獣の奏者
T 闘蛇編
上橋菜穂子
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(例)|闘蛇《とうだ》
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[#地付き]1 闘蛇《とうだ》の弔《とむら》い笛《ぶえ》
戸があいた音で、エリンは目をさました。
夜が明けるにはまだ間がある時刻で、雨が薄板葺《うすいたぶ》きの屋根を打つ音が、闇《やみ》の中に絶《た》え間なく響《ひび》いている。
母が、土間の水場で手を洗っているのが、ぼんやりと見えた。足音を忍《しの》ばせて寝間《ねま》にあがってきた母が、寝具《しんぐ》に身体《からだ》を滑《すべ》りこませると、ふうっと雨の匂《にお》いと、闘蛇の匂いが、漂《ただ》ってきた。
戦士を乗せて水流を泳いでいく巨大《きょだい》な闘蛇の鱗《うろこ》は、麝香《じゃこう》のような独特《どくとく》な甘《あま》い匂いがする粘液《ねんえき》でおおわれている。闘蛇の背にまたがって戦《いくさ》に行く戦士たちは、どこにいても、その匂いでわかるほどだ。
闘蛇の世話《せわ》をする母もまた、いつも、この匂いをまとっていた。エリンにとっては、生まれたときから嗅《か》ぎつづけている、母の匂いだった。
「……おかあさん、さっき、雷《かみなり》が鳴った?」
「遠雷《えんらい》よ。雷雲《かみなりぐも》は山向こうにあるから、心配しないで寝《ね》なさい」
エリンは吐息《といき》をもらし、目を閉じた。
母の白い手が、闘蛇《とうだ》の巨体《きょたい》をゆっくりと慎重《しんちょう》になでていくさまが、瞼《まぶた》の裏に浮《う》かんだ。じっと闘蛇を見つめる、静かな母のまなざしが、エリンは大好きだった。
母は、闘蛇のなかでも、常に先陣《せんじん》を駆《か》け、敵陣を食い破る役目を担《にな》う最強の闘蛇───(牙《きば》)たちのお世話を任されている。友達のサジュの父や、チョクの父だって、(牙)たちがいる岩房《がんぼう》は任《まか》せてもらえない。闘蛇の世話役である闘蛇衆が、母の獣《けもの》ノ医術《いじゅつ》の腕《うで》をそれほどに高く買っているのだと思うと、エリンは誇《ほこ》らしさで胸がはちきれそうになる。
母が聞蛇の世話《せわ》をしにいくときは、水汲《みずく》みをしていても縫《ぬ》い物《もの》をしていても、途中《とちゅう》でほっぽって、必ずくっついていった。母がやるように、闘蛇の鱗《うろこ》に触《ふ》れてみたくてたまらないけれど、母は絶対にだめだと言う。
[#ここから2字下げ]
──闘蛇《とうだ》は恐《おそ》ろしい生き物なのよ。おまえが近づけば、その気配《けはい》を感じて鎌首《かまくび》をもたげ、ひとロで、おまえの頭から腹まで噛《か》み裂《さ》いて、のみこんでしまうわ。
[#ここで字下げ終わり]
岩房《がんぼう》の深く暗い溜《た》め池《いけ》の水面をうねらせながら泳ぐ、巨大な蛇《へび》を見つめながら、母は平淡《へいたん》な声で言った。
[#ここから2字下げ]
──おまえは、わたしが闘蛇に触《ふ》れるのを見慣《みな》れているから、つい気楽に考えてしまうのだろうけれど、絶対に勘違《かんちが》いしてはいけないよ。
闘蛇《とうだ》は、けっして人に馴《な》れない。……馴らしてはいけない生き物なのよ。
わたしたち闘蛇衆《とうだしゅう》や戦士たちが触《ふ》れるときは、この音無し笛《ぶえ》で闘蛇の感覚を痺《しび》れさせているだけ。
[#ここで字下げ終わり]
母は、掌《てのひら》の上で、小さな笛を転《ころ》がしてみせた。
母が笛を唇《くちびる》にあてる仕草《しぐさ》は、もちろん見慣《みな》れていたし、教練に出る戦士たちがいっせいに笛を口にあてて息を吹《ふ》きこみ、まるで丸太のように硬直《こうちょく》した闘蛇の背に素早《すばや》く鞍《くら》をかけ、よじのぼって、頭部に生《は》えている二本の長い角をつかんでまたがるのも見たことはあった。
いったん背にまたがって角をつかんでしまえば、闘蛇は乗せた戦士の意のままに動くようになる。角をつかんで顎《あご》をあげさせていれば、水に潜《もぐ》ってしまうこともないという。
闘蛇《とうだ》には鋭《するど》い爪《つめ》が生えた前脚《まえあし》と後脚《あとあし》があり、地上に這《は》いあがって駆《か》けだせば、その速さは、どんな駿馬《しゅんめ》にも勝《まさ》る。地上を駆ける姿は蛇《へび》というよりは竜《りゅう》に見えたが、彼らの棲《す》み処《か》は水中であり、脚をぴったりと腹につけてうねりながら泳ぐ姿は、まさしく蛇だった。硬《かた》い鱗《うろこ》には矢も刺《さ》さらず、戦士を乗せて敵陣《てきじん》へ躍《おど》りこんでは人馬もろとも噛《か》み裂《さ》いて殺す、凶暴《きょうぼう》な蛇……。
闘蛇衆は、野生《やせい》の闘蛇が産卵《さんらん》する季節になると、巣《す》の中に産みつけられたたくさんの卵のなかから、闘蛇に見つからぬよう密《ひそ》かに、ひとつ、ふたつと、卵を採《と》ってくる。その卵を孵化《ふか》させたのち、幼体《ようたい》であるうちに、その耳の部分をおおっている蓋《ふた》のような鱗《うろこ》の一部を切りとってしまう。
母がその作業を行っているのを、エリンは見たことがあった。その蓋ふた《》をとることで、闘蛇《とうだ》は耳をふさぐことができなくなり、音無し笛の音で操《あやつ》れるようになるのだと母は教えてくれた。戦士たちは、笛を使って闘蛇の背にまたがったあと、敵の笛で操られぬように、闘蛇の耳に、闘蛇の鱗を加工して作った覆《おお》いをはめるのだそうだ。
ぼんやりと掌《てのひら》の上で笛をもてあそびながら、闘蛇を見ていた母の顔は、なぜか、とても暗く、哀《かな》しげだった。
[#ここから2字下げ]
──これから成長して、十五|歳《さい》ぐらいの一人前の娘《むすめ》になっても、おまえがまだ聞蛇に触《ふ》れたいと思うようなら、そのとき考えましょう。
[#ここで字下げ終わり]
母の声があまりに虚《うつ》ろだったので、気をのまれてしまって、そのときはなにも言えなかったけれど、でも、十五歳になるには五年も待たねばならない。そんなに長く、どうやったら待てるだろう? 光をはじいて七色に輝《かがや》く鱗《うろこ》に触《ふ》れたらどんな感じがするのか、毎日そればかり考えているのに。
そう言うと、サジュやチョクは、エリンは変だと言う。彼女らは闘蛇が怖《こわ》いらしい。そばに行くのさえいやなのだそうだ。闘蛇はたしかに怖い生き物だから、エリンもその気持ちはわからないわけではない。
だけど……自分でもなぜだかわからないけれど………エリンは闘蛇《とうだ》を見ていると、時を忘れてしまう。なめらかに水底《みなそこ》に潜《もぐ》ってから、黒い水をまとって、うねりながら浮《う》かびあがってくるその姿を見ると怖《こわ》くて鳥肌《とりはだ》が立つけれど、それでも、目が離《はな》せない。
ずっと、一日中でも闘蛇を見ていたかった。
闘蛇も夜には眠《ねむ》るのだろうか? 夜半の見回りにも、ついていきたかったけれど、どうしても起きることができなくて、まだ一度も行っていない。母が起きる気配《けはい》で目がさめるたびに、起きようと思うのだけれど、瞼《まぶた》が膠《にかわ》でくっついてしまっているようで、目をあけることもできないのだ。
闇《やみ》の中に母の寝息《ねいき》が聞こえはじめるまえに、エリンは深い眠りに吸いこまれていた。
どのくらい眠っただろうか。
突然《とつぜん》、耳をつんざくような甲高《かんだか》い笛《ふえ》の音が鳴《な》り響《ひび》き、エリンは、びくっととび起きた。
かたわらで、母が寝具《しんぐ》をはねのけて起きあがるのが見えた。もう夜が明けはじめた時刻《じこく》らしく、母の姿はさっきよりはっきりと見えていた。
笛の音は続いている。ひび割《わ》れた金属の管《くだ》を力いっぱい吹《ふ》き鳴《な》らしているような、歯がむずむずするような音だった。エリンは両耳を手でふさいだ。
「おかあさん1 これ、なんの音?」
母は答えなかった。手早く着がえるや、
「おまえは、ここにいなさい」
と言いおいて土間《どま》におり、手間のかかる長靴《ちょうか》は履《は》かずに草履《ぞうり》をつっかけると、外へ駆《か》けだしていった。
ここにいろと言われても、いられるはずがない。
切迫《せっぱく》した悲鳴のような音が、あちらこちらから大気を渡《わた》って響《ひび》いてくる。いったいなにが起きているのだろう?
エリンは寝巻《ねま》きの上に外着をはおって、大急ぎで母のあとを追った。
雨はあがっていたが、地面はぬかっていて、草履ではずるずる滑《すべ》って走りづらかった。ほかの家々の戸も引きあけられて、ばらばらと闘蛇衆《とうだしゅう》たちが外に出てきた。その背後から家の者たちもとびだしてきて、ざわめきながら、東の崖《がけ》へ向かって駆《か》けだした。東の崖の岩屋の奥《おく》に、闘蛇が棲《す》まう岩房《がんぼう》がいくつも築《きづ》かれている。悲鳴のような笛の音は、たしかにその岩房のほうから聞こえていた。
岩屋の入り口は、巨人《きょじん》が灰色の崖に手をかけて裂《さ》いたような形をしている。崖のはるか高いところまで裂け目は広がり、裂け目が地面と触《ふ》れ合《あ》っているところは、大人が数人、横に並んで歩けるほどの幅《はば》があった。
岩屋の入り口には、敵国の者が忍《しの》びこむのを防ぐ兵士たちが不寝番《ふしんばん》をしている。不気味《ぶきみ》な笛の音にうろたえて、岩屋の奥《おく》をのぞきこんでいた彼らは、エリンの母を先頭に闘蛇衆《とうだしゅう》がやってくると、ほっとした表情で脇《わき》にどいた。
岩屋には、数十歩おきに松明《たいまつ》が焚《た》かれており、湿《しめ》った岩肌《いわはだ》を輝《かがや》かせている。
入ってすぐのところには、(広間)と呼ばれる広大な空間があり、その奥《おく》は、いくつもの細い洞窟《どうくつ》に分かれていた。洞窟はそれぞれ、岩房《がんぼう》と呼ばれる孤立《こりつ》した大きな岩穴に通じている。岩穴には(イケ)と呼ばれる深い水溜《みずた》まりがあり、闘蛇はそこで飼《か》われていた。
三百年もまえの先人たちが造ったという(イケ)は、地の底をどうやって穿《うが》ったのかと驚《おどろ》くほど巨大《きょだい》な水溜まりだった。それでも、縄張《なわば》り意識が強い闘蛇は、ひとつの(イケ)に十頭以上入れると、互《たが》いを食い合ってしまうので、この地の底には、無数の(イケ)が築《きづ》かれているのだった。
それぞれの(イケ)は、(闘蛇の道)と呼ばれる水路で結ばれている。ふだんは分厚い樫《かし》の板の堰《せき》で隔《へだ》てられているが、教練のときや、戦時には、その堰があけられ、戦士を背に乗せた闘蛇が出陣《しゅつじん》していくようになっていた。
いま、地の底はすさまじい音の嵐《あらし》にゆれていた。無数の(イケ)から甲高《かんだか》い笛の音が響《ひび》き、洞窟に反響《はんきょう》しながら吹《ふ》きあげてくる。岩屋に入った人々は、いっせいに耳を押《お》さえ、歯をくいしばった。
(闘蛇《とうだ》の道)の両脇《りょうわき》には、人が通れる通路がある。エリンの母は耳を押《お》さえもせず、薄暗《うすぐら》く足もともさだかでないその通路の上を駆《か》けぬけて、(牙《きば》)たちがいる岩房《がんぼう》へ足を踏《ふ》み入れた。
エリンがようやく母のいる岩房に辿《たど》りついたときには、すでに闘蛇衆のほとんどが、その岩房に集まっていた。
石像のように立っている大人たちのあいだに身体《からだ》をねじこんで前に出ると、不思議な光景が目にとびこんできた。
暗い(イケ)の水面に、ぼうっと光る巨大《きょだい》な丸太が何本も浮《う》かんでいるのだ。母が、胸まで(イケ)につかって、その丸太に触ふ《》れようとしている。
やがて、エリンは、それがなんであるのかに気づいて、息をのんだ。
「(牙《きば》)……!」
母のほうに行こうとしたエリンの肩《かた》を、誰《だれ》かがつかんだ。ふりあおぐと、祖父がいた。こわばった顔で、母を見つめている。
「……死んでいるのか」
祖父の声に、母がうなずいた。
「五頭、すべてか?」
また、母がうなずいた。
いつのまにか、あの不思議《ふしぎ》な笛の音は、やんでいた。静寂《せいじゃく》のなかを複数の足音が近づいてきて、やがて、闘蛇衆《とうだしゅう》が三人、岩房《がんぼう》に入ってきた。
「……隣《となり》の岩房でも(牙《きば》)が死んでおります!」
闘蛇衆がざわめいた。エリンは、肩《かた》をつかんでいる祖父の手に、痛《いた》いほどに力がこもるのを感じた。
「ほかの闘蛇はどうだ?」
「(胴《どう》)や(尾《お》)たちは、皆《みな》、無事《ぶじ》です。………さっきまで弔《とむら》い笛《ぶえ》を吹《ふ》いていて、いまも興奮《こうふん》した様子で(イケ)の中を泳いでいますが、無事です」
祖父は、闘蛇衆を見まわしながら、厳《きび》しい口調で言った。
「おまえたちは、それぞれ担当《たんとう》する岩房へ行け。興奮して泳ぎまわると、岩に肌《はだ》をこすりつけて、傷をつくる。これ以上、一頭たりとも損《そこ》なうな!」
闘蛇衆がいっせいにうなずき、岩房の外に走りでていくのを見届《みとど》けてから、祖父は(イケ)のほうへ歩み寄《よ》った。
「……原因は、なんだ」
母は、義父のほうを見ず、硬直《こうちょく》して浮《う》きあがっている闘蛇の鱗《うろこ》を、めくるようにして見つめながら答えた。
「まだ、わかりません」
「ワシュ(発光虫)にたかられたせいで、窒息《ちっそく》したのか?」
「いいえ。鰓《えら》はきれいです。これは、死後に寄ってきたのでしょう」
「特滋水《とくじすい》((牙《きば》)にだけ与《あた》える薬草入りの水)は欠《か》かさず与えていたのだろうな? 夜半の見回りのときには、異常がなかったのか?」
母は、無言で首をふった。
そんな母を、祖父は、じっと睨《にら》みつけていたが、やがて、こわばった口調《くちょう》で言った。
「(牙)をすべて死なせるなど……、とてつもない大罪《たいざい》だぞ。監察官《かんさつかん》が来たら尋問《じんもん》され、裁《さば》かれることになる」
母は、ゆっくりと頭をめぐらして義父《ぎふ》を見上げた。そして、つぶやくように言った。
「覚悟《かくご》しております」
祖父は、苛立《いらだ》たしげに拳《こぶし》を握《にぎ》りしめた。
「覚悟か! ソヨン。わしも覚悟せねばならんな!
闘蛇衆《とうだしゅう》の頭領として、おまえの義父《ちち》として、さぞ監察官に厳《きび》しく問われることだろう。なぜ、|霧の民《アーリョ》のおまえを、大公《アルハン》の宝たる(牙)の世話係にしていたのかと」
祖父の声は、怒《いか》りにふるえていた。
「アッソンの遺言《ゆいごん》さえなければ……アッソンの子を孕《はら》んでおらねば……」
口の中でつぶやいてから、祖父は首をふった。
「いや、それだけではない。たしかに、おまえの獣《けもの》ノ医術《いじゅつ》の腕《うで》は卓越《たくえつ》している。だから、皆《みな》の反対を押《お》しきって、わしは息子《むすこ》の遺志《いし》を叶《かな》えたのだ。だが、こんなことになるとは………」
吐《は》き捨《す》てるようにそう言うと、祖父は母に背を向けて、岩房《がんぼう》から出ていった。
エリンは、しゃがみこんだ。膝《ひざ》がふるえて、立っていられなかったのだ。
「おかあさん……おかあさん……」
ささやくと、母が顔をあげた。しばらく、虚《うつ》ろな表情でエリンを見ていたが、やがて、その目に、すこし生気がもどってきた。母は、かすかに微笑《ほほえ》んだ。
「大丈夫《だいじょうぶ》よ」
「でも、大罪《たいざい》だって……」
「大丈夫」
母は、硬直《こうちょく》した闘蛇《とうだ》の身体《からだ》を、そっとなでた。
「───お祖父《じい》さまは、あんなふうにおっしゃったけれど、お祖父さまの父親の代のときも、同じように(牙《きば》)がすべて死んでしまったことがあるのよ。(牙)はね、ほかの闘蛇より身体《からだ》が大きく、力も強い。でも、ほかの闘蛇よりも病《やまい》には弱い。それは、皆《みな》が知っていることだわ」
母は、水の冷たささえ感じていないように、ただ、じっと闘蛇《とうだ》を見つめていた。母の目に浮《う》かんでいるのは哀《かな》しみの色だけではなかった。なにかをこらえているような、苦悩《くのう》の色があった。
奥《おく》の岩房《がんぼう》のほうから岩を伝わって虚《うつ》ろに響《ひび》いてくる、なにを言っているのかもわからない闘蛇衆の声を聞きながら、エリンは長いこと、母と、死んだ闘蛇たちを見つめていた。
岩壁《がんぺき》を穿《うが》って差《さ》しこまれている松明《たいまつ》の炎《ほのお》に、無数の羽虫が寄《よ》り集まって舞《ま》い飛《と》んでいる。その羽虫は、闘蛇にもたくさんまとわりついていた。
それを見ているうちに、ふっと、エリンはつぶやいた。
「おかあさん、闘蛇《とうだ》は死ぬと匂《にお》いが変わるの? それとも、病《やまい》にかかったから、匂いが変わったのかなあ」
まるで、鞭《むち》で打たれでもしたかのように母が顔をあげたので、エリンはびっくりした。
母は、エリンを見つめた。
「……なぜ、そう思ったの?」
エリンは瞬《まばた》きした。
「え……だって、この匂い、ちょっと、いつもの闘蛇の匂いとは、ちがうよ。だから、こんな変な羽虫が寄ってきているのかなって……思ったんだけど……」
母が凍《こお》りついたように身動きもせず、じっと見つめているので、語尾《ごび》が尻《しり》すぼみになってしまった。
母が、ささやくような声で促《うなが》した。
「それで?」
エリンは、瞬《まばた》きをして、言った。
「ワシュ(発光虫)はよく水の中にいるけれど、こんな羽虫は岩房《がんぼう》で見たことがないもの。まえに、おかあさん、教えてくれたでしょ。花によって香《かお》りがちがうから、寄《よ》ってくる虫もちがうって。それと同じに、闘蛇《とうだ》の匂《にお》いが変わったから、こんな羽虫が寄ってきたんじゃないかと思ったの」
母の目には、なんとも言えぬ色が浮かんでいた。
「おまえは……」
感嘆《かんたん》をにじませた声で、そう言いかけて、ロを閉じ、それからひとつ首をふって、母は、静かな声で言った。
「エリン、その思いつきを、誰《だれ》にも話してはいけないよ」
「どうして?」
母は微笑《ほほえ》んだ。
「……人のなかには、くだらない勘繰《かんぐ》りをする者がいるものよ。おまえが、わたしを助けようとして、作り話をしていると思われたら、おまえを叱《しか》る人もいるでしょう」
エリンは顔をしかめた。母がなにを言いたいのか、わかるようで、わからなかった。なんとなく、はぐらかされたような気がしたけれど、なぜ、母がそんなことをするのかも、わからなかった。
母は、大儀《たいぎ》そうに岩床《がんしょう》に手をついて、水からあがってきた。エリンはあわてて母に駆《か》け寄《よ》り、衣《ころも》をひっぱって、母があがってくるのを手伝った。母の身体《からだ》は氷のように冷《ひ》えきっていた。
「ありがとう」
母はつぶやくと、ふいに、慈《いつく》しむようにエリンの頭をなでた。
それから、死んだ闘蛇《とうだ》が浮う《》かんでいる(イケ)のほうに向き直ると、両膝《りょうひざ》をつき、頭をさげて額《ひたい》を岩床につけた。そのまま、母は長いこと、動かなかった。濡《ぬ》れた衣から滲《し》みだした水が、母の身体の周《まわ》りに黒々と広がっていた。
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[#地付き]2 |霧の民《アーリョ》
温浴場を出ると、夕日が山肌《やまはだ》を染《そ》めて沈《しず》んでいくのが見えた。
長い一日だった。
死んだ闘蛇《とうだ》を洞窟《どうくつ》の(広間)に敷《し》いた筵《むしろ》の上に並べ、明日、監察官《かんさつかん》が到着《とうちゃく》したときに調べやすいように整《ととの》えたあと、母は、長いこと、ほかの闘蛇衆とともに集会堂にこもっていた。
エリンは心配でたまらなかったけれど、昼餉《ひるげ》時になっても母たちは集会堂から出てこず、隣家《りんか》のサジュの母が、エリンに昼餉を食べさせてくれた。
夕刻になって、母たちは、疲《つか》れきった表情《ひょうじょう》で集会堂から出てきた。戸の外で待《ま》っていたエリンの手をとると、母はなにも言わずに家に着がえをとりにもどり、それから、いつものように温浴場に向かったのだった。
一日中、冷たい(イケ)につかって仕事をする闘蛇衆が暮らすこの集落《しゅうらく》では、温浴場は欠《か》かせない設備《せつび》だったが、たくさん薪《まき》を使って火を熾《お》すので、火事の危険《きけん》を考えて、集落の西の外れに造られている。
エリンと母は、いつも、ほかの闘蛇衆《とうだしゅう》や女衆たちが入ったあとの、仕舞《しま》い湯《ゆ》を使った。物心ついたときから、ずっとそうしていたから、いままでエリンは、そのことをとくになぜかと考えたこともなかった。けれど、今日は、人けのない温浴場で、母と二人、湯につかりながら、なぜ母は、人のいないときに湯に入ることにしているのか、それが気になってしかたがなかった。
母と自分は、なんとなく、集落のほかの人たちとは隔《へだ》たりがある。
面と向かってなにか言われたりしたことはないけれど、折に触《ふ》れて、心のどこかで感じとっていたことが、寄《よ》り集まって、ひとつの意味を成しはじめていた。
たとえば、サジュの祖父母は、もっとサジュにやさしい。第一、ひとつ屋根の下で、いつも一緒《いっしょ》に暮《く》らしている。従兄弟《いとこ》やはとこたちも、頻繁《ひんぱん》に出入りしている。
エリンは祖父母と暮らしたことはなかった。闘蛇衆の頭領《とうりょう》である祖父は、エリンにとっては、いつも、なんとなく怖《こわ》い人だった。祖母も、新年の祝いや祭りのときに挨拶《あいさつ》に行けば、祝いの餅《もち》を分《わ》けてくれたが、エリンにも母にも笑顔《えがお》を向けてくれたことはなかった。
父の弟妹《きょうだい》である叔父《おじ》、叔母《おば》や、その子らも、あまり近しい存在《そんざい》ではない。彼らが祖父母と気楽《きらく》に話しているのを見るたびに、なぜ祖父母は、自分や母とは、あんなふうに話してくれないのだろうと思ったけれど、なんとなく、それは口にしてはいけないことのように思えて、これまで、母にさえ、尋《たず》ねなかった。
母は、集落《しゅうらく》の女たちの誰《だれ》よりも背が高い。
母の顔かたち、瞳《ひとみ》の色が、集落の人々とずいぶん異《こと》なることに気づいたのは、いつだっただろうか。「エリンはお母さんと同じ緑色の瞳《ひとみ》をしているね。|霧の民《アーリョ》はみんな、緑色の瞳をしているの?」と、サジュに言われたときだったかもしれない。
サジュは、声を低めて、おそるおそるという感じで、訊《き》いてきたのだった。
「ね、ほんとうは、エリンも魔力《まりょく》を持っているの? |霧の民《アーリョ》と村人のあいだに子が生まれるなんて、ふつうは、ありえないことなんだって。そういう子は、|魔がさした子《アクン・メ・チャイ》って言うんだって。エリンは、魔物《まもの》にさされたの?」
そのとき、エリンは曖昧《あいまい》に微笑《ほほえ》んでみせただけで、答えなかった。なぜか、心を鈍《にぶ》くして、やりすごしたほうがいいと、とっさに感じたからだ。
誰から教えられた知恵《ちえ》でもないけれど、なにも聞かず、知らないふりをして時を過《す》ごしていけば、母も自分も哀《かな》しまずにすむような気がしていた。
山稜《さんりょう》を縁《ふち》どる夕焼け雲を見ながら、エリンは、そっと母の横顔を見上げた。
おかあさんは、|霧の民《アーリョ》だったの? わたしのおとうさんは、どんな人だったの? わたしは、|魔がさした子《アクン・メ・チャイ》なの? ──喉《のど》もとまで、その問いが突《つ》きあげてきたけれど、声にはならなかった。
エリンの視線《しせん》を感じたのか、それまで、ぼんやりと夕焼け雲を見つめて歩いていた母が頭をめぐらして、エリンを見た。
「……疲《つか》れたね」
つぶやいて、母は微笑《ほほえ》んだ。
「今日は、夕餉《ゆうげ》に、猪肉《ししにく》を食べようね」
エリンは、びっくりした。味噌《みそ》の中に埋《う》めてある猪肉は、お祝い事や祭《まつ》りのときぐらいしか口にできないご馳走《ちそう》だった。
「ほんと? ほんとに、猪肉を食べるの?」
「ええ。疲《つか》れをとって、明日もがんばれるように、今日はお腹《なか》いっぱいおいしいお肉を食べましょう」
家に帰りつくと、母はエリンに炉《ろ》に火を熾《おこ》すように言って、奥《おく》の部屋へ入っていった。奥の部屋から出てきたとき、母は小さな包《つつ》みを手に持っていた。
「それ、なあに?」
母は、エリンの問いには答えず、
「……お米は研《と》いであるから、炊《た》いておいてちょうだい。ご飯が炊けるころには、もどってくるからね」
と言いおいて、隣《となり》のサジュの家へ行ってしまった。なにを話しているのか、母はなかなか帰ってこなかった。
お釜《かま》から米が炊《た》きあがったよい香《かお》りが漂《ただよ》いはじめたころ、ようやく母がもどってきた。
竈《かまど》の前にしゃがみこんで、母は火加減を確《たし》かめた。
「いい匂《にお》いね。……お腹《なか》がすいたでしょう。すぐ猪肉《ししにく》を料理するからね」
そう言いながら、母はしかし、立ちあがる様子もなく、ぼうっと竈《かまど》の火を見つめていた。そして、ふいに、懐《ふところ》から笛《ふえ》をとりだすと、それを、ぽん、と火にくべてしまった。
「おかあさん!」
びっくりしてエリンが叫《さけ》ぶと、母は立ちあがってエリンの頭を抱だ《》き寄《よ》せた。
「………ごめんね」
かすれた声で、母は言った。
「おまえには、ほんとうにかわいそうなことをしてしまったね。……でも、おかあさんは正直《しょうじき》なところ、二度とあの笛を持たなくてよくて、ほっとしているのよ」
エリンは驚《おどろ》いた。
「なんで? おかあさん、ほんとは、闘蛇《とうだ》をお世話《せわ》するのがいやだったの?」
母は首をふった。
「闘蛇を世話するのは、いやではなかったわ。……この笛《ふえ》を使うのが、いやだったのよ」
エリンの髪《かみ》をぼんやりとなでながら、母は低い声で言った。
「笛《ふえ》を鳴《な》らした瞬間《しゅんかん》、硬直《こうちょく》する闘蛇《とうだ》を見るのは、ほんとうにいやだった。……人に操《あやつ》られるようになった獣《けもの》は、哀《あわ》れだわ。野にいれば、生も死も己《おのれ》のものであったろうに。人に囲《かこ》われたときから、どんどん弱くなっていくのを目《ま》のあたりにするのは、つらかった……」
それは、独《ひと》り言《ごと》のようだった。
「人に飼《か》われると、闘蛇は弱くなるの?」
エリンは尋《たず》ねた。
「特滋水《とくじすい》をあげて、強くしているんじゃないの?」
「……特滋水を与《あた》えれば牙《きば》の硬度《こうど》が増《ま》して、骨格《こっかく》も野生《ゆせい》のものより大きくなるわ。でもね、特滋水を与《あた》えていると、弱くなってしまう部分もあるのよ」
「どこが弱くなっちゃうの?」
母はエリンの頭に手をおいて、しばらく考えていたが、やがて、後悔《こうかい》したように言った。
「よけいなことを、つい、おまえに話してしまったね。いま、おかあさんが言ったことは、忘《わす》れておくれ。ほかの闘蛇衆《とうだしゅう》は知らないことだから、おまえが、こんなことをしゃべったら、大変なことになるわ。 ──他人には言わないと、誓《ちか》っておくれ」
エリンは顔をしかめた。
母は、ときどき、こういうことを言う。
「……誓《ちか》うけど、その代わり、おかあさん、答えを教えて。どこが弱くなっちゃうの?」
母は微笑《びしょう》を浮《う》かべた。
「考えてごらんなさい。野にいる闘蛇《とうだ》ならば、ごくふつうに為《な》すことで、(イケ〉に飼《か》われた闘蛇には、できなくなることがある。……おまえなら、きっと、自分で答えを見つけられるわ。
でも、答えを見つけても、他人《たにん》に話してはだめよ。 ──なぜ、他人に話してはいけないのか、それがわかるようになるまでは、話してはだめ」
そう言って、母はエリンの髪《かみ》の毛をくしゃくしゃっとなでると、すっと手を放《はな》した。
「さ、猪肉《ししにく》を甕《かめ》からとりだしておいで」
エリンが甕《かめ》から猪肉をとりだして、味噌《みそ》を落としているあいだに、母は、竈《かまど》の灰を分《わ》けて、その上に大きなラコス(甘《あま》い実のなる木)の葉を広げた。
エリンは目を丸くして、ラコスの葉を見た。
「なにしてるの?」
母は笑った。
「まあ、見ててごらん」
母は猪肉《ししにく》の塊《かたまり》を受けとると、それをラコスの葉の上に並《なら》べ、ラコスの実の甘《あま》い果肉《かにく》をむしって、その上にのせた。そして、トイ(辛味《からみ》をつけた味つけ味噌《みそ》)をすこしその上に垂《た》らしてから、手早く肉や果肉を包みこむようにして葉っぱを閉じ、上に熱い灰をかぶせた。
ずいぶんたって、エリンが空腹に耐《た》えられなくなったころ、母はようやく葉っぱの包《つつ》みを灰からとりだして、素焼《すや》きの大皿に移《うつ》した。
葉っぱをあけると、ふわつと蒸気《じょうき》とともに、甘《あま》く香《こう》ばしい匂《にお》いが立ちのぼった。
「うわあ……」
蒸《む》し焼《や》きになった猪肉《ししにく》はやわらかく、とろとろになったラコスの甘い果肉と、トイの辛味《からみ》とが染《し》みこんでいた。噛《か》みしめると、濃厚《のうこう》な旨味《うまみ》が口いっぱいに広がった。
「おいしいかい?」
エリンが夢中で猪肉《ししにく》にかぶりつきながら、うなずくのを見て、母はうれしそうに笑った。
「その汁《しる》をご飯にのせてごらん」
葉に残っていた肉汁《にくじる》をご飯にかけて頬《ほお》ばると、これまた、とてもおいしかった。
「ラコスの葉は冬でもしっかりと残《のこ》っているし、どの山でも日当たりのよい斜面《しゃめん》に行けば、たいがい手に入ったから、山々を渡《わた》り歩《ある》いていたころは、よくこうして鍋《なべ》代わりに使ったものよ。鍋とちがって、肉の臭《くさ》みをとって、よい香《かお》りをつけてくれるしね」
母の言葉を聞きながら、エリンは食べる手をとめた。母は、おだやかな表情《ひょうじょう》をしていた。こんなふうに、母が昔のことを話すのは、初めてだった。
「おかあさん……」
いまなら、訊《き》いてもいいような気がした。
「おかあさんは、子どものころ、村にいなかったの? どこにいたの?」
心ノ臓が、ドンドンと激《はげ》しく打っている。
緊張《きんちょう》しているエリンの顔を見ながら、母は答えた。
「いろいろなところを、旅しながら暮《く》らしていたわ。これまで、おまえに、そういう話をしたことはなかったね。おまえも、尋《たず》ねなかったけれど……訊《き》いてはいけないような気がしていたのかい?」
エリンがうなずくと、母も、うなずいた。
「……おまえも、たくさんのことがわかる年頃《としごろ》になったし、今夜は、おかあさんのこと、おまえのおとうさんのことも、話しておこうね」
そう言って、母は、皿を膝《ひざ》におろした。
「今日、お祖父《じい》さまが、おかあさんのことを|霧の民《アーリョ》と呼んだでしょう。
おまえは、|霧の民《アーリョ》と聞くと、どんな感じがする? 深い霧の中から現れて、また霧の中へ消えていく、背の高い不思議《ふしぎ》な人々だと、村の人は思っているようね。とてもよく効《き》く秘薬《ひやく》を売ってくれて、医術《いじゅつ》に優《すぐ》れているけれど、奇妙《きみょう》な神々を信仰《しんこう》している、気味の悪い人たちだと思う?」
エリンは、小さくうなずいた。母は、目もとに微笑《びしょう》を浮《う》かべていた。
「外の人たちから見れば、そんなふうに見えるのでしょうね。……たしかに、わたしたちは、ひとところにとどまって暮《く》らすことをせず、独特《どくとく》の暮らし方を守ってきたから。 でもね、|霧の民《アーリョ》というのは、わたしたちの名乗《なの》りを人々が聞《き》き間違《まちが》えたことから生まれた名前なのよ。アー(霧《きり》)のリョ(民《たみ》)というのが、わたしたちの印象と合っていたために、そういうふうに広まってしまったのだろうけれど、ほんとうは(アォー・ロゥ)『戒《いまし》め(アォー)』を『守る者(ロゥ)』という意味なのよ」
「戒《いまし》め?」
「……ずっとずっと昔に起きた過《あやま》ちを、二度とくり返さぬように、という戒めよ。その戒めを、己《おのれ》の命よりも、家族の命よりも大切なものとして守れと、おかあさんは教えられて生きてきたの。そういうふうに、戒めを守って生きるから、アォー・ロゥとわたしたちは名乗《なの》っていたのね」
「ずっと昔に起きた過《あやま》ちって、なんだったの?」
母は、しばらくロを閉じて、言葉を探していた。
「……人も獣《けもの》も死に絶《た》えるような───そういう恐《おそ》ろしい過ちよ。
おかあさんの祖先《そせん》はね、滅《ほろ》びの危機《きき》を二度と再び迎《むか》えることがないように、戒《いまし》めを守ることを誓《ちか》い、真王《ヨジェ》に仕《つか》えることも、大公《アルハン》に仕えることもなく、野や山を巡《めぐ》り暮《く》らすようになった人々だった。
一族の者たちは、生まれ落ちたときから、掟《おきて》に従《したが》うことを厳《きび》しく教えこまれながら、何世代にもわたって暮らしてきた。……一族以外の者と婚姻《こんいん》してはならない。一か所にとどまって暮らしてはならないという掟を守りながら」
母の目に、哀《かな》しげな笑《え》みが浮《う》かんだ。
「おかあさんはね、その掟《おきて》を破ってしまったの。おとうさんと出会い、おとうさんとこの村で生きることにしたときから、おかあさんは(アォー・ロゥ)ではなくなったのよ」
エリンは瞬《まばた》きをした。
「でも……だけど、おかあさんのおかあさんやおとうさんは、いま、どうしているの?」
「おとうさんは、早くに亡《な》くなったわ。………おかあさんたちは、いまも、どこかを旅しながら暮らしているんでしょうね」
なんと言ってよいかわからずに、エリンは呆然《ぼうぜん》と母を見ていた。
戒《いまし》めとか、掟《おきて》というのが、どうもよくわからなかった。 ──父と出会って、この村に住むことが、なぜ、そんなにいけないことなのだろう? そんなことぐらいで、なぜ、母は自分の家族と会えないのだろう?
顔をしかめ、一生懸命《いっしょうけんめい》考えているエリンを見て、母が訊《き》いた。
「おかあさんの話、むずかしい?」
「……うん」
「そうでしょうね。……じゃあ、ずっとあとで、おまえが大人になったら、思いだして考えてごらん。いまよりは、きっと、わかるようになっているはずだから」
そう言って、母は手招《てまね》きをした。
お皿をおいて立ちあがり、そばに行くと、母は、エリンがもっと幼《おさな》かったころのように、エリンを膝《ひざ》に座《すわ》らせて、すっぽりと抱《だ》きかかえてくれた。
「おかあさんが、おとうさんと出会ったのは、サモックの岩場だったの。岩場に咲《さ》くチャチモ(紫色《むらさきいろ》の花を咲《さ》かせる植物。胃腸《いちょう》の薬《くすり》になる)を探《さが》していて、崖《がけ》の中腹に倒《たお》れている若者を見つけたのよ」
「それが、おとうさんだったの?」
「そう。……鹿狩《しかが》りをしていて、足を滑《すべ》らせたんですって」
「おとうさん、怪我《けが》してたの?」
「ええ。頭を強く打っていたし、足の骨《ほね》も折《お》れていたわ」
「おかあさんが、助けてあげたのね」
母は微笑《ほほえ》んで、エリンをゆすった。
「そうよ。………それが、おとうさんとの出会い。アッソン……おとうさんは、お祖父《じい》さま ともお祖母《ばあ》さまとも似《に》ていない、やさしい人だった。あまりしゃべらない人だったけれ ど、笑うとね、お天道《てんと》さまが雲間から顔を出したように、あたりが明るくなるの。
おまえは、おとうさんにそっくりよ。……そばにいてくれるだけで、温《あたた》かい」
そう言うと、母は、ぎゅっとエリンを抱《だ》きしめた。
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[#地付き]3 母の指笛《ゆびぶえ》
村の道を、ものものしく槍《やり》を携《たずさ》えた兵士たちをともなった騎馬《きば》の一行がやってくるのを、エリンは女たちのあいだに交じって、身を硬《かた》くして見つめていた。
集会堂《しゅうかいじょう》の前の広場には、村人のほとんどが集まり、緊張《きんちょう》した面持《おもも》ちで、監察官《かんさつかん》の一行を出迎《でむ》えた。村人より一歩前に、一列に並《なら》んでいる闘蛇衆《とうだしゅう》のなかに、母も立っている。
赤い衣《ころも》に太い飾《かざ》り帯《おび》を巻き、黒い冠《かんむり》をかぶった監察官は、馬から降りることもなく、自分の前に並んでいる闘蛇衆を睨《にら》みつけた。
「……大公《アルハン》の宝たる(牙《きば》)を、十頭すべて死なせたというのは、まことか」
エリンの祖父《そふ》が一歩前に進みでて、深く頭をさげた。
「まことでございます。お詫《わ》びのしようもございません」
監察官《かんさつかん》の目の縁《ふち》が、ぴくぴくと痙攣《けいれん》していた。監察官は、いきなり怒鳴《どな》った。
「(牙《きば》)のお世話《せわ》をしていた者は誰《だれ》だ、前に出よ!」
エリンは、びくんと跳《は》ねあがった。
母が前に進みでるのが見えた。母は、胸の前で両の掌《てのひら》を重ねて、深く頭をさげる最敬礼《さいけいれい》をした。
「……わたくしでございます」
監察官《かんさつかん》は、驚《おどろ》いて目を見開いた。
「なんと……まさか、おまえ、|霧の民《アーリョ》か?」
監察官はエリンの祖父《そふ》に顔を向けると、すさまじい声で怒鳴《どな》りつけた。
「おまえ、なにを考えておる! |霧の民《アーリョ》の女などに、大公《アルハン》の宝のお世話《せわ》をさせていたというのか!」
エリンの祖父は、こわばった顔で答えた。
「申《もう》しわけございません。しかし、この者は抜《ぬ》きんでた医術《いじゅつ》の腕《うで》を持っておりまして……」
監察官は、さっと乗馬用の鞭《むち》をふりあげるや、祖父の頭を打った。祖父の額《ひたい》から血が飛び散《ち》った。祖父は片手を額にあてたが、うつむいたまま、その場から動かなかった。
「抜《ぬ》きんでた医術の腕だと? さもあろうよ。|霧の民《アーリョ》とは、そういう、奇妙《きみょう》な術《じゅつ》を使う輩《やから》だ。
だが、いいか、頭領《とうりょう》! よく聞くがよい。闘蛇《とうだ》のお世話《せわ》をする者は、医術の腕に優《すぐ》れていればよいわけではない。なにより大切なことは、大公《アルハン》への、ゆるぎない忠誠心《ちゅうせいしん》を持っていることだ! 闘蛇衆《とうだしゅう》の頭領ともあろう者が、そんなこともわからぬのか!」
祖父は顔をあげた。
「畏《おそ》れながら申しあげます。この女は、十年以上まえに、|霧の民《アーリョ》から破門《はもん》され、わたくしの息子《むすこ》と結婚《けっこん》し、村人となった者でございます。もはや|霧の民《アーリョ》の掟《おきて》には従《したが》っておらず、大公《アルハン》さまに忠誠《ちゅうせい》を誓《ちか》っております」
監察官《かんさつかん》は、鼻で笑った。
「わかるものか。|霧の民《アーリョ》にとって掟は至上《しじょう》のものと聞く。我《わ》が子さえ、掟に逆《さか》らえば殺すそうな」
母を睨《にら》みつけ、監察官は言った。
「なぜ、おまえがお世話《せわ》をしている(牙《きば》)だけが全滅《ぜんめつ》したのだ。医術《いじゅつ》に優《すぐ》れているのなら、死因《しいん》も解明《かいめい》できていよう。答えよ!」
母は、硬《かた》い声で答えた。
「畏れながら申しあげます。……(牙)の死因は、中毒死《ちゅうどくし》でございます」
あたりが静まりかえった。
監察官は、眉根《まゆね》を寄せた。
「なんだと? 中毒死? それはどういう意味だ。おまえは、(牙)に毒物《どくぶつ》を与《あた》えたというのか!」
母は首をふった。
「ちがいます。……闘蛇衆《とうだしゅう》なら、誰《だれ》もが知っていることでございますが、(牙《きば》)に与《あた》える特滋水《とくじすい》は、かなり強い成分《せいぶん》を持っております。しかし、闘蛇の身体《からだ》をおおっている粘液《ねんえき》には、身体を保護《ほご》する力がありますので、特滋水が粘液と混《ま》ざりながら体内にとりこまれれば、闘蛇の健康を損《そこ》ねることなく、よい成分だけを与《あた》えることができるのです。
しかし、昨日の朝は、なぜか、闘蛇の身体をおおう粘液が、ところどころ薄《うす》くなっておりました。夜半《やはん》の見回りのときには、そのようなことはなかったので、いつものように特滋水を与《あた》えたのですが……」
監察官《かんさつかん》は、目を細めた。
「わずか数時間で、そのような変化《へんか》が起きたというのか。なぜだ?」
母は、監察官を見上げて、首をふった。
「……わかりません」
重苦しい静けさが、広場をおおった。
ふいに、監察官が、背後の兵士たちをふり返った。
「この女を捕《とら》らえよ! 尋問《じんもん》ののち、刑《けい》に処《しょ》する!」
エリンは、身体をふるわせた。心ノ臓に、なにかが刺《さ》さったような鋭《するど》い痛《いた》みが走った。
「……おかあさんっ!」
とびだしていこうとしたエリンを、隣《となり》のサジュの母が背後《はいご》からがっちりとつかんでとめた。
「行っちゃだめだよ!」
泣《な》き喚《わめ》くエリンの口を、サジュの母は肉厚の手でおおって、声が漏《も》れないようにした。
サジュの母は大柄《おおがら》で力が強い。エリンはくるったようにもがいたが、その腕《うで》をもぎ離《はな》すことはできなかった。
母が縄《なわ》をうたれ、引きたてられていくのが、涙《なみだ》にゆがんで見えた。
それから三日間のことを、エリンは、ほとんど覚《おぼ》えていない。
母は、あらかじめ、サジュの両親に、貯《た》めていた給金《きゅうきん》から多額《たがく》の金を渡《わた》して、エリンのことを頼《たの》んでいたのだそうで、サジュの両親は、エリンを家に連《つ》れて帰って、やさしくいたわりながら、面倒《めんどう》をみてくれた。
祖父母がひきとるのが筋《すじ》だろうが、彼らがどんな感情を持ってエリンに接するか、母にはわかっていたし、サジュの両親も、それは察していたのだ。
サジュの両親もサジュも、なぐさめてくれたが、すべての物音が遠くから聞こえてくるようで、エリンは、衷《かな》しみと恐怖《きょうふ》以外のなにも感じられなかった。
母が捕《とら》らえられて三日目の夜更《よふ》け、庭の奥《おく》にある厠《かわや》に行ったエリンは、寝間《ねま》に帰ろうとして足をとめた。サジュの両親の寝間から、サジュの母の興奮《こうふん》した声が、聞こえてきたからだ。
「……それじゃ、明日の夜明けに、(闘蛇《とうだ》の裁《さば》き)にかけられるってのかい?」
「しっ、声が大きい。子どもらが目をさましたら、どうする!」
夫にたしなめられて、サジュの母の声は幾分《いくぶん》小さくなったが、それでも彼女の声は生まれつき大きく、庭にいても、聞きとることができた。
「でも、それは、あまりにひどいじゃないか。いくらなんでも、そんな惨《むご》い死刑《しけい》にしなくたって……」
ぼそぼそと、サジュの父がなにか言い、また彼女の声が聞こえた。
「ああ……そうなんだろうね。原因もわからずに、(牙《きば》)だけが死んだとなれば、監察官《かんさつかん》も大公《アルハン》さまからお咎《とが》めを受けるもんね。すべてをソヨンのせいにしてしまおうってわけかい。それにしたって、ひどすぎるよ。野生《やせい》の闘蛇《とうだ》に食い殺させるなんて……」
そこまで聞いて、エリンは、そっと足音を忍《しの》ばせて走りはじめた。月の光を頼《たよ》りに、サジュの家の裏手《うらて》にまわり、雑木林《ぞうきばやし》を抜《ぬ》けて、自分の家にもどった。
喉《のど》を冷たい手でつかまれているようで、息苦しかった。
母を助けなければ。──明日の夜明けに、母は、闘蛇に食い殺されてしまう。
(闘蛇《とうだ》の裁《さば》き)というのは、きっと、以前に大人たちが話していた、恐《おそ》ろしい処刑《しょけい》のことだろう。敵に内通《ないつう》した者や、大公《アルハン》さまに反逆《はんぎゃく》した者が処《しょ》せられるという死刑《しけい》だ。罪人《ざいにん》の手足を縛《しば》り、足に石の錘《おもり》をつけて、野生の闘蛇がうようよいる、ラゴウの沼《ぬま》に落とすのだという。
暗く、冷え冷えとした土間に立って、エリンはふるえていた。
サジュのおかあさんたちが、エリンがいないことに気づいて捜《さが》しにくるまえに、家を出なければならない。見つかって連れもどされたら、母の処刑《しょけい》が終わってしまうまで、外に出してもらえないだろう。
ラゴウの沼《ぬま》がどこにあるかは、知っていた。村からは、とても遠い。でも、まだ夜明けには間があるから、一生懸命《いっしょうけんめい》歩いていけば、きっと処刑が始まるまえにつける。
エリンは、土間の壁《かべ》にかけてある、母の短刀《たんとう》をとった。思っていたより重くて、危《あや》うくとり落としそうになった。これは、闘蛇《とうだ》の硬《かた》い鱗《うろこ》を切って治療《ちりょう》ができるほど、よく切れる短刀だから、これなら、母の縄《なわ》を切れるはずだ。
ラゴウの沼《ぬま》の岸辺に潜《ひそ》んでいて、母が沼に投げこまれたら、泳いでいって、この短刀で縄を切ってあげれば、きっと、助けられる。
短刀を懐《ふところ》に入れ、エリンは棚《たな》から旅灯《りょとう》をとりだした。炉《ろ》はすっかり冷えていて、埋《うず》み火も消えてしまっていたので、大急ぎで火打ち石を打って火口《ほくち》に火を移し、旅灯に火を灯《とも》した。それから草履《ぞうり》を脱《ぬ》ぐと、革《かわ》の短靴《たんぐつ》に履《は》きかえて、外に出た。
春の月が、ぼんやりと天の藍色《あいいろ》をにじませている。
木々も草も、黒い影《かげ》になって静かに眠《ねむ》っている。
エリンは唇《くちびる》を噛《か》みしめて、歩きだした。
長い夜だった。歩いても歩いても山道は途切《とぎ》れず、ときおり、なにともわからぬ獣《けもの》が、薮《やぶ》をゆらして駆《か》けぬける音が聞こえた。
エリンは、口の中で「おかあさん、おかあさん」とつぶやきながら、ひたすらに歩きつづけた。
(おかあさんを助けたら……)
心の中で、エリンはそのあとのことを、思いめぐらした。
(村から出て、二人で旅をしながら暮《く》らせばいいわ。おかあさんは、小さいころ、そうやって暮らしていたんだもん)
母と一緒《いっしょ》に野山を歩き、遠い街々を巡《めぐ》る暮《く》らしを思い描《えが》き、おいしかった猪肉《ししにく》の味、母の温《ぬく》もりを思いだしているうちに、暗い山道が、すこし怖《こわ》くなくなってきた。
森が途切《とぎ》れ、目の前に葦《あし》の原が広がったときには、天はもう薄青《うすあお》い色になっていた。夜が明けたのだ。みるみるうちに、天は、わずかに赤みを帯《お》びた灰色に変わっていく。
エリンが葦《あし》の中に分け入ろうとしたとき、ふいに、太鼓《たいこ》の音が、大気をふるわせて鳴《な》り響《ひび》いた。ドーン、ドーン、と腹に響く音だった。
驚《おどろ》いた水鳥の群れが、葦原《あしばら》をゆらして、いっせいに天に舞《ま》いあがった。
太鼓の音は、まだ続いている。
沼《ぬま》の縁《ふち》にびっしりと生えている葦《あし》は、エリンよりずっと丈《たけ》が高く、どこに太鼓があるのか見えなかったけれど、きっと、あの太鼓のそばに、母はいるにちがいない。
そう思ったとき、ふいに、恐《おそ》ろしい考えが浮《う》かんできた。もしかすると、太鼓の音は処刑《しょけい》の合図《あいず》なのかもしれない。太鼓の音がやんだら、母は、沼《ぬま》に落とされるのではなかろうか。
鼓動《こどう》が速くなり、胸が苦しくなってきた。音のするほうへ走りだそうとしたが、葦原はじゅくじゅくとぬかるみ、足をとられて、ひどく歩きにくかった。よろけて葦をつかむと、鋭《するど》い葉で手が切れた。それでも、エリンはひたすら、太鼓の音がするほうへ進んでいった。音が途絶《とだ》えるまえに、母のそばに行かなくては……!
日が昇《のぼ》っていく。
あたりは、いつのまにか、すっかり明るくなっていた。
葦を掻《か》き分《わ》けると、ふいに視界が開けた。鋼色《はがねいろ》の水面《みなも》がはるか彼方《かなた》まで広がっている。この沼《ぬま》は、川によって、いくつもの沼や湖とつながっていて、西の端《はし》は隣《となり》の真王《ヨジェ》領まで達《たっ》しているのだと母が話していたのを、エリンは思いだした。
すぐ向こうの沼《ぬま》のほとりに野営地《やえいち》が築《きづ》かれていた。そこに太鼓《たいこ》が据《す》えられ、兵士たちが大きな枹《ばち》をふりあげては、打ち鳴《な》らしている。
別の兵士たちが小舟《こぶね》を沼に運んでいく。その様子を数人の男たちが見ていた。馬にまたがっているのは、あの監察官《かんさつかん》だろう。
沼のほとりに立っているのは兵士だけではなかった。エリンの祖父《そふ》をはじめ、闘蛇衆《とうだしゅう》のなかでも、上の位にある者たちが勢揃《せいぞろ》いしている。
エリンは息をのんだ。天幕《てんまく》の中から、母が引きだされてきたのだ。
その姿を見て、全身が、すうっと冷たくなった。
母は血まみれだった。後ろ手に縛《しば》られ、両脇《りょうわき》を兵士に抱《かか》えられて、ひきずられていく。エリンは歯をくいしばって、泣き声を必死にのみこんだ。胸の中に湧《わ》きあがってきたのは哀《かな》しみではなくて、激《はげ》しい怒《いか》りだった。
母の足に太縄《ふとなわ》が結《むす》びつけられるのが見えた。縄の先には重そうな石がくくりつけられている。母が小舟に乗せられたとき、エリンは懐《ふところ》から短刀《たんとう》をとりだして、鞘《さや》を投げ捨《す》てた。
母を乗せた小舟が、沼の上に押《お》しだされていく。
あそこまで、泳げるだろうか?
かなり遠いけれど、きっと泳げる。葦原《あしはら》にしゃがみこみ、短靴《たんぐつ》を脱《ぬ》いで、沼《ぬま》に入ろうとしたとき、片手に短刀を持っていたら泳げないことに気がついた。
また懐《ふところ》に入れようか?
でも、泳いでいるあいだに落ちてしまうかもしれない。
迷《まよ》っているあいだに、舟《ふね》はどんどん前に進んでいく。
エリンは、しかたなく短刀《たんとう》を口にくわえて、歯でぎゅっと噛《か》んで泳ぐことに決めた。沼《ぬま》に入ると、冷たい水が身体《からだ》を押《お》し包《つつ》んだ。
短刀をくわえているので、息継《いきつ》ぎができない。顔を水面に出して、口の脇《わき》と鼻とで息をしながら泳ぎだしたが、短刀が重くて、すぐに顎《あご》が痺《しび》れはじめた。
ドーン! と、ひときわ大きく太鼓《たいこ》が鳴《な》った瞬間《しゅんかん》、母の身体が小舟から突《つ》き落《お》とされるのが見えた。水しぶきをあげて、母が落ちるのを見届《みとど》けると、小舟はさっさと向きを変えて、岸のほうへもどっていく。
母は、いったん水の中に沈《しず》んで見えなくなったけれど、じきに水面に顔を出した。エリンは短刀の重みでさがりそうになる顎《あご》を必死《ひっし》に上にあげながら、母に向かって泳ぎつづけた。
「あれはなんだ、子犬《こいぬ》か?」
岸《きし》に立っていた兵士の一人が、いぶかしげな声をあげた。
「いや……犬じゃない。子どもだ」
並《なら》んでいる兵士のあいだに、ざわめきが起きた。
「口になにかくわえているぞ」
「……刃物《はもの》のようだな。罪人《ざいにん》を助ける気か?」
弓を持ちあげて、兵士の一人が監察官《かんさつかん》をふりあおいだ。
「射殺《しゃさつ》しますか?」
馬上の監察官は、額《ひたい》に手をかざして、半《なか》ば沈《しず》みそうになりながら、もがくように泳いでいる小さな姿を目で追っていたが、やがて、鼻で笑った。
「その必要《ひつよう》はあるまい。……見ろ」
罪人の周《まわ》りを遠巻きに囲《かこ》むように、沼《ぬま》の水面が、奇妙《きみょう》な波紋《はもん》を描《えが》きはじめていた。なにか巨大《きょだい》なものが、いくつも、うねりながら水面下を泳いでいるのだ。
「太鼓《たいこ》の音で目をさまされた闘蛇《とうだ》たちが、投げ入れられた生《い》き餌《え》に気づいたようだぞ」
エリンの祖父《そふ》は、かすかに口をあけて、その光景を見つめていた。
わずか十|歳《さい》の孫娘《まごむすめ》が、母を助けようと泳いでいる姿は、あまりにも哀《あわ》れだった。
(……いや、きっとこれでよいのだ。どうせ、あの子は、|魔がさした子《アクン・メ・チャイ》。母と一緒《いっしょ》に逝《い》ってしまったほうが、あの子には幸せだ)
異族と交《まじ》わって生まれた、穢《けが》れた子だ。生まれてきたのが間違《まちが》いだったのだ。間違いはこういうふうに正されて、消える。それが世の運命《さだめ》なのだろう。
そう思いながらも、孫の背後の水面に、ゆっくりと闘蛇《とうだ》の黒い背が盛《も》りあがるのを見ると、鳥肌《とりはだ》が立った。
ソヨンは、必死《ひっし》に水面に顔を出していた。
さほど深い場所ではないが、足は立たない。ただ、足に結《むす》ばれた錘《おもり》は沼《ぬま》の底についたらしく、もう重さは感じなかった。闘蛇を寄《よ》せるために、腹につけられた深い刺《さ》し傷《きず》から、血が流れだしていく。血とともに、命も流れでていくのを、ソヨンは感じていた。
殴《なぐ》られて腫《は》れふさがった瞼《まぶた》を、なんとか持ちあげて目をあけたとき、目にとびこんできた光景に、ソヨンは愕然《がくぜん》とした。
エリンが泳いでくる。こちらに向かって、泳いでくる……!
なにをくわえているのだろう?
(……短刀《たんとう》だわ!)
幼《おさな》い娘《むすめ》がなにをしようとしているのかがわかって、ソヨンは喉《のど》に熱い塊《かたまり》がこみあげてくるのを感じた。視界《しかい》が涙《なみだ》でにじんだ。
「エリン……!」
縛《しば》られている足で水を蹴《け》り、ソヨンは、懸命《けんめい》に娘のほうに進もうとした。
エリンは、いまにも溺《おぼ》れてしまいそうだ。短刀《たんとう》が重すぎるのだ。ロの中に溜《た》まった涎《よだれ》を、息と一緒《いっしょ》にすする音が聞こえてきた。
エリンは、ついに口から短刀をとって右手で持ち、左手だけで泳ぎはじめた。
「エリン、おかあさんにつかまりなさい。おかあさんの肩《かた》に……!」
エリンの小さな手が、すがるように自分の肩につかまったとき、ソヨンは、娘《むすめ》の背後の水面が盛《も》りあがるのを見た。
(……闘蛇《とうだ》!)
何頭もの闘蛇が、自分たちを囲んで泳いでいる。 ──大きな獲物《えもの》を見つけたとき、彼らが行う、(睨《にら》み合《あ》い)と呼ばれる行動だった。獲物を遠巻きにして、ぐるぐるまわり、寄《よ》ってきた闘蛇同士が、互《たが》いの力量《りきりょう》を見定《みさだ》め合うのだ。やがて、もっとも力のある闘蛇が、獲物に襲《おそ》いかかってくる……。
「……お、おかあ、さん」
エリンは咳《せき》きこみながら、つぶやいた。
「手、縄《なわ》……」
ソヨンは、身体《からだ》をねじり、娘《むすめ》が縄を切りやすいように、手首をなるべく娘のほうへ持ちあげた。エリンは息を整《ととの》えていたが、ひとつ大きく息を吸《す》うと、頬《ほお》を膨《ふく》らませて息をとめ、水に潜《もぐ》った。
手首を縛《しば》っている縄《なわ》は太く、水を吸《す》って硬《かた》くなっていたが、ソヨンは、力いっぱい縄をひっぱって刃が立ちやすいようにした。闘蛇用《とうだよう》の短刀《たんとう》は鋭《するど》く、エリンの力でも、何度かくり返してこするうちに、縄に切れ目を入れることができた。
縄が、ぶちぶちと切れはじめたのを感じて、ソヨンは歯をくいしばり、渾身《こんしん》の力をこめて縄を引きちぎった。
ソヨンは娘《むすめ》を抱《だ》きしめ、抱きあげた。
エリンは水面に顔を出すや、ゲホゲホと咳《せ》きこんだ。
「ありがとう………ありがとう………」
ソヨンは娘をきつく抱きしめ、頬《ほお》をすりつけた。
「おかあ、さん、足の縄も……」
「いいわ。足の縄は自分で切るから。短刀を渡《わた》して」
エリンが短刀を手渡してくれたとき、ソヨンは、自分たちをとりまいて泳いでいる闘蛇たちの動きが変化したのを感じた。(睨《にら》み合《あ》い)が終わったのだ。
足の縄を切っている時間はない。もう、わずかのうちに、最初の一頭が襲《おそ》いかかってくるだろう。
深い傷《きず》を負《お》っている自分が助かる望《のぞ》みは、最初からなかった。
だが、エリン一人なら、助ける方法がある。 ──それは、しかし、たとえ娘の命を守るためでも、けっしてしてはならぬことだった。生まれたときから、骨に刻《きざ》みこむようにして、教えこまれてきた戒《いまし》めだった。
いま、岸にいる人々の前でそれを行えば、あとあとどれほど恐《おそ》ろしい災《わざわ》いを呼ぶか、ソヨンにはよくわかっていた。それは、自分一人の命では償《つぐな》えないことだった。
ソヨンは幼《おさな》い娘《むすめ》の顔を見た。涙《なみだ》と水とでぐしょぐしょの顔を。胸を締《し》めつけていた葛藤《かっとう》が、その顔を見たとたん、はじけて消えた。
ソヨンは娘を抱《だ》きしめてささやいた。
「エリン、おかあさんがこれからすることを、けっしてまねしてはいけないよ。おかあさんは、大罪《たいざい》を犯《おか》すのだから」
母が、なにを言っているのかわからず、エリンは母を見ていた。
母は、微笑《ほほえ》むと、エリンの頭を片手で抱《だ》いて、言った。
「生きのびて、幸せになっておくれ」
そして、母は短刀《たんとう》を投げ捨て、ロに指をあてると、力いっぱい、指笛《ゆびぶえ》を吹《ふ》き鳴《な》らした。
甲高《かんだか》く、複雑《ふくざつ》な音程《おんてい》の音が、鋭《するど》く響《ひび》き渡《わた》った瞬間《しゅんかん》、闘蛇《とうだ》の動きがとまった。それまで波立っていた沼《ぬま》が、ゆるやかに静まっていく。
闘蛇は、硬直《こうちょく》しているのではなかった。ただ、静かに動きをとめ、鎌首《かまくび》をすこしもたげて、エリンの母を見つめている。
「……なんだ? あの女、なにをしているのだ?」
監察官《かんさつかん》が眉《まゆ》をひそめ、エリンの祖父《そふ》に問うた。エリンの祖父は首をふった。
「わかりません。指笛《ゆびぶえ》を吹《ふ》いているようですが……」
「だが、闘蛇《とうだ》が動きをとめたぞ? 指笛に、そんな力があるのか?」
エリンの祖父は、青ざめた顔で、呆然《ぼうぜん》とつぶやいた。
「いや、そんなはずは……。野生《やせい》の闘蛇は、音無し笛でも、とめることはできぬはず………」
エリンの母は、高く低く、指笛を吹《ふ》き鳴《な》らしていたが、最後に、奇妙《きみょう》な抑揚《よくよう》をつけて、強い調子で指笛を吹き鳴らした。
まるで猟犬《りょうけん》が犬笛に耳を傾《かたむ》けるように、ソヨンの指笛に耳をすましていた闘蛇たちは、それを聞いた瞬間《しゅんかん》、いっせいに、ソヨンめがけて集まってきた。
エリンは悲鳴《ひめい》をあげた。水しぶきをあげて巨大《きょだい》な闘蛇の顔が迫《せま》ってきたからだ。闘蛇の頭部に水草のように生《は》えている鬣《たてがみ》が頬《ほお》に触《ふ》れ、生臭《なまぐさ》い息の匂《にお》いと甘《あま》ったるい粘液《ねんえき》の匂いがむっと顔をおおった。
エリンは、身体《からだ》がぐいっと持ちあげられるのを感じた。母が腋《わき》の下に手を入れて、持ちあげたのだ。
「エリン、角をつかみなさい! 闘蛇《とうだ》の背にまたがるのよ!」
無我夢中《むがむちゅう》でエリンは手を伸《の》ばし、闘蛇の角をつかんだ。そして、粘液《ねんえき》に包《つつ》まれた闘蛇の背によじのぼった。
「両足でしっかり闘蛇の胴《どう》をはさみなさい! 角を放《はな》してはだめよ!」
そう叫《さけ》ぶなり、母はまた、指笛《ゆびぶえ》を吹《ふ》き鳴《な》らした。
とたんに、闘蛇が泳《およ》ぎはじめた。ものすごい速さだった。エリンは二本の角を両手でつかみ、ふり落とされぬように足に力を入れながら、あわてて母をふり返った。
「おかあさん! おかあさん!」
母の声が聞こえた。
「行きなさい! ふり返ってはだめ! 行くのよ!」
母の姿は、あっというまに、たくさんの闘蛇にのまれて消えてしまった。
「おかあさんっ! おかあさんっ!」
泣き叫《さけ》ぶ声を、水しぶきがさらっていく。エリンは、闘蛇から降《お》りようとしたけれど、粘液が、まるで膠《にかわ》のように衣《ころも》を鱗《うろこ》に貼《は》りつけ、降りることができなかった。
水しぶきをあげながら闘蛇は身を左右にうねらせ、沼《ぬま》を切《き》り裂《さ》くようにして泳いでいく。西へ、西へと、すさまじい速さで。
母も、生まれ故郷《こきょう》も、あっというまに背後に消え去り、目の前には、灰色の水面が果《は》てしなく広がっていた。
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[#地付き]4 精霊獣《せいれいじゅう》
枝の細い影《かげ》に縁《ふち》どられた夕空に、星が瞬《またた》きはじめていた。
若い娘《むすめ》が、夕餉《ゆうげ》に使うための粗朶《そだ》を腕《うで》に抱《かか》えて、森の中を足早に歩いていた。かすかに緑色がかった灰色の外套《がいとう》をまとい、頭巾《ずきん》を深くかぶったその姿は、獣《けもの》のように森の影に溶けこみ、目立つところはひとつもなかった。
と……どこかから、小さく鈴《すず》が鳴《な》るような音が聞こえてきた。
娘は、はっと足をとめた。前方の空から、蛍火《ほたるび》のような緑色の光が集まってくる。ちらちらする黄緑色の小さな光は、あっというまに寄《よ》り集まって、鳥のような姿になった。
(……精霊《せいれい》鳥!)
精霊烏が、木々のあいだに舞いおりていく。その光が肩《かた》に宿《やど》ることで、それまで木の影《かげ》にしか見えなかった黒いものが、うっすらと人の姿に浮《う》かびあがった。
蛍火色に輝《かがや》く精霊鳥は、ふわっと無数の光に変わって、その人影の周りを輝く浮塵子《うんか》のように飛《と》び交《か》い、また、寄り集まると、今度は人影《ひとかげ》の頭頂部《とうちょうぶ》───木の枝に似《に》た、二本の角のあいだに宿り、すうっと人影の中に溶《と》けていった。
光が溶けていくにつれて、人影が、ぼんやりと蛍火色《ほたるびいろ》に輝《かがや》きはじめた。
人の姿によく似《に》た……しかし、明らかに人とは異なる二本足の獣《けもの》が、それまでつぶっていた目をあけた。瞬《まばた》きをせぬ金色の目が、じっと娘《むすめ》を見つめた。
娘は、ふるえながら、粗朶《そだ》を地におろし、ひざまずいた。目を閉じて、息を整《ととの》え、耳をすました。
獣が口をあくと、チリチリと、鈴《すず》を鳴らすような音が高くなり、無数の音が重なって、ひとつの響《ひび》きになった。人の言葉によく似たその響きを、娘は息をとめて聞きとろうと努《つと》めた。
やがて、鈴の音が消えると、獣の頭部から、無数の光が舞《ま》いあがった。そして、瞬《まばた》きする間もなく、獣の姿も森の闇《やみ》の中へと消え去っていた。
娘は、びっしりと細かい汗《あせ》を額《ひたい》に浮かべ、ロの中で、いま精霊《せいれい》に告《つ》げられたことをくり返しながら、粗朶《そだ》を拾うのも忘れて駆けだした。
猟師《りょうし》さえ訪《おとず》れることのない、深い森の奥《おく》、峡谷《きょうこく》の崖《がけ》の中腹に、岩屋があった。
入り口は小さく、繁茂《はんも》する羊歯《しだ》や灌木《かくぼく》の茂《しげ》みに隠《かく》されて、たとえ近くまで来た者があったとしても、見つけることはできないほどだったが、その小さな入り口をくぐると、奥には、驚《おどろ》くほどに広大な空間が広がっている。闘蛇《とうだ》の岩房《がんぼう》によく似《に》たその岩屋は、しかし、闘蛇の岩房とはちがって、よく乾《かわ》いていた。
十七ほどある岩壁《がんぺき》の深いくぼみは、それぞれが一|軒《けん》の家ほどの広さがあり、厚織《あつお》りの布を垂《た》らして区切られている。それぞれの布の奥《おく》には、床《ゆか》に、みごとな技《わざ》で水滴《すいてき》さえもはじくほどにきっちりと織られた絨毯《じゅうたん》が敷《し》きつめられ、燭台《しょくだい》に火が灯《とも》った、居心地《いごこち》のよい空間があった。
娘《むすめ》は、息をきらして岩屋の入り口をくぐるや、広間に立って、鳥のさえずりによく似《に》た音の、指笛《ゆびぶえ》を吹《ふ》いた。
その音が岩屋中に響《ひび》き渡《わた》るや、ぐるりと広間をとりまいている十七の厚織りの布が持ちあがって、中から、大勢の人々が出てきた。老人もいれば、壮年《そうねん》の者も、若者も、子どもたちもいる。皆《みな》、すらりとした身体《からだ》つきで、緑色の瞳《ひとみ》をしていた。
白髪《はくはつ》の老人と老女が、娘のもとに近寄ってきた。
「なにごとか」
静かな声で、老女が問うた。
娘は、口を開いた。
「わ、わたしは、精霊獣《せいれいじゅう》に出会ったのだと……思います。精霊鳥が、角のある獣《けもの》に宿って、言葉を発せられました」
人々が、わずかに息をのむ音が聞こえた。誰《だれ》かがささやくように言った。
「なんと……。まだ、このあたりの森に精霊獣《せいれいじゅう》が生き残っておられたのか。もう死に絶《た》えてしまわれたのでは、なかったのか……」
老女がふり返って、その声の主を黙《だま》らせた。それから娘《むすめ》に向き直り、鋭《するど》い声で促《うなが》した。
「精霊獣は、そなたに、なにをお伝えになった」
娘は、震《ふる》えをしずめようと拳《こぶし》を握《にぎ》ったり開いたりしながら、言った。
「わたくしは未熟《みじゅく》でございます。きちんと聞きとれたかどうか、不安でございますが、申《もう》しあげます。精霊獣は、こう告《つ》げられました。 ──(操者《そうじゃ》ノ技《わざ》)が使われた。闘蛇《とうだ》の指笛《ゆびぶえ》を奏《かな》でた者がいると」
老女の顔が、さっとこわばった。かたわらに立つ老人をふり返ると、老人は、背後に立っていた、老いた人々を手招《てまね》きした。
長老たちが輪をつくり、その中央に立たされた娘は、緊張《きんちょう》に青ざめていた。
「精霊獣《せいれいじゅう》がお告げになった言葉は、それだけか」
「はい。それだけでございます」
老女がうなずいた。
「よく、聞きとった。……そなたは、もどってよい」
そして、背後にたたずんでいる人々をふり返った。
「これより長老会議を開く。話し合われたことは、あとで告《つ》げるゆえ、皆《みな》、岩房《がんぼう》へもどりなさい」
人々は一礼すると、岩房へともどっていった。
広間に残った長老たちは、車座《くるまざ》になって絨毯《じゅうたん》の上に、腰《こし》をおろした。
「……使われたのが、闘蛇《とうだ》の指笛《ゆびぶえ》ということは、戒《いまし》めを破ったのは、ソヨンだろう」
老女がそう言うと、長老の一人───六十ほどの老女が身をこわばらせ、床《ゆか》に額《ひたい》をつけた。
「申しわけございません。あのような娘《むすめ》を育ててしまいましたのは、すべて、わたしの責任でございます」
長老たちは、床に額をつけたままの老女を見つめた。
最初から話の主導権《しゅどうけん》を握《にぎ》っている老女が、静かな声で言った。
「……あの娘は賢《かしこ》く、心のよい………毅《つよ》い娘であったのに。まさか(操者《そうじゃ》ノ技《わざ》)を使うとは」
長老の一人が、口を開いた。
「まずは、なにが起きたのか、どのような状況《じょうきょう》で闘蛇の指笛を吹《ふ》いたのか、(探索者《たんさくしゃ》)に調べさせましょう」
ほかの長老たちが、うなずいた。
なかの一人が、暗い表情で言った。
「急がねばなりません。もし、人前で吹《ふ》いたのであれば───我らが闘蛇《とうだ》を操《あやつ》れることを見せてしまったのであれば、いずれ、必ず、大公《アルハン》の耳に入るでしょう。
そうなれば、大公《アルハン》は目の色を変えて我《われ》らを捜《さが》し、我らから、闘蛇を操《あやつ》る技《わざ》を訊《き》きだそうとするにちがいありません」
長老たちは、うなずいた。
老女が言った。
「一族のすべての者たちに、このことを伝え、身を隠《かく》すように告げねばならぬ。事態《じたい》がはっきりとわかるまで警戒《けいかい》を怠《おこた》らず、人里におりることのないよう、伝えねば」
*
精霊獣《せいれいじゅう》が現れて四日ののち、ソヨンが暮《く》らしていた闘蛇衆《とうだしゅう》の集落《しゅうらく》を調べにいっていた、(探索者《たんさくしゃ》)の若者がもどってきた。
若者の報告を聞きおえた長老たちは、複雑《ふくざつ》な表情《ひょうじょう》で黙《だま》りこんでしまった。
「ソヨンは、すでに処刑《しょけい》されていたのだね」
最長老の老女が、つぶやいた。
若者はうつむいたまま、くいしばった歯のあいだから押しだすように言った。
「ひどい……殺され方だったようです。監察官《かんさつかん》は、己《おのれ》が監督《かんとく》不行き届《とど》きであったことを問われぬよう、闘蛇《とうだ》が死んだのは、ソヨンが企《たくら》んだ悪事であったということにして、処刑《しょけい》をしたのだそうです。ただ……」
若者は顔をあげて、言った。
「皮肉《ひにく》なことですが、ソヨンは実際に、闘蛇の死に、深く関わっていたと言えるかもしれません。密《ひそ》かに闘蛇の死体を調べてみたのですが、明らかな粘液《ねんえき》の変化が見られましたから。 ──繁殖期《はんしょくき》が来ていたようです」
長老たちが、眉《まゆ》をひそめた。それが意味することを、彼らはよく知っていた。
一人の老女が、哀《かな》しげにうなずいた。
「……あの聡《さと》いソヨンが、粘液の変化に気づかなかったはずがないものね。ソヨンはなにが起きたのか知りながら、それでも特滋水《とくじすい》を与《あた》えたのだね。特滋水が、粘液の質が変わった(牙《きば》)にとっては、毒《どく》であることを知りながら……」
最長老の老女がつぶやいた。
「ソヨンは、戒《いまし》めを守ったのだね」
彼女は、ひっそりと涙《なみだ》を流しているソヨンの母に目を向けた。
「そなたの娘《むすめ》は、一族の心を捨《す》ててはおらなんだ。自らが処刑《しょけい》されるかもしれぬと知りながら、闘蛇《とうだ》の変化の秘密《ひみつ》を漏《も》らきぬために、闘蛇を死なせることを選んだのだから」
ソヨンの母はなにも言えずに、ただ喉《のど》の奥《おく》を鳴《な》らしながら涙《なみだ》していた。
「……だが、我《わ》が子《こ》が闘蛇に食い殺されるのは、耐《た》えられなかったのだね。ぎりぎりのところで、ソヨンは、情に負けてしまった……」
長老たちは、暗い表情《ひょうじょう》で沈黙《ちんもく》した。
長い沈黙のあとで、最長老の老女が、ロを開いた。
「ソヨンの娘《むすめ》は、どうなったのだね?」
若者は首をふった。
「ナソンが跡《あと》を辿《たど》っておりますが、あのあたりは複雑《ふくざつ》に水路が交錯《こうさく》しておりますから、闘蛇がどの水流を通ったのか見つけることは、むずかしかろうと存じます。
それに、わずか十|歳《さい》の娘では、いつまでも闘蛇にしがみついてもおられますまい……」
長老たちも、若者も、うつむいて、目をつぶった。
遠くから、夜鳴き鳥の長く尾《お》をひく、寂《さび》しげな声が聞こえてきた。その鳴き声が、夜のしじまに溶《と》けて消えたとき、若者が口を開いた。
「……ソヨンと、その幼い娘は、ほんとうに哀《あわ》れでしたが、監察官《かんさつかん》が小心な男だったことが、唯一《ゆいいつ》の救《すく》いです」
長老たちが目顔で先を促《うなが》すと、若者はしっかりした声で続けた。
「監察官《かんさつかん》は、監督《かんとく》不行き届きとして咎《とが》められ、自分の経歴《けいれき》にわずかでも傷がつくのを恐《おそ》れたのでしょう。闘蛇衆《とうだしゅう》に、ソヨンが|霧の民《アーリョ》であったことは、くれぐれも口外するなと厳命《げんめい》したと、村人たちが噂《うわさ》しているのを、忍《しの》び聞くことができました」
それを聞くや、長老たちの表情《ひょうじょう》が、目に見えてゆるんだ。
「……そうか。それは、よかった」
最長老の老女がつぶやいた。
「ならば、ソヨンが(操者《そうじゃ》ノ技《わざ》)を使ったという噂が広まることはないね」
若者は、うなずいた。
「おそらく、大丈夫《だいじょうぶ》であろうと思います」
「ご苦労であった。これからも油断なく監察官の動きを探《さぐ》っておくれ。
いかなる理由があろうとも、戒《いまし》めを破ることは、災《わざわ》いをもたらす可能性《かのうせい》を秘《ひ》めておる。
我らはもう二度と、我らの技によって、世に災いをもたらしてはならぬ。
精霊《せいれい》となった祖先《そせん》たちは、戒めが破られたせいで……ひとつの糸が綻《ほころ》びたせいで、次々に布が破れていくことがないよう、精霊獣《せいれいじゅう》に宿《やど》って、告《つ》げてくださったのだろう」
そう言ってから、老女は、静かな口調でつけくわえた。
「たとえ、大公《アルハン》の耳に噂《うわさ》が届くことはなくとも、我らの姿が、噂を心に呼び起こす縁《よすが》となってはいけない。ともかく、我らはしばしこの国を離《はな》れ、山隠《やまがく》れをしたほうがよいだろ う。このたびのことで生じた噂《うわさ》の火が消えるまで」
長老たちは、深くうなずいた。
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[#地付き]1 流れついた子
湖畔《こはん》にすっくと立つサロウの大樹が、満開の時を迎《むか》えていた。
湖に張《は》りだした枝にびっしりと咲《さ》いている白い綿毛のような花が、朝の光を浴びて、ちらちらと輝《かがや》いている。
小さな蜜蜂《みつばち》たちが、くるったようにその花の周りを飛《と》び交《か》っているのを見上げ、ジョウンは、白いものが交じりはじめた硬《かた》い髭《ひげ》をさすりながら、微笑《ほほえ》んだ。
今年は、いい年になりそうだ。味のよい蜜がたんと採《と》れるだろう。
広大な湖に風が渡《わた》ると、さあっと小波《さざなみ》が立ち、花の香《かお》りが漂《ただよ》ってくる。
ほかの木々の花のつき具合を確かめようと、湖畔を歩きはじめたジョウンは、ふと、足をとめた。奇妙《きみょう》な光景《こうけい》が目にとびこんできたからだ。
嘴《くちばし》の黄色い小鳥たちが、興奮《こうふん》した様子で鳴《な》き交《か》わしながら、せわしなく岸辺に舞《ま》いおりては、なにかをつついている。岸辺の草の上に、大きな泥《どろ》の塊《かたまり》があって、それをつついているのだ。
(……なんだ、あれは?)
その泥《どろ》の塊《かたまり》がなんであるかに気づいて、ジョウンは、はっと身体《からだ》をこわばらせた。
(死体だ。……溺《おぼれ》れ死《し》んだやつが、打ちあげられたんだな)
小さな死体だった。子どもなのだろう。
(さて、朝っぱらから、とんでもないものを見つけちまったな。どうしたもんか……)
ここは、人里からずいぶん離《はな》れているから、人手を集めて、埋葬《まいそう》してやるというわけにもいかない。とはいえ、大人の死体ならともかく、子どもの死体だと思うと、そのままにしておく気にはなれなかった。
覚悟《かくご》を決めて近寄っていくと、ふわっと麝香《じゃこう》のような、独特《どくとく》の甘《あま》い匂《にお》いが漂《ただよ》ってきた。
ジョウンは、あわてて岸辺を見渡《みわた》した。どこかに、闘蛇《とうだ》がいるのではないかと思ったのだ。
しかし、水面は静かで、闘蛇が出てくる気配《けはい》はなかった。
闘蛇の匂いは、この子どもの死体から漂っているのだと気づいて、ジョウンは、泥《どろ》人形のような死体の脇《わき》にかがみこみ、しげしげと、見つめた。
泥が、膠《にかわ》のように身体《からだ》全体にこびりついているが、顔は比較的《ひかくてき》きれいだった。血の気のない白い顔を見ながら、ジョウンは顔をゆがめた。
「……かわいそうになあ。こんな幼い女の子が……」
顔をこちらに向けて、瞼《まぶた》を閉じている少女の口もとは、かすかにあいていた。その唇《くちびる》に触《ふ》れている草が、ゆれているのに気づいて、ジョウンは、はっとした。
たしかに、草がゆれている。
ジョウンは、あわてて少女の口もとに顔を近づけた。頬《ほお》に息がかかった。
「生きてる!」
怒鳴《どな》るや、ジョウンは少女の頬《ほお》を平手でパシバシと叩《たた》いて、肩《かた》をゆさぶった。
「おいっ! おいっ! 目をさませ! わかるか? 感じるか?」
少女は、かぼそい声で唸《うな》って、わずかに目をあけたが、すぐにまた閉じてしまった。
「大変だぞ、こりゃ」
ジョウンは、ぐいっと少女の身体《からだ》の下に腕《うで》を差し入れ、静かに抱《だ》きあげた。ぐったりしていても、軽い身体だった。
温かい湯が全身を包《つつ》んだ感触《かんしょく》で、エリンは、ぼんやりと意識《いしき》をとりもどした。
手足に傷《きず》があるのか、お湯がぴりぴりと泌《し》みて痛《いた》かった。
誰《だれ》かが頭を支《ささ》えて、髪《かみ》を洗ってくれている。衣《ころも》は着たままで、そのまま湯船《ゆぶね》につけられているらしい。奇妙《きみょう》な湯船だった。背中に、なにか硬《かた》いものがあたっている。
「お……気がついたか?」
日をあけると、見知らぬ男の人の顔が、すぐそばにあった。
エリンは瞬《まばた》きをして、背にあたっている硬《かた》いものを手で探《さぐ》った。どうも、板らしい。
男が笑いだした。
「背中が痛いか? まあ、がまんしろ。おまえを丸ごと入れられる湯船なんぞ、このあたりにはないからな。小舟《こぶね》に湯を張ったんだ。……とにかく、この泥《どろ》を落とさんことには、怪我《けが》をしているのかどうかも、わからんから」
身体《からだ》がだるく、声も出せなかった。エリンは目をつぶり、また、すうっと深い眠《ねむ》りの中へ落ちていった。
次にエリンが目をさましたのは、夕暮れ時だった。
森閑《しんかん》とした部屋に、エリンは一人、横たわっていた。
目をあけ、ぼんやりと、天井《てんじょう》を見つめた。不思議《ふしぎ》な天井だった。なにか細い木で編《あ》んだ布のように見える。赤みを帯びた西日が部屋の壁《かべ》を照《て》らし、ゆっくりと埃《ほこり》が舞《ま》っている。
全身が熱い。
エリンは目を閉じた。そして、再び眠りに吸いこまれていった。
それから、エリンは恐《おそ》ろしい夢を見た。切れ切れの恐ろしい夢をいくつも、いくつも。水しぶきが顔にかかる。うねる闘蛇の身体が、まだ腹の下にあるような気がした。身体《からだ》がひりひり痛《いた》い。痛くて、重い。
母の最期《さいご》の声が耳に響《ひび》き、その姿が闘蛇の群れの中に消えていく光景がくり返し夢に現れた。それを見るたびに、腹から胸へ、切《き》り裂《さ》かれるような痛みが走った。
まともに泣くことさえ、できなかった。身の内を、なにかが食《く》い荒《あら》らしているように痛くて、苦しい。息すらもできないほどに、苦しかった。
ひんやりとしたものが、額《ひたい》にのせられたのを感じた。誰《だれ》かの大きな手が、布団《ふとん》の上から身体をゆっくりさすってくれている。静かに、静かに。
「大丈夫《だいじょうぶ》だ。夢だよ。おまえは、夢を見ているんだ。怖《こわ》いことは、なんにもないぞ」
低いおだやかな声を聞くうちに、エリンは、ゆっくりと悪夢から解《と》き放《はな》たれていった。
水で濡《ぬ》らして絞《しぼ》った布で、汗《あせ》がびっしり浮《う》いている顔をぬぐってやりながら、ジョウンは、眠《ねむ》っている幼《おさな》い娘《むすめ》の寝顔《ねがお》を見ていた。頬《ほお》がリンゴのように真っ赤で、小さなロで、せわしなく息をしている。
さっきまで夢を見てうなされ、泣いていたが、いまは静かになっていた。
もう、これで一昼夜《いっちゅうや》、娘はわずかに目ざめては、また眠るということをくり返していた。
高熱が出ているので解熱《げねつ》の効能《こうのう》があるラウを煎《せん》じた薬湯《やくとう》を飲《の》ませてみたが、苦《にが》いせいか、うまく飲んでくれなかった。
飲ますことができたのは、カリム(柑橘系《かんきつけい》の果実)の果汁《かじゅう》に蜂蜜《はちみつ》と貴重な|女王の乳《タプ・チム》を混《ま》ぜて、冷たい水で割ったものだけだったが、これだけ汗《あせ》をかいているのだから、その果汁だけでも、与《あた》えつづけたほうがいいだろう。
まだ、十|歳《さい》ぐらいだろうか。子どもの身体《からだ》では、これほどの高熱には耐《た》えられないかもしれない。だが、|女王の乳《タプ・チム》には、ふつうの蜜蜂の幼虫《ようちゅう》を女王蜂に変えてしまうほどの力がある。蜂蜜と|女王の乳《タプ・チム》が、この子の命を支《ささ》えてくれることを祈《いの》るしかない。
看病《かんびょう》していて、いたたまれなくなるのは、この子の泣き声を聞いているときだった。
よほどひどい目にあったのだろう。この娘《むすめ》の泣《な》き方は、ただ親を求《もと》めて泣く、子どもの泣き方ではなかった。身を絞《しぼ》るような、聞いているだけで息苦しくなるような泣き方だった。
(いったい、なにがあったのか……)
この娘が着ていた衣《ころも》は、このあたりの子どもたちが身にまとっている衣とは、形がちがった。ずっと東の、大公領民《ワジャク》(混血というような意味。大公《アルハン》領民に対する通称《つうしょう》)がまとう服装に見える。
しかし、一番近い大公《アルハン》領との領境《りょうざかい》でも、ここまでは、馬でも三日はかかる。こんな幼《おさな》い娘《むすめ》が、どうやってここまでやってきたのだろう。親たちは、どこにいるのか。
それに、なぜ、全身に泥《どろ》と闘蛇《とうだ》の粘液《ねんえき》がこびりついていたのだろう? 衣《ころも》から出ている腕《うで》や掌《てのひら》、それに膝《ひざ》から下は、切り傷だらけだった。
もうひとつ、気になっていることがあった。 ──それは、この娘の瞳《ひとみ》の色だ。わずかに目をあけたとき、はっとしたのだが、この娘は緑色の瞳をしていた。
(……もしかすると、|霧の民《アーリョ》の血をひいているのかもしれんな)
とんだ拾《ひろ》い物をしてしまったものだ。煩《わずら》わしい重荷を背負いこんでしまったのかもしれない。
ジョウンは、ため息をついた。
「そうは言っても、拾ってしまった以上、生きのびてほしいわな」
心配なのは、破傷風《はしょうふう》だった。手足にある切り傷は、泥がこすりこまれたようになっていたし、いまは、地腫《じば》れがしている。化膿《かのう》しているだけなら治療法《ちりょうほう》はあるが、破傷風に感染《かんせん》していたら、手の施《ほどこ》しようはない。
だが、心配していてもしかたがない。とにかく、化膿している傷口だけでも、手当てすべきだった。
ジョウンは顎《あご》に手をあてて、考えこんだ。
(思いきって、あれをやってみるか。だが、あれは化膿《かのう》した腫《は》れ物などには絶大《ぜつだい》な効果《こうか》があるが、強い毒《どく》でもあるからな。大人でも喉《のど》がつまって死ぬ者もいるというし、子どもにやってもいいものか……)
そのとき、娘《むすめ》がうっすらと目をあけた。喉が渇《かわ》いたのだろう。唇《くちびる》を動かしている。
「お……」
ジョウンはつぶやいて、娘の頭の下に手を入れて、ゆっくり起こしてやった。そして、果汁《かじゅう》が入っている椀《わん》を持ちあげると、娘のロにあてて、すこしずつ飲《の》ませてやった。
娘は、コクコクと音をたてて果汁を飲んだ。
「おいしいか」
娘がかすかにうなずいた。
すこし、意識《いしき》がはっきりしてきたようだ。いまなら、訊《き》いたことに答えるかもしれない。
「おまえ、蜂《はち》に刺《さ》されたことはあるか?」
娘は、熱でとろんとした目でジョウンを見ていたが、やがて、かすかに首をふった。
「蜂に刺されたことはないんだな? 確かだな?」
娘は、うなずいて目を閉じた。
娘を寝《ね》かせてやりながら、ジョウンは心を決めた。
ジョウンは立ちあがると、棚《たな》から空《から》の竹筒《たけづつ》をとり、それから蜜蝋燭《みつろうそく》も一本とって火を移《うつ》してから、外へ出ていった。
ひんやりとした夜の匂《にお》いを感じながら、ジョウンは軒下《のきした》に何本も吊《つ》るしてある、干《ほ》したハサク(油分が多い草)の束《たば》をとり、束の先に火をつけた。
もくもくと煙《けむり》が出はじめたハサクの束を持って、家の裏手にまわり、かなり離《はな》れた落葉樹《らくようじゅ》の下においてある蜂《はち》の巣箱のところに行くと、脇《わき》に立って、蓋《ふた》をトントンと叩《たた》いた。
それから蓋をあけ、ハサクの煙が巣枠《すわく》の表面に漂《ただよ》うように、ゆらゆらと束を動かした。
なにごとかと、巣枠のそばにうろうろしていた蜂が静かになるのを見届《みとど》けてから、一|匹《ぴき》、二|匹《ひき》と、蜜蜂《みつばち》をつまみあげては竹筒《たけづつ》に入れた。
「……お邪魔《じゃま》さん。騒《さわ》がして悪かったな」
つぶやいて、蓋《ふた》を閉めると、ジョウンは竹筒を持って家にもどった。
ジョウンは、とってきた蜜蜂を灯《あか》りにかざしながら、竹製のトゲ摘《つ》みで尾《お》の針をつまんで抜《ぬ》いた。その針を布の上に並べ、竹筒に針を抜いた蜂をもどすと、ちょっと手を合わせた。
蜜蜂《みつばち》は、針を抜《ぬ》かれると死ぬ。小さな虫だが、ジョウンにとっては、一匹一匹がかけがえのない大切な宝物だった。かわいそうだが、ゆるしてもらうしかない。
「さて……」
つぶやいて、ジョウンは布団《ふとん》をはがし、娘《むすめ》の手足の傷を調べた。ひどく膿《う》んでいる傷が、両方の膝《ひざ》の内側にあった。
ジョウンは眉《まゆ》をひそめた。馬の鞍《くら》にこすれると、この場所に傷ができるが、この娘《むすめ》の傷は擦《す》り傷《きず》というより切り傷に近かった。
地腫《じば》れがしているその傷口のそばに、ジョウンは慎重《しんちょう》に蜂《はち》の針を刺《さ》した。あまり深くは刺さず、蜂毒《はちどく》がたくさん注入《ちゅうにゅう》されぬように気をつけて、すぐに針を抜《ぬ》いた。ほかの化膿《かのう》している傷口にも、同じことを試《こころ》みた。
刺《さ》された瞬間《しゅんかん》、娘《むすめ》は、びくん、と顔をしかめて目をあけたが、すぐにまた目をつぶってしまった。
ジョウンは額《ひたい》の汗《あせ》をぬぐった。
「やれやれ。……効《き》いてくれるといいが」
蜂毒を解毒《げどく》するファラン(薬草)を煎《せん》じたものを、すぐ飲ませられるように手もとにおいて、今夜は徹夜《てつや》で看《み》ていよう。明日の朝、熱がさがってくるようなら、助かるにちがいない。
*
鳥のさえずりで、エリンは目をさました。
どこからか、風が入ってきている。朝露《あさつゆ》に濡《ぬ》れた草の香《かお》りが風に乗って漂《ただよ》ってきた。
悪夢《あくむ》の名残《なごり》がさっぱりと消えて、目の前がはっきりと見えた。
ゆっくりと寝返《ねがえ》りをうつと、寝床《ねどこ》の脇《わき》の床《ゆか》に、大きなおじさんが座《すわ》っていた。あぐらを組んで座り、腕《うで》を組んだ姿勢のままで、頭を垂《た》れてぐっすりと眠《ねむ》っている。
頭の重さにひっぱられるようにして、身体《からだ》が斜《なな》めに傾《かたむ》いていくが、あるところまで傾くと、おじさんは目をつぶったまま、びくっと頭を起こした。そしてまた、身体が傾いていく。エリンはそれを、ぼんやりとながめていた。
よほど疲《つか》れているのだろう。今度は、おじさんの頭はどんどん下に落ちていき、次の瞬間《しゅんかん》、あっと思うまもなく、頭から床《ゆか》に、ごろんとひっくり返った。ゴツンッという音がして、おじさんは、うめき声をあげて目をさました。そして、なにごとが起きたのかわからないという顔で、うろたえて、あたりを見まわした。
エリンは口を押《お》さえた。笑ってはいけないと思ったけれど、こらえられなかった。
起きあがったおじさんは、瞬《まばた》きをし、しげしげとエリンを見た。
「……こいつ。笑うんじゃない」
そう言いながら、自分も笑いだした。
熊《くま》のように大きくて、髭《ひげ》がもじゃもじゃに生えた、見知らぬおじさんだったが、笑っているせいか、エリンは怖《こわ》いとは思わなかった。
ようやく笑いをおさめると、おじさんは、しげしげとエリンを見た。
「熱がひいたようだな。さっぱりした顔をしとる。……身体《からだ》はきつくないか」
エリンは、小さくうなずいてみせた。
「そうか。………ちょっと、膝《ひざ》の傷《きず》を見せてみろ」
おじさんが布団《ふとん》をめくると、エリンは、自分が大きな衣《ころも》にくるまれていることに気づいた。このおじさんの寝巻《ねま》きだろうか。袖《そで》は何回もまくられていて、それでようやく手の先が出ている状態《じょうたい》だった。上衣《うわぎ》だけを帯で縛《しば》ってくれていたが、エリンには、それで立派に寝巻きになっていた。
おじさんは膝の傷を見て、ほっとした顔になった。
「昨日より、ずいぶん腫《は》れがひいているな。このぶんなら、すぐによくなるだろう」
そう言って、おじさんは、また布団をかぶせてくれた。
「これでひと安心だ。運の強い子だ、おまえは。黄泉《よみ》の河の河原《かわら》あたりまで行ってたのに、引き返してきたんだから」
それを聞いたとたん、母のことが、どっと心によみがえってきた。
闘蛇《とうだ》の群《む》れにのまれて消えた母の姿が目に浮《う》かび、腹から胸、喉《のど》へと、鋭《するど》い痛《いた》みをともなった熱い塊《かたまり》がこみあげてきて、涙《なみだ》があふれた。
(……おかあさん)
おかあさんに会いたい。
(おかあさん、おかあさん、おかあさん……)
身を縮《ちぢ》め、胸を押《お》し絞《しぼ》るようにして、エリンは泣きはじめた。
おじさんが手を伸《の》ばして、布団《ふとん》の上から身体《からだ》をさすってくれた。夢の中で、さすってくれていた手だった。
「思う存分《ぞんぶん》、泣きな」
おじさんは言った。
「涙《なみだ》は哀《かな》しみの汁《しる》だ。涙がどんどん流れでれば、哀しみも、それだけ減っていくってもんさ。おまえを、そんなに哀しませていることも、やがては、忘れられるようになる」
その言葉は、心の中に、小波《さざなみ》を立てた。
そうなのだろうか。
涙が流れて、流れて、流れきってしまったら、哀しみは軽くなり……おかあさんを、だんだんに、忘れてしまうんだろうか。
エリンは、目をつぶった。
おかあさんを忘れるなんて、絶対《ぜったい》いやだった。
涙があふれて、とまらない。しゃくりあげながら、エリンは息を胸いっぱいに吸《す》いこみ、歯をくいしばって、泣き声をとめようとした。うめき声とともに息が漏《も》れ、エリンは激《はげ》しく咳《せ》きこんだ。
おじさんは、ぽんぼんと布団《ふとん》をはたいた。
「おいおい、そんな無理《むり》をして、泣きやもうとするなや。泣いていいんだぞ」
エリンは首をふった。そして、枕《まくら》に顔をうずめると、枕をぎゅっと抱きしめて涙《なみだ》をとめようとした。
「どうしたんだ、え?」
背に手をおいて、困《こま》ったような声を出したおじさんに、エリンは、くぐもった声で、切れ切れに答えた。
「……泣《な》き、たくない」
おじさんが、いぶかしげな声を出した。
「なんだって? なんでだ?」
エリンは答えず、必死に枕に顔を押《お》しつけた。
おじさんは、しばらく、眉《まゆ》のあたりをくもらせてエリンを見つめていたが、やがて、したいようにさせておこうと思ったのだろう、「よっこらせ」とつぶやきながら立ちあがった。
おじさんが土間《どま》でなにかをしている音を聞くうちに、エリンの涙は、すこしずつおさまっていった。
枕から顔をあげ、身体《からだ》を起こそうとすると、めまいがした。エリンはあわてて、もう一度|枕《まくら》に頭をつけた。ずっとめまいが続いたらどうしようと怖《こわ》くなったが、めまいは、すぐにおさまっていった。
身体《からだ》が抜《ぬ》け殻《がら》になってしまったように頼《たよ》りなく、じーんと頭が痛《いた》くて、指先がふるえるような感じがする。
涙《なみだ》を手でぬぐい、土間のほうへ顔を向けると、おじさんが竈《かまど》のところにしゃがみこんで、なにかを鉄箸《てつばし》ではさんで炙《あぶ》っているのが見えた。あけはなたれている玄関《げんかん》から、白い朝の光が射《さ》しこみ、風に乗って、かすかに香《こう》ばしい匂《にお》いが漂《ただよ》ってくる。
その匂いを嗅《か》いだとたん、グウッとお腹《なか》が鳴《な》った。猛烈《もうれつ》にお腹がすいてきて、口の中に唾《つば》が出てきた。
いつからご飯《はん》を食べていなかっただろう……。考えてみて、エリンはびっくりした。サジュのおかあさんの家で夕飯を食べてから、ずっとなにも食べていないのだ。お腹がすくわけだ。
おじさんは、土間の厨《くりや》でさかんに立ち働いていたが、やがて、木椀《もくわん》をふたつ持って、寝間《ねま》へあがってきた。
「ほれ、朝餉《あさげ》だ」
おじさんは、エリンの頭の下に手を入れて、ゆっくりと起こしてくれた。
「身体《からだ》を起こしていられそうか?」
エリンはうなずいた。ゆっくり起こしてもらったせいか、めまいはしなかった。
「そうか。なら、自分で食べたほうがいいだろう。ほれ」
手渡《てわた》された、温かい木椀《もくわん》の中身を見て、エリンはびっくりした。
木椀に入っていたのは、お米のご飯ではなかった。ぱさぱさに乾《かわ》いたお餅《もち》のようなものを香《こう》ばしく焼いて、それがお乳につけてあるのだ。その上に、たっぷりと黄金色《こがねてろ》の蜂蜜《はちみつ》がかかっていた。お乳と蜂蜜が滴《したた》っているお餅をつまみあげて頬《ほお》ばり、噛《か》みしめたとたん、口の中にじゅうっと甘《あま》く香ばしい味が広がった。
「うまいか?」
目をまんまるくして、うなずくと、おじさんはうれしそうな顔になった。
「うまいだろう! おれのかわいい蜜蜂《みつばち》たちが、せっせと作った蜂蜜《はちみつ》だ。国一番の味だぞ」
蜂蜜は、高価なものだったから、エリンはいままで、こんなにたっぷりと食べたことはなかった。それに、エリンが食べたことがある蜂蜜より、この蜜はずっとこくがあり、よい香《かお》りがした。
エリンは夢中《むちゅう》で食べた。食べ物がお腹《なか》に入ると、じんわりと身体《からだ》が温《あたた》かくなった。
人心地《ひとごこち》つくと、自分がなにを食べているのかが、気になってきた。
「……これは、なんですか?」
乾《かわ》いたお餅《もち》のようなものを見せながら、尋《たず》ねると、おじさんは、一瞬《いっしゅん》、けげんそうな顔をした。それから、うなずいて教えてくれた。
「それはファコ(雑穀《ざっこく》から作る無発酵《むはっこう》のパン)だ。おれたちは、いつも、こいつを食べる。
雑穀を挽《ひ》いて粉にして、水で練《ね》って焼くんだよ。香《こう》ばしくて、うまいだろう?」
エリンがうなずくのを見ながら、おじさんは、おだやかな声で言った。
「おまえは、いつも朝餉《あさげ》には、なにを食べていたんだね?」
エリンは、小さな声で答えた。
「……お米のご飯《はん》に、お汁《しる》です」
「そうか。 ──おまえは、やっぱり、大公領民《ワジャク》なんだな。大公《アルハン》領は、おれたちが暮らす真王《ヨジェ》領より、はるかに広大で、水源《すいげん》の豊かな平野に恵《めぐ》まれているから、稲《いね》もよく実る」
エリンは驚《おどろ》いた。
「……ここは、大公《アルハン》領ではないんですか?」
「ここは、真王《ヨジェ》領の東の端《はし》、サンノル郡《ぐん》だよ。山がちの土地でね、米より、雑穀《ざっこく》や麦のほうがよく実るからな。ファコを食べるのさ」
そう言って、おじさんは、エリンに微笑《ほほえ》みかけた。
「おまえは、自分がどこにいるのか、知らなかったのか。……親御《おやご》さんは、どこにいるんだね?」
エリンは顔をこわばらせた。また、涙《なみだ》がこみあげてきそうになったので、唇《くちびる》をぎゅっと噛《か》みしめ、息をのみこんで、エリンは首をふった。口を開いたら、泣き声が出てしまいそうだった。
「……親も、家族も、いないってことかい?」
おじさんが静かな声で尋《たず》ねた。エリンは、うつむいたまま、うなずいた。
おじさんは顔をくもらせて、さらに尋ねた。
「なにがあったんだ? どうして、湖のほとりに倒《たお》れていたんだね。あんな泥《どろ》まみれで」
エリンは、うつむいたまま、答えなかった。
処刑《しょけい》された母のことも、闘蛇《とうだ》にまたがったまま一昼夜《いっちゅうや》も水の上をひきずられてきたあと、水の中に落ちてしまったことも、ロに出すのは、なぜか恐《おそ》ろしかった。
じっとうつむいている娘《むすめ》を見て、おじさんは、ため息をついた。
「……まあいい。話したくないなら、無理《むり》に話さんでも。だが、名前ぐらいは教えてくれるだろうな。おれは、ジョウンと言う。おまえは、なんと言うんだね?」
そう言われて、エリンは真っ赤になった。あわてて手に持っていたファコを木皿にもどして、居住《いず》まいを正した。膝《ひざ》の傷《きず》が痛《いた》かったけれど、がまんして正座《せいざ》をした。
命を助けてもらって、看病《かんびょう》もしてもらったのに、ただ、おいしい朝餉《あさげ》を頬《ほお》ぼって、礼《れい》も言わず、名前さえ名乗っていなかったことを思うと、恥《は》ずかしくて、顔から火が出そうだった。
エリンは胸に両の掌《てのひら》をあてて、額《ひたい》を床《ゆか》につける最敬礼《さいけいれい》をした。
「わたしは、エリンです。助けてくださって、どうもありがとうございました」
おじさんは微笑《ほほえ》んだ。
「エリン(山に自生《じせい》する野生《やせい》のリンゴ)か。いい名だなあ」
ジョウンは、ぴしっと正座《せいざ》をした小さな娘《むすめ》をながめながら、心の中に、いよいよ疑問《ぎもん》が膨《ふく》らんでくるのを感じていた。
この娘は、流れ者や旅芸人《たびげいにん》の娘ではない。たぶん、職人《しょくにん》|階級《かいきゅう》か、それ以上の身分の出だ。まとっていた衣《ころも》は高級なものではなく、いささかくたびれてはいたが、それでも、しっかりとしたよい生地《きじ》の衣だったし、大公《アルハン》領が豊かとはいえ、毎日の朝食に米の飯《めし》を食べられるのは、中流以上の身分の者だろう。
それに、この姿勢《しせい》と礼儀《れいぎ》、言葉遣《ことばづか》い。………親は、厳《きび》しくこの子をしつけたのだ。大公領民《ワジャク》でも真王領民《ホロン》(真王《ヨジェ》領民に対する通称《つうしょう》)でも、職人階級の者たちは己《おのれ》の技量に誇《ほこ》りを持ち、質素《しっそ》だが堅実《けんじつ》な暮《く》らしを営《いとな》んでいる。そんな家族に育てられた子なのだとしたら、いったい、なぜ……。
それに、こうして朝の光で顔を見ると、はっきりと、この子の瞳《ひとみ》の色がわかった。ワジャクらしい切れ長の目をしているのに、やはり、瞳の色は緑だ。
職人《しょきにん》階級の者たちは流れ者を嫌《きら》う。|霧の民《アーリョ》などと血を交《まじ》えるだろうか。いや、そもそも|霧の民《アーリョ》は、けっして同族以外と血を交えることはないと聞く。いったい、この子は、どういう身の上なのだろう………。
考えれば、考えるほど、疑問《ぎもん》が湧《わ》いてくる。
(………まあ、おいおいわかってくるだろうさ)
ジョウンは、娘むすめ《》に声をかけた。
「さあ、頭をあげな。朝餉《あさげ》の途中《とちゆう》でよけいなことを訊《き》いて、かわいそうなことをしたな。病《や》みあがりなんだから、たんと食べな」
エリンは顔をあげ、もう一回ぺこんと礼をすると、おずおずとファコに手を伸《の》ばした。いつのまにか、身体《からだ》の芯《しん》にあった頼《たよ》りないだるさが消えていた。
おじさんも、自分の椀《わん》を持ちあげて、うまそうにファコを食べている。
静かだった。外から人の立ち働く物音が聞こえてくることもなく、ただ、二人がロを動かす音と、鳥たちのさえずりだけが聞こえていた。
やがて、食べおわると、おじさんは手早く食器を片づけて、エリンの寝床《ねどこ》の横に、薄《うす》い毛布を広げた。
「おれは、ほとんど徹夜《てつや》だったから、これからひと寝入りする。おまえも、今日は、横になっていたほうがいいぞ。厠《かわや》に行きたかったら、玄関《げんかん》を出て右だ」
それだけ言うと、おじさんは毛布にくるまった。ほどなくして、くぐもった鼾《いびき》の音が聞こえはじめた。
横たわったまま、エリンは、おじさんの鼾を聞いていた。
どこか家の裏手のほうから、寝《ね》とぼけたような山羊《やぎ》の鳴《な》き声が聞こえてきた。鶏《にわとり》の鳴き声も聞こえた。
闘蛇衆《とうだしゅう》の集合を告《つ》げる鐘《かね》の音も、サジュの妹が泣く声も、犬の吠《ほ》え声《ごえ》も聞こえない。音も、匂《にお》いも、故郷《こきょう》のそれとはちがう朝だった。
(……おかあさん……)
エリンは心の中でつぶやいた。
(わたし、これから、どうしたらいいの)
どうしたらいいのか、わからなかった。
おかあさんは、もういないのだ。どうしたらいいか教えてくれる人はいない。家に帰っても、もうおかあさんはいないのだ……。
そう思うと息苦しいほどの恐怖《きょうふ》が襲《おそ》ってきた。
おじさんにお金を借《か》りて、村まで帰ろうか。村に帰れば、サジュのおかあさんがいる。サジュのおかあさんに、助けてもらいながら、家で、一人で暮《く》らそうか。
エリンは顔をゆがめた。
そういう暮らしを思《おも》い描《えが》いたとたん、胸の底から、苦《にが》い液のようなものが、こみあげてきたのだ。
血だらけになって、沼《ぬま》に投げこまれた母を、沼の岸辺《きしべ》に並《なら》んで見ていた、祖父《そふ》たちの顔が目に浮かんだ。
(……お祖父《じい》さまたちは、ずるい)
仲間なのに、母を助けようともしてくれなかった。祖父の顔を、もう一度見ることを思うと、吐《は》き気《け》がした。祖父があの硬《かた》い表情《ひょうじょう》で、かけてくる言葉など、聞きたくなかった。
あそこは、おかあさんを見殺《みごろ》しにした人たちが住む村だ。……もう、おかあさんのいない村だ。
エリンは腕《うで》で顔をおおった。
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[#地付き]2 女王の飛翔《ひしょう》
「昨日《きのう》より、ずっといい顔をしているな。昨日は、池に落っこちて、しなびたリンゴみたいな顔をしてたが、今日は、ちゃんと、つやつやした赤いリンゴの顔をしとる」
朝の外仕事を終えてもどってきたおじさんは、エリンの顔を見て笑った。
「子どもってのは、しょっちゅう熱を出すが、治《なお》るのも早いもんだ。……今日は、家の外に出てみるか?」
エリンはうなずいた。横になっているのは、もう、あきあきだった。
「おまえの衣《ころも》も、もう乾《かわ》いているから、そっちに着がえろ。おれの寝巻《ねま》き姿じゃ、トッチとノロたちに笑われる」
エリンはびっくりした。この小さな家に、ほかに誰《だれ》かいるのだろうか。
「……トッチとノロって……?」
「おれん家《ち》の、馬と山羊《やぎ》だ」
おじさんはそう言って、鴨居《かもい》にかけてあったエリンの衣を手渡《てわたし》してくれた。
それを手にとって、エリンは赤くなった。それは外着《そとぎ》ではなく、寝巻《ねま》きだったからだ。サジュの家で夜中に厠《かわや》に立って、あの話を耳にしてからずっと、自分が寝巻きで動きまわっていたのだということに気づいて、エリンは、どうしようもなく恥《は》ずかしくなった。
「どうした?」
おじさんは、どうやら、これが寝巻きだとは気づいていないらしい。エリンはうつむいたまま、短袴《たんこ》をはき、上衣《うわぎ》をまとって、帯を締《し》めた。
衣《ころも》から漂《ただよ》ってくる闘蛇《とうだ》の匂《にお》いが胸をついたが、エリンは唇《くちびる》をぎゅっと結《むす》んでこらえた。
「ほれ、これを持ってろ」
おじさんは、壁《かべ》の釘《くぎ》にかかっていた笠《かさ》のようなものをとると、エリンに手渡《てわた》してきた。藁《わら》で編《あ》んだ笠の下に、ぐるっと、薄《うす》い網《あみ》のようなものが縫《ぬ》いつけてある。
エリンがしげしげとそれをながめていると、おじさんは、大きな手袋《てぶくろ》を床《ゆか》から拾《ひろ》いあげて、エリンに手渡した。
「裏庭《うらにわ》に行ったら、そいつをかぶって、この手袋をはめるんだ。おまえには、でかすぎるが、小さいよりは、ましだろう」
「……これ、なんですか?」
「おれの宝物から、おまえを守ってくれる防具《ぼうぐ》さ。………ま、見てのお楽しみだ」
不器用《ぶきよう》に片目をつぶってみせて、おじさんは、すたすたと外へ出ていってしまった。
エリンは、あわてて、言われたとおりに網《あみ》つきの笠《かさ》と、手袋《てぶくろ》を持って、おじさんのあとを追いかけた。
外に出て、エリンは息をのんだ。
目の前に、天をつくような壮大《そうだい》な山脈《さんみゃく》が聳《そび》えていたからだ。
見つめていると、目がくらくらした。あたりの景色から、かけはなれた巨大《きょだい》さなので、なんだか、そこにほんとうにあるような気がしないのだ。手前のなだらかな緑の野山とはまるでちがう、異様《いよう》な姿をした山脈だった。
山脈の峰《みね》は真っ白に雪をかぶり、青空をくっきりと切《き》り裂《さ》いている。雪煙《ゆきけむり》のような雲が、うっすらと峰々《みねみね》をなでながら流れていた。
「……|神々の山脈《アフォン・ノア》を見るのは、初めてか」
おじさんの声に、エリンはうなずいた。
「あれが、人の世界と、神々の世界を隔《へだ》てている壁《かべ》だ。真王《ヨジェ》の祖先《そせん》は、かつて、あの向こうの神々の国に暮《く》らしていたのだそうな」
エリンは、呆然《ぼうぜん》と、その光景を見つめていた。
(あれが、|神々の山脈《アフォン・ノア》……)
母が話してくれた|神々の物語《アフォン・カロ》の中に出てくる畏《おそ》ろしき神々が、人界と神々の世界を隔《へだ》てるために築《きづ》いたという山脈《さんみゃく》が、こんなふうに、ほんとうに目の前にあるなんて、信じられなかった。
「そんなに目を見開いていると、目ん玉を落っことすぞ」
笑いを含《ふく》んだ声でおじさんは言い、エリンの肩《かた》に手をおいた。
「|神々の山脈《アフォン・ノア》は、この世の始まりからあそこにあったんだ。ちょっと目を離《はな》したくらいじゃ、消え去りはせんから、あとで思う存分ながめればいい。まずは、おれのお宝を見にいこうや」
おじさんについて、家の裏手《うらて》にまわり、雑木林《ぞうきばやし》のあいだを抜《ぬ》けると、日当たりのよい、広い庭が現れた。広葉樹《こうようじゅ》の下に、箱が何個もおかれている。箱は煉瓦《れんが》を組んだ台の上におかれ、箱の上には藁《わら》が敷《し》きつめられていた。
奥《おく》の箱の周《まわ》りには、ブンブンと、数匹《すうひき》の蜜蜂《みつばち》が飛《と》び交《か》っているが、一番日当たりのよい場所におかれている箱の周りには、まったく蜂がいなかった。
その箱の様子《ようす》を見ると、おじさんは顔をくもらせて、足をとめた。そして、エリンの肩《かた》に手をおいた。
「……ちょっと、待て」
おじさんが、そう言った、そのときだった。
異様に静かだった箱から、黒い煙《けむり》が立ちのぼりはじめた。 ──いや、煙ではなかった。それは万という数の蜜蜂《みつばち》の大群《たいぐん》だった。
蜂の大群は空中に舞《ま》いあがるや、円形の黒い雲のようになって、渦巻《うずま》きながら舞いはじめた。それは、ものすごい光景だった。ヴヴヴ……ンという唸《うな》りが、大気をふるわせている。
「こりゃ、いかん……分封《ぶんぽう》だ……! 王台《おうだい》を見落としたか……!」
おじさんがつぶやいた。
ヴーンヴーンと唸り、円を描《えが》きながら、蜂の大群がこちらに向かってくる。エリンは、恐《おそ》ろしさのあまり、頭を抱《かか》えて、しゃがみこもうとした。おじさんが、エリンの肘《ひじ》をつかんで、それをとめた。
「急な動きをするんじゃない。そっと、ゆっくり、笠《かさ》をかぶれ」
歯をカチカチ鳴《な》らしながら、エリンは、ふるえる手で、言われたとおり、そうっと笠をかぶった。いまにも蜂が襲《おそ》いかかってくるのではないかと思うと、腹のあたりがぎゅっと縮《ちぢ》こまって、冷《ひ》や汗《あせ》が出てきた。
「じっとしていれば、あの群れは襲ってはこない。心配するな」
おじさんがささやいた。
身体《からだ》をこわばらせて、じっと立ちつくしているエリンたちの頭上を、蜂の群《む》れは黒い塊《かたまり》になって、唸《うな》りをあげながら移動《いどう》していく。大気が何万という蜂の羽音《はおと》でふるえ、肌《はだ》がむず痒《がゆ》くなってきた。
やがて、先頭を飛んでいる蜂《はち》が一本の木の太い枝にとまると、次々にほかの蜂たちもその周《まわ》りに群《む》がり、あっというまに枝が黄色と黒のうごめく瘤《こぶ》におおわれてしまった。
おじさんが、フウッと息をついた。
「……もう大丈夫《だいじょうぶ》だ。動いていいぞ。ゆっくりとな」
エリンは、つめていた息を吐きだした。
「ああやって、枝にとまってしまえば、半日ぐらいは、まず動かない。急激《きゅうげき》な動きをするものが近寄《ちかよ》らないかぎりはな」
おじさんの声を聞きながら、エリンは、うごめく塊《かたまり》に目を吸《す》い寄せられていた。刺《さ》されるのではないかという恐《おそ》ろしさが薄《うす》れると、そのものすごい大群《たいぐん》がうごめく姿の奇妙《きみょう》さが心に迫《せま》ってきた。
「……なぜ、あの枝に、とまっているのですか?」
エリンはささやいた。
「あの枝から、蜜《みつ》が出るの?」
おじさんは、かすかに笑いを含《ふく》んだ声で答えた。
「いや。蜜を吸《す》うために集まっているんじゃない。あれはな、新天地《しんてんち》を求《もと》めて古巣を捨《す》てた女王が率《ひき》いている群れさ」
エリンはびっくりして、おじさんを見上げた。
「あのなかに女王さまがいるの?」
「一番最後を飛んでいた、大きな蜂《はち》がいただろう。あれが女王蜂だ。群れが大きくなりすぎて、居心地《いごこち》が悪くなったと感じると、女王蜂は、新しい女王蜂になる幼虫《ようちゅう》にあとの群れを託《たく》して、自分は半分ぐらいの働き蜂の群れを率いて、新天地を求めて飛び立つのさ」
一糸乱れぬ群《む》れの飛翔《ひしょう》は、恐《おそ》ろしいけれど、ものすごい力を感じさせるものだった。
「じゃあ、これから、あの群れは、遠くへ旅をしていくんですか?」
エリンが問うと、おじさんは苦笑《くしょう》した。
「そうされちゃあ、おれは御飯《おまんま》の食い上げだ。遠くへ逃《に》げてしまわないように、女王蜂の羽は、あらかじめすこし切ってあるんだよ。かわいそうだが、そう遠くまでは飛べない。
さあて、ちょっと手伝ってくれ。新しい巣箱を用意せにゃならん」
おじさんについて、家の西側にまわっていくと、厩《うまや》と山羊《やぎ》の囲《かこ》いがあった。エリンたちが近づくと、馬と山羊が、興味津々《きょうみしんしん》といった顔でエリンたちを見た。彼らがトッチとノロなのだろう。……どちらがどちらなのかは、わからなかったが。
家をまわって、北側に出ると、倉《くら》が建っていた。
倉の壁《かべ》は分厚《ぶあつ》く漆喰《しっくい》が塗《ぬ》られていたが、いかにも素人《しろうと》が塗った感じで、でこぼこしている。中には様々な道具や蜜蜂《みつばち》の巣箱がおかれ、北側の棚《たな》には、ずらっと壷《つぼ》が並んでいた。突《つ》きあげ式の窓は小さくて、小屋の中は薄暗《うすぐら》く、ひんやりとしている。
おじさんは、空《から》の巣箱を持ちあげると、顔をくもらせた。
「……そうだった。空の巣箱は、こいつしか残ってなかったな」
そうつぶやくと、おじさんは、エリンに顎《あご》で倉の奥《おく》を示した。
「おれはこの箱を持って出るから、おまえは、あそこにある黒い壷《つぼ》を持ってきてくれ」
おじさんの顎が示している方向を見ると、たしかに、小さな黒い壷があった。蓋《ふた》の代わりに、取っ手のようなものがついている。
「黒い壷《つぼ》って……噴霧器《ふんむき》ですか?」
尋《たず》ねると、おじさんがびっくりしたようにエリンを見た。
「そうだ。よく、あれが噴霧器だとわかったな」
母が闘蛇《とうだ》の傷《きず》を治《なお》すときに、あれとよく似た噴霧器を使って薬液を吹《ふ》きかけていた。噴霧器を持っていた母の白い手が瞼《まぶた》の奥に浮《う》かんだ。
エリンは黙《だま》って奥に行き、噴霧器を両手で抱《かか》えて、おじさんのあとについて外に出た。
日向《ひなた》の草原に巣箱をおいて、おじさんは蓋《ふた》をあけ、中から、何枚もの、不思議《ふしぎ》な模様《もよう》がついた板のようなものをとりだした。
エリンが、じっと見つめているのに気づいて、おじさんは言った。
「こいつは、巣枠《すわく》というんだ。蜂《はち》たちのお家《うち》だよ。……噴霧器をくれ」
噴霧器《ふんむき》を手渡《てわた》すと、おじさんは巣枠《すわく》と巣箱とにシュッシュッと、なにか吹《ふ》きかけた。甘《あま》いお酒のような、いい香《かお》りが漂《ただよ》ってきた。
薬液の匂《にお》いがすると思っていたエリンは、驚《おどろ》いておじさんを見上げた。
「……いい匂い!」
おじさんは、笑顔《えがお》になった。
「いい匂いだろう。蜂《はち》たちも、そう思ってくれるといいが」
「あ……そうか! あの蜂たちをこの箱に誘《さそ》いこむために、匂いをつけるんですね。蜂は花の香《かお》りに誘われるから」
おじさんは、しげしげとエリンを見た。
「おまえ、いくつだね?」
「え? ……十|歳《さい》です」
ふーむ、と、おじさんは唸《うな》った。
「おまえは、年に似合わん話し方をするなあ」
エリンは瞬《まばた》きをした。まえに、サジュにも、「エリンは、大人みたいな話し方をするのねえ」と言われたことを思いだして、赤くなった。
エリンの表情《ひょうじょう》を見て、おじさんは言った。
「べつに、生意気《なまいき》だと責《せ》めてるわけじゃないから、気にせんでいい。むしろ、感心しているんだ」
微笑《ほほえ》んで、そう言ってから、おじさんは噴霧器《ふんむき》をふってみせた。
「だが、残念《ざんねん》ながら、おまえの推測《すいそく》は外《はず》れだ。あの群《む》れをこの巣箱に誘《さそ》うのは、これから、この巣箱に吹《ふ》きかける砂糖水さ。
この液を吹きかけたのは、別の理由からだ。……なぜだか、わかるかね?」
言ってから、おじさんは苦笑《くしょう》した。
「まあ、わかるはずがないな……」
一枚一枚、巣枠《すわく》に液を吹きかけていくおじさんの脇《わき》に立って、枠《わく》を支《ささ》える手伝いをしながら、エリンは、じっと考えこんだ。
香《かお》りで誘《さそ》うのでないなら、なぜ、こんなに強い香りが必要《ひつよう》なのだろう。蜜蜂《みつばち》を、酔《よ》っぱらわせてしまうのだろうか……。
考えているうちに、ふと、ひとつの光景《こうけい》が目の奥《おく》に浮《う》かんできた。老衰《ろうすい》で死んだ闘蛇《とうだ》の代わりに若い闘蛇を(イケ)に入れるとき、おかあさんたちが、死んだ闘蛇の粘液《ねんえき》を、若い闘蛇に塗《ぬ》りつけていた光景が。
「おじさん……」
エリンはつぶやいた。
「うん?」
「この巣箱、まえは、別の蜂《はち》たちの巣《す》だったんですか?」
おじさんは手をとめて、エリンを見つめた。
「……なぜ、そう思った?」
エリンは、小さい声で言った。
「この液を使うのは、別の蜂たちの匂《にお》いを消すためじゃないかなと思って……」
おじさんは唸《うな》った。
「こいつは驚《おどろ》いた。そのとおりだ。匂いを消すためというのが、正解《せいかい》だよ」
うれしくて、エリンは、ぱっと笑顔《えがお》になった。
その表情を見て、おじさんは眉《まゆ》をあげ、笑《え》みを浮《う》かべた。
「お………笑ったな。おまえは、いい顔で笑うなあ」
枠《わく》を手でさすりながら、おじさんは言った。
「たしかに蜂の群《む》れにはそれぞれ匂いがあって、仲間かそうでないか嗅《か》ぎ分《わ》けるらしいが、こいつで消したい匂いは、蜜蜂《みつばち》の天敵《てんてき》の匂《にお》いなんだ。このまえ、この巣箱にゴス(強い匂いを出す小さなカエル)が入りこんでな。気がついたときは、蜂がみんな逃げてしまっていたんだ。いちおう、洗って干《ほ》してはあるが、蜂は匂いに敏感《びんかん》だからなあ」
おじさんは、噴霧器《ふんむき》の先をエリンの鼻に近づけて、匂《にお》いを嗅《か》がせた。
「こいつは、ナファランという花から抽出《ちゅうしゅつ》した液なんだ。蜜蜂《みつばち》が大好きな花でな、おもしろいことに、興奮《こうふん》している蜜蜂《みつばち》を落ちつかせる力があるんだよ。だから、この液でゴスの匂《にお》いをごまかせるかどうか、試《ため》してみようと思ったんだが……それにしても、よく、匂いを消すってことに気がついたもんだ。 ──おまえの家でも、蜂を飼《か》っていたのか?」
エリンは首をふった。
うつむいてしまった少女を見ながら、ジョウンは心の中で自分を叱《しか》った。
(ほい、しまった。……せっかくお日さまが顔を出したのに、また、くもらせちまったか)
この子にとって、家族の話は、触《ふ》れれば痛《いた》む傷《きず》のようなものなのだろう。それをわかっていながら、ついよけいなことを訊《き》いてしまうのは、好奇心《こうきしん》が疼《うず》いているからだ。
(おれの悪い癖《くせ》だ。せっかちすぎるんだな)
この子は、驚《おどろ》くほど聡《さと》い子だ。詮索《せんさく》すれば、それと察《さっ》してしまう。この子の気持ちを楽にしてやるには、探《さぐ》るようなまねはいっさいしないほうがいい。
「……よし。じゃあ、巣箱に巣枠《すわく》をもどすから、手伝ってくれ」
ジョウンの言葉に、エリンはうなずいた。
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[#地付き]3 |女王の乳《タプ・チム》
いったい、どうやってあの群《む》れをこの箱に入れるのだろう。
エリンが興味津々《きょうみしんしん》で見守《みまも》るなか、おじさんは、エリンに渡《わた》していた手袋《てぶくろ》をはめ、網《あみ》つき笠《がさ》をかぶった。それから、砂糖水を吹《ふ》きかけ、蜂蜜《はちみつ》も入れて準備《じゅんび》をととのえた箱を、逃《に》げだした群れが真っ黒く垂《た》れさがっている枝の下に持っていった。
それをすますと、おじさんはまた倉に行って、今度は、大きな袋《ふくろ》と手斧《ておの》、そして踏《ふ》み台《だい》を持ってもどってきた。
「見ていたいなら、ここにいてもいいが、これ以上近づくんじゃないぞ」
おじさんはそう言って、袋と踏み台を持って枝の下に向かった。そして、踏み台を枝の下におくと、その上に立って、大きな袋をそろそろと黒くうごめく塊《かたまり》のほうへ持ちあげはじめた。
(あの袋で、群《む》れを包《つつ》むんだ………!)
エリンは思わず首をすくめた。
あんなことをしたら、蜂《はち》が怒《おこ》って、襲《おそ》ってくるのではなかろうか。
袋《ふくろ》が、そろそろと下から黒い塊《かたまり》を包《つつ》んでいく。枝はかなり高いところにあって、おじさんが爪先立《つまさきだ》ちになって両手をいっぱいに伸《の》ばしても、群《む》れの一番先のほうは袋に入らなかった。
おじさんは全部入らなくても気にしていないらしく、群れの大半が袋に入ったところで、きゅっと袋の口を閉じると、手斧《ておの》をふりあげて、蜜蜂《みつばち》が群れていないあたりにふりおろし、あっというまに枝を叩《たた》き切《き》ってしまった。
するっと枝が袋の中に落ちた。
枝に残っていた蜂が、ぶわっと舞《ま》いあがり、興奮《こうふん》したように飛《と》び交《か》いはじめたが、おじさんはあわてもせずに、手斧を地面に放《ほう》り投《な》げると、袋を持って台から降り、袋の口を巣箱の下のほうの細い隙間《すきま》にあてた。
エリンのいるところからは、よく見えなかったけれど、どうやら、袋の中から、蜂たちが巣箱に入っていっているようだった。
それでも、まだ、たくさんの蜂がブンブン空を舞《ま》っている。
エリンは首をすくめたまま、おじさんを見つめていた。
おじさんは、長いこと、じっと巣箱の入り口を見つめていたが、やがて、袋をそこにおいて立ちあがった。
そして、ゆっくりとこちらへもどってきた。
「さて、これで終わりだ。昼飯《ひるめし》にしようや」
「え……」
エリンはびっくりした。あの巣の入り口をあけっばなしで大丈夫《だいじょうぶ》なのだろうか。
「あのままじゃ、逃《に》げちゃうんじゃ……」
おじさんは笑った。
「大丈夫だ。昼飯のあとに来てみな。いま、外でうろうろしているやつらも、素直《すなお》に巣箱に収まっているから」
エリンは、巣箱を見つめた。ぞろぞろと蜂《はち》が出入りしているし、落ちつかずにブンブン舞《ま》っている蜂もたくさんいる。
新天地《しんてんち》を求《もと》めて飛び立った群れなのに、こんな近くで、また箱に閉じこめられてしまって、ほんとうに逃げないのだろうか。いまは砂糖水を舐《な》めているのだろうけれど、舐めおわったら、また逃げてしまうのではなかろうか。
おじさんは、エリンの肩《かた》に手をおいた。
「そんなに気になるなら、気のすむまで監視《かんし》してな。おれは、さきに家に入っているから。飯《めし》だって呼《よ》んだら、来るんだぞ。……それから、くれぐれも、あの巣箱に近づくなよ」
エリンはうなずいた。
おじさんが家に入ってしまうと、あたりが急に静かになったような気がした。風が枝をゆらす音と、蜂《はち》の舞《ま》う音だけが響《ひび》いている。
エリンは、じっと蜂の動きを見つめていた。
やがてエリンは、「あ……」と、小さくつぶやいた。
最初はせわしなく舞っていた蜂たちのなかから、一|匹《ぴき》が、あの巣箱のほうへすうっと降《お》りていく。それを追うように、一匹、また一匹と、まるで磁石《じしゃく》に吸《す》い寄《よ》せられるように、次々と、蜂たちが、あの箱のほうへ降りていく。
巣箱の入り口に降り立つと、蜂たちは、まるで、ただいま、と言っているように羽をたたみ、ぞろぞろと中へ入っていく。
気がついたときには、蜂は、一匹もいなくなっていた。
なんとなく魔術《まじゅつ》を見せられたような気分で、エリンは突《つ》っ立《た》ったまま巣箱を見ていた。あの中で、いま、蜂たちはなにをしているのだろう。新天地に行くつもりだったけれど、この巣箱でも、まあいいやと、話し合っているのだろうか。
あの、ものすごい塊《かたまり》が、あの箱の中にどんなふうに収《おさ》まっているのだろう。
のぞいてみたい……。
近づくな、と言われたけれど、巣箱にさわらないで、あの入り口のところからのぞくだけなら、蜂を驚《おどろ》かせないで、中を見られるかもしれない。エリンは、ちょっと後ろをふり返ってから、抜《ぬ》き足|差《さ》し足で巣箱に近づきはじめた。
巣箱の中は、とても静かだった。巣箱の前にしゃがみこむと、エリンは、横に細長くあいている入り口から中をのぞきこんでみた。
真っ暗で、なにも見えない。
いや……動いているものがいる? あれが蜂《はち》だろうか。
ブーンと羽を鳴《な》らしている音が聞こえてくる。なにをしているのだろう………。
顔を横にして、夢中《むちゅう》で見つめていると、ふいに肩《かた》をつかまれた。
びっくりして声をあげそうになったロを、大きな手がふさぎ、あっというまにエリンは横抱《よこだ》きにされて、巣箱から離《はな》されてしまった。
家の玄関《げんかん》のところまで抱《かか》えてくると、おじさんは、エリンを地面におろした。
「巣箱に近づくなと言っただろう!」
叱《しか》られて、エリンは首を縮《ちぢ》めた。
「……ごめんなさい」
「蜜蜂《みつばち》はめったに人を刺《さ》さないが、興奮《こうふん》していたり、敵だと思ったら、命がけで襲《おそ》ってくるんだぞ」
「……はい」
小さくなっているエリンを見下ろして、おじさんは、肩の力を抜《ぬ》いた。
「まったく。肝《きも》が縮《ちぢ》んだぞ」
そう言ってから、おじさんは、おだやかな声で尋《たず》ねた。
「そんなに、あの群《む》れが素直《すなお》に巣箱にもどったのが、不思議《ふしぎ》だったのか?」
エリンはうなずいて、小さな声で答えた。
「はい。……巣箱に囚《とら》われているのがいやで飛び立ったのに、あんなふうに、まるで自分のお家《うち》に帰るみたいに、一|匹《ぴき》残らず、あの巣箱に入っちゃったのが、とても不思議でした」
おじさんは微笑《ほほえ》んだ。
「それはな、あの巣箱が、あの群れの家になったからだ。女王蜂《じょうおうばち》が棲《す》むと決めたところが、群れの蜜蜂《みつばち》にとっては我《わ》が家《や》なのさ」
「あ………」
エリンは顔をあげた。
「おじさんが、もうこれで大丈夫《だいじょうぶ》だって言ったのは、女王さまが、あの巣箱に入ったからだったの?」
「そうだ。女王蜂があの巣箱の中に落ちついてしまえば、ほかの蜂たちは必ず従《したが》う。
蜂はな、おれたち人より忠誠心《ちゅうせいしん》が強いんだろうよ。反乱《はんらん》を起こすやつなんかいないのさ。
蜜蜂《みつばち》の群《む》れを見ていると、おれもときどき気味《きみ》が悪くなることがある。………まるで糸にひかれるように、一|匹《ぴき》残らず巣箱に入っちまっただろう?」
エリンはうなずいた。
たくさんの蜂たちが、いっせいに飛び立ったあの姿。そして、魔術《まじゅつ》にかかったように、ぞろぞろと、女王蜂がいる巣箱に入っていった蜂たちの姿を思いだして、エリンは、つぶやいた。
「女王峰は、魔法《まほう》を使うのかしら」
おじさんは、かすかに笑った。
「案外《あんがい》そうかもしれんな。母親ってのは、半分|魔女《まじょ》みたいなもんだから」
「母親? ……女王蜂は、おかあさんなの?」
「ああ。あのすべての蜂の母親だ」
「えっ!」
心底《しんそこ》びっくりして、エリンは目を見開いた。
「あれ全部? あの蜂たち、全部、あの女王蜂が産《う》んだの?」
「信じられないだろう。……だが、そうなんだ。何万という働き蜂は、みんな、あの女王の娘《むすめ》たちだ。働き蜂はみんな雌《めす》だが、卵を産まない。せっせと蜜を集め、働きつづけるだけだ。女王蜂だけが、何万という卵を産むんだよ」
エリンは、かすかに口をあけて、おじさんを見つめていた。
腕《うで》に鳥肌《とりはだ》が立っていた。
何万という卵を、たった一人で産《う》んでいく女王。生まれてくる娘《むすめ》たちは、働《はたら》き蜂《ばち》となって、ひたすら働きつづける……。
なんと不思議《ふしぎ》なのだろう。
蜜蜂《みつばち》の母子は、おかあさんと自分の場合と、なんとちがうのだろう。
無数の卵を産《う》んでいく女王の姿を思《おも》い浮《う》かべ、その卵から娘たちが生まれてくる姿を想像《そうぞう》しているうちに、ふと、エリンは、おかしなことに気がついた。
「あれ?」
首をかしげたエリンを見て、おじさんが眉《まゆ》をあげた。
「なんだ?」
エリンは、おじさんを見上げた。
「働き蜂は女王さまの子どもなら、女王さまの血をひいているでしょう? どうして女王さまになれないのですか?」
「ふーむ」と、おじさんは唸《うな》った。しばらく、エリンの顔を見ていたが、やがて、エリンの肩《かた》をそっと押《お》した。
「……いいものを見せてやる」
おじさんが連れていってくれたのは、さっき巣箱と噴霧器《ふんむき》をとりにいったあの倉《くら》だった。倉に入ると、おじさんは、床《ゆか》に敷《し》いてある簀《す》の子《こ》を持ちあげて片側に立てかけ、その下から現れた板の蓋《ふた》を持ちあげた。
蓋の下には、ぽっかりと穴があいていた。おじさんは腹這《はらば》いになって、穴に手をつっこむと、小さな黒い壷《つぼ》をとりだした。
きっちりはめてある蓋をとると、おじさんは手招《てまね》きした。
「こっちに来て、これを見てごらん」
そばに行ってのぞきこむと、壷の中に、かすかに黄色がかった、ねっとりとしたものが入っているのが見えた。おじさんは小さな匙《さじ》でそれをすくった。
「舐《な》めてみな」
言われるままに、エリンは匙を舐めた。
最初は、甘《あま》い、と思った。が、次の瞬間《しゅんかん》、舌から喉《のど》に、刺《さ》されたような、強いすっぱさが広がった。
「うええ……」
エリンは舌を出し、思わず顔をくしゃくしゃにした。なんとも言えぬ、きつい匂《にお》いが、ロから鼻に突《つ》きぬけてくる。
おじさんは笑いだした。
「こりゃ悪かった。そんなにきつかったか。……ほれ、こいつで口直しをしな」
おじさんは、棚《たな》から蜂蜜《はちみつ》の壷《つぼ》をとって、蜂蜜を舐《な》めさせてくれた。
すっぱい味は消えたけれど、ちょっと山羊《やぎ》の乳の匂《にお》いに似《に》ているきつい匂いは、まだロの中に残っていた。
「こいつが、|女王の乳《タプ・チム》だ。これを与《あた》えて育《そだ》てられた幼虫《ようちゅう》が、女王蜂《じょうおうばち》になるんだよ」
おじさんは、壷にきっちりと蓋《ふた》をしながら言った。
「そろそろ新しい女王蜂が必要だと思うと、働き蜂たちが王椀《おうわん》という特別の器《うつわ》を作る。それが、王台《おうだい》という王女さまの揺《ゆ》り籠《かご》になるんだ。
女王蜂が王台に卵を産《う》みつけ、幼虫が孵化《ふか》すると、若い働き蜂たちが、入れ代わり立ち代わりやってきて、自分たちの体内で作った、この|女王の乳《タプ・チム》を与《あた》える。そうやって、新しい女王蜂が育てられるのさ」
壷を地下の室《むろ》にもどして蓋を閉めてから、おじさんは、エリンを見て、にやっと笑った。
「面白《おもしろ》いことを教えてやろう。 ──おれはな、女王さまをつくれるんだぞ」
どういう意味かわからず、エリンがけげんそうな顔をすると、おじさんの笑《え》みは、いよいよ深くなった。
「いいか。こうするんだ。まず、蜜蝋《みつろう》を型押《かたお》しして、王台《おうだい》を作っておく。
そうしておいて、女王がいる巣の部分と、蜂蜜《はちみつ》を溜《た》める巣の部分のあいだに枠《わく》を入れて隔《へだ》ててしまって、上の巣には女王がいない状態《じょうたい》にする。
そうするとな、上の巣にいる働《はたら》き蜂《ばち》たちは、うろたえてしまうんだな。女王が欲《ほ》しくて欲しくて、たまらなくなる。そうなったころを見はからって……」
おじさんは立ちあがって、棚《たな》から、ごくごく小さな耳掻《みみか》きのようなものをとると、エリンに見せた。
「こいつで、そうっと、ふつうなら働き蜂になる幼虫《ようちゅう》をすくって、おれが作った王台《おうだい》に入れる。そうすると、若い働き蜂たちが大あわてでやってきて、その卵から孵《かえ》った幼虫に|女王の乳《タプ・チム》を与《あた》えはじめるんだよ。 ──そのままその幼虫が|女王の乳《タプ・チム》で育《そだ》てられれば、立派《りっぱ》な女王蜂になるんだ」
エリンは、眉《まゆ》をひそめた。
「え……え? それじゃ、女王さまになる卵と、働き蜂になる卵は、同じ卵なの?」
「そうだ。違《ちが》いは、ただひとつだけ───|女王の乳《タプ・チム》を飲《の》んで育つかどうかなのさ。
|女王の乳《タプ・チム》はな、ふつうの働き蜂を女王に変えてしまう、不思議《ふしぎ》な魔力《まりょく》を持った乳なんだよ」
舌に残っている匂《にお》いが、さっきよりきつく感じられ、なんだか怖《こわ》くなってきた。
エリンは思わず舌《した》を出して、そこにさわってみた。
「おじさん……わたしの舌、大丈夫《だいじょうぶ》? 変なふうにならない?」
おじさんは、また笑いだした。
「ならん、ならん! おまえの舌が女王蜂《じょうおうばち》になったりはせんから、安心しろ!
それどころか、こいつのおかげで、おまえは元気になったんだぞ。おまえが高熱を出して寝込《ねこ》んでいたあいだ、|女王の乳《タプ・チム》と蜂蜜《はちみつ》と果汁《かじゅう》を混《ま》ぜたものを飲《の》ませてやったんだ」
そう言って、おじさんは、さっき|女王の乳《タプ・チム》を舐《な》めさせてくれた匙《さじ》をふってみせた。
「感謝《かんしゃ》しろよ。|女王の乳《タプ・チム》は長寿《ちょうじゅ》の秘薬《ひやく》だから、ものすごく高価なんだぞ。さっき、おまえが舐めたこの匙ひとすくいで、いくらすると思う?」
エリンは息をつめて、おじさんを見つめた。
おじさんは、ささやくように言った。
「……なんと、小粒銀《こつぶぎん》、一枚はするんだぞ」
「えっ!」
エリンは心底びっくりして、目を丸くした。
「こ……小粒銀一枚?」
小粒銀一枚といえば、上等の牛の肋肉《あばらにく》を大人の拳《こぶし》三つ分は買える。自分の小指の先ぐらいの量なのに、そんなに高いなんて……! それなら、おじさんは、自分を救《すく》うために、大変な金額の|女王の乳《タプ・チム》を与《あた》えてくれたことになる。
エリンは青ざめた。すうっと身体《からだ》が寒くなってきた。 ──そんな金額、とても、自分には返せない。
「……おじさん」
「うん? どうした? 気分が悪くなったか」
エリンは首をふった。そして、顔をこわばらせ、ささやくような声で言った。
「おじさん……わたし、お金、持っていません」
おじさんは驚《おどろ》いたようにエリンを見た。それから、真顔《まがお》になると、手を伸《の》ばしてエリンの肩《かた》をつかんだ。
「……こいつは、おれが悪かった。考えなしに、よけいなことを言ったな」
おじさんは、エリンをまっすぐに見つめて、ひと言、ひと言、区切るようにして言った。
「おれはな、おまえから金をとろうなんて思っちゃいない。そんな汚《きたな》い了見《りょうけん》は持っておらんから、心配するな。
おれは金持ちじゃないが、貧《まず》しくもない。……養《やしな》う家族もおらん。おまえみたいな小さな子ども一人の食《く》い扶持《ぶち》や薬代なんて、屁《へ》でもない。だから心配するな」
そう言ってもらっても、心は楽にはならなかった。
母はエリンを託《たく》すために、隣《となり》のサジュの両親に、貯《た》めていた大粒銀《おおつぶぎん》をたくさん渡《わた》した。家族でない人に、ただで甘《あま》えるわけにはいかない。
けれど、自分には、帰る家は、もうないのだ。 ──このおじさんに、ここにおいてもらえなかったら、ご飯《はん》を食べられないし、眠《ねむ》る場所もない…・。
心細くて、こみあげてきた涙《なみだ》を、唇《くちびる》を曲げてこらえ、エリンはうつむいた。
そして、床《ゆか》に両手をついた。
「……おじさん、わたし……は、帰る家……が、ありません。お金も、持っていません」
自分の声が、遠くから聞こえるような気がした。
「でも、わたしは、料理ができます。繕《つくろ》い物《もの》も、できます。山羊《やぎ》や馬の世話も、できます。一生懸命《いっしょうけんめい》、働《はたら》きます……から、ここに、おいて、くださいませんか」
ジョウンは、つかのま、かける言葉を見つけられずに、小さな両手を床につけて、ふるえている少女を見つめていた。
こんなに幼《おさな》い子が、金銭で自らの世話《せわ》をしてもらおうと考えていることが、ジョウンには驚《おどろ》きだった。
かつて彼が暮《く》らしていた場所には、こういう子どもはいなかった。十|歳《さい》ぐらいの子どもなど、飽《あ》き飽《あ》きするほど見慣《みな》れていたが、世の中の苦労を知らぬ子どもの純真《じゅんしん》さで、あっけらかんと、大人に甘《あま》えていたものだ。
職人《しょくにん》|階級《かいきゅう》の子というのは、こういうものなのだろうか。だとすれば、職人階級の子は、貴族《きぞく》はもとより、高級|職能者《しょくのうしゃ》|階層《かいそう》の若者たちよりも、ずっと大人なのかもしれない。
それでも、この子もまだ、大人の気持ちは察《さっ》せられないようだ。とっくにジョウンは、エリンをひきとってやる気になっていたのだが、それに気づいていない。
やりきれない思いをしたあの事件のせいで、家族から離《はな》れ、蜂《はち》を飼《か》いながら暮《く》らしはじめて、そろそろ六年になる。独《ひと》りでいることが、寂《さび》しいと思うこともあった。
女の子を育《そだ》てた経験はないが、この子は男の子よりしっかりしているし、ずいぶんと聡《さと》い。なんとかやっていけるのではなかろうか。 ──もちろん、この子がほんとうに、家族がいない天涯孤独《てんがいこどく》の身であるならの話だが。
この子には、かなり特別な事情《じじょう》があることは間違《まちが》いない。ひきとれば、面倒事《めんどうごと》に巻きこまれるかもしれない。そこは情に負けずに、慎重《しんちょう》に考えておくべきだろう。
それでも、わずか三日間|一緒《いっしょ》に過《す》ごしただけなのに、すっかり情が移《うつ》ってしまって、手放《てばな》したいとは思えなくなっていた。この子の親がひょっこり現れて、この子を連れていってしまうようなことがあれば、寂《さび》しい思いをするにちがいない。
だが、この子はそんなジョウンの気持ちを知らない。ジョウンを他人としてきっちり線を引き、面倒《めんどう》をみてもらうことを借《か》りと感じている。やさしく頭をなでてやるだけでは、この子の気持ちは楽にならないだろう。
「……旅に出て」
ジョウンが口を開くと、エリンが顔をあげた。
「宿屋《やどや》に泊《と》まると、一日いくら宿代をとられるか、知っているか」
エリンは、こわばった顔で首をふった。
「だいたい小粒銀《こつぶぎん》一枚だ。……それじゃあ、貴族の館《やかた》や商家に雇《やと》われた下働きの子どもの日当がいくらか、知っているか?」
エリンは、また首をふった。
「これは、だいたい銅五十枚ぐらいが相場《そうば》だ。小粒銀の半分だな。だから、おまえが、この家の家事をひきうけてくれるというなら、一日、銅五十枚ぐらいと考えていい。
さっき言った宿場の宿代は、大人一人の料金だから、子どもなら半分。ちょうど、宿代とトントンだ。……どうだね、この取引《とりひき》は?」
エリンの表情がぱっと明るくなるのを見て、ジョウンは微笑《ほほえ》んだ。
「よし。それじゃあ、取引成立《とりひきせいりつ》だ。身体《からだ》が本調子《ほんちょうし》になったら、しっかり働《はたら》いてくれ」
エリンは、力をこめてうなずいた。
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[#地付き]1 蜂《はち》と竪琴《たてごと》
春は、蜂飼《はちか》いにとって、一番|忙《いそが》しい季節だ。
忙しいが心|躍《おど》る季節でもある。次々に花が咲《さ》き、蜜蜂《みつばち》たちは毎日元気よく飛び立って、たくさんの蜜を集めてくる。群れにも勢いがつくから、分封《ぶんぽう》に気をつけなければならない一方で、うまく群《む》れを増やせれば、増収《ぞうしゅう》を見込《みこ》める。
もちろん、蜜も搾《しぼ》らねばならない。朝早く起きて、大気が、すん、と澄《す》み渡《わた》るほどに晴れていると、ジョウンとエリンは、張りきって採蜜《さいみつ》にとりかかる。
蜜蜂は、蜜を小さな六角形の巣房《すぼう》いっぱいに溜《た》め、水分を蒸発《じょうはつ》させると、白い蝋《ろう》で蓋《ふた》をする。ジョウンが巣の下から上へと蜜刀《みつとう》を動かし、その蝋だけをうまく切りとっていくさまは小気味《こきみ》よくて、エリンはそれを見るたびに、やってみたくて、手がうずうずした。
ジョウンは蝋の蓋をとると、今度は、蜂蜜でいっぱいの巣を、巣枠《すわく》ごと、大きな樽《たる》のような装置に入れる。ジョウンが、樽の上についている取っ手を持って、ぐるぐるとまわすと、樽の下のほうから黄金色《こがねいろ》の蜂蜜《はちみつ》が流れでてくるのだ。
それを清潔《せいけつ》な布で濾《こ》して、清潔な壷《つぼ》に詰《つ》めて蓋《ふた》をするのは、エリンの役目だった。しっかり働けば、おいしい蜂蜜《はちみつ》をたっぷり舐《な》めさせてもらえるのが、うれしかった。
採れたての蜂蜜のおいしさよりも、エリンを驚《おどろ》かせたのは、花粉《かふん》の味だった。
蜂は蜜を集めるだけでなく、花粉をいっぱい集めてきて、それを巣に溜《た》めておく。両肢《りょうあし》に丸めた花粉をつけて帰ってくる姿はかわいかったけれど、まさか、その花粉を食べることができるとは思っていなかったので、ジョウンに促《うなが》されて食べてみて、びっくりした。花粉は甘《あま》くて、とてもおいしいのだ。
目を丸くしているエリンに、ジョウンはちょっと誇《ほこ》らしげに言った。
「二日もすると、発酵《はっこう》してすっぱくなるからな。花粉のおいしさを知っているのは、蜂飼《はちか》いだけだろうな」
朝から晩《ばん》まで、手を休める暇《ひま》なく、次から次へと仕事が待っている。ありとあらゆることがエリンには珍《めず》しく、面白《おもしろ》くてたまらなかった。
夜は布団《ふとん》に入ると、すぐに寝入《ねい》ってしまうし、朝日がさめれば、一日の仕事が待っている。そういう日々を過ごすうちに、いつしか、母を失った生々しい痛《いた》みは、エリンの心から薄《うす》れはじめていた。
それでも、雨の日など、ふっと、寂《さび》しさが襲《おそ》ってくる。ジョウンがそばにいても、その寂しさは消えなかった。母がいない寂しさは、なにをもってしても埋《う》められなかった。
涙《なみだ》がこみあげてくると、エリンは厩《うまや》に行って、気のいい雌馬《めすうま》のトッチが、もしゃもしゃと飼《か》い葉《ば》を食《は》んでいる脇《わき》にしゃがみこんで泣いた。
エリンがそうやって隠《かく》れて泣いていることを、ジョウンは気づいていたのかもしれないが、なにも言わずに放《ほう》っておいてくれた。
春から、ゆっくりと夏に向かうにつれて、ジョウンは、エリンが自分に告げたとおり、ほんとうに帰る家族がないのだということを信じはじめていた。なにか惨《むご》いかたちで親を失《うしな》っていることは間違《まちが》いないが、追われているわけでもなさそうだった。
七日に一度、市《いち》が立つ日に、ジョウンは馬で一ト(約一時間)のところにある、コジョン街道《かいどう》の市《いち》ノ辻《つじ》におりることにしている。暮《く》らしに必要なものを買ったり、蜂蜜《はちみつ》を売ったりするためだが、そのときにエリンを一緒《いっしょ》に連《つ》れていってやると、エリンは大|喜《よろこ》びでついてきた。
もともと、この子は、どちらかというと無口なほうで、市についても、ジョウンのそばを離《はな》れず、ただ黙《だま》って目を輝《かがや》かせて露店《ろてん》の店先に並《なら》んでいる商品や看板《かんばん》を見ているが、人に見られることを恐《おそ》れている様子《ようす》はなかった。
顔馴染《かおなじ》みの商人たちは皆《みな》、ジョウンが、明らかに|霧の民《アーリョ》の血をひいているとわかる少女を連れているのを見ると、興味《きょうみ》|津々《しんしん》といった表情《ひょうじょう》で問いかけてきたが、ジョウンはただ、知り合いの娘《むすめ》をひきとったとだけ答えることにしていた。
このあたりの娘《むすめ》たちが好《この》んで着る、袷《あわ》せ襟《えり》に花の刺繍《ししゅう》をした服を買ってやると、エリンはうれしそうに礼を言ったが、市《いち》におりてくる途中《とちゅう》の山道で、ホアク(細い葉を持つ大木)にぶらさがっていた、細長い葉の形そっくりの蜂《はち》の巣《す》を見つけたときのような、顔全体が輝《かがや》くほどの喜《よろこ》び方ではなかった。
どうやらこの子は、衣装《いしょう》や装身具《そうしんぐ》よりも、生き物に心を惹《ひ》かれるらしい。
巣箱に蜂が出入りするさまを、時を忘れて見つめているし、新しい女王が羽化《うか》したときなどは、ピー、ピピーと美しい声で鳴《な》くのを聞いたとたん、よほど心を動かされたのだろう、上気した顔で涙《なみだ》を浮かべていた。
蜜蜂《みさばち》たちのあとを追って野を歩きまわり、野生の蜂が、種類がちがえば、巣の作り方から、食べるものまでちがうことに興奮《こうふん》して帰ってくる。
もっとも、エリンは、子どもたちがよくするように、息せききって帰ってきて、見つけてきたことを報告《ほうこく》することはなかった。
初めジョウンは、エリンがまだ自分に馴染《なじ》んでいないせいだろうと思っていたが、時がたつにつれて、そうではなく、この子は自分が発見したことを、黙《だま》って考える性質《せいしつ》なのだと気がついた。
竈《かまど》の灰を掻《か》き出《だ》したり、山羊《やぎ》の糞掃除《ふんそうじ》をしていても、この子の頭は、様々な疑問《ぎもん》やら、推測《すいそく》やらでいっぱいらしく、よく独《ひと》り言《ごと》をつぶやくことがあった。この独り言をそばで漏《も》れ聞くのは、面白《おもしろ》かった。
たとえば、蜂蜜《はちみつ》の濾過《ろか》を手伝っていたとき、エリンが、とろとろと出てくる蜂蜜を見つめながら、口の中でつぶやいたことがある。
「……やっぱり、ちがうわ。花の蜜じゃないわ」
ジョウンは採蜜樽《さいみつだる》の取っ手をまわしながら、エリンがなにを言っているのか、聞き耳を立てていたが、エリンは自分が独《ひと》り言《ごと》を言っていることにも気づいていない様子で、流れだす蜂蜜を見つめて、つぶやいていた。
「でも、サロウの花が咲《さ》いていたときの蜜の色と、ノサンが咲いていたときの蜜の色は、ちがうから……やっぱり、花の蜜なんだけどなあ」
がまんできなくなって、ジョウンは声をかけた。
「おい。なんで、こいつが花の蜜じゃないなんて、突拍子《とっぴょうし》もないことを考えているんだね」
びっくりしたように、エリンは顔をあげた。そして、顔を赤らめて、ちょっとのあいだ黙《だま》っていたが、やがて口を開いた。
「……このあいだ、蜜蜂《みつばち》たちが舐《な》めていた花の蜜を舐めてみたの。そしたら、甘《あま》かったけど、蜂蜜の味とは、全然ちがったの」
ジョウンは、はっとした。
この子がなにを疑問《ぎもん》に思っていたのか、ようやくわかった。あたりまえのことだと笑い飛ばせるようなことだったが、わずか十|歳《さい》の子が、自分で花を舐《な》め、蜂蜜《はちみつ》との味の差《さ》に疑問を抱《いだ》いていたことが、ジョウンにはとても面白《おもしろ》く思えた。
「なるほど。そのとおりだな。では、蜂蜜というのは、なんだろうな?」
つい、昔の口調《くちょう》になっていることに気づき、ジョウンは心の中で苦笑《くしょう》したが、エリンはそんなジョウンの様子には気づかず、真剣《しんけん》な表情《ひょうじょう》で答えた。
「蜜蜂《みつばち》は、花の蜜を飲《の》んで、お腹《なか》に溜《た》めて帰ってきて、巣房《すぼう》に吐《は》きだすんだから、蜜蜂の唾《つば》が混《ま》じっているのかと思ったんだけど……」
それ以上、なにを疑問に思っているのだろうと、興味《きょうみ》|津々《しんしん》でジョウンが聞いていると、エリンは首をかしげながら続けた。
「蜜蜂は、すごく遠くまで飛ぶの。わたしが走っていっても、息がきれて、疲《つか》れてしまうくらい遠くの野原まで飛ぶの。
蜜蜂は、わたしの身体《からだ》より、ずーっと小さいでしょう? あんな小さな蜜蜂には、あの野原は、わたしが走っていくより、ずっと遠いんじゃないかしら」
ジョウンは思わず取っ手をまわすのをやめて、一心に話しているエリンを見つめた。
「まえに、おかあさんが言っていたの。人も獣《けもの》も、食べ物を食べるのは、身体を育《そだ》てるためだけじゃなくて、動くためでもあるって。たくさん働《はたら》いたり、遠くへ歩いていった日に、ものすごくお腹がすくのは、そのせいだって。
だったら、蜜蜂《みつばち》は、あんなに小さな身体《からだ》で、あんなに遠くまで飛んでいって、せっかく花の蜜を食べたのに、それを巣《す》に持って帰って、吐《は》きだしてしまって、なぜ生きていられるのかしら?
それに、あのうすーい花の蜜が、こんなふうに、黄金色《こがねいろ》のとろっとしたものになるくらい、唾《つば》を吐きだしてしまったら……蜜蜂の唾なんて、すっごくちょっとでしょう? なのに、こんなに吐きだしてしまったら、身体が縮《ちぢ》んでしまうんじゃないかしら。……どうして、こんなに、ふつうに、元気に、飛びまわれるのかしら」
ジョウンは唸《うな》ってしまった。それから、自分が採蜜の手をとめてしまっていることに気づいて、あわてて取っ手をまわしはじめた。
「……それに答えるのは、なかなか骨だな。おれにわかっていることは、ちゃんと教えてやるから、待っていなさい。まずは蜜搾《みつしぼ》りだ。仕事を終えてからな」
この日から、ジョウンは機会《きかい》をみては、エリンに蜜蜂についての知識《ちしき》を懇切《こんせつ》|丁寧《ていねい》に語り聞かせるようになった。
この子は、まるで孵化《ふか》したばかりの雛《ひな》が餌《えさ》を欲《ほ》しがるように、知識《ちしき》を欲《ほっ》している。その知識|欲《よく》が、ちょっとふつうではないと気づいたのは、そろそろ夏が近い、ある雨の日だった。
その日、ジョウンは取引《とりひき》商人と商談《しょうだん》をするために、家のことはエリンに任《まか》せて、一人で馬に乗《の》って、街道《かいどう》|沿《ぞ》いの街におりた。行きは晴れていたのだが、帰り道の途中《とちゅう》で雨が降《ふ》りはじめ、家に帰りついたころには、土砂《どしゃ》|降《ぶ》りになっていた。
まえに、こういうふうに突然《とつぜん》の土砂降りになったときには、エリンが傘《かさ》を持って山道の途中まで迎《むか》えに出ていたことがあったので、この日も来てくれるかと期待《きたい》していたのだが、家が見えてきても、エリンの姿は見えなかった。
トッチを厩《うまや》に入れて濡《ぬ》れた肌《はだ》を拭《ふ》いてやり、飼《か》い葉《ば》を与《あた》えてやってから、家の玄関《げんかん》に近づいても、家の中は静まりかえっていた。
この雨のなか、エリンはどこかへでかけているのかと、不安になりながら土間《どま》に入ると、土間と居間《いま》を隔《へだ》てる障子《しょうじ》の奥《おく》に、背を向けて座《すわ》っているエリンの姿が見えた。
いったいなにをしているのか、ジョウンが土間に入っても、ふり向きもしない。そっと近づいて、肩越《かたご》しにのぞきこんで、ジョウンは目を剥《む》いた。
エリンは、ジョウンの書物《しょもつ》に熱中していたのだ。頭をかすかに動かし、なにかつぶやきながら読んでいるその書物は、毒《どく》に関する医術書《いじゅつしょ》だった。
「……おい」
声をかけると、エリンは、びくんととびあがった。そして、目を見開いてジョウンを見つめた。
「ごめんなさい!」
エリンは青ざめていた。勝手《かって》に戸棚《とだな》をあけて、書物をとりだして読んでいたことを、叱《しか》られると思ったのだろう。
ジョウンは居間にあがって、エリンの前にあぐらをかいて座《すわ》ると、書物を手にとった。
「謝《あやま》らんでもいいが……おまえは、字が読めるのか?」
エリンはうなずいた。
「学舎《がくしゃ》に通っていたのかね?」
ジョウンが尋《たず》ねると、エリンは首をふった。
「……おかあさんが、教えてくれました」
ジョウンは書物をふってみせた。
「おかあさんが? これが読めるほど、高度な教育《きょういく》をおまえに施《ほどこ》していたのか?」
エリンは肩《かた》をすくめた。
「それは……むずかしくて、読めない字がたくさんありました」
ジョウンは、ほっとして微笑《ほほえ》んだ。
「そうか。それを聞いて安心した。正直《しょうじき》、鳥肌《とりはだ》が立ったぞ。薄暗《うすぐら》い雨の日に、家に帰ってみたら、十|歳《さい》の女の子が、一心不乱《いっしんふらん》に 『毒《どく》ノ書』を読んでいるんだからな」
エリンは、いよいよ首を縮《ちぢ》めた。
「これは、高級|職能者《しょくのうしゃ》|階層《かいそう》の少年たちが通《かよ》う高等|学舎《がくしゃ》で、十六|歳《さい》の少年たちが学《まな》ぶ書物《しょもつ》だ。これが、すらすらと読めるようなら、おまえは化《ば》け物《もの》だよ」
そう言って、ジョウンは、すこし顔色がもどってきた娘《むすめ》を見つめた。
「それにしても、すごい熱中《ねっちゅう》ぶりだったな。おれが入ってきても気づかないほど、この書物が面白《おもしろ》かったのか?」
エリンは答えに窮《きゅう》して、黙《だま》ってうつむいた。
ジョウンがたくさん書物を持っていることを発見したのは、このまえ、ジョウンが商談《しょうだん》のために外出したときだった。雨が降《ふ》っていて外仕事ができず、退屈《たいくつ》だったので、ジョウンの着物のほつれでも縫《ぬ》ってみようと、奥《おく》の間の戸棚《とだな》をあけて、びっくりしたのだ。
人一人、入れるほど大きな戸棚いっぱいに、書物が積《つ》みあげられていた。ひとところにこんなにたくさんの書物があるのを見たのは、生まれて初めてだった。ジョウンのものを、勝手にさわってはいけないと思ったけれど、なんの書物なのか知りたくて、がまんできなかった。
一|冊《さつ》一冊、床《ゆか》におろして、順番《じゅんばん》を変えないようにしながら題名《だいめい》を見ていくうちに、エリンは、わくわくしてきた。物語らしきもの、蜂《はち》について書かれているもの、様々な国について書かれた書物《しょもつ》……まるで、宝物の山を目の前に広げられたようだった。
そのときは、ジョウンが帰ってくるまでに間がなかったので、読んでみることはできなかったから、またジョウンが留守《るす》にする日を、心|密《ひそ》かに待ちつづけていたのだった。
この日、ジョウンがでかけるや、エリンは戸棚《とだな》をあけて、書物《しょもつ》をひっぱりだした。どれから読もうか、目移《めうつ》りしてしまって、ずいぶん迷《まよ》った。ジョウンが帰ってくるまでの時間しかないのだから、何冊《なんさつ》も読むことはできない。
エリンが医術書《いじゅつしょ》を読みはじめたのは偶然《ぐうぜん》だった。様々な書物をぺらぺらとめくって、中身《なかみ》をながめるうちに、この医術書の中に、「匂《にお》いの変化《へんか》」という項《こう》を見つけたのだ。
それを見た瞬間《しゅんかん》、母が(イケ)に入って闘蛇《とうだ》の死因《しいん》を探《さぐ》っていたときのことを思いだした。エリンが、闘蛇の匂いが変化したことを告《つ》げたとき、母は、心底《しんそこ》|驚《おどろ》いた表情《ひょうじょう》を浮《う》かべ、それを人に話してはいけないと言った。
母は、なぜ、あんなことを言ったのだろう? 闘蛇の匂いは、なぜ変わってしまったのだろう? そう思ったとき、もうひとつの記憶《きおく》がつられてよみがえってきた。おいしい夕飯《ゆうはん》を食べたあの夜の、母の言葉だった。
母は、人に飼《か》われた闘蛇《とうだ》は、弱くなると言った。
[#ここから2字下げ]
──考えてごらんなさい。野にいる闘蛇ならば、ごくふつうに為《な》すことで、(イケ)に飼《か》われた闘蛇には、できなくなることがある。……おまえなら、きっと、自分で答えを見つけられるわ。
でも、答えを見つけても、他人に話してはだめよ。──なぜ、他人に話してはいけないのか、それがわかるようになるまでは、話してはだめ。
[#ここで字下げ終わり]
母が残したその言葉は、ずっとエリンの心にひっかかっていた。だから、「匂《にお》いの変化《へんか》」という項《こう》を見つけたとき、もしかしたら、ここにその謎《なぞ》を解《と》く鍵《かぎ》が書いてあるのではないかと思ったのだ。
しかし、あまりにもたくさん、わからない言葉がずらずらと並んでいるので、何度読んでも、意味がよくわからなかった。
ただ、ほんのすこしわかったこともあった。人が毒《どく》を飲《の》んでしまったりすると、身体《からだ》の匂《にお》いが変わることがあるらしい。だから、死者《ししゃ》の口の匂いを嗅《か》いで、どの毒で死んだかわかることがあると書いてあるのが、とても気になった。
闘蛇《とうだ》の死因《しいん》は中毒死《ちゅうどくし》だったと、母は監察官《かんさつかん》に言っていた。闘蛇の匂いが変わったのは、毒のせいだったのかもしれない───と考えていたところに、ジョウンが帰ってきたのだ。
自分が、なぜ、医術書《いじゅつしょ》に熱中《ねっちゅう》していたのか、正直《しょうじき》に話すわけにはいかなかった。
うつむいていると、ジョウンがぱたりと書物《しょもつ》を閉《と》じる音が聞こえた。
「……おまえは、こういう書物を読めるようになりたいのか」
心臓がひとつ、ドックン、と打った。エリンは、ぱっと顔をあげた。
「はい」
ジョウンは、じっとエリンを見つめていたが、やがて、微笑《びしょう》を浮《う》かべた。
「よし。それじゃあ、仕事の合間に教《おし》えてやろう」
かつて、ジョウンは思ったことがある。知識《ちしき》もなく、ほかの子どもより、ほんのすこし理解《りかい》するのがゆっくりであるために、自分をだめだと思いこんでいる子どもにものを教え、その子が、それを理解したときの───自分でも大丈夫《だいじょうぶ》、そういうことがわかるのだと気づいたときの目の輝《かがや》きを見るのは、なにものにも代《か》えがたい喜《よろこ》びだと。
エリンを教えはじめて、ジョウンは別の喜びを知った。それは、どこまで伸《の》びていくかわからない、途方《とほう》もなさを秘《ひ》めた子どもを育《そだ》てていくという喜びだった。
生き物や書物《しょもつ》のほかに、エリンが熱中《ねっちゅう》したものが、もうひとつある。それは竪琴《たてごと》作りだった。
夏の準備《じゅんび》の品々を買うために市《いち》におりた日、年に数度この市にやってくる常連《じょうれん》の吟遊《ぎんゆう》|楽師《がくし》たちが、明るい空の下、緋色《ひいろ》の毛氈《もうせん》を敷《し》いて、演奏《えんそう》の支度《したく》をしていた。
「ちょっと聞いていくか?」
ジョウンが言うと、エリンはジョウンを見上げて、うなずいた。
やがて始まった演奏は、なかなかみごとなもので、彼らが竪琴《たてごと》や笛《ふえ》で、物哀《ものがな》しい恋《こい》の歌から明るい舞踏曲《ぶとうきょく》まで、多彩《たさい》な歌曲《かきょく》を奏《かな》でていくのを、エリンはまるで魂《たましい》を吸《す》いとられたような顔で聞いていた。
帰り道、いつものように山の中をトッチの背に荷を積《つ》んで歩きながら、エリンは楽しげに、さっき聞いたばかりの恋の歌を口ずさんだ。
「……月の夜には蛙《かわず》の声、靄《もや》の夜明けは鳥の声、流れ流れて、しじまを乱す……」
歌の山場《やまば》に来ると、エリンは、思いをこめて歌った。
「鳴くな夜明けの鳥よ、鳴くな。そなたの昨夜の声を、思いだすから……」
ジョウンは吹《ふ》きだした。
「おいおい、その歌詞《かし》の意味が、わかるのかい?」
エリンは、きょとんとした顔でジョウンを見た。
「鳥に、鳴かないでって………言ってるんでしょ?」
ジョウンは咳《せ》きこむほど笑《わら》いながら、首をふった。
「まあ、いい。いずれ、わかるさ。……『夜明けの鳥』は、このあたりでよく歌われている歌だが、大公《アルハン》領でも歌われているんだな」
エリンは瞬《まばた》きした。
「そうなんですか? わたしは、聞いたことがなかったです」
ジョウンは驚《おどろ》いた。
「なんだと? いま、歌っていたじゃないか」
エリンは、いよいよ困惑《こんわく》した顔になった。
「……さっき、聞いたから」
「おまえ、一回しか聞いていない歌を、歌えるのかね」
そう言われても、答えようがなかった。さっきの歌は耳に心地《ここち》よかったので、覚《おぼ》えてしまったのだけれど、ほかの曲も覚えられるかどうかは、わからなかったからだ。
ジョウンは、しげしげとエリンを見て、なにか考えていたようだったが、家につくと、戸棚《とだな》から小さな竪琴《たてごと》をひっぱりだした。
「ここのところ、しまいっぱなしだったからな……」
つぶやきながら、ジョウンは弦《げん》を掻《か》き鳴《な》らしてみて、真剣《しんけん》な表情《ひょうじょう》で耳を傾け、小さなねじを巻《ま》いたり、ゆるめたりした。
やがて、ひとつうなずくと、エリンを見た。
「この曲を知っているかい?」
ジョウンが弾《ひ》きはじめた曲は、やわらかい春の日射《ひざ》しを思わせる曲だった。エリンは、首をふった。
「知りません」
「そうか。いい曲だろう?」
エリンは目を輝《かがや》かせてうなずいた。
「はい。………おじさん、上手《じょうず》!」
ジョウンは笑った。
「十二の年から、竪琴を弾《ひ》くのが大好きだったんだ。父は、嗜《たしな》みのひとつとして許《ゆる》してくれていたが、おれが竪琴《たてごと》を弾《ひ》くだけじゃなくて、職人《しょくにん》に教《おし》えてもらいながら、竪琴作りにまで熱中《ねっちゅう》しはじめたので、おまえは楽師《がくし》になるつもりかと怒《おこ》ったものだ。
これも、おれが自分で作った竪琴だ。いい音だろう?」
エリンはうなずいた。
ジョウンは、夜空の月を見上げているような静かな曲から、踊《おど》りだしたくなるような軽《かろ》やかな曲まで、様々な曲を流れるように奏《かな》でた。
エリンは、うれしくて、身を乗りだして頭をふりながら、フンフンと鼻を鳴《な》らして曲についていった。
「エリン、この曲を、鼻歌で歌ってごらん」
ジョウンは、最初に奏《かな》でた春の日射《ひざ》しのような曲を、もう一度奏でた。
聞き終わるや、エリンは、鼻歌で、最初から最後まで、その曲を再現《さいげん》してみせた。
ジョウンは唸《うな》った。
エリンが、二度しか聞いていない曲を完全に再現できたことにも驚《おどろ》いたが、なにより驚いたのは、エリンの出した音が、なんとなくこんな感じだったという音ではなく、測《はか》ったように、弦《げん》の音程《おんてい》とぴったり一致《いっち》していたことだった。
ジョウンは幼《おさな》いころ、音感《おんかん》が優《すぐ》れていると竪琴師に褒《ほ》められたことがある。しかし、エリンの音感は、それ以上だった。
この日から、ジョウンは、エリンに竪琴《たてごと》の手ほどきも始めるようになった。
最初にジョウンが気づいたとおり、エリンは極《きわ》めて優《すぐ》れた耳を持っていて、一度聞いた音を完全《かんぜん》に再現《さいげん》することができたが、その才は再現に限《かぎ》られていて、新しい曲を生みだす能力《のうりょく》は、まったくないようだった。
エリンは、曲を作ることよりも、音を作りだすことに心を惹《ひ》かれた。
弦《げん》の張《は》り具合《ぐあい》はもちろん、竪琴の本体を作る木の素材《そざい》によっても、竪琴《たてごと》の形によっても、音が微妙《びみょう》に異《こと》なることが、面白《おもしろ》くてたまらなかったのだ。
ジョウンに手ほどきしてもらって竪琴の作り方の基本を学《まな》ぶと、エリンは様々な木で、様々な形の竪琴を作ってみることに熱中《ねっちゅう》した。
もちろん職人《しょくにん》のような竪琴は作れなかったけれど、エリンの竪琴|製作熱《せいさくねつ》は、その後何年も冷《さ》めることはなかった。
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[#地付き]2 夏の小屋
日の光がくっきりと木々の影《かげ》を際立《きわだ》たせ、夜明けから蝉《せみ》が鳴《な》く季節がやってきた。
ジョウンの家は、かつてエリンが母と暮《く》らしていた村よりも高地にあり、ずっと湿気《しっけ》が少なかったから、夏といっても朝夕は涼《すず》しく、過《す》ごしやすかった。
湖畔《こはん》のサロウの花が散《ち》り、野を一面の黄色に染《そ》めていたノサンの花も散るころになると、ジョウンは一番近い農家から馬を一頭|借《か》りてきた。
これは毎年のことで、麦の取り入れが終わり、次の豆作りに備《そな》えての作業もすんだころに馬を貸《か》してもらい、秋にはまた返す約束ができているのだ。
きっちり防水布でおおってしまっておいた荷車を日向《ひなた》に出して、手入れを始めると、エリンが、なにごとかと駆《か》け寄《よ》ってきた。
「……ノロたちの世話《せわ》は終わったか?」
エリンがうなずくと、ジョウンは雑巾《ぞうきん》を手渡《てわた》した。
「それじゃあ、この荷車の掃除《そうじ》を手伝《てつだ》ってくれ。板がゆがんでいたり、ガタついたりするところがあったら、教《おし》えるんだぞ」
もう一度うなずいて、エリンは荷台《にだい》によじのぼった。エリンが知っているよりも、ずいぶんと縦《たて》に長い、大きな荷車だった。
「おじさん……これで、なにを運ぶの?」
「巣箱を全部|積《つ》んで、おれたちの食糧《しょくりょう》や寝具《しんぐ》も積んでいくのさ」
エリンはびっくりして、荷台の縁《へり》をぬぐっていた手をとめた。
「え? わたしたち、どこかへ行くの?」
ジョウンは微笑《ほほえ》んだ。
「花を追っていくんだ。ここより、ずっと山の上のほうへな。
カショ山の七合目あたりに、おれの夏の小屋がある。あのへんは夏になると、一面フジャクやサシャが咲《さ》き乱《みだ》れる花畑に変わるんだ。そりゃあ、みごとなもんだぞ」
エリンの顔が、ぱっと輝《かがや》くのを見ながら、ジョウンは言った。
「まあ、それを楽しみに働いてくれ。これからでかけるまでは、大忙《おおいそが》しだからな」
二人が家の戸締《とじま》まりをし、荷車に巣箱と荷物を積《つ》んで出発したのは、それから五日後の明け方だった。
朝靄《あさもや》が漂《ただ》う山道を二頭の馬に荷車を曳《ひ》かせていく。なるべく巣箱をゆらさぬように気をつけねばならないから、速く進める旅ではない。エリンは小さな枝を持って、山羊《やぎ》のノロ夫婦《ふうふ》を追い立てながら、荷車の後ろからついていった。
山道は生《お》い茂《しげ》る夏草と木々におおわれ、強い夏の日射《ひざ》しはさえぎられていたけれど、長い道のりのあいだに、エリンは汗《あせ》びっしょりになった。ブヨが寄《よ》ってきて目に入ろうとし、かぼそい唸《うな》りをあげながら、蚊《か》が、汗まみれの肌《はだ》に集まってくる。
巣箱には金網《かなあみ》が張られ、風が入るようになっていたが、ジョウンは霧吹《きりふ》きで巣箱に水を吹きかけて、巣箱の中の温度があがりすぎないように気を配《くば》っていた。
岩のあいだから、ちょろちょろと清水《しみず》が湧《わ》きでているところに来ると、ジョウンは荷車を停《と》めた。
エリンは指が痺《しび》れるほど冷たい清水を両手に溜《た》め、喉《のど》を鳴《な》らして飲《の》んだ。顔を洗《あら》い、首をぬぐうと、生き返る気がした。
髪《かみ》までびっしょり濡《ぬ》らしてから、ぶるぶるぶるっと頭をふると、ジョウンが笑った。
「………犬っころみたいなやつだなあ。女の子なんだから、もうすこし、しとやかにせんか」
エリンは、にこっと笑うや、もういっぺん、盛大《せいだい》に頭をふってみせた。
「わたし、犬っころのほうがいい」
ジョウンは苦笑《くしょう》しながら、よく日に焼《や》けて、棒のような手足をした養《やしな》い子をながめた。髪を結《ゆ》ってやれないので、襟《えり》のあたりで短く切りそろえてやったものだから、まるっきり男の子のように見える。
「しょうがないやつだ」
愛《いと》しさが、胸の底から湧《わ》きだしてきた。 ──かけがえのない授《さず》かりものだ、と思った。
二人はときおり休みながら、黙々《もくもく》と山道を登った。
木々の枝を透かして、赤みがかった黄昏《たそがれ》の光が斜《なな》めに木の幹《みき》を照《て》らすようになったころ、ふいに視界《しかい》が開けた。
「うわあ!」
エリンは思わず息をのんだ。
見渡《みわた》すかぎりの花畑だった。なだらかな斜面《しゃめん》一面が、色とりどりの花におおわれている。野の果《は》ては崖《がけ》になっており、茜雲《あかねぐも》がゆっくりと野をこするように流れていた。
二人が立ちどまると、音が消えた。風が草をゆらし、花がこすれあう音だけが、絶《た》えず、サラサラと聞こえている。
野の果て、深い谷間の向こうには、|神々の山脈《アフォン・ノア》の雪の峰《みね》がくっきりと聳《そび》えている。風の音だけが渡《わた》っていく野に立っていると、異界へ迷《まよ》いこんでしまったような心地《ここち》になった。
「……さあ、行こう。あとすこしだ」
ジョウンはエリンの肩《かた》に手をおいて、そっと促《うなが》した。
ジョウンの夏の小屋は、秋から春のあいだ暮《く》らす家の半分ほどの小さな小屋だったが、昨年の秋に打《う》ちつけていった板はそのままで、獣《けもの》に荒《あ》らされた様子もなかった。
「……やれやれ、到着《とうちゃく》だ」
ジョウンは腰《こし》を叩《たた》いてから、うーんと伸《の》びをした。
「山羊《やぎ》たちを囲《かこ》いに入れてから、馬の世話《せわ》も頼《たの》む。おれは、巣箱を設置《せっち》しおえたら、板をはずして、煙出《けむだ》しの掃除《そうじ》をするから」
「はーい」
ここの夜は、真夏でもかなり冷《ひ》えこむ。炉《ろ》に火を入れなければ、とても夜を過《す》ごすことはできない。煙出しには、鳥が巣をかけていることが多いから、まずは、その掃除から始めなければならなかった。
毎年、この移動日は、くたびれはてる。
昔から体力には自信があるほうだったが、五十五|歳《さい》を過ぎたあたりから、こういう労働《ろうどう》は身体《からだ》にこたえるようになった。昨年は、煙出しの掃除などやる気になれず、毛布をひっかぶって寝《ね》てしまったのだが、今年はエリンがいるから、そうもいかない。
きつい思いをしても、毎年ここへ来るのは、採蜜量《さいみつりょう》を増《ふ》やすためだけではなく、ここが好きだからだ。
(……あと何年、ここへ来られるだろうかな)
黄昏《たさがれ》の光に、やわらかく浮《う》かびあがっている野をながめると、身体《からだ》がすこし楽《らく》になるような気がした。今年は雨が多かったから、花がみごとに咲《さ》いてくれている。蜂《はち》たちは、たんと蜜《みつ》を集めてくれるだろう。
今年は、養蜂《ようほう》だけでなく、薬草探《やくそうと》りもするつもりだった。
以前、この山の渓谷《けいこく》の斜面《しゃめん》で、チゴを見かけたことがある。チゴの根は内臓にできる腫《は》れ物を治《なお》す特効薬《とっこうやく》だが、険《けわ》しい山中の渓谷にしか生えないので、高価で取り引きされていた。
チゴが生えていたあたりは切り立った崖《がけ》だから、ほんとうにあれを採取《さいしゅ》するなら、気をつけてやらねばならない。足を滑《すべ》らせれば、深い谷底に真っ逆さまだ。谷底を流れる川には、野生《やせい》の闘蛇《とうだ》が生息《せいそく》している。谷に落ちれば、まず命はないだろう。それでも、やってみる価値《かち》はある。チゴの根は、小ぶりなものでも大粒金《おおつぶきん》一枚もの値《ね》がつくのだ。
これまでは、自分一人、食べていかれればよかった。老いて身体が動かなくなったら、この野原に横たわって、天を渡《わた》る雲を見ながら死のうと思っていた。
だが、いまはエリンがいる。あと六、七年もすれば嫁《よめ》に行くかもしれない。きちんとした相手に嫁《とつ》がせるには持参金《じさんきん》もいるし、それなりの嫁入り道具をととのえてやる必要《ひつよう》もある。
そう思うかたわらで、なんとなく、エリンは、ふつうの娘《むすめ》のような人生を辿《たど》らないのではないか、という予感《よかん》もしていた。
あの子には、どこか人並《ひとな》みはずれたところがある。学問を教えはじめてから、一層、そう感じるようになっていた。
(あの子が男だったら……)
それに、|霧の民《アーリョ》の血をひいていなかったら、昔のつてを頼《たよ》って、王都の学舎《がくしゃ》で学ばせてやれるのだが。正式な教育を受けたら、どんなふうにあの才《さい》が開花していくだろうと考えるたびに、歯痒《はがゆ》さに苛《さいな》まれる。
(……まあ、ぼちぼち考えるさ)
いずれにせよ、金は必要《ひつよう》だ。 ──そう思うことは、負担《ふたん》ではなかった。むしろ、腹の底に力が湧《わ》いてくる。かつて我《わ》が子を初めて胸に抱《だ》いたときのような、この子の行く道を、幸せな道にしようと思う気持ちが、ふつふつと湧きあがってくるのだ。
*
夏の小屋での日々は、おだやかに過《す》ぎていった。
そろそろ夏の盛《さか》りというころ、夕餉《ゆうげ》を食べながら、ジョウンは、エリンに言った。
「ここの暮《く》らしには慣《な》れただろう? おれが留守《るす》にしても、一日ぐらいなら大丈夫《だいじょうぶ》か?」
「はい」
「よし。それじゃあ、明日、ちょっと留守にするから、あとをしっかり頼《たの》むぞ」
「はい!」
ジョウンは、ひょいと眉《まゆ》をあげた。
「いい返事だが……おれの目がないからといって、くれぐれも、蜂《はち》にさわるんじゃないぞ」
エリンがぎょっとしたのを見て、ジョウンは、顔をしかめてみせた。
「おれが気づいていないと思っていたのか? なんで、そんなことをしたいのか、さっぱり気が知れんが、おまえ、蜂にさわってみたくてしかたがないんだろう。巣箱の前にしゃがみこんで、指を出そうか出すまいか迷っていたのを見たぞ。 ──蜂に刺《さ》されたら、死ぬことだってあるんだ。甘《あま》く見ちゃいかん。わかったな?」
「……はい」
エリンはそっと親指で人差し指をさすりながら、うつむいた。
じっは、すでに刺されているのがばれたら、ほれ見たことかと叱《しか》られる。
蜜蜂《みつばち》は、きれいに刈《か》りそろえたような短い毛でおおわれている。やわらかいのか、それとも針みたいに硬《かた》いのか、ずっとさわってみたかったのだ。
すごく気をつけて、そうっとさわったのだけれど、指先が触《ふ》れた瞬間《しゅんかん》、蜜蜂は驚《おどろ》いて飛びあがり、あっと思う間もなく人差し指を刺《さ》されてしまった。……その痛《いた》さときたら! 舐《な》めても吸っても痛みはひいてくれなかった。
痛いのもつらかったけれど、もっとつらかったのは、翌朝、針のない蜜蜂《みつばち》が、草の上に転《ころ》がっているのを見たことだった。蜜蜂は人を刺すと死ぬのだと教えられていたけれど、小さな死骸《しがい》を目にした瞬間《しゅんかん》、それがどういうことなのか、初めて心に迫《せま》ってきたのだ。
草の上に転がって、動かぬ蜂を見たとき、胸の底に広がった気持ちがなんだったのか、よくわからない。胸の中に小さな穴があいていて、そこを冷たい風が、すりぬけていったようだった。
ほかの蜂たちが、姉妹《しまい》が死んで転《ころ》がっているのに気づく様子もなく宙を飛《と》び交《か》っている羽音を聞きながら、エリンは長いこと、動かない小さな蜂を見つめていた。
ジョウンは顔をしかめて、うつむいているエリンを見ていた。
「おまえは、ときどき、突拍子《とっぴょうし》もないことをやるからな。どうも、一人でおいていくのが心配でならん。 ──あ、そうだ、絶対に、トッチの腹の下に入るんじゃないぞ!」
エリンはいよいよ首をすくめた。トッチは雌馬《めすうま》だと聞いたので、ふと、乳房《ちぶさ》を搾《しぼ》ったら、お乳は出るのかなと思って、腹の下にもぐりこんだのだが、まさか見られていたとは知らなかった。
「トッチはおとなしいから、このあいだは蹴《け》られずにすんだが、虫の居所が悪ければ、急に暴《あば》れだすことだってあるんだぞ」
ジョウンは、うつむいているエリンに言った。
「顔をあげなさい」
エリンが顔をあげると、ジョウンは、おだやかだが、厳《きび》しい口調《くちょう》で諭《さと》した。
「いいかエリン、人と獣《けもの》のあいだには大きな隔《へだた》たりがあるということを忘れるんじゃないぞ。
トッチは気のいい雌馬《めすうま》だ。おまえにも、おれにも馴《な》れている。家族みたいなものだ。
だが、たとえば、スズメ蜂《ばち》に刺《さ》されて、その痛みで動転《どうてん》したりすれば、暴れた拍子《ひょうし》に、一撃《いちげき》でおまえを蹴《け》り殺してしまうかもしれんのだ。
人であれば、スズメ蜂に刺されて動転したって、仲のよい子どもを蹴り殺したりはしないが、馬には、そういう配慮《はいりょ》はないんだぞ」
不思議な感覚《かんかく》に囚《とら》われて、エリンはジョウンの言葉を聞いていた。いま、ジョウンが言ったことは、かつて母に言われたことに、よく似《に》ていた。
ジョウンは真剣《しんけん》な顔で、念《ねん》を押《お》した。
「わかったか?」
「……はい」
ジョウンはうなずき、表情《ひょうじょう》を和《やわ》らげた。
「よし。じゃあ、明日は、しっかり留守番《るすばん》を頼《たの》むぞ」
ジョウンが皿から乾酪《かんらく》(チーズのようなもの)をとりあげて、串《くし》に刺《さ》して炙《あぶ》りはじめたのを見ながら、エリンは尋《たず》ねた。
「おじさん、明日は、どこへ行くんですか?」
「ん? ああ、薬草を採《と》りにいくんだ」
「薬草? ……おじさん、どこか、具合《ぐあい》が悪いんですか?」
ジョウンは微笑《ほほえ》んだ。
「ちがう、ちがう。売るために採ってくるんだ。おまえ、チゴの根を知っているか?」
エリンは首をふった。
「チゴの根はな、内臓にできる腫《は》れ物によく効《き》くんだ。このくらいの根で……」
ジョウンは親指と人差し指のあいだを広げてみせた。
「大粒金《おおつぶきん》一枚で売れる」
「え! ほんと? 大粒金一枚!」
ジョウンは笑いながら、木皿から、もうひと塊《かたまり》、乾酪をつまみあげて、串に刺した。
「ほんとうだ。いい稼《かせ》ぎだろうが。……だがな、チゴは、闘蛇《とうだ》の息で育《そだ》つ≠ニいう言い伝えがあるほど、深い峡谷《きょうこく》に生《は》える薬草だから、探《と》りにいくのもなかなか骨だ。もしかすると、明日一日では、帰ってこられんかもしれんが、心配しなくていいからな」
串《くし》を炉《ろ》に刺《さ》しおえ、顔をあげて、ジョウンは驚《おどろ》いた。
エリンが、血の気の失《う》せた顔で、自分を見つめていたからだ。
「おい、どうした? 具合《ぐあい》でも悪いか」
エリンは首をふった。そして、やっと出ているような、かぼそい声で訊《き》いた。
「……おじさん、闘蛇《とうだ》がいるところに、行くの?」
ジョウンは瞬《まばた》きして、しばらくエリンを見つめていたが、やがて眉《まゆ》をあげ、微笑《ほほえ》んだ。
「なんだ、おれの身を心配《しんぱい》してくれたのか。……ありがたいが、そんなに心配することはない。このあたりを歩くのに慣《な》れているし、谷底までおりていったりはせんから、安心して留守番《るすばん》をしていてくれ」
エリンはうなずいたが、暗雲《あんうん》のように湧《わ》きあがってきた不安は、そんな言葉で消えてはいかなかった。闘蛇の匂《にお》いが鼻の奥《おく》によみがえり、母に群《むら》がっていった闘蛇の群れの、うねる身体《からだ》が目の奥《おく》に浮《う》かんだ。
明日は早いからと、おじさんは早々に床《とこ》についてしまったが、エリンは横になっても、眠《ねむ》れなかった。
谷底までおりるつもりはなくても、足を滑《すべ》らせたら……?
恐《おそ》ろしいことは、ふいに、降《ふ》りかかってくるものだ。
ずっと一緒《いっしょ》にいられると思っていた母が、あっというまに、殺されてしまったように。
(おじさんが、帰ってこなかったら……)
腹の底から、震《ふる》えがこみあげてきた。
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[#地付き]3 天を翔《か》ける獣《けもの》
白々と夜が明けはじめたころ、おじさんが寝床《ねどこ》から起《お》きあがった。
エリンを起こさないように静かに身支度《みじたく》をととのえている、かすかな音を聞きながら、エリンは寝床の中で、じっと目をつぶっていた。
やがて、荷を背負《せお》っておじさんは立ちあがり、戸をあけて、外へ出ていった。
戸が閉まる音を聞くや、エリンは、ぱっと夜具《やぐ》をはねのけて起きあがった。そして、寝床《ねどこ》の中で考えていたとおりに大急ぎで動きまわり、身支度をととのえ、棚《たな》から昨夜《ゆうべ》の残りのファコと乾酪《かんらく》をとって袋《ふくろ》に入れると、それを担《かつ》いで、そっと戸を引きあけた。
まだ夜が明けきらぬ、薄青《うすあお》い闇《やみ》の中に、おじさんが歩いていく影《かげ》が小さく見えた。エリンは大急ぎであとを追った。しばらくは見晴《みは》らしのよい野中の道だから、おじさんがふり返ったら、見つかってしまうかもしれないけれど、そのときは、そのときだ。
考え事をしていなかったら、ついてくるエリンの気配《けはい》に気づいたかもしれないが、ジョウンは険《けわ》しい山道を谷のほうへ下っていくあいだ、ずっと、あることに気をとられていた。
(あの子は、闘蛇《とうだ》に襲《おそ》われたことでもあるのだろうか……?)
「闘蛇がいるところに、行くの?」と訊《き》いたときのエリンの顔色は尋常《じんじょう》ではなかった。あのときは、自分のことを心配して青くなったのだと思ったが、いま思い返してみると、それだけではないような気がする。
湖の岸辺《きしべ》に倒《たお》れていたとき、あの子の身体《からだ》をおおっていた泥は、ただの泥《どろ》ではなかった。まるで膠《にかわ》のように硬《かた》くこびりついた泥の塊《かたまり》からは、闘蛇の匂《にお》いがぷんぷんしていた。
(だが、あんなふうに粘液《ねんえき》と泥がこびりつくほど闘蛇《とうだ》に近づいたら、食い殺されるはずだ。闘蛇乗りなら、話は別だが)
そう思ってから、ジョウンは、ふと、眉《まゆ》をひそめた。
(待てよ、そういう可能性《かのうせい》も考えられるか………)
真王《ヨジェ》は、闘蛇のような穢《けが》れた生き物を所有することはないが、聖性《せいせい》に縛《しば》られていない大公《アルハン》は、闘蛇衆《とうだしゅう》と呼《よ》ばれる職能者《しょくのうしゃ》たちを使って多くの闘蛇を育《そだ》て、訓練《くんれん》していると聞く。
あの子は、大公《アルハン》領から来たのだ。しかも、たぶん、職人《しょくにん》|階級《かいきゅう》の出だ…‥。
(……エリンは、闘蛇衆の子どもか?)
しかし、大公《アルハン》ただ一人に絶対の忠誠《ちゅうせい》を誓《ちか》う闘蛇衆が、|霧の民《アーリョ》と血を交《まじ》えることなど、まず、ありえまい。
(さてさて。……やはり、あの子は謎《なぞ》だな)
夜は明けたが、暗い日だった。どんよりとした雲が流れている。
降《ふ》りださないでくれという願いも虚《むな》しく、峡谷《きょうこく》に近づいたとき、大粒《おおつぶ》の雨が頭にあたりはじめた。雨は、すぐに、桶《おけ》をひっくり返したような土砂《どしゃ》|降《ぶ》りになった。
枝を大きく張った木の下にとびこんで雨宿《あまやど》りしながら、ジョウンは、引き返そうか、どうしようか迷《まよ》った。
雨がそのまま降《ふ》りつづけば、あきらめて、引き返していただろう。
しかし、土砂降りは、やがて、葉を叩《たた》く静かな雨に変わり、ゆっくりと雲が晴れて、雲間から夏の太陽が顔を出した。
ぬかるんで足場が悪くなってしまったが、ここまで来て、引き返すのは億劫《おっくう》だった。ジョウンは荷をゆすりあげると、木々の葉から伝い落ちてくる雨粒を手ではらいながら、峡谷《きょうこく》への道をまた辿《たど》りはじめた。
鳥か獣《けもの》か、背後でしきりに薮《やぶ》がゆれる音がしているのが気になった。雨があがったので、獣たちも活動を始めたのだろう。ジョウンは背負っている袋《ふくろ》とは別に、腰帯《こしおび》に結《むす》んである袋から、獣が嫌《きら》う匂《にお》いを出す木の実をとりだして、握《にぎ》りつぶし、衣《ころも》にこすりつけた。
木の実から漂《ただよ》う強い匂いを嗅《か》いだとき、蜂《はち》の飼《か》い方から山歩きの知恵《ちえ》まで、惜《お》しみなく教えてくれた老人の顔が、ふっと脳裏《のうり》に浮《う》かんだ。
あの老人と出会わなかったら、こんなふうに養蜂《ようほう》をして、暮《く》らしてはいけなかっただろう。心の中で老人の冥福《めいふく》を祈《いの》りながら、ジョウンは歩きはじめた。
やがて、森が途切《とぎ》れ、深い峡谷《きょうこく》が姿を現した。すり鉢《ばち》のように湾曲《わんきょく》した崖《がけ》の底に、茶色に濁《にご》った水流が見える。川の源流《げんりゅう》のあたりでも雨が降《ふ》ったのか、まえに見たときよりずっと水かさが増していた。
鬱蒼《うっそう》と草におおわれた崖の縁《ふち》を、ジョウンはゆっくり足場を探《さぐ》りながら、一歩一歩おりていった。
去年はここに、漠然《ばくぜん》となにか貴重《きちょう》な薬草はないかと探《さが》しにきたのだが、崖《がけ》の中腹に生えている大きなソシュの木の根もとに、チゴの花が咲《さ》いているのを見つけたときは、もう夕暮れになっていて足もとが見えず、下っていけなかった。
頑丈《がんじょう》な縄《なわ》がなければ下っていかれないような場所だったし、そこまでして、チゴを採《と》りたいとも思わなかったので、そのときは、そのまま帰ってしまったのだった。
今回は、初めからチゴを採る気でいたから、頑丈な縄も持ってきている。ジョウンは、見覚《みおぼ》えのあるソシュの大木を見つけると、袋《ふくろ》を肩《かた》からおろして、中から縄《なわ》をとりだした。
しっかりと根を張《は》っている木の幹《みき》に縄を巻いて縛《しば》ると、小石をくくりつけてあるもう一方の端《はし》を、ソシュの大木のほうへ、ぽーんと放《ほう》った。
縄《なわ》は笹《ささ》のあいだに落ちた。ジョウンは縄を伝い、足もとに気をつけながら、ゆっくりと後ずさりして、崖《がけ》をおりはじめた。
二十歩ほど崖をおりたあたりで、ふいに、右足の下が崩《くず》れた。
あっと思う間もなく、左足をおいていた岩も崩れ、ジョウンは両手で縄《なわ》をつかんだまま崖に叩《たた》きつけられた。いやというほど腹を打ち、その衝撃《しょうげき》で息がつまった。縄にこすれた両手に、火がついたような激痛《げきつう》が走った。
「あつっ!」
思わず縄《なわ》を放してしまったジョウンは、岩で腹をこすりながら、崖《がけ》を滑《すべ》り落《お》ちはじめた。なにかにつかまろうとしたが、つかもうとした灌木《かんぼく》の枝で顎《あご》を打ち、目の前に火花が散《ち》った。
気を失って、ジョウンは、為《な》す術《すべ》もなく滑《すべ》り落ちていった。
なにかが顎の傷に触《ふ》れ、鋭《するど》い痛《いた》みが走った。ジョウンは、うめきながら目をあけた。
ぼんやりとかすんでいた視界《しかい》が、はっきりしてくると、涙《なみだ》と泥《どろ》にまみれたエリンの顔が見えた。
「おじさん! おじさん!」
しばらく、ジョウンは、ぼんやりとエリンの顔を見ていた。
口を開こうとしたとたん、また顎《あご》に激痛が走った。反射的《はんしゃてき》に顎に手をやろうとしたが、小さな手が、その手を押《お》さえつけた。
「さわっちゃだめ! すごい傷《きず》になってるから、さわっちゃだめ!」
エリンは、一生懸命《いっしょうけんめい》、ジョウンの手を押さえつけた。
ジョウンは涙《なみだ》を浮《う》かべて、そろそろと唇《くちびる》を動かした。
「……ここは?」
すすりあげながら、エリンは答えた。
「崖《がけ》の途中《とちゅう》なの。だから、動いちゃだめ。……棚《たな》みたいになっているところに、おじさんは倒《たお》れているの。わたしと、おじさんがいるのが、やっとの広さしかないから、絶対《ぜったい》、動かないで」
ジョウンは目で、わかったと、うなずいてみせた。
エリンは唇《くちびる》をふるわせて、ふいに、大声で泣きだした。
「おじさん、死んじゃったかと思った……!」
安堵《あんど》したせいだろう。それまでこらえていた、恐怖《きょうふ》と興奮《こうふん》が一気に噴《ふ》きだしてきた。
エリンは、がたがたふるえながら、大声で泣いた。声を張りあげて泣くうちに、すこしずつ身体《からだ》を絞《しぼ》りあげるような恐怖がほどけていった。
思う存分《ぞんぶん》泣くと、エリンは息を吸《す》いこみ、両手でむちゃくちゃに涙をぬぐった。
エリンは、ジョウンの顔をのぞきこんだ。
「お……おじ、さん、大丈夫《だいじょうぶ》?」
ジョウンは目でうなずいた。全身が痛《いた》かったが、手足の指が動くところをみると、脊椎《せきつい》はやられていないようだし、骨折《こっせつ》もしていないようだった。
だんだんに、頭がはっきりしてきて、自分がどういう状況《じょうきょう》にいるのか、わかってきた。骨折はしていなくとも、かなりひどく足腰《あしこし》を打っている。しばらくは、崖《がけ》を登るのは無理《むり》だろう。
ずいぶん長いあいだ、気を失《うしな》っていたらしい。もう、日がかげりはじめていた。
そっと腕《うで》を動かそうとして、ジョウンは、自分の身体《からだ》に毛布がかけられていることに気づいた。
「この………毛布は……」
「おじさんの毛布。木の下に丸めておいてあったから、背中に縛《しば》って、おりてきたの」
「なん……だと?」
「そんなに重くなかったよ。水と食べ物も持ってきました」
涙《なみだ》でぐしゃぐしゃの顔をしているくせに、エリンは水筒《すいとう》を持ちあげて誇《ほこら》らしげに笑った。
まさかエリンがついてきているとは思いもしなかったが、こうなってみると、エリンがいてくれることが、ありがたかった。
「……おま、えは、縄《なわ》を伝って、登れる……か?」
なるべく顎《あご》を動かさぬよう小声で言うと、エリンはうなずいた。
「じゃあ………日が、暮《く》れる、まえに、この毛布を持って、気をつけて登れ。今夜は、あの木の下で、眠《ねむ》れ」
エリンは首をふった。
「やだ。おじさんと、ここにいます」
「ばか、もん。……こんな、狭《せま》いところで、眠って、落ちたら、どうする」
「大丈夫《だいじょうぶ》です。そのくらいの広さはあるもの」
ジョウンは、あきらめて、エリンのしたいようにさせることにした。
日が暮れてくると、ぐんぐん寒くなってきた。
エリンは毛布を二人の頭からすっぽりとかぶるようにして、身体《からだ》をぴったりくっつけた。それでも、あまりの寒さに、切れ切れにしか眠れなかった。
夜のあいだに、ジョウンは何度か目をさまし、エリンにそうっと身体を起こしてもらって、小用をすませた。身体を起こすたびに、腰《こし》にも足にも激痛《げきつう》が走るのもつらかったが、暗闇《くらやみ》の中では、どこまでが岩棚《いわだな》なのか、その縁《ふち》がわからないのも恐《おそ》ろしく、朝まで目覚《めざ》めずに眠っていられたらと願《ねが》わずにはいられなかった。
長い夜が、ようやく明けはじめたころ、エリンは、ふと、馴染《なじ》み深《ぶか》い、甘《あま》ったるい匂《にお》いを嗅《か》いだような気がして、びくっと目をさました。
つかのま、いつも見るあの悪夢《あくむ》の名残《なごり》かと思ったけれど、毛布から顔を出したとたん、そうではないことが、はっきりわかった。
氷のような夜明けの大気の中に、闘蛇《とうだ》の匂《にお》いが漂《ただよ》っている。
恐怖《きょうふ》が喉《のど》もとを締《し》めつけ、鼓動《こどう》が速くなった。
おじさんを起こさぬように、そろそろと頭を動かして、岩棚《いわだな》の下をのぞいたが、なにも見えなかった。崖《がけ》の斜面《しゃめん》には、ところどころ、いまエリンたちがいるような岩棚があり、薄青《うすあお》い闇《やみ》の中に、灌木《かんぼく》の茂《しげ》みが黒々と見えるだけだ。すこし下のほうには、水かさが増したときに打ちあげられたのだろう、倒木《とうぼく》が何本か転《ころ》がっている岩棚もあった。
しかし、風が吹《ふ》くたびに、間違《まちが》いようのない闘蛇の匂いが漂《ただよ》ってくる。
ふと、目の端《はし》でなにかが動いたような気がした。そちらに目をやって、エリンは、はっと身体《からだ》をこわばらせた。
倒木《とうぼく》が、かすかに……だが、たしかに、動いている。
背筋《せすじ》が、すうっと冷《つめ》たくなった。
倒木ではない。 ──あれは、闘蛇だ。三頭もいる。……なにを狙《ねら》っているのだろう?
闘蛇がじりじりと近づいていく先には、灌木《かんぼく》の薮《やぶ》のようなものがあった。目を凝《こ》らして見つめると、その薮の中に、なにか動くものが見えてきた。
(なんだろう? ……獣《けもの》? それとも、鳥の雛《ひな》かしら?)
鳥の雛のようだった。あれは、きっと鳥の巣《す》なのだろう。
そう思ったとき、エリンは奇妙《きみょう》なことに気づいた。
闘蛇《とうだ》は戦士を乗せて泳げるほど巨大《きょだい》な蛇《へび》だ。またがったことがあるから、闘蛇の頭が、自分の身体《からだ》と同じくらい大きいことは、よく知っている。
それなのに、あの雛《ひな》は、闘蛇の頭より、ずっと大きい………。
そんなに大きな鳥が、この世にいるのだろうか? あれが雛でなくて、大人の鳥だとしても、自分の身体よりも大きな鳥なんて、見たことがない。
それに、やはり、あれは雛のようだった。ときおり翼《つばさ》を広げるような動作をするが、動き方がぎごちない。
親鳥はどこにいるのだろう? 闘蛇は、もうずいぶんと雛に近づいている。もうちょっと近づけば、あとは一気に雛にとびかかり、頭から食いちぎってしまうだろう。
エリンは顔をゆがめた。雛がかわいそうだった。生まれたばかりなのに、食い殺されるなんて……。
なんとかしてやりたいけれど、石を投げたくらいでは、闘蛇をとめることなどできないのは、骨身に泌《し》みて知っていた。
闘蛇《とうだ》たちが、いっせいに鎌首《かまくび》をもたげて身をたわめ、獲物《えもの》にとびかかる姿勢《しせい》をとった。
(食われる……!)
思わず目をつぶった、その瞬間《しゅんかん》、虚空《こくう》から、ピーッと鋭《するど》い笛《ふえ》の音が鳴《な》り響《ひび》いた。
はじかれたようにエリンは顔をあげ、笛の音が聞こえたほうを見た。
天はまだ深い群青色《ぐんじょういろ》だったが、朝日を背にした山の輪郭《りんかく》は、淡《あわ》い金色に浮《う》かびあがっている。その淡い光の中から黒い点が湧《わ》きだしたかと思うと、翼《つばさ》を広げた巨大《きょだい》なものが天を滑空《かっくう》し、みるみる頭上に迫《せま》ってきた。
複雑《ふくざつ》な抑揚《よくよう》をつけた、指笛《ゆびぶえ》に似《に》た鋭い音を発しながら、それがエリンたちの上にさしかかると、あたりが一瞬《いっしゅん》暗くなった。
それは、鳥ではなかった。
目を閉じるのも、息をするのも忘《わす》れて、エリンは頭上を通り過《す》ぎていくものを、目に焼きつけた。
岩棚《いわだな》をすっぽりおおうほど巨大な翼《つばさ》と白銀に輝《かがや》く針のような体毛《たいもう》、狼《おおかみ》のように精悍《せいかん》な顔、鋭《するど》い爪《つめ》を持った大きな脚《あし》……。
翼《つばさ》が起こした風が毛布を吹《ふ》き飛《と》ばし、エリンはあわてて、毛布をつかんだ。
宙をなめらかに滑《すべ》り、その翼ある獣《けもの》は、闘蛇《とうだ》の上に舞《ま》いおりていく。
闘蛇を見下ろして、エリンは驚《おどろ》いた。
いつのまにか闘蛇は巣《す》から頭をそむけ、まるで、我《わ》が身《み》を食ってくださいというように身体《からだ》を曲ま《》げて、腹を上に向けていたのだ。
それは、奇妙《きみょう》な狩《か》りだった。
翼《つばさ》のある獣《けもの》が襲《おそ》いかかっても、闘蛇《とうだ》は鎌首《かまくび》をもたげもしなかった。鷲《わし》に食われる蛇《へび》のように、闘蛇が軽々とつかみあげられ、噛《か》み裂《さ》かれていく。
矢も刺《さ》さらぬ硬《かた》い闘蛇の鱗《うろこ》を、翼のある獣は、やわらかい皮を裂《さ》くように噛《か》みちぎった。三頭の闘蛇が、あっというまにばらばらにされ、食われていく。
朝の光が山の縁《ふち》から射《さ》し、翼のある獣《けもの》を白銀に浮《う》かびあがらせた。
供犠《くぎ》の獣を食らう、畏《おそ》ろしい神のような、美しい獣の姿から、エリンは目を離《はな》すことができなかった。
(あの獣の鳴《な》き声は……)
耳の奥《おく》に焼きついている母の指笛《ゆびぶえ》の音と、よく似《に》ていた。母が唇《くちびる》に指をあて、高く吹《ふ》き鳴《な》らした、あの指笛の音に。
なぜ、闘蛇はあの音にあんなふうに反応《はんのう》するのだろう7 自分を支配《しはい》する音なのに、なぜ、耳の蓋《ふた》を閉《と》じないのだろう? それとも、耳の蓋を閉じても、あの音は、開いているロを通して、聞こえるのだろうか……?
闘蛇《とうだ》を食いおわった獣《けもの》は、まるで毛づくろいをする猫《ねこ》のように、血で汚《よご》れた鼻面《はなづら》を胸もとにこすりながら、翼《つばさ》をたたんだ。
ロン、ロン、ロン……と、竪琴《たてごと》の弦《げん》をはじいているような音が風に乗《の》って聞こえてきた。
雛《ひな》が、獣《けもの》に向かって小さな翼《つばさ》を広げ、甘《あま》えるような仕草《しぐさ》をしながら、その奇妙《きみょう》な音をたてているのだ。
獣はそれを聞くや、ロ、ロロン、ロロンと、雛がたてたのとよく似た、竪琴の弦を爪弾《つまび》くような音をたてながら、歩いて雛のもとへ行き、口を開いて、雛《ひな》に餌《えさ》を与《あた》えはじめた。
翼《つばさ》で慈《いつく》しむように雛を抱《だ》きこみ、餌を与えている仕草は、闘蛇《とうだ》を引《ひ》き裂《さ》いていた姿からは想像《そうぞう》もつかぬ、やさしさに満ちていた。
背後で、ジョウンがゆっくりと身体《からだ》を起こした。
「……おじさん」
エリンがささやくと、ジョウンはうなずいて、そっと崖《がけ》の下をのぞいた。
「野生《やせい》の王獣《おうじゅう》だ……」
エリンは獣《けもの》を見つめながら、呆然《ぼうぜん》とつぶやいた。
「あれが……」
神々が真王《ヨジェ》に王権を授《さず》ける印として、天界から遣《つか》わしたという、聖《せい》なる獣。
真王《ヨジェ》の庇護《ひご》のもとで、多くの王獣が大切に育《そだ》てられていると聞いたことがある。万が一にもその数が減《へ》ることがあれば、王国に災《わざわ》いが訪《おとず》れるのだと。
「そうだ。あれが王獣だよ。おれは、王都で王獣を見たことがある。……だが、まさか、野生《やせい》の王獣《おうじゅう》を見ることができるとはな……」
ジョウンは、ささやいた。
「王獣《おうじゅう》は、稀少《きしょう》な獣《けもの》だ。一度に一頭しか子を産《う》まないので、ああして、野に生きている王獣の数は、減《へ》る一方だと、聞いたことがある。
だが、真王《ヨジェ》の命を受けて育《そだ》てられている王獣は、なぜか、子を産《う》まない。
王族が誕生《たんじょう》したときなどに、神の祝福《しゅくふく》の印として王宮の庭に放《はな》たれる王獣の数を維持《いじ》するためには、野生の王獣の雛《ひな》を探《さが》して、連れてくるのだそうだ」
そう言って、ジョウンは、ため息をついた。
「……王獣|捕獲者《ほかくしゃ》は、いったい、どうやって、あの恐《おそ》ろしい母親から、子を奪《うば》ってくるのだろうなあ」
昼には、ジョウンはかなり動けるようになった。
崖《がけ》は垂直《すいちょく》ではなく、傾斜《けいしゃ》はきついが、斜面《しゃめん》になっているので、縄《なわ》を伝って一歩一歩|慎重《しんちょう》に登れば、なんとか登ることができた。エリンが先に足場《あしば》を見つけながら登り、ジョウンはその足場に足をおきながら、ゆっくり登った。崖の上に辿《たど》りついたときは、身体《からだ》がふるえるほどの安堵感《あんどかん》に包《つつ》まれた。
ほっとした反動《はんどう》の、深い虚脱感《きょだつかん》を感じながら、二人は、荷物をまとめ、黙々《もくもく》と帰途《きと》についた。
細い獣道《けものみち》を歩きながら、エリンはずっと王獣《おうじゅう》のことを考えていた。
日の光をはじいて白銀に輝《かがや》いていた姿。そして、あの指笛《ゆびぶえ》の音のような鳴《な》き声。
(王獣は、あの音で、闘蛇《とうだ》を動けなくした……)
闘蛇衆が音無し笛で、闘蛇を縛《しば》るように、王獣は鳴《な》き声で闘蛇を縛れるのだろうか。
そう思ってから、エリンは心の中で首をふった。
(……ちがう。あれとは、ちがうわ)
音無し笛を吹《ふ》かれると闘蛇は硬直《こうちょく》するけれど、あんなふうに腹を上にして無抵抗《むていこう》になったりはしない。
目の奥《おく》に、母が指笛《ゆびぶえ》を吹《ふ》いたときの光景《こうけい》がよみがえってきた。
あのとき、闘蛇はいっせいに動きをとめ、まるで猟犬《りょうけん》が猟師《りょうし》を見るように、従順《じゅうじゅん》な仕草《しぐさ》で母に注目《ちゅうもく》した。そして、あたかも母の命令に従《したが》うかのように泳いできて、エリンを背に乗せられても抵抗《ていこう》しなかった。
母は、指笛で闘蛇を操《あやつ》ったのだ……。
王獣がやったのも、それだ。鳴《な》き声で、闘蛇を操ったのだ。
あの音は闘蛇の言葉なのだろうか。そういえば、(牙《きば》)が死んだとき、闘蛇たちが長々と吹《ふ》いた弔《とむら》いの笛《ふえ》の音も、指笛によく似《に》た音だった。
母も王獣《おうじゅう》も、指笛《ゆびぶえ》の音に複雑《ふくざつ》な抑揚《よくよう》をつけていた。………あれが闘蛇《とうだ》の言葉なら、同じ抑揚で指笛を吹けば、闘蛇を従《したが》わせることができるのだろうか?
うなじから背に、さあっと鳥肌《とりはだ》が立った。
(指笛を吹いて、闘蛇が従えば……おかあさんと、同じことができれば……わたしは、闘蛇を操《あやつ》れる……?)
木の根につまずいて転びそうになり、エリンは、はっと我に返った。
「……大丈夫《だいじょうぶ》か?」
ジョウンが、ふり返った。
エリンは、うなずいた。ジョウンこそ、顔色が悪《わる》く、苦しそうだった。
「おじさん、足、痛《いた》い?」
ジョウンは苦笑《くしょう》した。
「足は痛《いた》いし、腰《こし》も痛い。顎《あご》も痛い。……痛いところだらけだが、山の中で夜を越《こ》すのは、こりごりだ。今夜は、暖《あたた》かい夜具《やぐ》にくるまって、ぐっすり寝《ね》たいよ」
前を向いて歩きだしたジョウンのあとを、ゆっくり進みながら、エリンはまた、母のことを思った。
ラゴウの沼《ぬま》の水草の匂《にお》い。冷《つめ》たい水の中で抱《だ》きしめてくれた母の、ひんやりとした頬《ほお》。
寂《さび》しくなると、懐《ふところ》からとりだして見るようにして、くり返し思いだしてきた、あのひとときの記憶《きおく》のなかには、ずっとエリンを悩《なや》ませてきたことがあった。
母は指笛《ゆびぶえ》を吹《ふ》くまえに、苦《くる》しげに顔をゆがめて迷《まよ》っていた。そして、最後に、迷いをふりきるようにして、自分はこれから大罪《たいざい》を犯《おか》す、と言ったのだ。
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──エリン、おかあさんがこれからすることを、けっしてまねしてはいけないよ。おかあさんは、大罪を犯すのだから。
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そして、母は指笛を吹き、闘蛇《とうだ》を操《あやつ》って、自分を助けてくれた。
けっしてまねをしてはいけない大罪とは、なんだったのだろう。母のまねをして指笛《ゆびぶえ》を吹《ふ》き、闘蛇《とうだ》を操《あやつ》ってはいけないという意味だったのだろうか。
でも、なぜ? なぜ、あれが大罪なのだろう?
エリンの命を助けるためでも、母は明らかに、指笛を吹くのをためらったのだ……。そう思うと、苦《にが》い痛《いた》みが胸に広がるのを抑《おさ》えられなかった。
(……最後には、おかあさんは、わたしを助けることを、選《えら》んでくれた)
でも、母は、たとえつかのまでも、エリンを助けるために、あの指笛を吹くことをためらったのだ。母にとっては、あれは、それほどの大罪だったのだ…‥。
そう思うたびに、心の奥底《おくそこ》に押《お》しこめて見ないようにしている暗い疑念《ぎねん》が、頭をもたげてくる。
母は闘蛇《とうだ》を操《あやつ》ることができた。 ──それなら、自分自身を救《すく》うことも、できたのではなかろうか。
そうだとしたら、なぜ、母は、あのとき、自らの身を闘蛇に捧《ささ》げてしまったのだろう? 母は、あのとき、エリンと一緒《いっしょ》に生きてくれることより、死を選《えら》んだのだろうか……?
そんなことはないと思いたかった。けれど、押《お》しこめても、押しこめても、その疑念《ぎねん》は心から消えていかなかった。
エリンは、ため息をついた。
母に訊《き》いてみたいことが、山ほどある。母はたくさんの謎《なぞ》の答えを教えてくれぬまま、逝《い》ってしまった。
母が残していった言葉の意味を───母がなぜああいうことをしたのかを知りたかった。それができたら、きっと、冷《つめ》たい疑《うたが》いの欠片《かけら》に邪魔《じゃま》されることなく、まっすぐに母を思うことができる……。
目の奥《おく》に、雛《ひな》を慈《いつく》しむように抱《だ》いていた、美しい獣《けもの》の姿が浮かんだ。
あの王獣《おうじゅう》は我《わ》が子《こ》を救《すく》うために闘蛇を操《あやつ》ることを、天の上で、ためらっただろうか。
枝の隙間《すきま》から見える、淡《あわ》い黄昏《たそがれ》の色に染まりはじめた天を見上げながら、エリンはそんなことを思っていた。
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[#地付き]1 神速《しんそく》のイアル
窓から斜《なな》めに射《さ》しこんでいる光が、いつのまにか淡《あわ》い蜜色《みついろ》に変わっていた。
イアルは、紙やすりを床《ゆか》におき、いままで、なでるように慎重《しんちょう》に紙やすりをかけてきた引き出しの上部に、そっと指を滑《すべ》らせてみた。……指先《ゆびさき》から、これでよい、という感覚《かんかく》が伝わってきた。
手にしているその最後の一段を、イアルはゆっくりと箪笥《たんす》の本体に差《さ》しこんだ。まるで吸《す》いつくように引き出しは収《おさ》まり、手を触《ふ》れてもいないのに、下の一段が、ふわっと前に押《お》しだされた。
イアルは微笑《ほほえ》んだ。──完成《かんせい》だった。
立ちあがって、壁《かべ》に立てかけてある箒《ほうき》をとり、床の木屑《きくず》を片づけはじめたとき、通用口《つうようぐち》の戸を叩《たた》く音が聞こえてきた。
「……指物師《さしものし》のヤントクでございます。ご注文《ちゅうもん》の品を持ってまいりました」
聞き慣《な》れた乳兄弟《ちきょうだい》のドラ声だったが、イアルは戸の前に立っても、すぐには戸に手をかけず、外の気配《けはい》を探《さぐ》った。それから、ゆっくりと戸をあけた。
血色のよい大男が、腕《うで》に木材を抱《かか》えて入ってきた。男が中に入ると、イアルはしっかりと戸を閉めて、閂《かんぬき》をかけた。
「相変《あいかわ》わらずの用心深さだなあ。近くには、誰《だれ》もいなかったぞ」
ヤントクは太い眉《まゆ》をあげて、からかうように言ったが、イアルはそれには答えず、乳兄弟《ちきょうだい》を奥《おく》の部屋に通した。
ヤントクは、できあがったばかりの箪笥《たんす》を見るや、床《ゆか》に木材をおき、そっと箪笥の前に膝《ひざ》をついて、慣《な》れた手つきで、その出来具合《できぐあい》を確かめはじめた。
やがて、ヤントクは、その姿勢《しせい》のまま、ふり向いて、にやっと笑った。
「………いい出来だ。おれが作ったと言っても、皆《みな》、信じるだろうよ。本職《ほんしょく》でもないのに、たいしたもんだ」
イアルは、おだやかな声で言った。
「道楽《どうらく》だからな。気がすむまで時間をかけられるから、どうにか格好《かっこう》がつくんだろう」
ヤントクは箪笥《たんす》に手をおいたまま立ちあがった。
「まあ、そういうことにしておこう。でないと、本職のおれは、立《た》つ瀬《せ》がない」
箪笥をなでながら、ヤントクは、片方の眉《まゆ》をあげた。
「なあ、ほんとうに金はいらないのか? これだけの箪笥なら、大粒金《おおつぶきん》十枚でも売れるぞ。材料《ざいりょう》と引《ひ》き換《か》えじゃあ、大損《おおぞん》だろうが」
イアルは首をふった。
「……金が欲《ほ》しくて作っているわけじゃない。おれは、作るのが好きだから、作っているだけだ。楽しんだうえに、おまえの利益《りえき》にもなるなら、これ以上のことはないさ」
ヤントクは眉《まゆ》のあたりをくもらせたまま、乳兄弟《ちきょうだい》を見つめた。
がらんとした部屋の中に、箪笥《たんす》と道具類だけがおかれている。細かい埃《ほこり》がゆっくりと舞《ま》う、黄昏《たそがれ》の光が照《て》らしている部屋の中は、まるで独房《どくぼう》のようだった。
目の前にいる乳兄弟が、ヤントクは、哀《あわ》れでならなかった。
(ほかに並びなき|堅き楯《セ・ザン》(王族の護衛士《ごえいし》)を哀れに思うなんて、おれぐらいのものだろうがな……)
イアルは、隣家《りんか》の三男坊《さんなんぼう》だった。
王都でも、貧しい職人《しょくにん》ばかりが暮《く》らすサッカラの裏通りのあばら家で、二人は兄弟のようにして育った。
イアルの母は身体《からだ》が弱い人で、生まれた子は次々と死んで、生き残ったのはイアルと、イアルの妹だけだった。イアルを産んだとき、彼女は乳《ちち》が出ず、ちょうどヤントクを産《う》んだばかりだった母が、両腕《りょううで》に赤《あか》ん坊《ぼう》を抱《だ》いて育てたのである。
イアルの父は腕《うで》のよい指物師《さしものし》で、寡黙《かもく》だが親方から頼《たよ》りにされている男だった。あのまま、なにごともなく時が過ぎていれば、イアルは父の跡《あと》を継《つ》いで指物師になり、いまごろはヤントクと同じように嫁《よめ》をもらい、子を育《そだ》てて、暮《く》らしていたことだろう。
イアルの人生を、根底《こんてい》から変えてしまったあの日のことを、ヤントクは、昨日のことのように覚えている。
女たちが朝のあいだの仕事を終えた昼すこしまえ、イアルとヤントクは、母親から手渡《てわた》された弁当《べんとう》を、父親たちが働《はたら》いている現場に持っていくために家を出た。
二人とも八|歳《さい》で遊びたい盛《さか》りだったが、父親たちの弁当を届《とど》けるのは大事な仕事だったから、寄り道もせずに、そのころ父親たちが家を建《た》てていた、富裕《ふゆう》な商人たちが暮《く》らす西地区へ向かった。イアルの父とヤントクの父は室内作り付けの家具を作る指物師《さしものし》として、同じ現場で働いていたのだ。
よく晴れて、暑い日だった。青空に、もくもくと入道雲《にゅうどうぐも》が湧《わ》きあがり、西地区のお屋敷《やしき》の白壁《しらかべ》に、街路樹《がいろじゅ》が濃《こ》い影《かげ》を落としていた。
角をひとつ曲がり、父たちが建てている大きなお屋敷《やしき》が見えてきたとき、ふいに地面がぐうんと持ちあがった。地の底で巨大《きょだい》な獣《けもの》が身ぶるいしたように、足もとがゆっさゆっさとゆれはじめ、二人は足をすくわれて、地面にひっくり返った。
四《よ》つん這《ば》いになって顔をあげた二人の目の前で、父たちが建た《》てている屋敷が傾《かし》ぎ、石と木がこすれる悲鳴《ひめい》のような音をたてながら、ぐしゃりと崩《くず》れた。
土煙《つちけむり》がもうもうと舞《ま》いあがって、建物の残骸《ざんがい》を包《つつ》みこんだ。
二人が正気《しょうき》にもどって、現場に向かって駆《か》けだしたのは、土埃《つちぼこり》がおさまりはじめたころだった。埃《ほこり》が鼻にも口にも入り、咳《せ》きこみながら、二人はくるったように父の名を呼んだ。
幸いヤントクの父は庭にいて、難《なん》を免《まぬか》れていた。全身埃にまみれ、灰をかぶったような姿だったが、かすり傷《きず》を負《お》っただけだった。
だが、イアルの父は瓦礫《がれき》の下敷《したじ》きになっていた。埃にまみれた顔のなかで、鼻とロから噴《ふ》きだしている赤い血の色だけが、異様《いよう》にはっきりと見えた。
凍《こお》りついたように、父の姿を見ていたイアルは、ふいに、
「医術師《いじゅつし》を呼《よ》んでくる!」
と叫《さけ》ぶや、父に背を向けて、走りはじめた。
あわてて、ヤントクもあとを追ったが、イアルは背に火がついたような、すさまじい走り方で通りを駆《か》けぬけ、まったく追いつけなかった。
ぐんぐんあいだが開いていったが、ヤントクは、それでも、なんとかイアルを見失《みうし》うことなく大通りまでは、ついていった。
イアルの小さな姿が、大通りにさしかかったときだった。
すごい勢《いきお》いで走ってきた馬車の曳《ひ》き馬が、地震《じしん》で割《わ》れ目ができていた路面《ろめん》に蹄《ひづめ》をとられ、馬車をひきずって横転《おうてん》した。反対側から走ってきていた馬車の曳《ひ》き馬が、横転している馬車にぶつかって乗りあげ、その馬車も地響《じひび》きをたてて横転していく。
ヤントクは凍《こお》りついた。
倒《たお》れていく馬車の真下に、イアルがいたからだ。
軋《きし》みながら倒れてくる馬車の下で、イアルは右足で地面を蹴《け》り、前のめりになって身体《からだ》を傾《かたむ》けた。馬具が絡《から》み、車体と車体が絡んでいるなかをイアルはくぐりぬけ、痙攣《けいれん》して脚《あし》を蹴りあげている馬の腹によじのぼっていく。
小さなその姿が、ぽーんと馬車の向こう側にとびおりて見えなくなるまで、ヤントクは呆然《ぼうぜん》と見つめていた。
そのイアルの信じられない身のこなしを見ていたのは、ヤントクだけではなかった。
偶然《ぐうぜん》、その場に居合《いあ》わせた王宮の|堅き楯《セ・ザン》がイアルの動きに感銘《かんめい》を受け、根気《こんき》よくイアルを捜《さが》してまわり、五日後にイアルの家にやってきたのである。
イアルの家は、葬儀《そうぎ》の最中だった。
働《はたら》き手を失い、乳飲《ちの》み子の娘《むすめ》と八つの息子《むすこ》を抱《かか》えて呆然《ぼうぜん》としていたイアルの母に、上等の衣《ころも》をまとった|堅き楯《セ・ザン》が救《すく》いの手を差《さ》しのべた。イアルを|堅き楯《セ・ザン》|見習《みなら》いとして差しだせば、一生食べることに困《こま》らぬ大金を支払《しはら》うと。
|堅き楯《セ・ザン》は、真王《ヨジェ》とその子孫《しそん》を守るためだけに生きる、いわば、生きた楯《たて》だ。いかなる弱みも持たぬように、妻帯《さいたい》を許《ゆる》されず、親兄弟との絆《きずな》も完全に断《た》たねばならない。
|堅き楯《セ・ザン》は生涯《しょうがい》を独《ひと》り身で通し、いざというときは真王《ヨジェ》とその子孫の楯となって死ぬことを義務《ぎむ》づけられている孤独《こどく》な武人《ぶじん》たちだった。
その代わり、どのような身分で生まれた者でも、|堅き楯《セ・ザン》になれば、貴族《きぞく》と同じ扱《あつか》いを受けるし、最高の忠義者《ちゅうぎしゃ》としての栄誉《えいよ》を与《あた》えられる。そして、息子を|堅き楯《セ・ザン》として差しだした者も、大金を与えられるのだ。
イアルの母には、選択肢《せんたくし》は残されていなかった。
うつむいて唇《くちびる》を噛《か》みしめ、生家《せいか》を出ていったイアルの姿を、ヤントクはいまも、ありありと思いだせる。ヤントクは大声で泣いたが、イアルは泣かなかった。|堅き楯《セ・ザン》に手を引かれ、ふり向きもせずに、サッカラの裏通りから去っていった。
ヤントクがイアルと再会《さいかい》したのは、それから十二年もたってからだ。
どうにか一人前の指物師《さしものし》になったヤントクは、そのころ父と一緒《いっしょ》に小さな店を構《かま》えていた。その店に、ひょっこりイアルが顔を出したのである。
応対《おうたい》に出た職人《しょくにん》がヤントクであることに気づくと、イアルは、こわばった表情《ひょうじょう》になり、店を出ようとした。すんでのところで、ヤントクはイアルの腕《うで》をつかまえた。
幸い、そのとき父は店におらず、見習《みなら》いの職人たちも昼餉《ひるげ》に出ていた。おまえと乳兄弟《ちきょうだい》であることは、誰《だれ》にも明かさないから、どうか行かないでくれと、ヤントクは頼《たの》みこんだ。イアルの家族がどうしているか、教えてやるからと言って。
その日から、イアルとの密《ひそ》かな交友《こうゆう》が始まったのだった。
イアルは、しかし、ヤントクの言葉にほだされたことを後悔《こうかい》しているようで、二人が親しいことが外に漏《も》れぬよう、常に警戒《けいかい》を怠《おこた》らなかった。
その用心ぶりをヤントクが椰輸《やゆ》しても、イアルは怒《おこ》らなかった。
ただ、かすかな苦笑《くしょう》を浮《う》かべて、つぶやくように言った。
「おれが生きている世界は、人の情《なさ》けを、つけこむ隙《すき》と見る世界だ。
おまえが、おれと親しいとわかれば、おまえや、おまえの家族の命を、おれとの取引《とりひき》に使おうとするやつが現れる。家族の幸せが大切なら、必要《ひつよう》以上に、おれに関わるな」
イアルが生きてきた十二年は、自分の十二年とはまったくちがうのだろう。目もとやロもとにかつての面影《おもかげ》をかすかに残しながらも、イアルはときに、研《と》ぎ澄《す》まされた刃《やいば》のような冷徹《れいてつ》な気配《けはい》を漂《ただよ》わせることがあった。
イアルは、木屑《きくず》だらけの普段着《ふだんぎ》を脱《ぬ》ぎ、手早《てばや》くたたんで壁際《かべぎわ》においてから、ヤントクをふり返った。
「次の非番《ひばん》は、十日後だ。昼ごろに、とりにきてくれ。見習《みなら》いに手伝《てつだ》わせるのはいいが、くれぐれも、おれの名を見習いに告《つ》げるなよ」
「わかってるよ。何度も念《ねん》を押《お》すな。……おまえ、こんな時間から出仕《しゅっし》するのか?」
壁《かべ》にかかっている藍色《あいいろ》の職人服に手を伸《の》ばしながら、イアルはうなずいた。
イアルは王宮に入るまで護衛士《ごえいし》の正装《せいそう》はまとわない。職人風の衣《ころも》をまとい、深笠《ふかがさ》をかぶって、王宮に出入りする職人たちに交《ま》じって出仕するのである。
黙々《もくもく》と身支度《みじたく》をするイアルに背を向けて部屋を出ようとしたとき、イアルの声が聞こえた。
「気をつけて帰れよ」
ヤントクは苦笑《くしょう》した。
「ほいよ」
*
雲にひと筋《すじ》、夕暮れの色を残して、空は薄青《うすあお》い宵《よい》の色へと変わりつつあった。
魚を焼く匂《にお》いが、煙《けむり》とともに漂《ただよ》ってくる路地《ろじ》を抜《ぬ》けて、イアルは大通りへ出た。
仕事を終えて家路《いえじ》についた人々や、一杯《いっぱい》やっていこうと、いそいそと酒場が並《なら》ぶラサン街《がい》に向かう男たちで、通りはごったがえしていた。
大通りと路地が交わるところへさしかかったとき、怒声《どせい》が聞こえてきた。
薄暗《うすぐら》い路地の酒樽《さかだる》の陰《かげ》に、数人の男がかたまって、怒鳴《どな》りながら誰《だれ》かを蹴《け》っている。蹴られているのは、まだ、十五、六に見える少年だった。路地に転《ころ》がって身体《からだ》を丸め、腹を蹴られないようにしている。
イアルは顔をくもらせたが、ぎゅっと唇《くちびる》を引き結《むす》ぶと、蹴られている少年から目を逸《そ》らし、また、歩きはじめた。
そのとき、雑踏《ざっとう》を縫《ぬ》うようにして、後ろから聞き覚《おぼ》えがある足音が近づいてきた。イアルは歩調《ほちょう》をゆるめず、歩きつづけた。
「……おい」
肩《かた》に手をかけられて、イアルはようやく足をとめた。
イアルと同じように職人《しょくにん》風の衣《ころも》をまとった男が、ひょいっと眉《まゆ》をあげてみせた。長身で肩幅《かたはば》が広い、逞《たくま》しい男だった。衣から、かすかに商売女の残《のこ》り香《が》が漂《ただよ》ってきた。
「冷たいやつだなあ。見て見ぬふりか」
イアルは黙《だま》って、その男───同僚《どうりょう》のカイルを見つめた。
カイルは舌打《したう》ちした。
「そうか。なら、助太刀《すけだち》はいらん」
くるりと背を向けたカイルの肘《ひじ》を、イアルはつかんだ。
「……やめろ、カイル」
カイルはふり返り、じろっとイアルを睨《にら》みつけた。
「いまは非番《ひばん》だ。とめるな」
イアルは首をふった。
「おれたちに、非番はない」
カイルの頬《ほお》に血がのぼり、顎《あご》の筋肉が盛《も》りあがった。
イアルは、言葉をついだ。
「明日には大公《アルハン》の一行が王都に入る。なにが起きても不思議《ふしぎ》じゃない。オッサルのことを忘れたわけではないだろう。それでも行くというなら、好きにするがいい」
イアルが肘《ひじ》を放《はな》すと、カイルは苛立《いらだ》たしげに腕《うで》をふった。
「オッサルなんぞと一緒《いっしょ》にするな。ゴロツキに化《ば》けた刺客《しかく》にやられるほど、やわじゃない」
吐《は》きだすように、そう言いながらも、カイルは路地《ろじ》に背を向けて歩きはじめた。
二人は無言で、王宮へと通じる、なだらかな上り坂を登っていった。
王宮を包《つつ》みこんでいる森は、新芽《しんめ》のやわらかな緑に包まれていた。夕暮《ゆうぐ》れの光が、芽吹《めぶ》いたばかりの枝の先に躍《おど》っている。
歩きながら、カイルが、ぽつっとつぶやいた。
「いやな生き方だな」
それを聞くと、イアルは足をとめた。先に行きかけて、カイルはふり返った。
「なんだ?」
いぶかしげに問いかけたカイルに、イアルは、低い声で言った。
「いやな生き方だと思うなら、誓《ちか》いを解《と》け。|堅き楯《セ・ザン》は、心に迷《まよ》いを抱《かか》えたまま全《まっと》うできる仕事じゃない」
「それは……」
言いかけたカイルの言葉にかぶせるように、イアルは続けた。
「そんな気持ちを抱えたまま、この職《しょく》にとどまる意味がどこにある。 ──つらいだけだろう」
カイルは、じっと、イアルを見つめた。
「おまえは、どうなんだ?」
イアルの目に、かすかに苦笑《くしょう》のようなものが浮かんだ。
「おれは……いまさら迷うには、人を殺しすぎた」
歩きはじめたイアルのあとを、カイルは無言で追った。
こんな言葉を、イアルのロから聞いたのは初めてだった。 ──前を行く友は、冬の木立《こだち》を思わせる物静かな男だ。職人《しょくにん》の服装《ふくそう》をまとっていれば、平凡《へいぼん》な職人にしか見えない。
いま、すれちがっていく人々は、この男が(神速《しんそく》のイアル)であろうとは夢にも思わないだろう。この物静かな男が、いったん護衛《ごえい》に入れば、敏捷《びんしょう》な武人《ぶじん》に変わるのだ。
イアルはたしかに、|堅き楯《セ・ザン》の誰《だれ》よりも多く人を殺している。……それは、誰よりも早く刺客《しかく》に気づき、ほかの者がなにごとかと目をあげたころには、刺客を射止《いと》めているからだ。
カイルはときどき、こいつは、頭の後ろにも目がついているのではないかと思うことがあった。まだ一人の刺客も手にかけたことのないカイルは、これまで、そういうイアルの才《さい》を、羨《うらや》ましく思ってきたのだ。
夕日に長く伸《の》びる木立の影《かげ》が、イアルの背をなでていく。その姿を見ながら、カイルは黙々《もくもく》と王宮への道を歩いていった。
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[#地付き]2 真王《ヨジェ》と大公《アルハン》
馬車を降《お》りると、そよ風が頬《ほお》をさすった。
風が吹《ふ》き渡《わた》ると、萌《も》えはじめたばかりの若芽《わかめ》が、さわさわと光をはじいていく。
王都の雑踏《ざっとう》がすぐ背後《はいご》に広がっているとは信じられぬほど静かな森が目の前に広がっている。どこにいるのか、しきりに鳥がさえずる声が聞こえた。
清浄《せいじょう》な森──真王《ヨジェ》の在《いま》す森。
やはり、この森には、神々《こうごう》しさを感じるなにかがある。ずっと森の奥《おく》、王宮へと至《いた》る白砂《はくしゃ》を敷《し》きつめた道に立ち、シュナンは額《ひたい》に両掌《りょうてのひら》をあてて深く礼《れい》をした。
父の咳払《せきばら》いの音で、シュナンは我《われ》に返った。
家臣《かしん》にかしずかれて、豪奢《ごうしゃ》な馬車から降《お》り立った大公《アルハン》は、むっつりとした顔を王宮のほうへ向けると、型どおりに礼をした。
ここからは、大公《アルハン》といえど、馬車に乗っていくことは許《ゆる》されない。己《おのれ》の足で歩いていかねばならない。
護衛士《ごえいし》に前後を守《まも》られながら、大公《アルハン》とシュナンは白砂《はくしゃ》を踏《ふ》んで歩きだした。
二人が歩きだすと、その後ろに控《ひか》えていた大|行列《ぎょうれつ》も動きだした。真王《ヨジェ》の誕生日《たんじょうび》を祝《いわ》うために、はるばる大公座市から運んできた金銀細工、錦《にしき》の織物、珊瑚《さんご》と夜光貝の飾《かざ》りを施《ほどこ》した水時計などの品々を担《かつ》ぐ人々の群《む》れが、ただ黙々《もくもく》と白砂の道を進んでいく。
ここまで大公《アルハン》に従《したが》ってきた武人《ぶじん》たちは、あとにとどまって、深く頭をさげ、一行が緑の森の奥《おく》へ消え去るのを見送った。
木漏《こも》れ日《び》がちらちらと白砂を光らせている道の先に、やがて、王宮が見えはじめた。
白木の巨木《きょぼく》で築《きづ》かれた御殿《ごてん》が、青瓦《あおがわら》の屋根つきの渡《わた》り廊下《ろうか》で結《むす》ばれ、はるか奥まで迷路《めいろ》のように広がっている。
真王《ヨジェ》の王宮には城壁《じょうへき》はなく、門もなく、門を守る兵もいない。
ここを訪《おとず》れるたびに、シュナンは思う。 ──ここは王の宮殿《きゅうでん》というより、神の座《いま》す社《やしろ》なのだと。
白木の円柱はきれいに磨《みがか》かれ、つやつやと光っていたが、御殿《ごてん》の造りにはなんの飾《かざ》りもなく、呆《あき》れるほどに質素《しっそ》だった。五十七年前に一度この御殿は焼失《しょうしつ》している。そのとき、建《た》てかえられているのに、ずいぶんと古びて見えた。
シュナンが生まれ育《そだ》った城は、この王宮の十倍以上の広さがあり、職人《しょくにん》たちが、その技量《ぎりょう》の限りを尽《つ》くした豪華《ごうか》な装飾《そうしょく》で飾《かざ》られている。深い堀《ほり》に囲《かこ》まれ、堅牢《けんろう》な城壁《じょうへき》には、常に多くの兵士が油断《ゆだん》なく詰《つ》めている。城門は天を突《つ》いて聳《そび》え立ち、敵をひるませるに足る堅牢《けんろう》さを見せつけている。
シュナンは前を行く父の背を見ながら、父の心中を思った。
この王宮がこうも無防備《むぼうび》でいられるのは、ひとえに我《われ》ら大公《アルハン》が代々、多大な犠牲《ぎせい》を払《はら》ってこの国をがっちりと守っているからだというのが、父の口癖《くちぐせ》だった。
真王《ヨジェ》の臣民《しんみん》どもは、我らを血で穢《けが》れたる武人《ぶじん》の成り上がりと思っているが、彼らが、近隣《きんりん》の国々から揉爛《じゅうりん》されずに、これまで平穏《へいおん》に暮《く》らしてこられたのは、我らのおかげなのだと。
あえて穢《けが》れたる闘蛇《とうだ》を操《あやつ》り、身を血で汚《よご》して、自分たちはこの国を守り、富《と》ませてきた。そのおかげで、真王《ヨジェ》は、その手を血で汚すことなく、こうして清浄《せいじょう》な森の奥《おく》に鎮座《ちんざ》していられるのだと。
それが事実《じじつ》であることは、シュナンもよく知っている。
はるか太古の昔、真王《ヨジェ》の祖《そ》がこの地に現れたとき、この地にあった王国は、滅《ほろ》びの淵《ふち》にあった。
王位を得た兄が、謀反《むほん》を恐《おそ》れて、弟と、弟を支持《しじ》していた家臣《かしん》たちを虐殺《ぎゃくさつ》したが、辛《から》くも難《なん》を逃《のが》れた弟の長子が成長し、貴族《きぞく》たちを率《ひき》いて父の仇《かたき》である王を襲《おそ》った。
両者の力は括抗《きっこう》して、容易《ようい》に決着はつかず、多くの民《たみ》をも巻きこんだ悲惨《ひさん》な戦《いくさ》の末に、王も、弟の長子も戦死してしまったのだという。
長い戦に土地は荒《あ》れ、人心も荒れはてていたとき、|神々の山脈《アフォン・ノア》の向こうから、真王《ヨジェ》の祖《そ》が、この地に降臨《こうりん》した。
屍《しかばね》が累々《るいるい》と転《ころ》がる広大な野を王祖《おうそ》が歩けば、その頭上には、けっして人に馴《な》れることのない王獣《おうじゅう》が、あたかも王祖を守護《しゅご》するかのようにはばたき、河に至れば闘蛇《とうだ》が頭《こうべ》を垂《た》れて、道を作ったという。
輝《かがや》く髪《かみ》と金色の瞳《ひとみ》を持つ丈《たけ》高き王祖ジェに、この地の人々は清らかな神の威容《いよう》を見た。そして、自分たちのところにとどまってくださるようにと、ひれ伏《ふ》して祈《いの》った。
彼らの願いを聞きとどけて、王祖《おうそ》はこの地にとどまった。王祖は、ばらばらになりかけていた貴族《きぞく》、職人《しょくにん》、商人、そして農民を母のように抱《いだ》き、国の礎《いしずえ》を築《きづ》き直したのである。
これが、リョザ神王国の始まりである。
長いあいだ、おだやかな時が過ぎたが、四代目の王の時代に、隣国《りんごく》のハジャンが、リョザ神王国に攻《せ》めこんできた。
王は殺生《せっしょう》を穢《けが》れとし、手向《てむか》かいをせず、敵に我《わ》が首を差しだそうとしたが、臣下《しんか》の一人が、それを押《お》しとどめた。
[#ここから2字下げ]
──王がお命を差さ《》しだしても、そのお心が、ハジャンに通ずることはございますまい。
ハジャンがこの国を征服《せいふく》すれば、苦《くる》しむのは民《たみ》でございます。
我《われ》、あえて穢《けが》れに身を落とし、これよりさき、王都に住むことなく、領外《りょうがい》にて生きまする。
どうか民を救《すく》うため、我に、神宝(闘蛇《とうだ》の笛《ふえ》)をお与《あた》えください。
[#ここで字下げ終わり]
王はこの臣下《しんか》の志《こころざし》を徳《とく》とし、神宝(闘蛇の笛)を彼に与えた。
臣下は、彼に従《したが》った男たちを率《ひき》いて大河アマスルに向かい、(闘蛇の笛)を用いて闘蛇に乗るや、河を泳ぎ、地を駆《か》けて、ハジャンの軍を撃《う》ち破《やぶ》った。
この臣下こそ、ヤマン・ハサル───シュナンの祖先《そせん》である。
ヤマン・ハサルは敵を撃ち破っても、穢れた身を王の前に出すことを忌《い》み、王に誓《ちか》った言葉どおり、山を越《こ》えて領外《りょうがい》に出た。
王は、ヤマン・ハサルの誠心に心を打たれた。
人の血で穢《けが》れた者は、死しても|神々の安らぐ世《アフォン・アルマ》へ行くことはかなわない。
しかし、それを知りながら、他者を守るために、あえて己《おのれ》の身を人の血で汚《よご》したヤマン・ハサルに、王は、穢れをぬぐう|禊の札《ラク・ラ》を与え、民《たみ》を救《すく》うために流す血であれば、穢《けが》れとはせず、死すれば清浄《せいじょう》なる光に包《つつ》まれて、|神々の安らぐ世《アフォン・アルマ》へと旅立てるように計《はか》らった。
また、王は彼に大公《アルハン》の称号《しょうごう》を与《あた》え、山向こうの土地を治《おさ》めることを許《ゆる》した。
王と大公《アルハン》の関係が軋《きし》みはじめたのは、ヤマン・ハサルの孫《まご》の時代である。
ヤマン・ハサルの孫、オシク・ハサルは、多くの闘蛇《とうだ》を育《そだ》て、闘蛇乗りを組織《そしき》することで、どの隣国《りんごく》よりも強力な兵力を育てあげた。そして、豊かな隣国を次々に攻《せ》め落とし、領土《りょうど》を広げ、富《とみ》を蓄《たくわ》えるようになった。
オシクは隣国をのみこむたびに、金銀宝石をはじめ、珍《めずら》しい品々を貢《みつ》ぎ物《もの》として王に贈《おく》ったが、王はそれを穢《けが》れたる宝と呼《よ》んで、けっして受けとらなかった。そして、オシクに、他国を攻《せ》めることをやめるように命じた。
オシクはこれに従《したが》わなかった。リョザ神王国をとりまいている国々は、虎視眈々《こしたんたん》と攻め入る隙《すき》を狙《ねら》っている。そうした国を平定し、争《あらそ》いを穢れとするリョザ神王国の理念《りねん》を広げることができて初めて、民《たみ》は真に安らぐのだと、彼は説《と》いた。そのうえ、領土が広がれば多様な産物《さんぶつ》が人々を潤《うるお》す。人が多くなれば、国は栄《さかえ》えるのだと。
王は、オシクの言葉を危《あや》うき理屈《りくつ》であると退《しりぞ》けたが、やがて、多くの民が、密《ひそ》かに山を越《こ》えて大公《アルハン》領へと移《うつ》り住んでいることに気づく。
広大な平野と、多くの河川《かせん》を持つ大公《アルハン》領は、もともと豊かな農地に恵《めぐ》まれた土地であったが、大公《アルハン》の政策《せいさく》のおかげで、多くの街《まち》が生まれ、交易《こうえき》が始まり、人々は豊かな暮《く》らしを営《いとな》むようになった。
それに比《くら》べて、山がちな王領では、年によって収穫《しゅうかく》の変動《へんどう》が激《はげ》しく、交易も盛《さか》んとはいえなかった。領下の民《たみ》のなかには飢《う》えている者さえいることを知ると、王は、とうとうオシクの言葉を認《みと》め、彼が貢《みつ》いでくるものを突《つ》き返《かえ》すことはせずに、民に与《あた》えるようになった。
いつしか、民は、兵を持たぬ王を、真王《ヨジェ》と呼《よ》ぶようになった。
国の清らかな魂《たましい》であり、神の加護《かご》をこの地にもたらしてくれる者として、いまも民は真王《ヨジェ》を崇《あが》めている。真王《ヨジェ》に、この国の臣民《しんみん》が納《おさ》めるものは、税《ぜい》ではなく供物《くもつ》と呼ばれているのも、このためである。
すべての裁《さば》きの最終判断《さいしゅうはんだん》も、中央と地方の行政《ぎょうせい》を司《つかさど》る行政|官僚《かんりょう》たちを束《たば》ね、政《まつりごと》を司っているのも真王《ヨジェ》であるが、その一方で、軍事面を一手に司っているのは大公《アルハン》であり、この国の富《とみ》を一手に握《にぎ》っているのもまた、大公《アルハン》であった。
このように権威《けんい》と権力《けんりょく》が二分してしまったこの国に、軋《きし》みが生じぬわけがない。
数世代にわたって大公《アルハン》の臣民《しんみん》として暮《く》らしてきた人々の胸の中には、血を流し、穢《けが》れをあえてかぶって、この国を支えているのは自分たちであるという思いがある。
それゆえ、真王《ヨジェ》領から派遣《はけん》されてくる官僚《かんりょう》たちや、貧《まず》しいくせに気位《きぐらい》ばかり高い真王《ヨジェ》領の臣民《しんみん》たちに、血で穢れ、征服《せいふく》した国々の民《たみ》と血を交《まじ》えた「大公領民《ワジャク》」として見下《みくだ》されることに、強い不満を感じていた。
この不満から生まれたのが、大公《アルハン》をリョザ神王国の王にと望《のぞ》む、(|血と穢れ《サイ・ガムル》)という集団《しゅうだん》である。彼らは真王《ヨジェ》こそ、国を分裂《ぶんれつ》させ、発展を滞《とどこお》らせている元凶《げんきょう》であると主張《しゅちょう》し、真王《ヨジェ》を弑《しい》し、大公《アルハン》を王位につけることが、リョザ神王国を繁栄《はんえい》に導《みちび》く道であると説《と》いた。
兵を持たなかった真王《ヨジェ》が、護衛士《ごえいし》に身辺《しんぺん》を守らせるようになったのは、今上《きんじょう》の真王《ヨジェ》ハルミヤの祖母にあたる当時の真王《ヨジェ》シイミヤが、(|血と穢れ《サイ・ガムル》)の放《はな》った刺客《しかく》に、暗殺《あんさつ》されかけたときだった。
あわやというときに、臣下《しんか》の一人が身を挺《てい》してシイミヤを守ったが、刺客たちは、なんと御殿《ごてん》に火を放《はな》ち、その娘《むすめ》ミイミヤが火にまかれて亡《な》くなってしまったのである。
シイミヤと、その孫娘でまだ三|歳《さい》であったハルミヤは、臣下の決死《けっし》の働きによって、なんとか命はとりとめたが、この出来事はリョザ神王国を根底《こんてい》からゆるがした。
権威《けんい》と権力《けんりょく》が分かれて、ときに軋《きし》みながらも、表面上はおだやかに互《たが》いを支《ささ》え合っていた時代は終わりを告《つ》げ、それまでは隠されていた歪《ひず》みが日の下に顕《あきら》かになったのである。
真王《ヨジェ》を弑《しい》しようとする者が現れたことに驚愕《きょうがく》したのは、真王《ヨジェ》領の臣民だけではなかった。大公《アルハン》領の臣民もまた動揺《どうよう》した。不当に見下《みくぢ》されることには不満を持っていても、彼らの多くは欲のない清らかな真王《ヨジェ》を神の子孫と思い、大切に思っていたからである。
真王《ヨジェ》シイミヤは、大公《アルハン》を王宮に召《め》し、己《おのれ》が欲《よく》のために人を殺し、国を欲《ほっ》するのであれば、|禊の札《ラク・ラ》をとりあげると告《つ》げた。
当時の大公《アルハン》ラマシクは恐《おそ》れおののいた。|禊ぎの札《ラク・ラ》によって穢《けが》れを祓《はら》われずに死んだ者は、地獄《ヒカラ》におちる。
それだけではない。真王《ヨジェ》への敬意《けいい》は、ラマシクの心の中にもあった。
ラマシクはすでに富《とみ》と権力《けんりょく》を手にしていた。王になることは、かすかな憧《あこが》れとしては心の中にあったかもしれぬが、神々との絆《きずな》がない身には、荷が重すぎる位でもあった。
大公《アルハン》ラマシクは自分には王になる野心《やしん》などないことを真王《ヨジェ》に誓《ちか》い、(|血と穢れ《サイ・ガムル》)は、自分がつくった組織《そしき》ではないと述《の》べた。そのような恐《おそ》ろしい不心得者《ふこころえもの》たちは、見つけしだい処刑《しょけい》すると明言した。
しかし、その後も(|血と穢れ《サイ・ガムル》)は消え去ることはなかった。
この国の底部には、ぼこぼこと腐敗《ふはい》した泡《あわ》を生じつづける沼《ぬま》があり、(|血と穢れ《サイ・ガムル》)への共感《きょうかん》は、その沼から絶《た》えず生まれつづける泡のようなものであった。彼らは火消し布の下をくぐりぬけて燃え広がる火のように、姿を見せぬ刺客《しかく》の群《む》れとして生きつづけたのである。
彼らは鉄の規律《きりつ》に支配《しはい》されており、誰が(|血と穢れ《サイ・ガムル》)の一員であるかは、たとえ殺されても漏《も》らさない。農民にも、商人にも、そして、真王《ヨジェ》の家臣《かしん》にさえ、この(|血と穢れ《サイ・ガムル》)が紛《まぎ》れこんでいると言われている。真王《ヨジェ》の命を狙《ねら》う刺客《しかく》の多様《たよう》さが、それを証明《しょうめい》していた。
彼らはまた、貴族《きぞく》や高級|官僚《かんりょう》たちにも、深く関《かか》わるようになっていた。
清廉《せいれん》であることを是《ぜ》とし、たとえ富《とみ》を増やせる機会《きかい》でも、穢《けが》れた動機《どうき》であると思えば、これを許《ゆる》さぬ真王《ヨジェ》の政《まつりごと》では甘《あま》い汁《しる》を吸えぬ者たちにとって、(|血と穢れ《サイ・ガムル》)は、都合《つごう》のよい刺客《しかく》だったからである。
|神々の山脈《アフォン・ノア》の向こうからやってきた、清き真王《ヨジェ》への畏敬《いけい》の念《ねん》だけでは、真王《ヨジェ》の命を守ることができぬ時代が訪《おとず》れていた。
シイミヤはそのことを悟《さと》り、臣下《しんか》の中から、武芸《ぶげい》に秀《ひい》で、忠義《ちゆうぎ》に厚い者を選んで、自分と次代の真王《ヨジェ》となる王女ハルミヤを守らせた。これが|堅き楯《セ・ザン》の始まりである。
シュナンは、その歴史《れきし》の果《は》てに自分が生まれたことも、自分が負《お》うべきものも、はっきりと自覚《じかく》していた。
長男である自分は、いずれ、大公《アルハン》の位を継《つ》がねばならない。
この旅に同行することを許されず、いま、故郷《こきょう》の城で、むっつりと留守居《るすい》をしているであろう弟の顔が、ふと脳裏《のうり》をよぎった。
たとえ言葉には出さずとも、弟のヌガンが、兄の家臣として生きねばならぬ己《おのれ》の人生を呪《のろ》っていることを、シュナンはよく知っていた。しかし、国の歪《ひず》みが、民《たみ》にまで感じられるようになっているこの時代、大公《アルハン》の位を継《つ》ぐということは、ヌガンが憧《あこが》れているようなことではない。
父が、長男の自分をどれほど大切に思い、なにを望《のぞ》んでいるかも、シュナンは知っていた。そして、父とは異《こと》なる夢を、心に抱《いだ》いていた。
出迎《でむか》えの侍女《じじょ》たちに導《みちび》かれて白木の渡《わた》り廊下《ろうか》を歩きながら、シュナンは、胸の高鳴《たかな》りを抑《おさ》えられなかった。
(あとすこしで、セィミヤ王女に御目通《おめどお》りできる。この一年のあいだに、お変わりになられただろうか……)
自分の顔が上気《じょうき》しているのを父に気取《けど》られぬことを祈《いの》りながら、大公の若き嫡男《ちゃくなん》シュナンは、目を期待《きたい》に輝《かがや》かせながら、薄暗《うすぐら》い王宮の奥《おく》へと導かれていった。
*
大公《アルハン》とその長子のシュナンが会食の間に通されたときには、真王《ヨジェ》ハルミヤと、その孫娘《まごむすめ》であるセィミヤ王女、そして、真王《ヨジェ》の甥《おい》ダミヤは、祝《いわ》いの料理を並《なら》べた大きな食卓《しょくたく》についていた。
真王《ヨジェ》とセィミヤ王女の背後《はいご》には、イアルたち|堅き楯《セ・ザン》が立ち、いざというときには二人の身を守れるよう、油断《ゆだん》なく目を光らせていた。
大公《アルハン》が入ってくると、真王《ヨジェ》とその一族は立ちあがり、にこやかな笑みを浮かべて、出迎《でむか》えた。
「よく来てくれました、大公《アルハン》、シュナン」
今日、六十の誕生日《たんじょうび》を迎《むか》えた真王《ヨジェ》は、髪《かみ》こそ白くなっているものの、背はすっと伸び、この年の老女とは思えぬ張《は》りのある顔で、微笑《ほほえ》んでいた。
大公《アルハン》とシュナンはひざまずき、額に両掌《りょうてのひら》をあてて、深くお辞儀《じぎ》をした。
「大いなる真王《ヨジェ》、ハルミヤさま。お健《すこ》やかで、お誕生日をお迎えになられましたこと、心よりお祝《いわ》い申しあげます」
頭をさげたまま、大公《アルハン》は太い声で祝いの言葉を述べた。
「ありがとう。………さあ、堅苦《かたくる》しい挨拶《あいさつ》はそこまでにして、席におつきなさい。料理を並《なら》べるのが、すこし早すぎてね。急いで食べなければ、冷《さ》めてしまうわ」
父とともに立ちあがったシュナンは、導《みちび》かれるままに、用意されていた席についた。
真王《ヨジェ》は格式《かくしき》ばった物言いをしない。誰《だれ》に対しても、親族《しんぞく》のように話しかける。それは、父とともに赴《おもむ》いたことのある、どの国の王族とも、まったく異《こと》なる態度《たいど》だった。
(……真王《ヨジェ》は、態度で威厳《いげん》を保《たも》つ必要がないのだ)
祖母のようにおだやかに微笑んでいても、真王《ヨジェ》の金に近い鳶色《とびいろ》の瞳《ひとみ》には、人々を自然にかしずかせるなにかがある。ことさらに権威《けんい》を装《よそお》う必要などないのだ。
すべての者に向かって大きく開いていながら、馴《な》れ馴れしく立ち入ることを許《ゆる》さないなにかは、孫娘《まごむすめ》のセィミヤ王女にも受《う》け継《つ》がれている。ただ、真王《ヨジェ》ほど人生の時を過ごしていないセィミヤには、どこか、羽化《うか》したばかりの蝶《ちょう》のような、初々《ういうい》しい不安定さがあった。
十六になったばかりの、セィミヤ王女の鳶色《とびいろ》の瞳《ひとみ》が、明るい笑《え》みをたたえて自分を見ているのに気づいて、シュナンは、動悸《どうき》が激《はげ》しくなるのを感じた。
真王《ヨジェ》は、やわらかい笑みを浮かべて、しげしげとシュナンを見た。
「まあ、なんと逞《たくま》しい若者になったこと、シュナン。あの幼《おさな》かったあなたが二十歳《はたち》ですものね。わたしが年をとるわけだわ。もう、お父上を、頭ひとつ越《こ》えてしまっているのね」
シュナンは緊張《きんちょう》しながら、答えた。
「ありがとうございます。三年まえに、父の丈《たけ》を越《こ》えました」
セィミヤ王女から、すこし離《はな》れて座《すわ》っている、真王《ヨジェ》の甥《おい》のダミヤが、微笑《ほほえ》んで声をかけてきた。
「成長したのは身体《からだ》だけではないようだ。セィミヤ王女を見る、そのまなざしも、大人の男になった証拠《しょうこ》だな」
世のすべてを明るい冗談《じょうだん》にしたがる、ダミヤらしい言葉だったが、それを聞いた瞬間《しゅんかん》、シュナンはもちろん、大公《アルハン》も、さっと顔をこわばらせた。
大公《アルハン》がダミヤを見据《みす》えて口を開こうとしたとき、セィミヤ王女が、よく通る声で言った。
「ご存《ぞん》じのとおり、おじさまはいつも、こうなの。気になさらないでね、シュナン。おじさまは、こういうくだらない、からかいがお好きなのよ。やめてほしいと、いつも言っているのだけれど、いっこうにあらためてくれないの」
セィミヤに睨《にら》みつけられて、ダミヤは微笑《ほほえ》み、眉《まゆ》をあげた。
真王《ヨジェ》は、母から娘《むすめ》へと伝えられていく位である。
それは、|神々の山脈《アフォン・ノア》の向こうから訪《おとず》れた王祖《おうそ》が、丈《たけ》高き女性であったことから生じた伝統《でんとう》であった。それゆえ、たとえ今上《きんじょう》の真王《ヨジェ》ハルミヤの弟の息子《むすこ》であっても、ダミヤには、真王《ヨジェ》を継《つ》ぐ可能性《かのうせい》はまったくなかった。
そのことをダミヤは、残念《ざんねん》に思う様子もなく、むしろ気楽な身分を楽しんでいるようだった。そろそろ三十に手が届《とど》く年であったが、まだ妻帯《さいたい》していない。
すらりと背が高く、美しい容姿の彼は大変な女好きで、貴族《きぞく》の未亡人《みぼうじん》から平民の娘《むすめ》にまで手を出していることで有名であったが、たとえば、その結《むす》びつきから娘が生まれていたとしても、セィミヤの娘以外が真王《ヨジェ》になることはありえない。
それはある意味で気軽な身分であり、ダミヤは、その気軽さをうまく活用して、まったく王宮から出ることのない真王《ヨジェ》に代わって国中を旅してまわり、大公《アルハン》の城にも、幾度《いくど》も訪《おとず》れていた。彼の見聞《けんぶん》は、真王《ヨジェ》の判断《はんだん》に、ずいぶんと役に立っていたのである。
真王《ヨジェ》の家系は、不思議《ふしぎ》なほどに、少子であった。一人か、多くて二人の子しか生まれず、セィミヤは、ハルミヤの一人《ひとり》|娘《むすめ》の一人娘である。
十年まえに、馬車が立ち木に激突《げきとつ》するという不慮《ふりょ》の事故《じこ》で、セィミヤの両親が命を落としてからは、祖母である今上《きんじょう》の真王《ヨジェ》ハルミヤが、セィミヤの母代わりとなって育《そだ》ててきた。
ハルミヤは懐《ふところ》の広い、果断《かだん》なところのある女性であったが、セィミヤは、祖母よりは内気《うちき》で、物事を深刻《しんこく》に捉《とら》えて考えこむ性質《せいしつ》だった。
セィミヤが、王宮の中でもっとも気を許《ゆる》せる相手は、ダミヤであった。正確にはいとこおじにあたり、自分より位も下のダミヤを、セィミヤは、「おじさま」と呼ぶほどに親しんでいたのである。
ダミヤは、軽薄《けいはく》そうな外見とは裏腹《うらはら》に気働《きばらき》きのある男で、祖母に相談《そうだん》できずに悩《なや》んでいることをうまく聞きだし、そのことに別の側面から光をあてて、笑いに変えてしまう。この世のすべては考え方ひとつ。深刻に悩まず、気を楽にして考えてみれば、もっとましな方法が必ず見つかる、というのがダミヤの信条《しんじょう》だった。
しかし、次代の真王《ヨジェ》となることが決まっているセィミヤは、自分がひとつ判断《はんだん》を誤《あやま》れば、国全体に害《がい》が及《およ》ぶと思っていたから、ダミヤの言うように気楽に構《かま》えることもできずにいたし、周囲の人々も、セィミヤに関わることには敏感《びんかん》にならざるをえなかった。
とくに、セィミヤの夫《おっと》となる者は、次代の真王《ヨジェ》の父となる。ダミヤの軽口は、大公《アルハン》には、聞き捨《ず》てにはできぬものであった。
大公《アルハン》は、むっつりとした顔つきでダミヤを見据《みす》えて、ロを開いた。
「……たしかに、息子《むすこ》も大人の男でございます。美しきセィミヤ王女のご尊顔《そんがん》を目にして、顔を赤らめぬようでは、男とは申せますまい。
しかし、息子は、己《おのれ》の分《ぶん》は、きっちりと弁《わきま》えております」
ハルミヤが、大きなため息をついた。
「もちろんよ、大公《アルハン》。わたしたちは、それを疑《うたが》ったことなどないわ。
さあ、気持ちをきりかえましょう。今日は、わたしの六十───あまり大声では言いたくないけれど───の誕生日《たんじょうび》なのだから」
ハルミヤは朗《ほが》らかな声で言うと、控《ひか》えている侍従《じじゅう》に声をかけた。
「そろそろ、外の支度《したく》もととのったでしょう。大窓をあけなさい」
侍従が、さっと頭をさげて、広間の南側に並《なら》んでいた者たちに合図《あいず》をした。
音をたてて、大きな窓があけはなたれていくと、明るい春の光とともに、涼《すず》しい風が吹《ふ》きこんできた。
そよ風に乗って白い花びらが室内にも舞《ま》いこみ、シュナンは、あまりの明るさに、思わず目を細めた。
広大な庭の縁《ふち》を囲《かこ》む花木サシャが満開の時を迎《むか》え、小さな白い花が、枝をしならせるほどに咲《さ》き乱《みだ》れている。
庭全体が、やわらかな春の光に包まれ、春に生まれた、明朗《めいろう》な老女の六十年を祝《いわ》っているようであった。
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[#地付き]3 幼獣《ようじゅう》の献上《けんじょう》
広間の外に広がる庭園には、広間を囲《かこ》むように宴席《えんせき》がしつらえられ、真王《ヨジェ》の誕生日《たんじょうび》を祝《いわ》うために訪《おとず》れた多くの貴族《きぞく》たちが、その身分に従《したが》って着席していた。
次から次へと運びこまれるご馳走《ちそう》の香《こう》ばしい匂《にお》いと、咲《さ》き乱《みだ》れる花々の香《かお》りとが入り混じって、宴席を包《つつ》んでいる。
中央の草の上には白い毛氈《もうせん》が敷《し》かれ、楽師たちが明るい調子で笛《ふえ》を吹《ふ》き鳴《な》らし、その音に合わせて、舞姫《まいひめ》たちが、薄赤《うすあか》い絹《きぬ》の帯を宙に舞《ま》わせながら、くるくると踊《おど》っていた。
最近王都で評判《ひょうばん》になっている道化師《どうけし》たちの、ひょうきんなやりとりは、人々の笑いを誘《さそ》い、大いに場が盛りあがった。
やがて、夕暮《ゆうぐ》れが近づき、透明《とうめい》な金色の光があたりを照《て》らす(黄金の刻《とき》)が訪れた。
夜明けと黄昏《たそがれ》は、ともに(生の刻)と(死の刻)の境目であり、もっとも神気《しんき》が満ちる刻であるとされている。
楽師や道化師たちが退《しりぞ》き、毛氈《もうせん》もはずされると、祝宴の場に厳粛《げんしゅく》な空気が流れた。
真王《ヨジェ》が立ちあがり、広間から庭に張《は》りだすように作られている広いお立ち台に出ると、人々はいっせいに頭をさげた。
真王《ヨジェ》は西日を抱《いだ》くように腕《うで》を広げ、瞼《まぶた》を閉じた。 ──六十年という長い年月を無事に生きてこられたことを、天と地の万象《ばんしょう》を司《つかさど》る神々に感謝する祝詞《のりと》を、口の中でつぶやきながら。
真王《ヨジェ》が目をあけると、笛《ふえ》の音が、庭の奥《おく》のほうから聞こえてきた。
人々が注目するなか、ガタガタと車輪が鳴《な》る音が響《ひび》きはじめ、逞《たくま》しい男たちが大きな台車を曳《ひ》いて庭に現れた。あとに同じような台車が続き、十六台の台車が、互《たが》いに大きく間隔《かんかく》をあけて、庭に整列《せいれつ》した。
後ろのほうの席にいる人々は、椅子《いす》からすこし腰《こし》を浮《う》かすようにして伸《の》びあがり、その台車の上にのっている獣《けもの》を見ようとした。
夕暮《ゆうぐ》れの光を受け、羽毛を金色に輝《かがや》かせている巨大《きょだい》な獣たち───十六頭の王獣《おうじゅう》が、台車の上から、真王《ヨジェ》と向き合っていた。
彼らの両脚《りょうあし》は、鉄の鎖《くさり》でしっかりと台車につながれている。ときおり、はばたくような仕草《しぐさ》をするが、天に舞《ま》いあがることはなかった。
たとえ、幼獣《ようじゅう》のころから人の手で育《そだ》てられても、王獣は、けっして人に馴《な》れることはない。また、不思議《ふしぎ》なことに、人に育《そだ》てられた王獣は、翼《つばさ》が充分《じゅうぶん》に成長したあとも空を飛《と》ばない。
ただ、気高《けだか》く、寡黙《かもく》に、そこに在る。 ──王獣《おうじゅう》は、ほかのいかなる獣《けもの》とも異質《いしつ》なものを感じさせる獣であった。
それぞれの台車の脇《わき》に立っている獣使いたちが、油断《ゆだん》なく、いつでも音無し笛を吹《ふ》けるようにしているのは、王獣の力のすさまじさをよく知っているからだ。なにかのきっかけで、王獣が暴《あば》れだすようなことがあれば、鎖《くさり》を引きちぎる可能性《かのうせい》がないとは言えなかった。
祝宴《しゅくえん》に招《まね》かれた人々は、皆《みな》、一度は王獣を目にしたことがあるのだが、今日は、なかなか、ざわめきがおさまらなかった。
王獣のなかに幼獣《ようじゅう》が一頭、交じっていたからだ。
まだ産毛《うぶげ》におおわれていて、周りにいる成獣の腹のあたりまでしかない、いかにも幼《おさな》い王獣であった。突然《とつぜん》見知らぬ場所に引きだされたうえに、多くの人々の目にさらされて不安なのだろう。小さな翼《つばさ》を、しきりにばたつかせながら、落ちつきなくあたりを見まわしている。
真王《ヨジェ》の甥《おい》のダミヤは、酒盃《しゅはい》を食卓《しょくたく》において立ちあがると、真王《ヨジェ》のそばに行き、一礼した。
「伯母上《おばうえ》さま。不肖《ふしょう》の甥《おい》からの、誕生日《たんじょうび》の贈《おく》り物《もの》でございます」
真王《ヨジェ》は、幼獣を見つめたまま、つぶやいた。
「そう。あの幼獣《ようじゅう》は、おまえが捕《つか》まえさせたのね」
ダミヤは微笑《ほほえ》んだ。
「はい。伯母上《おばうえ》さまの御世《みよ》が長く続くよう祈《いの》りをこめて、幼獣を献上《けんじよう》いたします」
真王《ヨジェ》は、静かにうなずいた。
「ありがとう」
*
イアルは、祝宴《しゅくえん》のすべてを、動く絵のようにながめていた。
これは、|堅き楯《セ・ザン》になり、真王《ヨジェ》の警護《けいご》につくようになってから自然に身につけた方法だった。一点に気をとられることなく、一歩心をひいて、全体を感じるようにするのである。
そうやって全体を感じていると、祝宴のようなざわめきに満《み》ちた場でも、なにか異質《いしつ》なものが交《ま》じった瞬間《しゅんかん》、それが川の流れを乱す杭《くい》のように、感覚《かんかく》に触《ふ》れてくる。
この日も、イアルはそうやって、祝宴のすべてをながめていた。
なにかに気をとられたら、隙《すき》ができることは充分《じゅうぶん》に承知《しょうち》していたが、王獣《おうじゅう》が現れた一瞬《いっしゅん》だけ、イアルは、その姿に目を奪《うば》われた。
美しい獣《けもの》だった。 ──しかし、王獣を見るたびに、イアルは胸の底に痛《いた》みを感じる。
とくに、幼獣《ようじゅう》は哀《あわ》れだった。
王獣《おうじゅう》から目を逸《そ》らし、真王《ヨジェ》の横顔に視線《しせん》を移《うつ》したとき、イアルは、はっとした。真王《ヨジェ》の顔に、かすかだが、たしかに、苦痛《くつう》の色が浮《う》かんでいたからだ。
王獣を見つめているその顔は、王獣を従《したが》わせていることに、自らの権威《けんい》を見ている者の顔ではなかった。
イアルは、見てはならぬものを見てしまったような気がして、視線を前方にもどした。そして、気を引きしめると、再び、この場のすべてに感覚《かんかく》を広げていった。
王獣たちのなかに、幼獣が交《ま》じっていることで、場の空気には乱《みだ》れがあった。
幼獣の不安が伝染《でんせん》したように、成獣たちも、しきりに翼《つばさ》を広げ、身をゆすっている。彼らが大きな翼をはばたかせるたびに、庭の縁《ふち》を囲《かこ》むサシャの花びらが、ふわっと散《ち》って舞《ま》いあがり、人々と宴《うたげ》の料理を花吹雪《はなふぶき》で隠《かく》した。
イアルは、眉《まゆ》をひそめた。
自分がなにを感じたのか、わからない。 ──あがったり、さがったりする、翼の動き。花吹雪。居並《いなら》ぶ成獣より一段低い幼獣の上に、ぽっかりとあいている空間……。一番|右端《みぎはし》にいる獣《けもの》使いの一人が、音無し笛を唇《くちびる》にあてるのが見えた。
まったく、なんの音もしなかったが、その瞬間《しゅんかん》、凍《こお》りついたように、王獣《おうじゅう》たちの動きがとまった。
王獣の翼《つばさ》の動きがとまったそのとき、王獣の背後《はいご》の、サシャの木の上で、なにかが光った。
イアルは弓に矢をつがえるや、真王《ヨジェ》の前にとびだした。
サシャの木の上から矢が放《はな》たれるのと、イアルが矢を放ったのが、ほぼ同時だった。
刺客《しかく》が放った矢は、幼獣《ようじゅう》の肩《かた》を切《き》り裂《さ》いて飛び、イアルの腹に刺《さ》さった。
幼獣の肩から血が飛び散《ち》り、幼獣の悲鳴《ひめい》が庭中に響《ひび》き渡《わた》った。その悲鳴のなか、まるで熟《じゅく》した木の実が落ちるように、サシャの木から黒い影《かげ》がどさっと地に落ちた。
「……イアル!」
誰《だれ》かが叫《さけ》ぶ声が聞こえたが、腹を刺《さ》されて息ができず、冷《ひ》や汗《あせ》が噴《ふ》きだし、イアルは口をあけたまま、がくっと台に両膝《りょうひざ》をついた。息が吸《す》えない。腹に刺さっている矢を握《にぎ》りしめて、イアルは、ヒュウッと喉《のど》を鳴《な》らした。
目の前が暗くなっていく。
「イアル! イアル! ……」
耳のそばで叫ばれる自分の名を聞きながら、イアルは闇《やみ》に落ちた。
ぐるぐるとまわる闇の底から、ゆっくりと浮《う》かびあがったとき、イアルは全身が鈍《にぶ》く痺《しび》れているのを感じた。
誰《だれ》かの声が聞こえた。
「……気がつきましたか」
イアルは目をあけて、声の主を見た。医術師《いじゅつし》が見下《みお》ろしている。
「わたしの声が、聞こえますか」
イアルは瞬《まばたき》きをして、聞こえていることを伝えた。腹は板が入っているようにこわばり、重苦しい痛《いた》みと、鋭《するど》い痛みとがある。声を出す気にはなれなかった。
医術師は、おだやかな声で言った。
「もう大丈夫《だいじょうぶ》。あなたは信じられないほど、幸運でしたよ。矢は、腸《はらわた》をかすりもせずに、筋肉の部分にだけ刺《さ》さっていました。
幼獣《ようじゅう》をかすって、勢《いきお》いがそがれていたからでしょう。……あの幼獣は、命の恩人《おんじん》ですな」
自分がどのような処置《しょち》をしたか、これから、どのくらい安静にしていればよいかを話しおえると、医術師は匙《さじ》で薬湯《やくとう》をすくい、イアルの口に含《ふく》ませた。
「気管に人らぬよう、慎重《しんちょう》に、舐《な》めるように飲《の》みくだしてください」
言われたとおり、ゆっくりと飲みくだしたが、腹に激痛《げきつう》が走った。これから飲んだり食べたりするたびに、この痛みに襲《おそ》われるのかと、イアルは暗澹《あんたん》たる気持ちになった。
ゆっくり眠《ねむ》るようにと告《つ》げて、医術師は部屋を出ていった。
薬湯《やくとう》には、眠り薬も入っていたのだろう。しばらくすると、闇《やみ》の底に吸《す》いこまれていくような眠気《ねむけ》が襲《おそ》ってきた。
闇《やみ》の坂をおりていくあいだに、刺客《しかく》が矢を放《はな》つ前後の光景《こうけい》が、頭の中に次々に浮《う》かんだ。
気になる光景があった。あの場にいるときには、かすかな違和感《いわかん》を覚《おぼ》えただけだったが、記憶《きおく》の不思議《ふしぎ》な働《はたら》きで全体像が浮《う》かびあがってくると、その光景は、はっきりと、気がかりとして心に残った。
あの獣《けもの》|使《つか》いは、なぜ、音無し笛を吹《ふ》いたのか。 ──そして、彼は、なぜ、その直前《ちょくぜん》に、一番|右端《みぎはし》にいた、あの獣使いのほうを見ていたのか。
闇に溶《と》けていく光景の最後に浮かんだのは、幼い王獣《おうじゅう》の肩《かた》から飛び散《ち》った血と、悲痛《ひつう》な鳴《な》き声だった。
*
真王《ヨジェ》の誕生《たんじょう》|祝《いわ》いに献上《けんじょう》された王獣《おうじゅう》が、披露《ひろう》されていたころ、遠い大公《アルハン》の居城《きょじょう》では、闘蛇《とうだ》の披露が行われていた。
留守居《るすい》を任《まか》された大公の次男ヌガンは、がっしりとした武骨《ぶこつ》な作りの愛剣《あいけん》を杖《つえ》のように地面に立て、その上に両手をおいて背をぴんと伸《の》ばして立ち、城の広場に整列《せいれつ》し、太鼓《たいこ》の音ひとつで、みごとに戦陣《せんじん》を組む闘蛇をながめていた。
闘蛇《とうだ》が動くたびに、砂塵《さじん》が舞《ま》いあがり、甘《あま》い独特《どくとく》の匂《にお》いが漂《ただよ》ってくる。
その匂いを嗅《か》ぐたびに、ヌガンは身の奥《おく》が熱くなる。女を抱《だ》くよりも、闘蛇が獲物《えもの》を食いちぎるさまを見るほうが、よほど血を湧《わ》かせる。
(圧倒的《あっとうてき》な、この闘蛇の力を、思うままに動かすことができたら………)
周辺《しゅうへん》の国々など、恐《おそ》るるに足りぬ。
ヌガンは、幼《おさな》いころから、初代|大公《アルハン》のヤマン・ハサルに憧《あこが》れていた。
真王《ヨジェ》と民《たみ》の危機《きき》を、我《わ》が身を捨《す》てて救《すく》った男。 ──己《おのれ》の利益《りえき》のためでなく、王と民のために、闘蛇に乗って野を駆《か》け、敵を撃《う》ち破《やぶ》った男。ヤマン・ハサルの純粋《じゅんすい》な生き方こそが、ほんとうに美しい男の生き方だ。
初めて、ヤマン・ハサルの話を聞いた幼《おさな》い日、感動し、身をふるわせて涙《なみだ》を流したヌガンの頭を、父は大きな手でなでてくれた。
そのときは、「おまえもヤマンのような男になれ」と言ってくれたのに、成人の儀礼《ぎれい》のときにヤマンへの憧憬《どうけい》を語ると、父は、「おまえはまだ、そんなことを言っているのか」と苦笑《くしょう》した。
そのとき感じた身の内が焼けるような怒《いか》りは、いまも、ありありと思いだせる。
しかし、その怒りを父にぶつけるわけにはいかず、ヌガンは、激しい武闘《ぶとう》|訓練《くんれん》をすることで、怒りを発散《はっさん》させていた。
あのころ、ちょうど城に滞在《たいざい》しておられた、真王《ヨジェ》の甥《おい》のダミヤさまが、その訓練の様子を見ていて、彼の怒《いか》りに気づき、声をかけてくださったことを、ヌガンは昨日のことのように覚《おぼ》えていた。
ダミヤさまは、男にしては美しすぎる顔をした優男《やさおとこ》で、それまでヌガンは、なんとなく苦手《にがて》に思っていた。彼が、よく城に訪《おとず》れるのは、城に仕えている料理番の娘《むすめ》を気に入っているからだという噂《うわさ》だったので、聖《せい》なる血筋に敬意《けいい》は覚えながらも、心のどこかで、軽《かろ》んじてもいた。
しかし、話してみれば、ダミヤさまは、思っていたよりもずっと懐《ふところ》の深い男だった。
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──世の穢《けが》れにさらされて長いあいだ生きてきた大人は、清廉《せいれん》な志を気恥《きは》ずかしく思うものなのだよ。
[#ここで字下げ終わり]
と、ダミヤさまは、明るい声で言った。
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──だが、ほんとうに大切なのは、どれほど世の穢れにさらされても、清廉な志を捨《す》てずに生きることなのだ。……ヌガン、どうか、ヤマン・ハサルに憧《あこが》れるその心を、大切に持ちつづけてくれ。
[#ここで字下げ終わり]
その言葉を、ヌガンはいまも、宝物のように心の底に持ちつづけている。
ヤマン・ハサルの生き方に憧《あこが》れることが、なぜ、幼《おさな》さなどであろうか。
父や兄は、大人なのではなく、不純《ふじゅん》なのだ。真王《ヨジェ》の暗殺《あんさつ》を企《くわだ》てるような不忠者《ふちゅうもの》たちの集団を罰《ばっ》する、罰すると言いながら、野放《のばな》しにしているのは、父と兄の心の中に自分たちが真王《ヨジェ》にとって代わりたいという欲望《よくぼう》が潜《ひそ》んでいるからだ。
そんな者たちが大公《アルハン》として生き、真に大公《アルハン》の心を受《う》け継《つ》いでいる自分が、彼らの臣下《しんか》として生きねばならぬということが、どうしても、ヌガンには、受け入れられなかった。
(兄を憎《にく》むことができたら……)
父の死後、兄を廃《はい》して、大公《アルハン》の位を継《つ》ぐ夢を見ることもできただろう。
しかし、ヌガンは、兄が好きだった。どれほどわがままを言い、逆らっても、やさしく包《つつ》んでくれる兄を苛立《いらだ》たしく思い、嫌《きら》いになりたいと思いつづけてきたが、それでも、嫌いになることなどできなかった。
堂々巡《どうどうめぐ》りをするしかない迷路《めいろ》の中を歩いているような焦燥感《しょうそうかん》が、常にヌガンの心の中にはあったのである。
教練《きょうれん》の披露《ひろう》が終わり、城内に入ろうとしたとき、広場の端《はし》に控《ひか》えていた闘蛇《とうだ》商人の一人が、近づいてきた。
「畏《おそ》れながら……」
声をかけられて、ヌガンは足をとめ、男を見下ろした。
「なんだ」
男は深々と頭をさげ、一通の手紙をヌガンに差《さ》しだした。
「さるお方から、この文《ふみ》を、ヌガンさまにお渡《わた》しするよう申しつかりました。どうかお受けとりくださいませ」
ヌガンは眉《まゆ》をひそめ、手紙を受けとった。封《ふう》にはなんの印章《いんしょう》も押《お》されていない。
無造作《むぞうさ》に封をはぎ、幾重《いくえ》にもたたんである紙を広げて読みはじめたヌガンの目が、読み進むうちに、奇妙《きみょう》な光を帯《お》びはじめた。
読みおえるころには、ヌガンは蒼白《そうはく》になっていた。
手紙をたたんで懐《ふところ》にしまい、ヌガンは男に目をやった。
「おまえは、このお方と、どのような関《かか》わりがあるのだ」
「……畏《おそ》れながら、そのことに関しましては、詳《くわ》しいことは申《もう》しあげられません」
ふてぶてしい面構《つらがま》えの男を睨《にら》みつけ、ヌガンは低い声で言った。
「この場で、おまえを捕《と》らえ、拷問《ごうもん》にかけて訊《き》きだしてもよいのだぞ」
男は、かすかに顔をこわばらせたが、すぐに、低い声で言い返した。
「……そうなされば、あのお方は、あなたさまが、ご意向《いこう》を拒絶《きょぜつ》されたものと受けとられるでしょう。 ──それで、よろしゅうございますか」
ヌガンは、拳《こぶし》を握《にぎ》りしめた。
自分の目の前に現れた道が、どこに通じているのか、じっくりと見極《みきわ》めねばならない。
焦《あせ》って判断《はんだん》することだけは、避《さ》けねばならない。
そう思いながらも、ふいに、出口のない迷路《めいろ》から抜《ぬ》けでる道が見えてきたような、ぞくぞくする感覚が身の内を走るのを、ヌガンは感じていた。
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[#地付き]1 ジョウンの息子《むすこ》
よろよろと、細い脚《あし》で立ちあがった子馬は、母馬の腹の下に鼻をつっこむと、鼻で乳房《ちぶさ》を押《お》すようにしながら、グン、グン、と乳《ちち》を飲《の》みはじめた。
ジョウンはほっと表情《ひようじょう》をゆるめて、子馬のかたわらに立っているエリンに目を向けた。
「……やれやれ、もう大丈夫《だいじょうぶ》だろう。えらい騒《さわ》ぎだったが、ようやくひと安心だな」
ジョウンは、トッチに子を産《う》ませる気はなかったのだが、エリンは、子どもを産ませないなんて、トッチがかわいそうだと言いつづけていた。
エリンが、自分で増やした三つの巣箱の蜂蜜《はちみつ》を売って種《たね》つけ料をつくったのを知ると、ジョウンもとうとう折れた。
出産《しゅっさん》が近づいてくると、いつも馬を借《か》りる農家の主《あるじ》が手伝《てつだ》いにきてくれていたのだが、トッチの陣痛《じんつう》が始まった昨夜にかぎって、次男が過《あやま》って足を鎌《かま》で切ってしまったとかで、手伝いにきてくれなかったのだ。おかげで、ジョウンとエリンが、慣《な》れぬ手つきでトッチの初産《ういざん》の世話《せわ》をすることになったのである。
「髪《かみ》に、藁《わら》がついているぞ」
ジョウンに言われて、エリンは微笑《ほほえ》みながら、髪から藁をつまんでとった。
この四年のあいだに、エリンはずいぶん背が伸《の》びた。相変わらず棒のように細い手足をしているが、すらりとした身体《からだ》つきのどこかに、娘《むすめ》らしさが感じられるようになっていた。
やさしい笑《え》みをたたえて子馬と母馬をながめているエリンを見ながら、ジョウンはあらためて、エリンが子どもから娘へと変わりつつあることを感じていた。
それに気づくたびに、女親がいないのは、やはり、この娘のためには、よくないのではないかと、気になってくる。
娘への階段を確実《かくじつ》にのぼっているのに、エリン自身は、それに気づいていないようだ。
もう自分で結《ゆ》おうと思えば結えるだろうに、髪は子どものときと変わらず、肩《かた》のあたりで短く刈《か》りそろえ、汚《よご》しても気にならないからと、ジョウンの古着を仕立て直して着ている。
街《まち》におりて、エリンと同じ年頃《としごろ》の娘たちを目にするたびに、ジョウンは、エリンを娘らしく育《そだ》てることに失敗《しっぱい》したのではないかと不安になった。娘を育てた経験などないから、どうすれば、エリンを人並《ひとな》みの娘らしい娘にできるのか、わからなかった。
年頃《としごろ》になっても、このままでは、この娘が不幸せになるのではなかろうか。
エリンは、いわゆる美人ではないが、さっぱりとした、よい顔をしていると、ジョウンは思う。ただ、エリンには、どこか人と交《まじ》わらない、独特《どくとく》の雰囲気《ふんいき》があった。
物思いをしているときなど、ときおり、十四|歳《さい》とはとても思えぬ、山奥《やまおく》の湖のような静けさを感じさせる。
それでも、エリンは、暗さを感じさせない娘《むすめ》だった。エリンが笑顔《えがお》になると、雲間から日が射《さ》したような、明るい心地《ここち》になる。
「疲《つか》れただろう。身体《からだ》を洗ったら、すこし眠《ねむ》れよ」
そう言うと、エリンは首をふった。
「もうすこし見ています。おじさんこそ休んで」
ジョウンは、「うーん」と伸《の》びをした。
「じゃあ、そうさせてもらうか。年だなあ、おれも。昔は、ひと晩ぐらい眠らなくても平気だったが。……おまえも、無理《むり》するなよ」
エリンはうなずき、やさしい手つきでトッチの汗《あせ》をぬぐいはじめた。
厩《うまや》を出ると、うららかな春の日射《ひざ》しに包《つつ》まれた。
ほっこりとした土の匂《にお》いと、やわらかな新芽《しんめ》の香《かお》りを感じて、ジョウンは、その春の香りを深く吸《す》った。
そのとき、ふいに、胸から背へ、激《はげ》しい痛《いた》みが走った。誰《だれ》かに心ノ臓をつかまれて、握《にぎ》りしめられたような痛みだった。息ができず、胸を押《お》さえながら、ジョウンは草地に膝《ひざ》をついた。脂汗《あぶらあせ》を垂《た》らしながら、苦悶《くもん》するうちに、その痛みはゆるやかに消えていったが、激しい痛みが消えたあとも、黒々とした不安が胸に広がって、ジョウンは立ちあがることができずにいた。
いま感じた痛《いた》みは、ただごとではなかった。最近、急に動悸《どうき》が激《はげ》しくなったり、息切れがしたり、胸を押《お》されるような感じがすることがあって、気にはなっていたのだが、たったいま感じた激痛《げきつう》は、はっきりと身体《からだ》の異変《いへん》を感じさせるものだった。
膝《ひざ》に手をあてて立ちあがり、ジョウンは、びっしょりといやな汗《あせ》をかいている顔を、掌《てのひら》でぬぐった。
いま、自分は死の淵《ふち》に近づいていたのかもしれない。自分は、あんなふうにして、ふいに死を迎《むか》えるのではなかろうか。
そういう思いが頭に浮《う》かび、ジョウンは呆然《ぼうぜん》と、さんさんと日があたる春の庭に立ちつくした。
(おれが、あんなふうに、突然《とつぜん》死んでしまったら、エリンは……)
しっかりしているとはいえ、まだまだ子どもだ。守る者なしに、唐突《とうとつ》に世間に放《ほう》りだされた若い娘《むすめ》が、どんな目にあうか、その暗い未来がありありと心に浮《う》かんできて、ジョウンはロもとを手でおおい、目を閉じた。
自分の死後、エリンを誰《だれ》に託《たく》すか、真剣《しんけん》に考えておかねばならない。まだまださきのことだと思っていたが、後回《あとまわ》しにせず、いま、考えておかねば……。
ジョウンは目をあけ、重い足どりで庭を横切っていった。
家の角を曲がったジョウンは、馬が鼻を鳴《な》らす音を聞いて、ぎょっとした。
誰《だれ》かが家の前に立っている。このあたりでは、まず見かけない、王都《おうと》風の身なりをした青年だった。
青年の顔を見て、ジョウンは凍《こお》りついたように足をとめた。
「アサン……」
青年の目に、複雑《ふくざつ》な色が浮かんだ。しばし、二人は身動きもせずに、向かい合って、互《たが》いを見つめていた。
やがて、青年がつぶやいた。
「お久しぶりです……父上」
*
ジョウンの息子《むすこ》だという青年に引き合わされたとき、エリンはその青年の顔に、かつて見慣《みな》れていた表情《ひょうじょう》が浮《う》かぶのを見た。
祖父《そふ》が自分と母を見るたびに浮《う》かべていた、あの表情───なぜ|霧の民《アーリョ》が身内面《みうちづら》してここにいるのだという気持ちを、腹の中に押《お》し隠《かく》している表情だった。
「……はじめまして。エリンと申します」
床《ゆか》に額《ひたい》をつける正式な札をすると、アサンは、かすかにうなずいた。
そして、エリンにはひと言も声をかけず、ジョウンに向き直った。
「父上、どうか、よく考えてみてください。父上の名誉《めいよ》が回復《かいふく》されるのを待ち望んでいたのは、わたしと母上だけではありません。高等|学舎《がくしゃ》の教導師《きょうどうし》たちも、教え子であった者たちも、ずっと願《ねが》っていたのです」
ジョウンは、わずかにうつむいて、視線《しせん》を宙に据《す》えたまま、答えなかった。
アサンは、なおも言いつのった。
「せっかく、トサリエルさまが、父上の名誉の回復をしようと、おっしゃってくださっているのです。タカランは、真王《ヨジェ》への謀反《むほん》の罪《つみ》で失脚《しっきゃく》したのですから、もうけっして、高等|学舎《がくしゃ》に関与《かんよ》することはありません。
父上、お願いいたします。どうか、おもどりください。皆《みな》、父上のお帰りを待ち望んでいるのです!」
ジョウンは顔をあげると、息子《むすこ》を見つめた。
「……考えさせてくれ」
アサンは眉根《まゆね》を寄せた。
「父上! なにを考えることがあるのです! 王都《おうと》最高の高等|学舎《がくしゃ》の、誉《ほま》れ高き教導師長《きょうどうしちょう》であられた父上が、こんな山奥《やまおく》で、一生を終えるおつもりですか!」
ジョウンは微苦笑《びくしょう》を浮《う》かべて、息子《むすこ》を見ていた。
アサンは、苛立《いらだ》ったように、エリンを顎《あご》で示した。
「この娘《むすめ》のことが気にかかっておられるのなら、わたしから母上を説得《せっとく》いたしましょう。
屋敷《やしき》にひきとって、年頃《としごろ》になったら、職人《しょくにん》|階級《かいきゅう》の適当《てきとう》な男に嫁《とつ》がせてやればよいでしょう。トーサナ家の養女であれば、嫁ぎ先は見つけられるはずです」
ジョウンは、エリンに視線《しせん》を向けた。エリンはうつむいて、ジョウンと視線を合わせなかった。
長いこと、ジョウンは黙《だま》っていたが、やがて、もう一度、同じ言葉をつぶやいた。
「考えさせてくれ」
アサンは、十日後の休暇《きゅうか》にまた来ると言いおいて、帰っていった。
静かに一日の仕事を終え、夕餉《ゆうげ》の片づけも終えたあと、エリンは、そっと立って、厩《うまや》に行った。
持っていった灯《あか》りを柱にかけると、やわらかな光に照《て》らされた子馬がまぶしそうな仕草《しぐさ》をした。
子馬は、驚《おどろ》くほどしっかりと立つようになっていた。トッチが、愛《いと》しくてならぬ様子で子馬の匂《にお》いを嗅《か》いでいる。
ぼんやりと柵《さく》に寄《よ》りかかって、母子を見ていると、背後で足音がした。
ジョウンが脇《わき》に並《なら》び、柵に肘《ひじ》をのせた。
しばらく、二人は黙《だま》って母子を見つめていたが、やがて、ジョウンがロを開いた。
「……ゆるしてやってくれ。アサンは、王都《おうと》の高等|学舎《がくしゃ》でしか暮《く》らしたことのない男だ。まっすぐな心根《こころね》の男だが、名誉《めいよ》や身分の上下に、過剰《かじょう》にこだわるところがあってな……」
エリンは、ジョウンに顔を向けた。
「おじさんは、教導師長《きょうどうしちょう》だったんですね……」
ジョウンは、かすかに苦笑《くしょう》した。
「おまえに、それを話さなかったのは………おれは、おまえに会ったときから、生まれ直したような気がしていたからだ。
王都《おうと》にある高等|学舎《がくしゃ》のなかでも、裕福《ゆうふく》な高級|職能階層《しょくのうかいそう》の子弟《してい》しか入舎を許《ゆる》されないタムユアン学舎で、教導師《きょうどうし》として二十年、教導師長として十二年生きてきた日々は、忘《わす》れてしまおうと思っていた。言葉も、態度《たいど》も、平民《へいみん》階級になりきって、蜂飼《はちか》いとして一生を終えようと思っていた」
顎《あご》の古傷をなでながら、ジョウンは、静かに語りはじめた。
「おれは、子どもを教えることが好きだ。教導師《きょうどうし》は親の跡《あと》を継《つ》いだというだけでなく、おれにとっては天職《てんしょく》だった。
好きな仕事だから、熱も入る。おれは、評判《ひょうばん》のいい教導師だったと思う。四十|歳《さい》で教導師長になれたのも、その評価《ひょうか》の表れだったんだろう。すべてが順調《じゅんちょう》に流れていたのだが、ある事件が起きた」
ジョウンは子馬に視線《しせん》を向けていたが、その目には子馬は映《うつ》っていなかった。
「教導師《きょうどうし》は、どの子にも公平《こうへい》でなくてはならない。 ──だが、教導師も人だからな、優秀《ゆうしゅう》で、性格もよい子どもには、つい、目をかけてやりたくなる。
おれの教え子に、ニイカナという少年がいた。あまり豊かな家柄《いえがら》の子ではなかったが、じつに明晰《めいせき》な頭と、明るさとを兼《か》ね備《そな》えた子だった。一方で、公平に扱《あつか》わねばと思いながらも、おれが、どうしても好きになれなかった教え子もいた。サマンという名で、タカランという高級|官僚《かんりょう》の息子《むすこ》だった」
ジョウンは鼻の上にしわを寄《よ》せた。
「嘘《うそ》を平気でつく少年だった。それも、他者を陥《おとしい》れるような意地《いじ》の悪い嘘が好きでな。なめらかに、まことしやかに、残酷《ざんこく》な嘘をつく。嫉妬《しっと》深く、自尊心《じそんしん》だけは異常に高い……」
ロの中に湧《わ》きだした苦味《にがみ》をのみこむように、ジョウンはしばらく黙《だま》っていた。
「高等|学舎《がくしゃ》を卒業する少年たちは、最終試験の成績によって、望む職業につけるかどうかが決まる。サマンは、当然のごとく、父の跡《あと》を継《つ》いで高級|官僚《かんりょう》になるつもりでいたが、彼の成績は、その基準《きじゅん》には遠く及《およ》ばなかった。
最終試験の採点《さいてん》は、わたしが行う。ニイカナが最高得点だった。ニイカナは高級|官僚《かんりょう》を目指していたし、その成績であれば、当然、高級官僚になれる。わたしは、うれしかった」
ジョウンは顔をゆがめた。
「だが、試験の結果を発表する前夜、サマンが父にともなわれて、わたしの屋敷《やしき》にやってきた。そして、ニイカナが、サマンを脅迫《きょうはく》したと告発《こくはつ》したのだ。
試験で、たとえ解答がわかっても、書いてはならない。もし、よい成績をとるようなことがあれば、かつてサマンが友人に対してついた嘘《うそ》を、その友人にばらすと脅迫したのだと」
ジョウンは鼻を鳴《な》らした。
「わたしは、つい笑ってしまった。もともと、ニイカナはサマンよりも、はるかに優秀《ゆうしゅう》だ。なぜ、脅迫《きょうはく》などする必要があるのか、そんなことはありえまいと……まあ、父親の手前、すこし言葉は和《やわ》らげたが、そういう意味のことを言ったのだ。
サマンの父は、烈火《れっか》のごとく怒《おこ》った。友人に嘘《うそ》をついたという、自分の汚点《おてん》をさらしてまで、なぜ自分の息子《むすこ》が嘘をつかねばならぬのかと。そして、ニイカナを落とし、サマンを高級|官僚《かんりょう》の合格点にせよと迫《せま》った。
わたしは、頑《がん》として、それを受けつけなかった」
口を閉じ、しばらく黙《だま》ってから、ジョウンは、次の言葉を押《お》しだした。
「……その夜、サマンが自殺《じさつ》した」
エリンは、はっとジョウンを見た。ジョウンの横顔には、これまで一度も見たことのない暗い影《かげ》があった。
「信じてもらえなかったから息子《むすこ》は自殺したのだと、タカランはわたしを非難《ひなん》した。ニイカナを贔屓《ひいき》し、サマンを差別《さべつ》しつづけてきたわたしは、タムユアン学舎《がくしゃ》の教導師長《きょうどうしちょう》にふさわしくない最低の人物だと。学舎を所有しているトサリエル公は、わたしを罷免《ひめん》せざるをえなかった」
ジョウンは、苦《にが》い笑《え》みを浮《う》かべて、エリンを見た。
「正直《しょうじき》なところ、いまでも、サマンは、あてつけのために自殺したのだと思っている。
肥大《ひだい》した自尊心《じそんしん》にふりまわされ、自分の言葉が他者に伝わらなかったことを激《はげ》しく怨《うら》み、自分を信じなかった他者を傷つけ、後悔《こうかい》させてやりたいがために、白殺したのだと思う。
だがな、エリン……そういう者をこそ、教えて導《みちび》くのが、教導師《きょうどうし》の務《つと》めだ」
ジョウンの目には、深い苦痛《くつう》の色があった。
「わたしは優秀《ゆうしゅう》な子を守ることには必死になったが、サマンは毛嫌《けぎら》いし、あっさりと見捨《みす》てた。しかも、死んでしまってもなお、わたしはサマンが、どうしようもなく嫌《きら》いだった。神々が、もう一度、時をもどしてくださるとおっしゃっても、わたしはきっと、同じことをし、サマンを見捨てるだろう。 ──罷免《ひめん》されたことよりも、わたしは、そういう自分の心に気づいて……愕然《がくぜん》としたのだ」
トッチが、ブルブルブルッと鼻を鳴《な》らした。
ジョウンは馬たちに目を向けて、しばらく黙《だま》っていた。
それから、ゆっくりとロを開いた。
「わたしは、このまま、ここでおまえと暮《く》らしたい。──だが、正直、迷ってもいる。
学舎《がくしゃ》もほかの社会と同じで、権力《けんりょく》|争《あらそ》いがつきものでな。強力な後ろ盾《だて》のある教導師《きょうどうし》には、居心地《いごこち》のよい場所だが、わたしのような失脚《しっきゃく》した者の教え子たちは、たぶん、教導師のなかで、隅《すみ》に追いやられているだろう。 ──自分の不徳ゆえに、教え子たちを不遇《ふぐう》にしたままで、己《おのれ》の幸せだけを追っていいのか……」
ジョウンはエリンに向《む》き直った。
「……主都で、わたしの養女《ようじょ》として暮《く》らすのは、いやか」
エリンは、ジョウンを見つめたまま、黙《だま》っていた。
ジョウンは帰りたいのだ。 ──ジョウン自身は気づいていないようだが、過去のことを話すうちに、言葉《ことば》|遣《づか》いが変化していくのを聞きながら、エリンはそれを感じていた。
いつか、こういう日が来るような気がしていた。
社会の仕組みがすこしずつわかってくるにつれて、ジョウンが生まれながらの蜂飼《はちか》いではないことに、気づかざるをえなかった。
毎晩教えてくれた、広範囲《こうはんい》にわたる学問も、竪琴《たてごと》の知識《ちしき》も、農民階級が身につけることを許されるはずのない、深い教養《きょうよう》と知識に裏打《うらう》ちされたものだったからだ。
ジョウンには言わなかったけれど、エリンはまえから、いつか、ふいに別れが来るかもしれないと、心の底で覚悟《かくご》をしていた。予感《よかん》ではない。そういう日が来たときにつらくないように……自分を守るために、そう覚悟していたのだ。
母をふいに奪《うば》われたときから、エリンは、いつまでも変わらずに続く幸せというものを、信じられなくなった。
変化は、ふいに訪《おとず》れるものだ。変化が突然《とつぜん》|襲《おそ》いかかってきても、もう二度と、母を失ったときのような哀《かな》しみは、味わいたくなかった。
だから、エリンは、けっして敬語《けいご》を崩《くず》さなかった。ジョウンは、そのエリンの気持ちを、感じていただろうか……。
エリンは、ジョウンが大好きだった。ずっと、一緒《いっしょ》に暮《く》らしていたかった。
けれど、王都《おうと》で───あの息子《むすこ》のいる屋敷《やしき》で、肩身《かたみ》の狭《せま》い思いをして暮らし、職人《しょくにん》階級の男と妻《めあわ》せられて一生を送ることを思うと、心が萎《な》えた。
職人階級の男の妻の暮《く》らしがどんなものであるかは、幼いころから肌《はだ》で知っている。母のように自分自身が職能者《しょくのうしゃ》になった女人《にょにん》は、あの村では母一人だった。
職人階級の男の妻になれば、ひたすらに子を産《う》み育《そだ》て、男に尽《つ》くし、家事をして、一生を終わるしかない。そんな一生を送りたいとは、どうしても思えなかった。
たとえ、ジョウンと別れて一人で生きなくてはならないとしても、そんな暮らしをするのは、いやだった。
(……まだ、知りたいこと、考えてみたいことが、たくさんある)
母がなぜ、闘蛇《とうだ》を操《あやつ》ることを大罪《たいざい》だと思っていたのか───その疑問《ぎもん》は、いまもまだ、解《と》けていない。ただ、母の表情《ひょうじょう》や言動をくり返し思いだしているうちに、かすかに、母の思いがわかるような気がすることがあった。
蜜蜂《みつばち》たちの暮《く》らしの驚《おどろ》くべき精密《せいみつ》さを感じ、野山に生きる虫や獣《けもの》の多彩《たさい》な暮らしぶりを見るうちに、エリンはときおり、自分が小さな光の点になって、広大な星空の中に、ぽつんと浮《う》かんでいるような心地《ここち》になることがあった。 ──人も獣も虫も、あらゆるものが小さな光の点となって、等しく闇《やみ》の中に輝《かがや》いているような、そんなものとして、この世を感じることが。
そんな幻《まぼろし》を一度心に抱《かか》えてしまうと、ときに、蜂飼《はちか》いのやり方が、厭《いと》わしく思えた。
とくにいやだったのは、|女王の乳《タプ・チム》作りだった。匙《さじ》一杯で小粒銀《こつぶぎん》一枚もの価値《かち》がある|女王の乳《タプ・チム》。それを作るために、ジョウンは、巧妙《こうみよう》に蜂《はち》を操《あやつ》るのだ。
蜜蜂《みつばち》たちが、女王を育《そだ》てようと、身を絞《しぼ》って与《あた》える液を、横取りして溜《た》めたものが、大金で取り引きされる|女王の乳《タプ・チム》なのである。
|女王の乳《タプ・チム》はよい商品だし、人の身体《からだ》にもよい薬だから、ジョウンがやっていることは、もちろん、悪いことではない。それは、エリンもわかっている。
けれど、そうやって蜂を操《あやつ》るジョウンの姿を見るたびに、暗い表情を浮かべて、闘蛇《とうだ》を操る音無し笛を、掌《てのひら》の上でもてあそんでいた母の姿を思いだす。 ──母はあのとき、自分と同じように、生き物を操ることを、厭《いと》わしく感じていたのではなかろうか。
母もまた、自分を、広大《こうだい》|無辺《むへん》の闇《やみ》の中に浮《う》かぶ小さな光の点のひとつとして、感じていたのではなかろうか。闘蛇も、自分と同じ、小さな光の点として感じていたのではなかろうか。 ──そして、人が闘蛇を操ることに、厭《いと》わしい気持ちを感じていたのではなかろうか……。
闘蛇《とうだ》はなぜ、あのように在《あ》り、人はなぜ、このように在るのだろう。
答えなぞ、ないかもしれないそんな問いが、心の中で疼《うず》いていた。そういう問いの答えを、見つけたかった。
「おじさん……」
エリンは口を開いた。
「王都《おうと》には、女が学べる学舎《がくしゃ》は、あるんですか?」
ジョウンの顔に、苦《くる》しげな色が浮かんだ。
「………あるには、ある。だが、皆《みな》、貴族《きぞく》や、高級|職能者《しょくのうしゃ》の妻になるための教養《きょうよう》を身につけさせるための学舎だから、そんなところへ行っても、おまえは満足できないだろう」
ため息をついて、ジョウンは首をふった。
「おまえが男だったらなあ。 ──何度、そう思ったかわからん。
おまえが男だったら、アサンが反対しても、誰《だれ》が反対しても、おまえをタムユアン学舎に入れてやるのだが」
貴族の娘《むすめ》であれば、タムユアンで学ぶ者もいないわけではない。しかし、そういう女はごく少数だったし、職人《しょくにん》階級のエリンが、入舎《にゅうしゃ》を許《ゆる》されるはずがなかった。
ジョウンは手を伸《の》ばして、エリンの髪《かみ》をなでた。
「おまえは、王都に行って、わたしたちと暮《く》らすのは、いやなのだな」
エリンは、震《ふる》えを見せまいと、ぎゅっと唇《くちびる》を噛《か》みしめた。そして、うつむいて、うなずいた。
「……わたしは、おじさんと暮らして、幸せでした。……ずっと、こうしていたいです。
でも、そうできないのなら……わたしは……」
言葉を途切《とぎ》れさせ、息を吸《す》って、エリンは続けた。
「一人で生きていきたいです。……王都の、おじさんのお屋敷《やしき》で、養《やしな》い子として暮らし、嫁《とつ》がされるのは……いやです」
ジョウンは目をつぶった。そして、ひとつ、うなずいた。
「そうだろうな。おまえは、職人《しょくにん》階級の男の妻になることで、幸せになれるような娘《むすめ》ではなかろう」
しかし、身体《からだ》の不安を抱《かか》えているいま、たとえそういう人生でも、自分の死後、エリンを一人にせずにすむなら、そのほうがいいのではないか、という思いが、胸の底にあった。身体の不調《ふちょう》を感じた、まさにその日に息子《むすこ》がやってきたというのが、神々の釆配《さいはい》のように思えて、ジョウンは、ため息をついた。
「どうしたものかなあ……」
アサンと会い、ジョウンとの別れを感じたときから、エリンは、ひとつの可能性《かのうせい》を心の中で転《ころ》がしっづけていた。
もう四年もまえのことだが、偶然《ぐうぜん》に野生《やせい》の王獣《おうじゅう》と出会ったあの夏以来、エリンは王獣に惹《ひ》かれていた。とりつかれてしまったと言ってもいい。
毎年夏の小屋で過《す》ごすたびに、エリンはあの崖《がけ》に行って、王獣《おうじゅう》の親子をながめつづけた。そのことで何度ジョウンに叱《しか》られたかわからない。それでも見にいくことをやめなかった。
そんなエリンに呆《あき》れはてて、ジョウンがため息混じりに言ったことがある。おまえと同じように、王獣にとりつかれた女を一人知っていると。
エリンは目をあげ、ジョウンを見つめた。
「……おじさん」
「うん?」
「まえに、おじさん、王獣《おうじゅう》の保護場《ほごじょう》に知り合いがいるって、おっしゃっていましたよね。女人《にょにん》で、王獣を診《み》る医術師《いじゅつし》をしておられるとか」
ジョウンは瞬《まばた》きした。
「ああ、カザルム保護場《ほごじょう》の、エサルのことか。王獣の保護場といっても、あそこは傷物の王獣を死ぬまで世話《せわ》をするための施設《しせつ》だが……」
下級|貴族《きぞく》の娘《むすめ》でありながら、タムユアンに入舎《にゅうしゃ》してきた学友の顔が目に浮《う》かんできた。色黒で、お世辞《せじ》にもきれいとは言いがたい娘だったが、明晰《めいせき》な頭を持っていて、ジョウンとは、不思議《ふしぎ》に気が合った。
「───エサルか。ううむ」
ジョウンは眉根《まゆね》を寄《よ》せた。その目に、複雑《ふくざつ》な表情《ひょうじょう》が浮《う》かんだ。
「なるほど、獣《けもの》ノ医術師《いじゅつし》という道があったな。獣ノ医術師ならば、高級|職能《しょくのう》のなかでも獣の血という穢《けが》れに触《ふ》れるから、女人《にょにん》がなることを許《ゆる》されているし、おまえには、向いているかもしれぬ……。
カザルムの学舎《がくしゃ》なら、獣ノ医術師を目指《めざ》す子どもが各地から集まってきて、王獣《おうじゅう》の世話《せわ》をしながら学んでいるから、たしかにおまえが暮《く》らすには、いい環境《かんきょう》だ」
そう言いながらも、ジョウンは、気づかわしげな表情のままだった。
「だが、王獣の医術師は労多くして報《むく》われぬことの多い、苦《くる》しい職業《しょくぎょう》だぞ。わずかでも王獣に異変《いへん》が起《お》きれば、獣ノ医術師が罪《つみ》を問われる。………場合によっては、死罪ということさえありうる」
監察官《かんさつかん》の前に引きだされた母の姿が目の裏に浮かび、冷《つめ》たいものが胸の底に走った。
しかし、その一方で、もうひとつ、心に浮《う》かんできた母の姿があった。
闘蛇《とうだ》の巨体《きょたい》をゆっくりと慎重《しんちょう》になでていく母の白い手。じっと闘蛇を見つめる、静かなまなざし……。
その瞬間《しゅんかん》、鮮《あざ》やかな光を見たような心地《ここち》で、エリンは思いだした。 ──自分は母のような人になりたかったのだ。深い知識《ちしき》を持ち、その知識で獣《けもの》を助ける者に。
王獣《おうじゅう》ノ医術師《いじゅつし》になりたい───その思いが、野を焼く火のように、胸に広がった。
「おじさん」
エリンは顔をあげた。
「わたしの母は、獣《けもの》ノ医術師でした」
ジョウンは、日を見開いた。
「なんだと?」
「獣ノ医術師といっても、闘蛇《とうだ》だけを診《み》る医術師だったんです。
わたしが育《そだ》った村は大公《アルハン》の西の端《はし》、トハン郡《ぐん》にある闘蛇衆《とうだしゅう》の村でした……」
エリンは、かすかにうつむいて、心の底に秘《ひ》めてきたあの出来事を語りはじめた。
母は|霧の民《アーリョ》だったが、闘蛇衆の頭領《とうりょう》の長男と結《むす》ばれて、自分を産《う》んだこと。そのことで、|霧の民《アーリョ》から追放《ついほう》されたが、医術に優《すぐ》れていたので、闘蛇のなかでももっとも大切な(牙《きば》)の世話《せわ》を任《まか》されていたこと。
ある夜明け、なぜか突如《とつじょ》(牙《きば》)がすべて死んでしまい、母はその罪《つみ》を問われて、惨《むご》い死刑《しけい》に処《しょ》せられたこと。
母を助けようと泳いでいったが、闘蛇に乗せられてしまって、母とは引《ひ》き離《はな》され、この地まで来てしまったこと。
母が指笛《ゆびぶえ》で闘蛇を操《あやつ》ったことだけは、ロにする気になれなかったので、それには触《ふ》れずに、エリンは、あの出来事《できごと》をジョウンに打ち明けた。
ジョウンは半《なか》ば口をあけ、その話を聞いていた。
「……そうだったのか。ああ、これで、ずっと気になっていた謎《なぞ》が解《と》けた」
ジョウンは首をふりながら、つぶやいた。
「おまえを見つけたとき、おまえの全身は、闘蛇《とうだ》の粘液《ねんえき》で膠《にかわ》のようになった泥《どろ》におおわれていたものなあ。いったいなにがあったのかと、思いつづけてきたんだが……そんな事情だったのか……」
想像していたよりも、はるかに痛《いた》ましい、残酷《ざんこく》な過去だった。
ジョウンは、じっとエリンを見つめた。
「それならば、王獣《おうじゅう》ノ医術師《いじゅつし》を目指《めざ》すのは、いやだろう」
エリンは、首をふった。
「おじさん、わたし、母が闘蛇を診《み》ている姿が、とても好きでした。母は、村の誰《だれ》よりも優《すぐ》れた医術師で………わたしはずっと、母のようになりたいと思っていたんです」
エリンの瞳《ひとみ》に浮《う》かんでいる、澄《す》んだ光を見ながら、ジョウンは、うなずいた。
「わかった。それならば、エサルに頼《たの》んでみよう」
[#改ページ]
[#地付き]2 入舎《にゅうしゃ》の試《ため》し
朝からずっと降《ふ》りつづいていた雨は、エリンたちの馬車がカザルム高地にさしかかるころ、ようやくやんだ。
強い風に煽《あお》られて走っている雲はまだ暗い色をしていたが、雲の縁《ふち》は白く輝《かがや》き、切れ間からは青空がのぞいている。
流れていく雲の影《かげ》が、なだらかなカザルム高地の草原をなでていく。
王獣《おうじゅう》|保護場《ほごじょう》は、高い柵《さく》で囲《かこ》まれていたが、その敷地《しきち》は、ほぼカザルム高地全体|占《し》めるほど広大なものなので、柵の高さはまったく目立たなかった。
王獣保護場は、王都《おうと》にほど近いラザル高地にあったが、病《やまい》に冒《おか》されたり、傷《きず》を負《お》ったりした王獣は真王《ヨジェ》の清浄《せいじょう》さを傷つける不吉《ふきつ》なものとされ、ほかの王獣から隔離《かくり》される。
そういう、いわば傷物となった王獣を死ぬまで世話《せわ》をするのが、王都から馬車で一日ほどかかる、ここカザルム保護場《ほごじょう》であった。
この保護場には、獣《けもの》ノ医術師《いじゅつし》を志《こころざ》す子どもたちの学舎《がくしゃ》も併設《へいせつ》されている。
王都《おうと》にあるタムユアン学舎のような高級|職能者《しょくのうしゃ》の学舎で、獣ノ医術師を目指《めざ》して学ぶ子どもたちは高級|職能《しょくのう》|階級《かいきゅう》の血筋の子弟《してい》たちであり、彼らは、優秀《ゆうしゅう》な成績を修めれば、獣ノ医術師の中でも(上師)と敬《うやま》われる位に就《つ》くことができた。
しかし、カザルム学舎《がくしゃ》で学んでいる子どもたちは、皆《みな》、職人《しょくにん》階級の子弟であり、彼らは獣ノ医術師の資格《しかく》を得《え》ても、(平師)にしかなれない。
それでも、ここには、国中から獣ノ医術師を目指す子どもたちが集まってくる。学業を修《おさ》め、資格を得て故郷に帰り、獣ノ医術師として生きていくことを夢見ている子どもたちだった。
この学舎は真王《ヨジェ》から賜《たまわ》る金によって運営されており、子どもたちは衣食住《いしょくじゅう》のいっさいを賄《まかな》われ、学費を納《おさ》める必要がなかったので、貧《まず》しい親たちの中には、ここで子どもたちを学ばせたいと望む者が多かった。
それゆえ、毎年百人もの子どもたちが、この学舎への入舎を望んで各地から訪《おとず》れるが、真王《ヨジェ》から賜《たまわ》る金によって育《そだ》てられる子どもの数は、せいぜい六十人。たとえ、近隣《きんりん》の牧場主たちから、家畜《かちく》の治療費《ちりょうひ》を得ても、それは、教導師《きょうどうし》の生活費と俸禄《ほうろく》を賄《まかな》うのにやっとという状況《じょうきょう》であった。
課程《かてい》を修了《しゅうりょう》して卒舎《そつしゃ》していく者は、毎年、約十五人である。つまり、入舎できる子どもの数も、十五人。そのため、入舎《にゅうしゃ》する資格がある子どもであるかどうか判定する(入舎ノ試《ため》し)は、大変|厳《きび》しいものであった。
ジョウンは、エリンをここへ送ろうと決めた日から精力的《せいりょくてき》に動きだした。
まずは、カザルム学舎《がくしゃ》の古参《こさん》の教導師《きょうどうし》であり、かつて学友であったエサルに便りを出して事情《じじょう》を説明し、ぜひ、エリンに(入舎ノ試し)を受けさせてもらえるよう頼《たの》んだ。
その返事が返ってくるまでの半月のあいだ、ジョウンは蜜蜂《みつばち》たちを、ほかの蜂飼《はちか》いに売り渡《わた》す交渉《こうしょう》をしながら、一方で、エリンに(人舎《にゅうしゃ》ノ試《ため》し) のための教えを施《ほどこ》した。
春は、飛ぶように過ぎていった。
ようやくエサルからの返事が届いたとき、エリンは、便りの封《ふう》を開くジョウンの手もとを見ながら、膝《ひざ》がふるえるのを抑《おさ》えられなかった。
エサルの返事は簡素《かんそ》なものだった。
夏に行われる正規《せいき》の試《ため》し以外、基本的には(人舎ノ試し)は行われない。しかし、三人の学童《がくどう》が、はなはだしい規則違反《きそくいはん》を犯《おか》して、この春、学舎を去《さ》ることになった。それゆえ、ほかならぬジョウンの頼《たの》みであるし、(人舎ノ試し)を特別に行ってもよい。
ただし、試しは厳《きび》しく行う。特別|枠《わく》であるから、通常の試しの際の、三位であった者と同じ点に達していなければ容赦《ようしゃ》なく落とすので、そのつもりで来られたしと、女人《にょにん》の字とは思えぬ闊達《かったつ》な字で書かれていた。
カザルム保護場《ほごじょう》への旅のあいだ、エリンとジョウンは、あまり口をきかなかった。寂《さび》しさと期待《きたい》と不安とがないまぜになった気持ちが、二人の口を重くしていたのだ。
カザルム学舎《がくしゃ》の前で馬車を降《お》りると、湿《しめ》った草の匂《にお》いが、ふっと頬《ほお》をさすった。
暗い雲が風に流されて走り、ときおり、雲の切れ間から明るい日の光が射《さ》して、雨に濡《ぬ》れた草原をきらきらと輝《かがや》かせている。
その広大な高地の只中《ただなか》に、カザルム学舎は、ぽつんと建っていた。
木造二階建ての大きな建物が三棟並んでいたが、どの建物の壁《かべ》も風雪にさらされて飴色《あめいろ》に変色している。黒い瓦葺《かわらぶ》きの屋根は苔《こけ》が生え、風で飛ばされてきた種が芽吹《めぶ》いたのか、雑草が花を咲《さ》かせている屋根もあった。
玄関《げんかん》の大扉《おおとびら》の奥《おく》から、かすかにざわめきが聞こえていたが、いまは修練《しゅうれん》の時間なのだろう、六十人もの学童《がくどう》がいるとは思えぬほど、静かだった。
ジョウンはエリンの肩《かた》に手をおいた。
「心配いらん。十二|歳《さい》の子どもらが受ける(入舎《にゅうしゃ》ノ試《ため》し)に、おまえが落ちるはずがない。緊張《きんちょう》しないで、心をしずめて解《と》けば、必ず受かる」
エリンはうなずいたが、口の中がからからだった。
エリンが馬の手綱《たづな》を門扉《もんぴ》の脇《わき》の馬留《うまど》めに結《むす》んでいるあいだに、ジョウンが、門扉にさがっている緑青《ろくしょう》のふいた鐘《かね》を叩《たた》いた。こんな音で、あの大扉《おおとびら》の奥《おく》まで聞こえるのかと思うような鈍《にぶ》い音しかしなかったが、しばらくすると、軋《きし》みながら扉があいて、中から、背の高い人影《ひとかげ》が現れた。
最初、エリンは、中年の男が現れたのだと思ったが、日の下に出てきたその人の顔を見て、女人《にょにん》であることに気づいた。胸から膝《ひざ》のあたりまでをおおっている白い前掛《まえか》けは、染《し》みだらけで、男のように踝《くるぶし》まである筒袴《つつばかま》をはいている。そばに来ると、かすかに獣臭《けものくさ》い臭《にお》いが漂《ただよ》ってきた。
まだ老人という年ではないようなのに、白髪《しらが》|交《ま》じりの髪《かみ》は短く、顔は日に焼けてしわだらけで、エリンはとっさに干《ほ》し肉を連想《れんそう》してしまった。
その人は鉄の門扉の鍵《かぎ》をはずし、内側に引いて、二人を招《まね》き入れた。
「久しぶりだな、エサル。きみは、まったく変わらんなあ」
エサルの顔に、微笑《びしょう》が浮かんだ。
「年をとったわ。……あなたは、ずいぶん日に焼けたわね」
エサルは、さっとエリンに視線《しせん》を走らせた。
「あなたが、エリンね」
エリンは額に両掌《りょうてのひら》をあてる正式な礼をした。
「エリンです。よろしくお願いいたします」
エサルはうなずいた。
「ずいぶん、背が高いわね。十四と聞いていたけれど、十六ぐらいに見えるわね」
ジョウンはエリンの肩《かた》に手をおいた。
「やせっぽちだがな。ここ二年くらいで、急に伸《の》びた。昔は、吹《ふ》けば飛ぶようなチビだったんだが」
エサルは、もう一度うなずいた。
「学舎《がくしゃ》を案内しましょう」
歩きだしたエサルのあとについて、二人は学舎に入った。
中は薄暗《うすぐら》く、がらんと広くて、明るい戸外から入ると、つかのま、目がくらんだ。古い木造の建物|独特《どくとく》の匂《にお》いに、男の学童たちの日向《ひなた》|臭《くさ》いような匂いが混《ま》じって漂《ただよ》っている。ジョウンには懐《なつ》かしい匂いだった。
玄関《げんかん》の土間で短靴《たんぐつ》を脱《ぬ》ぎ、持参した室内|履《ば》きに履きかえて廊下《ろうか》にあがると、二人はエサルに導《みちび》かれて、薄暗い廊下を歩きはじめた。
廊下の南側に並《なら》んでいるのは教導室《きょうどうしつ》らしく、学童《がくどう》たちが、教導師《きょうどうし》になにか答えている声が聞こえている。
北側にもいくつも部屋があったが、ひっそりとして、人の気配《けはい》はなかった。
エサルは、廊下《ろうか》の突《つ》きあたりにある引き戸の前に立った。引き戸の上には、古めかしい文字で、(教導師長室《きょうどうしちょうしつ》)と書かれた札《ふだ》がかかっていた。
引き戸に手をかけたエサルを、ジョウンはあわててとめた。
「ちょっと待った、エサル、いま、教導師長《きょうどうしちょう》は、どなたがなさっておられるんだ?」
ささやいたジョウンに眉《まゆ》をあげてみせ、エサルは戸を引いた。
障子戸《しょうじど》が半開きになっている南側の窓から、やわらかい日の光が射《さ》しこんでいる、その部屋の中には、誰《だれ》もいなかった。
「知らなかったの? もう二年前から、わたしが教導師長をやっているのよ」
ジョウンは目を丸くした。
「それはそれは。……きみは、学内|政治《せいじ》には興味《きょうみ》がないと思っていたが……」
エサルは鼻で笑った。
「ここはタムユアンじゃないのよ。野心《やしん》のある者はこんなところに長居《ながい》はしないわ。カザルムではね、教導師長《きょうどうしちょう》は、一生をここで過《す》ごす、野心のない者が就《つ》く位なのよ」
教導師長室に入ったときから、エリンは、北側の壁《かべ》に作りつけられている書棚《しょだな》に、目を奪《うば》われていた。ジョウンが持っていたよりも、たくさんの書物が並《なら》んでいる。
書棚に見とれていたので、エリンはジョウンの表情《ひょうじょう》には、まるで気づかなかった。
教導師長室というには、この部屋があまりにも質素《しっそ》であることに、ジョウンは驚《おどろ》きを隠《かく》せずにいた。エサルは、もともと豪華《ごうか》な装飾《そうしょく》などには、とんと興味《きょうみ》のない女人《にょにん》だから、こういう部屋にしているのかもしれないが、それにしても家具のひとつひとつが古く、高価なものはひとつもない。
教導師長室《きょうどうしちょうしつ》というのは、いわば学舎《がくしゃ》の顔だ。来客《らいきゃく》はここを見て、学舎の威風《いふう》と経営《けいえい》|状況《じょうきょう》を感じとる。この部屋は、一目で、カザルムという学舎がどのような状況にあるのかがうかがえる部屋であった。
書棚《しょだな》の脇《わき》には、大きな柱時計があり、カチカチと時を刻《きざ》んでいる。
がらんと広い部屋の床《ゆか》には、厚織りの敷物《しきもの》が敷《し》かれ、扉《とびら》と向かい合うかたちで正面に据《す》えられた低い座《すわ》り机《づくえ》がひとつと、座椅子《ざいす》があった。
部屋の中央には埋めこみ式の炉《ろ》があり、それを囲《かこ》むように座り机が四個、配置されている。それぞれの机には、座椅子がふたつずつおかれていた。
炉の炭は小さく囲《かこ》われていたが、火を孕《はら》んで赤く輝《かがや》いている。鉄製の鍋《なべ》置きの上に土瓶《どびん》がおかれ、土瓶のロから湯気が白く立ちのぼっていた。
エサルは、炉を囲んでいる座椅子を示した。
「そこに座ってちょうだい。いま、お茶をいれるわ」
ジョウンの表情《ひょうじょう》を見て、エサルは微苦笑《びくしょう》を浮《う》かべた。
「ここには、お茶をいれてくれる侍女《じじょ》はいないのよ。そんな人手を雇《やと》うお金があれば、学童《がくどう》を一人でも多く採《と》るわ」
慣《な》れた手つきでお茶をいれると、エサルは二人の前にそれをおいた。それから、エリンの顔を見た。
「合否はともかく、今夜はジョウンと二人で、ここの宿舎にお泊《と》まりなさい。
長旅で疲《つか》れているでしょうから、試《ため》しは明日にしてもいいけれど、どうする?」
エリンはいったん手にとりかけた湯飲みを机《つくえ》においた。
興奮《こうふん》しているせいか、さほど疲れは感じていなかったし、これ以上、どきどきしながら待つのはごめんだった。
「……もし、いまから行《おこな》っていただけるなら、いまのほうがいいです」
エサルは、うなずいた。
「なら、そうしましょう。……お茶を飲《の》みなさい。すこしは落ちつくはずよ」
なにが入っているのか、熱いお茶は柑橘系《かんきつけい》の果実のよい香《かお》りがした。かすかに甘《あま》く、飲むうちに身体《からだ》の芯《しん》が温まってきた。熱い湯飲みに触《ふ》れている指先が、ちりちり痛《いた》んだ。
春とはいえ、雨降りの高地を渡《わた》ってくる旅はかなり寒かった。自分の手が冷えきっていたことに、お茶を飲んで、気がついた。
エサルが言ったとおり、お茶を飲みおえるころには、すこし緊張《きんちょう》が解《と》けて、部屋の調度品《ちょうどひん》などが、はっきりと見えるようになった。
「いい顔色になったわね。 ──それじゃ、始めましょうか。ジョウンは、こちらへ来てちょうだい」
どっこらせ、とジョウンが湯飲みを持って立ちあがり、エサルの机の脇《わき》に腰《こし》をおろすと、エサルは三枚の紙と、墨壷《すみつぼ》と細筆《ほそふで》を机からとりあげ、エリンの前においた。
「さあ、やってごらんなさい。時間は、一ト」
薄紙《うすがみ》にびっしり書かれている文字を見たとたん、心ノ臓が、痛《いた》いほど脈《みゃく》打ちはじめた。舌が上顎《うわあご》に貼《は》りついて、頭がじーんと痺《しび》れた。
深く息を吸《す》って、エリンは文字を見つめた。一枚目には算式が書かれている。二枚目は生き物の生態についての問い。三枚目は作文であった。
最初の一問の解答が頭に浮かんだとき、エリンは、すっと心が落ちつくのを感じた。それからは、周囲の物音がいっさい聞こえなくなった。
三枚の紙に、すべての解答を書きおえると、エリンはもう一度|確《たし》かめ、それから静かに筆《ふで》をおいた。
「……もういいの?」
エサルが問うた。
「まだ、半トしか過《す》ぎていないわよ」
エリンは瞬《まばた》きした。どのくらいの時間がたったのか、まるで感じていなかった。ともかく、すべて書きおえた。これ以上考えていても、なにも出てこない。
エリンは紙を持って立ちあがると、エサルのところへ持っていった。
エサルは紙を受けとると、机《つくえ》の上から老眼鏡《ろうがんきょう》をとり、鼻にかけた。そして、解答を読みはじめた。
さっきまで、まったく聞こえていなかった柱時計の音が、耳につきはじめた。
湯が沸《わ》いている土瓶《どびん》の蓋《ふた》が鳴《な》る音も、気になった。
エサルは素早《すばや》く解答に目を通し、一枚、二枚と紙を机の上においたが、三枚目の作文はかなり長い時間をかけて読んだ。
読みおえると、エサルは、エリンではなく、ジョウンに目を向《む》けた。
「……なるほど。あなたの秘蔵《ひぞ》っ子《こ》というわけね」
ジョウンの顔に、ゆっくりと笑《え》みが浮《う》かんだ。
「どうだい?」
エサルはなにも言わずに、作文の紙を机におくと、指の関節《かんせつ》でコツコツと紙を打《う》った。
それから、背を伸《の》ばして立っているエリンを見上げた。
「学業《がくぎょう》は初等組ではなく、あなたの年齢《ねんれい》どおりの中等二段に入っていいわ。ただし、実習《じっしゅう》は、十二|歳《さい》の学童《がくどう》たちと一緒《いっしょ》に、王獣《おうじゅう》と家畜《かちく》の糞《ふん》集めから始めなさい。……それで、いい?」
一瞬《いさしゅん》おいて、エリンは、うなずいた。
「は……い。ありがとうございます」
「なら、そうしましょう。早速《ささそく》、今夜、夕食のときにでも、学童《がくどう》仲間たちに引き合わせるわ」
エサルは微笑《ほほえ》んだ。
その笑みを見た瞬間《しゅんかん》、この学舎《がくしゃ》に受け入れられたのだということが、はっきりと心に泌《し》みた。緊張《きんちょう》が一気にゆるんだからだろう、声がふるえるのを、抑《おさ》えられなかった。
「はい。………よろしく、お願いいたします」
エサルはちょっと身体《からだ》をねじって、天井《てんじょう》の小さな穴から垂《た》れさがっている房《ふさ》のついた紐《ひも》を引いた。
すこしして、戸を叩《たた》く音が聞こえてきた。
「教導師長《きょうどうしちょう》さま、カリサでございます」
エサルが入りなさいと答えると、戸を引きあけて、エサルよりすこし若い年頃《としごろ》の、はちきれそうに太った女人《にょにん》が入ってきた。
エサルは、ジョウンとエリンに、女人を引き合わせた。
「このカザルム学舎《がくしゃ》|寮《りょう》の寮母《りょうぼ》さんよ。六十人の学童《がくどう》たちの、母親代わりをしてくださっている方よ」
カリサは、明るい笑《え》みを浮かべた。
「学童ってより、悪童《あくどう》って連中ですからねえ、大変ですよ。まあ、なんとかかんとか、毎日|過《す》ごしていますがね。……あら、挨拶《あいさつ》が後先《あとさき》になりましたね。ごめんなさい。
わたしは、カリサと申《もう》します。あなたが新しい学童ね」
エリンは正式な礼をした。
「エリンと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
カリサの笑みが、大きくなった。
「あらまあ。きちんとした挨拶《あいさつ》だこと。やっぱり、女の子はいいわねえ。あなた、掃除《そうじ》や洗濯《せんたく》、繕《つくろ》い物《もの》は?」
エリンがロを開くまえに、ジョウンが答えた。
「我《わ》が家《や》では、この子が、家事《かじ》のいっさいをやってくれていました。お手数をおかけすることはないと思います」
「あらぁ! それはいいわ。学童連中ときたら、まあ、だらしないんだから。
ね、教導師長《きょうどうしちょう》、これからは積極的《せっきょくてき》に女の学童を増《ふ》やしましょうよ」
エサルは苦笑《くしょう》を浮《う》かべたが、それには答えず、エリンの肩《かた》に手をおいた。
「カリサに、学舎《がくしゃ》内を案内《あんない》していただきなさい。
カリサ、エリンは中等二段に編入《へんにゅう》させます。寮《りょう》の部屋にも案内して、ここでの暮《く》らしに必要《ひつよう》なことを、ひととおり教えてあげて」
カリサは目を丸くした。
「あら、二年飛び級ですか。そりゃ優秀《ゆうしゅう》だわ」
そう言って、カリサはジョウンに微笑《ほほえ》みかけた。
「ちゃんとお預《あず》かりしますんで、どうかご心配なさらないでくださいな」
ジョウンは深くお辞儀《じぎ》をした。
「お手数をおかけしますが、なにとぞ、よろしくお願いいたします」
「ええ、ええ。………じゃ、エリン、いらっしゃい」
ジョウンがエサルをふり返った。
「この子の身の回りのもの一式は、まだ馬車においたままなのだが……」
「それは、気にしなくていいわ。あとで、用務《ようむ》の者に手伝《てつだ》わせるから。あなたも、今夜は、ここに泊まるでしょう? 今夜は、エリンも寮《りょう》ではなく、二人で宿舎の客間に泊《と》まればいいわ」
「そうか。そうしてもらえれば、ありがたい」
エリンが、カリサに導《みちび》かれて出ていくと、ジョウンはエサルに頭をさげた。
「無理《むり》なお願いをしたが、受け入れてくれて助かった。ほんとうに、感謝《かんしゃ》している」
エサルは、机《つくえ》から三枚の解答をとりあげると、ジョウンに手渡《てわた》した。
読みはじめたジョウンに、おだやかな声で、エサルは言った。
「……三十年|教導師《きょうどうし》をやってきたから、優秀《ゆうしゅう》な学童《がくどう》はたくさん見てきたわ。だから、小さな計算|間違《まちが》いひとつで、あとは全問正解であっても、たいして驚《おどろ》きはしない。
でもね、この作文には、正直《しょうじき》、驚いたわ」
ジョウンは、ほかの二枚を机にもどして、エリンの作文を読みはじめた。
なぜ、獣《けもの》ノ医術師《いじゅつし》になりたいのか、という問いに対して、エリンは、
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──この世に生きるものが、なぜ、このように在《あ》るのかを、知りたいのです。
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と答えていた。
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──生き物であれ、命なきものであれ、この世に在《あ》るものが、なぜ、そのように在るのか、自分は不思議《ふしぎ》でならない。小さな蜜蜂《みつばち》たちの営《いとな》みが、信じられぬほど効率《こうりつ》がよいこと、同じ蜂《はち》でも多種多様であること、なぜ、それらが、そうであるのかを考えると、果《は》てしない問いが浮《う》かんでくる。自分も含《ふく》め、生き物は、なぜ、このように在《あ》るのかを知りたい。
獣《けもの》は、人のように言葉を話さない。彼らの病《やまい》を治《なお》すためには、人は、彼らについて、ありとあらゆることを、学びつづけなければならない。獣について学ぶことは、きっと、自分が知りたいと思っていることに、つながっているはずである。
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そういう趣旨《しゅし》のことが、書かれていた。
ジョウンは論述《ろんじゅつ》の紙を机《つくえ》におき、エサルを見た。
エサルが口を開いた。
「……あなたは、根っからの教導師《きょうどうし》なのね。学舎《がくしゃ》を離《はな》れたのに、優秀《ゆうしゅう》な子を見つけたら、育《そだ》てたくなるなんて」
ジョウンは首をふった。
「そうじゃない。……わたしが見出《みいだ》したわけじゃない。エリンは、わたしの暮《く》らしの中に、ふいにとびこんできたのだよ」
ジョウンは、エリンを助けたいきさつから、エリンの母親のことまで、すべて、エサルに語って聞かせた。
話しおえたときには、窓から射《さ》しこむ光が夕暮れの蜜色《みついろ》に変わっていた。
エサルは、かすかに眉《まゆ》をひそめて、低い声で言った。
「……そう。そういう経緯《けいい》のある子なのね。十四とは思えない静けさがあるのは、そういうことがあったからなのでしょうね」
エサルはうつむいてロの中でつぶやいた。
「母親は、戒律《かいりつ》を破《やぶ》ったアォー・ロゥか……」
ジョウンは眉《まゆ》をあげた。
「アォー・ロゥ?」
ジョウンの声に、はっとしたようにエサルは顔をあげた。
「いやね。ロがまわらなかっただけよ。戒律《かいりつ》を破《やぶ》った|霧の民《アーリョ》、と言ったのよ。
あの子の目を見れば、たしかに、ひと目で|霧の民《アーリョ》の血をひいていることがわかるわね。
ここの者たちには──学童《がくどう》にも──エリンがこの学舎《がくしゃ》に入ることが決まった場合、彼女が|霧の民《アーリョ》の血をひいていることは、いっさい無視《むし》するようにと、厳《きび》しく言ってあるから、そのことは心配しないで」
ジョウンは、ほっと表情《ひょうじょう》をゆるめた。
「ありがとう。それを聞いて安心した」
エサルの顔に微苦笑《びくしょう》が浮《う》かんだ。
「……|霧の民《アーリョ》でも、大公領民《ワジャク》でも、身分が低くても、女でも、獣《けもの》を助けたいという心があって、それを為《な》せるだけの頭があれば、この学舎《がくしゃ》の一員として、なんの不足もないわ」
エサルの顔に、ジョウンはそのとき、ふっと、はるか昔、ともに学舎で学んだ、恐《おそろ》ろしく強気な女学童の面影《おもかげ》を見た。
[#改ページ]
[#地付き]3 ユーヤン
広い食堂の天井《てんじょう》には雪洞《ぼんぼり》のような形の灯《あか》りが八つさがっていて、正座《せいざ》している学童《がくどう》たちと、食卓《しょくたく》にずらっと並んだ、質素《しっそ》だが量だけはたっぷりとある料理とを、やわらかく照らしている。
夕餉《ゆうげ》の席に案内されたエリンは、居並《いなら》ぶ男子学童の視線《しせん》にさらされて、胸を押《お》されるような圧力を感じた。
こんなにたくさんの男の子を一度に見たのは初めてだったし、こんなふうにいっせいに見つめられるのも初めてだったから、ものすごくあがってしまって、脇《わき》に立っているエサルが、自分のことをなんと紹介《しょうかい》したのか、自分がどんな挨拶《あいさつ》をしたのか、あとになってもまったく思いだせなかった。
次に驚《おどろ》いたのは、案内された席についたとたん、隣《となり》の席の大柄《おおがら》な女の子が、満面《まんめん》の笑《え》みを浮《う》かべて、エリンの手を握《にぎ》ったことだった。
「うれしいわぁ! 女の子やん!」
奇妙《きみょう》な抑揚《よくよう》のついた言葉でそう叫《さけ》ぶや、その女の子は、がっしりとエリンの両手を握《にぎ》ったのだ。
「わたし、これまで、孤独《こどく》やったん! 男の中に女一人で、肩身《かたみ》が狭《せま》い思いをしとったん。これで、仲間ができたわぁ! 神さま、ありがとう!」
初対面《しょたいめん》の子にいきなり大歓迎《だいかんげい》されて、エリンは呆然《ぼうぜん》としていたが、周囲《しゅうい》の男子たちは、にやにや笑いはじめた。
「……なにが、肩身が狭いだよ」
「よくそんな言葉が出るよなあ。おれたちより大飯《おおめし》食って、のんびり暮《く》らしているくせに」
女の子は、その男子たちの言葉などまったく聞こえていない様子で、握《にぎ》りしめたエリンの両手を、勢《いきお》いよくふった。
「あんなぁ、わたし、ユーヤンって言うん。仲良くしてなぁ」
ユーヤンの手は、エリンの手を包《つつ》むくらいに大きく、温《あたた》かかった。
腹の底になにもない、あけっぴろげの、その笑顔《えがお》を見るうちに、エリンもいつのまにか、笑顔になっていた。
「わたし、エリン。こちらこそ、よろしく……」
ユーヤンの目にうれしそうな光が浮《う》かんだ。
「あ、いい笑顔《えがお》やなぁ! あんた、大人っぽいけど、笑顔はとってもかわいいんなぁ」
大声でそう言って、ユーヤンは男子たちをふり返った。
「なあ、そう思わん?」
男子たちは苦笑《くしょう》を浮《う》かべるだけで答えなかったが、彼らの苦笑はどことなく、やんちゃな妹を見ている兄を思わせた。
「さ、食べよ、食べよ。冷えてまうまえに、食べよ」
そう言うや、教導師《きょうどうし》たちや男子たちが箸《はし》をとるより早く、ユーヤンは箸をとって、もりもりと食べはじめた。
唖然《あぜん》としてそれを見ていたエリンが目をあげると、男子たちが、にやっと笑った。そして、食べていいんだぞ、というように、うなずいてくれた。
教導師長の脇《わき》に座《すわ》っているジョウンは、エリンが食べはじめるのを見て、心底ほっとしていた。
エリンは賢《かしこ》いが、どこか孤独《こどく》な影《かげ》のある子だ。|霧の民《アーリョ》の血もひいている。ジョウンがもっとも心配したのは、学童《がくどう》仲間から孤立《こりつ》してしまうのではないかということだったが、どうやら、それほど心配する必要はなさそうだった。
そのジョウンの心中を読んだように、エサルが言った。
「………あの組にはユーヤンがいるから、大丈夫《だいじょうぶ》。ユーヤンはお日さまのような子でね。早とちりの王さまだけれど、誰《だれ》にも気兼《きが》ねせず、誰にも気兼ねさせない子なのよ」
ばくばく食べながら、さかんにエリンに話しかけている大柄《おおがら》な女の子を見ながら、ジョウンはうなずいた。
これでよかったのだ、という思いが、そのとき胸の底に広がった。息子《むすこ》が現れたあの日以来、ずっと心に抱《かか》えていた錘《おもり》が消えていき、心が軽くなった。 ──その軽さには、寂《さび》しさも混《ま》じってはいたが。
翌日、馬車に乗って去《さ》っていくジョウンを見送るとき、エリンは泣いた。
突然《とつぜん》|湖畔《こはん》に流れついた自分を助けて、我《わ》が子《こ》のように育《そだ》ててくれたジョウンに、なんと言えば、この胸からあふれそうな思いを伝えられるのか、わからなかった。
ただ、深く頭をさげながら、エリンは、小さくなっていく車輪の音を聞いていた。
ジョウンに抱《いだ》かれ、守られていた、幸せな暮《く》らしが消えていくのを感じながら。
*
カザルム学舎《がくしゃ》での暮らしは慣《な》れぬことばかりで、エリンは初め、ずいぶん戸惑《とまど》った。
自分でも意外《いがい》だったのだが、なにより苦痛《くつう》だったのは、多くの学童《がくどう》たちと足並《あしな》み揃《そろ》えて暮らすということだった。
学舎では、起《お》きる時間から寝《ね》る時間まで、ほかの学童と同じようにしなければならない。これまでのジョウンとの暮《く》らしでは、やるべき仕事さえ片づければ、あとは好きなように過《す》ごすことができたが、ここでは、一人になれる時間というのが、ほとんどなかった。
教導師《きょうどうし》による講義《こうぎ》は、初めて学ぶ分野は面白《おもしろ》かったけれど、すでにジョウンに教えてもらっていた分野の講義は退屈《たいくつ》だった。
反対に、興味《きょうみ》を惹《ひ》かれた講義では、頭の中に次々に疑問《ぎもん》が浮《う》かんできて困《こま》った。ジョウンに教えてもらっていたときは、疑問が浮かんだらすぐに尋《たず》ねることができたけれど、ここでは、そんなふうに次から次へと質問《しつもん》していくような学童はいない。皆《みな》、黙々《もくもく》と講義を聞くだけだったから、自分だけ手をあげて質問するのはためらわれた。
家畜《かちく》の治療《ちりょう》を行う実習《じっしゅう》のときも、教導師が教えることを覚《おぼ》えて、同じ作業をくり返すだけであるのが、エリンにはつらかった。ふと気になったことがあって、じっくり観察《かんさつ》してみたくとも、そういう勝手は許《ゆる》されないからだ。
ある夜、ユーヤンが、エリンの顔をのぞきこんで、心配そうに言った。
「疲《つか》れとるみたいやなぁ。顔色悪いで」
ユーヤンとエリンは、全学童の中でたった二人の女子だったから、男子のように大部屋ではなく、二人だけの小さな部屋を与《あた》えられていた。もともと、その部屋に一人で暮《く》らしていたユーヤンにしてみれば、いきなり二人になったのは気詰《きづ》まりではないかと思ったのだが、ユーヤンは本気で喜《よろこ》んでいるようだった。
一緒《いっしょ》に暮らしてみると、ユーヤンはじつに気のおけない、やさしい子であった。
玉に瑕《きず》は、稀《まれ》に見る早とちりであることと、大きな声で寝言《ねごと》を言うことぐらいで、ときおり、真夜中に、エリンは、ユーヤンの突拍子《とっぴょうし》もない寝言でとび起《お》きてしまうことがあったけれど、それもまた、翌朝には笑い話の種になるのだった。
十日、二十日とたつうちに、二人は、昔から一緒にいたような気がするほどの、仲良しになっていた。
ユーヤンに気遣《きづか》われるたびに、エリンは、自分の口下手《くちべた》を申《もう》しわけなく思う。
心の内を人に話すことに慣《な》れていないので、悩《なや》みを抱《かか》えていても、自分から打ち明けるきっかけがつかめないのだ。
真王《ヨジェ》領のなかでも、もっとも北のはずれにある山里で育《そだ》ったユーヤンは、一見、大雑把《おおざっぱ》に見えたけれど、じつはとても繊細《せんさい》で、人の悩《なや》みに素早《すばや》く気づく子だった。
「無理《むり》ないわぁ。チビ助たちと一緒に糞《ふん》集めするの、疲《つか》れるんやろ。あいつら、騒々《そうぞう》しいからなぁ」
エリンは苦笑《くしょう》して、首をふった。
「ううん。チビ連と働《はたら》くのは、けっこう楽しいよ。……困《こま》っているのは、そのことじゃないの……」
口ごもりながら、エリンは、自分はどうも、人と足並《あしな》みを揃《そろ》えるのが苦手《にがて》らしい、と打《う》ち明けた。心の中にある戸惑《とまど》いや苦痛《くつう》を、エリンがとつとつと話すのを、ユーヤンは目を丸くして聞いていたが、エリンが口を閉じるや、「ふえぇ」と言った。
「そんなことで困《こま》っとったん。はたからは、まったくそういうふうには見えんかったでぇ。男連中なんか、エリンは大人やなあ、中途《ちゅうと》から入ったのに、自然に溶《と》けこんでるって、感心しとったで」
エリンはびっくりした。そんなふうに見られているとは、思ってもいなかったからだ。
ユーヤンは笑った。
「なんや、気づかんかったん? あんた、男連中から注目されてんでぇ。ほら、あんた、|霧の民《アーリョ》の血をひいとるやん? だから、なんとのう神秘的《しんぴてき》に見えるんやんな」
率直《そっちょく》な口調《くちょう》で、ユーヤンはそう言った。
「エサル師は、あんたが|霧の民《アーリョ》の血をひいとることは無視《むし》せぇって、おっしゃったけど、それは無理《むり》やんなぁ? ちがうところがあったら、気になるんが、人ってもんやん。
わたしはなぁ、無視するんじゃなくて、その違《ちが》いを、勝手に悪い意味にとるような、くだらんまねはせんって、はっきり伝えることのほうがずっと大事だと思うん」
自分をまっすぐに見ているユーヤンに、エリンは、うなずいた。
「わたしも、そのほうが、ずっと大事だと思う」
ユーヤンの顔が、さっと明るくなった。
「そうやんなあ? ……わたし、こんな話し方やん。だから、学舎《がくしゃ》に入りたてのころは、ずいぶん、男連中に笑われたん。そしたらな、カシュガンっておるやん……」
エリンは、ちょっと瞬《まばた》きをした。
ややあって、面長《おもなが》の、背の高い少年の顔が浮《う》かんできた。
「ああ、わかった。いつも、帯を縦結《たてむす》びにしてる人ね」
ユーヤンは笑った。
「そう。あいつ、帯結ぶん、下手《へた》なん。……ともかく、あいつがな、言ってくれたん。生まれ育《そだ》った地方、地方で、話し言葉はちがうんだから、笑うなよって。おまえらだって、自分の故郷《こきょう》の言葉を笑われたら、うれしくないだろうって」
エリンは、思わず笑顔《えがお》になった。
「へえ。……いい人だね」
「そうやん? なぁ! そういうのが、一番うれしいねんなぁ? だから、わたしは、エリンちゃんが|霧の民《アーリョ》の血をひいとることを無視《むし》したりせん。どんな目をしとっても、エリンちゃんは、エリンちゃんやと思うだけや」
自分でも思いがけず、目頭《めがしら》が熱くなるのを感じて、エリンはあわてた。とめる間もなく、涙《なみだ》がこぼれ落ちてしまった。
ユーヤンは顔色を変えて、おろおろと、エリンの手をとった。
「あ、泣かんで。泣かんでぇ。ごめんなぁ。わたし、率直《そっちょく》に言いすぎたなぁ」
エリンはうつむいて首をふった。
「……ごめん」
なんとかとめようと思うのに、涙をとめることができなかった。エリンはむちゃくちゃに目をぬぐって、何度も首をふった。
|霧の民《アーリョ》の血を云々《うんぬん》されることで、自分がこれほど深く傷《きず》ついていたのだと、エリンは初めて気づいた。祖父《そふ》や、ジョウンの息子《むすこ》が浮《う》かべたあの表情《ひょうじょう》に、こんなに傷ついていたのだと。
(……ユーヤンは、ほんとうに、すごい)
ユーヤンに比べたら、たとえ尊敬《そんけい》されている闘蛇衆《とうだしゅう》の頭《かしら》であろうが、実の孫《まご》さえ冷《ひ》ややかに見捨《みす》てた祖父など、屑《くず》同然だ。
エリンは目をぬぐって顔をあげ、ユーヤンを見つめた。
「ありがとう」
ほかの言葉は出なかったけれど、ユーヤンは、涙《なみだ》をためた目で、うなずいてくれた。
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[#地付き]4 王獣《おうじゅう》の笛《ふえ》
ユーヤンは心配してくれたが、エリンは、初等の学童《がくどう》たちと糞《ふん》集めをしたり、掃除《そうじ》をしたりするのは、まったく苦にならなかった。
まだ幼《おさな》さの残る十二|歳《さい》の学童たちは、糞集めをするあいだ、汚《きたな》いだの臭《くさ》いだのと大騒《おおさわ》ぎをして、とんでもなくうるさかったし、周辺の牧場《ぼくじょう》から預《あず》かっている病気の家畜《かちく》たちの囲《かこ》いを掃除するのも、掃除をするより散《ち》らかすほうが得意で、結局エリンが一人で後始末《あとしまつ》をしなくてはならないことが多かったけれど、獣《けもの》囲いで行う労働《ろうどう》は、エリンには、けっこうよい気晴《きば》らしになっていた。
なによりもうれしかったのは、王獣《おうじゅう》を毎日見られることだった。
王獣の世話《せわ》ができるのは最上級の学童《がくどう》だけで、エリンたちは近寄ることさえ許《ゆる》されていなかったけれど、王獣が高地の広大な囲いの中へ放《はな》たれた昼のあいだに、王獣が眠《ねむ》る寝床《ねどこ》のための寝藁《ねわら》を集めたり、糞を集めたりする仕事は初等の学童の仕事だったのだ。
遠くに王獣《おうじゅう》の姿を見るたびに、エリンは、胸が高鳴《たかな》るのを感じた。
おだやかな春のあいだ、王獣たちは、なだらかな草地にたたずみ、ときおり翼《つばさ》をゆっくりと動かしながら、日向《ひなた》ぼっこをしている。
初めて、その姿を見たとき、エリンは、かすかな違和感《いわかん》を覚《おぼ》えた。かつて、よく見にいっていた野生《やせい》の王獣とは、どこかちがうような気がしたのだ。しかし、自分がなぜそんなふうに感じたのか、そのときは、わからなかった。
王獣はけっして人に馴《な》れない獣《けもの》だと、教導師《きょうどうし》はくり返し学童《がくどう》に語って聞かせた。
ふだんはとても静かだが、怒《おこ》ったときの暴《あば》れ方はすさまじい。だから、王獣のそばに行くときは、絶対に油断《ゆだん》してはいけないのだと。
教導師が静かな口調《くちょう》で語った話───十三年前、不用意《ふようい》に王獣に近づいた学童が、あっというまに噛《か》み裂《さ》かれて絶命《ぜつめい》したという話は、王獣の糞《ふん》集めをしている初等の学童たちをふるえあがらせた。
エリンは、それを聞きながら、かつて岩棚《いわだな》から見た光景《こうけい》を思いだしていた。
刃物《はもの》も通《とう》らぬ闘蛇《とうだ》の鱗《うろこ》を、なんなく噛み裂いていたあの牙《きば》にかかれば、人の身体など、やわらかい脂《あぶら》のようなものだろう。
「……わかったな? 最上級になって、充分《じゅうぶん》に知識《ちしき》と経験《けいけん》を身につけるまでは、けっして王獣《おうじゅう》に近づいてはならんぞ。いいな?」
そう言うと、教導師《きょうどうし》がおもむろに懐《ふところ》から、小さな笛《ふえ》をとりだした。
エリンは、はっと目を見開いた。 ──それは、母が持っていた音無し笛に、とてもよく似た笛だった。
「これは音無し笛だ。吹《ふ》いても音はしないが、これを吹かれると、王獣は動けなくなる。
王獣のお世話《せわ》をする最上級の学童《がくどう》たちは、これを常に携帯《けいたい》し、必要のある場合は口にあてて吹くのだ。この笛が、王獣を操《あやつ》れる唯一《ゆいいつ》の道具なのだ。よく覚《おぼ》えておきなさい」
一人の学童が手をあげて、質問《しつもん》した。
「笛《ふえ》の力は、どのくらい遠くまで届《とど》くんですか?」
「まあ、十歩ぐらいだな。それ以上|離《はな》れると効力《こうりょく》がないと思っておいたほうがいい」
教導師の声が、遠くから聞こえてくるような気がした。
まさか、王獣が闘蛇《とうだ》と同じように音無し笛で操られているとは思ってもみなかった。
教導師の話を聞きながら、エリンは、心が沈《しず》んでいくのを感じていた。
実際《じっさい》に、音無し笛が吹《ふ》かれるのを見たのは、学舎《がくしゃ》で暮《く》らしはじめて、半月ほどたったころだった。
その日は、朝のあいだは晴天《せいてん》だったのだが、昼|過《す》ぎから急に天に重苦《おもくる》しい雲が垂《た》れこめ、強い風が吹《ふ》きはじめた。
エリンたちが王獣《おうじゅう》の寝床《ねどこ》に寝藁《ねわら》を敷《し》いていると、大柄《おおがら》な若者たちが王獣舎《おうじゅうしゃ》に駆《か》けこんできて、早く終えるようにと怒鳴《どな》った。
「雷雲《かみなりぐも》が出ている。王獣たちがもどってくるぞ! 急げ!」
雷が鳴《な》りはじめると、王獣は岩棚《いわだな》のくぼみにある巣にもどる習性《しゅうせい》がある。最上級の学童《がくどう》たちは、それを警戒《けいかい》していたのだ。
初等の子どもたちは大あわてで寝藁《ねわら》を敷《し》いて、王獣舎の外へ出ようとしたが、外の様子を見ていた若者が、子どもたちを押《お》しとどめた。
「待て、いま、外へ出るな! 王獣が一頭、すぐそこまで来ている!」
彼は、仲間に目をやった。
「吹《ふ》いていいよな?」
仲間はうなずいた。
「緊急時《きんきゅうじ》だ。吹け」
子どもたちを押《お》しとどめた若者は、手に持っていた笛を唇《くちびる》に押しあてて、力いっぱい吹いた。
なんの音もしなかったが、王獣舎の窓から外を見たエリンは、駆《か》けてきた王獣が、なにか見えない壁《かべ》にぶつかったように硬直《こうちょく》し、横転《おうてん》するのを見た。
地面にひっくり返っても、王獣《おうじゅう》は、まるで石のように動かなかった。
稲光《いなびかり》が走り、王獣の姿が白く浮う《》かびあがった。
すぐに激《はげ》しい雨が降ふ《》りだした。雨は王獣の身体《からだ》を叩《たた》き、みるみるうちに、びっしょりと濡《ぬ》らしていく。それでも王獣は動かなかった。
エリンは、鳥肌《とりはだ》が立つのを感じていた。……それは、寒々しい光景《こうけい》だった。
母が音無し笛を吹《ふ》いたとき、闘蛇《とうだ》が硬直《こうちょく》するのは、何度も目にしたことがあるけれど、あのときは、こんな寒気は感じなかった。
──あの笛は、王獣を殺すのだ──
そんな言葉が、稲光とともに脳裏《のうり》にひらめいた。
実際は、音無し笛を吹かれた王獣は、十バン(約十分)もたたずに、びくびくと身体を動かしはじめ、柵《さく》の外に逃《のが》れた学童《がくどう》たちが見守《みまも》るなか、ゆっくりと起《お》きあがって王獣舎《おうじゅうしゃ》へと入っていったのだが、その言葉は、石のように草原に転《ころ》がって雨に打《う》たれていた王獣の姿とともにエリンの脳裏に焼きつき、消えていかなかった。
そろそろ夏が訪《おとず》れようとしていたある日、柵《さく》に寄《よ》りかかって王獣《おうじゅう》をながめていたときも、エリンの頭の中に浮《う》かんでいたのは、その言葉だった。
そのころには、エリンは、ここにいる王獣たちのなにに違和感《いわかん》を覚《おぼ》えたのかわかっていた。ここの王獣たちは、体毛《たいもう》がくすんでいるのだ。
朝の光を背に飛んできた野生《やせい》の王獣《おうじゅう》の、あの鮮烈《せんれつ》な輝《かがや》き───息をのむほどに美しかった、あの体毛の輝きが、ここの王獣たちにはない。
傷《きず》つき、病《やまい》に冒《おか》され、送られてきた王獣たちだからだろうか。それとも、人に飼《か》われると、王獣はこんなふうに変わってしまうのだろうか。
幼獣《ようじゅう》のうちから人に飼われた王獣は、空を飛ばないのだと教導師《きょうどうし》は教えてくれた。
天空を力強く舞《ま》っていた王獣の姿を思いながら、この野原でたたずんでいる王獣を見ると、胸の底に乾《かわ》いた冷たい風が吹《ふ》いていくような心地《ここち》になる。
炉《ろ》の火に音無し笛を投げ入れたときの母の言葉が、脳裏《のうり》によみがえった。
[#ここから2字下げ]
──闘蛇《とうだ》を世話《せわ》するのは、いやではなかったわ。……この笛《ふえ》を使うのが、いやだったのよ。
笛を鳴らした瞬間《しゅんかん》、硬直《こうちょく》する闘蛇を見るのは、ほんとうにいやだった。……人に操《あやつ》られるようになった獣《けもの》は、哀《あわ》れだわ。野にいれば、生も死も己《おのれ》のものであったろうに。
人に囲《かこ》われたときから、どんどん弱くなっていくのを目《ま》のあたりにするのは、つらかった。
[#ここで字下げ終わり]
炉の火に照《て》らされた母の顔と、低い声を思いだしていたので、すぐ背後《はいご》に足音が聞こえるまで、人がそばに来ていたことに気づかなかった。
「王獣《おうじゅう》を見ているの?」
エサルの声に、エリンは、はっと我《われ》に返った。エサルはエリンの脇《わき》に並んで立ち、王獣をながめた。
「よくここで王獣を見ているけれど、王獣が好き?」
「……はい」
エサルは、視線《しせん》をエリンに向けた。
「そのわりには、暗い顔ね」
なんと答えたらよいかわからず、エリンは黙《だま》っていたが、ふと、ジョウンが、目の前にいるこの教導師長《きょうどうしちょう》のことを、王獣にとりつかれていると評《ひょう》していたことを思いだした。
気がついたときには、勝手に言葉が滑《すべ》りでていた。
「……人に飼《か》われている王獣は、哀《あわ》れなので」
エサルの眉《まゆ》が動いた。
「なぜ、そんなふうに思うの」
エリンはエサルから目を逸《そ》らし、王獣を見つめた。
「まえに、野生《やせい》の王獣《おうじゅう》を見たことがあります。その王獣は、あんなつやのない体毛《たいもう》はしていませんでした。強い翼《つばさ》で風を切って天を舞《ま》い、日の光を受けて白銀に輝《かがや》いていました」
エサルの目が、はっと大きくなった。
「なんですって? あなたは、野生《やせい》の王獣《おうじゅう》を見たことがあるの?」
その口調《くちょう》の強さに驚《おどろ》いて、エリンはエサルをふり返った。
「……はい」
「どこで?」
鋭《するど》い口調で問われて、エリンは喉《のど》のあたりがこわばるのを感じた。
「……カショ山です。カショ山の険《けわ》しい峡谷《きょうこく》の崖《がけ》に、巣《す》がありました」
エサルは、眉《まゆ》をひそめた。
「カショ山? あんな人里|離《はな》れた深山《しんざん》で、あなたはなにをしていたの?」
「蜂飼《はちか》いです。ジョウンおじさんの夏の小屋が、あの山の上にあったので、夏になると、いつもあの山で過《す》ごしていました」
「ああ……」
エサルはそれを聞くや、愁眉《しゅうび》を開いた。
「ああ、そう……。蜂飼いは、夏になると、山に花を迫っていくものね」
いったい、エサルはなにを気にしていたのだろう?
「野生の王獣を見るというのは、なにか、悪いことなのですか?」
エリンが問うと、エサルは首をふった。
「とんでもない。むしろ、幸運なことだわ。野生の王獣を見るというのはね、とても稀《まれ》なことなのよ。王獣|捕獲者《ほかくしゃ》以外で、野生の王獣を見たことがある者は、ほとんどいないんじゃないかしら。
わたしも、なんとしても野生の王獣を見たくて、あちこちの山に登ったことがあるわ。でも、一度も見つけられなかった。野生の王獣が生息《せいそく》している場所を教えてもらおうと、王獣捕獲者たちに会いにいったこともあったけれど、彼らにとって王獣の生息場所は、自分だけが知っている金鉱のようなものだから、教えてくれなかったしね」
エサルは、草原にたたずんでいる王獣たちに目を向けた。
「あそこにいる王獣たちの体毛は、そんなに野生の王獣とはちがう?」
「はい。野生《やせい》の王獣《おうじゅう》の体毛《たいもう》は、受ける光によってちがう色に輝《かがや》くんです。朝日を浴《あ》びていたときと、昼の光の中とでは、ちがう色に見えます。
でも、あの王獣たちは、いつも同じ色です。体毛を輝かせるなにかが、あの王獣たちの体毛には欠《か》けているんじゃないでしょうか」
なにを考えているのか、エサルはしばらく黙《だま》って、王獣たちをながめていた。それから、手を伸《の》ばして、一頭二頭、王獣を指《ゆび》さした。
「あの左側で翼《つばさ》を動かしているナクは、腸《ちょう》が弱くて、ふつうの餌《えさ》を受けつけない。その脇《わき》にいるトサクは大腸に腫瘍《しゅよう》があるから、たぶん、あと数か月ともたないでしょう。右側のサットクは、爪《つめ》や牙《きば》がやわらかくなる病《やまい》」
エサルは、エリンをふり返った。
「あの王獣《おうじゅう》たちの体毛《たいもう》につやがないのは、病《やまい》のせいかもしれない。……でも、それだけではないかもしれない」
なにか考えながら、エサルはエリンを見つめていたが、やがて、静かな声で言った。
「ここの王獣たちを、じっくり観察《かんさつ》したら、ほかにも、野生《やせい》の王獣《おうじゅう》との違《ちが》いを指摘《してき》できると思う?」
エリンは、エサルを見つめ返した。
「わかりません。……やってみないと、できるかどうか、答えられません」
エサルの目に微笑《びしょう》が浮《う》かんだ。
「それもそうだわね。では訊《き》き方《かた》を変えましょう。野生の王獣と、ここの王獣の違いを、見つけてみたい?」
エリンは鼓動《こどう》が速まるのを感じた。
「はい」
エサルはうなずくと、顎《あご》をしゃくった。
「なら、ついていらっしゃい」
エサルは、すたすたと王獣舎《おうじゅうしゃ》へ向かって歩きだした。
王獣舎へ入るのかと思ったが、エサルは前を素通《すどお》りして、学舎《がくしゃ》の裏手のほう、いままでエリンが行ったことのない、雑木林《ぞうきばやし》のあいだの小道へと足を向けた。
濃《こ》い緑色の葉をゆらしている木々の狭間《はざま》を通りぬけると、これまで見たことのない王獣舎《おうじゅうしゃ》が姿を現した。
がっしりとした体格《たいかく》の若者が、ちょうど王獣舎から出てくるところだった。両手に桶《おけ》と糞《ふん》入れをぶらさげている。エサルに気づくと、彼は姿勢を正した。
エサルはまず桶をのぞきこんだ。
「……ほとんど、飲《の》んでいないわね」
若者が、暗い表情《ひょうじょう》でうなずいた。
「はい。師がおっしゃったように、特滋水《とくじすい》の調整《ちょうせい》をしましたが、やはり、ひと口も飲んでくれません」
エリンは、どきっとして、若者が持っている桶を見た。
(特滋水……?)
母が闘蛇《とうだ》に与《あた》えていたものと同じ液だろうか。それとも、獣《けもの》に与える滋養《じよう》を溶《と》いた水は、すべて特滋水と呼《よ》ぶのだろうか。
エリンは、さりげなく足の位置を変えて、桶の中身を見ようとしたが、動いたとたん、エサルがふり返った。
「見たい?」
エリンは赤くなった。
「はい」
「なら、見てごらんなさい」
エリンは桶《おけ》に近づいて、中の液体を見た。色は、闘蛇《とうだ》の特滋水《とくじすい》とよく似ていた。顔を近づけると、ふわっと薬草の匂《にお》いがした。 ──間違《まちが》いない。あの特滋水の匂いだった。
黙《だま》ってエリンの表情を見ていたエサルが、静かに問うた。
「なにが入っているかわかる?」
つかのま、エリンはためらった。答えれば、母の話をせねばならない。
だが、顔をあげてエサルの目を見た瞬間《しゅんかん》、エサルはすでに知っているのだ、と悟《さと》った。
エサルは、母が闘蛇衆《とうだしゅう》だったことを知っている。ジョウンが話したのだろう。
エリンは平淡《へいたん》な声で答えた。
「アンネ草とラカル草の根を煎《せん》じたものに、トゲラ虫の体液を混《ま》ぜたものです。……もしこれが闘蛇用《とうだよう》のものと同じなら、この特滋水《とくじすい》は、ラカル草の量が多いような気がします」
桶を持っている若者が、目を丸くした。
エサルは、うなずいた。
「そう。ラカル草を増《ふ》やしてみたのよ。ラカル草には食欲を増進させる効果《こうか》があるから。
でも、だめだったようね」
そう言って、エサルは若者を見た。
「ご苦労だったわね。行っていいわよ。糞《ふん》入れだけ、ここにおいておいて」
「はい」
若者はちらちらとエリンを見ていたが、糞入れをおくと、一礼して、離《はな》れていった。
エサルは地面に膝《ひざ》をついて、糞入れの脇《わき》に差《さ》してあるヘラをとると、糞を探《さぐ》りはじめた。エリンもしゃがみこみ、エサルの手もとをのぞきこんだ。
しばらく黙《だま》って、エサルは糞を丹念《たんねん》に調べていたが、やがて、ちらっとエリンを見た。
「この糞を見て、なにか気づくことはある?」
「……ほかの王獣《おうじゅう》の糞より色が薄《うす》いです。草の茎《くき》も交《ま》じっていないし、やわらかそうです。
もし、これが一頭の一日分の糞なら、ずいぶん量が少ないですね。そのわりには、体毛《たいもう》がたくさん交《ま》じっているのが気になります」
エサルは、かすかに目を細めた。
「王獣の糞集めをしながら、あなたは、糞の観察《かんさつ》をしていたのね」
エリンは瞬《まばた》きした。なぜ、そんなことを、ことさらに言われるのか、わからなかったからだ。
「はい。そのために糞集めをするのだと思っていたので……」
「でも、教導師《きょうどうし》たちは、ただ、糞を集めろ、掃除《そうじ》をしろ、としか言っていないでしょう?」
そういえば、とくに観察《かんさつ》しろとは言われていないし、初等のチビ連は糞《ふん》を観察している様子はなかった。
エサルの顔に、微苦笑《びくしょう》が浮《う》かんだ。
「あのね、初等の学童《がくどう》たちは、糞集めを卒業するとき試験をされるのよ。担当《たんとう》していた、一頭一頭の糞の状態《じょうたい》について、口頭《こうとう》|試問《しもん》をされるの。
ほとんどの子は愕然《がくぜん》とするわ。糞には、そんな大切なことが隠《かく》されていたのかと。自分が気づかなかったことに愕然とする───それが、いい経験《けいけん》になるのよ」
「……そうだったんですか」
幼《おさな》かったころ、母にくっついて、毎朝、闘蛇《とうだ》の(房《ぼう》)へ行くたびに、母はエリンを連れて、まず糞溜《ふんだ》まりを見にいった。糞の様子を、ひとつひとつ丁寧《ていねい》に説明しながら、闘蛇の身体《からだ》の具合《ぐあい》が糞の状態《じょうたい》でわかることを教えてくれたものだ。
痛《いた》みに似《に》たものが、胸に広がった。
ここで学ぶことの、ひとつひとつが、きっと、こんなふうに母との思い出とつながっていくのだろう。自分はこうやって、母の跡《あと》を辿《たど》っているのだ。
エサルは、うつむいているエリンを見つめて、低い声で言った。
「……お母さまは、闘蛇衆《とうだしゅう》だったそうね」
エリンは目をあげた。
「はい」
「お母さまは、あなたを闘蛇衆にするために、しつけていたのね」
エリンは、首をふった。
「わかりません。母は、一度も、そういうことは口にしませんでしたから」
エサルは黙《だま》ってエリンを見つめている。その表情《ひょうじょう》を見ているうちに、エリンは、厚い布ごしに腹を探《さぐ》られているようなやりとりが、ふいに、面倒《めんどう》になった。
「母は、たしかに闘蛇衆でしたが、母と別れたときわたしは十|歳《さい》でした。闘蛇《とうだ》がどういう生き物で、母の仕事が、どういう意味を持っていたのか、ほんとうのところは知らないまま別《わか》れてしまいました。
幼《おさな》いころ、わたしは、いつも母にくっついていましたから、母がやっていたことは覚《おぼ》えていますし、尋《たず》ねれば母は丁寧《ていねい》に教えてくれましたから、特滋水《とくじすい》の成分も知っています。
でも、それ以上、なにか知っているわけじゃありません。 ──母を処刑《しょけい》した人たちに怨《うら》みはあっても、忠誠心《ちゅうせいしん》なんて、持っていません」
エサルは、怒《いか》りをたたえた目で自分を見つめているエリンを、じっと見つめ返した。それから、静かな口調《くちょう》で言った。
「勘違《かんちが》いしないで。あなたがジョウンに助けられた経緯《けいい》は聞いているけれど、わたしは、あなたが闘蛇衆《とうだしゅう》の娘《むすめ》だということには、べつになんの偏見《へんけん》も持っていないわ」
「じゃあ………」
言いかけたエリンを手でとめて、エサルは続けた。
「王獣《おうじゅう》のことや闘蛇《とうだ》のことで、腹に一物《いちもつ》あるような問い方をしたのは、別のわけがあってのこと。でも、それをいま話すつもりはないわ。おいおい、話す機会《きかい》もあるでしょう」
エリンは眉《まゆ》をひそめて、エサルを見つめた。こういう曖昧《あいまい》な物言いは、大嫌《だいきら》いだった。
エサルは、にこりともせずに言った。
「王獣も、闘蛇も、ふつうの獣《けもの》ではない。この国の根幹《こんかん》に関《かか》わる、いわば、政治的《せいじてき》な獣よ。これらに深く関わる者たちは、いやでも、政治に関わらざるをえない。
そして、政治には秘密《ひみつ》がつきもの。下手《へた》に手の内を明かせば、思いがけない結果を生《う》みかねない」
「でも、わたしはそんなものに関わっていません」
エサルは、じっとエリンを見つめたまま、言った。
「そう? ならば、その言葉を信じましょう」
信じる、と言いながら、なにかまだ含《ふく》みを持たせている。 ──エリンは腹をたててエサルを見据《みす》えたが、エサルは無視《むし》して立ちあがり、膝《ひざ》の泥《どろ》をはらった。
「ついておいで。……わたしが話しかけるまではロをきかずに、なるべく足音もたてないように気をつけて」
王獣舎《おうじゅうしゃ》の脇《わき》の物入れから治療箱《ちりょうばこ》をとりだして、中に入っていくエサルのあとから、王獣舎の戸をくぐって、エリンは驚《おどろ》いた。中が、墨《すみ》を流したように真《ま》っ暗《くら》だったからだ。
エリンが毎日|掃除《そうじ》をしている王獣舎は、天井《てんじょう》近くに突《つ》きあげ式の窓があり、風雨が強い日でなければ、夜間でも窓はあけたままにしている。
しかし、この王獣舎の窓は閉めきられていて、入り口から入る光以外、光はいっさい入ってこなかった。
その闇《やみ》の中に獣《けもの》の匂《にお》いが漂《ただよ》っていた。闇に目が慣《な》れてくると、まるで牢屋《ろうや》のように、天井まで格子《こうし》がはめられ、その奥《おく》に、なにかがいるのが、ぼんやりと見えてきた。影《かげ》の塊《かたまり》にしか見えないが、ふつうの王獣より、ずいぶん小さい。
人の気配《けはい》を感じて王獣が頭をもたげたのだろう。闇の奥《おく》に、獣の双眼《そうがん》が黄色く輝《かがや》いた。
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[#地付き]5 光《リラン》
エサルが壁際《かべぎわ》に行って、なにかしはじめた。
ギギッと木がこすれあう音がして、日の光がひと筋入ってきた。突《つ》きあげ窓を、わずかにあけたのだ。
その光が格子《こうし》の奥《おく》に届《とど》いたとたん、赤子がうめくような奇妙《きみょう》な声があがった。
格子の奥《おく》、王獣房《おうじゅうぼう》の隅《すみ》にうずくまっていた塊《かたまり》が怯《おび》えた声をあげながら、ばたばたと翼《つばさ》を動かしている。右の肩《かた》が変な具合《ぐあい》にさがっていて、翼も右側は左側ほど持ちあがらないようだった。
(……成獣《せいじゅう》じゃない)
まだ母の腹の下に抱《だ》かれているくらいの幼獣《ようじゅう》だ。暴《あば》れているので、背にかけられていた毛布がずり落ちていく。あまりにも悲痛《ひつう》なその声に、エリンは思わず手で耳をふさいだ。
エリンの脇《わき》にもどってきたエサルは、音無し笛を口にあてて、そっと吹《ふ》いた。
とたんに、幼獣が凍《こお》りついた。翼を半分持ちあげたまま───黄色い瞳《ひとみ》で、こちらを凝視《ぎょうし》したまま、硬直《こうちょく》している。
エサルは音無し笛をエリンに渡《わた》して、ささやいた。
「わたしが中にいるあいだに硬直が解《と》けたら、吹《ふ》きなさい」
そして、治療箱《ちりょうばこ》を抱《かか》えて格子《こうし》の脇《わき》にある戸を引きあけると、房《ぼう》の中に入っていった。
エサルは、まず幼獣《ようじゅう》の全身を丹念《たんねん》に見た。幼獣といっても、その体長は、エサルの背を軽く越《こ》えている。エサルは伸《の》びあがるようにして、幼獣の右肩《みぎかた》、翼《つばさ》のつけねあたりを調べはじめた。そこに傷《きず》があるのだろう。よく見ると体毛が茶色に変色している部分があった。
エサルは治療箱をあけて、中から大きなハサミをとりだすと、両手でぐいぐい柄《え》を押《お》しながら、傷の周《まわ》りの体毛《たいもう》を切り、それから消毒液の入った壷《つぼ》をとりだして傷を消毒した。
いま硬直が解けたら、エサルは逃《に》げる間もなく幼獣に引《ひ》き裂《さ》かれてしまう。エリンは、すぐ吹けるように音無し笛をロもとに構《かま》えながら、息を殺して、治療《ちりょう》の一部始終《いちぶしじゅう》を見つめていた。
エサルが治療をしている肩のほかにも、腹や胸に、体毛がはげているところがあった。
(この子、身食《みぐ》いをしているんだわ……)
心に鬱屈《うっくつ》を抱《かか》えていたり、苛立《いらだ》っていたりする馬が、しきりに自分の身体《からだ》を噛か《》むことがある。きっとこの幼獣《ようじゅう》も、自分の身を噛んでいるのだ。糞《ふん》にたくさん体毛が交《ま》ざっていたのは、そのせいなのだろう。
エサルは手早く治療《ちりょう》を終えると、そっと幼獣の身体《からだ》に大きな毛布をかけてやった。日ごろのエサルからは想像《そうぞう》もできぬ、やさしい手つきだった。
毛布でくるみおえると、エサルは格子《こうし》のくぐり戸をくぐって、もどってきた。そして、突《つ》きあげ窓をおろした。
エサルはエリンを促《うなが》して、再び闇《やみ》に沈《しず》んだ王獣舎《おうじゅうしゃ》から外へ出た。
治療箱をしまっているエサルに、エリンは尋《たず》ねた。
「あの幼獣は、怪我《けが》をしたせいで、あんなふうに怯《おび》えているのですか」
エサルは物入れの戸を閉めながら言った。
「ひと月前の、真王《ヨジェ》のお誕生祝《たんじょういわ》いの宴席《えんせき》で、なにが起《お》きたか知っている?」
「………いいえ」
「そう。ジョウンは世捨《よす》て人みたいに暮《く》らしていたらしいから、そういう話も伝わっていないのね」
手を前掛《まえか》けで拭《ふ》きながら、エサルはエリンをふり返った。
「お誕生を祝う宴席で、真王《ヨジェ》は、危《あや》うく暗殺《あんさつ》されかけたのよ」
「え……?」
暗殺という言葉と、真王《ヨジェ》という言葉が、うまく結《むす》びつかなくて、エリンは言葉を失《うしな》った。神を殺そうとする者が、この世にいるのだろうか。なぜ、そんなことをしようと思うのだろう……。
呆然《ぼうぜん》としているエリンを見て、エサルは苦笑《くしょう》した。
「ジョウンは、こういう話はまったくしなかったの?」
「はい‥‥‥」
「そう。あの人は、本気で世間《せけん》に背を向《む》けていたのね。あなたにも、生臭《なまぐさ》い世情《せじょう》の話は、したくなかったんでしょう」
エサルは、ため息をついた。
「でもね、ここに───この王獣《おうじゅう》|保護場《ほごじょう》にいるかぎりは、そういう生臭い世情にも、きちんと通じておかねばならない。
教導師《きょうどうし》たちも、機会をみて話してくれるでしょうから、いまは詳《くわ》しい話はしないけれど、もう長いあいだ、真王《ヨジェ》はご尊命《そんめい》を狙《ねら》われつづけているのよ」
「……誰《だれ》にですか?」
エサルの苦笑が深くなった。
「さっき、ああいう話をしたあとでは、なんだか言いづらいけれど、まあ、しかたないわね。
真王《ヨジェ》のご尊命を奪《うば》おうとしているのは、(|血と穢れ《サイ・ガムル》)という集団だと言われているわ。……彼らは、大公《アルハン》をこの国の王に、と望《のぞ》んでいるのよ」
エリンは、肌《はだ》がこわばるのを感じた。
闘蛇衆《とうだしゅう》の村で暮《く》らしていたあいだ、自分たち大公《アルハン》領の領民を真王《ヨジェ》領の人々が蔑《さげす》んでいるという話は、よく耳にしていた。
村人たちの心の中にあった真王《ヨジェ》領の人々への不満と敵意は、エリンの心にも、ごく自然に刷《す》りこまれていたから、大公領民《ワジャク》と真王領民《ホロン》が敵対《てきたい》関係にあることは、もちろんわかっていた。
けれど、そういう意識は、あくまでも領民《りょうみん》同士のものだと思っていた。まさか、真王《ヨジェ》を殺して、大公《アルハン》を王にと望む人々がいるとは……。
ふたつの領民のあいだが、そんなに恐《おそ》ろしい対立になっているのだとしたら、真王《ヨジェ》の象徴《しょうちょう》である王獣《おうじゅう》の世話《せわ》をしているこの場所に、大公《アルハン》の闘蛇《とうだ》を育《そだ》てている闘蛇衆の娘《むすめ》である自分がいるというのは、とてもまずいことなのだろう。エサルの奇妙《きみょう》な態度《たいど》の意味もわかる。
でも、それならばなぜ、エサルは、自分をここに受け入れたのだろう……。
エサルは、じっとエリンの表情《ひょうじょう》を見ていた。そして、静かに言った。
「なにを考えているか、だいたいわかるけれど、さっきも言ったように、わたしは、あなたが闘蛇衆の娘であることには、なんの敵意《てきい》も疑念《ぎねん》も抱《いだ》いていないわ。
ただ、そのことは、ほかの者には……ユーヤンにも、言わないほうがいいでしょうね」
エリンは、答えなかったが、エサルはかまわずに続けた。
「あなたも、この国がどうなっているのか、おいおいわかってくるでしょう。状況《じょうきょう》をしっかり理解《りかい》して、判断《はんだん》できるようになるまでは、話すなと言っているの。 ──わかった?」
それは、正しい意見だった。なにもわかっていない状態《じょうたい》で、話してよいことではない。
「……わかりました」
エリンが答えると、エサルはうなずいた。
「では、そのことは、それでおいておくとして、話をリランにもどしましょう」
「光《リラン》?」
「ああ、ごめんなさい。あの幼獣《ようじゅう》の名前よ、リランというのはね」
エサルは王獣舎《おうじゅうしゃ》に視線《しせん》を向《む》けた。
「リランはね、真王《ヨジェ》の甥御《おいご》が、真王《ヨジェ》に誕生日《たんじょうび》の祝《いわ》いの献上品《けんじょうひん》として捧《ささ》げた王獣だったのよ。初めて人前に引きだされた、その宴《うたげ》の庭で、音無し笛を吹《ふ》かれて硬直《こうちょく》しているときに、背後《はいご》の森から、真王《ヨジェ》を狙《ねら》って放《はな》たれた矢に、肩《かた》を切《き》り裂《さ》かれてしまったの」
すうっと、冷《つめ》たいものが胸の底に広がった。
明るい光の中で、硬直している幼獣の幻影《げんえい》が、心に浮《う》かんできた。
母親の胸の下から引《ひ》き離《はな》され、突然《とつぜん》、大勢の人々の前に引きだされたあの子は、どんな気持ちだっただろう。なにごとが起きているのかわからぬまま、怯《おび》えて、母を捜《さが》し求《もと》めて、鳴《な》いていたのではなかろうか。
その恐怖《きょうふ》の最中《さいちゅう》に、いきなり背後から、肩《かた》を矢で射抜《いぬ》かれた…‥。
「……あなた、どうしたの? 泣《な》いているの?」
エサルが驚《おどろ》いて、エリンの顔をのぞきこんだ。
エリンはうつむいて、答えなかった。突然《とつぜん》|襲《おそ》ってきた衝動《しょうどう》は、自分でも不可解《ふかかい》に思うほど激《はげ》しかった。
暗闇《くらやみ》の中にうずくまって、赤子のように怯えた泣き声をたてたくなる、あの気持ちは、よく知っている。 ──唐突《とうとつ》に母からもぎ離《はな》されてしまったときの、あの恐怖。広大な闇《やみ》の中にぽつんと置《お》き去りにされたような、どうしたらよいのかわからぬ、あの混乱《こんらん》した思いは……。
あの暗闇の中で、あの子は、いま、自分の身を噛《か》んでいるのだろうか。どうしようもない思いに苛《さいな》まれて、くり返し、自分の身を噛んでいるのだろうか。
「エリン……」
肩《かた》をつかまれて、エリンは目をあげた。
「しっかりしなさい。 ──どうしたの?」
エリンは涙《なみだ》をぬぐった。
「……なんでもありません。 ──あの幼獣《ようじゅう》が、かわいそうだったので……」
エサルは呆《あき》れ顔《がお》になった。
「たしかに、あの子は、かわいそうではあるけれど……。そんなふうに思い入れるなんて、あまりいいことではないわね。冷静《れいせい》に、距離《きょり》をおくことができなければ、正確《せいかく》な判断《はんだん》などできないのよ」
ため息をついて、エサルはつぶやいた。
「もっと冷静な子だと思っていたけれど、ずいぶん感情的《かんじょうてき》な面もあるのね。………あなたにリランを観察《かんさつ》させようかと思ったけれど、やめたほうがいいかしらね」
とんでもない、とエリンは思った。
エサルも、世話《せわ》をしている若者も、あの子がどんな目にあったのかを知りながら、冷静に距離をおけるのなら、まるで、わかっていないのだ。ある日|突然《とつぜん》、母からもぎ離《はな》され、独《ひと》りぼっちになった者が、どんな恐怖《きょうふ》を味わうのかを。
エリンは目を閉じて、深く息を吸《す》った。そして、目をあけると、低い声で言った。
「教導師長《きょうどうしちょう》さま」
「なに?」
「……正確な判断は、冷静なだけでは、できないと思います」
エサルは、けげんそうに顔をしかめた。
「なんですって?」
「距離《きょり》をおいたら、感じられなくなることも、あると思います」
エサルは黙《だま》りこんだ。
しばらく、そうして、目を真っ赤にして自分を見つめているエリンを見ていたが、やがて、ロを開いた。
「なるほどね。それも一理《いちり》あるけれど、実行《じっこう》できるかどうかは、別の話だわ。
あなたは、共感《きょうかん》することと、距離をおいて観察《かんさつ》することの両方を、うまく釣《つ》り合《あ》わせながら行《おこな》えると言うつもり?」
エリンは目をこすった。
「わかりません。……でも、やってみたいのです」
エサルは、肩《かた》をすくめた。
「なら、やってみなさい。だけど、あまり時間はないから、心して観察しなさいよ」
「時間がない……?」
「そう。リランは、傷《きず》を負《お》ってから、まったく、ものを食べていないのよ」
傷を負ってから? では、もうひと月も、なにも食べていないのか。
「王獣《おうじゅう》は、かなり長いあいだ、ものを食べなくても命をつないでいかれる生き物よ。でも、リランは、まだ幼《おさな》いからね。……特滋水《とくじすい》だけでも、飲《の》んでくれればいいのだけれど」
特滋水《とくじすい》と聞いた瞬間《しゅんかん》、ふっと、胸にいやなものが走った。 ──なぜ、そんな感じがしたのだろうと考えるうちに、耳の奥《おく》に、母の言葉がよみがえってきた。
[#ここから2字下げ]
──特滋水を与《あた》えれば牙《きば》の硬度《こうど》が増《ま》して、骨格《こっかく》も野生《やせい》のものより大きくなるわ。でもね、特滋水を与えていると、弱くなってしまう部分もあるのよ。
[#ここで字下げ終わり]
エリンは、ぱっと顔をあげて、エサルを見た。
「教導師長《きょうどうしちょう》さま、お願《ねが》いがございます」
「……?」
「わたしは、わたしのやり方で、観察《かんさつ》したいのです。そうさせていただけませんか」
「それは、どういう意味?」
「ひと月だけで、かまいません。わたしをほかの教科や実習《じっしゅう》、労働《ろうどう》から解放《かいほう》してください。
もちろん、あとで、ほかの子たちにかけてしまった負担《ふたん》は償《つぐな》います。学科や実習の試《ため》しも、皆《みな》と同じ時期《じき》に受《う》けます。ですから、どうか、ひと月だけ、わたしがリランに集中することを許《ゆる》してください」
エサルは眉《まゆ》をひそめた。
「リランに集中するって、具体的《ぐたいてき》には、なにをするつもりなの」
「一日中、寝《ね》るときも、食事をするときもここにいて、まず、わたしの匂《にお》いに慣《な》れてもらいます。それからのことは、気がついたことを、やっていくだけです。そして……」
エリンは拳《こぶし》を握《にぎ》りしめて、まっすぐにエサルを見つめた。
「そうやっているあいだに、もし、リランが野生《やせい》の王獣《おうじゅう》の子のように、肉や魚を食べるようになったら、それ以降《いこう》も、わたしに、リランの世話《せわ》をさせてください」
膝《ひざ》がふるえていた。それくらい必死《ひっし》になっていた。
「わたしの世話で、リランが元気になったら、わたしのやり方が正しかったということですよね? ……どうか、お願《ねが》いいたします」
エサルは額《ひたい》にかかった髪《かみ》を掻《か》きあげながら、突《つ》き放《はな》すような口調《くちょう》で言った。
「……ずいぶん、あの子に思い入れているようだけれど、ひとつ心に刻《きざ》んでおきなさい。王獣は、けっして人に馴《な》れることはないわ。どんなに心をこめて世話《せわ》をしても、あなたに馴れることはない。あなただけが特別だということは、絶対《ぜったい》にないのよ。
甘《あま》い幻想《げんそう》を抱《いだ》いて近づきすぎれば、噛《か》み裂《さ》かれて死ぬことになるわよ」
蜂《はち》にさわって刺《さ》された記憶《きおく》が、頭をかすめた。 ──そうなのだろう。自分は、勝手に、あの子に共感《きょうかん》を抱《いだ》いているけれど、たとえこちらが命がけで思い入れても、王獣が、それに応《こた》えるとは限らないのだ。
「わかっています。でも、やってみなければ、わかりません」
エサルは冷《ひや》ややかな表情《ひょうじょう》のままだった。
「王獣《おうじゅう》の世話が命がけなのは、噛《か》み殺《ころ》される可能性《かのうせい》があるというだけではない。お世話に不備《ふび》があれば、真王《ヨジェ》への不忠《ふちゅう》を問われて、投獄《とうごく》されることもあるのよ。
だから、最上級の学童《がくどう》たちにも、完全な権限《けんげん》は与《あた》えていない。万が一のときは、全|責任《せきにん》を負《お》うのはわたしであるように、彼らは、わたしの指示《しじ》のもと、手足となって動いているだけ。
あなたは、自分がどれだけ不遜《ふそん》なことを言っているのか、わかっているの?
あなたはいま、四十年も学びつづけ、三十年も王獣の世話をしてきたわたしよりも、自分のほうが、正しい世話ができると言ったのよ」
鼓動《こどう》が速くなり、顔がこわばった。唇《くちびる》をふるわせて、エリンはうつむいた。
エサルは、静かな声で言った。
「あなたはたしかに賢《かしこ》い。闘蛇衆《とうだしゅう》であったお母さまも、あなたの才《さい》を伸《の》ばすような育《そだ》て方をなさったのでしょうし、ジョウンという素晴《すば》らしい師にも恵《めぐ》まれたから、ほかの者にはできないことも、自分にはできるような気がするのでしょう。……そういう気持ちは、わたしにも覚《おぼ》えがあるわ。
早いうちに、自分がそれほど特別ではないと気づくのは、あなたにとっては、いい経験《けいけん》になるでしょう」
ため息をついて、エサルは言った。
「リランをひと月、あなたのやり方で世話《せわ》をしてもいいわ。ただし、守るべきことだけは守ってもらう。あなたの失敗《しっぱい》が、リランを傷《きず》つけることがないようにね」
エリンは、ゆっくりと顔をあげてエサルを見た。
エサルは厳《きび》しい表情を浮《う》かべて、懐《ふところ》から、音無し笛をとりだした。
「格子《こうし》のくぐり戸をあけるときは、必《かなら》ず、この音無し笛を吹《ふ》くこと。どんな過信《かしん》もせず、充分《じゅうぶん》に確信《かくしん》を持てたときだけ、行動すると誓《ちか》いなさい」
エリンは口もとに手をあてた。
「……はい、誓います」
「あとで、教導師長室《きょうどうしちょうしつ》へ来なさい。リランの世話をする方法の詳細《しょうさい》を伝えます。それから、治療《ちりょう》はわたしが行う。あなたは、手を出さないように」
「はい」
エサルはうなずくと、音無し笛をエリンの手に渡《わた》した。
その瞬間《しゅんかん》から、エリンの生涯《しょうがい》を決定的《けっていてき》に変えることになる日々が、始まった。
[#改ページ]
[#地付き]6 トムラ
「たいへんやぁ! すっごいことやぁ!」
ユーヤンが突拍子《とっぴょうし》もない声をあげたので、休憩《きゅうけい》時間も講義室《こうぎしつ》に残っていた男連中が、びっくりして、こちらを見た。
ユーヤンは、エリンに抱《だ》きついた。
「すっごいやん! 一気に最上級まで飛び級なんて子、カザルム学舎《がくしゃ》始まって以来やで、きっと!」
エリンはあわてた。
「ちがう、ちがう……」
しかし、ユーヤンはまるで聞いていなかった。
「うれしいわぁ! さすが、エリンちゃんや。でも、哀《かな》しいなぁ。もう一緒《いっしょ》に講義を受けられぇんのかぁ」
ユーヤンにものすごい力で抱きしめられて、目を白黒させながら、エリンは、必死《ひっし》にユーヤンの勘違《かんちが》いを正そうとした。
「ちがうのよ、ユーヤン、あのね……」
男連中がざわめきながら集まってきた。
「……ほんとか? おまえ、最上級まで飛び級するのか?」
なかの一人が声をかけてきた。エリンは、抱《だ》きしめられたままの格好《かっこう》で、動く範囲《はんい》で首をふった。
「ちがう、ちがうのよ。ユーヤンの勘違い……。お願い、ユーヤン、放《はな》して。苦《くる》しい」
その声は聞こえたのだろう。ユーヤンは、しぶしぶエリンを放した。
「なん? 勘違《かんちが》いって、だって、音無し笛をもらったんやろ? ほんで、講義《こうぎ》や労働《ろうどう》からはずれるって言ったやん?」
ユーヤンの腕《うで》から解放《かいほう》されて、エリンはホーッと息をついた。目の前に、チカチカ光が散《ち》っている。片手で額《ひたい》を押《お》さえて、エリンは、学童《がくどう》仲間を見まわした。
「ごめん、言葉が足《た》りなくて。……あのね、ちょっと事情《じじょう》があって、エサル師からひと月だけ、奥《おく》の王獣舎《おうじゅうしゃ》にいる幼獣《ようじゅう》を観察《かんさつ》する許可《きょか》をいただいたの。べつに飛び級したわけじゃないのよ……」
話している最中《さいちゅう》に講義室の戸が引きあけられ、大柄《おおがら》な若者が入ってきた。
若者を見て、エリンは、はっとした。 ──リランの世話《せわ》をしていた若者だった。
若者は座《すわ》っているエリンたちの前に立つと、頬《ほお》をこわばらせて、エリンを見つめた。
「おまえ、エサル師の縁故《えんこ》かなにかなのか」
怒《いか》りを顕《あら》わにすまいと声を抑《おさ》えているのだろう、語尾《ごび》がかすれていた。
エリンは首をふった。鼓動《こどう》が速くなって、腹がこわばった。
「縁故というか……わたしの養《やしな》い親は、エサル師の友人ですけれど……」
若者の眉《まゆ》が跳《は》ねあがった。
「おまえ……自分が恥《は》ずかしくならないか? 縁故を利用して王獣《おうじゅう》の世話《せわ》係になるなんて。なんの経験《けいけん》もない未熟《みじゅく》な者がそんなことをすれば、王獣を傷《きず》つけるかもしれないんだぞ。やっていいことと、悪いことがあるだろう。ちがうか?」
血の気がひいた。声を出そうとしても、息が吸《す》えなかった。
エリンは、細い声で言った。
「ちがいます。わたしは、縁故を利用して、リランのお世話を、許《ゆる》されたわけじゃありません」
若者は、ぐっと顔をしかめて、青ざめている少女を見つめた。
「なら、どうして、エサル師は、おれの仕事をとりあげて、おまえに与《あた》えたんだ」
「……わたしが、野生《やせい》の王獣《おうじゅう》を見たことがあるからです」
意外《いがい》な答えに、若者は、ちょっと目を見開いた。エリンを囲《かこ》んでいる学童《がくどう》たちも、えっという表情《ひょうじょう》になった。
「野生《やせい》の王獣《おうじゅう》? ほんとうか? おまえ、ほんとうに、野生の王獣を見たことがあるのか」
「はい」
エリンはうなずいた。
「わたしは、蜂飼《はちか》いに育《そだ》てられました。蜂飼いは、夏になると、花を追って、人が足を踏《ふ》み入れないような深山《しんざん》に分け入ります。わたしの養《やしな》い親は、カショ山に夏の小屋を持っていたので、薬草を探《と》りにいったとき、険《けわ》しい峡谷《きょうこく》の崖《がけ》で、王獣に出会ったんです。
崖の中腹《ちゅうふく》に巣《す》があって、王獣の親子がいました」
若者の目から、すこし怒《いか》りの色がひいた。
「……だが、野生の王獣を見たことがあることと、リランの世話が、どう結《むす》びつくんだ」
エリンは、かすれ声で答えた。
「エサル師が、野生の王獣と、人に飼《か》われている王獣の違《ちが》いを、見つけてみたいか、とお尋《たず》ねになったので、見つけさせてくださいって、お願いしたんです」
沈黙《ちんもく》がおりた。
若者は生《は》えはじめたばかりの髭《ひげ》を無意識《むいしき》にこすりながら、じっとエリンを見つめていた。
「……それだけか?」
ふいに、問われて、エリンは眉《まゆ》をひそめた。
「え?」
言おうか、どうしようか迷っているようだったが、若者は、言葉をついだ。
「それだけじゃないだろう。おまえが|霧の民《アーリョ》で、なにか特別な知識《ちしき》を持っているからじゃないのか」
細い刃《やいば》で刺《さ》されたような痛《いた》みが、胸に走った。
声が出ず、エリンは、ただ首をふった。若者は眉をひそめて、追い打ちをかけるように言った。
「ちがうって言うのか? だが、おまえは特滋水《とくじすい》の成分《せいぶん》を知っていたじゃないか。それも闘蛇用《とうだよう》の」
皆《みな》の顔に、驚愕《きょうがく》の色が走った。
あたりの色が褪《あ》せ、耳鳴りがした。冷《つめ》たい汗《あせ》が噴《ふ》きだすのを感じながら、エリンは若者を見上げていた。
「……それは、わたしが、|霧の民《アーリョ》だからじゃ、ありません……」
母のことは話したくない。 ──だが、それを話さずに、どうしたら、わかってもらえるだろう。
凍《こお》りついたように若者を見つめて、エリンは沈黙《ちんもく》した。頭が真っ白になって、考えても言葉が浮《う》かんでこない。
ふいに、温《あたた》かい手がエリンの手を包《つつ》みこんで、ぎゅっと握《にぎ》りしめた。はっと、ふり返ると、ユーヤンが、励《はげま》ますようにうなずいた。
こわばっていた身体《からだ》が、すこし楽になり、周囲《しゅうい》の音がもどってきた。……落ちついてくると、エサル師の言葉が頭に浮《う》かんできた。
エリンは若者を見上げた。
「……わたしが闘蛇用《とうだよう》の特滋水《とくじすい》の成分《せいぶん》を知っていたわけは、いまは、お話しできません。エサル師に、話してはならぬと言われたのです」
若者は、不快《ふかい》そうに顔をしかめたが、エリンは、かまわずに続けた。
「親友にも、まだ話してはいけないと言われました。わたしが、もうすこし大人になって、世の中のことがよくわかるようになったら、話し方もわかるだろうから、それまでは、人に話すなと言われました」
ユーヤンが複雑《ふくざつ》な表情《ひょうじょう》になった。
「それ、わたしにも話すなぁってこと? エサル師が、そうおっしゃったん?」
それまでのやりとりとは、まったく調子《ちょうし》がちがうその声に、張《は》りつめていた空気が、なんとなく、ゆるんだ。
エリンはユーヤンに頭をさげた。
「ごめん。……そうなの。名指《なざ》しで、ユーヤンにも言っちゃだめだって、言われた」
ユーヤンは片方の眉《まゆ》をあげた。
「ひどいなぁ。 ──でもまぁ、ゆるすわぁ。教導師長《きょうどうしちょう》にも認《みと》められた親友って、なんか、うれしいし。そのうち、話してくれるんやんな?」
エリンはうなずいた。
話を横取《よこど》りされてしまった若者は、気勢《きせい》をそがれたような顔で二人を見下《みお》ろしていたが、やがて、放《ほう》りだすように言った。
「……まあ、エサル師は、すべてご存《ぞん》じで、おまえに世話《せわ》をゆずったんだものな。おれが口出しすべきことじゃないかもしれん」
そう言うと、若者は、ふいに膝《ひざ》を曲《ま》げてしゃがみこみ、エリンと目線《めせん》を合わせた。
「だけどな、おれにとっては、リランは大切な王獣《おうじゅう》なんだ。あのかわいそうな子は、硝子《ガラス》|細工《ざいく》みたいに繊細《せんさい》で、いつ死ぬかわからん状態《じょうたい》だ。それを途中《とちゅう》からおまえに任《まか》せる、おれの気持ちがわかるか?」
エリンはなにも言えなかった。
「リランを傷《きず》つけたら、おれは、絶対におまえをゆるさんぞ。……命をかけるつもりで、世話《せわ》をしろよ」
太い声でそう言うと、若者は立ちあがった。そして、講義室《こうぎしつ》から出ていった。
パシン、と戸が閉まる音が響《ひび》いたとき、エリンは思わず立ちあがった。そして、若者のあとを追《お》った。
大股《おおまた》にすたすたと歩いていく背の高い若者に駆《か》け寄《よ》ると、エリンは声をかけた。
「あの……」
若者は立ちどまって、ふり返った。
「なんだ?」
エリンは若者を見上げたまま、必死に言葉を探《さが》した。 ──謝《あやま》りたいと思って追いかけてきたのだが、若者の顔を見ると、ただ謝っても意味がないような気がした。
自分は、この人からリランを奪《うば》ったのだ。
エサルにリランの世話を任《まか》せてくれと願《ねが》いでることで、この人にどんな哀《かな》しみを与《あた》えるのか、まるで考えもしなかった。自分がやったことは、罵倒《ばとう》されてもしかたのないひどいことだ。
でも……それでも、リランを、あのまま闇《やみ》の中においておきたくなかった。音無し笛を吹《ふ》いて、硬直《こうちょく》させて世話をするようなことを続けたら、リランは死んでしまう。この若者に言ってもエサルに言っても、鼻で笑《わら》われるかもしれないが、そう思えてならない。
ひどいやつだと思われても、リランを助けたいと思うなら、言葉で謝って、ゆるしてもらおうなんて、虫がよすざるだろう。
けれど、手柄《てがら》を立てたいがゆえに、エサル師に頼《たの》んだように思われるのはいやだった。自分も、リランを大切に思っているのだと、伝《つた》えたかった。
若者は、眉《まゆ》をひそめてエリンを見下ろしていたが、急《せ》かすことはしなかった。
エリンは唾《つば》をのみこみ、心に浮《う》かんだ言葉を押《お》しだした。
「わたしは、リランが、かわいそうだったんです」
「…………」
「わたしも、母から離《はな》されたので……幼《おさな》いときに……」
若者の眉《まゆ》が、かすかに動いた。
「リランは、まだ母親の翼《つばさ》の下にいる年頃《としごろ》だから……無理《むり》やり、母から、もぎ離された、あの子の気持ちがわかるような気がしたんです」
エリンは一生懸命《いっしょうけんめい》、言葉をついだ。
「わたしが見た野生《やせい》の王獣《おうじゅう》の母親は、子どもを掻《か》き抱《いだ》いて育《そだ》てていました。子どもは母親に甘《あま》えていました。まったく人の親子みたいでした。だから……」
若者が口を開いた。
「……もういい。おまえの気持ちは、わかった」
そう言って背を向けようとした若者に、エリンは言った。
「リランのことを、教《おし》えてください」
若者は、ゆっくりエリンに視線《しせん》をもどした。
エリンは、息を吸《す》って、もう一度言った。
「どうか、わたしに、リランのことを教えてください」
若者の目に、苦《にが》い笑《え》みが浮《う》かんだ。
「……図々《ずうずう》しいなあ、おまえは。おれが積《つ》みあげてきたものの上に、家をこしらえようっていうのか。そこまでして、手柄《てがら》を立てたいか」
エリンは首をふった。
「わたしは、あの子に肉を食べさせたいんです。あんな暗闇《くらやみ》の中で、縮《ちぢ》こまっていないで、お日さまの光を浴《あ》びてほしいんです。
わたしには、ひと月しかありません。……あなたは、あの子が大切だと言いましたよね。誰《だれ》よりも、あの子のことを知っているのは、あなたでしょう? どうか教《おし》えてください」
若者は、血の気のない顔で、目だけを光らせて自分を見上げている少女を、しばらく見つめていた。
勝手《かって》なやつだ、と思った。自分のやりたいことを、ひたすら押《お》しつけてくるなんて、とんでもなく自分勝手なやつだ。
そう思っても、不思議《ふしぎ》なことに腹が立たなかった。さっきまで腹の底にくすぶっていた暗い怒《いか》りも、いつのまにか、しずまってしまっていた。
こいつにリランを預《あず》けるなら、下手《へた》なことをしないように細かく申《もう》し送りをするのは、必要《ひつよう》なことではある。
若者は顎《あご》をしゃくった。
「……ついてこい。世話《せわ》の仕方を、教えてやる」
少女の顔が、ぱっと輝《かがや》くのを見て、若者は顔をしかめた。
「ありがとうございます」
頭をさげられて、若者は、いよいよ顔をしかめた。
手柄《てがら》を立てたくて、逸《はや》っているのだ……と思いたかったが、思えなかった。あの子に肉を食べさせたいと言ったときの、この少女の声と表情《ひょうじょう》には、手でさわれるくらい明らかな熱情《ねつじょう》がこもっていたからだ。
この少女に、リランのことを大切に思っているといったのは、嘘《うそ》ではない。
しかし、正直《しょうじき》なところ、一生懸命《いっしょうけんめい》世話をしてやっても、まったくなつきもせず、怯《おび》えて敵意を見せるばかりの幼獣《ようじゅう》には、うんざりすることもあった。
エサル師に見込《みこ》まれて、リランの世話《せわ》を任《まか》された。そのことに、誇《ほこ》りを感じていたし、なんとか期待《きたい》に添《そ》いたいと思っていた。幼《おさな》い獣《けもの》は哀《あわ》れだったから、なんとかしてやりたいという気持ちもあった。
しかし、なにをしても、リランはまったく餌《えさ》を食べなかった。 ──ここ数日は、自分が世話をしている最中《さいちゅう》に、リランが死んだら、自分の評価《ひょうか》はどうなるのだろうと、そのことばかりを考えていたのだ。
いきなり世話係の役をとりあげられて、むかっ腹が立って、ひと言、言ってやろうという気になったのだが、べつに無理《むり》やり世話係の役を返してもらいたいとは思っていなかった。
このまま世話を続ければ、なんとかできるという自信《じしん》があったら、エサル師に世話役を代《か》わってやってくれないかと言われたときに、きっぱりと断《ことわ》っていただろう。だが、実のところ、どうしたらよいか、わからなくなっていたところだったから、承知《しょうち》したのだ。もしかしたら、エサル師は、そういう自分の気持ちを見抜《みぬ》いていたのかもしれない。
エサル師も、手詰《てづ》まりだったからこそ、この少女にやらせてみる気になったのだろう。
(……ひと月か)
ひと月後は、どうなっているだろう。このまま餌《えさ》を食べず、特滋水《とくじすい》も飲《の》まなければ、リランは確実《かくじつ》に死ぬ。
この少女に預《あず》けているうちに、リランが死ぬようなことがあれば、自分は落ち度を責《せ》められることはない。卑怯《ひきょう》なことだけれど、そういうことも、頭に浮《う》かんではいた。
(だが、こいつは、得体《えたい》が知れないからな……)
|霧の民《アーリョ》の不思議《ふしぎ》な知識《ちしき》を使って、リランを助けるかもしれない。
それなら、それでいいような気がした。 ──この子の言葉ではないが、リランが、日向《ひなた》ぼっこをする姿を見られるなら、手柄《てがら》をとられた悔《くや》しさぐらい、甘《あま》んじてのみこもう。
「あの……お名前を、教えていただけますか。わたしは、エリンと言います」
少女の声に、若者は我《われ》に返った。
「ああ。 ──おれは、トムラだ」
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[#地付き]7 下から射《さ》す光
「……王獣舎《おうじゅうしゃ》の壁《かべ》をはがす?」
エサルは、目の前に立っている若者を、まじまじと見つめた。
「なぜ?」
トムラは、困《こま》ったように答えた。
「そうしてほしいと言うのです……エリンが。
彼女が言うには、突《つ》きあげ窓からの光だと、光のあたり方がまずいので、リランが怯《おび》えるのではないかと……」
エサルは、額《ひたい》にかかってきた、ほつれ毛を掻《か》きあげた。
「あなたは、どう思うの?」
トムラは顔をしかめた。
「わかりません。そんなことが、ほんとうに関係しているのか、疑問《ぎもん》だと思います。……ただ、なんというか……あいつは、ふつうじゃないから、あいつが言うことは気になります」
「ふつうじゃないって、どういう意味?」
「あいつ、ひたすら王獣舎《おうじゅうしゃ》にこもってるんですよ。食事は、友達にとっておいてもらうらしくて、風呂《ふろ》に入りに寮《りょう》へもどってくるときに、持てる分だけ持っていくんです。
もう五日になりますよ。風呂に入りにいくときと、厠《かわや》に行くとき以外は、ずっと王獣舎の中にいるんです。毛布にくるまって、ただ、じっとリランを観察《かんさつ》してるんですよ」
エサルは苦笑《くしょう》した。
「……お風呂には入っているのね。匂《にお》いに慣《な》れさせるとか言っていたから、お風呂にも入らないのかと思ったわ」
「入ってますよ。浴場《よくじょう》の脇《わき》ですれちがったとき、リランは匂いにはそんなに反応《はんのう》しないみたいだけど、自分の体臭《たいしゅう》を感じさせるのはよくないかもしれないとか言ってました」
言ってから、トムラは顔を赤らめた。まだ、あいつは女じゃなくて、ガキなのだ。恥《は》じらいというものがなさすぎる。
「……とにかく、気になるので、いちおう毎日、様子《ようす》を見にいってるんですが、声をかけても、いつもは生返事《なまへんじ》しかしないのに、今日は王獣舎から出てきて、なにを言うのかと思ったら、壁《かべ》を壊《こわ》してくれって言うんです。あの、いつも桶《おけ》をおいているあたりの板を一枚、外《はず》してくれと」
「桶《おけ》……ああ、ずいぶん下のほうね。床《ゆか》に近い部分を外せと言っているわけね」
「はい。上からの光じゃなくて、下からの光をあててみたいと言っていました」
エサルは顎《あご》をさすった。エリンが思いついたことがなんなのか、わかる気がした。
「なるほどね。……いいでしょう。あの子が言うとおりに、壁板《かべいた》をはがしてあげなさい。あなたが、やれる? 用務《ようむ》の誰《だれ》かに頼《たの》んだほうがいい?」
「大丈夫《だいじょうぶ》です。あそこの壁《かべ》は、もともとの王獣舎《おうじゅうしゃ》の壁ではなく、リランが光を嫌《きら》って暴《あば》れたので、あとから応急《おうきゅう》|措置《そち》として継《つ》ぎ足《た》した部分ですから、板を打《う》ちつけてあるだけです。釘《くぎ》を抜《ぬ》けば、簡単《かんたん》に外《はず》れます」
トムラは、きびきびとした仕草《しぐさ》で一礼すると、部屋を出ていった。
*
初めは物が見えず、獣臭《けものくさ》いだけだった闇《やみ》の中も、慣《な》れてくると心地《ここち》よく感じるようになってきた。 ──不思議《ふしぎ》なものだ。子どものころは闇が恐《おそろ》ろしかったし、いまでも好きではないのに。
毛布にくるまって闇の中にたたずんでいると、温《あたた》かい水の底にたゆとうているような静けさが心に満《み》ちてくる。自分が起きているのか、眠《ねむ》っているのか、わからなくなることもあった。
リランは、こういう温《ぬく》もりの中にいたいのだろう。ものを食べなくなって長いから、もしかすると、一日中、うつらうつらしているのかもしれない。
格子《こうし》の向こうにいるリランは、とても静かだった。
観察《かんさつ》を始めたばかりのころは、エリンの匂《にお》いや気配《けはい》、息遣《いきづか》いが気になったのだろう。よく身じろぎしては、体毛を噛《か》みちぎるブチッブチッという音をたてていたけれど、二日目ごろから、その音は、あまり聞こえなくなった。
朝も夜もながめているうちに、リランがいつ目ざめ、いつ眠《ねむ》るのか、なんとなくわかるようになった。王獣舎《おうじゅうしゃ》の戸はあけっぱなしているので、リランの姿はかすかに見える。
戸から漏《も》れてくる光が、朝の透明《とうめい》な明るさを帯《お》びるようになると、リランはしきりに身動きするようになる。排泄《はいせつ》をする時刻《じこく》も、水を飲む時刻も、学舎《がくしゃ》から響《ひび》いてくる鐘《かね》の音に合わせているのではないかと思うほど、毎日、同じだった。
リランは、ほかの王獣より、匂《にお》いが薄《うす》い。生き物としての生気が薄れて、ゆっくりと死に近づいているからだろうか。
ひたすらに幼獣《ようじゅう》をながめながら、エリンは気がついたことを頭の中で転《ころ》がしていた。
水は飲むのに、なぜ、餌《えさ》にはロをつけないのだろう。
リランは乳離《ちばな》れをしており、矢で射《い》られたという宴会《えんかい》の直前《ちょくぜん》までは、ふつうの王獣と同じように肉を食べていたそうだ。ならばなぜ……?
初め、エリンはトムラに言われたとおり、餌《えさ》を持って房《ぼう》の中に入り、水を換《か》えたり、排泄物《はいせつぶつ》を処理《しょり》したりするときに、一、二回、音無し笛を使っていた。笛《ふえ》をロにあてるのもいやだったが、しかたがないと思っていた。
しかし、格子《こうし》の外に出て、餌《えさ》を食べてくれるかどうか観察《かんさつ》していると、リランは硬直《こうちょく》が解《と》けたあと、ものすごい勢《いきお》いで身食《みぐ》いを始めるのに気づいた。まるで、己《おのれ》の内側に魔物《まもの》がいて、それを食い殺そうとするかのように、激《はげ》しく身食いをするのだ。
それを見て以来《いらい》、エリンは、音無し笛を吹《ふ》いていない。
水も餌《えさ》も、格子《こうし》の戸をあければ手が届《とど》くところにおくようにした。床《ゆか》の傾斜《けいしゃ》があるから尿《にょう》は自然に外に流れるが、糞掃除《ふんそうじ》ができないのがかわいそうで、しばらく悩《なや》んだけれど、もともと、あまり糞をしないので、数日ぐらいなら、大丈夫《だいじょうぶ》だろうと思った。
エサルは、エリンに世話《せわ》を任《まか》せるときに、肩《かた》の治療《ちりょう》には、しばらく来ないと言った。もう傷《きず》はふさがっているので、自分はここへは来ないと。
「でも、右肩を痛《いた》そうにさげていますけど……」
「足を怪我《けが》した人が、治《なお》っていても、つい足をいたわって、足をひきずってしまうようなものよ」
七日後に体調《たいちょう》を見にくるので、それまでは、エリンのしたいようにしてよいとエサルは言った。ただし、リランになにか変化が起こったら、すぐ知らせるようにと。
エサルが訪《おとず》れないこの七日間は貴重《きちょう》だ、とエリンは思った。そのあいだだけでも音無し笛を吹《ふ》かないでおいてみよう。なにもせず、ただリランを見ていようと決《き》めた。
音無し笛で硬直《こうちょく》することがなくなったせいかどうかはわからないが、その後、リランはあまり身食《みぐ》いをしなくなった。
ほとんど動かないリランを見ながら、エリンは、この幼獣《ようじゅう》がなにを思っているのか、想像《そうぞう》していた。
獣《けもの》と人では、きっと、見えているものも、聞こえている音もちがうのだろう。けれど、どこか、共通《きょうつう》しているところもあるはずだ。たとえば母に甘《あま》えたい気持ちや、母がいないと心細く感じることは、似《に》ているのではなかろうか。
この闇《やみ》は、リランにとっては、母の暖《あたた》かい腹の下の闇なのだろう。
そして光は、母がいない状態《じょうたい》を感じさせるのではないか。頭上をおおっていた母の身体《からだ》が消えて、巣《す》の中で、ぽつんと母を待っている心細い状態───ふいに王獣|捕獲人《ほかくにん》に捕《と》らわれてしまった恐《おそろ》ろしい記憶《きおく》と、結《むす》びついているのではなかろうか。
しかし、光がないと、餌《えさ》が見えない。
トムラや教導師《きょうどうし》たちは、獣《けもの》は匂《にお》いで餌があるとわかるもので、王獣も例外《れいがい》ではないと教《おし》えてくれたけれど、エリンはなんとなく、そうではないような気がしていた。
もちろん、匂いは大事だけれど、目で見ることも大事なのではなかろうか。
たとえば、エリンだって、目をつぶっていても、匂《にお》いを嗅《か》げば食べ物かどうかはわかる。でも、目をつぶったまま、匂いだけで、それが食べられるものだと確信《かくしん》して口に入れるには勇気《ゆうき》がいる。
リランのように、自分の周りのすべてが恐《おそ》ろしくて、ちょっとしたことにも怯《おび》える状態《じょうたい》なら、よけいに、目で見て確かめていないものを食べるのは、怖《こわ》いのではなかろうか。
ジョウンに叱《しか》られながらも、くり返し、野生《やせい》の王獣《おうじゅう》を見にいっていたとき、王獣というのは目がいい生き物だなあと感じた。母親は、高い天から、急降下《きゅうこうか》して獲物《えもの》を捕《と》らえる。どうやって、あんなに遠くから見つけたのだろうと驚《おどろ》くほど遠い距離《きょり》を一直線に飛んで、獲物を捕らえるのだ。
巣《す》で待っている幼獣《ようじゅう》は、母親が、あの独特《どくとく》の鳴《な》き声───ロン、ロン、ロンと竪琴《たてごと》の弦《げん》をはじくような音をたてながら目の前で肉をふると、大喜びで自分も鳴《な》きながら肉にかじりつく。
リランの前に餌《えさ》をおいておくだけでなく、目の前で肉をふってみたらどうだろう。そう思って、箒《ほうき》に肉をくくりつけて、格子《こうし》から差《さ》しこんでふってみたのだが、戸口の光はリランのところまで届《とど》かないので、肉をふっても、ろくに反応《はんのう》してくれなかった。
床《ゆか》に箒と肉をおいて、座《すわ》りこみ、エリンは顎《あご》を膝《ひざ》にのせた。
(もうすこし、明るくできるといいのだけど……)
戸口から射しこんでいる光は、夕暮《ゆうぐ》れ時には長く伸《の》びてリランの足もとまで届《とど》く。そういう光は怖《こわ》がらないのに……。
そう思ったとき、エリンは、はっと目を見開いた。
足もとの光を怖がらないのは、母の身体《からだ》の下にいても、足もとのあたりは明るいからかもしれない。母親が翼《つばさ》を広げながら身体を持ちあげ、立ちあがるにつれて、幼獣《ようじゅう》は、外のまぶしい光を浴《あ》びるようになるのだ。
幼獣にとって、光は、下から射《さ》してくるものなのかもしれない。
この思いつきを、様子《ようす》を見にきたトムラに話すと、トムラは太い眉《まゆ》をぎゅっと寄《よ》せた。
「王獣舎《おうじゅうしゃ》の壁板《かべいた》をはがす? ……そんなこと、おれの一存《いちぞん》で、できるわけないだろう」
不機嫌《ふきげん》な顔で、ぶつぶつ言っていたが、トムラはちゃんとエサルに許可《きょか》をとってくれたらしい。その日の午後には、道具を持ってもどってきた。
「あまり大きな音をたてないでくださいね」
エリンが言うと、トムラはむっつりとした顔で答えた。
「言われなくても、わかっている」
トムラが長い鉄製の釘抜《くぎぬ》きで、慎重《しんちょう》に壁板を打ちつけてある釘を抜くあいだ、エリンは王獣舎の中で、リランの様子を見守《みまも》っていた。
最後の釘《くぎ》を抜《ぬ》くと、トムラは板と板の継《つ》ぎ目《め》に釘抜きの先を差《さ》しこみ、力をこめた。ギギッときしみながら板がはずれると、午後の光が、床《ゆか》を光らせて射《さ》しこんできた。
エリンは息をつめて、リランを見つめた。
壁《かべ》の穴から射《さ》しこんだ光は、リランの足もとを這《は》いあがって腹のあたりまで届《とど》いたが、リランはかすかに頭をさげて、目をしばしばさせただけで、身じろぎもしなかった。
エリンはつめていた息を吐《は》きだした。手がふるえていた。
(……よかった)
リランは怯《おび》えていない。やはり、光の角度が大切だったのだ。
わずかなことかもしれないけれど、自分の考えがあたっていたことが、跳《は》ねあがりたいくらいに、うれしかった。
エリンはそっと足音を忍《しの》ばせて王獣舎《おうじゅうしゃ》を出た。
「どうだった?」
釘抜《くぎぬ》きで長靴《ながぐつ》の先を叩《たた》いているトムラに、エリンは笑顔《えがお》で答えた。
「怯《おび》えていません。お腹《なか》のあたりまで光が来ているのに、平気な顔をしています」
トムラは瞬《まばた》きした。
初めて笑顔を見たせいだろうか。エリンの顔が明るく輝《かがや》いて見えて、思わずトムラも笑顔になった。
「そうか。よかった」
エリンは笑顔《えがお》でうなずいた。
「はい。あのくらい明るくなれば、餌《えさ》が見えます。あの子の前で、餌をふってみます」
トムラは呆《あき》れ顔《がお》になった。
「まだ、そんなことを言ってるのか。匂《にお》いを嗅《か》げば、肉がそこにあることは、リランにはわかっているんだ。わかっていても食べないから、苦労《くろう》してるんじゃないか」
「はい。……でも、やってみます」
エリンは寮《りょう》の裏手にある倉庫《そうこ》に行き、学童《がくどう》たちが魚を突《つ》くときに使うヤスを持ってきた。箒《ほうき》の上に肉をのせても、うまくふることはできないので、ヤスで肉を突《つ》き刺《さ》してふってみようと思ったのだ。
試《ため》しに、ヤスに肉の塊《かたまり》を突き刺してみると、意外《いがい》に重くて、エリンの力では、ふるのがむずかしかった。それに、ちょっと下に向《む》けると肉が落ちてしまう。しかたがないので通常餌に使う肉塊《にくかい》を半分に切って小さい塊を作った。その大きさなら、なんとかなりそうだった。
王獣舎《おうじゅうしゃ》にもどると、まだトムラはそこで待《ま》っていた。お手製の餌振《えさふ》り器《き》を見て、トムラは苦笑《くしょう》した。
「なるほどな。まえに使っていた箒《ほうき》よりは、マシだな」
エリンは赤くなったが、そのまま餌振《えさふ》り器《き》を持って王獣舎《おうじゅうしゃ》に入った。トムラは、戸口の脇《わき》に立って中を見ていた。板一枚分ではあるけれど、中はすこし明るくなっているので、そこからでも、リランの姿を見ることができた。
エリンの存在《そんざい》に慣《な》れたのだろう。エリンが入ってきても、リランは顔をあげただけで、翼《つばさ》を動かしもしなかった。
エリンはそっと格子《こうし》に近づいた。
格子のどの隙間《すきま》から餌振り器を差しこんだら、リランに自然に見えるだろう。母親は、どんなふうに、餌をふってみせていただろう。
目を閉じると、岩棚《いわだな》で仲むつまじく暮《く》らしていた王獣の親子が、瞼《まぶた》の裏に浮《う》かんできた。母親は口で肉をくわえ、大きくお辞儀《じぎ》をするように首をふって、幼獣《ようじゅう》の目の高さから、脚《あし》のあたりまで、肉を動かしていた…‥。
エリンは目をあけると、自分の胸の高さの格子の隙間《すきま》から餌振り器をゆっくりと差《さ》しこんだ。そして、格子を梃子《てこ》にして、肉をリランの目の高さまで持ちあげてから、すうっと肉をリランの足もとまでふりおろした。
リランは、肉の動きにつられるように、頭をさげた。そして、足もとまでおりてきた肉に顔を近づけて、匂《にお》いを嗅《か》ぐような仕草《しぐさ》をした。
肉の匂《にお》いを嗅《か》いでいる……! それは、リランが初めて餌《えさ》に興味《きょうみ》を示《しめ》した瞬間《しゅんかん》だった。
息をつめて見守《みまも》っているエリンの耳に、ロン、ロン、ロンと、弦《げん》をはじくような音が聞こえてきた。
(リランが、鳴《な》いている……!)
それは、しかし、野生《やせい》の幼獣《ようじゅう》が喜《よろこ》んで餌《えさ》にとびつくときの鳴《な》き声とはすこしちがっていた。
リランが顔をあげて、エリンを見た。
視線《しせん》をぴたりとエリンの目に合わせ、正面から見つめている。 ──こんなことは初めてだった。
リランはしきりに鳴《な》いている。鳴きながら首をふって、餌とエリンを交互《こうご》に見ている。
なにかを問いかけているのだ……。
鼓動《こどう》が速くなった。いったい、なにを問いかけているのだろう? どうしたら、応《こた》えられるのだろう? 早く、なにかしなければ………。
しかし、なにをしたらよいのか、わからなかった。凍《こお》りついたように、動けないまま見守《みまも》っているエリンの目の前で、リランの目の光が薄《うす》れた。
リランは鳴くのをやめた。
そして、餌から目を離《はな》し、いつもの姿勢《しせい》にもどってしまった。
鼻の奥《おく》が熱くなり、涙《なみだ》がにじみでてきた。
リランがなにかを問いかけてきたのに、応《こた》えられなかった。応えられたら、肉を食べたかもしれないのに。あと、すこしだったのに………。
エリンは餌振《えさふ》り器《き》をゆすぶって肉だけリランの足もとに落とし、餌振り器を手もとにたぐりよせて外へ出た。
トムラは、興奮《こうふん》と疑問《ぎもん》とが入り交《ま》じった複雑《ふくざつ》な表情を浮《う》かべていた。
「餌《えさ》の匂《にお》いを嗅《か》いでいたように見えたけど、そうだったのか?」
エリンは、黙《だま》ってうなずいた。トムラは眉《まゆ》をひそめて、尋《たず》ねた。
「それに、変な音をたてていなかったか?」
エリンは瞬《まばた》きした。
「変な音?」
「弦《げん》をはじいているような音だよ」
エリンはまじまじとトムラを見た。
「あれは王獣《おうじゅう》の鳴《な》き声でしょう……?」
トムラの目が大きくなった。
「鳴き声? あれが? 王獣が、あんな音をたてるのは、初めて聞いたぞ。
野生《やせい》の王獣《おうじゅう》は、あんな音をたてるのか?」
エリンはびっくりして、目を見開いた。
「え……? ここの王獣は、鳴かないんですか?」
「鳴《な》くさ。幼獣《ようじゅう》は赤《あか》ん坊《ぼう》みたいな、エエェ〜っていう声をたてるし、成獣《せいじゅう》になると、唸《うな》るような声で鳴くことがある。でも、あんな変な音は、初めて聞いたよ」
エリンは、かすかに口をあけたまま、ぼんやりと王獣舎《おうじゅうしゃ》のほうを見た。
岩棚《いわだな》の巣《す》にいたあの王獣の親子は、頻繁《ひんぱん》にあの音をたてて鳴《な》き交《か》わしていた。まさか、ここにいる王獣たちが、まったく、あの音をたてないとは、思ってもみなかった。
そういえば、草原《そうげん》で日向《ひなた》ぼっこをしていた王獣たちも、リランも、あの音をたてていなかった。………今日初めて、リランは、あの音をたてたのだ。
ぼんやりと耳のあたりをなでながら、エリンは考えこんだ。
リランはなぜ、あの音をたてたのだろう。なぜ、いつもはたてないのだろう……。
「おい、聞いているのか」
トムラの声に、はっと我《われ》に返って、エリンは目をあげた。
「え……はい。なんでしたっけ」
トムラは呆《あき》れ顔《がお》になった。
「野生の王獣はあんな音をたてるのかって訊《き》いただろう? その答えはどうなったんだ」
「ああ、はい、たてます。しょっちゅうあの音をたてています。……でも、なんで、ここの王獣《おうじゅう》たちは、あの音をたてないのかしら……」
ぼうっとした顔でそう言うと、エリンはちょっと頭をさげて、耳をなでながら王獣舎《おうじゅうしゃ》にもどっていった。
リランはまた、動かぬ影《かげ》にもどっていた。足もとにある肉は、石ころのように転《ころ》がったままだ。
お腹《なか》がすいているだろうに……、なぜ。
エリンはしゃがみこんで、膝《ひざ》に顎《あご》をのせた。
どんな獣《けもの》でも、飢《う》えていたら食べ物に食いつくはずだ。食べなかったら死んでしまうのだから。飢えの衝動《しょうどう》さえも抑《おさ》えてしまっているものは、いったい、なんなのだろう?
リランの心の中でなにが起《お》きているのだろう。リランは、なにを考えているのだろう。
人ならば、自ら命を絶《た》つことがある。獣にも、そういうことがあるのだろうか。
(……でも、リランは、なにか問いかけてきた)
肉の匂《にお》いを嗅《か》ぎ、こちらを見て、鳴《な》いた。 ──食べてもよいのか、と問うように……。
あのとき、食べてもいいのだと答えられたら、王獣の言葉でそう答えていたら、リランは食べていたのだろうか。
エリンは両腕《りょううで》を膝《ひざ》の上で交差《こうさ》させて、顔をうずめた。
王獣《おうじゅう》には、人とは異《こと》なる言葉があり、人とは異なる考えの筋道《すじみち》があるのだろう。その言葉と考え方がわかれば、リランは肉を食べるのではなかろうか。
しかし、それを見つけるのは途方《とほう》もない作業だ。リランが発してくる問いかけに応《こた》える糸口《いとぐち》を見つけるまで、リランの身体《からだ》がもつだろうか。
昔───お母さんと引《ひ》き離《はな》されてしまったあのとき、二昼夜もものを食べていなかったのに空腹《くうふく》を感じなかった。激《はげ》しい飢《う》えを通り過ぎてしまうと、身体の感覚がくるってしまって、自分の空腹に気づかないまま、ただ心と身体が力を失《うしな》っていくのかもしれない。砂になって崩《くず》れ落《お》ちていくように……死に向かって。
顔をあげて、格子《こうし》の向《む》こうにうずくまる影《かげ》を見つめた。
この子は、いきなり襲《おそ》いかかってきた災《わざわ》いにふりまわされ、混乱《こんらん》したまま、闇《やみ》の中で、死んでいくのだろうか。なにも食べないまま、飢《う》えていることにすら気づかずに。
問いかけに応えられないかぎり、きっと、そうなる。
ぷつっと針で刺《さ》されたような痛《いた》みが胸の底に走り、そこから、熱い哀《かな》しみが広がった。
(……間に合わないかもしれない)
その夜、エリンは食事を抜《ぬ》いた。食欲がまったくなかった。
毛布にくるまって横になっても、長いあいだ眠《ねむ》れなかったが、うとうとしはじめると、今度はたくさん夢を見た。
くり返し夢に現れたのは、空から我《わ》が子《こ》のもとへ舞《ま》いおりていく王獣《おうじゅう》の姿だった。ロン、ロロン、ロン……ロン、ロロン、ロン……とやさしい音をたてながら母が肉をふると、甘《あま》えた鳴《な》き声をたてながら、子どもも首をふって、肉にかぶりつく。
その子はなぜか王獣舎《おうじゅうしゃ》にいて、自分のほうを見ながらロンロンと鳴《な》いた。耳の底にその音が響《ひび》くうちに、いつのまにか、ジョウンの家にいる夢にすりかわっていた。ジョウンが自慢《じまん》の竪琴《たてごと》の弦《げん》をはじきながら、弦ははじくだけじゃなく、すこし指でこするようにしても、音が変わるのだと言っている。
ジョウンがはじいた弦が、ロン……と鳴《な》ったとき、エリンは、はっと目をあけた。
エリンは目を見開いて、闇《やみ》を凝視《ぎょうし》していた。
それから、毛布をはねのけて起きあがると、王獣舎の外へとびだした。
[#地付き](『王獣編』へ続く)
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