敵と戦うときにまず気をつけなくてはならないことは、その敵がどんな戦力を持っているかなどといったことではなく、自分の中に、それと敵対する如何なる理由があるのか、ということを知ることである。もし理由なくして存在する敵がいるとするならば、それは敵対しているというよりも、ただの災厄に近いだろう。お互いに、運が悪いとしか――
――霧間誠一〈人が人を殺すとき〉
スコルピオ戦闘部隊《スコードロン》が状況を報告したところ、司令部たるセントロスフィアから返ってきた指示は、
増援を派遣するための余剰兵力なし。貴部隊のみで作戦を続行せよ
という素っ気ないものだった。
なんだこれは……
宇宙戦闘機《ナイトウォッチ》〈ザングディルバ〉のコクピットの中で操縦士《コア》の男は呻《うめ》いた。
真芯殻《セントロスフィア》の奴等《やつら》は何を考えているんだ? はっきりと『宇宙港に敵性存在を確認』と報告したのに――″
俺たちを見捨てるつもりなんだよ。やられて元々だと思っているのさ――
僚機の〈トリニグトーダ〉 から投げやりな口調の通信が来た。
ナイトウォッチといっても、しょせん我が部隊は軽量機《トワイライト》の寄せ集めだからな――その援護のために主力たる真正の戦闘機を回すことはできないというところだろう
し、しかし――既に我が戦隊は〈ダッタルドルス〉を失っているんだぞ! あの忌々《いまいま》しい裏切り者の〈ヴルトムゼスト〉にやられてだ! それなのに――
落ち着け――〈ザングディルバ〉よ
戦隊の長である〈ラギッヒ・エアー〉からたしなめるような通信が来る。
最初からわかっていたことだ――敵がいることを前提として、この作戦は発令されていたのだからな
うう、と〈ザングディルバ〉は少し沈黙する。そこにさらに声が被《かぶ》さる。
ここは太陽系最外縁空域だ――太陽よりも星原に近い。人類連合軍の勢力圏ではないのだ。そこで行動する以上、我等は自らが不利であることを受け入れなければならぬ
声は淡々として穏やかだった。
その声に〈ザングディルバ〉はあらためて機体の感覚機を使って、自分たちがいる世界を見回してみた。
何もない。
暗黒の宇宙空間である。
月も地球も火星も木星も土星も遥かに遠く、太陽さえも、ここからではやや明るい光を放つ星の一つにしか見えない。太陽系内というには、ここにはまったく陽《ひ》の温《ぬく》もり≠ニいうものがない。太陽の重力も感知域ぎりぎりで、こうしていても自分がその周回軌道に乗っているのかどうか定かでない。
そして、そこにいる彼らの前方――太陽から、さらに離れた空間にぽつん、とひとつの人工天体《アーティフィシャル》がある。
今となってはただの、人が生きている空域からもっとも遠く離れたところを漂っている古ぼけた人工衛星に過ぎないが、しかしそこはかつて、外宇宙に人類が進出しようとしていた時期には、輝かしい出発点としての役割を担っていたのだ。だが――既にそこは当初の目的をとうの昔に見失った夢の残骸《ざんがい》だった。
その名を宇宙港という。
虚空牙《こくうが》の第一次襲来によってそこが見捨てられてから、既に半世紀もの歳月が流れていた。
――だが、今からでも〈ヴルトムゼスト〉とその操縦士《コア》をこちらの味方に戻すことはできないかな?=qトリニグトーダ〉が言った。
何を馬鹿な! 奴は〈ダッタルドルス〉の仇《かたき》なんだぞ?
戦場では味方の誤射によって被害が出てしまうのもやむを得ないときがある。あの虚人も旧式の試作型とは言え、一応はナイトウォッチでもある――貴重な戦力になるかも知れないぞ
それは不可能だな=qラギッヒ・エアー〉の冷ややかな声が響く。
どうして?
四千時間以上のあいだ虚空牙の勢力圏下にあったものは、これを汚染されたものとみなす――あそこが見捨てられてから半世紀もの年月が経《た》っている。宇宙港も〈ヴルトムゼスト〉も例外とは認められない。奴は既に人類の天敵として決定されたのだ。その操縦士《コア》も同様だ。彼か、彼女か――改造人間でどれくらい生身が残っているか不明だが、そいつ[#「そいつ」に傍点]ももはや我等とは相容《あいい》れない存在なのだ
虚空牙に汚染――か
そうだ。それが人類連合軍の決定だ。我等はその前提に従って行動するのみだ
既に我々人類は、一人残らず虚空牙に汚染されているのも同然じゃないか?=qトリニグトーダ〉はひどく虚無的なものの言い方をした。
そうだろう? その影響下にいない人類など今や一人もいない。全員がその恐怖に怯《おび》え、わずかに生き延びた同胞同士で牽制《けんせい》しあっている始末だ
よせ――そういう発想は危険思想だ。問題にされている敗北志向症候群への入り口だぞ
しかし注意している〈ラギッヒ・エアー〉の声にもまた、どこか投げやりな響きがこもっている。
(…………)
そんな二人を前に〈ザングディルバ〉はあらためて前方の空間に浮いている人工衛星、宇宙港に注意を向ける。
そこに、生命反応は感知できない。生物学的にいうなら生きているものは一人もいない、と判断せざるを得ない。身体《からだ》の半分以上を機械に置き換えた戦闘用改造人間がひとり残されていても、もうそれは生きているものとしてはデータ上級われないのだ。
(じゃあ、俺たちはどうなんだ? 俺たちは生きているのか?)
彼はつい、そんなことを考えてしまう。
(あの人工衛星の中で、あいつは何を考えているんだろうか――機械知性の友だちと一緒に、俺たちの襲来から身を守らねば、とでも思っているんだろうか……?)
ここは太陽系最外縁空域。
太陽よりも星原に近い、生命の故郷と絶対虚空の狭間《はぎま》に位置する、光からも見捨てられた遠い世界である――
『この引き金をうまく引くにゃ、そこそこの理由《いいわけ》が要るんだよ』
――M&M〈ソルジャー〉
T.世界は星なり The World is The Star
1.
携帯サイトの占いコーナーを見ると今日の牡羊座は全般的に運勢が良くありません。慎重な行動と冷静な判断を心がけるように。衝動買いはやめた方がいいでしよう≠ニ書かれていた。
(うわっ、なんだかなあ――)
日向麻里《ひゅうがまり》はちよっと嫌な気持ちになった。今日は買い物に来たのだ。そして街まで出てきたところでこういうのを見せられるのは、せっかくの楽しい気分に大いに水を差す。
(うーん……どうしよう)
駅前広場のベンチに座り込んで、麻里はため息をついた。一緒に行くはずだった瑠実《るみ》からはさっきごめん、今日は一緒に行けなくなった≠ニメールが入っていた。
家に帰ってしまってもいいのだが、それも気が滅入りそうな感じである。せっかくの日曜日なのに――。
特に何かを買おうと決めていた訳でもないし、別に近くでバーゲンがあるという話もないし、これといってすることが見当たらない。適当にぶらぶらウィンドウショッピングするにしても、
(衝動買いはやめた方がいいでしょう、だもんねえ――)
麻里はそれほど占いを信じるタイプではないが、今の状況ではそれにわざわざ逆らう気力はどうにも湧《わ》きようがない。
衝動買いを禁じられたウィンドウショッピングほど無意味なものはない。もしかして買うかも、と常に思っているから楽しいのであって、占いに背《そむ》くほどの品物を見つけようなんてムキになってもしょうがない。
(あー、ホントどーしょっかなあ……)
と彼女がだれきった視線を四方にさまよわせていたときのことである。
ん、と麻里の目が駅前広場に大勢いる人々の中の、一組のカップルのところで停まった。女の子の方が見覚えのある顔だった。
(誰だっけ――確かに知ってるんだけど)
しかし気になるのは、何もその彼女が記憶にあるからではない。目に留まるのはその連れの男の子の方だった。
整った顔つきにすらりと細くて背の高い体型――男の子に使う形容ではないが、なんだか綺麗《きれい》すぎてお人形さんのようだった。
彼はにこにこと笑いながら、彼女に何か話しかけている。でも彼女の方は、なんだか上の空というか、どうでもいいという感じで彼のことをほとんど無視している。
もし、麻里があんなに素敵な彼と並んで歩いていたら、ぽーっとして彼に見とれてしまってばかりいるだろうに、彼女は全然テンションが低いようだ。
(――もったいない……)
彼氏がいない麻里としては、どうにもそんな感じがして仕方がない。
そうやって、麻里は少しばかりその二人を見つめすぎてしまっていたようだ。そのうちに彼女の方がこちらの視線に気づいて「ん?」と麻里の方を向いた。
あ、と麻里はちいさな声を上げた。正面から見て、その彼女が誰なのかやっとわかったのだ。
「た、鷹梨《たかなし》さん?」
それは麻里のクラスメートの、鷹梨|杏子《きょうこ》だったのだ。いつも一人でいて、友だちらしい友だちは誰もいない。といっていじめられたり無視されているというわけでもない。成績も運動神経も結構良くて、一目置かれているという感じだ。
女の子に使う表現として適切かどうかわからないが――一匹狼、そんな風なイメージがある。陰で麻里たちは彼女のことを独特のイントネーションを付けて、キョウと呼んでいる。
「あ? あー……」
そのキョウは麻里のことを見つめながら、少し首をひねっている。
「……誰だっけ」
と、麻里にとってかなりがっかりすることを言われる。
(そりゃあ、私は確かに、クラスでそんなに目立つ生徒って訳でもないけど――)
ところがここで予想外のことが起きた。キョウの隣にいる例の美少年が、
「彼女は日向麻里さんだよ。君のクラスメートじゃないか」
と、実にきっぱりとしたためらいのない口調で即答したのだ。
「え?」
麻里はつい、彼の方を見てしまう。すると彼は微笑《ほほえ》んでうなずきかけてきた。麻里は顔を赤くしてうつむいてしまう。
「あ、ああ――そう言えば、そういう設定もあったわね。学校か」
キョウはなんだか、奇妙なことを言った。設定? 設定ってなんのことだ?
「あたし、学校に通ってるんだったわね――何で今日は行っていないの?」
「今日は日曜だよ。学校は休みだ」
「日曜――ああ、そうか、生活習慣単位だったわね。そうそう、七日ごとに一巡《ひとめぐ》りするのよね。飛び飛びだと、どうもすぐに忘れるわ」
首をかるく振りながら、やれやれといった感じで言った。
飛び飛び? と麻里はキョウの変な言葉にきょとんとした。なにが飛び飛びだというのだろうか?
「えーと、日向さん?」
キョウは麻里の眼《め》をまっすぐに覗《のぞ》き込むようにして見つめてきた。
「は、はい?」
「この日曜は、恋人と逢《あ》い引《び》きかしら?」
なんだか言うことが妙に古臭い。
「い、いえ。そうじやなくって――瑠実と待ち合わせしてたんだけど、彼女来れなくなって」
「瑠実?」
「守岡《もりおか》瑠実さん、彼女も君のクラスメートだよ」
またしても、わからない彼女に横の彼氏が即答する。
「ああ、友だちなのね。――じゃあ今日は暇なんだ?」
「そ、そうね。そういうことになっちゃって」
麻里はうなずいた。
「今日は適当にぶらぶらするつもり」
「じゃあさ、あたしも一緒に付いていつていいかな?」
キョウは唐突に提案してきた。
「え? ――え、ええ。別にいいけど」
応《こた》えてしまってから、ちら、と横の彼氏の方を見る。
彼はにこにこしている。
「で、でも――お邪魔じゃないの?」
二人を交互にちらちら見ながら、おずおずと言ってみる。するとキョウはせせら笑うように、
「ああ、ああ――こいつはどうでもいいのよ。正直ちょっとうんざりしてるし」
こんなに素敵な男の子なのに、こいつ呼ばわりである。
言われても彼の方はにこにこしたままで、
「僕からもお願いしたいんですが」と彼女に同意した。
「は、はい」
「じゃあ決まりね。よろしく、仲良くしましょうね」そう言ってキョウは手を差しだしてきた。握手、ということらしい。
(――――)仕方ないので、麻里もその手を握り返した。すると横で彼氏がぷっ、と吹き出した。
「同じクラスになって半年も経った後で、よろしくはないだろう?」
「いいじゃない――あたしにとっては初対面のようなものでしょ」二人は非常に打ち解けた感じで話している。仲は決して悪くないようだ。
「あ、あの」
「ああ、そうだったわね――こいつのことを説明するの忘れてたわ」キョウはやっと、彼氏のことを麻里に紹介していないのに気づいたようだ。
「こいつの名前はセンチ。ま、見たまんまの軟弱者よ」
「せんち?」
「それはニックネームですよ。公坂尚登《きみさかなおと》っていいます。よろしく」
そして麻里は彼氏の方とも握手をした。
「公坂さん、ですか。ど、どうも」
「へえ、あんたってそんな名前もあったんだ」
キョウは感心したように言った。
「いつもセンチって言ってたから知らなかったわ」
「確か最初に言ったと思うけどね――まあ、君らしい反応だよ」
彼は苦笑しながら言った。
(…………)
麻里にはどうにも、この二人の関係が掴《つか》めない。
それから彼女たちは、とりあえずということで喫茶店に入った。麻里はコーヒーを頼み、公坂が自分の分のコーヒーと、キョウのために紅茶とショートケーキを注文した。キョウは無言で、公坂のオーダーに口を挟まない。
窓際の席で、外を眺めてばかりいる。
「――なにか見えるの?」
麻里は訊《き》いてみた。するとキョウは、
「いや――人が大勢いるな、って。ずいぶん多い――すごくたくさんいる……」
と、ぼんやりとした声で言った。
「ほんとうに、こんなに大勢の人がいる世界があったのかしら……」
「は?」
麻里には、彼女の言っていることが完全に理解不能である。
「あるから、こうしてあるんだろう? 世界というのはそういうものじゃないのかい」
公坂尚登が、どこかたしなめるような口調で、これまた今一つ意味の定かでないことを言う。
「でも……気のせいかしらね。なんだか、みんなあんまり楽しそうじゃないけど」
キョウの一言に、麻里はどきりとした。
「え? ど、どういう意味?」
「いや、なんとなく」
キョウは素っ気ない。その横顔はひどく遠い眼をしているように見えた。
「あの人たちの心の底には、どんな気持ちがあって、自分たちでそれを知っていたのか、いなかったのか――その辺、どうだったのかしら」
またしても、過去形の言い方をする。まるでローマかなにかの遺跡に観光に来て洩《も》らす、遠い過去への感懐のような口調だった。
「心の底の、気持ち――?」
麻里はキョウの言葉に、逆に訊《たず》ねてみた。
「え、えと。鷹梨さんの気持ちっていうのは何?」
特に意味のある問いではなかった。しかしこれに彼女は実にきっぱりと、
「そうね――怒りよ」
と答えた。
「は……」
「あたしはきっと、怒っているだけなのよ。それ以外にあたしに感情なんかないんだわ」
醒《さ》めた口調で、投げやりに言う。怒りとか言っている割には全然激しいところがない。むしろ疲れた感じだ。
「…………」
麻里は話題に困って、ちらと公坂の方を見た。
彼はにこにこして、彼女に微笑み返してきた。素敵な笑顔ではあるが、どこかピントがずれている。
(……うーん)
なんだか宇宙人を相手にしているような気がしてきた。
「そ、そういえば鷹梨さんて何座? 私は牡羊座で、今日の運勢はあんまり良くないんだけど」
適当に、さっき見た携帯サイトの情報のことを言ってみる。
「え?」
キョウは顔を彼女の方に戻した。
「えーと……射手座、だったかしら?」
と言って公坂の方を見る。彼がうなずく。どうも彼女は何かを言うたびに彼の確認を取っているようだ。クラスメートの名前とか、なんだか彼の方が彼女自身よりも彼女のことに詳しいという感じである。
「射手座かあ……公坂さんは?」
「僕は蟹《かに》座だよ。射手座とはあんまり相性が良くないね」
陽気な声で、なかなか意味深なことを言う。
「でも星座占いっていうのは、ずいぶんと興味深い習慣よね?」
キョウが少し身を乗り出すようにして言った。
「どうして人は、自分たちの運命を星になぞらえて考えようなんてことを思いついたのかしら? まるで未来に待ち受けることを知っていたみたいだわ――星の前に屈服することになる、遠い未来のさだめを」
「……は?」
唐突に訳のわからないことを言われて、麻里はまた面食らった。キョウはかまわずに、
「万事ツキがないことを|星回りが悪い《スター・クロスト》≠チて言うらしいけど――まったく、言い得て妙だわ。こんなに的確な表現はちょっとないわね」
と、ため息混じりで囁《ささや》くように、しみじみと言った。
「あたしたちって、なんて悪い星の下《もと》に生まれついたものかしら――まったく、嫌になってくるわ」
投げやりな口調である。麻里には彼女がどうしてこんなに悲観的なのかさっぱりわからず、困惑を隠せない。
「――あ」
はっ、と公坂尚登が何かを急に思い出したような顔をして、立ち上がった。
「なに? またお呼び≠ナもかかったの?」
キョウの言葉に、彼は「あ、ああ」と所在なげにうなずき、それから少し焦《あせ》ったような顔をして麻里に向かって、
「ごめんね、ちよっと失礼するよ」
と言うやいなや、席を立って行ってしまった。外ではなく喫茶店の奥の方に向かって、すぐに見えなくなった。
「――彼、どうしたの?」
「別に。トイレじゃない?」
キョウは素っ気ない。
「で、でも、なんか思い詰めたような顔をしてたけど……」
「ま、世界が滅びるかどうかの瀬戸際だからね」
キョウはあっさりとした口調だったので、麻里は彼女が何を言ったのかよく理解できなかった。
「世界、って……?」
「いや、狭い世界だけどね」
キョウの口元には、やや皮肉っぽい笑みが浮いている。
「でも、センチやあたしにとっては、それ以外の世界はないんだけど」
彼女はやはり、彼のことをその綽名《あだな》で呼ぶ。
「センチってどういう意味なの? センチメンタルのこと?」
「まあ、確かにそういうなよなよした外見だけどね。正しくはセンチュリオン≠ニいう名前。意味は百の要素を束ねる者=\―マルチフェイズインターフェイサ、とかいうらしいわ。宇宙港の総合管理を担当してんのよ」
すらすらと、ほとんど意味不明の単語を並べ立てる。
「……あの、なんの話?」
とうとう麻里はそう訊いてしまった。さっきからまったく会話になっていない。
するとキョウはすこし寂しげな表情になって、
「ごめんなさい。訳わかんないことばっかり言っちゃったみたいね。別に大して意味はないの。ただの戯言《ざれごと》よ」
と優しげな口調で言った。その眼差《まなぎ》しを見て、麻里はどきりとした。
何故《なぜ》だかわからない――しかしふいに、彼女にそんな表情をさせてはいけないような、そんな感じが胸の奥からわきあがってきたのだ。
「そ、そうだわ。射手座の、今日の運勢を見てみる?」
彼女は携帯を出して、さっきのサイトを素早く呼び出した。
「どれどれ?」
キョウも興味を示して画面を覗き込んでくる。
そこには今日の射手座は、良くも悪くも平凡な日でしよう。あまり期待しなければ、失望もしなくてすみます≠ニ、あまり景気の良くないことが書かれていた。
それを見て麻里はちょっと困ったが、キョウはと言うと、けらけらと陽気に笑い出した。
「あははは! こりゃいいわね。あたしの現状を的確に表現してるんじゃないかしら」
と愉快そうに言う。
「そ、そう?」
「えーと、なになに――恋愛運は深追いは禁物。押して駄目なら引いてみよの精神で≠ゥ。なるほどねえ」
うんうん、と感心したようにうなずいている。
「信じる? こういうのって、私は結構気にしちゃうんだけど」
麻里は訊いてみた。するとキョウは、
「いいや、全然」
ときっぱり断定した。そして微笑みながら、
「でも面白いわ、うん。なんかこう、ロマンがあるわよね」
どうもさっきから、キョウには言うことが妙に大時代《おおじだい》的なところがある。喋りはぺらぺらな外人が、つい使ってしまう少し的外れな言葉遣いのようだ。
大|真面目《まじめ》なのだが、大真面目であるほどに滑稽《こっけい》さが出てくる。
麻里は少し笑ってしまった。
「ん? どうかしたの」
「いや、ロマンとかいきなり言うから」
「おかしかったかしら?」
笑いながら訊かれたので、麻里も同じように微笑みながら、
「ちょっとね」
とふざけた調子でうなずいた。
「いやあ、あたしって世間知らずだからさあ」
キョウは少し照れながら言った。
「もしかして、鷹梨さんてお嬢様なの?」
「いや、兵器よ」
さらりと言ったので、一瞬何と言ったのかわからなかった。
「へいき? ――って、何が平気なの?」
「戦闘兵器」
彼女は真顔である。
「――は?」
「まあ、お嬢様ではないことは確かね、うん」
しみじみとうなずく。
「……でも、公坂さんとかがお友だちにいるんでしよう? 彼ってモデルかなにかやってるの?」
少なくとも、普通の学生にはとても見えない。
「センチが? さあね、やってるのかも知れないわね。知らないけど」
キョウは肩をすくめた。
「あいつが何をやってるのか、あたしはどうもよくわかんないのよ。難しくって」
「難しい?」
それはさっきの、あのちんぷんかんぷんな言葉のことだろうか。キョウ自身もわからずに、ただあのマルチなんとかという訳のわからない単語を並べてみせたのだろうか?
そのとき、麻里たちの席にウェイターが盆を持ってきて「お待たせしました」と彼女たちが注文していたコーヒーと紅茶、そしてケーキをテーブルの上に置いた。
麻里はほとんど自動的な動作でコーヒーに砂糖とミルクを入れてかるく口に含むと、キョウに話の続きを聞こうとした。
「難しいって、彼の性格のこと?」
しかし話しかけても、キョウは返事をしない。
「…………」
彼女は自分の前に置かれたケーキを前に、何故か絶句していた。
一口だけフォークですくい取った跡があるので、味見をして、そして固まってしまったらしい。
「……どうかしたの?」
「い、いや――この食べ物が」
「食べ物? そのケーキがどうかしたの」
それはごくふつうの、どこにでもあるようなイチゴがのっているショートケーキである。
「……なんなの、これ?」
信じられない、という顔をしている。その目つきがただ事ではないので、麻里はちよっと不安になって、
「な、なによ? なんか変なものでも入ってたの?」
と訊いた。しかしキョウは返事をせずに、また一口、生クリームのたっぷりのったケーキを口に入れる。
なんだか眼の色が変わっている。遠くを睨《にら》みつけるような、険しいようでどこか抜けている奇妙な表情である。
「…………」
「ねえ、どうしたのよ?」
「い、いや――その」
彼女はまたケーキを口の中に入れて、もごもごと動かしながら、
「――なんじゃこりゃ」
と、茫然《ぼうぜん》としたような声を出す。口の端から涎《よだれ》が垂れそうになって、あわててそれを拭《ぬぐ》ったりしている。
ケーキはあっという間になくなってしまった。
「――ふいーっ」
と、食べ終わった後で深い吐息まで洩らしている。
「この店のケーキ、気に入った?」
と麻里は訊ねてみる。すると彼女は首を左右に振りつつ、
「まいったわね、こりゃ――いや、実感したわ」
と言った。
「確かに、この時代は――今は、すごい豊かさを持った世界なのね。宇宙港の合成食《レーション》とはえらい違いだわ」
言っている言葉の意味はよくわからないが、とにかくイチゴのショートケーキは大変に気に入ったようだ。まるで生まれてこの方、ケーキというものを一度も食べたことがなかったかのようだ。
しかし麻里は前にここの喫茶店のケーキを食べたことがあるからわかるが、別にそんなに特別に美味《おい》しいというわけでもないことを知っている。菓子の専門店でもないし。他にも美味しい店はいくつもあるのだ。
もしかすると、キョウはケーキをあんまり食べたことがなくて、もっといい店のことも知らないのかも――と麻里は思った。
「あのさ、駅前のラファエロって店なら、色々なケーキがいっぱいあるんだけど」
するとキョウの眼がきらりと光った。
「え、マジで?」
「ええ。タルトとかパイとかも美味しいわよ」
「たると、ぱい――」
なにやら想像しているらしく、視線を宙にさまよわせている。
そしてがたん[#「がたん」に傍点]、と席を蹴《け》って急に立ち上がった。
「そこに行こう! 連れていってくれないかしら?」
「え?」
唐突なので、麻里は戸惑った。しかしキョウはお構いなしで、
「ねえねえ、お願いよ。お金はあたしが出すからさ」
と麻里の腕をつかんで引っ張る。
「で、でも公坂さんもまだ戻ってきてないじゃない」
どこに行ったのか、彼は一向に戻ってくる様子がない。
「センチの奴ならほっといても大丈夫よ。あいつはこの世界の支配者なんだから」
訳のわからないことを言いながら、キョウはさっさと全員の分の勘定を済ませて、店から出て行ってしまった。仕方なく麻里もその後を追った。
2.
――目標たる人工衛星〈宇宙港〉に変化は見られない。
迎撃態勢を取って、相手を待ち構えていたスコルピオ・スコードロンはその目論見《もくろみ》が外れてやや焦《じ》れていた。
どうする――向こうからは攻撃してこないようだ
危険だが、再び我々から攻めていく必要があるな――
だが相手は試作型とは言え、重装機《ダーケンド》だぞ。軽量機《トワイライト》の我々は、奴の攻撃を、直撃――いや至近弾でも方向が悪ければそれで終わりだ。一撃で破壊されるぞ。ダッタルドルスの二の舞だ。それに対して、こちらの攻撃が一発や二発命中したところで奴の空間|歪曲《わいきょく》を掛けられた反《はん》撥《ぱつ》装甲を破れるかどうか――
どうする、ラギッヒ・エアー?
…………
隊長機から即答は返ってこなかった。少しの沈黙の後、出てきた言葉も決して積極的なものではなかった。
戦術ナビゲーションを起動させよう
ヨンに相談するのか?
そうだ。こういうときこそ彼女の助言が必要だ
ヨンことns4,709とは、彼らのナイトウォッチの環境調整プロセッサに組み込まれた人工知能データである。実体のないプログラムで作られる幻影《イメージ》に過ぎない。しかしそのインテリジェンスとパーソナリティは人間と区別が付かず、彼らは自分たちと同列の仲間と見なしている。いわばもう一人の隊員といったところだ。
彼らの前の、漆黒の――というより、光明《ひかり》がないのだが――宇宙空間に、ひとつの人影が、ふっ、と浮かび上がった。
女性だ。ほとんど少女と言っても良いほどに若い女性が、虚空で、見えない椅子《いす》の上に腰掛けているような姿勢でいた。
全身を、身体のラインがくっきりと出る光沢のある一体化したスーツで包み、頭には縁がギザギザになったフードを着けている。
かつて、人類が初めて月まで到達した頃の時代に未来世界のファッションはこうなる≠ニいってデザインされたものに似た姿である。
「ハーイ、スコルピオのみんな。呼び出してもらうのは久しぶりじゃない?」
ヨンは親しげな身振りで手を振ってみせた。
「どお、元気? ――とは、ちょっと訊きづらいか」
彼女は少し顔を曇らせた。
「ダッタルドルスのことは残念だったわね」
彼女は、部隊のすべてのナイトウォッチの中に存在している共通データであるから、今までのことも当然知っている。
今は過去の損失よりも、これからの対策の方が重要だ。我々には、あくまでも我が隊単独での作戦行動が命じられている――君の意見が聞きたい
ラギッヒ・エアーは冷ややかともいえる調子で質問した。
「うーん、そうねえ……ひとつ言えることは、単純な意味での戦術論はこの際、忘れてしまった方がいいってことね」
どういうことだ?
ナイトウォッチの一機〈ザングディルバ〉の操縦士《コア》が質問した。これにヨンは、
「通用しないからよ」
と淡々とした口調で言った。
「あなたたちもわかっているように、向こうのナイトウォッチ〈ヴルトムゼスト〉に一撃で致命傷を与えられるだけの戦力が私たちにはない。ということは搦《から》め手でやるしかないのよ」
搦め手だと?
「ヴルトムゼストは確かに強力――しかしね、それを操っているのはしょせん、人間のはずよ」
そしてヨンは、その戦術を説明した。それを聞いてザングディルバは顔をしかめた。
そんなまどろっこしい方法しかないのか?
波状《はじょう》攻撃、ということにはなるな
僚機のトリニグトーダが苦笑しながら言った。
「しかし――ほんとうに宇宙港を破壊してしまっていいのかしら? 虚空牙に汚染されている、という確たる証拠はないはずよ」
ヨンが、誰もが思っていながら、誰も口にしなかったことを言った。
――――
誰も答えない。ヨンは、ここからでは遠く過ぎて、塵《ちり》のように小さな点でしかない宇宙港の方に眼を向けた。
「宇宙港は、本来は恒星間航行の際の拠点として創られた場所だわ――いわば、星々への道標で、そして――」
彼女は、宇宙港よりもさらに先の、遠い遠い虚空の方を見ながら言った。
「既に旅立っていって、今はどこにいるのかわからなくなっている移民船団にとっては、おそらくは唯一の目印。太陽など恒星としては小さ過ぎて、変動し続けている宇宙の中で数千光年も離れてしまっては、どこにあるのか見つけることなど不可能だわ。あの宇宙港から発信している亜空間パルスだけが彼らにとって、たったひとつ残された故郷《マンホーム》との接触点――それを絶つことは、人類の夢のために星の世界に赴こうとした数億という人々を見捨てるに等しい」
――――
「それでも――ヴルトムゼストを倒して、宇宙港を破壊しなければならないのかしら?」
それを決めるのは我々ではない。そして決定は既に下されてしまっているのだ
問いに、ラギッヒ・エアーが冷ややかな声で答える。
「兵隊は、命令には絶対服従ってわけか。なんか哀《かな》しいわね」
ため息のようなヨンの声に、部隊長は、
いや――そういうことではない
と、完全密閉されて外からは見えない宇宙戦闘機のコクピットの中で静かに首を振る。
人類の、星への夢は既に絶たれている。今さら誰が悪いとか責任はどこにあるとか追及しても仕方がない。我々は戦うしかない。これは避けようのない運命なのだ
*
相変わらず人通りの多い街の中を、二人の少女は並んで歩いていく。
キョウは唇に、薄い笑いを貼り付けながらその人混みをすいすいと抜けていく。その彼女を横目でちらちらと見ながら、麻里はある感覚にとらわれていた。
(何かが――なにかが変だわ)
キョウを見ていると、その違和感がどうしても拭えない。
この街にこうしているにもかかわらず、彼女はここではないどこかにいるみたいな感じがするのだ。取り立てて奇抜なファッションをしているわけでもないし、そこそこ整っていて可愛らしいものの公坂尚登のように人目を引きまくるほどの美貌というわけでもない。
だが、何かが違う。
彼女は、はっきりと周囲から浮いている。
そう思ったそのとき、麻里のポーチに入れてあった携帯が鳴った。
歩きながら、通話ボタンをオンにして耳元に当てる。
「――もしもし?」
日向麻里さん――君に言っておくことがある
その声は、さっきまで一緒だった公坂尚登のものだった。
「え?」
麻里はつい、立ち停まってしまう。横のキョウも停まって、彼女の方を向いた。
麻里は意味もなく焦る。
「ど、どうして番号を――」
と言いかけたが、それを公坂が遮《さえざ》った。
君も、無意識ではもう知っていることだが――君の横にいる人は特別な存在だ
異様な声だった。声そのものは普通なのだが、電話の小さな小さなスピーカーから聞こえるにしては、それはあまりにも鮮明で、しかも声の背景から何も聞こえてこないのだ。まるで耳元で、直《じか》に話しかけられているかのような声だった。
キョウは、この太陽系外縁空域で、唯一生きている人間なんだ
「――は?」
彼女はつい、横に立っているキョウにちら、と視線を向けてしまう。彼女は何やら空を見上げていた。視線に気づかれる前に、慌てて麻里も電話の方に注意を戻す。公坂の声は相変わらずで、
そして僕らは、ひとり残らずすべて、彼女のためだけに存在している。僕らは彼女の下僕《しもべ》――いや、部品なんだ
と断定した。
「あ、あの、なんの話――」
僕らは、かけがえのない彼女を守るためにあらゆる手を尽くさなければならない。真実が彼女の害になるなら、僕らは虚偽の側に立つことを厭《いと》わない
この公坂尚登ことセンチ≠フことを、キョウは確かこんなふうに言っていた――彼はこの世界の支配者だと。
危機が間近に迫っている。そして機能不全に陥っている僕らは、彼女に掛けられた安全装置を切ることができない――だから、いざというときには、君が彼女を保護してもらいたい
「え?」
危機? 危機とは一体なんのことだろう?
君の、この仮想世界における行動ルーチン制限を一部、解除する――君は彼女が〈虚人〉に乗り込むまで、彼女を守るんだ
センチはもう、麻里の言葉などまるで聞かず一方的に言い立て、そして彼女のことを奇妙な名で呼んだ。
いいか、ビヨンド・シーカー一〇二二――僕らはもはや人類側に立っていない。人類は僕らを虚空牙に汚染された敵と見なしている。僕らだけならば、黙って処理されるのもやむを得ない。しかしキョウまでもがその対象になっているとなれば、ただ座して破壊されるのを待つわけにはいかない。君の情報処理能力が追いつかなくなって回路が焼き切れようとも、彼女のために、なんとしても時間を稼ぐんだ
そして通話は、これまた一方的に切れた。
後には、訳のわからないままの麻里が取り残される。
センチは、一体全体なにを言っていたのだろう?
「…………」
麻里が茫然としていると、横に立っているキョウが、
「誰からだったの?」
と訊いてきた。
「え? う、うん……」
何と言っていいのかわからない。センチはキョウの友だちらしいが、今の会話のことを彼女に教えていいものかどうか、麻里にはまったく判断ができない。
「い、いや――し、知り合いからよ。大したことじゃないわ」
何故かごまかしてしまう。別に隠すこともないだろうに――
「――――」
そんな彼女を、キョウはどこか醒めた眼で見つめている。
そして、唐突に言った。
「ねえ、知ってる? 宇宙飛行士って、何もない無重力の空間に放り出されたときの訓練として、真っ暗な部屋に何日も閉じこめられるらしいわ」
いきなり豆知識みたいなことを話しかけてきた。
「は?」
麻里はきょとんとした。キョウはそんな彼女にかまわず、
「人というのは、とにかく孤独に弱い生き物なのね。自分がひとりぼっちで取り残されている、という事態に耐えられる神経は誰にもないということらしいわ」
と、すらすらと説明を続ける。
なんでこんなことを言うのか、さっぱりわからない。
「はあ――」
麻里としては生返事をするくらいしか反応のしようがない。
「宇宙飛行士たちは、そういう訓練のときには色々な反応を見せるらしいわね。ずーっと歌をうたってるとか、一人でしりとりするとか、知っている人間の名前を思い出せるだけ並べて、この人とこの人は気が合うだろう、こいつらはウマが合わないな、なんて関係を想像してみるとか――まあ、涙ぐましい努力があるらしいのね。……でも」
キョウはここで、へっ、とかすかに鼻を鳴らした。
「ここでいう宇宙飛行士ってのは、地球の衛星軌道上までしか行くことのなかったオービターの話だからね。行ってもせいぜい月までだわ。もっと遠くに――それこそ別の星に行こうっていう人間は、いったいどれくらいのひとりぼっち≠ノ耐えなくっちゃならないのかしら? 太陽も、ぽつんとした点のひとつにしか見えないほどのところまで行ったら、その寂しさっていうのは、そう――まさに考えられないほどでしょうね」
「考えたら――どうなるの?」
「だから――」
彼女は少し言葉を切り、一瞬の沈黙の後で、再び話し出す。
「考えることもできなくなってしまう、そういうことになるんじゃないかしら。孤独と、底無しの暗黒が周り中から押し寄せて、その人を圧《お》し漬《つぶ》してしまう――だから、そういうところにいる人には、色々な安全装置が必要になる」
「安全装置?」
麻里はぎくりとした。その単語は、さっきのセンチの話の中にも出てきていたものだったからだ。
「そう――」
キョウは周囲に、ぐるっと視線を巡らせる。
「虚空に置き去りにされているのに、そこにいないことにするっていう――そういう安全装置よ」
その眼はどこか特定のところを見ているようで、どこも見ていないような目つきだった。
「いないことにする、って――どうやって?」
「極めて原始的よ。素朴で簡単な方法があるの。それはあまりにもひどいことに遭遇してしまったときに、昔から人々が自分の心に言い聞かせていたこと――」
彼女は麻里の方に視線を向けてきた。麻里はその眼を見て、どきりとした。
それはまるで、鏡の中の自分自身を見るときのような、まっすぐで容赦というものが欠落した眼差しだった。
「そんな馬鹿な、とても信じられない、これは夢に違いない――≠チてね。すべてを夢ということにしてしまうことが、絶対真空の中で正気を保つ、たったひとつの方法なのよ」
「夢、って――眠るってこと?」
混乱しつつも、麻里は訊き返した。キョウはうなずいて、
「そう、眠ったままで、夢遊病者のように、さも起きているかのように行動する――夢の中で、自分は眠ってなんかいないって思いこんで、そして――」
「……なに? それで、どうするの?」
キョウはわずかに、左の眉《まゆ》を皮肉っぽく上げてみせた。そして微笑みながら、
「そして――戦う」
と言った。
その瞬間だった。
彼女たちの上を覆っている空が、いきなり暗くなった。
「――え?」
麻里は空を見上げた。そして絶句する。
雲がかかったのではなかった。太陽の光を遮断し、天を覆い隠しているのは、もっと確固たる物体だった。
だが――それを何に喩《たと》えたらいいのだろうか?
超巨大な生物のような――しかし地球上にいるありとあらゆる生き物のどれにも似ていない。足のない、三本腕の人のようでもあり、翼と棘《とげ》のある鯨《くじら》のようでもあり、蟹《かに》と竜《たつ》の落とし子を掛け合わせたようなシルエットでもあり――そして、その身体を構成しているものは肉というよりも骨のようだった。
世界中のありとあらゆる生き物から骨を寄せ集めて創り上げた抽象芸術の彫刻――要するに、それを喩える言葉としては怪獣≠ニでも言うしかないような異形《いぎょう》の存在だった。
しかし――
「な……ナイトウォッチ――」
麻里は、自分でも知らぬうちにその名称を口にしていた。何のことだかさっぱりわからないのに、それ[#「それ」に傍点]がナイトウォッチと呼ばれる存在であることを、彼女は知っていたのだ。
そのナイトウォッチ≠ヘゆっくりと旋回しながら、街の上空を漂っている。
「接近してきている――」
キョウがそれ[#「それ」に傍点]を見ながら呟《つぶや》いた。
「距離は現在、およそ二億キロメートルといったところか――」
意味不明なことを言う。それ[#「それ」に傍点]はどう見ても、せいぜい街から数百メートルぐらいの上空を飛んでいるのだ。
そしてナイトウォッチ≠ヘ行動を開始した。
その三本の腕だか脚だか定かでない巨大な突起物を動かしたかと思うと、その先端から赤い光を放つ球体を発射したのだ。
「――――!」
球体は街の向こうを直撃した。凄《すさ》まじい閃光《せんこう》と衝撃が走った。
立ち並ぶビルが瞬時にして崩れ落ち、爆発していく。
それ[#「それ」に傍点]はさらに赤い光球を地上に向かって発射していく。
衝撃が街全体を襲う。大地震のように、その激しい振動は連続していて途切れることがない。その揺れのために光球が当たっていないビルまでもが根本から折れるようにして倒壊していく。
「――な、なんなのよこれは!?」
麻里は絶叫した。
しかし、その横でキョウだけは冷静な表情を崩さない。
ぶつぶつと、口の中でなにかを呟いている。それはよく聞いてみると、
「――世界を解体し、ヴルトムゼストを再構成せよ。世界を解体し、ヴルトムゼストを再構成せよ。世界を解体し、ヴルトムゼストを再構成せよ。世界を解体し、ヴルトムゼストを再構成せよ。世界を解体し、ヴルトムゼストを再構成せよ。世界を解体し、ヴルトムゼストを再構成せよ。世界を解体し、ヴルトムゼストを再構成せよ。世界を解体し、ヴルトムゼストを再構成せよ。世界を解体し、ヴルトムゼストを再構成せよ――」
と、意味不明の呪文《じゅもん》のような言葉を反復しているのだった。
だがその顔つきには、錯乱しているような乱れはまったくない。
「…………」
麻里が茫然と彼女を見つめていると、キョウも彼女の視線に気が付いて、
「――ま、一度言えばいいらしいんだけどね――じれったいから、さ」
と、とぼけた口調で言った。
そのときである。
上空のナイトウォッチ≠ェ、彼女たちの付近めがけて光球を発射してきた。
これまでとは比較にならない、圧倒的な衝撃が彼女たちを直に襲った。
「――きゃああああああっ!」
麻里は悲鳴を上げて、地面に転倒した。
しかしキョウは、爆発が連鎖する地獄のような環境の中でも、なおも地面に両足を着けて、バランスをとって立っていた。
空を見上げて、睨みつけている――だがそこに込められた感情は、街に突如として現れた恐るべき被壊者を憎むというよりも、なんだか――夏休み終了間際に残された宿題の山を見ているような、うんざりした敵意であった。
「あれは――ザングディルバ≠ゥ」
彼女は、その破壊者のことを個体名で呼んだ。
「何故、三機いっぺんに来ないのかしら――?」
彼女たちの頭上からは火の粉が降ってきている。
そして、さらなる爆発が生じ、吹き飛ばされた車が空からキョウの立っている場所に向かって落ちてきた。
「あ、危ない!」
麻里は叫んだ。どう見てもキョウがそれを避けることはできそうになかった。
そう思った途端――
――かちっ、
――と彼女の中でなにかが音を立てた。
そして次の瞬間、彼女の身体はバネのように跳ねて、キョウと、落下してきた車との間の空間に飛び込んでいた。
自分でも何をしているのかまったく理解できないままに、麻里はその車の底部を掴んで、そして――投げ飛ばしていた。
重量一トンはあろうかという車は、四十キロそこそこの少女によって落下軌道を逸《そ》らされて、近くの信号機にぶち当てられて爆発炎上した。
そして麻里は、その身体も反動で反対方向に吹っ飛ばされて、側《そば》のデパートのショーウィンドウに背中から突っ込んでいった。
(――な)
麻里はガラスを突き破り、床に激突し、そのコンクリート面にめりこみながら、まったく痛みを感じなかった。
(なんなの、これは――?)
心の中で、さっきセンチに言われた言葉がぐるぐると回っている――
いざというときには、君が彼女を保護してもらいたい
何の話なのか、今でもさっぱりわからないままだったが――どうやら彼女は言われたとおりに、キョウのことを自動的に守ったらしい。
どう考えても普通の人間ができるはずもないことをしてのけたことについても、確かこんな風なことを――
君の、この仮想世界における行動ルーチン制限を一部、解除する――君は彼女が〈虚人〉に乗り込むまで、彼女を守るんだ
彼女は解除≠ウれたために、超人的な行動が可能だったらしい。だが、それはどうやら彼女に負担を掛けるものだったようで、廃墟《はいきよ》と化したデパートの床にめりこんで倒れている、その彼女は――なんだかおかしなことになっていた。
身体が、半分透き通っているのだ。
映画のフィルムの中で、一人だけピンぼけになって映っているように、彼女の輪郭だけが周囲の世界のなかでぼやけている。
(なにこれ――私は、私は――)
君の情報処理能力が追いつかなくなって回路が焼き切れようとも、彼女のために、なんとしても時間を稼ぐんだ
(私は――消えるのかしら?)
常識が支配している世界の中で、非常識な行動を無理矢理に実行した彼女は存在する資格を失ってしまったとでもいうのだろうか?
(あ、あああ――?)
茫然としている彼女の前に、キョウが破れたショーウィンドウをくぐり抜けてやって来た。
「――やっぱり、センチになにか言われてたのね? こーゆーことは、やめてって言ったのに」
キョウはうんざりしたような声で言った。
「この架空の世界の中でも死んだら、あたしは本当に死ぬんでしよう? だったらそれはそれでいいって言ったのに――こんな不自然な形で守られたって嬉《うれ》しくないのよ、正直。せっかく麻里さんとは、本気で友だちになれそうだったのに――」
彼女はぼやけつつある麻里の方に手を伸ばしてきた。しかしその指先が頬《ほほ》に当たっても、すかっ、と透けてしまって触れない。
(――あ)
麻里は口を動かしたが、しかし声は出ない。それでも言ってみた。
(あなたは一体――なんなの? そして、私は――)
これにキョウが答える。
「あたしは虚人使い。そしてあなたは」
ため息と共に言った。
「どうせ、この世界との接続が切れた瞬間に、すべてを思い出すわよ――」
(接続……?)
「そろそろ組み替えが始まる頃だわ――世界の一部をバラバラにして、ヴルトムゼストを創造する――」
彼女がそう呟いたとき、正《まさ》にそれが開始された。
爆発衝撃とは異なる、ずずず、という振動が辺りを伝わっていく。
そして異変が始まった。
麻里の身体と同じように、周囲にある色々なモノがどんどん透明になっていく。
信号機、車、道路に描かれた横断歩道の白線、看板、クレープの屋台、地下鉄入口の階段――様々なモノが透き通った奇妙な物体に変化していく。
そして、そのクリスタル状のモノは、じわり、と動き始める。
洗面台の栓を抜いたときの水のように、一点に向かって螺旋《らせん》を描いて集まってくる。
集まってきて、ひとつになっていく。
きらきらと光るクリスタルの巨大な塊《かたまり》になっていく。
(――あ、ああ――)
その様子を、麻里は唖然としながら見守っている。
塊はどんどん大きくなっていく。それはすぐにビルよりも大きくなる。
そして、そのシルエットはさながら背を丸めて蹲《うずくま》っている人間のようになり、その丸めた巨体の先には――キョウが立っている。
「――――」
彼女はその虹色にきらめく水晶《プリズム》の巨人の方を見もしない。
その足元の地面もどんどん透き通っていく。その形は――巨大な人の手のひらの形だ。
その手≠ェゆっくりと持ち上がっていく。キョウはその上に立っている。彼女の身体は巨人が立ち上がっていくのと同時に、みるみるうちに高いところに行ってしまう。
(こ、これが――?)
麻里は、自分の姿もどんどん焦点を失いつつも、その巨体を前に圧倒されていた。
(これがヴルトムゼスト=c…!?)
この巨人の手のひらの上で、キョウはやっと背後を振り返った。
その視線の先には、水晶《プリズム》の乱反射できらきらと光っている巨大な顔があった。それは人間的であり、同時に機械的でもある、無感情でありながらもあらゆる感情を表しているような顔だった。
……ヴン……!
その巨人から音が発せられた。キョウは少し顔をしかめつつ、うなずく。
「わあったわよ――戦《や》りゃあいいんでしよう、戦《や》りゃあ――!」
そして彼女の姿は、その手のひらに中に足元から沈み込んでいき、そして完全に吸い込まれていった。
3.
――そしてキョウが眼を開けると、そこはもう〈ヴルトムゼスト〉の操縦席《コクピット》の中だ。
そこから見える光景は、火の手を上げて破壊されていく街並みのままである。ヴルトムゼストの部品になったところが虫食いのように抜け落ちているのも見えた。
その上空には敵の姿もある。その頭部のような部分が、こっちの方を向いた。どうやらこちらの存在に気づいたらしい。
「…………」
キョウの全身はさまざまな機械装置に接続されている。
手はもとより、足の指一本一本に至るまで何らかのスイッチやレバー類を操作するようにセットされている。全身のあらゆるところを使って、彼女はヴルトムゼストを操るのだ。
敵がこっちに向かって光球を連続で発射してきた。
キョウはヴルトムゼストの腕を、ぶん、と振った。
光球はその拳《こぶし》に弾《はじ》かれて、空の彼方《かなた》に消えた。
同時にキョウの方も跳んでいる。
奇怪な姿をした敵めがけて飛びかかっていく。
その両眼が輝いて、稲妻のような破壊光線が敵めがけて迸《ほとばし》る。
敵はその一撃をひらりと避けた。これが物理法則に従って起きていることならば、それはあり得ないことだった。同一の時間軸状にいる存在が、飛んできた光を避けることなどできるはずがない。光速よりも速い存在などこの世にはないからだ。超光速を実現するには、時間そのものを加速してやる必要がある。しかしこの状況では、両者は同じ時間の中を動いているのだ。
(だって――嘘《うそ》だもんねえ)
キョウは心の中で独語《どくご》する。
(この街並みも、敵がこんなに近くにいるように見えるのも、全部あたしの認識の中だけだもんねえ――)
実際の戦場は宇宙空間であり、敵は数億キロメートル先にいるのだ。
だが、この戦闘機械に搭載された安全装置がキョウという操縦者を絶対虚空の恐怖から保護するために、あたかもここは地上であるかのような錯覚を起こさせているのだった。
敵が光球を放ってきた。キョウはそれを避けた。
背後で、ビルがまたひとつ爆発して吹き飛ばされる。
(――ちっ)
キョウは舌打ちした。
あのビルもほんとうは存在しない。
しかし、この偽物の世界の中にも、たったひとつだけ本物の存在とかぶっている[#「かぶっている」に傍点]ものがあるはずだ。
それは、敵が本当に攻撃している対象である人工衛星、宇宙港だ。
それがこの世界でどんな姿を取っているのか、キョウは知らない。
知らないから、結局は周りの世界ができるだけ破壊されないように、守りながら戦うしかない――。
ヴォォォン……!
ヴルトムゼストは咆哮《ほうこう》しながら、敵のナイトウォッチ〈ザングディルバ〉めがけて掴みかかっていった。それはキョウの感覚からすれば文字通りに掴む≠ルど近くに接近していく感じだが、それを外から見れば――。
*
――来たな、ヴルトムゼスト!
ザングディルバから見れば、敵の姿は一億キロメートルも先の宇宙空間にぽつん、と浮いている。
光子魚雷をいくつか発射しているが、そのすべてが敵ナイトウォッチのバリアに弾かれて、まったく効果を上げていない。
しかし――なんて姿をしてやがるんだ
それは他のどんなナイトウォッチにも似ていない。基本的にナイトウォッチは武装腕《アームドアーム》と呼ばれる砲塔を身体中から突き出させたおぞましいとも言える不気味なシルエットをしているものだが、あのヴルトムゼストだけは、戦時下でないときに造られた試作機であるせいか、戦闘兵器としては非常識な形状をしている。
(人型《ひとがた》かよ――あれじゃあ、まるで)
そのような形をしている相手を、彼は知っていた。いや、彼だけでなく、現在まで生き残っている全人類が知っている。
光り輝く巨大な人型――それは人類の天敵である〈虚空牙〉そのものと酷似しているのだ。
もっともヴルトムゼストの巨体は全身から発光してはいない。外光を乱反射させる水晶《プリズム》状の外皮が複雑な光彩を描いているだけだ。そのガラス細工のように脆《もろ》そうな外見から、奴は
虚人≠ニいう別名を持っているのである。
造られたのは虚空牙が襲来するよりも百年も昔で、宇宙戦闘機開発史に名を残す傑作機のひとつであるが、しかしその貴重さなど今の時代では何の意味もない。
その虚人≠ェ、奴の有効攻撃範囲近くにまで接近してきた。
(手の届くところまで近づこうというんだろうが――そう簡単には捕まらんぜ)
向こうから自分がどんな風に見えているのかまったく知らず、ザングディルバは機体を反転させて相手との距離を保った。
彼の任務は相手を倒すことではない。火力と防御力が違いすぎて、正面から打ち破ることは不可能なのだ。
ヨンが彼らに授けた作戦とは、正にそれだった――正面切って戦うな、相手の有効射程範囲ギリギリのところを飛び回って、挑発行為を繰り返すだけでいい――彼女はそう言ったのだ。
しかし、攻撃しなければ敵を倒すことはできないだろう、という反論に対して、ヨンは肩をすくめてみせたものだった。
「今、あのヴルトムゼストの操縦者《コア》にとって最大の敵はなんだと思う?」
我々――ではないな。戦力が違いすぎる
僚機のトリニグトーダが皮肉っぽい物の言い方をした。事実なので、誰も言い返さない。
では一体、敵にとっての脅威はなんだ?
隊長機のラギッヒ・エアーが訊ねると、ヨンは周囲の空間を示してみせた。
「ここ[#「ここ」に傍点]よ――たったひとり、孤独に宇宙の真空の直中《ただなか》にいること、そのストレスこそがそいつにとっての最大の敵になっている。人間というのは、根本的に寂しがりやで、自分だけしか存在しないという事態に耐えることができないものよ。人間は守るべきものがないのに戦えるほど強くはないのよ。たとえ無敵の兵器を満載したナイトウォッチであろうと、操縦しているのが人間である以上、その欠陥から自由にはなれないわ」
ヨンはため息と共に言った。
――つまり、敵のパイロットを心理的にいたぶるというのか?
「そう――戦闘がなければ、そいつは冷凍睡眠モードで固定され、発狂する心配はないわ。でも攻撃を受けたら、システムはそいつを叩き起こして戦闘機を起動させなければならない。守るべきものがないのに戦い続けることに、そいつはどこまで耐えられるかしら?」
ヨンはどこか投げやりに言った。戦術補佐プログラムである彼女は、問われればこうして作戦を提案するが――そのモデルとなった人格の持ち主は、どうやらこういう策略が本来は嫌いな性格のようだ。
つまり、何度も何度も接近しては、やられる寸前で退却する――これを繰り返すということだな
ラギッヒ・エアーが納得した、という感じで言った。
その行為そのものが相手を疲弊させるというわけか
「そういうことね」
そのやりとりを聞きながら、ザングディルバは嫌な感覚が湧き上がってくるのをどうにも抑えられなかった。
なるほど、敵には確かに守るべきものがないかも知れない。しかしそれは自分たちの方も同じではないか、と――。
なんのために戦っているのか?
それがわからないのは、自分たちも同様であり、何を守ればよいのか、少なくともこの作戦ではまったく不明である。
だから、その感覚を振り払うために彼は自らこの作戦の先陣に立つことを志願したのだ。
――さすがに速いな
ザングディルバは迫ってくる虚人に対し、あらためてプレッシャーを感じていた。
しかし、奴は一定の空域からは決して出てこられない。
奴の基地である宇宙港から離れすぎると、今度は手薄になったそこを襲われることを知っているからだ。
*
「――ええい、速い!」
キョウの方も敵と同じようなことを言っていた。
彼女の感覚の中で、掴まえそこねた敵の姿は上空に逃れつつある。そして彼女から見ると、ヴルトムゼストはジャンプはできても飛行はできないのである。空を飛んで街から離れることができないようになっているのだ。実際の空間上で、宇宙港から離れすぎることのないようにという安全装置だった。
跳び上がったら、その分落ちなければならない。
ヴルトムゼストは大音響と共に、半壊した都市の上に着陸した。既に壊れた所に落ちたので、それ以上破壊を広げずにすんだ。
ヴン……!″
虚人は空を見上げて、再び接近してくるザングディルバの方を向いた。
その光景は、倒れたままの麻里からも見えた。
(ああ……)
だが、麻里の視界はだんだんとぼやけてくる。
その代わりに、暗黒が広がっていくのがわかる。
(ああ――そうだ、私は――)
その暗黒は、話に聞いていたような死の虚無というのとは違っていた。
闇の中で、何かが光っている。
細かい光の粒がいっぱい――いや、粒などではない。それのことはもっと別の、より適切な呼び方があった。
星だ。
それは星空なのだった。
世界がぼやけていく代わりに、麻里の感覚の中に星空が広がっていく。
(私は――)
麻里は――いや、麻里という個性を形作っていた精神は、やっと自分がなんなのかを思い出していた。そんなことを覚えていたら、あの世界で人間として振る舞うことができないことから自ら率先して忘れていたその事実を。
(私は――恒点観測機《ビヨンド・シーカー》一〇二二だ)
宇宙港に設置されている数千もの自律機械部品群のひとつであり、その制御に使われている人工知能ユニットこそが麻里≠ニいう人間を演じていたのだ。なんのために?
(そうだ――私たちは、私たち機械は、すべて人間に奉仕するために創られた存在。そして私たちにとって彼女≠アそがそのすべて)
鷹梨杏子を発狂させないために世界が必要ならば、それを創る。
その世界に人間が必要というのなら、限りなく普通の人間に近いように人工知能を調整した疑似人間のプログラムを創り、自らそれを演じる――いや、演じるなどという姑息《こそく》なことでは足りない[#「足りない」に傍点]。自らそのことを信じ込んで疑わないくらいでないとリアリティがない。そう、人の正気にとって現実かどうかというのは大した問題ではない。重要なのはどう感じるかということなのだ。
麻里は、もうかつて自分がいたその世界にはいない。
彼女は、本来の自分の役割――星空を観察する天体望遠鏡の管理システムとしての自分に引き戻されていた。
その視界の中では、二機のナイトウォッチが互いの使命を掛けて戦っているはずだ――しかしそれはあまりに速すぎて、彼女の性能ではその動きを追うことさえできない。
(キョウ、あなたは――)
すべては彼女を守るために創られた幻だ。
だがその幻を守るために、彼女は命懸けで戦わなくてはならない。
いったいどっちがどっちを、何を守っているのか――
(あなたは、どうして――)
(――どうして突っ込んでこない?)
キョウは操縦席の中で、上空をひらひら飛び回るばかりの敵に疑念を抱いていた。
「センチ!」
彼女は叫んで、戦闘ナビゲーションを呼び出す。
なんだい?
公坂尚登の声がどこからともなく聞こえてきた。
「敵は、長距離射程の武器を持っているの?」
いや、その装備はないな――強《し》いて言うなら、強重力子メギドなら効果範囲が広いから射程も広いと言えるけど――そんなものをここで使ったら、いくら最外縁空域といえど太陽系自体が破壊されてしまうよ
「それにあの軽量機《トワイライト》にそんな装備はないしね――ではこれは、あくまでも陽動と見るべきか」
彼女は舌打ちした。敵の意図がわかったのだ。
「いいトコ突いてくるじゃないの――」
敵には、よほど優秀な戦術ナビゲーションが付いているらしい。
え? どういうことだい
センチにはわからないようだ。無理もない。彼は所詮《しょせん》は、宇宙港の総合管理用の人工知能に過ぎず、純粋な戦闘用ではない。
ここで、戦士は彼女一人きりなのだ。
「しかし――そのつもりならば!」
キョウはヴルトムゼストを疾走させて、敵のいる地点の真下へと突進する。
敵は遠くからでも撃ってくる。
「センチ! 相手の分析をして!」
了解――何を重点的にやる?
「VL型シンパサイザーの波長と、その感覚回路の精度よ――」
え?
センチからは訝《いぶか》しげな反応が返ってくる。無理もない。それは人間同士の決闘で言うならば、相手の銃の腕前ではなく、相手の掛けている眼鏡の度はいくつか、というような迂遠《うえん》な問いだったからだ。
「他のことはいい。とにかくそれを大至急突きとめて!」
だがキョウの言葉に迷いはない。彼女はこヤリと笑みを浮かべながら、
「今日の射手座は押して駄目なら引いてみよ≠ネのよ――」
と自信ありげに言った。
わかった
センチとしては彼女に従うだけだ。
やがて、その情報が解析された。
「……よし」
キョウの眼に強い光が灯《とも》る。
正面から来た敵の攻撃をその腕で弾き飛ばしつつ、ヴルトムゼストは大地を蹴って、敵めがけてふたたび跳躍した。
*
――くそ、直撃《あた》っているのに!
ザングディルバは苛立《いらだ》ちを抑えきれない。有効射程というのは、通常ならばあくまでも命中精度の問題なのだ。威力的にはどんなに遠くからでも当たれば通用するはずなのである。
なんて頑丈なんだ、あの虚人は!
しかし、その苛立ちが一瞬の隙《すき》を生んでしまった。虚人は攻撃を受けながら、そのまま直進していたのだ。
相対距離が、これまでよりも遥かに詰められてしまっていた。
い、いかん!
彼はあわてて後退の指示を機体に出した。しかしまだ致命的なミスというわけではない。安全域内でもあり、向こうが撃ってきても避けられる。
だが、虚人はこちらに向かって、攻撃ではなく、何やら奇妙な動作をしてきた。
その武装腕《アームドアーム》を、やけに大きな動作で振った。
ぎくりとしたが、その指先からは何の攻撃も発射されなかった。ただのフェイントか、と少し安堵《あんど》したときに、それ[#「それ」に傍点]が来た。
――ちりっ、
と耳元で砂を噛《か》んだときのような音がした。なんだ、と思った。耳の中に詰まっているのは警報音を告げるイヤホンだけである。そこからノイズがしたということは、故障か、接続不良の兆候か――と、一瞬だけ注意が自分の内側に向けられ、そして外界に戻されたときには、もう、彼はそこ[#「そこ」に傍点]にいた。
空に浮かんで、眼下にはビル街が広がっている世界に。
そう――空だ。
真っ暗な宇宙空間ではない。上も下もない底無しの暗黒ではなく、高いところを飛んでいる。
――な
彼は唖然とした。なんだこれは?
ビル街からは無数の火の手が上がっていて、ひどく破壊されていた。どう見てもそれは何者かによって上空から爆撃されたと思《おぼ》しき惨状だ。
その街の中心に、ヴルトムゼストが立っているのが見えた。
おそろしく、自分と近い距離だ。
彼がとっさに思ったことは、
この街の破壊は、こいつがやったのか?
ということだった。辻褄《つじつま》も何も合っていないのだが、反射的にそう思ってしまった。
攻撃した。
しかし、おそろしく近い距離のはずなのに、その攻撃は相手にかわされた。
見た目よりも、遥かに――数億倍という距離があることを悟って、彼はここで初めて、はっ、となった。
これは幻覚だ。
こいつは、あのヴルトムゼストの安全装置が創り上げた幻影に違いない。
奴は、こちらの感覚に合わせて、自分が見ている幻影の情報を飛ばしてきたに違いない。それをザングディルバの共感回路が受信してしまったのだ。
だが――なんのために?
彼がそう思ったとき、自分が放ち、敵が避けた一撃が街に落ちた。
巨大な火の手が上がった。
そしてザングディルバは見た――その火の中に、吹き飛ばされる人々の姿があったのを。
――!
本能的に恐怖が湧き上がった。彼は戦士だが、その敵はあくまでも攻撃してくる相手だけだ。無抵抗のものを無差別に攻撃することは彼の良心に反する。
そして、認識が襲ってきた。
こ――この街を破壊したのは、まさか、この俺か!?
自分は空を飛んでいて、ヴルトムゼストは地上にいることを考えれば爆撃していたのがどちらかは明らかだった。
わかっている――わかっているのだ。これが幻覚に過ぎないことはわかっている。燃える街などというものは実在しないのだ。だがしかし、その街の有様はとてもリアルで、迫真性があり、彼が今の今までいた宇宙空間のあまりの頼りなさに比べて、とても――真に迫ってくるのだった。
う、うう――
いかん、と思った。これでは立場が逆だ。相手に心理的圧迫を加える作戦なのに、こっちの方が精神的ダメージを負っては話にならない。
ここは退かなければ――
とにかく、奴が仕掛けてきているこの幻影攻撃の有効範囲の外にまで機体を出さなければ。
だが――そのときである。
彼は見たのだ。
ナイトウォッチの、四方八方が同時に見える視覚の中で、敵から見て彼の背後にある高層ビルディングの、その屋上に一つの人影が立っているのを。
ものすごい強風が吹いているはずなのに、その人影は身体を揺らしながらも手すりに掴まって、立っている。
こっちを見ている、その顔を彼は知っていた。知っているどころではない。それは彼の仲間だった。
ヨンである。
な――なんで!?
と彼が焦ったとき、まさにその一瞬を狙っていたかのように、ヴルトムゼストが突進してきた。
避けることを考えた。しかし――相手の勢いから見て、避けたらそのままその巨体がビルをなぎ倒してしまうのは確実だった。
判断が一瞬遅れ、そしてそれが致命的になった。
ヴルトムゼストが放ってきた牽制の破壊光線を反撥装甲で弾いたときには、もう敵の姿は彼の懐《ふところ》にまで入り込んでいた。
がしっ、と武装腕《アームドアーム》の一本を掴まえられた。そしてそのまま、ぶん、と渾身《こんしん》の力を込めて放り投げられた――既に焼け落ちているビルの残骸をいくつもなぎ倒しながら吹っ飛ばされて、地面にめりこんでしまう。
――実際の宇宙空間では、敵の至近弾を喰らってコントロールを失ってスピンしている、というところなのだろう――いずれにせよ、ザングディルバは戦闘行為のための動きを停められたのだ。
――ぐっ、ぐぐぐ……!
体勢を立て直そうとしながらも、決定的に手遅れだろうと思っていた。
その通りだった。
目の前にヴルトムゼストが跳んできて、そして思い切りザングディルバの機首に当たる部分を――怪獣の頭を踏みつけた。
がくん、という激しい衝撃が襲ってきた。一度や二度ではない。虚人は容赦なく、ザングディルバの首や胴体に蹴りを叩き込んでくる。
武装腕《アームドアーム》を向けて、なんとか攻撃しようとした。しかしその瞬間にその腕そのものを掴まれて、根本から力任せにもぎ取られていた。
同調している感覚から、激痛が操縦者《コア》そのものにまで到達した。
意識が遠のく。
そして薄れかける感覚の中で、虚人の執拗《しつよう》な蹴りがとうとうこちらの機首の装甲に罅《ひび》を入れたのがわかり、そして次の瞬間にはその挙に最大のパワーをこめて叩き込んでくるのがちらと見え、そしてそのときに、ザングディルバの操縦者《コア》が思ったことは、
俺は、ばかだなあ――
という嘆きとも苦笑とも取れる感懐だった。あのヨンは、宇宙港のシステムの中にあるプログラムに違いない。もともとヨンのシリーズは人工知能としてはポピュラーなものなのだ。宇宙港にそれがあってもちっともおかしくない。それなのに、彼はそいつを自分の仲間だと思ってしまったのだ。そのために、それをかばおうとして避けられるはずの攻撃を半ばわざと受けとめてしまった――愚かとしかいいようがない。初歩も初歩のミスだ。しかし――
しかし――悪くない、な
ひたすらに勝ち目の薄い戦いを延々と繰り返すだけで、敵を倒すことばかりが目的だった人生の、その最期の最後にやろうとしたことが仲間を守ろうとしたことだったというのは、それが無意味なことだったとしても――気持ちとして悪くない。
ナイトウォッチのコクピットの中で彼の口元にかすかな笑みが浮かぶのと、ヴルトムゼストの一撃がその肉体を瞬時に吹き飛ばして分子に分解してしまうのはほとんど同時だった。
4.
「…………」
キョウは虚人の拳を敵ナイトウォッチの、生命の消えた残骸から引き抜いた。
みるみる、その残骸の姿が薄れていく。現実の宇宙空間で、こちらの放ったヌル爆雷が相手を蒸発させてしまったのだろう。存在しないものをイメージとして投影しておく必要はない。
「…………」
そして虚人の視線は上空の方に向けられる。
そこにはさらに、二体のナイトウォッチが高空に浮いていた。
「…………」
キョウは、そいつらに油断のない視線を向けていたが、やがてその二体は空の彼方へと飛翔し去った。仲間の敵討《かたきう》ちに突撃しては来なかった。
(……しかし)
キョウは、ザングディルバが倒れていた地面の凹《へこ》みに眼を移し、それからさっき奴を掴まえた高層ビル前の方に視線を向けた。
(なんで、あいつはあそこで、あたしの前に立ちはだかるような動きをしたんだろう?)
まるでビルを守っていたみたいな動きであった。しかし、いくら精神的に動揺していたとは言え、そのビルは幻影でなくともただの建物であり、そして、そこには人影はないのだ。どの窓を見ても、誰もいない。
(なのに、どうして――)
だが、すぐに彼女は頭を振った。そんなことは考えても仕方がない。戦闘は終了したのだ。
彼女が、相手を殺した――それで事態の説明は済んでしまう。
彼女はヴルトムゼストを大地に脆《ひざまず》かせた。そしてその手を地面の上に、手のひらを上にして置く。
――ヴーン……
という鈍い音がしたかと思うと、キョウの身体がその手のひらから、水面から浮かび上がるようにしてせり上がってきた。服装は、さっきまでの機械類がごちゃごちゃ付いた戦闘服ではなく、普通の物に戻っている。
全身が外に出ると、キョウは虚人から下の地面に降りた。
そして呟くように、言う。
「ヴルトムゼストを分解し、世界の欠けた箇所に充填《じゅうてん》せよ=v
その呪文めいたキーワードがこの世界のどこかにある感知――検索システムによって受理され、次の瞬間には、天を衝《つ》くかと思われるほどの巨大な威容を聳《そび》えさせていた虚人は、まるで最も重心が掛かっていた一個を抜かれた積み木細工のように、ざらざらざら――と崩れ落ちていった。
しかしその破片が大地に積み重なるということはない。破片はたちまちに四方八方に飛び散り、そしてこれまでの爆撃や戦闘のとばっちりで破壊された箇所に、ぴたりぴたりと填《は》め込まれるようにして一体化していく。
部品はたちまち周囲に溶け込んでいき、区別がつかなくなる。
あっというまに、街は攻撃などされたことがあったのかという感じに復元されてしまった。
「――やれやれ」
キョウはまた、頭をかすかに振った。
偽物の世界であることはかくも明確だったが、それでもここに戻って来られてホッとしている自分を見つけていて、我ながら――
(……単純よね。機械の計算通りの心理の動きだわ、これは――)
と、少し呆れていたのだ。
周囲の世界は、それでも完全には元に戻っていない。
人々の動きが、ことごとく停止しているのだ。風などは吹いているし、信号も明滅しているのだが、人だけがまるでマネキンのようにぴくりとも動かない。
戦闘の際に、元の役割に戻された宇宙港の人工知能たちがまだ戻ってきていない[#「戻ってきていない」に傍点]のだ。彼らはヴルトムゼストの補佐として色々な情報収集作業と、巨大な人型が怪物とビル街で戦うことと、宇宙空間の三次元戦闘とを一致させる計算作業という非常に面倒くさいことを同時にやっていたのだから、すぐに復旧できなくとも無理はない。
誰も動かない世界の中を、キョウはぶらぶらと歩いていく。
するとその彼女の後ろから、足音がひとつだけ追いかけてきた。
「やあキョウ、相変わらずお見事だね」
それは公坂尚登であった。このセンチュリオン≠セけは他の人工知能たちよりもはるかに情報処理容量が大きいのだ。彼は彼女と並んで歩き出す。
「まだ二体めよ」
キョウはうんざりした口調で言った。
「攻めてきているナイトウォッチはあと二体も残っている――それに、そいつらを仮に倒せたとしても、その後でこちらの戦力分析を済ませた人類連合軍の本隊がやってくるでしょうね」
お先真っ暗なのは変わらないのだ。
「僕たちは、君を守るために全力を尽くすよ」
センチは真顔で言った。しかしその彼の態度に、キョウはへっ、と鼻先で笑った。
「何がおかしいんだい?」
「あんたね――外見設定を間違えてるわよ絶対。綺麗な顔だけが取り柄みたいな男の子がそういうことを言っても、ちっとも説得力ないのよ」
「そうかな――自分では気に入ってるんだけどね」
「それがナルシストって言うのよ」
キョウは、彼がついてきていても足をちっとも弛《ゆる》めないで、早足でさっさと歩いていく。
だが、その足が少し停まった。
角を曲がろうとしたところで、さっきの高層ビルがちら、と目に入ったのだ。
「…………」
彼女は少しの間、それを上から下まで観察していた。どこにも変わったところのない、ただのビルだ。ただし無人で空っぽだが。
「あのビルがどうかしたのかい?」
センチが訊いてきた。彼がこう訊くということは、世界的にはあのビルにおかしなところは何もないということである。
「……なんでもないわ」
キョウは素っ気なく言うと、再び人の動かない街の中を歩いていった。
*
「――どうして、だろう」
高層ビル屋上にある、その人影は静かに呟いた。
全身を虹色に光る身体にフィットした未来社会風のスーツに包んで、頭には縁がギザギザとした頭巾を被っている。
彼女からは、この世界の全体を一望できるようだが、彼女の方に視線を向けているはずの、この世界の者たちからは彼女の姿はまったく見えないようである。
「どうして――悪くない≠ニ思ったのか、あの人間は――」
彼女はどうにも理解しかねる、という感じに首をかしげていた。
*
――空が急に暗くなったので、麻里ははっ[#「はっ」に傍点]となって上を見上げた。
太陽にひとつ、ぽっかりと浮いた雲が被さっていた。風に流された雲の移動は速く、すぐに太陽が再び顔を出して、周囲にまばゆさが戻ってきた。
(――っ?)
眩《まぶ》しさに目を細めながら麻里は、あれ、と思った。
自分が、なんでこんな街の通りに立っているのか思い出せなかったのだ。確か私は、今日は瑠実と一緒に買い物に行くはずで、ずっと待っていて――
(いや、確か今日は来れないって、メールが――あれ?)
それから、何をしていたっけ?
麻里が茫然とその場に立ちつくしていると、ぽん、と肩を後ろから叩かれた。
振り向くと、どこかで見たような少女が立っている。
「お待たせ。さ、ケーキ屋に行きましょ」
彼女はにこにこしながら言った。
「――――」
「ほら、センチの奴もやっと来たしさ」
彼女が後ろを指さすと、そこには男の子が立っていて、愛想笑いしながら、
「どうも、遅れちゃって」
と頭を下げた。
「――あ、ああ。そうね」
麻里は突然に、すべてを思い出した。
そうだった。自分はクラスメートの鷹梨杏子と街で偶然に出会って、そのボーイフレンドの公坂尚登と一緒にケーキ屋に行こうということになったのだった。
「公坂さんの用事はすんだんですか?」
「ええ、大したことはなかったので」
「そうそう、それよりも行きましょうよ。うー、タルトやパイってのに早くお目に掛かりたいわ」
彼女たちは並んで街を歩き始めた。
上で何かがきらっ、と光ったような気がしたので、麻里はまた空を見上げた。
「あ――」
そこには、昼なのに星のような小さな点が一つ浮いていた。
「星……?」
UFOというにはそれは小さすぎた。しかし、昼なのにそんな物が見えるだろうか?
「ああ、人工衛星じゃないかな?」
公坂が自分も空を見上げながら言った。
「太陽と空気の具合で、昼でも見えることがあるって言うからね」
「へえ――」
「いいえ。そいつはきっと映写レンズ≠諱v
と、キョウがまた変なことを言い出した。
「は?」
「そこから、映画をずっと映しているわけよ――この世界という映画を、ね」
「おいおい――」
公坂が困ったような顔をした。しかしキョウはかまわず言葉を続ける。
「映画が終われば、世界は真っ暗になるわけよ――真っ暗に、ね」
そして、彼女も天を振り仰いだ。
その視線は遠く、その空の点を見ているようで、それよりも彼方にある何かを見ているような――それは、そんな眼だった。
U.星は虚偽なり The Star is The Lie
1.
キョウには、いわゆる両親というものがいない。彼女は科学技術で造られた合成人間である。
これから正《まさ》に宇宙進出を果たそうという人類が、宇宙にいるかも知れぬ未知なる危機に対応するという名目で始められた〈究極空間防衛構想〉の一環として、考えうる限りの武装を搭載し、同時に極限までの高い機動性を持つ空間戦闘機の開発計画の中で、ふたつの案が検討されていた。
ひとつは、予想される超光速下の三次元空間戦闘時の膨大な情報処理の必要性から、完全に無人化して機体制御のすべてを人工知能に任せるという最適機化∴ト。
そしてもうひとつが、宇宙に進出するのはあくまでも人間であり、その防衛体制の要《かなめ》には人間の意志が不可欠であるという有人操作∴トである。
当初から最適機化の方が技術的に実現性が高いことから有力視されていたのだが、しかし超光速戦闘機の概要がおぼろにできあがってきた段階で、そのあまりの威力のために誰もが思ったことは、
……これが事故を起こしたとしたら、いったい誰が責任を取るんだ?
ということだった。
かつての旧世紀では、核分裂兵器の使用はそれを管理する政府の最高責任者かそれに準じる者にしか引き金が渡されていなかった。爆弾ならば被害の予想が付く。だがこれは?
使用する、ということを決める時点では、その戦闘活動の際の被害はまったく予想が付かないのだ。時空切断航法と呼ばれる超光速飛行をするものは、普通の世界とは切り離された時間の中で、文字通り人が瞬《まばた》きをする間に太陽系すべてを破壊してしまうことも可能なのである。
これの制御を機械に任せて、よもや、という事態に発展してしまったとしたら――果たしてそれを受け入れられるだろうか
要するに人類滅亡ということになったとき、それが完全に機械によって行われたということに耐えることはできない、せめて誰かがやったということにでもしないと――そう思ったのである。
それでその戦闘機の制御は人間が直《じか》に行うことになった。しかし、生身の人間の反射神経や反応速度では、いくら機械によってサポートされても対応しきれないことも明らかだった。
そこで妥協案が生まれた。
それは有人でありながら、限りなく無人に近い超反応操縦ができるように、人間の方を機械に近づけてしまうというものだった。これは人機|合一《ごういつ》∴トと呼ばれ、このシステム全体の鍵《かぎ》となった。
戦闘機を操作すること、それだけのために最適化された遺伝子を持ち、体内に数万のナノマシンを仕込まれて、人の胎内でないところから生まれてくる、専用の合成人間が開発されることになったのである。
そしてキョウは、その試作された十四体目の合成人間だった。
……最初の記憶は、闇の中だった。
まず、真っ暗なところにいて、何も見えないというのが彼女に与えられた最初の感覚だった。
彼女にはもう、知識も言葉もあった。すべてはデータとして、生まれたそのときに刷り込まれていたからだ。しかし、周囲には何もない。
(…………)
彼女は手足を動かしてみた。何の手応《てごた》えもない。
自分で自分に触ってみた。しかし何の感触もない。
(……でも、腕は動いているはずね)
その体感がある。しかし触っている感触がないのだった。
(ということは――皮膚感覚が麻痺《まひ》しているということか)
彼女は冷静に判断を下した。それは普通の人間からすれば異常な思考の流れだった。なにしろ彼女は、目覚めたばかりの赤ん坊なのだから。
(――姿勢が不安定なのに、骨格に負担がない――水の中か、あるいは無重力環境下にあるのか?)
可能性はいくつか考えられる。
ひとつ、自分が誕生すると同時に致命的な攻撃を受けて施設が壊滅していて、宇宙空間に投げ出されてしまった。体内プラントの作用で呼吸はできているが、皮膚は既に凍りついて麻痺している。
ふたつ、自分は失敗作であり、完成を前に破棄されることが決定した。今は廃棄物タンクの中で、薬品によって溶かされていく途中である。
みっつ、これは何らかの実験の過程である。
(…………)
どれでもあるようで、どれかに特定することも難しい。彼女は事態の推移を見ることにした。
しかし変化がない。
(…………)
彼女は、恐怖はまったく感じていなかった。その代わりに何か、ひどく強い感情が自分を捉《とら》えているのを自覚していた。
怖がってしかるべきだな、とは思うのだが、その感情が心の奥底に澱《よど》んでいて、彼女に恐怖を感じることを許さない。
(なんで――こんなことになっているのか)
彼女は、そのことに腹を立てていたのだ。何のために自分が造られたのか知らないが、状況はあまりにも一方的で、彼女の意志を無視したところから始まっているらしい。そのことがムカムカしてしようがないのだった。
怒り――
そう、彼女がまず最初に感じていたことはそれだった。
そうしている間にも時間が過ぎていく。
まわりのことがまったくわからないので、外部からは時間の経過を知ることはできない。しかし体内の心臓(機械的に強化されている)の鼓動などで時間が経過していくのは計ることができる。
時が経《た》てば経つほど、可能性がどんどん狭《せば》まっていく。薬品の中で溶けているならば、とっくに終了しているはずだからだ。体内の非常用呼吸タンクの残量も減る形跡がない。液体の中であれ、自分はそこから呼吸ができているようだ。
(……ということは)
彼女が結論を出してもいいか、というようなことを考え始めたとき、やっと状況に変化が現れた。
目の前に白い線が現れたかと思うと、それはたちまち開いていく扉となって広がっていった。
やはり液体を満たしたタンクの中に自分は漂っていたようだ。そのタンクに、気泡が混じり始めた。ごぼごぼごぼ、と気体が混入されていくのと同時に液体が抜かれていく。
頭が外に出て、身体がそれに続く。液体がなくなり、彼女はタンクのそこに放り出された。重力があった。
「――がはっ、がはごほ……!」
喉《のど》から肺の中に入っていた液体を吐きだす。外気でも呼吸が可能なようだ。
「…………」
彼女は自分の身体《からだ》を見た。思っていたよりも成長している。普通人でいうなら七、八歳の肉体といったところだろう。
彼女が四つん這《ば》いになって、喉をぜいぜい言わせながらこの新環境に適応しようとしているところに、
「――やあ」
と明るい声が掛けられた。
顔を上げると、そこにはひとりの少年が立っている。
他には何もない。真っ白い床に、真っ白い壁の部屋である。あるのは彼女が入れられていたタンクだけだ。
彼女の中に刷り込まれた知識によると、彼はとても綺麗《きれい》な顔立ちをしている男の子だったが、なんだか彼女は本能的に、
(――胡散臭《うさんくさ》い)
と感じた。
「調子はどうだい? いや、身体や脳波にはまったく不調がないことはわかっているんだけどね、なんとなくの気分まではモニターできないから」
彼は屈託のない声で話しかけてきた。
「…………」
彼女は無言で、今なお自分を取り囲んでいる透明のタンクの壁面をこつこつと叩いてみせた。さっきのムカッ腹はまだ納まっていなかった。
「ああ、開けろってことかい? わかったよ」
彼がつい、と指先を振ると、透明の筒は上の方にせり上がっていった。
それが四分の一も上がらないうちに、そのわずかな隙間《すきま》から彼女は飛び出していた。
そして少年に向かって飛びかかっていく。
身体の中には、既に戦闘用のデータが刷り込まれていた。人間の身体のどこが弱いのか、どういう風に動けば対応できないのか、そういうことを彼女は知っていた。その通りに動いた。
少年の足元から迫って、足首の関節を狙った。
だが、彼女の指先が少年の身体に触れたと思った瞬間、すかっ、と彼女は少年の身体を通過していた。
「――立体映像?」
彼女はすぐに起き上がった。
「そういうことだね。しかし見事な反応だ」
少年はニコニコしたままだ。別に彼女に危害を加えられる心配がなくて余裕、という感じでもなく、本当に感心しているようだ。
「……何の実験だったのか、教えてもらえるかしら」
彼女は額《ひたい》に貼りついた前髪を払いながら訊《き》いた。
「よく、実験だとわかったね? その通り、君に絶対虚空での適応能力があるかどうかテストしていたんだ。全くの無感覚の状態で放置されていて、どこまで正気を保っていられるかをね」
「覚醒したてで、すぐに?」
「すぐでないと意味がないんだよ。先に、普通の世界のことを体感として記憶してしまうと、その落差で発狂しかねないからね」
彼は淡々と言った。
「テストって割に、私は限界まで試さなかったの?」
彼女が訊《たず》ねると、彼は肩をすくめた。
「君は、どうやら特別製らしいよ。こっちの最大測定基準を過ぎてしまっても、まったく動揺が表れなかったんだ――しょうがないから、途中で打ち切った」
「…………」
彼女は訝《いぶか》しげな顔で少年を睨《にら》んでいる。
「自己紹介が遅れたね。僕はセンチュリオン。宇宙港の総合管理を担当している人工知能だ。君の所属は軍だけど、生産設備を使っているから管理は僕の担当になっている――って、人工知能だって言っても驚かないんだね」
「だって、姿が嘘《うそ》臭いもの」
彼女は馬鹿にしたように言って、少年の頭の天辺《てっぺん》から爪先《つまさき》まで、じろじろと無遠慮な視線を向けた。
「実体のあるロボットでなきゃ、人工知能のインターフェイスぐらいでしょ。そんな悪趣味な姿は」
センチュリオンは苦笑した。彼にも一応、人間の感情に類するものがある。極めて高度に複雑化した計算回路は、その最適化を求めていくうちに個性とか気分に似たものをつくるのである。
「みんなが気に入るような姿を求めたんだけどね。統計的にもこの姿に悪意を持つ人はほとんどいないはずなんだけど」
「だから、あたしは例外なんでしょう?」
彼女は投げやりな口調で言った。
「それで? あたしは何のために造られたのかしら」
「造られたというのは聞こえが悪いね。君は僕とは違って人間なんだから、生まれたと言うべきだよ」
「どうでもいいわよ、そんなことは」
彼女はあくまでも素っ気ない。
「あたしの記憶《メモリー》の中には、自分の目的がないわ――何をさせられるのかしら? ずっとテストばかりしていろってことなの」
「それは半分は正しいが、半分は間違っている。君は確かにテスト用だけど、君がテストするものは、なにしろ――世界最大の攻撃力を持つ兵器なのだから。テストとは言え、その重要性は他に比類がない」
この言葉に彼女の眉《まゆ》が寄った。
「何の話?」
センチュリオンは彼女に、彼女が操縦することになるだろう超光速戦闘機の構想を説明した。それが人間の手で操作されなければならない理由と共に。
「…………」
それを聞いて、彼女は少し考え込んだようだった。
「もちろん、機体そのものはまだ造られていない――君の成長に合わせて一緒に開発される予定だ。君が操作できるぎりぎり限界まで性能を調整するために……」
「おかしいわね」
説明の途中で、彼女はぽつりと言った。
「え?」
「人間にやらせなければならないはずの、その重要な操縦士の製作現場に、どうして生身の人間がいないのかしら?」
彼女は言いながら、周囲の白い壁をじろじろと見回した。
「これじゃあ、その当初の心配通りに機械に勝手されて、操縦士にどんなことを吹き込むかわかったものじゃないんじゃないの」
彼女の声は静かなトーンで一定していて、まったく乱れがない。
「…………」
センチュリオンはしばし無言だった。だが、やがて彼はため息をひとつついて、
「――君は、鋭いね」
と、あきらめたような口調で言った。そして逆に訊く。
「では、どうして機械に、この最初の接触を任せたのだと思う?」
これに、彼女は簡単に答えた。
「特定の人間に、特別の接触を任せたくなかったんでしょう。あたしと特に関係が深くなる
個人≠ェできると組織≠ニしてはちょっとまずいことになるってところじゃないかしら」
「――正にその通り」
センチュリオンは肩をすくめた。
「この開発には代表政府と宇宙軍とが互いに権利を主張しあっている――どちらの勢力にも管理優先権を与えないための処置なんだよ、これは」
「本末転倒ね。機械に反逆される可能性よりも、自分たちの方がよっぽど危険なんじゃないの?」
「――だから、安全装置として僕のような機械が必要とされるのさ」
センチュリオンは大|真面目《まじめ》な調子で言った。別に皮肉ではなかったが、彼女はこの言葉に、ぷっ、と吹き出した。
身体を折り曲げて、くっくっくっ、と笑っている。
「――なにかおかしいかな?」
「いや――なんて言うのかしら、こういうのって。ええと――ユーモアのセンスがある≠ニかいうの? それよ、あんたは」
どうやら記憶《メモリー》データから引っぱり出したらしい言葉を彼女は使った。
「は?」
「だってそうでしょ――あんたは、機械に責任を任せられないっていう人間の、その安全に責任を負っている――これが喜劇でないとしたら、とんだ茶番よね」
「厳しいね。なかなか辛辣《しんらつ》な体制批判だ」
「危険分子として処理されるかしら?」
この冗談ではすまない発言に、センチュリオンはまた大真面目に、
「いいや、君には金が掛かっているからね。酒落《しゃれ》ではすまない予算が組まれている。この程度では誰にも君に手出しできないよ」
と言った。しかし今度の声には、明らかに皮肉がこもっていた。
その皮肉の相手が彼女なのか、それとも彼を創った人間に向けてのものなのか、その口調から判断をつけることは難しかった。
「はいはい――」
彼女は肩をすくめた。
ひとつわかったことがあった――このセンチュリオンは彼女と同類で、自分の意志では世界を渡っていける立場にない。どうして彼女がこんなところにいるのか、そのことに対しての不満をぶちまける相手には向いていない。
では、誰にならばこの怒りを叩きつけられると言うのだろうか? 彼女はそれを思って、ちょっと嫌な感じになった。
もしかすると、自分が生まれてすぐに感じたこの怒りは、一生つきまとって消えないような、そんな気がしたからである。
*
こうして宇宙港の管理用人工知能であるセンチュリオンを窓口として、超光速空間機動兵器試作十四号〈ヴルトムゼスト〉の開発は始められた。
「名前?」
センチュリオンに言われて、彼女は眉をひそめた。
「そう、君の名前がいると思うんだよ」
「試作十四号じゃないの?」
「それじゃあ、あまりにも味気ないだろう。人の名前とは思えない。もっと女の子らしい名前でないと僕も呼びにくいよ」
「女の子、ってね――」
彼女はかるく笑った。彼女の身体にはどれくらい女の子≠フ部分が残っているのだろうか。しかしセンチュリオンは意に介さず、
「色々考えてみたんだけど、君が気に入るものはどれかな?」
そう言って彼は、彼女に名前の一覧を示した。
色々な文化に基づいた、様々な響きの名が並んでいたが、その中で彼女が選んだのは、
「このKYO≠チてのがいいわ」
「キョウか。東洋系の言葉だね。なんか雅《みやび》な響きがあるよ。うん、君に似合っている」
「まあ、どーでもいいけどね――」
彼女としては、その名を選んだ理由は、それが今日≠ニいう言葉だったからだ。明目はない、というようなニュアンスが自分にはふさわしい。それに凶≠ニいう捉え方もある。これまた破壊兵器の名前にぴったりである。
「それより、あたしはこれからあんたのことをセンチって呼ぶからね」
「は?」
「いちいちセンチュリオンなんて、勿体《もったい》付けた名前じゃ言いにくいのよ。あんたはこれからセンチ。いいわね」
「……それはニックネームってことかい?」
「気に入らない?」
「いや――そうじゃなくて、なんていうか。うん――いいね。そんな風に呼ばれるのは悪くないよ」
やたらにニコニコしている。それを見てキョウは少し顔をしかめた。
彼女たちが作業に掛かった時点はまだまだ機体そのものの組立も済んでいない頃で、キョウの調整次第ではどんなものにでもなりそうだった。
彼女が仮に造られた操縦席《コクピット》で作業をしていると、遠くにあれこれ動いているものがある。作業用のロボットたちだ。後方でそれらを指揮しているであろう生身の人間は、見事なくらいに彼女の視界に入ってこない。
だから、彼女は相変わらず、怒りの捌《は》け口《ぐち》を見つけられないままだ。
…………
彼女は宇宙港から、まだ各部品が固定されていなくて関節がふらふらと揺れるモビールのような機体を発進させてみた。
…………
しばらく宇宙遊泳を行ってみる。
周囲の様子を――といっても、太陽系最外縁空域の周囲になど何もないが――何とはなしにつらつらと眺めてみる。
「感覚機の調子はどうだい? きちんと周辺空間の把握はできるかな」
センチが訊いてきた。
…………
キョウはこの質問にしばらく応えず、黙って空間をふわふわと漂っていた。
やがて、ぽつりと呟《つぶや》く。
太陽が、小さい――
「遠いからね、無理もない」
他の惑星は、もっと小さいわ――
彼女はセンチの声を無視するように、さらに呟いた。
ここには朝ってものがないのね。陽《ひ》は永遠に沈まないし、だから昇ってくることもない――ずっと夜なんだわ
「朝昼とか夜というのは惑星の自転現象の反映に過ぎないよ。惑星という制約から離れた人類にとっては、もう普遍的な概念とは言えない」
別に慰めるわけでもなく、センチは一般的常識に則《のっと》った言い方をした。これは彼だけの発想ではなく、宇宙港にいるような者たちにとっては共通の観念だった。
――空間を把握するというのは、夜を視《み》るようなものね
キョウはなんとなく呟いた。
見えないはずのものを視る――いいえ、見えないということ、それ自体を視ているような感じだわ
この彼女の感性にセンチは感心した。
「へえ――夜を視る≠ゥ。いい言葉だ。君は詩人だね」
この素直な賛辞にキョウはふん、と鼻を鳴らしただけだったが、〈|夜を視る《ナイトウォッチ》〉
それはこの一連の兵器シリーズを象徴する名前になり、同種の機体群もいつのまにかすべてそう呼ばれるようになっていった。
*
そして数年にわたって開発は進み、十数機造られた試作機も充分なテストを済ませて、その役割を終えるときが来た。
「じゃあね、センチ」
キョウは、相変わらずさばさばとした態度であった。
こいつに怒ってもしょうがない。彼女のセンチに対する感覚はそれに尽きていた。
「うん……」
そのセンチは浮かない顔をしている。
開発計画は終わった。これからは実際に超光速戦闘機を量産し、宇宙移民計画をスタートさせることになったのだ。数億という人間を冷凍保存して、カプセル船と呼ばれる巨大宇宙船に乗せて星々の世界に旅立たせるのだ。
キョウを始めとする試作機は、封印されることになる。いつかそれが解かれる日が来るのか、あるいは永遠にそのままとなるのか、それはまだ決定されていなかった。
「人間だったら――こういうときは泣くのかな」
センチはぼんやりとした口調で言った。
「僕は機械だから、どういう対応をすればいいのか、よくわからないよ」
「笑って見送りなさいよ」
キョウは他人事《ひとごと》のように言った。
「死ぬ訳じゃないしさ、心配いらないとかなんとか、そういうことを言わなきゃならない立場でしょ?」
彼女はくすくすと笑った。
「次に目覚めたときには、襲ったりしないからさ」
「そうだね――でも、誰が起こすかわからないから、用心はしといた方がいいよ」
センチは歯切れの悪い言い方をした。
む、とキョウは眉をひそめた。なにか用心が必要な事態が起きるのだろうか?
「もし――君が目覚めたときに、何か困ったことになっていたら」
センチは唐突に、奇妙なことを言った。
「電話を探して、#001(800)0001に掛けてくれ」
「は?」
キョウはきょとんとした。
「デンワって何よ? 何の話?」
しかしセンチは説明せずに、ただニコニコしたまま、
「そうなったときには、きっとわかるよ。忘れないでくれ――僕は君の安全装置だってことを、ね」
と言うだけだった。
2.
――また、暗闇の中だった。
いったいどれくらいの間、思考が途切れていたのか、キョウには判断する術《すべ》はない。ただ、一度は完全に消えた意識が再び戻ったということは確かだった。
感覚は完全に断絶している。今回は、前の時とは違って、自分の身体そのものの知覚もあやふやだった。
手を意識しようとしても、その手がどういう状態なのか認識できない。自分が横たわっているのか座っているのか、それとも漂っているのかさえわからない。
なんとなく、霊魂、という概念のことを思った。記憶《メモリー》にあった言葉だが、とうとう彼女にはそれが何を表しているのかわからないままだった。
(こういう状態のことをいうのかしら?)
自分はいま、霊魂だけの存在になっているのだろうか。肉体感覚がなんにもない、思考だけの意識というのは不思議な状態だった。
だが――そのような茫漠《ぼうばく》とした感覚の中に、明らかな異物感と共に、
――ずん、
という衝撃が、ひどく遠くから伝わってきた。それは腹の奥に響くような(しかし腹がどこかはわからないのだが)ひどく不快な衝撃だった。
ずん、ずずん、と衝撃はある程度の間隔を置いて、断続的に伝わってきた。
嫌な感じがした。
すごく、嫌な感じだ。彼女には知る由《よし》もないが、その感覚は防空壕《ぼうくうごう》に入った非戦闘員が味わう感覚に似ていた。自分とは関係ないところで、しかし自分のすべてを消し去ってしまう事柄が勝手に進行していくときに感じる、不安と苛立《いらだ》ちと無力感と、そしてどうしょうもない恐怖が綯《な》い交《ま》ぜになった感覚――。
(…………)
そして、唐突になにもかも[#「なにもかも」に傍点]がやってきた。
視覚も聴覚も触覚も嗅覚《きゅうかく》も身体感覚も、そして味覚までも、いきなりそのすべてが、ぱっ、と彼女の前に現れた。
「…………」
彼女は、立っていた。
そこはナイトウォッチのコクピットではなかった。宇宙港施設の中でもなかった。彼女がこれまで経験していた、どの場所でもなかった。
周りにはビルが並んでいる。それがビルディングと呼ばれる建物であることは記憶《メモリー》で知っていたが、その建築様式はどれもこれも旧世紀のものばかりのように見えた。そのくせどの建物もぴかぴかと新しい。
彼女は街の中にいた。道路の、交差点のど真ん中にぽつん、と立っていたのだ。
「…………」
周囲には人影はまったくない。無人の街だ。そこにひとり、取り残されるようにして立っている。
「…………」
空を見上げた。
夕暮れの空が広がっていた。雲がやや多く、それらは夕陽を浴びて不気味な薄紫の光をぼんやりと放っていた。
もちろん、生まれてはじめて見る光景である。彼女は太陽さえも視覚として見たことがないのだから。
「…………」
なんだこれは、と言うしかない状況だった。前後の辻褄《つじつま》がまったく合っていない。
おそるおそる、足を前に出してみる。地面はアスファルトで、踏んでみても確固たる感触があるだけだ。歩き出してみる。
風が吹いている。
その頬《ほほ》を風がなぶる感触も生まれてはじめてのものだ。
今はいつだ?
それがまずわからない。どう見ても世界は、旧世紀の、人類がまだ宇宙に出ているかいないかという時代のはずである。
どうして自分はそんなところにいるのか。その理由が彼女にはまったくわからなかった。
彼女はふらふらと無人の街をさまよった。物音はビル街を吹き抜けていく風の音ぐらいだ。
ひゅるるる、る――と、耳元で口笛が鳴っているような音だった。
「…………」
道路には、赤と黄色と青に点滅する標識が立っている。それが信号機と呼ばれるものだということを、彼女は記憶《メモリー》から知った。
その信号の前を横切るように、一つの影がひらひらと飛んでいく。それはチラシであった。
キョウの反応は素早かった。走って、跳んで、その空の彼方《かなた》に飛んでいきそうになっていたチラシを掴《つか》んだ。
見ると、そこには大きな字で視力矯正、今からでも眼鏡にサヨナラ≠ニ書かれていた。字の周囲には細かい模様が入れられていて、それが派手に浮き上がって見えるようになっている。
何の手掛かりにもなりそうもなかった。ちっ、と舌打ちしてチラシを捨てようとした。
だが、もう一度だけ確認しようと眼をやって、そこではっ、となった。
単なる模様だと思ったものの中に、よく見ると微細な字で書かれた文章が紛《まぎ》れていたのだ。
あなたが希望と呼んでいるものは、ほんとうに希望なのか
そう書かれている。そして、
第三方面軍から第八方面軍までは壊滅した
とも書かれていた。二つの文章の間にどういう関連があるのか、まったくわからない。
(希望って――なんのことだ? 第三方面軍というのは宇宙軍のことか? あたしが起きていたときは、確か第四方面師団までしかなかったと思うけど――)
師団よりも軍という方が規模が大きそうである。それが――壊滅? 大敗とか撤退というのでなく、壊滅というのは――。
(もし、仮に第一とか第二が残存しているにせよ、それも無事とは思えない――もう方面では分けられていなくて、単一の軍に再編されたんじゃないのかしら)
どうでもいいようなことを、つい考えてしまう。
そして彼女は、言葉をもうひとつ見つけた。それは文章というにはあまりにも短かった。ぽつんと、
虚空牙《こくうが》に汚染
とだけ、取り残されるようにして書かれていた。
そのとき、また強い風がびょお、と吹いた。チラシはたちまち手から奪われて、空の彼方に消えてしまった。
「あ――」
キョウは空を振り仰いで、そしてその眼《め》が厳しく一変した。
「――――!?」
空に、なにか[#「なにか」に傍点]がいた。
巨大なものが夕暮れの空の中、白っぽい影となって遥か彼方に、四つ浮いている。そのシルエットはごく小さくしか捉えられなかったが、キョウからすれば間違えようがなかった。
「――ナイトウォッチに、似ている……」
突起物の付き方に法則性がある。それは人型《ひとがた》をしているヴルトムゼストや、彼女と一緒にテストをしていた、形状がひとつひとつ異なっていた他の試作機にも共通するものだ。機能がそのシルエットに反映するのだ。あのかたち[#「かたち」に傍点]はどう見ても空間機動兵器のそれだった。
ぞくっ、とした。
彼女はそのときに、本能的に悟ったのだ。これは何かのテストなどではない。第三から第八までは壊滅=\―第四にいたはずの自分は、なんだか取り返しのつかない状態に置き去りにされているのだ――。
彼女は待たなかった。
ためらわず走り出した。
それとほとんど同時に、空に浮いている白い影が、きらっ、と光った。
衝撃が大地を揺さぶり、続いて轟音《ごうおん》が響いてきた。
攻撃してきたのだ。
ビルが破壊され、破片が燃えながら飛び散ってくる。
だがその惨状の中で走っているのはキョウ唯《ただ》一人である。あの四つの影は彼女を殺そうとしているのだろうか? だが、何故《なぜ》?
(――いや)
キョウは火の粉を浴びながら走りつつ、心の中で呟く。
何故とかどうしてとか、そんなことは考えたって仕方がない。
疑問を持ったら、誰かがそれに答えてくれると言うのか。
その答えとやらは、彼女の心の底にこびりついているこの怒りを綺麗さっぱり消してくれるだけの説得力があるというのか。
(――知るか、んなこたぁ!)
そんなものがこの世にあるとして、少なくとも彼女の前には今、そんなものはない。あるのはたったひとつの言葉だった。
君が目覚めたときに、何か困ったことになっていたら――
確かに、センチはそう言っていた――それだけが、この訳のわからない環境で彼女の手の内にあるすべてだった。
(なんだったか――あいつは何て言ってたんだっけ――デンワ、とかなんとか――電話、か?)
彼女の記憶《メモリー》の中に、それまでは知らなかったはずの知識が増えていた。電話というのはこの時代の世界で使われていた通信手段だ。
(電話は――どこだ!?)
彼女はそれ[#「それ」に傍点]を探して走った。
その間にも、上空からのナイトウォッチの攻撃は続いている。
街はどんどん破壊されていき、炎があらゆるところを覆いつくそうとしている。
「――!」
地下に通じる入り口を見つけて、はっとなる。
そうだ、地下鉄だ――キョウはそれに気が付いた。外に電話が見つからなくとも、駅の構内には公衆電話のひとつやふたつあるはずだ。
彼女は爆発の続く地上から地下へと飛び込んでいった。
階段を駆け下り、がらん、と無人の空間を見回した。しかしやはり電話が見当たらない。
(――ええい、この時代は携帯電話が普及している辺りなのか?)
そのことにやっと思い至る。しかしそんなことを愚痴《ぐち》ってもしょうがない。
上から響いてくる轟音に、細かい塵《ちり》のような破片が混じり始めた。直撃が上にも来ているのだ。
彼女は尚もきょろきょろと周辺を観察して、あっ、と思った。
何も馬鹿正直に公衆電話を探す必要はないのだ。この世界には今、彼女以外誰もいないのだから、そこらにある電話を勝手に使っても文句を言う奴は誰もいないのだ。
(駅長室だ!)
彼女はそれを探して走った。衝撃はどんどん近くなっていく感じである。
自動改札を通り抜けようとしたら、警報機に引っかかって、がしゃん、と制止バーが閉まった。
かまわず、そのままそれを飛び越えて駅構内に入る。けたたましくサイレンが鳴っているが、それを聞いて駆けつけてくる者は誰もいない。
キョウは駅長室のドアを蹴破《けやぶ》った。
デスクに置かれている電話を取って、センチに教えられていた番号を素早く押す。
ふと番号を押しても、それを繋《つな》げる交換手とかがいないと繋がらないんじゃないのか≠ニいう疑念が頭をかすめたが、呼び出し音が聞こえてきたのでほっとした。そしてここでやっと彼女は、
(――あ)
と気が付いた。交換手などいてもいなくとも関係ないのだ。この世界では、彼女が電話を掛ければ、それだけでもう繋がってしまうのである。つまり――
そのとき、電話口に誰かが出た。
――もしもし、キョウだね?
それは紛れもなく、センチュリオンの声だった。
「そうよ――こいつは、この世界は、あたしのための安全装置なの?」
彼女は思いついたことをまず訊いてみた。
そうだ。君の精神を安定させるための仮想空間だ″
「じゃあ、そいつ[#「そいつ」に傍点]を切っちまってよ。こっちは攻撃されているのよ。敵は、この世界じゃあナイトウォッチに見えんのよ。嫌な感じだわ、まったく!」
キョウは、あの敵が幻影でなく、本物だということだけは本能的に理解していたのである。
――できないんだよ
センチの声は苦々しい。
「え?」
宇宙港のシステムが、致命的な損傷を受けている。君に働いている安全装置は最終機能のひとつで、他のところが故障してもそれだけはそうそう切れないようになっているんだ。宇宙にひとりぼっちで放り出された人間の正気を保たせるためにね
「今、本物のあたしはどこにいるのよ?」
彼女はイライラしながら訊ねる。
君が眠りに就《つ》いた場所と同じ――ヴルトムゼストのコクピットの中さ。君は今でも、その操縦|桿《かん》を握ったまま固定されているんだ
「じゃあ構わないから、ブッ壊してでもこの世界からあたしを出してよ!」
キョウは電話に向かって怒鳴った。
できるならとっくにやっているよ。しかし僕もまた、君と同じように今や不自由な環境下にあるんだよ。宇宙港のシステムはもう、かつての七百七十七分の一以下の機能しかない。予備装置でかろうじて動いているんだよ。安全装置を切るためには、他の様々なものを全部切らなければならない。僕も存在できなくなるよ
ちっ、とキョウは舌打ちした。
「その損傷というのも、あいつらにやられたの?」
いいや――あれは人類連合軍の、正規のスコードロンだ。僕らを破壊したのは、虚空牙だよ
その単語を聞いて、キョウはびくっ、とした。
思い当たることがあった。さっきのチラシに書かれていた。
「汚染=\―」
呟いたその言葉に、センチのえ?≠ニ驚いた声が返ってきた。
うん、そうだよ――僕らは虚空牙に汚染されたということになっているんだ。しかし、君がどうしてそんなことを――推理したのかい?
この質問に、キョウは返事をしなかった。なにかがずれている感じがした。全体が、なんとなく歪《ゆが》んでいる……。
「――いや、そんな気がしただけよ」
キョウは素っ気なく言った。
「それより、何で今頃になって、その安全装置とやらが起動したのかしら? だいぶ時間が経っちゃってるみたいだけど」
――虚空牙にやられて、全システムは機能停止に陥っていたんだけど、未確認物体の接近を感知したセンサーが、長年の間に自動修復機能が働いていて復旧可能になっていたシステムを再起動させたんだよ。その中に僕も、そして今、君がいるこの世界を創る機能も含まれていたんだ。僕だって目覚めたのはついさっきだよ。人類連合軍の部隊が来るまでね
「その人類連合軍とやらは、結局あたしたちを攻撃しているわけね?」
――そういうことになるね。味方のはずなんだけど――
センチの哀《かな》しそうな声に、キョウは首を振った。
「向こうがその気なんでしょう。仕方ないわ」
――そうか。ならば僕としては君の判断に従うよ
センチのうなずく気配が電話越しに伝わってきた。そのごくわずかな感触は、ほんとうに錯覚の世界とはとても思えない。
彼女も、かつてこれに似たような装置のことを何度かテストしたことがある。ただしこんな自然なものではなかった。そこにいながらも、そこではないところにいるような感覚だけを与える幻象機械は、どうやら彼女が眠りに就いてから大変な進歩を遂げたらしい。しかし、おそらくあのこと[#「あのこと」に傍点]については改善できていないはずだ。
「で、確認なんだけど」
なんだい?
「やっぱり、この世界で死ぬと、実際にあたしも死ぬんでしょう?」
言っている間にも、衝撃がどんどん地下鉄駅に近づいてきているのがわかる。上から降ってくる塵の量も増えてきていた。
――そうだ。〈死の非可逆性〉は未《いま》だに覆《くつがえ》されていないよ
センチの声はむしろ荘厳でさえあった。
「ま、そういうことね――それで、どうすればあたしはこの世界で、ヴルトムゼストのところまで行けるのかしら?」
ある意味では、この世界そのものがヴルトムゼストなんだ。君を保護しているシステムなんだからね。今、宇宙空間《そとのせかい》ではヴルトムゼストは自動戦闘装置の作用で、防御に専念している。だから君は、ヴルトムゼストの戦闘システムだけをこの世界から切り離してやる必要がある
「どうやって?」
君が、手動戦闘装置の緊急起動回路に反応するだけの思考プロセスデータを機体に送り込むしかない
「なんか、嫌な予感がするんだけど――それって結局、あたしに戦《や》る気になれ≠チてこと?」
そうだ。君が真に、心の底から〈力が欲しい〉と願わなければ、虚人は動き出さないんだよ
「今でも充分、そう思ってるつもりなんだけど――足りないわけね、この程度の意志じゃあ」
そういうことだね
「はあ――」
キョウはため息をついた。
「なーんか、言われるとどーにでもなれってな気になってくるわ――」
その間にも、衝撃はどんどん迫ってきている。
「あと、ひとつだけ訊きたいんだけど」
なんだい?
「あたし以外の、宇宙港に凍結されていた他のナイトウォッチたちはどうしたの? 試作機は全部で二十七体あったはずよ。そいつらはどうしたの。他の世界にでもいるわけ」
この間いに対する答えはすぐには返ってこなかった。わずかな猶予のあとで、センチは沈んだ声で、
――他の者たちはみんな死んだよ。再起動できなかった。虚空牙に破壊された者もいれば、冷凍睡眠中に息絶えていた者もいる
この絶望的な答えに、しかしキョウはため息混じりで、
「――だろうと思ったわ」
と静かに言った。
3.
――あのナイトウォッチ、動いているのか?
太陽系最外縁空域の空間で、宇宙港の残骸《ざんがい》を偵察、調査するように命じられたスコルピオ・スコードロンの一番手である〈ダッタルドルス〉は、宇宙港の周回軌道を漂っている無数のナイトウォッチの残骸の中で、一体だけが妙な軌跡を描いてるのを確認して、おや、と思った。
半世紀前に、この空域は虚空牙の襲来を受けて、完膚《かんぷ》無きまでに破壊されてしまっているはずだ。
生き残りなどいるわけがない。生命反応もない。もし生命反応があったら、それは逆に虚空牙に汚染されていると見なさなくてはならない。
宇宙港のシステムは、一部の予備回路がまだ活動しているようだ。それを破壊して、跡形もなくしてしまうのが彼らスコードロンに与えられた任務なのである。
虚空牙が、人類の文明をどうやら探っているらしいという兆候はあちこちで確認されている。そして放棄されたままの、最も外宇宙に近い人工衛星、宇宙港はその格好の対象にされる可能性が高いから、というのが破壊命令の理由だった。
(しかし――)
とダッタルドルスは思わないでもない。宇宙港は人類の宇宙進出の歴史に於《お》いて記念碑的な存在である。それを破壊していいものかどうか、彼は正直なところ迷っていた。だからこの偵察の一番手に志願したのである。
もしも、それほどの価値が残っていなければ、このまま放置しておいて良いのではないか、と彼は上層部に具申するつもりだったのである。
だが――どうやらそううまくは行かないらしい。宇宙港の機能はまだ、敵に手掛かりを与えるに充分なほど生きているようだ。やはり完全破壊しかないらしい。
宇宙港に直接攻撃を加えるには、辺りに漂っている残骸が微妙に邪魔だった。ナイトウォッチは残骸となっていてなお、その周辺に反撥《はんぱつ》装甲から発する力場《バリアー》を遺してしまっているからだ。永久磁石から磁力がそうそう簡単に消えないのと一緒である。
(あれを撤去しなければならないな。しかしこの軽量機《トワイライト》ではそうそう簡単には行かないぞ)
そう思いつつも、衝撃で吹っ飛ばそうと攻撃を始めたときであった。その奇妙な動きをする残骸を発見したのは。
――なんだ?
彼は、そいつに向けて一撃を放ってみた。
するとそいつは明らかに、その攻撃を弾《はじ》くようにスピンして、跳ね返してしまったのだ。
まさか――生きているのか?″
機械が自動反応で防御しているということも考えられなくはない。しかしナイトウォッチというのは、二重三重どころか十重二十重の安全装置でがんじがらめに管理されているから、たとえ機械が生きていても操縦士《コア》が死んでいたら絶対に動かないようにできているのだ。
しかしそいつは、一撃を跳ね返しただけでそれ以上の動きは見せない。
――――
錯覚かも知れない。ダッタルドルスはさらに二撃、連続してそいつに砲撃を加えてみた。
そいつはひとつを弾き、そしてもうひとつを、あろうことか完全に避けてしまった。
……!
もう間違えようがなかった。そいつは機能を残したままなのだ。
しかし……あのシルエットからして、てっきり――
と彼は思いかけて、そしてはっとした。
そいつには、通常機ならば八基あるはずの武装腕《アームドアーム》が四つしかないように見え、それは失われたからだと思っていたのだが、そうではないのかも知れなかった。あれはあれで、ああいう形状に設計されていた特別な機体なのではなかろうか。そういう存在を彼は戦史で知っていた。最も初期に完成したナイトウォッチの一機で、人型に限りなく近い機体と言えば、それは――
まさか〈ヴルトムゼスト〉なのか? あの伝説の?
他に類がないほどに優秀で、現在に至るまで記録されているデータ上、最強の戦闘適応値を残しているコアが専用機として操っていたという――あの〈虚人〉なのか?
――お、おいみんな! 大変だ!
彼は共感回路を開いて、後方に控えていた仲間を通信で呼びだした。
どうした? まだ宇宙港を破壊していないのか?
隊長であるラギッヒ・エアーから問いつめるような返信が来たが、彼はこれに答えず、
ヴルトムゼストがまだ生きているぞ!
と、端的に状況を報告した。
なんだと? 錯覚じゃないのか。残骸の力場が重なっていることから来る現象というのは考えられないのか
一度ならそれもあり得る。しかし三度目となると話は別だ。仮に力場干渉現象だとしても、異常な状態になっているのは間違いない!
彼の説明に、他の三体のナイトウォッチも周辺空域に駆けつけてきた。
彼らも揃って、問題の人型めがけて同時攻撃を敢行した。
しかし、その攻撃はことごとくかわされたり弾かれたりする。しかもその動きはすべて、その背後にある宇宙港をかばうような形になっていた。
……確かに異常だな
ラギッヒ・エアーが認めた。
しかし、起動しているならどうして反撃してこないんだ?
トリニグトーダがもっともな疑問を呈示した。
コアが生きているとして……そいつは何を考えているんだろうか?
しかし彼らの任務は異常現象の究明ではなく、周辺の破壊にあった。攻撃は続行され、力押しで事態を打開するのが彼らのやるべきことであった。一斉に、砲火が宇宙港を守るヴルトムゼストに浴びせかけられていく。
4.
キョウが地下鉄の出入り口から、夕暮れの街に飛び出すのとほとんど同時に、地下の施設は度重なった上からの衝撃で崩落した。
彼女はほとんど何も考えていない。
ただ、頭の中では一つの言葉がぐるぐると回っていた。
(あたしは、力が欲しいか)
さっきのセンチの言葉を、何度も何度も反芻《はんすう》している。
(力が欲しい、と思うのか)
背後から迫る衝撃に、彼女は振り返る。
その視線の彼方には、薄暗く、大地で燃えさかる炎の照り返しで赤くなっている空に浮かぶ敵がいて、そこから死を吐きだして彼女のいる街を次々と破壊していく。
(力を欲しがって、何を達成しようというのか)
自分は兵器として生まれてきた。来《きた》るべき大破壊のための準備の、テスト用の造られた存在――それが自分だ。
今、自分を攻撃してきている相手は、正にその彼女がテストしていった結果生まれてきた、いわば彼女の子孫たちである。
彼らに反撃して、いったい自分になにか得るところがあるのか? 他に守るべき仲間もいないのに? わずかな延命か? どうせすぐに来る増援を前にしては、如何《いか》にヴルトムゼストでもいずれやられてしまうだろう。彼女にできることはその際に、巻き添えを増やすぐらいしかない。
それでも自分は力が欲しい≠ニ思うことができるのか?
「…………」
心なしか、敵ナイトウォッチの姿が徐々に大きくなっていくような――いや気のせいではない。接近してきているのだ。遠距離砲撃では埒《らち》があかないと、亜空間スライサーで直接こちらをブッた斬《ぎ》るつもりなのだろう。
すぐ間近のビルに直撃弾が来た。上の方で爆発が生じ、その炎と破片が彼女めがけて真っ逆様《さかさま》に落ちてきた。
(力が――)
彼女は落ちてくる確実なる死を見上げながら、他のことはどうあれ、自分はどうなのか、と思った。
自分は他の都合で造られて、自分がやりたいこととか、どうすべきなのかとか、そういうことを全然考えることがなかったことに、改めて気がついていた。
そのことに対して、自分は何を感じているのか――
いや、危険が間近に迫っていて、一瞬後には死ぬかも知れないというときになって、なんでこんなことを考えなくてはならないのか――
「……ちっ」
彼女は我知らず、舌打ちしていた。
彼女は怒っていたのだ。むかむかと腹が立って立って仕方がなかった。
何に怒っているのか、自分でもよくわからなかった。だが彼女が、自分に何があるのかと思ったときに、湧《わ》き上がってきたのは焼けるような苛立ちだった。
力が欲しいとか、戦う理由とか、そんなものは知らない。とにかくムカついていたのだった。
(力が欲しいか、だって――? 知るか、そんなもの!)
彼女がそう思ったとき、上から降ってきていた破片が一斉にその色を失っていった。赤い光を放っていた炎の塊《かたまり》が、みるみるうちに透明の欠片《かけら》に変わっていく。
「…………」
彼女はそのまま立ちつくし、降ってくる結晶の雨をその身に受けとめた。
そして、透き通った結晶はたちまち山となって積み重なり、そしてその形が――人型に変形していく。
ずずず――と地響きを立てながら、水晶《プリズム》の虚人が周囲の破壊を寄せ集めつつ形を成していく。
そして、廃墟《はいきょ》と化した燃える街の中で、その巨大なシルエットは夕焼けの薄紫光を浴びながら、ゆらり、と立ち上がった。
「…………」
闇の中でキョウが眼を開くと、もうそこは彼女にとってお馴染《なじ》みの、ヴルトムゼストのコクピットの中である。
「…………」
またここに、この周囲から押し潰《つぶ》されそうなほどにぎちぎち[#「ぎちぎち」に傍点]で息苦しい機械の塊の中に戻ってきたのだった。
「……あたしは、兵器なんでしょう?」
彼女は上空の、ナイトウォッチ部隊を虚人の眼で睨みつけながら呟いた。
「あたしを攻撃してくる奴等《やつら》は、みんな敵よ。味方のはずも何もないわ。それが兵器にとっての真実でしょう――?」
彼女はまた、かすかに、ちっ、と舌打ちした。
それと同時に虚人は大地を蹴って空へと飛翔する。
彼女にはもうわかっている――この幻の世界の中で彼女が死ねば――死ぬように、この世界の中で見える敵を攻撃すれば、それは現実の宇宙空間でも相手を叩き潰すことになるのだ、ということが――。
虚人は、空からナイトウォッチ部隊がさらに加えてきた攻撃を、その巨大な挙《こぶし》ですべて弾き返した。
その視線は、ナイトウォッチの中のひとつを見据えていた。四機いる中の一機を。
「――あんたよ、あんた!」
それはスコルピオ・スコードロンの先遣機であった、ダッタルドルスだった。
「あたしを、最初に攻撃してきたヤツ! ――あんたがまず、あたしに向かって撃ってきたわよね――っ!」
彼女は、自分でも自覚できていなかったが――まだ、攻撃するのに心のどこかで言い訳を探していたのだ。
*
――動いた!?
虚人の変化にダッタルドルスはいち早く気づいた。
こちらの攻撃を弾き返すのが、それまでよりも遥かに機敏になっていた。
――来るぞ!
仲間たちにも注意した。それが終わるか終わらないかのうちに、もう敵は行動に移っていた。
接近しようとしていたこちらの動きを先読みして、偏差射撃を加えてきたのだ。
隊列を組んでいたスコードロンは、あわてて散開した。
ヴルトムゼストは自分の周囲に漂っている残骸を強引に掻《か》き分けるようにして、急接近してくる――それも、
……私に、か!?
ダッタルドルスは、敵の狙いがまず自分であることを悟った。
なんで今まで攻撃してこなかったのか、それはわからなかったが、しかしさっきまでの敵とはまったく違っていた。
もう、得体の知れない異常な存在ではない――こちらからの攻撃に、そのまま反撃してくるごく当たり前の戦闘兵器になっていた。
――どうする?
戦力比からいって、このまま攻撃を続行するのは得策ではない。しかし退却するにしても、こちらから仕掛けた戦闘である以上、どこで踏ん切りをつけるか、その判断は、どうすればいい――
悩みながらも、彼は迫りつつある敵めがけて、さらに攻撃を加えた。
だが、それが決定的になった。
*
キョウはヴルトムゼストを、周りのことなどお構いなしで疾走させた。虚人の巨大な手足が、周囲のビルを蹴倒し、踏み潰し、粉砕しながら敵の方へと突進する。
「――うおおおおおおおおおおああああああああっ!」
雄叫《おたけ》びを上げて、吶喊《とっかん》する。相手に聞こえているとは思わないが、しかしそういう勢いで迫っているという迫力は向こうも感じるはずだった。
しかし、それでもなお、そいつは虚人に集中した攻撃を加えてきた。それはこの世界では複数の赤い光球に見える。
「――ええい、こンちきしょーがッ!」
彼女は苛立ちも露《あらわ》に喚《わめ》きながら、飛んできた光球をよけるどころか、それに向かって虚人を跳ばせた。
両手を前に突き出させ、その手のひらに反撥力場を収束させる。
激しいスパークが生じ、ヴルトムゼストはその集中砲撃をすべて、その手で掴み取って[#「掴み取って」に傍点]しまった。
「――ずあっ!」
訳のわからない叫びを上げながら、キョウは光球をそのまま相手めがけて思いっ切り投げつけた。
現実の宇宙空間ではどういうことになっているか、そんなことは彼女の知ったことではなかった。来たものを、そのまま打ち返したのだ。
ダッタルドルスは避けきれなかった。
その自ら放った攻撃は、彼の機体の後部に直撃し、これを――
――ぞりっ、
――と抉《えぐ》り取ってしまった。
たちまち機体は安定を失い、激しくスピンしていく。
*
――ダッタルドルス!
他のナイトウォッチたちは、その時点で既に退却に入っていた。ただ一機だけ逃げ遅れたダッタルドルスのみが、敵の反撃を受けて直撃を喰らってしまったのだ。
――駄目だ
ラギッヒ・エアーの苦い声が部隊の者たちの共感回路に響いたとき、ダッタルドルスは機体耐久限界を超えて、虚空に爆発四散した。この太陽系最外縁空域における戦闘での、スコルピオ・スコードロン最初の犠牲者だった。
これ以上の戦闘は危険だ。いったん完全に撤退するぞ。敵の射程外に出る
し、しかし――!
奴は追ってこない――宇宙港から離れられないはずだ。もともとテスト機で、機体維持システムの半分はあの人工衛星の中にあるんだからな
ラギッヒ・エアーの声は落ち着いていた。
……了解
他の者たちも、首肯《しゅこう》せざるを得ない。
戦火に一区切りがつき、冷たく凍《い》てついた真空の宇宙に、つかの間の平穏が訪れた。
「…………」
キョウは、ヴルトムゼストのコクピットの中でぐったりと脱力していた。
空は、もうすっかり暗くなって、夕方から夜になっていた。
虚人の眼から、その夜空の星を見上げている。
暗い空の中で、それはちらちらと瞬《またた》いて、きらきらと宝石を散らしたかのように美しかった。
「……なんだ、あれ?」
彼女が知っている星空とは、見上げるものではない。自分の周囲に充満する底無しの暗黒の中に散らばっている瞬くことなどないただの点≠ノ過ぎない。
この偽物の地上から見上げるそれは、実際に宇宙に出てきてしまった人間が見ると、なんだか――全然、星に見えない。
わかっている――あんな風に瞬いて見える星々は、架空の世界にある偽りの輝きに過ぎないのだ、ということが。
それでも、彼女はそれをぼーっ、と眺めていた。
「あれを見て、ここに来ようって思っていたのかしら――人類は」
彼女はひとりで、ぶつぶつと呟いていた。
宇宙に来たがった、その彼らはこの太陽系最外縁空域まで来たときに、果たしてそのときのときめきの半分でもいいから持ち続けることができていたのだろうか――彼女はそれが知りたいと思った。
あなたが希望と呼んでいるものは、ほんとうに希望なのか
ふいに、あのチラシに書かれていた文が頭に浮かんだ。
何倍という人々をあてのない彼方に送り出した無茶な外宇宙進出は、実際に星の世界にまでやって来たときの幻滅の大きさを、なんとか埋め合わせようとしたせいじゃなかろうか――キョウはそんなことを、ぼんやりと思っていたのだ。
夢を託すには、この虚空はあまりにも冷たくて寂しすぎる。
しかし彼女の眼に今、映っている星空には、その彼方には素晴らしいなにかが無限に広がっているような、そういう光が確かに存在していた。
「――どっちが虚偽《うそ》だったんだろう……」
ぼんやりと彼女は、しばらくの間そうやって動こうとしなかった。
ヴルトムゼストが分解し、破壊された世界を補填《ほてん》し修復していく。
その光景を眺めていたキョウの後ろに、いつのまにかセンチが立っていた。
「――お疲れさま」
彼は相変わらずのにこにこ少年ぶりだった。
「あんたも出てくるの? この世界に」
彼女は、センチの方を振り向きもしなかった。
「僕は公坂尚登っていう名前で、この世界での君の世話を色々とすることになったよ」
「まさか、ふたりっきりじゃないでしょうね」
「宇宙港に残っている人工知能をかき集めて、今パーソナリティを揃えているよ。普通の街と同じくらいの人口は揃えられる。――まあ、僕としてはふたりっきりでも構わないんだけどね」
「――――」
センチの冗談とも本気ともつかないことばを無視して、彼女は自分が着ている服の胸ポケットに手を伸ばした。何かがそこに入っていたのだ。
一枚のカードが出てきて、そこには鷹梨杏子≠ニいう名前が書かれていて、彼女の写真が貼ってあった。学生証である。
「これがあたし≠ゥ――本物の、昔の世界にいたはずの鷹梨さんが怒らなきゃいいけどね」
へっ、と彼女はかるく鼻先で笑った。
そして、びくっ、と顔を上げる。しかしすぐに肩をすくめて、頭を振る。
「? どうかしたのかい」
センチの質問に、キョウは「いや――」と苦笑いを浮かべて、
「まだ、風っていうのに慣れていないようね――首筋をさらっと撫《な》でられると、どうも」
と言った。
*
……その後、再攻撃に失敗したスコルピオ・スコードロンはさらに〈ザングディルバ〉も失い、部隊はトリニグトーダとラギッヒ・エアーの二機だけになってしまった。
だが、事ここに至っても、なお中央司令部たるセントロスフィアからの指令は貴下の戦力のみで攻撃を続行せよ≠ニいうものであった。
彼らが完全にもう消耗したもの≠フリストに含まれてしまっているのは間違いなかった。損害分は既に計上済みなのだろう。
どうする?
トリニグトーダが隊長に訊ねる。
どうしようもあるまい。作戦を続けよう″
ラギッヒ・エアーは相変わらず、機械のような冷たい声を出した。
「しかし、正直言ってもう手詰まりだわ」
戦術ナビゲーションであるヨンがため息混じりで言った。
「相手はさすがに兵器開発史に名を残す虚人使い≠セけのことはあるわ――ザングディルバのやられ方を見たでしょう? まさか安全装置を逆用してこっちに精神的攻撃を加えるとは思わなかったわ。戦闘に対する一級のセンスがあるわ、彼女は」
ヨンは頭を振って、そしてふたつのナイトウォッチに向かってきっぱりと言った。
「戦術立案係としては、もうひとつのことしか勧められないわ。このまま待機を続けるのよ」
冷凍冬眠か? 百年二百年と、敵に動きがあるまで待ち続けるわけか
トリニグトーダが、ふっ、と鼻先で笑いながら言った。
ぞっとしない話だな――あいにく、私には自分が生きてきた時代から切り離されてまで、戦い続けるだけの精神力はないぜ
「しかし、他に方法はないわ」
そうかな? 最初にあんたが提案した作戦――まだ使えると思うが
このトリニグトーダの言葉に、ラギッヒ・エアーが、
なにか策があるのか?
と訊ねた。
まあな――奴がザングディルバを倒したのと同じやり方で、こっちから仕掛けることもできると思うんだが
駄目だったら、そこまでだ。どうせ戦って死ぬ以外の未来など我々には許されていないしな――という最後の言葉を、しかしこの改造人間の操縦士《コア》は口にしなかった。
V.虚偽は敵なり The Lie is The Enemy
1.
「――あ、鷹梨さん!」
日向麻里は登校の途中で、昨日の日曜目に一緒にケーキ屋に行ったクラスメートを見つけて、声を掛けた。
ん、とキョウは彼女の方を振り向いて、
「ああ、麻里さん! えーと――朝の挨拶《あいさつ》はなんつったっけ――そうそう、おはよう、だったわね」
などと例によって訳のわからないことを言いつつ、彼女に手を振り返してきた。
「昨日はありがとね」
彼女は麻里の方に駆け寄ってきて、いきなりお礼を言った。
「え? ――ああ、ラファエロに案内したこと? 大したことじゃないわよ」
彼女は、キョウが知らなかったそのケーキ屋のことを教えてあげたのである。
「いや、生命の恩人だからさあ」
「そんな大袈裟な――」
麻里は笑った。
するとキョウは少し寂しそうな表情を見せた。え、と麻里が違和感を持つ間もなく、すぐに元の笑顔に戻る。
「いや、ほんとに感謝してんのよ」
「それじゃあ、今度また一緒に行きましょうよ」
「いいわね、センチの奴に奢《おご》らせよう」
二人の少女はけらけらと笑った。
授業中、麻里はちょっと気になったのでキョウの方をちらちらと見ていた。
彼女は、ぼーっ、と窓の外を見ていたかと思うと、ずーっと先生の顔を見つめていたり、黒板の字を全然見ずに、ノートにひたすら何かを書き込んだりしていた。
「えーと、ここを鷹梨」
と先生に指名されると、ものも言わずに立ち上がり、黒板に行き、問題の数式をすらすらと解いたかと思うと、答えが出ているのにその後も続けて何やらおそろしく難しい数式をチョークをかちかちと鳴らしながら書きまくり、しまいには最初の問題を消してしまってそこに書いていった。みんなが茫然《ぼうぜん》としていると、途中でチョークを持つ手が停まり、
「――やっぱ無理ね、相剋渦動励振原理《そうこくかどうれいしんげんり》の限界を突破する虚数の存在は証明できないわ」
などと訳がわからないことを言った。
「――お、おい鷹梨」
先生がおずおず、と言った調子で声を掛けると、彼女は「ああ」と軽い声で返事して、
「すんません、すぐに戻しますから」
と、今自分が書いていたやたらに込み入った数式を全部消して、さっきまで書かれていた、随分と簡単に見える問題と答えを再現した。
「――よ、よろしい。正解」
先生は仕方なくうなずいた。
クラス中の者たちも、全員ぽかーん、としている。それに向かって彼女は少しおどけたように、
「ごめんね、反応に困るコトしちゃって。ささやかなジョークよ」
と、これまた反応に困るようなことを言った。
その後は特に何事もなく、授業は平穏無事に進んでいった。
昼休みになり、麻里はキョウを昼食を一緒にどうかと誘ってみた。
「昼飯? ――学食っつーんだっけ?」
キョウは少しきょとんとした顔をしていたが、すぐに眼を輝かせて、
「うんうん、行こう行こう。血糖値が落ちてる感覚がさっきからしてたのよ」
と、妙に科学的なものの言い方をした。麻里はついぷっ、と吹き出すと、彼女も「へへ」と笑って、
「いいわね、こういうのって」
と明るい口調で言った。
麻里は、他にも瑠実と清香を誘って、四人で食堂に向かった。
「ねえねえ鷹梨さん、あの黒板にさっき何書いていたの?」
瑠実が興味|津々《しんしん》という感じで訊《き》いてきた。
「ああ――いや、ちょっとわかんない問題があって、ついね」
キョウはさばさばとした表情で言った。
「なんかすっごい難しそうなことだったようだけど――ああいう勉強ってどこでするの?」
清香も質問してきた。やっぱり彼女たちも、これまで彼女と話したいのを我慢していたらしい。麻里というつながりができて、ここぞとばかりに話しかけていく。
それにキョウは別に嫌な顔をするわけでもなく、かといっておもねるでもなく、自然に話している。
「いや、実体験よ。数学ってのは、それが実際に使われる現場に立たないと、なかなか理解できないもんよ」
「使うって――どこで?」
女子高生には微分積分でさえ、人生のどこで使ってよいものかどうかわからない。
「いや、人間ってのは実は生きているだけで数学を実践してるのよ。難解に見えるのは、それで証明できるものがあまりにも普通の生活上では当たり前のことだから。もともと数式というものだけで世界を表現しようって芸術だからね。大昔の数学者は如何《いか》に自分の魂を空っぽにできるかっていうことを、魂を懸けてやってた訳ね」
何を言ってるのか、さっぱりわからない。キョウは麻里たちがきょとんとしているのにもかまわず、
「あたしはそれに比べりゃ散文的よね――A地点からB地点に移動するのに、最も効率のいい方法はなにか、って計算するぐらい。まったく地面という変換式があると、動くのってえらいややこしくなるわね」
と、淡々と自然に喋っている。頭がいいとひけらかしているようでも、嫌味というのでもなく、ただ思ってることを素直に言っている感じだった。
「なんか――かっこいいよね」
瑠実が顔をキラキラさせてキョウを見つめている。
「は?」
キョウはそう言われて、ぴんと来ない顔である。
食堂に着いて、四人の少女はお喋りしながら今週のお薦めランチを食べた。
キョウは例によって、おかずを一口食べては眼を白黒させている。
楽しい時間はあっという間に過ぎて、午後の授業が始まってしまった。
*
(不思議な人よね――)
守岡瑠実は、鷹梨杏子のことが妙に気になって仕方がなくなってきていた。
昨日、ちょっと体調を崩して麻里との買い物に行けなかったのが悔やまれる。そのときに麻里は彼女とたまたま出会って、それで仲良くなったのだという。そこに自分もいたかった。
午後になっても、キョウは相変わらずだ。授業中はぼーっとしている。
「ここはテストに出るから、ノートを取るように」
先生がそう言ったので、瑠実はその黒板の字を書き写そうとした。
だが、どうした訳かその手が、急に強張《こわば》って動かなくなった。
(――え?)
字を書こうという意志と、指先の感覚が全然一致しない。身体と頭が分裂してしまったような感じだった。
(――な、なんなのこれ――)
彼女はパニックに襲われた。しかし悲鳴も口からは出ない。そして、動かなかった指が急に動き出した――ただし、ひとりでに。
ノートにいきなり、字をものすごい勢いで書いていく。それを彼女はまるで他人が書いているかのような遠いところから眺めているしかない。それはこんな文章だった。
観測機の解析限界を超える空間超短波に乗せて敵性存在がシステムに侵入。機能の大半がインタラプトされつつあり。観測機の解析限界を超える空間超短波に乗せて敵性存在がシステムに侵入。機能の大半がインタラプトされつつあり。観測機の解析限界を超える空間超短波に乗せて敵性存在がシステムに侵入。機能の大半がインタラプトされつ――
字を書いている自分の手を茫然《ぼうぜん》と見つめながら、瑠実は、その意識はだんだんと思い出し始めていた。
そうだった――自分は、その正体は宇宙港に設置されている観測機の一つに過ぎないのだ。その使命は彼女を守ること――だが、ああ、しかし、今や瑠実はもう彼女としての意識を保っていられない。
なにものかが彼女の意識を支えている回路に|割り込み《インタラプト》を掛けてきていた。そしてそれはもう致命的なまでに侵入してしまっていて、瑠実は――この世界では鷹梨杏子のクラスメートということになっている少女の意識は、その侵入者のそれにどんどん書き換えられていってしまった。
(あ、ああ――鷹梨さん……!)
彼女はなんとか抵抗しようとした。自分たちはキョウを守ることだけが存在価値なのだ。その自分が敵の手に落ちるなどということはあってはならないことだ。そんなことになるくらいなら、自らの手で自分を彼壊しなければ――
――しかし、手遅れだった。自爆装置は真っ先に乗っ取られた機能の一つだった。彼女は他の機械たちに危機を告げることもできず、教室の真ん中で、ただノートに書いているという普通の姿勢を維持したまま、心を完全に消されていった。
最後に、自分の存在を奪い取ってしまった相手の名前がちらと意識によぎった。
(――トリニグトーダ=j
そして、ぶつん、とスイッチを切るようにして守岡瑠実というパーソナリティを担当していた人工知能はその連続性を絶たれた。
(――よし、乗っ取り完了だ)
トリニグトーダはゆっくりと眼を開けた。今や彼は、架空世界の中で少女の姿をして、彼女の眼から教室を見ている存在になっていた。
目の前のノートには、さっきまで守岡瑠実だったものが必死に危機を表そうとして書き込んだ字が並んでいた。
「――――」
トリニグトーダである瑠実は、そのさっきまで自分≠ェ書いていた字を静かに、的確に消しゴムで消してしまった。
(さて――どいつがヴルトムゼストだ?)
近くにいるはずの敵を求めて、少し教室を見回す。
大して苦労もせずに、すぐにキョウを見つけた。すぐにわかった。こんな世界にいる癖に、その女子高生には戦士の気配が丸出しになっていたのだ。
瑠実は誰にも気づかれないほどかすかに、口元を歪《ゆが》めてにやりと笑った。
2.
(――あー、退屈だわ)
キョウは黒板に書き付けられているチョークの字を見ながら心の中で嘆息していた。
現代国語とかいうこの授業は、彼女にはまったく理解不能の代物《しろもの》だった。
教師が黒板に「狂言の神」とタイトルを記した、小説というテキストが教科書に載っている。しかしこれが彼女にはまったく訳がわからないのだった。
――今夜、死ぬのだ。それまでの数時間を、私は幸福に使ひたかつた。ごつとん、ごつとん、のろすぎる電車にゆられながら、暗鬱でもない、荒涼でもない、孤独の極でもない、智慧の果でもない、狂乱でもない、阿呆感でもない、号泣でもない、悶悶でもない、厳粛でもない、恐怖でもない、刑罰でもない、憤怒でもない、諦観でもない、秋涼でもない、平和でもない、後悔でもない、沈思でもない、打算でもない、愛でもない、救ひでもない、言葉でもつてそんなに派手に誇示できる感情の看板は、ひとつも持ち合せてゐなかつた。私は、深刻でなかつた―
……何も言うことがないのなら、そんなに言葉を並べるな、というような気になってくる。
他にも教師は「心中未遂」とか「罪の意識」とか色々と書いているが、彼女はほとんど興味が持てない。小説というのは、確か架空のものを使って行う一種の思考実験のはずだ。その文章の中で何が起ころうとも、それは現実のことではない。たとえ実際に起きたことを元にしようとも、小説の中で書かれていることはやはり架空のことなのだ。
(しかし――それはあたしも同じか)
彼女は心の中で苦笑した。
(確かに――あたしにも、派手に誇示できる感情の看板は何にもないわね)
それでも彼女は、こんな架空の世界に頼って精神を安定させてまで、戦い続けている。だがそこにはなんにもない。深刻でないのだった。
ただじりじりとする苛立《いらだ》ちがあるだけだった。
教科書に載っているのは、小説の一節だけなので、この作品の主役の男が作中でどうなるのかはわからなかった。
(このこいつ≠ヘどうなったのかしら――)
作家本人の方はもちろん、遥かな太古の時代に死んでいる。彼女が知りたいのはあくまでもこの小説の中での登場人物の運命だった。なんとなく気になった。
そんな風にぼんやりしていると、現代国語の授業が終わった。
次は体育ということらしい。キョウはよくわからなかったので、他の生徒たちの様子を観察することにした。
「じゃあ鷹梨さん、行きましょ」
と麻里が声を掛けてきた。どこかへ行けばいいらしい。彼女は「ええ」とうなずいた。さっき一緒に昼食を食べた瑠実という娘も一緒に、彼女たちは更衣室に向かった。
(体育――たしか運動をして体力の補強を図るっていうカリキュラムだったわね)
知識としては持っているのだが、実際の体験ではどんなものなのか知らない。戦闘術のレクチャーでもするのだろうか? 彼女よりも強い教師でも出てくるのなら、これはなかなか興味深いものではある。
更衣室に他の女子たちと一緒に入って、何をするのかと思ったら、みんな服を脱ぎ始めたので、ちょっと驚いた。
何やら他の服を鞄から取り出して、それに着替えている。
(着替えるのか――)
彼女も自分の鞄を見てみると、たしかにしっかりとその服が入っていた。入れたおぼえは無論ないので、この鞄にはこういう服が入っていると定義されているのだろう。
彼女の横では、麻里と瑠実が並んで着替えていた。キョウもボタンを外して、上着の袖《そで》から腕を抜こうとした――そのとき、
(――!?)
本能的に危機を感じて、彼女は周囲に鋭い視線を放った。
なんだかわからない――しかしそのときキョウは、一瞬だけ氷のように冷たい殺気を感じたのだ。
しかし、そこはただの女子更衣室であり、誰も彼女を襲おうというわけでもない。みんなキョウのそんな態度の急変にも気づかず、お喋りしながら体操着に着替えている。
(――気のせい、か?)
キョウは、少し神経質になっているのかなと思って嫌な気持ちになった。
(袖から腕を抜こうとする一瞬、あたしの腕が使えなくなる――その際《すき》を突いて攻撃してくるような気がしたんだけど――)
そんなことがあるわけがなかった。この世界でも、危険は確かにあるかも知れないが、それは事故などによるものだ。ここは戦場ではないのだから。
彼女はため息をついて、あらためて体操着に着替えた。下着の扱いに迷ったが、他の者たちと同様に着たままでいることにした。宇宙港での戦闘服は素裸の上に着るからどうしようかと思ったのだが、肉体の細かい皮膚反応まで拾うデータスーツではないのだから問題ないのだろう。
彼女たちは揃って校庭に出た。空はどんよりと曇っていた。
現れた女性の体育教師は別に普通の人間で、戦闘教官ではなかったので、キョウはちょっと苦笑した。さっきのことといい、自分はどうにも殺伐《さつばつ》としたモノの捉《とら》え方をしすぎるな、と自分がおかしかったのである。
「今日はマラソンです」
と教師が言うと、みんな「えーっ」と不満の声を上げた。
「はいはい、無理はしなくていいから、きちんと走ってください。マラソン大会も近いんですから、ここで慣れておかないと本番がキツイですよ」
ぱんぱんと両手を鳴らして皆を鎮める。生徒たちは「はーい……」と気のない返事をした。その様子もキョウにはおかしい。
くすくす笑っていると、横にいた瑠実が、
「鷹梨さん、走るのに自信ある?」
と訊いてきた。
「そうね……あんまり走ったことはないわ」
そういうトレーニングはしていない。生まれたときから体力は調整済みなのだ。
「じゃあ、一緒に走りましょうよ」
「そうね――いいわよ」
断る理由もないので、キョウは素直にうなずいた。どのくらいのペースで行けばいいのかわからないし、たぶん本気を出したら彼女はこの世界の中でも異常な速さで走ってしまうはずだ。誰かに付いて行けば突出しすぎる心配はない。
「今日は順位とかは別に記録しないから、みんな気軽に走ってちょうだい」
教師のやや緊張感に欠けるかけ声で、女子生徒たちは一斉に走り出した。
*
(――あれ?)
麻里は、瑠実とキョウが一緒に、先頭グループに混じって走っていくのを見て変だなと思った。
キョウはまだしも、瑠実というのはいつも体育では明らかに手を抜く方で、マラソンなどでは最後尾の方でほとんど歩いているといったようなタイプなのだ。
(瑠実も、鷹梨さんと仲良くなりたいのかしら――)
ちょっと嫉妬《しっと》のような気持ちを感じつつも、しかし麻里はマラソンが苦手なので、仕方なく二人が彼方に走り去っていくのを見送るしかなかった。
3.
走ると、呼吸が速くなるのが体感できる。キョウは汗ばむ自分の身体を認識しながら、現実世界の、ヴルトムゼストの中に居続けているはずの自分の身体はどうなっているのだろうかと思った。同じように発汗しているのか、それともこの汗も疑似体験によるもので実際には出ていないのか。
(――出てる気がするわね)
ここまで感覚が本物だと、身体の方が精神に同調して、肉体反応を生じさせているだろうと思った。精神と肉体はそれほど分離した存在ではないのだ。だからこそ、ここでの死はそのまま現実の死に繋がっている。
走るのはなかなか気持ちが良かった。身体を動かすというのは、戦闘機を操縦するより遥かに人間本来の活動に近い。自然なことはそれだけで爽快《そうかい》感を呼ぶ。疲労も生じるが、彼女にはこのわずかに溜まっていく疲れも心地よい。
(生まれてこの方、あたしは不自然なことしかしてこないで生きてきてたしね――)
苦笑いと共にひとり呟く。
すると横を併走している瑠実が、走りながら、
「なに笑ってるの? 思い出し笑いかな?」
と訊いてきた。人なつっこい笑みを浮かべている。
「いや――そういう訳でもないんだけど、ね」
キョウも走りながら軽く肩をすくめた。
「ああ、そう言えば、あのさあ――」
「なに?」
「さっきの、現国の時間でやった小説なんだけどさ」
「ああ、あの大昔の」
「そうそう、あれって、あの後の話って知ってる?」
なんとなく訊いていた。別に深い考えがあったわけではない。
「確かあの作家は、懲《こ》りずにまた心中したんでしょ。成長しなかったというか」
瑠実はせせら笑うみたいに言った。
「いや、作家じゃなくてさ。あの小説の話よ。電車に乗って行った後、あの男ってどうなるのか、知らない?」
「さあ――知らないわ」
瑠実は素っ気なく言ってから、くすくすと笑った。
「でも、おかしいわね? 鷹梨さんがそんなことを気にするなんて」
「いや、なんか、ね――」
「あんな自殺志願者に共感するとは――弱気になっているのかな? らしくないんじゃないかな」
「別に自殺志願ってわけじゃ――」
とキョウが少し反論を試みようとしたとき、瑠実はくっくっくっ、と笑って、
「そんなはずはないよな――そうでなきゃ、仲間を二人も殺されたこっちの立つ瀬がない。死にたきゃ、あのときにやられていれば良かったんだから」
と言った。
「――――」
キョウは足を停めず、そのまま瑠実と併走する。
周囲は、相変わらず女子生徒たちが走っている。彼女たちの前と後ろにもちゃんとみんな付いてきている。
その中で、この二人だけが異様な空気に包まれていた。
「いや――最初は不意を突いて、一気に仕留めようかとも思ったんだけど――さすがに隙《すき》がない。だからこうやって告白することにした」
「――――」
やはり、さっきの更衣室での殺気は錯覚ではなかったのだ。
おそらく――いや確実に、こっちの不完全な安全装置に共感回路を使って|割り込み《インタラプト》を仕掛けられているのだ。
「……どっちだ?」
キョウは静かに訊いた。
「ん?」
「スコルピオ・スコードロンはあと二機しか残っていないはず――あんたはそのどっちよ?」
「どっちでもいいだろう? どちらにせよ、ヴルトムゼストからすれば大した戦力じゃあない――ただし、それは外の世界では、の話だが」
瑠実は薄笑いを顔に貼り付けている。
「この世界の中では、鷹梨杏子――あなたも私も同じ人間≠ノ過ぎないからな。それとも私を攻撃するのに、虚人で街ごと吹っ飛ばしてみるかい?」
「――この世界で死んだら、あんたも死ぬのよ。わかっているでしょうけど」
「ああ――それはもちろんだ。しかしそれも悪くないかも、とか思うんだよな、実際のところ」
「……どういう意味かしら?」
「底無しの空っぽの絶対真空で蒸発するよりも、たとえ幻の世界でも大地の上で死ぬ方が、人間としては自然だとは思わないかい?」
「…………」
キョウは応《こた》えない。
周囲には、他の女の子たちが走る息づかいや足音が響いている。
「ところで――人類連合軍のセントロスフィアは、あなたが虚空牙《こくうが》に汚染されていると言っているんだが、どうかな、その自覚はあるかい?」
「さあね」
キョウは投げやりに言い、そして逆に訊き返した。
「そもそも、虚空牙ってのはなんなのよ? あたしは別に直接やり合った訳じゃないから知らないのよ」
「いい質問だ。しかし――それに答えられるものはこの世には存在しない。きっと虚空牙自身でさえ、我々人間にわかるように自分たちのことを説明できないんじゃないかな?」
瑠実は走りながら、リズミカルに、歌うように言った。
「なによそれ――訳のわかんないモノに、訳わかんないままボロ負けしたっていうの? そもそもなんで戦ったりしたのよ」
「さあね、私は襲来後に造られた合成人間だから、その辺のことはよく知らない。どっちが先に引き金を引いたかもわからないんだ。一番最初に遭遇した連中は壊滅してしまったというからな。案外、人間の方が一方的に悪いのかも知れないし」
くすくすと笑いながら言う、それはひどく退廃的な口振りだった。
「虚空牙というのは、もしかすると人間の無意識の良心が創り上げた罪の意識≠フ具現化かも知れない。そう、さっきの作家の話と一緒さ。ナイトウォッチなどというとてつもない超絶破壊兵器まで創り上げてしまって、人間はなんという罪深い存在なのだろう、生まれてすみません、いっそ死んでお詫《わ》びを、という――我々は自らが創り上げた幻影を相手にしているだけなんじゃないかな、あるいは」
「――かも知れない、かも知れないって全部、仮定じゃないの」
キョウがうんざりしたような吐息をついた。
「そんなものに付き合わされちゃたまらないわ。あたしは曖味《あいまい》なことは嫌いなのよ」
「それは同感だが――しかし我々は、もうその状況にどっぷり浸かってしまっている。今さら後戻りはできないんだよ」
瑠実の声から笑いが消えて、気配がすうっ、と冷たくなる。
「…………」
キョウも口を閉ざす。
しばらくの間、少女の姿をした者たちは二人並んで、同じペースで、だらだらと走り続けた。
その均衡が崩れるときが来た。
別に彼女たちは、マラソン専用コースを走っているわけではない――人通りが少ない一般道を使っているのだ。その途中には、避けてはいても、どうしても信号が横切ることになる。そして彼女たちのすぐ前の歩行者信号の青が点滅していて、そして赤に――停まることを要求されたとき、その向こう側に誰かが現れた。
センチュリオンだった。
彼は手に、光線銃のような形をしたモノを持っている――それはこの偽りの世界の中で不適当な存在を消してしまうイレイザー・デバイスだった。一番先に動いたのはキョウだった。
ばっ、と横を向いて、瑠実の足首を狙って滑るようにして蹴《け》っていった。
同時にセンチが、瑠実に向かって武器の銃口を向けている――だが、瑠実はそれらとほぼ同時に動いていた。
横でも後ろでもなく、上へ――彼女は跳躍していた。
すかっ、とキョウの蹴りが空振りし、センチの狙いが逸《そ》れる間に、瑠実の姿は車道のど真ん中に降りている。そこに青信号だから車が思いっきりアクセルを踏んだ状態で突っ込んでくる。
瑠実は避けなかった。
少女の姿をした者は、そのまま片腕を横に突き出した。まるで手のひらで突進してくる車を受けとめようとするかのように――しかし質量差がありすぎて、そんなことはいくら力があっても不可能である。
その通り、そんなつもりではなかった。
車は瑠実に激突し、そして――彼女の身体はその車の加速度のまま、吹っ飛ばされた。
いや――わざと飛ばされたのだ。
「――!」
キョウが身を起こし、センチが狙いを変えようとしたときには、もう瑠実は車に撥《は》ね飛ばされた勢いのままに高速で移動を終えていた。
ずっと離れたところに着地して、そしてキョウとセンチの方をちらと見て、にやりとした。
その唇がこう動くのを、キョウは確かに見た――
どこかから、ずっと見ているぞ――
そして瑠実の姿は物陰に飛び込むようにして去り、あっという間に見えなくなった。
「――くそっ!」
キョウは舌打ちした。
センチがあわてて、彼女のところに駆けてくる。
「ご、ごめん遅れて――」
「いや――あんたまで|割り込み《インタラプト》されてなくて助かったわ」
キョウはぶすっとした顔で言った。
周囲では、他の女生徒たちが大騒ぎになっている。
「い、今――守岡さんが轢《ひ》かれて―^」
「で、でも――どこにもいないわ」
前部が大きく凹《へこ》んだ車の運転手もぼんやりした顔で外に出てきたりしている。
この騒ぎを見て、キョウは顔をしかめた。
「センチ、なんとかして」
「ああ――しかし、あの敵の方はどうにもならないよ」
「今、この騒ぎを鎮《しず》めてくれればいい。鬱陶《うっとう》しいわ」
彼女が言うが早いか、他の者たちの動きがぴたり、と時間が停まったかのように静止した。
その中で動いているのはセンチとキョウだけだ。
「切ることができない安全装置を逆手に取られたわ……」
キョウは忌々《いまいま》しげに言った。そしてセンチの方を見て、
「あんたにも、この世界のどこにあいつが逃げていったのか、それを突きとめることはできないんでしょう?」
「……残念ながらね。僕は確かにこの世界の管理をしているけれど、それは前もって設定されていたシステムに乗っかっての話だ。僕にできることは全体の大雑把《おおざっぱ》な調整ぐらいで、神様のように全知全能とはいかないんだよ」
「あいつの乗っ取った守岡瑠実≠セった人工知能の方はどうなったのかしら?」
「彼女を担当していたのは、宇宙港の端にある電波検知システムの人工知能だった――独立性が高くて、だから敵につけ込まれたんだろう」
「その本体≠フスイッチは切れないのよね」
キョウは確認のために訊いた。それができるなら、センチはとっくにやっているだろう。
「宇宙港にはもう、作業ロボットの一体も残っていないんだ。動かせる範囲のあらゆる機器を使っても、離れたところにあるパラボラアンテナであるそれ≠フ作動を物理的に停めることはできない。動力源も、昔から蓄積されていたバッテリーを使っているらしいし――」
センチは辛《つら》そうに呟いていたが、少し気を取り直したように、
「ただ、この世界の中でなら、警察をはじめとする世界中の者たちに守岡瑠実を捜させるぐらいのことはできるよ」
と言った。
この提案に、しかしキョウは頭を振った。
「やめときなさい。どうせ無駄よ」
「え?」
「相手はナイトウォッチのコアなのよ。この世界の連中が千人、束になってかかっても出し抜ける相手じゃないわ。下手に探索なんかさせたら、かえってつけ込まれる元をつくるようなもんだわ」
彼女はため息混じりに言う。
「良くも悪くも、この時代の戦闘に対する意識は原始時代のレベルと同じよ。数世紀ぶんの進歩を遂げたあたしたち[#「あたしたち」に傍点]には通用しないわ。そして――それはあんたも同じよ、センチ」
彼を見つめながら、彼女はうなずいてみせた。
「あんたは戦闘用に造られた人工知能じゃない。他のものを出し抜いて隙を突くようにはできていない」
このキョウの言葉に、センチは哀《かな》しそうな顔になった。
「……役には立てないかな」
「余計なことをしないのが、充分に手伝いになるのよ。――ああ、そうだ」
彼女は先の潰《つぶ》れた車に眼をやって、言った。
「センチ、これからはあんたが守岡瑠実≠ノなってくれないかしら?」
「は?」
突然の提案にセンチはきょとんとした。
「彼女は車にはねられて、そのまま消えちやったんじゃ具合が悪いでしょう? 誰かが代わりをやらなきゃ。ついでに、あんたがあたしの側《そば》にいてくれると助かるし」
「――まあ、姿を真似るのは難しくないけど――僕には瑠実ちゃんのパーソナリティはないんだよ?」
「演技すりゃいいでしょ」
キョウは素っ気なく言った。
「――やれやれ、女の子になるのかい? 僕の基本設定は男の子なんだぜ」
文句を言いつつも、センチは自分の姿を守岡瑠実のそれに変えた。
「さて――後はちょっと細工をすればいいか」
キョウは停まったままの他の者たちに目をやって、そしてやや哀しげに、眉《まゆ》をひそめた。
本物の守岡瑠実と、もっと話をしておきたかったな――と、そんな思いが脳裡《のうり》をちらとかすめたのだった。
*
――はっ、と皆が我に返ったとき、目の前にある風景は、印象とは少し異なっていた。てっきりクラスメートが車にはねられたのだと思ったのだが――どうやら車がぶつかったのは信号が設置されている電信柱で、はねられたと思った少女は、そのすぐ前の歩道で腰を抜かして倒れ込んでいたのだ。
(――あれ?)
と皆はこのズレに戸惑ったが、すぐにその少女のところに駆け寄った。
「瑠実、大丈夫?」
「あ、うん――平気平気」
彼女は少しぎくしゃくとした調子でうなずいた。
4.
数日は何事もなく過ぎた。
しかしそれは、逆に言えばキョウが相手になぶられているということでもあった。
何事もなく登校し、何事もなく授業を受け、何事もなく下校する。
もはやこの日常生活にも完全な安らぎはない。正《まさ》に敵の狙い通り、常に狙われ続けることによってキョウの精神状態そのものを攻撃するという作戦が進行中なのだった。
しかし、キョウ本人はけろりとしていて、いつもと変わらないように見えた。
「マンションの具合はどうだい?」
彼女の横には瑠実の姿をしたセンチがいる。このところ二人は一緒に登下校しているのだ。
「あー……最初はなんにも考えないで住んでたけどさあ」
キョウは少し顔をしかめた。
「この世界で、この年齢《とし》で、あんな高級マンションに一人住まいって設定、少し無理があるんじゃないかしら」
「いや、さすがに君の家族までは創れないからさ。一人で暮らしてもらうしかないんだよ」
「そういう問題じゃなくてさ――絶対、あたしって曰《いわ》くありげな奴ってことになってるわよ、あれじゃあ」
「まあ、あんまりストレスになるっていうなら引っ越してもらうけど」
「それも面倒くさいしねえ――ところで瑠実」
「なんだい?」
「それよ、その男言葉よ。いい? 今のあんたは女の子なんだから、それっぽい口調で話しなさいよ。本物の守岡さんからそんな口調で話しかけられたことないわよ」
「別に女の子だって、少し乱暴な言葉遣いぐらいするだろう?」
「打ち解けた感じならいいのよ。あんたのはなんか、変に丁寧なのよ。男の子としても変よ」
「なんか君には、文句ばかり言われているなあ」
瑠実の顔でセンチは少し頬《ほほ》を膨らませた。
「長いつきあいなのに、君から誉《ほ》められたり感謝されたという記憶がほとんどないんだけど」
「でしょうね、してないもの」
キョウは素っ気なく言った。
「あのねえ」
センチは苦笑した。
「いくら僕が機械だって言っても、がっかりぐらいはするんだよ。高度に出来ているんだから」
「それは知ってるわ」
へへん、とキョウはせせら笑うような表情をして、
「お上品に、繊細に出来ていらっしゃるのよね? センチュリオンさまは」
「……なんか馬鹿にされている気がするなあ」
二人は喋りながら、街の通りを抜けていく。
周囲には大勢の人が歩いている。
「ひとつ質問していい?」
キョウがセンチに訊ねた。
「僕は頼りにならないからね。わからないかも知れないよ」
センチはまだ、ちょっとむくれている。それを見てキョウはちょっと笑って、
「やだ、そんなにヘソ曲げないでよ。まったくほとんど機械のあたしよりも、よっぽど人間らしいんだから」
と言った。センチは返事に困る。
「……君は、れっきとした人間だよ。僕たち機械は君という人間を守るために頑張っているんだから」
「まあ、それはそれとして」
キョウは周りを見回して、言う。
「たとえばの話でいいんだけど、あたしが死んだ後はこの世界って、どうなるのかしら」
「え?」
センチはぎくりとした顔になる。
「え、縁起でもないことを言わないでくれよ。君が死ぬなんて」
焦《あせ》るセンチに対し、キョウはさばさばとしている。
「だから、たとえばの話よ。これがあたしの安全装置ってことはわかるんだけどさ。しかしスイッチを切れないってことは、もしかしてあたしが死んだ後でも、この世界そのものは続いていくんじゃないかしら? その可能性は高いんじゃないの? システムの半分はヴルトムゼストじゃなくて、宇宙港の中にあるんでしょ」
「……君が死んだら、こんな世界には何の意味もないよ」
センチはぼそぼそと、力のない声で言う。
「いや、それはどうかなあ――」
キョウは夕焼け空を見上げた。
「世界には、きっと最初から決められた意味も目的もないんだと思うわ。地球に生物が生まれ、進化して人類が生まれて、宇宙に進出して――それだけが世界の目的だったのか、どうか――きっと、今の人間にそれは答えられないでしょうね。それが目的だったとしたら、世界は虚空牙に滅ぼされるために存在していた――ということにしかならないでしょうから」
その眼《め》は空を見ているようで、どこにも向けられていなかった。
「意味があるとか、ないとか――真実であるとか、虚偽であるとか、そういう単純なものじゃないのよ、世界は。もしも、ほんとうに世界の敵というものがいるならば、それはきっとひとつきりの真実以外はすべて虚偽だと決めつけて、それ以上のことは何もしないという、そういう発想そのものなんじゃないかしら」
「…………」
キョウが何を言っているのか、センチにはいまひとつよくわからない。キョウは反応がなくともかまわず、
「だから、さ――最初の目的なんかどうだっていいと思うのよね。世界にはきっと、存続し続けることそのものに、なにか価値があると思うのよ。あたしがいようといまいと、ね」
と、ひどく遠くに囁《ささや》きかけるように呟《つぶや》いた。
「…………」
センチとしてはどう応えていいのか、極めて困る話だった。
「……でも、でもさ――」
彼は弱々しくも、彼女に抗弁しようとした。だが言葉が続かず、視線が周囲を漂う。
横にあるブティックのウィンドウに自分の姿が映っていた。守岡瑠実の姿だ。その少女のシルエットは背筋が猫背気味に丸まって、どうにも頼りないという感じだった。
「はあ――」
と彼はその自分の姿にため息をついた――そのときに気が付く。
自分は映っているのに、その横にいるキョウの姿が窓に映っていない。
そして、その自分の鏡像が、にたりと笑って――
「……!?」
振り向いたときには、もう遅かった。
いつのまにか接近してきていた、この世界で守岡瑠実の姿をしたもうひとりの存在――トリニグトーダがセンチの身体をひっ掴《つか》んで、そのまま上に跳躍していた。
「――!」
キョウがそれを視認したときには、もう二人の瑠実の姿は、ビルの壁面の高いところに、蜘蛛《くも》のように貼りついていた――そのうちの一人が一人の首を右手で鷲掴《わしづか》みにして、左手で壁にしがみついている。
首を掴まれた方は、虚《うつ》ろな眼をして脱力している――強力な干渉を喰らって意識がこの世界から飛ばされてしまっているのだ。
(――まずい!)
キョウは焦った。最初から敵の狙いはキョウ本人ではなく、この世界を管理しているセンチュリオンの方だったのだ。
センチュリオンは、守岡瑠実のようにそう簡単には乗っ取られたりはしないだろう。システムとしてより強固に出来ているからだ。しかし、その影響力を世界から切り離すのは、単にこの世界の中で気絶≠ウせれば済むことなのである。
そして、もうひとつ――センチを確保していれば、嫌でも――
「――くそっ!」
キョウは敵めがけて跳んだ。
瑠実の姿をした敵はセンチを掴まえたまま、さらに跳躍して、その場から離れようとする。
逃げ出している。
そして、キョウはそれを追わざるを得ない――センチを人質に取られては、それが罠《わな》に掛かることにつながるとわかっていても、追わざるを得ないのだ。
(――どうする?)
彼女は迷っていた。この状況で、ヴルトムゼストを呼び出すべきかどうか?
相手を叩き潰すという点では、虚人を使えば一撃でカタはつく。しかし、そうなったとき、果たしてセンチを巻き添えにしなくてすむだろうか? ナイトウォッチに手加減≠ネどできるだろうか?
(――どうするんだ、あたしは――?)
焦燥《しょうそう》しながらも、キョウは敵を追いかけていくしかない。
5.
ナイトウォッチ・コアという存在が何か、ということを過去の世界に当てはめて考えてみようとしても、これはうまくいかない。それに似た存在がないからだ。忍者とか超能力者とか、喩《たと》えようとしても現実感に乏しい例ぐらいしか挙げられない。
本来ならば、架空世界の中でコアは他の人間と大差ない体力しかない存在に調整される。そうでないとわざわざ世界まで創って普通の生活≠営ませるという目的が達成されないからだ。
しかし、この宇宙港とヴルトムゼストの間で創られている世界は、そういう意味で調整不足だった。
コアが、本来のコアそのものに近い状態でそのまま放り込まれてしまっているのだ。
トリニグトーダがセンチュリオンを抱えたまま疾走する。その動きがあまりにも速すぎて、他の者では視覚に捉えることさえできない。それは中世の人間が飛行するジェット機を目撃しても、それを認識することができないのと同じように、この世界で規定されている常識≠ゥら逸脱した存在だからだ。
そして、それを追いかけているキョウも同じだった。
(――くそっ!)
彼女は、道路を走っている車のボンネットの上を、車よりも速く移動しながら次々と跳び移っていく。ボンネットが凹んでいく車のドライバーたちは当然みな驚くが、べこん、という音が響くときにはもう、キョウはその次の次の車のところにまで移動してしまっている。
しかし、それでもトリニグトーダの方が少し速い。
合成人間として造られた時代が、向こうの方が少し未来である分、身体反応性能が上なのだろう。ヴルトムゼストが伴わないキョウは、こと白兵戦《はくへいせん》においては不利な立場にあるようだった。
しかし――それでも彼女としてはセンチを無事に奪回するために虚人なしで戦わなくてはならないのだった。
(奴は、あたしを警戒している――あたしと直《じか》にやり合うよりも、逃げ切ってセンチの機能を、じっくり時間を掛けて乗っ取るつもりだ。もしもセンチの補助《サポート》がなくなったら、もうヴルトムゼストは満足な性能を維持できなくなる……!)
逃げられたら、百パーセント彼女の負けだ。今、ここで敵と決着《ケリ》をつけなくてはならないのだ。
彼女の視界に、道路沿いに建てられている交番が眼に入った。
彼女は少し追跡コースから外れることになったが、交番の前に立っている警官のところに向かった。
そして、超高速で動いている彼女から見れば静止しているも同然の警官から拳銃を奪い取って、そして追跡に戻った。警官は自分の身に何が起こったのか、まったく気づいていない。
彼女は拳銃をかまえて、瑠実の姿をしているトリニグトーダをさらに追う。
(やはり――追いながらも隙がないな)
追われるトリニグトーダの方は、ずっとキョウの様子を観察している。
(引き離せそうで、完全に撒《ま》くことができない――スピードでは勝っているのに、こっちが人質を抱えている分、方向転換する際の減速で追いつかれているのか)
といって街の中では、ひたすらにまっすぐ進むことなど無理だ。それを計算に入れているから、キョウは能力面で劣っていることを理解しながらも、ちっとも焦っていないのだ。
(――さすがだ。ザングディルバやダッタルドルスがやられたのも無理はない。もしも彼女の専用機が虚人でなく、我等と同じ軽量機《トワイライト》であったとしても、同じように二人ともやられていただろう。彼女の強さは機体の強力さに頼ったものではない)
うまい具合にセンチュリオンを捕獲できたときは、あるいはこのまま押し切れるかとも思ったが――やはりそれは無理なようだ。当初の作戦通りに、より厳しい道を採らざるを得まい。
トリニグトーダは決断と共に、逃走する方向を水平から垂直に変えた。
すなわち、地面に沿って走ることから、高層ビル街の上の方へと昇っていくコースを取ったのだ。
まず電柱の先端に跳び乗り、さらに高い建物に跳び移り――と、わずか三歩で五十メートル近い高さまで昇っていく。
そして、この街で一番高い位置まで伸びている電波塔に取り付いて、あっというまにその頂点にまで駆け昇っていった。
それを見てキョウは(……ちっ)と心の中で舌打ちした。
相手が誘っているのは間違いなかった。もう奴はセンチを乗っ取るために連れているのではない。彼女を引き寄せるための餌《えさ》と割り切っている。
ここで彼女と直接戦うことに、作戦を切り替えたのだ。
拳銃をかまえつつ、彼女はトリニグトーダが昇っていった電波塔に自分も跳び、一気に駆け上がっていく。
風が、激しく吹きつけてくる。
「…………!」
キョウの足が、塔の頂点の近くで停まった。
トリニグトーダが、気絶しているセンチをこっちに向かって突き出すようにかざしているのだった。
「…………」
「…………」
両者は無言で、吹きさらしの高い塔の上で、不安定きわまる姿勢のまま一瞬だけ睨《にら》み合った。
轟々《ごうごう》と、風の音が四方八方すべてを切り裂くかのように鋭く、鳴っている。
これは常人の攻防ではない。従ってこの手の状況で大抵見られるような動くな、動けば人質の安全は保証しないぞ≠ニか武器を捨てるから人質を放せ≠ニいったような交渉に類するものは一切ない。そんな悠長なものが介入できるようなゆとり[#「ゆとり」に傍点]はないのだった。
停まっていたのは一瞬だった。
次の瞬間、キョウは敵めがけて突進していた。
人質を持っていること、それ自体が相手の動きを制限していることになる。この状況で彼女がつけ込める点はそこぐらいしかなかった。
だが、ここでトリニグトーダはとんでもない行動に出た。
その、人質であったセンチュリオンを彼女に向かって思いっきり突き飛ばして――塔の上から落としてきたのである。
気絶したままのセンチュリオンには、自分でどうこうすることはできない。されるがままに、キョウめがけて隕石《いんせき》のように落下していく。
そして、トリニグトーダの手の中には、いつのまにか――センチが持っていたはずの、この世界における防御不能な武器であるイレイザー・デバイスが握られていたのだった。
その銃口が上がって、キョウめがけて的確に狙いが定められようとした――そのときだった。
誰にも予測不能なことが起きた。キョウが、センチを守るために敵を追いかけてきて、不利な状態と知ってもなお追ってきていたはずのキョウが拳銃を、その――センチめがけて発射したのである。
落下してきたセンチは避ける術はない。銃弾はセンチの胸を貫いていた。
「――な!?」
さすがのトリニグトーダも、この意外きわまる行動に一瞬、思考が停まった。
だが、すぐに彼は己の甘さを知った。
胸を撃ち抜かれ、空中で反動できりきり[#「きりきり」に傍点]と回転していくセンチの顔がちらと見えた。
その眼に、光が戻っていた――銃で撃たれた痛みのために意識が戻っていたのである。
そして同時に、その身体がすうっ、と透き通っていった。自身で管理しているこの世界から離脱したのである。
しまった、と思ったときには、もう遅かった。
キョウが、透き通って消えていくセンチの身体をそのまますり抜けるようにして、すぐ前にまで迫っていた。彼女は手にした挙銃を瑠実の姿をしたトリニグトーダの胸に押し当てるようにして――
「……さよなら」
――と囁きつつ、引き金を連続で引き絞っていた。
瑠実の身体は塔から弾き飛ばされるようにして、闇の彼方に吹っ飛んでいった。
6.
虚空の彼方の、実際のナイトウォッチの中にいた戦士はこのキョウの一撃で生命の決定的なところが、ぶつん、と切れるのを自覚した。
あっというまに、意識が闇の中に埋没していく。即死に近かった。
だが、それでも――彼はそのとき、口元に不敵な笑みを浮かべて、そして心の中で確信と共に呟いていた。
――今だ、ラギッヒ・エアー……!
*
(……やった)
キョウは、瑠実の身体をした敵の姿が遥か下に向かって落下していくのを眼で追いながら、さすがに、ふう、と安堵《あんど》の吐息をついた。手強《てごわ》い敵だった。こんなに苦戦したのは生まれて初めてだった。
だが――彼女はこのとき、完全に忘れてしまっていた。彼女が戦っているのはトリニグトーダ一人ではなく、スコルピオ・スコードロンというチームであることを――
彼女が瑠実の身体が地面に落ちていくのを確認するために視線を下に向けた、そのときに彼女の耳元でセンチの悲鳴のような声が聞こえた。
――キョウ! うしろだ[#「うしろだ」に傍点]!
それは彼女のサポートであるセンチュリオンが、外部からこの世界に向けて発信してきた緊急信号だった。キョウは言われるままに後ろを向こうとする……だが、間に合わなかった。
キョウはちら、としか確認できなかった。だがそこにある異様なものは見えた。
彼女たちが登ってきていた電波塔の、その先端部分が大きく湾曲して、彼女めがけて伸びてきていたのだ。それは塔の先端であって、塔ではなかった。その形を彼女はよく知っていた。
それは、ナイトウォッチの武装腕《アームドアーム》だったのだ。
トリニグトーダが守岡瑠実の姿を乗っ取って入れ替わっていたように、もう一機のナイトウォッチはこの建築物とすり替わっていたのである。
(――か)
キョウは、今こそはっきり理解した。敵がまずセンチを襲った真の理由を。
それは彼を乗っ取るためでも、人質に取るためでもなかった。ただ、この場所にまで彼女を連れてくること、その一点のためだけにあったのである。
(――完全に、してやられ――)
キョウが頭の片隅でそう思った時点で既に、ラギッヒ・エアーの鋭く尖《とが》った武器が彼女の胸のど真ん中を突き刺して、貫通していた。
W.敵は空洞なり The Enemy is The Cavity
1.
ラギッヒ・エアーの放った遠距離からの一点集中の多重収束砲撃は、見事に宇宙空間を漂っていたヴルトムゼストの胸部を直撃し、その反撥《はんぱつ》装甲を貫通して撃破した。
その狙った箇所は、これまでの数回にわたる攻撃でやられた僚機たちが破れないと知りつつも攻撃を加え続けていた箇所であり、その弱った一点めがけてラギッヒ・エアーは針の穴を通すような狙撃を敢行したのだった。
無論、これはラギッヒ・エアー単体では不可能なことだった。敵の動きを裏から封じて、狙撃のチャンスを創ったトリニグトーダの情報操作戦のおかげで、ヴルトムゼストはコアとの接続の機会を奪われ、ラギッヒ・エアーに攻撃の機会を許してしまったのである。
(――しかし、こちらの損害も大きい……)
ラギッヒ・エアーは後方の空間に注意を向ける。
そこには、もはや中枢を破壊されて機能の停止したトリニグトーダの機体が漂っている。制御を失った機体はこのまま、虚空の彼方《かなた》を永遠に放浪する旅に出ることになる。
四機いたスコルピオ・スコードロンも、もう自分しか残っていない。ただの偵察任務のはずだったこの作戦の、犠牲はあまりにも大きい。
しかし、それももうすぐ終わる。
虚人を撃破した今となっては、後は無防備になった宇宙港を破壊するだけだった。
ラギッヒ・エアーは武装腕《アームドアーム》を爆撃態勢に展開しながら、太陽系最外縁空域を戦闘速度で巡行していく。
*
……ふたたび、暗い夢の中にいる。
周囲に何もなく、感触もなく、ただ暗黒だけが延々と広がっている、そういう感覚が彼女を覆っていた。
(……これは)
ぼんやりとした意識の中で、彼女は以前にもこういう感覚を体験したことがあると思った。
(そうだ……これは、あたしが生まれたときの感覚だ)
彼女は人の胎内ではなく、培養タンクの中で合成されたつくりもの[#「つくりもの」に傍点]に過ぎない。その最初の感覚が今、ふたたび彼女に訪れていた。
(あたしは……どうなったんだっけ?)
彼女は思いだそうとした。しかしなんだか靄《もや》が掛かっていて、すべてのことがあやふやになっている。
(タンクから出ていって、ナイトウォッチをみんなと一緒に造って、そして――えーと、なにかしてたような気がするけど、あたしは……なんだったのか)
いや、ほんとうに自分はナイトウォッチなんか造っていたか?
自分にはどうやら刷り込まれた知識があるらしい。その知識が実際に体験していないことを、これからやるはずのことをもうやってしまったような感じにさせているだけじゃないのか?
(夢を……見ていたのかも知れないな)
そんな気がしてならなかった。
もし今までのものが夢だったとすれば、自分はまたこの感覚のないタンクの中から出ることになるのか。だがそれはなんだか、彼女にとって、
(……めんどくさいな……)
という感覚を抱かせることだった。どうせ出ていったところで何もないような気がした。生まれたって仕方がないんじゃないのか、という疲れのようなものがへばりついているのだった。取り立てて理由があるわけでもないのだが、なんだか――ひどく気が重い。
私は、深刻でなかった
ふいに変な言葉が脳裡《のうり》をよぎった。
なんだっけ――どこかでそんな言葉を聞いたことがあるような気がした。しかし思い出せない。
(あー、めんどくさ……)
彼女は何の感覚もないにも関わらず、まったく不安を感じなかった。不安だけでなく、気《け》怠《だる》さ以外のあらゆる情動がなかった。あきらかに、何かを忘れていると思うのだが、それがなんなのか、ということにほとんど気持ちが動かない。
(……あー、そうだったわ。確か、前のときは、大体この辺りで……)
と彼女がぼんやりと思ったときに、タンクを闇に閉ざしていた扉がゆっくりと開いていって、光が射し込んできた。
しかし、彼女は反応らしい反応をしなかった。
2.
光の向こうには人影があった。これも前と同じだ。
そこに立っていたのは、若い女のシルエットだった。
「やっほー」
彼女は軽いノリで挨拶《あいさつ》してきた。全身がぴかぴか光る、旧世紀の未来服ファッションのような格好をしていた。
そいつを彼女は知っていた。人工知能のイメージモデルとしてはありふれたタイプだったからだ。製作したのは人類科学史上に名を残す天才、妙ヶ谷《みょうがや》幾乃《いくの》博士で、破壊兵器以外の技術ばかりを開発し続けていた博士の作品の中では、その汎用《はんよう》性の高さから唯一軍事用にも使用されている。
確かヨン≠ニか呼ばれているシリーズだ。どうやらこいつが彼女を管理する仕事を担当しているらしい。
(……あれ、そうだったっけ?)
なにか違和感を覚えたが、しかしどうでもいいか≠ニいう気持ちの方が勝ってしまい、疑念はすぐに消えた。
タンクから液体が抜かれて、彼女は重力のある空間に投げ出された。
ぐったりと床の上に座り込んでいると、ヨンが彼女の側《そば》までやってきた。
「お目覚めの気分はどうかしら?」
屈託のない、陽気な声である。
「……あー、なんか嫌な夢を見てたわ」
彼女は首を振って、髪の毛からしたたり落ちる液体を振り落としながら答えた。
「でも、それがどんな夢だったか、思い出せない――」
「それが人間ってものよ」
ヨンは微笑《ほほえ》みながら、手にしたタオルで彼女の身体をごしごしと拭《ふ》き始めた。
しばらくされるがままだったが、またしても、
(……あれ)
と思った。たしかこいつは立体映像で実体がないはずではなかったか?
「あんたは――」
「ん? なに」
「えーと――なんだったっけ。ま、どーでもいいか」
彼女が投げやりに言うと、ヨンはくすくすと笑った。
「おかしなお姫さまね」
「姫さまって柄《がら》じゃないでしょ、あたしは。ナイトウォッチを組み立てる道具のひとつなんだから」
彼女がぶつぶつと呟《つぶや》いたその言葉に、ヨンがきょとんとした。
「ナイトウォッチって、何?」
へ、と彼女は顔を上げてヨンを見る。その表情は真顔で、ふざけている様子はない。
「――あー、そうか。その名前ってあたしが付けるんだった。この段階じゃまだ名無しなんだっけ……」
しかし段階というのはどういう意味だろう。はっきりしない頭で、筋道を辿《たど》ろうとする。それは過去のことなのか、夢の中のことなのか――どうにもぼやけて、よくわからない。
(過去のこと……? 過去ってなんだ?)
色々な感覚が、どうにも焦点を結んでくれないので、宙ぶらりんの中途半端な思考になる。
「……とにかく、超光速空間戦闘機よ。ここで造っている最中なんでしょ」
そう言ったが、しかしヨンは相変わらず眼を丸くしたままで、
「……だから、何の話よ? 戦闘機?」
と訊《き》いてきた。
「だから、あたしはその制御システムとして――」
と説明しようとしたところで、ヨンが遮《さえぎ》るように、
「あなたは旧世紀で不治の病にかかって、治療法が見つかるまで冷凍睡眠で眠っていたのよ?」
と言った。
「――は?」
「あなた、自分の名前は思い出せる? 鷹梨さん?」
ヨンは心配そうに訊いてきた。
「――鷹梨、杏子は……」
彼女がそう言うと、ヨンはホッとした表情になり、
「そうよ、それがあなたの名前。ちやんと覚えているじゃない」
と微笑みかけてきた。
「あたしは……鷹梨杏子として生まれたっていうの? ほんとうに?」
彼女は混乱した。その名前は自分の名前であって自分のではない、他人の名を借りていただけだったような気がしてならないのだ。
「他に誰がいるのよ?」
「誰って――だから、あの世界の」
「世界は一つしかないわよ。あなたは世界でただひとりの鷹梨杏子じゃない」
ヨンは優しく彼女の身体を拭きながら言った。
「まあ、残念ながら昔のままのあなたって訳にはいかなくて、身体のかなりの部分を合成した生体素材に置き換えざるを得なかったけど――でも、あなたはあなたよ」
「…………」
彼女は混乱しつつも訊いてみた。
「じゃあ、あたしが通ってた、あの学校は」
「残念だけど、当然もう存在しないわ。何百年という年月が流れてしまったから」
「友だちの――麻里さんとか、瑠実さんとか」
「ええ――彼女たちも、もういないわ」
「…………」
「でも、あなたはこうして生きているじゃない。きっと昔のお友だちも、そのことを喜んでくれると思うわ」
「…………」
彼女は頭がくらくらしていた。そこにヨンの穏やかな声が被《かぶ》さっていく。
「あなたの処置の際には、いくつもの複雑なプロセスを経たはずだから、その処置の過程で見ていた夢が現実のような気がするときもあったかも知れないわ。副作用よ。でも落ち着いてくればすぐに良くなるわよ」
「良く――なる?」
その言葉には奇妙な違和感があった。良くなるというのは、前提に悪い状態があればこそ使われる言葉だ。今の彼女には、何が正常で何が異常なのか、まったく判断がつかないのだ。
「そうよ。元通りとはいかなくても、きっと新しい、いい人生があなたを待っているわ」
ヨンは確信に満ちた口調でうなずいた。
「さ、立って。いつまでも裸ってわけにもいかないわ。服を着ましょう」
ヨンに支えられるまま、彼女は立ち上がった。
シーツを切り抜いたみたいな白くてゆったりした病人用パジャマを着せられて、彼女は白い部屋から外に連れ出された。
外は廊下で、そして窓からは陽光が燦々《さんさん》と降り注いでいる。青空がどこまでも広がり、その下に広がるのは緑の森だ。
「…………」
彼女はその光景を見て、そのまばゆさにやや眼を細めた。
「……ここは、どこなのかしら」
ぽつりと呟くように訊くと、ヨンはにこにこしながら、
「アマゾンの療養所よ。南米でも最大規模の施設。もう地球にはあまり人が残っていないのよ。みんな宇宙に旅立っていって、新天地に住むようになったから」
と答えた。
「人類は……勝ったの?」
自然に疑問が口を衝《つ》いて出た。しかしこれにヨンは、
「勝ったとか負けたとか、そういうことではないと思うわ。人間は頑張って、結果として未来を得ることに成功した――そんなところじゃないかしら」
と、すました口調でさらりと言った。
だがこれに、彼女は、
「……いいや――そんなはずはない」
と、急にきっぱりと断言した。
「そんなはずはない……人類は、確かに負けた」
なんだかわからない。
だが、彼女の心の中に、そのことだけがくっきりと残っているのだった。
「人類は……いいえ、違うわ。そうじゃない、そうじゃなくって……人類じゃなくて、あたしは――」
自分は……なんだったのか? それを思うときに、ある一つの感情が常につきまとっていたはずではなかったか。
そのことをすっかり忘れていた……いや忘れていたのではない。
思い出したくなかったのだ。
「あたしは――」
彼女はヨンの手を振り払い、緑が広がる窓際にふらふらと寄って、その無色透明なガラスに爪を立てた。
そして、湧き起こってくるその感情が、彼女の肋骨《ろっこつ》を内側から掻《か》きむしって、焼けた油を喉《のど》から内臓に流し込まれるような苦しさを、胸の奥にねじ込んできた。
「あたしは――負けたんだわ……!」
きりきりきり、と爪先《つめさき》がガラスを引っ掻いて音をたてた。
3.
「そうだ、あたしは負けた――今じゃなくて、もっと前に――一度、ナイトウォッチの開発が済んで眠りについて、そして――」
彼女は、ゆっくりと後ろを向いた。
ヨンが、にこにこしながら彼女の方を見ていた。
「……あんたは、まさか――」
彼女は――試作コア十四号であるキョウ≠ヘ今やすべてを思い出していた。自分という存在に常につきまとってきた感情である怒り≠思い出して、そのすべてが鮮明に戻ってきていたのだった。
「あなたは、可能性の未来のひとつにいるのよ」
ヨンは微笑みながら言った。
「これもまた、あり得た未来のひとつ――文明干渉を受けなかった人類が辿ったかも知れない世界。そこではあなたという魂は、こういう形で形成されたはず」
その口調には淀《よど》みも乱れもなく、機械のように冷静――いや、この世に存在するどんな機械よりも、きっと冷たいに違いない。
こいつは――
「……虚空牙《こくうが》、なのか……?」
キョウは震える声で呟いた。
そう、彼女が虚空牙と遭遇するのは初めてではない。
虚空牙が宇宙港に襲来し、これを徹底的に破壊したときに、彼女も――ヴルトムゼストも当然、これに抵抗するために出撃していたのだ。
そこで――彼女は負けたのだ。
他のナイトウォッチと同様、虚人もまた虚空牙によって撃墜されて――それなのに、彼女だけがその後も生きていた。
それは何故か?
考えるまでもない。
わざとだ――彼女だけはわざと、虚空牙にとどめ[#「とどめ」に傍点]を刺されずに放置されたから、その後というものがあったのだ。
だが、そのことを彼女は、これまで完全に忘れていた。いや忘れさせられていたのだ。それがさっきの一撃で、その枷《かせ》が外れた……。
「…………」
彼女は今こそ知った。
宇宙港を襲っていたスコルピオ・スコードロンは正しかった。人類連合軍の判断は間違っていなかった。
自分は、確かに虚空牙に汚染されていたのだ。
そして、ずっとその経過を観察されていた。実験動物と同じ――いや、それよりもさらにひどい。人類というものの行動を観察するために、罠《わな》に置かれた餌《えさ》の役割を果たしていたのだ。
キョウは今、どこにも行っていない――ただヴルトムゼストがラギッヒ・エアーにやられたその一瞬を、延々と引きのばされているだけなのだ。
しかし――なんのために?
「まだ――観察することが残ってる、とでも言うの?」
キョウはヨンに訊《たず》ねた。
なんでこいつがヨン<Vリーズの姿をしているのか、おそらくそれは最もありふれているものという理由からだろう。そして彼女が存在を知ってはいても、これまで実際に会ったことがなかったということもあるかも知れない。
「…………」
ヨンは微笑みを崩さない。
「虚空牙は――何が目的なのよ? どうして人類を攻撃したりするの?」
キョウが訊くと、ヨンはさらにくすくすと笑って、
「この姿をしている私≠ヘ厳密には虚空牙そのものじゃなくて、あなたの意識に残っているただの反響《こだま》なんだけどね――でも、その質問は、きっと虚空牙たちの方こそが訊きたいことなんじゃないかしら?」
と、不可思議なことを言った。
「なんですって?」
キョウはとまどった。相手がおよそ敵≠ノ見えないということにも困惑していた。
なんだか、ひどく優しい印象なのだ。それは彼女がこれまで会ったことのない、ひどく穏やかな空気だった。
ヨンだけではなく、周囲にもそういう雰囲気が漂っているのだった。窓の外に広がる青空と緑の森にも、落ち着いた調和を感じてしまうのだ。
優しい調和――それは、彼女のこれまでの人生の中で、一度も会ったことのないものだった。彼女はこれまで、いつもカリカリと腹を立てて生きてきたのだ。安定とか落ち着きとか、したり顔でそういうフリをしているものにはいつもムカムカしてきたはずだったのだ。なのに―
どうにも、この目の前にあるものに対して怒りがこみ上げてこないのだ。
(ほんとうに、こいつは――敵なのか?)
そんな気さえしてしまう。
いや、この印象こそが、彼女がそれに汚染されてしまつているという確たる証拠なのかも知れない。だとすれば――虚空牙に呑《の》み込まれるということは、ささくれだった精神が安らぎを得ることと同じなのだろうか?
(こいつは――なんなんだ、神さまか?)
彼女には何の信仰もない。だからその単語が簡単に頭に浮かんだ。
だがこいつが神であるとするならば、罪深い人類は――裁きを受けているということなのだろうか。しかしこの可能性に対して、ヨンは首を横に振り、
「――いいえ。神ではないわ」
と、静かな微笑みを浮かべている。
「神というのは、全能者ということなんでしょう? あなた方が虚空牙と呼んでいるものたちも、理解できないものを前にして、戸惑っている――迷う神というのはあり得ないでしょう?」
「理解――できないもの?」
キョウはぎくりとした。それはもしかして……
「――人間、のこと……?」
ヨンはうなずいた。
「虚空牙は、人間の心を通してしか、人間というものを把握できない――しかし、人間はどうやら、自分自身のことさえ理解できていない」
淡々と、訳のわからないことを言う。
「あなた方は、なんのために生きているのかしら? 生きようとするのは何故《なぜ》?」
「……そんなこと言われても――」
「あなたは星に何を視《み》ているのかしら――その果てに求めているものはなんなの?」
わからない、わからない、わからない――ヨンはそういう意味のことばかりを言っている。
「…………」
そしてそれは、キョウの方も同じだった。
(これは、死ぬ寸前のあたしが視ている虚《むな》しい夢なのか――せめてもの、慰めだというのか)
その夢の中で、彼女はただ安らぎを享受すればよいのか。それが虚空牙の目的なのか。
(いや――そうじゃない、そうじゃないわ……!)
虚空牙の目的など、この際どうでもよかった。
自分は今、壁なんかどこにもない空洞に閉じこめられているような、異様な状態にある。では、その状態の中で、自分は何をしたいのだろう? 何を望んでいるのだろう?
そう――問題なのは、彼女自身のことだった。
自分はここで、何をしたいと願っているのか?
かつてセンチが、彼女にこんなことを言っていた――
君が真に、心の底から〈力が欲しい〉と願わなければ、虚人は動き出さない
今の自分は――何をしたいのか。
もしかすると、虚空牙はそれこそが知りたいのではないだろうか。
「あたしは――力が欲しいのか?」
彼女はぽつりと呟いた。
「この期《ご》に及んでも、まだ――なにかをなんとかしたいと思っているのか?」
この自問自答に、ヨンは微笑むだけで口を挟んでこない。
「誰なら、この答えを知っている? 人生を天秤《はかり》に掛ける神もいない、悪魔も誘惑してこない、人類を滅ぼしかけている虚空牙もわからないとしか言わない――じゃあ一体、誰にこのことを訊けばいいのよ? 誰なら答えを知っているの? 今までこの世に生まれた人間の中で、一番強い人間って誰なの? 最強の戦士とか――そいつなら、どんな難関でもくぐり抜ける方法を知っているのかしら……?」
ぶつぶつと、あまり意味のないことを愚痴のように呟いてしまう。
そして、下に落としていた視線を戻したとき、世界がまた変わっていた。もう窓の外に青空と森が広がる廊下ではなかった。
代わりに窓の外に広がっているのは、夕暮れに包まれた街並みだった。そこは彼女が安全装置として存在していた旧世紀の風景だった。
そして、自分も学生の制服を着ている。
廊下は白い内装だったが、薄汚れていて、タイルのあちこちに塵が黒っぽく溜まっていた。天井の蛍光灯が一つ切れかけていて、ちかちかと明滅している。
(ここは――)
学校の廊下だった。ただし、彼女の記憶にある学校ではなく、別のところだ。
校内には、誰もいない。
さっきまで彼女の側にいたヨンもいない。ひとりでぽつん、と彼女は無人の学校に放り出されていた。
(これも――夢なのかしら)
彼女はふらふらと校舎の飾り気のない廊下を歩き出した。
どの教室をのぞきこんでも、やはり誰もいない。
でも、なんとなく誰かがいるような気がした。特に気配を感じるというわけでもなく、ぼんやりとそんな気がするだけだったが、彼女はそのひとを捜して薄暗い校内をさまよう。
(――もしかすると)
彼女は、存在しないものを捜しているだけなのかも知れない。永遠に捜し求めても、それは影しか存在しないようなあやふやなものなのかも知れない。そういうものを捜そうと言うのは、これはつまり……
(あたしは――あきらめようとしているのか)
それは寂しい認識だったが、やむを得ないことかも知れなかった。
学校中をさすらったが、やはり誰にも出会わない。
彼女は上履きのまま、校舎から出た。
すると――夕陽が長い影を落とす校庭に、ひとつの人影が立っていた。
やけにはっきりとしていて、影だけというわけではなかった。
それはひとりの、学生服を着た少年だった。
「…………」
彼女が少し離れたところから、ぼんやりと彼を見つめていると、向こうもこっちの方を向いた。
4.
「――よお、あんたは?」
向こうから声を掛けてきた。
「あんたが、この世界に俺を呼んだのか?」
「……は?」
キョウは、その男の子がさっきのヨンとか、センチのような奇妙なところがまったくないことに、逆に変な印象があった。
異様な状況が続いた後に、普通の少年が現れるのが、なんか不条理な気がしたのである。
「あんた、って――あんたこそ何よ?」
彼の、あまりの普通さにつられて、キョウも普通の口調で訊き返していた。
「人にものをたずねるときは、自分から名乗りなさいよ」
彼女が少し怒った表情で言うと、少年は「ほ」と眼を丸くして、そしてひひ[#「ひひ」に傍点]っ、と笑った。
「? 何がおかしいのよ」
「いや、悪《わ》りぃ悪りぃ。なんか、知ってるヤツにちょっと似てたから」
「笑い方がちょっとやらしいわよ、なに、それっであんたが振られた相手とか?」
キョウがそう言うと、彼は肩をすくめて、
「ま、そんなようなもんだな。あんたの方が美人だがな」
と悪戯《いたずら》っぽく言った。
その衒《てら》いのない態度に、彼女の顔にも自然と笑みが浮いた。
「そのひとに怒られるわよ、そんなこと言うと」
きっと、そういうことを平気で言えるような間柄なのだろう。キョウは少しそのひとが羨《うらや》ましくなった。
「いや、まあな――怒られたいくらいかもな」
彼がやや寂しそうな顔を見せたので、キョウはおや、と思った。彼はすぐに元の顔に戻り、
「俺は工藤《くどう》だ。工藤|兵吾《ひょうご》っていう」
と名乗った。やっぱり普通の名前である。
「あたしは――鷹梨杏子、かな」
ちょっとためらいながら、キョウはそう名乗った。
すると彼はうなずいて、
「そうそう――ナイトウォッチ・コアとしての名前は名前じゃない。そっちの方がいい」
と言った。
え、とキョウは眼を見開いた。その彼の言い方が、あることを表していることに気づいたのだ。
「もしかして――あんたもそうなの?」
この少年も、ナイトウォッチのコアなのだろうか?
彼はこれには答えず、両手を左右に広げながら、
「どうやら、あんたは俺に訊きたいことがあるらしい――だから、俺は今ここにいる」
と、意味不明のことを言った。
「訊きたいこと? あたしは別に――」
と言いかけて、彼のまっすぐな瞳《ひとみ》を見て、そしてはっとなる。
(まさか――さっきあたしが適当に言ってた愚痴《ぐち》の――)
……だが、それにしては目の前の少年は、全然そんなふうには見えない。だが、案外そんなものなのかも知れなかった。所詮《しょせん》、人間は人間で、そこには元より大した差などないのだから。
人類史上、最強の戦士――。
彼がそれであっても、それはそれで納得できるものがあった。自分も、そういう意味では全然、自分の姿に強いという説得力があるとは思えないからだ。
「――これまでの観察≠フ中で虚空牙が見つけた、最も強い人間のサンプルデータ――そういうことなのかしら?」
キョウの質問に、彼はまた肩をすくめた。
「さあね、俺は俺なんでね。本物の俺が何処《どこ》の何刻《いつ》にいるのかも知らないよ。案外、今よりもずっとずっと未来にならないと現れないのかもな――」
「時間は決して逆に流れないという、相剋渦動励振原理《そうこくかどうれいしんげんり》の基本法則に反するわ」
「虚空牙が、人間を支配しているその法則に同じように縛られているかどうか、わからないだろう?」
「――そうね、その通りだわ」
キョウはうなずいた。虚空牙は、もしかすると人間ならば誰でもそれと出会わなければならない死≠ニいうことさえ超越してしまっているのかも知れない。
「どうして虚空牙は、あんたを最強だって判断したの? 虚空牙をバッタバッタと何体も撃墜でもしたの」
キョウは素直な疑問を口にした。しかしこれに兵吾は苦々しい顔になって、
「――たぶん、そういうことじゃねーと思う」
と言った。どうやらその事実は事実らしいが、彼はそのことを強さだと考えていないらしい。
「じゃあ、なんなのよ?」
「…………」
兵吾は視線を彼女から外して、暗くなっていく空を見上げた。
まだ夕暮れどきなのだが、そこにはもう気の早い星がちらちらと瞬《またた》いていた。
「俺たちは――途中だ」
兵吾はぼそり、と呟いた。
ん、とキョウは眉をひそめた。兵吾の眼が空を見ているようで、それよりももっと遠くを見ているような気がしたのだ。
「きっと、どこにいても同じだ――無限の暗黒しかない恒星間空域の絶対真空の中でも、地べたをはいずり回る普通の、平凡な人生の中でもきっと――どこでも変わらない。みんながみんな、途中で生まれてきて、中途半端に生きて、途中で死んでいくんだ。自分たちが何を目指しているのか、正確に知ることもなく――しかし」
彼は半分泣きそうな、だがもう半分では決して挫《くじ》けないような、矛盾《むじゅん》を抱え込んだ眼をしていた。
「しかし――それがどうした」
彼の口元には投げやりな、だが力強い笑みが浮いていた。
「――――」
キョウは、そんな彼を黙って見つめている。
「俺たちには何もないかも知れないが、しかし、ひとつだけはっきりしていることがある。俺たちはこの、俺たちが中途半端だということが気に喰わないってことだ――うんざりしている。だったら――中途半端が嫌なら、足掻いてでもなんでも、俺たちはどっかに行かなくてはならないってことだ――」
そして、兵吾は空から視線をキョウの方に向けた。
「――そろそろ、いいだろう」
「…………」
「あんたも、もう納得しているはずだ――自分に言い訳をするのは、この辺でいいだろう」
「――そうね」
キョウはうなずいて、そして彼の代わりに暗い空を見上げた。
「さっきのヨンが言っていたわ――自分は、あたしの中に残った反響だって。そしてあたしが自覚できるということ、それ自体がもうあたしから虚空牙の影響が切れてしまっているということ――それなのに、なんであたしはこんな世界にいるのか。らしくもない安らぎまで感じて、それでも何を探していたのか」
彼女は、兵吾のような遠い眼はしていなかった。
ただ、目の前にある空間だけを凝視《ぎょうし》しているような、切羽詰まった余裕のない眼だった。
「そう――あたしはここ≠ナやめる理由を探していたんだわ」
「――――」
「あたしには正義もない。根深い恨みも憎悪もない。あるのはただ、なんかイライラするって感じだけ――そんなものにどれだけの力があるのか、あたしはずっとそのこと自体にも苛《いら》立《だ》っていた。だから――きっと、楽になりたかったんだわ。怒りを綺麗《きれい》さっぱりと捨てて、身軽になりたかった」
そこまで言って、彼女はくすくすと笑い始めた。
「――らしくもないわ、まったく」
「で、覚悟は決まったのかい。あんたはこの中途半端から、どこに行くつもりだ?」
この問いに、彼女はふう、とため息をひとつついて、そして言った。
「――ひとつの世界があるわ。そこは偽物の世界で、その目的もどうでもいいようなものだけど、でも――そこにはあいつもいて、そしてどうやら、そこを守れるのはこの世であたし一人しかいないらしい――だから」
彼女はその場にいるもう一人の方を振り向いた。
そこに立っているのは、もう工藤兵吾でもヨンでもなかった。
呆《あき》れたような顔をした、本物の鷹梨杏子だった。
「だから――行かなくちゃ、ね」
彼女がそう言うと、鷹梨杏子はやれやれと首を左右に振って、
「だったら、さっさと行ったらどう?」
と投げやりに言った。
彼女はこの言葉にニヤリと笑い、そして胸を反り返らせて、ありったけの大声で叫んだ。
「――世界を解体し、ヴルトムゼストを再構成せよ……!」
そして次の瞬間には、夕暮れの校庭は歪《ゆが》んだ虹色《プリズム》が乱反射する閃光《せんこう》に包まれて掻き消されていった。
X.空洞は人なり The Cavity is The Human
1.
「――キョウ!」
一度は架空世界から外に出たセンチュリオンは、キョウが胸を貫かれて塔から転落していくのを見て、あわてて復帰した。
しかし、決定的に手遅れだった。
キョウの胸には、向こう側が見えるほどの大穴が空いていて、肺も心臓も全部破壊されていた。その穴の縁からは夥《おびただ》しい血が迸《ほとばし》り出ていて、夜空にそれを撒き散らしながら彼女の身体は塔から地面に向かって落下していった。
ぐしゃっ、という嫌な音が世界に響いた。
センチが駆けつけたときには、もう――そこにあるのはただの飛び散った肉塊になっていた。
「あ、ああ――」
彼はその残骸の側にへたりこんだ。たとえ幻の世界の中のこととは言え、こんなにバラバラになってしまったということは――宇宙空間にあるヴルトムゼストの中では、本物のキョウがどんなことになってしまっているのか――想像することもできない。
「な、なんてことだ――ぼ、僕のせいだ……!」
彼は絶望と無力感に圧《お》し潰《つぶ》された。なにがサポート役だ、自分は結局、彼女を助けるどころか、自らの力の無さから彼女を殺してしまったに等しい。
彼の頭上では、電波塔の形に擬態していたラギッヒ・エアーがその正体をあらわしつつあった。
複雑な鉄骨の塔から、さらに複雑なシルエットのナイトウォッチに変形していく。
ばっ、と巨大な蝙蝠《こうもり》の翼のようにも見える武装腕《アームドアーム》を展開して、ラギッヒ・エアーは夜空に飛び立っていく。もはやその行動を制約するものはこの世界の中に存在しない。
たったひとりの人間を守るためだけに創られた世界はもはや存在意義を失った。価値のない世界は、その耐えられない軽さのままに、もはや曇り空を我がもののように俳徊する魔獣に対して、なにひとつ抵抗する術《すべ》を持たなかった。
世界の管理者であるセンチュリオンは、ただ染《し》みの付いた地面を茫然と見つめるだけで、何もしようとしない。他の者たちは、自分たちの身に何が起きているのか、まったくわからないままに、唖然として怪物が支配する暗い空を見上げることしかできない。
ラギッヒ・エアーが、そんな世界の者たちのことなどまったく無視して、上空に向かって上昇していく。
それは皮肉な逆説だった。
実際の宇宙空間では、ナイトウォッチは宇宙港に向かってどんどん接近しているからだ。
離れていくように見えるのは、ラギッヒ・エアーの行動意図が明確だったからである。爆撃態勢で、宇宙港に対して適切な位置を取ろうとしている――つまり、この世界のすべてを一撃のもとに吹き飛ばしてしまえる位置に移動しているのが、世界を構成している回路によって計算されているために、この世界の中でも同様のことが可能な位置に移動しているように見えるのである――すなわち、すべてを塵屑のように見おろして、これを踏みにじることができる天空の高みへと。
厚く垂れ込めていた雲を、ラギッヒ・エアーが高速で通過した際に吹き飛ばしてしまった。雲にぽつん、と穴が空いたかと思うと、次の瞬間には空一杯に降るような、数え切れぬほど無数の星が広がっている。
「…………」
ここで、やっとセンチは空を振り仰いだ。
ラギッヒ・エアーは遠く、もう彼のところからだと点にしか見えない。そして向こうからだと、最初からこちらの世界など見えてもいない。
(僕らは……僕のやってきたことは一体何だったんだ……)
なにもかもが擦《す》れ違いと見せかけだけの錯覚に囚《とら》われていた。肝心のことは何一つ果たせず、中途半端に足掻《あが》いたあげくに、まったく意味のないままに、消える――。
彼は人間のために、人間に似せて造られた、人間のための機械である。だが――彼は結局、どうすれば人間がためになる≠ニ思ってくれるのか、最後までわからなかったように感じる。
なぜこの世に生まれたのか。
彼が、極めて高度な回路の中にその疑問を思考として形成したとき、ラギッヒ・エアーから世界の終わりを告げる閃光が放たれた。
(――ああ)
彼は眼を閉じなかった。これでおしまいなのだということ、それ自体はもう絶望に打ちひしがれ切った彼にとって大して意味のあることではなかったからだ。
光が世界を包み、これを消し去ろうとした――その寸前だった。
すべてを押し潰そうとしていた、その光の壁がいきなり、
――がくん、
と空中で停まった。
しかし、停まるような原因も理由も、世界のどこにもない。それなのに、その破壊光の落下が、どういうわけか途中で停止している。
ぶるぶるぶる、と痙攣《けいれん》するように震えている。
そして次の瞬間、その圧倒的なはずのエネルギーは、まるで地上から生じる圧力に負けたかのように押し返され、そして――木《こ》っ端微塵《ぱみじん》に砕け散った。
(――え……?)
センチには訳がわからない。当然だ。この世界で起きていることで、彼に理解不能なことなど本質的にあり得ないのだ。なのに――。
空中のラギッヒ・エアーが激しく身震いした。何かを確認したのだ。それに怯えて、対処に迷っている。
そして、センチは見た――いや、それ[#「それ」に傍点]は見えなかった。しかし見えないそれ[#「それ」に傍点]が、空を切り取ったかのように、そこだけ星がなくなって闇になっている巨大な影が、地上から空に飛翔していくのがわかった。
この世界に、もうそれ[#「それ」に傍点]はいない――だが、それがやっていることが、この世界に幽かに反映されているのだった。
空一面の星空に、存在しないという形でしか見えないそれ[#「それ」に傍点]は、巨大な人のかたちをしている。
(あ――ああ……)
センチはふらふらと立ち上がる。だが、そのセンチを無視して、その見えない人型の空洞は、天空に浮かんでいるラギッヒ・エアーめがけて高く高く飛翔していく――かつて、それを地上におさえつけていた伽は既になくなっていた。
ラギッヒ・エアーは避けられなかった。あっというまに、その見えない影に蹴り飛ばされ、殴りつけられ、放り投げられ、また蹴り飛ばされ――まるでビリヤードの玉のように星空のあっちこっちへと弾きとばされていく。
それはまるで踊っているようにも見えた。満天の星が満ちる夜空の中を、虚ろなる人影が縦横無尽に、自由気儘《きまま》に舞い踊っていた。
(ああ――そうなんだね)
センチは無力感と共に、思考回路の中で呟いた。
(やっと、切れたんだね――ずっと君を縛っていた安全装置≠ェ)
2.
な、なんだと――!?
ラギッヒ・エアーには信じられなかった。
確かに彼は、ヴルトムゼストを撃破したはずだった。
その反撥装甲をぶち抜いて、完全に破壊したはずなのだ――なのに今、彼はそのほとんど残骸と化しているはずのヴルトムゼストの攻撃を受けている。
そんな馬鹿な――さっきのは幻覚攻撃だったとでもいうのか!?
いや――そんなことはありえなかった。実際に、今でもヴルトムゼストの機体には、空間認識回路ではっきりとその人型の胸部に当たるところに空いている大きな欠損部が確認できる。
仮に動けたとしても、機能の大半が麻痺《まひ》していて戦闘に耐えられるわけがないのだ。それなのに――
し、信じられない、信じ――
焦ることはないのだ。あれだけの損傷を受けている以上、もはやこれまでの絶対的な頑強さなど相手にはない。こちらの方が圧倒的に優位に立っているのだ。こちらのどんな攻撃でも、牽制弾でも何でもかすりでもしたら、相手はたちまち木っ端微塵になるはずなのである。
それなのに――
な、なんで――なんで、こんなに速いんだっ!?
虚人の動きは、それまでスコルピオ・スコードロンが戦ってきたときと、まるっきり変わっていた。
全然、別個の存在に生まれ変わったかのようだった。
こっちが相手の位置を把握して進行方向を確認したときには、もう別のところに跳んでいる。
ばん、ばん、ばん――とラギッヒ・エアーの機体周辺で衝撃が連続し、その度にナイトウォッチはがくがくと揺り動かされる。
直撃はしない――いや、わざと狙いがぎりぎりで外されている。
う、うわ、うわわ、うわわわわっ……!
どうすることもできない。対処するためには相手の動きをある程度は把握しなければならないのに、虚人はまるででたらめとしか思えない動きで、しかし的確にこちらを捉えているのだった。
なにがなんだか、さっぱりわからない―――不条理としか言いようがなかった。
あ、あの虚人はばけもの[#「ばけもの」に傍点]かっ……!?
たまらずラギッヒ・エアーが悲鳴を上げたその瞬間、虚人は超光速空間戦闘状況下ではあり得ない行動に出た――急接近し、そして直接、機体をこちらの機体めがけて突っ込ませてきたのだ。
もう、驚く余裕さえなかった。気がついたときには、虚人の腕が、脚が、こちらの機体の武装腕《アームドアーム》を鷲掴みにして固定されていた。単純なパワーではとてもかなわず、武器のあらゆる砲口をあさっての方向に向けられてしまっては、もはやどうすることもできない。そのまま武装腕《アームドアーム》を、ぎりぎりと圧倒的な力で握りつぶされてしまう。そして――こちらの武装腕《アームドアーム》は三基しかないが、虚人には――人型には脚が二つに、腕も二基あるのだった――
…………!
そのとき何を感じていたのか、ラギッヒ・エアーには自分でもわからなかった。虚人の容赦ない腕がこちらに伸びてきて、そしてラギッヒ・エアーの中枢制御機構のある箇所を――操縦席《コクピット》を覆っていたハッチを力任せに毟《むし》り取られた。
唐突に、すべての空間感覚が切れて、そして闇が落ちた。機械が送り込んできていた情報がまったく入ってこなくなったのだ。
…………
バリアーが二重三重に張り巡らされているから、空気が漏れだしたりはしない。ラギッヒ・エアーのコアは、やむなく頭部をすっぽりと覆っていたヘルメットを脱いだ。
すぐ上に、ヴルトムゼストの虹色《プリズム》にきらめく機体があった。そしてその胸部にぽっかりと空いた穴の向こうに、縁に引っかかっているようにして剥き出しになっている操縦席《コクピット》が見えた。
にやにやと笑っているキョウの姿が見えた。その胸には、やはり虚人同様に架空世界であけられた傷が、まだ塞《ふさ》がりきらないで残っている。
「……あらまあ」
キョウがため息混じりの声を出した。
「ずいぶんと、可愛らしい相手だったみたいね」
そう言われるのも無理はなかった。ラギッヒ・エアーのコアは、キョウよりもさらに年下にしか見えない少女の姿をしていたからだ。
*
「……どうして、生きているんだ?」
エアーのコアは、キョウに向かって訊ねてきた。それは悔しそうと言うよりも、ひたすら腑に落ちないというニュアンスのこもった嘆息のような声だった。相互の機体のバリアーが重なり合っているため、宇宙のただ中なのに彼らの周囲だけが共通の空間を形成しているので、声も届く。
「そうね――」
キョウは苦笑を浮かべ、そして胸にあいた傷口を指さした。自動再成装置が働いているため、ゆっくりと塞がりつつある。
「こいつは効いたわよ。でも半分機械のナイトウォッチ・コアにとって心臓そのものはただの血流循環器官のひとつに過ぎないからね――ショックで意識が吹っ飛ばない限り、完全にやられることにはならないわ。気い失わないよーに踏んばるのが、ま、ちと大変だったけどね」
軽い口調で言った。
「…………」
エアーはその幼い顔に、不可解きわまる、という表情を浮かべている。やがて彼女はぽつりと、
「……もしかして、ずっと機体に安全装置が掛けられたままだったのか?」
と訊いた。キョウはうなずいた。
「不良品でね――なかなかうまく戦えなくて、苦労したわ。正直――最初から全開で戦えていたら、あんたたちを殺さなくても、四機全部同時に戦闘不能にするくらいのことはできたんだけどね――」
「……虚空牙か。汚染されたときに、細工されていたということか……」
エアーは哀しげに眼を閉じた。きっと失った仲間たちのことを思い出しているのだろう。
これにキョウは、
「そうかも知れないし、そうでないかも知れない」
と囁くように言った。
「……え?」
「虚空牙が、そこまであたしたちのことを理解して、その上で罠を張れるかどうか、それはわかんないわ。個人的な感想を言わせてもらえば、あたしたちはみんな、とことんツイてなかったのよ、きっと――」
この言葉にエアーは苦笑した。
「運不運の問題だったというのか?」
だがキョウは真顔で、
「ええ」
とうなずいた。
「あたしたちはみんな、たぶんすっごく悪い星の下に生まれてんのよ。どうしようもなく巡り合わせが悪くって、何をやってもうまく行かないようになっていたのよ――わかってると思うけど、あんたたちが接近してこなかったら、宇宙港の機能は目覚めたりはしなかったわ。あたしとヴルトムゼストも、ずっと凍結されたままでいたはずだわ」
「……だろうな。我々は自らの手で、死の罠に手を掛けてしまったんだ。自業自得と言うところか?」
エアーは自虐的な笑みを唇に浮かべた。これにキョウは優しく微笑んで、
「そうね――でも、あたしがこんなことを言うのもなんだけど、しかし――あんたの仲間たちが頑張らなかったら、きっとあたしとあんたがこうやって話す機会はなかったわね」
「……? なんのことだ?」
キョウはこの問いにはすぐに答えなかった。
だが、やがては彼女はラギッヒ・エアーから毟《むし》り取ったコクピット・ハッチを、付いていたところにまた押しつけた。
ナイトウォッチの機体修復作用がたちまち作動し、ラギッヒ・エアーは元の状態に戻る。
「……な、なんのつもりだ? とどめを刺さないのか?」
エアーは狼狽して訊ねた。彼女は、てっきりヴルトムゼストの拳で直接、自分は叩き潰されるものだとばかり思っていたのだ。だからハッチをこじ開けたのだろうと――しかし、
「まあ、もう意地を張ることもねーでしょ、せっかく仲間たちが全力を尽くして機会を作ったんだから、あんたまで死ぬこたねーわよ」
と、キョウのあっさりとした声が通信機の向こうから聞こえてきた。
「な、なんだと――どういう意味だ?」
「戦闘不能になった機体で、さらに攻撃を続行しろとまでは、さすがの人類連合軍も命令しないでしよ」
淡々と言われた。
「な、なんだと――?」
「それに――お迎えも来ているみたいよ」
キョウの声に、エアーははっ[#「はっ」に傍点]となった。
空間認識レーダーに、彼ら以外の機体の影が隅の方で感知できた。
太陽系の内側からやって来ているそれは、間違いなく――
(人類連合軍の、増援部隊……?)
今頃になって、やっと――いや、そうではない。スコルピオ・スコードロンがヴルトムゼストを半壊状態にしたのを確認したから来たのである。
「そういうこと――もう、あんたと戦う理由はない。あたしはそれどころじゃなくなったし、あんたの方ももう無理することはない」
キョウは醒《さ》めた口調であった。
「お、おまえは――」
エアーは何と言っていいのかわからなかった。
へへっ、というキョウの笑い声が聞こえてきた。
「どこまで、なにをやればいいのかわかんねーけどさ――ま、やれるトコまでやるわ」
そして、ヴルトムゼストがラギッヒ・エアーから手を離して、これを自由にした。
ふわっ、と両者がゆっくりと離れていく。その向こう側で、人類連合軍のナイトウォッチ戦隊が、ばっ、と戦闘態勢で展開する。
エアーは焦った。彼女はナイトウォッチ戦隊に向かって通信を開こうとした。
「ま、待て――攻撃は――」
しかし、その言葉は途中で途切れた。
彼女が通信を繋げようとしたそのとき、この一連の事態の中で、最大の――それまでのあらゆることがすべて無意味と化すために、唯一の、と言ってもいい――異様な状況が出現した。
ヴルトムゼストに対して包囲するように展開しようとしていたナイトウォッチ戦隊が、その全機体が同時に、瞬時にして――木っ端微塵に吹き飛ばされたのだ。
(――え……?)
ヴルトムゼストによるものではなかった。虚人はまだ戦闘態勢に入ってもいない。
では――他に人類連合軍を攻撃するものと言えば、これは――
(ま、まさか……)
彼女は戦慄しつつ、空間把握レーダーの走査範囲を戦闘モードから広範囲探知モードに切り替えた。
すると……それ[#「それ」に傍点]がそこ[#「そこ」に傍点]にいた。
太陽系最外縁空域の、わずかに内側に――夥しい数の群が、槍《やり》のように見える奇妙な武器をかざして、空間を埋め尽くしていた。
それは――人間の姿に似ていた。ヴルトムゼストよりも、もっと純粋な人型に近く、そして全身から眩いばかりの閃光を放っていて――
「こ、虚空牙……!」
――そして、人類の天敵なのだった。
3.
「…………」
虚人のコクピットにいるキョウからも、その虚空牙の軍団が突然に現れたのは視えていた。
それは、おそらくこれまで襲来した虚空牙の数をすべて合計したものを、さらに二乗倍したよりも多いだろう。最大規模の出現だった。
虚空牙の軍団は、太陽系の隅の端っこにいるヴルトムゼストやラギッヒ・エアー、そして宇宙港の方など見向きもしなかった。そのまま一直線に、太陽系の中央部に向かって一斉に突撃していった。
後に地獄の蓋がこじ開けられ、希望の底が溶けて崩れ落ちた≠ニ称されることになる、人類の決定的な敗北の幕開け――虚空牙の第二次襲来が始まったのである。
人類は結局、これに対して襲来そのものが一段落つくまで有効な手を打つことができなかった。虚空牙に対して唯一対抗することができる偶発的超兵器〈鉄仮面〉マイロー・スタースクレイパーがこの世に現れるのは、実にこの半世紀も後のことになる。
今は――現時点では人類に為す術はない。
「…………」
虚空牙が太陽系に侵攻していくその様子を、キョウはぼんやりと眺めている。
その間にも、ナイトウォッチの自動修復機能が働いていき、虚人の胸に空いていた大きな穴が塞がっていく。
「…………」
彼女が、どこかはっきりしない表情で憮然《ぶぜん》としていると、その耳に埋め込まれているイヤホンからノイズ混じりの声が聞こえてきた。
――ョウ、キョウ! 聞こえ…かい? キョ…………無事なら……ョウ……
それは彼女にとってはいつも馴染《なじ》み深い、センチュリオンの声だった。
「――ええ、聞こえているわ。共感回路の接続は切れているけど、通信は回復したみたいね」
……すぐにこっちへ戻……まだ君の生体反応は異常値が出ているみたいで……急いで処置……
声は途切れ途切れだが、何を言わんとしているのかはわかる。
「そうね――まあ、それでもいいんだけど、ね」
彼女は狭いコクピットの中で、自分の頭をぽりぽりと掻いた。
「いや――ほんとうに、あたしたちって、徹底的にツイてないわね」
なんだっ……とにかく一旦、宇宙港に帰還して……
「ねえ、センチ?」
彼女は向こうの指示を無視して、逆に質問した。
「そっちの、あの世界はまだ残っているのかしら? 旧世紀の、あたしが学校に麻里さんとかと一緒に通っているやつは」
……ああ、それは大丈夫……いつ、君が復帰しても問題な……
「そう――じゃあさ、ちょっと頼まれてくれないかな」
彼女は少し吐息をついて、そして言った。
「あたしがいない問も、そいつの時間をちゃんと進めておいてちょうだい。いつまで掛かるかわからないけど――普通に、当たり前の時間を、ね」
……え? 君は一体、何を……
センチの戸惑ったような声が響いた。これにキョウは微笑みを浮かべて、
「ちょっと出てくるわ――帰りはいつになるか、今んトコわかんないから」
と言った。
お、おいキョウ――君はまさか……
センチの声を、キョウは途中で遮るように、
「しょーがねーじゃん――あたしは人間もどきだけどさ、それでも人間が人間である限り、この弱点からは自由にゃなれないわ――目の前で溺《おば》れようとしている奴がいれば、それをみすみす見殺しにはできないってのは、ね」
と、きっぱりと言った。
理由は、正直なところ自分にもわからない。
別に、敵と戦うのが戦士の本分だから、などとも思っていない。
ただ――なにか、どうせツイていないんだから、行くところまで行ってみるか、などという妙に軽快な気分があるのだった。誰のためでもない。あるいはほんとうに、ただただ自分のためだけなのかも知れなかった。
そう、彼女は――
――キョウ! 君は…………
「でさ、センチ――帰ったら、ちょっとあんたには言おうと思ってることがあるから、待ってて。約束よ。――じゃあ、また」
彼女は素っ気なく言って、通信を切った。
少しばかり、宇宙港の方に視線を向ける。もちろん、彼女が今いる位置からでは、それは空間にぽつんと存在する星の点のひとつにしか見えない。
(そう――あたしは、なんでか知らないけど――もう)
これまで、彼女は色々なことに苛立ってきた。あるいは自分が生まれたことさえもが疎ましかったのかも知れない。しかし、
(――もう、怒りは感じない……)
そして彼女は、さっきまで戦っていた相手であるラギッヒ・エアーへと虚人の手を伸ばした。接触して、今度はそっちと通信を繋げる。
「……で、お嬢さんはどうしますか? なんだったらあんただけでも、宇宙港で保護してもらってもいいけど?」
この間いに、エアーは苦笑を浮かべた。
「……あいにく、こっちもそっちと同じ弱点を持っているんでね、お姉さん」
通信を傍受していたらしい。キョウも苦笑を返した。
「それじゃ、行きますか。系内侵入コースはあんたが決めてよ。あたしよか詳しいでしょ」
「了解した」
ラギッヒ・エアーから肯定の返答が返ってくると同時に、二機のナイトウォッチは既にあちこちで破壊の閃光が生じ始めている太陽系の中心部へと向かって飛んでいった。
その光景を虚人の眼を通して見ながら、キョウは少しばかり感慨を抱いていた。
考えてみれば、太陽系最外縁空域で誕生した彼女は、生まれて初めて、太陽の光が大きくなっていくという風景を、架空世界でなく直接、まのあたりにしているのだった。
永遠に続くと思われた冷たい夜に、みるみるうちに陽が昇っていく――。
Y.人は世界なり The Human is The World
……夕暮れの街は、下校する途中の学生や仕事を終えたサラリーマンやOLなど、大勢の人でごった返していた。
駅前広場は特に賑《にざ》やかで、待ち合わせをする恋人たちや、お目当ての場所に行く前からテンションが上がってしまっている高校生などが嬌声《きょうせい》をあげている。スーツ姿の勤め人も一日の緊張を解いて、さてどこで羽を伸ばすかなと弛緩《しかん》した様子で歩いている。
その雑踏の中に、ひとり――脱力した様子でベンチに座り込んでいる男がいた。少年と青年の間というぐらいの歳で、彼がそんなにも憔悴《しょうすい》しきっていなければ、たいへんに魅力的な顔立ちをしていると言えただろう。モデルかなにかをやっている、と言われてもひとは容易《たやす》くそのことを信じるだろう。……しかし、今の彼は疲れきっていて、とてもそういった華やかな生彩に欠けていた。
「…………」
彼は沈んだ眼で、アスファルトの地面に視線を落としている。何も見るものはないや、というかのように、それは力のない眼差しだった。
誰も、彼のことなど気にも留めない――その前を、それぞれの用事を持って、自信たっぷりに通り過ぎていく。彼はそれらに横切られながら、ただ茫然としているだけだった。
だが、その彼に声が掛けられた。
「――あの、ちよっと」
声に顔を上げると、そこには一人の女が立っていた。ゆったりとした無地のシャツを着て、ジーパンをはいていた。髪を無造作に後ろでひっつめて、眼鏡を掛けている。あまり垢《あか》抜けているとは言い難《がた》い格好で、どこか野暮ったかった。
「――――」
彼は、その女をぼんやりとした目つきで見上げる。
「あなた、公坂尚登さんでしょ。ちょっと話をしない?」
女は気さくな調子で訊いてきて、ベンチの隣に腰を下ろした。
「…………」
尚登と呼ばれた彼は、その女を少しのあいだ見つめていたが、すぐにまた視線を落とした。
「……そういうことか」
弱々しく呟いた。
女はかすかに微笑んで、
「予測はついていたでしょう? この世界の支配者さん」
と少し悪戯《いたずら》っぽく言った。
「……妙ヶ谷幾乃さん、か。あるいは虚空牙と呼ぶべきなのかな」
尚登はため息と共に呟いた。ヨンシリーズのモデルになったその科学者の姿は、ヨンが残存していない宇宙港のシステムの中ではあり得ないもののはずだった。それがいるということは、その姿を借りたものが侵入しているということに他ならない。
「どっちでもいいわ。大した意味があるわけじゃなし」
幾乃はけらけらと笑った。屈託のない笑いだった。
「……観察≠ヘ終わったのか?」
尚登の投げやりな問いかけに、幾乃はすうっ、と表情を消して、そして静かに訊き返してきた。
「――終わったと思う? 私たちは、人間のことを理解し、判断を下したと思う?」
「…………」
「いいえ――この間いはむしろ、あなたのような機械にこそ向けられるべきものよね。あなたには人間というのがどういうものなのか、判断がついているかしら?」
「…………」
尚登はこの質問に答えなかった。答えられなかったのかも知れないし、答えたくなかったのかも知れない。
しかし、彼はそれをはっきりと表明しようとはしなかった。
この彼の態度に、幾乃は肩をすくめた。
「まあ、いいわ――別に問いつめるために来たわけじゃないし」
彼女は少し身を乗り出してきて、尚登の顔を覗き込むようにして言った。
「私は、あなたを誘いに来たのよ」
この唐突な言葉に、尚登は眼を訝《いぶか》しげに細めた。
「誘う? 何にだ?」
幾乃は即答せずに、静かに微笑んでいる。しばしの沈黙の後に、口を開けたのは尚登の方だった。
「……どういうことだ? もう、僕には戦略的価値なんかないぞ。人類からは完全に見捨てられているんだから」
この抗弁に、幾乃はゆっくりと首を左右に振った。
「そういうことではないわ――理由はそんなところにはない。私があなたを誘うのは、私たちが似ているからよ。あなたも、この世界に於《お》いては神さまに等しい力を持っていることだし」
「…………」
「そう――あなたの方が、人間よりもずっと私たちに近い――それはもしかすると、私たちが同じように、人間のいうところのたましい≠ニやらを持っていないから――かも知れない。――どう? 私と一緒に、あなたも抱え込んでいるその疑問を解明したいと思わない?」
「…………」
尚登は答えない。そして長い沈黙の後で、彼はぽつりと言った。
「――僕は、約束したんだ」
「ん?」
「彼女に――彼女が戻ってくるまで待っている≠ニ。だから僕はここ[#「ここ」に傍点]から離れるわけにはいかない」
きっぱりとした口調だった。
これを聞いて、幾乃はにやにやと笑っている。
「戻ってこなかったら、どうするの」
この辛辣な質問に、しかし尚登はびくともせずに、
「彼女は戻るさ」
と断定した。
この力強い姿勢に、しかし幾乃は猫のようなニヤニヤ笑いを消さない。
「まあ、そういうことにしておきましょう。時間はたっぷりあるんだから、ゆっくり考えてもらえればいいわ」
彼女は立ち上がり、そして尚登から離れていった。その姿は雑踏にまぎれて、たちまち見えなくなった。
*
「――あら?」
麻里は、駅前広場のベンチに腰掛けているその男の人に見覚えがあった。
(あれって――公坂さんじゃないかしら)
それは彼女の友人の、友だちだか彼氏だか今一つはっきりしないのだが、とにかく知り合いの人だった。彼は一人らしいので、麻里は思い切って声を掛けてみることにした。
「あの、公坂さん?」
彼女の声に、彼はびっくりしたように顔を上げたが、相手が麻里だとわかると、ほっとしたような顔になった。
「ああ――日向さんか。久しぶりだね」
彼は少し疲れているみたいだった。なんだか元気がない。
「学校の方はどうだい。受験も近いし、そろそろ勉強も大変になってくる時期だろう?」
「ええ、まあ――」
麻里は曖昧にうなずいた。自分よりも、尚登の方がよっぽど何か、大変そうに見えたので少し困ったのだ。彼女は話を変えた。
「あの、公坂さんのところには鷹梨さんから連絡とかありますか。彼女、急に海外留学とか決まっちゃって、あっというまにいなくなっちゃったから。私たちには住所もよくわかんないんですよ」
共通の知人の話題を、とりあえず出してみた。
すると尚登の顔が一瞬、なんとも言い様のない形に歪んだ。それは大笑いしそうにも見えたし、泣き出しそうにも見えたし、なんとも焦点の合わない奇妙な、左右非対称の顔つきだった。
彼はすぐに、普通の表情に戻り、
「――まあ、彼女のことだから、どこに行ってもしっかりやってると思うよ、うん」
と当たり障《さわ》りのないことを言った。
「そうですね。彼女なら周りがどんなところでも、例の調子で押し通しているみたいなイメージありますもんね」
麻里は微笑んだ。突拍子もないところのあるその友人のことを思い出すと、今でも愉快になるのだった。
「――――」
そんな彼女を、尚登は優しい眼で見つめていた。
誰も知らない――世界の仕組みと、それを支配する管理者の真の目的を。それはたったひとりの少女が帰ってくるその日まで待ち続ける、そのためだけに存在しているのだということを。
街のどこかで、誰かが空を見て「あっ、流れ星だ」と言った。
他の者たちも、つられて空を見上げる。しかし都会の澱んだ大気の中では星はほとんど見えない。
「えーと、どこかしら?」
麻里も、眼を凝らしてそれを探した。光っているもの、動くもの、それに願いを託して祈ることができるような、そういうものを求めながら。そう、そういうものは夜空の向こう側には、きっとあると思うのだ。
しかし、そのときには残念ながら、流れ星らしきものは彼女の眼には見つけることができなかった。
ただ、日暮れの最期の陽光を浴びて薄紫に光る雲の欠片が、ビル街の端っこに引っかかって、ぼんやりと漂っているだけだった。
“The Night Watch against The Star-Crossed Star”closed.
さて今こうして夜警のように、夜の真っただ中にいて、彼は、夜が見せているあの呼びかけ、あの灯り、あの不安、あれが、人間の生活だと知るのだった。
アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ〈夜間飛行〉
あとがき――風のように舞い、星のように瞬く
私は眼が悪いのに、あんまり眼鏡というものを掛けないで生活する癖があり、ぼんやりとした風景の中をふらふらさまよったりして生きている。それで眼鏡なしだと何が見えないって、夜空の星がまるっきり見えない。月が二重三重に見えるくらいだ。それで眼鏡を掛けると、急に黒い空に光の点々が出てきて、なんか妙な気分になる。もちろんそれは眼鏡を掛ける前から光っていたわけで、眼鏡がそれを生み出したわけではないのは当然なのだが、私からすると星というのは眼鏡に付随する何かのような気もするわけだ。見えなかったものが見えるようになったのではなく、眼鏡が光を放っていて、それが星のように見えているのかも知れない、とか。ま、もちろん錯覚なのであるが、だいたい夜空を見上げようなんて心理状態の時は不安なときだったりして、何が正しくて何が正しくないか疑っているわけで、そういう愚《ぐ》にもつかない感じもまたアリかなというか、なんというか。
で、全然話は変わるのだが、第二次世界大戦でもっとも威力を発揮した兵器は何か、ということを技術者の人なんかに訊ねてみると「それはレーダーだ」というちょっと意外な返事が返ってくる。直接的な武器ではなく、相手がどこにいるのか知ることができる探知装置の方が重要というのは、素人的には不思議な気もするのだが、その技術進歩の差がそのまま勝敗を分けたと言っても過言ではないそうだ。腕力よりも眼力、というところであろうか。そういやボクサーの強さを表現するのにも「彼はいい眼をしている」とか言われたりしているなあ、とか納得する。力だけいくらあっても、それをどう活《い》かすかという方法を見つけるための眼がなくてはなんにもならない――逆に言えば、いい眼をしていれば、どんな力が必要なのかわかるということにもなる。その力とは金であったり、学歴であったり、職能技術であったり、頼れる友人の数の多さだったりするのだろうが、しかし力というのは厄介なもので、それを身につけるのが必要だということはわかっているのだが、しかしどこまで身につければいいのかわからないので、結局げんなりして努力しないということになるのだった。大砲と弾丸を揃えなくては、とまず思ってしまうからそういうことになるのであって、ほんとうはそういうときはまずレーダーから仕込まなくてはならないのだろう。しかしなんか知らないが普通の世の中というのはまず力を身につけてから物を言え、みたいなことになっていて、何も考えずに努力しろ、ということばかり言われているよーな気がする。どんな力が必要なのか知りたいんですけど、とか文句を言おうものなら「それがわからないのは力がないからだ」とか本末転倒なことを言われたりする。才能がないのでどんな才能が必要なのか知りたくても、誰もそんなことには答えてくれやしない。
時々、一般的な意味での「正しいこと」というのは眼鏡に映っている光点であって星そのものではないのではないかという気がしてならなくなることがある。眼が悪いのに星が見たいからそういうものに頼るのだが、その眼鏡はほんとうに星の姿を眼に伝えてくれているのか、本物の眼鏡ならば仕組みは簡単だから錯覚だったらすぐにわかるが、たとえばそれは常識という名の「正しいこと測定装置」だったりすると、それを鵜呑《うの》みにして「ああ見えてる見えてる、これで間違いない」とか思ってしまっていいんだろうかと、かなり悩む。たとえばちょっと前までは「とにかく金だ。金さえあって土地を買っとけば間違いない」とみんなが思っていたわけで、それを見せていた眼鏡というのはどんなものだったのだろうかとか思う。僕たちは星が見たかっただけのはずなのに、なんだか全然別のものを見せられていたんじゃなかろうか、などと。
ところで星が瞬いて見えるのは地上でだけで、宇宙に出ると星はまったくちかちかすることなく、ただ一定の強さで光っているだけだそうだ。これは要するに空気の屈折というか、風の動きが星の灯《あか》りを揺らしているからだということらしい。なんのことはない、別に視力が2・0の人間の眼であっても、大気という巨大な眼鏡を通して星を見ていることになるのだった。宇宙飛行士もガラス越しでしか見てないし、我々は誰一人としてほんとうの星の姿など見たことがないのだ。そして――あるいは、これは他のすべてのことでもそうなのかも知れない。真実というものがもしこの世にあるとするならば、それはすべてを見せてくれる魔法の眼鏡を手にすることではなく、どんな風の中でもそれと一緒になって踊って、星が瞬いている理由を実感できるようになることなのではないだろうか。風は動き続けるから、その瞬きも変わり続けるわけで――あー、だんだんこの文章も論旨を回しすぎてふらふらしてきた。これが生きるってことなのね、とか言ってみたりして。以上。
(立脚点が見えないまま、ムリヤリ話を進めてどーすんだおまえは)
(だって踊ってんだから、しょーがねえじゃん)
BGM“I've Seen It All”from Dancer In The Dark