね。でも、一番はっきりしていたのは、問題の血≠ェ本人のものだったというところね」
「血=H あの箱の抜け穴からこぼれだしたやつ? あれって、やっぱり本物だったの?」
なんかうやむやになってしまったが、あの血もやはり不思議なことだった。
「本物でしょうね。しかも致死量の」
彼女はきっぱり断言した。
「でも、病死だって――」
私がそう言うと、彼女は首を横に振って、
「私は、致死量と言っただけで、別にそれが死因だとは言っていないわよ」
と静かに言った。私はあっ、と声を上げる。
「じ、じゃあ――死んでから[#「死んでから」に傍点]なの?」
死んだ直後に、その身体から血を抜いたというのだろうか?
「そう考えるのが自然ね。死体から血を抜いても、もう体組織にはなんの変化も現れないわ。ただ、軽くなるだけ――病死の痕跡もそのままにね。格好《かっこう》の演出素材として使っても、なんの問題もない。そう――」
しずるさんは私にうなずきかけてきた。
「ビニールパックに入れられていたんじゃないか、ってよーちゃんも言っていたでしょう? たぶんその通りよ。時間と共に破れるようになっていた極薄素材《ごくうすそぎい》の風船みたいな袋がセットされていたんじゃないかしら。その破れた袋は、流れ落ちる血と一緒に外に出てしまって、箱の中には残っていなかったんだわ」
そう言えばしずるさんは、肉片はなかったのか、とか私に確認していたっけ――血はぬるぬるしているし、その中に無数に千切れた風船の破片《はへん》が混じっていても、まぎれてわかりそうもない。ましてや血はすぐに踏みつけられたり拭かれたりしているのだし。警察がすぐに現場検証に来なかったことが、その辺をあやふやにしてしまったのだろう。
「で、でも――誰がそんなことを? 死体から血を抜いたり、箱に仕掛けたり――」
私はまた頭がくらくらしてきた。
「それは助手の誰かでしょう。本人に命じられたとはいえ、ちょっとした死体損壊罪ではあるわね」
「……まあ、罪に問おうって気には、なんかならないけど……」
「わざわざ血を使う理由と、血を使う危険性のバランスが、マジックとしては最初からおかしかったのよ。やりすぎというか、意味が不明確というか――でも、これを逆に考えてみれば、簡単なことでしょう?」
「つ、つまり――本物の血を使うことができるという状況が先にあって、それを利用したってことなの……?」
「それが自然ね、筋道《すじみち》としては」
「それで、死んでるって――わかってたわけね」
私はまたため息をついた。毎度のことながら、しずるさんの論理の明解さには一点の隙もないって感じだ。
「でも、すごいわね――奇術師の意地ってやつなのかしらね。死んでもなお、マジックをやり抜くって言うのは」
私にはちょっと、その精神状態は想像もつかない。
「マジック、ねえ――」
しずるさんはぽつりと呟いた。その響きが、なんだかとっても投げやりな印象だったので私は、あれ、と思った。
「奇蹟を起こしてみせるのが奇術師――彼は、その論理を最期《さいご》になって逆転させて、ひっくり返したくなったのかしら――術師としてわざ[#「わざ」に傍点]を見せるのではなく、奇蹟そのもので自分を消してしまいたくなったのかも知れない――謎と不条理を成すことでしかこの世に不滅を証明できないとでも思っていたのかしらね……」
独り言のように、やや難しいことを呟いている。
「この世のすべてが、矛盾と不合理でできていれば納得がいくとでも思ってたんでしょうけど……そんなもの結局は、ただのごまかしなのに――」
「しずるさん……?」
と訊いても、返事をしないで、なにやら宙空に視線を向けている。そして、
「よーちゃんは、出産直前の奥さんのために事件を解決したのよね?」
と、さっき言ったことをまた言った。
「いや、だからそんな大仰《おおぎょう》なものじゃなくて」
「その話を、警察の人から聞いたのかしら」
「え? ――いいえ、そういう訳じゃないけど」
「じゃあ、誰から?」
「え、えと――」
現場に行っていたことは、なんか恥ずかしいので内緒《ないしょ》にしていたのだ。しずるさんはそんな焦る私をまっすぐに見つめてくる。私はふう、とため息をついた。
「いや――マスコミのひとにインタビュー受けちゃって。野次馬みたいに現場に行ってたら、ね。みっともないことしちゃったわ」
私はもじもじと指をからませた。しずるさんにつまらない隠し事をしていた自分が恥ずかしくてしょうがなかった。
するとしずるさんは、その私の手をきゅっ、と突然に握ってきた。
「よーちゃん、あなたは偉いわ」
「え?」
手を握られて、そんなことを言われて、私にはなんのことだかさっぱりわからない。
「ど、どういう意味?」
「正しいと思うことをできる、あなたみたいな人はほんとうに貴重だわ」
しずるさんは訳のわからない微笑みを浮かべて、私を見つめてくるばかりだ。
それはすごく――真剣な眼差《まなざ》しに見えて、私は少し言葉に詰まった。
(――なんか、当てが外れたって感じだったなあ)
事件が一段落して、事前に奇術師と打ち合わせをしていた男は、やや憮然と上ていた。
(もうちょっと大騒ぎになるかと思ってたんだけど……)
彼がブツブツ言っていると、その横に座っていた男が、
「なあ、おまえはどう思う?」
と唐突に訊いてきた。打ち合わせが始まる前の会議室には、まだ他のスタッフたちが揃《そろ》っていなかった。
「え? なんですかディレクター」
「なんだじゃないよ。例のメールだよ、メール」
「何のことです?」
「あのなあ、おまえも、仮にもテレビ局の一員なんだから、周囲のことには常に気を配《くば》っとけといつも言ってるだろうが。昨日からこんなメールが、局のあちこちに送られてきてるって騒ぎになってるんだよ」
番組ディレクターである男は、部下のアシスタントディレクターの男に、ノートパソコンの画面を見せた。
そこには奇妙な文章が書かれていた。
『入れ替わって立ち替わって
囲まれると同時に囲む側に
ひとり増えても大丈夫
見えないように囲ってあるから
それを知ってる道化師は
何も言わぬと約束したはず
余計なことを言ったとしたら
それは大きな災いの元に
また近寄るのは愚かなこと
それ以上は何もしない、しない』
「…………」
その文を読んだ、男の顔色がみるみる青ざめていく。
だが読ませた方はその変化には気がつかず、
「な? 変な文章だろう? 何でもウチの局にだけ、あちこちの部署《ぶしょ》に送りつけられているっていうんだ。悪戯にしちゃ、訳がわからないし、別にウィルスとかでもないらしいしな。なんだろうな――」
と、頭をぽりぽり掻いている。
だが、ADの男にとって、その文章は恐るべきことを示していた。
(こ、こいつ――何もかも知っている……?)
それは意味不明の文章などではなかった。そこにはあの吊られた男の謎がすべて書かれていたのだった。
そう、あれは実のところ、マジックとしては初歩の初歩でしかないトリックしか使われていなかったのだ。
血が流れ出たという、あの映像のインパクトがすべてに勝り、そこまで簡単だということに気がつけなかっただけなのだ。実際に他の奇術師も同じようなマジックならできる≠ニ豪語《ごうご》していたが、それも当然なのだ。
なにしろ、要するに助手の一人が――これはあの死んだ奇術師の一番弟子だったのだが――マジシャンに扮装《ふんそう》して、箱の中に入るフリをし、死角ですばやく衣装を早替えしてすぐさま、箱を鎖で縛る役割の者の中にまぎれて離れた、というだけのものだったのだから。
箱の中から人が消え失せる、というマジックに於《お》いて方法は基本的に、たった二つしかない――抜け穴が空いているか、さもなければ、最初から誰も入っていないのだ。衣装の早替えなどはマジックですらない。普通の演劇の舞台でも使われている代物《しろもの》だ。
ただ問題がひとつある――それはその死角には、入れ替えが成功する一瞬だけは決してカメラが向いていてはならない、ということである。
奇術師サイドはテレビ局と打ち合わせの際に、偽《いつわ》りの演出プランを番組ディレクターに告《つ》げている。後で問題になるに決まっているこんな仕掛けをテレビ局が許すはずがないからだ。しかし正確なカメラ位置を設定しないとすべては台無しになる。そこで奇術師が抱き込んだのが、カメラマンやディレクターや、その他のテレビスタッフの間を仲立ちして指示を伝達するADだったのである。
(話を聞いて――正直最初はビビったけど、すぐに考え直して――金をくれるっていうからだけじゃなくて、なんか騒ぎになったら面白そうだって――)
あの奇術師は謎や不合理を創ることが人間の生きる理由だ≠ニか言っていた。彼にはその言葉が妙に正しいように思えたのだった。それに番組も、ディレクターやプロデューサーは怖《お》じ気《け》づくだろうが、話題になるのも間違いないと思われたし、それは現に正しかったのだ。あの番組のプロデューサーとディレククーは今、ちょっと謹慎中《きんしんちゅう》ではあるけど、結果的にはウケたと言ってもいいのではあるまいか。
バレやしない――助手たちも事態の全部は教えられていなかったから、彼と奇術師のつながりは誰も知らない。何の危険もないと高《たか》をくくっていた。
それなのに――なたんなんだ、このメールは?
(こ、これはテレビ局の中に仲間がいるって知らなきゃ、こんなものは送ってこれないはずだ――どういうことだ? 俺はなんにもしくじっていないはずだぞ?)
彼がやったことと言えば、ちょっとしたことだけ――そう、事情をよく知らない助手が奥さんの出産で帰国しなくてはならないという話を外に広めようとしたぐらいだ。現場に来ていた女の子に話せば、噂《うわさ》となって広まるに違いないと思って、そしてそうすればさらに騒ぎが大きくなるかなという軽い気持ちで――
何も言わぬと約束したはず
文章の一節が突き刺さってくる。それはなんだか、あの奇術師が彼に向かって、直に言っているような、そんな感じがした。
「…………」
彼はこっそりと立ち上がり、自分の鞄《かばん》の中に入っているハンディビデオカメラを探した。そこには彼がこの前、少女にインタビューする振りをして情報をリークした、そのときの様子が映《うつ》っているデータが入ったままだったのだ。
「ん? なんだどうした。なんかいいテープでもあるのか」
ディレククーが訊いてきたが、彼はできる限り平静な態度をよそおいつつ、
「いいえ、別に」
と言いながら、そのデジタルビデオの中身を消去した。あの少女と接触したことは隠し通さねばならない。もちろん、捜《さが》し出して近寄ることなど考えてはならない――。
彼はそういう存在ではなかったが、犯罪すれすれのところに関わっている彼が変質者のような性癖《せいへき》を持っているかもという仮定はあった。その彼が途中で接触した少女に余計な関心を持つことも、あり得ない話ではなかった――その可能性がすべて、今消え失せたのだった。
それ以上は何もしない、しない――
彼もまさか、それ[#「それ」に傍点]こそが目的なのだとは思いもよらない――奇術師が生前に仕込んであった時限メールか、さもなければ――亡霊の仕業としか思えない。
「…………」
「どうした、顔色が悪いな」
「い、いえ別に――風邪気味っすかね」
「おいおい、俺たちにうつすなよ」
「ええ、気ぃつけます――」
彼は流れ出る冷や汗をなんとか抑えようとして窓の外に視線を移し、そしてぎょっとした。
そこに、足首を縛られている男がぶらさがっていた。
「…………!」
戦慄したが、しかしそれはよく見ると、清掃用のケージをぶら下げるワイヤーに、滑車がついた部品が付いているだけだった。
しかし彼はそれを確認しても安心できなかった。彼は今こそ悟《さと》ったのだ。
謎と不条理だけが不滅――
吊られた男の幻影は、これから彼の人生から消えることはないだろう。それは証明できず、することもかなわぬ要素が加わったからだ。
それはいつまでもいつまでも、ぶらぶらと揺れ続ける――彼自身をも宙ぶらりんにしたままで。
――しずるさんは、私の手を握ったまま、私を見つめ続けている。
そしてぽつり、と呟いた。
「よーちゃんは、私を守ってくれているわね」
私は少しどきりとした。それは声の響きが、とても美しいものであったこともあるけど、守らなきゃ、と思っているのも事実だったからだ。しっかりしなきゃと思ったりして。……でも、
「そうできれば、いいんだけど――」
でも私は、それができているとは思えない。なんとなく、しずるさんの方が私を守ってくれているんじゃないか、という気もするのだった。
「私、頼りにならないから――」
私がつい情けない弱音を吐《は》いても、しずるさんはにこにこしたまま、
「いいえ、よーちゃんのおかげよ。あなたは正しいわ」
と、どこかずれたようなことを言って、私を見つめてくるばかりだ。
それはとても優しい眼差しで、でも何故か、どこかで宙ぶらりんになっているような、落ち着き先が不安定な、どこかへ行ってしまいそうな――そんな微笑みだった。
窓の外では風がそよそよと吹いていて、樹々の垂れ下がった木の葉をさわさわと揺らしていた。
[#地付き]“The Hanged Man”closed.
はりねずみチクタの冒険 その4
……さわさわと、窓の外からは木の葉が揺れる音と共に気持ちの良い風が流れ込んできます。
白い部屋の中では、二人の少女が向かい合って座っています。一人はベッドの上に、もうひとりはその側に置かれたシートの上に。
「――そうだ、この前なんとなく思ったんだけど」
シートの方の彼女が言いました。
「あのチクタは、あれから海に行ったんじゃないかしら」
「海? 港ってことかしら」
ベッドの上の少女は微笑みながら訊き返します。
「うん、まあなんでもいいんだけど、とにかく海よ」
「海というのは色々なところにつながっているものね。そこで時計職人さんの噂を訊こうってことでしょうね」
「きっとそんなところよ。そうそう、遠くから泳いできた魚に訊いてみるとか」
「そしたら、きっと魚は、
たしかそんな人が船に乗っていたような気がするなあ
とかなんとか言ってくれるんじゃないかしら」
「おおっ、それは手掛かりね? じゃあ早速《さっそく》、今度は船に訊いてみましょう」
「でも船の方は、何しろ毎日毎日大勢の人を乗せているものだから、
いや、いちいちお客さんのひとりひとりまではわからないよ
とすまなさそうに言うのね。無理もないけど」
「ううん、それじゃあせめて、その船がどこら辺に航海しているのかを訊いてみましょうか」
「でもそれは、チクタには聞いたこともないような遠い外国ばかりじゃないかしら」
少女のもっともな言葉に、彼女はちょっと頭を抱《かか》えてしまいました。
「あーん、さすがにそんなところまでは行けないわよねえ」
いるかどうかもわからないのに、しかも目的地は世界中に散らばっているのです。チクタはこれまで、色々な相手に会いにあちこち行っていたのに、これ以上さらにあてのない旅をさせられるでしょうか? ただでさえ、チクタは時計からはぬいぐるみの癖にと言われ、ぬいぐるみからは時計のできそこないと言われ、つらい目にばかり遭《あ》っているというのに――。
彼女が困っているのを、少女はにこにこしながら見つめています。そして訊ねます。
「そう思う?」
その声が、とても優しげなものだったので、彼女は、え、と顔を上げます。少女は微笑みながら、
「あなたが大好きな彼は、どうせ時計は直らないって、そんなに簡単にあきらめちゃうような人なのかしら?」
と穏やかな声で言いました。
「…………」
彼女は少女を見つめます。
大好きな――
そう、彼女が大好きな人は、そんなに簡単にあきらめたりするような人でしょうか?
「……ううん」
彼女は首を横に振ります。
「ううん、ううん――そう、そんなに簡単にあきらめたりはしないわよね!」
何度も何度も振りながら、彼女の顔も明るい笑顔になっていきます。
少女はそんな彼女を微笑みながら見つめ返します。
「じゃあ、チクタ君はなんとかして海の向こうに行かなきゃならないわね」
「そうね――船に乗せてもらうことはできないかしら?」
「でも彼には、船賃《ふなちん》の用意があるとは思えないけど」
「働くから、乗せてくれって頼んだらどうかな」
「そうねえ、それもいいけど――」
……チクタが船に、なんでも言うことを聞くから乗せてくださいといっしょうけんめい頼むと、その年老いた船はやれやれとため息をついて、それから真剣な調子で言いました。
「それはいいが――ひとつだけ条件があるぞ」
なんですか、とチクタが訊くと、船は、
「おまえさんが、訊《たず》ね人がいるところに辿《たど》り着けるまで、おまえさんは決して、ワシから途中で降りないと誓《ちか》えるか?」
どういう意味ですか、とチクタが訊くと、船は、
「ワシのような老いぼれ船は、いつ沈没するかわからん――そしてワシら船が沈むときは、真っ先にネズミたちが逃げてしまうのだ。ネズミに罪はないが――だがワシには、それがどうにも寂しいことでなあ。どうだ、もしワシが沈むことになったら、ぎりぎりまで一緒にいてくれると誓ってもらえるかな」
と、おそろしい内容に似つかわしくない、優しい声で言いました。
チクタは、ちょっと怖くなったけど、でも船の言うことはもっともだと思いましたので、こくん、とその小さな頭でうなずきました。
こうしてチクタはおんぼろ船に乗って、さらなる旅に出ることになりました。彼ははたして、どんな時計でも直せる伝説の時計職人に出会うことができるのでしょうか。彼の冒険は始まったばかりです――
……白い部屋の中では、二人の少女が笑いあいながら楽しく語り合っています。時間が許す限り、いつまでもおしゃべりはつづくことでしょう。
窓の外では、優しい風がそよそよと流れて、樹木の枝に豊かに茂った葉が、さわさわと静かに揺れていました。
[#地付き]“The Eccentric Dead In White Sickroom”all over.
あとがき――心地よく、秘密めいた……
謎というのは魅力的なものだと思われているが、しかしよく考えてみたら、僕らが魅力的だと感じられることのできる謎には偏《かたよ》りがあるということに気がつく。推理小説に出てくる事件の九割は殺人事件だし、テレビで特集される怪奇現象のほとんどは霊がらみのものだ。ピラミッドも、単なる墓ではなくて、古代の王様が永遠の魂を得るためのナントカではないかとか言われている。謎それ自体が魅力的だというのなら、なにもここまで生と死≠ェらみのことばかりに集中しなくても良さそうなものである。しかし僕らはそれに惹《ひ》かれる。しかもどうやら、それを完全に解明したいわけでもなくて、解けそうで解けないみたいな、ここまでわかりましたが、まだこんなに謎が、みたいなことになっていると嬉しいらしい。しかしこれはまるで、どうして死ぬのか、あるいは何のために生きているのか、という問いに対する僕らの態度そのもののようでもある。いつだって中途半端で、だが突きつめて考えたところで答えは決して出ることのない、誰にとっても身近な疑問――なぜこの世に生まれたのか? あるいは僕らがこの世に満ちているあらゆる謎に対する興味とは、その質問に対する代償行為なのかも知れない。
軽々しく死について語るのは不謹慎《ふきんしん》だとされている。実際に死にかけている人やその家族のことを考えたら、したり顔でもっともらしいことを言うのは無責任だろうという話でもあろう。だがそのくせ、僕らはいつだってそういうことが起きると、それについて実に熱心に話すのだ。生きている僕らは死については想像するしかないし、それを知るときには既に生きていないのだから、この矛盾はいかんともしがたい。その間を謎≠ニいう得体の知れないことを以《もっ》て価値とする概念で埋めようというのが、僕らが死をめぐる謎をもてあそぶ理由なのだろう。人が人を殺す、それ自体は謎ではなく、そこに不可思議なトリックを当てはめて、さながらクイズのように解き明かせる謎にしてそれを扱おうとするのも、きっとそのためだろう。だがミステリーとか探偵小説とか呼ばれる、本作のような小説は根本の、本質的な謎に対してはなんの答えも出せない。人が人を殺すなどという理不尽が何故この世に存在するのか、という――。
別に僕は聖人君子ではない。人を殺したいと思ったことなどない、なんてことは言わない。それどころか人々を憎むことにかけては、少年期のかなりの部分を消費してしまったという自覚さえある。あまりにもそうだったものだから、むしろその時期の僕はミステリーという表現を敬遠していたところがあるほどだ。どうせ殺すんだろう? つまらない理屈もまやかしもいらねえじゃねえか、くらいのことを平気で思っていたのだった。だがそんな僕が今、こうして探偵小説としか思えないものを書いている、これはなんなのだろうか。昔の自分にあった、取り憑かれたような憎悪はだいぶ薄れてしまったと思うが、だが納得できない気持ちというか、矛盾している色々に対する苛立ちはむしろ増えている気さえするというのに。しかし殺人方法のトリックとかを考えて、どうもうまく行きそうだぞなんて思うときは、確かに自分自身でも少しいい気分に浸っているのも事実だ。他人の死をもてあそぶ快楽、などというとそれこそひどく不謹慎ではあるが、そういうものは確かに、自分の中に根を下ろしてしまっているようだ。この感覚がどこまで普遍的なものか自信はないが、なんとなく僕の中で理性的なるものは、死というものをちゃんと直視できるもの、という気がするのだった。あるいはそれは矛盾と向き合うということであり、結局は生きていくことに自覚的になる、ということなのかも知れないが。殺人事件の謎の中にこそ生きている理由が見つかる、というのは無茶な話だろうが、しかしよく考えてみたら無茶でないことなどこの世にないしなー、とか。やれやれ。以上。
(面倒くさいこと言ってるが、半分は適当だろうこれ)
(ま、そんなもんじゃないの、色々と)
[#地付き]BGM“Yeat's Grave”by The Cranberries