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十勝平野(上)
上西晴治
目 次
第一部 落日篇
第二部 抵抗篇
下巻目次
第三部 苦闘篇
第四部 新生篇
[#改ページ]
第一部 落日篇
1
オコシップはオンコの木で作った小ぶりな弓と獲物の入った袋を肩にかけ、雪融け水を含んだ早春の砂浜を河口に向かって歩いた。
彼はときどき重い足をとめ、沖合いをゆく帆前船に眼をやった。船は帆をいっぱいに膨らませ、釧路《くしろ》の方に向かって羽撃《はばた》くように翔《か》けてゆく。だが、あの船はもう松前の御用船ではない、とオコシップはあらためて自分に言いきかせる。新しい「明治《めいじ》」の時代がやってきて、何もかも自由になったのだから、銭《ぜに》さえあれば積荷の米でも味噌でも思いのままに買うことができるのだ。「エレキのように光る鉄砲だってな」彼は遠退《とおの》いてゆく帆前船を振り返り、こう呟やいてふたたび歩き出した。
獲物袋が肩に食い込んでくるので、オコシップは前に屈《かが》んでずり上げる。袋には兎や山鳥や雉《きじ》や山葱《キトビロ》の白い根が入っていたが、この獲物を手に入れるために、彼はずいぶん苦労したのだった。カタサルベツの深い沢に密生する先の尖った鋭い|おに《ヽヽ》笹の中をこぎ回るだけでも容易ではなかった。剥き出した手足に傷を負い、あちこちから血を吹き出していた。
オコシップはその朝早く家を出てから、淡雪の残る山中を一日じゅう駈け回り、近頃にない豊猟をして帰ってきたところであった。破れた履物《ケリ》を素足にくくりつけたまま山から海岸に下りて、もう一里も歩いてきたのだが、十勝《とかぷち》川の河口を三百|間《けん》も遡《さかのぼ》ったところにある自分の家までは、まだ半里もあった。彼は空腹に我慢ができず、採ってきたキトビロの白い茎を噛《か》じりながら歩いた。
目の前に続く単調な海岸線は、大きな弧を描いてどこまでも延び、その彼方には雪に覆われた日高《ひだか》山脈の突端が青白く海に突き出している。後方には遠く白糠《しらぬか》の岬が見えるはずだったが、海上にたなびく霧の中に消えていた。
十勝川の太い流れが見えてくると、原野を吹き抜けてきた冷たい風が厚司《アツシ》の裾をばたばたと叩きつけた。彼はちょっと立ち止まって息をのみ、河口に逆巻く白波を見やりながら岸に打ち上げられた流木の間を縫うように歩いた。
河口|部落《コタン》のヤエケは家の前に立っていて、彼が近づいてくるのを待っていた。十五分も前に、海岸にオコシップの姿が見えたときから、彼は瞬《まばた》きひとつせず、相手はたかが十七、八の若僧だし、どうにか言いくるめて、獲物の半分は取り上げてやろうと、気構えていたのである。
そのころ、河口にさし掛かっていたオコシップは、母のほかに自分と妹たち、合わせて五人の口過ぎをしていかねばならないので、がめついヤエケがどんなに口塩梅《くちあんばい》よく迫ってきても、獲物の袋には出来るだけ近づけまい、と自分に言い聞かせていた。
いつもなら、たとえカケス一羽でも獲物を持っているときには、ポロヌイ峠からわが家に向かって真っすぐ山を下だることにしていた。それが今日は、おに笹をこぎ回っているうちに、ヤエケに逢って鉄砲を見せて貰いたくなったので、浜部落の方を回ることにしたのである。つい二、三日前に、ヤエケがその鉄砲を手放す、という噂を耳にしたのも気懸りだった。
ヤエケは元《もと》川向こうの大津《おおつ》場所(松前藩が支配していた漁場)で働いていた役付き(小使い)アイヌである。コタンの首長が松前の請負人から受けた命令を、コタンのアイヌたちに直接伝える役目だったので、ヤエケはいつも両手を振り、胸を張ってコタンからコタンを歩き回っていた。
命令に背けば救済米が貰えないので、コタンのアイヌたちはどんなことにも従った。命令は年ごとに厳しくなり、自由に魚を獲ることも木を伐ることも出来なくなり、このごろは、許しがなければ居所を変えることさえ出来なくなっていたが、コタンのアイヌたちは不平ひとつ言わずに従順だった。
それをよいことにして、ヤエケは救済米をかすめ、六人もいるわが子に米をたらふく食べさせたというので(子供の半分はシャモ種だという悪口といっしょに)、その噂がコタンのすみずみまで広がっていた。しかし、当のヤエケは平然と構えて、その後もコタンからコタンを歩き回って羽振りがよく、彼の肩には、これまで誰ひとり所持したことのない自慢の鉄砲がまばゆく光っていた。
そもそもこの鉄砲は、恰幅《かつぷく》のいい近江商人にラッコやテンの毛皮を安値で世話し、その謝礼として貰ったものであった。ある日、ヤエケがこの黒光る舶来の鉄砲を肩に掛け、ポロヌイ峠を大股に下だって来たときだった。彼はコタンに急を知らせるペウタンケ(「神呼び」といって、大声で叫び、家から家へ伝えられる)の声で足を止めた。その声は峠の裏の浦幌太《うらほろぶと》の方から聞こえてきたが、そのすぐ後から、首長オニシャインの使い人、足の早いアチャエが走ってきて、「場所請負人廃止、明治二年、開拓使」と、書類でも読み上げるような口調で言った。
「なんのこった」と、ヤエケが訊いた。
「もうオムシャ(場所請負人のところに貢物を捧げる)も、公事《クンチ》(漁場の労役として、アイヌを強制連行する)もなくなったんだ」と言った。
「いつの話だ」とヤエケは訊き返したが、昨日、兄オニシャインに会ったばかりだったので、この意外な知らせにすっかりまごついてしまった。
ヤエケは道路わきに腰を下ろし、これから先どんな世の中になるのだろうと思った。彼はいくら考えても分らなかったが、それから間もなく役職が解かれ、放り出されて目が覚めた。これまでの華やかな生活が夢のように遠退いて、みんなと同じ、しょぼくれたアイヌになってしまったのだ。
彼はいつも腹の中がむしゃくしゃし、朝から濁酒《どぶろく》を飲んでクダを巻いた。
「誰がいったい場所を廃止したんだい、救済米はどうした、葉煙草はどうなったんだい。おらたちは、もう三日も何ひとつ食べていねえだど」
口尻から糸を引いた太い涎《よだれ》が、はだけた毛むくじゃらの胸をつたってキナ筵《むしろ》の上にこぼれ落ちた。彼は言いたい放題を並べたててから、こんどは思い直したように頭をぶるんとひと振りして立て直し、目を据えて前方を睨むのだった。
「こう見えても、もとは役アイヌ、おらにはぴかぴかに光った飛び道具があるだど」
ヤエケは子供たちよりも鉄砲が大事だった。片目をつむって獲物に狙いを定め、「ズドン」と引き金をひく。彼は仕留《しと》めた熊に片足をかけ、天上を見上げてケラケラ笑った。クダを巻いた後は、いつもここで話の結末がつくのだった。
オコシップはその鉄砲が欲しかった。ヤエケの仕種《しぐさ》以上にその威力を知っていた。毎年、海の向こうから鹿狩りに乗り込んでくる和人たちは、山じゅうに轟音を響かせ、手当たりしだいに撃ちまくる。逃げ回る鹿たちは、弓矢を持ったアイヌたちの目の前で、もんどりうって斃《たお》れてゆく。弾丸が肉深く食い込み、どんな大鹿も一発で仕留められた。
「たまげた威力だ」と、シンホイが唸るように言う。アイヌ仲間では腕のいいシンホイやシュクシュンが、いくら毒矢に精をこめて立ち向かっても勝目はなかった。やがて和人たちは鹿を追って釧路や日高の方へ去って行ったが、山に響き渡る轟音はオコシップの耳につきまとって、いつまでも離れなかった――。
「猟はどんなだ」と、ヤエケが袋の中を覗《のぞ》き込むような目をして声をかけてきた。オコシップはあまり近寄らないように気を配りながら、ヤエケから五間も離れた太い流木の根っ株に袋を下ろした。突然、袋の中の山鳥が羽撃《はばた》く。半ば口を開いて見入っていたヤエケは、こんもり膨れ上がった獲物袋に、思わず髭面に笑みを浮かべ、「大猟でねえかよ」と言って前に進み出てきたものだから、オコシップはあわてて袋を抱きかかえ、ヤエケが進み出た分だけ跳び退いた。
「欲しいとは、ひとことだって言ってなかべ」ヤエケは口を尖らせたが、
「その目は盗人《ぬすつと》だい」オコシップは用心深くヤエケとの距離を保ちながら、いつでも逃げられるように身構える。
「そう喧嘩腰にならんでもな」ヤエケは宥《なだ》めるように言い、舌打ちをして、もとの所まで引き下がったので、オコシップも獲物袋をふたたび寄り木の上に押し上げて、彼の正面に立ち向かった。
太陽は淡雪をいだいた日高山脈に大きく傾いていた。半ば朽ちた草葺家の影が長く伸びてオコシップの足もとまで届いている。その影を跨ぐように立った彼は、だしぬけに「鉄砲ば売ってけれ」と言った。ヤエケは一瞬飲み込めない様子だったが、いっときの後、目を吊り上げ、嘲《あざ》けた声を張り上げた。
「なんとな、おめえが一生働いたって買えっこねえだよ」
「白熊の皮なら」と、オコシップは問いかける。彼はラッコ、テンと、つぎつぎに高価な品を提示するが、ヤエケは首を横に振り続けた末、
「おらはな、爪の垢ほどだって売る気はねえだよ」と言って、口を結んだ。二人はしばらくの間、向き合ったまま押し黙っていた。
原野の向こうから風の束が渦巻いてきて、厚司の裾を激しく叩きつける。オコシップの腹の中がぐうと鳴った。彼は寒さより空腹がこたえた。袋の中からキトビロの白い茎を取り出して噛じる。小川のほとりを一尺も掘って採った軟い白茎である。これが青い芽を吹くのは一カ月も先のことだ。彼はポリポリ音をたて、舌に残る甘みを味わうようにゆっくり噛みしめる。
「精がつくべ」ヤエケは唾を飲み込んで言い、おらの家では家内じゅうが今日で三日も飯にありついていない、といつもの言葉をつけ加えた。しかし、オコシップはヤエケの言い分にはまるで上《うわ》の空で、白茎を飲み込んではごくんと喉を鳴らす。
先刻から、窓から覗いていた子供たちは、もう我慢ができず、静かに音もなく家の中から抜け出してきた。ヤエケの子供たちときたら、半分以上がシャモ種で、そのうえ体に障《さわ》りがあった。足の悪いもの、目のうすいもの、声の出ないもの。体の丈夫な兄たちは、どこかへ行ってしまって、もう何年も音沙汰がなくなっていた。
「ごくつぶしども」と、ヤエケは子供たちを振り向いて言った。
「おらたちはいま大事な話をしてんだからな、ここから先へは出てならんど」オコシップはケリの爪先で砂地の上に太い線を引いた。子供たちはその線の上まで進み出て、オコシップの口尻からにじみ出る白い泡を見つめた。
「昔はな、獲ってきた獲物はみんなで分け合って食べたもんだ」ヤエケは思い出すように呟やいたが、オコシップはその言葉尻をもぎ取って、
「そのころは、小賢《こざか》しい役アイヌがいなかったからな」と言い返した。ヤエケはそのいやな言葉を打ち消すように、がっと唾を吐き捨てたが、しかし彼はここで話がこじれては肝腎な獲物が|だいなし《ヽヽヽヽ》になると思った。
「家の宝だから売ることはならんが、おめえがその気なら貸してもええ」彼はオコシップの返事も聞かずに家の中へ駈け込んで行った。しばらくして、彼は新式の鉄砲を携えて戻ってきた。
「鉄砲《こいつ》はイギリス製でな、エンフィールドと言うぞ」ヤエケは勇み立っていた。根元のところが偏平でやや下方に曲り、鉄で出来た筒先がどす黒く光っている。
「金毛の大熊でも、たわえのねえもんだて」ヤエケは太い親指で、上の方に飛び出た撃鉄《げきてつ》を引き、床尾《しようび》を肩につけてオコシップの獲物袋に狙いを定める。子供たちが「おっかない」と言って、両手で耳をふさいだ。それは空撃ちなのだが、撃鉄の落ちる音がオコシップの腹にがちんと響いた。
「七三でどうだ」と、ヤエケは鉄砲を頭上にかざして言った。
「七はどっちだ」
「きまってるべ」彼はトッカリのように、鼻をビービー鳴らして嘯《うそぶ》いている。
「まるで泥棒だな」と、オコシップは呆れ顔に言い、袋の中から新しいキトビロを取り出して、口いっぱいに頬張った。じっと見ていた子供たちがオコシップに近づこうと、区切られた太い線の先を遠回りして越えようとしたところを、ヤエケにどやされて引き退《さが》った。オコシップとヤエケは、頭をしゃんと立てて改めて向き合った。
「強欲《ごうよく》めが」と、ヤエケが目を剥き、「どっちの話だい」と、オコシップがやり返す。そこへ割り込むようにして、首にアイヌ玉をぶら下げたヤエケの長女ヌイタがやってきた。彼女はオコシップの描いた太い境界線を平気で踏み越え、流木の根っ株の端に腰を下ろした。オコシップとは幼いころからよく遊んだ仲だったので、彼は鼻の上に小皺《こじわ》を寄せただけで咎《とが》めなかった。
子供のころから体格がすぐれ気丈だったヌイタは、父親ヤエケの計《はか》らいで場所の飯炊きに出された。十五歳の若さだった。ヤエケとヌイタの給代《とりまえ》を合わせると、年間七両にもなったのだから和人並みである。ヌイタは「おぼこ」と呼ばれて可愛がられたが、働いて一週間とたたないうちに、筋肉の盛り上がった大男たちが、わっと飛びかかってヌイタのホトが血だらけになった。
「ど助平野郎」ヌイタは鉈《なた》を振り回して歯向かったが、ひ弱い彼女は簡単にねじ伏せられた。
「こんなええ|ボボ《ホト》、遊ばせておく手はねえて」ヌイタの腹は三度ふくれて三度流れた。彼女は淋病を移され、すっかりくたびれて、わずか一年で帰ってきたのだった。
「体はええのかい」と、オコシップはヤエケから目を離さずに言った。しかし、ヌイタはそれには答えず、根っ株の端の方から体をずらしてきて袋に近づき、その中から勝手にキトビロを取り出して食べ始めた。
「おらたちにも分けてくろよ」と、ヤエケの子供たちは境界線ギリギリのところから手をさし出して喚きたてた。その声がしだいに大きくなり、歌うように響き渡ると、オコシップはその手に乗るまいと、肘《ひじ》を張ってぎっしり獲物袋の口を押さえつけた。
「せめて六四だとな」オコシップは鉄砲に未練があるので、話をそこへ引き戻そうとして問いかけたのだが、そのとき、ヌイタが突然彼の首に両手を回してぶら下がった。ヤエケが「発情豚《ふけぶた》ども」と叫んで髭面を歪《ゆが》めたが、一方、驚いたオコシップは荒馬のように首を振ったものだから、ヌイタの体がブランコのように揺れ動いた。揺れながら「ウォーイ、ホーイ、オーイ」と、まるでペウタンケみたいな声で叫んだ。オコシップは、これが盗みの合図だとは思いもしなかった。
ヌイタは顔いっぱいに笑みを浮かべ、アイヌ玉をピカピカ光らせていつまでも離れない。彼女の体から湧き上がってくる磯のような香りに、オコシップは鼻をクンクン打ち鳴らす。子供たちがキャッキャッと笑いながら、家の中へ逃げ込んで行った。
オコシップが気づいたとき、ぺしゃんこにつぶれた獲物袋が足もとに転がっていて、戸口のところには、ヤエケといっしょに隣り近所の大人三人が両足を開いて立っていた。
川面に夕陽の赤い影がゆらゆら揺れ動いていた。風が吹いてきて、オコシップの体も揺れながら赤く染まった。肩にかけた袋には痩せた山鳥が一羽だけ入っている。川岸の柳がさやさや音をたててどこまでも続く。その下を、オコシップは重い足どりで歩いた。
イム(アイヌ女の一種の精神病で、相手と反対の言動をする)のうまいハルアン婆《ばば》が漁を終え、丸木舟に乗って川上から下だってきた。流れはゆるやかで、櫂《かい》を振るたびに夕陽に染まった赤い雫《しずく》が船縁にこぼれ落ちる。川風に乗って、ハルアンの歌うヤエサマネナ(即興歌)が聞こえてきた。
憎らしや 情けなや
賢《さか》しい和人《シヤモ》たちが トカプチ川に踏みこんできて
カムイチェプ(鮭)やサキペ(鱒)を みんな押えてしまった
和人の上役《うわやく》の者は 嘘をつかないと思っていたのに
何という悪どい心 口と腹とはいつもちがう
はじめに漁場を奪《と》られ そのつぎに土地を奪られた
コタンコロクル(首長)の力も及ばず コタンは見るかげもなく荒れ果て
アイヌたちは みんなふぬけの殻になってしまった
ハルアンの歌がとぎれたとき、オコシップは丸木舟に向かって大声で叫んだ。
「おいら、ハルアンの歌に反対だな」
耳の遠い彼女は、岸の蒲原《がまはら》に舳先《へさき》を入れて、
「何と言った」と訊いた。
「漁場を奪られたって、おいら、ふぬけの殻じゃねえど」
「これはな、年中コタンを見守っているワッカウシカムイ(流れの神)だって認めてくださっとるだよ」口の周りに両端の跳ね上がった入墨をし、鉢巻きをきりりと締めたハルアンは言い含めるように言う。
「悪いのは和人《シヤモ》だけでないわい」乙名《おとな》(首長)や小使いの役アイヌ(首長の命令をコタンの人々に直接伝える)が、和人の力にものを言わせて、仲間撃ちをしたんだ、とオコシップは彼らのやり口をなじった。
「それもみんな和人のせいなんだよ」ハルアンは直接手を汚さないのが和人のやり方で、仕方がなかったと言って説明した。しかし、オコシップにはそれが承服できない。
「ヤエケなんか、ずる和人《シヤモ》よりもっとひどいや」先刻の獲物泥棒を言ってやろうと思ったが、ハルアンの丸木舟はもう蒲原を遠く離れていた。
「淫《いん》だらめが」と言って、オコシップは弓を振り回して、オニガヤの枯穂を叩き切った。それはハルアンの歌のことではなく、首にぶら下がったヌイタの仕種《しぐさ》が忌々しかったのだ。彼女は盗みの合図をした後、唇を軽く噛んで「尻ば抱いてくろ」と言った。尻を抱いてやると、こんどは「ホトば撫でてくろ」と言った。彼女のうるんだ瞳を見つめながら、世の中がぐるぐる回り出して、いつか流木の裏側に回っていたのだった。
「オポロ(大きいホト)野郎」オコシップは、道端の柳の根っ株を蹴飛ばしながら歩いた。
茅原の向こうにわが家の草屋根が見えてくると、オコシップはどっと疲れがでた。夕陽が日高山脈に落ちるころ、彼は履物《ケリ》をひきずるようにして、やっと家に辿り着いた。
2
海霧《ガス》の塊が通り過ぎて、太陽が淡い光をのぞかせている。桜鳥《シケレペチリ》の群がガヤガヤ騒ぎながら川下の方へ飛んで行った。
「なんど?」母のエシリが窓から顔を突き出した。オコシップが振り向いて、シケレペチリが飛んで行ったことを説明していると、「ほら」と、母がふたたび言って耳を傾けた。川上の方からたしかに女の叫び声が聞こえてくる。浦幌太《うらほろぶと》の河口辺りだ。
「ペウタンケ(女の神呼び)だど」母が素足のまま外へ跳び出した。その後ろから子供たちも一列になってついて出る。
「ウォーイ、ホーイ、オーイ」シュクシュンの女房サロチの声だった。その声に応え、母が同じ節回しで叫び返した。ペウタンケはコタンの大事を知らせる呼び声なのだが、これを受けた者は、すぐ隣りへ伝えねばならないのだ。
「オコシップ、下手《しもて》を呼べ」
ペウタンケの明るい節回しを聞いたときから吉事と知れたので、母の心は弾《はず》んでいる。もしかして、クナシリ(国後)場所へ行ったレウカが帰ってくるかもしれない。
「コタンを突き抜ける声で呼べ」オコシップは川の土手《ハンブ》に立ち、海霧の立ちこめる向こう部落に向かって、「フ、オホホーイ。フ、オホホーイ」と、太い声でオコクセ(男の神呼び)をした。子供たちも面白がっていっしょに叫んだ。
この前の吉事のオコクセはちょうど二年前だった。それは「明治」という新しい時代になり、和人もアイヌも平等になったので、場所(漁場)に働いていたアイヌたちが帰ってくる、という|触れ《ヽヽ》だった。コタンの人たちは喜びに湧きたち、濁酒《どぶろく》をつくって三日も飲み明かした。
「お父《とう》はチポロサヨ(筋子粥)が好きだったんだよ」母は乾燥した秋味《あきあじ》の筋子や稲黍《いなきび》を用意してレウカの帰りを待った。しかし、それから一カ月が経ち、一年が経った。そして二年経っても帰ってはこなかった。
レウカの噂は、その後、春風や秋風に乗ってやってきた。場所を逃げ出す途中で船が転覆して死んだとも、働きが悪いために叩き殺されたとも言いふらされた。だから、エシリはこのごろ心底から心細くなり、めっきりやつれ果てていたのだが、いま、この勇みたったオコクセを聞き、彼女はもう吹き上げる湯気のように胸が高鳴っていた。
「こんどこそ帰ってくるぞ」子供たちはみんな家の中へ入ったのに、母は家へも入らず、気がイライラして家の周りを小走りにぐるぐる回っているところへ、アチャエ(首長オニシャインの使い人)が濃い霧の中から飛び出してきた。彼は首長の家に近い二股のところに住む足の早い若者だったので、急なときにはいつも疾風のように飛んできた。
「レウカのことは聞かなかったか」
「子沢山の亭主サロッテはエトロフ(択捉)島だからな」
「大仰なペウタンケまでして、人騒がせな」これなら、吉事どころか、かえって心が乱されると言って、エシリはそのまま砂の上にべったり腰を落としてしまった。
レウカがクナシリ場所に連れてゆかれたのは、オコシップが七つのときである。夏の終りだった。赤トンボが澄んだ空に光っていた。鼻髭を撥ね上げた場所の役人と首長オニシャインがやってきて、「クンチ」と言った。松前藩の時代には「出稼ぎ」と呼ばれ、自分の言い分も少しは通ったものだが、徳川じきじきになってからは「クンチ」と呼ばれ、それは場所への強制連行だったので、いくら頼んでも容赦されなかった。それに逆らって耳を削《そ》がれる者や、足の腱《けん》を切られる者があった。だからレウカの家では、頭を垂れかしこまって役人の言う命令を聞いたのだった。
役人がぶ厚い人別帳を開いて読み上げる。
「戸主レウカ、住所トカプチ下流コタン、出生文政二年、年齢四十一歳、家族は妻エシリ四十歳、子供オコシップ七歳、チキナン五歳、ウフツ三歳、カロナ一歳」
「間違いないな」と、念を押して鼻髭の役人は続ける。
「働き場所はクナシリ、契約年数一年、給代一日玄米五合、前渡し玄米二斗三升、これは出発のとき厚内《あつない》で家族に引き渡す」
その時のクンチは十人だった。いったん厚内に集合し、それをオニシャインが根室まで引率してクナシリの請負人に引き渡すというのである。
クナシリはレウカにとって怖《おぞ》ましい記憶しかない。祖父マメキリがクナシリのトマリコタンの首長だったとき、和人と戦いを交えて敗戦、同胞といっしょに斬首の刑を受け、一族四散した恨み深いところなのだ。だからクナシリと聞いただけで体じゅうに鳥肌が立った。しかし、レウカは固い表情は見せないで冷静を装い、口を噤んでいた。
「前渡し米の二斗三升は、温情あふれる取り計らいなんだ」オニシャインは勿体ぶって言い含め、温情に報いるには、漁場で真面目に働いて貰いたいと付け加えた。
「一年で帰して貰えるべか」エシリは突然おびえた口調で役人に訊ねる。
「当たりめえよ」と、これまで寡黙《かもく》に押し黙っていた父のレウカが横から口を入れた。「立派な殿様やコタンコロクルに嘘のあるはずはねえ」
心配そうに聞いていたオコシップが、父の言葉を真《ま》にうけて、
「静内太《しずないぶと》のアイノは、とうとう帰ってこないで、おまけに妻《マツ》は和人に攫《さら》われたと言ったべ」
彼はいつも母から聞いていたことをすらすら言ったものだから、母はあわてて掌でオコシップの口を塞いだ。役人たちは渋い表情で互いに顔を見合わせる。
「誰が言った! ろくでもねえ」オコシップは父の鉄拳を脳天に受けてひっくり返ったが、どうしてそうなったものか、まるで分らなかった。
このときのクンチは、十勝太コタンからはレウカとその弟サクサンの二人だった。夕方、サクサンの女房ウロナイがやってきて、「おらたちは、どして運が悪いべか」と言って泣き喚いた。
「カイヨもヘンケもすぐ近くの大津場所だに、急なときにはいつでも連絡がつくによ」
「それが、クナシリときたら、五日も歩いて、そのまた海の向こうだから気が遠くなってしまう」
エシリとウロナイは「どうすべえ、どうすべえ」と言って、家の中をぐるぐる歩き回った。
出発の前の日、母たちは忙しかった。ラッコの革でつくった袖なしや脚絆《ホシ》や履物《ケリ》の替りをサラニプ(背負い袋)に詰めたり、ウバユリダンゴをこねて弁当を作ったりした。オコシップも水を汲み、薪を運んで手伝った。
「クナシリはもう寒いべな」母は秋風の音を聞きながら、「外套も手套もろくなものはないだよ」と言う。子供たちは母の傍に立って父の旅支度をじっと見つめている。父は朝から炉縁にごろんと寝転がったまま、いつまでたっても起き上がらなかった。
戸外は暗闇に包まれていた。灯火《ラツチヤク》がジーと沁み入るように燃えている。猟犬がウウと唸り、筵戸《むしろと》を押し開けてサクサンが入ってきた。裾までの長い厚司がないらしく、キナ筵を腰に巻きつけていた。「夕飯ば終ったけえ」と言って、いつもは陽気に入ってくるサクサンなのだが、この日は黒い瞳だけがギラギラ光っていた。父と母を土間に呼んでひそひそ話しているうちに、母が目頭を押さえた。
「どしてもゆくべか」と、父は重い声で訊いた。
「山へ入った方がなんぼええか」と、サクサンは答えた。耳を立てて聞きながら、「山奥へ逃げるんだな」と、オコシップは思った。
母が飯椀に濁酒を盛ってきてサクサンに手渡すと、彼はひと息に飲みほして「うめえなあ」と言った。それから、父と叔父は強く抱き合って離れた。
「和人が狙ってるだからな、口が裂けても言ってならんど」オコシップを見る母の目は獣のように光っていた。父と母はサクサンの後について表に出た。
トンケシ山の上に月が出ていた。サンナシの茂みの向こう側に黒い塊を作っているのはサクサン一家だった。叔父も叔母も四人の子供も、山ほどの荷物を背負っていた。五つになるモンスパが「おら行きたくない」と言って、泣き声をあげると、兄のテツナが袖口を掴んで黒い塊の中へ引き入れた。
「明日《あした》の晩には着くさ」とサクサンは言ったが、行き先はきっと山の深い留真《るしん》のブシ原の辺りだろうと、オコシップは思った。母親たちは手を取り合い、声を噛み殺して泣いている。
「さあ」と、叔父が一家の先頭に立って促《うなが》した。「達者でな」と、母が喉をつまらせて言った。頭の上まで盛り上がった大きな荷物が、ひとつひとつ薄暗いオニガヤの中に消えて行った。
オコシップは床へ入ってもなかなか寝つけなかった。浜コタンの方から犬の遠吠えがかすかに聞こえる。屋根の裂け目から月の光が射し込んで、静かな夜である。炉縁にうずくまった母たちの話し声がぼそぼそ聞こえてくる。
「明日《あした》の昼ごろまで気づかれなければな」この界隈の山に詳しいサクサンならたやすく逃げおおせる、と父は言うが、しかし、犬まさりの鼻をもつオニシャインは草の根を一本一本はだけ、山から山を駆けめぐって取り逃がすまい、と母は言う。
「もし見つかったら?」
「皆殺しだ」
オコシップは聞きながら、体じゅうが凍りついた。
首長に背き、場所行きを拒んだ若者サラサの受けたむごい仕打ちを、ハルアンはいつも歌っている。
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憐れなことだ 不憫《ふびん》なことだ
場所行きがいやだといって 山へ逃げ隠れたサラサは
山狩りの若者たちに捕えられ
ポロヌイ峠の祭りの広場に引き出された
意気地ないサラサは 狂ったように泣きわめき
ちょうど北東風《やませ》が吹いてきて
その声は原野を越えて 大津まで響き渡った
サラサの両親や身内の者は
悲しみのあまり立っていることも出来ず
シントコやアイヌ玉を差し出して詫びたけれども
許してはもらえなかった
裁きはきびしく 首長オニシャインの命令で
足の腱《けん》を切られたサラサは 血だらけのままタンカに乗せられ
大滝の沢へ放り出されて 深い谷底へ落ちて行った
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オコシップは、サクサン一家もサラサと同じような仕打ちに会うような気がして息がつまった。夢の中でハルアンの歌声や犬の遠吠えを聞きながら、オコシップには寝苦しい一夜だった。
次の日、オコシップは忙しく立ち回る母たちの物音で目が覚めた。強い陽光が筵戸の方から射し込んでくる。戸外から入ってきた父が「今のところ大丈夫だな」と、叔父たちのことを言った。炉縁で朝食を拵《こしら》えていた母が心配そうに伸び上がって外を見る。
「筵戸はきちんと締ってるし、棚にはボロ網もかかってる」母は坐ったまま、見ているように力をこめて言う。
サクサンの家は、口の早いハルアンと元役アイヌのヤエケに挾まれていたので、どちらが先に逃亡を察知しても、半時のうちにコタンじゅうに広がるはずだ。父と母はかわるがわる家から出たり入ったり、少しも落ち着かない様子だったが、太陽が頭のてっぺんにきたとき、「ほら見ろ」と父が言った。それはトンケシ山をかわした眩ゆいほど光り輝く真昼の太陽だった。
「ほんとに大丈夫けえ」と、母はもう一度確めるように言って、あらためて空を見上げる。
「今ごろは、留真《るしん》の大沢に入って、薄暗い中を奥へ進んでるな」そこへ迷いこんだら、ふたたび出てこれないと言われるほどの深い沢だ、と父が言う。
「へたすと熊だって迷うくらいだ」父は飯椀の濁酒をいっきに呑みほし、「追っ手はどうした」と叫んで、げくげくと笑った。その声につられて、子供たちも手を拍って笑った。
出発の時がきた。風がごうっと唸りをたてて通りすぎる。ほんとの秋がきたのだ。春から居坐っていた海霧《ガス》が遠のいて、空は紺碧に澄み渡っていた。父たちは浜コタンを通らずに丘陵の麓を回って河口近くの海岸に出た。行く先には白糠《しらぬか》の岬が青白く光り、後方には襟裳岬《えりもみさき》が槍先のように海に突き出していた。
「お父《とう》はあの岬の、もっともっと遠くへ行くんだよ」と、母が白糠の岬を指差して言った。母とオコシップは父を厚内まで見送りがてら、前渡し米を受け取りに行くのだった。三人は渚を蹴って、風に追い立てられるように急いだ。
河口から遠ざかるにつれ、陸地が渚にせり出してきて、いつの間にか頭上に絶壁がそそり立っていた。荒い岩肌に海鵜《うみう》が群れ、波音が岩に木霊《こだま》して、のんのん地響きを立てる。
「クナシリでは、畜生みたいに扱われるとな」母は心配で堪らない。
「阿呆! 油糞でも、仮病でも、やり方はいくらでもある」父は突然、砂の上にひっくり返り、体をエビのように丸めて、がっがっがっと、喉を鳴らして痛みをこらえた。
「あれえ、おら、本気にしちゃった」うまいもんだと感心して、母は父の背中をとんとん蹴飛ばしながら笑い転げた。オコシップも、いっしょになって蹴飛ばした。
三人はふたたび歩き出した。小さな岬をかわすと、その向こうにまた岬があった。三つ目の岬が目の前にあらわれたとき、三人は同時に足を止めた。そこは十勝川河口と厚内のちょうど中間だった。昆布刈石《こぶかりし》の大岬である。絶壁の上から落ちてきた巨大な岩がいくつも重なり合って、海の方まで突き出しているのだ。
「岬のカムイが行くなと言うぞ」母は肩をすくめて切り立った絶壁を見上げる。
太陽は大きく西に傾いていた。日が落ちるまでには厚内場所に着くことになっていたので、父の心に余裕はなかった。彼は海水を神酒として掌に汲み、流木の枝でつくった祈り箸の先に浸した神酒を、岩の上に一滴ずつ垂れ落とし、
「岬の神に謹しんで申し上げる。どうか過《あやま》ることなく、無事、岩の向こうにお渡し下され」
父は切り立った岩を這うようにして登る。しかし、彼は三度試みて三度失敗した。岩が急なので、下から支える母の手が離れると、すぐに滑り落ちてしまうのだ。
「泳ぐしか手はないな」こんどは波に向かって「目をつぶれ、目をつぶれ」と、父は波鎮めの呪文を唱える。母たちもいっしょに手を合わせる。父は裸になり、着物を背負袋《サラニプ》に括りつけると、「いち、にいの、さん」で、岩の向こう側に投げ飛ばした。サラニプは岩をすれすれに飛び越えて、どすっと鈍い音がした。その音を聞いた母が「痛た、た」と、サラニプになって悲鳴を挙げた。
岩を打ちつけていた波が、一瞬静まったような気がした。白波は父の頭をなんども沈めたが、次の瞬間、大きな浮子《うき》のように飛び出してくる。「目をつぶれ」と、母が一心に唱えた。波に潜ったまま、父は岩の尖端をかわした。
「前渡し米はな、明日、山越えで受け取りに行けばええ」と、父は岩越しに大声で叫んだ。
「あいよう」と、母は両手をラッパにして応える。
「サクサンはうまく逃げれたようだし、おらあも来年はきっと返ってくるしな、心配するこたぁなんもないど」
「あいよう」
「(毒矢の)|ブシ《トリカブト》は大きな山を三つ越えた留真山だからな」
「分ったよう」と、オコシップは胸につかえた悲しみを吐き出すように叫び返した。間もなく声は途切れた。
午後の陽光が沖の白波を明るく照らしていた。オコシップは母親と渚を帰りながら、ブシのことが気がかりだった。来年帰るという父が、どうしてブシの所在《ありか》を心配しなければならなかったものか、オコシップにはそれがいつまでも心に残って離れなかった。
3
萱草《かんぞう》の花が咲いて雪が降って、また萱草の花が咲いて雪が降って、そのうちに明治という時代になり、はじめから数えて十年が経っていた。父のレウカはクナシリに連れてゆかれるときから、長引くことを覚悟していた様子だったが、こういつまでも帰れないとは誰も思ってはいなかった。そして山に逃がれたサクサン一家も、あれ以来忘れられ、今ではコタンの噂にも登らなかった。
母のエシリは指を一本ずつ折り曲げ、レウカが行ってしまってからの年月を数えながら、貧しかった暮らし向きを思い浮かべる。
「レウカが行くときにもらった二斗三升の前渡し米で幾日食べれたと思う?」母は家の前を通る女たちを呼びとめては悪態をついた。役アイヌ、ヤエケの女房サウシは何も言わずに口を尖らせて睨みつけた。
「七つを頭に四人の子供だもの、水のような粥にのばしても、たった二カ月しか持たなかったわ」
寄りコンブや食用土で食いつなぎ、冬は熊の冬眠のように、床に積み上げた草藁の中に潜り込んだまま幾日も過ごした。子供たちの脛《すね》は箸《はし》みたいに細くなり、関節の脂が切れて、動かすとぎしぎし音を立てた。そこに、つけこむように襲ってきたのは性《たち》の悪い庖瘡《ほうそう》神だ。やつらは好んで子供たちを狙ったので、浜コタンでも川コタンでもか弱い子供たちは目をぎょろりと開いたまま干からびて死んで行った。
庖瘡神がコタンじゅうに荒れ狂ったとき、人々は家を捨てて山奥へ逃げ込んだが、エシリは四人の子供をかかえて一歩も引き退がらなかった。戸口には、みったくない(醜い)兎の頭やサブロウ(魚)を吊るして庖瘡神の侵入を防ぎ、子供たちにはキキンニ(エゾウワミズザクラ)だの、仙台|蕪《かぶ》(ナタネナ)の煮汁を飲ませ、体を洗ったりして夜もろくに寝ることがなかった。
それでも頑固な庖瘡神は、ホロシリ岳の頂上から、賢《さか》しい目付きでこっちの隙《すき》を窺っているものだから、山に向かってホパラタ(ホト露出の儀礼)で牽制《けんせい》したものだ。
「おまえのホパラタはどんなだ」と、和人びいきのサウシは口もとの入れ墨をひん曲げ、意地悪そうに訊《たず》ねた。
「効かねえわけがあるもんか」エシリはさっそく後ろ向きになって状態をかがめ、前をまくって烏ほどのホトを露出したかと思うと、厚司の裾をばたばた打ち振りながら、
性《しよう》の悪い庖瘡神よ
これるものなら傍まで来て
よくよく見な とっくり見な
と何度も唱えながら、その合い間に「ホーイホーイ」と叫び声を挙げた。
「そしたら庖瘡神が来ずに、和人が来たとな」サウシの嘲《あざ》けた声に、せっかく盛り上がったエシリの気分がそがれてしまった。
「なんとな」彼女は弾かれたように起き上がった。
「ふんとに烏くらいのホトだもの、和人たちが争って集まってきたに決ってるさ」サウシが「穢《けが》らわし」と言って、足もとに唾を吐き捨てた。
「おらがホトば売ったとな」
「おお、そのあがり米で子供《がき》ば育てたでねえか」
聞きながらエシリの髪は逆立ち、黒い瞳がエレキのように血走ったが、その瞬間、わっとサウシに飛びかかった。二人はもんどりうって道端の茅原《かやはら》に倒れたが、そのまま二転三転しながら争った。サウシが馬乗りとなり、髪を束にとって、
「漁場頭の与太郎も帳場の久造も寝たと言ったぞ。さ、白状せんか」
こんどはエシリが上になり、襟首を絞りあげて、
「与太郎や久造の力は馬並みだど、どして抵抗できるべか」
サウシは「淫売婦」と叫び、エシリは「裏切者」と喚いて、二人は勝負のつかぬ間に引き分けた。
「見てろよ、おめえの親父《おやじ》が帰ってきたら、ひとつ残らずバラしてやる」サウシはオニガヤの向こうから、後ろを振り向いて怒鳴った。
「和人とグルになってな、コタンを壊したのは、おめえら役アイヌよ」地面を踏みならして怒鳴り返したが、その声はサウシの耳には届かなかった。エシリは先刻よりもっと腹の虫が騒ぎ立ち、苛立った。
「世の中はまるで逆さまだわ」魂の抜け落ちた帰俗アイヌ(和人に服従したアイヌ)がアイヌを殴りつける。和人の手先となっただけでも癇癪の種には十分なのに、殴り返してきたサウシの挙動が許せなかった。
エシリは役アイヌ、ヤエケの女房サウシとやり合ってから、家の前の砂の上にべったり腰を落としたまま、しばらくの間レウカがクナシリへ行った後の苦《にが》い出来事を思い浮かべていた。
あれはレウカが連れてゆかれた翌年の夏のことだった。一日二合の撫育米《ぶいくまい》(貧しいアイヌに支給される)十日分をとらせるというので、エシリは隣のトレペといっしょにサラニプ(背負い袋)を持って大津場所へ行ったのである。途中、先回りの得意なカケスが東の方から飛んできて、ぺちゃくちゃおしゃべりをしながら、「エタシコビ、エタシコビ(帰れ、帰れ)」と鳴き回った。だが、ひもじいエシリたちは戻らなかった。汗を拭き拭き大津に着いたのは、昼を少し回ったころだった。休む間もなく、二人は別々の倉庫に連れてゆかれた。
「ホトと撫育米の交換は、ずっと昔から決まってるだからな」役アイヌのヤエケの言い分がエシリには呑み込めない。
「何のこったべ?」と、彼女は呆けた声で訊ねた。
「肥料《こやし》ば吹っかけて、しなびたホトに元気ばつけてやるのよ」聞きながら、彼女は目の前がぐらぐら揺れ動いて、その場にばったり這いつくばった。
倉庫の中は魚粕の臭いにむせかえっていた。すぐ目の前にうす笑いを浮かべた与太郎の髭面があった。エシリは腰を振って逃れようとしたが、岩のような体に押し潰されて息がつまった。激痛が下っ腹から頭の方に向かって走る。彼女は大声で助けを求めながら、何度も気が遠くなった。
与太郎の後からは、熊のような顔の男たちがつぎつぎに襲ってきた。その顔が五つを数えたとき、エシリは男の睾丸《こうがん》を力いっぱい握りしめ、「締め殺してやる」と言って、喚きたてた。
「クソ婆《ばば》あ」男は跳び起きるなり、エシリの襟首を掴んでじりじり戸外に引きずって行った。砂丘の高みまで引っ張り上げて、尻をまくると、砂まみれになったホトに拳骨をごりごりこすりつけながら、「気持ちよか、気持ちよか」と言った。
焼けつくような砂の上に尻を剥き出したまま、エシリはしばらくの間、起き上がることも出来なかった。傍を通る漁夫たちは「蛆《うじ》が湧く」と、足で砂を吹っかけてゆく。倉庫の中から跛《びつこ》をひきながら出てきたトレペがエシリを抱き上げて「和人《シヤモ》殺し(キトビロの悪臭)を吹っかけてやればよかったによ」と言った。二人はわずかばかりの撫育米の入ったサラニプを背負い、揺れるように歩いて大津川の川岸に出た。
「アイヌの守り神、コタンクルカムイはどこさ行ってしまったんだい」と、エシリは目を吊り上げ、番屋の方を何度も振り返った。亭主レウカがクナシリへ行ってから、肌身離さずにいた貞操帯《ラウンクツ》は、獰猛《どうもう》な彼らの前には、ただ一本の細紐にすぎなかった。
「獣《けもの》ども」と、エシリが言った。ホトを狙ってつぎつぎに襲いかかってくる熊のような男たちを払いのけるように、彼女はがっと唾を吐き捨てた。たとえ、サウシが与太郎や久造のことを大仰に言いふらしても、どっちが悪いかは誰だって分ることなんだと呟やき、気を取り戻して起ち上がった。ちょうど浜コタンの方から飛んできたカケスたちがアオダモの樹に群がり、青い葉っぱの間を縫うようにしてがやがや騒ぎ回った。
4
海霧が剥げ、トンケシ山の上にかかっていた太陽がかっと照りつけてきた。辺りを覆いつくしたオニガヤも草葺きの家もみんな青く輝いて、目の前に夏草の緑の雫がちらちら零《こぼ》れ落ちる。蝉が海潮のように騒々しく鳴いていた。子供たちが新川の上流の目梨《めなし》沢から汲んできた湧き水を、母は喉を鳴らして飲み、「何よりもご馳走だわ」と言った。
暑い日が一週間も続いていた。家には川魚も山菜もあるのだから、何もこんな日に湯風呂のような山の中へ行かんでいい、と母は伜に向かって言うのだが、「動物《やつら》の昼寝を襲ってやる」と言ってオコシップは勇み立つ。彼はオンコの弓とサビタの矢が入った矢筒を肩から斜《はす》かいに背負い、獲物袋をその上に乗せて家を出た。
「夏山は油断がならんど」母は伜の勇猛な後ろ姿を見ながら、父親のレウカに見せたいものだとつくづく思った。オコシップが茅原に隠れてしまうと、彼女はもう一杯水を飲んで、「さ、おらたちも始めるべな」と言った。
このごろ、母は長女のチキナンや次女のウフツを相手に厚司を織っている。家が狭いので、厚司織は大てい戸外で行なわれたが、母の手は機械仕掛けのように素早く動いた。箆《へら》を経糸《たていと》の間にさし入れたり、緯糸《よこいと》の巻棒を右から左に通したり、体を前方に倒し、後方にそらして経糸の張り具合いを調節しながら忙しく織り続ける。織物は縞《しま》模様をつけて膝株の前で巻きとられ、母の体はどんどん前へ進んでゆく。傍でチキナンたちが糸紡《つむ》ぎをしている。だが、引き裂いた糸をうまく機結《はたむす》びにすることができずに、何度もやり直した。やっと結び終ると、こんどはその結び目が|おさ《ヽヽ》にひっかからぬように噛み潰そうとして、うっかり「噛み切ってしまった」と言って笑った。目の悪い末っ子のカロナが、チキナンたちにつられて笑い転げた。
「水ば持ってきてくろ」母は冷たい湧水をがぶがぶ飲んでフウーと息をつき、残った水を頭から吹っかけてふたたび織機の前に坐り直す。焦《こ》げつくような太陽の下で、彼女はもう六|尋《ひろ》もの厚司の半分近くを織っていた。
見知らぬアイヌの男がこっちに向かって歩いてきた。チキナンが最初に見つけて「誰だべか」と言った。彼は膝株までの短い厚司を着て、手拭いで頬かぶりをしていた。
「他所見《よそみ》ばせんとな、仕事さ熱中せえ」と、母が咎めた。男はつかつかと寄ってきて、「根室《ねむろ》から来た」と言い、「レウカはここの父親《おやじ》か」と訊ねた。
「レウカ!」と、母は目を吊り上げて叫び、手に持っていた織物を投げ飛ばして起ち上がった。
「親父《おやじ》がどした? レウカはどこだ!」
しかし、男は俯《うつむ》いたまま口を開かなかった。
「死んだとな?」
男は黙って頭を下げ、「もう五年も前のこった」と、ぶっきらぼうに言った。
母はわっと泣いてその場に崩折れるように倒れた。男は知らせが遅くなったことを詫びた。その言葉も聞かずに、母はしぼるような声で何事かを喚きたて、這いずりながらその辺の草を掻きむしって歩いた。チキナンたちは母と男を交互に見つめ、じっと立ったまま震えていた。
母は激しい悲しみの後、よろめくようにして家の中に入った。男は框《かまち》に腰を下ろし、俯いたまま話したが、それは途中でなんども途切れて話しづらそうだった。
「四月の初め、霙《あられ》の降る夜中だった。親父《おやじ》が渚に打ち上げられて助けを求めていた」鉤《かぎ》でえぐられたような孔が体のあちこちにあいていたし、手も足も潰されて声を出すのもやっとだった。できる限りの手当てをしたが、夜が明けるころ静かに目を落とした、と言った。
「誰にやられた」母は涙に濡れた顔を上げる。
「仲間三人と小船を盗んで逃げてきたそうだ」根室の岬がもう少しというところで監視船につかまり、深傷を負ったまま海に飛び込んだらしい。
「お父《とう》は何と言ったべ」
「『母子《おやこ》はコタンクルカムイがきっと守ってくださる』それから、意味はよく分らないが、『満月の晩、一度だけブシ原に下りてくる』と言っていた。『死骸《なきがら》は祖父が眠るノッカマップに埋めてけれ』という願いだったので、わしら家族の者でその日の夕方、丘の上に葬ってあげたんだ」
男はサラニプから、父が着ていたラッコの袖なしや厚司を出して床の上に置き、「こんど白糠の漁場へ来たんで、思いきってここまで足を延ばした」と言った。
男が帰った後、母のエシリは「ホーイホーイ」と、天に向かって泣き出して、それがいつの間にかコタンじゅうに知らせるペウタンケになっていた。近所の人々が駈けつけてきて慰めるが、彼女の悲しみは深く泣き声は何日も続いた。物も食べずまんじり眠ることもなく、ただ泣き叫んだ。オコシップは「体にさわる」と言って、精のつくキトビロ粥を勧めたけれども、口をつけなかった。
「祖父《じいちや》の傍に眠れたんだから、やっぱり祖父子《おやこ》の縁があったによ」エシリは五日目の朝になってようやく口を開いた。
「祖父はどして根室に墓があるべか」末っ子のカロナが問いかける。母はやさしい説明に困ったが、祖父マメキリの不遇を思い出しているうちに、和人たちが憎らしくなってきて、つい話に力が入った。
「祖父のマメキリはクナシリのトマリコタンの強い首長だったんだよ」それは今から八十年も前のことになる。場所(漁場)や運上屋(交易所)に使われていたアイヌたちは動物のようにこき使われ、病気になって死んでゆく者、働きが悪いといって丸太ん棒でたたき殺される者、釜の中へ投げ込まれ魚粕と共に煮殺される者、それは目を覆うばかりの生き地獄だった。
大首長サンキチは、もう我慢ができず運上屋に乗り込んで抗議したのだったが、それが支配人の怒りを買ったらしく、彼はその日の夕方、仲直りの毒入り酒を飲まされ、その翌日こんどはサンキチの弟にあたる首長マメキリの妻が、運上屋で毒入り飯を食わされて殺された。
「(和人たちを)一人残らず殺してやる、といって祖父マメキリは立ち上がったんだよ」彼らは真夜中、マキリや鉈《なた》や鉞《まさかり》を持って、トマリ、ベットカ、チプカルベツ、フルカマップの運上屋をつぎつぎに襲った。それがやがて全島に広がり、しまいには海を渡り蝦夷《えぞ》の目梨《めなし》の方まで飛び火して、全部で七十一人の和人を殺したのだった。
アイヌたちは大いに奮起して戦いは優勢だったが、しかし、ションコ、イトコイ、ツキノエの大首長たちは、マメキリの前に立ちはだかり、松前とアイヌたちの中に入り込んで戦いを終結させたのだった。
戦いの終結裁判は、松前の役人たち大勢とそれにアイヌから大首長三人が加わって、ノッカマップの丘でおこなわれたが、結果は松前の言うがまま、首長たちは頭を垂れたまま口もきけず、マメキリたちの言い分はなにひとつ聞いてはもらえなかった。
「主謀者としてマメキリは、真っ先に首を切り落とされたんだよ」
斬刑《ざんけい》になったウタリは三十七人だった。その首は塩蔵されて松前に持ち帰られたが、胴体は筵《むしろ》に包んで丘の上に埋められた。裁判の後、アイヌたちは和人に対し「絶対服従」を誓わされ、大きな声で話すことさえ出来なくなってしまった。
「あれから長い間虫の息で暮らしてきて、こんだあ、お父《とう》がこの始末だ」母の感情はいっそう昂《たか》ぶり、痩せた顔をあげ髪を振り乱して、またしても「ホーイホーイ」と叫びたてた。ちょうど弔問に訪れた近所のおばさんたちもいっしょになって哀しみの声を張り上げた。
母は悲しみつつも、レウカの魂が迷わずにシンリツモシリ(先祖の国)に行けるように、一日も早く正式に葬らねばならないと考えていた。死骸《なきがら》がないのだから、ニワトコの木で人形を作って埋葬すればいいし、レウカに持たせる家《チセ》は、長い間住み馴れたこの家がいちばんいい。だから、彼女はオコシップに言いつけて、付近の榛林《はんのきばやし》から木を伐り出し、萱《かや》を山ほど刈り取らせた。そしてレウカにいつ家を持たせても、すぐ新しい家が建てられるように準備した。
「葬式は今日から数えて五日目だぞ」オコシップには、そのつもりで段取りをするよう命じたが、それが首長オニシャインの耳に入ったものだから、彼は大津の役人といっしょに汗をふきふき飛んできた。
「家を焼くことは断じてならん」白い顎髭を胸まで垂らしたオニシャインは、入ってくるなり肩をいからせて言った。
「レウカに家ば持たせんでどうする」と、エシリは口を尖らせて跳ね返した。明治に入って場所請負人、オムシャ、クンチと、つぎつぎに廃止されていったが、それよりも早く、長い習慣だった入墨や葬式で家を焼くことが固く禁じられていた。
「お上《かみ》の命令にそむけばどうなるか知ってるべ」
「世の中が変ったというのに、まだ首長風ば吹かすとな」エシリは鼻をふんと鳴らし、「命令」だの「禁止」だの、どこでだれが決めるんだい、と言った。
「悪い習慣は、アイヌたちのためにも是非やめた方がいい」役人はもの静かにエシリを促がす。
「悪いとはおまえたちの言い分で、よけいなお世話だと言ってるんだよ」長い間、アイヌを犬畜生並みに扱ってきた和人や、その中に立ってうまい汁を吸ってきた首長が、それでもまだ足りずに難癖をつけてくる。
「月代《つきしろ》の時もそうだった」と、エシリは声を荒げる。前髪を落とし、月代を剃って和人のように改めねば火を放つと脅かされ、コタンの人たちは山へ逃げ隠れて一カ月も出てこられないことがあった。
「その月代がいまどうなってるんだよ」役人はエシリにやり込められ、ふさふさに伸びた自分の頭髪に手をあげて首長を振り返った。
「そのときの都合で、言い分はころころ変るんだ」二百年も前、日高の首長シャクシャインが和人との戦いに負けたとき、「今後はいっさい日本語を使っては相ならぬ」と言った。それがロシア人とアイヌの親交がしだいに深くなると、こんどは首長を先頭に押し立てコタンに乗り込んできて、「アイヌは立派な日本人なんだから、日本語以外の言葉を使っては相ならぬ」と頑固に言い出した。
「どっちが本当なんだい」と言って、ロシアの血をひくカイヨが目を回して役人の前でひっくり返った。
「おらたちは二百年も前にいったん死んだ身なんだから、いまさら、お上《かみ》の、松前の、と言ったって、なんもおっかなくねえ」と言って、エシリはアオダモの根元にどっかり腰を下ろした。役人たちは家を焼かせまいと説得を続けるが、彼女は「どう言おうと、お父《とう》にはこの家を持たせるだよ」と、きっぱり言ったきり、誰の話にも耳を傾けなかった。
葬式の日は朝から晴れていた。部落の人々は昨日も新しい家の屋根葺きにきてくれていたが、この日も朝早くから手伝ってくれて、ニワトコの木の人形も、先の尖ったY字型の墓標《イルラカムイ》も、墓穴掘りも順調に捗どっていた。母は広尾《ひろお》や大津から訪れた弔問客を迎え、根室の人から聞いたことを、ひとりひとりに話しては声をあげて泣いた。
「イルラカムイに祈りを捧げるだ」と、頭に冠《サパウンペ》をつけた長老ヘンケエカシが言った。墓標は死体と炉の間に置かれ、燃えさかる焚火の脇に、もうひとつの小さな移し火をした。オコシップは長老から教わった通り、イルラカムイに向かって祈りを捧げる。
「死者を送るイルラカムイがこの通り出来上がった。死者の先祖は遠くコシャマインの血を引き、近くはマメキリ一族のレウカというもので、生前立派に務めを果たしたのだから、ほかの神々にも話して、死者がシンリツモシリ(先祖の国)に無事に行けますようお導きくだされ」
オコシップはさらに火の神にも祈りの言葉を捧げた。母は聞きながら、伜がみんなの前で立派な祈りができたことがうれしくて新しい涙が溢れ出た。
ヘンケエカシは、柔らかい厚司にまとわれ、一本帯をしめた遺体(人形)をキナ筵に包み、それをニワトコの木で作った串二本で交互に縫い合わせた。その中には普段レウカが使っていた煙草盆や煙管《きせる》やお椀などが入っていた。女たちは死者に持たせる団子を作り、男たちは炉縁の横にたむろして、死者をしのびながら濁酒を飲んでいる。
太陽が日高の山脈《やまなみ》に傾いたころ、キナ筵に包まれた死者は家の西北の隅の草壁を破って運び出された。共同墓地はポロヌイ峠を登りつめた尾根続きにあった。
葬列は墓標を先頭に峠を左に折れ、草の深い山の中を進んでゆく。山|蕎麦《そば》や山萩の花が咲いていて、向こうの沢では山鳩が鳴いている。女たちの泣き声は途切れなく続いていた。
「足もとに気をつけろよ」墓地に着くと、ヘンケエカシが張りつめた声で言った。遺体を担いだ男たちは、格好だけ重そうにして墓穴を左回りに三回まわり、頭を東にして静かに穴の中に下ろした。
「迷わずに行ってけれ」と、ヘンケエカシが言い、「レウカは親切な人だったから、みんなに暖かく迎えられるさ」と、その妻のトレペが言う。泣き声は山に木霊《こだま》して、眼下に広がる原野の方まで響き渡った。
最初の土はエシリ、オコシップ、チキナンの順で、身内の者たちによってかけられ、それが終ると、腕っぷしの強い男たちの手によって勢いよく土が投げ入れられた。身内の者たちは、墓穴の周りにしゃがみ込み、「親切なイルラカムイ、どうかレウカを間違いなくシンリツモシリへご案内くだされ」と唱えながら、悪霊|除《よ》けのイケマ(植物)を遺体の上に投げ入れる。墓標を建てて帰るころには、太陽はすでに日高山脈にさしかかっていた。
葬列の一団が家の前まで帰ってくると、そこに待ちかまえていた女たちが、束ねたヨモギで頭や体を叩きつけるようにして悪霊を払い落としてくれた。オコシップが払い終ったとき、頭に冠《サパウンペ》をつけた首長オニシャインの息子イホレアンが呼吸《いき》をきらしてやってきて、「オコシップに会いたい」と言った。イホレアンは二十歳を少し越えたばかりの体格のいい男で、肩の肉が瘤《こぶ》のように盛り上がっていた。二人は細い小径を跨ぐようにして向き合った。
「おれたちは、これから新しい時代に生きる人間だ。この際、家を焼き払うような悪習はやめようじゃないか」イホレアンの言葉は自信に満ちていた。
「お父《とう》の葬式はお父の流儀でやってあげたいんだ」オコシップはしばらくの後、口を開いた。
「習慣というのは、我々が呼吸でもするように、ごく自然な行動だから、どこかでふんぎりをつけねば、いつまでたっても改まらないさ」
しかし、オコシップはこれには答えず、
「なんの権利があって、そんなことを言いに来たんだ」
「新しい時代に生きるウタリ(同胞)として」
「もし、首長の息子として来たんだったら、おれたちは、もうずっと前から首長という身分を認めてはいないんだ」
二人は向かい合って立っていたが、そのとき母のエシリが家の裏手から急《せ》いた声で叫んだ。
「お父《とう》が待ってるんだ。ぼやぼやせんと、早う火ば点《つ》けろ」
部落の人たちは家の周りを囲んでいた。家の中には、これまで使っていた鍋、釜、布団、臼など、新しい家にわずかばかり運んだだけで、かまど道具のほとんどが残されていた。
「これだけあれば、レウカはなにひとつ不自由なく暮らせるさ」と、トレペが家の中を覗き込んで、感心した声で言う。日がとっぷり暮れて夕闇が迫っていた。
草葺家の四方から赤い火がめらめらと音をたてて燃え上がった。焔は蛇のように渦巻きながら壁を伝って屋根の方へ這い上がってゆく。イホレアンは遠く離れたところから眺めていた。
風が立って焔が横になびいた。煙や焔は真っすぐ上がるのが、死の国への近道とされているので、女たちは、「火の神様、どうか真っすぐ吹き上げておくれ」と歌いながら、手に手に持ったヨモギを上下に振るのである。風がおさまった。焔は天に向かって真っすぐ立ち昇り、それが赤い火の粉となって舞い上がる。
「ほら、お父《とう》の魂が飛んでくる」と、妹のチキナンが叫んだ。指先の上空に金色に輝いた鳥が飛んでいた。
「根室から来たんだな」と、もうひとりの妹ウフツが言う。
「天に白い雲の橋がかかり、そこをイルラカムイに連れられてゆくんだよ」母のエシリは夫のレウカから目を離さずに言う。金色の鳥は、赤い火の粉と重なり合って、どこまでも空高く昇っていった。
5
レウカの葬式が終って間もなく、西風が唸りをたてて原野を吹き抜けた。蝉が鳴き終ったばかりなのに、もう肌寒い秋風が来たのだ。
「お父《とう》はもういないだからね」と、母が誰にともなく言った。オコシップは戸外で秋味の掬い網を作っていたし、チキナンたちは家の中で厚司織の糸|紡《つむ》ぎをしていた。
「冬の貯《たくわ》えをしっかりして、寒さを吹き飛ばすんだよ」菱《ベカンベ》や胡桃《ネシコニ》や椎茸《ペロカルシ》をたくさん採って、倉いっぱいに詰めておきたいのである。母は冬の口過ぎも気がかりだったが、それよりもサクサンのことの方がもっと気がかりだった。
サクサンが山に逃がれたあの晩、せっぱつまった中でレウカと交わしたひとことは、「満月の夜、ブシ原に下りてくる」約束だったのだろうが、それは今でも続いているのだろうか、女房のウロナイは元気だろうか、子供たちは達者に育っているのだろうか、エシリの思いはどこまでも広がってゆく。彼女は時代が変ったことを一日も早くサクサンに知らせたかった。
「あと、五日で満月よな」エシリは家の中にじっとしていることが出来ず、戸外に出て網作りをしているオコシップに話しかける。彼は網針《あばり》を忙しく動かし少しも手を休めずに聞いているが、山に逃げて腱《けん》を切られたサラサだって、臆病とばかりは言われないさ、と思って不憫《ふびん》だった。
「留真の山奥でも、サクサンなら自分とこの庭のようなもんだ」母はサクサンが山に逃げたときに言ったレウカの言葉を思い出して口にしたのだが、しかし、彼女は春遅くまで雪をいだいている留真の山を遠くに眺めながら、人喰い熊のことや雪崩《なだれ》のことがいつも頭から離れなかった。それに、あれだけ多くの狩人たちが山に入りながら、長い間なにひとつ噂がたたないのも心配だった。
「きっと、キムンカムイ(山の神)が守ってくださるだよ」母は自分に言い聞かせるように言って、いったん家の中に戻ったが、ふたたび出てくると、そのまま浜コタンの方へ向かって行った。あの張りつめた顔はサクサンを讃える顔である。彼女はこのごろコタンのすみずみまで歩き回り、和人に屈服することなく、山に籠ったサクサンの勇気を触れ回っている。
「和人の恵みを受けるくらいなら、死んだ方がましだとな。こんな性根《しようね》のある同胞《ウタリ》が、この界隈《かいわい》どこを探したっているもんか」川コタンから浜コタンの方へ、大手を振り、足を跳ね上げて歩くエシリの後ろ姿を見ながら、あの元気なら留真の険しい山でも先頭に立って歩くだろうと思って、オコシップは心強かった。
太陽がトンケシ山の真上を走っていた。風がひときわ強く吹いてきて、新しい草屋がぎしぎし軋んだ。オコシップは出来上がった掬い網をアオダモの樹の下に広げ、その網の上縁をぴょんと跳び越えて満足だった。長さ九尺、幅四尺、網目は四寸だが、|はしり《ヽヽヽ》(初期の漁)のピンコ(小柄な魚)にはこれくらいの大きさがちょうどいい。網の両端には柳の長い竿が取りつけられていて、両方から獲物を掻き寄せるようになっている。
「ひとりでは無理だな」と、ヘンケエカシが言う。もともとこの網は丸木舟二艘で操るように出来ている。
「二人力なんだ」と言って、オコシップは袖なしを指差して笑った。彼はこのごろ、父が身につけていたラッコ皮の袖なしを着、オヒョウの皮で作った太い紐を締めていた。
「この袖なしはお父《とう》の父親ウナウシが作ったのだから、これで三代目なんだよ」母はいつも機嫌よく言って目を細めた。
猟区はウナウシの代から決まっていた。ポロヌイ峠を真っすぐに下だった崖下で、原野を流れてきた川が丘陵にぶつかり、岸をうがって渦巻きながら流れている処だった。魚がつくので、みんなは「(魚の)遊び場」とか、「魚の巣」と言ってうらやんだ。川の流れは洪水のたびに変るのだが、この遊び場だけはいつまでも変らなかった。
「ワッカウシカムイ(川の神)の恵みなんだよ」この話になると、母はいつもこう言って、猟区の方に向かって手を合わせた。
猟区は家の間近かだったので、いつでも簡単に行くことが出来た。岸の蒲原をかき分けるようにして三十間ほど遡り、小さな岬をかわすと、そこはもうわが家の持ち場である。岸は赤土の岩盤になっていて、流れがそこにぶつかって泡を吹きながらぐるぐる渦巻いている。
オコシップは丸木舟の舳《へさき》を岸に着けて息をつき、それから川の流れ具合いや網の開きをあらためた。彼はこの広い網をひとりで操る方法を考える。まず網の一方の端を丸木舟の舳《へさき》にくくりつけ、もう一方を手に持って艫《とも》に立った。舟の流れにしたがって、網を掬い上げようというのだ。帆を舟の下に逆に立てたようなこの網はときどきひねたようにねじれたが、彼は手綱をゆるめたり引いたりして調節した。
「沈子《あし》(網の下側の錘《おも》り)のしぼり具合いがコツなんだ」ヘンケエカシは、網は沈子の方を心持ち長めに作らねばならないし、掬う場合は川底を大きく掻き回すようにして手早く沈子をしぼりあげるがよい、と言った。
その翌日、大きなのを一本揚げた。手にゴツンと響き、その衝撃でよろめいた。オコシップは跳び上がる銀色の巨体を力いっぱい抱きしめ、頬と頬とをすり合わせ、粘液にまぶれて「この野郎、この野郎」と叫んだ。生まれてはじめて自分の作った川網で獲った秋味だった。オコシップは家へ帰っても、まだ気持ちが昂《たかぶ》っていた。
秋味の群れるときは こんなありさまだった
下の群は 砂礫《されき》がこすり
上の群は お日さまが焦《こ》がす
それほどに群れて 遡上《のぼ》ったものだ
オコシップはエシリの古い歌を口ずさみながら、毎日漁に出かけた。川の中の銀色の魚体が光るたびに、彼の心臓は喉のところまで飛び上がり、こたえられない昂奮が体じゅうを走った。
「おとなしくしろよ」彼は体じゅうを力瘤にして、網の先をさっと水面に持ち上げる。と、銀鱗が光を放って舟の中に躍り上がった。彼は素早くイサパキクニ(魚叩き棒)で脳天を叩きつける。秋味は押し潰したような奇妙な声を吐き出し、やがて体を痙攣《けいれん》させて往生する。
「めんこい奴だ」彼は魚体をぬめ回し、頭を軽く叩く。冷たい感触が気持ちよかった。
秋味を呼ぶ西風が唸りをたてて川面を吹き抜けてゆく。オコシップは五本の秋味を揚げていた。
「オコシップ!」と、崖の上からヌイタの呼び声がする。
「下りてこお」と、オコシップが叫んだ。彼女は椎茸《しいたけ》採りに行った帰りだった。坂が急なものだから、サラニプの口からこぼれ落ちてくる椎茸を、オコシップは下の方で受けとめた。彼は最後にヌイタの体を抱きとめて、ドングイ林の中にそっと下ろした。
「まだ大津さ通ってるべか」オコシップは、このごろおぼえたばかりの巻煙草を吸いながら聞いた。
「お父《とう》が漁場さ出てるだもの」ヌイタは玉の首飾りをちらちら光らせて微笑む。その額には首飾りの玉よりもっと大きな汗の玉が光っていた。
「こっちにだっていい男がいるべに、わざわざ和人種ばもれえにな」
「背こんぼや梅毒病みばかりだもの」ヌイタはふんという顔でそっぽを向く。
「不具の子は、和人に肝を抜かれた先祖様の生まれ変りなんだ。背こんぼでも梅毒でも、そこら原野にあふれるくれえ産めばええ」オコシップはヌイタをドングイ林の中にねじ伏せた。
「おらの子ば産め」
彼女は「痛《いた》、痛」と、喉をつまらせて呻いたが、岩のような彼の力に押し潰された。しばらくの間、二人は風の音を遠くに聞いていた。
「目玉ばえぐり取られ、舌も歯もない子ば産め」と、オコシップは立ち上がって言った。そういう子らが蟹に化け、原野のあちこちから這い出してきて、和人たちの脛肉を噛じり取って食べるんだ。彼はそんな姿を思い浮かべながら、原野を吹き抜けてくる秋風を腹いっぱい吸い込んだ。彼女はいつまでもドングイ林の中に蹲《うずくま》っていた。
「ほら」と言って、オコシップは秋味をヌイタの足もとに投げてやった。彼女は後ろを振り向いてにっと笑った。サラニプに入れた秋味をよろけるように担ぎ、揺れるような足どりで川岸づたいに遠退いて行った。
夕方、エシリはオコシップの帰りを川岸に立って待っていた。
「満月は明日だ。サクサンたちに食べてもらう秋味はイツヒレ(胸鰭に付いた肉の部分)がいいし、ウロナイの好きなペカンペ団子に胡桃《くるみ》を少し混ぜればもっといい味になる」
丸木舟がまだ岸に着かないうちから、エシリは拳でとんとん頭を叩きながら、山に持ってゆく物ひとつひとつを頭の中に並べたてていた。
「ハルアンの歌が気がかりでな」オコシップは秋味を陸《おか》に投げ上げ、口にくわえた巻煙草をぷっとふかした。ハルアンは丸木舟で川を下だるとき、オコシップの鼻先を大声で歌って通ったのである。
「何と言った」エシリが身を乗り出すと、彼はその歌をかいつまんで話した。
「留真の山奥には人喰い熊がうようよしてるし、冬は冬で山を揺り動かすような吹雪が何十日も続く。この長い間、サクサン一家がとても無事とは思えない、とな」
「サクサンに|へま《ヽヽ》はないだよ」と、エシリは口をひん曲げて、ハルアンの軽はずみな歌をなじった。
エシリはその晩、身仕度に夜遅くまでかかった。彼女は娘のころ、母と連れだってワラビ採りやオヒョウ(厚司の原料木)の皮剥ぎに白樺山や楢山をいくつも越えて奥山に入ったことがある。だが、こんどのように小さな山や沢を二十も越え、大きな山を三つも越える丸一日がかりの行程は初めてだったので、一週間も前からアベウチカムイ(火の神)に旅の安全を祈っていた。
6
その日、母子は朝早く家を出た。深い朝露をこいで裏山の頂上にさしかかるころ、ようやく澄みきった東天に日が昇り始めた。
「運が回ってきたぞ」と、エシリは今夜の満月を思い描くように言って、オコシップを振り返った。原野が青白く光って帯広《おびひろ》の方まで延びていた。
初秋の山々は黒ずんだ緑に包まれ、ところどころに褐色の葉が明るく浮き立っていた。弓矢を肩にかけたオコシップは先頭に立って樹々の間をすり抜けるように進む。その後ろから土産を背負ったエシリが足を跳ね上げ、前のめりの恰好でついてゆく。静内《しずない》山から湿地帯に下り、そこから斜面を登りつめて浦幌山を越えても、エシリは少しも疲れた様子がなかった。
「これなら、日帰りだってできるくらいだ」と言って、ぴょんぴょんと跳び上がり、自分の元気を見せて胸を張る。しかし、この元気もそう長くは続かなかった。高い山を一つ越えたころから、笹は深くなり、足をとられて転がった。「こんちきしょう」と言って、エシリは足もとの笹を踏み潰して悔しがったが、十歩と歩かないうちに、ふたたびつんのめって土産といっしょに急斜面をどこまでも落ちてゆく。その音に驚いた鹿たちが藪の中から突然飛び出し、反対の方向に走って山の尾根を飛び越した。
「おったまげた」と、エシリは谷の底に立って、もう唾の枯れた空唾ばかりをトフトフと吐いている。
「おら、すぐ迎えに行っからよう。ゆっくり飯ば食べてから上がってくればええ」オコシップは谷底に向かって叫んだ。
太陽が頭上を走っていた。母子は深い谷を半時間もかけて登ってから、尾根づたいに二つ目の高い山に向かって進んだ。リスが枝から枝へ跳び移り、山鳥や雉《きじ》は低空を羽撃き、先回りをしてはうるさくつきまとった。
「消え失せろ!」オコシップは土の塊を樹上のリス目がけて投げつけた。リスがはしゃげば災難が振りかかると言って、狩人たちはどんなときでも猟をやめて帰ったものだ、とエカシ(古老)たちによく聞いていた。土塊は頭をかすめ、リスはいったん姿を隠したが、ふたたび友達を連れて現われ、樹上で宙返ったり躍り上がったりした。
「おととい来い!」力いっぱい投げつけた木片が跳ね返って、エシリの脛にごつんと鈍い音をたてた。彼女はがくんと膝を折ったが、そのまま脛を抱きかかえ、「災難はすぐ来たな」と言うと、顔をしかめて笑った。二人は急いでその場を離れたが、しばらく歩いてから彼女は災難はこれで終ったのだから気にせんでええ、と言った。エシリが跛《びつこ》をひくので速度は急に鈍った。
山が深くなると、ふた抱えもある太い楢の大木や天を衝くトド松やエゾ松が空を覆い、谷に下だると、一丈もあるお化け蕗が密生しているので、うす暗い中をけもの道を辿って歩かねばならなかった。オコシップはマキリと熊用の毒矢を手に固く握りしめていたし、エシリは口の中で、熊追いや崖越えの呪文を唱えて歩いた。
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キムンカムイ(山の神―熊)は利口者で
獲物を先にやり過ごし、後方から急に襲うというが
おいらのホパラタ(尻まくりの呪術)は 悪臭がきついから
鼻がひん曲ってしまうぞ
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山ではどんな小声でも熊には筒抜けなので、悪口はいっさい法度《はつと》なのだ。二人は口を噤んだまま尾根を渡り、沢を越えてただ黙々と歩いた。
「あれが留真山の頂上だ」と、オコシップは三つ目の高い山を指さして言った。頂上近く、切り立った崖が褐色の肌を剥《む》き出して天に聳え立っている。這い松の間をくぐり抜けて登ってゆくと、山は二つに分れ、その間に細長い丘陵が横たわっていた。
「ここがブシ原なんだ」彼は、父レウカと初めて来たときのことを思い出しながら、丘の辺りをぐるぐる回って歩いた。ブシの花は盛りを過ぎていたが、遅咲きの花が点々と濃い紫の色を浮きたたせていた。
「今夜《サクサンが》ここに来るとな」エシリは感慨深げに言い、サクサンの足跡でも嗅ぎつけるように、雑草を掻き分けては鼻をひくひく動かす。
「何か気配があるはずだ」しかし、丘陵の端から端まで何度となく往復したが、縦横に走る細いけもの道があるだけで、サクサンが歩いた形跡はどこにもなかった。丘陵はただ険しい山と山との間にひっそり沈んでいた。
「そうだとも」と、エシリは謎《なぞ》を探し当てたときのような、確信に満ちた声を張り上げた。
「サクサンは用心深い男でな、足跡を残すような|へま《ヽヽ》はしないだよ」
オコシップたちは二つの山のうち、険しい方に寄った胡桃《くるみ》の木の下で食事をした。「ほら、食べるものは山ほどあるによ」と、彼女はペカンペ団子や秋味のメフンをひと口頬張るたびに、山の方を振り返って言った。秋晴れの夕日がまばゆく、山雀《やまがら》や四十雀《しじゆうから》がさえずり、赤トンボが飛んで山は静かだった。
「あの山の向こうは何と言うだ?」
「本別《ほんぺつ》山」
「その向こうは?」
「足寄《あしよろ》山」
山は折り重なってどこまでも続いている。ひとつの生命から三つの乳房――十勝《とかぷち》川、石狩《いしかり》川、天塩《てしお》川――が生まれたように、山だってこの尾根をつたってゆけば、日高の山、十勝の山、北見《きたみ》の山となり、それがやがて雲の湧き上がる高峯オプタテシケ山に繋《つな》がるんだ、とオコシップは思った。
「ホイ」と叫んで、突然エシリが跳ね上がった。草藪の中に立った御幣《イナウ》が目に止まったのだ。|削り掛け《ヽヽヽヽ》が美しく巻き上がっていて、エシリにはそれがサクサンの作とすぐに分った。イナウを作って、レウカとの再会を祈ったに違いない。
「五、六年は経ってるな」と、オコシップは|削り掛け《ヽヽヽヽ》に手を触れて言った。それまでは確かにここを訪ねていたのだろうが、それからがどうなったものか。不安が募ってきて、二人はしばらくの間押し黙っていた。
太陽が山の端にさしかかろうとしていた。その太陽に向かってエシリは静かにヤイサマネナ(即興歌)を歌い出した。それは竹笛《モツクリ》をひき始めるように、かすかに空気を震わすほどの柔らかな響きなのだが、彼女のヤイサマネナは、いったん気が乗ると途切れなく、一日でも二日でも続くのである。
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東の空に丸い大きな月が出た。
月は真昼よりもっと明るく あたり一面を照らし出した
そこでわたしは
どしてこんなに明るく照らすのだ と聞いてみた
すると 彼は顔じゅう黄色にして笑いながら
山から下りてくるサクサンの足もとが
よく見えるように 照らしてんだよ と答えた
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しかし、エシリのヤイサマネナは、太陽が落ちてしまったところで打ち切られた。やがて東天をうす赤く染めて、山の向こうから黄色い月がにょきにょき顔を出した。母子は顔じゅう目にして四囲を見回し、息を殺して聞き耳を立てる。月はぐんぐん山の端を離れてゆく。梟《ふくろう》が頭上を鳴きながら西の方に飛び去った。
「そっちかもしれんな」と、オコシップが西の方を確かめる。狐や兎がうさんくさそうに近寄ってきて、それからあわてて逃げて行った。
「こんなに明るいのによ」と、オコシップはヤイサマネナの歌が現実になるように願う。エシリは何も言わずに棒のように突っ立っていた。
月が中空にかかると急に寒さが襲ってきた。オコシップは付近から枯木を集めてきて火を焚いた。
「あれから十年以上だものな」エシリは焚火に手をあぶり、四囲を忙《せわ》しく見回して溜息をつく。
「どこかでこの焚火を見てるかもな」話はひとつひとつ途切れて長くは続かず、長い沈黙が訪れる。遠くで狼が吠えた。
「寒《さぶ》、寒」エシリが奥歯をがたがた噛み合わせた。夜風が頭上を吹き抜け、母子は焚火の中にのめくるような恰好で蹲《うずくま》っていた。寒く沈んだ奥山の夜はしだいに更《ふ》けてゆく。
翌朝早く、母子は澄んだ冷気で甦《よみが》えった。オコシップたちは、切り立った崖の下からサクサンの名を呼び続け、留真山のもっと奥まで分け入ったが、なんの手掛りも得られなかった。オコシップは長いヤチダモを伐り、その先を平らに削って炭火で「帰ってこい」を表示する矢印を書き、それを何カ所にも立てた。
「サクサンはしっかりしてるだもの、きっとどこかに生きてるだよ」エシリは諦めきれずに、何度も後ろを振り返った。長い道中を家へ帰り着くまで、彼女はこう言い続けた。
留真の山へ行ってきてから、エシリの思いはいっそう募り、毎日紫にけぶった留真山を望んでは肩を落とした。
「もいっぺん、雪のくる前に留真山さ連れてってくろ」と、オコシップにせがみながら、秋はしだいに深まって行った。
7
ポロヌイ峠の頂上から鼈奴《ベツチヤロ》沼をじっと見下ろしていたエシリが、「ペカンペ(菱の実)が熟《う》れたぞ」と言った。沼の水面を覆っていた緑葉が茶色に変ったのだ。ペカンペは冬の食料として、ウバユリの粉と共に大事な穀物だったので、エシリたちは、このごろ毎日朝早くからサラニプ(背負い袋)を持って川向こうへ、ペカンペ採りに出かけていた。
丸木舟を沖へ漕ぎ出すとき、母のエシリはいつも「これから、神々がお恵み下さったペカンペを頂戴いたします」と、うやうやしく唱えたものだが、母の顔を覗き込むように見ていた子供たちは、「決して怪我災厄のないように採らせて下さい」と、その後の言葉を約束したように言うのだった。
舟は水面を滑るように進み、風のない静かな沼面に止まった。舟が傾かぬようにチキナンが右舷から採れば、ウフツが左舷、舵《かじ》をとるエシリは舟の塩梅を見ながら採るのである。ぷつぷつ穴のあいた葉を手繰り寄せると、ぴんと実の入った菱型のペカンペがぞっくりぶら下がっている。一本の茎に十個も付いていることがあった。
「今年は実の入りがええ」右舷から来たヘンケエカシが言い、舳《へさき》をかわして岸の方へ漕いで行った。沼の向こう端にも丸木舟が二つ三つ、豆粒のように見えていた。
エシリたちは風がたっても、舟にアカ(水)が入ってきても、少しも手を休めずにせっせと葉を手繰り寄せた。茶褐色の熟れたペカンペがサラニプにどんどん詰まってゆく。粉にして大きな米櫃《シントコ》に三つ分も詰まっていたが、長い冬を越すためにはそれでもまだ足りなかった。
「ちょっと待ってくろよ」艫《とも》に坐ったエシリが堪りかねてアカを汲み出し、船体の細い裂け目に用意してきたシカワ(木の皮の繊維)を打ち込んだ。
舟はたちまち元気を取り戻し、体を振り、厚く重なり合った菱葉を掻き分けるようにして前へ前へ進んだ。ときどき照りつけてくる太陽の白い光が沼面に跳ね返って眩しかった。
「昔は賑やかだったんだよ」と、母は懐かしげにポロヌイ峠を見上げた。「ぺカンペ祭りは、鼈奴《ベツチヤロ》沼の見える、あのポロヌイ峠の頂上で二日も続いたもんだ。エカシがカムイに豊作を感謝し、災難のないよう祈りを捧げ、その後で濁酒を振る舞い、女たちは『鶴の羽音舞い』を踊るんだよ。その先頭をきるのはいつもわしの母シルラだった」
母は思わず気が昂り、上体を動かしたものだから、舟がぐらりと傾いた。ウフツが危うく落ちかかって悲鳴を挙げたが、母の耳には入らない。
「それが、いまはどうなったもんだか」コタンはばらばらに壊され、ウタリ(同胞)を満足に統率するエカシもいなくなってしまった、と言って母は嘆いた。
ペカンペ祭りがなくなってから、もう二十年も経っていた。男たちが労役に狩り出されるようになってからも、しばらくの間女たちの手で行なわれていたが、これもそう長くは続かなかった。それはペカンペだけではなく、カムイチェプ(鮭)もネシコニ(胡桃)も、いつか祭りがなくなって、喜びのない暗いコタンなってしまったのだ。
「コタンも祭りも沼の底に沈んでしまったんだよ」これからは、自分たちの力で暮らし向きを立てねばならない、と母は噛んで含めるように言った。
太陽が頭上にかかっていた。エシリたちは丸木舟にべったり腰を落とし、頭から水につかって力強く菱の葉を手繰り寄せた。
オコシップは山にエシリたちは沼に、毎日通いづめだった。
その日、オコシップと猟犬《セタ》は母や妹たちに見送られ、朝霧の立ち籠める中を出発した。音別《おんべつ》山まではちょうど十里の道程があった。山中の細いけもの道は、海岸沿いの崖づたいにどこまでも続く。樹樹の葉はかすかに色づき、湿原にはオニガヤの白い穂波が揺れていたし、樹林の向こうからは山鳩や啄木鳥《きつつき》の鳴き声が聞こえてきて、初秋の山は賑やかだった。猟犬はときどき後ろを振り返り、鼻を地面にこすりつけるようにしてすたすた歩く。山や谷をいくつも越えた。
海霧が晴れて紫紺に煙った阿寒の山々が遠くに見える。大地はまだ残暑の熱い息吹を吹き上げてうっとうしいのに、風はもう青く冴えた秋だった。彼はトパ(鮭の干物)を噛じりながら歩いた。湿原から鶴の群が飛び立ち、大きく旋回してこっちに向かってくるが目もくれずに歩く。「あとひと息だ」と、オコシップは猟犬に話しかける。彼はもう半日以上も歩き続けていた。音別《おんべつ》のなだらかな板谷《いたや》山が目の前にあった。陽光が薄紅色の葉に照り返り、山じゅうが星のようにチカチカ光る。「ユクランヌプリ(鹿の天降る山)」と呟やいて、板谷の密生した山を仰ぎ見ながら歌った。
小春日になると
山の斜面に鹿たちがどっさり来て
甘い板谷の木を
かじるかじる
陽当たりのいい山の斜面を登ってゆくと、板谷の甘い匂いがする。彼は顎を突き出して鼻を鳴らした。淡く色づいた雑草の下の枯葉が渇いた音をたてて跳ね返る。山の中腹にさしかかると、うす墨色の海が見えた。沖は風があるらしく白波が遠く広がっていた。
「クンネ(黒―犬の名)、いまに天上から鹿の群が下りてくるぞ」オコシップは天を仰ぎ、それから斜面の陽溜まりに腰を下ろしてウバユリ団子を頬張った。遠くで山鳩が鳴いていた。
クンネの耳が突然後ろに引きつった。そして鼻を二、三度ひん曲げたかと思うと、団子を食べ残したまま、斜面を十間ほど駆け上がって止まった。しかし、クンネはそのまま何事もなく下りてきた。がそのとき、地響きをたてて轟音が山じゅうに響き渡った。オコシップは反射的に立ち上がり、音の噴き出たあたりを呆然と眺めた。鉄砲の音は音別川上流の沢の方だった。
「ヤエケの野郎」と、彼は呻くように言った。轟音はいちど響き渡っただけだったが、その音はオコシップの腹にたまったまま、いつまでも胸くそ悪く残っていた。
「クンネ」と、彼は沈んだ心を跳ね返すように呼んだ。「獲物は沢の反対側だ」
オコシップたちは山の斜面を横ぎり、両側の小さな沢に向かった。いつでも射《う》てるように、左手に二本の毒矢を握っていた。獲物を狙う彼の目は黒光り、足音も立てずに樹と樹のあいだを風のようにすり抜ける。一歩先を歩いていたクンネが急に止まった。オコシップは彼の視線を追って樹の上の山鳥を見上げた。
「阿呆!」オコシップは右手を突き出して前進を命じた。小さな沢を越え、幹の太い楢林に入る。笹が深くなり、彼らはその中を潜るようにして突き進んだ。ここから右回りすれば鹿の天降る山をぐるりと一巡して音別川の奥に出る。もう少しで笹原を越えようというときだった。クンネが後ろ足を突っ張り、頭をしゃんと立てて低く唸った。三十間ほど先の楢の根元に、色艶のいい熊が背をまるめて蹲っている。オコシップはとっさに身を伏せ、クンネと共に風下に回って弓矢をつがえた。
「クンネ、ここにじっとしてろよ」彼は猟犬《セタ》の頭を地面に押しつけて言い、熊に見当をつけて笹の中を蛇みたいに進んだ。どこまで近づけるかが勝負だった。オコシップは「もう一間」、「もう一尺」と、じりじり近づいてゆく。五間に迫ったとき、熊は気配を感じたらしく頭をにょっきり振り上げた。そこを狙って伏せた姿勢で矢を放った。弾みで熊は大きく後ろに反り返ったが、その反動で立ち上がり、前足で空《くう》を叩きながらガオーと吠えた。オコシップとの距離はわずか二間に迫っていた。マキリがエレキみたいに光った。それを合図のように、クンネは熊の頭を狙い、黒い火玉となって跳びかかった。熊の打ち下ろす鉤のような鋭い爪を逃れて、クンネは右に左に跳び退いた。揉み合いはしばらく続いたが、二本目の矢が腹に突き刺さったとき、熊はひと声高く吠えたてると、そのまま笹原の中を横っ飛びに逃げ出した。
「行け!」と、オコシップは追いかける猟犬の背中に向かって活を入れた。空《くう》を切って駆ける二つの黒い塊がみるみる笹原の向こうに消えて行った。
「鋭い毒矢が二本も急所をついてるんだ」と、彼は走りながら自分に言い聞かせた。そろそろ体じゅうに痺《しび》れがきて、目の前がくらくらしてくるはずだ。足がもつれてよろめき、それを何度か繰り返して、とうとう立っていることも出来ずにつんのめってしまう。
オコシップは熊の後を追って奥へと進んだ。この笹原をゆけば、山裏の深い沢に逃げ込むはずだ。音別川の上流が小さな滝を作って流れていた。その川を跳び越えて間もなく、鉄砲の轟音を聞いて、オコシップは棒立ちとなった。音は熊の逃げ失せた方向だった。ひと呼吸の後、彼はそっちに向かって疾走した。楢林を過ぎてヤチダモ林に入る。そこを突き抜けると、すぐ目の前に鉄砲を持ったヤエケと見知らぬ若いアイヌが待ちかまえるように立ってオコシップを迎えた。その足もとに熊がつんのめった恰好で転がり、その向こう側にクンネが首をしゃんと立てて座っていた。
「おらの熊だ」と、オコシップが言った。「おらが撃った」と、ヤエケがそれを跳ね返した。二人はわずか一歩につめ寄って睨み合ったが、狩猟の掟《おきて》はオコシップに分があった。こんなときは、獲物を先に見つけ、矢尻を射《い》込んだ者が優先するのだ。
「矢尻を二本射込んだ」オコシップは感情を押し殺し、熊の首と腹の毛を掻き分けて矢尻の入りこんだ傷跡をヤエケに示した。
「おらが撃たなきゃ、とっくに逃がしてしまったによ」ヤエケは傷跡をろくに確かめず、鉄砲の威力を誇示するように筒先をオコシップの鼻先につきつけたが、彼はそれを払いのけ、ヤエケの胸ぐらをぐいと掴んで、「掟なんだ」と言った。しかし、ヤエケは「時代が変ったによ、もう掟なんかねえ」と言って、手を振りほどこうとしたが、オコシップは離さなかった。熱い息が顔の周りに渦巻いた。いまにも殴り合いになりそうな気配をみて、若いアイヌは膝株をがたがた震わせている。
「この小僧っ子が、図に乗りやがって」ヤエケはオコシップを跳ね飛ばし、鉄砲を振り上げて襲いかかってきた。体をかわしたオコシップは、その鉄砲をもぎとり、いきなり立木に叩きつけると、鉄砲は銃身と床尾の間の凹みから二つに折れてふっ飛んだ。
「殺してやる」と、ヤエケは口から青い火を吹き、腕を振り回して叫びたてた。二人は組み合ったまま互いに石のような拳骨を打ち下ろした。はじめにヤエケの額が裂け、それからオコシップの鼻血が吹き出した。動物みたいな声を張り上げて離れたり組みついたり、顔じゅう血だらけになってもやめなかった。クンネが歯を剥いて、オコシップの合図を待っていたが、ヤエケたちにはそれが分らなかった。喧嘩の周りをおろおろ歩き回っていた若いアイヌが「やめてけれ」と叫んで二人の間に割り込んだ。厚司が破れ、脚絆《ホシ》も履物《ケリ》もどこかに吹っ飛んで、二人はへとへとに疲れていた。
「年上《としうえ》者に逆らってな、今に見てろよ」と、ヤエケがあえぎあえぎ言った。
「時代が変ったんだ」と、こんどはオコシップが同じ言葉を返す。ヤエケたちは折れた鉄砲を持って深い笹の中に消えて行った。
「あのバカでかい音は獣たちを狂わせてしまう」オコシップは、がっと唾を吐き捨てた。
海霧が麓の方からせり上がってきて、四囲は白い闇に包まれた。オコシップは熊の皮を剥ぎ取り、切り落とした頭をヤチダモの枝に掛け、その枝のつけ根にウバユリ団子やトパやキトビロを供えて祀った。
その晩、オコシップたちはそこから少し離れた音別川で野宿した。風の当たらない場所に、彼は枯草や松の枝を頭から覆ってながながと横たわった。疲れきっていた。クンネは腹這いになったまま、枕元から離れなかった。梟《ふくろう》がペウレッチコイキップ(獲物はこっちだ)≠ニ鳴いて通り過ぎる。オコシップは唇に笑みを浮かべたが、それは熊を射とめたことではなく、傲慢《ごうまん》なヤエケの鉄砲をうち砕いたことが嬉しかった。「ざまあ見ろ」彼は心地よい眠りに落ちた。
翌朝、彼らは早くから起きて鹿を探した。うまい鹿肉が欲しかった。しかし、音別山から庶路《しよろ》山の方まで足をのばしたが、鹿の姿はどこにもなかった。
「山は、もぬけの殻だ」と、オコシップは歩きながらクンネに話しかける。彼は耳を立てて聞いている。クンネの勇猛な気性は父親クロローアン(強いという意味)から受けたものだ。父レウカはよくクロローアンを連れて歩いたものだが、熊と闘って一度も引き下がったことがないと言う。そのクロローアンは父がクナシリに連行されて間もなく死に、その後にクンネが残った。彼は家にいるときは暢気なのだが、山では敏捷《びんしよう》で、オコシップの考えていることは何でも分っていた。だから鹿に見放されたオコシップが、「クンネ」と呼び留めただけで、彼はくるりと踵《きびす》を返して帰路につき、いま来た道を先に立って、とっとと歩き出すのだった。
8
秋風がごうごう音をたてて一日じゅう原野を吹き渡っていた。秋味は川いっぱいに波を立てて遡《さかのぼ》り、鹿の群は山の斜面に日なたぼっこをし、コタンの人たちは腹いっぱい食べて、ごろんとひっくり返った。エシリの家ではペカンペ(菱の実)やペロニカルシ(椎茸)も採り、そろそろ冬越しの支度にとりかかっていた。
「和人が来ても倉《プウ》の戸は決して明けるでねえど」エシリは子供たちに強く言い聞かせた。
オコシップは葉が黄色く染まったアオダモの木陰に入って昼寝をしていた。魚臭い彼の体の周りを飛び回っていた銀蠅が、魚の食べ滓《かす》がこびりついた唇のふちに羽を休める。銀蠅は二匹になり三匹になった。彼は口をもぐもぐさせて寝返りをうつ。陽光が柔らかく風はさわやかだった。
オコシップは妹チキナンの叫び声で目を覚ました。陽光がまばゆく、川柳を吹きつける風が潮騒のように聞こえていた。枕元をばたばた走る音がして、「サクサン」と呼ぶキラキラ声が風に渦巻いて響き渡った。
オコシップは跳ね起きて、寝ぼけた目を両手でこすった。エシリが峠の登り口を走っているのが見えた。その後からウフツが走り、チキナンが走る。
サクサン一家が南部《なんぶ》馬(後にドサンコと呼ばれた)に荷物を段の山に積んで、ポロヌイ峠をゆっくり下りてきていた。南部馬を曳いているのはサクサンで、その横に群がるように子供たちがくっついている。「ホーイホーイ」と、どちらからともなく叫び立てる声がする。オコシップは峠を駆け登りながら、まだ寝ぼけているみたいな感じだった。エシリとサクサンの女房ウロナイが抱き合い、身を震わせて泣いていた。
「レウカが死んだ」と、エシリが声を詰まらせる。彼女はレウカが五年前クナシリから逃げ帰る途中に殺されたことを、途切れ途切れに話した。サクサンの顔はしだいに歪んで険しい表情となり、ウロナイはエシリに抱きついたまま絞るような声で泣いた。長い間こらえていた感情がいちどに噴き出した。子供たちも貰い泣いたまま、しばらくそこに立っていた。
オコシップは、顔じゅう長い髭に覆われ動物の皮を着たサクサンたちを見て、どこか遠くの国から来た人たちのように思った。垂れ下がった髪の奥から目だけがギョロリと光り、むせかえるような動物の臭いがする。テツナたち四人の子供はじっと口を開かなかった。南部馬を囲むようにして、みんなはふたたび峠をのろのろ下だる。
「足寄《あしよろ》山で、エカシ(古老)から公事《クンチ》のなくなったことを聞いた」と、サクサンがぼそりと言った。それから付近のコタンに忍び込んで様子を探り、よく確かめた上で帰ってきた、と言った。
オコシップたちは、粕毛《かすげ》(白色のまじった馬)の小柄な南部馬がめずらしかったので、首をさすったり、軽く叩いたりした。そのうちに部落の人たちも集まってきて、「よかった、よかった」を繰り返し言って抱き合い、体じゅうをさすり合って喜んだ。
隣りのヘンケエカシが通る声で「フ、オホホーイ」と、オコクセ(神呼び)を発したものだから、みんなはそれに心ひかれて踊り出した。まだ峠の中ほどだというのに、手をかざし、足を踏み鳴らして、ぐるぐる踊り回るのである。
神の踊りに 神の美しい歌をつけて
山から帰ってきた サクサンたちを迎える
今から後は 神の恵みによって
幸せな暮らしができるにちがいない
コタンの人たちは秋風に厚司の袖をなびかせ、踊りながらしだいに峠を下りてゆく。
その晩、夕飯が終わるころになって、息子テツナやその弟のトラリヤがようやくなごんできて、山のことを話してくれた。
「南部馬は、おらが足寄山で見つけたんだ」テツナは誇らしげに肩を振り上げて言う。
「はじめは、てっきり鹿だとばかり思って矢を放ったんだが、それが木の枝に邪魔されて外《そ》れたんだけど、獲物はそう遠くは逃げないんだよ。へんな鹿だと思ってよく見ると、どうも体も頭もちがうんだ」
「顔の長い腹のふくれたお化け鹿が出たっていうもんだから、みんな泡をくって笹藪を二里もぶっ通し走って行ってみたんだ」弟のトラリヤは目を丸くする。
「そんで生け捕《ど》りにしたというわけかい」オコシップは声を弾ませる。
「四方から湿地帯に追い込んで捕えたんよ」
南部馬は蝦夷《えぞ》に渡ってくる連中が連れてきて、ニシン漁や毛皮運搬に使い、仕事がすんで内地へ帰るとき、ほっぽり出して引き上げたので、馬はそのまま野生馬となって山野に住みついたのだ。熊や狼から逃れ、厳寒と雪の冬を生き延びてきただけに、そのしぶとさは抜群で、飲まず食わずで一週間くらいは平気で過ごせる。
「『流れ星』と名づけたによ」尻に熊が引き裂いた一本の鋭い爪跡が弧を描き、その先がギザギザと星型に刻みこまれ、傷跡に沿って白い毛が浮き出ている。それが「流れ星」そっくりなんだ、とテツナが説明する。
「流れ星」が飛び込んできてから、家の中はすっかり明るくなり、かわるがわる跳び乗っては山じゅうを駈け回った、とトラリヤが意気込んで言った。どんなに急な斜面でも小足にものを言わせて、たやすく駈け上がってしまう。食事も寝起きもいっしょだった。家族がひとり増えたので、留真の小さな岩穴から本別山の大きな岩穴に移ったが、それから今年でちょうど五年になるという。耳を傾けながら、オコシップはブシ原の御幣《イナウ》は、その引越しのときに建てたのかもしれないと思った。
「岩穴には、毎日ヨンやミネが遊びにくるんだよ」モンスパは浮き浮きしていう。ヨンとはリスに、ミネはタヌキに付けた名前である。ヨンは高い木の上からブドウやコクワを落としてくれるし、ミネはでかい腹を抱え、いつも先に立って小川や日当たりのいい山の斜面を道案内してくれる。雪の降る厳冬の日、ヨンたちは帰ることができずに泊ってゆくこともあったが、その翌日には迎えに来た母親や仲間たちに連れられて帰って行った。
「そしたら、寂しいことなんかなかったんだね」妹のチキナンやウフツが、うらやましげに聞き入っている。
「そりゃあ山奥だから、寂しいことやおっかないことだって、いくらでもあったよ」吹雪が何日も続いた後、突然|雪崩《なだれ》がきて山じゅうがごうごう唸りをたてて揺れ動き、岩穴がいまにも押し潰されそうになったことがある。天井から岩盤が欠け落ち、穴がいびつになってしまった。炉縁に御幣《イナウ》を立て、家じゅうの者たちがひと晩じゅう一睡もせずに祈りを捧げたおかげで、雪崩はもうこなかった。人喰い熊に狙われ、岩穴から一歩も出られなかったことや、お父《とう》の病気がひどくなってもうダメかもしれないと思ったときのことを、モンスパは息を詰まらせて話した。チキナンたちは目にいっぱい涙を浮かべている。
奥の方で濁酒を飲んでいたヘンケエカシたちは喜びに浮かれ、声がだいぶ大きくなっていた。
「ウロナイの好物であったにな」と言って、母はペカンペ団子の入った大皿を炉縁に置いた。トッカリ脂がジュジュと煙を吹き上げ、団子がつぎつぎに出来上がってゆく。「熱いうちに食べえ」と、母が言う。
「喉チンコが跳ねくり回る」とウロナイは言い、遠慮する子供たちの手にひとつずつ団子を持たせた。近所から無事を祝ってかけつけた婆さんたちも、「ネシコニ(胡桃)の入った味はこたえられない」と言って喜んだ。
その晩遅く、エシリはここに泊まるようにすすめたが、「山で寝ることを思えば、なんぼうボロ小屋でもわが家よな」と、サクサンは闇夜に向かって高らかに笑い、カケスたちのようにがやがや話しながら帰って行った。
9
炉火を囲んで突き合わせた八つの顔が、もう一時間も睨み合ったままだった。
「ええ加減に結着をつけるべえ」と、横座に坐った長老のヘンケエカシがしびれをきらして言った。
禁止になっていた毒矢の取締りがいちだんと厳しくなり、お上《かみ》からコタンに鉄砲三挺の貸与があった。オコシップたちは朝早くからその配分について話し合っていた。クジ引きで決めるところまではすんなりいったのだが、しかし、鉄砲を持っているヤエケまでが権利を主張し始めたものだから、話は何度も振り出しに戻って、すっかりこじれてしまったのだ。
彼は以前、音別山で手負い熊をめぐり、オコシップと取っ組み合いの喧嘩になり、銃把を折られたのだが、そこに針金をぐるぐる巻いて使っている。たとえ傷のある鉄砲でも、現に使っているのなら辞退するのが当然である、というのがみんなの言い分だった。
「役アイヌの気狂い風は、もう吹き止んだぞ」オコシップはヤエケへの貸与には、どこまでも反対だった。
壁に立て掛けた真新しい鉄砲の銃口が、生きもののようにキラキラ光っていた。
「獲《と》った中から二割はお上《かみ》に出すんだからな」自分の鉄砲があるならそれにこしたことはない、とヘンケエカシは言い含めるように言ったが、ヤエケはそっぽを向いている。
「クジを引き当てたら、一人で二挺ということになるな」カイヨは頭を左右に振り、深い溜息と共に天井を仰いだ。
「そんなバカな」シュクシュンは土間に向かってがっと唾を吐き捨てた。
「新品が手に入ったら、針金を巻きつけたのは誰かに貸すことだな」ヘンケエカシは譲歩もこれが限度だと言ったが、ヤエケはまだそっぽを向いている。
「日が暮れっちまうによ」シュクシュンはクジ引きの細綱を揃えて、ヘンケエカシに渡した。みんなの腹がようやく決まった。
「当たりクジにはドッペ(鉄の輪)がついている」といって、エカシはそれをかざして見せる。彼はヤエケの当たりを考えて、もうひとつ紐の輪をつくった。
ヘンケエカシは宝引き綱の束を肩にかつぎ、それをしゅんしゅん振り回して床の上に打ちつける。「ゆくぞ」と、彼はもういっぺん振って打ち下ろし、綱が床に跳ね上がったとき、七本の手がそれに向かって飛びついた。最後に残ったのはヘンケエカシの綱である。彼はそれを口にくわえ、束ねた綱を引き寄せると、七本の綱がぴんと張った。ドッペがエカシの掌の中でじゃらじゃら音をたてる。
「これが匂う」エカシはヤエケの綱をじっと見つめてくんくん鼻を鳴らした。後ろに立った子供や女房たちが息を殺して見入っている。
「正月の遊びでねえだからな。派手な仕種はやめて、すぐに当たりクジを出してくろ」とシュクシュンが言う。
「よしきた」エカシは左手にからみつけていた八本の綱を空に向かって放り投げた。どっと声が挙がった。ヤエケが空《から》クジを持って顔を歪めた。
「来たかドッペ、どこ回った」と、カイヨはいつもの宝引きのように言って飛び上がって喜んだ。サクサンとヘンケとカイヨの三人が笑った。
クジにはずれたオコシップは川岸沿いの小径をぶらぶら帰ってきた。空は紺碧に晴れ上がっていて、原野にはオニガヤの白穂がさらさらと揺れていた。ときどき子供たちの甲高い叫び声が天に跳ね返ってくる。
「馬だ」と叫んで、子供たちが大きな通りに駈け出した。浦幌太からポロヌイ峠を下だってきた二人の騎馬兵が、浜コタンの土橋の袂に馬を止めた。肩と襟が赤く袖口にも黄色の筋が何本も入った紺の軍服に、黄色の太い線の入った紺の帽子を被っている。
「用心せえ」と、ヘンケエカシが言った。子供たちは馬から離れて遠巻きにした。馬は小柄な南部馬だったので、兵隊の体がはみ出し足が地面に着きそうに見える。おまけに鞍《くら》の後ろには大きなズック袋が結わえつけられていた。
「ここはどこだ」と、鼻髭を跳ね上げた兵隊が尋ねた。
「十勝太《とかちぶと》」と、ヘンケエカシが少しも憶せずに応えた。もうひとりの眼の吊り上がった兵隊が開いた地図を食い入るように見つめている。
「釧路《くしろ》までは遠いか」と、鼻髭の兵隊がふたたび尋ねた。
「帯広《おびひろ》より少し遠い」と、エカシが答えた。兵隊たちは馬から下り、道端に大の字に寝転んで「ウ、ウ、ウ」と太い欠伸《あくび》をした。彼らは会所(旧運上屋)のある広尾《ひろお》か大津から官馬を借り受け、帯広の方を回って、この十勝海岸に出て来たらしかった。
「どこから来た?」と、こんどはエカシが尋ねた。兵隊たちは「日本語がうまい」と言って感心してから、われわれは北海道を守るために内地から来た屯田《とんでん》兵で、いまは札幌《さつぽろ》の屯田村にいる、と話した。
いつの間にか子供や大人たちが大勢集まってきて、二人の兵隊を取り囲んで珍しげに眺めていた。兵隊たちは、この辺のアイヌたちが日本語が上手なのは、お上《かみ》がアイヌ語の使用を禁じたためだ、と囁き合っていた。
「アイヌモシリ(アイヌの土地)を攻めてくる国があるというべか」いつもコタンの出来事や|ずる《ヽヽ》和人《シヤモ》のやり口を歌っているハルアンが、怪訝そうに首を傾げる。ヘンケエカシが「アイヌモシリ」のところを「北海道」に直して、もう一度言い直した。
「第一にロスケ、その次にアイヌの反乱だな」と、鼻髭が言った。
「反乱だと、おったまげた」ハルアンはいつものように声を張り上げた。それは、細く長く抑揚のある声で始まる長い物語の初めなのだ。
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あきれたもんだ たまげたもんだ
神からさずかった アイヌモシリへ
弁財船に乗って やってきた殿様たちが
はじめはオムシャ(土産物の交換)をおこない
親しく交易していたのに
しだいに 悪魔のような本性を剥き出し
オオツナイも シラヌカも
クシロも ネムロも
場所という場所は 取り上げられ
アイヌたちは 畜生のように働かされた
あきれたもんだ たまげたもんだ
男たちは 遠くの場所へ連れてゆかれ
女たちは 和人《シヤモ》の妾《めかけ》にされ
コタンの習慣は つぎつぎに禁止され
神からさずかった アイヌモシリは
とうに死んでしまったというのに
まだ それでも足りずに
こんどは 何を奪い取ろうというのだろう
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ハルアンの歌がまだ「アイヌの反乱」まで届かないのに、鼻髭の兵隊はふたたび大きな欠伸《あくび》をして南部馬に跳び乗った。ハルアンの歌は続いている。歌の意味も聞きとらずに、和人歓迎の歌と聞き違えて、眼の吊り上がった兵隊が陽気に手を振った。
「くそ屯田兵!」と、ヘンケエカシは身を震わせて叫んだが、尻に鞭《むち》を受けた南部馬は跳び上がるようにして海岸の方に駈け出して行った。
オコシップは和人の往来が気懸りだった。海岸からしだいに陸深く入り込んでくる彼らには、どこか小賢《こざか》しい陰気さが漂っていた。誑《たぶら》かされてなるものか、と思った。彼は猟の往き帰りやいっときの暇を見ては、ポロヌイ峠の頂上に腰を下ろし、彼らの動向を窺っていた。旅人にまじって酒や米を持った毛皮の仲買人がコタンに入り込んできた。
交易がお上《かみ》の手から十勝組合に移り、それがいつの間にか闇取引きを生んで、商人たちは大いに賑わったのだが、アイヌたちは酒に眼がくらんでいつも騙されていた。彼らは来るときの三倍の荷物をチョロ(箱船)に積んで帰って行った。
オコシップは峠の上から丸木舟の行方をどこまでも追い続ける。舟はやがて原野の向こうに消え失せたが、そのもっと向こうに大津の集落があった。このごろ和人の家が急激に増え、河口沿いには五十戸の家並みが出来ていた。番屋や民家のほかに駅逓所《えきていしよ》、旅人宿、毛皮の仲買商や居酒屋もある。
アイヌたちは毛皮を酒に替え、飲んだくれては真っ昼間から道路にぶっ倒れて嘔吐《へど》を吐いた。遊びに来ていたアイヌの娘たちがそれを見て、きゃあきゃあとカケスのような声を挙げて逃げ惑った。
「おらの銭《ぜに》でおらが飲むのになんの遠慮がいるもんか」彼らは町の陽気に誘われて、大津に出かけるのだった。
河口の沖合いに大きな帆船がかかっていた。食料や酒を持って来て、帰りには魚貝類や毛皮を積んでゆくのだ。
四百年も前、和人たちが大きな弁財船に乗ってやってきたときも、はじめは親しく交易していたのに、それが次第に本性を剥き出し、しまいには漁場を取り上げられてしまったのだから、こんどの新しい交易だって、よほど用心してかからねば、最後の止どめを刺されてしまう。気前よく酒を振る舞う毛皮商やこの辺をうろつき回る彼らの賢《さか》しい眼には悪どい魂胆が見えていた。
オコシップの心配していたことが、それから間もなく訪れた。浦幌川下流の統太《とうぶと》高台に掘建て小屋が建ったのだ。
その近くに住むシンホイが口から泡を吹き飛ばしながら、「岩手からきた西田徳太郎という男でな、『アイヌのために食料は|ただ《ヽヽ》値で売り、毛皮は誰よりも高く買う』と言うぞ」と言った。
西田徳太郎は物腰が柔らかく、首長オニシャインの息子イホレアンと、もうひとりサラレという二人の若者を従えて、えらい勢いだという。「ぼやぼやしとられんど」と言って、シンホイは帰って行った。
オコシップはポロヌイ峠の向こう陰に和人の小屋が建ったと聞いたときから、腹の虫がおさまらなかった。「ウタリ(同胞)たちが飲んだくれて嘔吐《へど》を吐いている間にこれだ」和人たちは海岸の漁場から内陸へ向かって移動し始めたのだ。二軒目は首長が住んでいる旅来《たびこらい》に、三軒目は大津の近くのトイトッキ(トッカリの来る岬)の縁に建った。
「奴等にここの冬は越せめえて」カイヨが顎をしゃくり上げる。
「首長のオニシャインがついてるだからな」おめおめ帰るとも思われない、とヘンケエカシが首を振る。
その日、オコシップはアマッポ(仕掛け弓)で仕止めた小柄な鹿を両肩に掛け、浦幌山をゆっくり下だった。遠くから西田徳太郎の草小屋は見えていたが、オニガヤが深いので、辿り着くまでにはかなりの時間がかかった。草小屋が近づくと彼は足を止めて深呼吸をした。
「腹を据えてかからねば」と思った。オコシップは米穀や毛皮の取引き値を自分の耳で確かめたかった。
草小屋は川岸の高みに建っていた。彼らは母屋の後ろに、もう一つの小さな物置小屋を造っているところだった。
「和人《シヤモ》の家来になったとな」オコシップは屋根の上にいるイホレアンに声をかけたが、彼は振り向いただけで答えなかった。そこへ額の禿げあがった西田徳太郎が近づいてきて、「毛皮や鹿の角は大津の毛皮商の倍の値を出す」と言った。
「大津は相場の半値だから、倍でちょうど正価だ」オコシップの言い分に、西田徳太郎は天上を見上げて大声で笑った。しかし、オコシップはその笑いを打ち消すように、「親鹿の毛皮なら六百文(六十銭)、子鹿なら四百文(四十銭)」ときっぱり言った。彼は鹿を肩から下ろして野地《やち》坊主の上に腰を下ろした。
西田徳太郎は刺子《さしこ》に身をかため、骨ばった素足に草鞋《わらじ》を履いていた。
「いつまで居る」と、オコシップは改って訊いた。
「落ち着いたら故郷《くに》から家族を呼びよせ、この広い土地で馬や牛を飼うのだ」と彼は言った。千頭の放牧も決して夢ではないという。煙管《きせる》にゆるりと煙草を詰め、ゆらゆら燻《くゆ》らせながら話す彼の口調は自信に満ちていた。
「十勝川を境に、左の丘陵一帯から静内山、浦幌山にかけて、みんなわしの土地になった」
「誰に貰った」
「お上《かみ》だ」
「コタンの土地もか」
「もっとも」
西田徳太郎の眼は、長い間アイヌの肉を食べてきた和人狼《シヤモおおかみ》の眼に変っていた。こんどこそ内陸の猟区を根こそぎ奪われると思うと、胸がむかつき、腹の底から酸っぱい液汁が込み上げてきて、オコシップはそれをがっと吐き捨てて立ち上がったが、
「待ってけれ、見て貰いてえものがあるだよ」と、西田徳太郎はすたすた母屋の後ろに歩いてゆく。そこには薦包《こもつつ》みの荷物が積んであって、その上に被せた筵《むしろ》を一枚ずつ剥いでゆくのを、オコシップはじっと見つめていた。
「これだ」と、彼は顎で品物を指し示した。木箱の中にぎっしり詰まった鉄砲を見て、オコシップは思わず眼がくらんだ。それは以前、役アイヌのヤエケが自慢していたエンフィールドと同じ型の鉄砲だった。
「お上《かみ》貸し出しの鉄砲は鹿皮二割だが、これは元手《もとで》がかかってるだから、三割は貰わんとな」
「誰にでも貸すわけでねえだよ」と、イホレアンが横からしきりに煽り立てる。オコシップは黒光った銃身が眼に止まったときから心が決まっていた。この機会を逃すまいと思った。
「よかべ」と、彼はうそぶくように言った。西田徳太郎が雷管や火薬や弾丸の取扱いや前込銃の操作や試し撃ちまでしてくれたのに、それを受けとって立ち上がるまで、オコシップはひとことも口を開かなかった。
10
秋が深まって朝夕|水霜《みずしも》が降り、赤トンボの群に変って雁の渡りが切れ間なく続いていた。樹々の葉が紅葉し山は赤く燃え上がった。
「(鹿の)毛並もめっきりよくなったな」
このころから鹿は山奥からしだいに海岸に近づいてくる。冬の準備が始まるのだ。日向《ひなた》の斜面に二、三十頭の群が集まって笹を喰んでいる。オコシップは鹿のつく場所を知っていたので、峯から峯へ走り回って鹿の首根《くびね》を狙った。アイヌたちは使い馴れぬ鉄砲にまごつき、弾丸込めに時をくっているうちに鹿はもう遠くに逃げ去っている。しかし、オコシップは鹿の先に回り、走りながら弾丸を込め、わずか二十秒で次の弾丸を発射することができた。
「ハシイナウカムイ(狩りの神)が憑《つ》いたようだな」と言って、ヘンケが舌を巻く。一頭の鹿を幾日も追いかけることがあるというのに、オコシップは鹿の首根にぴたりと照準を合わせ、日に三頭も仕留めることがあった。
ラッコの袖なしを着たオコシップは白樺林を疾風のように駈け抜ける。と、彼はもう向こうの山斜面を駈け上がって尾根を走っている。きちんと腰に据えた鉄砲の銃身が陽光を受けて眩ゆく光る。彼はどんなに走っていても獲物に立ち向かうと、一瞬息を止め、「いち、にい、さん」の呼吸で撃ち込むことができた。
「頭を狙うな」子供のころ、父レウカはよく言ったものだ。オコシップは熊だけでなく、鹿も狐も兎のような小さな獣まで、よほどのことがない限り、カムイに捧げる頭は撃ち砕かなかった。「どうだ、参ったか」鹿は前足をがっくり折り、口から血を吹き出してつんのめっていた。オコシップは背中に片足をかけ、天空を見上げて深い呼吸をする。微風が渦巻いて柏《かしわ》の枯葉がかさかさ音をたてていた。彼は休む間もなく、マキリを手際よく操って皮を剥ぎ、角をもぎ取り、頭骨をそこから少し離れた静かな場所の低い木の枝に吊るした。
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天上から静内の中峯に下ろされた鹿たちを
神の恵みでわたしに与えてくれた
わたしはここに御幣《イナウ》と供物を捧げ
この鹿が天上の鹿神の国に無事帰られますよう
心からお祈りする
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供物は柔らかな笹の葉やブドウやコクワである。
オコシップは鹿皮を両肩に掛け、縄に通した肉の塊と角を両手にぶら下げて山を下りた。途々《みちみち》彼は西田徳太郎のことを考えていた。あの何十挺もの鉄砲を十勝、釧路のアイヌたちに三割の高い歩合で貸し与えれば、ボロい銭《ぜに》が転がり込んでくる。その金で牛馬を買って十年も経てば、この界隈《かいわい》は彼の思い通り千頭の家畜で埋まってしまうだろう。そうなれば鹿の天降る山もなくなって、鹿たちもわれわれも共に飢えてしまうだろう。あのとき、西田徳太郎の後について母屋の裏に回ったが、鉄砲の入った箱の向こう側に山積みされた何十俵の米と味噌を見た。彼は毛皮と食料の二重の儲けを計算しているに違いない。鹿と共に飢える日はそう遠くないかもしれない。西田徳太郎のあの柔らかな物腰の底に秘《ひそ》む冷たい眼が、落雷のように青光る。「やりかねねえ男だ」と思った。オコシップは辺りかまわず唾を吐いた。
秋雨が音もなく降っていた。原野も丘陵も雨の中にけぶって静かに沈んでいる。「ええ骨休みよな」エシリの家ではしばらくぶりにシトギ(米を噛み砕いて作った平たい餅)やチポロサヨ(鮭の卵を入れて作った粥)を作ってくつろいだ。
母親を先頭に、娘たちがひと抱えもある大きな鉢の囲りをぐるりと取り囲むと、彼女は「しっかり噛んでほき出せ」と言った。予め水に浸しておいた米を口の中に頬張り、がりがり噛み砕いては鉢の中に吐き出すのである。噛みすぎたり、噛み方が不足だったり、その頃合いが難かしい。
「祭りの供物にはシトギが一番なんだよ」エシリはシトニン(串さし餅)の作り方や、祭りのときには各家々で作ったものを持ち寄る話や、男たちが餅の中央を食べ、女子供は端を食べる話をした。
「子供が熊とか梟とかにあやかるために、首に下げるポンシトニン(小串餅)を作ることもあるんだよ」それを下げ、大人たちの後について踊ると祭りは最高潮に達し、その囃子声はコタンのすみずみまで響き渡る。母のエシリは浮き浮きしてきて、ついシトギ作りも忘れてしまう。「飲み込んじまった」と、末娘のカロナが首を縮めると、「ほき出せ」と言って、母が彼女の背中をとんとん叩きつけた。米のかわりに涎《よだれ》が出てきたものだから、チキナンたちが肩をつっ突き合って笑い転げる。笑いは波のようにときどき膨《ふく》れ上がってはいつまでも続いた。
鉢の中には吐き出した砕米《さいまい》の山ができた。母はそれを握るようにしながら、掌ほどの平たい餅にして熱い灰の中に埋めた。三、四分もすれば、しこしこと歯ざわりのいいシトギが出来上がるのに、カロナはそれが待てずに急《せ》わしく催促する。
「この子ったら」母がカロナの尻をまくり上げて、ぺしゃんとやったものだから、チキナンたちはその音がおかしいと言って、また笑った。
炉の向こう側ではオコシップがトッカリ(アザラシ)の皮でケリ(履物)を作っていた。彼の頭の中には正確なケリの展開図ができているので、マキリを器用に使って端の方から無駄なく切ってゆく。
「うまいもんだ」と、彼は誰はばかる様子もなく呟やく。一頭のトッカリから大小二足のケリがとれた。あとは切り口を縫い合わせてゆけばそれで出来上がりなのだが、彼は慎重に針を使った。特製の長作りで、鹿皮二枚でようやく手に入れた針だった。
「これさえあれば、ケリでもテクンペ(手套)でも造作もねえわ」母のエシリが跳び上がって喜び、道ゆく人を呼びとめては見せびらかしたものだ。
「その針は誰が作ったんだい」元役アイヌ、ヤエケの女房サウシが意地悪く訊ねた。エシリは「和人」とは言わずに「鉄職人」と答える。
「おらはな、アイヌか和人《シヤモ》かを訊いてんだい」
「作ってるとこ、見てねえもんな」エシリはどこまでも突っ張る。
「片意地ば張らんとな、和人に頭ば下げたらよかべ」サウシはどんと土を踏んで立ち去った。
オコシップは日頃から仲の悪い彼女たちの口論を聞きながらおかしかった。彼は二人のやりとりを思い、ひと針ひと針縫い進んだ。
「ほら、りっぱなもんだわ」シトギを作っていたエシリが炉の向こうから伸び上がって言った。
「針はどうでも腕が違うわ」と、オコシップは出来上がったケリを頭上にかざした。母子《ふたり》は顔を見合わせて微笑んだ。
雨はこやみなく降り続いていた。午後になると、それに風がついて横なぐりに叩きつけてきた。「ひどい雨だ」と、表戸が開いてサクサンが飛び込んできた。頭からずぶ濡れで、眼だけが梟のように大きく見開いていた。
「雨具も着んとな」母がたまげた声を張り上げた。サクサンの体から澪《しずく》が雨だれのように垂れている。炉火の中に枝木がつぎつぎに投げ込まれ、赤い炎が三尺も高く立ち昇った。
サクサンは家の中に飛び込んできたときから、その眼は天井裏にぞっくり吊り下げられた干し肉の塊を睨んでいた。
「おめえのとこは、いつも用心がええ」彼はエシリが注いだ濁酒を飲みながら、顎を突き出して天井裏をいつまでも眺めていた。その間にオコシップはサクサンが持ってきた木壺《きつぼ》に雷管や弾丸や火薬を詰め、ついでにサラニプ(背負い袋)に白米を半分ほど入れた。役所から配給になる火薬や弾丸が十分でないので、サクサンはときどきやってきてはオコシップから分けてもらうのだ。
「これだけあればひと息つくな」サクサンは赤い舌の先で濁酒のついた唇をなめ回してカラカラと笑った。酒さえあればいつも陽気である。この米も数日後には酒になっているかもしれない、とオコシップは思った。
サクサン一家は山から下りて間もなく、原野の三日月沼の辺《ほと》りに引っ越していた。十年も山の中に閉じ籠っていたせいか、広い原野が懐しくなったのだ、とサクサンは言う。原野には狐や兎がたくさんいたし、熊も金毛の大熊を含めて、彼はもう三頭も仕留めていた。それに今年はいつもより早く鹿の鳴き声を聞いた、と言って勇み立っている。
「原野の鹿は一頭だって逃《のが》すめえて」サクサンは三杯目の濁酒をいっきに飲みほし、オコシップのボロ外套を頭からひっかぶって、雨の中へ消えて行った。
「オコシップ、山は雪になったぞ」朝早く起きたエシリが戸外から大声で呼んだ。日高の山脈《やまなみ》を白く染め変えた初雪が朝日を受けて光っていた。いつもの年より半月も早い雪である。これから身を突き刺すような木枯しが吹き、道端にはぞっくり霜柱が立ち、トンケシ山からどっと雪虫が降ってきて十勝川に厚い氷が張りつめると、やがて原野に雪がくる。それは日高の山脈に雪がきてからほぼ一カ月先になるのだ。
「まごまごしとられんど」エシリの頭の中には屋根や壁の破れを繕《つくろ》い、長いオニガヤで外側から冬囲いをし、高倉の中に干肉や干魚や干した山菜を詰め込み、倉のねずみ返しを新しいのに取り替え、できれば母屋の屋根に、もう一本太い突っかえ棒もしたい、といくらでもしなければならないことが思い浮かんでくる。
エシリが子供たちを連れ、丸木舟に乗って冬囲いのオニガヤ刈りに出かけた後、オコシップが猟に出かけようと身仕度をしているところへ、西田徳太郎に雇われているイホレアンが息をきらして駈け込んできた。
「親方が急用で、明日岩手《くに》に帰ることになったんだ」それで、約束した三割の鹿皮を今日じゅうに引き渡して欲しい、というのである。
「山から帰って来てからのことだ」オコシップはイホレアンに、約束の違いないことを西田徳太郎に告げるように言って、猟に出た。
遠い山が灰色に霞んで、風はひときわ冷たかった。こんな日には、鹿たちは南斜面のなだらかな滝の山に屯《たむ》ろしているに違いない。オコシップは峠を登りきるとすぐ右の沢に入り、そこから湿地帯を通って滝の山に向かった。赤い腹の啄木鳥《きつつき》が古木の幹をコロロロと叩きつけては、案内人のように前へ前へ進んでゆく。風は樹々の梢を海鳴りのような音をたてて渡り、枯葉がくるくる回って落ちてくる。その中を彼は大股に歩いた。
「どう考えても、三割は暴利だ」と、オコシップは歩きながら呟やく。高い火薬や弾丸を買わされた上の三割だから、収穫の半分は奪《と》られてしまう勘定になる。彼らは昔から「アイヌ勘定」という手を使ってごまかしてきたが、それが少し形を変えただけで、弱みにつけ込んだやり方は今も少しも変らない。
「あの猫撫で声はどうだ」彼らは何くわぬ顔で、笑みさえ浮かべながら、平気で喉首を締め上げてくる。西田徳太郎の禿げ上がったのっぺりした顔が眼に散らついてきて、オコシップはしきりに唾を吐き捨てた。
滝の山に着いても、昂《たかぶ》った彼の心はおさまらなかった。向こう斜面の日溜りに鹿の小群がいくつも群れていた。彼は沢の方から遠巻きに近づいてゆく。枯葉の上でも笹原でも音がしないように身を伏せて蛇のように這ってゆく。角《つの》の大きい親鹿が頭をしゃんとあげて聞き耳をたてる。その顔はいつかのっぺりした西田徳太郎の顔となってこっちを睨みつけている。
「首根を狙え」と、レウカの声がする。筒先からパッと火を吹き、轟音が山から山へ響き渡った。親鹿はもんどりうって倒れたが、そのまま四、五間も滑り落ちて止まった。眼球がえぐり取られたように飛び出し、頭は醜くつぶれていた。
「許してけれ、おれはどうかしてたんだ」彼はなま暖かい鹿の皮を剥ぎながら、なんども腰を伸ばして呟やいた。
オコシップは嫌な思いで山を下りた。太陽はまだトンケシ山の上を走っていた。彼は家へ着くなり、入口のポンチセ(小屋)に吊るしてある鹿皮を確かめた。両方から細紐でピンと張った皮を、乾き具合いを見ながら取りはずしてゆく。大柄小柄さまざまだったが、がばがばに乾いた鹿皮が四十枚ほどあった。彼はその中から手ごろな皮を十枚選び出した。西田徳太郎に差し出す歩合いの皮である。この十枚が歩合いの三割にも満たぬ上、それに弾薬の分を含めれば、彼が首を縦に振らぬことは分りきっていた。
「これが精いっぱいだ」と言って、オコシップは丸めた鹿皮を床の上に転がすように置いた。西田徳太郎は色艶《いろつや》のいい鹿皮を一枚一枚撫で回すように数えていたが、十枚目を数え終ったとき、彼の体は小刻みに震えていた。
「どういうことだい」と、西田徳太郎は感情を押し殺して言った。
「アイヌ勘定でゆけば、『はじまり、おわり』で二枚、それに『まん中』をつければ一枚増えて全部で十三枚になる。総収穫三十枚の三割で九枚、あとの四枚は弾薬の分だ」オコシップはこう説明して巻煙草を懐から取り出し、天井に向かってぷうっと青い煙を吹き上げた。
「そりゃ、まるで反対でねえか」十枚を十三枚に数えるのは筋が立たない、と言って西田徳太郎はますます不機嫌になった。
「おめえたちが昔やった計算の分をたった三枚取り返したまでよ」彼が今日一日じゅう考えた末に得た計算の仕方だった。父や祖父たちが、アイヌ勘定と知りながら、それをじっと耐えるより仕方がなかったうっ憤を、少しでも晴らしたかった。
「鉄砲の名人が、わずか三十枚というのもおかしなことだ」と、西田徳太郎は改めて交渉に入ろうとするのを、
「三十枚が少ないだと、それが嫌なら一枚残らず持って帰るど」オコシップは声を荒げ、巻煙草をべっと土間に吐き捨てた。イホレアンともうひとりの若者が土間の隅に縮こまっていた。
しばらく沈黙が続いた後、「ものの分らねえ、ごろつきよな」と、西田徳太郎は溜息のように呟やいた。
「おめえたちはな、ごろつきよりもっともっと百倍も悪どいことをしたんだ」オコシップは眼を吊り上げて言った。「米一俵四斗が二斗になり、しまいにはたった八升で取引きした。そればかりか、男たちを遠い場所へ働きに出した後で、女たちをかたっぱしから強姦し、漁場も猟区もつぎつぎに奪い取り、しまいにはこのコタンまで取り上げてしまったんだ。アイヌのごろつきを咎める前に、そのことをようく覚えとけ」
彼はラッコの袖なしを着た肩をいかめしく張り、気難かしいとき父レウカがよくしていたように、がっと唾を吐き捨てて立ち去った。
その晩、オコシップはクンネの吠《な》き声で眼を覚ました。彼は素早く身仕度をし、窓から戸外に跳び出してじっと様子をうかがった。空は薄雲に覆われていたが満月だったので、近くなら人の顔まで見える明るさである。クンネは小屋の入口に向かって吠えていた。
賊は小屋の中に間違いない。オコシップは太い丸太ん棒を持って小屋の入口に忍んでいた。中から「クンネ、クンネ」と、犬を宥《なだ》める声がする。間抜けた賊の声はイホレアンだった。初めにのっそり出てきた若者が足をかっさらわれ、鹿皮らしい塊といっしょにもんどりうって転げ、その後ろから灯火《ラツチヤク》を持って現われたイホレアンは横っ腹を打たれてのめくったが、その拍子に灯火《ラツチヤク》が三間も向こうにふっ飛び、火焔を高く吹き上げて消え失せた。この鋭い一撃で泥棒たちはほとんど戦意を失って、オコシップの前にひれ伏した。
「こっちさこお、アイヌ流の制裁でな、足の腱《けん》ば断ち切ってやる」オコシップは二人の襟首をわし掴みにし、家の中へずるずる曵きずってゆく。
「許してけれ」と、イホレアンが絞るような声で言った。骨が砕けたらしく、土間に引きずり込んでも二人は立ち上がれなかった。
騒ぎを聞いて母や妹たちが起きてきた。灯火《ラツチヤク》の光影がゆらゆら揺れて土間を照らす。
「親方が何と言った?」
イホレアンは体をがたがた震わせ怖《おぞ》けた声で、「不足分の十枚を盗《と》って来おと」
「腑抜け野郎!」と、オコシップは岩のような拳骨をイホレアンの脳天にくらわせた。和人の手先となって働く腑抜けアイヌたちは重い罰を受けるのは当然、おらがコタンコロクル(首長)にかわって足の腱ば切ってやる、と言って腰のマキリに手をかけた。それを見た泥棒たちはぎゃあと、喉笛が張り裂けたような悲鳴をあげ、狂ったように重なり合って戸外へ這い出して行った。
「西田徳太郎にな、こんどはおめえが来いと言っとけ」オコシップは戸口に立ち、転げるように遠去かってゆく黒い塊に向かって叫んだ。
11
雲《くも》けた西の空から雪虫がどっと降ってきた。これが舞うと間もなく原野に雪がくる。細い羽を動かしているのか、ただ浮いているのか、雪虫はいっとき空に止まっているだけで、みるみる地面を真っ白にした。虫が小降りになったころ、その中をサクサンと伜テツナが峠を下りてきた。サクサンは鉄砲を、伜は弓を肩にかけている。
彼らは山奥から下りるときに着ていた、あのぶ厚い熊の皮を脱いで模様の入った厚司を着ていた。テツナは虫が入らぬように口をおさえて、
「イホレアンはあばら骨を折られ、サラレは脛を折られたとな」と言った。数日前の出来事が部落じゅうに広がり、川向こうの三日月沼まで伝わっていたのだった。
「こんど来たら、頭ば叩き砕いてやる」三人は笑いながら家の前のアオダモの根元に腰を下ろして煙草をふかした。
「日高に狩人《またぎ》が入ったというぞ」テツナが真顔で言った。近江商人を後盾に、嵐のように襲ってきて、山から山を荒らし回る略奪の一団である。彼らは毎年きまってやってきた。
「猟区《イオロ》をぶち壊す悪党ども」オコシップが呻くように言う。日高と十勝の国の間にもそれぞれの猟区があって、鹿の増える数と獲る数がうまく折り合いがついて、山は鹿の楽園だったのに、この一団が現われるようになってからは、親鹿子鹿の見境いなく手当たり次第に撃ちまくったので、鹿たちは目に見えて減少していた。
「和人《やつら》を追っ払う方法はある」と、サクサンは唸るように言った。
「どんなだ」と、オコシップたちが同時に頭を上げる。
「アマッポ(仕掛け弓)を山じゅうに仕掛け、彼らの大腿部《ふともも》をぶち抜いてやるんだ」
二人は顔を見合わせたまま一瞬口籠ったが、オコシップはすぐ気を取り戻したように、「悲鳴をあげてのめくる和人《やつら》の姿を見てえもんだ」と、弾んだ声で言った。
「猟区《イオロ》を侵した者たちが受ける当然の報復《むくい》だ」サクサンは雪虫の散らつく空を仰いで、にっと笑った。
その翌日からオコシップたちは山に籠《こも》り、半日猟をして、あとの半日はアマッポ作りに費した。陽当たりのいい滝の山の凹地に陣取り、マキリを操り鉈《なた》をふるって弓矢や罠《わな》の受け木や張木を作った。弓は弾力のあるオンコがいいし、矢はサビタがいい。オコシップたちは遠くまで行って木を伐り、弦にする蕁麻《あさいと》を採ってきた。
「重傷だな」頑丈な矢を見て、テツナが心配そうに言う。
「毒を加減して、腰から下を狙えばええ」サクサンは仕掛け弓の図を頭に描きながら、いちばん肝腎なヘチャウェニ(引き金)を作っている。すべりがよくなければ、さわり糸に触れても矢がうまく飛び出さないのだ。切ったり削ったり、糸を紡《つむ》いだり、オコシップたちは日が暮れるまで精を出した。
五日がかりで十個分のアマッポの部品が出来上がった。
「うまくゆけば、十人の悲鳴が聞けるな」オコシップが愉快そうに弦を弾き、その場に「痛た、た、た」と叫んで倒れる。それを助けようとして、向こうの方から走り寄ってきた猟友テツナが、もうひとつのアマッポにかかって二人目が倒れる。
「三人目はどうした?」と、サクサンは煙草をふかしながら叫んだ。
オコシップたちは、アマッポを三カ所に分けて仕掛けた。
「ヘンケエカシ、ようく聞いてけれ。日高に乗り込んできた狩人《やつら》は、もうすぐおれたちの猟区《イオロ》に現われる。おれたちは狩人《やつら》の大腿部《ふともも》にアイ(仕掛け矢)を打ち込もうと、カタサルベツの沢、滝の沢、静内の中嶺《なかつね》の三カ所に十個のアマッポを仕掛けた。狩人《やつら》が立ち去るまで、この辺りには近寄らず、また、このことは決して他言しないでけれ」
サクサンはその日、夜が更けてから猟に出ている家々の戸外に立ち、こう言って歩いた。
翌日、狩人の一団が浦河《うらかわ》から大樹《たいき》に入ったという噂を耳にした。オコシップは鉄砲を担いではいたが、山には入らなかった。浦幌太から峠を越え、丘陵を下だって浜部落の方にぶらぶら歩いて山の様子を窺がっていた。向こうから来た子供たちが歌いながら通り過ぎた。
ホーイ、ホイ、ホイ 虫が来て
ホーイ、ホイ、ホイ 雪が来た
被害者はそれから三日目に出た。担架に乗せられ、浦幌川を下だって大津に送られていったという話だった。しかし、その翌日になって一日に三人の被害者が出て、コタンはたちまち大騒ぎになった。山から運ばれてくるたびに、担架の周りに人だかりが出来た。
「太股を射抜かれ、ひどい出血だ」と、鳥打帽子を被った狩人が怒鳴り散らした。コタンの人たちは寡黙《かもく》に押し黙っていた。太股をしぼりあげた止血の棒片を男はもうひとねじりした。被害者たちは丸木船に乗せられ、大津に向かってつぎつぎに運ばれて行った。
夕方、大津から一団の組頭が従者を二人連れてやってきた。組頭は皮のチョッキを着た大男だった。彼は舟を下りて川岸に立った。
「アマッポを仕掛けたのはおめえか」と、組頭が改った声で言った。
「そうだ」とサクサンは応えたが、そのすぐ後から、オコシップとテツナとそれにコタンの世話役のヘンケエカシの三人が「おれもだ」と名乗った。
「おいらの猟区《イオロ》においらのアマッポを仕掛けて何が悪い」鉄砲を小脇にかかえたサクサンが横から見据えるように睨んだ。
「アマッポは禁止されてるべ」と、組頭が顎をしゃくり上げた。
「知らねえな」と、サクサンは組頭以上に高く顎をしゃくった。
「殴り合いでも、撃ち合いでも、どっちでもいい」サクサンは引き金に手をかけた。コタンの人たちが大勢集まってきて組頭たちを取り囲んだ。その中に鉄砲を持ったアイヌたちが何人もいた。
「殺し合いはしたくないからな」と、組頭はおとなしく紳士ぶった口調で言う。
「アマッポを全部取り除くことにして、明日と明後日の二日だけは猟をさせてやる。そして三日目にはおいらの猟区から一人残らず立ち退いてもらう。これでどうだ」
サクサンの提言は力強く頼もしかった。観衆の中にサクサンの妻ウロナイやオコシップの母エシリたちもいた。
「首長はどうした」と、組頭は助けを求めるように伸び上がって、膨れ上がった観衆を見渡した。後ろの方から誰かが、「もう、とっくにふやけてしまった」と叫んだ。大勢のアイヌたちはなお押し黙ったまま成り行きを見守っている。
「よかろう」と、大男はサクサンの言い分を素直に呑んだ。
彼は仲直りのしるしに一献差し上げたいと言って、酒を買いに二人の従者を大津に走らせた。オコシップとテツナは罠を取りはずすためにすぐ山に向かったが、コタンの人たちは「百頭の鹿が助かった」と言い、「松前のクンチにも逆らい通した命知らずの荒武者だもの、誰もかなうまい」と言い合った。
その晩、ヘンケエカシの家で組頭たちと酒を酌《く》み交した。サクサンは「毒まで呑みほしてやる」と言って飲んだが、オコシップは一滴も口にしなかった。彼は酒席で首をはねられたコシャマインやシャクシャインら勇猛な首長たちの呪《のろ》われた末路を思い浮かべながら、その末裔たちが今も同じことを繰り返しているように思った。
「あと、もう一日だけ猟日を延ばしてけれ」と組頭は床に手をついて頼んだ。酔いにまかせ、和人たちがいつも使う手なのだ。
「ようし」と頷ずいて、サクサンはにょっきり立ち上がった。「ただし、おめえの命と引き替えにな」彼はこう言って鉄砲の砲先を組頭の額に突きつけた。
12
オコシップは家のすぐ裏の茅原を中腰の恰好で兎の足跡を追いかけていた。雪の上の足跡は、いま残したばかりのほやほやだった。彼は朝飯前の肩ならしと思って家を出たのだが、足跡は茅原をぐるぐる回って、どこまで追っても止め足(足跡をくらますために、大きく跳びはねる)がなかった。彼はさんざん歩き回ったあげく、丘を登ってとうとう峠の上に出てしまった。
昨日まで赤|錆《さ》びていた原野は一面雪に覆われていた。いつもなら十勝《とかぷち》川の氷が張りつめてから雪がくるのだが、今年は様子が違っていた。粉雪が少しずつ降り積もるというのではなく、どかっという降り方で、ひと晩に腓《こぶら》のあたりまで積もったのである。十勝川が一本の黒い筋となって原野の中を大きく蛇行していた。
オコシップは原野を右手に見て、なおもしぶとい兎を追い続ける。足跡は三つになり、五つになり、入り乱れてどこまでも続いていた。細い小川を跳び越えて白樺林に入ると、狐や鼬《いたち》の足跡も混じって獣たちの乱舞が始まる。新雪が四方に飛び散っていた。家の裏で見つけた足跡はここでついに紛《まぎ》れてしまった。
彼の腹はぐうと鳴ったが、このままでは帰れない気持ちになり、新しい獣の足跡を探して榛林《はんのきばやし》に踏み込んだ。ここを突き抜ければ浜コタン裏の丘陵に出る。兎は気まぐれに横にそれたり放尿をしたりして、ゆっくり跳び進む。足跡の間隔が少し乱れたと思っていると、突然、こんもり繁ったサンナシの藪から雪煙を吹き上げて白い塊が跳び上がった。同時にオコシップが構えた銃口から火を吹き、兎はさらに大きく跳び上がって頭から雪の中に突きささった。
「おらが先だ」
繁みの反対側から走り出てきたヤエケが、兎の耳をつかんで持ち上げた。
「たった今、ここへ追い込んだんだ」
ヤエケは厚司の裾を跳ね上げるように歩いて、自分が追ってきた証拠の足跡をオコシップに指し示した。二足跳びの大きな歩幅で、足跡はたしかに繁みの中に跳び込んでいた。枯草の上に雪が浮いたように載っている。その奥の方にオコシップは小刻みに震えるもうひとつの白い塊を見た。彼は鉄砲の筒先を上げてヤエケに合図した。
「腰を抜かしやがったな」
ヤエケは繁みの中を覗きこんでくっくっと笑い、狙いを定めて近い距離から撃ち込んだ。兎は強い衝撃を受けてひっくり返ったまま、四本の足をひくひく動かしただけで絶命した。
二人は恨みなく肉付きのいい兎をぶら下げ、山|間《あ》いの小川に沿って山を下りた。陽光が初雪に照りかえって眩ゆかった。部落はすっかり冬の装いに変り、子供たちは手橇を曵き回し、雪をのせた段々屋根からゆらゆら煙が立ち昇っている。
ヤエケの家の前までくると、
「ちょっくら頼みてえことがあるによ」ヤエケはめずらしく下手《したで》に出てオコシップを自分の家に招き入れた。
女房のサウシと娘のヌイタが炉縁に蹲ってケリ(履物)を造っていた。サウシは鹿皮で大人のを、ヌイタは秋味の皮で子供のを造っている。
オコシップが入ってゆくと、サウシは手を休め、赤く爛れた眼をこすりながら、
「手に負えねえごろつきという噂《うわさ》を聞くこともあるがな、若いのによくコタンのりっぱな顔役になったよ」と言った。
オコシップはそれには答えず、ケリを履いたまま炉の中にふぐみ込み(足を入れる)、燃えさかる焔に手を差し出してあぶった。奥の寝藁の中から足や眼の悪い子供たちが這い出してきて、いま獲ってきたばかりの兎を、担いだり抱いたりしてはしゃぎ回る。
「飲んでけれ」と言って、ヤエケは木椀に盛り上がるくらい濁酒を注いだ。オコシップは腹が空いていたので、きつい濁酒の匂いを嗅《か》いだだけでも、胃袋にきりきりと効いてくる。
「てっきり、おらの狙った兎だと思った」
ヤエケは「腰抜け兎」のことを言って笑った。二人はトパ(引き裂いて干した秋味)をむしりながら飲んだ。
「貧乏神は弱い者をめがけて狙いやがる」
ヤエケの口説《くど》きが始まる。彼はこのごろ、ときに酒を飲んでオド(気勢)を挙げることもあるが、役アイヌだったころの威勢はすっかり影を潜《ひそ》めていた。
「上の男どもはどこへ行ったものやら、いまだに分らねえし、小さな穀潰しどもは順番でも待つように、替り番こに病気だ。鼻糞ほどの(漁場の)前借金は、わずか一カ月で煙のように消えてしまい、おまけに今年は近年にない大不漁だ」
ヤエケはしきりに頭を横に振り、明治になって暮らし向きは苦しくなるばかりだ、と言って嘆いた。その眼の前で、オコシップは糸切歯で堅いトパを引きちぎり、むさぼるように空腹を満たしながら、いささかでも気をゆるめ、頼みを聞き入れるようなことがあってはならぬ、と何度も心に言い含めた。
「同胞《ウタリ》をいじめた分だけ祟《たた》りは大きいべ」
肴《さかな》を噛じりながら、オコシップは唸るように言う。ヤエケは黒い大きな眼をぎょろりと剥いてオコシップを睨んだが、すぐ気を取り戻したように、
「おらが仲さ入って、撫育米の給付をしてやらなかったら、ヘンケとこのウンキや、カイヨとこのサイリは、とうに死んでたど」と、今でも床づいているエカシ(古老)やフチ(老婆)のことを言った。
囲炉裏火がはじけて火の粉が高く舞い上がった。天井から垂れ下がった細長い煤《すす》の塊がゆらゆら揺れ動く。女房のサウシは「寒《さぶ》、寒《さぶ》」と言って火の中に薪をしきりに投げ入れる。子供たちが炉縁に置いたトパを狙ってじりじり近寄ってきた。
「ほら、持ってけ!」ヤエケがトパの房《ふさ》から一本ちぎって奥の方へ投げやると、子供たちはそれに向かってわっと飛びついて行った。足の悪いコマが目の悪いテンネを突き飛ばしてトパに噛じりつく。と、こんどはテンネがコマを押し倒して獲物をむりやり取り返す。傍で幼い男の子が口をあんぐり開けて眺めている。
「うじ虫ども」
彼はもう一本ちぎって投げてやる。オコシップは、そわそわしたヤエケの様子から頼みごとを切り出す機会を狙ってるな、と思った。
「さ、うんと飲んでけれ」と、ヤエケが言葉にはずみをつける。と、炉縁の向こうから、「ヌイタは働きもんでさ」と、女房のサウシが切り出した。
「朝早くから晩遅くまで愚痴ひとつこぼさずに厚司織りはするし、履物《ケリ》や脚絆《ホシ》造りも、根《こん》をつめて途中で投げ出すことなんか一度だってありぁしない。山菜採りはみんなの三倍は採るし、|おひょう《ヽヽヽヽ》の皮剥ぎときたら、それはもう、おっかなくて見ていられないくらい木のてっぺんまで登るだよ」
「働きすぎて体を壊したくれえだ」と、ヤエケは女房の言葉を引き取って続ける。「漁場の飯炊きでも、ナンベ頭(炊事頭)をしのいで一人半の歩合いをもらう働き者、その上器量よしだから若い衆には騒がれるし、親方には口説かれるし、それはもう身が持たねえ始末、とうとう体を壊してしまったが、養生のおかげで今はこの通りぴんぴんだい。こんだあ、若者たちのトクサのような脛で、ごしごしこすりつけたって、そう簡単にはすり切れめえさ」
ヤエケとサウシが娘ヌイタをかわるがわる褒めちぎり、眼の前の自分に何とかくっつけようという魂胆が筋書き通りに進められてゆくのを、オコシップは苦々しく聞いている。しかし、ヌイタの方は厚司の裾をひらひらさせ浮かれたようにその辺を歩き回っていたが、話がしだいにオコシップとの結婚に及んでくると、「おら、もう知らない」と言いながらも、すっかり気乗りした様子で、そのまま彼の傍にくっついて坐り、首に下げた飾り玉をちゃらちゃら振って微笑んだ。オコシップは親子三人のペテン師を横目でちらちら眺めながら、「奴らはいつもこの手だ」と思った。
「おまえさんを見込んでの頼みだ。目の悪いテンネをつけてヌイタを貰ってくろ」
ヤエケは酔っていたので、前にのめくるようにして深々と頭を下げたが、テンネとの抱き合わせと聞いて、オコシップは肴をひと口|噛《か》んだまま飲み込むことも出来ず、眼が額の方まで吊り上がった。しかし、炉縁にうずくまった女房のサウシは、彼の心をまるで理解しないもののように、
「ヌイタはそれだけ値打ちがあるだよ。目が高い人だったら誰だって文句なしに飛びついてくるさ。それにテンネは我慢強い子でな、どんなにひもじくても、ひとことだって愚図ったことはねえだよ」
いつの間にか、ヌイタはオコシップの膝の上に上体を寄りかけていた。
「淫《いん》だら女と幼児とな」これではヤエケの投げた貧乏神を拾うようなもんだと言って、オコシップはいつもの癖で土間にべっと唾を吐き捨てた。
ヤエケとサウシは顔を見合わせ大きな溜息をついたが、すぐ気を取り直し、奥の方から鉄鍋を持ってきて、「これを付け足すべえ」と言った。鉄鍋はひと抱えもある大鍋で、漁場で使ったもののようだった。
オコシップは、これもどうせ和人にへつらい、うまく立ち回って貰い受けたものだろうと思って見ていた。
ひと呼吸の後、「これならよかべ」鉄鍋の上にさらに鉄瓶を乗せた。しかし、オコシップは振り向きもしなかった。
「鉈《なた》でも鉞《まさかり》でも欲しいものを言ってけれ」ヤエケは哀願するように言って炉縁をぐるぐる回り出す。
「鉄砲だって、大砲だって……」ヤエケにつられてサウシや子供たちも、口々に何ごとかを叫びながら、その後について回った。
身を蛇のようにくねらせながら、ヌイタはオコシップの膝の中に割り込んでいた。黄や青や赤の玉を連らねた首飾りが七色に輝き、ヌイタの細い腕がオコシップの首にからみつく。
「胸の中が燃えているによ」と、ヌイタが口を尖らす。うまく事が運んでいるとみたヤエケたちは回るのをやめ、薄暗い寝藁の中にもぐり込んで二人の様子をうかがった。
「もうひと息だ」と、ヤエケが唾をごくんと飲み込んで言った。厚司の裾が乱れて、剥き出した太股《ふともも》がひくひくと動いた。
「発情《ふけ》ブタめが」
オコシップはケリを履いたままヌイタを曵きずって行って、ヤエケたちとは反対の寝藁中へ叩き込んだ。
昼近く、オコシップは兎をぶら下げて川岸の雪道をわが家へ向かっていた。
「ヤエケの馬鹿ども、これで結婚の儀式が終ったと思ってるだからな」
彼はペテン師たちの顔をひとつひとつ踏み潰すような勢いで雪を踏んだ。川岸の柳の並木が北風に揺れて雪の塊がぼたぼた落ちてくる。小曲りをかわすと、年じゅう丸木舟に乗って川を攻めているハルアンのいつもの歌声が聞こえてきた。あたりが白いので川が黒々と浮き上がって見える。
[#ここから1字下げ]
あきれたものだ たまげたものだ
いくら和人《シヤモ》が憎いからといって
アマッポで人間を射るとは
アイノ(人間)のすべきことではない
恐ろしいことだ おっかないことだ
人間の血にまみれた 穢《けが》れた矢じりを見て
先祖《おや》たちは悲しみにうち沈み
カムイたちの怒りは 火のように燃えあがる
[#ここで字下げ終わり]
オコシップはハルアンの歌を聞きながら腹を立てて、
「ハルアンは、この前、アイヌがこうみじめになったのは、すべて和人《シヤモ》のせいだと歌ったでねえか。おいらがどんな方法で和人《やつら》を殺《や》ろうと勝手だい」と叫んだ。
「弓矢は熊や鹿を、天の熊神の国、鹿神の国に送るために使われるものだによ」
「これまでの和人《やつら》のやり口を思えば、アマッポくらいで文句ば言えるもんか」
オコシップはハルアンをやりこめたつもりだったが、彼女は櫂《かい》で水を叩くように調子をとり、
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ワッカウシカムイ(川の神)は 年中コタンを見守ってくださる
同時に、カムイの御心に反し
川の掟《おきて》、山の掟、猟の掟にそむく者は
カムイの怒りを受けねばならぬ
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と、きびしい口調で節をつけて歌った。
ハルアンは岸の蒲原《がまはら》の中をゆっくり舟を進めていた。舟の中の網の塊の中にウグイの白い腹が点々と光り、アカ(舟の中に入った水)が揺れ動いて舟は重そうだった。
「ふんとにコタンを見守って下さるんなら、おいらの暮らしが、どしてこんなに荒れてしまったんだい」
ハルアンは返答に困って、入墨の入った唇をちょっと歪めたが、
「見守るといっても、それは自然の掟にかなった暮らしが出来るようにお力を貸して下さるんだよ。だから、アイヌだろうと和人《シヤモ》だろうと、掟に背いた者は怒りを受けることになるんだよ」
「反対だな」とオコシップは強い口調でチャランケ(文句)をつけた。
「ワッカウシカムイはおいらの神様なんだど」
「そりゃあ、おめえの言う通りだが、何度も言うようにアマッポで人間を射ることは許されねえだ」
ハルアンはしぶとかった。しかし、オコシップはここで腹を据え、カムイの怒りは|ずる《ヽヽ》和人《シヤモ》やアイヌを売った首長に向けられるのが本当なんだ、とハルアンを言い負かしてやろうとハンブ(川岸)に立ったが、耳の遠い彼女は、「ワッカウシカムイは何でも見ていなさる」と、自分の言いたいことだけを言って、舳先《へさき》を沖に向けた。
「掟を言っている間に、コタンはこのざまだ」
オコシップはもう唾が涸《か》れてしまって、トフトフと空唾ばかりを吐いていた。
13
家に帰り着くと、母のエシリたちが屋根の穴を塞いでいた。冬越しには、まだやらねばならない仕事がどっさりあるのに、雪につっかけられて泡を食っている。
屋根にはチキナンが上がっていた。下から突き通された屋根針の縄で葺《ふ》いてゆくのだが、穴はいくらでもあった。
「貧乏神が入りこんでくるのはあの穴だな」と、エシリが言うと、「こっちの方のはもっとでかい貧乏神が入れるわ」と、ウフツが奥の部屋から天井を見上げて言った。オコシップは聞きながら、今日はどんな風の吹き回しで貧乏神の話ばかりなんだろうと思った。
「ゆくぞ」と、エシリが天井に向かって叫ぶ。チキナンは下から突き上がってきた屋根針の縄を引っぱっては、束ねたオニガヤの先を萱揃《かやそろ》えでとんとんと叩きながら、つぎつぎに編んでゆく。エシリが戸外に出て、
「よそ見ばしてたら、(屋根針が)足の裏へ突きささっど」と叫んだ。末娘のカロナが見えない眼で心配そうに見上げている。
「棟端の南側に梟の出口を作って、その上から萱をかぶせるように垂らすんだよ」
毎年、真冬の寒い日になると、梟が家の中に入ってきた。天井の横棒に行儀よく止まり、肩をいかめしく張って目玉をきょろきょろ動かしている。
「梟はコタンクルカムイ(部落を守護する神)と言って、カムイが天上の神の国から梟の姿になって下りてきたものなんだ。熊の居場所を教えてくれたり、秋味を川原に置いていってくれたり、悪魔を追い払ってくれたり――。おらたちが安心して眠れるのも梟のおかげなんだよ」
梟が初めて家の中に入ってきたとき、父のレウカは驚いてしまって、まつ毛がひっつく寒さだというのに、素足で隣りのヘンケの処へ知らせに走った。
「金色に輝いたカムイが飛び込んできたぞ」
その晩の祭りは部落じゅうを呼んで盛大だった。声のいいサクサンの女房ウロナイを真ん中に置いて、みんなが「梟神の歌」を所作しながら歌った。
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銀のしずく降れ降れまわりに
金のしずく降れ降れまわりに
と、静かに歌いながら、わたしは梟の姿になって
人間の国の方へ下りて行った
すると、子供たちがわたしを見つけ、射落とそうとして
まず、金持ちの子供が金の弓矢でわたしを射かけたが
わたしはその矢を左右にかわした
こんどは着物はきたないが、目の澄んだ子供が
ただの弓矢で射かけてきた
わたしはその子が可哀そうになり
その矢をひょいと手に受けとめ、くるくる回って地上に下りてくると
貧乏な子はわたしを抱き
金持ちの子供たちが襲いかかってくるのをふりきって
わたしを自分の家の窓から中に入れた
銀のしずく降る降るまわりに
金のしずく降る降るまわりに
家の中は貧しいけれども、身なりのきちんとした老夫婦がわたしを丁重に迎え
東の窓の下の神座に置いた
わたしはその夜、みんなが寝静まるのを待って
「銀のしずくの歌」を歌い、家の中をぐるぐる回りながら、右に左に飛び回った
羽撃くたびに美しい宝物が、美しい音をたてて散り落ち
その辺りは宝物でいっぱいになった
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「めでたい祭りはその晩遅くまで続いて、とても賑やかだった」と言って、エシリは自分でもきれいな声でそれを歌った。
「コタンクルカムイは、誰にでも無差別に幸せをもたらすものではなく、貧しくとも心の清らかな者でなければ、恵みは与えないものなんだよ」
オコシップはこの言葉をいつも頭の中に思い浮かべている。「当然のことだ」と思った。彼はエシリの指示を受け、梟の入口を作るチキナンをいつまでも見上げていた。
「今年は雪につられて、梟も早く来るかもしれんわ」と、ウフツが言う。
「めんこい子梟を連れてな」ウフツとカロナが、梟のくりくり目を思わせるように話している。
「おっつけ荒雪がくるかもしれんわ」エシリが空を見上げた。太陽の周りにかかった暈《かさ》が厚みを増しながらしだいに膨らんでいた。暈が灰色の雲の中に隠れてしまうと間もなく雪がくる。エシリは二度目の雪がくる前に雪囲いがしたかった。
「うかうかしとられんど」屋根の穴を塞ぎ終えると、エシリはろくに休みもせずに、柱を立てる深い穴を掘り始めた。母屋を覆い包むように、その周りに頑丈な棒の柱を何本も立て、柱から柱へ太い横木をくくりつけ、そこにオニガヤを張りつけるのだ。しかし、長い冬の間にはそれでも柱が曲り、オニガヤが吹きむしられることがあったので、囲いはとりわけ丈夫に造らねばならなかった。
穴は三尺の深さだった。柱を穴の中に運び入れると、チキナンたちは土を少しずつ注ぎ、丸太ん棒でその周りをどすんどすんと突き堅める。
エシリは雪囲いをしながら、プウ(足高倉)の中に貯えたウバユリ粉やペカンペ粉に、もういちど太陽を当てて湿気をとったり、プケマ(倉の足)も古いのを一本取り替えたりしなければならないと、気が急《せ》いている。
土を撃つ丸太ん棒の音はいっそう強く腹に響いた。その音を聞きながら、オコシップは稗飯《ひえめし》をかっこみ、すぐ猟に出かけた。新雪に刻まれた獣たちの足跡が縦横に走っていた。冬を迎えて彼らの色艶はいちだんと底光る。オコシップはいい毛皮が欲しかった。
しかし、彼は山を歩いていても、ずるアイヌのヤエケや、咎めだてするハルアンのことが頭から離れなかった。獲物を追いかけて行っても、四発撃って二発しか命中しなかった。
「どうかしてるな」オコシップは兎一羽と山鳥一羽をぶら下げて、早々に山を下だった。冬の日は短かく峠にさしかかるころには、夕陽のほの赤い影が雪原にながながと尾を引いていた。
「帰俗アイヌが」と、オコシップはヌイタを押しつけようとしたヤエケに腹をたて、目の前に浮かんだその顔にがっと唾を吐いた。
お上《かみ》はアイヌ語の使用を禁じ、アイヌの習慣を禁じ、名前を和人名に変え、和人との接触を多くして、アイヌの血を薄めようとしている。それは、やがてアイヌを根絶しようと着々と進めてきた政策なんだ。和人の優勢を誇りアイヌの劣等をかきたてれば、それだけ同化も早まるだろう。それにまんまと乗ったのがヤエケ一派だ、と思った。突然、オコシップの前に狐が飛び出してきたが、彼は鉄砲を構えることさえしなかった。
「絶えてたまるか」と、オコシップは楢の根っ株をだんと蹴った。目梨《めなし》の戦いで皆殺しにしなかったことを後悔している和人だっているだろう。
「たとえ和人には邪魔者でも、おらたちだって生きる権利はあるんだ」
アイヌ同士が結婚して、不具者でも阿呆でも痴呆でもいい、産んで産んで産みまくって十勝の原野を埋めつくし、和人の足にまとわりついて、これが死にそこねたアイヌたちの本当の姿なんだ、と見せつけてやることだ。おらたちにしても、どんなに不幸な暮らしをしてでも、生まれてこないよりはその方がよほど幸福なんだ。
オコシップはこの考えを早く家に帰ってチキナンに言って聞かせたかった。
「凍《しば》れてきたな」と、エシリは首を縮めてオコシップを迎えた。囲炉裏の火焔がごうごうと音をたてて燃え盛っていた。
「たとえ飲んだくれのサケムでもええ、チキナンの婿は正当なアイヌでなけりゃあな」オコシップは炉縁に腰を下ろすなり、口を尖らせて言った。
「なんで、突然そんなことを言うべか」チキナンとエシリが驚いて顔を見合わせる。
「血を絶やすな」と、彼はうわ言のように言った。エシリとチキナンは興奮した彼の話を、ときどき深い吐息を洩らして聞き入っていた。
14
寒気で柱がビリンビリンと裂ける音がした。オコシップたちは厚司やキナ筵《むしろ》を頭からかぶって火を抱きかかえるように坐っている。顔や胸のあたりは焦げるくらい熱いのに、背中の方から寒気がギッと押さえつけるように締めつけてくる。夜が更けてくると、寒さはいっそう厳しく襲ってきた。
「冷凍《ルイベ》になってしまう」兎の骨《ガラ》をしゃぶっていたチキナンたちが寝藁の中にもぐり込んだ。壁と天井の間の萱先《かやさき》が白い粉を吹きかけたように凍りついていた。
「ほら」と、母のエシリが聞き耳を立てる。音はノンノンノンと、地鳴りのような響きをたてて下《しも》から上《かみ》に向かって走り抜けた。それは川の氷がひび割れる音なのだが、この音が幾日か続くと、十勝川に堅牢な氷の橋が出来上がる。
「もう、そろそろ渡れるころだな」と、オコシップは独り言のように言ったが、そのときひときわ高く、それはノンノンという遠くの音ではなく、ゴーンゴーンと鐘をつくような音が腹に響いてきた。彼は流れに沿って縦に通った太い亀裂を目に思い浮かべながら、この分なら明日にも大津に行けるかもしれないと思った。オコシップは氷の橋がかかりしだい、毛皮を持って街に雑穀を求めに行こうと考えていた。
物と物との交換は昔から馴れたものだが、このごろ、闇商人が内々に店を持つようになってからは、その値段がまちまちだったので、よほどうまく話を進めねばならなかった。しかし、今年の品質はとびきり上等で、その上サクサンの分も合わせると三十枚以上の毛皮となる。店の床に艶のいい熊、鹿、狼、狐を並べるなら、彼らはこの豪華な毛皮にきっと目を見張るだろう。オコシップは氷の裂ける響きを快く聞きながら気がはやっていた。
次の日は朝から晴れ上がり、肌に突きささる痛い風が吹きつけていた。
「さ、行くべえ」と、サクサンが気合いをかけるように言った。彼は橇の前に乗って、馬の尻に鞭《むち》を打ち下ろした。原野のずっと向こうに、日高山脈がノコギリの歯のようにうねっていた。三十枚の獣の皮と鹿の角を積んだ橇は、日高の山脈《やまなみ》に向かって順調に突き進んだ。吹雪いて盛り上がった雪の中も、野地坊主《やちぼうず》の凸凹の上も、馬はごりごり曵いて行く。
「すごい力だ」オコシップはこれまで見たことのない怪力に驚き、思わず「ホウ、ホウ」と歓声をあげる。橇は川も沼も萱原も踏み越えて一直線に突き進む。梶棒がなかったので、オコシップはときどき橇からひらりと跳び下りては橇の方向を変えたり、暴走しないように橇の後ろにぶら下がったりした。
「和人《シヤモ》だって、馬持ちはめったにないだろさ」それが選りすぐった上等な毛皮を積んだ橇を馬に曵かせて、堂々と大津へ乗り込むのだから、サクサンもオコシップもすっかりご機嫌だった。
大津が近づくと、サクサンは橇の上に立ち上がって、ほとんど間断なく鞭を振るった。大津川の氷の反り返った岸辺もその勢いに乗っていっきに駈け上がることができた。岸に上がると、そこから海岸の方にぎっしり家並が続いていた。
「賑やかなもんだ」と、サクサンは浮かれた声で言った。
大津はこの二、三年ですっかり変っていた。番屋、旅館所、物置倉、駅逓《えきてい》、厩《うまや》、そのほかに海産、毛皮、雑穀、酒屋を業とする大きな建物が建ち並んでいた。飲食店や居酒屋も賑わっていた。
道ゆく人々が、橇の馬力に圧倒され、両側に跳び退いて道を開ける。その中をサクサンたちはホウホウと大声に叫んで駈け抜ける。
「待った」と、オコシップが叫んだ。あまり馬力を出したものだから、橇はいつの間にか家並を突き抜けて海岸の方まで跳び出していた。
「表看板がないもんな」とサクサンは言いながら、いま来た道を引き返した。漁場、商業の権利は十勝組合が持っていて個人の商売は表向きは許されていなかったので看板はなかったが、そこは近江商人の腕のよさで半ば公然と手広く営まれていた。旅館所の隣りが海産物商で、その隣りが雑穀店だった。
「流れ星(馬)、おとなしく待つんだ、話はじきに終るだからな」サクサンは馬の首を軽くたたき、物干場の棒杭につなぎ止めた。頭の禿げ上がった主人が出てきて、「おめえたちは十勝太だな」と言った。
サクサンは「そうだ」と言い、「皮はどれも飛びきりだ」とつけ加えた。
店の中は倉庫のように広く、動物の臭いでむんむんする。オコシップは床の上に獣の毛皮を種類ごとに分けて丁寧に並べる。店の主人は曲尺《かねじやく》で皮の縦横を測り、枚数を数えて、それを手帳に書き記し、大玉の算盤をパチパチ上下に動かして値段をはじき出した。彼は何事か頷くように頭をふり、煙管を火鉢の縁に叩きつけながら、こちらの出方をうかがっている。
「冬越しの食糧だからな、値が合わなけりゃ茂岩《もいわ》まででも行くべえ」サクサンは髭面を突き出して言ったが、ここから五里もある茂岩まで本気で行く気はなかった。
「皮の仕上がりはどうだい」と、オコシップは念を押すように言った。
「そりゃあ、もう立派なもんで」主人は満足げに禿げ頭をぺこりと下げたが、米、味噌など交換物資の在庫を見てくると言って、裏手にある倉庫の方に出て行った。
サクサンたちは卓子《テーブル》や戸棚のある奥の部屋に通された。囲炉裏の炭火が赤々と燃えていた。田舎出らしい若い女中が、大きな徳利と秋味のルイベをお盆に乗せて持ってきた。
「旦那さんはすぐ来るから、先に飲んでけれ」と言って引き下がった。オコシップは急に暖かい部屋に入ったので、顔が火のようにほてった。
「馬を走らせて乗り込んできただからな」誰にも出来ないことだ、と同じことを何度も言ってサクサンは胸を張る。
二人はコクのある酒をチビチビやり始めた。ほろ苦い味が喉をつたって胃袋へ落ちてゆくのがはっきり分る。
「うめえなあ」と、サクサンはしみじみ言う。
「そうたやすく酔うもんか」オコシップは大きな目を見開き、用心深く部屋じゅうを見回す。
「もうすぐ旦那さんが見えるから」若い女中が同じことを言って、三度大徳利が運ばれた。酔いがサクサンの体じゅうを充たし、それがときどき頭のてっぺんから、甲高い声となって吹き上がった。
「倉庫に注文の品物がないとな、そんじゃあ松前さ注文すればよかべ」彼は大声で主人を詰《なじ》り、「来年は百枚の毛皮を持ってくる」と、叫びたてた。
オコシップは腹の底から湧き上がってくるほんのりした酔い心地を感じていた。サクサンの言う百枚の毛皮だって夢ではない、と思った。新しい時代になって、今まで体じゅうに重くのしかかっていたものから逃れることが出来そうな気がして嬉しかった。もうむりやり漁場に連れてゆかれることもないし、嫌なら和人たちのいうことを聞く必要もない。場所請負人たちと組んでふんぞり返っていたあの近江商人たちに、頭を下げさせるだけでも気が晴れる。
調子づいたサクサンたちは雑穀店を飛び出し、その勢いで飲食店に繰り出した。
短い冬の日はすでに西に傾き、日高山脈にさしかかろうとしていた。子供たちが後ろからついてきて、
トカプチアイヌ 大酒飲んで
一升、二升、三升
酒に飲まれて、のめくった
サクサンは、いったん入った店から出てきて、「うじ虫ども」と怒鳴って、子供たちを追っ払った。
飲食店には同じ十勝太のシンホイが来ていて、部屋の真ん中に掘った深い囲炉裏の縁に倒れていた。店のおかみさんの話では、昨日から飲み通しているという。サクサンたちが足音高く踏み込んだものだから、しぶしぶ上体を起こして、「おお、エガシ(親方)」と、懐しげに言っただけで、そのままふたたび炉縁にひっくり返ってしまった。
店にはご飯もの、麺類《めんるい》、酒、何でもある。桃割《ももわれ》を結《ゆ》ったハイカラなおかみさんは、調理場でランプのホヤ掃除をしたり、卓子を拭いたり、忙しく立ち働いている。サクサンたちはメフン(鮭の背筋に付いている血塊を塩蔵したもの)を肴《さかな》にして酒を飲んだ。土方風の男がのっそり入ってきて、酒を一杯飲んで帰ってゆくと、入れ替りに役人風の男が二人入ってきた。彼らは威勢よいこっちの方をじろじろ見ながら食事をして行ってしまった。
「うちの店は前払いなんだよ」と、おかみさんが言った。
「そうだろさ、アイヌは信用がおけねえもんな」サクサンは怒りを剥き出しに言った。おかみさんがもじもじしていると、
「いま来た客人は食べ終ってから銭《ぜに》ば払ったでねえか」
オコシップは重い口を腹だたしげに開いた。
「どっちが本当なんだい!」サクサンが卓子を拳骨で叩きつけたので、底の深い盃が二つながら一尺も跳び上がって倒れた。
「銭《ぜに》は雑穀店にあり余るだけ預けてあるんだ、嘘だと思うなら今すぐ行って聞いてこい」サクサンは、まくりあげた毛だらけの腕をぶるんと振り回し、足もとの床を力いっぱい踏みつけた。おかみさんは炉縁に蹴つまずき、逃げるように外へ跳び出して行った。
その後で、サクサンは銚子をラッパにして飲みながら、「これに限る」と言い、オコシップは「時代はとうに変ったんだい。おいらはもうしょぼくれアイヌではねえだからな」と言って、威勢よく盃を傾けた。
サクサンたちはすでに十分酒に漬かっていて、もう一分《いちぶ》の余地もなかったが、それでも彼らは貪欲《どんよく》に口の中に注ぎ込んだ。世の中がぐるぐる回り、物が二つにも三つにもなって見えていた。
そこへおかみさんが帰ってきて、「気が済むまで飲みな」と言った。
「当たりめえだ」と、サクサンは口をひん曲げ、太い涎《よだれ》を垂らして顎をしゃくり上げた。
日が落ちて、ランプが明るく辺りを照らしていた。どこからともなく現われた厚化粧の女たちが二人を取り巻き、太股を剥き出したり、胸をはだけたりして、カケスのようにきゃあきゃあ騒ぎ立てた。
「好きな女を選べるんだよ」と、おかみさんが言う。
「アイヌの肝《きも》をいちばん多く食べたやつはどいつだ。こんだおらの食べる番だからな」サクサンは眼の前の戸棚を押し倒し、真赤な舌を出して吠えるように叫んだ。家じゅうに殺気が漲《みなぎ》っていた。
「こっちだよ」と、おかみさんが言って先に立った。サクサンの吠えたてる声が脳天を打ち砕くように響き渡る。飲食店から狭い廊下でつながった、酸っぱい臭いのする奥のうす暗い部屋に届くまでに、女たちはひとり残らず姿をくらましていた。
寒気が襲ってきて、目を覚ましたのは真夜中だった。オコシップは重い頭を振り振り三升入りのヤカンの水をあらかた平らげて、ようやく元気を取り戻した。
薄雲のかかった月明かりで、粉雪がちらちら降っていた。雑穀店の主人ははじめ会っただけで、最後まで顔を見ることがなかった。サクサンたちは若い女中の指示通り、米一俵と味噌、醤油一樽ずつを橇に積んで大津を出た。雪はしだいに勢いを増し、馬も人もすっぽり雪をかぶった。
「選り抜いた毛皮三十枚が酒に化けやがった」赤く爛れた眼をこすりながらサクサンが言う。
「和人《シヤモ》ブタども」オコシップは米俵に腰をかけ、わずかばかりの交換品に腹を立てている。長い冬の貯えに十分なだけ持って帰るはずが、予算も当てもみんなはずれてしまったのだ。
橇は雪の原野をひた走る。馬は肩に結わいつけた太綱だけで曵いているので、橇はときどき横にそれたり、勢い余って流れ星の後足につっかけたりしたけれども、オコシップたちは大儀がって橇から下りなかった。沼を渡り、丈低い榛原《はんのきはら》を越えて馬はなお走り続ける。
「達者なもんだ」と、オコシップは流れ星の頑強なのに感心する。真昼から物干場の棒杭に繋がれたまま、飲まず食わずでも馬力は少しも衰えない。
「雪と寒さを切り抜けてきた野生馬だ」鰊漁場を切り揚げた後、山に放された馬たちは、そのほとんどが日本海側の深い雪の中に埋もれて死んだ。生き残った馬は、翌年ふたたび内地から乗り込んできたやん衆(漁師)たちに捕えられて使用されたが、そのうちの何頭かは高峯オプタテシケを越え、雪の少ない十勝、日高に逃れてきた。南部から蝦夷に渡って、もう五代目という古い馬もいるが、大雪の年には木の芽も食いつくし、しまいには互いの|たてがみ《ヽヽヽヽ》や尻尾の毛まで食い合って生きてきたというからすごい生命力だ。きびしい環境のせいで体がしだいに小柄となり、ポンコ(小さい馬)になってしまったのだ、とサクサンは説明する。
「家さ帰ったら、たらふく食べえ」サクサンはポンコの尻に力いっぱい鞭を打ち下ろした。橇は降りしきる粉雪の中を隼《はやぶさ》のように突っ走った。
15
この年、雪は例年になく早くきたが、そのまま降り積もって新しい年を迎えるころには、いつもの三倍にも達していた。
「百年に一度の大雪だ」と、エカシ(古老)たちが言った。野も山も雪の中に深々と埋もれ、あちこちで家が押し潰された。オコシップはこの一週間ほど潰れた家の手伝いに歩き回って忙しかったが、そのうちに自分の家が危うくなった。いくら雪を取り除いても、翌朝になってみると、もとの厚さに積もっていた。柱や横木がみりみりと音をたて弓なりになった。
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ウパスカムイ(雪の神様)
無茶に雪を降らせて、わたしどもをいじめないでおくれ
鹿たちを山奥から里に追い出してくれたり
兎の毛を美しい白に染めてくれることに
わたしどもはいつも感謝しているのだから
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母のエシリは心を籠めてお祈りをする。
翌日、オコシップたちは手橇を曵いてカタサルベツの手前にある|タモ《ヽヽ》山に出かけた。タモは素性がよく強靱なので家のつっかえ棒には最適なのだ。
山に入ると雪はいっそう深く、カンジキを履いても膝株まで埋まった。脚絆《ホシ》に塗ったトッカリ油が足をあげるたびにぎらぎら光る。オコシップたちはけもの道には目もくれず、タモ山に向かって真っすぐ進んだ。黄肌《シコロ》やニワトコや榛などの丈低い樹々を足の下に踏みつけて、のっしのっしと力を入れて歩く。
「あれえ」と、チキナンが先に見つけて指差した。その指先にはアオダモやヤチダモが密生し、空を突きさすように立っていた。
「タモは木の中でもいちばん背丈が高いんだよ」
アオダモは入墨の色つけに使われ、ヤチダモは器具器材を造ったり、火付きがいいので冬の薪にしたり、とても大事な樹だとエシリは娘たちに言い聞かせる。タモは真っすぐ伸び先の方で細い枝が花を開いたように広がっていた。
「見事なもんだ」エシリはいつまでも天上を見上げていたものだから、目を回して尻もちをついてしまった。娘のチキナンとウフツがエシリの手を一本ずつ持って、雪の中にめり込んだ尻を引き抜こうとして、反対にウフツが頭から雪の中に突きささった。三人が足につけた大きなカンジキをもてあまし笑いこけているうちに、樹を伐る鉞《まさかり》の音が聞こえてきた。カーンカーンと氷でも叩くような硬《かた》い音が山じゅうに響き渡る。
「樹が凍《しば》れてんだよ」と、エシリが言った。叩き切られた樹は、梢の方から少しずつ傾いて枝と枝とをぶっつけ合わせながら、雪煙を一丈も高く吹き上げて倒れた。一本倒れるたびに、チキナンたちは歓声を挙げた。バカな兎がその声に驚き、方向を違えてこっちの方に真っすぐ走ってくる。
「阿呆!」オコシップの投げつけた木片が頭上をかすめ、あわてて身をひるがえした兎は、空を飛ぶようにして、いま来た道を引き返した。山鳥がそれを見届けるように低空で飛んでくる。そのすぐ後からリスが来た。猟師たちに嫌われる縁起の悪いものを見てしまったと、エシリは思った。
リスは樹の枝から枝へ飛び移り、しきりに手をこすり合わせて跳ね回った。そのうちにどこからともなくもう一匹のリスが出てきて、華やかな舞踊が始まる。彼らは互いに飛び交い、幹を駆け下り駆け上がっては枝にぶら下がり、チチと小鳥のような声で歌いながら睦《むつ》み合った。
「風がこないうちに帰るべえ」と、エシリが鉞の音の途切れを待ってオコシップに呼びかけた。彼が返事のかわりに手を上げるのを見て、エシリはほっとした。
伐ったタモ材は五本だった。長さ五間もある見事な材である。これだけあれば母屋だけでなく、高倉の方のつっかえ棒が出来るかもしれない。
橇は思いのほか重かった。長い材は橇からはみ出し雪の中をずるずる曵きずるのだから、親子四人が一つに力を合わせなければ前に進まない。ちょうど半分ほど来たところで、手に余って一本下ろした。そのころから吹雪がひどくなって、ときどき立ち止まっては吹きつけてくる雪の塊をやり過ごした。家の近くまで来て二本目を下ろした。
「さ、もうひと息だ」と、オコシップは気合いを入れる。ぐんとしゃくり上げるようにして太い綱を曵く。そのたびに橇はタモ材の尻尾に押さえつけられて宙に浮き上がった。
原野は白い闇に包まれて何ひとつ見えず、ただ風の音だけがごうごうと鳴り響いていた。橇は一寸先も見えない峠を静かに下だってゆく。それは白い地獄の底に落ちてゆくような気持ちだった。家の前まで来たとき、
「屋根が落ちた」と、エシリは狂ったように叫んだ。
屋根はよじれ、その半分が欠け落ちていた。家には目の悪い末娘のカロナが留守番をしていたので、エシリたちは泣き喚きながらカロナの名前を呼び続け、落ちた屋根の骨や雪を両手でかきむしるように取り除いた。
「棟を持ち上げるんだ」と、オコシップが叫ぶ。大きな雪の塊を除けると、棟の下からぐったりと血の気の失せたカロナが現われた。その体は氷のように冷たく、かすかに虫の息が残っていた。エシリはカロナを落ち残った屋根の下に運び入れると、厚司の前をはだけ、真っ裸にしたカロナの肌を自分の肌にくっつけ合わせ、ぎっしり抱きしめて横になった。
「寝藁を頭から山ほどかけてけれ」エシリは藁の中から首を伸ばして叫んだ。そのまま二人は夕方まで起き上がらなかった。
「どしたべか」と、チキナンたちは屋根を繕いながら、かわるがわる傍に寄っては様子を窺う。積み上げられた寝藁の山が揺れ動くたびにホッとした。
吹雪は夕方になってもおさまらなかった。一時しのぎに|きな筵《ヽヽヽ》や高価な熊の皮を縫い合わせて屋根に張った。風の塊がぶつかってくるたびに、皮は吠えたてるようにがばがばと音を立てた。
「気違い風、気がすむまでなんぼでも吹くがいい」オコシップは頑丈な熊の皮に満足である。凍れが体をしめつけてくると、チキナンたちはあとからあとから薪を囲炉裏の中へ投げ入れた。
「危《あぶ》なかった」と、エシリが藁をかき分けて起き上がった。クンネがかばってくれなかったら、もういっとき遅れていたら、とエシリは眼に涙を浮かべる。カロナは思いのほか元気で、エシリのすぐ後から起きてきて、
「天井が眼の前ではじけたまま分らなくなった」と言った。
「怪我のなかったことも、雪が火を消してくれたことも、みんなカムイのおかげなんだよ」
隙間風に煽られて、灯火《ラツチヤク》の焔がゆらゆら揺れ動く。その下でエシリたちはウバユリダンゴを食べ、鹿の骨をしゃぶった。その間じゅうエシリは「よかった、よかった」と言い続ける。
「山を発つとき、リスは三匹だった」と、オコシップは独り言のように言った。伜もリスを見ていたのだと思うと、エシリは腹の底からうれしかった。外はすでに夕闇に包まれ、原野を吹き抜ける風はいっそう激しく荒れ狂っていた。
16
吹雪は何日も続いた。頭から雪だらけになって、西隣のシュクシュンの女房サロチが転がり込んできた。ボロボロの厚司を着て、手套もはめず脚絆《ホシ》も履かずに、土間に立ったまま口も利けなかった。
「こっちさ来て(火に)あたれ」とエシリは言うのだが、耳にも入らないようだ。いっときして、「おらたちは、もう三日も食べていないだ」と体をがたがた震わせて言った。チキナンが手を曵いて炉縁に坐らせたが、サロチはかなり興奮しているらしく、ときどき「鹿だ、鹿だ」と、うわ言のような声で叫んだ。眼が引きつって険しい顔だった。
エシリは台所から食べ物を持ってきて、「うんと食べえ」と言った。彼女は犬歯を剥き出してトパ(鮭の干肉)を引きちぎり、喉をごろごろさせてウバユリダンゴを呑みこんだ。しばらくして腹が満たされると、彼女は肩で太い溜息をついて、「有難いこった」と言った。おとなしい、いつものサロチに戻っていた。
和人が入り込んできて、漁場や猟区を荒らされると、アイヌの間にも貯《たくわ》えをしようとする者が出てきたが、もともと彼らには貯蔵の考えは毛頭ない。いつも食べるだけ獲ってくればそれでよかったのだ。この長い冬の間、不足がちの植物でも、わずかばかりのキトビロ(ギョウジャニンニク)やワラビやコンブやギンナンソウの干物があれば十分だった。
「今年は大雪がくっど」晩秋のころ、ハルアンが部落の端から端まで歌って歩いた。人々は、この三年か五年ごとにやってくる大雪にも、さして驚く様子は見せなかった。雪が高く降り積もっても、山には鹿や狐がいたし、氷の下にはコマイやキュウリがいたので、骨さえ惜しまねば飢えから逃れることは出来るからだ。
しかし、今年の雪は違っていた。幾日も降り続いた後は、すぐに吹雪となってそれがいつまでも続き、吹き止むとこんどはまた雪の日が続く。激しい雪と吹雪が交互に繰り返されて、生き物たちは顔を出すこともできないのだ。
「どうしたことだ」と、コタンでいちばん年長のカリヤエカシが肩を落とす。彼は九十歳の老人で、もう十年も前から床づいている。カリヤエカシは、三十年前、五十年前の大雪を思い出し、ケリ(鮭皮や獣皮でつくった靴)や皮の着物を細かく切り裂いて煮て食べた話をする。あの頃は、「ひとりの死者も出してならん」と首長が先頭に立ち、部落こぞって難にあたったものだが、このごろは首長の力もなくなってばらばらな世の中だからきっと餓死者が出るだろう、と言って嘆いた。
「カリヤエカシの言う通りだ」と、エシリは怒りをこめて言った。首長オニシャインがコタンを回って歩くのは、アイヌぶり(習慣)の禁止や苗字を和人名に変えるときばかりだ。それも和人の後にくっついてきて、和人の都合のいいように押しつけて帰ってゆく。
「サロチ、よく聞け。首長はもうあてにならねえだからな、こうなったらおらたちは、おらたちでやってゆくよりしょうがないだよ」エシリはサロチの肩を抱きかかえて言い含める。
「空が晴れるように、風が凪ぐように、もいっぺんお祈りするべな」サロチは鹿の干し肉や干しワラビの束を胸に抱きかかえ、吹雪の中へ飛び出して行った。
オコシップたちは吹雪の合い間をみては、薪取りに出かけた。丈の低い野地榛《やちはんのき》やサビタや小ナラは雪の下に埋もれていたので、川添いに茂った大きな柳を伐り倒した。川上からも川下からも鉞《まさかり》の音が聞こえてくる。カイヨやシュクシュンに違いない。
オコシップが炉にくべる長さに叩き伐ったのを、チキナンたちが手橇に積んで運ぶ。三度目を運び終ったとき、吹雪といっしょにハルアンがやってきた。
「柳は川の兄弟分なんだからな」ハルアンはカンジキを履き、長い杖をついている。
「それがどうした」と、オコシップは顎を突き出す。
「川岸を丸坊主にされては魚も住みつけないわい」年中、川を相手にその恵みを受けて暮らしているハルアンは、沈んだ表情で鮭が自ら歌った歌を口ずさんだ。
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四年の長旅から帰ってきたわたしたちは
オコッペ峠の沖合いで
懐しいトカプチ川の匂いをかぎつけた
「これだな」といって、わたしたちは
なんども匂いをたしかめる
窓岩《まどいわ》や昆布刈石の岬をかわし
急流の河口をいっきにさかのぼって
ゆったりした流れにたどりつく
わたしたちは見覚えのある柳の木の下で
長旅の疲れをいやすのだ
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ハルアンは歌い終るとゆっくり歩き出した。しばらく歩いてから振り返って、「ワッカウシカムイ(流れの神)に呪われえ」と叫んだ。
「へたすと凍《こご》え死んでしまうだど、秋味もくそもあるもんか」オコシップはやり返したが、ハルアンはよくもこう口出しをするもんだと思うと、腹わたが煮えくり返る。首長のやり口を非難したときも、アマッポを仕掛けたときも、ことごとにカムイを持ち出してきては、大事をうやむやにすまそうとする。そこを和人たちに狙われつけこまれて、アイヌたちはじりじり押しこまれ後退《あとずさ》って萎《しぼ》んでゆく。
「だが、時代は変ったんだ。川岸の柳を根こそぎぶった切ってでも、和人《やつら》と互角にやってゆくことの方が先なんだ。切った後には必ず若い柳が生えてくる」オコシップは太い柳の幹に力いっぱい鉞を打ち下ろした。
吹雪がひどくなっても、彼は家へも帰らずに夕方まで鉞をふるった。
二、三日前からサクサンの女房ウロナイとその娘モンスパが遊びにきていた。ウロナイは山に籠っていたころの地獄のような話をし、エシリは夫レウカがクナシリへ連れてゆかれた後の、むごい和人たちの仕打ちを話して涙を流した。しかし、三日続けて話してもまだ足りずに繰り返された。
「こんな吹雪とはわけが違う。山じゅうがどどどんと地響きをたて、雪崩《なだれ》がきて岩穴が埋まってしまう」とウロナイが言うと、モンスパとチキナンがその後の言葉を引き取って、
「真っ暗闇の中で、氷のような堅い雪を、棒片や岩石の塊で壊したりひっかいたり。そのうち棒も石も砕けてしまい、しかたなく素手でひっかくものだから、一週間目にやっと外に這い出たときには、爪が一つも残っていなかった」と言った。
ウロナイは子供たちの言い分に頷きながら、「ほら」といって指を差し出す。指先の爪が巻き貝のように、細長く盛り上がっていた。
「生きて会えるとは思わなかったにな」エシリは奇妙な形の爪を撫でたり握ったりしながら、感情を込めて、何度も言った。
「山中という和人《シヤモ》の苗字をもらってな、どこでも大手を振って歩けるだもの」うれしいことだ、と言った。偉い役人がきて、おめえらはしばらく山の中に入っていたから、山中がよかろうといって決めたと言う。
「去年の秋のことだった」と、山中ウロナイは誇らしげに語り始めた。
勇洞《ゆうどう》沼へジュンサイ採りに出かけた帰りのことだ。娘のモンスパといっしょに大津の町を歩いていると、後ろから「山中さん」と、突然呼ばれて振り返った。和服を着たかっぷくのいい男は宿泊所の旦那だった。
「ええ娘っこだ。器量はいいし、体もがっちりしてる」旦那はモンスパをすっかり気に入って、「賃金は望み通りに出す。決して悪いようにはしないから、ここで働いてけれ」と、せがんで離れない。
「昔だったら、お上《かみ》の命令だ、と言ってさらってゆけたにな」とウロナイは言ってやった。
それでも旦那は女中ほしさに、にこにこ愛想をふりまいていた。ウロナイはここが仕返しと、
「身の回りの支度はそっち持ちでな、一日白米二升なら考えてみるべえ」と吹っかけた。白米一升は八銭につく。ざっと計算してもボロい銭《ぜに》だ。
「どうなったと思う?」山中ウロナイは、みんなの顔をひとわたり眺めた。
「なあに、その場で手を拍《う》ったのよ」彼女は、「長い間いじめられた仇討ちだもの」と言って、ひっくり返って笑った。エシリもチキナンもつられて笑ったが、モンスパは悲しみをこらえるように後ろを振り向いていた。
モンスパが宿泊所で働き出してから、山中ウロナイは白米が蓄《たま》ったころを見計らっては受け取りに出かけ、有難いことだもったいないことだと言っては、背中の皮がむけるくらい背負ってくることもあった。
だが、或る日モンスパがひょっこり帰ってきて、「もう、あんなとこさゆかねえ」と言った。いくら糾しても口を開かなかった。
「どうせ、ろくなことはなかったんだよ」母のエシリは話を聞きながら力なく言った。
「ふっかけた分だけ傷ついた」と、誇らしげだった山中ウロナイの話はしだいに萎《しぼ》んでいって、か細い声になっていた。
「おら、男のことなんか、なんも知らねえ」モンスパは咽《むせ》び声になっていた。
「宿泊所へ怒鳴り込んでいったら、旦那はモンスパが承知の上の遊びだと言って、どこまでもじょっぱるんだよ」話はここで途切れた。
オコシップは炉縁の隅で濁酒を飲んでいて、ウロナイたちの話を聞きながら、和人の種を宿したら殺してやる、と思っていた。それはモンスパに限らず、妹チキナンやウフツに対してもそう思っていた。獣禽《じゆうきん》のように蔑まれ殺されていった父や祖父たちの悲しい思いは、誰もが知っている。それを知って和人と睦むことはオコシップには許し難いことだった。
夜が更けて、めいめいが寝藁の中に潜り込んだ。外は吹雪がいっそう激しく、狂った風が草屋を突き上げるように叩きつけていた。オコシップはみんなが寝静まるのを待って起き上がった。彼はモンスパの寝息を聞き分け、そっとその口を塞いで抱きあげると、そのまま部屋の隅の自分の寝藁の中に運びこんだ。
「相手は旦那か?」と、オコシップは静かに言った。
「いや」
「そしたら誰だ」
「暗闇だったから、おら、ふんとに分らねえ」
モンスパは体をこわばらせて、がたがた震えている。下の方から熱気といっしょに磯の香りがむっと突き上げてきた。
「おれの子を産め」寝藁が勢いよく跳ね上がった。「痛《いた》」と、モンスパは喉の奥から絞るような声をあげ、背を反らして逃れようとしたが、オコシップは両肩をがっと押さえつけて離さなかった。
17
日が延《の》びる月(三月)に入ると、吹き疲れたように吹雪はしだいに遠退いていった。日中、雪囲いの中に陽溜りが出来て、雪が飴色に変った。朝になると、ざらめ雪が堅い宝石のように凍って雪渡りができる。オコシップは朝早く手橇を曵き、雪を渡って静内《しずない》の中嶺《なかつね》に向かう。山をいくつも越え、谷をいくつも渡って中嶺にさしかかるころ、ようやく太陽が昇り始める。樹の枝にできた氷の玉がキラキラ輝いて呟しかった。
中嶺は高い山陰にあって北風を防ぐから、毎年冬になると鹿がたくさん集まってくる。|つね《ヽヽ》(稜線)から|つね《ヽヽ》へ十頭、二十頭と群をつくって駈け回るが、今年は大雪のために埋まってしまった。鹿たちは雪の中をモグラのように潜り歩いて笹の葉を食べていたが、雪が堅くなると、うまく掘り出すことができず、足から血を流して立往生した。鹿たちは最後の力を振り絞り、木の枝を食べ、幹の皮を食べつくしてばたばたと斃《たお》れていった。
オコシップは転々ところがる屍を、ひとつひとつ確かめるように見届けながら、堅雪の上をすたすた歩く。体の大きな親鹿が狼や狐に皮を引き裂かれ食い荒されて、臓物がそこらじゅうに散らばっている。頭の欠けたものや雪に半ば埋もれたものもあった。彼はどこまで歩いても、新しい鹿の足跡を見つけることが出来なかった。
太陽が楢林の上を走っていた。オコシップはいつの間にか中嶺を越え、浦幌山の沢に踏み込んでいた。湧き水の細い流れを跳び越えると深い藪が続く。ひと足|踏《ふ》むたびに、ざらめ雪が音をたてて崩れ落ちる。突然、すぐ眼の前から烏の群が飛び上がって、オコシップは思わずのけぞった。藪におおわれた空洞の中に、鹿の親子が抱き合うように折り重なって死んでいた。新しい骸《むくろ》だった。上の親鹿の方は腹を食い破られていたが、子鹿の方は無傷だった。オコシップはその子鹿を手橇にくくりつけて山を下りた。
「これじゃあ鹿撃ちでなく鹿拾いだな」と、サクサンは笑う。しかし、そのサクサンだって、留真《るしん》や本別《ほんべつ》の遠い山まで歩き回っても、ついに一頭の生きた鹿にも巡り合うことが出来なかった。
長老カリヤエカシは床の中で、
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ユクランヌプリ(鹿の天降る山)から下りてきた若鹿たち
キラキラ光る新しい角を振り振り
人里の方へ雪崩《なだれ》のように下りてくる
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と、口ずさんで元気づけたが、その被害は十勝、日高の全域にわたり、部落の人たちは、「鹿が雪崩《なだれ》のように下りてくるどころか、その下敷きになって全滅だあ」と言って、大雪の恐ろしさを語り合った。
むごい飢餓は春になって訪れた。老人や病人は凍《しば》れが解けるように崩折れていった。いちばん先にシュクシュンの家の子供が亡くなり、それから元役アイヌ、ヤエケの家のコマとテンネが逝《ゆ》き、ほとんど間をおかずに、カリヤエカシとその妻イサヨフチが死んでいった。死んだ者たちは鹿たちと同じように眼は窪み、頬はこけ落ちて骨ばかりの貌《すがた》だった。
「このままでは、まだまだ餓死者が出るど」
オコシップは元気のいい若者たちを集め、海岸に出て寄りコンブを拾い、小川の縁から蕗《ふき》やワラビやキトビロ(ギョウジャニンニク)の白い茎を掘り出して、部落じゅうに配って歩いた。
日当たりのいい山の斜面には黒い土が顔をのぞかせ、柳の芽が膨らんで、大地の息吹きはそこらじゅうに漲っている。
「もうひと息だ」若者たちは十勝川の氷を割って魚を獲り、河口の氷上に遊ぶトッカリ(アザラシ)の群を襲った。しかし、長い冬の疲れにくたびれ果てたコタンの人たちは、一日一日の生活がやっとで、なかなか生気を取り戻すことは出来なかった。
「毛皮の前借りでな、米三俵を貸してけれ」オコシップは、西田徳太郎の家の前に立って呼びかけた。これは、部落民みんなが責任を負うのだから心配はない、とつけ加えた。西田徳太郎は冬の眠りから醒《さ》めたような寝ぼけ顔を、窓からのっそり出して言った。
「おめえには鉄砲の貸し分だってあるし、まだケリがついていねえだからな」
彼は郷里の岩手にしじゅう帰って所在の定まらぬ男なのに、「この界隈《かいわい》全部がおらの土地だ」と
嘘《うそぶ》いたのが、オコシップの頭から離れない。アイヌの若者を手先に使い、鮭や毛皮をアイヌから安く買いあげてボロい儲けをしようという、あの賢《さか》しい目付きが気に入らぬ。
「それとこれとは話が別だ」と、オコシップは淡雪の上に両足を開いて叫んだ。
「うまいことを抜かしてな、当てになるもんか」西田徳太郎は窓をぴしゃりと閉《し》めきった。
しかし、オコシップは少しも怯《ひる》まず、入り口の戸をいっぱいに開け、大股で中へ入り込んだ。手橇を曵いてきた若者たちが戸口に立って中を覗いている。
「子供たちが死にかかってんだ」オコシップはケリ(履物)のままつかつかと進み出て、西田徳太郎の傍に詰め寄った。
「どうする気だ」と、彼はのけぞってオコシップを見上げる。炉縁の向こう側では、雇《やと》われているイホレアンたち二人のアイヌの若者が首を縮めて蹲っている。
「米を出すんだ」汗の光る禿げあがった額を見下ろして、オコシップは力をこめて二度も繰り返したが、三度目には襟首をわし掴みにして、ぐいっと持ち上げた。しぶとい西田徳太郎は胡坐《あぐら》をかいたまま宙に浮いた。顔と顔とがわずかひと握りのところで睨み合う。刺子《さしこ》の襟が喉に食いこみ息苦しくなると、彼は眼を大きく見開き涎《よだれ》といっしょに、「上等な鹿皮三十枚だど」と吐き出すように言った。
海の方からなま暖かい風が吹いてきて、部落はようやく生き返った。十勝川の氷のあちこちに擦《す》り切れたように穴があき、そこに真鴨や鴛鴦《おしどり》が飛来した。オコシップの鉄砲から轟音が快く鳴り響いて、真鴨は中空から輪を描いて落ちてくる。クンネが氷の上から丸々と肥えた鴨をくわえて戻ってくる。朝飯前に三羽も撃ち落とすこともあった。
「利別《としべつ》川の氷が開《あ》いたぞ」ヘンケがそう言って通って行ったが、それから一週間もしないうちに朝起きてみると、十勝川の氷はあとかたもなく取り払われ、濁った雪解水《ゆきどけみず》がごうごうと音をたてて流れていた。
「長い冬だったな」オコシップたちはハンブ(川岸)に立って、盛り上がってくる濁流をいつまでも眺めていた。
コタンの人たちは雪解水を「雪しろ水」と呼んでいる。この水の中には海の動物たちのきらいな毒素が入っていて、飲むと体がしびれて斃れてしまう。だから、この時期になると足の遅い真蛸や毛蟹やホッキ貝が波打際いっぱいに打ち寄せられる。
「今年の雪しろ水は水平線まで届いてるぞ」丘の上から見ると、雪しろ水は太い線となってどこまでも続いていた。部落の人たちは海岸にどっと押しかけて、獲物の寄り上がってくるのを待ち構える。背丈ほどもある大|蛸《だこ》を拾いあげたヘンケエカシの女房トレペが「おや」と、顔をしかめた。
「生きがいいにな、何の臭いだ」子供のキサロが鼻をくんくん鳴らす。部落の人たちが集まってきて悪臭の詮索《せんさく》をする。原因は誰にも分らなかった。蛸《たこ》も蟹《かに》も貝も、みんな臭くて食べられそうになく、部落の人たちは心を残して引き揚げた。
夕方、「肉の腐った臭いだな」と、エシリが川水を飲んで言った。
翌日になると、臭いはいっそうひどくなり部落じゅうが臭《にお》ってみんな鼻をつまんで歩いた。
原因は鹿の斃死《へいし》だった。腐った鹿肉の液汁が雪解水に混じり、それが山の斜面を下だって沢へ落ち、沢から小川へ、小川から大川へと流れ下だってきたのだ。
臭いはそれから一カ月も続いた。
「日高、十勝、釧路を合わせて、七万頭は死んだと言うぞ」
大津から帰ってきたヤエケが、役人から聞いたと言った。
鹿の潰滅《かいめつ》はアイヌたちに大きな打撃をあたえた。主食を失った部落の人たちは心の底から気が抜けていた。鹿皮の値が三倍になり、やがて五倍になったが、一頭の鹿も見当たらなかった。オコシップはしかたなく、去年の枯葉をかき分けて鹿の角を拾って歩いた。「まるで薪拾いだ」と言って、彼は苦笑した。
雨が二、三日続いて日蔭の雪も隈《くま》なく消え失せ、ウツナイ原野は黒く錆びついたようにどこまでも広がっていた。カケスや桜鳥の群ががやがや騒ぎたてながら飛び回り、子供たちが、それを追いかけて遊んだ。草の芽が萌え出るまでには、まだ少し間があった。
かすかな風が南から吹いていた。原野を焼く白い煙が勇洞《ゆうどう》沼の辺りから遠い茂岩《もいわ》の方に向かって流れてゆく。火はときどき幅広く燃え上がり、煙を高く吹き上げた。オコシップは猟の帰り、峠の上から眺めていた。内地から来た毛皮商人がアイヌたちを雇って原野を燃やし、その焼け跡から出てくる鹿の角を集めているのだ。
原野はどこまでも広く、オニガヤが厚く敷きつめられたように覆っており、その上、乾いた野地坊主《やちぼうず》が連なっているので、火は燃えつきたようでもその跡からふたたび勢いを盛り返して燃え上がった。野地坊主がまだくすぶり続けているうちに、こんどは近くのウツナイ川の西側に火を放つ。乾いたオニガヤは赤い焔を吹き上げ、地面を這うように燃え広がってゆく。
ズドンと鉄砲の音がする。音は木霊《こだま》のようにあちこちで起こった。逃げまどう獣たちを仕留めているのだ。遠くつらなる丈低い榛《はんのき》林や柳林を焼きつくし、火は夜になっても燃え続けた。
「この勢いなら十勝川を飛び越えるかもしれん」と、エシリは窓から覗いて言った。野火は大津と下頃部《したころべ》ふた手に分れ、生き物のようにのたうっていた。夜はしだいに更《ふ》けていったが、空気はなま暖かく、四月の冷気を少しも感じさせない。オニガヤの焼ける煙の臭いが家の中まで入りこんで、胸苦しかった。
「野火は手負い熊のように荒れくるってるど」と言って、オコシップはテツナの傍に腰を下ろした。このごろ、しじゅう訪れるテツナとモンスパはこの日も遊びにきていて、オコシップたちは濁酒を飲んでほろ酔いだった。
「火をかけるのは和人《シヤモ》のやり口よな」と、テツナが言う。
「根こそぎ獲るのも和人《シヤモ》ぶりなんだ」二人は野山を焼き払う和人をなじり、その手先となって働くアイヌたちの不甲斐なさに腹をたてた。しばらくして、オコシップはふたたび立ち上がって、もういちど窓から遠い野火を眺めた。火は遠く去り、原野はひっそりと沈んでいた。夜半を過ぎて、二人はかなり酔いが回って寝床に入った。
東の空が白むころ、風は西に変っていた。オニガヤの火はその風に乗って方向を変え、ぐるりとひと回りし、ウツナイ川の東側にもどって燃え広がっていった。それは、昨日の夕方、燃え始めたころより、もっと早く燃え移り、いっそう高く焔を巻き上げている。赤い焔は黒く錆びついたオニガヤをなめ回すように呑みこんで、前へ前へ突き進んだ。
火は三日月沼の岸辺に迫っていた。いま、朝を告げる春先の突風がひと吹きすれば、焔の先がサクサンの草屋に届くところまで来ている。オニガヤのはぜかえる音と火勢の唸りがどれほど大きかったか。しかし、サクサンの草屋はじっと居坐って動かず、入口の戸を開ける気配もなかった。サクサンもウロナイも次男のトラリヤも末娘のエンカリも、ぐっすり寝こんでいるのだった。
風といっしょに火の粉が屋根の上に雨のように降りそそいだ。次の瞬間、焔の先が蛇のようにのびてきて、屋根はめらめらと赤い焔を吹き上げた。草屋はまたたく間に太い一本の火柱となり、燃えさかる屋根は青い焔をあげながら音をたてて崩れ落ちた。
家を呑みこんだ火はなおも渦巻きながら、海岸の方に向かって燃え続けていた。オコシップたちが駈けつけたとき、ちょうど海の方から太陽が顔を出したところだった。
「ウロナイ、どして死んだべ」と、エシリは狂ったように叫びながら、焼け跡の周りをぐるぐる回って歩いた。燃え残りの木部がまだときどき火を吹いており、灰が熱くてすぐには傍へ寄りつけなかった。
焼死体らしい黒い塊が焼け跡の中ほどに折り重なっていた。オコシップとテツナは三日月沼に飛びこんで体を濡らし、丸木舟の櫂《かい》で黒い塊をほっくり返しては、ひとりひとりの遺体を土の上に運び出した。顔も体も真っ黒く焦げて、土を捏《こ》ねて造った人形のようである。エシリとモンスパはその遺体にとりすがって泣き喚き、いつまでも離れなかった。コタンの人たちが後から後からつめかけてきて、女たちは声をあげて泣いた。
「深山《やま》からやっと無事に帰れたというにな」と、カイヨエカシが溜息をつく。
「しまいには、結局|和人《シヤモ》に殺されたようなもんだ」ヘンケエカシは黒く焼けただれた野面《のづら》を恨むように眺めた。ずっと向こうの海岸沿いに、サクサンたちが山から連れてきた流れ星がポツンと立っていた。
18
太陽は海を遠く離れたが、女たちは、体をゆすり土を掻きむしっていっそう激しく泣き悲しんだ。それはアイヌたちの「号泣の礼」をはみ出すほど激しい泣きようだった。
風が立って、原野の向こうから霧のような白い煙を運んでくる。野地坊主《やちぼうず》はいつまでもくすぶっていて、雨が降って自然に消えるまで、それは一週間でも二週間でも続くだろう。その白い煙の中を、遺体はコタンの人々の手によってエシリの家に運ばれた。
遺体が家の前のアオダモの根元に安置されると、「ホイホイ(悪魔払い)をせえ」と、ヘンケエカシが張りつめた声で言った。不慮の死には悪魔払いが掟《おきて》なのだ。男たちは剣を振りかざし、善神の助けを乞うて、「フォーフム、フォーフム」と叫びながら右から左へ、左から右へとぐるぐる回り歩く。
ホイホイがはじまって間もなくだった。突然あらわれた元首長オニシャインが踊りの輪の中に割り込んできて、「アイヌぶりは相ならん」と、声を震わせて叫び立てた。
人々は息を呑んで立ち止まった。踊りの輪は止まったまま、しばらくの間動かなかった。
「お父《とう》のときもそうだった」オコシップはオニシャインの前に立ちはだかり、「アイヌぶりがなんで悪い。お父《とう》もお祖父《じい》も、みんなおいらの流儀でやって、立派にシンリツモシリ(先祖の国)へ召されて行ったぞ」
「時代と共に暮らし方も変るんだ。稗《ひえ》と米を比べても、弓と鉄砲を撃ち比べても、それは誰にだって分るこった」熊の皮を着たオニシャインは天を仰ぎ、なま暖かい春の大気を胸いっぱいに吸い込んだ。
ホイホイの輪が崩れ、オニシャインの弟ヤエケがいちばん先に輪から離れた。オニシャインの住む旅来《たびこらい》から来たサロッテたち二、三人の同胞は、どっちにも決めかねてその辺をうろついている。
「コタンコロクル(首長)は時代と共に消えうせたぞ。どっちにするかは、めいめいが決めることだ」オコシップは原野に響く声で怒鳴り返し、剣をさっと右に振ったので、その先が危うくオニシャインの眉間をかすめ、彼は大きくのけぞったまま、どすんと尻もちをついた。剣が唸りをたてて頭上に舞い、そのたびにオニシャインは身を縮めて地面にへばりついた。
踊りの輪はふたたび動き出した。ホイホイの叫び声はしだいに高まり、どんより曇った春の空に響き渡る。男たちの剣の振りと女たちの叫び声が重なり合って、ホイホイがようやく高まってきたときだった。母エシリの後についていたサクサンの娘モンスパの足が急にもつれ、踊りの輪からはみ出して崩れるように倒れた。
「死霊が乗り移ったんだ」と、ヘンケエカシが叫んだ。家の中へ運ばれてゆくモンスパは頭をもたげ、「オニシャインを討て」と、うわ言のように何度も口ずさんだ。「仇ばとってやる」母のエシリが運ばれてゆくモンスパの頭を撫で回した。
夕方、サクサンたちの死を知った親戚や知人たちが白糠《しらぬか》や広尾《ひろお》から汗を流してかけつけてきた。
「何としたことだ」広尾のカネ叔母が黒く焦げただれた遺体をゆさぶるようにして泣き崩れた。
「いっそ、深山《やま》から帰ってこなけりゃよかったによ」エシリはこんな恨みごとを言って、泣き腫《は》らした瞼《まぶた》から新たな涙を流した。
手伝いの男たちがスコップを担いで墓掘りに出かけて行った。後に残った者たちはヘンケエカシに習って墓標《イルラカムイ》や遺体を包むキナ筵、死者に持たせる副葬品を造り、女たちは供物のダンゴを作ったり、客人たちに濁酒を注いだりして忙しく立ち働いた。
弔いは翌日の夕方おこなわれた。風の強い日だった。食べ物も飲み物も少なく、簡素な式となったが誰ひとり口に出す者はいなかった。エシリの望みで、サクサンたちの墓は兄レウカのすぐ傍につくられた。長男テツナは、
「お父《とう》たちは不慮の災難で命を落としたが、コタンの人々の親切によって悪魔を追い払ったので、心安らかにシンリツモシリへ行くことが出来ます。どうか後ろを振り向かず、安心して天に向かって下さい」と、父母たちに言い聞かせた。
「あくまで和人《シヤモ》に抵抗し、アイヌモシリ(アイヌの土地)を守り抜こうとしたサクサンのまっとうな心は、きっと武将コシャマイン、シャクシャイン、マメキリの心に響き、みんな喜んで手厚く迎えてくれるに違いない」ヘンケエカシは厳かに勇者サクサンを讃えた。
深い悲しみのため、その娘モンスパは野辺送りの途中でも、墓穴に着いた埋葬のときも、気を失って倒れたが、そのたびに彼女は呻《うめ》くような声で、オニシャインを罵しる言葉を吐き出した。「泣ぐな」と、エシリはモンスパを抱きかかえてやさしく慰《なぐさ》めた。
原野を吹き抜けてきた風の塊が、ごうっと唸りを立て、槍のように尖った樹々の梢《こずえ》を叩きつけてくると、人々は首をすくめ背を丸めてやりすごした。
「呪《のろ》われた者たち」と、オコシップは墓穴の遺体に少しずつ土をかけながら呟やく。体じゅう深い槍穴をあけられた父レウカと、黒く焼けただれた叔父サクサン。並んで葬られる兄と弟があまりにも不憫だった。
高く盛られた土饅頭の上に四本の墓標《イルラカムイ》が立てられると、冠《サパンペ》をつけたヘンケエカシはその墓標に向かって神に祈った。
「和人《シヤモ》たちの放った火は、野を焼き家を焼いて親子四人の命を奪ってしまった。サクサン一家は公事《クンチ》をこばんで深山《やま》にこもり、野に住み、最後までアイヌの魂を大事にした立派な者たちだ。どうか、天に導く多くの神々にも、そのことを話し伝え、迷うことなく先祖の神コシャマインたちのもとへ無事にお送りくだされ」
オコシップは聞きながら、追いつめられ、傷つき、斃《たお》れてゆく多くの同胞を思い浮かべ情けなかった。が、このまま萎《な》えしぼんでなるものか、と自分に強く言い聞かせた。
弔いが終った後も、沈み返ったモンスパは思い余ったように急に泣き出すことがあった。エシリたちは心を痛め、「お父《とう》もおっ母《かあ》も、いつも傍にいて守ってくれてんだよ」と宥《なだ》めすかすのだが、彼女は駄々っ子のように聞きわけがなかった。
「しゃんとせえ」兄のテツナが拳骨を振り上げ、「早く気を取り戻して働く気になれ」と、モンスパを睨みつける。
テツナとモンスパの兄妹は雪が融けたら、すぐにも釧路《くしろ》の漁場へ出稼ぎにゆくことになっていた。年が明けて間もなく、漁場の船頭をしている釧路アイヌがやってきて、前金まで受け取って堅い約束をしていたのだ。しかし、思いもよらぬこんどの災難にあい、延び延びになっていたのだ。もう五月に入って蕗《ふき》の|とう《ヽヽ》やキトビロは青い芽を吹いている。
「前借りの分だけ働いたら、とっとと帰ってこお」エシリは幾晩も夜なべを重ね、テツナとモンスパの下着や手甲や足袋を用意した。
出発の前日、モンスパはうららかな陽にさそわれて家を出た。枯草を踏んでしばらくゆくと、禿げ上がった尾根に出た。彼女は墓に向かって真っすぐ歩いた。目の前の真新しい墓標は昼下がりの陽をいっぱいに受けてまばゆく輝いていた。「おっ母《かあ》」モンスパは大声で叫び、土饅頭に倒れこむようにして、それをぎっしり抱きかかえる。涙がどっと溢れ出た。冷たい土の感触が心地よく身にしみてくる。モンスパはそのまま土に融け込んでゆくような気がした。
頭上を口やかましいカケスの群が、がやがや騒ぎながら通り過ぎた。モンスパがちょっと頭を上げたとき、雑木林の中にうごめく人影が映って目を見開いた。人影は樹から樹へ縫うようにして近づいてくる。見覚えのある姿だったが、輪郭がはっきりしてくると、それは紛れもなく猟から帰ってきたオコシップだった。
「気が狂ったとな」オコシップはモンスパの襟首をわし掴みにして土饅頭から引き離そうとしたが、彼女は歯を剥き、髪をふり乱し、太い墓標にしがみついて離れなかった。
「たわけ!」丸太ん棒のような太い腕が、襟をぐいと締め上げる。墓標が傾いてモンスパはようやく手を離したが、彼はそのまま枯草の上をどこまでも引きずって行った。
「許してけれ」と、モンスパは喉の奥から絞るような声を出した。
「後ろを振り向いただけでも誘《ひ》かれると言うぞ」オコシップは白樺の根っ株にうずくまったモンスパにきつく言いきかせた。彼女は口をつぐんで泣きじゃくっていた。
うららかな春の西日が山いっぱいに満ち溢れていた。先刻のカケスの群が帰ってきて、すぐ傍の榛《はんのき》に群がって騒ぎたてる。おいらの噂《うわさ》をコタンじゅうに触れ回る気だな、とオコシップもモンスパも思った。
「食え」と言って、オコシップは網袋の中からキトビロの柔らかい茎を取り出して、モンスパの手に握らせる。そよ風に吹かれて、二人はキトビロの白い茎をさわさわ音をたてて食べた。
「春の鱒《ます》漁が終ったら、仮病をつかって逃げてこい」こう言って、オコシップはモンスパを堅く抱きしめた。はだけた胸の底から湧き上がってくる青草のような熱気といっしょに、キトビロの臭いがむんむんする。
「死んだお前の母親ウロナイが引き合わせてくれたぞ」と、オコシップは言っていっそう体に力が入った。
「カケスが見てるに」モンスパは絞るような声で言い、オコシップの体を撥ね除けようとしたが、彼は離さなかった。喉のところに突き出した彼女の尖った肘を、彼はねじ曲げるように払いのけると、モンスパのほてった頬に髭面をこすりつけて、その首筋にがっと噛みついた。二つの体は転げるようになだらかな斜面を二間《にけん》ほどすべり落ちて止まった。モンスパの厚司《アツシ》は襟も裾も乱れて腰紐の辺にまとわりついていた。
「(和人《シヤモ》に)渡すもんか」と、オコシップはあらわに剥き出た白い豊かな乳房を上から抑えつけた。彼女の体はがたがた震える。
「ウロナイは、コタンの春を呼び戻すと言ったぞ」オコシップはやさしく言った。モンスパの長い睫毛《まつげ》ににじんだ涙を彼は口でぬぐい取った。抑えつけた指と指の間からコケモモのような紅色の固い乳首がぽつんと飛び出していた。彼はそれを口に含み、赤子みたいに吸いあげた。「痛《いた》!」と言って、彼女は目をつむったまま呻いたが、固く凍りついたその体はしだいに柔らかく開いていった。
和人どもも、こんな具合いにアイヌ女を抱きしめたのだろうか。「卑しい泥棒猫」オコシップはモンスパの腰を荒々しく引き寄せる。彼女はオコシップの胸の中に顔を埋めたまま素直だった。
「痛《いた》!」と、二度目に身を縮めたとき、性器は体の奥深く入っていた。モンスパは彼の胸にしがみつき、ときどきかみ殺した呻き声をあげる。「(和人に)騙されるなよ」と言って、オコシップはふさふさした髪に荒々しく頬をこすりつける。「かわいい、かわいい」と何度も言った。ヌイタのように、和人に淋病をうつされ、放り出されるようなことがあってなるものか、と思った。モンスパは腰を振ってなおも呻いたが、オコシップの力はそのたびにいっそう強く体に食いこんだ。
雲間からまばゆく西日が射してきて目が眩む。木も枯葉もモンスパの剥き出した太股も、みんな茜《あかね》色に輝く。ゆらゆらと燃え上がる陽炎《かげろう》の中で、二人は抱き合ったまま、カケスの鳴き声を遠くに聞いていた。
19
西風が静かに川面を吹き渡っていた。ラッコ皮の袖なしを着たオコシップは丸木舟を操《あやつ》り、岸の蒲原《がまはら》づたいに川を遡《さかのぼ》ってゆく。舳先《へさき》にはキナ筵《むしろ》や熊の皮や鉄砲が載っている。彼は櫂《かい》の手を休めずに、ときどき後ろを振り返った。ヘンケの伜、背こんぼのシテパやカイヨの伜、飲んだくれのサケムが追いかけてくるはずだった。オコシップたちはその日の午後、旅来《たびこらい》にある秋味の捕獲場へ乗り込むことになっていたのだ。これから雪のくるまで、三カ月の出稼ぎである。
原野の向こうの丘陵にはカンカンビラが初秋の陽光を受けて褐色に輝いていた。捕獲場はあのカンカンビラから分れる支流の大津川に入り、そこからさらに半里ほど下だったところにあった。
「三時間はかかるな」と、オコシップは呟やく。
十勝川は原野の中を曲りくねっていた。浦幌川の入口の大きな曲り角をかわすと、向こうから巫女のハルアンが流れ下だってきた。オコシップは櫂を静かに動かして聞き耳をたてる。
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鹿のいなくなった山は
死山と化してしまったが
十勝川の秋味は
ワッカウシカムイの恵みによって
川幅いっぱいに白波を押したて
雲霞のように遡ってくる
今年は四年に一度の大漁年
アイヌと和人《シヤモ》の共同漁場は
朝といわず昼といわず
銀の鱗が飛び散って
役人《やくびと》たちはニコニコ笑いがとまらず
若い衆たちはヘトヘトに働きづかれて
のめくった
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「秋味だって、鱒だって、もともとおいらのものなのにな」舟と舟とがすれ違うとき、オコシップは耳の遠いハルアンに聞こえるように大声で叫んだ。
「和人《シヤモ》と共同でなけりゃ、許可がおりねえだよ」と、彼女は皺《しわ》だらけの顔に笑みを浮かべる。
「コタンコロクル(首長)が和人びいきだから、何もかも狂ってしまったんだい」舟はみるみる遠去かってゆく。
「網は丈夫だし、船も箱船で、和人《やつら》の方が何倍も勝《すぐ》れてんだよ」ハルアンは、ろくに振り向きもせずうそぶくように言う。オコシップは、年ごとにふやけていく彼女の歌に腹を立てて、「たわけ野郎」と怒鳴りつけた。
ハルアンは初めコタンが壊れてしまったのも、アイヌがこんなひもじい暮らし向きになったのも、みんな和人のせいなんだ、と歌ったはずなのに、いつの間にか和人たちの技術をほめ、やり方をほめる。こんなコタンコロクルと同じ和人びいきの考えは、今のうちに打ち砕いてしまわねばならない、と思った。
真鴨が二、三羽、オコシップの頭上をひょうと唸りを立てて川下の方へ飛び去った。彼はウツナイ川の入口の柳の下に舟を止めて一服する。ここはもとヘンケエカシの猟区《イオロ》だった。オコシップが三代も前から持っている浦幌川入口の猟区と、このヘンケの猟区だけは毎年秋味が豊漁だったので、みんなが「秋味《カムイチツプ》の巣」といって羨《うらや》んだものだ。ヘンケは食べきれずにアタチ(三枚おろしの干鮭)やトパ(細切りの干鮭)を作り、それをコタンの貧しい家に分け与えた。
「みんなワッカウシカムイ(流れの神)のおかげよ」ヘンケエカシは部落の中でも裕福で、アイヌぶりもよく知っていたので、葬式や結婚式にはいつも先に立ってコタンの人々の世話をした。「コタンの知恵者《ラマツコロクル》」と言って、みんなが慕った。
昨年の秋のことだった。役人が二人、突然ヘンケの家へやってきて、「鮭はお上《かみ》のものだ、勝手なことはならんぞ」と怒鳴り込んだ。
炉縁で昼寝をしていたヘンケは、半分寝ぼけ顔で立ち上がった。ろくに言葉も交わさずに、役人の振り下ろした丸太ん棒はいきなり彼の脛《すね》を打ち砕いた。一瞬呻いてうずくまったが、
「こんちきしょうども」ヘンケはもっくり起き上がり、マキリを振り回し、砕けた足をひきずって追いかけた。が、十間《けん》と走らぬうちに崩れるように倒れ込んだ。
女房のトレペと娘のウリュウが抱きかかえてきて藁床に寝かせ、それから三日三晩たってようやく落ちついた。
「オニシャインは血迷ったぞ」と、気の荒いシュクシュンが頭から湯気をぼうぼう吹き上げて怒った。オニシャインが共同漁場を経営する代表者連中の先頭に立って、密漁の取締りを厳重にするよう役所に願い出た、と言うのだ。
「やん衆(働き手)を掻き集めようと、搦手《からめて》からの攻撃なんだ」
共同漁場は五年前、明治開拓使の肝《きも》いりで出来た。和人の代表は場所請負人から漁場持ちになった大村豊次郎をはじめ、平川、金田ら三人、アイヌの方はこの界隈の首長オニシャインを先頭に勇洞《ゆうどう》、生花苗《おいかまない》方面の首長サルヤン、ホカナンの三人、合わせて六人だった。名称は十勝組合といい、個人の収益は歩合い制、この地に住む者は誰でも加入できる、と言うのだ。
オコシップは密漁の厳しい取締りに抗しきれず、今年はじめて共同漁場に出ることになったのだが、彼は何よりも代表者たちが気に入らなかった。大村豊次郎はもともとアイヌの血を吸って生きてきた場所請負人であり、オニシャインはアイヌたちを平気で和人に売った首長である。彼は思っただけでも胸くそが悪く、ヘンケの猟区に舟を入れたまま、浮かない顔で居坐っていた。
川の真ん中を漕いできたシテパとサケムが櫂《かい》を振り上げて合図した。しかし、オコシップは腕組んだまま動く様子がないものだから、彼らは舟の舳先をこっちに向けて漕いできた。
「あわてることはないさ」と、オコシップは近づいてくるシテパたちに声をかけた。舟が柳の下に着くと、彼らはいちばん大きいオコシップの丸木舟に乗り移った。
「(漁場入りの)祝杯だ」飲んだくれのサケムが濁酒の入った大徳利を頭上に振りかざす。彼は酒の臭いを周りにぷんぷんさせ、いちだんと声を張り上げて、「景気よく飲むべえ」と言った。
「ワッカウシカムイ、恵みを与え給え」シテパが徳利を傾け、わが家の猟区に神酒を捧げる。それから三人は、喉を鳴らして回し飲んだ。
「秋になると、お父《とう》はこの猟区《イオロ》に泊り込んだ」と、シテパは子供のころを思い出す。朝夕、カムイに安全を祈り、猟区の周りの穢《けが》れを払い、いつも清潔に保っていた。叩き棒(鮭の頭を叩く棒)も柳や榛の皮付きで削りかけの付いたものを用い、決して使い古したものや石や腐れ木を使うことはなかった。猟区は家族にとってもっとも神聖な場所であり、秋味は神の国から遣わされた尊い使者なのである。アイヌたちは喜んで秋味を迎え、土産をたくさん持たせて天の国へお送り申しあげる。それがいつの間にか「密漁」と呼ばれるようになり、猟区は人々の心からしだいに忘れ去られようとしている。
「(和人たちが)勝手に入りこんできてな」と、サケムが口を尖らす。
「追っ払う方法はねえべか」
「あるさ」と、オコシップは煙草をふかしながら平然と応えた。二人は「どんなだ」と、同時に言って身を乗り出す。
「和人《シヤモ》と同化しねえでな、子供ばたくさん産んで、アイヌの人口を増やせばええのよ」
おれたちはこれだけを考えて、この時代を乗り切ればいい。ここを越えれば、次の時代か、その次の時代には、きっとコシャマインのようなすぐれたアイヌが生まれ出て、和人たちを追っ払ってくれる、とオコシップは言った。
「そしたら、おれたちは種馬《たねうま》だな」サケムが目の玉をギラギラ輝かせた。
「そうとも、アイヌ娘を一人だって和人《シヤモ》に奪《と》られてなるもんか」
オコシップたちは陽気に望みある将来を語り合った。いつの間にか徳利の酒は底をついていた。
20
捕獲場は原野を流れ下だってきた川が岸辺を穿《うが》ち、入江みたいになったところにあった。右岸の高みに草葺きの番屋がぽつんと建ち、その対岸の網曳き場は岸から二十間も奥の方まで砂原が広がっている。川の流れは豊かだった。
「オコシップ、おめえは秋味を鉄砲で撃つのけえ」と、大親方、大村豊次郎が丸木舟の中を覗きこんで言った。
「網の曳けない日には、その辺の山で兎でも撃つのよ」
「川網に休みはねえど、おめえの体が雨に融けるとでもいうなら別だがな」横から口を入れたオニシャインの言葉に、鼻くそ髭を生やした和人たちが肩をゆすって笑った。
若い衆たちは代表者たちを「親方」と呼んでいた。大村豊次郎は代表者の中でもいちばん位の高い親方である。ひと一倍大きな体を熊のように揺すり、いつも刺し子の前をはだけ、両手を振って反り返って歩く。この威張った歩き方は長い間に身についたものなのだろう。大津の組合事務所へ行くときも、網曳き現場を見回るときも、反り返った大村豊次郎の後ろから、オニシャインたちはぞろぞろついて歩くのだ。その足が網を曳いていたオコシップの目の前で突然止まった。
「仲間のサケムとシテパはどうした?」と、大村豊次郎が訊いた。
「下痢がひどくてな」柳原で用便をしている、と言ってうそぶいたが、そのときサケムとシテパは帳場の葛山に襟首をとられ、引きずられるようにして藪の中から現われた。サケムたちは徳利を懐にしのばせ、藪に身を隠して互いに酌み交しているうちに酔いつぶれたのだった。二人は砂原に俯《うつぶ》せになり、「アイヌばかりこき使ってな」と、泡のようにぶくぶく悪態をついている。
「百叩きだ」と、オニシャインは制裁棒《ストウ》の厳しい罰則を告げた。彼は手に持っていた柳の棍棒を振り上げ、罪人の背中に力いっぱい打ち下ろした。そのたびに二人は尻を丸め膝を立てて二、三歩進む。サケムは藪の方へ、シテパは川岸の方へ向かっていざってゆく。
「(酒を)叩き出してしまえ」と、誰かが叫んだ。その声をうけて、オニシャインは狂気のように乱打した。二人はもう膝を立てる気力もなかった。
「許してやれ」と、オコシップは彼に近づいて言った。中断されて腹を立てたオニシャインは、振り上げた制裁棒をオコシップの脳天に打ち下ろした。しかし、彼は避けようともせず、それをまともに受けとめてにっと笑った。そして「アイヌがアイヌを裁く」と吐き出すように言って、オニシャインの手からもぎとった制裁棒を川に放り投げた。オニシャインも辺りの者もオコシップの並みはずれた腕力を知っているので、そのまま尻込んでしまった。
風がひょうと唸りを立てて、秋はしだいに深まっていった。網舟は休みなく網をかき回し、魚舟は鮭を山に積んで大津へ下だってゆく。刺し子や厚司《アツシ》やミツカ(綿入れの短い着物)を着た者、履物《ケリ》や刺し足袋や草鞋《わらじ》を履いた者、とりどりの恰好で若い衆たちは川に陸に立ち働いた。オコシップはシャツの上に、父の形見のラッコ皮の袖なしをまとっていた。
「守り神だな」とシテパが言って、つやつやした毛を撫で回した。彼は捕獲場にきてから、愛用の毛皮をいちども身から離さなかった。これを着たまま川に飛び込み、岩盤にひっかかった網を取り外したこともあった。「十分《じつぷん》は潜ってたな」ほんとのラッコみたいだと言って、帳場の葛山が目を丸くした。
のどかな秋晴れが続いた。昼休みどきだった。オコシップはいちばん先に食べ終え、屋根裏の自分の寝床にごろんと横になり、指先でラッコの毛並をそろえていた。食べ終った連中は、めいめいの場所にいて、集合がかかるまで少しでも疲れを癒《いや》すのだ。
「源太、綱を持って来《こ》お」と、船頭の中山郡平が命じた。源太は花札や宝引きの賭けごとが好きで、飛びきりいいものを持っている。彼は軽い返事をし、つやつやした光沢のある宝引き綱を、自分の手箱から取り出して郡平に手渡した。
「今夜の相手と順番を決めるべえ」と、炉縁にあぐらをかいた郡平は、番屋の中をひとわたり見回して言った。宝引きで夜這《よばい》の順番を決める、というのだ。背のずんぐりした高田がいちばん先に寄ってきて、郡平のすぐ横に座った。長山、大坂と、いつも賭けごとに顔を出す連中がいい場所に陣取り、いよいよ綱を引くときになって八人の顔が出揃った。
「二人ずつ、四人までだ」と、彼は言った。先の方に白糸のついているのは本命《ヌイタ》で、綱の先の瘤《こぶ》は順番なんだ、と説明する。
「おら、どっちでもええ」と言っていた痩《や》せの野村が、いざ引くときになって、いちばん前に乗り出して手を出した。立て膝をついた郡平は「ゆくぞ」と気合いをかけ、綱の束を一回、二回と床に叩きつけるように振り下ろす。そのたびに八本の手が素早く前に突き出された。
「何の真似だ」オコシップは丸い輪の中に足を踏み入れて,にょっきり立った。
「難癖《なんくせ》つけるとな」郡平の眼が額の方まで吊り上がり、怒りで膝ががたがた震えていた。
「腑抜けで、呑んだくれのアイヌは好かんとな、ヌイタもトイラルも口を揃えて言ってるんだ」
オコシップは聞きながら眼の前がかすみ、郡平の言葉が遥か遠くから聞こえてくるような気がした。
「狂った雄豚ども」彼は床を踏んだ勢いで郡平の手から宝引き綱をむしり取ると、ダンゴに丸めていきなり窓から放り投げた。見物人たちはあっけにとられている。そのとき、帳場葛山のだみ声が集合を告げた。
オコシップたちは、口を噤んだまま網船に乗り込んだが、互いの感情は限界まで膨れ上がっていた。
「何もそうムキにならんでもな。冗談によ」元役アイヌのヤエケが船の傍に寄ってきて、横から口を入れた。彼は以前から娘ヌイタを和人に売り渡し、その甘い汁を吸ってきた。
「獣ども」オコシップの振り回した車櫂《くるまがい》がヤエケの脛を打ち払い、彼はばったり四つん這いになったまま、躄《いざ》るようにしてその場を逃れた。
騒ぎはいったんおさまったように見えたが、「糞アイヌ、早う漕げと言うに」と、郡平が怒鳴り散らした。網船にはアイヌが三人乗っていた。
「何と言った」押し殺したオコシップの怒りを理解しないもののように、「糞アイヌ」と郡平はふたたび言った。言い終らないうちに、オコシップは疾風のような早さで、舳先《へさき》から艫《とも》の郡平に飛びかかっていた。二人は重なり合ったまま川に転げ落ちたが、組みついたり離れたりして飛沫が一丈も高く跳ね上がった。船の若い衆たちは近寄ることもできず、息をのんで見つめている。二人はなおももつれ合いながら陸に這い上がった。
「殺してやる」と、オコシップは大声で宣言した。彼はこぶし大の石を振り上げ、郡平の頭めがけて打ち下ろした。彼はぐうと潰れた声とともにひっくり返り、禿《は》げ上がった額から鮮血が飛び散った。
「郡平がやられた」と、網船の連中が口々に叫んだ。向こうの方から若い衆がばたばた駈けてくる。オコシップは玉石を握りしめたまま、網船の舳先を跨ぐように立っていた。
郡平は番屋に寝かされたまま、三日の間意識がなかった。若い衆が毎日交替で看病にあたり、大津から見舞いにきた代表者や身内の者たちは、オコシップを罵《のの》しっては帰って行った。しかし、彼は「ナンベ(飯炊き女)に手をつけた和人《シヤモ》は、かたっぱしから殺してやる」と言って、誰の言うことも聞き入れなかった。しばらくの間、オコシップの見幕を恐れて、和人だけではなくアイヌたちもナンベに声をかける者はいなかった。
「オコシップ、ちょっくら用事があるとな」ヌイタが川岸に立って叫んだ。オニシャインが呼んでいる、と言うのだ。
親方の部屋にはオニシャインのほかに誰もいなかった。
「おめえの身のためを思ってのことだ」彼は煙草盆にスコンスコンと火種を打ち落として正面に向きをかえた。眉が気難かしく吊り上がり、土気色の顔が歪んでいた。白い長い髭とその顔に刻まれた深い皺《しわ》に、移り変る時代をうまく切り抜けてきた首長のしたたかさが感じとれた。
「事を穏便《おんびん》にすませたいのだ」と、彼は静かに言った。
「穏便にすませたことが、アイヌをここまで追い込んでしまった」と、オコシップは言い返した。
「そうかもしれん」オニシャインは太い溜息をつき、「しかし、和人《シヤモ》に逆らえばその仕返しを受け、やがてアイヌは死に絶える」
「和人に屈伏し、じりじりと追いつめられて死に絶えるよりはなんぼええか」と、オコシップは怒りを押し殺して言った。
二人はしばらくの間睨み合っていた。西風が吹いてきて、番屋がぎしぎし音をたてた。
「悪いことは言わねえ」と、オニシャインはふたたび言った。「おめえのためにも、アイヌのためにも、ここをそっと出て行って欲しいんだ。歩《ぶ》(分け前)も人並み以上に支払うし、これから先の『追《お》い金《きん》』も打つ……」
「アイヌのためだと! それは嘘だ」と、オニシャインの話がまだ終らないうちにオコシップは叫んだ。このやり口でどれだけ多くのアイヌたちが痛めつけられ死んで行ったか。
「クンチ(強制連行)の先に立ってお父《とう》を殺したのも、曾祖父《ひいじい》マメキリの首を斬り落としたのも、みんなコタンコロクル(首長)、おめえたちの仲間なんだ」
オニシャインはしきりに頭を振り続け、「生き延びるためだ」と言い続けたが、オコシップの耳には聞こえなかった。彼は「おめえらのやり口を最後まで見届けてやる」と言い捨て、床を踏みならして外に出た。
空は晴れ上がっていた。オコシップは原野の見える日向《ひなた》に腰を下ろした。十勝川がうねっていて、その向こうに十勝太があった。紫色に煙った丘陵の先端が十勝川の河口である。そこから半里ほど遡ったところには家の猟区があって、去年までは監視の眼を盗んではなんとか漁も出来たのだ。「みごとな秋味《カムイチツプ》」母は魚体をだきしめ、頬をこすりつけて言ったものだ。野山が紅葉した今ごろは、妹のチキナンやウフツを相手に、母は厚司織の最中かもしれない。
オコシップはひとつ伸びをして、ごろんと仰向けに転がった。澄んだ空をトンボやバッタが西風に向かって飛んでゆく。大きな野蠅が、眼糞や鼻糞にまつわりついてくるのを、オコシップは頭を振って追い払った。
彼の腹の虫はいつまで経ってもおさまらなかった。多くのアイヌたちをたぶらかしてきた首長が、明治になったいまも平気で和人のお先棒をかついでいる。こんどだって、「俺がうまく話をつけてやる」と買って出た、汚ない挙動にきまっている。しかし、効果がないとなれば和人たちはどう出るか。大親方、大村豊次郎は手なれたやり口で押し潰しにかかるだろう。
「あんなやつ」と、オコシップは怒りを込めて言った。こんどは、あの反り返って歩く気どった足を叩き折ってやる。
いつもの口早いカケスの群が、がやがや話しながらやってきて、近くの柳の木に止まった。オニシャインをやりこめ、大村豊次郎をうちのめすような大事が起こったなら、いつでもコタンに急報しようと待ちかまえているのだ。そこへもうひとつのスズメの群が、チピピチピピと鳴きながら飛んできて、すぐ横のネシコニ(胡桃)の木に止まった。スズメは酒造りが上手だから、近いうちに祝い酒が飲めるかもしれない。オコシップはがやがや声とピチピチ声に、せきたてられるような気持ちで立ち上がった。
オコシップは網を曳いているときも、飯を食べているときも、大村豊次郎のあの横柄な歩き方とトッカリのような眼が頭から離れなかった。あの小賢かしい眼はアイヌを手先につかい、甘い汁を吸う詐欺師《さぎし》の眼だ。仕事が終り、めいめいが濡れ物を炉の上の干棚に掛けているとき、その眼がこっちをギッと睨んだ。
「石で頭をかち割るとは野蛮きわまること、こんどやらかしたら、ただではすまん」
「好き好んでやってるでねえだど」オコシップは腕をぶるんと振り回して睨み返した。
夕飯がすんだ後、ヌイタが番屋の裏で洗濯しているところをつかまえて聞き糾した。
「ヌイタ、おめえはアイヌのこと、蝮《まむし》より嫌いだと言ったな」
「おら、知らねえ」と、ヌイタはかぶりを横に振った。
「おめえの親《ヤエケ》も根が和人《シヤモ》びいきだ」
「おらはおらだもの」何の関係もない、とヌイタは言い逃れようとしたが、「そしたら、なんで和人《シヤモ》に抱かれた」と、問いつめられて言葉がつまった。
風が立って山際の夕靄《ゆうもや》が静かに流れ、夕闇の中に薄《すすき》の白い穂波がかすかに揺れる。頭の真上に半月がかかっていた。梟が「ペウレッチコイキップ(熊とりに来い)」と鳴きながら、沢の方へ飛んで行った。梟の後についてゆけば必ず熊がいるというが、「今日は熊のことではなく、梟神におれたちの愛情を祝福してもらうべえ」と、オコシップは言った。
彼はヌイタを抱きかかえ、大股に沢の方に歩いてゆく。沢の入口の大きな榛の下までくると、ヌイタをそっと下ろして、「アイヌの赤ん坊を産め」と、やさしい口調で言った。ヌイタはオコシップのいいなりに体を開いた。ホトが火のようにほてっていた。まだ病い(淋病)は治っていないな、とオコシップは思った。
盛りあがった乳房が波のように揺れる。それを上から抑えつけるようにして、白く浮き出た首筋に歯を立てた。「赤子を産め」と、もういっぺん言って腰を強く引き寄せる。性器は股を突き開いて奥の奥まで入り込んでいた。ヌイタは体を弓のように反り返して、「産む、産む」と、うわ言のように言った。
21
鞍《くら》をつけた駅逓《えきてい》の馬がシャンシャン鈴を鳴らし、番屋の向こうにある高台の道を通って行った。その後を追うように、カケスの群が金色に光ながら飛んで行ったので、何か変った便りがあるかも知れないと思っていると、間もなく陸の便りではなく川の便りがやってきた。
川上に小さく見えていた一艘の丸木舟がぐんぐん近づいてきて、網曳き場で止まった。リイミ婆とトレペ婆たちだった。
「どしたべか」と、飲んだくれのサケムが母親リイミに向かって声をかけた。リイミは何も答えなかったが、サケムにはうすうす見当がついていた。トレペの伜シテパの方は、砂原の向こう端で陸揚げしたばかりの秋味を運搬船に積み込んでいる。
「帳場さん」と、リイミが風呂敷のかぶりを取り、腰を深々と曲げて頭を下げた。
「お父《とう》は病気だし、娘は釧路へ働きに行ったきり鉄砲玉だし、もう家には米も粟も一粒もねえだよ」
「おらんとこも病人が出てな、にっちもさっちも動けねえありさまなんだ」トレペはせっぱつまった泣き声で、穀物を少しでも都合して欲しいと言った。
帳場の葛山甚蔵は二人の名前を確かめ、しばらく手帳を睨んでいたが、
「おめえらの息子たちはな、酒ば食らって休んでばかりだもの、取りめえ(支払い金)はねえな」と言った。
リイミたちは入墨の入った口をあんぐり開けて聞いている。しかし、眼窩《がんか》の奥の黒い瞳は光り輝いて、ただならぬ決意を現わしていた。
「伜は食べるだけ働けねえとな」リイミは改った声で言った。
「ま、そういうこった」と葛山甚蔵は答え、漁場の規則に照らせばもうとっくに解雇《くび》になって当然なんだ、と言った。
「サケム、仕度ばせえ」一日いれば、それだけ赤字が増えるなら帰るよりしょうもねえ、と言って悲鳴のような声を張り上げた。サケムはあまり急なことだったので、どうしてよいか分らず、厚司の懐に両手を入れてつっ立っていた。ちょうど、網を|たき《ヽヽ》(すぐ投網できるように順序よく並べる)終え、川下から遡ってきた船頭の中山郡平が聞き耳をたてて仲に入った。
「おらが責任とるによ、今回だけは待ってけれ」と帳場に頼んだ。人手不足でもあり、寒さに強いアイヌはこのさき大事な働き手なのだ。そこを計算に入れての仲裁だった。
「どれだけ欲しい」と、中山郡平は笑顔で言った。リイミは人差指を一本差し出した。白米一斗なのだ。それに「味噌と醤油」をつけ足した。しかし、彼は笑顔を崩さずに承諾した。
「恩にきるべな」リイミとトレペは砂原に頭をこすりつけて拝んだ。
彼女たちが帰るとき、オコシップたちは「ほら、あの黒い雲の裂け目を龍が昇る昇る」と叫び、帳場の眼をそっちに向けておいて、秋味を十尾ほど丸木舟の中へ投げ入れた。トレペはそれを急いで筵《むしろ》の下に隠した。彼女たちは何度も櫂を振り上げて帰って行った。
彼女たちが帰ったあと、若い衆たちは秋晴れの下で、油糞をたれ、酒の勢いをかりて、酷い労働に立ち向かっていた。
「走って歩け」と、大村豊次郎はどんと土を踏んで若い衆をどやしつけた。オコシップは艫《とも》で舵をとる郡平もまごつくほど早く網を投げていた。
ちょうど網をかき回して岸に着いたときだった。番屋のすぐ下の川縁に立ったヌイタが、
「トイラルが金毛の大熊に襲われた」と腰を二つに折り、喉笛が破れたみたいな声で助けを求めた。
「なんだと?」飲み込みの悪い大村豊次郎は何度も聞き返し、ようやくトイラルの危機を知った。裏山へボリボリ採りに出かけたヌイタとトイラルが熊に襲われ、ちりぢりになったまま、トイラルが帰ってこないというのである。
ヌイタはその辺をうろつき、恐怖のあまりがたがた震えていた。
「一刻を争うと言うによ」一番先にシテパが丸木舟に乗り込んでサケムを呼んだ。下流で入り綱を曳いていた彼は、それを放り出したまま丸木舟に向かって駈け出した。その後からサロッテやトラセもついて走った。
「網を揚げ終ってからにせえ」大村豊次郎は引き止めようと舟に向かって吠えたてたが、シテパたちの丸木舟はもう岸を離れていた。
ヌイタを先頭にして、救助隊はアイヌたち八人だった。オコシップは鉄砲を携え、ヌイタと並んで歩いた。トイラルを呼ぶ声が入り乱れて、山から原野の方まで響き渡る。紅葉が西日を受けて照り輝き、その中を縦横に走るけもの道を奥へ奥へ進む。小さな凹地を渡ると楢林があった。ばらまかれたボリボリと、熊の大きな足跡を見て、ヌイタはもう口もきけないほど気が昂《たかぶ》っていた。
「ここから、どっちさ逃げた」と、シテパが訊いた。だが、彼女は幼児みたいにただ頭を左右に振るばかりである。
「用心せんとな」と、オコシップは人喰い熊の怖さを言って聞かせる。
「大勢で歩いていても、気づかないうちに、後ろの方から一人ずつ食べられてゆくだぞ」
救助隊は二手に分れて沢づたいに下だることになった。彼らはトイラルを呼ぶ声も途切れがちで、枯葉の落ちる音や足の下の枯れ柴の折れる音にも、気を尖らせては立ち止まる。風がなく四囲は重苦しいほどに静かだったが、沢の下手《しもて》の方から突然烏の群れが飛び立った。その跡に何を見たのか、駈け出して行ったシテパが、「トイラルだ、トイラルだ」と、狂ったように叫んだ。
トイラルは沢の細い流れの中にうつ伏せになり、体をずたずたに引き裂かれて死んでいた。ヌイタは亡骸《なきがら》に取りすがり、「赦してけれ」と言って、泣き崩れた。
オコシップたちは、ブドウやコクワの蔓《つる》で担架を作り、それに乗せて山を下だった。御幣《イナウ》を先頭に立てただけで、ホイホイ(悪魔払い)をする元気もなく、わびしい山下だりだった。担架の前を啄木鳥がトロロロと、樹の幹を叩きつけて先導する。啄木鳥は二羽になり三羽になった。トロロロ、トロロロと鳴いて、あたりはフチ(老婆)たちの舌を震わす囃子声となる。
「弔いの叫びなんだ」と、オコシップたちもいっしょに唱《とな》えて、囃子声はますます大きく膨れ上がる。こうしてフチたちの盛大な見送りは山の麓まで続いた。
下の方から新式の村田銃を肩にかけて大村豊次郎が登ってきた。彼は伸び上がるようにして担架の中のトイラルの亡骸を確かめると、いぶかる顔をつきつけて、「熊はどっちだ」と訊いた。
「おめえば食べてえとな、楢林の根っ株に腰を下ろして待ってるによ」シテパがふんという顔で言った。その間も担架は止まることなくつき進んだ。村田銃の筒先をぴかぴか光らせながら、大村豊次郎はいつもの反り返った歩き方で坂を登って行った。
夕方、旅来《たびこらい》からトイラルの父親が来て、亡骸を引き取っていった。ヌイタはおろおろしながら、ただ泣くばかりで、瞼がふさがるほどに赤く腫れ上がっていた。
22
長く続いていた秋晴れが急に崩れ、夜半から降りだした雨は朝になってもまだ降り続いていた。若い衆たちは背を丸めて雨の中へ飛び出して行く。刺《さ》し子《こ》も雨に強いが、ラッコ皮の袖なしにはかなわない。動物みたいにぶるんと体を振り回すと、雨は水玉となって四方に飛び散った。オコシップは暇なしに体を震わせて雨をはじいた。
若い衆はくたくたに疲れていた。雨の日はいっそう堪《こた》えた。舟にうずくまって網を繰り出す者は腰が曲ったまま動かず、ロープを曳く者は五本の指が丸まったまま伸びなかった。髪は前後の見さかいもつかないほどにぼうぼうと伸び、何日も前の目糞がそのままこびりついている。
「ええ雨だによ、目糞ば洗い落とせ」と、シテパがサケムに言った。
「体じゅうの垢《あか》を洗い流してな、それでも足りずにふやけてしまった」サケムは降りしきる雨を見上げて恨めしげに答えた。
昼食が終っても雨足は少しも衰えなかった。若い衆たちが囲炉裏にへばりつき、雨音を聞きながら出渋っていると、突然烏の鳴き声のような濁声《だみごえ》が番屋じゅうに響き渡った。「出ろ、出ろ」と鳴いているのは、帳場の葛山だった。若い衆が葛山の濁声と大村豊次郎の睨みに押し出されようとしたとき、雨足がいちだんと強くなって尻込んだ。
「空が破《やぶ》けた」と言って、和人の勝造が戸口から引き返した。雨はなおも降り続いた。こんどは背こんぼのシテパが、長い柳の棒を持って風雨の中へ飛び出して行った。彼はその棒の先に削り花をつけた笊《イチヤリ》(ざる)を吊るして「雨|鎮《しず》め」の呪文を唱えた。
嵐の神よ、おまえにそれができるなら
このイチャリいっぱいに雨を入れよ
おまえにそれができないなら
いますぐどこかへ行ってしまえ
シテパは、みんなが戸口や窓にむらがって見ているので、間違えぬように心を引き締めて同じ呪文を三度も繰り返し唱えた。彼は若い衆たちの拍手に迎えられて得意だった。
それから小一時間ほどして、勝造は「効目がねえな」と言って嘲《あざわら》った。
「アイヌぶりなんだ」と、シテパが言った。カムイの教えにすなおに従うことがアイヌぶりである。
「それがアイヌを堕落《だらく》させ、飢餓に引きずり込んだんだ」と言って、大村豊次郎は顎をしゃくり上げてけらけらと笑った。
シテパはなじられて引き下がったが、オコシップは二階の自分の寝床からじっとそれを見つめていた。アイヌの飢餓は和人の土地《モシリ》侵略によって生じたものなのに、それがどうして「アイヌぶり」によって起こったということになるのか。大津の海岸にふんぞり返り、アイヌの血を吸ってきた大村豊次郎は、世の中が変ったというのに、まだオムシャ(貢物)とかクンチ(公事)の夢に酔いしれている。
「クンチの根を断ち切ってやる」と、オコシップは二階から大声で叫んだ。彼は筒先の黒光る鉄砲を前に突き出していた。
「何の真似だい」と、大村豊次郎は二階をふり仰いで言った。
「秋味を撃つんだ」オコシップは、ここに乗り込んできたとき、彼になじられた言葉をそのまま突き返してにっと笑った。
番屋の中が急に薄暗くなったと思っていると、突然、青白い閃光《せんこう》が走り、同時に雷鳴が、ど、ど、どっと腸《はらわた》に響いた。大粒の雨がいちだんと激しさを増してきた。黒雲に覆われた空が二つに裂けたみたいに、閃光と雷鳴が交互に繰り返され、番屋は押し潰《つぶ》されそうにぐらぐら揺れる。雷は頭上からいつまでも離れなかった。若い衆も大村豊次郎も耳をふさいで土間に蹲った。
戸外では嵐がいよいよ激しく荒れ狂っていた。空と地が悪魔のように吠えたてて、川岸の柳がきりきり舞い吹きたわめられて、ときどき頭を地面にこすりつけた。
「気狂い雨」と言って、サケムが心配そうに川を見つめている。上流から樹が流れ、土塊が流れ、しまいに小屋が流れてくる。
「ホト(陰部=河口)が詰《つ》まると、ときどき暴《あば》れ出すんだ」シテパが遠い河口の方を見やりながら言った。
「これだけ降れば、穴は十分通ったによ」と、サケムは嵐を見上げる。
その嵐に乗って、ヌイタが戸口から叫び声と共に崩れ込んできた。
「金毛の大熊が濁流を上手《かみて》の方から泳いできて、三本柳の岸に駈け上がった」と言った。彼女が川で薯《いも》を洗っていたところに現われたのだ。ヌイタは、毛並も恰好《かつこう》もトイラルを殺した熊にそっくりだ、と何度も繰り返した。
「今のうちだ」と、大村豊次郎が言った。楢林に紛れこんでからでは面倒になると思った彼は、自慢の村田銃を肩にかけて嵐の中へ飛び出して行った。そのすぐ後に続こうとしたオコシップの前に立ちはだかったオニシャインは、「待て」と言って両手を広げた。
「同胞を喰らう悪魔《オヤピ》ども」オコシップはオニシャインの広げた両手を叩き落とし、その頭を跳び越えて外に出た。
彼は鉄砲の銃身に|ぼろ《ヽヽ》布を巻きつけ、それを厚司の中に抱いていた。雨は横なぐりに叩きつけ、目を開いているのもやっとだった。三本柳のところまでくると、オコシップは這うようにして熊の足跡を探す。しかし、ハンブ(川岸)から陸の方まで、何度となく探し回ったが、熊の気配はどこにもなかった。大熊が陸《おか》に這い上がればはっきり跡がつくはずだ。彼はそこから川岸に沿い、上手《かみて》に登ろうとして小川をひとつ跳び越えた。
暗雲が垂れ下がり、雨は縞《しま》になって叩きつけるように降りそそぐ。まだ太陽があるはずなのに、梟が鳴きながら頭上を上手《かみて》の方へ飛び去った。オコシップは熊の足跡を探し出そうと、地面を食い入るように見つめ、川の上《かみ》へ上《かみ》へと突き進んだ。彼は歩きながらヌイタが見たのは樹の根か土塊だったのかもしれない。いや、ひょっとすると父レウカが樹を熊に見せて、おれたちを誘い出したのかもしれないと思った。
先刻の梟が戻ってきて頭上をかすめ、そのままハンブの草藪にさっと姿を隠した。藪は雨に煙って霞んでいたが、そこに立っているのはたしかに大村豊次郎だった。彼は村田銃を構え、オコシップの近づくのを待っていたのだ。
オコシップは太いヤチダモに身をひそめて大村豊次郎をじっと覗《うか》がう。ごうごうと鳴り渡る嵐の中から「迷うことはない」と、耳元で父レウカの声がする。いま、クンチを強制し、アイヌの息の根をとめた和人の血が噴き上がる。その時が来たのだ、とオコシップは自分に言い聞かせた。
彼は火薬や雷管が濡れぬように筒先を下に向け、遊底の辺りを小脇に挟んでゆっくり進んだ。ふたたび梟が羽撃き、草藪が一瞬ぼうっと明るんだ。彼は床尾を肩に据え、息を殺して空から崩れ落ちてくる雷の閃光《せんこう》を待った。その瞬間に狙い撃とうと思った。
「雷神《カムイフム》、どうかあなたのお力を貸したまえ」オコシップは口の中で三度唱えた。そのとき眼の前に白い光が走り、雷雲に乗った父レウカがすさまじい勢いで駈け下りてきた。同時に雷鳴が轟き、火柱が一丈も高く立ち昇って目がくらんだ。彼に弾丸を打ち込んだ記憶はなかった。
大親方、大村豊次郎は村田銃を握ったまま水溜りの中に倒れていた。顔は黒く焼けただれ、左肩が砕け、そこから血が滴《したた》り落ちている。
カケスの群がどっと集まってきて、がやがや話しながら飛び回った。オコシップはしばらくの間がやがや声の中に坐っていた。彼は銃身に巻きつけたぼろ切れで顔をぬぐい、あらためてレウカが帰って行った暗黒の空を見上げる。青黒いエレキ雲がまだ残っていた。
カケスの群はヤチダモの樹に止まったり、草藪に下りたりして撃ち合いの跡を確かめているらしかったが、やがて雷雲の中をコタンの方に飛び去った。その後を追うようにして、オコシップはその翌日漁場を辞めて家へ帰った。
大村豊次郎は失神したまま、その日のうちに大津へ運ばれて行った。彼は一週間ほどしてようやく意識を取り戻したが、漁期が終ってもまだひとり歩きは出来なかった。
「このごろの雷には弾丸《たま》が入ってるっちゅうぞ」シテパは腹をかかえて笑い、「これがふんとの、ひょうろく玉よな」と、サケムは跣《はだし》でコタンの上下《かみしも》を走り回った。
23
河口の原っぱには放牧馬が群れていた。氷が融け、野草の若芽が地表を覆っていたが、陽気な春の訪れにはまだ間があった。北風がぷっぷっと吹いて肌寒い日、牛や馬や爺さんたちは背を丸め、風に向かって歩くのである。茅原を通り、榛林を突き抜けてポロヌイ峠の麓まできて止まった。ここには暖かい日溜りとオコシップの家があった。
子供たちは、そのまま立ちん棒をして、この珍しい動物たちを眺めていたが、爺さんはまっすぐオコシップの家へ入って行った。爺さんと思ったのは、皮|ころ《ヽヽ》(皮の上着)を羽織ったサケムの母親リイミ婆だった。
「寒《さぶ》、寒《さぶ》」と言って、皮ころの前をかき合わせ、炉の中に頭を突き差すように座って、「ひどいもんだ」と言った。原っぱも山の中も、みんな馬だらけで、鹿の姿はどこにも見当たらないと言うのだ。
「狐だって、兎だって、山の奥へ逃げちまった」と、ひと足早く遊びにきていた村の世話役ヘンケの女房トレペ婆が濁酒の勢いにのって、つい大声で言った。寒さ払いに、と言われて飲んだ一杯のきつい濁酒に心が弾んだのだ。
「飲んでけれ」と、エシリはリイミ婆にも茶碗に盛り上がるほど注いだ。干鮭《トパ》を火にあぶり、キトビロの漬物を大皿に盛って客人たちに振る舞った。
「西田牧場だけでも、牛馬合わせて五十頭はいるな」ほかに豚が三十頭、それに小作人の菊村、村田、古山の牛馬を加えて山じゅうを跳ねくり回れば、ちょっとした地震が起こる、とリイミ婆は体をぐらぐら前後に動かして言った。
「たった四、五年でな、開いた口もふさがらねえ」と、トレペ婆はほんとに口をあんぐり開けている。
西田徳太郎はこの数年間、秋になると、日高の新冠《にいかつぷ》牧場へ出かけては南部馬を買いつけてきた。黒っぽい馬、赤っぽい馬、黒赤のまじった馬、彼が新冠から帰ってきた後には、いつも毛色の変った馬が走り回っていた。
「野山を牛馬で埋めつくしてみせる」
八年前、首長オニシャインの息子、イホレアンの案内で浦幌太に入ったときに言った西田徳太郎の言葉が、しだいに現実のものになってゆく。子が子を産んで、みるみる膨れ上がったのだ。
春先の冷たい風がまだ吹きつけているのに、のどかな春を呼ぶ桜鳥《シケレペチリ》たちの群が飛んできて、家の前のアオダモの樹に止まってがやがや騒いでいる。婆たちが酒と鳥の声に浮かれていると、丸木船に乗って下だってくるハルアン婆の歌声が聞こえてきた。彼女はその母トレアンの血をひく巫女だった。美しく澄んだその声は、ひと声聞いただけでうっとりする。トレペ婆たちは窓際に寄り添って聞き耳をたてた。
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憎らしや 情けなや
和人どもが入りこんできてから、たった十年の間に
馬や牛はコタンの野山に満ちあふれ
昼も夜ものんのん走り回って
アイノたちは片隅に追いやられてしまった
[#ここで字下げ終わり]
ハルアンの歌声は長く尾をひいて、下流の方へ消えていった。
「たまげたもんだ」と、リイミ婆はふたたび唸るように言った。ハルアンの歌を聞いているうちに、恨みが胸に込み上げてきたのだったが、彼女は突然「ホイヨ」と叫んで、座ったまま宙に飛び上がった。リイミの真っすぐ前の草壁を破って、牛がにょっきり顔を突き出したのである。トレペは「あれえ」と叫び、エシリは「西田のやつ」と、牧場主の名をいまいましげに口走った。彼に似たのっぺりと長い白黒牛の顔が、ずうずうしくじっとこっちを見つめていた。
春先のころ、飢えた牛や馬たちはよく屋根や壁の茅を食い荒した。彼らは長い冬の間に出来た穴ぼこや、すり切れて薄くなったところに差しはさんだ新しい芽を狙った。留守の間に壁のおおかたを食い荒されたこともあった。
土間の隅でクンネ(犬)がウオオと唸った。クンネは目糞をつけた老犬だったが、「それっ」と、甲高いエシリの進撃命令に促されて戸外に飛び出して行った。間もなくクンネの噛みつくような声がして、牛たちの逃げまどう足音がのんのんと響いた。
「老いぼれても、もとは賢い猟犬《セタ》だったによ」と、エシリは誇らかに言う。クンネは熊や狼を何匹も獲り、オコシップの手足となって働いた。夏は音別《おんべつ》山や浦幌《うらほろ》山に鹿を追い、冬は遠い阿寒山まで出かけ、熊穴を探し出して金毛の大熊を仕留めて凱旋した。大雪が来て、ひもじい時には家族といっしょに干《ひ》からびた鹿や狼の骨をしゃぶって過ごした。
そのクンネが昨年の秋、人喰い熊に前足を噛まれ、伏せたときから急に老《ふ》けこんでしまった。そのときから猟犬《セタ》の役目をわが子のシララ(潮)にゆずり、今は隠居して一日じゅう土間の隅に眠っていた。食も細り、眼もうすくなってしまったが、しかし、家の傍に集まってくる家畜たちには目ざとかった。「クンネ」と、オコシップが声をかけただけで、網や干し物を蹴散らす牛や豚どもに飛びかかって行った。
クンネが悪者どもを追い払って帰ってくると、エシリは「噛み殺してしまえばよかったに」と言って、その鼻先にトパを投げ与えた。歯の弱いクンネはそれを長い時間かかって食べていた。
「西田の顔がな」と、トレペがさっきの長い牛面《うしづら》を思い出して笑い転げた。穴はキナ筵《むしろ》ですぐに塞いでしまったが、彼女は起き上がると、ちょうど穴の辺に見当をつけてホパラタ(悪魔払い)をした。尻をまくり性器を露出して、着物の両裾をばたばた打ち合わせるのである。
西田徳太郎 これ見たくて来たんだろ
とっくり見な よくよく見な
遊びにきていたトレペの孫の久作と金造が、壁の方に回ってのぞき見ようとしたものだから、リイミ婆にいきなり頬を殴りとばされてひっくり返った。
「悪魔が見るものだに、眼が腐ったらどうすべえ」
久作たちは囲炉裏の隅に引き下がり、しきりに頬をさすっていた。
「こんど顔を出したら、きついホパラタの悪臭で眼ば潰してやる」と、トレペが西田のことを言ったのに、久作たちはがたがた震えだして、それがいつまでも止まらなかった。
「ホパラタの相手はあそこにもいる」と、こんどはリイミ婆が窓の向こうに見える丘陵を指さした。そこには西田の小作人菊村純平の掘っ建て小屋があった。昨年入ってきたばかりだというのに、あたりの藪はきれいに刈り払われ、根っこは馬の力でごりごり引き抜かれて、コタンは日毎にその姿を変えていった。畑の隅に高く積み上げられた根っ株が、昼も夜も白い煙を吹き上げて燃え続けた。
「アイヌモシリ(アイヌの土地)を略奪した悪魔ども」エシリは伸び上がって、立ち昇る白い煙を見上げる。北風はなお吹きやまず、ちょうどアオダモの木から飛び立った桜鳥の群が、たなびく煙といっしょに河口の方へ消えて行った。
24
三日も吹き通した北風が凪いで、南風が元気を取り戻した。河口から海霧《ガス》の塊がのろのろ這い上がってきて、川向こうのウツナイ原野の方に流れて行った。その海霧に乗って帰俗アイヌのヤエケ爺さんがのっそりやってきて、
「野犬が仔牛を襲ったぞお」と言った。
「そんでどした」エシリが窓から顔を突き出して叫んだ。
「三頭ものめくった(噛み殺された)にな、ただでは済まされめえ」
ヤエケが行ってしまってから、エシリは心配で堪らなかった。犬殺しが明日にでも乗り込んで来て、かたっぱしから殺されるかもしれないと思った。
もう五年も前のことだ。牧場のある新冠《にいかつぷ》、幌別《ほろべつ》、静内《しずない》近郊のアイヌたちに「犬を飼っては相ならぬ」という|触れ《ヽヽ》が出た。野犬による馬の被害が大きくなり、開拓使が乗り出してアイヌたちの飼い犬まで軒並みに薬殺したのだった。
「ストリキニンという毒を肉ダンゴの中に入れて、そこらじゅうにばら撒いたのよ」カイヨは静内にいる親戚の者から聞いたと言って、息をつまらせて話した。犬を失ったアイヌたちの中には、住み馴れた土地を捨て、日高の山を越えて十勝の国に移ったものもあった。
「どうすべえ」と言って、エシリは震え上がった。
彼女はしじゅう戸外に出ては、阿寒の山に出猟したオコシップとシララの帰りを待っていた。遠くで犬の鳴き声がするたびに、彼女は額に皺《しわ》を寄せ、「なにをぐずぐずしてるべか」と呟やいて、ぶるんと体を震わせた。
太陽がトンケシ山の上を走っていた。海の方からなま暖かい風がばやばや吹いてくる。
「イホレアン!」と、エシリが先に見つけて声をかけた。彼は元首長オニシャインの伜で、西田がここへ乗り込んできたときから仕えている古顔である。
「野良犬たちはどしたべか」と、彼女は待ちきれずに声をかけた。
「もう、とっくに犬殺しを頼んだと言うぞ」彼は振り向きもせず、刺子《さしこ》の裾を撥《は》ね上げるように歩いて、エシリの眼の前を通り過ぎた。
「待て、待て!」と、彼女は少し高みになった道路に駆け上がり、イホレアンの先に回って両手を広げた。「これが老婆《オンネフチ》に対する礼儀とな」
「アイヌぶりは、もうとっくに終ったんだい」イホレアンはエシリの手を振り払い、その足もとにがっと唾を吐き捨てて立ち去った。
エシリは目に見えて変りゆくコタンが情けなかった。
「イホレアンの身形《みなり》はなんだ」和人たちを真似た、あの刺子に草鞋履《わらじば》きの装束だけでも癪《しやく》の種なのに、心まで和人になりきっている。
「ウラモンが見たらなんという」ウラモンはイホレアンの母方の曾祖母にあたるが、目梨の戦いで斬殺された亭主の後を追い、根室のノッカマップの岬から飛び下りて死んだ、けなげな女である。「アイヌモシリが甦《よみが》えるまでは、怨霊となって和人の生き血を吸ってやる」と、岬の断崖で叫んだその声が十勝の国まで響き渡ったという。
しかし、アイヌモシリはふたたび甦えらなかった。お上《かみ》の達しでアイヌぶりは次々に禁じられ、帰俗アイヌは年ごとに増えていって、しまいにはアイヌ同士が反目し合うようになってしまった。その許し難い相手にイホレアンがいた。
「罰当たりが」と、エシリはアオダモの樹の下に座って忌々しげに言った。ウラモンは和人たちの生き血を吸う前に、腑抜けアイヌ、イホレアンの血を吸うべきなんだ、とエシリは呟やく。
その日、オコシップたちは夕方近くに帰ってきた。エシリは獲物の鹿肉や鷹には目もくれず、シララを傍に呼び寄せて、「猟犬《セタ》を狙う悪魔がいる。油断はならねえぞ」と言った。シララは黒く水気を含んだ鼻をクンクン鳴らし、三角の耳をぴんと立てて聞き入っている。
「今夜からは、わしらといっしょの床《とこ》だからな」と言い含め、赤茶色の剛直な毛並を撫で回した。オコシップは長い山の猟を終え、安堵《あんど》の表情で濁酒を飲みながら、猟犬を狙う悪魔の話を聞いていた。
風が落ちて、西日の赤い光が窓いっぱいに射し込んでいた。戸外では子供たちや桜鳥のはしゃぎ声がうるさかったが、その声を吹き飛ばすように、河口の方から突然、鉄砲の炸裂《さくれつ》音が鋭く響き渡った。音はとぎれとぎれに三度鳴り響いた。
「しぶとい役人ども」と、オコシップは唸るように言った。
河口の方で人々の叫び声と、けたたましい犬たちの鳴き声が湧き上がった。野犬狩りが始まったのだ。鳴き声は河口から丘陵の方に移動して奥へ奥へ走る。キトビロ採りに行っていた姉娘のチキナンたちがサラニプも木ベラも放り投げたまま、「おっかねえ」と言って、泡を食って駆け戻ってきた。追いつめられた野犬が方向を失い右に左に突き進みながら、牙を剥き出して襲いかかってきたと言う。
「シララ」と、エシリが呼んだ。「シララもクンネも今日からしばらくの間、家から出てはならねえど」糞尿は土間の隅ですればいいし、食事はみんなといっしょに炉縁でせい、と言った。チキナンがシララを抱きかかえ寝床の方へ連れて行こうとしている処へ、戸口の隙間から野犬がどやどやと崩れ込んできた。犬たちは急《せ》わしく息をし、眼は血走り、全身水をかぶったように濡れていた。
「あれえ」と言って、みんなはたまげたが、三匹の犬たちには見覚えがあった。ここで産まれ、ここで育ったシララの兄弟たちだった。彼らはもう三年も前に家を出ていた。猟を仕込んだ犬のほかは、野犬となって他所で口過ぎしていたのである。
「久しいこったわ」エシリはわが子を迎えるみたいな口ぶりでいう。野犬たちはようやく気を沈めてトパを食べ始めた。
夕飯がすんで間もなくシンホイがやってきた。彼は上り框に腰をかけ、チキナンから注いでもらった濁酒でひと口喉をうるおしてから「野郎ども」と言った。
「鉄砲の後は肉にストリキニンをはさんだ毒餌だど、新冠《にいかつぷ》や静内《しずない》ではこれで根こそぎ殺《や》られたっちゅうぞ」
彼は話しながら、犬の気配を感じたらしく、しきりに奥の方を見やった。そこには娘のウフツたちが番人のようにこっちを向いて坐っていた。
「一匹五銭の懸賞金に目がくらみ、こっそりかすめ取るやつより、密告がおっかねえ」と言って、シンホイはしきりに首を振り続ける。
「家の中へ踏み込んできて撃ち殺すんだからね、むごいことだ」とエシリが言ったまましばらく沈黙が続く。
オコシップたちはその晩一睡もしなかった。
東天にたなびく黒い雲を真っ赤に染めて太陽が昇り始めた。それは毒入りの赤肉のように黒ずんだ色だった。オコシップたちは昨夜おそく道端に撒き散らしたらしい肉塊を丹念に拾い集めていた。浜の方から来たシンホイが「三匹だあ」と言った。しかし、草深い方まで探せば十匹は殺されているだろうということだった。
しぶとい殺し屋たちは帰俗アイヌ、ヤエケの家に泊っていた。オコシップは新式の村田銃を肩にかけ、戸口に通じる小径を跨ぐように立って、「ヤエケ」と呼んだ。彼は窓から顔を出して、「何のこった」と言った。
「野犬はあらかた片付いたようだな」オコシップは一歩近づいた。
「まだまだ」と、ヤエケは首を振りオコシップの言葉を塞き止めにかかった。
「猟犬《セタ》がいなけりゃ、やってゆけねえことぐれえは知ってるだろさ」と、オコシップはさらに一歩近づいた。太った殺し屋が戸口から出てきて嘲けた声で言った。
「家の中さ隠まってることぐれえは、とっくに知ってるによ」
犬肉の臭いがぷーんと臭ってきて、オコシップは急に胸の辺りがむかついた。朝から獲物の肉汁で一杯ひっかけているのだ。
「猟犬《セタ》は家族だ。その家族を殺すならおめえも殺してやる」と言って、オコシップは村田銃を構えた。殺し屋はしばらくの間立っていたが、急に身をひるがえし、家の中へ駆け込んで行った。
コタンは殺し屋とアイヌたちが睨み合ったまま三日を過ごした。家の周りにも道路にも犬の子一匹いなかった。じっと動きのないまま、それからさらに一日が過ぎた。犬たちはむんむんする家の中で体をもてあまし、気が昂じて噛み合いを始めた。
夜が明けようとしていた。丘陵の山麓に湧いた朝靄が河口に向かってゆっくり流れてくる。コタンは静かだったが、どこの家でも起きていた。オコシップの家では昨夜から支度をしていたので、灯火も点《つ》けずに出発の機《とき》を待った。
「犬を連れて山へ逃げる」コタンの長老ヘンケを長とし、みんなで考えた結論だった。獲物を食べて幾日も過ごし、彼らがコタンを引き揚げるまでは帰らないというのである。長期の滞在に備え、鍋や桶や碗それに米や粟なども用意した。
「来たらしいど」と、エシリが耳をたてて言った。浜の方からけたたましい犬の鳴き声がして、人々の走る音がどどどっと聞こえてきた。明るんだ空に人影が見えてくると、「それっ」と、オコシップの声がかかった。五頭の犬が外に飛び出し、山に向かっていっせいに走り出した。カイヨの猟犬がすぐ後ろから迫ってくる。息をきらしていっきに峠を登りきった。人と犬がだんごになり、墓場の傍を通って奥へ奥へ突き進んだ。
枯草の中から新芽が吹き出し、さわやかな朝露がしっとり土を濡らしていた。楢山を越え白樺林をくぐり抜け、タイチと呼ばれる平坦な地に着いたところで止まった。人も犬も汗と埃《ほこり》だらけだった。東天を赤く染めて太陽が昇り始めていた。
「朝飯にすべえ」と、ヘンケが額の汗を拭きながら言った。ヘンケの伜シテパ、カイヨの伜サケム、シュクシュン、シンホイら総勢七人が楢の朽ち木の間に輪になって坐った。北に高い山が聳え、南に海が見えていた。
「ここで守れば、奴らも手は出せめえて」サケムが銃の引き金をカチンと落とした。その音におびえて野犬が跳び退いた。彼らは太い綱で繋がれていたので逃げることはできない。十七匹のうちの半分は野犬だった。
人々は粟やウバユリダンゴを食べ、犬たちは魚の頭や骨を噛じった。シュクシュンが深い谷へ下りて行って手桶に水を汲んできた。歯にしみる透き通った水である。みんなで分け合って飲んだ。ついでに採ってきた白い茎のキトビロを、オコシップたちはさわさわ音をたてて食べた。
太陽が中空にかかるころから風が出てきた。熊笹が葉をなびかせて光り、新芽を吹いた梢が光り、そして、ごうごう唸りをあげて山じゅうが光った。
雪のある留真《るしん》山から吹き下ろす風は冷たかった。その左に連なる日高の山々にも、まだ雪は厚く残っていた。風の唸りを聞きながら、「ええか」と、ヘンケはひとりひとりの顔を見据えて言った。
「殺し屋たちが近づいてきたら足を撃て」
ここで犬を皆殺しにされるようなことにでもなったら、新冠アイヌや静内アイヌたちのように、この土地から立ち去らねばなるまい、と力を込めて言った。
「決戦だな」と、シュクシュンが口を尖らせたが、しかし、常に痛めつけられてきたアイヌたちには、後に続く弾んだ声は上がらなかった。
シュクシュンを先頭に、シンホイたちは猟犬《セタ》を連れて滝の沢へ猟に出かけた。仕留めた獲物は人と犬たちが食べつないでゆく糧なのだ。残った野犬たちの見張りには、腕におぼえのあるオコシップたちがあたった。
「目梨《めなし》沢と白樺林だ」と、ヘンケが見張り場所を指示した。目梨沢にはコタンに通じるけもの道があったし、白樺林はポロヌイ峠から登ってくるとぶつかるところだ。オコシップたちは楢の大樹に足場を作った。
いつ襲ってくるともしれない相手の見張りは、いっときの油断もならないが、陽光に照らされてついうとうとする。風に揺られ、山鳩の鳴き声を聞いて一日を過ごす。監視は夜も続けられた。
「腑抜けども、早う来ればええによ」睡気がさしてくると互いに声をかけ合った。
狩猟も見張りも、山の生活は順調に始まっていた。五月の山はうららかだった。小鳥の囀《さえず》りに目を覚し、一日が終ると梟の鳴き声を聞いて枯葉の中にもぐり込んだ。ほとんど動きのない夜の監視は目梨沢一カ所だけに絞られていた。
「暢気《のんき》なもんだ」と、シンホイが言い、「もう帰りたくねえな」と、シュクシュンは粟で作った即席の濁酒を飲んで朗らかだった。
山に来て五日目だった。目梨沢から堂々と登ってきたヤエケたち三人が沢の入口に現われ、
「われわれは開拓使の命令でこの山を訪れた」と、責任者らしい男が格式ばった声で言った。
「すべての犬をここに引き出し、役所の処置に従うよう命令する」
「開拓使がなんだと」はじめにヘンケエカシが口を切った。同時に天に向けたカイヨの銃口からぱっと赤い火が吹き、轟音が山いっぱいに轟いた。
「さ、どっちが勝つか、ここで決着をつけるべえ」と、オコシップは引き金に人差指をかけて睨みつける。重苦しい沈黙が続いた。銃声を聞きつけ、狩猟に出ていた連中が笹藪の中を転げるように引き返してきた。
「どうせおいらは、とっくの昔に死んだ身なんだ」と言って、オコシップは二つの薬莢《やつきよう》を左手の人差指と中指の間に挟んだ。
「開拓使の命令を、どうしても聞けないとな」男は念を押した。
「犬の命も人間の命も同じだと言ってるんだ」オコシップが一歩前に踏み出すと、殺し屋たちはその分だけ引き退がった。しかし、彼はなおも力強く踏み出してゆくものだから、彼らは坂を下だるようにずるずるどこまでも退いて行った。
「うまくいったもんだ」ヤエケたちが目梨沢に消えてしまうと、シンホイたちがどっと歓声を挙げた。即興歌《ヤイサマネナ》の好きな彼は、
われらアイヌの勇者たちは
目梨沢をのぼってきた殺し屋どもを
たわいもなくおっ払った
猟犬《セタ》はアイヌの大事な宝
悪魔どもの餌食《えじき》にされてたまるもんか
と口ずさみながら、その辺りを踊り回った。シュクシュンもシンホイもいっしょになって、輪は大きく広がってゆく。だが、オコシップはその陽気とは反対に、心がしだいに重く沈んでいった。彼らがこのまま引き退がるとは思われなかった。
オコシップとヘンケエカシはその日のうちに、浦幌太の西田徳太郎のところに駆けつけた。彼は大津にある旅館のように大きな木造の家に住んでいた。あたりの茅原はきれいに刈り払われ、縦横に排水を掘って乾いた土地が出来ていた。厩《うまや》も納屋も見上げるほど大きかった。
「まるで松前御殿だ」オコシップはまだ見たことのない松前の屋敷を頭に描いた。わずか四、五年の間に浦幌太の風景はすっかり変っていた。
オコシップたちは上框《あがりかまち》に腰を下ろして西田徳太郎の現われるのを待った。牧夫や下働きのアイヌたちが家の前をぞろぞろ通ってゆく。馬が通り、豚が通る。
「おう、おう」と、ピカピカ光る着物をまとった彼は、いかにも親しげに如才なく二人を迎えた。ヘンケエカシはさっそく猟犬《セタ》が狩猟にどれほど大事なものであるかを説明し、このたびの野犬狩りは目的を十分に果たしたことを静かに話した。
「まだ二十匹はいると聞いたがな」彼の目は一瞬、エレキのように輝いた。
「十七匹、これはどれも必要な猟犬《セタ》なんだ」
村田銃を肩にかけたオコシップは、獣の臭いをぷんぷんさせた体を前に乗り出して言った。しかし、西田徳太郎は腕組んだまま応えなかった。
「野犬狩りは万事がうまくいった、と役所に申し出て欲しくてな」と、オコシップが言った。西田のひと声があれば、すべてがうまくゆくのだ。
だが、彼はしぶとかった。開拓使に野犬狩りを要請したのも、殺し屋を部落《コタン》に止どめて長期戦に備えたのも、みんな彼の仕業なのだから、その彼が易々と引き退がるとは思われなかった。話し合いは何度も振り出しに戻って繰り返された。
「結着がつかねばしょうもねえ、猟犬《セタ》の命はおめえと引き替えだ」と、オコシップは声を荒げて叫びたて、銃を鼻先に突きつけた。彼は体を弓のように反り返して銃先をつかみ、それを床に押さえつけて「何の真似だ」と言った。しかし、力に勝るオコシップはねじ上げるように振り払ったので、彼はその反動でのめくった。
「どっちだ」と、オコシップは床をだんと踏んだ。ギラギラ光る銃口が彼の頭を狙っている。
「そうムキにならんでも」と、彼は言った。賢《さか》しい西田徳太郎は素早く体をかわしたのだ。
「今後、被害を出さない保証はあるか」と、彼は体をよじるようにして、おだやかに言った。
「あるとも」と、オコシップは答えた。猟犬《セタ》を家に繋ぎとめておくのもいいし、野良犬をつくらないことも肝心だ。力をこめて言うオコシップの話に、西田徳太郎は体をよじったまま、ひとつひとつ素直に頷ずく。
「肝心な交渉なんだ」ヘンケエカシは戸口に群がる見物人たちを追っ払って、腹の底から陽気だった。
その晩、オコシップたちはヘンケの家でうまい酒を飲んだ。シンホイやシュクシュンたちも臭いをかぎつけて集まってきた。
「殺し屋どもは、あのまま退いて大津へ逃げ帰ったというぞ」シュクシュンたちは涎《よだれ》を垂らし、もう体を支えきれないくらい酔っていた。
「慈悲深いキムンカムイ(山の神)が、タイチ(平地)のまわりに毒グモの糸を張りめぐらしてくれたんだよ」と、シンホイ爺さんが言った。
浜の方でけたたましい犬の鳴き声がした。声はペウタンケ(神呼び)のように河口から丘陵の方に向かって伝ってゆく。
「コタンは生き返ったぞ」シュクシュン爺さんは入り口の戸を開けて野犬たちの声に耳を傾ける。鋭い声が闇を引き裂くように飛んでゆく。
「走れ、走れ、仔馬をくわえてどこまでも走れ」ヘンケ爺さんたちは手を叩いて笑い転げた。
25
山は新緑に覆われていた。午後の太陽がトンケシ山の上をぐるぐる回っている。そよ風が通り過ぎるたびに、楢や柏のみずみずしい若葉が光を放った。オコシップは光の中を滝の沢づたいにどこまでも下だって行った。
彼の獲物袋には兎と狐と山鳥が入っていた。それをずり上げながら川底の岩盤を踏んでようやく滝が流れ落ちる崖縁に立った。眼前に広い灰色の太平洋がひらけ、潮風が下の方からどっと吹き上げてきて息がつまった。
オコシップはここから見る眺めが好きだった。彼はいつも崖縁に生えた二本の太い柏の幹に寄りかかってしばらく休むのである。弓なりにしなった渚のずっと先には、日高の襟裳《えりも》岬が海に突き出し、その反対側には昆布刈石の岬があり、その向こうには白糠《しらぬか》の岬が青黒く光っていた。
オコシップにはそのもっと先の根室が靄《もや》の中に見えてくる。首をはねられた曾祖父マメキリと、刺し殺された父レウカが血の気のない顔で現われ、ひとことも言わずに靄の中に消えてゆく。いつもそうなのだ。
普段なら、ここから崖縁に沿って歩くのだが、彼は身動きもせず、豆粒のような渚の人影にじっと眼をこらしていた。人影は十勝太に向かって歩いてゆく。サラニプを提げ、素足で急いでいた。
「モンスパに違いない」と、声に出して言った。大声で呼んでみたが、声は潮風に吹き戻されて中空に消え失せた。彼は人影といっしょに移動しながら、村田銃を天に向けて発砲した。同時に彼女の足は止まった。そして、崖の上で村田銃をふりかざすオコシップを見上げ、手を振って応えた。モンスパだった。
オコシップは身をひるがえし、岩盤から岩盤へ飛び移って獣みたいに崖を下だった。
「あれえ」と、モンスパがたまげている。オコシップはものも言わず、村田銃を砂の上に放り投げると、モンスパを抱きかかえたまましばらくの間離さなかった。
「出稼ぎはこれで終りだ」と、オコシップは強い口調で言った。はじめて出稼ぎに出てからもう五年近くなる。その間、これが三度目の帰省だった。前の二度はモンスパの兄テツナもいっしょだったのに今回はいない。彼はこの春、親方の遠縁にあたる娘と所帯を持ち釧路に落ちついた、とモンスパが言った。
「和人《シヤモ》か?」と、オコシップは無愛想に聞いた。
「愛し合ってたんだもの」と、彼女は沈むような声で答えた。一瞬、彼は立ち止まったが、「裏切り者!」と、吐き捨てるように言って、がっと唾を吐いた。
最後まで和人に抵抗し続けて死んで行った両親の屍にとりすがって泣いたのは、五年前だった。そのテツナがどうして――。
「親不孝者!」と、オコシップはふたたび叫びたてた。二人はそのまま口をつぐみ、十勝川の河口に来てもまだ言葉を交さなかった。
「モンスパだあ」子供たちが駈け出してきて、彼女をめずらしそうに取り囲み、それから後ろにくっついてぞろぞろ歩いた。故郷はあたたかく眼の前にひらけた。モンスパはほっとして溜息をついた。
モンスパの帰省にオコシップの家は急に賑わった。母のエシリは彼女の手をとり、いつまでも撫で回して懐かしみ、妹たちは子供のようにはしゃぎながら、シトギ(だんご)やチポロサヨ(筋子|粥《かゆ》)を作った。隣りの家の娘たち、ウリュウやイクルたちも押しかけてきて、その晩は賑やかな夕飯となった。
「うんと食べてけれ、ここはおまえの家なんだから」エシリは濁酒を注いだり、チポロサヨを勧めたりして振る舞った。
娘たちの中ではいちばん年頭《としがしら》のイクルが真っ先に酔って、「元気をつけて、和人の脛に噛じりつけ」と叫んで、みんなの茶碗に濁酒を注いで歩いた。
その横から浮かれたウリュウが|たも網《ヽヽヽ》を持ち出し、「ひっ捕え、ひっ捕え」と言って、追いかけ回す。逃げているのは悪どい和人たちである。
「地獄へ落ちてしまえ」と、カロナが真っ先に頭から網をかぶせられ、手足をばたばたさせて死んでしまった。ウリュウはさらに元気な和人に襲いかかる。だが、しぶとく逃げ回られてなかなか捕らなかった。
「西田の野郎」と、イクルが言った。しかし、ウリュウとイクルがウフツを両方から挟み撃ちにして、横へそれようとしたところを、頭からすっぽりかぶせてしまった。西田役のウフツは眼を白黒させ、「参ったであ、参ったであ」と、息をきらして南部訛りで言った。それがおかしいと、エシリたちはその辺を這いつくばって笑い転げた。
和人を打ちのめす捕物ごっこは、それからしばらく続いて賑わったが、その間もエシリはモンスパに食べ物や飲み物をすすめ、懇《ねんご》ろにもてなした。
「こんなによくしてくれて」と、モンスパは上手なお世辞も言えずに、ただ頭を下げるばかりだったが、彼女の腹の底には和人と結婚した兄テツナのことが重苦しく溜っていた。こんな巡り合わせになってしまった兄が不憫でたまらなかったが、それよりもオコシップの怒りが恐かった。
テツナの結婚を聞いたときから、渚を歩いてくる間も、家に帰ってみんなでくつろいでいる間も、オコシップの顔はいちどもほころばなかった。
何も知らないウリュウが、「モンスパは器量よしだから、和人《シヤモ》たちにもててもてて」と、頓狂な声で言った。
「振り払っても、しょうこりもなく追いかけてきてな」娘たちの騒ぎ立てる声にしばらくどよめいたが、炉縁で濁酒を飲んでいたオコシップの眼が、吊り上がってゆくのがモンスパには分った。
「余分があったら、おらにも回して貰いてえもんだわ」イクルは羨ましげに言い、わざと指をくわえてみせたが、その口尻からほんとに涎《よだれ》が長い糸をひいたものだから、笑い声がどっと起こって賑わった。
「淫売婦《カヌンチ》ども!」と、突然オコシップの大声が家じゅうに響き渡り、娘たちは坐ったまま三尺も飛び上がった。
「文化に眼がくらんだ腑抜け野郎、和人《シヤモ》がよけりゃ、とっとと、くっつけばええ」彼は弾かれたように立ち上がると、そのまま床を踏みならして寝床の方に立ち去った。
「虫の居どころが悪かったんだよ」と、エシリは静かに言った。「冗談と知っていても、ついかっとなって」と言いながら、亭主レウカが癇癪《かんしやく》を起こしたときと同じ仕種だなと思い、それがエシリにはうれしかった。しかし、モンスパは声を噛み殺してひと晩じゅう泣き通した。
26
湿原には菖蒲《あやめ》や萱草《かんぞう》が咲き乱れ、なま暖かい風が吹いて十勝の六月はもうすっかり夏だった。雨上がりで朝から晴れ渡っていた。オコシップたちは丸木舟に乗って蕗採りに出かけた。彼は艫《とも》で舵をとり、母のエシリと妹チキナンは舳《へさき》で漕いでいた。
十勝川から浦幌川に入ると川がせばまり岸の柳がうるさく顔に纏わりついてくる。足場のよいところを見つけて陸に上がった。なだらかな浦幌山がすぐ眼の前にあった。川岸から山麓に向かって茅がきれいに刈り取られ、その中に草屋がぽつんと建っていた。
「こんなとこまで入りこんで来て」と、エシリが辺りを見渡してたまげている。家の周りの川岸付近は耕されていて、五、六寸にのびた青い畝《うね》が長く続いていた。作物に見識のないオコシップたちは「麦らしいな」と言いながら、そこを通り抜けようとしたときだった。草小屋から飛び出してきた小柄な男が、「だ、だ、だ」と叫び立てて、こっちに向かって走ってきた。オコシップたちは畑の真ん中に立ったまま男の近づくのを待っていた。
男は刺子を藁縄《わらなわ》でくくりつけ、がに股で、おまけに素足だった。額がせまく口が尖ってイタチみたいな顔だった。男はわずか一間のところで止まった。
「ここは畑ぞ、ここは畑ぞ」と、二度くり返し、握りしめた拳骨で空《くう》を叩きつけた。しかし、オコシップにはそれがどういう意味なのか、まるで理解ができないのだ。
「おれの土地ぞ、入ってならん」男はざらざら声を張り上げて、こう言い直した。
「アイヌモシリ(人間の土地)がおめえのものだと」オコシップはにやりと笑ったが、イタチのような男はむっとした顔になり、拳骨を振り上げて飛びかかってきた。しかし、オコシップの岩のような腕力は、あっけなく男をねじ伏せた。彼は土に顔を押しつけられたまま、口をひん曲げて「糞アイヌ」と叫んだ。
「もいっぺん言ってみろ」剥き出した眼と毛むくじゃらな腕におじけづいて、男は芋虫のように足を縮め、ころんと丸まった。
「降参したふりしてな」と、エシリが怒りを込めて言った。海や川から陸に上がってきた和人たちは、あと十年もすれば、西田みたいに畑だらけの中を大手をふって歩いているかもしれないと思った。
ちょうど原野の向こうから澄みきった風が吹いてきて、青い麦の頭をさらさら撫でて通り過ぎる。男は突然、息を吹き返したように畑の中にぴょんと跳び立つと、背中を丸めてイタチのように逃げ出した。後ろも振り向かずに鉄砲|弾《だま》みたいに逃げてゆく。
「ホッチャレ野郎!」と叫んで、オコシップは逃げてゆく男の背中にペッと唾を吐き捨てた。
川沿いに太い柳が続いていた。その下に入ってゆくと、うす緑のすき通った長い蕗がぞっくり立っている。折り重なった広い葉の上から光が洩れて、中は蒼白い月の世界だ。鎌で根もとをざくっと切ると、その切り口から青い水がしたたり落ちる。ざくっざくっと切り、葉をうち払って足もとに蕗の山がいくつも出来上がってゆく。
「蕗の葉の下にコロポックルが住んでいたんだよ」と、母のエシリはチキナンに昔を懐しむように話した。
「背が低くて、お人好しでね。アイヌにはとても親切でいつも姿を見せずに獲物を届けてくれるんだよ」
「そんないい人たち、どうしていなくなってしまったの」と、チキナンが訊ねた。
「それがね、アイヌの家々に獲物を配って歩いているとき、その手があまり美しいので、ある心ない男がその美しい手をつかんで中に引き入れてみたら、裸の女性だったんだよ、コロポックルたちはアイヌの無礼を怒り、その後、間もなくどこかへ去って行ってしまったんだよ」蒼白い月の世界の中で、コロポックルの物語は悲しく切なく話された。
「可哀想なコロポックル」と、チキナンは目を潤ませる。透き通った緑色の蕗を刈りとってゆく彼女は、ここからいつまでも離れたくないように沈んでいた。
太陽が日高の山にさしかかろうとしているころ、オコシップたちは丸木舟に蕗を山に積んで十勝川を下だった。向こう岸をハルアンの舟が下だってゆく。
恐ろしや 情けなや
風の音に気をとられている間に
鹿や狐が姿を消して
馬や牛が跳ねくり回った
恐ろしや 情けなや
野犬が馬に噛みついたといって
殺し屋が 鉄砲と毒餌をつかい
罪のない猟犬《セタ》まで殺し回った
ハルアンの即興詩《ヤイサマネナ》は川面を渡る風に乗ってどこまでも響き渡った。舟がハルアンの丸木舟を追い越そうとしたとき、
「猟犬《セタ》のことなら、西田と話がついてるんだ」と、オコシップが大声で言った。
「和人《シヤモ》を信用するとな」ハルアンは顔をしかめて首を振り、「煮え湯を飲まされ通してきて、まだ性こりもねえ」と言った。
「鉄砲をつきつけ、命がけの取引きをしたんだ」ハルアンは耳が遠かったので、オコシップは手をラッパにして叫んだ。しかし、ハルアンはなおも首を振り続け、「オドイペ(尾の切れた犬=まぬけ者)」とひと声叫んだまま、遠く離れてしまった。
山鳩が鳴いていた。デデッポッポー、デデッポッポーとポロヌイ峠の方から聞こえてくる。鱒獲りに疲れたオコシップは魚の血汁のしみついた厚司《アツシ》を着たまま、家の前の青葉のこんもり繁ったアオダモの下で眠っていた。ごろんと寝返りをうつと、だんごのように塊っていた銀蠅たちが、ぶんと羽音をたてて飛び上がった。原野を吹き抜けてきた風が通りすぎるたびに、彼は厚司の裾を蹴上げて風を入れた。
子供たちが浜からハルアンの歌を歌いながらやってくる。
可哀想な猟犬《セタ》 不憫な猟犬《セタ》
猟犬は殺し屋どもに撃たれ
口から血を吐いて死んでいった
可哀想な猟犬 不憫な猟犬
猟犬は殺し屋どもに毒殺され
体を痙攣《けいれん》させて死んでいった
聞きながら、オコシップはまだ十七匹も健在なんだ、と思った。
子供たちの中にリイミ婆のところの孫のトミやハセも入っていた。
オコシップは睡い眼をこすりながら、「猟犬《セタ》は兄弟なんだから、大切に育てて強い猟犬にせえ」と言った。
「熊に勝てる猟犬けえ」と、トミが聞き返した。
「熊だけでなく、寒さにも飢えにも勝てる猟犬だ」と、オコシップは答えた。
子供たちは峠の登り口から引き返したが、小高い丘の茅原をくぐり抜けて菊村純平の畑の縁にとまった。
「昨日はここだった」と、トミが口を尖らせて言った。
「一昨日《おととい》はここだった」と、股まで泥だらけの男の子が言った。一日一日、家に近づいてくる耕作の目印に立てた柳の棒が点々と立っていた。
「あと、三歩だな」と、ボロの着物をまとった女の子が言った。三歩で戸口に届けば出入りも出来なくなるのだ。子供たちはうらめしそうに黒々と続く広い耕地を眺めていた。
その翌日、リイミはとうとう我慢ができなくなり、このせばめられた戸口から髪を振り乱して狂ったように飛び出して行った。
「川も陸もみんな奪《と》られてしまった。何もかもみんなぶち壊され、もうおれたちには何もねえ」リイミは、はじめ菊村純平の草小屋の前で叫びたて、それからカイヨ、ハルアンと続いて、最後に河口にいちばん近いヤエケの小屋の前に立った。
「和人《シヤモ》とぐるになって、コタンをこわした悪党はおめえなんだ。最初に海と川が奪《と》られた。その日の暮らしに迷っている間に、言葉や名前やアイヌぶりや生活のすべてを奪《と》られてしまった」リイミはうつろな眼を見開き、息をついで続けた。
「このごろときたらどうだ。あっちにもこっちにも和人《シヤモ》が入り込んできて、猟区《イオロ》は荒らされ、しまいに家の軒下まで耕やされて住むことも出来なくなってしまった」
彼女は立っていることもできずに流木にもたれかかった。
「鹿も鮭も満足に食べることができず、山菜と小さな川魚で細々と命をつなぎ、大人も子供もホッチャレのように弱ってしまった。去年は娘が死に、今年は孫が死んだ」
リイミは歌うように言って涙を流した。ちょうど防風《ぼうふう》(植物名)採りに行って通りかかったエシリが「どしたべか」と言って、彼女を抱き起こした。
「情けなくて、情けなくて」と、リイミは咽《むせ》びながら、菊村の畑が戸口まで食い込んできてもう歩くことも出来ないと言った。
「弱気を吐かんとな、おめえがしっかりせんとどうする」
エシリは泣き叫ぶリイミを抱きかかえて家へ連れ帰った。
しかし、このごろの望みない生活に、リイミは日毎に落ち込んでゆくばかりだった。
海雨《ジリ》(霧より大粒の雨)が降っていて肌寒い朝だった。
「リイミ婆さんの家が火を吹いた」と、娘のチキナンが叫んだ。エシリはまだ床の中に入っていたが、「やっぱり」と呟やいた。
リイミの家は肥沃な土地にあった。野草が密生しているので、牛や馬が集まってきた。西田徳太郎の小作人菊村はこの辺の黒土に目をつけ、丘の斜面から十勝川に向かう一帯を手に入れたのだった。
菊村は立ち退きの交渉に、はじめ焼酎を持って現われた。リイミの亭主カイヨの頑固な抵抗に合って、こんどは西田がじきじきにやってきた。
「ここは父親の、その前の父親の、もっと前の父親の時代から住んでいたんだ」と、カイヨはどこまでも突っ張った。
「前の時代はここでうち切って、今から新しい時代が始まるんだ」と、西田徳太郎は当たり前のことのように言った。
「新しい時代とは、アイヌモシリ(アイヌの土地)を奪いとってしまう時代とな」
「土地が欲しけりゃ、おめえも役所へ願い出ればいいだよ」
西田は煙草の白い煙を天上に吹き上げて言った。
「家《チセ》も猟区《イオロ》もカムイからの授かり物、まして野や山や川を自分だけのものにする和人《シヤモ》の考えは、恵みをすべてのアイノ(人間)に与えようとするカムイの心に逆らうものだ」
「寝言《ねごと》だよ」西田はふんと鼻で笑って帰って行った。
そのときから菊村の強欲が露骨に出てきた。
「この土地はおらのものだ。木を伐っても、茅を刈ってもならん」
「おらたちはどしたらよかべ」
途方にくれたリイミに、
「あっちにあり余るだけ土地はある」
菊村は湿地帯を指さして言った。
コタンの世話人ヘンケエカシが仲に入ってなんとかしようとしたが、菊村は「役所へ行って聞いてみろ」と言って、取り合ってはくれなかった。
「いっそお父《とう》の出稼ぎ先、釧路《くしろ》へ出て――」
リイミ婆は頭をかかえ、ぽつんと言ったものだ。だから、エシリは「リイミの家が燃えている」と聞いただけで、すぐに思い当たったのだ。
エシリたちが駈けつけたとき、リイミ婆と子供たちは燃えさかるわが家の傍にぼんやり立っていた。
「気が狂ったとな」エシリはリイミに向かって吐き出すように言った。
「家《チセ》といっしょに、何もかも焼きつくして、さっぱりした気持ちで釧路さ行く」
リイミ婆は泣き腫らした眼から、大粒の涙を落とした。
コタンの人々が大勢集まってきたときには、焼け落ちた屋根がぶすぶす燻《くす》ぶっていた。ときどき茅がはじけて火の粉が空高く飛び上がった。
「達者でな」リイミと長い間いっしょだったエシリやトレペやサロチたち婆さん連中は、かわるがわる抱き合って泣いた。
海雨《ジリ》がいちだんと激しさを増してきた。鳥ががおがおと鳴きながら河口の方へ飛んで行った。
「空も鳥も泣いてるだよ」と言って、トレペ婆が厚司の襟で涙をぬぐった。
「ここには、おめえたちの血がしみついているだからな」と、エシリが改った声で言った。
「忘れねえよ」と、リイミ婆は振り返って答えた。
彼女は鹿皮を背負い、娘のイクルは穀物らしいものの入ったサラニプ(背負い袋)を重そうに担いでいた。その先頭に立って歩く孫たちも手に手に小さな袋をぶら下げている。コタンの人々はリイミ婆たちが河口の方に消えてしまっても、まだ燻ぶる火の傍に立ちつくしていた。
27
「牛が網を盗《ぬす》んだあ」と、子供たちが叫んだ。昼飯を食べていたオコシップが跛《はだし》で外へ飛び出してみると、角《つの》に刺し網を巻きつけた牛が、その端の方を引きずりながら、横っ跳びに茅原の方に走っていた。網干し場に入ってきた牛が角に網をからめたのだ。
「それっ」と、オコシップはシララに向かって気合いをかけた。
シララは鉄砲弾のように、ハマナス原を駈け抜け、茅原に向かって突っ込んでゆく。間隔はみるみる縮まり、茅原に入って間もなくシララは牛を完全に捕えた。彼の最初の一撃は後足の腱《けん》だった。猟犬は鋭い歯で同じところを三度噛んだ。牛はよろめいて尻の方から倒れた。シララは網をかぶった牛の前に回り、こんどはその喉を狙った。牛は頭を振って逃れようとしたが、シララの牙は喉笛深く食いこんだ。どす黒い血が湧き水のように吹き出す。
オコシップが駈けつけたときには牛はもう虫の息だった。「りっぱな証拠だ」と、オコシップは網に眼を落として言った。牛は網を頭にぐるぐる巻きつけたままのめくっていた。
翌日も、その翌日も、あの蛇のように執念深い西田徳太郎は姿を見せなかった。三日目の朝、オコシップは茅原の方へぶらぶら歩いて行った。牛の亡骸《なきがら》のある方から烏が五、六羽飛びたった。彼は遠くから眺めようと斜めに丘の方に登ってゆく。この暑さだもの、蛆《うじ》が湧いているかもしれないと思った。覗き込むように歩いていたオコシップは丘の中腹で足を止めた。亡骸がどこにも見当たらないのだ。彼はゆっくり丘を下りていったが、その辺りの草が地べたに倒れているばかりで、亡骸はそっくりどこかに持ち去られていた。証拠となる網もなかった。西田のやつ、尻尾《しつぽ》を巻いたな、と思うとオコシップは急にうれしさが込み上げてきた。
「命との引き替えだもの、網がどれだけの値打ちか思い知ったべ」オコシップは呟やきながら、ぶらぶらと引き返した。
「親方は元気か」ちょうど向こうからやってきた、西田牧場の牧夫イホレアンに聞いた。
「おらあ、なんも知らねえ」イホレアンは後ろも振り向かずに行ってしまった。
その晩、海霧が深く立ち籠ていた。突然、入り口の戸が開いて男たちが六、七人|崩《なだ》れ込んできた。
「なんするべ」エシリが叫びたてたときには、すでにオコシップは両脇から取り抑えられていた。彼らは赤い肩章や襟章をつけた軍服をまとい、黄色い線の入った紺の軍帽をかぶっている。オコシップには見覚えのある服装だった。「屯田兵《とんでんへい》」と言い、もう何年も前に馬に乗ってこの海岸を通ったことがある。あのとき、任務は北の防衛で、第一にロシアの進攻、その次はアイヌの反乱と言ったが、それも知らずにハルアンはアイヌモシリを攻める悪い和人たちのユーカラを歌って聞かせたものだ。
「動くな」モンスパやチキナンが立ち上がろうとすると、うす暗い灯火《ラツチヤク》の向こう側から腹にたまる声がした。
「犬を曳き出せ」と、隊長らしい男が言った。猟犬たちは異状を察し、庭の隅にうずくまって、う、う、う、と唸った。厚い手套《てとう》を穿《は》いた男がクンネとシララを土間の中央に引きずってきて押さえつけた。
「やめてけれ」と、エシリはしぼるような声で哀願した。しかし、彼らは容赦なくその脳天に狙いを定めて撃ち込んだ。銃声が鳴り響いて家がぐらぐら動き、エシリやモンスパたちはその場にわっと泣き伏した。硝煙が消え失せたときには、猟犬たちの体に走った痙攣《けいれん》もなくなり、クンネとシララは獲物のようにぐったり折り重なっていた。
「何をするとも分ったもんでねえからな」と隊長らしい男は言い、壁際にぶら下がっていた鉄砲を取りはずすと、いきなり太い柱に打ちつけて、遊底のところから二つにへし折った。
「悪魔!」
ぞろぞろ引き上げてゆく屯田兵たちの背中にエシリは罵声を浴びせた。忌わしい一瞬の出来事だった。
その晩、コタンじゅうの猟犬は一匹残らず殺された。そして半分以上の猟銃がへし折られた。荒《あら》くれ漁師に屯田兵の服を着せてコタンを襲ったという噂が流れた。しかし、それが偽物だろうと、本物だろうと、どっちみち同じことだ。西田徳太郎の思いのままにコタンは確実に潰されてゆく。
28
星が出ていた。エシリたちはおひょうの皮(厚司の原料)を盛り上がるほど背負って山を下だった。おひょうの外皮と内皮を選り分けるのに時間がかかり、山を出るころには、日はとっぷりと暮れていた。
「あの星がスワラノチウ(宵の明星)だよ」と、エシリが西空に輝く金色の星を指さして言った。
「栖原《すわら》は苫前《とままい》漁場の請負人の名前だったんだよ。漁の最盛期になると、アイヌたちを昼も夜も休むひまなく追い回し、日がとっぷり暮れ、西の空に宵の明星がきらきら光るころになって、やっと食にありつくことが出来たんだ。それであの星のことを『栖原の星』と言うようになったんだよ」と言った。
彼女はモンスパやチキナンに、夫をクンチ(強制徴用)にとられた若妻の悲しい思いを歌って聞かせた。
日がとっぷり暮れて
スワラの星が
めぐり歩く夜中
わたしは食もとらず
ただ 臥していた
雪が降って 山ユリが咲いて
それから何年か過ぎた
木枯しの吹く うそ寒い日
クンチに出たアイヌたちの
帰還の噂が流れた
だが わたしの愛しい夫よ
あなたは異郷の地に
屍を捨てたと聞きました
エシリはときどき足を止め、息をつないで歌った。その声は山麓にかかった露のように、静かに湧き起こり、静かに流れた。
灯火《ラツチヤク》の光が窓の隙間からかすかに漏れていた。
エシリたちが戸を開けたとき、「糞ったれ」と、オコシップは吐き出すように言った。彼は猟犬のことが諦めきれずに、手当たりしだいに罵しった。
「西田を殺しても、第二、第三の西田がぬっと顔を出してくるんだ」投げやりに言って、どんと床を蹴った。
「お父《とう》がクンチに出てゆく朝、オコシップは天翔《か》ける大鷲のように強くなると言ったぞ。へこたれてどうする」
エシリは張りつめた声で言った。だが、そう言うエシリも、それを聞くオコシップやモンスパも、コタンにふたたび昔ののどかな暮らしが戻って来ないことは知っていた。
明治になって、場所請負人が廃止になったとき、オコシップたちは「アイヌも和人も平等になったぞ」と言って喜んだものだが、「獲った鮭は平等に分ける」と言ったことも、「開発はしてもアイヌを追い出すようなことはしない」と言ったことも、どれもこれもみんな嘘だった。西田が海の向こうから呼んできた小作人や親戚の数だけでも、もうとっくにアイヌを追い越している。
土地はアイヌ(人間)みんなのものであるべきなのに、「この土地はおらのものだ」と、和人たちは口を揃えて同じことを言った。小作人の後ろには狼のような西田の眼が光り、そのもっと後ろには毒蛇のような役人たちの牙が光っていた。
アイヌたちはじりじり追いつめられ、はじめに旅来《たびこらい》のサロッテとトラセがコタンを離れ、つい先ごろにはリイミ婆たちが北の方(釧路《くしろ》)へ流されて行った。
「どこへ行っても昔のコタンはもうないだよ、わしらは和人にどんなに嬲《なぶ》られても、しぶとく歩き続けるほかに道はないもの」と言って、エシリはしきりに首を振った。
「踏みつぶされた毛虫のように、腸《はらわた》をひきずって歩いてるみたいだ」と、チキナンが沈んだ声で言った。
「それでも歩き続けるんだよ」と、エシリは厳しい顔になる。
灯火《ラツチヤク》がぱちぱち音をたてて燃えていた。その向こう側で酒を飲んでいたオコシップは腕をかかえてうずくまっている。もう西田を罵しってはいなかった。
「オコシップ」と、エシリはきちんと坐って言った。彼女はオコシップが少しでも気の落ちついているときに言おうと思っていた。
「モンスパの体が二つになったぞ」
オコシップはすぐには呑み込めない様子だった。
「モンスパが身籠もったんだよ」と言って、エシリは自分のお腹《なか》をぽんと叩いた。モンスパは「あれえ」と言い、顔を手で覆って横を向いた。
「めでたいこったに、なんで恥ずかしいべ」と、エシリはその手をとって自分の懐の中に入れた。チキナンやウフツがかわるがわるモンスパの腹に触ってはしゃぎ回った。
「あまりいじると、赤ん坊の顔に痣《あざ》が出る」と言って、モンスパは笑った。
長い間沈んでいたオコシップの顔に、ようやく笑みが戻った。
「祝い酒だ」と言って、エシリが濁酒を茶碗になみなみと注いでみんなに配った。明日は朝早くコタンじゅうに触れ回らねばならない、とエシリは思った。
「大鷲のような強い子を産め」オコシップは腕をぶるんと振り回して言った。歌ったり踊ったりして、夜遅くまで賑わった。
翌日はあいにく雨になったが、オコシップはその中を旅来《たびこらい》まで出かけていって猟犬《セタ》の仔犬をもらってきた。仔犬のことは十日も前に聞いていたが、昨夜祝い酒を飲んでいるうちに勇気が出てきて、いっときも早くもういっぺん初めからやり直そうと思ったのだ。
アイヌ犬の血をひく雌犬だった。仔犬を入れようとサラニプを持って行ったのだが、あまり可愛いので懐に入れた。仔犬は懐の中でくんくん鼻をならした。いまに耳をぴんと立て、後足をがっと張って獲物を狙うだろう。オコシップは勇ましい姿を思い浮かべて眼を輝やかす。「エミクホロケウ(吠える狼)」と、彼は声に出して呼んだ。
ウツナイ原野に入ると雨はいっそう激しさを増してきた。茅の葉末からしたたり落ちる青い雫が夕立のように降ってくる。頭からずぶ濡れだったが、仔犬を抱いた腹の辺りだけはほかほかだった。
ウツナイ川を渡って右に折れ、踏み固められたけもの道に入って三日月沼の方に向かう。この辺りは鹿や狐がうようよしていたところだが、一匹の獣にも出会わなかった。野地坊主《やちぼうず》と茅原のつづく湿原を彼はただすたすたと歩く。眼の前に青い水をたたえた三日月沼がひらけた。
雨は小降りになっていた。オコシップは沼縁に立って四方を眺め回した。サクサンの小屋のあった辺りは、もとの深い茅原になって、焼け跡も小屋に通ずる小径も跡かたもなく消え失せていた。沼岸にはサクサンが使った丸木舟が沈んでいて、舳《へさき》が手をさし伸べたように水面に突き出て、三角波がそれを叩きつけていた。
サクサンたちが死んでから後も、少しも好いことはなかった、とオコシップは思った。和人たちの安住の地が着実に出来上がってゆく中で、アイヌたちは昼夜働きづめでようやく命をつないできたのだ。
オコシップは原野の向こうの雨にけぶる十勝太のコタンを眺めていた。丘陵の山麓には屋根が欠け落ち、疲れきった家々が建ち並んでいる。
「このまま朽ち果ててたまるもんか」彼は呪うように呟やく。
「騙し討たれたコシャマインの血を、シャクシャインの血を、もういちど吹きたぎらせて見せる」
オコシップは仔犬に頬ずりし、「噛みつくんだ、和人《シヤモ》たちが息絶えるまで決して離してはならんぞ」と言った。
彼は大鷲でも、吠える狼でも、新しい芽生えがうれしかった。ここを乗り越えれば踏みこたえられるかもしれない。クンチに出たまま殺された父レウカのことや、山に籠った叔父サクサンのことを、これから生まれてくる子供たちにも言い伝えねばならないと思った。
雨が上がって西の空が茜《あかね》色に染まった。いつも見馴れている原野のある西空も日高の山脈も色鮮やかに浮きたって見える。おだやかな眺めだった。
「アイヌモシリに、アイヌが住めないということがあってたまるもんか」
オコシップはコタンに向かって、力強く歩き出した。
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第二部 抵抗篇
1
ばやばやと海の方から西南風《ひかだ》が吹いてきて、雪に覆われた原野は見渡すかぎり飴色《あめいろ》に変った。川岸に堆《うずたか》く積もった雪が、ざ、ざ、ざっ、と音をたてて崩れ落ちる。
だが凍てつく夜が明け、太陽が昇り始めるころ、広い氷原は無数の宝石を散りばめて美しく輝く。すると、コタンの人々は橇《そり》を曳いて堅雪を渡り、枯枝を拾ったり、榛《はんのき》や猫柳の新芽を摘みとって忙しく動き回った。
「これだけあれば、三日は食いつなげるによ」
六十歳を過ぎたエシリは腰を伸ばして伜の嫁モンスパを振り返った。
「お父《とう》が山鳥の一羽でも獲ってきてくれればね」
コタンは極度に飢えていた。
明治維新の変革はアイヌたちを場所請負人から解放させたが、同時に一切の保護と撫育からも解放させ、自由競争の荒海の中に放り出した。アイヌたちはその自由競争の中で喘《あえ》いでいた。
明治の初めから、じわじわ入りこんできた和人たちの開拓によって鳥獣は年ごとに減ったものの、それでもまだいくらかの獲物はあった。ところが未開拓の広大な土地を、ほとんど無償で民間に払い下げられた明治三十年頃からはアイヌたちの生活は貧困のどん底に沈んでいった。土地はカムイからの授かり物と考え、コタンの共有として首長が管理していたアイヌ社会では、土地の私有は想像もつかない事だった。
「どうしたことだ」
アイヌたちは呆然と四囲を眺めた。
どこまでも続く原野は耕やされて畑になり、山林は深い山奥まで伐り倒された。その頃、北海道の開拓は周辺から内陸部に移って、農業に重点が置かれていた。時の政府はアイヌに農業を勧め農民化する一方、同化教育によってアイヌを一日も早く和人に同化させようとしていた。内陸の開発によって、獲物たちは棲処《すみか》を失って山中をさまよい、狼たちは日が暮れると里に出て、ウォオーオーオーと、しわがれた声で吠えたてた。アイヌたちは村田銃を担ぎ、遠く阿寒《あかん》や足寄《あしよろ》まで出かけたが、ろくな猟はなかった。長い冬の蓄えまではとても手が届かず、その日を食いつなぐのがやっとで飢餓はもう何年も続いていた。
彼らは苦《にが》い木の芽をなんども灰汁《あく》出しをして食べたり、鹿皮でつくった履物《ケリ》を細く切り刻みそれに蕎麦穀をまぜ、充分に蒸《む》して食膳に並べた。しかし、それでも草が芽を吹く春はまだ遠く、とうとう猟犬《セタ》の肉にまで手が伸びるのだった。
「犬肉を食うとな、この罰当たりが」
エシリは、雪の橋を渡ってくるシンホイを睨んだ。
彼はロープでくくりつけた猟犬を女房に曳かせ、その後から長い柳の鞭で追いたてている。彼の肩には鉄砲の筒先が光っていた。猟犬は四つの足を踏んばり首を振って尻ごんだが、そのたびに撓《しな》った鞭が音をたてて猟犬の背中に食い込んだ。
シンホイたちが藪の中に見えなくなると、間もなく銃声が聞こえた。
「これで六匹目だな」
エシリとモンスパはそっと涙を拭った。
「許してけれ」と言って、シンホイもシュクシュンもサケムも大切な猟犬に向けて弾丸を撃ち込んだのである。
「恐ろしいことだ」と、モンスパは身を震わせて嘆いた。
雪に埋もれた十勝は、ことさら春が遅い。朝早くから家を出たオコシップは堅雪を渡り、目梨沢《めなしざわ》の方からカタサルベツへ真っすぐ突き抜けた。
「ぼやぼやしてたら融けてしまう」
山を登り谷を渡って急いだが、四十歳を過ぎたオコシップは息切れがひどく、途中で何度も楢の根っ株に腰を下ろしては呼吸を整えた。いっきに走り通したもとの体力はもうなくなっていた。
表面にうっすらと降り積もった銀色の粉雪が、履物《ケリ》に蹴散らされ、こぼれるように跳ね上がる。彼は堅雪が崩れないうちに中嶺《なかつね》まで行こうと思った。そこから大沢に入れば獲物はきっといる。
カタサルベツも中嶺も、つい三十年ほど前までは獲物の巣だった。雉《きじ》、鷲、鷹の鳥類から、リス、イタチの小さな獣、それに獰猛な熊までが群れていたから、よほど下手な猟師でも、鳥の四、五羽、小獣の二、三尾くらいは、いつでも獲ることができた。猟師たちは、はち切れるくらい脹《ふく》らんだ網袋から兎や狐を取り出し、「沢の土産だ」と、土間に放り投げて行ったものだった。それが今では狐一匹、鷲一羽でも血眼になって追いかける。地の果てまで追ってでも、一匹の狐が欲しかった。
彼は背中に降りそそぐ早春の陽光をふり返りながら大股に歩いた。目当ての中嶺は小高い山をいくつも越え、カタサルベツからさらに二里(八キロ)も奥に入らねばならなかったので、難儀は覚悟していた。
海が見えてきたころから凍《しば》れがゆるみ、雪が融け始めた。急ぎ足にざらめ雪を踏み、傾斜のゆるい山腹を登る。腓《こぶら》に力がはいるたびに雪は音をたてて砕け落ち、足の下で熊笹がゴムのように弾《はず》んだ。蔓《つる》草に足をとられて四つん這いになったり、たわんだ柴木にびしりと髭面を打たれたりしながら、それでも猟師の鋭い勘で四囲のかすかな音にもさとく聞き耳をたてる。しかし何事もなかった。
山腹を登りつめたオコシップは、白樺林の疎らになった処から小さな沢に下だり、小川に添って歩いた。いつもなら細い流れでその縁をたやすく歩いてゆけるのだったが、雪融け水がいっぱいに溢れ、それが岸深くまで浸み通っているので、歩くたびに雪の底で、ごぼっごぼっと鈍い音を立てる。
足は蛸の吸盤にでも吸いとられたように重い。オコシップはちょっと立ち止まり、舌うちをして、また元の高みに登ろうと眼を山頂に向けた。その瞬間、足もとの太楢《ふとなら》の根もとから兎が目前に躍り上がって彼をのけぞらせた。不覚にもよろめいて足をからませ、危うく尻もちをつくところだった。村田銃を構える隙もなく獲物は山腹を矢のように突っ走っていた。オコシップは、とっさのこととは言え、足腰が鈍くなった腑甲斐ない己れの仕種が癪《しやく》だった。
「たわけ!」
彼はがっと唾を吐き捨てると、脛《すね》までぬかるざらめ雪を踏んで、のめるような恰好で丘陵を登った。尾根を走って先回ろうというのだ。疾風のように空を跳ぶ走り具合いから、行き先の見当はついたが、彼の足は思うように動かなかった。
網袋の中で昼食のウバユリダンゴがうるさく跳ね回る。彼は走りながら罵しり声を挙げた。それは背中の昼食にではなく、尾根に出て雪が浅くなったために、柴木や蔓草がしつこく足にからみついてくることへの怒りだった。
蹴躓《けつまず》いては体が宙に投げ出され、乾いた喉の奥で焦臭《きなくさ》い息が奇妙な音をたてた。しかし、いつでも立ち止まって撃ち込めるように、鉄砲を握った右手は腹のところにしかと据えられており、激動の中にも息を殺して狙い撃つ、あの一、二、三、の呼吸は常に正確に保たれていた。
いつの間にか白樺林を突き抜けていた。彼は右手の拳骨で額の汗を続けざまに打ち払った。雪の浅い丘の方に折れようと思ったそのとき、鋭い銃声が四囲に木霊《こだま》した。それは兎の走り去った方向だった。その余韻が嫌な震えを残し長い糸を引いている。オコシップは棒立ちになった。
「野郎ども!」
先を越された悔しさが苦い液汁となって腹の底から突き上がってくる。
少し離《はな》れた左手の方向に二発目の銃声が轟いた。
「あんな兎一匹に二発もくれやがって!」
その主は大きな牧場をもつ親方たちに違いなかった。彼らは広い土地を耕し、八十頭もの馬を飼い、いつも敏足の南部馬に跨って山野を駈け回っている。めいめいが自慢の村田銃を持ち、遠く一里も離れた山奥にまで手を伸ばし、獲物の巣だったカタサルベツも中嶺もわずか十年の間に沢の隅々まで荒らしてしまったのだ。
「ふざけくさって」
オコシップは唸るように言った。
彼は食べ物が欲しかった。空腹を満たすために欲しかった。それが和人どもに奪われてゆくのが情けなかった。
彼らの獲物狩りは、鳥でも獣でも仕留められたものはしゃれた料理にされ、賑やかな酒盛りの肴となり、狩りの手柄話となって彼らを有頂天にさせた。山に獲物がなくなったとき、彼らは自慢の村田銃を肩から下ろせばそれで万事が済むことだったが、アイヌたちの場合は他国への苛酷な出稼ぎのために住み馴れた故郷を離れねばならないのだ。だから、彼らは貧しい生活にじっと耐えた。
「ここはアイヌモシリ(人間の土地)なんだ」
オコシップはどんなに苦しくても一歩も退《ひ》くもんか、と歯を食いしばる。
だから、シンホイやシュクシュンが猟犬の肉を食べ始めたとき、彼はその前に立ちはだかり、「餓飢虫ども」と叫びたてたものだ。
「相棒の肉を狙う前に狡猾《ずる》和人《シヤモ》の胸肉に食らいつけ」
明治になって、オムシャ(貢物)やクンツ(強制労役)がなくなったとき、アイヌの人々はこれで何もかも平等になる、人間として自由に生きることが出来る、と思った。しかし、そのときから撫育米はなくなり、漁場も土地もすべて彼らに取り上げられ、アイヌモシリは隅々まで和人のものとなってしまった。
「コタンにアイヌの血を吹きたぎらせえ」
今は亡き、オコシップの父レウカの声も虚しく消え失せた。
飢えたアイヌたちは農場や漁場に安い賃金で働かされ、その日その日の口すぎもやっとだった。酔いつぶれて道路わきにごろごろ転がり、そのまま息を引き取るものもあった。女たちは冬の海に腰までつかって昆布を採ったり、雪を掘ってキトビロやウバユリの新芽を探し、弱い老人や子供たちはばたばたと倒れていった。
「物乞いしてでもいい、盗みをしてでもいい、和人の胸肉に食らいついてでも生きるんだ」と、オコシップは思う。
彼はがっと唾を吐くと、ふたたび歩き出した。白樺林をしばらくゆくと、果たして兎を馬具の後部にくくりつけた親方の植田が、鹿毛《かげ》馬を駈り風を突っ切って、オコシップのすぐ眼の前を通り抜けて行った。馬具の向こう側にも黒いものがときどき跳ね上がって見え、獲物がぶら下がっているようだった。アザラシの帽子と村田銃の筒先が陽の光を受けて眩ゆかった。
オコシップの足は重い。歩きながらしきりと唾を吐き捨てたが、もう唾が涸れ、トフトフとしゃがれた声だけを吐いていた。
太陽はかなり西に傾いていたが、何としてでも中嶺《なかつね》までは行こうと思った。途中には馬の群がいくつもいて、雪を掘っくり返して笹を食べて行った跡が、みみず腫れのような線を縦横に作って続いていた。
彼は歩きながら、ときどきざらめ雪を口の中に掬い入れた。道案内役のように、啄木鳥《きつつき》がオコシップを待っては先へ先へと飛んで行き、太い楢の幹を叩きつけている。
「啄木鳥じゃ腹のたしにもならんて」
彼は立ち止まって頭上を仰いだ。白樺の梢が青い空を真っすぐに突き刺し、風はどこにもない。
山が深くなり、もひとつ白樺林をくぐり抜けると、榛《はんのき》と野地ダモの密生する湿地帯があった。中嶺の入口である。獲物の足跡は見当たらなかったが、ここにも馬の群がいた。
「どこもここも馬だらけだ」
オコシップは口をひん曲げて呟やいた。栗毛親子と青の孕《はら》み馬が|たてがみ《ヽヽヽヽ》を振りながら、すぐ鼻先を急ぎ足で通りすぎる。こんどは駈けてきた明け二歳の牝馬《ひんば》が急に体をかわし、むこうの集団へ紛れ込んだ。
オコシップは楢の根っ株に腰を下ろし、気難かしく髭面に頬杖をついて沈んでいたが、しばらくすると突然立ち上がった。吊り上がった眼がかっと燃え、群れる馬たちを見据えた。村田銃にかえて長い柳の鞭を右手に固く握りしめたオコシップは、それを頭上高く振り上げ、しゅん!
とひと振り打ち鳴らした。馬たちは耳を立て首を振って歩き出した。
彼は二十頭余りの馬の群をいっせいに湿地帯に向けて追い込んで行った。大きな地響きを立てて走り出した馬の群は、右に左に逸《そ》れて逃がれようとしたが、そのたびにオコシップのしゃがれ声が飛び、鞭が唸りを立てた。
馬たちは前進したり後退したり、蜷局《とぐろ》を巻きながらじりじり追い詰められてゆく。湿地の苦《にが》い泥滓《でいし》を嗅ぎつけ、あわてて引き返してきた荒くれた群が、真っ先にオコシップの鞭の下をかいくぐって走り抜けた。
「さっさと消え失せろ」
オコシップは鹿毛を先頭にして頭から突っ込んできた第二群をも、わずかに鞭を振り上げただけで見送った。青、栗毛の親子連れなど、つぎつぎに逃がしてゆき、最後に見当をつけた一頭の小馬にしぼって左右から挟みつけるように攻めたてた。
「こら、ポン馬《こ》、騒《さわ》がんと地獄さ行け」
野地萩やオニガヤに覆われた湿地は、氷がもろくなっていて、岸から五、六歩のところで、もう身動きもできない深い泥滓である。獲物をそこに陥そうというのだ。
小馬は身をひるがえし走り抜けようとするが、そのたびにオコシップの鋭い鞭を受けて撥ね返された。右にかわし、左に折れ、前に跳び、その反動で後ろに引き下がった。蹴散らされたざらめ雪が四方に飛び散り、拳くらいの雪塊が一丈も高く吹き上げられた。
小馬は湿地に前足を一歩踏み入れながら危うく逃がれると、オコシップの目の前に二本足で立ち上がった。彼の打ち下ろした鞭は、いきなり頭にからみつき、のめくる恰好で肩口からどうっと落ちた。が、次の瞬間、ふたたび後足を二、三度蹴上げるようにして立ち上がり、頭をうち振りながら後退した。
小馬は大きく鼻を膨《ふく》らませてビービー鳴らす。後足が湿地にかかった。攻め時だと思った。
「ずる和人《シヤモ》が運び入れた南部馬ども」
彼はよろめく足を踏んばり、両手を広げて立ちはだかると、小馬の顔に熱い息を吹きかけ、執拗に襲いかかった。体と体がぶつかり合って倒れ、同時に起き上がったが、横っ跳びに逃れようとした小馬の方向が大きく狂って湿地の氷を力いっぱい踏み砕いた。その勢いで、跳ね上がった泥水が遠くの方まで吹っ飛んだ。小馬の前足がみるみる泥滓に深く突きささって勝負が決まった。
「猟犬《セタ》の呪いだ!」
振り上げる鞭の唸りに、小馬は頭をうち振り、体を震わせながら躍り上がって前へ前へ突き進んだ。そのたびに凍った泥土が欠け落ち、野地坊主《やちぼうず》がひとつひとつ小馬の腹の下に隠れて押しつぶされた。胴腹の半分以上泥につかり、もう動くこともやっとだったが、オコシップはそれでも罵しり、力いっぱい叩きつけた。
背中の綿毛がしなった鞭の先に乗って空中に飛び散った。小馬は頭をよじり、オコシップを振り返って、喉の奥で「ひひ」と、絞るような声をあげる。左の目尻から大粒の涙がこぼれ落ちた。「猟犬も同じ涙をこぼしたんだ」と、彼は自分に言い聞かせ、ひと思いに殺《や》らねばならないと思った。
西日は山の陰だった。尾根の樹々がうす赤く夕日に染まっている。山中、人っこひとりいるはずもなかった。
「おお、すぐ楽にしてやっど」
銃声が深山に轟き、熊撃ち用の弾が、小馬の眉間を撃ち砕いた。泥に支えられていた体は動かないが、頭だけが枯木のように泥水の中に崩折れていった。
硝煙が消え、辺りにはまた底なしの静寂が流れていた。
「深山《やま》は肉だらけだ」
しばらくぶりにコタンじゅうがたらふく食べられると思った。彼は躊躇なく小馬の喉笛にマキリを突き刺した。
ひょっこりと道案内役の啄木鳥があらわれ、コロロロとバネ仕掛けの玩具のように規則的な声を太い楢の木に叩きつける。
山気はしっとりと静まりかえり、オコシップのマキリが手際よく動く。血腥《ちなまぐさ》い臭いを嗅ぎつけた大きな野ねずみたちが集まってきて、チチチッと鳴きながら四囲を駈け回り、素早く雪の下に潜り込んだ。
オコシップは肉のよさそうなところを選んでマキリを入れ、骨っぽいところは切り捨てて泥の中に押し込んだ。頭も胴っ腹も脛も、泥水の中で泡《あぶく》をあげた。
「モシリを略奪した当然の報いだ!」
彼は自分に言い含めた。牧場の親方たちを憎むオコシップの胸の裡には、ひとかけらの悔いもなかった。網袋の太い背負い綱がずしりと肩にこたえる。両手には縄で縛った太股のぶ厚い肉をぶら下げていた。
日はすでに暮れ、冷えびえとした夕闇が迫っていた。中嶺を抜け出て白樺の密生する三角山を登りつめたとき、足早い雪雲が頭上にかかり、大粒の雪が音もなく落ちてきた。オコシップは立ち止まって天を仰ぎ、大輪の雪を顔に受けとめた。
「どさっと降って、何もかも埋めてしまえ」
彼は心が弾み、膝までのざらめ雪にもめげず、とんとんと足を打つようにして歩いた。
2
灯火《ラツチヤク》が燃えていた。長い炎が薄暗い奥の部屋をかすかに照らし、盛り上がった寝具や壁際に積み上げられた大シントコ(米や酒を入れる容器)が淡い陰影を作っていた。風のない静かな晩である。
「落ちついたようだな」と、エシリが溜息のように言った。
「まだまだ心はゆるめられんよ」
モンスパは心配そうに周吉の枕許に坐っていた。
周吉が腹痛で高熱を出してから三日になる。はじめは軽い風邪くらいに思っていたが、夜半から腹痛を訴え、口から黒い血を吐いて苦しんだ。
「腸《はらわた》が融けてるど」
エシリが頭のてっぺんから突き抜けるような声で叫んだ。モンスパは口の中に指を入れて黒い血をかき出し、「ろくなものも食べさせんとな」と言って、涙をこぼした。
周吉は生まれつき骨太く大柄で丈夫な子だった。
「父親《おとう》に似てな」と言って、母のモンスパが喜んだ。
「ポンカパリチ(小鷲)」と、オコシップは赤子を呼んだ。だが、役場では「もう二十年も前からアイヌ名は禁止されてんだ」と言って、許されなかった。
「アイヌの首長が和人の部落長に変って、もうどこにもアイヌコタンのかけらもなかべ。だから、正式な名は和人名に限るんだよ」
戸籍係は同じことをなんども繰り返す。
彼は紙片に佐吉、周吉、要吉、賢吉と書き、それをオコシップの前に突き出して、「いま、こんな名前が流行《はやつ》てる」と言った。
「アイヌの名ではどしても駄目か」と、オコシップはもう一度念を押した。
「いつまでも愚痴ってると、名なしの権兵衛《ごんべえ》になってしまうべ」と、係員は言った。
オコシップは紙片に眼を落として、「どれも同じようなもんだ」と、虚《うつ》ろな声で言った。
そして、あてずっぽうに突きさした指先に周吉があった。
ポンカパリチはおおらかな大地の中ですくすくと成長した。
「周吉、名前は和人でも、心や体は逞《たくま》しいアイヌなんだからな。ひょろけた和人どもに負けてならんど」
オコシップはしじゅう言って聞かせた。
頑健な周吉は冬でも裸で外に飛び出し、雪で握り飯を作って食べていた。太い氷柱《つらら》を飴のように噛み砕き、吹き溜まりの高い山を兎のように跳び越えた。
オコシップは伜の勇ましい姿をみて、「さすが、天駈ける大鷲だ」と喜んだものだ。ことさら胃袋が頑丈で食いだめもでき、それまでは食べたことのない切り刻んだ履物《ケリ》や麦殻も平気で呑み込むほどだった。
「それが悪かったんだよ」
「悔やんでる暇はねえだ」
オコシップは軒場に吊ってある薬草を下ろして床の上に並べた。その中からモンスパは白蓬《しろよもぎ》と菖蒲《しようぶ》の根を煎じて薬をつくり、エシリは牛皮消《イケマ》(植物名)で悪魔払いをした。
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どんな魔の風、どんな魔の気が襲ってこようとも
あなたの強い臭いで、魔の風、魔の気を
この家の窓から、戸から、吹き出してくだされ
どんな魔の風、どんな魔の気が襲ってこようとも
あなたの強い臭いで、この家に近寄らせず
遠い国、異人の国に追いやってくだされ
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エシリはイケマを噛み、寝ている周吉に吹きかけたり、家の中や外に霧を吹いて回ったりした。イケマは彼女の口の中で、ときどきダンゴになり、そのまま粘っこい塊となって吐き出され、周吉の顔に貼りついた。
「家の風を閉じ込めたわ」
エシリは、そっとイケマダンゴを周吉の顔から剥がし、悪魔が逃げないように、下側から掬いあげるように取り押え、戸外に放り投げた。
「その辺にまごまごしてたら、こんどこそ二度と立ち上がれねえぐらい強い臭いを吹っかけっど」
彼女は、両の掌を打って穢《けが》れを打ち払った。エシリはこうして毎晩欠かさず、念入りに悪魔払いを実行した。
一方、モンスパは胃病の特効薬ハスパ(磯つつじ)があると聞き、五里の道程を走り続けた。
「死んだ病人も生き返るという、ええ薬だにな。それに勇敢な祖父レウカが見守ってくださるだに」
モンスパはハスパの煎じ薬を、嫌がる周吉の口にむりやり流し込んだ。
「がんばるんだ」
オコシップは周吉の手を握りしめた。
十勝川の氷がざざっと崩れ落ちる音がする。梟が「ペウレッチコイキップ(獲物はこっちだ)」と、鳴いて通りすぎた。夜の静けさのなかに、周吉の呻き声だけが、家の中に重く渦まいていた。
三日三晩苦しみ通した周吉は、四日目の夜明けになって漸くすやすやと眠り始めた。
「腸《はらわた》が固まったようだ」
エシリとモンスパも崩れるように深い眠りに落ちていった。
明るい陽の光が四日ぶりに家の中を照らしていた。朝食はオコシップが朝飯前に撃ってきた真鴨である。氷の裂け目にできた青い水面に集まったのを、一発で三羽も撃ち落としたのだった。
「もう大丈夫だ」と、オコシップは足肉をしゃぶりながら髭面をほころばせて言った。氷が裂ければ川魚も獲れるし、そのうちには山菜も芽を吹くだろう。食卓の上に暖かい太陽の光がいっそう眩《まば》ゆく照り映えていた。
「(氷が)二股から上《かみ》の渡船場まで落ちてきたど」ヘンケエカシが声をかけて通って行った。氷は川下から張り、川上から落ちてくる。上の渡船場までは一里そこそこだから早く開けるかもしれないと思っていたら、その翌日、朝起きて驚いた。川には一片の氷もなく、川面がてかてか光り盛り上がって流れていた。
「(川が)息を吹き返したぞお」子供たちが、ハルアンの船について川岸を小走りに登ってくる。
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パナンペは川下で暮らし ペナンペは川上で暮らした
心やさしいパナンペは 運がめぐってきて
いつも裕福だった
意地悪で欲ばりなペナンペは 罰が当たって
いつも貧乏だった
パナンペ ホイホイ
ペナンペ ホイホイ
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川下に住む子供たちは、いつもパナンペびいきだ。しかも、これからはパナンペのように裕福な暮らしができると信じているのである。
ハルアンの船は濁った雪解け水をかき分けるようにしてすいすい進む。彼女は浦幌太《うらほろぶと》のもっと先の自分の猟区《イオロ》へ初漁に出かけるのである。川上から流れに乗ってきた黒鴨や真鴨がうまく船を躱《かわ》して下流に流れ下だる。目玉をきょろきょろさせて川|獺《うそ》やトッカリ(あざらし)が通り過ぎた。
川柳《かわやなぎ》の密生する岸辺にさしかかると、子供たちはわいわい騒ぎながら帰って行った。海猫《ごめ》の群も上空を旋回しながら、その後を追うように河口に向かって飛んでゆく。川も空も急《せ》わしなく動き始めた。
遠くの山の雪が融け、濁った雪しろ水(雪融け水)が、ごうごう唸りを立てて流れた。ポロヌイ峠の頂上から見ると、十勝川の河口から吐き出された濁水は太い線となって真っすぐ沖の方まで続いていた。
この雪しろ水の毒気にあてられた魚貝類がふらふらになって渚に打ち上げられる。コタンの人々はそれを待ちかまえ、蛸やホッキや蟹を拾い上げる。拾う者、家に運ぶ者、夜も昼も海岸は祭りのように賑わった。
「お化け蛸《だこ》だな」シュクシュンがようやく肩にかけたが背負いきれず、一匹の蛸を三つに切って担ぎあげた。お化け蛸もいればおばけ蟹もいた。シンホイの女房はタラバ蟹の足三本を背負ってのめくったほどだから、よほど大きな蟹だったに違いない。
この獲物拾いはコタンの人々にとって、思いがけない大収穫だった。飢えた人たちがすっかり元気を取り戻したのだ。
お化け蛸の賑わいが収まったころ、春の長い雨が続いて雪は跡かたもなく消え失せた。それと同時に小川の辺りにはキトビロやウバユリが芽を吹き始めた。
うららかな春だった。オコシップはアオダモの根元で村田銃の手入れをしていた。ばやばやと吹いてくる川風に乗ってハルアンのいつもの歌が聞こえてくる。彼は鉄砲から眼をはなし、伸び上がってハルアンの船を確かめた。歌の文句が気に障ったからだ。
不憫《ふびん》なや 情けなや
いくらひもじいからといって
飼い馬に手をつけるとは
よこしまな悪魔のしわざ
不憫なや 情けなや
いくらひもじいからといって
飼い牛に手をつけていいとは
祖父も祖母も決して言わなかった
オコシップは聞きながら、しだいに腹がむかついてきて、もう我慢ができずに川岸に向かって駈け出した。
「馬を食わずに猟犬《セタ》を食えとな」
彼は川岸から十歩も水の中に漕ぎ入って叫びたてた。
「猟犬《セタ》を食えとはひとことだって言っとらん」
ハルアンは櫂を水面に打ちつけて言った。
「そしたら何を食って生きろと言うんだい」
しかし、ハルアンはこれには答えず、
「ほら、報いはすぐにも頭上に振りかかって来るぞ」と叫んで行ってしまった。
「老いぼれ婆《ばばあ》めが」
オコシップは川岸に腰を落とし、遠去かってゆくハルアンの船を憎々しげに見つめた。彼の心には馬肉を食った後悔は微塵もない。飢えたときには、これからだって食って食って食いつくしてやろうと思った。
3
ハルアンの嫌な歌を聞いてから三日目だった。朝食がすんで、オコシップがこれから猟に出かけようと思っているところへ、西田牧場の牧夫頭イホレアンが突然訪ねてきた。西田徳太郎からの呼び出しだった。
「機嫌が悪くて、誰かれなく怒鳴り散らしてる」と、イホレアンは言った。オコシップは「呼び出し」と聞いたときから分っていた。どこまでも突っ張るつもりだった。
西田御殿は訪れるたびに変っていた。御殿の周辺は前よりいっそう広く、新しい厩や倉庫が建ち並んでいたが、この辺は以前に、シンホイやシュクシュンの住んでいたところだった。それが去年の秋、親方の手厚い饗応を受け、小金をもらって河口近くの高台に引っ越したのである。
玄関を入ると、すぐ前に大鷲を描いた屏風《びようぶ》が立ち、その向こうには金箔を散りばめた唐紙《からかみ》の間がいくつも並んでいる。オコシップは玄関脇の小部屋に通された。歩くときも坐ってからも、イホレアンは見張人のように傍から一歩も離れない。しばらく待った。荒々しい足音がして和服姿の西田徳太郎が入ってきた。障子を開けるなり、だんと床を踏んで、
「(馬を)殺して食べたな」と訊《き》いた。
「湿地《やち》にはまって死んだ馬だ」と答えた。
「湿地に追いこんでから撃ち殺した証拠がはっきりあるんだ」
オコシップは徳太郎に肩口を蹴られ、頭から突き刺さるようにつんのめった。立ち上がろうとするところを、こんどはイホレアンに押さえ込まれ、畳にこすりつけられた顔のすぐ眼の前にマキリがぶすっと突き刺さった。
「白状せえ!」と徳太郎は人喰い狼のような眼を光らせて言った。オコシップは押さえ込まれ腹這いになったまま、「言ってたまるか」と、上目づかいに徳太郎を睨んだ。
「言わんか」
彼はもう一度言うと、オコシップの背中をドスンと蹴った。
オコシップは責めたてられながら、抵抗しがたい和人たちの威力を感じていた。アイヌモシリにどっと入りこんできて、漁場も土地もみんな取り上げ、その挙句、ほんのわずかな抵抗でもしようものなら、二度と起ち上がれないほどに踏みつける。
浦幌太に入ってきたころの柔和な顔は、どこへ消えたものか。そのころ西田が口ぐせだった「利益の平等分配」も「アイヌたちの暮らし向きの向上」もみんな嘘だった。とくに実権を手中に収めたこの頃のやり方はまるで虫けら同様の扱いだ、とオコシップは思った。
オコシップは太いロープでぐるぐる巻きにされ、部屋の中に転がされていた。「言ってたまるか」と、彼は同じ言葉を反芻した。しばらくしてふたたび荒々しい音がして、どやどやと数人の男が入ってきた。その中には古顔のイホレアンや、昔の役アイヌ、ヤエケの顔もあった。
「お前が白状しなければアイヌは全員解雇だ」
村田銃を持った西田徳太郎は台尻でどんと床を叩き、ひと声高く吠え立てるように言った。
西田はこの地にはじめて草小屋を建てたときから、多くのアイヌを雇ってきた。首長の長男で、牧夫頭のイホレアンをはじめ、段付け頭(荷物運搬)のタエキ、若い衆頭で元、役アイヌのヤエケ、炊事頭のヌイタなど、それに下働きのアイヌやメノコを合わせると二十人はいるだろう。不景気続き、飢え続きのこの頃では、「食べるだけでも」と、遠く広尾《ひろお》や白糠《しらぬか》のアイヌまで訪ねてくるという。老人から子供まで西田牧場はアイヌだらけだった。
「同胞《ウタリ》の敵ぞ」と、ヤエケが吐き出すように言った。彼は場所請負制度のあったころの役アイヌで、明治に入ってからも和人に取り入って幅をきかせてきた一人である。
「親方の恩義を忘れた不届き者」と、彼は大声で罵しった。西田は興奮のあまり村田銃の台尻でとんとん床を叩きつけている。
オコシップは父レウカが残していったラッコ皮のチョッキに開《あ》いたいくつもの槍穴を思い出していた。クナシリ脱出のとき和人に突き殺された穴である。丸い穴から吹き出した血はクナシリの白熊となり、真赤な口をあけて西田に襲いかかり、三角の穴から吹き出した血は根室《ねむろ》の羆《ひぐま》となって、ヤエケに襲いかかった。
「ずたずたに引き裂いてやれ」と、オコシップはうわ言のように言った。
「恐れることはない。おまえには勇猛な武将、コシャマインやシャクシャインの血が煮えたぎってるぞ」と、父レウカの声がする。
オコシップはコシャマインが和人たちの陰謀に落ち、首を刎ねられたときのように頭を持ち上げ、四囲の人々をゆっくり見渡した。和人とアイヌの顔が重なり合って、あくどい群盗に見えた。
「蛆虫《うじむし》ども!」
オコシップの吐き飛ばした唾液の塊がいったん西田の顔に貼りつき、それから糸をひいて足元に落ちた。
西田の打ち下ろした最初の一撃はオコシップの顔面に炸裂した。彼は眼の前がぼあっとかすみ、どっと鼻血が吹き出した。
「俺が死んだって、和人《シヤモ》への恨みは千年の末まで消えるもんか」
「さ、自分のやったことを、ひとつ残らず吐き出すんだ」
西田徳太郎はオコシップの頭を台尻でこずく。
「俺がいう前に和人《シヤモ》のやったことも、ひとつ残らず言ってみろ」
言い終らないうちに、西田はイホレアンの腰にぶら下がっているマキリを抜き、オコシップの右耳を切り落とした。耳は、ちょうど生きもののように縮こまったまま畳の上を一メールも転がっていった。
「もう二度と鉄砲も撃てなくしてやる」
西田は狂ったように叫び、ヤエケに向かって「ウタリの敵ぞ、眼をくり抜け!」と命じた。
ヤエケは一瞬|怯《ひる》んだが、「何をぐずぐずしやがって!」西田の罵声に圧倒された彼はオコシップの体にがっと跨がり、マキリを立てて右眼をくり抜くと、それを畳の上に叩きつけた。鮮血が飛び散り、その血海の中に耳と眼玉が転がっていた。オコシップは部屋の中を這いずりながら、血だらけの顔を振り上げ、「殺せ! 殺せ!」と、狂ったように叫びたてた。
「右手を潰せ」
いきりたった西田に逆らうことは誰にもできなかった。ヤエケが厚い板を持ってきて、その上にオコシップの右手を載せた。イホレアンは鉄砲の台尻で人差指を打ちつけた。鈍い音がして指は先の方から打ち砕かれた。
ロープを解かれてもオコシップは立ち上がることが出来なかった。知らせを受けて駈け込んできたモンスパと周吉は、ただ呆然としたまま声も出なかった。
「言ってたまるか」オコシップはうわ言のように繰り返す。西田牧場に働いているアイヌたちは、血だらけのオコシップを背負ってゆくモンスパたちを、息を殺して物陰から見詰めていた。
4
家の前のアオダモの葉がさわさわ揺れるころ、川向こうのウツナイ原野に新しい開拓農家が入ってきた。五、六町おきに草小屋が建ち並んでゆく。と思っているうちに、馬耕が始まる。オニガヤの焼き払われた原野には丈低い野地榛《やちはんのき》しか茂っていないので開墾の手間もなく、みるみる黒土が広がってゆく。
「向こう端まで、家は五軒だ」
周吉は眼を丸くした。山菜採りに出かけたエシリたちはポロヌイ峠の頂上から原野を見下ろしていた。
「この勢いで二、三年もしたら、二、三十軒も家が建って、原野は全部畑だな」
エシリは変りゆく大地を寂しげに眺めている。畑が三日月沼やトイトッキ沼の方まで広がれば菱《ひし》の実も、ジュンサイも採れなくなるかもしれない。アイヌの生活が音をたてて崩れてゆくように思った。
原野の果てに茂岩《もいわ》の丘陵がうねうねと続く。「帆掛け船だ」と、眼のいい周吉が最初に見つけて叫んだ。船は大津川をゆっくり遡《さかのぼ》ってゆく。十石船の船体は見えないが、白い帆が鮮やかに目に入る。その一里ほど先にカンカンビラ(腸の垂れ下がった岩)の岩肌が光っていた。ここで十勝川は十勝川と大津川の二股に分れているのだが、「流れが早くてここからが大変なんだよ」と、モンスパが周吉や金造に言って聞かせる。
五十石船は三日に一度大津から帯広《おびひろ》まで通う定期船である。途中、茂岩《もいわ》、池田《いけだ》、止若《やむわつか》など、ところどころに陸揚場が設けられていた。船は食糧を積んで遡り、雑穀を積んで下だった。遡《のぼ》りに二日、下だりに一日を要した。しかし、雨が続き水勢のあるときや、風の強いときには帯広まで三日もかかることがあった。地形の平坦なところにくると、舟子たちは川岸に飛び下りて船を曳いた。
ハアヨイ、ハアヨイ
朝の出船にハア
エーエ、ハアヨイ
花が咲くハア
エーエ、ハアヨイ
入り来る船にハア
エーエ、ハアヨイ
黄金の実のなるハア
エーエ、ハアヨイ
舳《へさき》にくくりつけたロープを肩にかけ、足に合わせて歌うのである。歌はいつも舟子たちの故郷、津軽南部歌だった。その声が西風に乗って十勝太まではっきり聞こえた。
「兄のテツナはあの船の船頭をしてるんだよ」と、モンスパは呟やくように言う。しかし、エシリの光った視線をうけて、モンスパは眼を逸《そ》らした。言ってはいけないことだった。
「わあ、すごい。船頭さんなら船でいちばん偉い人なんだ」
俺も大きくなったら船頭さんになるんだと、今年七歳になる周吉は眼を輝かせた。
「兄妹《きようだい》なのに、どして遊びにこないべか」
いっときして周吉が不思議そうに言った。
「忙しいんだよ」
モンスパはそう言ってはぐらかし、笑顔を作ってみせた。テツナが和人の女を娶《めと》ったことからオコシップと仲違いになっていることを、周吉がもっと大きくなったら、言って聞かせねばならないと思った。
エシリたちは峠から左に折れて草叢《くさむら》に入ったが、そこにも最近入りこんできた農家があった。畑には木柵を張りめぐらし、家の傍には開墾で伐り倒した大木が堆《うずたか》く積み上げられていた。山の小径はここで停まった。エシリたちは木柵に添ってそこからさらに進むと、焼き払われた山の斜面に出た。
「見事なもんだ」
焼け跡には蕨《わらび》や|こごみ《ヽヽヽ》がぞっくりと行列を作って生えていた。太くて根元から折れる柔かい蕨である。
「眼をつむってても採れる」と言って、周吉と弟の金造ははしゃぎ回った。ほんのわずかな間に大きなサラニプ(背負い袋)が三つも一杯になるほどだった。
太陽はまだ高かった。
「何年ぶりの日向ぼっこだろ」
エシリはごろんとひっくり返った。モンスパも周吉や金造も一緒にひっくり返った。木々の若葉がさやさや揺れ、小鳥たちの囀《さえず》りが心地よかった。腹の上をかすめるように雉や山鳥が飛び、遠くから太い山鳩の声が聞こえてくる。
「腹にたっぷり陽が入ったわ」
エシリが起き上がったときだった。「ホイ」と言って、彼女は斜面を一間もずり落ちた。彼女の突き出した指先に、金毛の大熊がにょっきり立ってこっちを見ているのだ。谷を越えて五十間は離れていたが、襲う気ならほんのひと呼吸で眼の前に躍り上がってくるだろう。
「眼を離さずに、ゆっくりゆっくり後退《あとじさ》るんだ」
サラニプを抱きかかえた四人は息を殺し、後ろの方から藪の中に潜り込んだ。
「待てよ」とエシリは、広い道に出てから立ち止まった。彼女はあの顔に見覚えがあった。
オコシップが金毛の大熊を斃《たお》したのは阿寒の冬山である。穴から出てくるところを狙い撃ったのだが、熊は急所を射抜かれながら深い雪の中を半里も逃げるしぶとさだった。
穴の中から産まれたばかりの仔熊が出口の方に這い出してきて、鼻をクンクンさせながら母の柔かな胸毛を探していた。オコシップは、この仔猫ほどの熊の子を網袋の中に入れ、家に連れ帰ったのである。仔熊は母親の暖かい乳房を探し求め、ヒーンヒーンと夜も昼も啼き通した。
ちょうどそのころ妻のモンスパは三人目の子供を生んだが、どうしたものか体が弱く、間もなく病死してしまった。それでこの仔熊を見て彼女は心底から同情した。モンスパは悲しげに啼く仔熊を懐に入れて自分の乳を吸わせた。
「痛いてばな」初めのうちは乳房にがっと噛みついてくるものだから拳骨を食らわせていたが、一週間もたつとすっかりおとなしくなり、片手で乳房をおさえてはチュウチュウと吸いついた。
「めんこいやつだ」モンスパは自分の子供のように糞尿の面倒までみてやり、名前をカリベとつけて可愛いがった。カリベは順調に成長した。そして一年と経たないうちに小造りながら親に似た立派な体付きになっていた。
カリベは家の内から外に出され檻の中で飼われるようになった。二歳の秋には盛大な祭りがおこなわれ、熊神の国へ送り返される身だった。
「見事な毛並だ」
「これなら熊祭りに白糠《しらぬか》や釧路から大勢の客人を呼んでも鼻が高い」とエシリは思った。
カリベは家族じゅうに愛され幸わせそうだったが、夜中にがおがおと唸り声を立てることがあった。近所の猟犬が檻に近づくのだ。
「その辺のへなちょこ猟犬には手も足も出せめえ」
オコシップは|たか《ヽヽ》をくくっていたが、或る夜、どうしたものかカリベは猟犬たちに顔を引っ掻かれ、後ろ足の小指を噛み切られたのだった。そして、傷が癒えたとき、顔の傷跡に添って白毛が細く縦に走り、小指は爪がなくダンゴのように丸く固まっていた。
「頭ば叩き割ってやる」
エシリはその翌晩から鉞《まさかり》を傍におき猟犬の出現を待ったが、ついに現われなかった。
春も過ぎ、猟犬のことはもう忘れていた。オコシップたちは指を折って祭りの日を数える。もう何年も熊祭りがなかったので、コタンの人たちもこの毛並のよいカリベを見ては、その日を待ちわびていた。祭りまであと一カ月に迫ったころ、猟犬たちがふたたび檻に近づき出した。しかし、ひょろけた猟犬たちはもう頑丈なカリベの敵ではない、と多寡をくくっていた。だがある夜、がおがおと吠えたてる熊の声にオコシップやエシリたちが灯火《ラツチヤク》を持って駈けつけたときには、檻のなかにはすでにカリベの姿はなかった。
「顔に細長く白毛が通っていたによ」
カリベに違いない、とエシリは思い出すように言った。オコシップはえぐり取られた右眼にぐるぐる包帯を巻き、炉縁に顔を埋めるように蹲《うずくま》っていた。
「わが子を忘れてどうするべ」エシリはモンスパに向かってもどかしそうに言ったが、「あわてたもんだから」と言っただけで話は途切れ、その後は山に熊が出るという噂もなかった。
5
短い十勝の夏が過ぎて秋が訪れた。山は赤く膨《ふく》れ上がって空を雁が渡る。
熊の出現を知らせたのはヘンケ爺さんのところの十歳になる孫息子トラエだった。彼は泡をくって飛んできて、
「カタサルベツに熊が出た」と言った。昨夜、山の農家の牛二頭と親方たちの放牧馬が三頭も殺《や》られた。熊は金毛の百貫もありそうな大熊で、放牧馬を追いかけて、くっきりついた足跡は両手を輪にしてひと抱えもあった。阿寒の山から紛れ込んできた熊の主らしい。
トラエはだいたいこんなことを言ってから、「おっかない」と言って身を震わせた。
「誰が言ったべ」
オコシップの一つしかない眼玉が獣のように光った。
「農家の久太爺さんと牧夫の梅太郎が旅来《たびこらい》のコタンに触れ歩いた」トラエが声を弾ませて言うと、
「足跡はどことな」オコシップは大きな足で土間をどんと踏んだ。
「馬を追いかけて、新川の上《かみ》の湿地《やち》まで来たと言ったわ」
聞きながらオコシップは眼の包帯をかなぐり捨てた。眼玉をえぐり取られてからちょうど半年になるが、不具になったまま傷はほとんど癒えていた。右眼がなく、右手の人差指は第一関節からもげている。だが、左眼で見当をつけ、右手の第二関節で引き金をひけば、仕留める自信はあった。彼は村田銃を構えてカチンと空撃《からう》ちをした。半年ぶりに握る鉄砲の感触はこたえられなかった。彼は戸外に聳え立つアオダモの幹を狙っては何度も空撃ちをした。
「大熊はおれが仕留めてやる」
オコシップは、引き留める誰の言うことも聞かなかった。
午後になって、オコシップは熊の足跡を確かめようと、はやる心を押し静めて湿地に向かった。片眼がないので遠近感が狂って蹴つまずいてはのめくったが、足は健在だった。湿地は新川の河口からわずか半里のところだが、とっさの用心に鉄砲を携えている。彼は熊の賢《さか》しさを知っているので、ときどき足を止めては四囲の様子をうかがった。湿原に入ると、獣の通り道を避け、野地坊主《やちぼうず》の頭をとんとんと踏んで向こう山の裾に向かって行く。
湿原を突き抜け、大きな沢の入り口まできたとき、オコシップは息を呑んで棒立ちとなった。水をたっぷり含んだ柔らかな土の上に、間違いなく両手を丸めてつくったほどの巨大な足跡が|でん《ヽヽ》と居坐るように型どられていたのだ。
オコシップは足跡の大きさと丸みを帯びた形から、それは高齢の雄熊で、熊神の国の領主様に違いないと思った。そして指先の長く鋭い爪跡に思わず身を震わせたが、どこか不揃いな右後足の指に眼をとめると、「おや」と思った。小指の爪が欠けているなら、以前阿寒で射留めた熊の仔に違いなかったが、踏みしめた跡に枯草がからまって、はっきり見分けることは出来なかった。
「なまら十年も前のことだ」
オコシップは笑い飛ばしたが、それでも阿寒で射留めた猛々しい子づれ熊のことが妙に気がかりだった。
「たとえ強暴な敵でも、和人の手にかけてなるものか」
オコシップは帰りしな、野地坊主の頭をひと足に三つも跳び越えながら、自分に言い聞かせた。自分の手で領主様を手厚く熊神の国へ送り届けるなら、そのお礼に大熊が肉と毛皮を持ってふたたび訪れてくれるだろう。長い間アイヌたちが持ち続けてきた信仰である。そうとも、正統なアイヌの血を受け、己に邪《よこしま》な心がなければ、カムイの加護を受け必ず撃ち獲れると、オコシップは腹の底から思うのだった。
彼は西田の迫害を受けてから、和人に対する怨念復讐心がいっそう強くなっていた。和人との妥協はいたずらに時間を引き延ばすだけのことで、とどのつまりは敗北に陥るただの過程にすぎない。だから、どんなに世の中が変ろうとも、いかなる干渉も受けずにどこまでもアイヌぶりを押し通すんだ、と決心していた。
熊の足跡を確かめてきたオコシップは、火の神に捧げる御幣《イナウ》を作っているときも、祈りを捧げているときも、感動のあまりときどき「ふー」と溜息を洩らした。それは濁酒のツキ(盃)を重ねるにつれてしだいに大きくなり、しまいに自分の心を述べる即興歌《ヤイサマネナ》を歌い出した。
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ヤイサマネナ ソレーナ ソーレ
大昔から、父親たちがしてきたように
このわたしも
狩りの前夜はアペフチカムイ(火の神)に
イナウ(御幣)をささげ、珍らしい品々を供えて
盛大に壮途《かどで》を祝う
ヤイサマネナ ソレーナ ソーレ
大昔から、父親たちがしてきたように
このわたしも
山に赴《ゆ》けば山のカムイ、川に赴けば流れのカムイに見守られ
大きな山も波も ひと思いに乗り越える
ヤイサマネナ ソレーナ ソーレ
大昔から、父親たちがしてきたように
このわたしも
たとえ片眼がなくとも、片耳がなくとも
嵐のように襲ってくる熊に立ち向かい
ものともせずにねじ伏せる
[#ここで字下げ終わり]
夜吹きの唸りを聞きながら、オコシップの歌はいつまでも続いた。
風はもう三日も吹き通していたが、出猟の朝になっても収まらなかった。オコシップは峠の道でなく新川沿いの道を選んで小径をすたすた歩いた。彼はペカンペ(菱の実)模様の厚司を身に着け、厚手のケリ(トッカリの皮でつくった靴)を履き、銃身のぴかぴか光る村田銃を肩にかけていた。背中の網袋には握り飯のほかに米と稲黍《いなきび》、それに鍋と鉈《なた》、小鋸が入っている。射留めるまでは帰らぬつもりだった。
風が束になって吹いてくるたびに、オニガヤの穂先がびしびしと彼の髭面を叩きつけた。やがて川幅が狭くなり、両側からサビタが覆《おお》いかぶさってくる辺りに土橋があった。そこを渡って川の右側に出ると、野地榛《やちはんのき》が続いていた。ここをどこまでも行けば、新川の湿原に出る。彼は樹々の間をすり抜け、水溜りも足にからまってくる菅草《すげぐさ》も踏みつけるように大股で歩いた。
前日、熊の出現を知ってから、オコシップは金毛の熊の動きをしきりに思い描いていた。カタサルベツの根城《ねじろ》から南の大沢へ出るか、それとも北の沢へ出るか。いや、ひょっとして沢へは下りずに、仕留めた馬の骸《むくろ》を求めて高台を軽々と歩き回り、腹ごしらえをした後は、ふたたび新川の上《かみ》の湿原に現われたかも知れない。
だが、「待てよ」と言って、オコシップはちょっと足を緩めた。相手は領主様だからな忙《せわ》しく動き回らずに、まだ根城にいてお目覚めではないかもしれない。どっちみち、カタサルベツが出発点だと思った。オコシップはふたたび大股に歩いた。
彼はこれまでに、遠く阿寒や留真《るしん》の山を歩き回ってたくさんの熊を獲ってきた。だが、その中で山を統《おさ》める領主様は二頭しかなく、それも随分前のことだった。二頭ながら見事な金毛で年齢は十歳前後、体重は百貫近くもある熊だった。ゆったりして決して慌てず、走るにも、大股で歩くような恰好だった。最初の金毛はカタサルベツの南の沢に三方から追いつめ、五発も撃ちこんでようやく射留めることができた。もう十五年以上も前のことだったが、そのころコタンには同胞がまだ大勢いて、その中で狩人もたくさんいたから、勢いに乗って凱歌をあげることもできたが、こんどは自分一人で一挺の村田銃に頼るしかない。
「鼻の先まで引きつけて、一発に賭けることだな」領主様はこの身と引き換えでなければ射留めることはできないと思った。彼は道を左の山裾にとり、そこから大地《たいち》(平坦な処)を通ってカタサルベツに入り、昼過ぎには骸《むくろ》のある楢林に踏み込もうと考えた。
太陽は日高山脈の上を走っていた。オコシップはなだらかな坂を斜めに登ってゆく。野苺の蔓や丈の低いタランボの棘がトッカリ脂をこってり塗った脚絆に絡《から》みついてごわごわ鳴った。枯草の中にヘビノダイマツ(テンナンショウ)の真っ赤な実がかっと眼を開いて睨むように立っている。彼はそれを跨ぐように歩いた。山裾から|つね《ヽヽ》(稜線)に向かってしばらく歩いたところに三本松があった。黄葉をつけた落葉松《からまつ》は青い天を刺すように真っすぐ伸びている。
「どうかシランバカムイ(木の神)のお力によって、狩猟に出かけるわが身の安全をお守りくだされ」
オコシップは松の梢を仰ぎ見、静かに祈りを捧げて通りすぎた。突然、藪の中から放牧馬の群が駈け出してきた。とっさにオコシップは村田銃を握りしめる。馬は藪を突っ切って走ったが、そう遠くまではゆかずに立ち止まり、頭を高くあげ耳を立てて鼻をびーびー鳴らした。馬たちは怯えきっていた。
「たしかに熊を見た眼だ」と、オコシップは唸るように言った。いつもなら人影を見てもちょっと頭と尻尾を振るくらいなのに、いったん熊が出たとなると物の見境いもなくなり、殺気《さつき》だってそこらじゅうを走り回る。
「そこが山の神(熊)の付け目なんだからな」
オコシップは近くにいる鹿毛馬に言って聞かせた。馬は持ち前の駿足でいったんは逃げおおせるのだが、その後で彼らは鼻を鳴らしながら、いま逃げてきた道筋を引き返す。そこを途中の物陰に隠れていて、突然襲うのだ。
「一匹残らず斃《たお》されて、眼を白黒させる西田の顔が見たいもんだ」
オコシップはにっと笑った。
放牧馬は二十頭の群を作っている。青毛や鹿毛それに栗毛、親子連れが頭を上下に振りながらオコシップの後姿をじっと見つめていた。
山がしだいに深まってきて熊笹が腰まで埋まる。楢の老木が二本、折り重なるように倒れている処まで来て、オコシップは立ち止まった。熊の足跡だった。朽ち果てた根っ株を掘り返し、蟻を食いあさった跡が荒々しかった。茶褐色の木屑が一間四方に散らばって赤蟻が二、三匹のろのろと歩いている。その木屑の縁に残った足跡は滑ったように流れているが、爪跡は刃物で切り裂いたように深く土をえぐっていた。オコシップは四つん這いになり、掌で足跡を触《さ》わってみる。
「古い跡だな」
赤く爛《ただ》れた眼の奥で黒い瞳を鷹のように光らせ足跡を見つめる。しかし、ここでも輪郭《りんかく》はほとんど崩れていて、カリベのものかどうか確かめることは出来なかった。
オコシップは村田銃を小脇に抱え、熊笹を踏みしめるように歩いた。太い楢の梢に吹きつける風の音が、ど、ど、どっと地鳴りのように響く。彼は大きくうねる笹原の中をどこまでも突き進んだ。なだらかな坂があり、深い藪があった。けもの道を通ってカタサルベツの入口に出る。
「根城を襲ってやるべ」
彼は毛にまぶれた拳骨で額の汗を拭った。深い沢が遠くまで続いていた。ここの勝手は隅々まで知っている。根城を作るとすれば「白い湧き水のところだな」と思った。
南に面した窪みに寄りかかるように坐ったオコシップは、眩《まばゆ》い陽の光を受け、開いている左の眼をしばたたいた。風さえなければ初秋の陽気だった。握り飯にとまった赤トンボを灯火でも消すようにふっと吹き払った。だが、どう飛んで来てくっついたものか、バカ(草の実)を噛んで顔をしかめる。
「阿呆!」と言って、ごくんと飲み込んでしまった。両眼の健在なときには考えられないことである。彼は熊を追いながら体の不自由さが頭から離れなかった。視界は半分に減り、肝心な音の世界も、その発声源がぼけている。そのことよりもっと大きな障害は、引き金をひく感覚が鈍くなったことだ。とっさの反応が老練な熊にどこまで通じるだろうか。
沢は思いのほか樹々の葉が厚く、見通しは利かなかった。彼はいつでも撃ち込めるように、村田銃をきちんと腰に据え、左手で樹の葉を払って進んだ。息をころし足音をひそめてじりじりと攻め込んでゆく。雉や山鳩が急に飛び立ちはっとすることもあったが、もう彼の腹はすわっていた。
「先に見つけた方が勝ちだ」
しかし、白い湧水のところにも風倒木の多い|トド原《ヽヽヽ》にも熊はいなかった。
その晩、オコシップは馬の死骸を高い樹の上から見張った。
「きっと来るはずだ」
死骸はカタサルベツの北の沢を少し行った楢林の中に転がっていた。日が沈み赤い夕焼雲がしだいに色あせてくると、こんどは沢の向こうに夕靄《ゆうもや》が湧き起こり、それがこっちに向かってのろのろ這い上がってくる。靄はときどき膨れ上がって四方に崩れた。
「領主様の吐き出した溜息よな」
彼は恨めしげに言った。これでは三尺先の筒先さえ靄の中にかすんでしまい、まんまと死骸を盗られてしまう。オコシップは猟の神に祈りを捧げたが、夕靄はいよいよ勢いを増し、樹々も死骸もみるみる白い闇のなかに包み込まれてゆく。
翌朝、オコシップは明るい太陽の光で眼を覚ました。馬の死骸はそのままだった。けもの道は沢から左の|ひら《ヽヽ》(斜面)に伸びていたが、熊の足跡は右の方にも沢の中を真っすぐ延びた方にもついていて、どれも十歩とゆかないうちに消えていた。
「止め足(足跡をくらます歩き方)だな」
オコシップは木陰に身を寄せ、あたりを睨むように見回す。
彼は風の動きや地形を見届けてから息を殺し、地べたを舐めるようにして、熊笹の中を一寸《いつすん》刻みに進んだ。つむじ風がざあっと葉末に渦巻いたと思った。そのとき、十間ほど先の楢の根元から突然、体じゅうの毛を逆立てた巨大な熊が躍り出た。熊は立ち止まって一旦こっちを振り返ったが、次の瞬間、くるりと背を向けて走り出した。あわてたオコシップは背後から続けざま二発の弾丸を発射した。しかし、大樹が邪魔をしてうまく狙いを定めることができない。彼は笹藪の中を転げるように後を追いかけたが、小高い山を越えたところで完全に見失ってしまった。
「畜生!」オコシップは息を切らし、呆然と辺りを眺め回した。
「とてつもない大熊だ」
日向に腰を下ろしたオコシップはしばらくして言った。幅広い肩は、もひとつ瘤《こぶ》をつけたように高く盛り上がり、脚は胴体から引き延ばしたようにこんもりしていた。少ししゃくれた顔付き、頬についた白い縦毛、それに体をゆする走り方まで、阿寒で仕留めた仔づれ熊にそっくりだった。
「間違いなくカリベだ」
オコシップは懐しそうに口に出して言った。
カリベの訪問は、アイヌに勇気を取り戻させたかったのかも知れない。オコシップはどうしても自分の手で熊神の国へ送り届けたかった。
オコシップはカリベを追い、カリベは馬を追った。彼は移動しながら馬を斃した。
こうして馬の被害は日毎に増えていった。西田をはじめ、牧場の親方たちは無惨に皮を引き裂かれた骸《なきがら》を見ながら気が気でなかった。三十頭の被害を数えたとき、「オコシップの呪いぞ」と、部落の人々はひそかに囁《ささや》き合った。懸賞金は何倍にも跳ね上がり、鉄砲に自信のない農家の連中まで村田銃を担いで山に入った。しかし、カリベの行方は一向に分らず、そのうちには浦幌《うらほろ》、統太《とうぶと》、厚内《あつない》の果てまで、十里の広範囲にわたって出没するようになった。
「ウツナイ原野へ追《ぼ》え」
西田はとうとう馬を原野に集め、見張人を付けるように命令を下だした。五百頭の馬は牧夫たちによって、翌日さっそく集められ十勝川を渡った。広大なウツナイ原野は安全な馬の天国に変った。
「もう大丈夫だ」しかし、たった一日で賢いカリベはひそかに馬群の中に紛れ込んだ。最初の被害が出た。人々は草の根を一本ずつ掻き分けて捜し回ったが、カリベの姿は、やはりどこにもなかった。
「トイトッキ沼の岸に親馬が三頭、海岸寄りの高台に親子が二頭だ」と、小柄な牧夫が斃された馬の数を伝えた。いっときして、そのすぐ後ろから馬を駈ってきた男が、
「牧夫がやられた」と、叫びたてた。
「どこだ」
「ペカンペ沼から百間ほど海岸寄りだ」
ずいぶん遠くへ行ったものだ。ペカンペ沼はここから二里も向こうでウツナイ原野のはずれである。
「オコシップ」と、男は改めて彼に呼びかけた。
「二百円の懸賞を賭けてもええど……不満なら三百円でもええ」
男はじゃめ馬(気荒い馬)を宥《なだ》めながら、ひとりで値段を跳ね上げる。しかし、オコシップはそれには耳を貸さずに、サビタの向こうを歩いていた。
「人喰い熊」と、オコシップは唸るように言う。カリベが人を殺したと考えるのは苦しかった。人を殺したからには、もう肉と皮を戴くことも熊神の国へ送り届けることもできない。
盛大な祭りを願っていたエシリやモンスパが聞いたらどんなに嘆き悲しむだろう。
「呪われたカリベ」人喰い熊がみんなそうだったように、カリベの体は小さく切り刻《きざ》まれ、その辺にまき散らされて狐たちの餌になり、頭部は部落の若者たちに担がれて便所に投げ込まれる。蛆がたかり肉が欠け落ちて白骨になるまで許されはしない。
「わしが罪を作った」
突然、オコシップはその場に跪《ひざまず》き、「許してけれ」とカリベに許しを乞うた。三たび取り逃がし、とうとうここまで追い詰めてしまった己の非力が情けなかった。艶気《つやけ》のない髪は両の頬に垂れ下がり、黒く落ち窪んだ眼には苦悩の色がありありと見えた。
雨雲が低く垂れ込め、カンカンビラは遠く霞んでいた。ペカンペ沼の先端に辿り着いたとき、雨雲は急に崩れ落ち、冷雨がしとしと降り出してきた。原野は静かだった。彼は体を低くして野地坊主《やちぼうず》の頭をひとつひとつ踏んでゆく。履物《ケリ》に水が入り込んでガボッガボッと鳴った。熊の足跡は馬と入り乱れてそこらじゅうにあったが、確かめることもなく前へ進む。緊迫した気配がひしひしと迫ってくる。
この時、二十間ほど前方で銃声が響き渡った。彼はキッと身を引き締め、とっさにその方向に突っ走る。と同時に、黒い塊がざざっとサビタの茂みを押し分けて走り抜けた。熊《やつ》だ、と思ったとき、ふたたび銃声が轟いた。
「たわけ!」
オコシップは馬を駈った親方の横槍に腹をたて、走りながら、がっと唾を吐いた。彼は途中から横にそれ、けもの道に出てカリベの先に回る。原野を走り抜け、十勝川の岸に聳え立つカンカンビラの麓に蹲《うずくま》って息を殺した。弾丸のぎっしり詰まった帯革から、さらに二個の弾丸を抜き出して懐に入れ、冷えきった人差指を口にくわえて待った。張りつめた時が流れ、彼の呼吸がようやく平常に戻ったころ、果たして金毛の大熊が、彼の眼前に躍り出た。
わずか五間の距離に立ち、生《なま》ぐさい息を吐き散らすと、ぐおーとひと声高く吠えたてた。人喰い熊とはいえ、山を領していたものの威容が辺りいっぱいに漲《みな》ぎる。狂った獣はオコシップを睨み、盛り上がった肩に力を入れて、のっしと一歩を踏み出した。体じゅうの毛は棘のように逆立ち、見開いた眼は刃《やいば》のように鋭い。その首根に向けて、オコシップの村田銃が火を噴いた。カリベは咆吼し立ち上がり、前足で空気を掻きむしって、どうっと倒れた。その真っ赤な口の中に、第二弾が撃ち込まれた。
「カリベ! 鍛え抜いた腕だど」
オコシップは不敵な笑いを浮かべる。
冷たい雨は一段と激しく、吠え立てるように口を開いたカリベの体を打ちつけた。
「人喰い熊カリベの力を借り、こんどは和人《シヤモ》どもの肝《きも》に食らいついてやる」
原野は薄暗く煙り、雨はますます強く降りしきっていた。
6
「オコシップがあの強暴なカリベを仕留めたど」
ヘンケの孫トラエがコタンの隅々まで走り回った。
「あの眼でな」
シュクシュンもシンホイもみんな呆気《あつけ》に取られている。眼を抉《えぐ》り取られてからのオコシップはますます気が荒くなったと噂され、みんなはオコシップをカリベと呼んで恐れた。
「今のうちに止めなければ殺されるまでやる気だ」と、ハルアンは心配している。だが、オコシップに歯止めをかけることは誰にも出来なかった。
彼の敷地に踏み込み、プ(雑穀を貯蔵する足の高い倉)を壊した牛を家の前の太いアオダモにぎりぎり縛りつけ、「西田に引き取りに来いとな」オコシップは牧夫や雑役夫たちに言いつけた。しかし、西田は受け取りに来なかった。牛は三日も繋がれたまま骨と皮だけとなり、のめくるようになってようやく放された。馬の時もそうだった。
「カリベのことだ、撃ち殺すかも知れんて」
眼玉を抉り取った西田をただで帰すとは、誰も思わなかった。
オコシップは道路を跨ぐように立って、いつまでも西田を待っている。秋風がごうごうと吹き渡り、彼の厚司《アツシ》の裾をばたばたと叩きつける。その風もこの頃はかなり冷たくなってきた。
十勝の秋は長い。秋風が吹き始めてから、日高山脈に白雪が光るまで三カ月はたっぷりある。この間に、秋よりもっと長くて厳しい冬籠りの支度をしなければならない。中でもカムイチップ(鮭)は最も大事な食糧なのだ。
「ここはおいらの猟区《イオロ》だ」
浦幌川と十勝川の合流点で、それが丘陵に突き当たって渦巻いている処だった。櫂を振り回し躍りかかるオコシップの狂暴さには、大津分署から回ってくる巡査たちもたじろいだ。
「抉り取った眼の処分はどうした。その決着がついたら話し合いに応じる」
彼は失った眼と耳と短くなった人差指を巡査の前に突き出し、「見ろ!」と大声を張り上げた。
オコシップは朝から焼酎を飲んでぶっ倒れた。母のエシリや女房のモンスパが心配して「ワッカウシカムイ(流れの神)の怒りを買い、きっと災いが起こる」と忠告したが、耳には入らなかった。
陽が沈み辺りが暗くなるともっくり起き出し、窓外の闇に向かって「野郎ども」と怒鳴る。体のなかにはまだ酒気が残っていた。
「漁は無理だな、ワッカウシカムイの加護は受けられんど」
エシリが眼を吊り上げて言った。
「河童を装った和人どもが川の中に引きずり込むかもしれん」
モンスパも赤子を抱いて戦《おのの》いている。
「もう一歩も退《ひ》かれねえ」
オコシップは呻くように言った。
コタンを荒し回った開拓の波は、次ぎから次ぎに押し寄せ、それが内陸に向かって進んでいた。けもの道が幅広い道に変り、十勝川を海運業社の五十石船が大きな旗を靡《なび》かせて往来した。開拓農家の草葺屋は年々大きく葺《ふ》き替えられてゆく中で、どす黒くくすんだアイヌの家は半ば朽ち果て、傾いた屋根の横木をあばら骨のように剥き出したままだった。ボロをまとい眼の落ち窪んだアイヌたちは、食物をあさって西田御殿の方へ揺れるように歩いてゆく。コタンは疲弊しきっていた。
「コタンクルカムイ(コタンの守護神)、どうかわたしにお力を」
オコシップは炉縁にうやうやしく跪《ひざまず》いた。彼はツキ(杯)を胸の前に捧げ持ち、イクパスイ(神箸)の先に浸した焼酎を炉火の上に一滴また一滴たれ落とし、
アベフチカムイ(火の神)よ
どうかわたしたちを守護し
漁の恵みをお与えくだされ
と唱え、敬虔《けいけん》な祈りを捧げた。
オコシップは亡き父レウカに習って、いつもより念入りなアイヌぶりで出漁前の祈りを捧げた。
夜風が原野を吹き抜けていた。風は一日じゅう吹き続けて夜になっても納まらず、家じゅうが軋《きし》み、灯火《ラツチヤク》の焔が長い尾を引いて揺れ動く。こんなとき漁はビラ(切り立った岩)の下がいいな、と彼は思った。
オコシップは不自由な眼を見開き、弦月の薄い光の中を岸づたいに川を遡り、流れの渦巻く猟区《イオロ》に着いた。丸木舟をビラの下に止めて一服つける。
風の唸りと川の唸りがごうごうと岩肌に木霊《こだま》し、獣たちが原野に向かって咆哮するように響き渡る。
「これはアイヌたちの慟哭なんだ」
オコシップは弦月に向かって呟やく。
「父のレウカから数えても、どれだけの迫害を受けたことか」
疱瘡や淋病を移され、多くのアイヌたちはばたばた斃《たお》れ、叔父サクサンたちは野火で焼き殺され、土地を奪われたカイヨたちは釧路に追われた。あとに残された年寄りと子供たちは、いま川岸にへばりつくようにして飢えをしのいでいる。
「おいらに力を与えてくださる鮭《カムイチツプ》」
オコシップは川面にさっと網を投げ入れた。長さ三十間の網は浮子《あば》と沈子《あし》に分れ、滑るように川面に広がってゆく。網を投げ終ると、オコシップは艫《とも》に立ち舟を繰って網をまっすぐに伸ばした。
浅い深いによって流れは一定でないが、網は常に流れに直角でなければならない。丸木舟は流れに乗り、網と共に静かに流れる。彼は手綱を握りしめて鮭の|当たり《ヽヽヽ》を待った。
浦幌川の落ち口で最初の鮭がかかった。手綱にごつんと当たり、それから一呼吸して、太い飛沫が六尺も跳ね上がった。彼は蜘蛛《くも》のように岸の方から浮子《あば》づたいに獲物に近づき、網ごと抱きかかえて舟の中に取り入れた。鮭は脳天に真新しい頭叩き棒の強打を受け、全身を痙攣《けいれん》させて何度も尻尾で立ち上がった。
「めんこい奴《やつ》だ」オコシップは鮭を抱きかかえて頬ずりをする。鮭の腹がぐうと鳴った。
「肉も腸《はらわた》も残さずに食べて、天の魚国へ送り返してやるべえ」
流れがビラ(岸壁)にぶつかって大きく曲ると、ばしゃばしゃっと川面が揺れ動いて白い腹がいくつも光った。天から降ろされた魚袋の口が開いて、どっと出てきた。鮭が群れてきたのだ。オコシップは丸木舟の中を転げるようにして、「長い旅だったによ、めんこ、めんこ」と言いながら、三尺五寸もある大鮭《おおより》を何度も抱きかかえた。粘液と血にまみれ、顔も体もどろどろだったが、彼は頭を振り拳骨で粘液を打ち払った。
網はオコシップの家が見える処で引き上げた。ここから先は、木の根や岩盤があって危険なのだ。
三流し目だった。丸木舟の中には、すでに八本の銀毛が淡い月の光を受けて、ながながと横たわっていた。弦月が西に傾き、柳の影が川面に黒々と尾を引いている。
「密漁だ!」
突然、川岸の方から甲高い声がして、岸づたいに走る足音がした。それは胴までもあるゴム長のぶつかり合う重い靴音だった。黒い人影が夜空に浮かび、それがドングイ林をガラガラと音をたてて近づいてくる。オコシップは網を引き揚げ舟を岸から遠く離し、流れに乗ったまま丸木舟の中に蹲《うずくま》ってじっと息をひそめる。
「こら! 泥棒野郎、止まれ、止まらんか」
川岸で叫び立てる監視員の声がはっきり聞こえた。
「止まってどうする。やすやすと捕まってたまるもんか」
チップ(魚)はカムイ(神)からアイヌ(人間)に与えられた自然の恵みなのに、どうして獲ってはいけないのか、オコシップは何度言われても納得できなかった。彼は腹の底から込み上げてくる苦《にが》い液汁といっしょに、いやな思いを川の中に吐き捨てた。
腕ずくでもチップが欲しかった。チップを食べて空腹を満たし、痩せこけた命を甦《よみがえ》らせてやるんだ、と思った。彼は蹲っていたので大型の監視船がすぐ眼の前に来ていることに気づかなかった。
「逃がすな!」
舳の男が立ち上がって叫んだ。だが、こんなとき長い間に鍛え上げたオコシップの腕は確かだった。前に進むと見せかけて後ろに退《ひ》き、面舵《おもかじ》から急に取舵《とりかじ》に切りかえて岸の蒲原《がまはら》をすり抜ける。監視船の男たちはそのたびに罵声を浴びせて立ち向かったが、丸木舟の素早い変り身に翻弄されて、箱船は川の中をぐるぐる旋回したり、川岸に乗り上げたりしてドジを踏んだ。
「河口へ追《ぼ》え!」
尖った声が闇の中に響き渡る。河口の急流に押し流されれば、そのまま海に出て荒波に呑み込まれてしまうだろう。オコシップは陸と川から追いつめられてせっぱつまった。だが、彼は慌《あわ》てなかった。
丸木舟はじぐざぐ道を辿って上流に遡《のぼ》った。監視船は櫂《かい》で川面を叩きつける勢いで漕ぎ、飛沫を高くあげて追いかけてくる。もうひと息というところまでくると、オコシップは丸木舟を急に横にそらしたり、停止させたりして監視船の速度をそぎ落とした。そんなことを何度も繰り返して一里ほど遡ったところから、彼は下流に向けていっきに漕ぎ下だった。水勢の早いところを選んで漕いだ。丸木舟は流れ星のように早かった。
「大鷲と隼《はやぶさ》の違いだ」
オコシップは後ろを振り向いて監視船との距離をはかった。箱船はしだいに遠去かり、闇の中に消えてゆく。川の両岸に厚い蒲原が続いていた。丸木船は生きもののように素早く蒲原に潜《もぐ》り込んだ。
「まるで鉄砲|弾《だま》だな」と舳の男があっけにとられた声で言った。オコシップは舟から下り、肩まで水につかって監視船をやり過ごした。
川霧が立って、川も陸も白い闇の中に消え失せた。
「おらの勝ちだ」
彼は闇の中でにっと笑い、ふたたび舟を繰って川下に向かった。
その晩、オコシップは近ごろにない大漁だった。舟と網を川岸に沈め、叺《かます》に十五尾の大魚《おおより》を入れて揚々と引き上げた。
「魚国のカムイが、魚袋の口を大きく開けてくれたぞ」昆布刈石《こぶかりし》の沖合いに下りたった鮭たちが飛沫をあげ、河口に向かって真っすぐ遡ってきた、と彼は言った。
7
朝早くエシリは同胞《ウタリ》仲間の家を回って、鮭《カムイチツプ》を一尾ずつ配って歩いた。昔は自由に獲って食べたいだけ食べ、残りは軒場に吊り下げて冬の食べ物にしたものだが、こう監視が厳しくては思いのままにならなかった。
「こんなに沢山、どして獲ったべか」と、シュクシュンの女房サロチが身を乗り出して訊いた。
「命と引き換えによ」と、エシリは大げさに言った。大漁はこうして三晩も続いた。
雨が降っていた。トンケシ山に厚い雲がかかり、朝から途切れなく降り続いていた。オコシップは厚司の上に、もう一枚ボロ厚司を着こんだ。冷雨が肌に浸み通って寒さが体の芯《しん》に達するまでには、大丈夫ひと漁はできると考えていた。
「体があったまるさ」エシリはキトビロの雑炊《ぞうすい》を作って食べさせた。
「これに限る」彼は出がけに焼酎を茶碗になみなみと注いで、アベフチカムイ(火の神)に捧げてから、二杯も飲んだ。彼は「和人《シヤモ》に踏《ふ》んづけられてたまるもんか」と言い、がっと唾を吐いて家を出た。日はとっぷり暮れていた。
オコシップが出かけて間もなく風が出てきた。山背風《やませ》(北東風)で峠の上から叩きつけるように吹き下ろす。家が軋み、屋根裏からぶら下がった煤の太い塊が、ゆらゆら揺れ動く。
「舟を漕ぐだけでも大事《おおごと》だべ、早う帰ってくればいいに」
モンスパが心配そうに窓外の闇を見つめて溜息をつく。雨が入り口の板戸を叩きつけるたびに、みんなは息を呑んで首を縮める。
「この寒さだ、今に帰って来《く》べえ」エシリは炉火の中に薪をどんどん投げ入れる。赤い焔が鍋底にぶつかり、四方に広がって立ち昇る。子供たちが床《とこ》に入り、夜はしだいに更けていったが、オコシップは帰ってこなかった。
「ろくなことはねえな」と、エシリが呆れたように窓際に立ったとき、がたんと戸が開き、オコシップが風に押されて飛び込んできた。体じゅうから太い零《しずく》が垂れている。だが、オコシップは口を噤《つぐ》み、土間に立ったままその場で着替えをした。
「どうしたべえ」エシリとモンスパがかわるがわる問いかける。しかし、着替えが終って炉縁に坐っても、まだ口を開かなかった。頬にすり傷があり、手の甲から腕にかけて紫色の痣《あざ》ができていた。
「この嵐だもの」モンスパが慰《なぐさ》めるように言った。しかし、オコシップはとうとう口を結んだまま蒲団の中に潜《もぐ》り込んだ。
風はいよいよ激しく寝苦しい夜だった。猟犬《セタ》が唸り声を挙げて、ひと声わんと吠えたてた。誰かが家の周りを歩いているらしい。そのうちに河口の方から人を呼ぶ声がして、遠くからけたたましい猟犬の吠《な》き声が聞こえてくる。炉火が消え、闇の中からときどきオコシップの太い溜息が洩れていた。
翌朝、雨は嘘のように上がっていた。
「巡査が川で溺れたらしいど」
オコシップの家は、シュクシュンの叫び声で目が覚めた。
「どして溺れた!」
エシリが寝床の中から上体を起こして訊《き》いた。
「川に落ちたか、密漁者に突き落とされたか。とにかく、山田巡査が十勝太へ監視に来たまま見当《あ》たらねえと言うだ」
シュクシュンが帰ったすぐあと、鼻髭をぴんと跳ね上げた年輩の巡査がやってきた。部屋の中をじろじろ見回し、目付きの悪い巡査だった。
「昨夜、密漁しなかったか!」
「あんなひどい嵐にな」エシリが言った。子供たちは奥の部屋で、蒲団の陰からじっとこっちを窺っている。
「ほんとか」と、念を押した。
「密漁どころか、あんな小さい丸木舟だもの」
エシリはおどおどしているが、そのわりにしっかりした口調だった。
巡査が表戸の敷居を跨いで出てゆくなり、子供たちが奥の方から飛び出してきて、「嵐だ、大嵐だ」と叫びながら、体をぐらりと傾け丸木舟が難破する恰好をし炉縁をぐるぐる回った。
「玉風(北西風)が来たど」モンスパが叫ぶと、子供たちはごろんと転んで、丸木舟はひと思いに引っくり返った。オコシップもつられて、渋い顔に笑みが浮かぶ。
巡査が二度目に訪ねて来たのはその日の午後、水死体が河口近くに寄り上がってからだった。頭に傷があったということだが、それは外敵によるものなのか、川に転落のとき過失によって出来た傷なのか、判然としないということだった。
「やるとすれば、カリベの名を持つおめえ以外には考えられねえな」
鼻髭の巡査が頭をふりふり言った。
「誰が言った!」
気の荒いオコシップはもう村田銃を構えている。名指しをすれば、オコシップはそこに乗り込んで、どんな仕打ちに出るか分らない。だから巡査は言葉を濁し、気を静めるような口調で訊き出す。
「殺意がなくても、振り上げた櫂《かい》がぶつかることだってあるもんな」巡査はおとなしく、何度も言い方を変えて訊問を繰り返した。
「その手に乗れば、夕方にはりっぱな殺人犯として連行されるんだい」
オコシップは眼を額の方まで吊り上げ、ダンと床を踏みつけた。
「猫が鼠を嬲《なぶ》り殺すみたいに餓死の状態に追い込んでおいて、嬲り立てるんだから始末が悪い」
オコシップは「悪魔ども!」と叫ぶと、もう一度床を踏んだ。
エシリもモンスパも子供たちまでも、あの晩の沈んだ様子からオコシップは何か関係しているらしいと勘づいてはいたが、そんな素振りは微塵も見せなかった。そして、ただ責めたてる和人が憎かった。
「あの嵐だ、ハンブ(川岸)から足を踏みはずして川にずり落ちれば簡単には這い上がれめえし、早い流れに乗れば岸辺の木の根でも岸壁でも頭をかち割るくらいは容易なこった」
そんなものが証拠になるもんかい、とエシリは唾を吹き飛ばす勢いで言い返した。
オコシップは巡査と揉み合ったところまでは分るが、それがどうなったものか嵐の中での揉み合いは自分にもよく分らない。気がついたときには巡査はいなかった。
彼は三回目も四回目も決して口を割らなかった。
8
日高山脈に今年の雪が光った。肌を射す北風が何日も吹き通して表土が一尺も凍り、やがて原野にも雪がくる。
「寒《さぶ》、寒《さぶ》」と言って、エシリが厚司の袖の中深く手を引っ込め、背を丸めて戸外から入ってきた。
「昔はペカンペ(菱の実)やネシコニ(胡桃《くるみ》)、ウンバイロ(ウバユリ)の粉、それにトパ(干鮭)が倉《プ》いっぱいに詰《つ》まってたによ」
日高山脈の雪を見て、エシリは長い冬籠りに思いを馳せ、急に心細くなったようだ。あのころは鹿も獲れたし、鮭も自由だった。雪の日は近所の女たちが集ってきて、稗《ひえ》で作った濁酒を汲みかわし、ウポポやリムセやヘチリを歌ったり踊ったりして夜を明かしたものだった。先頭に立つのはいつもエシリで、「声のいい母シルラの血を受け継いでいるもの」と言って、みんなは口をそろえて褒めてくれたものだ。
「娘のチキナンやウフツもまだよちよち歩きの子供だったが、『ホイ、ホイ』と、一人前の掛け声をかけて上手に歌ったもんだわ」
エシリは眼に涙を浮かべて言う。モンスパも幼いころの長閑《のどか》だったコタンを思い浮かべ、眼を潤ませて聞き入っていた。
「それがわずか二十年の間に」と言って、エシリは声が詰まる。亡き夫、レウカがクンツでクナシリに連行されてから、何もかも壊れてしまい、乞食みたいな暮らしになってしまったのだ。娘のチキナンもウフツも白糠《しらぬか》や釧路《くしろ》にそれぞれ嫁いで行ったが、いい暮らしをしているとは思えなかった。
「周吉の時代には、きっとよくなるさ」
モンスパは明るく言って微笑んだが、二人の心の中にそんな当ては微塵もない。
「そのときまで歌や踊りを忘れんように、ときどき練習せんとな」エシリはとんとんと足を踏んで踊りの真似をした。
エシリの末娘カロナは炉縁に坐り、せっせと厚司の糸紡ぎをしていた。彼女は眼が不自由なので、ほとんど手の感触で仕事をしている。乾燥したオヒョウの繊維を細く引き裂き、それに撚《より》をかけては両方の糸端を機《はた》結びに結んでゆくのである。余り糸を鋏《はさみ》でぷつんと切り落とし、織るときにひっかからぬように結び目を噛《か》んで潰すのだ。
カロナはこれが毎日の主な仕事だった。朝から坐って一日にいくつもの糸玉を作った。
「みんなの厚司を作って、それでもまだ糸玉が残り、チキナンやウフツにも作ってあげるんだから、まったく家の宝もんだよ」エシリはカロナの頭を撫でる。
彼女は子供のころから、じっと坐ってコタンの生活を見てきた。目明きよりはっきり見てきた。だから、コタンのことは隅々まで知っている。知っているだけではなく、これから先のことも言い当てた。
「東の空に火柱が立った」カロナがこう言ったその翌日、カイヨの女房、リイミは家《チセ》を焼いて釧路へ行ってしまった。こんなとき、カロナは高熱を出して寝込んだ。そして、うわ言のように言うのだった。
「暗い、暗くて何も見《め》えねえ」カロナは手を前につき出して、家の中を這って歩いた。
「何とすればええだよ」エシリとモンスパはもっとはっきり訊き糺したくて、熱にうかされたカロナを抱きあげて言わせようとしたが、それから先は言わなかった。オコシップが眼玉をくり抜かれたのは、それから間もなくだった。
「先祖様のお告げなんだよ」と、エシリはシンリツモシリ(あの世)に行った多くの神々に感謝している。そのカロナが夕方から急に高熱を出して寝込んだ。エシリたちは、カロナのうわ言を聞き逃すまいと耳を立てた。
「何と言った?」カロナが熱に浮かされ、ただ唸っただけでも気を尖らせた。すっかり馴れっこになった子供たちがカロナの口許に耳をつける。
「ハ」と、周吉が言った。「ラ」と、弟の金造が言った。「ヘ」と、いちばん下の洋二が言った。初めに戻って、「ツ」と周吉。「タ」と金造。三人は口を揃えて、「ハラヘッタ」といっせいに叫んで、戸外へ逃げ出していった。
「ろくでもねえ、罰当たりが」エシリは床を踏みならし、額《ひたい》からぼうぼう湯気を上げて孫たちを怒った。カロナのうわ言はそれだけで、その翌朝にはからりと熱が下がった。
ひと雨ごとに寒さが加わり、十勝川に蓮《はす》の葉氷が流れ始めた。この頃になると、シシャモが大群をつくって遡《のぼ》ってくる。
「今夜あたりだな」と、オコシップは空を見上げて言った。シシャモは大てい夜中に遡上《そじよう》する。
空がどんより曇り、北風がぷっぷっと吹いて寒い日だった。河口にはシシャモの遡上を見張る若者たちが、焚火《たきび》を焚《た》いて待っていた。彼らは十分二十分おきに交替で河口の浅瀬にタモ網を入れた。シシャモはひと晩のうちに遡ってしまうから油断ができない。
「ケラケラだ(二、三尾だけ)」と、手拭いで頬被りをした若者が言った。ケラケラが幾日か続いて、どっと遡上してくるのだ。
若者たちはきつい濁酒を飲み、その勢いで夜が明けるまで一睡もしない。こうして朝日が昇るころ、焚火で赤く爛れた眼をこすりながらようやく帰ってくる。
それから三日目だった。「来たどおっ」と、河口に若者たちの叫び声が起こった。シシャモは広い川幅いっぱいに、さざ波を作って押し寄せてきた。これから二波三波と、ひと晩じゅう押し寄せてくる。川の中を丸木舟が忙しく走り回る。犬の鳴き声や人々の叫び声が聞こえる。めいめいの猟区に梁《やな》を作ったり、網を張ったりして群来を待ちかまえているのだ。
浦幌川の河口付近に猟区を持つオコシップたちは十分準備が出来ていた。ところどころ、肝心なところに太い杭を打って、網は頑丈に作られていた。
「厚手《あつで》だ」と、オコシップは言った。仕掛けた網にシシャモがいっぱいになった頃合いを見て口を締《し》めねば破られてしまうから、オコシップは丸木舟を繰りながら、まばたきもせずにじっと網口を睨んでいる。網を漏《も》れたシシャモたちは、光のようにぴちぴち跳ね上がり、白く盛り上がった網袋は何度も水面に浮き上がった。近年にない大漁だった。
シシャモは丸木舟に二つもあったので、その後始末に数日を費した。萱《かや》を編んで作った簾垂《すだ》れに広げて乾したり、目刺しにして軒場に吊した。
「三平汁は、こたえられねえてば」
人間たちも犬たちも、毎日シシャモをたらふく食べた。乾して食べて残ったのを、エシリたちは農家へ持って回り食糧と交換した。
「大雪がきても、もう心配はねえ」
エシリとモンスパは、馬鈴薯やトーキビの山を掌でぴしゃぴしゃ叩いては、「大漁だ、大漁だ」と言って笑い転げた。
9
原野に雪が来ると、間もなく広い川に氷が張る。五〇センチにも達する厚い氷は川を半年も閉じ込めてしまう。川を遡《さかのぼ》って鮭や鱒を獲っていたコタンの人々は、冬になると氷を渡って奥地へ入り、熊や鹿を追いかけた。
朝から雪が降っていた。遠くの山が霞み、カケスの群がうるさく鳴きながら、サンナシの森の方へ飛んでゆく。西田牧場の放牧馬たちが、山からぞろぞろ下だってくる。
「降るかもしれんな」と、オコシップが言った。放牧馬たちは峠の下に集まってきた。横なぐりに吹きつけてくる東北風《やませ》から逃れようというのだ。
昼近く、「ひどい雪になった」と言って、テツナと妻のフミが今年三歳になる重吉を負ぶって入ってきた。
「よく来たによ」エシリは土間に飛び下り、箒《ほうき》を振り上げるようにして、肩に降りかかった粉雪を払い退ける。
「今日は泊ってゆっくりして行ってけれ」
エシリは暇なしにしゃべり続ける。そんな話を聞きながら、オコシップは炉縁に蹲ったまま身動きもしない。彼はテツナが和人娘フミと結婚したことが気に食わない。そして彼が女房モンスパの兄であることがもっと気に食わない。
テツナの父親サクサンはクンツ(強制連行)を拒んで山に逃れ、あくまで和人に抵抗して死んでいったのだから、甥《おい》であるオコシップにしても、和人との縁組みをどうしても納得することが出来なかった。
「親不孝者!」これがテツナに対する最後の言葉だった。あれから、もう十年も反目が続いている。
テツナは罵《のの》しられても、足蹴にされても、和解しようとしてやってきた。彼は夏じゅう十勝川の定期便五十石船の船頭をし、川を遡ったり下ったりして忙しいが、冬はぶらぶらしているので、詰《なじ》られるのを覚悟でときどきやってきた。
「子供もあるによ」
エシリが仲に入って、互いの気持ちを取り持とうとするが、
「そんなこと、言えた義理だか」
「サクサンだちのことを想えば、とてもつらくて」
年齢《とし》をとって涙もろくなったエシリは、こういって眼頭を押さえる。
「そしたら言うな」
オコシップの投げつけた茶碗が、柱にぶつかって飛び散った。
その晩は気まずい夕食になった。卓子の真ん中には筋子の入った粥《かゆ》の大鍋が据えられ、シシャモの目刺しや蕗の味噌汁が並んでいた。オコシップの不機嫌に、子供の周吉や金造もおとなしく粥をすすっている。
「うんと食べえ」
エシリは愛想をふりまいて、テツナの伜にすすめる。だが、重吉はまわりの重苦しい空気を感じているらしく、声も出さずに食べている。灯火《ラツチヤク》がぱちぱちと弾けては、ジーと音を立てて燃えさかる。
雪は夜になっても少しも衰えず、板戸をうちつけてくる粉雪は、板の隙間から風といっしょに吹き込んでくる。それが一本の白い線になり、やがて山になって盛り上がった。
外はいつの間にか吹雪だった。原野を吹きつけてきた風がごうごうと唸りをたて、家をぎしぎし軋ませて通り過ぎる。
「火は何よりのご馳走よな」
モンスパは炉火の中に、ひまなしに薪を放り込んだ。エシリもモンスパも、少しでも尖った気持ちを柔らげようと立ち回ったが、しかし、家の中の重苦しい空気はますます沈んでいった。
「帰るぞ」と、突然テツナがフミに言った。
「この吹雪にな」エシリはとても無理だと言って引き留めた。大津まで二里の道程はそんなに遠い距離ではないが、吹雪の夜、荒涼とした原野の雪路を踏みはずさずに歩くことは、とてもできる筈がない。モンスパは、「一寸先も見《め》えねえだからな」危い真似はすんなと言って、首を振り続けた。
「帰りたい者は帰しておけ!」
オコシップの濁声《だみごえ》が、家じゅうに響き渡った。そのまましばらくの間静まり返っていた。
「どしても帰るとな」
幼い重吉を紐《ひも》でぐるぐる縛りつけるようにして負ぶり、帰り支度をするテツナたちの傍で、モンスパはただおろおろしている。
「また来るよ」と、テツナが言った。
「無理せんでな、駄目と分ったらすぐ引き返して来《こ》お」
エシリが何度も言った。
テツナたちが帰ったあと、エシリたちは炉縁に蹲って凄まじい吹雪の音を聞いていた。
「いっそサクサンの霊《たましい》にでも取り憑かれて、くたばればええのよ」
呟やくように言うオコシップの眼が、額の方まで吊り上がった。
「縁起でもない」
エシリはオコシップを睨みつけ、ぶるんと体を震わせた。
夜が更けても吹雪はいっこうに収まらなかった。十勝川の氷の動く音や犬の鳴き声を聞くたびに、エシリたちは顔を上げて耳を傾ける。外はごうごうと途切れなく唸りを上げ、草屋が押し潰されそうに軋む。
「どの辺まで行ったか?」
モンスパは何度も、窓の方へ立って行った。
「うまくゆけば、そろそろ着くな」
エシリとモンスパはオコシップや子供たちが床《とこ》に入った後、囲炉裏の中に頭を突きさしてぼそぼそと話していた。
突然、ドスンと何ものかが出入口の板戸にぶつかる音がした。二人はとっさに顔を見合わせたが、二度目にぶつかったとき、エシリは跣《はだし》のまま飛んで行って素早く板戸をこじ開《あ》けた。そこに子供をおぶったテツナが倒れていた。
「兄《あん》ちゃ」と、モンスパは狂ったように叫び、雪だらけの体を中に引きずり入れた。テツナは体が凍《しば》れ口もきけなかった。オコシップが起きてきた。
「ばかやろう!」と、エシリが床を踏みつけて叫んだ。
彼女は吹きとり(吹雪の遭難者)の救急には馴れている。「火に焙《あぶ》るなよ」モンスパは言われる通りに家の中を走り回った。藁《わら》を小さな束にして、それでテツナや重吉の手足をごっしごっし擦《こす》りつける。
子供たちは寝かされた遭難者の傍に立って、ぶるぶる震えている。
「フミはどした」エシリはキンキラ声で何度も聞いたが、テツナはいつまでも口が利けなかった。
「オコシップ、モンスパを連れて探してこお」
エシリが髪を振り乱して叫んだ。雪をかぶっても今ならまだ分るはずだ、とエシリは思った。ぐずぐずしているオコシップに、「今すぐと言うに」彼女はふたたび叫び立てた。
オコシップたちが出かけた後、間もなくテツナは意識を取り戻した。原野をしばらく歩き、ウツナイ川の辺りで道に迷い、引き返す途中でフミにはぐれた、とテツナは喘ぎ喘ぎ言った。
戸外では吹雪が、いよいよ激しく荒れ狂っていた。
「お父《とう》の報いなんだよ」と、テツナが力なく言った。
「心配せんとな、静かに眠るんだ」
エシリは藁布団をとんとんと軽く叩いた。囲炉裏は火の粉を吹き上げて燃え盛っていた。その傍で、テツナ父子《おやこ》がすやすや眠っている。
「何度でも生まれ変って、和人どもを嬲《なぶ》り殺してやる」
テツナの父、サクサンの口癖だった。
「テツナは性根《しようね》のある若者だから、きっと仇ばとるさ」
そのたびに、傍で聞いているオコシップは言ったものだ。
しかし、その性根のある若者が釧路の昆布場へ出稼ぎに行って、どう血迷ったものか、親方の娘と仲よくなり子供まで連れて帰ってきたのだ。
「殺してやる」オコシップは手斧《ておの》を持ってテツナを追いかけた。だが、テツナは跣《はだし》で原野を駆け抜け、大津で運送業をしている妻フミの親戚にあたる富豪の家に逃れ、そこに匿《かくま》ってもらったのである。
「テツナを出せ」オコシップは門のある豪邸の前に立って叫びたてた。濃紺の官服を身に着け、鼻髭を生やした巡査と、腕っぷしの強そうな荷揚げ人夫四、五人が来て、「帰り給え」と言った。
「帰るもんか」と、オコシップは手斧を後ろに隠して言った。しかし、わっと飛びかかってきた荷揚げ人夫たちにはかなわなかった。腹を蹴られ顔を殴られて鼻血を吹き出した。オコシップはばたばた※[#「足+宛」、unicode8e20]きながら、そのまま腕っぷしの強い人夫たちに広い通りから川岸までずるずる曳きずってゆかれ、「一、二の三」で川に放り込まれた。
「二度と現われたら、こんどは池田の本署に突き出してやる」
オコシップは川面にひっくり返ったまま、それを犬の遠吠えのように聞いていた。
働き者のテツナは、その後、十勝川の定期運送船に乗り込み船頭として働いた。親方に可愛いがられ、賃金は船子たちの倍も貰って、人並み以上の暮らしをしている。それがいっそうオコシップの勘《かん》に触わった。
「和人《シヤモ》にうまく取り入り、自分だけがいい思いをして」
彼はテツナをぼろくそに言った。しかし、テツナの頭からは、和人を恨むアイヌたちのことは片時も離れることはなかった。珍しい食べ物や得難い品が手に入ると、よく母代わりのエシリのもとに持ってきた。彼はオコシップと和解がしたかった。
「食べもので釣るとか」
オコシップはふんと鼻で笑ったが、エシリはそんなテツナが不憫だった。そして罪のない妻のフミがいっそう哀れに思われた。
吹雪はなお淀みなく続き、家が揺れて、ときどき天井にぶら下がった煤の塊がぼたりと落ちてきた。オコシップたちがフミを探しに出かけてから、もう二時間も経っていた。
こんな酷《ひど》い吹雪の中を、梟が鳴きながら河口の方に飛んで行った。それから間もなく戸外に話し声がして、オコシップたちが帰ってきた。手橇の上にフミが草にくるまって寝かされていた。
「寝たらそのまま死んでしまう」と、モンスパが泣き声で言った。
「命だけは取り留めたようだ」
オコシップはぶっきらぼうに言い、硬い表情でフミを橇から下ろした。
「こんな日に帰さんでもな」
エシリがぶつぶつ泡《あぶく》のように呟やく。
「うるせえ!」と、オコシップが怒鳴ってその泡がふっ飛んだ。
「いちど死んだ身なんだからな、これでサクサンも許してくれるわ」と、エシリは宥《なだ》めるように言うのだが、オコシップはまだむっとした顔でそっぽを向いていた。
フミの手足に軽い凍傷はあったが、回復は早かった。テツナたちはそれから三日ほどして、すっかり元気を取り戻して帰って行った。
10
凍《しば》れる朝が幾日も続いた。樹氷が朝日にまばゆく輝いている。|ぼろ《ヽヽ》をまとったシンホイとシュクシュンが、浜の方から揺れるように歩いてくる。
「どこさ行く」と、オコシップが訊いた。
「西田牧場だ」と、シンホイが髭面を歪《ゆが》めて答えた。
シンホイたちはもともと西田牧場のすぐ傍に住んでいたのだが、西田の牧場がしだいに膨れ上がってきて、追い出されるように浜コタンに引っ越したのだった。ゆくゆくは西田牧場で働かせてもらうことを条件に立ち退《の》いたのである。
「三度の食事にやっとありつけるだけでな」賃金は一銭も貰えない、とシュクシュンが不満顔で言った。
「自分はどうにかなっても、女、子供はどこで食べるべ?」
「寄りコンブを拾ったり、岩ノリを採ったりしてな」シンホイたちは腕を組み、背中を老人のように丸めて歩いてゆく。
オコシップは後姿を見送りながら、「首根っこを鷲のような西田の手でがっちり押さえ込まれてしまった」と呟やく。このまま二、三年もすれば、コタンのアイヌは半分に減り、あとの半分も北の方に逃げ出すかもしれないと思った。
アイヌたちは山奥から採ってきた褐色の食土に野草を加えたものを何日も食べた。食べられるものは何でも食べた。
「シュクシュンの家では、もう十日も粟粒を食べていないと言うぞ」エシリに言いつかって、モンスパは干鮭の大きなのを彼の家に届けた。痩《や》せ細った女房のサロチが、薄暗い奥の方からのっそり出てきて、「ありがたいことだ、もったいないことだ」と言って、いつまでもモンスパの手を握って離さなかった。そのシュクシュン一家も、どこかへ行ってしまうという噂である。
「逃げてたまるか」と、オコシップは呻くように言った。たとえ、ひとりになっても、父レウカのように、叔父サクサンのように、和人たちに屈服なんかするもんか。指を潰され片眼を抉《えぐ》り取られても、この通りもう一つの眼が光っている。
村田銃を肩にかけたオコシップは、峠の頂上から西田の広い邸《やしき》を眺めた。旅館のような大きな母家の周りに厩《うまや》が三つも建ち並び、柵をめぐらした牧場は浦幌川の右手に広がって山の麓まで続いていた。
厩の周りを牧夫頭のイホレアンが忙しそうに歩き回っている。
駄鞍《だぐら》をつけたドサンコ馬が厩から曳き出された。馬はつぎつぎに曳き出されて七頭になった。馬は尻尾を繋《つな》ぎとめられ、全部で十頭が数珠繋ぎとなった。
先頭馬にイホレアンが乗り、最後尾の馬に見たことのない牧夫が乗っていた。駄鞍の一隊は大津へ食糧を運びに行くのだ。馬の首につけた鈴の音が、がらんがらんと響いてくる。一隊は浦幌川から十勝川へ出て、上流へ向かってゆく。
「腑抜けども」
オコシップはがっと唾を吐きすてた。イホレアンにしてもテツナにしても和人にしがみついている、そんな生きざまが癪《しやく》だった。
オコシップはこの日、峠から浦幌寄りの山をひと回りして帰ってきた。猟は痩せ細った山鳥一羽だけだった。
家にはヘンケエカシが来ていた。
「いい話なんだ」と、オコシップの顔を見るなり、ヘンケ爺さんは浮き浮きした声で言った。
「土地を貰えるんだよ」
「ほんとけえ」と、オコシップの眼が光った。エシリやモンスパも話の中に割り込んできた。
「もともと、おれたちの土地だによ」
ヘンケエカシはこう言ってから、
「一戸当たり一万五千|坪《つぼ》(五町歩)だというから、オコシップの家の前のアオダモの樹から、向こうの川岸の大きな柳までだな」
「この中に鹿を飼っておけとな」
モンスパは本気でそう考えている。
「荒地を耕して、薯《いも》やトーキビを作るんだ」と、ヘンケエカシは説明する。
「うまくゆけば、菊村農場くらいにはなれるさ」ヘンケエカシが帰ったあと、オコシップたちは頭をつき合わせて農業のことを考えた。
「ずいぶん前にも農業の話があったんだよ」エシリはそんなことを言った。
「だけど、そのころにはまだ山には鹿もいたし、第一アイヌたちは畑のことが何も分らなかったんだよ」
「獣が少なくなったんだから、出稼ぎに行くか農業をするか、どっちかだわ」
オコシップはそっぽを向いていたが、エシリはひとりでしゃべっている。彼女はオコシップがどの道を選ぼうと、自分はモンスパといっしょに畑を作るのだと、内心ひそかに考えていた。
「薯でもトーキビでも何でも作ってやるさ」彼女は鍬《くわ》のかわりに棒片を持ち、畑を耕す真似をする。「ホイホイ」と拍子をとり、何度でも打ち下ろすものだから、「泥棒犬を打ちのめしてんの?」と言って、子供たちがおもしろがって騒ぎ立てる。
「なんの、婆ちゃはいま畑おこしの最中なんだよ」
子供たちも棒を持ったり、火箸を持ったりして、エシリの後に続く。
「一|段歩《たんぶ》は耕したな」
エシリは汗をぬぐってごろんと横になると、そのまま鼾《いびき》をかいて寝てしまった。
「土地を貰える」
この話が持ち上がってから、アイヌたちは急に活気づいた。
クンツが廃止されたとき、これでようやく和人と同等になれると思った。だが、その結果はもっと貧しい生活に追い込まれ、親方の奴隷《どれい》になって働く者やコタンから弾き出される者まで出た。睦《むつ》まじかったコタンの人々は離ればなれとなり、炎天にさらされた刈り草のように、みるみる萎《な》えしおれてしまった。
「こんどこそ、うまくゆくさ」
ヘンケの女房、トレペが力を込めて言った。畑がうまくゆくようなら、釧路へ嫁に行った娘、ウリュウ夫婦を呼び寄せてもいいさ、と言って乗り気だった。
年が明けて間もなく、コタンに役人が来て土地払い下げについての説明があった。朝から雪が降って天気の悪い日になったが、アイヌの人たちは一軒残らずヘンケの家に集まった。
「アイヌの窮乏を救おうと、日本帝国議会が決めた手厚い保護政策なんだから、これを有難く受けて、何としても成功して貰いたい」
背広を着た鼻髭の男が、ひときわ声を張り上げた。
「アイヌモシリを全部取り上げて置いて、給与地は一戸当たりたった五町歩だから呆《あき》れたもんだ。アイヌの給与地を全部掻き集めてもトンケシ山の麓だけもなかべ。おまけに給与地は十勝川の二股じゃあ、年じゅう水浸しだべ」
オコシップは顎をしゃくり上げた。
「帝国議会が知恵を絞って決めたアイヌ救済の法律なのに、有難いとは思わんのか」
鼻髭の役人は唇をわなわな震わせて怒った。
「さんざ搾り取って置いて何が救済だと、その手に乗せて同化しようたってそうはいかんぞ」
オコシップは役人を睨み返して肩を突き出した。
「畑を耕したことがあるのか?」シンホイが低い声でシュクシュンに訊いた。
「ある筈がなかべ」
話はそのまま途切れたが、シンホイたちはヘンケに勧められて出席したものの、はじめから農業に対する意欲は見られなかった。
「ひと鍬ずつ土を掘り起こすのけえ」
シュクシュンが口を尖らせた。
「馬もないのに、初めから馬耕をあてこむのは虫がよすぎないか」
もうひとりの鼻の高い役人が言った。
「一日に筵《むしろ》三枚分耕したとして、十日で三十枚分、種を蒔《ま》かないうちにもう秋だ」
シュクシュンは、まだやったことのない土いじりが嫌いだった。春に種を蒔いて、秋に収穫《とりいれ》をする。こんなまだるっこい、気の長いことに耐えられなかった。第一、穫れるか穫れないか、それが分るのが半年も先である。
「そこに居る獲物を獲る方が、よっぽど確かだもの」
「おいらにはとても向きそうにねえな」
シンホイたちが天井を見上げて溜息をついた。役人たちはこの腑甲斐ないアイヌたちを苦々しく見つめていた。
「どう考えてもな、土地を手に入れた者が勝ちだから、この際おとなしく貰え」
ヘンケはシンホイたちの耳に口をつけて言い含める。
一、一戸につき土地一万五千坪以内をただで下付する
一、十五年しても開墾しないときは土地を没収する
一、開墾する者には、鍬、鎌、スコップなどを貸与する
一、希望する者には、薯、トーキビなどの種子を給与する
役人たちはひと通りの説明を終えて、夕方帰って行った。
農業に関心をもつエシリたちは、雪解けが待ち遠しかった。
「来年からはな、薯やトーキビや麦が食べれるだからな」
暮らし向きはきっとよくなると言って喜んでいるのに、オコシップはそっぽを向いたまま返事もしなかった。
「下手でも肥料をやって可愛いがって育てれば、きっとたくさん穫れるさ」
「俺は猟はやめねえど」
オコシップは浮き浮きしている女たちに、念を押すように言った。
「猟にすがっていては干上がってしまう、と言ってんだよ」と、エシリはオコシップの心中を案じて穏やかに言う。
「薯やトーキビばかり食べてれば、いまに和人の顔になってしまうべ」
コタンはとうに壊れてしまっていたが、オコシップは自分たちも年ごとに和人《シヤモ》ぶりになってゆくことが勘《かん》に触わっていた。
「畑はわしらがやるによ」
エシリはやさしく言って、オコシップを猟に送り出した。
オコシップが出かけて間もなくヘンケの女房トレペがやってきて、「来年あたり、十勝太に学校が建つっちゅうぞ」と言った。
「学校は、わしらとは関係のないこったわ」
エシリはうわの空である。
和人《シヤモ》といっしょに、読み書きソロバンが出来るのだから頭のいいとこ見せてやれ、とトレペが長男の周吉に言った。
大津に小学校が出来てからもう十二年近くも経っていたが、アイヌの卒業生はひとりもいない。入学しても親の出稼ぎについて行ったり、和人に虐《いじ》められたりして、みんなやめてしまうのだ。
「周吉なら利口だから、和人《シヤモ》に負けないさ」
トレペは周吉の頭に手を置いて言った。周吉は自分の名前を呼ばれてきょとんとしている。
「読み書きが出来ても腹がきつくなるわけでなし、役人になれるわけでなし」エシリはやはりうわの空である。
「役人や学者にはなれないが、アイヌだって白糠《しらぬか》や釧路《くしろ》へ行けば漁場の親方もいるし、牧場の親方もいるわ」トレペは肩を張って言った。
「運がよくて金持ちになった連中は、いつの間にか和人《シヤモ》の中に潜り込み、身元をくらがしてわしらには見向きもしないだよ」
エシリは金持ちになった金森や平田の名前を言い、「あいつら」と言って、アイヌから逃げてゆく彼らのやり方をなじった。
「周吉、早く偉くなって、ずる和人《シヤモ》やにせ和人《シヤモ》を見返してやれ」
トレペの節くれた手は、まだ周吉の頭に載っていた。
トレペが帰ったあと、エシリは晴れない気持ちだった。こんど建つという学校や郵便局のような公《おおやけ》の建物の場合、その敷地や建物は有志の寄付が普通である。大津小学校が出来たときは、漁場、商家などの親方連中十五人の寄付だったというが、十勝太の場合はひとり飛び抜けた資産家、西田徳太郎の寄付になるだろうと思った。
「いやだ、いやだ」と、エシリは首を横に振った。
西田はアイヌの子供の入学条件として、「清潔な身なりと毎月の授業料一銭五厘を支払うこと」を義務づけると言う。
「ただし、授業料の払えない者は申し出れば俺が支払ってやる」
西田はあの長くのびた威丈高な髭と高い鼻にものを言わせて、誇らかに言うだろう。
「頭なんか下げてたまるか」
エシリはふたたび首を振って、べっと唾を吐き捨てた。よけいな話を持ち込み、周吉をけしかけたトレペに腹が立った。
「周吉、アイヌには読み書きなんか一銭の足しにもならんぞ。お父《とう》の言うことを守って、働くだけでいいんだ」
「分ったよう」何も知らない周吉は何度も頷《うなず》いた。
土地のことと言い、学校のことと言い、何かが大きく変ろうとしている気配をエシリは感じていた。大津の街は年ごとに膨れ上がって賑やかになり、大津川の河口沖には常に大きな帆船が停泊し、十勝川を人や荷物を積んだ定期便が暇なしに走り回った。
しかし、この賑やかさとは反対に、アイヌたちの暮らし向きは日に日に苦しくなってゆく。だが、この雪が解けてうららかな春になれば、きっと何かいいことがある。エシリもモンスパもそう信じようとしていた。
11
厚い氷に閉ざされていた原野にも春が訪れた。しとしと柳の新緑に春雨が降りそそぎ、その雫《しずく》が川面を青く染める。丸木舟にはオコシップとエシリ、それにモンスパの三人が乗っていた。
「カンカンビラの下だ」と、艫《とも》で漕いでいるオコシップが言った。ビラ(切りたった岩)は陽の光を受け、褐色に輝やいている。
昨日、給与地確認の知らせを受けてから、エシリたちはすっかり興奮し夜も眠れなかった。
「午前十時、ベッチャロ十線七号に集合のこと」
ヘンケもシンホイもベッチャロの同じ処だったので、厚い茅を漕ぐより舟がいいと、みんな一緒に出かけたのだった。
三艘の舟は一列に並び、穏《おだ》やかな流れを選んでゆっくり遡ってゆく。十勝川はカンカンビラのところで二股に分れていた。本流と大津川である。そこが十勝太アイヌたちに与えられた給与地だった。
「どの辺だい」と、オコシップは陸地からやってきた役人たちに声をかけた。役人たちは、赤と白、交互に染めた測量棒を持っていて、それをあちこちに立てて目印にしていた。
「十線七号から十一線七号まで。十線二十号から十一線三十号まで」
オコシップは四隅に測量棒の立ったその茅原の中を歩いてみる。水が溜っていて膝株まで埋まるところや、茅が深く突き抜けるのにやっとのところがあった。
「助けてくろ!」
エシリが茅の中の湿地に埋まって抜け出せないでいる。
「これが畑だと」
オコシップは役人に飛びかかった。足をとられた役人は深い茅原の中に頭から突きささり、「う、う」と呻く。
「俺たちは鴨の巣でない、畑を貰いに来たんだ」と、大声で叫んだ。
「わしらは、ただ、言われた通りに……」と口籠ったまま、役人は深い茅の中にどんどん潜り込んでゆく。
「役場へ帰ったらよく事情を説明してな、二、三日中にでも替わりの土地をくれとな」
オコシップは役人の頭のすぐ脇に立ち、何度も足を踏み、水|飛沫《しぶき》を跳ね上げて怒鳴った。
ヘンケもシンホイも畑の事情は同じだった。彼らはぷんぷん怒って引き上げた。
エシリは家へ帰ってからも元気がなかった。
「土地を替えてもらおうたって、簡単にはゆかねえさ」
彼女は和人たちのやり方は何もかも知りつくしているので、とにかく鍬《くわ》や鎌、それに種いも、トーキビなどの配給を役場に願い出た。
オコシップは土地の変更願いに、エシリは農耕の道具と種を貰いに、二人は毎日役場に通いつめ、エシリの方が先に適《かな》えられた。
彼女は川沿いの湿地を避け、入植農家に隣接する方から耕やすことにした。エシリとモンスパは毎朝、日の出前に舟に乗って出かけ、日が沈むまで鍬を振るった。茅の根はゴムのようにしぶとく、鍬を跳ね返して受けつけない。それでも彼女たちは岩でも砕くように少しずつ削ってゆく。掌にぞっくりマメが出来、鍬を振り下ろすたびに、|ずきん《ヽヽヽ》と肩に響いた。
「ここで音《ね》を挙げたら負けだど」
一段歩《いつたんぶ》を耕やすのに、一カ月もかかった。
「ここはおいらの畑だ」と、エシリは畑の真ん中に立つと改めて言った。エシリたちは農家の人に教わったように、馬鈴薯とトーキビと麦を少しずつ蒔いた。
発芽が楽しみだった。もう六月に入っていたが、エシリたちは新しい茅原を拓いていった。
ヘンケと女房のトレペも初めのうち一週間は通い続け、畑を耕やしていたが、いつ止めるともなく止めてしまった。耕やした跡が茅原の中に|あばた《ヽヽヽ》のように残っていた。そして、シンホイたちは給与地を見ただけで、初めから一度も顔を出さなかった。
そのころ、オコシップは役場通いをもう止めていた。
「いい土地はみんな和人たちがとってな、さ、どうしてくれる」
思い余ったオコシップは鹿皮の履物《ケリ》をはいたまま、つかつかと床に上がってゆき、いきなり村長の首をしめた。急を知って警察が駆けつけたときに、彼の姿はもうどこにもなかった。
「ずる和人《シヤモ》ども、今に見てろ」
オコシップは、だんと土間を蹴って、今日も猟に出かけていった。
馬鈴薯やトーキビは蒔いてから十日ほどで、若々しい芽を出した。それが一カ月後には、たくましく丈夫な茎となって、すくすく伸びてゆく。
六月が終るころから、エシリたちは三日か五日に一度ずつ給与地に通い、畑を少しずつ広げていった。作物は見るたびに成長していた。
「日照りくらいの方が、作物にはいいんだよ」
傍で聞いていたモンスパが、
「もう、すっかり百姓のような口ぶりだわ」と言って笑った。
八月に入ると好天が続き、作物は順調に成育し、馬鈴薯もトーキビも実が堅くしまってきた。麦の穂波がそよ風にさわさわ揺れ動いた。
「見事なもんだ」
モンスパたちは畑のなかに立ち、いつまでも眺めていた。
「あと十日で新薯《しんいも》が食べれるな」
だが、その翌日から降り出した雨はしだいに激しさを増し、三日三晩降り続いた。
「どしたべか?」
エシリたちは川岸に立って渦巻いて流れる濁流を眺めた。川は滝のように湧き上がり、牙を剥き出し、土塊が飛沫を上げて崩れ落ちる。藁屋根が流れ、根っ株のついた大木が流れた。
彼女たちは二股の川岸を見て呆然とした。茅原一帯は見渡すかぎり押し潰されて麦やトーキビは薙ぎ倒され、泥の中に埋まっていた。
エシリは泥の中からトーキビの実を掘り出して皮を剥く。きれいに並んだ黄色い実の間に、真っ黒い泥がびっしりつまっている。
「まるでオハグロみたいだ」
エシリは歯の欠け落ちたトーキビをつまみ上げ、
「みそっ歯でも、虫歯でも、みんな食べえ」と言って、ケラケラ笑いながら流れの中でごっしごっしオハグロをこすり落とした。
トーキビも馬鈴薯も、半分は流され半分は泥の中に埋まっていた。
「ここで腐らせたら水の泡だに」
エシリとモンスパは泥んこになって薯を掘った。その晩は筵《むしろ》をかぶって茅原に泊り、二日がかりで五俵の馬鈴薯を掘りあげた。
「エシリたちが狐に騙されたぞ」
ひと晩じゅう川岸に立って帰りを待っていたトレペが言った。周吉たちもエシリとモンスパの泥んこ姿をみて、「やっぱり」と思った。
「湯加減はどうだったい?」と、トレペが気の毒そうに聞く。
「首までつかって、朝までゆっくり出来たわ」
エシリは舟から上がりながら、目を細めて答えた。
「泥湯もいいけど、おまえの家の風呂だってコンコン沸《わ》かしてあるによ」
誰言うともなく狐の話は、そのまま実話になってしまった。
その年も蝉が鳴き終って、足早やに秋がやってきた。オコシップが村長の首を締めた話は日と共にしだいに薄らいでいったが、彼はまだ諦らめてはいなかった。
「いい黒土《くろつち》だ、こんないいとこ遊ばしておく手はねえ」
オコシップは力いっぱい鍬を打ち下ろした。家のすぐ裏の川岸に筵《むしろ》三十枚敷きほどの畑が出来上がった。
「粘っこい泥土とは天地の違いだよ」
エシリは大津から買ってきた大根の種を、指先でポツンと穴をあけては三つくらいずつ落としていった。
「うまくできたら食べきれないさ」
エシリはこの春、薯やトーキビを蒔いて自信がついている。蒔き終わると、オコシップは柳の枝を伐ってきて、厳重に周りを囲んだ。
大根はひと雨降ってその翌日に、二葉の青い芽が揃って黒土の上に顔を出した。
「上手なもんだわ」
トレペやシンホイの女房トイナンたちが見物にきて感心している。
秋が深まり、毎朝厚い霜が下りて道端にはぞっくり霜柱がたった。秋味漁(鮭漁)が始まり、アイヌたちは大津や厚内の漁場に出かけて行ったが、オコシップは出稼ぎに出なかった。監視の眼を盗んで密漁を狙っているのだ。
「カリベのことだ、ひと騒ぎはあるさ」
アイヌの人々は、オコシップの反抗を内心快よく思っている。西田牧場の牛馬が殺されたときも、山田巡査の溺死のときも、心の底ではうっぷんを晴らした気持ちになっていた。
「カリベは馬を十頭も食べた金毛の大熊で、モンスパが乳を飲ませて育てた強い熊なんだよ。だから和人たちは強いお父《とう》のことをカリベと呼んで恐れているんだよ」
エシリが八歳になる孫の周吉に言って聞かせていた。ちょうどそのとき、闇の中から「周吉」とオコシップが呼ぶ声がした。
「片眼ではどうしてもうまくゆかないんだ」
周吉は身仕度をして戸外へ飛び出して行った。
その晩、オコシップと周吉は川と陸から追いつめられ、何度も捕まりかかって、ようやく逃れることができた。
弦月がトンケシ山の上にかかっていた。丸木舟に乗ったオコシップと周吉は蒲原の中に深く潜り込み、じっと息を殺した。すぐ眼の前を舟が往ったり来たりして離れない。
「たしか、この辺に入ったはずだ」
二人乗りの監視船から声がする。それから一時間も経って、監視船の姿はようやく眼の前から消えた。
オコシップと周吉の丸木舟は、滑るように川を下だる。浦幌川を下だり、新川も越え、十勝川の河口に出た。流れが早いので舟は海に向かってどんどん吸い込まれてゆく。
「左手のトッカリ岩に来たら、叫べ」と、オコシップが周吉に言った。距離が短かいので、ちょっとの油断も許されない。
海の方から白濁の振り込みが、ごうごうと音をたてて入り込んでくる。
五十間の網を延ばし終わると、もうすぐトッカリ岩だ。ここで網を揚げにかからなければ海に投げ出され、大波に打たれてしまうのだ。周吉は瞬《まばた》きもせず、じっと岸を睨んでいる。
「トッカリ岩だ!」
張りつめた声で叫んだ。網を揚げ終るころには、白い波がざざざっと舳先の方にぶつかってくる。舟は半分傾むきながら、ようやく舳先を川上に向けて漕ぎ出した。
ひと流しに二、三本の漁があった。投網から網揚げまでひと呼吸するひまもないので、かかった秋味は舟を岸に着けてからゆっくり外す。
「野郎ども」と、オコシップが言った。
「図体の大きな監視船なら、河口の急流からはとても引き返せめえ」
川と陸から追いたてる監視を尻目に、オコシップは周吉に手伝わせて大漁した。
「周吉はまだ泳ぎを知らねえだからな」
危険なことはしないでけれ、とモンスパは言った。だが、オコシップは、翌晩もその翌晩も、周吉を連れて河口に出かけ、いつも大漁だった。
「河口に追いつめれば、やつらにもう一人の犠牲者が出る」と、オコシップは言った。そして、こんどは思いきって海に出よう、と彼は思っていた。
「周吉、ワッカウシカムイ(流れの神)はアイヌを守ってくださるぞ。川も海も決して恐れることはない」
オコシップは周吉を岩の上から川に向かって突き飛ばした。彼はいったん沈んでから浮き上がり、川下へ流されながら岸に辿り着く。
「これをカムイチップ(鮭)と思って獲ってこお」
オコシップが二尺ほどの泥木(水に沈む木)を川に投げ飛ばした。周吉は、それとほとんど同時に飛び込むと、波紋がまだ揺れているうちに、その泥木を川底から抱きかかえて上がってくる。
周吉は、たった三度で泳ぎを覚えた。オコシップと周吉が川に突き出たビラ(崖)をかわして川岸を歩いてくると、エシリたちが集まってわいわい騒いでいた。
「たまげたもんだ!」と、エシリが遠くからオコシップに話しかけた。
「十頭の牛が入ってな、三百本の大根が全滅だわ」
大根畑は無惨だった。青首の太い大根が食いちぎられ、糞《ふん》といっしょにそこらじゅうに散らばっていた。
「一頭だけはひっ捕《とら》えたによ、証拠には十分だべ」
トレペが誇らかに言う。白黒の親牛は囲いの枝に足を絡めたまま、頭を前に突きさすようにして跪《ひざまず》いていた。
「こんだあ、西田の眼を抉り取る番だ」
オコシップは青空を仰いで、からからと笑った。
牛は家の前のアオダモの大木にロープで堅く繋がれていた。西田牧場の牧夫頭イホレアンが藪の中からこっそり現われ、素早く牛を解き放そうとした。
「なんの真似だ」
制裁棒を持って後ろに立っていたオコシップが言った。逃げようとするところを、制裁棒がみしっとイホレアンの背中に食い込み、しゃがみ込んだところを脳天に打ち下ろされた。彼はたった二撃でひっくり返った。
「牛と仲よくな、とっくり反省せえ」
蹲《うずくま》っていたイホレアンは、長々と延びていた。西田牧場から偵察にきたらしい若者たちが、牛を振り返りながら幾人も通り過ぎる。
「サケム」
呼ばれて、彼は立ち止まった。
「西田がくるまでは渡さんとな、ようく言っとけ!」
サケムは、そのまま踵《きびす》を返すと帰っていった。その日、いつの間にかイホレアンの姿は消えていたが、誰も牛を引き取りにはこなかった。
「しぶとい奴だ」
翌日になっても音沙汰はなかったが、夕方になってようやく使いの者が現われた。アイヌの若者二人と、鼻髭を生やした五十がらみの徳造という大男だった。
「浦幌太から十勝川の河口の方まで一帯が西田の土地だから、なんくせをつけられる筋合いはねえとな」
「間違いなく西田が言ったんだな」
オコシップは念を押した。
「川縁《べり》には個人所有の土地はねえ筈だ」
オコシップは村田銃をつきつけて、もう一度聞いた。
「西田の言い分に間違いはねえですだい」
大男がまだ言い終らないうちに、
「阿呆!」
同時に村田銃の筒先からぱっと閃光《せんこう》が走り、轟音が辺りに響き渡った。その反動で大男はどすんと尻もちをついた。使いの者たちはがたがた震えて逃げながら、何度も後ろを振り向く。「カリベ!」と罵しる声が聞こえたような気がした。
日がとっぷり暮れるころ、西田牧場で働く若者たちが大勢で三百本の大根を運んできた。
「大根より西田の眼が欲しいとな」
オコシップの声は吠えたてる獣の声だった。
12
半年に近い長い冬籠りに、エシリはもう少し食糧が欲しかった。山の猟はほとんど当てにはならない。毎年、今年こそと思いながら、春を目の前にしていつも不足がちだった。それにシンホイやシュクシュンは貯えが悪いので、春にはかならず餓死の影がつきまとう。しかし、働きのない彼らを見捨てることもできない。
そろそろ氷が張るころになって、オコシップはしばらく振りにハルアンの歌を聞いた。
恨めしや 情けなや
アイヌモシリの肥沃な土地は
野も山も 和人が取り上げ
やせ地や湿地は
アイヌたちがもらった
恨めしや 情けなや
アイヌたちがもらった
やせ地にはペンペン草が生え
湿地には南瓜や薯が
ぽかぽか浮いていた
「いい土地との代替えは、どうして出来ないんだい」
オコシップは舟で下だってくるハルアンに向かって大声で叫んだ。
「いい土地はもうないだよ」
ハルアンは役人のようなことを言う。
「もっと誠意のある答えがあってもよかべ」
彼女はいつもの癖で、振り向きもせずに行ってしまった。オコシップはまだ諦めずに、来年の春までには代替地を手に入れようと思っていた。
十二月に入って氷が張ると、オコシップは村田銃を肩にかけ、しじゅう役場に出かけていった。
「カリベだ」
役場の吏員たちが、ひそひそ話している。彼は脚絆にべっとり塗りつけたトッカリ脂の臭いをぷんぷん臭わせ、待合室の椅子にどっかり腰をかける。
「用件は?」
給仕らしい若い少年がおどおどしながら聞いた。
「村長に用事だ」
少年は村長のところへ行くと、すぐ引き返してきた。
「村長が会いたくなくても、おらが会いたいんだ」
部屋じゅうに響き渡るどす黒い声だ。連絡があったらしく巡査が入ってきた。彼は巡査に付きそわれて村長の前に立った。
「出来るかどうか、いま検討中なんだ」
額の広い小柄な村長が厄介げな顔で、「結果は手紙で知らせるから、もう来《こ》んでいい」と言った。
「本来なら傷害罪でブタ箱に入るところなんだぞ」と、巡査はこの前の首絞め事件のことを大げさに言う。
「馬鹿にしくさってな、いつまで待っても受け合ってくれねえからやったべ」
オコシップの髭面が赤く燃え上がったのを見て、巡査が「まあ、まあ」と宥めた。
オコシップは凍りついた原野を歩きながら、腹の中が煮えくり返っていた。村長の態度や言葉から誠意は微塵も感じられない。
「手を尽したが、代替えは認められない」といった文面の手紙を頭に描いて、がっと唾を吐いた。
「これが最後の機会かも知れなかったのに」と思うと、オコシップは急に気が抜けて、茅の中に坐り込んだ。農耕は確かに和人ぶりになってゆく過程に違いないが、しかし、狩猟では生き延びてゆけないなら仕方のないことだと思った。
畑がうまくゆかないときは大津のマッチ軸木工場へ出稼ぎに行くか、頭を下げて西田牧場に使ってもらうしか方法がない。だが、工場では一日六十銭の賃金なのに、アイヌたちは女並みの三十銭しか貰えないし、西田の労賃ときたら一日一食、食べさせて貰うだけがやっとだった。
「野良犬よりひどいもんだ」
茅の中に坐り込んだオコシップはごろんと引っくり返ったまま、いつまでも起き上がらなかった。
「醜い人間の業《ごう》ざらしども、一匹残らず潰してしまえ」と身なりのいい和人たちが顔をしかめて通りすぎた。だが、自分が踏み潰されても焼き殺されても後には周吉も金造もいる、と彼は思った。そしてあの子たちを、ひもじい思いをさせずに育て、和人に負けない天駆ける大鷲のような強い若者に鍛えねばならない、とオコシップは自分に言いきかせた。
陽は日高山脈に落ちかかっている。彼は気を取り直《なお》し、立ち上がってすたすた歩き出した。前方に十勝太の丘陵が赤く夕陽に照り返っていた。
子供のころは、あの丘を駆け回り、弓を射てリスやイタチや兎を獲ったものだ。仲間たちはオコシップを小酋長と呼んだ。彼はいつも五、六人の部下を引き連れて狩りに出かけた。彼の足は風のように早く、鹿や狐はたちまち逃げ場を失って降参した。その足を縄でぐるぐる巻きにし、長い棒に吊るして意気揚々と引き上げたものだった。
オコシップは獣のいなくなった丘陵をもう一度見つめ、「昔のことを思い出している余裕《ひま》はねえ」と、喉の奥で呟やく。和人への身売りでも畑作りでも密漁でも何でもやらねば、周吉の時代までは生き延びれないと思った。
シャクシャインの戦いから二百三十年が経っている。あの戦いに負けた時から、アイヌは和人の奴隷になった。北の漁場がつぎつぎに奪われ、コタンが壊されていった。二百三十年は長かった。その間に目梨の戦いがあり、きびしいクンツ(強制連行)があった。父も、そのまた父も、そのもっと前の父も耐えてきた。オコシップはこの先も耐えてゆかねばなるまいと思った。
土地の話が出たとき、ヘンケエカシは、「旧土人保護法」と言った。
「何のことだ」
「アイヌを貧乏から救い、給与地を悪党の手から守る法律なんだよ」と、ヘンケが言った。
しかし、和人たちはアイヌに酒を飲ませて騙し、借金の肩代りに給与地を入れさせ、あの手この手を使って巧妙にアイヌから給与地を取り上げていた。
「アイヌを旧土人というのか」
「そうらしいな」
ヘンケ爺さんは唸るように言う。
「おれたちは土人なんだからものの道理も分んねえし、何をやらかすかも分んねえな」
「そうらしいな」と、ヘンケはまた言った。
「だから、膝までぬかる土地を与えられたり、土地の代替えを断わられたとき、いっそのこと村長を撃ち殺せばよかったんだ」
「とんでもねえ」と、撥ね返すようにヘンケは言った。
「そんなことでもしようものなら、ますます野蛮人扱いされて、挙句の果てにアイヌたちはみな殺しの目に遭うだど」ヘンケは首を振り続ける。
エシリもヘンケも「我慢せえ」と言うが、オコシップは体じゅうの血がたぎり、カリベみたいに暴《あば》れ回りたかった。彼は柳の鞭をしゅんしゅん打ち鳴らしながら、枯れた茅の穂波を叩き切って歩いた。
「西田の野郎!」
彼の首がちょん切られ、天空高く舞い上がった。
「次は村長の番だ」
西田の首がまだ落ちてこないのに、村長の首が舞い上がる。
「漁場の親方、大村豊次郎、酋長オニシャイン」
オコシップは憎《にく》いやつらの首を片っぱしから撥ね上げた。
ウツナイ川を渡ると、原野のなかに開拓農家が点々と建っている。そのずっと向こうに放牧馬が群れ、放牧地と畑とは深い排水溝で区切られていた。オコシップは広い原野を歩いてきて、途中からけもの道に入り、凍った沼を通って近道をとった。茅のまばらに生えた氷原は白濁の銀盤となって丘陵の方まで続いている。
地鳴りのような音をたてて、風の束が叩きつけてくるたびに、オコシップはしゃがみ込んでそれをやり過ごした。褐色の柏の葉が乾いた音をたて、眼の前を転がってゆく。もう一枚の葉っぱが、それを追いかけるように風上の方から転がって来た。と思っていると、五〇メートルくらい前で急に止まった。葉っぱは尻尾《しつぽ》の長い狐だった。狐は体を丸め、尻尾の先を齧《かじ》る恰好でコマのようにその場をぐるぐる回った。
「お前まで馬鹿にしくさって」
オコシップはそのコマの中心に向かって散弾を撃ち込んだが、その瞬間に中心を失った狐は氷原に弾《はじ》き飛ばされたまま、駆け出して行ってしまった。
「眼が見えねえだよ」
彼は吹き出してくる涙を左手の甲で拭き払いながら、
「もう来んでいい」と言った村長の言葉を思い出し、腹のなかがむかむかしていた。それにしても「湿地の鴨の巣」(給与地のこと)が情けなかった。エシリもヘンケも「我慢せえ」と言うが、我慢なんかできるもんか、と思った。
丘陵の麓に、半分潰れかかったわが家が見えてくると、彼は足をゆるめ、「来年こそは新しいのに葺きかえねばな」と呟やいた。あの家は、クナシリへ連行された父レウカの葬式に持たせた家の代わりに建てたものだから、あれからもうかなりの歳月が経つ。毎年、破れたところを繕《つくろ》って間に合わせてきたが、
「この家には沢山の思い出があるによ」と、エシリは懐しむ。だから、この家をエシリに残し、自分たちはこんど出来る新しい家に入って、そこで最後まで和人どもの仕打ちを見届けてやるんだ。
「バンとした家を造ってやるべえ」
オコシップは腰までつかった泥濘から、もういっぺん飛び立ち上がりたかった。
13
氷が落ちて間もなくだった。
オコシップと周吉は、冬じゅうに獲った獣の毛皮を背負い、朝早く大津の街へ出かけた。
渡船場を渡ったすぐ近くに丸太|造《づく》りの囚人小屋がある。小屋は棟を並べて建っている。もう二年も前から大津街道建設の仕事にたずさわっているのだ。
「釧路分鑑から送られてきた囚人は七百人というから、食糧だけでも大変なもんだ」
渡船場の渡し守の爺さんが、欠伸《あくび》をしながら言う。
青い服を着た囚人たちが看守に連れられ、ちょうど出かけるところだった。スコップやツルハシを担いだいくつもの集団がつぎからつぎへと繰り出され、牛のようにのろのろ歩いてゆく。
「見事なもんだ」
渡し守は伸び上がり隊列を見送りながら言った。
大津から茂岩《もいわ》、猿別《さるべつ》を通り、新得《しんとく》までの街道建設なのだが、道が険しくなかなか予定通りにはゆかないようだ、と言う。
「仕事は厳しく、疲れてのめくれば、そのまま道路わきに埋められてしまうんだよ」
だから、街道が出来上がるころには、その道すじに墓標のない墓がたくさん出来るんだ、とも言った。
大津の街は賑わっていた。渡船場のすぐ近くに石黒マッチ工場があった。騒々しい機械の音が間断なく響き、作業衣をまとった工員たちが忙しく立ち働いている。工場の前庭に梱包されたマッチ軸が高く積み上げられていた。製軸所を通り過ぎると、道の両側に商店が賑やかに立ち並んでいた。
「よその街へでも来たみたいに変ってしまった」
オコシップは街の端に立ち、背伸びをして家並みを見渡した。ここ四、五年の間に街は十倍に膨れ上がり、空地は建物でふさがっていた。
呉服屋、雑貨店、酒屋、米屋、飲食店、セトモノ屋、豆腐屋と続く。店頭には赤や青で染め抜いた細長い幟《のぼり》が風にはためき、屋根には大きな看板が立っていた。幅広い通りを人々が笑いながら通り、駄鞍《だぐら》をつけた馬が通った。
「村祭りみたいだ」
周吉が幟を見上げて言った。彼はオコシップにはぐれないように袖口をぎっしり握っていた。
「寄ってきな」と、二階から着飾った女達の濁声《だみごえ》がした。オコシップは口をあんぐり開けて立ち止まり、二階の女たちに向かって、「狐ども」と言った。周吉はオコシップの袖口をひっぱって遊郭の前を逃れたが、女たちの笑い声はしばらく聞こえていた。
郵便局の隣りは大きな旅館だった。その向こうの海岸寄りに造船所があった。オコシップは見違えるように変った街の真ん中で何度も立ち止まっては四囲を見回した。十年以上も前、叔父サクサンといっしょに来て、毛皮を売った店はたしかにこの辺りだった。オコシップ父子は往ったり来たりして、十軒ほど先にようやく「館野《たての》毛皮店」の看板を見つけた。
「『たての』というだな」
「うん」
字を読める周吉は自信があった。
「以前はもぐりでな、看板がなかったんだよ」と、店の主人が言った。
「このごろは、数量もめっきり減ってるし、品質もぐんと下がってな」
主人はしきりに口説《くど》きにかかっている。
「こいつは毛皮の質が違うど」
オコシップはぼそっと言った。鹿皮、熊、狐など上等な毛皮が二十枚ほどある。
毛皮は思ったより高く売れた。彼は上機嫌で近くの飲食店に入った。麺類、丼物、まんじゅうなど何でもあり、お客が入れ替り立ち替り入ってくる。
「腹いっぱい食べえ」
オコシップは焼酎を飲みながら周吉にすすめ、親子丼のほかに大きなあんまんじゅうを五個注文した。
「大津は見違えるぐらい大きくなった」
ほろ酔い機嫌で、彼は言った。
「明治の初めころには番屋と草屋を含めて三、四十戸くらいしかなかったのに、今は遊郭まである」
銚子を運んだりストーブに薪を入れながら、おかみさんはしゃべり続ける。
「ひとときはね、トノサマバッタの大発生や鮭の不漁で落ちぶれかかったんだけどね、大津街道の建設なんかでまた持ち直したんだよ」
おかみさんは息を呑み込んで、
「それからはとんとん拍子に膨らんでね、駄鞍《だくら》をつけたドサンコ(道産馬)が何頭もつながってくるし、艀舟《はしけ》や五十石船の往来もこの通り盛んになったんだよ」と言った。
「坊や、せっかく来たによ。舟が運河から出るとこ、見て来《こ》」
おかみさんに急き立てられ、父子は店を出た。海岸の方にゆくと、古川《ふるかわ》を利用した運河が海と平行して横に長く伸び、大きな船が何艘も接岸していた。荷役人たちが俵を船に積み込んだり、荷物を陸揚げしたりしていた。運河に沿って倉庫が立ち並び、魚の臭いや油の臭いがする。
「もうじき帯広行きの定期便が出るぞ」
オコシップたちを乗客と間違え、舟子らしい男が言った。
定期便はだだっ広い舟で、堆く荷物が積み込まれている。その舟の船頭は思いがけなくモンスパの兄のテツナだった。
「周吉、河口からぐるっと回ってな、渡船場のところまで乗ってけ」
テツナはにこにこ顔で言ったが、オコシップは頭を振って許さなかった。
「船が出るぞおー」
舟子たちがその付近を大声で触れ回る。船の上には本州から来たらしい家族が三組ほど座っていた。舟子たちが竿を立て、テツナは艫で大きな舵《かじ》を操り、滑るように河に出てゆく。
オコシップと周吉は、また店に引き返した。春の風はまだ冷たかったが、店のストーブは音をたてて燃えていた。オコシップは酒の続きを飲み、周吉はまんじゅうを食べた。
「いま発った定期船は帯広まで四日もかかるんだよ。東北風《やませ》の吹かない上《のぼ》りには舟にロープをくくりつけて、相馬、越中の民謡を歌いながら、二十人もの舟子たちで十勝川の川岸を曳くんだよ」
おかみさんは手拍子をとって相馬の民謡を歌い、客たちの喝采を浴びた。
昼をちょっと過ぎたころ、二人は店を出た。賑やかな街は海の方まで続いていた。格子戸のある二階建ての大きな店が、小路の方まで並んでいる。
人の往来も絶え間なく、男が通る女が通る、子供が走る犬が走る。そこへ泥酔した五十がらみのアイヌがよろめくように出てきた。その向こうの通路わきにも、もうひとりのアイヌが大の字になって横たわっていた。
「真っ昼間から呑んだくれてな」
オコシップは舌うちをして通りすぎた。
大津川を渡り原野までくると、オコシップはほっとしたように、
「賑やかなもんだ」と言った。
「まんじゅうがうまかった」と、周吉も言った。
「金造や洋二にも買ってきたんだ」
オコシップは笑顔で言った。二人はしばらくの間黙って歩いた。
トンケシ山の方から雁の音《ね》が聞こえ、二人はいっしょに振り返った。鉤になった先頭の雁が列を離れ、一瞬、隊列が乱れてばらばらになった。オコシップは村田銃を構え、いつまでも動かない。群れが列を整えて頭上に来たとき、構えた銃の筒先から紫の火を吹いた。轟音は続けて三度なり響いたが、雁たちは悠々と飛び去った。
「眼が見《め》えねえ」
彼は吐き出すように言って、いい方の眼を右掌でじっと押さえつけた。
オコシップは西田徳太郎からエンフィールド銃を借り受けたときから、鉄砲は誰よりも上手だった。猟犬《セタ》のクンネやシララを連れ、阿寒や留真《るしん》の深山に入って百頭の熊を撃ち、五百頭の鹿を撃った。狙った獲物は決してはずさなかった。沢でも斜面でも、風のような速さで鹿や熊の先を回って、行く手を塞《ふさ》いだ。
「親しい相棒よう、安らかに天国にゆくがよい」
オコシップの鉄砲が火を吹いて獲物はがっくり前にのめる。だが、西田に目玉を抉り取られてからは、いい方の眼もめっきり視力が弱って獲物が照門の中に収まらないのだ。
「こんちきしょうめ!」
彼は手負い熊のように、辺りかまわず手当たり次第に撃ち込んだ。木の枝が吹っとび、野地坊主が砕け散った。
「お父《とう》ったら」
周吉は息を飲んでオコシップの狂態を見つめていた。革帯にさし込んだ十発の弾丸を全部撃ち終ると、
「西田の眼をぶち抜くには、最後の一発があれば十分なんだ」と言って、ゲクゲク笑った。
父と子は、ふたたび歩き出した。
「酒ばくらって、道路わきに寝てたアイヌな」と、オコシップが言った。大津の街で見かけたアイヌのことを言っているのだ。
「おらも見た」と、周吉が言った。
「真っ昼間から飲んだくれてんのは、どしてアイヌばかりなんだ?」
オコシップの眼は吊り上がっていた。
「きっと、仕事がねえからだよ」と、周吉はあっさり言った。
「仕事があったら飲まねえかな?」
「そりゃあ、仕事が済んでから飲むだろさ」
周吉は、またさばさば答えた。
「偉い大将コシャマインもシャクシャインも酒で失敗してるんだ」
だが、周吉には偉い大将のことなんか、何も分らなかった。
「気狂《きちが》い水」と呟やいて、オコシップはそのまま口を噤んだが、原野を渡り終ってもまだ晴れない顔をしていた。
14
郭公の鳴き声がようやく繁くなったころ、オコシップの家の前には萱《かや》の束や、皮を剥《は》いだ|かつら《ヽヽヽ》の柱、それに萱をおさえる柴木などがたくさん積み上げられた。
「準備は十分だな」
エシリは満足げに言った。家《チセ》造りの手伝い人たちが広尾《ひろお》や白糠《しらぬか》から、何日も前から泊りがけで来てくれていた。
その日、コタンのアイヌたちが集まって、朝早くから家《チセ》造りに取りかかった。前の家のすぐ傍に建てるのだ。棟領《とうりよう》はものごとの道理のよく分るヘンケだった。穴を掘る者、柱を建てる者、萱を束ねる者、それぞれが役割を与えられ、コタンの人々は背を丸めて働いた。
「がっちりしたもんだ」ヘンケは棟高くできた頑丈な骨組みを見上げた。骨が出来れば、次は屋根葺きである。若者たちがサツテ(萱揃え)を持って屋根に駆け上がった。下の方から萱束がつぎつぎに投げ上げられ、それを列べて一段一段重ねてゆく。これが段々葺《だんだんぶ》きなのだ。
東側の神窓と南側の採光や通風の窓が出来ると、こんどは土間の前室《セム》を造った。ここは臼《うす》や苫《とま》、薪などを入れる物置に使われる。
家《チセ》は昼までにあらかた出来上がった。みんなは「りっぱなもんだ」と言って、家の周りを回って歩いた。
「みんなのおかげだよ」
エシリとモンスパは、新しく出来た家の中を片付けて、そこに濁酒と肴《さかな》を並べた。肴はトパ(鮭の干物)、シシャモの目刺し、それに山菜の煮物である。盛大な祝宴になった。あまりの賑やかさに、道ゆく人々が南窓からそっと覗いてゆく。
「祝い酒だ、遠慮はいらん」エシリはみんなに祝って貰いたかった。はじめにトレペが引き入れられ、その次にシンホイの女房、トイナンが引きずり込まれた。
ヘンケの祝い歌に合わせて、拍子棒《レプニ》でとんとんと炉縁を叩く。その歌に合わせて踊りが始まる。エシリが先頭に立ち、モンスパ、トレペ、トイナンと続く。手をかざし、足を踏んで、踊りは活溌だった。
「祝いの踊りは、床が抜けるまでやれ!」
女たちは跳び上がるようにして踊った。エシリたちの澄みきった歌声は、原野の方まで響き渡り、家がぐらぐら揺れ動いた。
こんな盛大な祝い酒は最近にないことだった。じりじりと押さえ込まれてきた、その悪魔の手をいっぺんに撥ね退けた気持ちだった。
「ヤエケの野郎!」と、オコシップはすぐ横にでもいるような口調で言った。
「おらの眼をどうしてくれる」
「やらせたのは西田だ」
ヘンケエカシが言った。
「二人ながら同罪だ!」
燃え上がったオコシップを押さえることのできる者は、誰もいなかった。
「やつらの眼ば、撃《ぶ》ち抜いてやる」
オコシップは手負い熊のように荒々しく、鉄砲をわし掴みにして戸外へ飛び出して行った。
「やめてくろ!」その後から、エシリやトレペたちが跣《はだし》で追いかける。
「どうすべえ」と言って、モンスパはその場にしゃがみ込んだ。周吉や金造もモンスパの傍に立ってがたがた震えていた。
近道を走れば、西田牧場までわずか半道である。酒の勢いで宙を飛ぶようなオコシップの元気なら、たったひと呼吸だ。
家の中は凍りついたように静まり返っていた。家財道具のない新しい家の中ががらんどうに見えた。
「ほら」と、ヘンケエカシが言って耳を傾ける。いっときして、遠くの方から鉄砲の炸裂音が聞こえてきた。かすかな音は二度、三度鳴り響いて尾を引いた。居合わせた人たちは、不幸な場面を想像して目を閉じた。
しばらくして、オコシップたちがどやどやっと騒々しく帰ってきた。彼はシュクシュンやシンホイに抱きかかえられていた。跣《はだし》で走ったエシリとトレペも藁靴《わらぐつ》を履いている。西田のところから借りてきたものだった。
オコシップは西田の門をくぐるなり、村田銃を乱射したという。だが、弾丸《たま》は玄関の戸にさえ当たらなかった。
「まったく眼が見《め》えねえだもの」
エシリは首をふった。
「眼玉どころか、体に当てるのだって無理だ」
シュクシュンは、すっかり衰《おとろ》え果てたオコシップを労わるように、声を落として言った。射撃の名手オコシップの、いい方の左眼も駄目になっていて、しまいに抉り取られた右眼で狙いをつける始末だったと言う。
「ごろつき野郎」西田に笑われ、なじられて帰ってきたのだった。
15
家《チセ》の普請《ふしん》が終ったその翌日から、エシリとモンスパは丸木舟に乗って農耕に通った。舟は朝靄の中を突き進む。原野の中を曲がりくねった片道二里の道程を漕ぎ抜くのは容易ではなかった。腕が棒になり、ときどき眼の前がぼあと霞んだ。
給与地に着くころには、太陽は頭のてっぺんにあった。
エシリたちは去年開墾したところに、馬鈴薯やトーキビ、それに南瓜《かぼちや》を植えた。土が柔らかなので、耕やすのも蒔付けも仕事は目に見えて捗《はかど》った。
しかし、荒地の開墾は骨身にこたえる。茅原はすっかり乾燥していた。
「まるでゴム靴の底みたいだ」
太い茅の根の塊に、鍬はマリのように撥ね返されて腕にこたえた。ひと鍬打ち込むたびに、埃《ほこり》が煙のように立ち上がった。汗と埃にまみれて、開墾は少しずつ進んだ。
筵《むしろ》一枚分を耕やすのに一時間も費し、掌に豆がいくつもできた。豆の皮が剥けてひりひり痛む。その豆の下から新しいのが顔を出す。こんどはスコップを使う。その先を土に突き刺しておいて、足で踏みつけるようにして厚い根を切り刻んでゆくのだ。しかし、足は手よりも弱かった。履物《ケリ》の底が薄いので、土踏まずがずきずき痛んだ。
「一服すべえ」
二人は茅の上にべったり腰を落とし、厚司の前をはだけて風を入れる。原野を渡ってきたそよ風が海の方へ向かって静かに流れる。開拓者たちの家では、遅蒔きの麦畑の馬耕が始まっていた。
「さすがに馬の力だ」エシリたちは青い若芽が吹いたばかりの畝《うね》の間を通って、きれいに耕やされてゆく畑の方に近づいて行った。
「プラオと言うぞ」と、エシリが言った。大柄な鹿毛《かげ》馬が鉄でつくったプラオを曳いてゆくと、その後から、めくり返された黒土が一本の線となってどこまでも連なってゆく。畑はみるみる耕やされていった。
「便利なもんだ」モンスパたちは感心して、いつまでも眺めている。
その晩、エシリが馬のことをオコシップに話した。
「畑を耕やすにも、畝《うね》を切るにも、種を蒔くにも、馬の力でやればひとたまりもなく終ってしまうにな」
「馬さえあれば農家に負けんさ。二町歩でも三町歩でも朝飯《あさめし》前だ」モンスパがエシリの尻馬に乗って話したてる。二人は掌にできた豆を恨めしげに眺めながら、いつまでも馬の話をした。オコシップは何も言わずに聞いていた。
エシリたちは翌日も、その翌日も開墾に出かけて行った。ゴムのような茅根を打ち砕く単調な仕事を一日じゅう続けた。
給与地は、ヘンケの家ではほんの少し耕やしただけでそのままにしていたし、シンホイはひと鍬もおろさずに投げてしまっていた。
「働け、働け。和人《やつら》に馬鹿にされたくなけりゃ、骨身を惜しまず、畑も作るし、たとえわずかでも猟もせねばな」
エシリたちは働いた。腕を棒にして働いた。
「死んだお父《とう》だって、母《かあ》ちゃだって、こんな姿を見たら目玉を飛び出してたまげるべな」
モンスパは腰を伸ばして言った。
「畑は和人《シヤモ》のすることだ、とばっかり思ってたんだよ」
それはエシリばかりではなく、アイヌたちは昔から食べ物は川や山から自然に穫《と》れるものだと信じ、その恵みに感謝してきた。それが、どっと入りこんできた開拓者たちに荒らされて、食べ物が急激に少なくなり、いつの間にか和人の世の中に吸い込まれて行ったのだ。耕やして食べるか、和人に雇われて食べさせてもらうか、二つにひとつだった。エシリたちは耕やして自分で食べる方を選んだのだ。
エシリたちは一日じゅう給与地にいた。開墾したり、薯やトーキビの世話をして忙しかった。空気が澄んで収穫の時期がやってきた。
「薯が出来たぞ、取りに来《こ》お」
モンスパはエシリに言われて、アイヌの家々に触れ回った。ヘンケの女房トレペやシンホイの女房のトイナンが薯掘りを手伝って、サラニプ(背負い籠)に溢れるくらい詰めて持ち帰った。
薯の穫り入れには三日も費した。薯は大粒で一株に十個も鈴生《な》りについていた。作り方が上手だと言って、トレペたちは口を揃えて褒《ほ》めたてる。二十俵もあろうか、畑の三カ所に茅を敷いて堆《うずたか》く積み上げた。
「みごとなもんだね。毎日、たらふく食べても食べきれねえな」
エシリたちは畑の真ん中に立っていつまでも薯の山を眺めた。
その日の夕方から天気が崩れた。太陽におおやく(暈《かさ》)がかかり、風が西南風《ひかだ》に変って、丸木舟の舳《へさき》から風波が折り重なってくる。
「気違い風」と、エシリは吐き出すように言った。
風の神さん
あんまりくっついてくると
奥さんの腰巻きが、ぷっつり切れますよ
どうか、おだやかに吹くように
考え直しておくれ
こう、ねんごろに呪文を唱なえた。
エシリたちは風を避け、蒲《がま》の密生する川岸《ハンブ》を隠れるようにして帰って来た。
「しばらく天気続きだったからな」
オコシップは採《と》ってきた茸《きのこ》や山菜をカロナといっしょに大鉢の中に選び入れていた。
風は淀みなく吹き続け、新しい家はぎしぎし音を立ててよけい軋んだ。エシリはいったん自分の家に入ったが、「あんまり風が強くて」と言って、引き返してきた。いつも食事はいっしょだったので、彼女はオコシップの家と自分の家を行ったり来たりしていた。
「眼の具合はどうだべ」と、エシリが訊いた。
「タチコゴメグサが一番だな」と言って、彼は大きく眼を見開いた。オコシップは効目があると言われるものなら、山シャクヤクでも、ホザキウンランでも手当たり次第に使ってみたのだった。
「こんなもの」ただのかぶれ水だと言って、煎じた土瓶《どびん》ごと土間に叩き捨てることもあったが、しかし、こんどだけはいつもと違った。
「靄《もや》が取れたぞ」この煎じ薬になってから、目に見えてよくなり、床を歩く蟻まで目に入るようになったのだ。
「もいっぺん雁を打ち落とすとこ、見せてけれ」
モンスパの声は弾んでいた。オコシップは右手をぶるんと一回転させ、鉄砲を構える格好をして、「ダン」と言った。ぐるぐる回りながら落ちてくる雁を、親子は目を細めて見つめていた。
オコシップはモンスパの煎じてくれたコゴメグサの液汁で、朝晩かかさずに洗眼した甲斐があって、このごろは食事のときでも山歩きのときでも、健康だったころと同じように素早く行動することができた。
「明日《あした》は大滝の方へ回って、茸やブドウを採《と》って来《く》べえ」
彼の頭の中には、山じゅうにある茸の群生がはっきり刻まれている。木苺《きいちご》や胡桃《くるみ》、ブドウやコクワもあった。カロナは明日が楽しみだ、と言ってはしゃいだ。
夕食が終ったころから雨が激しくなってきた。なんだか様子がおかしいぞと思っているうちに、ほんものの嵐になった。風と波濤と豪雨がいっしょになって、ごうごうと雷鳴のような音を立てていた。
「薯はどしたべ?」
エシリが恐る恐る言った。モンスパは返事につまって口を噤んだ。そのまま話は途切れたが、洪水にやられた去年の無惨な光景を二人は思い浮かべていた。
嵐は翌日になっても治まらなかった。川水が川岸《ハンブ》から溢れ、生きもののように這い上がってきた。
「上流は大雨だったようだ」
エシリたちは、盛り上がって流れる濁流を心配そうに眺めた。橋が流れ、積草《にお》が流れ、草屋が流れた。
峠の上から見下ろすと、原野は一帯が水につかり、太い一本の川のようにぴかぴか光ってゆったり流れていた。馬や牛は高みに向かってぞろぞろ移動している。
開拓農家の草屋が三つ並んで見えていたが、
「屋根の上に人間がいる」と、ウフツが驚いた声で言った。
「助けを呼んでんだよ」と、モンスパが言った。ひとたび流れ出すと、障害物は何もないので、そのまま海に流し出されてしまう。
「雨が夕方までに止まらなかったら、ウツナイ原野の草屋も、馬も牛も、みんな流されてしまうな」
助け舟を出してベッチャロの開拓者だけでも救ってやらねばな、とエシリが言うのを、オコシップは「アイヌモシリを盗《と》ったやつらだ」と言ってそっぽを向いた。
「それはそれとしてな」
エシリは屋根の上の人影から目を放さない。
開拓者たちの草葺家は、腰まで水につかって建っていた。そのいちばん下手《しもて》の草屋が濁流に押されて斜めに傾き、屋根の上の人影がしきりに手を振って助けを求めている。
「オコシップ!」と、エシリが叫んだ。
「西田さ、頼め」
オコシップは弾き返した。しばらく沈黙が続いた後、モンスパが「子供だけでも」と言った。
彼が頑丈な丸木舟を漕ぎ出したのは、夕方だった。雨は降り疲れたように、灰色の空からぽつんぽつんと落ちていた。本流を乗り切ると、あとは沼の中を進むように、舟は草屋に向かって真っすぐ進む。
「蒸気船みたいだ」
周吉たちが手を叩く。頼もしい眺めだった。
丸木舟は、はじめ子供や女たち五人を運び、二回目に老爺たち四人、三回目に残りの四人を運んで、全員の収容が終った。
「ほんとに命の恩人です」老爺が涙を流して跪《ひざまず》いた。
「ご恩は一生忘れません」母親が幼児をきつく抱きしめて言った。
「もう助かったんだから、ゆっくりした気持ちで寝そべってけれ」
エシリとモンスパが新薯を茹《ゆ》で、大皿に盛ってみんなの前に差し出した。
子供たちがわっと手を出し、争って口の中に頬張った。いちばん元気のいい男の子がはばけた(食物が喉につかえること)のを見て、母親が「卑しいことして」と怒って、頬を殴り飛ばした。男の子はひっくり返ったが、そのままもぐもぐ食べていた。
開拓者たちは青森の田舎から来た人たちだった。杉の木のたくさん生えている山育ちだったので洪水の怖《こわ》さは初めてだと言って、がたがた震えていた。
雨が上がり、雲が切れて西から東の方に流れていた。
「(水も)ここまでだな」
オコシップが川岸から上がってきた。水面をすかしてみると、白く濁った泡の塊が点々と流れてゆく。泡が出れば洪水は下火《したび》になる。
「もう大丈夫だ」
エシリたちがつい浮かれ、とんとんと足を踏んで踊り出す。
青森から入植した開拓農民が、洪水に襲われて肝《きも》をつぶした
「どして、おらだば襲ったべか」と、開拓農民が洪水にきいた
洪水のいうことには
「挨拶もなしに、アイヌモシリさ
のこのこ入ってきたからだべ」
エシリは即興歌《ヤイサマネナ》に節をつけ、おもしろく歌ったので、お客さんたちの拍手はいつまでも鳴《な》りやまなかったが、子供たちはエシリの青い入墨《いれずみ》が伸びたり縮んだりするのを見て怯《おび》えていた。
「おっかねえ」女の子がこらえきれずに、母親の胸に抱きついて泣き出した。
「何がおっかねえてば、おめえば助けてくれたべえ」
母親は背中をさすったり、泣きじゃくる口を塞いだりして止めようとした。だが、開拓者たちとエシリたちとの互いの話も夕食も気まずいものになった。
干魚やウバユリダンゴや山菜の味噌汁も、開拓者たちの口には合わなかった。彼らは翌日、朝早く帰って行った。
「おかげで命を助けて貰いました。このお礼は必ずします」と、帰りがけに五十がらみの色白の男が礼を述べた。その男は土井と名乗った。
エシリたちは、それからさらに三日ほど経って給与地に出かけた。泥水がまだ畑のあちこちに溜っていて、薯や南瓜がぷかぷか浮いていた。
「あきれたもんだ」とエシリが言い、「たまげたもんだ」とモンスパが言った。
薯もトーキビも南瓜も、持って帰れるものは何ひとつなかった。
「本職の農家でさえ、麦一粒穫《と》れねえだからな」
エシリとモンスパはこう言って諦らめた。
16
給与地を貰ってから三年経った。いつの間にか開墾した畑は三段歩になっていた。春になって、今年の作付けが決まった。馬鈴薯にトーキビに南瓜に、カイベツ(キャベツ)、それに麦が加えられて長い冬に備えた。うまく穫れればかなり食い繋げる。しかし、二年続きの大水害で、不安がつきまとっていた。
「洪水に強い作物はなんだろうね」
「寒さに強いのはあっても、洪水には?」
モンスパたちは、しきりに頭をひねる。
こんなことを話しながら、蒔付けは順調に進んだ。エシリたちが畑の縁に腰を下ろして休んでいると、遠くで馬耕していた農夫が真っすぐこっちにやってきた。洪水のときに助けた土井だった。
「手耕《ておこ》しで、ようやるわい」
土井はエシリたちの労をねぎらってから、
「土地を遊ばせておく手はねえによ、貸してくれんか」と言った。
給与地は五町歩あるのに、わずか三段歩しか耕していないのだ。
「荒地の開墾をしてくれるなら」
願ってもないうまい話だと、エシリは思った。彼女は家へ帰るなり、
「運がまわってきたぞ」と言った。
話を聞いていたオコシップはしきりに頭をかしげ、「明治になったからと言って、和人が急に親切になるはずがないさ」と取り合わなかった。
「こんないい話を、みすみす逃す手はないさ」
エシリは、掌の豆を考えただけでも乗り気だった。
「とにかく、様子を見ることにして、とりあえず一町歩だけにしたらよかべ」
オコシップは、そのうまい話を信用しなかった。
和人たちの開墾は大がかりだった。早春、火を放って茅原を焼き払うことから始まる。広い原野は何日も何日も燃え続けるのだが、太い十勝川が原野を取り巻くように流れているから、火は原野から丘陵へ駆け上がることはない。野火の時期になると、このあたり一帯が煙に覆われ、太陽がいつもより大きく真っ赤に見えた。
「昔は和人たちが鹿を追い出すのに火を点《つ》けたもんだ」
エシリは、めらめらと燃え広がる赤い火波《ほなみ》を眺めて言った。逃げまどう鹿を、あらかじめ待ちかまえていた鉄砲隊が迎え撃つのだ。焼け跡から鹿の角がたくさん出てきた。毎年雪解けのころになると、原野には赤々と燃えさかる焔が立ち昇り、鉄砲の炸裂音《さくれつおん》がコタンの方まで聞こえてきた。
「その火で、家族じゅうが焼き殺されてしまった」
モンスパは力なく言って涙ぐんだ。
「負けてならんぞ」
エシリはモンスパの肩に手をかけて慰めた。
「獲物を追う野火が、いつの間にか開墾の火に変ったんだよ」
野火はいつ果てるともなく燃え続け、火の点《つ》いた野地坊主《やちぼうず》は雨が降るまで燻《くすぶ》り続ける。黒く焦《こ》げ爛れた原野は、何日も雨にうたれ洗い流され、やがて青い新芽を吹き出して生まれ変わる。
「薯でもトーキビでも、山ほど穫ってやるべえ」
土井は焼け跡に馬とプラオを持ち込んで、荒地をごりごり耕やした。茅の根は、鉈《なた》のように突き出た鋭い刃でみごとに切り裂かれ、それを後方の反《そ》りかえった鉄板がつぎつぎに引っくり返してゆく。プラオは生きもののようにサビタでも野地坊主でも雑作なく打ち砕いた。
「たいしたもんだ」
エシリたちは、馬の後ろから鍬を持って、うまく引っくり返らないところを直して歩いた。カケスや桜鳥の群れが飛んできて、土中から掘りあげられた虫を、きゃっきゃっと鳴きながらついばんだ。
一町歩の貸し代が荒地一町歩の開墾だった。エシリたちはこんな広い畑を持ったことがない。一町三段の畑の真ん中に立って、ぐるりと一回転して、「広いもんだ」と感心する。こんどは反対の方から一回転して、「みごとなもんだ」と感心する。そのうちに目が回って、エシリはどすんと尻もちをついた。
二人は畑の端の方から、耕したばかりの黒い土を少しずつ砕いていった。しかし、砕いても砕いてもなかなか捗《はかど》らなかった。
エシリたちは三日目に土井のところに行った。
「ハローと言ったっけ、土を砕くものがあったとな」
「あるとも」と、土井は言った。エシリたちは土を砕いて欲しいと頼んだ。
「ええとも、その代わりあと一町歩を貸して貰わんとな」
こうして、エシリの畑のハローがけは無事終った。エシリたちは早速、広い畑に麦の蒔付《まきつ》けを始めるために畝《うね》切りをしなければならなかった。麦の種は役場からもらって来ていた。
「いまに青い芽がぞっくり出て、畑は緑の穂波で埋まってしまうぞ」
エシリたちは、こっちの端から向こう端に見当をつけて畝《うね》を切った。畝は十勝川のように曲がりくねり、舵《かじ》をきらした舟のように途中で立ち往生した。
「だめだ、だめだ」
エシリは笑いながら、曲がりくねった畝を消して、ふたたび新しい畝を引いてゆく。何度も繰り返したあげく、土井のところへ行った。
「畝切りと言ったっけ、畝を引くものがあったとな」
「あるとも」と、土井は言った。エシリたちは畝を切って欲しいと頼んだ。
「ええとも、その代わりあと残りの一町歩を貸して貰わんとな」
こうして、畝切りが無事終った。エシリたちは役場の指導員に教わった通りにして、ようやく麦の蒔付けを終えることが出来たのだった。
丸木舟で川を下だりながら、「三町歩も貸したんだな」と、エシリは力なく言った。
「五町歩のうち、あらかた土井さんの手に落ちたわ」と、モンスパが応えた。うまくやられたような気がして、エシリは腹の中がむかむかしてきた。
「もう一町歩だって残ってねえだよ」
エシリは荒々しく言って、だんと舟底を踏んだ。二人のにわか百姓は家へ帰ってからも機嫌が悪かった。
「ほら見ろ、それが和人《やつら》の手なんだ」
オコシップは天井を仰ぎ、
「この三町歩はもう帰ってこないど」と、呟やくように言った。
「いつまでも貸すとは言った憶えはねえによ」
エシリは髪を振り乱して叫び、床がへこむほどに踏みつけて歩いた。
蝉が鳴いていた。エシリたちは一カ月ぶりに給与地に出かけた。川岸に上がった二人は、さわさわ揺れ動く穂波を見て立ちどまった。麦畑は一面が緑色に膨れ上がっていた。
「豊作だ、豊作だ」と言って、畝と畝の間をどこまでも漕いで歩いた。麦といっしょに、茅の新芽が天に向かって突き出していた。
「オコシップに見せたいもんだ」と、モンスパが言った。
「明日《あした》から草取りだな」
エシリはじりじりと照りつける太陽に背を向けて言った。薯もトーキビも南瓜もカイベツ(キャベツのこと)も、夏日をいっぱいに受けてすくすくと伸びていた。
「作物は薯も麦も豊作だに、周吉も金造もみんな手伝え」
エシリは家の敷居を跨ぐなり大声で言った。
翌日から、子供たちといっしょに畑に出かけた。原野の対岸に見えるカンカンビラの下まで、丸木舟に乗ってゆく二里の道程は長かった。突然|蒲原《がまはら》から鴨が飛び出したり、大魚が水面に飛び上がったりすることもあったが、いつも川岸の景色は単調で退屈だった。周吉たちはしじゅう欠伸《あくび》をした。
柳の密生する川岸を漕ぎ抜けると、眼の前に茶褐色のカンカンビラが現われた。川はビラの下で二つに分れる。流れは広い浅瀬になっていて、せせらぎが蝉しぐれのように聞こえてくる。
「松前藩の和人と十勝アイヌが戦った古戦場なんだよ」
エシリはカンカンビラを指さした。
「どっちが勝ったんだい」と、周吉が訊いた。エシリは一つ咳をして話し始めるのだが、その勝負がまだつかないうちに舟は岸に着いてしまった。
「腹ごしらえをして、それから真面目に取りかかるんだよ」と言って、早い昼食をしてから仕事についた。
金造はカイベツの青虫|除《と》り、周吉はトーキビの孫茎(横からとび出た茎)|除《と》りだ。ええ加減にやれば明日にもまたすぐ芽を吹き出してくるからな、とモンスパが厳しく言いつける。
エシリとモンスパは麦畑の草取りである。茅の新芽を|ほう《ヽヽ》で取り除き、ふたたび生えてこないように、その根をぎざぎざに切り刻むのだ。麦は腰ほども高く、長い穂がいくつもついていた。あと一カ月もすれば色づくだろう。
「水害さえなければ大豊作だがな」
エシリは一度でも麦の収穫がしたかった。穀物の収穫がしたかった。しかし、今年も洪水がくれば三年続きの水害となる。八月の末から九月の初めにかけて、印《はん》で押したようにやってくる水害が怖かった。
麦が色づくころになると、エシリは毎日空を睨んでいた。雲の動きだけでなく、鳥たちの動きにも気を配った。
「色づいたところから刈り取って、乾燥したら、すぐにも唐竿《からさお》で麦をはじき出してやるんだよ」
霜が降りた。道端にぞっくり霜柱が立った。その翌日から麦の刈り取りが始まった。
「嵐は今日にもやってくるんだよ」
脱穀した麦はどんなに遅くなっても、その日のうちに俵に詰《つ》めて川を下った。川の両岸にはアイヌたちの荒廃した給与地が茅原の中に埋まっていた。丸木舟は夕凪ぎの静かな川面を航跡を曳いて音もなく進む。いち日いち日、土間に積み上げられてゆく麦や馬鈴薯やトーキビを見て、エシリたちは嬉しかった。
「この冬こそたらふく食べて、まだ食べきれねえだよ」
とうとう嵐は来なかった。
「本職|跌《はだし》だ」
コタンの人々だけでなく、付近の開拓者たちもエシリたちの収穫に驚いた。
オコシップは貸した三町歩の土地が気がかりだった。今のうちに念を押しておかねばずるずる引き延ばされ、そのままになってしまう気がしたので、収穫が終ったすぐ後、彼は土井の処へ交渉に出かけた。
「手|耕《おこ》しでは、とてもこれだけの収穫はあげられめえさ」
土井は馬の力のおかげだと言った。
「来年からは、一町歩しか貸せねえからな」
「ハローや畝切りはどうする?」
「こっちでやる」
「広いだからな、女たちの手では無理だ」
土井はしきりに首を振るが、
「一町歩だ!」
オコシップは吐き出すように言って、土井の家を出た。
17
「旧土人保護法」が出来てから、すでに五年経っていた。アイヌに対する農業の勧めはほとんどうまくゆかなかったが、オコシップのところは稀に成功した例だった。役人がわざわざ訪ねてきて、模範農家だから馬耕に使う馬を安値で払い下げると言った。
「この界隈《かいわい》、アイヌで馬持ちはおいらだけだぞ」
エシリはすっかり感激し、他所のコタンまで出かけて行って触れ回った。
馬は流星の鹿毛で器量《きりよう》よし、ちょっと小柄だが牝馬《ひんば》の五歳だった。サクサンが山から連れてきた馬と同じ流星だったので、名前も同じ「流れ星」と呼んだ。
「このごろは運がついてついて。うまくゆけば仔馬が出来るぞ」
オコシップはさっそく母屋の横に厩《うまや》を造った。役場の世話で馬道具や駄鞍《だぐら》も用意した。
「経費もかかるだにな、それだけの収入も必要なんだよ」
エシリたちは朝早くから晩遅くまで働いた。彼女が馬に飼い葉をやっていると、ちょうど厩の前をイホレアンが通った。エシリは戸外に走り出て、「イホレアン」と呼んだ。
「この馬はな、役場の世話でただみたいな安値で分けてもらったによ」
イホレアンは厩の中を覗いて、「あれえ」と言った。
「何十年、牧夫頭をやってんのよ、まだ自分の馬一頭も持たんとな」
イホレアンはむっとした顔で帰って行った。
雪が解けて、ふたたび馬耕の季節がやってきた。古いプラオを付近の農家から借り受けたオコシップは、広野の只中に立ってプラオの取っ手を握った。
「さあ、始まりだ!」
モンスパは馬の口をとって畑の縁を歩き出した。プラオは生きもののようにもりもり土を掘っ返してゆく。畑の向こう側へ着くと、こんどはプラオが掘っ返した分だけ内側に入って、ふたたび歩き出す。
プラオを曳く五歳馬の流れ星も口をとるモンスパも、じっとり汗にまみれてようやく調子づく。その後ろからエシリが鍬を持って、うまくひっくり返らないところを返してゆく。
「ごりごり行け!」
オコシップは思い出したようにときどき気合いをかける。馬耕は眠気をさそうような春霞の中をとろとろと続く。彼は畑を耕やしながら、「魚が陸《おか》に上がったようなもんだ」と呟やく。まるで勝手が分らないのに、馬にまかせて歩いていれば仕事は渉るというのだ。
「馴れた馬だからな」エシリは利口な馬に感心している。
郭公が鳴いていた。昔は郭公が鳴き出すと、川に鱒が遡《のぼ》り始めるのだった。
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自分の村を流れる川に行って鱒がいなければ
沼川に鱒がいるよ
沼川に行って鱒がいなければ
自分の村を流れる川に鱒がいるよ
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と、歌っているというのだ。
その年の雪の降り方や解け方で、どの川も同時に魚が入るとは限らない。早く雪の解けた川には水がぬるんで早くサクラ鱒が入り、雪解けの遅い川には遅く入ることを、郭公は教えてくれるのだ。
「十勝川の猟区《イオロ》にサクラ鱒が群れたかもしれんな」と思い、オコシップはプラオの取っ手にぶら下がるようにして、川を振り返った。
「さ、もうひと息だ」と、こんどはエシリが追い立てるように言う。
馬は従順だった。方向を変えたり、引き返したりするとき、曳き綱が足に絡《から》まるときもあったが、何度でも踏み直して解きほどいた。
「まったく利口なもんだわ」
モンスパは馬の顔をとんとんと軽く叩いて、ふたたび口をとった。畑はうねうねと耕され、太陽に照らされて土の表面から水蒸気がゆらゆらと立ち昇った。のどかな春だった。
汗と埃にまみれて、西日が日高の山脈《やまなみ》に沈むころ、ようやく一町歩の畑を耕やし終えることができた。
翌日、エシリたちは馬を曳き原野を歩いて、朝早く畑に着いた。歩きながら、オコシップは郭公の鳴き声を聞いて、もうじっとしてはいられなかった。
「逃げるとな」
川岸の方へすたすた歩いてゆくオコシップを見て、エシリが呼びとめた。
「すぐ帰ってくるさ」
オコシップはうまくはぐらかして舟に乗り込んだ。
川は緑に燃え上がっていた。その中を舟は滑るように下だってゆく。土より水がよく、穀物より魚が合性《あいしよう》だった。オコシップはすっかり気が晴れて、心地よく櫂《かい》を操った。
猟区《イオロ》までくると、オコシップは岸に舟を着けた。網はあらかじめ藪の中に隠しておいた。それを取り出して、崖下の淵に下ろした。川は渦巻いて静かに流れている。浮子《あば》が沈んだと思っていると、網にかかったサクラ鱒が飛沫《しぶき》をあげて水面に躍り上がった。
「相棒」と、オコシップが言った。「おれは穀物より肉類が好きなんだ」
彼はサクラ鱒を抱きかかえて頬ずりをした。粘液にまみれ、鞭《むち》のようにしなった尻尾《しつぽ》に叩かれて眼が眩んだが離さなかった。二匹目が眼の前に跳び上がった。続いて三匹目が網にかかった。ピカピカ光るサクラ鱒は大柄だった。
オコシップは丸木舟の中で、長い間サクラ鱒と戯《たわむ》れていた。
「郭公はサクラ鱒の居場所を教えてくれたものだった」
上流から下だってきたハルアンが、櫂《かい》を静かに操りながら言った。
「今だって少しも変っていねえど」
オコシップが怒鳴りつけるように言った。
「今は種の蒔きつけ時期を知らせる鳴き声に変ったんだよ」
「どして分る?」
「郭公の鳴き声で、いっせいに薯やトーキビや燕麦《えんばく》や麦の蒔き付けが始まるんだよ」
「それは和人《シヤモ》の話だ!」
オコシップは、さっきよりもっと大きな声で怒鳴りつけるように言ったが、
「おめえのとこだって、もうじき蒔き付けだべ」
彼は言葉につまって、口を噤んだままじっとハルアンを睨みつけていた。
彼女の舟が彼方に消えてゆくのを眺めながら、オコシップは和人に近づいてゆくわが身を不甲斐なく思っていた。しかし、どこまでもアイヌぶりを言い張っていれば、食べられなくなることは目に見えている。
「いまごろ、母のエシリと妻のモンスパは畑の中で一生懸命働いている」これなら、ハルアンに「郭公は蒔き付けを知らせる鳴き声なんだ」と言われても、何とも言い返すことはできないと思った。
「郭公はどっちの鳴き声も出るんだ」
だから穀物もサクラ鱒も両方ともたらふく食べてやる、とオコシップは思った。
彼は岸辺の砂原に焚火を焚き、サクラ鱒を一本刺しにして丸ごと焼いた。オコシップはそれをあらかた食べて大の字にひっくり返った。そよ風が心地よく髭面をなでてゆく。灰色の大きな野蠅が、眼糞や口もとの魚粕に集まってきた。彼は口を歪め、顔をぶるんと振って寝返りを打つ。飛びたった野蠅が倍の数になってふたたび集まってくる。彼は郭公の鳴き声を夢の中で遠くに聞いていた。
「ウ、ウ、ウ」と、オコシップは欠伸《あくび》をして立ち上がった。たらふく食べて、こんなにぐっすり寝込んだことは最近にないことだった。
太陽が爽やかに照りつけて、カケスの群が虫を求めて畑から畑へ渡ってゆく。
「模範農家だもんな」と、エシリは誇らしげに言った。一町三段の畑が自慢だった。
「蒔き付けが終れば、あとは太陽しだいだ」
モンスパは春靄に煙った太陽を見上げて言った。
「ふんとに運が向いて来たんだな」
オコシップは、去年の豊作のことを思い出していた。彼は畑の隅に一間四方の小さな出稼ぎ小屋を造った。雨を凌いだり、飯を食べるにも便利だった。
蒔き付けが終った翌日からいい雨が降って、作物は一斉に新芽を吹き出した。元気な作物はその後順調に成長した。薯は濃紺の葉をつけ、トーキビは淡い緑色の双葉を長く伸ばした。
「豊作型だな」
日照りが幾日も続き、七月に入ると蝉がうるさく鳴き始めた。エシリたちは一日じゅう畑にいて、雑草を取り麦の黒穂を抜いて歩いた。
「去年はあと二十日で色づいたぞ」
エシリは麦畑の中を漕いで歩きながら空を睨んだ。水害だけが心配だった。
トンケシ山にかかった雨雲が雪崩《なだ》れ落ちたのは、それから一週間目だった。雨が断続的に降って半日ほどでいったん上がったが、それからぐずついた天気が数日つづいた後、とうとう本降りになった。西南風《ひかだ》が雨を吹き上げて、いつもの嵐が原野に荒れ狂った。
「(小さな)鉄砲玉でもええ、片っぱしから掘っ返せえ」
二人は雨の中で鍬を振り上げて馬鈴薯を掘った。鈴玉のような小さな薯が雨に打たれて飛び跳ねた。川波が白く立ち上がって流れていた。
「危険ぞな」
エシリたちは嵐に怯《おび》え、叺《かます》に三つほど掘って引き上げた。この年の全収穫は、この三俵だけだった。
「どうしたことだ」彼らは嘆いた。
さらに、翌年は春早くに襲った水害で作物が泥水につかり、そのまま腐ってしまった。
そして、その翌年は何十年来の大洪水に襲われて、畑は流失してしまった。
給与地は誰よりも低い土地だったので、川はわざわざ給与地を回って流れてゆく。深い溝《みぞ》のできた畑の中の新しい川は、僅かな雨でも音を立てて流れた。もう手も足も出なかった。役場から褒められた模範農夫たちは泥水に浸った畑を呆然と眺めた。
「だめだ、だめだ」エシリは首を振り続けた。
「呪われたアイノ(人間)たち」モンスパは炉縁に蹲って頭をかかえた。
18
給与地はいつの間にか、もとの深い茅原になっていた。オコシップたちは蕗採りに出たついでに丸木舟を下り、何年ぶりかに給与地を訪ねた。茅を漕いで奥へ奥へ進んだ。出稼ぎ小屋が骨だけになって寝そべっていた。突然、辺りが明るんで広い畑に出た。
「ここはおらの畑だ」と、エシリが辺りを見渡して言った。青い麦畑が遠くまで続いていた。
「ずる和人《シヤモ》のやりそうなことだ」
モンスパが腹を立てて、青い麦を足で踏んづけた。オコシップを先頭に、エシリとモンスパの三人が、遠くの土井の家を目がけて、のっしのっしと歩いてゆく。外で遊んでいた子供たちが、「お化《ば》けだ!」と叫んで、家の中へ逃げ込んだ。
「何の用だ」
土井が家の中から出てきて言った。
「おらの畑を勝手に使っておいて、何の用だもないもんだ」
オコシップが一歩前へ進み出て、土井を睨んだ。
「どうせ遊ばせている土地だもの」
「だから勝手に使っていいと、『旧土人保護法』に書いてあんのか」
土井はオコシップの見幕を下から盗むように窺い、一歩下がって、
「悪《わる》げはこれっぽっちもねえだ」と言って、彼は親指と人差指の爪と爪とを突き合わせてぴんと弾《はじ》いた。
「ほう」と、オコシップは納得したように見せかけて、次の瞬間土井の赤い鼻を目がけて飛びかかって行った。髭もじゃの丸太ん棒みたいな腕とひょろけた青白い腕とでは、初めから勝負は決まっていた。土井は雨上がりの柔かい土の中に、頭を半分めりこませて「許してけれ」と、呻くように言った。
「どっちの言い分が正しいてば」
エシリは土井の鼻先に立て膝をつき、青い入れ墨の入った口をもぐもぐさせながら噛みつくように言った。
「俺の負けだ」
土井は唾を飲み込んで哀願するように言った。しかし、オコシップの節くれた手は、きつく彼の襟首を押さえつけて離さなかった。子供やおかみさんたちは、遠くからおどおどしながら、それをじっと見つめていた。
「麦十俵の年貢を払え」と、オコシップは吠えるように言った。
「三俵にしてけれ」
かすかな声が、オコシップの脇の下から洩れてくる。
「こけ!」と撥ね返されて、彼は「五俵」と言い直した。話はここで途切れたが、首を締められながらの話し合いは、どうやら五俵でケリがついたようだ。
「水がきたらパーなんだから、穫れたらの話だ」
土井は起き上がり深い溜息をついて言ったが、オコシップはそっぽを向き、川岸に向かってすたすた歩き出した。その後ろから、エシリたちが胸を張り大股に歩きながら、
「アイヌでも地主アイヌだからな」と言った。
その秋おそく、土井は約束どおり麦を五俵持って現われた。
「畑の半分は沼だから問題にもならんが、十一号線の上地《かみち》は奮発《ふんぱつ》するさ」
土井は土地の売却を熱心に勧めた。
「ほらきた」と、モンスパが言った。給与地のただ借りからやがて巻き上げを狙う、彼らのやり口を彼女はなじった。
「貸し地だなんてそんなケチな料簡《りようけん》を持たんで、地続きの誼《よしみ》でドカンと纏《まとま》った銭《ぜに》をふとこったらどうだべ」
しかし、ドカンという勇ましい言葉には不似合いな値段だった。
土井は鳥打帽子の中にオコシップの手を引き入れて、確かに人差指を一本握りしめたのである。オコシップはそれがいくらの値をあらわしているとも知らずに、首を横に振った。じっと考え込んでいた土井は、思い直したように、改めて人差指一本と、それに片手の指五本をひと握りにした。オコシップは十五両(円)だな、と思った。しかし、彼はなお首を横に振り続けた。オコシップの考えでは世間並みの半額にも満たない値段を握っているに決ってる、と信じていた。
「おらは毛皮の値段を踏んでるんでねえだど」
オコシップは手を振り払って叫んだ。土井はどう思ったものか、何も言わず、にっと笑って帰って行った。
その晩から雪になった。そして翌日は恰好の狩猟《またぎ》日和《びより》だった。地面には粉雪が薄く降り積もっていた。オコシップは峠を登り、子供のころから何十年も歩き馴れたけもの道をカタサルベツに向かって歩いてゆく。だが黄ばんだ林にいつもいる山鳥も、白い湧水の吹き出る辺りにいる狐たちもいなかった。彼はいつものけもの道から逸《そ》れ、左の沢づたいに静内《しずない》山に向かった。しかし、ここにも獲物はいなかった。
疲れきったオコシップは、日当たりのいい斜面に腰を下ろして昼食を食べ始めた。この辺は造材山で、あちこちに大木が伐り倒されている。ときどき樹の倒れる音が地鳴りのようにびりびりと体に伝ってきた。
「猟はどうだい」
呼ばれて彼は振り向いた。男は刺子をまとい、鳥打帽子に黒地の脚絆を履いていた。造材山に働くハイカラな帳場だった。
「山はこの通り裸《はだか》にされてな」
獣も住めねえと言って、オコシップは帳場を睨んだ。
「狩猟《またぎ》もだめだし、畑もせっかく馬まで手に入れたのに三年続きの水害でな」もうここまできたら、そこらの馬でも牛でも、おめえとこの犬でも猫でも何でも食べてやる、と言った。
黙って聞いていた帳場が急に声を弾ませて、
「この不景気に馬を遊ばせておく手はねえさ、『玉出し』だよ」と言った。
「玉出し」は、深い谷や急な坂のある山奥から伐り出した材木を平坦な場所まで運搬する仕事である。
ハイカラな帳場は「玉出し」をしきりに勧める。聞きながら、オコシップは「悪くない話だ」と思った。
「玉出しは冬山だけの仕事だからよう、来るなら早い方がええど」
振り向くオコシップに、帳場は山じゅうに響き渡る声で叫んだ。
彼は仕留めた山鳥一羽と痩せた兎一羽を背負っていた。笹に降りかかった雪を蹴散らすように歩きながら、「痩せこけた兎一羽じゃあ、一食分にも足りねえさ」と、ぶつぶつ小言《こごと》をつく。
「コタンクルカムイ(梟)でも、キムンカムイ(熊)でも、コタンを訪問してくれるなら、イナウ(御幣)を捧げ酒を供えて、神国へイヨマンテ(霊送り)してやるのに」
しかし、そんな賑やかな祭りは、今はもう遠い昔のことになってしまった。こんなことを考えながらオコシップはけもの道をとぼとぼ帰り、家へ着くころには冬山で働く決心がついていた。
「貧乏神が昨夜《ゆうべ》の雪雲に乗って去《い》ってしまったようだ」
山から帰ってきたオコシップが言った。エシリたちが何のことだか分らないでいると、
「造材山の玉出しだよ」と、機嫌よく言った。彼は静内山で造材業の帳場に会い、働き口を見つけてきたことを説明した。
「段取り(準備)があるんだ」と、彼は弾んだ声で言った。「玉出し」は、畑のプラオを曳くのと違って、藪の中を山のような大木を曵くのだから、蕨型《わらびがた》も曳き綱も頑丈でなければ三日と持つまい。それに肝腎な橇も用意しなければならない。これは材木の頭を載せるだけの小さな橇だが、藪を掻き分け堅雪を突っ切ってゆかねばならないのだから、楢の堅木《ヽヽ》で造ったしぶといものに限ると思った。
「馬は申し分ないし、バンとした道具を造れ」
エシリは元気よく言ったが、やはり金策が気がかりで、「先に立つものがな」と力が萎《な》えていた。
「心当たりはあるけど当てにはならねえな」
炉縁に腕組んでいたオコシップは天井に向かって、煙草の煙を吐き捨てた。彼の腹の中には給与地があった。冷害、水害続きで、どうせ将来の役に立つとは思われない土地である。これを処分して、玉出しの馬具を造ろうと思った。何度も考えてそう思ったのに、それでも手放すとなると、やはり心に懸《かか》った。
「給与地」と、オコシップが切り出しただけで、エシリにはすべてが理解できた。
「分った、分った」と、彼女は言った。はっきり言えないでいるオコシップの顔色を窺い、
「どうせ鴨の巣だもの」とつけ加えた。
オコシップは翌日朝早く土井の家へ出かけた。買って貰うなら給与地の地続きでもあるし、ついこの間顔を合わせた時も欲しがっていた土井がいいと思った。
しかし、足元を見た土井はしぶとかった。この間、十五両(円)と値をつけたことを全く忘れたかのように、五両という法外な安値をつけておいて、もっと値切ろうと企《たく》らんでいた。
「どうせ、おめえらの投げた土地だべ。地続きだから買おうと思っただけで、誰がこんな沼のような土地を買うもんかい」
土井はますます強く押してくる。すったもんだと押し問答をしていると壊れてしまうと見たオコシップは、むかつく腹を抑えて手を打った。四両だった。わずか米一俵分にも満たない代価である。どうしてこんな値段がついたものか、オコシップには後々まで分らなかった。
土井は着ていた刺子《さしこ》を脱ぐと、腹巻きの中からよれよれの財布を取り出し、土地の代価を一枚ずつオコシップの眼の前に並べた。並べ終ると、「間違いなく四両だど」と、確かめるように言った。
子供たちが珍しそうに、オコシップたちの周りをぐるぐる回って歩いた。着物の裾から布片が垂れ下がり、その足はいちように泥だらけだった。
「忙《せわ》しねえ《うるさい》」と、炉の向こう側で針仕事をしていた土井の女房が、曇った顔をいっそう曇らせて怒鳴りつけた。彼女はその勢いに誘われたように、急にこっちを見て、
「貯蓄《たくわい》もないのに」と言った。
「ただみたいな値なんだ」と、土井さんは声をひそめた。
とぼとぼ雪道を歩くオコシップの頭の中に、落ちるところまで落とされた土地の安値だけが苦々《にがにが》しく残った。
19
造材山はオコシップの家から三里も離れていた。なだらかな山道を静内《しずない》山まで歩き、そこから険しい道を一里ほど奥に入ったところにあった。
谷間《あ》いを流れる小川のほとりには大きな木造の飯場が建ち、そこには大勢の人夫たちが泊り込んでいた。彼らは見上げるような大木を鋸で伐り倒したり、その丸太を麓まで運んだりしている。この深い谷間いから馬橇で丸太を収集するのは、いちばんの荒仕事だが賃金がよいのでオコシップはそれを択んだ。
この仕事についているのは農閑期を利用して、出稼ぎにきた辺りの農家の人たちが殆どだった。みんなは「農家よりも銭《ぜに》になる」と言って喜んでいた。
馴れないオコシップは、いつも|へま《ヽヽ》をやっては笑われていた。急な坂で手綱を木の枝にひっかけ、馬が横を向いたまま玉橇もろとも深い谷に滑り落ちてしまう。馭者の手綱さばきが誰よりも下手なので、橇と馬とがいつもばらばらだった。
「やん衆(漁場を渡り歩いて働く漁夫)」と、笑われてもオコシップは相手にならず、少しずつ仕事を覚えてゆく。
「こら、流れ星、今日もしっかり頼むぞ」
オコシップは飼葉を食《は》んでいる馬の背中をとんとん叩いた。厩の中はまだ暗かったが東天はかすかに白みかけていた。これから三里の道を歩いて、造材山に着くころには朝日が昇り始めるだろう。
凍れが強く、吐く息が白く顔に振りかかる。厩の天井の横木に止まった梟が、翼をばたばた動かし、目玉をキョロキョロ回している。
「藪の中は深くて何も見《め》えねえだからな、その大きな目を一つ貸してけれ」
オコシップはほんとに目玉が欲しかった。谷の中は榛や萩のように細い柴木で埋まっている。彼は木材を曳いた玉橇といっしょになって小走りについて行くのだが、枯草や柴木に足をとられ、頭から勢いよく雪の中に突っ込んでゆく。すると利口な曳き馬は、どんな急坂の途中でもぴたりと止まり、主人を振り返って次の合図を待つのである。
「流れ星、おいらの目はいつも半端《はんぱ》なんだよ」
オコシップは四つん這いになったまま、のっそりと枯草から頭を出した。
村田銃を手綱に持ち替えてから、もう一カ月が過ぎていた。彼は初めての給金を懐に、鼻歌を歌いながら家路に着いた。こんなに沢山の銭《ぜに》をもらうのは、鮭の捕獲場で働いたとき以来のことである。前借金を差引いても三両(円)の銭が残っていた。
「米と味噌を買ってな、カロナ(オコシップの妹)を医者にだって連れてゆけるさ」
オコシップの母エシリは紙袋に入った給金を炉縁に列べ、それを撫でるようにして言った。
「流れ星のおかげだ。飼い葉をたくさんやれ!」
母モンスパに急《せ》かされて、周吉と金造は厩《うまや》の方へ走って行く。
賑やかな夕食だった。オコシップもエシリもモンスパも、うまい濁酒《どぶろく》を飲んで陽気にしゃべる。そこへ古老のヘンケがやってきて、いっそう賑わった。晩酌のつもりが、いつの間にか宴会になっていた。
「畑をしないなら馬を取り上げるだとよ」
戸外で突然声がした。西田牧場で働いているヤエケだ。
「よくも言えたもんだ」
窓を開けてエシリが怒鳴り返す。
「約束が違うって怒ってたど」
「約束を破ったのは役場の方だべ。水がつかない土地さえくれればいつだってやるさ」
エシリはぴしゃりと窓を閉めきった。
その夜、オコシップの家には赤々とラッチャク(灯火)が灯《とも》り、遅くまで酒盛りが続いた。
造材山は木を伐り進むにつれ、いっそう険しくなってゆく。雪融けのころになると雪といっしょに材木が滑り落ち、とうとう怪我人も出て大津の病院に運ばれて行った。
山には小さな神社が建てられ、人夫たちは出がけや帰りがけに手を合わせたが、オコシップはどんなときもアイヌの祈りをする。
ひと抱えもある丸太を積んだ橇が思い通りに樹の間を通り抜けられない時は、
「どうかシランバカムイ(木の神)のお力によって樹の間を通してくだされ」と言い、切り立った崖道にくると、
「ビラカムイ(崖の神)、どうか過《あや》まることなく無事に渡ることができますよう、お守りくだされ」と祈った。
流れ星は、すっかり玉引きに馴れ、オコシップが手綱を引かなくても上手に橇を曳いた。曲がり角でも険しい坂でも、自分で塩梅《あんばい》してぐいぐい曳く。彼は、ただ、「それっ、それっ」と気合をかけていればよかった。
オコシップの話を聞いて、「宝物だ」とエシリが言う。その傍らで馬の背中をこすっていたモンスパが、
「なんだか、サクサン(モンスパの父)が山から連れてきた『流れ星』と似てきたんでないべか」と言った。
「名前も同じだし」と、エシリが合槌をうつ。
サクサンの家にいた「流れ星」はサクサンたちが焼き殺されてから三年目に、三日月沼に落ちて死んだ。その生まれ替わりのようにモンスパは思った。
「ふんとに、わが家の宝物だ」と、エシリはふたたび言い、顔に白く流れた流れ星の辺りを何度も撫でるのだった。
冬山の造材が終ると、それを待っていたようにぷっつりと飼い葉が切れた。
「新芽が出るまでには、まだ一カ月もあるによ」
エシリは嫁のモンスパを連れ、鎌を持って出かけてゆく。牛馬の近寄れない崖縁の雪の下などに枯草は埋まっている。
「柔《やわ》い草だに」
サラニプ(背負い籠)にぎっしり詰めこんで、一日歩けば三日分はあった。それを釜で蒸《ふか》し、柔らかくして食べさせる。
「ほら、遠慮せんで、いくらでも食べえ」
流れ星は元気だった。西田の放牧馬より元気だった。この辺りは一年中放牧で、大雪でも降らないかぎり舎飼いはしない。馬たちは蹄で雪を掘り笹や雑草をあさって歩くが、早春のころになると、腰の骨が露骨に飛び出してくる。
痩せた馬たちは群をつくり、草を探して山から山を渡り歩く。だが中には、ものぐさな怠け者がいて、里に降り草小屋の壁に食らいつく。
「流れ星だって遠慮してんのによ。西田の馬に食われてたまるもんか」
猟犬《セタ》が追いかける前にエシリが手鉞《てまさかり》を持って跣《はだし》で外に飛び出してゆく。泥棒馬たちは身を翻《ひるが》えし、一目散に川岸の方に走り出す。その群を目がけて投げつけた手鉞は、尖った産道骨《さんどうこつ》にぶつかって撥《は》ね返った。
「あの、小賢《こざか》しい顔は西田そっくりだわ」
鉞《まさかり》を持ったエシリは柳の陰に隠れ、彼らが引き返してくるのをいつまでも待っていた。
20
原野をわたる春風が、唸りをたてて通りすぎた。日高山脈から吹き下ろす冷たい風だが、この風がくると雪が融け、凍《しば》れた土の表面も融けて、どろんこ道になる。そこにぬかった馬の蹄が大きな穴ぼこを作り、朝になるとそれが凍りついて尖った岩石の上でも歩くように痛い。こんなことを繰り返しながら、やがて凍れた土の中まで融けてゆくのである。
そして、オコシップの血も騒ぎ出す。熊が穴から這い出してくる時節なのだ。このころになると、彼はいつもカリベを思い出した。そして仔熊のカリベが金毛の熊に成長し、その熊をこの手で仕留めたと実感するのだった。
ヘンケが遊びにきて、昔話をしているうちに、オコシップたちは煮えたぎる血がどうしても収まらずに穴熊穫りがきまった。場所は留真《るしん》の山奥である。
その夜オコシップは暫くぶりに出猟前のカムイノミ(神への祈り)をした。柳の木を削って御幣《イナウ》をつくり、それを炉の隅に立て、イクパスイ(神箸)の先に浸した濁酒《どぶろく》を炉火《ろび》の上に落とした。祈りは長く念入りだった。
「猟に出かけている間、この家と家族をお守りくだされ」
オコシップの声は生き生きしていた。
翌朝、ヘンケとオコシップの二人は、野宿の仕度を調《ととの》え勇んで猟に出かけた。猟犬《セタ》のイヨアイ(毒矢という意味)が先になったり後になったりして付いてゆく。イヨアイはエミクとホロケウ(吠える狼という意味)の子だが、家の回りに集まってくる牛馬を追いたてるのが仕事だったから、名前ほどの凄さはなかなか出てこなかった。
「イヨアイは強くなければならないんだ」
オコシップは尻込む猟犬を何度も叱りつけた。しかし少しも強くはならなかった。
「熊の臭いもろくに嗅《か》いでないだもの、仕方のないことだ」
オコシップは勇猛だった昔の猟犬、クンネやシララを思い出して情けなかった。
二人が留真山に入ったのは昼を少し過ぎたころだった。険しく切り立った山肌から、雪の塊が滑るように落ちてくる。ヘンケは昔を思い出すように、ときどき立ち止まっては四方の山々をじっと眺めた。
椴《とど》松林に足を踏み入れて間もなく、ヘンケは迷わずに真っすぐ奥へ奥へと進んでゆく。陽当たりがよく、ところどころ岩肌の剥き出た処に、入り口の塞がっている穴があった。イヨアイが鼻をくんくんさせ、がたがた震え出した。
ヘンケの記憶に間違いはなかったのだ。
「十年前もこうだった」
彼は穴の出口に垂れ下がった氷柱《つらら》を一本へし折った。二人はさっそく仕留める段取りにかかる。まず太い丸太ん棒を二本用意し、それを斜めに交叉させて打ちつけ入口を塞いだ。猟犬は十メートルも離れたところから、きゃんきゃん吠えたてる。
「度胸なし」と怒鳴られても、それを聞き分けることも出来ず、進撃の合図と間違えいっそう激しく吠えたてた。頑丈な丸太ん棒に手をかけて、
「これで大丈夫だ」と、ヘンケは上機嫌に言った。
長い棒を穴のなかに入れると、熊はそれを引っ掻きガオーガオーと怒り狂っている。暗い穴の中に二つの目玉がぎらぎら輝く。棒は狭い穴で生きもののように舞い躍り、熊の巨体はしだいに出口に近づく。
いっぱいに開かれた口の奥が真っ赤に燃え上がっている。その中心に向けてオコシップは続けざまに二発撃ちこんだ。出口に向かって飛び出してきた黒い大きな塊が、交叉した丸太ん棒にどすんとぶち当たった。止どめの一発が喉笛を撃ち砕く。
「でっかいもんだ」
二人の表情は満ち足りていた。
その夜は熊穴の近くに青い松葉を幾重にも積み重ねて野宿したが、冬の山はひと晩じゅうほかほか暖かかった。
翌朝は気持ちよく晴れ上がっていた。オコシップは六里の道程を休みなく歩き続け、曳き馬を連れに家まで戻った。
「金毛を穫《と》ったぞ、でかいもんだ」
オコシップは敷居を跨《また》ぐなり奥の方に叫んだ。彼は湯呑で一杯だけお茶を飲むと、汗を拭い、流れ星に乗って駆け戻った。空《から》の玉橇は飛ぶように走る。山を越え、谷を渡り、森や林を突っ切って走った。
「でかい金毛の熊だぞ」
誰彼なしに彼は馬の上から大声で吹聴した。
ヘンケは山の麓まで熊を転がし、すぐ橇に乗せられるようにして待っていた。
「早いこった」
ヘンケは太陽を見上げたまげている。
汗が馬の体を覆い、湯気がもうもうと立ち昇った。
射止められた熊を見ると、流れ星はびいびい鼻を馴らし前足を突っ張る。ヘンケは曳き綱を十メートルもの長さにしたが、それでも後ろを振り向いて怯えていた。
オコシップが馬の口をとって先頭に立ち、太いロープで金毛を縛りつけた玉橇にはヘンケが付き、下り坂にくると塩梅棒を地面にこすらせて制御した。吹き溜りでも、逆に吹きざらしの道でも橇は順調に滑る。
「玉曳きで鍛えた腕だもの」
オコシップをねぎらうヘンケの眼は輝いていた。
「盛大に祭って、神国へ送ってやるべえ」
だがイヨマンテ(熊送り)は寂しかった。コタンにはもう人影が少なく、エシリが「肉を食べに来い」と触れ回っても、女と子供が時たま覗きにくるだけだった。
「ウンメムケ(頭を戸外の祭場に飾る儀式)をすっど」
ヘンケは皮を剥《は》いだ頭蓋骨《ずがいこつ》をヌササン(戸外の祭場)に飾った。見物人はシュクシュンの女房サロチとシンホイの女房トイナンの二人、それに恐る恐る近寄ってくる四、五人の子供たちだけだ。サロチもトイナンも熊の肉欲しさにやってきたのだ。
「さまざまな儀式は省略させて貰うべえ」
ヘンケは盛り上がらないイヨマンテにがっかりし、自分に言い聞かせるように甲高い声で祈りを捧げた。
「火の神から帰る道順をよく聞き、注意されたことをよく守って、無事に神の国なる御両親のもとへ帰って下さい。そして、神国では神様たちを沢山招き、この席のように賑やかに楽しく酒宴を開いて下さい。また、私達のコタンに今後も沢山の熊を授け、災いや不幸の起こらぬよう、よくお守り下さい」
ヘンケは祈りながら、この言葉を子供のころから数えきれないほど聞き、数えきれないほど口ずさんだものだと思った。しかし、この祈りとは反対に、コタンには不幸や災いがつぎつぎに起こり、同胞はしだいに目の前から消えてゆこうとしている。その最後の生き残りが俺たちなんだ、と彼は思った。
「皮と肉をたくさん背負ってな、ふたたびコタンを訪れるか」
彼はキムンカムイ(熊神)に向かって詰め寄った。
「くるとも、ふんとにくるさ」
突然エシリが立ち上がり、キムンカムイに成り変って言った。
「ずる和人《シヤモ》がアイヌの土地を奪《と》って木を伐り、畑を作って俺たちを山奥へ追いやった。コタンにはいつの間にか人がいなくなり、『霊送り』の場所さえ荒れ果ててしまった。わしはこれから熊神の国へ帰り、たくさんの仲間を連れて、ふたたびコタンを訪れ、賑やかだったアイヌの土地をもういちど取り戻してみせる」
エシリはすっかり熊になりきり、大きな口を開けてずる和人《シヤモ》に噛みつこうとする。子供たちは悲鳴をあげて逃げまどう。
「誰か、斃《たお》れてやれ」と、オコシップが言った。
周吉がエシリの前に転がり、長々と体を伸ばした。
「ずる和人《シヤモ》なら、食われて当然なんだ」と、ヘンケが言った。熊は前足をたててガオーガオーと吠えたて、周吉の体に噛みついた。
「ずる和人《シヤモ》の負けだ」と、ヘンケエカシが大声で叫んだ。
金毛の羆《ひぐま》になったエシリは汗を吹き出し、ヌササンの横に崩れるように倒れると、そのまま大きな鼾《いびき》をかいて寝てしまった。
21
春が来た。十勝川にもポロヌイ峠にも春が来た。日当たりのよい斜面に福寿草が咲き、土手の高みには蕗の|とう《ヽヽ》が葉をひらいた。
浜の方から聞こえていた子供たちの歌声がしだいに近づいてくる。
山田の中の一本足の案山子《かかし》
天気のよいのに蓑笠《みのかさ》つけて
朝から晩まで、ただ立ちどおし
歩けないのか山田の案山子
コタンの中の貧しいアイヌ
雨が降るのに裸になって
朝から晩まで、ただ立ちどおし
着物もないのかコタンのアイヌ
モンスパは頭をかしげて、じっと聞きいる。「何と言った」彼女は一瞬立ち止まったが、跣《はだし》のまま外に飛び出し、「ちきしょうども」と怒鳴り散らした。子供たちは、わっと悲鳴を挙げて逃げてゆく。それを周吉はアオダモの陰から見ていた。集団の中にはアイヌの子供はひとりもいなかった。
彼はこの春から弟の金造といっしょに小学校に通っている。部落に教育所ができ、この辺の子供たちがみんな通い始めたので、周吉たちも入学したのだった。
「アイヌ勘定(アイヌをだます勘定の仕方)は昔のことだ、おじけるでねえぞ」
モンスパが大声で言った。
初めは「アイヌに読み書きはいらん」と、エシリの考えに従って強気なモンスパだった。しかし、辺りの子供たちがぞろぞろ学校へ出かける姿を見ていると、周吉や金造だけが時代に取り残されてしまうように思い、心が疼《うず》いた。
「今の世の中、アイヌぶりだけでは押し通されんわ」
「和人《シヤモ》になれとな」
エシリが目を剥《む》いた。
「アイヌ語ではもう通らんもの」と、モンスパは口の中で呟やくように言う。
「ほう、和人の学校へあがって、和人の生活をして、早くアイヌぶりを忘れろとな」
エシリの髮の毛が逆《さか》立った。
「和人の生活に慣れねえと生きていけねえだよ」
モンスパはエシリの気持ちを思いやって静かに言ったのだが、
「そしたら、和人と結婚せばよかったによ。こんな嫁っこ、もういらんわ」
怒りのあまりエシリは坐ったまま一尺も跳び上がり、額の方まで眼を吊り上げてモンスパを睨んだ。
「違う、違う」
モンスパは頭を振って溢れ出る涙を抑えた。
「何が違うだと」
エシリはいっそういきり立つ。
「畑だって、玉出しだって」
みんな和人《シヤモ》の生活なんだ、と言おうとして声がつまった。モンスパは泣き続けた。
モンスパは兄テツナが和人と結婚してから、姑のエシリにも夫のオコシップにも肩身が狭かった。だからモンスパは何事につけても遠慮がちだった。その彼女が、はじめてエシリに逆らった。げんに、子供たちに和人名をつけ、和人たちのように畑を作り、玉出しをしているではないか。それが駄目だからといって、ほかに暮らす方法がどこにある。モンスパはどうしても周吉たちを学校に入れたかった。
「おら、学校さいぐ」
周吉は、その翌日から金造といっしょに学校に行った。
十勝太の教育所は西田徳太郎が寄付をし、ポロヌイ峠を登り詰めた山の平地に板造りの校舎が建った。敷地の回りには山桜を植え、水は近くの湧水を汲んだ。
先生は六十歳の老人で岩田先生と言った。岩田先生は早く妻を亡くし、長年のやもめ暮らしでくたびれていた。痩《や》せてひょろひょろしていた。
全校生徒十八人、そのなかにアイヌが五人いた。ピリリリと呼び笛が鳴ると、校舎の前に集ってきた生徒たちは、背中をぴんと張って小さい者から順に手を延ばして間隔をとり、きちんと二列に並ぶ。
生徒たちの頭のてっぺんを、桜鳥の群れがキャアキャア鳴いて通りすぎた。谷|間《あ》いを流れる湧き水が滝になって落ちてくる。その音がどっどど、どっどどと腹に響いた。
岩田先生は、「みんな仲よく手をつなぎ、みんな元気でいち、にい、さん」と、歌の文句を口ずさむ。十八人の生徒たちは呼び笛に合わせ、足を胸の辺りまで高くあげ、順々に教室に入ってゆく。
「嫌《や》だ!」
西田農場の小作人、菊村のところの新一が周吉の手を振り払った。それを見ていた岩田先生は節のついた声で「手をつないで」と、やさしく言った。しかし新一は周吉の差し出した手を、こんどは拳骨で叩きつけた。
とっさに周吉は新一に飛びかかった。二人は互いに上になり下になって殴り合った。列が乱れ、二人の周りにはたちまち輪が出来た。岩田先生は、「やめろ、やめんか」と叫び、おどおどしながら輪の周りを走り回った。
最初に鼻血を吹き出したのは新一だった。それを見て和人仲間の男の子たちが周吉に飛びかかり、頭を踏んずけ腹を蹴った。周吉は捩《ね》じ伏せられ、拳骨の乱打を浴びた。
着物は引きちぎられ、体じゅうに傷を負って引っくり返った。わずか二、三分の出来事だったが、和人に圧倒され金造の出番がなかった。
「兄《あん》ちゃ」
金造は引きちぎられて垂れ下がった周吉の着物の裾を結んだ。
「大丈夫だよ」
周吉は紫色に張れ上がった右眼をかすかに開《あ》けた。
「アイヌのお化けだあ!」
女の子たちは周吉を避けて歩いた。
その日、周吉は薄暗い穴の中を逃げ歩いているような一日だったが、家へ帰ってからも気持ちは少しも晴れなかった。
「オコシップも、その父レウカも、負けてめそめそ引き下がらなかったぞ。ここはアイヌモシリ(アイヌの土地)ぞ、どこまでも突っ張れ!」
エシリは周吉の不甲斐なさが情けなかった。
「金造も、それを見てたとな」
エシリは土間をどんと踏み、金造の横っ面《つら》を殴りつけた。ぱしっと鈍い音といっしょに彼はよろめいて頭から土間に倒れた。
「和人《シヤモ》たちはアイヌの肝《きも》を狙ってるだど、ひとり残らず食いつくそうとな」
周吉たちは、吊り上がったエシリの怖い目を上目づかいにちらちら見上げ、がたがた震えながら話を聞いていた。
周吉たちにとって、学校は初めからアイヌ差別をいやというほど思い知らされる場所だった。祖母のエシリが言うように、いつも肝《きも》を狙われていた。
学校では、読み、書き、そろばんのほかに、図画と唱歌とがあった。岩田先生は絵も歌も上手だったので、一日一度は描いたり歌ったりする。
「お互いに相手の顔を描くんだよ」
先生は画用紙を一枚ずつ配って歩いた。
ひとつの机に並んでいる周吉と新一は、互いの顔を描くことになって、いがみ合った。
「嫌《や》だ」
新一は鼻の上に何本も、皺《しわ》を寄せた。
「おらだって嫌《や》だ」
「同じ友達、同じ日本人」
岩田先生は「仲よく力を合わせ、りっぱな日本の国を作ってゆかねばならない」と、宥《なだ》めるように言った。
教室のなかは静まって、一年生も四年生の上級生も、めいめいの顔を描き始めた。
周吉も、かじかんだ指に熱い息を吹きかけては、目、鼻、口を順に描いて行く。のっぺり平たい顔になった。尖《とが》った眼がうまく描けなくて、そこをいじくり回していると、隣の新一の席に集まった仲間たちが、彼の画を見てげらげら笑い出した。手を拍ち、足を踏みならして笑う者もあった。
「そっくりだ――」と、できんぼの寅次が机の上に飛び上がった。
ちらっと、その画を見た周吉の心臓がドキンと鳴った。思ったとおり、それは「犬」の画だ。耳はアイヌ犬のように尖っている。寅次は机の上で「わん」と吠えた。それにつられて仲間たちも、うるさく吠えたてた。
「静かに!」
岩田先生の声は小さく弱々しかったので、騒々しさはなかなか静まらなかった。
「みんな、席について!」
先生はもう一度声を張り上げた。しかしそのとき、周吉は新一に飛びかかって画用紙をもぎとっていた。
毛だらけに描かれた画は、半分が人間で半分が犬の顔だった。
どどどっと打ち寄せる波のように、教室のなかに笑いの渦が何度も湧き起こる。
周吉は隅に積んである薪を手にとると、新一めがけて投げつけた。歓声と悲鳴が轟いたが、周吉は目の前が霞《かす》み、頭の中はぐるぐる回っていた。
気がつくと、彼は素足のままでポロヌイ峠をとぼとぼ下りていた。
「何があった!」
母のモンスパが聞いたが、周吉は口を噤んだまま答えない。
「靴も履かんでな」
モンスパは彼を床《ゆか》の上に引きずり上げた。その手には、ちぎれた画用紙が堅く握られていた。
「誰が描いた!」と、祖母のエシリが髪を逆立てて叫んだ。
「新一が――」
かすかな声だった。
「こうなることは、初めっから分ってたんだ」
エシリは癇癪を起こし、その辺にあるザルや大鉢を蹴飛ばして歩いた。
「おら、もう学校さ行かない」
周吉は泣きじゃくりながら言った。
「当たりめえよ、あんなずる和人《シヤモ》なんか」
脳天に響くエシリのキラキラ声だった。モンスパはエシリの見幕に圧倒され、ただうろうろと歩き回っていた。
「金造も連れてくるべえ」
エシリは興奮したまま、ポロヌイ峠を駈け上がって行く。
学校では、周吉に薪を投げつけられた新一の脛《すね》が腫れ上がって、大騒ぎになっていた。
彼は職員室に寝かされて患部を冷やし、校長先生がつき添っていた。
「野蛮《やばん》なことだ」
岩田先生は眼を尖らせている。
「罰《ばち》が当たったんだい」
エシリも眼を吊り上げた。
二人の話は初めから噛み合わず、互いに相手をなじり合う。新一が痛がって泣いても彼女は謝らなかった。
「犬並にしくさってな、罰当たりが」
エシリはいつもの癖で、だんと床を踏むと、そのまま金造を連れて学校を出た。
「糞《くそ》アイヌ!」
教室の窓から首を出して、子供たちが声を合わせて叫び立てた。
「決して忘れるでねえ。犬ではなく、りっぱな人間だと見せてやれ」
興奮のあまりわなわな震えて話すエシリのことを、金造はいつまでも忘れなかった。
周吉と金造はその日限りで学校を止《や》めた。
22
春がゆらゆら動いていた。オコシップは、この冬最後の玉出しを終えて帰ってきた。原始林の中に埋まっていた浦幌山も、静内山も伐採されて坊主になり、平らなところは耕されて畑になっている。遠くからでも上厚内《かみあつない》や留真《るしん》の山々がはっきり見えた。
オコシップは馬を止めてポロヌイ峠に立ち止まった。雪の融けた原野は黒々と耕地が続き、ぽつんぽつんと農家が建っている。
大津の海には、二、三艘の帆船が停泊していた。
「汽車は釧路から、こっちに向かったと言うぞ」
村田銃を肩にかけたヘンケが、のっそり後ろに立っていた。
釧路からこっちは障害の少ない海岸の平地を走るのだから、線路は二、三年のうちに敷設《ふせつ》できるかもしれない。
「山の獣たちは尻尾を巻いて逃げ出すさ」
「あの馬鹿《ばか》でかい汽笛は、逃げても逃げてもどこまでも追いかけてくるべ」
この辺りの陸地を汽車が通るという話は、もう十年も前から持ち上がっていた。初めの話は釧路から大津を通り、帯広に繋ごうというものだった。
「便利になるぞ、帯広までひとっ飛びだい」
部落の人々はすっかり鉄道づいて、明けても暮れても鉄道の話ばかりだった。
そんな或る日、道庁から役人が乗り込んできて測量を始めた。十勝川河口付近の湿地帯に市街予定地を定め、そこを細かく区切った。
「おらはここだ」
十勝太の大沢漁場に出稼ぎに来ていた和人の太吉が、停車場近くの区画に棒杭を立てた。三日もたたないうちに棒杭が、つぎつぎに増えていった。役人が取り払うと、その翌日にはまた立つのだった。
だが鉄道敷設にみんなが賛成していたわけではなかった。とりわけ地元の大津が反対だった。
「海運業はどうすべえ」
テツナの親方、※[#やまがた(^)の下に「一」](山一)が町内を触れ回った。
「だいいち轟音で魚が海岸に寄りつかなくなる」
漁師たちは酒が入らないのに本気で怒った。汽車が走れば川も海も廃《すた》るというのだから、それで支えられている大津は町じゅうが騒いだ。だから、汽車が十勝太、大津の海岸を通らず、厚内から山に入って浦幌を通ることに決まると、町じゅうが祝い酒に湧きたった。
「驚き、もものき、山椒《さんしよ》の木、ブリキにタヌキに陸蒸気《おかじようき》」と、酔っぱらいたちが道路に引っくり返って歌った。
いつの間にか陸蒸気の騒ぎは収まっていたが、オコシップはヘンケに「汽車は釧路を発った」と聞くと、落ち着かなかった。
「山のような鉄の塊が地響きをたてて突っ走るんだ」
物知りのヘンケが目玉を丸くし、「線路からはみ出して追いかけてくることだってあるかも知れんさ」と驚いてみせた。
汽車がすぐ傍の浦幌まできたのは、釧路を出てからわずか二年後だった。山を崩し、谷を埋め、トンネルを掘り、橋をかけて進んだ。土工夫たちはスコップを揮《ふる》い、モッコを担《かつ》ぎ、泥人形のようになって働いた。
鉄道工事は大津街道の作業より、もっと厳しく苛酷な労働だった。朝早くから日が暮れるまで、何百人という囚人と、雇われてきた大勢の土工夫たちが入り乱れ、蟻のように働いていた。
丸太ん棒を持った棒頭《ぼうがしら》が罵声を張り上げ、棒を振り上げて、容赦なく土工夫たちを叩きつけた。のめるまで働いても、労働は日毎に厳しくなり、弱い者はばたばた倒れていった。
「ひどいもんだ」
付近に住む農家の人々は目を背《そむ》けた。オコシップも猟に出てこんな場面を何度か目撃した。
「この世の地獄だ」
小用でひょっこり草蔭に飛び出してきた老人が、棒頭の目を盗んで言った。気の弱そうな老人だった。
「逃げればいいによ」
「捕《つか》まって殺されるのが落ちだべ」
老人は諦らめている様子だった。
「タコ部屋」と呼ばれる「飯場」が工事現場近くにいくつも建っていた。傷を負った土工夫たちの呻き声が夜通し地鳴りのように響き、朝になると二、三十人も減っていることもあった。
棺に入れて葬られるのはいい方で、ほとんどは筵《むしろ》に丸めて埋葬する。場所がなくなると、死骸の上に新しい死体を重ねて埋めた。
半分掘ったとき、土の中から突然「助けてくれえー」という声がしたが、死体処理係の者たちは慌てて土をかけて逃げ帰ったと言う。
こんな信じられないような話が部落から部落へと伝わり、十勝太にまで聞こえてきた。
「これが和人《やつら》の正体なんだ」
オコシップは、これまで傷めつけられるのはアイヌとばかり思っていた。それが、和人が和人を食う冷酷な仕打ちを、目の当たりに見て唖然とした。これは確かに場所請負人たちの中に巣食っている残忍な血であり、西田の体の中に流れている、あのどす黒い血なのだ。それはひとたび沸騰すると、いつでも、どこでも、やすやすと吹き出す悪魔の血だった。
このころ気候不順で、十勝川は毎年洪水に見舞われた。陸も川も凶作が続き、人々の生活はどん底だった。だが、鉄道工事の雑役を考える者はひとりもいなかった。
この辺りの家では一日二回の食事も、ほとんど水っぽいものだけだった。
「腹が背中にひっつきそうだ」
周吉や金造は、いま食べたばかりなのに空腹を訴えた。
氷がゆるむころには、「もうじき魚が食べれる」と言って騙し、氷が開《あ》くと、「もうすぐ山菜が出る」と言って慰めた。
皮膚がただれて吹き出物ができ、それがいつまでも治らなかった。飛び出た腹と目玉だけがぎらぎら光っていた。
晩秋の凍《しば》れのひどい晩だった。猟犬《セタ》が突然吠えたてて家の周りを回って歩いた。それは怪しい者を追いかけている鳴き声だった。
「牛だな」と、エシリが舌うちをした。牛らしい怪物は家の周りを三度回って戸口の板戸にどすんとぶつかった。
オコシップはガラリと板戸を押し開けた。青い塊が敷居を越えて、ごろんと土間に転げこんだ。
「人間でねえべか?」
エシリは薄暗い灯火《ラツチヤク》の光で、その正体を見届けようと眼を瞠った。
「助けてくろ」と、青い塊が呻くように言った。
「足が凍傷にかかってな」
低い声だ。彼は鉄道工事で働いている囚人だった。
オコシップは逃亡者の襟首をわし掴みにし、ごりごり炉縁まで引きずった。顔じゅう髭だらけで、その中から動物のような瞳だけを、きょろきょろ動かしていた。右の耳がなかった。
「追っ手がくるだにな」と、怯えきった声だ。見つかれば拷問にかけられ殺される。
オコシップは太い楢の木で、内側から何重にも戸締まりをした。それでも逃亡者は不安そうに板戸を睨みつけて戦《おのの》いた。
彼は粥をすすり終ると、奥の方へ這い出した。ここに居坐っている元気もなく、身を隠さねば不安だった。もう六十歳に近く、頬骨の飛び出した男だった。
モンスパが宝物の飾ってある奥の壁際に連れてゆき、|キナ《ヽヽ》(筵《むしろ》)を何枚も掛け、その上に、さらに宝物のシントコやカムイノミの杯《さかずき》を載せた。
「言ってはならんぞ」
エシリは子供たちに固く言い含めた。みんなは息をひそめて入り口を睨んでいた。しかし、追っ手はその晩も翌晩も現われなかった。
「七百人もいるっちゅうにな、ひとりくらい……」と、エシリは呑気なことを言う。
「ひとりだって半分だって見逃《のが》すもんか。棒頭《ぼうがしら》(タコ部屋の監視人)の目は千里眼だど」
今ごろは血眼《ちまなこ》になって探していると、オコシップが言った。
逃亡者はほとんど口を開かなかった。南部盛岡の人で、訛《なま》りのある言葉でたまにポツンと口を開いた。妻殺しの罪で牢屋にぶちこまれ、本州の収監所を転々と回り、去年釧路分監に回されたと言った。
「監房も毎日の作業も、ただもう寒くて寒くて」
彼は話しながら、凍傷の足を抱えるようにして鼻汁をすすりあげた。動くたびに足を包んだハコベの臭いがぷんぷんした。
「効《き》くだど」
エシリが言う。逃亡者は素直に頷ずく。
「釧路まで逃げ、人|混《ご》みの中に紛れ込めばうまいもんだが」
「釧路までは、どこまでも海岸だからな」危《あぶな》いと、モンパスが言った。逃亡者はエシリたちの話を黙って聞いている。
木枯しがぷっぷっと淀みなく原野を吹き渡っていた。空が灰色に曇って、今にも雪がきそうだった。
「棒頭らしいど」
猟に出ていたオコシップが駆け込んできた。
「二人は海岸をこっちに戻ってきた」
山の中から海岸に出た二人は厚内まで追いかけて行き、逃亡者がそこまでは来ていないことを確かめた上で、引き返してきたらしい。
「この辺りが怪しいと踏んで、隅々まで嗅ぎ回って歩くに違いない」と、オコシップが言った。
「ほら」と、エシリが顎をしゃくりあげた。と、逃亡者は蟹みたいに這い出して、隠れ家である宝物置場の中に潜り込んでゆく。
「|やどかり《ヽヽヽヽ》みたいだ」と言って、子供たちが喜んだ。わずかひと呼吸の間に、逃亡者の姿はあとかたもなく消え失せた。
「おら、なんも知らない」と、周吉が言った。
「おらだって」と、金造も言った。
追っ手が踏み込んできたのは、それから間もなくだった。髭面で眼の吊り上がった大男と、キナンボ(海の動物)のように太った赤ら顔をした男の二人で、彼らは自分の背丈くらいの棒を携え、浜の方から真っすぐ向かってきた。
「囚人をかくまってないか、右耳のない、本田という男だ」
家の中の隅々まで、舐め回すようにして大男が言った。
「囚人だと、とんでもねえ」
オコシップは男たちを睨みつけた。村田銃の筒先は男たちを狙って、どこまでもついて歩いた。
「何するべ」
髭面の男が筒先を振り払おうとしたが、オコシップは応じなかった。
「奥の祭壇を汚す者は、今、この目の前で脇っ腹にぶち込んでやる」
「ただ覗くだけだよ」と、赤ら顔の男が言った。オコシップは筒先をその男の顔に定めた。男は頭を振り、奥の方をひとわたり眺めただけで引き退《さ》がった。
「赤豚ども」
棒頭たちが敷居を跨ぐなり、その足もとにがっと唾を吐き捨てた。
それから一週間ほどして雪がきた。そして、十勝川に厚い氷の橋がかかった。鉄道工事の「タコ部屋」では囚人たちが飢えと寒さで毎日五人十人と斃《たお》れてゆくという噂が、この界隈に広がっていた。
「難所がいくらあっても、生き埋めにする人柱には不足はねえな」
「ぼやぼやしとられんな」
シンホイとシュクシュンがひそひそ話している。
その日は朝から粉雪がちらついていた。
「厚内まで連れてってやっからな、その先は渚から離れて山際をゆけばええ」
本田の足はもうすっかりよくなっていた。かれはオコシップのボロ服をまとい、ツマゴ(藁でつくった履物)を履き、干物《ひもの》やウバユリダンゴの入った風呂敷包みを肩にかけて家を出た。オコシップは愛用の鉄砲を携えていた。
「棒頭《やつら》はしぶといからな、危いと思ったら岩陰に逃げ込んで何時間でも動くな」
エシリが本田の背中に叫び立てた。
オコシップの家では、それからしばらくの間、本田の話が絶えなかった。
「うまく盛岡に帰れればええけどな」
その話の後は、いつもクンツでクナシリに連れてゆかれた父レウカの話になった。
「帰って、ひと目故郷を見たかったんだよ」
エシリはレウカを刺し殺した和人どもを罵しり、レウカを渚から引き上げ、祖父の傍に葬ってくれた根室の親切な老人に手を合わせ、新しい涙を流した。
年が明けて、釧路・富良野間の鉄路開通は間近かに迫っていた。人員は増員され、作業は日夜ぶっ通しで行なわれた。
「うまく逃げ延びたらしいど」
逃亡者の本田が捕まっていれば、噂にのぼるはずだった。
「あれから二年の歳月が流れていた――」
ユーカラ(神謡)風に、エシリは歌い出した。これが「よたよた逃亡記」の始まりなのだ。
「釧路は、ぬさまい橋のたもと、追っ手と本田さんがばったり出会った。
『こら、おめえは豊頃《とよころ》の「タコ部屋」から逃げ出した本田だな』
『とんでもねえ、旦那さん。あっしは旅から旅を渡り歩いている、うらぶれた旅芸人でございます』
『ほう、それは面白い。ひとつ何か聞かせてもらおう』
追っ手の『赤豚』が身を乗り出す。
『名づけて「よたよた逃亡記」と申します』――」
エシリは、本田が「タコ部屋」を逃げ出してから盛岡に着き、殺した妻の墓参りをするまでのことを、ヤイサマネナ(即興歌)の節廻しで歌った。
「うまいもんだ」と、モンスパが感心した。
二人は逃げ延びてゆく本田の味方になり、元気に歌っては笑い転げた。
23
轟音を響かせ真っ黒い煙を吹き上げて、十勝平野を汽車が走った。
昼も夜も、雨の日も風の日も、地響きをたてて突っ走る。
ポロヌイ峠からでも汽車の煙は眺められるが、十勝太の人たちは汽車を見るためにわざわざ下頃部《したころべ》駅まで出かけた。
陸蒸気が走り出して、世の中が変った。
木材の輸送が川から汽車に変わり、どこの駅からも山のように材木が積み込まれた。畑で穫れた作物や木炭なども駅に集まった。
やがて、大津では鉄道の枕木が製造されて輸出され、またマッチの製軸工場などが建ち並んで賑わった。
働き口のなかったアイヌたちも、男は一日六十銭、女は三十銭でつぎつぎに仕事についた。
オコシップは木材の需要が増えたために、夏でも山に働きに出かけた。こんどは深い谷底ではなく、平坦な山だった。原木は、楢、柏、どろやなぎ、榛など、山じゅうの木が必要だった。
オコシップは底の平たい土橇に、山ほどの木を積んで馬を駆った。彼は朝早く、日の昇らないうちに出かけ、とっぷり日が暮れてから帰ってくる。
秣《まぐさ》の支度は周吉や金造の仕事だった。夏は青草を刈ってきて、押し切りで細かく切り、それに燕麦を混ぜて飼葉《かいば》にする。
「馬のおかげなんだよ」と言って、エシリがオコシップを迎えた。馬がなければマッチ工場で、一日六十銭の賃金に甘んじなければならないのだ。金が大事だった。金さえあれば根室まで行ってレウカの墓参りもできるし、カロナを医者にも診てもらえるし、いい暮らしもできる。
汽車が走り出してから、コタンはすっかり和人《シヤモ》社会に変ってしまった。汽車の勢いは、そのまま和人の力だった。まず自給自足だったアイヌたちの食糧や着物が変った。
食べ物は粟・米が主食となり、おひょうの木が伐られたので着る物は木綿になった。トッカリ油を使っていた灯火《ラツチヤク》がランプになり、鹿皮のケリ(履物)が藁で作った|つまご《ヽヽヽ》や|わらじ《ヽヽヽ》になった。
漁場から漁場を渡り歩いていた漁夫たちは、安住の地を求め、十勝川の河口に住みついた。わずか一、二年の間に十戸の家が建ち、開拓農家も増えた。西田徳太郎の小作だけでも五軒になった。
「岩手では祭りは盛大だった」
西田徳太郎は馬頭観音を祀り、故郷の祭りを持ってきた。
秋祭りには宮相撲があり、草競馬があって賑わうので、子供たちは指折りかぞえて待った。
「今年は草競馬に出てみる」と、オコシップが突然言った。彼は祭りを拒み続けてきたが、子供たちにせがまれて出てみる気になったのだ。
「新一んとこに負けてたまるか」
周吉はいつもより燕麦を一椀多く与えた。
「負けるもんか」
金造も流れ星の体にブラシをかけたり、軽く走らせたりした。
「ペルだから足が遅いんだよ」と、モンスパが言った。
秋晴れの爽《さわや》かな日だった。朝早くから厚内、音別、大津などから競走馬がつめかけて来ていた。曲乗りで名の通った梅田老人がサーカスのような赤や黄色の恰好で観衆の前に現われ、馬の上で逆立ちの芸を見せ喝采を浴びていた。
どこまでも続く草原には、楕円形に白い木柵が張りめぐらされ、競走馬たちが最後の調整に励んでいる。ほとんどの騎手は色のついた競馬服を着ているが、なかにはオコシップのように半纏にねじり鉢巻の男もいた。
「服を買えばいいのに」
周吉は金造たちと柵に登って、もう二時間も眺めていた。
お宮参りをすませた人たちが競馬場の方に集まってくる。どこから持ってきたのか、西田のところの牧夫、常蔵がスタートのところでラッパを吹き鳴らした。始まりの合図だ。
スタート地点の中央には西田徳太郎が坐り、その周りには小作人の菊村、村田、古山、岩間たちが西田を取り囲むように坐っている。
競馬はスピードを競うものから始まった。スタートを知らせる男が、赤い旗を持って柳の木に登ってゆく。
馴れない馬たちが落着きなく動き回るので、騎手はしきりに鞭を打ち鳴らし、出走を待った。
赤い旗が振り下ろされた。馬たちは、いっせいに駆け出したが、二、三〇メートル走って立ち止まったり引き返す馬もいたので、観衆は喜んで騒ぎたてた。
疾走する馬たちはカーブを回り、第三コーナーに差し掛かる。先頭は西田の牧夫イホレアンだ。若いときから鍛えた腕は飛び抜けている。
果たしてイホレアンが最初に決勝点を駆けぬけ、歓声が原野に響き渡った。西田が飛び出してゆき、手を握って優勝をねぎらっている。彼は上機嫌だった。
レースは何度もおこなわれたが、西田の馬はそのたびに出場し、騎手たちは観衆の拍手に迎えられて有頂天である。
「親方の馬なのにな」
不満そうに金造が言った。
「アイヌはいつも煽《おだ》てられて、ただでこき使われてんだよ」
周吉は合槌をうつ。
「アイヌの馬は一頭もないもんな」と、金造がぼやく。だから父親、オコシップの出番が待ち遠しいのだ。
原野にラッパが鳴り響いた。いよいよ車曳きの始まりである。周吉たちは胸がどきどきした。二人は柵のいちばん上に立ち上がった。
「ながれぼし!」と、金造が叫んだ。「流れ星」は燕麦を三椀も食べたので元気だった。
馬橇を曳いた「流れ星」は、最初から早かった。そのすぐ後には馬車を曳いた栗毛が続き、五頭がひとかたまりになって犇《ひしめ》いている。その後ろに菊村がいた。
地盤が凸凹なので馬車の車はぐらぐら揺れ動く。馬橇は草の上を滑って軽快だったが、後半になると滑る橇よりは回る車の方がやはり早かった。
「不公平だな」と、金造が口を尖らせた。
「馬車を借りてくればよかったのにな」
馬たちは最後のカーブにさしかかっていた。流れ星の横にするするっと馬車が出てきた。その馭者の手綱が流れ星の曳く橇の先に絡まった。半纏を着た馭者が飛び下りると、いきなり流れ星の首に抱きついた。
オコシップもすかさず飛び下りると、大声で叫びながら馭者に飛びかかった。二人は組み合ったまま草藪の中をごろごろ転がった。
先頭の馬はすでに決勝点を通り抜けていたが、そちらには誰ひとり目を向けない。
オコシップの喧嘩相手は小作人の菊村だった。
「目っかちだから前方が見《め》えねえだよ」
誰かが叫んだ。
「前方を塞いだのは菊村だあ」と周吉は力いっぱい叫んだが、誰も聞いてはいなかった。
「糞《くそ》アイヌ!」と、菊村の伜、新一が柵の上から叫び返した。
ほんの一分間で喧嘩は終った。馬たちは木柵の縁の方をのろのろ帰ってくる。オコシップも流れ星も怪我はなかった。
「邪魔をしておいて、相手の馬を止めるなんてとんでもねえ」
ヘンケエカシがぶつぶつ言った。
「やっぱり馬車でなけりゃ駄目だ」
オコシップはひと言いっただけで、あとはむっつりしていた。周吉と金造が替わり番こに馬を駆って家に帰った。
「どうだった?」
窓から顔を出してモンスパが聞いた。
「決勝点まで辿り着かないうちに終ったんだよ」と、ヘンケが言った。オコシップは相変らず気難かしい顔をしている。
祭り酒は苦《にが》い酒になった。
「和人《シヤモ》の祭りはいつから始まったんだ」と、オコシップは聞いた。誰も返事をしないでいると、
「宮相撲や草競馬は誰が始めたんだ」と、こんどは家じゅうに響く声で聞いた。
「汽車が走る前だから、もう五年も前だ。無論、西田の音頭で始まったんだよ」
ヘンケは、早くもほろ酔いだった。
「アイヌの秋味まつりや、ペカンペ祭りはどしたべ」
エシリは和人にうち壊された今の世の中が情けなかった。昔は十勝川の岸や、トイトッキ沼の辺《ほと》りでカムイノミ(神への祈り)をし、踊って歌って楽しんだものだった。
「さ、飲め飲め、月が落ちるまで」
神火を燃やし、祭りは夜半まで続く。
それがいつのまにか和人の祭りに変り、アイヌたちはコタンの隅に押しやられてしまった。
「こんな祭り」
吐き捨てるように、エシリは言った。
戸外は秋晴れの天気で、競馬を応援する歓声が押し寄せてくる波のように、何度も何度も湧き起こった。
その歓声がいちだんと高まったとき、「曲乗りだな」と浮かれたように金造が言った。曲乗りには立ち乗りや逆立ち乗りがある。今ごろは音別からきた梅田老人の名演技が披露されているに違いなかった。
「おら見に行かない」
「おらだって」
家の中ではエシリの悪態がまだ続いていた。
「岩手のずるシャモが、よくもどん底まで追い詰めてくれたもんだわ」
「いっそ殺せばええによ」
「あんな奴らに殺《や》られてたまるか」
エシリは投げやりに言うモンスパを睨んだ。
「和人の祭りでなくてな、カムイチップ祭りにすべえ」
エシリは男たちのコップに濁酒を注いだ。
袋の口が開いて、カムイチップが
天から降りてくる
ホイ、ホイ、ホイ、ホイ、降りてくる
エシリとモンスパが炉縁をとんとん叩き、体で拍子をとりながら歌う。
だが、オコシップもヘンケエカシも、祭り酒が終るまでとうとう元気が出なかった。
24
秋祭りが終って、間もなく木枯しが吹き始めた。ひょうひょうと唸りをたてる風にのって汽笛が聞こえてくる。その音を、耳をそばだてて聞いていたオコシップが「獣の悲鳴だ」と言う。
「餌《えさ》を奪われ、棲処《すみか》もとられた獣たちのな」
そればかりではない。汽車の出現は大津の人々にとって大きな打撃だった。川の運送業者たちはあまり影響はない、と高をくくっていた。それが、一年目の輸送は三分の一に減り、二年目になると、さらにその半分になった。
まず海の定期船が廃止になり、それから半年ほどすると川の定期便も止まった。しかし、短距離の輸送には船を使い、いつも川船が上下していた。
汽車はその川船を尻目に、原野を駆ける巨大な熊のように荒々しく突っ走る。曲がりくねった十勝川の鉄橋をいくつも渡り、トンネルを突き抜け、黒い煙を吹き上げて突っ走った。
畑で働く人々は腰を伸ばし、その迫力を頼もしげに眺めた。しかし、オコシップの眼には、それが我がもの顔にのさばる和人たちの横暴な姿そのものに映った。汽車は開拓の先駆のようであり、鳴り響く汽笛はアイヌを打ちのめした勝閧《かちどき》のようにも聞こえた。
「のさばりくさって」
オコシップは、がっと唾を吐いた。
「誰のこった」
エシリが聞いた。
「陸蒸気よ」
「汽車に腹ば立ててどうすべえ」
母子は力なく笑った。
「陸蒸気のためにな、首にはなるし家は追われるし」
定期船の船頭をやめ、十勝太に帰ってきていたモンスパの兄テツナが横から口を入れた。
「兄妹そろって仲よく暮らせばええべ」
エシリは愛想よく言った。
テツナの家族は一週間ほど前から、エシリの家にいっしょに住んでいた。
エシリは家を建ててもらってからも、ほとんどオコシップの方にきていた。だから、テツナたちは、すんなりエシリの家に住むことになったのだ。
「鉄砲が撃てるか?」と、オコシップが聞いた。
「やったことはねえもの」
テツナは首を振った。
「密漁は?」
「いや」
「これからは甘《あめ》え暮らしではねえど」
オコシップの片目が吊り上がる。テツナは観念したように素直に頷ずいた。
しかし躓《つまず》きは早く訪れた。テツナの女房のフミが長男の重吉をどうしても学校へ上げると言い張った。
「和人の学校へ上げてどうする」
エシリは正面から頑強に立ち向かった。
「陸蒸気の走る時代なんだよ」
フミも負けてはいない。
「いまどき、白糠、釧路まで歩く人はひとりもねえだ。和人《シヤモ》を毛嫌いしてては、ますます馬鹿にされるわ」
「居候のくせして!」
とうとう、こんな言葉まで飛び出し、泥沼にはまり込んでしまった。
「居候で悪けりゃ、いつでも出ていくさ」
いつの間にか、子供の喧嘩になっていた。
「テツナが何というか」
モンスパは話を前に戻した。
「きまってるさ」
フミはきっぱり言った。
「どうきまってんだい」
エシリは荒っぽく突っかかったが、
「取り残されてな、泣き面かくのはもうごめんなんだよ」
テツナはフミより、もっと意志が固かった。彼はその日の夕方学校へ出かけ、入学の手続きを済ませた。
腹をたてたエシリは炉縁に置いてあった木盆をいきなり蹴とばした。それは囲炉裏の上を真っすぐ飛び、周吉の背中にぶつかって止まった。
「痛いっ」
彼は背中を丸め、「う、う、う」と呻くと、大声をあげて泣きだした。
「和人《シヤモ》に負けるど」
エシリは周吉の背中に手をあてて言う。
「罪もないのに」
モンスパは尖った眼でエシリを睨んだ。内心、学校はモンスパも賛成だった。周吉たちを宥《なだ》めて、もう一度学校へ通わせたいと思っていた。
このごろは何もかもうまくゆかないので、エシリはやけくそだった。夏山へ材木運搬に出ているオコシップの働きも賃金の不払いがあったり、高齢《とし》のせいか腰痛で思うようには体が動かなかった。
そのうえ、テツナの長男、重吉の学校問題では完全に無視されてしまったのだ。
「二、三年前まで、こんなことはなかったのに」
しだいに退《の》け者にされてゆく自分が情けなかった。
「どこを見ても和人《シヤモ》だらけだ。ほんとに和人の世の中になってしまったんか」
エシリは口に出して言った。それでも実感として納得できなかった。
「それを納得するのは、もう終わりのときなんだ」と、自分に言い聞かせた。
「死ぬまで降参なんかするもんか」
エシリはどす黒い歯ぐきを剥き出して笑った。
大津の港町は年々衰え、それに代わって停車場が次第に膨らんでいた。雑穀の俵や材木が駅の構内に堆《うずたか》く積まれ、搬送係が忙しく動き回っている。そのなかの半分はアイヌたちで、テツナもその一人だった。
「汽車ばくさしたって、これで日金《ひがね》が入るだから有難い」と、フミが言う。
エシリはそのことを百も承知のうえで歯向かってゆく。
「なにが汽車だ!」
ちょうど重吉とその弟の良三が汽車の真似をし、ズボンのベルトを掴んで、「シュッポ、シュッポ」と、家の中へ飛び込んできた。
「ババを馬鹿にしくさってな」
エシリは重吉たちを取り押さえようと、炉縁を走り回った。汽車は早くてなかなか捕まらないものだから、エシリはくるりと後向きになった。その途端に、速力のついていた汽車と正面衝突し、エシリは「ぐう」と潰れた音を出して引っくり返ってしまった。
「脱線だあ」
腹を押さえたまま、それでもエシリは重吉たちを見上げ強がりを言った。
汽車はよく脱線事故を起こした。
「生埋《いきう》めの祟《たた》りよ」
エシリはぶるんと体を震わせ、「悪魔ども!」と叫ぶと、重吉たちに向かって、「そんな、悪いやつらの味方か」と訊く。
念を押され、子供たちは声がつまった。
脱線はコタノロ付近で多かった。
雨の降りしきる闇夜など、囚人服の亡霊が大勢集まり呻くような声で線路を持ち上げていた、という噂が広まった。
汽車はコタノロ付近を徐行するようになったが、それでも時々脱線し、乗客が犠牲になることもあった。
「ほら、きた!」と、エシリがどんと床を蹴ると、重吉たちは悲鳴をあげて外へ飛び出して行った。しかし、すぐ引き返してくると戸口から覗いて、「お化け!」と叫んだ。入れ墨のあるエシリを「お化け」と言ったのは、これが初めてではなかった。
「なんということを」
母親のフミが子供たちを叱りつけた。はじめから、重吉たちはエシリには馴染まなかった。
「周吉、和人びいきの重吉たちに負けてならんど」
祖母は眼を吊り上げて言った。
雪虫のきそうな風の凪《な》いだ日だった。
「熊が勝つか、陸蒸気が勝つか、どら降参相撲ばとって見れ」
エシリは、家の裏の砂浜に足を引きずるようにして、丸い輪を描いた。
「倒れるまでやって、決着をつけれ!」と、エシリが言った。降参相撲は相手が「降参」というまで続けるのだ。
「同じアイヌだによ」
モンスパとフミは反対したが、エシリ婆さんは止めようとはしなかった。周吉は重吉より三つも齢《とし》うえで体格もまさっている。勝負は初めから決まっていた。
「待った」と、フミが手を広げて中に割って入った。
「何するべ」と、エシリが口を尖らした。
「どうかしてるわ」こんどはモンスパが土俵の中から周吉を引っぱり出した。子供たちはきょとんとしていた。
「もう少しで熊が勝つところだったによ。おめえらのために何もかもぐじゃぐじゃだい」
情けなや、不憫やな
上厚内《かみあつない》のトンネルを出たところで
陸蒸気《おかじようき》にはねられて熊が死んだ
情けなや、不憫やな
コタノロ付近の湿地帯で
陸蒸気に轢《ひ》かれて熊が死んだ
エシリはついこの間の轢死《れきし》事故のことを思い出しているみたいだった。彼女は土俵の真ん中に腰を落として歌っていたが、やがて頭を垂れ、声をあげて泣き出した。おいおい子供のように涙もふかずに泣いた。
「婆ちゃは耄碌《もうろく》したんだよ」
フミがモンスパに低い声で言ったのだが、
「耄碌だと、とんでもない。小さいことから大きなことまで、何ひとつ忘れるもんかい」
いま泣いたエシリはぶりぶり怒り、土俵をどんと踏んだ。
「お上《かみ》の命令だからと言ってな、男を漁場に追い出しておいて、女たちをかたっぱしから身籠《みごも》らせて捨てた和人の罪はどうなるんだい。何もかも忘れろってな」
エシリは「肝がやける」と言って、また泣いた。
エシリはこのごろめっきり弱っていた。神経痛に悩まされて足腰が痛く、床の中にいることがしばしばだった。和人を罵《のの》しる口ほどには元気がなく、しだいに萎《な》えてゆく自分が悔しかった。
「さんざ和人に痛めつけられて、このまま死ねとな」
「誰もそんなこと」
モンスパが慌ててエシリの言葉を遮《さえぎ》った。
「ええんだよ、わしらの時代はもうとっくに終ったというのに、どうしても諦めがつかなくて」
エシリは炉縁にべったり腰を落とし、子供みたいに泣きじゃくった。
ちょうど下頃部《したころべ》の停車場の方から汽笛が聞こえてきた。このころは朝から強い西風が多かったので、一日じゅうよく聞こえる。そのたびにエシリは顔をしかめた。原野の穂波がどこまでも揺れ、その向こうにカンカンビラが褐色に光っていた。雁が渡り雪虫がきて、冬が近かった。
25
春から夏にかけて、十勝の沿岸は濃霧の季節である。朝からじとじと霧が降り、海霧《じり》が降り、雨が降る。そんな日が幾日も続き、一週間も太陽の光を見ないことがあった。畑作の発育はよくないが、牧草や雑草はよく伸びる。牛馬の餌はいくらでもあった。明治の初めに岩手から来た西田牧場をはじめ、その後入殖した土田牧場、木村牧場、中川牧場はどんどん大きくなっていった。
「西田んとこでは、豚三百、馬二百、牛二百はいるな」
「それに土田や中川んとこのを合わせると、何千頭という数だ」
年中放牧だから、山も野もコタンもどこを見ても家畜だらけだった。三年か五年に一度は大雪がきてかなり打撃を受けるが、それでも牛馬は増え続けた。
春と秋の二回、浦幌《うらほろ》、池田《いけだ》、大楽毛《おたのしけ》には大きな馬市が立って賑わった。馬耕でも運搬でも何でも馬を使っていたから、いい馬でも悪い馬でも品質に関係なく飛ぶように売れていった。親方たちは鼻息が荒かった。
「まだまだ増やしてみせるべえ」
牧夫頭のイホレアンが、親方の西田みたいな口をきいた。
「鹿で埋まってた山が、たった三十年の間にな」
オコシップは苦々《にがにが》しく言ったが、イホレアンの耳には届かなかった。
「種馬をもう一頭増やせば、妊娠率はもっとよくなるによ」
放牧馬の集団の中にはいつも種馬が入っていて、発情期には山野を忙しく駆け回った。自然に妊《はら》み自然に産むのだが、牝馬《ひんば》の数が多いのでつい取りこぼしてしまう牝馬があった。
「何百頭という沢山の数だ、その中にたった一頭だけ紛れ込ませてもらうべえ」
イホレアンの話を聞きながら、オコシップは思った。
「流れ星」は発情《ふけ》がきていた。
「もうすぐだからな」
オコシップは言い含めるように言って、流れ星の長い顔を撫《な》でた。あたりは夕靄《ゆうもや》に包まれていたが、もっと薄暗くなった方が誰にも見られないと思った。
種馬は河口近くの丘陵にいた。馬追い鳥がケッケッケッと舌打ちのように鳴いて通った。オコシップは流れ星に乗って丘陵に登り、背の低い柏林の中で機《とき》を待った。
種馬には先客がいた。彼は頭を牝馬にこすりつけ、唇を尖らせ天を仰いで笑うような仕種《しぐさ》をした。そんなことを二、三度繰り返してから後足で立ち上がると、そのまま雌馬に乗っかっていった。黒い影絵のようにはっきり見える。
種馬は馴れていた。雌馬はふらついたが、種馬は前足でふらつく体をはさんで固定した。ずい分長く思われたが、終ったとき、長大な性器といっしょに白い水がどっと溢れ出た。
「もったいない」と、オコシップは溜息のように言った。
順番がきた。オコシップは流れ星を巨大な種馬に近づけた。互いに匂いを嗅《か》ぎ合い、しばらく睦《むつ》み合った。雄と雌は何もかも順調だった。性器が入ってゆくのを確かめてから、
「もっと深く、もっと長く」と、オコシップは種馬の尻を軽く叩きながらいっしんに願った。
「流れ星が子を孕《はら》んだぞ」
オコシップは家の中に駆け込むなり大声で言った。
「ほんとけえ」
こう言ったまま、エシリもモンスパもすっかり気が昂《たかぷ》って声も出せないでいる。一頭が二頭になり、やがてその子が子を産むとすれば十頭も夢ではない。エシリはもうじっとしていることが出来ず、コタンじゅうに知らせた。
「流れ星が子を産むぞ」
初めにシンホイの家の前で叫んだ。
シュクシュンの家がすぐ隣りだったので、女房のサロチとトイナンがいっしょに窓から顔を出した。
「流れ星って、犬だべ」と、トイナンが聞いた。
「馬のこった」
エシリはがっかりして言った。
「馬なら、その辺にうようよしてるべ」
「馬の値打ちが分ってねえだ」
エシリは喉の奥で呟やくように言ったが、和人の持ち物を手に入れて喜んでいる自分に気づくと、こそこそとその場を立ち去った。
とぼとぼ家の方へ歩きながら、そのときによって心の変る自分が分らなかった。帰り道、ハルアンならこのうれしい気持ちを分ってくれるような気がして立ち寄った。
「流れ星が子を産むぞ」
思いきって大声で叫んだ。ハルアンはもう八十を過ぎた老婆だが、まだまだ達者で川を攻めている。ところが風邪をこじらせて一週間ほど前から寝込んでいた。
「中さ入れ」と、家の中からかすかな声がした。ハルアンは寝床の上に横になっていた。
「めでたいこった」と、ハルアンは言った。
彼女は早く夫を亡くしてから、やもめ暮らしをしていたが、始末《しまつ》がよくコタンでも物知りで通っていた。
[#ここから1字下げ][#ここで字下げ終わり]
お上《かみ》からもらった土地は、ひどい湿地だったが
エシリたちはゴムのようにしぶとい茅原を耕し
朝早くから夜遅くまで身を粉にして働いた
その甲斐あって、お上《かみ》から褒美に
馬をただみたいな値段で譲《ゆず》ってもらった
その利口な馬の名は流れ星といったが
このたび神様の恵みで元気な仔馬がさずかった
ありがたいことだ、めでたいことだ
[#ここで字下げ終わり]
ハルアンは寝床の中で歌った。エシリは「元気な仔馬がさずかった」という、ハルアンの歌にすっかり感激して、手を叩いて拍子をとった。
「この冬の飼い葉だけは、沢山貯《たくわ》えておいた方がええぞ」と、ハルアンが言った。
流れ星は妊娠してから、とても元気だった。山の仕事もいつもと同じように、朝早くから夜遅くまで働いた。
冬になると、腹の膨らみが目立った。
「大事にせんとな」
エシリとモンスパは、飼い葉の世話を周吉たちに任せておけずに手をかけた。飼い葉は蒸して柔らかくして与え、水はぬるま湯にして飲ませた。
年が明けて間もなく、近年にない大雪がこの辺り一帯を襲った。雪は一週間も降り続いて屋根の廂《ひさし》まで届いた。
「鹿が全滅した年とそっくりだわ」と、人々は言った。もう三十年も前のことだったが、鹿の被害は五万頭とも七万頭とも言われた。
「空の底が抜けたみたいだ」と、みんなが言った。雪はなお降り続いた。弱い家の屋根は潰《つぶ》れ、低い家の屋根は埋まった。
アイヌの人たちはウパスカムイ(雪の神)を呼び出して、
「もういい加減に降り止めて下さい。わたしどもは、あなたたちのお力で雪を降らせて貰い、狐や兎をコタンに追い出してくれることを感謝しているのですから」と祈った。
しかし、雪はその翌日もそのまた翌日も降った。
大雪の前兆は秋口からあった。雨が少なく雪虫がどっと来た。
「ハルアンのいう通り、飼い葉を沢山|貯《たくわ》えたんだよ」
エシリとモンスパは降りしきる雪を見上げ、同じことを何度も言って喜んだ。
何百頭という馬や牛たちは山の深い雪の中で立ち往生した。馬たちは雪を掘って掘って、蹄のつけ根から血を吹き出した。弱い牛馬たちはばたばたと斃《たお》れた。
西田牧場では朝早くから草を橇に積んで山に運んだ。しかし、いくら運んでも間に合わなかった。食べる口が多すぎるのだ。そのうちに草が底をついた。
「そこらじゅう走り回って草をかき集めろ、いくら高値でもええ」
西田は雪の中に立って狂ったように叫んだ。だが、どこにも飼い葉の余裕はなかった。草がないと分ると、彼は大津へ飛んで行って人夫をたくさんかき集めてきた。雪を掻き除いて笹を掘り出すのだ。
近い山にいた馬や牛たちは除雪して山から下げ、家の周りの牧柵に集めて飼い、山奥の牛馬はそのままま山に残して、掘り出した笹で命をつないだ。
しかし、飢えた家畜たちは一時間もかけて掘りだした笹を、ひとなめに食べつくした。牛馬は日に日に痩《や》せ衰《おとろ》え、除雪した跡を揺れるように歩いた。目は落ち窪み、肩や尻の骨が尖《とが》っていて、嘶《いなな》く力もなかった。
凍《しば》れが強く木の枝に霜の花がきらきら光っていた。
オコシップは村田銃を持って猟に出た。雪が深いのでカンジキを履き、背丈より長い杖を持っていた。彼は兎や狐の足跡が縦横に走っている中をどんどん歩いてゆく。山の登り口にも山の中にも馬の亡骸《なきがら》が転がっていた。どれもみんな腹が太鼓みたいに膨れている。
「ひどいもんだ」
オコシップは立ち止まってまじまじと見た。亡骸の中には狐に腹を食いちぎられ、内臓をひっぱり出されて食われたものもあった。
山深く入ると、烏の群れが飛び立って、亡骸はいっそう増えてきた。雪除けの人夫たちが木の根っ株に腰を下ろして休んでいた。その中に西田もいた。
「目ばほじくられてな」
オコシップは牧夫や人夫に囲まれた西田に向かって言った。烏に目をほじくられた鹿毛馬が西田の前に転がっていた。
「西田、この眼はどうしたべえ」と訊《き》いた。西田は呼び捨てにされて、かっとなったらしく、すっくと立つと、そのままオコシップの方に歩いてくる。
「やるか」と、オコシップは言って村田銃を構えた。西田は止まった。
「おらのいい目と取り替えてやりたいくらいだ」
オコシップはにっと笑い、西田の前を悠々と通りすぎた。
空は雲ひとつなく晴れ渡っていた。しかし、空とは反対に地上は見るも無惨な光景だった。
藪の中に親子馬がいた。そこはブドウとコクワの蔓《つる》に覆われていて、しかも凹んだ谷|間《あ》いだった。親馬はすでにこと切れていたが、仔馬はまだ生きていて親の乳をしゃぶっていた。オコシップが蔓をかき分けて中を覗くと、仔馬は振り向いて、「ごほ、ごほ、ごほ」と力なく鳴いた。
「いま、助けてやっど」
オコシップはこう言い残して、今きた道を引き返した。人夫たちの見えるところまできて、
「ポン沢の入り口に仔馬《とねつこ》が生きてるぞおー」
山びこが長く撥ね返った。オコシップは歩きながら、「たわいのないこった」と呟やく。西田がアイヌを使い三十年もかけて増やした牛馬が、いま雪の中にばたばた斃《たお》れてゆく。西田はアイヌをただのように使い、年中放牧というただのようなやり方でボロい儲けをしてきた。濡《ぬ》れ手に泡だった。それが祟ったのだ。
「当然の報《むく》いよ」
オコシップは無残な山を一日じゅう歩き回り、兎と山鳥を撃って、夕方家に帰った。
凄《すさ》まじい馬たちの生きざまは、二月に入っていっそう残酷に現われた。それは二月になって雪が固くなったことと、馬たちを血統のいい馬と雑種に二分したことだった。生き残った馬全部を養うだけの秣《まぐさ》はなかった。
「限られた秣だにな、仕方のないことだ」
西田は疲れ果てていた。
新冠《にいかつぷ》まで行って買ってきた洋種、アラブ、サラブ、トロッター、ハクニーなど良馬のためには、風の当たらない山陰の日なたに居場所が作られた。雪を除け、沢から樋《とい》で水を通した。雪の中の楽園だった。ここに二十頭の馬が送り込まれた。
雨まじりの雪が降っていた。山の急斜面に屯《たむ》ろしていた馬の一団があった。逞《たくま》しい重種(輓馬《ひきうま》)のペルショロン、それに中間種のアングロノルマンである。彼らは草の匂いを嗅ぎつけて険しい山を登り、やわ雪を漕ぎ、蛙のように跳んで、山の裏側から楽園を襲ったのだ。
|たてがみ《ヽヽヽヽ》を振り乱して雪崩れ込んできたペル種たちは、まず草を食べつくし、それから馬たちを追いかけて首筋に噛みつき、雪の中に引きずり倒した。噛みついたり、蹴ったり、前足で叩きつけたりした。痩せ細ったひ弱な馬たちは、雪の上に倒れたまま立ち上がれずに、ひーひー鳴いた。
翌日、牧夫たちが駆けつけたとき、逞しい重種たちはもう山陰に引き上げていた。
「差別に抗議したんだ」と、イホレアンが唸るように言った。その日から牧夫たちが交替で見張りに立った。
日中、ゆるんだ雪は夜半にはかちかちに凍った。ペルショロンの一団は、その堅雪に前足をかけ太い木の枝まで食べつくした。互いの|たてがみ《ヽヽヽヽ》を食べ合って丸坊主になった。しかし、どんなに空腹でしかも猛々《たけだけ》しい馬たちでも、六尺もある堅い雪を渡ってくることは出来ることではなかった。
それが夜半にふたたび襲ってきたのだから、たまげてしまった。
「見ろよ」と、若い牧夫が目を丸くした。険しい山の斜面にいた一団の先頭をきったのは、老婆《ばつこ》馬だった。堅い雪に前足を突き刺すと、縁の雪が崩れ落ちた。それから後足を立てて雪の上に転がった。足を折りたたんで膝で歩いた。膝なら埋まってもすぐ体を立ち直せる。歩く歩く、膝で歩く。
「驚いたな」
イホレアンは息を呑んだ。馬たちは体をぐらぐら動かし、跳ねるように進んでとうとう楽園の近くまで迫った。
「それっ!」
牧夫たちは雪の中からいっせいに立ち上がって鞭《むち》を振り上げた。不意をつかれた馬たちは慌てて後ろに引き退がり、膝を伸ばして跳び撥ねたが、堅雪に足を深く刺し込んでその場に這いつくばった。
「足を折ったようだ」と、若い牧夫が言った。いくら叩いても馬たちは起き上がらなかった。月に照らされて馬たちは雪の上に黒々と横たわっていた。若い牧夫が草束を持ってきて、「ほら」と言って投げ与えたが食べる力もなくなっていた。
三月に入っても、まだ雪は深かった。大雪がきてから山の材木運搬が休みになって、オコシップはもう二カ月もぶらぶらしていた。その間、彼は猟に出かけたり、近くの山で薪を伐ったりして過ごした。
大雪の年は、春になると決まって飢餓に襲われた。鹿が全滅した年もそうだった。だが、こんどの場合は、店に行けば食べ物も着るものも何でもある。金さえあれば飢えをしのぐことができた。
オコシップは金が欲しかった。当座の金が欲しかった。山で働くまでの間、獣の皮を食糧に替えようと思った。
彼は村田銃を持って毎日獣を追いかけた。年ごとに減ってゆく獣は、コタンから遠退《の》いてかなり山奥まで分け入らねば仕留めることはできなかった。兎、リス、イタチなど、わずかばかりの獲物のために毎日根気よく出かけた。
「西田から、もう米も味噌も貰えねえだよ」
シンホイの女房、トイナンが助けを求めてやってきた。
「おらだって十人の口があるだからな、容易でねえだよ」
それでもエシリは三食分の米と味噌をトイナンに持たせた。シュクシュンも同じ西田に働いているのだから、苦しいに違いなかった。
26
食糧が底をついてから半月も経っていた。春が眼の前まで来ていたが、もうオコシップの乏しい猟だけに頼ってはいられなかった。
オコシップが猟に出かけて間もなく、エシリはモンスパや子供たちを連れてトッカリ(アザラシ)狩りに出かけた。
「凍《こご》えてしまうだからな」
出がけにモンスパが毛皮や厚司を一枚ずつ多く着せたので、四人はダルマみたいに膨《ふく》らんでいた。
トッカリ狩りは大てい鉄砲で撃ちとるのだが、エシリは武器を持たずに獲る自分の子供のころの方法を選んだ。海から遡《のぼ》ってきたトッカリが、河口の氷の上にあがって休んでいるところを狙って、棍棒でなぐり殺すのだ。じっと待つ一日がかりの仕事だが、一匹獲ればみんなでたらふく食べても三日はもつ。
「寒《さぶ》くても我慢せんとな」
吹きさらしの中で、エシリは自分に言い聞かせるように言った。四人はめいめいの棍棒を持ち、太い流木の陰に身をひそめて河口をじっと見つめていた。
風が唸りを立てるたびに乾いた砂が渦巻き、鼻や口に容赦なく入り込んでくるので、エシリたちは「うう、うう」と唸って、地べたに顔を伏せた。太陽がトンケシ山にさしかかっていたが、河口の氷は白々と広がっていて、トッカリの気配はなかった。
「昔はこんな獲《と》り方《かた》だったのかい」と、金造が欠伸《あくび》をしながら訊《き》いた。
「そうだとも、それでもトッカリの来る今ごろの時期になると、二匹や三匹はたやすく獲ったもんだよ」
しばらくして寒さが背中にしみてきた。痛い風が途切れなく吹いて海猫《ごめ》が宙返っていた。
「昔はトッカリがうまい食べ物だったのかい」と、こんどは周吉が溜息をつきながら訊いた。
「そうだとも、肉は美味《うま》いし、皮は履物《ケリ》や綱になるし、大事な獲物だったんだよ」
話が凍《こご》えて沈黙が続いた。八つの目が河口をじっと睨んでいる。
「なかなか来ないときは、トッカリの歌を歌って沖から呼び寄せたもんだよ」
エシリは棍棒でトントン拍子をとりながら歌い出した。
[#ここから1字下げ]
トッカリコタンはわしのふるさと
おだやかな河口がどこまでも広がって
両親や兄弟や仲間たちが
いつもわしの帰りを待っているよ
ホーイ ホイ ホイ ホイ ホイ
トッカリコタンはわしのふるさと
静かな入江が果てしなく広がって
父母や姉妹や同胞たちが
いつもわしの帰りを待っているよ
ホーイ ホイ ホイ ホイ ホイ
[#ここで字下げ終わり]
エシリの歌声は川風に乗って静かに流れた。
二時間が過ぎたころだった。最初に現われたトッカリは河口をぐるぐる回りながら水面に顔をつき出し、「くう、くう」と鼻をならした。
「呼吸《いき》をしてんだよ」と、エシリは子供たちに言って聞かせた。いつの間にか五匹のトッカリが氷上に這い上がっていた。
トッカリは氷の上では無器用だった。丸々と太った体をもてあまし、跳び上がるようにして少しずつ前進した。周吉たちは眼を輝かせて見つめていた。
トッカリは用心深かった。親分らしいのがたえず頭をあげて五匹の集団を見張っていた。海猫《ごめ》や鷲《わし》が飛んでくると、いちいち空を見上げて威嚇した。
「後ろさついてこお」と言って、エシリはみんなの先頭にたち、地べたを這うように進んだ。トッカリたちは氷の上に腹這いになったまま、根っこのように動かなかった。
「風下《かざしも》から回って、いっぺんに攻めるんだ。合図があるまで立ち上がってならんど」
エシリは悪い方の足を引きずって進んだ。氷の上にさしかかると、周吉たちは胸がどきどきした。
「まだ、まだ」と、エシリの張りつめた声がする。何度も突風が通りすぎた。そのたびにエシリたちは地面に張りついてやり過ごした。トッカリまで三十メートルに近づいた。
突然、エシリがギラギラ声とともに氷上に立ち上がった。彼女は棍棒を振り上げて、獲物に迫った。だが、トッカリは素早かった。体ごとマリのように体を弾ませて走った。エシリは見当がはずれ、何度も空打《からう》ちをしてつんのめった。モンスパや周吉たちも入り混じってトッカリの逃げ道を阻んだが、勢いづいたトッカリたちは棍棒の下をかいくぐり、水中に飛沫をあげてつぎつぎに跳び込んで行った。
逃げ場を失った小柄なトッカリが歯を剥いて周吉に噛みついてきたが、エシリの打ち下ろした最後の一撃が脳天をとらえた。どしっと頭の潰れる音がした。だが、そのときエシリは棍棒を握ったまま、ぐらぐらっとよろめいて氷の上に倒れ込んだ。眼は宙を向いたままだった。
「婆ちゃ!」と、モンスパや子供たちが駈け寄って抱き起こそうとした。
「大丈夫だよ」と、エシリは両足を踏んばって自分で起き上がろうとしたが、ふたたび平衡を失って頭から崩れ落ちた。
「なんとした!」
モンスパたちはエシリに取りすがり、声をからして名前を呼び続けた。
エシリは家に運ばれ、そのまま床に寝かされた。
「口は達者でも、やはり無理だったんだよ」と言って、モンスパは涙を流した。エシリはじっと瞼を閉じたまま、見舞客が来ても話が出来なかった。昼も夜もすやすや眠り続けた。
「よほど強くきたんだよ」
モンスパは米の飯の粥《かゆ》を作って口の中に流し込んだが、もう飲み込む力もなかった。痩せ細った脛《すね》を撫でながら、しぶとく和人に歯向かい、のめくるまで働いたエシリが不憫でならなかった。彼女は夜も寝ずに看病した。だが、エシリは右手をかすかに動かすだけで、ほとんど身動きも出来なかった。
「もう、わけが分らねえだよ」と言って、モンスパは首を振った。その夜、エシリは家族に見とられ、静かに息をひきとった。
翌日、広尾《ひろお》や白糠《しらぬか》から古い友達が駈けつけてきて、「何としたこった」と言って、エシリに取りすがって声をあげて泣いた。嫁《とつ》いで行った娘のチキナンやウフツも帰ってきた。
「婆ちゃんは体がぼろぼろになるまで、働きづめだったんだよ」
モンスパは泣きはらした眼に新たな涙を流した。釧路へ引っ越して行ったリイミが戸口で「エシリ……」と、声をつまらせて泣き崩れた。
「何ひとつ、ええこともなくてな」
彼女はモンスパと抱き合って泣いた。老婆たちの泣き声は夜遅くまで続いた。
エシリの葬式はヘンケの指示で執り行なわれた。だが、手伝い人はヘンケの女房トレペとシュクシュンの女房サロチ、それにシンホイの女房トイナンの三人だけだったので、死体の包装も墓標作りも、墓穴掘りも、みんなオコシップとヘンケの二人でやった。
「エシリは死ぬまでアイヌぶりを守り通したりっぱなアイノ(人間)だった。さあ、みんな傍《そば》さ来て拝《おが》んでくろ」と、ヘンケが女たちに言った。彼は死体をキナ莚《むしろ》で包み、|にわとこ《ヽヽヽヽ》の串で綴り合わせた。女たちの泣き声の中で包装は長い時間かかった。
墓標を持ってオコシップが戸外から入ってきた。墓標は死者の案内役をつとめる神様だったから、祈りは念入りに行なわれた。
「墓標につけてある黒い布を手に巻いてしっかり掴まり、外に出ると白い雲が白い道の橋になっているから、それに乗って決して後ろを振り向かずに行くがよい」
オコシップは耳の遠いエシリが間違えぬようにはっきり声高に言った。女たちの泣き声がいっそう激しくなって葬送のときがきた。
「壁を破れ!」と、ヘンケが荒々しく言った。その破れ穴から死者を出すと、死霊が後戻りしても入り口が分らぬようにすぐ塞いだ。モンスパやチキナンがエシリに持たせるアイヌ玉や小鍋や食器を小脇に抱えている。
包装された遺体に長い棒を通してオコシップとヘンケが担ぎ、墓標を持った周吉がその前を歩いた。太陽が日高の山脈《やまなみ》にさしかかるころ、葬列はポロヌイ峠をゆっくり登って行った。
27
雪が減って、オコシップは山へ働きに出ていた。
「気をつけろよ」
モンスパは流れ星の腹が心配だった。もう間もなく産まれる予定なので、びくびくしながら使っていた。
「銭《ぜに》も欲しいし」
流れ星を休ませておく余裕はなかった。帰ってくると、家族じゅうで集まって馬の体をブラシで撫でたり、雑巾で汗を拭きとったりして労《いた》わった。
「ほりゃ、頼むぞ」
翌朝には、凍った雪原の中を元気に出かけて行った。
堅雪の季節が終ると、淡雪と|ざらめ《ヽヽヽ》雪の季節がやってくる。雪に性根がなくなって、水のように揺れ動く。このころになると、空から落ちてくるものは雪も霙《みぞれ》、雨も霙になる。びちょびちょの雪は子供たちが喜んで食べる。
「ひら転《ころ》びの時期だな」
空を見上げモンスパが霙を顔に受けて言った。いつもなら、笹を求めて日当たりのいい山の|ひら《ヽヽ》(急斜面)に集ってきた馬が、よく足を滑らせて谷底へ落ちるのだが、「今年は落ちる馬もいないわ」と言って笑った。
毎年、早春にはひら転び、流産など、馬の事故がいちばん多い。だから、モンスパたちは流れ星の腹がよけい心配だった。
モンスパは流れ星の蹄《ひずめ》の滑り止めに蹄|覆《おお》いを作った。朝早くから藁《わら》を打ち、蹄を入れる丸い藁つぼを一日に十個も二十個も作った。
流れ星はそれを履いて働いた。深い谷底から玉橇に積んだ材木を引き上げるのは精のでる仕事だった。オコシップは馬の腹を案じて積み荷をいつもの半分にした。それでも流れ星は息をきらした。
人夫たちは伐った材木を山腹から谷底へ落とし、それをふたたび集積して玉橇に積み込むのである。
「これっぽっち」と、人夫が言った。
「ぼっけ(妊婦)だからな」と、オコシップが答えた。
「人間でも馬でも、ぎりぎりまで働いた方が安産だにな」
「なんぼぎりぎりでも程度があるべ」
人夫たちは本気で言い合っている。
「それっ」と、オコシップは流れ星に気合いをかけた。山道は険しく曲りくねって山を登っていた。馬は坂の登り方をよく知っていて、自分で橇の塩梅を見ながら曳いた。急な坂の前に来ると、十分休息し、橇に反動をつけて急斜面をいっきに駆け上がる。そのたびにオコシップの掛け声は谷に響き渡り、鞭は空に唸りをたてたが、しかし、決して流れ星は叩かなかった。鎖の曳き綱がぴんと張り橇がぎしぎし軋むたびに、オコシップは息がつまった。足を踏みはずすか橇が横にすべれば、そのまま深い谷底へ滑落してしまうのだ。
「おうらよう」と曲り角にきたとき、オコシップは何事もなく暢気な声で馬を止めた。そして、すり切れた蹄の藁つぼを新しいのに取り替えた。ついでに秣《まぐさ》の入った叺《かます》を馬の鼻先に置いて十時飯(三食の間に食べる餌)にした。
山鳩が鳴いていた。玉出しの馬たちは流れ星の三倍も材木を積んで、ぞろぞろと通り抜けて行く。
「なあに慌てることはねえさ」
オコシップは流れ星に話しかけた。
「これでも人夫たちの十倍にはなる」
馬のお陰だった。だから、充分の休養を与えてやりたかった。みんなが五回曳くところを三回にし、夕方日の暮れるころ馬の呼吸に合わせ、ゆっくりと帰るのだ。
突然、馬が止まった。
「秣を少しでも譲って貰《もれ》えてえんだ」
イホレアンが流れ星の口を押さえ、闇の中から声を出した。
「たった一頭分の貯えしかねえだよ」
「その中から少しでもええ」と、イホレアンは粘った。
「毎日働いてる馬だからな、少しも削られんさ」
オコシップは声を荒げた。
「純血でな、一頭百円もするハクニ種がいま死にそうなんだ。夏に刈った柔い草さえあれば助かるんだよ」
イホレアンは哀願するように言った。
「一頭百円でも千円でも、一本の草も駄目だ」と、オコシップは怒鳴るように断わった。
「こんな駄馬とはわけが違う」
イホレアンも大声で言い返したが、そのときオコシップは馭者綱をぶるんと振り回したものだから、流れ星が急に跳び出して彼を道路の脇に投げ飛ばした。
「流れ星は一万両(円)の値打ちがあるだぞ」
雪の中に四つん這いになったイホレアンを横目に見て、オコシップは悠々とその場を立ち去った。
家へ帰ってから、オコシップは家の者たちにイホレアンが草を欲しがっている事を話してきかせ、「草泥棒に用心せえ」と言った。
このごろ、西田牧場では帯広の方から牧草や穀物の殻《から》を買い求め、貨車で運んでいた。それを下頃部《したころべ》駅から駄鞍《だぐら》で運搬し、広い道路に出てからは馬橇に積んだ。しかし、若草が萌え出るまでにはまだ一カ月以上も間があったので、草はいくらでも欲しかった。
「ソイネ、遠慮なく噛みつけ」
モンスパは猟犬《セタ》を厩《うまや》の入り口に坐らせて言い聞かせた。ソイネは旅来《たびこらい》から貰ってきたエミクホロケウ(吠える狼)の子イヨアイの妹だった。しかし、熊猟のないこのごろでは狩猟に仕込むこともなかったので猟犬として使うこともなく、今はただ一家の番犬としての用しか役に立たなかった。
真夜中だった。ソイネが「う、う、う」と唸った。「そら来た」と、モンスパが独り言を言った。「わん」と吠えた。そのつぎには唸って吠えた。草泥棒に違いないと確信したモンスパは、厩の裏口から抜け出し、ひそかにオコシップに知らせた。
「手を離せ!」と、オコシップは村田銃を構えた。泥棒は束ねた草をその場に置いて逃げ出した。後ろも振り返らずに逃げ去った。
西田から遣わされた泥棒はその後も何度か現われたが、足を撃たれたり取り押さえられたりしてどやされた。泥棒は牧夫のアイヌたちだった。
「今度来たら、ぶち殺してやる」
泥んこの中にひれ伏した若い牧夫たちは、村田銃の台尻で頭を強くどつかれた。
「草が欲しけりゃあ、おめえ(西田)が来いとな、言っとけ」
牧夫は頭から血を流し、がたがた震えて逃げてゆく。
餓死に流産そして蛔虫が湧く疫病など、次々に襲ってくる災難に馬や牛たちは嘶《いなな》く元気もなく揺れるように歩いていた。山のあちこちには獣に食われた亡骸が散乱し、家の牧柵の中で死んだ牛馬は原野に大きな穴を掘って埋められた。山も野もコタンも、死臭でいっぱいだった。
「西田はふたたび立ち上がれめえさ」と、ヘンケが言った。
「馬と牛と合わせて五十頭残るかどうか」と、シュクシュンが頭を振った。西田はこの五十頭の牛馬を残すために、遠くから草を買い込み莫大《ばくだい》な赤字を背負い込んだ、という噂が部落じゅうに広がっていた。
「なんと、倒れる心配はねえさ」と、牧夫のイホレアンは強気だった。
西田がはじめて浦幌太に小屋を建て、アイヌたちの毛皮を買い集めて歩いてから、すでに三十年の歳月が流れていた。あのころ、西田からエンフィールドという鉄砲を借り受けて獣を獲ったものだった。それから三年後、西田は日高の新冠《にいかつぷ》牧場から馬を買い込んで牧場を始めた。それが、こんな大牧場になるとは誰も思ってもみなかった。
馬も牛も増え続け、自分の牧場だけでは足りず大半は官地を使った。しかし誰ひとり咎《とが》める者はなかった。厩を建て、倉庫ができ、住まいも近くに建った。シュクシュンやシンホイは弾き飛ばされて河口に移った。
やがてエンフィールドから村田銃の時代に変ったが、相変らず牛馬は増え続けてきた。
「その横暴な西田を支えてきたのも、同じアイヌ仲間だから、呆《あき》れてものが言えない」
オコシップはイホレアンをぼろくそに言った。言っただけでは気がすまず、しきりに唾を吐き捨てた。わずか三十年の間に、心まで和人社会に染ってしまったイホレアンが情けなかった。
「和人《シヤモ》の槍に突き刺された父レウカは、死ぬ間際にどこまでも生き残って仇を取れと言ったぞ」
「和人を敵にまわして、アイヌが生き残れるはずはねえさ」
イホレアンは長い睫毛《まつげ》をしばたたき、霙を見上げて嘲けた声で言った。
「早くから和人に帰順し、役アイヌとして仕えたおめえの父オニシャイン一族は、アイヌの裏切り者ぞ、恥を知れ!」
オコシップは鹿皮の履物《ケリ》で、どんと地を踏んだ。
「アイヌぶりに寄りかかってるうちに弓が鉄砲になり、しまいに陸蒸気が走り出したでねえか」
イホレアンの言葉には力があった。オコシップはレウカのいう「仇の取り方」に自信がなかったが、認めようとはしなかった。そして、世の中の早い移り変りが憎かった。オコシップは太い腕をぶるんと回し、「絶えてたまるか、十人|減《へ》れば二十人産んでやるべえ」
彼は天に向かって吠えたてた。
28
暖気になったり、寒さがぶり返したり、こんなことを繰り返しながらも、少しずつ春が近づいていた。オコシップは流れ星を労わりながら、冬山の終りの仕事に精を出していた。
今日も朝からびちょびちょ霙が降っていた。西空に湧いた黒い雲が裂けて稲妻が光り、雷鳴がど、ど、ど、ど、と山じゅうに響き渡った。雷鳴はいよいよ激しさを増し、雨風が強くなった。オコシップは馬を谷|間《あ》いの藪に入れて雨止みを待った。淡雪はどろどろに融け、土の割れ目を水となって流れていた。
「春雷は豊作の前兆だぞ」
「東から西に向かって鳴り響くのがええとな」
人夫たちがすぐ近くの|みず《ヽヽ》楢《なら》の下で雨宿りをしている。やがて雷鳴は山の向こうに遠退《の》いて行った。
「さ、もうひと息だ」と言って、オコシップは流れ星の首筋を軽く叩いた。風がくるたびに、樹々の枝から大玉の雫がぽたぽた落ちてきた。汽笛が西から東に鳴り響いた。上厚内《かみあつない》のトンネルに入るところだ。この貨物列車が通過すれば、間もなく昼食だった。
流れ星は黙々と働いた。彼女は背を丸めて難所をいくつも曳き上げた。オコシップは用心深く最後の難所にさしかかる前に、蹄に履《は》かせる藁つぼを取り替えた。人夫が二、三人、玉橇の脇に付き添ってくれた。鞭がしゅんと唸りを上げる。そのたびに馬は腰を入れて、しゃくりあげる恰好で曳いた。頼もしい曳き方だったが、どうしたものか、玉橇は横に滑って岩角からはみ出して行った。
危険を知らせる人夫たちの頓狂な声が響き渡ったが、橇は止まらなかった。オコシップは馭者綱を山際に切ったが、流れ星は頭だけ山際にねじ曲げたまま橇にもたれかかって、ずるずると谷の方に滑り落ちて行った。一瞬の出来事だった。
「馬が落ちたどお」
山じゅうに響く声で人夫が叫んだ。その声を聞いて、玉出し仲間や人夫たちが集ってきた。
玉橇は材木を積んだまま太い楢の木に引っ掛かり、その下の方に馬が蜘蛛《くも》のようにぶら下がってもがいていた。
「馬ば助けてけれ」と、オコシップは絞るような声で頼んだ。人夫頭らしい男が人夫たちに向かって、「ロープを持って来《こ》お」と怒鳴るように言った。
男の采配《さいはい》は見事だった。最初に玉橇と材木を転落しないように太い木に堅く縛りつけ、それから馬を急斜面の笹原に下ろした。
「足が前も後ろも折れてるな」と、男が言った。馬道具を取りはずされた流れ星は、笹原におとなしく横たわっていた。眼を大きく見開いて荒い息を吐いている。馬が滑り落ちないように、胴からロープをかけて雑木に縛りつけた。
谷底から吹き上げてくる風が笹原をざわざわ揺らし、雑木林から垂れ落ちる雫がばらばらと音をたてて撥ね返る。
「尻から何か出てるぞ」と、人夫が驚いたように言った。辺りの者たちがいっせいに振り向いたが、笹原の蔭になって見えなかった。
「孕《はら》み馬だったんだ」と、もうひとりの人夫が言った。
「親馬が生きてるうちに引き出すんだ」
人夫頭が人夫たちに命じた。男は細いロープで、出口に飛び出している仔馬の足をしばった。
「少しずつ親馬の呼吸に合わせて引け」と言った。男は垂れ下がった陰部の皮を開いてその中に手をさし入れ、出てくる仔馬の頭をまさぐっているらしい。男が合図の左手をあげると、ロープは少しずつ引かれた。足が出て頭が出て、それからどっと飛び出すように羊水と胴体と後産《あとざん》が出た。親馬は仔馬を振り返って、「ごほ、ごほ、ごほ」と低く鳴いた。
「雌《めんた》だ」と言って、男が笑った。つられて人夫たちがどっと笑った。馬を増やすには牝馬にかぎるのだ。
仔馬はオコシップの厚司《アツシ》に包まれ、いったん谷に下ろされ、それから谷づたいに馬橇道に運ばれた。仔馬は立ち上がろうとして元気だった。
「親馬はあきらめるより外に手はないな」
人夫頭は首をふった。オコシップは秣に燕麦《えんばく》をまぶし叺《かます》に入れて流れ星の鼻先に置いたが食べなかった。水をやっても飲まなかった。
その日の夕方、仔馬は近くの浦幌太から働きにきている仕事仲間の玉橇に乗せてもらって、家へ連れ帰った。大人や子供たちが仔馬の周りにどっと集った。四本の足を踏んばって今にも駆け出しそうな構えだった。
「流れ星は何とした?」
モンスパは甲高い声を張り上げ、その辺をぐるぐる回って歩いた。オコシップは、
「どうにも仕方がなかったんだ」と力なく答えた。玉橇が横に滑り出してから、仔馬を母馬から引き出すまでを話し終えるまで、みんなはじっと聞き入っていた。
「流れ星が死んだとな!」
「いや、足を折って急斜面に寝たきりなんだ」
重い体を支えることができないのか、足の骨折はほとんど治る見込みはなかった。
毎年、「ひら転び」の時期に骨折した馬が厩に運ばれてくる。天井から吊《つ》り下げられた馬たちは骨がくっつかないうちに痩《や》せ衰えて死んでゆく。
「だめだな」と、オコシップは溜息をついた。
翌日、オコシップは周吉を連れ、村田銃と燕麦とスコップを持って家を出た。出がけに、「スコップは何するべ」と、モンスパが目を吊り上げて聞いたがオコシップは何も言わなかった。
周吉はスコップを担《かつ》ぎ、布袋に入れたわずかばかりの燕麦を持って、オコシップの後からついてゆく。太陽が高く昇っていた。
彼は傷ついた流れ星のことで頭の中がいっぱいだった。燕麦を食べる流れ星は元気がなく、食べながらしだいに谷底へ落ちてゆく。突然、山の向こうから村田銃が響き渡ったような気がして、オコシップははっとわれに返った。
静内山は春霞に包まれていた。とぼとぼ歩いてきた二人は険《けわ》しい山道で足を止めた。岩角から下を覗き込む。流れ星は靄の中に霞《かす》んでいた。
「流れ星!」と、オコシップは声を張って呼んでみた。動かなかった。ほっとした。彼は村田銃でひと思いに撃ち殺そうと思っていたのだった。父子は急斜面を雑木から雑木へ移りながら、少しずつ下りてゆく。斜面の途中まできて、「流れ星!」ともう一度呼んでみた。やはり動かなかった。
流れ星は口を笹の中に突き刺して死んでいた。オコシップは付近から太い丸太ん棒を拾ってきて、笹藪の中に突き出た岩を梃子《てこ》に、流れ星を谷に向かって転げ落とした。谷底から烏の群れがわっと空に舞い上がった。父子はやわ土のところを選んで穴を掘った。これで獣たちに食いちぎられずにすむ。
持ってきた燕麦と沢から汲んできた水を供えて、「迷わずに馬神の国さ行け!」と、オコシップは言った。
29
十勝川の氷が解けて豊かな水がゆったり流れていた。真鴨が浮かび、川獺《かわうそ》が頭を出した。その間をハルアンの丸木舟がゆらゆら流れてゆく。
頭の白い烏が山から飛び立った
コタンの上空を羽撃《はばた》きながら
ゴロロ、ゴロロと不吉に鳴いた
頭の白い烏が谷から飛び立った
コタンの上空を羽撃きながら
ゴロロ、ゴロロと不吉に鳴いた
ハルアンがしわがれた声で歌って通った。
「何が起こるんだい」と、川岸に立ってみんなが訊《き》いた。
「おらだって分らねえさ」
ハルアンは味噌っ歯を剥き出して笑った。
「大雪で牛馬があんなに死んだのに、これ以上何かが起こったら大変だわ」
西田牧場で働いているシュクシュンやシンホイの女房たちが心配そうに話している。
モンスパはそれを家の中で訊いた。
「不吉なことって、何が起こるんだい」と、モンスパは少しも熱が出ていないのにカロナに聞いた。彼女はゴロロ、ゴロロと葬式ダンゴを食う烏の鳴き真似をして、「おっかねえ」と言った。その様子を見て、モンスパは「やっぱり」と思って背筋が凍った。
その翌日、西田御殿の屋根から大きな火玉が西の方に向かって飛んだ、という噂がたった。
「おらも見た、ふわふわ漂《ただよ》いながら長い足を引いてな」
旅来《たびこらい》に住む早足のアチャエが息をつまらせて言った。
「西の方なら西田親方の故郷、岩手の方だな」と、牧夫頭のイホレアンが頭を傾《かし》げた。
それから二、三日して、こんどは「西田が岩手に帰るぞお」と叫びながら、アチャエが部落を走り抜けた。
荷造りを始めた、というのである。
「逃げる気だな」と、オコシップは怒りを込めて言った。「コタンをめちゃくちゃに叩き壊しておいて」うまくゆかねば内地に逃げてゆく。ボロい儲けを夢みて乗り込んできた彼らはそれで済むことだが、アイヌモシリを失ったアイヌたちはそうはいかない。どん底まで落ち込んで、ふたたび起き上がることが出来ないでいるんだ。
「逃がすもんか」
オコシップは片目を吊り上げて、西田御殿の方を睨んだ。周吉たちは意気あがるオコシップを見て頼もしかった。「やっつけてしまえ」と言って、棍棒を振り回した。
「ラッコの袖なしを出せ」
オコシップは突然モンスパに言いつけた。ラッコの袖なしは父レウカが着ていたものだが、ずいぶん昔のものだったから、もう性《しよう》がなくなっていて黄色に変色し、つまむと毛がぼそっと固まって抜け落ちた。
しかし、オコシップはそれを身につけると、「見ろ、丈も幅もぴったりだあ」と言って、子供みたいに喜んだ。
「当分、山の中に身を隠すからな、俺の後は追うな」
オコシップはモンスパに低い声で言った。彼女は何のことだか分らなかったが、その日の夕方からオコシップの姿は消えてしまった。付近の人や子供たちには、阿寒の山へ熊撃ちに出かけた、と言って言葉を濁していた。
オコシップはすぐ近くにいた。西田御殿の見える茅原にひそんでいた。西田は朝夕、ひとりで牧柵の中の馬を見回る習慣があった。その姿を遠くからよく見かけたものだ。
一日目は何事もなかった。オコシップはときどき霞んでくる、いい方の眼を拳《こぶし》でこすりつけては、茅原から御殿を睨んでいた。イホレアンが来る。サケムが来る。飯炊き女が来る。西田はなかなか姿を見せなかった。
「確かあの辺だった」と、オコシップは三十年前を思い出して呟やいた。
仔鹿を両肩にかついで猟から帰ってきた彼は、西田がアイヌの若者を相手に草屋を葺いているのを見て近づいて行った。西田は刺子《さしこ》をまとい、草鞋《わらじ》を履《は》いてせっせと働いていた。
「この辺り一帯は、おらの土地だ」
西田はこう言って嘯《うそぶ》いた。
「どうせ、ひと冬も保《も》つめえ」
寒さに尻尾を巻いて逃げ出すだろうと、オコシップは腹の中でせせら笑ったものだ。しかし、明治十五年、たったひとりで乗り込んできたのに、おめえは一年経っても二年経っても岩手に帰らなかった。
その後、明治三十年、石川県からどっと入ってきた大勢の入殖者たちに「開拓の主」と仰がれ讃えられた。
「だが、とんでもねえ」
アイヌから土地を取り上げ、鹿を馬に変えてしまったのも、たくさんのピリカメノコ(アイヌ美人)を自分の妾にしてしまったのも、猟犬を殺しコタンをめちゃめちゃにしてしまったのも、みんな西田だ。いつの間にか草屋が柾屋《まさや》になり、柾屋が御殿になっていた。
アイヌたちは、明治になってクンツ(強制連行)がなくなったときも、「旧土人保護法」が出来て五町歩の土地をもらったときも、これで和人と同じ生活ができると思ったものだ。
だが、どれもこれも中途半端だった。和人社会が音をたてて広がってゆく中で、アイヌたちは隅に追いやられ、暮らし向きはますます苦しくなっていった。アイヌたちは和人に雇われ涙金を貰って、やっと命をつないできた。
そして西田がばら撒いた性《たち》の悪い菅草《すげぐさ》のようなしぶとい種子は、しだいに実ってどんどん増え続けていった。野山は牛馬が群れ、川には渡し舟が往復して、もうコタンの面影はどこにもなくなった。
「だが、このまま消えてたまるもんか」と、オコシップは呪うように言った。食べるものがないなら、和人が捨てた魚の腸《はらわた》でも拾って食べるがいい。それも出来ないなら、魚にたかった蛆《うじ》を食え。蛆を食ってでも生き延びてやれ。茅原の中でオコシップの片眼は獣のように輝いていた。
二日目の夕方だった。御殿を出てきた西田は厩の中を覗き倉庫の中を覗くと、ぶらぶらと牧柵の方に近づいてくる。
獲物を狙う獣は腹這いになって茅原を進む。脈が喉《のど》のところまで跳ね上がった。あと一間、あと半間と間《ま》をせばめていって、突然、彼の眼前に立ちはだかった。オコシップの右手にはマキリの刃が光っていた。不意をつかれた西田は怯えた赤子みたいな叫びをあげて、二、三歩後ろに引き退《さ》がったが、その叫び声を聞いて、牧夫頭のイホレアンやサケムたちが厩の方から飛んできた。
小柄ではしっこい西田は、ねじ伏せようとするオコシップの毛むくじゃらな手を必死に振り切って逃れた。
牧夫たちは木柵の丸太ん棒を振り上げて立ち向かってきた。
「叩き殺せ!」と、西田は体をわなわな震わせて叫んだ。和人の徳造や常蔵も加わって老若十人の牧夫たちはオコシップを取り巻き、西田に指一本触れさせまいと固く守った。
「カリベ、お前の時代はもうとっくに終ったんだ。お前にはそれがまだ分らないのか」
シンホイはオコシップの昂《たかぶ》った気を鎮《しず》めるように言った。
「なんだと、コタンを荒らし回った泥棒猫ども。さあ、俺たちアイヌを頭から呑《の》みこんだ悪魔の眼玉を、今日こそ渡して貰うべえ」
言い終らないうちにオコシップはマキリを振り上げ、西田の眼をめがけて飛びかかっていったが、そのとき牧夫たちの振り下ろした丸太ん棒は、いっせいに彼の脳天を打ち砕いた。鈍い音がしてオコシップの体は朽ち果てた大木のようにどさりと倒れた。頭の割れ目から鮮血が泡のようにぶくぶく吹き出す。
「当然の報いよ!」
西田は足もとのオコシップを苦々しく睨みつけたが、思わず眼をそむけた。血だらけのオコシップは虚空をつかみ、片目をかっと見開いて睨み返していた。
「何もかも、みんな終ったんだよ」
シンホイが呟やく。
オコシップの亡骸《なきがら》は、牧夫たちの手によって茅原を引きずられて、カンカンビラの見える険しい崖の突端から十勝川の渦巻く淵《ふち》に向かって投げ捨てられた。
西の空が茜《あかね》色に染っていた。
山菜袋を下げ、重い足どりで峠を下だってくるモンスパと周吉は、原野の上空に騒々しく旋回する烏の群れをぼんやり眺めていた。
上西晴治(うえにし・はるじ)
一九二二年 北海道十勝に生まれる。大東文化大学文政学部日本文学科卒。札幌で高校の国語教師を務めながら小説を書き、一九六四年「玉風の吹く頃」で読売新聞短篇小説賞を受賞。一九七九年『コシャマインの末裔』で北海道新聞文学賞。一九九三年、本作品で第四回伊藤整文学賞を受賞する。著作に「オコシップの遺品」「ニシパの歌」「ポロヌイ峠」「原野のまつり」「トカプチの神子たち」等がある。
本作品は一九九三年二月、筑摩書房より刊行された。