獣の奏者
U 王獣編
上橋菜穂子
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《》:ルビ
(例)|闘蛇《とうだ》
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[#地付き]1 竪琴《たてごと》の響《ひび》き
夢の中でひらめいた思いつきに背を押《お》されて、エリンは王獣舎《おうじゆうしゃ》からとびだし、真っ暗な林を通りぬけ、学舎《がくしゃ》までもどってきた。
夜が更《ふ》けて、月も沈《しず》んでしまっている。星だけが、薄《うす》い雲の狭間《はざま》から輝《かがや》いていた。
みんな眠《ねむ》っているのだろう。寮《りょう》の窓にはまったく灯《あか》りはなく、闇《やみ》の中に建物の形だけが黒々と沈《しず》んで見えた。
裏口の戸に手をかけてみたが、しっかり鍵《かぎ》がかかっていて、びくともしなかった。
エリンは唇《くちびる》を噛《か》んで、考えこんだ。
まさか、この時刻に、戸を叩《たた》いて寮母さんを起こすわけにもいかない。 ──しかし、リランの身体《からだ》のことを考えると、朝まで待つ時間さえ惜《お》しかった。
エリンは、自分の部屋の窓がある西側の棟《むね》にまわっていった。星明かりしかないけれど、多少は物が見える。ユーヤンはもちろん眠《ねむ》っているのだろう。二階の窓は真っ暗《くら》だった。
北風をさえぎる防風林《ぼうふうりん》が寮《りょう》の脇《わき》に植えられていて、木の枝が二階の窓すれすれまで伸《の》びている。まえにユーヤンが、「わたしらがもうちょっと年頃《としごろ》になったら、男が登ってくるかもしれんでぇ」と笑っていたのを思いだした。
エリンは手をこすり合わせた。木登りは得意《とくい》だ。下のほうには枝がないから、枝に手をかけて登ることはできないけれど、村にいたときは、男の子連中と、こういう木にも登っていた。
エリンはまず、短靴《たんぐつ》を脱《ぬ》いで裸足《はだし》になった。それから手早く帯をほどいた。
衣《ころも》の裾《すそ》を結んで前がはだけないようにしておいて、帯の端《はし》を右手に巻いてしっかり握《にぎ》った。帯を幹《みき》にまわしてから、両端《りょうたん》を左右の手でしっかり握って、それで身体《からだ》を支え、ひょいっと両足を幹に踏《ふ》んばった。
素早《すばや》く帯を幹の上のほうにずらしては登り、ずらしては登り、エリンは尺取《しゃくと》り虫のようにみるみる太い枝が伸《の》びているあたりまで登っていった。
左手の帯を放《はな》して枝をつかむや、エリンは帯を右手にくるくると巻きつけて、右手でも枝をつかんだ。そして、太い枝の上によじのぼって、その上にまたがった。
枝の先は細くなっているから、あまり長いこと体重はかけられない。まずは、ユーヤンを起こして、窓をあけてもらわねばならなかった。
手近にある細枝を折ると、腕《うで》をいっぱいに伸ばして、枝の先で窓を叩《たた》いた。
叩《たた》くというより、葉っぱでこする感じだったけれど、三回、四回と叩くうちに、窓の内側に、影《かげ》が動いた。
「……誰《だれ》?」
ユーヤンの声が聞こえてきた。
答えようとエリンがロをあけた瞬間《しゅんかん》、ユーヤンが言った。
「カシュガン?」
意外《いがい》な名前がとびだしてきたので、エリンは危《あや》うく枝を落としそうになった。
ユーヤンは押《お》し殺《ころ》した声で続けた。
「だめやん、カシュガン。……あんたの気持ちはうれしいけどな、わたしらは、まだ学童《がくどう》同士やで」
エリンは、ぽかんと口をあけて、窓の向こうの影《かげ》を見つめた。
笑いの発作《ほっさ》がこみあげてきた。あわてて口を片手でふさぎ、枝の上で身を丸くして身体《からだ》をふるわせた。その拍子《ひょうし》に、ぐらっと身体が傾《かたむ》いて、エリンは枝にしがみついた。ぞっとして、自分のおかれている状況《じょうきょう》を思いだした。
笑っている場合ではない。これ以上ここにいたら、枝が折れるかもしれない。
エリンは慎重《しんちょう》に身体をずらしてすこし前に進むと、小さな声で呼びかけた。
「……ごめん、ユーヤン、わたし。窓、あけて」
そのとたん、カシュガンを説得《せっとく》していた声がばたりとやんで、いきなり窓が引きあけられた。
「エリン?」
「シーッ!」
エリンはあわてて、ユーヤンを制《せい》した。
「起こしてごめん。……そこどいて。とびこむから」
ユーヤンがあわてて横にどいたのを見届《みとど》けて、エリンは蛙《かえる》が跳《は》ねるような格好で枝を蹴《け》り、両手で窓の上枠《うえわく》をつかんで、ひょいっと窓をくぐって部屋の中にとびこんだ。
床《ゆか》に両足がついたとき、かなり大きな音がした。
二人はしばらく身を縮《ちぢ》めて動きをとめ、誰《だれ》かが目をさまさなかったかと、下の音に耳をすました。
幸い、誰かが起きた気配《けはい》はなかった。
「……エリン、あんた、なにやっとん?」
ユーヤンが、まじまじとエリンを見つめて、つぶやいた。
エリンは小声で謝《あやま》った。
「ごめん。 ──どうしても、今夜中に必要《ひつよう》なものがあってとりにきたんだけど、裏口の鍵《かぎ》も締《し》まってたから」
ユーヤンは、溜《た》めていた息を長々と吐《は》きだした。
頬《ほお》をこすりながら、ユーヤンは、さりげないふうを装《よそお》って訊《き》いてきた。
「……わたしの声、聞こえた?」
「聞こえなかったよ───カシュガンなんて言葉」
言うなり、エリンは腹を抱《かか》えた。ふるえながら声を殺して笑っているエリンの背中を、ユーヤンが蹴《け》っとばした。
「笑うな!」
ユーヤンは真っ赤になって、エリンの背中を叩《たた》いたり蹴《け》ったりしながら、最後にはエリンに抱《だ》きつき、二人は息もできないくらい笑い転げた。
階段をあがってくる足音が聞こえてきたかと思うと、ガラツと戸が引きあけられた。
「なにやってるの! こんな夜中に!」
寮母《りょうぼ》のカリサが立っていた。寝床《ねどこ》からとびだしてきたのだろう。寝巻《ねま》き姿のままだった。
エリンとユーヤンは、あわてて正座した。
「……申しわけございません」
カリサはエリンを見て、眉《まゆ》を跳《は》ねあげた。
「あら? あなた王獣舎《おうじゅうしゃ》にいたんじゃないの? 裏口も玄関《げんかん》も鍵《かぎ》をかけたはずだけど、どうやって部屋にもどったの?」
エリンは身体《からだ》を縮《ちぢ》めた。
「ごめんなさい。……どうしても、必要なものがあったので……。寮母《りょうぼ》さまを起こすのは申《もう》しわけないと思って、窓から入りました」
「窓から? でも、あなた、ここは二階よ?」
言ってから、窓の外に見えている枝に気づいたのだろう、カリサは声を失った。
「……なんと、まあ。二十年、寮母をやっているけれど、女の子が木によじのぼって部屋に忍《しの》びこんだなんて、初めてですよ。呆《あき》れた!」
カリサは、呆れ顔でエリンを見つめた。
「おとなしい子だと思っていたけれど、認識《にんしき》をあらためなきゃならないわね。とんでもないことをする子だこと。今回だけはゆるしてあげるけど、二度とこんなことをしてはいけませんよ! 枝が折れたら、大変なことになっていたのよ。わかってるの?」
「……はい。もういたしません」
ため息をついて首をふりながら、カリサはもどっていった。
二人きりになると、エリンとユーヤンは顔を見合わせた。
笑いの発作《ほっさ》は消えて、おだやかなおかしさだけがお腹《なか》のあたりに残っていた。
「……で、なにをとりにきたん?」
ユーヤンに言われて、エリンは、はっと、自分がなにをしにきたか思いだした。あわてて立ちあがると、エリンは、私物をしまってある戸棚《とだな》を引きあけた。
背後で、カチ、カチと火打ち石を打ち合わせる音がした。ユーヤンは手慣《てな》れた仕草で火口《ほくち》に火花を飛ばし、小さな火を熾《おこ》すと、灯《あか》りを灯《とも》してくれた。
袋《ふくろ》に入った小さな竪琴《たてごと》をひっぱりだすと、ユーヤンが肩《かた》ごしにのぞきこんだ。
「なにそれ。………あ、竪琴やん!」
エリンはそっと竪琴をなでた。夢中《むちゅう》になって作った三つの竪琴のうちで一番気に入っている竪琴だった。ジョウンと暮《く》らしていたときは、暇《ひま》さえあれば弾《ひ》いていたのに、この学舎《がくしゃ》に入ってからは新しい暮らしに慣《な》れるのに精一杯《せいいっぱい》で、竪琴にさわる余裕《よゆう》などなかったから、もうふた月近くさわっていない。
「これね、わたしが作ったのよ」
竪琴《たてごと》をなでながら、エリンはつぶやいた。
「え……あんたが作ったん? すごいなあ。あんた、竪琴も作れるん……」
「職人《しょくにん》が作る竪琴に比《くら》べれば、ずいぶん拙《つたな》いものだけど」
お気に入りの曲の出だしを爪弾《つまび》くと、さわっていないあいだに、弦《げん》がゆるんでいるのが感じられた。それに、耳の奥《おく》に残っている、あの王獣《おうじゅう》の母がたてていた音とは微妙《びみょう》にちがう。
「いい音やぁ……」
ユーヤンはうっとりとつぶやいたが、エリンは首をふった。
「だめだわ、これじゃ……」
眉《まゆ》をひそめて、エリンは弦《げん》を一本一本はじいた。
王獣《おうじゅう》がたてるあの音と、似てはいるけれど、どこかちがう。 ──これでは、リランには自分たちの言葉だとは感じられないかもしれない。
エリンが小声で、自分の思いつきを説明《せつめい》すると、ユーヤンは首をかしげた。
「大丈夫《だいじょうぶ》なんやん? ちょっとぐらいちがってたって、わたしらだって、ほら、わたしのしゃべり方と、エリンのしゃべり方はちがうけど、わかるやん」
「うーん。でもね、そうはいかないような気がする……」
言葉が、言葉として相手にわかるのは、たとえば、「エ」という音と、「リ」という音の違《ちが》いを聞き分けられるからだ。
人の言葉は、音がとても多彩《たさい》で、ものすごくたくさんの、はっきりとした違いがある。でも、王獣のあの鳴き声には、音程《おんてい》と、音の長短、ロン……と響《ひび》いたあとの余韻《よいん》、そして、音の続け方しか、違《ちが》いがないような気がする。それも、一度聞いただけでは、同じ音にしか聞こえないくらい、ごくかすかな音の違いでしかない。
あのかすかな音の違《ちが》いで意味を聞き分けているのだとすれば、わずかに音がずれても、それは意味《いみ》のある言葉としては感じられないのではなかろうか。
そう言うと、ユーヤンは唸《うな》った。
「……そりゃ、やってみなきゃわからんなぁ」
エリンはうなずいた。そうなのだ。やってみなければわからない。そもそも竪琴《たてごと》の音を、あの音に近づけることができるかどうか……。
気の遠くなるような作業だけれど、そんなことを嘆《なげ》いている暇《ひま》はなかった。
エリンが立ちあがると、ユーヤンはびっくりした。
「あんた、また王獣舎《おうじゅうしゃ》にもどるん?」
「うん」
ユーヤンは顔をくもらせた。
「あんた、ほんとに、熱中したら、ほかのことが考えられなくなる性質《たち》なんなあ……。でも、あんた、生身なんでぇ、自分の身体《からだ》のことも考えぇ」
エリンは微笑《ほほえ》んだ。
「うん。……ありがと」
エリンが王獣舎の戸をあけて中に入っても、リランはまったく動かなかった。
竪琴《たてごと》を持って、その黒い影《かげ》の塊《かたまり》に向き合うと、心ノ臓が、強く脈打《みゃくう》ちはじめた。
エリンは息をつめて竪琴の弦《げん》に指をあてた。この弦のなかではもっともあの音に近い、中低音の弦だ。
ロン……と、弦が鳴った。
突然《とつぜん》鳴った音に眠《ねむ》りを邪魔《じゃま》されて、リランはかすかに身じろぎをしたが、目もあけず、さしたる関心は示さなかった。
二度、三度と弦を鳴らしてみたけれど、うるさそうに肩《かた》をゆするだけで、やはり目をあけなかった。
エリンは、つめていた息を吐きだして、肩を落とした。弦が鳴ったら、もっと劇的《げきてき》な反応をしてくれるのではないかと期待《きたい》していたので、かなりがっかりした。
この弦の音と、王獣《おうじゅう》の母親が出す音は、たしかにちがうけれど、それでも、多少なりとも似た音だと思ったら、もっと反応するのではなかろうか。たとえば、異郷《いきょう》にいて、故郷《こきょう》の方言《ほうげん》に似た言葉が聞こえてきたら、はっとして、ふり返るように。
(……的外《まとはず》れの思いつきだったのかな)
エリンは、しゃがみこんだ。勢《いきお》いこんでいただけに、徒労感《とろうかん》が強かった。
毛布をつかんで、エリンは竪琴を抱《だ》いたまま横になった。これまで、あまり気にならなかった床《ゆか》の硬《かた》さと冷たさが、肩《かた》にこたえた。
失望で疼《うず》く胸を押《お》さえるように竪琴《たてごと》を抱《かか》えこんで、エリンは目を閉じた。眠《ねむ》りに落ちると、今度は脈絡《みゃくらく》のない夢をたくさん見た。
目がさめたときには、朝の光が王獣舎《おうじゅうしゃ》に射《さ》しこんでいた。
エリンは、ぶるぶるっとふるえた。そうだ。板を一枚外してあったから、背中とうなじが、すうすうと寒かったのだ。今夜は忘れずに、板をはめこんでから寝《ね》よう。
竪琴を抱《だ》いて寝ていたので、顎《あご》のところに跡《あと》がついてしまっていた。ぼんやりと、そこをなでながら、エリンは目をあげて、リランを見た。
リランは相変《あいかわ》わらず、彫像《ちょうぞう》のように座《すわ》っている。足もとの寝藁《ねわら》が、ずいぶん汚《よご》れていた。なにもしてやれないのなら、掃除《そうじ》だけでもしてやりたい。音無し笛を吹《ふ》くのはかわいそうだけれど、あのままでは、もっとかわいそうだ。
エリンは身体《からだ》を起こして、いつもやっているように膝《ひざ》を抱《だ》いて座った。寒いので、毛布はかぶったままだった。その姿勢《しせい》のまま、毛布の内側で竪琴をいじった。
あの王獣《おうじゅう》の母が出していた音は、腹か胸の中でたてている音なのだろう。澄《す》んだ音ではなく、体内に反響《はんきょう》しているような、くぐもった音だった。すこし弦《げん》をゆるめたら、あんな感じが出せるかもしれない。そう思いながら、弦をはじいた。
ロン……と、小さな音が響《ひび》いた瞬間《しゅんかん》、ぱっとリランが目をあけた。
エリンは、ぎくっとして、リランを見つめた。リランは金色の目を瞬《またた》かせて、こちらを凝視《ぎょうし》している。
エリンは、そっと弦《げん》に指をあて、もう一度、はじいた。
リランは、やはりこちらを凝視している。それ以上の反応《はんのう》はしないけれど、間違《まちが》いなく、こちらを気にしていた。
(なに? ………なんで?)
昨夜は、ほとんど反応しなかったのに。いったい、なぜ、いまは反応しているのだろう? 昨夜となにがちがうのだろう?
目をさましているからだろうか。昨夜は寝《ね》ぼけていて聞こえなかったのかもしれない。それとも……。
エリンは自分の手もとを見た。毛布の内側に竪琴《たてごと》がある。 ──うなじに鳥肌《とりはだ》が立った。
(これかもしれない……)
毛布をかぶっているせいで、くぐもって響《ひび》いた弦の音が、母が体内でたてる音に近かったのではなかろうか。
エリンは口出を閉じて、もう一度、弦をはじいた。全神経を集中《しゅうちゅう》して、その音を聞いた。
(近い……)
たしかに、近い。あの音に似ている。 ──でも、やはり、どこかちがう。
リランもそう感じているのだろう。はじく音に慣《な》れてしまうと、疲《つか》れたように目を閉じてしまった。
エリンは唇《くちびる》を噛《か》みしめた。
あの音に近づけたい。リランは、弦《げん》の音に反応《はんのう》したのだ。あの音が出せれば、きっと、リランは、もっとまともに反応してくれる……。
どういう形にしたら、あの音が出るだろう。毛布をかぶせて出るこの音は、くぐもっているだけだが、あの音はもうすこし反響《はんきょう》していた。なにか、もうすこし張《は》りがある、太鼓《たいこ》の内側のようなところで弦をはじいたら、近い音になるかもしれない。
エリンは毛布を肩《かた》にかけたまま、立ちあがった。
*
「外出許可が欲しい?」
朝食を終えて、教導師長室《きょうどうしちょうしつ》にもどったばかりのエサルは、片手を机について、座椅子《ざいす》に腰《こし》をおろしながら、エリンを見上げた。
「なにをしに、どこへ行きたいの」
「街に行きたいのです。ジョウンおじさんとここへ来る途中《とちゅう》、丘《おか》の下の街を通ったとき、楽器職人《がっきしょくにん》の工房《こうぼう》を見かけました。急いで、あの工房へ行ってきたいのです」
「楽器職人の工房?」
エリンは唇《くちびる》を湿《しめ》した。
「……試《ため》してみたいことが、あるのです」
エリンが昨日からのいきさつを話すあいだ、エサルは黙《だま》ってエリンの顔を見ていた。
自分の思いつきがエサルにどう思われるか不安なのだろう、エリンは顎《あご》のところについている赤い筋を、しきりに親指でこすりながら話している。
エリンがロを閉じると、柱時計の音がもどってきた。
エサルは、額《ひたい》にかかった髪《かみ》を掻《か》きあげた。
「野生《やせい》の王獣《おうじゅう》が、そういう音をたてるという話は、わたしも聞いたことがあるわ。まえに王獣|捕獲人《ほかくにん》に会いにいったと言ったでしょう?」
「はい」
「そのとき、ある老練《ろうれん》な捕獲人が言っていた。幼獣《ようじゅう》のころから保護場《ほごじょう》にいる王獣はたてない音を、野生の王獣はたてると。彼も、竪琴《たてごと》のような音だと表現《ひょうげん》していたわ」
エリンはうなずいた。
「そうなんです。ほんとうに、そんな感じの音なんです」
エサルは、じっとエリンを見つめた。
「でもね、その音を再現《さいげん》できたら、王獣と話ができると思うのは、すこし短絡的《たんらくてき》すぎない?」
エリンの頬《ほお》に、かすかに赤みがさした。
「……あたしは、竪琴《たてごと》でリランと話ができるとは思っていません。人と王獣《おうじゅう》では、考えの筋道《すじみち》も感じ方もちがうでしょうから、たとえ王獣の言葉がわかっても、会話《かいわ》などできないと思います。
でも、ごく単純《たんじゅん》な意思の疎通《そつう》なら、できるかもしれないと思うんです。犬や馬とでも、意思が通じる瞬間《しゅんかん》はあります。犬に、まだ食べずに待て、と命令《めいれい》することも、よし、食べてもいいよ、と伝《つた》えることもできます」
エリンは一生懸命《いっしょうけんめい》、言った。
「王獣《おうじゅう》は、とても賢《かしこ》い生き物だと聞いています。犬に伝えられるくらいのことは、王獣にも、伝えられるはずです」
エサルは首をふった。
「犬は群《む》れで生きる獣《けもの》よ。仲間同士の意思疎通《いしそつう》を大切にするし、命令|系統《けいとう》もはっきりしている。人を主人だと認めれば、その命令にも従《したが》う。信頼《しんらい》関係も生まれる。……でも、王獣はちがうわ。彼らは群れをつくらない孤高《ここう》の獣よ。人に馴《な》れることもない。人を信頼することもない」
「でも、野生の王獣の親子は、頻繁《ひんぱん》に鳴《な》き交《か》わしていました。犬や馬の親子は鳴き交わすより、触《ふ》れ合《あ》っていることのほうが多いですが、王獣《おうじゅう》の親子はなにかにつけて、あの音で鳴《な》き交《か》わしていました」
エサルが目を細めるのを見ながら、エリンは身を乗りだした。
「教導師長《きょうどうしちょう》さまは、保護場《ほごじょう》の王獣と野生《やせい》の王獣の違《ちが》いを調べろとおっしゃいましたよね。これは、ものすごく大きな違いです。この違いが、なぜ生じるのか知りたいんです。なぜ、保護場の王獣は鳴《な》かないんでしょう? なんで?
それに、リランはたしかに、わたしに問いかけたのです。なぜ、リランは、わたしに向かって鳴いたんでしょう? ……わたし、それを知りたいんです」
なにを考えているのか、エサルはロもとをなでながら、ぼんやりと書棚《しょだな》のあたりを見ていた。それから、ついっと視線《しせん》をエリンにもどした。
「……わかったわ。やってごらんなさい」
エサルは机の引き出しを引いて、中からなにか書かれている細い紙と銭袋《ぜにぶくろ》をとりだした。
「これを使いなさい。銅貨が五十枚ぐらい入っているわ。もし、足《た》りないようなら、この金銭保証書《きんせんほしょうしょ》を渡《わた》しなさい。カザルム学舎《がくしゃ》の金銭保証書だから、小粒銀《こつぶぎん》一枚ぐらいまでなら即金《そっきん》でなくても売ってくれるでしょう。でも、それ以上高いものは買ってはだめよ」
エリンは、うれしくて、さっと頭をさげた。
「どうもありがとうございます!」
エサルは、にこりともせずにうなずいた。
「あなたは、馬には乗れるの? 歩いていったら、二ト(約二時間)はかかるわよ」
「大丈夫《だいじょうぶ》です。乗れます」
「なら、用務《ようむ》の誰《だれ》かに頼《たの》んで、馬を借《か》りなさい。……気をつけて行くのよ。門限《もんげん》までには帰ってくるように」
「はい」
[#改ページ]
[#地付き]2 運命《うんめい》の曲がり角
手もとに影《かげ》が落ちた。
「……また妙《みょう》なもん、作りはじめたな。なんだ、そりゃ」
エリンは顔をあげなかった。竪琴《たてごと》の木枠《きわく》にそって皮を片面《かためん》全体にぴったりと張《は》るべきか、木枠に湾曲《わんきょく》させた竹をつけてから張るべきかで頭がいっぱいで、トムラの声は聞こえていても、頭の中に言葉として入ってこなかったのだ。
手に入れられた皮は、それほど多くない。判断《はんだん》を誤《あやま》ると、また買いにいかねばならない。
手間はかかるが、湾曲させた竹を二本、木枠の上端《じょうたん》と下端に渡《わた》して、その上に張れば、音の響《ひび》きの調整《ちょうせい》ができるだろう。それに、そちらのほうが皮を広めに使うから、あとで竹枠《たけわく》を外すことにしても、縮《ちぢ》めればいいわけで、皮の広さが足りなくなることはない。
「よし。……そうしよう」
エリンはつぶやいて、草地に敷《し》いた布の上から、細く割《わ》った竹をとりあげた。
これは竹細工《たけざいく》|職人《しょくにん》の工房《こうぼう》で手に入れたものだ。楽器職人の工房では、まだ毛をむしっていない、太鼓《たいこ》の革《かわ》用の牛皮と、すでに毛をむしって太鼓の胴《どう》に張《は》って乾《かわ》かしてあった革の二種類を、頼《たの》みこんで手に入れてきた。
音がよく響《ひび》くのは、もちろん毛をむしって、きれいに乾燥《かんそう》させてある革のほうだが、エリンはまず、まだ毛がついている皮のほうを使ってみようと思っていた。
王獣舎《おうじゅうしゃ》の中だと手もとが暗《くら》いし、さすがに、お日さまの光が恋《こい》しくなっていたので、作業《さぎょう》は王獣舎の脇《わき》の草地に布を敷《し》いて、その上で行うことにした。
よく晴れた、うららかな日だった。日の光を浴《あ》びていると汗《あせ》ばんでくるほどで、春が終わろうとしていることを感じさせる。
エリンは足の指で竹枠《たけわく》の下端《かたん》を押《お》さえ、上端を竪琴《たてごと》の木枠《きわく》の上端にあてると、そこに小刀《こがたな》の先で印をつけた。
弦《げん》だけでなく、木枠も竪琴の音に影響《えいきょう》する。こうやって細工《さいく》をすれば音は確実《かくじつ》に変わってしまう。もとの音は二度ともどってこないだろうと思うと、すこし惜《お》しい気がした。
黙々《もくもく》と作業《さぎょう》を続け、皮を張《は》りおえたころには、あたりが夕焼けに染《そ》まっていた。
左側に竹で膨《ふく》らみをつけた牛皮が張《は》られている竪琴を膝《ひざ》に抱《だ》くと、目をつぶって、弦《げん》をはじいてみた。
ロン……と鳴《な》った弦の響《ひび》きは、皮にこもって反響《はんきょう》し、くぐもった音に聞こえた。
エリンは目をつぶったまま、眉《まゆ》をひそめて、その音に耳を傾《かたむ》けた。
近い。 ──まえよりも、ずっと近い。かすかに音程《おんてい》がちがうけれど、響《ひび》き自体は、王獣《おうじゅう》の母がたてていた音と、とても似ている。
エリンの口もとに、ゆっくりと笑《え》みが浮《う》かんだ。
これなら、大丈夫《だいじょうぶ》かもしれない。微調整《びちょうせい》をしていけば、あの音に酷似《こくじ》した音まで、近づけることができそうだ。
つめていた息を吐《は》きだして、エリンは目をあけた。目がちかちかするし、後頭部《こうとうぶ》が張《は》ってしまって、かすかに頭痛がする。
エリンはあたりを見まわして、ふと首をかしげた。草原を、夕暮れの風が静かに渡《わた》っていく。なんとなく、トムラがそばに立っていたような気がしたけれど、思《おも》い違《ちが》いだったのだろうか。
実際には、トムラは、なにを問いかけても生返事《なまへんじ》しかしないエリンに呆《あき》れはてて、とっくに宿舎《しゅくしゃ》に帰っていたのだが、エリンは、いつトムラが脇《わき》に来て、いつ帰ったのかも覚えていなかった。
座《すわ》りつづけていたので、腰《こし》と膝《ひざ》がこわばってしまっている。エリンは痛《いた》みに顔をしかめながら立ちあがった。そして、できあがったばかりの試作品《しさくひん》を抱《だ》いて、王獣舎《おうじゅうしゃ》のほうを見た。
リランの身体《からだ》のことを考えれば、いますぐ試《ため》してみたほうがいい。そう思うのに、どうしても、足が動かなかった。
これもまた、なんの効果《こうか》もなかったら……。
エリンは、ため息をついた。今日はやめよう。明日の朝、明るくなってからにしよう。どうせ、リランはそろそろ眠《ねむ》りにつく時刻《じこく》だ。
気持ちが後ずさりしているのだとわかっているけれど、エリンは黙々《もくもく》と道具を片づけて、夕食を食べに宿舎《しゅくしゃ》にもどっていった。
*
「エサル師! ……エサル師!」
戸の外から呼びかける切迫《せっぱく》したトムラの声に、エサルは書きものをしていた手をとめて顔をあげた。
「入りなさい」
答えるのとほほ同時に、戸が乱暴《らんぼう》に引きあけられた。とびこんできたトムラの顔は血の気がなく、頬《ほお》のところだけ赤かった。
「なにごとなの?」
顔をしかめて問いただしたエサルに、トムラは唇《くちびる》をふるわせて答えた。
「……食べています。リランが、餌《えさ》を食べています」
エサルは、目を見開いた。
「なんですって?」
「来てください。とにかく……来てください」
エサルは立ちあがり、足踏《あしぶ》みをしかねない様子で待っているトムラを促《うなが》して、部屋を出た。
裏の王獣舎《おうじゅうしゃ》が見えてきたとき、まず目にとびこんできたのは、壁《かべ》に大きくあいた穴だった。エサルの視線《しせん》に気づいて、トムラがあわてて釈明《しゃくめい》した。
「あ……申しわけありません。お伝えするのが遅《おそ》くなりましたが、昨日、壁の穴を広げました。エリンが、そうしてほしいと言ったもので」
「あんなに大きな穴をあけて、リランは大丈夫《だいじょうぶ》なの?」
「はい。まったく怯《おび》えていません。いまは、光に怯えることはないです」
エサルは唇《くちびる》をきゅっと結《むす》んで、王獣舎の戸口に近づいた。
王獣舎の中は、ふつうの王獣舎より明るいくらいだった。ぷんと糞尿《ふんにょう》の臭《にお》いが鼻をついたが、その臭いについてなにか思うよりさきに、目の前の光景に、心ノ臓をつかまれるような衝撃《しょうげき》を感じて、エサルは足をとめた。
エリンが、格子《こうし》の向こう側にいる。
手に奇妙《きみょう》なものを持って、静かにロン、ロンと音をたてながら、リランに対峙《たいじ》している。
リランは、大きく首を上下にふっている。脚《あし》で押《お》さえつけた肉を食いちぎっては、のみこんでいるのだ。
息をすることも忘《わす》れて、エサルは、その光景《こうけい》を見つめていた。
明るい初夏の光が射《さ》しこんで、汚よご《》れた藁《わら》と、リランの巨体《きょたい》と、その肩《かた》のあたりまでしかない小さなエリンの身体《からだ》とを浮《う》かびあがらせている。リランが頭を動かすたびに、細かな埃《ほこり》が、その動きにつられるように舞《ま》っていた。
エリンは無表情《むひょうじょう》だった。目を半《なか》ば伏《ふ》せて、ただ自分がたてている音に耳を傾《かたむ》けている。
リランは、肉塊《にくかい》の最後の一片《いっぺん》をのみこむと、甘《あま》えるように、シャシャシャと鳴《な》いた。
エリンは、それに応《こた》えるように、ロン、ロロン……と竪琴《たてごと》を鳴《な》らしながら、ゆっくりと後ずさり、ちょっと頭をさげて、格子《こうし》の戸をくぐった。
エリンは格子の戸を閉めなかった。そのまま格子のこちら側に立って、小さく、ゆっくりと弦《げん》を鳴《な》らしている。
その音に合わせるように、かすかに首をふっていたリランの目が、やがて、眠《ねむ》そうな、とろんとした色に変わった。お腹《なか》がいっぱいになった幼子《おさなご》そのものの、安心しきった表情だった。
リランが目を閉じると、エリンはそっと竪琴《たてごと》を下におき、格子《こうし》の戸を閉めた。
竪琴をとりあげて、こちらを向いたエリンの目に、初めて、表情が表れた。エサルを見つめているその目に、みるみる涙《なみだ》が盛りあがった。
声をたてずに涙を流しながら、エリンはエサルのそばへ行き、三人は黙《だま》って、王獣舎《おうじゅうしゃ》の外へ出た。
細かくふるえているエリンの腕《うで》を、エサルは、そっと握《にぎ》った。
「……やったわね」
それしか言えなかった。
エリンは、ぼろぼろと涙を流しながらうなずいた。
三人は王獣舎《おうじゅうしゃ》の脇《わき》の草原に、腰《こし》をおろした。
「───では、あなたが考えたとおりだったのね。この竪琴の音に、リランが反応したのね」
エリンが抱《だ》いている、手作りの皮張り竪琴に触《ふ》れながら、エサルがつぶやいた。
「はい。……一昨日《おととい》の朝、リランの前でこれを鳴らしてみたら、びっくりしたように、わたしを見たんです。そして、鳴《な》き声をたてました。まるで、応《こた》えているみたいに」
「それで? それから、どうしたの?」
「その鳴《な》き声に、応《こた》えてみました」
エサルは眉《まゆ》をひそめた。
「どうやって? ……どの音がなにを意味するのかを、あなた、知っていたの?」
エリンは涙《なみだ》の跡《あと》をぬぐいながら、首をふった。
「いいえ。でも、野生《やせい》の王獣《おうじゅう》の母親が、よくたてていた音で、耳に残っていた音があったので、その音を再現《さいげん》してみたんです」
エリンは皮張り竪琴《たてごと》を持ち直し、ロン、ロロン、ロン……ロン、ロロン、ロン、と弾《ひ》いてみせた。
「王獣の母は、巣《す》で幼獣《ようじゅう》を胸に抱《だ》いているとき、よくこの音をたてていました。だから、とりあえず、その音をまねてみたんです。そうしたら……リランが、甘《あま》え声《ごえ》をたてたんです」
エサルは身を乗りだした。
「シャシャシャっていう声ね? あんな声は初めて聞いたわ。あれは、甘え声なの?」
「そうだと思います。野生の幼獣は、母親の胸に顔をこすりつけながら、よくああいう声をたてていましたから……」
一昨日《おととい》の朝から、エリンは、一日のうちに何度か、リランに皮張り竪琴の音を聞かせた。王獣の母親が子をあやしてやるように、落ちつきなさい、大丈夫《だいじょうぶ》よ……という気持ちをこめて。
そのたびに、リランはシャシャシャと甘《あま》え鳴《な》きをした。そして、エリンに近づこうとするように、格子《こうし》に頭をこすりつけるようになった。そうやって甘えているときに、トムラに頼《たの》んで、壁《かべ》の穴を大きくしてみたのだ。
全身に光を浴《あ》びても、もはや、リランは気にしなかった。
それだけではない。エリンが食事などで王獣舎《おうじゅうしゃ》を離《はな》れて、もどってくるたびに、リランは、野生の幼獣が、母親が巣《す》にもどってきたときにやるのとそっくりの仕草《しぐさ》で、甘《あま》え声をたてながら翼《つばさ》をゆするようになったのだ。
今朝、エリンはリランが餌《えさ》をねだる仕草をしているのに気づいて、呆然《ぼうぜん》と立ちつくした。
いまだ。 ──いまなら、きっと餌を食べる。
しかし、竪琴《たてごと》を弾《ひ》きながら、ヤスの先につけた肉塊《にくかい》をふるのは無理だった。迷《まよ》ったが、この一瞬《いっしゅん》を逃《のが》したら、もう二度と、こんな機会《きかい》は巡《めぐ》ってこないかもしれないと思った。
決心がつくよりさきに、身体《からだ》が動いていた。格子《こうし》の戸をあけて餌《えさ》の新鮮《しんせん》な肉塊を中に入れてから、リランを落ちつかせるように竪琴を弾《ひ》きながら、エリンも中に入った。
そして、いったん竪琴を脇《わき》にはさんで、肉塊《にくかい》をリランの目の前まで持ちあげてみせてから、すうっと、足もとにおろした。
まえと同じように、リランはつられて頭を足もとまでさげ、肉塊《にくかい》の匂《にお》いを嗅《か》いだ。そして、顔をあげ、エリンを見ながら、問いかけるように、ロン、ロン、ロン……と鳴《な》いた。
エリンは息をつめて、竪琴《たてごと》の弦《げん》に指をおくと、ロン、ロロン、ロン……と返した。
その瞬間《しゅんかん》、リランの目が鮮烈《せんれつ》な光を宿《やど》した。まるで心を縛《しば》っていたなにかがはじけとんだかのようだった。そして、ものすごい勢《いきお》いで肉塊にかぶりつくと、噛《か》み裂《さ》いて、のみこみはじめたのだった。
食い入るように話を聞いていたエサルは、ぎゅっと顔をしかめた。
「……なんということを! 今回は奇跡的《きせきてき》に大丈夫《だいじょうぶ》だったけれど、硬直《こうちょく》していない王獣《おうじゅう》のそばに近寄るなんて、とんでもないことよ」
厳《きび》しい声で言われて、エリンは首をすくめた。
「はい。 ──やってしまったあとで、わたしもそう思いました。申しわけありません」
ゆっくり首をふりながら、エサルは、ため息をついた。
しばらく、誰《だれ》も、なにも言わなかった。渡《わた》ってきた風が、梢《こずえ》を鳴《な》らしていく音だけが、静かな草原に響《ひび》いている。
「とんでもない……」
ぽつんと、エサルがつぶやいた。
また怒《おこ》られるのかとエリンは身構《みがま》えたけれど、エサルの表情はおだやかだった。
自分を見ているエサルの目に感嘆《かんたん》の色が浮かんでいるのを、エリンは不思議《ふしぎ》な思いで見ていた。
エサルは、かすれ声で言った。
「……とんでもない子だわ、あなたは」
エサルは、ささやくように言った。
「これまで、誰《だれ》もやったことのないことを、あなたはやったのよ……」
ずっとあとに、エリンは何度も思ったものだ。 ──いったい自分はいつ、決定的《けっていてき》な曲がり角を曲がったのだろうと。
リランを任《まか》せてくれとエサルに申しでた、あの午後だろうか。それとも、リランに応《こた》えるために、竪琴《たてごと》を使ってみようと思いついたあの夜だろうか。それとも……と。
そして、いつも、ひとつの思いに辿《たど》りつく。
曲がり角はひとつではなかった。運命《うんめい》によって強引《ごういん》に曲がらされた角もあり、自分で切り開いてしまった道もあったのだと。
そして、この朝、エリンは確実《かくじつ》に、大きな運命《うんめい》の曲がり角を曲がってしまったのだった。
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[#地付き]3 教導師《きょうどうし》たちの決定
初夏の光の中へ、リランが出ていったのは、餌《えさ》を口にしてから三日後のことだった。
長い絶食《ぜっしょく》のあとだったから、ちゃんと肉が消化《しょうか》できるかどうか心配だったが、王獣《おうじゅう》の身体《からだ》は頑健《がんけん》で、リランは餌をもどすことも、腹を下《くだ》すこともなく、順調《じゅんちょう》に活力《かつりょく》をとりもどしていった。
用務《ようむ》の男衆の手で、格子《こうし》の向こう側の、王獣用の引き戸があけられると、リランは多少おぼつかない足取りながらも、自分から草原へととびだしていった。
カザルム高地の王獣|保護場《ほごじょう》は、主に草原地帯だったが、奥《おく》のほうには森林と渓流《けいりゅう》もある。王獣舎《おうじゅうしゃ》のそばの草原には、ところどころ、地下水が湧《わ》きだしている大きな池があり、王獣たちの格好《かっこう》の水|浴《あ》び場になっていた。
エリンたちが遠巻きに見守るなか、リランはそういう池のひとつに、よたよたと向かっていった。そして、池の縁《ふち》にしゃがみこんで水を飲んでから、見ているほうがぎょっとするくらいの思いきりのよさで、ジャッポンと池にとびこんでしまった。
あまりに気持ちよさそうに、盛大《せいだい》に水をはねあげて水浴しているので、エリンもトムラも、エサルさえも、思わず笑顔《えがお》になった。
「王獣《おうじゅう》は、きれい好きだからな。まずは、風呂《ふろ》ってわけだ」
トムラは笑いを含《ふく》んだ声でそう言った。
「溺《おぼ》れないかしら……」
エリンが言うと、トムラは首をふった。
「あの池は浅いから心配ないよ」
エサルも、まぶしそうに目を細めてリランを見ていたが、ひとつうなずくと、言った。
「もう大丈夫《だいじょうぶ》なようね。さあ、リランが外にいるあいだに、王獣舎《おうじゅうしゃ》の掃除《そうじ》をなさい。わたしは会議があるから、もどるわ。なにかあったら、すぐに連絡《れんらく》するように」
「はい」
きびきびした足取りでエサルが林の奥《おく》へ消えるのを見送ってから、トムラはまた、リランのほうへ目を向けた。
リランがはねあげる水しぶきが、明るい日射《ひざ》しで、宝石の粒《つぶ》のように輝《かがや》いている。
思う存分《ぞんぶん》水|浴《あ》びをしたリランは、やがて、水を滴《したた》らせながら草地にあがり、日だまりにしゃがみこんで、心地《ここち》よさそうに目を閉じた。
「夢みたいだな。……リランが、お日さまの光を浴びている」
トムラは、リランをながめながら、つぶやくように言った。
「おまえは、すごいよ。おれ、素直《すなお》にそう思うわ」
びっくりして、エリンはトムラの横顔を見上げた。
「ほんとに、やっちまうんだもんなあ」
トムラは眉《まゆ》をあげて、エリンを見下ろした。
「たとえ、|霧の民《アーリョ》の秘法《ひほう》を使ったんだとしても……」
「わたし、そんなもの……」
顔をしかめて言いかけたエリンを、トムラは手をあげてさえぎった。
「最後まで聞けよ。おれが言いたいのはな、おまえが、たとえ|霧の民《アーリョ》の秘法かなにかを知っていて、それを使ったんだとしても、それでも、やっぱり、おれはおまえを尊敬《そんけい》するってことなんだからよ」
エリンは瞬《まばた》きをした。トムラは、おだやかな顔で言った。
「おれが尊敬するのは、おまえの熱意《ねつい》だよ。 ──おまえの、とんでもない熱意だよ。
この十二日間、おまえは、ただひたすら、リランのことだけを考えていたもんな。ここまでひとつのことに没頭《ぼっとう》するやつ、おれは、初めて見たよ」
苦笑《くしょう》しながら、トムラは言葉をついだ。
「発想《はっそう》もすごい。……おれ、今回つくづく思った。人にどう思われるか気にしていると、発想も縮《ちぢ》こまるんだな。おまえは、そういうことに、信じられないくらい無頓着《むとんちゃく》なんだよなあ。突拍子《とっぴょうし》もないことを言いだして、笑《わら》われるんじゃないかとか、まったく考えない。だから、人が思いつかなかったことが、できるんだな」
エリンはどういう顔をしてよいかわからず、うつむくしかなかった。
トムラは大きな手で、エリンの肩《かた》を、ぽんぽんと叩《たた》いた。
「…さて、それじゃ、大掃除《おおそうじ》にとりかかるか。おれが寝藁《ねわら》を掻《か》きだすから、おまえは、水を流してくれ」
驚《おどろ》いて、エリンは顔をあげた。
「え……あの、寝藁は、わたしが……」
トムラは笑った。
「いいよ。おれのほうが早い」
すたすたと倉庫のほうへ歩いていくトムラの、あとを追って歩きだそうとして、エリンは、ふと足をとめ、もう一度、リランをふり返った。
初夏の日射《ひざ》しを浴びて、うつらうつらしている幼《おさな》い王獣《おうじゅう》を見ると、お腹《なか》のあたりから温《あたた》かいものが湧《わ》きあがり、身体《からだ》の隅々《すみずみ》にまで広がっていくのを感じた。
リランが、お日さまの光の中にいる。……とまっていた時が、動きはじめたのだ。
エリンは笑顔《えがお》になって、トムラのあとを小走りに追っていった。
*
教導師長室《きょうどうしちょうしつ》は、さほど広くないので、会議のために十人の教導師が勢揃《せいぞろ》いすると、いささか息苦《いきぐる》しい感じになる。
それでも、エサルは、だだっぴろい講義室《こうぎしつ》でやるよりも、気持ちが集中できるからと、会議は必ずこの部屋で行っていた。
エサルが部屋にもどったときには、すでに教導師《きょうどうし》は全員集まっていた。急な召集《しょうしゅう》に戸惑《とまど》っている者が、事情を知っている教導師長|補佐《ほさ》から説明を受けている最中だったようで、エサルが入っていくと、全員が、やや興奮《こうふん》した顔でエサルを見た。
「お待たせして悪かったわね」
エサルが自分の机につくと、教導師長補佐のヤッサが、声をかけてきた。
「うまく、野に出ましたか?」
「ええ。多少よたよたしていたけれど、自分から野に出て、水|浴《あ》びに行ったわ」
「それはよかった!」
ヤッサが、うれしそうに微笑《ほほえ》んだ。
エサルは皆《みな》を見まわした。
「すでにヤッサ師から説明《せつめい》があったと思うけれど、リランが餌《えさ》を食べるようになって、順調《じゅんちょう》に回復《かいふく》しつつあるわ。今日はそのことで、すこし話し合わねばならないことがあるので、集まってもらったのよ」
そこでいったん言葉を切り、再びロを開こうとしたエサルを、中年の教導師《きょうどうし》がさえぎった。言葉に毒《どく》があるので、学童《がくどう》たちから敬遠《けいえん》されている、ロサという男だった。
「お話をいただくまえに、ひとつよろしいですかな」
「どうぞ」
「教導師長|補佐《ほさ》のご説明は、まだ途中《とちゅう》だったのですが、学童たちがさかんにしている、ばかばかしい噂《うわさ》はご存じですか」
「どんな噂?」
「|霧の民《アーリョ》の娘《むすめ》が、秘法《ひほう》を用《もち》いてリランを治療《ちりょう》したという噂です。
ばかばかしいと一喝《いっかつ》しておきましたが、こういう噂が出るのも、失礼ながら、教導師長《きょうどうしちょう》が、まだ中等二段の小娘を特別|扱《あつか》いされて、幼獣《ようじゅう》の世話係に抜擢《ばってき》したからではと愚考《ぐこう》するのですが、いかがですか」
エサルは、片頬《かたほお》をゆがめて笑った。
「そうね。噂《うわさ》が流れているのはそのせいでしょう。でも、少なくともリランの命を救《すく》うという点では、わたしの判断《はんだん》は間違《まちが》っていなかったわ」
ロを開きかけたロサを、エサルは手をふってさえぎった。
「質問や意見はあとで聞きましょう。まず、前後関係を説明《せつめい》するわ」
教導師《きょうどうし》たちが、居住《いず》まいを正した。
「リランの心身の不調《ふちょう》の原因と症状《しょうじょう》は、皆《みな》、よく知っているから、いまさら確認《かくにん》する必要《ひつよう》はないでしょう。極度《きょくど》に光を恐《おそ》れ、餌《えさ》も特滋水《とくじすい》も受けつけない状態《じょうたい》がひと月以上続いていて、あと半月、その状態が続けば、命が危《あぶ》なかった。皆で何度も話し合ったけれど、結局、打開《だかい》の糸口はなかった。 ──そうだったわね?」
全員がうなずくのを見て、エサルは続けた。
「わたしが、中等二段の学童《がくどう》を特別にリランの世話係《せわがかり》に抜擢《ばってき》したのは、彼女の知識に、打開の糸口を見たからです。彼女が|霧の民《アーリョ》だからではなく……」
ロサを見つめながら、エサルは言った。
「彼女が、野生《やせい》の王獣《おうじゅう》を観察《かんさつ》した経験《けいけん》があったから」
教導師たちがざわめいた。初耳だった者が大半だったからだ。エサルが口を閉じて皆を見まわすと、教導師たちは、静まっていった。
「彼女───エリンは野生の王獣を観察した経験があった。それに、あの子を教えている者ならもう気づいていると思うけれど、長年タムユアンの教導師長を務《つと》められたジョウン師が目をかけただけあって、あの子は、とびぬけた発想力《はっそうりょく》と観察力を持っているわ。通常の発想では手詰《てづ》まりであるなら、あの子にやらせてみるのも悪くないと思ったのよ」
ロサは、苦虫《にがむし》を噛か《》みつぶしたような顔をしていたが、数人の教導師《きょうどうし》───エリンの指導《しどう》をしたことのある教導師はうなずいていた。
「エリンはまず、リランが光に怯《おび》える理由に気づいた。
母親に抱《だ》かれて巣《す》の中にいる幼獣《ようじゅう》にとって、光は足もとから射《さ》してくるもの。頭上からいきなり明るくなるのは、母親がいなくなった状態《じょうたい》を意味するのではないかと気づいたのよ。
そこで、エリンは、王獣舎《おうじゅうしゃ》の壁《かべ》の下側をはがしてもいいかと問うてきた。卓見《たっけん》だと思ったから、許可《きょか》したわ。 ──エリンの考えはあたっていた。リランは、下から徐々《じょじょ》に広がってくる光には、怯《おび》えなかったのよ」
教導師たちの顔に、驚《おどろ》きの色が浮《う》かんだ。彼らにうなずきかけて、エサルは続けた。
「そう。このことひとつをとっても、エリンの発想力《はっそうりょく》が、どのくらい優《すぐ》れているか、わかるでしょう。………恥《は》ずかしながら、わたしはあの子が壁の下側をはがしたいと言いだすまで、光の角度については気にしてもいなかったわ」
エサルの目に、苦《にが》い笑《え》みが浮かんだ。
「だけど、これは、発想力の差《さ》というより、知識の差といえるかもしれない。あの子は、野生《やせい》の王獣《おうじゅう》を観察《かんさつ》したことがあった。だから、野生の王獣の母子が、どんな巣《す》に、どんなふうにいるのかを知っていた。……わたしたちは、そんなことすら知らなかった。真王《ヨジェ》から王獣《おうじゅう》を預《あず》かっているわたしたちが、そんなことすら、知らなかったのよ」
重苦しい沈黙《ちんもく》が落ちた。
「しかし、それは……」
教導師長|補佐《ほさ》のヤッサがつぶやいた。エサルは、先を聞かずにうなずいた。
「そう。それは、しかたのないことだわ。王獣の扱《あつかい》いに関しては、王獣規範《おうじゅうきはん》に沿《そ》うことを、わたしたちは厳《きび》しく義務《ぎむ》づけられているからね。
真王《ヨジェ》の王権の象徴《しょうちょう》たる王獣を人の手で保護《ほご》する場合は、あの規範《きはん》に沿わねばならない。餌《えさ》としてなにを与《あた》え、どういう寝藁《ねわら》を使うかまで、あの規範は細かく定めている。特滋水《とくじすい》を与え、近づく場合には必ず音無し笛を使うよう決められている……」
エサルは、一人一人を見つめた。
「だからこそ、わたしたちは、王獣を育《そだ》てるときに、それ以外のやり方があるとは、思ってもみなかった。新しい発想《はっそう》など、思《おも》い浮《う》かべる余地《よち》もなかったのよ。
でも、まだ中等二段のエリンは、王獣規範を知らない。あの子の心の中にある王獣の姿は、かつて養父《ようふ》のジョウンと深山《しんざん》に入ったときに見た、野生《やせい》の王獣《おうじゅう》の姿だった。だから、あの子は、人に飼《か》われている王獣としてではなく、野生の王獣と同じ生き物として、リランを扱《あつか》ったのよ。母親といるとき、幼獣《ようじゅう》はどうやって餌をねだり、どんなふうに安心を得ているのかを考え、そこから発想していった……」
エサルは腕《うで》をさすった。
「鳥肌《とりはだ》が立ったわ。 ──あの子は、音無し笛を使わずに、自分で工夫した竪琴《たてごと》で母親の鳴《な》き声をまねた音を奏《かな》でて、触《ふ》れられるくらいの距離《きょり》で、リランに餌《えさ》をやっていたのよ」
皆《みな》の顔に、驚愕《きょうがく》の色が浮《う》かんだ。ロサが、うわずった声をたてた。
「……まさか、そんなことが! では、学童《がくどう》たちの噂《うわさ》は真実だったのか。やはり、あの娘《むすめ》は、|霧の民《アーリョ》の秘法《ひほう》を使って……」
「ロサ師」
エサルがうんざりした顔で言った。
「あなた、わたしの話をひとつも聞いていなかったの?」
ロサは、むっとして訊《き》き返《かえ》した。
「え? それはどういう意味ですか」
「言ったとおりの意味よ。わたしがこれまで、エリンがどうやって発想してきたのかを詳《くわ》しく話したのは、なんのためだと思っているの? あの子がリランを癒《いや》したのは、|霧の民《アーリョ》の秘法なんかじゃなく、わたしたちのように王獣《おうじゅう》|規範《きはん》に囚《とら》われることなく、野生の王獣についての知識から発想していったからなのだと、説明したつもりなのだけれど?」
ロサは真っ赤になった。
「そんなことは、わかっています。しかしですな、竪琴《たてごと》で母親の鳴《な》き声をまねるなど、ただ発想しただけで、できることではありますまい!」
エサルの目が、かすかにゆれた。それを目ざとく認めて、ロサは声を高めた。
「そうでしょう? ちがいますか。特別な技《わざ》を持っていなければ、できないことだ。やはり、なにかあるのですよ。|霧の民《アーリョ》が伝えているそういう技が……」
エサルは手をふって、ロサの演説《えんぜつ》をとめた。
「待ってちょうだい、ロサ師。あなたがそう思うのは、もっともだわ。……というか、そういう考え方をする人がいるだろうと思って、今日は集まってもらったのよ」
エサルは厳《きび》しい表情で皆《みな》を見つめた。
「エリンが音無し笛を使うことなく、竪琴《たてごと》を使って王獣《おうじゅう》と意を通じたという事実を、王宮にご報告《ほうこく》すべきか否《いな》か、このことを、至急《しきゅう》に話し合っておかねばならない。 ──そう思ったのよ」
教導師《きょうどうし》たちがざわめいた。隣《となり》の同僚《どうりょう》と顔を見合わせ、ささやき交《か》わす声が部屋に満ちた。そのざわめきを掻《か》き分《わ》けるように手をふって、ロサが甲高《かんだか》い声で言った。
「そんなことは考えるまでもないでしょう? これほどの重大事を、王宮に告《つ》げずにすますわけにはいきませんよ」
エサルは机を叩《たた》いて、静粛《せいしゅく》を促《うなが》した。潮がひくように、ざわめきが消えていくのを待ってから、エサルは口を開いた。
「このことを王宮に告《つ》げたら、なにが起こるか、冷静《れいせい》に考えてみて。
これまで、王獣《おうじゅう》はけっして人に馴《な》れぬ獣《けもの》だと考えられてきた。操《あやつ》る術《すべ》はただひとつ、音無し笛で硬直《こうちょく》させること。それすら、ただ硬直させるだけで、意を伝えられるわけではない。
エリンは、そういう王獣についての概念《がいねん》を根底《こんてい》から覆《くつがえ》してしまった……」
「だからこそ───」
割《わ》って入ったロサを、エサルはいきなり怒鳴《どな》りつけた。
「黙《だま》って、人の話を最後までお聞きなさい!」
その声の、あまりの激《はげ》しさに、一同はびくっと背を伸《の》ばした。
エサルは燃えるような目でロサを睨《にら》みつけながら、堰《せき》を切ったように話しはじめた。
「王宮にこの事実を告《つ》げれば、当然、大騒《おおさわ》ぎが起きるわ。王獣|規範《きはん》に沿《そ》わなかったことで、わたしは厳《きび》しく断罪《だんざい》されるでしょう。それは甘《あま》んじて受けてもいい。釈明《しゃくめい》の方法ぐらい、最初から考えてあるわ。
わたしが一番心配しているのは、エリンのことよ。わたしたちが責任を持って預《あず》かった学童《がくどう》のことを心配しているのよ!」
パンッと机を叩《たた》いて、エサルは怒鳴《どな》った。
「あの子は、なんの悪気もなく、ただひたすら、リランを助けたいと思って、十二日間も王獣舎《おうじゅうしゃ》で寝起《ねお》きをして、その努力の末に、素晴《すば》らしい成果《せいか》をあげた。たとえようもない、素晴らしい成果だわ!
でもね、ロサ師が思ったように、多くの人は、それをあの子の努力の成果とは考えないでしょう。あの子の目の色と───|霧の民《アーリョ》の血をひいていることと結《むす》びつけて、考えてしまうにちがいないわ」
エサルの顔に、苦痛《くつう》をこらえているような表情が浮かんだ。
「もし、ほかの者が、エリンと同じように竪琴《たてごと》を鳴《な》らすことで、リランを操《あやつ》れるなら、わたしはこれほど不安になっていなかった。……でもね、わたしやトムラも試《ため》してみたけれど、同じ弦《げん》を同じ調子《ちょうし》で鳴《な》らしているのに、リランは耳を傾《かたむ》けているだけで、エリンに見せるような反応《はんのう》をしなかったのよ」
教導師《きょうどうし》たちの顔に、複雑《ふくざつ》な表情《ひょうじょう》が浮《う》かぶのを、エサルは右手をこめかみにあてながら見ていた。
「……そう。あなた方が、いま胸の中で思ったように、この事実を知れば、やはり、エリンは特別なのだと感じてしまう。
でもね、たぶんそうではないのよ。獣《けもの》ノ医術師《いじゅつし》として冷静《れいせい》に考えてみてちょうだい。
リランにとって、エリンはたしかに特別な存在《そんざい》になっている。だけど、それは、エリンが|霧の民《アーリョ》の血をひいているからではないわ。そうではなくて、リランにとって、エリンは、母親を思わせる存在になってしまったからなのよ。
考えてみて。リランは生まれ直したようなものなのよ。呼びかけても応《こた》えてくれる母親のいない、不安な闇《やみ》の中にいたリランに、母と同じように応じてくれたのが、エリンだった。安心させながら餌《えさ》を食べさせてくれたのが、エリンだったのよ」
髭《ひげ》をなでながら、ヤッサがつぶやいた。
「一種の、刷《す》り込《こ》みですか」
エサルはうなずいた。
「たぶん。王獣《おうじゅう》の生態《せいたい》に関するわたしたちの知識は限られているから、たしかなことは言えないけれど、少なくとも可能性《かのうせい》としては、それが一番高いと思うわ」
若い教導師《きょうどうし》が、考えこみながら口を開いた。
「しかし、ほかの王獣たちも幼獣《ようじゅう》の時期《じき》に連れてこられて世話《せわ》をされていますが、一度も、そういう刷《す》り込《こ》みのような事例《じれい》は報告されていませんよね」
エサルはほつれ髪《かみ》を掻《か》きあげながら、その若い教導師に目を向けた。
「あなたは、幼獣に餌《えさ》をやるとき、どういう手順《てじゆん》でやっていた?」
若い教導師は、なぜそんな当然のことを訊《き》かれるのだろう、という表情を浮《う》かべた。
「……幼獣が王獣舎《おうじゅうしゃ》の外にいるあいだに、王獣舎に餌《えさ》をおいておきます。雨の日など、幼獣を外に出せない場合は、音無し笛を吹《ふ》いて、硬直《こうちょく》させてから、餌をおいてやります」
エサルはうなずいた。
「そうよ。幼獣《ようじゅう》の身になって想像《そうぞう》してごらんなさい。自分がいないあいだに巣《す》に餌《えさ》がおかれている───あるいは、硬直《こうちょく》しているあいだに、目の前に餌が現れるのよ? 幼獣がわたしたちを、餌をくれる母親だと認識《にんしき》するはずがないじゃないの」
「ああ……」というつぶやきが、教導師《きょうどうし》たちのロから漏《も》れた。
エサルは、静かな声で言った。
「わたしたちは一度として、王獣と親密《しんみつ》な触《ふ》れ合《あ》いをしていないわ。彼らを何十年も世話《せわ》し、その死を看取《みと》ってきたのに、ただの一度も愛馬や愛犬と触《ふ》れ合うような付き合いをしていない。……王獣《おうじゅう》|規範《きはん》に沿《そ》って王獣の世話《せわ》をするかぎり、わたしたちは、彼らと触《ふ》れ合うことはないのよ」
これまで考えたことのなかった事実が、ふいに見えてきたのだろう。教導師たちは声をなくして、呆然《ぼうぜん》とエサルを見つめていた。
「王獣規範を知らなかったエリンは、犬や馬とつきあうような気持ちで、リランの世話《せわ》をしようとした。その結果、この国で初めて、王獣と絆《きずな》をつくるのに成功《せいこう》してしまったのよ」
エサルの目の奥《おく》には、哀《かな》しみの色があった。
「でも、その成果《せいか》は、王宮の政治屋《せいじや》たちの目には、まったくちがう意味を持つものとして映《うつ》るはず。 ──彼らは、王獣《おうじゅう》を操《あやつ》ることができる、という事実に狂喜《きょうき》するでしょう。
そして、エリンを、特別な力を持つ存在《そんざい》として、政治的に利用しょうとするでしょう」
かすれた声で、エサルは続けた。
「ほかに代わる者がいない少女───|霧の民《アーリョ》の血をひいていると、ひと目でわかる少女を、彼らがどう扱《あつか》うか……。それを考えると、わたしは恐《おそ》ろしくてたまらない。
そうやって注目されれば、当然、大公《アルハン》側も、エリンに興味《きょうみ》を持つでしょう。この世で唯一《ゆいいつ》、闘蛇《とうだ》を食《く》らう生き物である王獣は、真王《ヨジェ》が、大公《アルハン》より力を持つ、真の王であることを示《しめ》す象徴《しょうちょう》なのよ? ……なにが起こるか、あなた方だって想像《そうぞう》がつくはずよ」
重い沈黙《ちんもく》が、部屋をおおった。
エサルはつぶやいた。
「こんな、突拍子《とっぴょうし》もないことをあの子がやってしまうと察《さっ》していたら、わたしは、あの子に、リランの世話《せわ》を任《まか》せたりはしなかった。 ──でも、後悔《こうかい》しても時はもどせない。わたしにできることは、これから、どうやってあの子を守ってやるか考え、方策《ほうさく》を見つけだすことだけ」
静かな声で、エサルは教導師《きょうどうし》たちに問いかけた。
「・…‥もう一度、尋《たず》ねます。あなた方は、リランとエリンのあいだに起こったことを、王宮に報告すべきだと思いますか」
*
昼間はよく晴れていたのに、日暮れごろから急に雲が広がって、夜は吹《ふ》き降《ぶ》りになった。
王獣舎《おうじゅうしゃ》の屋根を叩《たた》く雨音を聞きながら、エリンはいつものように床《ゆか》にしゃがみこんで、ぼんやりと、眠《ねむ》っているリランをながめていた。
夕食のときに、エサルは、学童全員に向かって、エリンがどうやってリランの回復《かいふく》に成功《せいこう》したか説明した。その説明はじつに明快で、|霧の民《アーリョ》の秘法《ひほう》がどうとかという噂《うわさ》を打ち消す力を持っていた。
説明《せつめい》を終えると、エサルは、全員に呼《よ》びかけた。
リランとエリンの話はカザルム学舎《がくしゃ》だけの秘密《ひみつ》にしよう。 ──外に漏《も》れ、王宮の人々がこの事実を知れば、エリンとリランは、きっと、なにかしら理由をつけられて、このカザルムから、正規《せいき》の王獣|保護場《ほごじょう》であるラザル王獣保護場へ移《うつ》されてしまうだろう。そのようなことが起きぬように、学舎の仲間と王獣を守ることを誓《ちか》ってほしい、と。
その言葉を聞くと、学童たちはいっせいに立ちあがった。教導師《きょうどうし》たちも立ちあがった。そして、胸に手をおいて、これを誓ってくれた。
食堂をゆるがす声を聞きながら、エリンは生まれて初めて、仲間に守られていることを感じた。ぎゅっと振《にぎ》りしめてくれたユーヤンの手、うなずいてくれた学童《がくどう》仲間たちの顔。全身が熱くなるほど、うれしかった。
しかし、夕食を終え、エサルに呼ばれて教導師長室《きょうどうしちょうしつ》に行ったとき、エリンはこの誓《ちか》いに隠《かく》された、もうひとつの意味を聞かされた。それは、肌寒《はだざむ》くなるような話だった。
王獣《おうじゅう》は、闘蛇《とうだ》を食《く》らう王権の象徴《しょうちょう》。そして、それを操《あやつ》ることができる自分は、真王《ヨジェ》にとっても、大公《アルハン》にとっても、大きな意味を持つ存在《そんざい》になってしまったのだと、エサルは言った。
リランと心を通わせることが、そんな意味を持つとは、思ってもみなかった。
まえに、エサルが、王獣は政治的《せいじてき》な獣《けもの》だと言った意味が、初めて、実感《じっかん》となって心に迫《せま》ってきた。エサルは、学舎《がくしゃ》の皆《みな》に、リランのことを秘密《ひみつ》にするよう誓《ちか》わせることで、自分を守ってくれたのだ……。
エリンは、手で顔をおおった。
くだらない、と思った。
王獣《おうじゅう》が闘蛇《とうだ》を食べるのは、馬が草を食べるのと同じ、ただ、そういうふうに生まれついているからだ。それを王権に結びつけて、うんぬんする大人たちの気が知れない。
頬《ほお》をふるわせて母を罵倒《ばとう》し、「闘蛇《とうだ》のお世話《せわ》をする者にとって、なにより大切なことは、大公《アルハン》へのゆるぎない忠誠心《ちゅうせいしん》を持っていることだ」と怒鳴《どな》った、監察官《かんさつかん》の顔が目に浮《う》かんだ。くだらないことを至上《しじょう》のこととしてふりかざし、母の命を奪《うば》った最低の男の顔が。
(お母さんは、きっと……)
祖父のように、闘蛇を大公《アルハン》のために育《そだ》てていたのではない。そんな気持ちで育てていたのなら、音無し笛や特滋水《とくじすい》を使うことを、厭《いと》わしく思いはしなかっただろう。
自分がリランに感じているような気持ちを、母も闘蛇に抱《いだ》いていたのではなかろうか。野に生まれた獣《けもの》が、野に生まれたように生きられることを願っていたのではなかろうか。
エリンは、顔からゆっくりと手を離《はな》した。湿《しめ》った夜気が頬をさすった。
なにがあっても、この気持ちを貫《つらぬ》きとおそう。真王《ヨジェ》や大公《アルハン》が、権力闘争《けんりょくとうそう》のためになにを望《のぞ》もうとも、そんなことは知ったことではない。危険な目にあう可能性《かのうせい》があるとしても、この気持ちは曲げない。
王獣《おうじゅう》|規範《きはん》とやらに、なにが書かれていようとも、野に生まれた王獣がロにするはずのない特滋水《とくじすい》など、絶対にリランには飲ませない。音無し笛で硬直《こうちょく》させて、世話《せわ》をするようなことも、絶対にしない。
母の話はしなかったけれど、エサルにも、この気持ちだけは伝えた。エサルはなにか考えこんでいるような暗い表情《ひょうじょう》をしていたが、約束だから、と了解《りょうかい》してくれた。
なにか腹に一物《いちもつ》ある、怖《こわ》い人だと思っていたエサルの顔に、その瞬間《しゅんかん》、遠い母の面影《おもかげ》が重なって見えたのが、不思議《ふしぎ》だった。
強い風が王獣舎《おうじゅうしゃ》をゆらし、ザーッと雨が壁《かべ》に吹《ふ》きつけてきた。
その音に驚《おどろ》いたのだろう。リランが、びくっと目をさまし、怯《おび》えたように喉《のど》を鳴《な》らしながら立ちあがった。そして、よたよたと格子《こうし》のところまで来ると、頭を格子にすりつけた。
エリンは思わず立ちあがって、格子から手を差し入れ、うんと伸《の》びをして頬《ほお》のあたりをさすってやった。初めて触《ふ》れた幼獣の体毛は、思っていたよりずっとやわらかかった。 リランは気持ちよさそうに目を細め、しきりに甘《あま》え鳴《な》きをしながら、エリンの手に自分の頬をすりつけた。
愛《いと》おしさがこみあげてきた。
リランを抱《だ》きしめてやれるくらい、大きな身体《からだ》が欲《ほ》しかった。……怯《おび》えているリランを抱きしめてやりたかった。
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[#地付き]4 最期《さいご》の便り
リランは、ぐんぐん成長していった。毎日、なにかしら変化に気がつくほどだった。
上の学段へ進めるかどうかを判定《はんてい》する(夏ノ試《ため》し)が近づいていたので、リランにかまってばかりいるわけにはいかなかったのだが、リランはエリンがいないと、エリンを捜《さが》して放牧場を哀《かな》しげに鳴《な》きながら走りまわるので、おちおち学業に専念《せんねん》していられなかった。
カザルム学舎《がくしゃ》には、学童《がくどう》を余分な年月、生活させられる余財《よざい》はない。落第した者は、学舎を去らねばならない。両親が裕福《ゆうふく》であれば、特別に一年分の費用《ひよう》を実費負担《じっぴふたん》して学舎に残してもらうこともできたが、エリンはそんなことをジョウンに頼《たの》むつもりはなかった。
ユーヤンが親身《しんみ》になって、遅《おく》れた分をとりもどす手伝いをしてくれたが、意外なことに、トムラもずいぶん助けてくれた。
トムラは(卒舎《そつしゃ》ノ試《ため》し)が近づいている身で、他人の世話《せわ》などしていられないはずだったが、「おれは優秀《ゆうしゅう》なんだ」という言葉に嘘《うそ》はないらしく、平然《へいぜん》とした顔で、エリンにも教科を教えてくれた。
(夏ノ試《ため》し)をなんとかのりこえると、長い休暇《きゅうか》がやってきた。
王獣《おうじゅう》たちや、近隣《きんりん》の牧場から預《あず》かっている病気の馬や牛などの世話《せわ》の当番期間以外は、学童《がくどう》たちは家に帰ることを許《ゆる》される。学童たちにとっては、家族に会えるうれしい期間だったし、夏の草取りなど、人手がすこしでも欲《ほ》しい農家の親たちも、子どもの帰りを待ちわびていた。
この時期は帰宅《きたく》が許《ゆる》されるのだと知ったとき、ジョウンに会いに王都に行ってみようか、という思いが頭をよぎった。けれど、すでに昔の暮らしにもどっているであろうジョウンが、どんなふうに自分を迎《むか》えるだろうと思うと、実行に移《うつ》す勇気が出なかった。
それに、リランのこともある。リランの世話《せわ》を誰《だれ》かに任《まか》せたら、音無し笛を吹《ふ》かれてしまうかもしれない。
結局、エリンはジョウンに手紙を書くだけにした。学舎《がくしゃ》での暮らし、ユーヤンとのことなど、長い手紙になったけれど、リランのことは書かなかった。万が一にも、あの息子《むすこ》の目に触《ふ》れたら大変だと思ったからだ。
ジョウンと別れてわずか数か月しかたっていないのに、二人で暮らした日々が、いまは遠い夢のように思えるのが、不思議《ふしぎ》で、哀《かな》しかった。
ユーヤンは、エリンと離《はな》れるのをしきりに寂《さび》しがりながら、遠い故郷《こきょう》へ帰っていった。秋には、また会えるとわかっていても、ユーヤンがいなくなると、部屋の中ががらんと広くなったようで、寂《さび》しかった。
トムラは一等で(卒舎ノ試《ため》し)に通り、獣《けもの》ノ医術師《いじゅつし》の資格《しかく》を手に入れた。秋から一年は、カザルムに残り、病気の獣たちの治療《ちりょう》を手伝いながら、身の振《ふ》り方《かた》を考えるのだと言っていた。一等をとった学童に与《あた》えられる特権として、教導師《きょうどうし》|見習《みなら》いとして学舎《がくしゃ》に残る資格もあるのだという。それも考えているのだと、淡々《たんたん》とした表情で話してくれた。
人が少なくなった夏の学舎はとても静かだった。カザルム高地は夏でも涼《すず》しいが、それでも盛夏《せいか》になると、草原を囲む森から、暑苦しい蝉《せみ》の声がひっきりなしに聞こえ、王獣舎《おうじゅうしゃ》を掃除《そうじ》していると、汗《あせ》まみれになる。
学業から解放《かいほう》されたエリンは、毎日、朝早くから夜|遅《おそ》くまで、リランとともに過ごした。そうやって、まるで親子か姉弟のようにリランと過《す》ごしているうちに、エリンは、ふと、とんでもないことに気がついた。
リランは、どうも、エリンの言葉を理解《りかい》しているようなのだ。──もちろん、人が人の言葉を理解するように、完全に理解しているわけではない。けれど、いくつかの言葉は、間違《まちが》いなく、わかっているようなのだ。
はっきりとそれに気づいたのは、王獣舎の掃除《そうじ》をしていたときだった。
掃除《そうじ》が終わらないうちに、王獣舎《おうじゅうしゃ》に入ってこようとしたリランに、なにげなく、
「入っちゃだめよ! まだ、掃除がすんでいないんだから!」
と怒鳴《どな》った瞬間《しゅんかん》、リランが戸口のところで立ちどまったのだ。
戸口から顔をのぞかせて、こちらを見ているけれど、入ろうとはしない。まさかと思いながらも、汗《あせ》を拭《ふ》き拭き掃除《そうじ》をすませて、餌《えさ》用の肉塊《にくかい》を床《ゆか》におき、
「いいわよ、入って」
と言ったとたん、リランは、いそいそと戸口をくぐって入ってきた。
うなじに鳥肌《とりはだ》が立った。 ──どう考えても、いまのリランの行動《こうどう》は、エリンの言葉を理解《りかい》していたとしか思えなかったからだ。
考えてみれば、それほど不思議《ふしぎ》なことではないのかもしれない。犬だって、待《ま》て、を教えることはできるのだ。王獣にそれができても、不思議ではない。
ふいに目の前に開けてきた新しい可能性《かのうせい》に、エリンは全身が痺《しび》れるような興奮《こうふん》を覚《おぼ》えた。
王獣《おうじゅう》は、どのくらい言葉を理解するのだろう? 竪琴《たてごと》の音と、言葉と、行動を組み合わせて教えていけば、もしかしたら、リランは多くのことを理解《りかい》してくれるかもしれない。
エリンは、その日から、リランに言葉を教える作業に没頭《ぼっとう》した。
やりはじめてみると、リランは、犬や馬よりもはるかに素早《すばや》く、はるかに敏感《びんかん》にエリンの言葉を理解《りかい》することがわかってきた。
それどころか、エリンがすることをじっと見ていて、まねをしようとするのだ。
エリンが、リランの思いを推《お》し量《はか》ろうと、常にその表情や仕草《しぐさ》、鳴《な》き声などに気をつけていたのと同じように、リランもまた、エリンの表情や仕草、声音《こわね》を気にしていたのかもしれない。
母と一対一で長い時を過ごしながら、この世での生き方を覚えていく王獣《おうじゅう》の子にとって、母の仕草《しぐさ》や声音《こわね》の意味を覚《おぼ》えるのは、大切なことなのだろう。 ──そう気づいたとき、エリンは、身がひきしまるような責任《せきにん》を感じた。
「……わたしが、母親代わりをしていて、いいのでしょうか」
悩《なや》んだ末にエサルに相談《そうだん》に行くと、エサルは真剣《しんけん》な表情でエリンの話を聞いてくれた。
話を聞き終えると、エサルは暗い表情になった。
「なるほどね……」
ぼんやりと顎《あご》をなでながら、エサルはしばらく黙《だま》っていたが、やがて、目をあげてエリンを見た。
「エリン。あなたが気にしているのは、あなたが母親代わりになってしまうと、リランが王獣《おうじゅう》としての生活の仕方や、意思の疎通《そつう》の方法を学べずに、人と暮らすのに都合《つごう》がよい方法ばかりを覚《おぼ》えてしまうのではないか、ということよね」
「はい。このまま続けていけば、わたしの言葉は覚えても、王獣《おうじゅう》の言葉は覚えられないことになります」
エサルの目に、哀《かな》しげな苦笑《くしょう》が浮《う》かんだ。
「エリン、それは、心配する必要《ひつよう》のないことだわ」
「え……、なぜですか?」
驚《おどろ》いて、エリンは問い直した。
エサルは静かに言った。
「リランは、ここで一生を終えるからよ。……あの子は、真王《ヨジェ》に捧《ささ》げられた獣《けもの》。野生《やせい》に帰ることは、絶対にないの。そのことを、あなたは忘れているわ」
胸を叩《たた》かれたようだった。
エリンはしばらく、なにも言えずにエサルを見ていた。
自分がお辞儀《じぎ》をして、エサルのもとを辞したことも、廊下《ろうか》を歩いたことも、エリンは覚《おぼ》えていなかった。
強烈《きょうれつ》な夏の日射《ひざ》しのもとにたたずんでいるリランを見た瞬間《しゅんかん》、激《はげ》しい哀《かな》しみがこみあげてきた。
音無し笛を使わなくとも、特滋水《とくじすい》を飲ませずとも、リランは結局《けっきょく》、野にあるようには、生きられないのだ。このまま、ここで一生を終えねばならないのだ。
涙《なみだ》があふれ、頬《ほお》を伝った。エリンは声をたてずに、泣いた。
ジョウンに出した便《たよ》りが、思いがけぬかたちで返ってきたのは、そのすこしあとのことだった。
夕刻、リランに餌《えさ》をやっていたとき、用務《ようむ》のおじさんがやってきて、エサル師が呼んでおられるから、教導師長室《きょうどうしちょうしつ》に急いで来るようにと言った。
あわてて手を洗って教導師長室に行き、戸の外からエサルに入室の許《ゆる》しを請《こ》うたが、中から聞こえてきた返事は、一瞬《いっしゅん》、エサルの声ではないように思えたほど、かすれた低い声だった。
中に入ると、エサルがじっとこちらを見ていた。目と、頬骨《ほおぼね》のあたりが赤かった。
「……エリン、ここへおいで」
言われて、そばに行くと、エサルは、机にのっている大きな包みの上から、薄《うす》い封書《ふうしょ》をとりあげて、エリンに渡《わた》した。
封書の表には、黒々とした達筆《たっぴつ》でエリンの名が書かれていた。裏返すと、差出人の名はトーサナ・アサンとなっていた。それを見た瞬間《しゅんかん》、胸にひんやりとしたものが走った。
ふるえる指で封《ふう》を切り、中の紙をとりだして広げた。最初の一行が目にとびこんできたとたん、頭が痺《しび》れたようになって、あとの文は、何度読んでも頭に入ってこなかった。
──昨日早朝、我《わ》が父トーサナ・ジョウンは、心ノ臓の病《やまい》により、死去《しきょ》しました──
その文だけが、頭の中で鳴《な》り響《ひび》き、目が文字の上を滑《すべ》っていく。
自分が、涙《なみだ》を流しているのに気づいたのは、エサルが、そっと自分の手から文《ふみ》をとったときだった。
「読んでもいい?」
エリンがうなずくと、エサルは、さっと文に目を通した。
「短い手紙ね。必要最小限のことしか書いていない。……心ない息子《むすこ》だこと」
エサルはため息をつき、手を伸《の》ばしてエリンの肩《かた》をつかんだ。
「……しっかりなさい」
かすれた、その声を聞いたとき、ジョウンが死んだのだ、ということが、胸の底におりてきた。
ジョウンの顔が、声が、心に浮《う》かんできた。
もう二度と、ジョウンに会えないのだ。
いつか、リランを見せて、驚《おどろ》かそうと思っていたのに。一等で卒舎《そつしゃ》して褒《ほ》めてもらおうと思っていたのに。そのとき、わたしを拾《ひろ》いあげて、育《そだ》ててくだきって、ありがとうと、わたしは、あなたに育ててもらって幸せでしたと、言おうと思っていたのに。
大切なことは、なにも伝えていない。なにも伝えられないまま、逝《い》かれてしまった……。
エリンは両手で顔をおおうと、声をあげて泣きはじめた。
机をまわって近寄ったエサルは、慣《な》れぬ仕草《しぐさ》で、エリンを抱《だ》きしめた。泣きやむまで、そうやって抱いていてくれた。
「……泣きなさんな。ジョウンは、あなたと暮らして幸せだったと言っていたわ。あなたを、とても誇《ほこ》りに思っていた。だから、もう、泣くんじゃないの」
そっと手を放《はな》すと、エサルは、机の上においてある大きな包みを開いて見せた。
「ごらん。ジョウンは、これをあなたに遺《のこ》したのよ」
茶色の油紙の包《つつ》みの中から現れたのは、かつてジョウンの棚《たな》から見つけだして、内緒《ないしょ》で読みふけっていた、あの、数々の書物だった。
「ジョウンらしいわ。……そう思わない?」
エリンは答えられなかった。ただ、書物に額《ひたい》をつけて、泣きつづけた。
ジョウンの息子《むすこ》は、葬儀《そうぎ》を終えてから、簡単な訃報《ふほう》と、父親が遺言《ゆいごん》していた書物とを、エリンとエサルに送ってきたのだった。
彼にしてみれば、父親が酔狂《すいきょう》にも拾《ひろ》って育《そだ》てた|霧の民《アーリョ》の娘《むすめ》などを背負いこみたくないのだろう。その気持ちが、ありありと伝わってくるやり方だった。それでも、エサルに対する体面《たいめん》があるから、訪《たず》ねていけば、それ相応《そうおう》のことはしてくれるだろうが、エリンは、二度と、あの息子《むすこ》に会うつもりはなかった。
ジョウン以外の保護者《ほごしゃ》など、欲《ほ》しいとは思わない。もう、幼《おさな》い娘《むすめ》ではないのだ。
幸い、学舎《がくしゃ》を出るまでは、衣食住《いしょくじゅう》の心配はない。卒舎《そつしゃ》するころには、一人前の大人として生きていけるようになっているだろう。
暮れていく夏の空を見ながら、エリンは、ジョウンと過ごした夏の日々を思った。
ふいに、自分は、とても幸運だったのだ……という思いが、胸に迫《せま》ってきた。闘蛇《とうだ》の背に乗って流れついた場所で、あのまま誰《だれ》にも見つけてもらえずに死んでいても、不思議《ふしぎ》ではなかった。拾《ひろ》ってくれた人が悪人であったなら、いまごろ、どれほど悲惨《ひさん》な暮らしをしていたかわからない。
ジョウンの笑顔《えがお》が、目に浮《う》かんだ。
ほんとうに幸せだった。あれは、なにものにも代えがたい、宝物のような日々だった。
(大人になったら、夏の小屋があったカショ山の、あの花畑へ行こう)
ジョウンが大好きだったあの花畑に寝転《ねころ》がって、天に向かって話そう。
どんなに、あなたに感謝《かんしゃ》しているか、どんなに、あなたに会いたいか。どんなふうに日々を過《す》ごし、どんなふうに大人になったか話そう。……そうか、よくがんばって生きてきたなと、ジョウンに微笑《ほほえ》んでもらえるような生き方をしよう。
空一面にたなびいている雲が、淡《あわ》い董色《すみれいろ》から群青色《ぐんじょういろ》へ変わっていくまで、エリンは草原にたたずんでいた。
[#改ページ]
[#地付き]5 傷
夏が過《す》ぎ、学童《がくどう》たちがもどってくるころ、リランの産毛《うぶげ》が抜《ぬ》けはじめた。
ほやほやとやわらかかった産毛の下には、しっかりとした光沢《こうたく》のある体毛が生《は》えはじめていたが、抜けかわっている最中なので、体毛のあいだに、ところどころ産毛の塊《かたまり》が盛りあがっていて、ぼろくずをまとったような姿になっていた。
「ありゃりゃ、リランちゃん、なんだか、哀《あわ》れな格好《かっこう》になったなあ」
久しぶりに帰ってきたユーヤンは、放牧場《ほうぼくじょう》に来るなり、そう叫《さけ》んだ。
「そう言わないでよ。王獣《おうじゅう》は子どもの時期が長いんだって。完全な成獣《せいじゅう》の体毛になるには数年かかるらしいけど、もうすこしして産毛《うぶげ》が抜《ぬ》けたら、すこしは見栄《みば》えのいい、きれいな娘《むすめ》さんに変わるはずだから」
エリンが言うと、ユーヤンは眉《まゆ》を跳《は》ねあげた。
「娘さん? リランちゃん、雌《めす》やったん?」
「うん。このあいだ、わかったばっかりだけどね」
幼獣《ようじゅう》の性別が判明《はんめい》するのは産毛《うぶげ》が抜《ぬ》けかわりはじめるころで、エサルから、判定《はんてい》方法を教えてもらって、リランが雌《めす》であることを確かめたときは、さすがに感動した。
薬箱を抱《かか》えて通りかかったトムラが、口をはさんだ。
「まあ、娘《むすめ》は娘でも、ぼろくず娘だな」
ユーヤンが、けらけら笑った。
「ほんとやぁ。ぼろくず娘って、うまいわぁ」
たしかに、そんなふうに見える。エリンは笑いをこらえて、ロをとがらせた。
「ひどいなあ」
エリンは、リランに声をかけた。
「気にしちゃだめよ。きれいになったら、見返してやろうね、リラン」
自分に声がかかったのがわかったのか、リランがぐいっと頭をあげて、こちらを見た。そして、グルグルッと喉《のど》を鳴《な》らしながら、身体《からだ》を掻《か》きはじめた。毛が抜《ぬ》けかわっているときは、やはり、痒《かゆ》いのだろう。ぼわ、ぼわっと、産毛《うぶげ》が宙に舞《ま》った。
「犬や馬だったら、刷毛《はけ》で梳《す》いてやれるんだがな」
トムラが言った。
「あ……そうか」
エリンはつぶやくと、くるっと踵《きびす》を返して、倉庫へ走っていった。犬用の刷毛では小さすぎるが、馬用のものなら使えるかもしれないと思ったのだ。
刷毛《はけ》を持ってもどってくると、トムラとユーヤンが、ぎょっとしたようにエリンを見た。
「あんた、なにする気?」
「なにするって、娘《むすめ》をぼろくず呼ばわりされて、黙《だま》ってられますか」
ユーヤンに、にやっと笑いかけて、エリンは柵《さく》をまたいだ。
ユーヤンとトムラが、息をのんで見つめているのを背に感じながら、エリンはリランに向かって歩いていった。リランはシャシャシャと甘《あま》え鳴《な》きしながら、ずいぶん大きくしっかりしてきた翼《つばさ》を広げて、ぴょんぴょんと馳《は》ねた。そのとたん、抜《ぬ》けた産毛《うぶげ》が宙を舞《ま》って顔に近づいてきたので、エリンは思わず腕《うで》で顔をおおった。
「わ……やめて、リラン。ちょっとおとなしくして」
リランは甘え鳴きしながらも、言われたとおりに翼をたたんで、ぐっと頭をさげ、エリンの肩《かた》に頬《ほお》をすりつけた。
「……信じられんわぁ」
ユーヤンが、呆然《ぼうぜん》とした顔でつぶやいた。
「王獣《おうじゅう》が、あんなに馴《な》れるなんて。……まるで、犬か猫《ねこ》みたいやん」
トムラがうなずいた。
「ほんとにな」
エリンは馬用の刷毛《はけ》をリランの鼻先に持っていって、匂《にお》いを嗅《か》がせた。
「これで、毛を梳《す》いてあげるから、おとなしくしていてね」
リランは、ふんふんと刷毛の匂いを嗅いでいたが、エリンがそれで、そっと腰《こし》のあたりの産毛《うぶげ》を梳きはじめると、気持ちがいいのだろう、うれしそうに喉《のど》を鳴らした。
「あなたの身体《からだ》は、大きすぎるわね。馬用の刷毛じゃ、一日仕事になっちゃうわ。あなた用の刷毛を作らなくちゃね」
しゃべりながら腰から腹、胸へと毛を梳《す》いていって、翼《つばさ》のつけねに刷毛はけ《》を入れたとき、刷毛に体毛がひっかかった。鋭《するど》い痛《いた》みが走ったのだろう。リランが、うめき声をあげながら、ガッと牙《きば》を剥《む》きだした。
あっと思うまもなく、鋭い牙が、エリンの耳たぶと肩先《かたさき》をかすめた。
焼けた火箸《ひばし》が触《ふ》れたような熱さが左の耳と肩に走り、エリンは叫《さけ》びながら跳《と》びのいた。よろよろと後ずさりして、草地に膝《ひざ》をついた。血が顔を伝っている。目の前の草が、みるみる血に染《そ》まっていく。
混乱《こんらん》した頭の中に、浮《う》かんできたことがあった。
エリンは片膝をついて、身体《からだ》をねじりながら、背後にいるトムラに叫《さけ》んだ。
「吹《ふ》かないで!……音無し笛を、吹いちゃだめ!」
まさに、音無し笛をとりだそうとしていたトムラは、はっと手をとめた。
エリンは右手で耳を押《お》さえながら、立ちあがった。左肩《ひだりかた》は、痛《いた》いというより、痺《しび》れたように感覚がない。
「絶対に、吹《ふ》かないで!」
もう一度、トムラにそう叫《さけ》んでから、エリンはリランに向き直ろうとした。
リランは動転していた。血の臭《にお》いと、エリンの様子に興奮《こうふん》して、翼《つばさ》をばたばたと動かしている。
リランを叱《しか》らなくては。いま、この瞬間《しゅんかん》に叱らなくては。牙《きば》でひっかいたら、人は傷つくのだということを教えなくては……。
そう思ったけれど、腕《うで》を伝ってポタポタと草に落ちていく血を見たとたん、声が出なくなった。鼓動《こどう》が速くなり、目の前が、ぐらぐらゆれる。
耳鳴りが始まった。頭の中で蝉《せみ》が鳴いているようだった。目の前に銀色の光が散《ち》って、冷《ひ》や汗《あせ》が噴《ふ》きだしてきた。エリンはリランに背を向けると、ユーヤンとトムラのほうを向いて、よろよろと歩きはじめた。
二人が柵《さく》をのりこえて、こちらへ来るのが、ぼんやりと見えた。目がかすんでいく。
(……倒《たお》れたら、だめ)
倒《たお》れたら、リランが動転《どうてん》する。
エリンは必死に足をひきずって歩きつづけた。
ユーヤンとトムラに身体《からだ》を支《ささ》えられ、ほっとしたとたん、耳鳴りが激《はげ》しくなり、あたりが真っ暗になった。
目をあけたとき、つかのま、エリンは、自分がなぜ、やわらかい布団《ふとん》の中にいるのかわからず、ぼうっと天井《てんじょう》に視線《しせん》を漂《ただよ》わせた。
秋の午後の透明《とうめい》な光が窓から射《さ》しこんでいる。左の耳と肩《かた》に、重苦しい痛《いた》みがあった。耳の痛みをこらえながらゆっくりと顔を動かすと、枕《まくら》もとに誰《だれ》か座《すわ》っているのが見えた。
エサルの苦々《にがにが》しげな顔を見たとたん、どっと記憶《きおく》が押《お》し寄《よ》せてきた。
「……まったく」
エサルが、つぶやいた。
「ばかなまねをしたものね」
エリンは顔をゆがめた。
得意満面《とくいまんめん》で刷毛《はけ》を持ってリランに近づいていった自分の姿を思うと、いたたまれないほど恥ずかしかった。ほんとうにばかなことをしてしまった。リランはどんな気持ちでいるだろう。ユーヤンとトムラも、心配しているにちがいない。
エリンは布団《ふとん》を目のあたりまで持ちあげて、顔を隠《かく》した。痛《いた》いよりなにより、恥《は》ずかしくて、涙《なみだ》が出てきた。
「こら、布団をかぶるんじゃありません。耳の傷にさわるでしょう! 耳たぶを三針、肩《かた》は八針も縫《ぬ》ったのよ」
エサルは厳《きび》しい声で怒鳴《どな》ると、容赦《ようしゃ》なく布団をはいだ。
「恥《は》ずかしいと思うなら、もう二度と、こんなばかなまねはしなさんな。今回は、耳と肩ですんだけれど、わずかに右に逸《そ》れていたら、頚動脈《けいどうみゃく》を切られていたかもしれないのよ。そうなれば命がなかった。王獣《おうじゅう》は犬や猫《ねこ》じゃないのよ。あなたはね、リランと仲良くなったことに浮《う》かれて、そういう、あたりまえの危険さえ感じとれなくなっていたのよ!」
エリンは泣きじゃくりながら、うなずいた。あまり激しくしゃくりあげるので、息が苦しいほどだった。
エサルは、ため息をついた。
「……わたしにも落ち度があったわね。ついつい、あなたを過信《かしん》してしまった。もう、リランは成獣《せいじゅう》に近い身体《からだ》つきになっているし、これからは、身体に触《さわ》るようなまねはしないほうがいいわ」
エリンは目を開いて、エサルを見た。
「……それは、いやです」
エサルは、じろっとエリンを睨《にら》みつけた。
「いやだろうが、なんだろうが、だめなものはだめよ。リランに悪気がなくとも、瞬間的《しゅんかんてき》に牙《きば》を剥《む》きだしただけで、あなたは首を切られて死ぬかもしれないのよ」
エリンは枕《まくら》の上で、動く範囲《はんい》で首をふった。
「わか……って、います。もう、けっして、油断、は、しません」
鳴咽《おえつ》をとめたくて、必死に息を吸《す》いながら、エリンは言った。
「でも、わたしが、距離《きょり》をとってしまったら、リランが、かわいそう、です。リランは、わたしを母親代わり、に、しています。親……離《ばな》れ、するまで、は、そばに、いさせて、ください」
エサルは顔をしかめて、しばらく黙《だま》ってエリンを見ていた。それから、ため息をつくように言った。
「……あなたね、そういう思《おも》い込《こ》みでリランに接していると、いつか、命を落とすわよ。獣《けもの》を育《そだ》てる者がよく陥《おちい》ってしまう錯覚《さっかく》に、あなたは、どっぷり陥ってしまっている。
今回のことは偶発的《ぐうはつてき》な事故で、こういうことでも起きないかぎり、リランは、絶対自分を傷つけることはない。リランにとって、自分は特別な存在《そんざい》だから。 ──そう思っているでしょう、あなた?」
エリンは、すっと顔をゆがめた。それを見ながら、エサルは静かな口調《くちょう》で言った。
「たしかに、あなたは、リランにとっては、母親のような存在かもしれない。……でもね、獣《けもの》はあくまでも、獣なのよ」
エサルは、ふいに言葉を切り、顔を手でぬぐうようにさすった。
それから、疲《つか》れがにじんでいる目でエリンを見て、問いかけた。
「あなたね、獣が他者に従うのは、なぜだかわかる?」
答えを待たずに、エサルは言った。
「獣《けもの》が他者に従《したが》うのは、その他者が自分より強い───上位の存在だと感じているからよ。獣にとって一番大切なのは、相手の強さを見極《みきわ》めること。習《なら》ったでしょう。群《むれ》で生きる獣たちは、互《たが》いの力を測《はか》り合って順位《じゅんい》を決め、弱いものは強いものに従《したが》う。
獣の世界において、強いか弱いかは生存《せいぞん》を左右する容赦《ようしゃ》のないものよ。弱い子どもは、親から餌《えさ》をもらえず、強い兄弟に巣《す》から蹴《け》りだされて殺されてしまうこともある。弱い雄《おす》は、けっして自分の子を残すことができない。弱いものは、縄張《なわば》りも守れない。
だからね、一対一で向かい合っている関係であれば、どちらが上であるかを測《はか》るのは、獣にとって常に、ごく自然なことなのよ」
エサルは、懐《ふところ》に手を入れて音無し笛をとりだし、ふってみせた。
「あなたは、これを嫌《きら》っているわね。 ──でもね、これは、王獣《おうじゅう》という圧倒的《あっとうてき》な力を持つ獣《けもの》に、人という弱い生き物が、唯一《ゆいいつ》、優位《ゆうい》を示《しめ》すことができるものなのよ」
ぽん、と、音無し笛をエリンの胸もとに放《ほう》り、エサルは言った。
「リランの母親になった気でいるのなら、リランをしつけなさい。あなたという存在《そんざい》に、絶対に服従《ふくじゅう》するよう、幼獣《ようじゅう》のうちにあなたの優位性を叩《たた》きこみなさい。……さもないと、リランが成獣になったとき、必ず、制御《せいぎょ》できない瞬間《しゅんかん》がやってくるわよ」
エサルの目には、一片《いっぺん》の甘《あま》えも許《ゆる》さぬ、冷ややかな光が浮《う》かんでいた。
「すべての生き物が共通して持っている感情は(愛情)ではない。(恐怖《きょうふ》)よ。その事実を、骨に刻《きざ》みなさい。
甘い夢を見て、心の中に錯覚《さっかく》を育《そだ》てていけば、あなたの目は真実を見極《みきわ》める力を失っていくわ。その傷は、いい教訓《きょうくん》よ。いま、この瞬間《しゅんかん》から、甘い夢は捨《す》てなさい。そして、冷静で論理的《ろんりてき》な心で、獣《けもの》との、あるべき距離《きょり》と、あるべき対峙《たいじ》の仕方を学びなさい」
エリンは掛《か》け布団《ぶとん》からそっと手を出し、音無し笛をつまみあげた。
そうして、しばらく、音無し笛を見つめていたが、やがて、エサルを見上げ、笛を差《さ》しだした。
エサルは、黙《だま》ってエリンを見つめた。エリンも、黙ってエサルを見つめていた。
エサルは、ため息をつき、放《ほう》り投げるように言った。
「なら、遺書《いしょ》を書いておきなさい」
「…………」
「自分が死んでも、自分がばかなせいで、自業自得《じごうじとく》です。間違《まちが》っても、教導師長《きょうどうしちょう》の過失《かしつ》ではありませんと、きちんと書いて、わたしに渡《わた》しておきなさい」
そう言い捨てると、エサルは、怒《おこ》った顔のまま部屋を出ていった。
エサルは腹立ちをぶつけるために、遺書《いしょ》を書け、と言ったのかもしれなかったが、起きあがれるようになると、エリンはほんとうに、遺書を書いた。誰《だれ》かに向けてというわけではなく、ただ、自分の気持ちを書き残しておこうと思ったからだ。王獣《おうじゅう》と、手を触《ふ》れることができる距離《きょり》でつきあっていくつもりなら、ふいに命を落とすかもしれないのだから。
耳と肩《かた》を牙《きば》で切られた瞬間《しゅんかん》を思いだすと、胃のあたりがこわばる。あの牙が首や腹にとんできたら……。
エサルに言われるまでもない。エリンは心底、怖《こわ》かった。初めて、リランを怖いと思った。それでも、リランを音無し笛でしつける気には、どうしても、なれなかった。
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──いいかエリン、人と獣《けもの》のあいだには大きな隔《へだた》たりがあるということを忘れるんじゃないぞ。
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そう言って、諭《さと》してくれたジョウンの声を思いだしながら、エリンは遺書《いしょ》を書いた。
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──トッチは気のいい雌馬《めすうま》だ。おまえにも、おれにも馴《な》れている。家族みたいなものだ。
だが、たとえば、スズメ蜂《ばち》に刺《さ》されて、その痛《いた》みで動転《どうてん》したりすれば、暴れた拍子《ひょうし》に、一撃《いちげき》でおまえを蹴《け》り殺《ころ》してしまうかもしれんのだ。
人であれば、スズメ蜂《ばち》に刺《さ》されて動転《どうてん》したって、仲のよい子どもを蹴《け》り殺したりはしないが、馬には、そういう配慮《はいりょ》はないんだぞ。
[#ここで字下げ終わり]
人と獣《けもの》のあいだには、たしかに大きな隔《へだ》たりがある。自分は、ついつい、それを軽く考えてしまう悪い癖《くせ》がある。蜜蜂《みつばち》にさわって、蜜蜂を死なせてしまったように。この怪我《けが》は、それを忘れるなと、身体《からだ》に刻《きざ》みこまれた印だ。けれど……。
エサルの言葉が真実だとは、思えなかった。生き物が共通して理解《りかい》できる感情が恐怖《きょうふ》だけだなんて、そんなことは、ないはずだ。
リランから伝わってくるあの感情は、もっとずっと温かい。
リランに、暴力《ぼうりょく》はいけないのだと伝えるのに、音無し笛など、絶対使いたくない。鞭《むち》で叩《たた》いて仕込《しこ》むように、しつけるなんて、いやだった。
正面きって手渡《てわ》す気にはなれなかったので、書き終えた遺書《いしょ》は封《ふう》をして、宛《あてな》書きをし、エサルが使う下足箱《げたばこ》の中に入れておいた。
遺書を読んだのか読まなかったのか、エサルはなにも言わなかったが、傷が癒《いえ》えたあと、エリンがリランのところに行くのをとめはしなかった。
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[#地付き]1 不安の胎動《たいどう》
シュナンは眠《ねむ》りの浅い性質《たち》だった。
大公《アルハン》を継《つ》ぐ日が、そう遠くないことを感じている昨今はとくに、耳に入ってくるあれこれを考えていると、眠りがなかなか訪《おとず》れてこないのだ。
だから、夜は、よく城内の庭園を散策《さんさく》した。深夜までつき添《そ》わねばならぬ護衛士《ごえいし》には気の毒《どく》だが、月にうっすらとかかる雲をながめながら歩いていると、昼間よりも思考《しこう》が冴《さ》えて、物事がよく見える気がするのだ。
近年、彼の心を占《し》めているのは、ふたつの不安だった。
ひとつは、東の大平原の諸部族《しょぶぞく》を呑《の》みながら拡大しているという騎馬《きば》の民《たみ》ラーザの動向《どうこう》である。昔は、小さな遊牧民《ゆうぼくみん》の一|部族《ぶぞく》にすぎなかったラーザが、いまや百を超《こ》える部族を併合《へいごう》して、巨大《きょだい》な国をつくりつつある。彼らが、近年、さかんにリョザ神王国の東の国境《こっきょう》を侵犯《しんぱん》するのは、この国に対する野心がある証拠《しょうこ》であった。
これまでのところ、闘蛇《とうだ》部隊は、騎馬《きば》兵たちをまったく寄せつけていない。しかし、闘蛇《とうだ》部隊の難点《なんてん》は闘蛇の数が少ないということで、戦《いくさ》が頻繁《ひんぱん》になると、闘蛇にばかり頼《たよ》ることはできず、大公《アルハン》の臣民《しんみん》から、多くの兵が徴集《ちょうしゅう》されはじめている。
そのことが、大公《アルハン》領の臣民たちの不満を、ますます、つのらせていた。
これが、もうひとつの不安だった。
なぜ、自分たちばかりが、国防《こくぼう》の矢面《やおもて》に立たねばならないのか。
大公《アルハン》領民にとって、その疑問《ぎもん》は、国を守るために血を流している自分たちを、真王《ヨジェ》領の領民たちが、敬《うやま》うどころか、真王《ヨジェ》の命を狙《ねら》う野心を持つ穢《けが》れた者と蔑《さげす》み、恐《おそ》れていることによって、不満と怨念《おんねん》に変わりつつあった。
(……大公《アルハン》領民の不満が、真王《ヨジェ》の暗殺を試《こころ》みる者を次々に生みだし、刺客《しかく》が真王《ヨジェ》を襲《おそ》うたびに、真王領民《ホロン》は我《われ》らを憎《にく》み、我らを恐れる……。これは時がたてばたつはど、根が深くなっていく悪循環《あくじゅんかん》だ。なんとか、これを断《た》たねば、この国に未来はない)
しかし、たとえ悪循環であっても、断ち方を誤《あや》れば、この国の根底《こんてい》に、いまよりもなお深い傷《きず》をつけることになる。焦《あせ》って事を起こすのは、絶対に避《さ》けねばならない。
最近、持病《じびょう》が悪化しつつあることを自覚《じかく》している父が、心の内にある迷《まよ》いに、強引《ごういん》に決着をつけようとしているのではないかと、シュナンは懸念《けねん》していた。 父が、その蛮行《ばんこう》をあえて行うとすれば、我欲《がよく》からではなく、自分たち兄弟の将来を安泰《あんたい》にしようと思っているからだということは、シュナンは重々|承知《しょうち》していた。
しかし、シュナンは、父が心に抱《いだ》いている方法は、大きな間違《まちが》いだと思っている。
この国をどう変えるかという、最終的な到達点《とうたつてん》のことではない。それは、シュナンも父と同じ考えである。 ──ただ、そこへ至《いた》る方法が問題なのだ。
父のやり方では、けっしてよい将来は訪《おとず》れない。
(真王《ヨジェ》の権威《けんい》など、実体のない泡《あわ》のようなものだと言いながら、父上は、ご自分の心の深いところに、その権威の構造が根を張《は》ってしまっていることに、気づいておられない)
だから、強引《ごういん》なやり方しか頭に浮《う》かばないのだ。シュナンが、なにを考えているか知ったら、父は目を剥《む》いて仰天《ぎょうてん》し、ありえぬことだ、と言うにちがいない。
そう。誰《だれ》もがそう思うだろう。真王《ヨジェ》とその領民たちはもちろんのこと、大公《アルハン》領の人々でさえ、そう思うだろう。真王《ヨジェ》に忠誠《ちゅうせい》を誓《ちか》い、汚《よご》れ役《やく》に徹《てっ》することこそ、大公《アルハン》のあるべき姿だと信じている弟のヌガンなどは、それは神聖《しんせい》なる王権を穢《けが》す行為《こうい》だと、顔を真っ赤にして反対するにちがいない。
だが、それを成《な》し遂と《》げて初めて───人々の心の中にある、目に見えぬからこそ強固な権威《けんい》の構造を壊《こわ》して初めて、この国はほんとうに、生まれ変わるのだ。
シュナンは、自分が臣下《しんか》から厚い信頼《しんらい》を受けていることを自覚《じかく》していたし、臣下の信頼に足《た》るだけの働きはできると思っていたが、ラーザが強大な王国になれば、いずれ、大公《アルハン》領民だけで国を守ることはできなくなるだろう。
そのとき、この国が生き残れるかどうかは、真王《ヨジェ》領民と大公《アルハン》領民が力を合わせることができるかどうかにかかっている。
シュナンは、池の端《はた》で足をとめ、月を見上げた。
(ふたつの民《たみ》を結《むす》び合わせる方法は、ひとつだけだ)
シュナンの思いを、あの人に、どう伝え、どう共有《きょうゆう》させるか。 ──シュナンはそれを、真剣《しんけん》に考えつづけていた。
かつて、一度だけ、思いきって思いを伝えたことがある。しかし、返答は、にべもないものだった。それは、ごく当然の反応であったが、なんとか、彼女にとっての「当然」を変えねば、この国の未来は開けない。
彼女に意を伝えようとすることは危険《きけん》な綱渡《つなわた》りだが、やらないわけにはいかなかった。
*
大公《アルハン》の居城《きょじょう》の庭園で、シュナンが月を見上げていたころ、イアルは、王都《おうと》の裏街《うらまち》の、細い路地《ろじ》にいた。
四年まえ、真王《ヨジェ》の誕生日《たんじょうび》の宴《うたげ》で暗殺《あんさつ》が試《こころ》みられた日から、イアルは、ひとつの疑念《ぎねん》を心に抱《いだ》き、その真相《しんそう》を追いつづけていた。
あのときの刺客《しかく》は、ほんとうに、(|血と穢れ《サイ・ガムル》) の一員だったのか。
もともと、(|血と穢れ《サイ・ガムル》)は正体が特定できぬ集団だ。万が一彼らの存在《そんざい》を利用して、ほかの者が真王《ヨジェ》の暗殺を試みているとしたら……。
イアルの疑念が、もし、正鵠《せいこく》を射《い》ていたら、その人物は、(|血と穢れ《サイ・ガムル》)とはまったく異なる目的で、真王《ヨジェ》の暗殺を目論《もくろ》んでいることになる。
人の気配《けはい》を感じて、イアルは身構《みがま》えた。路地《ろじ》の奥《おく》から、人影《ひとかげ》が近づいてくる。
月明かりに、かすかに輪郭《りんかく》が浮《う》かびあがった顔を見て、イアルは警戒《けいかい》を解《と》いた。信頼《しんらい》して探索《たんさく》を任《まか》せた部下が、イアルを認《みと》めて、さっと敬礼《けいれい》をした。
「……どうだった。なにか、つかめたか」
部下は、うなずいた。
「直接、あの件と関係しているかどうかは不明なのですが、あの人物と関わりがある商人などの人脈《じんみゃく》をひとつひとつ洗っていくうちに、ひとつ気になることが浮《う》かんできました」
東から国境《こっきょう》|侵犯《しんぱん》をくり返しているラーザの騎馬《きば》部隊との戦《いくさ》のために、ここ数年、野生《やせい》の闘蛇《とうだ》の卵の需要《じゅよう》が高まり、多くの男たちが、危険ではあるが実入りのいい、闘蛇の卵集めに手を出している。
闘蛇は穢《けが》れた獣《けもの》であるし、卵を売る相手は大公《アルハン》なのだから、この商売に手を染《そ》めている者たちのほとんどは、大公領民《ワジャク》なのだが、近年は、真王領民《ホロン》の中にも、この商売に関《かか》わる者が出はじめていた。
真王《ヨジェ》領の谷川や沼地《ぬまち》にも、野生《やせい》の闘蛇《とうだ》はいるのだから、高額の利益《りえき》に惹《ひ》かれてこの商売に色気を出す者がいても不思議《ふしぎ》ではないが、闘蛇の卵を売るためには、大公《アルハン》領民の闘蛇商とつなぎをつけなければならない。その橋渡《はしわた》し役をしている商人のなかに、イアルが疑念《ぎねん》を抱《いだ》いている人物と関わりがある者がいる、と言うのである。
「闘蛇《とうだ》か……」
イアルはつぶやいた。
その人物は、まず、闘蛇と結《むす》びつくはずのない者だったが、もし闘蛇を集めようとしているのだとすれば、そこには恐《おそ》ろしい可能性《かのうせい》の萌芽《ほうが》が見えていた。
「ありがとう。ご苦労だった。おまえは、さすがだな。短期間で、よく、こんなことを見つけだせたものだ。このまま、その商人の動向を探《さぐ》ってくれ。卵を売るだけでなく、どこかで育《そだ》てることを企《たくら》んでいないか、ぜひ、探りだしてくれ」
*
侍女《じじょ》のナミから、彼女の母特製の焼《や》き菓子《がし》を受けとるたびに、セィミヤの心ノ臓は、走ったあとのように速く脈打《みゃくう》ちはじめる。
真王《ヨジェ》のたった一人の孫娘《まごむすめ》であるセィミヤの、毒見役《どくみやく》を務《つと》めるナミは、侍女のなかでももっとも信頼《しんらい》されている娘であったから、彼女が持ってくる菓子に、周囲の人々はなんの疑《うたが》いも抱《いだ》かないが、この小さな焼《や》き菓子《がし》の中には、かつて一通の手紙が油紙に包《つつ》まれて入っていたことがあった。
手紙入りの焼き菓子を持ってきたとき、ナミは死を覚悟《かくご》していた。
セィミヤの部屋で二人きりになったとき、彼女はこの菓子をセィミヤに差《さ》しだし、蒼白《そうはく》な顔で、事情《じじょう》を説明した。
宿下《やどさ》がりしていたある夜、彼女のもとに、なんと、大公《アルハン》の長子シュナンが、たった一人《ひとり》で訪《おとず》れたのだという。
彼は真剣《しんけん》な表情《ひょうじょう》で、真王《ヨジェ》を暗殺《あんさつ》の危険から救《すく》い、この国を分裂《ぶんれつ》の危難《きなん》から救う方法を語ったというのだ。
ナミは、血の気のない唇《くちびる》をかすかにふるわせて、低い声で語った。
「……シュナンさまは、わたくしがお話を理解できぬ者であったなら、殺すおつもりだったと、おっしゃいました。
わたくしは浅はかかもしれませんが、シュナンさまがお話しになったことは、たしかに、真王《ヨジェ》さまをお救いする最良の方法かもしれないと感じました。ほかの方々が耳にすれば、とんでもないと激怒《げきど》なさるでしょう。でも、わたくしにとってなにより大切なのは、真王《ヨジェ》さまと、セィミヤさまのお命なのです」
小さな目に真剣《しんけん》な光をたたえて、ナミはセィミヤを見つめていた。
「いくら、|堅き楯《セ・ザン》がお守りしているといっても、|堅き楯《セ・ザン》も人。果《は》てしなくやってくる刺客《しかく》を、すべて防ぎきれるとは限りません。わ……わたくしは、恐《おそ》ろしいのです。いつか、お二人が……」
ふるえているナミの腕《うで》を、セィミヤはつかんだ。
「もういいわ。あなたの気持ちは、よくわかった」
セィミヤも、血の気のない白い顔をしていた。
「……でも、これはありえぬ道。シュナンもわかっているだろうに、なぜ、こんなことを」
我《わ》が身《み》に流れている血は、ふつうの人とはちがう。|神々の山脈《アフォン・ノア》の彼方《かなた》にある神々の国に生まれた祖先《そせん》から、脈々と途切《とぎ》れることなく伝わってきた神聖《しんせい》な血だ。
この血筋ゆえに、真王《ヨジェ》は国の魂《たましい》たりえる。血の神聖さを守ることこそ、真王《ヨジェ》の血筋に生まれた娘《むすめ》にとって、もっとも大切な務《つと》めなのだ。
叔父《おじ》や従兄弟《いとこ》との婚姻《こんいん》が珍《めずら》しくないのも血の神聖さを守るため。たとえ貴族《きぞく》といえど、神聖な血をひいていない者との婚姻をくり返せば、血の神聖さは、薄《うす》れていくだろう。
シュナンは、心|惹《ひ》かれずにはいられぬ若者だ。
(もし、わたしが、ただの貴族の娘であったなら……)
この文を手にしたとき、たとえようもない幸福感を味わっただろうに。
そんな思いが心に浮《う》かび、セィミヤは唇《くちびる》を噛《か》んだ。 ──わずかでも自らを哀《あわ》れんだ自分が、いやだった。
セィミヤは、ナミに、厳《きび》しい目を向けた。
「あなたの気持ちはわかったけれど、もう二度と、こんな手紙を持ってこないで。
それから、このことが外に漏《も》れたら、それこそ国が分裂《ぶんれつ》してしまう。絶対に人に漏れぬように」
ナミは、思いつめたまなざしで、「はい」と言った。
その日から四年たち、菓子《かし》に手紙が入っていることは二度となかったが、それでも、この菓子を見るたびに、セィミヤはシュナンの申《もう》し出を思いださずにはいられなかった。
ナミが、薄手《うすで》の茶碗《ちゃわん》にお茶を注《そそ》ぎはじめたとき、扉《とびら》の外から、|堅き楯《セ・ザン》の若者の声が聞こえてきた。
「……ダミヤさまが、おいでです。お通ししてよろしいでしょうか」
セィミヤは、顔をあげて、ナミにうなずいてみせた。ナミが扉をあけると、ダミヤが、大きな箱を抱《かか》えて入ってきた。
どこか、外から帰ってきたばかりなのだろう。ダミヤは、風の匂《にお》いをまとっていた。
心が浮《う》き立《た》つ匂いだった。
閉ざされた部屋に吹きこんでくる、新鮮《しんせん》な風。ダミヤを見るたびに、セィミヤは、その風の匂いを感じる。明るく、爽《さわ》やかだけれど、どこか、行ってはならぬところへ、連れていかれそうな怖《こわ》さを孕《はら》んでいる風……。
「我《わ》が愛《いと》しのセィミヤ、ご機嫌《きげん》はいかがかな」
微笑《ほほえ》んで、ダミヤは箱を机《つくえ》の上におこうとした。あわててナミがお茶とお菓子《かし》を脇《わき》にどけると、ダミヤは眉《まゆ》をあげてナミにうなずきかけ、あらためて、そっと箱を机においた。
「おじさま、なにを持っていらしたの? ……どうせ、また、おかしなものを持っていらしたのでしょうね」
セィミヤが言うと、ダミヤは心外《しんがい》だという顔をしてみせた。
「おかしなもの? わたしがいつ、そなたに、そんなものを持ってきたかね。まあ、見てごらん」
蓋《ふた》をあけると、ダミヤは、箱の中を手で示した。
中をのぞきこんで、セィミヤは、思わず息をのんだ。
箱の中には、王宮があった。
森に囲《かこ》まれた館《やかた》と庭───自分たちが暮《く》らしているこの王宮を、空から見下ろしたら、こんなふうに見えるのではなかろうか。作り物だとは信じられぬほど精巧《せいこう》な模型《もけい》であった。
驚《おどろ》かされたことを認《みと》めたくなくて、セィミヤは、ダミヤを軽く睨《にら》んだ。
「おじさまは、いつまでも、わたしを子ども扱《あつか》いなさるのね。………こんな玩具《がんぐ》を持ってくるなんて」
と、ダミヤは、すっと手を伸《の》ばして、セィミヤの頬《ほお》に触《ふ》れた。羽根が触れたような、やさしい触れ方だった。
「………子どもだと思っていたら、こんなものは持ってこないさ。これは、大人が見てこそ、意味のわかる細工物《さいくもの》だ。これだけのものを作る才《さい》が、どれほどのものか、そなたなら、わかるだろう?」
鼓動《こどう》が早鐘《はやがね》のように打ちはじめ、セィミヤは、ダミヤから視線《しせん》を逸《そ》らした。触れられたくらいで動揺《どうよう》していることを悟《さと》られまいと、セィミヤは努《つと》めて平静な声を出した。
「……わかるわ」
ダミヤは、セィミヤの手をそっととって、模型の木々の先に、指をあてた。筆の先に触れたような、くすぐったい感覚に、セィミヤは身を硬《かた》くした。
「すごいだろう。このやわらかさ。 ──神々が天から手を伸ばして、森の木々に触れたら、きっと、こんなふうに感じるのだろうね」
ダミヤの声を聞きながら、セィミヤは、じっと、くすぐったさに耐《た》えていた。
*
エリンがカザルム学舎《がくしゃ》に来てから、四度目の秋が巡《めぐ》ってきた。
秋が訪《おとず》れると、カザルム高地の縁《ふち》を囲《かこ》む森の葉は黄金色《こがねいろ》に色づき、彼方《かなた》に見えるオノル山脈《さんみゃく》の山稜《さんりょう》が雪をかぶるようになると、その対照的《たいしょうてき》な美しさは息をのむほどだった。
高地の秋は、しかし、長くはとどまっていない。秋が足早に通り過《す》ぎていくと、過酷《かこく》な冬がやってきた。
北西から吹《ふ》きつけてくる、雪を含《ふく》んだ重い風は、オノル山脈にぶつかって、山脈の北側に大雪を降《ふ》らせる。おかげで、山脈の東南にあたるカザルム高地には、あまり雪は降らなかったが、雪をふり落とし、身軽になって山を越《こ》えてくる空《から》っ風《かぜ》の冷《つめ》たさは、それこそ身を切るようだった。
そして、冬至《とうじ》のころには、カザルムにも雪が舞《ま》うようになり、放牧場《ほうぼくじょう》も王獣舎《おうじゅうしゃ》も、学舎も、薄《うす》く雪におおわれた。
王獣《おうじゅう》は雨や雷《かみなり》は嫌《きら》うが、寒さに強い獣《けもの》で、放牧場が雪におおわれても、晴天《せいてん》になれば、白い息を吐《は》きながら元気よく外に出ていく。
このころには、リランはすでに、均整《きんせい》のとれた身体《からだ》つきの、立派な成獣《せいじゅう》になっていた。
誰《だれ》もが感嘆《かんたん》したのは、その体毛《たいもう》の美しさだった。
「……あれほど美しい体毛をした王獣は、ラザル王獣《おうじゅう》|保護場《ほごじょう》にもいませんよ」
教導師《きょうどうし》|見習《みなら》いになったトムラは、しばしば、ほかの教導師たちにそう言ったが、教導師たちも、リランの体毛のみごとさを素直《すなお》に賞賛《しょうさん》した。
体毛が生えそろったリランを見たとき、エサルは、かつてエリンが、野生《やせい》の王獣《おうじゅう》の体毛《たいもう》は日の光の加減《かげん》で色が変化して見えるのだと言ったことを思いだした。その言葉どおり、リランは、夕日の中では金色に、朝日の下では白銀に輝《かがや》いて見えた。
リランと、放牧場のほかの王獣たちとでは、なにがちがうのか。 ──考えてみれば、即座《そくざ》に、いくつもの要素《ようそ》が浮《う》かぶ。なかでもふたつが重要な違《ちが》いだろうと、エサルは思っていた。
ほかの王獣たちは、なにかあるたびに音無し笛を吹《ふ》かれて硬直《こうちょく》するが、リランは、エリンが世話《せわ》をするようになってから一度も音無し笛を吹かれていない。特滋水《とくじすい》も飲《の》んでいない。
(それが、リランを野生の王獣のように輝《かがや》かせているのだとすれば………)
王獣《おうじゅう》|規範《きはん》は、いったいなぜ、王獣の体毛をくすませるような世話の仕方を、わざわざ規定《きてい》しているのだろう。
それは、エサルが長いあいだ、密《ひそ》かに抱《いだ》きつづけていた疑念《ぎねん》だった。王獣規範には、やはり、なにか隠《かく》された意図《いと》があるのだ。
(……あの男から告《つ》げられた警告は、その隠された意図と関係しているのかしら)
はるか昔、野生《やせい》の王獣《おうじゅう》を探《さが》していたとき、深山《しんざん》の中で行き会った背の高い男の姿と、彼の言った言葉を、エサルはずっと、誰《だれ》にも打《う》ち明けずに心の底に秘《ひ》めてきた。
エリンが、野生の王獣を見たことがあると言ったとき、どきりとしたのは、その男と、エリンが関《かか》わっているのではないか、と疑《うたが》ったからだ。
四年間エリンを観察《かんさつ》してきて、エサルはその疑いは捨《す》てた。エリンの行動を見ていて、ジョウンが話したとおり、エリンは|霧の民《アーリョ》の血をひいてはいても、彼らが守ってきたという戒律《かいりつ》については、知らないのだと確信《かくしん》したからだ。
|霧の民《アーリョ》の戒律に従《したが》っているのなら、エリンは、リランを王獣|規範《きはん》から解放《かいほう》するようなことは、けっしてしなかったはずだ。
森に漂《ただよ》う霧《きり》のような、灰色の衣《ころも》をまとった背の高い男は、エサルが王獣保護場の教導師《きょうどうし》であると知ると、「野生の王獣を探《さが》すのは、おやめなさい」と言った。
[#ここから2字下げ]
──人の手に落ちた王獣は、その瞬間《しゅんかん》から、戒律《アォー》の内に入る。
戒律《アォー》で縛《しば》らなければ、危険《きけん》だからです。
あなたのように、王獣を縛る役目の者は、野にある王獣を見てはいけません。
[#ここで字下げ終わり]
なぜ、と問うたエサルに、男は冷《ひや》ややかな声で答えた。
[#ここから2字下げ]
──あなたのように聡明《そうめい》で研究熱心で、しかも、真王《ヨジェ》の王獣《おうじゅう》を育《そだ》てる立場にある方が、野にある王獣を見れば、恐《おそ》ろしい災《わざわ》いの火種を孕《はら》むことになるからです。
信じられないでしょうが、わたしは、あなたの知らぬことを知っているのです。だから、どうか心して、わたしの警告《けいこく》をお聞きなさい。
悔《く》やんでも、悔やみきれないような、恐《おそ》ろしい災いを引き起こす火種に、あなたは、なりたいですか。
[#ここで字下げ終わり]
そう言った男の冷《ひ》ややかな緑色の瞳《ひとみ》を、いまもはっきりとエサルは覚《おぼ》えている。そのとき自分と男をとりまいていた森の薄暗《うすぐら》さも、湿《しめ》った苔《こけ》の匂《にお》いも。
わけのわからぬ|霧の民《アーリョ》の予言《よげん》などで意思を曲《ま》げたくはなかったが、そのとき感じた、冷え冷えとした恐怖《きょうふ》は、エサルの心に深く根をおろした。|霧の民《アーリョ》は、いつも、どこかから自分を監視《かんし》している。 ──そんな気がして、エサルは、そのとき以来《いらい》、野生の王獣探しには行かなくなった。
野生《やせい》の王獣《おうじゅう》を見るだけで、いったいなにが危険《きけん》なのか。彼らの戒律《かいりつ》は、なにを守るためのものなのか。そして、それが、王獣とどう関《かか》わっているのか……。
一生を王獣の保護《ほご》に捧《ささ》げている自分たちにさえ、知ることを許《ゆる》されぬ、なにかがある。それが、エサルは腹立たしかった。人を無知《むち》なままにして、なにかを守ろうとする姿勢《しせい》が、エサルは吐《は》き気《け》がするほどに嫌《きら》いだ。判断《はんだん》は、事実を知ったあとにするものだ。事実を知らせずにおくということは、判断をさせぬということでもある。
誰《だれ》が、自分たちを無知《むち》なままにしておこうとしているのか。
放浪《ほうろう》していく|霧の民《アーリョ》などに、そのような力があるとは思えない。第一、王獣《おうじゅう》|規範《きはん》を書いたのは、真王《ヨジェ》の祖《そ》であると伝えられている。……だとすれば、王獣を扱《あつか》う者たちを、無知なままにおこうとしているのは、真王《ヨジェ》なのだろうか。
答えを探《さぐ》る術《すべ》もなく、鬱屈《うっくつ》した日々を送っていたエサルのところに、エリンはやってきたのだった。そして、戒律《かいりつ》や規範《きはん》があることを知らぬ無邪気《むじゃき》さで、あっさりと、掟《おきて》の枠《わく》を押《お》し破《やぶ》ってしまった。
リランとたわむれるエリンを見ながら、エサルは、強い不安に襲《おそ》われることがあった。
(このまま、リランを野生《やせい》の王獣《おうじゅう》のように育《そだ》てていったら、なにか起こるのだろうか)
リランはたしかに、保護場《ほごじょう》のほかの王獣とはちがう生き物になりつつある。
このまま成長すれば、なにか危険《きけん》なことが起《お》きるのだろうか。|霧の民《アーリョ》の男が、野生の王獣を見せまいとした───彼が恐《おそ》れた危険とは、いったい、なんなのだろう。
エリンに、やりたいようにやらせることで、「危険」の正体《しょうたい》を見てみたいという気持ちがあることを、エサルは自覚《じかく》していた。だが、その一方で、自分の好奇心《こうきしん》のためにエリンを危険に向《む》かわせることを、恐れてもいた。
すべてをエリンに話すべきなのかもしれない。話を聞いても、エリンはきっと|霧の民《アーリョ》の警告《けいこく》を恐《おそ》れてリランの世話《せわ》の仕方を変えるようなことはすまい。リランと触《ふ》れ合《あ》うために、遺書《いしょ》まで書いた娘《むすめ》だから。
ただ、自分が怯《おび》えつづけてきた影《かげ》が、|霧の民《アーリョ》の警告なのだということを、エリンに話すのは、気が重かった。
リランが翼《つばさ》を広げると、エリンの姿が、ひときわ細く、小さく見えた。
すっと背筋《せすじ》を伸《の》ばして立ち、微塵《みじん》も恐《おそ》れを抱《いだ》かずに王獣《おうじゅう》の胸に触《ふ》れている娘の後ろ姿を、エサルはいつまでもながめていた。
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[#地付き]2 飛翔《ひしょう》
新年の休暇《きゅうか》が訪《おとず》れ、カザルム高地が閑散《かんさん》とすると、エリンは心が楽《らく》になるのを感じた。
四年間リランと寄《よ》り添《そ》って過《す》ごすうちに、エリンは、もやもやとした疑念《ぎねん》を抱《かか》えるようになっていた。誰《だれ》に話しても一笑《いっしょう》に付《ふ》されるだろうし、笑わない者は逆に、怯《おび》えるかもしれないので、ユーヤンにも打ち明けていない疑念だった。
リランのことを深く知るうちに、王獣《おうじゅう》のあまりの賢《かしこ》さに空恐《そらおそ》ろしくなることがあった。
王獣には、人と酷似《こくじ》している部分があるのだ。
そのことに気づいてからは、リランのそういう部分が人の目につかぬよう気を遣《つか》ってきたが、一年目の春が訪《おとず》れるころにはもう、リランは、ほぼ完全にエリンの言葉がわかるようになってしまっていた。
それだけではない。ロン、ロン……という、あの弦《げん》をはじくような音に多様《たよう》な変化をつけてエリンが編《あ》みだした(言葉)をみごとに使いこなし、いまでは、エリンに自分の意思《いし》を伝えてくるようにさえなっていた。
リランが伝えてきた最初のひと言は、[背中、痒《かゆ》い、掻《か》いて]という、ごく単純《たんじゅん》な(言葉)だったが、それでも、痒い部分が背中であること、掻いてほしいということを、仕草《しぐさ》で示《しめ》すのではなく、鳴《な》き声を組み合わせた(言葉)でリランが伝えてきたのを聞いた瞬間《しゅんかん》、エリンは驚愕《きょうがく》し、凍《こお》りついてしまった。
喜《よろこ》びよりさきに、ありえぬものを聞いてしまったような恐《おそ》れが、こみあげてきたのだ。
背中や頭、肩《かた》、脚《あし》といった身体《からだ》の部位《ぶい》の音は教《おし》えた。痛《いた》い、痒い、という音も教えた。触《ふ》れて、掻いて、という音も教えた。……しかし、エリンは、それらを組み合わせて使ってみせたことは一度もなかった。
リランはエリンが使った音の連《つら》なりをまねたのではなく、自分で、いま感じている必要《ひつよう》に応《おう》じて音を組み合わせて、意味《いみ》を伝えてきたのだ。
犬や馬でも、ある程度《ていど》、人の言葉はわかる。意思《いし》を伝えてくることもある。しかし、それは、それぞれが本来《ほんらい》持っている吠《ほ》え声《ごえ》やいななき、そして仕草《しぐさ》や表情《ひょうじょう》によって伝えてくるのであって、鳴《な》き声を恣意的《しいてき》に組み合わせた(言葉)を用《もち》いるわけではない。
リランは、ただ、教《おし》えられたから(言葉)を使うのではなく、いつのまにか、自分で工夫《くふう》をして鳴き声を組み合わせ、複雑《ふくざつ》な意思《いし》を伝えてくるようにさえなっていた。エリンが生みだした音と意味《いみ》の法則《ほうそく》を理解《りかい》し、それを自分で使って、新たな言葉を生《う》みだすようになったのである。
エリンが言葉で話しかけ、リランは弦《げん》を鳴らすような鳴《な》き声で応《こた》える。……いつのまにか、そういうことが、自然にできるようになってしまっていた。
エリンは、開いてはならぬ扉《とびら》を、開いてしまったのではないかと思うことがあった。
蜜蜂《みつばち》は、人の技《わざ》など到底《とうてい》追いつかぬ、みごとに整然《せいぜん》とした巣《す》の組織を作りあげている。野に在《あ》る生き物は、それぞれ驚異的《きょういてき》な能力をもって、生きる世界を築《きづ》きあげている。
でも、リランがやっていることは、「野に生きる獣《けもの》」の枠《わく》を超《こ》えてしまっているように思えてならなかった。
(それとも……)
野生《やせい》の王獣《おうじゅう》も、こんなふうに、それぞれ鳴《な》き声を工夫《くふう》して会話をしているのだろうか。
そうだとしたら、王獣は、これまで考えられてきたよりも、ずっと人に近い思考《しこう》をする生き物なのだ。 ──ならばなぜ、教百年も人の手で保護《ほご》しながら、これまで、誰《だれ》も、王獣と会話をしてこなかったのだろう?
そのことに、エリンは、なにか人為的《じんいてき》なものを感じずにはいられない。
リランの能力を知ってから、王獣|規範《きはん》を読み返してみたとき、エリンは、あれを書いた初代の真王《ヨジェ》は王獣のこの能力を知っていて、王獣と会話を交わす者が現れることがないように[#「王獣と会話を交わす者が現れることがないように」に傍点]、規範を作ったのではないかと感じた。
その瞬間《しゅんかん》、胸が冷えた。
(それが真王《ヨジェ》の真意《しんい》だとすれば、わたしは、とんでもないことを、してしまっているのかもしれない……)
なぜ、真王《ヨジェ》が、王獣《おうじゅう》と会話を交《か》わすことを禁じたのかは、わからない。しかし、それが秘《ひ》められた禁忌《きんき》だとすれば、こんなふうにリランと会話を交わしていることが、王宮に伝わり、真王《ヨジェ》に伝わってしまったら、どうなるのだろう。自分のこともだが、自分を守ろうとしてくれている、エサルをはじめ、学舎《がくしゃ》の皆《みな》にまで、難が及《およ》ぶのではなかろうか。
それが、エリンは恐《おそ》ろしかった。だから、リランと会話を交わしていることを、人に悟《さと》られぬよう、細心の注意を払《はら》うようになった。
まず、人前では口で話しかけるのを控《ひか》えるようにした。竪琴《たてごと》の音での会話であれば、他者が耳にしても、意味はわからないからだ。その竪琴でのやりとりも、なるべく人目につかぬように、リランと一緒《いっしょ》にいるときは、学舎《がくしゃ》から遠い森の陰《かげ》や、谷川に行くようにしていた。
それでも、あまり明白に、リランを人目につかぬようにしていると、ロサあたりに、よけいな斟酌《しんしゃく》をされるかもしれないので、そのへんの匙加減《さじかげん》がむずかしかった。
だから、休暇《きゅうか》が訪《おとず》れるたびに、肩《かた》の荷がおりたような解放感《かいほうかん》を味わうのだった。
リランは毎日、外に行きたがった。
「あなたとちがって、わたしには、雪は冷《つめ》たいのよ」
エリンが、ぶつぶつ文句《もんく》を言っても、リランは聞こえぬふりをする。そして、ぴょい、ぴょいと馳《は》ねるような足どりで、雪原を器用《きよう》に歩いていく。リランは谷川が好きで、人けのない谷川の岩場にしゃがみこんで、川のせせらぎを聞きながら一日の大半を過《す》ごすのだ。
しかしエリンは、革《かわ》の長靴《ながぐつ》を履《は》いて、毛皮のついた外套《がいとう》で身をおおっていても、雪の中に長時間いると、芯《しん》から凍《こご》えてくる。雪に足をとられるので歩きづらく、エリンはときどき立ちどまって、「うーん」と伸《の》びをして腰《こし》と背中の凝《こ》りをほぐした。
さきに行けばよいのに、エリンがとまると、リランも律儀《りちぎ》に立ちどまる。
親を待つ子のように、立ちどまっているリランを見るたびに、エリンは、野生《やせい》の王獣《おうじゅう》の巣離《すばな》れはいつなのだろう、と思った。
リランは、姿はもう立派《りっぱ》な成獣《せいじゅう》だ。ふつう、獣《けもの》は成獣になれば、親離《おやばな》れして、自分の領域《りょういき》をつくっていく。しかし、リランはいっこうに、エリンから離《はな》れるそぶりを見せなかった。
人に育《そだ》てられたせいかもしれない。保護場《ほごじょう》のほかの王獣たちに比《くら》べれば、リランは、体毛《たいもう》の色や鳴《な》き声など、野生の王獣に似《に》ているように思えるけれど、それでも空を飛ぶことはないし、生殖《せいしょく》のための発情期《はつじょうき》も迎《むか》えていなかった。
(卒舎《そつしゃ》したら……)
一度、野生《やせい》の王獣《おうじゅう》を探《さが》しにいきたいと、エリンは思っていた。ゆっくりと時間をかけて野生の王獣を観察《かんさつ》し、彼らの生態《せいたい》と、保護場の王獣の違《ちが》いを比較《ひかく》してみたかった。
卒舎してもリランと離《はな》れずにいるためには、半年後に行われる(卒舎ノ試《ため》し)で、一等をとって、カザルムに残る資格《しかく》を得《え》なければならない。リランのことがあるから、一等でなくても残れるよ、とユーヤンは言ってくれるが、そういう特別|扱《あつか》いではなく、誰《だれ》に気兼《きが》ねすることもないかたちで残りたかった。
そんなことを考えながら雪原を歩いていくと、やがて、ゆっくりと下り坂になり、森が現れた。王獣が行き来しやすいように、用務《ようむ》の男衆は森の通り道の枝打《えだう》ちを欠かさない。高地の南東には広葉樹《こうようじゅ》の森が広がっているが、この北側は、針葉樹《しんようじゅ》が多く、冬でも青々と葉を茂《しげ》らせていて、地面にはほとんど雪がなかった。
森に入ると風が弱まって、暖《あたた》かく感じられた。ときおり、ドサッと枝が雪をふり落とす音がする以外、鳥の声もしない。すうっとする森の匂《にお》いを感じながら、エリンはリランの後ろから、谷川に向かっておりていった。
谷川は、かなり急な崖《がけ》の底にある。夏場なら下までおりていくこともできるけれど、いまは、岩に積もった雪が凍《こお》っていて、とても川まではおりていかれなかった。
リランのお気に入りの場所は、崖に張《は》りだした岩棚《いわだな》だった。日当たりがいいせいか、そこは雪もなく、でっぱっている岩が風をさえぎってくれるので、たしかに居心地《いごこち》がよい。
そこに座《すわ》っているリランの脚《あし》のあいだに、卵のように抱《だ》いてもらうと、ぬくぬくと温《あたた》かい。こんなところをエサルが見たら、目を剥《む》いて怒鳴《どな》るだろうが、リランは幼獣《ようじゅう》のころより、ずっと物事がわかっていて、エリンの身体《からだ》が傷《きず》つきやすいことも理解《りかい》してくれていた。
冷《ひ》えきった身体が温まってくると、エリンは懐《ふところ》から書物を出して読みはじめた。
鞴《ふいご》のような音が、リランの腹から伝わってくる。リランは満ち足りた表情で、お日さまの光を浴びていた。
[……あれ、おいしい]
ふいに、リランの(言葉)が聞こえてきたので、エリンは顔をあげた。
「どれ?」
[あれ]
リランが見ているほうに視線《しせん》を向けると、鳥が一羽、空を舞《ま》っていた。たしかに、まるまると肥《こ》えた鳥だった。
「おいしいでしょうね。でも、あなたには、獲《と》れないわよ」
[なぜ]
「だって、あれは、空を飛んでいるじゃない」
リランは、ググッと喉《のど》を鳴《な》らした。
[飛ぶ?]
エリンは書物を懐《ふところ》にしまって立ちあがると、両手を広げて、翼《つばさ》をはばたかせる仕草《しぐさ》をしてみせた。
リランはぐっと翼を広げ、ばたばたとはばたいてみせたが、飛びあがりはしなかった。
[……首の後ろ、痒《かゆ》い。掻《か》いて]
エリンは、ため息をついた。
「首の後ろ? 手が届《とど》かないわ。身体《からだ》をかがめてよ」
リランは、しゃがみこんで身体をかがめた。
「よじのぼるわよ。動かないでね。痛《いた》くても、わたしをふり落とさないでよ」
体毛をつかんで背によじのぼろうとすると、リランは、エリンが登りやすいように身体を傾《かたむ》けてくれた。
リランの背は、エリンの三倍はある。背によじのぼるたびに、エリンはなんとなく、虫になったような気分になった。
「どこ? ここ?」
首のところに、体毛が逆立《さかだ》っている場所があった。掻《か》いてやると、リランは気持ちよさそうに喉《のど》を鳴《な》らした。
ふいに、ぐらりと身体《からだ》がゆれた。
リランが身体をゆらしたのかと思ったが、すぐに、そうではないことに気づいた。
「……地震《じしん》!」
木々がゆっさゆっさゆれはじめ、あちらこちらで、雪が落ちる音が響《ひび》きはじめた。岩棚《いわだな》も軋《きし》んでいる。これまで体験したことのない、大きな地震だった。
リランは倒《たお》れまいと脚《あし》を踏《ふ》んばり、翼《つばさ》を広げた。その首にぎゅっとしがみついて、エリンは、思わず目をつぶった。
いやな音がして、岩棚に亀裂《きれつ》が入った。あっと思う間もなく、リランの足もとが崩《くず》れた。
瞬時《しゅんかん》の判断《はんだん》だったのか、それとも、本能的《ほんのうてき》な動きだったのか、その瞬間、リランは翼をはばたかせながら、岩棚《いわだな》を強く蹴《け》った。
ぐうん、と身体が持ちあがるような感覚《かんかく》とともに、強い風で髪《かみ》がはためいた。
身体の下で、リランの筋肉が逞《たくま》しく上下に動いている。なにが起こっているのかわからず、エリンは目をあけようとしたが、顔に吹《ふ》きつける風があまりに強くて、なかなかあけることができなかった。
うっすらと目をあけたとき、見えたのは、空だけだった。
(……まさか)
リランの首にしがみついている手に力を入れて、すこし身体《からだ》をずらし、下を見て、エリンは息をのんだ。
飛んでいる! ……空を、飛んでいる!
谷川が、細い紐《ひも》のように見える。雪をかぶった森や野が、日の光を浴《あ》びて、まぶしく輝《かがや》きながら、はるか視界《しかい》の彼方《かなた》まで広がっている。
リランの歓喜《かんき》が、伝わってきた。
ありったけの力を解放《かいほう》して、空を掻《か》き分《わ》けるように力強く翼《つばさ》をはばたかせ、ぐんぐんと飛んでいく。
リランには大気の層《そう》が見えていた。風が見えていた。どの気流に乗ればよいか、どの風を避《さ》ければよいか、考えなくともわかった。
[うれしい、うれしい、うれしい……]
歓喜の声をあげながら、リランは大空を舞《ま》った。
背にいるエリンは、しがみついているのがやっとだった。もはや、下を見る余裕《よゆう》などなかった。身体の下に地面がないのだと思うと、腹の底から震《ふる》えがこみあげてくるので、それを考えまい、考えまいとしていた。
ビュンビュンと耳もとで風が唸《うな》る。息が苦《くる》しくて頭をあげようとしたとたん、風の力がもろに身体《からだ》にかかってきた。手の力をすこしでもゆるめたら、風に身体を持っていかれてしまう。あわてて、リランの首にぴったりと身体《からだ》を伏《ふ》せると、とたんに楽になった。むしろ風に背を押《お》さえつけられている感じがした。
身体がもぎ離《はな》される感覚《かんかく》は消えても、寒さだけはどうにもならなかった。氷のような風が背をおおっているのだ。どんどん手の感覚がなくなっていく。たえず涙《なみだ》がにじみでてきて、目をあけることもできなかった。
「リラン……リラン!」
ガチガチ歯を鳴らしながら、エリンは叫《さけ》んだ。
「おりて! リラン、お願い! 寒い!」
飛翔《ひしょう》の歓喜《かんき》に酔《よ》っているリランは、なかなか応じてくれなかったが、くり返し叫ぶうちに、ようやく、ゆっくりと下降《かこう》しはじめた。
放牧場《ほうぼくじょう》の雪原にふわりと翼《つばさ》を広げておりていくリランの脚《あし》が、地面についたのを、エリンは全身で感じた。
エリンは、こわばった手をなんとか体毛からもぎ離《はな》し、リランの背をずるずる滑《すべ》って地面に落ちた。落ちたまま、しばらく動けなかった。
身体を丸め、がたがたふるえているエリンを見て、リランは心配そうに鳴《な》いた。
そして、幼獣《ようじゅう》を温《あたた》めるように、エリンの上に慎重《しんちょう》に身体を伏《ふ》せると、すっぽりとエリンの身体をおおった。
身体《からだ》が温《あたた》まってきても、震《ふる》えはとまらなかった。エリンは口もとを両手でおおい、がたがたとふるえつづけた。
ようやく震えがおさまっていくと、身体からすべての力が抜《ぬ》けていってしまったような気がした。放心《ほうしん》したまま、エリンは長いこと、リランの温かくやわらかい腹の下で胎児《たいじ》のように身体を丸めていた。
リランの腹の下から出ても、しばらく、エリンは雪原にしゃがみこんで、ぼうっとしていた。しきりに話しかけてくるリランの声も耳に入らなかった。のろのろと目をあげて、リランの目を見たとき、ようやく感情《かんじょう》がもどってきた。
[うれしい、うれしい、うれしい]
リランの目は、生き生きと輝《かがや》いていた。はじけるような歓喜《かんき》が伝わってきて、エリンはゆっくりと笑顔《えがお》になった。
「……飛んだね」
目頭《めがしら》が熱くなり、涙《なみだ》が頬《ほお》を伝った。
[飛んだ! 飛んだ!]
リランは頭を空に向け、高々と鳴《な》いた。
その喜《よろこ》びの声が、ふっと途切《とぎ》れた。
「……どうしたの?」
リランは首の周りの毛を逆立てて、森の縁《ふち》を見つめている。そして、喉《のど》の奥《おく》で、これまで聞いたことがない音をたてはじめた。
リランが見ているほうに目をやったが、なにも見えなかった。なにを気にしているのだろう。
目を凝《こ》らして見つめるうちに、ふいに、それまで木の影《かげ》だと思っていたものが、人の姿であることに気づいて、エリンはぎょっとして立ちあがった。
灰色の衣《ころも》を着た、背の高い男が、木の陰《かげ》に立って、こちらを見ている。
エリンが気づいたのを悟《さと》ったのか、男はゆっくりと、こちらに向かって歩きはじめた。
喉《のど》を軋《きし》ませるような声で鳴《な》きながら、リランは毛を逆立《さかだ》てて、エリンをかばうように男の前に立ちふさがった。
男はリランを恐《おそ》れる様子もなく、近づいてくる。目もとは灰色の頭巾《ずきん》の陰《かげ》になって見えなかった。歩きながら懐《ふところ》からなにかとりだすと、男はそれを口にあてた。
エリンは、はっとした。
「だめ……!」
エリンが叫《さけ》んだのと、男が音無し笛を吹《ふ》いたのが同時だった。
リランの鳴《な》き声が、断《た》ち切《き》られたように途切《とぎ》れた。牙《きば》を剥《む》きだし、翼《つばさ》をわずかに開いた姿勢のまま、リランは硬直《こうちょく》した。
彫像《ちょうぞう》の脇《わき》を通り過ぎるように、男はリランの脇を抜《ぬ》け、エリンの前に立った。
背が高い男の顔が、いまははっきりと見えた。四十代半ばほどの、年配の男だった。
頭巾《ずきん》の陰《かげ》の中で、緑色の目が、冷《ひ》ややかに光っていた。
「……これほど似ていれば、間違《まちが》いようがない。 ──きみは、ソヨンの娘《むすめ》だろう」
エリンは、呆然《ぼうぜん》と男を見つめた。
男が言った。
「話がある。王獣《おうじゅう》が入れない、あの森の木々が密集《みっしゅう》しているところまで、一緒《いっしょ》に来てほしい」
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[#地付き]3 |霧の民《アーリョ》の大罪
男の後ろについていきながら、エリンは、いつか見た夢の中を歩いているような、奇妙《きみょう》な感覚を覚《おぼ》えていた。
目の前にいる男は|霧の民《アーリョ》だ。母の一族の男だ。母をよく知っているらしい。もしかすると、親族なのかもしれない……。
心ノ臓が、喉《のど》のあたりまで、せりあがっているような気がした。雪を踏《ふ》んでいる感触《かんしょく》がない。視界《しかい》が、ぐらぐらとゆれる。
男は、ずんずんと森の中へ入っていく。雪原からは、まったく見えないあたりまで入りこむと、男は足をとめて、ふり返った。
そして、ロを開いた。
「きみは、わたしを見るのは初めてだろうが、わたしはここ数年、気づかれぬように遠くからきみを監視《かんし》していた。 ──きみと王獣《おうじゅう》を」
エリンは、こわばった口を開いた。
「監視《かんし》……? あ、あなたは、どなたですか。なぜ、わたしとリランを監視していたのですか」
男の目に、初めて表情《ひょうじょう》が現れた。
「……声も、ソヨンによく似ているな」
つぶやいて、男は、乾《かわ》いた倒木《とうぼく》に座《すわ》るよう手で示し、自分も倒木に座った。
「わたしは、きみの母の一族の者だ。一族の中で育《そだ》っていないきみにはわからんだろうが、きみの母の半族とは、|対の半族《ト・ハラ》に属《ぞく》している」
男の口もとに、微苦笑《びくしょう》が浮かんだ。
「わたしたちは|対の半族《ト・ハラ》から伴侶《はんりょ》を選ぶ。 ──ソヨンは、わたしの伴侶になるはずの娘《むすめ》だった」
息をしていることすら忘れて、エリンは男を見つめていた。
男は、感傷《かんしょう》を抑《おさ》えこむように、すっと表情をあらためた。
「しかし、きみを監視していたのは、きみがソヨンの娘だからではない。………四年前、精霊獣《せいれいじゅう》が現れて、きみのことを告《つ》げたからだ」
「精霊、じゅう?」
男は、視線《しせん》を宙に漂《ただよ》わせた。
「|神々の山脈《アフォン・ノア》の向こう、はるかな故地《こち》で、大いなる罪《つみ》を犯《おか》して死んだ我らの祖先《そせん》たちは、自分たちの罪を激《はげ》しく悔《く》い、子孫たちに自分たちの轍《てつ》を踏《ふ》ませぬように、自らに呪《のろ》いをかけた。 ──魂《たましい》となっても、|神々の安らぐ世《アフォン・アルマ》へは行かず、(操者《そうじゃ》ノ技《わざ》)を使う者が現れたとき、それを警告《けいこく》する精霊烏《せいれいちょう》となるようにと。
精霊獣《せいれいじゅう》は、自らの声では、この世の者に言葉を伝えられぬ精霊鳥を体内に宿《やど》し、この世の者に言葉を伝えてくださる獣《けもの》。……その精霊獣がわたしに告げたのだ。王獣の言葉を奏《かな》でる者が現れた、と」
雪の匂《にお》いのする、薄暗《うすぐら》く凍《い》てついた森の中に、祖霊《それい》たちが漂《ただよ》っているのが見えるような気がして、エリンは腕《うで》に腕を絡《から》め、己《おのれ》の身体《からだ》を抱だ《》きしめた。
祖霊たちが、ずっと自分を見ていたというのか。もしかすると、いまも……?
「初め、わたしたちは、ソヨンがきみに、王獣《おうじゅう》を操《あやつ》る(操者ノ技)を伝えたのかと思った。
だが、この保護場《ほごじょう》で観察《かんさつ》をし、きみが行った(操者ノ技)は、一族が伝えてきた技ではないと知ったとき、一族がどんな衝撃《しょうげき》を味わったか、きみには想像もつくまい」
男は、まっすぐにエリンを見つめていた。
「わたしたちは、二度と再び、(操者《そうじゃ》ノ技《わざ》)が使われることのないよう────一族の者たちが過去を忘れ去《さ》って、再び(操者ノ技)を編《あ》みだすことがないように、幼《おさな》いころから戒律《かいりつ》とともに、(操者ノ技)を教《おし》えこまれる。
だが、きみは、己《おのれ》の才覚《さいかく》だけで、(操者《そうじゃ》ノ技《わざ》)を編みだしてしまった」
男は、かすれ声で言った。
「わたしたちは、人々が噂《うわさ》しているような魔力《まりょく》を持つ民《たみ》などではない。ただ、|神々の山脈《アフォン・ノア》の向こうに、かつて栄《さか》えていた国で、行われてきた数々の技《わざ》を、知識《ちしき》として伝えてきただけだ。特別な能力など、なにもないのだ。
それなのにきみは、まったく知識を持たぬ状態から、(操者ノ技)を編みだしてしまった。……わたしたちは、深い絶望感《ぜつぼうかん》に包《つつ》まれたよ」
片手で顔をおおい、男は、低い声で言った。
「人という生き物には、こんなふうに、天賦《てんぷ》の才《さい》を持った者が生まれてしまうものなのか。過去に生みだされた技を封《ふう》じても、災《わざわ》いは防《ふせ》げないのか。人はこうして、知らぬまに、大罪《たいざい》を犯《おか》す道へと足を踏《ふ》みだしていくのかと……」
エリンは、血の気のない自分の指先が細かくふるえているのを、他人の手を見るように見つめていた。
(わたしがやってしまったことを、この人は責《せ》めているのだ。 ──わたしがやったことは、母の一族を絶望させるほど、悪いことなのだろうか……)
リランと話すことを、この人は(操者ノ技)と呼んでいるのだろう。でも、リランと意思《いし》を通じることが、大罪と言われるほど悪いことなのだろうか。
そう思ったとき、ふいに、母の声が、耳の奥《おく》によみがえってきた。指笛《ゆびぶえ》で、闘蛇《とうだ》を操《あやつ》る直前に母が言った、あの言葉が。
[#ここから2字下げ]
──エリン、おかあさんがこれからすることを、けっしてまねしてはいけないよ。おかあさんは、大罪《たいざい》を犯《おか》すのだから。
[#ここで字下げ終わり]
目の前に、白い光がひらめいたような気がした。
(あのとき、おかあさんは、闘蛇と指笛で話した。おかあさんは、それを、大罪だと言ったんだわ……)
針で刺《さ》されたような痛《いた》みが、心ノ臓に走った。
獣《けもの》と意思《いし》を通じること───獣に己《おのれ》の意思を伝え、獣を動かすこと。それを母の一族は(操者《そうじゃ》ノ技《わざ》〉と呼《よ》ぶのだろう。そして、それを、大罪だと考えているのだ。
「……なぜ」
エリンはつぶやいた。
「王獣《おうじゅう》と話すことが、罪なのですか」
男は、すぐには答えなかった。節《ふし》くれだった手で顔をさすりながら、言葉を探《さが》しているようだったが、やがて、ため息をついてロを開いた。
「言葉で言えば、それは、ごく簡単なことだ。 ──だが、|神々の山脈《アフォン・ノア》の向こう側を見たことのないきみには、それがどれだけ恐《おそ》ろしいことか、伝わらないだろう。こんなわずかなことが、そんな大事に至《いた》るはずがないと思ってしまうだろう」
目をあげて、男はエリンを見た。
「それでも、伝えるだけ伝えようと……王獣《おうじゅう》が飛翔《ひしょう》してしまったのを見て、わたしは今日、心を決めたのだ。
後難《こうなん》を断つためには、わたしたちは、きみとあの王獣を殺すべきなのかもしれない。しかし、わたしたちは、どのような理由があっても、食するため以外には命を奪《うば》わぬと誓《ちか》っている。
だから、わたしたちは言葉によって伝え、あとは祈《いの》るしかないのだ。きみが、よき判断《はんだん》をしてくれることを……」
男は自分の膝頭《ひざがしら》を、ぐっと握《にぎ》りしめていた。
「どうか、ソヨンの娘《むすめ》よ、わたしの言葉を真剣《しんけん》に聞いてくれ。
そして、きみが育《そだ》てたあの王獣を二度と飛翔《ひしょう》させずに、ほかの保護されている王獣たちと同じように、戒律《かいりつ》の枠《わく》の中へもどしてくれ。それを、きみの母の一族は全身全霊《ぜんしんぜんれい》をこめて願《ねが》っている。 ──わかってくれ」
男は、語りはじめた。
そして、語り終えると立ちあがって、森の奥《おく》へ消えていった。
男が去《さ》ったあとも、長いこと、エリンは放心したように、倒木《とうぼく》に座《すわ》っていた。
静かな声で男が語ってくれた話は、たしかに恐《おそ》ろしい話ではあった。けれど、男が自分で言ったように、エリンには、それは遠い昔の出来事の話としか思えなかった。
王獣《おうじゅう》や闘蛇《とうだ》を人が操《あやつ》ることで、過去にどのようなことが起きたのかは、わかった。
だが、それは、自分がリランと話をしたり、母が、たった一度、闘蛇を指笛《ゆびぶえ》で操っただけで生じるような災《わざわ》いではない。もっと多くの、複雑《ふくざつ》な要素《ようそ》が絡《から》まり合わねば、生じるはずがないことだ。
|霧の民《アーリョ》は戒律《かいりつ》を守って生きることを一族の存在意義《そんざいいぎ》としてきたために、その根にある出来事を、必要以上に大袈裟《おおげさ》に考えるようになってしまったのではなかろうか。
エリンは両手で顔をおおった。
(おかあさん……あなたは、こんなことを大罪《たいざい》だと考えて、自分の命で償《つぐな》おうとしたの?
こんなことのために、わたしと生きる未来を捨《す》てたの……?)
自分がいつ立ちあがり、どうやって森を出たのか、エリンは覚《おぼ》えていなかった。
木々のあいだに、まぶしい雪原が見えてきたとき、哀《かな》しげな鳴《な》き声が響《ひび》いてきた。それを聞いたとたん、周囲の物音がもどってきた。
エリンは木々のあいだを駆《か》けぬけて、雪原にとびだした。
リランが翼《つばさ》を広げ、足踏《あしぶ》みをして哀《かな》しげに鳴《な》いている。
その大きな腹に抱《だ》きついて、エリンは泣きだした。つややかで温《あたた》かい体毛《たいもう》に顔をうずめて、大声で泣いた。
この子と語ることが───この子が天を舞《ま》うことが、どうして罪《つみ》などであろうか。
これほどの喜《よろこ》びを生むことが、罪であろうはずがない。
(わたしは、この子が天を舞うことを、とめたりしない。彼らがなんと言おうと、この子を戒律《かいりつ》で縛《しば》ったりしない)
リランの温《ぬく》もりを頬《ほお》に感じながら、エリンは心の中で叫《さけ》んでいた。
できることなら、リランが飛翔《ひしょう》したことは、秘密《ひみつ》にしておきたかった。
けれど、驚《おどろ》いた拍子《ひょうし》に、リランが飛び立ってしまって、帰ってこないような事態《じたい》が起《お》きたら、責《せ》めを負《お》うのはエサルだ。それを考えると、黙《だま》っているわけにはいかなかった。
「なんですって?」
エリンの話を聞くや、エサルは眉《まゆ》を跳《は》ねあげた。
「リランが、飛んだ?」
「はい。地震《じしん》で、足もとが崩《くず》れて、それで……」
つかえながら前後の状況《じょうきょう》を説明するエリンの言葉を聞くあいだ、エサルは、ロを半《なか》ば、あけたままだった。
「なんと、まあ……」
額《ひたい》にかかった白髪《しらが》を無意識に掻《か》きあげながら、エサルはつぶやいた。
それから、ぎゅっと表情を引きしめた。
「飼《か》われている王獣《おうじゅう》が空を飛ぶなんて、前代未聞《ぜんだいみもん》のことだけれど、素晴《すば》らしいことだわ。
でもね、万が一にも、リランが放牧場《ほうぼくじょう》から逃《に》げてしまうことがないように、手を打たなければ」
「はい。わたしも、それが心配です。自分から逃げるようなことはないでしょうし、飛びだしてももどってくると思いますけど、でも、飛んでいった先で事故《じこ》にあったり、なにか起《お》きたりしたらと思うと……」
「そうよ。そういうふうにさきのさきまで事態《じたい》を考えておかねば。王獣の場合はね」
エサルは、額を指で押《お》さえて考えこんだ。しばらく、そうして考えていたが、やがて目をあげると、エリンを見つめた。
「あなた、背に乗って飛んだと言ったわね」
「はい」
「そういうことができるのなら、あなた、これからリランの飛翔《ひしょう》|訓練《くんれん》をなさい」
「え?」
意外《いがい》な言葉に、エリンはびっくりして訊《き》き直《なお》した。
「飛翔《ひしょう》訓練、ですか?」
「そうよ。リランに教《おし》えこむの。あなたを背に乗せていないかぎり、空を飛んではいけないこと。空を飛んでも、必ずここへ帰ってくること。それを、習慣《しゅうかん》になるくらいにリランの心と身体《からだ》にしみこませなさい」
唖然《あぜん》としているエリンに、エサルは苦笑《くしょう》を浮《う》かべながら言った。
「いまが、休暇中《きゅうかちゅう》でほんとうに幸運だったわね。ほかの学童《がくどう》たちがもどってくるまでに、なんとか、それを成《な》し遂《と》げなさい」
「……あの、でも、リランの背に乗って飛ぶのは、すごく怖《こわ》いんですけれど……」
エサルは、また眉《まゆ》をあげた。
「あら。あなたの口から、怖いなんて言葉を聞くとは思わなかったわ」
言ってから、エサルは、にやっと笑った。
「冗談《じょうだん》よ。 ──もちろん、安全に飛べるよう、工夫《くふう》をせねばね。馬に鞍《くら》をつけるように、革帯《かわおび》かなにかで、騎乗帯《きじょうたい》を作るとか。用務《ようむ》の人たちに、手伝《てつだ》うようにお願いしましょう」
努《つと》めて平静な表情を崩《くず》すまいとしているエサルの目が、内心の興奮《こうふん》を映《うつ》して、明るく光っているのを見て、思わず、エリンも微笑《ほほえ》んでしまった。胸の底に、わくわくする気分が広がり、|霧の民《アーリョ》の男に会ってからずっと心の中にあった重苦しいものが、薄《うす》れて消えていった。
エサルは気が短くて、思いついたらすぐに実行に移《うつ》さずにはいられない。そのまま、エリンをともなって用務《ようむ》の男衆の控《ひか》え室《しつ》に行くと、炉《ろ》を囲《かこ》んで休憩《きゅうけい》をとっていた男衆に、事情を説明した。
早口にまくしたてるエサルの話を、唖然《あぜん》として聞いていた男衆は、聞き終えるや、顔を見合わせた。
「……どんなもんを作ったらいいかね」
なかの一人が、用務長《ようむちょう》に問いかけた。
用務長は、よく日に焼けた老年の男だ。手仕事が大好きで、暇《ひま》があると、面白《おもしろ》い玩具《がんぐ》を作ってくれるので、学童たちにはとても人気があった。
彼は、短い顎髭《あごひげ》をさすりながら、口を開いた。
「一から、新しい騎乗具《きじょうぐ》をこしらえるとなると、えらく時間をくうでしょう。学童たちがもどってくるまでに、その騎乗《きじょう》|訓練《くんれん》とやらをするとなれば、そんなに悠長《ゆうちょう》なことはしてられねえですな。
なにか、すでにあるものを使って作るとするなら、やっぱり馬の鞍《くら》でしょうが、ふつうの鞍だと、馬の背の形に合うようになってて、王獣《おうじゅう》の背には、はまりません。……さっきから思ってたんですが、布団鞍《ふとんぐら》はどうでしょうね」
「ああ……」
その場にいた人々の顔に、納得《なっとく》した色が浮《う》かんだ。
布団鞍というのは、寒冷地《かんれいち》でよく用いられている鞍《くら》で、大きな牛革《ぎゅうがわ》を使って、すっぽりと馬の背を包《つつ》むような形になっている。布団《ふとん》で包んで、腹帯《はらおび》で留《と》めているように見えることから、布団鞍と呼ばれていた。
「あれなら、王獣《おうじゅう》の背でも、なんとかなるでしょう。長い腹帯で留めればいいんで。
それと、あれですな。王獣がそんなもんをかけられるのをいやがるかもしれんが、腹帯を工夫《くふう》して、手綱《たづな》もつけられるようにしないとね。落っこちたら大変だから、鞍《くら》と、その子の帯《おび》の両方に金具《かなぐ》をつけて、簡単に取り外しができる、頑丈《がんじょう》な命綱《いのちづな》をつけられるようにしてみましょう」
根っから細工物《さいくもの》が好《す》きなのだろう。用務長《ようむちょう》の目は、楽しげに輝《かがや》いていた。
「それにしても、あれですな。まさか、王獣の鞍を作る日が来るたぁ、思ってもいませんでしたよ」
用務長たちが作ってくれた騎乗帯《きじょうたい》は、じつに頑丈《がんじょう》で、よく工夫《くふう》されたものだった。
ただ、いささか重いのが難点《なんてん》だった。リランはこれくらいの重さはものともしないだろうが、音無し笛を使わないとなると、エリンしか、リランに近づけないので、エリン一人で運んで装着《そうちゃく》せねばならない。
「大丈夫《だいじょうぶ》か。あんた一人で、王獣《おうじゅう》の背にのせられるかね?」
ちょっとふらつきながら、騎乗帯を肩《かた》に担《かつ》ぎあげたエリンを見ながら、心配そうに、用務長《ようむちょう》が尋《たず》ねた。
「大丈夫です」
内心《ないしん》、これを一人でリランの背に乗せられるかどうか不安だったけれど、作り直してもらう時間はないのだから、なんとかせねばならない。
騎乗帯《きじょうたい》を担《かつ》いで近づいていくと、リランはぐっと顔を起こし、興味津々《きょうみしんしん》といった目でエリンを見た。
[なに?]
問いかけてきたリランの鼻面《はなづら》に騎乗帯を近づけ、まず、思う存分《ぞんぶん》|匂《にお》いを嗅《か》がせてから、帯の形を見せながら、エリンは、これがなんであるかを説明した。
複雑《ふくざつ》な説明を、理解《りかい》してくれるかどうか不安だったが、
「かがんで。これを背にのせるから」
と言うと、すっと背を向けてかがんでくれた。
こういうリランの反応《はんのう》を目《ま》のあたりにすると、いつも、不思議《ふしぎ》な気持ちになる。
エリンはちょっと頭をふって、その気持ちをふりはらうと、騎乗帯《きじょうたい》をいったん膝《ひざ》の上にのせてから、よいしょつと調子《ちょうし》をつけて、それを持ちあげ、リランの背に広げた。
どさっと騎乗帯が背にのると、リランは首をねじ曲《ま》げて、自分の背にのっているものを見ようとした。リランがそうやっているあいだに、エリンは腹の下に入りこみ、二組の腹帯《はらおび》をきっちりとリランの腹の下で留《と》めた。
「背にのぼるから、動かないでね」
声をかけてから、エリンはリランの背によじのぼり、騎乗帯の上に腰《こし》を据《す》えて、鐙《あぶみ》に爪先《つまさき》を入れた。さすがは用務長で、鐙の長さはエリンの足にぴったりだった。
こうして座《すわ》ると、たしかに身体《からだ》が安定する。鞍壷《くらつぼ》のところについている短い命綱《いのちづな》の先端《せんたん》の鉄鉤《てつかぎ》を、自分の腹に巻《ま》いている帯につけておいた金輪《かなわ》にカチリとかけ、リランの胸のあたりにかかっている手綱《たづな》の両端を手に巻きつけると、エリンはリランに声をかけた。
「飛んで!」
息をのむまもなく、大地を蹴《け》って、リランが空に舞《ま》いあがった。
がくん、と頭をふられて、めまいがした。
風がもろに上半身に吹《ふ》きつけ、身体《からだ》が後ろへ持っていかれる。あわてて、エリンは、まえにやったように、リランの背に身体をぴったりとつけた。
耳もとで、ヴヴヴ……と風が唸《うな》り、髪《かみ》が乱されたが、鐙《あぶみ》と手綱《たづな》、そして、命綱《いのちづな》があるというだけで、とても安心感《あんしんかん》があった。
リランは上昇《じょうしょう》|気流《きりゅう》を見つけては、ぐるぐると舞《ま》いあがり、うれしそうに滑空《かっくう》していく。下を見ると肝《きも》が縮《ちぢ》むし、リランが降下していくと、腸《はらわた》がぐうっと持ちあがってくるようで気持ちが悪かったが、それでも、いま、自分は飛んでいるのだという、鳥肌《とりはだ》が立つような快感《かいかん》が、しきりにこみあげてくる。
リランの背に頬《ほお》をつけて、エリンは微笑《ほほえ》んだ。温かい身体《からだ》の奥《おく》から、鞴《ふいご》のような呼吸音が聞こえてくる。息の音とともに、はじけるようなリランの歓喜《かんき》が伝わってくるようだった。
エリンを背に乗せて自在に天空を飛翔《ひしょう》する王獣《おうじゅう》を、エサルと用務長《ようむちょう》たちは、額《ひたい》に手をかざして、いつまでも見つめていた。
[#改ページ]
[#地付き]4 野生《やせい》の雄《おす》
高原の草地をおおっていた雪が解《と》け、小鳥たちがさかんに空を舞《ま》うようになったころ、カザルム王獣《おうじゅう》|保護場《ほごじょう》に、王獣を乗せた荷馬車がやってきた。
「………珍《めずら》しいなぁ、成獣《せいじゅう》が捕獲《ほかく》されるなんて、これまで、なかったわなぁ?」
柵《さく》に手をおいて、伸《の》びあがるようにして見ながら、ユーヤンが言った。
音無し笛で硬直《こうちょく》させられた王獣が、用務《ようむ》の男衆たちの手で王獣舎《おうじゅうしゃ》へ運びこまれるのを、学童《がくどう》たちは皆《みな》、柵のところに鈴《すず》なりになって見ている。
エリンも、ユーヤンたちと並んで、その様子をながめていた。
「捕獲人《ほかくにん》が、失敗《しっぱい》したらしいよ」
カシュガンが、呑気《のんき》な声で言った。このところ、ユーヤンがいるところ、必ずカシュガンの姿がある。エリンはユーヤンと二人になると、そのことでユーヤンをからかったけれど、ユーヤンは涼《すず》しい顔で、「もてる女はつらいわぁ」と言ったものだ。
「幼獣《ようじゅう》を捕《つか》まえようとして、巣《す》にいるときに、親が帰ってきてしまったんだってさ。とっさに音無し笛を吹《ふ》いたら、親の王獣《おうじゅう》が崖《がけ》の岩場に激突《げきとつ》して怪我《けが》をしたんだって」
カシュガンは、まるで一緒《いっしょ》に岩場にいたかのように、手振《てぶ》りを交《まじ》えて話した。
王獣|保護人《ほごにん》は、けっして野生の王獣を殺してはならないという厳《きび》しい掟《おきて》に縛《しば》られている。あの王獣のように、幼獣《ようじゅう》を捕獲《ほかく》する最中に、誤《あやま》って親を傷《きず》つけてしまうなど、とてつもない恥《はじ》だと考えられていた。
傷を負った王獣を置《お》き去《ざ》りにすることはできず、捕獲人《ほかくにん》は幼獣とともに、親も運んできたのだろう。幼獣は正規《せいき》の王獣保護場に移《うつ》され、傷を負った親のほうは、このカザルムに運んできたというわけだ。
「子どもを守ろうとした、お母ちゃんかぁ。……はよ、傷を治《なお》したぁって、子どものいるラザル王獣保護場へ行かせたげんとなぁ」
「いや、あれ、お父《とう》ちゃんらしいぜ」
「お父ちゃん?」
カシュガンの言葉に、ユーヤンは眉《まゆ》を跳《は》ねあげた。
「うん。雄《おす》だって聞いたよ」
ユーヤンは、しげしげとカシュガンの顔を見た。
「あんた、どっから、そういう情報《じょうほう》仕入れてくるん?」
カシュガンは照《て》れくさそうに笑って、答えなかった。
大きな王獣《おうじゅう》用の台車に移された王獣は、傷《きず》つき、硬直《こうちょく》していても、保護場《ほごじょう》にいる王獣とは比《くら》べものにならぬ、美しい姿をしていた。
その翌日の夜、エリンは、教導師長室《きょうどうしちょうしつ》に呼ばれた。
エリンが入っていくと、エサルは飲んでいたお茶の湯飲《ゆの》みを机《つくえ》において、目をあげた。
「ああ、エリン。悪かったわね、急に呼びだして」
エリンは首をふった。
「とんでもない。……なにか、わたしにご用でしょうか」
エサルは、座《すわ》るように手で示した。
「昨日、成獣《せいじゅう》が運びこまれたでしょう。便宜上《べんぎじょう》、エク(雄《おす》という意味)と呼んでいるんだけど、そのエクがね、音無し笛での硬直が解《と》けるたびに暴《あば》れて、治療《ちりょう》しても、すぐに傷が開いてしまうのよ」
「ああ……」
幼《おさな》いころのリランのことを思いだして、エリンはうなずいた。あのころ、リランは、音無し笛で硬直《こうちょく》させられたあと、激《はげ》しく身食《みぐ》いをしていたものだ。
あの王獣もリランと同じように、音無し笛を吹《ふ》かれた直後に大怪我《おおけが》をしている。きっと音無し笛と怪我の記憶《きおく》が結びついていて、音無し笛に過激《かげき》に反応してしまうのだろう。
「それでね、ふと、思ったのよ」
エサルは、ずれた老眼鏡《ろうがんきょう》をもどしながら言った。
「あなた、竪琴《たてごと》で、エクをしずめてみない?」
エリンは顔をくもらせた。……|霧の民《アーリョ》の男の言葉が頭をよぎったからだ。
しかし、すぐに、エリンは、その記憶《きおく》をふりはらった。
「……できるかどうか、わかりませんが、やってみます」
エサルの目が、学問をする者らしい純粋《じゅんすい》な好奇心《こうきしん》で輝《かがや》いているのを見ながら、エリンは自分も、心が昂《たか》ぶってくるのを感じていた。
野生《やせい》の王獣《おうじゅう》も、竪琴の音に応《こた》えるだろうか…‥。
王獣舎《おうじゅうしゃ》が近づいてくると、ズシン、ズシンと腹に響《ひび》くような音が聞こえてきた。王獣が壁《かべ》に身体《からだ》を打ちつけているのだ。
エリンは、小脇《こわき》に抱《かか》えていた竪琴を手に持ちかえると、足早に王獣舎に入っていった。格子《こうし》の外側で、不安そうに、暴れる王獣を見守《みまも》っていた教導師《きょうどうし》たちが、エリンを見ると、興味深げな表情を浮《う》かべて、場所をあけてくれた。
王獣は、すさまじい有り様だった。
硬直《こうちょく》して岩場に落ちたときに折《お》った右|脚《あし》をぶらぶらさせながら、片脚で立ち、翼《つばさ》を広げて均衡《きんこう》をとっては、身体《からだ》を格子《こうし》に打ちつけてくる。王獣《おうじゅう》の身体がぶちあたるたびに格子が軋《きし》み、天井《てんじょう》から、ばらばらと埃《ほこり》が降ってきた。
「……どう? やれそう?」
エサルがささやいた。
「わかりません。……でも、いま竪琴《たてごと》を鳴《な》らしても、聞いてくれないと思います。興奮《こうふん》しすぎていますから」
低い声で答えながら、エリンはエサルをふり返った。
「ひと晩、時間をください。わたし、ここで夜を過ごしてみます」
エリンが言外に頼《たの》みたかったことを、エサルは敏感《びんかん》に察《さっ》してくれた。
「わかったわ。……みんな、ここはエリンに任《まか》せて外へ出ましょう。気になるなら見ていてもいいけれど、エクを落ちつかせるためには、なるべく人がいないはうがいいでしょう。
灯《あか》りは、どうする? 消したほうがいい?」
「消してください」
うなずいて、エサルは灯りを吹《ふ》き消《け》すと、教導師たちを促《うなが》して外へ出ていった。
教導師たちが外へ出ていっても、エクはしばらく、荒《あ》れくるっていた。
エリンは壁《かべ》の隅《すみ》に座《すわ》り、その姿を見つめていた。大きい。リランより、ひとまわり大きいのではなかろうか。
あの格子《こうし》が壊《こわ》れたら、一瞬《いっしゅん》で、自分は噛《か》み殺《ころ》されてしまうだろう。……久しく感じていなかった恐《おそ》れが、胃のあたりにしこっていた。
全身から発散《はっさん》されている怒《いか》りが、ゆっくりと薄《うす》れていくまで、エリンはなにもせずに、静かに見守《みまも》っていた。
夜半過ぎに、そっとエサルがもどってきた。
王獣《おうじゅう》は、暴《あば》れ疲《つか》れたのだろう。そのころには、軽い鼾《いびき》をかきながら、よく眠《ねむ》っていた。
エサルはエリンの脇《わき》に腰《こし》をおろしながら、毛布をエリンの肩《かた》にかけてくれた。二人は毛布にくるまって、うとうとしながら、長い夜を過《す》ごした。
夜が明けはじめたころ、エリンは竪琴《たてごと》をとりだし、静かに弾《ひ》きはじめた。
満足しているときにリランがよくたてている、のんびりとした音をまねて、弦《げん》をはじいていると、王獣が目をあけて、なにごとか、というように頭を持ちあげた。
エサルも目をあけていたが、声はたてなかった。
王獣は、しばらく弦の音に耳を傾《かた》けていたが、やがて、エリンがたてているより、やや高めの音を胸のあたりから響《ひび》かせはじめた。
エリンは微笑《ほほえ》んだ。
これは、放牧場《ほうぼくじょう》でリランがほかの王獣に不用意《ふようい》に近づきすぎたときにたてる音だ。敵意《てきい》がないことを示す音なのだろう。
逸《はや》る心を抑《おさ》えながら、エリンは、応《こた》える音をたてた。そして、その音をたてながら、ゆっくりと立ちあがった。
王獣《おうじゅう》のたてる音と、エリンの竪琴《たてごと》の音が交差《こうさ》し、共鳴《きょうめい》した。
その共鳴がゆるやかに消えていくころには、王獣は、エリンが近づいても、首筋の体毛を逆立《さかだ》てはしなかった。
エリンは、眠《ねむ》り薬《ぐすり》の粒《つぶ》を仕込《しこ》んである肉塊《にくかい》を拾いあげると、格子《こうし》の戸をあけて、肉塊を中へ放《ほう》った。捕獲《ほかく》されてから絶食していた王獣は、肉塊をあっというまに丸呑《まるの》みした。
「……骨折《こっせつ》は、二か所ですね」
眠っている王獣の脚《あし》の骨を接《つ》ぐのを手伝いながら、エリンはささやいた。
「単純《たんじゅん》骨折だわ。よかった。これなら、治《なお》りも早いでしょう」
エサルの手際《てぎわ》はみごとで、さほど手間どらずに、添《そ》え木《ぎ》をあてて、王獣の骨折《こっせつ》の治療《ちりょう》を終えてしまった。
王獣舎の外に出ると、朝食を知らせる鐘《かね》が、学舎《がくしゃ》のほうから聞こえてきた。
学舎に向かって歩きながら、エサルが訊《き》いた。
「あの音には、意味があるの?」
「わたしが弾《ひ》いた音ですか? ……はい。たぶん、王獣《おうじゅう》同士が、敵意《てきい》がないことを伝える音だと思います。放牧場《ほうぼくじょう》で、リランがほかの王獣に近づきすぎたとき、あの音をたてたのを聞いたことがあります」
エサルが、興味《きょうみ》深げにうなずいた。
「面白《おもしろ》いわね。王獣は群《む》れで暮《く》らす生き物ではないと教えられてきたけど、あんなふうに、ほかの個体に対して敵意の有無《うむ》を確《たし》かめて、敵意がない個体ならば受け入れるのだとすれば、意外に、近接《きんせつ》して暮らしていないだけで、広い範囲《はんい》では群《む》れのようなかたちになっているのかもしれないわね」
エリンはうなずいた。それは、エリンもずっと考えていたことだった。
「はい。わたしも、そうではないかと思っていました。リランは、なんというか、とても頻繁《ひんぱん》に、細やかに意思《いし》を伝えてくるんです。個体のみで生きるなら、あんなふうに、他者に対して意思を伝《つた》える手段を豊富《ほうふ》に持つ必要はないはずです」
「面白いわ。……面白いわね。王獣に関しては、まだまだ、わたしたちは白紙の状態《じょうたい》なのよ。観察《かんさつ》すればするほど、新しいことが見えてくるはずだわ」
エリンは身体《からだ》が熱くなるのを感じた。そうなのだ。学べば学ぶほど、新しい側面《そくめん》がどんどん見えてくる。野生《やせい》の王獣《おうじゅう》が暮《く》らす様《さま》を学ぶことができれば、もっと見えてくることがあるにちがいない。
林の向こうに、学舎が見えてきたとき、エサルが言った。
「リランのように、幼《おさな》いころから刷《す》り込《こ》みをしなくても、あなたの竪琴《たてごと》の音は、王獣《おうじゅう》に通じたわね」
「はい。でも、あれはほんとうに単純《たんじゅん》な音ですから。異国語でも、挨拶《あいさつ》ぐらいは、まねごとでも通じるようなものだと思います」
エサルは、エリンを見上げた。
「わたしがやっても、通じると思う?」
「たぶん。……エクに向けて、音無し笛を吹《ふ》いていなければ」
エサルは眉《まゆ》をひそめた。
「ああ、そうか。……わたしは吹いたわね。 ──それを、覚《おぼ》えていると思う?」
「ええ。王獣は、すごく記憶力《きおくりょく》が優《すぐ》れているんです。だから、自分に向かって音無し笛を吹いた相手《あいて》は、きちんと覚えていると思います。
でも、リランのことを考えると、音無し笛を一、二度吹いても、その後の対応《たいおう》の仕方で変化があるかもしれません」
「そうね。……ともかく、試《ため》してみる価値《かち》はあるわね」
うなずいてから、エサルは、エリンを見つめた。
「わたしに、あの音の出し方を教えてくれる?」
エリンは瞬《まばた》きした。
いつか、こう言われる日が来るだろうと覚悟《かくご》していたが、いざ、言われてみると、即座《そくざ》には答えられなかった。
(操者《そうじゃ》ノ技《わざ》)をエサルに教《おし》えれば、この技は、誰《だれ》もが使える技として広まっていくだろう。それは……もしかすると、災《わざわ》いの端緒《たんしょ》を開く行為《こうい》なのかもしれない。
祖霊《それい》たちが、いまも自分を見ているとしたら、自分が下す判断《はんだん》を、|霧の民《アーリョ》に告げにいくのだろうか……
エリンは立ちどまった。
理由も話さずに、断るわけにはいかない。|霧の民《アーリョ》から聞いた話をエサルに打ち明けるのは気が進まなかったが、(操者ノ技)を独《ひと》り占《じ》めしたがっていると誤解《ごかい》されるのは、もっといやだった。
それに、エサルは、このことに無関係ではない。これからも、こういうことが起《お》きたとき、エリンが(操者ノ技)を使って、王獣《おうじゅう》の治療《ちりょう》をするのであれば、一度エサルには、きちんと相談《そうだん》しておかねばならない。
エリンは、エサルに向《む》き直《なお》った。
「あの音の出し方をお教えするのは簡単ですが、そのまえに、聞いていただきたいお話があるのです」
どこからどう説明すべきか、迷《まよ》いながらの話だったから、長い話になってしまったが、エサルは、ひと言もロをはさまずに聞いてくれた。
話を聞きおわると、エサルは、ため息をついた。
「……そういうことだったの」
つぶやくと、エサルは、まるで顔を洗《あら》うように、ごしごしと両手で顔をこすった。
それから天を見上げて、独《ひと》り言《ごと》のように言った。
「あの男が言った災《わざわ》いというのは、そういうことだったのね」
エリンに視線《しせん》をもどし、エサルは微笑《ほほえ》んだ。
「わたしもね、昔、|霧の民《アーリョ》の男に出会ったことがあるのよ。深《ふか》い山の中で……」
エサルの話を聞くうちに、エリンの目に、光が浮《う》かんだ。
「それで……」
エリンはつぶやいた。
「それで、わたしに、あんなことをおっしゃったんですね」
エサルは苦笑《くしょう》した。
「そう。早く話しておかねばと思いながら、話しづらくてね。こんなに時間がたってしまったけど、よかったわ、話せて」
エサルは王獣舎《おうじゅうしゃ》のほうをふり返って、低い声で言った。
「あなたの不安は、正鵠《せいこく》を射《い》ているかもしれないわね。……(操者《そうじゃ》ノ技《わざ》)は、あなただけが使える技だということにしておいたほうがいいのかもしれない。誰《だれ》でも使える技だとわかったら、必ず王獣を使おうとする者が現れるでしょうから」
エリンに視線をもどしたエサルの目に、ふと、気遣《きづか》わしげな色が浮《う》かんだ。
「だけどね、あなたのことを考えるなら、それは、危険《きけん》な道かもしれない。誰《だれ》もが使える技にしてしまったほうが、危険がなくなるわよ」
エリンは、首をふった。
「……自分一人の生死ですむ話なら、わたしは、そのほうがいいです。
わたしは、母の一族からあれほど必死に頼《たの》まれたことを、無視《むし》することに決めました。
訪《おとず》れるかどうかもわからない未来の災《わざわ》いを防《ふせ》ぐために、リランを、狭《せま》っ苦《くる》しい戒律《かいりつ》の檻《おり》に閉じこめるのは、いやだったからです。でも、もし、そのわたしの判断《はんだん》が、彼らが信じているように災いを招《まね》く可能性《かのうせい》があるのなら……」
声がかすれた。
「災《わざわ》いが芽吹《めぶ》いたとき、自分一人が命を捨《す》てれば、それをくいとめられるのだ、と思うことができれば……わたしは自分の意思《いし》を貫《つらぬ》くことができます」
エサルは、血の気のないエリンの顔を見つめた。
十八とは、とても思えぬ静けさがある、輪郭《りんかく》のくっきりとした娘《むすめ》の顔を。
そっと、エサルは手を伸《の》ばして、エリンの手に触《ふ》れた。そして、かすかにふるえているその手を、ぎゅっと握《にぎ》りしめた。
「……いいわ。あなたの覚悟《かくご》を尊重《そんちょう》しましょう。 ──あなたが(操者《そうじゃ》ノ技《わざ》)を使えることが外に漏《も》れないように、これからも気をつけなければね」
エサルの乾《かわ》いた手の温《ぬく》もりが、ゆっくりと伝わってきた。
喉《のど》がつまって、言葉が出なかった。エリンは、白髪《しらが》が増えたエサルの顔を見つめて、深《ふか》く頭をさげた。
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[#地付き]5 二頭の飛翔《ひしょう》
エクは、ぐんぐん回復《かいふく》し、なんと、わずか半月で完治《かんち》してしまった。
野生《やせい》の王獣《おうじゅう》は、これほど優《すぐ》れた回復力を持つのかと、治療《ちりょう》にあたっていた教導師《きょうどうし》たちは驚《おどろ》きを隠せなかった。
エクの治療には音無し笛は使わず、必ずエリンがつき添《そ》い、竪琴《たてごと》でなだめてから、餌《えさ》をやるというかたちをとった。エリンの発案《はつあん》で、初回《しょかい》以外は、即効性《そっこうせい》の眠《ねむ》り薬《ぐすり》ではなく、かなり遅効性《ちこうせい》の眠り薬を使うことにしたので、エクは、餌と眠りとを結《むす》びつけて考えることはなく、もりもりと餌を食べてくれた。
エクの治療《ちりょう》につき添《そ》ってからリランのところへ行くと、リランは必ず、しつこいくらいにエリンの身体《からだ》を嗅《か》ぎまわった。それでなにかを言うわけではなく、思う存分《ぞんぶん》嗅ぐと、満足げな表情《ひょうじょう》になって顔を離《はな》すのだ。
最近、リランの胸もとの体毛《たいもう》が、なんとなく赤みを帯《お》びているのが気になって、エサルに相談してみたが、ほかの王獣《おうじゅう》では、そういう体毛の変化は見たことがないと言われた。
エクの完治《かんち》を確認《かくにん》すると、教導師《きょうどうし》たちは、エクを王獣舎《おうじゅうしゃ》から草原に放《はな》そうと決めた。
もともとエクは野生《やせい》の成獣《せいじゅう》で、怪我《けが》のために連れてこられただけであり、真王《ヨジェ》に捧《ささ》げられた王獣ではない。完治して、死ぬ心配がなくなれば、野にもどすことが許《ゆる》されていた。
「エクは、ほかの王獣の倍近く食べますからな」
教導師長|補佐《ほさ》のヤッサが言ったことは皆《みな》の本音《ほんね》で、ただでさえ経営《けいえい》が苦《くる》しいカザルムに、真王《ヨジェ》から養育費《よういくひ》をいただけない王獣を飼《か》う余裕《よゆう》はなかった。
エリンはリランのそばに立って、エクのいる王獣舎の扉《とびら》があけはなたれるのを見ていた。暖《あたた》かい春の日で、薄《うす》く流れている雲間から、ときおり太陽が顔をのぞかせると、朝露《あさつゆ》に濡《ぬ》れている草原が、きらきらと輝《かがや》いて見える。
エクの姿が扉の向こうから現れた。とん、とんと跳《は》ねるようにして草原に出てくると、いったん明るさに目を慣《な》らすように立ちどまり、それから、翼《つばさ》を大きく広げた。
エクが顔をあげ、大気の匂《にお》いを嗅《か》ぐような仕草《しぐさ》をした瞬間《しゅんかん》、リランが翼を広げ、まったく同じように、大気の匂いを嗅ぎはじめた。
エリンは驚《おどろ》いてリランを見上げ、それから、放牧場《ほうぼくじょう》にいるほかの王獣《おうじゅう》たちを見まわした。ぽつん、ぽつんとたたずんでいる王獣たちは、エクのほうを見てはいたが、リランのように大気の匂いを嗅いでいるものはいなかった。
リランの胸もとから、グッグッというような、奇妙《きみょう》な音が聞こえはじめた。
「あ……!」
エリンは目をみはった。それまで薄《うす》く赤らんでいた体毛が、いつのまにか、目がさめるような真紅《しんく》に変わっていた。まるで血が噴《ふ》きだしたように赤い色が胸全体に広がっている。
それだけではない。匂《にお》いが……甘《あま》い匂いが、リランから漂《ただよ》ってきた。かなり強い匂いだった。
草原の向こうで、エクが天を仰《あお》いで、ルルルル……と、高い調子《ちょうし》で鳴《な》きはじめるのとほぼ同時に、リランが天を仰いで、リリリリ……と、さらに高い調子で鳴きはじめた。
エクは、鳴きおわると、力強くはばたいて、天に舞《ま》いあがった。
あっと思うまもなく、リランが駆《か》けだし、次の瞬間《しゅんかん》、天に舞いあがった。
糸で引かれているように、二頭の王獣《おうじゅう》は天の一点で交《まじ》わり、上になり、下になりして、不思議《ふしぎ》な舞《まい》を舞いはじめた。
太陽を孕《はら》んで銀色に輝《かがや》く雲の縁《ふち》を、二頭の王獣が、硬質《こうしつ》な光を放《はな》ちながら舞《ま》っている。リランの胸が、赤い宝石のように光って見えた。
声もなく見守っている人々の目の前で、リランは、エクと交合《こうごう》した。
*
リランの妊娠《にんしん》が確認《かくにん》されると、カザルム学舎《がくしゃ》は騒然《そうぜん》とした空気に包《つつ》まれた。
「……これは、王宮に隠《かく》しておける事柄《ことがら》ではありませんな」
ヤッサの言葉に、エサルも、うなずかざるをえなかった。
保護場《ほごじょう》で世話《せわ》をしている王獣《おうじゅう》の頭数は王宮に報告《ほうこく》され、きちんと記録がとられている。その記録された頭数に従《したが》って、養育費用《よういくひよう》が支給《しきゅう》されるのである。
リランが無事《ぶじ》に子を産《う》めば、その子どもの数を王宮に報告せねばならない。ヤッサの言うとおり、これは隠《かく》しておける事柄《ことがら》ではなかった。
それに、リランと交合《こうごう》したエクは野に帰らず、リランを守るように、かたわらにつき添《そ》うようになってしまった。エクの養育費を申請《しんせい》するには、その理由を伝えねばならなかった。
教導師《きょうどうし》の会議が開かれ、リランの妊娠《にんしん》を王宮に報告することが決定された夜、エリンはエサルの部屋に呼《よ》ばれた。
エサルはいつものように机《つくえ》についていたが、隠しきれぬ疲《つか》れが目もとに表れていた。
エリンは、エサルの前に正座《せいざ》し、頭を床《ゆか》につけた。
「……申しわけございません」
それしか言えなかった。これから、エサルは、大きな波をかぶらねばならない。
本来なら、それは自分がかぶるべき波なのだ。だが、たとえエリンが、監察官《かんさつかん》にすべてを自分の独断《どくだん》でやったことだと告白《こくはく》したとしても、学舎《がくしゃ》の長としてのエサルの責任《せきにん》は、問われずにはすむまい。
「顔をあげなさい。あなたが、謝《あやま》る筋合《すじあ》いのことではないわ」
エサルは静かな声で言った。
「あなたがやったことはね、わたしがずっとやりたいと思っていたことなのよ」
驚《おどろ》いて顔をあげると、微笑《ほほえ》んでいるエサルの顔が目に入った。
「王獣《おうじゅう》の本来の姿を知りたくて、野生《やせい》の王獣を探《さが》して……、でも、結局《けっきょく》、わたしは、様々なことを恐《おそ》れて、なにもできずに若い日々を無駄《むだ》に過《す》ごしてしまった。
わたしにとってはね、エリン、あなたは、老《お》いたわたしにもう一度天が与《あた》えてくれた機会《きかい》だった。そして、あなたはみごとに、わたしがやりたかったことをやってのけてくれたのよ」
エサルの目に涙《なみだ》が浮《う》かぶのを、エリンは呆然《ぼうぜん》と見つめていた。
「王獣の交合《こうごう》をこの目で見、王獣の出産《しゅっさん》をこの目で見ることができる……。そんな日が来るとは、思ってもいなかった。あなたには、どんなに感謝《かんしゃ》しても足りないくらいよ」
語尾《ごび》がふるえ、エサルはしわだらけの手で、目をぬぐった。
「あなたは、これまで誰《だれ》もできなかったことをやった。賞賛《しょうさん》されるべき偉業《いぎょう》を成《な》し遂《と》げたのに、素直《すなお》に喜《よろこ》べないなんて……わたしは、腹が煮《に》えてしかたがないわ」
エリンはうつむいた。涙《なみだ》があふれて、顔をあげられなかった。
リランが、野に生きる王獣《おうじゅう》と同じように飛翔《ひしょう》し、交合《こうごう》し、子を産《う》む。 ──ずっと願いつづけてきたことが叶《かな》ったのに、それを素直に喜べないことが、悔《くや》しくてならなかった。
エサルが、同じ思いでいてくれている。それだけでも、ずいぶん救《すく》われる気がした。
ため息をついて、エサルは言った。
「リランの交合を見たとき、長年の謎《なぞ》が解《と》けた気がしたわ。……王獣は、飛翔《ひしょう》しながら、交合するのね」
エリンはうなずき、涙を手でぬぐって、顔をあげた。
「わたしも驚《おどろ》きました。脇《わき》でリランを見ていて気づいたのですが、匂《にお》いが発情《はつじょう》を促《うなが》すのかもしれません」
「ああ、エクもリランも、大気の匂いを嗅《か》ぐような仕草《しぐさ》をしていたわね」
「はい。あのとき、リランの胸もとの体毛《たいもう》が一瞬《いっしゅん》で真紅《しんく》に変わり、甘《あま》い匂《にお》いが漂《ただよ》ってきました。あれが、発情の徴《しるし》なんですね。
考えてみると、わたしがエクの世話《せわ》をしてからリランのそばに行くと、リランは、必ずわたしの匂《にお》いを嗅《か》いだんです。しつこいくらいに。リランの体毛が薄赤《うすあか》くなったのは、あのころからでした」
「成熟《せいじゅく》した雄《おす》の匂いで、発情が促《うなが》されたわけだわね」
言ってから、エサルは、ぼんやりと視線を机に落とした。
「………ほかの王獣《おうじゅう》たちは、まったく無関心《むかんしん》だったわね」
保護場《ほごじょう》には、リランのほかにも雌《めす》の王獣は三頭いる。彼女らも、あのとき、草原で日向《ひなた》ぼっこをしていた。エクの匂いを嗅いでも、まったく無関心だった彼女らの姿に、エリンも肌寒《はだざむ》いものを覚《おぼ》えた。
エサルは、独《ひと》り言《ごと》のようにつぶやいた。
「なにが原因なのかしら。保護場の王獣たちの発情を抑制《よくせい》しているものは、なに? 音無し笛? それとも特滋水《とくじすい》?」
「……特滋水だと思います」
エリンの言葉に、エサルは驚《おどろ》いて視線《しせん》をエリンにもどした。
「確信《かくしん》があるの?」
「複数の要因《よういん》が重《かさ》なっているかもしれませんから、特定はできませんが、特滋水が要因のひとつだということは、たぶん、間違《まちが》いないと思います」
エリンは、低い声で言った。
「……母が、捕《とら》らえられるまえの晩《ばん》、わたしに話してくれました。
闘蛇《とうだ》に特滋水《とくじすい》を与《あた》えれば牙《きば》の硬度《こうど》が増して、骨格《こっかく》も野生のものより大きくなる。でも、特滋水を与えていると、弱くなってしまう部分もあるのだと」
思いだそうとしても、もう母の顔をはっきりと思いだすこともできない。けれど、母が語ってくれた言葉だけは、はっきりと覚えていた。
「……考えてごらんなさい、と、母は言いました。
野にいる闘蛇ならば、ごくふつうに為《な》すことで、(イケ)に飼《か》われた闘蛇には、できなくなることがある。……おまえなら、きっと、自分で答えを見つけられる、と。
でも、答えを見つけても、他人に話してはいけないと言われました。なぜ、他人に話してはいけないのか、それがわかるようになるまでは、話してはだめだと……」
喉《のど》がふさがって、声が出なくなった。エリンは歯をくいしばって、にじみでてきた涙《なみだ》をこらえ、息を吸《す》った。
「………リランの交合《こうごう》を見たとき、母がなにを言っていたのか、はっきりわかりました。
野にある獣《けもの》であれば、ごくふつうに為《な》すことなのに、人に飼《か》われた獣には、できなくなることはなにか」
エリンは、目をあげて、エサルを見つめた。
「馬や牛は、人に飼《か》われていても、子を産《う》みます。でも、王獣《おうじゅう》と闘蛇《とうだ》だけは、人に飼われると子を産《う》まなくなる。 ──特滋水《とくじすい》を使うのは、王獣《おうじゅう》と闘蛇《とうだ》だけです」
部屋の中に、重い沈黙《ちんもく》が落ちた。夜風が窓をゆらす、カタカタという小さな音だけが聞こえていた。
はるか昔、人の手で飼われている王獣と闘蛇が繁殖《はんしょく》することがないよう、誰《だれ》かが巧妙《こうみょう》に抑制《よくせい》する手段《しゅだん》を作りあげたのだ。それも、世話《せわ》をする者たちでさえ気づかぬように、意図《いと》の隠蔽《いんぺい》をはかりながら。
なぜだろう? ──|霧の民《アーリョ》が語った、過去の災《わざわ》いを二度とくり返さぬよう、未然《みぜん》に防《ふせ》ぐためだろうか。
しかし、王獣《おうじゅう》|規範《きはん》を書いたのは、初代の真王《ヨジェ》であって、|霧の民《アーリョ》ではない。
そのとき、ふと、あることが頭に浮《う》かび、エリンは愕然《がくぜん》とした。あの|霧の民《アーリョ》が語ったことが事実だとすれば、|霧の民《アーリョ》は|神々の山脈《アフォン・ノア》の向こうからやってきたのだ。 ──初代の真王《ヨジェ》と同じように……。
ひんやりとしたものが、胸の底に広がった。
|神々の山脈《アフォン・ノア》の彼方《かなた》からやってきた初代の真王《ヨジェ》は、|霧の民《アーリョ》と同じ惨禍《さんか》を経《へ》て、同じ思いを抱《かか》えていたのかもしれない……。
目をあげると、エサルもこちらを見ていた。
「……エサル師」
エリンは、血の気のない顔でエサルを見つめて、言った。
「お願いがございます。 ──わたしの存在《そんざい》を、隠《かく》さないでください」
エサルの目が、わずかに大きくなった。
「なんですって?」
「やっぱり、自分のやったことの責任《せきにん》を、人に押《お》しっけて隠れるなんて、いやです。
王獣《おうじゅう》|規範《きはん》を書かれた真王《ヨジェ》の真意《しんい》が、|霧の民《アーリョ》の男が告《つ》げた災《わざわ》いを防《ふせ》ぐためのものであるとしたら、繁殖《はんしょく》を許《ゆる》してしまったことを、真王《ヨジェ》はお怒りになるはずです。それを……」
身を乗りだすようにして言いはじめた、エリンの言葉を、エサルは手をふってさえぎった。
「エリン、ちょっと待ちなさい」
エサルの目には、微苦笑《びくしょう》が浮《う》かんでいた。
「生真面目《きまじめ》なのは結構《けっこう》だけど、こういうところは、あなたはまだまだ、若いわね。そんなことを心配していたわけ。そんなことは、わたしはまったく心配していませんよ」
よくわからなくて、瞬《まばた》きしたエリンに、エサルは言った。
「今回のことは偶然《ぐうぜん》に起《お》きたことよ。
幼獣《ようじゅう》の命を救《すく》うために、あれこれ努力をしていたら、なんと子どもが生まれてしまいました! ……真王《ヨジェ》がこれを祝福《しゅくふく》せずに、わたしたちを叱《しか》れるはずがないじゃないの」
ぽかんとロをあけたエリンを見て、エサルの笑《え》みが深くなった。
「わからない? 王獣《おうじゅう》|規範《きはん》に沿《そ》わなかったことは、叱責《しっせき》を受けるかもしれない。でもね、王獣を保護《ほご》する者にとって最優先《さいゆうせん》すべきことは、王獣の命を救《すく》うこと。リランの命を救うためだったという大前提《だいぜんてい》があるし、なにより、王獣規範の意図《いと》は、秘《ひ》められているのよ。わたしたちには、知らされていないことなのよ。正面きって、叱《しか》れるはずがないでしょう」
笑いながら、そう言ってから、エサルは、ゆっくりと真顔《まがお》になった。
「あなたは、表に出てはいけない。……わたしたちが心せねばならないのは、リランのことが公《おおやけ》になったあとの動きなのだから。わかるわね」
エリンはうなずいた。
リランの妊娠《にんしん》が王宮に伝えられると、エサルが言ったように、王宮はこれを大変な瑞兆《ずいちょう》と捉《とら》え、祝福《しゅくふく》と賞賛《しょうさん》を伝えてきた。
カザルム王獣|保護場《ほごじょう》の名が一気に高まり、真王《ヨジェ》からの下賜金《かしきん》の額が大幅《おおはば》に増えたので、教導師《きょうどうし》たちも学童《がくどう》たちも喜《よろこ》びに沸《わ》きかえった。学童たちが、さかんに笑い合っていたように「リランが孕《はら》んでくれたおかげで、夕飯のおかずが二品増えた」のだった。
真王《ヨジェ》に捧《ささ》げられた王獣が、子を孕んだという知らせは、真王《ヨジェ》に対する暗殺《あんさつ》の企《くわだ》てや、外敵対策にかこつけた大公《アルハン》の脅威《きょうい》の増大など、暗い知らせばかりが続いていた真王《ヨジェ》領の人々の心を明るくし、人々は寄るとさわると、これを、なにかよいことが起こる瑞兆《ずいちょう》だと話し合っていた。
そして、王獣《おうじゅう》の妊娠《にんしん》を誰《だれ》よりも喜び、興奮《こうふん》したのは、真王《ヨジェ》その人であった。
*
王獣の妊娠期間《にんしんきかん》は人よりも長い。
リランの腹の変化が目立つようになったころ、エリンは、ユーヤンやカシュガンたちとともに(卒舎《そつしゃ》ノ試《ため》し)を受けた。
リランのことがあって、なかなか自分の時間をとることができず、不安を抱《かか》えて試験《しけん》を受けたので、首席《しゅせき》として名を呼《よ》ばれたとき、エリンはしばらく、呆然《ぼうぜん》とエサルの顔を見上げたまま、動けなかった。
ユーヤンが手をふりまわすようにして拍手《はくしゅ》をしはじめ、学友たちが拍手してくれる中を壇上《だんじょう》へ向《む》かっているあいだは夢の中にいるようで、歩いている実感《じっかん》さえなかった。エサルからカザルム学舎の教導師《きょうどうし》になることを許可《きょか》する証書《しょうしょ》を渡《わた》され、その紙の感触《かんしょく》を手で感じてようやく、喜《よろこ》びがこみあげてきた。
「おめでとう。よくがんばったわね」
笑顔《えがお》でそう言ってくれたエサルに、エリンは、ふるえはじめた唇《くちびる》をぎゅっと結《むす》んで、深《ふか》く頭をさげた。
暑い夏の昼下がりで、行事《ぎょうじ》が行《おこな》われている広い食堂の窓はすべてあけはなたれ、窓の外に立ち並ぶ木立《こだち》から、蝉《せみ》の声が雨のように絶《た》え間なく聞こえていた。
その夏は、喜《よろこ》びと寂《さび》しさとが混《ま》じり合った季節だった。
無事《ぶじ》に(卒舎《そつしゃ》ノ試《ため》し)を通った学童《がくどう》仲間たちは皆《みな》、六年間暮らした学舎《がくしゃ》から巣立《すだ》ち、それぞれの道へと足を踏《ふ》みだしていったからだ。
ユーヤンは、故郷《こきょう》に帰って獣《けもの》ノ医術師《いじゅつし》として働《はたら》くことが決まっていた。
両親と親族から送られてきた便《たよ》りには、ユーヤンの帰りを待ち望んでいる思いが切々と綴《つづ》られていた。都から遠く離《はな》れた山間《やまあい》の村には、近隣《きんりん》の三つの村を含《ふく》めて、獣ノ医術師は一人もいないのだ。
「わたしは、待望《たいぼう》の人なん」
ユーヤンは誇《ほこ》らしげに笑っていたが、いよいよ故郷へと旅立つ日が来ると、まるで今生《こんじょう》の別れであるかのように、エリンを抱《だ》きしめて、激《はげ》しく泣いた。
ユーヤンのように、あけっぴろげに感情《かんじょう》を表にすることが下手《へた》なエリンは、なにも言えずに、ただ涙《なみだ》を流していたが、別れがつらいという思いは、もしかするとユーヤンよりエリンのほうが深かったかもしれない。もう、これまでのように、一緒《いっしょ》に暮《く》らすことはないのだと思うと、胸のどこかに、ぽっかりと穴があいて、そこから冷たい風が吹きこんでくるようだった。
ユーヤンには迎《むか》えてくれる家族がいたが、エリンには、首席《しゅせき》をとったことを、我《わ》が事のように喜《よろこ》んで、誇《ほこ》りに思ってくれる親はいなかった。ユーヤンが去ってしまえば、もう身内のように感じられる相手《あいて》はいなくなってしまう。
ジョウンおじさんが生きていたら、満面《まんめん》の笑《え》みを浮《う》かべて、抱《だ》きしめてくれただろう。いま、ここにおじさんがいてくれたら……と、思わずにはいられなかった。
ユーヤンたちが去《さ》ると、カザルムは、がらんと静かになった。
しばらく、エリンは抜《ぬ》け殻《がら》になったような寂《さび》しさに苦《くる》しめられたが、その夏はとても忙《いそ》しくて、仕事に追いまくられるうちに、その寂しさはゆっくりと新しい生活の感覚に紛《まぎ》れて、消えていった。
妊娠《にんしん》した王獣《おうじゅう》の世話《せわ》は、どの教導師《きょうどうし》も経験《けいけん》したことのないことだったから、エサルたちの知識《ちしき》に頼《たよ》ることもできず、不安に思うことも多かったし、夏の終わりに行われる(入舎《にゅうしゃ》ノ試《ため》し)の準備《じゅんび》に加えて、秋からは、教導師として学童《がくどう》を教《おし》えるという新しい大仕事が待っていたからだ。
教導師《きょうどうし》として正式に任命《にんめい》された日から、エリンは、常に、首から音無し笛をかけるようになった。それは、学童《がくどう》たちの命に責任を負《お》う、教導師の義務《ぎむ》だったからだ。
ただ、リランが気にするので、エリンは笛が外から見えぬよう、袷《あわ》せ襟《えり》の内側に垂《た》らした。エサルは目ざとくそれに気づいたようだったが、なにも言わずに黙認《もくにん》してくれた。
朝夕に涼風《すずかぜ》が吹《ふ》きはじめるころ、緊張《きんちょう》した面持《おもも》ちの大勢《おおぜい》の子どもたちが、カザルムヘやってきた。この時期《じき》に新しい子どもたちを迎《むか》えるのは毎年のことだったけれど、学童として新入りを迎えるのと、教導師として、新しい学童を迎えるのは、まったくちがっていた。
いかにも幼く見える十二|歳《さい》の子どもたちの目には、自分は教導師《きょうどうし》として映《うつ》っているのだと思うと、面映《おもはゆ》いような、誇《ほこ》らしいような、不思議《ふしぎ》な気がした。
エリンが任《まか》されたのは、その初等の学童たちに、獣《けもの》や鳥や虫たちの暮《く》らしについて教える講義《こうぎ》だった。
初めて教壇《きょうだん》に立った日は、美しい秋晴れの日で、窓から射《さ》しこむ透明《とうめい》な光が、窓枠《まどわく》の影《かげ》を床《ゆか》に落としていた。
十五人の学童たちは、ぴんと背を伸《の》ばし、じっとこちらを見つめている。
新米《しんまい》の教導師を興味津々《きょうみしんしん》で見つめているのだろうと思って、初回の講義《こうぎ》は声がふるえるほど緊張してしまったが、落ちついて考えてみれば、子どもたちのほうも、初めての講義だったのだから、とても緊張《きんちょう》して、こちらを凝視《ぎょうし》していただけだったのだろう。
それに、彼らにとっては、エリンが新米かどうかなど、わかりようもないのだ。ただ、ふつうの教導師《きょうどうし》の一人として、見えているのだろう。それでも、教導師として見られているということを、面映《おもはゆ》く感じる気分は、なかなか消えていかなかった。
ただ、自分でも意外だったのだが、子どもたちを教えるという仕事は、とても楽しく、やりがいのある仕事であった。
ユーヤンのように、陽気《ようき》な雰囲気《ふんいき》をたたえて話すような才能《さいのう》はなかったけれど、これまで学んできたこと、面白《おもしろ》いと思ったことを、体験談《たいけんだん》を交《まじ》えながら語ると、子どもたちは、案外熱心に耳を傾《かたむ》けてくれるのだ。
廊下《ろうか》を通りかかって、部屋の中にいる学童《がくどう》たちが、「………エリン師の講義《こうぎ》でさ、子どものときの話をしてくれるの、あれが一番面白いよね」と言っているのを聞いたときは、思わず、跳《は》ねあがりたくなったほどに、うれしかった。
この世に生きる、たくさんの生き物たちの営《いとな》みの不思議《ふしぎ》さを感じてほしい。学ぶということの、ふるえるような興奮《こうふん》を感じとってほしい。教壇《きょうだん》に立って初めて、そんな熱望が胸に芽生《めば》えてきた。
その一方で、エリンは、「教える」ということに、恐《おそ》ろしさも感じた。
学んでいるあいだは、ただ考え、問いつづければよかった。自分の考えが正しいかどうかは、あとで実証《じっしょう》できればよし、正しくなければ修正《しゅうせい》すればよい。
けれど、子どもたちに教えるときは、「これが正しい知識《ちしき》ですよ、安心して覚《おぼ》えなさい」と、自信を持って言わなくてはならない。
子どもたちを教えながら、エリンは心の中で、自分がいま教えていることは、ほんとうに真実《しんじつ》であると断定《だんてい》できるだろうかと、絶《た》えず、考えずにはいられなかった。
「……教えていく知識は常に、その時代での真実にすぎないわ」
心の葛藤《かっとう》を打ち明けると、エサルは、そう言った。
「真実《しんじつ》であると考えられていたことが、後世《こうせい》の人の発見によって、誤《あやま》りであるとわかる。そうやって人の知識は更新《こうしん》されてきた。……そのことを、常に子どもたちに伝えなさい。
よい教導師《きょうどうし》は、迷《まよ》いのない教導師ではない。迷いを心に持ちながらも、常に学んでいく姿勢《しせい》を子どもたちに伝えられる教導師こそ、よい教導師なのだと、わたしは思うわ」
こうして、新米《しんまい》教導師としての日々は飛ぶように過《す》ぎていったが、春が近づくと、リランの世話《せわ》と講義《こうぎ》とを両立《りょうりつ》させるのが、次第にむずかしくなってきた。
睡眠《すいみん》不足が重なって、エリンの顔色が悪いことに気づいたエサルは、リランが産《う》み月を迎《むか》えると、教導師としての仕事を一時、ほかの教導師に任《まか》せるように計《はか》らってくれた。
リランの出産《しゅっさん》が近づいてくると、エリンは一日の大半を王獣舎《おうじゅうしゃ》で過ごすようになったが、ある朝、着がえをしに学舎《がくしゃ》へもどってくると、ちょうど朝食を終えて学童たちが食堂から出てきたところだった。
「……エリン師!」
甲高《かんだか》い声で呼《よ》ばれて、びっくりして立ちどまると、あっというまに、初等の子どもたちに囲《かこ》まれてしまった。
「王獣《おうじゅう》の赤ちゃん、もうじき生まれるんですか?」
エリンは思わず微笑《ほほえ》んだ。
「まだまだ。もっと暖《あたた》かくなってからね。でも、ずいぶん、お腹《なか》が大きくなってきたわよ」
子どもたちの目が輝《かがや》いた。
「見たいなあ! ねえ、エリン師、ぼくたち、見にいっちゃだめですか?」
エリンは首をふった。
「それは、だめね。残念だけど。リランは、初めて妊娠《にんしん》したので、戸惑《とまど》って、落ちつかないの。そっとしておいてあげて」
一番背の低い少年が、突然《とつぜん》、エリンの手をつかんだ。
「ねえ、エリン師! エリン師は、王獣と話せるって、ほんと?」
ひんやりとしたものが胸に触《ふ》れた気がした。エリンは、つかのま、黙《だま》りこんでしまった。
その表情《ひょうじょう》を見た隣《となり》の子が、あわててその子のロをふさいだ。
「それは、言っちゃだめだって、先輩《せんぱい》たちが言ってたろ!」
ロをふさがれた子は、むっとしたように頭をふり、隣《となり》の子を睨《にら》みつけた。
「だって……」
大声をあげようとしたその子の肩《かた》に、エリンは手をおいた。そして、ロに指をつけて、
「静かに」
と言った。
気をのまれたように静かになって、自分を見上げている子どもたちを見ているうちに、自分が王獣《おうじゅう》と意思《いし》を伝え合うことができるということを、秘密《ひみつ》にしつづけるのは無理なのだろうな───という思いが、胸の底に広がった。
多くの学童《がくどう》たちが暮《く》らすこの学舎《がくしゃ》で、これまで、この秘密が、外部に漏《も》れずに保たれてきたことは、奇跡《きせき》に近いことだったのだ。だが、そういう奇跡は長くは続くまい。築《きづ》いた土塁《どるい》から水が滲《し》みだしていくように、このことが、外部に漏れていく日が来るだろう。
「……わたしは、たしかにリランと、いくつかの言葉を伝え合うことができるわ」
エリンは、子どもたちに言った。
「リランが幼《おさな》いころから、ずっと一緒《いっしょ》に寝起《ねお》きしてきたから、なんとなくわかるようになったのよ。
でもね、このことには、軽々しくロにしてはいけない、むずかしくて複雑《ふくざつ》な事情《じじょう》があるの。先輩《せんぱい》たちが言っていることは正しいわ。わたしが王獣《おうじゅう》と話せるということは、けっして外部の人に話さないで。……誓《ちか》ってくれる?」
子どもたちは、困惑《こんわく》したように眉《まゆ》を寄《よ》せながらもうなずいてくれた。
その顔を見ながら、エリンは心の中で、秘密《ひみつ》が秘密でなくなる日は、さほど遠くないのではないか、と感じた。 ──そして、それは正しかったのである。
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[#地付き]1 真王《ヨジェ》の行幸《ぎょうこう》
真王《ヨジェ》がカザルム王獣《おうじゅう》|保護場《ほごじょう》へ行幸《ぎょうこう》する日は、リランの子が乳離《ちばな》れをするころ、|初夏ノ月《トサル・バル》の十日と決まった。
生まれてこのかた、一度も王宮の外に出たことがない真王《ヨジェ》が、カザルムへ行幸を行《おこな》うと言いだしたとき、王宮は大騒《おおさわ》ぎになった。
大臣《だいじん》たちはもちろん、孫娘《まごむすめ》のセィミヤ王女も、甥《おい》のダミヤも、王宮の外に出れば暗殺《あんさつ》を防ぐことがむずかしくなると、口を揃《そろ》えて、思いとどまってくれるよう説得《せっとく》したが、真王《ヨジェ》は頑《がん》として聞かなかった。
リランの子をごらんになりたいのなら、ここまで運ばせればよいというダミヤの言葉に、真王《ヨジェ》は、王宮の庭に引きだされた王獣を見たいのではないと言い返した。
これは、常に冷静《れいせい》で、気遣《きづか》いのある真王《ヨジェ》にしては珍《めずら》しいわがままであったが、先代までの真王《ヨジェ》と異《こと》なり、暗殺の危険《きけん》があるために、一度も自分が治《おさ》める国を見たことがなかった真王《ヨジェ》の願《ねが》いは切実《せつじつ》なもので、ついに、反対していた人々も、折れたのだった。
それからは、行幸《ぎょうこう》の警備《けいび》をどのように行うか、くり返し議論がなされ、計画が練《ね》られた。
カザルム高地は王都から一日ほどのところにある。行きは、カザルム高地一帯を領地《りょうち》としている貴族《きぞく》の館《やかた》に一|泊《ぱく》することに決まったが、道の舗装《ほそう》があまりよくない高地の道を馬車で旅するのは、高齢《こうれい》の真王《ヨジェ》の身体《からだ》には、かなりの負担《ふたん》になると思われた。
「行きはしかたがないとして……登りですからな。帰途《きと》は、サラノの街《まち》から、カザルム河を下ったほうがよいのではありませんか」
行きの宿《やど》を提供《ていきょう》するカザルム領主が、そう提案《ていあん》した。
「しかし、船のほうが、船酔《ふなよ》いの危険《きけん》があるのではないか? それに、危険でもある」
大臣《だいじん》の言葉に、カザルム領主は首をふった。
「カザルム河は川幅《かわはば》が広く、流れがゆるやかです。まず転覆《てんぷく》の危険などはありませんし、老人たちも、ほかの街へ行くには、馬車よりも船を使っております。舗装《ほそう》の悪い道を馬車で行くよりは、はるかに身体《からだ》が楽ですから。
カザルム河は王都《おうと》のそばまで流れておりますし、玉体《ぎょくたい》のことを考えるならば、船のほうがよいかと存《ぞん》じます」
この案は、実際に馬車と船とで一度|試行《しこう》され、結局《けっきょく》、カザルム領主の言うとおり、船を使ったほうが、ずっと楽であることが確認《かくにん》された。
|堅き楯《セ・ザン》は、真王《ヨジェ》に随行《ずいこう》して警護《けいご》する者と、王宮に残ってセィミヤ王女を警護する者の二手《ふたて》に、人員を分けられた。行幸《ぎょうこう》する真王《ヨジェ》をお守りする責任者は、イアルが務《つと》めることになった。
真王《ヨジェ》が王宮の森を出た日は、よく晴れた初夏らしい陽気《ようき》で、からりとした大気に青葉の香《かお》りが漂《ただよ》っていた。
真王《ヨジェ》の行幸《ぎょうこう》を待ちわびていた人々が沿道を埋めつくし、行く先々で花が捧《ささ》げられたが、一行はなにごともなく、カザルム高地まで進むことができた。
初めて外に出て、慣《な》れぬ馬車での長旅をした真王《ヨジェ》は、カザルム領主の館《やかた》につくころにはさすがに疲《つか》れた様子だったが、領主《りょうしゅ》の心のこもった歓待《かんたい》を受けて、早めに休んだ翌朝は、元気をとりもどしていた。
馬車の窓から、青々とした広大な草原を目にすると、真王《ヨジェ》は少女のような歓声《かんせい》をあげた。
「なんと、気持ちのよいところでしょう!」
ゆったりと風に吹《ふ》かれていく雲の影《かげ》が草原を流れ、小鳥がさえずりながら天と地のあいだをせわしなく行き来している。草原のそこここに黄色や白の花が咲《さ》き、風にゆれている。
しかし、カザルム学舎《がくしゃ》が見えはじめると、真王《ヨジェ》は、顔をくもらせて、
「あら、まあ……」
とつぶやいた。
「ずいぶんと古い建物ね。こんなに租末《そまつ》な建物だとは思わなかったわ」
隣《となり》の席に座《すわ》っている甥《おい》のダミヤが、苦笑《くしょう》した。
「ここは、病《や》んだ王獣《おうじゅう》が余生《よせい》を過ごせるよう造《つく》られた王獣|保護場《ほごじょう》ですから。ラザルにある正規《せいき》の王獣保護場の学舎は、もっとみごとな建物ですよ」
真王《ヨジェ》は顔をしかめた。
「その、ご立派な王獣保護場の人々ができなかったことを、ここの者たちはやり遂《と》げたのだから、これからは、待遇《たいぐう》を考えねばね」
ダミヤは微笑《ほほえ》んだ。
「そのお言葉を聞いたら、ここの連中は雲の上まで舞《ま》いあがってしまうでしょうな」
イアルは、二人のすこし前を馬で進みながら、あたりの様子に気を配《くば》っていた。
高地の周囲《しゅうい》には、多くの警備兵《けいびへい》を配置《はいち》しているが、これほど広大な場所では、警備兵が刺客《しかく》に倒《たお》されて、すりかわっていても気づけない可能性《かのうせい》がある。イアルは気を引きしめたまま、馬車の周囲を警護《けいご》していた。
カザルム学舎《がくしゃ》では、教導師《きょうどうし》をはじめ、学童《がくどう》から用務《ようむ》の人々に至《いた》るまで、この日のためにあつらえた正装《せいそう》に身を固めて、緊張《きんちょう》して、真王《ヨジェ》を出迎《でむか》えた。
一列に並んだ十二|歳《さい》の学童たちが、興奮《こうふん》で頬《ほお》を真っ赤にしながら歓迎《かんげい》の歌を歌いはじめると、真王《ヨジェ》は、にこにこと微笑《ほほえ》みながら、その歌を聞いた。
歓迎の歌が終わると初老《しょろう》の教導師長《きょうどうしちょう》が進みでて、いかにも教導師らしい正確な言葉遣《ことばづか》いで、行幸《ぎょうこう》を感謝《かんしゃ》する言葉を述《の》べた。
それから、教導師長は、真王《ヨジェ》を導《みちび》いて、王獣舎《おうじゅうしゃ》を案内しはじめた。
天気のよい日なので、保護場の王獣たちは放牧場《ほうぼくじょう》のあちこちで日向《ひなた》ぼっこをしており、柵《さく》の外から、その様子をながめながら、真王《ヨジェ》は目を細めた。
「まあまあ、気持ちよさそうだこと。今日のような陽気《ようき》なら、草の上も暖《あたた》かいのでしょう」
教導師長のエサルは、なだらかな草原の手前で立ちどまると、真王《ヨジェ》に言った。
「畏《おそ》れながら申《もう》しあげます。あそこをごらんください。……あれがリランと、エクと、その子どもの、アルでございます」
「……え」
真王《ヨジェ》は驚《おどろ》いて、エサルが指さしているほうに目をやった。
「あら、まあ! ……ほんとうだわ、子どもがいる! まあ、なんとかわいいのでしょう!」
真王《ヨジェ》が歓声《かんせい》をあげたので、おそばにいた人々は、あわてて草原に目を向けた。
たしかに、大きな王獣《おうじゅう》が二頭おり、その足もとに、小さな幼獣《ようじゅう》の姿があった。
「……かなり遠いな。これでは、よく見えぬではないか」
侍従長《じじゅうちょう》が顔をしかめて、エサルをふり返った。
「なぜ、王獣舎《おうじゅうしゃ》に入れておかなかったのだ」
「このような陽気の日には、王獣は、王獣舎に閉じこめておきますと、外に出たがって大騒《おおさわ》ぎをいたします。壁《かべ》に身体《からだ》をぶつけて傷《きず》つくこともございますので、外に出しました」
落ちつきはらったエサルの答えに、侍従《じじゅう》はそれ以上なにも言えず、黙《だま》りこんだ。
真王《ヨジェ》が微笑《ほほえ》みながら、エサルを見下ろした。
「なるほど。……でも、侍従が言うとおり、すこし遠いわね。せっかくここまで会いにきたのだから、もうすこし近くへ行かれないかしら」
エサルは、首をふった。
「畏《おそ》れながら申《もう》しあげます。ご存《ぞん》じのとおり、王獣は人に馴《な》れぬ獣《けもの》でございますので……」
言いかけたエサルを、ダミヤがさえぎった。
「よいではないか。すこし近づくだけだ。王獣《おうじゅう》が、真王《ヨジェ》に悪さをするはずがない。それに万が一の場合は、音無し笛があるだろう」
ダミヤの言葉に、一瞬《いっしゅん》、エサルが顔をくもらせたのを、イアルは見た。
ダミヤはしかし、エサルの反応など見てもおらず、さっとイアルに目を向けた。
「真王《ヨジェ》のお望みだ。柵《さく》を越《こ》えて、もうすこし近くに行っても、かまわないだろう? (神速《しんそく》のイアル)殿《どの》」
イアルは、すこし考えてから、エサルに尋《たず》ねた。
「……音無し笛を持っている方を数人|配置《はいち》すれば、確実に王獣をとめられますか」
エサルは、しぶしぶという表情でうなずいた。
「大丈夫《だいじょうぶ》だと思いますが、お勧《すす》めはできません。それに、あまり大人数で近づかれますと、リランたちが興奮《こうふん》するかもしれません」
イアルはうなずいた。
「それでは、王獣の扱《あつか》いに慣《な》れている教導師《きょうどうし》を数人、音無し笛を持たせて、真王《ヨジェ》の周囲を守《まも》らせてください。こちらは、真王《ヨジェ》|陛下《へいか》とダミヤさまと、わたしだけでまいります」
イアルは、かたわらに控《ひか》えている部下に警備《けいび》の方法を指示《しじ》しながら、弓の具合を再確認《さいかくにん》した。
エサルが教導師の人選《じんせん》をしているあいだ、イアルは、奇妙《きみょう》なことを感じていた。
遠巻きにしてこちらを見ている教導師たちや、学童たちが、真王《ヨジェ》を見るだけでなく、ちらちらと、頻繁《ひんぱん》に、別の誰《だれ》かに目を向けているのだ。
彼らの視線が向かう先に目を向けてみると、背の高い娘《むすめ》が目にとまった。
まだ若いが教導師《きょうどうし》なのだろうか。ほかの教導師と同じような衣装《いしょう》を着ている。人々のなかで一人だけ、こちらをまったく見ていない。竪琴《たてごと》に皮を張《は》ったような奇妙なものを手に持って、じっと、王獣《おうじゅう》の親子を見つめていた。
気になったが、敵意《てきい》や害意《がいい》は感じられなかったので、イアルは意識を全体にもどした。
それまでじつにてきぱきと事を進めていたエサルが、なぜか人選に手間どっていた。彼女が、かたわらにいた教導師になにか告《つ》げると、彼はうなずいて、くるりと踵《きびす》を返し、学童たちを掻《か》き分《わ》けはじめた。
教導師が向かった先には、あの若い娘がいた。教導師に声をかけられると、娘はじっと話を聞いてから、なにか話しはじめた。年配の教導師のほうが、娘の話を聞いて、しきりに、うなずいている。
こちらへ連れてくるのかと思ったが、話を終えると教導師は一人でもどってきて、娘はそのまま残った。
イアルはエサルに尋《たず》ねた。
「あの娘《むすめ》に、なんの伝言《でんごん》をしたのです?」
エサルは、顔をあげてイアルを見た。つかのま、口ごもってから、エサルは答えた。
「……あの娘は、リランの世話をしている教導師《きょうどうし》|見習《みなら》いなのですが、風邪《かぜ》をひいておりますので、リランのことはわたしたちに任《まか》せて、真王《ヨジェ》のおそばには近づかぬようにと、伝えたのです」
教導師がもどってきて、低い声でなにかをエサルにささやいた。エサルはうなずいた。
「わかったわ、そうなさい。……でも、万が一のときでも、絶対に来ないように、伝えたわね? ……そう。ならいいわ」
教導師と話し終えると、エサルは、真王《ヨジェ》に向《む》き直《なお》って一礼した。
「お待たせいたしまして申しわけございません。準備がととのいました。ご案内いたします。畏《おそ》れながら、大きなお声をおたてになったり、急な動きをされたりなさらないよう、お願いいたします」
侍従《じじゅう》たちは、むっとしたような顔をしたが、真王《ヨジェ》は鷹揚《おうよう》にうなずいた。
柵《さく》が内側に開くようになっているところから、真王は放牧場に足を踏《ふ》み入れた。
イアルが先頭に立ち、全身であたりの様子に気を配りながら、真王《ヨジェ》と王獣《おうじゅう》のあいだに入るかたちで、歩きはじめた。
王獣の親子は、なにごとか、というように、頭をあげて、こちらを見ている。父親の脚《あし》のあいだにいる幼獣《ようじゅう》も、親たちとそっくり同じ仕草《しぐさ》で、首を伸《の》ばして、こちらを見た。
「……まあ、かわいい」
真王《ヨジェ》は、感極《かんきわ》まったようにつぶやいた。
幼獣の産毛《うぶげ》が、日の光にきらきらと輝《かがや》いていた。あどけない目がくりくり動いて、興味津々《きょうみしんしん》といった顔でこちらを見ている。
「なんと美しい!」
真王《ヨジェ》は、興奮《こうふん》した声でささやいた。
「こんなに美しい王獣は初めて見たわ。……子どももかわいいけれど、親たちを見てごらんなさい。なんという翼《つばさ》の色! 瑠璃色《るりいろ》に赤い線が走って、宝石のようだわ! 胸もとも銀色に輝《かがや》いている。これまで見た、どのような王獣より、美しいわ。
大きいのがエクで、小さいほうがリランね?」
エサルが、背後からささやいた。
「はい。……真王《ヨジェ》|陛下《へいか》、畏《おそ》れながら、そのあたりで足をおとめくださいませ」
真王《ヨジェ》は足をとめたが、ダミヤは苦笑《くしょう》を浮《う》かべて、エサルをふり返った。
「もうすこしぐらい、大丈夫《だいじょうぶ》だろう。 ──この王獣たちは、真王《ヨジェ》に捧《ささ》げられた獣《けもの》。真王《ヨジェ》を害するはずがない」
わずかにためらったが、真王《ヨジェ》は、せっかくここまで来たのだから、という思いに背を押《お》されたのだろう。足を踏《ふ》みだして、王獣《おうじゅう》に近づきはじめた。
エサルが顔をしかめて、イアルにささやいた。
「おとめしてください! これ以上近づくと、警戒《けいかい》します。子育《こそだ》ての最中ですから……」
エサルの言葉に、イアルがうなずき、真王《ヨジェ》に声をかけようとしたそのとき、エクが身体《からだ》をふるわせ、甲高《かんだか》い警戒音《けいかいおん》を発しながら、我《わ》が子を守るように、さっと翼《つばさ》を広げた。
びくっとして、教導師《きょうどうし》たちが口に音無し笛をあてた瞬間《しゅんかん》、鋭《するど》い声がとんだ。
「吹《ふ》いてはだめ!」
教導師たちが音無し笛をロから離《はな》すのを見て、イアルは驚《おどろ》き、さっと弓に矢をつがえて声がしたほうに身体を向けた。
あの娘《むすめ》が、柵《さく》をのりこえて走ってくる。
「……吹かないで!」
柵のところで、女官《にょかん》たちが悲鳴《ひめい》をあげた。
ダミヤが、「なぜ音無し笛を吹《ふ》かないのだ! 早く吹け!」と、押《お》し殺《ころ》した声で叫《さけ》ぶなか、娘は、まったくこちらを見ることなく、一直線に王獣たちのそばへ駆《か》け寄《よ》った。そして、なにか声をかけてから、竪琴《たてごと》を奏《かな》ではじめた。
不思議《ふしぎ》な音が聞こえてきた。琴の弦《げん》をはじいている音に似《に》ているが、それよりも鈍《にぶ》い、こもった音が複雑《ふくざつ》な音調《おんちょう》を奏ではじめると、王獣たちがそれに応《こた》えるように、同じ音をたてはじめた。
エクは腹立《はらだ》たしげに二、三度|翼《つばさ》を広げて、はばたくような仕草《しぐさ》をしてみせたが、かたわらにいるリランが、喉《のど》の奥《おく》でなだめるような音をたてると、しぶしぶという感じで翼をたたんだ。
イアルは、つかのま、役目を忘れて、王獣《おうじゅう》たちに触《ふ》れんばかりのところに立っている、背の高い娘《むすめ》を見つめた。
王獣を見上げて、心配そうにかすかに眉《まゆ》を寄せ、一心に、奇妙《きみょう》な竪琴《たてごと》の弦《げん》をはじいている。
(……まさか、この娘、|霧の民《アーリョ》か?)
娘の目は、緑色をしているように見えた。
真剣《しんけん》に竪琴を爪弾《つまび》き、王獣たちと音の交換《こうかん》をしている娘の麦藁色《むぎわらいろ》の髪《かみ》を、そのとき、うすい雲間から射《さ》しこんだ光が、やわらかく輝《かがや》かせた。
「あの娘は、なにをしているの……?」
真王《ヨジェ》が、ささやいた。
「王獣《おうじゅう》を、落ちつかせているのです」
答えたエサルの顔は、不安げにくもっていた。
「王獣を、落ちつかせる? ……竪琴《たてごと》の音で?」
「はい。そのとおりでございます」
言葉少なに応じて、エサルは、話題を変えようとするように、ささやいた。
「陛下《へいか》、なにとぞ、おさがりくださいませ。あの王獣《おうじゅう》たちは子育《こそだ》ての最中でございます。どうか、そのことをご理解くださいませ」
竪琴《たてごと》を爪弾《つまび》いている娘《むすめ》と王獣の親子を残して、真王《ヨジェ》たちは、そっとその場を離れた。
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[#地付き]2 ダミヤの誘惑《ゆうわく》
真王《ヨジェ》をもてなすために特別なしつらえを施《ほどこ》した食堂にくつろぎ、お茶を飲み、菓子《かし》をつまみながら、真王《ヨジェ》は、エサルとの会話を楽しんだ。
なめし革《がわ》のような肌《はだ》をした、いかにも厳《きび》しそうな教導師長《きょうどうしちょう》を、真王《ヨジェ》は、たいそう気に入ったらしく、王獣《おうじゅう》の話だけでなく、学童《がくどう》の教育から学舎《がくしゃ》の経営《けいえい》まで、さかんに尋《たず》ねて、夕刻になっても席を立とうとしなかった。
イアルは、いつものように、この場の全体を感じられるよう、一歩きがって二人の会話を聞いていたが、真王《ヨジェ》が、あの王獣の親子を竪琴《たてごと》でしずめた娘《むすめ》のことを話題にするたびに、エサルが、それとなく話を別な方向へ持っていくことに気づいた。
「王獣を竪琴でしずめるというのは、初めて見たけれど、保護場《ほごじょう》では、よく行っていることなの?」
真王《ヨジェ》の問いに、エサルは一瞬《いっしゅん》、沈黙《ちんもく》した。それから、慎重《しんちよう》に言葉を探《さが》すように、口ごもりながら、答えた。
「……いえ、そうではございません。……リランの場合は……幼《おさな》いころから、あの娘《むすめ》の竪琴《たてごと》を聞いて育《そだ》っていたもので、あの音を聞くと、心がしずまるのでしょう」
エサルの答えを聞きながら、イアルは心の中で、首をかしげていた。
なぜ、この教導師長《きょうどうしちょう》は、あの娘の話になると動揺《どうよう》するのだろう。|霧の民《アーリョ》に、王獣《おうじゅう》の世話《せわ》をさせていることを、咎《とが》められるのを、恐《おそ》れているのだろうか。
「あの娘から、直接話を聞きたいわ」
真王《ヨジェ》が言うと、エサルは一礼して、
「大変申しわけございません。……畏《おそ》れながら、あの娘は風邪《かぜ》ぎみでございますので、真王《ヨジェ》の御前《ごぜん》に出ぬよう、厳《きび》しく申《もう》しつけてございます」
と答えた。
ダミヤは、もてなしの酒盃《しゅはい》を口にしながら、ひと言も言葉をはさまず、二人のやりとりを聞いていた。
じっとなにかを考えているようにエサルの顔を見ていたダミヤが、やがて、酒盃をおき、ついっと席を立ったのを見て、イアルは、かたわらに立っている部下に、ダミヤに随行《ずいこう》するよう目顔で指示《しじ》した。
半ト(約三十分)近くたっても、ダミヤはもどってこなかった。
窓から射《さ》しこむ光が、蜜色《みついろ》に変わっているのに気づいて、真王《ヨジェ》が顔をほころばせた。
「……あらまあ、つい話しこんでしまったわ。あなたのお話が、あまりにも面白《おもしろ》いものだから。そろそろ、帰らねばね」
そう言いながらも、真王《ヨジェ》は、立ち去りがたい様子で、エサルを見た。
「王獣《おうじゅう》たちは、夜は王獣舎《おうじゅうしゃ》にもどるのでしょう?」
「はい。そろそろ、餌《えさ》をやる時刻ですので、皆《みな》、いそいそと王獣舎に帰宅《きたく》しているころでございます」
エサルの答えに、真王《ヨジェ》はころころと笑った。
「帰るまえに、もう一度、あの親子を見たいわ。餌を食べるところを見られるかしら? あなた、案内《あんない》してちょうだいな」
エサルは即答《そくとう》しなかった。なにを考えているのか、つかのま、表情《ひょうじょう》が消えたが、すぐに、うなずいた。
「はい、光栄でございます。……ご案内いたします」
エサルが先導《せんどう》して歩きはじめると、イアルは部下たちに、二人を囲《かこ》んで移動するよう指示《しじ》し、自分はエサルの脇《わき》についた。
夕暮れの光が木々の影《かげ》を長く伸《の》ばし、葉のあいだから黄金色《こがねいろ》の光がちらちらと漏《も》れるなかを、一行《いっこう》は、王獣舎へと向かった。
エサルが、王獣舎《おうじゅうしゃ》のなかでももっとも大きい建物を指さして、「あれがリランたちのいる王獣舎でございます」と言ったとき、イアルは、その建物の入り口に、さきほどダミヤに随行《ずいこう》させた部下が、所在《しょざい》なげに立っているのに気づいた。
「……なにをしているのだ」
近づいて声をかけると、部下は、顔をこわばらせた。
「中には、入ってくるなと仰《おお》せつけられたもので……」
戸口から、そっと中を見て、イアルは眉《まゆ》をひそめた。
あの娘《むすめ》が、王獣のいる格子《こうし》のそばに立っている。顔をこわばらせて、うつむいていた。しきりに娘に話しかけている男の声が、聞こえてきた。
「……そんなふうに、構《かま》えないでくれ。わたしはざっくばらんな男だ。そなたを気に入ったから、率直《そっちょく》にその気持ちを示しているだけだよ」
ダミヤの声だった。
背後に近づいてくる足音を聞いて、イアルはふり返った。イアルがロを開くよりさきに、真王《ヨジェ》が指を口にあてて、首をふった。
エサルたちもこわばった顔で足をとめ、中から聞こえてくる会話に耳をすませていた。
「……そなたにとっては、よい話だと思うが、そうではないのかい? ベつに、この王獣たちと離《はな》れる必要はないのだ。彼らを連れてラザルへ移《うつ》ってほしいと言っているだけだ。もし、ラザル保護場《ほごじょう》の教導師《きょうどうし》たちとの人間関係が面倒《めんどう》だと考えているのなら、この保護場の教導師たちと、総入《そうい》れ替《か》えしてあげてもいい」
娘《むすめ》は、まったく答えなかった。
じれたように、ダミヤが娘の腕《うで》をつかんだ。娘は、はっと顔をあげたが、ダミヤを見るよりさきに、王獣《おうじゅう》のほうを見た。
娘の身を案《あん》じているのか、唸《うな》りはじめた王獣を、目顔で必死になだめている。
そして、さっとダミヤに向《む》き直《なお》ると、低いが、はっきりした声で言った。
「……さきほどから、申しあげておりますとおり、それはわたくしがする判断《はんだん》ではございません。申《もう》しわけございません。お手をお放《はな》しいただけませんか」
戸の陰《かげ》で、イアルは、ふっと微笑《ほほえ》んだ。
ダミヤの魅力《みりょく》は、この娘には、まったく通じていないらしい。
ダミヤが苦笑《くしょう》しているのが伝わってきた。さすがに女の扱《あつか》いに慣《な》れているだけあって、これ以上、性急《せいきゅう》に押《お》すのは逆効果《ぎゃくこうか》だと察《さっ》したのだろう。笑いながら、さっと手を放した。
「そなたは、冷静《れいせい》な娘《むすめ》だな。いささか自信《じしん》を失《うしな》ったよ。わたしはもうすこし、魅力のある男だと自負していたのだが、わたしに触《ふ》れられても、なにも感じないかい?」
娘は答えなかったが、目を逸《そ》らさず、じっとダミヤを見つめていた。
媚《こ》びることのない目だった。
「……きれいな目だ。|霧の民《アーリョ》の瞳《ひとみ》をこれほど間近《まぢか》で見たのは初めてだが、なるほど、魔力《まりょく》を持つ民《たみ》だというのも、うなずけるな」
ダミヤは手を伸《の》ばし、そっと娘《むすめ》の頬《ほお》に触《ふ》れた。娘は顔をこわばらせたが、声はたてず、じっとダミヤを睨《にら》みつけた。
「そう怒《おこ》らずに、聞いてくれ」
ダミヤが、ささやいた。
「|霧の民《アーリョ》は、真王《ヨジェ》に忠誠《ちゅうせい》を誓《ちか》っていない放浪《ほうろう》の民《たみ》だ。そういう出自の者を、王獣《おうじゅう》の世話《せわ》係にしていることが広まれば、あれこれ言う者が出てくるだろう。教導師長《きょうどうしちょう》の立場も、むずかしくなる。……愚劣《ぐれつ》な輩《やから》が多いからな。
だが、わたしは、そなたに惚《ほ》れた。そなたを、守ってやろう」
イアルは、背後で、真王《ヨジェ》がため息をつくのを聞いた。
真王《ヨジェ》は、イアルの脇《わき》を抜《ぬ》けて、王獣舎《おうじゅうとゃ》の中に入っていった。
人の気配《けはい》を感じてふり返った娘《むすめ》が、驚《おどろ》いて目をみはるのが見えた。ついで、ダミヤが、大笑いする声が聞こえてきた。
「……真王《ヨジェ》、聞いておられたのですか! これは、恥《は》ずかしいところを見られたな。いったい、いつから?」
「あなたが、この子を、さかんに口説《くど》いては、ふられているのがわかるくらいには、長く」
笑いを含《ふく》んだ声で真王《ヨジェ》は答え、娘《むすめ》のほうに向《む》き直《なお》った。
「甥《おい》が、迷惑《めいわく》をかけたようね。この人は、魅力《みりょく》のある女人《にょにん》を見ると、声をかけずにいられない悪い癖《くせ》があるのよ。ゆるしてね」
娘はひざまずいて、頭をさげた。
「……とんでもございません。こちらこそ、無礼《ぶれい》をいたしました」
真王《ヨジェ》は微笑《ほほえ》んだ。
「お立ちなさい。甥《おい》の甘言《かんげん》に惑《まど》わされなかった、あなたの毅然《きぜん》とした態度《たいど》、気に入ったわ。名は、なんというの?」
立ちあがった娘は、一礼して答えた。
「エリンと申《もう》します」
「エリン……山リンゴね。深山《しんざん》に実る香《かお》り高い果実は、あなたによく似合《にあ》っている名だわね」
血の気のないエリンの顔が、ふっと和《やわ》らいだ。
(笑《え》みを浮かべると、印象《いんしょう》が変わる娘だな……)
イアルは心の中で思った。さっきまで、二十五、六かと思っていたが、笑顔になると、二十歳《はたち》そこそこに見えた。
真王《ヨジェ》は、やさしい笑《え》みを浮《う》かべて、しげしげと娘《むすめ》を見ながら言った。
「あなたは、|霧の民《アーリョ》なのね。なぜ、|霧の民《アーリョ》がここで働いているの? 咎《とが》めるつもりはないから、正直に答えてちょうだい」
エリンは、静かな声で答えた。
「畏《おそ》れながら申しあげます。……わたくしは、|霧の民《アーリョ》ではございません」
真王《ヨジェ》が眉《まゆ》をあげるのを見ながら、エリンは言葉をついだ。
「わたくしの母は、父と出会って、父と添《そ》い遂《と》げるために、一族から追放《ついほう》される道を選びました。ですから、わたくしは、一度も|霧の民《アーリョ》として暮《く》らしたことはございません。
わたくしは獣《けもの》ノ医術師《いじゅつし》を志《こころざ》して、この学舎《がくしゃ》に入舎《にゅうしゃ》し、以来、ずっとここで暮らしております」
真王《ヨジェ》の目が、興味《きょうみ》深げに光った。
「そうだったの。母上は、ずいぶんと果断《かだん》な方ね。いまは、どうしているの?」
エリンの表情が、一瞬《いっしゅん》、翳《かげ》った。
「……母は、亡《な》くなりました。父も早くに亡くしました。わたくしには親族はおりません」
真王《ヨジェ》は、かすかに眉《まゆ》を寄《よ》せた。
「そう。……では、ここが、あなたの家というわけね」
「はい」
そのとき、エリンの背後で王獣《おうじゅう》が鳴《な》いた。リランという王獣は、さっきから、しきりに格子《こうし》に顔をすりつけ、エリンに触《ふ》れようとしていたが、とうとうがまんができなくなったのだろう。催促《さいそく》するような声をたてはじめた。
その足もとで、幼獣《ようじゅう》が、母親をまねるように小さな翼《つばさ》をばたばたさせながら、鼻先を格子の孔《あな》からつっこんで、エリンの手を舐《な》めた。
エクだけは、我関せずという顔でたたずんでいる。
アルに指を舐《な》めさせながら、エリンが、困《こま》ったように真王《ヨジェ》に言った。
「………あの、申しわけございません。餌《えさ》を欲《ほ》しがっているのです。おゆるしください」
真王《ヨジェ》は、声をたてて笑った。
「これは、わたしが悪かったわ。お食事の時間を邪魔《じゃま》してしまっていたのね。さぞかし、お腹《なか》がすいて、じれていたのでしょう。ごめんなさいね、リラン。
エリン、どうぞ、餌をおやりなさい。わたしたちは、ここで見ていていいかしら」
エリンは、ちらっとエサルを見た。エサルがうなずくと、エリンは真王《ヨジェ》に一礼した。
「……もちろんでございます。どうぞ、そちらで、ごらんになっていてください」
部屋の隅《すみ》から肉の塊《かたまり》を持ってくると、エリンが、格子《こうし》の戸をあけて中に入ったので、イアルもダミヤも、驚《おどろ》いて目をみはった。
「音無し笛を、使わないのか……!」
ダミヤがつぶやくと、エサルが、ため息をつくように、低い声で答えた。
「エリンは、リランが幼《おさな》いころから、ずっと世話《せわ》をしておりましたので」
それにしても、娘《むすめ》の足もとにしきりにじゃれかかる子どもも、甘《あま》え声《ごえ》をたてている母親も、人にはけっして馴《な》れぬという王獣《おうじゅう》の姿からは、かけ離《はな》れていた。
エリンは、アルには肉をやらなかった。うるさく鳴《な》いているリランは後回しにして、まず、アルを守るようにたたずんでいるエクに大きな肉の塊《かたまり》を放《ほう》った。エクは脚《あし》で肉塊《にくかい》を押《お》さえると、小さく裂《さ》いて噛《か》んでは、アルに与《あた》えはじめた。
アルが乳離《ちばな》れするまでは、リランはアルから片時も離れようとしなかったが、アルが肉を食べるようになると、今度は父親であるエクが、甲斐甲斐《かいがい》しく子育《こそだ》てをするようになった。いまでは、エクがアルのそばにつききりで、リランは気ままに、アルから離れて日向《ひなた》ぼっこをするようになっている。
エクがアルに餌《えさ》をやりはじめると、今度こそ自分の番だというように、リランが甘《あま》え鳴《な》きしながら、エリンの背を軽く腹で押《お》した。
人々は、声もなく、その光景《こうけい》を見つめていた。
前掛《まえか》けで手をぬぐいながらエリンが格子《こうし》の向こうからもどってくると、エサルが、言い訳《わけ》をするようにつぶやいた。
「……リランは、死にかけておりましたので……。エリンが、それこそ夜も昼もそばから離《はな》れずに世話《せわ》をして、死の淵《ふち》から救いだしたのです。ですから、ほかの王獣《おうじゅう》とちがって、あんなふうに、エリンになついているのでしょう」
ダミヤが、口の中で、「そうか………」とつぶやいた。
「そうだったな。リランは、あのとき、矢傷《やきず》を受けたのだったな」
「矢傷?」
真王《ヨジェ》が眉《まゆ》をあげた。ダミヤは苦笑《くしょう》した。
「そうですよ。ほら、リランは、伯母上《おばうえ》のお誕生日《たんじょうび》に、わたしが献上《けんじょう》した幼獣《ようじゅう》ですよ」
「ああ……」
真王《ヨジェ》は顔をくもらせたが、ダミヤは気にする様子もなく、笑いながら、エリンに声をかけた。
「そなたが育《そだ》てた、その王獣は、あそこにいる男の命を救《すく》ったのだ」
エリンが、けげんそうな顔で自分に目を向けたので、イアルは軽くうなずいてみせた。
「リランの肩《かた》をかすったので、あいつの腹に刺《さ》さったときには、矢の威力《いりょく》がそがれていたのだ。 ──そうだったな、イアル」
「はい。わたくしにとっては、充分《じゅうぶん》痛い一矢でしたが」
ダミヤは陽気《ようき》に笑ったが、エリンは痛みを感じているように、顔をくもらせた。
「……矢が、お腹《なか》に刺《さ》さったのですか」
つぶやいたエリンに、真王《ヨジェ》が答えた。
「イアルはわたしの楯《たて》になってくれたのよ。わたしに向かって飛んできた矢を、自分の身体《からだ》で防《ふせ》いでくれたの。……さ、こんな話は、もうやめましょう。思いだしたくもないわ」
イアルは、子どものロもとを舐《な》めてやっている王獣《おうじゅう》を見つめた。
(おまえが、あのときの幼獣《ようじゅう》か……)
王宮の庭に引きだされ、おどおどと不安そうにあたりを見ていた、哀《あわ》れな幼獣。──矢で肩《かた》を切《き》り裂《さ》かれた瞬間《しゅんかん》、哀《かな》しげに悲鳴《ひめい》をあげていた。
ここへ運びこまれたときは悲惨《ひさん》な状態《じょうたい》だっただろう。よくここまで快復《かいふく》させたものだ。
「……ダミヤが、あなたを口説《くど》いた気持ちも、わかるわね」
気持ちをきりかえようとするように、真王《ヨジェ》が明るい声で言った。
「ぜひとも、ラザルにいる幼獣たちを育《そだ》ててほしいものだわ。あなたは、音無し笛を使わないでしょう? いいことだわ。わたしも、あの笛が嫌《きら》いなのよ。あの笛《ふえ》を使わずに王獣《おうじゅう》を育《そだ》てられるのなら、ぜひ、そうしてほしいわ」
そのとき、エリンとエサルが浮かべた表情は、まるで、叩《たた》かれる代《か》わりに飴《あめ》をもらった子どものようだった。
「どうしたの? ……ここを離《はな》れるのは、いや?」
真王《ヨジェ》の声に、はっと我《われ》に返ったように、エリンは瞬《まばた》きした。
「は………い。ここは、わたくしにとっては、我《わ》が家《や》ですから」
そう答えてから、心を落ちつかせるように息を吸《す》った。
「それに、アルはまだ幼《おさな》いので、長距離《ちょうきょり》の移動《いどう》をさせたくないのです。……できれば、このまま、ここで暮《く》らしたいのですが」
真王《ヨジェ》は、残念《ざんねん》そうな顔をした。
「そう。まあ、無理強《むりじ》いはしたくないけれど、でも、考えておいてちょうだいね。ダミヤではないけれど、わたしもあなたが気に入ったわ。ぜひ、ラザルの幼獣《ようじゅう》たちを育《そだ》ててほしい。
あなたが、あの笛を使わずに、愛情を注《そそ》いで伸《の》び伸びと育てたからこそ、リランは子を産《う》んだのでしょう。ラザルにいる幼獣たちも、そういうふうに育ててほしいのよ。放牧場《ほうぼくじょう》が王獣の子どもたちでいっぱいになったら、すてきだわ!
いずれまた、声をかけるから。ね?」
エリンは、深《ふか》く一礼した。
「はい。……光栄《こうえい》でございます」
真王《ヨジェ》の一行《いっこう》が去《さ》ったあと、カザルムの人々は一様《いちよう》に疲《つか》れきった顔をしていた。なにごともなくすんでほっとしたと、教導師《きょうどうし》たちは話し合っていたが、エリンはエサルの心中を思うと、その顔を、まともに見られなかった。
「出てこないようにと、あれほど言ったのに」
教導師たちが帰ったあと、エサルは、腹立たしげにエリンを叱《しか》った。
「……申《もう》しわけございません」
エリンが謝《あやま》ると、エサルは、ため息をついた。
「まあ、気持ちはわかるけれど。……わたしも、アルが心配で、あのときは、ひやっとしたし」
捕獲《ほかく》されて連れてこられる幼獣《ようじゅう》より、アルはずっと幼《おさな》い。真王《ヨジェ》が近くに行きたいと言いだしたとき、幼いアルの身体《からだ》に、音無し笛の硬直《こうちょく》が負担《ふたん》になりはしないかと、教導師たちは皆《みな》、心配していたのだった。
だから、音無し笛が吹《ふ》かれそうになった瞬間《しゅんかん》、エリンは、思わずとびだしてしまったのだった。
「それにしても、不思議《ふしぎ》ね」
エサルが顔をしかめて、つぶやいた。
「真王《ヨジェ》は、王獣《おうじゅう》|規範《きはん》の意味をご存《ぞん》じないのかしら……。それとも、わかっていらして、あんなことをおっしゃったのかしら」
「わたしも音無し笛が嫌《きら》いなの」と言った、真王《ヨジェ》の顔を思いだしながら、エリンは、つぶやいた。
「………そうは、見えませんでした」
「そうね───そうは見えなかったわね」
エサルは髪《かみ》を掻《か》きあげた。
「わたしたちの、深読《ふかよ》みだったのかしらね。王獣規範には、わたしたちが考えたような意味など、ないのかもしれない」
「…………」
そうは思えなかったが、真王《ヨジェ》の態度《たいど》からは、あの|霧の民《アーリョ》のような、王獣《おうじゅう》を戒律《かいりつ》の中にとどめておこうとするような意思《いし》は、まったく感じられなかったのは確《たし》かだった。
「ともかく、真王《ヨジェ》が、本心《ほんしん》から王獣の繁殖《はんしょく》を望《のぞ》んでおられるとしたら、わたしたちはどうすべきか、考えておかねばならないわね。……あの、甥《おい》も、しきりに、あなたを手の中におきたい様子だったし」
ダミヤのことを思いだすと、エリンは鳥肌《とりはだ》が立った。
エサルの部屋を辞《じ》して、自室に帰ってからも、エリンはなかなか、横になる気になれなかった。
ダミヤが迫《せま》ってきたときのことがくり返し頭に浮《う》かび、そのたびに怒《いか》りを覚《おぼ》えた。
あのときエリンは恐《おそ》ろしかった。男に、あんなふうに触《ふ》れられたことなど一度もなかったから、すくみあがってしまった。それが、腹立《はらだ》たしくてならなかった。
こんなときは、つくづく、ユーヤンがいないことがつらく思える。ユーヤンに話すことができたら、心に溜《た》まった泥《どろ》のようなこの思いを吐《は》きだすことができて、ずっと楽になるだろうに。
ユーヤンは、いまごろ、故郷《こきょう》の村で、獣《けもの》ノ医術師《いじゅつし》として幸せに暮《く》らしているのだろう。カシュガンは三男坊《さんなんぼう》で、故郷に居《い》つく必要はないと言っていたから、いずれは、カシュガンが婿入《むこい》りして、一緒《いっしょ》になるのかもしれない。
エリンは、ぼんやりと窓の外をながめた。
ひんやりとした寂《さび》しさが、胸の底に広がった。ずっと昔から慣《な》れ親しんできた孤独《こどく》の感覚《かんかく》が、いつのまにか、もどってきていた。
窓に映《うつ》る自分の顔を見ていると、今日、出会った人々の顔が頭をよぎった。
不思議《ふしぎ》なことに、一番心に残っているのは、真王《ヨジェ》でもダミヤでもなく、人々の背後にひっそりと立っていた武人《ぶじん》の姿だった。
その姿が心に残っているのは、独特《どくとく》な雰囲気《ふんいき》のせいなのかもしれない。あの武人は孤独《こどく》な静けさをまとっていた。 ──誰《だれ》もいない、冬の森のような静けさだった。
ほとんどロをきくこともなく、ほかの武人たちのように厳《きび》しくこわばった表情《ひょうじょう》を浮《う》かべるでもなく、常に、人々から一歩|離《はな》れたところにいた。
己《おのれ》の身体《からだ》を楯《たて》にして、真王《ヨジェ》に飛んだ矢を、腹に受ける……。
なんという人生だろう。人の楯になって、いつ命を落とすかわからぬ日々を、このさきも、あの人は送っていくのだろうか。
風が出てきたのだろう。夜の闇《やみ》の中にゆれている枝を見ながら、エリンは長く、窓辺《まどべ》にたたずんでいた。
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[#地付き]3 襲撃《しゅうげき》
よく晴れた初夏の日射《ひざ》しを浴《あ》びて、学童《がくどう》たちが、さかんに歓声《かんせい》をあげていた。
展望《てんぼう》の丘《おか》とみんなが呼んでいる小高い丘に立つと、高地の縁《ふち》を蛇行《だこう》しながら流れていくカザルム河が見渡《みわた》せる。山々から流れ下ってくる幾筋《いくすじ》もの渓流《けいりゅう》が森を抜《ぬ》けて集まり、大河になっている様子が、はっきりと見える。
サラノの街《まち》から出た船はこの河をゆっくりと王都《おうと》へと下っていく。賑《にぎ》やかな街のあいだを流れていく河が展望の丘から見えるあたりにくると、広大な森のあいだに消えていく。
昼ごろにサラノの街を出るという、真王《ヨジェ》を乗せた御座船《ござぶね》をひと目見ようと、学童たちはもちろん教導師《きょうどうし》まで展望の丘に集まり、思い思いの格好《かっこう》で岩に座《すわ》って、河を見下ろしていた。
遠眼鏡《えんがんきょう》を持ちだしてきた用意《ようい》のよい者もいて、その子は、船が現れたら知らせる役目になっていた。
ここからでは、真王《ヨジェ》を見下《みお》ろすことになってしまうから、これは不敬《ふけい》にあたる行為《こうい》だ。やめるべきではないかと言った教導師《きょうどうし》もいたが、誰《だれ》もが御座船《ござぶね》を見るなどという機会《きかい》は一生に一度だと思っていたから、聞こえないふりをした。
エリンも、トムラたちと一緒《いっしょ》に岩に寄《よ》りかかって無駄話《むだばなし》をしながら御座船を待っていた。初夏の日射《ひざ》しが岩を温《あたた》めて、眠気《ねむけ》をもよおす心地《ここち》よさだった。
「……あ、来た!」
遠眼鏡をのぞいていた学童《がくどう》が叫《さけ》び、みんな、いっせいに立ちあがった。
銀を流したように平淡《へいたん》な光を放《はな》っている河の彼方《かなた》から、たしかに船が数隻《すうせき》やってくる。先導《せんどう》する二隻の帆船《はんせん》に太縄《ふとなわ》で曳《ひ》かれた、屋根つきの大きな船が見える。屋根の飾《かざ》り金具がきらきらと輝《かがや》いていた。
学童たちのあいだから、「おー」という歓声《かんせい》があがった。
御座船が、支流との合流点《ごうりゅうてん》をすこし過《す》ぎたときだった。遠眼鏡をのぞいていた学童が、喉《のど》にひっかかったような声をあげた。
「……あれ、なに? あれ……あれ……なに?」
隣《となり》にいた学童《がくどう》たちが、彼の頭をはたいた。
「なんだよ、ちゃんとしゃべれよ」
頭をはたかれても、学童は遠眼鏡《えんがんきょう》を放《はな》さず、食い入るようになにかを見つめている。
「……支流《しりゅう》から、何本も、丸太《まるた》みたいなのが流れてくる。……人が乗ってる。背中に弓を背負《せお》ってる……」
学童たちは騒然《そうぜん》となり、教導師《きょうどうし》たちも身を乗りだして、額《ひたい》に手をかざした。
肉眼では、弓を背負っているところまでは見えなかったが、たしかに、丸太のようなものに乗った人が、森の陰《かげ》から流れでている支流の流れに乗って、次々に本流へと流れでてきている。
それがなんであるかわかった瞬間《しゅんかん》、エリンは心ノ臓をつかまれたような衝撃《しょうげき》を感じた。
(闘蛇《とうだ》……!)
あれは、闘蛇だ。戦士たちが闘蛇に乗って、密《ひそ》かに、真王《ヨジェ》の乗る御座船《ござぶね》の背後に近づいているのだ。 ──なにをしようとしているのかは、明白《めいはく》だった。
「ゆ……弓に、矢をつがえている……!」
遠眼鏡をのぞいている学童がうわずった声をあげたとき、エリンは、ぱっと駆《か》けだした。背後でトムラが「どこへ行く気だ?」と声をかけたが、答える余裕《よゆう》もなかった。
(……わたしは、ばかなことをしようとしている)
そう言う声が、頭の中で鳴《な》り響《ひび》いた。
これは、やってはいけないことだ。 ──これをしてしまったら、このさき、大変なことになる……。けれど、このままでは、あのやさしい真王《ヨジェ》が闘蛇《とうだ》に噛《か》み裂《さ》かれてしまう。
その光景《こうけい》がまざまざと目に浮《う》かび、急げ急げと駆《か》りたてていた。
エリンは放牧場《ほうぼくじょう》へ駆けおり、草原に遊んでいるリランに叫《さけ》んだ。
「リラン……!」
リランが、さっと顔をあげ、こちらに向かって、ひょいひょいと草原を駆けはじめた。
リランに駆《か》け寄《よ》ると、エリンは言った。
「わたしを乗せて、飛んで」
とたんに、リランは、くるりとエリンに背を向け、身体《からだ》をかがめてくれた。
夢の中の光景《こうけい》のように、現実感がなかった。エリンはただ無我夢中《むがむちゅう》で身体を動かし、その背によじのぼると、首にしがみついて身体《からだ》を伏《ふ》せた。騎乗帯《きじょうたい》をとりにいく暇《ひま》はない。このまま、しがみついて飛ぶしかなかった。
[……飛ぶ?]
リランの鳴《な》き声に、エリンは答えた。
「飛んで!」
ぐん、とリランは低く身体をかがめ、次の瞬間《しゅんかん》、宙に舞《ま》いあがった。
身体《からだ》の下でリランの筋肉がうねるように躍動《やくどう》している。大きな翼《つばさ》を広げ、リランは一気に天に舞いあがった。
「河のほうへ行って。あっちへ……」
しがみついている手足に力をこめ、重心《じゅうしん》を傾《かたむ》けて方向を示《しめ》すと、リランはすぐに察《さっ》して翼《つばさ》を傾《かたむ》けながら右へ曲《ま》がった。
展望《てんぼう》の丘《おか》に集まっている人々の頭上を飛《と》び越《こ》えたとき、かすかに、驚《おどろ》きの声が聞こえてきたが、人々を見る余裕《よゆう》など、エリンにはなかった。
戦士を乗せた闘蛇《とうだ》は、すでに御座船《ござぶね》の、すぐ背後に迫《せま》っていた。
闘蛇に乗った戦士が射《い》かける矢が、雨のように御座船に降《ふ》りそそいで、甲板《かんぱん》にいる武人《ぶじん》たちを貫《つらぬ》いていく。
御座船の甲板にいる武人たちも、応戦《おうせん》していた。
船尾《せんび》に近いところに立っている男が、次々と矢を連射《れんしゃ》し、そのたびに闘蛇の背に乗った戦士たちが、矢に突《つ》きとばされるように、河へ落ちていく。
しかし、戦士が落ちても、闘蛇の勢《いきお》いはとまらなかった。
闘蛇《とうだ》に突《つ》きあたられて、先導《せんどう》していた帆船《はんせん》が転覆《てんぷく》し、乗っていた人々が河に投げだされていく。その身体《からだ》を闘蛇が食いちぎるのが見えた。
転覆した帆船に闘蛇が絡《から》まると、太縄《ふとなわ》でつながれている御座船が、ぐうっと傾《かし》いだ。
(……転覆《てんぷく》する!)
帆船にひきずられて御座船が片側に大きく傾き、船端《ふなばた》が水面すれすれに近づいていく。河に投げだされた船乗りたちが数人、太縄にしがみついているのが見えた。
エリンは、船尾にいたあの射手が、弓を投げ捨《す》て、刀を抜《ぬ》き放《はな》って、滑《すべ》り落《お》ちるように船端《ふなばた》に駆《か》け寄《よ》るのを見た。男は、躊躇《ちゅうちょ》せずに刀をふりあげるや、太縄《ふとなわ》を叩《たた》き切《き》った。縄がはじけるように宙に馳《は》ねあがり、傾《かし》いでいた御座船《ござぶね》もまた、跳《は》ねあがるようにしてゆれた。
転覆《てんぷく》しかけていた御座船は、ゆっくりと船体を立て直《なお》したが、揺《ゆ》れがおさまるまえに、何頭もの闘蛇《とうだ》が体当たりを始めた。
船の縁《へり》を突《つ》き破《やぶ》った闘蛇が一頭、甲板《かんぱん》に這《は》いあがるのが見えた。闘蛇は船室に向かって突進《とっしん》していく。
太縄を切った射手は、身をひるがえし、船室と闘蛇のあいだにとびこんだ。
闘蛇が食いちぎろうと鎌首《かまくび》をもたげ、ロをあけた瞬間《しゅんかん》、男は腕《うで》ごと、刀をそのロ深くに突《つ》きこんだ。うめきながら横に倒《たお》れていく闘蛇にひきずられるかたちで、男は甲板に倒れた。
「あそこへ……」
そう叫《さけ》ぶよりさきに、リランは急降下《きゅうこうか》を始めていた。身体《からだ》の下でリランの筋肉が鋼《はがね》のように硬《かた》くなるのをエリンは感じた。
それまで一度も闘蛇《とうだ》を見たことがないリランが、闘蛇を見たとたん、戦闘《せんとう》|態勢《たいせい》に入ったのだ。誰《だれ》に教《おし》えられたのでもない。持って生まれた天敵《てんてき》に対する激《はげ》しい嫌悪《けんお》で、リランの体毛《たいもう》は逆立《さかだ》ち、筋肉が硬《かた》く締《し》まっていた。
ブブブブ……と耳もとで唸《うな》る風の音を切《き》り裂《さ》いて、ピー……という高い笛《ふえ》の音が聞こえてきた。
リランが、それまでたてたことのない音を、高く、長く響《ひび》かせている。
指笛《ゆびぶえ》の音に似《に》た、その鋭《するど》い音が響いたとたん、眼下で、闘蛇《とうだ》が、いっせいに動きをとめ、次の瞬間《しゅんかん》、まるで丸太《まるた》をひっくり返すように、腹を上にして倒《たお》れはじめた。
背に乗った戦士たちが、闘蛇の下敷《したじ》きになって悲鳴《ひめい》をあげながら、河に落ちていく。
闘蛇の背から甲板《かんぱん》に落ちた戦士が、気丈《きじょう》にも立ちあがると、弓に矢をつがえて、リランに放《はな》った。
エリンは思わず目をつぶった。
矢は一直線にリランに向かって飛び、腹にあたったが、鋼《はがね》のようになった筋肉にはね返されて、まったく傷《きず》つけることもできずに川面《かわも》に落ちた。それを見て、戦士は愕然《がくぜん》と口をあけ、あわてて甲板から河へとびこんで逃《に》げた。
リランはくるったように闘蛇に襲《おそ》いかかり、鋭《するど》い爪《つめ》で、その身体《からだ》を引《ひ》き裂《さ》いた。
闘蛇《とうだ》の甘《あま》い匂《にお》いと、血の金臭《かなくさ》い臭《にお》いとが鼻につき、エリンは吐《は》き気《け》を覚《おぼ》えて、目をつぶった。なにもできず、ただ、リランにしがみついているだけで精一杯《せいいっぱい》だった。
闘蛇を切り裂《さ》き、噛《か》み砕《くだ》く音が果《は》てしなく続く。
甲板《かんぱん》にいた武人《ぶじん》たちも、船室の壁《かべ》にあいた穴から顔をのぞかせたダミヤも、娘《むすめ》を背に乗せた王獣《おうじゅう》が、まったく無抵抗《むていこう》の闘蛇《とうだ》を引き裂《さ》き、殺戮《さつりく》していくさまを、声もなく見つめていた。
闘蛇をすべて殺して、ようやくリランは、我《われ》に返ったように岸辺へ向かい、岸の草地にゆっくりと舞《ま》いおりた。
エリンは身体《からだ》がふるえて、動けなかった。
べったりと腹についた闘蛇の血と粘液《ねんえき》を落とすために、リランが浅瀬《あさせ》に入っていっても、その背にしがみついたままだった。
リランが頭をさげて胸もとを舐《な》めるたびに、ぐい、ぐいっと身体がひっぱられる。
ペチャペチャと舌を鳴《な》らしながら、胸についた闘蛇の血と粘液を舐めている音を聞いたとたん吐《は》き気《け》が突《つ》きあげてきて、エリンはリランの背から滑《すべ》り落《お》ち、浅瀬《あさせ》に膝《ひざ》をついて、吐《は》いた。
リランの身体から、闘蛇の粘液《ねんえき》が油膜《ゆまく》のように薄《うす》く水面に広がって、流れ去っていく。自分の胸にくっついていた闘蛇の肉塊《にくかい》が、ポチャン、ポチャンと水に落ちると、リランは水面に浮かんでいる肉塊に鼻をつけて匂《にお》いを嗅《か》ぎ、桃色《ももいろ》の舌を出して、それをすくいあげて食べてしまった。
濡《ぬ》れていることも感じずに、エリンは浅瀬《あさせ》に膝《ひざ》をついて、呆然《ぼうぜん》とリランを見ていた。
腹の底から、寒気《さむけ》が這《は》いあがってきた。身の内側を氷塊《ひょうかい》が舐《な》めていったようなすさまじい寒気だった。大腿《ふともも》をつかんで、震《ふる》えをこらえようとしたが、こらえきれなかった。
日を見開いて、血まみれの獣《けもの》を見つめたまま、エリンは、ふるえていた。
ふいに、誰《だれ》かが叫《さけ》ぶ声が聞こえてきた。死にかけている仲間を、逝《い》かすまいとしているのだろう。名前を、くり返し呼んでいる。
長いこと遠い雑音《ざつおん》にしか聞こえていなかった、苦痛《くつう》に泣《な》き喚《わめ》いている声が、その瞬間《しゅんかん》、意味をなしてきて、エリンは、ようやく我《われ》に返った。
川面《かわも》は、すさまじい有り様だった。
武人《ぶじん》や船乗りたちの遺体《いたい》と、闘蛇《とうだ》の死骸《しがい》とが、ばらばらの断片《だんぺん》になって下流へと流れていく。リランに引《ひ》き裂《さ》かれながらも、まだ形状《けいじょう》をいくらか保《たも》っていた闘蛇の死骸は、重いせいか、ゆっくりと川岸へ流れつき、そこにひっかかるようにしてとまっていた。
先導《せんどう》していた小舟《こぶね》はひっくり返ったまま流れ去っていったが、御座船《ござぶね》はそのままの姿で河に浮《う》かんでいた。その船上で、誰《だれ》かが必死《ひっし》に、仲間の名を呼《よ》んでいる。
操舵手《そうだしゅ》のいない御座船は、ふらふらと河を下流のほうへ押《お》し流《なが》されていく。
エリンは立ちあがった。
まだ息のある負傷者《ふしょうしゃ》がいるなら、応急《おうきゅう》|手当《てあて》てをしたかった。そのためには、船を、この岸辺《きしべ》へつけなければならない。
毛づくろいをしているリランのほうへ、エリンはゆっくりと歩み寄《よ》っていった。
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[#地付き]4 治療《ちりょう》
展望《てんぼう》の丘《おか》にいた教導師《きょうどうし》たちが馬を走らせ、カザルム領主に急を知らせたが、サラノの街《まち》の港を出港して、彼らが河を下ってやってきたのは、襲撃《しゅうげき》から一ト(約一時間)以上たってからだった。
それまでに、エリンは、真王《ヨジェ》の乗っている船のとも綱《づな》をリランに曳《ひ》いてもらって、流れに沿《そ》って斜《なな》めに船を動かし、岸辺《きしべ》へと誘導《ゆうどう》した。
そして、甲板《かんぱん》にのぼって、重傷者《じゅうしょうしゃ》に止血《しけつ》を施《ほどこ》した。リランの背に乗って学舎《がくしゃ》へもどり、薬を持ってこようか、という考えも頭をよぎったが、それよりも、止血をするほうがさきだと思ったからだ。
腕《うで》を射抜《いぬ》かれた武人《ぶじん》の服を裂《さ》いて止血《しけつ》をしていると、船室から呼《よ》ぶ声が聞こえてきた。
「……こっちへ来てくれ! 真王《ヨジェ》がお怪我《けが》をなされている! 早く!」
真王《ヨジェ》の侍従《じじゅう》が、船室から顔を出していた。
そう言われても、血が噴出《ふんしゅつ》している男を放《ほう》ってはおけず、そのまま止血《しけつ》の作業を続けていると、駆《か》け寄《よ》ってきた侍従《じじゅう》が、腕《うで》をつかんで、エリンを立たせた。
「早くと言っているだろう! 真王《ヨジェ》が大怪我《おおけが》をなさっているのだ!」
船室の中も、すさまじい状態《じょうたい》だった。河側の壁《かべ》には大きな穴があき、外が見えている。闘蛇《とうだ》にぶちあたられたとき、中にいた人々は壁に叩《たた》きつけられたのだろう。女官《にょかん》や侍従《じじゅう》たちが、倒《たお》れたり、しゃがみこんだりして、うめいていた。
真王《ヨジェ》は、敷物《しきもの》の上に横たわっていた。顔に血の気がなく、かすかにロを開いたまま、目を閉じている。
真王《ヨジェ》の脇《わき》に座《すわ》っているダミヤも、蒼白《そうはく》の顔で脂汗《あぶらあせ》を流していた。だらんと垂《た》れさがった左|腕《うで》が妙《みょう》に長く見える。脱臼《だっきゅう》しているのだ。
気丈《きじょう》な女官《にょかん》が、蒼白《そうはく》な顔で、真王《ヨジェ》につきそい、呼びかけていた。
エリンが真王《ヨジェ》のそばにひざまずくと、青白い顔で、浅《あさ》い呼吸をしながら、ダミヤが言った。
「闘蛇《とうだ》が、船に、突《つ》きあたったとき、激《はげ》しく、壁に叩きつけられたのだ。お助けしようとしたが、間に、合わなかった……」
エリンは真王《ヨジェ》のロもとに顔を近づけた。頬《ほお》にかすかに息がかかった。
ほっとしてエリンは身を起こし、真王《ヨジェ》の腕《うで》をとって、脈を探《さぐ》った。それから瞼《まぶた》を持ちあげて、左右の瞳孔《どうこう》を見た。左右の瞳孔の大きさに違《ちが》いがないこと、光に対する反射《はんしゃ》の仕方を確かめると、瞼《まぶた》をもどし、エリンは顔をあげた。
船室を見まわし、隅《すみ》に落ちている脇息《きょうそく》に目をとめると、そばにいる女官《にょかん》に声をかけた。
「……すみません、その脇息をとっていただけますか」
女官があわてて脇息を持ってきた。まだ衝撃《しょうげき》がさめないのだろう、脇息を渡《わた》してくれた手が、ぶるぶるふるえている。
真王《ヨジェ》の首が動かぬよう、脇息《きょうそく》を床と首のあいだにはさんでから、エリンは、すぐ脇《わき》に座《すわ》っている女官に向《む》き直《なお》った。
「幸い、いますぐに、お命に関《かか》わることはないと思います。でも、絶対に頭を動かしてはいけません。このまま、こうして横たわったかたちにしておいてください」
床に落ちていた膝掛《ひざか》けを拾《ひろ》いあげて、真王《ヨジェ》の身体《からだ》に丁寧《ていねい》にかけてから、エリンが立ちあがるのを見て、ダミヤは目を剥《む》いた。
「治療《ちりょう》をしないつもりか?」
エリンは首をふった。
「いまは、これ以上、なにもできません。展望《てんぼう》の丘《おか》にいた教導師《きょうどうし》たちが、治療の器具や薬を持ってやってくるはずです」
顔をあげている若い女官《にょかん》の肩《かた》をつかんで、エリンは念《ねん》を押《お》した。
「絶対にゆすらないでくださいね。呼吸《こきゅう》をされているかどうか気をつけて、なにか変化があったら、わたしに知らせてください」
女官《にょかん》はうなずいた。その顔が蒼白《そうはく》であるのが気になって、エリンは顔をのぞきこんだ。
「あなたは、大丈夫《だいじょうぶ》ですか? どこか痛《いた》いところは?」
女官はびっくりしたようにエリンを見た。そして、かすかに微笑《ほほえ》んで首をふった。
「ありがとう。大丈夫です」
エリンは背後に立っている侍従《じじゅう》をふり返った。
「……ダミヤさまは肩《かた》を脱臼《だっきゅう》されているようですね。手当《てあ》てを手伝っていただけますか」
侍従《じじゅう》はうなずいた。
「陛下《へいか》をお助けしようとなされて、壁《かべ》に肩《かた》を打ちつけられたのだ」
エリンはダミヤのそばに膝《ひざ》をつき、中腰《ちゅうごし》になって、その目をのぞきこんだ。
「頭を打たれましたか」
「うむ。……吐《は》き気《け》がする」
瞳孔《どうこう》の反射《はんしゃ》を確かめ、エリンはつぶやいた。
「たぶん、脳震盪《のうしんとう》だと思いますが、医術師《いじゅつし》が来たら、頭を打たれたことを必《かなら》ず告《つ》げてください」
「わかった」
エリンは侍従《じじゅう》のほうを見た。
「なにか、首を固定できるものはありませんか。……厚紙《あつがみ》でもなんでもかまいません」
侍従《じじゅう》は、うろたえた顔で船室を見まわした。さきほどの女官《にょかん》が、床《ゆか》に落ちていた書物《しょもつ》を持ちあげて、差《さ》しだした。
「これは、どうでしょう」
「あ……いいかもしれません」
ダミヤの首にあててみると、書物の幅《はば》は、肩《かた》と耳のあいだに収《おさ》まる長さだった。エリンは、頸椎《けいつい》を支《ささ》えられるように書物を巻《ま》き、女官が渡《わた》してくれた着物の細紐《ほそひも》で縛《しば》って固定した。
首の処置《しょち》を終えると、エリンは女官に言った。
「肩をはめるときは、激痛《げきつう》が走ります。舌を噛《か》まれるといけません。なにか、口にくわえられるような布はありませんか」
それを聞くと、ダミヤは苦笑《くしょう》した。
「わざわざ布など、探《さが》さずともよい。こうして、袖《そで》をくわえていよう」
すっと右手をあげて、袖をくわえ、ダミヤはエリンに微笑《ほほえ》んでみせた。
エリンはうなずいた。
「ありがとうございます。……骨をもとの位置にもどすときは、とても痛《いた》いと思います。でも、うまくはめることができれば楽になりますので、どうか耐《た》えてください」
ちょっと袖《そで》を放《はな》し、ダミヤは言った。
「わたしは武人《ぶじん》ではないが、そのくらいの胆力《たんりょく》はあるつもりだ。 ──失敗《しっぱい》しても、そなたを責《せ》めたりせぬゆえ、思う存分《ぞんぶん》、昨日の仕返《しかえ》しをしてくれ」
思わず、エリンは微笑《ほほえ》んでしまった。
「……では、手当てをさせていただきます」
侍従《じじゅう》に背後からがっちりとダミヤの身体《からだ》を支えてもらい、エリンは両手で、ダミヤの左手首と肘《ひじ》をつかんだ。
はずれている骨をもどすのは、力のいる作業だった。激痛《げきつう》に耐《た》えているダミヤも汗《あせ》まみれだったが、エリンもびっしょり汗をかいていた。ようやく肩《かた》に骨が入ると、しばらくは、誰《だれ》も、ロをきけなかった。
ダミヤがくわえていた袖《そで》を放《はな》し、長く息を吐きだした。
「……なんと、嘘《うそ》のように、痛《いた》みが軽くなった……」
女官《にょかん》が屑籠《くずかご》から探《さが》しだしてきてくれた晒《さら》し布《ぬの》で、ダミヤの左腕を固定しながら、エリンは言った。
「腕《うで》は、動かさないでください。それから、頭を打たれたことを、忘《わす》れずに医術師《いじゅつし》にお伝えくださいね」
ダミヤはエリンを見つめた。
「わかった。 ──礼を言うぞ。そなたは、まこと、命の恩人《おんじん》だ」
エリンは頭をさげた。
「とんでもございません」
エリンは立ちあがると、船室の中を見まわした。倒《たお》れていた女官《にょかん》たちも、頭を押《お》さえながら身体《からだ》を起《お》こしている。命に関《かか》わる怪我《けが》をしている者はいないようだった。甲板《かんぱん》の負傷者《ふしょうしゃ》たちの手当てのほうが一刻《いっこく》を争《あらそ》う。
ダミヤに一礼し、御前《ごぜん》を辞《じ》そうとしたとき、ダミヤがささやいた。
「ほんとうに、真王《ヨジェ》のためになにもできないのか。 ──そなたは、|霧の民《アーリョ》の秘法《ひほう》を使えるのだろうに」
エリンは立ちどまって、ダミヤを見た。
「……わたくしは、秘法など存《ぞん》じません」
ダミヤは真顔《まがお》でエリンを見つめていた。なにも言わなかったが、その目には、奇妙《きみょう》な光が浮かんでいた。
船室を出ようとしたとき、甲板《かんぱん》から入ってきた男とぶつかりそうになった。
あの、イアルという武人《ぶじん》だった。荒々《あらあら》しい凶暴《きょうぼう》な熱気が、血と汗《あせ》と闘蛇《とうだ》の匂《にお》いとともにむっと吹《ふ》きつけてきて、エリンは思わず身をひいた。
「……真王《ヨジェ》陛下のご容態《ようたい》は?」
低い声で問われて、エリンも低い声で答えた。
「全身を強く打ちつけられたようで、まだ気を失《うしな》われたままでございます。頭を強く打たれたことが気になります。いまは、とにかく暖かくなさって安静《あんせい》にしていただくしかありません」
イアルは、横たわっている真王《ヨジェ》を見つめながら、うなずいた。
右腕《みぎうで》が、肩先《かたさき》から手の先まで、血まみれだった。腋《わき》の下で止血《しけつ》をしているが、指先から血が滴《したた》っていた。
闘蛇《とうだ》の口に、腕《うで》ごと刀を突《つ》きこんだ武人《ぶじん》の姿が脳裏《のうり》をよぎり、エリンは、はっとした。
「……その傷《きず》は、闘蛇の牙《きば》で切られたのですか」
イアルは、自分の右腕を見下《みお》ろした。
「ああ。ただの切り傷《きず》だ。すぱっと切れているから、押《お》さえておけば大丈夫《だいじょうぶ》だろう」
エリンは顔をくもらせ、イアルの血まみれの袖《そで》をそっと持ちあげて傷《きず》を見た。そして、顔をあげて、イアルを見つめた。
「闘蛇の牙《きば》には、毒《どく》があるのです。……シランの葉を煎《せん》じた汁《しる》で解毒《げどく》しないと、腕《うで》が使えなくなります」
イアルは眉《まゆ》も動かさず、他人の腕を見るように、自分の腕を見下ろしていた。
「待っていてください。シランの煎《せん》じ汁《じる》をとってきますから」
そう言って、船室を出ようとしたエリンの腕《うで》を、イアルはつかんだ。
「……部下たちの手当てをさきにしてくれ」
エリンは顔をくもらせてイアルを見つめたが、イアルは無表情《むひょうじょう》だった。
うなずいて、エリンは甲板《かんぱん》に出た。多くの男たちが、血まみれでうめいている。 ──命と腕《うで》一本。たしかに、イアルの言うとおり、いまは彼らの止血《しけつ》がさきだ。
イアルが船室に入っていくと、ダミヤの怒《いか》りを含《ふく》んだ声が聞こえてきた。
「……なんということだ、イアル! そなた、大公《アルハン》の思惑《おもわく》を読みきれなかったのか……」
イアルがなんと答えたのかは、聞こえなかった。
エリンが男たちの止血《しけつ》をしていると、船室からイアルが出てきて、部下たちの止血を、左手だけで器用《きよう》に手伝いはじめた。
カザルム侯《こう》の旗《はた》を掲《かか》げた船が近づいてきたころには、エリンたちは、だいたいの応急《おうきゅう》手当てを終えていた。
甲板に立っている人々の顔が見分けられるくらい船が近づいてくると、エリンは、船に同乗してきていたカザルムの教導師《きょうどうし》たちに声をかけた。
「シランの煎《せん》じ汁《じる》は、持ってきましたか?」
教導師たちが「あ……」と、口をあけた。
「しまった。消毒《しょうどく》薬や応急手当てに必要なものは持ってきたのだが、気が急《せ》いていて、そこまで考えがまわらなかった。闘蛇《とうだ》に噛《か》まれた人がいるのか」
「はい。……ほとんどの人は、矢傷と、闘蛇の牙《きば》や鱗《うろこ》で切られた傷です。それと、打ち身と骨折《こっせつ》です。真王《ヨジェ》|陛下《へいか》が、船室の壁《かべ》に全身を強く打ちつけられ、頭部を強打されて、気を失《うしな》っておられます」
船に乗ってきた人々がざわめいた。
甲板《かんぱん》にいる負傷者《ふしょうしゃ》の姿は見えているだろうが、すでに、多くの遺体《いたい》は流れ去っており、どれほどの惨状《さんじょう》だったか、彼らはまだ実感《じっかん》としてつかめていないのだ。
エリンは、イアルにささやいた。
「………リランに乗せてもらって、学舎《がくしゃ》にシランの煎《せん》じ汁《じる》をとりにいってきます」
イアルは、うなずいた。
「頼《たの》む。 ──薬は、ここではなく、カザルム侯《こう》の館《やかた》へ届《とど》けてくれ。この船はカザルム侯の館へ曳航《えいこう》してもらう。大公《アルハン》は名うての戦《いくさ》上手。万が一、襲撃《しゅうげき》の第二|陣《じん》を用意していたら、ここでは防《ふせ》ぎきれない」
そう言ってから、イアルは、低い声でつけくわえた。
「……急がなくてよいから、カザルム侯の館へは、馬で来なさい」
エリンは、はっとしてイアルを見た。王獣《おうじゅう》の背に乗って飛ぶ姿を、なるべく見せないほうがよいと言ってくれているのだ。
「はい」
エリンはうなずいた。
リランのところへ行くためには、岸辺《きしべ》に打ち寄《よ》せられた闘蛇《とうだ》の死骸《しがい》の脇《わき》を通らねばならなかった。闘蛇の死骸など見たくなかったが、否応《いやおう》なしに目に入ってきた。
その背びれを見て、エリンは、ふと眉《まゆ》をひそめた。
背びれに、切《き》れ込《こ》みがなかった。 ──その意味が頭に浮《う》かんだ瞬間《しゅんかん》、エリンは、すうっと肌寒《はだざむ》くなるのを感じた。
(……まさか)
思わず、エリンは船の上にいるイアルをふり返った。
彼に、告《つ》げるべきだろうか。
しかし、彼に告げれば、自分がなぜ大公《アルハン》の闘蛇《とうだ》に詳《くわ》しいのか、説明しなくてほならなくなる。
エリンは顔をくもらせたまま、毛づくろいをしているリランのところへ行った。
リランは、エリンを見るや、
[飛ぶ?]
と訊《き》いた。
エリンはうなずいた。
「……飛んで」
リランは、まるで、いつもこうしてきたかのような慣《な》れた仕草《しぐさ》で、身体《からだ》をかがめた。
その大きな背によじのぼると、リランは、勢《いきお》いよく空に舞《ま》いあがった。
空に舞いあがった王獣《おうじゅう》が、みるみる小さくなっていくのを見送りながら、イアルは自分の心をつかみかねていた。
この場における最善《さいぜん》の警護《けいご》を考えるなら、王獣とあの娘《むすめ》を行かせるべきではなかった。大公《アルハン》が第二|陣《じん》の闘蛇《とうだ》を送ってきたら、まともに戦える者など残っていない自分たちは、あっというまに殲滅《せんめつ》されてしまう。
なぜ、自分は、あの娘《むすめ》を行かせたのだろう。……なぜ、一刻《いっこく》も早く、この場を離《はな》れてほしいと思ったのだろう。
カザルム侯《こう》の館《やかた》へは馬で来るように告げた、自分の言葉を思い返しながら、イアルは目を伏《ふ》せた。
自分がなにを思い、なにを選択《せんたく》したのかわかっても……自分の心がわからなかった。
*
リランの背に乗って空を飛ぶことに、身体《からだ》が慣《な》れてきたのだろう。いまはもう、最初に飛んだときのような恐怖《きょうふ》は感じなかった。
リランの首に頬《ほお》をつけているせいか、リランの呼吸音《こきゅうおん》や、口を動かしている音などが、こもって伝わってくる。
ときおり、パチン、パチン、と、爪《つめ》を噛《か》み砕《くだ》くような音も聞こえた。なんの音だろう、と考えるうちに、ふっと思いあたった。歯《は》のあいだにはさまっている闘蛇《とうだ》の鱗《うろこ》を、舌で押《お》しだしては、噛み砕いているのだ。
リランが闘蛇に噛みついた瞬間《しゅんかん》の、あの、牙《きば》が鱗《うろこ》をパリパリパリッと硝子《ガラス》のように砕いていく音が、耳の奥《おく》によみがえってきた。
とたんに、胸の底でなにかが疼《うず》き、背筋に鳥肌《とりはだ》が立った。その疼きは、なんともいえぬ心地《ここち》よさをともなっていた。
闘蛇を、もろい硝子《ガラス》|細工《ざいく》のように噛《か》み砕《くだ》いていく音を聞いていたあのとき───荒々《あらあら》しい血の臭《にお》いにくるっている王獣《おうじゅう》の背に乗って圧倒的《あっとうてき》な力をふるっていたあのとき───自分は、恐怖だけでなく、快《こころよ》さも感じていたのだと、エリンはふいに悟《さと》った。
エリンは目をつぶって、リランの首に顔をつけた。リランが降下《こうか》を始めるまで、そうして目をつぶっていた。
放牧場《ほうぼくじょう》にいる、エクとアルのそばにリランが舞《ま》いおりていくと、エクがさかんに大気の匂《にお》いを嗅《か》ぎながら、うなじの毛を逆立《さかだ》てた。そして、唸《うな》り声《ごえ》を発しはじめた。
リランがなだめるように低く鳴《な》くと、エクはしぶしぶという表情《ひょうじょう》で唸るのをやめたが、うなじの毛は逆立ったままだった。
リランの背から降り、エリンは、重苦しい気持ちでリランを見上げた。
リランはあの狂乱《きょうらん》が嘘《うそ》のように平然《へいぜん》としている。 ──その平静さが、エリンには空恐《そらおそ》ろしく思えた。
リランが人であったなら、やってしまった行為《こうい》が、どんな意味を持つのかを話し合い、これからどうするか、相談《そうだん》することもできただろう。
しかし、リランは人ではない。どれほど望んでも、あの恐怖《きょうふ》、暴力《ぼうりょく》の底に潜《ひそ》んでいた快感《かいかん》、これからどうするか───そういうことのすべてをリランと語り合い、共有《きょうゆう》することなど、できはしないのだ。
王獣《おうじゃう》は獣《けもの》だ。けっして、人のようには思考《しこう》しない。
自分の言葉ひとつでリランは空を舞《ま》い、闘蛇《とうだ》を殺した。エリンが望むとおりに、リランは動いた。 ──王獣は、人に馴《な》れてしまえば、まるで手に馴染《なじ》んだ剣《けん》のように、使い手の思うままに使える生き物なのだ…‥。
そして、自分は、リランを道具として使うことで、王獣《おうじゅう》がそういう生き物であることを多くの人に見せつけたのだ。
アルが、甘《あま》え声《ごえ》をあげながら、すり寄《よ》ってきた。しきりに手を舐《な》めているアルを見ながら、エリンは、ぎゅっと目をつぶった。
(………王獣は、けっして人に馴《な》れぬ獣《けもの》でなくてはならなかったのだ)
触《ふ》れ合《あ》い、応《こた》え合えるようになっていく喜《よろこ》びに酔《よ》って、王獣を馴《な》らしてきたことが、なににつながっていくのか、それが、まざまざと見えてきて、エリンは両手で顔をおおった。河の水で洗ったのに、掌《てのひら》にはまだ血の臭《にお》いが残っていた。
学舎の裏口をくぐって、薄暗《うすぐら》い建物の中に入ると、見慣《みな》れているはずの薄暗い廊下《ろうか》が、見知らぬ場所のように見えた。学童《がくどう》たちのざわめきも、目の前にいて話しかけてくる人々の声も、遠く聞こえる。
誰《だれ》かが、エリンが帰ったことを知らせたのだろう。エサルが足早に近づいてきた。
エサルは激《はげ》しい怒《いか》りをたたえて、エリンの前に立ったが、エリンの表情を見たとたん、その目から怒りの色が薄《うす》れた。
「……あなた、大丈夫《だいじょうぶ》?」
手をつかまれて、エリンは、ぼんやりとエサルを見た。
「大丈夫です」
答えている自分の声も、遠く聞こえる。
「大丈夫という顔ではないわ。あなた、まるで死人のようよ」
エリンは首をふった。
「わたしは、大丈夫です。……闘蛇《とうだ》に噛《か》まれた人たちがいます。シランの煎《せん》じ汁《じる》を作って持っていかねばなりません」
エサルはうなずいて、薬房《やくぼう》に向かって、エリンとともに歩きはじめた。
「展望台《てんぼうだい》から、だいたいの状況《じょうきょう》は見えたわ。 ──真王《ヨジェ》は、ご無事なの?」
エリンは首をふった。
「船室の壁《かべ》に叩《たた》きつけられて、頭を強打され、気を失《うしな》っておられます」
エサルは眉《まゆ》をひそめた。
「それは……。ただの脳震盪《のうしんとう》ならよいけれど」
「左右の瞳孔《どうこう》を見ましたが、脳の出血はなさそうです。いまのところは、ですが……」
頭を強く打った場合、その直後《ちょくご》は脳内《のうない》出血がなくとも、長い時間かけてじわじわと出血して、ついには命に関《かか》わることもある。しかし、そんな不吉《ふきつ》なことを、口にすることはできなかった。
「カザルム侯《こう》に、医術師《いじゅつし》を連れていくよう伝えたし、治療《ちりょう》に熟達《じゅくたつ》した教導師《きょうどうし》たちに行ってもらったから、あとは彼らに任《まか》せるしかないわね」
薬房《やくぼう》で、シランの葉を煎《せん》じはじめたエリンを手伝いながら、エサルは何度かエリンの横顔に目をやって、口を開きかけた。しかし、結局《けっきょく》なにも言わなかった。
エリンは気づかぬふりをして、ひたすら葉を煎じる作業を続けた。
自分がやってしまったことの重大さは、よくわかっていた。しかし、いまはまだ、それと向《む》き合《あ》いたくなかった。
細かく切って乾燥《かんそう》させたシランの葉が、沸騰《ふっとう》した湯の中で躍《おど》っている。
目は、細かい葉がゆれるさまを見ていたが、頭の中では心が独楽鼠《こまねずみ》のように走りまわって、言《い》い訳《わけ》を見つけだしていた。自分は、ああせざるをえなかったのだと思える理由が、いくつも、いくつも浮《う》かんでくる。
動揺《どうよう》すると、人の心はこうして、必死に自分を助けようとするらしい。
けれど、どんな言い訳も、心の底にある漆黒《しっこく》の闇《やみ》を消すことはできなかった。その闇は静かに、冷《ひや》ややかに、現実を告《つ》げていた。
自分は、あけてはならぬ扉《とびら》を開いてしまった。 ──いまなら、まだ自分の手で閉められる。しかし、これ以上開いてしまえば、もう自分の力では閉めることができなくなるだろう。
葉から薬液が滲《し》みでて、赤黒く変色しはじめた湯を、エリンはじっと見つめていた。
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[#地付き]5 闘蛇《とうだ》の印《しるし》
カザルム侯《こう》の館《やかた》の門は固く閉ざされ、警備兵《けいびへい》が緊張《きんちょう》した面持《おもも》ちで両脇《りょうわき》に立っていたが、イアルからすでに伝えられていたのだろう、馬から降りたエリンが用件《ようけん》を告《つ》げると、丁重《ていちょう》に中に通してくれた。
館と庭を囲む築地塀《ついじべい》の内側は、騒然《そうぜん》としていた。多くの男たちが、俄仕立《にわかじた》てだとはっきりわかる武装《ぶそう》をして走りまわっている。
エリンは、ふと、スズメ蜂《ばち》が近づいてきたときの蜜蜂《みつばち》たちの様子を連想《れんそう》してしまった。
スズメ蜂は蜜蜂の三倍以上も大きく、獰猛《どうもう》で、集団で襲《おそ》ってきたら、あっというまに蜜蜂の巣がまるごと殲滅《せんめつ》されてしまうこともある。
けれど、蜜蜂もやられるばかりではない。単独で飛んできたスズメ蜂に、たくさんの蜜蜂が群《むら》がっていって、まるで団子のようになってスズメ蜂を包みこんで殺したのを、昔、見たことがあった。
蜜蜂たちが離《はな》れたあとの地面には、スズメ蜂の死骸《しがい》と、その肢《あし》に噛《か》みついたまま、自分も仲間に押《お》しっぶされて息絶《いきた》えた、小さな蜜蜂の死骸《しがい》が転《ころ》がっていた。
その蜜蜂の死骸が、一人の男の姿と重なり、エリンは暗い連想《れんそう》を断《た》ち切《き》ろうと、そっと頭をふった。
どこかで、誰《だれ》かが、押《お》し殺《ころ》した声で泣いている。闘蛇《とうだ》に食い殺された人々の身内だろうか。耳をふさぎたくなるような声だった。
館《やかた》の玄関《げんかん》に入ると、侍女《じじょ》が走ってきて、エリンを、玄関のすぐ脇《わき》にある座敷《ざしき》に連れていった。負傷《ふしょう》した|堅き楯《セ・ザン》たちが、布団《ふとん》の上に寝《ね》かされていたが、甲板《かんぱん》でエリンが止血《しけつ》をした人数よりも、二人少なかった。腕《うで》をもがれた若者と、胸に矢を受けていた男の姿がない。 ──彼らは、助からなかったのだ。エリンはつかのま、目をつぶった。
うめいている|堅き楯《セ・ザン》たちのなかで、闘蛇の牙《きば》による傷を負《お》っている者は二人しかいなかった。……牙で傷つけられるほど闘蛇に近づいて、食いちぎられずに生きのびた者が二人もいただけでも、奇跡《きせき》と言えるのかもしれない。
彼らの傷にシランの煎《せん》じ薬《ぐすり》を塗《ぬ》り、解毒《げどく》の作用がある薬湯《やくとう》を飲ませながら、エリンは、イアルはどこにいるのだろうと考えていた。
彼らの手当てを終えて廊下《ろうか》に出たエリンは、小走りにどこかへ行こうとしている侍女《じじょ》を呼《よ》びとめた。
「あの、|堅き楯《セ・ザン》のイアルさまは、どちらにおられるのでしょうか」
急いでいるのだろう、侍女《じじょ》は苛立《いらだ》たしげに首をふった。
「存《ぞん》じません。 ──すみません、急いでおりますので」
走っていく侍女の後ろ姿を見送って、エリンは途方《とほう》に暮《く》れた。
イアルの治療《ちりょう》をせずに、帰るわけにはいかない。しかたなく廊下《ろうか》を奥《おく》へ向かって歩きはじめると、右側の戸があいて、中から、中年の男が出てきた。
背後にいる誰《だれ》かに向かって、
「……よいな。では、その内容で、あと一ト(約一時間)したら、お食事をお出しせよ」
そう言ってから、こちらに向《む》き直《なお》った男は、エリンを見て、ぎょっと目を見開いた。
見覚《みおぼ》えのある顔だった。たしか、真王《ヨジェ》につき従《したが》っていた侍従《じじゅう》だ。襲撃《しゅうげき》のときも御座船《ござぶね》に乗っていた。
顎《あご》をぶつけたのだろう。青あざができていたが、あの襲撃のなかで、それくらいですんだのは大変な幸運の持ち主だった。
精霊《せいれい》でも見ているような目で自分を見ている侍従に、エリンは静かに問うた。
「真王《ヨジェ》陛下のお具合《ぐあい》は、いかがですか」
「あ……」
侍従は気をとりなおしたように、瞬《まばた》きをして言った。
「まだ、目をおあけにならぬ。しかし、医術師《いじゅつし》たちが言うには、予断《よだん》は許《ゆる》されぬ状態ではあるが、ともかくいまは、お命に別状《べつじょう》はなかろうとのことだ」
エリンは、愁眉《しゅうび》を開いた。
「それは、ようございました」
「うむ。ダミヤさまも、お命に別状はないようだが、熱を出されて、横になられておる」
「……そうですか。どうか、お大事になさってくださいませ」
うなずいた侍従《じじゅう》に、エリンは尋《たず》ねた。
「もうひとつ、おうかがいいたします。治療薬《ちりょうやく》を持ってきたのですが、|堅き楯《セ・ザン》のイアルさまは、どちらにおられるのでしょうか」
「イアル殿《どの》? イアル殿は、いま、会議の最中だ」
「会議? あのお怪我《けが》で……?」
侍従は顔をしかめた。
「|堅き楯《セ・ザン》でありながら、真王《ヨジェ》の玉体《ぎょくたい》をお守りできなかったのだ。己《おのれ》の身の心配などしていられるものか」
その言い方にむっとしたが、エリンは、努《つと》めて感情を外に出さずに、侍従に頼《たの》んだ。
「それでは、大変ご面倒《めんどう》ですが、会議が終わりましたら、わたしが来ていることをイアルさまにお伝え願《ねが》えますでしょうか。わたしは、怪我《けが》をした|堅き楯《セ・ザン》の方々の看病《かんびょう》をしておりますので」
侍従《じじゅう》は横柄《おうへい》にうなずき、そのまま、奥《おく》のほうへ行ってしまった。
イアルは、なかなか現れなかった。
窓から射しこんでいた夕暮《ゆうぐ》れの光が消えて、青い闇《やみ》がおおうころになっても、イアルは部屋に来なかった。
一度、下仕《しもづか》えの女人《にょにん》が来て灯《あか》りをつけていったが、会議が終わったかどうか訊《き》いても、首をかしげるだけだった。
医術師《いじゅつし》が施《ほどこ》した薬が効《き》いているのだろう、負傷者《ふしょうしゃ》たちはよく眠《ねむ》っている。彼らの浅い寝息《ねいき》を聞きながら待っているあいだに、心がすこし落ちついてきたらしい。ふいに、空腹が耐《た》えがたくなってきた。考えてみると朝食を食べただけで、あとはなにも口にしていない。
いらいらしてエリンが立ちあがり、廊下《ろうか》に出ようと戸に手をかけたとき、誰《だれ》かが向こうから戸を引きあけた。
「あ……」
イアルが立っていた。
驚《おどろ》いた顔で、イアルはエリンを見た。
「まだ、ここにいたのですか」
「え? わたしの手当《てあ》てを受けに、ここにいらしたのではないのですか? 侍従《じじゅう》の方に、わたしがここで待っていることを、あなたに伝えてくださいと、お願《ねが》いしたのですけど」
侍従は伝えなかったのだろう。イアルの表情《ひょうじょう》が、それを語っていた。
「………ともかく、早く手当てをしましょう」
エリンは、黙《だま》っているイアルを部屋の片隅《かたすみ》へ連れていった。眠《ねむ》っている負傷者たちを起こさぬよう、そっと燭台《しょくだい》を運んできて、腰《こし》をおろしたイアルの脇《わき》においた。
誰《だれ》かが手当てをしたのだろう。きっちりと包帯を巻いてあったが、包帯からのぞいている親指が赤黒く腫《は》れていた。気をつけて包帯をほどくと、傷の周《まわ》りだけでなく、腕《うで》全体が、地腫《じば》れしているのがわかった。
「なぜ、もっと早くに、来てくださらなかったのです。 ──わたしが来ることは、ご存《ぞん》じだったのに」
押《お》し殺《ころ》した声で言うと、イアルも低い声で答えた。
「すまない。身体《からだ》があかなかったのだ」
エリンはぎゅっと眉根《まゆね》を寄《よ》せて、傷をシランの薬液で洗いはじめた。
「こんなに毒《どく》がまわってしまったら、腕が利《き》かなくなるかもしれませんよ。ご自分の身体なのに、なぜ、こんなふうに治療《ちりょう》を後回《あとまわ》しにされるのです。大切な右手でしょうに」
イアルは、ぼんやりと傷を見ながら、つぶやいた。
「……肝心《かんじん》なときに、役に立たなかった右手だ」
エリンは思わず目をあげて、イアルを見つめた。イアルも目をあげ、エリンを見た。
「いままで、お礼も言っていなかったな。 ──失礼《しつれい》した。あなたのおかげで、皆《みな》、命を救《すく》われたのに、こんなふうに、食事も出さずに放《ほう》っておくとは……」
エリンは首をふって、視線《しせん》を傷口にもどした。
「このほうがいいです。 ──むしろ、わたしがやったことを、忘《わす》れてもらえれば、どれほど気が楽になるか……」
イアルの目が、ふっと暗くなった。
「それは、かなうまい。……皆《みな》、あなたを|霧の民《アーリョ》の秘法《ひほう》の使い手と見ている」
細い針を刺《さ》されたように胸が痛《いた》んだ。エリンは傷口を丹念《たんねん》に薬液で洗《あら》いながら言った。
「あなたも、そう思われますか」
イアルは、静かな口調《くちょう》で言った。
「判断《はんだん》するには、材料が少なすぎる。幼《おさな》いころから親身になって育《そだ》てることで、王獣《おうじゅう》が手を舐《な》めるほどになつくのであれば、王獣の背に乗って飛ぶくらい、秘法《ひほう》でもなんでもなかろう」
かすかに苦笑《くしょう》して、イアルはつけくわえた。
「それに、秘法を使うのがあなたであるなら、|堅き楯《セ・ザン》として心配する事柄《ことがら》ではない」
エリンは顔をあげた。
「なぜ?」
「魔力《まりょく》も武力《ぶりょく》も同じ───使う者しだいだ。あなたが襲《おそ》ってきたというなら、心配もしょうが、救《すく》ってくれたのに、不安に思う必要などないだろう」
そう言いながらも、イアルの目には暗い色があった。
なにか言いかけて、すっとイアルは視線《しせん》を逸《そ》らし、暗い部屋の中で眠《ねむ》っている部下たちをながめた。
「……それに、一度、あなたに助けられた命だが、あまり長くはもつまいしな」
エリンは首をふった。
「皆《みな》さんの傷は、命に関《かか》わるものではありません。必ずよくなります」
イアルの目に苦笑《くしょう》が浮《う》かんだ。
「傷の話ではないんだ」
エリンに視線をもどして、イアルは言った。
「この国の土台を支えていた柱が、もう、もたぬほどに腐《くさ》れていたことが、今日はっきりしたからだよ。
真王《ヨジェ》は、武力を持たぬ王。大公《アルハン》が、真王《ヨジェ》への畏怖《いふ》と敬意《けいい》、信仰《しんこう》と忠誠《ちゅうせい》を捨《す》てて、その武力を思うさまふるう気になったら、この国はもはや、これまでの姿では、いられぬ」
エリンはなにも一言えず、イアルを見つめていた。
その緑色の目を見ながら、イアルは、本来なら平民《へいみん》の娘《むすめ》に話すべきでないことを、話しつづけた。
「真王《ヨジェ》を守ってきたのは、|堅き楯《セ・ザン》ではない。真王《ヨジェ》を愛し、国に幸福をもたらす神と信じる人々の心だ。
|堅き楯《セ・ザン》は、わずか四十三人。暗殺《あんさつ》は防《ふせ》げても、大公《アルハン》の抱《かか》える小規模《しょうきぼ》な闘蛇《とうだ》部隊の攻撃《こうげき》さえ防《ふせ》ぐことのできぬ、藁《わら》の壁《かべ》だ」
淡々《たんたん》と、イアルは言った。その声には、自分たちを卑下《ひげ》する響《ひび》きも、自分たちの哀《あわ》れさを美しいものと酔《よ》っている響きもなかった。
(……この人は、自分が守ってきたものがなんであるのかを、冷静《れいせい》に見通《みとお》している)
真王《ヨジェ》を盲信《もうしん》して、我《わ》が身を捧《ささ》げているのではないのだ。
この人の声を聞くうちに、この国の構造《こうぞう》が、薄《うす》く透《す》けて見えてきたような気がした。人々の思いによって支《ささ》えられてきた、武力《ぶりょく》なき王。その王を戴《いただ》くことで成り立っている、この国の姿が。
エリンは、目を伏《ふ》せた。
誰《だれ》かが、その、人々の思いというもろい硝子《ガラス》を、壊《こわ》そうとしている。
襲撃《しゅうげき》に闘蛇《とうだ》が使われたことで、この人は、大公《アルハン》がとうとう叛乱《はんらん》の意を示したのだと思いこんでいる。 ──しかし、たぶん、それはちがう。
背びれに印《しるし》のない闘蛇《とうだ》を見たときから、ずっと考えていたが、ひとつの答えしか浮《う》かんでこなかった。あの襲撃《しゅうげき》は、大公《アルハン》が命じたものではない。誰《だれ》かが大公《アルハン》の叛乱《はんらん》と見せかけるために闘蛇を使ったのだ。
この人に、それを伝えるのなら、母のことを話さねばならない。
この人に、それを伝えなかったら……真王《ヨジェ》も大公《アルハン》も、誰《だれ》かの思惑《おもわく》に踊《おど》らされて、恐《おそ》ろしい道へと突《つ》き進《すす》んでいくだろう。
エリンは目をあげた。
薬湯《やくとう》を飲《の》んでいる男の顔を見ながら、エリンは言った。
「あれは……あの闘蛇《とうだ》は、大公《アルハン》の闘蛇ではありません」
湯飲《ゆの》みを口から離《はな》し、イアルはエリンを凝視《ぎょうし》した。
「……なぜ、そう言いきれる」
「あの闘蛇《とうだ》の背びれには、闘蛇衆《とうだしゅう》の印《しるし》がありませんでした」
「闘蛇衆の、印?」
エリンはうなずいた。
「大公《アルハン》に仕《つか》える闘蛇衆の村は、十二あります。 ──それぞれの村の闘蛇衆は、自分たちが育《そだ》てた闘蛇に強い誇《ほこ》りを抱《いだ》いております。戦《いくさ》に出たとき、どの村の闘蛇がもっとも戦果《せんか》をあげたかをはっきりさせるために、自分たちが育《そだ》てた闘蛇《とうだ》には背びれに独特《どくとく》の切れ込みを入れて、どの村の闘蛇かわかるようにするのです。……あの闘蛇の背びれには、その切れ込みがありませんでした」
イアルは、眉《まゆ》をひそめた。
「しかし、暗殺《あんさつ》用に、印のない闘蛇を育てたということも……」
言いかけて、イアルは首をふった。
「いや、それは意味のないことだな。闘蛇そのものが、大公《アルハン》を示す印だ。
それに大公《アルハン》が真王《ヨジェ》を弑《しい》する決意で襲撃《しゅうげき》したのなら、意図《いと》を隠《かく》す必要などない……」
左手を顎《あご》のあたりにあてて、イアルは厳《きび》しい表情《ひょうじょう》で宙を睨《にら》んでいた。
しばらく、そうしていたが、やがて、目をあげて、エリンを見た。
「あなたの言葉がほんとうなら、根本《こんぽん》から、この事件の意味を考え直さねばならなくなる」
押《お》し殺《ころ》した声で、イアルは言った。
「……わたしのような|堅き楯《セ・ザン》でも、そんな印のことは知らなかった。あなたを疑《うたが》うわけではないが、その背びれの印のことは、間違《まちが》いないのか」
エリンは、低い声で答えた。
「あの印は、闘蛇衆《とうだしゅう》同士の対抗《たいこう》意識で刻《きざ》まれているものですから、公《おおやけ》には知られていないのでしょう」
つかのま、目を閉じてから、エリンは目をあけ、イアルを見つめた。
「印のことは、間違《まちが》いありません。わたしは、幼《おさな》いころ、たくさんの闘蛇を見て育《そだ》ったのです。……わたしの母は、闘蛇衆《とうだしゅう》でしたから」
イアルの目に、驚《おどろ》きの色が浮《う》かんだ。
エリンは努《つと》めて淡々《たんたん》とした口調《くちょう》で、母と自分のことを話した。自分がどんなふうに育ち、母がなぜ処刑《しょけい》され、自分がどうして真王《ヨジェ》領へ流れついたのかを。母が闘蛇を操《あやつ》ったことだけを除《のぞ》いて、あとはすべて話した。
呆然《ぼうぜん》とその話を聞いていたイアルは、聞き終えても、なにも言わなかった。
ゆらゆらとゆれる、小さな灯《あか》りのもとで、二人はしばらく黙《だま》りこんでいた。
ゆっくりと手で顎《あご》をなでたイアルの目に、やがて、苦笑《くしょう》が浮《う》かんだ。
エリンの表情を見て、イアルは口を開いた。
「間違《まちが》えないでくれ。あなたの話を笑《わら》ったのではない。………あんなことがあったせいか、おれは、今日は、どうかしているんだ。さっきの話もだが、話すべきではないことを、ずいぶんあなたに話してしまっている。 ──もしかすると、あなたも、そうなのかと思ってね」
エリンも、かすかな苦笑《くしょう》を浮《う》かべた。
そうかもしれない。なぜだかわからないが、さほどよく知っている人でもないのに、この人に母のことを話すのは、思っていたよりつらくなかった。
イアルがなにか言おうとしたとき、遠くから鐘《かね》の音が聞こえてきた。夜の訪《おとず》れを告《つ》げる鐘の音だった。
夢からさめたようにイアルは、つぶやいた。
「もうこんな時刻《じこく》か。……下仕《しもづか》えの者に話しておくから、今夜はここにお泊《と》まりなさい」
エリンは首をふった。
「いえ、帰ります。リランたちの世話《せわ》がありますから」
「……そうか」
灯《あか》りを倒《たお》さぬように気をつけながら、エリンは立ちあがり、イアルにささやいた。
「すこしでも、お休みになってください。………今夜は熱が出るはずです。誰《だれ》かに水を持ってくるよう頼《たの》んでおきますから、なるべく水を飲《の》むようにしてください」
「そうしよう」
うなずいて、イアルはエリンを見つめ、低い声で言った。
「あなたに受けた恩《おん》、仇《あだ》で返すようなまねはせぬ。 ──お母上のことは、誰《だれ》にも言わぬ」
エリンは、ふっと微笑《ほほえ》んだ。
「ありがとうございます。……でも、必要であれば、言ってくだきってもかまいません。話すのがつらいというだけで、もう、過《す》ぎ去《さ》ったことですから」
お辞儀《じぎ》をして、エリンはイアルに背を向けた。
娘《むすめ》が部屋を出ていくまで、イアルはその後ろ姿を見送《みおく》っていた。
娘が静かに戸を閉めるのを見届《みとど》けると、イアルは、暗い部屋の中に横たわっている部下たちに目を向けた。
彼らの寝息《ねいき》を聞きながら、もはや息をしていない部下たちのことを思った。
皆《みな》、自分と同じように、真王《ヨジェ》のために我《わ》が身《み》を楯《たて》にする代わりに、生まれついた身分では到底《とうてい》手に入れることのかなわぬ地位《ちい》と暮《く》らしを手に入れた男たちだ。それでも、そんな自分たちでも、命は命だ。この国のゆがんだ構造《こうぞう》の狭間《はざま》で、押《お》しつぶされて死んでいくまえに、できることはないのだろうか。
イアルは、汗《あせ》で貼《は》りついた髪《かみ》を掻《か》きあげた。
(襲撃《しゅうげき》が大公《アルハン》の指示《しじ》ではないとすれば……)
あの襲撃からは、これまで考えてきたこととは、まったく別の構図《こうず》が透《す》けて見えてくる。
襲《おそ》ってきたのが闘蛇《とうだ》であったために、頭から大公《アルハン》の攻撃《こうげき》であると思いこんでしまったが、考えてみれば、大公《アルハン》があのような姑息《こそく》な攻撃をするはずがない。ああいうやり方は、大公《アルハン》の性格には合わない。
大公《アルハン》が真王《ヨジェ》を廃《はい》する決意をしたのであれば、堂々と叛逆《はんぎゃく》の意思《いし》を告《つ》げ、真っ向から大軍をもって都を包囲《ほうい》するはずだ。
(あの男は、なにを考えているのだろう……)
ずっと疑《うたが》ってきた、あの男。 ──この襲撃《しゅうげき》があの男の仕業《しわざ》だとすれば、その目論見《もくろみ》の、だいたいの構図《こうず》は見えてくる。
しかし、こんなことをすれば、濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》を着せられた大公《アルハン》が激怒《げきど》するのは目に見えている。たとえ闘蛇《とうだ》商人と結《むす》びついていたとしても、あの男には、大公《アルハン》に対抗《たいこう》できるほどの武力《ぶりょく》があるはずもない。激怒した大公《アルハン》が、真王《ヨジェ》を攻《せ》める決意を固めたら、あの男には、王権《おうけん》の崩壊《ほうかい》を防《ふせ》ぐ力などないはずだ。王権が崩壊してしまったら、あの男にはなんの利益《りえき》も残らない……。
イアルは、ため息をついた。
襲撃《しゅうげき》の意図《いと》について思いめぐらしているのに、別のことが心に浮《う》かんできて、集中できなかった。暗い灯《あか》りの下で、半《なか》ば陰《かげ》に沈《しず》んでいた娘《むすめ》の顔が、目の奥《おく》にちらついて離《はな》れない。
(あの娘は、目の前で、母親が闘蛇《とうだ》に食い殺されるのを見たのか……)
そんな惨《むご》い記憶《きおく》を心の底に秘《ひ》めてきたから、あの娘には、どこかほかの娘とはちがう静けさがあるのだろうか。
王獣《おうじゅう》を慈《いつく》しんでいた姿が目に浮《う》かんできて、イアルは思わず、目を閉じた。
できることなら、あの娘《むすめ》をこれ以上、巻きこみたくなかった。しかし、それは無理《むり》だろう。
天から舞《ま》いおりてきた王獣《おうじゅう》の姿が……無抵抗《むていこう》になった闘蛇《とうだ》を、まるで己《おのれ》に捧《ささ》げられた供物《くもつ》かなにかのように自在《じざい》に食いちぎった姿が、あの場にいた者の目には焼《や》きついている。
あの娘が、これから辿《たど》らねばならぬ道が、イアルには、はっきりと見えていた。
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[#地付き]6 決意
エリンに、真王《ヨジェ》から、晩餐《ばんさん》をともにするようお召《め》しがあったのは、襲撃《しゅうげき》から四日後のことだった。
カザルム侯《こう》の館《やかた》は、まえに訪《おとず》れたときより落ちついており、玄関《げんかん》で迎《むか》えてくれた侍女《じじょ》の態度《たいど》も、うやうやしかった。侍女に導《みちび》かれて、薄暗《うすぐら》く広い廊下《ろうか》を歩きながら、エリンは、ふつふつと落ちつかぬ己《おのれ》の心をもてあましていた。
真王《ヨジェ》は、ただ命を救《すく》った礼を言うために招《まね》いたのではあるまい。
廊下の先、真王《ヨジェ》がおられる奥座敷《おくざしき》に足を踏《ふ》み入れれば、もう、どうするか迷《まよ》う余裕《よゆう》はないだろう。薄暗い廊下を歩いていくこの短い時間だけが、心を決めるために残された時間なのに、心はまだ、逃《に》げ場を探《さが》して右往左往《うおうさおう》していた。
奥座敷の前で、抜《ぬ》き身《み》の刀を持って警備《けいび》をしている男たちが、両脇《りょうわき》から扉《とびら》をあけると、明るい光がこぼれてきた。
大きな硝子《ガラス》の器《うつわ》にたくさんの蝋燭《ろうそく》を灯《とも》した灯《あか》りが、天井《てんじょう》からさがり、金糸で縫《ぬ》いあげた豪華《ごうか》な壁掛《かべか》けで四方をおおった座敷《ざしき》を、やわらかく浮《う》かびあがらせている。
中央には低い食卓《しょくたく》があり、豪勢《ごうせい》な料理が並んでいた。
下座《しもざ》には侍従《じじゅう》たちと女官《にょかん》がはべり、奥《おく》に、真王《ヨジェ》が、真綿を入れてやわらかく膨《ふく》らませてある敷物に寄《よ》りかかるようにして座《すわ》っていた。
真王《ヨジェ》のやや下手《しもて》に、ダミヤが杯《さかずき》を手にして座っている。脱臼《だっきゅう》した腕《うで》はまだ布で吊《つ》っていたが、顔色はずいぶんよくなっていた。
エリンたちが入っていくと、皆《みな》が、さっと目をあげてエリンを見つめた。
「エリン、よくまいった。こちらへ来なさい。遠慮《えんりょ》せずに、真王《ヨジェ》のおそばへ来なさい」
明るい声で言いながら、ダミヤが手招《てまね》きをした。
彼が手で指《さ》し示している座に腰《こし》をおろし、エリンは敷物《しきもの》に額《ひたい》をつけて正式な礼をした。
「……真王《ヨジェ》|陛下《へいか》、お呼《よ》びとうかがい、参上《さんじょう》いたしました」
真王《ヨジェ》は微笑《ほほえ》んで、やわらかい声で言った。
「顔をおあげなさい、エリン」
促《うなが》されるまま顔をあげると、真王《ヨジェ》の笑顔《えがお》が間近に見えた。
厚板の入った首巻きで頚部《けいぶ》を支《ささ》え、頭部に包帯《ほうたい》を巻《ま》き、顔色はくすんでいるが、目には強い光がもどっていた。
「そなたのおかげで、こうしてまた、食卓《しょくたく》を前にすることができた。皆《みな》の命を救《すく》ってくれたこと、心から礼を言います。ありがとう」
エリンは再び頭をさげた。
「もったいないお言葉でございます。……陛下《へいか》のご快復《かいふく》、心からお祝《いわ》い申《もう》しあげます」
「ありがとう。さ、顔をあげて、くつろいでちょうだい。堅苦《かたくる》しい言葉遣《ことばづか》いなど、わたしには不要《ふよう》よ」
そう言って、真王《ヨジェ》は、女官《にょかん》に合図をした。
女官は、錦織《にしきおり》の袋《ふくろ》を捧《ささ》げ持って、しずしずとエリンの前に進み、その袋をエリンに手渡《てわた》した。ずっしりと重い袋だった。
「旅先ゆえ、わずかな褒賞《ほうしょう》しかあげられぬが、ゆるしておくれ。その代わり、そなたが望むことをなんなりと申すがよい。必ず聞きとどけよう」
エリンは手渡された袋を敷物《しきもの》の上においた。
「どうもありがとうございます……」
エリンが言葉をつごうとしたとき、ダミヤが、エリンの言葉をさえぎるように声をかけてきた。
「遠慮《えんりょ》することはない。そなたの働きは、めざましいものだった。あの光景《こうけい》を見たときは、全身がふるえたよ。
王獣《おうじゅう》が、真王《ヨジェ》をお救《すく》いするために天から舞《ま》いおりてきた………。あれは、まさしく、神々の物語の再現《さいげん》であった」
エリンは顔を伏《ふ》せたまま、ダミヤのほうを見なかったが、ダミヤは気にする様子もなく、明るい声で続けた。
「そなたとあの王獣《おうじゅう》がいれば、なにも恐《おそ》れるものはない。たとえ、大公《アルハン》が再び闘蛇《とうだ》を送りこんでこようと、そなたが撃退《げきたい》してくれる。なんと心強いことだろうか」
うつむいたまま、エリンは、敷物《しきもの》の一点を見つめていた。
真王《ヨジェ》のやわらかな声が聞こえてきた。
「ダミヤの言うとおり、そなたがいてくれるおかげで、わたしは安心して眠《ねむ》れる」
エリンは、ぎゅっと唇《くちびる》を噛《か》みしめた。身体《からだ》の芯《しん》がすうっと冷たくなり、額《ひたい》に汗《あせ》がにじみでてきた。エリンは目をつぶった。
「ここにいるあいだは、リランは庭で休ませ、我《われ》らを守ってくれ。
そして、真王《ヨジェ》のお身体がもうすこし快復《かいふく》されて、都へ帰還《きかん》されるときは、そなたが背に乗って、王宮まで護衛《ごえい》してくれ」
ダミヤの言葉を聞き終えると、エリンは深く息を吸《す》って、目をあけた。
静かで冷たいなにかが身体に泌《し》みこみ、そのときが来たことを告《つ》げていた。……最後の一線が、目の前に現れていた。ここを越《こ》えてしまったら、もう、自分の力では、扉《とびら》を閉めることはできない。
顔をあげ、エリンは、真王《ヨジェ》を見つめた。
そして、どこか遠くから聞こえてくるような、自分の声を聞いた。
「……ここに居られるあいだは、リランとともに、お守り申しあげます。 ──しかし、王宮へリランを連れていくことは、ご容赦《ようしゃ》ください」
真王《ヨジェ》が、驚《おどろ》いたように目を見開いた。
真王《ヨジェ》が口を開くまえに、ダミヤが身を乗りだした。
「そなた、なにを言うのだ。自分がいま、なにを言ったのか、わかっておるのか」
ダミヤは、静かに、諭《さと》すように言った。
「エリン……エリン、よく考えてから、言葉をロにせよ。そなたが、いま申《もう》したことは、真王《ヨジェ》をお守りすることを拒《こば》んだと、解釈《かいしゃく》されてもしかたのないことなのだぞ」
エリンは、ダミヤに目を向けた。
「わたくしは、自分が申したことの意味を、充分《じゅうぶん》|承知《しょうち》しております」
すっと、ダミヤの表情が変わった。
「……その言葉が、斬首《ざんしゅ》に値《あたい》する大罪《たいざい》だと、わかっていると申すのだな」
甥《おい》の言葉を、真王《ヨジェ》は諌《いさ》めなかった。それまでのやさしい表情とはまったく異なる厳《きび》しい光をたたえた目で、彼女はエリンを見下《みお》ろしていた。
ダミヤは息を整《ととの》えると、怒《いか》りを抑《おさ》えた声で言った。
「さきほどの言葉は、聞かなかったことにしよう。 ──いま一度、そなたに命じる。あの王獣《おうじゅう》とともに、王宮まで真王《ヨジェ》陛下をお守り申しあげよ」
エリンは血の気のない顔で、真王《ヨジェ》を見つめて、答えた。
「お……おゆるしください」
座敷《ざしき》が静まりかえった。
ダミヤが深く息を吸った音が聞こえた。唇《くちびる》から押《お》しだすように、ダミヤは言った。
「……拒《こば》めば斬首《ざんしゅ》と申したのが、聞こえなんだか」
エリンは首をふった。
「聞こえました……」
触《ふ》れれば切れるのではないかと思うほど張《は》りつめた緊張《きんちょう》が、座敷をおおった。
ダミヤが、静かに言った。
「命を捨《す》てる覚悟《かくご》だというのか。 ──だが、この罪は、そなたの命ひとつだけで、贖《あがな》えるものではないぞ。真王《ヨジェ》のお命をお守りすることを拒《こば》むような者に、王獣の管理を任《まか》せた者たちも、重罪に問われようぞ」
息がうまく吸《す》えなかった。浅く息を吸いながら、それでもエリンは、真王《ヨジェ》を見つめつづけた。
「恩師《おんし》たちが重罪に問われれば……」
声がふるえた。
「わたくしは、身を裂《さ》かれるよりつらいです。命を、とられるより……。でも、その行為《こうい》によって、わたくしを苦しめることはできても……従《したが》わせることは、できません」
血を吐くような言葉だった。
壮絶《そうぜつ》なその表情《ひょうじょう》を見つめ、真王《ヨジェ》は眉《まゆ》をひそめて、口を開いた。
「……なにゆえに、そこまで、わたしを守ることを拒《こば》むのだ」
エリンは息を吸《す》い、つかのま、目を閉じた。
そして、目をあけると、声がふるえぬよう必死に抑《おさ》えながら、言った。
「その理由は、真王《ヨジェ》陛下お一人に、お話しいたします」
ダミヤが青ざめた。
「なんだと? わたしには、話せぬということか!」
その怒声《どせい》を無視《むし》して、エリンは真王《ヨジェ》に言った。
「さきほど、なんでも願いを聞いてくださるとおっしゃいましたが、あのお言葉が、ほんとうでしたら、わたくしの願いを申《もう》しあげます。 ──どうか、お人払《ひとばら》いをお願いいたします」
なおも、なにか言いかけたダミヤを手で押《お》さえ、真王《ヨジェ》は厳《きび》しいまなざしで、エリンを見据《みす》えた。
「我《わ》が身《み》を守ることを拒《こば》んだ者と、二人きりになれというのか」
エリンは答えた。
「わたくしが狼藉《ろうぜき》を働くことがご心配なら、|堅き楯《セ・ザン》のイアル殿《どの》をおそばにおおきください」
真王《ヨジェ》は眉《まゆ》をひそめた。
「イアルなら、いてよいのか」
「はい。身を楯《たて》にして陛下《へいか》のお命を守ったというイアル殿ならば、わたくしは信じることができます」
それは、ほかの者は信じられないという意味かと、声を裏返して怒鳴《どな》ったダミヤに目を向《む》けて、真王《ヨジェ》は、静かな声で言った。
「皆《みな》を連れて、別の部屋にさがりなさい」
「……伯母上《おばうえ》!」
ダミヤは驚《おどろ》いて抗議《こうぎ》したが、真王《ヨジェ》は、二度同じことは言わなかった。
彼らが座敷《ざしき》を出ていき、扉《とびら》が閉まると、それまで荒あ《》れくるっていた波が、すうっとひいていくように、あたりが静かになった。
真王《ヨジェ》が口を開いた。
「さて、そなたの話とやらを聞きましょう」
エリンは細い声で言った。
「……わたくしの話は、長くかかります。よろしければ、横になられて、お聞きください」
真王《ヨジェ》の目に、冷《ひ》ややかな笑《え》みが浮かんだ。
「いまさら、わたしの身の心配などせずともよい。 ──話しなさい」
エリンは背を伸《の》ばし、膝《ひざ》に手をおいた。
「そのまえに、畏《おそ》れながらひとつ、おうかがいいたします。
わたくしが、王獣《おうじゅう》で陛下《へいか》のお命を守ることはできないと申しあげましたことは、陛下の本意《ほんい》に沿《そ》うことではないのでしょうか」
虚《きょ》をつかれたように、真王《ヨジェ》の目が、大きくなった。
「……わたしの本意?」
わずかな心の動きも見逃《みのが》すまいと、目を凝《こ》らして真王《ヨジェ》の表情《ひょうじょう》をうかがっていたエリンは、その瞬間《しゅんかん》、わずかに残っていた希望の糸が消えていくのを感じた。
王族以外の者のいる場所ではロにできぬ、というような理由で、真王《ヨジェ》が、王獣《おうじゅう》|規範《きはん》に隠《かく》された意図《いと》を知らぬふりをしておられるのではないか……と思っていたのだが、真王《ヨジェ》は、ほんとうに、知らないのだ。
エリンの沈黙《ちんもく》に苛立《いらだ》ったように、真王《ヨジェ》は声を荒《あ》らげた。
「いったい、そなたはなにが言いたいの。わかるように話しなさい」
知らないのであれば、王獣《おうじゅう》|規範《きはん》のことから話さねばならない。
エリンは心を決めて、ロを開いた。
「王獣|規範《きはん》をお書きになったのは、初代の真王《ヨジェ》であるとうかがっておりましたから、真王《ヨジェ》はすでに、わたくしが、なぜ王獣を操《あやつ》りたくないのか察《さっ》しておられると思っていたのですが、ご存《ぞん》じではないのですね」
真王《ヨジェ》は、眉《まゆ》をひそめた。
「王獣規範……? あれはたしかに初代が書いたものと聞いているけれど、それが、このことと、なにか関《かか》わりがあると言うの」
「はい」
エリンはうなずいた。
「王獣の世話《せわ》をする者が、あの規範《きはん》に従《したが》っていれば……王獣は空を飛ぶことも、子を作ることもないのです」
それが、なにを意味するのか、まったくわからなかったのだろう。真王《ヨジェ》は、黙《だま》ってエリンを見ていた。
エリンは静かな声で続けた。
「王獣《おうじゅう》をお世話《せわ》する者は、まず、王獣は、けっして人に馴《な》れぬ獣《けもの》であると教《おし》えこまれます。王獣|規範《きはん》は、王獣の世話をする者が、王獣と触《ふ》れ合《あ》うことがないよう定めております。餌《えさ》は、王獣がいないあいだに王獣舎《おうじゅうしゃ》においておきますし、治療《ちりょう》をするときは、音無し笛で王獣を硬直《こうちょく》させて行うのです。
しかし、音無し笛で硬直させることをくり返し、特滋水《とくじすい》を与《あた》えていると、王獣は、発情《はつじょう》しなくなるのです。ですから、これまで数百年、人に飼《か》われた王獣が、増えることはありませんでした」
真王《よじぇ》は眉《まゆ》をひそめ、エリンの言葉の意味を探《さぐ》るように言った。
「そなたは……初代の真王《ヨジェ》が、王獣を増やさぬように、あの規範《きはん》を書いたと言うの?」
「はい」
「いったい、なぜ?」
「初代の真王《ヨジェ》のお心を、わたくしごときがお察《さっ》しするのは僭越《せんえつ》でございますが、初代の真王《ヨジェ》は、ご自身の故郷《こきょう》で体験《たいけん》されたことを、この地ではけっして起《お》こすまいと考えておられたのだと思います」
その瞬間《しゅんかん》、真王《ヨジェ》の表情《ひょうじょう》が変わった。
エリンを凝視《ぎょうし》しながら、その目は、エリンを見ていなかった。長いこと真王《ヨジェ》はそうしていたが、やがて、ロを開いた。
「そなたは、|神々の山脈《アフォン・ノア》の向こうでなにが起《お》きたのか、知っているのね」
そう言ってから、真王《ヨジェ》はぼんやりとした口調《くちょう》で、エリンが予想《よそう》もしていなかった言葉を、つぶやいた。
「……わたしは、知らないのよ」
驚《おどろ》いて、エリンは目を見開いた。
硝子《ガラス》のように動かぬ瞳《ひとみ》でエリンを見つめ、真王《ヨジェ》は言った。
「王宮が燃《も》え、おかあさまが亡《な》くなられたとき、わたしは、まだ三つだった。
あの火事の後遺症《こういしょう》で、おばあさままでが亡くなってしまい、わたしは、わずか五つで、なにもわからぬまま、即位《そくい》せねばならなかった……」
真王《ヨジェ》の顔が怒《いか》りにゆがんだ。
「汚《けが》らわしい(|血と穢れ《サイ・ガムル》)め……! あやつらは、わたしから、なにもかも奪《うば》ってしまった。おかあさまも、おばあさまも───そして、三百年にわたって伝えられてきた、我《わ》が一族の記憶《きおく》も……!」
己《おのれ》の心をゆらしはじめた怒《いか》りの波を、抑《おさ》えこもうとするように、真王《ヨジェ》は、染《し》みの浮《う》いた手を、ぎゅっと握《にぎ》りしめた。そして、ふるえながら息をつくと、手を開き、その手でロもとをおおった。
しばらくそうしていたが、ゆっくり手をおろすと、真王《ヨジェ》は再びエリンを見た。
「……我が祖《そ》は、|神々の山脈《アフォン・ノア》の向こうから、この地に降臨《こうりん》された。わたしの手の中に残っている一族の記憶《きおく》は、ただその一事だけ。
|神々の山脈《アフォン・ノア》の彼方《かなた》にいかなる神々がおわし、なぜ、我《わ》が祖《そ》が故郷《こきょう》から出でて、この地へ降臨されたのか、わたしは知らないのよ。 ──そなたは、なぜ、|神々の山脈《アフォン・ノア》の向こうのことを知っているの。|霧の民《アーリョ》は、神々と関《かか》わりがあるの……?」
エリンは、真王《ヨジェ》を見つめて、言った。
「わたくしが知っている話が真実であるかどうか、わたくしにはわかりません。
ただ、人に飼《か》われている王獣《おうじゅう》や闘蛇《とうだ》が、いかに巧妙《こうみょう》に繁殖《はんしょく》を防《ふせ》がれてきたか、それを目のあたりにするにつれて、聞かされた話が、真実であるのではないかと、感じるようになりました。
陛下《へいか》、聞いてくださいますか。長い、長い話ですが……」
真王《ヨジェ》はうなずいた。
「聞こう。 ──どれほど長い話でも」
エリンは目を閉じ、深く息を吸《す》ってから、目をあけた。
そして、話しはじめた。
母のこと───闘蛇《とうだ》を指笛《ゆびぶえ》で操《あやつ》ったこと、それを大罪《たいざい》であると言って自ら闘蛇に食われることを選んだこと───から、|霧の民《アーリョ》の男に聞いた恐《おそ》ろしい話まで、すべてを。
話しおえても、真王《ヨジェ》は、瞬《まばた》きもせず、エリンを凝視《ぎょうし》したままだった。
まるで話に精気《せいき》を吸《す》いとられてしまったように、その顔は無残《むざん》なほどに老《お》いて見えた。
「それでは……」
そうつぶやいただけで、あとはなにも言えず、真王《ヨジェ》は手を顔にあて、目をおおった。その手が小刻《こきざ》みにふるえていた。
それまで、ひと言も発しなかったイアルが、ささやいた。
「真王《ヨジェ》……」
その声が耳に届《とど》いたのだろう。真王《ヨジェ》は、かすれた声でつぶやいた。
「……気にせずとも、よい」
ふるえている手を膝《ひざ》におろし、真王《ヨジェ》は、エリンを見つめた。
「そなたの話が真実であれば、わたしは……」
また、言葉が途切《とぎ》れた。
胸に渦巻《うずま》いている思いに翻弄《ほんろう》され、心の手綱《たづな》をとることができなくなったのだろう。真王《ヨジェ》は目をつぶり、手をふった。
「今日は、これで、さがるがよい。……追って、沙汰《さた》する」
エリンは戸惑《とまど》って、ちらっとイアルを見た。
イアルはうなずいて、さがったほうがよい、と目顔で告げた。
エリンが深く礼をして退室《たいしつ》すると、イアルは、目をつぶったままの真王《ヨジェ》の前に膝《ひざ》で進みでて、正座《せいざ》した。
真王《ヨジェ》は、ゆっくりと目をあけると、ささやくように言った。
「───わたしの楯《たて》などになって、そなたは、人生を無駄《むだ》にしたね」
イアルは厳《きび》しい目で、真王《ヨジェ》を見つめた。
「畏《おそ》れながら、そのようなお言葉は、二度とお口になされませぬよう。祖《そ》がどのような方であれ、いまの御身《おんみ》は、まごうかたなき、この国の王でいらっしゃるのですから」
真王《ヨジェ》は、まじまじと、目の前にいる男を見つめた。
イアルは、静かな声で続けた。
「エリンの話が事実であれば、先代の真王《ヨジェ》も、その先代の真王《ヨジェ》も、皆《みな》その事実を知っておられたのです。 ──知っておられて、なお、王としての生を全《まっと》うされたではありませんか。
わたくしは御身《おんみ》の楯《たて》ですが、御身はこの国の楯でいらっしゃいます。御身が堅固《けんご》な楯でなければ、この国は、大いなる災《わざわ》いに見舞《みま》われることに、なんの変わりもございません」
男の言葉の意味が胸に泌《し》みこむにつれ、馴染《なじ》み深い責任《せきにん》の重荷が、鋼《はがね》の衣《ころも》のように身を締《し》めつけてくるのを感じながら、真王《ヨジェ》は苦笑《くしょう》を浮《う》かべた。
「……そなたは、まこと、冷静な男だのう。池の水が木の葉や泥《どろ》で濁《にご》っていても、その中に泳ぐ魚だけを、過《あやま》たずに捕《とら》える……」
イアルは頭をさげた。
「陛下《へいか》───畏《おそ》れながら、ほかに人の耳のないいま、お話ししたきことがございます」
イアルの話を聞くうちに、真王《ヨジェ》の目に深い苦痛《くつう》の色が広がっていった。
しかし、話を聞きおえたときには、真王《ヨジェ》の目には、もはや迷《まよ》いの色はなかった。年老いて傷ついても、彼女は王であった。
エリンが、真王《ヨジェ》の言葉を伝えられたのは、それから二日後のことだった。
真王《ヨジェ》はエリンの功績《こうせき》を称《たた》え、大切な話を打ち明けたことに感謝の意を表し、王獣《おうじゅう》による警護《けいご》の必要はないことを文書にして告《つ》げてきたのである。
やがて、王都から十人の|堅き楯《セ・ザン》が到着《とうちゃく》すると、真王《ヨジェ》は彼らに守られて、王都《おうと》への帰路《きろ》についた。
もし、そのまま真王《ヨジェ》が、無事《ぶじ》、王都に帰りついていたなら、エリンのその後の運命《うんめい》も大きく変わったことだろう。
しかし、真王《ヨジェ》は、長旅を終えて、王宮の門をくぐつたところで、激《はげ》しい頭痛《ずつう》を訴《うった》えて気を失《うしな》った。真王《ヨジェ》の頭の傷は、すでに痣《あざ》すら消えて、完治《かんち》したかに見えたが、脳の内側では、すこしずつ出血《しゅっけつ》しつづけていた。馬車にゆられる旅が、その症状《しょうじょう》の悪化に拍車《はくしゃ》をかけたのである。
王宮に運びこまれた真王《ヨジェ》は、その後、二度と目をあけることはなかった。
誰《だれ》もが呆然《ぼうぜん》とするほど、突然《とつぜん》の、あっけない死であった。
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[#地付き]1 求婚《きゅうこん》
高窓から、城の門のあたりを見下ろしていた大公《アルハン》が、つぶやいた。
「……六、七……八台」
大公《アルハン》は、鼻を鳴《な》らした。
「すべて、突《つ》き返《かえ》してきおった」
父のこめかみに血管が浮《う》きあがるのを見ながら、シュナンは、なだめるように言った。
「しかたありません。わたしが同じ立場だったら、やはり、受けとりはしなかったでしょう」
大公《アルハン》は、ゆっくりと向《む》き直《なお》ったが、なにも言わなかった。
真王《ヨジェ》ハルミヤの訃報《ふほう》が届《とど》いたとき、大公《アルハン》は、ハルミヤの死を悼《いた》んで、金銀、絹をはじめとして、多くの財宝をセィミヤに贈《おく》った。その財宝が、荷馬車ごと送り返されてきたのだった。
荷馬車よりさきに、弔問《ちょうもん》に送った早馬の使者が帰ってきて、セィミヤ王女が、使者を王宮の門から中には入れず、追《お》い返したことを伝えていた。
闘蛇《とうだ》が真王《ヨジェ》を襲撃《しゅうげき》したという噂《うわさ》は、襲撃があった翌日には大公《アルハン》の耳に入っていた。
大公《アルハン》は、それを聞くや、すぐに王宮とカザルム侯《こう》の館《やかた》に早馬を走らせて、その襲撃には自分たちはまったく関《かか》わっていないことを、真王《ヨジェ》とセィミヤ王女に伝えたが、その使者たちもまったくとりあってもらえずに、虚《むな》しく帰還《きかん》していた。
大公《アルハン》は、低い声で言った。
「事実の究明《きゅうめい》もせず、このような態度《たいど》をとるのは、たとえ王女といえど、許《ゆる》されることではない」
窓からの光を背負い、父の姿は黒々と影《かげ》に沈《しず》んでいた。
「無実の者に罪《つみ》をかぶせる、このように見《み》え透《す》いた策略《さくりゃく》に、あっさりと乗せられるような者が王として君臨《くんりん》するのでは、この国には先はない」
「父上……」
言いかけたシュナンを無視《むし》し、大公《アルハン》は言葉をついだ。
「闘蛇《とうだ》を使い、我《われ》らに真王《ヨジェ》殺しの汚名《おめい》を着せようとする策略は、極めて下劣《げれつ》で、姑息《こそく》だが、このような手を使おうとする者が万が一にも王権を背後から操《あやつ》るような事態《じたい》にでもなれば、この国は、内側から腐《くさ》れて、崩《くず》れていくだろう。
我《われ》らもともに乗っているこの船───愚《おろ》かな船頭に任《まか》せて、沈没《ちんぼつ》させるわけにはいかぬ」
「父上……!」
宙を鞭打《むちう》つような声でヌガンが怒鳴《どな》り、兄を押《お》しのけるようにして、大公《アルハン》の前に進みでた。
「いかに父上でも、そのお言葉は、あまりに不遜《ふそん》! おあらためを……」
目を怒《いか》らせてヌガンが叫《さけ》んだ瞬間《しゅんかん》、大公《アルハン》は剣《けん》を抜《ぬ》くや、剣の腹で激《はげ》しく次男の耳を打った。ヌガンは耳を押《お》さえてくずおれ、床《ゆか》に膝《ひざ》をついた。
大公《アルハン》は、驚《おどろ》きと怒《いか》りで身をふるわせている息子《むすこ》を見下ろし、冷え冷えとした声で言った。
「そなた、いつまで子どもでおるつもりだ。その浅《あさ》はかな頑迷《がんめい》さが、兄を窮地《きゅうち》に立たせるようであれば、わたしはいつでも、そなたの首をはねるぞ」
ヒュン、と剣《けん》をふり、なめらかに鞘《さや》に収《おさ》めると、大公《アルハン》は、長男を見つめた。
「そなたも、わたしの考えに異《い》を唱《とな》えるか?」
シュナンは、首をふった。
「いいえ。潮時《しおどき》かもしれません」
長男の答えに、大公《アルハン》の唇《くちびる》に笑《え》みが浮《う》かんだ。
大公《アルハン》がロを開くまえに、シュナンが言葉をついだ。
「ただし、ある程度《ていど》の猶予《ゆうよ》を与《あた》えるべきでしょう───考える時間を」
大公《アルハン》が眉《まゆ》をひそめた。
「こういうことは、速さがものを言う。一気に攻《せ》めこんだほうが、はるかに効果的《こうかてき》だ」
シュナンは首をふった。
「兵力を擁《よう》する他国との戦《いくさ》であれば、もちろん。しかし、この場合はちがうと思います」
弟に近づき、肘《ひじ》のあたりをつかんで起こしてやりながら、シュナンは言った。
「この戦《いくさ》、勝つのは、赤子の手をひねるより容易《たやす》いことです。 ──むずかしいのは、そのあとでしょう?」
シュナンは父を見下《みお》ろして、言った。
「父上、わたしに考えがございます。任《まか》せていただけませんか」
*
笛《ふえ》の音を高く細くひっぱりながら、夕餉《ゆうげ》の魚を売り歩く荷車が通り過《す》ぎていく。
イアルは額《ひたい》に腕《うで》をのせて、ぼんやりと天井《てんじょう》を見つめていた。とうに目はさめていたが、起《お》きあがる気になれずに、ずっとそうして、昼下がりの光にぼんやりと浮かびあがっている天井の木目をながめていた。
真王《ヨジェ》ハルミヤの葬儀《そうぎ》から、新たな真王《ヨジェ》が即位《そくい》するまでの十日間、ほとんど眠《ねむ》る間もなかった。不安を抱《かか》えて右往左往《うおうさおう》している王宮の人々のあいだで、ただ、黙々《もくもく》と、新たな真王《ヨジェ》の警護《けいご》を続けた。
今朝、夜明けとともに宿直《とのい》が明けたとき、なぜか|堅き楯《セ・ザン》の控《ひか》えの間にもどる気になれず、あとをカイルに託《たく》して、数十日ぶりに、この家にもどってきたのだった。
疲《つか》れきって寝床《ねどこ》に倒《たお》れこんだときには気づかなかったが、こうしていると、床《ゆか》にも窓枠《まどわく》にも、うっすらと埃《ほこり》がたまっているのが目についた。箪笥《たんす》がひとつと、長いこと手を触《ふ》れる暇《ひま》もなかった指物用《さしものし》の道具。それしかない、がらんとした部屋が、見知らぬ部屋のように見える。
いつも胸の底にある虚《うつ》ろななにかが、ゆっくりと骨にまで泌《し》みとおり、身体《からだ》を薄《うす》く透《す》きとおらせていくようだった。
人を殺す矢として、矢を防《ふせ》ぐ楯《たて》として、ただそれだけの存在《そんざい》として生きてきた。かたわらに人もなく、このさきにも、ただ孤独《こどく》で虚《うつ》ろな日々が続いていくだけだ。……こうしていると、そういうことが、逃《のが》れようもなく、身に泌みこんでくる。
魚売りは角を曲がったらしく、声が急に遠くなった。
(この国は……)
もう、もたないだろう。いまのままの姿で在《あ》るのは、あと、わずかかもしれない。
だが、この国がどのような姿に変わるとしても、それを憂《うれ》う必要はない。国の在《あ》り方を考えるのは、自分の任務《にんむ》ではないのだから。
自分は真王《ヨジェ》を守る道具。考えることは、いかに真王《ヨジェ》のお命を守るか、ただ、それだけであるべきだった。
(しかし……)
イアルは目をつぶった。
(あの男を、どうする……)
カザルム侯《こう》の館《やかた》で、ハルミヤに、あの男に対する疑惑《ぎわく》を打ち明けて、あの男の処分《しょぶん》を検討《けんとう》するというお言葉をいただいていたのに、ハルミヤの突然《とつぜん》の死は、すべてを振《ふ》り出《だ》しにもどしてしまった。
血の気のない顔で、儀式《ぎしき》を行っていた、うら若い真王《ヨジェ》セィミヤのかぼそい声が、耳の奥《おく》に聞こえた。祖母《そぼ》を殺した者が誰《だれ》なのか、セィミヤに知らせずにおくわけにはいかない。しかし、知らせても、信じるかどうか………。
イアルは、ため息をついた。
あの男が、若い真王《ヨジェ》をどうするつもりなのか、だいたい察《さっ》しはつく。
ハルミヤとちがって、セィミヤの命をとることはあるまい。そういう意味では、もはや、このことは、自分の任務《にんむ》の外にあるのかもしれない。
しかし、このままでは、あの男の思惑《おもわく》どおりに操《あやつ》られていく真王《ヨジェ》の楯《たて》として、これから、生きていくことになる……。
そう思ったとき、ふいに、胸の底から、苦《にが》い笑《え》みがこみあげてきた。
こんな生《せい》を生きていながら、自分はまだ、心のどこかで、命の捨《す》て甲斐《がい》を求《もと》めている。こんな命でも、捨てる甲斐があるなにかのために、捨てたいらしい。
自分の命は、大粒金《おおつぶきん》がずっしりと詰《つ》まった袋《ふくろ》ひとつ。袋が母の手に渡《わた》った、あのときに、人としての自分は、命を終えたのではなかったか。
手で顔をおおい、イアルは長いこと、自分の息の音だけを聞いていた。
*
自室にもどり、ようやく一人になったとき、セィミヤは、いまなら泣いてもよいのだ、と思った。
しかし、座《すわ》りなれた椅子《いす》に腰《こし》をおろして、夕暮れの光が床《ゆか》に落としている障子《しょうじ》の桟《さん》の影《かげ》をぼんやり見ていても、涙《なみだ》は出てこなかった。
お祖母《ばあ》さまの崩御《ほうぎょ》は、あまりに突然《とつぜん》すぎた。
葬儀《そうぎ》と即位《そくい》の儀式の主役を務《つと》めていても、すこし離《はな》れたところから、儀式を行っている自分の姿を見ているような、奇妙《きみょう》に鈍《にぶ》い気持ちが始終つきまとっていた。その気持ちは、こうして一人になっても、消えていかなかった。夢の中にいるようで、現実になんの手触《てざわ》りもない。
せねばならぬことは、たくさんある。とくに、汚《けが》らわしい大公《アルハン》を、どのように罰《ばっ》するか、早急に考えて、決断《けつだん》せねばならない。しかし、そういう大切な思考《しこう》さえも、額《ひたい》のあたりに浮《う》かんでいるだけで、なんの感情もともなわなかった。
戸の外から、ダミヤが入室を請《こ》うているという声が聞こえてきて、セィミヤは、はっと目をあげた。
「……通しなさい」
戸があくと、ダミヤが入ってきた。腕《うで》を吊《つ》っていた布はとれていたが、まだ、顔色はくすんでいる。
それでも、幼《おさな》いころから、父や兄、友をすべて合わせたような存在《そんざい》であったダミヤのやさしい目を見たとたん、日常の感覚が、はっとするほどに生々しく立ち現れて、この日常には、もう祖母《そぼ》はいないのだ、という思いが胸に迫《せま》ってきた。
セィミヤの唇《くちびる》がふるえるのを見るや、ダミヤは大股《おおまた》にセィミヤに近づいて、腕を広げ、掻《か》き抱《いだ》いた。
ダミヤの温《ぬく》もりに包《つつ》まれたとたん、涙《なみだ》があふれでた。
セィミヤはぎゅっとダミヤにしがみついて、声を押《お》し殺《ころ》して泣きはじめた。
ダミヤは、セィミヤを抱《だ》きしめて、髪《かみ》に顔をうずめ、背をさすった。ダミヤの目からも、涙《なみだ》が流れていた。
ひとしきり泣いて、涙がおさまりはじめると、セィミヤは、ダミヤの胸に顔をうずめたまま、つぶやいた。
「……ありがとう。おじさまのおかげで……ようやく、お祖母《ばあ》さまを、悼《いた》むことができたわ」
ダミヤはなにも言わず、ただ、やさしくセィミヤの髪《かみ》をなでていた。
「死が……あれほど、突然《とつぜん》にやってくるものなら、わたしは一刻《いっこく》も早く、子を産《う》まねばね」
かすれた声でつぶやきながら、セィミヤは苦《にが》い笑《え》みを唇《くちびる》に浮《う》かべた。
「つぎの真王《ヨジェ》たる娘《むすめ》を、産んでおかねば」
ダミヤは目をつぶったまま息を吸《す》い、セィミヤのかぼそい身体《からだ》を二度、ゆすった。
「……そんなことを、言わないでくれ」
吐息《といき》をもらすように言い、ダミヤはまた、セィミヤの髪をなでた。
「そなたは王権を伝える道具ではないのだよ、セィミヤ」
ダミヤの胸に手をおいて、ちょっと身体を離《はな》し、セィミヤはダミヤの顔を見上げた。
「おじさま……お願いだから、おじさまだけは、空虚《くうきょ》な慰《なぐさ》めなど、ロにしないで。
わたしは、自分が何者であるか───自分の務《つと》めがなにか───よくわかっているわ」
セィミヤの唇《くちびる》には、凄絶《せいぜつ》な笑《え》みが浮かんでいた。
「物心ついたときから、それを忘れたことなど、一度もないわ」
ダミヤは首をふった。
「いいや、そなたは、自分が何者であるか、ほんとうにはわかっていない。一番大切なことに一度も目を向けてこなかったからね」
セィミヤは眉《まゆ》をひそめた。
「一番大切なこと?」
「そうさ」
眉をあげて、ダミヤは言った。
「王座は、苦痛《くつう》を与《あた》えるだけの座ではない。座《すわ》らねばならぬ椅子《いす》なら、その椅子に座らねば見られぬ景色《けしき》を楽しめばいいのに、そなたは一度も、王権を楽しもうとは、思ってこなかっただろう?」
セィミヤはうつむいた。
その顎《あご》にそっと指をあてて、ダミヤはセィミヤの顔をあげさせた。
「そなたは、この国でただ一人、どのような男でも、選ぶことができる娘《むすめ》なのだよ。
思いのままに、好きな男を選んで、婿《むこ》にすればいい」
セィミヤは、微苦笑《びくしょう》を浮《う》かべた。
「……まさか」
鼻で笑ったその表情《ひょうじょう》は、驚《おどろ》くほど、祖母ハルミヤに似ていた。
「わたしはこの国で、ただ一人、ほんとうに好きな男を選ぶわけにはいかない娘《むすめ》よ。わかっていらっしゃるくせに」
「いいや、わからないね。なぜだい?」
セィミヤは、ため息をついた。
「わたしが選べる男を考えてみてよ、おじさま。血筋《ちすじ》から言えば、遠い従兄《いとこ》のオリヤかしら? あの弱々しい、かげろうのような? それとも、神聖《しんせい》な血をひいていない、この地の貴族《きぞく》の息子《むすこ》たち? 倣慢《ごうまん》で、甘《あま》やかされた、あの若者たち? ……やめましょう。こんな虚《むな》しい問答は」
ダミヤは、セィミヤの顎《あご》をつまんだ指に、力をこめた。
「なにが虚しいんだね? これは一番大切な問答だよ、セィミヤ。 ──いるのなら、言ってごらん」
「いるって?」
「ほんとうに好きな男さ」
セィミヤは、つかのま、息をとめた。視線《しせん》を逸《そ》らしかけて、思い直《なお》したように、じっとダミヤを見つめた。
「……いないわ、そんな人は」
ダミヤは、ふっと笑った。
「おいおい。ほかのことはともかく、色恋《いろこい》だけは、わたしは百戦錬磨《ひゃくせんれんま》だよ。 ──いまの表情は、言葉よりずっと雄弁《ゆうべん》だったね」
顎《あご》をつまんでいた指を放《はな》し、ダミヤはセィミヤを抱《だ》きしめた。そして、赤子をゆするように、そっとゆすった。
「力を抜《ぬ》いて。……わたしの腕《うで》の中にいるときぐらい、楽にすればいい」
髪《かみ》に顔をうずめ、ダミヤはささやいた。
「そなたは、一人ではないよ。わたしはいつも、そなたのそばにいる」
*
楯《たて》と剣《けん》を持って、真王《ヨジェ》セィミヤの部屋の前に立っていたイアルは、ふと顔をあげた。
遠い廊下《ろうか》を誰《だれ》かがこちらへ向かって駆けてくる。急な事態《じたい》が発生したことを感じさせる足音だった。
顔をひきつらせて駆《か》けてきたのは、門を守っていたカイルだった。
「なにごとだ」
カイルは、押《お》し殺《ころ》した声で答えた。
「………大公《アルハン》の長男が来ている。真王《ヨジェ》にお目通りしたいと」
イアルは、鋭《するど》い声で問い返した。
「兵の数は?」
「それが……武装《ぶそう》していないのだ」
「なんだと?」
「武装せず、手や足がない非武装の男たちを三人連れているだけなのだ」
「手や足がない?」
「ああ。顔に痛《いた》ましい傷《きず》を負《お》っている男もいる」
イアルは沈黙《ちんもく》した。
シュナンという、あの聡明《そうめい》で物静かな若者が、なにを真王《ヨジェ》に告《つ》げようとしているのか、わかる気がした。
「……真王《ヨジェ》には、おれがとりつぐ。おまえは、ここで待っていてくれ」
そう言って、イアルは真王《ヨジェ》の居間《いま》の扉《とびら》の前に立ち、来意を告《つ》げた。
ややあって、中から、入るようにと答えがあった。
扉をあけて、居間に足を踏み入れると、ダミヤと真王《ヨジェ》セィミヤが寄《よ》り添《そ》うようにして立っている姿が目にとびこんできた。泣いていたのか、セィミヤの目は赤かったが、表情《ひょうじょう》は思いのほか明るく、頬《ほお》はわずかに上気している。
苦《にが》い思いが、胸に沈《しず》んだ。
イアルは、一礼すると、門のところにシュナンが来ていることを告《つ》げた。
「……なんですって?」
セィミヤの顔から、一気に血の気がひいた。
ダミヤが、セィミヤのかぼそい肩《かた》を支《ささ》えるように抱《だ》き、落ちつかせるように言った。
「会う必要はない。追い返せばいいのだよ」
セィミヤが、すがるような目でダミヤを見上げた。
セィミヤの肩においている手に力をこめて、ダミヤは言った。
「会わぬ、ということも大切な意思《いし》表示だ。 ──真王《ヨジェ》、情に流されず、毅然《きぜん》と構《かま》えられよ」
セィミヤはダミヤから目を逸《そ》らし、こわばった顔でイアルを見た。瞳《ひとみ》が、心の迷《まよ》いを映《うつ》して、ゆれている。
ひとつ息を吸《す》うと、セィミヤは、細い声で言った。
「……シュナンを、謁見《えっけん》の間《ま》へ通しなさい」
供《とも》も連れず、一人で謁見の間に入ってきたシュナンを見た瞬間《しゅんかん》、セィミヤは、わずかに目を見開いた。四年の歳月《さいげつ》は、シュナンを成熟《せいじゅく》した、静かな知性をたたえた大人の男に変えていた。彼に比べて自分は、若さを失《うしな》っただけのように思えて、セィミヤは、つかのま、目通《めどお》りを許《ゆる》したことを後悔《こうかい》した。
ひざまずき、頭《こうべ》を垂《た》れて、シュナンは挨拶《あいさつ》をした。
「お目通りをお許しいただき、ありがとうございます。 ──ハルミヤさまのこと、心よりお悔《く》やみ申しあげます」
セィミヤはこわばった表情のまま、つぶやくように言った。
「悔やむ? あなたが、なぜ?」
シュナンは顔をあげたが、セィミヤの言葉を待つように、口は閉じたままだった。
セィミヤのかたわらに座《すわ》っているダミヤが、セィミヤの言葉を代弁《だいべん》するかのように言った。
「我《われ》らも、そなたも、誰《だれ》が伯母上《おばうえ》を殺したのか知っているのだ。白々しい弔辞《ちょうじ》など、よく口にできたものだ。その厚顔《こうがん》さは、そなたの父|譲《ゆず》りだな」
シュナンは顔色も変えず、ダミヤを見た。
「畏《おそ》れながら、あなたさまは、誰がハルミヤさまを襲撃《しゅうげき》したか、ご存じなのですか?」
セィミヤの頬《ほお》に、血がのぼった。
「よくも、そのような……! お祖母《ばあ》さまは闘蛇《とうだ》に襲《おそ》われたのよ。大公《アルハン》以外に誰が、あのような穢《けが》れた生き物を使うと言うの!」
シュナンはわずかに眉《まゆ》をひそめた。
「ご存《ぞん》じと思いますが、東隣《ひがしどなり》の騎馬《きば》の民《たみ》ラーザが、さかんに国境を脅《おびや》かすようになって以来、闘蛇《とうだ》の需要《じゅよう》が増え、真王《ヨジェ》領民のなかにも、闘蛇を扱《あつか》っている者が何人もおります」
セィミヤは、細い眉《まゆ》を跳《は》ねあげた。
「だから、なに? 真王領民《ホロン》が、真王《ヨジェ》の暗殺《あんさつ》を企《くわだ》てたとでも言うの」
「……セィミヤ陛下《へいか》」
ひとつ息を吸《す》い、シュナンは言った。
「汚《きたな》い方法で真王《ヨジェ》を暗殺して、わたくしたちにどのような益《えき》があるのですか」
言われた意味がわからず、セィミヤは眉をひそめた。
「愚《おろ》かな(|血と穢れ《サイ・ガムル》)ならともかく、なぜ、我《われ》らがそのようなことをせねばならないのでしょうか。……まさか陛下が、これほど明白なことに、お気づきでないとは、思っておりませんでした」
むっとして、セィミヤは鋭《するど》く問い返した。
「真王《ヨジェ》が死ねば、あなた方は王になれる。これが利益《りえき》でなくて、なに?」
「あなた方が亡《な》くなったら、大公《アルハン》が王になる? ならば、よけいに、暗殺《あんさつ》など、なんの意味もないでしょう」
いつしか、シュナンの声に、鋼《はがね》のような厳《きび》しさが混《ま》じっていた。
「あなたさまは、そこまで、わたくしたちを見損《みそこ》なっておられたか。
この国を、真王《ヨジェ》にお任《まか》せしておけぬと判断《はんだん》したなら、わたくしたちは、堂々と王位を得ます。暗殺《あんさつ》のような姑息《こそく》で汚《きたな》い手を使う必要など、わたくしたちにはまったくない。わたくしたちは、くり返し攻《せ》めこんでくる外敵から長く国境を守りつづけた、百の闘蛇《とうだ》部隊と万の騎馬兵《きばへい》を有しているのですよ。望むなら、明日にでも、あなた方を廃《はい》して、この王宮に居を構える力を、わたくしたちは持っているのです」
いきなり、ダミヤが笑いだした。
「よくぞ本音を吐《は》いたものだ。セィミヤ陛下、よくわかったでしょう。まさしく、これが大公《アルハン》の本性《ほんしょう》。王位を、武力《ぶりょく》で奪《うば》えると考えている」
首をふりながら、ダミヤはシュナンに笑いかけた。
「シュナン、そなたの言うとおり、我《われ》らを殺して王位を簒奪《さんだつ》するのは容易《たやす》いことだろう。だが、そのような方法で手に入れられるのは、滅《ほろ》びゆく国の虚《むな》しい王座だ。
真王《ヨジェ》は神。いま、そなたの前におられる方の神威《しんい》が見えぬ者が、武力《ぶりょく》にて王位を簒奪《さんだつ》すれば、神を殺したこの国は、滅び去るであろう」
シュナンは、ダミヤではなく、セィミヤを見つめた。
長いこと黙《だま》って見つめていたが、やがて、静かに言った。
「あなたさまも、そう思われますか」
セィミヤは、即座《そくざ》に答えた。
「もちろんよ。そなたは、そう思わぬとでも?」
シュナンは、あっさりとうなずいた。
「はい。そうは思えません」
言うなり、シュナンは立ちあがった。
「わたくしには、あなたさまが神であるとは思えません。この国を幸福にできぬ方が、どうして神などでありましょうか」
セィミヤの頬《ほお》から、すうっと血の気がひいた。
立ちあがったダミヤが、怒鳴《どな》ろうとするのを、さっと手でとめて、セィミヤは細い声で言った。
「……そなたは、なぜ、わたしが、この国を幸福にできないと言うの」
「では、お尋《たず》ねいたしますが、あなたさまは、瀕死《ひんし》の淵《ふち》にいるこの国の病《やまい》を、どのようにして癒《いや》されるおつもりですか」
セィミヤは唇《くちびる》をふるわせた。
「この国を病《や》ませているのは、あなた方の欲深《よくふか》な野心《やしん》でしょう。わたしは、そなたらの穢《けが》れた理屈《りくつ》に惑《まど》わされずに、清浄《せいじょう》な心を持ってこの国を治《おさ》めていくわ。
たしかに、わたしは武力《ぶりょく》では守られていない。でも、わたしを武力で滅《ほろ》ぼせば、この国の清浄《せいじょう》な魂《たましい》は消えるのよ。そのとき、この国は死ぬ。この国を殺すのは、そなたであって、わたしではないわ」
シュナンは首をふった。
「あなたさまが、武力で守られていない? 冗談《じょうだん》ではない。あなたさまは、これまで誰《だれ》に守られてきたと思っておられるのですか。御身《おんみ》のことではありませんよ。この国のことを言っているのです」
シュナンの目に、紛《まぎ》れもない怒《いか》りの色が浮《う》かんでいた。
「その目で、ごらんになる勇気《ゆうき》がおありでしょうか。この国を守ってきた者たちが、どのような姿をしているかを」
セィミヤは、硬《かた》い声で答えた。
「わたしは、いつ、いかなるときも、恐《おそ》れはしないわ」
シュナンはうなずいた。
「ならば、ごらんにいれましょう。 ──入ってくるがいい!」
大声で呼びかけると、扉《とびら》があいて、三人の男が謁見《えっけん》の間《ま》に、そろそろと入ってきた。
彼らの姿を見て、セィミヤは息をのんだ。
皆《みな》、二十歳《はたち》になるかならぬかという若者たちだった。一人は、右腕《みぎうで》が肘《ひじ》からなく、もう一人は左足を腿《もも》からなくして、棒のような義足《ぎそく》で身体《からだ》を支《ささ》えている。最後の一人は、十五、六ほどの少年だった。髭《ひげ》の影《かげ》すらない、つややかなその顔は、右目のあたりを中心に焼けただれ、目があった場所には虚《うつ》ろな穴があいていた。
一人一人の肩《かた》に手をおきながら、シュナンは言った。
「このラバルは、一昨年、ラーザがホサル峠《とうげ》から攻《せ》め入ってきたときに、砦《とりで》の城門《じょうもん》を守って戦い、右腕を失《うしな》いました。このユナンも同じときに、騎馬兵《きばへい》として敵と交戦《こうせん》し、足にひどい傷《きず》を負《お》ったのです。傷は膿《う》み、結局、腿から切り落とさねばなりませんでした。
このロカルという少年兵は、目がとてもよくて、頼《たよ》りになる物見でしたが、物見櫓《ものみやぐら》の上で、敵の火矢《ひや》を右目に受けました」
シュナンは、静かに、セィミヤに向《む》き直《なお》った。
「何千もの兵が、こうして生涯《しょうがい》消えぬ傷を負って、この国で暮《く》らしております。
冷《つめ》たい土の中で朽《く》ちはてつつある何千もの戦死者は───その父母や子や恋人《こいびと》たちは───あなたさまが、誰《だれ》にも守ってもらっていないなどとお考えになっていると知ったら、では自分たちの死は───命にも代《か》えがたい愛する者たちの死は、なんだったのかと、身をふるわせて、あなたさまに問いかけることでしょう」
セィミヤは、息もできずに、目のない少年を見つめていた。
少年もまた、残された片目で、セィミヤを見つめていた。自分がいま、真王《ヨジェ》と向《む》き合っているのだということが信じられずにいる面持《おもも》ちで、セィミヤを見ている。
怒《いか》りと疑問《ぎもん》をぶつけてよいのか。畏怖《いふ》を感じているのが正しいのか。どんな表情《ひょうじょう》をすればよいのか。 ──その目には、戸惑《とまど》っている彼の心の動きが、哀《かな》しいほど素直《すなお》に浮《う》かんでいた。
胸にこみあげてきたものがなんなのか、セィミヤは、考えることすらできなかった。
自分が泣いてよいのかさえ、わからなかった。
ただ、一人になりたかった。一人になって、考える時間が欲《ほ》しかった。いま、この場では、なにを言えばよいのかが、どうしても浮《う》かんでこなかった。
「セィミヤさま……」
シュナンは、名前で真王《ヨジェ》を呼《よ》び、かすれ声で言った。
「わたくしたちはずっと、このような血と涙《なみだ》を流しながら、この国が異国に蹂躙《じゅうりん》されることがないよう、守りつづけてきました。わたくしは、そのことを美化する気もないし、哀《あわ》れに語る気もありません。
しかし、なにが現実であるのかを知らぬ者が、この国の長《おさ》であってよいとは、どうしても思えないのです」
窓から射《さ》しこむ夕日の影《かげ》のような声だった。
暮《く》れゆく日を哀《かな》しみながら、夜の訪《おとず》れを冷静に告《つ》げていた。
「あなたさまが神であり、わたくしたちが国を治《おさ》めることが滅《ほろ》びへの道であるとおっしゃるなら、どうか、わたくしたちに、それを証明《しょうめい》してみせてください。
四月《よつき》後の(建国《けんこく》ノ夜明け)の祝《いわ》い日に、雌雄《しゆう》を決しましょう。
わたくしたちは、この国が始まったという、あの|降臨の野《タハイ・アゼ》にて、あなたさまを待っております。精鋭《せいえい》の闘蛇《とうだ》部隊をずらりと並べ、あなたさまのおっしゃる穢《けが》れたる部隊───わたくしに言わせれば、我《わ》が国の真実《しんじつ》を象徴《しょうちょう》している部隊を並《なら》べて、待っております。
神が、まことに、あなたさまの行為《こうい》を祝福《しゅくふく》し、守っておられるのなら、わたくしたちの穢《けが》れた闘蛇は、神話にあるがごとく、あなたさまの神威《しんい》に撃《う》たれて、頭《こうべ》を垂《た》れるでしょう。そういう奇跡《きせき》が起《お》こったなら、わたくしも父も兵を収め、再びあなたさまの臣下《しんか》として、黙々《もくもく》と我《わ》が身《み》を血にまみれさせて、生きつづけましょう。……しかし───」
青ざめているセィミヤの、長く心に抱《いだ》いてきた面影《おもかげ》をそのままに残しているセィミヤの顔を見ながら、シュナンは、深く息を吸《す》って、続けた。
「そういう奇跡が起きないときは、どうか、セィミヤさま、民《たみ》のために、その身を、わたくしに捧《ささ》げてください」
セィミヤの瞳《ひとみ》がゆれた。
呆然《ぼうぜん》と、声もなく自分を見つめているセィミヤの目を見ながら、シュナンはゆっくりと頭をさげた。
「わたくしと添《そ》われることを決意されたときは、青い旗を掲《かか》げてください。 ──その旗が揚《あ》がったとき、闘蛇《とうだ》の進軍は、あなたさまの前でとまります」
退去《たいきょ》の許《ゆる》しを請《こ》うこともなく、シュナンはセィミヤに背を向けると、少年兵たちを促《うなが》して、静かに謁見《えっけん》の間《ま》を出ていった。
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[#地付き]2 獣《けもの》の血
カザルムの野のあちこちに、小さな花々が咲《さ》きはじめていた。
風が渡《わた》ると、草の匂《にお》いと花の香《かお》りがふわっと立ちのぼってくる。
アルとエクは小さな池で水浴びをしていたが、リランはすこし離《はな》れた草地で、しきりに黄色いキマの花を食《は》んでいる。腹に寄生《きせい》する虫を下《くだ》してくれるこの花を、この時期、王獣《おうじゅう》たちは、よく口にする。誰《だれ》に教《おそ》わったわけでもなく、この花を食むリランを見るたびに、エリンは、生き物が生来《せいらい》持っている知識《ちしき》の不思議《ふしぎ》さを思わずにはいられなかった。
ぼんやりと、リランをながめていると、ブチン、ブチンと音をたてて花を噛《か》みちぎっていたリランが、ふいに顔をあげ、鼻面《はなづら》にしわを寄《よ》せて唸《うな》りはじめた。
驚《おどろ》いて、リランが見ているほうに目をやると、丘《おか》の下から、馬に乗った三人の男たちがこちらへ登ってくるのが見えた。なだらかな丘なので、かなりの速さで進んでくる。
その男たちの背後を、数人の教導師《きょうどうし》が徒歩《とほ》で追《お》ってきているのが小さく見えた。エサルの白髪頭《しらがあたま》も見える。騎馬《きば》の男たちは、徒歩のエサルたちをどんどん引《ひ》き離《はな》して、こちらに近づいてくる。
リランの唸《うな》り声《ごえ》が、はっきりとした警戒音《けいかいおん》に変わった。
エリンは、手をあげてリランを抑《おさ》えてから、リランのそばを離《はな》れて、その男たちのほうへ歩きだした。
近づいてくる男たちは、皆《みな》、王獣《おうじゅう》を扱《あつか》う獣使《けものつか》いの服装《ふくそう》をしていた。見知らぬ男たちだったが、襟《えり》に縫《ぬ》いとられている紋章《もんしょう》を見て、エリンは、彼らが誰《だれ》であるか悟《さと》った。
先頭にいた年配《ねんぱい》の男が馬から降《お》りると、ほかの男たちも馬から降りて、エリンをとりまいた。三人の男たちは、油断《ゆだん》のない目つきでリランを見ながら、手で音無し笛をもてあそんでいる。
年配の男が、無遠慮《ぶえんりょ》な目で、エリンをながめるように見下ろした。
「お初にお目にかかる。わたしは、ラザル王獣《おうじゅう》|保護場《ほごじょう》の長《おさ》、オウリと申します」
目つきとは対照的《たいしょうてき》に、慇懃《いんぎん》な仕草《しぐさ》でオウリはお辞儀《じぎ》をした。
エリンは、お辞儀を返してから、低い声で尋《たず》ねた。
「お初にお目にかかります。わたくしに、なにかご用でしょうか」
答えるまでに、わずかに間があった。顎《あご》に力が入って盛《も》りあがり、首が赤くなっている。エリンは、ふと、昔、市《いち》で見た闘犬《とうけん》の姿を思いだした。噛《か》みつきたくてしかたがないのに、主人に抑《おさ》えつけられ、身をふるわせていた闘犬を。
「あなたを、お迎《むか》えにあがりました」
喉《のど》から押《お》しだすように、オウリは言った。
「もったいなくも、真王《ヨジェ》セィミヤ陛下じきじきのお達しでございます。
先代の真王《ヨジェ》を救《すく》った功績《こうせき》を称《たた》え、あなたを我《わ》がラザル王獣《おうじゅう》保護場の長《おさ》にお迎えせよと仰《おお》せつかりました。あなたが育てた王獣たちとともにすみやかにラザルに移り、王宮の警護に努めよとのことでございます」
心ノ臓に、痛みが走った。
真王《ヨジェ》ハルミヤが崩御《ほうぎょ》されたと聞いたときから、こういう日が来るのではないかと思っていた。
浅く息を吸って、エリンは、細い声を出した。
「……もったいないお達しでございますが、ご辞退《じたい》申しあげます」
男たちは、表情を変えなかった。
自分がこう答えることを予期していたのだ、とエリンは悟《さと》った。
それを裏づけるように、オウリは冷《ひ》ややかな口調《くちょう》で言った。
「辞退されることは許さぬとの、お達しでございます。 ──あなたが、このありがたいご命令に従《したが》わなかった場合は、拘束《こうそく》してでも、王宮へお連れするようにと申しつかっております」
エリンにロを開く間も与《あた》えず、オウリの背後に立っていた男たちがとびだしてきて、両脇《りょうわき》からエリンの腕《うで》をつかんだ。
オウリは、かすかに笑《え》みを浮《う》かべて言った。
「……あなたのお仲間は皆《みな》、あなたより、素直《すなお》でしたよ」
エリンはオウリを見つめた。腕をつかんでいる男たちは必要以上に力を入れていたが、エリンはもがく気などなかった。
「───皆に、なにを言ったのですか」
「真王《ヨジェ》のご意思で、我らがこちらへまいったことを、お伝えしただけです」
卑《いや》しい顔だ、とエリンは思った。自分の腹を炙《あぶ》っている怒りをなだめるために、エリンをなぶりたくて、しかたがないのだろう。エリンに職を奪《うば》われて激怒《げきど》しているのに、それを素直に出して、将来、己《おのれ》の立場に傷がつくのを恐《おそ》れている。そのくせ慇懃《いんぎん》で通すこともできず、遠まわしにいじめずにはいられない。
冷たく重いなにかが胸の底に沈《しず》み、エリンは身体《からだ》の力を抜《ぬ》いた。
この男を相手に、これ以上話す気がなくなっていた。
ずっと、リランは警戒音《けいかいおん》をたてつづけていたが、その音はしだいしだいに高まって、いまでは、これまで聞いたことがないほど太い、轟《とど》くような威嚇《いかく》鳴きに変わっていた。
エリンの腕を押《お》さえている獣便《けものつか》いたちは、その鳴き声の変化を感じとるや、首にかけている音無し笛を片手でつまみあげて、口もとにあてた。
それを見た瞬間《しゅんかん》、エリンの胸に冷《つめ》たいものが走った。この距離《きょり》では、リランだけでなく、アルも硬直《こうちょく》してしまう。
「───吹《ふ》かないでください!」
叫《さけ》ぶや、エリンは身体《からだ》を思いきりねじった。リランのほうに気をとられていた男たちは、ふいをつかれてよろめき、一人が、口にあてていた音無し笛をとり落とした。
そのあとに起きたことは、まさに、一瞬《いっしゅん》の出来事だった。
黒い風のようなものが吹《ふ》き寄《よ》せてきた刹那《せつな》、ガツンッと硬《かた》いものが噛《か》み合《あ》わされる音とともに、音無し笛を吹こうとしていた男の手が消えた。
音無し笛を口にあてていた手と、唇《くちびる》と鼻が噛《か》み裂《さ》かれ、男の手首から血が噴《ふ》きだした。血まみれの唇をまくりあげて牙《きば》を剥《む》きだし、リランは、噛《か》みちぎった男の腕《うで》を、バリバリと音をたてて咀嚼《そしゃく》している。
あまりにもすさまじい光景《こうけい》に頭が痺《しび》れ、目の前で起きていることが信じられず、エリンも男たちも、凍《こお》りついたように呆然《ぼうぜん》と、自分たちにおおいかぶさるように聳《そび》え立っている王獣《おうじゅう》を見上げていた。
手を噛みちぎられた男が、ふいに、のけぞって、吹《ふ》きあげるように悲鳴《ひめい》をあげた。
その声を聞いた瞬間《しゅんかん》、エリンの脇《わき》にいた男が、はじかれたように跳《と》びあがり、踵《きびす》を返すや、必死に駆《か》けだした。その動きにそそられたのだろう、リランが、地を蹴《け》って舞《ま》いあがった。
悪夢を見ているようだった。
エリンは無我夢中《むがむちゅう》で駆けだし、逃《に》げきれずにひっくり返った男におおいかぶきり、舞《ま》いおりてくるリランに向かって叫《さけ》びながら、手をふった。
「やめて! リラン! やめて!」
血に酔《よ》って牙《きば》を剥《む》きだしているリランは、目の前で手がふられた瞬間《しゅんかん》、反射的《はんしゃてき》に首をふるようにして、噛《か》みついた。
自分の左手の骨《ほね》が砕《くだ》ける音を、エリンは聞いた。一|拍《ぱく》おいて、すさまじい痛《いた》みが手から全身を貫《つらぬ》いた。
興奮し、唸《うな》りながら、牙《きば》を剥《む》いたリランの顔が迫《せま》ってくる。リランのロから、唾《つば》とともに噛み砕いた手の骨と血の泡《あわ》が顔にかかり、エリンは、自分の死を感じた。
無意識《むいしき》に首にあてた手に、なにかが触《ふ》れた。それが、なんであるかを悟《さと》った瞬間《しゅんかん》、目の奥《おく》に光が走った。
エリンは首にさげている音無し笛をひっぱりだすや、口にあてて、吹《ふ》いた。
音が消えた。
牙《きば》を剥《む》きだしたまま、彫像《ちょうぞう》のように硬直《こうちょく》しているリランの巨大《きょだい》な顔を見つめて、エリンは肩《かた》で息をしていた。
左手の激痛《げきつう》も、血が噴出《ふんしゅつ》していることも、感じてはいるのだが、どこか遠いところに自分の身体《からだ》があるようで、意識にのぼってこない。
駆《か》け寄ってきた誰《だれ》かが、自分を押《お》しのけて、倒《たお》れている男をリランの翼《つばさ》の下からひきずりだすのをぼんやりと見ていた記憶《きおく》を最後に、エリンは闇《やみ》の中に落ちた。
高熱と、熱っぽい痛《いた》みに苛《さいな》まれて、ひと晩中、エリンは悪夢にうなされつづけた。
二日後の朝、目をさましたときには、熱はひいていたが、身体が抜《ぬ》け殻《がら》になってしまったようで、全身が頼《たよ》りなく、だるかった。
エリンが目をあけたのに気づいて、寝台《しんだい》の脇《わき》に座《すわ》っていたエサルが立ちあがった。
「……気がついた?」
ぼんやりとエサルを見上げて、エリンは、かすかに、うなずいた。
目がさめてくるにつれて、左手の痛《いた》みが激《はげ》しくなった。その痛みが、悪夢のような記憶《きおく》を、一気に、脳裏《のうり》によみがえらせた。
胸が苦《くる》しくなるような恐怖《きょうふ》に襲《おそ》われて、エリンは口を開いた。
「……あの、人は……」
かすれた、小さな声しか出なかったが、エサルは察《さっ》してくれた。
「安心なさい、命はとりとめたわ。 ──死んだ者はいないから、それだけは、神々に感謝《かんしゃ》なさい」
その言葉が胸に落ちたとたん、ぼんやりとした霞《かすみ》の底から熱いものがこみあげてきて、涙《なみだ》があふれた。
あのラザルから来た王獣《おうじゅう》使いたちは、リランが幼獣《ようじゅう》だったころ、真王《ヨジェ》の御前《ごぜん》に引きだした男たちであった。あの男たちに音無し笛を吹《ふ》かれた記憶《きおく》が、リランの心の中には刻まれていたのだろう。それに、あの男たちに引きだされた王宮の庭で、リランは矢を射《い》られたのだった。
リランは興奮《こうふん》しているので、王獣舎《おうじゅうしゃ》の中に鎖《くさり》でつながれ、隔離《かくり》されていること。大怪我《おおけが》をした男は、隣室《りんしつ》で手厚い介護《かいご》を受けていること。エリンの左手は、小指から中指まで食いちぎられ、縫《ぬ》い合《あ》わせてはあるが、左手を使えるようになるかどうかは微妙《びみょう》だということ。 ──そういうことを、エサルは、淡々《たんたん》と話してくれた。
その声は聞こえていたが、言葉の意味は、ぼんやりとしか頭に伝わってこなかった。
心の中に、黒々とした重苦しいものが広がっていて、その重さしか感じられない。
目の奥《おく》に、くり返しくり返し、自分が身をよじり、男が音無し笛をとり落とす光景がよみがえってくる。黒い風のようにおおいかぶきってきたリランと、骨ごと手を噛《か》みちぎる音が、骨が砕《くだ》けた感覚《かんかく》が、男の絶叫《ぜっきょう》が…‥。
目をつぶっても、目をあけていても、同じ光景《こうけい》と音と痛《いた》みが脳裏《のうり》に再生されて、その悪夢のくり返しから、解放《かいほう》されることはなかった。
目をさました日から、三日後の夜明け、エリンはぼんやりと、夜半から降《ふ》りだした雨の音を聞いていた。
静かな雨の音を聞くうちに、ひんやりとした思考《しこう》が頭に広がった。
(──リランは、わたしの手を、食べた……)
あっというまに手を食いちぎった。ためらうこともなく、あっさりと。
これほど長く、ともに生きてきた者を食うことができる。獣《けもの》の思考《しこう》とは、なんと不可解《ふかかい》なのだろう。
人の考え方を投影《とうえい》して、獣の心をわかったつもりになってはいけなかったのだ。自分と同じように思考していると思ううちに、いつのまにか獣の不可解さが見えなくなり、よくわかる生き物のように思いこんでしまっていた。
あのとき、リランは尋常《じんじょう》ではない声をあげていたのに、それを気にもしなかった。
その甘《あま》さと倣慢《ごうまん》さが、この惨事《さんじ》を引き起こしたのだ。
自分が犯《おか》してしまったことは、二度ととり返しはつかない。祈《いの》ろうと、泣《な》き喚《わめ》こうと、けっして、とり返しはつかない……。
腕《うで》と鼻と唇《くちびる》を噛《か》みちぎられたあの人は、いま、この瞬間《しゅんかん》も、すさまじい痛《いた》みを味わっているのだろう。そして、傷ついた身体《からだ》は、二度ともとにはもどらない。あの人は片手をなくし、鼻と唇をなくしたまま、これからの人生を送らねばならないのだ……。
息が苦しくなって、エリンは目をつぶり、ロをあけ、魚のように喘《あえ》いだ。
自分の息の音も、絶え間なく屋根を打つ雨の音も聞こえず、ただ、傷ついた男の悲鳴《ひめい》だけが、頭の中に鳴《な》り響《ひび》いていた。
*
エリンが起きあがれるようになったのは、七日後だった。
立ちあがれるようになるとすぐに、エリンは隣室《りんしつ》で手当てを受けている男を見舞《みま》った。謝罪《しゃざい》の言葉とともに、かつて真王《ヨジェ》から賜《たまわ》った報奨金《ほうしょうきん》のすべてを、今後の生活の足しにと、傷ついた男に渡《わた》したが、ラザルの獣使《けものつか》いたちは、侘《わ》びの言葉を無言で聞き流し、冷ややかな目で睨《にら》みつけるだけだった。
憎《にく》しみと侮蔑《ぶべつ》を浮《う》かべた彼らの目にさらされながら、エリンは頭をさげた。
「……その怪我《けが》が完治《かんち》するのを」
ふいに、ラザルの長《おさ》であるオウリが口を開いた。
「待っている暇《ひま》はない。半月以内に王獣《おうじゅう》ともども王宮へ移動するから、そのおつもりで」
エリンは無言で頭をさげ、踵《きびす》を返して、部屋を出た。
廊下《ろうか》で待っていたエサルが、すっと歩み寄ってきた。
「あなた、大丈夫《だいじょうぶ》?」
エリンは、うなずいた。
「……リランの様子を見たいのですが」
エサルは、しばらく黙《だま》ってエリンを見上げていたが、やがて、うなずいた。
廊下をゆっくりと歩きながら、エサルは、ふと思いだしたように懐《ふところ》に手を入れて、音無し笛をとりだした。差《さ》しだされたそれを、エリンは受けとり、首からかけた。
王獣舎《おうじゅうしゃ》の中は、薄暗《うすぐら》く、むっと糞尿《ふんにょう》の臭《にお》いが漂《ただよ》ってきた。
エリンが入っていくと、リランがむっくりと顔を持ちあげたが、いつものように甘《あま》え声《ごえ》をあげることもなく、フッ、フッと荒《あら》く息をついているだけだった。
獣《けもの》|臭《きさ》い臭《にお》いが漂ってくる。金色の目が、柵《さく》の向こうから、うかがうように、こちらを見ていた。胸もとは、激《はげ》しい身食《みぐ》いで体毛《たいもう》がはげて、血がにじんでいる。
「鎖《くさり》は外したのだけれど、扉《とびら》を開いても、外へ出ていかないのよ。掃除《そうじ》ができないから、こんな状態《じょうたい》のままでおいておくしかなくてね」
エリンは答えなかった。 ──エサルの声が、耳に入ってこなかったのだ。
金色の目で自分を見ているリランを見たとたん、牙《きば》を剥《む》きだして迫《せま》ってきた顔の記憶《きおく》が脳裏《のうり》にひらめき、腕《うで》を吊《つ》っている三角巾《さんかくきん》の中で、左手が、びくっと跳《は》ねた。
エリンは、浅く息を吸《す》い、こみあげてきた胴《どう》ぶるいをこらえようとした。
「エリン」
エサルに腕を握《にぎ》られて、エリンは、はっと我《われ》に返った。
冷《ひ》や汗《あせ》が全身を伝っている。
エリンは呆然《ぼうぜん》とエサルの顔を見ながら、ゆれている視野《しや》がおさまってくるのを待った。
頭が痺《しび》れて、なにも考えられない。恐怖《きょうふ》を抑《おさ》えるので、精一杯《せいいっぱい》だった。
「今日は、見るだけにしておきなさい。このあとのことは、もうすこし落ちついてからにしましょう」
そう言って、エサルはゆっくりとエリンの手を引き、王獣舎《おうじゅうしゃ》の出口へ導《みちび》こうとした。
そのとき、低く、問いかけるような唸《うな》りが聞こえてきた。
エリンは立ちどまり、リランを見上げた。はるか天井《てんじょう》近くまで頭が届《とど》くほど、黒々とそそり立っているその巨体《きょたい》が、いまにも柵《さく》を壊《こわ》して、追《お》ってきそうな気がした。
顔がこわばって、汗《あせ》が噴《ふ》きだし、こめかみを流れていく。
痺《しび》れた頭に、ふいに、このまま王獣舎を出てはいけない、という思いが浮《う》かんだ。いまリランと対峙《たいじ》することから逃《に》げたら、二度と再び、向《む》かい合うことはできないだろう。
「……扉《とびら》を」
エリンは、つぶやいた。
「あけてください」
エサルは眉《まゆ》をひそめ、探《さぐ》るようにエリンを見たが、ややあって、うなずくと、外へ出ていった。
滑車《かっしゃ》が稼動《かどう》する音がして、リランの背側の壁《かべ》が分かれていくと、王獣舎《おうじゅうしゃ》の中がさあっと明るくなった。リランは、屋外《おくがい》に顔を向《む》け、まぶしそうに目を細めた。
「……外へ出て、リラン」
エリンが言うと、リランは、エリンをふり返り、じっと、うかがうようにエリンを見つめた。
「掃除《そうじ》をするから、外へ出て」
努《つと》めて、いつもと同じ口調《くちょう》で言ったが、リランは動かない。
その目が、じっと、首からさげている音無し笛を見つめていることに気づいて、エリンは、手をあげて、音無し笛をつまんだ。
とたんに、リランの首筋の毛が逆立《さかだ》った。牙《きば》をわずかに見せて唸《うな》りはじめたリランを、エリンはきつい声で叱《しか》った。
「唸《うな》るのを、やめなさい!」
リランは、唸るのをやめなかった。ぐうっと威嚇《いかく》するように牙《きば》を剥《む》きだし、いよいよ太い声で唸りはじめた。
自分を脅《おど》しているのだ、と気づいたとたん、怒《いか》りがこみあげてきた。
エリンはリランを睨《にら》みつけ、音無し笛を持ちあげて、唇《くちびる》につけた。
威嚇《いかく》の唸《うな》り声が一層高くなった。全身の体毛《たいもう》を逆立《さかだ》てたリランに、エリンは怒鳴《どな》った。
「やめなさい! ──やめなければ、吹《ふ》くわよ」
息を吸《す》った瞬間《しゅんかん》、リランの唸り声がぷっつりとやんだ。
激《はげ》しい緊張感《きんちょうかん》の中で、エリンとリランは、微動《びどう》だにせず、睨《にら》み合《あ》った。
ひたっと目を見つめ合ううちに、リランの瞳《ひとみ》が落ちつきなくゆれはじめ、やがて、すっと逸《そ》れた。
その瞬間《しゅんかん》を逃《の》さず、エリンは、低い声で命じた。
「……外へ出なさい」
なにかをふりはらうかのように、二、三度、翼《つぎさ》をはばたかせてから、リランはゆっくりと翼をたたんで、外へ出ていった。
白い光の中に、その姿が溶《と》けていくのを見ながら、エリンは、浅く息を吸《す》った。
目をつぶると、涙《なみだ》がにじみでてきた。
エサルが、肘《ひじ》のあたりを静かにつかむのを感じながら、エリンはうつむき、右手で顔をおおった。
それから二十日後の朝、リランとエク、そしてアルに眠《ねむ》り薬《ぐすり》が与《あた》えられた。昏睡《こんすい》しているあいだに、リランは鎖《くされ》につながれ、王獣用《おうじゅうよう》の荷車に収容され、エクとアルも別々に荷車に乗せられた。その作業が終わると、エリンは、オウリとともに馬車に乗った。
馬車が学舎《がくしゃ》の門にさしかかったとき、窓から、ちらっと、心配そうにこちらを見ているエサルたちと、学童《がくどう》たちの顔が見えた。
鞭《むち》の音とともに馬車は速度をあげ、その光景はあっというまに背後に消えた。
まぶしい初夏の日射《ひざ》しが、さっと馬車の中に射《さ》しこんできた。はるかに広がるカザルム高地の草地に、雲の影《かげ》が落ちている。
どこまでも冴《さ》えた青い空と、王獣たちが点々と日向《ひなた》ぼっこをしている草原が、背後へと消えていく。
ジョウンに連れられて、この高地に来て、七年。
ユーヤンたちと過《す》ごした日々───この高地で暮《く》らした幸せな春秋《しゅんじゅう》が遠ざかっていく。
エリンは目を閉じ、うつむいて、馬車の揺《ゆ》れに身を任《まか》せていた。
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[#地付き]3 ダミヤの命令
カザルムから船で河を下り、王都《おうと》へ向かった旅のあいだのことを、エリンはほとんど覚えていない。これからのことが頭の中を絶《た》えず駆《か》けめぐっていて、風景を見ていても、それが心に泌《し》みこむことがなかった。
王都につくと、まず、ラザル王獣《おうじゅう》|保護場《ほごじょう》へ連れていかれて、リランたちは、そこの王獣舎《おうじゅうしゃ》に収容《しゅうよう》された。エリンは、リランたちに餌《えさ》をやることも許《ゆる》されず、ひとつの部屋に閉じこめられた。食事も寝具《しんぐ》も豪華《ごうか》だったが、戸の外には監視《かんし》する者が立っており、自由に外に出ることも許されなかった。
翌日は、朝から雨が降《ふ》っていた。初夏とはいえ、雨が降ると肌寒《はだざむ》さを感じる。その薄暗《うすぐら》い雨の中を、エリンは王宮へと連れていかれた。
王宮を囲《かこ》む森は、久しぶりの雨に息を吹《ふ》き返し、木々の葉が雨粒《あまつぶ》に打たれるたびに手招《てまね》きするように躍《おど》って、絶え間なく、さんざめいている。木々の木肌《きはだ》の匂《にお》いと、土の匂い、緑葉の青臭《あおくさ》い匂いなどに包まれて道を歩むうちに、すうっと心がしずまってきた。
やがて、目の前に、古びた王宮が卒然と姿を現した。雨にけぶる王宮は、千年もそこにあったかのような佇《たたず》まいであった。王宮の中で、館《やかた》がどのように配置されているかなど知らないエリンには、わかりようもなかったが、渡《わた》り廊下《ろうか》をいくつもまわって通された館は、真王《ヨジェ》がおわす館ではなく、ダミヤの館であった。そのことを、エリンは、奥《おく》の間の扉《とびら》があいたときに悟《さと》った。
広い部屋の奥、一段高くなった座に、ダミヤが、ゆったりと腰《こし》をおろして、入ってくるエリンを見ていた。
ここまで案内してきた者がエリンを残して退室すると、エリンは、ダミヤと二人きりになった。
雨の音が、サー……と、かすかな響《ひび》きとなって部屋を包んでいる。
エリンがあまりにも面《おも》やつれしていることに驚《おどろ》いたのだろう。ダミヤは眉《まゆ》をひそめて、問いかけた。
「……傷の具合は、どうだね」
エリンはかすかに頭をさげた。
「もう、さほど痛みません」
「そうか。それでも、ずいぶん顔色が悪いな。その椅子《いす》に座《すわ》りなさい」
エリンが椅子に座るのを見届《みとど》けると、ダミヤは、静かな声で言った。
「一瞬《いっしゅん》の出来事だったそうだな。馴《な》れているとはいえ、王獣《おうじゅう》は王獣。恐《おそ》ろしい事故が起きてしまったものだが、オウリの話では、そなたは手を食われたのに、その恐怖《きょうふ》に負《ま》けることもなく、いまも、あの王獣をみごとに制御《せいぎょ》しているとか」
エリンは首をふった。
「……以前のような親しみは、もう、わたくしたちのあいだにはありません。わたくしはもう、音無し笛を手に持たずに、リランたちに向《む》かい合う気にはなれません」
ダミヤは微笑《ほほえ》んだ。
「それでも、そなたの言葉に、王獣たちは従《したが》っているそうではないか。 ──大切なのは、その事実だ」
そう言って、ダミヤはちょっと身を乗りだした。
「大公《アルハン》の息子《むすこ》が、王宮を訪《おとず》れた話は、聞いているかね」
エリンが首をふると、ダミヤは唇《くちびる》の端《はし》を持ちあげた。
「あの男は、身のほど知らずにも、真王《ヨジェ》に身を捧《ささ》げよと言いにきたのだよ」
なにが起きたのかを説明するダミヤの口調《くちょう》には緊張感《きんちょうかん》はなく、どこか事態《じたい》を面白《おもしろ》がっているような響《ひび》きがあった。
「……そういうわけで、あとふた月もすれば、真王《ヨジェ》は、|降臨の野《タハイ・アゼ》にて、大公《アルハン》の率《ひき》いる闘蛇《とうだ》部隊と向《む》かい合う。王祖がこの野に降臨《こうりん》されたときのように、闘蛇が、神威《しんい》にうたれて真王《ヨジェ》の前に頭《こうべ》を垂《た》れれば、真王《ヨジェ》を真の神と認《みと》め、大公《アルハン》は降伏《こうふく》するそうだ。
だが、奇跡《きせき》が起《お》きぬときは、闘蛇《とうだ》は野を直進し、真王《ヨジェ》を食い殺す。その運命から逃《のが》れたければ、大公《アルハン》の息子《むすこ》に真王《ヨジェ》を娶《めと》らせよと言うのだ」
笑《え》みを浮《う》かべて、ダミヤはエリンを見ていた。
「この国がこういう事態《じたい》に至《いた》ったまさにそのときに、そなたがここにいる。 神々の釆配《さいはい》というものは、みごとなものだな」
エリンは答えなかった。ダミヤも、答えは望んでいなかった。
「怪我《けが》をしているそなたに、きついことは言いたくないがな、エリン、神々のご意思にそむいてみるかね? その道を選ぶなら、わたしは、そなたを、生きながら地獄《じごく》に落としてやろう。
そなたは、欲では動かぬ娘《むすめ》だ。だが、真王《ヨジェ》が闘蛇に食われるのを見ていられなかったように、口ではなんと言おうと、情を捨《す》てることはできぬ娘だ。
わたしは、あれから手を尽《つ》くして調べたよ。そなたが誰《だれ》を大事に思っているか。そなたが、どんなふうに王獣《おうじゅう》と関《かか》わってきたか。 ──すべてを」
ダミヤは窓のほうに顔を向け、降りしきる雨をながめながら、言った。
「エサルは、すでに捕《とら》えてある。それで足りぬなら、そなたの親友という娘も捕えてきてもよい。目の前で彼女らが処刑《しょけい》されるのを、そなたが見ていられるかどうか、わたしはぜひ、知りたい。……人が、そこまで己《おのれ》の意思を大切にできるものかを。
このたびは、真王《ヨジェ》への目通《めどお》りは許《ゆる》さぬ。そなたをかばってくれる者はおらぬ」
低い耳鳴《みみな》りがしていた。エリンは微動《びどう》だにせずに、うつむいていた。
こう言われるであろうことは、わかっていた。それでもなお、胸の底に広がっている痛みは、消えなかった。
たとえ誰《だれ》を殺されても意思を変えることはないとハルミヤに告げたのは、本心だった。けれど、ハルミヤであればわかってくれるのではないかと思えたからこそ、言えた言葉でもあった。
ダミヤは、言ったとおりに実行するだろう。
エリンは目を閉じた。
エサルの命と、災《わざわ》いの扉《とびら》をあけてしまったあとに失われるであろう多くの命。数で考えるなら、エサルの命は必要な犠牲《ぎせい》として捨《す》てるべきなのかもしれない。
しかし、そんなことを、できるはずがなかった。
目をあけると、ダミヤの視線《しせん》とぶつかった。
ダミヤは、静かな声で言った。
「そなたが、なにゆえ王獣《おうじゅう》にて神聖《しんせい》なる王権を守ることを拒《こば》むのか、その真意は知らぬ。そなたは、わたしには語ってくれなかったからな。
だが、王獣《おうじゅう》を戦《いくさ》の道具にされることを恐《おそ》れているのなら、そなたの考えは、浅《あさ》すぎる」
ゆっくりと立ちあがり、ダミヤは、エリンのそばまで歩み寄った。
「この国の歪《ひず》みは、均衡《きんこう》が崩《くず》れていることで生じているのだ。大公《アルハン》の武力と、我《われ》らの権威《けんい》との釣《つ》り合《あ》いがとれなくなったことで、雪崩《なだれ》が起《お》きたように、片方が押《お》しっぶされて、崩《くず》れ去ろうとしている」
落ちついた口調《くちょう》で、ダミヤは言った。
「わたしは、一方が強大になりすぎたために崩れようとしている均衡《きんこう》を、もとにもどしたいと思っているだけだ。同じ国の中で、民《たみ》と民が殺し合う戦《いくさ》を回避《かいひ》する方法は、それしかない。それとも、そなたはほかに、なにか方法があると思うかね?」
エリンは、ロを開いた。
唇《くちびる》がこわばっていて、うまく動かなかった。
「……わたくしが、リランを飛ばして真王《ヨジェ》をお守りしたら、それで奇跡《きせき》が起きたと思うほど、大公《アルハン》は愚《おろ》かでしょうか」
ダミヤの目が、わずかに大きくなった。
つぶやくように、エリンは続けた。
「その瞬間《しゅんかん》は、感銘《かんめい》を受けて、兵を退《ひ》かれるかもしれません。でも、時がたって、冷静《けいせい》になれば、必《かなら》ずまた同じ問題が起きてくるはずです。この国の病根《びょうこん》は、たった一回の鮮《あざ》やかな奇跡《きせき》などで消え去るようなものではないでしょう。歪《ひず》みの原因が消えないかぎり、分裂《ぶんれつ》の根は消えませんから。
それに、リランを使うことで、武力《ぶりょく》の均衡《きんこう》がもどるとは思えません。 ──一頭の王獣《おうじゅう》にそんな力があるはずがないでしょう」
ダミヤは、まじまじとエリンを見つめた。
「……驚《おどろ》いたな」
ぽつんとつぶやいて、ダミヤは口調《くちょう》を変えた。
「鋭《するど》い娘《むすめ》だな、そなたは。……そなたがこれほど深く事態《じたい》を見抜《みぬ》いているなら、わたしも率直《そっちょく》に話そう。
わたしは、王獣によって大公《アルハン》を滅《ほろ》ぼそうなどとは考えてもいないよ。そなたが言うように、そんなことは、現実的ではない。そなたは、自分が育《そだ》てた王獣でなくとも操《あやつ》ることができるそうだが……」
エリンが、はっと視線《しせん》をゆらしたのを見て、ダミヤは微笑《ほほえ》んだ。
「言っただろう? 調べたと。 ──それはともかく、たとえ、そなたが多くの王獣を操《あやつ》れるとしても、たった一人、そなただけに指揮《しき》をさせたのでは、大公《アルハン》の抱《かか》える闘蛇《とうだ》部隊を殲滅《せんめつ》させることなどできはしない。
だが、いまは、それでいいのだよ。|降臨の野《タハイ・アゼ》で奇跡《きせき》が起《お》きれば、大公《アルハン》は誓《ちか》いを守らざるをえない。それだけで、流れは大きく変わる。
この危機《きき》をのりこえることができさえすれば、そなたがほかの者たちを指導《しどう》して、強固《きょうこ》な王獣《おうじゅう》|部隊《ぶたい》を形成《けいせい》する時間を得《え》られるからな。闘蛇《とうだ》部隊に対して、王獣部隊。素晴《すば》らしい均衡《きんこう》だと思わないか?」
エリンは、わずかに口をあけて、ダミヤを見ていた。耳鳴りが、いつしか消えていた。
「無論《むろん》、王獣部隊は無闇《むやみ》に殺生《せっしょう》するためにつくるのではない。実際に、使うことはないかもしれない。考えてごらん。ただ、それがあるというだけで、大公《アルハン》を抑《おさ》える力を我《われ》らは持つことができるのだから」
エリンは、うつむいて、ダミヤの胸《むな》もとをぼんやりと見ていた。
(王獣《おうじゅう》で闘蛇《とうだ》を制御《せいぎょ》する。 ──音無し笛で、王獣を制御するように……)
なるほど、人という生き物は、こういうふうに思考するのだな───そう思ったとき、これまで心を重く締《し》めつけていたものが、砂のように崩《くず》れ、代《か》わりに、味気《あじけ》ない、冷《ひ》え冷えとしたものが心に広がっていった。
これから、どうすればよいのかも、わかった。しかし、それをすることに、一片《いっぺん》の熱意《ねつい》も感じられなかった。
うつむいたまま、エリンは、つぶやいた。
「残念《ざんねん》ながら、それは無理《むり》です」
ダミヤが、すっと顔をこわばらせた。
「なに?」
「……王獣《おうじゅう》を操《あやつ》る技《わざ》は、わたくしにしか、できませんから」
エリンがロを閉じると、雨の音がもどってきた。
しばらく、二人は黙《だま》って、雨の音を聞いていた。
やがて、ダミヤがゆっくりと首をふった。
「それを、わたしに信じろと言うのかね」
エリンは、静かな声で答えた。
「はい。お疑《うたが》いなら、証明《しょうめい》してみせましょう」
ダミヤの目が、わずかに大きくなった。
「証明?」
「ええ。王獣を扱《あつか》い慣《な》れている獣使《けものつか》いの方を、雨がやんだらリランのところに連《つ》れてきてください。わたくLがリランを操《あやつ》るのと同じ方法をその方に教えますから、やってみればよいでしょう。
リランでは、わたくしに馴《な》れすぎているとお思いなら、別の王獣でもかまいません。もし、王獣を操《あやつ》ることが、誰《だれ》にでもできるような技《わざ》であるなら、同じ音を響《ひび》かせれば、どの王獣も同じ反応《はんのう》を示《しめ》すはずです」
ダミヤは無言《むごん》でエリンを見つめた。エリンは力むこともなく、茫洋《ぼうよう》としたまなざしで、ダミヤを見ていた。
やがて、ダミヤが肩《かた》をすくめた。
「よろしい。やってみよう」
ダミヤが手を叩《たた》くと、扉《とびら》があいて、侍従《じじゅう》が現れた。
「この娘《むすめ》を(花ノ間)へ案内《あんない》せよ。湯浴《ゆあ》みや食事をさせ、ゆっくりと休めるように心がけよ」
侍従は一礼して、エリンが来るのを待ったが、エリンは動かなかった。
「……お願いが、ふたつ、ございます」
「なんだね?」
「エサル師を、一刻《いっこく》も早く解放《かいほう》してください。地位も名誉《めいよ》も、なにひとつ、傷《きず》つけないでください」
ダミヤはじっとエリンを見つめた。
「それは、わたしの命令に従《したが》うということだね?」
エリンは、うなずき、平淡《へいたん》な声で続けた。
「もうひとつ。リランたちの世話《せわ》を、わたくLにさせてください。ラザルの獣使《けものつか》いが世話をしていますが、彼らが与《あた》えた餌《えさ》は、食べていないはずです」
静かに自分を見上げている、緑色の目を見ながら、ダミヤはうなずいた。
「わかった。そなたが、世話をするがいい」
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[#地付き]4 |魔がさした子《アクン・メ・チャイ》
雨はひと晩中降りつづき、夜明けになってようやくあがった。
王獣《おうじゅう》たちが野に出たのは、日が高くなってからだったが、そのころでも、草地は湿《しめ》り気《け》を残していた。
野に出たリランたちは、カザルムとはちがう土地の匂いに戸惑《とまど》ったように、しきりに大気の匂《にお》いを嗅《か》ぎ、野のあちらこちらに散《ち》らばっている見知らぬ王獣たちの様子を気にしていたが、うららかな初夏の日射《ひざ》しを浴《あ》びているうちに、ゆっくりと警戒心《けいかいしん》を解《と》き、それぞれ気に入った場所に身体《からだ》を落ちつけた。
エリンは、立ちのぼる草いきれに包《つつ》まれて、王獣たちを見ていた。
洗《あら》われたように透明《とうめい》な日の光を浴《あ》びて、リランの体毛《たいもう》がきらきらと輝《かがや》いている。悠然《ゆうぜん》と野に立つその姿を見たとき、はるか昔、初めて野生の王獣を日にしたときのような畏怖《いふ》の念《ねん》が、卒然《そつぜん》と、胸にこみあげてくるのを感じた。
なんと美しく、恐《おそ》ろしい獣《けもの》なのだろう。
(王獣《おうじゅう》は、飼《か》ってはいけない獣《けもの》だ……)
その思いが頭を貫《つらぬ》いた。
王獣は、遠く離《はな》れたところから、畏怖《いふ》しながらながめるべき獣だ。
音無し笛を使わずに、王獣とともに生きられることを願ったけれど、それは、甘《あま》い幻想《げんそう》にすぎなかった。王獣というすさまじい力を持った獣を人が制御《せいぎょ》するには、やはり音無し笛が必要《ひつよう》なのだ。 ──だが、そうやって人に飼われた王獣は、精気《せいき》の失《う》せた抜《ぬ》け殻《がら》になってしまう。
その残酷《ざんこく》さをいくら叫《さけ》んでみても、幼《おさな》いころから人の手で飼《か》われてしまったリランたちは、もはや野で暮《く》らすことはできない生き物になってしまっている。
胸の底から、怒《いか》りがこみあげてきた。
それは、残酷《ざんこく》な無理《むり》を続けていく王族への怒りであり、その無理に異《い》を唱《とな》えることもできず、唯々諾々《いいだくだく》と従《したが》っている自分への怒りでもあった。
野に生まれた獣を、野に生きるように生きさせたい……そう思いつづけていたはずなのに、自分はこんなところで、いったいなにをしているのだろう。
布に厚くおおわれた左手に触《ふ》れながら、エリンは、じっとリランを見つめていた。
*
ダミヤが、|堅き楯《セ・ザン》を一人だけ連《つ》れて、ラザル王獣《おうじゅう》|保護場《ほごじょう》を訪《おとず》れたのは、そろそろ昼になろうとする時刻《じこく》だった。
雲が切れて、初夏の強い日射《ひざ》しが降《ふ》りそそぎ、草原を歩いていると、むっとするような草いきれが、身体《からだ》を押《お》し包《つつ》んでくる。
プーン……と、かぼそい音が聞こえたかと思うと、蚊が耳たぶにとまった。ダミヤが、蚊を叩《たた》くのを見て、案内《あんない》役のオウリが、申《もう》しわけなさそうに言った。
「こんな蚊の多いところへ、わざわざお越《こ》しいただきまして……」
ダミヤは苦笑《くしょう》した。
「そなたのせいで、蚊に食われたわけではない。気にするな」
体毛《たいもう》におおわれた王獣たちは、蚊など気にならないのだろう。ぽつん、ぽつんと、草原全体にちらばって、日向《ひなた》ぼっこをしている。
「………エリンは、あそこでございます」
オウリが指さしたほうを、ダミヤは目を細めてながめた。
カザルムで見た風景《ふうけい》そのままに、王獣の親子が草原にたたずんでいる。そのそばに、小さな人影《ひとかげ》が見えた。
「奇妙《きみょう》な女です。昨夜は、ひと晩中、あの王獣たちにつきっきりでした」
ダミヤは、エリンのほうへ歩きはじめた。
オウリはあわてて、首からさげた音無し笛をつかんで、いつでも吹けるようにしながら、ダミヤのあとを追った。
声が届《とど》くあたりまで行って立ちどまると、ダミヤは大声でエリンを呼《よ》んだ。
「エリン。 ──ここへ、来なさい」
王獣《おうじゅう》たちが、威嚇《いかく》するようにうなじの毛を膨《ふく》らませ、低く唸《うな》りはじめたが、エリンがなにか言うと、彼らの唸り声はすうっと低くなった。
エリンは、あの奇妙《きみょう》な形をした竪琴《たてごと》を、曲《ま》げた左腕《ひだりうで》ではさむように抱《かか》えて、歩いてきた。表情《ひょうじょう》は落ちついているが、昨日よりさらに、顔色が悪かった。
「大丈夫《だいじょうぶ》か」
声をかけると、エリンはいぶかしげにダミヤを見た。
「なにがですか?」
「そなたの体調《たいちょう》だよ。ひどい顔をしている」
エリンの目に苦笑《くしょう》が浮《う》かんだ。
「あまり眠《ねむ》れなかったので。……でも、体調と、王獣を操《あやつ》る技《わざ》は関《かか》わりありませんから。
そちらさえよければ、始めましょう」
そう言って、エリンはオウリに目を向《む》けた。
「あなたが、試《ため》されますか」
オウリの目もとが、こわばった。
「……無理《むり》に、おまえがやることはないのだぞ」
おだやかな声で、ダミヤが言った。
「誰《だれ》か、王獣《おうじゅう》の扱《あつか》いに長《た》けている者がいるなら、その者を連《つ》れてくればよい」
オウリが肩《かた》をすくめた。
「このラザルで、もっとも王獣の扱いに長けているのは、わたくしです。 ──わたくしがやりましょう」
そう言ってから、オウリは、つけくわえた。
「しかし、あの王獣《おうじゅう》たちで試《ため》すのは、いかがかと。あの王獣たちとエリン殿《どの》には、特別な絆《きずな》があるようですから、試すのであれば、エリン殿がこれまで世話《せわ》をしたことのない王獣のほうがよいでしょう」
エリンがうなずいた。
「そうですね。あなたが手塩《てしお》にかけて育《そだ》てた王獣にしましょう。そのほうが、結果《けっか》に信頼性《しんらいせい》があるでしょう。……どの王獣にしますか?」
オウリは、あっさり意見が通ったことに、戸惑《とまど》ったような顔をしたが、すぐに、草原の南側にいる大きな雄《おす》を指で示《しめ》した。
「あのサワンはいかがでしょう。わたくしが育《そだ》てた王獣です。このラザルの王獣の中でも、もっとも姿が美しく、大きな王獣ですよ」
エリンは、オウリが指さした王獣に目をやった。
たしかに、ここにいる王獣《おうじゅう》の中では群《ぐん》を抜《ぬ》いて大きい。しかし、その体毛《たいもう》のつやは、エクの足もとにも及《およ》ばず、リランにも、遠く及ばなかった。
エリンの表情《ひょうじょう》になにを見たのか、オウリのこめかみに青筋《あおすじ》が浮《う》きあがった。
「……ご不満《ふまん》ですかな、ラザルの王獣では」
その声にこめられた憎悪《ぞうお》の深《ふか》さに、エリンは驚《おどろ》いて、オウリを見た。
「べつに、不満など感じていません」
ダミヤがさっと手を伸《の》ばして、エリンの肩《かた》をつかんだ。
突如《とつじょ》、二人のあいだに膨《ふく》れあがった緊張《きんちょう》が、その瞬間《しゅんかん》、途切《とぎ》れた。
「どういうやり方で、やるかね」
落ちついた声で、ダミヤが尋《たず》ねた。
(この人は……)
聡《さと》い人だ、とエリンは思った。
エリンは気をとりなおして、答えた。
「……餌《えさ》をやるための技《わざ》を、この方に教《おし》えましょう」
エリンの言葉の意味がつかめなかったのだろう。ダミヤもオウリも、けげんそうな顔をした。
「餌《えさ》をやる技《わざ》?」
「ええ。音無し笛を使わずに、あの王獣《おうじゅう》に餌《えさ》をやる方法をお見せします」
オウリの顔色が変わった。
「冗談《じょうだん》じゃない。音無し笛なしで、餌をやれるほど、王獣に近づけというのか」
エリンはうなずいた。
オウリは、じっとエリンを見つめた。
「そなた、あれほどの大惨事《だいさんじ》を引き起こしてもなお、そんなことをするつもりか」
エリンは暗い目で、オウリを見つめ返した。
「ええ。……万が一のために、音無し笛をいつでも吹《ふ》けるように、お互《たが》いに守り合えば、あのときのようなことは、起《お》きないでしょう。いかがですか」
オウリはぐっと表情《ひょうじょう》を緊張《きんちょう》させて、しばらく黙《だま》っていたが、やがて、しぶしぶとうなずいた。エリンもうなずいた。
「まず、わたしがやります。わたしが成功《せいこう》したら、どうやるか、あなたに教《おし》えますから、同じ方法で近づいてみてください」
言うや、まるで他人事《ひとごと》のようななにげなさで、エリンは王獣に向かって歩きはじめた。
獣《けもの》は皆《みな》、己《おのれ》の身体《からだ》の周《まわ》りに、意味のある距離《きょり》を持っている。その距離を越《こ》えて近づいてくる者には、特別な意図《いと》を感じるものだ。
一見、無造作《むぞうさ》に歩いているようだったが、エリンはその距離《きょり》を探《さぐ》りながら歩いていた。サワンという王獣《おうじゅう》は、近づいてくるエリンを、じっと見つめている。
あと十歩も近づけばその身に触《ふ》れられる、というあたりで、ふいに、サワンが身を起こし、翼《つばさ》を広げた。
エリンは立ちどまり、静かに一歩足をひいて、サワンに向かい合った。
巨大《きょだい》な王獣《おうじゅう》の目を見たとたん、胃のあたりから胸へと恐怖《きょうふ》がせりあがってきた。恐怖をやりすごすために、エリンは何度か、深く息を吸《す》った。
目に見えぬ大気の壁《かべ》のようなものが、自分とサワンのあいだにあるような気がした。その大気の壁をなでるように、エリンは、竪琴《たてごと》を鳴《な》らしはじめた。王獣が満足しているときにたてる、あの、眠《ねむ》くなるような音だった。
弦《げん》が鳴った瞬間《しゅんかん》、サワンは頭をぐっとひいたが、そのまま動かなくなった。
やがて、サワンの胸から、エリンが鳴《な》らしている音よりはずいぶん高い音が響《ひび》きはじめた。
エリンはほっと肩《かた》の力を抜《ぬ》いた。そして、挨拶《あいさつ》をするように、同じ音を鳴らした。
オウリが、息をのんだ。
竪琴《たてごと》を鳴らしながら、エリンが王獣《おうじゅう》に近づいていく。
触《ふ》れんばかりに近づいて、エリンが餌《えさ》を投げるような仕草《しぐさ》をするのを見ながら、オウリは、つぶやいた。
「……あの娘《むすめ》は、魔術《まじゅつ》|使《つか》いだ」
それを聞いて、ダミヤは、オウリに目をやった。
「恐《おそ》ろしいなら、ほかの者を連《つ》れてこい。恐怖《きょうふ》に身体《からだ》がすくんでいる者が試《ため》しても、意味がない」
オウリは首をふった。その顔には、これまでとはまったくちがう、熱に浮《う》かされているような表情《ひょうじょう》が浮かんでいた。
「とんでもございません。……恐ろしいことは、もちろん、恐ろしいですが、あんなことができるなら、ぜひ、やってみたい」
ダミヤは微笑《ほほえ》んだ。
帰ってくるエリンを、二人は黙《だま》って待ち受けた。
二人の前に立ち、風で乱《みだ》れた髪《かみ》を指ではらうと、エリンは、オウリに竪琴《たてごと》の持ち方を示《しめ》しながら、どの弦《げん》を、どうはじけばよいか、丁寧《ていねい》に教《おし》えはじめた。
自分と寸分《すんぶん》|違《たが》わぬ音が出るまで、何度もオウリに練習《れんしゅう》させ、さらに、どのくらいの距離《きょり》まで近づいたらサワンが警戒《けいかい》するかを教《おし》えた。
「……やれそうですか?」
問《と》われたオウリは、緊張《きんちょう》した面持《おもも》ちでうなずいた。
「けっして、無理《むり》はなさらないでください。一度でできなくても、何度かくり返すうちに、できるようになるかもしれません。怪我《けが》をしたら、元も子もありませんから、危険《きけん》を感じたら逃《に》げてください。わたしも音無し笛を構《かま》えて、後ろにおりますから」
「……わかった」
深く息を吸《す》って、オウリが歩きはじめた。
サワンは、さっきとまったく同じように、近づいてくるオウリを見つめている。
オウリはエリンに言われたとおり、王獣《おうじゅう》が警戒《けいかい》する距離《きょり》の境界《きょうかい》を慎重《しんちょう》に確《たし》かめながら、近づいていった。
ふわっとサワンが翼《つばさ》を広げた瞬間《しゅんかん》、オウリは立ちどまった。息をつめて、こわばっている指を、そっと動かしてみてから、エリンに教《おそ》わったとおり竪琴《たてごと》を弾《ひ》きはじめた。
サワンは、エリンのときと同じように、じっとその音に耳を傾《かたむ》けている。しかし、いつまでたっても、あの高い音をたてなかった。
オウリは、汗《あせ》を額《ひたい》に浮《う》かせて、長く長く、その音を弾《ひ》きつづけた。それでも、サワンは応《おう》じない。
ダミヤとエリンの視線《しせん》を背に感じて、こらえきれなくなったオウリが、とうとう、足を一歩前に踏《ふ》みだした。
「……あ、だめ……!」
つぶやいて、エリンが、ぱっと駆《か》けだすのと、サワンが、喉《のど》から絞《しぼ》りだすような警戒音《けいかいおん》をあげながら、オウリに向《む》けて突進《とっしん》したのが、ほぼ同時だった。
はじかれたように手をふりあげて、オウリが竪琴《たてごと》を放《ほう》りだすのを見ながら、エリンは音無し笛をロにあてて吹《ふ》いた。
目に見えぬ壁《かべ》にぶちあたったように、サワンはつんのめってオウリにぶつかり、彫像《ちょうぞう》のように、地面に倒《たお》れた。
駆《か》け寄《よ》ったエリンは右手でオウリの腕《うで》をつかみ、王獣《おうじゅう》の下から抜《ぬ》けでるのを手伝った。
「大丈夫《だいじょうぶ》ですか?」
「…………」
ロもきけぬ様子《ようす》だったが、オウリは、青い顔でうなずいた。
「た……竪琴を、投げてしまったが……」
「気になさらないでください。あとで拾《ひろ》います」
エリンがオウリの腕を肩《かた》にまわすと、オウリは歯をくいしばって立ちあがった。右膝《みぎひざ》に力が入らないようだった。エリンに半《なか》ば担《かつ》がれるようにして、片足で跳《と》びながら、オウリがダミヤのところまでもどったとき、サワンが、身をふるわせて起きあがった。
「あれが襲《おそ》ってくることはないのか」
ダミヤの言葉に、エリンもオウリも首をふった。
実際、サワンはしばらく、苛立《いらだ》ったように身食《みぐ》いしていたが、やがて、気がおさまったのだろう。もとの体勢《たいせい》になってうずくまってしまった。
それを見届《みとど》けると、ダミヤは、エリンに視線《しせん》をもどした。
「………なぜだ。なぜ、オウリの竪琴《たてごと》に、あの王獣《おうじゆう》は応《こた》えなかったのだ」
エリンは首をふった。
「わかりません。でも、以前、カザルムで友人やエサル師が試《ため》したときも、わたくしと同じ音をたてても、王獣は応《こた》えませんでした」
エリンはオウリを支えながら、草地に座《すわ》らせた。
「袴《はかま》をまくりあげていただけますか」
うなずいて、オウリが袴をまくりあげると、紫色《むらさきいろ》に鬱血《うっけつ》した膝《ひざ》が現れた。そっと、膝の周囲《しゅうい》をさわって骨折《こっせつ》の有無《うむ》を確かめながら、顔もあげずにエリンは言った。
「……ダミヤさま、|魔がさした子《アクン・メ・チャイ》という言葉を、ご存《ぞん》じですか」
ダミヤは、かすかに顔をくもらせた。
「知っているが、それが、なんだ」
手をとめて、エリンは顔をあげた。
「わたしは|魔がさした子《アクン・メ・チャイ》です。あってはならぬ交《まじ》わりから生まれたのだと、幼《おさな》いころ、人が噂《うわさ》をしているのをよく聞いたものです。
ひどい言葉だと、嫌《きら》いぬいた言葉ですが、近ごろは一片《いっぺん》の真実《しんじつ》が含《ふく》まれていると思うようになりました」
再び、視線《しせん》を膝《ひざ》に落として、エリンはつぶやいた。
「わたくしは、きっと、在《あ》ってはならぬ者なのです」
「───エリン」
ゆっくりと首をふり、ため息をつくように、ダミヤは言った。
「そなたはなぜ、そんなふうに考えるのだろうな。自《みずか》らを|魔がさした子《アクン・メ・チャイ》だと思うほど、王獣《おうじゅう》を使うのがいやか」
うつむいたまま答えぬエリンに、ダミヤは静かに言った。
「そなたほど聡《さと》い娘《むすめ》が、気づいておらぬのが不思議《ふしぎ》だが、そなたが、|降臨の野《タハイ・アゼ》で奇跡《きせき》を起《お》こすことは、王獣を救《すく》うことにつながっているのだぞ」
言われた意味がわからず、エリンは眉《まゆ》をひそめて、ダミヤを見た。
「わからないか? 大公《アルハン》は闘蛇《とうだ》乗りだ。彼らの権勢《けんせい》の基盤《きばん》は、ひとえに闘蛇の力に拠《よ》っているのだ。その闘蛇を、王獣を使って楽々と屠《ほふ》れることを見せつけたら、彼らがどう考えるか、そなたにわからぬはずがあるまい」
(……あ)
エリンは、目を見開いた。
そのエリンの表情《ひょうじょう》を見て、ダミヤは微笑《ほほえ》んだ。
「納得《なっとく》したかね。 ──そなたとあの王獣《おうじゅう》の運命《うんめい》は、我《われ》らの勝利にかかっているのだということを?」
たった一頭の王獣が、何頭もの闘蛇《とうだ》を易々《やすやす》と屠《ほふ》れることを、他国の人々が知ったなら、大公《アルハン》|率《ひき》いる闘蛇《とうだ》部隊は大変な危機《きき》に陥《おちい》ってしまう。大公《アルハン》がこの国の王になれば、その事実を他国に知られるまえに、なんとか闇《やみ》に葬《ほうむ》り去《さ》ろうとするだろう。
「我《われ》らがこの国の王でありつづけることが、そなたと王獣にとっていかに大切なことか、しっかり心に刻《きざ》みなさい」
ダミヤが、念《ねん》を押《お》すように言ったその言葉を、エリンは聞いていなかった。
鼓動《こどう》が激《はげ》しく打《う》っていた。 ──突然《とつぜん》目の前に浮《う》かびあがってきた可能性《かのうせい》が、心を捉《とら》え、ゆさぶっていた。
これまで思いつきもしなかったが、大公《アルハン》が王になったら状況《じょうきょう》は一転するのだ。
(闘蛇乗りが王になれば、王獣を操《あやつ》る技《わざ》はきっと、封印《ふういん》される……)
鬱血《うっけつ》したオウリの膝《ひざ》に目を向《む》けながら、エリンは心の中で、ただ、そのことだけを考えていた。
[#改ページ]
[#地付き]5 露見《ろけん》
「お呼《よ》びとうかがい、参上《さんじょう》いたしました」
イアルが頭をさげると、ダミヤは、鷹揚《おうよう》にうなずいた。
とうに日は暮《く》れ落ち、大きな燭台《しょくだい》に灯《とも》されている灯《あか》りで、ダミヤの居間の豪華《ごうか》な調度品《ちょうどひん》の金具が、ゆらゆらと光っていた。
「そこに座《すわ》ってくれ。そなたに、訊《き》きたいことがあるのだ」
示《しめ》された椅子《いす》にイアルが腰《こし》をおろすと、ダミヤは丸い卓《たく》においてあった濃い緑色の硝子《ガラス》の瓶《びん》の蓋《ふた》をとり、ふたつの杯《さかずき》に琉拍色《こはくいろ》の液体を注《そそ》いだ。
片方の杯をイアルに手渡《てわた》して、ダミヤはちょっと杯を持ちあげる仕草《しぐさ》をした。
「酒ではない。バラク(香草《こうそう》の汁《しる》を黒蜜《くろみつ》で味つけした飲み物)だよ。……伯母上《おばうえ》の供養《くよう》だ。ひとロだけでも、つきあってくれ」
ダミヤが自分の杯を一気にあけるのを見て、イアルも、バラクを口に含《ふく》んだ。強い香草の香《かお》りが鼻に抜《ぬ》け、黒蜜の甘《あま》さの中に、なにか舌を刺《さ》す苦味《にがみ》を感じた。
杯《さかずき》を卓《たく》におくと、ダミヤは椅子《いす》に深く腰《こし》かけた。
「今日のことは聞いているか」
「……今日のこととは?」
「エリンがやってみせた試《ため》しのことだよ」
ああ、と、イアルはうなずいた。
「はい、そのことならば、聞いております」
自分の杯に、もう一|杯《ぱい》バラクを注《そそ》ぎながら、ダミヤは言った。
「今日の結果《けっか》だけでは、断定《だんてい》はできない。エリンがやったのと、同じ方法で王獣《おうじゅう》を育《そだ》てさせてから、もう一度試せば、ちがう結果が出るかもしれないしな。
とはいえ、それには何年もかかる。とりあえず、いま、王獣を操《あやつ》れる者は、エリンしかいないということだ」
かすかに唇《くちびる》の端《はし》をゆがめて、ダミヤはイアルを見た。
「あれは、不思議《ふしぎ》な魅力《みりょく》のある娘《むすめ》だが、生真面目《きまじめ》すぎるのが欠点《けってん》だな。そう思わないか」
「…………」
「この世でただ一人、王獣を操れる稀有《けう》な力を持っているのに、なぜ、あんなふうに悲壮《ひそう》な顔をしているのだろうな」
ダミヤは笑《え》みを消し、真面目《まじめ》な表情《ひょうじょう》になった。
「そなたに訊《き》きたいのは、そのことだよ。あの娘《むすめ》は、どんなことを伯母上《おばうえ》に話したのだ? 伯母上に話せて、わたしには話せないのは、なぜなのだ?」
イアルは、静かな声で答えた。
「おゆるしください。必要《ひつよう》と思えば、エリンが自分でお話しするでしょう。わたくしの口からは、申《もう》しあげられません」
ダミヤは、ため息をついた。
「おまえも、堅苦《かたくる》しい男だな、イアル。わたしの立場も考えてくれ。もし、王獣《おうじゅう》を操《あやつ》ることになにかまずいことでもあるのなら、知っておかねば、採《と》るべき手を誤《あやま》るかもしれないだろう」
イアルは、ダミヤを見つめた。
「王獣を使わないというご判断《はんだん》を、なさる可能性《かのうせい》があるのですか」
ダミヤの目に、また、薄《うす》い笑《え》みが浮かんだ。背を起こし、椅子《いす》に深く身体《からだ》を預《あず》けて、ダミヤは言った。
「それは、ない。そんな判断が、ありうるはずがなかろう」
そして、軽い口調《くちょう》で続けた。
「男というものは、国と伴侶《はんりょ》を守るためなら、無謀《むぼう》なことでも、あえて行うものだ。そうではないか?」
胸に叩《たた》かれたような衝撃《しょうげき》が走り、イアルは思わず顔をこわばらせた。
ダミヤは、照《て》れたような顔で言った。
「いまの状況《じょうきょう》を考えると、公《おおやけ》にはできないから、心にしまっておいてくれ。 ──じつは、ついさっき、真王《ヨジェ》が、わたしの求婚《きゅうこん》を受け入れてくださったのだ」
イアルは、しばらくダミヤを見つめていたが、やがて、すっと頭をさげた。
「………それは、おめでとうございます」
鷹揚《おうよう》に笑って、ダミヤはその祝福《しゅくふく》を受けた。
「ああ。わたしもほっとしたよ。これで、この国は安泰《あんたい》だ」
顔をあげて、イアルは、はっとした。
微笑《ほほえ》んでいるが、ダミヤの目には、冷徹《れいてつ》な光が浮かんでいたからだ。
「……(神速《しんそく》のイアル〉か」
揶揄《やゆ》するようにダミヤは言った。
「伯母上《おばうえ》のお命を何度も救《すく》った、切れ者のそなたのことだ。表面に出しているより、さぞかし多くのことを腹に秘《ひ》めているのだろう。
いまも、祝福の言葉をロにしながら、腹では別のことを考えているようだが、そなたはわたしを見誤《みあやま》っているよ」
動かぬ目でイアルを見つめて、ダミヤは言った。
「わたしは、私欲《しよく》から、この婚姻《こんいん》を望んだわけではない。……考えてみよ。わたしは、セィミヤの次に、真王《ヨジェ》の血を濃《こ》く受《う》け継《つ》いでいる。セィミヤとわたしが結《むす》ばれることは、この国のためには、もっともよいことではないか。神の血を薄《うす》めず、聖なる血をもってこの国を治《おさ》められるのだから。
神たる真王《ヨジェ》が、清らかなまま国を治め、大公《アルハン》はその清浄《せいじょう》さを守るために、あえて我《わ》が身を犠牲《ぎせい》にして穢《けが》れをひきうける。 ──三百年も続いたこのかたちは、ほかのどの国にもない優《すぐ》れた政《まつりごと》の姿だよ。そうではないか?」
日ごろの陽気さの欠片《かけら》もない声で、ダミヤは言った。
「この国が、これほどにゆがんでしまったのは、真王《ヨジェ》への信仰《しんこう》が薄《うす》れたからだ。そなたも聞いただろう? 大公《アルハン》の息子《むすこ》の言葉を。あれほど、この国が罹《かか》っている病《やまい》をみごとに示《しめ》した言葉はあるまい。……あの男は、この国の病根《びょうこん》だよ。だがな、ある意味では、あの男は、ありがたい存在《そんざい》でもある。病が凝縮《ぎょうしゅく》して現れているあの男に、神罰《しんばつ》があたれば、これほど、はっきりとした啓示《けいじ》はないからな」
冷たい汗《あせ》が背を伝った。イアルは、身の内に走る悪寒《おかん》に必死《ひっし》に耐《た》えていた。
ダミヤの声が、遠雷《えんらい》のように聞こえた。
「|降臨の野《タハイ・アゼ》で、大公《アルハン》は奇跡《きせき》を見、真王《ヨジェ》が真の神であることを、肝《きも》に銘《めい》じるだろう」
ダミヤは立ちあがり、すっと、指で扉《とびら》を示《しめ》した。
「さがるがいい、イアル。 ──もうすぐ、そなたも、つらい役目から解放《かいほう》される」
ダミヤの居間から廊下《ろうか》へ出ると、扉《とびら》の外で警護《けいご》についている部下の|堅き楯《セ・ザン》が、小さな封書《ふうしょ》を差《さ》しだした。
「さきほど、下仕《しもづか》えの者が、これを持ってまいりました。イアルさまが、こちらにおいでと聞いてきたと言って」
うなずいて封書を受けとり、イアルは広い廊下を歩きはじめた。
真王《ヨジェ》の寝殿《しんでん》へ向かう渡《わた》り廊下《ろうか》には、人影《ひとかげ》もなく、生暖《なまあたた》かい初夏の宵《よい》の静けさが淀《よど》んでいた。欄干《らんかん》に身を預《あず》けて、封書《ふうしょ》の封《ふう》を切ろうとして、イアルは自分の指をまじまじと見た。指先が細かくふるえている。
(……まさか)
さっきから、しきりに悪寒《おかん》が走っていたが、いまは冷《ひ》や汗《あせ》が、噴《ふ》きだしはじめていた。
あのバラクに、なにか入っていたとしか思えなかった。
つかのま、イアルは目を閉じた。
(気づかれていたのか……)
目をあけ、歯で封書を噛《か》みちぎるようにして封を切ると、イアルは、ふるえる指で中の手紙を開いた。ダミヤの探索《たんさく》を任《まか》せていた部下からの文《ふみ》だった。ごく簡単に東の厩《うまや》で待っていることだけが書かれている。
封書《ふうしょ》を懐《ふところ》に押《お》しこむと、イアルは欄干《らんかん》の隙間《すきま》から庭に降《お》りた。
両耳を金属の蓋《ふた》でおおわれたような、奇妙《きみょう》な反響《はんきょう》をともなった、こもった音が、頭の中で鳴《な》りはじめていた。
肩《かた》の飾《かざ》り帯《おび》を引きちぎり、イアルはそれを左手に持って、背側の帯から短剣《たんけん》を抜《ぬ》いた。右手で短剣を握《にぎ》りしめ、拳《こぶし》を短剣の柄《え》ごと帯でぐるぐる巻き、帯の片方を歯で噛《か》んで押《お》さえ、ぎゅっと結んだ。短剣をくくりつけた手をだらんとさげると、イアルは、王宮をぐるりととりまいている森の中へ足を踏《ふ》み入《い》れ、まっすぐに厩《うまや》へと歩きはじめた。
気をつけていても、小枝が腕《うで》や腰《こし》にひっかかってはじかれ、音をたてる。身体《からだ》がふるえて、ゆれているのだ。
満月の宵《よい》だった。
木々の細い影《かげ》が、黒い網《あみ》のように見える。
ぐらぐらとゆれる、その黒い網の中を、イアルは歩きつづけた。
やがて、森が途切《とぎ》れ、広い草地に出た。東の馬場《ばば》だった。月の光で、夜空はどこか黄色みを帯《お》び、草地は一面、霜《しも》が降《お》りたように淡《あわ》い光を灯《とも》して浮《う》かびあがっている。
厩《うまや》の甍《いらか》の縁《へり》も淡い光に縁《ふち》どられていたが、厩は黒々と闇《やみ》に沈《しず》んでいた。
その風景も、イアルの目には、ゆがんで、ゆれて見えていた。頭の中で響《ひび》いている音はどんどんひどくなり、人の気配《けはい》を探《さぐ》ることもできない。ただ、馬たちが、しきりに足踏《あしぶ》みをしている蹄《ひづめ》の音だけは聞こえた。
浅く息をしながら、イアルは厩《うまや》の戸に手をかけ、身体《からだ》を預《あず》けるようにして引きあけた。
窓から射《さ》しこんでいる月の光で、床《ゆか》に倒《たお》れている男の姿が見えた。後ろ手に縛《しば》られ、うつ伏《ぶ》せに倒れている。
厩《うまや》に足を踏《ふ》み入れざま、イアルは、いきなり大きく右手をふった。
戸の脇《わき》に潜《ひそ》んでいた男が、絶叫《ぜっきょう》した。
男の血を背に浴《あ》びながら、イアルはがっくりと床《ゆか》に膝《ひざ》をつき、左から襲《おそ》いかかってきた男の剣《けん》を避《よ》けた。その姿勢《しせい》のままイアルは短剣《たんけん》を水平にふりぬき、男の腿《もも》を切り裂《さ》いた。
わめきながら、男は、いったんふりおろした剣を、すくいあげるようにふった。
目の前に剣《けん》が迫《せま》ってくるのを見ながら、避《よ》けることができなかった。わずかに頭を反《そ》らした、その瞬間《しゅんかん》、鎖骨《さこつ》から肩《かた》にかけて刃先《はさき》がくいこみ、カツン、と、刃が鎖骨にあたった硬《かた》い衝撃《しょうげき》が、全身に響《ひび》いた。そのあとを追って、焼けつくような痛《いた》みが走った。
片膝《かたひざ》立ちのまま、前に倒《たお》れこむようにして、イアルは男の腹に短剣を突《つ》き立《た》てた。
衣《ころも》を突《つ》き通し、肉に深く刃が刺《さ》さったいやな手応《てごた》えがあって、今度は、男は声もたてずに剣を落とし、短剣を持ったイアルの腕《うで》を両手でつかみながら、倒れた。
男にひきずられて倒れ、イアルは、しばし、痙攣《けいれん》している男の血と裂《さ》かれた腸《はらわた》の臭《にお》いを嗅《か》ぎながら、目を閉じていた。
男が静かになったとき、イアルは目をあけた。
浅く息をつきながら、男の腹から短剣《たんけん》を引きぬき、イアルは、床《ゆか》に倒《たお》れている部下のところへ、這《は》いずるようにして近づいていった。
部下は生きていた。腫《は》れふさがった目を薄《うす》くあけて、切れた唇《くちびる》から細い声を出した。
「………申《もう》しわけ、ございません」
イアルは、せわしない呼吸をくり返しながら、血でねばつく短剣をこすりつけるようにして、部下の縄《なわ》を切った。
「すまなかった……」
つぶやいて、イアルは身体《からだ》で押《お》して、部下を仰向《あおむ》けにしてやった。
「一人で、起《お》きられるか」
部下はうなずき、腹を押さえながら起きあがった。
「すこし休んだら、逃《に》げろ。……隠《かく》れて、事態《じたい》を見極《みきわ》めて、行動を決《き》めろ」
腹を抱《かか》えたままうずくまっている部下の肩《かた》に手をおいて、イアルは歯をくいしばって立ちあがった。
短剣《たんけん》を右手に縛《しば》りつけている帯を、歯で噛《か》みながらほどいて、血でねばつく短剣をふり落とすと、両手を使って、腹の帯をほどいた。
薬を飲《の》まされているせいか、傷《きず》の痛《いた》みは鈍《にぶ》く、痺《しび》れたような感じだったが、腋《わき》の下を血が伝《つた》って衣《ころも》を濡《ぬ》らしている。イアルは、懐《ふところ》から、さっき渡《わた》された封書《ふうしょ》をとりだして、ふたつにたたんで肩《かた》の傷にあてた。それから、ほどいた帯で、襷《たすき》をかけるようにして封書を押《お》さえた。
イアルは足をひきずるようにして馬房《ばぼう》の柵《さく》をあけて中に入ると、目を剥《む》いて頭を反《そ》らしている馬のハミをとり、落ちつくまで、声をかけた。
ふるえている身体《からだ》では、鞍《くら》はのせられそうになかった。馬房の隅《すみ》においてあった桶《おけ》を裏返して踏《ふ》み台《だい》にすると、イアルは、歯をくいしばって、なんとか馬の背によじのぼった。
「……どこへ、行かれるのですか」
部下の細い声が聞こえてきたが、イアルは答えられなかった。もはや、ロをきくことさえ、億劫《おっくう》だった。
馬の鬣《たてがみ》に額《ひたい》をつけて、イアルは必死《ひっし》に、遠のきそうになる意識《いしき》を引きもどしていた。
厩《うまや》から出た馬を北へ向けたのは、一か所だけ、いまの自分を預《あず》けられる場所が頭に浮《う》かんでいたからだったが、そこまで行きつけるとは、とても思えなかった。ふだんなら、馬で行けば、半ト(約三十分)もかからぬ距離《きょり》だが、いまは、永劫《えいごう》の彼方《かなた》に思えた。
ただ、そこならば、王宮を囲《かこ》む森伝いに行くことができる。この時刻《じこく》なら、人目につかずに、行けるかもしれない。
ひと足ごとに、身体《からだ》に走る激痛《げきつう》を気付《きつ》けにしながら、イアルは、馬の背にゆられて、月夜の森に消えていった。
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[#地付き]6 逃亡者《とうぼうしゃ》
柱にかけた灯《あか》りで、アルの目がきらきら輝《かがや》いて見えた。
この子は宵《よい》っ張《ぱ》りで、リランもエクもとうに眠《ねむ》っているというのに、まだ、遊び足りないらしい。
アルも、ずいぶん大きくなった。初めて会ったころのリランとちょうど同じくらいで、甘《あま》えたい盛《さか》りだ。馬用の刷毛《はけ》で体毛《たいもう》を梳《す》いてやっていても、ちっともじっとしていない。アルと接していると、かつてリランと触《ふ》れ合《あ》っていたころの温《あたた》かい絆《きずな》が、よみがえってくるような気がした。それが幻想《げんそう》であることを肝《きも》に銘《めい》じていても、アルが寄《よ》せてくる感情《かんじょう》は心を温めてくれた。
「……おとなしくなさい。毛がひっかかっちゃうでしょう」
エリンが小声で叱《しか》ったとき、アルの背後で、エクがむっくりと頭を起《お》こした。リランも頭を起こし、戸口のほうを見ている。
ふり返ると、王獣舎《おうじゅうしゃ》の戸口に寄《よ》りかかるようにして、誰《だれ》かが立っていた。
薄暗《うすぐら》い灯《あか》りに浮《う》かびあがったその顔を見て、エリンは、思わず息をのんだ。
「……イアルさん?」
つかのま、あの闘蛇《とうだ》と闘《たたか》っていたイアルが時をとび越《こ》えて戸口に現れたように思えて、ぞっとした。
その奇妙《きみょう》に混乱《こんらん》した一瞬《いっしゅん》が過《す》ぎ去《さ》ると、イアルの姿の異様《いよう》さが心に迫《せま》ってきた。髪《かみ》は汗《あせ》で貼《は》りつき、衣《ころも》は血でどす黒く濡《ぬ》れている。顔に血の気がなく、目も虚《うつ》ろだった。
刷毛《はけ》を床《ゆか》に落とし、エリンはイアルに駆《か》け寄《よ》った。
イアルは目をあけていたが、その目はなにも見ていなかった。エリンが身体《からだ》を支《ささ》えるや、糸が切れたように、がっくりと膝《ひざ》が折《お》れ、頭がエリンの肩《かた》にぶつかった。
いきなり男の全体量が身体にかかり、エリンは、危《あや》うく倒《たお》れそうになった。必死《ひっし》でイアルの身体《からだ》を支え、よろけながら王獣舎《おうじゅうしゃ》の壁際《かべぎわ》まで歩き、そろそろと、自分の寝床《ねどこ》にするつもりで敷《し》いていた毛布の上におろした。
寝《ね》かされても、イアルは目をあけなかった。帯を止血帯《しけつたい》にして使っているので、腹のあたりは衣《ころも》がはだけている。エリンは、そっと衣の襟《えり》をほどいて、イアルの身体《からだ》を探《さぐ》った。衣は血でぐっしょり濡《ぬ》れていたが、傷《きず》は、自分で止血《しけつ》している一か所だけのようだった。
エリンは唇《くちびる》を噛《か》みしめた。
ここがカザルムだったら、いくらでも治療《ちりよう》の用具《ようぐ》が手に入るが、勝手《かって》を知らぬこの王獣《おうじゅう》|保護場《ほごじょう》では、どこに治療《ちりよう》用具があるのかわからない。とはいえ、誰《だれ》かに尋《たず》ねるのも憚《はばか》られた。
これほどの傷《きず》を負《お》っているのに、なぜ、ここへ来たのだろう……。
エリンは、ため息をついた。考えていても、しかたがない。とにかく、できるだけの応急《おうきゅう》|処置《しょち》をするしかない。
血を吸《す》いこんで、薄《うす》い板のようになっている紙に爪《つめ》を立てて、そろそろとはがしはじめると、イアルがうめいた。どきっとして手をとめたが、イアルは、目をあけなかった。
もう一度、エリンは紙に爪を立て、ゆっくりとはがしていった。紙がはがれると、醜《みにく》い傷口《きずぐち》が現れた。鋭利《えいり》な刃物《はもの》で切られたのだろう、すっぱりと切れた深い傷だった。
大きな血管《けっかん》は傷ついていないが、あと、ほんのすこし右にずれていたら、頸動脈《けいどうみゃく》が切断《せつだん》されて、助からなかったところだ。 ──イアルは幸運だったのだ。
しかし、縫《ぬ》わずにおける傷ではなかった。眉《まゆ》を寄《よ》せて、エリンは考えこんだ。針と糸はなんとかなるとしても、消毒液《しょうどくえき》をどうするか。
血の臭《にお》いが気になるのだろう。リランが興奮《こうふん》して唸《うな》っている声が聞こえてきた。
その声に刺激《しげき》されて、ひとつの方法が、ふっと頭に浮かんだ。
(そうだ、特滋水《とくじすい》……!)
特滋水の材料となるアツネ草の根を煎《せん》じた液には、消毒《しょうどく》の力がある。ここは王獣《おうじゅう》保護場なのだから、特滋水《とくじすい》の材料《ざいりょう》なら、どの王獣舎《おうじゅうしゃ》にもおいてあるはずだった。
エリンは立ちあがって、まずは、保護場の宿舎に行き、用務《ようむ》係の部屋の戸を叩《たた》いて、針と糸を貸《か》してもらった。それから王獣舎にもどって、その脇《わき》に併設《へいせつ》されている物置に入り、棚《たな》に並んでいる瓶《びん》から、アツネ草の液が入っている瓶を選びだすと、急いで、イアルのもとにとって返した。
傷口《ぎずぐち》にアツネ草の液をふりかけると、激《はげ》しくしみたらしく、イアルが、うめきながら、いきなり腕《うで》をふった。鼻にあたる寸前《すんぜん》で危《あや》うく顔を反《そ》らして避《よ》けて、エリンは右手でイアルの腕をつかんだ。
「イアルさん、動かないで!」
腕《うで》を膝《ひざ》で押《お》さえて、エリンは、イアルの頬《ほお》を叩《たた》いた。イアルは薄《うす》く目をあけたが、瞳《ひとみ》の焦点《しょうてん》が合っていなかった。
「聞こえますか? 危《あぶ》ないから、動かないで!」
徐々《じょじょ》に目の揺《ゆ》れがおさまり、瞳《ひとみ》に光が浮《う》かんできた。
「イアルさん、聞こえますか? 聞こえたら、返事をして」
イアルが、億劫《おっくう》そうに瞬《まばた》きした。
その耳に顔を近づけて、
「イアルさん、これから、傷口を縫《ぬ》います。痛《いた》いでしょうけれど、がまんして、絶対《ぜったい》に動かないで。……わかりますか? わかったら、うなずいて」
ひと言ひと言、区切《くぎ》りながら言うと、イアルは、かすかにうなずいた。
右手だけで傷《きず》を縫《ぬ》うのは思った以上にむずかしい作業で、時間もかかった。だが、消毒《しょうどく》した針と糸で、傷口を縫うあいだ、イアルは歯をくいしばって、うめき声もたてなかった。
人の傷口を縫うのは、獣《けもの》の傷口を縫うのとは、まったくちがう作業だった。イアルがどれほどの激痛《げきつう》にさらされているか、絶《た》えず気にして、知らず知らずのうちに自分も息をつめていたのだろう、治療《ちりょう》を終《お》えたとき、ふいに、冷《ひ》や汗《あせ》が額《ひたい》に浮《う》きだし、目の前に、ちらちらと銀砂《ぎんしゃ》のような光が散《ち》りはじめた。
自分が貧血《ひんけつ》を起《お》こしかけていることを悟《さと》って、エリンは膝《ひざ》のあいだに頭をはさみ、しばらくそのまま、じっとしていた。ジーンと鳴《な》っていた耳鳴りが消え、めまいがおさまって、エリンが、ゆっくりと頭を起こしたときには、イアルは、ぐったりと目を閉じていた。呼《よ》びかけても、答えなかった。
脈《みゃく》をとってみて、エリンは、ほっと身体《からだ》の力を抜《ぬ》いた。脈は安定していたからだ。
安心したとたん、背を起こしているのも億劫《おっくう》なくらいの眠気《ねむけ》が襲《おそ》ってきた。昨夜あまり眠れなかったせいもあるのだろう。地の底に吸《す》いこまれてしまいそうだった。
やっとの思いで、手を動かして、イアルの身体に毛布をかけると、エリンはその脇《わき》に身を横たえた。瞼《まぶた》を閉じたのも覚《おぼ》えていないほど、あっというまに、エリンは深い眠《ねむ》りに吸《す》いこまれていった。
しらじらと夜が明けはじめたころ、イアルはふっと目をさました。
眠《ねむ》っていても絶《た》えず感じていた傷《きず》の痛《いた》みが、目をさましたとたん、鮮烈《せんれつ》な痛みに変わった。
つかのま、自分がどこにいるのか、なぜ、これほど身体《からだ》が痛いのかわからなかったが、天井《てんじょう》に近いところにあいている窓の外の、薄青《うすあお》い明るさを見つめるうちに、昨夜のことがひとつひとつ、よみがえってきた。
耳のそばで、寝息《ねいき》が聞こえる。
そっと顔を傾《かたむ》けると、すぐ脇《わき》にエリンの寝顔《ねがお》があった。夜明けの薄闇《うすやみ》の中では目鼻さえ見えはしなかったが、その寝息を頬《ほお》に感じるうちに、鋭《するど》い哀《かな》しみが胸の底に広がった。
幼《おさな》い日に誓《ちか》わされた|堅き楯《セ・ザン》の誓いの意味を───その残酷《ざんこく》さを悟《さと》った、十五、六のころ、心の底に封印《ふういん》したはずの身悶《みもだ》えするような哀《かな》しみだった。
抑《おさ》える間もなく目に涙《なみだ》がにじみ、目尻《めじり》を伝って流れた。
薄闇《うすやみ》の中で、イアルは長いこと、薄ぼんやりとしたエリンの寝顔を見つめていた。
エクとリランがたてはじめた腹に響《ひび》く警戒音《けいかいおん》で、エリンは、はっと、とび起きた。
立ちあがっていって、戸口から外をのぞくと、朝靄《あさもや》の中に、複数《ふくすう》の人影《ひとかげ》が見えた。ものものしい出《い》で立《た》ちで、こちらへ向かって足早に歩いてくる。
「……追っ手か」
イアルが半身を起こし、かすれ声で訊《き》いた。
「ええ」
イアルのもとに駆《か》けもどると、エリンはその腕《うで》を支《ささ》えて、立ちあがるのを助けた。
外へ逃《に》がしても、すぐに捕《つか》まってしまうだろう。かといって、この王獣舎《おうじゆうしゃ》には、人が潜《ひそ》めるような場所はなく、血の染《し》みた毛布があるのだから、イアルがここにいたことは隠《かく》しようがない。
エリンは、ふり返ってリランを見た。そして、とっさに心を決めた。
「リラン、隠して!」
それを聞くや、リランの目に、なにかを思いだしたような光が浮かんだ。
左手が利《き》かぬいま、イアルを抱えていたら音無し笛は吹《ふ》けない。一か八かの危険《きけん》な賭《か》けだったが、ためらっている暇《ひま》はなかった。
「わたしを信じて、声を出さずにいてください」
ささやいて、エリンは片手で柵《さく》をあけると、イアルを半《なか》ば担《かつ》ぐようにして王獣《おうじゅう》たちのあいだに入っていった。エクもリランも、うなじの毛を逆立てていたが、二人が近づくと、大きな身体《からだ》を脇《わき》にどけてエリンたちを通した。エリンがイアルを床《ゆか》に横たえて、身体の上に寝藁《ねわら》をかぶせると、彼らは、もとの位置に腰《こし》を据《す》えた。
興奮《こうふん》して、さかんに鳴《な》いているアルを落ちつかせようとなでているとき、駆《か》けてくる足音とともに、戸口に、男たちが現れた。
男たちの背後には、ダミヤの姿があった。
真っ先に駆けこんできた男が、獲物《えもの》の臭跡《しゅうせき》を嗅《か》ぎつけた猟犬《りようけん》のような顔で、ダミヤをふり返った。
「……毛布に、血の跡《あと》がございますー・」
ゆっくりと王獣舎《おうじゆうしゃ》に入ってきたダミヤは、男が示《しめ》している毛布をちらっと見てから、エリンに顔を向けた。
「イアルは、どこだね」
エリンは血の気のない顔で、ダミヤを見つめていた。胸に板が入っているようで、うまく息が吸《す》えなかった。
「……知りません」
ようやく答えると、ダミヤが微笑《ほほえ》んだ。
「隠《かく》しても、しかたあるまい。ここにいたことは一目瞭然《いちもくりょうぜん》なのだから」
浅く息をしながら、エリンは押《お》し黙《だま》って、男たちが王獣舎《おうじゅうしゃ》を隅々《すみずみ》まで捜《さが》している様子をながめていた。
やがて、男たちがダミヤに、「ここにはおりません」と告《つ》げた。
「外を捜せ。そう遠くへは行っていないはずだ」
男たちは外へ出ていったが、ダミヤは残った。なにを考えているのか、黙《だま》って、エリンを見つめている。
沈黙《ちんもく》に耐《た》えられなくなって、エリンはつぶやいた。
「イアルさんは、なにをしたのですか」
ダミヤは、じっとエリンに視線《しせん》を据《す》えたまま、答えた。
「人を殺したのだ。門衛を二人」
冷水をかけるような声だった。
「なぜ、そんなことを……」
つぶやいたエリンに、ダミヤは肩《かた》をすくめてみせた。
「それを本人に尋《たず》ねるために捜しているのだ。そなたが正直に答えてくれれば、手間が省《はぶ》けるのだがな」
嘘《うそ》をつくのは、苦手《にがて》だった。ダミヤのような聡《さと》い人に、嘘をついて悟《さと》られずにいられるとは思えず、その思いが顔に出てしまっているのではないかと、不安でたまらなかった。
だから、なにも言わずに、黙《だま》っていた。
ダミヤは、相変《あいか》わらず、じっとエリンを見つめていたが、やがて、ふっと微笑《ほほえ》んだ。
「そなた、あの男が好きか」
「…………」
答えないエリンにはかまわず、ダミヤは、静かな声で言った。
「まあ、いい。かばいたいなら、かばえばいい。そなたを縛《しば》る鎖《くさり》がひとつ増えるだけだ。あの男には、どうせもう、なにもできはしない」
柱に手をおいて、ダミヤは、ため息をついた。
「あれは、哀《あわ》れな男だ。|堅き楯《セ・ザン》の出自は、わたしにさえ知らされぬから、どこの生まれかは知らぬが、大粒金《おおつぶきん》の詰《つ》まった袋《ふくろ》ひとつで親に売られたのだから、まあ、そういう家族の子なのだろう。
なにもわからぬ幼《おさな》いときに、一生|妻帯《さいたい》せず、ただひたすら真王《ヨジェ》に命を捧《ささ》げる孤独《こどく》な楯《たて》となる誓《ちか》いを立てさせられ、そのまま生きてきた男だ。
遊び女で男の欲を発散《はっさん》させて、息抜《いきぬ》きをしなければ、やっていけない仕事だろうに、噂《うわさ》では、あの男は、ばか正直に誓いを守って、遊ぶことさえせぬそうな」
ダミヤはすっと視線《しせん》をあげて、王獣舎《おうじゅうしゃ》の窓の外を見た。
「そういう男は、自分が生きている世界の狭《せま》さを、見ないほうがいいのだろうな。あの男のように賢《かしこ》ければなおさら、見てしまえば、息苦しさに耐《た》えられなくなるだろう」
いつのまにか、笑《え》みは消え、その顔には真面目《まじめ》な表情《ひょうじょう》が浮《う》かんでいた。
「エリン、そなたは賢い。見ようと思えば、この世の構図《こうず》の隅々《すみずみ》まで見えるだろう?
冷静《れいせい》に、それを見よ。そうすれば、そなたになにができて、なにができぬかも見えてきて、平静《へいせい》な気持ちで、運命に従《したが》うことができるだろう」
それだけ言うと、くるりと背を向けて、ダミヤは外へ出ていった。
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[#地付き]7 風の夜
ゆっくりと腕《うで》を背の下に差《さ》し入れて、身体《からだ》を起こしてやると、イアルは頭をさげた。
「……すまない。あなたに、とんだ迷惑《めいわく》をかけてしまった」
エリンは黙《だま》って首をふり、その髪《かみ》や衣《ころも》についている寝藁《ねわら》をはらった。
昨夜起きたことを、イアルは、ぽつりぽつりと語った。真王《ヨジェ》ハルミヤを闘蛇《とうだ》で襲撃《しゅうげき》した者たちの背後に、ダミヤがいたのだろうという話を聞いても、エリンは、さして驚《おどろ》きを感じなかった。ただ、ずっと胸の底にある冷《ひ》ややかな不快感《ふかいかん》が増しただけだった。
雲上人《うんじょうびと》たちが書いている芝居《しばい》の筋書《すじが》きなど、聞きたくもなかった。その芝居が、自分たちの現実の暮《く》らしを、こんなふうにふりまわしていくのかと思うと、吐《は》き気《け》がするほどに、腹が立つ。
血が染《し》みこんで、膠《にかわ》でおおったようになっている衣《ころも》を脱《ぬ》がせて、イアルを毛布でくるんで横たえさせてから、エリンは、その衣を桶《おけ》に入れて、水につけた。
「朝食をとってきます」
声をかけると、イアルは黙《だま》ってうなずいた。ふと思いついて、エリンはつけくわえた。
「わたしに気兼《きが》ねして、どこかへ逃《に》げたりしないでくださいね」
「………ああ。ダミヤはきっと、この王獣舎《おうじゅうしゃ》を見張《みは》らせているだろう。あの男は、たくさんの私兵《しへい》を雇《やと》っているようだから……」
うなずいて、エリンは外へ出ていった。
その日は一日中、王獣舎の周《まわ》りを、武装《ぶそう》した男たちが徘徊《はいかい》していた。しかし、ダミヤがそう命じたのか、男たちは王獣舎の中に入ってくることはなかった。
ラザルの獣便《けものつか》いたちは、どこかエリンを薄気味《うすきみ》悪く感じているらしく、距離《きょり》をおいていたから、エリンが食事を王獣舎に運んで食べ、王獣舎で眠《ねむ》り、一日を王獣たちと過《す》ごしていても、まったく干渉《かんしょう》することはなかった。おかげで、イアルは王獣舎の床《ゆか》に横たわって一日を過ごすことができた。
リランたちが日向《ひなた》ぼっこに出てしまった昼下がり、蚊遣《かや》りの煙《けむり》がうっすらと流れる蒸《む》し暑《あつ》い王獣舎で、一人横たわり、うつらうつらしていると、熱が高いせいもあるのだろう、次から次へ、様々な夢を見た。
それでも、エリンの夕食を分けてもらって、肉汁《にくじる》に浸《ひた》したファコ(雑穀《ざっこく》から作る無発酵《むはっこう》のパン)を口に運ぶころには、ずいぶんと身体《からだ》が楽になっていた。
エリンは自分の分を食べおえると、すぐに立っていって、王獣《おうじゅう》に餌《えさ》をやりはじめた。
その姿も横顔も、ずいぶんとやつれて見えた。カザルムで別れてから、さほどたっていないのに、エリンが別人のように面変《おもが》わりしてしまったことに、イアルは胸をつかれた。
リランに食われたという左手をかばいながら、どこかに魂《たましい》をおいてきてしまったような表情《ひょうじょう》で餌《えさ》をやっている。
その姿を見ながら、イアルはつぶやいた。
「あなたは、いまもそうして、柵《さく》の内側に入って餌をやっているのだな」
その声に、はっと我に返ったように、エリンはふり返った。
「───音無し笛を持っていますから」
「それでも、ほかの王獣使《おうじゅうつか》いいたちなら、そんなやり方はしないだろう。それに、この王獣たちの表情も、あなたのそばにいると、安らいで見える」
目に苦笑《くしょう》を浮《う》かべたが、エリンは、なにも言わなかった。
「この王獣たちは、やはり心の深い部分で、あなたを信じているのだろう。……王獣が、あんなふうにわたしを隠《かく》してくれたとは、いま思いだしても不思議《ふしぎ》な気がする」
エリンの苦笑が深くなった。
「……まだ学童《がくどう》だったころ、大嫌《だいきら》いな教導師《きょうどうし》がいて、その人がやってくるのを見ると、よくああやってリランに隠してもらったものです」
イアルも思わず、微笑《びしょう》を浮《う》かべた。
「それにしても、わたしは、彼らにとって馴《な》れぬ者だろうに、警戒音《けいかいおん》さえたてずに、よく受け入れてくれたものだ」
「この王獣《おうじゅう》たちが警戒音をたてなかったのは……」
リランたちに目をやって、エリンは言った。
「わたしが、あなたを警戒《けいかい》していないからでしょう。王獣は、恐《おそ》ろしいくらいに敏感《びんかん》に、人の感情を察《さっ》するんです」
エクもリランもくつろいで、毛づくろいを始めている。
薄暗《うすぐら》い蝋燭《ろうそく》の灯《あか》りに、ぼんやりと浮かびあがっている王獣たちを、二人は、しばらく黙《だま》って、ながめていた。
やがて、イアルが低い声で言った。
「オウリの竪琴《たてごと》に王獣が反応《はんのう》しなかったのは、そのせいか。 ──彼の恐怖《きょうふ》を、王獣が感じとったのか」
エリンは驚《おどろ》いて、イアルをふり返った。
「あのことを、ご存《ぞん》じなんですか」
「ダミヤを護衛していた仲間から、聞いた」
「そう……」
エリンは、王獣《おうじゅう》たちのほうに視線《しせん》をもどして、つぶやいた。
「それもあったのかもしれませんね。……でも、たぶん、あの王獣がオウリの竪琴《たてごと》に反応《はんのう》しなかったのは、あの王獣を育《そだ》てたのが、彼だったからです」
イアルが、けげんそうにエリンを見た。
空《から》になった桶《おけ》を持って、エリンは柵《さく》を出た。
「オウリがあの王獣を育てたのなら、必ず、何度か、あの王獣に向かって音無し笛を吹《ふ》いているはずです。
王獣は、音無し笛で硬直《こうちょく》させられることを心底|嫌《きら》っています。……自分をいつも殴《なぐ》っている相手が、急に猫《ねこ》なで声《ごえ》をかけてきても、警戒《けいかい》を解《と》く気にはなれませんよね。王獣も、同じ気持ちなのでしょう。自分に向かって音無し笛を吹《ふ》いた相手《あいて》には、なかなか心を開かないのです」
柵《さく》にかけて干していたイアルの衣《ころも》をとりあげ、頬《ほお》にあてて乾《かわ》いているのを確かめると、エリンは、それを持ってイアルのかたわらに座《すわ》り、衣をまとうのを手伝った。
エリンの顔には、もう笑みはなかった。袖《そで》を通しやすいよう衣を支えながら、エリンは、つぶやくように言った。
「音無し笛で育《そだ》てることは、王獣と人のあいだに、冷《つめ》たい壁《かべ》を作るんです。 ──冷たいけれど、在《あ》るべき壁を」
最後は独り言のようだった。
エリンの顔を間近に見ながら、イアルは、ふいに言った。
「………あなたは、死ぬつもりか」
返事を待たずに、イアルは続けた。
「王獣《おうじゅう》を操《あやつ》る技《わざ》を、自分一人のものとして封《ふう》じこめて、それを抱《かか》えて、死ぬつもりか」
エリンは首をふった。
「すこしまえまで……」
エリンはつぶやいた。
「そうしようと、思っていました。でも、いまは、死のうとは思っていません」
風が出てきたのだろう。王獣舎《おうじゅうしゃ》の脇《わき》の木立《こだち》の葉擦《はず》れの音が、サワサワと聞こえていた。
「自分一人が死ねば災《わざわ》いが防《ふせ》げる、そのぎりぎりの境界線《きょうかいせん》は絶対に越《こ》えまいと、ずっと思っていました。誰《だれ》になにを言われても、わたしは、リランたちを音無し笛や特滋水《とくじすい》で育《そだ》てたくなかったから、やりたいようにやる代わりに、最後には、自分のやったことの責任《せきにん》をとろうと思っていたんです。でも、あの男が思い描《えが》いていることを聞いたとたん……なんというか、冷《さ》めてしまいました」
低い声で、エリンは言った。
「人というものが、こんなふうに物事を考えて、進んでいく生き物であるのなら、そのまま行ってしまえばいい。人という生き物が殺し合いをしながら均衡《きんこう》を保《たも》つ獣《けもの》であるのなら、わたしが命を捨《す》てて(操者《そうじゃ》ノ技《わざ》)を封印《ふういん》しても、きっと、いつかまた同じことが起《お》きる。そうやって滅《ほろ》びるなら、滅びてしまえばいい……」
こういう殺伐《さつばつ》とした思いは、きっと、ずっと心の底に潜《ひそ》んでいたのだ。口に出してみると、これが本音《ほんね》であることがよくわかった。それなのに、その言葉を吐《は》きだしても、胸の底にある怒《いか》りは、消えていかなかった。
あけはなしてある窓から、生温《なまあたた》かい風が吹《ふ》きこみ、柱の灯《あか》りをゆらしている。
「……だけど、わたしは、王獣《おうじゅう》を操《あやつ》って闘蛇《とうだ》と闘《たたか》わせるようなことはしたくない。絶対にしたくないのです」
夢見たこと、考えてきたこと───そのすべてを、唾棄《だき》すべき役割《やくわり》に押《お》しこまれてしまうのかと思うと、身の内が焼けるようだった。
エリンは、イアルを見つめた。
「あなたに会えたら、訊《き》きたいと思っていたことがあるのです」
イアルは瞬《まばた》きをした。
「わたしに?」
「ええ。ぜひ、あなたのお考えが知りたいのです。
わたしが神の奇跡《きせき》を演《えん》じたら、この国の歪《ひず》みが消えると思いますか」
すこしためらったあと、イアルは低い声で答えた。
「……正直《しょうじき》に言って、この国がどうなるべきか、おれは、いままで、考えないようにしてきたのだ。
|堅き楯《セ・ザン》として誓《ちか》いを立てた以上、なによりも優先すべきは、真王《ヨジェ》のお命を守ること。真王《ヨジェ》を守った結果、なにが起こるかを考えるようになると、自分の行動に迷《まよ》いが生《しょう》じるような気がしたからだ」
窓の外の、藍色《あいいろ》の夜空を見ながら、イアルは言った。
「その意味では、あの男が言ったことは正鵠《せいこく》を射《い》ている。 ──おれは、あえて、自分が生きている世界の狭《せま》さを、見ないようにしていた」
唐突《とうとつ》につきあげてきた思いが、口をついて出た。
「……あの男は、おれの家族をくだらないもののように言ったが、おれの父は腕《うで》のよい指物師《さしものし》だった。父が、地震《じしん》で倒壊《とうかい》した建物の下敷《したじ》きになって死ななければ、母はおれを売ったりはしなかっただろう。父が生きていたら、おれは、いまごろ父のあとを継《つ》いで指物師になって、人を殺す武器の代わりに、鑿《のみ》を手に生きていたはずだ」
イアルは、かすかに苦笑《くしょう》を浮《う》かべて、エリンを見た。
「おれは細工物《さいくもの》を作るのが好きなんだ。非番《ひばん》の日には、箪笥《たんす》を作ったり、玩具《がんぐ》を作ったりしていた。嬌態《きょうたい》の裏に殺伐《さつばつ》とした哀《かな》しみを押《お》し隠《かく》している遊び女のところへ行くより、細工物に没頭《ぼっとう》しているほうが、ずっと気が休まる」
ゆれる灯《あか》りで、ぼんやりと浮かびあがっている男の顔を見ながら、エリンは、ふっと、闘蛇《とうだ》を思い浮《う》かべていた。幼《おさな》いうちに捕《と》らわれ、耳をふさぐ術《すべ》を奪《うば》われ、ただひたすら闘《たたか》うために生きる獣《けもの》を。
暗い目で闘蛇を見ていた母の気持ちが、いまは、よくわかる。
この人の指が、なでるように繊細《せんさい》な仕草《しぐさ》で細工物《さいくもの》を作っていくさまが、見えるような気がした。
「………それでも、指物師《さしものし》であったなら見ることのなかった、国の政《まつりごと》が動く様子を、おれはずっと、間近《まぢか》で見てきた。おれも人だから、いくら心を抑《おさ》えようとしても、見聞きしたことの意味を考えずにはいられない。
このあいだ、シュナン───大公《アルハン》の長男が、真王《ヨジェ》に謁見《えっけん》したとき、おれは、あの男の言葉に心をゆさぶられた。あの男が言っていることは真っ当なことに思えたし、真王《ヨジェ》が、ご自分は武力《ぶりょく》で守られていないとおっしゃったときは……正直《しょうじき》、心が冷《ひ》えた。おれの存在《そんざい》は、この方にとってなんなのだろうと、思わずにはいられなかった」
イアルは淡々《たんたん》と、シュナンがなにを言い、なにをしたかを語った。
シュナンの人柄《ひとがら》を描写《びょうしゃ》するイアルの言葉を聞くうちに、エリンの目に、すこしずつ精気《せいき》がもどってきた。
「……そうですか」
話を開き終えると、エリンはつぶやいた。
「大公《アルハン》の長子は、心のある方のようですね」
イアルはうなずいた。
「力でねじ伏《ふ》せようと思えば、すぐにでもできるだろうに、こういう方法をとったということひとつをとってみても、心のある男だと思う。
果断《かだん》なところもある男だ。あの男がセィミヤさまの伴侶《はんりょ》となれば、きっと、セィミヤさまがこれまでごらんになることのなかったこの国の顕《あらわ》な現実を、見せようとするだろう」
すっと息を吸《す》い、イアルは低い声で言った。
「おれは、多くの人を殺した。初めて刺客《しかく》を殺した十八の冬は、寝《ね》てもさめても、その男の断末魔《だんまつま》の顔が目の奥《おく》にちらついていた。いまも、眠《ねむ》れば、殺した男たちが夢に出てくる。血の臭《にお》いが、ふいに鼻の奥《おく》によみがえることもある。
たぶん、おれは一生そういう亡霊《ぼうれい》にまとわりつかれつづけるだろうし、それから逃《のが》れたいとも思わない。人を殺すというのは、そういうもので、異国の兵と戦っている男たちは、そういう思いを、何世代にもわたって味わってきたはずだ。汚《きた》い血と恐怖《きょうふ》に満ちた戦《いくさ》で、この国は守られてきたのだ」
大きな手で、自分の顔をぬぐって、イアルはつぶやくように言った。
「……国の王たる者が、そういうことを知らずにいてよいとは、おれは思えぬ」
風が弱まってきたのだろう。木の枝が壁《かべ》をこする音が、すこし間遠《まどう》になっていた。
「おれなどが、お心を察《さっ》するのはあまりに不遜《ふそん》だが、セィミヤさまも、知らずにいたいとは思っておられないような気がする。
ダミヤのことも、ご自身の血筋《ちすじ》のことも、あまりに残酷《ざんこく》なことばかりだが、それでも、お知らせせぬまま……このままにしておいてはいけない。 ──おれは、そう思う」
イアルがロを閉じると、静けさが王獣舎《おうじゆうしゃ》に満ちた。
エリンは、しばらく、うつむいてなにかを考えていたが、やがて、すっと顔をあげると、イアルを見つめた。
「あの男に邪魔《じゃま》されずに、セィミヤ陛下《へいか》にお目にかかる方法は、ありませんか」
イアルの目が、わずかに大きくなった。
エリンは、瞬《またた》かぬ目で、イアルを見つめ返した。
「セィミヤ陛下に、お話ししてみたいのです……様々なことを。そうすることで、なにか変わるか、わかりませんが、やってみたいのです」
イアルは顎《あご》に手をあてて、じっと考えこんだ。
かなり長いことそうしていたが、やがて、エリンに視線《しせん》をもどした。
「ひとつだけ、ある。……あなたなら、できるかもしれない」
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[#地付き]8 王祖の来し方
立ちのぼる湯気《ゆげ》で、岩屋の中は、たえず靄《もや》がかかったようになっている。
この天然《てんねん》の岩屋は、ずっと奥《おく》まで広がっており、奥のほうには地から熱湯《ねっとう》がぼこぼこと湧《わ》きだしている泉《いずみ》があった。そこから素焼《すや》きの筒《つつ》で湯を引いてきて、湯浴《ゆあ》み場《ば》が造《つく》られているのだ。
ここでくつろぐひとときが、セィミヤにとっては一日のうちでもっとも心が休まるときだった。薄《うす》い湯浴み衣《ころも》一枚になって、なめらかな石で囲《かこ》われた、たっぷりと湯が満ちている湯池につかり、湯気にぼんやりとにじんで見える灯《あか》りに浮《う》かびあがる岩肌《いわはだ》をながめていると、ずっと昔、母に抱《だ》かれていたときのような安らぎを覚《おぼ》える。
粉雪が降《ふ》る日などは、湯池の向こう、岩屋がすこし広くなっているあたりの天井《てんじょう》にぽっかりとあいている穴から、ちらちらと雪が舞《ま》いこむこともあったけれど、湯気《ゆげ》のおかげでこの岩屋では寒いと感じることはなかった。
セィミヤは、天窓《てんまど》と呼《よ》んでいるその穴から月が見える夜を、ことに好《この》んでいた。だから雨降りで天窓がふさがれてしまっている夜は、物足《ものた》りない気持ちになる。
湯気《ゆげ》が集まって、ゆらめく白い柱のようになって天窓に昇《のぼ》っていくさまは、美しかった。
セィミヤがぼんやりと、湯気が立ちのぼっていくさまをながめていると、ふいに、上から強い風で押《お》されたように湯気の柱が乱《みだ》れて拡散《かくさん》しはじめた。
なにごとかと視線《しせん》を上にあげた瞬間《しゅんかん》、巨大《きょだい》な黒いものが、天窓から舞《ま》いおりてきた。ばさばさと大きな翼《つばさ》がはばたくたびに、湯気《ゆげ》が押《お》されて、白濁《はくだく》した湯を掻《か》きまぜているような模様《もよう》が岩屋全体に広がっていく。
おつきの女官《にょかん》たちの悲鳴《ひめい》が岩壁《がんぺき》に反響《はんきょう》する中、床《ゆか》に舞《ま》いおりて翼をたたんだ王獣《おうじゅう》の背から、小さな人影《ひとかげ》が滑《すべ》り降《お》りた。
「……真王《ヨジェ》セィミヤ陛下《へいか》!」
女の声が、湯気の中を伝わってきた。
「無礼《ぶれい》をおゆるしください。危害《きがい》を加える気はございません。お話ししたいことがございまして、無礼とは知りつつ、このような方法でまいりました」
女官たちの悲鳴を聞きつけたのだろう。岩屋の入り口のほうから、|堅き楯《セ・ザン》たちがなにごとかと尋《たず》ねている緊迫《きんぱく》した声が聞こえてくる。
セィミヤは王獣を見つめたまま、女官たちに厳《きび》しい声で言った。
「騒《さわ》ぐでない。そのまま外におれと|堅き楯《セ・ザン》に伝えよ」
そして、すっと背を起こし、湯気の向こうでひざまずいている人影《ひとかげ》に呼《よ》びかけた。
「そなたは、エリンと申《もう》す獣《けもの》ノ医術師《いじゅつし》か」
「はい、エリンでございます。ご無礼《ぶれい》の段、どうかおゆるしください」
「ともかく、近《ちこ》う寄《よ》って、話すがよい」
額《ひたい》を岩床《がんしょう》につけてお辞儀《じぎ》をしてから、人影は立ちあがった。そして、王獣《おうじゅう》をふり返ると、小さな声でなにか言ってから、湯池の縁《へり》をまわって、近づいてきた。
岩壁《がんぺき》のくぼみに据《す》えられている灯《あか》りに、その顔が浮《う》かびあがると、セィミヤは興《きょう》を覚《おぼ》えたような目で、しげしげと見つめた。
「ほんとうに、瞳《ひとみ》が緑色なのね」
思わずロから漏《も》れたのだろう。それまでのよそよそしさのない、少女のような口調《くちょう》だった。
エリンは、その場で正座《せいざ》をし、もう一度、深くお辞儀《じぎ》をした。
「どうしても、陛下と、じかにお話ししたいことがございまして、まいりました」
最初の驚《おどろ》きは薄《うす》れて、セィミヤの顔に、やわらかな笑《え》みが浮かんだ。
「そなたは、神々《アフォン》の恵《めぐ》みを受け、稀有《けう》な才《さい》を持って生まれた娘《むすめ》なのだそうね。この危難《きなん》を救《すく》うために、神々《アフォン》が、わたしのもとに遣《つか》わしてくれたのだと、ダミヤから聞いています。
近いうちに、ぜひ、そなたを招《まね》こうと思っていたのよ。このような方法をとらずとも、謁見《えっけん》を申《もう》しでれば、すぐに叶《かな》えたものを」
エリンは顔をあげた。
「畏《おそ》れながら、陛下《へいか》にじかにお目通《めどお》りをしてはならぬと、ダミヤさまから、きつく命ぜられておりましたので、こうする以外、お話をする道がなかったのでございます」
セィミヤの目が、かすかに大きくなった。
「おじさまが? ……なぜ」
エリンは、セィミヤを見つめた。
「わたくしが、いまは亡《な》きハルミヤ陛下《へいか》から伝えられたご意思《いし》を、セィミヤ陛下にお伝えすることを、恐《おそ》れられたのだと思います」
セィミヤの瞳《ひとみ》が、動かなくなった。石のように硬《かた》い瞳をエリンに据《す》えていたが、その目には、エリンの顔は映っていなかった。
長い沈黙《ちんもく》のあと、セィミヤは言った。
「そなたが話したいことというのは、お祖母《ばあ》さまのお言葉なのね」
「それもございます。それ以外のこともございます。 ──畏《おそ》れながら、セィミヤ陛下《へいか》は、ハルミヤ陛下が、わたくしと交《かわ》わしてくださったお約束を、ご存《ぞん》じでいらっしゃいますか?」
「……知らぬ。お祖母《ばあ》さまが、そなたと、なにを約《やく》したというの」
エリンは、静かな声で言った。
「ハルミヤ陛下《へいか》は、わたくしに、王獣《おうじゅう》で御身《おんみ》を守らなくてもよいとおっしゃられたのです。再び闘蛇《とうだ》に襲《おそ》われるかもしれぬ危険《きけん》をお感じでいらっしゃったにもかかわらず、です」
予期《よき》していたのとは、まったくちがう言葉だったのだろう。セィミヤは、虚《きょ》をつかれたような顔をした。
「……王獣による守護《しゅご》を、お断《こちわ》りになった?」
「はい」
「なぜ?」
「わたくしが、ハルミヤ陛下にお話ししたことを、お信じくださったからでしょう」
眉《まゆ》をひそめて、セィミヤは、つぶやくように言った。
「そなたの話?」
「わたくしの母方の民《たみ》が、長く心に刻《きざ》み、伝えてきた話でございます。
ハルミヤ陛下は、それが、焼失《しょうしつ》してしまった王祖《おうそ》の歴史を伝えている話であると、お信じくださったのです」
深く息を吸《す》い、エリンは言った。
「それは、はるかなる|神々の山脈《アフォン・ノア》の彼方《かなた》で起こった、人というものの性《さが》に絶望《ぜつぼう》せざるをえなくなるようなお話でございます。あなたさまの祖先《そせん》の話でございます。セィミヤ陛下、この話を、お聞きになりますか?」
セィミヤは、顔をくもらせて、エリンを見つめていたが、やがて、かすかに唇《くちびる》を動かした。
「……話すがいい」
うなずいて、エリンは語りはじめた。
冬の森で、母の民《たみ》の男が語った、遠い昔の出来事を。
|神々の山脈《アフォン・ノア》の白き峰々《みねみね》の彼方《かなた》には、太古《たいこ》の昔から、いくつもの王国が栄《さか》えていたそうでございます。
その王国のひとつに、オファロンという国がございました。
良港に恵《めぐ》まれたこの国は、もともとは小さな国でありましたが、民が飢《う》えることのない豊かな国で、海の彼方《かなた》の国々と、こちら側の国々を結《むす》ぶ交易《こうえき》の要衝《ようしょう》として繁栄《はんえい》していたのだそうです。
しかし、あるとき、この交易の利益《りえき》を欲《ほっ》した隣国《りんごく》の王が、オファロンを攻《せ》めようとしている、という噂《うわさ》が、オファロン王の耳に届きました。
豊かな国ではあっても、オファロンは小国。隣国に攻《せ》めこまれれば、三月とたたぬうちに蹂躙《じゅうりん》されてしまうかもしれぬ。この危難《きなん》をいかにきりぬけるかIと苦悩《くのう》していた王に、サコルという重臣《じゅうしん》が、|緑ノ目ノ民《トガ・ミ・リョ》の力を借《か》りてはどうか、と進言したのです。
|緑ノ目ノ民《トガ・ミ・リョ》は、もともとは、はるか海の彼方《かなた》の異国の民《たみ》で、政権争いに負けて故国《ここく》を追《お》われ、わずか三|隻《せき》の船でオファロンに流れついた人々でした。獣《けもの》の扱《あつか》いと医術《いじゅつ》に優《すぐ》れている彼らを、歴代《れきだい》の王は手厚く加護《かご》し、都の一角に彼らの町をつくることさえ許《ゆる》していたのだそうです。
サコルは、オファロンに暮《く》らす多様な民を統括《とうかつ》する責任者でした。このサコルは、|緑ノ目ノ民《トガ・ミ・リョ》が野生《やせい》の闘蛇《とうだ》を飼《か》い馴《な》らし、戦《いくさ》に使えるよう調教《ちょうきょう》していることを、王に告《つ》げたのでした。
王は、闘蛇などが、どれほどの力になるか怪《あや》しみましたが、火急《かきゅう》のことゆえ、とにかく国境の守りを、任せてみることにしたのです。
結果は、当の|緑ノ目ノ民《トガ・ミ・リョ》たちでさえ予想していなかったほどの、目ざましいものでした。|緑ノ目ノ民《トガ・ミ・リョ》が乗った、わずか数十の闘蛇は、なんと千騎もの騎馬《きば》|武者《むしゃ》を、あっというまに蹂躙《じゅうりん》し、敵の戦列《せんれつ》を食い破《やぶ》って、大将を討《う》ちとってしまったのです。
王は、この大勝利に狂喜《きょうき》しました。
|緑ノ目ノ民《トガ・ミ・リョ》に広大な土地と、潤沢《じゅんたく》な金を与《あた》え、闘蛇をどんどん増やすようにと命じ、サコルには闘蛇軍の将の地位を与えたのです。 ──これが、悲劇《ひげき》の始まりでした。
オファロンは、万という数の闘蛇《とうだ》を調教《ちょうきょう》し、その圧倒的《あっとうてき》な武力《ぶりょく》を背景に、またたくまに周辺の国々を征服《せいふく》していきました。王の権力《けんりょく》は絶頂《ぜっちょう》に達《たっ》しましたが、国の内側には、強権によって征服された多くの国々の民《たみ》の怨嗟《えんさ》の声が満ちていったのです。
しかし、小国の政《まつりごと》しか知らず、広大な版図《はんず》を治《おさ》める術《すべ》を知らぬオファロン王は、まるで、ぼこぼこと腐敗《ふはい》した泡《あわ》を噴《ふ》きあげる沼《ぬま》の上を分厚い鉄板でおおうように、民の不満を、ただ弾圧《だんあつ》によって抑《おさ》えつけることで、平定しようといたしました。
民の惨状《さんじょう》を目《ま》のあたりにして、サコルと、|緑ノ目ノ民《トガ・ミ・リョ》たちは、激《はげ》しい後悔《こうかい》の念に苛《さいな》まれました。自分たちが、闘蛇《とうだ》を用いて王を救《すく》った結果、かつての、異民族を鷹揚《おうよう》に受け入れる国は消え、圧政《あっせい》で成り立つ大国が生じてしまったのですから。
ついにサコルは決意し、|緑ノ目ノ民《トガ・ミ・リョ》とともに、叛乱《はんらん》の狼煙《のろし》をあげます。
闘蛇を自在《じざい》に操《あやつ》る軍勢の叛乱に、王が、かなうはずもありません。
王は家族、親族とともに、わずかな家臣《かしん》に守られて、|神々の山脈《アフォン・ノア》の険《けわ》しい峡谷《きょうこく》へ逃《に》げこみ、闘蛇の追撃《ついげき》を、辛《から》くも逃《のが》れたのでした。
そのとき峡谷に隠《かく》れ潜《ひそ》んだのは、王の一族と家臣、二百名ほどだったそうです。彼らはそれから十年という歳月《さいげつ》を、その峡谷《きょうこく》で息を潜《ひそ》めて暮《く》らしました。
この世の富を一身に集めた暮らしから、日々の食べ物にさえ事欠《ことか》く、険《けわ》しい山中での暮らしへの転落《てんらく》は、彼らの心に激しい恨《うら》みの念《ねん》を生みました。その恨みを、生きる糧《かて》としながら、寒さと飢《う》えに耐《た》えて、十年という歳月《さいげつ》を過《す》ごしたのです。
その暮《く》らしのなかで、彼らは、峡谷《きょうこく》に住む奇妙《きみょう》な狩人《かりゅうど》たちと知り合うことになりました。輝《かがやく》く髪《かみ》と金色の瞳《ひとみ》を持ち、丈《たけ》高き彼らは、峡谷に住む巨大《きょだい》な翼《つばさ》ある獣《けもの》を馴《な》らし、自在に操《あやつ》ることで、狩りをしながら暮《く》らしていたのです。
彼らの頭《かしら》は男でしたが、祭司《さいし》は若い娘《むすめ》でありました。
ある日、王の息子《むすこ》は、信じられぬ光景《こうけい》を目のあたりにします。翼ある獣が、野生《やせい》の闘蛇《とうだ》に襲《おそ》いかかり、供物《くもつ》を食《く》らうかのように、引《ひ》き裂《さ》いて食らう光景を。
その話を息子から聞いた王は、狩人たちの頭《かしら》のもとを訪《おとず》れ、取引《とりひき》を申し入れたのです。
「翼《つばさ》ある獣《けもの》を数多く育て、その力をもって国をとり返してくれたなら、そなたたちを、この国の王にしよう」と。
王の恨《うら》みは深く、たとえ王権と引《ひ》き換《か》えにしてでも、自分たちから国を奪《うば》った者たちに復讐《ふくしゅう》をしたいと望んだのです。
この申《もう》し出を、狩人の頭《かしら》は断りました。自分たちは、いまのままで、充分《じゅうぶん》幸せである。国など、いらないと。
しかし、祭司《さいし》であった娘《むすめ》は、王の申し出に、頭とはちがう思いを抱《いだ》きました。一族の者たちが、一年の大半を雪に閉ざされている峡谷《きょうこく》の暮《く》らしから抜《ぬ》けだして、話でしか知らぬ光り輝《かがや》く大国オファロンで暮らすことができる……。
まだうら若き娘《むすめ》であったという、この祭司《さいし》が抱《いだ》いたのは、欲ではなく夢であったのかもしれません。それでも彼女は、とてつもない惨劇《さんげき》の幕をあける決意をしてしまうのです。
彼女は、これは神々の導《みちび》きであると説《と》いて若者たちを集め、オファロン王が王獣《おうじゅう》と名づけた獣《けもの》を増やし、十年ののちには、二千頭の王獣部隊をつくりあげることに成功しました。
天を薄暗《うすぐら》く雪雲がおおう、真冬。
二千頭の王獣《おうじゆう》が灰色の雲に紛《まぎ》れて天空を飛び、それぞれに、日のあたる王国を夢見る金色の瞳《ひとみ》の戦士と、恨《うら》みを骨に刻《きざ》んだ王族を背に乗せて山脈《さんみゃく》を越《こ》え、一気に、オファロンに攻《せ》めこんだのです。
闘蛇《とうだ》と王獣《おうじゅう》の戦《いくさ》は、それはそれはすさまじい殺戮《さつりく》の応酬《おうしゅう》となりました。
いったん、殺戮が始まると、互《たが》いに天敵である闘蛇と王獣は、背に乗る人々の思惑《おもわく》も制止《せいし》も無視《むし》して血にくるい、平野も浜辺《はまべ》も丘陵《きゅうりょう》も、そして、最後には村や町までも、逆上《ぎゃくじょう》した闘蛇と王獣の牙《きば》によって蹂躙《じゅうりん》され、血みどろの沼地《ぬまと》と化したのです。
殺戮《さつりく》は、都が火の海となって滅《ほろ》び去《さ》るまで終わることはありませんでした。
戦が終わったとき、うららかな陽光に満ちた王国を夢見た娘の前に広がっていたのは、腸《はらわた》をちぎられ、首や手足を噛《か》みちぎられた死骸《しがい》が、延々《えんえん》と、視界《しかい》の果《は》てまで散乱《さんらん》しているさまと、黒煙《こくえん》をあげて燃《も》え崩《くず》れていく都の光景《こうけい》でした。
もはや、そこには、国はありませんでした。
わずか二千の王獣《おうじゅう》と、数万の闘蛇《とうだ》。 ──ふつうの戦《いくさ》であれば、兵士のみが死んで終わるはずの戦が、たったそれだけの獣《けもの》の力が加わったことによって、広大な大国を焦土《しょうど》に変えてしまったのです。
|神々の山脈《アフォン・ノア》の彼方《かなた》に栄《さか》えていた国は、こうして滅《ほろ》び、無数の死者の血と腸《はらわた》が汚泥《おでい》となり、怨念《おんねん》のこもった土地は、呪《のろ》われた地となり、二度と再び国は興《おこ》らず、いまは人の手の人らぬ森が延々《えんえん》と広がっているそうです。
エリンが口を閉じても、セィミヤと女官《にょかん》たちは呆然《ぼうぜん》とした表情《ひょうじょう》を浮《う》かべたままだった。
長い話のあいだに、湯池から出て縁《へり》の石に座《すわ》っていたセィミヤは、ふいに寒さを感じたかのようにふるえて、もう一度、身体《からだ》を湯池に滑《すべ》りこませた。
エリンは、すこしでも楽になるように、膝《ひざ》の位置をそっと変えながら、そのあとのことを語った。
「この戦を生きのびたわずかな人々は、思い思いの方向へ散ち《》っていったそうです。
|緑ノ目ノ民《トガ・ミ・リョ》は、この滅亡《めつぼう》のきっかけをつくってしまった獣《けもの》を操《あやつ》る技《わざ》を、滅《ほろ》びを招《まね》く技として封《ふう》じ、二度と再びこのような悲劇《ひげき》を起こさぬよう、厳《きび》しい戒律《かいりつ》を守りながら世の終わりまで放浪《ほうろう》を続ける民《たみ》となりました。 ──彼らが、|霧の民《アーリョ》と呼《よ》ばれている、わたくしの母方の民《たみ》、|戒律ノ民《アォー・ロウ》でございます」
薄《うす》い肩《かた》を抱《いだ》き、セィミヤはつぶやいた。
「では、わたしの祖先《そせん》は……」
エリンは、セィミヤの目を見つめながら、静かな声で言った。
「王獣《おうじゅう》を操《あやつ》った、丈《たけ》高き金色の瞳《ひとみ》の狩人《かりゅうど》たちは、一族をすさまじい殺戮《さつりく》へと導《みちび》いた娘《むすめ》が再び故郷《こきょう》の峡谷《きょうこく》へ帰ることを許《ゆる》しませんでした。……彼女の名は、ジェ。|神々の山脈《アフォン・ノア》を越《こ》えて、この国の王祖《おうそ》となった、あなたさまの祖先でございます」
呆然《ぼうぜん》と話を聞いていた女官《にょかん》たちは、自分たちが、いま、なにを聞いたのか悟《さと》ったとたん、さっと青ざめた。
しかし、セィミヤは、さして驚《おどろ》いたふうもなく、むしろ、不思議《ふしぎ》そうにエリンを見ていた。
「………そなた、そんな話を、わたしに信じょと言うの」
エリンは静かに問うた。
「お信じになれませんか?」
セィミヤは、ふっと笑った。
「あたりまえでしょう。お祖母《ばあ》さまが、こんな話を信じたというのも、わたしには、胡散《うさん》|臭《くさ》く思えるわ」
エリンは、しばし黙って、セィミヤを見つめていた。陶器《とうき》のようになめらかな肌《はだ》に、湯の温かさが伝わってきたのだろう。ほんのりと上気《じょうき》している。
この人は、まだ、これほど若いのだ、と、エリンは思った。自分より、ふたつ年上だと聞いているが、とても二十歳《はたち》を過《す》ぎているようには見えなかった。
この人に多くを知らせぬまま、真綿でくるむようにして、この国の王権を守ろうとしているダミヤの気持ちが、わかるような気がした。
(でも、あの人は、たぶん、この方を見誤《みあやま》っている……)
この人は、ダミヤの思うままになるほど、やわではない。少女のような、つぶらな瞳《ひとみ》の奥《おく》に、エリンは、冷静《れいせい》な大人のまなざしを見ていた。
「なぜ……」
エリンは言った。
「わたくしが、作り話をせねばならないのでしょうか」
セィミヤは、冷《つめ》たい笑《え》みを浮かべた。
「それをね、さっきからずっと考えていたのよ。 ──たとえば、そなたがイアルと通じていて、イアルが大公《アルハン》と通じているのなら、すっと筋が通るわね」
エリンは、はっとした。なるほど、言われてみれば、そういう捉《とら》え方《かた》もできる。
エリンの瞳がゆれたのを見て、セィミヤの笑みが深くなった。
「湯浴《ゆあ》みのときを狙《ねら》えば、わたしに会えると、そなたに教えたのは、誰《だれ》? ……イアルでしょう?」
冷笑《れいしょう》しながら追いつめてくるようなその言い方にむっとして、口を開こうとしたとき、背後から、爪《つめ》が岩に触《ふ》れる硬《かた》い音が聞こえてきた。セィミヤと女官《にょかん》たちが、エリンの背後に視線《しせん》を据《す》えて、ぎょっとしたように腰《こし》を浮《う》かした。
ふり返ると、リランが湯池に入ろうとしているのが見えた。
「だめよ、リラン!」
片脚《かたあし》をつけかけていたリランは、さっと脚をとめた。
「水じゃない。これは熱い湯よ」
もう一度言うと、リランは鼻先を湯池に近づけ、入るのをやめた。
その様子を見て、セィミヤが、首をふりながら笑いだした。
「……信じられないわ。まるで幼子《おさなご》のような仕草《しぐさ》をするのね」
リランに顔を向けたまま、エリンは言った。
「ときどき、ああして幼子のような仕草をしますが、王獣《おうじゅう》は、幼子などより、ずっと深い知性《ちせい》を持った、恐《おそ》ろしい獣《けもの》です」
セィミヤは、エリンに視線《しせん》を向《む》けた。
「あれは、そなたの言葉がわかるようね。どのくらい、意思《いし》を伝え合えるの?」
「互《たが》いに、なにをしたいのかを伝えることぐらいは、できます。でも……」
茫洋《ぼうよう》としたまなざしをリランに向けたまま、エリンは言った。
「たとえ、意思を伝え合うことができても、わたくしとリランのあいだには、どうしてもわかりあえぬ溝《みぞ》があるのです。見ている世界も、感じることも、わたくしとリランでは大きくちがう。
たとえば、リランには(いま) しかありません。明日という観念《かんねん》を、どうしても伝えることができませんでした。それに……」
自分のことを話しているのがわかるのだろう。リランも、じっとこちらを見ている。
「リランは、闘蛇《とうだ》を殺戮《さつりく》することに、なんの痛痒《つうよう》も感じません。雛を狙《ねら》う天敵である闘蛇を殺すことは、リランにとって、生まれつきそなわっている衝動《しょうどう》ですから」
エリンは、ゆっくりとセィミヤに視線《しせん》をもどした。
「でも、わたくしは、リランを、闘蛇を殺す道具にはしたくないのです。
七年もの歳月《さいげつ》をともに過《す》ごして、意思《いし》を伝え合える絆《きずな》を築《きづ》いてきたのは、リランを都合《つごう》のいい道具として使うためではありません。
わたくしは、王獣《おうじゅう》が音無し笛に縛《しば》られて、魂《たましい》を抜《ぬ》かれたようになって生きているのを見るのが、たまらなくいやだったのです。真王《ヨジェ》に捧《ささ》げられてしまった彼らは、二度と野には帰れない。でも、たとえ、野に帰すことができなくとも、王獣たちを、彼らを縛《しば》っている目に見えぬ鎖《くさり》から解《と》き放《はな》ちたかったのです。それなのに……」
怒《いか》りの衝動《しょうどう》がつきあげてきて、エリンは膝《ひざ》を握《にぎ》りしめ、セィミヤを見つめた。
「|降臨の野《タハイ・アゼ》でリランに奇跡《きせき》を演《えん》じさせてしまえば、わたくしは、彼らを解き放つどころか、いまよりずっと太い鎖《くさり》で縛《しば》ってしまうことになるのです。
恩師《おんし》を人質《ひとじち》にとられてさえいなければ、わたくしは、たとえ殺されても、こんな役目を演《えん》じたくありません」
セィミヤの目に、驚《おどろ》きの色が走った。
「恩師を……なんですって?」
「ダミヤさまは、わたくしが、神の奇跡《きせき》を演じるのを拒《こば》むなら、わたくしの恩師を殺すとおっしゃいました」
怒《いか》りに促《うなが》されるまま、エリンは、きつい声で言った。
「わたくしは、神々《アフォン》が、あなたさまのもとに遣《つか》わされた者などではございません。汚《きたな》い脅迫《きょうはく》をされて、わたくしは、ここにいるのです」
すっと、セィミヤの顔が青ざめた。
その顔を見たとたん、胸の底で、哀《かな》しみに似たなにかがゆれた。エリンは顔をゆがめながら、それでも、あえて、言葉をついだ。
「闘蛇《とうだ》を殺戮《さつりく》する武器として使われても、きっと、リランは苦痛《くつう》には感じない。 ──それを耐《た》えがたい苦痛に感じているのは、リランではなくて、わたくしです」
生温《なまあたた》かい風に、岩壁《がんぺき》の灯《あか》りが、ゆらゆらとゆれている。
「わたくしが、王獣《おうじゅう》を使うことを嫌悪《けんお》するのは、あの話のためでも、母の一族のためでも、この国の人々のためでもありません。
ただ、わたくしには、リランが見ることのない、感じることもない、人という生物が生《う》みだしている行為《こうい》の網《あみ》の目が見えていて……その中で自分が演《えん》じさせられる役割が、吐《は》き気《け》がするくらい、いやなのです」
それを聞いた瞬間《しゅんかん》、血の気のないセィミヤの顔に、なにか激《はげ》しいものが動いた。
なにも言わずに、セィミヤは、じっとエリンを見つめていた。エリンもまた、セィミヤを見つめていた。
己《おのれ》の中で、なにかが灰のように褪《あ》せて、細かく崩《くず》れはじめたのを、セィミヤは感じていた。崩《くず》してはならぬもの───崩れてしまえば、もはや、二度ともどらぬものが、消えていこうとしている。
その虚《うつ》ろさを抱《かか》え、それでも、自分は王なのだった。
だるさが骨まで泌《し》みるに任《まか》せて、セィミヤは、ぼんやりと、宙を見つめた。
「わたしも……」
セィミヤは、ぽつんと、つぶやいた。
「ずっと、人が生みだしている行為《こうい》の網《あみ》の目が見えていたわ。でも、わたしは、その中で自分が演《えん》じさせられる役割が、吐《は》き気《け》がするくらいいやだとは、けっして言えないのよ」
胸を叩《たた》かれたように、エリンは目を見開いた。
「………そなたの話がほんとうなら、ジェというのは、愚《おろ》かな女ね」
セィミヤは、薄《うす》く笑った。
「故郷《こきょう》を追われて、なお、王になる夢を捨《す》てられなかったのかしらね」
セィミヤの唇《くちびる》がふるえているのを見て、エリンは目を逸《そ》らした。
「はるか昔のことです。故郷を遠く離《はな》れたこの異郷《いきょう》の地で、彼女がどんな立場におかれたのか、知ることはできません。でも、わたくしは、彼女が苦《くる》しみ、迷《まよ》いながら、綱渡《つなわた》りのようにして、人も獣《けもの》も傷《きず》つくことのない国を、築《きづ》こうとしていたような気がします」
「……どうして、そんなふうに思うの」
「彼女が、王権《おうけん》の象徴《しょうちょう》として王獣《おうじゅう》を使いながら、一方で、王獣《おうじゅう》|規範《きはん》を書いたからです」
エリンは、すっとリランに目をやった。
「セィミヤさま、リランは、ほかの王獣とは、ずいぶんちがうと思われませんか」
セィミヤはリランを見つめ、目を細めた。湯気にしっとりと濡《ぬ》れた翼《つばさ》が、灯《あか》りを反射《はんしゃ》してきらめいている。
「そうね。これほど美しい王獣《おうじゅう》は、見たことがないわ。そういえば、この王獣でしょう? 子を産《う》んだという、奇跡《きせき》の王獣は」
「ええ」
エリンはうなずいた。
「放牧場《ほうぼくじょう》の王獣たちは、天を舞《ま》うこともなく、発情《はつじょう》することもなく、子を産《う》むこともありません」
眉《まゆ》をひそめ、セィミヤはエリンを見た。常識として知っていることだったが、あらためて耳にすると、その不自然《ふしぜん》さが胸に迫《せま》ってきた。
「なぜ……?」
「彼らは、王獣|規範《きはん》に従《したが》って育《そだ》てられているからです」
「…………」
「ご存《ぞん》じありませんか。王祖《おうそ》が書かれたという規範です。王獣を育《そだ》てる者は、その規範に沿《そ》うことを厳《きび》しく求められています。 ──このリランは……」
昔の記憶《きおく》が───闇《やみ》の中で身食《みぐ》いをしていた幼獣《ようじゅう》の瞳《ひとみ》が───心によみがえってきた。
「ハルミヤさまのお誕生日《たんじょうび》の宴席《えんせき》で矢を射《い》られ、身体《からだ》だけでなく、心にも傷《きず》を負《お》って、カザルム保護場《ほごじょう》へ送られてきたのです。わたくしは偶然《ぐうぜん》リランと出会い、育《そだ》てることになりました。そのとき、わたくしはまだ十四|歳《さい》で、王獣《おうじゅう》|規範《きはん》など知らなかった。ただ、リランには、音無し笛を使わず、特滋水《とくじすい》も使わず、野にあるように育《そだ》てようとしたのです」
セィミヤの目に、光が浮《う》かんだ。
「……つまり、王獣《おうじゅう》|規範《きはん》に沿《そ》わずに育《そだ》てたら、天を舞《ま》い、子を産《う》む、このように美しい王獣に育ったというのね」
「はい」
あらためてリランを見ながら、セィミヤはつぶやいた。
「なぜ、王祖《おうそ》は、そんな規範《きはん》を………」
「──王祖は、王獣を殖《ふ》やしたくなかったのだと思います」
セィミヤはエリンに目を向けた。その目には、エリンが言いたいことを理解《りかい》している光が浮《う》かんでいた。
「彼女が、ただ、己《おのれ》のために、堅固《けんご》な王権を維持《いじ》しようと望《のぞ》んでいたのなら、あんな規範を書くはずがありません。
|神々の山脈《アフォン・ノア》の彼方《かなた》からやってきた自分に、すがりついてきた人々を救《すく》うために王として立ちながら、彼女は皮肉《ひにく》な成り行きに苦《くる》しんだのではないでしょうか。
もう二度と、自分が招《まね》いてしまった惨劇《さんげき》をくり返したくない。でも、人々が奇跡《きせき》と信じている王獣《おうじゅう》を使えば、武力《ぶりょく》ではなく、清らかな神の威光《いこう》によって、人々をまとめることができる……」
エリンは、ため息《いき》をついた。
「王獣《おうじゅう》を飼《か》いながら、王獣を武器《ぶき》にしないために、彼女は王獣|規範《きはん》を生みだしたのだと、わたくしは思います。
人に飼《か》われた王獣が増えることがないように特滋水《とくじすい》を与《あた》えて発情《はつじょう》を抑《おさ》え、細やかに意思《いし》を伝え合う習性《しゅうせい》がある王獣と、人が、意思を伝え合ってしまうことがないように、世話《せわ》をする者に音無し笛を使わせて、目に見えぬ冷《つめ》たい壁《かべ》を、王獣と人のあいだに築《きづ》いた………」
こみあげてきたものが、喉《のど》をふさいだ。
「偶然《ぐうぜん》……ほんとうに偶然に、王獣《おうじゅう》|規範《きはん》など知らなかった十四|歳《さい》のわたくしが、リランと出会ってしまわなければ、王祖《おうそ》の願《ねが》いはずっと守られていたはずです。
リランとわたくしは、意思《いし》を伝え合うこともなく、空を舞《ま》うこともなく……」
ふいにセィミヤが口を開き、言葉をひきとった。
「……こうして、ここにいることもなかった」
二人は、しばし沈黙《ちんもく》した。
セィミヤは、億劫《おっくう》そうに湯池から出て、縁《へり》の石に腰《こし》かけ、ぼんやりとリランをながめた。
「神々の采配《さいはい》とは、こういうものかもしれない。そう思わない?」
あえかな陶器《とうき》の人形のような、かぼそい姿を見ながら、エリンは、唇《くちびる》を噛《か》みしめた。
そうかもしれない、と、答えてあげたかった。これ以上、この人を苛《さいな》むようなことを言いたくなかった。
エリンは目を閉じた。
それでも、偽《いつわ》りをロにすることは、どうしてもできなかった。
「………思いません」
エリンは、つぶやいた。
「ハルミヤさまの死が招《まね》いた、わたくしたちの邂逅《かいこう》を、神々の采配《さいはい》とは思いたくありません」
深く息を吸い、目をあけて、エリンは言った。
「わたくしには、ハルミヤさまの死を大公《アルハン》の仕業《しわざ》に見せかけ、こうなるように事態《じたい》を動かしてきた人の思惑《おもわく》にしか、見えません」
セィミヤの顔から、すうっと血の気がひいた。
「……そなた、なにを言っているの」
エリンは、セィミヤを見つめたまま、ハルミヤを襲《おそ》った闘蛇《とうだ》が大公《アルハン》のものではないと判断《はんだん》した理由を語った。
大公《アルハン》が行ったものでないなら、あの襲撃《しゅうげき》からは、まったく別の構図《こうず》が見えるのをイアルが悟《さと》ったこと。長年、イアルが探《さぐ》りつづけて知りえた事実。それを知ったために、イアルがどうなったか。
それらすべてが指《さ》し示《しめ》している人物の名を、エリンが口にしても、セィミヤは、雪のように白い顔を、まったく動かさなかった。
低い声で、セィミヤは言った。
「……なぜ、あの人が、お祖母《ばあ》さまを殺さねばならないの」
「ハルミヤさまが生きておられたら、あなたさまと、あの方が結《むす》ばれることを、お許《ゆる》しになったでしょうか」
その答えを開いても、セィミヤは瞬《まばた》きもしなかった。……それは、とうに、彼女の心に浮《う》かんでいたことなのだと、エリンは悟《さと》った。
金属の欠片《かけら》のように平淡《へいたん》な光を浮かべた目で、セィミヤはじっとエリンを見ていた。
やがて、その目に、凄絶《せいぜつ》な光が浮かんだ。
「そう。お祖母《ばあ》さまは、あの人を嫌《きら》っていた。 ──でも、あの人は、わたしにとっては、父であり、兄であり、この世で一番やさしい、大切な肉親《にくしん》なのよ」
セィミヤは目を閉じ、己《おのれ》の肩《かた》を抱《だ》いた。ぎゅっと肩をつかんだ手が、細かくふるえはじめた。
「……セィミヤ陛下《へいか》」
女官《にょかん》が、ためらいながら声をかけても、セィミヤは答えなかった。
長いこと、セィミヤはそうして、己《おのれ》の身体《からだ》を抱《だ》いていた。
そして、深く息を吐《は》くと、目をあけた。
セィミヤは立ちあがり、冷《ひや》ややかな目で、エリンを見た。
「|降臨の野《タハイ・アゼ》で、わたしの脇《わき》に立つがいい、エリン。……なにもせず、ただ、見ておればよい。そなたには、その自由を与《あた》えよう。 ──わたしには選びようもない、その自由を」
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[#地付き]9 虚《むな》しさの天地
月はとうに沈《しず》んでいたが、天にはかすかに、空明かりが残っていた。
瞳孔《どうこう》を猫《ねこ》のように広げているリランには、夜空は、人より明るく見えているのだろう。夜風に乗って飛んでいく動きには、闇《やみ》を探《さぐ》るような迷《まよ》いはなかった。
王宮を囲《かこ》む、黒々とした森の上を飛びこえ、そろそろ、ラザル王獣《おうじゅう》|保護場《ほごじょう》が見えてくるというとき、ふいに、リランが喉《のど》の奥《おく》で唸《うな》りはじめた。
顔をあげたエリンは、リランの頭のそばに、蛍《ほたる》のような光が渦巻《うずま》いているのを見た。蜂《はち》の羽音《はおと》のような低い耳ざわりな音が聞こえる。胸騒《むなさわ》ぎを誘《さそ》う、異様な音だった。
蛍のような光の群《む》れは寄《よ》り集まって、すうっと下へおりていく。群れが降下《こうか》していく先を目で追ったエリンは、森が切れたあたりで、小さな灯《あか》りをふっている、黒い人影《ひとかげ》に気づいた。一人ではない。数人の人影がたたずんでいる。
蛍色《ほたるいろ》の光は、いつしか、消えていた。
つかのま、迷《まよ》ったが、明らかに自分たちを呼《よ》んでいる人々を、無視《むし》することはできなかった。
リランの頬《ほお》に手をあてて、下の光を指で示すと、リランは意を汲《く》んで、すうっと降下《こうか》しはじめた。着地したリランの背から降《お》りるまえに、エリンにはもう、そこにたたずんでいる人々が誰《だれ》であるか、わかっていた。
頭巾《ずきん》をかぶり、森の影《かげ》のように静かな人々───母の一族が、じっと、こちらを見つめている。
リランが、不快《ふかい》そうに唸《うな》り声《ごえ》をたてている。
頭巾をかぶった男が音無し笛をロにあてたが、エリンはそれを、黙《だま》って見ていた。
音無し笛が吹《ふ》かれても、リランが硬直《こうちょく》しないのを見て、男は驚《おどろ》いた顔になった。
「……耳に、耳塞《みみふさ》ぎを入れているのです。飛んでいる最中《さいちゅう》に、誰かに音無し笛を吹《ふ》かれたら、大変なことになると思ったので」
リランの耳から耳塞ぎをとると、エリンは、地面に滑《すべ》り降《お》りた。
「音無し笛を、構《かま》えたままでいてください」
静かな声でそう言い、エリンは、灰色の人々を見つめた。
「わたしに、ご用ですか」
一人が、近づいてきた。背がかすかに曲がっている。老人のようだった。
頭巾《ずきん》をはねのけると、白髪頭《しらがあたま》が現れた。かすかな灯《あか》りしかなかったが、それでも、その顔は、はっとするほど、母に似ていた。
老女《ろうじょ》が、口を開いた。
「ソヨンの娘《むすめ》、エリン。孫《まご》であるおまえを、迎《むか》えにきたのだよ。わたしたちと一緒《いっしょ》に来ておくれ」
額《ひたい》からうなじまで、冷《つめ》たくこわばっていた。
エリンは、かすれ声でつぶやいた。
「どこへ」
「一族のところへ。ここにいたら……こういうふうに暮《く》らしていたら、おまえは、大罪《たいざい》を犯《おか》さねばならなくなるだろう? わたしたちのところへおいで。一緒に暮らしましょう」
夜気が肌《はだ》からにじみこんでくるような、静かな冷たさが、胸に広がった。
ああ、そうか……と思った。
ここを離《はな》れ───これまで暮《く》らしていた人の輪を離《はな》れ、母の一族とともに旅をしながら生きる道へ誘《さそ》うために、この人たちは、ここへ来たのか。
この人たちとともに行けば、たしかに、災《わさせわ》いをもたらすまえに、あけてしまった扉《とびら》を閉《と》じることができる。 ──そう思っても、心は冷《さ》めたまま、動かなかった。
エリンは、首をふった。
「一緒《いっしょ》に、行く気にはなれません」
祖母《そぼ》の顔に、哀《かな》しみと、苦痛《くつう》の色が浮《う》かぶのを見たとたん、胸に、刺《さ》されたような痛《いた》みが走った。
灰色の人々が発している無言の非難《ひなん》と、激《はげ》しい落胆《らくたん》が───闇《やみ》の中に群《む》れている亡霊《ぼうれい》たちの哀《かな》しみが───肌《はだ》を締《し》めつける重い痛みとなって迫《せま》ってきた。
「おまえは、災《わざわ》いの扉《とびら》を開く罪人《ざいにん》になる道を選ぶというの?」
ふるえる声で、祖母は言った。
「おまえは、そういう人間に、育《そだ》ってしまったのかい」
祖母はしばらく問いかけるようにエリンを見つめていたが、エリンが答えようとしないのを見届《みとど》けると、肩《かた》を落とし、ため息をついた。
「そう。……おまえの命を助けたことを、きっと、ソヨンの霊《れい》は悔《く》いているだろうね」
それを聞いたとたん、頭の芯《しん》が痺《しび》れた。
エリンはすっと息を吸《す》い、祖母《そぼ》を見つめ、くいしばった歯のあいだから言葉を押《お》しだした。
「娘《むすめ》を助けたことを、死んでまで、母が悔《く》いているようなら、わたしは、母をそんなふうに育《そだ》てたあなた方を、心から憎《にく》みます」
叩《たた》かれたように、祖母が顔をひいた。
「母が、なにを罪《つみ》と思っていたのか……あなた方が、なにを罪と思っているのか、知っているし、あなた方が災《わざわ》いを防《ふせ》ぐために、どれほどの思いで戒律《かいりつ》を守ってきたのかも、察《さっ》することはできます。 ──でも、わたしは、そんなふうに罪《つみ》という言葉で人を縛《しば》るやり方が大嫌《だいきら》いです」
これまで胸の底に溜《た》まっていた思いが、堰《せき》を切ったようにあふれだし、とまらなかった。
「音無し笛で王獣《おうじゅう》や闘蛇《とうだ》を硬直《こうちょく》させるように、あなた方は、罪《つみ》という言葉で人の心を硬直させている。そんなやり方は、吐《は》き気《け》がするくらい、嫌《きら》いです」
灰色の頭巾《ずきん》をかぶったままの男が一歩前に出て、祖母《そぼ》の肩《かた》をつかんだ。
「……行きましょう」
低い声で、男が言った。
「この娘《むすめ》は、だめです。自分の感情《かんじょう》を最善《さいぜん》のものと信じている。なにを言っても、聞かないでしょう」
つかのま、問いかけるような目で、祖母が自分を見たのを、エリンは感じた。泌《し》みるような痛《いた》みが胸に広がっていたが、エリンは無表情《むひょうじょう》のまま、祖母の顔に深い落胆《らくたん》の色がにじむのを見つめていた。
怒《いか》りと嫌悪《けんお》をこめて、母の一族が自分に背を向け、歩み去《さ》っていくのを、エリンは黙《だま》って見つめていた。
人の姿がなくなった野に、生ぬるい夜風が渡《わた》っていく。
エリンは、夜空を見上げた。
銀砂《ぎんしゃ》をまいたような、満天《まんてん》の星空だった。
分厚い板のように胸につかえている重さを吐《は》きだすことができずに、エリンは泣《な》いた。
(おかあさん……)
あなたは、わたしがこんな人間に育《そだ》ったことを、哀《かな》しむだろうか。
わたしは、まちがった道を、進もうとしているのだろうか。
わたしはセィミヤのように、選ぶことのできぬ道の上に立っているわけではない。
リランを音無し笛で縛《しば》りたくないと思ったあの日から、己《おのれ》がもっとも心地《ここち》よいと感じる道を選んで、進んできただけだ。
野に生まれたものを、野にあるように育《そだ》てたかった。しかし、その一方で、リランを愛し、獣《けもの》と人の垣根《かきね》を越《こ》えた絆《きずな》が生まれていくことに、わくわくするような喜びを感じていた。
その選択《せんたく》の果《は》てに辿《たど》りついたのが、いまのこの場所なのだとわかっていても、自分が死をもって償《つぐな》わねばならぬ罪《つみ》を犯《おか》したとは、どうしても思えない。
それでもなお、胸を食《は》む虚《むな》しさは、消えていかなかった。
リランに感じている愛情は───一歩一歩、手探《てさぐ》りをしながら、リランに近づいていった努力《どりょく》は、なにに向《む》かっていたのだろう。なんの実りももたらさぬ、自己《じこ》|満足《まんぞく》にすぎなかったのだろうか。
そうかもしれない。かつてエサル師がおっしゃっていたことは、きっと、正鵠《せいこく》を射《い》ていたのだ。すべての生き物が共有《きょうゆう》している感情は、愛ではなく、恐怖《きょうふ》であるということ。それは、冷徹《れいてつ》な真理《しんり》なのだろう。
人は、獣《けもの》は、この世に満ちるあらゆる生き物は、ほかの生き物を信じることができない。心のどこかに、常《つね》に、ほかの生き物に対する恐怖《きょうふ》を抱《かか》えている。だから、己《おのれ》の生を消されぬよう、ほかの生き物を抑《おさ》えるために様々な工夫《くふう》を凝《こ》らし、様々な拘束《こうそく》の手段を生みだしてきたのだ。
武力《ぶりょく》で、法で、戒律《かいりつ》で、そして、音無し笛で、互《たが》いを縛《しば》り合《あ》ってようやく、わたしたちは安堵《あんど》するのだ……。
生き物の性《さが》に目を凝《こ》らしても、見えてくるのは、こういう虚《むな》しさだけなのだろう。
たとえ、無事《ぶじ》にカザルムへ帰ることができたとしても、もう二度と、自分は学童《がくどう》の前に立つことはなかろう、とエリンは思った。
生き物の性《さが》に、虚《むな》しさしか感じられない者が、子どもらになにを語れよう。
人も獣《けもの》も虫も、あらゆるものは、闇《やみ》の中に輝《かがや》く小さな光点にすぎない。 ──不信《ふしん》という闇に囚《とら》われた、無数の光点の群《む》れだ。
エリンは、銀砂《ぎんしゃ》をまいたように星が散《ち》らばる暗い空を見上げ、背後でリランがたてている鞴《ふいご》のような呼吸音《こきゅうおん》を、ただ、じっと聞いていた。
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[#(img/02/02_381.jpg)]
[#地付き]1 払暁《ふつぎょう》
夜半から強くなった風は、払暁《ふつぎょう》となっても衰《おとろ》えず、天幕を絶《た》えず鳴《な》らしている。
目はとうにさめていたが、シュナンは横たわったまま、風の音を聞いていた。
父も、隣《となり》の天幕で、人が咽《むせ》ぶようなこの風の唸《うな》りを聞いているのだろう。天と地を渡《わた》りながら泣《な》いている風の声は、三百年の昔、この|降臨の野《タハイ・アゼ》で散《ち》った亡霊《ぼうれい》たちの声なのか。それとも、この野から始まった、三百年の歴史を閉じようとしている、あのたおやかな女人《にょにん》の恨《うら》みの声か。
ひとつ、深く息を吸《す》ってシュナンは身を起こした。
従者《じゅうしゃ》を呼《よ》ばず、自分で手早く身支度《みじたく》をととのえて立ちあがったとき、ふと、天幕の床《ゆか》に薄《うす》い紙が落ちているのに気がついた。
拾《ひろ》いあげると、短く三行、文が書かれていた。
[#ここから2字下げ]
──この日の訪《おとず》れを、待ちつづけておりました。
王となられますことを、心よりお喜び申《もう》しあげ、あらためて、堅《かた》き忠誠《ちゆうせい》を誓《ちか》います。
我《われ》ら陰《かげ》ながら、御身《おんみ》をお守り申《もう》しあげております。
[#ここで字下げ終わり]
闘蛇《とうだ》の鱗《うろこ》を象《かたど》った(|血と穢れ《サイ・ガムル》)の印が、朱印《しゅいん》で押《お》されているその紙を、シュナンは握《にぎ》りつぶした。
天幕の向《む》こうで人影《ひとかげ》が動き、腹心の家臣《かしん》の声が聞こえてきた。
「……お目ざめでしょうか」
外へ出ると、家臣が、険《けわ》しい表情《ひょうじょう》を浮《う》かべて立っていた。
「なんだ」
「丘《おか》の上に、昨夜から、王宮の者たちが天幕を張《は》りはじめたことは、ご報告《ほうこく》いたしましたが、夜明けすこしまえに、闇《やみ》に紛《まぎ》れて、大きな台車《だいしゃ》が丘を登り、真王《ヨジェ》用の天幕の脇《わき》の、大きな天幕の中に運びこまれたとの報告がまいりました」
風になぶられる髪《かみ》を押《お》さえながら、シュナンは丘を見上げた。
太陽を孕《はら》んだ大地の輪郭《りんかく》がうっすらと明るみ、なだらかな丘陵《きゅうりょう》を、黒く浮《う》かびあがらせている。その頂上《ちょうじょう》にいくつか、小さな天幕の影《かげ》があった。
「……ハルミヤ陛下《へいか》が闘蛇《とうだ》に襲《おそ》われたとき」
家臣が低い声で言った。
「王獣《おうじゅう》が天を舞《ま》い、陛下をお守りしたという噂《うわさ》がございます」
シュナンは茫洋《ぼうよう》としたまなざしで、丘陵《きゅうりょう》を見つめたまま、答えなかった。
「もし、運びこまれたのが王獣《おうじゅう》でございますれば……」
そのとき、ふっとシュナンの唇《くちびる》に笑《え》みが浮《う》かんだ。
「───兵《つわもの》の屍《しかばね》、野に満ちて、哀《かな》しみの声、天に届《とど》けり。
見よ、金の髪《かみ》の神、|神々の山脈《アフォン・ノア》の彼方《かなた》より、この地に下る。
野にある闘蛇《とうだ》は頭《こうべ》を垂《た》れて道をつくり、王獣《おうじゅう》は天を舞《ま》って、神人《しんじん》を守れり……」
口の中で、つぶやくように吟《ぎん》じて、シュナンは、家臣《かしん》に目をやった。
「我《われ》らは、戦《いくさ》をするためにここにいるのではない。神々のご意思《いし》を確《たし》かめるために、ここにいるのだ。まこと、王獣が真王《ヨジェ》を守るような奇跡《きせき》が起《お》きるか、しかと見届《みとど》けようではないか」
隣《となり》の天幕から、父が姿を現すのを見ながら、シュナンは、静かに言った。
「さあ、時が来た。陣《じん》を整《ととの》えよ」
シュナンが丘《おか》をながめていたころ、その丘の南側の斜面《しゃめん》に広がっている林の古木《こぼく》の上で、イアルは、浅いまどろみからさめた。
古木はしっかりと根を張った大きな木だったが、それでも、ひと晩中、風にゆれ、梢《こずえ》が身体《からだ》にあたり、眠《ねむ》らせてくれなかった。
(この風が、やんでくれなければ……)
弓矢の精度《せいど》は著《いちじる》しく落ちる。危険《きけん》を承知《しょうち》で、近づくしかない。
シュナンは、言葉どおり、闘蛇《とうだ》部隊を丘陵《きゅうりょう》の裾野《すその》に集結《しゅうけつ》させていた。密《ひそ》かに会うことができたカイルの話では、異国の兵に隙《すき》を狙《ねら》われることがないよう、集結している数は三分の一ほどで、残りの闘蛇部隊は次男のヌガンに預《あず》けてあるらしいが、それでも肌寒《はだざむ》くなるくらいの威容《いよう》だった。あの軍と対峙《たいじ》した緊迫《きんぱく》した状況《じょうきょう》のなかであれば、|堅き楯《セ・ザン》の武装《ぶそう》をまとった者が一人|紛《まぎ》れこむことぐらい、不可能ではあるまい。
長いあいだ、イアルがダミヤを探《さぐ》っていたことを知っているカイルは、イアルの身を案じてくれていた。崩壊《ほうかい》の予感に浮《う》き足立《あしだ》っている王宮の中では、これまで確かであると思われていたものがすべて不確かなものへと変わっていた。ぶよぶよと足もとがゆれるなかで、忠誠《ちゅうせい》というものの意味さえもわからなくなり、カイルは、|降臨の野《タハイ・アゼ》で真王《ヨジェ》の楯《たて》となって死ぬことを、恐《おそ》れはじめていた。
もっとも忠誠《ちゅうせい》を問われるときに、忠誠心がゆれはじめたことに戸惑《とまど》いながら、カイルは、イアルが望むまま、|堅き楯《セ・ザン》の武装《ぶそう》一式を手渡《てわた》してくれたのだった。
「おまえが、なにをするつもりなのか知らないが……」
カイルは、どこか投げやりな口調《くちょう》で言った。
「おまえが、そばにいると思えるだけで、すこしは心強いからな」
苦笑《くしょう》しながら、イアルは武装《ぶそう》を受けとった。
「こんな状況《じょうきょう》の中では、おれなど、大波にさらわれる藁《わら》のようなものだ。……だが」
ふいに笑《え》みを消して、イアルは静かに言った。
「自分の意思《いし》とは関《かか》わりなく、つまみあげられるようにして、放《ほう》りこまれた、この道だ。終わりくらい、自分の意思で見極《みきわ》めたい」
そう。なにをしようという、明確な考えがあるわけではなかった。ただ、今日、この|降臨の野《タハイ・アゼ》で起こることを、己《おのれ》の目で見て、己の行動を決めたかった。
ふっと、いまは亡《な》きハルミヤの、すっと背の伸《の》びた姿が心に浮《う》かんできた。
初めてお目にかかったとき、なんと背が高いのだろうと驚《おどろ》いたものだ。やさしく微笑《ほほえ》んでくださっているのに、親しく近づくことを許《ゆる》さぬ神々《こうごう》しさを感じて、ただ頭をさげて、動けずにいた。
あの方をお守りするためだけに、生きてきた。 ──そして、とうとう、守りきることができずに、死なせてしまった。
あの方は、きっと無念《むねん》であっただろう。このようなときに、まだ若い孫娘《まごむすめ》に重責《じゅうせき》を負《お》わせて、この世を去《さ》らねばならぬことを、さぞ無念に思われたことだろう。
政《まつりごと》がいかに情とは無縁《むえん》なものであっても、肉親《にくしん》を、あのような残酷《ざんこく》な方法で死に至《いた》らしめたダミヤのやり方は、やはり、どうしても許《ゆる》せなかった。
枝のあいだから見える天は、群青《ぐんじょう》から、ゆっくりと薄《うす》い紫色《むらさきいろ》に変わりはじめている。
今日が、どのような終わり方をしようと、明日もまた、同じような夜明けが巡《めぐ》ってくるのだろう。
イアルは目を閉じた。
いまごろはもう、エリンは丘《おか》の上の天幕に到着《とうちゃく》しているはずだ。どんな思いで、いまを過《す》ごしているだろう。
風の音を聞きながら、イアルは長いことそうして、目を閉じていた。
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[#地付き]2 弦《げん》の調べ
「………日が、昇《のぼ》りました」
天幕の外から声が聞こえ、戸布がめくられて、両脇《りょうわき》から支《ささ》えられた。
戸をくぐって外に出たとたん、草の匂《にお》いのする風が身体《からだ》を持ちあげるように吹《ふ》きつけ、衣《ころも》をはためかせた。
目の前に開けた風景に、セィミヤは息をのんで、立ちつくした。
視界《しかい》の果《は》てまで広がる野に、曇天《どんてん》の雲間《くもま》から、幾筋《いくすじ》もの光が降《ふ》りそそいでいる。雲は重苦《おもくる》しい灰色をしていたが、日を孕《はら》んでいるところは鈍《にぶ》い銀色に輝《かがや》き、強い風に煽《あお》られて、細くたなびいて流れていく。魂《たましい》もまた、風に乗って広い野に運ばれてしまいそうだった。
「……泣くことはない、セィミヤ」
やさしい声が聞こえた。いつのまにか、ダミヤが、そっと守るように脇《わき》に立っていた。
言われて、セィミヤは、自分の頬《ほお》に涙《なみだ》が流れていることを知った。
「闘蛇《とうだ》があれだけ集まれば、たしかに、それなりの威容《いよう》だが、あれは、そなたの軍なのだ。恐《おそ》れることは、なにもないよ」
ダミヤの言葉に、セィミヤは首をふった。
「……闘蛇《とうだ》の軍など、見ていなかったわ」
なぜ、目に入らなかったのか不思議《ふしぎ》だったが、言われるまで、闘蛇の大軍は見えていなかった。黒々と鱗《うろこ》をつらねる闘蛇の群《む》れと、その背に乗った、煌《きら》びやかな鎧《よろい》をまとった戦士たち。たなびいている千の旗《はた》。そのすべてが、いままで、風景の一部にしか見えていなかった。
セィミヤの心をふるわせたのは、天と地の姿そのものだった。
生まれて初めて目にした、己《おのれ》が生まれた地の姿は、荘厳《そうごん》で美しく、なにより、信じられぬほど広大だった。
次から次へと涙《なみだ》が頬《ほお》を伝った。
この風景を、この年になるまで見ることのなかった自分───王という位の哀《あわ》れさが胸に迫《せま》り、涙をとめることができなかった。
風の向きが変わったのだろう。ふいに、闘蛇の匂《にお》いが濃《こ》くなった。
リランのうなじの毛が逆立《さかだ》っていく。
「闘蛇《とうだ》は、遠いところにいるわ。落ちついて」
すでに騎乗帯《きじょうたい》をつけ終えて、飛翔《ひしょう》の合図を待っているリランを見ながら、エリンは顔をくもらせた。闘蛇《とうだ》部隊が近づきはじめたら、リランを抑《おさ》えるのは、むずかしいかもしれない。
そのとき、天幕の外が、急に騒《さわ》がしくなった。そっと戸布に近寄ると、警護《けいご》の男たちの声が聞こえてきた。
「……なんだあれは。追加《ついか》部隊か」
「あの旗印《はたじるし》は、次男のヌガンのものだ。この大事に、留守居《るすい》をしておれなくなって、来てしまったのだろうよ」
戸布をあけて外に出ても、警護の兵はちらっとエリンを見ただけで制止《せいし》はしなかった。
肌寒《はだざむ》くなるような光景が広がっていた。
なだらかな丘《おか》の裾野《すその》を、闘蛇の大軍がびっしりとおおっている。
幼《おさな》いころ、何度か目にした闘蛇《とうだ》乗りの訓練《くんれん》とはまるでちがう、実戦の布陣《ふじん》だった。人も闘蛇も渾然《こんぜん》一体となって、黒い群《む》れに見える。
警護《けいご》の者たちの会話が途切《とぎ》れると、風の音しか聞こえなくなった。
夏の鳥たちも、虫たちも、突如《とつじょ》現れた闘蛇《とうだ》の大軍に驚《おどろ》いて、どこかに身を潜《ひそ》めてしまったのだろう。闘蛇の大軍もまた、あれだけの数の生き物がいるとは思えぬほど、音をたてず、ただ、黒々と群《む》れている。事が始まるまえの、緊張《きんちょう》を秘《ひ》めた、重苦《おもくる》しい静けさだった。
ふっと、脳裏《のうり》に、ずっと昔、目にした、蜂《はち》の分封《ぶんぽう》の光景《こうけい》がよみがえってきた。
女王蜂《じょうおうばち》と生きるために、一気に飛《と》び立っていったあの黒い群《む》れ………。
人もまた古い女王を捨《す》てて、ああして群《む》れを分けていく。蜂は、ただ分かれていくだけだが、人は古い女王を押《お》しつぶさずにはいられないのだ。
エリンは深く息を吸《す》った。 ──胸にこみあげてきたのは、哀《かな》しみによく似た、しかし、それよりも虚《うつ》ろな、なにかだった。
すでに整列《せいれつ》している部隊の脇《わき》、エリンから見て右手側に、たしかに奇妙《きみょう》な動きがあった。新たな闘蛇《とうだ》部隊が続々と到着《とうちゃく》して、陣《じん》に加わっていくのだ。さっき警護《けいご》の男が言っていた大公《アルハン》の次男の旗《はた》というのは、あの鱗《うろこ》|模様《もよう》の旗だろうか。新たに到着した軍勢《ぐんぜい》は、すでに整列していた軍勢よりもずっと数が多かった。
最前列中央にいる、ひときわ輝《かがや》く鎧兜《よろいかぶと》に身を包《つつ》んだ、二|騎《き》のもとに、新たにやってきた軍勢から、鱗模様の旗を背負った伝令《でんれい》の早馬《はやうま》が送られてくるのが見えた。
あの二騎が、大公《アルハン》と、長男のシュナンなのだろう。堂々《どうどう》と(牙《きば》)にまたがり、その背後には大公《アルハン》旗を掲《かか》げた旗兵が控《ひか》えている。
伝令の馬は、何度か、大公《アルハン》と次男のあいだを行ったり来たりしていたが、結局《けっきょく》、次男の軍は引き返すこともなく、そこにとどまった。
そこまで見届《みとど》けて、自分のいる天幕の周囲《しゅうい》に目を向《む》けると、セィミヤとダミヤの姿が目にとびこんできた。
二人は、眼下の光景をながめながら、なにか、ぽつぽつと話しているようだったが、ふと視線《しせん》を感じたように、ダミヤがこちらを見た。
「エリン」
ダミヤが声をかけてきた。
「リランの様子はどうだ」
エリンは、風になぶられて目に入ってくる髪《かみ》を押《お》さえた。
「……大丈夫《だいじょうぶ》です」
ダミヤは微笑《ほほえ》んだ。
「そうか。時が来たら、天幕を一気に左右に落とす。天が見えたら、リランに乗って飛ぶがよい」
エリンは答えず、セィミヤに目を向けた。セィミヤは、しかし、こちらを見ることもなく、茫洋《ぼうよう》としたまなざしで、闘蛇《とうだ》の大軍のほうをながめていた。
雲が流れて、ふいに、太陽が姿を現した。
とたんに、さあっと天と地が明るくなった。その光の中で、大公《アルハン》が右手をあげた瞬間《しゅんかん》、数百の戦笛《いくさぶえ》が一気に吹《ふ》き鳴《な》らされた。
大地が産声《うぶごえ》をあげたような響《ひび》きが湧《わ》きあがり、風に乗って、|降臨の野《タハイ・アゼ》をゆすり、聞く者の肌《はだ》を粟立《あわだ》たせた。
その音に、地がこすれるような響《ひび》きが混《ま》じった。 ──闘蛇《とうだ》が、進軍を開始したのだ。
ゆるやかに、黒い大波のように、丘《おか》をのぼって満《み》ちてくる大軍を見ながら、セィミヤは、不思議《ふしぎ》な思いに囚《とら》われていた。
ダミヤは、自分が、つい本音《ほんね》を口にしてしまったことに気づいているだろうか。
───あれは、そなたの軍なのだ───
かすかな苦笑《くしょう》がセィミヤの唇《くちびる》に浮《う》いた。
(あれを、わたしの軍として受け入れたとき、真王《ヨジェ》は、この世から消え去《さ》る)
消えるのは、この国の人々の心をおおっている目に見えぬなにかで、それは、いったん壊《こわ》れてしまえば、二度とよみがえらないだろう。
三百年ものあいだ、各世代の真王《ヨジェ》たちが守りつづけてきた、その清らかななにかを、捨《す》て去《さ》りたくはなかった。……しかし、ダミヤと結《むす》ばれても、それはもはや、守れまい。そのことが、胸に落ちた。
近々と迫《せま》ってくる、もう、しっかりと顔すら見分けられるようになったシュナンたちの姿を見ながら、セィミヤは、かたわらに立っている女官《にょかん》に言った。
「青い旗《はた》を、持っておいで」
ダミヤが、はじかれたように、セィミヤに顔を向けた。
「なにを……」
セィミヤは、ダミヤを見上げて、静かに言った。
「あなたと添《そ》うことはできないわ、ダミヤおじさま。 ──お祖母《ばあ》さまを殺すような心で、この国を治《おさ》めることを考えるあなたとは、けっして」
ダミヤの顔から、表情《ひょうじょう》が消えた。
わずかな沈黙《ちんもく》のあと、ダミヤは、ため息をついた。
「まえに、そなたにあげた、王宮の細工物《さいくもの》を覚《おぼ》えているかい」
急に、なにを言いだしたのかわからず、セィミヤは眉《まゆ》をひそめた。
「みごとだっただろう、あの箱庭は。……なあ、セィミヤ、大切なのは、精巧《せいこう》でゆるぎない型を作ることなのだよ。よい型を作ることができれば、人はその中で、心地《ここち》よく落ちついて、生きていくものだ」
それを聞くや、セィミヤは、さっとダミヤから顔をそむけ、のぼってくるシュナンに目を向けた。
「……いかに精巧《せいこう》で美しくとも」
セィミヤはつぶやいた。
「わたしは、動かぬ型の中で生きたくない」
醜《みにく》い闘蛇《とうだ》にまたがって、ゆっくりとのぼってくるシュナンの姿を見ながら、セィミヤは、低い声で続けた。
「わたしとシュナンのあいだに生まれる子は、この国の聖なるものと、穢《けが》れたるものとを背負って生まれてくる。……わたしの子は、神ではなく、人となるけれど、その子は、初めから、この広い天地を目にして、生きていくことでしょう」
セィミヤが、そのとき、ダミヤの顔を見ていたなら、その目に、哀《かな》しげな光が浮かぶのを見ることができただろう。
しかし、セィミヤがそれに気づいたのは、ダミヤが、手を動かしたあとだった。
女官《にょかん》の驚《おどろ》きの声で、はっとふり返ったセィミヤは、ダミヤが青い旗《はた》を手にしているのを見た。
「こんなものは、揚《あ》げさせないよ、セィミヤ」
幼《おさな》いころ、セィミヤが悪戯《いたずら》をしたときに、いつも浮《う》かべていた、困《こま》ったような笑《え》みを、ダミヤは浮かべていた。
「返しなさい」
手を差しだしたが、ダミヤは、笑《え》みを浮《う》かべたまま、動かなかった。
「|堅き楯《セ・ザン》!」
セィミヤは叫《さけ》んだ。
「ダミヤから、旗《はた》をとりなさい!」
しかし、周囲にいる|堅き楯《セ・ザン》は、まったく動かなかった。 ──いつのまにか、|堅き楯《セ・ザン》が二手《ふたて》に分かれ、片方が、もう片方の首筋に短剣《たんけん》を突《つ》きつけていたのだ。
「先見《せんけん》の明がある者と、ない者は、こういうときに、その命運《めいうん》を分《わ》けてしまうものだ」
おだやかな声でダミヤは言い、すっと視線《とせん》をエリンに向《む》けた。
「さあ、そろそろだ。天幕にもどってリランに乗るがいい。賢《かしこ》いそなたのことだ。どの闘蛇《とうだ》を真っ先に屠《ほふ》ればよいかは、言わずとも、わかっておるだろう。……お行き」
歯をくいしばって、エリンは、ダミヤを見つめていた。
ダミヤの目は石のように硬《かた》い光を浮《う》かべ、小揺《こゆ》るぎもしなかった。
自分の足ではないような足を、ゆっくりと動かして、背後の天幕に入ろうとしたとき、エリンは、ふと、それまで天幕の脇《わき》に立っていた|堅き楯《セ・ザン》の姿がないことに気がついた。
彼が立っていた空間に目をやった、その瞬間《しゅんかん》、黒い影《かげ》がすっと動き、あっと思うまもなくエリンとすれちがった。
すれちがいざま、その影の手から、光るものが飛んだ。
ふり返ったエリンは、白く残光《ざんこう》を引いて飛んだそれが、吸《す》いこまれるようにダミヤの右手に突《つ》き刺《さ》さるのを見た。
すべては、一瞬《いっしゅん》のことで、音すら聞こえなかった。
ダミヤの手から血が噴《ふ》きだすより早く、駆《か》け寄《よ》った影《かげ》は、ダミヤの背後にまわって、その首に腕《うで》をまわしていた。
「……エリン!」
その声が聞こえた瞬間《しゅんかん》、物音がもどってきた。
「旗《はた》を拾《ひろ》って、セィミヤ陛下《へいか》に差《さ》しあげてくれ」
エリンはつかのま、動けずに、呆然《ぼうぜん》と、その姿を見つめていた。イアルが、ダミヤを押《お》さえたのだとわかっても、身体《からだ》が痺《しび》れたようになって、動けなかったのだ。
「早く」
うなずくと、ようやく、魂《たましい》が身体《からだ》にもどってきたように、身体が動くようになった。エリンは二人のところへ駆《か》け寄《よ》って、ダミヤの足もとに落ちている旗《はた》を拾《ひろ》った。
ダミヤの腕から滴《したた》った血で、草が赤く濡《ぬ》れている。
一度、宙でふって泥《どろ》をはらってから、エリンは、その青い旗《はた》をセィミヤに手渡《てわた》した。
血の気《け》のない顔で、セィミヤは、旗を受けとるや、迷《まよ》いが生じるのを恐《おそ》れるかのように唇《くちびる》を引き結《むす》んで、すぐさまそれを高く掲《かか》げて、のぼってくる大公《アルハン》たちに示《しめ》し、打ちふった。
一瞬《いっしゅん》ののち、大公《アルハン》の脇《わき》にいた若者が、(牙《きば》)をとめ、兜《かぶと》を脱《ぬ》いだ。
信じられぬものを見るような表情《ひょうじょう》が、若者の顔に浮《う》かんでいた。
次の瞬間《しゅんかん》、最前列から歓声《かんせい》があがり、その歓声が、波のように後ろのほうまで伝わっていった。
地をゆるがすような歓喜《かんき》の声は、大軍の右翼《うよく》には伝わっていかなかったが、右翼が沈黙《ちんもく》していることに、歓喜の最中にある大公《アルハン》もシュナンも気づかなかった。
二人は、ともに兜《かぶと》を脱いで(牙)を降《お》り、旗持ちに(牙)を任《まか》せると、徒歩で丘《おか》をのぼりはじめた。
彼らが、あと数十歩ほどで丘の上に辿《たど》りつくという、そのとき、地響《じひび》きとともに、闘蛇《とうだ》の軍勢《ぐんぜい》がゆがんだ。 ──右翼の最前列にいた(牙)たちが、突如《とつじょ》、すさまじい勢《いきお》いで、大公《アルハン》とシュナンめがけて突進《とっしん》しはじめたのだ。尖兵《せんぺい》に残りの軍勢が従《したが》って、あっというまに二人を背後の軍勢から切《き》り離《はな》していく。
鱗《うろこ》の旗《はた》をなびかせた一|騎《き》が、天高く剣《けん》をふりあげて、一直線に大公《アルハン》へ向《む》かって駆《か》けてきた。馬より速い闘蛇《とうだ》の脚《あし》は、まるで宙を駆《か》けるように一気に斜面《しゃめん》を駆けのぼり、剣を抜《ぬ》いたばかりの大公《アルハン》の脇《わき》すれすれに駆けぬけた。
闘蛇《とうだ》がとまったとき、大公《アルハン》の首から血が噴《ふ》きあがり、がっくりと両膝《りょうひざ》が地についたかと思うと、うつ伏《ぶ》せにくずおれた。
「父上!」
悲鳴《ひめい》をあげるように叫《さけ》んで、シュナンが父を抱《だ》き起《お》こしたが、大公《アルハン》は、すでに事切れていた。
父の血にまみれて、ふり返ったシュナンの目に、兜《かぶと》の面頬《めんぼう》をあげた戦士の顔が、とびこんできた。
「……ヌガン」
まなじりが吊《つ》りあがり、異様《いよう》な形相《ぎょうそう》をしている弟の顔が、そこにあった。
「大公《アルハン》は忠臣《ちゅうしん》の位。この清らかな名を、逆賊《ぎゃくぞく》の汚名《おめい》にはさせぬ」
裏返った声でヌガンは叫《さけ》ぶや、父の血で濡《ぬ》れた剣《けん》を、再び天に向けてかざした。
大公《アルハン》を助けようと進んでくる軍と、それを防《ふせ》ぎとめようとする軍が激突《げきとつ》した。
大公《アルハン》を助けようとする兵士たちのなかには、「|血と穢れ《サイ・ガムル》! |血と穢れ《サイ・ガムル》!」と連呼《れんこ》している者たちもいた。闘蛇同士が相食《あいは》む、すさまじい戦《いくさ》が始まった。
闘蛇《とうだ》の群《む》れが、入り乱れて争うさまを、セィミヤたちは、声もなく見つめていた。 大公《アルハン》が斃《たお》れ、シュナンもまた、弟の剣《けん》の前にさらされているのを見た瞬間《しゅんかん》、セィミヤは、ふるえながら叫《さけ》んだ。
「誰《だれ》か……! 誰か、シュナンを助けて!」
あたりをせわしなく見まわして、誰もが動けずにいるのを見てとるや、セィミヤは、白い顔をエリンに向けた。
「エリン……」
両手を祈《いの》るように握《にぎ》り合《あ》わせて、セィミヤは叫んだ。
「エリン……!」
波が寄《よ》せるように、セィミヤの願《ねが》いが胸に寄せてきた。
シュナンが斃《たお》れれば、もはや彼女には、ダミヤと結《むす》ばれて、父殺しの次男を大公《アルハン》とする道しか、選びようがない。
とり乱《みだ》しているセィミヤと対照的《たいしょうてき》に、冷静《れいせい》なダミヤを目にしたとき、エリンは、これがダミヤが描《えが》いていた図であることが、わかった。
その瞬間《しゅんかん》、すっと心が定《さだ》まった。
エリンは、セィミヤに、うなずいた。
「お助けいたします」
セィミヤの目から涙《なみだ》がこぼれた。
「頼《たの》みます。 ──わたしは、あなたに誓《ちか》う。みごと、シュナンを助けたあかつきには、王獣《おうじゅう》を解《と》き放《はな》ち、未来《みらい》|永劫《えいごう》、王の武器には使わぬと」
エリンは、セィミヤの目を見つめて、いま一度うなずくと、ぱっと走りだした。
これほどの人の前で、リランを飛ばしてしまえば、王の誓《ちか》いなど、意味のないものになるかもしれぬ。
それでも、もはや、迷《まよ》いはなかった。
闘蛇《とうだ》乗りが王になれば、すべてが大きく変わる。その変化を望むなら、シュナンを救《すく》わねばならない。
(リラン、わたしは結局《けっきょく》、あなたを武器として使う)
心の中で、エリンは、リランに語りかけた。
それは、リランに語りかけても、伝わらぬ思いだった。自分の中で巡《めぐ》っているだけの思いだとわかっていても、なお、心の中で、語りかけずにはいられなかった。
足が大地を蹴《け》るたびに、胸もとで音無し笛が跳《は》ねる。音無し笛が、トン、トンと胸を叩《たた》くたびに、胸の底に痛《いた》みが走った。
歯をくいしばって天幕に駆《か》けもどるや、エリンは倒《たお》れている男をまたいで紐《ひも》を引いた。
鈍《にぶ》い音がして天頂《てんちょう》が割れ、天幕をおおっていた布がふたつに分かれて地に落ちていく。
急に明るくなった天を見上げて、リランが瞬《まばた》きしているのが見えた。
吹《ふ》きあげてくる闘蛇《とうだ》の匂《にお》いは、胸が悪くなるほど濃厚《のうこう》で、リランはすでに鼻腔《びこう》を膨《ふく》らませ、全身の体毛《たいもう》を逆立《さかだ》てていた。
エリンは、包帯《ほうたい》を手早くほどき、二本しか指が残っていない左手をふりながら、天敵《てんてき》を屠《ほふ》れる予感《よかん》に逸《はや》っている、リランの目を見つめた。
そして、エリンは言った。
「わたしを乗せて」
命じられたとおりに身体《からだ》をかがめたリランの背に登り、騎乗帯《きじょうたい》を左手に巻《ま》きつけるや、エリンは叫《さけ》んだ。
「飛んで!」
翼《つばさ》の筋肉の躍動《やくどう》が腹に伝わってきた。ぐっと腰《こし》を落とした次の瞬間《しゅんかん》、リランは天に舞《ま》いあがった。
「あの人のところへ……!」
シュナンを指さし、ひと声叫んでから、エリンは両腕《りょううで》を広げて、リランの耳に耳塞《みみふさ》ぎを入れた。
天を滑《すべ》り、王獣《おうじゅう》が一直線にシュナンに向《む》かって飛ぶのを見て、人々のあいだから、どよめきがあがった。
リランは、その口から、長く尾を引く甲高《かんだか》い音を鳴《な》り響《ひび》かせた。
それを聞くや、シュナンをとり囲《かこ》んでいた闘蛇《とうだ》が、いっせいに腹を天に向けて仰向《あおむ》けにひっくり返りはじめた。
いきなり丸太《まるた》のように倒《たお》れていく闘蛇から、飛びおりることができなかった戦士たちは下敷《したじ》きになってつぶれ、はねとばされた戦士たちは地に転《ころ》がって、なにが起きたのかわからずに、呆然《ぼうぜん》とした顔で天を見上げた。
リランは、ヌガンの乗っていた(牙《きば》)に襲《おそ》いかかるや、その身体《からだ》に爪《つめ》をかけ、あっというまに引《ひ》き裂《さ》いてしまった。
飛び散《ち》った闘蛇の肉片《にくへん》と体液を浴《あ》びて、ヌガンは、地にはねとばされ、魂《たましい》を抜《ぬ》かれたような顔でリランを見つめていた。
リランは、とまらなかった。次々に、無抵抗《むていこう》の闘蛇《とうだ》に襲《おそ》いかかるや、爪で引き裂《さ》いていく。血にくるい、腹の中で怒《いか》りと興奮《こうふん》を示《しめ》す音をたてながら、全身に闘蛇の血を浴《あ》びて、殺戮《さつりく》をくり返していく。
我《われ》に返った戦士たちが、矢を放《はな》ちはじめたが、矢など、いまのリランには刺《さ》さるはずもなかった。
たった一頭の王獣《おうじゅう》に、見るまに、数十もの闘蛇が切り裂かれ、屠《ほふ》られていく。
「リラン……リラン!」
エリンは必死《ひっし》に、リランの背を叩《たた》いた。手を伸《の》ばして、耳塞《みみふさ》ぎをひとつはずすや、その耳に向《む》かって叫《さけ》んだ。
「やめて、リラン! もう充分《じゅうぶん》……もう充分よ! そこにおりて!」
しかし、リランは唸《うな》りながら闘蛇《とうだ》を殺すのをやめようとしなかった。
「リラン、やめなさい! 音無し笛を吹《ふ》くわよ!」
それを聞いてようやく、リランはしぶしぶ闘蛇を放《はな》し、大地に降《お》り立った。
リランを中心にして、放射状《ほうしゃじょう》に闘蛇の死骸《しがい》が散《ち》らばっていたが、リランが大地に降《お》りたとたん、なにが起こったのかわからずにいた闘蛇軍が、こちらに向《む》かって輪をせばめはじめた。闘蛇にまたがった戦士たちが弓を構《かま》え、弦《げん》を引《ひ》き絞《しぼ》っている。
弦が鳴《な》り、ひゅうひゅうと、矢が雨のように降《ふ》りそそぎはじめた。
エリンは首をかがめてリランの背から滑《すべ》り降《お》り、シュナンに駆《か》け寄《よ》った。
「こちらへ、早く!」
呆然《ぼうぜん》としているシュナンの腕《うで》をとって、ひきずるようにしてリランのもとに連《つ》れてくるや、エリンは、リランに向《む》かって叫《さけ》んだ。
「この人を乗せて、あそこへ連《つ》れていって!」
シュナンをリランの背に押《お》しあげようとしたとき、エリンは背に、激《はげ》しく叩《たた》かれたような衝撃《しょうげき》を感じて、つんのめった。矢が刺《さ》さったのだとわかるよりさきに息がつまった。
「……そなた」
なにか言おうとしたシュナンの胸を押《お》して、エリンは、かすれ声で言った。
「───乗って。騎乗帯《きじょうたい》を、しっかりつかんで」
「そなたも……」
腕《うで》をつかんで引きあげようとするシュナンの手を、エリンは必死《ひっし》に、もぎ離《はな》した。
「二人は、無理《むり》です。……行って!」
エリンは、リランの耳に耳塞《みみふさ》ぎを押《お》しこんで、胸を押した。
「行って!」
声は聞こえなかっただろうが、その仕草《しぐさ》が示すことをリランは正確《せいかく》に読みとった。
言われたとおり天に舞《ま》いあがり、ふり向《む》きもせずに去《さ》っていくリランが、ふいに、かすみはじめた。
両膝《りょうひざ》を草地について、エリンは天を見上げた。
日をはじいて光るリランの姿が、ぼんやりとかすんでいく。
息をするたびに激痛《げきつう》が走り、涙《なみだ》が頬《ほお》を伝った。
闘蛇《とうだ》が輪をせばめてくる。
そのにおいを感じたとき、これまでのすべてが、一瞬《いっしゅん》の夢だったのではないか、という思いが、脳裏《のうり》を貫《つらぬ》いて走った。
いま、自分は母とともにいて、闘蛇《とうだ》に食われるところなのだ。
その牙《きば》が届《とど》くまでの、ごくわずかな時間に、一生の夢を見たのだ。
ジョウンが、エサルが、ユーヤンが、トムラが、そしてイアルの顔が風に吹かれる雲のように心に浮《う》かんでは消えていく。
リランが応《こた》えてくれた日の光景《こうけい》が、初めて天を舞《ま》った光景が、輝《かがや》きながら交合《こうごう》した姿が、次々と目の奥《おく》に浮《う》かんだ。
なんと豊《ゆた》かな夢を見たのだろう。
エリンは微笑《ほほえ》んだ。 ──ゆっくりと、自分の身体《からだ》が地に向《む》かって傾《かたむ》いていくのを感じながら、エリンは浅い呼吸をくり返していた。
(おかあさん……)
頬《ほお》に草を感じたとき、ふいに正気《しょうき》がもどってきた。自分が、あとすこしで闘蛇に食われて死ぬのだという容赦《ようしゃ》のない思いが胸を貫《つらぬ》いた瞬間《しゅんかん》、たとえようもない虚《むな》しさが、胸の底に広がった。
母も、こんな思いを味わいながら死んだのだろうか。
ひたすらに生きた一生が、こんなふうに終わることを知って、この骨を噛《か》むような虚《むな》しさを感じたのだろうか。
(……まだ、死にたくない)
唐突《とうとつ》に、その思いがこみあげてきた。
こんなふうに、終わりたくない。
むせび泣きながら、エリンは身体《からだ》に力を入れた。
闘蛇《とうだ》の足音が地をゆらし、近づいてくる。
左肘《ひだりひじ》を地について身体をねじ曲げ、天を見上げたときには、涙《なみだ》に目がかすみ、気が遠くなりはじめていた。
その遠のいていく意識《いしき》の片隅《かたすみ》で、ふと、母の指笛《ゆびぶえ》を聞いたような気がした。
指笛の高い音とともに、はばたきが聞こえてきた。
大きななにかが、舞《ま》いおりてくる。
それがリランであることを悟《さと》ったとき、エリンは驚《おどろ》いて目を見開いた。
(……なぜ)
鞴《ふいご》のように息を吐《は》き、牙《きば》を剥《む》きだし、体毛《たいもう》を針のように逆立《さかだ》てながら、リランは急降下《きゅうこうか》してくる。
闘蛇《とうだ》乗りたちの怒声《どせい》や悲鳴《ひめい》が響《ひび》き渡《わた》り、矢が雨のように降《ふ》りそそぎはじめた。
エリンはただ、ぎゅっと目をつぶって、頭を抱《かか》えるしかなかった。
ふっと、日の光がさえぎられて、目の前が暗くなった。
矢の音も、人の怒声《どせい》も遠のき、凪《なぎ》の中に入ったような静けさが、身体《からだ》を包《つつ》んだ。
目をあけると、目の前に、巨大《きょだい》なリランの顔があった。翼《つばさ》でエリンをおおうようにして包《つつ》みこみ、牙《きば》を剥《む》きだしている。
牙を剥きだしたリランの顔を、エリンは凍《こお》りついたように見つめていた。
突然《とつぜん》、リランが、がっと、顔を突《つ》きだした。
エリンが、びくっとして音無し笛をつかむより速く、リランの鼻が、エリンの胸を突《つ》いた。
矢が刺《さ》さっている背に激痛《げきつう》が走り、エリンはうめいた。
胸を突《つ》かれたために、かがんでいたエリンの身体が伸《の》びるのを待っていたかのように、リランは、がっぷりとエリンの胴《どう》に噛《か》みついた。
エリンは悲鳴《ひめい》をあげ、身体《からだ》を硬《かた》くしたが、なぜか痛《いた》みは襲《おそ》ってこなかった。牙《きば》で噛《か》み裂《さ》かれる痛みではなく、太い指で押《お》されているような圧迫感《あっぱくかん》があるだけだ。
牙のない口の奥《おく》、歯肉《しにく》のあいだにはさまれているのだと気づいたとき、なにか、温《あたた》かくやわらかいものが、身体の下で動きはじめた。
(……舌《した》?)
それは、リランの舌だった。
リランは、器用《きよう》に、舌でエリンの身体《からだ》を転《ころ》がしていく。最後に口の中で落ちついた身体の位置は、矢傷《やきず》がリランの牙《きば》にもどこにもさわらぬ、横向きの姿勢《しせい》だった。
舌でエリンの身体《からだ》を包《つつ》み終えるや、リランは、大地を蹴《け》って、天に舞《ま》いあがった。
エリンは、ぐん、と身体が持ちあげられていくのを感じた。
風が耳もとで唸《うな》り、髪《かみ》がなぶられる。両手を掲《かか》げたような姿勢《しせい》で、エリンは、リランの鼻面《はなづら》に腕《うで》を預《あず》け、その鼻面の体毛《たいもう》がきらきらと光るのを見ていた。
闘蛇《とうだ》の血の臭《にお》いが残る唾液《だえき》が、生温《なまあたた》かく衣《ころも》にしみてくるのを感じながら、エリンは、目を閉じた。
ふいに、胸の底から、喉《のど》もとへ、熱いものがこみあげてきた。
(どんな気持ちで………)
リランは、こんなことをしているのだろう。
リランは、どんな気持ちで、自分を助けたのだろう……。
我《わ》が子《こ》でもなく、親でもなく、伴侶《はんりょ》でもないのに、なぜ。
あれほど憎《にく》んでいる音無し笛を吹《ふ》き、鞭《むち》で叩《たた》くようにして従《したが》わせたのに、なぜ。
甘《あま》い錯覚《さっかく》に陥《おちい》ることを恐《おそ》れて、胸の奥底《おくそこ》に封《ふう》じこめていたリランへの思いが、堰《せき》を切ったようにあふれだし、忘れ去《さ》っていたなにかを、ゆきぶり起こした。
(───知りたくて、知りたくて……)
エリンは、心の中で、リランに言った。
おまえの思いを知りたくて、人と獣《けもの》の狭間《はざま》にある深い淵《ふち》の縁《へり》に立ち、竪琴《たてごと》の弦《げん》を一本一本はじいて音を確《たし》かめるように、おまえに語りかけてきた。
おまえもまた、竪琴の弦を一本一本はじくようにして、わたしに語りかけていた。
深い淵をはさみ、わからぬ互《たが》いの心を探《さぐ》りながら。
ときにはくいちがう木霊《こだま》のように、不協《ふきょう》|和音《わおん》を奏《かな》でながら。
それでも、ずっと奏《かな》で合ってきた音は、こんなふうに、思いがけぬときに、思いがけぬ調べを聞かせてくれる……。
つぶった目に涙《なみだ》がにじんでくるのを、エリンは感じた。
おまえにもらった命が続くかぎり、わたしは深い淵の岸辺《きしべ》に立って、竪琴を奏でつづけよう。天と地に満《み》ちる獣《けもの》に向かって、一本一本弦をはじき、語りかけていこう。
未知の調《しら》べを、耳にするために。
目をあけ、首をねじって下を見ると、|降臨の野《タハイ・アゼ》がはるかに広がっていた。
闘蛇《とうだ》も人も、もはや見分けはつかず、蜂《はち》の群《む》れのように黒々とした点となり、天と地は光をたたえながら、どこまでも続いている。
リランが、胸の奥《おく》で、力づけるような音をたてているのを開きながら、エリンは眼下に広がる大地を、いつまでも見つめていた。
[#地付き](おわり)
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あとがき
[#地付き]上橋《うえはし》菜穂子《なほこ》
決して人に馴《な》れぬ孤高《ここう》の獣《けもの》に向かって、竪琴《たてごと》を奏《かな》でる娘《むすめ》。 ──もう何年もまえに、そんな光景が、突然《とつぜん》心に浮かんできて、離《はな》れなくなりました。この獣は、どんな獣なのか。この娘は、なにをしようとしているのか……。そこから、なかなか発想を進ませることができなかったのですが、あるとき、ふと手にした 『ミツバチ 飼育・生産の実際と蜜源《みつげん》|植物《しょくぶつ》』という本を読むうちに、生き物の不思議に心をふるわせる娘の姿が浮かびあがってきたのです。こうして形をなしたのが、この 『獣《けもの》の奏者《そうじゃ》』という物語です。
「奏者」には、「天子に事を奏上する人」という意味がありますが、この物語での「奏者」は、「奏でる者」という意味で使っています。
はるかに遠い他者に向かって、ひたすらに思いを伝えようとする、人の性《さが》の、哀《かな》しさと美しさ。 ──そういうことが、竪琴《たてごと》の音に乗って、この物語を読む方に伝われば、とても幸せです。どうか、王獣《おうじゅう》と娘《むすめ》の物語を、たのしんでください。
この物語を書くにあたっては、多くの方々に、助けていただきました。
養蜂《ようほう》に関《かか》わる場面は、藤原養蜂場の藤原《ふじわら》|誠太《せいた》氏にゲラの段階でご一読いただき、養蜂を実際に行っておられる方ならではの多くの貴重なご指摘《してき》を賜《たまわ》りました。もちろん、この物語は異世界を描《えが》いた物語ですので、私が想像を広げて書き加えた部分もあり、現実の養蜂とは異なる部分もあります。そのような事実と異なる部分は、すべて私の創作とお考えください。また、蜂針|療法《りょうほう》につきましても、素人《しろうと》が気楽に試みてよい療法とは思われませんので、その点も、ここに明記させていただきます。
そして、真王《ヨジェ》の怪我《けが》の場面については、敬愛する兄貴分で現役の医者である私の従兄《いとこ》、松木《まつき》|孝道《たかみち》医師に懇切《こんせつ》|丁寧《ていねい》なご助言をいただきました。とはいえ、ファンタジーですから、医療に関する部分も、私なりの変更を加えているところが多々あります。不正確な部分があるとしたら、それは、すべて私の責任です。
さらに、素晴《すば》らしい絵を描いてくださった浅野《あさの》|隆広《たかひろ》さん、発想の段階から、実に懇切《こんせつ》|丁寧《ていねい》にこの長大な物語につきあって、育てる手伝いをしてくださった担当編集者である講談社の長岡香織さん、『獣《けもの》の奏者《そうじゃ》』が本となって世に産声《うぶごえ》をあげられたのは、このお二人のご尽力《じんりょく》のおかげです。
この場を借りて、この四人の方々に、心からの感謝を捧《ささ》げます。
二〇〇六年十一月
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